和久峻三
木曽路妻籠宿殺人事件 〜赤かぶ検事シリーズ〜
目 次
第一章 記憶を失った男
第二章 元祖と本家
第三章 アマ・カメラマンの死
第四章 仮装行列の「浪人」
第五章 呪われた一族
第六章 大いなる企み
第一章 記憶を失った男
赤かぶ検事は、マイカーのハンドルを握っている行天燎子《ぎょうてんりょうこ》警部補を振り向いて、
「おみやぁさん。ここらあたりで、ひと休みしよまいか。コーヒーが飲みたくなってよぉ」
「いいですわよ、検事さん」
行天燎子は、笑顔で答え、車をJR天竜峡駅のほうへ向けた。
途中、数台の観光バスとすれ違った。
いずれも、天竜舟下りの観光客を乗せたバスである。
「観光シーズンも、そろそろ終わりだと思っておったが、この様子では、そうでもなさそうだなも」
赤かぶ検事は、すれ違った観光バスの乗客を車の中から見あげながら呟く。
「天竜舟下りは人気がありますものね。こんなふうでは、年中無休の大繁盛ですわ。観光業者は、きっと、ほくほく顔なんでしょう」
行天燎子は輝くばかりの白い歯並みをのぞかせながら、ちらっと赤かぶ検事を眺めやる。
そうしたときの彼女の笑顔は、溜息が出そうなくらい魅力的で、セクシーだった。
(おっと……邪念は禁物だでよぉ)
赤かぶ検事は、襟をただす思いで、自分自身を戒める。
行天燎子は、松本警察署の捜査係長で、階級は警部補。
まだ三十歳を過ぎたばかりなのに、男性刑事を差し置いて、警部補に昇進し、係長になったというのは、やはり、捜査官として優れているからにほかならない。
言うなれば、彼女は実力派だった。
もちろん、彼女のような女性を世間の男性が見すごすはずはなく、すでに彼女は人妻である。
夫は、行天|珍男子《うずまろ》と言い、やはり、警察官だが、所属は隣接の諏訪警察署だった。
行天珍男子は、妻の燎子よりも年下であるばかりか、階級も、一つ下の巡査部長。
彼は、風采のあがらない小男で、すらりと上背があり、抜群のプロポーションを誇る妻とは対照的であった。
二人が、仲よく散歩しているところなど、まさにノミの夫婦だ。
蚤のメスがオスより体が大きいことから、そういうのだが、仲睦まじい夫婦であるという意味もこめられている。
行天燎子は、柔道、剣道、合気道、空手の熟練者で、その技でもって、凶悪犯を仕留めたことも何度かあった。
そのために、彼女は、模範的な女性刑事として長野県警本部長から何度も表彰を受けていた。
一方、夫の行天珍男子は、そういう面にかけては、とてもじゃないが妻にはかなわない。
とは言いながら、知能犯の検挙率から言うと、夫のほうが妻よりはるかに上まわっていた。
行天珍男子は、じっくりと犯人を追いつめ、証拠固めをしながら、検挙するのを得意としている思考型の捜査官であった。
「検事さん。そこの喫茶店はいかがでしょう? ちょっと感じのいい店ですわよ」
行天燎子に言われて、赤かぶ検事は、車の窓から外を見た。
落ち着いた雰囲気のコーヒー専門店である。
「よかろう。駐車場も広いようだしよぉ」
「わかりました」
行天燎子は、その喫茶店の駐車場へ車を乗り入れた。
ちょうど、天竜峡公園の傍で、静かな雰囲気の店だった。
店内には、クラシックのBGMが流れている。
「ほう。ずいぶんコーヒーの種類が多いなも。目移りがしてしょうがないわね」
赤かぶ検事は、メニューを手にしながら迷っている。
傍から、行天燎子が口添えしてくれた。
「検事さんなら、アメリカンがいいんじゃありませんか?」
「おや、どうしてだね?」
「軽い感じのコーヒーのほうが、お体のためにもいいと思うんですけど……」
「言ってくれるね。わしはよぉ、そないにしょぼくれた年寄りに見えるかね?」
「とんでもない。そんな意味じゃないんです」
彼女は、まずいことを言ったと気づいたのか、明るく屈託のない笑顔を向けながら、
「それじゃ、ブルーマウンテンになさったら? 検事さん」
「よし。それにしよう。おみやぁさんは?」
「わたしは、ウィンナコーヒーにします」
「ヨーロッパ調だなも」
赤かぶ検事は、彼女を見て微笑むと、伝票を手にして立っているウェイトレスを眺めやり、
「ブルーマウンテンとウィンナコーヒーだ。早いとこ頼むでよぉ」
「承知しました」
ウェイトレスは、いまの二人のやりとりを聞いていたらしく、笑いを噛み殺すような顔をして、伝票を切り、足早に立ち去った。
コーヒーが運ばれてくるまでの間、二人は、先ほど、飯田警察署へ出向き、捜査関係との間で協議した事柄を思い起こしながら、話し合っていた。
実を言うと、最近、木曽方面から南信州一帯にかけて、大がかりなクレジットカード盗難事件があり、それにつづいて、盗んだカードを使ったローン詐欺事件が多発した。
被害は、行天燎子が所属する松本警察署は言うに及ばず、飯田警察署、木曽警察署などの管内に及んだ。
南信州一帯の各警察署は、赤かぶ検事の縄張りである。
そのこともあって、赤かぶ検事は、行天燎子をともなって、飯田警察署をたずね、今後の方針などについて意見を交わし合ったのである。
一連の捜査がほぼ終結した時点で、赤かぶ検事のもとへ捜査記録が一括して送られることになっていた。
それを検討したうえで、赤かぶ検事が結論を出すわけだが、まだ、解明されていない捜査上の問題点があり、そのことも含めて、先ほど、飯田警察署の捜査関係者と協議を重ねていたのである。
ウェイトレスがあらわれ、二人の目の前にコーヒーカップを置く。
行天燎子は、象牙のように白く滑らかな指先でコーヒーカップの耳を持ちあげ、薄くルージュをひいた形のいい唇にカップを近づける。
白い喉元を微かにうごめかせながら、ウィンナコーヒーを飲んでいる彼女を赤かぶ検事は惚れ惚れと眺めていたが、ふと、われに返ったとき、彼女が話しかけてきた。
「検事さん。ほんとに、妻籠宿へいらっしゃるおつもり?」
と行天燎子が上目づかいに赤かぶ検事を見つめる。
魅惑的な瞳が濡れたように輝いている。
「もちろん、出かけるわね。妻籠宿は、町並み保存が行きとどいておってよぉ、昔ながらの旅籠が、そのまま残されておる。わしも、何度か観光気分で出かけたことはあるが、とりわけ、今日は、文化文政風俗絵巻行列というのがあるそうだで、ぜひとも見物したいんだわね」
「ですけど、たいへんな人出らしいですわよ。車を止めるスペースがあるかと思って、それも心配なんです」
「何とかなるわね」
「そうはおっしゃいますけど、きっと駐車場は、予約でいっぱいだと思うんです」
「だとすると、駐車違反を覚悟で、適当な場所へ車を止めておかなくちゃならんかもしれんな」
「困りますわ。そんなのは……」
「あらかじめ、木曽警察署へ話を通しておけばよかったなも。駐車場を何とかしてくれと……」
「いまからでは遅いんじゃないでしょうか?」
「うむ。急に思いついたことだからな。飯田警察署へ出かけた帰りがけに、妻籠宿をたずね、風俗絵巻行列を見物するなんてのは、ちと虫がよすぎるのかもしれんな。だからと言って、あきらめるのは残念だしよぉ」
「それじゃ、わたし、これから、木曽警察署へ問い合わせてみますわ。駐車違反の取締まりに引っかからずに、車を止める場所があるかって……」
「そうしてちょ。近藤警部補なら教えてくれるだろう」
「そうでしょうね」
行天燎子は、気軽に立ちあがり、電話室へ出かけて行く。
店内には、客の声に邪魔されずに、電話をかけることのできる洒落た電話室があった。
電話室へ入った行天燎子が、受話器を手にして熱心に話し込んでいる姿を眺めながら、赤かぶ検事は、ブルーマウンテンを飲んでいた。
やがて、ガラス張りの電話室から出てきた行天燎子が、足早に、テーブルへ戻ってくる。
「近藤警部補が不在だったので、交通課へつないでもらったんですけど、全員出払っていましてね。結局、話を通すことはできませんでした」
「やむを得んわね。駐車違反のステッカーを貼られたら、それはそれで仕方ないわね」
「まあ、検事さん。そんな呑気なことをおっしゃって……」
行天燎子は、きゅっと赤かぶ検事を睨む。
「そうなったら、わしが何とかするでよぉ」
そうは言ったものの、赤かぶ検事としては、このさい職権をふりまわしたくはない。
もっとも、祭り気分に湧きたつ妻籠宿で、事件でも起これば、話は別だ。
単に、行列を見物するために駐車違反をしたのではなく、事件を捜査する必要があって、車を止めていたという言いわけがたつからだ。
言うまでもなく、赤かぶ検事としては、事件が起こるなどとは、予想もしていなかった。
赤かぶ検事は、喫茶店を出ると、行天燎子と連れ立って、駐車場へ向かう。
駐車場のすぐ向こうが、ちょうど天竜峡公園になっていた。
「検事さん。まだ時間がありますから、あそこの公園を歩いてみましょうよ」
行天燎子に誘われ、赤かぶ検事は、二つ返事で承知した。
「そりゃ、ええ考えだ。おみやぁさんのように魅力的な女性と連れ立って散歩できるなんて、光栄の至りだわね」
「まあ、お上手ですわね」
行天燎子は、真っ白な歯並みをのぞかせながら、赤かぶ検事を振り向いて微笑する。
ぞくっとするような笑顔だった。
天竜峡公園は、松林に囲まれた静かな公園だった。
小高い丘の上に登ると、眼下に、天竜峡の流れが岩を噛み、白く泡立っているのが見える。
紅葉シーズンは過ぎていたが、次から次へと、ひっきりなしに繰り込む川下りの舟が、ギィー、ギィーとリズミカルな櫓の音を響かせながら、下って行く。
白い飛沫が撥ね上がるたびに、乗船客の間から歓声が起こった。
「天竜下れば飛沫に濡れる……」
伊那節が、ふと、赤かぶ検事の胸をかすめる。
「あら、検事さん。あの人、どうしたのかしら?」
不意に、行天燎子が、赤かぶ検事の耳元で囁く。
「何だね?」
赤かぶ検事は、あたりを見まわした。
「ほら、あそこです。あの記念碑の下……」
「あっ……人が倒れているではにやぁがね?」
「男性ですわよ、あれは……」
「とにかく、様子を見に行こう」
赤かぶ検事は、小走りに駆け出した。
行天燎子が、あとを追ってくるが、コンパスが長いから、走っているようには見えない。
記念碑の傍までくると、赤かぶ検事は、腰を折り、その男の様子を窺いながら、
「おい、大丈夫か?」
と声をかけた。
男は、倒れていたのではなく蹲っていたのである。
赤かぶ検事の声に、その男は、ハッとして振り向いた。
二十代後半か、三十歳くらいの髪を短く刈ったハンサムな若者だった。
服装は、黒いレザーのジャンパーにジーパン。白いカジュアルシューズ。
バッグなどの所持品はなさそうだ。
若者の額に、かすり傷があった。
何かに躓き、転んだのかもしれない。
若者の眼差しが、漠然として定まらなかった。
どこを見ているのかも、よくわからない。
放心したような眼差しである。
行天燎子は、若者の前にしゃがみ込んで、
「あなた、どうしたっていうの? 気分でも悪いの?」
と、やさしくいたわるように声をかけた。
若者は、行天燎子の顔を穴の空くほど見つめている。
彼女は、薄気味悪くなってきたのか、ちょっと身を引こうとしたとき、突然、若者が起きあがり、彼女にしがみついてきた。
「マナミさん!……ぼくだよ……わかる?」
「ちょっと待ってよ……あなた、人違いしてるわ」
行天燎子はびっくりして、若者の体を引き離そうとする。
しかし、若者は執拗に彼女にしがみつき、迫ってくる。
「マナミさん!……ぼくだよ……」
若者は、思いつめたような表情で叫びながら、彼女を抱き寄せようとする。
「やめなさいってば!……人違いよ……しつこくしないで……」
彼女は、とうとう頭にきたのか、若者を無理やり引き剥がすようにして、押しのけた。
行天燎子にしてみれば、腕に力をこめたわけでもなかったのだろうが、何しろ、常日ごろから鍛え抜いている彼女のことだから、ふとしたはずみで、勢いが余ったらしい。
若者は、ふらふらっと後ずさりして、地面のうえに仰向けにひっくり返った。
「あら!……ごめんなさい。そんなつもりはなかったんだけど……」
行天燎子の顔色が青ざめた。
頭でも打ったら、それこそ大変だ。
実際、若者が転倒したとき、頭を地面に打ちつけるような鈍い音がしたのだ。
赤かぶ検事も、あたふたしながら、倒れた若者の傍に駆け寄った。
「おみやぁさん……大事ないかね?」
赤かぶ検事が、若者の顔を覗き込む。
若者は、閉じていた目を見開くと、今度は、赤かぶ検事に向かって叫んだ。
「お父さん!……ぼくです……わかるでしょう?」
言いざまに、若者は、赤かぶ検事の手を取った。
女のように、しなやかで色白の手であった。
体つきもなよなよとして、どちらかと言えば、女形《おやま》タイプだ。
「お父さん」と呼ばれて、赤かぶ検事は目をむいた。
「おみやぁさん。誰かと勘違いしとるんだ……とにかく、ケガをしとるようだから、手当てをせんとな」
そう言って、赤かぶ検事は、若者を抱き起こし、行天燎子を見あげながら、目くばせした。
救急車の手配をしてくれというサインである。
彼女は、赤かぶ検事の耳元に口を寄せると、
「橋の向こうに派出所がありましたわ。ひとまず、あそこへ……」
「そうしよう」
赤かぶ検事は、若者の腋の下に自分の肩先を差し込み、抱え上げるようにして歩き始めた。
反対側から、行天燎子が若者の体をささえてやる。
まさに、若者は、病人と言ってよかった。
顔色もすっかり青ざめていたし、体力も衰えている。
まるで、赤かぶ検事たちに引きずられるようにして、若者はよちよちと歩く。
派出所までの途中、通行人たちの好奇の視線を浴びながら、やっとの思いで派出所へたどり着いた。
そこは、飯田警察署の管轄下にある派出所であった。
派出所には誰もいない。
担当の警官は、パトロールにでも出かけているのか、姿が見えない。
「検事さん。この警察電話で本署へ連絡をとりましょう」
行天燎子が、そう言って、受話器に手をかけたとき、若い巡査が自転車に乗って、戻ってきた。
「おや、ええところへ帰ってきたわね」
赤かぶ検事は、巡査に声をかけた。
巡査は、いかめしい顔をして、赤かぶ検事の前に立ちはだかると、
「あんた、いったい、誰だね? 勝手に入ってもらっては困るッ」
けんもほろろの挨拶だ。
それを見て、行天燎子が警察手帳を巡査の目の前に示して、
「これを見れば、わかるでしょう?」
「あっ、これは失礼しました」
巡査は、行天燎子を見つめながら、挙手の礼をとる。
その巡査に向かって、行天燎子は言った。
「この方は柊茂《ひいらぎしげる》検事さんよ。名前くらいは聞いているでしょう?」
「あ、赤かぶ……」
そう言いかけて、巡査は、ハッとして、赤かぶ検事を振り向き、再び敬礼する。
「失礼しました。赤かぶ……いや、柊検事さん」
「固くならんでちょうよ。赤かぶでも、白かぶでもええからよぉ。この若者を保護してやってちょ」
「どうしたんでしょうか?」
「事情は、よくわからんのだ。とにかくよぉ、行天燎子警部補の顔を見て、何やら、女性の名前を呼んだような気がする。確か、『ナミさん』とか……」
「いいえ、違いますわよ、検事さん。『マナミさん』と呼んだと思うんですけど……」
「そうだったかな。何はともあれ、ケガをしとることだし、本署へ連絡をとり、必要なら、救急車の手配をしなくちゃならんでよぉ」
「わかりました。ただちに本署へ連絡をとります」
そう言って、巡査は、警察電話の受話器をあげた。
やがて、本署から巡査部長が駆けつけてきた。
巡査部長は、赤かぶ検事たちから、一応の事情を聞くと、救急車を呼び、ひとまず、治療をうけさせることにした。
奇妙なことに、若者は、記憶を失っているらしく、自分の住所や氏名さえも明らかにできない。
にもかかわらず、行天燎子をつかまえて、「マナミさん」とか、「ナミさん」とか、女性らしき人の名前を口にしたり、赤かぶ検事のことを「お父さん」と呼んだりしたのは、いったい、どういうわけか。
とにかく、赤かぶ検事たちは、飯田警察署の巡査部長にすべてをまかせることにして、例の駐車場へ戻り、車に乗った。
「奇妙な若者ですわね、検事さん」
マイカーが動き出すと、行天燎子がぽつりと言う。
「うむ。記憶を失っているらしいが、それにしても、『マナミさん』とか、『ナミさん』とかいう女性の名前をおぼえておるというのは、なぜだろう?」
「『マナミさん』と言ったんですのよ、検事さん」
「いや、『ナミさん』じゃなかったかな。わしは、そのように聞いたが……」
「違いますわよ。『マナミさん』ですわよ」
行天燎子は、容易なことでは譲らない。
赤かぶ検事のほうも意地になり、「ナミさん」に固執した。
そんなわけで、目的地の妻籠宿へ着いても、なお、この論争に決着がつかなかった。
いずれにしても、赤かぶ検事のことを「お父さん」と呼んだことについては、二人の意見が一致した。
赤かぶ検事たちが妻籠宿へ着いたときには、もう、行列の先頭が、町の入口を出発したあとだった。
「検事さん。先まわりして、『桝形《ますがた》』のあたりで待ちましょうよ。そのほうが、ゆっくり見物できますわ」
行天燎子は、勝手を知っているらしく、妻籠宿の入口を通り越して、国道二五六号線を走り、曲がりくねった道を経由して、「桝形」とやらの近くに車を止めた。
「おみやぁさん。こんなところに車を止めて大丈夫かね?」
赤かぶ検事は、行天燎子に言った。
彼女は、道路から少し奥へ入った空地のような場所に車を乗り入れたのである。
「さあね。大丈夫か、どうか、そのときになってみなければ……さあ降りましょうよ、検事さん」
「ここは、駐車禁止区域ではにやぁがね?」
「どうでしょうかね。標識はなかったように思うんですけど……とにかく、ぐずぐずしていると、行列を見過ごしてしまいますわよ」
「そうだなも」
赤かぶ検事は、ちょっと渋い顔をしながらも、車を降りる。
駐車場は、どこも満車で、断わられてしまったのだ。
こうなったからには、なりふりかまってはいられない。
赤かぶ検事は、行天燎子と連れ立って、妻籠宿へ入った。
毎年、十一月二十三日には、妻籠宿の町中を文化文政風俗絵巻行列がねり歩く。
その日には、観光客やアマチュア・カメラマンが、どっと押しかけてくるという。
実際、このときも、町中を歩くこと自体が難しいくらい人出が多かった。
「この美しい町並みには、いつも感心させられますわ。出梁《だしばり》造りや、竪繁格子《たてしげごうし》の家々が建ち並び、見事に町並みが保存されていますものね……こちらですわよ、検事さん」
彼女は、赤かぶ検事の洋服の袖を取り、町筋を案内してくれる。
人混みのなかを彼女に引っぱりまわされている感じだ。
「卯建《うだつ》のあがった家が多いなも」
赤かぶ検事は、民家の屋根を見あげながら呟く。
「卯建」というのは、防火壁の一種で、家の側面の屋根よりも上へ突き出した壁のことをさす。
その壁が、防火壁としての役割を果たすわけだ。
「うだつがあがらない」という言いまわしがあるが、これも、この「卯建」からきている。
「検事さん。あの旅籠が、有名な『上丁子屋《かみのちょうじや》』ですわ」
行天燎子が指差したのは、どっしりとした造りの旅籠だった。
出梁造りの二階には、手摺りがつき、いかにも風格のある旅館のかまえであった。
その二階にも、観光客の顔が、ずらりと並んでいる。
彼らは手摺りに凭れかかり、行列が下を通るのを待ちかまえているのだ。
「おみやぁさん。あの旅籠はよぉ、『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九が泊まった宿だと聞くが、ほんとかね?」
「はい。十返舎一九は、『東海道中膝栗毛』が評判になり、ベストセラーになったものですから、気をよくして、今度は中山道を取材するつもりで、『上丁子屋』に泊まったそうですわ」
「思い出したわね。十返舎一九はよぉ、『木曽街道膝栗毛』を出版したそうだが、売れ行きは、『東海道中膝栗毛』には及ばず、パッとしなかったとか……」
「そうらしいですわね。検事さん、ここが『桝形』です。このあたりなら、安心して見物できそうですわ」
行天燎子は、赤かぶ検事を「桝形」とやらへ連れ込んだ。
ここにも、観光客の人波ができていたが、彼女の計らいで、ちょうど二人が見物できるだけの空間を見つけ、そこで行列を待つことにした。
「それにしても、どういうわけで、ここを『桝形』と呼ぶんだね?」
赤かぶ検事は、行天燎子にたずねた。
「検事さん。この一角は、道路が湾曲していますわね」
「うむ。舗装もされておらんしよぉ」
「湾曲した道路沿いに旅籠が建っています。こういうのを『桝形』と言うんです」
「なぜ、湾曲しとるんだね?」
「わたしも、詳しいことは知らないんですけど、砦の名残りだと聞いていますわ」
「そう言えば、道路の反対側に土塁跡のようなものがあるな。これも砦の名残りだろうか?」
「たぶんね。あの土塁の上には、お稲荷さんやお寺が建っています」
「なるほど」
赤かぶ検事は、頷き返しながら、土塁の上を見あげた。
そこには樹木が植えられ、ちょっと小高い丘のようになっている。
そこにも、観光客が集まり、下を通る行列を待っている様子だ。
アマチュア・カメラマンの姿も目立つ。
そうこうするうちに、人混みのなかから、ざわめきが起こった。
「あら、検事さん。行列がきたようですわ」
行天燎子に言われて、赤かぶ検事は、「桝形」の入口のほうへ視線を投げた。
裃姿の二人の町役人を先頭に、行列が繰り出してくる。
「やっと、きたなも」
赤かぶ検事は背伸びして、行列が近づくのを待った。
町役人に扮した裃姿の二人の男の後ろから、さまざまに仮装した人たちが登場した。
三味線を抱え、手拭いを頭からかぶった鳥追い女。
黄八丈の着物をきた旅姿の若い女。
駕籠屋。駕籠には子どもが乗っていた。
編笠を目深にかぶった浪人。
股引をはき、尻をからげて、十手を手にした岡っ引き。
天蓋と称する深編笠をかぶった虚無僧。
脇差しを腰にさした旅姿の侠客。
旅の僧侶。
杖をついた尼さん。
アマチュア・カメラマンたちが急に調子づいてきた。
連写するカメラのシャッター音。
ストロボを発光するカメラマンもいる。
「仮装行列の人たちは、全員、地元の連中かね?」
赤かぶ検事は、行天燎子に言った。
「そうでもなさそうです。遠方から参加する人もいると聞いています」
「ほう。するとよぉ、誰でも参加できるわけか?」
「あらかじめ、観光案内所へ申し出ておけば、いいそうですわ」
「衣装なんかは、どうするんだろう?」
「自前じゃないでしょうか」
「だろうな。だとすると、仮装行列に出るには、金がかかるな」
「それでも、出たいという人がたくさんいるそうです」
「だろうね。ところで、仮装行列に出るとしてもよぉ。各自が好き勝手に装ってもかまわんわけかね?」
「さあ、どうでしょう。観光案内所のほうで、ある程度、調整するのかもしれませんわね。ちょっと聞いた話ですけど、いつだったか、新撰組の恰好をして、仮装行列に加わった人たちがいたそうです」
「新撰組? そりゃ、妙だなも。文化文政時代に、新撰組はなかったんだから……」
「そうなんです。それ以来、観光案内所のほうで、役割分担を決め、調整すると聞いています」
「だけど、こういう仮装をしろと指示するわけでもないんだろう?」
「もちろん、指示はしません。ですけど、文化文政時代の服装でなければ、仮装行列には参加させないでしょうね」
「当然だろうな。それにしても、先ほどから見ておると、ヤクザ渡世の侠客とか、浪人、虚無僧なんかが目立つが、いったい、どういうわけだろう?」
「そのほうがユーモラスで、カッコいいと思っているんじゃないでしょうか」
「なるほど」
「虚無僧だと、頭から、すっぽり笠をかぶっていますから、顔が見えません。編笠を目深にかぶった浪人だって、顔が隠れますわね」
「顔を見られると、照れくさいから、虚無僧や浪人の恰好をするのかな?」
「それもあるでしょうね」
「虚無僧は、ちゃんと尺八をもっておるし、二本差しの浪人のなかには、五合徳利をぶら下げているのもおるなも」
「みんな、それぞれ趣向を凝らしているんですね」
彼女が、そう言ったとき、赤かぶ検事は、ふと妙なことに気づいた。
行列の中から、編笠を目深にかぶった浪人が、ふらりと、わき道へ逸れるのが見えた。
徳利は下げていないようだ。
「おや、あの浪人、どうしたんだろう?」
「何です? 検事さん」
「浪人姿の男が一人、土塁の上のほうへ歩いて行くではにやぁがね?」
「見えましたわ。ちょっとおかしいですわね」
「仮装行列にあきて、一人で帰るのかもしれんな」
「きっと、そうですわ。仮装行列の途中で、抜け出して帰る人がいると聞いていますから……おや、検事さん。もう一人、今度は虚無僧姿の人が、行列から外れましたわ」
「なるほど。浪人のほうへ近づいて行くなも」
「あの二人、もしかすると、脱落者の第一号とか、第二号じゃないでしょうかね」
そんなことを言っているうちに、花嫁道中の人たちが登場した。
着飾った花嫁が、馬の背にゆられて、こっちへ近づいてくる。
花嫁があらわれた途端に、アマチュアカメラマンたちがシャッターを切る音が大きくなった。
仮装行列のメインイベントは、花嫁道中であったらしい。
馬に乗った花嫁のあとから、長持を担いだ奴姿の男が、次々と姿を見せた。
長持の中には、嫁入り道具がおさめられているという趣向である。
長持を担いだ男の一人が歌を唄っている。
木曽長持歌である。
朗々とした歌声が、宿場町に谺し、なかなかの風情だ。
まるで、文化文政時代にタイムスリップしたような気分になってくる。
馬に乗った花嫁が、湾曲した「桝形」のなかほどまでさしかかったときだった。
突然、殺気が漲った。
一瞬、赤かぶ検事は緊張した。
花嫁の視線が、土塁の上のほうに注がれ、表情が強張った。
反射的に、赤かぶ検事は、土塁の上へ視線を投げる。
土塁の上で、白刃が閃いた。
まるで、映画のロケのような錯覚をおぼえるが、そうではなかった。
編笠を目深にかぶった浪人が、サッと身を翻し、後ろからきた虚無僧に斬りかかったのだ。
虚無僧は、尺八を武器にして、防御したが、果たせなかったらしく、深編笠ごとバッサリと顔面を割られた。
二つに裂けた深編笠の間から、血飛沫が噴きあがった。
虚無僧姿の男は、顔を斬りつけられ、ふらふらっとよろけながら倒れる。
現実のものとも思えない不思議な感覚が赤かぶ検事をとらえていた。
時代劇を見ているような妙な気分だったが、現実に起こった出来事であると知ると、素早い行動に移った。
「おみやぁさん。いまの光景を見たかね?」
「見ました。わたし、犯人を追いますから、あとをよろしく……」
言うが早いか、行天燎子は、土塁の上へ向かって駆け出した。
もう、このとき、犯人とおぼしき浪人の姿は、土塁の上から消えていた。
人混みにまぎれて、逃げたらしい。
一方、馬に乗った花嫁の身にも、思いがけない異変が起こっていた。
花嫁を乗せていた馬が、突然、悲鳴をあげ、前足を高く上げて暴れ出した。
土塁の上で起こった椿事に驚いたのか、それとも、別の原因によるものか、それもわからない。
花嫁が馬からふるい落とされたのは言うまでもない。
あとでわかったところによると、この花嫁は、湯浅真奈美という二十四歳の未婚の女性であった。
「マナミ」と聞いて、赤かぶ検事はドキリとした。
現場は、騒然となった。
土塁下の「桝形」では、花嫁に付き添っていた人たちが彼女を介抱するやら、救急車を呼ぶやらで、大騷ぎしている。
そうこうするうちに、救急車が到着した。
母親と見られる五十代半ばの和服の女性が、担架に乗せられて運ばれて行く花嫁に付き添い、救急車に同乗するのを赤かぶ検事は見ていた。
母親らしい女性は、ひどく取り乱し、顔からすっかり血の気が失せていた。
花嫁のほうは、遅かれ早かれ、意識を取り戻すだろうが、心配なのは、むしろ母親のほうかもしれないと赤かぶ検事は思いながら、救急車が走り去るのを見送っていた。
そのころになると、木曽警察署から機動捜査班が現場へ到着し、初動捜査を開始していた。
現場の指導者は、顔見知りの近藤警部補である。
赤かぶ検事は、土塁の上で、鑑識課員に指示を与えている近藤警部補の傍へ寄ると、
「どうだね? 顔を斬られた虚無僧の身元はわかったかね?」
「残念ながら、いまのところは身元不明です。浪人に扮していた犯人の行方も、皆目わかりません。行天警部補が犯人のあとを追ってくれたんですが、結局、見失ったらしいです」
近藤警部補が言ったとき、向こうのほうから、行天燎子警部補が悄然と肩を落とし、こちらへ歩いてくる姿が目に入った。
彼女は、犯人を見失った後も、犯人についての情報を得ようと居合わせた見物客やアマチュア・カメラマンたちの間を歩きまわり、熱心に聞き込みを行なっていたのだ。
しかし、いまの彼女の様子からすると、聞き込みの結果は芳しくなかったらしい。
「検事さん、さっぱりですわ。それにしても、せっかくの仮装行列がこんなことになるなんて……」
行天燎子は、がっくり肩を落とす。
「捜査は始まったばかりなんだから……言うなれば序の口だ。いまのうちから悲観的になることもにやぁでよぉ。元気を出しなよ」
赤かぶ検事は、彼女に慰めの言葉をかけてやった。
被害者の死体は、すでに運び出されたあとだった。
死体は、今夜じゅうに司法解剖に付せられるだろうが、その結果が出れば、新たな局面が開けてくるかもしれない。
赤かぶ検事は、それに期待をかけていた。
このとき、近藤警部補が、赤かぶ検事と行天燎子の目の前にA4判サイズの印刷した紙を広げて、
「虚無僧姿の被害者は、これを懐ろに入れていたんですよ」
「何だね? ごたごたと墨で絵や文字が書いてあるなも」
「瓦版ですよ。文化文政のころのね」
「ほう。そいつはおもしろい。そう言えば、頭に手拭いをのっけた瓦版屋が仮装行列のなかにおったなも」
と赤かぶ検事は、行天燎子の顔を見た。
彼女は、その瓦版をためつすがめつ眺めながら、
「この瓦版の内容は、すこぶる今日的ですわね。国会の解散やら、総選挙、汚職事件なんかが扱われていますもの。だけど、なぜ、これを被害者が?」
行天燎子は、近藤警部補を見返した。
「理由はわかりませんが、とにかく、虚無僧姿の男の懐ろの中にねじ込んであったんですよ。さも大事そうに、きちんと四つにたたんでね」
「大事そうに?」
行天燎子の美しい眉が曇った。
「そうなんですよ、行天さん。この瓦版は、五百枚ばかり印刷され、仮装行列を見物しにきた人たちの間にばらまかれたんです。そのうちの一枚ですよ、これはね」
「きちんと四つにたたんで、懐ろにねじ込んでいたと言われましたが、被害者にしてみれば、深い意味はなかったんじゃないでしょうか」
「さあね」
と近藤警部補は、首をかしげている。
赤かぶ検事は言った。
「こういう瓦版は、あちこちにばらまかれておるわけだから、被害者にしてみれば、ただ、なんとなく懐ろの中へ入れておったというだけのことかもしれん。もっとも、この瓦版に何かの細工がしてあれば別だがよぉ」
「一応、調べてみますよ」
近藤警部補は頷き返すと、再び、捜査員たちに指示を与えるために、赤かぶ検事の傍を離れた。
その後、捜査が進展し、意外にも、事件関係者が松本市や諏訪市に生活の本拠を置いていることが判明した。
そのために、行天燎子が近藤警部補の捜査チームに加わり、合同捜査を行なうことになった。
当然に、赤かぶ検事も、捜査に関与せざるを得なくなった。
第二章 元祖と本家
合同捜査チームに加わっていた行天燎子が、一週間後に検察庁の執務室へ赤かぶ検事をたずねてきた。
「どうだね? 調子は……」
赤かぶ検事は、常に魅力的な微笑を絶やさない行天燎子を見つめながら口を開く。
「いくぶんは進展しましたが、まだ、わからないことが多くて困っているんです」
そう言いながら、行天燎子は、赤かぶ検事のデスクの傍に腰を下ろす。
膝丈のスカートの下から、見事な脚線美がすっきりと伸びていた。
赤かぶ検事は、慌てて視線をそらせながら、
「例の花嫁の名前だがよぉ。やはり、おみやぁさんの記憶が正しかったようだなも。わしは、てっきり『ナミさん』と聞いたように思っておったが、おみやぁさんが言うように、『マナミさん』が正しいことがわかった。わしとしては、兜を脱がにやぁならんわね」
「そのことなんですけど、例の記憶喪失の若者は、どう勘違いしたのか、わたしを湯浅真奈美だと決め込んでいたみたいですわね。聞いてみると、湯浅真奈美は、当年二十四歳ですのよ。なのに、三十代のわたしと見紛うなんて……もっとも、わたしにしてみれば、光栄の至りですわ。二十代の娘さんと間違われたんですものね」
と行天燎子は、愉快そうに笑う。
赤かぶ検事は言った。
「あの若者は、わしのことを『お父さん』と呼んだなも。いったい誰と勘違いしたんだろう?」
「たぶん、検事さんを湯浅真奈美の父親だと思い込んだんじゃありませんか。ところで、例の記憶喪失の若者ですが、目下、行方不明なんです」
「行方不明? 入院させたのとは違うのかね?」
「病院から逃げ出したんです」
「逃げ出した? なぜだね?」
「まったく見当もつきません。逃げ出す必要もないのに……」
「手配したかね?」
「はい。人相風体がわかっていますから、いずれは見つかると思うんです。それより、心配なのは馬から落ちた湯浅真奈美のことですわ」
「病状が悪化したのか?」
「重体なんです」
「そいつは大変だ」
「そうなんです。彼女が乗っていた馬が興奮したせいで、あのような事故が起こったんですけど、実を言いますと、これには、ちょっとしたトリックが仕掛けてあったらしいんです」
「トリックと言うと?」
「あのとき、花嫁道中に付き添っていた関係者の一人が、馬の尿を調べるようにと木曽警察署へ電話を入れたことから、事件が発覚したんです」
「馬の尿を調べる?」
「はい。競走馬に覚醒剤やカフェインを注射したり、飲ませたりして、八百長ゲームを企む連中がいますわね?」
「何の話をしとるんだね? 今回の仮装行列と競馬とは何の関係もにやぁでんかんわ」
「いいえ。わたしが言おうとしているのは、花嫁が乗っていた馬の尿を調べたところ、カフェインが検出されたってことなんです」
「それ、ほんとか?」
「はい。あの馬が暴れ出して、花嫁が振り落とされたのは、カフェインを飲まされ、興奮していたからに違いないという新たな疑惑が生まれてきたんです」
「なんと、おそぎゃあ話だなも。それじゃ、あの馬が暴れ出したのは、土塁の上で殺人事件が起こり、その騷ぎで驚いたからではなく、カフェインのせいだと、そう言うんだな?」
「カフェインのせいで馬が興奮したのか、それとも、土塁の上の騷ぎで興奮したのか、いずれとも確定できませんわ。だって、土塁の上で騷ぎが起こったときに馬が暴れ出したんですもの」
「カフェインを飲まされ、興奮しておったところへ、土塁の上で騷ぎが起こったもんだで、なおのこと馬が興奮した。こういうことかもしれんな」
「はい。近藤警部補も、その意見なんです」
「確認するが、あの馬の尿からカフェインが検出されたのは、もはや動かぬ事実なんだな」
「はい。間違いのない事実です」
「いつ、どのような機会に、あの馬がカフェインを飲まされたんだろう?」
「それについてですが、捜査の結果、次のようなことがわかりました」
と行天燎子は、警察手帳に視線を落としながら、
「あの馬は、御嶽山の麓の開田高原の放牧場で飼育されていたメスの三歳馬です」
「いわゆる木曽駒だなも」
「はい。木曽駒は、昔から名馬として、よく知られていますわね」
「うむ。木曽駒の放牧場のメス馬を今回の花嫁行列に参加させたわけだろう?」
「はい。『恵美』と命名されていた馬なんです。常日ごろから従順な馬だったのに、なぜ、あんなふうに暴れ出したのか、関係者が不審の念を抱いたのも事実です。一方、付き添いの人たちの中にも、『恵美』の挙動がいつもと違っていると気づいた人もおりました。そんなわけで、事件後、木曽警察署へ尿を検査してみるようにという申し入れがあったんです」
「なるほど。それでよぉ、カフェインが馬の体内へ入り込んだ経路は?」
「馬の飼料の中にカフェインが混ぜてあったらしいんです」
「飼い葉の中にカフェインが?」
「はい。いつ、飼い葉の中にカフェインが投入されたのか、そこらへんのことは、まだ判明していません。目下、厩舎の関係者の間を聞き込みにまわっている最中です。いずれにしても、湯浅真奈美が犯人の標的にされたのは間違いのないところです」
「二十四歳の未婚の女性が、なぜ、命を狙われたんだろう?」
「殺害を図ったのか、それとも、ケガの程度にとどめておくつもりだったのか、そこらへんの犯人の意図は、まったくわかりません」
「ちょっと待ちなよ。土塁の上で騷ぎが起こる直前に、湯浅真奈美の視線が、ちらっと上へ向くのをわしは目撃したんだ」
「視線が上へ向いたとおっしゃいますと?」
「いや、土塁の上を歩いておった例の浪人風の男のほうへ、彼女が不審な眼差しを向けたような気がするもんだでよぉ」
「ほんとに不審な眼差しでしたか?」
「確信はないが、何だか、ちょっとへんだなという気がしたわね」
「それじゃ、彼女は、土塁の上で何か事件が起こるってことを予知していたんでしょうか?」
「さあ、どうだか……もし、そうだったなら、彼女自身が何らかの形で土塁の上の騷ぎに関与しておったのかもしれんな」
「検事さん、脅かさないでくださいよ。ただでさえ、捜査が難航しているのに、このうえ、新たな疑惑が加わったら、ますます混乱しますわ」
そう言って、彼女は、大袈裟に身震いして見せて、
「土塁の上で斬殺された虚無僧姿の被害者の身元もわかっていませんし、もちろん、浪人の姿をした犯人の行方も、全然、知れないまま経過しているんですものね」
「うむ。虚無僧にしろ、浪人にしろ、目深に編笠をかぶっておったから、顔が見えない。ここらあたりのことも、捜査を難航させる原因になっておるようだなも」
「そのとおりですわ、検事さん。仮装行列に参加した人たちのなかには、浪人に化けたり、虚無僧に身をやつしたりする人が少なくないんです。だから、なおのこと、犯人や被害者を特定するのが難しくなってきます」
「観光協会では、仮装行列に参加した人たちの住所や氏名がわかっておるんだろう?」
「一応はね。目下のところ、観光協会でわかっている人を対象に捜査を進めています。ですけど、観光協会へ届け出ないで、飛び入りで仮装行列に参加する人もいたようですから……」
「そいつは困ったな。無届けで参加した連中のなかに、犯人ないし被害者がおったのかもしれんでよぉ」
「そこらあたりのことが気になります。だけど、明るい希望もありますのよ。と言いますのは、今回の事件の背景とみられる事情について、ある程度のことがわかってきましてね」
「事件の背景がわかったのか?」
「概略にすぎませんけど、調べはついているんです」
「それを早く聞かせてちょうよ」
「ちょっと混み入った話でして……」
と前置きして、行天燎子は、警察手帳に走り書きしたメモに視線を落としながら、報告をつづけた。
行天燎子は言った。
「検事さん。五平餅というのをご存じでしょう?」
「知っとるわね。白飯を半練りにして餅をこしらえ、タレを塗って串に刺し、炭火でこんがり焼いた食べ物だろう。要するに、平たく握った小さなおむすびを串刺しにしてよぉ、味噌や醤油をつけ、囲炉裏で焼いたのが、五平餅だわね。最近では、タレも工夫され、落花生やクルミ、胡麻なんかをすりつぶして、味噌や醤油と和えたのやら、いろいろバラエティーがあってよぉ。ほかにも、サンショウ味噌をタレにしたのもある。これは、香りがよくて観光客には人気があるようだな」
「御幣をかたどったものだというので、五平餅と名づけられたようですわね。わらじに似ているというので、わらじ五平とも言うそうです。御幣の形をしたのが本来の姿らしいですが、伊那方面では、本来の伝統を受けつぎ小判型の五平餅が一般に知られています。ですけど、中津川や妻籠なんかでは、幕末ころから、団子型の五平餅が売り出されたようですわ」
「よく知っとるなも」
「必要があって調べたんです」
「ほう。今回の事件に関係があるのかね?」
「大いに関係がありましてね。ご存じかもしれませんが、五平餅を箱詰めにして、信州名物と銘打ち、大量生産して、観光デパートや、みやげ物店なんかへ売り捌いている菓子メーカーがありますでしょう?」
「そう言えば、二つの菓子メーカーが競合して、みやげ物市場で熾烈な商戦を繰り広げておると聞いたこともあるが、そのことかね?」
「はい。『元祖・五平餅』というのがありましてね。二十年ばかり前から市場を拡大し、ほとんど独占的シェアを誇っていました」
「『元祖・五平餅』という千社札に似た商標登録をしとる菓子メーカーだろう。本店は松本市だが、商品は、信州に限らず、中部地方各地に及んでおるなも」
「はい。株式会社組織になっていまして、会長というのが、湯浅鶴次郎六十一歳。長男の辰夫三十一歳が社長です。そのほか、役員はすべて親戚で固めています」
「要するに、湯浅家を中心とした同族会社だなも」
「そうなんです。こういうのは、同族会社で運営するのが普通のことなんでしょうけど、気になるのは、長女の真奈美二十四歳です。こう言えば、おわかりかと思うんですが……」
「花嫁道中の最中に落馬して重体だという、あの湯浅真奈美のことだろう?」
「はい。実を言いますと、今回の事件の背景は、そこらへんにあるような気がしてならないんです」
「どういうことだね? わしには、さっぱりわからんがよぉ」
「詳しく説明しますと、こういうことなんです。『元祖・五平餅』は、いま言いましたように、湯浅鶴次郎を会長とする『株式会社湯浅製菓』がフランチャイザーとなり、各地から加盟店を募集し、『元祖・五平餅』のブランド商品を市場へ送り込むことによって、相当な利益をあげてきました」
「なるほど。いわゆるフランチャイズ契約だなも」
「はい。お弁当やお寿司、ホットドッグやドーナツなんかにも、フランチャイズ方式のチェーン店がたくさんありますわね。あれと同じ仕組みです。要するに、本部にあたる『株式会社湯浅製菓』は、加盟店《フランチャイジー》から、その売り上げに応じて、ブランド使用料やノウハウの対価などを徴収し、それだけで利益をあげることができるんです。つまり、『元祖・五平餅』の作り方やノウハウを加盟店に教え、その対価として、売り上げの何パーセントかを徴収します。最近では、五パーセントを徴収しているようですわ」
「だとすればよぉ、『株式会社湯浅製菓』の収益は莫大なものになるな」
「そうなんです。『株式会社湯浅製菓』は、そのようにして、ずっと利益をあげてきたんですが、最近になって、強敵があらわれましてね」
「強力なライバルが登場した? こういうわけかね?」
「はい。そのことが、今回の事件の底流になっているのではないかという気がしてならないんです」
「花嫁道中の最中に落馬した真奈美の事件が、関係しておるというのかね?」
「そうです。強力なライバルが登場したのは、五年前からです。『元祖・五平餅』を売り出している『株式会社湯浅製菓』に長年勤め、専務取締役をしていた末永喜造《すえながきぞう》という当年五十七歳の男が、そのライバル会社を設立した張本人だったために、蜂の巣をつついたような騷ぎになりました」
「うむ。末永喜造という男が独立して、新会社を組織し、『元祖・五平餅』に対抗して、同じような商品を作り、売り出したわけだな?」
「そうなんです。このほうのブランドは、『元祖・五平もち』です」
「まったく同じではにやぁがね?」
「いいえ、『もち』とあるように、ひらがなです」
「まぎらわしいな」
「まぎらわしいどころじゃありませんわ。お客は、同じものだと思い込んで、買うんですから……『元祖・五平もち』のほうも、千社札に似せたようなラベルをつけ、箱や包装も、ほとんど『株式会社湯浅製菓』のものと変わりないんです」
「よくある話だなも。もとをただせば、五平餅なんてのは、平たく握ったおむすびを串に刺し、味をつけただけのものなんだからよぉ。そないに難しい技術は必要ないんだし、簡単な工場設備があれば、量産できるのと違うかね?」
「そのようですわね。囲炉裏端に集まった子供たちが、五平餅の焼きあがるのを楽しみに、おじいちゃんやおばあちゃんから昔話を聞いていたころの古きよき時代とは違って、いまでは、食べる物までが、単にアンティークだというだけで、観光客を当てこんだ商品になり、大量生産される時代なんです。考えてみれば、ちょっと寂しい気もしますわね」
「同感だわね。商業主義が当たり前のように思われておる世の中だからよぉ。ところで、後発のライバル会社の『元祖・五平もち』は、その後、順調に業績を伸ばしたわけか?」
「そうなんです。このほうは、『株式会社末永製菓』と言いまして、社長は、先ほど、お話ししました末永喜造五十七歳。そのほか、末永家ゆかりの人たちで固めた同族会社です。長男の秀男二十八歳が、いずれは社長に就任するんでしょうけど、目下のところ、独身で修業中の身であり、平取締役になっているだけで、発言力は弱いんです」
「二十八歳の独身だというんだから、本腰を入れて経営に参加するというわけにもいかんだろう」
「はい。そのほかに、秀男より二つ下の順二という弟がおりますが、これもやはり、平取締役です。役付きの取締役は、社長の末永喜造の妻のすみ江や、従兄なんかで占められているんです。例えば、妻のすみ江は、専務取締役ですしね」
「それでよぉ、このことが、今回の事件にどのように関係するんだね?」
「いま言いました末永家の長男の秀男というのが、先日、天竜峡公園で、わたしたちが保護した記憶喪失の若者だったんです」
「それ、ほんとかね?」
赤かぶ検事は、目を剥いた。
行天燎子は、頷き返しながら、
「実を言いますとね、末永家から、家出人捜索願が出ていたんですのよ、諏訪警察署へね」
「諏訪警察署へ? おみやぁさんの夫の行天珍男子の勤務先ではにやぁがね?」
「はい。そのことで、主人は、いま、行方不明になっている末永秀男の捜索に懸命なんです」
「うむ。記憶喪失だというのに、病院から抜け出して、どこかへ雲隠れしたというのも、気になるでよぉ」
「はい。わたしのことを湯浅真奈美と間違えたり、検事さんを『お父さん』と呼んだり、あれは、いったいどういうわけなのかと、主人が末永家へ出かけて、事情聴取をしたんですのよ」
「何か情報が得られたかね?」
「主人が言うには、長男の秀男は、以前から、湯浅家の真奈美と親しくなり、親に隠れてデートしていたらしいんです」
「親に隠れて? そりゃ、いったい、どういうことだね?」
「おわかりでしょう? 検事さん。湯浅家と末永家とは、ライバルなんです。商売敵ですものね」
「なるほどね。商売敵の関係にある両家の長男と長女が愛し合うようになれば、こいつはどえりやぁことだなも」
「そうなんです。湯浅家では、真奈美に対して、秀男と手を切るようにと厳しく言い渡していたそうですわ。一方、末永家でも、秀男に向かって、真奈美のことは忘れろと……」
「可哀相によぉ。若い二人にしてみれば、堪えられないことだろうよ」
「そうなんです。親への気遣いと、相手を愛する情愛との板ばさみになり、真奈美も、それに秀男も、ずっと悩んでいたらしいですわ」
「うむ。その揚句の果てに、秀男は、家出をした?」
「たぶんね。末永家では、秀男がいなくなったと知ったとき、てっきり、真奈美と駆け落ちしたものとばかり思い込み、湯浅家へ怒鳴り込んだりしたようですわ」
「実際は、どうだったのかね? 駆け落ちしたわけじゃないんだろう?」
「駆け落ちなんてことはないはずです。だって、真奈美は、あのとおり、花嫁道中に出ていたんですもの。だけど、それは表面上のことであって、もしかすると、秀男の居所を真奈美が知っているという可能性もありますわね」
「なるほど。その点を真奈美に問いただすにしても、彼女は重体だしよぉ」
「ですから、何としてでも、秀男の足どりをたどり、一日でも早く、居所を突きとめる必要があります。そのために、主人は、このところ、大変なんです」
「だろうな」
「検事さん。ついでに申しあげておきますと、『株式会社湯浅製菓』と、末永一族の『株式会社末永製菓』とは、裁判で争っていた経緯があるんです」
「あり得ることだなも」
「世間によくある、本家争いですわね」
「うむ。民事裁判になるわけだが、その裁判のポイントは、いったい何だった?」
「商標権侵害と不正競争防止法違反です。この二点について、民事裁判が二年間、つづいていたんです」
「判決は、どうなった?」
「判決には至っていません。裁判の途中で、双方が和解し、決着をつけたからです」
「ほう。どういう内容の和解が成立したのかね?」
「『株式会社湯浅製菓』のほうは、従来どおり、『元祖・五平餅』のブランドで商品を製造し、販売することができるんですが、相手方の『株式会社末永製菓』は、『本家・五平もち』のブランドで、商品を製造し、販売することができるという和解でした。つまり、『元祖』ではなくて、『本家』ならかまわないというわけです。ただし、千社札に似せたようなラベルを使用しないという条項も入っていたんです」
「そういう条件で、双方が和解したわけだなも」
「はい。ところが、それ以後、『株式会社末永製菓』が、和解条項から逸脱した方法で、営業を始めたんです」
「と言うと?」
「和解では、『本家・五平もち』のブランドを使用することになっていたのに、いつの間にか、『総本家・五平もち』に変えてしまっていたんです」
「『総』という字を勝手につけたわけだな?」
「それだけじゃありません。ラベルのほうも、以前のように、千社札に似せたのを商品に貼りつけて、売り出しているんです」
「そうなると、以前と変わりないではにやぁがね?」
「そうなんです。裁判を起こした『株式会社湯浅製菓』にしてみれば、和解のメリットをほとんど帳消しにされたのも同じですわ。『総本家・五平もち』のほうが、商売上手なので、業績は、こちらのほうが伸びているようです」
「そうなると、湯浅家では、ますます、末永家が憎くてならん。まして、自分の娘の真奈美を、末永家の長男の秀男なんかと結婚させるわけにはいかない。と、まあ、そんなわけで、いよいよ態度を硬化させた。こういうことだろう?」
「いまや、両家の対立は、頂点に達し、火花を散らしそうな勢いだそうですわ」
「そういう状況のなかで、今回の事件が起こったわけか?」
「はい。事件の背景には、やはり、両家の対立が燻っているのではないかという気がしてなりません」
「うむ。そのために、湯浅家の長女の真奈美が、今回、災難に遭遇したとも考えられる。これがおみやぁさんの推理だなも?」
「確信はありませんが、一応、その線で捜査を進めてみようと考えています」
「いいだろう。記憶喪失の若者のほうは、どうなんだね?」
「末永秀男が家出をしたのは、間違いのないところですが、記憶を失ったのは、なぜなのか。この点は、依然として謎です」
「うむ。本人の居所を突きとめ、もう一度病院へ戻して、治療を受けさせ、一日も早く、記憶を甦らせる必要があるなも」
「そうなんです」
と行天燎子は答え、ふと、何かを思い出したかのように、
「そう、そう。ぜひ検事さんに聞いていただかなくては……十一月二十三日の仮装行列の日のことですが、わたしの車に駐車違反のステッカーが貼ってあったんですのよ。検事さんは別の車で松本へお帰りになったから、ご存じないでしょうけど……とにかく、管轄の木曽警察署では、このさい、目をつむって、すんなり反則金を支払ってくれと、そう言うんです」
「職務執行中なのに?」
「それは、あとになってからのことで、駐車禁止区域に車を止めたときは、職務執行中ではなかったわけですから、特別扱いはできないって……そういう論法です」
「ずいぶん厳しいなも。だけど、わしの記憶では、あの付近に駐車禁止の標識はなかったように思うが、どうなんだね?」
「わたしも、そのような標識を見ていません。しかし、木曽警察署では、少し先の路肩に、標識が立てかけてあったと言うものですから、そこへ行ってみたんですけど、やはり、標識はありませんでした」
「おかしな話だなも。標識を立てたのに、なくなっておるとは?」
「もしかすると、暴走族とか、酔っぱらいがいたずらして、取り外したんじゃないかと言うんです。ときおり、そういうことがあるそうですから……」
「それならば、反則金を払うこともにやぁでよぉ」
「そうでしょうか?」
「うむ。わしが保証してやる。駐車違反とか、スピード違反とかいうのはよぉ、その標識が掲げられておらない限り、反則金を支払わなくてもいいし、処罰もされん。これが裁判所の解釈なんだ。木曽警察署の署長に、そう言ってやれ」
「わかりました。いいことを教えていただきましたわ。反則金だけならいいんですけど、減点されますから、それが困るんです」
行天燎子は、すこぶるご機嫌がいい。
やはり、駐車違反のことが気になっていたからだろう。
それから三日後、赤かぶ検事が執務室で店屋物の鰻どんぶりを食っている最中に、行天燎子から電話があった。
「検事さん。わたし、いま、木曽警察署から電話をかけているんですが、ちょっとした情報が入りましてね」
「ほう。聞かせてちょ」
赤かぶ検事は、受話器を片手に、相変わらず、鰻どんぶりを食っている。
行天燎子は言った。
「『桝形』の土塁の上で虚無僧姿の男が斬られたのは、当日の午前十一時半ごろ。これは、司法解剖の結果とも一致しています」
「うむ。問題は、現場から、いち早く立ち去った浪人姿の男だ。こいつが犯人だってことは、誰もが認めるところだわね。目撃者がたくさんおったんだからよぉ」
「はい。あの浪人は、五合徳利を下げていませんでした。仮装行列に参加した浪人姿の人たちは、たいてい徳利を下げていたんですけど……だから、徳利を下げていない浪人を探し出すようにという指示が捜査員たちに与えられていたわけです」
「それで?」
赤かぶ検事は、茶を飲んだ。
行天燎子の報告がつづく。
「ところが、なかなか情報が集まらず、わたしたちは困り切っていました。そうしたところへ、思いがけない情報が舞い込んできましてね。当日、『上丁字子』の二階から写真を撮っていたプロ・カメラマンが、興味ある写真を持ち込んでくれたんです」
「どういう写真だね?」
「犯人の浪人が、さっと身を翻し、後ろからきた虚無僧姿の男に斬りつけようとする寸前の写真です」
「そいつは貴重な写真だなも。早いとこ見たいもんだ」
「焼き増ししたのを別便で送りましたから、今日じゅうに着くと思いますわ」
「わかった。とにかく、話をつづけてちょ」
「はい。もちろん、その写真にも、浪人の顔は写っていません。編笠を目深にかぶっていましたからね」
「犯人の顔が写っておらんのでは話にならんのではにやぁがね?」
「ところが、そうじゃないんです、検事さん」
不意に、彼女の声が陽気なものに変わった。
「よくわからんな。どういうことだ?」
赤かぶ検事が問いかけると、行天燎子の口から、こういう返事がかえってきた。
「浪人が身を翻し、刀を抜いた瞬間、その傍に居合わせた別のアマチュア・カメラマンの体に、浪人の肘とか腰なんかがぶつかったらしくて、そのアマチュア・カメラマンは、かまえていたカメラを下へ落としたんです。そのとき、シャッター・ボタンに手が触れたらしくて、フラッシュが発光しました。その瞬間を撮影した写真を『上丁子屋』の二階にいたプロ・カメラマンが警察へ持ち込んでくれたわけです」
「ほう。ちょっと、まわりくどい筋書だが、話はわかる。いずれにしろ、そいつは、珍しい写真だなも」
「はい。考えてみれば、こういうことがあってもおかしくありませんわね。とにかく、偶然と偶然とが重なり合った結果、そうなったわけです」
「復習してみよう。カメラが落っこちた拍子に、シャッターが切れた。そのとき、編笠の下に隠れていた浪人の顔が写ったかもしれん。フラッシュが発光したというんだからよぉ。こういうことかね?」
「そのとおりなんです。カメラが落下していくときに、フラッシュが発光し、シャッターが切れた。とすれば、たぶん、そのカメラは、浪人の顔を編笠の下から写してしまったんじゃないかと推測されます」
「確かに、そういう推測は成り立つがよぉ。実際のところは、どうなのかな?」
「ですから、土塁の上で騷ぎがあったとき、カメラを落としたアマチュア・カメラマンを見つけなければなりません」
「写真には、そのアマチュア・カメラマンの顔は写っておらんわけだなも」
「残念ながら、そのとおりです。『上丁子屋』の二階から偶然撮影していたプロ・カメラマンは、ほんの偶然のことで、土塁の上で起こった事件を写しただけです。ですから、カメラを落とした人の顔を写していませんし、まして、おぼえてもいません。あのとき、土塁の上にはアマチュア・カメラマンや観光客が大勢、詰めかけていましたから、特定するのは、困難ですわ」
「カメラを落とした当のアマチュア・カメラマンを探すのが、ひと苦労だわね。そうだろう?」
「わかっています。でも、何とかやってみますわ。先ほど、近藤警部補も、部下の捜査員たちを前にして、その関係の捜査に全力をあげるようにと督励していましたから……」
「何とかして探し出してもらいたいもんだなも」
赤かぶ検事は、ひそかに溜息をもらした。
たぶん、その捜査は困難を極めるだろう。
ところがである。
それから間もなく、予想外の殺人事件が起こり、それがきっかけになって、問題のカメラを落としたアマチュア・カメラマンの身元が判明したのである。
第三章 アマ・カメラマンの死
その週の金曜日の朝、赤かぶ検事が、長野地方検察庁松本支部へ出勤して間もなくのことだった。
行天燎子から電話がかかった。
声の調子からして、緊張しているのが察せられた。
「検事さん。今朝、発売された『フォト・フラッシュ』をご覧になりましたか?」
「写真週刊誌だなも。わしは、そういう類いの雑誌は、手にとったこともにやぁでよぉ。関心がないもんだから……その写真週刊誌がどうかしたのかね?」
「実を言いますと、うちの若い刑事が、発売されたばかりの『フォト・フラッシュ』をわたしのところへ持ち込んできましてね。血相を変えて、こう言うんです。『係長、これを見てくださいよ。おれたちが、必死になって探していた浪人ふうの男の顔を写した写真が出てますよ』なんて……実際、『フォト・フラッシュ』には、その若い刑事の言うとおり、ばっちり、浪人姿の犯人の顔が写っているじゃありませんか」
「それ、ほんとか?」
「間違いありません。あのとき、土塁の上にいたアマチュア・カメラマンがカメラを落っことした瞬間、指がシャッター・ボタンに触れ、フラッシュが発光して、編笠をかぶった浪人の顔を写してしまったんです」
「どえりやぁことだなも。動かぬ証拠写真なんだからよぉ」
「浪人姿の男を斜め下の角度から写していますので、若干、容貌が変わって見えますが、犯人を特定するうえには、支障はありません」
「ちょっと聞くがよぉ。そういう写真は、たいてい、ピントがずれておったりして、引き伸ばすとボケた写真になるものだよな。その点どうなんだ?」
「確かに、ボケた写真にはなっています。自動焦点のコンパクトカメラで写したとありますが、そういうときは、オートフォーカスが作動しにくいものですから、多少とも、ぼやけた写真になるらしいです。でも、手配写真としては、何とか使えるんじゃないかと思うんです」
「それならばよぉ、『フォト・フラッシュ』に頼んで、フィルムを提供してもらい、県警本部の鑑識課でプリントさせれば、もっと明瞭な顔写真ができあがるかもしれんな」
「そのことで、『フォト・フラッシュ』へ電話を入れたんです。フィルムを提供してくれないかと……」
「拒否されたのかね? ニュースソースが、どうのこうのとか言ってよぉ。それならば、裁判所から令状をとり、フィルムを押収するという手もあるでよぉ」
「いいえ、『フォト・フラッシュ』の編集長が言うには、ネガを提供者に返してしまったとか……ですから、編集部にあるのは、提供してもらったネガを使って印画紙に焼き付けたプリントだけだって……カラーフィルムだったそうですが、編集の都合上、白黒の印画紙にプリントして、それを雑誌に掲載したんだそうです。だから、編集部に残っているのは、その白黒のプリントだけなんです」
「それなら、そのアマチュア・カメラマンに直接交渉して、原板のネガフィルムを借りるよりほかないな」
「それはできます。撮影者の住所や氏名が、写真説明の記事のなかに書いてありますから……」
「何だと? 名前だけならまだしも、住所まで書いてあるとすれば、そいつはまずい。万一にも、犯人が撮影者の命を狙ったらどうなる?」
「検事さん。それは考えすぎじゃないでしょうか?」
「どうしてだね?」
「だって、考えてもみてください。犯人の顔が、すでに写真週刊誌に掲載されてしまったんですのよ。いまさら、撮影者を殺害したところで、手遅れですもの。犯人としてはね」
「一応、それは言えるが、復讐というか、腹立ちまぎれに、撮影者を殺《や》っちまうということもあるでよぉ。そればかりか、たとえ原板のネガの鮮明度が落ちていても、多少とも時間と手間をかけてプリントすれば、犯人の容貌を特定するうえに、より優れた証拠写真が得られるかもしれんでよぉ。犯人は、そこらあたりのことを考えて、撮影者を殺害するってこともある」
「わかりました。早速、捜査員を撮影者のもとへ走らせます」
「その前に、撮影者に電話を入れておくのがええわね。何が起こるかわからないから、街中をぶらぶら動きまわったりするなって……もっとも、サラリーマンなら、勤め先を休むことはできないかもしれんがよぉ。記事には、勤め先とか職業まで書いてあるのかね?」
「『山田電気』という会社に勤めていると書いてあります」
「詳しく書きすぎとるな。そいつはヤバい。後手にまわらんように、機敏に行動してちょうよ」
「了解しました。それじゃ、いずれ……」
行天燎子は、そそくさと電話を切った。
早速、彼女は、赤かぶ検事の指示に従い、ぬかりなく手を打った。
ところがである。
犯人のほうが、一歩、先を進んでいたのである。
このことは、午後になってから判明した。
赤かぶ検事が午後の法廷を終え、裁判所から検察庁へ戻ったころに、行天燎子から電話があった。
「検事さん。残念ですけど、犯人に先手を打たれましたわ」
「どういうことだね?」
「『フォト・フラッシュ』に写真を提供した男は中岡英夫、二十八歳。勤め先も住所も、写真説明の記事のなかに書いてあったのが、やはり、いけなかったんです」
「あとは聞かずとも察しはつく。中岡とかいう若者が命を狙われたんだろう」
「そうなんです。松本城のお堀の近くに、『山田電気』のルートバンが止めてありましてね。たまたま、通りかかった『山田電気』の社員が、それを見て、車の中を覗き込んだところ、中岡英夫が運転席に座ったまま、死んでいることがわかったんです。死因は絞殺ですが、凶器は発見されていません。でも、ビニール紐のようなもので締め殺したらしいという推測はつきますわ」
「発見された時刻は?」
「二時間ばかり前です。いま、検視を終え、死体を司法解剖に付するために運び出したところです」
「よし。とりあえず、事件の経過を話してちょ」
「はい。これまでに判明したところによりますと、およそ以下のようなことになります」
行天燎子は、ここで、ひと息いれた。
現場に止めた警察車の自動車電話から連絡をとっているらしく、捜査員たちの話し声や、機材を運び出したりする物音が受話器に響く。
行天燎子は言った。
「中岡英夫は、独身者アパートに暮らしているんですが、隣りの部屋に藤田隆という友達がいましてね。勤め先は違うんですが、二人は気心が合うらしく、どんなことでも相談しあっていた様子です」
「その友達から、いろいろ聞き込んだわけだなも?」
「はい。藤田の話によりますと、中岡英夫は、問題のネガフィルムを誰かに売り込んだらしいんです」
「誰かとは?」
「それがわからなくて、困っているところです。たぶん、その誰かが、中岡英夫を殺害した犯人じゃないかと……」
「よくわからん。どういうこったね?」
「昨夜のことですが、中岡英夫は、藤田の部屋をたずね、前祝いだとか言って、舶来の高級ウィスキーを持ち込んだそうです」
「前祝い?」
「『明日、大金が入るから、その前祝いだ』なんて、ご機嫌だったそうですわ」
「何のための前祝いか、それは言わなかったのか?」
「一応のことは話しています。何でも例のネガフィルムを買いたいと言ってきた女がいるとか……」
「女? それじゃ、中岡を殺害した犯人は女なのか?」
「それはわかりませんが、ネガフィルムを買いたいと電話をかけてきたのは、女なんだそうです。中岡英夫は、たぶん、相手が女だからと思って、気を許していたから、殺されたのかもしれませんわ」
「その女は、単なる共犯者にすぎず、黒幕は別にいたんだろうな」
「おそらく、そのはずです。女の名前はおろか、黒幕の身元も割れていません」
「話をつづけてちょうよ」
「はい。昨夜のことに戻りますが、友達の藤田の部屋をたずねてきた中岡は、こんなことを喋っていたそうです。実を言うと、昨晩、中岡の部屋へ電話がかかり、『フォト・フラッシュ』に掲載された写真のことで、たずねたいことがあるとか言ったそうです。その女がね」
「待ちなよ。『フォト・フラッシュ』は、今朝、発売になったのではにやぁがね?」
「そのとおりなんですが、実際は、昨日の午後に、書店へ配送されているんです。本来なら、今日の午前零時から発売する手はずなんですが、コンビニエンス・ストアなんかでは、昨日の夕方から店頭に並べています」
「なるほど。先をつづけてちょ」
「はい。そんなわけで、犯人はコンビニエンス・ストアで『フォト・フラッシュ』を手にとり、問題の写真を目にしたというのが真相のようです」
「だから、ネガをくれと電話をかけてきた?」
「そうなんです。電話をかけてきた女は、そう言っていたそうですから……」
「だけど、妙だなも。『フォト・フラッシュ』の写真を見て気がついたのなら、ネガは『フォト・フラッシュ』の編集部にあると思うのが常識だがよぉ。そうだろう?」
「その女は、こう言ったそうです。『フォト・フラッシュ』の編集部へ電話をしたところ、ネガは写真提供者に返したと……」
「なるほど、だから中岡英夫のアパートへ電話をかけてきた?」
「そうなんです。ネガをくれたら、高額のお礼をすると言って、誘いかけています」
「高額というと?」
「そこまでは中岡も言わなかったそうです。ですけど、前祝いだとか言って、ウィスキーなんかを藤田の部屋へ持ち込んだところからすると、多額の報酬が約束されたに違いないと言うんです」
「友達の藤田が、そう言っとるんだね?」
「はい。『フォト・フラッシュ』からは、たいした謝礼を受け取っていなかった模様ですが、『今度は大儲けできそうだ』と中岡英夫は、悦に入っていたそうですから」
「わかった。報告をつづけてちょ」
「はい。そんなわけで、中岡英夫は、今朝、『山田電気』のルートバンに乗って、アパートを出たんです。たぶん、市内のどこかで、その女と落ち合う約束をしていたんでしょう」
「『山田電気』のルートバンに乗ってアパートを出たというのは、どういうわけだね?」
「中岡英夫は、会社のルートバンに乗って、通勤しているんです。よくあることですわね。会社が従業員の自宅付近の路上を駐車場がわりに使っているんです。ああいうのは、警察としても困るんですが、厳しく取り締まると、いろいろと問題が起こってくるので、大目に見なくちゃならないときもあります」
「うむ。結局、こういうことだなも? 中岡英夫はそのルートバンに乗って、女と約束の場所へ出向いた。そこへ共犯者があらわれるとかして、ネガフィルムだけを奪われ、殺害された?」
「それしか、ほかに考えられませんわ。女と落ち合った場所にしても、たぶん、松本城の近辺だったはずです」
「何か根拠があるのかね?」
「死体を移動した形跡がないからです」
「それじゃ、ルートバンの中で殺されたわけだなも?」
「そのはずです」
「犯人側は、ルートバンの中で話をしようなどと持ちかけ、車に乗り込んできた。そして、ネガフィルムを見せてくれとか、買取り価格の交渉なんかをしている最中に、隙を見て中岡英夫を殺害し、ネガフィルムを持ち去った。こんなところではにやぁがね?」
「わたしも、そう思います。犯人側は、ネガフィルムを手に入れると、中岡英夫を殺害し、死体を車の中に置き去りにして逃げたんです」
「中岡英夫は、まんまと罠にかけられたわけだなも」
「そうです。犯人側が、彼よりも一枚、上手だったんです。中岡英夫は、欲張りすぎたために、命を落としたんでしょうね」
「まあな。ほどほどにしておけば、ええのによぉ。それで、犯人を知る手がかりは、何か残されておるかね?」
「いいえ、全然……」
「指紋とか、足跡なんかも見つからんのか?」
「はい。犯人側は、当初から、計画的に中岡英夫を罠に陥れようとして、あれこれと考えていたんでしょう」
「だろうな。だが、考えてみれば、犯人側としても、後手にまわっておるのではにやぁがね?」
「あら、どうしてですか?」
「何と言っても、『フォト・フラッシュ』に浪人姿の男の顔が掲載されちまったんだからよぉ。そのあとで、ネガを手に入れたところで、どうなる? われわれが、『フォト・フラッシュ』の写真をネタにして聞き込みにまわれば、そいつが何者か、遅かれ早かれわかってくるはずだ。だから、いまさら、写真を撮影した中岡英夫を殺害しても、それほど大きなメリットは期待できないのと違うかね?」
「ですけど、『フォト・フラッシュ』の写真は、多少ともボケた映像になっていますので、決め手にはならないかもしれないと犯人は考え、ネガさえ奪いとれば、少なくとも捜査の妨害にはなると思ったんじゃないでしょうか?」
「うむ。それは言えるかもしれんな」
「それに、検事さんがおっしゃったように、問題の写真を『フォト・フラッシュ』に売り込んだ中岡に対する復讐の意味もあるでしょうし……検事さん、ちょっと待ってくださいよ。いま、新しい情報が入ったようですから……」
彼女は通話を保留にしたまま、誰かと話している様子だ。
たぶん、刑事が新しい情報を持ち込んできたのだろう。
赤かぶ検事は、逸る心を押えながら、彼女からの報告を待っていた。
やがて、行天燎子の声が受話器に響く。
「検事さん。いま入った情報をお伝えします」
彼女の声の調子からして、緊張していることが察せられた。
「どうしたんだね? 事件でもあったのかね?」
「殺人事件です、検事さん。厩務員が殺されました」
「厩務員?……すると……」
「そうなんです。文化文政風俗絵巻の仮装行列のさいに、花嫁を乗せたメスの三歳馬に、カフェイン入りの飼い葉を食べさせた疑いのある厩務員です。いま、管轄の木曽警察署から連絡があったばかりなんです」
「ドジな話ではにやぁがね? メスの三歳馬に、カフェインを食べさせた疑いのある人物がおったのなら、なぜ、もっと早く、逮捕するとかして、手を打たなかったんだろう?」
「疑いがあったという程度で、厩務員自身は否認していましたから……そんなわけで、木曽警察署では、毎日のように、その厩務員を呼んで、事情聴取を行なっていたのは事実なんです。しかし、疑いがあるというだけで、身柄を拘束するわけにはいかないので、根気よく説得をつづけていた矢先に、殺されてしまったんだと木曽警察署では言っています」
「殺された厩務員はよぉ、何年くらい馬の世話をしておるんだね?」
「島崎貞夫と言いまして、若いころから厩務員をしているそうですから、ベテランですわね。年齢だって、五十二歳ですもの……とにかく、わたし、これから木曽警察署へ車を飛ばします。詳細は、後日報告しますわ」
それじゃ、これでと行天燎子は言い、気忙しく電話を切った。
行天燎子から、その事件について電話報告があったのは、月曜の夕刻であった。
「検事さん。厩務員の島崎貞夫が殺された事件ですが、これまでの捜査の結果を報告しておきたいと思いまして、電話をしました。もっと早く、お知らせしたかったんですけど……」
「ええわね。土曜と日曜を挟んでおることだから、やむを得ん。それで、殺害の手段は?」
「絞殺です。凶器は見つかっていませんが、ビニール紐のようなもので、絞め殺されたらしいです」
「それじゃ、アマ・カメラマンの中岡英夫の場合と同じではにやぁがね?」
「そうなんです。もしかすると、犯人は同一人物かもしれませんわ」
「ちょっと待ちなよ。中岡英夫の場合は、女が噛んでおったが、今回は?」
「わかりません。何しろ、金曜日の早朝、木曽駒の放牧場の責任者である玉置誠三が出勤してきたときには、すでに、島崎貞夫は殺されていたんです」
「時刻は?」
「玉置が出勤してきたのが、午前八時半です。その時点で、放牧場にいたのは、島崎貞夫だけで、ほかの厩務員は、まだ出勤していませんでした」
「するとよぉ、こういうことか? 島崎貞夫は、その朝、一番に出勤してきたところを犯人に襲われた?」
「はい。玉置の供述によりますと、島崎の死体を見つけたときには、まだ、肌にいくぶんの温もりが残っていたと言いますから、殺害後、間もない時刻に発見されたことが察せられます」
「死体が発見された場所は?」
「厩舎の中です。状況からしますと、厩舎の掃除をしているときに、犯人があらわれ、不意を襲われたんじゃないかと言うんです」
「それじゃ、犯人は、島崎貞夫の顔見知りかもしれんぞ」
「わたしも、そう思います。島崎は、まさか、その犯人が、自分を殺しにきたとは思ってもみなかったんでしょう。聞くところによりますと、島崎は屈強な体格の男で、そうも簡単に殺されるはずはないというんですから……」
「なるほど。その放牧場だがよぉ、開田高原にあるわけだろう?」
「はい。御嶽山を望む素晴らしい眺めの高原にあるんです。わたしが現場へ出向いたときは、あたり一帯に、ナナカマドの赤い実が、絨毯のように果てしなく広がっていましたわ」
「あの付近なら、よく知っとるわね。飛騨高山にも近いことだしよぉ。高山支部長時代には、ちょくちょく、出かけたものさ。もちろん、捜査の必要からだ。春ともなれば、カラマツが青々と芽吹き、夏は、ソバの花が咲きみだれ、秋ともなれば、一面にススキの野原だ。最近は、キャンプ場やレジャーセンターができておるみたいだがよぉ」
「そのために、高原の生態系が変わりつつあると聞きました」
「うむ。環境保護を急がにゃならんな。それはさておき、その木曽駒の放牧場だが、どんなふうに運営されておるんだね?」
「木曽駒は、かつて、御嶽山麓に何千頭と群れをなして放牧されていたんですが、いまじゃ、開田高原の一部に、四、五十頭が、かろうじて絶滅をまぬがれているだけです」
「要するに、いまとなっては、木曽駒は観光資源だなも」
「そうなんです。厩務員にしても、五、六人にすぎません。若い人は、馬の世話なんかしませんものね。こういう仕事は、汚なくて、きつい仕事だと思い込んでいるみたいですから……」
「ところで、犯人の見当はついておるのかね?」
「目下のところ、まったく手がかりなしです。犯人は、島崎貞夫の顔見知りではないかという程度のことしか、わかっていないんですから……」
「放牧場の責任者とかいう男のことだけどよぉ、疑わしい点はないのかね?」
「玉置誠三のことでしょう。年齢は、島崎より三歳年上の五十五歳。長年、放牧場で厩務員を務めている男ですが、評判は、悪くないとか……検事さん、そんなことより、興味ある情報があるんですのよ」
「聞かせてちょうよ」
「その放牧場は、『木曽駒保存会』によって運営されているんですが、資金のほうは、信州の企業や個人の資産家からの寄付によって、まかなわれているんです。そのなかに、『株式会社末永製菓』が含まれていると聞きました」
「『末永製菓』と言えば、あのとき、天竜峡公園で出会った秀男という記憶喪失の男の父親が経営しておる企業ではにやぁがね?」
「はい。松本に本社のある『株式会社湯浅製菓』との間に、五平餅の商標やブランドをめぐって、本家争いや元祖争いをしている企業ですわ」
「そうなると、『末永製菓』の一族の誰かが黒幕かもしれんぞ。この殺人事件のよぉ」
「可能性はあります。これから、木曽警察署と、わたしたち松本警察署とが協力体制をとり、合同捜査を行なうことになりましたから、いずれ、真相が判明するでしょう」
「うむ。合同捜査の成果に期待しとるわね。ところで、あの仮装行列があったさい、花嫁姿で参加した湯浅家の長女の真奈美だがよぉ。馬が興奮して暴れ出したために転落し、病院へ収容されたが、その後の経過はどうだね?」
「少しずつ、快方へ向かっているという報告が入っています」
「一時は重体だったそうだが、回復の見込みは、充分にあるわけだなも」
「そのようです。後遺症も残らないとか……」
「大事に至らなくてよかったわね。何しろ、年ごろの娘なんだからよぉ」
「検事さん。それから、真奈美を振り落としたメスの三歳馬ですけど、もう、あの放牧場にはいないそうですわ。東北方面へ売られてしまったと聞いています」
「どういうわけで?」
「一度でも、あんなふうに人に危害を加えた馬は、殺してしまう場合もあるそうです。でも、残り少なくなった木曽駒ですし、殺すのも可哀相だというので、売却の措置をとったそうです」
「馬が悪いわけでもないのによぉ。可哀相に、住み馴れた放牧地を離れて、遠隔地へ売られて行ったと聞いただけでも、胸が痛むわね」
「同感ですわ。馬は、知能が高く、心がやさしい動物ですから……とりわけ、木曽駒は、険しい山道を歩くのが得意で、農作業などの重労働にもたえられるというので、かつては、農家にとって貴重な財産であり、大事にされていたのに、いまじゃ、簡単に遠方へ売られたりするんですものね」
行天燎子は、急にしんみりとした口調で言い、
「申し遅れましたが、飼い葉桶に混ぜられていたカフェインですけど、専門家の話によりますと、ドリンク剤を用いたんじゃないかというんです」
「市販のドリンク剤かね?」
「はい。ああいうのには、カフェインが、かなり含まれていますから、それを飼い葉の中に混ぜて、食べさせたんじゃないかと聞きました」
「なんと、恐れいった話だなも。馬だって、カフェイン入りの精力剤を飲まされたら、興奮するのが当たり前だわね。笑いごとではにやぁでいかんわ」
「ほんとですわね」
と言いながらも、彼女は、含み笑いをもらして、
「検事さん。それはそうと、もう一つ、重要な報告事項があるんです」
「まだ、あるのかね?」
「はい。仮装行列があったさい、『桝形』の土塁の上で、虚無僧姿の男が斬られましたわね。前を歩いていた浪人姿の男に襲われて……あのとき、被害者の虚無僧姿の男の懐ろの中に、瓦版が入っていましたでしょう?」
「そのことなら、よくおぼえておる。さも大事そうに、瓦版が懐ろの中に入れてあったと言ったなも」
「はい。あの瓦版は、同じものが見物客たちの間に、五百枚ほどばらまかれているんです。虚無僧姿の男が懐ろの中へ入れていたのも、その一枚にすぎません。ですけど、なぜ、そんなに大事そうに懐ろの中に入れていたのか、それが気になりましてね。その瓦版を丹念にチェックしてみたんです」
「何かわかったかね?」
「いくら目を凝らして眺めてみても、見物客たちの間にばらまかれた瓦版と、何の変わりもありません。印刷された瓦版ですから、まったく同じものなんです」
「当然だろうな」
「ただ、虚無僧姿の男が持っていたのには、ちょっとした落書きがしてあったんです」
「落書きだと?」
「落書きといえるか、どうか……黒のマジックで、罰点がつけてあるんです。×印のね。瓦版に印刷されている絵柄や文字も、墨で書いたように見せかけるために、黒の印刷インクを使っているんですが、問題の×印も、同じ黒のマジックで書いてあったので、最初はよくわからなかったんです」
「その×印に、何かの意味があると思っとるんだな」
「はい。それというのは、深編笠をかぶった浪人の絵のすぐ横に、×印がしてあったんです。よくよく観察しますとね」
「ほう。そいつは興味ある発見だなも」
「もしかすると、仮装行列の参加者にまぎれ込んでいる深編笠の浪人をマークしろというサインかもしれませんわ。暗号というか、そういう類いの……」
「うむ。おみやぁさんの意見は、客観的事実とも合致するなも」
「はい。虚無僧姿の男が、浪人姿の男を追うようにして『桝形』の上まできたとき、突如として、先を歩いていた〃浪人〃が後ろを振り向き、やにわに〃虚無僧〃に斬りつけたんですもの」
「つまり、〃浪人〃は、〃虚無僧〃に尾行されておるのを勘づいておったわけだ。だから、『桝形』の土塁の上へ誘い込み、バッサリ殺っちまった。誰だって、あの浪人姿の男が腰に差しておった刀は、竹光だと思いこんでおったろうよ。要するに、竹製の刀であって、〃真剣〃だとは予想もしなかった。ところがだよ、実際には、真剣を腰に差しておったんだ。浪人姿の男がよぉ。そうと知らずに、〃虚無僧〃は、受け取った瓦版の指示どおりに、浪人姿の男を追っていったために、不意を襲われた。ここらあたりが真相かもしれんな」
「それとも、こういうことが考えられないでしょうか? 虚無僧姿の男は、何者かによって、瓦版を手渡された。瓦版に描かれている浪人の絵に、×印がしてあるのをね。虚無僧姿の男は、それを受け取ったわけです。誰から受け取ったかは、わかりませんが、たぶん、混雑にまぎれて、虚無僧姿の男に指令を発するために、×印のついた瓦版を渡したんじゃないでしょうか」
「となれば、×印は、やはり、暗号だなも。浪人姿の男を殺ってしまえという暗号だったのかもな。ところが、現実に起こった出来事は、それとは逆に、指令を受けた虚無僧が殺られた。つまり、どんでん返しだ」
「その〃どんでん返し〃が起こったときに、木曽駒に跨っていた花嫁姿の湯浅真奈美が、『桝形』の土塁の上に視線を投げ、ハッとしたようだと検事さんは言っておられましたわね」
「うむ。あれはよぉ、土塁の上で、浪人姿の男が刀を抜いて斬りつけるのを見て、驚いたためか、あるいは、現実に発生した出来事が、予想されたものとは逆であり、いうなれば〃どんでん返し〃が起こったのを知り、彼女はハッとしたのか? 目下のところ、どちらとも断定はできんが、その両方の可能性をふまえて、捜査を進めなくてはならんわね」
「おっしゃる意味はわかりますわ、検事さん。早速、その線に沿って、捜査を進めさせます」
「うむ。木曽警察署の捜査責任者にも、そう言っておいてちょうよ」
「わかりました。いずれ、そのうちに吉報をお届けできると思います」
そう言って、行天燎子は電話を切った。
それから一週間、ほとんど捜査が進展しないかに見えた。
ところがである。
一週間後に、思いがけない収穫があった。
第一線の捜査を指揮している行天燎子にとっても、これは、予想外のラッキーな出来事だった。
赤かぶ検事の執務室へ飛び込んできた彼女を見ると、興奮しているせいか、化粧をしていない顔の肌がほんのりと桜色に染まっている。
「検事さん。これまで、さんざん犯人側に翻弄されてきましたけど、今度は、巻き返しに転じることができそうですわ」
「ちょっと待ちなよ。そないに早口でまくしたてないで、ゆっくりと話してちょうよ」
赤かぶ検事は、あっけにとられて、彼女を見返す。
「すみません。気持ちが高ぶっているものですから……」
「犯人の首ねっこを押えられるネタでも手に入れたのかね?」
「もしかすると、そうなるかもしれませんわ」
「話してみなよ」
赤かぶ検事は、デスクの上に身を乗り出した。
彼女は言った。
「検事さん。言葉で話すより、真っ先に、モノを見ていただくほうが早いかもしれませんわね」
そう言ったかと思うと、彼女は、封筒の中から透明ビニールの袋に入れたフィルムを取り出し、赤かぶ検事の目の前にかざした。
「これは何だね? かなり大きなフィルムだがよぉ」
何が写っているのかと、赤かぶ検事は、フィルムを透かし見た。
「検事さん。こういうのを、四の五のフィルムと言うんだそうですわ」
「よくわからんな」
「縦が四インチ。横が五インチ。プロのカメラマンの間では、4×5と書いて、四の五と呼んでいるそうです」
「そないなことは、どうでもええがよぉ。いったい、何が写っておるんだね?」
「ご覧になれば、わかると思うんですが、これが、仮装行列のさいに、虚無僧姿の男を斬った浪人姿の男の写真です。何しろ、撮影された状況が、あのとおりですから、映像がぶれているのはやむを得ませんわね。だけど、容貌のほうは、かなり明瞭に写っていますでしょう?」
「なるほど。これが、浪人姿の男の顔かね」
「はい。ちょっと年を食っていますわね」
「四十歳前後というところかな」
そう言ってから、赤かぶ検事は、眉根を寄せ、行天燎子を眺めやり、
「ちょっと待ちなよ。ネガの原板はよぉ、犯人に奪われたのではなかったのかね?」
「確かに奪われました。でも、いま、ここにあるのは、そのネガを複写したものなんです」
「これが複写かね? それにしても、サイズが大きいが、これは、どういうわけだね?」
「大きいフィルムに複写させたんです」
「誰が?」
「もちろん、中岡英夫ですわ」
「殺されたアマ・カメラマンの中岡のことを言っとるのかね?」
「そうです」
「それじゃ、中岡英夫を罠にかけ、ネガを奪い取った犯人はよぉ、こんなふうなコピーがあることを知らなかったのかね?」
「知っていたら、これも取りあげてしまったでしょうよ。知らなかったからこそ、こうして無事に、わたしたちの手に入ったんです」
「なるほど。だけど、ネガを複写するというのは、どういうことかな? こうして見たところ、印画紙にプリントされた映像のように見えるがよぉ」
「まさに、それなんです、検事さん。印画紙のかわりに、このような透明フィルムに焼き付けてあるんです。こういうのをプリントフィルムと言うそうですわ」
「サイズが大きいのは、どういうわけかね? 原板のネガは、ちっちゃなやつだろう? 35ミリのフィルムなんだから……それが、どういうわけで、こういう大きなフィルムに……」
「検事さん、しっかりしてください。わたしだって、写真については素人ですが、検事さんの写真オンチにはかないませんわ。あら、言いすぎたかしら?」
彼女の魅惑的な目が笑っていた。
赤かぶ検事は、照れたような顔をして、
「察するところ、この大きなサイズのプリントフィルムとやらに複写するときに、拡大したんだろう?」
「まあ、よくご存じだこと……」
「わしを冷やかすのはやめなよ。ところで、このプリントフィルムとやらを入手した経緯を話してくれんかね?」
「はい。実を言いますとね、写真機店の主人が、このフィルムを提供してくれたんです」
「何だって……なぜ、写真機店の主人が、このプリントフィルムを提供できたんだね? 原板は、中岡英夫が撮影したものなのによぉ」
「中岡英夫が、生前に原板を持ち込み、その写真機店の主人に複写をとってくれるように頼んでいたからです」
「それなら話はわかるがよぉ、だとしても、なぜ、写真機店に置いたままになっていたんだろう?」
「中岡英夫は、原板のネガの提供をめぐって、松本城付近で犯人側と接触する二日前に、原板の複写を依頼していたんです。その写真機店へね。写真機店では、自分の店ではプリントフィルムが製作できないので、プロラボへ持ち込んだわけです」
「それじゃ、プリントフィルムを製作したのは、プロラボというわけだなも」
「はい。プロラボから、このプリントフィルムと原板のネガが、その写真機店へ届けられたわけですが、中岡英夫は、原板のネガだけを持ち去り、プリントフィルムのほうは、写真機店へ預けたままにしていたんです」
「ちょっと聞くがよぉ、中岡英夫は、まるで自分が、犯人側の罠に陥るかもしれないのを慮り、プリントフィルムを預けたままにしておいたんだろうか?」
「とんでもない。犯人側の罠にかかるかもしれないなんて心配していたのなら、中岡としても、取引に応じなかったでしょうよ」
「それで?」
「中岡が、犯人側との取引に応じたからには、自分の身に危害が及ぶとは、考えていなかったからです。そんなことより、原板のネガを犯人側に提供すれば、手元に一枚もなくなるから、せめてコピーを取っておきたい。その程度のことだったと思うんです。写真機店の主人も、そう言っていますわ」
「それにしても、プリントフィルムを自分の家へ持ち帰らずに、写真機店に預けていたのは、特別の理由でもあるのかね?」
「それはありません。ただ、中岡英夫としては、その日に、犯人側と接触する手はずになっていたので、プリントフィルムを家へ持ち帰る時間的余裕がなかったからでしょう。つまり、中岡英夫は、その写真機店へ立ち寄った帰りがけに、犯人側と接触しているんですから、プリントフィルムを家へ持ち帰るのは、後まわしにしたんだと思います」
「わかった。何はともあれ、このプリントフィルムをさらに複写して、関係方面へ手配しなくちゃならん。一日も早く、浪人姿の男を捕まえないことには、事件は解決せんでよぉ」
「承知しています。早速、手配しますから……」
行天燎子は、自信に満ちた口調で答えた。
第四章 仮装行列の「浪人」
十二月《しわす》のことだから、諏訪湖は氷結していた。
とりわけ、この日の朝は、気温が異常に下がり、凍った湖面へ出てワカサギ釣りをする人の姿も疎らだった。
寒くて凍えそうだというので、ワカサギ釣りを諦め、朝のうちから引きあげていく人の姿も見られた。
凍結した湖のほとりで、男の死体を見つけたのも、ワカサギ釣りを断念して家路へ急ぐ温泉旅館の主人だった。
最初、湖のまわりを歩いていたとき、ふと、黒っぽい人の姿が目に入った。
まるで湖面の上を泳いでいるような恰好に見えたものだから、旅館の主人は仰天した。
(何だろう、あれは……)
旅館の主人は、一瞬、目を見張った。
まさか、こんな寒い朝に、凍りついた湖で泳ぐやつはいない。
いや、凍結している湖面で泳げるはずはないが、その姿勢が、泳いでいるような恰好に見えたのは確かであった。
用心しながら、おずおずと接近してみると、黒いジャンパーにズボンという服装の人物が、凍結した湖面の上に、俯せに倒れているのが認められた。
両手を前へ突き出すようにしていたから、なおのこと、泳いでいるように見えたのだろう。
「ちょっと、あんた。どうしたんだね、その恰好……」
声をかけるが、返事はない。
それが死体であるのを旅館の主人が気づくまで、さほど時間を要しなかった。
こうして、事件は、管轄の諏訪警察署に通報された。
その男は、自分の身元を明らかにする所持品を、一切、身につけていなかったにもかかわらず、その日のうちに身元が判明した。
それというのは、その人物が、元長野県警の警察官だったからである。
年齢は、四十二歳。
倉本和彦といい、三年前までは、長野県警察本部の捜査四課に所属していた刑事であった。
しかも、意外なことに、その男は、警察が必死になって、各方面へ手配して突き止めようとしていた〃仮装行列の浪人〃であることが判明した。
そればかりか、例のプリントフィルムの人物と、容貌がぴったり一致したのである。
死体発見の翌日の夕刻、所轄の諏訪警察署の巡査部長である行天珍男子が、赤かぶ検事の執務室をたずね、一部始終を報告した。
彼は、行天燎子の夫である。
妻の燎子は松本警察署の捜査係長で、階級は警部補だったが、夫の行天珍男子は、隣接の諏訪警察署の巡査部長だった。
つまり、夫のほうが、妻よりも階級が一つ下であり、年齢のほうも若い。
行天珍男子にしてみれば、妻の燎子は〃姉さん女房〃というわけだ。
すらりと上背のある妻の燎子に比べ、夫の行天珍男子は小男で、二人が並んで立つと、いささかユーモラスな風情だ。
ちょうど、燎子の肩先くらいの高さに、夫の頭がくる。
いうなれば、〃ノミの夫婦〃だ。
夫婦仲は、傍目にも羨ましいくらい気心が合っていた。
とにかく、行天夫婦は、結婚して以来、かなり年月が経過するにもかかわらず、いまだに、あつあつの恋仲であるかのように、仲睦まじい。
これには、赤かぶ検事も、しばしば、あてられる。
行天珍男子は言った。
「検事さん。まず、死因ですが、頭部を鉈のような凶器で割られ、出血多量で絶命していたんです。何しろ、気温が異常に低い日でしたから、傷口から血が流れずに、凝固してしまっていたんです」
「だろうな。すると、殺されたのは、前夜かね?」
「司法解剖の結果、前夜の午後九時から十一時までの間だと推定されています」
「夜のうちに殺られたわけだなも。ところで、倉本和彦は元警察官というではにやぁがね?」
「そうなんです。三年前に、懲戒解雇になっているんです。わたしは、直接、倉本のことは知りませんでしたが、話を聞いてみると、彼の悪徳警官ぶりは、目に余るものがあったらしいですよ」
「具体的に言うと、どういうことだね?」
「暴力団幹部と通じ合い、警察の情報を提供し、一斉手入れをまぬがれたりするのと引き換えに、多額の賄賂を受け取っていたんです」
「酷い男だなも。警察官の風上にもおけんやつだ」
「それだけじゃないんですよ。覚醒剤密売の容疑で逮捕した女とラブホテルへしけ込み、手心を加えてやったこともわかっています。結局、その女は、証拠があるにもかかわらず、逮捕をまぬがれているんです。ほかにも、数えあげれば、きりがありません」
「数えあげればきりがないくらいの悪徳ぶりが、なぜ、見過ごされていたんだね?」
「巧妙に立ちまわるものだから、初期のころには、わからなかったんです」
「それでよぉ、なぜ、倉本が殺されたのか、その点の捜査はどうなっておる?」
「いまのところ、捜査に着手して間もない時期ですから、詳しい事情はわかりませんが、彼が、何かの秘密を握っているからに違いないんです」
「秘密と言うと?」
「実を言いますとね、彼は、湯浅家の遠縁にあたる男らしいんですよ」
「それ、ほんとか?」
「はい。県警本部の刑事たちは、そんなふうなことを聞かされていたんです。倉本和彦から直接にね」
「倉本はよぉ、いいかげんな出まかせを言ったんじゃないのかね」
「そうでもないようですよ。もっとも、湯浅家のほうでは、関係ないと言っているそうですが……」
「いずれにしても、突っ込んだ捜査をすることだな。もし、湯浅家なり、『株式会社湯浅製菓』の社長である湯浅鶴次郎あたりから頼まれ、仮装行列のさいに虚無僧姿の男を襲ったという証拠でもあれば、一挙に事件の核心に迫れるんだがよぉ」
「そのとおりですよ、検事さん。遠縁といっても、どの程度のつながりがあるのか、これも、よくわかっていませんから、まず、このあたりから捜査のメスを入れなくてはなりません」
「倉本和彦は四十二歳だというから、妻も子もあるだろうよ。妻の口から、何か聞き出せないかね?」
「ところがですね、倉本和彦は、警察を首になってから、間もなく離婚したんです」
「ほう。妻が愛想尽かしをしたわけだなも」
「そのようです。妻が子供を連れて、実家へ帰ってしまったそうですから……」
「妻の実家はどこだ?」
「富山県の砺波市です。上司の許可が下り次第、わたしが実家へ行って、離婚した妻から事情を聞いてみようと思うんです。もしかすると、手紙のやりとりくらいはしていたかもしれないし、湯浅家の遠縁だというから、どの程度のつながりがあるのか、それも聞き出してきます」
「そうしてちょ。遠縁というだけでは、よくわからんでな。それより、わしが心配しておるのは、なぜ、こうも犯人側が、次から次へと、われわれの先手を打って人を殺しやがるのか、この点が不可解だ」
「まったくですよ、検事さん。このところ、われわれは黒星つづきですからね」
「そんな呑気なことを言っている場合ではにやぁでよぉ。もしかすると、警察内部に、犯人側のスパイがおるのではにやぁがね?」
「まさか、われわれの仲間に限って、そんな……絶対にあり得ませんよ」
「おや、何を言うかと思ったら……おみやぁさんたちの仲間だった倉本和彦がよぉ、暴力団とつるんで賄賂をせしめておったというではにやぁがね。そういうのは、倉本に限ったことではないだろう?」
「これは、検事さんのお言葉とは思えませんね。倉本は、例外中の例外ですよ。あんな悪いやつは、われわれの仲間には二人といませんよ」
行天珍男子は、必死になって、仲間たちを庇いだてする。
その気持ちはわかるが、赤かぶ検事にしてみれば、やはり、敵側に通じるスパイが、警察の組織のなかのどこかに潜んでいるような気がしてならない。
そうでなければ、こうも巧妙に敵側が先手を打つこともできないはずである。
(これは大変な事件に発展しそうだなも)
赤かぶ検事は、胸のなかで呟きながら、憤然として抗議する行天珍男子を見つめていた。
年末の慌ただしいころになって、事態の進展がみられた。
病院から逃げ出した後、行方不明になっていた末永秀男の消息が判明した。
その第一報を入れたのは、行天燎子警部補だった。
「そいつはよかった。捜査が膠着状態にあったさなかのことだからよぉ。ラッキーというよりほかないわね」
赤かぶ検事は、上機嫌である。
行天燎子は言った。
「末永秀男の所在がわかった経緯は、こうなんです。山梨県の忍野《おしの》村をご存じですわね」
「知らいでかね。富士山が間近に見えるというんで、目下、脚光をあびておる場所だ。かつては静かな山村だったのに、いまではカメラマンや観光客が、わんさと押しかけ、民宿が次々とできるやら、屋台店が並ぶやらで、大変な賑わいだ。富士山の伏流水が湧き出る池が八つもあってよぉ」
「『忍野八海』でしょう? 検事さんがおっしゃっているのは」
「うむ。その忍野村がどうだと言うんだね?」
「末永秀男は、忍野村の民宿にあらわれたところを保護されたんです」
「民宿に泊まるつもりだったのかね?」
「さあ、どうでしょうかね。そこらあたりのことは、よくわからないんです。民宿の主人の話によりますと、夜半過ぎに、表戸をたたく音がするので出てみると、寒空の下に尾羽打ち枯らした若者が、茫然と立っていたそうです」
「さぞかし驚いたろうな」
「そりゃ、もう、ギョッとして、一瞬、物も言えなかったそうです。どうしたんだと聞いてみると、寝る場所がないので、泊めてもらえないかと言うものですから、民宿の主人は困り果てましてね」
「どういうわけで?」
「満室だったからです。だけど、見たところ、その若者は、ひどく疲れているようだし、本人も腹ぺこで、ぶっ倒れそうだと言うんで、可哀相になり、とにかく家の中へ入れてやり、夕食の残り物を出してやると、ガツガツと貪るように食べていたそうです」
「気の毒な話だなも」
「ですから、民宿の主人は、自分の寝室へ寝かせてやったと言っています。朝になってみると、いつの間にか姿が見えなくなっていたものですから、もしやと思って、派出所へ電話を入れたそうですわ。かねてから手配中の男のような気がしたからだと……末永家から家出人捜索願が出ていたことだし、手配もまわっていたから、民宿の主人は、ピンときたと言うんです」
「それで?」
「連絡を受けた所轄署で、パトカーやパトロール要員を動員して、付近一帯を探しまわらせたところ、カラマツの林の陰にある古い農具小屋の中に蹲り、ガタガタ震えていたそうです。体温が下がっていましたから、そのまま発見されずに経過したなら、夜には凍死したかもしれません」
「うむ。忍野村にあらわれるまでの間、どこで何をしておったか、早く聞き出したいもんだなも」
「はい。ほかにも、いろいろ情報を握っているに違いありませんから、貴重な証人ですわ。だけど、残念ながら、記憶が回復しないことにはね」
「そこだわね。いま、どこにおる? 末永秀男はよぉ」
「諏訪市内の市立病院へ収容されています。主治医は小室泰介という三十代後半の医師で、わたしも、顔見知りですので、連絡をとりましたところ、二、三日待ってくれと言われました」
「こっちは待てんのだがよぉ。何とかならんのかな? 主治医に事情を話して、頼んでみてちょうよ」
「それもやりました。ですけど、いまは気持ちが動揺しているので、せめて、三日間は安静にさせてやってくれと言われましたので、仕方なく、同意しました」
「やむを得んな。そういう事情ならよぉ」
「はい。いずれ面会はできるんですから……」
「うむ。何しろ、末永秀男は、われわれにとっても、馴染み深い若者なんだからよぉ。このわしを、〃お父さん〃なんて呼んだくらいだから……」
赤かぶ検事が笑うと、彼女は、
「わたしだって、『マナミさん』だなんて呼ばれたりして……たぶん、湯浅家の真奈美さんのことなんでしょうけど、わたしより、格段に若い彼女と間違えられたとすれば、それこそ光栄の至りですわ」
と涼しげに笑い声をあげる。
三日後に、末永秀男と面会できることになり、赤かぶ検事と行天燎子は、その病院へ車を飛ばした。
四階建ての小ぢんまりとした市立病院で、主治医の小室医師は副院長だという。
そこで、赤かぶ検事たちは、まず副院長室をたずね、末永秀男の容体を聞いてみた。
「経過はよくありません。ほとんど何もおぼえていないんですから……」
小室医師は、眉根を寄せ、思案深げに溜息をもらす。
その言葉を耳にして、赤かぶ検事は、
「そいつは困ったなも。何とか、記憶を回復させる方法はないのかね?」
「いろいろと治療はしているんです。しかし、目下のところは、効果があらわれていません」
「一切の記憶が失われているんでしょうか? 小室先生」
行天燎子が口を挟む。
「そこらあたりのことも、明確にはなっていないんです。あとしばらく、待っていただかないと……」
「待てば、記憶が回復する見込みがあるんでしょうか?」
「確答はできませんが、失われた記憶の一部を取り戻してくれるんじゃないかと期待しているんです。とにかく、病室へ案内します」
と小室医師は立ちあがった。
「ぜひ、お願いしますわ」
行天燎子は、赤かぶ検事の顔を眺めながら、行きましょうかと目顔で合図する。
「そうだなも。とにかく、会ってみよう」
赤かぶ検事は、行天燎子と連れ立って、小室医師のあとについて、副院長室を出た。
「小室先生。末永家の人たちは、何度も面会にきているんでしょう?」
行天燎子は、小室医師と肩を並べて廊下を歩きながらたずねる。
「いいえ、一回きりです。頻繁に面会してもらうわけにはいきませんから……いまのところはね。患者を刺激するのもまずいですし……」
「どういう人たちが面会にきたんでしょうか?」
行天燎子は、食いついた。
「そうですね。秀男くんのご両親と弟さんくらいのものです」
ちょうどこのとき、病室のドアの前まできていた。
さすが、末永家の長男であるだけに、廊下の一番奥の静かな個室が用意されていた。
「さあ、どうぞ……」
小室医師がドアを開けてくれる。
窓際にベッドがあり、そこに二十七、八歳の青年が仰向けに横たわっていた。
ベッドのそばには、看護婦と付き添いの女性が控えていた。
「なるべく手短かにお願いしますよ」
と言う小室医師の言葉を聞きながら、赤かぶ検事は、ベッドの傍へ寄った。
行天燎子も、一歩進み出て、末永秀男の顔を覗き込む。
秀男は眠ってはいないが、来客があらわれたのを一向に気にしていない様子だ。
ただ一人、物思いに耽っているかのように、天井を見つめている。
赤かぶ検事は口を開いた。
「おみやぁさんよぉ。わしの顔をおぼえておるかね。天竜峡公園で会ったはずなんだが、どうだね?」
しかし、秀男は聞いているのか、いないのか、赤かぶ検事を見ようともしない。
(聞こえているはずだがよぉ)
記憶を失ってはいるが、意識を失っているわけではないのだ。
小室医師が口を添えた。
「秀男くん。ここにおられる方に、会ったおぼえがあるんだろう?」
言われて初めて、秀男は首をまわし、赤かぶ検事を眺めやった。
その瞳は虚ろで、どこを見ているのか、焦点が定まらない。
小室医師は、秀男に顔を近づけて、
「どうだね? 返事をしてくれないの? こちらにおられる方は、検事さんなんだよ」
あいかわらず、反応はなかった。
これが、末永家の長男とあっては、同家の将来が心配される。
たぶん、「株式会社末永製菓」を引き継ぐのは、長男の秀男なのだろう。
順二という二歳年下の弟がいるらしいが、父親の喜造の腹づもりは、長男の秀男に事業を引き継がせることだという。
赤かぶ検事は、物静かな口調で言った。
「秀男くん。おみやぁさんはよぉ。家出をしたそうだが、ほんとかね?」
そう言ってやると、やっと、秀男の眼差しにかすかな輝きが宿った。
「それじゃ家を飛び出したというのは、事実なんだね?」
赤かぶ検事は、重ねて問う。
すると、秀男は赤かぶ検事を眺めながら、顎を引いた。
自分が家出した記憶はあるらしいのだ。
赤かぶ検事は、逸る心を押えながら、
「それじゃ、なぜ家出したんだね? 理由を聞かせてちょうよ」
「理由?……」
秀男が、赤かぶ検事たちに向かって口をきいたのは、それが最初で最後だった。
「そうだ。なぜ、家出したのか、そのわけを聞かせてもらいたい」
この質問に対して、秀男は、唇を固く閉じたまま答えない。
「それじゃ、わしのほうからたずねよう」
と赤かぶ検事は、身を乗り出して、
「『マナミさん』のことがあったから、家を出たんじゃないのかね?」
マナミという名前を耳にしたとたんに、秀男の表情に緊張感が走った。
何か大切なことを思い出したかのように、ハッとして、空間に視線を投げる。
しかし、返事は聞かれなかった。
今度は行天燎子が言った。
「秀男さん。あのとき、わたしを見て、『マナミさん』と呼んだわね。おぼえている?」
秀男の虚ろの瞳のなかに、ちらっと何かが輝いたような気がした。
しかし、それっきり、口をきかない。
赤かぶ検事たちは、何の成果も得られずに引き上げるよりほかなかった。
その病院の駐車場に止めてあった行天燎子の真っ赤なクーペの助手席に座った赤かぶ検事は、エンジンを入れる行天燎子の横顔を眺めながら、
「空振りだったなも。捜査というものは相手次第だからよぉ。こういうこともあるわね」
「検事さん。そんなことより、近いうちに、松本の病院に入院中の湯浅真奈美をたずねるのがいいんじゃないでしょうか。何か聞き出せるかもしれませんわ」
「それもそうだな。おみやぁさんのほうで、お膳立てしてくれんかね?」
「わかりました。いつにしましょうか?」
「今週の金曜なら、法廷がないから、都合がええんだがよぉ。午前中にすませてしまおう」
「わかりました。あらためて電話しますわ」
行天燎子は笑顔で答え、車を始動させた。
ところがである。
問題の金曜日の朝、思いがけない事態が発生した。
行天燎子が、慌てふためきながら電話をかけてきた。
一応の事情を聞いた赤かぶ検事は、仰天した。
「何だと? 湯浅真奈美が病院から姿を消したって?」
「はい。おそらく、昨夜のうちか、今日の未明に病室を抜け出し、姿を消したものと思われます」
「待ちなよ。病室を抜け出したというが、間違いないかね? 誘拐されたとか、強制的に拉致されたなんてことはないんだろうか?」
「それはないと思います。湯浅真奈美本人の意思で、病院を出たはずです」
「どうしてわかる?」
「彼女の病室がもぬけの空になっているのは、今朝の八時半ころ、看護婦が病室へ入って初めて知ったわけですが、ベッドのシーツが冷たくなっていたことや、身のまわり品を持ち去り、洋服も着替えていることなどから考えて、彼女自身の意思で、病院を無断で出たと見ていいようですわ」
「何のために?」
「駆け落ちしたんじゃないでしょうかね?」
「駆け落ち?」
赤かぶ検事は目を剥いて、
「ずいぶん飛躍した想像だなも」
「いい加減な想像じゃありませんわよ」
「ほう。根拠があるというのかね?」
「はい。諏訪市の病院に入院していた末永秀男も、同じく、今朝から行方が知れないんです。だから……」
「そいつは大変だ。あらかじめ、二人は連絡をとり合っていたのに違いにやぁでよぉ」
「そう思われます。末永秀男はですね、病院のバンを盗みだしたんですのよ。たまたまキーをつけっぱなしにして駐車場に放置してあったのを無断で乗り逃げしたんです」
「なんと、あきれた話だなも。何も、駆け落ちまでしなくてもええのによぉ」
「そうなんです。若気のいたりというには、あまりにも突飛な行動ですわね」
「それじゃ、こういうことかね?」
と赤かぶ検事は、受話器を握りながら、デスクの上に身を乗り出すと、
「今朝、末永秀男は病院の車を盗んで、湯浅真奈美が入院しておる松本の市立病院へ向かった。そして、かねてより示しあわせていたらしくて、彼女をバンを乗せ、どこかへ雲隠れした?」
「おっしゃるとおりだと思いますわ。もっとも、目撃者はいませんがね。たぶん、夜が明けきらないうちに行動を起こしたんでしょうから……」
「うむ。盗まれた車を手配したかね?」
「手配するまでもなく、その車は、塩尻市内の公園の傍に乗り捨ててあるのが発見されました」
「すると、そこで車を乗り換えたのかな?」
「わかりません。徒歩で出かけたのかもしれませんしね」
「どこへ?」
「行き先は、皆目、見当もつかないんです」
「困った事態になったなも」
「そうなんです。遅かれ、早かれ、居所が判明するでしょうけど、二人がどこで何をしているのか、それが心配です。信州の冬は厳しいですものね」
「まったくだ。世話を焼かせる連中だなも。それなりの事情があるんだろうけどよぉ」
「その事情が何であるのか、早く知りたいですわ」
「うむ。所持金なんかは、どうなっとるんだろう?」
「湯浅真奈美が、多少の現金を持ち出したようです。見舞いにきた家族の誰かが、ある程度まとまった現金を置いていったらしいですから……」
「末永秀男のほうは?」
「彼も、見舞いにきた父親から、いくらかもらっていると聞いています。退院に備えて、洋服なんかも、病室に置いてあったそうですわ」
「それならよぉ、当面の生活は何とかなるわけだなも」
赤かぶ検事は、独り言を呟きながら、溜息をもらす。
それにしても、なぜ、駆け落ちしなければならなかったのか。
赤かぶ検事は、あれこれと想像をめぐらせていた。
何はともあれ、駆け落ちとは穏当ではない。
(いまどき、駆け落ちとはよぉ)
ずいぶんクラシックな考え方だと、赤かぶ検事は、胸のなかで呟きながら思案に耽っていた。
年が明け、松の内が過ぎたころ、新たな情報が舞い込んだ。
諏訪警察署の行天珍男子が、息せききって赤かぶ検事の執務室へ駆け込んでくると、
「検事さん。例の虚無僧の身元がわかりましたよ」
一瞬、赤かぶ検事は目を丸くした。
「虚無僧たって?」
「いやですね。仮装行列のさい、浪人に扮した男に斬られて死んだ虚無僧ですよ」
「あれかね。懐ろに瓦版を入れておったとかいう虚無僧だなも」
「その虚無僧の身元がわかったんですよ。これが、ちょっと意外でしてね」
と小柄な行天珍男子が唇を尖らせるところなど、さしずめ〃ひょっとこ〃というところか。
妻の行天燎子には気の毒だが、頬かむりをすれば、まさに〃ひょっとこ〃だ。
とは言いながら、頭の切れる有能な刑事であるのは確かである。
「何が意外なんだね?」
と赤かぶ検事は、行天珍男子を見返す。
「ほかでもありません。あの虚無僧はですね、砂田修司と言いまして、業界誌の記者なんですよ。いや、正確には、元記者と言うべきでしょうな。事件当時は退職していましたから……」
「退職して、何をしておったんだね?」
「何もしていません。ぶらぶらしていたんですよ。どうして食っていたかが問題です。どこからか、生活資金が出ていたもののようですがね」
と行天珍男子は、思わせぶりな顔をする。
「おみやぁさん。もったいぶるなってことよ。早く話しなよ」
赤かぶ検事はせっついた。
「こうなんですよ、検事さん。砂田修司はですね、湯浅家の次女の祥子《さちこ》の婚約者だったことが判明したんです」
「そいつは貴重な情報だなも。次女の祥子と言えば、末永秀男と駆け落ちしている真奈美の妹だろう?」
「そうなんです」
「よりによって、真奈美の妹の祥子の婚約者が、仮装行列の当日に『桝形』の土塁の上で斬られたというんだから、こいつは注目に値する情報だ」
「そのとおりですよ、検事さん。しかもですよ、二人の婚約を湯浅家全体が歓迎しているというんですから……とりわけ、当主の湯浅鶴次郎は、以前から砂田修司に目をかけていたとかで……」
「目をかけていたと言うと?」
「砂田修司はですね、食品関係の業界誌の記者なんです。その関係で、湯浅家に出入りしているうちに、当主の鶴次郎に気に入られ、次女の祥子と見合いをしたと聞いています」
「うむ。二人を結婚させるのが鶴次郎の思惑だったとみていいが、その場合、姉の真奈美はどうなる? 真奈美をさしおいて、次女の祥子を結婚させるつもりかな?」
「さあ、そこらあたりのことは、よくわかりませんがね。だって、真奈美には、末永秀男という恋人がいるわけですから……もっとも、湯浅家としては、敵対関係にある末永家の長男の秀男を長女の婿に迎えるわけにはいかない事情もあったでしょうがね」
「うむ。先を話しなよ」
「とにかく、そんなわけで、砂田修司は湯浅側の人間であるはずです」
「それで?」
「その砂田修司を殺害したのが、ほかならぬ倉本和彦だったんですよ」
「それがどうかしたのかね?」
「どうしたも、こうしたも、倉本和彦も、やはり湯浅側の人間なんですから……だって、倉本は、湯浅家の遠縁にあたる男なんですよ」
「遠縁にあたるといっても、どの程度のものか、それも問題だ。そのへんのことを捜査したかね?」
「やりましたよ。倉本の離婚した妻の実家が、富山県の砺波市にあるってことは、先日、お話ししましたよね。だから、礪波市へ出張し、妻に会って、情報を引き出そうとしたんです」
「離婚した妻は、何かしゃべってくれたかね?」
「残念ながら、口の重い女でしてね。別れた夫の倉本が湯浅家の遠縁にあたるというのも、至極、漠然としていて、当主の湯浅鶴次郎の従兄弟のそのまた従兄弟だとか……とにかく、はっきりしないんです」
「それじゃ、倉本と湯浅家との関係は判然としないわけだな?」
「はい。納得の行く情報は得られませんでした。おそらく、離婚した妻は、倉本のことについては、ほとんど何も聞かされていないのかもしれませんね。結婚していた間も、夫婦仲がよくなかったそうですから……」
「そうなるとよぉ。湯浅家に縁のある二人の男が、『桝形』の土塁の上で渡り合った動機についても、はっきりせんわけだなも。だいいち、倉本のほうが、湯浅家のために働いていたのか、どうか、この点がよくわからん」
「それは言えるでしょう。もしかすると、倉本は、末永家の〃まわし者〃だったのかもしれませんよ。いま、その関係に聞き込みの矛先を向けている最中なんですよ」
「いいだろう。何か、情報が入れば知らせてちょ」
「わかりました。そんなことより、もっと大事なネタを手に入れましたので、そのことを報告しておきます」
「一番大事なネタを後まわしにするとは、どういうことだ?」
「おいしいものは、最後までとっておけと言うでしょう? いいですか、検事さん。仮装行列の日に、砂田修司が『桝形』の土塁の上で浪人姿の男に斬られたというのに、婚約者の祥子は、これまで沈黙を守っていたんですよ。そんなこととは知らないもんだから、われわれ捜査員は、被害者の虚無僧姿の男の身元を突き止めようと、必死になっていたわけです。おかしいとは思いませんか?」
「うむ。要するに、砂田修司の身元が今日までわからなかったのは、婚約者の祥子が隠していたからだと、こういうわけだなも」
「祥子だけじゃありませんよ。湯浅家の一族が、砂田修司のことについては、一切、口を噤んでいたわけですから……こいつはいただけません」
「なるほど。なぜ、砂田の身元を知られたくないのかな?」
「そこなんです。何だか、陰謀めいた匂いがしますよね、検事さん」
「湯浅家が、陰謀を企んでおると言うのかね?」
「かもしれないじゃありませんか。いずれにしろ、ここらあたりにメスを入れなくちゃなりません」
「同感だわね。それにだよ、仮装行列の日に、花嫁姿で、『桝形』の土塁の下を馬に乗って通過しようとした姉の真奈美が、馬上から転落したんだからよぉ。あのときのことは、わしもよくおぼえておる。彼女が転落する直前に、土塁の上のほうへ視線を投げ、ハッとした。あのときの彼女の表情からすると、あらかじめ、土塁の上で何かが起こることを知っておったのではないかと疑われてならない。もっとも、これは、わし一人の勘だがよぉ」
「そうなると、ここで、次女の祥子を呼んで、詳しく事情を聞かなくてはなりませんね」
「そりゃ、おみやぁさんの仕事だ。早速、やらにゃならんな」
「わかりました。明日にでも、祥子を呼びますよ」
「うむ。取調べの結果は報告してちょうよ。その関係の調書を送ってもらいたい。そいつを読んだうえで、必要があれば、わしが、あらためて彼女を呼び、じきじきに事情を聞いてみるでよぉ」
「了解しました。検事さんのご指示どおりにやりますよ」
行天珍男子は、顎を引いて頷き返す。
刑事事件の捜査について、刑事は、担当検事のアドバイスなり指示なりに従うのが筋である。
なぜかというと、警察限りで捜査したところで、最後には検察庁へ持ち込まなければならない。
そうであれば、前もって、検事の意見を聞いたり、アドバイスに従うほうが、すべてがスムーズに運ぶ。
実際、刑事訴訟法の規定から言っても、それが正しい筋道だ。
ところが、刑事のなかには、検事の意見を無視したり、アドバイスに従わず自分たちだけの考えで捜査を終えるケースが見られる。
公判へ持ち込んでも、無罪になったりする事件のなかには、そういうケースが少なくない。
それに比べると、赤かぶ検事の管轄下にある南信州一帯の警察は、赤かぶ検事に極めて協力的だった。
これは、犯人を検挙し、正義を貫くためにも好ましいことである。
赤かぶ検事は言った。
「おみやぁさん。それにしても、どういう事情から、砂田修司の身元が判明したんだね?」
「ほんの偶然ですよ。うちの署員の一人が、たまたま業界誌の記者だった砂田の顔をおぼえていたんです。砂田が、まだ、駆け出しだったころの話ですがね」
「いつごろのことだ?」
「三年前だと言いますから、砂田は二十五歳だったはずです」
「それなら確かな情報だわね」
「検事さん。先日、こんなことを言いましたよね。警察内部にスパイがいるんじゃないかって……ですけど、こんなふうにして、貴重な情報を提供してくれる署員も少なからずいるってことを肝に銘じてもらいたいですね」
「わかった。あのときの失言は取り消す。勘弁しなよ」
赤かぶ検事は、素直に兜をぬいだ。
「いや、検事さんに謝れとは言ってません。もういいですよ、あんなのは……」
行天珍男子は、けろりとしている。
湯浅祥子を取り調べた行天珍男子は、期待どおりの供述が得られず、腐りきっていた。
祥子は、何かを知っていながら隠しているのか、それとも、本当に知らないのか、行天珍男子には、さっぱり見当がつかないという。
いまのところ、祥子は容疑者ではないのだし、二十二歳の独身女性のことでもあり、丁重に扱わなければならず、強い態度はとれない。
そのこともあって、行天珍男子はイライラしていた。
そうと知って、赤かぶ検事は、早速、祥子を検察庁へ出頭させるようにと指示した。
あらわれた祥子を見て、赤かぶ検事は、瞠目した。
姉の真奈美もなかなかの美人だが、妹の祥子は、姉とは比べものにならない美貌の持ち主だった。
彫りの深いエキゾチックな容貌もさりながら、見るからに和服が似合いそうなスリムな体つきの色白の娘である。
それもそのはずだ。
聞くところによると、名古屋の呉服商がスポンサーになって開いた「ミス着物」コンテストへ出場し、グランプリを獲得したそうである。
「おみやぁさんのような美人なら、引く手あまたというところではにやぁがね?」
赤かぶ検事は、彼女の容姿を褒めそやした。
彼女をおだてあげ、泥を吐かせようなどというケチな魂胆ではなく、心底から、そう思ったからだ。
しかし、彼女のほうは、おだてられたと感じたらしく、表情を強張らせたままである。
二十二歳にしては、なかなかの〃しっかり者〃だ。
赤かぶ検事は祥子を眺めながら、
「それじゃ、用件に入るでよぉ。おみやぁさんにいくつか質問したい事柄がある。それを一つ一つ聞いていくから、おみやぁさんも心を開いて、正直に答えてちょうよ」
あいかわらず彼女は、頑なな態度を崩さない。
赤かぶ検事は言った。
「まず、聞きたいことはよぉ、砂田修司との関係だわね。もちろん、彼と親しくつきあっておったんだろう?」
「つきあってはいました。それだけです」
祥子は、極力、言葉少なに答えようとしていた。
(警戒しておるな)
赤かぶ検事は、密かに呟きながら、
「聞くところによると、砂田とは婚約者の間柄だったと言うではにやぁがね? これは事実なんだろう?」
「いいえ。婚約はしていません」
「おや、本当のことを話してくれるのではなかったのかね?」
「嘘は言ってません。だって、婚約なんかしていませんから……」
「だけどよぉ、警察が聞き込んだところでは、おみやぁさんの父親も、この婚約に賛成しておるというではにやぁがね? その点どうなんだね?」
「父が何と言ったかは知りません。でも、わたしは婚約していませんから……これが、本当のことです」
彼女は視線を伏せた。
こうなると、とりつく島がない。
行天珍男子が手こずらされたのもわかる。
まさか、怒鳴りつけるわけにもいかないから、なおのこと悔しい。
赤かぶ検事は言った。
「まあ、ええわね。おみやぁさんが、そう言うなら、一応、そのように聞き置くとしてだよ、別のことをたずねたい」
そう言うと、彼女は顔をあげ、上目づかいに赤かぶ検事を盗み見る。
〃盗み見る〃とは言うが、その眼差しは、実にセクシーで、たちまちのうちに男心をとろかす魅力に満ちていた。
赤かぶ検事は、そんな彼女を眩しげに眺めながら、
「妻籠宿で行なわれた文化文政風俗絵巻行列の日のことだがよぉ、おみやぁさんの姉の真奈美さんが花嫁姿で馬に乗り、行列に参加したなも」
「はい。姉は気の毒でした。あんな目に遭って……」
「実に、気の毒だ。入院しなくちゃならないほどのケガをしたんだから……その姉のことは、しばらく置くとしてよぉ、その日、おみやぁさんは、どこで何をしておった?」
「妻籠宿へは行きませんでした」
「姉が花嫁姿で行列に参加するというのにかね?」
「わたしには、ほかに約束がありましたので、妻籠宿へは行けなかったんです」
「どんな約束だね?」
「それは言えません」
「おや、またぞろ、わしたちを困らせる気かね? 警察でも、そんなふうなことを言ったようだが、ここでもかね?」
「検事さん。わたしのプライバシーを尊重してください」
そう言ったときの彼女の眼差しは、真剣そのものだった。
赤かぶ検事は、ちょっと圧倒されそうになって、
「いや、おみやぁさんのプライバシーは充分に尊重するわね。だから、頼んでおるんだ。本当のことを話してくれとな」
「検事さん。わたし、嘘は言いたくないんです。だから……」
「だから、何だね?」
「無理に言わせようとすると、嘘を言わなくちゃなりませんでしょう? そうしたくないから……」
「なるほど。嘘を言うくらいなら、黙秘したほうがいい。そういうわけだなも」
「はい」
彼女はきっぱりと答えた。
まったくもって、やりにくい娘である。
「それじゃ、この点はどうだね? 砂田修司がよぉ、当日、虚無僧姿になって行列に参加するってことを、おみやぁさんは知っておったか、どうか。もちろん知っておったんだろう?」
「それは聞いていました」
「誰から聞いたんだね?」
「砂田さんから聞きました」
「聞いていながら、おみやぁさんは、仮装行列を見物するために妻籠宿へは行かなかった。そう言うんだなも?」
「だから、言いましたでしょう? ほかに約束があったと……」
「もう一つ、たずねておきたい。砂田修司に斬りつけた浪人姿の男だがよぉ。倉本和彦というんだが、おみやぁさんは知っておったかね?」
「いいえ、知りません」
「倉本和彦という男とは、面識がない。そう言うんだね?」
「もちろん会ったことはないんです。名前さえも聞いていませんから……」
「名前も知らない。そいつはおかしい。倉本和彦は、湯浅家の遠縁にあたるというではにやぁがね?」
「わたしは知りません。何も聞いていませんから……」
「聞くも聞かないもあったもんじゃない。遠縁にあたるなら、名前くらいは聞いておろう?」
「いいえ、聞いていないんです。いま、そう言ったばかりじゃありませんか。どうして、同じことを何度も聞くんですか!」
とうとう、彼女は、感情を高ぶらせ、噛みついてきた。
その魅惑的な瞳に、涙が浮かんでいる。
いったい、どういうことなのかと、赤かぶ検事は首をひねってみるが、さっぱり見当もつかない。
いずれにしろ、こうなったら、事情聴取は断念しなければならなかった。
最後に赤かぶ検事は言った。
「仕方ない。おみやぁさんが非協力的だから、捜査が進まんのだ。今日のところは、これで帰ってもらうが、あらためて事情を聞くことになるかもしれんでよぉ。そのときこそ、協力してちょうよ」
たぶん、協力しないだろうと思いながら、赤かぶ検事は、一応、そう言っておいて、彼女を帰宅させた。
赤かぶ検事は、祥子を帰してから、すぐに、諏訪警察署の行天珍男子に電話を入れ、事の次第を話した。
「やはりね。検事さんでも歯が立ちませんでしたか」
「ざまみろと腹の底では思っておるのではにやぁがね?」
赤かぶ検事が冗談めかして言うと、行天珍男子は、
「ずばり、そのとおりです。もしもですよ、検事さんに対して、彼女が素直に事実関係を供述しようものなら、こちとらは、悔しくて、夜も眠れませんよ」
「それなら安心しな。今夜は、よく眠れるだろうからよぉ。いずれにしろ、こうなったからには、湯浅家に何かあると見なけれりゃならんわね」
「同感ですよ、検事さん。湯浅家の長女の真奈美が、あんなふうに駆け落ちしたばかりか、次女の祥子までが、口を噤んで、一切を語ろうとしないんですから……こいつは何か臭いますね」
「それだけではにやぁでいかんわ。祥子の婚約者の砂田修司が殺されちまったんだから、なおのこと臭う」
「検事さん。ここまでくれば、当主の湯浅鶴次郎に、直接、ぶつかってみるよりほかありませんよ」
「わしも、そう思っとるんだ。近いうちに、湯浅鶴次郎を呼んで、事情を聞いてみてちょ」
「わかりました。週末にでも、呼んでみますよ」
「待ちなよ。電話一本で呼びつけたところで、すんなりと出頭せんのではにやぁがね?」
「そうでしょうかね? いや、いいですよ。呼んでもこなければ、こちらから出向くまでです」
「それがええわね。とにかく頼むでよぉ」
赤かぶ検事は、そう言い残して、電話を切った。
その矢先に、湯浅鶴次郎が自動車事故に遭遇し、死亡した。
捜査の結果、事故死を装った他殺ではないかという疑いが濃厚になった。
それにしても、どういうわけで、こうも連続して、湯浅家の一族や、その縁につながる人物が狙われたり、事件を起こしたりするのか。
湯浅家は、呪われているのか。
この先、何が起こるか、赤かぶ検事は、空恐ろしい思いがした。
第五章 呪われた一族
湯浅鶴次郎が自動車事故で死亡したという通報を受けた行天燎子警部補は、ただちに現地へ飛んだ。
赤かぶ検事のもとへ、彼女が事件の報告をしたのは、翌々日の午後のことだった。
「ご苦労さん。どんなふうだね? 事故の状況は……」
「惨憺たるものです。湯浅鶴次郎は、中型乗用車を運転していたんですが……そりゃ、もう、ぺしゃんこに車体が押し潰されて……」
「うむ。事件の管轄は、飛騨金山警察署だと聞くが?」
「はい。わたし、いま、飛騨金山警察署から、この電話をかけているんです。事故以来、ここでは、連日のように現場付近の捜索や聞き込みをやってくれていましてね。もちろん、そのつど、わたしも同行していますが、この様子では、真相を突き止めるまでには、かなり日数がかかりそうですわ」
「事件現場は、国道四一号線沿いの中山七里だというではにやぁがね」
「そうなんです。ご承知のように四一号線はカーブが多くて……ヘアピンカーブというほどのことはないにしても、事故の多い危険な場所ですわ」
「知っとるわね。四一号線に沿って、飛騨川が流れておるが、たいへんな急流だ。それに奇岩が多い。例えば、羅漢岩、屏風岩、牙岩なんて名前がついておって……シーズンになると、そういう奇岩に赤紫のツツジが咲き乱れてよぉ。いわゆる躑躅色ってやつさ」
赤かぶ検事は調子づいてきた。
いつの間にか、話の筋道を脱線しそうな形勢である。
行天燎子は、うんざりしながらも、
「そうですわね」
と相槌をうつ。
そんなこととは気づかずに、赤かぶ検事は、ますます、図に乗って、
「急流を噛むようにして、ツツジの咲く奇岩が屹立している様は見事だわね。秋の紅葉のシーズンも、これまた、すばらしい。真っ赤に紅葉したカエデの枝が、泡立つ急流すれすれに垂れ下がり、黄金色のイチョウや常緑樹に映えて、そりゃもう、錦絵のような絢爛豪華な情景が飛騨川一帯に広がってよぉ。そんなことから、中山七里は、名勝として広く知れわたるようになった。ところで、おみやぁさん。『中山七里』という戯曲があるのを知っとるかね? 長谷川伸という有名な劇作家が書き下ろしたものだ」
「いいえ、存じませんが……よく知られている戯曲ですか?」
「もちろん。長谷川伸と言えば、売れっ子だったからな。劇場で上演される芝居にしろ、小説にしろ、彼の作品には名作が少なくない」
「例えば、どんな?」
「『瞼の母』とか『一本刀土俵入』、『沓掛時次郎』なんてのが、代表作だわね」
「まあ、『瞼の母』ですって?……ずいぶん、クラシックなお話ですわね」
彼女は、くっくっと喉を鳴らすようにして笑う。
赤かぶ検事は、むきになって、
「そうでもにやぁでよぉ。一九六三年まで健在だったお人だから……おや、わしは何の話をしておったんだろう! とんだところで、脱線しちまってよぉ。そうだ。事故のあった場所を聞いておったんだ。中山七里は、三十キロメートルにわたって続く飛騨川沿いの一帯を言うんだから、ずいぶん、距離がある。だから、実際に事故があったのは、どのあたりなのか、聞いておきたいんだわね」
「事故があったのは、飛騨金山から下呂へ向かう途中の四一号線沿いのカーブ地点です。ちょうど、二五七号線へ折れる手前ですわ」
「あそこは危ない。ピンカーブと言っていいくらい、曲がりくねっておる」
「そうなんです。わたし、現場を見て、ぞーっとしましたわ。こんなにカーブがきつくて、見通しの悪い場所を夜間に、しかも滝のように雨が降る中を一人で車を運転するなんて、無謀ですわよ」
「死んだ湯浅鶴次郎のことを言っておるんだなも?」
「はい」
「夜の何時ごろのことだね? 事故があったのはよぉ。深夜だと聞いておるが……」
「午後十一時半ごろです」
「時刻がわかっておるのは、目撃者でもおったからか?」
「実を言いますと、後続のトラックの運転手が、百五、六十メートル先のカーブ地点で、車が転落したらしい気配を感じたと言っています」
「気配とは?」
「車のライトがくるくると回転しながら、飛騨川へ転落していく様子を目撃したんです。その時刻が午後十一時半だったと……」
「それで、どうしたんだろう? トラックの運転手はよぉ」
「すぐに警察へ知らせなければと思いはしましたが、あたりには、公衆電話が見当たりません。そのトラックには、自動車電話もなかったので、困ってしまったと言ってます」
「そりゃそうだわね。あの付近は、夜間になると真っ暗でよぉ。人気のない闇のなかを深夜便のトラックが轟音をとどろかせて走ってござる。そこへむけて、雨でも降ると、見通しが極端に悪くなり、通い馴れた地元の人なら別として、余所者の湯浅鶴次郎がよぉ。豪雨のなかを走るなんて、無謀というよりほかないわね」
「そうなんです。視界も悪く、車の通行量も疎らで、悪い条件が重なったための事故と、一応は、言えますが、ちょっと不審な点もありましてね」
「と言うと?」
「目撃者のトラック運転手は、山下健次というんですが……彼の供述によりますと、前方に二台の車のライトが交差するというか……とにかく、おや? へんだぞ! と思わず叫んだとか……」
「うむ。二台の車のライトが交差したというのは、どういう意味だろうな?」
「うまく説明できなくて申し訳ないと言ってましたが……わたし流にアレンジしますと、こういうことじゃないでしょうか。後続の車が、先行の車を追い上げていく様子が二台の車のライトが交錯したことから推測がついた。こうじゃないかと思うんです」
「それじゃ、おみやぁさん。事故死ではなくて、れっきとした殺人ではにやぁがね」
「そうなんです。山下運転手が言うには、『あれっ! こいつは、どえらいことに……』なんてハラハラしているうちに、先行の車のライトがくるくると……」
「回転して、飛騨川へ向けて転落していった。こう言うんだなも?」
「そうなんです。うまく言えなくて、すまないなんて山下運転手は恐縮していましたわ」
「そうでもない。何しろ、深夜であり、しかも、豪雨の最中のことだから、それ以上、正確を期するのは無理ってもんだ」
「いずれにしても、後続の車を突き止めなければなりませんが……車のナンバーは、もちろんのこと、車種についても確定していません」
「乗用車か、トラックか、その見当もつかないのかね? 山下運転手にはよぉ」
「彼が言うには、後続の車は、もしかすると、ジープじゃなかったかと……確信はないそうですが……何だか、そんな気がしたと言ってます」
「山下運転手はよぉ。何年くらい、運転手をしておるんだ?」
「十年だって……本人は、そう言ってますけど……年齢は、三十二歳だそうです」
「うむ。十年もプロの運転手をしておるんだから、ジープのような気がしたと言っておるなら、一応、信用していいだろう」
「ジープと言っても、近ごろは、4WDの凄いのがありますものね。3ナンバーの馬力の強いやつです。ジープというより、ランドクルーザーですわね……山下運転手が言うには、その類いじゃないかって……」
「そいつは貴重な情報だ。うまくいけば、それだけのネタでもって、その怪しい車を割り出せるかもしれんでよぉ」
「そう願いたいですわ。事件の管轄が飛騨金山警察署ですから、いまのところは、当署の捜査能力に期待するよりほかありません。わたしたち長野県警の捜査員が、飛騨方面で動きまわってみても、効率よく捜査ができるわけでもありませんから……」
「そうだなも。それにしても、何のために、湯浅鶴次郎は、中山七里くんだりを深夜に車で走っていたのか、これが知りたいところだわね」
「そのことですが……いえ、話が後まわしになってしまって申し訳ありません。大切なことなのに……」
「言い訳はいいから……早く、話してちょうよ」
「実を言いますと、駆け落ちした例の二人の滞在先がわかったという通報が入ったからです」
「二人と言うと……湯浅鶴次郎の長女の真奈美と、末永家の長男で記憶喪失の疑いのある秀男のことだなも」
「そうです。二人については、湯浅、末永の両家から警察に家出人捜索願が提出されていたんですが……飛騨金山の町中の旅館に宿泊しているカップルが、手配中の二人に似ているという情報が入りましてね」
「誰かが、二人を見たとでも?」
「はい。最寄りの派出所の巡査です。それがドジな話しでしてね。検事さんにお話しするのも恥ずかしくて……」
「おみやぁさんがドジを踏んだわけでもなかろう?」
「わたしじゃありません。その派出所の巡査です」
「巡査が、どうかしたのか?」
「飛騨金山の町中では、旅館と言えるのは、ほんの数軒です。しかも、一カ所に集まっていましてね。その界隈を管轄する派出所の巡査がですよ、たまたま、バイクで町中をパトロールしていたとき、ちらっと例のカップルの顔を見たというんです。そのとき、てっきり手配中の二人に違いないとピンときたらしいんです」
「ほんとに見たのかね?」
「とにかく、巡査は見たといってます」
「それで?」
「こういうとき、巡査としては、すぐにでも、その旅館をたずねるとか、旅館の人に頼んで、手配中の本人か、どうか、確かめるべきなのに、その巡査は、町中を一巡してパトロールを終え、派出所へ帰って、一休みしてから、その旅館に電話を入れているんです」
「何と言って電話を入れたんだ?」
「夜にでも、一度、その二人に派出所まできてもらってくれなんて……」
「用件は言わなかったのか?」
「ちょっと聞きたいことがあるからって……旅館の女将さんに、そう言ってるんです」
「そいつは、まずいな。せっかくの情報を……」
「そうなんです。旅館の女将さんは、二人に、こう言ってます。『派出所まできてくれって巡査が言ってましたよ。聞きたいことがあるからって……まさか、お客さんたち、何か悪いことでもして逃げているんじゃないでしょうね』なんて、二人を不安がらせるようなことを言ったもんだから……」
「うむ。何もかもが裏目に出たわけだなも」
「そうなんです。その日の夕刻に、女将さんが、二人の部屋へ食事を運んで行ったところ、もぬけの殻になっていたもんで、驚いて、派出所の巡査に電話を入れたというのが経緯です」
「何と恐れ入った話だわね。それでよぉ、湯浅鶴次郎は、そのことのために、飛騨金山へやってきたのかね?」
「はい。飛騨金山警察署から、湯浅家へ通報があったんです」
「何と言って、通報したんだろう?」
「事実をありのままに告げたそうです。もし、その旅館に宿泊していたのが、手配中の二人だったなら、まことに申し訳ないと署長名で両家に詫びを入れなくてはならないでしょうしね」
「それで、湯浅鶴次郎が車を飛ばして、飛騨金山へ?」
「そうなんです。事故に遭遇したのは、一応、用件をすませ、松本へ帰る途中のことでした。飛騨金山から中山七里を通過し、国道二五七号線を経由して、中央高速道路へ出て、松本へ帰るところだったんです」
「その途中に、車ごと飛騨川へ転落した? 事故死か、他殺かは別としてよぉ」
「そうなんです。気の毒ですわね」
「まったくだわね。好きな男と駆け落ちした娘の消息を求めて、はるばる、信州くんだりから駆けつけてきた父親の心情を思うと、身につまされてくるわね」
そう言いながら、赤かぶ検事は、しんみりとして、
「それでよぉ。湯浅鶴次郎は、飛騨金山の旅館をたずね、問題の二人連れが、果たして、家出した二人か、どうか、確認したんだな?」
「はい。年恰好や容貌、物言いやマナーなんかを詳細に聞き出した結果、女性のほうは、十中八九まで、長女の真奈美に間違いないと言うんです」
「男のほうは?」
「このほうは、末永家の当主である末永喜造が確認しています。まず、長男の秀男に間違いないだろうって……いずれにしろ、二人とも偽名で宿泊していましたから、宿帳では身元を確認できませんわね」
「末永喜造も、飛騨金山へきておったんだね?」
「はい。飛騨金山警察署では、両家に連絡していましたから……」
「なるほど。そうなると、元祖、本家争いをやらかし、互いに商売仇として、憎み合っている両家の当主が、期せずして、飛騨金山の旅館で鉢合わせした。こういうわけだなも」
「そうなんです。さぞかし、気まずい思いをしたでしょうね」
「その点、何か情報が入っておらんかね?」
「旅館の女将さんの話では、互いに顔を合わせても、会釈ひとつせず、口もきかなかったそうですわ」
「うむ。わからんでもないがよぉ。それで、二人とも、別々に帰ったわけだろう? まさか、一緒に帰ったとは思えんでな」
「先に帰ったのが末永喜造でした。それから、二時間くらい後に湯浅鶴次郎が立ち去ったそうです」
「それにしても、わからんことがある。湯浅鶴次郎のような立場の男がよぉ。なぜ、自分ひとりで車を運転して、日本アルプスを越えたりしたんだろう? いや、ちょっと大袈裟だったかな? アルプス越えなんて言うのは……」
「いいえ、アルプスを越えないと、信州から飛騨へは行けませんものね」
う、ふ、ふっと彼女は、ひめやかな笑い声をあげて、
「なぜ、湯浅鶴次郎が一人で車を運転していたのか、これについては、いまもって、謎を残したままです。いえね、わたしも、早くから、このことが気になっていましたので、いろいろ調べてはみたんです。でも、納得のいく情報が一つもなくて……」
「奇妙だなも。家族の誰かとか、従業員なりに運転を頼めばよかったのによぉ。高年齢者の自動車事故が増えておる折りでもあり、傍にいる人たちが、もっと気遣ってやるべきだわね……例えば、長男の辰夫なんかがよぉ」
「その日、辰夫は、たまたま、東京へ出張していたそうです。家業の『元祖・五平餅』のことでね」
「出張しておっても、情報は得ていたろう。出張先でよぉ。それなら、何かの手立てがあったはずだ。父親が一人で出かけないようにな」
「と申しますと?」
「例えば、誰かを同伴させようとしたがだめだったとか、タクシーを手配させたが、うまく行かなかったとか……とにかく、そこまで気を配ったのかそうでないのか、ここらあたりのことは、どうなんだ? 調べたのかね?」
「まだです。でも、そこまでしなくちゃならないでしょうか?」
「おや、おみやぁさんらしくない台詞だなも。ええかね? 事故死でない疑いが出たからには、徹底的に捜査しなくはならんわね。聞き込みも丹念にやってよぉ」
「わかりました。早速、その関係の捜査をやらせます」
「そうしてちょうよ。あっ、それから、まだ、大切なことがある。末永喜造だがよぉ。こっちのほうは、どうなんだ? やはり、一人で車を……」
「いいえ、車を三台連ねて、その旅館へ駆けつけてきたそうです」
「ほう。いったい、誰と誰を連れてきたんだろう?」
「家族らしい人たちと、あとはヤクザっぽい感じの男が二人……旅館の女将さんは、そう言ってます」
「何者だろう? そのヤクザっぽい男たちは?」
「飛騨金山警察署では、念のために、その二人の身元の確認を急いでいるそうですから、近いうちに判明すると思いますわ」
「うむ。その情報が手に入ったら、早いとこ、わしにも知らせてちょうよ。ちょっと引っかかるもんだで……」
「引っかかると言いますと?」
「いやさ、これは、わしの思いつきだが、湯浅鶴次郎の車を転落させたのはよぉ。もしかすると、そのヤクザ男たちの仕業じゃないかと思うもんだから……」
「そう言えば……」
と言って、行天燎子警部補は、言葉を切った。
「どうした?」
「いえね。末永喜造の一行は、湯浅鶴次郎よりも、二時間ばかり、先に旅館を出ていますわね。それが気になるんです」
「それそれ……わしも、そのことを考えておったんだ。二時間もあれば、充分に準備もできるし、犯行計画を練ることだって可能だわね」
「すると、やはり検事さんも?……そういうことなら、わたしのほうでも、その関係の捜査を大至急やりとげますわ」
「そうしてちょ。大いに期待しとるでよぉ」
赤かぶ検事にしてみれば、これだけのことで、一連の事件の謎が解明されるわけでもないと思うが、従来から、犯人どもに先手を打たれてばかりいるものだから、ここらあたりで、巻き返しに転じ、突破口を開くことができないものかと密かに願っていた。
行天燎子警部補が、その後の捜査の進展状況について、赤かぶ検事に報告したのは、翌週の月曜日のことだった。
「おみやぁさんかね。どこから電話をかけておるんだ? ちと声が聞こえにくいがよぉ」
「あら、聞こえにくいですって?……どうしてかしら?……いま、飛騨金山警察署から電話をしているんですけど……」
「うむ。聞こえにくいのは、たぶん、回線のせいだろう。ええわね。とにかく話を聞かせてもらうわね」
「はい。実を言いますと、湯浅家の長男の辰夫の事情聴取が、なかなか捗らなくて困っているんです」
「そりゃ、また、どうしてだね?」
「出張が多くて、アポイントメントがとれないんです」
「忙しい男なんだな」
「父親が亡くなり、いろいろと多忙なのはわかるんですが……それだけじゃなさそうですわよ」
「と言うと?」
「何やら怪しい動きをしている模様です」
「怪しい動きだって?……思わせぶりな台詞だなも。ずばりと率直に話せないのかね?」
「それより、先に報告しなければならないことがありますので……」
「いいだろう。気をもたせるのは、おみやぁさんのいつもの癖だでな」
赤かぶ検事は笑った。
もちろん、冗談のつもりで言ったのだが、どういうわけか、彼女はむきになって、
「あら。そうじゃありませんわ。わたしは、ただ……」
「ええわね。とにかく、早いとこ話しなよ」
「わかりました。それじゃ、まず、例のランドクルーザーのことを……」
「ランドクルーザーだって? 何だね、そいつはよぉ」
「まあ。もうお忘れ?……ほら、湯浅鶴次郎の車を追い上げていった犯人の車ですわよ」
「あれかね……しかし、あの車がランドクルーザーか、どうか、確定はしておらんだろう?」
「いいえ。目撃者の山下健次が言うには、あのときの車は、いまにして思えば、やはり、ランドクルーザーですって……」
「ほう。事件直後は、曖昧な記憶しかなかったが、その後、日数が経過するにつれて、ハッキリと記憶に浮かび上がってきた。こういうわけかね?」
「検事さん。真面目に聞いてくださらないと……人の記憶は、日数がたつにつれて、曖昧になっていくのが普通です。ですけど、短期間のことなら、逆に日数がたつにつれて、少しずつ、記憶が鮮明になっていくことだって実際に、あるんじゃないでしょうか?」
「いいだろう。いまのところは、一応、そのように聞いておこう」
「ありがとうございます。感謝いたしますわ」
と行天燎子警部補は、わざとらしく、大真面目な口調で言っておいて、
「末永喜造のことですが……三台の車を連ねて、飛騨金山の旅館をたずねたと申しましたでしょう?」
「聞いたわね。駆け落ちした二人の消息を知るためにな」
「はい。その三台のうちの一台がランドクルーザーだったという聞き込みがあったんです」
「なんと……そいつはでかした。おみやぁさんの聞き込みかね?」
「残念ながら、飛騨金山警察署の捜査員が聞き込んできた情報なんですのよ」
「どこで仕入れたネタだろう?」
「それがですね。例の旅館の長男が、そう言ったとか……」
「長男?……女将ではなくて……」
「はい。高校生だといいますから……車には興味のある年ごろです。どのメーカーの車種だったとか、年式なんかも、ちゃんと見ていたそうですわ」
「だとしても、果たして、その車が犯人のものだったか、どうか。つまり、湯浅鶴次郎の乗用車を追い上げたのが、そのランドクルーザーだったのか、そうでないのか、この点はどうだね?」
「それが、一番、大切なことなんですけど……目撃者の山下健次が言うには、ランドクルーザーのような車種だったのは、ほぼ間違いないそうですが、車のメーカーや年式までは確認できなかったと言ってます」
「だろうな。何しろ、深夜のことでもあるんだから……」
「ですけど、検事さん。湯浅鶴次郎を転落死させたのは、そのランドクルーザーかもしれないという疑いは、依然として残りますわ」
「それは言えるわね」
「でしょう。とりわけ、あの夜、例の旅館をたずねた三台の車のうち、ランドクルーザーに乗っていたのが、ヤクザっぽい連中だったなんてことになると、なおのこと、その疑いが濃厚になってきますわね」
「それ、ほんとか? ランドクルーザーに乗っていた連中のことだよ」
「間違いないと、飛騨金山警察署では言ってます。旅館の長男の証言ですけど、一応、信用してもよさそうですわ」
「いいだろう。そうなると、ヤクザっぽい連中の身元の割り出しが緊急の課題になるなも」
「身元は割れたそうです」
「それも飛騨金山警察署のお手柄かね?」
「いいじゃありませんか。飛騨金山警察署は、ずいぶん、熱心に捜査をやってくれています。お陰でわたしたちも大助かりですわ」
「その先が問題だなも」
「その先と言いますと?」
「ヤクザ連中の身元を割り出しただけでは、どうにもならん。その後の捜査が問題だわね?」
「そのことでしたら、わたしたちを褒めていただきたいですわ」
「と言うと?」
「その二人のヤクザ男は、藪中幸治二十七歳。これが兄貴分です。もう一人は、荻山正俊と言って、年齢は二十五歳です。これが弟分でしてね」
「そいつらは、正真正銘のヤクザかね? それとも、ヤクザを気取っておるだけかね?」
「かつては、松本市の暴力団に所属していましたが、最近になって、組が解散したために、足を洗ったそうですわ」
「そういう怪しげな連中がだよ。なぜ、末永喜造らと行動をともにしていたんだ?」
「奇妙な話ですわね。確かに……」
「そうだ。五平餅とヤクザとは、どう考えてもしっくりせん」
「その点については、面白い情報があるんですのよ。このほうも、わたしたちのお手柄ですわ」
「ほう。そうと聞けば、なおのこと早く知りたい。いったい、何がどうだと言うんだね?」
「倉本和彦のことは、おぼえてらっしゃいますわね?」
「うむ。浪人に扮して、仮装行列に参加しておった男だろう?」
「はい。その行列のさい、虚無僧に扮した砂田修司を斬殺した犯人ですが、これも殺害されています」
「うむ。諏訪湖で氷漬けの死体になっておったが、調べてみると、いろいろ疑わしい点が出てきた人物だなも」
「はい。その倉本和彦が、鼻もちならない悪徳警官だったことは、よく知られています」
「それで?」
「実を言いますと、藪中や荻山を『末永製菓』に斡旋したのは、ほかならぬ倉本和彦だったんですのよ」
「なるほど……そういう仕掛けになっておったのかね?」
「そうなんです。どういうわけかわかりませんが、問題の二人のヤクザを雇ったのが、末永喜造だったんです」
「わかったわね。その仲介の労を取ったのが、元悪徳警官の倉本和彦だった?」
「はい。何のためにヤクザを二人も雇ったのか。これも興味のある事柄ですわ」
「そりゃ、まあ、ヤクザを更生させるために雇ったと言えば、体裁はええがよぉ」
「そこなんです。更生のためというのは、表向きの隠れ蓑であって、真の狙いは、荒っぽい仕事をやらせるためだったのかもしれません。今回のようにね」
「なるほど。荒仕事をやらせるには、うってつけの男たちだでな」
「そんなところですわ」
「ところで、倉本和彦だがよぉ。湯浅家の遠縁にあたるというが、その点は?」
「これについても、捜査の進展がみられました」
「どういうことだね?」
「やはり、倉本和彦は、末永喜造のスパイとして、湯浅家に接触していたらしいんです」
「縁故を利用してかね?」
「そうです」
「成功しておったんだろうか?」
「一応は、成功していたんじゃありませんかね」
「なぜ、わかる?」
「このところ、倉本和彦は、湯浅辰夫としばしば行動をともにしていたという聞き込みがありますから……」
「何だって?……湯浅家の長男の辰夫と?」
「はい……」
「そいつは聞きずてならんわね。倉本和彦はよぉ。湯浅家の次女、祥子の婚約者の砂田修司を斬殺した張本人ではにやぁがね。仮装行列の日に……辰夫は、その点、どう考えているのか……さっぱりわからんでいかんわね」
「わたしもですわ、検事さん」
「うむ。とにもかくにも、ややこしい人間関係だなも」
「ほんとに……検事さんのおっしゃるとおりですわ」
「しかもだよ。次女の祥子は、砂田修司と婚約しておったことさえも否定しておる。そのほか、一連の事件についての情報の提供を拒んでおるんだ。なぜか知らんがよぉ」
「検事さん。こうなったら、何が何でも長男の辰夫の口を割らせないと……」
「わしも、いま、そのことを考えておったんだわね。辰夫の取調べは、わしが直々にやってみよう。これは、重要参考人だでな」
「ぜひ、お願いします。そのほうが、わたしたちとしても、心強いですわ」
「よし。一両日中にでも、辰夫を呼んでみよう。忙しくて、出頭できないなんて言わせないから……」
「検事さん。辰夫については、ちょっと興味あるネタがあるんです」
「聞かせてちょうよ」
「辰夫はですね。『末永製菓』との合弁会社を企図しているらしいんですのよ」
「『末永製菓』との合弁を? そりゃ、また、どういうわけだね?」
「わたしにも、よく理解できないんです」
「当然だわね。辰夫にしてみれば、『末永製菓』と言えば、競争相手というか、敵対関係にある企業ではにやぁがね。その企業と一緒になって、新会社を作るとは、ちと解せんわね」
「そうなんです。合弁会社と言えば、事業を共同に行なうための会社ですものね」
「そうだ。敵対関係にある者同士が仲直りして、手に手をとり、共同事業をやるなんてのは、聞こえこそいいが、実際にうまくいった実例が乏しい」
「わたしも、そのように聞いています」
「だいいち、湯浅家の当主である湯浅鶴次郎が承知せんだろう?」
「その湯浅鶴次郎が死んだわけでしょう。いいえ、殺害されたんです」
「あっ!……そうだったのか。当主の湯浅鶴次郎が邪魔になるから……いや、待てよ。そう考えるのは、ちと早計だなも。何と言っても、湯浅鶴次郎は、辰夫の父親なんだから……」
「いいえ、検事さん。それがですね。名目は父親であっても、実際はそうじゃないんです」
「養子かね?」
「そうじゃありません。湯浅鶴次郎の兄が若いころの過ちで、どこかの呑み屋の女に生ませた隠し子だという聞き込みもありましてね。ですから、辰夫にしてみれば、鶴次郎は伯父に当たるわけですわね」
「隠し子?」
「はい。昔流に言えば、私生児ですわね。本人に罪はないんですけど……」
「そのとおり。親の勝手な振舞いのために、生まれた子が迷惑するなんて、怪しからん話だ」
「それには違いありませんが……湯浅鶴次郎の場合は、その辰夫を引き取り、妻の子ということにして、戸籍を作ったそうですわ」
「妻というと?」
「藤代と言いまして、当年五十五歳だそうですわ。いまは未亡人というわけでしょうけど……」
「その藤代が辰夫を自分の子として入籍することに一役買った。そういうわけかね?」
「はい。わたしたちが聞き込んだところでは、そういうことに……」
「なるほど……その点について、いったい、誰と誰とが、真相を知っておるんだろう?」
「まず、辰夫は知っているでしょうね。当の本人ですから……」
「ほかには?」
「確かなことは言えませんが、長女の真奈美が知っているかも……」
「末永家の長男の秀男と駆け落ちしておる真奈美だなも」
「はい。彼女は、まぎれもなく鶴次郎や藤代と血のつながった娘だそうですわよ」
「次女の祥子は? 彼女も姉の真奈美と同様に鶴次郎夫婦の娘だろうな」
「そのようです」
「いずれにしろ、辰夫は長男ということになっておる。そうだよな?」
「はい。『湯浅製菓』の跡目を継ぐのも、辰夫ということになっているそうですから……生前の湯浅鶴次郎も、そのつもりでいたらしいですものね」
「母親の藤代は、どうなんだろう? 彼女にしてみればよぉ。辰夫は自分の子ではない。それでも、跡目を相続させる気だろうか?」
「そこらあたりのことは、目下のところ、不明です。湯浅鶴次郎が死んでから、間がないことでもありますから……」
「そうだろうけど、藤代にしてみれば、血をわけた子に跡目を継がせたい気持ちはあるだろう?」
「そりゃそうですわ。とりわけ、夫の湯浅鶴次郎が、もはや、この世にいないんですから、なおのことですわね」
「しかし、辰夫を除けば、あとの二人の子は、全部、女の子だわね」
「ですけど、長女の真奈美に婿をもらえばいいでしょう?」
「その真奈美がだよぉ。こともあろうに、敵対関係にある末永家の長男に惚れちまった。こうなると、大変なことになる。そうではにやぁがね?」
「はい。一方、次女の祥子のほうは、婚約者の砂田修司が殺害されています。仮装行列の日にね」
「だがよぉ。祥子自身は、砂田修司との婚約を否定しておる。わしの目の前でな。なぜ、嘘をついたのか、いまだに謎だ」
「検事さん。それから、もっと大切なことをお話ししておかなくては……と言いますのは、長男の辰夫ですけど、このところ、頻繁に上京しているのは、何のためか。調べてみましたところ、東京で弁護士に会うためですって……」
「弁護士に?」
「はい。民事専門の有力な弁護士だとか……なぜ、東京の弁護士の世話になるのか、これも奇妙なことなんです。その弁護士は、一方では、末永喜造の依頼をも受けているそうですから……」
「それじゃ、敵対関係にある者同士が、同じ弁護士に相談しておる。何のためかわからんがよぉ。そういうことかね?」
「そうなんです。合弁会社設立の手続きを進めているのは、その弁護士ですって……名前もわかっています。望月雅信という五十そこそこの弁護士だそうですわ」
「うむ。よくも、そこまで突き止められたなも。弁護士というのは、口が固いからよぉ。とりわけ、依頼事件のことともなると、口が裂けても喋ってくれん。考えてみれば、当然のことだろうけどよぉ。口の軽い弁護士なんて、お呼びじゃないからな」
と言って、赤かぶ検事は、笑った。
このとき、不意に、別の声が受話器に伝わった。
混線かと思ったら、そうではない。
行天燎子に何ごとか小声で報告している刑事の声であるらしい。
「検事さん。いま、わたしの手元にメモがまわってきました。長野県警からの緊急連絡です……」
行天燎子警部補の声が緊張している。
赤かぶ検事はたずねた。
「どうした? 何かあったのか?」
「たいへんです。湯浅祥子が上高地で遭難したそうです」
「何だって?……湯浅家の次女の祥子が……」
「はい」
「いまごろ、上高地へ出かけるとは、無茶だ。あのへん一帯は、雪に埋もれておるわね。初夏にならないと雪は溶けんでよぉ」
「そうです。一人で出かけたのではないらしいですが、詳しい情報は、現地へ出かけないと掌握できないとか……でも、遭難と決めつけるには、若干、疑問が残ると……この情報では、そうなっています」
「いったい、どういうこったね? 遭難でなければ、何だというんだ?」
「とにかく、事故死じゃないかもしれない。そういう意味のようですわ。わたし、これから、すぐに現地へ飛びます」
「そうしてちょ。祥子の死因が事故死でないとすれば、湯浅家のなかでは、第二の犠牲者ということになるでよぉ」
「そうです。敵対関係にある末永家からは、ただの一人も犠牲者が出ていないのに……この事件は、ますます奇怪な様相を見せはじめましたわね」
「まったくだわね」
赤かぶ検事は、実に奇妙な気分に陥った。
まるで、底なしの沼を覗いているような不気味さをおぼえる。
行天警部補は、事件現場の上高地へ飛び、すでに初動捜査を開始していた松本警察署のチームに加わり、事故原因の究明にあたった。
一通りの捜査が終了して、彼女が赤かぶ検事の執務室をたずね、報告にきたのは、それから五日後のことだった。
赤かぶ検事は、彼女を見るなり、まず、その労をねぎらって、
「ご苦労さん。何しろ、冬の上高地ともなれば、厳寒の山岳地帯だからよぉ。マイナス十度くらいに気温が下がる。そんなところで、捜査活動をやるなんて、ただごとじゃない。大変だったろう?」
「覚悟はしていましたが、いざ、現地へ踏み込んでみると、勝手の違うことが多くて、戸惑うこともしばしばでしたわ」
「だろうな。それでよぉ。捜査の結果は、どんなふうだった?」
「まず、冬場の上高地へ入ったグループですが……一口に言えば、写真愛好家の集まりです。メンバーの大半は、松本市の人たちで、今回の撮影ツアーに参加したのは、十二人でした」
「メンバーは、どういう人たちだね?」
「いろいろです。商店主や学生、サラリーマンに家庭の主婦なんか……」
「ほう。女性は全部で何人だね?」
「四人です。そのうちの一人がリーダーなんです」
「なんと驚いたなも。リーダーが女性とはよぉ」
「篠田光恵という三十二歳の女性山岳写真家がリーダーなんです」
「篠田光恵?……聞いたような名前だなも」
「新聞や雑誌に、エッセイつきで、山の写真を発表している人ですから、名前をおぼえていらっしゃるんでしょう」
「有名人だなも」
「はい。写真家としては、ちょっと名前の知れた女性ですわ」
「うむ。冬山登山の経験者だなも」
「そうでしょうけど、今回の上高地撮影ツアーは、登山じゃなく、上高地の周辺を撮影してまわることでした」
「平地を撮影して歩くわけだな。険しい登山ルートをたどるんじゃなくて……それにしても、どういうわけで遭難者が出たんだろう?」
「そこらあたりに、ちょっと疑問があったんですけど……ツアー参加者などから詳しく事情を聞いてみますと、やはり、事故と見るよりほかない状況なんです」
「避けられない事故だったと、そう言うんだな?」
「はい。やむをえない事情から事故が起こったんじゃないかと……」
「どういうわけで?」
「一行は、梓川沿いに徒歩で上高地へ入り、大正池の畔にある旅館を宿泊場所にして、その付近を撮影してまわりました」
「待ちなよ。冬場でも旅館が営業しておるのかね? 上高地では十一月になると、どの旅館も閉めてしまうと聞いておったが……」
「大きなホテルは、十一月の上旬に閉鎖しますが、客があれば開けてくれる旅館が一軒だけあるんです。設備もよくないし、暖房だって小さな電気ストーブが一つ、大部屋に置いてあるだけの凍りつきそうな部屋ですわ。だけど、そういうのが、そのグループの人たちには魅力でもあるようですわね」
「そんなものかな」
「何と言いますか、猥雑な文明社会から隔絶された大自然のなかに身をおいて、不自由な生活に耐えること自体に生きがいのようなものを感じているようですから……」
「なるほど。事故さえ起こらなければ、それもいいだろうが……」
「そうなんです。事故が起こったのは、二日目でした。早朝に、リーダーの篠田光恵が全員を引率して旅館を出たんです。行き先は、田代池でした。その日の天候は快晴で、上高地一帯には、眩しいばかりの白銀の世界が開けていたそうです」
「うむ。想像しただけでも、ぞくぞくしてくるわね。空気も新鮮だろうしよぉ」
「はい。ところが、午前中は快晴だったのに、午後から天候が悪くなり、帰途につくころには、急に空が真っ暗になって、石みたいな雹が、突如として降ってきたそうです。と見ると、雹が雪に変わり、風が出て、田代池一帯に吹雪が荒れ狂ったんです」
「山の天候は変わりやすいからな。それで、どうなったね?」
「どうにもこうにも、吹雪に妨げられ、視界は、ほとんど零と言ってよく、リーダーの篠田光恵の指示に従って、メンバー全員が体をロープで繋ぎ、はぐれないようにして、互いに声を掛け、励まし合いながら、大正池の旅館へ向けて吹雪の中を歩き始めたんです」
「どえりゃあ難行軍だなも。一つ間違えば死の行軍にもなりかねん」
「そうなんです。メンバーの中には、八甲田山中の死の行軍をテーマにした例の映画を思い浮かべた人もいたようです」
「なるほど。そういう状況なら、遭難者が出ても不思議はないわね」
「実際、旅館へ着いてみると、メンバーの一人が欠けていたんです。そうと知って、みんな言葉を失ったそうですわ」
「そりゃそうだ。誰の責任というわけでもないだろうが、仲間の一人が遭難したとなれば、たいへんなショックだわね」
「いいえ。リーダーの篠田光恵は、もっぱら自分の責任だと言って、泣いていました」
「わかるわね、彼女の気持ちはよぉ。道義的責任というやつだなも」
「はい。詳しく聞いてみると、状況はこうでした。全員、一列縦隊になって、吹雪のなかを歩いていたんですが、遭難した湯浅祥子は、メンバーの最後尾でした。つまり、しんがりですわね」
「なぜ、彼女がしんがりに?」
「彼女は、これまでにも、何度か北アルプスへ登り、冬山登山の経験もあるので、ほかのメンバーをサポートしてもらいたくて、そういう配置にしたんだとリーダーの篠田光恵は言っています」
「それならわかるわね。当然の措置だろうな」
「リーダーの篠田光恵は、もちろん、先頭でした」
「すると、先頭の篠田光恵と、最後尾の湯浅祥子との間には、十人のメンバーがロープに繋がって歩いていた。こういうわけだなも?」
「はい。途中、リーダーの篠田光恵は、メンバーたちが無事か、どうか、気遣いながら、歩いていたと言っています」
「例えば、どんなふうに?」
「ときおり、彼女だけは、ロープを解いて、一時的に列をはなれ後戻りしたりして、メンバーたちが無事か、どうか、確かめながら、歩いていたんです」
「しんがりの湯浅祥子も、同じようなことをしていたんだろうか?」
「いいえ。彼女は、ずっとロープに繋がっていましたから、列をはなれることもなかったはずです」
「誰が、そう言っておるんだね?」
「全員が、口をそろえて、そう言ってます」
「ところが、実際には、湯浅祥子だけが、列からはなれたために遭難した。こういうことかね?」
「自分の意思で列からはなれたとは思えませんから、何かの原因で、そうなったんでしょうけど……とにかく、一行が旅館へ辿り着いたとき、しんがりの湯浅祥子だけがいなくなっていたというのが真相です」
「ロープは、どうなっていた? 湯浅祥子の体に結びつけられたロープだわね」
「それがですね。不思議なことに、いつの間にか、解けてしまっていたんです」
「妙な話だなも。なぜ、解けたんだろう?」
「原因はわかりません。いろいろ調べてみましたが、結論は出ませんでした」
「ロープが切られていたなんてことは?」
「いいえ。そういう形跡はありませんでした。いつの間にか、ロープがほどけていたとしか、言いようがないんです」
「誰一人として、そのことに気づかなかったのかね? 旅館へ辿り着くまでは……」
「そうなんです」
「湯浅祥子のすぐ前を歩いていたのは?」
「水橋澄江という女子大生です。彼女も、冬山登山の経験者なんですのよ」
「経験者を列の後ろのほうへ配置しておったのか?」
「一応はね。この点でも、リーダーの篠田光恵の措置に遺漏はなかったんです」
「水橋とかいう、その女子大生は、どう言っておるんだ? 湯浅祥子がいなくなったことについて……」
「全然、気づいていないんです」
「ちと妙だとは思わないかね? 自分の後ろを歩いていた湯浅祥子がいなくなっておるのに、旅館へ着くまで、全然、知らなかったなんて……」
「何しろ、猛烈な吹雪でしたから、自分のことで精いっぱいだったと彼女は言うんです。考えてみれば、無理もありませんわ。そういう状況なら……」
「待ちなよ。結論を急いではならん。ええかね? まず、聞きたいのはよぉ。水橋という女子大生と、最後尾の湯浅祥子との距離は?」
「せいぜい、一メートル半か、二メートルくらいです」
「それならばよぉ。最後尾の湯浅祥子が転倒したとか、ロープが解けたとかすれば、その直前を歩いていた女子大生にはわかったんじゃないのかね?」
「それが、わからなかったと言うんです。何しろ、視界が零で、前も後ろも見えないくらいの悪天候でしたから……」
「そうかもしれんが……しかし、ロープが解けておったら、少なくとも、その直前を歩いておった女子大生にはわかったと思うんだが、どうだろう?」
「それが、わからなかったと言うんです……仕方ありませんわ。彼女の弁解を覆すような情報もありませんから……」
「解けておったというロープの端をチェックしたかね?」
「しました。刃物で切断したような切り口ではなく、ただ、自然にロープが解けたとしか、言いようのない状態でした」
「そうなるとよぉ。女子大生は、一応、シロとみなけりゃならんな。疑うのは、筋違いだわね」
「でもね、検事さん。ちょっと気になることを聞き込んできましたわよ」
「気になることって……女子大生のことかね?」
「というより、湯浅辰夫のことなんです。いまじゃ、彼は、名実ともに株式会社湯浅製菓のナンバーワンですわね」
「そのとおり。父親の湯浅鶴次郎が亡くなったんだからよぉ。それが、どうかしたのかね?」
「その辰夫が、いまだに独身だと聞いたもんですから……」
「社長が独身なら、何か、まずいことでも?」
「いえ、そういうんじゃなくて……確かに、彼は当年三十一歳ですから、独身でも、さほど不思議じゃないんですが……でも、好きな女性の一人や二人、どこかにいてもいいんじゃないかと思って……」
「そりゃそうだろうな。何しろ、湯浅家の嫡男だからよぉ。見合いの話もあるだろうし……」
「引く手あまたというところじゃないでしょうか?」
「まあな」
「ところがですよ。彼に限って、浮いた話が全然ないんです。いえ、聞き込みが不充分なせいかもしれませんけど……とにかく、目下のところ、辰夫は身持ちが固く、特定の女性はいないらしいというのが、大方の観測なんです」
「おみやぁさんには、そのことが気になるらしいなも」
「はい。と言いますのは、山岳写真家の篠田光恵のことがあるからです」
「いったい、何の話をしとるんだね? 篠田光恵と、辰夫とができておるとでも? つまり、二人の間にややこしい関係があると?」
「いいえ、ネタを掴んでいるわけじゃないんですが……もしもですよ。二人がそういう間柄だったらと……そう思って……」
「それは、おみやぁさんの想像だなも」
「もちろん、証拠があるわけじゃないんです。ですが、調べてみる価値がありそうな気がしますわ」
「うむ。飛躍した推理には違いないがよぉ。捜査してみるに越したことはないわね」
「これで決まりました。わたし、検事さんのご意見が聞きたかったんです」
「わしが反対するとでも?」
「そうじゃないですけど……無闇に人を疑うのは、考えものだなんて……そんなふうにおっしゃられると、わたしとしては、やりにくくなりますから。でも、これで安心して捜査に着手できますわ」
「言っておくが、あくまでも、篠田光恵や湯浅辰夫の評判にかかわるような捜査は差し控えろよ」
「充分に承知しています。人権問題には、配慮を怠らないつもりです」
「うむ。おみやぁさんとしてはよぉ。祥子は遭難したのではなく、あくまでも、計画的に殺害された。そういう疑惑がどうしても、頭から消えないみたいだなも」
「そうなんです。考えてもみてください。冬山登山の経験者がですよ。上高地の田代池から大正池付近の旅館へ帰る途中に遭難したなんて……信じられませんわ。だって、常識から考えて、あり得ないことですもの」
「その点で、一つ聞き落としたことがある。祥子の死体は司法解剖に付されたわけだが、結論はどうだった?」
「凍死ですわ。田代池から大正池へ行くルートの林のなかで死体が発見されています。事件のあった翌々日にね」
「発見時の死体の状況は、どうだった? 外傷のようなものはなかったかね?」
「外傷は、まったく見られないという鑑定結果が出ていますから、その点だけから考えると、事故死とみなければなりませんわね」
「だが、事件当時の状況を踏まえて考えると、もう一つ、腑に落ちないことがある。こういうわけだなも?」
「そうなんです。何しろ、祥子は冬山登山のベテランだというんですから……それに、辰夫ですけど、彼が湯浅家の財産を一人占めにする結果になっていますものね」
「うむ。父親の湯浅鶴次郎が死んだうえ、妹の祥子も遭難した。残るのは、長女の真奈美一人になった?」
「はい。その真奈美は、記憶喪失の男と一緒に駆け落ちしているんです。辰夫にしてみれば、邪魔者が次々と消えていくわけですから、きわめて、都合のよい状況が生まれつつあるわけでしょう?」
「それには違いないが……真奈美は死んだわけじゃない。辰夫の目の前から消えただけなんだから……」
「そりゃそうですけど……そのうちに何が起こるか、知れたもんじゃありませんわよ」
「殺されるとでも?」
「何しろ、失踪中ですから……」
「しかし、わしとしては、ライバル会社の総帥、末永喜造とその一族に疑惑の目をむけたいところだなも。末永の一族の中からは、誰一人として事件の犠牲者が出ておらんのだからよぉ」
「あくまでもオーソドックスな考え方ですわね。検事さんのは……」
「いけないかね?」
「間違いだとは言ってません。いずれにしても、証拠はないんですから……検事さんのお考えが正しいか、それとも、わたしの飛躍した想像どおりになるか、これは一つの賭けですわ」
そう言った行天燎子の美貌に、自信ありげな微笑が広がった。
そうこうするうちに、行天燎子警部補の〃飛躍した想像〃を裏付けるような事件が起こった。
失踪中の真奈美が誘拐されたのである。
しかも、そのことを知らせてきたのは、ほかならぬ湯浅家の長男辰夫であった。
辰夫については、これまでに、数回に及んで出頭を求めていたのに、そのつど、出張であるとか、日程の調整がつかないとか言って、断わられてばかりいた赤かぶ検事であった。
その辰夫が、突如として、自分のほうから、出頭してきたかと思うと、赤かぶ検事の執務室へ入ってくるなり、縋りつかんばかりの態度で哀願したのである。
これには、さすがの赤かぶ検事も面食らった。
辰夫は、開口一番、小さく叫ぶように、こう言ったのだ。
「検事さん!……お願いです。妹の真奈美を……救ってやってください。これまでの失礼は、重ね重ね、お詫びします……」
そう言ったかと思うと、辰夫は、執務室の絨毯の上に土下座して、赤かぶ検事に向かって平伏した。
「おみやぁさん。いったい、どうしたんだね?……ここは、お白洲ではにやぁでよぉ。頭をあげなよ」
何百年も前の江戸時代にタイムスリップしたみたいな錯覚に赤かぶ検事はとらわれながら、辰夫を見下ろしていた。
このときには、まだ、失踪中の真奈美の身のうえに異変が起こっているとは、もちろん、赤かぶ検事としても知るよしもなかった。
そのことを知ったのは、辰夫がしどろもどろになりながら、こう言ったからだ。
「申しわけありません。取り乱したりして……しかし、妹の真奈美が誘拐されたんです。犯人から、電話がありまして……」
「真奈美さんが?……彼女は行方不明じゃなかったのか? 末永家の長男の秀男と駆け落ちしてよぉ。しかし、いまの話だと犯人がどうだとか……出し抜けにそんなことを言われても、わしにはさっぱり理解できんでいかんわね。とにかく、落ち着きなよぉ。そこの椅子にでも座ったらどうだ?」
赤かぶ検事は、目を白黒させながら、辰夫を眺めていた。
「はい。ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えまして……」
そう言って、辰夫は気を取り直したように、赤かぶ検事のデスクの傍の椅子に腰を下ろし、気持ちを鎮めようとするのか、しばらくの間、呼吸を整えていたが、やがて、顔をあげると、
「申しわけありません。順を追ってお話ししなければなりませんでした。実を言いますと、真奈美が名古屋にいたなんて、わたしも知らなかったんです。母が自分一人の胸におさめていたものですから……」
「名古屋におったのかね? 真奈美さんはよぉ」
「はい。母の実家に身を寄せていたんです」
「待ちなよ。おみやぁさんが、母と言っておるのは、未亡人の藤代さんのことだなも? わしは、まだ、お目にかかったことはないが……」
「さようです。真奈美は、秀男さんと一緒に飛騨金山の旅館を出たあと、母の実家がある愛知県の犬山で暮らしていたんです」
「藤代さんの実家に身を寄せていたのか?」
「いいえ。実家ではなく、その近くのマンションを借りて、秀男さんと……」
「水入らずの生活をしていた。こういうことかね?」
「そのようです。わたしも、母から聞いて初めて知ったようなわけでして……」
「それじゃ、真奈美さんはよぉ。秀男くんと駆け落ちしてから以後も、藤代さんとだけは連絡をとっておったのか?」
「お察しのとおりです、検事さん。母は、亡くなった親父やわたしに内緒で、真奈美を陰で援助もしていたようです」
「なるほど。なんと言っても母と娘の間柄なんだからよぉ。無理もないわね」
「わたしも、いまとなっては、母を非難する気持ちは毛頭ありません。ただ、親父への手前もありまして……親父は、真奈美と秀男くんの結婚は、絶対に許せないと……そりゃもう、たいへんな剣幕で……」
「うむ。末永家は、おみやぁさんたち一族にとっては、宿敵みたいなもんだからよぉ」
「いいえ。それは親父の考え方です。わたし自身は決して、末永喜造さんを憎んではいませんし、末永家とも仲よくやっていくことができればいいのにと、密かに願ってはいたんですが……何しろ、親父は、あのとおり、昔気質の人間ですから……わたしも、何度か、親父を説得してみましたが、やはり、だめでした」
「何をどのように説得したんだね?」
「秀男くんとの結婚を許してやってくれって……」
「ほう。すると、おみやぁさんとしては、あの二人を結婚させてやったらどうかと……」
「はい。そんなふうに親父を説得したんですが、頑として首を縦に振らなかったんです」
「おみやぁさん自身は、どうなんだね? 二人の結婚について……」
「親父の気持ちもわかるんです。両家はライバル関係にあるわけですから……何よりも、末永喜造さんは、もともと、湯浅製菓の重役だった人です。その人が湯浅製菓を辞めたあと、よりによって、この信州の土地で、わたしたちの向こうを張って、堂々と同じ商売をやり始めたんですから、親父が頭にくるのも当然です」
「うむ。親父の気持ちもわかると、おみやぁさんが言ったのは、そういう意味だなも」
「はい。ですから、わたしとしても、できるものなら、二人の結婚は避けるに越したことはないと思ってはいたんです。その一方では、真奈美があれだけ切実に秀男くんのことを想いつづけているんですから……そのことを考えると……」
「うむ。できるものなら、真奈美さんの想いをもかなえてやりたい?」
「そうなんです。結局、わたしとしては、親父と真奈美の板挟みになって……」
「悩んでいたわけだなも」
「はい。ですが、やはり、親父には逆らえなかったんです」
「うむ。そんなことから、母親の藤代さんはよぉ、おみやぁさんに対しても、内緒で、真奈美さんたちを援助していた?」
「そうです。金を送ってやったり、名古屋の実家が経営するマンションを世話してやったり……裏から、あの二人を支援していたんです」
「それじゃ、犬山のマンションというのは、藤代さんの実家の所有なんだな」
「はい。真奈美たち二人が飛騨金山の旅館を出なければならなくなったとき、たまたま、そのマンションに空部屋があると聞いて、住まわせてもらうことにしたと母は言うんです」
「なるほど。ところで、おみやぁさんが、そのことを知ったのは、いつのことだね?」
「昨夜、事件があった直後のことでして……それまで、母はわたしにも秘密にしてたんですよ。自分が独断で勝手なことをしたと思われたくなかったからでしょう」
「昨夜の事件と言うと?」
「あれは、午後八時ごろではなかったでしょうか。たまたま、わたしが電話をとったんです」
「ちょっと聞くがよぉ。その電話は、会社の電話かね? それとも……」
「自宅の電話でした。いつもなら、その時刻には、まだ、会社にいるんですが……このところ、ずっと残業つづきなもんで、疲れが出ましてね。いつもより早く帰宅したんです。それに、母が不在でしたから……」
「わかった。先をつづけてちょうよ」
「はい。受話器をあげると、ちょっと強持ての男の声で、『お前、誰だ?』なんて……だから、言ってやったんですよ。『自分の名前も言わずに、いきなり、お前、誰だなんて聞くのは失礼じゃないですか?』と……ほんとは、怒鳴りつけてやりたい気持ちでしたが、そうもいかずに……」
「うむ。相手の男は、どういう反応を見せたね?」
「『そんな偉そうな口をきいてると、いまに後悔するぜ』……そう言うんですよ。とうとう、頭にきましてね。『いったい、あんた、何者なんだ? 名乗ったらどうなんだ?』と……そんな調子で、やりあったんですが……相手は、絶対に名乗ろうとしないばかりか、『お前、長男の辰夫だろう。声でわかる』だなんて……」
「ほう。確かに、声でわかる。そう言ったんだなも」
「はい。しかし、わたしとしては、全然、その男に心当たりがないんです」
「わかった。それで、どうなった?」
「その男は、こんなふうに言ったんです。『真奈美を預かっている。いまのところは無事だが、お前の態度いかんによっては、命にかかわる重大事にもなりかねない』と……」
「脅しかね?」
「ドスのきいた声でしたからね。これは、てっきり脅迫だとピンときましたよ。ところが、次の段階で、男がこう言ったとき、さすがのわたしも、青くなりました」
「誘拐だとわかったからだな?」
「そうなんです、検事さん。男が言うには、『もし、真奈美を無事に家へ返してほしければ、金を用意しろ。三千万だ。お前のところなら、三千万なんて端金だろう。右から左に都合がつく』と……」
「身の代金誘拐だなも」
「はい。わたしは、目の前が真っ暗になりました」
「ショックだったろうな」
「そりゃそうです。こんなことは初めてですから……いや、そうも、たびたび、あっちゃ困りますが……とにかく、わたしは、こう言ってやりましたよ。『まず、何よりも、真奈美が無事か、どうか。せめて、真奈美の無事な声を聞かせてくれ』って……」
「当然のことだわね。それで、相手は何と言った?」
「こうです。『三千万円は現金で用意しろ。紙幣のナンバーを控えるのは勝手だ。そんなことで足がつくようなドジは踏まん。警察へ届け出てもかまわないぜ。現金の授受については、近いうちに、あらためて連絡する。言っておくが、おれたちを甘くみるなよ』なんて……ほかにも、脅し文句を言っていたようですが……おぼえていません。頭のなかがぼーっとして……」
「動転していたんだな?」
「はい。それから間もなく、母が帰宅したものですから……」
「待ちなよ。結局、真奈美さんの無事な声を聞くこともできないまま、電話が切れたのか?」
「はい。『近いうちに、連絡する』……そう言うなり、ぷつりと切ってしまったんです」
「連絡すると言ったんだな? 電話するとは言わずによぉ」
「確かな記憶はありませんが……連絡すると言ったように思いますが……いずれにしても、昨夜から今朝にかけて、ずっと犯人からの連絡を待っていたんですが、一向に音沙汰がありません。そこで、とりあえず、お届けにあがりました」
「ところで、通話の時間は、何分くらいだった?」
「そんなに長くはありませんでした。三分か、四分くらい……」
「やがて、母親の藤代さんが帰宅した。そのことを話してちょ」
「はい。わたしが、一部始終を話しますと、母は、おろおろして……手がつけられないくらい取り乱しましてね」
「だろうな。わが子が誘拐されたんだから……冷静になれるはずはない。男のおみやぁさんでも、動転したんだから……」
「はい。とにかく、真奈美が犬山のマンションにいるなんて、そのときになって、初めて、母が打ち明けたことでして……それまでは知らなかったんです」
「藤代さんはよぉ。おみやぁさんに対しても、真奈美さんの居所を隠していた。そうと知って、おみやぁさんは、腹が立ったろう?」
「そんなことなら、早く、打ち明けてくれたらよかったのにとは、母には言いましたが……何しろ、真奈美のことが心配で、それどころじゃなかったんです。そうこうするうちに、犬山の叔父から電話がかってきて……」
「叔父というと?」
「失礼しました。叔父というのは、母の弟でして、母の実家の主なんです」
「わかった。その叔父が何と言って、電話をかけてきたんだね?」
「実家にも、同じような電話があったと言うんです。犯人から……」
「ほう。実家からも身の代金をせしめようとしたのかね? 犯人はよぉ」
「いいえ。そうじゃなくて……『真奈美を預かった。湯浅家には、もう電話を入れてあるから、あらためて知らせる必要はない。すべては、湯浅家の問題であって、お前のところは、関係ない』なんて……」
「それだけかね? 犯人からの電話は……」
「はい。奇妙な電話ですよ。何のために犬山の叔父の家に電話をかけてきたのか、理解に苦しみます」
「そうだなも。実に奇妙な電話だ。それでよぉ、犯人からの電話を聞いたのは、叔父さんかね?」
「いいえ。お手伝いさんです。一カ月前に雇い入れたばかりのおばさんでしてね。わたしが思うには、もしかすると、そのお手伝いさんを誰かと間違えたのかもしれません。例えば、叔母とか……物言いからしても、そのおばさんは、ちょっと貫祿がありますから……」
「うむ。そのおばさんとやらの年齢は?」
「五十歳くらいでしょうか」
「なるほど。それでよぉ。真奈美さんが誘拐されたときの状況が、どんなふうだったか、その点は、どうだね?」
「これは、秀男くんや実家の叔母、そのお手伝いさんたちの話から、推測するよりほかないんですが……昨日、真奈美は、ひとりで買い物に出たそうですよ。近くのコンビニエンスストアへ……」
「昼間のことかね?」
「いいえ。夕刻になってからだと聞いています。時刻は、午後五時半くらいだったとか……」
「末永秀男は、どうしておったんだろう? そのとき……」
「マンションの自分の部屋で、ラジオの音楽番組を聴いていたそうです」
「それじゃ、真奈美が誘拐されたと思われる時点でも、秀男はマンションにおったわけかね?」
「そうです。秀男くんの知らないうちに事件が起こったんです」
「わかった。それで、どうなった?」
「秀男くんは、いつまでたっても、真奈美が帰宅しないものですから、心配になり、ひょっとしたら、叔母の家へでも立ち寄っているんじゃないかと思って、電話をかけてみたそうです」
「しかし、実家へは行っていない。そうと知って、慌てふためいた?」
「結果としては、そのとおりなんですが……秀男くんにしてみれば、真奈美が誘拐されたと知ったのは、犯人から例の奇妙な電話が実家へかかってきたからです」
「うむ。もう、そのときには、おみやぁさんの自宅へ犯人が身の代金を要求する電話をいれたあとだった。こういう経緯になるのかね?」
「そうです。わたしが、犯人からの電話のことで、母に一部始終を告げているときに、実家の叔父から、知らせてきたんですよ。『いま、変な電話がかかったが、どうなんだ?』と言って……」
「うむ。真奈美さんが誘拐されたと知って、末永秀男は、どういう反応を示した?」
「そりゃ、もう、狂ったように取り乱したと聞いています。そんなわけで、手がつけられなくなり、やむなく、末永家に連絡をとり、迎えにきてもらうことにしたんです」
「家へ返したわけか?」
「そうするよりほかに手の打ちようがなくて……末永家では、感謝していましたよ。行方不明だった長男が帰宅したんですから……喜ぶのもわかります」
「まあな。それにしても、真奈美さんが誘拐された結果、家出した秀男が戻ってきたというのも、何だか、変な話だなも。二人は、相思相愛の仲なのに……」
「そのとおりですが、先方では大喜びしていましたよ。主の末永喜造さんがわざわざ、わたしに電話をしてきましてね。お心遣いいただいて恐縮しますとか言って……」
「末永家に電話をしてやったのは、おみやぁさんかね?」
「そうです。わたしは、亡くなった親父と違って、末永喜造さんを憎んではいません。こう言っちゃなんですが、生前の親父には、頑ななところがありまして……末永喜造さんが、湯浅製菓の重役をしていたころから、すでに二人の間柄が険悪になっていたのは確かなんです」
「感情的な対立かね? それとも、ほかの原因で?」
「経営方針の食い違いとでも言いましょうか……」
「経営方針?……もちろん、湯浅製菓の経営方針をめぐる対立だなも?」
「もちろん、そうなんです。末永喜造さんにしてみれば、湯浅製菓のためを思えばこそ、親父と対立しても、あえて自説を曲げず、自分の考えを押し通そうとしたために、親父とうまくいかなくなり、最後には湯浅製菓をやめ、自分で商売をするようになったんじゃないでしょうかね」
「すると、どちらが悪いとか、悪くないとかの問題じゃなくてよぉ。単なる意見の食い違いから、やがて、感情的対立にまで発展した。こういうことかな?」
「そうだと思います。末永喜造さんは、決して、悪い人じゃありませんよ。親父は、そうは思わなかったようですが……」
「ついでにと言っては何だが……このさい、おみやぁさんに聞いておきたい。営業上、ライバル関係にある末永製菓と協力して、合弁会社を設立するつもりだというが、ほんとかね?」
「事実です。設立手続きも無事に終了し、あとは新会社の発足を待つばかりのところまで漕ぎつけましたよ」
「東京の望月弁護士とやらに、すべてをまかせたと言うが、どうなんだね?」
「望月弁護士には、法律上、いろいろと必要な事務処理をお願いしただけです。もともと、望月先生は、末永製菓の顧問弁護士なんですが、形式的な事務処理をお願いするだけですから、差し支えないと思いまして……」
「確かに、そうかもしれんな。会社の設立手続きなんて、誰がやっても同じなんだから……弁護士でなくともかまわない。司法書士とか、税理士でもやってくれるさ」
「はい。前もって、末永喜造と充分に話し合い、意見の調整をしてありましたから、案外、スムーズにことが運びました。世間では、わたしのことを悪く言う人もいるようですが、平気です」
「悪く言うとは?」
「わたしが、親父の意思に反して、ライバル会社と手を組もうとしているとか……そういうのは、親不孝の最たるものだなんて……しかし、古い頭の人たちにはわたしの考えが理解できないから、そんな悪口を言うんでしょうけど……」
「なるほど。おみやぁさんとしては、あくまでもビジネス本位にやっていく。ライバル企業であっても、協力すれば、思いがけない収穫があるかもしれない。それを期待して、合弁会社の設立を思いついたわけか?」
「そのとおりですよ、検事さん。さすが、ご理解が早い。いや、検事さんに支持していただいて、大いに励みになりました」
「言っておくが、わしは、一介の検事にすぎん。企業経営のことなんか、からっきしわからんでいかんわね」
「とんでもない。このさい、検事さんにも聞いていただきたいんですが……わたしの本心はこうなんですよ。ライバル企業なら、なおのこと、無用な対立関係を一日も早く解消して、協力しあったほうが、お互いの利益にもなるんです。そうでしょう? 相手が強力なライバルなら、なおのこと、敵にまわすのは損です。味方につけたほうが、よっぽど、得ですからね」
「ほう。まさに現代の経営哲学を地でいくような戦略だなも。実に見上げたものだ。おみやぁさんは、何をやらせても、きっと成功するわね。それだけの頭脳と根性があればよぉ。しかし、翻って考えてみると、おみやぁさん、ちと商売に首を突っ込みすぎてはおらんかね? のめり込むというか……そのために、躓くこともあるんだから……」
そう言うと、辰夫は、怪訝な表情を見せて、
「どういうことでしょうか? 検事さん。わたしのしていることが、どこか間違っていますでしょうか?」
「間違っておるとか、いないとか、そこまではわからん。最後のどたん場になってみなければよぉ」
「何のことでしょうか? 最後のどたん場とおっしゃるのは……検事さんに謎をかけられているような気がします」
「おみやぁさん。このさい、冷静に考えてみるんだな。ええかね? 今回の事件で、湯浅家は、三人目の犠牲者を出したことになる。わかるだろう? この意味が……」
「いや、ちょっと……」
辰夫は、不思議そうな顔をして、赤かぶ検事を見返す。
「まだ、わからんのかね。それじゃ、教えよう。三人目の犠牲者と言ったが、一人目は誰だったか?」
「わかりました。最初に、親父があのような事件に遭遇し、次いで、祥子が遭難しました。誘拐された真奈美が、三人目……こういう意味のことをおっしゃっているんですね?」
「そのとおり。真奈美さんの誘拐は、明らかに犯罪だ。身の代金誘拐罪だでよぉ。しかし、あとの二人の犠牲者は、一見したところ、偶発的な事故のように思えはするが、果たして、そう信じてええのか。どう思う? おみやぁさんとしては……」
「はい……そう言われてみれば……」
「だろうがね。ライバル企業の末永家からは、一人の犠牲者も出ておらん。そうだろう?」
「確かに……」
「だから言うんだ。大丈夫かって?……」
「何がですか?」
「ズバリ言ってやろう。ライバルを敵にまわすんじゃなくて、味方につける。この考え方は立派だ。経営者には必要な哲学でもある。しかしだよ。敵がどんなやつか、何を企んでおるか、そういう疑いを抱いたことがあるかね? おみやぁさんは、若い。それはいいことだ。だがよぉ。木を見て森を見ない。これが、おみやぁさんの命取りにならなければいいんだがな。わかるかね? いま、わしが言ったことの意味がよぉ」
そう言ってやると、湯浅辰夫は、視線を空間に泳がせながら、懸命に考え込んでいた。
湯浅真奈美の誘拐事件は、管轄の犬山警察署と松本警察署とが緊密な連携を保ちながら、捜査が開始された。
犯人からの電話を逆探知する態勢も整えられた。
その一方では、誘拐現場とみられる付近一帯の聞き込みも丹念に行なわれた。
その聞き込み班のリーダーとして、連日のように飛びまわっていた行天燎子警部補が、赤かぶ検事の執務室にあらわれ、経過を報告したのは、週末の午後のことだった。
「おみやぁさん。仕事のしすぎではにやぁがね。この事件はよぉ。長期戦になりそうだから、しょっぱなから張り切って動きまわると、体力が続かんでいかんわ」
赤かぶ検事が、そう言ってやると、行天燎子は、にんまりと微笑みながら、
「大丈夫です。こういうのには馴れていますから……そんなことより、犬山の真奈美たち二人のマンション付近をうろついていたヤクザ風の男を見たという聞き込みがあるんですのよ」
「ほう。そいつはめっけものだ。犯人割り出しに役立つかもしれん」
「検事さん。ヤクザ風の男を見たという目撃者は、一人じゃなくて、三人なんです」
「三人とは、なおのこと、心強いではにやぁがね?」
「はい。その三人は、真奈美たちのマンションの近くに住んでいる人たちでしてね。そのうちの二人までは、主婦ですが……あとの一人は、非番の警察官なんです」
「ほう。警察官が目撃者だったとは、実にラッキーだわね」
「その反面、犯人にとっては、アンラッキーですわね」
「まったくだ。その警察官はよぉ、犬山警察署の?」
「いいえ。岐阜県警です。パトカー勤務の巡査部長なんです。彼が言うには、どう見ても、ヤクザと思しき二人連れが、道路上に立ち、例のマンションの入口のあたりをじっと見ている姿を目撃したそうです。誰かがあらわれるのを待っているというか、監視しているというか……そんな感じだったと言ってます。時刻は、午後五時過ぎだと言いますから、ちょうど、真奈美が買い物に出かける前ですわね」
「うむ。そいつらの特徴は?」
「二人とも、頭髪はパンチパーマ……身のこなしとか、歩き方などからも、明らかにチンピラ風だったと彼は言うんです」
「なるほど」
「呼び止めて職務質問してみたいのは、やまやまでしたが、管轄外ですし、非番でもありますから、思い止まったと言ってます」
「その二人連れと、面識があったわけではないんだろう?」
「初めて見る顔だったと……ですけど、似顔絵の作成には、全面的に協力してくれました。その結果、大変な収穫がありましてね」
「と言うと?」
「わたし、その似顔絵を見て思わず、アッと叫んでしまいました」
「例の二人と似ていたからだなも?」
「はい。藪中幸治と荻山正俊にそっくりだったんですもの」
「そいつら二人はよぉ、末永喜造らの一行に加わって、飛騨金山の旅館をたずねた連中だろう」
「そうなんです。もしかすると、湯浅鶴次郎の乗用車を襲い、飛騨川へ転落させた犯人かもしれませんわね」
「うむ。いよいよ面白くなってきたな。それでよぉ。ほかの二人の目撃者のほうは、どうなんだね?」
「その人たちにも、藪中と荻山の顔写真を見せましたところ、あのときの二人に間違いないって……そう言ってくれました」
「あのときの二人とは?」
「やはり、真奈美たちのマンションの付近で、人相のよくない二人連れの男に出会ったときのことを言ってるんです。どことなしに、いやな感じだったと……」
「いやな感じとは、例えば、どんなふうに?」
「その主婦たちは、連れだって、買い物に出かけた帰途に、人相のよくない二人連れに出会ったわけですが……ちょっと肩が触れただけなのに、『おい! 気をつけろ』だなんて、ジロリと凄味のある目つきで睨まれ、ドキッとしたそうです。主婦の一人が、『すいません』と謝り、逃げるようにして帰宅したと言ってます」
「その連中が、藪中と荻山だったわけか?」
「はい」
「湯浅鶴次郎が転落死して以来、藪中たちの行方が知れなくなっておったんだろう?」
「そうなんです。まさか、あの連中が犬山にあらわれるとは……」
「意外だなも」
「はい」
「いまでも、連中は、末永喜造に雇われておるんだろうか?」
「そのへんの事情が、もう一つ、はっきりと掴みきれないんです」
「末永喜造は、どう言っておるんだ? その点について……」
「知らぬ存ぜぬの一点ばりだそうですわ。いまでもね」
「いまでも? それじゃ、どこかの警察署がやつを取り調べておるのか?」
「はい。諏訪警察署の行天巡査部長が、末永喜造の任意出頭を求め、取り調べています」
と彼女は、取り澄ました表情で言う。
「これは驚いた。行天巡査部長だなんて、いまさら、他人行儀な言い回しをすることもあるまい。わたしの主人とでも言えばええのによぉ」
「でも、公務上のことですから……」
彼女は、大まじめな顔をして、そう言ってから、ふと赤かぶ検事を見つめて、急に吹き出した。
われながら、可笑しくなってきたらしい。
「冗談は別にしてよぉ。取調べの状況は、どうなんだろう? やはり、否認かね?」
「そのようですわ。たぶん、今日あたりも、末永喜造を呼んで、取り調べていると思うんです」
「それじゃ、あとで諏訪警察署をたずねてみよう。裁判所の諏訪支部へ出かける用事があるから、そのついでにな」
「それじゃ、わたしが案内しますわ」
「すまんな」
と言って、赤かぶ検事は、ふと腕時計に視線を落として、
「こりゃいかん。もう、こんな時刻になっておったのか。ぐずぐずしとると、裁判所が閉まってしまうわね。早速、出かけよう」
赤かぶ検事は、立ち上がった。
「お供しますわ」
行天燎子も腰を浮かせて、
「それから、もう一つ、大切なことを検事さんに報告しておかなくてはなりません」
「何だね?」
「今朝、小室医師から電話がありましてね。おぼえていらっしゃいますわね? 小室医師のことは……」
「末永家の長男の秀男の主治医だった先生ではにやぁがね?」
「そうです」
「小室医師は、現在でも、秀男の治療を……」
「はい。小室医師は、その関係の臨床医としては、かなり有名らしいですわよ。そんなことから、父親の末永喜造のたっての希望で、小室医師に……」
「治療を依頼したわけか?」
「はい。末永喜造にしてみれば、何としてでも、わが子の記憶を回復させてやりたい。そう思うからこそ、小室医師に治療を頼むことにしたんでしょうね」
「そうかもしれんが、別の見方もできるわね」
「あら……別の見方と言いますと?」
行天燎子は、美しい眉を上げ、赤かぶ検事に試すような視線を投げかける。
赤かぶ検事の胸が騒いだ。
しかし、何食わぬ顔をして、赤かぶ検事は、
「これは、わしの単なる思いつきだがよぉ。長男の秀男が完全に記憶を取り戻したなら、父親の末永喜造にとっては、ちょっと不都合なことになるんじゃないかな?」
「まあ。なぜ、そんなふうにお考えになるんです?」
「なぜって、あらたまって聞かれると、返事に困るんだわね。ふとした思いつきだって、そう言ったろう?」
「いいですわ。おっしゃりたくないようですから……しつこく聞いたりはしません……」
「おや、怒ったのかね?」
「とんでもありません。怒ってなんかいませんわ」
「いや、その顔は怒った顔だわね」
「ねえ、検事さん。わたしのほうは、包み隠さずに、掴んだ情報のすべてをご報告申しあげているんですのよ。それなのに……」
「そいつは違う。わしが、先ほど、言ったことは、情報ではにやぁでよぉ。単なるわしの思いつきなんだから……そんなことより、ほかにも、まだ、わしに報告しておかなくてはならないことがあるんじゃないのかね?」
「どうして、そうなふうに?」
「どうしてって……主治医の小室医師はよぉ。秀男の記憶がどの程度、回復したか、おみやぁさんに話してくれたんだろう?」
「あら……どうして、ご存じなんですか? 小室医師に電話でもされたから?」
「いや、これも単なるわしの……」
「思いつきだと……そうおっしゃりたいんでしょう? いいですわよ。検事さんは、お惚けが得意なんだから……小室医師はですね。秀男の記憶が甦るまでには、まだ、時間がかかるだろうって……」
「そう言ったのか? 小室医師は……」
「はい。ですけど、記憶を失った原因については、ある程度見当がついてきたって……そうおっしゃっているんです」
「ほう。そりゃあ上出来だ。いったい、記憶喪失の原因は、何だね?」
「恐怖からだと……そうおっしゃっています」
「恐怖だって?……」
「はい。時期はわかりませんが、記憶を失う直前に、秀男は大変なショックを受けたらしいんです。恐怖のためのショックだそうです。秀男自身も、こう言ってると聞きました。誰か恐い人に追っかけられ、殺されそうになったとか……」
「うむ。その〃誰か〃というのが、問題だなも」
「そうなんです。自分を殺そうとしたのが、どんな人物だったか、それが思い出せないんです。残念ながら……」
「身近な人物だったとか……その程度のことも?」
「はい……時の経過を待つよりほかないって、小室医師は言ってますけど、わたしたちにしてみれば、一日も早く、秀男の記憶が甦ってくれるのを望むばかりですわ」
「そのとおりだわね」
赤かぶ検事は、溜息をもらした。
赤かぶ検事は、行天燎子警部補の案内で、諏訪警察署の刑事課をたずねた。
刑事課には、一号室から四号室まで、四つの取調室があるが、そのうちの四号室は、隣室からミラーを通して、取調室の様子が見聞できるようになっている。
末永喜造は、その四号室で、行天燎子の夫の行天巡査部長の取調べを受けていた。
「ほう。あれが末永喜造かね? 見るからに、ひとくせありそうな面構えの男だなも」
赤かぶ検事は、隣室のミラーを通して、四号室を覗き込みながら、呟く。
傍から行天燎子がコメントしてくれた。
「あれでいて、結構、従業員たちの人望を集めているそうですわよ。物わかりのいい社長だって……それに、こうして見たところでも、貫祿がありそうですし、いかにも太っ腹な感じですものね」
「太っ腹はええんだが、その腹の底で何を企んでおるか、それが知りたいもんだわね」
赤かぶ検事は、そんなふうに行天燎子と話しながら、取調べの模様を隣室から観察した。
狭い取調室の真ん中にスチール製のデスクが置かれ、デスクを挟んで末永喜造と行天珍男子とが向き合って座っていた。
奥の窓側に座っているのが末永喜造、その反対のドアに近いほうの椅子に腰をかけているのが、行天巡査部長である。
なぜ、末永喜造は、窓側に座らされているのか。
言うまでもなく、逃亡を防止するための措置であった。
末永喜造は、任意出頭を求められているにすぎず、逮捕されてはいない。
名目上も、容疑者ではなく、参考人である。
いや、単なる参考人ではなく、重要参考人であった。
重要参考人とは、捜査上、重要な事柄を知っている人物のことをいう。
重要参考人の中には、紙一重の差で、容疑者になりうる人物も含まれる。
いまや、末永喜造は、その類いの〃重要参考人〃であるとみられていた。
「末永さん。あんたね。藪中幸治と荻山正俊が、どこにいるか、知ってんでしょう? 隠し立てするのは、よしなさいよ」
いつもそうだが、行天巡査部長は、大きな声で、取調べの相手を怒鳴りつけたりはしない。
それが彼のやり方だった。
とは言うものの、相手に甘いわけではない。
じっくりと時間をかけ、じわじわと相手を責め立て、最後には、相手が根負けしてしまい、ふとしたはずみで、ぽつりと真相らしきものを相手が口にするまで待つ――これが、行天巡査部長のノウハウだった。
「どうなんだね? 末永さん。まだ、返事を聞かせてもらってないが……」
行天巡査部長は、デスクの上に肘をつき、目の前の末永喜造の顔を覗き込むような態度で言う。
一瞬、重い沈黙が落ちた。
末永喜造は口を固く閉ざしたままだ。
重苦しい睨み合いがつづく。
末永喜造にしてみれば、このさい、自分自身の微妙な立場を考えれば、極力、沈黙を守りとおすほうが利口だとでも思っているのかもしれない。
一方、行天巡査部長のほうも、末永喜造が口を開くまで、絶対に諦めないつもりなのだろう。
睨み合いが、五分ばかりつづいた。
末永喜造の分厚い唇が微かに動いたかと思うと、耳障りな濁声が洩れる。
「刑事さん。いい加減に家へ帰してくださいよ。ただでさえ忙しい体なんですから……困ります。こんなふうに毎日のように警察へ呼びつけられ、ああだろう、こうだろうなんて、責め立てられたんじゃ、仕事も何もできゃしませんよ。今日だって、大切な取引先と会う予定になっていたんですよ。それを断わって、出かけてきたんだから……」
末永喜造は、口先では、くどくど愚痴ってはいるが、その態度は、憎いくらい落ち着いていた。
「だから言ってるんだよ。末永さん。知っていることを包み隠さずに話してくれさえしたら、すぐにでも帰ってもらっていいんだから……」
「隠してなんかいませんよ。あの二人が、どこにいるか、ほんとに知らないんです。評判が悪いもんで、首にしてからというもの、全然、音信不通になっているんです」
「評判が悪いだって? いったい、何のことを言ってるんだ?」
「困りますね。刑事さん。そのことなら、もう話しましたよ」
「いつ? わたしは聞いてないよ」
「また、そんな……同じことを何度言わせりゃ気がすむんです? そういうのが、刑事さんの手の内なんですかね」
「それじゃ、話したくないんだな? それなら、それでいいんですよ。こっちにも考えがあるから……」
「話しますよ。まったく、もう……いいですか? 一昨日、お話ししたとおり、あの二人には、よくない噂がつきまとっていたからです」
「やつらがヤクザだってことは、最初から承知のうえで雇ったんだろう?」
「そのことも言いましたよ。ヤクザであっても、本人たちが足を洗って、更生したいと誓ったからには、面倒をみてやらなくてはなりません。そうでないと、いつまでたっても、世間からヤクザが消えない。そう思って……」
「その心掛けは、殊勝だよ。しかし、彼らをどのようにして更生させるか、そこを考えないとね。荒っぽい仕事に彼らを使ったりすると、ろくなことにはならない。評判が悪いから首にしたと言うが、そうなった原因は何だ?」
「そうなったとは、どういうことです? 刑事さん」
「言わずと知れたことさ。湯浅鶴次郎が飛騨川へ転落した事件に、やつらが関わっている可能性がある。今度の湯浅真奈美誘拐事件にしてみても、やつらの仕業とみられておるんだ。そんなわけで、やつらの評判は、確かに悪い。だけど、そういう汚ない仕事をさせたのは、いったい、どこの誰だ?」
「わたしじゃありませんよ、刑事さん。わたしは、関係ないんです。やつらを首にしてから以後、連中がどこで何をやらかしたか、わたしが知るわけもないでしょう」
「言ってくれるね。湯浅鶴次郎が転落死した事件はだね。連中がまだ、あんたに雇われている時期に起こっているんだよ。だから、自分は、関係ないなんて言えた義理じゃない。そうだろうがね?」
このように理詰めで追及されると、末永喜造としては、返す言葉に窮したのか、沈黙戦術に切り換えるのだから、始末におえない。
だが、行天巡査部長は、根気よく末永喜造を追及しつづける。
「末永さん。あんたね、やつらを首にしたと言ってるが、それは表向きのことであって、こっそり、裏から資金を出してやっているんじゃないのか? 居所だって知っているんだろう?」
「資金だなんて……何のための資金だと言うんですか?」
「言わずとも知れたことだ。汚ない仕事をやらせるための資金だよ」
「とんでもない。首にしたからには、一切、関係ないんです」
「そうもいかないよ。そもそも、やつらを雇ったのは、誰の差し金か? こっちには、見当がついてんだよ」
末永喜造の返事はない。
ぶすっとして、あらぬところへ視線を向けたまま、腕を組んでいる。
実に、ふてぶてしい態度である。
行天巡査部長は言った。
「いいかね? そっちが黙秘するからには、仕方ない。ズバリ言ってやろう。倉本和彦の紹介で、やつらを雇ったんだろう? 倉本は、名うての悪徳警官だったから、それくらいのことはやりかねない。それにヤクザ連中とも繋がりがあったんだから……どうなんだね? ほんとのことを話す気になったかね?」
末永喜造は答えない。
逮捕されてはいないんだから、黙っていたほうが得策だ。
警察へ呼ばれ、質問攻めに直面した場合、自分がクロであろうが、シロであろうが、黙っているに越したことはない。
そういうわけで、「沈黙は金なり」の戦術に固執する手合いが目立つようになった。
これも時代の流れかもしれないと、赤かぶ検事は、ときとして思うことがある。
いまの末永喜造の態度を見ていて、ふと、赤かぶ検事は、そのことを思い出していた。
行天巡査部長は、言った。
「末永さん。倉本和彦はだね。文化文政風俗絵巻行列のとき、浪人姿に扮装して出演した男なんだ。知っているだろう? 少なくとも、この程度のことならね?」
「話には聞いていましたよ」
「それはないだろう? 倉本和彦がだよ、ちょくちょく末永製菓をたずねていたのは、事実だ。ちゃんとネタがあがってんだから……認めたらどうなんだね?」
「いいえ。わたしは、そんな男とは会っていません。そういうややこしい連中を身辺に近づけたりはしません」
「すると、あんたの論理に従えばだよ。藪中や荻山は、ややこしい連中じゃないんだな」
予想されたことだが、末永喜造は、この質問には、当然に黙秘する。
しかし、行天巡査部長は怯まない。
「倉本和彦は、妻籠宿の『桝形』の上で、後ろから、追ってきた虚無僧姿の男を斬りつけ、殺害した。この事件は知っているよね?」
「知っています。新聞にも出ていましたから……」
「虚無僧姿の男は、砂田修司。この男のことは?」
「会ったことはありませんでした」
「それ、どういう意味だね? 会ったことはないというのは……」
「あの事件を報道したテレビや新聞で名前を知っただけだと……そう言ったんですよ」
「それじゃ、湯浅家の長女の真奈美が行列の最中に落馬した。なぜ、こういうことになったか? あんた、何か知っているんだろう?」
「あのような事件には関係ありませんよ、わたしは……もう、これくらいで、帰してくれませんか……確かに、真奈美さんには気の毒な結果になりました。真奈美さんが誘拐された結果として、うちの秀男がわたしたちのもとへ戻ってきたんですから……だからと言って、わたしを疑うなんて……迷惑な話です。言っときますが、もう今日限り、警察の出頭要請には応じませんから……どうしても、出頭させるとおっしゃるなら、弁護士同伴でなら、考えないこともありませんがね」
「弁護士? 東京の望月弁護士のことを言っているのかね?」
「いいえ。あの弁護士は、商法が専門です。今度は、刑事事件を専門にしている有名な弁護士を頼むつもりでいるんです」
そう言ったかと思うと、末永喜造は、おもむろに立ち上がった。
と見ると、デスクを回り込み、ドアのほうへ歩み寄って、
「失礼します。これで、打ち切りにしていただきますから……」
一礼してから、末永喜造は、ドアを開け、廊下へ出てしまった。
任意出頭なのだから、末永喜造としては、いつなりとも、帰宅できるわけだ。
「これじゃ、まったく、歯がたたんでいかんわね」
赤かぶ検事は、傍にいる行天燎子を振り向きながら、顔をしかめる。
「仕方ないですわね。こっちは、末永喜造を逮捕するだけのネタを掴んでいないんですもの」
「うむ。もしかすると、末永喜造はシロかもしれんでよぉ。いや、真っ白じゃないとしても……そうだな。灰色ってところかな。これは、わしの勘にすぎず、確信はないんだが、何だか、そんな気がする」
赤かぶ検事は、独りごちた。
第六章 大いなる企み
その後、捜査が一向に進展せず、膠着状態に陥った。
真奈美の行方も杳として知れず、犯人からの身の代金要求の電話も掛かってこない。
察するところ、電話を逆探知され、そこから身元が割れるのを警戒して、慎重にかまえているものと見える。
そんなときに、思いがけずも、意外な情報が提供された。
その日の午後、赤かぶ検事は、執務室に閉じこもったたまま、別件の事件記録と首っ引きで時間を過ごした。
翌日に予定されている公判の準備に追われていたからだ。
ふと気がついたときには、もう窓の外は、すっかり暮れなずんでいた。
(今夜は、残業になりそうだなも)
赤かぶ検事は、胸のなかで呟きながら、お茶でもいれようと思って、腰を浮かせたとき、電話が鳴った。
受話器をあげると、行天燎子警部補の気忙しげな声がした。
「検事さん。いまお忙しいですか? 先に、それを聞いておきたくて……」
「そうだなも。暇を持てあましているなんてことはにやぁでよぉ。いったい、何のことだ?」
「実を言いますと、いま、湯浅藤代が松本警察署へ来ているんです」
「何だと?……湯浅鶴次郎の未亡人の藤代のことを言っておるのか?」
「はい。わたしが帰宅する直前に、ひょっこり、署をたずねてきましてね。折り入って話があるとか言って……」
「話を聞いてやったのか?」
「はい。ずいぶん、思い詰めたような感じでしたから、気になりましてね」
「それで、どうだった?」
「驚きましたわ。意外なことばかりで……いいえ、わたしにしてみれば、ある程度、想像がついていたことでもあるんですが……検事さんには、たぶん、意外なことばかりじゃないかと思うものですから、よろしければ、これから本人をそちらへ連れていきたいんです。藤代から直接、話をお聞きになったほうがいいだろうと思うものですから……」
「ぜひ、連れてきてちょ。それにしても、気になることを言ってくれるなも」
「どうしてですか?」
「事件に対する、おみやぁさんの見込みがズバリ的中した反面、わしが見当違いをしておったかのような口振りではにやぁがね。ほんとに、そうなのかね?」
「そんな大袈裟なことじゃありません。ある程度、わたしの見込みが当たったという程度なんですから……それじゃ、これから、そちらへうかがいますわ」
「それはええんだが、藤代自身は、どうなんだ? わしのところへ来てもいいと言っとるのか? それとも、来たくもないのに……」
「いいえ。彼女は、ぜひ、検事さんにも聞いていただきたいと、そう言ってるんですのよ。だから……」
「わかった。それならいい。待っておるでよぉ」
そう言って、赤かぶ検事が、電話を切ってから、二十分もたたないうちに、行天燎子にともなわれて、五十代半ばの和服の女が姿を見せた。
それが藤代であった。
(やはり、あのときの……)
赤かぶ検事は、文化文政風俗絵巻行列の日のことを思いだした。
花嫁姿の真奈美が落馬して、大怪我をしたために、担架に載せられ、救急車で運ばれていくとき、娘に付き添っていた母親ふうの女が、やはり、藤代だったのだ。
ちらっと垣間見ただけなのに、どういうわけか、そのときの母親の印象が、いまも、生々しく、赤かぶ検事の記憶の襞に刻みこまれていた。
赤かぶ検事は、ひととおりの挨拶がすむと、藤代に向かって、
「さあ。そこに座って楽にしてちょうよ。いま、茶を持ってこさせるからよぉ」
そう言って、庁内電話の受話器をあげ、宿直の検察事務官に、そのむねを告げてから、あらためて、藤代を眺めやって、
「せっかく来てくれたんだからよぉ。何もかも包み隠さずに話してもらいたい。おみやぁさんとしても、よくよく考えたすえ、思いあまって、警察へ出かけたんだろうからよぉ」
「そのとおりでございます、検事さん。湯浅家の恥をさらすことにもなりますから、どうしたものかと、悩みに悩んだうえでのことでして……」
このとき、行天燎子が、傍から身を乗り出すようにして、藤代の横顔を覗き込みながら、口を添える。
「ねえ。藤代さん。わたしに打ち明けてくださったときのように、率直にお話しになれば?」
「そのとおりだわね。検事であろうが、刑事であろうが、似たようなもんだ。検事が特別な人間であるわけでもなし。そうだろう?」
「は、はい……それじゃ、お言葉に甘えまして……」
藤代は、俯き加減になり、逡巡していたが、やがて、顔をあげると、深刻に眉根を寄せながら、口を開く。
「ほかでもありません。実を申しますと、長男の辰夫のことなんです」
「ほう。辰夫さんが、どうだと言うんだね?」
「辰夫は、わたしがお腹を痛めて生んだ子ではございません。亡くなりました主人の子でもないのでして……」
「おみやぁさんたち夫婦とは、血のつながりのない男の子というわけだなも。いや、そのような噂は聞いてはおったんだが、やはり……」
「はい。亡くなりました主人の兄の子でございます。仙太郎と申しまして、若いころの過ちで、下呂温泉の芸者に生ませた男の子なんです。その芸者は、本名を平井みさ江と言いまして、辰夫が物心ついたときには、もう他界しておりました。一方、わたしとしてみれば義理の兄にあたる仙太郎も、それより前に車の事故で亡くなっておりました」
「車の事故と言うと?」
「仙太郎は、家業をそっちのけにして、あちこち遊び歩いていた道楽者でございました。東名高速で外車をふっ飛ばしたさい、大型トラックに激突して……」
「事故死したというわけかね?」
「はい。残された辰夫をわたしども夫婦が、ずっと育ててまいりました。しかし、それは、やはり、なさぬ仲のことでございますから……」
「ちょっと聞くがよぉ。辰夫さんはよぉ。おみやぁさんたち夫婦の子として、戸籍に登載されておるんだろう?」
「はい。そのころ、義兄は独身でしたが、芸者の平井みさ江と結婚する気なんか、まったく、ございませんでして……何しろ、義兄は遊び人でしてね。あちこちに女がいたようですから……」
「わしたちが小耳にはさんだ噂によると、辰夫さんはだな、おみやぁさんの義兄が、さる呑み屋の女に生ませた隠し子だとか……」
「ほかにも、いろいろ言われておりましてね。世間の噂なんて、無責任なものですから……」
「なるほど。ところでよぉ。平井とかいう芸者は、どうだったんだ? 辰夫さんを引き取る気はなかったのかね?」
「引き取りたくても、できなかったんです。と申しますのは、平井みさ江には、れっきとした旦那がおりまして、月々、お手当をもらっていた手前もあって……」
「旦那がいたのか?」
「はい。旦那は名古屋の地方財閥でしたが、平井みさ江に心底惚れていたこともあって、浮気が発覚しても、別れようとしませんでした。そのかわり、平井みさ江に因果を含め、生まれた赤ちゃんを里子に出すとかして、始末するなら、これまでどおり、手当を支給してやるし、浮気は水に流そうと……」
「平井という芸者は、お手当欲しさに、旦那の条件を呑んだわけか?」
「はい。わが子よりも、お金のほうが平井みさ江には大切だったようです」
「うむ。酷い母親もいたもんだ」
「同じことは、義兄についても言えます。その当時、わたしたち夫婦には子がなく、あまりにも可哀相だというので、赤ちゃんを引き取り、育てることにいたしました」
「戸籍のほうは、どうしたね?」
「わたしたちの子として、育ててやるわけですから、将来、辰夫が自分の出生の秘密を知るようなことがあっては、可哀相だというので、ある人に頼んで、戸籍を……」
「うむ。医師が虚偽の出生証明書を作成したわけだな? ある人と言うのは、その医師のことだろう?」
「お察しのとおりでございます。できるものなら、その方のお名前は、ご勘弁を……」
「ええとも。もはや、時効にかかっておることでもあるしよぉ。ところで、その辰夫がどうしたというんだね? 詳しいことは、のちほど、聞かせてもらうとしてよぉ。とりあえず、事件との関係を話してちょうよ。そのほうが先決だわね」
「はい。申しあげにくいことですが……わたしとしては、最近の辰夫の行動には、納得のいかないことが多うございまして……」
「うむ。例えば、ライバル会社の末永製菓との合弁事業を企図するとか、そういうことかね?」
「それもございますが……むしろ、娘たちが次々と死んだり、誘拐されたり……翻って考えてみますと、主人が転落死した事件にしても、ちょっと不思議な気がいたしまして……」
「何だって……すると、これらの一連の事件に辰夫さんが関与しているとでも?」
赤かぶ検事は、目を剥いた。
傍に居合わせた行天燎子は、ちらっと赤かぶ検事を見つめながら、微かに頷く。
藤代は言った。
「検事さん。辰夫を疑うのは、わたしとても忍び難いことではありますが……しかし、こうなってきますと……」
「おみやぁさん。興奮しないで、順序を追って話してちょうよ」
「申しわけありません。最初に、わたしが疑問を抱いたのは、次女の祥子が遭難したときのことです」
「あの事件が、どうだというんだね?」
「祥子は、冬山登山の経験もあり、冬の上高地へ出かけたのは、今回が初めてのことじゃなかったんです」
「なるほど」
「わたしには、どうしても、あれが遭難だったとは思えず、不思議でなりませんでした。リーダーの篠田光恵さんにしてみても……」
「女性山岳写真家のことだなも」
「はい。あの方が、辰夫とも親しい間柄だってことは知っておりました。しかし、まさか、二人が深い仲だったとは……」
「何だって?……二人はできておったのか?」
「そのようです。私立探偵に依頼して、調べてもらいましたところ、いろいろと証拠が出てまいりました。辰夫は、しばしば東京なんかへ出張いたしますが、そういうとき、たいてい、篠田光恵さんと東京のホテルで落ち合うこともわかってまいりましてね」
「なんと……それじゃ、おみやぁさんとしては、あの遭難は、事故ではなくて、篠田光恵とやらいうリーダーがよぉ。何か知らないが、小細工を弄して、祥子さんを……うむ。調べてみる価値がありそうだなも」
「はい。なにぶんにもよろしくお願いいたします。湯浅家の恥をさらす結果になるかもしれませんが、このさい、やむをえないことだと決心いたしました。そればかりか、今度の誘拐事件にしてみても、考えてみますと、不思議なところがいろいろこざいますから……」
「と言うと?」
「例えば、自宅に犯人から電話があったと辰夫は言うんですが……あれだって、わたしの留守中のことですし……電話を受けたのも辰夫なんですから……」
「狂言かもしれない。そう言うんだなも」
「証拠はありませんが……その気になれば、辰夫にはできたはずです。犬山にある真奈美の叔父の家へも犯人らしい人物から電話がかかったというんですが、これだって、誰かにかけさせたのかもしれないんです。だいいち、そのさい、電話をとったのは、お手伝いのおばさんなんですから、これもあてにはなりません」
「なるほどな。おみやぁさんが疑問をもつのもわかるわね。例えばだね、今回の誘拐事件について言えば、その後、犯人から一向に連絡がない。これもおかしな話だわね」
「はい。わたしも同じ疑問を抱いておりまして……いいえ、辰夫とわたしがなさぬ仲だから、疑ってかかるんじゃないかと誤解されたくないものですから……今日まで誰にも言わずに自分の胸のなかに収めておりましたが、どうしても我慢ができなくなりまして……」
「わかるわね。おみやぁさんにしてみれば、辛い立場だよな。辰夫さんとの間柄をいろいろと取り沙汰されたんではかなわない。そうだろう? 痛くもない腹をさぐられたりしてよぉ」
「お察しのとおりでございます。わたしが、辰夫のことで、警察や検察庁へ出かけたと知ったなら、たぶん、世間の人たちは、こう申しますでしょうね。わたしがアカの他人の辰夫に湯浅家の家業を継がせたくないからだって……でも、それこそ、誤解です。亡くなった主人にしても、辰夫に事業を継がせるつもりでいたんですから……それなのに、辰夫は主人の気持ちも知らずに……」
「待ちなよ。おみやぁさんは、ご主人を転落死させたのも、辰夫さんの仕業かもしれないと……そんなふうに考えておるのかね?」
「あり得ない話ではないと思います。と申しますのは、例の合弁会社の設立についても、主人は真っ向から反対しておりました。それにもかかわらず、辰夫は一方的に話を進めようとしていたみたいですから……いいえ、合弁会社の件だけではなく、会社の経営方針をめぐって、最近、主人と辰夫の意見が衝突することが多くなっておりましてね。わたしとしても、二人が言葉激しく言い合っているのを傍から、はらはらしながら見守っていたことが、よくございましたから……」
「うむ。ところで、祥子さんのことだがよぉ。彼女から事情を聞いたときのことだが、砂田修司と婚約しておったはずなのに、端から否定した。なぜ、嘘をついたんだろう?」
「申しわけごさいません。祥子は、ほんとのところは、砂田修司さんを嫌っていたのでございます。あの人のことなんか、口に出すのも汚らわしいって……そう言いましてね。しかし、父親への手前もあって、一時は、仕方なく結婚するつもりにはなっていたようですが……やはり、砂田さんが気にいらなくて……そんなことから、検事さんにも、婚約なんかしていませんなんて申しましたのでしょう。それだけのことだと思うんですが……」
このとき、赤かぶ検事のデスクの電話が鳴った。
受話器を上げると、松本警察署から緊急連絡だった。
「おみやぁさんに電話だ。隣りの部屋で受話器をとったらどうだね? そのほうがええみたいだわね」
そう言ってやると、行天燎子は、赤かぶ検事の意図を察したらしくて、こっくりと頷き返しながら、隣室へ消えた。
捜査上の緊急連絡なら、部外者の藤代に電話の内容を察知されるのはまずい。
赤かぶ検事は、そう思ったのだが、しばらくして、執務室へ戻ってきた行天燎子は、ドアの入口のところで、赤かぶ検事を見つめながら、目顔でサインを送っている。
廊下へ出てもらいたいという意味らしい。
赤かぶ検事は、立ち上がり、執務室を出ると、待っていた行天燎子が口早に、こう言った。
「検事さん。いま、県警本部から連絡がありまして、真奈美が無事に保護されたそうですわ」
「ほんとか? そりゃよかった。早速、藤代に知らせてやってちょうよ」
「そうします。藤代さんにとっては、何よりの吉報でしょうから……」
「それでよぉ。保護された場所は?」
「白馬山麓のスキー場の近くですって……詳しい情報は、追って知らせてくるそうですわ。何でも、スキーの若者に助けられたとか……」
「ほう。いったい、どういう経緯なんだろう?」
「管轄の大町警察署からの報告によりますと、真奈美は、白馬村の古いペンションに監禁されていたらしいです。そのペンションは、経営者が倒産して以来、ずっと使用されておらず、廃屋になっていたそうです。とにかく、真奈美は、犯人たちの隙を見て、そこから脱出したというんです。それに気づいた犯人たち二人が彼女を追跡したそうですが……真奈美は懸命に逃げきり、スキー客たちが宿泊しているペンションへ飛び込み、無事に保護されたそうですわ。一応、医師の手当てを受けたんですが、たいした怪我はなく、かすり傷程度だとか……よかったですわ」
「まったくだわね。そいでよぉ。犯人どもは?」
「大町警察署が、真奈美の供述をもとにして、付近一帯を捜索中に、たまたまパトロール警官が、かねてより手配中の藪中幸治と荻山正俊らしい二人連れに出くわし、職務質問したうえ、本署へ同行を求めたんです。そして、真奈美に面通しさせたところ、思ったとおり、彼女をその古いペンションに監禁していた二人に間違いないことが判明しましたので、身の代金誘拐罪で逮捕したそうです。明日にでも、二人の身柄を松本警察署へ移送してくれるそうですわ」
「よかったわね。やつらを追及して、黒幕が誰か、泥を吐かせることだ。これで万事解決するだろう」
「そう願いたいものですわね。それじゃ、とりあえず、藤代に知らせてやりましょう。真奈美が無事に保護されたってことを……」
行天燎子は、足早に執務室へ入っていった。
藪中幸治と荻山正俊が逮捕され、松本警察署へ移送されてきたのをきっかけに、彼らの取調べが本格化して、真相の解明へ向けて飛躍的に捜査が進展した。
その結果、黒幕が何者であったかが判明し、逮捕に漕ぎつけた。
同時に、関係者らに対する裏付け捜査も順調に進んだ。
かくて、すべての捜査が完了した時点で、行天燎子警部補が一件書類をたずさえて、赤かぶ検事の執務室をたずね、一部始終を報告した。
「なんと意外だったなも。辰夫が怪しいとは、かねがね思ってはいたが、まさか、犯行の全容に深くかかわっておったとはよぉ」
一応の報告を聞き終わった赤かぶ検事は、驚いた顔をして、行天燎子警部補を見返した。
「順を追ってお話ししましょう、検事さん」
そう言って、彼女は、赤かぶ検事のデスクの上に積み上げた事件記録の中の一冊を手にとり、頁を繰りながら、
「黒幕の辰夫ですが、犯行の動機は、一口に申しますと、野望ですわね。何もかも、一人占めにしたいという欲望とでも言いますか……」
「なるほど。大いなる野望とでもいうのかな」
「そんなところです。犯行の根源は、ことごとに、そこから出ているんです。それは、結局、もとをただせば辰夫の生い立ちが関係していましてね」
「確かに、辰夫は不幸な生い立ちだよな。だからと言って、他人を踏み台にして……」
「いいえ。踏み台にしたというより、犠牲者が流した血を栄養にして、みずからの野望を実現しようと企んだ悪魔ですわ」
「その反面、辰夫は、絶えず恐怖に脅えておったのではにやぁがね。つまり、自分ひとりが除け者にされているというコンプレックスだ。考えてもみてちょ。辰夫は、湯浅鶴次郎夫妻の間に生まれた子ではない。名目上は長男ということになってはおるが、彼の立場は微妙だ。それにくらべると、長女の真奈美や次女の祥子は、れっきとした湯浅夫妻の娘だでな」
「そうなんです。逮捕後の取調べで、辰夫自身が告白していましたわ。『自分は、いつか、きっと湯浅家から追い出されるに違いない。そうならないうちに、手を打っておかなくては……』とね。ここに、今回の一連の犯行の根源が巣くっているように思えます」
「うむ。合弁会社を企図した動機も、やはり、そこらあたりにあるのかな?」
「はい。辰夫は、湯浅家の実権を握るのと同時に、やがては、ライバル企業の末永製菓をも自分の支配下におくことを企んでいたんです。合弁会社は、そのための布石でした。もちろん、末永喜造には、そういう辰夫の本音までは読みきれなかったんです。末永喜造は、あのとおりの開けっぴろげな性格の男でして、見かけ上、柄はよくないんですが、根はお人よしなんですね。だからこそ、まんまと辰夫の仕掛けた罠にかかり、合弁会社設立に賛同したんです」
「ところで、秀男の記憶喪失は、いったい、何が原因だったんだ?」
「これは、砂田修司が悪いんです。もっとも、その背後には、湯浅鶴次郎が控えていましてね。鶴次郎としては、どうあっても、真奈美と秀男との仲を許せなかったんです。もちろん、結婚なんて論外です。そこで、砂田修司に因果を含め、秀男に脅しをかけさせたんです。『今日限り、真奈美さんには近づくな。いうとおりにしなければ、命がいつくあっても足りないぜ』なんて……とにかく、再三、再四、こんなふうな脅し文句を秀男の耳に吹き込んだわけです。じかに会って、脅したり、電話をかけたり……秀男は、砂田修司とは面識がありませんので、やつの正体がわからない。ですから、なおのこと、恐くてならない。秀男は気の小さい青年ですしね。そんなわけで、あのとき、砂田修司に天竜峡公園付近へ呼び出され、さんざん、脅しをかけられたうえ、『殺してやる!』なんて言われて、逃げ惑ううちに、わたしたちに出会ったというのが真相です。そのとき、すでに、秀男は一時的な記憶喪失に陥っていたんです。原因は、砂田修司の脅しがよっぽど効いたらしくて、そのショックのためだろうって、小室医師は言ってました。わたしを見て、真奈美と間違えたり、検事さんを誰かと取り違えたりしたのも、やはり、ショックのためだろうって……」
「わしを『お父さん』と呼んだのは、やはり、湯浅鶴次郎と間違えたからだろうか? それとも、自分の父親の末永喜造と取り違えたのかな?」
「ここらあたりのことは、もう一つ、はっきりしないんです。目下のところ、秀男の記憶が完全に甦ってはいませんので……しかし、可能性としては、末永喜造と間違えたんじゃないでしょうか。顔つきからしますと、検事さんは、末永喜造に……」
「顔が似ていると?……よしてちょ」
「冗談ですわよ。検事さん」
「そうあってもらいたいもんだ」
と赤かぶ検事は、笑いながら、
「それはさておき、湯浅鶴次郎と砂田修司の罪は、それだけかね? まだ、ほかにも何かやっておったのかね?」
「それだけです。脅迫罪と傷害罪が成立しますわね。だって、秀男の記憶喪失の原因をつくったんですから、これは、れっきとした傷害ですわ」
「そのとおり。記憶を失わせたのは、精神的な傷害だからな。しかし、湯浅鶴次郎も、それに砂田修司も死んでおるから、起訴するわけにいかん。この関係の事件は、犯人死亡ということで、捜査も終わりだ」
「それじゃ、文化文政風俗絵巻行列の日のことをお話しします」
「うむ。ここから先は、ことごとく、辰夫が黒幕だなも?」
「はい。あの日、辰夫は倉本和彦を使って、砂田修司を殺ってしまう計画だったんです。それと言いますのは、砂田修司が何かにつけて、親父の鶴次郎の言いなりに動く男だとわかっていましたから……」
「すると、辰夫は、父親の動静を気にかけ、もしかすると、自分の本心を悟られはしまいかと慮った。こういうことかね?」
「はい。実際のところ、この時点でも、鶴次郎は、決して辰夫を疑ってはいませんでした。しかし、猜疑心の強い辰夫には、鶴次郎に疑われているというコンプレックスに悩まされていたのは事実です。それに、倉本和彦のことがありますから……」
「倉本和彦が、どうだと?」
「倉本和彦を二重スパイに仕立てあげたのは、辰夫だったんです。そういう引け目があるものですから、倉本和彦のことを鶴次郎に察知されはしないかという恐怖感に絶えず脅かされていたんです。そうなりますと、当面、砂田修司の存在が邪魔になります。砂田は、鶴次郎の腰巾着のような男ですもの。砂田に、倉本の動きを知られるのは、まずいんです」
「だから、砂田を消すことを考えた。そのチャンスが、十一月二十三日の文化文政風俗絵巻行列の日というわけだなも?」
「はい。あの日、砂田が虚無僧姿で参加することは、辰夫にわかっていました。一方、倉本は浪人姿です。その倉本が砂田を『桝形』に誘い込んだのは、ご存じのとおりですわね。そのさい、砂田の懐ろには、瓦版がねじこんでありましたでしょう。あれには、『浪人を追え』というサインが記入してありました。あの瓦版を砂田に渡したのは、ほかならぬ辰夫自身でした」
「辰夫が?」
「そうなんです。砂田は、まさか、辰夫が倉本を二重スパイとして使っている元締めだとは、夢にも思っていません。砂田は、単純な男ですもの。だから、辰夫からの指令は、てっきり、鶴次郎の意向によるものだと思いこみ、浪人を追っているうちに、『桝形』の上へ誘い込まれ、ばっさり殺られたんです」
「それじゃ、落馬した真奈美の事件は、どうなんだ?」
「辰夫は、あらかじめ、倉本を通じて、厩務員の島崎貞夫を買収し、カフェイン入りのドリンク剤を例のメス馬に与えました。その結果、メス馬に乗った花嫁姿の真奈美が『桝形』に差しかかったとき、事件が起こり、その騒ぎで、馬が興奮して、真奈美を振り落としてしまったんです。辰夫としては、必ずしも、『桝形』の下で、真奈美が落馬することまでは意図しておらず、行列が進行中に落馬させる計画だったんです。そして、結局、島崎は後になって、倉本に殺害されています」
「そのさい、真奈美はハッとして、『桝形』の上に視線を投げたのをわしは見たように思うんだがよぉ。あれは、『桝形』の上で事件が起こることを予測しておったからか?」
「いいえ。そうじゃありません。ただ、真奈美には、虚無僧姿の人物が砂田だってことが、すぐにわかったと言ってました。あらかじめ、そのようなことを耳にしていたからです」
「辰夫は真奈美の殺害を企んでおったんだろう? それが、たまたま、怪我をさせる程度のことですんでしまった。こういうことかな?」
「もちろん、殺害が目的でした。辰夫にしてみれば、湯浅家の相続人を、ことごとく葬り去らないことには、安心できなかったんです」
「湯浅家の覇権を握るためにな?」
「はい。あとになって、真奈美を誘拐したのだって、警察の動きを見ながら、チャンスをとらえて、ヤクザの藪中や荻山に命じて、殺害させる計画だったんです。真奈美が秀男と一緒に駆け落ちしたことにしても、一つには、辰夫が恐かったからだと言ってます。あの落馬事件にしても、自分が命をねらわれているという察しが彼女にはついていましたし、もしかすると、犯人は辰夫ではないかという疑いは抱いていたようですから……」
「次女の祥子だがよぉ。われわれの取調べに極めて非協力的だったのは、どういうわけだろう?」
「祥子としても、次々と起こる不思議な事件のことを思うと、気味わるくなってきて、警察や検察庁には、めったなことを言ってはならないと固くなっていたからですわ。頑ななくらいに……何だか、湯浅家の周辺で途方もない陰謀が進行しているんじゃないかとか、そんなふうなことを言っていたそうです。親しい友達なんかにもね」
「そうなるとよぉ。当主の湯浅鶴次郎としても、何かあるんじゃないかと疑っておったのではにやぁがね? 湯浅家の内部なり、周辺なりによぉ」
「そういう疑いを抱いていたのは事実のようですが……その時点では、真奈美のことで頭がいっぱいで、はっきりと辰夫に疑惑の目を向けるまでには至らなかったようです。でも、辰夫のほうは、人一倍、猜疑心の強い男ですから、いまのうちに、鶴次郎を葬り去っておくに越したことはないと……どのみち、いつかは、殺らなくてはならない人物ですから……そうしたときに、たまたま、飛騨金山の旅館に真奈美が身を隠していたという情報が舞い込み、湯浅鶴次郎も、それに末永喜造も、現地へ飛ぶとわかったものですから、いまがチャンスと……」
「そのとき、辰夫は東京におったんだろう?」
「そうです。一連の情報は、湯浅家だけではなく、倉本和彦からも入っていました。倉本は、子分の藪中や荻山を通じて、末永喜造の動きとか、末永製菓の様子を探らせ、そのつど、情報を辰夫に提供し、多額の謝礼をもらっていたんです。そればかりか、倉本は、藪中と荻山に因果を含め、鶴次郎の乗用車を飛騨川へ転落させる企みを実行に移しています。もちろん、これが、辰夫の意向によるのは、言うまでもありませんわね」
「うむ。その倉本だがよぉ。結局、最後には殺害されておる。諏訪湖の湖面に死体が浮かんだ。これは、辰夫自身の犯行かね?」
「そうなんです。辰夫が自分の手を汚した数少ない事件の一つですわ。動機は、金銭問題です。報酬の額を巡って、意見が合わず、殺害するよりほかなくなったと言ってます。あの夜、辰夫は、報酬のことで話があると偽り、倉本を車に乗せて、諏訪湖畔まで連れ出し、隙をみて、彼の頭部に車の工具を叩きつけ、殺害したんです。凶器は鉈ではないかと思われましたが、現実には工具でした。いずれにしろ、それ以後、辰夫は、藪中や荻山を直接指揮して、自分の野望を実現させていきました。例えば、真奈美を誘拐したのだって、藪中たちにやらせたんですから……あの連中は、金さえもらえば、何でもやるんです。これまでは、謝礼を倉本にピンはねされていたのに、倉本がいなくなってからは、もろに謝礼がもらえるようになったんですから、連中にしてみれば、こんなありがたい話はないというわけです」
「祥子の遭難だがよぉ。やはり、リーダーの篠田光恵の犯行かね?」
「はい。彼女は、辰夫と婚約までしている間柄だったんです。計画どおりにことが運べば、二人は天下晴れて、結婚するつもりでいましたからね」
「具体的に言うと、どういう手段を使ったんだろう? 篠田光恵はよぉ」
「運よく、あのとき、猛烈な吹雪になり、いまがチャンスとばかりに犯行に出ています。祥子をグループの最後尾につけたのも、リーダーの篠田光恵でした。そして、グループの動静を見守るかのように見せかけて、彼女自身が列を離れて、最後尾の祥子の傍へ行くと、不意に彼女を雪に埋もれた林の中へ突き飛ばしたんです。そんなことをされたら、凍死するのは目に見えていますわ。祥子の直前を歩いていた水橋澄江という女子大生にしてみても、自分のことで精一杯ですから、祥子がそんな目にあったなんて、全然、気づいていなかったんです。あら、うっかりしていましたわ。アマチュア・カメラマンの中岡英夫の殺害事件のことをお話ししておかなくては……筋書きの順序が狂いましたが、ご勘弁を……」
「ええわね。中岡英夫の殺害の動機はわかっておる。『フォト・フラッシュ』の写真だ」
「そうです。あの写真は、もう、公表されたあとでしたが、倉本にしてみれば、気が気でありません。彼は、元警察官ですから、原板のネガさえあれば、警察の科学捜査の対象になり、コンピュータグラフイックの技術を用いれば、ズバリ自分の面が割れる。それが心配でならず、倉本は辰夫にも相談を持ちかけたうえで、中岡英夫を殺ってしまったんです」
「その犯行では、正体不明の女が登場するが、いったい、何者だね?」
「倉本の愛人で、立川里見というホステスです。しかし、倉本が殺害されてからは、やばいことになると思ったらしくて、目下、行方がしれません。でも、必ず、所在を突き止めてみせますわよ。狭い日本のことですから、とことん逃げきれるものじゃありませんもの」
「いずれしろ、さんざん、振りまわされたなも。最近、こんな難事件に出くわしたのは、珍しい。もう、二度と起こってもらいたくない事件でもあるわね」
そう言って、赤かぶ検事は、考え深げに溜息を洩らす。
「ほんとですわね」
行天燎子警部補も、過去の困難な捜査の過程をしみじみと述懐していた。
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