和久峻三
朝霧高原殺人事件 〜赤かぶ検事シリーズ〜
目 次
第一章 富士山麓に鸚鵡啼く
第二章 すり替えられた首
第三章 霧ケ峰の首実験
第四章 ヨコハマ万国橋の変死体
第五章 熱海梅園の惨劇
第六章 精進湖の生け贄
第七章 早春の野麦峠
第一章 富士山麓に鸚鵡啼く
1
行天燎子《ぎょうてんりょうこ》警部補の運転する赤いクーペは、富士吉田市を出ると、河口湖畔から精進湖を通り抜け、本栖湖の傍を走りつづける。
「検事さん。富士山に白い雲がかかっているのが見えますでしょう?」
行天燎子は、隣りに座っている赤かぶ検事のほうへ少し顔を向けるようにして言った。
「うん。帽子の庇のような雲だなも」
赤かぶ検事は、フロントガラスの向こうを眺めている。
「あの雲はひさし笠≠ニ言いましてね。あの雲が出ると、ぐっと冷え込み、秋雨が降ることもあるんだそうですわ」
「ほう」
「富士五湖地方の人たちは、富士山頂にかかる雲の形を見て、お天気を予測するとも聞いています」
「なるほど。明日の天気は富士山頂の雲に聞け≠ニいうわけだなも」
赤かぶ検事は笑った。
二人は、富士吉田警察署をたずねて、ある事件の引き継ぎを終え、これから帰るところだった。
行天燎子警部補が所属する松本警察署で取調べ中の多額窃盗事件の容疑者が、余罪として富士吉田警察署の管内で、宝石商荒らしをしていた事実がわかってきたことから、当地の警察に身柄を引き渡し、事件の引き継ぎをしてもらうことになったのである。
容疑者の身柄は、拘置所の職員が護送車で当地へ運んだあとだったから、赤かぶ検事や行天燎子の仕事は、これまでの事件の経過を説明し、参考資料として記録のコピーを交付するだけですんだ。
「それにしても、富士の裾野は広大だなも。茫洋とした牧歌的情景の中に、壮大な富士の姿が、ぽっかりと浮かび上がってよぉ。信州にくらべると、だいぶ雰囲気が違うなも」
のびやかな気分に浸りながら、赤かぶ検事は、フロントガラスの向こうに開ける広大な風景に見惚れていた。
やがて、車は、富士宮道路を南下し始めた。
「白糸の滝」まで二十キロという道路標識を通過する。
「おや? 霧が出てきたようだなも」
赤かぶ検事は、前方の平原にうっすらと漂う青っぽい霧の出現に気づいた。
「ここが朝霧高原ですのよ。シーズンによっては、霧がひどくて、運転するのが恐くなるときだってありますわ。こんなのは、まだ序の口ですわよ」
行天燎子は、山梨県警との打ち合わせやら何やらで、しばしば富士五湖方面へ車で出張することが多いから、このあたりの事情には詳しい。
「源頼朝は、この付近で巻狩りをやったのかな」
赤かぶ検事は、歴史書などでよく見る鎌倉時代の「富士の巻狩り」の挿絵を思い浮かべていた。
行天燎子は、ちらっと赤かぶ検事に、持ち前の魅惑的な眼差しを投げかけながら、
「ここから、ずっと南のほうに富士の巻狩りの本陣跡があるんです。いまでも、そこには、長屋門や茅葺き屋根の母屋が残り、ありし日の狩宿が偲ばれます。そこには樹齢八百年とも千年とも言われる白山桜がありましてね。頼朝がそこに馬をつないだというので、駒止めの桜≠ニ呼ばれているんです。よければ、立ち寄ってもいいですわよ」
「時間があれば寄ってみるのもええが、それより、ここらあたりで、ひと休みするわけにはいかんかね? 喉が渇いてしょうがないんだ」
時刻は、午後二時を過ぎたところだ。
「それなら、田貫湖へ寄ってみましょう。ドライブインがあるはずですわ」
そう言って、彼女は、曲がりくねった地道へ車を乗り入れた。
「タヌキ湖と言ったが、狸でも住んでおるのかね?」
赤かぶ検事が言うと、彼女は、くすっと肩をすくめるようにして笑う。
「字が違うんです。富士五湖には入っていない小さな湖ですわ。いまはシーズン・オフですけど、湖畔は、キャンプ地としてもよく知られているところでしてね。わたし、あの湖が大好きなんです。水はきれいだし、森閑としていますしね」
そう言っているうちに、田貫湖畔に着いた。
駐車場には、車が一台も止まっていない。
「ずいぶん物淋しいところだなも」
車から降りた赤かぶ検事は、あたりの静謐な佇まいに驚いた。
人の姿が見あたらないせいもあるだろうが、あまりの静けさに、かえって不気味なくらいだ。
「あら、ドライブインが閉まっていますわ。すみません。わたし、勘違いしていたみたい」
行天燎子は、駐車場の傍にあるドライブインが閉店になっているのを見て、申しわけなさそうな顔をする。
「あそこに自動販売機があるでよぉ。あれで間に合うわね」
赤かぶ検事は、自動販売機のほうへ歩み寄り、コインを入れてコーラを出した。
傍へ寄ってきた行天燎子に向かって、赤かぶ検事は、
「おみやぁさんも、何か飲むかね?」
「わたしは、こっちのほうにしますわ。ちょっと空腹なんです」
彼女は、隣りの自動販売機にコインを入れ、カップラーメンを取り出す。
それを見て、赤かぶ検事は、呆気にとられた。
「おみやぁさん。つい先ほど、昼飯を食ったばかりではにやぁがね。それなのに、もう、腹が減ったのかね?」
「まあ、ご挨拶ですこと。言っときますけどね、わたし、普通は、そんなに食い気の旺盛な女じゃないんですのよ。今日は、車を運転したから特別なんです」
そう言って、彼女は、やんわりと睨みつけるような表情をして見せる。
思わず、ゾクッとさせられるセクシーな目の色だった。
すらりと上背のある長身を折り、自動販売機の取り出し口に手を差し入れている姿までが色っぽい。
とりわけ、ストッキングに包まれた美しい脚の線に思わず見とれてしまう。
二人は、しばらくベンチに座り、誰もいない小さな湖を飽くこともなく眺めていた。
鏡のような静かな湖面に逆さ富士≠ェ映っている。
やがて、日没ごろともなれば、夕陽に照り映える赤っぽい逆さ富士≠ェ静かな水面に影を落とすことだろう。
それまで待つわけにはいかないのが残念だ。
いつか、あらためて、ここをたずねてみたい誘惑に駆られながら、赤かぶ検事はコーラを飲んでいた。
河口湖や山中湖ともなれば、ホテルやレジャー施設が煩《うるさ》いくらい建ち並び、雑然としているが、ここは違う。
まるで、別天地だ。
富士の裾野に、こんな静かな湖があったのかと、いまさらながら、赤かぶ検事は感慨無量であった。
行天燎子の話によると、田貫湖は、もともと灌漑用の人工湖であったらしい。
周囲は、四・五キロくらいしかない。
湖というより、むしろ、大きな池とでも言ったほうがふさわしいだろう。
「静かですわね。青く澄んだ湖面を眺めていると、何だか、吸い込まれてしまいそうですわ」
行天燎子は、感極まったかのように、微かに溜息をもらす。
「まったくだなも」
赤かぶ検事は頷く。
こんもりと茂った樹木が、湖畔を縁取り、そこには遊歩道が作られている様子だ。
樹木がひっそりと、静かな水面に影を落としているのも優美だった。
「検事さん。少し歩いてみません?」
そう言って、行天燎子は、赤かぶ検事に誘いの眼《まなこ》をじっと向ける。
田貫湖の青く澄んだ湖面さながらに、思わず吸い込まれそうな魅力的な眼差しだった。
「そこらあたりをひとまわりしてみるか」
赤かぶ検事は立ち上がった。
ベンチのある場所から、ずっと奥のほうまで起伏に富んだ遊歩道が延びている。
ところどころに、キャンプ用の水場があったり、四阿《あずまや》風の休憩所がもうけられているが、人の姿はまったく見られない。
夏ともなれば、キャンプの家族連れや若者たちで賑わうのだろうが、いまは、密やかに静まり返っていた。
2
小さな湖には違いないが、歩いてみると、意外に奥行きがあった。
湖の周囲は、杉林になっていて、その手前には草地が広がり、ぽかぽかと暖かな陽差しを浴びながら、弁当でも広げたい気分になる。
しかし、いまは秋が深まりつつある季節であり、風こそ吹かないが、気温は低い。
いつの間にか、富士の頂きから裾野にかけて厚い雲が垂れこめ、空模様も、どんよりと曇った鈍色に変わり果てていた。
よく言われるように、富士の姿は、まさに千変万化である。
遊歩道の突きあたりが、鬱蒼と茂る原始林になっていた。
「何だか、薄気味悪いですわね」
行天燎子は、ちょっと肩をすくめるようにして、赤かぶ検事の傍へ寄ってくる。
「大きな熊なんかが、ぬっと出てきそうだなも」
そう言ったとき、ふと、視線が三、四メートル先の大ぶりの樹木の根っこに止まった。
その周辺だけは、下草が生えず、黒っぽい土が露出している。
「あれは、何だ?」
赤かぶ検事は目を凝らした。
行天燎子も、それに気づいているらしく、生唾を呑み下す気配がした。
それが何であるか、赤かぶ検事には見当がついていた。
裸の死体だ。
行天燎子も、じっと、そこへ視線をすえている。
「よし。傍へ寄って確かめてみるとするか」
赤かぶ検事は決意すると、ゆっくりとした足どりで歩み寄った。
行天燎子があとにつづく。
「他殺死体ですわね、検事さん」
行天燎子は、ぽつりと言った。
彼女の口調には、すでに捜査官としての心意気があらわれていた。
もちろん、ここは、彼女の管轄外の領域だった。
朝霧高原から田貫湖にかけては、行政区画上、静岡県に属する。
行天燎子は、長野県警松本警察署の捜査官だから、ここで他殺死体を発見したところで、ただちに本格的な捜査に着手するわけにはいかない。
同じことは、長野地方検察庁松本支部長である赤かぶ検事についても言える。
それにしても、赤かぶ検事たちが、この他殺死体の第一発見者であるのは、厳然たる事実だ。
「いくぶん、腐乱が進行していますわね、検事さん」
「うむ。そこらあたりに犯人の足跡が残っているかもしれんから、注意しなよ」
「はい、心得ています。それにしても、首と胴が切り離されているのは、どういうわけでしょう?」
「まさに、猟奇殺人事件だなも」
「男性の死体ですわね」
「うむ。年齢は四十歳から五十歳くらい。いや、もう少し若いかな?」
「外傷らしいものは見あたりませんけど、死因は、いったい何でしょうかね」
「確かにおみやぁさんの言うとおり、外傷らしきものは見あたらんでよぉ」
「毒殺かもしれませんわね」
「うむ」
赤かぶ検事が頷き返したとき、ふと、死体の左手に視線が落ちた。
「おや? 左手に何か握っとるみたいだなも」
「そうですわね。きつく握り込んでいるみたい」
「いったい何だろう?」
赤かぶ検事は眉をひそめながら、ポケットからハンカチを取り出し、それを手袋がわりにして、固く握り込んだ左手の拳を開かせようとした。
筋肉が硬直しているから、なかなか拳が開かない。
ここまでやるのは、ちょっと越権行為ではないかと人は言うかもしれないが、赤かぶ検事にしてみれば、こういうのも現場保存の一つの手段であると信じていた。
ズブの素人が死体を発見したのではないのだ。
「こりやぁ驚いた。何を握り込んでおるのかと思ったら……紙切れではにやぁがね」
「メモみたいですわよ」
「そのようだなも」
赤かぶ検事は、その紙片を広げてみた。
くしゃくしゃに丸めて、握り込まれていた紙片であった。
伸ばしてみると、滲んだ文字が並んでいる。
ボールペンか、サインペンの走り書きであった。
「メモ用紙を引きちぎったような紙片ですわね。何が書いてあるのかしら?」
行天燎子は、赤かぶ検事に寄り添うようにして紙片を覗き込みながら、
「何かのメッセージみたいですわね」
「うん。わしはよぉ。こういう薄暗いところでは、字がよく読めんのだ」
赤かぶ検事は、呟きながら、ポケットに手を入れ、メガネを取り出そうとするが、それより前に、彼女が読んでくれた。
「『富士山麓にオウム鳴く』……そう書いてありますわ」
「なるほど。オウムという字だけがカタカナになっておるなも」
「どういう意味でしょう?……これ……」
「何だか意味ありげだなも」
「そうですわね。ここが富士山麓であるのは、まぎれもない事実なんですから……」
「ひょっとしたら、ダイイングメッセージかもしれんでよぉ」
「死に瀕する人の最期のメッセージだとおっしゃるんですか?」
「確信はないがよぉ。ひょっとしたら、そうでないのかもしれんのだから……」
「とにかく、静岡県警へ通報しなくちゃなりませんわ。わたし、これから車に戻り、自動車電話で連絡を入れます」
「頼むでよぉ。わしは、ここで待っておる。現状確保の必要もあるからな」
「お願いしますわ、検事さん」
そう言い残して、彼女は立ち去った。
彼女が戻ってくるまでの間、赤かぶ検事は、死体の傍にしゃがみ込み、じっくりと見分した。
(なぜ、首と胴をちょん切りやがったのかな?)
よく見ると、死体の左手首を刃物で切り落とそうとした形跡があった。
ノコギリのようなものを使ったのかもしれないが、その付近に凶器は見あたらなかった。
犯人としては、バラバラ死体にするつもりだったところ、人が近づく気配がしたので、慌てて中止し、死体を置き去りにしたまま姿を消したとも考えられる。
(おや?……この男……左利きだなも)
左手で筆記具を握って、書類なんかを作成していた事実を示すペンダコが中指に残っていた。
右手はと見ると、そういう痕跡はない。
(こいつは、ひょっとしたら……)
被害者が左利きであることを隠蔽するために、左手首を切り落とそうとしたのではないか。
いまのところは、単なる推測にすぎないが、赤かぶ検事には、何となく、そう思われてならなかった。
(不思議な死体だなも)
こういう奇妙な殺人事件を抱え込んだ静岡県警は、さぞかし苦労することだろう。
赤かぶ検事や行天燎子にしてみれば、管轄外の事件だから、まさに対岸の火事≠ニ言えよう。
そう考えていいはずだが、後日、状況が変わった。
その結果、赤かぶ検事や行天燎子が、この事件の困難な捜査を引き受けなければならない羽目に陥ったのである。
3
行天燎子が自動車電話をかけ終え、死体発見現場へ戻ってきてから、ものの五分も経たないうちに、パトカーが二台、到着した。
それから十五分後に、初動捜査班が鑑識課員らとともに駆けつけてきた。
指揮者は、服部英彦という四十そこそこの警部補だった。
行天燎子は、かねてから服部警部補をよく知っていたらしくて、視線が合った途端に、顔を綻ばせた。
「まあ、服部さん。久しぶりですわね」
彼女は、なつかしげな微笑を浮かべながら、服部警部補のほうへ歩み寄る。
「一年ぶりですかね、行天さん。例の大がかりなローン詐欺事件以来ですから……」
服部警部補は、眩しげに行天燎子を眺めている。
「紹介しますわ、服部さん。この方は、長野地検松本支部長の柊《ひいらぎ》検事さんです」
赤かぶ検事は、ちょっと照れたような笑いを浮かべながら、スポーツマンタイプのがっしりした体躯の服部警部補から求められるままに握手を交わしている。
「東海一の名検事と言われている赤かぶ検事さんと握手できるなんて、光栄の至りですよ」
服部警部補は、率直な人柄を思わせる気さくな男だった。
二人は名刺を交換した。
名刺の肩書によると、服部警部補の所属は、静岡県警捜査一課であった。
県警本部と所轄署とを掛け持ちしているらしいのだ。
こういう人事は、よくあることだ。
赤かぶ検事たちは、一応、見分した事柄を服部警部補に告げ、必要なら、いつなりとも協力すると言い残して現場を立ち去り、赤いクーペが止めてある駐車場へ戻った。
「服部警部補も、この先、たいへんですわね。検事さん」
行天燎子は、赤いクーペを運転しながら言う。
「まったくだ。あの様子では、むずかしい事件になりそうだわね」
赤かぶ検事にしてみれば、あの事件が、もし、自分の管轄下で発生したなら、それこそ、四苦八苦しなければならないだろうと、ふと思った。
だいいち、被害者の身元を割り出すことだけでも、ひと苦労だ。
犯人は、被害者の身元を知られるのを恐れ、衣服を脱がせて、すっ裸にしたうえで現場に放置したのである。
そのうえ、死体をバラバラにして、よりいっそう被害者の身元の割り出しを困難にするつもりだったらしい。
これは、結局、果たせなかったわけだが、それにしても、面倒な事件になるであろうことはわかりきっていた。
(いや、ちょっと待てよ)
赤かぶ検事は、一つの疑問にぶちあたった。
首を切り離したのが、被害者の身元を隠すためであったなら、なぜ、切り離した首を残しておいたのか。
死体を完全にバラバラにできなかったとしても、首だけは切り離したのだから、その首を持ち去ればよかったではないか。
首がなければ、身元の確認は、きわめて困難になる。
(こいつは、ちょっと妙だぞ)
いったい、何のために首を切り離したのか。
死体の左手首を切り離そうとした形跡があったのは確かだ。
なぜ、左手首を切り離そうとしたのか。
おそらく、被害者が左利きであるのを知られまいとしたのだろう。
だが、それも、結局のところ、未遂に終わっていた。
いずれにしろ、被害者の身元を知る手がかりは、目下のところ、左利きであるという事実だけだった。
行天燎子が運転する赤いクーペは、再び、富士宮道路へ出た。
ここを南下して、東名高速道路へ出る。
実を言うと、赤かぶ検事は、名古屋で弁護士をしている娘の葉子の事務所をたずねるつもりだった。
行天燎子が、そこまで送ってやると言ってくれたからだ。
名古屋からは、中央自動車道を経由して、松本へ帰ることになる。
「あら、彬子さんだわ。こんなところで何をしているのかしら?」
行天燎子は呟きながら、車のブレーキペダルを踏む。
見ると、路肩に止めた小型乗用車の傍で、タイヤの交換をしている若い女性の姿が赤かぶ検事の目に入った。
行天燎子の知り合いらしい。
「まあ。行天さんじゃありませんか? こんなところでお会いするなんて……」
二十四、五歳のOL風の女性だった。
彼女は油に汚れた手をかざしながら、行天燎子を眺めやり、
「このあたりにスタンドがないもので、自分でやってみたんですけど、なかなか、うまくいかなくて……」
彼女は、照れ臭そうに白い歯を見せる。細身で小柄だから、タイヤの交換は、ひと苦労のようだ。
「わたしがやってあげるわ。彬子さん」
行天燎子は、気軽に引き受けてやった。
何しろ、行天燎子は、剣道、柔道、合気道では師範クラスの腕前があるうえに、体格も大柄だから、タイヤの交換くらいはお手のものだ。
「彬子さん。この方、長野地検松本支部の検事さんですのよ。ほら、いつか、わたし、話したことがあったでしょう? 柊検事さんのことを……」
「おぼえています。赤かぶ漬けが好物の検事さんでしょう」
彬子は、屈託のない笑顔を浮かべながら、赤かぶ検事に挨拶する。
「わたし、竹岡彬子と言います。どうぞ、よろしく」
彬子は頭を下げた。
「わしのほうこそ、よろしく。それにしても、おみやぁさん、松本からきたんだろう? 車も松本ナンバーだしよぉ。一人で観光ドライブに出かけるなんて、なかなか、しゃれておるなも」
「いいえ。観光じゃないんです。父のことで、ちょっと用がありまして……」
そう言ったとき、彬子の表情が暗く翳った。
父親のことで何か問題を抱えているらしい。
「おみやぁさん。お父さんが、どうかしたのかね?」
「このところ、ずっと行方が知れなくて……実は、そのことで、松本へ帰ったら、行天さんに相談しようと思っていたんです。どうしたらいいかわからなくて……」
その言葉を聞いて、行天燎子は作業の手を休めて、顔を上げた。
「いったい何があったの? 確か、お父さんは、東京で暮らしてらしたのよね。会社の仕事で……」
「ところが、最近、甲府市へ移り、職場も変えたんですけど、どうも、様子がおかしいんです」
「どういうこと?……様子がおかしいって……」
「アパートから姿を消したんです。身のまわりの物は、そのまま残っているんですけど……」
「それじゃ、失踪?」
行天燎子は声高になった。
彬子は、沈痛な表情になり、
「これは、わたしの取り越し苦労かもしれませんけど、もしかすると、何かの事件に巻き込まれたんじゃないかと……ですから、松本へ帰ったら、行天さんに相談しようと思っていたんです」
「まあ、そうだったの。いいわよ、ちょうど柊検事さんもいらっしゃることだから、お話を聞かせていただくわ。その前に、タイヤを交換しなくちゃ」
行天燎子は、手早く作業にとりかかった。
4
タイヤの交換が終わると、一行は、少し先のドライブインへ入った。
「詳しく話してちょうだい。彬子さん」
行天燎子は、コーヒーカップを下に置く。
赤かぶ検事としても、何らかの形で彬子を支援してやりたい気持ちはやまやまだった。
行天燎子の話によると、彬子とは、松本市内にある茶道教室で知り合った間柄らしいのだ。
彬子が俯いたまま考え込んでいるのを見て、赤かぶ検事は、
「おみやぁさん。わしのことが気になるのなら、席をはずしてもええんだがよぉ」
「いいえ、そうじゃないんです。検事さんにも聞いていただきたくて……でも、どこから話していいのやら……」
彬子は、戸惑いながらも、行天燎子のほうへ視線を向けると、
「変なことを聞きますけど、『左利きの会』なんて、そんなの、実際にあるんですか?」
だしぬけに、こんなことを言われて、行天燎子は驚いた。
「何よ、それ?……もう一度、言ってよ」
「『左利きの会』です。そういうのが実際にあるのか、どうか……」
「聞いたこともないわね。検事さんは?」
行天燎子は、赤かぶ検事を振り向く。
「いや、わしも初耳だでよぉ。いったい、どういう会だね?」
「父が電話で言っていたんですけど、左利きの人ばかりがメンバーになっているグループらしいですわ。何人くらい、そのグループに参加しているのかは聞いていませんでしたけど……」
「ええだろう。『左利きの会』というのが実在するとして、おみやぁさんの父親が、その会に入っておったというのかね?」
「いいえ。『左利きの会』の事務局で、アルバイトをしているようなことを父が言ってたんです」
「その事務局とやらは、どこにあるんだね?」
「甲府市にあるってことは聞いていましたが、詳しいことは知りません」
「甲府市のどこにあるのか、わからんわけだなも」
「はい。父は、午前十時から午後四時までの間、毎日、その事務局に勤めていたらしいんです。ところが、突然、行方が知れなくなって……」
彬子は俯き加減になり、暗い顔をして唇を噛む。
もしかすると、父親が何かの事件に巻き込まれ、永久に帰らぬ人となってしまったのではないかと心配している様子だ。
行天燎子が唇を開く。
「彬子さん。あなたのお父さんは『左利きの会』の事務局で、いったい、どんな仕事をしていたの?」
「それも、詳しくは聞いていないんです。電話番とか、そんなんじゃないでしょうか。とにかく、事務局には自分一人しかいないなんてことを言っていたように思うんです」
「それじゃ、事務局と言っても、小ぢんまりとしたものだろうな?」
「そうだと思います。ですけど、かなり高額の日当をもらっていたようですわ。金額は言ってませんでしたけど……いずれにしても、体は楽だし、仕事らしい仕事もないのに報酬がいいから、辞めたくないなんて……」
行天燎子が言った。
「それじゃ、辞めたくないのに、無理に辞めさせられたのかしら?」
「さあ、それは……父がそこへ勤務していたのは、ほんの短い間のことなんですのよ。何日くらい勤めていたかは知りませんけど……」
「彬子さん。わたしが聞いていたところでは、あなたのお父さんは、東京の経済関係の雑誌を発行する会社へ勤めていたんでしょう?」
「個人経営の業界誌です。なぜ、そこを辞めて、甲府市へ移ったのか、それも言ってくれませんでしたので、いまとなっては、推測するよりほかないんですけど……」
「推測すれば、どういうことになるの?」
「勤め先の雑誌社が倒産するとか、手入れを受けるとかしたんじゃないかと思うんです」
「手入れ?……警察の手入れのことを言っているの?」
「社長が事件に巻き込まれたようなことを、ふと、父がもらしたことがありました」
「東京の勤め先が倒産するか、社長が事件に巻き込まれるかして、お父さんは職を失い、甲府市へ移った。そういうことかしら?」
「およそのところは、そんなふうでした」
「甲府市へ移ったのは、いつごろかしら?」
「九月の初旬じゃなかったかと思います。そのころに、電話をくれましたから……東京から転居したと言って……」
「いずれにしろ、最近のことよね」
「はい。『左利きの会』へ就職したのは、甲府市へ移ってから以後のことですが、これも、詳しいことはわからないんです」
「どういうきっかけで、『左利きの会』に勤めるようになったの?」
「そのことでしたら、これが父のアパートに残っていましたから……」
そう言って、彬子は、バッグの中からB5判程度のサイズのチラシ広告を取り出し、テーブルの上に置いた。
「チラシ広告でアルバイトを募集するなんて、そんな例があるのかな?」
赤かぶ検事は、首をかしげながらチラシを覗き込む。
行天燎子も、前かがみになり、そのチラシに視線を泳がせながら、
「ずいぶん条件がいいわね。しかも、仕事の内容は電話番程度だと書いてあるじゃない? 勤務時間は短いし……信じられないみたい」
「まったくだなも。こいつは、ちょっとおかしい」
もしかすると、これは何かの罠だったのかもしれないと赤かぶ検事は疑った。
だが、それを口に出せば、彬子が心配すると思って、
「おみやぁさんの父親は、このチラシ広告に応募して採用された。そういうわけだなも?」
「はい。面接に出かけたら、即時に採用されたそうです。左利きだったので、得をしたと父は言っていました」
「うむ。このチラシによると、応募資格は、左利きの人に限る、とある。『左利きの会』だから、事務局のメンバーも左利きでなくてはならんというんだろうけど……それにしても、妙な話だわね」
赤かぶ検事が眉をひそめるのを見て、いよいよ不安になってきたのか、彬子は、身を乗り出すようにして口を開く。
「変なことは、ほかにもあるんです。毎日、出勤していたのに、電話なんか、ほとんどかかってこないから、新聞を読んだり、週刊誌を読んだり、そんなことばかりをして時間を過ごしているんだと父が言ったことがありました。毎日、そういう状態だったか、どうかは知りませんけど……」
「うむ」
赤かぶ検事は、あらためて、チラシを手に取って、
「応募先として、電話番号が書いてあるだけで、住所の記載はない。これも、妙な話だ」
「そうなんです。わたし、そのチラシを父のアパートで見つけたとき、早速、電話してみたんです。でも、電話は通じませんでした。そこで、NTTに問い合わせてみましたところ、それは仮設電話だったんです」
「なるほど。アルバイトを募集するときだけ、仮設電話を引いていたわけだなも。ほんとに、『左利きの会』の事務局が存在したのなら、そこの電話番号をチラシに書けばええんだ。わざわざ仮設電話を引くこともにやぁでいかんわ」
と赤かぶ検事は、考え深げな顔をして、行天燎子を振り向くと、
「こいつは、何か臭うな。調べてみる必要がありやぁせんかね」
「同感ですわ、検事さん。わたし、できるだけ早い機会に調査してみます」
その言葉を聞いて、彬子は、明るい表情になり、
「お願いします。なぜ、父が行方不明になったのか。いま、どこにいるのか。それを知る手がかりがあるかもしれないと思って、わたし、父のアパートをたずねてみたんです。でも、手がかりは、このチラシ一枚だけでした」
「いや、悲観することにやぁでよぉ。このチラシ一枚だけでも手に入れば、そこから真相がわかってくるかもしれんのだから、希望をもつことだ」
赤かぶ検事としては、それ以上のことは言えなかった。
実を言うと、赤かぶ検事の胸中には、すでに、一つの推理ができあがっていた。
田貫湖畔で発見された死体は、もしかすると、彬子の父親ではないだろうか。
根拠は、彼女の父親が左利きであったというだけのことだが、何とはなしに臭う。
そうは言うものの、いま、ここで、彬子に向かって、あの死体を見分してみたら、とは言い出しにくい。
赤かぶ検事は、彬子に、こう言ってみた。
「おみやぁさんは、父親と別れて暮らしておったようだが、それは、なぜだね?」
「母が病気で亡くなってから、父は、わたしを松本の家に残して、単身、東京へ出たんです。もう、三年も前のことですわ。それ以来、ずっと別居しているんです」
彼女は、物悲しげに視線を伏せる。
それを見て、赤かぶ検事は、ほろりとさせられた。
「なぜ、東京へ出たんだろう? おみやぁさんの父親はよぉ」
「お前は、もう一人前だから、一人で暮らしていけるはずだと……家も、そのまま残しておくから、あとは食べるだけなんだからと言いまして……」
「勤め先は?」
「父は、農協関係の出版物を編集していたんですけど、母を失ってからというもの、仕事にも身が入らず、結局、職場を放棄するような形で東京へ出てしまったんです。母を失って、がっくりきたんだと思いますわ」
「おみやぁさんのほかにも、子供はおるのかね?」
「いいえ。わたしは一人娘です。父は竹岡和正と言いまして、今年で四十七歳になります。まだ若いんですから、いくらでも働けるはずなのに、仕事への意欲を失くしたようでした。東京へ出てからも、あまり、パッとしない生活をしていたんじゃないかと思うんです。わたしには、ほんとうのことを言ってくれませんでしたから、確かなことはわかりませんけど……」
このとき、行天燎子が口をはさんだ。
「彬子さん。こんなことは言いたくないんですが、万が一ってことがあるから……」
「何ですか? 行天さん」
「つい先ほど、田貫湖畔で、男性の死体が発見されたんです。発見したのは、わたしたちなんですのよ」
「まあ……男の人の死体が?……」
そう言った彬子の表情には、突然、何かに思い至ったような気配がよぎった。
行天燎子は、赤かぶ検事を見つめながら、目顔で同意を求めている。例の死体を彬子に見てもらうほうがいいのではないかという意味だ。
赤かぶ検事は、そっと頷き返す。
行天燎子は言葉をつづける。
「彬子さん。その男性の死体というのはね、年齢は四十代で左利きなんです。こう言えば、わかるでしょう?」
「はい……父も左利きでしたから……」
「その死体はね、左手の中指にペンダコができているんです」
「まあ。そんなところにペンダコが……それなら……」
そこまで言って、彬子は絶句した。
「どうなの? 彬子さん。あなたのお父さんも、左の指にペンダコがあったんじゃない?」
「はい、そうなんです。左手の中指にペンダコがあります。それじゃ、もしかすると、その死体が……」
彬子の顔が青ざめた。
「彬子さん。あまり先走って考えないことね……その死体が、あなたのお父さんだとは決まっていないんだから……よければ、わたしが付き添って行きますから、実際に見てみたら?」
しばらく間をおいてから、彬子は、思い詰めたような顔をして答えた。
「わかりました。お願いします」
彬子の表情は、固く強張っていた。
5
行天燎子が、服部警部補に連絡をとったところ、すでに、死体は冷凍設備のある県警本部の霊安室へ運び込まれたという。
身元がわかるまで、司法解剖を待つという方針であるらしい。
そんなわけで、行天燎子は、彬子を車に乗せ、県警本部の地下室にある霊安室へ連れて行った。
赤かぶ検事も、それに立ち会ったが、結果は否定的だった。
父親の竹岡和正の死体ではないと彬子は言った。
それを聞いて、赤かぶ検事も、それに行天燎子も、ほっとした気分になったが、反面、事件解決の糸口を失ったような気がして、いささか、物足りなさをおぼえた。
行天燎子は、松本へ帰ってからも、彬子のためを思って、機会を見ては、管轄の警察署に捜査を依頼したり、自分自身も甲府市へ出向いて、真相の究明に努めた。
その成果について、行天燎子から長野地検松本支部の赤かぶ検事のもとへ電話による報告があった。
「検事さん。ある程度の事情がわかってきましたわ」
「ほう。聞かせてちょうよ」
「まず、『左利きの会』ですけど、この様子では、実在しなかったもののようですわ」
「すると、やはり罠だったのか?」
「たぶんね。最初から、彬子の父親の竹岡和正を罠にはめようとしたんじゃないかと思われるふしがあります」
「と言うと?」
「例のチラシですが、あれが配られたのは、十月九日ごろだったらしいんです。聞き込みの結果、そのような事実がわかってきました」
「どのあたりを聞き込んだわけだね?」
「竹岡和正のアパートの周辺です。興味あるのは、チラシが配られた地域が、その付近に限られるってことなんです」
「ほかの地域には配られなかったのか?」
「その周辺一帯には配られています。ですけど、新聞の折込み広告じゃありませんから、チラシの枚数は限定されますわね。どこで印刷したかは、いま、調べている最中です」
「ほかには?」
「チラシに記載されていた仮設電話の設置場所がわかりました。NTTへ問い合わせたんです。実を言いますと、甲府市内の郊外にある三階建ての小さな雑居ビルだったんです」
「そこへ仮設電話を?」
「はい。各階には部屋が一つしかないんですが、その三階へ仮設電話が引かれていたんです。チラシの応募者に面接したのは、そこの部屋だったようですわ」
「竹岡和正が、毎日、通っておったという『左利きの会』の事務局も、そこにあったんだろうか?」
「そのようですが、パネルや看板のようなものは上がっていなかったと聞いています」
「家主から、何か聞き出したかね?」
「家主の言うところによりますと、その雑居ビルは、場所がよくないので、一階を喫茶店が借りているだけで、二階から上は借り手がなく、空部屋になっていたそうです。新築以来、半年も、そういう状態がつづいていたとかで……」
「なるほど」
「ところが、十月の初旬に、賃貸ニュースを見たとか言って、男の声で家主のところへ電話がかかってきたそうです。とりあえず、試しに一カ月だけ部屋を貸してもらいたいと……そこで、家主としては、家賃さえ払ってくれればいいと思って、一カ月分の家賃十万円を受け取り、保証金もなしに貸してやったんだそうです」
「うむ。部屋を借りにきた人物の顔は見たんだろうか?」
「いいえ。家賃は銀行口座へ振り込んできたし、鍵を渡すときも、使いの者をよこしただけだって……そう言っていました」
「使いの者と言うと?」
「若い女だったそうです。鍵を受け取ると、すぐに帰って行ったと……」
「仮設電話のほうは?」
「仮設電話は、十月十日から二十日まで設置されています。工事をしたのは、もちろん業者ですが、聞いてみたところ、その部屋には、机と椅子が一つずつしかなく、まだ、家具調度なんかは入っていなかったそうです」
「仮設電話を申し込みにきたのは、どういう人物だね?」
「それも、やはり、若い女だったとか……NTTの職員に聞いてみたんですが、ほとんど、人相風体をおぼえていませんでした。仕方ないと思いますわ。とくに怪しむべき点はなかったようですから……」
「だけどよぉ、仮設電話を申し込むには、身分を証明するものが必要なのと違うか?」
「個人の場合は、運転免許証とか健康保険証を提示しなければならないらしいですけど、法人の場合は簡単なんです。証明書類なんかも必要ないそうですから……」
「それじゃ、法人の商号を騙って申し込んだわけか?」
「実在の法人名を無断で使用していることがわかりました。法務局にある法人登記簿を見て、休眠会社を探し出し、その商号を使ったらしいです」
「考えやがったな。それなら足はつかんわね」
「そうなんです。登記簿上、存在するだけで、実際には活動していない休眠会社がいくらもありますから……その休眠会社は、『ヤサカ物産』と言うんです。登記簿の記載によると、宝石の販売を営業種目にしているらしいですけど、実際には活動していません」
「ものの見事に盲点を突きやがったわけだなも」
「はい。仮設電話は十月二十日に撤去されていますが、そのさい、雑居ビル三階の部屋は、すでに空っぽになっていたそうです」
「するとよぉ、そのときには、もう、竹岡和正の身の上に何かが起こった後だった。これは言えるな?」
「はい。竹岡和正が、いつからいつまで、その三階の部屋で電話番をしていたか、それは、目下のところ、つかみきれないんです。何しろ、がらんとした雑居ビルですから……」
「一階の喫茶店で聞いてみたかね?」
「はい。喫茶店の経営者や店員からも聞いてみましたが、三階のことは、ほとんど知らないんです」
「だがよぉ、何日間か知らんが、実際に、竹岡和正が三階で電話番をしておったわけだろう? そうであれば、一階へ降りて、喫茶店でコーヒーを飲むくらいのことはしたのと違うかな?」
「そのはずですが、正確な情報は得られませんでした」
「それならよぉ、竹岡和正が、いつから行方不明になったか、正確な日時もわからんわけだなも?」
「残念ながら、そのとおりなんです。検事さん」
「娘の彬子に、その情報を提供してやったかね?」
「はい。話しましたところ、彼女は、ひどく不安がっていました。父親の生死不明の状態がつづいているために、彼女は、すっかり憔悴しているようです」
「だろうな。田貫湖で発見された死体が、父親のものではなかったとしても、ほかのどこかで殺害され、その死体が人知れず捨てられておるのではないかと思って、彼女は心配でならないんだろうよ。可哀相によぉ」
赤かぶ検事は、受話器を握りながら、ひそかに溜息をもらした。
行天燎子は言った。
「いずれにしても、不可解な事件ですわね、検事さん」
「まったくだなも。真実らしいものに突き当たりそうな気もするのに、そこから一歩も進まん。じれったいったらありやぁせんでいかんわ」
と赤かぶ検事はいらいらしながら、
「被害者が握り込んでおったダイイングメッセージについてはどうだね? 彬子に、その話をしたかね?」
「しました。全然、心あたりがないと言うだけで、依然として謎のままです」
「そりゃ、そうだよな。あの死体は彬子の父親のものでないわけだから、その死体が手にしておったダイイングメッセージの謎が解けるわけもない」
「おっしゃるとおりですが、わたしには、何となく、彬子が何か知っているんじゃないかという気がしてならないんです」
「そりゃ、また、どうして?」
「いえね、彬子の父親の死体ではないとしても、左利きの男の死体であるのは確かですわ」
「だから、何だと言うんだね?」
「彬子の父親も左利きですし、左の指にペンダコができていることも彬子自身は知っているんです。その父親が、『左利きの会』の事務局とやらでアルバイトをしていたというんですから、なおのこと、事件と無関係だとは言い切れないんじゃありませんか」
「うむ。どこかで、つながっておるのかもしれんな。それはそうと、静岡県警の服部警部補からは、その後、何か連絡があったかね?」
「何度もありました。しつこく、わたしの意見を聞いてくるんですのよ」
「意見と言うと?」
「あのダイイングメッセージについて、どう思うって……だから、わたし、こう言ったんです。必ずしも、ダイイングメッセージとは限らないんじゃないかって……なぜなら、田貫湖の現場で殺害されたのか、それとも、ほかで殺されて、あそこへ運ばれてきたのか、それさえはっきりしないんですもの」
「そりゃ、まあ、そうだなも。ダイイングメッセージというのは、死に瀕する人間の最期のメッセージなんだからよぉ。殺された現場がわからなければ、どうしようもない」
「すべては、あの死体の解剖の結果を待つよりほかありませんわね」
「いつ、解剖するつもりでおるんだろう?」
「ここ当分、冷凍にしておくそうです。遺族か近親者によって、死体の身元が確認されるまで待つ方針なんです。そうも長い間、待つわけにはいかないでしょうけど……」
「それはともかく、服部警部補としては、あのメッセージをどう考えておるんだろう?」
「いろんなことを言ってましたわ。捜査員の間でも意見がわかれているって……」
「例えば?」
「平方根5は、2・2360679……これを文章にしてみると、『富士山オウム鳴く』。こうなるでしょう? これは学校でも習いますわね。義務教育を受けた人なら、誰だって知っています」
「そのとおり。わしは、数学が不得意だったが、それくらいのことはおぼえとるよ」
「服部警部補が言うには、平方根5はルート5で、そこらへんに何かの意味があるんじゃないかと……」
「どういうことだね?」
「国道5号線というのは、どうかなんて……調べてみますと、国道5号線は、北海道の札幌から函館までのルートなんです。ひょっとしたら、こういうのを意味するんじゃないかと服部警部補は言ってましたわよ」
「うむ。一つの可能性としては考えられるが、北海道は、ちと遠すぎるでよぉ」
赤かぶ検事は笑う。
行天燎子は言った。
「検事さん。わたしの推理を申しましょうか。あの被害者は、ひょっとしたら、鸚鵡を飼っていたのかもしれませんわね」
「だから?」
「飼い主が口にする言葉を鸚鵡は真似しますでしょう。ですから、その鸚鵡にたずねてみたら、犯人がわかるとか、そんなんじゃないでしょうか?」
「なるほど。至極、素直な推理だなも」
「いかにも、わたしらしい推理でしょう?」
彼女は、くすっと笑う。
赤かぶ検事は言った。
「おみやぁさんの推理が当たっているとすれば、富士山麓のどこかに被害者の住まいがあるってことになるだろう。朝霧高原とは限らんがよぉ」
「そうなんです。富士の裾野と言えば、山梨県から静岡県に及ぶ広い地域ですものね。そのどこかに被害者の住居があり、鸚鵡を飼っている。誰もいない家の中で、一羽の鸚鵡が淋しく飼い主が帰るのを待っているとしたら……そのへんのことを想像すれば、何かわかるんじゃないかという気がするんです」
「要するに、鸚鵡が犯人を知っているってわけだなも」
「犯人を知ると言うより、手がかりを知っているのかもしれませんわね。だから、被害者は、あんなふうなメッセージを残したと考えられなくもないんです」
「まあな。好きなことを言ってられるのも、いまのうちだわね。せいぜい、蘊蓄を傾けて、推理してちょうよ。わしは、そういうのが苦手でよぉ」
「まあ、ずるいわ。そんなの……」
彼女の明るい笑い声が受話器に響く。
「ほんと言うと、冗談を言っとる場合ではないんだがよぉ」
赤かぶ検事は、受話器を握り直して、
「念のために聞いておきたいんだがよぉ。竹岡和正は鸚鵡を飼っておったんだろうか?」
「いいえ。甲府市のアパートで鸚鵡を飼っていた形跡はありませんし、だいいち、鳥を飼う趣味もなかったようです。娘の彬子が、そう言っていますから、まず間違いないと思いますわ」
彼女の返事を聞きながら、赤かぶ検事は、すっかり犯人に振りまわされているような気がして、つくづく嫌になってきた。
6
赤かぶ検事が行天燎子との通話を終え、受話器を置いて間もなく、またぞろ、呼出し音が鳴った。
受話器を上げると、行天燎子の夫である行天珍男子《うずまろ》の声がした。
行天珍男子は、妻の勤務先である松本警察署に隣接する諏訪警察署の巡査部長である。
要するに、妻よりも階級が一つ下だ。
年齢のほうも妻より若く、まだ、三十にもなっていない。
妻が大柄でグラマーな女であるのにくらべると、夫のほうは、小ぢんまりとして、どことなしに可愛い。
この夫婦も、常に妻が主導権を握り、女性上位の傾向が強い。
とは言いながら、ときとして、夫がリーダーシップをとることもあった。
それというのも、行天珍男子は知恵の塊りのような男で、外見とは裏腹に思いがけない才能を発揮することがあるからだ。
それは、家庭生活においても、はたまた、捜査の実際においても言えることだった。
行天珍男子は、暴力事犯には弱く、拳銃を使用するのも極度に嫌う。
その反面、知能犯に対しては、抜群の能力を発揮することがあるのを赤かぶ検事はよく知っていた。
その行天珍男子が、こう言ったのだ。
「検事さん。田貫湖畔で発見された身元不明の死体のことですが、つい、いましがた、その死体を見せてもらいたいという女性があらわれましてね」
「ほう。そいつは好都合だ」
「燎子には、まだ言ってないんです。連絡がとれていませんから……」
「行天燎子警部補とは、いままで電話で話しておったんだよ」
「だから、燎子の専用電話が話し中になっていたんですね。それはいいんですけど、その女性が言うには、とにかく、死体を見せてもらえば、自分の夫かどうか、わかるだろうというんです。そこで、明日、現地へ行ってもらうことになりました。静岡県警の服部警部補とも、連絡がついているんです」
「その女性というのは、人妻だなも」
「はい。一ノ瀬静代と言いまして、当年二十九歳。この一年ばかり、実家のある松本市内で暮らしているんです。夫と別居中というわけですよ」
「またぞろ別居か。親子の別居やら、夫婦の別居やら、ずいぶん、ややこしいではにやぁがね」
「ややこしくも何ともありませんよ。別居なんて、いまどき珍しくもないんですから……」
「そうかな」
「検事さん。彼女の夫は一ノ瀬勝行。当年四十六歳。五年前に離婚しています。前妻は富山で暮らしていますが、子はないんだそうです」
「要するに、静代は後妻というわけだなも?」
「そうです。静代との間にも、やはり子はないんです」
「どちらが原因で子ができないのかな?」
「さあね。ともかく、一ノ瀬勝行は、たいへんな女好きなんだそうですよ。愛人を次から次と取り替えるとか……そんなことから、前妻が愛想を尽かして、離婚したもののようです。後妻の静代が夫と別居したのも、それが理由らしいですよ」
「それにしてもよぉ、次から次へと愛人が作れるなんて、結構な身分だなも。いったい、何をしておる御仁だね?」
「『甲信電機』の常務取締役総務部長です。仕事の面では、すこぶる有能なので、私生活の乱れは大目に見られていると聞きました」
「『甲信電機』なら、松本にも工場があるわね」
「甲府にも工場があります。ただし、本社は東京なんです。電機部品を製造している二部上場の会社でしてね」
「一ノ瀬勝行は、そんな会社の常務取締役で、総務部長というんだから、ちょっとしたもんではにやぁがね」
「まあね。一ノ瀬勝行は東京の豪華マンションで暮らしていたんですが、二週間ばかり前から行方不明で、会社から捜索願いが警視庁へ出されているんです」
「妻の静代は、どうなんだね?」
「静代はですね、会社から連絡を受け、一ノ瀬勝行の居所がわからなくなったと聞いてから以後に、われわれのほうへ捜索願いを出しています」
「それじゃ、静代はよぉ、夫が失踪した時点では何も知らなかったわけか?」
「本人は、そう言っていますがね。とにかく、例の死体に関するマスコミの報道から、もしかすると夫じゃないかという気がして、死体の確認を申し出てきたんです」
「ちょっと待ちなよ。別居しておって、冷めた夫婦関係なのに、身元不明の死体が発見されたと聞いただけで、死体を見せてくれと言い出すなんて、いったい、どういうことだろう?」
「左利きの変死体だとマスコミが報道していたものですから、もしや、夫ではないかと思ったとかで……」
「それじゃ、一ノ瀬勝行は左利きなんだな?」
「これは確かです。会社でも、そう言っていますから……何よりも、左手の中指にペンダコがあるそうですから、あの死体の特徴とも一致するんじゃないかと思うんですが、どうでしょう?」
「そのとおり。一ノ瀬勝行の死体である可能性が濃厚だなも。もっとも、竹岡和正の左手にも、同じようなペンダコがあると娘の彬子が言っておったがよぉ」
「そのことなら、燎子から聞いています。話が込み入ってきましたが、とりあえず、明日、静代を同伴して静岡県警へ出向くつもりです。結果は、いずれ、お知らせしますが、一応、検事さんに、そのことをお耳に入れようと思って電話をしたんです」
「そいつはありがたい。どうも、この事件はよぉ、われわれのほうとしても、協力態勢を敷かなきゃならんようだなも。対岸の火事≠ナはなくなったわけだ」
赤かぶ検事は、考え深げな顔をして言った。
第二章 すり替えられた首
1
翌日の午後、静岡県警へ出向いた行天珍男子から、赤かぶ検事のもとへ電話連絡が入った。
「検事さん。例の死体の身元がわかりましたよ。同行した一ノ瀬静代が、夫の死体に間違いないと認めたんです。これで、やっと事件解決へのメドがつきそうですよ」
行天珍男子の声が弾んでいた。
赤かぶ検事は言った。
「すると、こういうことかね? 妻の静代が死体を見て、夫に間違いないと確認した。だけどよぉ、信用してええのかね?」
「信用できると思いますよ。何しろ、妻が認めたんですから……」
「死体の顔を見て、夫だと認めたんじゃないのか?」
「もちろん、顔を見て、夫に間違いないと言ったわけです。死体の身元を確認するには容貌が決め手ですからね」
「そうかもしれんが、あの死体の場合は、ちょっと事情が違う」
「どういうことですか? 検事さん」
「あの死体はよぉ、首と胴が切り離されておった。だから、まったく別人の首と胴だったとも考えられるんだわね」
「しかし、死体の左手のペンダコが決定的ですよ。左手の中指にペンダコがあるから、そのことからも、夫に間違いないと静代は言っているんです」
「左利きの人間は、少なからずおるでよぉ。ペンダコにしたってそうだ。左利きなら、字を書くときも左手を使うだろうから、ものを書くのを仕事にする人間なら、左手の指にペンダコができるのは、至極、自然なことだわね」
「検事さんのおっしゃる意味はわかりますが、死体を確認したのは、妻の静代だけじゃなかったんです。静代の兄の城戸良武や妹の真由美も同行していますよ。妻の静代はですね、兄の良武が運転する車で、当地の県警本部へきたんですから……」
「ほう。静代には、兄と妹がおったのかね。そのことを話してちょうよ」
「はい。兄の城戸良武は、三十歳を少し過ぎていますが、独身ですし、妹の真由美も同様に未婚です。二人とも、松本市の食品会社に勤めているんですが、静代の夫だった一ノ瀬勝行とは義理の兄妹の間柄ですよね。これまでだって、互いに何度も顔を合わせているわけですから、死体を確認する資格は充分にありますよ」
「静代の兄とか妹にも、実際に死体を見せてやったわけだなも?」
「そのために、兄と妹は静代と一緒に当地へきたわけです」
「だがよぉ、この一年間、静代は、夫の一ノ瀬勝行と別居しておったわけだろう? 夫婦の間柄も、その間、疎遠になっておったとみるべきだから、義理の兄妹なら、なおのこと縁遠い関係になっておったはずだ。だから、義理の兄妹が身元を確認したからと言って、端から信用するわけにはいかんわね。どうせ、顔しか見なかったんだろうからよぉ」
「えらく慎重ですね、検事さん。首と胴が切り離されていたからと言って、そこまでむずかしく考えるのは、ちょっといきすぎじゃないですか?」
「わしにしてみれば、慎重にならざるを得んのだ。何しろ、例の死体の第一発見者なんだから……いまにして思えば、あの死体の首と胴とが、しっくりなじんでおらなかったような気もするもんだでよぉ」
「それ、どういう意味ですか? 検事さん。首と胴とが、どうとか、こうとか……」
「首と胴とが別人のものじゃなかったかと言っとるんだ。もちろん、これは、わしの単なる想像にすぎん。だけど、あれ以来、ずっと気にはなっておったんだ」
「しかしですね、検事さん。なぜ、別人の首と胴とを犯人が現場に残しておいたんですか? ずいぶん面倒な話じゃないですか。いったい、何のために、そんな面倒なことをしたのか、さっぱりわかりませんよ」
「わしにだって、見当もつかんよ」
「静岡県警としてはですね、あの死体が一ノ瀬勝行のものであったことが確定したからには、冷凍保存しておく必要もなくなり、死因を突きとめるために司法解剖に付すると言っています。その結果、検事さんが疑っておられるように、首と胴とが別人のものか、どうか、判明するんじゃないですかね」
「わしは、それを期待しとるんだよ」
実際のところは、赤かぶ検事は、例の奇妙な死体については、死体発見当初から、なみなみならぬ関心を抱いていたし、いまでもそうだ。
とりわけ、解剖の結果がどう出るか、目下の関心事は、その一事に尽きる。
行天珍男子は言った。
「検事さん。実を言いますとね、意外なことを服部警部補から聞きましたよ。たぶん、そのほうが検事さんには興味があるんじゃないでしょうか。いずれにしろ、早く報告しようと思って、いま、電話しているんです」
「何だか知らんが、もったいぶらないで早く話しなよ」
「わかりました。あれが一ノ瀬勝行の死体であったという前提で話すことにします。それでいいですね?」
「いいも悪いもあるもんか。情報を握っとるのは、おみやぁさんなんだから……」
「一ノ瀬勝行が『甲信電機』の常務取締役総務部長だってことは、ご存じのはずですよね?」
「うむ」
「『甲信電機』は、電子部品を製造し、海外へも輸出していますし、海外企業との連携も、いろいろあるんですよ」
「そりゃ、そうだろうよ。いまどきの企業なら、海外進出なんて珍しくもにやぁでいかんわ」
「そんなわけで、『甲信電機』は、フランスのベンチャー企業に多額の資金を提供しているんです。何でも、日本円にして数百億という金額に上るそうですよ」
「どえりやぁ金額の投資だなも」
「そうなんです。何のために、そんな巨額の資金を投資したのか。言うまでもなく、新製品を開発してもらうためですよ。わたしが聞いているところでは、画期的なコンピュータ・チップを開発してもらって、その特許権を獲得し、世界市場に売り出すためです。もし、これに成功すれば、世界市場でトップの座を占めるかもしれないという大変なプロジェクトなんですよ」
「わかるわね。どこの企業でも、いまは、そういうのに鎬を削っておる時代だからよぉ。いや、待てよ。そのプロジェクトは、一種のバクチみたいなもんではにやぁがね?」
「まぎれもなくバクチです。そのバクチが裏目に出たんですよ。フランスのベンチャー企業は、『甲信電機』から投入された巨額の資金を食い潰したばかりか、いまだに新製品ができあがっていないというんですから……」
「騙されたわけだなも。そのフランスのベンチャー企業とやらによぉ」
「そのとおりです。その企業は、『ソルシエール』という名のフランス法人なんですが、調べてみると、とんでもないまやかしもので、しかも、マルセイユに本拠のあるフランス・マフィアの息のかかった会社だってことがわかってきたんです」
「なんと、おそぎやぁ話だなも」
「そうなんです。『ソルシエール』というのは、フランス語で魔女という意味なんだそうですよ」
「ふざけやがってよぉ。まんまと一杯食わされたわけだ」
「そのとおりですよ。何はさておき、巨額の損失を会社に与えた経営陣の責任が、当然に問題になりますよね」
「言うまでもないわね。これが公になれば、経営陣は辞表を出さにゃならん。いや、辞任するだけではすまされんだろう。懲罰的意味をこめた解任だよな。それが筋道ってもんだよ。上場会社ならなおのことだ」
「検事さん。実を言いますとね、このプロジェクトを積極的に推進した役員は四人なんです。まず、社長の植野史郎。筆頭常務の塚脇一成。そして専務の栗原達夫。最後に、常務取締役総務部長の一ノ瀬勝行です。一ノ瀬が、その四人の中では、ランクがいちばん下なんですよ」
「ランクが下でも、役員には違いにやぁでよぉ」
「まあね。『甲信電機』の役員は、ほかにもいるんですが、問題のプロジェクトを強力に推進したのは、この四人というわけです」
「ほかの取締役たちは反対したのかね?」
「反対を押し切って、強引にプロジェクトを推し進めたのが、その四人ってわけです。『甲信電機』は、その四人が牛耳っていましてね。自分たちの思うがままに会社を動かしているんです。会社の金を密かに横領し、私腹を肥やしているという噂もありますが、目下のところ、証拠はあがっていません」
「するとよぉ、こういうわけかね? その四人組に押し切られ、当初は、そのプロジェクトに反対していた取締役も、とどのつまりは妥協した?」
「お察しのとおりです。とことん反対するほどの勇気ある役員は一人もいなかったわけです。保身のためですよ、妥協したのはね。いずれにしても、このことが発覚すれば、ただではすまない。とりわけ、今年の株主総会をどのようにして乗り切るか、これが、四人組にとっての最大の関心事でした。しかし、結局、切り抜けているんです」
「どうやって切り抜けた?」
「言うまでもなく、総会屋を抱き込むことです。実のところ、株主総会で四人組の責任を追及しようとする株主が、ただ一人いたんだそうですよ。どこから情報を入手したのか、それはわからないらしいですけど……」
「すると、総会屋に金をやり、もし、株主総会で、その良心的な株主が四人組の責任を追及するような態度を見せた場合、たちどころに封殺し、質問させないように発言を妨害する。大声でわめき、ヤジを飛ばしたりしてよぉ。この方法で切り抜けたわけだなも?」
「よくやる手ですよ。だけど、こういうのは、商法違反として罪になるわけです。そうですよね?」
「うむ。商法四九四条違反として、一年以下の懲役、または、五十万円以下の罰金に処せられる。株主総会対策として、会社荒らしや総会屋に金品を贈った罪だ。この事件は、損失金額が巨大だから、仮に、起訴されたら罰金ではすまされず、懲役刑を食らうのは間違いないだろう」
「だから、四人組は必死になって総会屋を抱き込んだわけです」
「実際に、総会屋に対する買収工作を手がけたのは誰だ?」
「買収工作の元締めが常務取締役総務部長の一ノ瀬勝行だったんですよ」
「なるほど。それで読めた。もし、あれが一ノ瀬勝行の死体だったなら、殺害された動機も、そこらへんにあるのかもしれんな」
「服部警部補の話によると、静岡県警では、そういう見方をしているそうです」
「いったい、いくらの賄賂を総会屋に贈ったんだろう?」
「服部警部補の話によると、表面に出ている金額は二千万円なんだそうです。だけど、実際には、もっと多いんじゃないかと言ってました」
「その二千万円をよぉ、どうやって、ひねり出したんだろう?」
「これは推測ですが、四人組は会社の帳簿をごまかして、裏金を作ってやがったんですよ。要するに、表面には出ない金です。政治家に対する資金工作なんかも、その裏金の口座を利用しているもののようですが、証拠がつかみ切れないんだそうです」
「巧妙にやってやがるんだな」
「そうです。一ノ瀬勝行に限らず、四人組は知恵のまわる連中ばかりだという、もっぱらの噂ですよ」
「悪知恵に長けとるんだろう」
「検事さん。ここから先がおもしろいところなんですがね」
「聞かせてちょうよ」
「一ノ瀬勝行の妻の静代の父親というのが問題なんです」
「問題とは?」
「静代の父親は、城戸日出雄というんですが、実を言うと、城戸は、『甲信電機』の株式課長で、しかも、一ノ瀬勝行の直属の部下にもあたります」
「ちょっと待ちなよ。すると、静代は、父親の上司の後妻におさまったわけか?」
「そのとおりです。一ノ瀬勝行は、静代の父親の城戸日出雄よりも十三歳も若いんですよ。何しろ、エリートでしたから……一方、城戸日出雄は、四人組のために誠心誠意尽くす、実直な男でした。とりわけ、自分の娘が、直属の上司の一ノ瀬勝行のもとへ嫁いでいる関係もあって、そりゃ、もう、心から服従していたそうです」
「自分より十三歳年下の娘婿に対してかね? ちょっと気の毒な話だなも」
「そうなんです。実際に、総会屋対策に奔走したのも、城戸日出雄だったんですよ。一ノ瀬勝行をはじめ、四人組は、一切、総会屋とは会っていません。電話もしていないんですから……要するに、汚ない仕事は、すべて城戸日出雄にやらせたんです。本人自身、不満の言葉さえ口にせず、ただ黙々と四人組の保身のために神経をすりへらし、働きバチみたいに必死になって動きまわっていたんですよ」
「その結果、四人組は、無事に株主総会を切り抜けた?」
「そうなんです。何もかも、城戸日出雄のおかげですよ」
「ところが、『好事魔多し』で、警視庁が情報をキャッチして、捜査に乗り出したわけだなも?」
「はい。どこから情報がもれたのか、その点については、静岡県警の服部警部補も知らないらしいんですよ。警視庁のほうが、極秘扱いしていますから……」
「警視庁は、商法四九四条違反で捜査を始めた。その結果、まず、株式課長の城戸日出雄が捜査線上に浮かんだ。たぶん、こんなところではにやぁがね?」
「そのとおりですよ、検事さん。さすが察しが早いですね」
「当たり前ではにやぁがね。こういう事件の捜査をどうやってやるか、わしにだって、それくらいの推測はつくわね」
「わかりましたよ、検事さん。ところでね、ここから先に意外性があるんです」
「もったいぶらないで、ずばり、話したらどうだ?」
赤かぶ検事は低く笑った。
「こういうことなんですよ。四人組のために、株主総会対策を引き受けた総会屋というのが、なかなかの大物でしてね。東京に本拠をもつ森戸辰次郎という男で、当年六十五歳。こう言えば、わかるでしょう?」
「やつが噛んでおったのか? その筋では有名人だわね、あいつはよぉ。いや、悪名高い男と言うべきかな」
「『東洋企画』という事務所を銀座に設置して、そこの代表取締役におさまっています。『東洋企画』は、経済雑誌の発行なんかをやってはいますが、その実態は総会屋ですよ」
「待ちなよ。『左利きの会』とやらの電話番をしておった竹岡和正は、『東洋企画』に勤めておったのと違うか? 娘の彬子の話によると、確か、そんなふうだったと思うんだがよぉ」
「そのとおりです。竹岡和正は、森戸辰次郎の秘書のような役割をしていた男です。二千万円の不正な賄賂を実際に受け取ったのも竹岡和正だったんです。もちろん、その金は、ボスの森戸辰次郎の懐ろへ入ったわけで、竹岡和正は、全然、その恩恵には与かっていないんです」
「それじゃ、こういうことかね?『甲信電機』の裏金から捻出された二千万円は、静代の父親の城戸日出雄を通じて、彬子の父親の竹岡和正に渡された。そして竹岡からボスの森戸辰次郎の金庫へ入ったわけだ。そうなればだよ、この不正工作の実行犯は、贈賄側の城戸日出雄と、受託者側の竹岡和正の二人だったという結論になるなも?」
「そうです。その二人が実行犯なんですよ。四人組は表面には出ていませんし、総会屋の森戸辰次郎も、裏から糸を引いていただけです」
「つまり、貧乏クジを引かされたのは、株式課長の城戸日出雄と、総会屋の秘書の竹岡和正の二人というわけだな?」
「はい。事件を嗅ぎつけた警視庁は、真っ先に、城戸日出雄の出頭を求め、取り調べています。警視庁としては、城戸が泥を吐きさえすれば、四人組を引っくくれるし、総会屋の森戸を槍玉にあげることもできる。そういう計算だったんですよ」
「ところが、当てがはずれた?」
「そのとおりです。城戸日出雄は、娘婿の一ノ瀬勝行の名前を口にしなかったばかりか、社長の植野史郎ほか二人の役員を必死に庇いつづけていたんです」
「黙秘権を行使したわけか?」
「はい。四人組のことは警視庁にも見当がついていたんですが、実行犯の城戸日出雄が口を割らないのでは、どうにもなりません。手も足も出ないわけですよ。しかし、身柄を拘束され、連日のように追及されると、さすがの城戸日出雄も観念したのか、総会屋秘書の竹岡和正の名前だけは口にしました。ところがですよ、その時点では、もう、竹岡和正は東京から姿を消し、逃亡を図っていたんです。ボスの森戸辰次郎も、いまだに行方が知れません。地下へ潜っちまったわけですよ」
「うむ。そう言えば、彬子は、こんな話をしておったな? 父親の竹岡和正は、事情があって『東洋企画』を辞め、甲府市へ移り、アパート暮らしをしていたと……あれは、警視庁の追及をまぬがれるために身を隠しておったわけだ。そのうち、生活資金にも困り、密かに職探しをしているうちに、例のチラシを見て、『左利きの会』の電話番の仕事を引き受けた。ところが、そいつは罠だった。と、まあ、こういうわけだなも」
「そうです。いったい、誰が竹岡和正を罠に掛けたのか、これが問題ですよね。警視庁にしろ、静岡県警にしろ、竹岡和正を罠にかけたのは、四人組の誰かじゃないかと疑っているようですよ。服部警部補が、そう言っていましたから……」
「もしかすると、その誰かさんはよぉ、一ノ瀬勝行だったのかもしれんな。一ノ瀬は、四人組の中ではランク付けがいちばん下だから、これも、また、汚ない仕事をやらされる羽目にもなったろうし……」
「汚ない仕事をやらされたかもしれない一ノ瀬勝行が、あのように奇妙な死体となって発見されたわけです。これをどう考えるかによって、捜査の方針も違ってきます」
「先ほども言ったように、わしとしては、あの死体は、首と胴とがすり替えられておるような気がしてならんのだよ。理由はわからんがよぉ」
「いいですよ、検事さん。その問題は、解剖の結果が判明すれば、わかってくるんですから……いまのところ、決め手はないんですから、好き放題のことが言えます」
行天珍男子は笑いながら、
「もう一つ、重要な事実があります。静代の父親の城戸日出雄は、勾留中、留置場の中で自殺を遂げたんですよ。シーツを引き裂き、そいつをロープがわりにして、鉄格子にゆわえ、首を吊っているのが、朝になってから発見されました」
「なんと、可哀相によぉ。四人組を庇うために、自分の命を犠牲にしたわけだ。そうではにやぁがね?」
「はい。城戸日出雄が自殺したのは、九月六日でしてね。このころ、一ノ瀬勝行をはじめとする四人組は、いつ、自分たちに火の粉が降りかかるか、戦々恐々としていた時期ですよ。だけど、幸いなことに、城戸日出雄が自殺してくれたおかげで、口封じをする必要もなくなったわけです。そればかりか、賄賂を受け取った実行犯の竹岡和正も、東京から姿を消して、いち早く逃亡を図り、ボスの森戸辰次郎にしても、杳として行方が知れない状態です」
「かくて、四人組は無事安泰だった。そういうわけだなも?」
「ところがですよ、なぜか、四人組の中ではランクがいちばん下の一ノ瀬勝行が奇妙な死体となって発見された。これをいったいどう考えるかです。このことについて、服部警部補の意見を聞いてきましたよ」
「服部警部補は、何と言っとる?」
「あの死体が一ノ瀬勝行だったなら、いの一番に妻の静代を疑うべきだと……」
「夫殺しというわけかね?」
「まあね。わたしも、これには賛成です。というのは、静代にしてみれば、別居状態にある夫の一ノ瀬勝行よりも、血のつながった父親の城戸日出雄との絆が強いはずです。何と言っても肉親なんですから……その父親がですよ、一ノ瀬勝行ら四人組のためを思って、警察で厳しく追及されても泥を吐かなかった。そして、とうとう、苦しまぎれにみずから命を絶った。そうまでして、一ノ瀬勝行ら四人組を庇ったわけですよ。にもかかわらず、城戸日出雄が死んだために、期せずして証拠が湮滅されたとわかった途端に、一ノ瀬勝行は、急に静代に冷たくなった。わたしが聞いたところでは、首吊り自殺した城戸日出雄の初七日がすまないうちから、静代に向かって、正式に離婚してくれと迫ったそうですよ。しかも、城戸日出雄への感謝の言葉ひとつも口にせずに、涙金で解決しようとしたらしいです」
「涙金と言うと?」
「五百万円出してやるから、離婚しろと、そう言ったとか……静代にしてみれば、せめて、生前の父親への感謝の気持ちくらいは示してくれてもよかったのにと、そう思って、一ノ瀬勝行を恨んでいたのに違いないんです」
「そりゃ、そうだろうな。静代にしてみれば、そんな薄情な夫を許せるわけがない」
「それが動機になって、静代は一ノ瀬勝行を密かに殺害したんじゃないかというのが服部警部補の推理なんですよ。まだ、証拠固めができてはいませんがね。いや、実を言うと、あらかじめ服部警部補から、そんな話を聞いていたので、例の死体を確認するために静代が静岡県警をたずねたのを機会に、わたしが同行することにしたんです」
「すると、おみやぁさんとしては、目下、静代から目が離せんというわけだなも?」
「そのとおりなんです、検事さん。静代は、現在、諏訪市内の『あずみ』というクラブのホステスをしているんですが、ちょっと小耳にはさんだところによると、男がいるそうですよ。どういう男か、遅かれ早かれわかってくるでしょうが、噂によると、直情径行型の年下の男だというんですからね。なおのこと気がかりです」
「それじゃ、おみやぁさんはよぉ、静代が直情径行型の年下の男を焚きつけ、父親を死に追いやった恨みを晴らすべく、夫の一ノ瀬勝行を殺害させた。そう考えておるのかね?」
「そんなところですよ、検事さん」
「いいだろう。おみやぁさんは頭がええから、推理も鋭い。わしなんか、歯が立たんでいかんわ」
「それ、きつい皮肉ですね……とにかく、夕方までには松本へ帰ります。そのさい、静代を検事さんのところへ連れて行きたいんですがね」
「何のために?」
「どういう女か、一目、見ておいてもらいたいんです。今後、捜査を進めるうえで参考にもなるでしょうし……」
「このわしに、静代を取り調べろというのかね?」
「取り調べるのは、まだ早いでしょう。ちょっと、あたりをつけてもらう程度でいいんです。というのはですね、例の『富士山麓にオウム鳴く』のメッセージですが……あれが静代の犯罪に深くかかわっているんじゃないかという気がしているんです」
このときの行天珍男子の口調には、妙に確信めいたものが感じられた。
2
赤かぶ検事が一日の仕事を終え、帰宅するつもりで執務室を立ち去ろうとしてドアを開けたとき、行天珍男子とばったり鉢合わせした。
「おや、検事さん。今日は、ずいぶん早じまいですね。電話で話していたように、未亡人の静代さんと、兄さんや妹さんをお連れしてきたんですが、よろしいでしょうか?」
見ると、行天珍男子のすぐ後ろに黒っぽいスーツを着た若い女が立っていた。
それが一ノ瀬静代であるらしい。
それにしても、夫の死体を見る前から、早くも喪に服しているかのような黒っぽい服装をしているところが、ちょっと気にかかる。
もしかすると、例の変死体が夫のものであるのを予想していたからではないのか。
何はともあれ、静代は、なかなかの美人であった。
ふっくらとした丸みのある容貌で、目鼻だちも端整だった。
ちょっとエキゾチックな風貌だったし、プロポーションも人並み以上で、男心をそそる容姿だ。
こういう女性をホステスとして雇っているクラブは、かなり高級なところだろうし、彼女の待遇にしても、それなりに気を遣っているに違いない。
彼女は、行天珍男子に紹介されると、丁寧に挨拶した。
「一ノ瀬静代でございます」
「これは、これは……今度は、とんだことだったなも。とにかく、なかへ入ってちょうよ」
赤かぶ検事は、照れ隠しのような笑いを浮かべながら、彼女らを執務室のソファに座らせた。
静代を車に乗せ、現地へ連れて行った兄の城戸良武は、人あたりのよさそうなスポーツマンタイプの青年だったが、義弟のむごい死体を見たせいか、顔色が冴えず、元気がない。
妹の真由美に至っては、なおのこと、悄然として力なくうなだれていた。
真由美は、姉の静代と違って、いくぶん陰気なところのある娘であった。
兄妹は、留置場で自殺を図った亡父の城戸日出雄が遺産として残してくれた松本市内の家で暮らしているという。
一方、静代のほうは、勤め先こそ諏訪市内であったが、住まいは、松本市内のマンションだというから、一応、兄妹たちとは別居である。
赤かぶ検事は、伏し目がちに腰を下ろしている静代に言った。
「おみやぁさんに聞きたいことは、いろいろあるがよぉ。いまはやめとこう。何しろ、ご主人の気の毒な姿を目にした直後のことだから……」
「はい。お心遣い、ありがとうございます」
静代は、物静かな態度で答える。
あいかわらず、視線を伏せたままだ。
ちょっとカールしたような長い睫が愛くるしい。
彼女に和服を着せたら、さぞかし、あでやかに引き立つことだろうと思いながら、赤かぶ検事は、
「どうだね? 仕事のほうは、うまくいっとるんだろうな?」
「はい。おかげさまで……」
彼女は、膝の上に置いた自分の手に視線を落としながら答える。
横合いから、行天珍男子が調子に乗って口をはさむ。
「こう言っちゃ、ぶしつけかもしれませんが、彼女は、『あずみ』に勤めて以来、たちまちのうちにナンバー1にのし上がったそうですよ。彼女めあてに、目尻を下げて飲みにくる客が、毎晩、引きも切らずにあらわれるそうですから……」
「いいえ、それほどでも……」
静代は、気恥ずかしそうに頬を赤らめる。
それを見て、赤かぶ検事は、ふと思った。
見かけは、やさしげで、おとなしそうに見えるが、こういう女性に限って芯が強い。
心底から、しっかりものの女性は、決して、それらしい素振りを表情や態度にあらわさないものだ。
これは、捜査上、数々の経験を経てきた赤かぶ検事の信条でもあった。
よせばいいのに、行天珍男子は、いよいよ厚かましくなってきて、にやにやしながら鼻の下を長くして、静代を見つめ、
「あなたのような魅力的な女性を目の前にしながら、親しく話ができるなんて、これも役得というものですよ。本来なら、途方もない高い金を払って、飲みに行かなくちゃならないのにね」
ふと、このとき、行天珍男子の視線がドアのところへ移動した。
その途端に、彼は、ギョッとして、すくみあがった。
まるで、幽霊にでも出会ったような驚きようだ。
そのほうを見ると、何のことはない。
いつの間にか、妻の行天燎子がドアのところに立っていたのである。
彼女は、先ほどから、夫が目尻を下げ、でれでれしながら、静代の気を引こうとしているところを、すべて見てしまったらしい。
それが証拠に、行天燎子の険しい視線がピタリと夫に据えられている。
(こりゃ大変だ。ひと荒れ、きそうだなも)
赤かぶ検事は、恐妻家の行天珍男子に対する同情の念を禁じ得なかった。
3
週末になって、静岡県警から服部警部補が松本へやってきて、赤かぶ検事に面会を求めた。
「検事さん。突然、お邪魔して申しわけありません。電話では、お話できない事態になったものですから……間もなく、ここへ行天燎子警部補がおみえになるでしょうし、ご主人の行天珍男子巡査部長にも、きてもらうことになっているんです」
服部警部補は、せかせかしながら、口早に話す。
「何だか知らんが、ひどく急いておるようだなも。いったい、何が起こったんだね?」
赤かぶ検事は、デスクの傍に腰を下ろした服部警部補の緊張した顔を眺めながら、そう言った。
服部警部補は、書類カバンの中から捜査書類を取り出し、膝の上に置くと、
「例の奇妙な死体を司法解剖に付した結果、意外な事実がわかってきましてね。ぜひとも、当地の松本警察署や諏訪警察署の応援を得なければならない状況になってきましたよ。そのことで、今朝、長野県警本部のほうへも出向いて、お願いにあがったところです。そればかりか、長野県の南半分の各警察署を管轄下においておられる柊検事さんのご協力をも得なければならず、そのお願いもあって参上したわけです」
「うむ。わしとしても、かねがねから、そういうことになりはせんかと思ってはおったんだよ」
このとき、ドアをノックして部屋へ入ってきたのは、行天夫婦だった。
二人が立っているところは、まさにノミの夫婦だ。
夫の行天珍男子の背丈は、妻の燎子の肩先くらいしかない。
この夫婦は、いったい、どういう姿態でセックスするのだろうかと、つまらないことを、ふと思い浮かべながら、赤かぶ検事は、一人でやにさがっていた。
夫婦とも、すでに、服部警部補とは顔見知りで、簡単な挨拶をすませただけで、合議に加わった。
「それでは、まず、わたしのほうから司法解剖の結果を報告します」
そう前置きして、服部警部補は、捜査記録のページを繰りながら、
「結論から先に申しますと、田貫湖畔で発見された例の死体については、首と胴体とが別人のものであることが判明しました」
「うむ」
赤かぶ検事は唸った。
傍から、行天珍男子が口を添える。
「やはり、柊検事さんの予測が当たりましたね。さすが名検事さんだけのことはありますよ」
そうと聞いても、赤かぶ検事は、顔色ひとつ変えずに、
「ちょっとたずねるがよぉ。首と胴とが別人だなんてことをどうやって突きとめたんだろう?」
服部警部補は言った。
「首と胴のDNA遺伝情報をコンピュータで解読した結果、まったく別人であることがわかってきたんです」
「なるほど。人間の遺伝情報は、きわめて個性的で、別人なら遺伝情報もまったく異なる。これは、指紋による識別よりも正確だと聞くからよぉ」
「そのとおりですよ、検事さん。最近は、人のDNAの読み取り作業がコンピュータで自動化されまして、従来よりも、スピードアップされています」
「うむ。まさに、科学捜査の勝利と言うべきだなも」
「問題は、犯人が何を考えて別人の首と胴とを同じ場所に残しておいたかですよね、検事さん」
「うむ。犯人の意図がさっぱりわからん。これが解明されれば、犯人検挙に一歩近づくと思うんだが、どうだね?」
「同感ですよ、検事さん。われわれとしても、全力をあげて、その点の解明に努めるつもりですが、行天さんたちにも協力していただきたくて……」
そう言って、服部警部補は、行天夫婦の顔を交互に眺めやった。
「そのことなら、もう、県警本部のほうから指示がきていますわ。主人が所属している諏訪警察署についても、事情は同じです。そうよね、あなた?」
と彼女は、夫を振り向く。
「そのとおりだよ。これからが正念場だろうね」
行天珍男子は頷き返す。
赤かぶ検事は、服部警部補に言った。
「そもそもだよ、DNA鑑定をおこなう必要があるなどと考えたのは、いったい何がきっかけだね? それを聞かせてもらいたい」
「実にいいご質問ですね、検事さん。当初、鑑定医は、首と胴とが切り離されているのを見ても、それほど不審には思っていなかったんです。死体をバラバラにするつもりだったが、人が近づく気配を感じて、作業を中止し、いち早く逃げたんだろうと……だから、首と胴とが切り離されたままになっているんだろうと思い込んだようです」
「わしだって、てっきり、そう思ったもんだよ」
「鑑定医も同じ考えだったんですが、念のためにと思って、血液を調べたところ、血液型は首と胴体ともにA型で、特別に不審な点はなかったんです。しかし、その死体をじっと眺めているうちに、何とはなしに、しっくりしないような気がしたと言っています」
「顔は、間違いなく、静代の夫の一ノ瀬勝行だった。これは間違いないんだろう?」
「はい。一ノ瀬勝行の顔写真とも一致しておりますから、われわれとしても、何ら疑問は感じていなかったんです。妻の静代の証言もあることだし……しかし、胴体の写真はありませんからね」
「問題は、そこだ。何と言っても、静代は、一ノ瀬勝行の妻なんだから、首から上だけではなくて、首から下のほうも、夫のものか、どうか、見ればわかったはずだ。別居の期間は別として、少なくとも、二年間は同居しておったんだからよぉ」
「そうなんです。だから、われわれは、静代の証言を端から信じ込んでいたんですよ」
「うむ。静代がどこまでの事実を知っておったか、これがポイントだわね」
「そうなんですよ。静代は、何もかも知っていながら、そしらぬふうを装っていたとも考えられます」
このとき、行天燎子が割り込んだ。
「わたしとしても、服部さんの意見に賛成ですわ。何と言っても、妻なんですから、首から下が他人のものかどうか、見ればわかるはずですわよ。多少とも死体が腐乱していたのは事実ですけど、首から下の識別を見間違うほど腐乱が進行していたとは思えないんです。ねえ、あなた」
行天燎子に同意を求められて、夫の行天珍男子は、
「まあね。静代は、知っていながら口を噤んでいたのに違いないんだ」
「なぜ、口を噤んでいたのか、そこらあたりの事情を突きとめにゃならんな」
そう言って、赤かぶ検事は、三人の捜査官の顔に、順次、視線を投げかける。
三人ともが、納得したように顎を引いた。
服部警部補は言った。
「いずれにしても、首のほうが一ノ瀬勝行のものであったのは確定的です。しかし、胴体は違うわけですよね。そうなりますと、いったい誰の胴体なのか、そこなんです」
「うむ。左利きの男であるのは間違いない。要するに、左利きの男が二人おったわけだ。その二人ともが殺害された。たぶん、同一犯人の仕業だろう。注目すべきは、二人を殺しておいて、首と胴とを入れ替えた。こういうことではにやぁがね?」
赤かぶ検事は一同を見やった。
答えたのは、行天燎子だった。
「検事さんのおっしゃるように、二人の男が殺されているわけですが、発見されたのは、その首と胴だけです。つまり、どこかに、一ノ瀬勝行の胴体、つまり、首から下の部分があるはずです。さらに、すり替えられていた胴体の主ともいうべき首が、どこかになくてはなりません。犯人が、それらを故意に隠しているのか、それとも、人知れず捨てられているのか、そこらへんのことは、この段階では何も言えないでしょうけど……」
赤かぶ検事は言った。
「気になるのは、総会屋の森戸辰次郎の秘書をやっていた竹岡和正だよな。娘の彬子の話によると、竹岡和正は、『左利きの会』の事務局とやらで電話番をしておったと言うんだ。ところが、その後、行方不明になった。興味あるのは、竹岡和正も左利きで、左手の中指にペンダコがあったという。もしかすると、すり替えられた胴体は、竹岡和正のものだったのかもしれんでよぉ」
「その可能性が大いにありますわね、検事さん」
と行天燎子は身を乗り出して、
「彬子も、あの死体を見ていますわね。確か、静代よりも先に死体を見たはずです。そのさい、彬子は、父親の死体ではないと言っているんです。この点をどうお考えになります? 検事さん」
「むずかしいところだなも。果たして、彬子が、真相を知っていながら、否定的な証言をしたのか、それとも首から上が父親のものではないので、否定的な答え方をしたのにすぎず、胴体の識別はつかなかった。左利きであることはわかっていたとしても、胴体だけを見て、これが父親のものだと確信をもって言える立場にあったか、どうか。彬子は、竹岡和正の娘であって妻ではないんだからよぉ。娘がだよ、父親の裸の特徴をつぶさに知っておったとは、ちと考えられん。裸を見る間柄ではないんだから……となれば、彬子は、嘘をついてはいなかったのだとわしは思うんだが、どうかね?」
「そうですわね」
行天燎子は、考え深げな顔をして呟く。
ほかに意見は聞かれなかった。
無理もない。
何よりも、その胴体なるものが発見されないことには結論が出せないわけだ。
赤かぶ検事は言った。
「彬子については、なお、いくつかの問題がある。その一つはだね、父親の竹岡和正が、総会屋の秘書として不法なことをしていたのを知っておったか、どうかだよ」
行天燎子が唇を開く。
「彬子は、こう言っていましたわ。自分の父親は『東洋企画』というところに勤めていて、雑誌の編集なんかをしていると……そこが倒産するか何かして、父親が東京を去り、甲府市へ移って、そこでアパートを借りていたとね……たぶん、ボスの森戸辰次郎の代理として、『甲信電機』に揺さぶりをかけ、株式課長の城戸日出雄から二千万円をせしめた事実を警視庁に嗅ぎつけられたものだから、これはヤバいと思って逃げていたんです。ただし、彬子は、そこまでのことは知らなかったんじゃないでしょうかね。父親とは別居していたわけですし、『東洋企画』の実態についても、父親が言わない以上、彬子にわかるわけもないんですから……」
「それじゃ、この点はどうだね? 彬子は、松本で暮らしておるわけだから、未亡人の静代とか、兄妹と面識があったのと違うかね?」
「それは考えられませんわ、検事さん。面識はなかったと思います。だいいち、彬子自身、わたしに、そんなふうなことを言ってませんし、態度からも、そのような様子はうかがわれませんでしたわ」
「それじゃ、城戸日出雄についてはどうだろう? 彬子としては、父親の竹岡和正が城戸日出雄に会って、恐喝まがいのことを口にして、株主総会対策として二千万円を巻き上げた事実を知っておったろうか? いや、金額までは知らないとしても、そんなふうな事情を薄々でも勘づいておったとは考えられんかね?」
「それも無理だと思います。城戸日出雄は、そのころ、東京本社へ単身赴任していたんですから……夫と別居中の長女の静代や長男の良武、次女の真由美らを松本に残したままでね。何よりも、彬子の父親の竹岡和正自身が、東京で暮らしていたわけですから、娘の彬子にも、そんなにしばしば連絡をとれなかったと思うんです」
彼女の意見に対しては、誰も反論しなかった。
服部警部補が深刻そうに眉根を寄せながら、
「実を言いますと、司法解剖の結果、最大の謎が残りました。と言うのはですね、死因がよくわからないんですよ。鑑定医も、こんな実例は初めてだと憂鬱そうでした」
「どういうことだね? 死因がわからんとはよぉ」
赤かぶ検事は、キツネにつままれたような気分になった。
首と胴とが切り離されているとは言いながら、とにかく、死体が解剖に付せられたのである。
にもかかわらず、死因がよくわからないとは、いったい、どういうことなのか。
実に不可解なことだった。
服部警部補は言った。
「説明すると、こういうことになるんです。まず、首ですが、これについては、外傷もなく、科学検査の結果からも、死因が判然としませんでした。ただ、出血多量で死んだであろうという推測がつくだけでしてね。それも、確定的じゃないんです」
「奇妙な話だなも」
「奇妙なのは死体と胴とが切り離されていたにもかかわらず、同一人の首と胴であるかのように現場に残されていた事実です。ここにポイントがあるんですよ」
「詳しく説明してちょうよ。わしにはわからんがよぉ」
赤かぶ検事は、行天夫婦の顔を見たが、二人とも首をかしげている。
服部警部補は、言葉をつづける。
「いいですか? 死体を解剖して、死因を突きとめるためには、首と胴とがそろっていなければなりません。ところが、あの首が一ノ瀬勝行のものだってことはわかったんですが、外傷もなく、科学検査の結果からも死因が判明しないんです。毒殺なら、血液に異常反応があらわれますが、それもないんです。ですから、あの首の本当の胴体のほうに致命的な証拠が残っているはずです。それが死因を判断する決め手になるはずだと鑑定医は言うんです」
「なるほど。やっと、わかりかけてきたなも」
赤かぶ検事は、行天燎子たちを眺めやった。
夫婦とも、真剣な眼差しを服部警部補に注いでいる。
服部警部補は、こう言った。
「一方、今回、一ノ瀬勝行の首と一緒に田貫湖畔で見つかった胴体についても、死因を推測させるような痕跡は何ら残っていないんです。つまり、死因と結びつく証拠がないってことなんです。ですから、考えられることは、その胴体の本来の首のほうに、死因を判定する痕跡なり、証拠なりがあるはずです」
「なるほど。そうなるとよぉ、その胴体の本来の首が見つからないことには、どうにもならん。それが竹岡和正のものであるか、どうかは別としてよぉ。そういうことだなも?」
「そのとおりなんですよ、検事さん」
「うむ」
赤かぶ検事は唸った。
誰も、口をきかない。
犯人の巧妙な犯行の手口を見せつけられ、いまさらのように唖然とさせられているかの感があった。
赤かぶ検事は、ぽつりと言った。
「恐ろしく悪知恵のはたらく犯人だなも。首と胴とを切り離し、別人のものとすり替えて、現場に残しておいた意図も、ある程度、これで察しがつくってもんだわね。要するに、死因が突きとめられないように図りやがったんだ」
「それに違いありませんわ、検事さん。一ノ瀬勝行の死因がわかれば、犯人の正体がバレる。だからこそ、一ノ瀬勝行の胴体のほうを隠したんです。胴体に死因を物語る証拠が歴然と残されているからですわ。それしかほかに考えられません」
行天燎子は、確信をこめて言う。
このとき、疑問を提起したのは、夫の行天珍男子だった。
「ちょっとおかしい点があるんだ。死因を判別する痕跡なり、証拠なりが、胴体にあるとしたならばだよ、その胴体を隠すだけでいいわけだ。わざわざ、別の胴体を一ノ瀬勝行の首にくっつけて、現場に残しておく必要はなかったろう。なぜ、あんなことをやったのか。そこですよ」
そう言われてみれば、確かにそうだと、赤かぶ検事は頷き返しながら、
「なかなか冴えとるではにやぁがね。確かに、おみやぁさんの言うのはわかる。一ノ瀬勝行の胴体のほうにだよ、死因につながる痕跡なり、証拠なりがあったとして、それを知られると、犯行の動機もおのずから明らかになるし、結局のところ、誰の犯行であるかが発覚する。それを隠蔽するためだったなら、胴体を隠すだけですむ。わざわざ、もう一人殺して、その胴体を一ノ瀬勝行の首にくっつけておくこともにやぁでいかんわ。余分に手間がかかるんだからよぉ。いや、危険でさえある。だって、そうだろう? 一人殺すだけですんだのに、二人も殺すことはない。そのぶんだけ、犯行がバレる危険性が高くなるってもんだ。みんな、そうは思わんかね?」
赤かぶ検事は、一同を見まわした。
服部警部補は言った。
「確かに、柊検事さんのおっしゃるとおりです。どうも、この犯人のやることは不可解ですよね」
口をはさんだのは、行天燎子だった。
「確かに不可解ですわ。その謎を解く鍵は、もしかすると、例のメッセージにあるのかもしれませんわよ」
「あれかね。『富士山麓にオウム鳴く』ってやつだなも」
赤かぶ検事は、行天燎子を眺めやった。
「はい。わたし、考えてみたんですが、あれは、単に平方根5の意味じゃないと思うんです。だって、平方根5を文章にすれば、『富士山麓オウム鳴く』になります。ところが、犯人の残したメッセージには『に』が入っているんです。つまり、『富士山麓にオウム鳴く』ですわね。この『に』だけが余分に加わっているところに、何か意味があるんじゃないでしょうか?」
「うむ」
赤かぶ検事は絶句した。
(それにしても、人泣かせな事件だわね)
謎の奥行きが恐ろしく深い事件であるらしいのを、あらためて赤かぶ検事は認識させられた。
第三章 霧ヶ峰の首実検
1
十一月ともなれば、信州は、早くも冬の気配が濃い。
そうしたころ、霧ヶ峰で男の首が見つかった。
その通報を行天燎子から受け取ったのは、赤かぶ検事が、ちょうど長野地方裁判所松本支部の法廷から自分の部屋へ戻ってきた直後のことだった。
「検事さん。わたし、いま、霧ヶ峰の八島湿原の現場から電話をかけているんですのよ。男の首が発見されたという知らせがあり、すぐに飛んできたんです。もう、一応の捜査は終わりましたから、とりあえず、検事さんにお知らせしようと思って……」
「そいつはたいへんだ。発見者は誰だね?」
「湿原に群生する植物の生態を観察していた農大の学生グループです。八島湿原に遊歩道があるのをご存じでしょう?」
「知っとるわね。湿原には、いくつかの池があってよぉ。池を結んで、遊歩道が整備されておる。そうだなも、全部歩きまわれば、一時間半ってとこかな。何しろ、広大な湿原なんだからよぉ」
「その湿原の遊歩道から、男の首を捨てたらしいんです。たぶん、夜のうちにやったんだと思うんですけど……」
「夜になれば、ビーナスラインが閉鎖されるから、八島湿原への運行が困難になるのではにやぁがね?」
「いいえ。ビーナスラインのゲートは開いたままになっています。ですから、人に見られずに通り抜けができるんです。八島湿原へはビーナスラインを経由すれば簡単に行けますわね。夜間なら人目がないし、死体の捨て場所にはうってつけです」
「発見されたのは、男の首だけかね?」
「今朝から、引きつづいて探させていますが、この様子では、首だけを捨てたもののようですわ」
「うむ。男の首と聞けば、ピンとくるわね。もしかすると、彬子の父親の竹岡和正の首ではにやぁがね?」
「お察しのとおりです。彬子に、いま、確認させたところです。彼女は、父親の首を見た途端に、わっと声をあげて泣くんです。つい、いましがた、婦人警官に頼んで、家まで車で送らせたばかりですけど……可哀相に、ただ一人の肉親だった父親を失えば、彼女は、この先、天涯孤独なんですのよ」
「なんとも気の毒によぉ。それにしても、彬子は、ひと目、見ただけで、父親の首だと言ったのかね?」
「はい。気温が低いために、腐乱は、あまり進んでいませんでしたから、容貌の判別は容易です」
「なるほど」
霧ヶ峰は、上昇気流がさかんだから、四季を通じて霧が発生する。
この時期も、朝夕ともなれば、突如として霧が湧き上がり、風に吹かれて押し寄せてくるから、用心しないと自動車事故の原因にもなりかねない。
赤かぶ検事は言った。
「やがて、霧ヶ峰は雪に覆われる。運が悪ければ、竹岡和正の首は雪に埋もれ、来年の春になるまで発見されずじまいに終わったかもしれんな」
「そうなんです。その点では運がよかったのかもしれません。少なくとも、わたしたちにしてみればね」
「うむ。いずれにしろ、その首は鑑定にまわさにゃならんな」
「そのつもりでいます。静岡県警の服部警部補に連絡をとり、あちらでDNA鑑定をしてもらったほうがいいと思うんです。そうすれば、田貫湖の変死体の胴体と同一人物か、どうか、わかりますものね。もし、同一人物のものだったなら、田貫湖の胴体は、まぎれもなく、竹岡和正のものだってことが確定するわけです」
「うむ。願わくば、ここで番狂わせが起こらんようにしてもらいたいもんだ」
「番狂わせと言いますと?」
「言わずと知れたことだ。田貫湖で見つかった死体のうちの胴体が、竹岡和正のものでなかったとすれば、これこそ番狂わせだ。捜査を最初からやり直さにゃならんのだからよぉ」
「おっしゃるとおりですわね。ところで、検事さん。彬子のことですけど、勤め先の農協で聞き込んだところによりますと、彼女は、父親のことをある程度知っていたみたいですわよ」
「どの程度、知っておったんだろう?」
「農協の同僚に、こんなことをもらしていたそうですわ……自分の父親は、東京で総会屋みたいなことをしているらしいって……それを知られると世間体が悪いから、秘密にしているんだとも話していたそうです」
「なるほど。『甲信電機』の株主総会で、四人組の責任が追及されないように工作する見返りとして、父親が不正な賄賂を受け取っておったことも知っておったんだろうか?」
「目下のところ、そういう聞き込みはありません。ですけど、今後の捜査しだいでは、もっと詳しい情報が入ってくるかもしれませんわ。ですから、目下、聞き込みに全力をあげるように捜査員たちを督励しています」
「そりゃ、ええことだわね。せいぜい頑張ってちょうよ」
「心得ていますわ。では、詳しい報告は、後ほど……」
「待ちなよ。これから、わしも、そっちへ行こうと思うんだが、どうだね?」
「まあ。もう、日が落ちますわ。わたしたちも、これから引き上げるところなんですのよ。いまから、検事さんがおみえになっても、どうということはないと思うんですけど……どうしてもとおっしゃるなら、お待ちしていますわ」
「わかった。そういうことなら、やめにしよう。詳しい報告は、あらためて聞かせてもらうでよぉ」
「承知しました。それじゃ、これで……」
行天燎子は電話を切った。
2
霧ヶ峰で見つかった男の首をDNA鑑定したところ、田貫湖の胴体は、予想どおり、竹岡和正のものであることが判明した。
田貫湖畔で発見された変死体のうちの胴体のDNAの塩基配列と一致したからだ。
「それだけじゃありませんのよ、検事さん。法医学鑑定の結果、死因が判明したんです」
鑑定結果を報告するために、長野地検松本支部をたずねてきた行天燎子は、静岡県警から送られてきた報告書を手にして、そう言った。
「竹岡和正の死因のことだろう?」
「はい。田貫湖畔で見つかった胴体からは、死因がわかりませんでしたが、今回、霧ヶ峰で見つかった首には、明らかに死因と見られる頭蓋骨の陥没が見つかりました」
「それが死因だと言うのかね?」
「はい。おそらく、金槌のようなもので頭部をメッタ打ちにされたんだろうと鑑定医は言っています」
「死後経過日数は?」
「これが問題なんですけど、一カ月以上経過しているのは間違いないと鑑定書には記載されていますわ」
「すると、竹岡和正が甲府市へ移り、アパート暮らしをしていたさい、配られたチラシを見て、『左利きの会』の電話番に応募した直後に殺害されたとみていいんじゃないのかね?」
「そのとおりです。ですから、竹岡和正を殺害した犯人は、十中八、九まで、『左利きの会』をデッチあげ、竹岡和正をおびき寄せた人物に違いありません」
「最初から、竹岡和正を殺《や》るつもりで、わざわざ、チラシを彼のアパートへ投げ込みやがったんだろう」
「そうに決まっています。近所へチラシを配ったのは、単なるカムフラージュですわ。端から、竹岡和正を狙ったのだと疑われないための偽装工作でしょう」
「うむ。いずれにしろ、犯人は依然として、どこかに潜伏しとるわけだ。ウロコさえも見せん」
「いいえ。必ず、犯人を突きとめてみせますわよ。こうなったら、わたしたちとしても、あとへは退けませんものね」
「女の意地≠チてわけだなも。何だか、そんなふうな歌謡曲があったと思うんだがよぉ」
「まあ。カラオケの話をしているんじゃありませんわ」
と行天燎子は、魅惑的な眼差しを赤かぶ検事に注ぎながら、きゅっと睨みつける。
思わず、赤かぶ検事は、ゾクッと甘い戦慄が体の中を駆けめぐったような気がした。
(おみやぁさん。そんな目でわしを睨むんではにやぁがね)
赤かぶ検事は、口にはできない言葉を胸の中でもらしながら、
「さて、残る問題はよぉ。一ノ瀬勝行の胴体だ。これが発見されないことには、犯人検挙はおぼつかない。そうだろう?」
「そのとおりです。一ノ瀬勝行を殺害した犯人と、竹岡和正を殺った犯人とは同一人物です。と言うより、主な狙いは、一ノ瀬勝行を葬り去ることだと思うんです。その動機や意図、あるいは殺害方法がわかると、犯人が身の危険にさらされるものですから、それを隠蔽するために、第二の殺人を犯したんです」
「竹岡和正を犠牲にした。そういうわけだなも?」
「はい。第一目標は、あくまでも一ノ瀬勝行を殺害することにあったんです。竹岡和正のほうは、巻き添えを食い、犯人の隠蔽工作に利用されただけです。わたしは、そう考えているんですけど、どうでしょう?」
「さあ、どんなものかな。わしの考えは、まだ、まとまっておらんのだよ」
「まあ、狡いわ、検事さん。逃げるんですもの」
「また、そんな目でわしを睨む。頼むから、そんなふうにわしを見つめんでくれよ」
「あら、ご迷惑でしたかしら?」
と行天燎子は、いたずらっぽい微笑を浮かべながら、にわかに気分を変え、生真面目な表情に戻った。
こういうときの行天燎子の素早い表情の変化も、彼女の魅力の一つだった。
「検事さん。何はともあれ、一ノ瀬勝行の胴体が見つからないことには、わたしたちとしても身動きがとれませんわね。そうでしょう?」
「うむ。悔しいが、それが現実だわね」
赤かぶ検事は、遠くを見つめるような目つきをして、すっかり考え込んでしまった。
その後、事態は一向に好転しなかった。
一ノ瀬勝行のものとおぼしき胴体は、発見されずじまいで、年を越した。
信州は、深い雪に閉ざされた。
もし、犯人が、一ノ瀬勝行の胴体を山間部へでも捨てたのなら、春になって雪解けの季節を迎えるまで発見される可能性は乏しい。
いや、いつまでたっても見つからないかもしれないのだ。
発見されたときには、もう白骨化して、誰のものか識別が困難になっているのではないか。
それを思うと、赤かぶ検事たちは、憂鬱でならなかった。
そうこうするうちに、予想もしなかった事件が起こった。
総会屋秘書の竹岡和正の一人娘である彬子の他殺死体が、凍りついた諏訪湖の湖面の氷の割れ目に浮かんだのである。
3
彬子の死体が諏訪湖に浮かんだと聞いて、赤かぶ検事は、急いで現場へ駆けつけた。
もう、死体は引き上げられた後で、検視もすんでおり、担架に乗せられた死体が警察のワゴン車で運び出されようとしていた。
現場の捜査を指揮していた行天燎子が、赤かぶ検事を見ると、ワゴン車のほうへ駆け寄ってくる。
「検事さん。いま、ここで仏さんをごらんになりますか?」
「一目、見ておくとするか。いずれ、解剖の結果については鑑定書を読むとしてもよぉ」
「それじゃ……」
行天燎子は、捜査員に命じて、担架を下へ降ろさせた。
付近は立入り禁止になっているから、居合わせるのは、捜査関係者だけだった。
「うむ……絞殺だなも。頸部にくっきりと索条痕が残されておる」
「そうなんです。凶器は見つかっていませんが、刑事官の意見によりますと、ビニールヒモのようなもので絞め殺したんじゃないかと……例えば、包装用のありふれたビニールヒモかもしれませんしね」
「同感だわね。どこにでも身近にあるヒモを凶器として使ったのなら、そこらあたりに捨てられておっても見逃してしまうだろう。絞殺なら血痕はついておらんだろうからよぉ」
「はい。凶器の特定はむずかしいですわね」
「それにしても、可哀相にな……父親に次いで、娘までが殺害されるとはよぉ」
赤かぶ検事は、蝋人形のように生気のない死に顔を見つめながら溜息をもらす。
行天燎子は言った。
「検事さん。ごらんのように、化繊のワンピースを着ていますわね。ストッキングも、それに下着も、すべて身につけていますし、レイプされた形跡もありません」
「うむ。動機は、たぶん、これまでの一連の事件と深くかかわっておるに違いにやぁでよぉ」
「そのことについて、ちょっとした引っかかりがあるんです。その点を裏づけるような情報も入っているんですのよ」
「ほう。早くも、ネタをつかんだか?」
「いえね、彼女の自宅を捜索した捜査員の報告によりますと、家の中が荒らされていることがわかったんです」
「ひどく荒らされておったのかね?」
「そうでもないんですが、何かを探しまわった形跡はあるらしいんです。いずれにしても、わたし自身が丹念に見分するつもりでいます」
「そうしてちょ。何かを探したらしいと言うが、いったい、目的は何だったろうな」
「これは、想像にすぎませんけど、犯人にとっては、命取りになるようなものだったのかもしれませんわね」
「例えば?」
「彬子は、大物総会屋の秘書だった男の娘なんです。だから、秘密の書類なんかを父親から預かっていたのかもしれませんわね」
「いよいよ、事件の背景が込み入ってきたなも」
「はい。犯人は、最初のうち、彼女との話し合いで秘密書類か何かを手に入れようとしたんでしょうけど、結局、拒否されたために殺してしまったのかもしれませんわね。そのあとで家の中を引っ掻きまわしたんでしょう。いずれにしろ、彼女とは顔見知りの人物の犯行じゃないでしょうか。と言いますのは、捜査員の報告によりますと、自宅の表戸には、きちんと鍵が掛かっていたそうですから……ところが、彼女自身は、家の鍵を所持していないんです。だいいち、自分の都合で外出したのなら、女性のことですから、バッグの一つくらいは持って出るはずです。それが見つかっていませんし、家の中には、彼女が、いつも持ち歩いていたバッグが残されたままになっていたんですのよ。もちろん、そのバッグの中に家の合鍵はありませんでした。ですから、犯人は彼女を殺したあと、鍵を奪い、表戸に施錠して外へ出たはずです」
「すると、殺害場所も、たぶん、家の中だろうな」
「はい。家の応接室の椅子の位置が乱れ、揉み合ったらしい形跡があるんです。犯人は、そこで彼女を殺したんだと思います」
「その直後に、死体を車か何かで運び出し、諏訪湖へ捨てた。そういうことだなも」
「はい。実を言いますとね、検事さん。今朝、服部警部補からの連絡で知ったことなんですが、彬子の父親の竹岡和正が暮らしていた甲府市のアパートに何者かが侵入し、やはり、部屋を掻きまわして、何かを探したらしい形跡があると言うんです」
「ほう。そいつは聞き捨てならんな」
「そうなんです。そのアパートの部屋には、竹岡和正がいなくなってからも、ずっと、身のまわりの品なんかを置いたままにしてあったそうです。家主にしてみれば、三カ月分の家賃相当の保証金を受け取っていることだし、彬子が亡父の身のまわりの品を引き取ってくれない限り、当分、そのままにしておくよりほかないと考えていたようですわ」
「うむ。侵入者が、いったい、何を探そうとしていたか、やはり、これが気になるな」
「そのとおりですが、たぶん、竹岡和正のアパートには、目的のものが見つからなかったんだと思いますわ。だから、娘の家に置いてあるんじゃないかと見込みをつけ、彬子の家へ乗り込み、結局、彼女を殺してしまったんでしょう」
「うむ。そこらあたりが真相に近いだろうな」
赤かぶ検事は、思案深げな顔をして、彬子の死体を乗せたワゴン車が遠ざかるのを見送っていた。
見渡すと、湖面はびっしりと凍結していたが、コハクチョウが集まっている岸辺のあたりだけは、氷が溶けていた。
行天燎子の説明によると、彬子の死体が浮かんだのは、その一角だという。
コハクチョウの餌づけをしている愛鳥家が、今朝方、餌箱を抱えて、そこへやってきたとき、何やら赤い布切れのようなものが浮かんでいるのを見て、不審に思い、たぐり寄せてみると、どうやら人の死体であるらしいと知り、驚いて一一○番したそうだ。
赤っぽい布切れと見えたのは、彬子が着ていたワンピースだった。
そのワンピースが、彼女の普段着であったことも判明している。
いずれにしろ、この寒い信州の冬場に、コートも着ないで外出すること自体がおかしい。
実際、常日ごろ、彼女が着用していたコートは、家に置いてあったのだ。
そのことからも、彼女が家の中で殺害され、死後に諏訪湖へ運ばれたことがわかる。
今年の冬は、寒波の襲来で異常に気温が下がり、一月に入ると、湖面が氷結し始めた。
その凍りついた湖面に穴を空け、ワカサギ釣りをしている人の姿が、ちらほら見える。
「検事さん。ここへきておられたんですか?」
声が聞こえたほうを振り返ると、車を降りたばかりの行天珍男子の姿が目に入った。
この事件は、彼が所属する諏訪警察署と行天燎子が捜査係長を務める松本警察署とが互いに協力し合って捜査する方針が決まっていた。
「検事さん。われわれのほうにも、興味ある情報が舞い込んできたんですよ。実を言うと、未亡人の静代のことなんです」
それを聞いて、妻の燎子が、ちらっと詰るような眼差しを夫に投げかけながら、
「あなたったら、毎日のように、未亡人の静代をつけまわしているみたいね。捜査のためだと言うんでしょうけど、それは名目にすぎないんじゃない? ほんとうのところは、彼女のことが気になって仕方ないんでしょう?」
「煩いやつだな。こっちは、あくまでも仕事でやってんだから……」
「よしなよ。こんなところで夫婦ゲンカなんて、みっともにやぁでいかんわ」
赤かぶ検事は、二人をたしなめておいて、
「何はともあれ、興味ある情報とやらを聞かせなよ。未亡人の静代がどうだと言うんだね?」
と行天珍男子を急きたてた。
鈍色の雪空が低く垂れ込め、いまにも激しく雪が降り出してきそうだった。
信州の冬は、これだから油断がならない。
灰色の空が急に暗くなったかと思うと、大粒の雪が雪崩のように激しく降り注ぐこともある。
赤かぶ検事は、空を見上げながら、行天珍男子の報告を待った。
「検事さん。未亡人の静代が彬子の家へ入るところを人に見られているんですよ。どうです、ちょっとした情報でしょうがね?」
「静代が彬子をたずねて行ったのか?……いったい、いつのことだ?」
「日曜の夜です」
「すると、静代の勤め先のクラブが休みの日だなも」
「そうです。ちょうど、三日前の夜というわけですよ。どういうつもりで静代が彬子をたずねたのかはわかりませんがね」
「そんなことより、静代が彬子をたずねたこと自体が問題だわね。これまで、二人は、互いに面識さえもないはずだと、われわれは思い込んでいたんだからよぉ」
「そうなんです。いずれにしろ、これで、二人の間に何かあったらしいと考えてよさそうですよね」
「うむ。静代の姿を見たという目撃者は、どういう人物だね?」
「静代のクラブの常連客です。地元のバス会社の課長なんですよ。よく、その付近を通ると言っていました。勤め先からの帰り路でもありますから……」
「静代に声をかけたんだろうか? その目撃者はよぉ」
「声をかけようと思ったらしいですけど、すーっと、その家の中へ消えてしまったとかで……とにかく、静代の姿をそんなところで目撃したのは、そのときが初めてだったと言っていました」
このとき、行天燎子が口をはさんだ。
「検事さん。刑事官の話によりますと、死体の死後経過時間は、三日ないし四日だと言うんです。そうなりますと、静代が彬子の家をたずねた時期と、ほぼ一致しますわね」
「まあな。ただし、それだけのことで、静代が彬子を絞殺した犯人だなんて決めつけるわけにはいかんがよぉ」
行天珍男子が言った。
「検事さん。もう一つ、おもしろいネタがあるんですよ。と言うのはですね、静代は、最近まで自分のマンションで鸚鵡を飼っていたらしいんですよ。真っ赤な羽根の鸚鵡だったそうです」
「それ、ほんとか?」
「はい。ホステス仲間が、彼女のマンションをたずねたとき見たんだそうです。静代は、その鸚鵡をまるで自分の子供のように可愛がっていたとか……」
「現在は、もう、おらんのか?」
「いつの間にか、いなくなっていたので、『あの鸚鵡、どうしたの?』と聞いたところ、静代は急に涙ぐみ、何も答えてくれなかったそうです。ですから、たぶん死んでしまったんだろうと思っていたとかで……鳥籠も、そのころには、もう、なかったそうです」
「いつごろのことだね?」
「よくはおぼえていないが、たぶん、九月か十月ごろだったと言っていました」
「そういうことなら、田貫湖畔で、一ノ瀬勝行の首と竹岡和正の胴体とが発見された時期とも合うな」
「そうです。何か、関係があるのかもしれませんね。鸚鵡がいなくなったことと、この殺人事件とが……」
このとき、行天燎子が夫を厳しい目で見つめながら、
「あなた、何を言ってるのよ。大いに関係あるわよ、鸚鵡とね。だって、あの死体の左手には、『富士山麓にオウム鳴く』というダイイングメッセージを書いた紙片が握られていたのよ。左手なら胴体の一部よね。と言うことは、彬子の父親の竹岡和正の左手だったことになるわけよ」
「そうだなも。いいことを言ってくれた。うっかりしとったよ」
赤かぶ検事は、ちょっと驚いた顔をして行天燎子を見返した。
そのダイイングメッセージは、一ノ瀬勝行のものではなく、竹岡和正のメッセージだったのだろう。
やがて、司法解剖の結果が判明した。
それによると、彬子の死因は、やはり絞殺。
殺害されたのは、刑事官の見込みどおり、三日ないし四日前という結論だった。
ほかに、これと言って目新しい情報は、解剖の結果によっても得られなかった模様だ。
4
行天燎子と夫の行天珍男子は、それぞれのチームを率いて、未亡人の静代の身辺を探ったり、聞き込みに全力をあげた。
彼女が、一連の事件の犯人であるか、どうかは別として、何らかの秘密を握っている可能性が強いと赤かぶ検事も睨んでいた。
もしかすると、彬子が殺害された事件に、静代自身が何らかの関わりをもっているのかもしれない。
いずれにしろ、すでに、三人の人間が殺害されているのだから、のんびり構えてはいられない。
赤かぶ検事としても、この事件にばかり関与することはできない。起訴ずみの事件の法廷にも立ち会わなければならないし、管轄下の各警察署から送られてくる身柄事件も処理しなければならず、あれやこれやで多忙をきわめた。
そうしたころ、思いがけない訪問客があった。
ちょうど、窃盗犯の取調べを終わり、ほっと一息ついたところだった。
「検事さん。一ノ瀬静代が下へきているんですよ。折り入って検事さんに話がしたいことがあるとかで……」
そう言って、受付の検察事務官が、庁内電話で赤かぶ検事の執務室へ連絡をとってきた。
「何だと? 未亡人の静代がきているだって……」
いったい何の用だろうと訝りながらも、赤かぶ検事は、
「いいわね。上がってもらってちょ」
と告げた。
電話を切って間もなく、ドアをノックする音がして、和服姿の静代があらわれた。
(なんと、驚いたなも)
赤かぶ検事は、眩しげに静代を眺めやった。
和服を着せたら、さぞかし艶やかに引き立つことだろうと思ってはいたが、まさに、そのとおりだ。
目鼻だちが端整で、ふっくらと丸みのある日本女性特有の容貌でありながら、どことなしに、エキゾチックな雰囲気を漂わせている風情が、何とも言いようのない魅力になっていた。
「おみやぁさん。そんなところに立っとらんと、こっちへきて座りなよ」
赤かぶ検事は、ともすれば顔の筋肉が緩んできそうになるのを懸命に堪えながら、とりすました顔をして言った。
「それでは、失礼します」
彼女は、裾さばきの秘めやかな音を響かせながら、楚々とした態度で、デスクの傍へ寄ってきた。
「折り入って話があるそうだが、いったい何だね? 遠慮なく話しなよ。わしは、見てのとおりの野暮天だから、気を遣わんでちょうよ」
彼女は、赤かぶ検事の言葉遣いがおかしかったのか、ちょっと唇を綻ばせる。
そうした仕種が、狂おしくなるほど愛くるしい。
彼女は、しばらく逡巡していたが、やがて、顔を上げ、黒く濡れたように輝く瞳を赤かぶ検事に向けながら、
「近ごろ、わたしのマンションの住人や勤め先のホステス友達の間を刑事さんがたずねまわり、いろんなことを聞き出しておられるらしいんです。その人たちの目からすれば、わたしが何か悪いことをして警察に目をつけられているように見えることでしょう。そんなの心外でなりませんわ。なぜ、あんなことをなさるんでしょうか?」
ふと見ると、彼女の瞳にうっすらと悔し涙が浮かんでいる。
これには、さすがの赤かぶ検事も辟易した。
(こいつは、えりやぁことになったなも)
赤かぶ検事は、進退きわまった。
警察の捜査方針を後押しするようなことを言えば、彼女は泣き出すに違いない。
だからと言って、警察が彼女を捜査の対象にするのは間違ったことだから、やめるように説得しようなんてことも言えない。
どうしたものかと思案しながら、赤かぶ検事は、
「こんなことを言えば、責任逃れのように聞こえるかもしれんがよぉ、そういう苦情をわしのところへ持ち込んでこられても、どうにもならんのだよ」
「どうしてですか? 捜査を指揮しておられるのは、検事さんじゃないんですか?」
「そりゃ、まあ、指揮権はあるが、何と言っても、検察庁と警察とは別の官庁だからよぉ。だいいち、聞き込みにまわっておる連中は、わしの部下でもないんだから……」
「それじゃ、どうにもならないと、そうおっしゃるんですか?」
いまにも、声をあげて泣き出しそうな気配だ。
赤かぶ検事は、ほとほと困り果てた。
「言っとくがよぉ、おみやぁさんが犯人だとか、容疑者であるとか、そんなふうなことではないと思うんだ。ただ、おみやぁさんについては、いささか気になる事実があってな」
「それ、どういうことですか?」
「例えばだ。先週の日曜の夜、おみやぁさんは、竹岡彬子の家をたずねて行ったろう。どうなんだね? これは事実だろうがね」
そう言ってやると、彼女はハッとしたかに見えた。
「どうなんだね? 彬子の家へ行ったんだろう? それとも、おみやぁさんを見たという目撃者が嘘をついたのかな?」
水を向けると、彼女は、観念したように視線を伏せ、膝の上に乗せた自分の手を見つめていたが、やがて、こう言った。
「あの日、彬子さんの家をたずねたのは間違いありません。でも、結局、話し合いができず、物別れになってしまいました」
「何のための話し合いだね?」
「何と言いますか……あの方が、わたしたち兄妹三人の悪口をあちこちで言いふらしておられるのを聞きまして、心外でならず、やめてくださいとお願いに上がったんです」
「どういう悪口を?」
「そりゃ、もう、ひどいんです。彬子さんのお父さんの竹岡和正さんを殺したのは、わたしたちだって……『左利きの会』というのをデッチあげて、竹岡さんを誘い込み、殺してしまったんだと……」
「すると、おみやぁさんたち三人の兄妹が共謀したと、そう言ったんだな?」
「そうなんです。証拠もあるって……」
「どういう証拠だろう?」
「『左利きの会』が、面接場所に使っていた部屋のことですけど……雑居ビルの三階だったそうですが、その部屋の鍵を受け取るために、家主さんのところへあらわれたのは、わたしの妹の真由美に違いないって……」
「うむ」
確かに、鍵を受け取るために家主のところへきたのは、若い女だったという聞き込みがあった。
行天燎子も、そう言っていた。
しかし、若い女であったというだけで、それが真由美であったか、どうか、確認されていない。
「そればかりじゃありませんのよ、検事さん。『左利きの会』の責任者だと称して彬子さんのお父さんの竹岡和正さんと面接したのは、わたしの兄の良武ですって……まるで、彬子さん自身が、その現場を見たようなことを言いふらしておられたんです」
「それは初耳だなも。そういう情報は、警察にも入っておらんのだがよぉ」
実際、そのとおりだった。
もし、そういう噂を彬子が流していたとすれば、いずれは静代の耳に入ったことだろう。
事実、静代は、その噂を聞いたというのだ。
(調べてみにゃならんな)
赤かぶ検事は、そう思った。
そういう噂が流れているのを静代たち三人の兄妹が知ったなら、憤慨するのは当然だ。
しかし、その噂どおりの事実が存在したなら、どうなるか。
その噂が刑事の耳に入れば、静代たち兄妹が疑いの目を向けられる。
静代たちにしてみれば、捨ててはおけなかったろう。
噂が広がる前に、その根源を断つ決意を固め、彬子の殺害を図ったとも考えられなくはない。
(いや、待てよ)
赤かぶ検事は、自問した。
ほんとに、静代たち兄妹が竹岡和正を殺害したのなら、いま、この時期に、静代が検察庁をたずね、警察の聞込み捜査をやめさせてもらいたいなどと苦情を言いにくるだろうか?
そんなことをすれば、ヤブヘビではないか。
赤かぶ検事は言った。
「聞くがよぉ。おみやぁさんが、今日、ここへくるのを長男の良武さんや次女の真由美さんは知っとるのかね?」
「いいえ、わたしの独断で参りました。兄や妹には相談していません。だって、そこまでする必要はありませんから……それに、相談すれば、必ず、賛成してくれるはずですわ」
「なるほど。おみやぁさんの言うとおりかもしれんな」
赤かぶ検事は頷く。
「検事さん。彬子さんは、こんな噂も流していたんです。主人の一ノ瀬勝行を殺したのも、わたしたちだって……つまり、私たち兄妹は、自分の主人と竹岡和正さんとの二人を殺し、首と胴とを入れ替えて、田貫湖畔へ捨てたんだと……」
「そりゃ、まあ、事件の噂がこうも広がってしまえば、このときとばかりにマスコミが好き放題に騒ぎたてる。たぶん、彬子は、そういうマスコミのガセネタに踊らされ、おみやぁさんたち兄妹の噂をまことしやかに流したんだろうよ」
赤かぶ検事に慰められて、彼女は、いくぶん気分が安らいだらしく、だんだん穏やかな表情に戻ってきた。
これを機会に、赤かぶ検事は、彼女から、極力、情報を引き出す腹を決めた。
「飛んで火に入る夏の虫」と言うが、出頭を求めるまでもなく、彼女のほうからやってきたのだ。
呼ばれもしないのに姿を見せたところが、いささか気にはなるが、チャンスであるのは確かだ。
「おみやぁさん。余計なことかもしれんが、母親はどうしたんだね? 一向に、その話を耳にせんが、さしつかえなければ話してちょうよ」
5
静代は言った。
「母は、私が小学校五年生のときに病死したんです。まだ若いのに心臓が悪くて、入院と退院を繰り返していたんですけど、とうとう……」
と静代は、俯いたかと見ると、袂からハンカチを取り出し、目頭を押える。
母親の臨終の様子が、ふと、眼前に思い浮かんだのだろう。
「そりやぁ気の毒によぉ。そのころなら、兄の良武さんは中学生で、妹の真由美さんは、小学四年生くらいだったはずだがよぉ」
「はい。その後の父は、そりゃ、もう、たいへんだったと思います。勤め先は、いまと変わりなく『甲信電機』でしたが、幸いにも、そのころは、松本工場に勤めていましたので、親子四人が松本の実家で暮らすことができました。それが、わたしたち家族にとっては、まだしもの救いだったと思います」
「その実家というのは、現在、兄の良武さんや妹の真由美さんが住んでおる家のことだね?」
「はい。わたしは、言うなれば出戻りですから、実家へは戻りにくくて、松本市内にマンションを借りて暮らしております。兄や妹たちは、『遠慮しないで実家へ帰ってきなさい』と言ってくれるんですけど、やはり、そうもいかなくて……」
「そんなものかな」
赤かぶ検事は、適当に相槌を打ってはいたが、胸の内では別のことを考えていた。
静代には、男がいることがわかっている。
尾崎崇と言い、静代より六つ年下だった。
尾崎は、大学で空手をやっていた関係で、腕っぷしが強く、体格もがっしりしていた。
竹を割ったように真っ直ぐな性格で、融通のきかない質だという。
もともと曲がったことが嫌いだから、そういうのを見聞きすると、黙ってはいられないらしく、まるで、自分こそが正義の味方であると言わぬばかりに、闘争心を剥き出しにするらしい。
言うなれば、尾崎は、直情径行型の単純な男であるようだ。
尾崎は、静代が勤めている「あずみ」というクラブで、バーテンのアルバイトをしていたことがあった。
そういう関係で、静代と親しい間柄になったのだが、彼女に対しては、みずから進んで、忠実な下僕を買って出るようなところがあり、そのために、しばしば店でトラブルが発生した。
例えば、酔客が静代にからんだりするのを見ると、尾崎は我慢ができないらしく、傍へやってきて、客をたしなめたりする。
そんなことからトラブルになり、尾崎が客を殴りつけた事件があった。
それ以来、尾崎は、クラブをクビになり、ほかの店で働くようになったと聞くが、静代との関係は、あいかわらず、つづいているらしい。
静代にしてみれば、たぶん、尾崎が弟のように可愛く思えるのかもしれない。
諏訪警察署の行天珍男子が部下の刑事に命じて調べさせた結果、およそ、このような事実がわかってきたのである。
静代が、実家で暮らさず、兄妹たちと同居するのを避けているのは、おそらく、尾崎のことがあるからだろう。
いまでも、尾崎は、週に二回くらい、松本市にある静代のマンションへ泊まりにくるらしい。
何しろ、静代は、「あずみ」ではナンバー1のホステスで、言い寄ったり、口説いたりする常連客は数知れない。
それにもかかわらず、彼女が、尾崎以外に男を作ろうとしないのは、察するところ、金銭のからまない商売抜きの男関係を望んでいるからではないか。
それとも何かの目的のために、尾崎の忠誠心≠ニ腕力を利用する魂胆なのか。
相手が、直情径行型の尾崎なら、それも可能だろう。
赤かぶ検事は言った。
「さて、先ほどの話のつづきを聞かせてもらえんかな。おみやぁさんが、一ノ瀬勝行の後妻におさまったのは、どういう経緯からだね? いや、言いたくなければ、それでもええんだがよぉ。無理にとは言わんから……」
「いいえ。別に、隠すことじゃありませんから……何でも聞いてくださって結構です。だって、もうすんだことですもの」
「うむ。一ノ瀬勝行は、おみやぁさんの父親の城戸日出雄より十三歳年下の上司であり、かつ、常務取締役総務部長という重責を担っておった。その一ノ瀬におみやぁさんを嫁がせた父親の城戸日出雄の心境は、いったい、どういうものだったのかな?」
「それは、たぶん、父が一ノ瀬を尊敬していたからだと思います。四十代半ばの若さで、上場会社の常務取締役に抜擢されたんですから……」
「おみやぁさん自身は、どうだった? 一ノ瀬と結婚するについて、不安はなかったのかね?」
「わたしは単純な女です。あの方ならと父が太鼓判を押してくれましたので、素直に、父の言いつけに従ったまでです」
「おみやぁさん。そんな言い方はないだろう? 結婚は就職じゃないんだからよぉ」
「そりゃ、そうですけど……わたしとしては、もう年ですし、いつまでも独りでいるのも嫌でしたから……それに、一ノ瀬は、見るからに活力に満ち、バリバリ仕事をやっているようでした。わたしには、たいへん、魅力的な男性に思えましたし、やさしい人のように見えましたわ。つきあっている間のことですけど……そんなことから、彼と結婚する決心を固めたんです」
「ところが、二年間で別居しておるなも。これは、どういうわけだね?」
「あの人ったら、早くも女をつくり始めたんです。わたしを愛してくれていたのは、ほんの一年ばかりの間にすぎませんでした。父は、ある程度、一ノ瀬の浮ついた性格を知っていたようですが、わたしと結婚すれば、一切、浮気はしないと父に誓ったというんです。だから、父も気を許したんだと思いますわ。遊び馴れた男ほど、結婚後は、けじめをつけて、家庭をしっかり守ると言いますでしょう。それなのに……」
「おみやぁさんの気持ちはわかる。ところで、城戸日出雄が留置場で自殺した事件だがよぉ。事件を知って、おみやぁさんはどう思った? そのときの気持ちを率直に聞かせてもらえんかね?」
「あのころ、父は、東京へ転勤していましたから、わたしたち三人兄妹は、事件の経緯なんかをほとんど知らなかったんです。ですから、突然の出来事に、わたしたちは大変なショックを受けました」
「総会屋の森戸辰次郎の秘書だという竹岡和正に対して、二千万円の賄賂を贈ったことが発覚したために、城戸日出雄は警視庁に逮捕されたわけだが、その時点では、少なくとも、一応の事情を知っておったわけだろう?」
「わたしたちには、なぜ、父が逮捕されなければならないのか、納得できなかったんです。だって、会社のためにしたことですし、父は、会社の上層部から言われて、お金を運んだだけなんです。それなのに、会社の重役たちは、父を矢面に立たせ、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたんです。だいいち、総会屋にお金を渡すことが賄賂になるなんて……そんな法律があったとは信じられませんでした」
「その事件について、夫の一ノ瀬勝行は、どう言っておった?」
「もう、そのころ、一ノ瀬とは別居していましたが、離婚に踏み切る決心まではついていなかったんです。少なくとも、わたし自身は、そうでした。一ノ瀬は、そうじゃなかったと思いますけど……いまから考えると、総会屋の事件の解決がつくまでは、父の気持ちを踏みにじるようなことはできないと一ノ瀬は思っていたらしいです。だって、もし、父がですよ、一ノ瀬ら重役の指示によって、総会屋を抱き込むために賄賂を渡したなんて警察で自白すれば、それこそ、一ノ瀬たちの命取りになりますもの。実際、警察は、そこを狙って父を勾留していたんです。とにかく、そんな事情ですから、父が勾留されている間、一ノ瀬は戦々恐々としていました。父の弁護人も一ノ瀬が世話しているんです。もちろん、弁護費用は、もっと上のほうから出ていたんでしょうけどね。例えば、筆頭常務の塚脇さんとか、専務の栗原さんとかから……」
「おみやぁさんの父親が、一ノ瀬の名前を口にすれば、当然に、その上司である筆頭常務の塚脇や専務の栗原なんかにも警視庁の追及の手が伸びる。やがて、社長の植野にも疑いがかかり、とどのつまりは、全員がぞろぞろと数珠つなぎに逮捕される。警視庁としても、最終的には、そこまでやらないことには収まりがつかなかったはずだがよぉ」
「ですから、父は、必死になって一ノ瀬や上司の二人の重役、植野社長たちを庇いだてしたんです。でも、毎日のように、刑事から厳しく取り調べられ、最後には、我慢ができなくなり、思い余って、首を吊り自殺してしまったんです」
静代は眼を潤ませていた。
赤かぶ検事は、しんみりとなって、
「刑事の厳しい追及にさらされながら、四人の重役や社長を庇わなくちゃならないという責任感との板挟みになり、その苦しみから逃れようとして、遂に、みずからの命を絶った。そうだなも?」
「はい。こういう事件が起こると、会社なんて、ほんとに冷たいものだと、わたしたち兄妹は、つくづく思い知らされました。惨めな気持ちにもなりました。だって、父は、必死になって、会社のために尽くしてきた人なんですのよ。あの事件にしても、一ノ瀬をはじめ重役たちは、汚ない仕事を全部、父に押しつけ、自分たちは、一切、表に出ようとしなかったんです。それにもかかわらず、父は、不満の言葉一つも口にしないで、ただ黙々と動きまわり、神経をすり減らして、一ノ瀬をはじめとする重役や社長の保身のために、誠心誠意尽くしたんです。でも、警察が捜査に乗り出したと知ると、これまでの態度をガラリと変え、社長以下の重役たちは、責任逃れに汲々として、すべての罪を定年間際の父に押しつけ、知らぬ存ぜぬを決め込むんですものね。父としては、すべてを自白して、自分が楽になったほうが、よっぽど救われたと思いますわ。でも、父の性格から言って、それはできなかったんです。だからこそ、みずから命を絶って、苦しみから逃れようとしたんです」
「うむ。おみやぁさんの父親が犠牲になったおかげで、夫の一ノ瀬は言うに及ばず、社長をはじめ、重役たちは、のうのうと暮らしていけたわけだよな」
「そうなんです。いったい、誰のおかげだと思っているんでしょうか。それを思うと、悔しくて……」
彼女は、唇をきつく噛みしめ、涙を堪えている。
赤かぶ検事は言った。
「一ノ瀬勝行のことへ話を戻すがよぉ。おみやぁさんの父親が自殺した直後に、一ノ瀬は、おみやぁさんに対して、離婚を迫ったそうだなも?」
「はい。これだけやるから、離婚届にハンコをついてくれだなんて言って、五百万円の札束を裸で目の前に置くんですもの。わたし、腹が立って……その札束で一ノ瀬の顔をひっぱたいてやりましたわ。バカにしないでって叫びながら……」
彼女は、とうとう我慢できずに、声を詰まらせ、噎び泣いた。
いずれにしても、彼女たち三人兄妹の父親であった城戸日出雄が、もっぱら上司への忠誠心から、みずからの口を封じるべく、命を絶ったのだ。
そのおかげで、夫の一ノ瀬を含め、植野社長や、筆頭常務の塚脇、専務の栗原らの四人組≠ヘ、無事に株主総会を切り抜け、安閑と暮らしていられたのである。
なかでも一ノ瀬は、義父の城戸日出雄のおかげで、上司への顔が立った。
にもかかわらず、その後の静代に対する仕打ちは、それこそ無情と言うよりほかない。
そんな情け知らずの一ノ瀬勝行への憎しみが、静代ら兄妹の心の中に深い傷痕を残し、やがては憎悪の炎となって燃えあがったであろうことは察するにあまりある。
6
赤かぶ検事は、こう思った。
少なくとも、犯行の動機の点からすれば、静代が愛人の尾崎崇と共謀のうえ、一ノ瀬勝行を亡き者にした可能性は捨て切れない。
あるいは、この企みに長男の良武や妹の真由美が、やはり、共犯として深くかかわっていたのかもしれない。
(いや、待てよ……一ノ瀬勝行の殺害だけではすまないのかもしれんでよぉ)
まさかとは思うが、一ノ瀬勝行に引きつづいて、残りの二人の重役や社長の植野たちまでが、順次、葬り去られていくのではないかという不吉な予感に赤かぶ検事はとらわれた。
目下のところ、静代ら三人の兄妹たちが、殺人罪を犯したという確実な証拠は、何一つ見つかっていないのである。
彼らへの疑いは、状況証拠と推測の積み重ねにすぎないのだ。
これでは、どうにもならない。
赤かぶ検事は、静代に言った。
「おみやぁさん。話は変わるが、鸚鵡を飼ったことがあるかね?」
「えっ?……」
彼女の視線が宙を泳ぐ。
「おみやぁさん、赤い羽根の鸚鵡を飼っておったんじゃないのか?」
赤かぶ検事は語気を強めた。
彼女の眼差しは、あらぬところへ注がれたままだ。
どう答えるべきか、迷っているのだろう。
と見ると、急に、彼女は破顔して、
「あの鸚鵡のことですか。ええ、飼っていましたわ。でも、あれは、わたしのペットじゃないんです。お隣りの方が引っ越しなさるときにいただいたんです。可哀相に、しばらくすると死んでしまいましたわ。ぐったりとなって、鳥籠の中で死んでいる鸚鵡を見て、わたし、息が詰まりそうでした。それ以来、ペットは飼わないことにしているんです」
このとき、デスクの庁内電話が鳴った。
受話器を上げると、受付の検察事務官の声がした。
「検事さん。一ノ瀬静代の兄の良武が妹の真由美と一緒にきているんですがね。なぜか知りませんけど、良武は、ひどく興奮しているようです。何か、あったんじゃないでしょうか?」
「わかった。通してちょ」
赤かぶ検事が電話を切って間もなく、執務室のドアを蹴破るようにして、若い男が飛び込んできた。
それが、兄の良武だった。
そのあとから、おずおずと様子を窺うような態度で、妹の真由美が姿を見せた。
彼女はドアの陰に立ち、臆病そうな目をして、こっちを覗いている。
静代は、弾かれたように立ち上がり、小さく叫ぶ。
「まあ、兄さんたち……いったい、どうしたっていうの?……わたしがここにいるってことが、よくもわかったわね」
しかし、良武は、返事もしないで、静代の傍へ駆け寄ると、その腕をつかんだ。
「帰ろう。こんなところに用はない。おれたちは、何も悪いことをしていないんだから……警察や検察庁へ呼ばれることもないんだよ。さあ、出るんだ」
静代は、取り乱した兄の腕を振り切って、
「そんな態度、検事さんに失礼だわ。わたし、自分からここへ出頭してきたのよ。呼びつけられたからじゃないわ。どうして、わたしが、ここにいると思ったの?」
「勘だよ。いつか、言ってたろう。そのうちに、きっと、警察や検察庁へ呼ばれるに違いないって……お前のマンションへ行ってみたら、留守だったから、てっきり、警察だと思ったんだけど、警察にはきていないって言うから、ここに違いないと見当をつけたのさ。さあ、帰るんだ」
城戸良武は、強引に静代の手首をつかみ、部屋の外へ連れ出そうとする。
静代は拒んだ。
「やめなさいよ!……痛いじゃないの!……とにかく、その手を離して……」
静代は、良武をたしなめておいて、赤かぶ検事に向き直ると、
「検事さん、申しわけありません。こんな失礼なことになってしまって……でも、兄を悪く思わないでください。何かあると、興奮する質なんです」
「いったい、何があったんだね?」
と赤かぶ検事は、良武に声をかけたが、返事はない。
良武は、憎悪に満ちた目で赤かぶ検事を睨んでいる。
それを見て、静代は、慌てふためきながら、兄を急き立て、挨拶もそこそこに立ち去った。
ドアのところで待っていた妹の真由美は、赤かぶ検事に向かって、ぎこちなく頭を下げてから、背を向けた。
(妙な男だな。良武ってやつはよぉ)
良武が神経過敏になっているのは疑うべくもない。
いったい、なぜなのか。
その理由がわかれば、大いに捜査に役立つはずだと赤かぶ検事は思った。
7
「おや。誰かと思ったら、葉子ではにやぁがね。突然、こんなところへくるなんて、いったい、どういう風の吹きまわしだ?」
赤かぶ検事は、長野地検松本支部をたずねてきた娘の葉子を見て、ちょっと驚いた。
とは言うものの、ここしばらく、娘に会っていなかったものだから、なつかしいやら、嬉しいやらで、赤かぶ検事は、いささか興奮気味である。
「昨日から、松本へきているのよ」
葉子は、コートを脱ぎながら、父親に笑顔を向ける。
葉子のグレイのスーツの胸には、弁護士バッジが輝いていた。
実を言うと、葉子は名古屋に事務所をかまえる弁護士だった。
弁護士としては、もう一人前のキャリアを積んではいるが、いまだに独身である。
たぶん、そういうのが、葉子の生き方なのだろうと、思ってみたりもするが、赤かぶ検事にしてみれば気が気でない。
葉子が、結婚の相手に恵まれないのかと言うと、必ずしも、そうではなさそうだ。
これまで、何人かの恋人もいたらしいが、結局、結婚に踏み切れないまま、今日まで経過していた。
近ごろは、自分の事務所の仕事が忙しいものだから、デートなんかしている暇がないのかもしれない。
赤かぶ検事は言った。
「昨日から、松本へきているだって? それなら、家へ寄ってくれりゃええのに……たまには、春子にも顔を見せてやってちょうよ」
「お母さんには会ってきたわよ。その足で、ここへきたんだから……」
「ずいぶん気忙しい話だなも。せめて、今夜だけでも、家に泊まってくれりゃあええのによぉ」
「悪いけど、ホテルを予約してあるのよ」
「そりゃ、また、どうしてだね? わしたちの官舎は、昔の武家屋敷だもんだで、広々としていて、空部屋がたくさんあるでよぉ。もっとも、古い家だから、多少とも不便なこともあるが、どうってことはないわね」
「ご好意だけはお受けしますわ、お父さん。だけど、そうはいかないの。だって、わたし、仕事で出張してきたんだもの。親子とは言いながら、お父さんとわたしとは対立関係にあるわけだから、たとえ、一日でも、一つ屋根の下で過ごすわけにはいかないのよ」
「こりゃ、また、手厳しいなも。いったい、どういう仕事で松本へやってきたのか知らんが、えらく、突っ張っておるではにやぁがね」
「実のところ、この仕事で松本へきたのよ」
葉子は、バッグの中から一通の書面を取り出すと、いたずらっぽい微笑を浮かべながら、赤かぶ検事のデスクの上に置く。
「何だね? これは……」
赤かぶ検事は、書面に視線を落とした途端に、ぎょろりと目を剥いた。
その書面は、弁護人選任届だった。
誰あろう、目下、容疑者として捜査線上に浮かんでいる一ノ瀬静代と、兄の良武、妹の真由美の三兄妹の弁護人を葉子が引き受けたというわけだ。
(おったまげたなも)
よりによって、わが娘が、捜査中の容疑者の利益擁護にまわるとは、意外や意外、まったく寝耳に水だった。
「おい、葉子。言っとくがよぉ、静代たち三人の兄妹は、逮捕されているわけでもないし、弁護人を必要とするほどの差し迫った状況にはなっとらんのだよ。わかるだろう?」
「そりゃ、ちょっと違うんじゃない? 柊検事さん。ごまかしてもだめよ。いまにも逮捕状を持って刑事が乗り込んでくるんじゃないかと、あの人たち三人は、びくびくしているわ。実際、そのとおりなんでしょう?」
「とんでもない。あの三人の兄妹は、神経過敏になっとるんだ。取越し苦労とでも言うのかな」
「神経過敏になるだけの事情があるからよ。いずれにしろ、あの三人を疑っているのは確かよね。とりわけ、未亡人の一ノ瀬静代さんに対して……そうなんでしょう? 柊検事さん」
「いや、それは違うわね、柊先生。そもそもだよ、あの一連の事件は、現在のところ、五里霧中なんだわね。何がどうなっとるのか、さっぱりわからん。警察が、あの三兄妹から事情を聞いたのは、単なる参考人としてだ」
「そうでもなさそうよ。つい、この間だって、柊検事さんが、一ノ瀬静代さんを取り調べたっていうじゃない?」
「あれは、先方からたずねてみえたんだ。わしが呼んだわけではにやぁでよぉ」
「呼んでも、呼ばなくても、取り調べたのは事実なんでしょう? ご本人が、そう言ってたわ……ずいぶん、きわどいことも聞かれたって……」
「きわどいこと?……そんなつもりは、一向にないがよぉ」
「よくも、そんなことが、ぬけぬけと言えるわね。例えばさ、一ノ瀬静代さんが、過去に、鸚鵡を飼っていたことまで調べあげ、追及したそうじゃないのよ」
「鸚鵡だと?……何の話だね。事件とは関係にやぁでいかんわ」
「また、白惚《しらとぼ》けて……『富士山麓にオウム鳴く』っていうダイイングメッセージが残されていたんでしょう? 田貫湖畔で発見された死体の左手に、そのメッセージを走り書きした紙片が握られていたというじゃないのよ。そのことがあるから、鸚鵡のことを静代さんから聞き出そうとしたんでしょう?」
「おい、葉子。おみやぁさん、どこから聞いた? 『富士山麓にオウム鳴く』なんてダイイングメッセージが残されておったなんてよぉ」
この情報は、極秘扱いされ、マスコミにも公表されていないのである。
にもかかわらず、なぜ、そのことを葉子が知っていたのか。
「柊検事さん。言っときますけどね、ダイイングメッセージのことは、一ノ瀬静代さんだって知っていたわよ」
「柊先生よぉ。おみやぁさんも、嘘がうまくなったな。弁護士なんかをしとると、みんな、そうなっちまうのかな。ええかね? もし、おみやぁさんの言うように、一ノ瀬静代がダイイングメッセージのことを知っておったなら、ますます、犯人らしく見えてくるでいかんわ」
「あら、どうして?」
「一ノ瀬静代が、そんなことを知るはずがないからだ。彼女が犯人なら別だがよぉ」
「妙なことを言うわね。それならばよ、一ノ瀬静代さんに鸚鵡を飼ったことがあるか、どうか、なんて聞いたのは、なぜなの? 彼女がダイイングメッセージのことを知っているという前提があるからでしょう?」
「とんでもない。わしは、ただ、彼女に対して、鸚鵡を飼ったことがあるか、どうかを確かめようとしただけだわね」
「もう、そんな話はよしましょうよ、柊検事さん。ただ、わたしには情報を入手するルートがいろいろあるってことを知っておいてもらいたいわ」
「そう言えば、最近、弁護士のお客専門に調査活動をやる事務所が名古屋にもできたそうだなも。元刑事とか、検察事務官をスタッフにそろえ、警察や検察庁の極秘資料まで盗み出すと言うではにやぁがね?」
「まあ、盗み出すだなんて……人聞きの悪いことを言わないでもらいたいわ、柊検事さん。もし、情報を盗まれたのなら、盗まれるほうが悪いのよ。情報管理にミスがある何よりの証拠だわ」
葉子は、なかなか、きついことを言う。
(いったい、誰に似て、こないに向こうっ気の強い娘に育ったのかな)
そんなふうに育てたおぼえはないがと、赤かぶ検事は、胸の中で呟きながら、
「柊先生よぉ。この弁護人選任届は、一応、受け取ってはおくが、ほかに用件があれば、早いとこ話してちょうよ。わしも忙しいんだから……」
「わかってますわよ。一つ、警告しておきたいことがあるんです。弁護人としてね」
葉子の表情は、真剣そのものだった。
「警告?……聞かせてもらおう」
赤かぶ検事は、身がまえた。
葉子は言った。
「総会屋の森戸辰次郎という男のことだけど、目下、逃亡中ということになっているんでしょう?」
「それが、どうかしたのかね?」
「逃亡中の森戸辰次郎が、子分たちを連れて、松本にきていたっていう情報が入っているのよ。しかも、竹岡彬子さんの死体が諏訪湖の氷の割れ目に浮かんでいた日には、もう、松本から消えているのよ。確か、彬子さんが殺害されたのは、その三日前の日曜の夜ということになっているんでしょう? どうも、そのころに、森戸辰次郎が松本のホテルに逗留していたらしいのよ。ご大層なリムジンを乗りつけてね」
「どこのホテルだ?」
「そんなこと、言えないわよ。警察に調べさせたらいいじゃない。何もかも、わたしから情報を引き出さなくてもさ」
「それにしても、驚いたなも。おみやぁさんが使っている調査事務所とやらは、なかなか腕利きのスタッフをそろえておるものとみえる。われわれの知らない情報までつかんでおるんだから……まあ、ええわね。警察だって、万能じゃないんだからよぉ。それで、おみやぁさんの警告と言うのは、いったい何だね?」
「一ノ瀬静代さんら三人の兄妹ばかりを追いまわさないで、総会屋の森戸辰次郎にも疑いの目を向けてみたらどう? もともと、森戸辰次郎は社長の植野らの保身を図るために株主総会を無事に乗り切る仕事に専念していたようだけど、そのうちに植野らを逆に恐喝するようになったのよ。植野らの命取りになりかねない秘密資料をどこからか入手したらしくてね……秘書の竹岡和正を殺害し、さらに、娘の彬子さんまで葬り去ったのも、森戸辰次郎じゃないかという気がしているのよ。いいえ、森戸自身は手を汚さないわ。あの男には、恐持ての子分がたくさんいるから、そのうちの誰かに殺らせたのに決まっているわよ」
「それは、おみやぁさんの推測だろう?」
「もちろん、推測だわ。でも、その裏を取り、事実を確かめるのは、そちらの仕事じゃないのよ。一ノ瀬静代さんたち兄妹ばかり疑うのは、偏見というものだわ。警察に厳しく注意しておいてよ。とにかく、警察の捜査が的はずれだってことを警告しておく必要があると思って、ここへきたわけよ」
「それは、どうも。柊葉子先生のご好意には、心から感謝するでよぉ」
赤かぶ検事は、声をあげて笑った。
「いいでしょう。笑っていられるのは、いまのうちなんだから……」
そう言うと、葉子は、コートを手にして立ち上がったが、ふと、何かを思い出したような顔をして、こう、つけ加えた。
「もう一つ、大事なことを教えてあげるわ。『富士山麓にオウム鳴く』っていうダイイングメッセージだけど、あれは、数字を羅列していると思えばいいんじゃない? 例えば、預金口座の番号とかさ」
にやっと意味ありげな笑いを浮かべると、葉子は、くるりと背を向け、コートを抱えたまま部屋を出て行った。
すらりとした娘の後ろ姿を見送りながら、赤かぶ検事は、思った。
(葉子は、いったい誰に似て、あないな美人になったのかな)
自分に似ても、かみさんに似ても、美人の娘が生まれるはずがないのである。
DNA遺伝子の異変によって生まれたとしか考えられなかった。
8
官舎へ戻った赤かぶ検事は、早速、かみさんにたずねてみた。
「おい、春子。今日、葉子がきたろう?」
「突然、ひょっこりあらわれてよぉ。居間へ上がって、二時間ばかり、世間話をしてから帰っていったわね。ゆっくりしていけばええのに……あの娘《こ》は、どうして、あないにそっけないのかな。きっと、おみやぁさんに似とるんだろう」
かみさんは、夕食の支度をしながら、そんなことを言う。
「誰に似てようが、そんなことは、どうでもええ。葉子は、おみやぁさんと、どんな話をしておったんだ?」
「ただの世間話だわね」
「そうでもないだろう。『富士山麓にオウム鳴く』なんていうダイイングメッセージが田貫湖畔の現場に残されておったと、おみやぁさん、葉子に教えたのと違うか?」
「そう言やぁ、そんな話をしてやったかもしれんな」
「話したのか?……なぜ、おみやぁさんが、ダイイングメッセージのことを知っとるんだ?」
赤かぶ検事は、かみさんを睨みつけた。
「どうして知っとるって? 何を言うかと思ったら……あのメッセージのことは、おみやぁさんが飯を食いながら話しておったではにやぁがね。『どうも、あのメッセージの意味が、さっぱりわからん』なんて、首をかしげたりしてよぉ」
「それじゃ、わしがダイイングメッセージのことをおみやぁさんにもらしたっていうのかね?」
「そうでなくて、どうして、わしが知っとるんだ。おみやぁさんも、年を食って、頭がボケたのと違うか? 自分が、何を喋ったのかもおぼえとらんなんて……」
気の毒によ、とかみさんは呟きながら、食卓に料理の皿を並べている。
そのうちに、本場の高山から直送されてきたばかりの赤かぶ漬けが、ドンと目の前に置かれた。
と見るや、赤かぶ検事の手がすーっと伸び、赤かぶ漬けをつまみとる。
その途端に、ぴしゃりと、かみさんに手を叩かれた。
「おみやぁさん。箸というものが、ちゃんとあるではにやぁがね。手づかみはみっともにやぁで、やめときな」
かみさんに睨みつけられ、思わず、赤かぶ検事は首をすくめた。
第四章 ヨコハマ万国橋の変死体
1
総会屋の森戸辰次郎は、見るからに小男ではあるが、きわめて健康で、六十五歳になるのに、一度も病気に罹ったことがないと言われるくらい頑強な肉体の持ち主だった。おまけに、女を抱くと精力絶倫だというもっぱらの噂だ。
俗に、小柄な男は、知恵がよくまわるとも言われるが、森戸辰次郎の場合も、まさに、それだった。
指名手配中なのに、一向に警察の網にかからないのは、たぶん、持ち前の知恵袋をフルに活用して、巧妙に追跡をかわしているからに違いない。
ところがである。
何が、いったい禍いしたのか、森戸辰次郎の死体が、横浜港万国橋付近で発見されたという通報が神奈川県警から長野県警を通じて、行天燎子に舞い込んだ。
それを聞いて、赤かぶ検事は、彼女と一緒に横浜へ出張することに決めた。
ここまでくれば、警察サイドの捜査にまかせてはおけない。
どの途、犯人が検挙されたなら、赤かぶ検事としては、当然に起訴しなければならないわけだから、いまのうちから、現場を踏んでおくに越したことはない。
赤かぶ検事と行天燎子が、新横浜駅に降り立ったところ、ホームに神奈川県警の刑事が出迎えにきていた。
三十五、六歳の精悍な容貌の男で、差し出した名刺によると、「上羽《かみば》周三」とあり、神奈川県警捜査一課に所属する警部補だった。
上羽警部補は、行天燎子と初対面の挨拶をかわした後、ちょっと照れたような顔をして、こう言った。
「行天さんの噂は、ときおり、耳に入っていましたよ。たいへんな美人だって……それにしても、こんなにも魅力的な女性だったとは思いもよりませんでしたね」
上羽警部補が、お世辞から、そう言っているのでないことは、憧れのような眼を彼女に向けていることからも察しがつく。
「まあ、お上手ですこと。でも、わたしのことが噂になっていると聞けば、悪い気はしませんわ」
と言って、行天燎子は陽気に笑う。
「それじゃ、とりあえず、現場へ案内してもらうかな」
赤かぶ検事は、上羽警部補をうながした。
「わかりました。こちらへ、どうぞ」
上羽警部補は、赤かぶ検事たちを先導してホームを出ると、駐車場へ連れて行く。
そこに、上羽警部補のマイカーが止めてあった。
上羽警部補がマイカーのドアを開けてくれる。
行天燎子と赤かぶ検事は、後部座席に並んで腰を下ろした。
「それじゃ、出かけましょう」
上羽警部補は、エンジンを入れ、車を始動させた。
車は、横浜港を左手に眺めながら走りつづける。
万国橋というのは、市街地から新港埠頭へ至る途中の最初の橋だった。
新港埠頭は、国際客船ターミナルのある大桟橋や山下埠頭などとは打って変わって、何とはなしにうらぶれたような、物淋しい場所であった。
万国橋の下を流れる掘割にしても、停泊中の漁船や艀に混じって、いまや廃船となった小型船の残骸が、惨めな姿をさらし、水面にはゴミが浮いていたりして雑然としていた。
「森戸辰次郎の死体が浮かんでいたのは、あのあたりでしてね」
と言って、上羽警部補は、古タイヤなんかの廃棄物が捨てられている岸壁の下を指差した。
「ほう。あんなところに……それじゃ、ゴミの中に浮かんでいたわけだなも?」
赤かぶ検事が言うと、上羽警部補は頷き返しながら、
「大物総会屋にしては、惨めな最期ですよね、検事さん」
「まったく、そのとおりだわね」
赤かぶ検事は、羽振りのよかった大物総会屋の悲惨な末路に思いを馳せていた。
行天燎子が言った。
「上羽さん。わたしが聞いたところによりますと、森戸辰次郎の死体は、きちんと背広も着ていたし、ネクタイもしていたそうですわね?」
「そうです。どこか、ほかで殺されて、ここへ運ばれ、橋の下へ投げ捨てられたのかもしれませんね。それから、司法解剖の結果ですが……死後約三日が経過していることがわかりましたよ」
「死因は?」
「頭蓋骨骨折です。鈍器ようのもので脳天をメチャメチャにやられたらしくて、頭蓋骨が陥没していたそうです」
「それじゃ、森戸の秘書の竹岡和正の場合と同じですわね」
行天燎子は、赤かぶ検事を振り向いた。
赤かぶ検事は、顎を引いて、
「ボスの森戸と秘書の竹岡とが、同じような殺され方をしたというのも、何か、因縁めいておるな」
「ですけど、森戸の場合は、竹岡のように首を切断されてはいませんわ。そうなんでしょう? 上羽さん」
「はい。死体に傷をつけたり、首をちょん切ろうとした形跡は、まったくありませんでしたよ」
「ねえ、上羽さん。このあたり一帯は、夜になると、どんなふうになるんでしょうか?」
行天燎子は、あたりを見まわしながら言った。
「夜は、たぶん、ネコの子一匹通らない物淋しい地帯に変わるでしょう。この橋を渡ると、古い倉庫やら、税関の出張所などがあるだけです。貨物船なんかも、新埠頭へは、めったなことで接岸しませんからね」
「あれは、何ですか? 観覧車のようですけど……」
行天燎子は、臨港パークのほうを示しながら言った。
「あれが有名な大観覧車です。夜になると、明かりがついて、きれいですよ」
「その向こうにそびえ建つ奇妙な形をした超高層ビルは?」
「あれが、横浜名物のグランド・インターコンチネンタル・ホテルです。船の帆を象った建築物なんですよ」
赤かぶ検事も、そっちを眺めながら、
「そう言われてみれば、船の帆のような形に見えるが、わしに言わせると、菜切り包丁を二本、空に向けておっ立てたように見えるんだがよぉ」
ちょっと悪趣味だなと、赤かぶ検事は思ったが、口には出さなかった。
赤かぶ検事は、上羽警部補にたずねた。
「先ほど、おみやぁさんは、どこかほかで殺されて、ここへ死体が運ばれてきたと言ったなも。あれは、何かの根拠があってのことかね?」
「いや、何となく、そんな気がするだけです。しかしですよ、森戸辰次郎のような大物総会屋が、こんな物淋しい場所を一人で歩くとは思えませんよ。まして、夜間なら、なおのことです。見てくださいよ、検事さん。本来、この橋は、関係者以外は立入り禁止になっているんですからね」
そう言って、上羽警部補は、橋のとっかかりの路上に立てかけてある看板を指差した。
確かに、立看板には、そのようなことが書いてあった。
見ていると、万国橋を渡って、新埠頭のほうへ向かう車はきわめて少なく、しかも、たいていは、小型トラックかワゴン車だった。一般の乗用車は、まったく通らない。
それはともかく、彬子が殺害されたころ、森戸辰次郎は、松本へきていたらしいのだ。
この情報は、本来、娘の葉子がもたらしたものだが、その後、行天燎子が裏付けを取ろうとして捜査をおこなったものの、期待どおりの結果は得られなかった。
そのころに、森戸辰次郎が松本へきていたらしいという噂は流れていたが、実際に、森戸辰次郎を目撃した証人を突きとめることはできなかったのである。
このあと、赤かぶ検事たちは、上羽警部補の案内で、神奈川県警本部をたずね、捜査第一課長に会った。
捜査第一課長は、秋葉栄太郎と言い、率直な人柄を思わせる五十そこそこの男だった。
「まったく、寝耳に水の事件ですよ、検事さん。われわれまでが、この一連の奇妙な事件のとばっちりを食うとは思ってもみなかったものですから……この調子では、捜査のほうも広範囲に及びそうですな」
「同感だわね。関連の各警察が、一致協力して捜査にあたらないことには、犯人検挙が遅れるばかりだ」
と言って、赤かぶ検事は、この機会に神奈川県警が掌握している捜査上の情報を提供してもらうべく、約束をとりつけておくに越したことはないと思い、こう、つけ加えた。
「司法解剖の結果、得られた鑑定資料とか、捜査報告書、参考人調書なんかの捜査資料は、いつになったら、もらえるんだろう?」
「いつでも、どうぞ。コピーを差し上げますよ」
「それじゃ、一両日中にお願いしたい」
「わかりました。コピーができしだい、お送りしますよ。それと交換にと言っては何ですが、そちらがつかんでおられる捜査資料についても、われわれに提供していただけますでしょうね?」
「言うまでもないわね。必要なら、これから帰ってすぐにでも用意させるでよぉ」
「それを聞いて安心しましたよ、検事さん。いずれにしても、こういう事件は、組織力を活用して、要領よく捜査しないことには、望ましい結果は得られないでしょうからね。互いの協力関係が何よりも大切です」
秋葉課長は、そう言ってから、急に、何かを思い出したかのように膝を叩いて、
「うっかりしていました。実を言いますとね、検事さんたちをたずねて、東京から客がきておりましてね。先ほどから、別室で、ずっと検事さんたちを待っているんです」
「ほう。いったい、誰だね?」
「『甲信電機』の二人の重役です。筆頭常務の塚脇一成と、専務の栗原達夫です」
「『甲信電機』の重役が、何のために、わしたちを待っておったんだろう?」
「ぜひ、お会いしたいと、そう言うんです。こういう状況になってきたもので、次は、自分たちの番じゃないかと、二人とも恐れをなし、関連の各警察へ保護を求めて、歩きまわっているらしいですよ」
「それで、神奈川県警へも?」
「そうなんです。先ほどまで、この部屋におりましてね。わたしをつかまえて離さないんです。何とかならないかとか言って……ほんとのところは、どうなるものでもないんですけどね。たとえ、われわれが乗り出したところで、そうも簡単に犯人を検挙できるわけのものでもないと言ってやったんですが、連中ったら、何だかんだと、わたしを引きとめて離さないんです。よっぽど心配なんでしょうね。そんなに命が大事なら、人の恨みを買わない生き方をすればいいのに……人を陥れて生きてきた人間こそ、しっぺ返しを恐がる小心者なんですよ」
「それじゃ、その連中はよぉ。次には、自分たちの命が狙われると、そう思い込んでいるんだな?」
「そのとおりなんですよ、検事さん。あと、もう一人、社長の植野史朗も恐がっているらしいですが、今回は、その二人の重役が社長の代理人をも兼ねて、関係各警察をたずね歩いていると言うんですよ」
「関係各警察と言うと?」
「まず、警視庁。そして静岡県警。われわれの神奈川県警。さらに、長野県警。そして、警察だけじゃなくて、検察庁のほうへも、お願いに上がるつもりだと言ってましたよ」
「何をお願いに上がるつもりなんだろうな」
「言わずと知れたことですよ、検事さん。管轄下の警察を督励して、自分たちの身の安全を守ってもらいたいと、そのお願いなんですよ。とくに、植野社長が神経過敏になっているらしいですよ」
「ほう。そんなに気がかりなら、自分でくればいいのによぉ」
「それができないらしいんですよ。何しろ、社長ともなれば、めっぽう忙しくて、なかなか出かける暇がないそうです」
「それにしても、わしたちが、今日、ここへくるってことを、その連中は、どうして知って待っておったんだろう? わしたちのあとを連中がつけまわしていたんじゃないのかな?」
「いや、そうじゃないんです。この部屋で、あの二人と話しているときに、たまたま、検事さんのことが話題にのぼりましてね」
「赤かぶ漬けかね?」
赤かぶ検事は笑った。
秋葉課長は、微笑を返しながら、
「それもありますが、知る人ぞ知る名検事だから、きっと、自分たちの力にもなってもらえるだろうと、あの連中が虫のいいことを言ったもんですから、『それじゃ、間もなく、ここへおみえになるから、お願いしてみたらどうだ。いくら、柊検事さんでも、できることと、できないことがあるってことが、あんたたちにもわかるはずだ』ってね。ところが、あの連中は、身を乗り出すようにして、『それじゃ、待たせてもらいます』なんて言い出すんです。仕方がないから、別室で待たせてあるんですよ」
「そういうことなら、会ってやらにゃならんな」
「いいえ。検事さんは、お忙しい体だから、帰ってしまわれたと言ってやれば、それでいいんです」
「いや、それは気の毒だ。待ちぼうけを食らわせたことになるでよぉ」
赤かぶ検事が、そう言ったとき、鑑識課の部屋で捜査資料を見せてもらっていた行天燎子警部補があらわれた。
彼女を見ると、秋葉課長は、だらしなく目尻を下げて、
「やっと戻ってきてくれたね。きみが傍にいてくれないと、淋しくてならんよ」
もちろん、冗談のつもりだろうが、ちょっと行き過ぎの感がある。
行天燎子は聞こえなかったようなふりをして、赤かぶ検事に言った。
「検事さん。そろそろ、おいとましましょうか。捜査資料のほうは、明日じゅうに送っていただくことになりましたわよ」
「そりゃ、よかった。実を言うと、『甲信電機』の二人の重役が、わしたちを別室で待っておるそうな。よければ、おみやぁさんも、わしと一緒に連中と会ってみるかね?」
「そうしますわ。どういう人物か、顔くらいは見ておくのも悪くはありませんもの」
いまに始まったことではないが、行天燎子は、仕事ともなれば、とことん食い下がる熱心な捜査官だった。
2
「甲信電機」の二人の重役は、赤かぶ検事たちを見ると、びっくりしたような顔をして立ち上がり、挨拶する。
筆頭常務の塚脇一成は、五十がらみの如才ない男で、行天燎子に対しても、至極、丁重な態度でふるまうのを忘れない。
専務の栗原達夫は、塚脇よりもいくぶん年上らしいが、口数の少ない控えめな男のように見受けられた。
名刺の交換をすませ、本題に入ってからも、喋っているのは塚脇だけで、栗原は、ほとんど口を開かない。
コンビを組むには、この二人はうってつけだろうと赤かぶ検事は思った。
性格の違う者同士だからこそ、うまくいくのだろう。
筆頭常務の塚脇は、こう言った。
「検事さん。わたくしどものことは、たぶん、秋葉課長からお聞きになっていると思いますが、とにかく、夜もおちおち眠れないんですよ。いつ、殺し屋に命を狙われるか、不安でならないんです。だからと言って、家族の者にまで心配をかけたくないので、話すわけにはいかず、戦々恐々として毎日を送っています」
傍に座っている専務の栗原が、赤かぶ検事を見つめながら、無言のうちに頷いている。まったく、そのとおりだと言いたいのだろう。
「それで、どうしろというんだね?」
赤かぶ検事は言った。
「厚かましいお願いかもしれませんが、わたくしたちの身の安全を保障していただきたいんです。同じことを警視庁や静岡県警、先ほどは神奈川県警へもお願いしたところなんです。さらに柊検事さんが支部長を務めておられる松本には、わが社の工場があります。甲府にも工場はありますが、松本工場ほど大規模なものではありません。となりますと、東京の本社を別にすれば、松本工場が、いちばん、狙われやすいんです」
「どういう意味だね?」
「規模が大きければ、われわれ重役も、松本工場へ出張する機会が、それだけ多くなるわけです。社長についても、同じことが言えます。そこを殺し屋に狙われるんじゃないかと心配で……このところ、社長は、神経衰弱みたいになってしまいましてね。いや、ここだけの話ですよ。他言はなさらないでください。お願いします。大企業の社長が、仕事も手につかず、落着きのない毎日を送っているなんてことが外部にもれたら、それこそ、会社の信用にかかわりますから……」
「そりゃ、まあ、そうだなも」
いずれにしても、無様な話ではないか。
行天燎子警部補は、赤かぶ検事の隣りに腰を下ろし、冷徹な視線を二人の重役に注いでいる。取越し苦労もいいところじゃないか、とでも言いたげな眼の色だった。
赤かぶ検事は言った。
「おみやぁさんたちは、何者かに命を狙われているから、恐くてしょうがないと言うんだが、誰が、どういう理由で、おみやぁさんたちの命を狙っておるというんだね?」
やはり、答えたのは、筆頭常務の塚脇だった。
「そもそも、株式課長の城戸日出雄が留置場で自殺を遂げたのが発端です。あれ以来、次々と関係者が殺されているんです」
「おみやぁさんの言う関係者とは、いったい、どういう人たちのことだね?」
「まず、常務取締役総務部長の一ノ瀬勝行が殺されました。首を切られてね。さらに、総会屋の森戸辰次郎の秘書を務めていた竹岡和正が殺されています。この二人のうち、どちらが先に殺されたのかは別として、首と胴が入れ替わっていたことは、マスコミが報道しましたよね。前代未聞の猟奇的な犯罪だというので、こういうのは、週刊誌なんかの格好のネタになりますから……」
「それで?」
「次に、竹岡和正の娘の彬子が殺されました。そして、先日、大物総会屋の森戸辰次郎の死体が万国橋の下で見つかっています。要するに、例の事件の関係者が次々と葬り去られていくんですよ。ですから、次の段階では、われわれが狙われるのに決まっています。もちろん、植野社長も犯人の射程内に入っているはずです」
「それじゃ、おみやぁさん。竹岡和正を通じて、総会屋の森戸辰次郎に金を渡し、株主総会を無事に切り抜けようとした商法四九四条違反事件に、何らかの形で関与した連中ばかりが狙われておることになる。もっとも、彬子の場合は、直接、商法違反事件に関与してはいないが、何かの秘密を握っていると睨まれ、巻き添えを食ったわけだ。要するにだよ、おみやぁさんたちが戦々恐々としておるのは、総会屋買収工作をしたことによる商法違反事件に深くかかわっていたからにほかならない。だから、恐がっておるんだよ。そうでなければ、恐れることもにやぁでいかんわ」
そう言ってやると、筆頭常務の塚脇の顔色が翳った。
専務の栗原にしても、赤かぶ検事に揚げ足を取られ、鋭く斬り込まれたものだから、こいつはたいへんなことになったと思い込み、顔が青ざめている。
不意に、筆頭常務の塚脇が小さく叫ぶように言った。
「検事さん、それこそ誤解ですよ。いいえ、世間の連中は、みんな、われわれを誤解しているんです。総会屋買収工作をやったのは、常務取締役総務部長の一ノ瀬勝行と、自殺した城戸日出雄の二人ですよ。買収工作は、あの二人の独断です。われわれには、事前に何の相談もなかったんですから……植野社長だって、何も知らなかったんです」
「見えすいた言いわけだなも。ええかね? 表面に出ているだけでも、総会屋対策費として二千万円が竹岡和正の手を通じて総会屋の森戸辰次郎に交付されていた事実が判明しておる。ほんとは、それだけではすまなかったろうけどよぉ。こういう汚ない金は、いったい、どこから捻り出されたものか。言うまでもなく、会社の裏金だよ。帳簿に載らない金だわね。植野社長や、おみやぁさんたち二人の重役の知らないうちに、一ノ瀬勝行や城戸日出雄たちがよぉ、そのような裏金を用意したなんて信じられんでいかんわ」
「検事さん。それじゃ、裏金の蛇口は、われわれが握っているから、買収工作にも、われわれが深く関与しているはずだと、そうおっしゃるんですか?」
「もちろんのことだわね。おみやぁさんたちは、買収工作の罪をすべて常務取締役の一ノ瀬勝行と自殺した城戸日出雄の二人におっかぶせ、自分たちは口を拭って罪をまぬがれようとしておる。そうじゃないのかね?」
「と、とんでもないですよ、検事さん。それこそ濡れ衣です。一ノ瀬勝行はですね、自分の独断で裏金を作り、それを総会屋対策費として注ぎ込んでいたんです。一方、株式課長の城戸日出雄は、一ノ瀬勝行から命じられるままに動いていたんですよ。もちろん、植野社長や、われわれ二人とは何の関係もありません。われわれが、ことの次第を知ったのは、警視庁が商法四九四条違反で捜査を開始した時点においてです。それまでは、何も知らなかったんですから……どうか、信じてください。検事さん」
塚脇は、縋りつくような眼差しを赤かぶ検事に注ぐ。
隣りに座っている専務の栗原も、言葉にこそ出さないが、塚脇と同じ思いでいることは、哀願するような目の色を見ればわかる。
赤かぶ検事は、信じられないとでも言うように、首を横に振りながら、
「それじゃ、総会屋を抱き込むために、賄賂工作をしたのは、一ノ瀬勝行と、その義父にあたる城戸日出雄の二人にほかならない。工作資金を準備したのも一ノ瀬勝行。そう言うんだな?」
「そのとおりですよ、検事さん。何しろ、あの二人は、義理の親子ですからね。それも、会社のためにやったんでしょうけど、われわれは、何の相談も受けていなかったんです。もちろん、植野社長が指示したわけでもありませんしね」
筆頭常務の塚脇は、熱っぽい口調で言う。
専務の栗原も、真剣な眼差しを赤かぶ検事に注いでいる。
彼らは、かなり、心理的に追い詰められているらしいのが、その態度からも見てとれた。
しかし、赤かぶ検事には納得できない点が多々あった。
傍に座っている行天燎子を振り向いた赤かぶ検事は、「おみやぁさん。どう思う?」と目顔で問いかけてみた。
彼女にも、判断ができないらしく、ちょっと首を傾げて見せる。
赤かぶ検事は、塚脇を眺めながら口を開く。
「生前の一ノ瀬勝行は、自分自身の才覚で裏金を作っておったというわけかね? 総会屋の買収資金は、そこから捻出した。そういうことになるんだが、証拠はあるのかね?」
「目下、公認会計士に調べてもらっています。一ノ瀬勝行が、どうやって裏金を作り、どのようにして保管していたか、それを突きとめなければなりません。優秀な公認会計士ですから、遠からず、結論を出してくれるでしょう」
「いいだろう。仮に、植野社長以下、おみやぁさんたち三人は、総会屋買収工作には関与していないとしておこう。つまり、商法四九四条違反事件についてはシロというわけだ。そういう前提で話を進めるが、そうなるとだね、植野社長を含めて、おみやぁさんたちが命を狙われるはずもないのと違うかね? 誰が、いったい、おみやぁさんたちの命を狙っておると言うんだね?」
「誰だかわかりませんよ。しかし、先ほども言いましたように、城戸日出雄が留置場で自殺して以来、多くの犠牲者が出ています。考えてもみてくださいよ。その犠牲者たちは、いずれも買収工作に関与したか、何らかの関係があるか、そのどちらかなんですから……」
「しかし、植野社長やおみやぁさんたちは、買収工作には何ら関与していないと言ったじゃないか。それならば、命を狙われるはずもない。そうだろう?」
「いや、違います。実際のところ、わたしたちは潔白なんですが、犯人は、そうは思っていないんです。てっきり、植野社長やわたしたちが買収工作の黒幕であるかのように思い込んでいるに違いないんです。これは、決して、取越し苦労じゃありません。例えばですね、竹岡和正の娘の彬子は、買収工作とは何の関係もないのに殺されたじゃありませんか。マスコミの報道によると、たぶん、彬子は、父親の竹岡和正から秘密書類の保管を頼まれていたらしく、それを手に入れるために、犯人は彼女を殺したというじゃないですか。その程度のことで、人を殺すんですから、恐ろしいやつです。何よりもですよ、森戸辰次郎のような大物まで殺しちまうんですからね。手に負えませんよ。きっと、頭がおかしくなってるんです。狂っていると言うか……」
そう言った塚脇の目の中には、恐怖の色がありありと浮かんでいた。
専務の栗原も、不安そうな目をして、赤かぶ検事を見つめている。
(この連中、本気で恐がっているなも)
「今度、殺されるのは自分たちの番だ」などと、伊達や酔狂で騒ぎたてるやつは、おそらく、どこにもいないだろう。
たぶん、正体不明の不吉な犯人の影に怯え、どうにも、こうにも、身の置き場に困り果て、切羽詰まった心境から、警察や検察庁へ身柄の保護を求めてきたもののようだ。
とは言いながら、赤かぶ検事には、もう一つ、ピンとこないものがあった。
(こいつら、何かを隠してやがるな……)
ずばり、そのことを言ってしまえば、「なるほど」と警察や検察庁を納得させることもできるのだろうが、連中にしてみれば、口が裂けても、それは言えないらしい。
3
赤かぶ検事は、とことん、その二人の重役を追及してみる腹を固めた。
「おみやぁさんたち、ほんとのことを言ってくれよ。われわれのところへ身柄の保護を求めてきたのには、きっと、それなりの理由があるからに違いない。しかし、正直に言って、わしとしては、おみやぁさんたちの言いぶんに納得できない点がある。おそらく、おみやぁさんたちには、人には言えない秘密があるんだろうよ。それを隠しておいて、われわれに保護を求めてくるというのは、ちと、虫がよすぎはせんかね?」
この質問に答えたのは、意外にも、これまで無口だった専務の栗原達夫である。
「検事さん。ぶちあけた話ですが、われわれには、職務上、外部にもらしてはならない秘密というものがあります。いいえ、わが社に限ったことではないんです。上場企業の重役ともなれば、そりゃ、人に言えないことだって少なからずありますよ。それを、いま、ここで検事さんにお話するのは無理というものです」
「なぜ、無理なんだね?」
「植野社長とも相談し、許可を得なければなりません。そのうえでなら、包み隠さず、すべてをお話するつもりです」
「いいだろう。ただし、それを聞くまでは、われわれとしても、おみやぁさんたちの安全確保のために、具体的な措置を講ずるわけにはいかんでな」
ぴしゃりと、叩きつけるような思い入れで、赤かぶ検事が、そう言ってやると、二人の重役は、互いに顔を見合わせながら、すっかり困り果てている様子だった。
そのうち、専務の栗原がおそるおそる、赤かぶ検事の顔色を窺うような態度で、こう言った。
「検事さん。わたしたち、ほんの二、三分、席をはずして、相談したいんですけど、かまいませんか?」
「いいとも。二、三分なら、待ってやるでよぉ」
「それは、どうも」
栗原は、ぴょこんと卑屈に頭を下げ、塚脇をうながして部屋を出て行く。
赤かぶ検事は、行天燎子を振り向いて、
「おみやぁさん、どう思う?……あの連中のことだがよぉ」
「そうですわね。嘘をついているようには見えませんけど……でも、何だか、胸のなかに一物ありそうですわ」
彼女は眉根を寄せる。
「同感だわね。あいつら、いったい何を考えておるのか、さっぱりわからん」
「同感ですわ。でもね、そんなに腹黒い人たちだとは思えないんです。案外、単純なんじゃありませんか?」
「そうかもしれんな」
赤かぶ検事が答えたとき、ドアが開いた。
二人は、もとの席へ戻り、腰を下ろす。
最初に口を開いたのは、筆頭常務の塚脇だった。
「こういうことを申し上げてよいか、どうか、判断に迷ったものですから、いま、二人で相談していたんです。その結果、このさい、何もかも打ち明けてお話ししたほうがいいんじゃないかということになりまして……」
「何だね? 遠慮なく話してちょうよ」
「はい。それでは、申し上げますが、留置場で自殺した城戸日出雄の息子や娘たちのことなんですよ」
「三人の兄妹のことだなも?」
「はい。あの三人は、父親を自殺に追いやったのは、われわれ重役たちだと思い込み、恨みを抱いています。とりわけ、長男の良武は、狂気じみていましてね。性格的にも、ちょっと凶暴なようですから、用心しなくちゃならないと思っているんです」
「良武が、おみやぁさんたちに何かしでかしたのかね?」
「率直に申し上げますが、いろいろあったんですよ。電話で、われわれを脅しあげたり……」
「どんなふうに、脅したんだね?」
「親父の恨みを晴らさずにはおかないとか、そんなふうなことを言うんです。いいえ、電話で脅すだけならいいんですけど……」
「何があったんだ?」
「あれは、城戸日出雄が自殺して間もなくのころでしたが、突然、会社へ乗り込んできて、乱暴したんですよ」
「どんなふうに?」
「最初、常務取締役総務部長の一ノ瀬勝行が取り乱した声で電話をしてきました。わたしの部屋へね。たいへんな事態がもちあがったから、急いで、自分の部屋へきてもらいたいと、そういう電話でした。妙だなと、わたしは思ったんです。一ノ瀬勝行は、常務とは言いながら、わたしよりもランク付けが下です。それなのに、わたしを呼びつけるなんて普通じゃありません。一ノ瀬勝行の電話の声の調子からしても、ただごとじゃないと思ったもので、とるものもとりあえず駆けつけたんです」
「それで?」
「一ノ瀬勝行が、両手と両足をロープで縛られ、長椅子の上に転がされていました。その傍に、良武が居合わせ、手にしたナイフを一ノ瀬勝行の喉元に突きつけているではありませんか。そうやって、一ノ瀬勝行を脅迫して、わたしに電話をかけさせたんだと、そのときになって、わたしにもわかってきました」
「いったい、どういうつもりで、良武は、そんなことをやらかしたんだ?」
「恨みを晴らすためですよ。それしか、ほかに考えられません」
「慰謝料をよこせとか、そんなんじゃないんだな?」
「はい。金銭で片がつくなら、わたしたちとしても、さほど心配はしないんですけど……」
「金で片がつくなら、お安いご用だ。こういうわけだね?」
「はっきり申しまして、そのとおりなんですが、良武は、そういう要求を、一切、持ち出さないんです。ですから、余計に始末が悪くて……」
「言っとくがな、城戸日出雄が自殺した直後に、良武や妹の真由美、さらに、一ノ瀬勝行の妻の静代に対しても、充分に金銭的な償いをしてやったなら、多少とも、あの三兄妹たちの気持ちも安らいだと思うんだが、どうだね?」
「そりゃ、いまとなっては、わたしたちも、そう思いますが、あの時点では、とてもじゃないが、そんなことはできませんでした」
「どうしてだね?」
「だって、城戸日出雄を自殺に追いやったのは、その娘婿にあたる一ノ瀬勝行だったんですから……総会屋に賄賂を与えたのも、一ノ瀬勝行の独断です。われわれには何の相談もなかったし、知らされてもいなかったんですから……」
「いや、わしが言っとるのは、こういうことだわね。たとえ、後日であっても、事情を知ったなら、何らかの手を打ってやるべきだったと、そう言っとるんだよ」
「だけど、検事さん。われわれが、まったく関与していないことのために、会社の経理から金を出させることはできないんですよ。だいいち、名目がたちません。それにですよ、弔慰金とかの形で、何らかの償いをすれば、植野社長なり、われわれにも、あの事件の責任があったと認めるのも同然です。もちろん、退職金なんかは規定どおり出すことはできます。しかし、それ以外の金銭的な支出は不可能ですよ。会社経営なんて、そんなものなんです。もし、城戸日出雄に金銭的償いをしなければならない人間がいるとすれば、それは一ノ瀬勝行です。彼の責任でやるべきことです。わたしたちには何の相談もなしに、一ノ瀬が独断でおこなった総会屋対策が裏目に出て事件になったわけですからね。その結果、城戸日出雄は自殺したんです。あれはですね、一ノ瀬勝行を庇うためなんですよ。何と言っても、長女の静代の婿でもあるんですから……城戸日出雄は、一ノ瀬のためと言うより、むしろ、娘の静代のためにもよかれと思って、総会屋に賄賂を贈ったんですよ。一ノ瀬勝行に命じられたからでもありますがね」
「その話は、もうよそう。一ノ瀬勝行の部屋へ乗り込み、彼を縛りあげて、ナイフを突きつけた良武が、その後、どういう行動をとったか、それを話しなよ」
「良武は、わたしを呼びつける手段として、一ノ瀬勝行を縛りあげ、ナイフを突きつけ、電話をさせたんです」
「おみやぁさんを呼びつけて、何をするつもりだったのかな?」
「脅しあげるためですよ。良武は、こう言いました。『お前ら、全員、いまに目にもの見せてやる。親父が、どんなに苦しみながら死んでいったか、お前たちにはわからんだろう。しかし、そのうちに思い知らせてやるぜ!』と……こうも言いましたよ。『専務の栗原や社長の植野にも、そう言っとけ! 必ず、目にもの見せてやるとな』なんて……」
「どういう意味で、『目にもの見せてやる』と言ったのかね?」
「そのときは、よくわかりませんでしたが、後日、一ノ瀬勝行と総会屋秘書の竹岡和正の死体が田貫湖畔で発見されましたよね。引きつづいて、竹岡の娘の彬子、さらに、総会屋の森戸辰次郎が殺されました。『目にもの見せてやる』と良武が言ったのは、このことだったんだなと、わたしたちは初めて知り、空恐ろしくなってきたんです。つまり、賄賂工作に関係した連中は、全員、消してやると、そういう意味だったんです」
「だから、このさい、恥も外聞も捨てて、各警察署をまわったり、わしに面会を求めたりして、身柄の保護を訴えておる。そういうわけだなも?」
「そうなんですよ、検事さん。先ほども言いましたように、植野社長だって、それが恐くて、不眠症に陥っているんです」
「それじゃ、おみやぁさんたちはよぉ、これまでの殺しは、すべて、良武の仕業だと、そう信じておるわけかね?」
「良武一人の仕業じゃないでしょう。一ノ瀬勝行の妻の静代とか、妹の真由美も、大なり小なり、犯行にかかわっているんじゃないかという気がします。しかし、証拠をつかんでいるわけじゃありませんから、あからさまには言えないことです。あくまでもここだけの話ですよ。良武や妹の真由美にしてみれば、一ノ瀬勝行は、義理の兄弟です。まして、静代にしてみれば、別居中とは言いながら夫です。それにもかかわらず、三人の兄妹が共謀して、一ノ瀬勝行を殺したなんて考えるのは、ちょっと行き過ぎじゃないかと人は思うかもしれませんが、それは違います。三人の兄妹にしてみれば、血のつながった父親を自殺に追い込んだ張本人は、義理の兄弟の間柄の一ノ瀬勝行だと思い込んでいるわけですから、それがゆえに、かえって憎しみをつのらせたんだと思います。さらに、その一ノ瀬勝行を背後から操っていたのは、わたしたち重役であり、最終的には植野社長だというので、あの三人の兄妹たちは、復讐の刃を研いでいるんだと思います。その中でも、良武は、最も危険な男なんですよ」
筆頭常務の塚脇の話を聞きながら、赤かぶ検事は、ふと思った。
(何はともあれ、今後の捜査の参考になるのは確かだわね)
これを契機に捜査が飛躍的に進むのではないかという期待もあり、赤かぶ検事は、いささか興奮気味だった。
行天燎子も、同じ思いでいるらしく、赤かぶ検事を振り向くと、これから先が正念場ですわね、と言わぬばかりに、ちらっと微笑して見せて、
「わたしからたずねてよろしいでしょうか?」
「いいとも」
赤かぶ検事は頷き返す。
「それじゃ、二、三、うかがいます」
二人の重役に向き直った行天燎子は、まず、こう言った。
「社長の植野さんや、あなたたちお二人が不安をおぼえていらっしゃる事情は、よくわかりました。だけど、それだけのことで、わたしたちは、刑事を張り込ませたり、良武たち三人の兄妹を監視下におくとか、そんなことは許されないんです。ですけど、もし、あなたたちが良武を脅迫罪で告訴なさるなら、そのときは、わたしたちとしても、何らかの手を打つことができなくはないんです。その点、どうお考えですか?」
答えたのは、筆頭常務の塚脇だった。
「脅迫罪で告訴せよとおっしゃいましたが、それは、あの事件についてのことですよね? 一ノ瀬勝行を縛りあげ、ナイフで脅したときの……」
「そうです。あなたは、その現場に居合わせたわけでしょう?」
「そのとおりですが、告訴は、ちょっと……」
と言って、塚脇は、専務の栗原の顔を見て「そうですよね、専務」と低く呟く。
「そのとおり。告訴は、やはりまずいんです」
栗原は、迷うことなく、そう言った。
「あら、どうしてまずいんですか?」
行天燎子は問い詰める。
「われわれにも体面というものがあります。いや、会社の評判にもかかわりますから……マスコミが大喜びして書きたてますよ。過去における城戸日出雄の自殺事件も、さんざん尾ヒレをつけて、むし返されるでしょうしね」
「でも、脅迫されたんでしょう? あなたたち二人ともが……」
「それには違いないんですが、告訴したことによるイメージダウンのほうがデメリットが大きいんです」
「わかりました。それなら仕方ないですわね。わたしたちとしては、何の手を打つこともできませんわよ」
行天燎子は、ぴしりとはねのけるような口調で言った。
二人の重役は、がっくりと肩を落とし、うなだれている。
それを見て、赤かぶ検事は気の毒になってきて、
「ガードマンを雇ったら、どうだね? 腕利きのガードマンをよぉ」
「欧米と違って、わが国には、テロ対策のために私人をガードする警備会社がありませんからね。警備保障会社はたくさんありますが、夜間のパトロールとか、工事現場の交通整理くらいのことしか引き受けてくれません。アメリカやイギリスには、そういうのを専門にする会社があるそうですけど、まさか、日本へ呼ぶわけにはいきませんから……」
「うむ。前例もないことだしよぉ」
赤かふ検事は、さもありなんというふうに顎を引いた。
第五章 熱海梅園の惨劇
1
熱海梅園には、渓流を挟んだ傾斜地に約千本の梅の木が植えられているが、十二月になると、早くも開花する早咲きの梅園としてよく知られている。
熱海梅園は、ちょうど、丹那トンネルの東の入口あたりの山腹にあって、三万平方メートルの傾斜地に、松、杉、楓に混じって、白梅や紅梅が咲き乱れるさまは見事である。
一月上旬から、約一カ月間は満開のシーズンを迎えるが、いまは、いくぶん最盛期を過ぎてはいるものの、馥郁とした梅の香りが園内いっぱいに漂い、むせ返るようだ。
「今朝は、いつもより冷え込むな」
植木職の大前源四郎は、もう、七十五歳になるが、風邪ひとつひいたことがない。
病気知らずの老人というのも珍しいが、彼自身にしてみれば、健康なのが当たり前のように思い込んでいるのかもしれない。
とにかく、長年に及んで、大前源四郎は、梅園の面倒をみてきた。
今日も、朝早くに起き出して、開園前の見まわりに余念がない。
梅の開花の模様を観察したり、虫食いの木がないか、折れている枝がないか、いちいち丁寧に見てまわる。
向こうのほうで、清掃のおばさんたちがゴミ集めをしていた。
昨日は、日曜日だったから、観光客で賑わい、そのぶんだけポイ捨てのゴミも、いつもより目立って多い。
「どうして、ゴミなんぞを梅園に捨てるんだろうな。用意した屑籠へ投げ入れてくれりゃいいのに……」
大前源四郎は、ぶつぶつこぼしながら、目についたゴミを拾い集めて屑籠へほうり込み、渓流のほうへ下って行く。
うっすらと霧が流れていた。
谷間の斜面に植えてある紅梅が白っぽい霧のなかにけむって見える。まさに一幅の絵を眺めているような趣きのある情景だった。
観光客がやってくるには、まだ時間が早い。
谷間のどこかから、鶯のさえずりが聞こえる。
大前源四郎が、最も生き甲斐をおぼえるのは、こういう一時だった。
「おっ。あれは何だ?」
大前源四郎は、ふと立ち止まり、目を凝らした。
渓流へ向けて落ち込んだ斜面の中ほどの大きな楓の木の下に、首の折れたマネキン人形のような物体が捨てられている。
大前源四郎にしてみれば、こんなところに人の死体があるとは思わないから、てっきりマネキンだと思ったまでのことだ。
あたりには、白っぽい霧がもやっているから、なおのことその物体の正体を判別しにくい。
「何だろうな」
大前源四郎は、その奇妙な物体の正体を自分の目で確かめなくては気がすまなくなってきた。
彼にしてみれば、この梅園は聖地≠ナある。
その聖地に、変な物体を投棄するとは許せない。
そういう思いがあるものだから、彼は、意を決して、足を滑らせないように用心しながら、ゆっくりと下りる。
急斜面だから、踏み誤ると転落の恐れがあったが、彼にしてみれば、長年、馴れ親しんだ場所である。
目指す楓の木の下へ辿り着くのは、さほどむずかしいことではなかった。
(こ、これは……死体だ!)
首を切られた男の死体が、楓の木の根もとのあたりに仰向けに横たえられているではないか。
昨日の朝、見まわったときには、こんなものは見あたらなかったのだ。
昼間は人の目があり、こっそり死体を捨てるわけにもいかないだろうから、おそらく、昨夜のことだろう。
それにしても、首と胴とを切り離すとは、いったい、どういうつもりなのか。
年齢の見当は、ちょっとつきにくいが、若い男ではないことは確かなようだ。
頭髪も、禿げあがっているし、顔には皺があり、筋肉にもたるみが見られた。
まるで、デスマスクのように目を閉じているのが、かえって不気味だ。
衣服は、まったく身につけていない。
現場で殺害した形跡はないから、おそらく、ほかの場所で殺害し、ここへ捨てにきたのだろう。
首を切ったのも、ここではなさそうだ。
大前源四郎は、とにかく、一刻も早く警察へ知らせなければならないと思って、息を喘がせながら斜面を駆けるようにして登った。
通報を受けた熱海警察署では、ただちに初動捜査班を出動させ、現場へ向かわせた。
静岡県警本部からも、捜査員が駆けつけた。
そのメンバーの中には、田貫湖畔の第一の首切り死体事件≠捜査した服部警部補も含まれていた。
ひととおり、現場の状況を把握した服部警部補は、東京の警視庁、さらに、長野県警松本警察署へも事件発生の第一報を入れた。
赤かぶ検事が支部長を務める長野地検松本支部へも通報が飛んだ。
2
死体の検視と並行して、現場付近一帯の捜索がおこなわれた。
梅園全体を立入り禁止にするわけにはいかず、現場付近だけに限ってロープが張られ、観光客を閉め出す措置がとられた。
死体は、司法解剖に付せられた。
行天燎子は、事件発生の通報を受けると、その日のうちに熱海へ出張した。
3
「検事さん。わたし、行天燎子です。いま、熱海警察署から電話をしているんです。解剖の結果も聞きましたし、捜査状況も、一応、把握しましたので、とりあえず、お知らせしようと思って……」
行天燎子の気合いの入った声が受話器に響く。
「ご苦労なこった。おみやぁさんもたいへんだわね。あちこちで事件が起こるでよぉ」
赤かぶ検事は、彼女の労をねぎらった。
「検事さん。わたし、忙しいほうが張り合いがありますわ。わたしが、しょっちゅう出張するもので、主人はご機嫌が悪いみたいですけど、仕方ないですわね。いずれ、松本へ帰れば、留守をしていたぶんだけ慰めてやりますわ」
「これは、恐れ入ったなも。こんなところで、お惚気《のろけ》を聞かせなくてもええではにやぁがね」
「あら、すみません。つい、口をすべらせちゃって……ごめんなさいね」
と行天燎子は、屈託のない笑い声をあげながら、
「検事さん。それじゃ、本題に入ります。まず、死体の状況ですけど、田貫湖畔の第一の事件と同様に、首と胴とが切り離されていました」
「それは聞いとる。問題はだな、同一人物の首と胴か、それとも別人か。そこだわね。田貫湖畔の第一の事件では、首と胴とは別人のものだったよな。首のほうは、一ノ瀬勝行のものだったが、胴は、総会屋の秘書をしておった竹岡和正のものだと判明した。DNA鑑定の結果としてよぉ。今回の事件も、まさか、それと同じなんてことは?」
「そのまさか≠ネんです、検事さん。何より、血液型が違っていたんですから、死体発見後、二日目には、もう、別人の首と胴だってことがわかってきたんです。要するに、DNA鑑定をするまでもなかったわけですわ」
「それじゃ、田貫湖畔の第一の事件とは、ちょっと事情が違うではにやぁがね?」
「そうなんです。第一の事件では、死体発見当初は、別人の首と胴だなんてわからなかったんです。首が一ノ瀬勝行のものだってことは、死体発見後、間もなく判明しましたが、まさか、胴体が入れ替わっていたとは、思いもよりませんでしたわね。だって、普通、そんな手間のかかることをしませんもの。それに、血液型だって、首も胴も、ともにA型でした。しかも、胴の一部とも言うべき左手の中指にペンダコがありましたわね。これは、左利きであることを示すものですが、首を切り取られた一ノ瀬勝行も、胴体の主だった竹岡和正も、左利きだったんです。最終的には、胴のほうは竹岡和正だったことがわかりましたが、そういう結論が出るまで、ずいぶん日数がかかっています。もし、DNA鑑定をしなければ、てっきり、同一人物の死体だと、わたしたちは信じ込んでいたと思いますわ」
「そのとおり。第一の事件の犯人は、首と胴とが同一人物の死体であるかのように見せかけようとしたんだろうよ。ところが、今回は違うわけだよな。犯人にしてみても、血液型が異なっているのを承知のうえで、そのようなことをしたとも考えられる」
「とにかく、今回の死体は、首がO型で、胴がA型。まるっきり違うんです。たぶん、犯人としては、遅かれ早かれ、首と胴とが同一人物のものでないのを警察が知るだろうことくらい、予想していたのかもしれませんわね」
「それにしても、実に奇妙な殺人事件だなも。犯人の意図がわからん」
と赤かぶ検事は、受話器を握りながら、首をひねり、
「それでよぉ。死体の身元はわかったのかね?」
「首のほうはわかりました。ですけど、胴のほうは、誰のものか不明です」
「うむ。いずれはわかってくるだろうけどよぉ。第一の事件の場合も、そうだったんだから……竹岡和正の胴だってことが、やがて判明したわけだ。ところで、今回、発見された首は、誰のものだった?」
「筆頭常務の塚脇一成の首だったんです。未亡人たち遺族が確認していますから、間違いありません」
「何だと?……あの筆頭常務の塚脇の……」
赤かぶ検事は絶句した。
「検事さん。わたしも、塚脇の首だと聞いて、耳を疑いましたわ。だって、つい最近、わたしたちは塚脇と会っていたんですものね」
「そうだ。ペラペラと、よく舌のまわる如才のない男だったよな。それにしても、気の毒に……」
赤かぶ検事は、感慨無量の面持ちで、塚脇と会って話していたときのことを想い起こしていた。
行天燎子は言った。
「静岡県警の服部警部補から聞いたところによりますと、事件直前の塚脇の行動は、こうなっているんです。ちょっと、お待ちになって……」
メモでも見ているのか、カサコソと紙が擦れる音がして、行天燎子の言葉がつづく。
「塚脇は、先々週の木曜日の午後四時半ごろ、奥さんに電話を入れているんです。『これから、熱海へ行く。仕事なんだよ。たぶん、月曜の朝まで帰れないと思うんだけど……』奥さんに、そう告げているんです。奥さんとしても、こういうことは珍しくないので、『それじゃ、気をつけてね』と言って電話を切ったそうですわ」
「塚脇が、どこから電話をかけたのか、それはわかっておるのかね?」
「いいえ。たぶん、会社からかけたんじゃないかと奥さんは漠然と思い込んでいただけで、実際のところはわからないんです」
「会社の重役室なら、秘書がおるのと違うかね?」
「秘書はいますが、重役室とは別室になっていて、重役室のデスクの電話機から、直接、外線にかけることができるんです。だから、秘書には、重役室の中のことはわからないんです」
「あるいは、重役室から電話をかけなかったのかもしれんな」
「そうかもしれません。とにかく、塚脇は、気ぜわしく重役室を出たり入ったりしていたそうです。それは、秘書が見ているんです」
「それで?」
「午後五時半ごろのことですが、秘書に命じて、重役専用車を用意させ、それに乗って出て行ったそうです。秘書には、『熱海へ行く』としか言い残していません」
「いつ、帰るとか、そういうことは?」
「やはり、奥さんに告げたのと同様に、月曜の朝までは帰れないだろうと言っていたそうです」
「わかった。そのあとのことを話してちょうよ」
「はい。重役専用車の運転手の話によりますと、塚脇を東京駅まで送り、八重洲口で降ろしたそうです。その後、運転手は会社へ戻り、重役専用車を車庫に入れたんです」
「その後の塚脇の足取りは、わかっておるのかね?」
「いいえ。八重洲口で、重役専用車を降りてから以後の足取りは、全然、わからないんです」
「わからないとは、どういうことだね?」
「会社の仕事で熱海へ行ったとすれば、何という旅館に泊まったか、普通なら突きとめられるはずですよね。ところが、熱海警察署が片っ端からホテルや旅館を調べまわったんですが、皆目、不明のままなんです」
「それじゃ、熱海へ行かなかったのかな?」
「それもわからないんです。八重洲口で車を降りた直後に、何者かに誘拐されたという可能性もありますが、これだって、雲をつかむような話です。それらしい形跡は、一切、ないんですから……」
「もし取引先の招待で、熱海へ出かけたのなら、調べさえすれば、事情がわかるはずだがよぉ」
「調べてはいるんですが、何もわかってはいないんです。会社のほうでも、そういう招待を受けてはいないと言ってるそうです。もっとも、塚脇がプライベートな関係で招待されていたのなら別ですけど……」
「招待というのは、単なる口実であって、どこかの女と、こっそり温泉に逗留するつもりだったのかもしれんな」
「その線も考えられますが、目下のところ、塚脇に女がいたという聞き込みはないんです。ところで、その翌日の金曜と土曜は休みだったんです。金曜は塚脇の代休で、土曜は、会社自体が休業します。そして、日曜日も休みでしたから、塚脇の身の上に何か起こっているかもしれないなんて、会社のほうでも、家のほうでも、想像もしていなかったんです。そして、月曜の朝、熱海梅園で、首と胴とがちぐはぐな死体として発見されたわけです」
「うむ。まったく不可解な事件だなも」
「そうなんです。塚脇の胴体が、どこかに捨てられているはずですわね」
「うむ。田貫湖畔の第一の事件の場合だって、一ノ瀬勝行の胴体が、どこかに捨てられているはずだが、いまだに発見されておらん。このことから推測して、今回の事件でも、塚脇の胴体は、このまま発見されずじまいに終わる可能性もあるでよぉ。わしは、それを恐れておるんだ」
「同感ですわ、検事さん。第一の事件と同様に、胴体を発見されると、殺害の動機が知れるとか、犯人の身元を知る決定的な手がかりを警察に与えてしまうと、犯人は、そう考えて胴体を隠してしまったんでしょうね」
「第一の事件でも、きっと、そうだろう。だとすれば、何がどうあろうとも、胴体を見つけないことには、犯人を突きとめることもできんわけだ」
「おっしゃるとおりです。胴体が見つかれば、死因がわかりますわ。その結果、犯人の正体が暴露される。それを恐れているから、胴体を隠すんです」
「今回の事件でも、塚脇の死因はわからんわけだなも?」
「はい。第一の事件と同じように、首そのものには外傷もなく、科学検査の結果からも、死因が判然としないんだそうです」
「胴体のほうは、どうなんだ?」
「今度、見つかった胴体のことですね?」
「そうだ。塚脇の胴体ではなく、別人のものだが、そのほうの死因は?」
「やはり、不明です。第一の事件では、総会屋の森戸辰次郎の秘書をしていた竹岡和正の胴体でしたわね。その胴体に、一ノ瀬勝行の首がくっついていたんです。もちろん、これは、後日、判明したことですが……結局、いろいろ調べた結果、竹岡和正は、金槌のようなもので頭を殴られ、殺害されたことがわかりましたわね。そして、犯人は、竹岡の首と胴を切り離し、胴のほうを一ノ瀬勝行の首にくっつけて、田貫湖畔に捨てたわけです。一方、竹岡の首は、霧ヶ峰の八島湿原で見つかっています」
「だからよぉ、今度の事件でも、正体不明の胴体の本来の首≠ェ、どこかで発見される可能性がある」
「そうでしょうね。それから、死亡推定時刻ですけど、解剖の結果、死後四日ないし五日経過していることがわかっています」
「するとよぉ、熱海に行くとか称して、八重洲口で重役専用車を降りてから間もなく、殺害されたことになるのかな?」
「間もなくか、どうかは別として、木曜日の夜くらいに殺害されたのは間違いないでしょう」
「熱海梅園だがよぉ、深夜でも、園内へ入れるようになっているんだろうか?」
「出入りは自由ですわ。いずれにしろ、どこかほかの場所で殺害し、首を切り落とし、胴体をすり替えるとかして、熱海梅園へ運び込んだのに違いないと静岡県警ではみているようです」
「なるほど。いずれにしろ、あのとき、筆頭常務の塚脇と専務の栗原は、今日明日にでも殺されるかもしれないからと言って、恐がっておったなも。われわれとしては半信半疑だった。その後、無事に経過しとったもんだで、もう、心配するほどのことはないと思い込んでいたが、そうではなかったわけだ。あのとき、もっと真剣に二人の話を聞いてやれば、こうはならなかったろうに……そう思うと、残念でならんわね」
「検事さん。その栗原も行方不明になっているんですのよ」
「何だと?……栗原までが……」
赤かぶ検事は、思わず声を荒らげた。
行天燎子は、言葉をつづける。
「事情はこうです。先週の金曜日のことですが、専務の栗原は、午後一時ごろに、急用ができたから甲府工場へ出かける、と言い残して、会社を出ているんです」
「それで?」
「新宿まで、会社の車で送らせ、その後は、中央本線で甲府へ出張したんです」
「列車に乗るところを誰かが見とるのかね?」
「いいえ。新宿で、会社の車を降りてからのことは、まったく、わかっていません」
「甲府ならよぉ、重役専用車で行けばええのに、なぜ、列車を使ったんだろう?」
「週末だから、車が混むかもしれないというので、列車で行くと言って会社をあとにしているんです」
「すると、実際のところは、甲府工場へは行っておらんわけか?」
「そうなんです。甲府工場のほうでは、専務の栗原から、そういう連絡は受けていなかったと言っていますわ」
「それじゃ、栗原は嘘ついて会社を出たわけか?」
「さあ。嘘をついたか、どうかはともかく、甲府工場へ行っていないのは事実なんです」
「何者かに脅迫され、行き先を言えなかったのと違うか?」
「その可能性もありますわね。新宿で車を乗り捨てて間もなく、どこかへ拉致された恐れもありますしね」
「そうだなも。またぞろ、首を切られた死体が、どこかで発見されるんじゃないだろうか? 首だけが栗原だったとか……」
「そうならないように祈りたいですわね。検事さん」
「同感だわね。ところで、ちょっと、いま、思いついたんだがよぉ。未亡人の静代たち三人の兄妹は、このところ、どうしておる?」
「以前と変わりなく過ごしているんじゃないでしょうか? 詳しくはわかりません」
「連中を監視下においていたんではにやぁがね?」
「一応、監視態勢はとってはいたんですが、四六時中、捜査員をあの三人兄妹の監視や尾行にあたらせるわけにはいかなかったんです。ほかにも、いろいろ事件をかかえていますもの。ですから、わたしとしては、事情の許す限り、あの三兄妹から目を離さないようにと命じておいただけです。それよりほかに、やりようがありませんもの」
「そう言われてみれば、そうだなも。いや、ちょっと待てよ。あの三人の兄妹だけではなくて、静代の愛人とかいう直情径行型の男は、どうなんだ?」
「尾崎崇でしょう。やはり、同じように目配りするようにと言ってはおきました。いずれにしろ、今回の事件が、彼らの仕業か、どうか、決め手はありませんわ。だいいち、アリバイは問題外ですから……だって、塚脇が、いつ、殺害されたか、それさえ特定することができないんですもの。アリバイを問題にする余地はありません」
「そういうことだなも」
「ですけど、今後は、あの三人の兄妹と、静代の愛人の尾崎崇に対する監視態勢を強化し、尾行も抜かりなくやれるように捜査態勢をととのえます。署長に言って、県警本部と交渉してもらい、応援の捜査員を派遣してもらえば好都合なんですけど……」
「まあな」
ひょっとしたら、遅きに失するかもしれないと赤かぶ検事は懸念した。
なぜなら、専務の栗原は、すでに死体になっている可能性が強いのだ。
栗原は、金曜日の午後から行方不明だという。
今日は月曜だから、三日間経過しているわけだ。
その間、栗原本人から何の連絡もないとなれば、殺害されている疑いが濃厚だ。
実際、翌々日の水曜日の早朝、専務の栗原の死体が富士山麓の精進湖に浮かんだのである。
第六章 精進湖畔の生け贄
1
精進湖は、富士五湖の中ではいちばん小さい湖で、周囲は約五キロ。面積は一平方キロメートルにも満たない。
しかし、田貫湖と同様に、青く澄みきった水をたたえた物静かな雰囲気の湖で、南側を除いて、三方が山に囲まれていることや、それほど俗化されていないこともあって、湖の南岸から眺める富士の姿は、実にすばらしい。
邪魔になるものがないために、たやすく富士の雄姿を撮影できるとあって、写真愛好家には理想的な撮影地でもある。
晴れた日を狙って、夜明け前から、南岸のあたりに車を乗りつけ、三脚を立て、カメラを据える人の姿が絶えない。
ここから眺める富士は、ちょうど富士山の北側にあたるために、陽当たりの関係で、白い冠雪が、なかなか溶けず、真夏のシーズンを除いては、頂上に雪を冠《かぶ》った理想どおりの富士をカメラにおさめることができる。
南岸に集まってきた写真愛好家たちの大半は、何度も、ここへきている連中ばかりで、富士のどのあたりから朝日が昇るか、あらかじめ心得ているから、これと思う位置にカメラを据え、じっと待つ。
朝日が昇るのは、頂上から向かって左のほうへ伸びる稜線の中ほどから少し上のあたりだ。
すでに、空が赤っぽく染まり始めていた。
やがて、たなびく雲が金色に輝き、富士のシルエットを逆光の中に浮かび上がらせる。
カシャ、カシャッと、シャッターを切る音が、湖岸の静かな空気を震わせていた。
誰も口をきかない。
ひと口に写真愛好家と言っても、さまざまなタイプがあるが、ハイアマチュアのようなプロ級の経験者なら、撮影中にむだ口をたたいたり、大きな声で喋り、他人に迷惑をかけるようなことは決してしない。
何よりも、全身の神経を鋭敏に働かせながらシャッターを切っているのだから、言葉を口にする余裕もない。
ここらあたりの心境は、じっと釣糸を垂れる太公望のそれと似ている。
声をたてると魚が逃げるのを危惧するのと同様に、むだ口をたたくと精神の集中力がそこなわれてしまうような気がするからだろう。
こういう気持ちは、たぶん、写真愛好家でなければ理解できないだろう。
こんなときに、「すみません。シャッターを押してくれませんか」などと、コンパクトカメラを手にして撮影中のカメラマンに声をかけても、返事はしてもらえないかもしれない。
おそらく、聞こえないのだろうし、聞こえていても、他人のカメラのシャッターを押すことなど思いもよらないことだ。
一瞬の気のゆるみのせいで、シャッターチャンスを逃した悔しさなど、他人にシャッターを押してくれなどと気軽に頼める人たちにはわからないのだろうが、気の短い写真家に出くわしたりすると、「いい加減にしなさい。ペアで写したいのなら、小型の三脚くらい、持ってきたらどうですか?」と逆に叱られたりする。
叱られたほうは、そういうカメラマンの心境を理解できないから、「ふん。意地悪!」などと、捨て台詞を残すことで、うっぷんを晴らすことになるようだ。
カシャ、カシャと連続してシャッターを切り、何枚も同じシーンを撮るくらいなら、ちょっと手を休め、「せっかくアベックできたんだから、わたしたちの記念写真の一枚くらいは撮ってくれるのが親切というものだろう」と思う気持ちはわかるが、何日も晴れの日を待って、やっとチャンス到来とばかりに緊張しながら撮影をつづけている写真愛好家にしてみれば、「バカも休み休み言え!」と怒鳴りつけたくなるのを我慢するのが精一杯だろう。
「陽が昇るぞ」
誰かが、小さく叫ぶ。
思わず、口をついて出た感動の叫び声だ。
シャッターが下り、モータードライブが作動してフィルムが送り込まれる音がいちだんと高まった。
予想されたとおりの地点から、茜色の太陽が頭を出した。
それが容積を増すにつれ、太陽の色合いも変化していく。
赤みが消え、黄金の色調が増していく。
すっかり太陽が昇ったとき、もう、眩しくて、まともには見られなくなっていた。
こうなると、撮影は終わりだ。
たとえ、黒いNDフィルターをかけたところで、強烈に輝く陽光のために、フィルム面にハレーションを起こしたり、斜めにゴーストが写り、とてもじゃないが絵にはならない。
すでに写真愛好家たちは、それぞれ機材をバッグに詰めたり、三脚をたたんだりしている。
果たして、狙ったとおりの写真に仕上がるか、どうか、実際にフィルムを現像してみなければ何とも言えない。
たとえ、ベテランのプロカメラマンであっても、こういう思いは同じである。
アマチュアにとっては、できあがりが楽しみだろうが、それで飯を食っているプロカメラマンだと、たちまち収入に響くから、深刻だ。
見込みどおりの写真になっていなければ、また、何度も、ここへこなければならないし、下手をすると、実費の回収もおぼつかない。
「キャーッ!……」
突然、向こうのほうで、女性の金切り声が聞こえた。
女子大生らしい女の子が三人ばかり、早朝の湖岸を歩いていて、何かの異変に出くわしたらしい。
「これ……人の死体よ!」
「首が切れてるじゃない……」
「……恐い!……」
彼女たちは、口々に叫びながら、すくみあがり、後ずさりした。
「何があった?……」
写真愛好家の中から、二、三人の若者が、女の子の声を聞いて、そっちのほうへ駆け出した。
湖岸の渚に近い場所に、松の木が二、三本、固まって植わっているが、その下の叢に、首と胴とが切り離された男の死体が発見された。
ここは、田貫湖に近いにもかかわらず、すでに、県境を越え、山梨県に属する。
そこで、山梨県警富士吉田警察署から初動捜査班が出動した。
死体の首と胴とが切り離されていることがわかると、これまでの一連の事件との関連性から、関係各警察署へも通報が飛んだ。
松本警察署からは、行天燎子警部補が三人の捜査員とともに現地へ車を走らせた。
2
現地から戻ってきた行天燎子は、早速、赤かぶ検事をたずね、状況を報告した。
「検事さん。予想どおり、首のほうは、専務の栗原達夫のものでしたわ。未亡人が確認したんです」
行天燎子は、このところ、仕事が山積し、多忙をきわめているにもかかわらず、輝くばかりの美貌には、疲労の色がまったく窺われない。
好きでもない仕事をやっているのなら、こうもいかないだろうが、彼女の場合、捜査に打ち込み、何が真実であったかを突きとめないことには気がすまないという逞しいばかりの意気込みが、彼女に疲れを感じさせないのかもしれない。
自分の仕事に生き甲斐を感じているキャリアウーマンの典型的タイプと言えよう。
赤かぶ検事は言った。
「それじゃ、胴体のほうは?」
「専務の栗原の胴体は見つかっていません。この点では、熱海梅園の現場から、首だけしか見つかっていない筆頭常務の塚脇一成のケースと同じです」
「なるほど。田貫湖畔の第一の事件とも共通しておるなも。ひょっとしたら、今回、首だけが見つかった栗原の胴体の部分は、発見できないままになってしまうんじゃないだろうか。わしは、それを心配しとるんだよ」
「同感ですわ、検事さん。今回の事件でも、栗原の首と一緒に残されていた胴体が、誰のものか、まったく不明なんです」
「ちょっと待ちなよ。その胴体はよぉ、塚脇のものではにやぁがね?」
「いいえ。血液型から言っても、塚脇の胴体ではないことがわかっています。DNA鑑定の結果でも、まったく別人のものだと判明しました」
「そうなるとよぉ、今度もまた、死因すらわからない。こういうわけだなも?」
「そうなんです」
「生きたまま、栗原の首を切って殺したというのなら、それが死因だと言えるんでしょうけど……とてもじゃないですが、こんなの信じられませんわ。とにかく、胴体が見つからなければ、死因を確定することはできないと専門家は言っています」
「首を切るのに使用した刃物は?」
「やはり、田貫湖畔の第一の事件や熱海梅園の第四の事件と同様に、ノコギリのような刃物を使用したもののようです」
「ノコギリで、ギコギコやりやがったわけだなも。おみやぁさんも、いま、言っておったように、まさか、生きたままの栗原の首をゴシゴシやったわけでもあるまいと思うんだが、どうだろう?」
「想像しただけでも、空恐ろしい思いがしますわ。もし、そんな酷い殺し方をしたのなら、想像を絶する残酷な犯人か、それとも、憎しみに燃え、復讐に身を焼く思いでやったのか、そのどちらかでしょうね」
そう言った行天燎子の顔色が、急に青ざめていた。
ベテランの捜査官とは言いながら、やはり、そこは女性のことだから、平然とはしていられないのだろう。
赤かぶ検事にしてみても、思いは同じだったが、これまで、数々の残酷な殺人事件を手がけた経験があるから、彼女ほど、恐れおののきはしなかった。
「ところでよぉ。栗原が行方不明になってから以後の詳細な足どりを調べあげなけりゃならんわけだ。この点はどうだね?」
「先日も言いましたように、専務の栗原は、金曜日の午後、会社を出たまま行方不明なんです。甲府工場へも行っていません。それ以後、死体が発見された水曜の早朝までの五日間、皆目、足どりがつかめないんです」
「筆頭常務の塚脇の場合と、状況が似ておるなも」
「そうなんです。解剖の結果、死後五日前後が経過しているというんですから、十中八、九まで、行方が知れなくなった金曜日のうちに殺害されたんじゃないかと思われます」
「それにしても、不思議な事件だなも。これで、『甲信電機』の四人組≠フうち、残るのは、社長の植野史朗一人になっちまったではにやぁがね」
「検事さん。そのことなんですけど、このところ、社長の植野は、次は、きっと自分が殺されるに違いないと思い込み、恐怖心に取り憑かれ、ひどく取り乱していて、ほとんど会社へも出勤しないそうですわ」
「気の毒によぉ。不眠症に陥っているとは聞いておったが、出勤しなくなったところからすると、仕事も手につかんのだろうよ」
「ここまでくれば、わたしたちとしても、何らかの手を打たなければならないと思うんですけど、どうでしょう?」
「そうは言っても、犯人の正体がつかめんのだから、手の打ちようがあるまい」
「社長の植野を保護してやるよりほかありませんわ」
「そうかもしれんが、社長の植野は、いまのところ、東京で暮らしておるわけだから、警視庁にまかせるよりほかあるまい。ところでよぉ、一ノ瀬静代たち三人の兄妹は、近ごろ、どうしておる? 静代の恋人だという直情径行型の若者のことも気になるわね。名前は、尾崎崇だったと思うがよぉ」
「あいかわらずだと申し上げるよりほかありません。一応、監視態勢をとってはいますが、毎日の行動を、逐一、追跡するなんてことは無理です」
彼女が言ったとき、赤かぶ検事のデスクの上の電話が鳴った。
電話は本庁の長野地検からのもので、検事正である林益太郎が、直接、電話口に出た。
検事正というのは、地方検察庁の最高責任者であり、赤かぶ検事にしてみれば、上司のうちでも、いちばん、ランク付けの高いお偉いさん≠セ。
「これは、これは……ご無沙汰しております」
こういうのは、めったにないことだから、赤かぶ検事は、ひどく緊張し、恐縮していた。
林検事正は言った。
「柊くん。これは、東京地検からの要請でもあるんだが、『甲信電機』の社長をしている植野史朗という男のことなんだよ」
「社長の植野が、どうかしましたか?」
「きみも知ってのとおり、『甲信電機』の重役たちが、次々と殺害されている。最後には、自分の番がまわってくるに違いないと、社長の植野は恐くて仕方がないらしい。ボディガードもつけたというが、それでも安心できず、このさい、思い切って、東京を離れたほうが身の安全を確保するためにも必要なことじゃないかと考えているそうだ。要するに、どこか人に知られない隠れ家を見つけて、当分、そこで暮らしたほうが安心できるというわけだ」
「なるほど。社長の植野の気持ちは、よくわかりますよ、検事正」
「問題は、その隠れ家だ。松本には、『甲信電機』の工場があるほか、会社にとって大切なお客なんかを泊める保養所もあるそうだ」
「それは知りませんでした。『甲信電機』の保養所が松本にあるとは……」
「いや、保養所と言うより、ちょっとした邸宅のようなものらしい。以前、旅館だったのを会社が買い取ったんだそうだよ。とにかく、そのことについて、きみに会って、お願いしたいことがあると、社長の植野は言っている。近いうちに、きみのところへ行くそうだから、会ってやってくれよ」
「そりゃ、会ってもいいんですが、社長の植野は、このわたしに何をしてくれと言うんでしょうか?」
「そのことなら、きみに会ったうえで話すと言ってる。とにかく、頼んだよ。いいね?」
「承知しました」
「じゃあ、これで……」
林検事正は、それだけ言うと、電話を切ってしまった。
通話を終えると、赤かぶ検事は、いまの電話の内容を行天燎子に話してやった。
すると、彼女は、ちょっと肩をすくめるような仕種をして、
「用件は、見当がつきますわ。たぶん、保養所とやらで、当分、生活することになるから、警備のほうをよろしくと言うんでしょう」
「わしも、そう思うんだ。だけどよぉ、警備を頼むなら、警察を相手にしたほうが賢明だ。警察と違って、検察庁には、拳銃のような武器もないことだし、人員にも限りがある。警察のようなわけにはいかんでよぉ」
「たぶん、そのうちに、わたしたちのほうへも、同じ要請があるでしょう。警察庁なんかを通じてね。とにかく、社長の植野にしてみれば、打てるだけの手を打ってみないことには気がすまないんでしょうね」
「そうかもしれんな」
赤かぶ検事は、思案深げに頷いた。
3
翌日の午後、社長の植野史朗が赤かぶ検事をたずねてきた。
見ると、ロマンスグレイの上品な男で、会社経営者と言うより、むしろ、芸術家タイプの繊細な感覚の持ち主を想像させる風貌である。
すらりとした細身で、背も高い。
年齢にしても、まだ、六十歳にはなっていないだろう。
「おみやぁさん。一人で、ここへきたのかね?」
赤かぶ検事は、デスクの傍に座った植野を眺めながらたずねた。
「いいえ。ボディガードが三人、車の中で待っています。そういう態勢で、いつも動きまわっているんですよ。そうでないと、いつ襲われるか、知れたもんじゃありませんから……」
植野の眉が、神経質そうにピクッと動いた。
次々と周辺の重役が殺されていくものだから、気持ちのうえで動揺しているのは確かなようだ。
赤かぶ検事は言った。
「おみやぁさんよぉ。何だか知らんが、このわしに頼みたいことがあるんじゃないのかね?」
「検事さん。実を言いますとね、一両日中に、当地へ引っ越してこようと思うんです。それで、ご挨拶をと思いまして……」
「引っ越す?……引っ越すと言うからには、家族と一緒に?」
「いや、家族は東京に残しておきます。いろいろと都合がありますので……犯人に命を狙われているのは、わたしであって、家族じゃないんです。これは確かなことだと思うんです」
「どうして、確かなんだね?」
「だって、筆頭常務の塚脇や専務の栗原の場合、家族には何の危害も加えられていません。総会屋の森戸辰次郎についても、秘書の竹岡和正についても同様です」
「そうでもにやぁでよぉ。竹岡和正の娘の彬子が殺された例もあるしな」
「あれは、事情が違うと思うんです。彬子という娘は、きっと、父親の竹岡和正の生前の行動なんかについて、何か知っていたのかもしれません。それとも、何かを預かっていたとか……そんなことで、殺されたんじゃないかと思うんです。新聞にも、そんなふうなことが書いてありましたから……」
「そうだとしてもだよ。なぜ、おみやぁさんは、命を狙われていると思うんだね?」
「わたしにだってわかりませんよ。ただ、塚脇や栗原が狙われ、葬り去られたのは確かですから、残るのは、わたし一人です」
「理由は、それだけかね?」
「それしかほかに、思いあたらないんです」
「以前に、筆頭常務の塚脇たちが、わしのところへ会いにきたとき、こんなふうなことを言っておったがよぉ。会社には、人に知られたくない秘密があるとか……命を狙われるのは、それと無関係ではないという気もするんだがよぉ。おみやぁさんには、何か、思いあたるふしはないのかね?」
「検事さん。そりゃ、どこの企業でも、それぞれ、世間に知れるとまずい秘密があると思うんです。わが社とても同様です。だからと言って、それだけのために、重役が次々と殺されるなんて信じられません」
「信じられないことが、現実に起こっておる。会社の秘密とやらも、おみやぁさんの許可を得ることができさえすれば、何もかも、ぶちまけて話すつもりだなんて言っておったわね。塚脇と栗原がよぉ。となればだ、おみやぁさんが許可を与えなかったために、あの二人は、せっかく、わしのところへきたのに、有力な情報を提供できなかったわけだ。そうこうするうちに、あの二人が殺された。どうだね、おみやぁさん。いま、ここで、その秘密とやらをわしに、全部、話す気にはなれんかね?」
「そりゃ無理ですよ、検事さん。会社の秘密と言っても、たくさんありますから……それに、わたしが、その秘密事項のすべてをおぼえているわけじゃないんです。筆頭常務の塚脇や専務の栗原が、自分たちの責任で秘密事項にしていることもありますから、いま、急に、全部を明らかにしろとおっしゃっても、どだい無理な注文です」
「急場の間に合わんというわけだなも。それなら、仕方ないわね」
赤かぶ検事が突き放したような口調で言うものだから、社長の植野は、不安になってきたものとみえ、浮かぬ顔をしながら、
「検事さん。松本市の郊外に、『浅間荘』という会社の保養所があるんです。わたし、当分、そこへ引っ越すつもりでいるんです」
「その話は聞いておる」
「そうでしたか。なぜ、当地へ引っ越すかと言いますと、東京の本社へ出かけるにも、比較的、便利ですから……そこで、お願いがあるんです。松本警察署のほうにも、同じことをお願いするつもりでいるんですが、検察庁でも、何かあれば、好意的に面倒をみていただくというわけにいかないかと……」
「面倒をみるとは、どういうことだね?」
「何かのトラブルが起こった場合、迅速に解決していただきたくて……」
「おみやぁさんの言うトラブルとは、いったい何だね?」
「例えば、へんなやつが乗り込んできて、ボディガードとの間にトラブルが起こったような場合を申し上げているんです」
「そりゃ、ええけど……へんなやつって、いったい、どういう連中を想定しているんだね?」
「さあ、それは何とも……殺し屋なり、その一味の者が夜間なんかに侵入してくるかもしれませんし……それを慮り、ボディガードを交替で見張りにつけておこうと思うんです。二十四時間態勢でね……ですから、いつ、どのようなトラブルが起こるか、知れたもんじゃありません。だから、お願いしているんです」
「わかったわね。できる限り、協力しよう」
いま、植野がおかれている立場を考えれば、その程度の配慮をしてやるのが当然だと赤かぶ検事は思った。
検事正から電話があったから、特別扱いしたのではない。
「検事さん。これで、わたしも安心しました。これから、松本警察署へ出かけるつもりでおります。極力、付近のパトロールなんかを強化していただきたくて……それでは、これで失礼します」
植野は立ち上がり、丁重に頭を下げてから背を向けた。
立ち去っていく後ろ姿は、見るからに悄然としていた。
第七章 早春の野麦峠
1
それから二週間が何ごともなく経過した。
社長の植野史朗は、「浅間荘」に引きこもってばかりいたのではない。
上場企業の社長であるからには、少なくとも、週に何回かは東京本社へ出勤しなければならず、ボディガードの護衛で、東京へ車を走らせることもしばしばだった。
いずれにしろ、その気になりさえすれば、犯人としても、植野史朗の命を奪うこともできなくはないだろう。
ところが、犯人が何の動きも示さないところからすると、このまま無事に過ぎていくのではないかという安堵感もあって、「浅間荘」周辺における警察のパトロール強化態勢も、一応、解除され、平常に復した。
そのころになって、赤かぶ検事のもとへ思いがけない情報が舞い込んだ。
その情報は、未亡人の静代と、妹の真由美によってもたらされた。
突然、彼女ら姉妹が、長野地検松本支部の赤かぶ検事の執務室へ血相を変えて飛び込んできたのである。
「検事さん!……兄の良武がたいへんなんです!」
真っ先に、静代が叫ぶ。
妹の真由美の表情にも、常ならぬ危機感が宿っていた。
「おみやぁさんたち、いったい、どうしたと言うんだね?」
赤かぶ検事は、唖然とした。
「検事さん、これを見てください。兄の良武の書置きです……」
あたふたしながら、静代は、引きちぎったメモを赤かぶ検事のデスクの上に置いた。
赤かぶ検事がメモを手に取ると、そこには、こう書いてあった。
「犯人がわかりそうだから、そっちへ行く。あとで連絡する」
メモ用紙には、ボールペンで、そう書いてあった。
赤かぶ検事は、どちらにともなく言った。
「これは、間違いなく良武の字かね?」
「そうです」
妹の真由美が答え、言葉をつづける。
「わたし、姉と二人で市内のデパートへ出かけて、買い物をしていたんです。帰ってみたら、このメモが……この様子だと、兄は、犯人のところへ単身、乗り込んだのに違いないんです」
「どうして、そう思うんだね?」
「だって、兄は、よく、こう言っていました。『おれたちが犯人みたいに疑われているから心外でならない……世間にも、おれたちの悪い噂が広がっているのはわかっている。もう我慢できないよ。必ず、犯人を突きとめてやる』……とくに、最近、兄は神経質になり、ピリピリしていたみたいです。だって、勤め先の会社でも、そんな噂が広がっているんですもの。わたしだって、居た堪れない気持ちになることがありますわ。兄は、あのとおり、激情的な性格ですから、こうと思い込んだら、何をするかわかりません。それが恐くて……もしかすると、兄は、犯人に違いないと思い込んでいる人のところへ車を乗りつけ、暴力を振るうんじゃないかと……それが心配でなりません。相手が、どんな人かは知りませんが、悪くすると、殺傷事件なんかを引き起こすんじゃないかと思って……」
真由美は、訴えかけるような口調で言う。
姉の静代が言葉を添える。
「妹の言うとおりなんです、検事さん。どこへ出かけたのか、それさえわかればいいんですけど……それが、わからないものですから、なおのこと心配で……」
静代の表情にも、憂慮の色が濃い。
「うむ。そいつは、たいへんなことになったなも。いったい、どこへ出かけたのか、見当もつかんとはよぉ。いずれにしろ、松本警察署の行天燎子警部補のほうへも、この事態を知らせてやらにゃならんでよぉ」
「そのつもりで、先ほど、松本警察署へ行ってみたんですが、行天さんは不在でした。ですから、男の刑事さんに、およその事情をお話ししておいて、こちらへうかがったんです」
電話が鳴ったのは、このときだった。
赤かぶ検事が受話器を上げると、行天燎子警部補の声が響く。
「検事さん。いま、そちらへ静代と真由美がきているんじゃありませんか?」
「そのとおりだ」
「姉妹が、検事さんに何を話したか、察しはつきます。わたしの代わりに刑事が話を聞いていますから……いま、その報告を受けたばかりなんです」
「うむ。容易ならぬ事態のようだが、おみやぁさん、どう思う?」
「そのことなんですけど、その部屋の電話じゃなくて、ほかの電話に切り換えていただけますか? 姉妹が勘繰るといけませんから……実を言いますと、それとは別に、予期しない情報が入ったんです。それを真っ先にお知らせしたくて……」
「わかった。ちょっと待ちなよ」
赤かぶ検事は受話器を置くと、静代たち姉妹に向かって、
「すまんが、わしは、ちょっと席をはずすでよぉ。戻るまで、ここで待っていてちょ」
姉妹が頷き返すのを見てから、赤かぶ検事は執務室を出た。
隣りの応接室の受話器を上げた赤かぶ検事は、つながっている電話回線を接続するためのボタンを押した。
「いま、電話を切り換えたでよぉ。これで安心だ。この部屋には誰もおらんでな」
「それじゃ、お話しします。今度の一連の事件とも関係ありそうなんです。だから、急いで電話をしましたのよ」
行天燎子は、そう前置きして、
「昨年四月の出来事ですが、名古屋市内の警察署で、拳銃盗難事件がありました。警察用のニューナンブM60が一丁盗まれたんです。実包二十発もね。捜査の結果、盗んだのは刑事課の巡査部長だとわかりました。名前は、安藤博次。現在は三十五歳のはずですわ」
「その事件なら、わしも知っとる。新聞に出ておったからな。だが、犯人の名前までは……」
「犯人が安藤博次だとわかったのは、後日のことなんです。何しろ、警察官の不祥事件ですから、愛知県警では、極力、表沙汰にならないように気を配っていたこともあって、いまだにマスコミは報道していません」
「わかった。その事件が何だというんだね?」
「犯人が安藤博次だと判明したのは、こういう経緯なんです。実のところ、盗難があったころに、安藤博次が武器保管庫の前に立って、何かゴソゴソやっているのを目撃した巡査がいるんです。ですけど、盗難があった時点では、上司への遠慮と言うか、口を噤んでいたんです。安藤博次は、その巡査より階級が上ですし、見て見ぬふりをしていたそうです」
「なるほど。あり得ることだなも」
「そのうちに、安藤博次が退職しました。一身上の都合というのが名目でしたが、本来、彼は、警察官としての自覚に欠け、暴力団関係者と親しくなっていたという噂もあったんです。市内のスナックで暴力団の幹部と一緒に飲んでいるところを見たという聞き込みもあります。しかし、確実な証拠もないので、署長が注意した程度ですんでいました」
「身持ちのよくない刑事だったわけだなも」
「そうらしいです。安藤博次が、退職後、何をしていたかはわかっていませんが、女房や子供とも別居しているのは事実ですし、どの途、ろくなことをやっていないだろうという見当はついていたんです」
「武器保管庫から、どうやって拳銃を盗んだのかな?」
「考えられるのは、ただ一つ。保管庫の鍵は、ほかのキーと一緒に木箱に入れて、署長室のロッカーにしまってあったんです。おそらく、安藤博次は、夜勤のときなんかに密かに署長室へ忍び込み、ロッカーを開けて鍵を盗み出し、合鍵を作っておいたんじゃないかというんです。それしかほかに考えられませんから……しかもですよ、安藤博次が、自分のマンションの近くにあるキーショップで、それらしき合鍵を複製させたという事実がわかってきました。もちろん、安藤博次が退職してから後のことですわ」
「うむ。盗難事件の真相を探るために、捜査員が市内のキーショップをたずね歩き、武器保管庫の合鍵を複製した者がいないか、聞き込みにまわった結果、その事実が判明した。そういうことだなも?」
「お察しのとおりです、検事さん。鍵が掛かっている武器保管庫から拳銃が盗み出されたとすれば、合鍵が用意されていたのに違いないですし、内部の者の犯行と考えるよりほかありませんわね」
「そこまでわかれば、安藤博次を窃盗の容疑で指名手配することになったはずだがよぉ。その点は、どうなんだ?」
「おっしゃるとおり、指名手配中です。しかし、どこに身を潜めているのやら、全然、行方が知れないまま経過していたんです」
「それで?」
「ところが、つい先日、安藤博次がベンツの助手席に座っているところを、たまたまマイカーですれ違った元同僚が目撃しているんです。まぎれもなく、あれは安藤博次だったと元同僚は言っているそうですわ」
「間違いないのかね? その情報はよぉ」
「愛知県警では、元同僚の情報を分析した結果、九十パーセントの確率で、間違いないと判断したそうです」
「何か根拠があるのかね?」
「例えば、元同僚がすれ違った相手の車というのは、白のベンツだったそうです。外車ですから左ハンドルです。したがって、助手席は右側ですわね。ところが、元同僚が運転していたマイカーは、それに対向して走っていたわけですけど、国産車ですから右ハンドルです。そんなことから、すれ違ったとき、助手席に座っている安藤博次の顔が元同僚にはよく見えたわけです」
「なるほど。安藤博次のほうは、どうなんだろう? その元同僚に気づいたろうか?」
「おそらく、気づいてはいなかったろうと、同僚は言っているそうです」
「ほかに、どういう連中が乗っておったのかな? そのベンツにはよぉ」
「運転手のほかに、後部座席には三人ばかりの男が乗っていたと、元同僚は言っています。ただし、どういう連中だったか、そこまではわかりません」
「すれ違っただけで、助手席に乗っておった安藤博次の顔が見えたというのも、ちょっと、おかしいんじゃないのかね?」
「いいえ。道路が混雑していて、両車線とも、のろのろ運転だったそうです。だから、助手席に座っている安藤の顔がよく見えたんです。もともと、面識のあった間柄ですから、見ればわかったはずですわね」
「それだけの情報では、安藤とやらの所在を突きとめることもできんのではにやぁがね? もっとも、ベンツのナンバーをおぼえておったのなら別としてよぉ」
「まさに、それなんです。元同僚は、抜かりなくナンバーを記憶していました」
「そのナンバーから、ベンツの所有者が判明した?」
「そうなんです。誰のベンツだったと思われます?」
「わしが知るわけもにやぁでよぉ」
「そうでしたわね」
と行天燎子は、明るい笑い声をもらしながら、
「そのベンツは、植野史朗の所有名義になっていたんですのよ」
「何だと?……社長の植野の……」
赤かぶ検事は絶句した。
行天燎子は言った。
「実に意外なことですわね、検事さん。なぜ、植野のベンツに拳銃を盗み出した元巡査部長が乗っていたのか。奇想天外な情報ですけど、それが事実なんですもの……そのベンツは、会社の車ではなく、植野個人の車だってことにも注目すべきですわ」
「うむ」
赤かぶ検事は唸った。
まさに、的確な意見だった。
「検事さん。それから、安藤博次の容貌なんですけど、恐持てのいかつい容貌なんだそうですわ。ほかにも、ちょっとした特徴があるとか……右の眉の真ん中が切れているんだそうです」
「切れているとは?」
「つまり、何と言いますか、眉の真ん中の部分が一センチばかり禿げているってことなんです。これは、以前からのことで、一種の皮膚病みたいなもんだと、安藤自身が言っていたそうです」
行天燎子の話を聞きながら、赤かぶ検事は、植野史朗という男の正体をちらっと垣間見たような気がした。
じっと考え込んでいた赤かぶ検事は、突然、素っ頓狂な声をあげて
「おみやぁさん。こいつはえりやぁことになるかもしれんでよぉ。覚悟はええかね? これまで一ノ瀬勝行や塚脇一成、それに栗原達夫らの重役の死体のうち、胴体だけが隠されてしまい、いまだに見つからんのは、なぜか? そのわけがわかってきたぞ」
赤かぶ検事が何を言っているのやら、行天燎子には、見当もつかなかった。
2
柊葉子は、「浅間荘」の前でタクシーを降りた。
(ずいぶん、瀟洒な家だわね)
彼女は、数奇屋風の門構えを見上げながら、胸の中で呟くと、檜造りの格子戸の右手に備えつけられているチャイムのボタンを押した。
しばらくすると、女の声が聞こえた。
「どなたでしょうか?」
「弁護士の柊葉子と申します。ここに、植野社長がおられると聞いたので、うかがいました。ぜひ、お話ししたいことができましたものですから……」
「少々、お待ちください」
声が途切れた。
待っている間、柊葉子は、どのように話を切り出せばよいか、その考えをまとめようとしていた。
あたりは、森閑とした雰囲気に包まれている。
山の中だから、太陽が落ちるのも早い。あたりは、すでに暮れなずみつつあった。
(ずいぶん待たせるわね)
ひょっとしたら、居留守を使うのではないかと彼女は懸念した。
その場合、どう対処するか。
そのことも、考えておかなければならない。
実を言うと、植野史朗が、この「浅間荘」に起居していることは、東京の弁護士から聞いたのである。
植野史朗が社長を務める「甲信電機」の顧問をしている東京の「沖中法律事務所」に所属する若い弁護士を彼女は知っていた。
その弁護士とは、司法研修所の同期でもあった。
彼は、もっぱら好意から、植野史朗の滞在先を彼女に教えてくれたわけで、他意があってのことではない。
それが、自分の依頼人に、どういう結果をもたらすか、もちろん、その弁護士は知りはしないのだ。
何よりも、「沖中法律事務所」は、「甲信電機」という会社の顧問をしているのであり、植野史朗個人の顧問ではない。
だから、結果的に、植野個人に不利な状況をもたらしたところで、顧問先の「甲信電機」にとって不利にならなければ、弁護士としての義務に反したことにはならないのだ。
実を言うと、柊葉子が握っているネタは、状況いかんによっては、植野史朗を窮地に追い詰めることになるかもしれないのだが、「甲信電機」という会社には、かえって利益になるはずだ。
なぜかと言うと、不法な企みに憂き身をやつしている代表取締役社長は、会社にとっては害虫≠ノほかならないからだ。
塀の向こう側で、人が歩く気配がした。
やがて、格子戸が開いた。
姿を見せたのは、中年のお手伝いらしい女性だった。
「どうぞ。社長が、お会いすると言っています」
「それじゃ、失礼します」
柊葉子は、門の中へ足を踏み入れた。
(まあ……いいお庭ね)
手入れの行きとどいた日本庭園が広がっていた。
樹木の下には、びっしりと苔が生え広がり、なかなか見事だった。
庭園の真ん中には、水のない池があり、石橋が架かっている。
枯れ山水風に、わざと池には水を引いていないのだろう。
世俗的な生々しさを思い切って切り捨て、枯淡な趣きを意図している凝りに凝った日本庭園であった。
玄関を上がると、檜の香りも芳ばしい板張りの廊下が、ずっと奥までつづいていた。
途中に、中庭があり、白木造りの太鼓橋があった。
そこを渡り、応接室へ案内された。
純和風の部屋でありながら、絨毯を敷き詰め、本革の応接セットを置いた明るい応接室である。
「しばらく、ここでお待ちになってください。いま、お茶を持ってまいります」
お手伝いふうの女性は、そう言い残して立ち去った。
やがて、湯呑と干菓子を盆に乗せて、彼女があらわれた。
着流しの和服を着た六十前後の男が姿を見せたのは、それから五分後だった。
「わたしが植野史朗です」
そう言ったのは、すらりと背の高いロマンスグレイの上品な男である。
「初めまして……弁護士の柊葉子と申します。アポイントメントも頂戴しないで、いきなり、うかがったりして申しわけありません。でも、これには事情がありまして……わたし、生前に、おたくの会社の常務取締役総務部長をしていた一ノ瀬勝行の未亡人の静代さんたち三人の兄妹の代理人をも務めております。その関係で、植野社長におたずねしたいことがございまして参上しました」
「ほう。一ノ瀬静代さんたちの代理人?」
植野の視線が、一瞬、宙を泳ぐ。
何かを思案している顔つきだった。
やがて、植野は破顔して
「柊先生。ちょっと、うかがいますが、まさか、検事の柊茂さんのご親戚でもないんでしょうね?」
認めていいものか、どうか、葉子は迷った。
しかし、嘘をつくわけにはいかない。
「わたし、柊茂の長女です。言っときますけど、今日のわたしの用件は、父の職務とは関係ないんです。まして、父の依頼でもありません。と言うより、父は、わたしが、今日、ここへお邪魔するなんて知らないんです。だって、わたしは弁護士ですもの。検事である父とは立場が違いますわ」
「わかりました。実に明解な論理ですな。感心しましたよ」
と言って、植野は、湯呑茶碗の蓋を取り、煎茶を一口啜ってから、
「それじゃ、先生の用件とやらをうかがいましょう」
「はい」
柊葉子は、言葉を選びながら口を開く。
「過日、富士山麓の田貫湖で、首を切られた死体が発見されました。あの事件はご存じですわね?」
「知っていますよ。気の毒に、その首は、一ノ瀬常務のものでした。なぜ、彼が、あんな目に遭ったのか、わたしには、さっぱり見当もつきません」
「そうでしょうかね。首は、一ノ瀬勝行さんでしたけど、胴のほうは違っていました。総会屋の森戸辰次郎の秘書をしていた竹岡和正の胴体だったんです。実に奇怪な事件ですわね」
「まったく、奇怪千万な話ですよ。首と胴体をすり替えるなんて……犯人は、なぜ、そんな残酷きわまる仕打ちをしたのか、考えも及びません。普通の人間のすることじゃないですよ」
「そうですわ。犯人は、きっと、悪魔のような男なんでしょうよ」
「男だと、どうしてわかるんですか? 柊先生」
「そのうちに、わかると思いますわ」
と柊葉子は、ちらっと植野史朗に思わせぶりな視線を投げかけておいて、
「竹岡和正の胴の部分についてですが、彼は左利きでした。それを示すペンダコが左手の中指に残っていたんです。それはいいとして、もう一つ、重大な事実があります。その左手に、奇妙なメッセージを書いた紙片が握られていたことです。そのメッセージというのがふるっているんです。『富士山麓にオウム鳴く』なんて……」
「ほう。奇妙なメッセージですね。ふざけているんじゃないですかね」
「さあ、どうでしょうか。わたし、こういう謎を解くのが得意なんです。植野さん。いろいろ考えたすえ、わたしが到達した結論は、こうでした。何かの数字を言葉に置き換えただけなんだと……だけど、平方根5じゃありませんわ。なぜなら、平方根5は『富士山麓オウム鳴く』なんです。しかし、このメッセージは『富士山麓にオウム鳴く』ですわね。つまり、『に』が余分に入っています。これは数字の2なんです。だから、このメッセージを数字に直すと223,620,679……九桁の数字ですわね。この数字が、いったい何を意味するのか、あらゆる可能性を探ってみましたわ」
「ほう。なかなか熱心な方ですね。よっぽど、先生の事務所はお暇なんでしょう」
植野史朗は、ちょっと唇を歪め、皮肉めいた微笑を浮かべる。
柊葉子は、慎ましげな眼差しを返しながら、
「暇だなんて、とんでもありません。忙しい最中に、必死になって謎を解こうと努めました。その結果、思いがけない収穫がありましたわよ」
「ぜひ、聞かせてもらいたいですね」
「もちろん、植野さんに聞いていただくために、わたし、ここへきたんですから……これは、三人の依頼人たちのためでもあるんです。あの三人の兄妹は、あらぬ疑いをかけられ、へんな噂までたてられて困っているんです。もっとも、警察や検察庁としては、事件の真相を究明しなければならない責任がありますから、それなりの捜査をやらなければならないわけですけど、その一方では、静代さんたち三人の兄妹が迷惑をこうむる結果になったりするんです。ここまでくれば、弁護士のわたしが乗り出して、三人の兄妹の潔白を明らかにしなければなりません。だから、こうして、うかがっているんです」
「わたしのところへおみえになれば、何か、真相がつかめるとでも?」
植野史朗の端整な表情には、蔑みの色が浮かんでいる。
しかし、柊葉子は、あいかわらず冷静な態度をくずさずに、
「いま、申しました九桁の数字ですけど、あれは、クレジットカードの番号だってことがわかりました。わたしの事務所が依頼している調査事務所は、有能なスタッフをそろえていましてね。その九桁の番号のクレジットカードの契約者が誰であるか、見事に突きとめてくれましたわ。例の数字は、アメリカに本社のある『ナショナル・エクスプレス』発行のゴールドカードの番号でした。つまり、このカードの契約者は、高額所得者ってことになりますわね。こう言えば、おわかりじゃないんですか?」
「何が、わかるとおっしゃるんですか?」
植野史朗は、眉を上げた。
ロマンスグレイのととのった容貌に警戒の気配がよぎった。
柊葉子は、冷徹な視線を植野に注ぎながら、
「このゴールドカードの契約者は植野さんにほかなりません。あなたね、自分のカードの番号が、たまたま、『富士山麓にオウム鳴く』だったので、カードを他人に使わせたりするときは、番号を言わずに、『富士山麓にオウム鳴く』と教えていた? あなたは、高額所得者でもあり、VIPでもあるから、何かの代金を大急ぎで決済しなければならないような場合、手間をはぶくために、カードの番号を他人に教えていたんじゃありませんか? 通信販売なんかの場合、カードの番号を言えば、電話で決済ができる。あなた自身のサインがなくてもね。もちろん、事故カードでないことは、すぐに確認されるでしょうし、コンピュータにデータが入力されている場合は、瞬時にして、信用照会が完了しますから、決済も簡単なんです。あなたの場合、こういうやり方で、カードがなくても、他人に番号を教え、あなた自身のカードで決済させていたんでしょうね。どうですか? 植野さん、なかなか、おもしろい話でしょう?」
「確かに、おもしろい話ですね。わたしのカードの番号を何者かが聞き出して、それをメモにしたため、例の死体の左手に握らせたんでしょう。迷惑な話です」
「それは違うんじゃありませんか? 植野さん。あの死体の首から下、つまり、胴は、竹岡和正のものです。硬直した死体の手に、紙片を握り込ませるなんて、きわめて困難なことですわ。だから、死体が紙片を握っていたという事実は、生前に握っていたことを如実に示すものにほかなりません。例の紙片は、まさに、竹岡和正が自分を殺そうとしている犯人が誰であるかを示す証拠として、死の間際に握り込んだんです。間もなく、死体が硬直したので、そのまま、しっかりと紙片が握り込まれたままの状態で、田貫湖畔に捨てられたわけです。もちろん、犯人は、それに気づいていなかった。そうなんでしょう? 植野さん」
「わたしに聞かれたってわかるわけもないですよ」
植野史朗の声が尖っていた。
柊葉子は言った。
「竹岡和正は、きっと、自分を殺そうとしている連中が、あなたの命令で動いているのに違いないと気づいたんです。たとえ自分が殺されても、犯人が何者であるか、それがわかるように、あなたのクレジットカードの番号をメモに書き残したんだと思いますわ」
「妙なことを言いますね。わたしが、なぜ、竹岡和正を殺さなくちゃならなかったんですか?」
「それは、あなたご自身の胸に聞いてみれば、わかるんじゃありませんか。竹岡和正は、総会屋の森戸辰次郎の秘書でしたから、あなたの秘密も握っていたはずです。もし、その秘密が暴露されたら、あなたが現在の地位を失う。そういう重大な秘密だったんでしょう。たとえ、秘密書類を手に入れても……いいえ、手に入れたか、どうか、わたしは知りませんわよ……いずれにしろ、秘密の内容を竹岡和正は知っていたんだと思います。だから、殺したんです。と言っても、あなたのような地位の人が、自分の手を汚して人を殺したりはしませんわね。必ず、誰かにやらせるはずです。ですけど、竹岡には、黒幕があなたであるってことがわかったんです。だから、あのようなメッセージを残したのに違いありません。どう? 図星でしょう?」
「当たらずとも遠からずだと柊先生は自信をもっておられるようですね。しかし、考えてもみなさい。竹岡和正がですよ、黒幕はわたしだってことを知っていたなら、なぜ、わたしの名前をメモに書かなかったんでしょうかね。わざわざ、もってまわって、クレジットカードの番号なんか書かなくても……」
「二つのケースが想定されますわ。黒幕が、あなただということを知っていたが、名前をメモに書き残すと、あなたの命令で動いている連中に紙片を見つけられたら破棄されてしまう。でも、番号なら、そのまま見過ごすかもしれない。死体を見つけた警察は、必ず、謎を解いてくれると信じていた。いや、そのように自分を信じ込ませようとしたのかもしれません。警察の捜査能力に最後の希望を託したわけですわね」
「なるほど。ただの推理にすぎないが、なかなか明解です」
「第二の可能性は、こうです。竹岡和正は、自分に危害を加え、殺そうとした連中が、ふと、『富士山麓にオウム鳴く』という暗号のような奇妙な言葉を口にした。それが、連中のボスと深いかかわりのある暗号に違いないと竹岡和正は思い込み、息を引き取るまぎわに、目についた紙片に『富士山麓にオウム鳴く』と書き、しっかりと握りしめたまま息が絶えた。もしかすると、これが真相かもしれませんわね」
「何はともあれ、わたしが犯人だと、そう言うんですね? 柊先生」
「わたしの見るところ、一連の犯行のすべては、あなたが何者かに命じてやらせたのに違いない。わたしには、その確信がありますわ。あなたの指揮下にある連中は、一人じゃなく、チームを組んでいるはずです。そうでなくては、こうも手ぎわよく、連続して人が殺せるわけがありません」
「柊先生。動機の点については、何も聞かせてもらっていませんがね」
「動機は、あまりにも明白です。あなた自身、何がどうあろうとも、現在のうまみのある地位を失いたくない。そのためには、何人殺すのも意に介さない。そういうことですわね」
「わかりました。そこまで知っているのなら、ここから帰っていただくわけにはいきませんね。覚悟することです」
植野史朗が言ったとき、ドアが開いて、屈強な男が三人あらわれ、彼女を取り巻くようにして立った。
見たところ、その連中は、仕立てのいい背広を着て、身だしなみのいい男たちだ。
殺し屋の風貌とは縁遠い、ビジネスマンタイプの紳士≠スちであった。
ただ一人、いかつい恐持ての容貌で、右の眉の真ん中あたりが、一センチばかり禿げている男がいた。
年齢は、三十五、六歳。目が鋭い。
刑事が犯人を見る目つきには、よく、こんなのがある。
「植野さん!……わたしをどうしようっていうの?」
柊葉子は、噛みつくような口調で言った。自分の身が危険にさらされているのは疑うべくもない。
いくら何でも、植野のような立場の人間が、自分の会社の保養所の中で、人に危害を加えるような無謀な真似をしないだろうとタカをくくっていたのが躓きの石であった。
実を言うと、ここへくる前に、未亡人の静代の兄である良武に電話を入れてあった。
犯人が突きとめられそうだから、とりあえず、「浅間荘」という「甲信電機」の保養所へくるようにと言っておいたのだ。
「浅間荘」の住所も教えてあった。
(もう、来るころだわ……)
彼女としては、万が一にも、何かあったときの用心にという気持ちもあったから、良武を呼んだのだが、これが間違った判断であったのを、いまさらのように悟った。
いま、良武がここへくれば、自分と同じ囚われの身になってしまう。
良武は、腕っぷしの強い男ではあるが、この三人の連中には、太刀打ちできないだろう。
せめて、父親にでも、行き先を知らせておけばよかったと、彼女は、このときになって、初めて、自分の軽率さを悔いていた。
不意に、例のお手伝いがあらわれ、眉の禿げている男に何ごとかを耳打ちした。
その男は、植野史朗の傍へ寄り、ひそひそ声で囁く。
話を聞き終わると、植野は、ちょっと首をかしげるようにして考え込んでいたが、やがて、男に言った。
「いいだろう。ここへ連れてきなさい」
男は、一礼してから、お手伝いと一緒に立ち去った。
誰か、きたらしいのだ。
もしかしたら、良武ではないだろうか。
良武は、こういう事態になっているとは想像もしていないに違いない。
飛んで火に入る夏の虫とは、このことだ。
彼女が自分の行き先を告げさえしなければ、良武が「浅間荘」をおとずれることもなかったろうから、結果的には、良武を罠に陥れたのも同然である。
それを思うと、柊葉子は居た堪れなくなってきた。
廊下の向こうから、男の怒声が響いてくる。
男たちが激しく争う物音も聞こえてきた。
殴り合いが始まったようだ。
そうと知って、ボディガードの一人が、そっちのほうへすっ飛んで行った。
あとの一人は、柊葉子にピタリと寄り添い、逃げられないように腕をつかんでいる。
「痛いじゃないのよ……そんなにきつくつかまなくても、どうせ逃げられやしないんだから……」
彼女が、つかまれた腕を振りほどこうとすると、その男は、手を振り上げ、彼女を殴りつけようとした。
「やめなさい……たかが、女一人です。神経質になることはありません」
植野に注意され、その男は、振り上げた手を下ろす。
見かけによらず、植野史朗は肝っ玉のすわった男のようだ。
物腰が柔らかで、物言いもやさしく、人あたりがよさそうに見える植野史朗ではあったが、そんな外見とは裏腹に、実に腹黒いところのある男である。
(こういうのが、ほんとうのワルなんだわ)
彼女は、虫も殺さぬやさしげな風貌の植野史朗を憎悪の眼で睨みつけながら、胸の中で呟く。
何が、どうあろうとも、ここから脱出するチャンスをつかまなければならないと心は逸るが、どうすれば逃げられるのか。見通しさえもたたない。
たぶん、逃げられる見込みはないのではないかと彼女は恐れた。
突然、ドアが乱暴に開かれた。
見ると、良武がロープで後ろ手に縛られ、突き転がされるようにして、連れてこられた。
「社長。こいつが、城戸良武ですよ。柊弁護士のあとを追って、ここへきやがったんです。手のつけられない暴れ者でしてね。油断も隙もありゃしませんよ」
眉の禿げた男は吐き捨てるように言うと、床に伸びている良武を足蹴にした。
それを見て、柊葉子は叫んだ。
「やめなさい!……そこまですることないでしょう」
「何だと?……この女《あま》! 弁護士か何か知らねえが、そのきれいな体に傷をつけられたくなかったら、おとなしくするこったな。わかったか?」
眉の禿げた男は、ドスのきいた凄みのある声で言うと、じろりと獰猛な眼差しを彼女に注ぐ。
彼女は、身のすくむ思いがした。
良武はと見ると、さんざん殴られたらしく、目のまわりが腫れあがり、顔のいたるところに擦り傷があった。
やつらを向こうにまわして、よほど激しく抵抗したらしい。
良武は、このとき、柊葉子が囚われの身になっているのを知り、痛恨に堪えないかのように、顔を醜く歪め、何かを叫ぼうとしたらしいが、思いとどまったようだ。
ここまでくれば、何を言っても、どうなるものでもないと自覚したからだろう。
それはそうと、柊葉子の見るところ、眉の禿げた男が、連中のリーダー格であるらしい。
やつは、植野に言った。
「社長。こいつら、どうします? すっかり日が暮れるまで、とりあえず、どこかへ放り込んでおきますか? それとも……」
植野は、そのあとを言わせずに、追っかぶせるように、
「喋りすぎです。どうしたらいいか、いま考えているところですよ」
植野は、こういうときも、やさしげであった。
3
柊葉子は、後ろ手に縛られたまま、庭の片隅にある物置に閉じ込められた。
良武が、どうなったのか、彼女にはわからなかった。
真っ先に、彼女がここへ拉致されてきたから、残った良武が、どういう運命にさらされているか、彼女には知るよしもなかったのである。
もう三月の声を聞くが、信州の夜は、冷え込みが厳しい。
寒さが身にしみる。
彼女は、恐怖と寒気に震えながら、歯を食いしばり、じっと堪えていた。
そのうち、車にでも乗せられて、どこかへ連れて行かれ、殺されるのではないかと、彼女は恐怖におののいていた。
女の自分が、単身、敵の根城に乗り込んだりするのではなかったのだ。
しかし、いまさら後悔したところで、どうなるものでもない。
父の面影が眼前にちらつく。
検察庁へ電話の一本くらい入れてから、ここへくれば、救出される見込みもあるだろうが、対抗意識から、そうしなかった自分の愚かさに腹が立った。
思えば、今度の事件のことでも、ずいぶん父に生意気を言ったりしたものだ。
真相を突きとめて、依頼人の潔白を証明し、父の鼻を明かしてやるつもりが、とんだ勇み足で、こんな結果になってしまったのである。
ここで、死んでしまったら、もう親子ゲンカもできない。
それに、どうせ死ぬなら、その前に、母の春子にも、一目会っておきたかった。
4
一時間が経過したろうか。
突然、庭の向こうの母屋とおぼしきあたりで騒ぎが起こった。
怒鳴り合う男たちの声。
物が壊れ、ガラスの砕ける音。
不意に、銃声が響いた。
良武が射殺された?
柊葉子は、背筋が凍りつくような恐怖に襲われた。
次は、自分が殺される?
一瞬、ゾッとするような不安が胸をしめつける。
すでに、秘密を知ってしまった自分を植野史朗が、このまま生かしておくとは思えない。
あいつは、自分の地位を守るためなら、どんなことでも平気でやってのける情け知らずの男なのだ。
彼の命令で動いているチームの連中にしても、ここまでくれば、伸るか反るかだ。
植野と一蓮托生で、地獄へでも一緒に落ちるつもりでいるのだろう。
不意に、こちらに向かって駆けてくる足音を彼女は聞いた。
乱れた靴の音……。
一人ではなく、少なくとも数人の足音だった。
物置の戸が開かれ、眩しいばかりのライトに顔を照らされた。
「出ろ!……」
飛び込んできたのは、眉の禿げた男だった。
彼女は、ロープに縛られたまま、物置小屋の外へ引き出された。
「おい、葉子!……大丈夫か……」
なつかしい父の声だった。
「お父さん……」
いったい、どこに父がいるのかと、彼女は暗がりの中に目を凝らす。
「ここよ。葉子さん!」
それは、行天燎子の声だった。
そっちのほうにも、フラッシュライトが二灯、明々と日本庭園を照らしていた。
そのライトの向こうに誰がいるのか、眩しくて見えないが、行天燎子が率いる刑事たちに違いない。
片や、葉子を人質にして、この急場を切り抜けようとする植野史朗と、その命令で動くチームの連中。
チームの指揮者と見られる眉の禿げた男が、葉子を立たせ、手にした拳銃を葉子のこめかみにピタリと当てがった。
後ろのほうで、植野の声がした。
「検事さん。どうします? われわれの切り札は葉子さんです。彼女の命を助けたければ、われわれの逃亡を黙認することですね。ただし、われわれが安全圏内に入るまで、葉子さんの身柄は預かっておきますよ」
植野は、冷静さを装ってはいるものの、その声が震えを帯びている。
植野とても、必死なのだろう。
「柊先生!……ぼくが身代わりになりますから……」
どこからか、良武の声が聞こえた。
運よく、良武は踏み込んできた刑事たちに救出されたらしいが、どこにいるのか、姿が見えない。
たぶん、赤かぶ検事や行天燎子ら刑事グループの中にいるのだろう。
良武が身代わりになると叫ぶのを聞いて、葉子は、
「いけないわ!……そんなの……むちゃ言わないで……」
「柊先生。ぼくは、先生を尊敬しています。こんなにまでして、ぼくたち兄妹のために、誠心誠意尽くしてくださったんだから……そいつらの好き放題にはさせませんよ!……」
良武は、絶叫するように、その言葉を吐いた。
葉子は、感涙に噎びながら、暗がりの中に視線を這わせ、良武の姿を探し求めていた。
眉の禿げた男が言った。
「おい、城戸良武。言っとくがね、貴様じゃ役柄不足なんだよ。貴様なんか、三文の値打ちもねえんだから……」
そうですよね、と言わぬばかりに、やつは、後ろに立っている植野史朗を振り向く。
「まったく、そのとおりですよ」
安藤さん、と植野史朗が低い声で、眉の禿げている男の名前を呼ぶのを葉子は耳にした。
そいつは、安藤という名前らしいのだ。
赤かぶ検事は、一歩、前へ進み出ると、
「娘の身代わりには、このわしがなる。どうだね? それでも、役柄不足と言うつもりか?」
一瞬、重い沈黙が降りた。
赤かぶ検事が娘の身代わりになると言い出したものだから、連中は、戸惑ったようだ。
やがて、植野史朗の声がした。
「いいですとも、柊検事さん。娘のために身を投げ出すなんて、さすがです。実に見上げたもんだ」
「よし。そうと話が決まったからには、身柄の交換といこまいか」
赤かぶ検事は言いながら、じわ、じわっと、這い寄るようにして、葉子のほうへ近づいて行った。
赤かぶ検事が何を考えて、そういう行動をとったか、行天燎子警部補には察しがついていた。
彼女は、暗がりの中で静かに拳銃を引き抜き、撃鉄を起こした。
赤かぶ検事の声が響く。
「それじゃ、こうしよう。まず、葉子を解放しろ。それを見届けてから、わしがそっちへ行くでよぉ」
「その手には乗らんぞ」
そう言ったのは、安藤であった。
「それじゃ、どうすりゃええ?」
赤かぶ検事は呟きながら、相手との距離をじりじりと縮めていく。
拳銃を擬している安藤の手前、約二メートルの距離まで、赤かぶ検事は迫っていた。
「さあ、葉子を離してやれ。そうすりゃ、わしは、そっちへ行くでよぉ」
「いいだろう」
安藤が唸るような声で答えたとき、葉子のほうが、強引に安藤を振り切るようにして、後ろ手に縛られたまま、前方へ飛び出した。
その瞬間、赤かぶ検事のシルエットが視界から、すーっと消えたかに思えた。不意をついて腰を落とし、地面に伏せたのである。
それが合図であったかのように、フラッシュライトが安藤の上半身を明るく照らし出した。
強い光に目を射られ、安藤は怯んだ。
もう、そのとき、行天燎子の拳銃が火を吹き、銃声が静寂《しじま》を破った。
安藤は獣じみた叫び声をあげ、よろけた。
手首を撃たれ、拳銃を取り落とす。
この秒読みのような緊張した短い時間の流れの中に、やつらの運命が決せられたのだ。
待機していた刑事たちが、いっせいに、やつらに飛びかかり、手錠を掛けた。
植野史朗にとっても、これが運のツキだった。
赤かぶ検事は、自分の胸に顔を埋めて泣きじゃくっている葉子を抱きしめながら、感慨無量であった。
古巣を飛び出し、自由気ままに山野を飛翔していた可愛い小鳥が、ようやく、親の懐ろの中に戻ってきてくれたという実感が、ひしひしと父親の胸に迫ってきた。
良武のほうは、警察の車に同乗して駆けつけてきた静代や真由美と手を取り合って、無事に解放された喜びを噛みしめていた。
5
容疑者たちの取調べと、それに関連した裏づけ捜査は、松本警察署と諏訪警察署が協力しておこなった。
それらの捜査資料をたずさえて、行天燎子と、夫の行天珍男子が赤かぶ検事の執務室をたずねてきた。
「やっと終わりましたよ、検事さん」
そう言って、行天珍男子は、分厚い捜査資料を五冊ばかり、ドンと赤かぶ検事のデスクの上に置く。
「ほう。ずいぶん仰山な資料だなも。これだけのものを読みこなすとなればたいへんだ。連日、徹夜を覚悟のうえでやらにゃならんでよぉ」
赤かぶ検事は、目を丸くして、デスクの上に積み上げられた捜査資料を眺めている。
行天燎子が口を開いた。
「検事さん。まず、わたしたちのほうから概略をお話ししますわ。そのうえで、捜査資料を読んでいただければ、起訴状の作成やら、法廷へ提出する証拠の選択なんかがやりやすいと思いますから……」
「そうしてちょうよ」
赤かぶ検事は、回転椅子をまわし、行天夫婦に横顔を見せながら腕を組み、話を聞くかまえを見せた。
要するに、耳だけは、彼らのほうを向いているというわけだ。
行天燎子が言った。
「第一の事件からお話しします。最初の被害者は常務取締役総務部長の一ノ瀬勝行でしたわね。彼にしてみれば、まさか、信頼している植野社長に殺されるとは、思いもよらないことだったでしょう。社長の植野は、すべて保身のために、一ノ瀬や筆頭常務の塚脇、専務の栗原など子飼いの重役たちを葬り去っているんです。なぜかと言うと、彼らは、その気になりさえすれば、植野を社長の座から引きずり下ろすだけのネタを握っていたからですわ」
「うむ。そのネタというのはよぉ、フランスの『魔女《ソルシエール》』とかいう企業との契約の件だなも」
「そうなんです。あれは、もともと社長の植野の発案でやったことなんです。結果的には、『魔女《ソルシール》』に騙されたわけですけど、そのために、『甲信電機』は莫大な損害をこうむっています。このことが外部にもれ、有力株主に追及されたなら、社長の植野が株主総会で解任されるのは必至です。もちろん、それに賛成し、契約締結に関与した一ノ瀬や塚脇、栗原も同罪ですが、最終的には、植野が社長の座を下りないことには始末がつかないことなんです。しかし、植野は、会社の金を横領していたことでもあり、その発覚を防ぐためにも、何が、どうあろうとも、社長の座を確保しなければならないと決意を固めました」
「『魔女《ソルシエール》』とかいうフランス企業との契約内容が、『甲信電機』にとっては、至極、不利なものであったのを隠蔽するために関係資料を隠そうとした。これは事実だなも?」
「はい。筆頭常務の塚脇や専務の栗原が、いつだったか、わたしたちに面会を求めてきたとき、それらしいことを臭わせましたわね。たとえ、警察や検察庁に対しても、社長の許可がないと、明らかにできない会社の秘密があるって……」
「うむ。あのことだなも」
「そうなんです。実のところは、会社の秘密ではなくて、社長の植野にとって、保身のためのプライベートな秘密だったんです。会社の秘密と言えば、聞こえがいいですが、実際は、そうではありませんでした」
「植野は、自分の命取りになる秘密を隠蔽しようとしたが、一部の株主は、何か臭いところがあると勘づいて、株主総会において、植野の責任を追及する姿勢を見せた。これはヤバいというので、社長の植野は、一ノ瀬勝行に命じ、総会屋の森戸辰次郎を金で抱き込んだ。そういうわけだなも?」
「はい。もともと、社長の植野と森戸辰次郎とは親しい間柄だったんです。それにもかかわらず、用心深い植野は、自分が表面に出ないで、一ノ瀬勝行を通じて、株式課長の城戸日出雄を動かし、総会屋対策を画策させたんです。城戸のほうは、森戸辰次郎の秘書である竹岡和正を、もっぱら交渉相手にして、買収工作を進めています。ですから、会社側も、それに総会屋側も、トップは表面に出ないで、下のほうだけがうろちょろ動きまわっていたという結果になるんです」
「うむ。うろちょろ動きまわれば人目につく。警視庁が事件を嗅ぎつけ、捜査に乗り出したさいにも、人目につくような動きをしている下っ端をまず槍玉に挙げた。その結果、城戸日出雄は留置場で首を吊って自殺したし、竹岡和正は甲府市へ逃亡し、アパートに身を潜めていた。結局、最後には、竹岡も殺されたんだが、お偉方≠ヘ、最後まで涼しい顔をしておられたわけだよな」
「おっしゃるとおりですわ、検事さん。貧乏クジを引くのは、いつも下積みの人たちなんです。ところで、一ノ瀬勝行が殺害されたときの事情を説明しましょう」
そう言って、行天燎子は、デスクの上に積み上げられている捜査資料の中から、一冊を引き抜いて、ぺらぺらとページをくった。
該当の個所を見つけると、彼女は、そこに視線を落としながら、
「最初に、社長の植野は、東京のマンションで暮らしている一ノ瀬勝行に電話を入れています。日曜で会社は休みだったんですが、折り入って、相談したいことがあるから、迎えの車に乗ってきてくれと言ってるんですのよ。迎えの車には、元巡査部長の安藤博次ら三人のチームが乗っていました。運転していたのは、そのうちの一人です」
「その三人だがよぉ。すでに、一ノ瀬とは顔見知りだったのかね?」
「そうなんです。社長の植野は、会社の職務上の秘書とは別に、個人秘書という名目で、その三人を抱えていたんです。実を言いますと、彼らを紹介したのは、総会屋の森戸辰次郎でした」
「なんと、恐れ入ったなも」
「総会屋は、ヤクザと紙一重のことをやっていますから、殺し屋を紹介することだってできるんです。それはともかく、一ノ瀬勝行を乗せた迎えの車が八王子あたりまできたとき、とっぷりと日が暮れました。行き先は、甲府工場の役員室ということになっていましたが、それは名目にすぎず、八王子を過ぎたあたりの人目につかない山林の中へ車を乗り入れ、一ノ瀬勝行の虚を突いて、射殺しているんです」
「安藤がやったのかね?」
「はい。盗み出したニューナンブM60を使ってしまったんです」
「どういう意味だね? 使ってしまったとはよぉ」
「拳銃なんか使用しないで、絞殺するつもりだったんですが、一ノ瀬勝行が激しく抵抗したために、気の短い安藤は、一ノ瀬を射殺してしまったんです。盗んだ警察官用の拳銃でね。この報告を聞いて、社長の植野は激怒しました。なんてことをするんだと……狙ったのは心臓でしたが、斜め下へ向けて撃ったために貫通しないで、体内のどこかに弾丸が残ってしまったんです」
「そいつはたいへんだわね。そんな死体が発見されたら、弾丸が摘出される。その弾丸をよぉ、顕微鏡で検査すれば、索条痕の特徴からして、名古屋で盗まれたニューナンブM60だってことがわかってしまう。そうではにやぁがね?」
「そのとおりなんです、検事さん。だから、植野は慌てふためきました。そこで、悪知恵のまわる植野は、一計を案じました。安藤に命じて、一ノ瀬の死体をひとまず富士山麓の風穴へ隠させたんです」
「うむ。富士山麓には、たくさんの風穴があるからな。名前がつけられ、観光名所になっている風穴もあるが、無名の風穴が少なからず散らばっておる。つまり、誰も人が入らない秘密の溶岩トンネルができておると聞くがよぉ」
「火山帯ですものね。安藤が一ノ瀬の死体を隠したのは、富士宮道路から東へ入ったところの名もない風穴でした。風穴には、夏でも冷たい空気が吹き出しますので、天然の冷凍室のようなものですわね。そこへ死体を隠しておけば腐乱しません。後日、死体を解剖しても、死後経過時間をごまかすこともできます。それが狙いだったんです」
「先を話してちょうよ」
「はい。植野ら四人組の責任を追及することができる秘密資料は、竹岡和正が握っているに違いないと植野は見当をつけました。それというのも、ボスの森戸辰次郎が、そう言ったからです。『竹岡が事務所から盗み出しやがったんだよ』と……その一言を信じた植野は、竹岡から秘密資料を取り上げることを考えました。そこで、このさい、思い切って竹岡を葬り、秘密資料を奪い取ることを考えたんです。どの途、竹岡が自分のアパートに隠しているのに違いないからです」
「うむ。竹岡を殺害するのに、なぜ、『左利きの会』なんてのをデッチあげ、そいつを利用することを思いついたんだね?」
「これこそ、植野の深慮遠謀と言うべきでしょう。一ノ瀬勝行は左利きですわね。一方、竹岡もそうなんです」
「なるほど。わかるような気もするわね」
「詳しく話しますと、こういうことです。『左利きの会』というのが存在するかのようなチラシ広告を印刷し、竹岡が隠れ住んでいるアパートの周辺にバラ撒いています。会の事務局の電話番を募集するというチラシですわね。印刷を頼んだところは、安藤の親戚筋にあたる名古屋の零細な印刷業者でした。その一方で、甲府市内の雑居ビルを借り受け、そこを一時的に面接場所にしています。家主のところへ出かけて、ビルの鍵を受け取って帰ったのは、若い女ということになっていますが、実際は、安藤の愛人の女の子だったんです。このことが、後日、未亡人の静代の妹の真由美ではないかと疑われるきっかけにもなっています」
「社長の植野はよぉ、一ノ瀬殺しの犯人が、未亡人の静代ら三兄妹が復讐心からやったことだと、われわれに信じ込ませようとしたのではにやぁがね?」
「そのとおりなんですが、これについては、後ほど、お話しします。そのように信じ込ませる事情があったのは事実なんですのよ」
「ところで、安藤らは、どのようにして竹岡和正を殺りやがったんだ?」
「面接の結果、希望どおりの左利きだというので、竹岡を電話番に採用し、殺害の機会を狙っていたんです。殺害計画を実行したのは、採用してから三日目の夕方でした。日当を払ってやった後、まず、安藤が竹岡の背後にまわり、金槌で脳天をぶちのめしたんです。その結果、竹岡は、ばったりと床の上に倒れ込み、死んでしまったかに見えました。頭蓋骨陥没ですから、血痕は、ほとんど周囲に飛ばなかったんですが、それでも、用心深い安藤は、階下の車の中に待たせていた仲間二人を呼びに行っています。タイル貼りの床を拭き取ったり、死体を運ぶための布団袋などを三階の部屋へ上げさせる必要があったからです。実を言うと、その間、竹岡は、一時的に息を吹き返しているんです。朦朧とした意識の中で、竹岡は、なぜ、自分が殺されたのか、わけもわからないまま、ある一つのことを思い起こしました。ここで言っておきますが、竹岡は、まさか社長の植野が殺しの張本人だとは夢にも思っていませんし、安藤たち三人とも面識はなかったんです。しかし、安藤が『左利きの会』の事務局へきては、通信販売の得金を決済するためにカードの番号を電話で告げているのを何回か、竹岡は聞いていたらしいんです。その番号を告げるのに、『富士山麓にオウム鳴くってんだ。わかりやすいだろう』なんて言っているのを聞いて、安藤のクレジットカードの番号が、『富士山麓にオウム鳴く』だと竹岡は信じ込んだんです。実際のところは、植野のカードを安藤が使わせてもらっていたわけですが、そこまでは竹岡にはわかりません。とにかく、竹岡は、自分を殺したやつが憎くて、その人物を知る手がかりになるに違いないと思って、床の上に散らばっていたメモ用紙をつかみ、ポケットにあったサインペンで『富士山麓にオウム鳴く』と書き残したんです。そのメモをしっかりと左手に握り込んだまま、今度は、ほんとうに息が絶えてしまいました。安藤らは、一刻も早く、死体を布団袋に詰め込み、運び出さなければならないので、竹岡が左手に紙片を握り込んでいることなど問題にする余裕もなかったわけです」
「死体をどこへ運んだ?」
「もちろん、例の風穴です。一ノ瀬と竹岡の二つの死体を丸裸にして、ノコギリで首を切り離したのも、その風穴の中ですのよ。衣服は、風穴の中で焼却しています。左手首を刃物で傷つけたのは、死体をバラバラにするつもりだったのに、人の足音を聞いて中止したように見せかけるためでした。要するに、胴体が別人のものかもしれないなんて疑問を警察に起こさせないための一種のカムフラージュです。わたしたちは、連中の自白によって、風穴を検証しましたが、間違いなく、一ノ瀬と竹岡の血痕が検出されましたし、衣服を焼き捨てた灰も見つかりました。これで、連中の自白の裏づけが取れたわけです」
「うむ。そして、一ノ瀬の首と竹岡の胴とをドッキングさせるような格好で、田貫湖畔に投棄した。一方、竹岡の首のほうは、霧ヶ峰の八島湿原に捨てておる。これは、後日、発見されておるなも? 残る問題は、一ノ瀬の胴体だ。これがすんでのところで発見されずじまいに終わるところだったんだよな」
「そうなんです。もし、連中が捕まらなければ、十中八、九まで、一ノ瀬の胴は見つからなかったでしょう。わたしたちも、安藤の自白にもとづき、現場へ踏み込み、やっと胴体を見つけたんですから……」
このあとを夫の行天珍男子が引き取り、こう言った。
「検事さん。一ノ瀬の胴体は、野麦峠の手前の原生林のような林の中に捨てられていたんですよ。あの付近は、十一月ごろから雪が積もり、車も通れません。この三月でも、まだ雪が溶けないまま残っていたんですからね。なぜ、そんなところへ胴体を捨てたのか、それなりの理由がありましてね。もう、検事さんにはおわかりのことと思いますが、首から下の一ノ瀬の死体が発見されたなら、弾丸が摘出されます。その索条痕を検査すれば、名古屋で盗まれた拳銃で射殺されたことが判明します。当然に、安藤の仕業だってこともわかってくるわけです。だから、胴体を発見困難な場所へ捨てたわけですよ」
「それにしてもよぉ、一ノ瀬の胴体を隠すだけでええのではにやぁがね? わざわざ、竹岡の胴体とすり替える必要はないように思うんだが、どんなもんだろう?」
「これにも、いくつかの理由があります。まず、一ノ瀬の首だけなら、胴体がどこかにあるというので、継続して捜査がおこなわれます。これもまずいわけですよ。さらに、竹岡は左利きですから、同じく左利きの一ノ瀬の死体に見せかけるうえには、かなり好都合だったんです。どの途、竹岡も消しておかなければならない男だったんですからね。血液型にしても、幸いなことに、一ノ瀬も竹岡も、どちらもA型だったんだから、本来なら、胴体がすり替わっているなんて、気づかれずにすんだ可能性が強いんです。たまたま、解剖をおこなった法医学の専門家が、注意深い有能な先生だったために、これは、ちょっとおかしいんじゃないかということになり、DNA鑑定がおこなわれた結果、別人のものだということがわかってきたというのが、真相です。そういうことがなければ、見過ごされてしまったんですよ。事実、妻の静代にしても、夫の死体の胴のほうが違っているなんて気づいてもいなかったんですからね」
「いや、もしかすると静代は、気づいておったのではにやぁがね?」
「いいえ。今回、あらためて供述を求めましたが、やはり、気づかなかったと証言しています。いくぶん腐乱していたせいもありますがね」
「うむ。諏訪湖で死体が浮かんだ竹岡彬子の場合は、どうなんだね?」
赤かぶ検事は、行天珍男子にたずねた。
「植野たちは、どうあっても秘密資料を手に入れたくて、逃亡中の総会屋の森戸辰次郎に連絡を取り、いったい、どこに資料があるのかと問い詰めたんです。森戸は、植野から逃亡資金を提供してもらっていた関係で、自分の居所は、常に植野に教えていたんですよ。そもそもですよ、どういう事情から、総会屋の森戸辰次郎が、その秘密資料を入手したのかと言いますと、これが実に巧妙な手口でしてね。森戸辰次郎は、植野と対立している株主から入手したんです。その株主を脅しあげてね。それじゃ、植野と対立している株主が、どうやって、秘密資料を手に入れたのかと言うと、これが謎めいているんです。その株主は、『甲信電機』にスパイ網を張りめぐらしているんじゃないかという風聞も聞かれるんですよ。いずれにしても、株主が盗み出させた秘密資料を、今度は、森戸辰次郎が脅しあげて取り上げたんです。『秘密資料を渡さないと命をもらうぞ』なんて言ってね」
「わかった。話のつづきを頼むでよぉ」
「はい。竹岡和正を殺害後、アパートの部屋をひっくり返して秘密資料を探しまわったものの、見つからなかったわけです。秘密資料が竹岡和正のところになかったとすれば、娘の彬子のところへ預けているんだろうと森戸辰次郎が言ったもので、植野は、それを信じ、安藤たちに命じて、彼女の家へ踏み込ませたんです。そのときにトラブルが起こり、彬子が抵抗したために、結局、絞殺されています。凶器は、そのさい、安藤がたまたま目にした包装用のビニールヒモだったんです。これは、逃げるとき持ち帰り、途中、道路に捨てているんですよ」
「いずれにしろ、秘密資料は、彬子の家にもなかった。そういうわけだなも?」
「はい。実を言うと、彬子が殺害されたころ、逃亡中の森戸辰次郎は、松本へきていたんです。あの当時、それらしい噂が流れてはいましたが、実際に、松本のホテルに泊まっていたのは間違いないんです。これは植野が呼び寄せたんですよ」
「どういう理由で、呼び寄せたんだね?」
「森戸辰次郎に頼んで、彬子を説得させ、秘密資料を提供させようとしたんです。だが、そうする前にトラブルが起こり、彬子は、気の短い安藤に殺されてしまったわけです」
「そうなるとよぉ。秘密資料を探る手がかりを握っとるのは、森戸辰次郎だけになった。こういうことではにやぁがね?」
「そのとおりなんです、検事さん。植野は、このときになって、初めて、秘密資料を隠し持っているのは森戸辰次郎に違いないと見込みをつけたんです。植野にしてみれば、まさに裏切られたわけですが、そこは腹黒い植野のことですから、態度には出さないんです。あのやさしい言葉づかいで森戸辰次郎を懐柔し、結局、五千万円で買い取るという約束をしています」
「買い取ると見せかけて、殺害し、秘密資料を奪い取ったわけだなも?」
「お察しのとおりですよ、検事さん。あのころ、横浜へ逃げていた森戸辰次郎を車に乗せ、後部座席で秘密資料と引き換えに五千万円の銀行小切手を渡したんです。しかし、秘密資料を手に入れた途端に、植野は態度をひるがえし、安藤に命じ、森戸を殺害させています。このときの凶器はスパナでした。殺した後で、交付した小切手を取り戻し、死体は万国橋の下へ捨てています。凶器と一緒にね」
「ちょっと聞くがよぉ。最初、一ノ瀬を殺したのも車の中だし、森戸を殺害したのも車の中だよな。このさい、使用したのは、どういう車だね?」
「古いタイプの黒いベンツです。二回とも、その車を使用しています。所有名義は、会社になっていますが、事実上、植野の専用車みたいになっていましてね。もちろん、車の中で人を殺せばシートに血痕が残りますので、その直後に、シートを張り替えさせています。二回とも、そうしているんですよ」
「うむ。最後に、筆頭常務の塚脇や、専務の栗原が殺害された事件だが、あれは、どういう経緯だね?」
今度は、行天燎子が答えた。
「あの件については、わたしが主として捜査を指揮していました。まず、塚脇ですけど、彼は、木曜日の午後四時半ごろ、熱海へ行くと自宅へ電話を入れ、会社の車に乗り、八重洲口で降りて、それから後は新幹線で熱海へ向かっています。それ以後、ぷっつりと消息が途絶えたわけですけど、実際は、熱海駅で降りているんです。これは、社長の植野から呼ばれたからですわ。『折り入って、相談ごとがある。いま熱海のホテルにきているが、こっちへこないか。熱海駅まで車で迎えに行かせるよ』……そう言って、塚脇を誘ったんです」
「熱海駅で塚脇を出迎えたのは、安藤たちだなも?」
「はい。彼らは、塚脇を車に乗せ、ホテルへ向かうと見せかけ、その途中で安藤が射殺したんです。山手のほうの人目につかない場所でやっているんですのよ。なぜ、射殺したのか、これにはわけがあります」
「およその見当はつくでよぉ」
「そうでしょうね。とにかく、塚脇の射殺死体を車で例の風穴へ運んでいます。そこには、あらかじめ、もう一つの死体が用意されていたんです。それは、チームの一人がドヤ街へ潜り込み、労務者を金で釣って車に乗せ、やはり、車中で頭部を鉄パイプで殴りつけて殺しています。その死体をあらかじめ風穴の中へ運んでいたんです」
「風穴の中で、二つの死体の首と胴とを切り離したわけだなも?」
「そのとおりです。残酷きわまりない連中ですわ、まったく……そのようにして、塚脇の首と労務者の胴体とをくっつけ、その夜のうちに熱海梅園へ運び込み、捨てたんです。なぜ、そんなことをしたのか、察しがつきますでしょう? 検事さん」
「たぶん、こうではにやぁがね? 田貫湖畔の第一の事件と同じ犯人の仕業と見せかけるためだ。と言うのは、第一の事件は、静代たち兄妹が、自殺した父親の恨みを晴らし、復讐心から一ノ瀬や竹岡を殺ったと、われわれは見ておった。そういうわれわれの誤解をうまく利用したわけだ。つまり、三人の兄妹の父親である城戸日出雄が留置場で自殺するに至ったのは、社長をはじめ、塚脇や栗原の立場を擁護するためだったのに、結局、連中は何もしてくれない。そればかりか、やつらは、のうのうと暮らしている。それが腹にすえかねて、三人の兄妹が復讐を企んだ。実際、良武は、会社へ怒鳴り込みに行ったりしとったんだからよぉ。事情は、そんなところだと思うが、どうだね?」
「お察しのとおりですわ、検事さん。精進湖畔で死体が発見された専務の栗原の場合だって同じです。栗原は、甲府工場へ行くと言って、JR新宿駅から中央線に乗ったまま、行方不明になっていますわね。事実、栗原は、JR甲府駅で降りているんですが、やはり、車で迎えにきていたのは安藤たちでした。塚脇と同様に、車の中で安藤が射殺し、その死体を風穴へ運び込んでいるんです。風穴には、もう一つ、別の労務者の死体がありました」
「そのあとのことは、聞かずともわかっておるわね。要するに、栗原の首と、もう一人の労務者の胴体とをくっつけて、精進湖畔に捨てた。目的は、塚脇の場合と同様、同一犯人の仕業と見せかけるためだよな。この場合、同一犯人というのは、静代ら三人の兄妹のことを指しておるわけだ」
「そうなんです。最後まで発見されずに残ったのは、塚脇と栗原の胴体ですが、これは、第一の事件と同様に、例の野麦峠付近の原生林の中から発見されました。もちろん、発見できたのは、連中の自白によるものであり、もし、連中を検挙できなかったら、そのまま発見されずじまいになっていたでしょう。いずれにしろ、射殺死体が見つかれば、弾丸が摘出され、そこから安藤の仕業であることが発覚するわけですから、これはまずいんです」
「二人の労務者の首は、どうなった?」
「これも、同じく、野麦峠付近の原生林の中から発見されました。雪に埋まっていましたから、腐乱しないまま見つかっているんです。検事さん。ここで、お話ししておきたいことがあるんです。植野は、塚脇と栗原に向かって、『こうして次々と関係者が殺されていく。次の段階で、命を狙われるのは、われわれ三人だ。何とかして、警察に保護を求めないことには、取り返しのつかないことになるよ』なんて言って、彼らを脅しあげていたんです。彼らにしてみれば、まさか、自分たちが信頼している社長の植野に消されるとは思ってもいなかったでしょう。その油断もあって、まんまと罠に落ち、葬り去られたんですわ。気の毒に……」
「うむ。植野にしろ、安藤ら三人にしろ、死刑に処しても、まだ足りん悪党だなも。それにしても、植野の巧妙なお芝居には、わしもまんまと騙されたわね。本庁の検事正まで動かしやがってよぉ、命を狙われておるから保護してくれとか、まことしやかに芝居を打ちやがったんだ。何はともあれ、連中の公判は長引きそうだなも。被害者の数が多いし、提出する証拠も膨大なものに上るだろうからよぉ。あっ、そうだ。一つ聞き忘れた。死体の首と胴とを切り離すのに用いたノコギリだが、これは発見されたかね?」
「幸いなことに、風穴の中から見つかりました。人の血を吸って、錆びてはいましたけどね」
このとき、来客があった。
見ると、娘の葉子が静代や良武、真由美ら三人の兄妹をともなって姿を見せた。
(今度の事件ではよぉ、葉子のやつに一本やられたわね)
「富士山麓にオウム鳴く」のダイイングメッセージの謎を葉子が解いたのだから、実に見上げたものだ。
いつまでも子供だと思い込んでいた父親の認識不足を柊茂はあらためて自覚した。
「お父さん。わたし、明日、名古屋へ帰るわ。だから、ちょっと寄ってみたんだけど、実のところ、お願いがあるの。今夜、官舎へ泊めてもらえる? お母さんとも、久しぶりにゆっくりと話したいしね」
「ああ、いいとも。春子も大喜びするでよぉ。早速、電話を入れておこう」
赤かぶ検事は、受話器に手を伸ばしたが、ふと、静代たち三人の兄妹を眺めやって、
「これは失礼した。おみやぁさんたちをさしおいて、私事にかまけちまったりしてよぉ。申しわけない」
「とんでもありませんわ、検事さん。どうぞ、お宅へ電話をなさってください」
静代は、親しげな微笑みを浮かべながら、赤かぶ検事を見つめている。
良武や真由美も、赤かぶ検事の娘思いの一面を目のあたりにして、気持ちが晴れやかになったのか、明るい笑顔を浮かべながら、かみさんに電話をかけている赤かぶ検事を見守っていた。
制作/光文社電子書店 1998年10月15日