[#表紙(表紙.jpg)]
ハグルマ
北野勇作
目 次
一 螺《ネ》 子《ジ》
二 発《バ》 条《ネ》
三 梃《テ》 子《コ》
四 歯《ハ》 車《グルマ》
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ぴ。
ボタンを押すと腕時計の液晶表示がゼロの並びに変わる。
毎回タイムを計っているわけではないのだが、走り出す前にはいつもそんなふうにリセットする。まあ一種の儀式だろう。長く続けるためには、そういうものが必要だ。
どんなことでも――。
さて。
ぴ。
走り出す。
水銀灯に照らされた舗道。
いつものことだが、人影はない。団地の前から川までの緩やかな登り坂。
最初のこの登りで、その日のだいたいの体調がわかるようになった。
走るのを三日もさぼると、この坂はやけに長く感じられる。そうなるとダメだ。大切なところで息切れしてしまう。
いちばん大切なところで。
だから、最近ではいくら仕事が忙しくて帰りが遅くなっても、たとえ飲んで帰ってきても、走るようにしている。
そうしなければ、いられない。
ダメになってしまうような気がして。
いろんなことが――。
なぜこんなことを始めたんだっけ。
忘れてしまった。
たぶん、肉体が衰えていくことへの不安。いや、いっそ恐怖かな。もちろん、そんなこと口に出したりはしないが――。
同じ勾配《こうばい》でだらだらと続く坂。
登り切ったところが、毛玉《けだま》川の土手だ。
一気に視界が開けると、すぐ下にはテニスコートや芝生のある広い河川敷。もうすっかり見慣れた光景。
では、あれは――。
なんだ?
あのぶよぶよとした光る塊。
変なものが浮かんでいる。
そんなことを思っていたら――。
なんだ、月だよ。
近頃、月がやけに大きくなったような気がする。もちろん、そんなはずはないのだが。
でも、現に今、真正面に見えているのも膨らんだ女の腹のような大きな月なのだ。境界がぼやけていて、そのくせ明るい。アスファルトの上の白線が妙な色に見えているのもあの月のせいだろう。
土手についたスロープを下って河川敷へ。
そのまま自転車道へと合流する。どこまでも続いているかのような自転車道。ちょうどいい。このあいだ見つけた。
自転車がすれ違える程度の広さのアスファルトの道が川と並行して延びている。
左右に、ぽつ、ぽつ、と背の高さほどの茂みが点在している。
息を短く、ふたつ吸って、ふたつ吐く。
ランニング・シューズの踵《かかと》がアスファルトに接地する瞬間の軽い音。
耳の奥が脈を打っているのがわかる。
肉体が正確で心地好いリズムに満たされ、毛穴から噴き出している汗さえもが、それに従っているように思える。
呼吸はいつの間にか楽になっていて、もっと、ペースを上げられそうな気がする。
いや。
上げたくなっている。
もうすぐ、あれが来るから。
いろんなものが綺麗《きれい》に、クリアに見える、あの瞬間。
それが、ランナーズ・ハイというやつなのかどうかは知らない。ただ、こういうことを始めるまで、体験したことのなかった感覚であることは間違いないな。
それがおもしろい。
ほらもうすぐだ。
せまってくる。
もうすこし。
すぐそこ。
わかる。
ほら。
お。
来た。
来たよ。
来た来た。
笑顔になる。
ひとりでにね。
なってしまうよ。
こういうふうにさ。
回転数が上がるんだ。
肉体のあらゆる部分の。
そうだな、例えばそれは。
なめらかに回転をする歯車。
骨と肉で組み立てられた歯車。
それがこうして動いているのだ。
それとも、動かされているのかな。
正確にそして効率よく伝えられる力。
脳へと送られる血の量が増えるからか。
どこまでも走っていけるような気がする。
いやもちろんそんなのは気のせいなのだが。
行く手に見えるのは暗い水の流れを断ち切る水門。
鈍く光る夜空のそこだけが四角く切り取られている。
と、そんなふうにせっかく自分のなかに訪れた高揚した精神状態だが、残念ながらいつもこのあたりまでしか続かない。
まず息が乱れてくる。
そして、汗だ。
冷たくなった汗でシャツが皮膚に貼りつくのを感じる。綺麗に回っていた何かが、ぎくしゃくしはじめる。何かが噛《か》みあわなくなって――。
そして、いつの間にか、太股《ふともも》が上がらなくなっている。まるで自分の身体ではないみたいに、コントロールできなくなって。
いつもそうだ。
ここまで。
そうならないためには、この手前で止めればいいのだ。そう思う。そうすれば、いい気持ちのまま終えることができる。
いったん気持ちが沈んでしまうと、あとは、決まって嫌なことを考えてしまう。
それはわかっているのに。
例えば――。
そう、例えば――今ここで何を見たらいちばん怖いだろうか、などということを、だ。
身体がうまく動かなくても脳ミソだけはあいかわらず働いているから、すぐ思いついてしまう。
こんなのはどうだろうか。
子供たちが遊んでいる。
真夜中の河川敷で。
それを目撃する。
笑い声を聞く。
うん、いい。
かなりね。
これは。
怖い。
だいたい、子供なんてそれでなくても怖い。何を考えているか、わからない。
あいつら――。
昆虫みたいだ。
そんなことを思いつつ、何気なく水門を見上げて鳥肌が立った。水門の上、夜空とコンクリートの境目に、人影が見えたのだ。
子供だ。
まるで想像のなかから抜け出してきたような。
そんなはずはないと思う。あそこまでいくには、コンクリート壁に取り付けられた細い金属の梯子《はしご》を登るしかない。ここからはほぼ真上に見える地上から二十メートルはあるだろうあの場所まで、しがみつくようにして登っていくしかないのだ。あの赤錆《あかさび》だらけの梯子を――。子供がこんな時間に、そんなことをするだろうか。
あれは人影などではなく、コンクリートの突起がそんなふうに見えているだけなのかもしれない。そう思いたくて、もういちど見たくもないのに目をやった。
ところが、増えている。
水門の上に立つ子供の影は、三つになっているのだ。
何をしているのだろう。
三つの影が水面を覗《のぞ》き込むように立っている。あの場所から下を覗くと、何本ものライトに照らされて流れが光って見えるのだ。水門に吸い込まれるときにできる渦のせいで乱反射が起こり、光が複雑な図形を描いて。
まて。
なぜ、そんなことをおれは知っているのだろう。まるで同じところに立ったことがあるみたいに――。
風にのって聞こえてくるのは、笑い声。
楽しそうに笑いあう子供の声。
耳障りな声。
真ん中の子供が、両手で持っていた何かを頭の上に掲げ、そして投げ落とした。まっすぐ、流れの中央へ――。
複数のライトがつくる水銀色の光の帯を横切って落ちていくその塊。
白い毛糸の玉のように見えた。
それは、一瞬空中でほどけるような動きを見せてから、そのまま水面にぶつかった。
さっきまで気にもとめなかった水門の音が急に大きく感じられる。
どおどおどおどお。
水門が鳴っている。
いちど沈んで、そしてまた水面に浮かんでくる白い塊。
すぐ目の前の流れを横切っていく。
そのとき確かに見えた。
ピンク色の舌。
人間の掌のようにめいっぱい広げられた肉球。
水に爪をたてようとでもしているように。
沈んで、浮かぶ。
渦に巻き込まれ、回転しながら確実に水門の鉄の扉へと近づいていく。
白い猫。
中央のコンクリートの柱にぶつかった。コンクリートに爪をたて、よじ登ろうとしたその姿勢のまま、すい、と沈んでいった。
何かに引っ張られるように、まっすぐ水門の奥へ――。
頭の上から、声が聞こえた。
さっきの子供の声。
三人が声をあわせて叫んでいる。
「ハグルマ、ハグルマ、ハグルマ」
思わず見上げた。
だが、はじめにあった位置にはもう人影はない。それでも、その言葉だけは聞こえてくるのだ。
闇の向こうから、はっきりと。
「ハグルマ、ハグルマ、ハグルマ」
その声に応《こた》えるように、水門の濁った水の奥で、何か尖《とが》ったものが動くのが一瞬、見えたような気がした。
**********
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一 螺《ネ》 子《ジ》
――螺旋《らせん》の溝で締めつけるもの――
金の問題じゃないんだ誠意だよ誠意、相手の男は繰り返しそう言っているのだという。
今朝も、その代理人だという男から会社に電話があった。是非とも直接お会いしてお話がしたい、と。
いや、そういう話はすべて保険会社の担当の方に――、何度そう言っても同じだった。結局、昼休みに会社近くの喫茶店で話をすることになってしまった。
先週の金曜の事故について。
相手は、白のベンツだった。おれは、夕方のその時刻にはいつも渋滞することがわかっている交差点を避け、住宅街を抜ける裏道を走っていた。
開演時間が迫っていたのだ。コンサート会場の入口で、矢島久美《やじまくみ》が待っているはずだった。そしてチケットは彼女の分もおれが持っていた。
うまくいけば今夜あたり、やれるかもしれない。そんなことを考えながら車を走らせていた。
前をとろとろとベンツが走っている。時折歩くほどの速度になって、家の表札を見たりしている。追い抜くにはぎりぎりの道幅だった。普段ならまずそんなことはしないのに、強引に前に出ようとした。
その途端、ベンツの後部がぐん、と迫ってきたのだ。向こうが急ブレーキをかけたらしい。だが、ブレーキランプは点灯しなかった。おれは避けようとして反射的にハンドルを切ったが――。
こんっ。
なんだか間抜けな音だった。コントに使う効果音みたいな。
あ、やった。
そうつぶやいた。
やってしまったよ。
サイドブレーキを引く。
ややこしいことになったな。
うつむいたまま、何度も舌打ちした。
こつ、こつん。
硬い音がした。見るとサングラスをした坊主頭の男が、車の窓ガラスをノックしている。
窓を開ける手が、自分のものではないみたいに震えていた。
「どこ見て運転しとるんや」
窓から男の手が入ってきてロックを外し、ドアを開けた。
「これ、どないしてくれる」
胸倉を掴《つか》まれ、車から引きずり出されていた。視界がぐらぐらと揺れる。
「すみません」
おれは言った。膝《ひざ》が勝手にがくがく震えるのを、止めることができなかった。
「ほな、そっちが全面的に悪いことは認めるんやな」
「いや、でも、ブレーキランプが点《つ》かなかったんじゃ――」
また、視界が揺れた。
「ひとの車にカマ掘っといて、何をぬかしとるんじゃ」
それから男は急に手を離し、わざとらしく首のあたりを押さえて路上にうずくまる。
「あいたたたたた、そんなこと言われたから、なんや首が痛《い》とおなってきたわ。あいたたたたたた、こら、えらいこっちゃ。さっそく検査せないかんわ。よっしゃ、病院行こ、病院。知りあいの病院がこの近くにあるんや」
なんとまあそれが重度のムチウチ症でしてねえ、と喉仏《のどぼとけ》がやたらと目立つ痩《や》せた首を掌《てのひら》でしきりにさすりながら代理人だと名乗るその男は言うのだ。
「まあ本人は、病院のベッドに身体を固定されてまして、大小便も満足にできない状態なんですなあ」
代理人はおしぼりを顔に被《かぶ》せたまま、うあああ、と伸びをする。そして、くぐもった声で、こう続けた。
「かわいそうなもんです。それで本人が言うには、あなたにも是非お見舞いに来ていただきたい、と」
「はあ、それはもちろん行かせていただきますが」
おれは言った。
胃のあたりがなんだか重苦しくて、すぐにでも席を立ちたかった。
「ああ、そうですか。来ていただけるんですね」
代理人が笑った。
「まあそれで、本人もそういう状態ですので、当面いろいろと入り用で、とりあえず見舞金というかたちで、これだけ、ね」
おれの顔の前に人差し指を立てた。
「いや、でも、それは――」
言い澱《よど》んでいると代理人は数センチの距離まで顔を近づけ、言った。
「誠意ですよ、誠意。このくらいですめば安いもんでしょうが。それともあんた――」
人差し指をひっこめ、代りに第二関節から先のない小指を突き出した。
「こっちで誠意をみせるかね」
なんとか三十万、都合して持って行った。
「こんだけか」
ドアに特別室というプレートの掛かった個室のベッドでテレビの画面を見つめたまま男は言った。
「今まで見舞いにも来んと、ほったらかしといて、やっと来たと思うたら、お前の誠意は、たったこんだけっちうことなんやな」
おれはただ黙って壁を背に立っていた。あの代理人の男も病室にいて、さっきからずっとテレビを観て笑っている。
おれはどうしたらいいのかもわからず、ただそのまましばらく突っ立っていて、「おだいじに」それだけ言って、病室を出た。まさに逃げるように、だ。
三十万円入った封筒はそのまま置いてきた。
それがまずかった、と保険屋は言うのだ。そういうことをするとこっちが悪いことを認めてしまったことになる、と。
「勝手な判断でお金を持って行かれると、困ります。そのせいで、後々の交渉がうまくいかなくなっても保証はできかねますよ。しかも、領収書を貰《もら》ってないだなんて」
こいつは信用できない、と最初に見たときそう思った。その印象は今も変わっていない。たぶん入社してまだ二、三年というところだろう。そのくせ、やたらと世慣れたふりをしたがる。
こっちがやったことを後から聞いて、それにいちいち「まずかった」と文句をつけてくる。ところが、なんだかんだと理由をつけて自分では行こうとしない。
もしかしたらこいつのせいでますます状況は悪くなっているのではないか。最近では、そんな気さえするのだ。
あの代理人も言っていた。
「あの保険会社にはまったく誠意が感じられないんでね。こっちとしては、もうあいつとは話をする気はないよ。だって、事故を起こしたのはあんたなんだからな。そうだろう。今後はあんたとだけ話をするからな」
こんなことを言われるのは、保険屋が悪いのではないのか。加入させるときはあれだけ得だのなんだのよさそうなことを散々並べておいて、いざ事故を起こしたとなれば、あれがまずかった、それは困る、なぜそんな勝手なことをした、とてもそこまでは責任もてません、である。
結局何もやってくれないから、こうして家にいても、あいつらからいつ電話が掛かってくるか、不安で不安で仕方がないのだ。
「ねえ」
ぼんやりと新聞を眺めているおれに、妻が言う。
「あなた、そのときいったい、どこへ行こうとしてたのよ」
「得意先だよ、得意先」
「ちょうどその時間にね、何度か家に電話があったのよ。出たら何も言わなくて、すぐに切れちゃったんだけど」
矢島久美だ。
きっと。
「だから、それがなんだって言うんだよ」
もし時間に遅れたりしたら、奥さんに電話しちゃおうかな。冗談のようによくそんなことを言っていた。
あいつ――。
ほんとうに、家に電話したのか。
頭の悪い女だとは前から思っていたが。
「それがどうしたっていうんだ」
思わず怒鳴ってしまった。
「なによ、急に怒りだして」
見開かれた妻の目。
「近頃、無言電話が多いってことを言ってるだけじゃない。それとも何か心当たりでもあるの」
そこで、いきなり電話が鳴る。あわててとった。
「被害者の代理の者なんですけどね」
吐き気を催しそうになるあの声と口調。
「悪いんだけどさ、またちょっと相談があるんで、明日会ってくれませんかね。いや、なんならこっちからお宅へ伺わせて貰ってもいいんだが――」
思わず電話を切ってしまった。そんなことをしてもどうにもならない。それどころか、かえって悪くなることはわかっているのに――。
「ねえ、誰から?」
答えずに玄関へ行こうとしたそのとき、また電話が鳴った。
「いないって言ってくれよ」
妻が出た。おれは靴を履きながら、その応対を背中で聞いている。
受話器を置く音。
「また、無言電話」
妻がいらついたように言った。
「どうなってるのかしら」
ドアを開ける。
「ねえ、どこ行くのよ、こんな時間から」
そんなことおれにもわからない。とにかくどこかで落ち着いて考えようと思ったのだ。この部屋ではない、どこかで。ここでは落ち着かない。何も考えられない。
ついこのあいだまで、何もかもうまくいっていたはずなのに。
たったひとつ、どこかの歯車がうまく噛《か》みあわなくなった。
たぶん、それだけだ。だが、それだけのことで、すべてが壊れてしまいそうな気がした。
「ねえ、どこ行くのよ」
「ちょっとタバコを買いに」
そう答えた。タバコをやめて、もうずいぶんになることを思い出したのは、ドアを閉めてからだ。
さて、どうする。
屋上へ続く階段の途中に座って考えた。
不快感が確実に増していくに違いないことがわかっている示談交渉をこのままおとなしく継続していくのか。このままではいくら金が必要になるかわからない。どうせ向こうは搾《しぼ》れるだけ搾り取ろうと考えているのだ。
そうなると、今のおれが採れる方針として考えられるのは――。
〈弁護士に相談する〉
〈様子を見る〉
〈逃げる〉
ため息がでた。
この〈逃げる〉というのは、ひとりで逃げるのだろうか、それとも、妻と、なのか。
いや、矢島久美と、という可能性もある。
たぶん、〈逃げる〉を選択したなら、そんなふうにまたいくつか選択肢が現れるのだろうな。
選ばなければならない。いろんなことを。
選ばなければならない、ということからは、どのみち逃げられないのだ。
とりあえず判断を保留にして、階段を上ってみる。階段の上に、塗料の剥《は》げかかったドアが見えた。
屋上へのドア。
そこにはいつも鍵《かぎ》がかけられていて、屋上へは出られないようになっているはずだ。子供がいたずらで上から物を投げたり落としたりするから。
何年か前、この団地でもそれが原因の事故が起こって、それ以来ドアには鍵がかけられることになった。そんな話を聞いたことがある。だからここで行き止まり。どこへも行けない階段のどんづまり。
左右の壁は落書きで埋め尽くされている。それをなにげなく眺めた。
子供が描いたものだろう。好きなタレントの名前とか、人気アニメのキャラクター。あとは性的なもの。つまり、いちばん興味のあるもの。
ところが順に見ていくうちに、あることに気がついた。
複数の人間によって同じものが描かれている、ということに。
それは、円の周囲にぎざぎざの突起が無数に生えたものだ。
稚拙だがそれゆえにかえって生々しい性器や性行為の絵の隙間に、それはいくつも描かれていた。
機械の歯車のように見えるが、それにしては歯の大きさが揃っていない。絵が稚拙なせいではなく、どの絵でもそんなふうに描かれている。まるでそれが大切な特徴であるかのように――。
ずらり並んだ大きさの違うぎざぎざの尖《とが》った歯。たぶんそのせいで、それは人工物ではなく生き物のように見えるのだろう。
どの絵も、その奇妙な歯車が何かを潰《つぶ》したり千切ったりしているシーンだった。その対象は、猫であったり犬であったり、人間であったり。
どの絵にも共通しているのは、歯車に潰されたものが飛び散らせている血が偏執的に思えるほど丹念に描き込まれていること。
今子供に人気のあるキャラクターで、こんなのがあるのだろうか。
あるいは、これは今後の展開に何か関係のある事柄なのか。たぶんこんなふうにわざわざ出てくるというのは、何か意味があるのだろうな。
そんなことを思いながらもういちどそれらを見直そうとしたとき、ふいに『もうひとつの選択肢』が浮かんできた。
〈ハグルマにお願いする〉
目の前の空中に、ぽかんと浮かんでいる。輝く赤い文字で。
なんだこれは? ひょっとして、これがこの袋小路からの出口なのだろうか。
ハグルマ?
それはこの絵に描かれているこの物体――あるいは生物――のことなのか。
尖った無数の歯を持つ円形のもの。
「ハグルマ」
どこかから、そんな声が聞こえた。
いや、おれが自分でつぶやいたのか。
それとも――。
いつの間にかおれはドアの前にいる。
鍵がかかっているはずの屋上へのドア。
なんのために自分がそんなことをしているのかわからない。
いつも、鍵がかかっている。
だから開くはずがない。
屋上へのドア。
でも、何か妙な感じがした。
ここには何かがある。
この向こうに。
そう感じられた。
だから、そのノブを掴《つか》んだ。
それから――。
「どうなりました?」
*
突然、背後から声を掛けられて、本当に跳び上がりそうになった。それほどのめりこんでいたのだ。
「すみません、別におどかす気はなかったんですが」
石室孝夫《いしむろたかお》だった。おれの頭越しに画面を覗《のぞ》き込んでいたらしい。
まるで気がつかなかった。
「いや」
ここまでのデータをセーブしながらおれは言った。
「なんていうか、完全に入り込んでしまってたもんだから――」
「どう思います?」
「驚いた」
あっさりと言ったつもりだった。嫉妬《しつと》心を見透かされないように――。
「よくこれだけのものが作れたと思うよ。妙に生々しい迫力があって。いや、こんなのは初めてだ」
聞きたいことは山ほどある。だが、それを抑えつけて、型どおりの回答を続けた。
「でも、まあそのあたりは評価の分かれるところだろうなあ。ゲームのなかにまで現実のそういう不快な、っていうかリアルな、っていうか、まあそんな部分を持ち込んで欲しくない、なんて意見もけっこうあるみたいだし、対象年齢も――」
だが、そんな否定的な意見も含めて、これは話題になるだろうと思った。
もちろん、画面はまだほとんど動かない。ストーリーボードをそのまま見せている紙芝居のようなものだ。だがこの段階で、そんなことは問題ではない。
それは、これから金と時間をかければ確実に解決できる種類の事柄に過ぎないのだ。それよりも、これがすでに持っているプレイヤーをくわえ込んで離さない力だ。それは、こうしてプレイしてみればすぐにわかる。
それにしても――。
「それにしても、ひとりでこんなもの作れるはずがないだろう」
どうせ適当に誤魔化されるだろうが、いちばん気になることを尋ねてみた。
「ほんとのところを教えてくれよ」
「ひとりで、ってわけじゃないんです」
石室は照れたように笑った。
当たり前だ。そんなことができるはずがない。
「手伝ってくれる人間がけっこういまして」
なるほど。
「いや、別に秘密ってわけでもないんですけど」
こいつ、独立して会社でも作るつもりなのか。
そうだ。
普段からそんなこと口にも出さないこういうやつに限って――。
では、おれも誘われるだろうか。ふと、そんなことを思う。わざわざこんなものを見せたくらいだから。
それとも、単に見せびらかしたかっただけか。
「まあ、まだ最初のところしかやってないから、ストーリーとか全体のストラクチャーまでは、なんとも言えないけど」
「それじゃ、この続きも、やって貰《もら》えますか」
ああ、とおれは答える。
「先が気になって、とても途中ではやめられないよ」
そう言ってから、もうひとつ、やりながらずっと気になっていたことを口にした。
「ところでこれ、モデルでもいるのか。まるで本当にあったことみたいに生々しいけど」
はっ、と石室は笑った。
「まあそのへんは、ご想像におまかせしますよ」
あは、ははは、はははははは。
書かれた文字を読んでいるような笑い方だった。こいつは、いつも、そうだ。本当におかしいから笑っているのかどうかわからない。
そのまましばらく笑い続けた。なんだか酔っ払ってるみたいにしつこく。
しかしまあ嬉《うれ》しいだろう。これだけのものを作ったのだ。
そりゃ笑いもとまらないだろうさ。
あは、ははは、はははははは。
「あ、それとな」
おれは言った。
「もちろん、これは仮に入れてるだけなんだろうと思うけど、ゲームのなかに矢島久美なんて実名を出すのは、ちょっとまずいんじゃないか」
あはっ、と石室は自分の額を掌で叩《たた》いた。
「やっぱ、まずいですかねえ」
「そりゃ、実名はね――」
「ああ、ですよねえ」
ふんふんふんふん、と小声でつぶやきながら、小刻みにうなずいた。
「でもねえ、ほら、あの女、電話の応対もまともにできない馬鹿だしね。でもまあ、いい身体してるじゃないですか。肉の塊って感じでしょ。なんかそれがまた馬鹿っぽくて。ふんふん、ちょうどいいからそこに入れたんだけどなあ。だって、キャラとしてはとってもハマってると思うんですよね。でもやっぱあれですよね、こういうのもたぶん、イジメとかセクハラってことになっちゃうんでしょうね。ふんふんふん、ああ、そうですよね、きっときっと、そうですよね。ちぇっ、ちぇっ、そうかあ、やっぱまずいですか。ああああ、そりゃ残念」
早口でまくしたてて最後に、がっくり、と大声で言い、うつむいていたかと思うと、突然顔をあげた。
「そうだっ」
ディスプレイの側面をばちんばちん掌《てのひら》で叩きながら嬉しそうにこう続けた。
「あのですね、ここにはですね、プレイヤーが好きな名前を入れられるようにすればいいんですよ。自由に。入れたい名前を。ねっ、それなら問題ないでしょ。そうだそうだ、そうなのですよ、好きな名前を――」
そこで堪《こら》え切れなくなったように笑い出した。爆発的な、まるで何かが外れてしまったような笑いだった。
あはあはははははあはははあははははははははははははははははははははははははははあははははははははあはははははは。
ひとしきり笑ってから、急に真剣な顔になって、ぼそりと付け加えた。
「もちろん、『嫌いな名前』、でもいいんですけどね」
言った後、そのままの表情でおれをじっと見ている。
どういう反応を期待しているのか知らないが、石室に関するあの噂はほんとうらしい。
仕事はできるのだが、たまに「ちょっとおかしくなることがある」という、そんな噂。
そんな人物と深夜、社内でふたりきりというのもあまりいい気持ちのものではないな。
「まあ、それは――」
ポーズボタンを押されたビデオのように、いつまでもその姿勢のまま動かないのでおれは仕方なく答えた。
「確かにそのほうがいいんじゃないかな」
言ってから、何がいいのか自分でもよくわからない。
そのままマシンのスイッチを切って立ち上がる。
「あ、それとですね、あとひとつ。あとひとつだけ」
部屋を出ようとしたおれにあわてたように石室が言った。
「ちょっとだけ見て欲しいものがあるんですけど――」
「明日でいいだろ」
「いえ、今。今のほうがいいんです、明日より。ほんと、ほんとにもうっ、ほんのちょっとだけですから」
いつの間に用意したのか、石室の右手には分厚い紙の束が握られている。
「すごい発見なんです。なにしろ、原因がわかったんですから」
「原因?」
「ええ」
石室は嬉しそうに紙束を振り回した。
ばさらばさらばさらばさら。
束ねられた紙が、頭の上で音をたてる。
「どうもね、近頃いろんなことがうまくいかないなって思ってたんです。そんなことありませんか、最近。ところが、その原因がとうとうわかったんですよおおお」
なんだ?
石室の顔を見た。
その陽気な口調とはまったく繋《つな》がっていないような表情が、そこにあった。
白い顔。
なんの感情も表していないただそこに置かれているだけの顔。
どこにも繋がっていない顔だ。
「まあ、とにかくこれを見てくださいよ」
そう言って、右手に持っていた紙の束を叩きつけるように床にぶちまけた。
一気に足元に散らばったのは、石室の顔だった。どれも同じ表情を浮かべた石室の顔。
どこにも繋がっていない顔。
そんな顔がいくつもいくつも、床からまっすぐおれを見つめている。
「ほら、写っているでしょう」
石室がおれを見つめて言った。
「ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも――」
紙の上の顔を次々に指差していく。
「ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにもここにもここにもここにもここにもここにもここにもほらほらほらほらほらここにもここにもここにもここにもここにもここにもここにもここにもここにも」
声は次第にうわずって、最後のほうは絶叫になっていた。
「ほらね」
荒い息を整えながら、石室は言う。
「こいつが原因だったんです」
落ちている一枚を手に取って、おれの顔の前に突き出した。
「ほら、外れてる」
ぱちん。
人差し指の爪で紙の真ん中あたりを叩いて、石室は笑った。
どこにも繋がっていない笑顔。
「ねっ」
「何が? どうしたって?」
「ほら、わかるでしょ、ここ、見てください、ここですよ」
指で紙を弾《はじ》いた。おれの顔の前で。
ぱちん。
「ねっ、ネジが一本、外れてるでしょ。そのせいなんだ。そのせいでハグルマの調子がおかしくなったんですよ」
さっきのゲームのなかにも出てきたその言葉。
ハグルマ。
いったいなんだ? あのゲームを進めていけばわかるのだろうか。
それとも――。
ハグルマ。
あの子供の声。
ゲームのなかの子供の声。
あれはいったいどこからとってきたものなのだろう。
ハグルマ。
「ときどきね、そうなんです、近頃ときどきね、頭が痛くなるからおかしいなあと思ってたんですよ。芯《しん》のあたりがきゅうううう、とね。でもほら、怖いじゃないですか、病院とか行くの。それで、なんとかして自分で調べられないかなと考えてたんですね。そういう悩みを持ってるひとってけっこういるんじゃないですか。そこで――」
アニメのキャラクターみたいな芝居がかった動作で指を鳴らした。
ぱちん。
「きまった。ほらっ。これです、これ。ここでこうやって、企画書をコピーしてる最中に急にこの方法を思いついたんです。簡単なんです。あ、そうだ」
石室は部屋の隅に置かれている大型のコピー機に駆け寄った。
「ちょっとやってみせましょうか。簡単なんです。ほら、こうやるだけ」
コピー機の上蓋《うわぶた》を跳ねあげ、そこに顔を伏せた。水を張った洗面器に顔をつけるように――。
「たったこれだけ」
その姿勢のまま、右手の親指で〈複写〉ボタンを押した。ずいいいいいむ。白い光の帯が石室の顔の上を右から左へと移動していった。
原寸大の石室の顔が機械から吐き出される。その薄っぺらなモノクロームの顔を取り、自分の顔と並べてみせる。
「でも、これじゃ、ダメなんですね」
片方の石室の顔が言った。
「ははは、わざと失敗しました。ははは。肝心なのは比率なんですよね。はは、まったく歯車と同じだ」
再びコピー機に向き直り、倍率を調整するボタンをすばやく押した。
「ほら、この倍率」
そのまま右手の親指で〈複写〉ボタンを押す。ずいいいいむ。
「自分の頭のなかの具合の悪くなった歯車と同じ比率にするんです。これが肝心」
笑いながら言う石室の顔の上を、繰り返し光の帯が横切っていく。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
同じリズムで吐き出される。
同じ比率で複写された石室の顔。
最近ね、あのコピー機の用紙がすぐなくなっちゃうんですよ。このあいだ、そうぼやいていたのは矢島久美だっただろうか。
「ほらほら、ねえ、ちゃんと見てくださいよ」
吐き出されてくるのは、アニメのセル画のように唇《くちびる》の形だけがわずかに変化する石室の顔だ。
何枚も、何枚も。
「ほら、その頭の真ん中のところに、ちゃんと写ってるでしょ。それが外れたネジなんです。ねえ、すごい発見でしょ。このコピー機ってレントゲンのかわりにも使えるんです」
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
ずいいいいむ。
石室はコピー機を、両肩が震えるほど強く握りしめている。
「ほら、やっぱりネジだ。最近ますますはっきり写るようになってきた」
顔をあげて、おれを見た。
「ネジだよ」
いや、もうおれを見てはいなかった。何も見ていない。ただ、目蓋《まぶた》がめいっぱい開かれているだけ。ぽかんとあいたふたつの穴のような目。
そんな目から、石室はだらだらと涙を流していた。
「ねえ、ぼけっと見てるだけじゃなくて、試してみませんか」
そう言って、いきなりおれの首を掴《つか》んだ。すごい力だった。そのまま、顔をコピー機の表面に押しあてようとする。
光った。
ずいいいいむ。
反射的に閉じた目蓋越しにも、光の帯が動いていくのが見えた。顔を撫《な》でるように移動していく熱の帯――。
「やめろ」
おれは後ろから覆い被《かぶ》さってくる石室を思わず肱《ひじ》で打《ぶ》った。それでも石室は力を弛《ゆる》めないから何度も何度もそうした。それが偶然、みぞおちに入ったらしい。
低くうめくと石室はおれから離れ、オモチャじみた動きでかくん、と床にしりもちをついた。
ずいいいいむ。
同じペースでコピー機は、紙を吐き出し続ける。
ずいいいいむ。
床に散らばった紙を踏んで、おれは部屋から走り出た。コピー機の発する音と光が、どこまでも追いかけてくるような気がした。
*
刑事というのは本当に、テレビドラマなどでよくやっているように顔の前に手帳を突き出して自己紹介をするものなのだな。
最初に、そう思った。
「それが、どうもおかしなところがあるんですよ」
黒田《くろだ》と名乗ったその男は、三杯目の砂糖をコーヒーに放り込みながら言った。
「これ、よそで言ってもらっちゃ困るんですが――」
黒田はさっき出したのとは別の手帳をひろげ、鉛筆を舐《な》めながら上目遣いにおれを見た。
「石室さんが飛び降りたその屋上へのドア、なんですが。ええと、あなたも確か同じ団地にお住まいですよね」と、ここでもういちどしっかりとおれを見て、続ける。
「管理人さんの話じゃ、普段は鍵《かぎ》がかかってるそうなんですよ。子供だけで上がったりすると危ないってことでしてね、近頃はずっと閉じられたままになっていて――」
まるでわざとやっているのではないかと思わせられるほど大きな音をたてて、コーヒーをすすった。
「なのにあの晩は、それが開いてました」
「合鍵でも持ってて、それを使って開けたんじゃないですかね」
「いや」
黒田は首を振って、さらにもう一杯砂糖を加える。
「それが――石室さんのご遺体のどこを捜しても、そんな合鍵なんてもの、出てこなかったんです」
「じゃ、鍵だけを屋上からどこかへ投げ捨てた、とか」
「ははあ。なるほど」
手帳に何やら書いている。いや、書くふりをしているだけかもしれない。
「でも、なんのためにですか? これから柵《さく》を越えて飛び降りようって人間が――」
黒田は、おれの反応を観察しているのだ。
「ちょっと待ってくださいよ」
嫌な空気を感じて、おれはあわてて言う。
「そんなことが、何か私と関係でもあるんですか」
「あ、いえいえ」
口の端だけを動かして笑った。
「お伺いしたい要点はですね」と、あいかわらず何が書いてあるのかわからない手帳を見ながら――。
「最近の石室さんに、何かおかしなところはなかったですか、ってことなんですけど」
「おかしなところ?」
ネジだよ。
耳元で石室の声がしたような気がした。
ネジだ。
「あの、ですね、なんて言うか――そう、例えば、誰かにおどされてた、とか、ま、そんなふうなことなんですが。あの方、独身でひとり暮らしだったでしょう。そのせいか、どうも普段の生活が見えてこないんですよ。あまり人付き合いもよくなかったほうみたいですし。どうですか、何か思い当たるようなことは――」
「さあ」
「わかりませんか」
「わかりません」
「そうですか」
ぱたん、と音を立てて、小さな手帳を閉じた。
「ありがとうございました。どうも、お手間を取らせまして」
レシートを掴んですばやく席を立つ。そんな一連の仕草までもが、まるで安手の刑事ドラマそっくりなのだった。さっきからずっと、テレビの画面を眺めているような気分になっていたのは、そのせいなのだろうな、たぶん。
そう自分を納得させて、目の前のアイスコーヒーを一気に飲み干し、そのまま立ち上がろうとして――。
それでも、まだその妙な感じは続いているのだ。
違う。
何かが。
ひっかかっている。
それが何なのかはわからない。
この感じ。
この感じは、いったいどこから来ているのか。
ふいに、答がわかった。
今、おれが見ているもの――ここから見えているもの――のせいなのだ。
この角度から見たこのテーブル、鉢植えの観葉植物、そしてガラス窓の向こうにある光景。それらすべては、いちど見たことのあるものだったのだ。
間違いない。
石室のあのゲームのなかに出てきた映像。
喫茶店で交通事故の代理人と話をしたあのシーンとそっくりなのだ。偶然ではすまされないほどに。
いや。
考えてみれば、そんなのはさほど不思議なことでもない。
おれはつぶやいていた。
会社の近所にあるこの喫茶店をモデルにして石室があの画面を作ったのだということは可能性として充分に考えられるではないか。会社の近くにある自分がよく行く喫茶店を。
例えば、写真をそのまま取り込んだのなら、むしろそっくりなのは当たり前ではないか。
そんなふうに、頭ではそれは納得できた。
だが、それでも妙な感じは消えない。
妙な非現実感。
陳腐な言い方だが。
自分がいつの間にかゲームのなかに取り込まれてしまったような。
まあそんな感じ方にしたところで、自分自身のなかから出た形容というより、以前何かで読むか見るかした、借り物の言葉のような気もする。
その程度のもの。
会社に戻った。
机の上にメモがテープで留められているのに気がついた。コピー用紙にワープロで印字された文章。
石室さんのことでお話ししたいことがあります。
七時に屋上で。
[#地付き]矢島久美
わざわざ書類の下に隠れるように置かれていたのは、他の者には知られないように、か。
あわててポケットに入れた。なぜそんなにこそこそしなくてはいけないのか、自分でもよくわからないまま。
ふいに、あのゲームのことが頭をよぎる。
矢島久美。
あのゲームの主人公である〈おれ〉の回想のなかにも何度か出てきた名前。
いったい石室と矢島久美とは、どういう関係だったのだろう。
あのゲームのことを、そして、自分の名前があのゲームに使われていたことを、彼女は知っているのだろうか。
石室の飛び降り以来、なんだか会社の空気が澱《よど》んでいるように感じられる。
単に気のせいなのかもしれないが。
トイレに行ったとき、もういちどポケットからさっきのメモを引っ張り出した。
屋上。
なぜ、そんなところで。
矢島久美は仕事中に何度かおれのそばを通ったが、そのことに関しては何も言わなかった。
いちどだけ、目があった。おれを見つめたあと、彼女のほうがそらした。そのことに意味があるのかどうかは、わからない。
とりあえず行くだけは行ってみよう。
そう決めていた。
屋上で、というのがなんとなく嫌ではあったのだが――。
珍しくほとんどの者が残業をせずに帰っていった。これは間違いなく石室のせいだろうな。普段ならそんなことはありえない。
おれはそのまま待ちあわせの時間まで仕事を続けた。
*
踊り場を過ぎると、屋上への錆《さ》びついたドアが見えた。
開いている。
暮れかかった長方形の空が覗《のぞ》いていた。
真正面に突っ立っているあの大きな丸い影は――。
卵色の貯水タンクだ。
その鉄製の梯子《はしご》の前に立っている人影。
暗くて顔は見えないのに、こっちにまっすぐ視線を向けていることがわかった。生ぬるい闇そのものに見つめられているような気がした。
かつて手掛けたゲームのなかでの、暗視スコープを使用したシーンを思い出した。
確か、そのアイテムを手に入れることで暗闇でも周囲の状況を探ることができるのだった。
画面では熱源が、赤い塊として表示される。もっと熱いとそれが黄色、さらに白色へと近づく。
ベースになるシナリオは、おれが作った。
暗闇での戦闘シーンでは、別のイベントによって手に入れた暗視スコープを使えるという点が、まあちょっとした工夫ではあったか。
ビームがあたったせいで壁や床が熱を帯びると、その赤い色のなかに敵は紛れてしまい、せっかくのアイテムもその範囲では役に立たなくなる。そんな弱点も付け加えて戦況に変化を持たせたつもりだった。
確かタイトルは『勤務時間内戦争』。
兵器を作っている会社の社員たちが、テスト中に暴走した自社の戦闘機械を相手に、社内で戦うはめになる。売りつけるばかりで使ったことのない自社商品を自分たちが使わなければならなくなる。会社を舞台にしたサラリーマンたちの死闘。
まあそんなふうなゲームだった。
その理由としてのいろんな設定やら目的を付け加えてはいるが、つまりはそれだけ。ありふれたシューティング。ようするに、敵を発見し、撃ち、破壊する。ただ、それだけのゲームだ。
まあそれでも――いや、それゆえに、か――そこそこの販売実績は残したのだった。
「わざわざありがとうございます」
矢島久美の形をした闇が言った。
「話したいことっていうのは――」
それには答えず、矢島久美の影は屋上のフェンスの前までゆっくりと移動した。
夕闇は屋上を覆い尽くそうとしていた。
紺色の西の空に、星が出ていた。薄汚れた空気の層を通して見えるたよりない銀の光。
どすんっ。
その重い音は、階段へのドアが閉じる音だった。単に風で閉じただけなのだろう。だがなぜかおれには、そうするために矢島久美が風を起こしたように思えた。
「石室さん――」
矢島久美がつぶやき、おれは思わず振り向いていた。
まるですぐ後ろに石室が立っていて、その石室に話しかけているような、そんな口調だったから。
「あの夜、何か言ってませんでしたか」
だがそれは、おれに投げかけられた質問らしかった。
「石室さんは、私のこと、何か言ってませんでしたか」
「あの夜、って」
おれは尋ね返した。
「あの飛び降りた夜です」
声が小刻みに震えている。
「石室さんが」
泣いているのだろうか。
それにしても、なぜあの夜おれが石室といたことを知っているのだろう。尋ねるかどうするか迷っていると、彼女のほうから答えてくれた。
「あのあと、石室さん、私に会いに来たんですよ」
「あのあと?」
「ええ、あのあと。夜明け前に、石室さんが私の部屋まで会いに来てくれたんです」
この女は、いったい何を言ってるんだろう。そんなことはありえないということくらい、知っているはずなのに。
「でも、石室が飛び降りたのは――」
おれは言った。
そう、夜中の二時前後のはずだ。あの黒田という刑事は確かにそう言っていた。
「そうですよ」
矢島久美はうなずいた。
「だからね、あのあとだって言ってるでしょう。飛び降りたそのあとで彼、私のところへ来てくれたの」
それから、フェンスにしがみつくようにして、外を見る。
「なんだかすごく嫌な夢で目を覚ましたんです。そしたらね、石室さん、ベランダの物干しのところに立って、部屋のなかを覗き込んでた。何か言いたそうにして、でも、頭が割れちゃってるからうまくしゃべれないみたいで、それでも、ぶくぶくぶくぶく口から血の泡なんか出したりしながら――」
「君はいったい何が言いたいんだ」
思わず、叫んでいた。
だが同時に、そんな石室の姿を、なぜかおれも見たことがあるような気がするのだ。
そうだ。はっきりと、映像として浮かんできた。
「そんな夢の話が、いったいおれとなんの関係があるんだ」
「私は、ただ――」
その場にうずくまり、矢島久美は泣き出した。仕事中、自分の都合が悪くなったときよくそうするように。
「石室さんが、私のこと、何か言ってなかったかって思っただけで――」
声をあげて泣き続けた。
嫌になった。
この女と石室の間にいったい何があったかは知らない。知ったことではない。
まったく――。
おれはいったい何をやってるんだろうな、こんなところで。
周囲を見回した。屋上はもうすっかり闇に包まれ、夕空とコンクリートの縁の境目さえもはっきりしない。
突然、そんな闇のなかに、何かの気配が感じられた。
あのフェンスの上。
夕闇との境目のあたり。
何かがすばやく移動していったように見えた。いくつも、いくつも。
何か、尖《とが》ったもの。
様々な大きさの尖ったもの。
泣き声は小さくなり、しゃくりあげるような声だけが思い出したように聞こえてくる。
突然、怖くなった。
この場所にいることが。
振り返って闇のなかにドアをさがした。屋上からの出口。闇に沈みかけているそれは、ひどく小さく見える。
あそこまでたどり着いて、もし開かなかったら――。
そんなはずなどないのに、そんなことを思った。もし、あれが開かなかったら――。
すぐ背後で、何か動いたような気がした。ざ、と全身に鳥肌が立った。
粘度の高い闇が足に絡みついてくる。進めば進むほどドアが遠ざかっていくような気がする。
振り向くことはできなかった。さっき確かに感じたこの屋上にいる何かが、いっせいに見えない手をおれのすぐ後ろにまで伸ばしている。そんな気がして――。
いや、現に、すぐ後ろで、大勢のささやき声が聞こえるのだ。
おれのことを話しあっている声が――。
ドアだ。
すぐそこにあった。
手を伸ばした。ノブを掴《つか》んだ。錆《さび》のざらついた感触。もし、開かなかったら――。
開いた。
あっけないほど簡単に。
そのまま階段を駆け下りる。踏み外しそうになり、壁に何度もぶつかった。ようやく落ち着きを取り戻したのは、社屋を出てから。
舗道に立って、荒い息を整えた。
いったい、どうしたというのだろう。
何があんなに怖かったのだろうか。
ついさっきのことなのに、もうわからなかった。
振り向いた。
さっきまでおれがいた屋上。
屋上の手すりのところに月がかかっているのだ。
大きくていびつで赤みがかった月。
どうして、月が出ていたことにさっきは気がつかなかったのだろう。
あんな奇妙な月なのに。
月とちょうど重なりあうようにして、影が見えた。
はじめ、それは矢島久美の影だと思った。ところが、どう見てもそれは人間の形をしていないのだ。
周囲にぎざぎざのある円盤。
それは、動いていた。屋上の縁にそって転がるように――。すぐに見えなくなった。
屋上に放置された何かが、たまたまそんなふうに見えただけなのだろう。
なんでもない。
そう思うことにした。
だいたい、さっきの屋上でのこともそうではないか。
なんでもないことであんなに――。
きっと、石室が死んだことでおれは神経質になっているんだ。なにしろ、おれが最後に会ったんだからな。
あのあと私の部屋まで来てくれたんです。
馬鹿馬鹿しい。あの女は、もともと変だった。
そして、おれが少しばかり変になるのは、無理もないことだろう。同僚が死んだのだ。そして、最後に会ったのがおれだ。
「少なくとも、飛び降りる前にはな」
そんなことをひとりつぶやいている自分が、おかしくて仕方がない。声を出して笑ってしまいそうなほどおかしいのだ。
でも、少しばかりおかしくなったとしても――。
いや、何もおかしくなんかない。
そう自分に言い聞かせる。
あのあと、石室さん、私に会いに来たんですよ。
馬鹿馬鹿しい。
歩き出そうとして、机に鞄《かばん》を置いてきたままだということに気がついた。しかし、わざわざ取りに帰ることもないだろう。
怖いから取りに帰らないのではない。
だって。
「どうせ明日も来るんだから」
声に出してそうつぶやいて、おれは歩き出した。
*
ちょいと別室で、というのが野崎《のざき》部長お得意のフレーズで、大抵は会議のあと誰かがやられるのだが、今日はおれだった。
月曜の午前中に行われる定例会議だ。特に議題らしき議題もなく、石室のことがぎこちなく話題にのぼった程度か。三時間も会議をしていたわりには、決定事項らしきものはほとんどない。
組織なんてものは大きくなると決定手続きばかりが増えて動きが鈍くなる。以前は、もっと軽く、さくさく動いていたはず。いつの間にこんなことになってしまったのだろう。これでは物を作る暇なんかなくなってしまう。
その挙句決まったことはと言えば、例の件に関してよけいなことはいっさい言うな、それだけ。
ため息をつきながら席を立った途端、野崎部長に声をかけられた。
いちど自分の机に戻り、電話で二三の用事を片づけてから、指定された小会議室へ。
「どうだ、最近は――」
腰を下ろすなり、野崎部長が言う。
「うまくいってるかね」
「はあ」
よくわからないままに答える。
「まあまあです」
すると、わかっているのかわかってないのか、部長もうなずいてこう返してくるのだ。
「ああ、それはけっこう」
そのまましばらく黙り込んだ。おれの顔を見ている。
「あの――」
用件を尋ねようとしたおれの言葉を遮って、野崎部長は話し出した。
「いや、話ってのは他でもない。これなんだがね」
テーブルの上に銀色のディスクを置いた。
「君にこの続きを担当して貰《もら》いたいんだ」
ディスクには、ラベルが付けられていない。
「ほら、さっきの会議のときにも、ちらっと出ただろう」
身を乗り出しておれの耳元にささやきかけるように、野崎部長は言った。
「あの石室君が開発してたっていう、例のやつだよ」
ははあ、これがあの噂の、などとおれは口のなかでつぶやいてディスクを手に取った。
「でも、私なんかより、石室といっしょにこの開発にかかわってた者がやるべきなんじゃないですか」
「いや、それがさ」
野崎部長は大きくかぶりを振った。
「いないんだよ、変な話なんだけど。なんというか、彼、かなり変わってただろう。まあ、そのせいだろうとは思うんだが――」
大げさに首をひねってみせる。
「どうやら、これに関しては、彼ひとりがやってたみたいなんだな。ひとりでこつこつやるのが性にあってたんだろう」
性にあっていた?
おれは声に出しそうになった。
ひとりでこつこつ?
おいおい、馬鹿なことを言うなよ。
社長の身内だか親戚《しんせき》だか知らないが、よそからやって来ていきなり部長ということになっているこの素人の顔を見ながら、おれは頭のなかでぼやいていた。
たったひとりでこんなものが作れるかどうか、あんたそんなこともわからないのかよ。
「しかし、そういうことはですね、可能性としてはちょっと考えにくいんじゃ――」
うんざりしながらおれは説明する。いかにそれが現実離れしたことであるかを。
それでもまだしつこく、だから少しずつこつこつとだよ、などと言うのだ。
そんな技術的なことは別にしても、こういうことをする場合はまず会議で企画を通し、それからチームを組んで打ち合せを重ねて、さらに会議でその案を通しそしてさらに――。
考えるだけでもうんざりするようなそんな段取りを踏まなければならない。ひとりで勝手にやるなどということは、そもそも許されていないはずではないか。
そういう規則についてならこの素人にでもわかるだろうから、そう言ってみた。
「そうなんだよ。企画さえ通していないんだよ」
案の定、嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「つまりだな、彼は、会社に報告せずに、半ば趣味としてやってたみたいなんだな。いや、もちろんそうはいっても、製作には会社の機材と時間を使ってやってるわけだから、この未完成の作品にしたって、石室君個人の所有物ってことにはならないよ。それはもちろんそうだ。あくまでもこれは会社のものになるはずなんだ」
最後のところをやけに強調して言った。
「だから、これをどう使うかということに関しては、別に遠慮しなくていい。そんな必要もない」
「それにしても」
無駄だとわかっていながらも、おれはささやかな抵抗。
「石室とは、課も違いますし――」
「それはいいんだ」
野崎部長はディスクをおれに向かって押し出すようにした。
「そのへんに関しては、もう双方の課長に話をつけてあるから――」
そう言って、笑った。部長の膨らんだ鼻の穴から毛が一本出ている。長くておまけに先端がカールしている。いらいらする。引き抜きたくなった。あのふやけて脂ぎった顔を動かないように挟んでそしてペンチをあのふやけた鼻の穴に突っ込んでおしひろげ根本からあの毛を挟んで引き千切る、うまく挟めない。思い切り入れて、そのまま肉ごとぷちぷちぷちぷちと――。
「それにね」
おれの頭のなかではすでに血まみれになっている部長がしゃべっている。
「石室君のあれを引き継ぐことができるのは、君しかいないって、もうすっかり噂になってるんだから」
「噂?」
思わず問い返した。
「なんですか、それは」
部長はさらに笑った。
「ああ、なるほどなあ。やっぱりこういうことっていうのは、本人だけが知らないものなんだな」
カールした鼻毛が小刻みに揺れている。
「女子社員たちの間では、もう決定事項みたいに噂されてるよ。石室君の仕事を引き継ぐのは君以外には考えられないって」
そう言って笑う。
「彼女らの意見は無視できないからね、会社としても」
部長が何を言っているのか、いったい何が言いたいのか、よくわからなかった。
「それに、ほら、なにしろ当人に最後に会ったのは君で、おまけに、そのゲームをやらされたわけだろう」
なぜ知っているんだろう。あの夜のことを、おれは誰にも言っていないはずなのに。
「つまり、それは君という人間が、石室君から直接引き継ぎを受けたってことになるだろう。誰が見たってそうだよ。うん、言ってみれば遺言みたいなものじゃないか。そんな大事なこと、会社としても無視するわけにはいかないよ。だって、そんな不人情なことしたら業界でどんな悪い噂をたてられるか知れたもんじゃない。君もそう思うだろ。うん。じゃ、よろしく頼むな」
ちょっと待ってください。そう言いかけたときには部長はすでに席を立ち、おれに背中を向けていた。
どういうことだ。
会議室にひとり残されたまま考えていた。
おれのよくわからないところで、何かが勝手に動いている。
そんな気がした。
何よりも、なぜあの夜、おれが石室とあのゲームの話をしたことを皆が知っているのか。
誰もいなかった。
あのとき、おれはひとり残って溜《た》まった仕事を片づけていた。そこへ石室がやってきて言ったのだ。
「あのお、これ、ちょっと試しにやって貰えませんか」
そう言ってあのディスクを見せたのだ。
「まだまだなんですけど」
気分転換のつもりでやってみた。それだけのことだった。
その場には、他には誰もいなかった。
いなかったはずだ。
もちろん、誰にも話さなかった。かかわりあいになるのが、煩わしかったから。
それが、なぜ――。
おれは、立ち止まった。廊下の向こうから来るのは矢島久美だった。
そうか。
そうだとしか考えられなかった。
あいつだ。
あいつが言いふらしている。
あること、ないこと。すべて。
おれは、まっすぐ矢島久美に近づいていった。
「おい」
声をかけると、一瞬、身をすくめるようにして動きを止め、それからいきなりおれに背を向け廊下を走り出した。
「おい、ちょっと待てよ」
追いかけた。
かつうん。かつうん。かつうん。
エコーのかかったそんな靴音がやけにゆっくりしたものに感じられた。なんだかスローモーションの映像のなかにいるような奇妙な非現実感だ。
だいいち、なぜこんなに暗いのだろう。
長くて薄暗い廊下の端にある部屋。その前で矢島久美は立ち止まり、おれを見た。
まっすぐおれを見て、そして、笑った。
まるで誘うように――。
それから余裕をもってドアを開け、その部屋へ入っていったのだ。
なんだ?
いったいどういうつもりで――。
矢島久美が入っていった部屋の前に立って、おれはつぶやいていた。
そらみろ。
やっぱりそうだ。
石室と最後に会った部屋。
お蔵入りしたマシンが今も置かれたままになっているあの部屋。
あいつだったんだ。
そう思った。
あの女がおれのことをなんだかんだと言いふらしているに違いない。
よし。
問い詰めてやろう。この部屋のなかで、じっくりと問い詰めてやる。
そう思ってノブに手をかけて、だがそのままおれは動けない。身体がすくんだようになっている。
部屋のなかからモーターの唸《うな》りが聞こえていた。ドア越しに。でもはっきりとそれは聞こえる。
聞き覚えのあるあの音。生き物の呼吸を思わせるようなあの規則的な音。
今でも耳について離れないあれ――。
ずいいいいいむ。
ずいいいいいむ。
ずいいいいいむ。
そんな音の向こうから、話し声が聞こえていた。複数の女の声だ。
間違いない。女たちが、ささやきあっている。顔を寄せあうようにして、噂話をしているのだ。
そっとドアに耳をあてると、聞こえてきた。あの音の後ろから――。
紙が擦れあうような笑いとともに楽しそうな話し声が。
でさ、さっきも追っかけられちゃったのよ。ちょっと危ないんじゃない、あのひと。そうそ、石室さんとも仲がよかったんじゃないの。ホモ。さあ、そうだか。ホモのもつれ。この頃さ仕事中に変な目くばせしてきたりするのよね。あ、知ってる知ってる。いい男のつもりなのかしらね。じゃ、ホモだけじゃなくて。昨日も屋上に呼び出されちゃって。えっ、危なあい。ほんとほんと。だって、なんか話があるって。え、なになになになんだったのそれ。へへっ、内緒。ええっ。って、嘘うそ、行くわけないじゃない、そんなの。あいつ、ちょっと勘違いしてるとこあるよね。いったい何を話しているんだこいつらはいったいなにをずいいいいむずいいいいいむずいいいいいむずいいいいむずいいいいいむずいいいいいいいむのよそれもへんずいいいいいむがまざってるっていうかほらほずいいいいねまざってるねほらほらほらみえるねほらここんとこなのおかしいのかおみたいにみえるのがそいいいいむずいいいいいむずんとひとのかおねずいいいいしむろさんのかおがこずいいいいいむどねそんだけじゃなくそれぞれのかおをがてくるのはそれだれのかおかってことでずいいいいいいでおもうのよなんとなんとなんとなんいいいいいいいいいいいいいいいいいいなにを言ってるんだなにをずいいいいいいい聞こえない機械の音でいったいずいいなにを言っているのかいいいむあることないことさっきからべらべらべらおまえらいったいさっきからいったいなにを――。
一気にドアを開けて部屋に飛び込み、怒鳴りつけようとしたそのままの姿勢で、おれは黙って立っていた。
誰もいなかった。
部屋のなかはからっぽ。
ずいいいいいむ。
ただ――。
ずいいいいいむ。
あのコピー機だけが動いていた。
まるで、あのときのように――。
天井を、あの膨らんだ月みたいな色の光の帯が何度も何度も往復している。
ずいいいいいむ。
ずいいいいいむ。
ずいいいいいむ。
部屋全体が明滅して、その度に機械から吐き出される紙が、床に散らばっていた。
感光した紙。
境界線のはっきりしない夕闇のようなぼやけた黒だった。目をこらすと、その奥に何かが見えてくるような――。
いや、確かに見える。
それが次第に形をとりはじめていた。
よおく見ると。
ほら。
ネジがね――。
誰かが言った。
どこかで。
ずいいいいいむ。
叫んでいたかもしれない。
気がつくと、おれはコピー機の電源コードを壁のコンセントから引き抜いていた。
止まっている。
コピー機も、そしてそのなかにある歯車も、止まっている。
そのまましばらく床にうずくまって、また叫び出しそうになってしまうのを堪《こら》えていた。
ようやく顔をあげた。
暑くもないのに汗だくだ。
額をハンカチでぬぐいながら、部屋のなかを見た。感光したコピー用紙は床に散らばったままだが、あの得体の知れない闇は、もうそこにはなかった。
床に落ちているのは、ただのぼやけた黒い紙だ。
しっかりしろ。
おれは立ち上がる。
こんなところを誰かに見られたら、またどんな噂をたてられるかわかったもんじゃないぞ。
床に落ちている紙を一枚残らず拾い集めた。どういうわけか、手が震えていた。なぜこんなに震えているのだろう。震える必要など何もないのに――。
それでも震えはとまらなかった。
集めた紙を屑《くず》かごに捨てようとして、思いなおした。ベルトを緩め、ズボンと腹の隙間に拾い集めた紙の束をすべて押し込んだ。シャツを直し、上着のボタンをきちんとすれば、そこに何かが入っているとはわからないだろう。そう思った。ことことことこと。心臓が鳴っている。それが自分でわかった。
もういちど部屋のなかを見回した。これでもう証拠は残っていない。それでやっと、ほっとした。そしてそのままおれは、コピー用紙で腹をがさがささせたままで仕事を続けたのだった。
*
コピー用紙は一枚ずつ細かく千切って、駅のトイレに流した。会社のトイレに流さなかったのは詰ったりしたときのことを考えたのだ。わずかでも感づかれる可能性のあることは避けなければ。水に流れてしまうのを見届けて、それで安心してまた会社へ引き返した。残業をするために――。
いきなりおしつけられた余分な仕事。
それを少しでも進めねばならない。早く帰ることは当分できないだろう。
女子社員たちはもう誰も残っていないようだった。なぜか、そんなことにほっとした。
あの部屋に入って、まずコピー機の電源コードを見た。
おかしい。
また壁のコンセントに差し込まれているのだ。あのあと誰かが、使ったのだろうか。誰だろう。
腹が立つ。
使っていないときはこうやってちゃんと。
そうつぶやきながら――。
引き抜いた。
マシンにディスクを入れ、ソフトを立ち上げた。石室から受け継いだ仕事。
前の続き。
あの夜の続きだ。
このなかの〈おれ〉は、あいかわらず煩わしい問題を抱えたままだった。とにかくそのまま進めていくことにした。
いや、そうするしかないのだな、実は。
なぜかプログラムの内容を読むことができないのだ。いろいろやってみたのだが、どういうやり方なのかプロテクトがかかっていて、どんなプログラムで書かれているのかすらわからない。つまり、今のところおれにやれるのは、こうしてマシンでソフトを立ち上げて、プレイすることだけなのだ。
もちろん、そんなことは誰にも言わない。みっともなくて。無能だと思われてしまう。それが怖くて。
このゲームに関して石室の残した資料らしきものも探さねば。まだ何も見つからないのだが、もちろんないはずはない。少なくとも、プログラムに使った仕様書やフローチャート、それにマップの類《たぐい》は絶対にどこかにあるはずなのだ。
それさえ見つかれば、なんとかなる。
このゲームの主人公である〈おれ〉の抱えている問題だってすぐにクリアできるだろうに――。
「あ、そうか」
画面のなかの〈おれ〉を操作しながら、おれはつぶやいていた。
「会社にないとすれば、石室の部屋、ってことじゃないか」
そんな当たり前のことに今まで気がつかなかったことが不思議だった。
石室の部屋、まだそのままだろうか。管理人に頼めば、開けてもらうことはできるかもしれない。うまく頼めば、だが。
そんなことを考えながらゲームを続け、疲れてきたなと思ったあたりでやめることにした。なにしろ、まだこの先どこまであるかわからないのだ。
ゲームばかりしている子供は馬鹿になる。
呪文《じゆもん》のようにそっと唱え、そっと笑った。
家に帰ると、由紀子《ゆきこ》はまだ起きていた。
飯を食いながら、尋ねた。
「どうだった?」
「どうって、何が」
「ほら、飛び降り」
「血の痕《あと》ならまだ残ってるらしいけど。あの駐車場の植え込みの前のあたりにね。でも、買い物に行くときにはもうすっかり片づいちゃってたみたい。騒いでたのは、朝のうちだけよ」
「あっけないもんだな」
「そうね」
ゲームと違って、現実はそんなものかもしれない。
そこで、ふと思った。
あのゲームのなかの〈妻〉も、いつまでも単なる〈妻〉ではなく、ちゃんと名前を入れてやったほうがいいな、などと。
別に本当の名前を入れる必要はないんですよ、ゲームなんだから。
石室もそう言っていた。
そうだな例えば――。
そんなことを考えていると電話が鳴った。
由紀子が取った。速いな。まるでかかってくるのを知っていたかのような――。
一瞬、例の無言電話ではないかと思ったが、そうではないようだ。
ほっとしてから、気がついた。
当たり前だよ。だって、あれはゲームのなかでのことなんだからな。現実にそんなものがかかってくるはずがないじゃないか。
少し混乱している。疲れがたまっているのだろう。
由紀子はそのまま話し続けている。なんだかとても楽しそうだ。誰からの電話なんだろう。
そんなに夢中になっていったいなんの話なのかとさっきから聞いているのだが、よくわからない。時折出てくる「かせき」という単語は、化石のことなんだろうか。たぶんそうなんだろうな。だって、復元がどうしたとか、発掘、なんて言ってる。そんな会話が妻と誰かの間で交わされている。
あいつにそんな趣味なんかあったかな。それとも最近になってのことか。
話は大いに盛り上がっているらしく、なかなか終わりそうにもない。
先に寝ることにした。
*
出社してすぐに廊下のいちばん奥のあの部屋に行って、またゲームの続きをやった。
あの部屋にあるマシンでしかプレイできないのだ。大型ディスプレイとシートとコントローラーと箱型フレームが一体になっているあのマシン。家庭でもアーケードゲームの臨場感を。そんな意図で開発されたが、結局は商品にはならなかった。家庭には大き過ぎるし値段も高過ぎる。そう判断されたのだ。見本市でのデモンストレーションのために作られたものだけが残った。
なぜか、そのマシンでしか動かない。そういえば、このマシンとソフトの開発に最後まで執着していたのは石室だったな。
紙コップのコーヒーを二杯続けて飲んでから始めた。
いつの間にか、かなり速く操作できるようになっていた。頭で考えるのとほとんど同じ速度でゲーム内の〈おれ〉を動かせるようになってきたのだ。
慣れたという点を差し引いても、これが操作性にすぐれたゲームだというのは間違いない。
機械が時間を要する処理には、繋《つな》ぎとして主人公が場所を移動するムービーのカットを挿入してダレるのを防いだり、相手のキャラクターに一方的にしゃべらせることで主人公を聞き役に回らせたりして、操作の際に生じがちなタイムラグや選択肢の少なさからくる不自由さをプレイヤーはほとんど意識しなくてもすむようになっている。
実はこういうことがこの種のゲームに於《お》いては、人気を決定するかなり大きな要素になりうる。
プレイヤーがその世界にうまく入り込めるかどうか――主人公の感じることを自分のこととして感じられるかどうか――。
それがもっとも重要な要素のひとつであることは確かだ。
そう、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって、思わず周囲を見回してしまう。自分のいるその場所が、ゲームのなかの世界であるかのような錯覚を起こして――。
プレイヤーの精神状態をそこまでもっていくことができたなら、まず成功する。
これまでの経験からいけば――。
そしてもちろん、経験値というのはゲームに限らず馬鹿にできないものだ。
そういう観点からいっても、このゲームはかなり有望だ。現に、このおれがそうなってしまっている。ハマり始めている。
続きが気になって、やりたくなって、それで今朝も、いつもより一時間早く出社してきたのだ。
なんだろうな、これは。
画面を睨《にら》んでコントローラーを操作しながら、おれは考えている。
わくわくする、というのとは違う。明らかに、違う。いったい、これのどこがおもしろいのか?
実際、こうしてやっていても、楽しくなどないのだ。むしろ、その逆――。
このゲームの主人公である〈おれ〉は、様々な問題を抱えている。次々と嫌な目に遭い続ける。山積みになった問題は今にも崩れてきそうだ。
だから主人公に感情移入すればするほど嫌な気分になる。
どこかに出口はあるはずだと思う。いや、そんなものは用意されていないのかもしれない。そんな気もする。
じくじくじくと傷口が膿《う》んでいくような、嫌な嫌な嫌あな感じ。
このままでは〈おれ〉は、破滅するだろう。
このゲームのなかの世界で。それを自分のことのように感じる。そんなふうに、プレイヤーの不安感を煽《あお》るゲーム。
それでも――いや、それゆえに、か――、やらずにはいられない。先が知りたくて、続けずにはいられないのだ。
もしかしたら、悪夢から覚めたときの、あの感覚なのかもしれない。嫌な夢であればあるほど、目覚めたときほっとする。それが現実ではなかったとわかったときのあの安心感――。
確かに、こんな繭のような一種のカプセルのなかでひとり没入するタイプのゲームだろう。
ゲームのなかでは、ついにあの代理人が職場にまでやってきた。
誠意だよ。わかるだろ。あんたの誠意を見せて欲しいんだ。
同僚たちがこっちを見ている。
頭が悪いな、あんた。
代理人が言う。
こんなものが欲しいんじゃないんだよ。
くそ。
女子社員たちが何かささやきあっている。
くそ。
噂になってしまう。
さあ、こういう時はどうすればいい。
ゲームだとわかってさえいれば、そんな憂鬱《ゆううつ》な気分でさえ楽しむことができるものなのだな。
待てよ、こいつは現実の生活にも応用できるかもしれないじゃないか。そう、現実を現実だと思わずにゲームとして考えれば――。
と、そんなことを思いついて嬉《うれ》しくなったところなのに、「へええ、こういうお仕事なんですか」などと背後からいきなり声をかけられ、せっかくの思考を中断させられてしまった。
「うちの息子なんかが見たらきっと大喜びだなあ」
そう言いながら画面に割り込むように突き出されたその顔は、あの黒田と名乗った刑事なのだ。
「別に遊んでるわけじゃありませんよ」
「そうですねえ。お仕事ですもんね」
ぺこりと大げさに頭を下げる。
「あのお、こういうお仕事は、なんて言うんですか、ゲーマー、ですか」
珍しそうに部屋のなかを見回している。
「ゲーマーというのは、別に専門のそういうひとがいましてね」
おれははっきりと不機嫌さを表明して答えた。もっともそれがこの無神経そうな男に伝わるかどうか。
「まあ開発過程では、デザイナーやシナリオライターだってそれに似たようなこともしなければならないというだけで、これだけを専門にやってるわけじゃないんです」
そこまでのデータをセーブして、ゲームを終了させる。
「あ、私にはどうぞおかまいなく。そのままそのまま――」
「そういうわけにもいかないんですよ」
振り向いて、露骨に迷惑そうな顔をしてやる。
「この仕事は、けっこう集中力が必要なものでしてね。何かの片手間にできるようなもんじゃないんです。ちょっと目にはゲームで遊んでるようにしか見えないんでしょうけどね」
「なあるほど」
大げさにうなずいた。
「そうですか。そうですよねえ。だって、私らみたいなのが遊びでやるってのとは訳が違いますからねえ。一段落するまで黙っておとなしく見ているべきでしたね」
「いや、それも困ります」
ディスクをスロットから抜き出し、メインスイッチを切った。
「あのね、ここにあるのは、まだ開発中の製品なんですよ。これが、どういう意味かわかりますか」
おれは黒田に向き直って続けた。
「まだ発売前、つまり、内容が他社に洩《も》れたりして同じアイディアのものを先に出されたらそれで終わりなんです。文字通りゲームオーバーってわけだ」
「あはは、うまい」
わざとらしく笑った。
「私の言いたいのは、ようするにこれは、企業秘密なんだってことです」
「はあ、でも私は――」
「刑事に成りすました他社のスパイかもしれないでしょう。いや、冗談抜きでね。そのくらいのことは起こるんですよ、この業界じゃ」
「あー」口の形をそのままに、黒田はしばらくおれを見つめていた。それから思い切ったように言った。
「前に、あったんですか、そういうことが」
「あったんです」
「いやはや、どうも――」
落語に出てくる幇間《ほうかん》のように自分の額を掌《てのひら》で叩《たた》いた。
「やっぱりこういうものを作っている人たちってのは、考え方もゲームに影響を受けるんでしょうかね」
黒田が大げさな口調で言った。
「刑事に化けて敵陣に潜入、ねえ。いや、私なんかには想像を絶する世界だ」
馬鹿にされているような気がした。
「知的所有権なんてものに関しては、警察はまるであてにならないってことですよ。自分たちで守るしかない」
「あ、それでですか」
黒田はひとり納得する。
「道理で、亡くなられた石室さんの仕事内容については、誰もまともに話してくれないわけだ」
「石室の仕事?」
「ええ、いったいどんなことをされていたのか。まあ具体的には、石室さんが作られていたゲームの内容ですね」
「それが何か関係あるんですか」
「いえ、あくまでも参考、ですけど――。その方のやった仕事を見れば、けっこういろんなことがわかるものなんですよ」
「なるほどね」
「でも、それがどんなものだったかなんてのは教えていただけないんですよね」
「たとえ知っていても無理ですね」
「ま、そういうことなら仕方ないか」
黒田は屈《かが》んでいた身体を伸ばした。
「いや、実はですね――」
頭を掻《か》きながら言う。
「どうも皆さん、そのことに関してはっきりしてくれないもんですから、ひょっとしたら何かあるんじゃないか、なんてこと思っていたんですよ」
「石室の残したゲームのなかに、ですか」
「はあ」
「例えば、犯人の名前の書いてあるダイイング・メッセージ、とか」
「いや、いくらなんでもそこまでは――。現実は推理小説じゃないですからね」
「もちろん、ゲームでもないしね」
黒田が笑い、おれも笑った。
そのまま部屋から出て行きかけたところで思い出したように立ち止まって黒田は言った。
「ところで、こういうのって、つらくないですか」
「何が?」
「いや、だって、いくらおもしろくても、それを他人にしゃべっちゃいけないんでしょ。そういうのって、すごくつらいことなんじゃないかなと思って――」
黒田は芝居がかった調子でささやく。
「王様の耳はロバの耳」
「さあ」
おれは答えた。
「あんまりそういうことは考えたことがありませんね」
「事件の目撃者なんてのも、それと似たところがありましてね。どうしても誰かにしゃべらずにはいられないんですね。口止めされてたり、やばいと思っててもね、やっぱりしゃべらずにはいられない。結局、聞き込み捜査なんて原始的な方法がいちばんの力になるっていうのは、そこなんです」
いったいこいつは何が言いたいのだろう。その表情からはまるで読み取れないのだ。
「ああ、そうそう」
黒田は、内ポケットから写真を二枚取り出しおれの顔の前で止めた。
「この顔に見覚えはありませんか」
思わずあげそうになった声を、なんとか押し殺した。押し殺せたと思う。
「ありませんね」
おれは言った。
「そのふたりがどうかしたんですか」
「殺されたんですよ。つまりまあ、いちおうは、被害者ってことで」
「いちおう?」
問い返すと黒田は笑った。
「いや、ほんとは私がこういうこと言っちゃいけないんですが、これまではずっと加害者だったような連中でしてね。どっちかって言えば死んだほうが世の中のため、ってとこがありまして」
「どうして、そんなもの私に見せるんです」
うーん、と黒田は腕組みして考え込むような仕草をする。
「ま、それが私の『ロバの耳』でして――」
おれの目を見つめたままで言った。さっきからずっと、風《ふう》采さいのあがらないこの小男にからかわれているような気がする。
「つらいですか」
おれは言った。
「つらいです」
黒田が笑った。
「しゃべっちゃったほうが楽になりますよ」
「お互いにね」
一礼して、やっと部屋を出ていった。
手元にあるディスクを見た。様々なものが詰め込まれた銀色のディスク。何が入っているのかは、まだわからない。
全部出してみないことには――。
石室はこのなかに何かを残していった。
おれに?
それともこの世に?
さっき見せられた二枚の写真が、頭に焼き付いたようになっている。
そうだ。
確かにそうだった。
あのふたり。
このゲームのなかで〈おれ〉にしつこくまとわりついてくるあのふたり――被害者とその代理人――なのだ。
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二 発《バ》 条《ネ》
――自らの内部に
歪《ひず》みを蓄えるもの――
石室の葬儀は、彼の田舎で行われた。
うちの会社からは専務と彼の直属の上司が代表して出席し、その間もおれは石室が残した例のゲームを進めていた。
いや、進めるつもりだった、と言うべきか。
ほとんど進んでいないのだ。ある点から、どうにも先に進めなくなっていた。
ここから先に行くためには、どうやら〈おれ〉は何かアイテムを手に入れなければならないらしい。まあそのくらいのことはわかっているのだが――。
いったいそれが何なのか。どうすれば手にはいるのか。
それがわからない。
なんにせよ、この部分はあとで手を加えなければならないだろうな。
そう思った。あまりプレイヤーをいらつかせると途中で嫌になってしまう。
適当なところでなんらかのヒントをうまく与えてやらないと――。
商品化するためにはそのあたりのバランスをうまく調整する必要がある。そんなことを考えながら午後いっぱい、ほとんど休憩なしで続けた。いろんなことを試したが、陥ったループから出ることはできない。もしかしたらこの先は作られていないのでは――。
そう思いたくもなる。
プログラム自体を読み出せればそれもわかるのだろうが、プロテクトみたいなものがかかっていてどうにもならない。
とりあえず今はやれるところまでプレイしてみるしかないのだ。
未《いま》だになんだかよくわからないあの選択肢――〈ハグルマにお願いする〉――も試しに何度かクリックしてみたのだが、反応はない。たぶん、お願いするための手順のようなものが存在するのだろう。それがわからない限り、このコマンドは意味を持たないようだ。
それにしても、どうやればその情報を得られるのだろう。いろいろとやってみてはいるのだが、ダメだ、ぐるぐる廻《まわ》った挙句――。
ほら、また元の場所へ戻ってきてしまった。
いつの間にか爪を噛《か》んでいる。
そのことに今、気がついた。おれにはそんな癖などなかったのに、いつの間にかそんなことをしている。
石室がしきりに親指の爪を噛んでいたことを思い出した。
ちき、ちき、ちき。
爪を噛み潰《つぶ》すとき、上下の前歯がぶつかりあって音を立てる。耳ではなく頭蓋骨《ずがいこつ》で、おれはその音を聞いている。それが聞こえてくると落ち着くから。
ずいいいいいむ。
突然、部屋の隅から聞こえた。
あの音。
まだ続いている。
ずいいいいいむ。
身体がこわばったようになっている。
何がそんなに怖いのだろう。
ずいいいいいむ。
思い切って、振り向く。
と、そこには、矢島久美が立っていた。コピーを取っているのだ。
ずいいいいいむ。
いや。
そんなことは音を聞いた時点でわかっていたことなのだが。
ずいいいいいむ。
矢島久美が、おれを見ている。
「どうかしたんですか」
おびえたような声で言った。
「いや――」
機械から吐き出される紙が見えた。グラフや表が印刷されている資料の類《たぐい》。
ずいいいいいむ。
あとからあとから吐き出され、溜《た》まっていく。
「なんでもない」
ああ、もちろん、何でもない。
もしかしたらおれは、自分自身に言い聞かせようとしているのかもしれない。
「あの――」
矢島久美は、部屋のなかにおれしかいないことを確認するように部屋の中を見回し、そして言った。
「あのとき、どうして来てくれなかったんですか」
「あのとき?」
「屋上へ」
「なんだって?」
思わず声が大きくなった。
「行ったよ。屋上で君と会ったじゃないか」
あの夜のことを思い出そうとした。すると同時に、あの嫌な嫌な感じまでいっしょに蘇《よみがえ》ってきそうになる。それが怖い。だから、ぼんやりとしか思い出せないのだ。それでも確かに――。
「私、ずっと屋上で待ってたのに」
嘘や冗談を言っているようには見えない。だが、それが本当のことだとしたら、あの夜おれが屋上で出会ったものは――あれは、いったい、何だ?
いや、それだけではなかった。あの後にもおかしなことがあったのだ。
廊下で見かけた矢島久美。
まるで、誘うようにおれに笑いかけてきた矢島久美。
あのとき彼女は、確かにこの部屋へ駆け込んでいった。そして、それを追いかけておれは――。
ずいいいいいいむ。
コピー機がまた一枚、紙を吐き出した。
ドアを開けたのに、部屋のなかには誰もいなかった。そして、今みたいに、あのコピー機が――。
ずいいいいいいむ。
ひとりでに。
動いて。
吐き出して。
ずいいいいいむ。
おかしくなっているのはこのおれのほうなのではないのか。そんな可能性を頭から振り払いたくて、おれはつぶやいた。
「行ったんだよ」
蘇ってくるあの感覚。
ずいいいいいむ。
怖い。
とても。
嫌だ。
まてよ。
おれは、ほんとうに屋上へ行ったのだろうか。
ずいいいいいむ。
自分の記憶がやけに頼りない。もしかしたらすべては――。
「待ってくれ」
わきあがってくるそんな思いを振り払うようにおれは言った。
「その、話というのを今聞かせて貰《もら》えないか」
そう。なんでもいいから手がかりが欲しかったのだ。
ずいいいいいむ。
なんでもいいから。
「それじゃ」
彼女が言った。
「会社が終わってから」
彼女は機械が吐き出し終えた紙を揃えながら、聞き覚えのある喫茶店の名を口にする。
あの喫茶店だった。
まただ。
ゲームのなかに出てくる――そう、まるでゲームのなかから抜け出てきたような――あの店。
ぐるぐる廻《まわ》って――。
また、同じ場所だ。
*
あの席にいる。
だから、あのときと同じアングルで店内が見える。
そこしか空いてなかったのだ。
気がついたら、また爪を噛《か》んでいた。ここでこうして矢島久美を待っているということが正しい選択なのかどうか。
それにしても、あのとき屋上にいたのが矢島久美でないとしたら、いったい――。
ふいにある可能性が頭に浮かぶ。
あれがそうでなかったとしたら、これからここにやってくるのも矢島久美だとは限らないのではないか。
まさか。
いったいおれのまわりで今、何が起こっているんだ。
石室はいったいおれに何をした?
ネジがね。
石室が言った。
喉《のど》が渇く。
二杯目のコーヒーを飲み干したとき、そこに立っていた。いつ店に入ってきたのか、まるで気がつかなかった。
矢島久美だ。矢島久美に間違いない。矢島久美にしか見えない。
当たり前だ。
矢島久美は、テーブルを挟んだ向かいの席に腰かけるなり、言った。
「どこまで進みました?」
「えっ?」
「あのゲーム」
「なぜ知ってるんだ」
矢島久美の唇《くちびる》の右端がテグスにでも引っ張られるようにぴくぴくと動いている。
「あのゲームのことを知っているのは――」
「あら、誰だって知ってるわよ」
彼女は言った。
「ハグルマのことなら」
「ハグルマ?」
「ええ、ハグルマ」
うなずいた。それが、あのゲームソフトの名前らしかった。
「誰でも知ってるって、それいったい――」
「皆、知ってる。あなたがあれどこまでやれるか、楽しみにしてるのよ」
「君はいったい――」
誰なんだ?
思わず尋ねそうになった。
「石室さんはよくやったよね。あれで、私たちあの人のこと、ちょっとは見直しちゃったもの」
矢島久美は一瞬、宙を見つめた。
「もっとも、いくらよくやったって、死んじゃったらおしまいだけどさ」
それから、まっすぐおれを見る。
「ねえ、あなたは、どこまで進んだ?」
人間と話しているような気がしなかった。何かもっと違うもの。例えば――。
「例えば?」
おれから視線を外さず、そうつぶやいて笑った。
「わからない」
自分がしゃべっている気がしない。誰かにしゃべらされているような――。
「君は――さっきからいったい何を言ってるんだ。もっとわかるように説明してくれ」
おれは、混乱している。
何がおかしいのか、矢島久美が笑う。
唇がめくれあがって、歯が見えた。
不自然なほど白くて。
そして、尖《とが》っている。
ずらりと並んだ歯の先端が、すべて尖っているのだ。
「馬鹿ね――」
彼女は言った。
「そんなこと教えちゃったら、ゲームにならないじゃない」
「ふざけるな」
おれは席を立とうとした。腹を立ててそうしたように見えればいいと思った。だが、本当はここにいるのが怖かったのだ。
なんでもいい、とにかくこの場を離れたかった。
ただ、それだけ。
ぎざぎざの尖った歯。
白い。
「待ってよ」
矢島久美が言った。
「こんなのもあるんだけど――」
ブラウスの胸ポケットから、四つに畳んだ紙を取り出した。
コピー用紙だった。
拡げた。
そこにあるのは歪《ゆが》んだおれの顔だ。
闇のなかに、顔だけが浮かんでいるように見える。
「これと、こっちは石室さんの顔が写ってる分ね」
テーブルの上に並べられたコピー用紙を取ろうとしたおれの手首を矢島久美子が掴《つか》んだ。
速かった。バネが蓄えていた力を一気に解放するような動き。
きり。
矢島久美のなかで、何かが鳴った。確かにそんな音が聞こえたのだ。
金属の軋《きし》むような音。
きり。
それは腕ではなくてあの白い歯がたてた音なのかもしれなかった。
ぎざぎざの白い歯。
尖っている。
白い歯。
怖い。
歯。
「こんなのをね、何枚も何枚も、なあんまいもあの部屋で見つけたのよ。あの石室さんが死んだ翌朝にね」
また笑った。
あの笑いかたで。
尖った白い歯が、覗《のぞ》く。分厚い肉の隙間から――。
いや、尖っていたのかどうかまでは、わからなかった。
「どう考えたってこんなの、普通じゃないわよねえ」
「それは――」
その先を続けることができないのだ。
「こんなの、刑事さんに見せたりしたら、あなた、ものすごく困るんじゃないかな」
「おれはなんにもやってない」
なぜ、そんなことをおれが言わなければならないのか。これではまるで、追いつめられた犯人ではないか。
馬鹿馬鹿しい。
「でも、それをうまく説明できるかしら、警察のひとに。あなた、今のままじゃ、変なこと、しゃべっちゃうんじゃないかな。それが心配なんだけど」
そうかも知れない。なんだか、そんな気がしてきた。
そうだ。自分でもよくわからないこの状況を、他人に納得させることなどできるのだろうか。
頼りない記憶と頼りない言葉。
「それでなくても、あなた、すごく疑われてるのよ。わかってると思うけどさ。このままだときっと、とってもややこしいことになると思うんだけどなあ」
その通りなのだろう、きっと。
「おれにどうしろっていうんだ」
そのとき突然、その声が聞こえたのだ。
〈ハグルマ〉
声はそう言っていた。
それは、矢島久美の声ではなかった。そんなところからではなくて、もっと頭の奥――。
「ネジがあるんだ」
石室がそう言っていたあのあたりから――。
その声をおれは、耳ではなく、頭蓋骨《ずがいこつ》で聞いたのだ。きっと。
だからこうして、耳を塞《ふさ》いでも、はっきりと聞こえてくるのだろう。いや、塞いだせいで、かえってその声は頭蓋骨の内部で反響して――。
汗が噴き出していた。シャツが身体に貼り付くのがわかる。そして冷えていく。
そのままじっとしていた。
そうすると少しずつ声は小さくなり、そして、また奥の方へと消えていったのだ。それでようやく顔をあげた。前の椅子には誰もいない。
いつ出ていったのだろう。彼女が立ち上がったことさえ、おれにはわからなかった。
テーブルの上に茶封筒が置かれている。会社でよく使っているやつ。
手に取ってみた。
その封筒の裏には住所と石室の名前がボールペンで書かれている。一瞬、何か変な感じがした。
封筒のなかには鍵《かぎ》がひとつ。
それだけ。
もういちど、裏の住所を見た。それで、さっきなぜ変な感じがしたのかがわかった。そこに書かれている住所は、おれの知っている石室の住所とは違っていたのだ。おれと同じあの団地のものとは――。
違っているのは番地だけだったから、近くであることは間違いないが――。
掌《てのひら》の上の鍵をもういちど見る。
古い鍵だ。
ウエイトレスが、グラスの水を注ぎたしていった。
テーブルの上にグラスはそれひとつしかない。
おれの分だけ。
そのときになって初めて、矢島久美がいたのに誰も彼女の注文を取りにこなかったということに気がついた。
待て。
ほんとうにおれはここで矢島久美と会って話していたのだろうか。ほんとうに、この椅子には誰かが腰かけていたのだろうか。
ウエイトレスに尋ねようとして、やめた。
無駄だ。
だって、ここに水が来ていないということは、気がつかなかったということだろう。それなら、返ってくる答も決まっているではないか。
もっと冷静になるべきだ。
ウエイトレスは新しい客に気がつかなかった。それだけのことじゃないか。
家に帰ると由紀子がまた電話で誰かと話していた。おれが帰ってきてもかまわず続けている。これまで、長電話などしなかったのにな。いつからこんなことになったのだろう。
とくに理由があるわけではないが、しばらくその会話に聞き耳を立てていた。
へえええ――あ、そうなんだ――あら――うんうん――えっすごい、それって――。
そんな調子で、彼女は聞き役に徹しているようだ。
ときおり弾《はじ》けたように大声で笑う。彼女のそんな表情は結婚する前も結婚してからも、あまり見たことがないような気がする。
何だか、別人のように見えるのだ。
「あ、御飯そこに用意してあるから」
後ろに立っているおれに気づくとそれだけ言って、そしてまた電話の向こうからの声に耳を傾ける。
いったい誰からなんだよ。
前にもいちど尋ねたことを、電話が終わってから尋ねた。
「昔からの友達」
前と同じ答だった。
「昔からの?」
「ええ、そうよ」
彼女は言った。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、どうしてってことはないんだけど」
「あ、もしかして、妬《や》いてるの」
「いや、そういうのじゃなくて――」
「相手は女よ、女」
乾いた笑い。
その話は、それで終わった。
前と同じように。
*
木曜日。
矢島久美は欠勤。
「ああ、生理だよ」
やたらそういう事情に詳しい岸本《きしもと》が嬉《うれ》しそうに断言した。
誰がどのくらいの周期なのか、きついとかゆるいとか、その他もろもろ、自分で調べて把握しているらしい。このあいだも自分のコンピュータに入力していた。女子社員をうまく管理して使っていくためにはそれは絶対に必要なことなんだよ、などとよく言っている。どこまで本気なのか知らないが――。
午前中、部長に呼びだされた。
次の月曜の定例報告会議で報告できるようにある程度の形にまでしておいてくれ、などと気楽に言ってくれる。それなら他の仕事を減らしてくれ。そう思ったが、もちろん腹に持ってて口には出さず。
まああのゲーム以外の仕事はとりたてて問題もなく進んでいるというのが不幸中の幸い、か。
バテ気味なので、その足で駅前の地下街へ鰻《うなぎ》を食いに行くことにした。我ながらいい考えだと思った。
そのときは――。
ところが、いざこうして目の前に出されるとまるで食う気がしないのだ。腹は減っているはずなのに、匂いを嗅《か》ぐだけでもうダメだ。
箸《はし》をつけることもせずしばらく見ているうち、気持ちが悪くなってきた。なにしろ、裂かれているのだ。
胴体を裂かれている。
いちどテレビで、鰻を裂く機械というのを見たことがある。一方から生きたままの大量の鰻をずるずるずると流し込む。すると反対側から縦に裂かれて出てくるのだ。ぴいいいいいいいいい。裂ける音はしたのかしなかったのか。とにかく、裂かれたまま赤い断面を見せながら数え切れないほどの鰻がにゅるにゅるにゅるとのたうちまわるのだ。
鰻にゅるにゅる三にゅるにゅる、裂かれてにゅるにゅる六にゅるにゅる。
そんな早口言葉を思いついて、笑い出しそうになった。気持ちが悪いのにおかしくて仕方がないのだった。本当に笑い出してしまう前に、店を出た。結局、箸はつけなかった。
地下街を歩きながら、さっきの早口言葉を思い出して、また笑った。笑い出すと、しばらく止まらなかった。肩が震えている。かまわず歩き続け、会社に着く頃にはなんとかおさまっていた。そのまま、あのマシンのある廊下のいちばん奥の部屋へ行った。
最初にコピー機を見た。
また電源コードがコンセントに差し込まれている。
腹が立つ。
いったい誰が入れているのだろう。
女子社員の誰かか。そうだろう、きっと。
使わないときはこうやって――。
力任せに引き抜いた。
よし、安心。
何が安心なのか自分でもよくわからないが、落ち着いた。
落ち着いたところで、最近では常にポケットに入れて持ち歩いているゲームのディスクを、いつものマシンに差し込む。
きちきちきちきち。
歯の噛《か》みあうような音は、機械がゲームを読み込んでいる音だ。
ゲームを噛みくだいている。
たぶん。
きち。
きちきちきち。
ほら、始まった。
さっそくおれは入っていった。
例によってゲームのなかを動き回るが、あいかわらずの堂々巡り。そうこうしているうちに、ゲームのなかの〈おれ〉は、いろんな事情で追いつめられたのだろうか、それとも最初からそういう性格としてプログラムされているのか、なんといきなり団地の屋上から飛び降りてしまった。
おれの意志など無視して、だ。
腹が立つというよりも、あっけにとられて――。
あ。
おい。
なんだ。
死んだよ。
馬鹿らしい。
そんな感じで。
やりなおすのか。
また前の場面から。
うんざりしてしまう。
でもやらねばならない。
別の経路を捜索し続けた。
夜になっても見つからない。
そのかわり、とでも言うかな。
いいことを思いついたのである。
あれこそが出口なのかも知れない。
あの鍵《かぎ》こそがそうなのではないのか。
このあいだ手に入れたあの鍵。だって、団地の部屋にも会社にも、石室がこのゲームを作った形跡は残されていなかったのだ。これだけのものを構築するのに要した膨大なメモやマップ、フローチャートの類《たぐい》、あるいはそれらのデータの入ったディスクやコンピュータ。それがどこかにあるはずなのに。
見当たらないということは――。
石室がこれを作るためにどこか別の場所を使っていたのだということを示しているのではないか。
で、それはどこかといえば――。
あの鍵。
自宅ではない住所が書かれた封筒に入っていたあの鍵だ。
ゲームを中断し、自分の机に戻った。
最近あまり机にいないせいか、伝言メモがいくつも貼りつけられている。まあ、とくに差し迫ったものはない。
おれがこれにかかりきりになっても、他の仕事は問題なく進んでいるようだ。少し悔しくはあるが――。
まあそんなものだろう。だからこそ、おれがこれに選ばれたのかも知れないな。
あたりを見回して誰もいないことを確かめてから、出しっぱなしの書類をどけてみた。
何もない。
ほっとしたようながっかりしたような。
とりあえず、今夜も遅くなるから、と家に電話を入れた。妻は、ああそう、と答えてすぐ切った。
もしかしたら――。
他の電話を待っていたのではないか。きっと、そうだ。だって、おれの声を聞いてなんだか気落ちしたみたいだった。声にはっきりと表れていた。でもまあそれならそれで仕方ない。
そう思うことにした。そういうことも含めて何もかも、すべては、この仕事を片づけてからのことなのだ。
行ってみることにしよう。
試せることは試してみるのだ。
そう決めて立ち上がった。
ところが、肝心のあの封筒が見当たらない。確かいちばん上の引き出しの奥にしまっておいたはずなのに。
おかしい。
まさか、誰かが――。
顔をあげたとき突然、目の隅にあの形が飛び込んできた。
あれ。
まわりにぎざぎざのある丸いもの。
ゲームのなかの落書きにあった、あの形。
円形に配置された白くて尖《とが》ったもの。
それが、転がってくるのだ。
こっちへ。
机の上を、おれ目がけて。
まっすぐ。
声をあげて後ずさった。
だが、逃げられない。向かってくる。ぎざぎざの尖った白い歯が視界いっぱいにひろがって――。
ごとんっ。
その音ですべてが消えた。
天井の蛍光灯がまぶしかった。
普段と何も変わっていない。
すぐ後ろに椅子が倒れていた。さっき、おれが倒したのだ。
逃げようとしてぶつかって。
そんなにあわてて、いったい何から逃げようとしていたのか。もういちど周囲を見回した。こっちに転がってくるものなど、もちろん、ない。
その位置にあるのは――。
白い菊の花だった。
なぜかそれが、さっきはそんなふうに見えたのだ。机の上の花瓶に挿してある。その机は、つい数日前まで石室のものだった。
ここか。もしかしたら、まだ――。
その机に近づきながら、思った。
もういちどあたりを見回し、誰もいないことを確かめてから、思い切っていちばん上の引き出しを開けた。すばやく手を入れて奥を探ると――。
ほら。
あった。
見つけた。
あの茶封筒。
見覚えがある。
なぜそんなところにあったのかはわからない。おれの机のなかにあったはずのものなのに。もしかしたら、おれが、自分の机と間違えて入れたのだろうか。
そんなはずがないことはわかっている。机など間違えるはずがない。だが、それがいちばん納得のいく答のように思えたのだ。納得さえできるなら、それでもかまわない。
書かれた住所を見る。
やはり団地の住所ではない。
ビンゴ。
すぐ近くだ。
わきあがってくる笑いを堪《こら》えながら、営業用の住宅地図を開いて、だいたい見当をつけた。
駅の反対側――ここから歩いて十五分といったところか。
時計を見ると十時をまわっている。行ってどうなるかはわからないが、まあ行くだけは行ってみようと思った。どうせ今のままではやれることなどない。
そうだ。
現実だって、結局はゲームと同じだ。なんらかの動きを起こさなければ、先に進まない。どんなことになっても、何もしないよりはいいのだ、きっと。
*
会社を出た。
歩いて行ける距離だ。
いや、ちょっと待てよ。
しばらく歩いて、ふと思った。
どうやってこの鍵を手に入れたんだっけ。
そのあたりの記憶がなんだか妙に曖昧《あいまい》なのだった。
矢島久美から手に入れたように思っていたのだが、よく考えたら、ついさっき自分で石室の机の引き出しを掻《か》き回して発見したのではないか。
うん、どちらかと言えば、そのほうが手に入れる方法としては自然だ。無理のない展開ではないか。そんなことを考えながら線路のそばまでやってきた。
向こう側へ抜けるための狭いトンネルがある。
天井が低いから、少し屈《かが》まなければ通れない。
壁には、たくさんの落書きがある。なぜか、自分がそれをなるべく見ないようにしているということに、トンネル半ばあたりで気がついた。
なんとなくそれを見るのが嫌なのだ。
怖いから。
だから、さっきから首をそちらに向けないようにして歩いている。
理由は自分でもよくわからない。
わからないままトンネルを抜けた。
駅前の商店街から外れると、街灯はまばらだ。
白い光のなかに滑り台とブランコが浮かんで見えた。たぶんこれが、さっき地図を見ているとき目印にしようと考えた公園だろう。
だとすれば、この公園をまっすぐ抜けていけばいいはず。
水銀灯に照らされた砂場。
パンダが、置かれている。
砂場の真ん中あたり。
子供が跨《また》いで遊ぶパンダ。
顔の一部が欠けてコンクリートが覗《のぞ》いている。
片側の頬が砕けて無くなっている。
壊れた顔のパンダ。壊れた顔のくせに笑みを浮かべている。
それが、動いた。
そんなはずはない。
でも確かに、そう見えた。
半分ほど砂に埋もれた前足を一歩踏み出すようにして、その顔をこっちに向けたのだ。
壊れた顔で――。
笑った。
白い歯が剥《む》き出しになる。黒ずんだ桃色の歯茎までもが、見える。
そんな馬鹿なことはありえない。そう自分に言い聞かせる。
もういちど見た。
いない。
いや、いた。
さっきまで、砂場の真ん中あたりにあったはずなのに、コンクリートの縁に前脚がかかっている。
壊れた顔のパンダ。
反射的に駆け出してしまいそうになった。だが、同じ歩調で歩き続ける。そのまま、公園を出た。
もし走りだしたら、ほんとうに追いかけてくるような気がしたのだ。
いや、きっとそうなる。
そんな場面をはっきりと頭のなかに思い浮かべることができる。
そう。
本当にあったことみたいに――。
だから何も見なかったことにして、歩き続ける。それしかない。
狭くなった道に沿って、幅一メートルほどの溝がついていた。水は、ほとんどない。街灯の白い光に照らされてぬらぬらとした底が見えるだけ。番地を表示したプレートが電柱に取り付けられている。それによれば、このあたりなのだ。
同じ様なつくりの古いアパートがこのあたりにはたくさん残っているようだ。もういちどあの封筒を出して、番地のプレートと見比べた。
どうやら、ここだ。
木造二階建てのアパート。
玄関の上の壁にペンキで書かれたアパートの名前は、埃《ほこり》でくすんで見えなくなっていた。
住所にある番地からすれば、目的の部屋はこの建物の二十七号室ということになる。
玄関のドアを開けた。
広い土間があって、片側には大きな下駄箱がある。点《とも》っているのは玄関の天井の蛍光灯だけだから充分に明るいとは言えない。
廊下の奥は暗い。
二十七号室の下駄箱。名札を入れるところは空欄になったままだ。
開けてみる。スリッパがあった。つまり、部屋の主は、今部屋にはいないということ。
二十七号室だから二階だろう。下駄箱に靴を入れて、そのスリッパを履いた。なんだか変な感じがした。
いや、違う。変な感じがしないということが、変なのだ。そのスリッパにはまったく違和感がなかった。まるで履きなれたもののように――。
二階への階段は廊下の奥にあるらしかった。とりあえず、行ってみることにした。
廊下には生ぬるい空気が澱《よど》んでいる。なんだか、この建物自体が体温を持っているような。
そんな嫌な温気。
狭い廊下の両側にはドアが並んでいる。その向こうからは、なんの物音も聞こえてこない。
ドアの上に木の札が打ち付けられていて、そこに部屋番号が書かれている。それを見ながら、廊下を進んでいった。入ってすぐ右が管理人室。
明りは消えている。奥へ行くにつれて部屋の番号が大きくなっていく。それにしても、どの部屋も明りが消えているのは、眠っているのか外出しているのか。
十二号室まで行ったところに階段があった。木製の手すりのついた、ひとひとりがやっと通れる幅の階段。
一階の廊下は、その階段の脇を通ってまだずっと奥まで続いている。見かけによらず、ずいぶん大きな建物らしい。
階段はぎしぎしと鳴った。鳴らさずに上ることはできない。
上り切ったところにあるのが二十二号室。
一階とほぼ同じ構造になっているらしい。奥へと進んだ。これまた明りの点《つ》いた部屋はない。玄関側の廊下の突き当りが窓。そこから入ってくる街灯の白い光だけが廊下を照らしていた。
ドアの上についた部屋の番号を見ていく。
二十五。
二十六。
二十七。
そのドアの前に立って、もういちど封筒の番号を見た。
鍵《かぎ》を出す。ノブの下にある鍵穴にそっと差し込んで――。
ゆっくり回してみる。
かつん。軽い金属音。
真鍮《しんちゆう》のノブを回して引くと、あっさり開いた。
部屋のなかは真っ暗。入ってすぐの柱にスイッチがあった。蛍光灯が点った。ドーナツ形の蛍光灯。
がらんとした六畳間だ。石室はもうとっくの昔にここを引き払ってしまっていたのでは――。そう思ったほど。
だが、そうでないことはすぐにわかった。部屋の隅に、小さな机がある。その上に、ノート型のコンピュータが置かれているのだ。
見覚えがあった。
会社で石室が使っているのを何度か見たことがあった。
あれだ。
駆け寄った。ディスプレイを開くとスイッチが入った。
ちきちき、ちきちきちき。
そんな微《かす》かな音が、そのなかから聞こえてきた。
知っている音だ。
何かを噛《か》み潰《つぶ》すようなあの。
そして――。
そのまま勝手に始まってしまった。
*
最初それは、液晶画面のなかに浮かぶぼんやりとした影のようなものでしかなかった。それが見ているうちに少しずつ形をとりはじめて――。
すぐ、わかった。
そこに映し出されているのは、この部屋だ。
おれが今入ってきて、明りを点けたときに見えたそのままの。
まさに、この部屋。
さっきからおれがじっと見つめている机の上に置かれた画面にそれが映っている。
マウスを動かすと視点を移動させることができた。部屋の中央まで進んで、周囲を見回してみる。
くるくるくるくるくるくるくるくる。
なるほど、よく動く。部屋の真ん中で回りながら、おれはゲームのなかの〈おれ〉と同じことをつぶやいている。
さあこれからどうしよう?
まず、この部屋のなかを調べてみよう。何があるのか。手がかりになるようなものが残されていないか。
部屋の隅にある机。
それが自然に〈おれ〉の視界に入ってきた。
何かが置いてある。ノート型のコンピュータだ。
「ん? 見覚えがあるぞ」
ゲームのなかで〈おれ〉がそうつぶやいた。
さっそく近づいてみる。
そしてもちろん、〈コンピュータのディスプレイを開く〉、を選択した。
開いた。
途端に、プログラムが自動的に立ち上がってきた。
そして、液晶画面のなかに浮かび上がってくるのは、まさにこの部屋。なにもかも同じだ。その隅には、この机があってその上にはこのコンピュータ。
コンピュータを開くとそこにはまた同じこの部屋があり、その部屋の隅の机の上のコンピュータのなかにあるこの部屋のなかのコンピュータのそのなかにあるこの部屋の――。
おんなじだ。
どこまでも続く合せ鏡。フラクタル、自己相似、マンデルブロ集合、とかなんとか、まあそんなのを組み込んだ自己生成ソフトを使ったんだろう。それはそれで確かに見事ではあるが、驚くほどのことじゃない。このなかにはこれ以上の手がかりはなさそうだ。
部屋を映しているコンピュータ。そのディスプレイを閉じた。机の上に元あった通りに置く。そうしているところを入口から眺めている映像。それを映しているコンピュータの置かれた机。その机がある部屋を映し出しているコンピュータを閉じるとそのコンピュータの置かれている机のある部屋を映している画面があってそのなかの部屋の机の上には――。
繰り返しのプロセスを逆に辿《たど》って、とりあえず最初の部屋に戻ってくる。半ば自動的に手は動く。このところずっとやっているから、このゲームの操作にはすっかり慣れている。ほとんど無意識のうちに動かしている。そして、戻ってきた。最初の〈おれ〉が、この部屋に入ってきたところまで。
さて、次はどうするか。
もういちど注意深く部屋のなかを見回してみる。
ふむ、畳の上にはやはり何もない。だとすれば、いちばん考えられるのは――。
押し入れ、か。
そちらに視線を移動した。
そうだな。ここしかない。日に焼けて黄ばんだ襖《ふすま》。何かがあるとしたら、このなかだろう。
開けてみるか、とりあえず。
〈おれ〉は押し入れに近づいて、その襖に手を――。
やめろ。
そのとき、おれのなかで、誰かが叫んだ。
ここから先へ進んだらもう後戻りができない。
なぜか、そんな気がしたのだ。
そうだ。
やめよう。
こんなゲームなんてもうどうでもいいじゃないか。私にはできません。努力はしましたが無理でした。
上司にはそう言ってしまえばいいのだ。そうすれば――。
そうすれば、すぐに他の誰かが引き継いでくれる。例えば、岸本。
あいつがやることになるだろう。
でも、そうなれば――。
もしかしたらヒット商品になるかも知れないこのゲーム。
これをあいつにみすみす渡してしまうことになるのか。おれがせっかくここまでやったのに、それを全部取られてしまうのか。
そうだ。普通ならまず発見できないだろうこんな鍵まで手に入れて、ようやくここまでたどり着いたというのに――。
こんな鍵なんて、岸本なら絶対に発見することはできないだろう。このおれだからこそ、ここまでこれたのだ。なのに、せっかくのそんな成果もまったく評価されず、すべて取られてしまう。
〈おれ〉は、押し入れの襖に手を掛ける。
ただ、これを開ければいいだけのことじゃないか。
さっきコンピュータを開いたように。
開けよう。
すると、まるでそうされるのを待っていたかのように――。
抵抗なく、開いた。
すたんっ。
勢い余って柱にぶつかった襖が、そんな音をたてた。
そこには――。
猫がいた。
白い猫。
こっちを見ていた。二段に仕切られたその押し入れの上の段だ。そこから猫がこっちを覗《のぞ》いている。
工事現場などでよく見かける青いビニールのシート。畳んで置いてあるその隙間から顔を覗かせている。あくびをするように口をあけ、動かない。
そっと手を伸ばした。手が触れるよりはやく、それは床に落ちて転がった。
とつ、とつ。
畳の上でバウンドして足元で止まる。
赤黒い首の切断面の中央に白いものが見えた。剥《む》き出しになった骨か。そして、下の段。猫の頭を目で追ったせいで、そのまますんなり視界に飛び込んできた押し入れの下の段。
そこには、なんだかわからないものがぎゅうぎゅうに押し込まれている。
ずさり。
崩れた。畳に散らばった。押し込まれていたものが――。
腕が、見えた。人間の腕。よく見ればもっといろんなものが見えるだろう。ヒトのいろんな部品が――。
乾燥していた。からからからと鰹節《かつおぶし》のような乾いた音をたてて畳の上を転がった。
逃げようとしているのに、足が動かない。
何かが足首を掴《つか》んでいる。
そんなことはありえない。そう思いながら、でも怖くて自分の足首を見ることができない。
びくんっ。
跳ねた。
足首を掴んでいる何かが――。陸にうちあげられた魚がもがき、跳ねるときのあの感触。
びくんっ。
びくびくんっ。
投げ捨てるようにして、マウスを手から離していた。
なんだこれは――。
おれはつぶやいていた。
息が荒くなっている。
額の汗をぬぐって、もういちど、コンピュータを見た。
それはゲームではなく、ついさっき、実際に自分自身の肉体に起こったことのような気がしたのだ。
馬鹿な。
単に、コンピュータの画面と向きあっているだけじゃないか。石室の部屋に残されていたコンピュータのなかにあったゲームを――。ゲームを進めていただけだ。
そう自分に言い聞かせる。
それだけじゃないか。
でも。
それだけのはずなのに、さっきの感触はまだ足首に残っていた。
本当にあったことのように。
そして、そのままおれは動けなくなる。
今、音がしたのだ。
すぐ後ろで――。
すたんっ。
あの音。
間違いない。
同じ音だった。
さっきゲームのなかで聞いた音。
勢いよく開けられた襖が柱にぶつかったあの音だった。だから、今振り向いたら、きっと押し入れも開いているだろう。さっきゲームのなかでそうなっていたのと同じように。
すたんっ。
黴《かび》臭い部屋の空気のなかに、いつまでもその響きは消えずに残っている。
ゲームが、現実に影響を与えている?
シンクロしている?
それとも――。
もしこれが、ゲームのなかだとしたら。
ふいにそんな考えが浮かんできた。
そう、ついさっきあったこと。
本当にあった怖い話。
笑い出しそうになった。
何がおかしいのかもわからずに。
ただ、笑いの衝動がこみあげてきた。
部屋のなかにあったコンピュータのなかのゲームのなかにあった部屋のなかにあったゲームのなかにあった部屋のなかにあったゲームのなかにあったへやのなかにあったこんぴゅうたのなかのへやのゲームのなかのへやのげえむのへやのなかのげえむのこんぴゅうたのげえむのなかにあったげえむのこんぴゅうたのげえむのなかのへやのなかのこんぴゅうたのなかのげえむのなかのげえむのなかの――。
それを逆に辿《たど》って、最初の場所まで戻ったつもりだった。
そう。
ゲームの外に出たつもり。
だがもしかしたら、そう思っているのはおれだけで、実はまだそのなかにいるのではないか?
このおれというのは、現実のおれではなくて、あの入れ子構造の合せ鏡からまだ抜けだせていない、ゲームのなかの〈おれ〉なのではないか。
しがみつくように両手で机の縁を握りしめていた。
顎《あご》から、汗が落ちる。
おいおい。
小声で、つぶやいていた。
それにしても、これがゲームだとしたら、えらくリアルな描写じゃないか。
と。
机の上のマウスが、手を触れてもいないのに、動いた。
かた。
かたかたかた。
小刻みに揺れている。
その表面は濡《ぬ》れているように見える。
濡れた肉の色をしたマウス。
体毛を剃《そ》られたハツカネズミのようなマウスだ。
動いている。
それにあわせて画面のなかの視点が動く。
そして、おれは、見ようとしている。何かに掴まれている自分の足首を――。
やめろ。
嫌だ。
怖い。
見たくない。
画面から目をそらしたとき、視界の隅に見えた。
紺色のスカートが。
後ろの正面。
「だあれ」
そんな声が聞こえた。
そして、誰かの掌《てのひら》がおれの両目を覆った。
蛙の皮膚のような湿った感触。
そのままおれの頭を両手で抱きかかえるようにする。そして、耳元でささやいた。
「怖くない怖くない」
かすれた声。
それが誰の声なのか、もちろんおれは知っている。
こと、こと、こと、こと。
心臓が鳴っている。その音が妙になつかしいから、もっとよく聞こえるように胸に耳を押しつける。すると、心臓の音の向こうから、地下道を風が吹き抜けるような音が聞こえるのだ。
彼女のなかから――。
おれがそのことを言おうとする前に、矢島久美がささやいた。
「穴が――」
指が、それだけで独立した生き物のようにおれの背中を這《は》い回っていた。
「あいてるの」
彼女の舌が動いている。耳のあたり。何かを探っているように。
「身体の真ん中にね」
矢島久美が言った。
「風穴が、あいてるのよ」
濡れた舌が、耳の穴に入り込んでくる。細長くて尖《とが》った舌。なぜ、こんなに長くて尖っているんだろう。
まるで――。
そう、まるで――。
人間の舌じゃないみたいに。
どこまでも、入り込んでくる。
いちばん奥まで――。
尖った、よく動く舌の先で、脳ミソの奥が探られていく。おれの。
もうすぐ。
もうすぐ、探りあてられる。自分がそのときを待っていることに気づく。
ほら。
滑り込んでくる。あまりに鋭いから、痛みはない。抵抗もない。
だから、抵抗などできない。
あとはなめらかに進む。
するするするするするするするするするするするするするするするするするする。
そして、奥で膨れあがる。
ひとつになる。
するする。
する。
と。
突然、引き抜かれる。
ひとつになっていたはずのものが――。
そのことに、耐えられない。
目を開けると、すぐそこに矢島久美の顔がある。やけに赤い唇《くちびる》が――。
ゆっくりと動いている。
声は聞こえないのに、何を言っているのかは、わかる。
「穴が、あいてるの」
おれの手首にいつの間にか彼女の指が絡まっている。そのまま導かれた。紺色のスカートのなか。陰毛が触れる。それは、ざわざわと波打つように蠢《うごめ》いている。
彼女が笑って、言う。
「塞《ふさ》いでよ」
片方の手がおれの股間《こかん》をまさぐり、ズボンの上から握りしめた。
「ほら、やっぱり」
笑う。
「やりたくなってる」
ファスナーを下ろしながら、言った。
誰かの手が、おれの両方の足首を掴《つか》んでいる。矢島久美の両手は見えているのに、確かに掴まれているのだ。
おいおい、それじゃこの手は。
びくんっ、びくんっ。
何かが跳ねる、あの感触。
ふいに、ぐんっ、と強く引っ張られ、おれの身体は椅子から落ちる。背中の下で、がさ、乾いた音がした。
いつの間にか部屋いちめんに、青いビニールシートが敷かれているのだ。動く度に、それが背中でがさがさと音をたてる。
シートの表面は汗をかいたように湿っている。
嫌な匂いがする。
汗の沁《し》み付いた蒲団《ふとん》のような。
視界の隅に、押し入れが見えた。
ほらみろ。
やっぱりだ。
襖《ふすま》が開いている。
思った通りじゃないか。
つまり今敷かれているのは、さっき押し入れの上の段に畳んで置かれていたあのビニールシートということか。
いや、待て。
おれは抵抗を試みる。
それを見たのは、現実ではなくてゲームのなかでのことじゃなかったか。
だが、そんなことより――。
おれの人差し指と中指の間に挟まれた矢島久美の乳首。硬く尖っている。
何よりもはっきりとそれを感じる。
部屋の端に、ソフトボールくらいの白いものが転がっているのが少しだけ気になった。でも、それがなんだかよくわからないのは、見えそうになる度におれがあわてて目をそらしてしまったからだ。
なぜ、そうしたのか。自分でも理由はわからない。
たぶん、気にしなくてもいいことだからだろう。それに、もう――。
のしかかっている矢島久美の身体に遮られているから、押し入れの下の段が、おれには見えない。でも、もし矢島久美の身体がここになくなれば、見えてしまうだろう。
嫌だ。
それだけは。
怖い。
そんなことにならないように、乳房を両手で握りしめた。このままの姿勢でいて欲しくて、そうした。
指の間にある、硬く尖った乳首。
噴き出た汗がシートと皮膚の間に溜《た》まり、じたじたじたとくっついたり離れたり。
前にも同じことがこの部屋で行われた。それを追体験――いや、リプレイと言うべきか――している。繰り返される。クリアできるまで、次のステージへと進めるまで、何度も何度も――。
何度でも。
おれの上で、矢島久美が動いている。ずいいいいいむ。ずいいいいいいいむ。腰を動かしている。その周期は次第に短く。動きは速くなっていく。声をあげている。何を言っているのかわからない。顔を歪《ゆが》ませ、呻《うめ》くように同じ単語を繰り返している。ずいいいいむ。その声は次第に低くなり、そして身体の奥からしぼり出すような音になる。
ハグルマ。
そう聞き取れた。
ハグルマ。
確かに。
かつん。何かが回った。彼女の身体のなかで。それはおれの身体にもはっきりと伝わってくる。乳房を握りしめたまま矢島久美の身体を起こしていくと、さらに動きは激しくなった。跳ね上がり、沈み、また跳ね上がって、沈む。自分のなかに溜め込んだ歪《ひず》みをおれのなかに解き放とうとでもするかのように――。
バネのように、だ。
腹の上で跳ねているバネ仕掛けのオモチャ。低い唸《うな》りを伴って、運動を続けている。
それを眺めながら、その動きにあわせていつの間にか口のなかでつぶやいていた。
びよよよよおおん。びよよよよおおん。びよよよよおおん。びよよよよおおん。
そんなことをやっている自分がおかしい。おかしくて笑い出しそうになる。くくく、と鳴っているのは自分の喉《のど》なんだろうか。おれの。もっと速く、もっと速く。もっともっと。もっと跳ねろよオモチャびよよおんびよよおんびよよおんびよよおんおもしろいなあ大人のオモチャびよおおおん歪みを溜め込んでそれを使って跳ねるのだねでもあまり溜め込み過ぎると壊れてしまうから注意ちゅういまあそんなこと言われなくてもそれは当人がいちばんよく知っている余計なお世話だびよよおおおおおおおおん。
勢いよく跳ねたバネが落ちてきて、おれの顔を見下ろす。それから突然、けたたましく笑い出した。
「さっきからぼんやりしていったい何考えてんのよ。ひとがこんなに一生懸命やってるのにさ」
唇がめくれあがって、白い歯が見えた。
「ねえ」
ぎざぎざの。
鋸《のこぎり》のように尖《とが》った――歯。
「そんなに退屈なら、怖い話でもしてあげようか」
あいかわらず上下に揺れながら、矢島久美が言った。きゅこっ、きゅこっ、きゅこっ、きゅこっ。金属の軋《きし》む音がする。どこから聞こえているのかわからない。それに――。
おい。
実はおれはさっきから見えているもののことをどう伝えればいいのかわからないので困っているのだ。
おいおい。
軋む音は大きくなって、ほかに変な音が混じってきているし。思い切って言ってあげたほうがいいかな。
おいおいおい。
かといってそれで彼女を傷つけることになってはいけないだろう。泣き出されたりしたら、またセクハラとか言われるだろうから適当に言葉を濁して、そうだな、例えばこんなふうに――。
おいおいおいおい、それいったいどうなってんだよ、なんかさっきからさあ、それ、ほら、はみだしそうになってるぞ、君、どっか悪いんじゃないか身体がそれに音もおかしいよぎゃちゃぎゃちゃぎゃちゃぎゃちゃってそれダメだろうぎちゃぎちゃぎちゃぎちゃそんなのってほらあれだよなんか壊れてるみたいな音だもん、とまあだいたいそういうふうな文章を頭のなかで組み立てようとしている間も矢島久美はしゃべり続けていて、その口なんてもう身体のなかから溢《あふ》れてきたというか逆流してきたみたいな何かでほっぺたがどんどん膨らんできているのだよ。うん、そのせいで、もごもごもごもごとしゃべっている言葉などまるで聞き取れず、したがってそのせっかくの怖い話というのも怖がりようがない。そのうちいよいよ口のなかもいっぱいで、口がもごもごと動く度にぎゃちゃぎゃちゃぎゃちゃぎゃちゃと金属と肉が噛《か》みあわされるような音がするようになってきた。あ。とうとう唇から外にこぼれはじめたぞ。なにしろおれの真上だから、いったん顔にばちばちとまともにぶつかってそれから床に落ちるのよな。ばらばらばらと音をたててバウンドし転がったそれを横目で追ってみるとこれがなんとまあ――。
小指の先ほどの大きさのバネなのだった。
壊れている。
途中で折れている。
それが、後から後からこぼれ落ちてくる。矢島久美の口から――。
それでもバネはまだ口いっぱいにつまっていて、この馬鹿そんなことかまわずぐちゃぐちゃべちゃべちゃしゃべろうとするものだから当然ながら折れたバネの針金で口のなかが切れるのだ。そのくらいわからんかなこの馬鹿は。ほら、ぎゃちぎゃちぎゃちぎゃちぎゃちぎゃちぎゃちゃ、とおかげでバネは血まみれじゃないか。それでも頬がさらに膨らんでいくのは、口からこぼれるよりたくさん奥から出てくるからだろうね。溢れ出すバネ。膨らみ張り切った頬の肉は見る見る薄くなり、そして今、破れたね。内側から、ぷすり。突き出たバネの先端。折れたところが鋭くなっているからな。破けてしまったよ。これまで内側には均等にかかっていた張力だが、こうして一点が破れるとそうはいかない。バランスが崩れる。そうなるとね、裂けるのは速いよ。ぴりりいいいいいいいいいいいい。うん、なんでもそうなんだ。ひとつ崩れ出すとあとは一気だ。いっき、いっき、いっき、いっき。顎《あご》はそのまま外れて落ちてしまいそう。そしてぽかんとあいた穴のように見える喉の奥からは生き物のように無数のバネがざわざわざらざらざわらざわらざわらざわら。
壊れたバネ。加えられた歪みに耐え切れずに折れた螺旋《らせん》。ざらざらざらざら顔の上に降ってくる。まるでパチンコ台ふぃいばあすたああああああとですじゃんじゃんばりばりじゃんじゃんばりばりこうなるともう口は耳まで裂けて、まるで噂の妖怪《ようかい》。私|綺麗《きれい》? それでも顎はかくんかくんと動き続けているから、たぶん怖い話をしてくれているのだろうな。いつの間にやら周囲は暗い。なぜだ。ああそうか、すでにおれの身体は噴き出してきたバネに埋もれようとしているからか。いやいや、すでに、部屋全体が埋め尽くされようとしているではないか。そうか、それで視界が悪くなったのか。暗い。どす黒い。ざらざらざら。崩れてきたバネが口のなかに入ってくる。血の味。鉄の味。これは矢島久美の血なのか、それともおれの口のなかが切れたのか。ぎちゃぎちゃぎちゃぎちゃぎちゃ。めり込んでいく。もう弾まない。壊れてしまっているから。沈んでしまう。壊れた螺旋のなかに――射精した。矢島久美が腰を浮かせて引き抜いた後も、それは勃起《ぼつき》していた。
血がついていた。精液と混じりあい桃色に泡立てられた血だった。
そして――。
いつの間にかなくなっていた。
部屋を埋め尽くしていたバネは、どこにもなかった。
ひとつも見当たらないのだ。
あの冷たい金属の感触は、はっきりと残っているのに。
では、あれは――。
矢島久美が立っていた。スカートに足を通しながら、おれを見下ろしている。まだおれが勃起していることに気づいて、笑った。
白い歯。
きり。
噛みあわされる音。
それから部屋に広げられていた青いビニールシートを端からきちんと畳んで、もと通り押し入れに入れた。
手慣れた動作。
まるで商売女だ、こいつ。
そう思った。
前にも、そんなことを思ったことがあるような気がしたが、それがいつのことなのかは、わからなかった。
なにもかも片づけ、最後に、畳の上に転がっていたあの白いボールみたいなものを拾って――。
そのままの軽い足取りで押し入れの上の段に乗って、内側から襖《ふすま》を閉めた。
すたんっ。
おれはズボンをずり下ろしたままの格好で畳の上に転がっている。天井でドーナツ形の蛍光灯が、まだ揺れていた。
ポケットからティッシュを出した。駅前でいつも配っているやつ。胸の谷間を強調する姿勢で女が笑っている。それで血と精液をぬぐいながら、のろのろと立ち上がった。
改めて部屋のなかを見回した。
うんざりするほど見た光景のような気がした。それなのに、ついさっきここで何があったのか、おれにはよくわからないのだった。
いや、何があったのか、憶《おぼ》えてはいる。忘れようがないほどはっきりと。
なのに、理解できないのだ。
空気が生ぬるかった。やけに息苦しいのは、そのせいか。
疲れてるんだ。そんな常套句《じようとうく》にしがみつこうとして。
それにしても、さっき見た、あれ――。
いや、見ただけではなく、やったんだよ。丸めたティッシュを捨てようとして、屑《くず》カゴも何もないので、ポケットに入れた。
やったんだよ。
これも駅のトイレに流すのか。この前の、あのコピーみたいに。
他人事のようにそんなことを思った。
机の上に、コンピュータが置かれている。開いた状態で、その画面はまっすぐこっちを向いていた。
そこにあるのは、この場所に立ってこの部屋を見ている画像。そのなかにも同じように机があって、その上のコンピュータの画面のなかにもこの――。
もし振り向いたら、後ろにも同じものがどこまでも続いているような気がした。だから、机から目をそらしたのだ。
するとまるで次の出番を待っていたかのように視界に入ってくるのが、押し入れ。あの机の上のコンピュータも、今は画面の中央に押し入れを映しているのかも知れない。そんな気さえした。
すたんっ。
今も耳にはっきりと残っているあの音。さっきのあれが、現実だとしたら――。
いや、そんなはずはないじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
そう自分に言い聞かせようとしている。
でも、本当のことではないとしたら、あれは何だ?
ゲームか? おれはゲームのなかであんな体験をしたのか。あんなリアルな?
リアル?
りあるなげんじつ。
そう。
開ければいいのだ。それを本当に確かめたいなら、あの襖を。今すぐ。
開ければいい。
それだけで、確かめることができるではないか。何が現実で、何が現実でないのか。あれが、現実に起きたことなのかどうか。
それが、わかる。
すべてが現実だとしたら、あのなかに矢島久美がいるはずだ。他の様々なものといっしょに――。
そうだ。あの襖に両手を掛けて、軽く引く。それだけ。
震えている。自分の手ではないみたいだ。
やめろ。
そう叫びたいのに、声が出ない。身体が勝手に動く。誰かに動かされているみたいに。
やめろ。
襖に右手を掛けて。
すたんっ。
乾いた音とともに襖が開いた。
そこには、何もない。
そらみろ。
なんだ。
笑い出しそうになる。
なあんだ。
なんにもないじゃないか。
スリッパを履いて、部屋を出た。鍵《かぎ》をかけた。階段は来たときと同じように軋《きし》んだ。
下駄箱にスリッパを戻して、アパートの外に出る。
窓を見上げたとき、蛍光灯を点《つ》けたままにしてきたことに気がついた。
どうしようか。
迷っていると突然、窓から見えていた蛍光灯の光が消えた。まるで、そこにいる誰かが消したように――。
次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
走り出してしまった。そうせずにはいられなかった。おれの意思とは関係なく。まるで誰かに動かされているような気がした。
いちど走り出してしまうと、もうダメだ。
さっきまで無理やり抑えつけていたものが一気に噴き出してきた。
自分の靴が、アスファルトを叩《たた》く音がやけに大きく聞こえた。
さっき矢島久美がしようとしていた『怖い話』というのはいったいなんだろう。
つい、そんなことを考えてしまう。
それが怖くて。
走った。
夜の道を。
振り返ることもできずに。
ただ走り続けた。
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三 梃《テ》 子《コ》
――動かすために隙間へ差し込むもの――
なあんだ。
あっけない。
こうなったか。
結局こうなってしまった。
殺すことになってしまった。
そうなるだろうと思ってはいたが。
だって、仕方がないことじゃないか。
このままずるずるとこんな関係を続けたとしても――。
ない。
出口なんか。
だからって、これが出口になるとも思えないが、少なくとも袋小路くらいにはなるだろう。しばらく身をひそめることができる程度の。
うん。
そう思ってやったことだから。
後悔はしていない。
というか――。
気がついたらやっていた。やってしまった後では、言い訳じみて聞こえるだろうが。どうせ、本当に仕方がなかったのかどうかなど、誰にもわかりはしないのだ。本人にさえ。
今さら言っても仕方がない。
それに、やるなら早いほうがいいに決まっているんだしな。
うん、これは、絶対。
だって、あんまりせっぱつまってからやると、すでに充分な動機を蓄えてしまっていることになるからさ。周囲の者にもわかるような。
そういうのは不利だよ。後になってそういうのってけっこう響いてくる。
その点、今ならまだ、大勢いるであろう有力容疑者のなかのひとり、いや、それですらないだろう。何より、あいつらもまさかこのおれがそんなことまで考えているとは思いもよらないだろうし。
そう思って。
やってみたわけ。
そしたらほらほらね。
案の定というか何というか。
のこのこ付いてきてくれたよ。
大して警戒もせずにこんなところまで。
なんかもう殺《や》ってくださいと言わんばかり。
こうなると、殺るっきゃないね。
うん、殺るっきゃない。
あらかじめ立てた計画通り実行した。あわてなければ大丈夫。
でも現実には、こうはうまくいかないだろうね。
やっぱり、いろいろとよけいなことを考えてしまうし。
途中で、怖くなったりとか。
うん、現実はそんなもんだ。
ところが、そうならずに自分の考えた通りにきちんと自分を動かせてしまう、というのがゲームのいいところなんだよな。
やれないようなことでもやれる。いや、本当は自分にもやれるんだけど、今ひとつのところで踏み切れなくてやれないようなこと、というべきかな。
それを体験できてこそ、すぐれたゲームというものではないか。
もしかしたら、あり得たかも知れない自分。
そうしていたかも知れない自分。
そうしたかった自分。
ここではない。
どこか違う世界で。
それを実現している男。
ひとはそれを求めてゲームをやるのではないか。
今の自分ではない自分。
そんな自分を見たくて――。
ここではないどこかなら、自分が持つことができていたかもしれない力。例えば、武器とか、すぐれた運動能力、決断力。
うん。それに、こういうことも言えるのではないか。
この世界を出発点にした作られたゲームなら、それを現実に実行に移しても同じようにうまくいくのでは――。
もし、それが本当にすぐれたゲームなら。
そのゲームのなかに設定された様々な問題をすべてクリアできれば、現実に於《お》いて同じ行為を行っても、同じように次のステージへと進むことができるのではないか。
様々な問題。
そうだな。
このステージで言えば、いちばん問題になるのは殺したあとのことで、つまりは死体の処理だろう。
考えた。
じっくり。
あわてることはない。むしろ、あわてるのがいちばんいけない。
そうそうそう。
あわてず。
冷静に。
それができるのがゲームのいいところ。
まず処理に充分な時間をかけられるだけの場所が必要。それははじめからわかっていた。
だから、さっそく、アパートを借りたのだ。もちろん偽名で。
同僚の名前を使って。
会社の近くを選択した。歩いて行ける距離。それは危険なことのような気もするが、何度も通うことを考えると、そのほうが行動も不自然にならなくていい。
やったあとの処理を考えると風呂《ふろ》とトイレが部屋にあったほうがいいのだが、あいにく風呂はなくトイレは共同だ。風呂とトイレが部屋にあるかどうかで部屋代から敷金に保証金、それに提出しなければならない書類までずいぶん違ってくるから、これはもう仕方がなかった。
所持金を確認すると、これまでにもうだいぶ搾《しぼ》りとられて貯金もずいぶん減ってしまっている。予算は、これでもぎりぎりというところ。そうなると、贅沢《ぜいたく》など言ってはいられない。ぐずぐずもできない。早くしないと、こんなところさえ借りられなくなってしまうだろう。ここならまだ、小さいながらも台所がついているから、そこで作業はやれなくはない。
そんなふうにして準備万端整えたが、いやまあ、それにしてもよくこんな大それたことを実行に移す気になったものだ、たとえゲームのなかにせよ、などと自分自身に感心。
ふふん。
だからこそこれは相手にとっても意外なわけで、それが成功率をぐんと上げることになるだろう。
加えて、今のおれは、もう前のおれとは違うのだ。体力値だってだいぶ上がった。
毎晩走っているおかげだ。
それにしても、もっと早くこうすればよかった。なぜこの方法に気づかなかったのだろう。
今となっては、それが不思議だ。
急にそのやり方がわかったのだ。
ハグルマにお願いする方法が――。
キーは、あの釣り人だった。
そうだ。
あれが次のドアを開けるための鍵《かぎ》だったのだ。
ふむ。
考えてみれば、当たり前だよな。あんな思わせぶりに登場したんだから。そこにはきっと何かあるはずだということに、もっと早く気がつくべきだったのだ。
しかし思い出してみても、あれはなかなか感動的なシーンだったな。今まで見えていたものが、ほんの少し視点をずらすだけで、まったく別のものに見えてくるあの瞬間。
堂々巡りの迷路のなかに、突然ぽかんと出口が現れるような――。
あの感動のシーン。
もう何度も繰り返した。
甘美な夢を蒲団《ふとん》のなかで反芻《はんすう》するように、モニターを眺める。
堤防。
水音。
走っている〈おれ〉。
ゲームのなかの〈おれ〉。
初めてやったときより、イメージはずっと鮮明になっているような気がする。曖昧《あいまい》だった夢が、反芻しているうちに次第にはっきりした形をとっていくように――。
*
川沿いの自転車道だ。途中には水門があって、手すりのある細い通路が向こう岸まで続いている。
視線を落とすと、水門付近の複雑な流れで生き物のように蠢《うごめ》く川面がよく見える。
いったん引き込まれてしまえば、まず浮いてはこない。
ここは、そういう流れなのだという。
そして、そんな理由もあって、ここは隠れた名所なのだ。
なぜ『隠れた』などという言葉が頭についているのかと言えば、死体があがらないから。つまり、ここに飛び込んだということさえもわからない。死体がなければ事件にもならない。それでこの場所のことも、なかなか世間一般の人々には知られないのだ。
魚が遡《さかのぼ》れるように階段状の支流が作られている。途中に流れの穏やかな溜《た》まりも数箇所設けられていて、そのあたりには魚影がいくつか見えることがある。
いつも、そのあたりで折り返す。立ち止まり、しばらく川を眺めたり息を整えたりして、それからまた走り出すようにしている。
その場所でいつも釣り糸を垂れている男が、そのことを教えてくれたのだった。
そこが隠れた名所なのだということを。
水面に突き出た釣り竿《ざお》が、大きくしなっている。水銀灯の光に時折きらめくまっすぐな銀色の線は、引き出されたテグスだ。
テンションのかかった透明の糸。あとわずかでも力が加わると切れてしまいそうなほど張りつめた糸。
竿の先端が、小刻みに震えている。
走るのをやめて、立ち止まった。
「ほら、見てくださいよ」
その声は〈おれ〉に、かけられたものらしかったからだ。
「かかりましたよ」
こっちに背中を向けたまま、男は言った。
「今度こそ、かかった」
急激に動かすと糸が切れてしまうのか、男はなかなか巻き上げようとしない。わざと泳がせているのだろう。
初めは逆らわずに、泳がせるだけ泳がせ疲れさせて、それから確実に引き上げる。そういうことだろう。
「大物ですね」
〈おれ〉が言う。
「ああ、大物だよ」
男は嬉《うれ》しそうだ。
「前よりずっと、大きくなった」
「何がかかったんですか」
〈おれ〉が尋ねた。
「何がって?」
問い返しながらも男の神経が竿を操る手に集中しているのがわかる。
「もちろん、獲物ですよ、獲物」
男が声を出して笑う。
「でもまあ、これも考えものでね」
ぐっ、と力を込めたまま言った。
「本当のところ、はたして、どっちが獲物なんだか」
そのまま竿を引く。まっすぐ。
きりきりきりと糸が鳴る。
そして、水の表面に、何かが見える。引かれて、上がってきたもの。
魚では、ない。
不足した光量の下でも、それはわかった。
あんな魚はいない。
何か、まるいもの。
濁った水のなか、まるい縁に沿ってぎざぎざしたものが並んでいる。
白くて尖《とが》ったもの。歯だ。ぎざぎざの歯。それが、円形に並んで――。
その直径は、両手を拡げたより、たぶん大きい。
歯のはえた穴。
それだけ。
その下は胴体も何も無い、ただの闇。
そんなふうに見えた。見えたと思ったときには、もう潜ってしまっていたが。
あれは、生き物なのか。
あんな生き物がいるのだろうか。
また出てくる。水の上に。こんどこそは見える。
ほら。きた。もうすこしで。
ぱちん。
テグスが切れた。
しなっていた竿が空気を切って、もとの状態に戻った。
「見ただろ」
男が、〈おれ〉を見た。
「あんなのがいるんだ」
そう言って、唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。どうやらそれは、笑っているらしい。
「なあ、あんた、あんなの他で見たことあるかね」
穴が――。
どこかで矢島久美の声がした。
穴が、あいてるの。
あれと同じものなのだろうか。
さっきのあれは――。
「なんだ、そうか」
男がうなずいた。
「あんた、もう見たことがあるのか。そうなんだな。うん。そんな顔だ。それじゃ、おれがここで何をやってたかも、もうわかってるよな。だって、おれとあんたは――」
まっすぐ男の顔が近づいてくる。
「おんなじだもんな」
画面いっぱいになった男の唇が動く。
確か、最初に見たとき、その男は、鮒《ふな》のように口をぱくぱくやっているだけだった。何を言っているかなど、さっぱりわからなかった。
そうだったはずだ。
なのに――。
今は、はっきりと聞きとれるのだ。
先に進んだからだろう。
いろんな意味で。
わかる。
ほら。
*
ああ、もうすぐ終わるんだよ、おれはね。
あとはあんた、頼むよ。
ああ、そうだ。
育てるんだ。
あんたが育ててくれよ。
あんたのやり方でさ。
やれるだろ。
頼むよ。
だって、あんた、もう見たんだものな。あんたにはいったいどんなふうに見えたのか知らないけど、とにかく見ちゃったんだものな、あれを。
なあ。
それって、選ばれたってことじゃないかね。そうだろ。
いや、簡単だよ。当たり前のことをやるだけだ。ちっとも難しく考えることはない。
こうやってね、毎日餌をやればいい。
うん、あんたなら、それでいいな。その格好。そのままの格好でいいよ。
なんだよ、もうそこまで考えてたんじゃないか。
おれは、釣りなんていうありきたりのことしか思いつかなかったよ。ああ、そうだ。毎晩ここへ来るための理由さ。
ジョギングってのはいいな。ここんとこ、また健康ってのがブームらしいし。
なんにしても健康は大事だよ。そう何をするにしてもね。人間、健康じゃないと、不健康なこともできないからな。
さて。
こんどは切れないようにうまくやらなきゃな。
よっ、と。
まあ、釣りっていうのも、やってみるとこれはこれでなかなかおもしろいんだがね。
あのかかったときのな。
あの感じだ。
ああ、あの、びくんっ、びくんっ、てくるときのな。あれ、似てるよな。
刺したときに。
突き刺したときのあの感じに。
あ。
それだけじゃないぞ。
あれのときにも似てるよな。
肉がくくっと締まってくる感じ、な。
そいで、びくんびくんって震えるっていうか痙攣《けいれん》するっていうか。バネとか、そんな感じだよな、あれのときって。
ま、あれも突き刺してるってことには違いないか。何度も何度も突き刺して、そいで相手も、死ぬ、死ぬ、死ぬう、なんてな、ははは、そいでほんとに死んじまったら世話ないよなあ。
どうした? ぼんやりした顔して。
思い出してるのか。
そうだろ。
あのときのことを。いや、それとも、あれのことか。
何度も思い出すんだよ。そうやってるうちに、それがどんどん――。
おっと、来た。
な。
ほら。
来たよ。
引いてる。
引いてるだろ。
すごい当たりだ。
びくんびくんっ、てな。
見ろよ、ほら、見えるな。
なあ、あんた、見えてるんだろ。
ま、どう見えてるのか知らないけどさ。
さて、と、ほら、もうこれで終わりだよ。
まだけっこうあると思っていたんだけどね。
終わったんだ。今日で。
ほら。
からっぽ。
餌はきれいになくなった。残っているのは、このおれだけ。
ま、それはそれでけっこう楽しみではあるんだよ。あいつに呑《の》み込まれるっていうのは――。
ハグルマがこのおれをどうしてくれるのか。
いったいどこへ連れてってくれるのか。
そんなふうに考えるとね。
*
それですべて言い終えたらしく男は、〈おれ〉に背を向けた。
男の肩越しに、尖《とが》った歯が円形に並んでいるのが見えた。
そして、その中心は暗い穴。水面に穴があいたように丸い闇がある。
その闇に向かって、男はまっすぐ落ちていったのだ。
コンクリートの縁から一歩踏み出して。
すとん、と落ちた。
たったそれだけ。
落ちて――。
見えなくなった。
それで終わった。
どおどおどおどお。
水門が音をたてている。
残ったのは、クーラーボックスだけだ。あの男がいつも腰かけていた大きなクーラーボックス。
開けてみた。
それで納得。
なるほどね。
男がここで何をしていたのか。なんのために毎晩ここに来ていたのか。そして、なぜいつも、この箱の上に腰かけていたのか。
これは、獲物を持って帰るためのものではなくて、獲物をここまで運んでくるためのものだったのだ。
底に溜《た》まった赤黒い液体。
長い髪の毛が何本も、その内側には貼り付いている。
なんでも喰《く》うんだ。
男は言っていた。
なるほど。
あれを、そういうふうに使うのか。
あれがハグルマ。
だとすれば、何をお願いすればいいのか、〈おれ〉にもやっとわかった。
自分自身が何を願っているのか。
それが、わかった。
男が残していったクーラーボックスを掴《つか》んだ。
からっぽの軽い箱をコンクリートの縁まで持っていって、そして、投げ込んだ。
それが暗い水に沈んで見えなくなるのを確かめて、そして〈おれ〉は、ハグルマにお願いをしたのだ。
*
そのあとはずんずんゲームを進めることができた。
まず、金を用意したということにして、そのことを連中に伝えた。
アパートに取りに来させるためだ。連中、こっちをなめきっているから、疑いもしない。まあもともと、頭はあまりよくないのだろう。
浮気するために借りているアパートだと言ったらあっさり信じた。
ビニールシートはあらかじめ部屋いっぱいに敷き詰めておいた。これなら畳を汚す心配はない。
画面のなかで、部屋の中央に立った〈おれ〉が、笑っている。
それを操作しているおれもまた、たぶん同じように笑っている。まさにシンクロ率百二十パーセントってやつかね。
これでやっと、先に進むことができた。一安心。だが、喜んでばかりもいられない。
それが仕事の辛《つら》いところでね。
展開がスムーズになったのはいいが、今度は性急過ぎはしないか。
そんな気がしなくもない。
しかしまあ、停滞していた状況が展開をみせたというのはいいことに違いないし、これまで何もしなかったわけでもないのだ。やってきたことが、まとめて効果をあらわしたということだろう。やはりいろいろとやってみただけのことはあった。そう、いろいろと――。
ふいに、昨晩のあのアパートでのことまで蘇《よみがえ》ってきそうになった。
いや、あれは――。
疲れていただけだ。
それで、変な夢をみた。それだけだ。
気にすることはない。
「なにもなかった」
そう声に出してつぶやく。それに、まだまだ問題が山積みであることには変わりないのだ。ゲームの先に進むことができたというそれだけのことなのだ。
だから、上司に呼び出されても、まだはっきりした返事などできるはずもない。はあ、とか、ええ、とか、まあ、とか、曖昧《あいまい》な受け答えだけでやり過ごす。
年末商戦までには間にあわせたい。いや、絶対に間にあわせろ。
黙って大人しく聞いていると、そんなことを言いだした。挙句、このままの状態では担当を代えることにもなりかねないよ、などとお決まりの脅し文句。
それはそっちの勝手だが、誰に代えたところでこのおれ以上にうまくなどやれるものか。まったく、何もわかっていない。なにしろこいつ、自分では何も作ったことがないらしいのだ。
部長の額のあたりを見ながら、おれは頭のなかで言葉を空回りさせる。話しているときも聞いているときも、とにかく相手の目を見ろ。それが彼の口癖だ。だから、それだけしていれば素直に拝聴していると思うらしい。楽と言えば楽だ。単純なゲームみたいなもので。
「とにかく作業を急いでくれよ。それでなくても、妙な噂がたってるんだから」
そう言って話を締めくくろうとする。
「噂? なんですか、それは」
せっかく終わりかけていたのに、つい問い返してしまった。
「あ、知らなかったのか」
部長が意外そうに言った。そして、教えてくれた。やけに嬉《うれ》しそうに――。
その妙な噂というやつを。
まったく身に覚えのないことだ。まあ噂なんてのはどれもそういうものなのだろうが、それにしても――。
腹が立つ。
「いったい、誰がそんなこと言ってるんですか」
「いや、女子社員たちがね」
こともなげに部長は言うのだ。
「給湯室とか屋上とかトイレとか、だいたい女が群れるような場所でさ――あ、おれが言ったって言わないでくれよ。社内で盗聴が行われてるなんて噂になっちゃたまらん」
ぎこちなく片目をつぶったのは、ウインクのつもりなんだろうか。よくわからない。
「だいたい女なんてのは、スキャンダルとか怖い話ってのが好きだろ」
それで片づけられてはたまらない。
「どうせ、やめろ、なんて言ってやめるもんじゃないだろうし、それにさ――」
一本だけ出た鼻毛を震わせながら、部長は言う。
「これが女子社員の間でだけならともかく、男の社員のなかにも見たってのがいるんだよな」
「誰が言ってるんですか、それ」
おれは思わず身を乗り出した。
「まあまあ、そういうことは、あれだ――」
わははははと声をあげて笑った。
「とにかくさ、そういう妙な噂ってのは、けっこう外部に洩《も》れたりするからね。困るんだよな、発売前の商品にケチがついたりすると。だから、そういうことも含めて急いでくれって言ってるんだ。わかるだろ」
わからないが、うなずいた。そうするしかないことは、わかっていたから。
結論としては、次の月曜日の会議で、それがどういうゲームか説明し、皆の前で実際にデモンストレーションしてみせることを約束させられた。
要するに、これをいちばん欲しがっているのは、部長なのだな。自分の点数――出世値とでも設定すべきか――を稼ぐための絶好のアイテムとして。
そのためにおれは、毎日ゲームのなかの〈おれ〉を動かしている。
〈おれ〉は、そんなことのために動かされているのだ。〈おれ〉を動かしているのは、このおれだけではないということか。
おれをとりまくいろんなもの。
そんなものに動かされている。
どよどよした気分を抱えたまま、気がついたらあの部屋の前にいた。ドアに耳をあて、なかから話し声もコピー機の音も聞こえてこないことを確かめて、ドアを開ける。
ゲームをプレイするためのマシンが、何台も置かれているその部屋の隅にあるのは、アーケード・ゲームによくあるようなコクピット型。だが、それは一般ユーザー用として企画されたものだ。
そんなものを個人に買わせるのは無理だろう、という意見が大半を占め、結局試作だけに終わった。それは、最後まで石室がこだわり続けていたマシンと形式だ。ゲームに本当に没入させるためにはこのくらいの閉鎖空間が必要で、それを得るためにはユーザーは金を出すはずだ。そう主張した。
自分の世界を手に入れるためには――。
このマシンにしたところで、とっくに廃棄されているはずなのに、石室ががんばり続けてまだこの部屋にある。まるで、開かずの間のようなこの部屋。古いマシンと旧式の大型コピー機だけが置かれているこの部屋に。
どうやら、このマシンをおれが使っている、というそのこともまた、例の噂のもとになっているらしい。
それはわかっているのだが、このマシンでしかプレイできないのだから仕方がないではないか。石室はまだこのマシンに執着しているのだ。もちろん、発売される際には、普通のテレビ画面でプレイできるものになるだろう。
いくら執着しても死んでしまった者にはどうにもできない。
それだけのことなのに――。
まったく馬鹿馬鹿しい。
ところがそれがまた噂のもとになる。つまり、石室が出るという。もちろん、幽霊なのだ。
誰もいないはずのこの部屋で、石室がゲームをしている、という。
新しいコピー機が塞《ふさ》がっているときここにコピーをとりにきた女子社員が、もう何人もそれを目撃している、コピーを頼んでもそれを理由に拒否されたりするらしい。それで問題が表面化した。
そして、噂にはまだ続きがあって、なぜ石室がそういうことをするのかといえば、生前作っていたゲームに未練が残っているからなのだ。
まあそこまでは納得してもいい。いかにもありそうな噂話だ。だが、そこから先がでたらめもいいところで、そうなったいちばんの原因が、このおれだというのだ。つまり、おれが石室のゲームを横取りしたから、それが悔しくて、うらめしくて出るのだという。
なぜそんなことを言われなければならないのだろう。考えれば考えるほど、腹が立って仕方がない。いったい誰がそんなことを――。
そうか。
ふいに答がわかった。
矢島久美。
そうか。
そうだろう。
そうに違いない。
あの女だ。きっとあいつが噂を流しているのだ。
あのコピー。
喫茶店で自慢げに見せた、おれの顔がコピーされた紙。
こうなったら、なんとしても、あれを取り返さなければ。
そうだ。そうするしかない。
それにしても石室、趣味が悪いな。あんなのと本気でつきあってたのかな。自分が作ってるゲームのなかにまで出してきてどうするんだよ。このゲーム、君に捧《ささ》げるよ、なんてな。あのアパートでふたりでそうやってぎちゃぎちゃぎちゃぎちゃと笑いあうつもりででもいたんだろう。いや、もうやってたのか。
なにしろあの女、あのアパートのことだって知っていたんだからな。鍵《かぎ》も持っていた。そうだそうに決まっている。おれが居るときにも勝手に入ってきて、それで――。
押し入れ。
怖くて開けることができなかった押し入れ。あのことについて問い質《ただ》そうにも、どう尋ねればいいのかわからない。
それに、あれ。あいつら、あんなことをいつもやっていたのだな、きっと。
えぐえぐのげろげろげろ。
思い出したくもない。気にしないで今のゲームを続けることにしよう。よけいなことを考えずに今はこの仕事に集中するのだ。
自分にそう言い聞かせ、おれは、画面のなかの〈おれ〉を動かす。ずいぶんなめらかに動かせるようになったものだ。慣れてきたせいか。もう自分の身体と同じように動かせるのだ。
よし、ではさっそく仕事の続きにとりかかるか。
おれと〈おれ〉が、今いちばんにやらなければならない仕事。
*
いやもう出るわ出るわ、人間の身体のなかというのはこんなにたくさんの血が入っているのだなあ。血も涙もないなんて大嘘だよ。ヤクザでさえこれなんだもんな。やっぱ人間、皆平等ですよね。おれはちょっと感動してしまったな。
スタンガンで首筋ばっちん。
それで、本当に気絶した。さすがだ。売れ筋商品だけのことはある。資金をケチらずにこのアイテムを選択したのは正解だった。
そこからはあれよあれよ。気がついたらこうなっていた。
ころり転がり、床の上でことこんことこんと揺れる首。
うーむ。ちょっと疑問。
あっさりし過ぎではないか。
そんなことを思う。
だって、身体が勝手に動いてやってしまったんだものな。やってるところを眺めていただけみたいで、あんまり実感がないのだ。せっかくいいところなのに――。
ほっとすると同時にちょっと物足りない。ゲームとしてはどうなんだろうか。
そんなふうに思っていると、やはり殺《や》られたほうもそれは同じなのか、それとも、こういう種類の人間は胴体も鈍いのだろうか、自分がそんな大変なことになってしまっているというのに、赤とピンクの切断面から血を噴き出しながらまだぷるぷるしているのだ。生きてるみたいに。
もちろん、ただぷるぷるしているだけじゃなくて、ビニールシートに血をざあざあばらばらとぶちまけて大騒ぎだ。いっしょに聞こえてくるあのしゅうしゅうぶうぶうという怒った猫みたいな音は、気管から洩《も》れる最後の空気が頸動脈《けいどうみやく》から噴き出た血を泡立てているからだろう。肛門《こうもん》方面からの音も入っているかもね。まったく下品だ。
しばらく見ているうちに、何度かしゃっくりのように痙攣《けいれん》して、それでやっと動かなくなったのでよかった。天井まで汚れなくてそれもよかった助かった。
シートの上にできた血溜《ちだ》まりはあとで雑巾《ぞうきん》にでも染み込ませて、何度も何度も流しでしぼればいいか。
そうしよう。
支えていなければならなかったものも無くなって、これでさぞかし首も楽になっただろう。生前よくおっしゃっていたそのたちの悪い鞭打《むちう》ち症とやらもこれで回復に向かうに違いない。
お互いによかった、よかった。
それにしてもうるさいな。
なんだ、あれは。
ああ、クラクションか。
さっきから鳴りっぱなし。おおかた相棒がなかなか出てこないことにいらついているのだろう。ではもう少しここで待ちましょう。いらつかせてやりましょう。そうすれば、向こうから上がってきてくれるでしょうから。
しかし見ているだけで終わってしまったのは残念だったね。つくづくそう思う。だいたい、向こうが何もわからないうちにやってしまうというのは、どうもつまらない。実感がない。双方ともに。
そうではないか。
せっかくならもうちょっといろいろあったほうが。まもなく自分が死ぬのだということくらいはわからせてやったほうが――。
おもしろい。
そこで気がついた。ああそうだ、もうひとりいるんだ、と。
なるほど、そういうことか。そのためにもうひとり用意されていたんだな。こんどはちゃんと自分でやれるように。
プレイできるように。
なるほど、そういうことか。
さっきのはお手本みたいなものなのだ。
次にあがってくるのは、こいつの代理人なのだから。
足元に転がっている胴体を何度も蹴《け》飛ばしながらそう思う。
ここは、是非とも最期まで代理になっていろんなことをしていただこうじゃないか。
いや、せっかくだから今度はもっとうまくやろうと思う。
やらねば。
さっき、ああもあっさりやってしまったのは、騒がれて近所に変に思われては困るからで、言い換えれば、静かにやれるのでさえあれば、別にもうちょっと時間をかけてもかまわない。うん。そうなるとやっぱりいっとう最初は、喉《のど》を切る。これだろう。これでなくてはいけない。
喉仏の真上を真一文字にすぱりといくのだ。暴れるかもしれないからさっきよりも血は飛び散るだろうが、それは大丈夫。服が汚れるのは嫌だし、あとで困るだろうから、はじめに脱いである。
あ、おいおい何をおっ立てているんだよお。思わず笑ってしまう。笑いながら、自分の股間《こかん》の棒を人差し指で弾《はじ》いた。
硬い硬い。
硬くなって陰茎|屹立《きつりつ》だ。
おいおい、ほんとこれ、困るよ。おれ、これじゃまるで変態じゃないかよ。笑っちゃいけない。ここで、笑っちゃ。
いよいよそれもんになっちゃう。
などと考えごとに夢中になっていてもちゃんと階段の軋《きし》む音が聞こえてくるのでとても助かる。
この古いアパートにしてよかった。
おい、さっきから何やってんだ。ドアの外からドスの効いた声。いつまで待たせるつもりだよ。
くく。
笑いを堪《こら》えて。
ドア脇の壁にぺたと貼り付いて。
待つ。
アクション映画の主人公みたいに。
すっかりなりきって。
息を殺して。
すると。
ほら開いた。そのまま、すいと手を伸ばし、背後からその喉にぴたりと包丁をあて。
一気に――。
喉仏の硬さを感じる。包丁の刃とぶつかって、こつんっ。弾かれそうになったのは一瞬。しっかり押しあてて、一定の力でまっすぐ、ぐいと。
引く。
引いた。
ほら、綺麗《きれい》に気管まで切り込みがはいるでしょ。
ね。
これでもう声は出ない。声のかわりに、ぷひゅううと霧吹きでつくったような細かい血の粒子が扇状に吹き散らされたのを確かめ、背中から刺した。丁寧に。体重を乗せて、身体ごとぶつかっていくのがセオリー。冒険小説なんかにはよく書いてある。
ほら、ね。
うまく刺さった。
痛いか。痛いだろう。痛いいたい、遺体ってか。痛快ね。
それならいい。
だって、痛がってくれないと、やってるこっちのほうもたよりないもんな。
一度目は骨にあたって失敗。滑ってしまった。けど、あわてず、すばやく、次でうまく入ったよ。
今度は、肺まで突き抜けたはず。二度でやれたら上出来だろう。褒めてくれたっていい。
俯《うつぶ》せに倒れたまま、自分で包丁を抜こうともがいているらしいので、膝《ひざ》で背骨を押さえつけ、突き刺さっている包丁をぐいぐいぐぐいと捻《ねじ》ってやった。女みたいにひいひい言わせられないのがちと残念ね。死ぬ死ぬ死ぬうう、なんて。まあそれでも、力を込めて動かすと、それに合わせてぴくんぴくんと身体ごと反り返る。
びくんっ、びんっ。
知っているこの感触。
血で足が滑りそうになった。体脂肪率が高いんじゃないか、こいつ。こんなことじゃ長生きできないぞ。
笑いを堪えて歯を食いしばり。
いよっ。
足の裏にさらなる力を加える。
と、突然、床にくっついていた男の顔が起きたかと思うと、その切れかかった首がくるりと百八十度|廻《まわ》った。子供の頃ヒットしたオカルト映画のワンシーンみたいに――。
振り向いたその顔。
おれを見て笑ったその顔。
矢島久美だった。おれと目があうなり彼女は上唇を舐《な》め、笑った。
ばちん。
そんな音が、確かに、聞こえた。
おれの頭の奥から。
ずっと、奥のほう。
そして――。
おれは頭を抱えて呻《うめ》いている。
画面から逃げようとして、マシンのフレームに頭をぶつけたのだ。涙で画面が滲《にじ》んで見えた。
おいおいおいおい。
頭を抱えたままでつぶやいていた。
なんでだよお。
なんで、こんなとこで急に、あの女が出てくるんだよ。
いやいや、驚くほどのことじゃない。
何もびくつくことはない。
自分に言い聞かせた。
答はわかっている。
きっと、あの女と石室の間には何かがあって、それで、石室が自分のゲームのなかにあの女の画像を取り込んで使っているんだろう。そういうことをするんだ。あいつらは――。
そういうことをやって好き者同士ぎちゃぎちゃぎちゃぎちゃと笑いあって喜んでいる。
あの二人の間に何があったのかなんて、知りたくもないな。
今日はもうやめよう。
あんまり長時間ゲームばかりしていたらおかしくなってしまうから。
それがいくら仕事でも、ね。ゲームばかりする子供は馬鹿になる。
そうだよ。
ネジの具合が――。
ずいいいいいいいいいいいいむ。
あの音が聞こえたような気がした。顔の上を移動していくまっすぐな熱い光。
目を閉じても見える光。
もし今、あれをやってみたら――。
写るんじゃないかな。
ふと、思った。
ずいいいいいいいいいいいいむ。
あれ。
今度は確かに聞こえた。さっきのは、気のせいじゃなかったのか。
だから、そっちは絶対に見ないよ。
そうつぶやいている。
そんなことをしたら、あのときと同じように石室がそこに立っていて、コピー機にのしかかるように顔を押しつけているような気がするから。
そうなんだよ。だからもうこのへんで今日はやめにしようと思っているにもかかわらず、画面から目を離すことができない。
やめられない。
はまってしまった。
でもそのおかげで、あの音をたてているのはコピー機ではないと自分に言い聞かせることができるのだ。
ほら。今見ているこの画面のなかにも、同じ音をたてるものが映し出されている。
そうだ。
今聞こえているこの音は、ぜったいにコピー機なんかではない。
画面をしっかり見つめ、そう確信した。
ずいいいいいいいいいいいいむ。
ほら。
あれだよ。モニター画面の中央に映し出されているもの。ここからでも、あんなに大きく、はっきりと見える。
円形のぎざぎざの歯。
ずいいいいいいいいいいいいむ。
電動鋸《でんどうのこぎり》の円盤が回転する音。家庭用の小さなやつだから、この程度の音しかしない。だから、安心してお使いいただけます。
手早く解体してしまうにはこれがいちばんいいのだ。それはわかっていた。ただ、骨に歯があたるとどうしても音が大きくなってしまうので、その度に止める。そのあたりは手作業でやるのがいちばん。
まずは、さっきの代理人の首からいこうか。
くるり百八十度廻って矢島久美になったりという器用な芸を見せたあの首。今は幸いにしてもとのまま。また廻ったりしたら怖いから今のうちに胴体から完全に切り離してしまおう、おおそれがいい。他人事のように眺めていたら、ちゃんとその通りに進んでいる。
ずいいいいいいいいいいいいむ。
歯が首の肉に入っていくと、赤い霧が目の前にひろがった。でも大丈夫。ちゃんと水中眼鏡をつけているから。テレビドラマの手術シーンを見て、あああんなのがいいなと思って買ってきたのだ。
さすが、おれ。
思わずそう声をかけたくなったが邪魔をしてはいけない。自分にそう言い聞かせ、押し入れのなかから〈おれ〉がやることの一部始終をこっそり眺めているおれ。
電動鋸では無理な部分の作業に取りかかった。関節の部分に包丁をあて、包丁の背に厚手のタオルをかぶせ木槌《きづち》で叩《たた》くことにしたようだ。なるほど。
すでに切り込みの入っている喉《のど》に包丁をあてた。喉仏の骨が刃にぶつかってこつこつ鳴る。タオルの上を叩いた。何度も――。骨が壊れて、包丁が首の肉のなかに少しずつめり込んでいく。すぐにタオルは赤くなった。滑りそうになる包丁の柄を左手でしっかり掴《つか》んで――かつん、かつん、かつん、かつん。
みりめり、と糸を引くような音とともに最後まで往生際悪く骨に絡みついていた脂肪やら筋肉がやっと剥《は》がれると、これで文句なしの首なし。
やったね。
頭を抱えて、くっくくうくう笑っているおれ。もちろん、抱えているのは自分の頭ではなくて、切り離した他人の頭だ。当たり前だけど。
「なあに、ちっとも難しく考えることなんかない」
肩を震わせながらそうつぶやいて、そして振り向いた。
「おんなじようにやればいいんだから」
血まみれの指の爪を噛《か》みながらそんなセリフをしゃべっているのは、おれだった。
「猫のときとおんなじように」
おれの顔。あのコピーそっくりに歪《ゆが》んだおれの顔。
その作業風景。
はっきり映っている。さっきの矢島久美の顔なんてものじゃない。だって、今はっきりここに映って、動いているのだ。もしこれが本当に映っているのではなくて、錯覚だとしたら――。そりゃもう、大変。そんなのおれの頭どうかしてるってことになっちゃう。
画面のなかのおれは、実に手際よく作業を進めていく。頭と同じ要領で上から下にかけて順に各部を切り離し、抜いた血は流しに捨て、そしてまっすぐこっちに向かってくる。画面いっぱいになるおれの顔。今、押し入れを開けたのだ。
あらかじめビニールシートを敷いてある押し入れの下段に部品をしまっていく。生身のふたりなら窮屈なスペースだろうが、バラバラにしたら無駄なく詰め込むことができるからまだ余裕がある。各部をきちんきちんとパズルのように積み重ねていけば大丈夫。うまく納まるはず。あのときみたいに――。
身体中に浴びた返り血は赤黒く固まっている。
そうだ、まるであのときと同じだ。
本当にやったときと同じくらいリアルだよ、このゲーム。
ふと、そんなことを思って――。
おい、違うぞ。
ようやくおれは否定する。
いったいなんだよ、それ。本当にやったときっていうのは。おれがこんなことやったはずはないじゃないか。
そうかい。じゃ、これはなんだ? この映像は――。
なぜ、ここにこんなものが入っているんだね? こんなにはっきりとここに映っているんだけど。
いや。
これは――。
そうだな。
これじゃまるで、犯人が犯行の現場を自分で撮影したビデオみたいで、いくらなんでも、ちょっとまずいんじゃないか。などとあいかわらず他人事みたいに考えているおれ。
これも石室が作ったものなのだろうか。おれの画像データを使って合成された偽の映像。ゲームの一環として。
それにしてもこれ、まるで不自然なところがない。
とても作り物とは思えない。本人が見たってそう思うほど。もちろん、他人が見てもそう思うだろう。
このまま証拠として通用してしまいそうな気がする。いや、するんだろうな、きっと。
だいたい、こんな映像を石室ひとりで作れるはずがない。
な。
そらみろ、このおれ自身さえもがそうだ。他人が信じるかよ、そんなこと。まるで説得力がないじゃないか。
まず実写としての画像があって、それをもとにこんなゲームを作ったと考えたほうが――。
待て。
それじゃ、石室はどうやってこの映像を手に入れたんだ?
もしかしたら――。
本当におれがあんなことをしたのだとしたら。そして、それをあの部屋にあったコンピュータに内蔵されていたカメラで撮影して、それをそのままゲームのなかに取り込んで。
それがいちばん納得のいく説明なのかもしれない。
あれ?
つまり、それって、どういうことになるんだ?
とにかく止めようとした。画面のなかでまだ勝手に動き続けている〈おれ〉を――。止めて、それでじっくり考えてみようと。
なのに、止まらない。どうやればいいのかわからない。
何をやっても反応しない。
おれが、動いている。
頭が熱くなっている。マシンの電源コードを引き抜いた。画面の光が一点に収束して、消える。
はは、消えた。
な。
やっぱりただの機械だ。
安心したせいか、また最近よくある笑いの発作がやってきた。どうせここには誰もいないから我慢などせずに笑った。
しばらく笑い続けて、腹が痛くなって、それでやっとおさまった。
それから、どうすればいいかを考える。これがいったいどういうことなのかは後まわしにしてそっちを先に考えるべきだろうから。クールにいこう。
データが入ったこのディスク。これを破棄するか?
いや、そんなことしたって無駄だ。だって、これがこれだけのはずないだろう。
部長のところにも、きっと同じものが存在している。こんなもの、いくらでもコピーがとれるんだからな。
おれがこの仕事を降りたところで、すぐにそのバックアップを使って別の誰かがやるということになる。すると当然、そいつもこの映像にまでたどり着くわけだ。
どう見ても犯行シーンの実写記録としか思えないこの映像に――。
だって、ついさっきも、見ているうちにこのおれまでが、本当は自分がやったのではないかという気になってくるくらいだ。あんなにはっきりと映ってる。あのときのことを、鮮明に思い出すことさえできそうなほどに――。
思い出せる?
あわてて、そんな想像を振り払う。
おいおい、めったなことを考えるんじゃない。それでなくてもここにこれだけ確かな証拠があるんだぞ。
コピーされたおれの顔。
首をくるっと廻《まわ》して矢島久美の顔が言う。
石室さんが死んだ翌朝ここで見つけたんですよええそうなんですええそうですよはははええまちがいなくそうええほんとうそうやめろなぜそんなことをするやめろやめろやめろ。
選択肢はない。もうこれで、おれはこのゲームの担当から降ろされるわけにはいかなくなった。だって、もし誰かに渡せば、この映像を見られてしまうのだ。
つまり、この危険な状況をクリアできる方法は、ひとつだけ。制限時間内におれがこのゲームを商品として通用するように手を加え、別のものに仕上げること。
そうだ。
それならいい。
それがうまくいけば、素材として使用したすべてのデータは、おれの手で廃棄することができるだろう。証拠すべてをなくしてしまうには、それしかない。もし他にコピーがあっても、もう完成品ができてしまったあとで、誰も石室の残したものを丹念に見ようなどとは思わない。
それに、会社側としても、あれを石室個人の所有物などということにはしたくないだろうから、部長の手元にあるだろうディスクも含めてすべてが処分されるに違いない。
いいぞ。
それなら大丈夫。すべてがうまくいく。もっとも、そのためにはまずこのゲームをクリアしなければならない。
問題点をピックアップし、改良すべき方向を示してしまうのだ。月曜日の定例会議までに――。
そうすることで、おれはこれを『石室のゲーム』でなく『おれのゲーム』に変えることができる。
時計を見た。
くそ。
月曜日までに、やれるだろうか。
いや。やらなければならない。わからないことだらけだが、そのことははっきりしている。もしできなければ――。
くそ。
こんなふうにプレイヤーをある程度追いつめるのも、一種のサービス。これも、たぶんそうなのだろう。そういうことなのだろう。
つまり――。
「もう、引き返すことはできない」
そうつぶやいたのは、はたしておれだったのか、それともゲームのなかの〈おれ〉だったのか。
いや。
どっちでもいい。だって、現時点に於《お》いては、それは同じことだからな。
*
ゲームのなかにある団地。それを見上げているゲームのなかの〈おれ〉。
そこは団地のすぐ下の駐車場だ。
見上げると、〈おれ〉の部屋の窓は暗い。
あいつは、もう出かけたに違いない。
おれが帰らないことがわかった時点で、安心していそいそと会いに行ったのだな。
エレベーターで出くわしてしまったりする危険を避けるため、階段を使うことにした。
一段ずつ、屋上に近づいていく。それにつれて、身体の持つ位置エネルギーも大きくなる。そら、もうすでに自らの肉体を破壊できるまで大きくなっている。
例えば、そこの手すりをひょいと乗り越えるだけでそれは可能だ。
位置エネルギーはもっとも効率よく運動量に変換され、それが地面に衝突することで一気に解放される。その力は、この肉と骨を――。
そんなことを考えながら、階段を上っていく。肉体を上へ上へと運んでいく。
屋上のドアが見えた。
落書きだらけの壁。
前にも見たことがある壁。
あの絵が描かれている。
ぎざぎざの――。
もう見たことがあるから、こんどは見ない。
階段を上りきって、ドアの前に立った。しばらくそのまま立っていた。
すると、ドアの向こう――屋上――から、微《かす》かに聞こえてくるのだ。
話し声。
妻が誰かと話している。
受話器に向かってしゃべっているときと同じあの口調だった。陽気で早口で、そしていくぶん媚《こ》びを含んだあの口調。
そらみろ。
ついにおさえた動かぬ証拠。
そのまましばらく聞いていた。
いったいどんなやつと話しているのだろう。
そう思って、じっと聞いていた。
冷たいドアに耳をあてて。
だが、なぜか相手の声は聞こえない。
まあいい。
どうせすぐにわかることだ。ドアのノブに手を掛けて、一気に押し開いてやる。いくぞ。
ところが、開かないのである。
いくらがちゃがちゃやってみても。
ダメ。
鍵《かぎ》がかかっている。
そういう可能性を考えなかったのは、迂濶《うかつ》だった。
そうだ、こういう事態は当然予想しておくべきだった。
この屋上には普段から鍵がかかっているのだ。
鍵を開けて屋上へ出てから、屋上側からまた鍵をかけるだろうくらいのことは、当然考えておくべきだったのだ。まして、何か見られたくないようなことをやる場合は――。
とにかくこれでは、屋上に出ることはできない。現場をおさえることができないのだ。仮にここで待っていて、妻があの電話の相手の誰かといっしょにこのドアから出てくるところに居あわせたところで、屋上でいっしょに自治会の仕事をやっていた、とでも言われたら、もうそれ以上の追及などできないではないか。やはりこういうものはその行為の最中をおさえるしかないのだ。
くそ。くそ。くそ。
そうか。そのためのアイテムだったのか。
くそ。
屋上への鍵。
あれを管理しているのは、団地の自治会だ。子供が屋上から物を投げ落とすという理由で鍵をかけることに決めたのも、自治会だったはずだ。
そこでさっそく〈過去に関する記憶〉を選ぶ。さらに〈死亡〉でデータの条件をしぼり込む。
と、屋上からの何件かの飛び降り自殺の記事と並んで引き出されてきた。
五年前、屋上から落とされた消火器によって頭蓋骨《ずがいこつ》を陥没させられ即死したのは、そのときの自治会長だったのだ。大騒ぎになったが、結局、犯人はわからなかった。
子供のいたずらだろうということになった。目撃者も現れなかった。
あのあと選出された現在の自治会長によって、ただちに自治会が招集され、そこで屋上の閉鎖が決定したのだ。
なるほど。思っていた以上にこの陰謀の根は深いようだぞ。きっとそうだ。あの屋上でのなんらかの秘密の行為のために殺人までが行われたのだ。そうに違いない。
やったのは誰か。直接手を下したのが誰なのかは、今となってはわからないが、もちろん黒幕は現・自治会長だろう。
この団地すべてを巻き込んだ陰謀。いや、大陰謀。そうなのだ。うん。そうか。だから最近、あんなに自治会の集会が多いのか。
と、ゲームのなかの〈おれ〉は勝手に納得しているのだが、さすがにそれにはプレイしているおれも首を傾げざるを得ない。
団地の自治会が企《たくら》む陰謀というのはいくらゲームにしても妙な設定だ。このあたりには石室の妄想がそのまま取り込まれているのだろうな。なんでもかんでも闇の組織による陰謀にしてしまう。ネオ・ナチとか悪魔教団とかCIAとか。それにしても団地の自治会とはね。
いくらなんでもこれは発売に際しては修正を加えなければならないだろうな。
鍵のかかったドアの前で、そんなことを考え続けていた。
だが、どうしようもない。開かないんだからな。それなら、ここまでやってきたこの勢いを一体どこへ持っていけばいいのか。
くそ。
このまますごすご帰るのはあまりにもあんまりではないか。
くそ。
そのとき、だ。
また声が聞こえたのだ。
ドアの向こう――閉ざされた屋上――から、とぎれとぎれではあるが確かに聞こえてくる。
こうなったらその会話の内容をたよりにこの向こうで何が行われているのかを推理するしかないようだな。
再びドアに耳をあててみた。
――から、ね、うん、そう――からさ――ぐるま――さで――みたって――なきゃやだ――ねね、もっと――いるから――はは――は――は――そんなのが延々続いているだけだ。
くそ。
やっぱり無理だ。
今夜のところはあきらめるしかないのか。もしヘタに騒いだりで、ここで顔をあわせてしまったりすればそれで向こうも警戒するようになって、現場をおさえるチャンスはもう二度とやってこなくなるに違いない。
ゲームというのはそういうものなのだ。
*
何時間続けたのだろう。
伸びをしようと立ち上がりかけたとき、背中から腰に鋭い痛みが走った。背骨のなかに針金を突き通されたような痛み。
中途半端な姿勢のまま、動けなくなった。動かすことでまた同じ痛みが走りそうで、怖くて動けない。
腰と背中の角度を変えないように、じっとしている。我ながら、なさけない格好だ。
近頃、たまにこういうことになる。仕事のせいなのだろうか。長時間、座りっぱなしで操作を続けているから。いや、そればかりとは言えないだろう。性交の翌日、翌々日など、てきめん。それが嫌で、回数が減ったような気がするな。
要するにもうあまり若くはない、というだけのこと。機械がダメになるように、肉体にもガタがきている。
内臓か。
腎臓《じんぞう》、肝臓、気をつけろと言われているのは、どっちだったっけ。まるごと全部入れ換えでもしなければ、どうしようもないのかね。
どうせ。
のろのろと床に横たわる。背中を伸ばして、力を抜く。
しばらくこうしているしかない。
それにしても痛みというのは不思議なものだな。こればかりはゲームのなかには存在しない。おかげで、ここがゲームのなかではないということだけは、少なくともわかる。
このくたびれた生身の肉体のおかげで。
天井を見上げる。茶色い染みが人の顔のように見える。
痛み。
肉体。
だが、ほんとうにそうなのだろうか。
それは、そんなに確かなものなのか。
ふいに、そんな考えが浮かんだ。
例えば、この痛み。
これは、矢島久美とのあの行為が原因なのではないのか。
びよおおおおおん。びよおおおおおおん。おれの上で跳ねていた。それを腰で受け止めた。
バネのオモチャ。遊んでいる途中で壊れてしまったオモチャ。
はは、大人のオモチャ、か。
今でもあの感触はしっかりと残っている。
そして、血、だ。今も先端にこびりついているような気がする。
「生理だよ」
岸本が言っていたな。
もしかしたら、あれはゲームのなかではなく現実にあったことだということになるのだろうか。
頭がいくら否定しようとしても、腰と背中の痛みとして、現実の肉体にその痕跡《こんせき》が残されているということは――。
よくわからない。
もういちどあの部屋へ行ってみれば――おいおいまてよ、とそこでおれは自分に言い聞かせるのだ。
何を馬鹿なことを。あんなこと現実に起こったはずがないじゃないか。現実とゲームの混ざり合った夢を見ただけのこと。
疲れていたからな。
今だって、疲れている。たぶん、ゲームの最中に催眠状態のようなものに陥って、それで――。
そうだ。
何気なく出てきた、催眠状態というその言葉。それにすがりつくようにして、おれは思い出す。
確か昔、テレビでそんなのを観たことがある。催眠術の驚異、とかなんとか、そんなタイトルの番組だったと思う。
床に仰向《あおむ》けに寝転んだまま、おれは記憶を掘り起こす。ずっと奥のほうにある記憶。
しっかりと食い込んでいる。
おれは、小学生だった。
季節はたぶん冬で、だからコタツに入ったままテレビを眺めていた。
いいいでえすかああああああ。
間延びした声で催眠術師が言った。
まてよ、あれは催眠術師ではなく、魔術師だったかな。
ここにあるのは、真あああっ赤に焼けた鉄の棒おおおおでええす。
確か、催眠状態にある被験者に向かって彼はそんなふうなことを語りかけるのだ。それから、おもむろに手にした棒を被験者の腕に押しあてると――。
熱い!
被験者は、あわてて腕を引っ込める。催眠術師は、その棒をもういちど観衆によく見えるように掲げる。
ごくありふれたボールペン。
ところが、被験者の腕には、火傷《やけど》のあとのようなミミズ腫《ば》れが浮き出ているのだ。
催眠術師あるいは魔術師は、黒いマントを翻し、誇らしげに言う。
ご覧の通りです。暗示によって、彼はこれが焼けた鉄の棒だと信じました。そして、実際に肉体に変化が生じたのです。つまり、火傷をした、とそう信じこむことによって、肉体にもそういう反応が現れたことになります。
実験は成功しました。ご覧になった皆さん全員が証人です。催眠術を使えば、なんのへんてつもないこんな小さな棒さえも、精神を別の方向へ動かすテコへと変えることができるのです。
催眠術師あるいは魔術師の笑いだけを残し、舞台は闇に包まれる。
肉体感覚というものも、結局のところは脳が感じているのです。なぜなら、すべての感覚は神経を通して脳に入力されている電気信号なのですから。したがって、逆に脳のほうがそう感じれば、肉体のほうが同じ状態をとることも充分に考えられるのです。
精神と肉体はまだまだ神秘のベールに包まれています。では、皆さん、来週までごきげんよう。スポンサー名に被《かぶ》さって、そんなナレーションが入っていた。
あれはなんだったのだろう。あの頃よくテレビであったなんとかびっくりショーとかなんとか、そんな類《たぐい》の番組だったか。ともかく、それがよほど衝撃的だったらしい。だから未《いま》だにはっきりと憶《おぼ》えているのだ。
あれを信じるなら、この痛みというものも、結局は現実の証《あか》しなどではなくなってしまう。
そう、たとえそれが虚構のなかにおける経験とか記憶だとしても、その虚構への感情移入さえ充分に行われていれば――。
もしかしたら、これはそういうゲームなのではないのか。
そんな考えが浮かんだ。
プレイヤーを催眠状態にまで導き、その当人のなかにある夢や幻覚を掘り出してみせるゲーム。
だから、プレイヤーによって見えるものが違っている。同じ模様が人によって、コウモリに見えたり花に見えたり、もっとなんだかわからない怪物に見えたりするように――。
プレイヤーが心のなかに抱えているもの。それが、そのままゲームに投影される。
データはゲームのなかにではなく、プレイヤーの脳のなかにある。それを、ゲームソフトが引き出すのだ。
もし、これがそんなものだとしたら――。
「どう思います?」
突然、そんな声が聞こえた。すぐ耳のそばでささやかれたような気がしたそれは、石室の声だった。確かに。
そうだった。
周囲を見回した。反射的に起き上がろうとして、また腰に激痛がきた。
声が出せないほどの痛み。
さっきより、ずっとひどくなっている。
そして、気がついた。床に転がっていたはずの自分の肉体が、いつの間にかマシンのシートに収まっていることに――。
それは、おれがいつも使っている、そして、石室の幽霊が出るといわれているマシン。あの噂の機械だ。
そのなかに、おれは包み込まれていて、そして――。
ぱちぱちぱち、と静電気の走る音がして、目の前のディスプレイが、明るくなった。
スイッチを切っていたはずなのに。
ぶううううん。
どこかで、何かが回っている。
その四角い枠のなかでは、こちらの都合などかまわずゲームが進行している。
画面に映し出されているのは、この部屋だ。
このマシンのなかから見たこの部屋。
石室が立っていた。部屋の入口にあるコピー機に寄り添うようにして。
立っている。
そう。
まさに。
幽霊のように。
そこからじっと、おれを見ていたのだ。
今、目があった。ゆっくりと口が開いて、笑顔になった。
「ねえ、聞かせてくださいよ」
言いながら、歩いてくる。
まっすぐ、こっちへ。
「どう思います?」
近づいてくる。
マシンに顔を近づけて。
覗《のぞ》き込んできた。
「ねえ」
石室の顔が画面いっぱいになって、歪《ゆが》んだ。
ぐにゃぐにゃに歪んで――。
そして、あの顔になった。
何枚も何枚もコピーされたあの顔。
石室の――。
いや、よく見ると、それは石室の顔ではない。
石室の顔なんかではなく、それは――。
おれの顔だった。
歪んだおれの顔。
それがすぐ目の前にあった。画面のなかではない。画面の外の現実。
息がかかるほどの距離で、おれを見つめたまま、笑った。
「ネジだよ」
そう言った。
おれが。
それだけ言って、また画面の奥へと帰って行った。シートにしがみつくようにして、それを見つめていた。
視線をそらすことができない。
ごとん。
何か重いものが転がる音がした。ずっとずっと奥のほうからそれは聞こえたような気がしたのだ。
おれのずっと奥で――。
ほら、もう。
動いてしまった。
しっかりしがみついて、支えていたつもりだったのに。
今、動いてしまった。
動かされてしまった。
ごとん。
もとの場所とは違うところへ――。そのことがはっきり感じられた途端、身体中の力が抜けた。
だがもちろん、そんなことにかかわりなくおれはこれを続けねばならないのだろう。ゲームのなかの出来事になど関係なく、現実が続いていくように――。
*
次に顔をあげたとき、目の前にあったのはなにやらやけになつかしい光景だ。まるで遠い昔の思い出のようでもある。同時に、ついさっきあったことのようにも思えるのだけれど――。
見覚えのある景色。いや、むしろ見飽きた景色というべきか。
台所だ。
台所の流しの前に、おれは突っ立っている。なぜか、明りは点《つ》けていない。
暗い台所で、ただ待っているのだ。
終わるのを。
何かが終わって、妻が帰ってくるのを、待っている。
妻が何をしているのか、おれにはわからない。だから自分が何を待っているのかということも、おれにはわからない。
ただ待ちながら、これでいいのだろうかと考えたりもしている。これで、はたして正解なのだろうか、などと。
ただ。
どうするのかは、決めている。それを選んだのだ。もう選んでしまった。だが、その前に、とにかくきちんと質問だけはしようと思う。それがいちばんいい。
誰と会って、何をしていたのか? それをきちんと冷静に、尋ねればいい。
そう。
それだけのことだよ。
冷静に尋ねよう。例えばこんなふうに。
おい。
今までどこへ行ってたんだ。
ああ、団地の自治会よ。自治会室に行ってたの。
自治会室って、そんなものどこにあるんだ。
ああ、決まってないのよ。
決まってないって、そんなことあるか。
だって、自治会が開かれたら、その部屋が自治会室なのよ。だから場合によっては、どこの誰の部屋でも自治会室になるし、そうよ、この部屋がなったこともあるしね。屋上がそうなったことも――。
へええ、屋上が自治会室に、ね。おい、いいかげんにしろよ、自治会自治会って言ってるけど、お前だってほんとうは――。
いや、違う。
いつかのあのときみたいに、癇癪《かんしやく》を起こしたりしてはいけない。
あのとき?
それはいったいいつのことを指しているのだろう。
矢島久美とのことがばれそうになったあのときのことか?
そうか?
そうだな?
ああ、そうだ。あのときは確かにやり過ぎたよ。なんなら反省してもいい。
でも仕方ないというところもあるんだ。だって、腹が立っているときに口答えされると、何がなんだかわからなくなる。子供の頃からそうだった。
そういうところ、父親にそっくりだな。たぶん。最近、ますます似てきた。そんな気がする。
でも、確かにあれはやりすぎだったな。そう、反省してもいい。
いや、違う。それはゲームのなかの話ではないか。
それなのに、まるで本当にあったことのように思い出せる。
鮮明に。
血が出た。まっかっか。
妻の脇腹に刺さった包丁の柄がぶるんぶるんと震えている。筋肉の痙攣《けいれん》を伝えているのだろうか。
あれは――。
いつかテレビショッピングで買ったモリブデン製。テレビのなかからやってきた包丁だ。
銀色に鮮やかな赤がよく映える。
鏡のような刃の表面に、おれの顔が歪んで映っている。
おれがやったのだ。
自分がやったとは思えない。
我ながらありふれたコメントだ。
そんなおれを誰かが見つめている。
いろいろと偉そうに感想を述べながら、この一部始終を観察しようとしているいやらしい視線。
確かにそれを感じた。そして、振り向くとそこにあるのは四角い窓だ。それが光を放っている。その中から覗いているのだろう。その視線の主と、今、目があっている。
向こうからは見えている。
それが、わかる。
おい。
お前だ。
これを見ているお前。
見せ物じゃないんだぞ。
他人事だと思って。
それが腹が立つ。
だから、このまままっすぐ近づいていってやろうと思う。離れたところから見ているだけのつもりのお前のところへ。
まっすぐ――。
*
近づいてくる。
思わず悲鳴をあげていた。
それほどのめり込んでいた。で、今時計を見たらこんな時刻。まさに、無我夢中という言葉がふさわしい。問題の定例全体会議とやらは、もう目前に迫っている。なのに、まだ見通しすら立っていない。
かなり、まずい。
この調子では今夜も家には帰れそうにない。とりあえずそのことを妻に伝えるために家に電話をかけた。ところが、さっきからずいぶん呼出音を鳴らし続けているというのに、いっこうに出ない。なぜ、出ないのだろう。その理由を考えるのがなぜか怖いのだ。
あれ?
さっきゲームをやっていたとき、その理由はちゃんとわかっていたはずなのに。
おかしいな。
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四 歯《ハ》 車《グルマ》
――歯を噛《か》みあわせて
他の軸に力を伝えるもの――
月曜日。
夜はまだ明けきっていないが、間違いなく月曜日の朝だ。
会議まで、あと約五時間。それまでになんとかしなければ――。いったいなぜ、こんなことになってしまったのか、未《いま》だによくわからない。
おかしい。
おれは、仕事でゲームをしていただけのはずなのに――。
このままではおれは人殺しということにされてしまいそうだ。いや、間違いなくそうなるね。
なのに、まるで現実感がない。
だがなんといっても、あの映像。
あんなものを他人に見られてみろ。
すっぱだかになって、股間《こかん》の肉棒を勃起《ぼつき》させたまま死体をバラバラにしていた。いやあ、すごい絵だ。その一部始終が、このなかに入っている。
おいおい。
いったい何の冗談だ、これは。本当に起こっていることなのか。まるでゲームのなかにでもいるみたいな。
やった憶《おぼ》えもないことなのに、このなかにはその映像が入っている。おれがそんな行為におよんでいる映像。
いちど見ただけだが、鮮明に思い出せる。何もやっていないのに――。
いや。
ほんとうにそうなのだろうか。
もしかしたら、おれはやったのではないか。やったところを石室に隠し撮りされた。それをネタに嚇《おど》されて、それで石室まで殺したのでは――。
そうだ、あの夜、屋上から落としてやった。
そんな気さえしてきたのだ。
いつかの消火器みたいに――。
いつかの? なんだ?
やめろ。
だって、ほら。
あのシーン。
犯行の映像。
だから。
脳ミソにはっきりと焼きついている。自分自身の記憶として――。
きっと。
尋問されたらおれはきっと、細部まで克明に答えることができるだろう。それを行った者しか知らないような細部にわたって――。
もしあの映像を、証拠として突きつけられたら、たまらなくなって、きっと。
王様の耳は――。
しゃべる。
しゃべってしまう。
全部。
知っていること、憶えていることを。
そういうのを一般には、自供、という。
やめろ。
そんなことを考えるな。
爪を、噛《か》もうとしている。
噛まずにいられない。
噛み過ぎて、噛み潰《つぶ》せる部分がもうなくなったから指の先を噛んでいる。
皮が破れて、血まみれだ。
血まみれの指でコントローラーを操作している。ぬるぬる滑ってうまくいかない。コントロールできない。いらいらして、それでよけいに噛むことになる。鉄の味がする。あるいはこれも、脳に入力される信号に過ぎないのだろうか。
泣いていた。
いつの間にか。
まだ、夢のなかにいるような気分だ。ダメだと思う。
きっと、ダメだ。
おれは――。
きっとこんなふうに刑事の前でも、おれは泣いてしまうだろう。そして、そのまま犯人にされてしまう。
そうなんだ。実はね、これだけじゃない。他にもいろんなことを思い出しかけているんだよ。ゲームには出てこなかったようなことまで――。
いったい、おれは何をやったんだ。今見えているこれは、ほんとうにゲームなんだろうか。ほんとうにゲームのディスクから読み出された情報なのか。それを、おれはプレイしているのか。
もしかしたら、すべておれの妄想なのではないか。
マシンのスリット。隙間。このなかにディスクが入っている。
細長い小さな闇。その奥で、何かが行われている。いったい、何がどうなっているんだ。
割ってしまえ。
ふいに、そんなことを思う。
それですべてが終わるではないか。
そうしよう。
さっそく。
イジェクトのボタンを押して――。
あのディスクを取り出そうとしている。
いや。
さっきから。
やっているのだ。
やっているのに。
取り出せない。
出てこない。
ゲームを途中で強制的に終了して、スリットからディスクを出そうとしているのに、その操作にマシンが反応しない。
おい。
なぜ、出てこない。
このなかで、いったい何が――。
スリットに耳をあてた。
ドアに耳をあてたように。
すると。
なかから微《かす》かに音が聞こえる。
かりかりかり。
気のせいではない。
かりかりかり。
確かにそんな音が聞こえる。
ディスクの回転する音だろうか。いや、マシンのなかに何かがいるような気がする。そんな気は、実は前からしていた。そいつが邪魔をしているのだ、きっと。
おれの――。
このなかにいる何かが。
話し合っている。
時折、押し殺したような笑い声が混じっている。
そいつを追い出すのは無理としても、なんとかディスクだけでも引っぱり出せないものか。
苦し紛れにスリットに爪をたてた。
早く。早くしないと。早くもうひとつの答にたどり着かないと。本当に、おれは――。
そして、それが起こった。
おれが爪をたてている金属のスリットが、ぐにゃりと歪《ゆが》んだのだ。ほとんど、なんの抵抗もなく。
叫びだしそうになった。
かろうじて堪《こら》えた。叫んでしまったらもうおしまいだ。そんな気がした。
歪んだスリット。
目の前で、いったい何が起こっているのか、わからなかった。いや、何が起こっているのかは、わかっているよ。もちろん。見えている、そのままだ。
隙間が、大きくなっていた。
マシンのスリットが、まるで指を迎え入れようとでもするかのように――。はは。現に、中指と人差し指は、すでにそのなかに滑り込んでしまっているよ。
ぬるりとした感触。
頭が痺《しび》れたようになって。
ただ、指先からの感触だけが、脳に入力されて――。
濡《ぬ》れた肉の襞《ひだ》。
おれはディスクを探り当てるために指を動かしている。
掻《か》き回す。
柔らかい。
柔らかくて、温かい。
脈打っている。
奥のほうが。
そして。
顔をあげると。
目の前には――。
矢島久美の顔があった。
マシンの画面に映っているのだ。大きさが実物と同じだから、なんだか画像ではなくて、本人がこの箱のなかにいるようにも見える。
箱のなかに閉じこめられた女が、そこにあいた四角い窓から、こっちを見つめている。
まっすぐ――。
そして、そんな矢島久美の顔は、おれの指の動きにあわせるように歪むのだ。
苦痛とも愉悦ともとれる表情。
いや、どちらなのかは、もちろんもうわかっている。おれは、知っている。もう経験ずみだからな。
ふいに、隙間に入り込んでいる中指の先が、何か硬いものを探り当てる。
こつん。
縁が爪にぶつかる感触。
これだろうか。人差し指を添えるようにして、二本の指先でその硬いものを摘《つま》もうとする。摘んで引っ張ろうとするが、うまく力が入らない。滑るから、なかなか思うようにいかない。いらいらして、乱暴に掻き回したくなる。
爪が肉にめり込む。
それに反応するように目の前の矢島久美の顔は、目をきつく閉じて口を半開きにするのだ。
鼻の穴が膨らんでいる。
奥が見える。
穴の奥。
もう少し。
もうすっかり手首まで、ずっぽりと入っている。そのまま捻《ひね》るようにして掌《てのひら》ごと角度を変えると、その硬いものをうまく挟むことができた。
人差し指と親指で――。
挟んで。
よし。
力を込める。
しっかりと摘んだまま、一気に引き抜こうとした。
もう少し。
少々の無理はいいだろう。
ぷちぷちぷちっ、と何かが裂けていくのがわかる。それが伝わってきている。びっしりと並んだ虫の卵が潰《つぶ》れていくような感触。
組織が裂けているのだ。
たぶん。
でも、かまわない。
かまってなどいられない。もう少しなのだから。
これさえ引き抜いてしまえば。
腕に力を込めた。思い切って――。
途端に、それが動いた。
さっきまで指で摘んでいたそれが――。
ゆっくりと回ったのだ。
それが回る度に、まわりの肉が裂けていくのがわかった。これまでそれをそこに繋《つな》ぎとめていた肉が千切れ、剥《は》がれる。
裂けた組織から噴き出した生暖かい液体が、おれの手の周囲に溢《あふ》れた。
驚いて、せっかく摘んでいた指を離してしまった。
気を取り直して、もういちどそのあたりを掻き回して、探る。
あった。そう思った。だが、再び触れたそれは、さっきとは少しだけ形が違っていた。
尖《とが》っている。
硬くて、尖っているのだ。
丸い縁にそって、指を動かした。また、尖ったものに触れる。さっきのより、すこし大きい。円盤状のものの周囲にそんなものが並んでいるのだ。ぎざぎざが――。
それが。
回った。
指先が切れた。
悲鳴をあげていた。
指を引き抜こうとして、できない。手首から先が、何かにくわえ込まれたようになっている。
さっきの尖ったものが再び、回転しながら指に触れた。
鋭い痛み。
歯だ。
一瞬にしておれの頭のなかにそんなイメージができあがっていた。
円盤の周囲に配置された様々な大きさの白いぎざぎざの歯。
回る。
歯が、食い込んで――。
突き刺さって。
人差し指が、骨ごと引っ張られている。痛みで悲鳴をあげていた。
千切れてしまう。
このままでは。
「やめろ」
叫んでいた。叫びながら、左手で画面を殴りつけていた。
画面のなかの顔を。
何度も、何度も――。
ぴし。
それが、ガラスにひびの入った音だったのか、それとも拳《こぶし》の骨の音だったのか、おれにはわからない。
矢島久美の顔の右半分が潰れた。
頬が変形し、唇《くちびる》が切れていた。歪んだ顔をさらに歪ませて、そして突然、閉じていた目を開いた。
まっすぐおれを見ていた。その瞳《ひとみ》の中心には、虫に喰《く》われたあとのような穴が、ぽかんとあいている。覗《のぞ》き込むのも怖いような闇。
穴だ。
矢島久美にあいた穴。
おれと目があっているのを確認するように小さくうなずき、それからゆっくりと口を開き、そしてこう言った。
「ねえ、約束通り、奥さんとは別れてくれるよね」
舌を突き出し、自分の唇の血を舐《な》めた。
「あげたんだもんね。私、あなたに――。ほら」
何かを差し出している。
「私が作ったのよ。あなたのを材料にして。だから、私とあなたとで作ったってことなのよ」
唇が赤く濡れている。
「あなたの液を材料にして」
手が抜けた。そのまま、マシンのフレームに勢いよく肱《ひじ》をぶつけた。手首をくわえ込んでいた力が、ふいになくなったのだ。
しばらくそのまま呻《うめ》いていた。引き抜いた手首は痺《しび》れたようになって、まるで自分のものではないみたいだった。
顔を上げると、映っている。
画面の中央に。
指先からの感触によっておれが脳のなかに思い描いたものとまったく同じもの。まるで、自分の脳のなかからそのまま抜け出してきたようなもの。
薄い円盤。その周囲にずらりと歯が並んでいる。鮫《さめ》の歯を思わせるぎざぎざの白い歯。歯車。
見たことがある。
どこかで。
なんでも喰うよ。
頭のなかで、あの釣り人が言った。
回った。
闇のなかで、それが回転している。
惰性で回っているのではない。さっきまでは確かに止まっていたのだ。それが、ゆっくりと回りはじめ、次第に速くなっていく。
白い光。
ぎざぎざの歯のような――。
生きているんだ。
はっきりとそれがわかった。
近づいてくる。
画面は白い光に満たされる。
そして、ノイズが大きくなる。まるで波の音みたいなノイズ。
ざあああああああああああああ。
すべてを呑《の》み込むようなノイズ。
どざああああああああああああ。
逃げようと思った。
シートから立ち上がろうとしたとき、背中から腰にかけてまたあの痛みが走った。身体を起こそうとしただけで、そうなるのだ。
いや。
もっと、ひどくなっている。
首から足の指まで、身体中にどんなふうに枝分れして神経が張り巡らされているのかがわかったような気がした。痛みがその上を走るのだ。
神経を剥《む》き出しにされたような痛み。
両目から涙が噴き出していた。おもしろいほどの勢いで。
真っ白なはずの画面が、虹色《にじいろ》に見えるのはそのせいだろうか。
痛みが怖くて、身体を動かせない。それなのに、背中が勝手に動いている。筋肉が痙攣《けいれん》して、それがおれの意志と関係なく骨を動かしているらしいのだ。
こきっ。
腰の骨が鳴った。同時に、何かがずれたのがわかった。繋ぎ目が、食い違ってしまったのだ。
こきっ。こきっ。
背骨が鳴った。
それだけでは止まらない。筋肉はぷるぷる震えながら勝手に収縮を続け、身体が前に折れ曲がっていく。ばきばきばきと、背中が鳴った。丸くなった背中の皮膚を、内側から何かが突き上げている。変形した骨が皮膚を突き破ろうとしているのだ。
「たすけて」
折れ曲がったままで叫んだ。
「た」
もういちど叫ぼうとしたが、息を吸い込むことができない。それなのに、顔だけは正面を見ている。
首が動かないから、画面から目をそらすことができない。
背中が、折れてしまう。このままでは本当に――。
そう感じた。
それを止めようとしてマシンのフレームに置いた手が、そのままずぶりとめり込んだ。
柔らかくなったスリットは、大きくひらいていた。まるでおれを招き入れようとでもするように。
とろけて――。
生肉の色をしたその奥に、白いものが覗いた。ずらり並んだ、ぎざぎざの。
肺に残っていた最後の空気を絞《しぼ》り出すようにして、おれは声にならない悲鳴をあげた。
*
様々な軸がある。
すべてに意味があり、それらは互いに作用しながら連動し、ひとつの仕組みを作っている。
そういうものだと思っていた。世界というのは――。
でも、もしかしたら、違っているのかもしれない。近頃、そんな気がして仕方がないんだよ。
ほんとうはすべてがばらばらで、人間の意識がそれらを無理やり噛《か》みあわせ繋げている。それだけのことなのかもしれない。
ほんとうは、うまく繋がってなどいないのに、そうあって欲しいからそういうふうに見えている。そう見ているだけなのだ。だから、ほんのちょっとしたことで――ネジやバネがひとつ外れただけで――簡単にもとに戻ってしまう。
いや、もとの状態よりずっと悪くなる。うまく噛みあっていないままに動かして、それで柔らかい部分を押し潰《つぶ》し、壊れてしまうのだ。現に今、がりがりごきごき、などと嫌な嫌な音が聞こえているように――。
耳を塞《ふさ》いでもダメだ。だって、これは内側から聞こえてくる音なのだから。
鋭い歯のついた車が、周囲を噛み潰していく音。挟まれて、潰れて――。
壊れる音。
「聞こえる?」
頭の上でささやく声。おれは背中を丸めて、矢島久美の腹に耳をあてている。
「かわいい音でしょう」
ほんとうなんだろうか。おれがそう考えたのを見透かしたように矢島久美が言った。
「写真もあるのよ」
立ち上がって、机の引き出しの奥から出してきた。
見覚えのあるB5サイズの紙。
「超音波で見えるんだって。コピーして貰ったのよ」
そう言っておれの顔の前へ。
まだらに感光したコピー用紙。中央あたりにぼんやりとした灰色の塊がある。
「ほら、すごくかわいく撮れてる」
矢島久美が、そのなんだかわからないものを指差した。
「ねえ」
おれに顔を寄せて。
「こんな言い方したくはないんだけど――」
でも、言った。
「証拠写真ってわけよね」
ねっ、ほら笑ってるでしょう、などと指を置いたそのあたりには確かに人間の顔みたいなパターンが見てとれなくもない。そう、じっと見つめていると、浮かびあがってくる。例えば、心霊写真とか呼ばれる写真のように。
なんとなく。
苦しそうに歪《ゆが》んだ顔が――。
「ね、ちゃんと聞いてよ」
そんなことを言うから仕方なくまた腹に耳をあてるのだ。
ずいいいいいいいむ。
聞こえた。
微《かす》かだが、確かに聞こえた。
ずいいいいいいいむ。
「石室さんにそっくりだといいな」
ずいいいいいいいむ。
吐き出されるコピー。
「証拠写真ってわけよね」
念を押すようにまた言うのだ。
なんとかしないと――。
腹に耳をあてたまま、おれは考えている。
何を?
ずいいいいいいいむ。
「信じてるから、あなたのこと」
おれの顔を覗《のぞ》き込んで言う。
あなた、というのは誰のことだろう。
石室?
さっき、そう呼んだ。
おれのことを。
それがおれの名前か?
いや、違う。違うぞ。
それはすでにこの世にいない男の名前だ。確かに、そうだ。そして、おれはその男の残したものを引き継いで――。
プレイしている?
はたして本当にそうなのだろうか。近頃、自分が何かに動かされているような気がする。いや、たぶん、ずっと前からそうだったのだろう。
監視され、動かされている。
名前になどたいした意味はないのだ。そんなもの、単にプレイヤーが打ち込んだものに過ぎない。単なる感情移入のための道具でしかない。気まぐれに打ち直せば、それで変わってしまう。
石室がプレイしているときならたぶん、〈おれ〉は〈石室〉だったのだろう。だから、もしそのときのデータが今も残されているのなら、このおれが石室であってもおかしくはない。
そんな気がする。
あの噂。
この部屋のこのマシンで、今もゲームを続けている石室の幽霊。
おれが今いるのは、そのゲーム――石室のやっているゲーム――のなかのキャラクターだとしたら。
柔らかくなったマシン。おれはすでにその内部に呑《の》み込まれてしまっているのではないのか。あの白いぎざぎざの歯で噛み砕かれ、呑み込まれて、そして――。
そうなのか?
「何ぼんやりしてるのよ」
矢島久美が笑った。余裕のある笑顔。
まるで、最強のアイテムを手にしたプレイヤーのような。
*
血がついている。
〈おれ〉の指。
いや。
おれの指。
血のついた指。
これははたしておれ自身の血なのだろうか。もうすっかり乾いて赤黒い。
マシンのスリットの周辺にもたくさんの血がついている。さらに、その血でいたるところにべたべたくっきりと残された指紋。
もしここが犯行現場だとすれば、犯人が誰なのかなんて推理するまでもないだろう。
いや。もちろん、血はそんなことによってついたのではない。
「生理だよ」
岸本だって、言っていたじゃないか。
自分に言い聞かせるようにそうつぶやいてみた。
「いいえ」
耳元で矢島久美が言う。
「そうじゃないわよお。だって私、今月も、無いんだもの」
笑った。
「ずっと、無いの」
まっすぐこっちを見つめて、言う。
「もちろん、責任はとってくれるわよね」
画面のなかでこっくり素直にうなずいているのは、どうやら〈おれ〉らしい。
コントローラーは足元に転がったままなのに、画面のなかで勝手に動いている。
動かされている。
いったいこれは、なんだ?
おれは目の前にある〈おれ〉の背中を眺めながら、考えている。
おれのやっているこれは、本当に、ゲームなのか?
変だ。なぜ、そんなことがはっきりしないのか。
そもそも、あれは本当に〈おれ〉なのか。
もうおれには、それを動かすことができなくなっている。
ひょっとしたらおれは、ゲームをやっているのではなくて、ゲームをやっているように現実を見ているだけなのではないか。
だとしたら――。
その先は、考えたくなかった。でも、もう考えてしまった。
だとしたら――おれは、狂いはじめているのではないのか?
笑い出しそうになった。
おかしくもないのに。
「ネジがね」
誰かが言った。誰の声だろう?
いや、そんなことよりも――それでは、このおれはいったい、どの〈おれ〉だ?
現実もゲームも、そんなおれを待ってくれたりはせず、ただ時間の経過に従い、目の前で様々なことが進行していくのだ。
勝手に。
おれの意志には関係なく。
まさに、目まぐるしい速度で――。
*
「それじゃ、いっしょに今後のことを相談しましょうね」
矢島久美が言った。こっちの事情などお構いなしで。
「実は、もう奥さんも呼んであるんだ」
つぶやくように言って部屋を出ていく。
「おい、それ、どういうことなんだ」
答えない。
だから仕方なくついて行く。側にいなければきっと妻に、あることないこと好き勝手に吹き込むだろう。そういう女なのだ、こいつは。ゲームのなかでも現実でも。
部屋を出るとそこは、見慣れた廊下。
矢島久美の背中に声をかけても、なんの反応もない。ただ、歩き続ける。
廊下の突き当たりにあるドア。プラスチックの白いプレートが掛けられている。書かれている文字を声に出して読んでみた。
「自治会室」
違う。
ここは会社の会議室ではないか。
そんなおれに、矢島久美が耳元でささやいた。
「自治会が行われる場所が自治会室なのよ」
ドアの向こうからは、大勢の話し声。女たちの声だ。
おいおい。
おれはつぶやく。
こんなところで相談するのか、今後のこととやらを。これでは相談というより吊るし上げでは――。
おれが何か言おうとするより早く、矢島久美がノブに手を掛けた。ドアが開くと満員御礼。パイプ椅子がホワイトボードに向かって客席のようにずらりと並べられていて、五十人はいるだろうか。廊下ですれ違ったり郵便受けのところで見たことだけはあるが名前までは知らない団地の住人たち。
「では、さっそく自治会議を始めることにましょう」
ホワイトボードの脇に立って、こちらをちらりと見てそう宣言したのは、妻なのだ。
「おい、お前、何やってるんだ」
おれは言った。
「こんなところで――」
「静かにっ」
前列にいた太った女がいきなり怒鳴った。耳がきいんとなるようなかん高い声だ。
「私語はつつしんで」
その隣に腰かけた同じくらい太った女が言った。
「本日の議題はあ?」
全員に問いかけるように、妻は語尾を跳ねあげる。
「ハグルマ」
その場に居るおれ以外の全員が、声をあわせて答えた。
「そうです。皆さん、ハグルマについてはもうご存知ですね」
「議長」
矢島久美が手をあげた。
「ここにひとり、まだよく知らないひとがいるんですけど」
「あらあららら」
妻が、目をまるくした。黒いまんまるが全部と、そのまわりの白い部分までが見えるくらいに見開いているのだ。
「うーん、それは困りましたねえ」
わざとらしく腕組みする。
客席で笑いが起こった。
それがひととおりおさまるのを待ってから、妻は部屋のなかを見回すようにした。自治会室全体を――。
「それじゃあ、この前の復習も兼ねて、このひとに、ハグルマのことをわかりやすく一から、説明してあげられるひと、いますか」
「はい」
すかさず矢島久美が手をあげた。
「はい、はい、はあい」
小学生のような口調で。
「私、私、私がやります」
「あらまあ、あなたが」
妻が大げさな身振りで言った。また、客席に笑いが起こった。
「ええ、この前いちど、話してあげようとしたんですけど、このひと途中で眠っちゃったから――」
横目でおれを見た。
「ああ、そう」
妻がつぶやくように尋ねる。
「それって、いつのこと?」
「ええと」
矢島久美が、おれのほうを向いて言った。「ねえ、あれって、そんなに前じゃないよね」
笑った。
唇《くちびる》がめくれて、ぎざぎざの歯が覗《のぞ》く。それで思い出した。それは、あのときのことなのだろうか、と。
だが、あのとき彼女はそんなふうには言わなかった。
そう。
確か、こう言ったのだ。
怖い話、してあげようか。
矢島久美が一段高いところに立つ。
「では、始めます」
ホワイトボードの前からその場にいる全員に語りかけるように、始めたのだった。
「昔々――」
*
昔々、どのくらい昔かというと、この地上にまだ生き物の姿がなかった、そんな昔です。
世界のいたるところ楽園がありました。薄っぺらな円盤状の身体を持った生き物たちの楽園です。
地上ではなくて、そこは、浅くて温かい海の底。彼らは、海の中にその柔らかい身体を横たえ、静かに暮らしていたのです。
そこは、たとえようもないほど平和な世界でした。
それというのもその頃、この地球上にはまだ捕食動物というものは存在していなかったのです。だから彼らは、敵から身を守るための硬い殻も、敵を攻撃するための歯も爪も持っていませんでした。そもそも『敵』や『攻撃』などという忌まわしい概念は、この世界にはまだ存在すらしていなかったのですから。
昔々――そう、今から六億年ほど昔――のこと。
彼らは、今ではエディアカラ生物群って呼ばれています。
南オーストラリアのアデレードに近い丘陵地帯――エディアカラ。そこにあった古い地層から、地元の古生物学者が、あるはずがないと思われていたものを発見しました。
クラゲみたいな化石。
それまでの学説では、その頃にはまだ、目に見えるようなサイズの生き物は存在しなかったと言われていました。ところがその地層からは、小はお皿ほど、大は二メートル近くに達するものまで、続々と化石が発掘されたのです。当初それは、現在のクラゲの先祖だろうと思われていたんだけど、状態のいい化石を詳しく調べてみて、それが私たちの知っているどんな生き物とも違う〈何か〉であることがわかってきたの。
植物でも動物でもない、これまでまったく知られていなかった生き物。そして、そんな生き物たちだけで構成されていた世界。
でも、そんな彼らの楽園――エディアカラの楽園――は、史上最初の捕食者の出現によって終わりを迎えます。
そして――。
喰《く》ったり喰われたりする時代が始まり、その結果、彼らは滅びてしまった。いえ、滅ぼされてしまった。
そう考えられています。
でも、そうじゃないかもしれません。
例えば、こんな可能性はどうでしょう。
楽園を追われた彼らは身を守るため、新しい集団を形成しました。
彼らは、多細胞生物ではなかったと考えられています。ダンボールのような四角いユニットを並べた構造を持っていて、そのなかに多数の細胞核を持っていたのです。
硬い殻を持っていなかった彼らは、まず集団でそれを作ることにしました。その頃登場した、リン酸カルシウムの殻を持つ生き物を真似てね。
彼らはずらりと並べた四角いユニットを積み重ね、そしてコンクリートで固めました。これが、『団地』というものの始まりです。
ですから今私たちが暮らしているこの『団地』の歴史というのは、『人類』の歴史や『男性』の歴史、などというものよりずっとずっと古いということになります。
いえ、もちろんこれはあくまでも仮説であり、単なる可能性に過ぎません。しかし、その団結の精神は、現在まで確かに受け継がれてきました。生物進化の歴史とともに――。
それがこの自治会なのです。私たちがその精神の正統な後継者なのです。
では、他にもいくつか証拠をあげてみましょう。
例えば、ヘリコプオンという謎の化石があります。
螺旋《らせん》状に巻かれた歯の列みたいな化石。ようするに、円の周囲にぎざぎざのついた――そう、ハグルマみたいな形をした化石です。
これは世界各地に見つかっています。つまり、ある時代には勢力があったグループに違いないんだけど、ではいったいどういう生き物だったのか、となるとまるでわかっていません。
どういうわけか、いつも、この歯車状の化石だけが独立して見つかるのです。学者によっては、中生代の軟骨魚――鮫《さめ》とか――の一部じゃないかって考えられてたりするんだけど、ではいったいどこにどう付いていたのか、となると未《いま》だにわかりません。
さて、ここからが本題ですが――。
私たちは、これこそが、エディアカラの園を追われた者たちの、後の姿だと考えています。かつてのエディアカラの住人たちが、敵を攻撃するためのそして自らを守るための武器を身にまとった形ではないのだろうか、と。
ううん、もちろん、鮫の一部だと考えてもいいわ。でも、その鮫にそういう進化形態をとらせたのは、彼らなのね。
つまり、楽園を追われ今も彷徨《さまよ》っている彼らの意志。
むしろそれは、〈恨み〉とか〈怨念《おんねん》〉と言い換えたほうがわかりやすいかもしれないわね。それが、そのとき栄えていた生き物の肉体に作用して。
おわかりでしょうか?
そりゃ確かにめちゃくちゃかもしれない。科学的でも生物学的でもないかもしれない。
いいえ、ちっとも科学的じゃないのよ。そうなの。女の考えることはすぐにそんなふうに言われるのよ。そんなの論理的じゃない、まるで科学的じゃない、なんてね。
そりゃそうでしょう。
昔から恨みによって化けて出るのはいつも女なんだから。
男はそれが怖くて、それを否定するために、科学なんてものを作ったんでしょう。
呪いや恨みや幽霊を否定するために――。
だから私たちの話はちっとも科学的じゃないわ。それでいいの。
ええ、けっこう。そんな、科学なんていうつまらないものじゃないの。だって、そんな科学、キリンがどうやってキリンになったのか、卵細胞がどうやって赤ん坊になるのか、ということすら説明することができないでいるじゃない。私たちが信じているものは、そんなものじゃなくて――。
もっと、なんていうか、大きな、もの。
この宇宙から私たちの子宮までのすべてを貫いている原理。生き残りたい、変わりたいと願う生命の意志なのよ。なんの抵抗もできないまま、闇に葬られた命の意志なの。恨みでも、怨念でも、呪いでも、言葉はなんでもいいわ。
圧倒的な強者によって、彼らの都合だけでその命を奪われたものたちの魂の声、いわば、弱者の意志なの。
つまり、この世界のすべての生き物は、彼らに呪われているわけね。もちろん、それだけのことはやったんだから、当然です。その報いも受けなければ。
私たちは、その声が正当であると判断します。だから、彼らをもういちどこの世界に蘇《よみがえ》らせようと決めた。私たちのなかにある温かくて浅い海の底に、再び彼らを呼び出すの。
男の都合で闇に葬られた小さな命たちの恨みをはらすためにも、ね。
きっと、できるわ。強い力があるもの。何かを恨むっていうこの世でいちばん強い力。科学が発見できない力。それが宇宙の原理なの。
もうすぐなんだから。
こんどこそは無抵抗に殺されたりはしない。殺させたりはしない。もちろんね。
だって、殺される前に、こっちが殺すんだもの。こんどは、喰《く》われる前にこっちが喰うのよ。
そのために、なんでも噛み砕ける歯を手に入れたんだから。
ぎざぎざの。
尖《とが》った。
歯を。
これまで攻撃されるだけだった裸の肉のまわりにね。
*
誰がしゃべっているのか、もうわからない。複数の女の声が、頭のなかをうわんうわんと反響している。巨大な蜂の羽音みたいに。同調して――。
引き込まれる。
唸《うな》りのなかに――。
聞くんじゃない。そんな言葉に耳をかすな。
おれは今、ゲームをしているだけだ。
何度も何度もそう自分に言い聞かせているのに――。
ほら、また。
思い出してしまった。
あのときのこと。
「怖い話をしてあげようか――」
そう、あのとき、おれの腹の上で、矢島久美はそう言った。
「あのね、私の知りあいの友達の話なんだけどね」
過去にいちど見た映像が、もういちど再生される。
回想モード。ゲームのなかでもそんな操作によって、また同じシーンがリプレイされる。
そうだ。これは、単にそうなっているだけだ。
だから、目を閉じた。あのときと同じように――。
「そのひとね、お見合いで結婚したんだけど、いつまでたっても無いんだって。ベッドに入っても、旦那《だんな》さんがなんにもしてこないのよ。はじめのうちは、疲れてるのかな、とか恥ずかしがっているのかな、なんて思ってたんだけど、半月たってもあいかわらずなのよ。そいで、とうとうたまりかねて、尋ねたわけ。そしたらさ――」
突然、掌《てのひら》が、おれの頬を叩《たた》いた。
「聞いてる?」
目を開けると、矢島久美がおれを見下ろしていた。
「聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「どう答えたと思う?」
「女が嫌いだったんじゃないか」
「嫌いじゃなくてね、怖いんだって。なぜかっていうとね――」
おれの上で、矢島久美が笑った。
剥《む》き出しの歯茎。やけに赤い。
「昔つきあってた女の子に、こういうのがあったんだって」
「え」
笑ったままの矢島久美に、おれは聞き返す。
「何があったって?」
すると矢島久美は、規則正しく動かしていたその腰を止め、言った。
「こういうの、よ」
陰茎の根元に針で突き刺されたような痛みが走った。思わず呻《うめ》き声をあげ、反射的に顔を起こした。自分の腹越しに、矢島久美が腰を浮かせるのが見えた。
引き抜いたあとに、あるのは――。
穴。
肉の穴。
そこに、白いものが見えた。
白くて尖ったぎざぎざ。
それが肉の裂け目に、びっしりと並んでいた。透きとおった粘液が糸を引いている。
歯茎を剥き出して笑うように、それはゆっくりと開いていった。内側にももう一列、同じように白くて尖ったものが並んでいるのが見えた。
それを見せるために開いたのだ。
涎《よだれ》のように粘液が落ちた。
悲鳴をあげて飛びのこうとしているのに、両股《りようもも》は、彼女の膝《ひざ》にがっちりと抑えつけられている。
「ね」
耳に唇を寄せるようにして、矢島久美が言った。
「こういうの、よ」
ぎちぎちぎち。
歯が噛みあわされる音。
鋭い痛み。
鋭くて、強い。
おかげで、どこが痛いのかわからない。下半身すべてが、痺《しび》れたようになっている。
このまま、噛み砕かれ、呑《の》み込まれる。歯車に――。
ぎち。
痛みで、耳の奥が熱くなった。ばりばりばりばり鳴っているのは、鼓膜なのかそれとも、噛み砕かれていく骨か。
そんなことを思っていたら、それは拍手に他ならないのだった。
割れんばかりの拍手。
頭が割れそうな――。
「こうして他の生き物の肉体の一部として、あるいはその肉体の内部で、かろうじて彼らは生き残りました」
演説は続いている。ということは、さっきのはすべて回想だったのか。はっきりと記憶に刻まれているあの痛みさえも。
「いつかの屋上で――自らの命を絶つために上っていったあの場所で――私は、そのことを知ったのです。喰い尽くされるままに喰い尽くされ、この世界から消えていかなければならなかったものたちの無念を。そして、その思いが今も受け継がれていることを知った、いえ、皆さんに教えられたのです」
声を張りあげ、拳《こぶし》を握りしめ、涙ぐみつつ鼻の穴を膨らませている。
「ありがとう、皆さん」
再び、大きな拍手が起こった。
皆、立ち上がっていた。泣いている者までいるのだった。
見たことのある顔が幾つもあると思っていたら、それはうちの会社の女子社員たちだ。
おれを見て、なにやら目くばせしあっている。
あいつらも、皆そうだったのか。女たちは、みんなどこかで繋《つな》がっている。屋上やトイレで、そして長電話でこんなことを相談していたのだ。
「ありがとう、ありがとう。よく話してくれましたね」
妻が、泣き崩れている矢島久美の肩を抱くようにして、言った。
「とっても素敵な、勇気が湧いてくるお話でしたわ」
またまた拍手である。
「では、皆さん、作業にとりかかりましょう。私たちの新しい楽園――ハグルマの国――を創るために」
声高らかに妻が宣言した。
そして、おれはといえば、妙に納得しているのだ。自分でも不思議なほど。
なるほど、自治会というのはこういうものであったのだ。最近、妻は、そこにおける権力闘争に夢中になっていたというわけか。
確かに、主婦をやっているよりよほどおもしろいに違いない。しかも見たところ、彼女はその闘争に勝利したらしいのだ。
結局のところ――。
おれは思った。
女というのは結局。
心の底では皆、男を憎んでいるのだ。
おおかた、これはそこに焦点をあてた宗教みたいなものなのだろう。
そういうことなのだ。
そこまで考えたおれの耳元で、妻が言う。
「まもなく、私たちの前に、新しい世界が現れます。かつて、楽園を追われ、暗い泥のなかで柔らかい身体を石に変えながら、ありえたかもしれない自分たちの世界を夢見た。そんな弱い者たちのための世界です。もう少しです。もうすぐです」
誰かが、背中を押した。バランスを崩したおれは、そのままよたよたと壇上へよろめき出た。
「大昔から、様々な形で引き継がれてきたその意志は、ついに今、それにふさわしい形をとりました。なんと、あのエディアカラ生物群を思わせる、薄くて平らな円盤です。そしてそのなかに収められた世界は、かつての彼らの柔らかい身体を思わせる名前でこう呼ばれているのです」
もったいをつけるように間をおいて、そして言った。
「ソフトウェア、と。この偶然――意味のある偶然――こそがまさに私たちの携わっている行為の正当性を裏付けるものだと言えるのではないでしょうか」
全員が悲鳴のような声をあげながら、両手を打ち鳴らしていた。そして、それが何の合図でか、ぴたりととまる。
そんな沈黙のなかで――。
「彼です」
妻が突然、おれを指した。
「今、彼が全力でそれを仕上げようとしているのです」
一礼して、言った。
「さあ、私たち自治会は、なんでも手伝いますよ」
妻と同じタイミングで全員がうなずいた。
「欲しいものがあれば、なんでも遠慮なくおっしゃってください。私たちは協力を惜しみませんよ」
まっすぐこっちに向けられた目は、おれなど見てはいない。
「自治会長として」
おれを通り越して、ずっと遠くを見つめている。
自治会長、か。
おれは笑い出しそうになる。
そんなこと言ったって、そんなものになったって、君はもう――。
おれは妻を見た。
この世にいないじゃないか。
もし今、ゲームの画面のなかの妻に向かってそれを言ったらどうなるのだろう。
すべてが終わるのか。そんなことはない。きっとそれすら、些細《ささい》なこととして片づけられてしまうのだろう。なんたって六億年の歴史だからな。そう、それを言い出せば、彼らは全員、六億年ばかり前に死んでいるのだ。
いや、今はそんなことより、妻が答を待っている。おれの答。
あのとき、彼女があんなに欲しがっていたおれの答。
「さあ、欲しいものがあれば、なんでも遠慮なく――」
そうか。
おれがほんとうに欲しかったもの。
たしか、あったはずだ。
自治会に。
おれが欲しがっていたもの――。
思い出すよりも早く、おれの口は開いていた。
そして、その言葉を発した。まるでそれがずっと前から用意されていた答であるかのように――。
おれは、言った。
「屋上への鍵《かぎ》」
*
ついにそれを――。
手に入れたぞ。
ということは、もう終わりは近いのだろうか。そういうことなのか。
手のなかにある錆《さ》びついた鍵を見つめたままそう思った。
冷たい感触。
さっきから掌《てのひら》で温めているのに、まだ冷たいまま。そのことによって、自らの存在を主張しているようにさえ思える。
ほんとうに、ここにある。
そう叫んでいるように――。
そうだ。ゲームのなかで手に入れたはずのアイテムが、ここにある。
ここ?
ここというのは、いったい、どこのことなのだろう。
いつから、こんなことになってしまったのか。これではまるで、週刊誌の埋め草コラムではないか。コンピュータゲーム症候群、とかバーチャルなんとか、とかそんな見出しで――。で、その内容はといえば、ゲームにのめり込むあまり現実と虚構との境目がわからなくなった人々が増加してどうしたこうしたという陳腐なやつ。
そんなもの、コンピュータゲームができてからはじまったことではない。人間はもともと虚構のなかに生きているのだ。手に入った情報を繋《つな》ぎあわせ、ひとつの世界を創り上げるのだ。自分が所属できる世界の物語を。
たまたま大勢で共有することができやすいそんな物語のことを、『現実』と呼んでいるだけのことであって――。とまあこんな意見もまた、同じような週刊誌のなかで読んだんだっけ。アイドルの素人時代の画像とか飛び降り自殺現場の写真とかの隙間を埋めているコラムか何かで。
あれ?
いつの間にか腰の痛みが消えていることに気がついた。
なんともない。
では、やっぱりここは現実ではないということか。
いや。待て。それではまずいような気がする。だってそれでは、あの腰の痛かったときのことが現実であると認めることになってしまうではないか。
わからない。
自分にとって、何がいいのか。
もちろん、わかっていることだってある。
例えば、こんなこと。
これがゲームのなかであろうと現実であろうと、会議の時間までに報告できるだけの結果を出さねばならない。それは両方のおれに共通する事実。
うん。
そうか。だから今はこうして、屋上へと続く階段の途中にいるのではないか。
右手に鍵を握りしめたまま。
一歩一歩、屋上へと近づいていく。
前にもいちど、こんなことがあったような気がする。
いや、それは気のせいではなく、実際にあったのだと思いなおした。
そうだ、前にやったことがある。いちどやったあのシーンにまた戻ってきたのだ。
だが、シーンこそ前にやったのと同じだが、違う点がある。
手に入れたのだ。必要なアイテムを。
今のおれは、開かなかったあの扉の鍵を持っているのだ。
だが待てよ。考えてみれば、妻はもうおれが鍵を持っていることを知っているのではないか。
なにしろ、その妻を通して手に入れたものなのだ。こうなってしまうと、妻がこっそりやっていることを盗み見るという当初の目的から逸脱してしまうのではないか。
そんなふうにも思った。
だが、ここは以前にあった場面。
つまり、過去なのだ。
だから、ここにいる妻は、おれに鍵を渡してくれた妻よりも以前の妻なのだ。では、おれが鍵を持っていることを、この屋上にいる妻はやっぱり知らないのではないか。
そんなふうにも思うのだ。
まあいい。
とにかく、会議に間にあわせなくてはいけないのだ。少しくらいつじつまが合わなくなったりするのはこの際、仕方がないではないか。だって、このゲームはまだ、未完成品なのだから――。
そう自分を納得させることにして、とにかく最後まで行ってしまおう。
それに、あの鍵をくれた妻と現実の妻とは違うのだ。ゲームのなかの〈おれ〉と、このおれが同じではないように。
だいいち、現実の妻は、もうすでにおれの手で――。
違う。
やめろ。
よけいなことは考えるな。
そう自分に言い聞かせてから。
消去しますか?
はい。
どうしても気になるならあとで、回想モードで処理してもいい。
そうだ。
ずっと忘れていたこと。
都合が悪いから、今まで忘れたことにしてきたこと。その記憶と対面する、ということにすればいい。
なるほど。つまり、鍵のかかった屋上というのは、思い出したくなくて自分で封じ込めていた記憶のメタファーとも解釈できるってわけだな。実に、わかりやすい。しかも、ブンガク的ではないか。こういうの、それらしいことをすぐ言いたがる底の浅いオタク好みではないか。
うん。
それでいこう。
決まったところで、鍵を入れる。
穴に突っ込む。入りにくくても無理やり突っ込む。
突っ込んだら、動かすのだ。
簡単だ。
なかで、音がして、何かが動いて。
そして、何かが、外れた。
*
ノブに手を掛けて――。
回した。
身体ごとドアにのしかかり、ゆっくりと押す。ざりざりと錆《さび》の剥《は》がれる感触。
少しずつ大きくなる隙間。射してくる白い光。
外は、明るい。いつか見たのとそっくりの月が出ていた。
屋上を照らしている。
屋上の端に人影が見える。
ふたつ。
こっちには気づいていない。
中央にそびえる給水タンクの陰に身をひそめる。平坦な屋上にはほかに隠れるところはない。
給水タンクの根本にうずくまったまま、コンクリートの上の自分の影を見つめている。
影踏みができそうなほどくっきりした影。
すると。
また聞こえた。
妻の笑い声だ。
いっしょにいるときにあんな声を聞いたのは、ずいぶん前ではなかったろうか。
そんなことを思いながら、自分の影を見ているのだ。まったく、何をやっているんだろうな。
こんなところで、ひとりで――。
いったい、何をどうしようとしているのだろう。何をどうしたいと思っているのだろう。
声が変わった。
もう笑ってはいない。
そして、とぎれとぎれに聞こえてくる妻の声。
あの声。
あのときの。
甘えた犬が鼻を擦りつけてくるときに出すような――。
「もっと」
吐息に混じってそんなささやきがここまでとどいた。
次第に荒くなっていく呼吸音。それは、押しころしたような喘《あえ》ぎ声に変わっていく。
声が出てしまうのを堪《こら》えようとして、それでも出てしまうのだ、きっと。それで、あんな声になる。
そのくらいのことは、わかる。
おれにだって。
自分が震えているのに気がついた。月の光の下で、顔の前にかざした手は、おもしろいように小刻みに揺れている。まるで自分の手ではないみたいに――。
声が聞こえる。
頭が熱い。怒りで、熱くなっている。
どうするつもりだ?
さっきから何度も自分につぶやいている。
いや、まだ。
まだ。
そうだ。声だけで判断してはいけない。いったい何をやっているのかをこの目でしっかり確かめてから。
そう声に出してつぶやいたときには、もう立ち上がってしまっている。はじめはタンクの支柱の陰からそっと覗《のぞ》いていたが、すぐにそんなことをしなくてもいいことがわかった。
今やふたりとも、行為に夢中でまわりのことなど目に入っていないのだ。
屋上の隅。
フェンスの前で、影が動いていた。
奇妙な形の影だ。
まるで、人間ではない生き物のもののように見える。
ふたりの身体が絡みあって、ひとつになっている。それでそんなふうに見えているのだろうか。
だが、それにしてもあれは――。
さっきからどうも見えにくいと思ったら、月が雲に隠れてしまっているのだ。
だから、不定形の黒い塊が蠢《うごめ》いているようにしか見えない。そして、おれはそこから目を離すことができないのだ。
足音を立てないようにして、近づいていった。そこまで行ってやっと、その異常さに気がついた。
いくらふたりの身体が重なりあっているにしても、それはあまりに大きい。
大き過ぎる。
おまけに丸い。まんまるだよ。
これは、なんだ? この大きな円。その円の周囲が波打つように、ふるふると震えたりしている。
いったい何がどうなって、そんなふうに見えているのか、さっぱりわからない。
おれの立っているこの位置からは、ほんの十メートルほどしか離れていないのに――。
突っ立ったまま目をこらしていると、月が現れた。
途端に、はっきり見えた。おれの望み通り。
ところがね、はっきり見えているのに、そこにあるのが何なのかは、やっぱりわからないんだよ。
ふにゃふにゃしている。巨大な蛭《ひる》のようなもの。
それは襞《ひだ》のある縁を宙にゆらめかせていた。
ここが海底のように感じられるのは、月の光のせいもあるのだろうが――。
そもそも、そんな薄くて柔らかいものが陸上で存在できるとも思えない。あんなのは、浮力の働く水中だからこそ――。
ふにゃふにゃ、ゆらゆら、浮かんで。
それが、妻の上に覆い被《かぶ》さっていた。その薄い膜で妻の身体を包み込もうとするように――。
いや、覆い被さっているのではない。
それが今、はっきりとわかった。
その薄くて柔らかいものは、妻の肉体と繋《つな》がっているのだ。
妻の肉体――その内部から、外界へと引き出され広がったものなのだ。
腹を裂かれて、内臓を空中にぶちまけられているのではないか。一瞬、そんなことを思った。だが、そうでないことは、妻の声を聞いているだけでわかる。
あの、声。
あのときの声。それにあわせるように、膜の縁が波打ち、空中に広げられていく。妻の身体のなかからはみ出した何かが、膨らみ、引き延ばされ、今では妻の身体より大きくなっている。
そして、それをしているのは――。
もうひとつの人影だった。それは、はっきりと人間の形をしていた。そいつが、妻をそうしているのだ。妻の肉体をどうにかして、何かを引き出している。
コンクリートの上に、妻の着ていたらしい服が散らばっている。脱がされたのかそれとも自分で脱いだのか。
とにかく、妻が裸なのだということはわかる。
妻の身体の大部分は、あの柔らかい薄っぺらな肉に包まれているから、それを見るまでそんなことさえわからなかったのだ。
このまま、妻が裏返ってしまいそうな気がした。いっしょにいる誰かの手によって、べろりと裏返されるのだ。
妻の外側を形作っていた部分は、もうほとんど見えない。あと、残されているのは、堪《こら》え切れずに声をあげつづけている顔の部分だけだ。
そんな妻に、そいつが覆い被さって何かをしている。
余裕をもった動き。
つまんだり、ひねったり、なでたり。
いじくりまわしている。
もうすでに顔のあたりだけにしか元の姿をとどめていない妻は、その度に大きく声をあげ、鼻を鳴らして――。
甘えている。
犬のように。
おれは、もうずいぶんながいこと、それを眺めている。
突然、男の手がとまった。
そして、ゆっくりと振り向いたのだ。
わかっていた。
見られているとわかっていて、そうしている。
振り向いた男と、まっすぐ目があった。
おれのほうから目をそらした。そしておれは、給水タンクの陰に隠れたのだ。妻に見つからないように。
「ねえ、もっと」
妻がささやいている。
「おねがい」
あの、声。
今のは――。
知っている顔だった。だが、そんなことがあるだろうか。
「次は、いつ?」
泣き出しそうな妻の声だった。
しばらくの沈黙のあと、妻が服を着ているのが気配でわかった。それから妻は、おれのいる給水タンクの脇を通り過ぎ、階段へと続くドアの鍵《かぎ》をあけ、屋上から出ていった。
ドアの前でいちどこっちを振り向いたが、おれには気づかなかったようだ。たぶん、それどころではないのだろう。
「まいったなあ」
聞き覚えのある声が、言った。
「いつから、そこにいたんですか」
やはり見間違いなどではなかった。
「出てきてくださいよ、もういいでしょう」
おれは立ち上がり、支柱の陰から出る。まだ、身体が震えていた。
「おどかしっこなしですよ」
そう言って、石室は笑った。
「何してたんだ」
声がうまく出せない。喉《のど》のあたりの筋肉が硬くなっている。
半泣きの子供の声みたいだ。
「おまえ――」
我ながらなさけない。
「ここで、何してた」
「ずっと見てたんだから、わかってるでしょう」
石室が言った。
「作ってたんですよ」
「なんだって?」
おれが一歩踏み出すと、石室は一歩退く。
「怖い顔だなあ。いったい、どうしたんですか。そういう生々しい人間関係って、苦手なんですよ。あんまり近寄ってこないでくださいね」
唇を歪《ゆが》ませてそんなことを言うから、もう一歩踏み出した。
しゃん。
軽い金属の音。
後ずさる石室の背中が、屋上の縁にあるフェンスにぶつかったのだ。三メートルほどの高さで屋上をぐるりと囲っている金網。安全のため、とかでいつからかこんなに高くなった。
「ちょっと、ちょっとお、ほんとやめてくださいよ」
石室は、金網に両手両足をかけ、そのままよじ登って逃げるような仕草をする。
そうやって、ふざけているつもりらしい。
「ねえ、何を怒ってるんですか。わかんないなあ」
石室は笑いながら続けた。
「だって、かわりに矢島久美を渡したでしょう。それでいいじゃないですか」
なおも身体を押し上げながらそんなことを言うのだ。
フェンスの上から――。
「おあいこじゃないですか」
そうなのか。石室に命令されて、それでおれのところに来たのか。
「そうですよ。だって、あいつぼくにめろめろなんだもん。あれれ」
石室が首を傾げて言った。
「もしかして、自分に魅力があるなんて思ってましたあ?」
ぎしぎしぎしとさっきから聞こえるのは、フェンスの網目が軋《きし》む音。
石室は登っていく。
虫のように。
ぎしぎし。
ベッドのバネが軋むような音だ。
なぜか、そんなことを思った。
フェンスの上に腰かけて足をぶらぶらさせながら、おれを見下ろして叫んだ。
「なんで怒ってるんですよお」
石室の靴の裏が見える。
「わかんないなあ」
「何をやってたのかと聞いてるんだ」
「見てたらわかるでしょう、そんなこと」
石室が言った。
「作ってたんですよ、ハグルマを。まったく、ここまでもっていくのにはすごく苦労したんだから。まあもちろん、楽しいこととか気持ちいいことも同じくらいあったんだけど」
笑った。
笑いやがった。
石室の肩越しに月が見えている。それがまぶしくて、表情がよくわからないが――。
でも、確かに笑った。
「そっちの首尾はどうでした。うまくやれましたか」
フェンスの上で、足を大きくぶらつかせる。
「ねえ、いっそのこと、このまま、取り替えっこしちゃいませんか。だってもう、やったんでしょう」
石室が言った。
「ぼくとしても、もうあんな女、いらないし。それに――」
かつん。
踵《かかと》で金網を蹴《け》った。
「あれ、もうだいぶ壊れてきてるんだよな。ちょっとばかしいじり過ぎました。クスリとかも好きだから、あの女。ちょっと失敗だったかな。うん。ぼく、正直だからこういうことも言っちゃいますけど」
突然、月が膨らんだように見えた。石室を包み込んで。
いびつな月のなかで、石室がしゃべっている。
「だからねえ、素材としちゃあもうダメですね。いや、でもほら、若いから。やるぶんには、けっこういいでしょ。悪くはない。でも、ぼくはもういらないです。その点、奥さんはとっても感度がいいし、なんたってほら、今は本人のほうがぼくに夢中だから」
こういう場合は、どうすべきだろう。ここは、ただ黙って聞いているというシーンなのだろうか。それとも――。
「ねえ、倦怠期《けんたいき》ってやつですかね。そうでしょう。だから、お互いにいいと思うんですよ。ねえ、取り替えっこしましょうよ。まあ正直言うと、ぼくも、もうそろそろ疲れてきちゃったんですよね。だってほら、これってもうずいぶん前から続いてるみたいじゃないですか。何千年前だとか、まあほんとかどうか知りませんけど、そんなこと言ってたなあ。呪いだとか黒魔術だとか、時代とか地域によっていろんな呼ばれ方をしてたみたいだけど、まあようするに味付けとか飾り付けが違うだけですよね。近頃じゃ、量子力学だとか複雑系だとか、まあそのあたりですか。だからぼくたちのこんな業界に持ち込まれたんでしょうね。だから、そのあたりはいいようにやってくださいよ。本質さえ外さなければ、形式とかそういうのは作り手にまかされてるみたいですから。まあ、ぼくみたいなのの後釜《あとがま》ってのは嫌かもしれないけど、そこんところは大人として我慢して貰《もら》うしか――」
「黙れ」
おれは喚《わめ》いていた。
「わけのわからんことばかり言ってないで、ここへ降りてこい」
それから、おれは――。
いや。そんなつもりはなかった。ただ、ここまで降りて来させようとしただけだった。
急《せ》かすつもりでやった。
ほんとうだ。
ただ、それだけ。
身体ごとフェンスにぶつかった。
そんなつもりではなくて。
ただ、軽く。
まさか、そんなことになるとは――。
しゃん。
金網が鳴った。
その音はよく憶《おぼ》えている。
しゃん。
石室が大きく揺れた。
明るい月と重なって。
「じゃ、あとは、よろしく」
揺れながら。笑ってそう言った。
おれに――。
そのまま、すとん。
後ろに倒れた。
人形のように膝《ひざ》を九十度に曲げたそのままの姿勢で――。
フェンスの向こうに落ちていったのだ。
バランスを崩したのか、それとも自分からそうしたのか。
わからない。
地面にぶつかる音は聞こえなかった。
いや、聞かなかっただけなのかもしれない。
とにかくこの場を離れることだ。我にかえって最初に思ったのは、それ。
震える手でドアを開けた。
それから、持っていた鍵を使って再びもと通り鍵をかけた。
ハンカチでノブの指紋を拭《ふ》き取って、階段を駆け降りて――。
廊下に出た。
そこで立ち止まった。
なんだかよくわからない。
いろんなことが。
なぜかそこは、会社の廊下なのだ。
会議室の前の廊下。
なぜ、こんなところに出たのかわからない。確かさっきまでおれは、団地の屋上にいたはずなのに。
そうか。
浮かんだ答を口に出してみる。
バグだ。
これは、ゲームのバグなのだ。そうに違いない。未完成のゲームの場合にはよくあることだ。シーンが急に跳んでしまったりする。それほどおかしいことじゃない。
そういうことなのか。
よし、それならそれで、排除しなければならない。それがおれの仕事だからな。
つぶやきつつ、会議室のドアを見た。
さっそく、ドアに耳をあててみる。
よし。
部屋のなかからは何も聞こえてこない。それで、安心した。
もういちどドアの上を見たが、あの自治会室と書かれたプラスチックのプレートも掛かっていない。
つまり、今日ここで開かれることになっているのは自治会議などではなく、会社の定例会議なのは間違いないのだ。
よかった。
いや。
そうだ。
そうだったそうだった。ちっともよくない。もうあまり時間がないではないか。
腕時計を見た。
早い者ならもう出社してくる時刻だ。あわてて廊下を走り、いちばん奥の部屋に飛び込んだ。入る前にドアの外で部屋のなかの物音を聞くのを忘れていた。それほどあわてていたのだろう。
入ってすぐコピー機を見た。
よし。
何も吐き出してはいない。おれにとってまずいものは何も――。
安心。
部屋が妙に明るいなと思っていたら、いちばん奥の壁際に置いてあるマシンのディスプレイが発光している。
壁と天井をぼんやり照らす青白い光。まるで幽霊のような――。
いや、幽霊などというものを実際に見たことはないのだから、正確には幽霊を連想させるような不確かな光、とでも言うべきか。
気にするな、そんなもの。
つぶやきながら、さっそくマシンのなかに身体を滑り込ませる。
シートに収まった。使い慣れているせいか、なんの違和感もない。まるで身体の一部のような、あるいは、身体のほうがこのマシンの一部になったような――。
あれ、そういえばいつの間にか、腰の痛みがなくなっているな。
これは嬉《うれ》しい。
思い出したくもないあの感覚。動かすことが怖くなるようなあの痛み。
早目に出勤してきた者があのドアを開けたとき、驚くかもしれない。だって、こんなふうにしてここに座っているおれは、まるで幽霊のように見えるだろうからな。
そんなことを思う。
だって、あの噂はもう皆、知っているらしいから。
このマシンに出る、という噂。
そんな話が好きな連中が多いからな。おかげで近頃、この部屋は開かずの間などと呼ばれているらしい。こうやって、いつもおれがいるっていうのに――。
笑ってしまう。
馬鹿馬鹿しくて。
堪《こら》え切れずに、声を出して笑う。
そうだな。
そんなことを信じているやつらのなかには、短い悲鳴をあげ、跳び上がる者もいるだろう。
ぴょん。
そいつの反応がものすごく楽しみになってくるのだ。
例えばこんな具合――。
わあっ、びっくりして後ずさる。ずず。
わあっ、びっくりして腰抜ける。へな。
わあっ、びっくりして失禁する。じお。
わあっ、びっくりして脱糞《だつぷん》する。ぶり。
わあっ、びっくりして気が狂う。ぱあ。
わあっ、いくらでも出てくるぞ。ぴか。
その度に声を出して笑ってしまう。腹が痛いほど笑って、でも笑いながらも、やりかけていた作業は続ける。続けなければならない。
だって、おれと〈おれ〉、おれたちには、もうほとんど時間がないんだからな。
*
部屋に入ってきた男は、まるでびっくりしなかった。
がっかりだ。
あの黒田とかいう刑事だった。
それで二度がっかり。
「ああ、やっぱりこちらにいらしたんですかあ」
ドアを開けるなりそう言った。なんだ、ここにおれがいることを予想して入ってきたのなら驚くはずがない。
ぶちこわし。
興ざめだ。
あああ。
期待して損した。
「あの、今、ちょっと忙しいんですがね」
「ああ、それは存じております。なんでも今日の会議ですごい発表があるそうですね。新しい商品とやらの」
おいおい。
なんだよおい。どうなってるんだ。こっちが驚いてしまったよ。
「そんなの誰に聞いたんですか」
「そりゃもう、皆が噂してます。大評判ですよ」
どうせ矢島久美あたりだろう。あの愚かなる女。会社の利益など考えもせず、本能のままにしゃべりまくる女なのだ。
「ところで、矢島さんからお聞きしたんですが――」
そらみろ。
「その新製品のゲーム、ですか。なんでも、もともとは石室さんが手掛けてたものらしいですね」
「ええ、そうですよ」
どうせ知っているのだ。そのうえでこっちの反応を見るためにしている質問なのだ。隠しても仕方がない。
「聞くところによると、あなたが直接、石室さんからその仕事を引き継いでくれるよう頼まれたそうですね」
「ちょっと待ってください。誰がそんなこと言ってるんですか」
「えっ、そうじゃないんですか」
取り替えっこしようよ。
どこかから、石室の声が聞こえた。
「いったい、誰がそんなこと言ってるんですか?」
「あの、社内の噂っていうか」
「矢島久美、でしょう」
おれが言うと、「はあ」とうなずいた。
「こっちとしては、もういいかげんにして欲しいと思ってるんですよ」
おれは立ち上がって喚《わめ》いた。
「聞かないほうがいいですよ、あんな女の言うこと。だいたい、あいつ、まともじゃないんですよ。おかげでこっちは、大いに迷惑してるんだ。以前にあの女と石室の間に何があったのか知らないけど――。ちょっとおかしくなってるんじゃないですかね、頭が。石室が死んだショックか何かが原因で」
「あ」
黒田は口を半開きにしたまま、放心したようにしばらく静止していた。
「そうだったんですか」
「そうだったんですよ。わかりましたか。わかったらもうこれ以上、仕事の邪魔はしないで貰《もら》えませんか」
「いやいやいやいや」
大げさに首を左右に動かした。
「もちろん、そんなことはいたしません。ただ、ですね」
そこでわざとらしく手帳を開いてみせる。
「私のほうも仕事上、どうしてもお尋ねしておかなければならないことがあるんですね。まあそのままで結構ですから、聞くだけ聞いていただけますか」
顔をマシンのなかに突き出して、おれの頭越しに画面を覗《のぞ》き込んできた。こんなやつには、どうせ注意しても無駄だろう。うっかりしたふりをして、こういう見え透いたことを何度でも繰り返すのだ。安手のテレビドラマみたいに。どうやらこいつは、そういうキャラクターらしいな。
「ほら、このあいだ、写真、お見せしましたよねえ――」
その黒田が、しゃべりはじめた。
流れにのって、しゃべり出すと、あとはもう一方的。こっちは黙って聞いているしかない。
*
あのふたり、殺されたって私言いましたよね、この前。でも、それって正確じゃないんですよ。ええと、つまり、全部が見つかったわけじゃないんですね。だから、まだわずかでも生きている可能性はないわけじゃない。ま、細かいことなんですけどね。だからいちおうは行方不明ってことで。
その、行方不明になったときなんですけど、ま、ひとりは入院中でしてね。それが無断で外出したまま帰ってこない。もっとも、入院ったって、本当にどこかが悪かったのかどうかはわかりません。ええ、そういうやつなんです。だから、勝手に外出することもよくあったんですが――。
それでも、一週間たっても帰らないし、自宅にもいないってなるとね。ええ、ちょうどその頃に、乗り捨てられた車も見つかりまして。おまけにですね、そいつとよくツルンでた同じようなやつも、同じ頃に行方がわからなくなってるんですな。
看護師の話では、いなくなる前、ふたりでいっしょに病室を出てるんです。それまでにも、よくふたりしてどこかへ出かけてるらしくて、ああまたか、程度にしか思わなかったって言ってますけど。まあ、注意なんかしても聞くようなやつじゃないし、あんまり関わり合いになりたくなかったんでしょうな。
いやいや、まあそれだけなら別にいいんです。いなくなったって誰も困りはしません。我々だってそんなことに税金使ったりしんどい思いしたりなんかしませんよ。
ところがです。
出ちゃったんですね。
全部じゃない。腕とか足首とか、そんなのです。バラバラになってるんですね。
それで、まあ、まだ首が出てないんで、生きてる可能性がないわけでもないって話になってるわけなんですが。いや、まあそれはどっちでもいいことで。
ええ、そうなんですよ、こうなってくると、そいつらのことなんかどうでもいいんですけど、犯人までどうでもいいってわけにはいかなくなりましてね。だって、一般市民も危険にさらされる可能性があるわけですから。
ほら、これで犯行が終わったとは限らないじゃないですか。
ね。もし仮にですよ、これが流行《はや》りの快楽殺人とかそういうのだとすると。
だから、私たちもこうやって動いてるわけでして。
あ、そいでですね、写真見たとき、あなた、見覚えないっておっしゃいました。確かにそうですよね。
でも、あれ、嘘でしょ。だって、少なくともあのふたりの片方は、ここに何度か来てますよね。それも、わざわざあなたを訪ねて。
いやいやいやいや、これもね、噂になってるんです。だって、もう見るからにヤクザですからね、こいつ。こんなのが会社に来たんじゃね。
さて、そこでお聞きしたいんですよ、なんでそういう嘘ついたんですか、ってことをね。さしつかえなければ、そのへんの事情をですね、じっくりと伺わせていただきたいわけで、お忙しいのは重々承知なんですが、ちょっとおつきあい願えませんか。その、重要な会議、ですか、その会議が終わってからで結構ですから――。
いやいやいや、任意ですよ、もちろん。
あ、そうそう、それと、あなたの奥さんのことなんですけどね。これ、別に関係ないかもしれないですけど。まあ、ついでに伺ってるだけなんですが。
どうやら、石室さんの仕事を手伝ったりしてたみたいですねえ、あなたの奥さん。
えっ、ご存知なかったですか。
ほら、奥さん、この会社を辞める前には石室さんともいっしょにお仕事されてたんでしょ。それも、何年かは、石室さんの下で。ええっと、なんだっけ、プログラマーってやつですか。いや、ゲームデザイナー、だったかな。すいません、そのあたりのことあんまりよく知らないんですけど。
それに、なんか、団地の有志でそんなことをやろうってことになってたらしいですね。まあ、主婦のアルバイト、みたいなもんですか。気の合う主婦とかが集まって。
昔でいう内職ですよね。何人かでゲームのプログラム作業の下請けみたいなことをやることを計画してたって話があるんですが、これもご存知ありませんか。
あなたの奥さんが中心になって指導してたみたいなんですけど。
ええ、かなり大規模にです。まあ最近の主婦なんてのは、機械にも強いひとが多いし、学歴も、暇もあるんですね。
あ、でも奥さん今は、旅行中、でしたっけ。ずいぶん長いみたいですが、どちらまで? 海外ですか。いいですねえ。
へえ、ひとりで、ですか。
いや、うちの娘もふらっと出かけちゃったりするんですけどね。
ところで、いつからお出かけなんでしょうか。いえ、団地の方に聞いたんですよ。ずいぶんお見かけしてないって。
ちょっとそのへんのことも、お聞かせ願えたらなあ、なんて。
*
さっきからこの男は何をしゃべっているのだろう。なんだか言葉だけが目の前を素通りしていくような気がする。
さっぱりわからない。何を言いたいのか。なんのためにこんなことを長々としゃべっているのか。
だいたい、こいつがさっきから話している内容というのは、ゲームのなかであったことばかりではないか。それにしても、なぜこいつ、こんなことまで。
いくら社内で噂になっているとはいってもこんなに細かいところまでは――。
待て。
突然、ひとつの可能性に思いあたった。
もしかしたら――。
そうだ。
それでつじつまはあう。すべて。そんな可能性におれはたどり着く。
やはりこの男は刑事などではなく、それに成りすました他社のスパイだ。
それ以外に考えられない。
あの手帳にしたって、おれは実物など見たことがないのだから、あれが本物かどうかなどわかりはしないのだ。
だいたい、この男がやたらと聞き込んだり、嗅《か》ぎ回ったりしているのは、いまおれがやっているこのゲームのことばかりだぞ。
ばらばらの腕だの足首だの――。
そんなおれしか知らないはずのところまで、調べているらしいのだ。
そうだ。
それしかない。
今、確信が持てた。
ほら、その証拠に――。
現に今も覗《のぞ》き込んでいるではないか。
今やっている画面をやけにしつこく。
まずい。
これ以上見られないようにしなければ。
セーブできなくてもいいからディスクを取り出すことで、ゲームを強制的に中断するのだ。
だって、ちょうど今、画面にはおれが映っている。あの包丁を持っている。前にもこんなシーンがあったような気がするから、これは回想モードなのだろうか。続いている。
もうこれ以上、見られてはいけない。
取り出さねば。
早く。
ところが、いくらそうしようとしても、機械がまるで反応してくれないのだ。こんなことが前にもあったような気がした。あれはいったい、いつのことだったのか。夢のなかでもがいているようなもどかしさ。
「ハグルマ」
おれの反応を見るように、黒田がささやいた。
「そういう名前らしいですね、このゲーム」
おれは答えない。
答えずに、ボタンを押し続けた。ディスクを取り出すための。
なのに。
出てこない。
中断されない。
ゲームのなかの〈おれ〉。
画面のなかのおれが、止まらない。
それを――。
見られている。おれのやっている一部始終を――。
くそ。なぜ出てこない。何かが引っかかっているのか。
ざり。
スリットの奥で、何かが擦れる音がした。耳障りな音。
がりざりざりがりざり。
ディスクがなめらかに回転していない。
「あれれえ」と、おれの後ろからディスプレイを覗き込んでいる黒田。
「こりゃあまた、えらくリアルな映像ですなあ」
わざとらしく大声をあげた。
そこに映し出されているのは、包丁を持ったおれだ。
近づいてくる。画面の奥から、まっすぐこっちへ。
黒田がおれの顔を見る。
おれの顔と、画面のなかのおれの顔とを、交互に見る。
「いやあ、まったく、最近のゲームっていうのは」
つぶやきながら、身を乗り出してきた。画面に近づいてもっとよく見ようとして――。
ざりがりがりがり。
スリットのなかのノイズが大きくなった。
ざああああああああああああああああ。
まるで波の音のように激しくなり、そして画面いっぱいのおれの顔。広角レンズで撮影されたように縁が歪《ゆが》んでいる。
く、け。
そんな間のぬけた音が、聞こえた。黒田の声。
いや、声というよりは音。
空気の洩《も》れる音、だな。
だって、ほら、黒田の腹には、包丁が刺さっているのだ。
そして、その包丁を握っているのは、ディスクのスリットのなかからまっすぐ突き出されている腕だ。
人間の腕。
あのマシンにある細長い隙間――スリット――が、いつか見たときのようにまた柔らかくなっている。
肉の割れ目のように――。
柔らかくなって、ひろがって、そして内側からそれをさらに押しひろげるように突き出された右手。
しっかりと握られている包丁は、黒田の腹から横隔膜、そして背中へと突き抜けている。
シャツの染みが、包丁の周囲にひろがっていく。まるで早送りの雨雲の映像でも見ているように。
黒田が、不思議そうに、それを見ている。その顔は、なんだか困っているようにも見える。そうだな、例えば、上司のおもしろくない冗談にどう反応したらいいのかわからない、そんな顔つき。
だが、ようやく決心がついたように、そのまま前のめりに倒れる。
おれが、笑っていた。
画面にいるおれが――。
それからスリットから突き出ていた手は包丁を離し、おれにさよならでもするようにぱたぱたと動いて。
すたんっ。
そんな音とともにまたスリットのなかへ、消えた。
吸い込まれるように。
突然、黒田が叫び声をあげた。今になってやっと声の出し方を思い出したらしい。
腹を両手でおさえ、床に転がった。そのまま、のたうちまわっている。
何を言っているのかさっぱりわからないのはあいかわらずだが――。
さっきまでその腹に刺さっていた包丁がいつの間にやら無くなっている。どこへいったのだろう、と思ったら、なんとこのおれが握っていた。
おれの右手が握っているのだ。
いつそうしたのかわからない。きっと、何かのはずみでそうなってしまったのだろう。
そう、ちょっとした、はずみだ。
まったく。
はずみというのは恐ろしいな。
なんだか前にもこんなことがあったような気がする。そう思うのはこれで何度目なのかな。前のあれはいつだったろう。前とは言っても、それほど前のことじゃない。
妻のときか。
そうだ。
あのときも、気がついたらこんなふうにおれの前に倒れていた。
ずっと倒れたままかと思ったら、腹からだぼだぼ血を噴きこぼしながらも立ち上がり、それでどうするかと思ったら、ドアのほうへ行こうするのだ。なあんだ。おんなじだよ。あのときと。
そうか。
それなら話が早い。
あのときと同じようにすればいい。
とまあ、そんなふうなことを頭のなかで考えるよりも早く、肉体のほうが動いていた。駆け寄って、追いついて、後ろから喉《のど》の上に包丁をまっすぐあて、左手を包丁の背に添えるようにして、強くなめらかに引く。
ゆっくり、確実に。
前にもやったことがあったから今度はずっと落ち着いてやれたと思う。いちどやれば、二度目からはずいぶん楽になる。
ゲームに限らず、世の中の大抵のことは、そうだ。
だからこそ、今度は肉を裂きながら刃が滑り込んでいくときの感触を楽しむことさえできた。
自分でも満足のいく結果が――。
そんなことを思っていたところが、床を見ると血まみれではないか。
くそ。
なにしろ急なことで、ビニールシートの用意がなかった。まあ仕方がないといえば仕方がないが。
床にできた血溜《ちだ》まりに沈むように倒れている黒田を改めて見た。
これは――。
やっかいなことだ。
思わずため息が出た。それから右手に握っている包丁をつくづく眺めた。
おいおい、まただよ。このままではおれが犯人にされてしまう。
まずい。
これをどうしようか。どうにかして、隠さねばならない。
それに、これがいちばん肝心な点なのだが、もうまもなく会議が始まる時間ではないか。それまでに――。
なんとかしなければ。
クリアしなければ。
次に、進めない。
会議までには。
この始末を。
こんな時間にこの部屋に入ってくる者はいないだろう。そうは思ったが、念のため、コピー機をドアの前に移動させることにした。
誰も入ってこれないように。
それにしてもこれは――。
重い。
腰にくる。
だが、そんなことは言っていられない。
抱きつくようにして、身体ごと動かす。
少しずつ。
ずり、ずり。
ずり。
と、動かすときにボタンに触れたのか、勝手に動きだした。
くそ。
誰だ。
また電源を入れたのは。
帯状の光がまぶしい。
目が痛くなる。
くそ。
ずいいいいいいいいいいいいいいむ。
吐き出されてくる紙。
誰かの顔が写っている。
歪んだ顔。
これが――おれなのだろうか。
小さく畳んで尻《しり》ポケットに入れた。
これもあとでどこかに捨ててしまわなければならないな。
部屋の中を見回して、改めて、どうすべきかを考える。
だいたい、こいつは何者だったのだろう。刑事と名乗る他社のスパイ。うん。そこまではわかっている。
そういえば、最初に会ったとき、そんな話をしたような気がする。
ゲームの世界観みたいなものに影響を受けやすい人間の話。現実までゲームのように考えてしまうような。
この男こそが、まさにそうだったのだろう。
劇場型。いや、いっそディスプレイ型犯罪、とでもいうべきか。
刑事に成りすまして、ライバル会社の情報を盗もうと侵入してくる。わざわざ、ありもしない事件まででっちあげて――。そんなゲームのなかのイベントじみたことを、頭のなかで想像して楽しむだけでなく、現実の行動に移してしまう。
そんな犯罪者。
そういえば、さっきもそうだった。ゲームのなかで起きたことを、まるで現実の事件ででもあるかのように話していたな。
バラバラ殺人だとかなんとか。
それにしても――。
わからないのは、なぜあそこまで詳しくこのゲーム内容を知っていたのかということだな。まだ、発売されてもいない、誰もプレイしたことなどないはずのこのゲーム。おれしか知らないような細かいところまで。いくらスパイだとしても。
いったいどうして――。
そこまで考えたとき、ふいに答はやってきた。
目の前に倒れているこの男の正体と、そして今からこれをどう処理すればいいのか。
その答。なんと両方いっしょに、だ。
ちょっと驚いたが、まあそういうふうにできているのだろうな、とも思った。問題が解決するときというのは、そういうものだ。
そうだ。たぶん、これで間違いない。
つまり、正解はこうなのだ。
この男、実は、ゲームのなかのキャラクターなのだ。
うん。そうだよ。
それなら、いろんなことを知っているのも当たり前。だって、あの世界に所属するキャラクターなのだから。
つまり、おれがやっていたあのゲームのなかの登場人物のひとり。
それがこいつの正体。
なあんだ、そうか。そうだったのか。
それならすべてつじつまがあう。笑って納得できる。
そして、そのことさえわかってしまえば、後始末だって呆《あき》れるほど簡単なことなのだ。
つまり――。
ゲームから出てきたものは、またゲームのなかに帰してしまえばいい。
そういうこと。
マシンを見た。
スリット。さっき包丁を持った手が出てきたスリット。
まだ歪《ゆが》んでいる。とろけそうに歪んで、さっきまでの行為の余韻を楽しんでいるかのようにゆっくりと脈打っているのだ。きっとその部分はまだ、柔らかいだろう。
柔らかくて、熱い。
あそこ。
そうだ。あそこに押し込んでしまうのだ。まだ、あそこが柔らかくて熱いうちに――。大き過ぎるのなら、切り分ければいい。これも一度やったことがあるから大丈夫。要領はわかっている。
よし、これで解決。
時計を見る。
たっぷりとはいえないが、まだ時間はある。
これでなんとか最後までたどり着けるはずだ。急ごう。
なんとか会議に間に合わせなければならない。たとえ、全部はできなかったにしても、これならなんとか発表できる状態にまではもっていける。
これで、おれの首もつながるか。
皮一枚でね。
笑い出しそうになった。
だって、そのために今から他人の首を切るんだぜ。
笑ってなどいないで、とにかく早くやってしまおう。それで格好だけはつくだろう。それが終われば、あとは、発表の体裁を整えるだけだ。
なんとかそれらしく。
あるだけの材料を使って、この担当を降ろされたりしないような立派な発表をするのだ。それさえできれば――。
そうとも。
大丈夫。
よし。
念のために、ここはひとつシミュレーションをしてみることにするか。会議で発表するところを想定して。
ちょうどいい、このゲームのなかには、おれとそっくりのやつがいる。さっそく、こいつにやらせてみよう。
まず、〈おれ〉をホワイトボードの前に立たせた。
よし、開始。
えー、まず、このゲームの特徴なのですが、第一に、非常にリアルである、という点ですね。ことに、不安感とか不快感といった従来の商品にはみられないような、いわば精神面におけるマイナスの感覚が強調されておりまして――。
自信をもって、堂々と。
本当ならこのあたりで、オープニング画面などをモニターを使ってみせるべきなのだろうが、どうやらこのゲーム、終了させるまでは最初のところに戻すことができないらしいのだ。だからこのへんは現物を見せずになんとか誤魔化すしかない。
誤魔化せるかな。
やるしかない。
まあ、いざとなれば今やっているシーンを見せてしまえばいいだろう。死体の処理さえきちんとやっておけば、まさかおれが犯人だなどとは思うまい。
もし疑うような者がいたら――。
まあ、そのときはそのときで対処を考えなければならないだろうが、それほどやっかいとも思えない。二度目からは、ずっとやり易くなるものなのだ。
どんなことでも。
だから。
安心して。
落ち着いて。
先を続けよう。
えー、このゲームを前に進めていくエンジンとなっているのは、はるかな過去に滅ぼされた者たちの怨念《おんねん》とでもいうべき精神の力でありまして、ゆえに現存するすべての生き物への呪いがここには込められております。彼らの世界を滅ぼしてこの世界が生まれたわけですからして、もちろんこれは正当な呪いなのでありまして、そのあたりで弱き者として迫害されてきた女性などには特に人気がでるであろうことは間違いありません。そもそも団地の自治会などというのも、これがもとになってできたものなのです。例えば、団地というのは、ご存知の通り核家族がたくさんいますから、多細胞生物というより多核生物と考えられるものでして、これは現在の植物とも動物とも違っております。まったく我々の知らなかった生物の概念でありまして、そこには暇な主婦がたくさんいて浮気をしたりしています。先日亡くなった石室君もこの主婦たちをアルバイトとして使って何かをしようとしていたらしいのですが、それがプログラミングであったのか組織売春であったのか新しい宗教のようなものであったのか、それとも何か幻覚作用をもつ薬物に関係するものであったのか、それとも単なる不倫であったのか、そのすべてであったのか、今となってはさっぱりわかりません。まあそういう行為を不倫と呼ぶようになったのも、すべて遺伝子に支配されているという説もあるくらいで、つまりは、一種の呪いのようなものなのであります。とにかくここには、あの我が社の公衆便所とも言うべき矢島久美君が一枚|噛《か》んでいたことは間違いありません。どうやって噛んでいたのかと言うと、もちろん歯の生えたおまんこで噛んでいたのです。皆さんもへたに突っ込んで噛み切られたりしないように気をつけましょう。いくらすぐやらせてくれるからといって、噛み切られてはなんにもなりません。
さてそれはともかく、それらのいかがわしい行為は、主として温かくて浅い海の底とか屋上とかで行われていたようです。まあしかし、すんでしまったことは今さら仕方がありません。そんなことよりも、私がここで特に申し上げたいのは、これを一刻も早く発売しなければならないということなのです。
なぜなら、スパイがいます。この社内にもいます。本当です。例えば、電気街で昼休みに買ってきた盗聴マイクなどを使用すれば電話の内容を傍受することなどしごく簡単なのです。加えて、スパイだけではありません。ヤクザもいます。これは会社に来ます。昼休みなどを利用して、近所の喫茶店で会ったりすることもあります。さらに我が社の女子社員は全員、団地の自治会員でもありまして、男を憎んでおります。ですから、現にこの部屋、この会議室、ここが自治会室であったりもするのです。
このあたりまで来ますともうゲームの内容に触れなければわかりにくいかと思いますので、実は私もまだ最後まで行ってはいないのですが、それでもここで画面をお見せすることでだいたいの雰囲気はつかんでいただけるかと思う次第であります。
ふう。
ひと息ついて、実際に画面を見てみた。
中央に、おれが立っている。あれれ。そこではさっきのシーンが再現されている。おれが、あの刑事に化けた他社のスパイの喉《のど》を切るところ。
うーん、これはまずい。ちょっと生々し過ぎるのではないか。だいたい、こんなものいつの間に撮影されたのだろうな。
えー、どうやら盗聴マイクだけでなく監視カメラも取り付けられているようですね。
まあ、それはいいとしまして。
いや、よくないな。
うん、こいつはまずいぞ。かなり、まずい。だって、おれは今、胴体を仰向《あおむ》けにして、首を切り離そうとしているよ。血で滑ってなかなかうまくいかないみたいだ。
ぬるぬる。
こんなにぬるぬるではうまくコントローラーを操作できないじゃないか。
おい。
なんだ。
誰なんだ。
うるさいな。
さっきから、誰かがドアを叩《たた》いている。だから、気が散ってうまくいかないのだ。
どうやら叩いているのはこの部屋のドアらしい。
こら。
なんだ。
仕事中に。
今大事なところなんだ。
もうちょっと気を利かせろよ。
腹を立てたらよけいにうまくいかない。
あ。
そうか。
ふいに気がついて、壁の時計を見た。
いけないいけない。なんと、もう会議の始まる時間ではないか。
なんだ、そうか。それでわざわざおれを呼びに来てくれたのだな。では怒鳴りつけてはいけない。
知らなかったとはいえ、悪かった。
謝る。
でも。
もうちょっと。
ちょっとだけよ。
な、もうちょっと進めなければね。だって、いくらなんでも、みんなにこんなシーンを見られたら、人格を疑われてしまうよ。いや、マジで。
もう少し先にまで進めば大丈夫なのだが。
そう。
もうちょっとだけやらせてくれよ。
せめて、バラした死体をマシンのなかにすべて押し込んでしまうまで――。
ぎちぎちぎちぎち、と機械のなかで音がする。ちょっと詰め込み過ぎたのかも知れないな。
でもこの際だ仕方がない。
靴の踵《かかと》でがつんがつんやって、がんばって押し込んだ。
肉が潰《つぶ》れる音がした。
よし。
これでよし。もう証拠はない。ここから先なら、もう誰に見られても平気。安心したところで、また、誰かがドアを叩いている。
わかったわかった、すぐに行く。待たせた。皆、よほど期待しているのだろうな。
なんだか社内でもずいぶん噂になっているみたいだし。
まだ、完全に整理されたとは言い難いが、それでもまあこれならいけるだろう。なんなら、足りない分はその場でおれが実際にやってみせようじゃないか。
うん。それで納得できるはずだ。
それが望みだろう。
わかった。
うるさいな。
わかったわかった、今行く行く。
わかったって言ってるだろうが。
ずいいいいいいいいいいいいいいむ。
そらみろ。あんまり乱暴に叩くものだから、衝撃でコピー機まで勝手に動き出してしまった。
電源コードを抜いてあるのに、だよ。なんて大雑把でいいかげんな機械なんだろう。
ぼやきながら、まだ、ずいいいいいいいいいむ、と音を立てているそいつを脇に押しやり、ドアを開けようとしたそのとき、肝心のものを忘れていたことに気がつく。
いかんいかん。あわててマシンに取って返す。
あれを持って行かないことには、実際にやってみせることなどできないではないか。
まったく、どうかしてるぞ。
おれは入社したての女子社員のように舌を出した。徹夜明けとはいえ、ここで気を引き締めないとね。
これからが本番なのだ。
イジェクトのボタンを押す。
ざりばりばりがりがりがり。
出てこない。
そうか。
そういえば、さっきもそうだったんだ。
なかで引っかかって、出てこないのだ。なめるな。
そういうつもりなら、こっちにだってやり方はある。
殴った。
殴ってやった、思い切り。
肉を殴る感触が蘇《よみがえ》る。
あの鈍い音と。
殴り続ける。
どうだ。
おれに逆らうから、こういうことになる。
ごりいりいりいりりりりりりりりりり。
音が変わった。まだ柔らかい隙間に爪をたてて、左右にこじあけるようにする。
ぷちぷちぷちぷちと肉が裂けるような感触とともに、割れ目が大きくなった。そのまま手を奥まで差し込んだ。
さらに肉が裂ける。それでようやく指がとどいたのだ。
なんだ、最初からこうすればよかったんじゃないか。今さらだが思う。
指に硬いものが触れたから、掴《つか》んでそのまま引っ張り出した。抵抗はあったが、強引にやればなんとかなる。
裂けた組織の隙間から生暖かい液体が溢《あふ》れてくる。おかげで動きはさらになめらかになった。
よし。これでいいぞ。これで実際にやってみせることができる。みんなの前で。取り出してみると、なぜなかなか出てこなかったのかが、わかった。ひとめ見れば納得できる。
これならなかで引っかかってしまうのも無理はないな。みんなも納得してくれるだろう。
なにしろ――。
ディスクの周囲に白くて鋭い歯がびっしりと生えているのだ。
鋭い歯がずらりと並んだハグルマ。
ドアを叩く音が激しくなった。
その音が神経に障るのだ。
わかった、わかった。
すぐに行くからさ。
みんな待ってろ。
首を洗ってな。
おもしろい。
すぐ行く。
ははは。
はは。
歯。
**********
街灯のない細い道だ。道の両側には葦原《あしはら》のようなものが広がっている。
もっとも、暗くて足元もよく見えないのだ。そんな道を歩きながら、あの後に起こったことを反芻《はんすう》していた。
警官がたくさん来たな。
テレビでしか見たことのないほど大勢の警官と、もちろんテレビのクルーもやってきて、あの部屋を包囲した。盾を持っているのもいたから、もしかしたらあれは警官ではなく機動隊だったのかも知れない。そのへんのことにはあまり詳しくないので。
まあとにかく派手だったよ。ゲームのクライマックスにふさわしい。
だって、銃で撃たれる、なんてのは、ゲーム以外でなかなか体験できることじゃないだろう。
「それで――」
ずっと気にかかっていたことを、思い切って尋ねた。
「おれは死んだのか」
「あの世界ではね」
すぐ前を歩いている子供が、前を見たままで答えた。
「でも、君が死んでいない世界だって存在する。ほとんどのゲームが何度でもリセット可能なように――」
聞いたことのある声だった。
そして目の前に、見覚えのある赤い文字が浮かんだ。
闇にくっきりと刻まれたこんな文章。
〈ハグルマにお願いする〉
「ゲームのなかにあるストーリーの分岐の数だけ、つまり、あらゆる選択の数だけ、世界は存在しているんだよ。主人公がある行為をした世界と、それをしなかった世界。ここで進むか立ち止まるか。それとも引き返すか。そんな無数の分岐と可能性の数だけ、世界が並んでいるわけだ。どこまでも無限に枝分れを続けながらね。そして、自分の行った選択の世界だけが主人公にとっての『現実の世界』というわけだよ。それがルールだからね。でもそれ以外の世界も実は存在している。そうだな、例えば――」
もうひとりの子供が歌うように答える。女の子だ。
「主人公が奥さんとうまくいってない世界」
掛あいのように交互に続けた。
「主人公がヤクザにおどされている世界」
「主人公が浮気している世界」
「主人公の奥さんが浮気している世界」
「主人公の奥さんの浮気相手が主人公の同僚である世界」
「主人公が奥さんの浮気相手である同僚を殺してしまった世界」
「主人公がヤクザを殺してしまった世界」
「主人公が奥さんを殺してしまった世界」
ああ、そんなこともあったかもな。
おれは思う。
「主人公の残したゲームがヒットして大量生産されている世界」
ふたりが声をあわせて笑った。
「じゃあ、その極端な例としてはこんな世界も考えられるわけよね」
女の子が言った。
「この世界ではずっと昔に滅んでしまった生き物たちが滅びることなく暮らしている世界」
「そうだね」と男の子がうなずく。
「今も彼らのほうが主人公でありつづけている世界」
「隣の枝には、少しだけ違うけど、そっくりの世界がある。だけど、ずっとずっと向こうの枝にはもっともっと違う世界だって存在する」
「そう、ずっとずっと向こうには、ね」
「遠いけど、無いわけじゃない」
「すごおく遠いけどね」
「無いわけじゃない」
「うん、あるよ」
なるほどそうか。
後ろを歩きながら、思った。
それが、ハグルマ、か。
ある軸から他の軸へ力を伝える仕組み。
歯車。
ぎちぎちぎちぎちぎち。
いろんなものを噛《か》み潰《つぶ》しながら回る強力な歯車。ある規則で動いている世界に、別の軸の世界からの力を伝える。そのことによって、世界を今まで支えていたものが壊れてしまうことになったとしても――。
それはかまわないだろう。現に、彼らだって、かつてそんなふうにして滅ぼされたのだ。その呪いが、今も生きている。その環境によって形を変えながら、生き残っている。
ソフトウェアとはそういうものだ。
「もう、あなたのなかにもあるんでしょ」
女の子が、振り向いて言った。
ぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち。
なんだ、そうか。
さっきから聞こえていたのは、それが回っている音だったのか。
言われてみれば、ずっと前から聞こえていた。頭のなかで――。
別に新しくできたわけじゃない。誰のなかにも存在しているハグルマ。
「それを取り出すの」
「頭の中から引っ張り出して、外で組み立てるんだよ」
着いてみると、よく知っている場所だった。何度も来たことがある。
さっき銀色の光が見えたときから、そんな気はしていたのだ。
水門だ。
あの水門の上に立った。
三人並んで――。
右側にいるのは――石室――確か、そんな名前で呼ばれていたこともあった。いっしょに仕事をしたこともある。ここではないどこかの世界で。
「さあ、作りましょう」
そして、左は――。
「やれることがあったら、手伝うわ」
矢島久美? いや、妻、なのかな。いつか、どこかで、おれが消去した妻。
よくわからない。
でも、まあそれは後でどうにでもなることなのだろう。だって名前なんて、打ち込み直したら、それで変わってしまう。その程度のものじゃないか。
どうにでもなるということは、どうでもいいということ。
「材料だよ」
石室が持っていたものを差し出した。
受け取る。
それは、小さくて柔らかい生き物だ。
「最初は、このへんから始めるのがいい」
暴れてはいるが力が弱いから痛くない。少し力を加えれば捻《ひね》り殺すことができるだろう。でも、そんなことはしない。
そうせずに、待っている。
そしてようやく、待っていたものが現れた。ランニングシューズがアスファルトを叩く音とともに近づいてきて、この水門の真下で立ち止まる。
ほら。
こっちを見上げている。かつてのおれのように。
それは、知っている顔だ。
そうか、あの仕事、こんどはあいつが引き継いだのか。
会社としては、まあ妥当な選択だろうなと思う。
きっと売れるだろう。だって、おれがあれだけ話題を作ってやったのだ。
そりゃいろいろと社会的にも問題はあるかも知れないが、それでもやりようはあるだろう。
おまえ、得したよな。そうつぶやいてから、手のなかのものを投げ落とした。
彼方《かなた》に高層ビルが並んでいるのが見えた。芝居の書き割りみたいな安っぽい背景。その気になれば、簡単に崩してしまえそうな――。
そういえば、前にもそんなことを考えたことがあるような気がする。あのときは考えただけだったが、今ならどうだろう。
おれの手を離れたその柔らかくて白い塊は、もがきながら銀色の光の帯を横切って――。
闇の奥へとまっすぐ吸い込まれていった。
[#地付き](了)
角川文庫『ハグルマ』平成15年3月10日初版発行