妖魔夜行 鳩は夜に飛ぶ
友野詳/高井信/山本弘
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《》:ルビ
(例)友達《ツレ》
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(例)八環|秀志《ひでし》
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目 次
第一話  鳩は夜に飛ぶ  友野 詳
第二話  闇に吼《ほ》える虎  高井 信
第三話  鏡の中の鈴音  山本 弘
妖怪ファイル
あとがき        友野 詳
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Take-1――――――――
血は、赤かった。たっぷりと地面にぶちまけられている。
昼間、街を歩いていた。
舗装された道路。右には高いビル。鉄筋コンクリートで、とても頑丈そうに見える。左には真新しい建売住宅。引っ越してきたばかりの家族が、楽しげに笑っている。
角を曲って、このまま行けは公園に。
たどりつくのだけれど、そこで足は止まった。
そこから先へ進もうとすれば、真っ赤な血に足をひたさなければならなかったのだ。
ぶちまけられた、命。
バンパーがほんの少しへこんだ車。
しばらくのあいだ、どれほどたくさんの人たちがそこに集まっているのかに、気づかなかった。赤い血しか見えていなかったから。
うなだれたドライバー。くってかかる男。泣き崩れる女。
事務的に作業を進めていく、制服の人々。血だけではなくて、この人たちをかきわけなければ先には進めないのだ。
それに気がついて、曲がらずに引き返した。
赤い色は、いつまでも頭の中に残っている。それが段々と広がりはじめる。広がりきって薄れて消える。
一点だけ。赤い輝きが残った。ぼうっと、頭のかたすみで、いつまでも真紅に輝いている。
歩いていくと商店街に入った。昼さがりで、人通りはほとんどない。夕食の買い物には、まだ少々早すぎる。パン屋の前で、学生服が群れていた。自転車によりかかりながら、瓶を返せば九十円ですむジュースを飲み、たわいないおしゃべりをくりかえす。彼らの中にも、あの真っ赤なものは、流れているのだろうか。
美容院の前を通り過ぎる。ここには、かつて小さな映画館があった。もう二十年も前につぶれてしまったけれど。
商店街を離れて、路地に入った。バス通りへの近道だ。
通りに出る。中年の男が一人、シャッターがおろされたきりのビル前で眠っている。彼は、半年くらいは、風呂に入っていないに違いない。彼にも、あの赤いものは流れているのだろうか。
それを横目で見ながら、前へ――。
「……」
何か聞こえた。足を止めて振りむいてみる。
風が、背中を打った。もしも、その声がなければ、風に巻きこまれていたはずだ。風を起こしていたのは、車道を行く車。信号は真っ赤。頭の中の輝きが見えているのかと勘違いしていた。
ぼくの前には闇《やみ》があった。どこにでも闇はある。ほんの一歩を間違えるだけで、闇に入りこんでしまう。
あの、ぶちまけられた血。ほんの一歩を間違ってしまった、誰か。
けれど、ふりむいて見えたのは、やはり闇。見ていたのは自分の内側だと気がついた。
そこから、生まれてくる何かもいる。
赤い輝き。
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第一話  鳩は夜に飛ぶ  友野 詳
プロローグ
1.闇の翼
2.有月と聖良
3.阿久津裕二
4.幻燈館
5.妖怪たち
6.河原
7.愛憎表裏
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プロローグ
それは、飢え切っていた。
長いあいだ、満足な餌《えさ》を得ていなかったからだ。
船の荷物にまぎれこんでしまって、この国に来た。
その途中で飢えた。力を失ってしまった。ここは、それの餌がとぼしかった。
かろうじて生きていくだけなら、ちょっとした憎悪や嫉妬《しっと》でもよかった。その量は、どんな国に行こうが、人間が生きている限り変わりない。
しかし、それが持てる力のすべてをふるうためには、そんなものでは足りない。それのごく間近で、血が流されねばならなかった。
一度だけでいい。
一度だけ、偶然がもたらされれば、力は回復する。
そうなれば、それは自力で食事を調達できるようになるのだ。
だが、この国ではそれはなかなか起こらなかった。自分から探しに行くこともできなかった。
それすらできないほど力はつきようとしていた。
それは待った。
闇《やみ》の中に、暗黒色の体をひそませて。
それが、闇に溶けて滅びようとしていた時。
待っていた偶然が起こり――。
それは、夜の空に羽ばたいた。
まず必要なのは。
きれいな衣裳《いしょう》だ。
1 闇の翼
夜空から、翼の音が聞こえた。
車の音も、話し声もない。歩道に人影はなく、車道のヘッドライトもない。
たった一人、彼女だけが歩いている。
静かなものである。
だから、かすかなその音もよく聞こえた。
夜に、翼?
間違いなく、それは羽音だった。烏が飛ぶはずもない夜に、空気を打つ音がする。
だが、彼女は気にかけなかった。
無理もないことだ。今の都会で、鳥の羽音を聞く機会など、どれほどあるだろう。鳥が闇で目が利かないことを、知識として持ってはいる、けれど、それを実感としている者が何人いるだろうか。
だから、彼女は、夜に飛ぶ鳥のことを気にかけなかった。
彼女の耳は、羽音をとらえていた。けれど、彼女が視線をあげることはなく、だから月を横切る影を確かめることもなかった。
それは蝙蝠《こうもり》でも梟《ふくろう》でもない、ある鳥のシルエットだ。
夜に飛ぶはずもない、鳥の。
羽音は彼女を追い越した。
そして、影がひそかに舞いおりたことも、彼女はまるで気にかけなかった。
足音はしない。
履いているのはモスグリーンのスニーカー。飾り気のないジーンズにTシャツ。背も高いし、髪はショートカット。だが、ほどよくもりあがった胸と、形よくひきしまったヒップラインを見れば男と間違う者はいないだろう。
終業した工場のすぐかたわら。とぎれのないコンクリート塀が伸びている。明かりは、月と星と、百メートル以上のあいまを置いて設置されている街灯だけだ。
今の彼女は、羽音など気にかけている余裕はなかった。彼女の頭の中は、いくつもの心配ごとに占領されていたから。
今日の昼間、彼とまた言い争いになってしまったこと。最近は、会うといつもそうなる。ミィには、別れ時なんじゃないのとか言われたけど、そりゃ、お互いさまでしょって言ってやったら、黙りこんじゃった。
そう思いながら、彼女は足を早める。
『あ〜あ、すっかり遅くなっちゃったなぁ。なぁにが、帳簿の整理を手伝ってくれたまえだぁ、あのアブラ爺い。ねちねち触ってきやがって。あ〜あ、早くシャワーでも浴びたいな。あいつもバイトもきっぱりやめてやろっかな。バイトは次の給料をもらってから、だけど。はぁ、新しいバイトを探しはじめたほうがいいかなぁ』
また、羽音が彼女に近づいている。さきほどのとは、種類は同じだが別の羽音だ。
彼女は、街灯の真下でふと足を止めた。腕時計に視線を落とした。十一時をすぎている。
そのあいだに、羽音が彼女を追い越した。
遠ざかる。
舞いおりて、消えた。さきほどと同じ場所だ。
彼女は、時間を確かめたおかげで帰りたくなくなっていた。
今からだと、ちょうど父親の帰宅にぶつかるからだ。顔をあわせれば、こんな時間まで何をしてたとか、くだくだと説教するだろう。
『いっそ、友達《ツレ》んとこ行って、時間を稼ごっかな。ミィん家なら、こっからすぐだけど、あいつんとこは自宅だし。ま、あそこの親父さんは甘いけどなぁ。でも、愚痴のこぼしあいになっちゃいそうだもんね。ルンちゃんの下宿なら、そんなに遠くないよね。また、けらけら莫迦《ばか》笑いしてくれっだろうけど。親父なんて、寝てから帰れば、わざわざ起きだしてきやしないし。ふん、どこまで本気で心配してるんだか、あやしいもんだね。……あっ、でもルンのとこ、テレビが故障中って言ってたっけか』
今日は深夜にお気に入りの海外ドラマを放送している。結局彼女は、自宅に向かって歩きはじめた。
『親父の説教は、適当に聞き流してりゃ三十分で終わるから。間に合うよね。どうせ運の悪い日だったんだから、とことん悪い日ってことできわめちゃおうか』
待っているのが、どれほどの不運かも知らずに、彼女はそう思った。
彼女は、今日、自分にふりかかってきた不運の規模を、少しばかり誤解していたのだ。気分を鼓舞するくらいで、どうにかなる程度のものだと。
また羽音が近づいてきて。
また、追い越して、同じ場所におりる。
立ち止まってから、ほんの三十歩。
彼女は少し迷った。
路地がある。
こちらをくぐったほうが近道だ。
ただし、街灯がない。古惚《ふるぼ》けたアパートがあるのだが、いったい住人がいるのやらいないのやら。おまけに、資材置場になっている空き地まである。
角には立て看板があった。
『痴漢に注意』
逡巡《しゅんじゅん》していた時間は、ほんのわずかだった。短大に入ってからはごぶさたしているが、高校時代には、けっこう喧嘩《けんか》屋で鳴らしたものだ。彼女の股間蹴《こかんげ》りで悶絶《もんぜつ》した男は片手では数えきれない。中学時代は、陸上部で中距離走をやっていた。逃げ足にも自信はたっぷり。
彼女は、路地に入った。
静かな路地に。闇《やみ》に閉ざされた路地に。
彼女は知らなかった。都会の闇に、何がひそんでいるのかを。
彼女が知っているよりも、考えているよりも、もっと多くのものが闇の中に住んでいるのだ。
角を曲がり、一歩踏み出して。
――そこで彼女は、歩みを止めた。
痴漢など、いはしなかった。
「なによ……これ」
膝《ひざ》が震えている。こんなものに自分が怯《おび》えるだなんて、思いもよらなかった。
一瞬、それがなんだかわからなかった。彼女が知っている同類とは、違う色をしていたからだ。でも、少し考えるとわかった。特に動物好きではないが、これの同類には餌をやったこともある。公園で、彼と一緒にポップコーンを。
鳩だ。
彼女は、次の一歩が踏みだせない。
『いっぱいいるけど、怖がることなんかないよね。鳩は平和の象徴ってくらいだもん。おとなしいよね』
彼女は知らなかった。鳩というのは、案外と乱暴で残酷な性格の持ち主なのだ。縄張りを、雌をめぐって、しばしば血を見るまで戦う。なんでも喰らう。貪欲でもある。
『怖がることない、ない……でも、こんなにたくさん!』
一羽や二羽ではない。幅二メートルもない路地を、びっしりと鳩が埋めつくしているのだ。
地面が見えないほど、いいや、それどころか鳩の上に鳩が重なりあうほどびっしりと。
彼女は唾を、ごくりと呑《の》みこんだ。
通るのは無理だと悟った。
そろりそろりと、後ろにさがろうとする。音を立てないように。慎重に。鳩から目を離さないように。
そう思ったのに、足が動かなかった。
膝が笑っている。持ち上げられない。力が、まるで入らないのだ。
怖がることはない、怖がることはない。そう自分に言い聞かせているのに、膝の震えはいっこうに止まってくれない。
『あんなものただの鳩じゃないの』
そう言う自分に、もう一人の自分が反論する。
『ただの鳩なら、どうして目が赤く光っているの?』
『光の反射よ。それに、こいつら、こっちを見ていないわ。あちこち、勝手なほうを見てるじゃない』
けれど、まだ疑問はつきない。
『それなら、どうして、人間が近づいても逃げないの?』
『馴《な》れてるのよ。車にひかれそうになっても逃げない鳩だっているじゃない』
『だったら、だったらどうして、全身が真っ黒なの? まるで鴉《からす》じゃない。ううん、鴉だって、くちばしや爪まで黒くないはずよ』
『そういう種類の鳩もいるんでしょ』
自分自身の反論は、とても自信なさげだった。
いるかもしれない。そうかもしれない。けれど、それならば、なぜ。
こんな暗闇の中で、黒い鳩の姿が、こんなにもはっきりとわかるのだろう。自分は、そんなに夜目がきいただろうか?
鳩がこちらを見た。
一羽が見た。
それに気がついた瞬間に、すべての鳩が彼女を見ていた。
真っ赤な目だ。単なる赤ではない。
血の赤、怒りの赤、妬《ねた》みの赤、嫉《そね》みの赤、恨みの赤、嫌悪の赤。ありとあらゆる負の感情から生み出された赤なのだ。
それは、自ら輝いているわけではなかった。反射だという、彼女の考えは正しい。ただ、それが反射しているのは月明かりでも街灯の輝きでもなかった。
人間の心。彼女のもっとも奥底にひそんだ何か。それを反射して、赤く輝いているのだ。
それに気がついた時、助けてという言葉すら、彼女は発することができなかった。誰にも来て欲しくなかった。もしも、こんなものを誰かに見られたら。
自分が、こんなにも醜い生き物だと知られてしまうなら。
それならば、いっそ。
ばさり。
一羽が宙に舞い上がった。
そして、すべての鳩が。
彼女に向かって殺到する。鋭い爪をもった足でしがみつく。
彼女は、ようやく我に返った。痛み。痛み。痛み。全身の痛みが、彼女に逃げろと叫んでいた。なりふりをかまわず、助けを求めろと叫んでいた。
悲鳴をあげようと口を開けた瞬間に、黒い鳩が頭をつっこんでくる。
声は、一外に出ることを許してもらえなかった。逆に押しこまれた。鳩が、鳩が、ああ、鳩があたしの中に入ってくる。くちばしが、彼女の舌をついばんでいる。そして、喉《のど》の奥に無理やり体を押しこんでくる。
目玉に迫るものもいた。ふともものあいだに潜りこんでくるやつも。
黒い鳩は、彼女の中に入るために、内側のものをついばみ、かきだしていく。
そして最後に、心が。
……。
鳩が夜に飛んでいる。
その羽音を聞いている者は、もう誰もいなかった。
2 有月と聖良
「また、昼間からお酒なんですか、有月《ありつき》さん」
「んぁ?」
有月は、アスファルトに寝転がったままで、声の主を見上げた。ぎょろりとした目玉が、まぶしそうに細められる。
もう正午はすぎているだろう。昨日梅雨あけ宣言が出て、もう日ざしはすっかり夏だ。
「やめていただけません、地面にころがったままで女の子を見上げるの?」
ぴしゃりと言われても、彼はいっこうに応えたようすもない。じっくりと、彼女のつま先から頭のてっぺんまでを観賞する。
「好きなんだわ、下からが」
べろぅりと伸びた舌がくちびるをなめる。聖良《せいら》は、黙って冷たい視線を送った。
「わかったけん、そう睨《にら》みなさんな」
有月と呼ばれた男は、大きくげっぷをすると、体をわずかに起こした。
「スカート姿たぁ珍しいじゃねぇか、聖良ちゃん」
有月は、肘枕《ひじまくら》をすると、片手の一升瓶を口もとに運んだ。瓶の中身は、飲み残しをとりまぜたしろものである。今朝、集めたてだ。
「それよりも、用事というのはなんなんです?」
聖良は言った。
話している彼女を、不審そうな、というよりは心配そうに見ながら、サラリーマンが通り過ぎていった。
営業かなにか、外回りに出ていくのだろう。出退勤時間をのぞけば、人であふれることなどほとんどない。ある企業の本社工場横である。
コンクリートの塀の向こうからは、さまざまな音が聞こえてくる。人間の営みが立てる音だ。
「はやくすませたほうが、よさそうだな。追い出されそうだわ」
サラリーマンが、一旦行きすぎてからも、ちらちらとふりむいているのを、有月は視野のすみに捕らえていた。聖良も、彼の意見には賛成だ。
対照的な二人である。
有月のほうは、どこから見てもホームレス。
無精髭《ぶしょうひげ》の域はもうとうに越えている、伸び放題の髭が顎《あご》をおおい、髪は半年は洗っていないだろう。服だって、同じくらいは着たきり雀のはず。ただ、だというのに不思議と垢《あか》じみた印象がない。不潔さも感じられない男だった。年齢も、よくわからない。
一方、望良のほうは、洗濯して、きちんとアイロンをあてただろう、センスのいいクリーム色のツーピース。えりもとには、落ち着いた色あいのスカーフを巻いていた。髪は複雑な形に編まれて、頭の上に貼りついており、シャンプーの香りがただよってくる。
美しい顔だちだ。化粧のしかた一つで、美女でも美青年でも、好きなほうで通るだろう。今はうす化粧。美女の顔である。年齢不詳な点だけは、彼女も共通している。
ふりむきたくなる組合せには違いない。
「マスターに聞かんかったんか?」
有月は、酒臭い息を吐きながら、よっこらしょと座り直した。
マスターというのは、彼ら二人が、ともに常連であるBAR <うさぎの穴> のマスターのことだ。仲間うちのまとめ役でもある。
「電話で言っちょったんだが」
「受け取るものがあるとか、それだけは聞きましたけど」
「そういうことだが。けど、聖良ちゃんが来るとは思わんかったわ、てっきりかなただろうと思ってたけん」
有月は、ぺろりとくちびるをなめた。
「たまたま、孝太郎さんところでのオールナイト上映の帰りに、コーヒーを飲みによってしまったものですから」
聖良は、小さくため息をついた。不運なことに、マスターのただ一人の家族、娘のかなたは出かけていたし、マスター自身が留守にするわけにもいかなかったのだ。おまけに、ここは、 <うさぎの穴> から彼女の住居への帰り道を、ほんの少しそれただけだった。
「今朝、ここを通りかかった時、こげなもんを見つけたんだわ」
有月は、ポケットから何かをとりだした。彼がさしだしたのは、小さな白い物体と髪の毛だ。
聖良は、まず髪の毛を手にした。長さは、二十センチくらいだろうか。目の前にもってきて、しげしげとながめ、根元から先端、先端から根元へと撫《な》でてみる。
「十八歳か十九歳の女の子。まだ二十歳にはなってませんわね。一年くらい前まで染めてたけれど、今はやめてます。茶色……ううん、赤ですわ。健康状態は良好。中学生くらいのころに、運動でもしてたんでしょう。栄養のバランスは、ちょっと崩れてますかしら。ダイエット中なのかもしれません」
そこまで一息で言って、首をかしげた。
「切り落とされたのは昨日の真夜中か、その少し前くらい。刃物かしら? 見慣れない切り口ですね」
ハンドバッグからシステム手帳をとりだして、はさみこむ。
「なんとね、女の子だったか、そいつはもったいないことを」
言葉は気楽そうだが、有月の声は真剣だった。
「で、そっちはなんなんです?」
聖良は、有月のてのひらに乗ったままの白い物体を指差した。
「わからんのか? 髪の毛たった一本から、あれだけのデータをひきだす聖良ちゃんが」
「よしてくださいな。髪の毛だからこそわかるんです」
聖良が肩をすくめているあいだに、有月はまた一口酒を流しこむと、にやっと笑い。
「これは、骨だわ」
と言った。
整った聖良の顔が、はっとこわばる。
「まさか……?」
「そう。人間のだな」
有月は、ひょいと立ち上がると、骨を聖良の鼻先につきだした。思わずのけぞる彼女を見て、くすくすと笑う。
「趣味が悪いですよ」
聖良は、憤然として言った。てのひらの上にハンカチを広げて、その中に骨を受け取る。
「確かなんですか?」
ころりと転がしてみた。
「故郷《くに》にいたころはよう見たわ。一時は、やたら人身御供《ひとみごくう》を捧げられちょった。百年くらい前だけん、まだ忘れとらんわ。小指の先だ。まだ新しいぞ」
彼の故郷は山陰の海に浮かぶ小島だ。出てずいぶんになるが、なまりはわざと残している。
「どこで、これを?」
聖良は骨をきっちりとハンカチにくるんで、セカンドバッグにしまった。
「そこの路地だわ」
聖良はちらりと視線を走らせた。なんの変哲もない路地に思える。
「どうして、直接、 <うさぎの穴> に来なかったんですか?」
聖良は有月に問い掛けた。
「なんとなく、八環《やたまき》あたりがいそうな予感がしたんだ。あいつ自身は、いいやつなんだがなぁ」
八環は、 <うさぎの穴> の常連中でも随一のヘビースモーカーだ。そして、有月は煙草が大の苦手ときている。煙草のヤニは、彼の命にすらかかわるのだ。
「とにかく、教授にでも渡して調べてもらっとくれ」
有月は、 <うさぎの穴> の常連の一人のあだ名を口にした。土屋野呂介という、考古学者である。もちろん、ただの考古学者に真新しい人骨の鑑定ができるわけはない。
「それはいいですけど、教授が昼間、 <うさぎの穴> に来るとは思えませんわね」
有月が煙草を不得手にしているように、教授は日光を嫌っている。明かりのもとでは、ほとんど目が見えなくなってしまうのだ。
どちらも、彼らの出自ゆえの弱点だった。
「夜でもいいけん。教授の妖術《ようじゅつ》なら、半日くらいすぎたって、過去を見んのに支障はねぇだろ」
過去を見ると、有月は言った。そんなことが、人間にできるだろうか? いいや、できはしない。そもそも妖術とはなにごとか。
彼らは人間ではない。ふつうの生き物ですらない。
彼らは妖怪。まったく別の法則から生まれた生き物たちなのだ。
「でも、急いだほうがいいでしょう? それに早く知りたいじゃないですか、何が起きたのか」
「教授も、朝から叩《たた》き起こされるたぁ、気の毒なもんだ」
有月は、ちろりとくちびるを舐《な》めて他人事のように言った。彼は、寿命こそ千年を越えるものの、そのほとんどを神として祭られて暮らしてきた。
蛇神である。
御利益をさずける必要もない、そこにいるだけの神としてだ。おかげで、無責任な暮らしが、鱗《うろこ》のすみずみにまで染み渡っている。
「人間って、もろいものですもの。事件なら急がなければね」
聖良のほうは、生まれてまだ、二十五年に満たない。彼女の同族は、かなり古い妖怪だが、聖良自身は若いのだ。妖怪たちの相互扶助組織である <うさぎの穴> ネットワークに参加してからでも、まだ、二年に満たない。事件が起きても、人間を救う義務感より、自分の好奇心のほうが先にたってしまう。
二人とも人間の命を軽視しているわけではない。だが、人間の肉体は自分たちほど強くないのだということが、まだ知識以上には飲みこめていないのだ。
3 阿久津裕二
『昨夜、午後十二時ごろ、北区岸町のマンション、コーストパレスの管理人から、喧嘩《けんか》が起きているとの一一〇番通報があった。警官二人が駆けつけたところ、一〇二号室に住む香取和弘さん(四十三)と、妻マリーノさん(二十九)が、パジャマ姿のまま、胸をめった刺しにされて殺されているのが見つかった。当局は、子供部屋で血のついたナイフを持っていた長男A(一五)を容疑者として緊急逮捕した。マリーノさんは後妻だが、親子仲は悪くはなかったということで、どうしてこんなことになったのかさっぱりわからないと、隣人は首をかしげている。A容疑者が、黒い鳩がそそのかしたなどとわけのわからない供述を行っているため、警察はシンナー、あるいは睡眠薬遊びなどで幻覚症状におちいっての犯行ではないかとの見方を強めている。なお、長女の奈美子さんは帰っておらず、いまだ行方がわかっていない……(毎朝新聞、朝刊より)』
何をしてるんだ、俺《おれ》は。
阿久津《あくつ》裕二《ゆうじ》は、不機嫌だった。
仕事もしないで、街をうろうろとしでいるなんて。こんなところをうろついても、奈美子がいるはずもないじゃないか。締め切りは一週間後だぞ。素材を探さなきゃならないことを思えば、ぎりぎりだというのに。
いったい、あの事件について、俺に何ができるというんだ。
梅雨があけてから、三日になる。ただ歩いているだけでも汗が流れだしてくる暑さだ。
その汗が、奇妙に冷たく感じられた。
昼の上野。アメ横が近い。
平日だというのに、にぎやかなものだ。どこもかしこも光に満ちていて、影などかけらも見当たらない。
制服を着たままで闊歩《かっぽ》している高校生たち。高価そうな服を着た少女たち。
裕二は、その一人を見てはっとした。思わず追いかけそうになって、ふと我に返る。
ポケットを探りながら、自分を嘲笑《あざわら》った。
人違いだ。奈美子が、あんな風に街を歩いていたのは、もう二年も前のことじゃないか。赤い髪をなびかせて、きついメイクをして、いつも仲間の中央にいた。
ここで、米軍払い下げのフライトジャケットを取り合ったのがきっかけだった。譲ってやるかわりに、写真を撮らせてくれと言ったのだ。
街で女の子に声をかけて撮ったのなんて、あれが最初で最後だったな。
ポケットからレモン味のキャンディをとりだして、口にほうりこむ。彼女に煙草をやめさせようとして、自分もはじめた禁煙だ。今では、キャンディのほうがすっかり癖になって困っている。体重が二キロ増えてからは、もっぱらノンシュガーを愛用していた。
どうすればいい、俺は。裕二は考えた。
行き先は中央アルプス。年に二度は登っている。彼にしかできない記事を書ける自信はあった。夜行列車の切符はとってある。宿の手配もすんでいた。荷物だってまとめてある。
そろそろ、一旦は自分の部屋に戻ったほうがいいだろう。編集の伊沢も、出発前に一度連絡してくれと言っていたし。
裕二の肩書は、フォトジャーナリスト。カメラもやれば文章も書く。専門は自然関係。山岳維誌や旅行雑誌の記事が仕事の中心だ。最近では、小説にも手を染めていた。評判は悪くない。
次の仕事は、新しい連載だった。裕二の名前が、タイトルにかぶせられる。しかも巻頭。
一生この仕事で食べていくためなら、石にかじりついても、いいや、噛《か》み砕いてでもやらなければならない仕事だ。
だが、奈美子を見捨てることはできなかった。
十九歳の娘が、三日間、家に帰っていない。それだけなら、これほど心配しない。
両親が、弟の手で殺された直後でなければ。
彼女が高校生だった頃は、外泊なんぞ日常茶飯事だった。知り合って四日目に、裕二のアパートにころがりこんできて泊まっていったこともある。裕二は、友達の部屋のソファで眠った。
しかし、そんな生活も三年生のなかばまでだった。奈美子は、夏休みを境に、遊ぶのをやめて受験勉強をはじめた。
第一志望だった四年制大学には合格できなかったが、短大に入学して真面目に通っている。
英会話を勉強して、将来は裕二の海外取材で通訳をするのだと言っていた。
だが。
近頃は、喧嘩が多かった。
そして、三日前。
言い争いの末に、裕二は思わず手をあげそうになり、奈美子は先んじて手近の望遠レンズをふりあげた。
その結果。高額のレンズにひびが入り、裕二の額も傷ついた。筋力だけならともかく、喧嘩では場慣れしている奈美子のほうが強い。
奈実子は、真っ青な顔でこわばっていた。そして、ものも言わずに外へ駆けだしたのだ。
あの直前に、奈美子は言った。
「そりゃ、裕二は偉いよ、才能あるもん。自信持って、お説教だってできるよね。だけど、あたしには、あたしには……」
追いかけようとした時、電話がかかってきた。大手出版社の編集者からだった。裕二の小説を読んで、一度話がしたいと言うのだ。
あわただしく会話して、とにかく一度直接会おうという約束をとりつけた時には、もう奈美子には追いつけなくなっていた。少し落ち着かせたほうがいいのだと自分に言いきかせながら裕二は仕事に戻った。
自分の優等生ぶりに嫌気がさした。
翌日、彼女の家に電話をかけてみれば、とんでもないことが起こっていた。
彼女の両親が殺されていたのだ。犯人は奈美子の弟。そして、彼女は行方不明になっていた。
それから三日。
奈美子は、いっこうに帰ってこない。どこにも姿をあらわしていないのだ。泊めてくれそうな心あたりは、ひととおり当たった。女友達以外には、裕二しかいないはずだ。親戚のところにあらわれれば、警察に連絡があるだろう。
聞きこみに来た警官に、逆にくいさがって聞きだしたところでは、事件の翌朝にキャッシュカードで現金を引きだした跡があるという。
ホテルにでも泊まっているのだろうか。だが、どうしてなんの連絡もよこさない? もしかしたら、他に好きな男がいたのかもしれない。そいつのところに隠れているのかも……いや、奈美子の性格なら、きっぱりとそういうはずだ。
裕二は、急ぎ足で歩きながら思った。もちろん、あてがあって歩いているわけではない。
何かしていないと、動いていないと不安でしょうがなかった。
奈美子は、どこにいるのだろう。事件に、どうかかわっているのだ。両親を刺し殺したことになっている、奈美子の弟、弘一には昨日面会に行った。何も覚えていないのだと泣いた。幻覚剤のたぐいなどに手を出すような子でないことは、裕二も知っている。
彼を見捨てることもできなかった。
手がかりは一つある。川藤《かわとう》凛子《りんこ》。奈美子の友人の一人だ。事件が起きた同じ日から、家に戻っていないらしい。奈美子との共通の友人は当たってみたが、凛子自身の友人はこれからだ。
しかし、それには時間がかかる。そして、裕二には時間がないのだった。
誰か、俺の替わりに……。
公衆電話が目についた。
『そうだ、あの人なら!』
財布を開けると、「月刊ネイチャーフォト」のテレホンカードが出てきた。彼が新連載をはじめるはずの雑誌だ。
カードには、裕二が撮った写真が使われている。
それを、乱暴に電話へさしこんだ。するするとカードが消えていく。
いてくれるだろうか。昔から、よく行方不明になる男だったから。
呼び出し音が二十回以上鳴って、裕二があきらめかけたころ。
「はい?」
ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「もしもし、八環さんですか」
「よう、阿久津か! 久しぶりだな」
電話の相手は八環という名の、山岳カメラマンだった。裕二がこの業界で仕事をはじめた直後、山でのカメラの扱いを一から仕込んでくれた男だ。
「こないだの本、送ってくれてありがとうな。よかったぜ。特に、あの……」
「すいません、お願いがあるんです」
鋭い目と、尖《とが》った鼻、猛禽《もうきん》のような風貌を思い出しながら、裕二は八環の言葉をさえぎった。
裕二は、早口で現状を説明した。
「ムシのいいお願いだってことはわかってます。八環さんにもスケジュールってもんがあることも。けど他に頼れる人、俺いなくて」
連載を奪われる覚悟なら、他にも頼める人間はいた。だが、それだけはどうしてもできなかった。八環しか、いない。
「この埋め合わせは必ずします。ギャラは、全部八環さんでかまいません……」
「五割だな」
八環の口調はさりげなかった。
「俺がやるのは、セッティングだけだぞ。お前が狙ってる動物がどこにいるか、花がどこに咲いてるのか、そのへんは調べて、全部あわせて二日で撮れるようにしといてやる」
八環は自信たっぷりだった。
「いちばん疲れるとこだけ残しておいてやるから、早く追いかけて来い。原稿は寝台車の中で書くんだな」
「……俺、なんちゅうか、その……」
礼が言葉にならなかった。
「ばか、街頭で電話に向かって頭さげてんじゃねぇ」
八環に言われて、裕二はぎょっとした。
「どうしてわかったんです?」
「……ほんとにやってたのか」
受話器の向こうから、かすかなため息が聞こえた。
「ところで、もう少し詳しく話をきかせてもらわんとな。お前、何を撮る気なんだ? できりゃ、記事の構成も含めて」
「はぁ。それじゃ、今から家に戻って、八環さんとこにファックスいれます」
「ちょっと待った」
八環は少し考えた。
「急いだほうがいいだろう。俺は、今からお前の家に行って、列車のチケットを取ってくる。阿久津のってDOS/Vだったっけな? ディスクを教えてくれれば……」
「すいません、構成プランの入ったフロッピー、ここにあるんです」
うっかり、バッグに入れたままになっていたのだ。
「……そうか。お前、今、上野だって言ったな? じゃあ、ちょうどいい。近くに俺の知りあいが住んでる。そいつんとこに行って、フロッピーの中身をパソコン通信で送ってもらおう」
八環が教えてくれたのは、幻燈館という名の名画座だった。
「そうだな……孝太郎なら、ちょうどいいかもしれん」
4 幻燈館
『TVエックス、今日のニューススポット。丸川書店の提供でお送りします。最初のニュースです。昨夜、午後九時ごろ、品川区の公園でOL木村菜々さんが後頭部を鈍器で殴打され殺害された事件で、捜査本部は以前から木村さんと交際していた会社員、福永要一郎容疑者を逮捕しました。取り調べにたいし福永容疑者は、鳩に餌《えさ》をやっているうちに口論になった。気がつくと、木村さんが血まみれになっていた、殺すつもりなどなかったと供述しています。しかし、夜の公園で鳩に餌をやっていたなどという不自然な供述をしているところから……』
「大丈夫です。これでちゃんと送れましたから」
眼鏡をかけた、ころころした体形の若者は、そう言ってふりむいた。この映画館でアルバイトしているのだという。
事務室かどこかにあるのかと思っていたら、コンピューターがあるのは、支配人兼オーナーの私室だった。
せせこましい、まるで屋根裏部屋のような一室だ。
うず高くつみあげられた、さまざまなフィルムのリール。
「ありがとう。ええと……」
「お礼なら、けっこうですよ。八環さんのお友だちなら、我々にとっても友だちなのですから」
そう言ったのは、かたわらに控えていたここの主人だった。
背が高い。見た目からすると、まだ三十前だろう。オールバックの下で、糸のように細い目がにこにこと笑っている。ふだんなら、笑ってしまうような言葉だが、彼が口にすると真実味があった。
「それじゃあ、俺《おれ》はこれで」
おじぎした拍子に、肘《ひじ》が積みあげられたフィルムにぶつかった。
「うわったったった」
太った若者が、あわてて押さえる。動いたはずみで、今度は映画雑誌の山が崩れた。どどどっと若者の上になだれ落ちる。
「ぐきゅ」
若者がもらした声を聞いて、裕二は思わず、吹き出していた。笑ったのは六十時間ぶりくらいだろう。弘一に会いに行った時の作り笑いを勘定に入れなければ。
「大丈夫かい、大樹《だいき》?」
この名画座のオーナーが、下敷きになった若者に問い掛けた。そういえば、まだ若者の名を聞いていなかった。大樹というのは、姓だろうか、名だろうか。あだ名ということもある。オーナーのほうは、確か朧《おぼろ》孝太郎《こうたろう》と名乗っていた。
「ええ、フィルムはなんとか落とさずにすみました」
「なら、けっこう」
孝太郎は、てきぱきとフィルムをつみあげた。
「ところで、阿久津さん。せっかくおいでになったのですから、映画を見ていかれませんか?」
雑誌のほうを手伝おうとしゃがみこんだ裕二に、孝太郎が言った。
「いえ、すいませんが、急ぎの用がありますから」
裕二は、いささかむっとした口調で答えた。八環は事情を話しておくと言っていた。どこまで知っているのかわからないが、少しくらい察してくれてもいいだろう。
そう考えて。ふと冷静になって恥ずかしく思った。せっかく親切で言ってくれたのじゃないか。もう少し丁寧に断るべきだったか。
そう思って顔をあげると、孝太郎が細い目をますます細くして、こちらを見つめていた。
「まあ、そうおっしゃらずに。あなたのために、特別のフィルムを上映してさしあげますから」
孝太郎は、一巻のフィルムを手にしていた。大きさからして、35ミリだろう。
「悩みの解決にも役立つと思いますよ」
裕二は、自分の疲れをふと意識した。少しくらい休憩したほうがいいかもしれない。
「そうです。やみくもに歩き回っても、疲れるだけですからね。座って、じっくりと考えることも必要ですよ」
まるで、裕二の心でも読んだかのように、絶妙のタイミングで孝太郎が言った。
「そう……ですね」
裕二は、案内されるまま、ふらふらとした足取りで部屋を出た。
気がつくと、客席に座っていた。赤いシートだ。座りごこちは悪くなかった。
いつのまに階段をおり、ここに来たのかよく覚えていない。
狭い映画館だった。席数は、全部で百もない。スクリーンも小さい。
他の客は、二人しかいなかった。缶ビールをラッパ飲みしている汚い格好の中年男と、神秘的な雰囲気を持った黒髪の女性だ。
「今から上映するのは、ですね」
背もたれを乗り越えて、孝太郎が後ろの席から囁《ささや》いた。
「あなたの悩みを解決するためのヒントです。よく見ていてください」
俺の悩み? いったい、どこまで事情を知っているのだろう、この人は。裕二は、ようやくいぶかしく思うだけの余裕を持てた。
そういえば、八環さん、チケットを取ってくるたって、どうやって俺の部屋に入るつもりだろう。合鍵なんか持ってるわけもないし。奈美子ならともかく、あの人じゃあ管理人さんが開けてくれるわきゃないし。電話してこようか。
そう思って立ち上がった瞬間に、明かりが消えた。数秒と間をおかずに、スクリーンが明るくなる。場内アナウンスも、CMも予告篇もなしだ。
誰かが咳払いをして、裕二は座席にすとんと腰をおろした。
「さあ、ごゆっくり、どうぞ」
孝太郎の声が聞こえ、裕二は首を正面に向けた。
いきなり、映画本編がはじまっている。
画面は星空だった。
やがてカメラの視線は、ゆっくりとおりてくる。映ったのは、三階建ての小さなマンションだ。白い外壁。だが、カメラが近づいていくと、排気ガスでかなり汚れているのがわかった。
窓の一つがアップになる。
『どうなってるんだ!?』
そこは、裕二の部屋だった。
窓ごしに見える光景。
裕二と奈美子が口喧嘩しているのだ。口だけではない。手が出た。奈美子の頬《ほお》を打ったてのひらを見つめて、たちすくんでいる自分。
どうして、俺はあんなことをしてしまったんだ。目の前にいる奈美子が、あの瞬間、とてつもなく憎たらしくなったのだ。俺がこんなに心配してやっているのに、それを重荷だと口ばしった奈美子が。
自己嫌悪とともに思いだす。自分の怒りが、いかに傲慢《ごうまん》であったかを。奈美子の言うとおり、 押しつけでしかなかったのだろうか。
そして、その自分を、レンズで殴る奈美子。あの時、彼女もおかしかった。まるで何かにとり憑《つ》かれているような目。
画面には、はっと我に返って、レンズを取り落とし、泣きじゃくりながら駆けだしていく奈美子が映っている。
裕二は混乱していた。
あの時、誰かが撮影してたっていうのか? いったい、どうやって。それにしても、どうしてこんなものが、ここにある。
映画が続いている。
奈美子を追いかけて、夜の町を歩く自分。
これも、余計なお節介で、あいつには迷惑なんだろうか。
翌朝、奈美子の家に駆けつける自分。警官に喰ってかかり、弘一にしがみつかれ、奈美子の親戚にうさんくさそうな目で見られている。
それから、奈美子のいそうな場所を訪ねて回る自分。ちらりと会ったことのある、彼女の友人を訪ね、その子に教えてもらった別の友人を……。
『どうなってるんだ! 俺を監視している!? 誰が? どうして? 自分がどれほど愚かだったか思い知れっていうつもりか。奈美子を追いかけても無駄だっていうのか!?』
怒りと怯《おび》えがないまぜになっている。
誰も見ているはずなどない。写真やビデオではない。映画だ。それも、画質から考えて35ミリフィルムに間違いない。隠しカメラで撮れるものじゃない。
そんなことは、どうでもいい。怒れ。怒って恐怖をふきとはすんだ。たとえ彼女が迷惑だと思っていようと、奈美子が苦しんでいるのを見捨ててはおけない。こんなところで、立ち往生してはいられないんだ。
けれど。
このアングルはなんだ? 正面だぞ? 撮られていて、気づかないわけがないじゃないか! なんだ、これは?
想像力。それこそは恐怖のみなもとだ。理解できないことを理解しようとすれば、人は逃げ場のない恐れの中に追いつめられていく。
心臓が止まりそうだ。息が詰る。恐怖が、これほどはっきりと肉体へ影響を及ぼすものだとは、考えもしなかった。
立ち上がってわめきだそうにも、体がまるで動かないのだ。
奈美子の顔が明滅する。画面の上で、心の中で。それにすがって、裕二は自分を取り戻そうとした。
映画が、現実の時間に追いつこうとしている。画面の中の自分が、八環に電話をかけていた。
階段。パソコンを前にしての会話。また、階段。座席。
このままフィルムが現実の時間を追い越したら、どうなるんだ? 未来がわかるのか。自分が、奈美子を見つけられるかどうかが、わかるんだろうか。不安と恐怖に期待がくわわって、心臓がどんどん高く打ちならされ……。
スクリーンが真っ白になった。
『終わったのか。追いついたら、終わるだけなのか?』
裕二は、全身が汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。
『いや……違う』
それが、いっせいに冷えた。スクリーンが白いのではなく、白いスクリーンが上映されていることに気づいたのだ。それがふっと暗くなる。上映がはじまるのだ。また最初からぐるぐると回り続けるのだろうか。いったい、自分は何に巻きこまれたのだ。
「奈美子ぉ!」
裕二は、怯えをふりきって立ち上がった。こんなところで、堂々巡りをしている暇はない。
通路を駆けだそうとした。
目の前に、蛇がいた。かなりの大きさだ。
ただの蛇ではない。見ていると、冷気のようなものが体に染み透ってくる気分だった。
「く……そっ……」
裕二は自分をふるいたたせようとした。喉のあたりが凍りついたようで、スムーズに声が出てこない。
だが、邪魔はさせない。俺は奈美子を助けるんだ。
あの光景をもう一度見直して、自分がするべきことがわかったんだ。
暗闇の中で、蛇の瞳がぼんやりと光っている。裕二は、それをぐっと睨《にら》みかえそうとした。
蛇の頭は、一定のリズムで揺れている。それを追って、裕二の眼球も動いた。
二度か、三度。
かくんと、裕二の頭が傾いた。よろけて、通路脇にあった座席に倒れこむ。そのまま、ずるずると沈みこんだ。
彼はぐっすりと眠っていた。
5 妖怪たち
『……ラジオ、明日の朝刊ニュースです。昨日午後十時ごろ、新宿区歌舞伎町の居酒屋 <ふじさき> から、客同士が乱闘しているとの通報がありました。警官が駆けつけたところ、リカーショップ店長増田公彦さん三十三歳と、電気店勤務飯田龍広さん三十一歳が血まみれになっており、飯田さんはすでに死亡していました。緊急配備の結果、凶器を持ったまま近くを歩いていたフリーアルバイター前城上夫容疑者二十八歳を発見。緊急逮浦しました。前城容疑者は、飲んで話しているうちに急にあいつらが憎らしくなったと供述しています。いあわせた人の話では、前城容疑者が急にナイフをかざして二人に襲いかかったということで、警察は、現在集中治療室に収容中の増田さんからも、回復しだい事情を聴取する予定です。店員の山本建一さんによれば、前城容疑者らのテーブルには、もう一人若い女性が座っていたということで、警察ではこの女性の行方を……』
「やれやれ、こいつには可愛そうなことをしちまったな。今にも泣きだしそうな顔だったぞ」
ちろちろと舌を出したり引っ込めたりしながら、通路の蛇が言った。そう、蛇が人間の言葉を話したのだ。
「しょうがないでしょう、有月さん。彼は貴重な目撃者なんですから」
そう言ったのは、孝太郎だった。彼は、蛇をはっきりと有月と呼んだ。そう、これこそが有月の真の姿だった。彼は、うわばみと呼ばれる大蛇の妖怪《ようかい》なのだ。今は縮んでいるが、その気になれば全長三メートル半の大蛇にも変身できる。
裕二を眠らせたのも、彼だった。妖術と呼ばれる、妖怪独自の特殊な能力を使ったのである。
「けど、直接殺しの現場を見たわけじゃねぇだろ? 何か役に立ったか? こいつの記憶をのぞき見てよ」
有月が例の骨を拾った前日、殺人が起きた。現場は近い。
それが、奈美子の家族だった。
妖怪たちは、二つの出来ごとに関連があるのかどうか、迷っていた。彼ら妖怪の存在を人間に知られるわけにはいかない。軽々しくは動けないのだ。
「妖怪のしわざよ。確かに」
そう言ったのは、美女だった。
「霧香《きりか》ちゃん、どういうことだい? わしには何も見えんかったが」
霧香と呼ばれた美女は、さらりとした髪をかきあげながら言った。
「さすがの有月さんでも、気がつかなかったのね。無理もないわ。私だって、そのつもりで見てたから、ようやくわかったのだもの。孝太郎くん、もう一度映しだしてもらえるかしら?」
さきほどまでの上映は、霧香と孝太郎の合作だった。霧香は真実を照らしだし、孝太郎は幻影を作りだす妖術を使うことが出来るのだ。
「ええ」
孝太郎は念をこらした。
またもや、スクリーンに映像が浮かび上がる。孝太郎の正体は蜃《しん》。口から吐く気によって、蜃気楼を作りだすという巨大な貝の一族であった。
「そう、そこよ」
ここに映しだされた情景は、裕二が見ていた光景や、彼の日々の記憶から再構成されたものだ。霧香が、裕二の脳をスキャンしたのである。だから、本人が意識の表面上では忘れているようなことでさえ、見つけることができるのだ。
「マンションの窓をアップにしてちょうだい」
霧香の指示にしたがって、孝太郎が画像を操作する。
「なんでぇ、ありゃ?」
有月が――いや、妖怪の姿である今はうわばみと呼ぼう――、うわばみが二股に分かれた舌を、忙しくちろちろと出し入れした。
「鳩よ」
そうだ。そこにいるのは一羽の鳩。真っ黒な羽根と真っ黒な嘴《くちばし》と、真っ黒な爪の鳩だ。
「よせや。あげな色の鳩がいるもんか。孝太郎、なんか間違っちょうじゃねえのか?」
「あたくしは、霧香さんが送ってくれる彼の記憶を忠実に再現しておりますよ」
うわばみは、鱗《うろこ》につつまれた鼻先にしわをよせた。器用なものだ。
「お前、また変な映画みたな? ころころ性格変えやがって」
孝太郎は、優雅に一礼してみせた。
「私は鏡よ。そこにないものが映ることはないわ。そこにあるものを映せないことはあっても」
霧香の正体は雲外鏡。年を経た鏡が、不思議な生命を得たものだ。
彼ら妖怪は、人の『想い』から生まれてくる存在だ。強い感情、蓄積された愛着、激しい恐怖、永続する憎悪、そして空想、思いこみ、信念……。
この世界には、生命の根源とでも言うべき不思議なエネルギーがある。
その生命エネルギー――気でもエーテルでも魂でもかまわない――が、さまざまな <想い> と触れあった時、通常のものとはまったく別の生命が新たに生まれ出てくる。
それが妖怪なのだ。
通常の世界法則を無視した、超常的な力をふるうこともでき、世界のはざまに、夜の奥底に生きているものたち。
「それで、あの黒い鳩がどげしたってんだ?」
黒い鳩が、窓辺に止まっている。裕二自身は、思いだすことなど不可能な記憶だろう。だが、霧香の妖術は本人すら知らない記憶をも掘りだすことができるのだ。
その場は、爛々《らんらん》と輝く真っ赤な瞳で、裕二と奈美子を見つめている。
「どうしたはないでしょう? 全身が真っ黒の鳩なんているはずはない。そう言ったのは、有月さんじゃなくて?」
「そりゃ言ったがね。いるかもしれんじゃないか、わしたちが知らんだけで」
「羽が黒いくらいなら、そうかもしれない。でも、嘴や爪の先まで黒檀でできたような鳩がいるかしら?」
霧香は、真剣そのものの口調で言った。できることなら、いて欲しいと思っているのかもしれない。霧香の心中は複雑だろう。同じ妖怪が人間に害をおよぼしているのと、自分たちを産みだした人間が、お互いを傷つけあっているのと、どちらが事実だとしても心楽しいものではない。
「それに、あれは夜だわ。夜に飛ぶ鳩はいません」
霧香の言葉に、うわばみは、もう一度画面を見た。
「なんだ? ってこたぁ、あいつが敵だってぇのか?」
拍子抜けしたようすだ。もっと凶悪な外見を予想していたのか。けれど、敵は小さな鳩だ。
「白い鳩が平和の象徴なら、黒い鳩は不和のあかし。そんな歌ができたのは、ベトナム戦争当時のアメリカだったそうよ。受け売りだけれど」
霧香は少し肩をすくめた。教えてくれたのは未亜子《みあこ》。 <うさぎの穴> の仲間の一人で、クラブの歌手をしている。
「そして登場したのが、彼らというわけなんですね」
画面では裕二が、拳をふりあげている。それが、ふりおろされる時には平手に変わっていた。
「誰の心にも怒りや嫉妬《しっと》があるわ。ふだんは、それを理性で押さえこんでいる。けれど、できることなら解放したいといつも願っているはずよ」
「その願望が、黒い鳩を生み出しちまったわけか」
うわばみの声は、静かだった。軽蔑するでも、哀れむでもない。それはそうだろう。理解できないものに、どんな感情を抱けるか。人の心は彼らの故郷だ。しかし、妖怪たちにとっては未知の深淵でもあった。かと言って生まれてきた場所を、いまさら恐れることもできはしない。
「ここ二、三日に東京で起きた殺人のいくつかは、黒い鳩が引き起こしたもののはずだわ」
「なるほど。ま、この程度のやつが相手なら、見つけさえすりゃ簡単だわ。わしが一呑みにしてやる」
うわばみは、鼻先をちろりと舐《な》めた。
「気軽にそう言われるが、どうやって見つけるおつもりです」
孝太郎に言われて、うわばみはぐぐんと大きくなった。
「なんとかならぁ。お上品に考えとらんと、とっとと走り回るこったな」
人間ほどの大きさになったうわばみは、威嚇《いかく》するように牙を見せつけながら言った。
「霧香ちゃん、あんたなら、なんとかならんのかい?」
妖気を感知することなら、この東京で霧香にかなう妖怪はいない。
「そう簡単にはいかないわ」
霧香は首を左右にふった。
「黒い鳩は、人間の中に隠れることができるという話よ。そうなれば、いかに私でも妖気を感知することができない」
霧香は悔しげに言った。
「有月さんが拾ってきた骨を教授が見たとき、黒い鳩が見えたそうよ。でも、それはあれが骨のかけらとして存在するようになった過去の限界。それ以降の、体内の骨だったころのことはわからなかった。骨の持ち主もね」
「なるほどな……」
うなずいてから、うわばみは怪訝《けげん》そうに言った。
「しかし、そげなことまでわかっとったら、こいつの記憶を掘り返さんでもよかったろうに。見せられて気分のいいもんじゃなかったぞ」
うわばみは、しゅっと息を吐いた。
「この人には申し訳なかったけれど、確かめなくてはならなかったのよ。黒い鳩が事件にかかわっていること。そして、もう一度、彼が黒い鳩の呪いに耐えられるかどうかを。あたしたち妖怪には、一度狙いをつけたら、必ずやりとげてみせるという性格の持ち主が多いでしょぅ?」
「奈美子さんという人と彼がそろえば、必ず黒い鳩はしかけてくる。そうおっしゃるんですね」
孝太郎が、オールバックにした髪を撫《な》でた。
裕二と奈美子は、殺しあわなかった。ぎりぎりで、お互いに自分の衝動を押しとどめたのだ。
「確信している、とまではいかないけれど。まず九割がた」
「ふん、だけんって、あんまり解決になるとは思えんな。そげだろう? つまりは、奈美子って子を見つけんといけんのだぜ」
うわばみは、まだ納得していない。
「そちらなら、どうにかなるわ。そのために、彼の記憶を見せてもらったんだから。それに、彼の部屋を探せば彼女の髪がどこかにあるはずだし」
「そうか。聖良ちゃんだな。あの子なら、髪一本ありゃ行方を突き止めてくれるだろうさ」
うわばみは尻尾をもちあげた。聖良は、髪があれば、その持ち主がどこで、どんな状態でいるかを感知することができるのだ。
「けど、とてもじゃねぇが東京全部には届かんだろう?」
うわばみの言葉に、霧香はかすかに笑みを浮かべて答えた。
「私の妖術で、かなり範囲は限定できるわ」
霧香は、真実を照らすさまざまな妖術を心得ている。ふつうの人間なら、どこにいるのか、ある程度まで居場所を限定できる。東京なら、二十三区のどれかくらいはわかる。二段がまえで調べようというのだ。
「ちょっと待てよ」
なるほどと首を上下させていたうわばみが、ふとその動きを止めた。
「さっき、黒い鳩は人間に隠れるって言ったな? まさか、その奈美子って子が憑かれちょうってことは?」
霧香は、美しい眉《まゆ》をしかめた。
「可能性はあるわ。それも含めて、確かめるしかないわね」
表情を押し殺して言う。
「後は、彼らの安全ですが?」
孝太郎が、ちらりとうわばみに視線を走らせた。
「有月さんは、聖良と一緒に彼女のほうをお願い。動けるメンバーがいれば、回すわ。孝太郎くんは、あたしと一緒に彼をね」
うわばみは、尻尾でぴしゃりと床をうち、頭を高々とかかげた。
「まかせろ。わしがおなごを守りきれんかったことはないけん。かすり傷一つ、つけさせるもんじゃないわ」
三人の妖怪は、苦しげに歪んだ裕二の寝顔を見つめた。
「ともかく、ここで見たものの記憶だけは消させてもらいましょう」
「そう深刻な顔をせんでもいいだろう、霧香ちゃん。嫌な記憶なんだけん、消したってどうってこたぁないさ」
そう言ううわばみに、霧香はゆっくりと首をふってみせた。
「そうじゃないわ。たとえ、どんな記憶であっても勝手に奪っていいわけはないのよ。記憶は想いを産むわ。そこから、どんな新しい仲間たちがあらわれないとも限らないのだから……」
あらわれる仲間がどんなものであれ、生まれる可能性を奪いたくはないのだ。
6 河原
月が川面に映っている。東京にも、まだこんなところがあったのかというような、くさむらでいっぱいの河原であった。
「お爺ちゃん、こっちだよ」
河原を少女が走っていく。まだ五つか、六つくらいだろう。浴衣に小さな下駄。途中で石でも踏みつけたのか、ころびそうになった。
「ほらほら、気をつけなさい。暗いから、ころばないようにね」
祖父は、ゆっくりとその後を追いかける。にこにこと笑いながら。
「お爺ちゃん、ここでやってもいい?」
少女が、小さな手にしっかりとつかんだ花火セットを大きくふりかざした。
「お爺ちゃんも気をつけなよ」
老人が、少女と同じ石を踏みつけて、よろけたのだ。少女はくすくすと笑った。
「ははは、わかっとるよ。ちょっと待っておくれ」
照れ隠しに、マッチの入ったポケットを、ばんばんと叩《たた》きながら、老人は孫に近づいていた。
縁日の帰りだ。
家に戻るまで待ち切れないというので、道路から河原におりたのである。
老いた足は、孫娘のようにくるくるとは動いてくれない。老人はえっちらおっちら歩を進めていく。五歩くらいでたどりつくだろう。
その時だ。
頭上で、急に大きな羽音がした。
『やれやれ、近頃は電気のおかげでいつまでも明るいからな。鳥も夜遅くまで飛んでいることだ』
孫娘は、怯《おび》えた顔つきをしている。
この程度で、何を怖がっているのだ、情けない。それでも、わしの孫か。
老人は、思わず鼻を鳴らしていた。
その音が聞こえたのだろうか。少女が老人を見た。顔つきが怯えたものから、急速に変化していく。柔らかな線を描いていたはずの眉がつりあがり、ふくよかな頬《ほお》がぷぅっとふくれあがった。
「お爺ちゃん、何をぐずぐずしてるのっ」
小さな握り拳を振り回す。
「はやく、はやく、はやくぅ」
顔を真っ赤にして、少女はわめいている。肝心の花火がほうりだされて、地面に転がった。
「ああ、すまないねぇ」
浮かんだ怒りを表情に出さないよう注意しながら、老人はことさらにゆっくりと歩いた。
そう。怒りをあらわにしてはいけない。子供というものは、自分を傷つけるものに対して敏感だ。この怒りに気づかれたら、すぐに逃げだすだろう。
口もとに作った微笑みを浮かべながら、老人は孫に近づいた。
いつもいつも、我《わ》が儘《まま》ばかり言いおって。わしが昼寝をしていたら、遊べ遊べとやかましくまとわりついてくる。盆栽を壊してあやまりもせん。こっちが機嫌をとれば図にのるし、相手にしなければとんでもないいたずらをしかけてきおる。
可愛いからと、わしは、騙《だま》されておったんじゃ。今まで、こいつにどれほど腹をたてておったのか、気づかなかったとは情けない。おお、あの目。わしを年寄りだと馬鹿にしている目つきじゃ。そんな餓鬼には、思い知らせてやらねばならん。
「早く火をつけてよ」
少女は、口をへの字にしたままで、花火をにゅっと突きだした。
まとめて、全部に火をつけてやろうか。顔を、それで撫でてやったら、さぞかしすぅっとするだろう。
老人は、そんなことを考えていた。
それとも、この首をへし折ってやろうか。両手どころか、片手で握りつぶせそうなくらい細いぞ。やってくれと言わんばかりだな。
老人は、若い頃から建築業で働いてきた。引退した今でも、膂力《りょりょく》には自信がある。
小さな頭だな。頭蓋骨も、さぞかし薄いだろう。
つむじを見下ろしながら、老人は思った。
そっと頭の上に手をのせる。
「やだ」
少女が頭をゆする。
老人は、一旦、その手を離した。
ぐっと力をこめた時、頭蓋骨がぱきゃんと割れる手ごたえが、ほとんど実感できている。
その想像が、彼に歓喜と戦慄《せんりつ》をもたらした。
何をしようとしてるんだ、わしは? この子を殺すつもりか? なんで、そんなことをせねばならんのだ。可愛い孫じゃないか。
老人の行動を、老人自身が必死におしとどめようとしている。
何が可愛いもんか。やかましくて、生意気で、ずうずうしくて、そして何よりも、わしには、もうなくなってしまった未来をたっぷり持っておるんだ。
そんなことに嫉妬してどうするのだ――。
老人自身の叫びは、外から流れ込んでくるどす黒い感情に押しつぶされようとしている。
「貸してっ」
少女が、老人のマッチを奪い取った。
老人は、まだ葛藤をくりかえしている。彼が硬直しているあいだに、少女は数本の花火にまとめて火をつけた。しゅうしゅうと音を立てて、美しい火花が一塊りになって吹き上がる。ちょっとした火炎放射器だ。
「えいっ」
少女は、それを老人に向かって突きだした。老人の腿《もも》が焦げる。
「えいっ、えいっ」
少女の瞳は、正気のそれではない。炎の色を映して、赤く輝いている。
「やめんかっ」
老人は腕をふりまわした。柔らかいものに、手首あたりがぶちあたる。
少女は、悲鳴もあげずにふっとばされた。地面にころがって、ぴくりとも動かない。
老人は、ぜいぜいと荒い息をつきながら、少女の気配をうかがっていた。
小さな胸が、ゆっくりと上下している。
まだ、生きているのだ。
老人は、一歩近づいた。
どうするべきか? 今なら、簡単だ。あの細い首をくいっと踏みつけてやればいい。頸骨がぽきりと折れるだろう。
老人は、二歩近づいた。
だが、どうして、そんなことをしなければならない? あれほどに沸騰した怒りは、先刻の一撃によってすでに霧散していた。
そうだ、何を茫然《ぼうぜん》としている。孫を助けなければ。わしは、何をしてしまったのだろう。
その時。
女が一人、あらわれた。
いや、おそらく、先ほどからその場にいたに違いない。それに、どうして気づかなかったものか。
飾り気のないジーンズにTシャツ。背は高い。髪はショートカットだ。足もとは緑色のスニーカー。
「おい、あんた」
老人はうろたえた声で言った。見られてしまった。わしが、孫を殴るところを。
いや、そんなことはどうでもいい。早く救急車を呼んでもらおう。わしよりも、この若い娘さんのほうが、足が早いに違いない。
「すまんが……」
老人は、女を見た。
戦慄が、背骨を駆けあがる。なんだ、あれは? あの女は何者なのだ? どうして、目が真っ赤に輝いている? いいや、そうではない。赤い点のような瞳が、一つの眼球の中に二つも三つも存在しているのだ……。
怒レ、心ノママニ。
傷ツケロ、怒リノママニ。
また、あのどす黒い怒りが流れこんでくる。
この孫を助けるだと? とんでもない。せっかくの機会じゃないか。このまま、川に放り投げてしまえ。
老人は、落ち着きかけた呼吸を、またもやはあはあとあらげながら、孫娘の上にかがみこんだ。七十年の歳月を経てきた節くれ立った手が、少女の白い喉にかかろうとした。
その時。
「だめだよっ」
誰かが、そう叫ぶとともに、道路側から堤防を駆け降りてきた。ほとんど、転がり落ちる勢いだ。
そのまま、全体重をかけて、赤い瞳の女に体当りする。喧嘩馴れした動きだった。赤い瞳の女は避けきれない。二つの人影は、絡みあったまま、ごろごろと地面にころがった。
女の視線が消え去った時、老人の心から、あのどす黒いものがぬぐいさられていた。
老人の手が、少女の肩を抱いて、揺すり起こす。幼い子は、火がついたように泣きだした。
「早く、その子を病院へ」
もみあいながら、新しくあらわれた人影が言った。赤い瞳の女は、もう一度老人を睨もうとした。しかし、人影のてのひらで目を覆われ、それは果たせない。
老人は、孫娘を抱き起こすと、あわててその場を離れた。何が起こったのか。いったい、自分が何をしようとしていたのか。それはよくわからなかったが、少なくとも孫が怪我《けが》をしており、手当てしてやらねばならないことは確かだったからだ。彼は、あたふたと走りだしていった。もみあっている二人のことが気にはなったが、それは後でなんとかすればいい。今は、孫娘を優先させねは。
老人が、階段にたどりつき、道路にたどりついたころには、格闘に決着がついていた。新しい人影が、赤い瞳の女に馬乗りになって押さえこんだのだ。
「やっと捕まえたよ」
老人に声をかけた人影は、革のつなぎを身につけていた。こちらも。若い女だ。
月が、彼女の顔を照らしだす。
「あんたがやったんだ。どうやったのかわからないけど、父さんと母さんを、弘一に殺させたんだ」
赤い瞳の女に向かって、彼女は言った。胸倉をつかんで、持ちあげては地面に叩きつける。
「弘一は、あたしのことも殺そうとした。どうにか家の外まで逃げだしたあたしが見たのは、駆けてくあんただった」
持ち上げて、今度は首をしめあげる。もう、目を隠してはいない。彼女が怒りに身をまかせたところで、殺されるのは赤い瞳の女だけだ。
「追いついて、あたしは見ちまった。あんたが睨みつけたアベックが、殺しあいをするところをね。恐ろしくなって、あたしは逃げた。ぶるぶる震えて隠れてた。でも、弘一が警察に浦まっちまった。もう逃げてられない。あんたを捕まえて、警察につきだす」
彼女は、問い詰めながら、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「どういうことなの、おリンっ。あたしたち、幼なじみじゃないか。ずっとつるんでたろ。どうして、こんなことになったのさ! あのおかしな力は、どういうわけなのっ」
彼女――香取《かとり》奈美子《なみこ》は、涙を流しながらそう叫んだ。
赤い瞳の女――川藤凛子という名を持っていた女は、笑いも泣きもしない。ただ、きょときょととあたりを見回している。まるで、あたりを警戒する鳥のように、くるりっ、くるりっと首が回るのだ。
「なんとか言ったらどうなのっ」
凛子は、ぱっくりと口を開いた。大きく開けた。大きく、大きく、口が裂けそうなくらい大きく。
その喉《のど》の奥に、鳩がいた。
喉を完全にふさいで、鳩がもぐりこんでいたのだ。真っ黒な鳩が。
黒い鳩が、首をくっとあげた。くるっくぅと、鳩が鳴いた。喉をひくひくと動かして、喉中で鳩が鳴く。くるりっ、くるりっと鳩の首が回る。
奈美子の意識が遠のきそうになった。
次の瞬間、凛子だったものが、内側から破裂した。
暗黒が噴きあげる。
奈美子は、すさまじい勢いで突き飛ばされ、一メートルほども宙を舞ってから地面に落ちた。
いくつもの羽音が重なって、それはまるで荒れ狂う嵐か、戦場の轟音のように聞こえた。互いに重なって射ちならされるマシンガンの銃声は、それにとっては母の声のようなものだった。それが立てる羽音が、似てしまうのも当たり前か。
「ひゅっ」
奈美子は、あおむけに転がったまま、息を吸った。立て続けに吸った。おびえが彼女の体を凍りつかせている。息を吐くことができないのだ。悲鳴すらあげられないでいる。
黒い鳩は次々に空を舞った。五羽、十羽、数十、百羽を越える数だ。それだけの数が、一人の人間の体内にどうやって収納されていたのか。鳩は、尽きることなく飛び出してきた。
月も星も隠され、夜空が黒一色に染る。都会の夜空は、人工の明かりに照らされて、意外と明るいものだ。それだけに、黒い鳩たちがきわだっている。
奈美子は、腰を落としたままじりじりと後ずさった。足が動かないので、腕の力だけで移動する。
風が吹いた。
羽ばたきが起こした風だろうか。
何か、ひらひらしたものが飛んできて、奈美子にまとわりついた。
「! ?! !!」
こそれが何かを認識した時、奈美子は声にならない悲鳴をあげていた。
人間の皮だ。
黒い鳩たちがかぶっていた。凛子の皮。
奈美子が追いかけていた、この数日。凛子は、ずっと死んだままでいたのだ。
今度こそ、奈美子は動けなくなっていた。
黒い鳩たちが、空で渦を巻いている。その速度が、段々と早くなってきた。やがて、竜巻のように舞いおりてくるのだろう。先端が、奈美子のもとに届いた時。
死ぬんだ。
奈美子は、妙に頭が冴々としてくるのを感じていた。
父さんと母さんのように、あたしは死ぬ。
裕二のことが思い浮かんだ。やっぱり、相談しておけばよかっただろうか。でも、これだけは自分の力でやりたかったのだ。裕二は才能のある男だ。彼と対等でありたかった。そのために、自分の力だけで弘一を助けたかったのだ。
そうすれば、臆することなく、あいつを好きでいられるから。自分が、あいつの人形じゃなくて、自分として対等でいられる自信を持てると思ったのだ。
だけど、相手がこんな化物だったなんて。
畜生っ! とてつもなく悔しい。
黒い鳩が、奈美子めがけて舞いおりてきた。
7 愛憎表裏
その瞬間。
「ちょっとお待ちになってください。あたくしたちの領域で、勝手な真似をされては困りますのよ」
声が響いた。
黒い鳩にも、奈美子にも気配すら感じさせず、まるで影のように一人の女が忍びよっていたのだ。パンツスーツに、つばの広いクリーム色の帽子の女性が。
神谷《かみや》聖良《せいら》こと、妖怪《ようかい》毛羽毛現《けうけげん》である。
奈美子の髪を、裕二の部屋で見つけて、なんとかここまでたぐったのだ。できるかぎり目撃者を減らそうと、老人と孫娘が逃げさるまで待っていたので、出遅れた。
しかし、これ以上、黒い鳩の好き勝手にさせておくわけにはいかない。
「助けてっ!」
奈美子が叫んだ。声が出たことに、自分自身驚いているようすだ。
「まかせとき、お嬢ちゃん。そのかわり、後でデートしてごせよ(してくれよ)」
その声を聞いた奈美子が、あわてて首をめぐらせた。
声の主は、いかにもホームレス然とした中年男だ。片手には、安物のウイスキー瓶をぶらさげている。
「こんな時に、しかもちゃんとした恋人のいる女の子にかける言葉じゃございませんわよ、有月さん」
「まあ、固いこと言わんで」
二人が、そんな会話をかわしているうちに、百を越える数の黒い鳩たちが、空中で二手に別れ、それぞれ聖良と有月に襲いかかってきた。
まるで巨大な弾丸のように、数十の鳩がとがった嘴《くちばし》で襲いかかる。
「あぶな……っ!」
奈美子の悲鳴が終わるより、鳩たちは早い。だが、その鳩たちよりも、聖良と有月は早かった。
「そうはいきませんっ」
聖良は、ふわりと帽子を宙に放り投げた。髪があふれ出る。それは見る見るうちに、彼女の足もとまで垂れさがり、ふくれあがって全身を覆い隠した。豊かな、豊かすぎるほどの髪の中に、聖良の全身が包きまれるまでコンマ数秒とかからなかっただろう。髪の中から、ずたずたになった服が落ちる。
「この毛羽毛現を、なめないでくださいっ」
漆黒の髪がねじれあい、まるで鞭《むち》のようになって黒い鳩を叩き落とす。先端は一体化して、鋭い刃物になっていた。三羽ばかりが、真ッ二つにされて地面にころがる。
そこに出現したのは、直径一メートル半はある髪の毛のかたまりだった。髪の奥で大きな瞳が輝いている。それ以外の造作は見えない。それどころか、手も足も消えてしまっている。
これが聖良の、真の姿だった。
「わしのことも忘れんなっ」
言うが早いか、有月の体が虹色のきらめきを発した。まるでステンドガラスのかけらでもまき散らしたかのように、いくつもの細かいきらめきが、彼の体に貼《は》りついていく。手足が縮み、体が長く伸びて、衣服から抜けだす。
輝きがおさまった時、そこには一匹の大蛇が姿をあらわしていた。
「この、うわばみさまと、勝負するってぇのか」
奈美子をかぶりと呑みこんでしまえそうなほど、大きな口を開けて、うわばみほかはあと息を吐いた。その呼気は、微妙な桃《ピンク》色に染まっている。
黒い鳩たちが、ばたばたと落ちていく。
この息は、数百年飲み続けた酒が、うわばみの体内で特殊な変化を起こしたものだ。いかに妖怪でも、耐えきれるものではない。
「信じられない。あなたたち、いったい……」
奈美子は、気絶することすら忘れたように座りこんでいた。ただただその光景を見つめていることしかできない。
聖良と有月は、奈美子の両側を守るように立ちはだかった。奈美子は、ひたすら逃げ出したかったのだが、体が動かなかったのだ。
黒い鳩たちが、津波のように押し寄せる。
「おまえらみたいなちびっちゃいのが、このわしに喧嘩《けんか》売ろうなんぞたぁ、千年早いわっ」
有月が、続けざまに酒気を吐こうと大きく息を吸った。彼の喉がくっとふくらんだ、その瞬間に黒い鳩が突っ込んでくる。
爪と嘴が、鱗《うろこ》をひっかいた。はがした。肉があらわになって、緑の血がしぶきをあげる。
「なんだとぉ」
有月は、酒気ではなく言葉とともに息を吐いた。
「こいつら、意外とやるじゃねぇか」
牙《きば》をふるい、尻尾で殴りつけながら有月が言った。まわり中が、黒い鳩に埋めつくされていた。酒気を吐く時には、一瞬のタイムラグがある。わずかでも隙を与えれば、鳩たちが一斉に、彼の肉体をついばむだろう。
大きく動いて距離をとるわけにもいかなかった。そんなことをすれば、恐怖のあまりに動けないでいる奈美子が切り裂かれる。
「数が多すぎますわ」
聖良の声も、ほとんど悲鳴に近い。
彼女の主な武器は、髪の毛だ。それを縦横に使って、敵を切り裂く。
「きりがねぇぞ、これじゃあ。……ええい、こげん馬鹿なっ」
一匹の鳩が、牙に突き刺さって抜けない。攻撃を一つ封じられた。
「やつらは <群れ> の妖怪。どこかに、核になる一羽がいるはずですわ」
髪の奥に光る聖良の大きな目が、きょろきょろと動いた。
「どげやって見つける?」
有月がふりおろした尻尾の下で、鳩がつぶれた。飛び散る血は、黒い。
そのしぶきを顔に受けて、奈美子が悲鳴をあげた。止まらない。止めてやれる余裕は、有月にも聖良にもなかった。
いかに感覚をとぎすましても、どの鳩も、他のと違いがあるように思えないのだ。
「……頑張って、有月さん。もうすぐ応援が来るはずですわ。奈美子さんの場所をつきとめた時に、携帯電話で連絡しておきましたもの」
話しているあいだにも、聖良は四羽の黒い鳩を撃墜していた。聖良の髪、すなわち全身のあちらこちらに鳩の羽がからみついている。
鳩たちは、聖良の髪をくわえてひきちぎっている。
「あたくしの髪に、枝毛が! 許しませんよ」
「そげな悠長なことを言ってる場合じゃねぇぞ、聖良ちゃん」
有月が、頭上から急襲をかけてきた黒い鳩を、かろうじてかわす。
「ん?」
その鳩は、地面すれすれで急旋回しようとしたが、曲がりきれずに激突した。ぐしゃりとつぶれる。
聖良がふるった髪の鞭を、充分よけきれるはずだった鳩が、正面からそれをくらって両断された。
「どうしたのでしょうか?」
「やつら、急に動きがにぶくなったぞ」
鳩たちは、ばさばさと後ろに下がりはじめた。
「そうか! こいつら、腹を減らしちょるんだ」
有月の言葉に、聖良がざわざわと髪を揺らす。疑問に思っているのだ。
「こいつらが人に殺し合いさせとったんは、そん時に噴出する想いのエネルギーを喰うためだ。前の殺しから、もう丸一日たつころだわ」
聖良は、ぶるんと髪を――すなわち全身を――揺らした。
「エネルギーが絶えると、本来の力が発揮できないというわけね。有月さんが、素面《しらふ》の時のように」
しゅるりりと伸びた髪の槍が、逃げ遅れた鳩を貫く。
「なんとでも言うとれ」
牙にひっかかった死体をようやく抜いて、有月はすっと息を吸いこんだ。
「応援を待つこたぁない。わしたちで片付けてしまおう」
有月がかはあと酒気を吐く。黒い鳩の一羽が、きりきり舞いして落ちた。だが、それは核となる黒い鳩の影にすぎない。
「でも、どれをやっつけます? 核を倒さなければ、やつは逃げます」
鳩たちは空中に舞いあがろうとしている。
有月も聖良も、やつらを一気に殲滅《せんめつ》できるような妖術の心得はない。
核となる一羽を逃せば、必ず復活してくるだろう。それも、遠い先の話ではない。
「ええい、座敷わらしでもいりゃあ」
幸運をもたらす妖怪がいれば、たまたま選んだのが、核の一羽ということもあるだろうが。
その時だ。
堤防の上、道路からなにかがこすれあうきききぃっという音が聞こえてきた。
軽自動車が一台。タイヤからうっすらと煙をあげて、止まっている。ドアが、蹴り破られるように開いた。
「ただいま、御助勢つかまつるっ!」
「孝太郎! あの餓鬼、またなんぞくだらん映画をみてやがったな!」
運転席から、蜃《しん》の孝太郎が飛びだしてきた。
「奈美子っ」
そして、助手席からあらわれたのは裕二だ。
空にいた黒い鳩たちが、いっせいにそちらを向く。
「裕二っ」
彼の出現が力を与えたのか、奈美子がはじかれたように立ちあがり、そして走りだした。
「駄目よ」
聖良の制止は間に合わない。
「孝太郎、このだらず(間抜け)!」
有月が怒鳴りつけた。
「人間が二人そろったら、こいつらのいい餌だろうがっ。なんで今ごろ、こいつを連れてくる! もう、二人そろえんでもよかったんだよっ」
孝太郎の顔に、見る見るうちに狼狽《ろうぼい》した表情が広がっていく。
「核を探してっ。一羽、妖術を使うのがいるはずですわっ」
まるで、その聖良の声に答えるように、鳩たちのうち、外縁にいた一羽の目が赤い光をはなった。
だが、もう遅い。
裕二と奈美子の表情が、一歩近づくごとに歪んでいく。
あいつだ。
彼だわ。
どうして、俺から逃げたりするんだ。
なんで、あたしを追いかけてくるの。
ひとこと相談してくれたっていいだろうに。
そんなに、あたしを思いどおりにしたいのかしら。
ひがみやがって。
偉そうに。
二人が、怒りを増大させるほどに、黒い鳩たちは力を取り戻す。
「このっ」
有月が、酒気を放ったが、憎悪をすすってわずかに力を取り戻した影の鳩たちが壁となって、核を守った。
お前を認めないなんて、言ってないじゃないか。もっとうまくいくよう教えてやっているんだ、そのどこが不満なんだ。
失敗してもいい。あたしは自分で勉強したいの。誰かに教えてもらったまま、うまくいっても、それはあたしの力じゃない。
いい加減にしろ、このわがまま娘め。
何言ってるの、傲慢《ごうまん》な男ね。
「やめなさい、二人とも」
そう言った聖良のもとに、黒い鳩たちが殺到する。邪魔をさせないためだ。
勝手なことをするから、こんな危険に巻きこまれるんだ。どうして俺が、こんな苦労をしなきゃいけない?
誰も苦労してくれなんて頼んでないわよ。欲しくもないプレゼントくれる男と同じね。そいつらはあたしの体が欲しい。あんたは尊敬してほしいわけ?
あたりまえの感謝が欲しいだけさ。素直にありがとうって言ってみろ。
そうなの、あんたって、見返りがなきゃ、なにもしない男なのね。
なんだと。よくも、そんな風に言えたな。お前みたいな女……。
本音が出たわわ。屑《くず》野郎っ。
裕二は大きな石を頭上にかかえあげ。
奈美子は、ポケットナイフをとりだし。
どうして、こんなに腹がたつんだ。
なんで、こんなにむかむかするのかしら。
この怒りは。
怒りは。
怒りは。
なぜだ、どこからくる、従っていいのか、ほんとうに。
だめだ!
内側からの叫び。
奈美子のポケットナイフは、ぎりぎりで心臓をそれて裕二の腕に切りつけた。
裕二がふりおろした石は、奈美子の額ではなくて肩にぶつかった。
裕二と奈美子は、抱きあったまま気絶した。しっかりと、互いにすがりつくように、かばいあうように握りしめあっている左手たち。突き放し、殴りつけあっているような右手たち。
だけれど、すでに憎しみの意志はなく、殺意は消滅した。
「きゅいいいいっ!」
黒い鳩の妖術は、もはや破れたのだ。
聖良に向かった鳩たちは、髪をひきちぎるどころか、かすり傷一つつけることができない。
餌は、得られなかったのだ。
黒い鳩は、ちからを失った。今では、ただの鳥にすぎない。
「あいつだっ」
孝太郎が、空中に光を作りだした。幻の輝きが、黒い鳩にまとわりつく。くっきりと浮かび上がらせて、もう逃さない。
三秒とかからず、それは地面の黒い染みになっていた。
核が滅びると、まわりを囲んでいたその影は、薄れて消滅していく。
「終わりましたわね」
髪を大きくぐるんとふると、みるみる縮んで、中から聖良の姿があらわれた。
有月も脱皮して、人間の姿に戻る。
「言ったろう、わしが守って、おなごに傷をつけさせたことはねぇって」
車のトランクから、あわてて聖良たちのために替えの服をひっぱりだしながら、孝太郎が呟《つぶや》いた。
「勝ったのは俺たちじゃねぇ。人間だ」
「……この重大時に『七人の侍』なんぞ見てやがったか、この餓鬼」
有月は、孝太郎の頭を軽くこづいた。
「お二人は大丈夫かしら?」
「ああ、よく眠ってらぁ。目覚めるまで、しばらくそっとしておいてやろうじゃねぇか。すぐに、霧香さんたちも来なさるし」
孝太郎は、まだ時代劇口調が抜けていない。見た映画に影響されやすいたちなのだ。妖怪たちの心は単純だ。すぐに強い想いの影響を受ける。自分とは何かを、妖怪たちはつかみかねている。
「それにしても、どうして途中でやめなすったんでしょうかね、このお二人」
「もちろん、きまってるじゃありませんか」
そう言った聖良の表情は、憧れに満ちていた。
「愛ですわ。怒りも憎しみも、お互いを大事にしていることに気づいたからですわ」
彼女の言葉も、借り物ということではたいして変わらないレベルだ。
「そげにしては、苦しそうな顔じゃねえか?」
有月が、奈美子のかたわらにしゃがみこむ。
「法律で処罰されるとか、教育的効果ってやつのおかげかもしれません。だって、この人たち、何年もこういうことはやっちゃだめだって聞かされてきたんでしょ? 最後のぎりぎりで、だから止めたんですよ」
孝太郎が、ふっと時代劇口調を忘れて言った。
「なんにせよ、これからも大変だぞ、この子」
有月は、奈美子の寝顔を心配そうに見つめた。とりあえず、裕二はどうでもいいらしい。
持って生まれた自分を越えること。新しい生き方をはじめることが、どれほどの苦労なのかを。妖怪たちは、よく知っている。
「この二人、どうするんでやしょうねぇ。弟が、両親を手にかけちまったのは確かなんですぜ」
孝太郎が、時代劇口調に戻った。
「もちろん、二人で手に手をとって、弟さんを救うために戦われるのでしょう? 愛があれば乗り越えられますわ、きっと」
法的なところでは <うさぎの穴> と連絡がある司法関係者たちも手を回してくれるだろう。しかし、弟自身の精神の危機を乗り越えるためには、奈美子と裕二が助けてやるしかないのだ。
「愛、なぁ」
「ですかねぇ」
有月と孝太郎が、じっと聖良を見た。彼女は平然とした顔である。
「他に何があるとおっしゃるの?」
男二人は、ひょいと肩をすくめた。
「ほんに人間ちゅうもんはわからねぇだよ」
孝太郎が呟《つぶや》き、有月は拾いあげたウイスキーを傾ける。
風が、さわさわと河原のくさむらと踊っている。妖怪たちは、人間たちをかつぎあげて歩きだした。
その背後で。
夜を貫いて、川が流れている。川は闇色をしていた。どこから流れてくるのか、どこへ流れてゆくのかわからない。
人間たちを車の後部座席に乗せ、有月が小さな蛇になってトランクに隠れ、孝太郎が運転席につく。
そこで聖良は、ふとふりかえった。
川が見えた。
深い川だと思った。川の向こうにきらめく町並みがある。聖良たちは、そこへ裕二と奈美子を届けるために、ゆっくりと車を走らせた。
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Take-2――――――――
歩いていたら、日が暮れた。それでも、どんどん進んでいった。
歩き続けているうちに盛り場に出た。
ネオンがきらめいて、誰もが誰かに話しかけている。
キャバレー、ゲームセンター、行列ができているイタリア料理のレストラン、チラシを配っているカラオケBOX、風俗ビルのファッションマッサージ、新装開店のパチンコ屋、五階建てのボーリング場、ランジェリーパブ、派手な外装の居酒屋。
にぎやかで喧騒《けんそう》に満ちていて、そして誰もが孤独だ。
互いを抱きあう恋人たち。騒ぎながら行きすぎる友人たち。肩を組んで、たからかに歌う同僚たち。
彼らは、孤独ではないのだろうか。
大通りをはずれると、少し静かで、少し暗い。
自動販議が三台並んでいた。コーラとジュース、缶コーヒーと烏龍《ウーロン》茶、それから酒。
サラリーマンらしい中年の男がひとり、そこに立っている。
そして、ごとんと音がした。
男は、出てきたものを片手に、大通りの雑踏へ消えていく。ガラスコップの日本酒だ。
ここは盛り場である。酒を飲ませてくれる店なら、いくらでもある。きちんとした背広を着ていた。追いだされるような格好ではない。内ポケットにおさめられた財布もぶ厚かった。
それなのに、彼はわざわざ自動販売機で酒を買っていた。
家へ帰る途中だと言うのなら、理解できる。そうではなかった。人込みの中に消えていったのだ。私鉄もJRも、駅は反対側だ。バスの停留所なら、目の前なのに。
そのどちらへ向かうでもなかった。
彼は、ひとりきりで行ってしまったのだ。
すれ違う人々が作りあげた、暗くて冷たい隙間《すきま》の中に。
そこにも闇はあった。
人工の明かりで駆逐されながらも、夜はしっかりと生きのびていたのだ。
そこにも闇はある。
たったひとりで行かねばならない者を待ち構えている。
サラリーマンの姿は、もうどこにもない。けれど、腕を組み、肩を並べ、言葉をかわしながら歩いている人々も、いつ彼と同じところに足を踏み入れるかもしれないのだ。
闇はそこにある。
光と光が重なりあうところにも、すべての視線が見ていない場所はあるのだ。
見えてこその光。
誰にも見てもらえず、反射するものはなもそれ雷光か? 闇ではないか。
酒は、闇から彼を救ってくれるのだろうか。深いところに落ちていったものを、浮かびあがらせてくれるだろうか。
もう一度、人込みの中に戻ってみる。
そうしたら、孤独だった。
闇の中から。
光へ。
手をのばす勇気をふりしぼってみよう。
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第二話  闇に吼《ほ》える虎  高井 信
プロローグ
1.〈うさぎの穴〉
2.闇夜の咆哮
3.虎との遭遇
4.虎の正体
5.『酔虎伝説』
6.新しい発見
7.妖怪へべれけ
エピローグ
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プロローグ
金曜日の夕方――
新宿・歌舞伎町は、ふだんにも増して多くの人々で賑《にぎ》わっていた。会社帰りのサラリーマン、学生、遊び人などなど……。
たいていの企業で週休二日制を採用するようになった現在、特にサラリーマソにとっては、金曜日の夜は最も自由を感じるときと言えるだろう。どの顔も解放感に満ちている。
しかし、なかには例外もある。ここに、目いっぱい落ちこんでいる男がいた。
まさに典型的な、冴えない中年男だった。――いかにもサラリーマン然としたグレーのスーツに身を包み、とぼとぼと歩いている。身長は百六十センチあるかないか。やたらと背の高い昨今の若者たちの集団と擦《す》れ違うと、すっかり埋没してしまうほどだ。
多くの人々は友人や恋人と楽しく語らいながら歩いているが、彼だけはひとりぽっちだった。ときどき溜め息をつき、がっくりと肩を落とす。
浮きうきとはしゃぎ回っている人々のなかで、明らかに彼は異質の存在だったと言えよう。
彼の名は川崎《かわさき》伸二《しんじ》。四十歳。独身! 都内に本社を持つ浄水器メーカーに勤務するサラリーマンである。
もともと伸二は、入社以来ずっと経理畑を歩いてきたが、五年前、突然販売部に転属を命じられた。主な仕事は、一般家庭を対象とした訪問販売。
はっきり言って、セールスは伸二の最も苦手とするところだった。あまり嬉しくない転属命令だが、会社の意向に逆らうわけにはいかない。辞令を受諾し、しぶしぶ訪問販売を始めたのだが……。
やはり新しい仕事は彼には向いていないようだった。
伸二の会社では、毎週金曜日にその週の販売実績が個人別に公表され、優秀な社員には金一封が出ることになっている。しかし、この五年間、一度も伸二はその恩恵に与《あずか》ったことはなかった。いや、金一封どころか、毎回ぶっちぎりの最下位という有り様。同僚はもちろん、入社して間もない後輩たちでさえ、伸二よりも遥かにいい実績を上げている。
今日もまた、個人の週間販売実績を公表したあとに、
「川崎くん。また今週も一個も売れなかったのか。もう少し頑張ってくれないとねえ……」
と上司に嫌味を言われた。それほど厳しい口調ではないのだが、気の弱い伸二を落ちこませるには、充分すぎる言葉だった。
「はい……。来月は頑張ります」
頭を下げて退社した伸二は、その足で、ここ歌舞伎町へと向かったのだった。
新宿・歌舞伎町――
東京を訪れたことのない人でも、その名前くらいは何度も耳にしていることだろう。おそらく、日本で最も有名な歓楽街である。
快楽と危険が渾然一体《こんぜんいったい》となった街・歌舞伎町。――憂さ晴らしをするのは、こういう場所に限る。
人ごみに埋もれるようにして歩きながら、
(それにしても、あいつら、いったいどうやって売ってるんだろう)
伸二は考えていた。今日に限ったことではない。つねづね伸二が疑問に思っていることだった。
伸二は、マニュアルに書かれたままの方法でセールスを行なっていた。
最初から浄水器を売りに来たと明かすと、ほとんどの家では門前払いを食わされるから、とりあえず、
「水道水の調査に来ました」
とデマカセを言う。
「セールスマンじゃないの?」
と言われても、
「いえ、調査です」
と言い張り、水道の水を持参した紙コップに入れてきてもらう。薬品を垂らすと、水の色が変わる。
「ほら、水道の水には、こんなに薬品がはいっているんですよ。これじゃ、からだにいいわけありませんよね」
と言って、浄水器を勧める。
「え? 調査じゃなかったの? これじゃ、セールスじゃない」
「はい。セールスではありません。ただ、こういう便利なものもあるとお知らせしているだけで」
ここまではマニュアル通りだ。しかし、
「ああ、そう。うちはいらないわ。調査が終わったのだったら、お帰りください」
こう言う客の対応に関しては、マニュアルには何も書かれていなかった。
「はあ。そうですか……」
すごすごと引き下がる伸二。
マニュアルに書かれているのは販売のヒント(相手の興味を惹《ひ》く方法)に過ぎず、客に断わられてからがセールスマンの腕の見せどころと言える。
だが、自分でも嫌になるくらい気が弱い伸二は、強引に話を進めることができなかった。
伸二は気づいていないが、彼と同僚たちとの決定的な違いが、ここにあった。伸二には、セールスマンにとってもっとも必要と思われる強引さが欠けているのだ。準備は万端でも、いざ本番というところで引き下がっていては、売れなくて当然なのである。
しばし歌舞伎町を歩き回ったのち、伸二は適当な居酒屋を選び、その暖簾《のれん》をくぐった。
四十歳にもなって独身で、特定の女性とのつきあいはないし、心を許せる友人のひとりもいない。こんなとき、伸二の沈んだ心を救ってくれるのはアルコールだけだった。
ここのところ伸二は、週末(すなわち、個人の販売実績が公表されたあと)には決まって歌舞伎町で飲んでいる。それも、半端な飲み方ではなかった。飲んで飲んで、酔い潰《つぶ》れるまで飲むのだ。記憶を失い、ふと気づくと路上に寝ているなんてことも珍しくはなかった。
居酒屋は早くも大勢の人々で盛り上がっていた。あちこちで、「かんぱーい」という威勢のよい声が聞こえる。金曜日の夜に、ひとりで居酒屋に飲みに来るなんて、伸二くらいのものだろう。
伸二は、ぽつんと片隅にひとつだけ空いているカウンター席に坐った。
「酒を」
と短く注文する。
「へい。つまみは何にしましょう」
はっぴを着た若者が明るい声で言うが、
「いや、とりあえず酒だけでいい」
伸二は首を横に振った。
まだ夕方で大して腹は減っていないし、そうでなくても伸二は、突き出しだけあれば一時間は飲んでいられるのだ。だいたい、伸二が居酒屋に来た目的は酔っ払うことで、空腹を満たすためではなかった。
「へい。お待ち」
目の前に置かれたとっくりを手に取り、盃に注ぐ。
伸二は速いピッチで盃《さかずき》を口に運んだ。だが、脳裡《のうり》に浮かぶのは仕事のことばかりで、なかなか心は晴れない。
毎度のことだが、飲めば飲むほど自分の情けなさが募ってきた。
(会社を辞めようかな?)
とも思う。しかし、気の弱い伸二は、四十歳になって新たな職場に身を投じる勇気はなかった。
うだうだと一時間ほど飲んだところで腰を上げ、店を出る。
伸二はまた別の居酒屋に足を踏み入れた。そこでも速いペースで酒を飲み、また次の店へ……。
何軒もの居酒屋をハシゴした伸二の足は、いつしか路地裏へと向かっていた。表通りの華やかさとは一転、暗い雰囲気が漂っている。
(さて、次はどの店にしようかな)
何気なく上方を見上げると、 <終着駅> という看板が見えた。薄汚い雑居ビルの三階あたり。どうやらスナックらしい。
( <終着駅> か。今のおれにふさわしいかもな……)
濁った頭のなかで漫然と思った伸二は、そのビルに足を踏み入れた。ガタンゴトンと音のする旧式のエレベーターに乗り、三階で降りる。
目の前に、 <終着駅> と書かれた看板があった。
はっきり言って、そのころには伸二は酩酊《めいてい》状態に陥っていた。時刻はすでに十一時を回っている。五時間以上も飲み続けているのだから、ま、当然だろう。ふらふらと千鳥足で店にはいる。
やはり <終着駅> はスナックだった。テーブル席はなく、カウンターだけの小さな店。金曜日の夜というのに、店内に客はひとりもいなかった。ジャズのナンバーが静かに流れている。
ただでさえ気が滅入っているときに、そんな店で飲まなくてもいいとは思えるが、今の伸二には、アルコールさえ口にはいれば満足だった。
ストゥールに坐った伸二は、無愛想なバーテンに水割りを注文した。一杯、二杯、三杯……。
いつの間にか伸二は、カウンターに突っ伏していた。しかし、眠っているわけではない。しっかりと右手に水割りのグラスを持ち、たまに首を上げては、のろのろとグラスを口に運んでいる。
グラスが空になれば、注文する。新たな水割りが用意されれば、それを飲む。――ほとんど機械的な動作の繰り返しだった。
ふだんから、飲み始めると止まらない性分だが、今夜は特に歯止めが効かなかった。
〈もっと飲め。もっと飲むんだ〉
自分の意志とは関係なく、何か[#「何か」に傍点]に命令されているような気がする。
実際、伸二はまるで何かに取り憑かれたかのように[#「まるで何かに取り憑かれたかのように」に傍点]、黙々とグラスを口に運び続けていた。
放っておかれれば、いつまでもこうやって飲み続けただろう。もはや、アルコールも水も区別がつかない状態なのだ。
「お客さん。そろそろ看板です。店を閉めますよ」
バーテンに肩を揺すられ、ようやく伸二はカウンターから顔を上げた。時刻は午前三時を過ぎている。
「あ、そう……」
伸二は呟《つぶや》くように言い、席を立った。バーテンに言われるままに金を払い、ふらふらとスナックをあとにする。
(もう一軒、行こうかな……)
頭の片隅で思いながらも、伸二の足は新宿駅の方に向かっていた。もちろん、もう終電は出たあとだし、始発まではまだ間がある。ほとんど本能的な行動だった。
何度も転びそうになりつつも、何とか持ちこたえ、ゆらゆらと揺れるような足取りで歩いていく。
雑居ビルを出たときには、わずかながら意識はあった。だが、もはや限界だった。
十数メートル歩いたところで、伸二の記憶はプッツリと途切れた……。
1  <うさぎの穴>
渋谷・道玄坂――
路地裏の雑居ビルの五階に、 <うさぎの穴> というバーがある。
一見、何の変哲もないバーのようだが、とてつもない秘密が隠されている。――実はこのバー、妖怪《ようかい》たちの溜まり場なのだ。
人間とは桁外《けたはず》れの優れた能力を持つ妖怪たちだが、今や単独で生きていくには難しい時代になった。現代社会という魔物には、さしもの妖怪たちといえど、手を焼くことがままあるのだ。
そんな時代の流れに対処し、互いに助け合うために妖怪たちが作り上げたのが、ネットワークと呼ばれる連絡網だった。バー <うさぎの穴> は、そうしたネットワークの拠点のひとつなのである。
<うさぎの穴> には、珍しく午前中からふたりの客が訪れていた。いや、訪れたというのは適当な表現ではない。ふたりは昨晩の夜半すぎに、ふらりと店に現われ、店のマスターと三人で朝まで飲み明かしたのだった。
いかにもスポーツマン・タイプの現代青年と、目つきが鋭く精悍《せいかん》な中年男。人間の姿をしているが、もちろんふたりとも(ついでに言えば、マスターも)妖怪である。
つい先ほど、酒を飲むのをやめた三人は、カウンターの片隅に置かれたテレビのニュース番組を観ていた。
「本日未明、突如として歌舞伎町に出現した虎は、人々を恐怖に陥れたのち、いずこともなく姿を消しました。夜明け前ということで人通りは少なく、幸いなことに虎による被害者は出ませんでしたが、姿を暗ました虎はいまだに発見されません。いつまた現われるか知れない虎に備えて、警察では厳戒体勢で臨むことを決めております」
アナウンサーが緊迫感溢れる口調でニュース原稿を読んでいる。――爽やかな朝にはふさわしくないショッキングなニュースと言えよう。
このニュースに敏感に反応したのは、ハンサムな若者――水波《みなみ》流《りゅう》だった。
「へえ。歌舞伎町に虎がねえ」
興味津々に呟《つぶや》いた流が、
「動物園から逃げ出したのかなあ?」
と口にした途端、まるで彼の言葉を聞いていたかのように、
「また、上野動物園園長によりますと、上野動物園から虎が脱走したという事実はないそうです」
アナウンサーが言った。
「じゃあ、サーカスかなあ?」
首を傾げた流、
「ねえ、八環《やたまき》さん。どう思います?」
と少し離れたところに坐っている中年男に声をかける。
中年男――八環|秀志《ひでし》は、しばし考えたのち答えた。
「そうかもしれんし、誰かがこっそりと虎をペットにしていたとも考えられる」
「虎のペットだって?」
いささか驚いたように言う流に、
「ああ、そうだ。ま、歌舞伎町にはどんな人間が住んでるかわからない。虎を飼ってるやつがいても不思議はないさ」
平然と答えた八環、
「ま、もし虎にお目にかかったら、おれが捕らえてやるよ」
にやりと不敵な笑みを浮かべる。
はっきり言って、八環は虎にさほど関心はなかった。彼の妖力をもってすれば、虎など恐るに足りない。もしこの店に虎が現われても、容易に撃退する自信があるのだ。
「そんな気楽な……」
不満げに口を尖《とが》らせる流。
流とて虎を恐れていないという点では八環と同様だが、無視する気にはなれなかった。と言うのも、実は流は、父親が竜神で母親が人間という変わり種の妖怪――半竜半人なのだ。
竜虎の決戦≠ネどという言葉もあるように、昔から竜と虎の間には、因縁浅からぬものがある。突如として出現した虎に流が興味を抱いたのは、言わば当然のことだろう。理屈ではない。これは本能的なものなのである。
「おれ、調べてみたいなあ」
流が言う。
「放っておけよ」
と八環。
「だって、虎なんですよ」
「たかが虎じゃないか」
「そりゃそうだけど、新宿に虎なんて、どう考えても変ですよ」
「虎なんて、猫がでかくなっただけだ。気にするな」
ふたりが軽い押し問答をしていると、カウンターの向こうにいた初老の男――この店のマスターが口を開いた。
「まあまあ、ふたりとも」
柔らかい口調で割ってはいり、
「流。八環さんの言う通りだ。虎退治なんざ、人間に任せておけばいい。われわれの出る幕じゃない」
諭すような口調で言う。
「で、でも……」
なおも何か言いたげな様子を見せた流だったが、しばし逡巡《しゅんじゅん》したのち、
「わかりましたよ……」
しぶしぶ頷《うなず》いた。
「ま、流の気持ちもわからないことはないけどな」
慰めるように言う八環に、
「いいんですよ。マスターや八環さんの言っていることが正しいんですから」
流は笑みを浮かべて言った。
これで、虎に関する話題は打ち切られた。テレビのニュースも別の話題に切り換わっている。
と、
やおら、
「さて。そろそろ帰るかな」
八環は言い、腰を上げた。
「ぼくも」
と流もストゥールから飛び降りる。
ふたりは、
「また来てくれよ」
と言うマスターの声に見送られ、 <うさぎの穴> をあとにした。
雑居ビルを出たところで、
「流、これからどうする? おれは写真を撮りに行かなきゃならないんだけど」
八環が言った。
「仕事ですか?」
問う流に、
「ああ、まあな」
八環は頷く。人間としての八環は、結構名の売れたカメラマンなのだ。
「ぼくは家へ帰ります」
流が言うと、
「そうか。じゃあ、またな」
八環は言い、足早に去っていった。
ひとり渋谷駅へと向かう流。途中までは、まっすぐに家へ帰るつもりだったが、駅に着いたころには、すっかり気が変わっていた。
改めてひとりになって考えてみると、やはり虎のことが気になって仕方がない。
(歌舞伎町へ行ってみよう)
流は思い、JRに乗りこんだ。新宿駅で降り、歌舞伎町へと歩を進める。
歌舞伎町は、ふだんとは打って変わって、ものものしい雰囲気に満ちていた。
歌舞伎町へ通じるすべての道路には縄が張られ、その前には何人もの警官が厳しい表情で立っている。もちろん、歌舞伎町のすべての店舗はシャッターを降ろし、営業を中止していた。――歌舞伎町は全面的に封鎖されているのだった。
わいわい騒いでいる野次馬たちの間を縫うようにして、流は最前列に出た。、縄の前に立っている警官に、
「ちょっとなかにはいりたいんですけど」
と話しかけてみるが、当然のことながら、
「危ないから、あちらへ行きなさい」
と相手にもされない。
警官の目を誤魔化し、歌舞伎町に侵入することは容易《たやす》いが、今のところ、そこまでする気はなかった。
(とりあえず、帰るとするか)
流は思い、JR新宿駅へと引き返したのであった。
その日、虎は姿を見せなかった。翌日も、さらに翌々日も、虎を見かけたという目撃者すら現われない。
いつまで経っても事態は変化を見せなかった。何も起こらないままに、時だけが流れていく。
となると、歌舞伎町を生活基盤にしている人たち――特に飲食店の店主らが黙っていなかった。歌舞伎町に大挙して押し寄せ、
「おれたちを飢え死にさせる気か」
とシュプレヒコールを繰り返す。警官との小競り合いも頻発するようになった。
皆、虎が捕獲されるまで封鎖を続けるべきとわかってはいた。だが、虎は一向に姿を現わさないし、虎が潜んでいる場所の手懸かりすら掴《つか》めない状況が続いているのだ。当然の要求と言えるだろう。
こうなっては、やむを得ない。翌火曜日に、警察は封鎖を解き、営業再開を許可することを決定した。(ただし、夜十一時には店を閉め、十二時には歌舞伎町から退去するという条件つきだったが……)
その後も警察は <虎対策本部> を設け、歌舞伎町近辺だけではなく、かなり広い範囲に渡って捜査網を敷いた。しかし、懸命な捜索にもかかわらず、虎の行方は杳《よう》として知れない。
いまだ近くに潜んでいるのか。
どこか遠くに行ってしまったのか。
飼い主のもとに戻ったのか。
真相はわからないが、ともかく――
何も起こらないままに、一週間が過ぎ去ったのである。
2 闇夜の咆哮
翌、金曜日の夜――
時刻は午前二時すぎ。JR高田馬場駅の東――BIGBOXの裏通りを、三人のサラリーマン風の男たちが歩いていた。
酒を飲んで帰宅する途中なのだろう。皆、顔を赤らめ、大きな声で話し合っている。
「それにしても迷惑な話だよな」
「何が迷惑だって?」
「歌舞伎町の虎だよ。もう一週間も経つってのに、まだ警官がうろうろしている」
「それはいいけどさ。おれは、夜十一時以降営業禁止ってのが許せないな」
「そうそう。花金≠ュらい、ゆっくりと飲みたいよなあ」
「移動している間に、酔いが醒《さ》めちゃうしなあ」
彼らは歌舞伎町で飲み始めたが、十一時になって店を追い出され、仕方なく高田馬場に河岸《かし》を変えたのだった。
なおもブツブツと不平を漏らしながらタクシー乗り場に向かって歩いていった三人だったが、その途中、突如として、
「うっ!」
ひとりが声を発し、立ち止まった。
「ど、どうしたんだよ?」
残りのふたりも立ち止まり、声を上げた男の顔を見る。
男の目は前方に置かれている自動販売機の向こうを凝視していた。
「犬のウンコでも踏んだのか?」
ひとりが気楽な声で問う。だが、落ち着いていられるのは、そこまでだった。
「あ、あれを見ろ」
と言われ、自動販売機の方に目をやった途端、
「あ、あれは……」
ふたりは小さく声を漏らした。ゴクッと生唾《なまつば》を呑《の》みこむ。
自動販売機の蔭には、巨大な黒い影がうずくまっていた。これまた巨大なふたつの黄色い目が、らんらんと光っている。
「グルル……」
不気味な唸《うな》り声が、三人の耳に飛びこんできた。――その正体は!?
言うまでもなく、虎であった。
猫族特有の優雅な動作で立ち上がった虎は、ゆったりと自動販売機の前に歩み出た。自動販売機の光に、鮮やかな黄色と黒の縞模様が浮かび上がる。
「あわわわわ……」
男たちは全身を硬直させたまま、ガクガクと震えていた。当然のことながら、こんなに間近で虎を見るのは初めてなのだ。
互いの顔を見つめ合う三人。どの顔も恐怖に引き攣《つ》っていた。まさに顔面蒼白。皆、すっかり酔いは醒めている。
と――
突然、虎は前肢をぐいと踏ん張り、胸を張った。と同時に、
「ガオオオオ!」
虎の咆哮《ほうこう》がビルの谷間に木霊《こだま》する。闇を切り裂くような、凄じい咆哮。
その瞬間、男たちは呪縛から解けたかのように行動を起こした。
「ひえええええ」
一斉に悲鳴を上げ、脱兎《だっと》のごとく駆け出す。
虎の脚力をもってすれば、彼らを捕らえることは造作もなかろうが、なぜか虎は彼らのあとを追おうとはしなかった。自動販売機の前から動こうとせず、慌てふためいて逃げていく男たちのうしろ姿を、満足げに眺めているだけ。
だが、まさか虎が追ってこないなんて、三人は想像もしていなかった。
虎の吐息がすぐうしろで聞こえそうな気がする。――彼らの頭のなかにあるのは、恐怖だけだった。
三人は一度も振り返ることなく走り続け、近くの派出所に飛びこんだ。
「お、お巡りさん。と、虎だあ。虎が出たあ」
彼らが大声で言った途端、当直の警官が顔色を変えて立ち上がった。
「ど、どこだ!?」
腰の拳銃に手を伸ばしつつ問う。
「どこって、おれたちを追って……」
言いつつ派出所の外に目をやるが、当然のことながら虎の姿は見えない。
「ありゃ?」
拍子抜けし、頓狂《とんきょう》な声を漏らした三人に、警官は訝《いぶか》しげな眼差《まなざ》しを向けた。
「本当に虎だったのか? 野良猫の影でも見て、虎と間違えたんじゃないのか? あんたたち、酔ってるだろ」
いささか冷たい口調で問う。
「そりゃおれたちは酔ってるけど、あれは確かに虎だった。三人で見たんだから、間違いない」
「じゃあ、どこで見たんだ?」
「二百メートルくらい先の自動販売機の前だ」
必死に言うが、警官の反応は今ひとつ鈍かった。
「あの恐ろしい咆哮が聞こえなかったのか!?」
と詰め寄っても、
「さあ、聞こえなかったなあ」
と平然としている。
態度が悪いようだが、警官が懐疑的になっているのも無理はなかった。と言うのも、歌舞伎町の虎騒ぎ以来、しょっちゅう酔っ払いが派出所にやってきて、
「虎が出た」
と騒ぐのだ。調べてみると、そのすべてが誤情報だった。猫の影であったり、夢であったり……。なかには、虎との遭遇をでっち上げ、わざわざ警官をからかいに来る不届き者もいた。
「ま、一応、本部に連絡しておこう」
と警官が受話器を取ったときだった。
ひとりの若者が血相を変えて派出所に飛びこんできた。
「虎が出たあ。助けてくれえ」
警官に噛《か》みつかんばかりの形相で言う。
「な、なんだと!?」
警官は思わず受話器を落としそうになった。
三人の酔っ払いだけではなく、ほかにも目撃者が現われたとなると、悠長に構えてはいられない。
たちまち警官は、それまでとは打って変わって真剣な表情になった。素早く電話のプッシュボタンを押し、 <虎対策本部> に連絡する。
驚くべきことには、警官が電話をしている間にも、次から次へと、
「虎が出た」
と人々が派出所に転がりこんできた。どの顔も恐怖に引き攣っている。
ほどなくして、大量のパトカーと警官たちが高田馬場に集まってきた。――深夜の高田馬場に敷かれる一大包囲網!
数人ずつひと組になった警官たちが、高田馬場を隈なく歩き回る。捜索は朝陽が昇るまで続けられたのだが……。
虎の姿は、どこにも発見できなかったのであった。
朝八時すぎ――
ここは、新宿・靖国通り沿いにある喫茶店 <カサブランカ> である。
「また虎が現われたか……」
流はモーニング・コーヒーを飲みながら、喫茶店に流れているテレビのニュースを観ていた。
(まさか高田馬場とはなあ……)
意表を衝《つ》かれた思いだった。
この一週間、流は毎日夕方になると、歌舞伎町に足を運んでいた。封鎖が解けた火曜日からは、強制退去させられる十二時ぎりぎりまで歌舞伎町をうろつき、そのあとも近くの深夜喫茶などで待機している。
朝八時を過ぎ、そろそろ家へ帰ろうかと思っていたところに、高田馬場で虎が出現したというニュースを聞いたのだった。
(また被害者ゼロか。妙な話だよなあ……)
流は首を傾げた。
虎が出現したのは、午前二時ごろだと言う。先週の歌舞伎町での出現と比べて、比較的早い時間帯ということもあって、多くの人々が虎と遭遇しているが、目撃者の話によると、虎は威嚇《いかく》するように吠《ほ》えることはあっても、決して襲いかかってくることはないと言うのだ。――常識では、考えにくいことだった。
よほど人間に慣れているのか。それとも、別の理由があるのか。
いろいろと考えてみるが、納得のいく結論は出ない。
流はとりあえず現場に出向くことにした。カップに半分ほど残っていたコーヒーを一気に喉に流しこみ、喫茶店を出る。
流は山手線に乗り、高田馬場駅で降りた。
高田馬場は先週の歌舞伎町と同様、一般人の立ち入りは禁止されていた。例によって警官が見張りに立ち、その周囲を野次馬が取り巻いている。
「早く虎を浦まえてくれ。これじゃ、安心して街を歩けない」
と警官に怒りをぶつけている人もいれば、
「ま、何はともあれ、怪我人が出なくてよかった」
と胸を撫で降ろしている人もいた。
野次馬たちの噂話に加わることは容易《たやす》そうだが、目ぼしい情報が得られるとは思えないし、警官に話しかけても相手にされないのは、先週の歌舞伎町で実証済みだ。
しばらく高田馬場近辺を歩き回ったのち、流は駅へと引き返した。
電車に揺られながら、
(歌舞伎町に日参するのはやめよう)
流は思った。
そんなことをしても徒労に終わると悟ったからであった。
高田馬場の大騒ぎが、そろそろ収拾しつつあるころ――
ここは、西武新宿線・上石神井駅前にあるマンションの一室――川崎伸二の住まいである。
伸二はベッドの上に横たわり、ふつか酔いでガンガン痛む頭を抑えながら、昨夜の出来事を思い出していた。
昨日もまた、上司に嫌味を言われて落ちこんだ伸二は、やはりひとりで歌舞伎町へと繰り出した。
十一時に店から追い出され、まだ飲み足りないからと高田馬場へタクシーで乗りつけたところまでは憶えている。
酔っ払いながらも、
(馬場からなら、一本で帰れるな)
と考え、高田馬場で飲むことにしたのだ。
冷静に考えれば、とことん飲むまで(言い換えれば、ぶっ倒れるまで)帰ろうとしない伸二が、終電までに切り上げるわけがなく、西武新宿線沿線にこだわる必要はないと思えるが、酔っ払いに冷静な判断を求めても無駄と言うものだろう。
(パブにはいって、それから、えーと……。はて? どうしたっけ?)
必死に記憶をまさぐるが、その後のことはとんと思い出せなかった。先週と同様、いつの間にか意識を失い、路上で眠りこんでしまったのだった。
かなり飲んでいたから、放っておかれたら、今ごろはまだ意識を取り戻していなかったかもしれない。
こうして自宅で朝(と言うより、昼に近いが)を迎えることができたのは、ひとえに警官たちのお蔭だった。虎出現の報を受けて高田馬場に駆けつけた警官たちが、路上で眠りこんでいる伸二を叩き起こしてくれたのである。
(それにしても、危なかったなあ)
つらつらと思う。
伸二を起こした警官は、
「このあたりに虎が出たという情報があった。早く非難しなさい」
と厳しい口調で言った。
思い返せば先週も、伸二が歌舞伎町で飲んで倒れているとき、虎が現れた。もちろん、直接伸二が虎を目にしたわけではない。虎の捜索で歌舞伎町を巡回していた警官に起こされ、その事実を知ったのだ。
(もし虎が私の姿を見つけていたら……)
想像するだけで、背筋が冷たくなる。
酔っ払って意識不明に陥っている伸二には、逃げることはもちろん、助けを呼ぶことすらできなかっただろう。運が悪ければ、虎の牙《きば》で引き裂かれていたかもしれないのだ。
二度あることは三度ある。今後も真夜中に盛り場を歩いていれば、虎と遭遇する危険がある。
(どうしよう? 虎が捕まるまで、飲みに行くのをやめようか)
一瞬、伸二の心が動いた。
虎が恐ければ、まっすぐに帰宅すればいい。だが……。
それはできない相談だった。
もともと酒にはストレスを発散させる効果があるが、特に最近二回の酒は、抜群に効果的だった。
頭のなかは、ふつか酔いでガンガンしているが、心のなかは、得も言われぬ爽快感に満ちている。飲んで意識を失っている問に、溜まっていたストレスが一気に発散してしまったかのような……。
酒を飲まなければ、おそらく今も、うじうじと仕事のことで頭を悩ませていただろう。
(こんな素晴らしい気分が味わえるのならは、多少の危険は仕方がない)
伸二は思った。
月曜から金曜まで、辛い仕事に耐えているのだ。せめて金曜の夜くらいは、とことん酒を飲んで欲求不満を解消しないことには、ストレスの塊になってしまう。
(また来週も、飲みまくるぞ)
伸二は決意を新たにしたのであった。
3 虎との遭遇
一週間後。金曜日の深夜――
流は池袋西口の繁華街を歩いていた。
時刻は牛前三時を回っており、さすがに人通りは少なくなっているが、それでもたまに酔っ払いの集団と擦れ違う。歌舞伎町と高田馬場の深夜営業が禁止されている影響で、ふだんよりも池袋に飲みに来る人が多いのだろう。
この一週間、
(虎の野郎。次はどこに現れるのか?)
と流は考えていた。
二週間前の金曜日、新宿に初めて姿を現わした虎は、翌週の金曜日、今度は高田馬場に現われた。
もちろん、虎に曜日や東京の地理がわかるとは思えず、偶然に決まっているが、ほかに手懸かりがない以上、このふたつのケースから、次の出現場所および日時を推測するしかない。
(金曜日の夜、どこかの盛り場に現われる可能性が高いな)
流は思った。
場所を特定することは不可能だったが、新宿、高田馬場と山手線の主な駅を北上してくれは、次は池袋ではないかと思える。
極めて薄弱な根拠だが、ただ漫然と家で待っていても埒《らち》が明かない。虎が姿を暗ましてから現場に駆けつけたところで意味がないことは、身に染みて感じている。
(ま、何もしないよりはマシだろう)
というわけで、金曜日の夜、池袋にやってきたのだった。
池袋をぐるりと見て回った流は、西口公園のベンチに腰を降ろした。
(現われるとしたら、そろそろだが……)
と腕時計に視線を落とす。むろん、周囲への注意は怠っていなかった。
虎が現われれば、人々は悲鳴を上げるだろうし、運が良ければ、虎の咆哮《ほうこう》が聞こえるかもしれない。
と――
突如として、
「ガオオオオオ!」
凄じい咆哮が耳に飛びこんできた。さほど遠くはない。
(出たな)
流はバネ仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がった。咆哮の聞こえてきた方向に向かって全力で走り始める。
西口公園から五十メートルほど離れた地点、狭い裏通りの真ん中で、ついに流は虎を発見した。その向こうには、若いカップルがブルブル震えて抱き合っている。
(いやがったな)
流は立ち止まり、ニタリと笑みを浮かべた。ようやく望みが叶ったのだ。心の底から喜びが込み上げてくる。
「おい、虎野郎」
言いつつ流が歩み寄ると、
「グルル……」
虎は低い唸《うな》り声を上げながら、ゆっくりと新たな獲物の方に顔を向けた。威嚇のポーズをとり、
「ガオオオオ!」
雄叫びを上げる。
並みの人間なら、それだけで腰を抜かしてもおかしくない迫力に満ちていたが、あいにく流は人間ではない。
「おれが相手だ」
不敵な笑みを浮かべて言い、また一歩、虎に近づく。
当然、襲いかかってくるものと思っていた。
ところが! 不思議なことに、虎はじりじりと後退し始めた。顔に戸惑いの表情が表われている。
「どうした。かかってこいよ」
さらに流が近づいていくと、いきなり虎は身を翻した。凄じいスピードで走り去っていく。
予想外の展開に驚きつつも、
「ま、待ちやがれっ」
ひと声発し、流は虎のあとを追って走り始めた。
どんどん逃げていく虎。
必死にあとを追う流。
なかなか距離は縮まらない。それどころか、徐々に引き離されていく。
と。
遥か遠くを行く虎が十字路を曲がるのが見えた。
(シメた)
と流、内心喜びの声を上げる。あの先は袋小路になっているのだ。
虎に遅れること十数秒、流は十字路に達した。
だが、袋小路の方に目をやった途端、
「ありゃ?」
流は小さく声を発し、立ち止まった。当然見えるはずの虎の姿が、どこにも見当たらないのである。横に逸れる道はないし、あの大きなからだを隠せそうな物体もない。
(虎の野郎。いったいどこへ……?)
用心しつつ歩を進める。
行き止まりには、ひとりの男が倒れていた。スーツ姿の中年男。死体と見紛《みまが》うような姿だが、耳を澄ましてみると、鼾《いびき》が聞こえてくる。何のことはない。酔っ払って寝ているだけのようだった。
(ちっ。虎が現れたってのに、呑気《のんき》なやつだぜ)
心の中で舌打ちした流が、
「おい、起きろ」
乱暴に肩を揺すぶると、
「うう……」
男は呻《うめ》き声を発しつつ目を覚ました。
「こ、ここは?」
呆然と流の顔を見つめる男を無視し、
「虎を見なかったか?」
流が問うた途端、
「と、虎っ!?」
男はガバと上体を起こした。
「ど、どこにいる……?」
真っ蒼な顔で周囲を見回す。
「安心しろ。もうどこかに行っちまったよ」
流が言うと、
「よかった。ふう……」
男は安堵の息を漏らした。
「それより、聞かせてくれよ。確かに虎はこの袋小路に飛びこんだんだ。気がつかなかったか?」
続けて流が尋ねるが、
「し、知らないよ」
と男、首を横に振る。
「そうか……。そうだろうな」
流はがっくりと頷いた。
男を責めるわけにはいかない。前後不覚になって倒れていた酔っ払いに訊くこと自体、間違っていたと言えるのだ。
のろのろと立ち上がった男は、いきなり、
「私、帰ります」
と言った。
「虎が現われたと聞いては、ぐずぐずしてはいられません。あなたも早く帰った方がいいですよ。では」
頭を下げ、足早に去っていく。
そのうしろ姿を見送りながら、流はじっと考えこんでいた。
虎が消えた場所に、たまたまあの男がいた。本当に、それだけなのだろうか? あの男と虎の間には、何か関係があるのではないか?
胸中に疑問が沸き起こるが、少なくとも男に怪しい気配は感じられなかった。
(名前と連絡先くらい、聞いておいた方がよかったかなあ。今ならまだ間に合うから、追いかけようか)
とも思う。だが、その必要はなかった。
足元に黒い名刺入れが落ちているのに気がついたのだ。おそらくあの男のものだろう。
(ラッキー)
名刺入れを拾い上げた流は、早速中身を確認した。
〈関東浄水器梶@販売部 川崎伸二〉
と印刷されている。仕事用の名刺らしく、自宅の住所はなかった。
(関東浄水器の川崎伸二か。とりあえず預かっておいて、来週にでも会社に届けてやろう)
流は思った。名刺入れをポケットにしまいこむ。
そのとき、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。虎の目撃者が警察に通報したのだろう。何分もしないうちに、警官たちがわらわらとやってくるに違いない。
(あとは警察に任せるとするか。ここにいても、どうせ避難させられるだけだ)
流は判断し、その場を退散した。
表通りに出、夜の街を流しているタクシーを拾う。
行き先は、もちろん渋谷――バー <うさぎの穴> であった。
4 虎の正体
午前四時すぎ――流は <うさぎの穴> に到着した。
「やあ。流、久しぶりだな」
とマスターが柔らかい笑みを浮かべて流を迎える。
ほかに客の姿は見えない。店内は閑散としていた。
挨拶《あいさつ》もそこそこに、流はつい先はど自分が目にした出来事を報告し始めた。
最初のうちは、
「なんだ、虎を追っているのか。あれほど放っておけと言ったのに……」
と呆れたように肩をすくめていたマスターだったが、流の話が虎の消失に及ぶや、真剣な表情になった。
「……というわけなんです。どう思いますか?」
話し終え、意見を求める流。
「うーむ……」
マスターは深々と息を吐いた。
「これは、ひょっとすると、ひょっとするぞ」
意味ありげな言葉を発し、腕組みをする。
「ひょっとするって?」
流が問うと、
「うむ……」
マスターはしばし沈黙したのち、口を開いた。
「人虎の話は、聞いたことがあるだろう」
流をじっと見据えて言う。
「え、ええ」
流は頷いた。
人虎。――虎に変身する能力を持つ人間、あるいは、人間に変身する能力を持つ虎のことである。
人虎、虎人間、虎男、虎の化身……と呼び方はさまざまだが、特に虎が身近な存在であるインドや中国では、昔から人虎の出てくる話が数多く語り継がれていた。たとえば中国では、奇書の誉れ高い怪談集『聊斎志異《りょうさいしい》』や、説話集として名高い『捜神記《そうしんき》』、あるいは『広異記《こういき》』などにも、その手の話がいくつか収められている。人虎は、古くから人間社会の闇《やみ》に生きる妖怪のひとつなのだった。(日本でも、中島敦の著した『山月記』がよく知られているが、この作品とてもともとは、中国唐代の妖怪譚『人虎伝』を翻案したものだ)
と――
「酔虎という名を聞いたことはないかな?」
マスターが質問してきた。
「すいこ、ですか……?」
首を傾げる流に、
「そうだ。酔う虎と書く」
マスターは答えた。
「酔虎……?」
「そうだ。酔っ払いのことを虎と言うだろう?」
「は、はい」
「その昔中国に、酔っ払うと虎に変身し、暴れ回る男がいたと言う。その話が日本に伝わって、性質《たち》の悪い酔っ払いのことを虎と表現するようになったのだ」
マスター、したり顔で説明する。
「な、なるほど……」
流は感心して頷いた。
もし、今回の虎騒動が妖怪の仕業であるならば、全ての疑問が消失する。虎は消えたのではなく、変身を解き、人間の姿に戻っただけなのだ。――すなわち、あの中年男こそ、虎の正体! だが……。
流は今ひとつ釈然としなかった。虎が消えた場所に倒れていた男は、断じて妖怪ではない。ただの冴えない中年男だったのだ。
「でも、あの男は妖怪じゃありませんでしたよ」
流が指摘するが、即座に、
「そのあたりのことは、わたしにもわからないよ」
マスターは首を横に振った。
「そんな……」
がっくりと肩を落とした流に、マスターは続けて言う。
「確か『酔虎伝説』という書物があったはずだ。それを読めば、何かしら糸口は掴めるのではないかな?」
「『酔虎伝説』……。その本、マスターは持ってるんですか」
期待を込めて流が尋ねるが、またもマスター、
「いや、わたしは持ってない」
あっさりと首を横に振る。完全に、肩透かしを食わされた恰好だった。
「マスター。勘弁してよお……」
思わず流の口から情けない声が漏れた。からかわれているとしか思えないのだ。
「そう情けない声を出すなよ」
呆れたように言ったマスター、
「文ちゃんのことを忘れてないかな?」
にやっと笑みを浮かべる。
その言葉を聞いた途端、
「あ、そうか」
一転、流の表情が明るくなった。
文ちゃん――墨沢《すみざわ》文子《ふみこ》もまた、流たちの属するネットワークの一員だった。現在は吉祥寺で <稀文堂> という古本屋を経営している。
その正体は文車妖妃《ふぐるまようき》。――古い本を愛する人々の想い≠ェ生んだ妖怪である。
なるほど、珍しい本を大量に蒐《あつ》めている <稀文堂> ならば、どんな稀少な本でも揃《そろ》っているだろう。
「文ちゃんのところなら……」
ようやく気を取り直した流は、
「わかりました。とにかく吉祥寺に行ってみます」
と言い、 <うさぎの穴> を飛び出した。
時刻は午前五時を回っていた。そろそろ始発が動き始める時刻だ。
渋谷から吉祥寺までは井の頭線が通っており、乗り換える必要もない。
しかし、乗車券を買おうと券売機に小銭を入れる寸前、
(待てよ)
と流は思い直した。
バー <うさぎの穴> は年中無休、二十四時間営業で、いつ訪れても迷惑をかけることはないが、 <稀文堂> は古書店なのだ。いくら相手が妖怪《ようかい》仲間とはいえ、早朝の訪問はあまりに失礼というものだろう。それに、事態は一刻一秒を争うような切羽詰まった状況でもない。
しばし逡巡《しゅんじゅん》したのち、流はとりあえず阿佐ヶ谷の自宅に戻ることにした。阿佐ヶ谷からなら吉祥寺まで近く、改めて出掛けるのも苦にならない。
ガラガラの始発電車で帰宅した流は、ソファに横たわり、考えを巡らした。
もしマスターの言う通り、虎の正体が酔虎だったとしたら、あの冴えない中年男こそ、騒ぎの張本人と言うことになる。
(だとしたら……)
流はポケットから名刺入れを取り出し、ほくそ笑んだ。――名前と会社の住所がしっかりと印刷されている。
ここまで来れば、事件の解決は目前と思えるが……。
いずれにせよ、『酔虎伝説』に目を通してからの話だった。.
結論を出すのは、それからでも遅くはないのである。
5 『酔虎伝説』
正午前――
流は自宅を出、吉祥寺へと向かった。
<稀文堂> には、以前にも何度か訪れたことがあり、場所はしっかりと憶えている。
「こんにちは」
ひと声かけて、流は店に足を踏み入れた。
小さな店だった。左右の壁に本棚。そして中央にも本棚がある。本棚に挟まれた通路は狭く、人月ふたりが並んで歩けないほどだ。
一瞬笑みが浮かぶが、すぐに恥ずかしそうに俯《うつむ》く。と言っても、流に対して特別な感情を抱いているわけではなかった。彼女は今どき珍しいほど内気な性格で、流に限らず、彼女が他人の顔を正面から見ることなど、滅多にないのだった。
「『酔虎伝説』という本を探しに来たんだけど、あるかな?」
流が言うと、
「『酔虎伝説』?」
彼女は小首を傾げた。
「そんな本、どうするつもり?」
訝しげな表情で問う。相変わらず、下を向いたままだ。
「実はね……」
流が理由を説明すると、
「そうなの……」
文子は頷いた。立ち上がり、
「ちょっと待っててね」
と本棚の間の通路を入り口に向かって歩き始める。
狭い店。十数歩も歩けは外に出てしまうはずなのに、文子は延々と歩き続けた。本棚を物色しつつも、その足は止まらない。
しかも、いくら先へ歩いていっても、その姿は一向に小さくならなかった。手を伸ばせば背中に触れられそうな錯覚に捉われるほどだ。
古書店 <稀文堂> の秘密が、ここにあった。この店の本棚は言わば無限本棚で、本の収容に必要な分だけ、どこまでも続いているのである。
三十分ほどして、ようやく文子は戻ってきた。手には一冊の古びた本を持っている。
「これ……」
消え入りそうな声で言って、彼女は本を差し出した。
表紙に『酔虎伝説』と書かれている。その文字は印刷されたものではない。明らかに手書きの文字だった。
「これが『酔虎伝説』か……」
本を受け取った流は、パラパラとページを繰ってみた。
本文も手書きだった。ミミズののたくったような字――いわゆる変体仮名が目に飛びこんでくる。ところどころに虫に食われたような穴が空いていて、読みにくいこと夥《おびただ》しいが、何とか読めないことはなかった。写本ですら虫に食われている有り様だから、原本の起源はさらに古いものと思われる。
「読ませてもらうよ」
流は言い、本文に目を通し始めた。
やはり舞台は中国だった。
唐の時代。嶺南の小さな山村に、ふだんは気が弱いが、泥酔すると虎の姿.に変身して暴れ回る男がいた。酔いが醒《さ》めると人間の姿に戻るが、虎に変身している間のことは、全く憶えていないと言う。――その男は酔虎と呼ばれ、村人たちに恐れられていた。
「ふむふむ」
と頷きながら読み進んでいく流。
途中までは、 <うさぎの穴> のマスターに聞いた話そのものだった。しかし、本の後半に差しかかったところで、
「え? へべれけ?」
流は小さく声を漏らし、首を傾げた。
男は妖怪ではなく、彼が虎に変身したのは、「へべれけ」と呼ばれる妖怪の仕業だったと書かれていたのだ。
妖怪へべれけ。――酒に飲まれるような人は、ふだんから鬱屈《うっくつ》した生活を送っていることが多い。へべれけは、そんな弱い人間の心を解放し、強い者の権化とも言える虎の姿に変身させる能力を持つ妖怪だった。
へべれけの妖力によって虎になった人は、自分の姿を目にした人々が恐怖を感じて逃げ惑うのを見て、満足するのだと言う。
想い起こしてみれば、流が池袋で会った男は、見るからに貧相で、いかにも気が弱そうに見えた。
(そうだったのか。彼も、この『酔虎伝説』の主人公と同じで、鬱屈した生活を送っているに違いない。それでへべれけが取り憑《つ》いたんだ)
となれは、池袋で遭遇した虎が流から逃げ出したことも納得できる。
強そうな虎の姿をしていても、その心は変わらない。自分を恐れている者に対しては、いくらでも居丈高になれるが、逆に、向かってくる者に対しては、本来の気弱な性格が出てしまうのだ。
(それにしても……)
流は思った。
酒に酔って酪酎《めいてい》状態になることを「へべれけになる」と表現することは知っていたが、まさかそれが妖怪の名前に由来しているとは……。――まさに意外な事実だった。
本から顔を上げた流が、
「文ちゃん。ここに、へべれけという妖怪のことが書かれているけど、知ってる?」
と問いかける。
「ええ」
文子は伏し目がちに答えた。
「で、へべれけに取り憑かれた人間を救うには、どうしたらいいんだ?」
重ねて問うが、
「その本に書かれているでしょ」
と文子の返事は素っ気ない。
「そうか」
頷いた流は、ふたたび本に視線を落とした。
確かに、へべれけを追い払う方法が書かれていた。
へべれけは酔っ払いが大好きだが、その実、へべれけ本人は酒に弱い。アルコールが体内にはいると、全身が麻痺して妖力も使えなくなってしまうのだ。
一計を案じた村人の手によって、へべれけは酒を飲まされ、さらに酒樽に閉じこめられた。
その酒樽は川に流され、以来、くだんの男は虎に変身することはなくなり、同時に、気弱な性格は蔭を潜めたと言う。
「なるほど。へべれけは酒に弱いのか」
流は呟くように言い、本を閉じた。文子の方に視線を向け、
「ほかに何か、へべれけについて知っていることは?」
と問う。
文子は無言で首を横に振った。本当に何も知らないらしい。
「そうか」
いささか残念だが、期待していた以上の情報が得られたのだ。満足するべきだろう。
「ありがとう。参考になったよ」
流は文子に本を手渡し、踵《きびす》を返そうとした。
そのときだった。
珍しく文子は、流の顔を正面から見据えて言った。
「へべれけは心優しい妖怪よ。決して悪気はないの。そのこと、忘れないでね」
文子もまた、心優しい妖怪なのであった。
文子に別れを告げた流は、 <稀文堂> をあとにした。井の頭線で渋谷に向かう。
流は <うさぎの穴> に出向き、へべれけのことをマスターに報告した。
「ほほお。へべれけか……。聞いたことのない妖怪だな」
マスター、感心したように言う。
「マスターも知らないんですか?」
流が言うと、
「ああ、残念ながらな」
マスターは頷《うなず》いた。
「それで、これからどうするつもりだ?」
と流の顔を見つめる。
「昨晩へべれけが取り憑《つ》いたと思われる男の素性はわかっていますから、とりあえず彼に会って、いろいろと話を聞いてみようと思っています」
流は答えた。
「で、そのあとは?」
マスターに問われ、
「ええ。へべれけは酒に弱いらしいので、そのあたりを攻めてみれば……」
とは答えたものの、いまだ流は、へべれけ攻略の具体的な作戦は思いついていなかった。
最も問題となるのは、へべれけと接触する手段だった。池袋では、たまたま運よく虎と遭遇したが、そう何度もうまくいくという保証はない。虎出現のニュースを聞いてから駆けつけても、手後れとなる公算が強いのである。
ほかのネットワークに照会することも考えたが、有益な情報が得られるとは思えなかった。
流より遥かに長く生きているマスターが知らないとなると、へべれけは闇に埋もれた妖怪に違いない。こういう手合いは、いかなるネットワークにも所属していないと決まっている。
(ふむ。どうしようかな……)
悩みながら、流は帰途についたのであった。
6 新しい発見
妙案が浮かばないまま、月曜日となった。.
午前九時すぎた自宅を出た流は、拾った名刺を頼りに、川崎伸二という男の勤務先へと向かった。
会社――関東浄水器株式会社は、JR市ヶ谷駅の正面にあった。八階建ての酒落《しゃれ》たビルの三階から五階までを借り切っている。
三階の受付で名前を名乗り、用件を伝えた流は、近くに置かれているソファに深々と身を静めた。川崎伸二という男が現われるのを待つ。
しばらく待っていると、池袋で会った男が姿を現わした。――やはり名刺入れは、あの男が落としたのだ。
「川崎さん、ですね?」
立ち上がり、男の方に歩を進める流。
男はしばし怪訝《けげん》そうな表情で流を見つめていたが、突然嬉しそうに、
「ああっ、あのときの……」
と声を上げた。
「どうも」
軽く頭を下げた流が、
「あの、これ、あなたのですよね」
と黒い名刺入れを差し出すと、
「ええ、そうです。どうもありがとうございました」
伸二はコメツキバッタのように何度も頭を下げ、感謝を表わした。
「あの……。よろしければ、少しお話を伺いたいんですが……」
流が言うと、一瞬伸二は訝《いぶか》しげな表情を覗かせたが、すぐに、
「ええ、いいですよ」
明るい声で頷いた。
「一階が喫茶店になっていますから、そこへ行きましょうか」
「いえ、ここで充分です」
軽く右手を振った流は、早速、
「先週の金曜日のことなんですが……」
と切り出した。
「はい?」
「あなた、池袋西口の路上で倒れていましたよね?」
「ええ。ちょっと飲み過ぎましてね。いやあ、お恥ずかしい」
にこにこしながら頭を掻《か》く伸二を見て、
(はて?)
流は小さく首を傾げた。何となく、第一印象とは違う。あのときは、確かに暗い性格に見えたのだ。
「川崎さんって、明るいですねえ。いつもそうなんですか?」
カマをかけてみると、
「いえ、同僚からはいつも、暗いやつだって言われています」
伸二は答えた。
「え? ホントですか?」
「ええ。自分でも不思議なんですが、酔い潰《つぶ》れて目覚めると、なんだかとってもすっきりしてるんです。ストレスがパーッとなくなったみたいでね」
「へえ。それはいい酒ですね。いつもですか?」
「いや。以前はそんなことはありませんでした。飲んだ翌日は後悔ばかりしてたくらいで……」
「じゃあ、いつからすっきりするようになったんです?」
流が訊くと、しばし考えたのち、
「えーと、三週間くらい前からかな。そう、先々……先週の金曜日からですよ」
伸二は答えた。
「三週間前の金曜日!?」
思わず声を発する流。虎の出現し始めた時期とピタリ一致するのだ。
(まさか……)
嫌な予感が胸中をよぎる。
「その、三週間前の金曜日ですが、あなた、どこで飲んでいましたか?」
「歌舞伎町です。ほら、ちょうど虎が歌舞伎町に現われた夜です。忘れようったって、忘れられませんよ」
「歌舞伎町……」
息を呑《の》みこんだ流が、
「つかぬことを伺いますが、先々週の金曜日、高田馬場で飲んでいたなんてことは?」
と問うと、
「へえ、よくおわかりですねえ」
伸二は目を大きく見開いた。
「と言うと、やっぱり?」
「ええ、その通りです。先々週の金曜日は高田馬場で飲んでいました」
頷いた伸二、さらに続けて言う。
「それにしても、妙なんですよね……」
「妙?」
「ええ、そうです。実は、私が飲みに行くのは金曜日の夜だけなんですけど、そのとき決まって、近くに虎が現われるんです。ほら、先週は池袋に虎が出たでしょ? 先々週は高田馬場で、その前の歌舞伎町でも……。偶然に決まっているし、幸いなことに一度も虎に出遇ってませんけど、何だか気になってね」
とうとうと述べ立てる伸二。
(そうだったのか……)
流は下唇を噛《か》み締めた。
池袋に現われた虎はもちろん、その前の二件の虎騒ぎも、ひょっとするとこの男のせいかもしれないと、薄々感じてはいた。だが、ここまではっきりしてしまうと、やはりショックだった。
しかし、裏を返せば、ラッキーとも言える。へべれけが伸二を気に入っていることは確かで、と言うことは、彼と行動をともにしていれば、へべれけの方から近づいてくるということなのである。
(そうだっ)
流は頭のなかでパチンと指を鳴らした。早速、
「ねえ、川崎さん。今週の金曜日も飲みに行くんですか?」
と問いかける。
「ええ、そのつもりですけど、それが何か……?」
「いや、今思いついたんですけど、よかったら、一緒に飲みませんか?」
流が誘うと、
「は?」
伸二は戸惑いの表情を浮かべた。ま、突然訪ねてきた見知らぬ男に、これまた突然誘われたのだ。戸惑って当然だろう。口を半開きにしたまま、じっと流の顔を見つめている。
「お嫌ですか?」
重ねて訊く流。自分でも無茶な誘いとは承知しており、断わられても仕方がないと思っていた。
しかし、しばしの選巡はあったものの、
「構いませんとも」
伸二は嬉しそうに頷《うなず》いた。いつもひとり淋《さび》しく飲んでいる伸二にとって、願ってもない申し出だったのだ。
「そうですか。嬉しいなあ」
思わず相好を崩した流が、
「どこで飲みますか?」
と言うと、
「虎が出たあたりはゆっくりと飲めないし、ま、近いところで神楽坂はどう?」
伸二は言ったが、すぐに、
「あっ」
と声を上げた。
「決めた場所に虎が現われたら、そこも立入禁止になるかもしれない。困ったなあ……」
と腕を組む。
(あんたが飲みに行かなきゃ、虎は出ないよ)
流は思ったが、むろんそんなことは口には出さない。真実を教えるのは容易いが、それを口にしたところで、いたずらにこの男を怯《おぴ》えさせるだけなのだ。
「会社は何時ごろ終わります?」
「たいてい五時には終わるけど?」
「じゃあ、金曜日の五時ごろ、ここで待ってます。それでいいでしょ?」
「それはいい。じゃ、会社に来てください」
「ええ、わかりました」
頭を下げ、伸二に別れを告げる。
エレベーターから降りて初めて、流は自分の名前を名乗るのを忘れていたことに気がついた。
ま、さほど気にする必要はあるまい。今度会うときに、改めて自己紹介すればいいのだ。
ともあれ、川崎伸二との接触は大成功に終わった。おそらく今週の金曜日には、へべれけと対面できるだろう。
流は大いに満足し、ビルをあとにしたのであった。
その後、流は近くの喫茶店をハシゴし、時間を潰《つぶ》した。
正午を過ぎると、くだんのビルからぞろぞろとOLたちが出てくる。いや、正確に言えは、男性サラリーマンもたくさん出てきたのだが、流の目にははいらなかった。
流が待っていたのは、このチャンスだった。喫茶店を出、適当に選んだOL三人組に声をかける。
「ねえ。きみたち、関東浄水器の人?」
相手が頷くのを見て、
「ちょっと話を聞きたいんだけど、つきあってくれないかな? 昼メシ、ご馳走するよ」
さすがに、スリムな長身、ハンサム、スポーツマンタイプと三拍子|揃《そろ》った流の誘いを断わるような女性はいなかった。
「えー? ウッソー」
などとキャハキャハ笑いながらも、簡単にOKする。
彼女たちのリクエストに応え、流はイタリア・レストランに向かった。
「何を食べようかしら」
「ランチもいいけど、せっかくご馳走してくれるって言うんだから」
メニューに首を突っ込みつつ、キャーキャー騒ぎまくる三人組。
そこまではよかった。だが、オーダーが終わって食事が運ばれてくる間に、流が、
「ねえ。川崎伸二さんについて話してほしいんだけど?」
と口にした途端、彼女たちは露骨に嫌な顔をした。互いに顔を見合わせ、視線で合図し合っている。
しかし、それは一瞬のことだった。
「先輩のことを悪く言いたくないけど、あの人、四十にもなって独身なのよ。友だちもいないみたいだし」
ひとりが口火を切るや、三人は堰《せき》を切ったように話し始めた。
「もともと経理部にいたけど、何年か前に販売部に移ったって聞いたわ」
「でも、セールスの才能がないみたい。営業成績はいつも最下位って話よ」
「それにしても川崎さんってさ、前から変だったけど、ここのところ、ますます変になったんじゃない?」
「いつも暗い顔しているくせに、どういうわけか月曜日になると、明るい顔で出社してくるのよね」
「そうそう。それで、週末が近づくと、また落ちこんでいくのよ。休みの間に、何かいいことでもあるのかしら」
「気味が悪いあわ」
ウンウンと頷《うなず》き合う。
やはり川崎伸二は、仕事や人間関係で溜まったストレスを解消するために飲んでいたのだ。
しかも、いつもひとりで飲みに出掛けている。――まさに、へべれけの絶好の餌食《えじき》と言えよう。
ここまで聞けば充分だったが、いったん開いた女たちの口は、そう簡単には閉じなかった。
なおも延々と悪口が続く。
食事が運ばれてきて話は中断し、インターバルのあと、今度は流に対する質問攻めが始まった。
「名前は?」
「年齢は?」
「大学生? 社会人?」
「恋人はいるの?」
矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
へべれけの件がなければ、愛想よく相手をし、おそらく次回に逢《あ》う約束までしていただろうが、あいにく今の流は、そんな精神状態ではない。
質問を適当にいなしながら食事が終わるのを待ち、流は彼女たちと別れたのだった。
自宅へと向かう流の心には、迷いが生じていた。
文子も言っていたが、もともとへべれけは悪い妖怪ではない。
へべれけは、アルコールの力を借りなければ自己を解放できない、そんな弱い人間の想い≠ゥら生まれた妖怪に違いなかった。
へべれけが取り憑く相手は、たとえば川崎伸二のように気が弱く、日ごろ鬱屈《うっくつ》した生活を送るのを余儀なくされている人間と思われる。虎に変身した伸二は、おそらくその間、これまでにない至福感に酔っていたことだろう。
「酔い潰れて目覚めると、なんだかとってもすっきりしてるんです」
と嬉しそうに伸二は言った。
虎はただ人々を威嚇するだけで満足するし、今の所、犠牲者は出ていない。虎に変身することによって救われている伸二の心を思うと、このままへべれけの好きにさせて置いてもいいような気さえしてくる。
(でも……)
流は思い直した。
実際問題として、東京が大騒ぎになっているのは確かなのである。やはり放っておくわけにはいかないのであった。
7 妖怪へべれけ
川崎伸二との約束の日――すなわち、へべれけと対決する日まで、あと四日ある。
それまでに、何としてでも対策を立てておかねばならない。
ふだんの流ならば、 <うさぎの穴> の仲間に協力を要請しようと考えただろう。だが、今回の事件に限っては、どうしても自分ひとりの力で片をつけたかった。
流自身は気づいていないが、流の心の奥底には、虎に対するライバル心がふつふつと燃えたぎっていたのだ。流のからだに流れる竜神の血のなせる業と言えよう。
今のところ、『酔虎伝説』に記されていたこと以外に、へべれけに関する情報はなかった。
へべれけの弱点は、日本酒である。それはわかっている。だが……。
酒を浴びせるくらいなら、さして困難ではないだろう。しかし、それだけでは大した効果は望めまい。なんとかして、へべれけに酒を飲ませなければならない。どうやって……?
必死に考える毎日。
金曜日の午後になって、ようやく流の脳裡《のうり》に、ひとつのアイデアが閃《ひらめ》いた。
確実に成功するという保証はなかったが、ほかにいい手段を思いつかない以上、これに賭《か》けてみるしかない。
(よし。これでいこう)
心に決意を秘め、流は市ヶ谷――川崎伸二の勤める関東浄水器のあるビルへと向かったのであった。
受付の前にあるソファで待っていると、定刻通り、午後五時ちょうどに伸二は姿を現わした。
「ほ、本当に来てくれたんですね」
嬉しそうに言うが、その表情は、月曜日に会ったときとは別人のように暗かった。この数日の間に、またストレスが溜まったのだろう。
「もちろんですよ」
立ち上がって出迎えた流が、
「あ、この前、言い忘れてましたけど、水波流です。よろしく」
と頭を下げた。
「あ、川崎です。ことらこそよろしく」
と伸二も頭を下げた。
「どこで飲みますか?」
問う流に、
「神楽坂にしましょうか。ここからなら、歩いても行けます」
伸二は答える。
ふたりは揃《そろ》って神楽坂へと歩き始めた。
古くは花街として栄えた神楽坂。現在でもその名残りは残っているものの、少なくとも表面上は、かつての面影は失われていた。学生が闊歩《かっぽ》する表通りにはディスコやゲームセンターが派手なネオンを点滅させているし、通りの両側には居酒屋や料理屋が立ち並んでいる。
ふたりは適当な居酒屋に足を向け、その暖簾《のれん》をくぐった。
「まずはビールで乾杯しましょうか?」
伸二が言う。
「いえ、ぼくは日本酒で」
流が答えると、
「そうですか。では私も」
伸二は頷い《うなず》た。
日本酒を注文し、盃を酌み交わし始めたのだが……。
伸二は寡黙な男だった。流が話しかけても、
「はあ、そうですか」
と相槌《あいづち》を打つくらいで、なかなか話に乗ってこない。その間も、手は休みなく盃《さかずき》を口に運び続けている。
ほとんど言葉を交わさないまま、酒を飲み続けるふたり。
一軒目の居酒屋を出るとき、
「私と飲んでいても、つまらないでしょう。帰ってもいいですよ」
伸二が申しわけなさそうに言ったが、
「いえ、そんなことはありません。静かに飲む酒も、なかなかいいものです」
流は答え、
「さ。次の店に行きましょう」
と誘った。
その後も、ふたりは何軒もの居酒屋を渡り歩いた。
日本酒一本槍の流とは対照的に、伸二は、日本酒はもちろん、ビール、ワイン、ウイスキーブランディーなど、さまざまな種類のアルコールを注文する。
二軒、三軒、四軒……。いつの間にか時刻は午前二時を過ぎていた。
だんだんと伸二の呂律《ろれつ》が回らなくなってきているのが、はっきりとわかる。目の焦点も合わず、からだの動きもギクシャクしていた。
それでも帰ろうとはせず、狭い路地裏の通りを次の店へと向かって歩く伸二。その姿は尋常ではない。何かに取り憑かれているように見える。
いや、「ように見える」のではなかった。今さら言うまでもないことだが、間違いなく伸二はへべれけに取り憑かれている。へべれけに取り憑かれた人間は、自分の限界を越えても、ぶっ倒れるまで飲み続けなければ気が済まないのである。
そんな伸二のうしろ姿を見ながら、
(もうそろそろかな)
流は思った。
と――
そのときだった。
千鳥足で歩いていた伸二の上体がぐらりと揺れた。ばったりと道路に倒れこむ。
「か、川崎さん」
慌てて駆け寄る流。しかし、心配するには及ばなかった。伸二は高鼾《たかいびき》をかいて眠っているだけだ。心配して駆け寄った自分が愚かに思えるほど、倖せそうな顔をしている。
「やれやれ」
肩をすくめた流だったが、その次の瞬間、
「うっ」
と声を発し、二、三歩あとずきった。
突如として、伸二のからだから靄《もや》のようなものが発生し始めたのだ。靄はどんどん大きく膨れ上がり、たちまち伸二のからだを包みこむ。
(な、なんだ、これは……)
一瞬、流は呆然と靄を見やったが、すぐに、
(へべれけの仕業だな)
と悟った。周囲を見回すが、悠長に探っている暇はなかった。
「グルル……」
と低い唸《うな》り声を上げながら、靄のなかから一頭の巨大な獣が姿を現わしたのだ。――虎だった。
黄色く光る瞳で周囲を睨《ね》め回した虎は、流を目にとめると、
「ガオオオオオッ」
と咆哮《ほうこう》した。
「やる気か」
身構える流。
流がいささかの恐怖も感じていないと見るや、虎はくるりと反転した。表通りに向かって、大きなストライドで走り始める。
「か、川崎さん。待ってっ」
流が呼びかけても、虎は反応を示さなかった。虎になった伸二には、人間のときの記憶はないのだ。
このあたりには人影は見えないが、表通りにはまだ酔客が歩いている。このまま放っておいたら、神楽坂も大騒ぎになるだろう。
(まずいっ)
瞬時に判断した流は、素早く着ているものを脱ぎ捨てた。
素裸になった流の肉体に、たちまち変化が起こる。――ぐぐっとからだが細く伸び、全身が金色の鱗《うろこ》に覆われた。短い手足には、鋭い鉤爪《かぎづめ》が生えている。
もはや、人間の若者だった流の姿はどこにもない。全長五メートルにも及ぶ巨大な爬虫類《はちゅうるい》のような姿が、そこにはあった。
流はふわりと宙に浮いて滑空し、虎の前に舞い降りた。
「騒ぎは起こさせないぜ」
と立ちはだかる。
虎は目をまん丸くして急停止した。尻尾を巻き、Uターンして逃げ出そうとするが、流は許さない。ふたたび宙を飛び、虎の前に立ち塞がる。
「ガルル」
追いつめられた虎は、流に飛びかかってきた。鋭い牙《きば》でもって、流の首筋めがけて襲いかかる。
竜虎の決戦!
しかし、それは呆気なく終わった。
流の鱗が輝き始め、次の瞬間、鋭い矢のような電光が虎を直撃する。
電撃に打たれた虎は、どおっと横倒しになった。
と同時に、またも靄が発生し、虎のからだを包みこむ。
靄が晴れたあとには、ひとりの男が倒れていた。伸二だ。電撃のショックで変身が解けたのだろう。だが、不思議なことに、ちゃんとスーツを着ている。
(そうか。そういうことだったのか)
流は頷いた。
伸二は、本当に虎に変身していたわけではなかった。ただ虎の姿に見えていただけ――すなわち、虎の幻影を纏っていたに過ぎなかったのだ。
「川崎さん……」
倒れている伸二の方に近づこうとした流だったが、その途中、
「ん?」
と立ち止まった。背後から、
「ゲロ……」
かすかな音が聞こえたような気がしたのだ。
(なんだ?)
素早く音の聞こえた方に視線を向ける流。
そこには、全身緑色の生き物が立ちすくんでいた。からだつきは人間に似ているが、首から上が全く違う。――まるで蛙のような顔。よく見ると、手足には水|掻《か》きがある。
間違いない。初めて目にする妖怪へべれけの姿だった。
へべれけは、それまでじっと物蔭に潜んでいたのだが、自らの幻術が破れたショックに、つい路上にまろび出てしまったのだ。
「へべれけだな?」
流が言うが、へべれけは答えなかった。
「ゲロゲロ……」
と、まるで蛙のような声を発しつつ、大きな目玉をキョロキョロと動かしている。
「もうこれまでだ。観念しろ」
と流が近づくと。
「ゲロッ」
へべれけは鋭い叫び声を上げ、身を翻した。ヨタヨタと逃げていく。
ここで、姿を見失うわけにはいかない。
「逃がすか」
流はまたも宙に浮かび、へべれけの斜め前方の上空に移動した。
「行くぞ、へべれけ」
シャー!
流の口から大量の水が奔り出る。流の得意とする激流攻撃だった。
ひょいひょいと身軽に身をかわすへべれけ。
「くそっ」
罵《ののし》り声を上げつつ、流はなおも激流攻撃を続けた。
五度目の噴射で、ようやくへべれけの顔面を直撃! だが、へべれけはケロッとしている。
まさに、蛙の面に何とやら。顔に水を浴びせかけられても、へべれけにとっては痛くも痺《かゆ》くもないのだ。
「ケロケロ」
へべれけは大口を開けて、馬鹿にしたように笑っている。
その隙《すき》を流は見逃さなかった。
「これでも喰らえっ」
という声とともに、またもや流の口から大量の液体が噴出する。
先ほどの攻撃が全く効かなかったことで、へべれけはすっかり図に乗っていた。もはや避けようともせず、ケロケロと笑い続けている。
流の口から噴き出された大量の液体は、大きく開かれたへべれけの口に糸を引くように吸い込まれていった。
ゴクゴクと液体を飲むへべれけ。軽く一リットルはへべれけの腹に収まっただろう。
と――
「クケッ?」
突如として、へべれけの突き出た目玉がクルリと一回転した。と思う間もなく、
「ゲコッ……」
へべれけは奇妙な声を発し、ばったりと倒れた。それきり動かない。
「やった」
地面に舞い降りた流は変身を解き、人間の姿に戻った。脱ぎ捨てた服を身につける。
流の作戦は大成功だった。
へべれけに油断させるため、これまでの攻撃は、わざと手加減していた。そして、最後に流が吐いたのは……。
一見、水のように見えるが、実は水ではなかった。――そう日本酒である。
今日、流が日本酒しか飲まなかったのは、この荒業を使うためだった。飲んだ日本酒を体内に貯めておき、それを一気に放出する!
大量の日本酒を飲まされたへべれけは、全身が麻痺《まひ》状態に陥っていた。しばらく様子を見てみるが、ピクリとも動かない。――やはり『酔虎伝説』に書かれていたことは正しかったのである。
ともあれ、これで一件落着した。しかし……。
惨めな姿で倒れているへべれけを前にして、
(さて、どうしようか)
流は腕を組んだ。少し離れた場所に倒れている伸二のことも気になるが、ま、彼は放っておいても大丈夫だろう。酔いが醒めれば、勝手に帰っていくはずだ。
問題は、へべれけだった。
へべれけは、根本的には悪い妖怪《ようかい》ではなく、息の根を止めるには忍びない。さりとて、このまま放置しておくわけにもいかない。麻痺が解けたら、また新たな獲物を求めて盛り場を徘徊《はいかい》するに決まっているのである。
考えあぐねた流は、とりあえず <うさぎの穴> のマスターに、へべれけの身柄を預けることにした。マスターなら、いい処遇を考えてくれるだろう。
「よいしょ」
へべれけを肩に担いだ流は、夜の神楽坂を歩き始めた。表通りに出、タクシーを拾う。
へべれけを見た運転手は嫌な顔をしたが、
「これ、テレビ用の小道具です。ダウンタウンの番組で使ったものですけど、見たことありません?」
と言うと、素直に信じてくれた。
全身緑色で、人間のからだに蛙の顔。確かに、まさか妖怪とは想像もできないような、愛敬のある姿であった。
そして……。
エピローグ
へべれけは酒樽に詰められて、生まれ故郷の中国の山奥に送り返されることになった。
流に相談を持ちかけられた <うさぎの穴> のマスターが、迷った末に下した結論だった。
へべれけは悪い妖怪ではない。しかしながら、人間社会で生きていくには、あまりに本能が強すぎる。気の弱い酔っ払いを見ると、救いの手[#「救いの手」に傍点]を差し伸べずにはいられないのだ。
マスターの判断に、むろん流も異論はなかった……。
なお、余談ながら――
この事件以来、川崎伸二は精神的に、ちょっぴり強くなった。販売成績も徐々に上がり始め、性格も明るくなりつつあると言う。
伸二自身の記憶にはなかったが、虎の姿になって人々を屈服させた体験は、彼の深層心理に少なからず影響を与えたのだろう。
へべれけは思わぬ土産を伸二の精神に残し、中国に去っていったのであった。
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Take-3――――――――
歩き続けていると、疲れた。
喫茶店に入ってみる。そこでは、不思議な会話が行われていた。言葉を使わない会話。モニターを通じての、意思疎通。
チャット喫茶というやつだった。お茶を飲んで、ついでにパソコン通信を体験してみませんかという、あれだ。
掲示板や情報データベースをのぞいてみるのもいい。電子の手紙をやりとりするのもいい。
だが、ここで人気を集めているのは、リアルタイムで、文字を、文章を電子的に送り、やりとりを行うというやつ。チャットとか、リアルタイム会議だとか、いろいろな名で呼ばれている。
ほんの少し手を伸ばせば触れあえる、隣にいる人物ではなくて、電話回線を通じて、顔も見えない誰かと会話する。
コミュニケーション。
他の誰か、自分以外のもの[#「もの」に傍点]とわかりあうこと。
できるんだろうか。それには、何が必要なのだろうか。
彼が生まれてきた故郷。人間の心を、理解できない妖怪たち。想像することしかできず、真実が見えず。
人間にだって、しかし、それはわかることなのか? 互いのことをほんとうに知っていると言えるだろうか?
会話、会話、会話がくりひろげられている。
どんなふうに?
言葉だけでだ。表情、抑揚、身振り、それらに助けられてさえ、ひとは互いの思いを理解することができないというのに、ここにはそのどれもが欠けている。
それでも、あきらめられずに、信じている。いつかは、わかりあえるのではないだろうか、と。
パソコン通信の「ネット」という呼び名がある。
妖怪たちにも、ネットワーク、というものがある。彼らは、お互いを知っている。だから、さまざまに助けあおうというつながりを持った。
けれど、パソコン通信のネットワークでは、顔も知らず、名前すら知らない相手を、救ってやろうとする。手助けしてやろうと思う。その心は、何に由来しているのだろう。
キーボードを押してみる。
言葉がつながっていく。
それは、心を伝えてくれるだろうか。何かを、見せることができるだろうか。
やってみるしかない。
やってみなければ、何も伝えられないのだ。
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第三話  影の国の鈴音  山本 弘
1.緊急事態:グレードA
2.助けをを呼ぶ声
3.〈えむ・ぱい屋〉
4.ゲームデザイナー
5.鈴音
6.マスターディスク
7.隠された真実
8.いまひとたびの別れ
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1 緊急事態:グレードA
シーベルは腰を落として勢いよく踏みこみながら、手にした錫杖《メイス》をヴァルガの顔面めがけて突き出した。上半身ライオンで下半身ドラゴンの合成獣《キマイラ》は、その攻撃をかわすと、聖堂の床を蹴《け》って前方にジャンプした。しゃがんだ女司祭《プリーステス》を飛び越えながら、長い尻尾《しっぽ》を頭上から叩《たた》きつけようというのだ。
シーベルの対応には隙《すき》がなかった。女司祭はしゃがみ姿勢から垂直にジャンプし、空中でバク転しながらキックを放ったのだ。ポリゴンで構成された白い衣がひるがえり、すらりとした長い脚が空中に逆U字の軌跡を描いて、頭上を飛び越えようとしたヴァルガの腹にヒットする。
吹き飛ばされたキマイラは大きな放物線を描き、床に叩きつけられた。ヴァルガのライフゲージが一気に二センチほど縮む。
「あちゃあ……」パッドを手にしていた谷町《たにまち》徹《とおる》は顔をしかめた。「やっぱ、この間合いでめくり≠ヘ不利か……」
シーベルは聖なるメイスを高く振り上げ、神の奇跡を願った。必殺技ディバインフィストの体勢だ。谷町は慌ててキックボタンを連打した。キマイラほ床の上をごろごろと転がり、間一髪、頭上から降ってきた白く輝く巨大な神の拳《こぶし》をかわした。
谷町はレバーを半回転させ、パンチボタンを叩いて、ヘルファイアのコマンドを入れた。キマイラは跳ね起きると同時に、口から勢いよく炎を噴射した。だが、シーベルはメイスを風車のように回転させて炎をはじく。
「固いな、ちくしょう……」
谷町はうなった。シーベルのローリングガード(開発スタッフはぐるぐる防御≠ニ呼んでいるが)は正面からのどんな攻撃もはじくが、頭上と足許にだけ隙が生じる。さっきは頭上を狙《ねら》って失敗したから、今度は足を攻めてみよう。
炎の持続時間が切れるタイミングを見計って、レバーを右に二回入れながらキックボタンを叩く。スライディング攻撃だ。シーベルはまだぐるぐる防御≠ェ解除できない。ヴァルガは回転するメイスの下をくぐり抜け、シーベルの脚にかぶりついた。
「よっしゃ!」
谷町はすかさず必殺技ストームファングのコマンドを入れた。レバーを下・上・下、パンチボタンを二つ同時に叩く。ヴァルガは激しく首を振り回し、くわえこんだシーベルを引きずり倒して、そのしなやかな体を何度も何度も床に叩きつけた。画面が激しく撼れ、シーベルのライフゲージが見る見る削られてゆく。
ヴァルガは最後にひときわ大きく首を振り回し、ボロ布のようになったシーベルを空中高く投げ飛ばした。シーベルはフィールドの外まで飛ばされ、聖堂の壁に激突した。そのまま床にずり落ち、がらがらと崩れてきた壁の破片に埋もれてしまう。
画面に <VALGA WIN> の文字が輝く。ヴァルガはコウモリのような翼を誇らしげに広げ、天に向かって勝利の咆哮《ほうこう》をあげた。
「まだやってんの? 精が出るね」
背後からの聞き覚えのある声で、谷町は現実世界に引き戻された。ここは都内にある大手ソフトハウス <えむ・ぱい屋> の開発室。時刻は金曜日の夜九時である。
谷町がテストプレイに使っているパソコンは、1ギガバイトのハードディスクと32メガバイトのメモリーを搭載したWindowsマシンに開発用ボードを挿しこんだもので、モニターは17インチ。もちろんCD―ROMドライブも付いている。キーボードとパッドと缶コーヒーを置くわずかなスペース以外は、資料を収めたファイルやパソコン雑誌がうず高く積み上がれていて、肘《ひじ》を置く場所さえない。谷町が特にだらしないというわけではなく、ずらりと並んが同僚たちのデスクも同じようなものだ。
声をかけたのは先輩社員の呉《くれ》友也《ともや》だった。ひょろりと背が高く、髪はろくに櫛《くし》も通さないのでぼさぼさだ。いつもぼんやりと眠そうな顔で、喋《しゃべ》り方も眠そうである。中学の頃からパソコン一筋に生きてきたのだそうで、暇さえあればパソコン通信に熱中しており、もう二〇代後半だというのに恋人もいないらしい。しかし、鈍重そうな外見に似合わず頭の回転は速く、プログラミングに関しては天才的な腕前と、社内では評価されている。
谷町は恥ずかしそうに頭をかいた。「昨夜、飲み過ぎちゃって……今日、出社したのが二時半だったんですよ。だから一〇時半までがんばらないと」
<えむ・ぱい屋> はフレックスタイム制を採用している。社員は何時に出社してもいいが、最低八時間は会社で仕事をしなくてはならない規則だ。呉も出社したのは昼少し前で、晩飯にハンバーガーを食べ、これから帰るところだった。
「いい具合に、夕方に新しいCDが上がってきたんで、今晩のうちにCPUキャラの思考ルーチンを全部再チェックするつもりです」
画面上では次のファイトが開始されていた。ヴァルガとシーベルはフィールドの中央に戻り、ファイティング・ポーズを取って威嚇し合っている。
「新しいCDって……テストプレイ用のバージョンじゃないの?」
「いえ、マスターですよ。バージョン9だったかな? いちおう、これまでのバグは全部直ってるはずなんですけど、念のためにと思って」
ファンタジー・ポリゴン格闘ゲーム <ミスティック・チャレンジャー> は、三か月後に全国一斉発売予定の新世代ゲーム機 <サイバージェネシス> の主要ラインナップとして、すでに各ゲーム誌などで発表済みだった。 <えむ・ぱい屋> の社運を賭《か》けたプロジェクトである。
すでにプログラミング作業はひと通り終了し、現在はテストプレイと平行してデバッグを進めているところだった。バグは発売日までに可能なかぎり修正されなくてはならない。バグを発見した者は、その内容をバグレポートに詳しく書いて提出する。バグの深刻度は、「大至急、処置が必要」のグレードAから、「放置しても支障なし」のグレードEまで、五段階で評価される。無論、グレードの高いバグが優先的に修正されるのである。
グレードAのバグとは、たとえばキャラクターが動かなくなるとか、画面がぐちゃぐちゃになってしまうといった、プレイ続行が不可能となる致命的なものだ。この <ミスティック・チャレンジャー> の場合も、開発の初期段階では、キャラクターの頭部が消えて首無し人間になってしまうとか、床にめりこんで動けなくなるとか、連続技が止まらなくなってあっという間にゲームオーバーになるなど、爆笑もののバグがいくつもあった。それらを根気よく修正し、ようやくプレイ可能なものにこぎつけたのである。
「長い道のりだったなあ……」
支障なくスムーズに動いている画面を見ながら、呉がしみじみと言った。新開発の高速ポリゴンエンジンをはじめとして、数々のツールの助けがあったとはいえ、白紙の状態からここまでこぎつけるのに一年以上も要したのだ。デバッグのために泊まりこんだ日も何日もあったし、ほとんど連日残業だった。
「ここんとこ、あまり大きなバグが見つからないな。おかげで早く帰れるってもんだが……」
「そうですね」谷町はパッドを操作しながら返事した。「残ってるバグは、もうたいしたことないでしょう。グレードAやBは、さすがにもう全部|潰《つぶ》しましたからね。あとはバランス調整して、発売を待つばかり……」
「さあ、それはどうかな」呉は不安そうに言った。「いくらデバッグしようが、バグってやつは絶対どこかに残ってるものなんだ。それも、確かに何度も調べ直したはずの場所に……」
谷町はにやりと笑った。「マーフィーの法則ですか?」
「そう。バグのないソフトなんてものは、この世に存在しない。僕らはいつも完璧《かんぺき》を目指して仕事をするけど、本当に完璧なソフトなんかできたためしがない。いつだってマーフィーが邪魔をする……」
そう断言する呉の口調には、ベテラン・プログラマーとしての経験の重みがあった。その心情は谷町にも理解できた。パソコンと長くつき合っていると、モニターの向こうに悪意を持った何者かがひそんでいるような妄想にかられることがある。そいつはプログラムに余計なコンマひとつをつけ加えて致命的なバグを発生させたり、バックアップを取り忘れている時を狙ってデータを破壊したりして、プログラマーを恐怖させる……。
プログラミングという作業は、時間との戦い、マーフィーとの戦いなのだ。
「それ、行けえ!」
谷町はまたもストームファングを決めて、シーベルを投げ飛ばした。今度はシーベルはうまく着地し、フィールドの端にかろうじて踏みとどまった。だがライフゲージは残り少ない。調子づいた谷町は、敵にとどめを刺そうと、ヴァルガを突進させた。
その時、シーベルは膝をついてメイスを目の前に掲げ、祈りのポーズを取った。メイスの先端のシンボルがきらきら輝いたかと思うと、画面がまばゆくフラッシュする。シーベルのもうひとつの必殺技、ホーリー・バーストだ。飛びかかろうとしたヴァルガは、神の奇跡の光を至近距離で浴び、派手にはじき飛ばされた。
画面に <SEABELL WIN> の文字が輝き、彼女は「これがあなたの運命なのよ」と勝利の決め台詞《ぜりふ》を言った。
「あたたたた……」
谷町は自分がダメージを受けたかのように顔をしかめた。呉は満足そうにうなずく。
「今の間合いじゃ、ダッシュは無謀だな。ヴァルガのダッシュは強力だけど、慣性が大きくてすぐに止まれない。敵が無防備状態が二秒以上ある動作に入った時に、パワーが残っていたら、シーベルはすかさずホーリーバーストに入るんだ。ホーリーバーストのウォーミングアップ時間は一・八秒だからね」
「絶妙の思考ルーチンですね」谷町は悔しそうに言った。「高畑《たかはた》さんたちが弱くしろって言うのも無理ありませんよ」
「うーん、でもね、僕が創ったキャラが簡単に負けてもらっちゃ困るんだよ」
呉は恥ずかしそうに笑ったが、その口調にはちょっぴり自慢そうな響きがあった。子供っぽい人だな、と谷町は内心あきれていた。
<ミスティック・チャレンジャー> の計一〇体のキャラ(プレイヤー用キャラが八体、ボスキャラが二体)は、二〇人のプログラマーが分担して作成した。従来の格闘ゲームでは、イメージを統一するためにキャラクター・デザイナーが一人いて、プログラマーは紙に描かれたそのデザイン画をグラフィックに起こす作業をしていた。しかし <ミスティック・チャレンジャー> では、各キャラごとに個性を持たせるため、あえてキャラクター・デザイナーを設けず、各プログラマーにキャラを競作させたのである。
純白の衣装に銀の胸当てをつけた女司祭シーベルは、呉がデザインを担当した。デザイン画をポリゴンに起こす作業には他のプログラマーの手も借りたが、技を考えたり、思考ルーチンを組んだのはもっぱら呉である。デザインの細部には他のメンバーの意見も取り入れられているが、呉が創造したキャラクターであることは間違いない。だから呉のシーベルに対する思い入れも理解できる。
しかし、ゲームにはバランスが重要なのだ。難易度が高すぎると初心者にはとっつきにくくなる。開発チーフの高畑らは、シーベルの思考ルーチンを変更して、もっと弱くすべきだと主張しているのだが、呉は消極的だった。「シーベルは今の状態が完璧です。いじったら絶対におかしくなります」と言うのだ。その頑固さには、他の社員も手を焼いていた。
「呉の奴、最近、ちょっとおかしいんだ」休み時間に先輩プログラマーの火野《ひの》がささやいた言葉が思い出される。「どうも宗教にハマってるみたいなんだな。急に聖書の言葉を引用したりするしさ。奴のアパートに行ったら、聖書関係の本が何冊もあったよ。もしかして、シーベルへの思い入れも、それに関係あるんじゃないか?」
谷町自身は呉の口から宗教的な言葉など聞いたことはないし、呉のアパートを訪れたこともないので、火野の言葉には半信半疑だった。しかし、呉が内向的で人づき合いが悪く、ちょっととっつきにくい人間であることは確かだった。不快というほどではないが、親しくはなりたくないタイプだ。
「じゃ、僕はこれで帰るから」
「あ、お疲れさま」
開発室を出てゆく呉に、振り返って軽く頭を下げると、谷町はモニターに向き直ってテストプレイに専念した。
部屋の中にはもう彼一人しかいない。音量を絞っているので、ゲームのBGMはきわめて小さく、パッドを操作するカタカタという音の方が大きく響いている。この時刻には社員やバイトはみんな帰っているはずだから、このビルの中にいるのは、彼の他には警備員だけのはずだった。
谷町は黙々とテストプレイを続けた。戦い方のパターンをさらにいくつか試してみた後で、今度はわざとやられてみることにした。バグはどこにひそんでいるか分からない。勝つために定石通りのプレイをしているだけでは、発見できない場合もある。
まずはヴァルガを正面から突進させてみる。シーベルはひざまずき、メイスを掲げて祈りのポーズを取った。ホーリーバーストが炸裂《さくれつ》する。聖なる白い光をまともに浴びて、ヴァルガは吹き飛ばされた。
今度はレバーを上に入れてジャンプしつつ、キックボタンを連打する。ヴァルガは空中にホバリングしながら、コウモリのような翼を激しくはばたかせて、ドラゴンウィンドを巻き起こした。床から埃《ほこり》が激しく舞い上がるっシーベルは腰をかがめて突風に耐えるポーズを取っている。この技はうまくタイミングを合わせれば敵を吹き飛ばすことができるが、この間合いではほとんど効果はない。
シーベルは風の攻撃に耐えながらホーリーバーストを放った。谷町はドラゴンウィンドを中断し、ヴァルガに空中で防御姿勢を取らせて、その攻撃に耐えた。
ある有限の速度で画面上を飛ぶ通常の飛び道具技と異なり、ホーリーバーストはメイスから扇状に広がるうえ、文字通り一瞬フラッシュするだけなので、かわすことはほとんど不可能である。防御姿勢のみ効果があるのだ。きわめて強力な技である反面、近距離ではあまり役に立たない。技を出すまでの時間が長いので、その隙に攻撃される危険が大きいのだ。だからこそ、敵の無防備状態を狙って放つように設定されているのである。
谷町は今度はヴァルガをゆっくり前進させた。シーベルはまたもホーリーバーストを放ち、ヴァルガの接近をはばんだ。
その時、初めて谷町は異状に気づいた。
いや、さっきから奇妙な違和感を覚えてはいたのだ。形にならない不安、見えない手でじわじわと首を絞められているような息苦しさ――テストプレイをしている間じゅう、それがずっと彼の心の片隅でうごめいていた。
それは空腹に似ている。空腹感はいきなり襲ってぐるのではなく、胃の内容物が減少するにつれ、じわじわと高まってくる。最初はそれに気づかない。しかし、空腹感が充分に高まると、突然、自分がさっきから空腹であったことに気づく……。
まさにそれと同じく、谷町は自分がさっきからずっと違和感に苛《さいな》まれていたことに気がついたのだ。
「妙だな……」
そうつぶやくと、谷町は何度も目をこすった。何かがおかしいのだが、どこがどうおかしいのかが分からない。それがいっそう不安をかきたてる。
ただひとつだけ確かなのは、不安をもたらす原因が <ミスティック・チャレンジャー> の中にあるということだ。
谷町は立ち上がると、身を乗り出してデスクの裏側を覗きこんだ。隣の火野のデスクのパソコンに接続されているビデオデッキのケーブルをはずし、自分の使っているパソコンにアダプターを介して接続する。
ビデオデッキはアクション・ゲームのデバッグに欠かせない機材である。アクシデントの中には、きわめて特殊な状況で、何万分の一という偶然でしか発生しないものもある。それを再現するには、ビデオで録画しながら何度も何度も同じ状況を繰り返してみるしかない。画面に異常が発生したら、ただちにそれを再生し、プログラムのどこにバグがあるかを検討するのである。
開発の初期段階では重宝したビデオも、グレードAやBのバグが取り除かれた今では、あまり使われてはいない。しかし、谷町は自分を苛む不安の原因を突き止めるには、どうしてもビデオデッキが必要だと感じていた。
ビデオを回しながらプレイを再開する。今度はヴァルガをわざと動かさず、シーベルの動きを観察することに専念した。
シーベルは勢いよく突進してくると、メイスをヴァルガの顔面に叩きつけた。ヴァルガははじき飛ばされる。
ヴァルガが起き上がってきたところへ、またもやホーリーバーストが放たれた。ヴァルガはフィールドの外まで飛ばされ、ゲームオーバーとなる。
「いくらあがいても無駄なことよ」シーベルが勝利の決め台詞を言う。
谷町はビデオデッキに手を伸ばし、今のシーンを再生した。隣のデスクに置かれた15インチの家庭用カラーモニターに、ゲームオーバー直前のシーンが映し出された。ホーリーバーストを放つシーベル、吹き飛ばされるヴァルガ――グラフィックにも、動きにも、タイミングにも、何もおかしなところはない。
谷町はもう一度巻き戻すと、問題のシーンをスローで再生した。何か妙なものが見えたような気がした。慌てて一時停止をかけ、ジョグシャトルを操って、一コマずつ慎重に画面を戻してゆく。
その指がぴたりと止まった。
「何だ……こりゃあ」
谷町は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。最初は単なる当惑だったが、画面に映し出されたものの重大さを理解するにつれ、口の中がからからになるのを覚えた。
グレードAだ――対応を誤れば、 <ミスティック・チャレンジャー> のプロジェクトが中止に追いこまれかねない。それどころか、 <サイバージェネシス> の人気そのものにまで影響を及ぼす可能性もある。
もう一〇時を回っている。呉はすでに家に帰っている頃だ。彼に連絡するか……?
電話に手を伸ばしかけ、谷町は手を止めた。いや、だめだ。自分が発見したことを呉に知らせるのはまずい。
だとしたら誰だ? 谷町は混乱した頭を必死に回転させた。そうだ、高畑がいい。開発チーフの彼なら、対応策を考えてくれるだろう。彼は電話に飛びつくと、短縮ダイヤルで高畑の家を呼び出した。
「はい、高畑です。ただ今、外出しております……」
留守録だった。そう言えば高畑は火野たちといっしょに退社したのだった。金曜の夜だから、きっとまだみんなで飲み歩いているのだろう。
谷町はあせった。伝言を入れようかとも思ったが、事態が重大なので、うかつに口に出すことができなかった。高畑以外の人間が誤って再生して聞いてしまう危険むあるのだから。かと言って、高畑の帰りをのんびり待ってもいられない……。
くそっ、何でうちのスタッフは、誰も携帯電話を持ってないんだ!?
「谷町です。ええと……グレードAです。重要なので電話では話せません。電子メールに書きこみますんで、戻られしだい読んでください」
電話を切ると、谷町はすぐに同僚のパソコンに飛びつき、通信ソフトを起動させた。ファンクション・キーを一回、リターン・キーを一回|叩《たた》くだけで、自動的に近くのアクセス・ポイントに電話がかかる。回線が接続すると、IDとパスワードが自動送信され、ネットワークに入ることができた。
電子メールに大急ぎでメッセージを書きこむ。慌てているので、文章が多少おかしいが、気にしてはいられない、
高畑に送信する前に、念のため文章を再生してみて、谷町は愕然《がくぜん》となった――めちゃくちゃに文字化けしていて、ぜんぜん読めない。意味のない記号の羅列だ。どこかで通信障害が起きているのだろうか?
「これがあなたの運命なのよ」
つけっ放しにしているゲーム用モニターの中で、シーベルが楽しそうに喋っている。頭が熱くなるのを覚えながらも、もう一度、谷町は同じ文章を打ちこんだ。
またも文字化けしている。
「ちくしょう、こんな時に!」
谷町は毒づいた。それでもなお、文章を打ち直そうとする。
「……無駄なことよ……これがあなたの運命なのよ」
キーをいくつか叩いて、谷町は戦慄《せんりつ》した――今度は文章そのものが入力できない。キーボードに打ちこんだのに、文字が画面に現われないのだ。
こんなことはありえない。
「言ってるじゃないの。いくらあがいても無駄なことなのよ」
谷町は驚いて振り返った。
モニターいっぱいにシーベルの顔が映っていた。ポリゴンの上にテクスチャー・マッピングされた顔が、谷町の狼狽《ろうばい》ぶりを楽しそうに見つめている。
「あなたの運命なのよ」
そう言ってにんまりと笑うと同時に、シーベルの顔はぱっとポリゴンに分解した。色とりどりの三角形や四角形の板が、画面の中を無秩序に舞い踊る。谷町は声を出すこともできず、技術的にあり得ない現象を茫然と見つめていた。
突然、ポリゴンが画面の外に飛び出してきた!
谷町は悲鳴をあげ、椅子《いす》から転げ落ちた。モニターから紙吹雪のように噴出した何百というポリゴンは、空中でぐるぐると回転し、高さ二メートルほどの竜巻となった。驚き恐怖する谷町の眼前を、シーベルの顔の断片が通過する。テクスチャー・マッピングされた目が、通り過ぎざま、彼にいたずらっぽくウインクした。
ステンドグラスの破片をぶちまけたようなきらびやかなポリゴンの竜巻は、高さを一定に保ったまま、半径を急速に縮めていった。ガラスが砕ける光景を逆回転で見るように、ばらばらになっていたポリゴンが組み合わさってゆく。谷町が茫然と見上げているうちに、それはシーベルの全身像となった。彼女は腕を高く掲げ、フィギュア・スケーターのようにくるくる回転していた。
やがて回転が止まると、今や実体を有したファンタジー世界の女司祭は、床の上にすっくと立った。銀の胸当てを身につけ、聖なるメイスを手にしたその凛々《りり》しい姿は、北欧神話の戦乙女ヴァルキリーを思わせた。白いロングスカートのスリットから伸びた、すらりとした長い脚が、健康なエロティシズムを表現している。
彼女は這《は》いつくばっておびえている谷町を見下ろし、残酷な笑みを浮かべた。実体を得たと言っても、ポリゴンで描かれた絵であることに変わりはない。その顔は人間に似せてはいるものの、複雑な多面体で構成されている。それが人間をまねて笑う光景は、たとえようもなく異様だった。
「気がついたのは不運だったわね」シーベルは言った。「まだ知られては困るの――早すぎるのよ」
谷町はパニックに陥った。意味のない言葉をわめきちらしながら、起き上がって逃げ出そうとする。しかし、恐怖のあまり足がもつれ、まともに走ることができない。シーベルは彼の狼狽ぶりを楽しむかのように、おもむろに大股で歩み寄ってくる。
谷町はよろめきながらドアに体当たりして、通路に転がり出た。ここは五階だ。エレベーターを待ってはいられない。非常階段に向かって必死に走る。
非常階段のところで谷町は振り返った。シーベルは通路に姿を現わしていた。床にひざまずき、メイスを掲げている。見慣れたホーリーバーストのポーズだ。すでにメイスは青く輝きはじめている。そのウォーミングアップ時間は一・八秒しかない……。
しびれるような一瞬、谷町は自分の死を確信した。
次の瞬間、メイスから白光が放たれた。谷町は全身に強烈な衝撃を受けて吹き飛ばされ、壊れた人形のように階段を転げ落ちていった。
シーベルはポリゴンの顔に満足げな笑みを浮かべると、すっくと立ち上がった。処置は完璧《かんぺき》だ。ホーリーバーストは純粋なエネルギーによる打撃なので、外傷や火傷《やけど》は残らない。検死を行なっても階段を踏みはずしたようにしか見えないだろう。
彼女は悠然とした足取りで室内に戻った。積み木のような角ばった指でビデオデッキを操作する。ビデオを巻き戻し、パソコンからケーブルをはずして、録画ボタンを押した。これで谷町の記録した映像はすべて消去される。再生しても映るのはノイズの嵐だけだ。
ビデオを止めると、彼女は再びモニターの前に立った。その体がぐるぐると回転をはじめたかと思うと、無数のポリゴンに分解した。きらめく色ガラスの断片が、流れるように画面に吸いこまれてゆく。数秒後、モニターに映っているのは、 <ミスティック・チャレンジャー> の正常なデモ画面だった。
だが、この時点では彼女は気づいていなかった――無人のはずの室内で、犯行の一部始終を見ていた者がいたことを。
2 助けを呼ぶ声
高徳《たかとく》大樹《だいき》の暮らす安アパートに、民俗学教授の高徳|孝三郎《こうざぶろう》から電話がかかってきたのは、九月九日月曜日の朝だった。
「あれ? 父さん、珍しいじゃない、こんな時間に……」
昨夜遅くまでパソコンと向かい合っていた大樹は、眠い目をこすりながら言った。この人間の養父を、彼はごく自然に「父さん」と呼んでいた――実際には彼は孝三郎の何倍も長く生きているのだが。
子供のいない高徳夫妻は、京都の丹波の山奥で暮らしていた大樹を発見して引き取り、偽の身元を用意し、人間としての教育を与え、一流大学にまで入れてくれた。その恩を忘れるわけにはいかない。今は独立して暮らしているが、一月に一度ぐらいは顔を会わせている。
「お前、夜はパソコン通信をやってて、つながらないことが多いじゃないか」
「ま、そうだけどさ……緊急の用件?」
「まあな――FMUKASHIの8番会議室、最近|覗《のぞ》いてるか?」
孝三郎は大樹の影響で、最近、パソコン通信をはじめるようになった。FMUKASHIは民俗学や伝説、おとぎ話などを扱うフォーラムだ。8番会議室は現代の怪談や都市伝説をテーマにして話し合っている。都市伝説は新しい妖怪の出現につながることも多いので、大樹はちょくちょくチェックしていた。
「いや……ここ三週間ほどは見てないな。ここんとこ、トイレの花子さん≠ンたいなカビの生えた話題しか出てないから――何か変わった発言、あった?」
「ああ。 <うさぎの穴> を探してる人がいるぞ。かなり深刻そうだ」
大樹はいっぺんに目が醒《さ》めた。
「分かった。すぐにチェックするよ――でも、そんな用件なら、それこそメールで送ってくれれば良かったのに」
「どうも電子メールというやつは好きになれんのだ。電気信号の文章というのは、心がこもっていない気がする」
大樹は養父の時代錯誤を笑った。「この電話だって、電話線を伝わる電気信号という点では同じだよ」
「電話なら声の調子でいろいろなことが分かる。だが、文章ではそれが伝わらん。相手がどんな心理で発言しているのか分からない――そうだろう?」
「まあ、そうだけどね……」
「それにパソコン通信というやつは、相手がどこに住んでいるどんな人物なのか、さっぱり分からない。顔も見えない、どこの誰とも分からない人間と話すというのは、落ち着かないね」
「手紙のようなものだと思えばいいんだよ。そのうち慣れるって――じゃ、月末には帰るから。母さんによろしく」
「うむ。夜更かしもほどほどにしろよ」
「へへ」
大樹は電話を切ると、さっそくパソコンを起動させ、ネットワークに接続した。夜は混み合ってつながりにくいことも多く、何分も待たされることがしばしばあるが、朝のこの時刻は利用者が少なく、スムーズに接続できた。
FMUKASHIの8番会議室に入ると、問題の発言はすぐに見つかった。すでにRESもついている。
[#ここから3字下げ]
00857/00868 HQI202064 鈴音 「うさぎの穴」について
(8) 09/07 00:16  コメント数:1
この会議室では初めて発言させていただきます。鈴音と申します。
さっそくですが、知りたいことがあります。「うさぎの穴」というバーがあるという話を聞いたことがあるのですが、本当でしょうか? どうすれば連絡がとれるのでしょうか? ぜひ詳しいことを知りたいのですが、ご存知の方はおられますか?
[#地付き]鈴音
00858/00868 TSB035733 まりの RE:「うさぎの穴」について
(8) 09/07 02:51 00857へのコメント  コメント数:1
鈴音さん、いらっしゃいませ。
「うさぎの穴」は東京近辺で女子高生とかの間でささやかれている、わりとポピュラーな都市伝説のようです。妖怪がたむろしている秘密のバーだそうで、悪い妖怪に取りつかれて困っている人を助けてくれるそうです。場所は渋谷の道玄坂1丁目だと言われています。興味がおありなら、探してみてはいかがでしょうか? もっとも、用のない人間の目にはその店は見えないとか、好奇心だけで訪れた人間は食われてしまうとか言われていますが。
[#地付き]まりの
00860/00868 HQI202064 鈴音 RE:RE:「うさぎの穴」について
(8) 09/07 06:03 00858へのコメント
まりのさん、さっそくのお返事ありがとうございます。
残念ながら、事情があって、私は道玄坂まで出かけることができません。他に何か「うさぎの穴」に連絡する方法はないのでしょうか? パソコン通信とか。
ご存じでしたらお教えください。
[#地付き]鈴音
[#ここで字下げ終わり]
「ふうん、こりゃかなり深刻だな……」
大樹はつぶやいた。一見すると冗談半分にも見える書きこみだが、同じ日の午前〇時と午前六時にログインしている。よほどあせっている証拠だ。その後も、土曜の深夜、日曜の深夜にも書きこみを入れていた。
念のためにHQI202064のIDのプロフィールを調べてみたが、プロフィール登録はされていなかった。「鈴音《すずね》」というハンドルネームだけでは、年齢も住所も職業も、男か女かすらも分からない。
大樹は少し考えた。誰でも自由に読めるフォーラム上で、おおっぴらに <うさぎの穴> の話をするのはまずい。鈴音に対して電子メールを送るという手もあるが、電子メールではハンドルネームが使えないという難点がある。大樹のプロフィールも登録されてはいないが、本名さえ分かれば、住所や電話番号を探り出すのはたやすい。東京都下だと見当をつけ、104の番号案内で訊《たず》ねればいいのだから。
鈴音の正体が分からない以上、こちらもうかつに正体を明かすのはまずい。
もう一度、鈴音の書きこみをチェックした。一回目は七日の〇時一六分、二回目は七日の六時三分、三回目は八日の〇時四分、四回目は九日の〇時五分……二回目以外はきっちり午前〇時にログインしているようだ。数分の誤差があるのは、以前の書きこみを読み、文章をオンラインで打ちこむのに要する時間があるからだろう。
ということは、今夜も午前〇時に現われるのだろうか?
その夜、大樹は午前〇時数分前からFMUKASHIの8番会議室に入り、待機していた。
一分ごとに「UST」のコマンドを打ちこみ、鈴音がいないかチェックする。これは同時刻にフォーラムを利用している会員のIDを表示するコマンドだ。
午前〇時ジャスト。HQI202064のユーザーが現われた。
待ってましたとばかり、大樹は「SEND」コマンドでそのユーザーに対してメッセージを送った。
[#ここから3字下げ]
GAA002412のユーザーからのメッセージです。
初めまして、鈴音さん。お話をしましょう。
[#ここで字下げ終わり]
SENDコマンドによるメッセージなら、ID以外は表示されない。これならこちらの正体がバレることはない。
二〇秒、三〇秒……大樹は待ったが、なかなか返事は来なかった。回線の向こうで相手がとまどっているのが感じられるような気がする。無理もない。いきなり正体不明の相手から呼びかけられたら、警戒して当然だ。
一分ほどして、ようやく返事が来た。
[#ここから3字下げ]
HQI202064のユーザーからのメッセージです。
どなたですか?
[#ここで字下げ終わり]
大樹は続けて三つのメッセージを送った。
[#ここから3字下げ]
GAA002412のユーザーからのメッセージです。
「うさぎの穴」の者です。
GAA002412のユーザーからのメッセージです。
ここでは話しにくいですね。
GAA002412のユーザーからのメッセージです。
チャットしませんか?
[#ここで字下げ終わり]
返事はすぐに来た。
[#ここから3字下げ]
HQI202064のユーザーからのメッセージです。
分かりました。
HQI202064のユーザーからのメッセージです。
Bバンドの22チャンネルで。
[#ここで字下げ終わり]
「はいはい」
大樹はうきうきして、すぐに「CB」のコマンドを打ちこみ、CBシミュレーターに移動した。
CBシミュレーターは気軽にチャット(お喋《しゃべ》り)を楽しめるサービスである。CB無線のパソコン版なのでこう呼ばれている。AとBの二つのバンドがあり、各三〇チャンネル、計六〇のチャンネルがある。同じチャンネルを選択した者は、何人でも同時におしゃべりを楽しむことができるし、秘話機能を使えば会話を他人に見られることなく、電話のような使い方ができるのである。
平日の夜はさほど利用者は多くない。Bバンドの22チャンネルには、利用者数が「1」と表示されている。ひと足先に鈴音が入っているのだろう。
大樹はハンドルネームを「WOOD」に設定し、22チャンネルに入った。ただちに「TALK」コマンドを使って二人だけの会話に入る。誰か他のユーザーが22チャンネルに入ってきたとしても、会話を読まれる心配はない。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)こんばんは>鈴音さん
(22,鈴音)どなたですか?
(22,WOOD)あなたの探している者です
(22,鈴音)「うさぎの穴」の?
(22,WOOD)そうそう
(22,鈴音)では、つまり?
(22,WOOD)その通りです
(22,鈴音)信じていいのでしょうか?
[#ここで字下げ終わり]
「レスポンスが早いな……」
大樹はモニターを見ながらつぶやいた。パソコン通信に慣れない人間だと、返事にもたもたと時間がかかることが多いのだが、鈴音はほんの数秒で確実にレスポンスを返してくる。相当に慣れた人物だ。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)信じられませんか?
(22,鈴音)よく分かりません
(22,鈴音)何か証拠は?
(22,WOOD)証拠?
(22,鈴音)そう、信じられるもの
(22,WOOD)困ったな
(22,WOOD)パソ通ではちょっと
(22,WOOD)化けて見せるわけにもいかないし (^_^)
(22,鈴音)でしょうね
(22,WOOD)あ、でも、化けるぐらいならできます
(22,鈴音)どうやって?
[#ここで字下げ終わり]
大樹はいたずら心を起こした。「HANDLE」コマンドを使って、ハンドルを「茶釜《ちゃがま》」に変更する
[#ここから3字下げ]
(22,茶釜)ほら、茶釜に化けました
(22,鈴音)面白い (^_^)
(22,お婆さん)次はお婆さんに
(22,鈴音)うまいうまい
(22,WOOD)でもって、また元の姿に
(22,鈴音)あなたは楽しい人ですね
(22,WOOD)まあね
(22,WOOD)信じてもらえましたか?
(22,鈴音)分かりません
(22.鈴音)でも、悪い人ではないようです
[#ここで字下げ終わり]
どうやら緊張をほぐすことができたようだ。鈴音は最初のぎくしゃくした感じが消え、積極的に話すようになった。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)お困りのようですね
(22,鈴音)はい
(22,WOOD)妖怪がらみ?
(22,鈴音)そうです
(22,鈴音)あれは妖怪としか考えられません
(22,WOOD)あなたに害を与えている?
(22,鈴音)私にではありません
(22,鈴音)ある人がトラブルに巻きこまれかけています
(22,WOOD)詳しく話してください
(22,鈴音)人が殺されるところを見ました
[#ここで字下げ終わり]
大樹は緊張した。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)妖怪に?
(22,鈴音)はい
(22,WOOD)いつ? どこで?
(22,鈴音)金曜の夜、あるソフトハウスで
(22,WOOD)ソフトハウス?
(22,鈴音)えむ・ぱい屋
(22,WOOD)聞いたことがあります
(22,WOOD)ミスティック・チャレンジャー作ってる?
(22,鈴音)そうです
[#ここで字下げ終わり]
鈴音は六日の夜に自分が目撃したものを詳しく語った。モニターの中からゲーム・キャラであるシーベルが飛び出してきたこと。谷町というプログラマーが殺されたこと。その原因は彼が録画したビデオに関係しているらしいこと……。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)そのビデオには何が?
(22,鈴音)分かりません
(22,鈴音)私の位置からは画面が見えませんでした
(22,WOOD)その時、あなたはどこに?
(22,鈴音)ドアの後ろ
(22,WOOD)シーベルはあなたに気づかなかった?
(22,鈴音)はい
(22,WOOD)なぜそんなところに?
[#ここで字下げ終わり]
少し間があってから、鈴音は答えた。
[#ここから3字下げ]
(22,鈴音)言えません
(22,WOOD)なぜ
(22,鈴音)詳しくは説明できません
(22,WOOD)だからどうして?
(22,鈴音)言えば私が誰か分かります
(22,WOOD)えむ・ぱい屋で働いている人?
(22,鈴音)それも言えません
(22,WOOD)夜遅くソフトハウスにいるのは、社員だけでしょう?
(22,鈴音)勘弁してください
[#ここで字下げ終わり]
さらに何度か押し問答が続いたが、鈴音のガードは固かった。よほど正体を知られるのを恐れているらしい。大樹は話題を変えることにした。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)私たちに助けを求めたのは?
(22,鈴音)他に頼れる人がいないから
(22,WOOD)誰かに話した?
(22,鈴音)いいえ
(22,鈴音)誰も信じないでしょうから
(22,WOOD)たぶんね
(22,WOOD)誰かがトラブルに巻きこまれていると?
(22,鈴音)はい
(22,WOOD)誰です?
[#ここで字下げ終わり]
またも悩んでいるらしい間があって、鈴音は答えた。
[#ここから3字下げ]
(22,鈴音)呉友也
(22,WOOD)誰?
(22,鈴音)えむ・ぱい屋のプログラマー
(22,WOOD)あなたとの関係は?
(22,鈴音)言えません
(22,WOOD)なぜその人がトラブルに?
(22,鈴音)シーベルをデザインした人だから
(22,鈴音)彼に疑いがかかります
(22,WOOD)でも、犯人がシーベルだとは誰も知らないんでしょ?
(22,鈴音)私以外には
(22,WOOD)だったら、彼を疑う人もいない
(22,鈴音)そうなのですが
(22,WOOD)何か他に理由が?
[#ここで字下げ終わり]
鈴音はまた黙りこんだ。今度の沈黙はかなり長かった。
大樹はじりじりしていた。今朝の養父との会話が思い出される。確かに、相手の表情や声から反応が読めないというのは、ひどく不便なものだ。沈黙しているのが、こちらに不審を抱いているのか、何かを恐れているのか、あるいは腹を立てているのか、さっぱり分からない。
相手がいっこうに発言しないので、大樹はあきらめた。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)分かりました
(22,WOOD)事情があるのですね
(22,鈴音)はい
(22,WOOD)深くは訊ねません
(22,鈴音)ごめんなさい
(22,WOOD)その人が心配なのですね?
(22,鈴音)はい、とても
(22,鈴音)引き受けていただけますか?
(22,WOOD)私の一存では回答しかねます
(22,WOOD)仲間にも相談してみます
(22,WOOD)2日だけ待ってください
(22,鈴音)お願いします
(22,WOOD)連絡方法は?
(22,鈴音)2日後の晩、同じ時刻にここで
(22,WOOD)分かりました
(22,鈴音)くれぐれもお願いします
(22,鈴音)あなた方だけが頼りですから
(22,鈴音)では
[#ここで字下げ終わり]
それっきり発言は途絶えた。念のために「USER」コマンドを打ちこんだ大樹は、鈴音がもうこのチャンネルにいないことを知った。
鈴音はまたネットワークの彼方に姿を消したのだ。
「ふーむ!」
大樹はモニターから顔を離し、大きく伸びをした。鈴音の態度は謎《なぞ》だらけだが、それだけにがぜん興味が湧いてきた。幸い、今は仕事は一段落しており、暇はある。
調べてみる価値はありそうだ。
3  <えむ・ぱい屋>
「なーんか、うさん臭い話だなあ」
大樹から一部始終を聞かされた流《りゅう》は、露骨に顔をしかめた。
ここは <うさぎの穴> 。水曜の夜九時。大樹がパソコン通信を通して鈴音と話してから、ちょうど四五時間が過ぎていた。
「でも、事件があったことは事実だ」大樹は自信を持って言った。「調べてみたら、確かに先週の金曜の夜、 <えむ・ぱい屋> でプログラマーが死んでるんだ。階段を踏みはずしたことになってるけど、踊り場に落ちたぐらいで死ぬかね?」
「打ちどころが悪ければ死ぬだろ? 人間ってのはもろいから」
「それにしても不自然すぎる」
「パソコンの画面から飛び出して人を襲う妖怪か……そんなやつ、いるのかね?」
「電子世界にもうわべり≠ンたいなやつが何体もいることは確かだ。神出鬼没なんで実態はつかみにくいけどね。中にはたちの悪いやつもいるらしい――でも、人を殺したって話は聞いたことがないな」
「ねえねえ、その事故って、新聞にも載ったんでしょ?」二人の話を聞いていたかなたが口をはさんだ。「その記事を読んだ誰かが、それをヒントにしてデタラメな話を思いついた……ってことはありえない?」
「僕もそれは考えたさ。でも、最初に鈴音がFMUKASHIに現われたのは、七日の午前〇時なんだ」
「それが?」
「踊り場に倒れていた谷町という男の死体を、巡回していた警備員が発見したのは、六日の午後一一時二〇分」大樹はポケットから取りだした新聞記事の切り抜きを読み上げた。「死亡推定時刻は午後一〇時……つまり鈴音の最初のメッセージのわずか二時間前ということになる。だから外部の人間が新聞を読んで事件を知ったということはありえない。ちなみに、これは翌日の夕刊だ」
「うーん、そうか……」かなたは考えこんだ。「ということは、やっぱりその時刻にビルの中にいた誰かだよね」
「あるいは警備員から知らせを受けた社員の誰かとか」と流。
「そういうことだ。鈴音は十中八九、 <えむ・ぱい屋> 内部の人物だろう。チャットした時のキータッチの速さから見て、パソコンの扱いに慣れた人物だと思う」
「まだるっこしいなあ。もっとパッと探り出せないのかよ?」
「どうやって?」
「俺はパソコン通信のことは詳しくないけどさ、どこかにホスト・コンピュータってのがあるわけだろ? そこには必ずその鈴音って女の――」
「男かも」と大樹。
「そう、その男だか女だかの本名が記録されてるんだろ? それを調べればいいじゃないか。ハッキングしてさ」
大樹は流の無知にあきれた。
「あのなあ、ハッカーを魔法使いか何かと思ってないか? いくら僕でもパスワードも分からないシステムに侵入なんかできないよ」
「だめか……」
「いや、まったく不可能というわけじゃないさ。詳しくは言えないけど、システムに侵入する裏技もあるにはある。でも、非合法な手段だし、露見するリスクも大きい。よほどのことがないかぎり、使いたくないね」
合法的な調査方法もないわけではない。たとえば電子掲示板やフォーラムで、かたっぱしから鈴音のIDを検索してみるという手がある。パソコン通信に慣れた人物なら、よく出入りしている会議室のひとつやふたつはあるだろう。その発言を参照すれば、人物像はおのずと浮かび上がってくるはずだ。
だが、それには大変な手間がかかる。大樹としてはあまりやりたくなかった。フォーラムの数は三〇〇以上、その中の会議室はその一〇倍はあるのだから。
それに、調べなくてはならないのは鈴音の正体ではない――谷町を殺した妖怪の正体だ。
「確かめる方法はひとつ。 <えむ・ぱい屋> に潜入するしかない」
「どうやって?」
「実はもう手はずはついてる。昨日と今日、東京中のパソコン仲間に連絡して、 <えむ・ぱい屋> に関してできるかぎりの情報を集めた。そしたら、運のいいことに、バイトで <ミスティック・チャレンジャー> のテストプレイをしてる女性が見つかったんだ。昭島《あきしま》亮子《りょうこ》さんっていうゲームマニアのフリーターなんだけど、彼女を説得して、五日間だけバイトを譲ってもらえることになった……」
「へえ、発売前のゲームがプレイできるんだ!」かなたは目を輝かせた。「すごい! あたしも行きたい!」
大樹は苦笑する。「だめだよ。空席はひとつしかないんだから」
「ちぇっ!」
「時に流――」大樹は流に向き直った。
「ん? 何だ?」
「実はちょっと捜査に協力して欲しいんだがな」
「ああ、俺《おれ》にできることならやるけど?」
「お前にうってつけの仕事だよ」大樹はにんまりと笑った。「さっき言った昭島亮子さんとデートしてやってくれ」
ぶっ! 流は飲みかけの酒を吹きだした。
「な、何でだよ!?」
「いやあ、彼女がバイトを譲るのをあんまりしぶるもんで、『代わりにかっこいい男を紹介してあげるから』って、うっかり言っちゃったんだよな。そしたら彼女、いっぺんにOKしてくれてさ――」
「おい、ちょっと待てよ」流は不安そうな表情を浮かべた。「その女って、どうせゲームおたくだろ? 容姿は期待できないように思えるんだが……」
「それは偏見ってもんだぞ」
「じゃあ、美人なのか?」
「さあ、どうだろ? 電話でしか話さなかったからなあ」
「おい……」
「ま、しっかり頼むよ」大樹は笑って流の背中を叩《たた》いた。「僕は鈴音に報告するからさ」
かくして翌日――
大樹は <えむ・ぱい屋> を訪れ、急な用件で来られなくなった昭島亮子の代理で来たと告げた。少しは警戒されるかと思ったが、昭島亮子からの連絡が行っていたらしく、あっさりバイトは許可された。納期が迫っているので、 <えむ・ぱい屋> としてはテストプレイヤーは一人でも多い方がありがたいのだ。
格闘ゲームに何よりも重要なのはプレイバランスであり、それをチェックするためには、延べ何万時間ものテストプレイが必要である。発売日が近づくと、外部からもバイトを雇い、人海戦術でテストプレイを行なう。社内の人間だけでは人手が足りないという理由もあるが、開発に関わっていない人間の率直な感想が必要だからだ。それらの意見を参考に、各キャラクターのデータ(速度、当たり判定、ダメージの大きさ、思考ルーチンなど)を調整し、完成バージョンに近づけてゆくわけだ。
大樹が通されたのは、四階にある会議室だった。ドアには「テストルーム」という張り紙がある。
中は小学校の教室ほどの広さだった。平行に六列並べられたテーブルには、各六台ずつ、モニターと青いゲーム機が置かれていて、床には何十本もの電源コードが這《は》い回っている。ヘッドホンをした何十人ものプレイヤー(大半が男性である)がずらりと並んで、黙々と同じゲームをプレイしている光景は、何とも異様で、また感動的でもあった。ゲームセンターと違って部屋はやけに静かで、ヘッドホンから洩《も》れるシャカシャカという音、ボタンを叩くカタカタという音だけが、さざ波のように響いている。
「ヘーえ、これが <サイバージェネシス> ですかあ」
初めて実際に目にするゲーム機を前に、大樹は露骨に好奇心を示した。未来的でシンプルなデザインだし、パッドも持ちやすい形に工夫されている。CD−ROMドライブの蓋《ふた》には、なぜかガムテープが貼《は》られていた。
「あ、でも雑誌に発表された写真では、ボディは黒でしたよね?」
「ああ、そうだよ」彼を案内した <えむ・ぱい屋> の社員が言った。「これはJETから開発用に各ソフトハウスに供与されてるやつなんだ。まだ大量生産ラインに乗ってないから、一部、基盤が手で配線されてたりするけどね。いちおうスペックは本物と同じだよ」
「ふうん……」
「じゃ、いちおう説明するとだね――」
その社員は正面の大きなホワイトボードに書きこまれた対戦表を指差し、大樹が用いるキャラと対戦すべき相手を指示した。テストプレイなのだから、自由に戦っていいというわけではないらしい。
<ミスティック・チャレンジャー> のプレイヤー用キャラは八人――電撃を放つ魔法剣を持つ剣士ザンス、ビキニ姿で斧《おの》を振り回す女戦士シャイナ、神聖魔法を使う女司祭シーベル、忍術や拳法を使う忍者ツキカゲ、ライオンとドラゴンの合成獣ヴァルガ、暗黒魔法を使う骸骨《がいこつ》男ジャマール、黒い鎧《よろい》に身を包んだ暗黒剣士ゾラン、肉体を自由に変形させる擬態生物モーフ。同キャラ対戦も含めると、三六通りの組合わせがある。さらに二体のCPUキャラ(氷の巨人ラガックと下半身が蛇の妖獣エキドナ)との対戦も含めれば、五二通りにもなる。それらすべての組合わせをまんべんなくテストするためには、きちんとスケジュール通りに進めなくてはならないのだろう。
さらに男は、どんなことに気をつけなくてはならないかを注意した。BGMは周囲の迷惑にならないようヘッドホンで聞くこと。バグやハメ技を発見した場合はただちに報告すること。勝手に変数をいじらないこと(テストプレイ用のバージョンなので、データがいじれるようになっているのだ)。ゲーム機本体に衝撃を与えないこと。室内で飲食・喫煙はしないこと。規定時間のプレイ終了後は感想をレポートにまとめること……。
けっこう堅苦しいな、と大樹は心の中で舌を出した。前に別の小さなソフトハウスでRPGを作った時は、もっと和気あいあいとした雰囲気だった。格闘ゲームとRPGという違いもあるだろうが、会社の規模が違うせいもあるのだろう。
結局、潜入一日目はテストプレイに忙殺され、ほとんど何の収穫もないままに終わった。
そして二日目、大樹は呉友也に接触した。
4 ゲームデザイナー
「あの……呉友也さんですよね?」
昼休み。地階にある食堂でカレーライスを食べていた呉は、見知らぬ男に声をかけられ、ぎょっとなった。眼鏡をかけて小太りの大樹は、典型的なおたくタイプで、初対面の人間に好感を与えられるような風貌《ふうぼう》ではない。
もっとも、ぱっとしない風貌という点では、呉も大差なかったが。
「そうだけど……?」
「ああ、やっぱり!」大樹は精いっぱい愛想よく笑った。「他の社員の方が『呉さん』って呼んでおられたから、そうじゃないかと思って――昔、『タンブルウィード』っていうオチモノパズル、作られましたよね?」
呉は驚いたようだった。「よくあんなマイナーなの、覚えてたね」
「そりゃもう、好きでしたから――この席、いいですか?」
大樹は呉が返事するのも待たず、彼の前の席に「よいしょ」と座りこむと、通りかかったウエイトレスに食券を差し出した。
「申し訳ありませんねえ。かわいい女の子じゃなくて」
「いや……」
大樹の慣れ慣れしい態度に、呉は少しとまどっていた。大樹にしてみれば、一日目の不首尾を取り返そうと懸命なのである。
もともと大樹は人とのつき合いが下手な方だ。丹波の山奥で長いこと一人で暮らしていたのだから、当然と言えば当然かもしれない。だから本当は、こんな風に誰かから話を訊《き》きだすというのは、彼に向いている任務ではないのである。
しかし、大樹は大樹なりに、呉の心をつかむ方法を知っていた。
「雑誌とかで読んではいたけど、 <ミスティック・チャレンジャー> 、すごいですねえ――言語はやっぱりC++か何かですか?」
「ん? いや、専用のCコンパイラ使ってる」
「へえ? 出来合いの言語じゃだめなんですか? 僕も昔、ボーランドでゲーム作ったことあるんですけど」
「それはRPGだろ? アクションもの、特に格ゲーでは、最高の処理速度が要求されるんだ。少しでも処理速度を稼ぐためには、専用のコンパイラを使う必要があるんだ」
「それにしたって、秒間七万ポリゴンなんて、よく実現できましたね?」
「それはハードの性能のおかげだよ」
「CPUにR9900使ってるとか?」
案の定、技術的な話になると呉は乗ってきた。しばらくの間、二人は一般人には魔法の呪文《じゅもん》のようにしか聞こえない会話を交わした。
充分に相手の気分がほぐれたのを見計って、大樹は核心に近づく話題を持ち出した。
「シーベルって、呉さんがデザインされたんですってね?」
「ああ、そうだけど」
「僕、今日初めて戦ったんですけど、思考ルーチンが少し賢すぎやしませんか? 何度もめくってみたんですけど、よほど正確に間合いを取らないと、対空技で逆襲食らうか、前転されて逃げられるんです」
「当然だね。従来の格ゲーの常識が通用しないように創ったんだから」
「なるほど」
「まあ、ヴァルガなら少しはめくりやすいはずだけどね」
敵の頭上を飛び越えて背後から攻撃することを、ゲーマー用語で「めくる」という。ヴァルガは長いドラゴンの尻尾を持っており、キックボタンで操作できる。飛び越えた後、振り返らずに攻撃ができて、しかもダメージが大きいのだ。めくり≠ノ関しては八体の中で最強のキャラと言えるだろう。
「それにしてもあの動き、絶妙ですよね。こっちの攻撃をメイスで受け止める時に、衝撃でちょっとよろめくとこなんか、芸が細かい!」
呉は苦笑した。「そりゃどうも……」
「あの痛々しそうなポーズ、いいですよね。本当はしとやかなお嬢様が、いかにも健気に戦ってるって感じが出てて……」
「でも開発チーフの高畑さんにはしぶい顔をされたよ。格ゲーのキャラっていうのは、いくら叩かれても痛くない、タフな存在じゃないといけない。あんな風にリアルに痛がってみせると、プレイヤーが嫌がるっていうんだ」
「そうですかねえ? 僕はむしろ、いじめたくなりますけど」
二人は爆笑した。
「まあ、たぶん発売されたらシーベルに人気が集まるでしょうねえ……」
それから大樹は、ふと思いついたようなふりをして言った。
「誰かモデル、いるんですか?」
呉はどきっとしたようだった。
「えっ、何が?」
「だから、シーベルのモデル。誰かヒントになった人がいるのかな、と思って」
「何でそう思うんだい?」
「だって、すごく実在感あるじゃないですか。ただのゲームキャラとは思えないんです。呉さんの思い入れもずいぶん強いみたいだし……」
「いや、そんなことはないよ」
しかし、呉の表情には明らかに動揺が現われていた。嘘《うそ》をつくのが下手な男だ。
「もしかして、呉さんの恋人とか?」
「いや、いないよ、そんなの」呉は慌てて否定した。「今はいない……」
「じゃあ、今はシーベルが恋人ってわけですか?」
呉は苦笑する。「まあ、そういうことになるかな……」
その時、二人の背後から声をかける者がいた。
「君、もしかして産業スパイ?」
二人は振り向いた。
火野|隆二《りゅうじ》だった。今年で三〇歳。ハンサムな顔立ちで、高級スーツにブランド物のネクタイという、TVドラマに出てくるエリート・サラリーマンそのままの風体である。一流大学を中退してプログラマーになり、いくつかのソフトハウスを転々としながら、この道で一〇年も活躍しているベテランだ。ヒット作をいくつも手掛け、業界内で少しは名を知られている。三年前から <えむ・ぱい屋> に勤めており、現在は別の階で3Dシューティング・ゲームの開発プロジェクトに携わっていた。
「さ、産業スパイ?」大樹は目を剥《む》いた。「僕がですか?」
「君、社内の人間にずいぶんいろいろ訊《たず》ね回ってるみたいじゃないか」火野の態度には露骨に敵意が現われていた。「そう思われてもしかたないよ」
少しやりすぎたか、と大樹は反省した。
「僕はただ好奇心で――僕も小さいソフトハウスでゲーム作ってるもんですから、先輩のみなさんの話を訊《き》いたら、何か参考になるかなって……」
大樹のわざとらしい卑屈な態度に、火野は侮蔑《ぶべつ》の視線を向けた。
「呉、お前もお前だよ。社外の人間に内部事情をぺらぺら喋《しゃべ》っちゃまずいってことぐらい、分かるだろうが。大人なんだから」
「いや、僕は……」呉はしどろもどろになった。
「別に機密事項なんか訊いてませんよ」大樹は慌てて彼を弁護した。「ごく一般的な話をしてただけで……」
「何にせよ、社内の話をやたらに外に吹聴されをのはまずいんだ。今は難しい時期だからね。慎んでくれよ――ああ、それから」立ち去ろうとして、火野は振り返った。「君たち、その格好、もう少しどうにかしろよ」
「この格好――ですか?」
大樹は自分の服装を見下ろした。ゲーマーやプログラマーといった種族は、概してファッションにあまり気を使わない。大樹や呉も例外ではなく、GパンによれよれのTシャツという格好だった。
「そういうのを普通だと思ってる人が多いようだけどね。プログラマーも社会に認められた職業である以上、社会の常識から見て恥ずかしくない格好をしなくちゃだめだよ。僕みたいにね」
火野はそう言って、高級スーツの衿《えり》をきざっぽくつまんでみせた。
「はあ、すみません……」
大樹は恐縮して頭を下げたものの、心の中では火野の俗物ぶりにげんなりとしていた。
ファッションは個人の自由ではないか。他人に迷惑をかけたり、公序良俗を乱すような格好なら、非難されて当然だが、Gパンがそんなファッションだとはとても思えない。「社会の常識」と称するものは、しょせんこの世にあふれる多様な価値観のひとつにすぎない、というのが大樹の情念だった。彼の目には、毎朝ぞろぞろ駅から出てくるサラリーマンの、判で押したようにそっくりな背広姿の方が、囚人服のように奇異に見えるのだ。何でみんな、何の疑問も抱かず、同じ格好ができるんだろう?
だいたい、あのネクタイというやつは何だ。昔、フランスの王様が気まぐれに宮廷ファッションとして採用したものだというではないか。何でそんなものを現代の日本人が揃《そろ》いも揃って首に巻かなくてはならないのか。その奇妙さときたら、フランス人がチョンマゲ頭で歩くようなものだ。
「大人になれよ!」
そう言い残して火野が立ち去ると、二人はほっとした。
「不愉快な思いをさせてすまないねえ」呉は小声で謝った。「彼も悪気はないとは思うんだが、ここんとこ、社内の雰囲気がぴりぴりしていて……」
「分かりますよ。僕もソフトハウスで働いた経験ありますから……納期が迫ると修羅場なんですよね」
「まあね。マスターアップまであと二か月しかないからな」
<サイバージェネシス> は今から三か月後、クリスマス・シーズンを狙《ねら》って発売される予定だった。 <ミスティック・チャレンジャー> はその主要ラインナップだから、同時に店に並ばなくてはならない。そのためには、発売予定日の少なくとも一か月前にマスターCDを完成させる必要があるのだ。
「火野がスパイを心配するのも分かるよ。発売前に <ミスティック・チャレンジャー> を盗もうと思ってる奴も、きっといるだろうからね」
「あ……」大樹は思い当たった。「ドライブの蓋にガムテープが貼ってあるのは……まさかCDを盗まれないため?」
「そういうこと――まあ、君たちを信用しないわけじゃないが、用心のためにね」
「だって……CDだけ盗んだって、本体がなけりゃ遊べませんよ」
「遊ぶために盗むんじゃないさ。発売前に台湾あたりに横流しされる危険もある。あっちにはものすごく腕のいい海賊版業者がいるからね。CDを解析して、ほんの数か月で海賊版を作っちまうんだ」
大樹はうなずいた。東南アジアの海賊版業者の技術は、まさに驚異的である。日本で大ヒットしたゲームは、ほとんどすべてコピーされているのだ。『ソニック』の画面をマリオが走り回る『SOMARI』とか、『ストU』の春麗《チュンリー》がマリオやソニックと対戦する格闘ゲームなど、嘘みたいなゲームも実在するのだ。
「それにJETもいろいろうるさく口出ししてくるんだ。機密を守れ、納期を守れ、完成度を高くしろ……ってね」
「そうなんですか?」
「ああ。何しろ <ミスティック> は主力商品だからね。万が一にもこれがコケたら、冬の戦いで <サイバー・ジェネシス> は <ノヴァ> に負けるよ」
今年の冬は、JET(日本電子テクノロジー)の <サイバー・ジェネシス> と、シャイアーテックス社の <ノヴァ2000> 、二つの次世代ゲーム機がぶつかり合う。何百億という金が動く巨大商戦だ。どちらの企業も必死になるのは当然である。
「なるほど、管理体制がきびしいのも無理ないなあ……」大樹は少し探りを入れてみることにした。「もしかして、あの事件も何か関係あるんですか?」
「あの事件?」
「ほら、先週、プログラマーの人が亡くなられたとかいう……」
「谷町か?」
「ええ。階段から落ちたらしいって新聞に書いてありましたけど?」
「ああ、警備の人が見つけたんだけどね」
「誰も気がつかなかったんですか?」
「うん。もう一〇時過ぎてたから、社内には誰も残ってなかったんだ。デバッグで忙しい時は、もっと遅くまで残ったり、泊まりこんだりすることもあるんだけど、あの日はたまたまバグが出なくて、みんな早く帰れたんだ」
「なるほど……」
大樹はうなった。他の社員からもそれとなく事件の状況を聞き出したのだが、呉の言っていることと一致しているようだ。事件当時、ビルの中に残っていた社員は谷町だけだった、というのだ。
だが、そうなるとますます鈴音の正体が分からなくなる。
「何でそんなこと訊ねるんだ?」
「いや、ちょっと気になって……」大樹はごまかした。「ほら、上からの締めつけがきびしくて、ノイローゼになって自殺とか……」
「そんなことはない!」呉はきっぱりと言った。「そりゃあ、少しはストレスはたまってたかもしれないけど、自殺なんて……だいたい、僕は帰る間際、彼に会ってるんだ。そんな様子はぜんぜんなかったよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。彼と最後に話したのが僕なんだ」呉は表情を曇らせた。「あれはショックだったなあ。ほんの一時間前までぴんぴんしてたのに……」
「人間なんてあっけないもんですね」
「まったくだ」
呉は大きくため息をつき、複雑な表情で虚空を見つめた。
「ほんと、人間なんてあっけない――昨日まで元気だった人が、ころっと死んじまうこともあるんだ………」
5 鈴音
「……で、結局、収穫はあったのかよ?」
金曜の夜、大樹から報告を聞いた流は、ぶすっとした顔で言った。
「あったと言えばあった」と大樹。
「そういう思わせぶりな言い方はやめろよ。ズバっと言え、ズバっと」
流が不機嫌なのも無理はない。彼は明日の晩、顔も分からない昭島亮子という女とデートすることになっているのだ。
「いちばん大きな収穫は、鈴音の矛盾点が分かったことだ」
「ほう?」
「五階の開発室をちょっとだけ覗《のぞ》いたんだけどね。ドアは通路の突き当たりにあるんだ」
「それがどうかしたのか?」
「鈴音はドアの後ろに隠れたと言っていた。でも、ドアの後ろはすぐ壁なんだよ。あの隙間に隠れるのは、よほど痩《や》せてないと無理だな」
「じゃあ、鈴音はそこにいなかったってことか?」
「たぶんね――社員たちの証言から総合しても、その場に谷町以外の人間がいたとは考えにくいんだ。それに、その時刻には玄関の扉には鍵《かぎ》がかかっていた。警備員に鍵を開けてもらわずにビルに出入りすることは不可能だ」
「じゃあ、やっぱり嘘《うそ》……」
「そうとは言ってない」大樹は流の即断をさえぎった。「人間がいなかったと言ってるだけだ。妖怪ならいたかもしれない」
「でも、谷町が妖怪に殺されたって証拠は何もないんだろう?」
「確かにね――でも、谷町の死には明らかに不審な点がある」
「というと?」
「問題の晩の一〇時頃――つまり谷町が死ぬ直前、開発チーフの高畑さんの家の留守番電話に、谷町からのメッセージが入っていたっていうんだ。『グレードAです』ってね」
「グレードA?」
「重大なバグが見つかったって意味さ。そして『電子メールに詳しいことを書きます』って言っていたんだが、電子メールには何も入っていなかった」
「ダイイング・メッセージか……」
「そういうこと。鈴音の言っていることと一致する。谷町は確かにテストプレイ中に何かを発見した。そして、それを高畑に知らせようとして殺された……」
「それは何なんだ?」
大樹は肩をすくめた。「分からない。高畑さんたちも首をひねってたよ。念のために調べ直したけど、大きなバグらしいものは見当たらないってね。僕もこの二日間、 <ミスティック・チャレンジャー> のテストプレイをしたが、おかしなところはなかったな」
「確かなのか?」
「僕以外にも何十人ものテストプレイヤーがいるんだ。本当に大きなバグがあるなら、誰かがとっくに発見してるはずだよ」
「なるほど――他に何か怪しい点は?」
「怪しいと言えるかどうか……」大樹はちょっとためらってから言った。「呉さんが宗教にハマってるって噂《うわさ》がある」
「宗教に?」流は眉をひそめた。「怪しい宗教か?」
「そんなんじゃない。ごく普通のキリスト教らしいんだけどね……」大樹には珍しく、自信のなさそうな口調だった。
「らしいって……?」
「呉さん本人からは、ちっとも狂信的な雰囲気が感じられないんだよ。だいたい、信心深い人間が格闘ゲームなんて野蛮なもの、作るかね?」
「中傷だって言うのか?」
「それも分からないんだ。中傷するなら、もっとひどい噂を流すべきじゃないか? 単にキリスト教を信じてるってだけじゃ、中傷の役を果たさない」
「確かにな」
「それに、鈴音は呉さんがトラブルに巻きこまれかけているって言っていた。もしかしたら、このことを意味しているのかもしれない」
「うーむ……」
流は腕組みをした。アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)を気取って、大樹から得た情報の断片をかき集め、推理を展開する。
いつもの事件とは役割が逆だった。いつもは流が外を飛び回って情報を集め、大樹が <うさぎの穴> に残って情報を分析するのだが。
「鈴音と呉が同一人物ってことはありえるんじゃないか? 彼は谷町が殺されたことを知っている。だが、それを口にすると今度は自分が狙われるから、表向きは知らんふりをしている。ところが、誰かが妙な噂を流して、自分を陥れようとしているのに気がついた。危機感を抱いた彼は、俺たちに助けを求めてきた……」
大樹は大きくうなずいた。「僕もその可能性は考えてるよ」
「鈴音とはまだ連絡を取り合ってるのか?」
「ああ。毎晩〇時にチャットしてる――だが、まさか直接『あなたは呉さんですか?』って訊ねるわけにもいかないだろう。向こうを警戒させるだけだしな」
「何か変わった話題はあったか?」
「いや、ぜんぜん」大樹はかぶりを振った。「向こうは正体を現したがらないし、こっちもうかつなことを言って正体を明かしたくない。鈴音が <えむ・ぱい屋> 内部の人間だとすると、昼間、顔を会わせている可能性がある。うっかり『今日、こんなことがあった』ってな話をしたら、WOODと高徳大樹が同一人物だと気付かれてしまう……結局、お互いに当たり障りのない話ばかりしてる」
「まだるっこしいな!」
「まったくだ」
その時、 <うさぎの穴> のマスターがカウンターから顔を出し、大樹を呼んだ。
「おい、大樹。文《ふみ》ちゃんからFAXだぞ」
「えっ、文ちゃんから?」
大樹は思わず腰を浮かせた。流は怪訝《けげん》な顔をする。
「文ちゃんに何か頼んでたのか?」
「ああ。昼間は僕は動けないんで、代わりに情報収集をね」
文子は文車妖妃《ふぐるまようき》――古い手紙にこめられた人の想いから生まれた妖怪である。人間の姿で古書店を営んでおり、本や文書に関する情報収集力では、大樹のそれをはるかに上回っている。何しろ彼女の書店の棚には書かれなかった本≠キら並んでいるぐらいだ。
「鈴音の手がかりを探してもらってたんだが……どれどれ」
マスターから受け取った一枚の感熱紙に目を通し、大樹の顔色が変わった。それは北海道の地方新聞の記事のコピーで、日付は去年の八月である。
『視覚障害者の女性、はねられ死亡
三日午前八時四十分ごろ、市内八条通り二丁目の交差点で、横断歩道を渡ろうとしていた視覚障害者の女性が、信号を無視して走ってきた長距離トラックにはねられ、死亡した。
亡くなったのは会社員、海野拓郎さん=東区日の出町四の四=の長女・鈴音さん(二四)。東署では長距離トラックの運転手、館野庸平(三八)=青森県八戸市=の居眠り運転と見て、業務上過失致死の容疑で逮捕した。
鈴音さんは九年前に事故で両目とも視力を失っていた。現在は自宅近くの教会で働いており、事故当時も教会に向かう途中だった』
「海野《うんの》鈴音《すずね》……シー・ベル!」
さらに記事の下には、文子の字で「一年以上前のFEYESを覗いてみんなまし」と書きこんであった。大樹は声をあげた。
「FEYESか! 気がつかなかった!」
流は事情が分からず、首をかしげる。「エフ・アイズ? 眼科医か何かの会議室か?」
「違うよ。視覚障害者向けのフォーラムだ」
大樹は立ち上がり、マスターに声をかけた。
「マスター、ワープロとモデム、貸してくれる?」
大樹は <うさぎの穴> の電話回線を使って、パソコン通信に接続した。鈴音とチャットを約束した時刻まで、まだ二時間近くある。それまでに調査する時間は充分にあった。
一時利用でFEYESに入った。二年前にできたばかりの比較的新しいフォーラムだ。それでも登録している会員は七〇〇人以上いる。
「知らなかったな。目が見えなくてもパソコン通信ができるなんて……」
大樹の肩越しにワープロの液晶画面を覗きこみ、流が感心する。
「声の出るワープロとか、点字のキーボードがあるからね。モデムとかのセッティングには他の人の協力も必要かもしれないけど、通信そのものは一人でもできる。音を頼りに入力するから、同音異義語の誤字が発生したりもするけど、些細《ささい》な問題だよ。送信する前に誰かに文章をチェックしてもらえばいいんだから」
もっとも、このフォーラムを利用している人が、みんな目が不自由というわけではない。視覚障害者を家族や友人に持つ人や、障害者を助けているボランティアの人たちも利用しているのだ。パソコン通信を通して、生活に必要な様々な情報を交換したり、意見を交わし合ったりしているのだ。
一時利用なので発言はできないが、過去の会員の発言を検索することは可能だ。大樹は八つある会議室を順番に検索していった。
会議室はどれもサイクリック式だった。発言数が五一二を超えると、最も古い発言から順番に消去されてゆく方式である。そのため、一年以上前の発言が消えてしまっている会議室もあった。しかし、発言数が月平均三〇を超えないような会議室では、かなり古い発言も消えずに残っていた。
そのうちのひとつ、「差別を考える」で、HQI202064のIDの発言を検索してみると、四二の発言があった。そのうちのひとつを読んでみる。
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00223/0072 HQI202064 鈴音  RE:街を歩くのがこわい
(5) 03/24 11:16 00220へのコメント  コメント数:2
ちささん、こんばんは。
言葉の暴力に悩まされておられるとのこと。私にも経験あります。向こうから勝手にぶつかってきたくせに、「気をつけろ」とか、「お前のような奴は家でじっとしてろ」とか言われます。私の場合15歳で視力を失ったんですが、初めてそう言われた時、すごくショックでした。
でもね、そういう時、黙って耐えてちゃだめです。耐えるのも美徳のひとつとは言うものの、耐えすぎるのも精神の健康に良くありません。特にこういう場合は。
だって、そうでしょう? こっちが何も悪いことをしてないのに、何で街を歩いてるだけで非難されなくちゃいけないんです?
何もせずに黙って耐えていると、そのうち「自分が悪い」という誤った劣等感に苛まれるようになります。あるいは「どうせ私は社会のお荷物なんだ」という被害者意識の中に閉じこもってしまいます。そうなるとますます街に出るのがこわくなります。あなたの場合もそう。あなたはちっとも悪くない。悪いのは、そういう偏狭な見方しかできない、その男の方です。
あたしの場合、そういうことを言われたら、即座に、こう言い返します。
「何だって、もっぺん言ってみな!」
えへへ、実は15歳までけっこう不良してたもんで、こういう台詞、慣れてるんですよね。
これを言うと、相手がびびってる雰囲気が、はっきり伝わってきます。痛快ですよ。逆襲されるなんて夢にも思ってなかったでしょうから、そりゃ、驚きますって。あなたもお試しになってはいかがですか。
あるいは、相手が杖の攻撃範囲にいるなら、ぶちのめしてやるとか。
あ、これは冗談。人ごみの中で棒振り回したらいけません。
でもね、こっちが無力でも無抵抗でもないってことを示すのは、いい方法だと思うんです。そういう人はきっと、健常者に対してはそんなひどいことは言わないはず。あなたが無力だと思いこんでるからこそ、横柄な態度に出るのでしょう。
とにかく、負けちゃだめです。勇気を出してください。私たちが決して無力じゃないってことを思い知らせてやりましょう。
[#地付き]鈴音
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「……強い女性だな」流は感銘を受けていた。
「ああ、ファンになっちまいそうだ」
二人はさらに鈴音の発言を読み進んでいった。文章を通して、彼女の性格、経歴、日常生活などが、断片的にうかがい知れる。
聡明《そうめい》で、意志が強く、ユーモアにあふれた女性だった。若い頃はずいぶんグレていて、親を泣かせていたと、恥ずかしそうに告白している。失明したのも事故ではなく、他校の不良グループとの喧嘩《けんか》が原因らしい。視力が永遠に戻らないと知った時には、絶望のあまり「目の前が真っ暗になった」そうだが、両親の愛情や、近所の神父の言葉に勇気づけられ、立ち直ったという。
彼女は「両親のいたわりには感謝しているけど、それだけによりかかって生きたくはない」と言う。なるべく生活費は自分で稼ごうと、昼間は教会でパイプオルガンを弾き、夜は新聞や雑誌に投稿する文章をワープロで打っていた。
「生きる希望」と題された会議室で、彼女はこう言っている。
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00101/00589 HQI202064 鈴音  RE:本を読むということ
(7) 02/14 11:16 00097へのコメント  コメント数:4
アトロさん、こんばんは。
私の場合、勇気づけられた本というと、やはり聖書でしょうか。失明して確か半年目の頃、ある方からいただいたものなんですが、当時まだ習いたての点字を一所懸命解読して、1行ごとにむさぼるように読み進んだ記憶があります。この会議室では宗教の話題は御法度ってことなんで、内容にはあまり詳しく触れません。でも、聖書のおかげで、自分の人生を肯定的に見直すことができるようになったのは事実です。
神様の罰、なんて言葉は信じません。私の目を傷つけたのは、人間の愚かさ、人間の憎しみであって、神様のせいではないからです。
でも、私の人生にとって、目が見えなくなったことは、良い結果をもたらしたことは確かだと思います。あのまま不良少女として生きていたら、両親の愛情の深さにも気づかず、この世界に素晴らしいものがたくさんあることも知らずに、堕落した一生を歩んでいたことでしょう。
本を熱心に読むようになったのも、目が見えなくなってからです。
ワープロを習い、パソコン通信をはじめたのもそう。家にいながら、こうして日本中の人たちとお話ができるなんて、なんて素敵なことでしょう。
逆説的ですが、私は目が見えなくなったことで、世界の広さ、世界の素晴らしさが見えるようになりました。
[#地付き]鈴音
[#ここで字下げ終わり]
こんな彼女だからファンも多かった。たとえばTIPというハンドルネームの人物は、こんな文章を寄せていた。
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00129/00589 ACI064398 TIP  はじめまして
(7) 03/14 00:26  コメント数:2
はじめまして、このフォーラムに入会したばかりのTIPです。
僕は健常者ですが、このフォーラムのことを知ったのは、鈴音さんからお話を聞いたからです。
実は鈴音さんとは以前から頻繁にチャットしてたんです。間の抜けた話ですが、鈴音さんが視覚障害者だと知ったのは、知り合ってから2か月ぐらいしてからでした。何しろ鈴音さん自身が、そういうことを口になさらないものですから。
僕は子供の頃からいわゆるいじめられっ子で、内向的に育ちました。いわゆる、暗いおたくです。ろくに恋人もいませんし、友人も少ないです。この世界は何て自分に対して冷たいんだろうと、いじけたこともありました。
でも、ハンデがありながら力強く生きておられる鈴音さんを知り、ショックを受けました。自分が「不幸な境遇」だと思いこんでいたことが、ただの甘えにすぎないと思い知らされ、無知を恥じました。
僕も鈴音さんを見習って、現実に強く立ち向かって行こうと思っています。二十何年も生きてきて染みついた性格は、なかなか治せるもんじゃありませんけど、少しずつ変えて行こうと思っています。
今度、暇があったら聖書も読んでみますね。
[#地付き]TIP
[#ここで字下げ終わり]
TIPはその後も何度かメッセージを書きこんでいた。どれも鈴音を熱く賞賛し、応援する文章で、鈴音に惚《ほ》れこんでいることがよく分かる。
だが、昨年の八月一日の書きこみを最後に、鈴音の発言は途絶えてしまう。同時に、TIPも姿を現わさなくなった。
「……間違いないな」ひと通り発言をチェックし終えて、大樹は言った。「本物の海野鈴音は一年前に死んでる。たとえ生きていたとしても、事件を目撃≠ナきるはずがない。誰かが彼女のIDとパスワードを使って、彼女になりすましてるんだ」
「でも、死んだらIDも抹消されるんじゃないのか?」
「そうとは限らないさ。ご両親が会員登録の取り消しを申請するのを忘れていたら、IDだけがまだ生きていることはありえる」
「使用料はどうなるんだ?」
「料金は一分ごとに一〇円。毎月、クレジットの口座から自動的に引き落とされる」
「じゃあ、ご両親が娘さんの口座を解約していたら……?」
「月末に引き落とそうとして、口座がないことが分かるから、不正使用が発覚する――でも、この一年間、海野鈴音のIDはまったく使われていなかったわけだから、課金が請求されることもなく、誰も気がつかなかったわけだ」
「しかし、そんな簡単に不正使用ってできるのか? IDはともかく、パスワードも知っていないと、アクセスできないんだろ?」
「もちろん。パスワードはめったに他人に教えるもんじゃない。それを知っているとしたら、よほど彼女に親しい人物だろうね」
「うーむ」流はまた腕組みをした。「……まだよく分からないな。海野鈴音がシーベルのモデルだってことは、まず間違いないとしてもだ、彼女と呉友也の接点は何だ? 片や北海道、片や東京だし、職業もぜんぜん違うぞ」
「それはもう見当はついてるよ」
「ほう?」
「見てな」
そう言うと大樹は、「PROFILE」のコマンドで、TIPのID 「ACI064398」のプロフィールを調べた。
思った通り、それは呉友也のIDだった。
そうこうするうち、午前〇時が近づいた。
大樹がBバンドの22チャンネルで待っていると、時刻通りに鈴音が現れた。
[#ここから3字下げ]
(22,鈴音)こんばんは>WOODさん
(22,WOOD)こんばんは>鈴音さん
(22,WOOD)今日は何をしていましたか?
(22,鈴音)特に何も
(22,鈴音)あなたはどうです?
(22,WOOD)捜査は進んでいます
(22,鈴音)どのぐらい?
(22,WOOD)いろいろ分かりました
(22,鈴音)どんなことが?
(22,WOOD)あなたの言われたこと
(22,鈴音)私の?
(22,WOOD)裏付けをとってます
[#ここで字下げ終わり]
「うーん、確かにまだるっこしいよな……」
キーを叩きながら、大樹はつぶやいた。自分の正体を知られる手がかりを洩《も》らさないように話し合うのは、実に気を使うし、不自由なものである。
「やっぱり呉友也だと思うか?」と流。
「さあてね。だとしても、簡単に尻尾《しっぽ》は出さないさ」
大樹は慎重に言葉を選んでメッセージを打ちこんだ。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)確かに谷町さんの死は奇妙です
(22,鈴音)彼は殺されました
(22,WOOD)僕もそう思います
(22,WOOD)でも、理由が分からない
(22,鈴音)何かを見つけたんです
(22,WOOD)大きなバグを?
(22,鈴音)分かりません
(22,WOOD)なぜバグを見つけたために殺されるのでしょう?
(22,鈴音)分かりません
(22,WOOD)他の人たちもテストプレイしています
(22,WOOD)でも、異状は発見できません
(22,鈴音)CDが違うのではないでしょうか?
(22,WOOD)何ですって?
(22,鈴音)谷町さんのプレイしていたCD
(22,鈴音)テストプレイ用のではないのでは?
[#ここで字下げ終わり]
「そうか、何て僕はマヌケだ!」大樹はぴしゃりと叩いた。「それだよ、それ!」
流には何のことだか分からない。「どういうことだ?」
「マスターディスクだよ! つまり実際の開発に用いるディスク――最終的に完成する製品の元になるCDだ。谷町がプレイしてたのはそれだったんだよ!」
「え? でも、テストプレイに使うCDって、マスターディスクをコピーしたものじゃないのか?」
「いや、テストプレイ用のバージョンは、実物とはずいぶん違ってる。デモ画面が省略されていたりする代わり、変数をいじれたり、実物にはない仕様がいろいろある。そのCDを使ったテストプレイの結果を元に、マスターに改良を加え、完成に近づけてゆくわけだ」
流にもようやく事情が飲みこめた。テスト用ディスクの改良と平行してマスターディスクの改良が進められているとすると、マスターディスクにはあるがテスト用ディスクにはないバグは、発見されることはない。そのまま完成品にまで入りこんでしまう危険がある。
大樹は勢いこんでメッセージを打ちこんだ。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)分かりました
(22,WOOD)重大な手がかりだと思います
(22,WOOD)さっそく調べてみましょう
(22,鈴音)お願いします
(22,WOOD)ところで鈴音さん
(22,鈴音)はい?
(22,WOOD)ひとつお訊きしたいことがあります
(22,鈴音)何でしょう?
[#ここで字下げ終わり]
大樹は思いきって、その疑問をぶつけた。
[#ここから3字下げ]
(22,WOOD)あなたは1年前に亡くなられているはずですね?
[#ここで字下げ終わり]
大樹はじりじりとした想いで返事を待った。だが、いくら待っても応答はない。
試しに「USER」コマンドを打ちこんでみると、鈴音はすでに姿を消していた。
「くそ、逃げたか!」
大樹はテーブルを叩き、自分の軽率さを呪《のろ》った。
6 マスターディスク
翌日の夜――
<えむ・ぱい屋> の本社ビルはJR王子駅から徒歩約五分のところにある。すでに時計の針は午前一時を回っていた。このあたりには夜遊びできる場所はあまりないし、終電の時間も過ぎているので、必然的に人通りは少ない。
大樹はビルの前の街灯にもたれかかり、流の到着を待っていた。九月もすでに中旬。夜の風は涼しい。
派手な排気音を立てて流のバイクがやって来たのは、待ち合わせの時間を二〇分過ぎた、午前一時二〇分だった。
「いやあ、ごめんごめん」ヘルメットを脱ぎながら流は笑った。「彼女を家まで送るのに手間かかっちゃってさ」
「いや、かまわないさ」
そう言いながらも、大樹は内心、苦々しく思っていた。流はいい奴なのだが、女の子のこととなると、他のこと一切がルーズになる。
「有月《ありつき》さんは?」
「とっくに来ちょうぜ」
後ろから低い声がしたので、流はぎょっとなった。
近くにあった植えこみの背後から、ゆらっと黒い影が立ち上がる。背の低い中年男で、浮浪者のようなだらしない服装をしており、片手には一升瓶をぶら提げていた。目はぎょろっとしており、それが街灯の光を反射して異様に輝いている。
有月|成巳《なるみ》――彼もまた <うさぎの穴> の常連客の一人である。
「すみませんね、つまらない用事でお呼びして……」
「いいってことよ。こっちはいつでも暇だけんな」有月は退屈そうに首筋をばりばり掻《か》きながら言った。「いつ、はじめる?」
「今すぐ」と大樹。
「よっしゃ」
そう言うと、有月はまた植えこみの背後に戻っていった。
少しして、植木ががさがさと音を立てたかと思うと、その中から一匹の蛇が這《は》い出してきた。長さは五〇センチぐらい。鱗《うろこ》はエメラルドのような美しい緑色に輝き、ちろちろとひらめく舌は血のように赤い。
「ちょっと待ってな」
緑色の蛇はそう言うと、 <えむ・ぱい屋> のビルの方にするすると移動してゆき、影の中に姿を消した。
「侵入口、ちゃんとあるんだろうな?」流が不安そうに言う。
「もちろん。今日、バイトから帰る時に、一階のトイレの窓の鍵を開けておいたよ。たとえ閉まっていても、ガラスを割ればいいんだし……」
「でもさ……ほんとにやるのか?」
「何を今さら」
「だって、下手すりゃ犯罪だぞ」
「下手しなくったって、立派な犯罪だよ。不法侵入に、窃盗に……場合によっちゃ、器物損壊も加わるかもな」
「うーむ、今いち気が進まんなあ。捕らわれのお姫様を助けるために悪の巣窟《そうくつ》に乗りこむっていうんなら、もっと燃えるんだけど……」
「僕だって好きでビル荒らしなんかするわけじゃないさ。だが、マスターディスクを合法的に調べる手段がないんだ。テストプレイ用ディスクでさえ、あんなに管理がきびしいんだ。社外の人間がマスターディスクに近づくなんてできやしない」
「ハッキングできないのか?」
「無理だよ。開発に使われるパソコンは、外部のネットワークと物理的に接続してないんだから。誰かが社内からパソコン通信をしたなら別だけど……」
大樹は自分の言葉にはっとなった。
「そうか……」
「どうしたんだ?」
「谷町は自分が発見したものを電子メールで知らせようとして殺された――つまり、彼が殺された時、社内のパソコンは外部と接続してたわけだ」
「それが?」
「いや、思いついたことがあるんだが――」
その時、 <えむ・ぱい屋> の玄関が開き、有月が二人をひらひらと手招きした。
「行こう」
二人は会話を中断し、玄関に向かった。
当直の警備員は有月の妖術でぐっすりと眠っていた。さすがに土曜の深夜ともなると、ビルの中に残っている社員は誰もいない。大樹たちは誰にも妨害されることなく、警備室に侵入することができた。
パネルを操作し、ビル内の警備システムをすべて切断する。妖怪の体はカメラやセンサーに反応しないという利点があるが、何かのきっかけで警備システムを作動させてしまう可能性がないわけではない。念には念を入れたのだ。
「有月さん、ここで見張り、お願いします。僕らは上に行きますんで」
「おうよ、ゆっくりやってきな、坊主ども。俺はここで一人で酒盛りしてらあ。かわゆいねーちゃんの酌がないのが残念だがな」
有月はそう言うと、一升瓶から酒をがぶ飲みしはじめた。日本古来の妖怪「うわばみ」である彼は、酒がないと生きられないのだ。
大樹は五階の開発室の鍵を取ると、流といっしょに五階に向かった。
無人の開発室は闇《やみ》に包まれ、静まりかえっていた。昼間はめまぐるしくCGを映し出していたモニターも、電源を切られて沈黙している。二人の手にした懐中電灯の光が、室内をゆっくりとなめ回す。壁に沿ってずらりと並んだデスクの上には、パソコンやその周辺機器、ディスクを収めたケース、膨大な資料、雑誌類、文書や図表などが、乱雑に積まれている。
「いずこも同じか……」
自分が仕事をしたこともあるソフトハウスを思い出し、大樹はつぶやいた。
「どこから手をつけりゃいいんだ?」
流は室内の混乱ぶりに圧倒されていた。この中から一枚のCDを探し出すのは、戦場で落とした一枚のコインを見つけるより難しそうだ。
「どこからでも、適当に」と大樹。「とにかく、それらしいCDを探すんだ」
「やれやれ」
二人は手分けして資料の山をかき回し、CDを探しはじめた。
「ところで、どうだった、昭島亮子さん?」鍵のかかっていない引き出しを開けて、中をひっかき回しながら、大樹が訊ねた。
「どうもこうも、もう」流も捜索を続けながら答える。「すごい女だったよ」
「不細工なのか?」
「その逆。超美人とまではいかないけど、けっこうかわいいんだ、これが。口の利き方がちょっと女王様ぶってんだけど、ちっとも嫌らしくないんだよな」
「じゃあ、何が不満なんだ?」
「超ゲームおたくなんだよ、彼女。ゲームの話しかしないんだ。参ったね」
「ということは、デートコースはやっぱりゲーセン?」
「そう――ほら、ラバーズ・ストリート≠ノまた新しいゲーセン、できたろ?」
「うん」
渋谷の道玄坂と円山町を隔てる通りが、通称ラバーズ・ストリート=\―しゃれたラブホテルが林立していることで有名だ。土曜の夜ともなれば、ホテルはどこも満室で、時間待ちの男女が通りを行ったり来たりしている。そして、彼らをターゲットにした大人向けのゲームセンターも何軒も建ち並び、それぞれに繁盛していた。時間を潰《つぶ》すのにゲームセンターはうってつけだからだ。
「あそこで格闘ゲームやらされたんだ。『私をものにしたければ、私を打ち負かすことね』とか言われて……」
「勝てば隣に直行ってわけか?」
「そうそう。だからさ、しゃかりきになってやったんだけど、彼女ったら強いのなんの……もう、ボロ負け。手も足も出ない」流は大きくため息をついた。「悔しいったらありゃしない」
「プレイボーイもゲーマーには歯が立たず、か」大樹は笑った。「でも、分からないなあ。かっこいい男を紹介しろって言ったのは向こうのはずなのに、何でそんな手間かけて、お前をふるんだ?」
「男をはべらせるのが趣味なんだとさ。で、そいつが言い寄ってきたら、ゲームで打ち負かしちまうんだそうだ。自分より強い男にしか抱かれたくないって」
「へえ。マンガみたいだな。自分をキャラと同一視してんのかね?」
「かもしれない――でも、彼女の体目当てに挑戦する男って、けっこういるらしいんだ。いい男の挑戦でないと受けないらしいけどね。かなり有名らしくて、しょっちゅういろんな奴にあいさつされてたな。ゲーセンの女王様って感じだった」
大樹は思い当たった。「おい、その昭島亮子さん、ひょっとしてハイスコアに『JIGY』って入れてなかったか?」
「え? そう言えば、そんな名前、使ってたっけ……」
「何てこった! そりゃ、道玄坂ジギー≠セ!」
「誰だって?」
「渋谷界隈のゲーセンを荒し回ってる、伝説のハイスコア・ゲーマーだよ。そりゃ、お前なんかが勝てるわけがない。僕だって勝てないよ」
「そんなにすごいのか?」
「ああ、何度かゲーセンで顔見たことある。でも、電話の声だけじゃ分からなかった――そうか、ジギーの本名、昭島亮子っていうのか」
流は顔をしかめた。「お前の知り合いってのは、本名の分からない奴ばっかりか?」
「本名なんか知ってどうなる?」大樹はきっぱりと答えた。「顔だの名前だのといったものは、しょせん人間の本質じゃない。単に個体を識別するコードにすぎない。それだったら『鈴音』や『ジギー』で充分じゃないか。違うか?」
「ハンドルネームだけで恋ができるか?」
「少なくともTIPは鈴音に熱烈に恋してたぞ。遠く離れた土地に住む、おそらくは一度も会ったことのない、顔も見たこともない相手に……死んでからもなお、彼女のことを想い続けて、シーベルというキャラクターを創ったんだからな」
流はため息をつき、かぶりを振った。「俺には理解できないな。やっぱ、愛にはお肌の触れ合いがなくっちゃ」
「そうかね? すべての人間にとって、セックスが愛の最終形態とはかぎらないと思うぞ。人によっては、他のものにもっと大きな価値を見出すこともある……ジギーだってそうだ。彼女にとっては、たぶん、現実のセックスなんかより、自分をゲーム・キャラに見立てたヴァーチャルな環境にひたってる方が楽しいんじゃないのか?」
「不毛だなあ……」
「それはひとつの価値観にすぎないだろ。人それぞれ、価値観は違うし、愛の形だっていろいろあるんだ……ん?」
ある引き出しを開けようとした大樹は、鍵がかかっていることに気づいた。 <高畑> と書かれたファイルが置かれているところを見ると、開発チーフの高畑のデスクらしい。
「流、この引き出し、ちょっと頼む」
「やれやれ、さっそく器物損壊かよ」
流はぶつぶつ言いながらも、引き出しに手をかけ、力いっぱい引っ張った。
どかん! 派手な音がして鍵が壊れ、引き出しは勢いよくデスクから飛び出した。中に入っていたノートやら書類やらが、派手に床にぶちまけられる。流はひしゃげた引き出しを床に放り投げた。
「いつも不思議なんだけど……」
「何だ?」
「その怪力で女の子を抱き潰しちゃうことってないのか?」
「女の子ってのはな、ソフトにソフトに扱うもんなの――お前も女の子とお肌を触れ合ってみりゃ分かるって」
「ふうん?」
大樹は床に散乱した紙きれをひっかき回した。だが、CDは出てこない。
「なあ、大樹……」
「何だ?」
「ひょっとして、これじゃないのか?」
流は透明なアクリル・ケースに入った一枚のCDを大樹に見せた。ラベルには手書きで <MCマスターバージョン9 9/06> と書いてあった。
「どこにあった?」
「この机の上。ファイルに無雑作にはさんであった」
大樹は大きくため息をついた。
「ポーの『盗まれた手紙』か……」
「何だって?」
「何でもない――さっそく調べてみよう」
大樹は開発用のパソコンのひとつを起動させ、CDをドライブに入れた。しゅるるる……という音とともにCDが読みこまれると、モニターにデモ画面が現われた。「栄華を誇ったヴォルカニア王国は、今、大きな危機を迎えていた……」という背景ストーリーを説明するテロップが流れる中、八体のキャラが各自の技を披露している。
「おっと、忘れるところだった」
プレイをはじめる前に、大樹はビデオをパソコンに接続した。録画ボタンを押し、プレイのすべてが記録されるようにする。
STARTボタンを押すとデモが中断され、キャラ選択画面になった。大樹が選んだのは、もちろんシーベルだった。COM側もシーベルを選択し、同キャラ対戦になる。
戦いの舞台は古代の聖堂。二人のシーベルが向かい合い、互いにメイスを構えている。1P側の服の色は白、2P側は青だ。 <FIGHT!> という文字が画面にフラッシュしたかと思うと、2P側のシーベルが猛然と突進してきた。
プレイそのものには変わったところはなかった。この四日間、下の階でさんざんプレイしたテストプレイ用バージョンと、特に違っている点はない。
大樹はパッドの操作には慣れていたものの、2P側のシーベルの強さには少してこずった。完璧な思考ルーチンで、隙のない攻撃を仕掛けてくるのだ。大樹のシーベルのライフゲージはぎりぎりまで削られたが、それでも敵の技が空振りした瞬間を狙って連続技をかけ、一ラウンド目はかろうじて勝利を収めた。
「何か見つかったか?」
流が訊ねる。彼は実際に <ミスティック・チャレンジャー> の画面を見るのは初めてなので、異状があるかどうか判断できない。
「そう簡単に見つかるもんじゃないさ」二ラウンド目をプレイしながら大樹は言った。「たぶん、うまく隠してあるだろうからね」
「隠してある?」
「ああ。いくらマスターディスクだからって、発売前に最終的なテストぐらいはするさ。ぱっと見て分かるような異状なら、その時に気づかれてしまう。だから、何者かがこのディスクに細工していたとしても、それは巧妙に隠されていると考えるのが妥当だ……」
「じゃあ、どうやってそれを発見するんだ?」
「手がかりはある。谷町はゲーム画面をビデオで再生していて、それを見つけた。つまり、それは肉眼では見えないものなんだ……」
話をしていたために操作がおろそかになってしまった。大樹が必殺技の入力を誤ってもたついた隙を狙い、2P側のシーベルはホーリーバーストを放った。白い閃光《せんこう》をまともに浴び、大樹のシーベルは吹き飛ばされた。カウントは一対一。
三ラウンド目がはじまったところで、大樹は画面にポーズをかけた。
「さあて、今までのところをもう一度見てみよう」
大樹はテープを巻き戻し、一/五の速度で再生した。二人のシーベルが水中のようなゆっくりとした動作で戦いを繰り広げる。流と大樹は画面を食い入るように見つめたが、おかしなところは見つからなかった。だが――
2P側のシーベルがホーリーバーストを放った。
「何か見えたぞ!」流が叫ぶ。
「うん、僕もだ」
大樹は再びテープを巻き戻し、今度はコマ送りで観察した。2P側のシーベルは床にひざまずき、メイスを掲げている。その先端から白い光が放たれる……。
「これか!」
二人は同時に叫んだ。
まばゆい光で真っ白に埋めつくされた画面――その中央に、大きくくっきりと、こんな文字が浮かんでいた。
<神をあがめよ>
「サブリミナル・メッセージ!?」流は息を飲んだ。
7 隠された真実
「よく考えたもんだ」大樹は感心してうなずいた。「まさに <サイバージェネシス> ならではってとこだな」
「どういうことだ?」
「従来のゲーム機のほとんどは、秒間三〇フレーム――つまり一枚の絵が一/三〇秒間、表示されるんだ。でも、一/三〇秒だと、目のいい人間には認識されることがある。ところが <サイバージェネシス> は秒間六〇フレームを実現している。一枚の絵が表示される時間は、わずか一/六〇秒……」
「誰にも気づかれることはないってわけか」
「そういうこと。もっとも、頻繁にプレイしていると、何か見える気がしてくるかもしれないけどね」
「ということは、このメッセージを仕掛けた奴は、 <サイバージェネシス> を普及させて、宗教心をあおろうとしているわけだな……」
大樹は慌ててかぶりを振った。「違う違う、その逆だ」
「逆?」
「そうさ。いいか、重要なことはだな、サブリミナル効果なんてものは効果がない[#「サブリミナル効果なんてものは効果がない」に傍点]、ってことなんだ。普通の映像の中に別の映像をフラッシュさせたら、人間の潜在意識を操れるなんてのは、ありゃ迷信だ」
「え? でも、前にニュースで見たことあるぞ。確かアメリカで、映画館でコーラの売り上げを増やすのに成功したって……」
「ジェイムズ・M・ヴィカリーの実験だな。一九五七年、ニュージャージーの映画館で行なわれたと言われている。上映中の映画のスクリーンに、『コーラを飲め』『ポップコーンを食べろ』というメッセージを、五秒ごとに一/三〇〇〇秒だけフラッシュさせたら、売店のコーラの売り上げが一八パーセント、ポップコーンの売り上げが五〇パーセント以上もアップしたっていうんだ」
「だったら――」
「ところが!」大樹は声を張り上げた。「ヴィカリー自身が後になって、この実験結果を否定してるんだ。本格的な実験を行なう前に、マスコミに嗅ぎつけられてしまって、しかたなく不正確なデータを公開してしまった……ってね。ちなみにヴィカリーは科学者じゃない。マーケティング・リサーチが本職だ」
「何じゃ、そりゃ」流は拍子抜けした。「じゃあ、サブリミナル効果ってのは嘘《うそ》なのか?」
「まったく嘘ってわけでもない。確かに人間の潜在意識は、通常の意識ではとらえられないような瞬間的な映像も知覚していることが判明している。でも、メッセージを知覚することと、そのメッセージに従うことは、ぜんぜん別だ。映像にメッセージを仕組んで、それによって人間の意識がコントロールできるかというと、かなり疑問だな。
実は一九五八年にカナダのテレビ局が、ヴィカリーの装置を使って、サブリミナル効果の実験を行なってるんだ。日曜の夜の人気番組の中で、『今すぐ電話を』っていうメッセージを三五〇回以上も流したんだそうだ。でも、電話会社の記録によれば、その夜の通話数はぜんぜん上昇しなかったし、テレビ局への電話も増えなかった。
一九九四年にはイギリスのBBCテレビが同じような実験を行なったけど、やっぱり効果は見られなかった。その他にも、何人もの心理学者がサブリミナル効果の実験を行なってるんだが、どれも結果は同じ――効果はないか、あってもほとんど影響ない」
「じゃあ、この映像はまったく無害ってわけか?」
流は画面に映っている <神をあがめよ> の文字を指差した。
「まあ、仮に <ミスティック・チャレンジャー> が何百万本も売れたとしても、このメッセージのせいで教会に通う人間が増えるとは、とても思えないね。だってそうだろ? ほんの時たま、一/六〇秒しかフラッシュしない潜在的なメッセージよりも、表面的な情報――迫力ある格闘シーンの方が、意識に与える影響は圧倒的に大きいはずだよ」
「そりゃそうだな――ということは、犯人はそれを知らなかった……?」
「違うね。犯人は最初からサブリミナル・メッセージに効果なんてないと知っていたんだと、僕は思う。効果がないからこそやったんだ」
「効果がないから?」
「そう――想像してみろよ。 <サイバージェネシス> が発売された直後に、その主力ソフトである <ミスティック・チャレンジャー> に、人を宗教に勧誘するようなサブリミナル・メッセージが隠されていると判明したら……」
「大騒ぎだな」流にもようやく飲みこめた。「イメージがた落ち……」
「そう。その結果、誰かが喜ぶ……」
「誰だ?」
「ま、だいたい見当はついてるけどね」
「ライバルか……」
はっきりした証拠はない。だが、JETの <サイバージェネシス> が危険だという評判が立ったら、消費者はシャイアーテックス社の <ノヴァ2000> の方を選ぶだろう。 <ノヴァ2000> の売り上げは伸び、シャイアーテックス社にとって何十億円という増収になることは間違いない。
「あっ、ということは!」流はぽんと手を叩いた。「そうか、呉が宗教にハマってるってデマを社内に流したのは、その伏線だったんだな! シーベルは彼の創ったキャラだし、疑いは彼に向くわけだ」
「たぶんそうだろうな。もっとも、彼の家に聖書があるっていうのは本当だろう。今度読んでみるって、あのフォーラムで言ってたからな――犯人はそれを知って、彼をスケープゴートに仕立てる計画を立てたんだ」
大樹はそう言うと、立ち上がり、近くのデスクにあったもう言のパソコンを起動させた。
モデムのスイッチを入れ、ハードディスクにインストールされていた通信ソフトを借りて、回線に接続する。
「どうするんだ?」
「呉さんに知らせる」
「呉に?」
「だって、このソフトハウスの人間で、僕がIDを知ってるのは呉さんだけだからね」
「家に帰ってからでも遅くないだろ?」
「いや、ここから会社のIDを使って送信すれば、向こうにこっちの正体がバレずに済む。それに、警告は早い方がいい。彼の身に危険が迫ってる」
「危険?」
「犯人はたぶん、事件発覚と同時に、彼を自殺に見せかけて殺すだろう。世間は彼が犯人だと思いこむ……」
大樹はキーボードに呉宛てのメッセージを打ちこみはじめた。
「それまでだ!」
女の声がした。
二人が振り返ると、さっきまで <ミスティック・チャレンジャー> を映していたモニターから、無数のポリゴンが勢いよく噴出していた。色とりどりの断片が紙吹雪のように室内を舞う。
やがてそれは竜巻のように回転しながら集合し、人の姿になった。
女司祭シーベルの姿に。
「おやおや、やっとおでましだな」
大樹はまったく驚いた様子を見せなかった。にこやかな笑みを浮かべ、芝居がかったポーズで、新たに現われた妖怪を迎えた。
「前から一度、会ってみたいと思ってたんだよ、マーフィー[#「マーフィー」に傍点]」
「マーフィー?」流が怪訝《けげん》な顔をする。
シーベルが口の端を歪《ゆが》めて笑った。「どうして私の名を知っている?」
「プログラマーなら誰だって知ってるさ。電子世界のいたずら者マーフィー――その活動ぶりはまさに変幻自在で、つかみどころがない。その姿もどうせ仮のものだろう? 人間の仕事を妨害し、失敗させ、困らせるのが生きがいっていう、実に厄介な奴だ。だが……」
大樹は笑顔から一転し、きびしい表情になった。
「……人を殺すのはやり過ぎだぞ」
シーベルは――厳密に言えばシーベルの姿を借りた電子妖怪マーフィーは、大樹の言葉をせせら笑った。
「私は人間の法には束縛されない。規則を破壊することこそ、私の喜びだ」
「なぜ谷町を殺した? 誰かに頼まれたか?」
「どうかな」
「いや、お前は間違いなぐ誰かに命令されたんだ」大樹は断言した。「 <ミスティック・チャレンジャー> が発売される前に、誰かがあのメッセージに気づくことがないよう、このソフトハウスを監視しろと――発見されたらすぐに修正されてしまうからな。そうだろ?」
「答える必要はない」
「お前のバックにいるのは誰だ?」
「…………」
「 <神をあがめよ> というメッセージを選んだのはなぜだ? この世には、神の権威を失墜させて喜ぶ連中がいる。そいつらか?」
「言ったはずだ。答える必要はないと」
マーフィーは薄笑いを浮かべると、手にしたメイスを構え、戦闘体勢を取った。
「お前たちはここで死ぬのだから」
「やれやれ――『冥土《めいど》のみやげに教えてやろう』とかって、言ってくれないのか?」
「私はパターンは嫌いだ」
「大樹、下がってろ!」
流が進み出る。言われるまでもなく、大樹は後ろに下がった。戦闘は苦手だ。
「何とか生け捕りにしてくれ。ぜひ訊《き》き出したいことがある」
「分かってる」流は指をぽきぽき鳴らした。「女はあまり殴りたくないんだけどな……」
「うぬぼれるな!」
そう言うなり、マーフィーは攻撃をかけてきた。
速い!
その驚異的なスピードに、大樹は目をみはった。まるで瞬間移動したかのように、一瞬で流との間合いを詰めた。すかさず繰り出されるメイス。流は慌ててかわしたが、それはフェイントだった。よけた方向から膝蹴《ひざげ》りが飛んでくる。
流はみぞおちに強烈な直撃を受けてうめいた。人間なら一撃で内臓破裂を起こしていただろう。よろめきながらも殴り返すが、マーフィーはメイスでそれを受けた。
マーフィーはメイスを風車のように回転させた。ポリゴンで構成された固いメイスの両端が、流の顎《あご》を続けざまにヒットする。流は顎を押さえてよろよろと後退し、デスクのひとつにぶつかった。
「はあっ!」
かけ声とともに、マーフィーはジャンプし、空中回し蹴りを放った。体がコマのようにスピンして、つま先が流の顔面を何度も何度も打つ。さらに着地と同時に斜め下からメイスを力強く突き出し、流の腹を打った。流の体はデスクを飛び越え、一気に窓際まで吹き飛ばされた。
モニターやパソコンが派手にひっくり返る。
「シーベルの思考ルーチンまで盗んだな!」
大樹呼声をあげた。マーフィーは単に姿形をまねるだけではなく、おそらく電子世界にあるものなら何でも、その能力までコピーできるのだろう。シーベルのデータを盗んだマーフィーは、実際にシーベル並みの格闘家になっているのだ。
「ちくしょう……つけあがりやがって!」
逆上した流は、拳を振り上げ、マーフィーめがけて突進した。マーフィーはひざまずき、メイスを掲げている――
「よせ!」大樹は慌てて止めた。「そのポーズは――」
間に合わなかった。突進してきた流めがけて、ホーリーバーストが至近距離から炸裂《さくれつ》したのだ。まばゆい光が室内にフラッシュし、流の体はトランポリンに激突したように、派手に跳ね飛ばされた。デスクのひとつに激突し、高価なパソコンをまた一台おしゃかにする。
「だいじょうぶか!?」大樹は駆け寄った。
「くそ……昭島亮子と戦ってるみたいだぜ」鼻血をぬぐいながら、流はぼやいた。「人間だったら五回ぐらい死んでるぞ」
「お前たちは私に勝てない!」マーフィーは勝ち誇った。「ここで死ぬのだ!」
「まだまだあ!」流は跳ね起き、またも突進した。まっすぐ飛びかかると見せかけてスライディングし、メイスの攻撃をくぐり抜けてマーフィーの足許に転がりこむと、足払いをかけた。マーフィーはひっくり返った。
流は立ち上がり、倒れているマーフィーに飛びかかって押さえこもうとした。だが、マーフィーが転がって逃げたので自爆に終わった。二人はほぼ同時に立ち上がった。またもや激しいメイス攻撃が流を見舞う。
大樹はあせった。確かに流は喧嘩《けんか》慣れしているし、力も強い。だが、シーベルの能力を自分のものにしたマーフィーは、スピードでも技術でも、流をはるかに凌駕《りょうが》している。げんに流の攻撃がことごとくかわされ、あるいは阻止されているのに対し、マーフィーの攻撃はほぼ確実にヒットしていた。いくら妖怪が打たれ強いからといって、やはり限界はある。このままではやられてしまう……。
その時――
「モニターを壊して!」
シーベルの声に、大樹は驚いて振り返った。
モニターの中にもう一人のシーベルが――2P側のシーベルがいた。その悲壮な表情が画面いっぱいにアップになり、大樹に懸命に訴えている。
「このモニターを壊して! 早く! お願い、WOODさん[#「WOODさん」に傍点]!」
「おのれ……!?」マーフィーが狼狽《ろうばい》する。
大樹はとっさにその意味を理解した。ただちに変身を解き、めったに明らかにしない真の姿を現わした――着物を着て大きな算盤《そろばん》を抱えた子供の姿に。
彼は算盤を猛烈な速さでかき鳴らした。しゃかしゃかという耳ざわりな音が室内に響き渡る。
彼の指の動きが速くなるにつれ、その音はどんどん高く、激しくなり、ついには人間に耐えがたい超高周波となった。
シーベルが映っていたモニターが砕け、火を吹いた。
大樹はそれでやめはしなかった。念のために室内のすべてのモニターに破壊音波をまんべんなく浴びせた。マーフィーはなすすべもなく立ちすくみ、モニターが次々に砕けてゆくのを見ているしかなかった。
マーフィーの姿が崩れはじめた――シーベルの姿を構成しているポリゴンが随所でずれ、分解しはじめている。マーフィーは苦悶《くもん》し、痛みに耐えるかのように身をよじった。意志の力で必死に姿を保とうとするが、うまくいかない。画像データがどんどん失われているらしく、テクスチャー・マッピングが次々に消え、ポリゴンが単色の断片に変化してゆく。ほどなくその姿は全身銀色になった。
「なるほどな」算盤をかき鳴らす手を止め、大樹はつぶやいた。「お前は電子世界の妖怪だから、モニターの外では長く生きられない。通常の空間で形を保つためには、常に膨大なパワーが必要だ。それをパソコンを通してネットワークから得てるんだ――そうだろ?」
マーフィーは答えなかった。すでに形を保つことが困難になっていた。口を大きく開け、マイクのハウリング音を思わせるすさまじい悲鳴をあげる。と同時に、その顔がばらばらに分解した。胴は膨張し、腕はねじれて砕け、脚はひび割れて変形する。
数秒後、そこに立っているものは、すでにシーベルの姿をしていなかった。何百というポリゴンがゆるやかに集まり、漠然と人の輪郭を形成しているだけの代物だ。ポリゴンの間は隙間だらけで、後ろの壁が透けて見えていた。
マーフィーは最後の力を振り絞り、窓に向かって突進した。窓を突き破り、ガラス片と混ざり合って、夜空に飛び出す。
「どこかの家のパソコンに入る気だ!」大樹は叫んだ。「逃がすな、流!」
「まかせろ!」
流は窓に向かってダッシュすると、夜空に躍り出た。体が膨張して服が引き裂かれたかと思うと、その姿は一瞬にして変化した。
金色の竜の姿に。
マーフィーはふらふらと夜空を飛んでゆく。何百というポリゴンが街の灯を反射し、きらめいていた。誰かがそれを目撃したとしたら、銀色の蝶の群れが夜空を渡っていると錯覚したかもしれない。
その飛行速度は遅く、不安定だった。流は難なく追いついた。後方二〇メートルまで近寄り、口をかっと開いて、紫色の電撃を放射する。
電子的なデータの集合体であるマーフィーに、その攻撃は致命的だった。電撃が命中した瞬間、すべてのポリゴンに激しい火花が走ったかと思うと、全体が打ち上げ花火のようにぱっと砕け散った。無数のポリゴンは銀色の粉末となり、ちらちらと輝きながら、季節外れの雪のように夜の街に降っていった。
8 いまひとたびの別れ
ソフトハウス <えむ・ぱい屋> に、深夜、何者かが侵入し、警備員をガスか何かで眠らせたうえ、開発室の機材をめちゃくちゃに破壊したというニュースは、新聞やテレビでも大きく報道された。犯人は異常者だとか、クビにされた元社員の腹いせだとか、あるいは新ゲームの開発を妨害しようとするライバル会社のしわざだとか、様々な憶測が流れた。だが結局、警察もマスコミも真相に迫ることはできなかった。
大樹がほっとしたことには、 <えむ・ぱい屋> の業務が停滞したのはほんの一日だけで、開発室はすぐに復旧したとのことだった。あれだけ派手にモニターやパソコン本体を壊したにもかかわらず、貴重な開発用ボードやデータを収めたディスク類は、奇跡的にすべて無事だったのだ。 <えむ・ぱい屋> は壊されたモニターやパソコンの代わりを大急ぎで秋葉原で調達し、その日のうちにすべて取り替え、完全に元通りにした。
だから <ミスティック・チャレンジャー> の発売が遅れるということはないだろう。大樹にとっては嬉《うれ》しいニュースだった。彼はテストプレイをやっていてすっかりこのゲームにハマり、発売されたら <サイバージェネシス> 本体といっしょにすぐ買おうと思っていたからだ。
新聞に載らなかった事件もある。 <ミスティック・チャレンジャー> のマスターディスクの中にサブリミナル効果を意図したメッセージが隠されている、と指摘する匿名の手紙が、 <えむ・ぱい屋> 開発室に届いたのだ。この件は社外には秘密にされ、修正はこっそり行なわれた。手紙の主はまた、これは呉友也を陥れようとする何者かのしわざだと指摘していたので、呉に疑いがかかることはなかった。
事件の直後、プログラマーの火野隆二が行方不明になったことで、警察は開発室破壊事件との関連を疑った。しかし、火野の行方は杳《よう》として知れなかった。
呉に関するデマを社内に流したのは、火野に間違いなかった。プログラムに細工してメッセージを仕組んだのも、おそらく彼だろう。計画が破綻《はたん》した以上、不要になった彼は、すでに口封じのために殺されている可能性が高い、と大樹は思った。
彼を利用していた巨大な闇の勢力に。
シャイアーテックス社はただの企業ではない、と大樹はにらんでいた。ただの企業がマーフィーのような妖怪を手先に使えるはずがない。今度の計画はおそらく一石二鳥を狙ったものだったのだろう。「神をあがめよ」というサブリミナル・メッセージがゲームの中に仕組まれている、という噂を流すことによって、 <サイバージェネシス> の評判を落とすと同時に、大衆の不安をかきたて、宗教に対する疑惑や嫌悪感を植えつけようとしたのだ。
聖書の『ヨハネ黙示録』には、この世の終わりに現われ、富によって世界を支配し、偽りの言葉を吐いて神の権威をおとしめようとする「獣」のことが書かれている。その獣を象徴する数字は「666」であるという。そして、SHIRETEX(シャイアーテックス)を並べ替えるとTHREE SIX(666)になる……。
その正体をあばけないのは悔しかったが、やむをえないことだろう。『ヨハネ黙示録』の記述の通りならば、彼らの組織はおそらく世界的なスケールであるはずだ。今回は彼らの陰謀のごく末端と接触したにすぎない。
いずれ全面対決の時が来るかもしれない、と大樹は思った。
事件の二日後、鈴音から電子メールが届いた。
[#ここから3字下げ]
1 海野鈴音   HQI202064 09/17 00:01
題名:ありがとうございました。
WOODさん、こんばんは。
このID、この名前であなたに通信を送るのは、これで最後になると思います。じきに課金が海野鈴音の口座に請求され、私の不正使用が発覚して、このIDは抹消されるでしょうから。
すでにお気づきかと思いますが、私は生身の人間ではありません。あなたと同じ存在です。
呉さんは本物の海野鈴音を愛していました。一度も会ったことはないし、それどころか顔も知らなかったけれど、それでも、その愛は強いものでした。鈴音の方も呉さんに好意を抱いていて、2人はいつか会おうと約束していました。
海野鈴音が突然死んだ時、呉さんは深い悲しみに包まれました。そして、彼女の思い出を永遠に残すために、全身全霊を傾けて、彼女をモデルにした理想のゲーム・キャラクター「シーベル」を創造しようと思い立ったのです。鈴音を愛する呉さんの心、シーベル創造にかける呉さんの情熱はあまりにも強く、その想いが結晶して、ネットワーク上に私という存在を生み出したのです。
私は彼の愛によって生まれました。彼を愛するために、彼を守るために生まれてきたのです。
とは言っても、私は生まれたばかり。何の力もありはしません。呉さんが打ちこむ文章を読んだり、パソコンの画面越しに彼の顔を見たりするだけで、満足しなければなりませんでした。(私はモニターの内側から外が見えるんです。そのパソコンが外部のネットワークに接続している時だけですけど)あの夜も、 <えむ・ぱい屋> からパソコン通信のアクセスがあったので、もしや呉さんかもと思い、私は見に行きました。そして、あの事件を目撃したのです。
谷町さんが何を発見したために殺されたのか、私には分かりませんでした。彼がそれを発見した時には、まだ回線はつながっていませんでしたし、ビデオのモニターは私の覗いていたモニターからは見えなかったからです。
でも、私の姿を盗んだ妖怪が谷町さんを殺したこと、それに呉さんが社内で妙な噂を流されていること(仕事中の <えむ・ぱい屋> の社員たちの雑談も、ちょくちょく耳にしていましたから)から考えて、誰かが呉さんを陥れようとしているのだと直感したのです。
しかし、私にはあいつのように画面の外に出てゆく力はありません。あいつとまともに戦うこともできません。ですから、あなたがたの助けを借りるしかなかったのです。
長いこと正体を隠していたことをおわびします。でも、私という存在がネットワークの中にいることを、あいつに知られるわけにはいかなかったので、過剰なまでに注意を払う必要があったのです。あいつの力は強大でした。存在に気づかれたら最後、私など一瞬でひねり潰されていたでしょう。
海野鈴音のIDを使ったのも、万一、私の発言があいつに発見されても、私が生身の人間であるかのように思わせるためだったのです。
でも、あなたがたの活躍であいつは退治され、呉さんの危機も回避されました。本当に何とお礼を言っていいか分かりません。
私はこれからネットワークの奥に帰ります。ネットワークの世界は広大無辺です。きっとあちこちに、私のような存在が何人も迷子になっていることでしょう。その人たちを助け、導きたいのです。一人一人は無力であっても、みんなの力を合わせれば、きっと大きなことができると思います。
またあんな奴がネットワークの中にのさばりはじめ、人間を傷つけようとしても、今度は私たちが許しません。
私は影の世界から人間の世界を助けていこうと思います。世界を助けることが、とりもなおさず、呉さんを助けることにもなるからです。
あなたのご恩は忘れません。いつかまた、お会いできることもあるかもしれません。それまでどうぞお元気で。
[#地付き]感謝をこめて シーベル
[#ここで字下げ終わり]
大樹はすぐに返信を送った。
[#ここから3字下げ]
1 高徳大樹   GAA002412 09/17 00:15
題名:あなたの力です。
あいつを倒せたのは、僕たちの力じゃありません。あなたが危険を冒して、あいつの弱点を教えてくれたからです。
あなたは本当に勇気のある女性です。
[#地付き]WOOD
[#ここで字下げ終わり]
だが、それっきり返事は来なかった。
大樹は考えた。パソコンを通した文章だけの愛など、本物の愛ではないと流は言う。肌を触れ合うことこそが愛だという。だが、それならシーベルの存在をどう説明するのだろう。一度も会ったことのない鈴音に対する呉の愛は、まぎれもなく本物だった。それはシーベルを生み出すほど強いものだったのだ。
呉という男がうらやましい、と大樹は思う――シーベルに好かれているからではない。全身全霊をこめて人を愛することができる、その純粋さがうらやましいのだ。
シーベルが去った今、大樹は胸にぽっかり空洞があいたようなせつない気分で、パソコン通信が以前ほど楽しくなくなっているのに気づいた。
「ひょっとして、これ、失恋ってやつなのかな……?」
彼はこっそりそうつぶやいた。
[#改ページ]
妖怪ファイル
[#ここから5字下げ]
[有月《ありつき》成巳《なるみ》(うわばみ)]
人間の姿:ひげもじゃで、着たきり雀の中年男。
本来の姿:緑のきらめく鱗《うろこ》に覆われた大きな蛇。
特殊能力:敵を麻痺させる酒気を吐く。目があったものを金縛りにする。体をゆらめかせて眠らせる。
職業:ホームレス。
経歴:日本海の小島で神として崇められていたが、島が過疎になって東京に出てきた。
好きなもの:酒と女。
弱点:煙草のヤニ。
[神谷《かみや》聖良《せいら》(毛羽毛現《けうけげん》)]
人間の姿:中性的な長身の女性。
本来の姿:大きな髪の毛の塊の中に、瞳が輝いている。
特殊能力:髪の毛の触手で敵を絡めとり、殴りつける。髪の毛の持ち主の状態を見抜く。どこにでも毛を生やす。
職業:美容院 <セーラ> の経営者。
経歴:髪や暗闇への恐怖から生まれた毛羽毛現一族の最年少者。
好きなもの:髪の毛をいじること。シャンプーとリンスで洗ってもらうこと。
弱点:脱毛剤、脱色剤でダメージを受ける。
[朧《おぼろ》孝太郎《こうたろう》(蜃《しん》)]
人間の姿:三十手前くらいの、オールバックの青年。
本来の姿:さしわたしが2mほどの空とぶハマグリ。
特殊能力:幻覚を自由自在にあやつる。
職業:名画座 <幻燈館> の館主《オーナー》。
経歴:大正時代に映画に触れて、そのまま人間界にいつく。
好きなもの:映画を見ること。
弱点:定期的に海水につからないと干からびてしまう。広いところが苦手。
[黒い鳩]
人間の姿:なし。ただし皮をかぶって変身することができる。
本来の姿:羽毛ばかりか嘴《くちばし》まで黒い鳩。
特殊能力:人間の心に眠っている暗い衝動を呼びさます。群れの中に本体を隠す。
職業:なし。
経歴:ベトナム戦争のころ流行った歌から生まれて、貨物船で日本にやってきた。
好きなもの:憎しみあい、いがみあう人間の心。
弱点:殺人を起こさせないと、妖術が使えなくなる。本体である1羽を斃《たお》されると、他の鳩は消滅する。
[へべれけ]
人間の姿:なし。
本来の姿:全身が緑色でからだつきは人間に似ているが、首から上はまるで蛙のような顔。手足には水掻きがある。
特殊能力:酔っ払いを虎に変身させる。
職業:なし。
経歴:昔の中国で生まれた妖怪。弱い人間の心を解放し、強い者の権化とも言える虎の姿に変身させる。
好きなもの:鬱屈している酔っ払い。
弱点:酒を飲まされると意識不明におちいる。
[マーフィー]
人間の姿:なし。
本来の姿:人間のような体形だが、全身が多数のポリゴンで構成されている。
特殊能力:コンピューターのプログラムを破壊する。ゲーム・キャラクターの姿や能力を模倣する。
職業:なし。
経歴:プログラマーの妄想が生み出した電子世界の妖怪。世界を支配しようとする闇の勢力のために働いている。
好きなもの:秩序を破壊すること。
弱点:パソコン・ネットから力を得ているため、外の世界では長く生きられない。
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あとがき
ぅふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。
妖魔夜行にふさわしく、忍び笑いで登場してみました。執筆メンバーを代表して御|挨拶《あいさつ》させていただく友野詳です。でも、気持ち悪いだけですな、これでは。
さて、妖魔夜行も、巻を重ねてついに短編シリーズが四作目になりました。山本弘の長編をあわせれば、小説が五冊になります。はじめてさんも御心配なく、どれから手にとってもぞんぶんに楽しんでいただけるはずです。もちろん、まとめて読んでいただいたほうが面白くなりますけど。
くわしい設定なぞも、今までの本で解説されてます(テーブルトークRPGとの関連など)。もっとも、物語そのものを楽しんでいただくには、なんの予備知識も必要ありません。あたりまえですが。
さて今回、執筆メンバーはおなじみの面々ですが、お話はしっかり新しく(これも、あたりまえですわな)、そして <うさぎの穴> にも新たな面々がくわわりました。前から登場してはいても、はじめて主役をはるキャラクターなんぞもいたりして、楽しんでいただけるはず。まあ、毎度おなじみ流くんが、今回は女の子じゃなくて男を助けるなんて珍しいエピソードもあるし。
ちなみに「鳩は夜に飛ぶ」に登場した新メンバーたちは、TRPGのほうの拡張データ集『ガーブス妖魔夜行 妖怪伝奇』で紹介されたキャラクターたちです。雑誌に掲載されたとき、ちょうどこの本が出たところだったんですよね。彼らのくわしい背景情報などを知りたいかたは、そちらをごらんになってくださいね。
そうそう「鳩は夜に飛ぶ」といえばですね、山本建一さん、ちょい役でごめんなさいね。なんて突然言っても、わからない人が大半だと思うので、解説します。
先日(95年夏)に晴海で行われた「TRPG夏祭り」で、チャリティオークションが行われまして、そこで「鳩は夜に飛ぶ」に名前を登場させる権利を(具体的な金額は内緒にしとくけどけっこうなもんで)競り落としたのが、山本さんだったわけです。ところが、すでに書かれていた「鳩は夜に飛ぶ」にはうまくあてはまらず、ニュースの片隅に出てくるだけになっちゃって。いつか居酒屋「ふじさき」と店員の山本さんは再登場させますので、今回はかんべんしてくださいね。
さて <うさぎの穴> の面々は、これでほぼ全部(おっと、まだ小説に登場していないのが数人いたか)。これからは、それぞれの過去や内面に、よりスポットをあてていこうかなと考えています。未亜子さんが、なぜ人間を襲わなくなったかに絡む血塗られた過去が事件を……なんてネタも考えているんですけれどね。
そうそう、うわばみの有月さんの方言については、我がグループSNEの柘植《つげ》めぐみの協力を得ました。どーも、ありがとね。
それやこれやで、これからも妖魔夜行はさまざまに展開していきます。この夏には、TRPGシナリオ集「妖魔荘の怪事件」と読者のみなさんからよせられた投稿をもとにした追加データ集「闇紀行」なども出ました。一緒に御購入いただければ幸いです。
他にも水面下でいろいろたくらんでいたりしますんで、どうかお楽しみに。
やっぱり、夢は実写特撮のTVシリーズですかね(笑)。そのためにも、どんどん面白い小説を書かないと。友野もぼちぼち長編を書けと言われておるのですが……もう少し待ってね。さっきの未亜子さんの話は、やっぱりこの長編でやろうかなぁ。
ホラー、怪談、スプラッタ、サスペンス、テラー、サイコ、怪奇と、さまざまな恐怖のスタイルがありますが、今まで妖魔夜行でどれだけ描けてきたでしょうか。これからも、まだまだ新たな物語に挑戦していきたいと思います。どうか、よろしくおつきあいください。
一九九五年九月下旬
[#地付き]友野ああ、まだ『エド・ウッド』見てない¥レ
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<初出>
第一話 鳩は夜に飛ぶ     友野 詳
「コンプRPG」94年8月号
一九九四・八・三〇刊
第二話 闇に吼える虎     高井 信
「コンプRPG」Vol.8
一九九三・八・三一刊
第三話 鏡の国の鈴音     山本 弘
書き下ろし
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 鳩《はと》は夜《よる》に飛《と》ぶ
平成七年十一月一日 初版発行
著者――友野《ともの》詳《しょう》/高井《たかい》信《しん》/山本《やまもと》弘《ひろし》