楡家の人びと (下)
北杜夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少女|倶楽部《クラブ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さあ、どんけつ[#「どんけつ」に傍点]しましょ!
[#ダイエレシス付き○]:文中ドイツ語綴り字(ウムラウト)指定
(例)O! Kr※[#ダイエレシス付きA小文字]pelin
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[#改ページ]
目次
楡家の人びと
第一部
第二部
第三部
解説(辻邦生)
[#改ページ]
第二部(承前)
第六章
大人たちの世界に、さまざまな波《は》瀾《らん》、葛藤《かっとう》、悩み事や怨《うら》み事《ごと》が絶えぬにせよ、子供たちには子供たちの世界があった。
一本の釘《くぎ》、一片の木片《きぎ》れが、そこでは全く別の魔法的な存在になったりする。ましてようやく新建築にとりかかった青山の楡《にれ》脳病科病院分院の普請場には、おもしろいものがたんとあった。ぴかぴか光った五寸釘が、或いは折れ曲った鎹《かすがい》が、或いはくるくるとまわる車のついた滑車が落ちていた。周二はそういうものを丹念に拾ってきて、自分の玩具箱《おもちゃばこ》――蜜柑《みかん》箱《ばこ》に紙を貼《は》ったものであったが――の中に大切に蔵《しま》いこんだ。小学生になっても、この末っ子はそんな釘なぞに興味を抱《いだ》く性《さが》があった。
ある日の昼休み、姉の藍子《あいこ》が、青南小学校の最近できあがったコンクリート建ての校舎の校庭で遊んでいると、下級生の周二が仲間からも離れ、たった一人でうろうろと地面を見つめて歩いているのが目にはいった。藍子のほうはますますおしゃまで、顔立ちも服装もクラスではまず上等の部類に属するため、同級生の間でも牛耳《ぎゅうじ》をとる大将株となっていた。なにより彼女には母親ゆずりのためか、早くも我儘《わがまま》で勝手なところが垣《かい》間《ま》見られた。新校舎を建築する一年近くの間――それは周二が入学してまもなくのことだったが――青南小学校は元ノ原にバラック校舎を建てて二部授業を行なった時代がある。元ノ原は楡家のすぐ前であった。そこで藍子は学校に弁当を持ってゆかず、なにか口実をもうけて毎日家へ帰ってきて昼食をとった。そのほうが御飯も温かくいろいろおかずも食べられるからという理由より、なにか他人《ひと》と変ったこと、他人にはできぬ真似《まね》を実行するのが彼女は好きなのであった。
さて、常々だらしなくめそめそしがちの弟が、いやに真剣に地面を見つめて校庭をうろついているわけを藍子は知っていた。周二はボタンを、服やシャツについているボタンを捜し求めているのである。藍子自身はすでに下田の婆やの愛情を求める時代を過ぎていたが、周二のほうは未《いま》だにぬくぬくと婆やの庇《ひ》護《ご》の下にあった。いつも達者な下田の婆やも、さすがに近ごろは目がわるくなってきて、殊《こと》に裁縫のとき針に糸を通すのが困難になっていた。たまたま周二がそれをしてやると、この主家の最後の男の子には目がない下田の婆やは、すっかり感動してほくほくと相好《そうごう》を崩《くず》した。さらにあるときシャツにつけるボタンがないとこぼしていた婆やの言を耳にした周二は、偶然道端で一つのボタンを拾ってきた。下田の婆やは表現に苦しむほど感激し、女中から書生から尋ねてくる知合に至るまで、周ちゃまがいかに心がけのよい坊ちゃまであるかを説いてやまなかった。そのため婆やをもっと喜ばせ、もっと讃《ほ》められたいという一心から、周二はボタンを捜しだしたのである。校庭を丹念に捜すと、意外に多くの各種のボタンが落ちていた。そのため周二は休み時間になると、仲間の活溌《かっぱつ》な遊びにも加わらず、いや、ときには仲間はずれにされることもあるらしかったが、とにかくたった一人で、うつむいて、地面を真剣に見つめて歩きまわっているのだった。今も藍子がこちらから眺《なが》めていると、彼はかがんで何かを――もちろん一つのボタンを拾いあげてポケットに入れた。その瞬間、陰気で元気のない彼の顔に、大層な宝物でも発見したような喜悦に近い表情がぱっと閃《ひらめ》くのを藍子は認めた。
いやあねえ、まるでバタ屋みたい、と藍子は自分が侮《ぶ》蔑《べつ》を受けたかのように眉《まゆ》をひそめた。
まずいことに、常々藍子のそばに家来のようにつき従っている女の子が、その周二の行動を目にとめて言った。
「あすこにいるの、楡さんの弟さんでしょう? 何をしてるのかしら」
さらにまずいことに、向うでは周二がまたしてもかがみこんだ。何かを拾ってポケットに入れた。
藍子は友人の疑惑を打消すように、活溌にひと息に言った。
「あれはね、本当の弟じゃないの。親類の子なのよ。……さあ、どんけつ[#「どんけつ」に傍点]しましょ!」
そして彼女はいきなり無警告にすばやく横にとぶと、その女の子の尻《しり》にむかって思いきり自分の尻を突きだした。不意を喰《く》らった相手は、前にのめってぶざまに手を突いたが、この乱暴な藍子の行為も、まわりにたむろする仲間から非難されはしなかった。むしろみんなは藍子のいつもながらの水際《みずぎわ》立ったすばやさを賞讃《しょうさん》して、笑ったり拍手したりした。藍子自身も笑った。してやったりと得意になり、バタ屋同様の弟のことなんかすっかり忘れてしまって。
藍子は、往時の桃子よりも更に頻繁《ひんぱん》になんの遠慮もなく青雲堂の店先に現われ、目ぼしい品物を、実際は必要もないくせに、片端から持去った。弟の周二も最近は一人でやってきて、無代《ただ》の買物の味を覚え、めんこだのビー玉だのを持っていったが、このほうはまだ小母《おば》さんの顔いろを窺《うかが》いながら線香ピストルを取りあげるのだった。画用紙にしろノートにしろ、弟のほうがいいものを持っていることは藍子には我慢ならなかった。弟が新しく十二色のクレヨンを買えば、彼女はさっそく二十四色の金色や銀色まであるクレヨンを買ってきた。彼女は店開きができるほどのビーズや千代紙やぬり絵やうつし絵や消しゴムなどをどっさり所有していた。ぬり絵というのは白紙にミッキイ・マウスやベティ・ブーブの絵が線だけで描いてあって、そこへ自分で色を塗るわけなのだが、むら気な彼女はベティ・ブーブの口元にだけ色を塗ってそのまま放っておくことも多かった。すると、こちらは米国《よねくに》の気質を引継いでどことなくけち[#「けち」に傍点]な周二がそれを拾って、空白の髪とか服とかを丹念に彩色した。うつし絵を水で塗らして何かに貼りつけ、やがて静かに紙をとり去ると、あとに綺《き》麗《れい》な絵が残る。「ちょっとじっとしてらっしゃい!」と藍子は言って、弟の手やら足やら額にまでもこのうつし絵を貼りつけた。学習院から龍子が輸入した基一郎好みの「龍さま」「聖さま」という呼称は、今では藍子にわずかに残されていた。彼女は一同から「藍さま」と呼ばれ、知らぬ人がこの呼名にいぶかしげな顔をすると、またそれが得意らしかった。
彼女には作り話をする才もあった。下田の婆やが幼いころよく聞かしてくれた「青山墓地から白いオバケが……」という歌から、まことしやかな体験談を作りだして弟をおびやかしたりした。
「赤いオバケっていうのは本当にいるのよ。立山墓地の真ん中にすごく太い楠《くす》の木があるでしょ。あそこに出たわ。そりゃ凄《すご》い顔をして、顔いろはあおじろかったけど、破れて穢《きた》ない赤い着物を着てたわ。つまり、赤いオバケっていうのは着物の色なのよ。そりゃおっかないんだから……。白いオバケのほうも、青山墓地のほうへ行けばきっと住んでるわ」
そのため周二はかなり大きくなるまで、なかなか墓地に近寄ろうとはしなかった。以前は聖子の墓がそこにあった。しかし基一郎の墓が浅草の日輪寺につくられたため、聖子の墓もそちらへ移され、ひしめいて並びたつ数限りない墓石、にがいような匂《にお》いを放つ常緑樹の生垣《いけがき》、鬱蒼《うっそう》とした木立の群れ、妖怪変《ようかいへん》化《げ》がたむろしていてもよさそうな広大なその墓地は、楡家とは無縁なものとなっていた。
藍子はたしかにその叔母以上に、明るくおしゃまで活溌であった。ある雪のつもる寒い冬の日、学校が休みとなり、彼女をいたく喜ばせた。昭和十一年の二月の末、皇道派青年将校に率いられた軍隊の一部が、重臣を襲い、警視庁、内務省、参謀本部、陸軍省を占領したのである。翌朝、兵隊から帰ってきて専修大学の夜学部へ通っている書生の佐原定一が慌《あわただ》しくやってきて、「赤坂のほうで市街戦がありそうで、流れ弾《だま》の危険があります」と報告した。下田の婆やは事態がどういうことか判らぬながら顔色を変えた。下の子供たちを奥の間に閉じこめ、「この部屋から一歩もお出になってはなりません」と命じた。子供たちはもっと訳がわからなかったものの、少なくとも学校が休みとなって浮々した。殊《こと》に「流れ弾」という文句は藍子の好奇心、冒険心を一方ならずくすぐり、彼女はせっせと夢中になって沢山の蒲《ふ》団《とん》を奥の間に運びこんだ。彼女は『少女|倶楽部《クラブ》』よりも『少年倶楽部』の愛読者で、『のらくろ』や『冒険ダン吉』はもとより、山中|峯《みね》太郎《たろう》、平田|晋策《しんさく》、南洋一郎の冒険軍国小説に親しんでいたからだ。藍子は蒲団をぶ厚く積み重ね、そこを塹壕《ざんごう》と見なして、勇ましくその上に高々と上半身をのばして叫んだ。
「さあこい、便《べん》衣《い》隊《たい》め!」
一方、周二のほうは「流れ弾」にすっかりおびえて、蒲団の塹壕のかげに小さく縮こまっていた。彼も近所の子供たちと一緒に日曜日に三連隊の鉄砲山へ遊びにゆき、笹《ささ》の茂る土の間から空の薬莢《やっきょう》を二つほど拾ってきたことがある。それは小さいながらずっしりとにぶく重い手ごたえがあって、もしこれに弾丸と火薬がつめられていたなら、どんなにか眩暈《めまい》のするほど素晴らしくかつ危険なものであるかが想像できた。その弾丸が本当に、次の瞬間にも壁を貫き障子を破ってとびこんでくるかもしれないのだ。そこで周二は息をつめ、じっと蒲団の塹壕から動かなかった。
この二・二六事件は、やがて「下士官 兵に告ぐ」という劇的な放送、飛行機からのビラの撒《さん》布《ぷ》によって幕を閉じた。「今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテヲルゾ」
事件の真相はろくろく理解できなかったものの、この文句はしばらく楡病院の内外に於て屡々《しばしば》用いられた。たとえば藍子たちは往々西洋|箪《だん》笥《す》と呼ばれる大机の引出しに蔵《しま》ってある菓子を無断で食べる。弟がどうも大量の菓子を盗んだ形跡があると、藍子はせい一杯の大人びたこわい顔、威《い》嚇《かく》的な声《こわ》音《ね》をつくって言った。「こら周二、今からでも遅くはない、白状しろ」
勝気な藍子は、ベルリン・オリンピック大会のときにも並々ならぬ興味を示した。ちょうど夏で箱根に行っていて折角の短波放送は聞くことができなかったが、マラソンの孫《そん》や三段跳《さんだんとび》の田島や水泳の寺田や葉《は》室《むろ》などの優勝には心からの拍手を送り、なかんずく「前畑がんばれ」の台詞《せりふ》、長身の外人選手を相手とする村社《むらこそ》の健闘は、彼女の胸に刻みこまれたようであった。のちに『民族の祭典』という映画がきたとき、彼女は膝《ひざ》のうえに両腕を突っぱってこれを鑑賞した。
そのときは珍しいことに、たまたま徹吉が峻一《しゅんいち》と藍子を映画に連れていった。それは美しいといってよいすぐれた記録映画で、ただ新興ナチス・ドイツの偉容をまざまざと、あまりにもまざまざと表現していることも争えなかった。ドイツは前年ヴェルサイユ条約を破って再軍備宣言を行なったが、再軍備も何も、すでに高らかに真直《まっすぐ》に足をのばして行進するそのたくましい軍隊の写真は、その前から新聞や雑誌で頻繁《ひんぱん》に見ることができた。しかし、それは頼もしい盟邦の力強い姿として人々の目に映じた。なぜなら、共に国際連盟を脱退し世界の孤児となった日本とドイツは、しばらくまえお互いに手をのばしあい、運命の防共協定を結んでいたからである。軍隊にしろ学問の世界にしろ日本は昔から多くドイツに学んできた。その潜在的なドイツ崇拝、根強いドイツ贔屓《びいき》が、ようやく明瞭《めいりょう》にあからさまに、往々行きすぎた形となって巷《ちまた》に溢《あふ》れ、庶民の口の端にものぼるようになっていた。徹吉とてもその例外ではなかった。彼は、あきらかな示威のためのオリンピックを開いたドイツに負けず劣らず二九四名もの代表団を派遣した日本の選手たち――入場式に於て日本選手団は戦闘帽のようなものをかぶっていた。前回のロサンゼルスのときにはカンカン帽であったのだが――と共にドイツ選手にも内心声援を送りながら、しばらく自分の数年来の仕事のことも忘れ、ちらつく画面に眺《なが》め入っていた。女子の四百|米《メートル》リレー競走であったか、ドイツ選手は圧倒的に先を走っていた。と、バトン・タッチの際に、なんとしたことか次の選手がバトンを受け損《そこな》い地上に落してしまった。瞬間、画面は代り、身を乗りだして熱心に観戦している総統ヒットラーの姿が写った。大ドイツの優位が一挙にくつがえされたその瞬間、独特の鍔《つば》の短い軍帽をまぶかにかぶり、鉤《かぎ》十字の腕章を腕に巻いたその威厳たっぷりの総統は、身体を前のめりにして、少し顔をかしげて、いかにも無念やる方ないといった表情で苦笑をした。それはごく自然に観衆の微笑を誘う、ほとんど人が好いといってよいほどの動作であり表情といえた。
「ヒットラーか」と、徹吉は暗闇《くらやみ》の中で、心の片隅で呟《つぶや》いた。「あの男はなかなかやる。ドイツも見事に復興したものだ」
そして彼は、あのミュンヘンの騒動をちらと追想し、一庶民の常として、なにか自分と無関係でないような気がするこの盟国の総統に、またしても説明もつかない或る親しみを抱いた。
「惜しいわね、惜しかったわね」と、かたわらで藍子が昂奮《こうふん》して言うのが聞えた。
「静かに!」と、周囲の人に気がねをして、ずっと年長の長男の峻一が言った。……
藍子は単独で、或いは弟を連れて、よく隣にある病院へ遊びにいった。すでに青山の楡脳病科病院分院の新築は完成されていた。それは往時の楡病院のように人の目を瞠《みは》らすところは何ひとつなかったが、小ぢんまりと瀟《しょう》洒《しゃ》な車寄せから玄関の辺《あた》り、クリーム色に塗られた二階建てのその前面は、精神病院につきものの陰気なかげは少しもなく、ちょっとしたホテルとも見受けられた。開院式のとき、あちこち見学した欧洲《おうしゅう》が「なんだ、傘立てまでしゃれているじゃないか」と、ぶっきら棒に世辞を言ったほどである。しかし裏手のほうまでは手がとどきかねた。結局以前からあった古い病棟を移転させ改造して新家屋と結びつけたにすぎなかった。
藍子は病院の玄関からはいっていって、バットの空箱で作った土《ど》瓶敷《びんしき》が幾つもある事務室にたむろしている会計の大石とか運転手の片桐《かたぎり》とかと、こまっちゃくれた会話を交わす。次にヨードフォルムの匂いのする薬局に行くと、白い上っぱりを着た菅野康三郎がなにか薬包紙をせっせと包んでいる。「あたし、頭が痛いの。どういうものか頭が痛いんだわ」と、藍子が真赤な嘘《うそ》を言うと――それは桃子叔母さんが少女時代使っていた手で彼女に教えこんだものだったが――康三郎は何もかも承知して、無色の薬用シロップと赤《あか》葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》をいくらかコップにつぎ、水で割って渡してくれた。これは甘くておいしかった。それにコップを日に透かして見ると、赤い血液に似た液体の中によく溶けきらぬ濃い透明なシロップが縞《しま》をなして淀《よど》んでいて、藍子はそれをなにか貴重なもののように日にすかして見てしばらく愉《たの》しむのだった。この飲料は薬局でわざわざ調合したもので、そこらの店では売っていないものにちがいなかったから。周二もこの気つけ薬――と康三郎は言った――を非常に好んだが、それは祖父ゆずりに愛飲していた赤いサイダーのボルドーが、そのころ会社がつぶれてしまったのか飲むことができなくなっていたのも原因であるらしかった。
気つけ薬を飲み終ると、藍子は長い廊下を裏手の病棟へと走ってゆく。途中にぶ厚い黒ずんだ扉があって、ノックをすると、看護婦が鍵束《かぎたば》をがちゃつかせながら扉をあけてくれた。するともう藍子は、見慣れたくすんだ色合の、特有の臭気のこもる廊下を元気よく駈《か》けていって、看護部屋にとびこんで蜜《み》柑《かん》を貰《もら》ったり、廊下を歩いている病人――精神病者にちがいないのだが――に気《き》易《やす》く話しかけたりした。
「どう、小母さん、お元気?」
「ええ、ええ、あたしゃいつだって達者なもんですよ」
その初老の女患者はむっとしたようにそう答えた。彼女の髪は蜘蛛《くも》の糸のように細い縮《ちじれ》毛《け》で、いつもぼしゃぼしゃと額にたれかかり、そして着物の前もだらしなくはだけていたものの、どぎつい白粉《おしろい》と口紅の化粧だけは怠らなかった。よく彼女は廊下でビスケットを齧《かじ》っていた。そのビスケットを半分に割ってやはりむっとしたような顔つきで藍子に与え、いやに長い赤い舌をべろりと出して口端を嘗《な》めた。その長い赤い舌が現われると、濃い口紅までが色《いろ》褪《あ》せて見えた。
藍子は患者たちを少しも怖《おそ》れはしなかった。もとよりここにいるのは軽症の患者で、自由に廊下を歩いたり娯楽室でピンポンをやったりしており、もっと重い狂暴性をもつ人たちは松原の本院へ送られる筈《はず》であった。藍子はここに住む病人たちを――もちろん見るからにおかしな女もいて、その女は話しかけても返事をせず単にへらへらとふぬけたような笑い声を立てた――べつに世間の人たちと変りのない気がねのない友達くらいに思っていた。桃子叔母さんの話のように札《さつ》を作る人こそいないようだったが、殊に孫《そん》悟《ご》空《くう》さんは面白かった。その中年の坊主頭の男はいつも娯楽室の長椅子に腰かけていて、間断なく、膝《ひざ》から下ががくがくゆれるほどの貧乏ゆすりをした。藍子は平気でちょこんとその膝に腰かける。するとまるで木馬にでも乗っているような気がした。孫悟空さんはときたま彼女に長たらしい話をしてくれた。その話の中では、彼自身はいつものように孫悟空であったり本当の姓である島岡という男に戻ったり或いは支那《しな》の帝王になったりして、まったく辻褄《つじつま》があわず、それも話すにつれて益々《ますます》支離滅裂になってゆくようであった。
この人はあたしが子供だと思って出《で》鱈《たら》目《め》を言っているのだわ、と藍子は唇《くちびる》を噛《か》んだ。そこで今度は彼女が話した。「あたしがねえ、学校へ行ってたらねえ、その学校というのは校庭がみんな墓地なのよ……」そして藍子は相手に負けず劣らず途方もない作り話をした。
「世間の人は気ちがいをこわがってるけど」と、彼女は考えた。「気ちがいなんてそれほど変ったものじゃないわ。あたしが看護婦さんになったらみんなすぐ癒《なお》しちまうわ」
なるほどその病棟には藍子の胆《きも》をひやすような患者はいなかったけれど、もし彼女が昼前にここを訪れたらやはり胆を冷やしたことであろう。なぜなら、日本にもインシュリン・ショック療法がはいってきて、楡病院でもしきりに行われていた。ついに早発性|痴《ち》呆《ほう》、新しい名称でいえば分裂病患者に対する有力な武器が現われたのだ。徹吉はかなり古い患者にまでその治療を命じていた。インシュリン療法の昏睡《こんすい》におちいる前とその覚醒《かくせい》期《き》には、病者は屡々《しばしば》異様な吼声《ほえごえ》を、精神病院にふさわしい叫び声をあげる。だが、それは遅くとも昼ですみ、また日曜日にはこの治療は休みとなった。
藍子は、患者さんたちは普通の人とさして変らないと思いこんでいるくせに、学校で友達に尋ねられると、どういうわけか、心とは裏腹の出鱈目な作り話をした。
「そりゃあおかしな人ばかりよ。恐水病というのは水をこわがるのよ。水を一滴飲んでも死んじまうわ。そのほか恐木病なんて、これは木をこわがるのよ」
「それじゃ、病室に木の柱なんかあったらどうするの?」
「だからうちの病院には、全部、壁から天井から床から鉄でできてる部屋があるのよ。そういう人はその鉄の部屋にはいってるのだわ」
彼女は自分がただならぬ好奇心の的になること、他人の覗《のぞ》くこともできぬ病院の中に大手をふって出入りできるという意識から、精神病院の娘に生れて素敵だと思った。なにせ精神病院なんてものはそこら近所にそうざらにはないのだから。
一方、周二のほうも、生れながらの病院の子供として、欧洲の妻千代子のように患者を怖れるそぶりもなかった。むしろ外では彼はのけ者にされたりいじめられたりするため、病棟の内部ではその逆に結構はしゃいでいた。あるときそれが行きすぎて、彼は何げなく、へらへら笑うのを常とする女の患者の髪からピンを一本奪ったことがある。相手はとりとめない笑い声をあげながらどこまでもあとを追ってくる。周二が鬼ごっこのようなつもりでピンポン台の周囲を逃げまわっていると、突然その経過が変った。女はまるきり別人のような形相《ぎょうそう》になると、ピンポンのバットを掴《つか》み、凄《すさ》まじい勢いで周二に投げつけたのである。幸いバットは当らなかったが、それからしばらく周二は、病棟にくると少なからずおどおどしていた。
またその姉とはおよそ反対に、彼はその出生にみじめな劣等感を抱《いだ》かざるを得なかった。珍しく近所の見知らぬ子と喧《けん》嘩《か》をして、もちろん負けて、楡家の門の中に逃げこむと、外からこう囃《はや》す声が聞えた。
「脳病院のばか息子!」
その瞬間、彼は自分が楡脳病科病院の子供に生れてしまったことに、ほとんど泣きたいほどの恨みを抱いた。
たしかにこの楡家の末っ子はだらしなく意気地がなく、その一つの徴《しるし》として、彼はなんのことはない床屋へもはじめのうち絶対に行きたがらなかった。近所にある床屋は常々病院の入院患者の髪を刈っているし、楡病院の息子がくれば特別に大事に扱う筈なのだが、周二は冷たく光るバリカンにそもそも病的な恐怖心を抱いていたのだ。「痛い」とか「もうやめて」とか言いたくなるにちがいないが、よその人の前でそう言うのは恥ずかしいし、その勇気もなかった。そのため運転手の片桐がバリカンを一|揃《そろ》いそろえ、いつも慣れぬ手で周二の頭を坊主刈にした。あるときバリカンの調子が狂い、髪をはさんだまま動かなくなった。やっと離してもう一度刈りだすと、同様のことが起った。ついに周二は頭を半分刈り残したまま本職の床屋に連れていかれたが、いざ行ってみるとそちらのほうが上手で痛くなかった。それからやっと周二は人並に床屋へ行けるようになった。
学校もあまり出来がよくなく、殊に算術ができず、勉強をする気も起さなかった。主家思いの書生佐原定一が一計を案じ、百からいくらかの数を引く問題ばかりを十題こしらえ、ストップ・ウォッチを持ち、一体何秒でできるかやってごらん、と言った。はじめ周二はたいそうな時間を要したが、毎度繰返してゆくたびにその時間が短縮し、自分でも興味を示しだして、ストップ・ウォッチが押される前には意気ごんで手に息をふきかけて待機するようになった。といって彼がすこぶる得手になったのは百からの引算だけにすぎず、その他の学校の問題に対してはあまり進歩が見られなかった。
小心でけちなのも直りそうになかった。青雲堂の店先で、しばしば彼は小学生仲間と些《さ》細《さい》なめくり籤《くじ》をやった。新聞紙で作った小封筒がボール紙に沢山|貼《は》ってあって、一枚をひいて中に「当り」の字がはいっていれば相撲《すもう》取《と》りの大きな色刷《いろずり》写真、外れれば小さな安っぽいブロマイド写真が貰える。みんなは一銭ずつ出してそれぞれ一枚を引いた。周二も一枚を引いた。彼はそもそも自分で金を出す必要がないのだから、何枚でも無造作にひいてもよかった。それなのに彼は、時間をかけて慎重にあれかこれかと迷い、思いきって一枚をとると、それは「外れ」であった。彼はいつぞやもっと幼いときベーゴマをとられたときのように、「あー」というような呟《つぶや》きをあげて、情けなそうに口を薄くだらしなくあけた。
一同は取ったブロマイドを見せあった。玉《たま》錦《にしき》、武蔵《むさし》山《やま》、男女《みな》ノ川《がわ》、清水《しみず》川《がわ》、鏡岩、それに昨今は日の出の勢いの双《ふた》葉《ば》山《やま》などであった。残念なことに蔵《ざ》王山《おうさん》の写真はある筈もなかった。
蔵王山はその後、脊椎《せきつい》をも傷《いた》め、休場を繰返し、ついに序二段にまで陥落していた。一度は前頭筆頭にまで行った力士がそんな地位に没落して未だに引退もせず、徒《いたず》らに同情を交えた嘲笑《ちょうしょう》のなかに、並外れた長身をさらしているのはげせないことといえた。しかし、彼自身はまだ前途に希望を残していた。この膝《ひざ》と背骨さえ癒《なお》ったなら。かつて自分は横綱をほうり投げたこともあるのだ。
蔵王山は相撲のことに興味を示さない徹吉を訪れるより、もっと万事に腹の大きい松原の欧洲を訪《たず》ねることが多かった。そのほうが祝儀も沢山貰えた。しかし青山の家にもそう稀《まれ》ではなく現われたのは、その裏手に、彼が贔屓《ひいき》筋から貰った数多《あまた》のつつじの盆栽が置いてあったからである。すでに周二も蔵王山を見て泣くようなことはなかった。いくらか恐る恐るそばに行って、未だに半信半疑に思える、この悲しいまでに大きな巨人の行動を眺めていた。今も青山の賄いをやっているすっかり腰の曲った伊助がやってきて、息子にでも話しかけるようになにか言っていた。「わしの留守中に、こんなに油粕《あぶらかす》をやっては困る。さつき[#「さつき」に傍点]は油粕に弱いのだ」というようなことを、蔵王山はそのぶ厚いくちびるを動かして言った。しかしその声は、深い洞穴《どうけつ》の奥にこもるようで、定かには聞きとることができなかった。蔵王山は長いことかかって盆栽のいくらかを別の箱に植えかえた。それから伊助|爺《じい》さんに長いホースを持ってきて貰い、細いホースの筒口を並外れた手で握って、ずらりと置いてある盆栽の上に水をふりかけた。満遍なく水が撒《さん》布《ぷ》されるよう意外にこまかい神経をこめ、ときどき筒先の方向を変えながら、かたわらの周二とは口もきかず、涯《はて》のないほどいつまでも……。
周二にとって蔵王山は、現役の力士というよりも、どういうわけか裏のつつじに水をやりにくる不可解に大きな巨人という存在にすぎなかった。めんこやブロマイドに顔の出ない相撲取りは力士とは言えなかった。場所ごとに楡家には番附がとどけられたが、その下のほうの細長く実にごしゃごしゃと読みづらい文字の中に、たしかに蔵王山辰次と載っているのを発見したとき、周二は心底からびっくりしたものである。彼は玉錦が贔屓で、その玉錦が、強いほうを応援する藍子の双葉山にどうしても敵《かな》わなくなってしまったことは、ますます彼の表情をひねこびたものにした。
野球といえば、もちろん東京六大学リーグ戦のことだが、これも藍子が慶応で、周二は早稲田とわかれていた。楡家には松内アナウンサーの吹きこんだ架空の早慶戦実況放送のレコードがあって、それを箱型の蓄音機――むかしの楡家のそれのようにラッパはついていなかったが、一々長いことぐるぐると把《とっ》手《て》をまわさねばならなかった――にかけると、両軍応援団の校歌の交錯するうちに、宮武、小川というような選手の活躍する大接戦が展開され、結局は七回の裏で七対七のまま打ちきられるのであった。
周二は早稲田の試合となると、雑音の多いラジオの置いてある箪笥の上にのぼってしがみついて聞いていた。それからメンバーをそこらの壁に直接4Bの濃い鉛筆で書きつけた。スコアも書きつけた。早稲田が負けてくると、彼は口惜《くや》しさつまらなさのあまり、更に自分で考案したラインアップを壁に力をこめて書きつけた。それによると、七、八、九番を高須、永田、呉《ご》、というような本来の中心打者が占めていて、つまり八番|辺《あた》りにそういう強打者を置いておけば、敵もつい油断をして打ちこめるであろうという作戦であった。そのためラジオ周辺の壁は周二の書いた文字と数字によって真黒に汚《よご》れ、しかし下田の婆やはとがめるどころかむしろ相好を崩すのだった。周ちゃまはほんとに勉強家で、壁にまで字を書きなさる、というわけであった。
周二はその姉には、彼女の都合のよいときにのみ遊び相手としてかつ下僕として仕えていたが、一種崇拝の念を持って十一歳ちがう兄の峻一の部屋をよく訪れた。一まわり年長というと、これは単に兄というよりもっと大人に近い、自分とはかけ離れた存在といえた。そのくせ峻一は素敵に上等なヨーヨーを持っていてそれを巧みにあやつり、はじめ周二が兄に惹《ひ》きつけられたのはそのヨーヨーが一つの原因でもあった。
周二が後年まで記憶しているその兄の部屋の最初の光景は、まだ周二が小学生になりたての頃、峻一が高等学校の試験に落第して一年浪人をしている最中の時代であったらしい。それでもその兄はけっこう一人前の大人として弟の目に映じたのである。
峻一はますます背が高く、ますますひょろりと痩《や》せて、顔も細く長く、しかしお人好しそのものの、見るからに総領の甚六《じんろく》めいた姿を、自室の立派な机の前、中学卒業生にはもったいないような回転椅子の上にすえていた。彼は中学時代自ら蔵王山と称して校庭で相撲をとったものだ。普通の感覚でいえば、いくら楡家と関係がふかいとはいえ、図体ばかりでかくて滅法弱い代名詞であるその名を名乗ることは恥ずかしくためらうべきことであったが、峻一は皆からおだてられて蔵王山と称し、ひょろひょろと相手に突っかかって、その名の通りあっけなく押しだされた。
彼は毎月の小《こ》遣《づか》いのほか、受験参考書を買うためのかなりの金額を特別に貰い、のんびりと神田の本屋街へ出かけていって、全日本受験生の中でも特筆すべきほど大量の参考書を買いこんできた。彼は綺麗好きで整頓《せいとん》好きであったから、背表紙の色合にまで気をくばって、それを整然と順序をきめて本棚《ほんだな》に収めた。そして彼は勉強を始め、一冊の参考書を開き、まず序文の部分を入念に読み、心をひきしめ、いよいよ本文にはいると、大切なこと、肝腎《かんじん》なこと、忘れてはならぬ行の下に赤鉛筆の線をひいた。それもずいぶんと神経をこめ、美学的基準を越えぬように、わざわざ定規を用いて、実に細く優雅な赤線を心魂を傾けるようにして引いた。そのため非常に疲れてしまい、もはやあとの頁《ページ》を開く気力を失ってしまうらしかった。峻一の所有する参考書のどれもこれもが、はじめの数頁こそ芸術的といえる赤線が引いてあるものの、あとの頁は綺麗に手つかずのまま放置されているのもやむを得ないと言わねばならなかった。
周二がはいってゆくと、峻一は幾何の問題に取りかかっていた。コンパスを使って我ながら惚々《ほれぼれ》するような巧みな円を描き、三角定規を使って実に正確な線を描いた。そうして見事にできあがった図型にすっかり満足し、それを解こうと考える意志をすでに喪失して、弟がはいってきたのを機会に、峻一はそのノートを無造作におしやった。
それから彼は机の引出しから煙草を――周二が見なれている、病院の事務室で大石たちが吸っているゴールデンバットとは違うチェリーの箱を取りだし、日日是好日《にちにちこれこうじつ》といった体《てい》でおもむろに一本抜きとり、端を軽くリズムをつけてとんとんと回転椅子の肘《ひじ》の上で叩《たた》きだすのであった。父に見つかれば叱《しか》られるにちがいないが、こうして自分の部屋でこっそりとかつ堂々と、弟の前で煙草をふかしてみせるというのが、また峻一には並々ならず魅力的なことであるようだった。ようやく煙草に火をつけると、さてこれから何を弟に話してやろうか、それともあの新しく描いた絵を見せてやろうか、まあそれもねだられてからのほうがよいかな、とでも言いたげな様子で、そのおよそ苦悩とは縁の遠いのんびりした長い顔を、無理にもっともらしくしかめて見せた。
果して周二は息をはずまして尋ねる。
「新しい絵、できた?」
いざそう言われてみると、峻一はせっかく年配の者らしくしつらえた姿勢、顔いろを忽《たちま》ちだらしなく崩してしまい、どんな小学生よりも衝動的に熱意をこめて答える。
「できたとも。三枚、新しいのが三枚あるぞ」
そして彼は立上って押入れから、何枚かの画用紙に水彩絵具で綺麗に描いた飛行機の絵を取出してきた。もともと峻一は絵が妙にうまく、小学生のころから図画だけは常に甲上ばかりを貰っていた。それが肝腎の受験勉強をそっちのけにし、ありあまる時間をたっぷり使って、マニアじみた執念をこめて描いた絵であったから、そのいずれの飛行機もが必要以上に見事にその本来の形態を再現しているのも当然なことといえた。
弟がため息をつくのがはっきりと聞きとられ、峻一はこみあげてくる得意さ、報いられた満足心を辛うじておし殺して言った。
「これは、何かわかるか?」
「カーチス、……艦戦のカーチスF11ゴスホーク」と、兄に教えこまれて飛行機に関してはいっぱしの通である周二は答える。
「よし、じゃあこれは?」
「川崎C5型」
「ふむ」と、さすがおれの弟だけのことはあるわいというように、峻一は長い細面をいっそう長くした。「じゃあ、これは?」
「これはダグラス……あの旅客機のダグラス……」と、周二は口ごもった。
「DC2、DC2だ。日本航空がとうとう買うことになった奴《やつ》だ。ほら、足がついていないだろう。フォッカー・ユニバーサルの時代は過ぎたのだ。引込脚がいよいよ日本に現われる……」
それから峻一は、しばらくのあいだ飛行機の脚部について、その空気抵抗の問題について、専門家らしくその変遷と将来の見透しを講釈してきかせた。むきだしの車輪、そしてそれを蔽《おお》うスパッツ、更に米陸軍のカーチスA8シュライク攻撃機、またこの朝日の川崎C5型のようなズボン脚、そして飛行機は結局はその脚を引込めねばならなくなる。またその翼と支柱の問題、複葉機から上翼単葉へ、そして下翼単葉へ、もちろん支柱などは要《い》らないのだ、将来の航空機は本当に空想科学小説のロケットのようになるであろう。
――峻一の飛行機熱は昔からのもので、その豊かな追憶を列記したなら、それはそのまま我が国の航空史にもつながるものであったろう。もとより初めは男の子が誰でも空を飛ぶ機械に抱く憧《あこが》れと好奇の域を出ないもので、大正十二年、はじめて三菱《みつびし》の英人のテストパイロットが航空母艦|鳳翔《ほうしょう》の着艦離艦に成功して賞金十万円を獲得したとき、峻一は八歳で、その十万円のほうに関心が深かった。だが昭和四年の夏、驚異のツェッペリンが日本の空に姿を現わしたとき、峻一ははじめて真剣にかつ阿《あ》呆《ほう》のように、まじまじとその黄色い怪異な船体が東京の上空をゆったりと移動してゆくのを見送った。
そして航空機はようやく目ざましい勢いでその形態と性能の進歩を開始し、さまざまの各国の新鋭機の訪日が続いた。けれども本当に中学生の峻一を夢中にさせ、本物の、正真正銘の、ざらにない飛行機気ちがいに仕立てたのは、昭和五年から六年にかけて競争のように――日本の新聞社から懸賞金が出されていた――行われた太平洋横断飛行の相つぐ壮挙と相つぐ挫《ざ》折《せつ》であった。最初のブロムリー、ゲッティ両飛行士の上翼単葉の「タコマ市号」から、その飛行にはただならぬ危険が附随していた。霞《かすみ》ヶ|浦《うら》を飛び立とうとしたタコマ市号は滑走路の距離が足らず――もとより無理矢理に溢《あふ》れるほどガソリンを積みこんでいた――タンクの緊急放出弁を開いて、濛々《もうもう》とガソリンの雲を排出しながら辛うじて離陸し、事故だけは免れた。ついで青森県|淋代《さびしろ》を再出発したがアリューシャン群島辺で悪天候に会い、中途から引返した。翌昭和六年の五月、米人トーマス・アッシュはタコマ市号を改造した「パシフィック号」で淋代を出発しようとして離陸に失敗した。追いかけてその年の九月の初め、米人アレン、モイルの両操縦士は今度はパシフィック号改造の「クラシナマッジ号」で淋代を飛び立った。峻一が「魔の大洋征服を期しマッジ号飛び出る」という新聞の大見出しに胸をときめかしていると、早くもその日の夕刊に、「進路を南方に取るか、その後の消息なし」と、あやしい疑惑の雲がひろがるような記事が出た。翌日には、「けふ正午に至るもなほ消息なし、天候は引続き不良」、ついで「無言の太平洋! モイル機消息絶ゆ、出発以来すでに四十余時間、いま何処《いづこ》を飛ぶ」、その翌日には「魔の太平洋上に消息を絶つ二昼夜半、悲壮! 最初の犠牲者か、沙市《シアトル》安着の望み遂に空《むな》し」中学三年生の峻一はひどく胸が緊《し》めつけられたが、当然墜死したと信じられたこの両飛行士は生きていたのだ。やがて新聞は大々的に報じた。「太平洋は殺さず、奇《き》蹟《せき》! アレン、モイル、無人島から発見さる!」不時着していた二人は露国汽船によって救助されたのである。
結局この太平洋横断飛行は、その年の十月、ハーンドン、バングボーン両操縦士の「ミス・ヴィードル号」――離陸後その機は故意に車輪を投下し、到着地では胴体着陸を行なった――の成功によって幕を閉じたが、この一連の危うい飛行は言語を絶して峻一の心を魅し、その頭をしびれさせ、飛行機というだけで目の色を変えるほどの少年に仕立てあげさせた。
飛行機、航空機、なんという発音であり映像であろう。――それが旅客機であれ戦闘機であれ爆撃機であれ水上飛行艇であれ、日本のものであれ外国のものであれ、峻一はとにかく好きであった。その翼も胴体も支柱も車輪も、ひとつの鋲《びょう》、一本の針金すらも彼は恍《こう》惚《こつ》と愛《あい》撫《ぶ》したかった。そして峻一は大いなる関心をもって空を、飛行機を見上げた。日本の空には日本の――しかし大半は外国から購入された飛行機が飛んでいた。時が経《た》つにつれて、半ば当然なことに、単純で素朴な思考が彼の頭に芽生えてきた。日本の飛行機はどうしてこうも旧式で、柱も多く、脚も丸出しで、その性能もふがいなく情けないものなのであろう。外国には彼を喜ばし、その写真に見惚《みと》れさせる優秀機が矢継早に誕生しているというのに?
昭和七年の正月、代々木練兵場に於《お》ける陸軍始観兵式に、はじめて九一式戦闘機が国民の前に、峻一の前に、姿をあらわした。代々木上空には、今しも甲式四型と呼ばれるニューポール戦闘機、乙式一型と呼ばれるサルムソン偵察機、八七式重爆の編隊が翼をつらねていたのだが、そのとき最後尾にいた新鋭の上翼単葉の九一戦闘機三機が、急に爆音を高め、ほとんどキーンという金属音を立てて、見る間に全編隊を追い越したのだ。行進する軍隊の、天皇陛下の、全観衆の真上の空で、いかにもすばやく、頼もしく、きびきびと。見上げている峻一の胸は高鳴り、言いようのない感動が彼のひょろりとのびた五体をわななかせた。この瞬間、焼芋を買うときにはいつも真先に十銭を出し、自ら蔵王山と称して校庭で相撲をとるお人好しの中学生は、たしかに一人の愛国者に、単に飛行機という媒介物によるごくたわいもない愛国者に変じていた。
翌年の夏、東京で初の防空演習が行われた。箱根の別荘に行っていた峻一はそのためわざわざ青山の自宅へ戻ってき、暗い夜空に探照燈の光芒《こうぼう》がゆらめくのを、遠くから八八式偵察機の爆音が近づいてくるのを、夜じゅう寝ないで全神経をふるわせて愉《たの》しみ、昂奮し、有頂天になっていた。ここに本当に敵機が、たとえばあのカーチスやグラマン――それはまだ複葉機であった――が現われたらどんなにか素敵なことであろう。彼は閑《ひま》さえあると外国や日本の飛行機の写真に見入り、その姿を矢も楯《たて》も堪《たま》らず模写するようになっていた。現に高等学校の試験に落第したのちも毎日のように飛行機の絵を描き、徒らに弟の周二だけを感服させていたのは先に述べた通りである。
――やがて峻一は浪人中の身でありながら、飛行機の絵を描くだけでは満足できなくなった。実物を、それも雑誌や新聞には発表されぬ新鋭機をどうしてもこの目で見たいという欲望に打勝てず、立川の飛行場に通いだした。ときには弟を連れてゆくこともあった。そして周二が驚いたことに、省線電車が立川に近づき、そこにある陸軍の飛行場を基地として間断なく発着する九三式重爆などの機影が遥《はる》かに小さく窓外に見えだすと、その兄は走っている電車の中で、進行ののろさに堪えかねたように足踏みを始めるのであった。だが、峻一はたいてい一人で行った。それは彼の人には告げられぬ秘密の愉しみではあるし、軍の機密を探るともいえる行為でもあるし、下手をするとスパイの嫌《けん》疑《ぎ》を受けないとも限らなかったからだ。それだけに彼の立川通いは、いっそう蠱《こ》惑《わく》的で、幻想的で、魂を魅するスリルをも蔵しているように思われた。飛行場の前の砂埃《すなぼこり》の道を彼はぶらぶらとなにげない体《てい》をよそおって歩いてゆく。周囲一面に爆音が満ち、しかし彼方《かなた》ではなんの奇もない九二式戦闘機がプロペラを始動していた。そればかりか旧式な八八式偵察機までが未だにのどやかに置かれてあった。しかし峻一の専門家的な目は、すぐさまその機の変った点を見てとった。本来は木製のプロペラである筈《はず》のその機はたしかに金属プロペラをつけていた。日本陸軍もいろいろと試験をしているな、と彼はひそかに心をたかぶらせながら思った。それからあまり長時間飛行場の前に姿をさらすのも危険だと感じられたので、いったんずっと行きすぎ、廻り道をして戻ってきて、ずっと飛行場の横にひろくつづいている桑畠《くわばたけ》の間にもぐりこんだ。そうして懐中には小型カメラを隠して桑畠に身をひそめた彼の頭上を、よくいえばたけだけしい武士という感じの、わるくいえば鈍重な九三式重爆が、着陸体勢をつくり重苦しい轟音《ごうおん》をひびかせて通りすぎた。この目で一目見たいと念じ、あってほしいと祈り、あわよくば写真をとりたいと願っていた未知の新鋭機は未だに姿を現わさなかった。桑の葉の間から望まれる広大な砂埃の立つ飛行場の涯《はて》に、大きな黒々とした格納庫がある。極秘の裡《うち》に研究を重ねられている試作機はきっとあの中に隠されているに相違ない。その堅く閉ざされた秘密の扉をあけて内部を覗《のぞ》きこむことができるとしたら、峻一はどんな犠牲、どんな損失をはらってもかまわぬような気がした。……
このように受験浪人として許しがたい生活を送った峻一が、その翌年、人々の予想に反し、慶応大学医学部の予科の試験に合格してしまったのは、まったくの僥倖《ぎょうこう》といってよかった。人々は彼のことを讃《ほ》めた。そこで峻一はさすがに痩せて長い頬をほころばし、どうしたわけか自分の手にはいった慶応の丸い制帽をかぶった。それは典型的な、人々が慶応ボーイという言葉から連想する映像とこのうえなくよく一致する姿といえた。浪人中はさすが気がとがめてもいたのだが、こうして首尾よく上級学校にはいってしまうと、もはやなんのはばかるところもなかった。峻一の立川通い、更に海軍の飛行機を見るための追浜《おっぱま》通いはますます頻繁《ひんぱん》になった。彼は正々堂々と朝から学校をさぼった。そして電車の切符を買って、秘密の愉しみに胸をときめかして、陸海軍の飛行場に通い、ときには感激して、ときにはおそるおそる、終日、空を見あげて飽かなかった。
今は、次々と目を見はる新鋭機が彼の前に現われた。中島キ―8複座戦闘機、中島キ―11戦闘機などの試作機も――その名前は知らなかったが――峻一の目から遁《のが》れることはできなかった。後者は桑畠の間にひそんでいる峻一の眼前で、着陸体勢から失速し、凧《たこ》のように電信柱にひっかかった。機はべつに炎上もせず大破もせず、峻一がスパイ嫌疑への恐怖も忘れて駈《か》けつけてみると、怪我もしないらしかったテストパイロットが、折れかかった電信柱を辷《すべ》りおりてくるところだった。それらの試作機はついに採用されることなく終ったが、やがて採用され、いつの間にか大量生産され、空軍の主力となってゆく機種も少なくなかった。そういうわが国の軍用機の変革を、峻一はつぶさにまざまざと情熱をこめて見、頭に刻みこみ、胸に畳み、そればかりかひそかに写真まで写した。陸軍の九四式偵察機、九五式戦闘機の二型、海軍では九五式艦上戦闘機、九六式艦戦、九六式陸攻、さらに年が移ってゆくに従ってはっと息をのむほどの新しい機種の数々を。
しかし、まだまだ安心はできなかった。油断はならなかった。いや、日本陸海軍の航空機は仮想敵国のアメリカ――大正の末期、排日移民法ができた当時と共に、この頃ほど多くの日米戦争に関する通俗読物が氾濫《はんらん》したことはなかった――のそれより明瞭に劣勢であるといえる。相手の艦戦グラマンはずっと以前から引込脚――翼にではなくふくらんだ胴体に――になっていた。艦爆カーチス・ヘルダイバーも引込脚であった。米陸軍のボーイングP26単座戦闘機はズボン脚であったが、その形態がいかにも獰猛《どうもう》で喧《けん》嘩《か》をさせたら強そうで、峻一はため息が出るほど羨《うらや》ましくて仕方がなかった。
そしていつの間にか、このお人好しの飛行機マニアは、愛国者を通りこして、ひとかどの、といっても吹けばとぶような軍国主義者と変じていた。かつて小学生の彼に八八艦隊の概念を吹きこんだ書生の熊五郎の言葉が残らずよみがえってきたし、『日米もし戦はば』という類《たぐ》いの本に彼もまた熱心に読みふけった。
峻一は立川から夕暮疲れきって、しかしすこぶる昂揚した精神をもって帰ってきて、すぐにその弟を呼び寄せることがあった。
「周二、ついに……」と、彼は感動のあまり言葉をとぎらせ、それから受験に合格したときよりも遥かにだらしなく相好を崩して言った。「ついに、日本にも低単の戦闘機が出現したぞ」
その事実はまだ一般国民が誰も知らないことにちがいなかった。彼が、この峻一が、まかり間違えば逮捕されるほどの危険を冒して、うまうまとその秘密を探ってきたのだ。
昭和十一年の一月、日本がロンドン軍縮会議を脱退し、翌年よりその建艦に於て無条約時代に突入することに決ったとき、峻一はあたかも自分が海軍大臣ででもあるかのような顔をして弟に話しかけた。
「いいか、なにしろ主力艦五・五・三という比率をおしつけられてきたのだぞ、日本は。日本は軍艦を造りだしたら絶対に負けない。むかし八八艦隊というものを造りだしたときには、アメリカが慌てて建艦をやめようと言ってきたわけなのだ。周二、無駄使いをしてはいかんぞ。これからは官吏から会社員から月給を差引いて、また八八艦隊を造らねばならない。そして飛行機も、飛行機もだ」
それから彼は、手ごわい敵にちがいないアメリカ海軍のカーチス・ヘルダイバーについて、それからその艦隊が得意とする輪型陣について、ひとしきり弟に講釈をしてきかせた。周二は崇拝する兄の言葉に顔を傾けて聞きいり、そして尋ねた。
「本当にアメリカと戦争になるかしら」
「いずれはな」と、その兄はほとんど愉しげに、自分からどうもなぜとなくわくわくしてしまって答えた。
「いつ、一体いつごろ始まるの?」
「そうさなあ」
と、峻一は無責任に、しかしとっさの霊感をひらめかして言った。
「一九三九年あたり……いや、たしかに一九三九年という年はあぶないぞ」
そして、軍部と同等くらいに飛行機については内情に通じていると自負している峻一は、今や急速に欧米に追いつきつつある日本の軍用機が、その頃までにはどのくらいまで進歩し発達しているものか、その頃の敵軍の状態はどうであろうかと、しばし危懼《きく》と期待とが相半ばする専門家的な長々しい感慨にふけり、のどかな太平楽なその細長い顔をじっと天井に向けた。そうしている峻一を見ると、このくらい日米戦争の実現を信じきり、その到来をほくほくするほど陶酔的に待ち望んでいる男もあまりあるまいと思われてくるのだった。それはそうであろう、なにしろ彼の熟知し好きでたまらぬ日米の戦闘機、爆撃機が、そのときには夢や幻ではなく実際に卍《まんじ》どもえの空中戦を演ずるにちがいないのだから。
一方、藍子や周二らの子供たちにとって、当然のことながらその真の愉悦の期間は、学校のあらゆる束縛と桎梏《しっこく》から解放されて、箱根の山中で過すことのできる四十日間の夏休みであった。
彼らの幼いとき、まだ箱根登山鉄道は小田原まで連絡していなかった。たいてい藍子たちは、下田の婆やと一人の書生、或いは一人の女中と共に新橋から汽車に乗る。汽車に酔う下田の婆やは早くも気分悪げにぐったりとして、万一のときの用意に小さなバケツを手元に引寄せたが、しかし要所々々の駅で子供らにアイスクリームを買ってやることは忘れないでいてくれた。婆やの気の毒な酔いぶりは――藍子はときどき気まぐれの優しさを見せてその老いて丸まった背中をさすってやったものの――子供たちとは結局は無縁なもので、二人とも箱根がもっともっと遠方に、地球の涯《はて》にでもあればよいと考えていた。その間には数百、数千の駅があることだろう。そして自分たちは終点に着くまでに一体どのくらいのアイスクリームを、きっと世界のアイスクリームが品切れになるくらいの量を食べることであろう。
小田原からは小さな老朽の市電よりも遅い電車に乗る。湯本からはじめてその名もわくわくする登山電車に、嘗《かつ》てスイスから購入されたという急|勾配《こうばい》を登ることのできる車輛《しゃりょう》に乗りかえる。そして登山電車は特有の、殊に急な坂ではなんともいえず心を魅する響きを立てて登ってゆく。すでに緑の盛りあがり起伏する展望と共に、一陣の涼気が窓からさっと車内にまで舞いこんでくる。遥か下方に先ほど過ぎた鉄橋が玩具のように見え、谿《たに》間《ま》の底に白く渓流が泡《あわ》立《だ》つのが見える。電車は幾つものトンネルをくぐる。いつも藍子たちは指を折ってその数をかぞえ、いつも途中でその数がわからなくなってしまうのであった。電車はとある駅にとまると、運転手と車掌とが入れ替り、ふしぎなことに逆行を開始する。といって再び下界へ降ってゆくのではなく、新しい上方へ通ずる線路を登ってゆくのだ。別の駅では――その線路横の崖《がけ》には自生した山《やま》百合《ゆり》のふくよかな花弁が黒い鳳蝶《あげはちょう》を呼んでいた――単線のため電車待ちをしている下りの電車が止っている。車掌がぐるりと輪のついた皮のタブレットを交換し、それぞれの電車はおのがじし異なった音響を残して上方と下方へ別れてゆく。やがて宮ノ下を過ぎると、遥かな緑濃い山の中腹にひとかたまりの白い建物、なかんずく或るホテルの赤屋根がほの見える。そこが登山電車の終点、藍子たちの目的地|強《ごう》羅《ら》なのだ。駅前の土産《みやげ》物《もの》屋《や》のつづく家並を出外れ、それぞれかなりの荷物を手に持って、急勾配の坂道を、むかし基一郎が建てた別荘まで、喘《あえ》ぎ喘ぎ登ってゆく。道端の溝《みぞ》には余って捨てられた温泉の湯が流れ、そこらの石を黄褐色《おうかっしょく》に変色させ、硫黄《いおう》臭い匂いを立てていた。また数多《あまた》のひぐらしの啼《な》き声が、かたわらに続く小《お》暗《ぐら》い杉林からひびいてきた。そうしてこの瞬間から、一冊の宿題帳のほかには何もわずらわされることのない、子供たちのたわいもない夢の実現、しかし彼らにとっては密度の濃い天国の日々が開かれてゆくのであった。
窓《まど》硝子《ガラス》のパテがあちこち剥《は》がれたベランダの――建てられた当時モダンで斬新《ざんしん》であったその別荘も山地特有の湿気のため早くもずいぶんと傷《いた》み古びていた――わきから渡り廊下を辿《たど》ると、間断なく硫黄泉が音を立てて湧《わ》いている湯殿がある。子供たちははしゃいで、濁った湯をはじきとばして日に何遍も温泉に浸った。そして、はじめ白かったその手拭《てぬぐい》は、強羅の滞在が終りに近づくにつれ、すっかり渋く黄色く染まってくるのだった。
ひぐらしは暁方《あけがた》に群がって鳴いた。夕暮にも群がって鳴いた。そのほか日がかげってき、夕立ちでもきそうな雲合となると、敏感にそれに反応して一種哀調ふかい声で鳴きたてた。この箱根の象徴ともいえるひぐらしの声について、藍子は、「あのカナカナ蝉《ぜみ》の声って、ほんとに寂しいわ。三連隊の消燈ラッパよりも寂しいのよ」と、小生意気にこまっちゃくれて、そのくせ本人は少しも寂しそうでなく批評したが、そう言われてみると、周二にはこの蝉の声が妙に身に迫って聞えてならぬ時期があった。暁方、まだ暗いうちに目が覚める。小用に行きたいが、辺《あた》りは暗く寂寞《せきばく》としたひややかさに満たされていて、ちょっと起きだす勇気が起らない。そうやって寝床のなかでじっと目を開いていると、ほの暗い室内の、むこうの汚染《しみ》のある壁の上を、肢《あし》ばかり糸のように細長い盲《めくら》蜘蛛《ぐも》が、その長い肢をのばしのばし這《は》ってゆくのがわかる。そういう暁のひとときに、ふとどこかで、遥か遠方の杉林で、最初の一匹のひぐらしが低い声で鳴きだすのだ。まだどこかためらっているようなそのひと節のあとを追いかけて、すぐに別のひぐらしが鳴きだす。ほどもなく、あちらでもこちらでも、一斉に彼らの群唱が湧《わ》き起る。周二は――昼間には考えもしなかったことに――その涼しげな声につれて、なぜかますます心細くなり、どうしてよいかわからない心境でなおしばらくのあいだ寝床にぬくもっている。それから決心してやっと起上って廊下の隅《すみ》の便所へゆく。廊下を通るとき、父の寝室であり勉強部屋である小部屋の障子に、いつもスタンドの光が映っているのが窺《うかが》われた。子供たちよりしばらく先にこの山荘にやってきている親しみにくいその父親は――徹吉は毎年の夏の二カ月を病院のことをすっかり副院長の金沢清作にまかせ、箱根の家に籠《こも》りきりになるようになっていた――こんな朝早くから、なにか知らぬが仕事をしているのだ。
強羅の家には、桃子の子供の聡《さとる》も――父に死別れ母に去られて松原の家にひきとられている聡もやってきた。学校へ行きたがらず千代子を悩ますその聡も、藍子と周二にとっては、自分らに具《そな》わっていない才能をもつ素晴らしい遊び相手といってよかった。なぜなら、その従兄《いとこ》は新しい流行歌をすべてわきまえていて、たとえば昔は「東京音頭」が得意だったし、次には「あなたと呼べーば、あなーたと答える……」という歌をきかしてくれたし、さらに年が経《た》つと「ああそれなのに、それなのに、ねえ」と卑俗なメロディを達者に口ずさんだ。なかでも上手なのは川田義雄の浪曲調の節まわしで、「チャラランチャン、チャンラランラン」とギターの伴奏までを器用に真似《まね》てみせた。聡はむかしその母親を嘆かしたおもかげより、遥かにきっぱりと目鼻立ちが整ってきていた。しかしその耳は横に突きだして大きすぎ、その目には一種大人びた小ずるそうな輝きがあった。
ともあれ、この三人の少年少女らは、近所の山中をなんの遠慮もなく我が物顔に遊びまわった。強羅公園へ行き、大きな岩や樹の肌に苔《こけ》がびっしりと生えている園内をしばらくとび廻り、噴水のある池にやってきて、浮んでいるアメンボを乱暴に棒で叩《たた》いた。うまくゆくと水と一緒に外にとびだしてくるアメンボを捕えることができ、それを近くの檻《おり》の中にいる猿たちに与えるのが彼らの愉しみの一つであった。なんとなれば楡病院の誰彼《だれかれ》に擬して猿たちに渾名《あだな》をつけてあったからである。池の鯉《こい》や金魚にやる餌《えさ》として、丸いパン状の麩《ふ》が箱の中に入れられていた。箱には「金魚の餌 一銭で二つ」と書かれてあったが、べつに番人はいず、まもなく聡は一銭を小穴に入れるふりをして、ただで麩を取り出してしまう方法を案出した。あとの二人も同じように良心を捨てることに決め、辺りに人かげの見えぬとき麩を幾つも取りだし、しかも金魚には与えずに自分たちの口の中へ入れてしまった。ついで公園のブランコを占領し独占した。ブランコは三台しかなかったから、一人ずつ別々のブランコに乗って競争して漕《こ》ぎだすと、他の子供たちが遊びにきてもブランコに乗ることはできなかった。あるとき、二、三人の子供がきて、その中で年長の男の子が、君たち、一台のブランコに一緒に乗ればいいじゃないか、と命令するように言った。その口調が藍子の癇《かん》にさわったらしく、彼女はきっ[#「きっ」に傍点]と表情を固くすると、横柄に真赤な嘘《うそ》を一息にしゃべった。
「なによ、あんた達。このブランコはあたしのお祖父《じい》さまが公園に寄附したものよ。嘘だと思うなら、箱根土地株式会社の事務所に行って訊《き》いてごらんなさい」
相手はすごすごと引退《ひきさが》り、すっかり小気味よくなった藍子は、ブランコが宙に舞うほど勢いよく力まかせに漕いだ。そのため彼女のスカートは風にめくれあがり、パンツをはいた腿《もも》の辺りまでが露《あらわ》になった。
暑い日には公園のプールに泳ぎにきた。はじめは三人とも浮袋をかかえていたが、そのうちに聡が、自分は浮袋なしでもう泳げる、と言いだした。藍子と周二が目をみはって眺《なが》めている前で、ほんの腰の辺りまでしか水のこぬ浅い場所で、彼は早くも目をつぶった顔を水面に伏せ、手と足で滅茶々々に水をひっかきまわした。ただならぬ水煙が立ちあがり、その水しぶきのなかに聡の姿は完全にかき消えたが、次の瞬間、彼は顔じゅう水滴を一杯したたらせ、しかし同時に、どうだ凄《すご》いだろうというような表情を見せて、元の場所に、十|糎《センチ》も移動していない全くの元の場所に立上った。――しかし、いつということもなく、この三人の子供たちは今度は本当に浮袋なしで泳げるようになった。
遠出をするときには、たとえば大涌谷《おおわくだに》へ行くような際には、大人たちがついてきた。早雲山の駅までケーブルカーに乗る。上り下りする二台のケーブルカーが行きちがうところは線路が楕円状《だえんじょう》にわかれていて、降りてくる向うの車輛の運転台には、藍子がまえから注目している河馬《かば》に酷似したすこぶる横幅の広い男が立っていた。何年か経つうちに、この男が登山電車のとある小さな駅で駅長の帽子をかぶっているのを発見したとき、藍子は心底からびっくりして言ったものだ。
「あら、あの人、出世をしたのね。駅長さんになってるわ。とても出世をしそうな人には見えなかったのに」
早雲山の駅から、茶店で杖《つえ》を一本買って貰って、山中の細道を長いこと辿《たど》ってゆくと、次第に辺りは荒涼とした風景に変じてゆく。樹木が、灌木《かんぼく》が、ついには草までが周囲から姿を消し、赤褐色《せきかっしょく》にむざんに大地の内臓を露出させた谿《たに》間《ま》が開かれる。あちこちから硫黄の臭気に満ちた白煙が立昇っている。頂上の茶店に着き、卵を注文すると、すぐわきの地鳴りのとどろいている地獄の底に籠《かご》に入れた卵をつりさげる。そして引上げられたときには、卵はすでにゆで卵に変じているのであった。大涌谷の頂上へ達する道程のところどころにも、以前は幾軒もの茶店があったものだ。しかし結局は麓《ふもと》と山頂の茶店だけが繁昌《はんじょう》し、中途の店はさびれてゆき、ついには店を閉ざし、藍子たちが通ってゆくと、板戸は釘《くぎ》で打ちつけられ、その板戸も木の細長い腰掛けも、荒れはてて朽ちて小さな茸《きのこ》さえ生えていた。小生意気な反面、藍子には少女らしく感傷的な一面もあった。「あら、この店もしまってしまったわ。お店の人たちはどうしているんでしょ。もっとあたしたちがサイダーを飲んであげればよかったのに」
三人の子供たちの形造る世界は特別で、同じ山荘で暮す大人たちの生活は遠く離れ、箱根ではのんびりとした登山を事とする兄の峻一さえも彼らの世界からは除外されていた。松原の大人たちは滅多に強羅の家には現われなかった。しかし米国《よねくに》叔父さんだけは、往々長く滞在していった。
彼はその後も一度ごく少量の血を吐いた。そこで自分では非常に憂慮して、よくよく精密検査を受けたのだが、さして悪くはないという診断を宣告された。それがたいそう不満で、かつ誰も彼のことを心配してはくれぬので、せめて自分だけでもこの深刻な病気を大切にし、ねんごろに扱おうと決心したようであった。松原の農園をぶらつくため、彼の顔いろはひときわ健康そうに焼け、内心またそれが残念らしいようでもあった。
米国叔父さんは強羅の家では、庭の植木の、それも小さな盆栽だけの手入れをやった。ほどほどの運動とそれを上まわる休養とが必要なのにちがいなかった。そこで彼は昼すぎに、正確に三時間の昼寝――安静時間をとった。あまり日ざしの強からぬときを選んで、彼は兄の欧洲からあずかってきているポインターのライ号を連れて散歩に出かける。周二がついて行ってみると、米国はごくおだやかに歩を運び、ときどき樹《こ》かげの石に腰を下ろしてじっと瞑目《めいもく》していた。元気のよい犬は先へ先へと夢中に走ってゆき、ついに遥かな森かげに隠れたと思うまに、吠声《ほえごえ》が聞え、かなり大きな鳥影が、おそらく山鳥か何かが飛び立つのが見えた。すると米国叔父さんは持っていたステッキを鉄砲のようにかまえ、ズドンと撃ってみる仕《し》種《ぐさ》をしてみせた。実は彼は欧洲に連れられて一度だけ狩猟に行ってみたことがある。それが並々ならず難行軍の猟であったため、彼は一度で懲々《こりごり》し、せいぜいステッキをかまえて獲物を撃つ気分だけを味わうにとどめているのであった。
米国叔父さんは食卓ではバタを御飯にぬりつけて豊富に食べた。彼が自分をそうと信じている肺結核には薬とてなかったし、それに加えて松原の家のそれに比べて青山の連中のとる食事はずっと貧相であったし、せめてバタを厭《いや》になるほど食べなければ不安な気がした。
しかし或る年の夏、米国はこれと逆の食生活を始めた。彼は麦をわざわざ自分用にとり、小《こ》鍋《なべ》で麦だけの飯を炊《た》かせて、自分一人それを食べていた。麦飯が身体《からだ》によいという理由だけでなく、なにか特殊な本を読んで、特別な養生を始めたというか、或いは唐突に深遠な悟りでも開いたとでも考えるより仕方がなかった。
藍子がおかずが足りないと不平を言ったとき、彼はほとんど怒ったように生真面目《きまじめ》な顔で、――その金壺眼《かなつぼまなこ》だけは相変らずだったが――話してきかせた。
「いいかね、贅沢《ぜいたく》な食物は人間にとって少しもよくないのだ。叔父さんをごらん、ぼくは麦飯だけを食べる。おかずも要《い》らない。ぼくはどんなまずい物でももう平気だ。どんな貧乏になってどんなまずい物を食べようが、叔父さんは生きていけるのだ」
遠い昔、敗戦国ドイツの子供たちに同情して、香の物だけで御飯を食べた記憶でも、或いはその頭に回帰しているのかもしれなかった。事実、少なくともその夏の間、米国はふしぎな強靭《きょうじん》な意志を発揮して、おいしそうなものに箸《はし》をつけようとしなかった。人々が小田原から盤台に入れて売りにくる新しそうな魚を食べているときも、彼は首をふって、自分は要らないと意志表示をした。そして自分一人は純粋の麦の飯を香の物で、或いはふりかけ[#「ふりかけ」に傍点]で、せいぜい茄子《なす》の煮つけくらいで、やはりまずそうに、しかし確信ありげな表情でゆっくりと咀嚼《そしゃく》していた。
下田の婆やは、汽車に乗っている間は気分がわるくなったものの、いつも山中の涼気に会うとすぐさま元気を回復した。だぶついて皺《しわ》のきた頬《ほお》も健康そうで、このぶんなら、こうして有難いことに暑い夏を箱根で避暑させて頂く身分であるならば、百歳までは充分生きられると語った。彼女は飽くことなく台所の用をしたり洗濯をしたり――彼女が自らやらなくても手はあったのだが――終日家に籠り、ただ夕方、子供たちの帰りがあまり遅くなると、門のはずれまで、ついつい坂の下までよたよた降りてきて、遠くに藍子たちの姿の現われるのを待っていた。やがて婆やの生《いき》甲斐《がい》である主家の子供たちが見える。彼女の皺だらけの顔はたわいなくほころびる。その顔立ちはむしろ不《ぶ》恰好《かっこう》で決して美しいとはいえなかったけれど、世界の名画にあるどんな慈母よりも優しく――そういえば夕暮の道をこちらに駈《か》けてくる子供らは、いずれもほとんど、或いは完全にその母の手元を離れているのだった――ひたすらに一|途《ず》に、近ごろは涙もろくもなって、思わず顔がゆがみそうにもなりながら。とびついてくる周二の片手に握られた大きな蜻蛉《とんぼ》を認めて、婆やは自分でも嬉《うれ》しくなって言う。「おや周ちゃま、それは鬼ヤンマでしょう? よくまあ掴《つか》まえられましたね」かたわらから邪慳《じゃけん》に聡がさえぎった。「とんでもない、ぼくが掴まえてやったのさ」
あるとき庭に蝦蟇《がま》が一匹出現したことがある。子供たちは大騒ぎをし、悲鳴をあげたり竹の竿《さお》を持ちだしたりしたが、麦飯論者になっていた米国叔父さんがこれをおしとどめた。蝦蟇というものは悪い虫を沢山食べてくれる善良な庭の守護神である、と子供らをさとした。ところが聡がどうもこの蝦蟇と相性がわるかったらしく、別の日にそっと一人で思いきって蝦蟇を殺し、更に薬品箱から持ってきたアルコールをそそいで火をつけたものだ。あとでこのことを知った藍子はヒステリー気味に叫んだ。「聡ちゃんて、あたし嫌《きら》い。残酷なんですもん」聡は周二を莫迦《ばか》にしていたが、同年の、しかも親分株の藍子には一目おいていた。そこで彼は半日を費やして蝦蟇の墓を作った。それも目を惹《ひ》くほど入念な形式ばったもので、卒塔婆《そとば》まで立てられていたし、鉄砲百合としぼんだ月見草の花が捧《ささ》げられていた。するとむら気な藍子はすぐ前言を訂正した。「聡ちゃんて優しいのね。あたし、だあい好き」
しかしなんといっても、子供たちが待ち望みわくわくするほど愉しみにしていたのは、毎年八月十六日に行われる強羅の祭りの日であった。その日はちょっとした舞台や草《くさ》相撲《ずもう》が出る。憎らしげな面貌《めんぼう》の男が五人抜きをやりとげたとき、彼を声援していた印半纒《しるしばんてん》の土地の若者は叫んだ。「当りめえさ。冗談じゃねえ。兄貴は本職で、元は十両まで行った力士なんだ」うしろにいた聡が口惜《くや》しそうに呟《つぶや》いた。「蔵王山をここに連れてくれば、いくらなんでも十人抜きはするんだがなあ」
夜は素晴らしかった。杉木立の梢《こずえ》がひときわ高くくろぐろと聳《そび》える漆黒の夜がやってきても、それは周二を畏怖《いふ》させるいつもの夜ではなく、すでににぎにぎしい祝祭を、見惚《みと》れるに足る豪華な彩《いろど》りを暗示していた。常々しんと怕《こわ》いほど静まる山中の夜気のなかを、強羅の駅の方角から群衆の立てるかすかなざわめきが伝わってきた。やがて星影の濃い夜空に、最初の花火が打上げられる。次々と快い音響を立てて、花火がぱっと虚空に菊花の模様をひらき、あるいはおどろくほど夜空一杯にきらびやかな姿態をのばし、あるいは何遍か色を変じながら釣提燈《つりぢょうちん》のようにゆらゆらと降りてきた。そうこうするうち、夜もかなり更《ふ》けてきた頃あいに、楡家の山荘のベランダからちょうど真向いに見える明星《みょうじょう》ヶ|岳《たけ》の黒いかげとなった頂上附近に、突然、小さな火がともる。見る見るそれは拡がって、細くのびて、「大」という光の文字を形造る。京都の大文字焼きを模したその行事は、毎年、宮城野村青年団の手によって、油をそそがれた厖大《ぼうだい》な薪《まき》に火が点じられるのである。昼間、のどやかな稜線《りょうせん》をくりひろげる外輪山の山々を見わたすと、明星ヶ岳の山頂近く、そこだけ草を刈られてぼんやりと「大」の字が現われていた。
ある年のこの行事に、ちょっとした事故があった。例年なら漆黒の背景のなかにあかあかと点《とも》されたその大の字は、やがて勢いが乏しくなり、あちこち字の形が崩れ消えてゆき、ついには元の漆黒に戻るのだが、その年は大の字の下部があらかた消えてしまったのに、その上方へと蛇《へび》のような新たな火の筋がのびてゆき、しかもそれは少しずつ上へ上へと拡がってゆくようであった。
「どうしたの? 火事になったの?」と、ベランダの窓に顔をつけるようにして藍子が言った。
「そうだ、山火事だ」と、年長の兄峻一はおもおもしく言い、少し残念げにつけ加えた。「だが、あれじゃあすぐ消える」
峻一はそのとき慶応の予科の生徒で、中学時代の友人を一人、何日か強羅の家に招いていた。一高の穢《きた》ならしい白線帽をかぶった、色の浅黒い、頬骨のいくらか突きでた城木|達紀《たつのり》という青年で、彼はいつぞや峻一が大鼻血を出したときに焼芋の籠《かご》を投げおとした副級長なのであった。この二人は当時の有様を愉しげに語りあっていたが、城木が兄にむかって、「君はお人好しだったなあ。いつでも真先に焼芋の金を出したっけなあ」と言うのを藍子は耳にはさんだ。
その城木も持前の太い声で言った。
「うん、あの辺には燃えるものもあまりないからなあ。頂上は草ばっかりだった」
城木と峻一は前々日、明星ヶ岳の山頂へ登っていたのである。そしてこの二人の言う通りになった。おそらく附近の灌木へでも燃え移ったらしい小さな山火事は、やがて勢いがにぶくなり、衰えてゆき、残りの火のようにごく小さな点々を残すばかりになった。そうしてそこにも闇がおしひろがり、もう花火もあがらず、集まってくる蛾《が》を防ぐためと大文字焼きをよく見物するため最初から電燈の消されてあったベランダの内部は、人々の顔も見わけがたいほど暗く、そして冷えてきた。
「お風呂にはいって寝ようっと」と、欠伸《あくび》まじりに聡が言った。
しかし藍子は客に対する礼儀をわきまえていた。
「お兄さまたち、お先へお風呂へどうぞ」
そうすまして、こまっちゃくれて、反対側の窓際に黒い影となって見える城木と峻一のほうに向って彼女は言った。……
だが、いつかは、結局は、終りの日が近づいてくる。長い祝祭であったはずの夏休みも、ひとときの大文字の火がはかなく消え去るように、いつの間にか数えるほどの日数になっている。そういえば、ひぐらしの数もずいぶん減った。最盛期には往々日ざかりにまで降るようであったその声も、今では夕暮、あちらの林、むこうの山かげで、何匹と数えられる数が鳴きかわすだけだ。夜の訪れと共にぽっかりと浮きだす月見草の花も減った。雑草のたたずまいにもすでに秋の気配がし、歩いてゆくと若い黒い蟋蟀《こおろぎ》が幾つもとびだしてくる。家の中までなんとなくうらぶれてしまったようだ。廊下の隅の箱のなかには、聡や周二があつめた蜻蛉や蝉のなきがらが、すっかり乾《ひ》からびて、足がもげ翅《はね》がやぶれて放置されている。黄褐色の湯が絶えることなく竹の筒から流れおちてくる湯殿も、湿って、妙にがらんとして、黄色く変色した手拭だけが徒《いたず》らに幾つも釘にかかっている。
そうした終末の日々を、子供たちは憑物《つきもの》がおちた表情で宿題帳と取りくまねばならなかった。多寡《たか》のしれた宿題帳にしろ、こうたまってしまっては巌《いわお》のようなものだ。周二は夏休みじゅうの天候について、何月何日は曇であったか晴天であったかについて、いつまでも愚図々々と気に病んでいる。藍子は言う。「大丈夫よ。東京と箱根とはお天気だって違うんだから。先生は箱根にきてはいないんでしょう?」しかしその弟はやはり出《で》鱈《たら》目《め》の晴や雨を記したことが気になり、どうしても先生は全能で何もかも見通しのように思われて、いつもいざ学校で宿題帳を差しだすとき彼の手は震えるのだった。
とうとう最後の日が、類《たぐ》いない優しい揺籃《ゆりかご》であった箱根との訣別《けつべつ》の日がやってくる。子供たちは記念に、廊下の柱に各々の背《せ》丈《たけ》の印をつけ、もう一度家の中を見返って、せきたてられて玄関前の段々を降りてゆく。萩《はぎ》が道をおおうほどのびている。赤蜻蛉が穂のでたすすきの葉にとまろうと羽をひらめかせるが、もはやそれを捕えている閑《ひま》はない。
来るときは胸をときめかしてくれた登山電車の響きも、今はやるせなく単調にうつろに聞える。数えきれない暗い短いトンネルがつづくその合間に、彼らは箱根の緑の山々を、切り立った崖を、白くたぎった渓流を、もう一度眺める。しかし、こうなっては諦《あきら》めが肝腎だ。そこで彼らは帰りの汽車の中でアイスクリームを、一体どことどこの駅で買って貰えるかを真剣に考える。
すでに小田原から、まして新橋の駅に着くと、むっと暑い。東京は残暑のほてりのなかにゆだっている。それなのに、子供たちを送ってきてくれた青山の運転手である片桐は、タクシーにすぐ乗らせてはくれない。円タクは駅前に幾らでもずらりと並んでいる。片桐は一台の円タクの運転手に青山までの値を尋ねる。相手は片手をあげ、つまり五十銭と意志表示をする。片桐は自分が運転手であるから、この円タクの値段にどうしても納得することができない。彼は言う。「三十銭!」相手はとんでもないというふうに、そっけなく向うをむいてしまう。片桐は自分は大荷物を持ち、子供らにもそれぞれせい一杯の荷をかかえさせているのに、次から次へと別の円タクと交渉しては断わられ、それでもいっかな諦めようとしない。藍子が口をとがらして言う。「もういいわ。二十銭くらいあたし持っててよ」そこで片桐もついに断念して、四十銭の車に子供たちと大荷物とを残念げに押しこむ。
久方ぶりの青山の家も酷暑に疲れてひっそりと見え、油蝉の声だけが晩夏のたるんだ空気をかきまわしている。そればかりか早くもツクツクホーシのせわしない声がする。それを聞くと、今朝からぼんやりしていた周二は、はじめて夏休みが本当に去ってしまって、もう来年まで帰ってこないことをつくづくとさとって、相変らず活気に乏しい顔をなおさらひねこびたように伏せるのだった。
それは子供らにとって確かに恵まれた日々、昭和の良き時代のとりわけ恵まれた日々にちがいなかった。東北の冷害も思想界の弾圧も、そのほか諸々《もろもろ》の黒い雲かげも、大体彼らの耳には達してこなかった。達したとしても理解できなかったにちがいないが。
だが、昭和十二年の夏の初めの深更、北京《ペキン》郊外|蘆溝橋《ろこうきょう》で起った一発の銃声、いや数多《あまた》の銃声のひびきはたしかに彼らの耳にも達した。ニュースとして、どこか遠い場所の出来事として聞えてきた。しかし、子供たちがいつものように箱根へ出かけてゆき、例年と同じくたわいもない日を送っているうちにも、戦火は上海《シャンハイ》にとび、とどまることもなく拡大していった。やがてその「北支事変」は「支那《しな》事変」と改称され、最後まで事変の名で呼ばれてはいたが、それはまがいようもない戦争、涯のない泥沼のような戦争、ついには日本を破滅の淵《ふち》に引きずりこんだ戦争の端緒にはちがいなかった。それにしても誰がそのようなことを予想できたろう。
はじめは、熱に浮かされたお祭り騒ぎのようなものであった。出征兵士を送る万歳の叫びは駅ごとに高らかにどよめきこだました。楡家の書生佐原定一も、いち早く応召した。病院の人々すべてが、精神病者の一部までもが、その千人針を一針ずつ心をこめて縫った。大きな日の丸の旗に記された武運長久の文字のまわりにこぞって署名をした。佐原定一は誰よりもすばやく出征し、その年の末の南京《ナンキン》攻略戦でいち早く戦死をした。その性格が生真面目すぎて、周二に百から引く引算を教えこんだことくらいしか印象に残らない、善良で前途有為な青年は、楡病院のすべての関係者のなかで、この戦争の最初の犠牲者として、すばやく死んでいった。
一方、大学生に――医学部の学生になっていた二十二歳の峻一は、大層なものものしい昂奮《こうふん》の中にあった。その年の春、朝日新聞の「神風号」が、彼の予想どおり、東京、ロンドン間を世界記録で、全航程を九十四時間十七分五十六秒で翔破《しょうは》した。彼はその飛行時間の懸賞に数十通という葉書で応募したものだが、時速五百キロという神風号のスピードを過信しすぎたため、いずれも七十時間台の数字を記し、その多数の葉書代は無駄になったが、そんなことは問題ではなかった。やがて事変が起ったと見るまに、海軍航空隊は渡洋爆撃を敢行した。その九六式陸攻もとうに峻一が熟知していた、そもそもまだ機数も整わなかった時代から見守っていた、彼の心境にしてみればいわば自分が育ての親とも思われる飛行機なのであった。ついで事変の勃発《ぼっぱつ》と共に、防空思想の宣伝が盛んになった。これも峻一にしてみるとわが意を得たことで、自分はまぎれもない先覚者、今ごろ慌《あわ》てふためいて飛行機のことを云々《うんぬん》している奴《ど》輩《はい》とは、我ながら比較にもならぬ具眼の士と思わざるを得なかった。それでも彼は近くの青年会館で行われた防空映画を観賞にゆき、一方ではその映画の幼稚さに舌打ちをし、一方ではますます昔からの根強い信念を強めた。それは、やがていつか必ず東京が空襲されるにちがいないという盲信であった。おそらくアメリカの飛行機か、いや、どこの国の飛行機にしろ、とにかく襲ってきてくれぬことには彼の信念にもとるのであった。
峻一は神田のとある専門店へ出むいてゆき、民間人用の防毒マスクを一つ入手してきた。民間人用といっても、それは本物の防毒マスクで、峻一はそのジャバラのようにのびるゴム管をいつまでも撫《な》でさすり、何遍もかぶってみ、ついで実験をしてみる気になって、部屋じゅう一面に一箱全部の蚊取線香をたいた。その濛々《もうもう》とした煙のなかで新調の防毒マスクをかぶってみたところ、安くなかったその姿のいい防毒面は、彼を立派にたなびいている蚊取線香の煙から守ってくれるようであった。これで東京がいつ何時《なんどき》ガス弾攻撃を受けたにせよ、少なくとも彼一人は、先見の明ある楡峻一一人だけは確かに生命をまっとうできる筈《はず》であった。次に彼は非常食糧のことに思いを馳《は》せた。そこで乾パンを大量に買いこんできて、セロファン紙で包み、手頃なカバンに丁寧に収めた。しかし彼はついうっかりその非常食糧のことを忘却してしまった。そのため、二年以上も経《た》ってふと気がついてカバンをあけてみると、乾パンはぼろぼろに崩れてしまっているばかりか、無数の蛆《うじ》が湧《わ》いていて、セロファン紙の上をうようよと這《は》いまわっている為体《ていたらく》であった。
しかし、峻一の乾パンがまだ真新しかったころ、驚愕《きょうがく》するに足る事件が起った。峻一がだしぬけに憲兵隊に逮捕されたのである。
峻一は一年ほど前から、とある飛行機マニアの同好会に入会していた。世間にはマニアと呼ばれる人種がざらにいる。飛行機に関しては峻一とそっくりの、彼よりも年下からずっと年長者までを含めた、主に横浜と東京に居住する十五、六名の飛行機気ちがいの小さな会があって、彼らは毎月、謄写版刷りの薄っぺらな機関誌を発行していた。新着の外国の航空雑誌による情報、自分たちの目で調べた日本航空界の見聞録がその主な記事であった。当然軍機にふれる場合が少なくなかった。彼らは見なれぬ試験中の軍用機でも見つければ、胸をおどらせておおよその図面を描き、その機種に渾名《あだな》をつけ――なにぶん正式の名前が判る道理もなかったから――予想性能までを堂々と発表していたものだ。たとえば、たった一機で試験中の低翼単葉のズボン足の空冷戦闘機を見たが、自分の耳によればそのエンジンはやはり「壽《ことぶき》」の音にちがいないとか、水冷の低単のスパッツつきの単座機を立川で見たが、その形は左図の通りでフランスのデヴォアチンに酷似している、というような具合であった。その会員の一人の行動が憲兵の敏感な目に触れ、芋づる式に全会員が検挙されたのである。
青山の楡家は大ざっぱな家宅捜索を受けた。峻一の部屋は徹底的に調べられ、彼が苦心して撮影した飛行機の写真のぎっしり貼られた三冊のアルバムはもちろん没収された。その部屋だけで済めば、これは峻一の身から出た銹《さび》ともいえようが、徹吉の部屋にも二人の憲兵は長いことおし入った。書物のぎっしりつまる黴臭《かびくさ》いこの部屋をうさん臭いと睨《にら》んだにちがいなかった。そして堆《うずたか》く積み重ねられている徹吉の精神病学史の原稿を乱暴にめくり、周囲に散乱する原書を、わかってかわからないでか、書物に対する尊敬の念は露ほどもなく、いちいち開いたり閉じたりした。
峻一は他の会員と一緒に二日間憲兵隊に留置された。取調べはきつくなく、向うでも本気でないことは明瞭といえた。結局一同は、その隠れた愛国精神を認められ、しかしこのような行為は場合によって利敵行為ともなり得るから、今後決して許されざる軍用機にカメラを向けたりしないことを誓約させられて釈放された。峻一のアルバムは、軍用機の写真をすべて剥《は》がされ、民間機だけを残して返却されたが、峻一が笑止に思ったことに、一見旅客機らしく見える軍用機は幸いにも残されていた。さらに取調べの間、彼は当の係官があまり飛行機のことをわきまえていない事実に、歯がゆくも無念の思いを味わわされたのであった。それでも峻一は意気|軒昂《けんこう》として家へ戻ってきた。なんにせよ泣く子もだまる憲兵隊で、彼の愛国精神は半分は讃《たた》えられ認められたのだから。
ところが彼は父親から、意外にも激しく叱《しっ》責《せき》された。ふだんは自分の仕事にかまけて子供らの教育を甚《はなは》だしくおろそかにしていた徹吉は、自分の勉強部屋と精根を傾けたその原稿が荒されたやり場のない憤《ふん》怒《ぬ》も手伝って、夜遅くまでこのあきれかえった長男を難じ、龍子と争った夜よりもさらに昂奮《こうふん》した声で説教してやまなかった。その小言が効を奏したのか、それともやはり憲兵隊の留置が身に応《こた》えたのか、峻一はそれからあまり飛行場へ通わなくなった。一つには医学部の授業が予科時代とちがって実習が多く、さすがに以前のように大威張りでさぼるわけにもいかなかったためであり、もっと大きな理由は、かつて彼がふがいないと思い情けないと嘆じた日本の旧式な飛行機が、ようやく目に立つ進歩を見せ、先ごろの渡洋爆撃の成果から見ても、このぶんでは欧米に追いつくのも時間の問題だと感じとれたためである。いわばこの背《せ》丈《たけ》ばかりのびた子供じみた飛行機マニアは――すべてのマニアは幼児に似ているが――その欲求不満をかなり解消し満足させたともいえるのであった。
一方、その弟妹たちは峻一の留置事件をまったく知らないで過した。憲兵のきたのは彼らの学校へ行っている留守の間であったし、大体その兄が二日間くらい姿を見せなくても、いぶかしくも思えぬ年齢のへだたりがあった。それに、さすがの峻一も心のどこかで羞恥《しゅうち》を覚えたらしく、飛行機についての弟子である周二にさえ露ほどもその経過を洩《も》らさなかったし、ほかの大人たちもこの外聞のわるい非国民的な――峻一はもちろんそうは思わなかったが――事件を口にすることをはばかったからである。
今は、青南小学校の教室にも、中国大陸の地図が大きく貼りだされていた。目ざましい進軍を続ける日本軍の占領した都市に、生徒たちに囲まれた教師は小さな日の丸の旗を記した。それから教師はこう提案した。戦地の兵隊さんの御苦労をしのんで、これからみんな毎週一度は日の丸弁当、つまりおかずなしの梅干一粒だけのお弁当にしましょう。周二はその名前だけよい日の丸弁当を食べながら、いつぞやの米国叔父さんの言葉を追想し、なるほど叔父さんが一人で麦を食べて訓練していたのはこういうときのことなのだな、とひそかに合点をした。
病院の事務所へ行ってみると、そこでも会計の大石や薬局の菅野康三郎や運転手の片桐が集まって、熱心に皇軍の戦果について話しあっていた。あるとき珍しく本院の院代|勝俣《かつまた》秀吉《ひできち》が姿を見せ、縁なし眼鏡を光らし、杭州《こうしゅう》湾敵前上陸の際にわが軍があげた「日軍百万上陸」という敵軍を驚かしたに違いないアドバルーンのことをひとしきり讃《たた》えた。
「あれこそ基一郎先生の作戦だよ、まったく。大先生は君ねえ、なんでもああいう具合にやられたものだ」
大石がおそるおそる院代に質問した。青山通りから御《み》幸《ゆき》通りにはいってくる辺りに通称「兵隊婆さん」と呼ばれる家があって、家の前に湯茶の接待の設備をもうけ、演習帰りの三連隊の兵士をねぎらっている。事変が始まってから、あちこちの屋敷がそれを真似《まね》だした。楡病院でもやるべきかどうか。
「それはねえ、君」と、院代勝俣秀吉はその鼻声に充分の権威をこめて言った。「もともと兵隊さんに湯茶を出したのはうちが最初なんだよ。むかしの楡病院は、いつだって兵隊さんと神《み》輿《こし》の休憩所だったものだ。それだからこそ震災のときにも特別親切に警護してくれたくらいだ」
そういう歴史は大石とても心得ていた。しかし、本当は院代よりも年配で近ごろ背が少し曲ってきている大石は、神経質に相手に花を持たせて、勝俣秀吉があとを続けるのを待った。
「今さら茶なんか出す必要はないよ。今からやると、まるで人の後塵《こうじん》を拝するような具合になる。基一郎先生のやり方は、それとは逆で、万事、人の先へ先へと目をつけられたものだ。大体、元はといえばうちが最初なんだからねえ、茶なんてものは」
それから院代勝俣秀吉は、つい先ごろ結ばれた日独伊防共協定のことにも言葉を及ぼし、基一郎先生はドイツのことを昔から格別にお好きであったし、またイタリアの自動車フィアットも使っておられた、こういう時代が到来することを見越していられたとしか思われぬ、と、基一郎伝説に新しい一頁をつけ加えることを忘れはしなかった。
街でも、この防共協定は歓呼してむさぼるように受入れられていた。どこへ行っても、この三国の国旗、その図案が氾濫《はんらん》していた。周二たちのクラスが手工でボール紙の筆箱を作らされたところ、ほとんど組じゅうの生徒が示しあわせたようにこの三国旗の図案を描いた。図画と手工を受持っている口髭《くちひげ》を生やした小柄な教師は、さすがに三国旗の洪水に食傷したらしく、周二が提出したかなり丁寧に作られた筆箱をちらと眺め、「また日独伊か」と口の中で呟《つぶや》き、周二の期待していた四重丸ではなく三重丸を記入した。
だがすぐに、敵国の首都、南京《ナンキン》占領の祝賀の日がやってきた。道を街を埋め尽す旗の波、どよめくような、今は一人一人の声もかすれた「露営の歌」の高唱の渦、ときどき発作的に熱狂的に万歳の声が湧き起り、ひろがってゆき、沿道の人々も手をふりながらそれに和す。その昂奮した渦のなかに、数知れぬ小学生の行列のなかに、まだあの親切だった書生佐原定一が戦死したことを知らぬ藍子も周二も交っていて、姉のほうは頬をほてらしてちぎれるように小旗をふり、弟のほうは粗末な日の丸の旗の紙がすっかり破けてしまっていて、残った棒だけを少し困ったように握って、それでも棒の先を左右に動かしていた。夜には、もっと華やかでにぎにぎしい提燈行列の渦がつづいた。二人の姉弟が七畳半の部屋に蒲《ふ》団《とん》を並べて――さすがに下田の婆やはもう周二と一緒に寝ていなかった――床につこうとした時刻にも、まだ青山の電車通りの方角から、にぶいどよめきが、いつ果てるとも知らぬ歓呼のどよめきが伝わってきた。
第七章
昭和十三年のある早春の一日、桃子は、垢《あか》じみた袷《あわせ》のねんねこ姿で、やがて満一歳になる女の赤子を背おい、新宿駅に降りた。デパートでいくらかの買物をするつもりであった。駅前の広場は人々で混雑をし、そのあちこちでもう見慣れてしまった千人針風景がくりひろげられていた。桃子はその一箇所に立寄って、そそくさと赤い糸で糸玉を一つ作った。その半分ほど仕上った千人針には五銭玉が幾つか縫いつけられていたが、桃子は自分がそうする気には少しもならなかった。今は五銭白銅一枚にせよ無駄にはできない身の上ともいえた。
背中の赤子はおとなしく眠っていた。あるいは彼女が育児に慣れたのか、聡《さとる》とちがって少しも手がかからない女の子であった。宮崎伊之助という、彼女より三つ年下の、綿製品をあつかう小さな商社に勤めている男がその子の父親で、そして桃子の二番目の夫なのであった。彼は四郎よりずっと上背があり、なにかにつけ一見不愛想に眉《まゆ》をひそめる癖があったが、その目は細く切長で優しい光をもち、その耳は決して横の方に突出してはいなかった。先の夫を失い、学校へ行かぬ聡に手を焼いて、もうどうでもいいような投げやりな気分に陥っていた彼女の荒《すさ》んだ生活に、ひょっとしたきっかけからこの男が現われ、そうして桃子は子を捨てて家出をするという、世間に顔むけのできぬ女となってしまったのだ。だが、桃子は宮崎に救われたと感じ、新しい夫を愛し、今でもその思いは変っていなかった。桃子が気になるのは伊之助という夫の名前くらいのことで、それは煤《すす》だらけで猫背だった――今ではもっとひどく腰が曲ったと聞いているが――飯《めし》炊《た》きの伊助爺さんを思いださせるし、事実桃子は何遍もその話を新しい夫にしていた。狭いアパートの部屋の卓袱《ちゃぶ》台《だい》にむかって、ころころ[#「ころころ」に傍点]とだらしなく笑いこけながら。すると夫も多少疲れたような顔に心からの笑いを浮べてくれるのだった。
夫はそれほど薄給というわけではなかった。しかし信州にいる老いた両親に仕送りをしなければならなかったため、彼ら夫婦の生活は楽ではなかった。二人は――いまは赤ん坊も入れて三人は、目白にある壁も落ちかかった、おむつや洗濯物ばかりがどこの窓にも絶えることのない老朽のアパートに暮していた。炊事場は共同で、ここで桃子は以前は考えたこともなかったいろいろなもめ事に関係しなければならなかった。
かつて桃子が心から同情し、この世にはびこる悪漢たちを憤慨したりしたものだった不幸なその姉聖子の生活も、こうしてみると遥《はる》かに恵まれたものとしか思えなかった。桃子の境遇は、ずっとみじめで、なによりも親や兄弟の顔を二度と見ることは許されぬのにちがいなかった。もとよりそれだけの罪、それだけの責めはあることで、その覚悟で家をとびだしたものの、時が経《た》つにつれて矢も楯《たて》もたまらず、決して好きでなかった肉親と会う、いや、『楡脳病科病院』と看板の出ているその病院の門をくぐってみたくて身体《からだ》がうずくようなこともあった。
行方《ゆくえ》をくらましてから丸一年半、桃子は楡家に、それと関係するどのような人にも近づこうとはしなかった。そのあと、とうとう堪《こら》えかねて、ひそかに下田の婆やに会った。婆やはたとえようもなく喜んでくれ、しばらくうつむいて泣いていた。青雲堂の店の二階が、彼女らの密会所であった。青雲堂のおじさん小母さんも、もとより桃子を心から歓迎し、それからごくたまに、桃子はここで下田の婆やに会った。あるとき偶然、学校帰りの藍子が来あわせ、桃子は人に見られてはならぬ姿を見つけられてしまった。下田の婆やが、藍さま、桃子叔母さまのことは内証ですよ、誰にもおっしゃってはなりませんよ、と繰返しているのを聞きながら、桃子の瞼《まぶた》の裏には、むかし自分が下田の婆やに連れられ、米や野菜のはいった風呂敷包みをさげて、聖子の家を訪《たず》ねた折の光景がまざまざと浮んできた。
そして歴史は繰返された。下田の婆やはそっと運転手の片桐を抱きこんだ。聖子のときと同様、米や野菜をときたま目白の貧相なアパートにとどけてくれた。箱根の山荘は九月十日ころ徹吉が帰京して家を閉じる。彼は汽車で帰る。そのあとに残った炭や米などを――箱根に置いておくとすっかり湿ってしまうので――片桐が車に積んで持って帰ることになっていた。だが片桐は目白にまわり、余り物のすべてを桃子のところへ置いていった。下田の婆やも幾回かアパートを尋ねてきてくれた。そしてあるときは、小学校を卒業する間《ま》際《ぎわ》の藍子をも連れてきた。
藍子の少女らしい感傷的な一面が、この叔母に対しては、ためらうことなく湧《わ》きあがってきたようであった。前々から桃子は、下田の婆やの手配してくれた品物にまじって、小さな姪《めい》からの贈物を受取っていた。美しいリボンで結ばれ、「桃子叔母さまへ」と綺《き》麗《れい》なカードのはさんである紙箱で、蓋《ふた》をあけるとチョコレートやビスケットなどが一杯つまっていた。
今日も、下田の婆やのうしろから、多少おずおずと手狭な部屋にはいってきた藍子は、少し照れたように「はい、叔母さま」と言って、いつもとそっくりに――藍子は贈物はリボンで童話的にしつらえねばならぬものと決めているようだった――光沢のある緑のリボンで結んだ小箱を差しだした。その姪の小さな手を見、その姪のこのときばかりはあどけない声を聞いた瞬間、桃子は――二度の平凡でない結婚をし、二度のお産をしている桃子は、もうこらえようがなくなった。彼女の今も愛嬌《あいきょう》のある下ぶくれした顔は激しく歪《ゆが》み、造り物のような言おうようない大粒の涙が、その頬《ほお》をとめどもなく伝わりながれた。
「藍さま」と、彼女は嗚《お》咽《えつ》まじりに、二まわり以上も年下の幼いその姪の名をおろおろと呼んだ。「……あなたは、なんて、なんて優しいんでしょう!……うちは、楡って家は、本当に怖《おそ》ろしい、つめたい、血も涙もない家なんだけど、……その家に、一体どうして、どうしてまたこんなに優しい子が生れたんでしょう?」
だが桃子は次第に落着いてきて、頬についた涙を手の甲でぬぐい、発作的に今まで何遍も聞かせたことのある告白をした。
「あたしは実をいうとあなたが憎らしかったの、赤ん坊のとき。あなたはほんとに綺麗な赤ちゃんで、みんなはあなたのことばかりかまうのですもん。聡は醜くって放っておかれて。……でもねえ藍さま、あたしはずけずけ言う性分ですからはっきり言いますけどね、あなたは赤ん坊時代はほんとに可愛かったけど、小学校にはいったころはずっと不器量になったわ。亡《な》くなった聖さまのほうが美人よ、これは。でも、お世辞じゃないけど、あなたは近頃またよくなってきたわ。女なんて人相が何遍も変るんだから。うまくゆくと藍さま、あなたは聖さまくらいの美人になりそうよ」
この悪口だか世辞だかわからない野方図な叔母の口《く》説《ぜつ》に、藍子はただ呟くように言った。
「いやな叔母さま」
形だけの茶菓の用意をしながら、桃子はそわそわと動きまわり、ふとなにげなく言った。
「聡と会うことある、藍さま?」
「このまえも本院で遊んだわ。とっても元気よ」
「そう……」
しばらく桃子は口を閉ざし、前よりもさらに忙しくせかせかと急須に湯をそそぎ、幸い眠っている赤子の顔を覗《のぞ》いてみたりした。或いは、自分はいつも楡家の人々を人情のかけらもない冷血漢だと罵《ば》倒《とう》してきたが、自分も同じくその一人なのだ、そういう運命になってしまったのだということを、更《あらた》めて噛《か》みしめ、自責しているのかも知れなかった。
しかし桃子は、そのまま沈みこんでしょげてしまうような女ではなかった。おびただしい大量の涙は分泌されたときと同じように手品みたいに乾《ひ》あがり、ほんのわずかの時間が経つうちに、他人が聞けば、この女はなにがそんなに嬉《うれ》しいのであろうといぶかられるような、邪気のない、少なからずだらしのない笑い声がそのおちょぼ口から洩《も》れてきた。彼女は姪と箱根の話をした。すると草木一本のこと、ケーブルカーの車掌が電線に棒で触れて合図をするというような些《さ》細《さい》なことから、桃子の追憶はよみがえり、かきたてられ、奔河のように溢《あふ》れでてきた。そうなると、彼女の顔にはもう暗いかげは微《み》塵《じん》もなく、いきいきと輝きわたり、そのたわいもない女学生さながらの雄弁はとどまるところを知らなかった。
「そう、あの公園の池ねえ、あたしが行ったころも金魚はいたっけ。なんですって、金魚のお麩《ふ》を食べてしまった? そんなことはなんでもない、あたしなんかは夜に出かけていって袖《そで》で金魚をすくおうとしたものよ。袖だけびしょびしょになりましたけどね。……あなた達は幸福よ、大体あたしはあの別荘ができた夏に、そもそも連れていかれなかったんだから。むかしの楡家にはへんな格式があって、下っ端は駄目なのよ。あたしなんか女中の子扱いでみそっかすで、相手にされなくて、……御免なさい、婆やだけはこれは別よ……それはそれは苦労をしたものよ。今だって苦労はしてますけどね。……だけど活動写真だけは盛んに見たもんだわ、それも滅多にひけをとらないほど。羽織|袴《はかま》の爺ちゃんがこんな声で『アイアン・クローは鉄の爪《つめ》……』って、こういう具合に始まるんだから。トーキーなんてあれは駄目よ。いやあ、その面白いことったら!」
そして桃子叔母さんは、姪のまえで膝《ひざ》を叩《たた》き、かなり下品に上半身を折り曲げた。
「そういえば大震災のときは箱根で……藍さまは震災も知らないわけね、まだ生れてないんだから、……まあ震災も知らない人がもうこんなに大きくなってるとはね、……とにかくあたしは震災のとき箱根にいたわけなのよ。あのときはお父様が城吉叔父さんと朝帰ってしまって、龍さまや米国さんたちは前の日かその前の日に帰ってしまって……もう学校が始まるわけですからね……それでも強羅の家に四、五人残っていたかしら。そうそう、昼にカツライスの出前を頼んで、その出前持が『お待遠さま』って裏口からはいってきたとたんなのよ、ぐらぐらってきたのは。みんなとんで逃げたわ。前庭の真ん中に松の木があるでしょう? あれにみんな掴《つか》まったわけよ。あたしは地震には地割れって観念を持ってたらしくて、一生懸命松の枝にぶらさがって足をあげてたわ。そのうちにお母様が……つまりあなた方にとってはあのお祖母《ばば》さまね……おばばさまの姿が見えないってわけよ。お風呂にはいっていたって誰かが言って、あれは清作さんでしたっけ、いや康三郎さんが余震の合間にとんでってみた。するとお母様はゆうゆうと帯の紐《ひも》をおしめになっていたそうよ。なにしろ落着いたところがおありになったわ、あのおばばさまは。その代り冷たいですけどね。あたしみたいな下々《しもじも》の娘にはあまり口をきいてくださらなかったからね、小言は別として。……そのうちに家が傾いたわ。あなたが知ってるあの家は修理をしたものなのよ。土地会社の人がきてテントをはって、あちこちの別荘の人が集まった。誰それの家がひっくり返ったとか大変な騒ぎよ。それから夕方になると、宮城野に鮮人の土工がいて暴動を起すってデマがとんで、竹槍《たけやり》を作って警戒したもんよ。おにぎりの炊出しをしてね。まだ余震はくるし、そりゃあ大変なものだった。それから結局、強羅にいては食糧がないっていうので、山越えをして逃げることになったのよ。三班にわかれて、乙女峠《おとめとうげ》を越えて三島へ出るってわけよ。みんな着物の裾《すそ》をまくって足袋《たび》はだしだった。……ところがねえ、あたしはお尻がまくれないのよ、あたしは顔立ちはまあまあだったけど、女学生仲間で練馬足だなんて言われて、つまり少し足が太かったわけね。その頃はあなた、なにしろ女学生ってものは特別ななんともいえぬ時期ですからねえ、それを人に見られるのが厭《いや》さに、そんな大変なときにも裾をまくれないのよ。……いやあ、大変なことだった。……でもねえ藍さま、この桃子叔母さんはね、もっともっと人には言えぬ苦労をしてきて、ほんとに自分ながら悲しいくらい苦労ばかりしてきた女なんですよ」
そんなふうに小学生の姪には話しにくいことまで平気でしゃべりまくる桃子の顔は、もうあけっぴろげに朗らかで、苦労云々という言葉もなんとなく得意げにも聞えた。最後に、藍子たちがこのアパートを辞そうとするとき、彼女はなお姪に言った。
「峻一さんがもう学部ですって? 早いものね。よくまあ落第もしないできたもんね。楡家では男たちが落第するのは伝統なのよ。欧洲兄さまなんて何回くらいしたかわからないわ。あれは落第の親分ね。そこへゆくと女のほうは出来がいいのよ。藍さま、あなたはきっと利口で出来がよくって、そして美人になるわ。これは叔母さんが保証しますよ。素敵な美人にね」
藍子は困惑して、それでも半分は自分でもそう思っているような顔をして呟いた。「いやな叔母さま!」
――そしていま桃子は、まだ眠ったままの赤子の重さを背に覚えながら、新宿駅前の雑《ざっ》沓《とう》をぬけ、さまざまな商店の並ぶ電車通りの歩道を、三越のほうへ辿《たど》りだした。彼女の身なりは貧相で、髪の毛はほつれ、手にはあかぎれがきれ、そして常日頃あれだけあけっ放しに見えたその顔は、別人のように暗く沈んでいた。まるで怒ってでもいるかのように、ふだんはだらしなくよく動くはずのその口元を引締めていた。誰かとしゃべっていない折の、それが昨今の彼女の表情であった。
それにこのあいだから、桃子の頭を悩ます問題があった。夫の宮崎伊之助が、だしぬけに支那《しな》へ行くと言いだしたのだ。――自分は人に使われて一生を送りたくない。幸い、上《シャン》海《ハイ》にいい仕事がある。自分の友人であり先輩であるその男は、その仕事の同僚として自分を誘ってくれている。この際思いきって大陸へ行って一旗あげたい。この話をはじめて聞かされたとき、桃子は「あたしこれでも北京《ペキン》語はまだいくらか覚えているわ……」と言ったものの、いざとなると決心がつかなかった。漢口《かんこう》時代、身体が震えてくるほど日本へ帰りたくてならなかった記憶も蘇《よみがえ》ってきた。今は帰るべき実家《さと》も持たず、彼女はそれがどこであれこの夫と一緒に暮してゆく運命で、そしてその夫を本心から愛してはいたものの、いざ日本を離れて異国の土地へ行ってしまうことは逡巡《しゅんじゅん》された。怖ろしかった。なぜなら、彼女の内心をそっと覗いてみるならば、日本にはなんといっても楡家が、楡病院が存在したからである。彼女が自らそこをとびだし、常々罵倒することを欠かさない楡脳病科病院が。またそれに附随する多くの人々が……。夫は無理強《じ》いしようとはしなかった。彼は説得した。これは一つの機会というものだ。きっとそれほど長くなく戻ってこられるだろう。それは今日明日というわけにもいくまい。お前もよく考えて決心をしてくれ。桃子はあれこれと考えるにつれてますます混乱してき、どうしてよいものか途方にくれ、さち枝――赤ん坊の名前であった――がまだ小さいからとか口実をもうけては、返事を今日まで引きのばしてきていた。
今日、本当は桃子は、また青雲堂ででもおち会って下田の婆やに相談をしてみるつもりで家を出てきたのである。しかし、青山の家へ電話を――造り声で仮名の――してみると、婆やはちょっとの間留守のようで、とりあえずその前にデパートで赤ん坊のものを買う心《つも》算《り》であった。
駅前を出外れると、格別、戦時色らしい風景とてなかった。ほどもなく廃止になるパーマネントの頭も、やがてはとがめられるようになる長袖も、まだそこらにちらほらしていた。同じようにまだ木炭自動車の姿もなく、車はガソリンの臭気を吐いて疾走し、市電がのびやかにかしましく走っていた。どの商店も店先に溢れる品物と人の群れでにぎわい、それらのいきいきとした活気が、繁栄が、今は桃子には嫉《ねた》ましかった。
三越の前まできたとき、桃子は実に懐《なつ》かしいものを見た。それはそこの歩道に接して駐車をしている、松原の本院で使っている鼠色《ねずみいろ》のオペルそっくりの車であった。いや、それどころかそれは本物、松原の車それ自体に間違いないことがわかった。車の横で羽箒《はねぼうき》で窓をはたいている男は、まぎれもなく松原の運転手、霜田茂松に相違なかった。
瞬間、桃子は棒立ちになり、あわただしく周囲を見まわした。彼女の見知っている誰の姿もその辺りにはなかった。それから視線を車に戻したとき、すでに茂松は桃子を見つけ、こちらのほうへ駈《か》け寄ってくるところだった。
「桃子さま。桃子さまでしょう?」
二、三歩まえで立止って、彼はそう言った。それからまじまじと彼女の顔を、その全身を眺めわたした。
一方、桃子は感動のあまり、口がきけなかった。彼女は霜田茂松とそれほど親しい間柄でもなかった。それなのに、茂松は、こんな身なりをしているあたしをちゃんとそれと認め、羽箒を手に持ったまま駈け寄ってきてくれた。あたしの名を呼んでくれた、あんなに息をはずませるようにして。――その瞬間、桃子の頭のなかに、楡病院全体が、やはり彼女を暖かく庇護《ひご》してくれ抱擁してくれる、なによりも頼もしくも懐かしい存在として大きく映じて動かなかった。
霜田茂松は古くからいる中年の運転手で、薄々桃子の家出の事情をわきまえていた。彼女の背にある赤子のことや、いま彼女がどのような境遇にあるのかまでは類推することはできなかったが、それでもおおよその見当をつけた模様であった。彼は一歩前に出て、早口にこう言った。
「いま大奥さまがお買物でいらっしゃいます。大奥さまお一人です。……桃子さま、お会いなさい。ここにいらして、お詫《わ》びを申しあげなさい。きっとお許しが出ます」
その親切な考えぶかい言葉を聞いた瞬間、桃子は自分も咄《とっ》嗟《さ》に電光のように信じた。そうだ、自分は許されるにちがいない。もちろん激しく叱責されるであろう。人でなし扱いを受けるであろう。しかし自分は掌をついて、土下座をしてでも謝《あやま》ろう。そうすればきっと許される。それがどんな形でもあれ、とにかく青山や松原の家の門をもう一度くぐることができる……。
そう思いそう念じて、茂松と車のそばまで来たとき、予想よりもあまりに早く、母親の、ひさの姿が目にはいった。母親はさすがに老《ふ》けていた。この年、彼女は数えで七十歳に達していた。それでも矍鑠《かくしゃく》として、未だに買物に外出してくるのだった。彼女は黒の縫紋を着、手には何も持たず、三越の入口から真直に小刻みなゆるやかな足どりで車にむかった。ひさは桃子に気づかぬようであった。小《こ》皺《じわ》に満ちた、親しみのもちにくい鷲鼻《わしばな》の、しかし全体としてはのっぺりとして見える古めかしく格式ありげなその顔には、なんの表情も浮んではいなかった。桃子は二、三歩前に進んだ。そして彼女は――慄然《りつぜん》と身を硬直させながら、悟った。母親はとうに自分がいることに気づいているのだ。明らかに桃子と悟っているのだ。だが、ちらともこちらに向こうとはしない。その老いた無表情で無感動な母の横顔が前を通り過ぎるとき、桃子ははっきりとこう言われたような気がした。――おまえの顔は見とうない。早く向うへ行きなさるがよい。
茂松が車の扉をあける。ひさがのろのろと身をかがめて内部に乗りこむ。茂松は扉をしめ、桃子を見返り、しばらくためらい、なにか言いたそうにして、それから運転手席の扉をあける。
桃子は顔をそむけていた。上空を、デパートの屋上の方角を見つめていた。間近で車が始動し、ひとしきりのエンジンの音を立てた。やがて桃子の視線が地上へ戻ったとき、もうどこにも鼠色に塗られたそのオペルの姿はなかった。
ふしぎなことに、桃子の少しやつれた下ぶくれのした頬には、涙の跡が見られなかった。いや、彼女はほそい両眼をせい一杯|瞠《みひら》き、こぼれでようとする涙を堪《こら》えていたのだ。そしてまたふしぎなことに、口惜しさと情けなさで一杯の彼女の心を、同時に、なにかさっぱりした、解放されたような感覚が通り過ぎた。
彼女は思った。心底から決心をした。自分は支那へ行こう。上海でもどこへでも行こう。そして夫とさち枝と三人だけで暮し、いつかはどこかできっとみじめな姿で死んでやろう。ただ、楡、このあまり世間にない姓と関係した場所では絶対に死んでやるものか。
背中で、もぞもぞと赤子が目ざめ動きだす気配がした。
蔵《ざ》王山《おうさん》辰次の身の上もまた、不運の一語に尽きる、としか言えないものがあった。
事変以来、伝統の国技という観点から益々隆盛を迎えた相撲界にあって、この比類のない長身の持主は膝《ひざ》と背骨の疾患がどうしてもよくならず、ついつい休場をつづけ、たとえ出場してもなかなか星が残せなかった。そのため番附面でも三段目まで落ちていた。往時は彼の附人であった者が今では三役にもなっている。人気だけは衰えなかったが、それは彼を人間として認めたうえでの人気ではなく、屈辱的な見世物としての興味にすぎなかった。かつては彼も三役を目の前にする相撲取りで、部屋でも大事にしてくれ、贔屓客《ひいききゃく》に飲まされて門限を遅れて戻ってきても、部屋《へや》頭《がしら》のかみさんが自分から戸をあけにとんで出てきたものであった。それが今ではその逆だ。何もかもがその逆だ。前頭筆頭までとった力士が三段目にまで落ちて、未だに相撲とりをやめないということからして奇異な目で見られた。「辰次、もうそろそろ引退しろよ」とか、「おまえの心臓はトーチカ心臓か」などという声が周囲で聞かれた。
だがこの年の夏場所、蔵王山は久方ぶりに土俵にあがった。大多数の人々がただ滑稽《こっけい》におもしろがって眺めているこの巨人は、楡家のなかでは比較的理解してくれる欧洲の前で、真剣に、ぶざまに大きな巨体を坐り直して改めて、「もう一ぺんだけ土俵を勤めてみたい」と言ったのである。この場所、楡家からはかなりの多くの人が――珍しく徹吉までが蔵王山を声援に出かけていった。すでに蔵王山が土俵にあがるのは、午前十時半ころ、遅くも十一時ころになっていた。水も出なければ塩もない。制限時間は五分以内である。国技館の大鉄傘《だいてっさん》の下、がらんとして人《ひと》気《け》のほとんどない桟《さ》敷《じき》、しかし大衆席からは相変らずかかる声援の下で、やきもきする欧洲や菅野康三郎の面前で、身長だけは誰よりも図抜けて大きい蔵王山は、かつては大関は確実と信じられたその辰次は、痩《や》せこけたぺいぺいの相手に喰《く》い下られ押したてられ、目をそむけたくなるほど脆《もろ》く、腹も立てられぬほどあっけなく、よたよたと土俵を割った……。
そこで前々から部屋から話がでていたことだし、欧洲と徹吉とが他の熱心な後援会の人たちと相談して年寄株を買い、引退させることになった。
年寄といっても、場所中に辰次がやらされる仕事は木戸のモギリであった。大人や子供が彼を指さし、不遠慮に彼を眺め、あけすけに批評をした。蔵王山にとってそれはどれほど辛《つら》いことであったろう。なにしろ彼は基一郎にひきとられたときから、なんの因果か化物じみている自分の身長を隠そうとして、人前では滅多に立とうとはしなかったほどなのだから。
彼はそれでもたまに松原の楡家を訪れた。青山の家にもやってきて、裏庭に半日坐り、ひたむきに二百に近いさつきの鉢《はち》の手入れをやった。基一郎のいない楡家ではさしたる厚遇も受けられなかったが、もっと個人的にねんごろに彼をもてなしてくれる家もあった。浜町の外科病院の院長とか、千住《せんじゅ》の蕎麦屋《そばや》の主人などである。蕎麦屋の子供は小児《しょうに》麻痺《まひ》で立つことができなかった。あるとき、その子供の遊び相手となっていた蔵王山は、その子を団扇《うちわ》のように大きい手で抱きかかえ、気味のわるいほどぶ厚いくちびるを動かしてこう一人呟いた。
「おれがお医者になっていたらなあ」
しかしこの年、楡脳病科病院は、院代勝俣秀吉の何年越しの夢と希望を実現して、大々的に華やかに、創立五十周年記念を挙行した。五十年のうち十五年は本郷の楡医院が経た年数で、多少いかさまの気配がしたが、院代はこれを強硬に主張してゆずらなかったのである。昔の開院記念日、賞与式の日は十二月十四日であったが、院代はこれを松原の新病院の開院日六月十八日とすることを提案し受入れられた。勝俣秀吉としてはどうにも冬まで待てぬということが真相の一つ、また大運動会を催すのに冬では季節的にふさわしくないというのがもう一つの理由であった。
四月に基一郎の十三回忌を東京会館に客を招いてつつがなく済ますと、院代はざらにはない情熱と精力を傾けて、早くも五十周年記念の準備にかかりだした。楡家の主だった連中はあまり乗気ではなかった。しかし院代の一徹さの前にはその意志を言うなりに通すより致し方がなく、こうしてみると楡脳病科病院は楡家のものというより、院代勝俣秀吉の所有物としか思えぬようなときがままあった。
しかし院代の意気は言おうようなく盛んで、そのとめどもなく去来する想念は、基一郎のそれを凌駕《りょうが》するといってもよかった。そして院代のこうした自負、自信は、それなりに裏づけのあるものでもあったのだ。この頃からあとにつづく三、四年、楡病院は第二次隆盛期というか、私立病院界の雄として存在したことは確かである。院代は自室の机――その上には数多の印形《いんぎょう》、もちろん「楡脳病科病院本院院代」の判こもまじった箱が置かれてあった――に向って考える。なるほど昔の楡病院には揺がすことのできぬ偉容があった。風格があった。七つの塔と数十本の円柱があった。あれはとても真似《まね》ることができぬ。しかし現に、松原の本院だけでも患者数に於て昔を凌駕しようとしている。これは今後さらに殖《ふ》えてゆくものとみていい。青山の分院はだらしがないが、この本院、いやしくもこの勝俣秀吉が受持っているこの本院は、病院の外観こそ昔の威厳に乏しいが、規模に於ては遥かに雄大だ。テニスコート、大運動場、鯉《こい》の放たれているそこらの釣堀ほどの池、農園、養鶏場――その中には米国の趣味で七面鳥までいるのだ――豚の飼育場まである。基一郎先生が土地をたっぷりとってくださった賜物だ。そこで院代は背後をちょっと振返って見たが、その壁には亡き前院長のカイゼル髭《ひげ》をふりたてた写真が、端然と曲りもせずに飾られてあった。
「……鯉、鶏、七面鳥、豚」と、院代勝俣秀吉は意味もなく口のなかで呟いてみた。それから、「七面鳥、あれはいかん」と独語をした。
七面鳥という鳥はなかなか気が強い。見慣れぬ人間、子供などを見ると尾羽を立てて襲いかかることがある。先日、院代はなにげなく囲いの中へはいっていって、七面鳥に追いかけられ、もともと彼は鶴に似た歩きぶりなのに、このときは米国の使用人の面前でさながら駝鳥《だちょう》の走るように逃げねばならず、たいそう面目を失ったのであった。
「豚、これは使える」と、彼は独語した。
それから院代勝俣秀吉は、復活される賞与式のことを、額に手を当てがってひたむきに考え、その品物は大奥さまにまかせるとして、なんとか昔ながらの威厳と格式とをもたせて挙行できないものかと思案をした。なにしろあの徹吉院長ときたら、お年玉の袋も満足に渡せないのだから。これはなんとかして欧洲さまを引張りだすように口説かねばなるまい……。
院代の計画にはとりわけ珍奇なものがあるわけではない。創造する頭脳には彼は恵まれなかったからだ。まず賞与式の復活、それから以前から屡々《しばしば》やっている演芸会を三日間にわたる大演芸会にする。本職の芸人も出せば、職員、患者さんの有志も総動員する。更に、これも今までもやってきた病院内の小運動会を、町内の人々までを呼ぶ大運動会にする。
院代勝俣秀吉は常々にない速度で部屋からとびだしてゆくと、事務の若い男を掴《つか》まえた。
「君ねえ、運動会の宣伝ビラを町内にくばろうと思うのだが、印刷所を一つ手配してくれたまえ」
「町内にですか? 脳病院の運動会に、それはちょっと変でしょう」
「冗談でないよ、君」と、院代は縁なし眼鏡を光らして胸をそらせた。「楡病院ともなれば、これは町内と一体といっていい。君は知らんだろうが、むかしの青山の楡病院は……いいかね、基一郎先生がアメリカから帰国されたときには、前の原っぱで大がかりな園遊会をやられたものだ。こう馬車をずらりと並べてな。相撲取りだってぞろぞろいるし、町内の見物人も一杯だし、そのため屋台が出たものだ。いいかね、楡病院の院長が帰国されると屋台が出たのだ、屋台が。今は時代が違うから馬車をつらねるわけにもいかん。大体ビラをまくくらい君、冗談ではないよ。これは病院の宣伝にもなるしな。それから風船をどっさり山のように買わねばならないねえ。風船というものは君、いくらくらいするものかな? それから万国旗、万国旗だ。なに、こんなものはどうせ安いものだろう」
しかし、院代勝俣秀吉がさらに腕組みをしたところによると、何かが足りないように思われた。中心となるもの、要《かなめ》になるもの、往時の楡病院の伝統をさらに輝かすものが欠けていた。院代は幾日も頭をしぼった末、ついに創造的な才能を現わしてそれを思いついた。すなわち楡脳病科病院の院旗と、同じく院歌をこしらえることである。しかし簡単に旗といっても、病院じゅうの智慧《ちえ》をかき集めてみたものの、これといった図案がみつかったわけではなかった。院代の気持からいえば、盟邦ドイツ、イタリアの国旗様のものが欲しかったのにちがいないのだが、致し方なくやむを得ず、単に海のように青い地に白く『楡病院』と染めぬくに留めることにした。脳病科という文字を脱かしたわけは、六字ではごしゃごしゃして読みづらかろうと懸念されたためと、勝俣秀吉の心の底にもやはり脳病科という文句をさして有難がらぬ気持がひそんでいたためであろう。旗はそれで決ったとして、院歌のほうも、はじめのうちはしょせん無理な不可能事としか思われなかった。なにしろ然《しか》るべき人に頼んで作詞をして貰《もら》い、さらに作曲を依頼し、五十周年記念日までに職員患者が歌えるようにしなければならぬ。
院代が絶望して頭をかかえていると、これを一人の患者が聞きこんだ。八代という姓の五十がらみのその男は作曲家であった。どのような作曲をするのかは誰もしらなかったが、ともあれ音楽家の一種には違いなく、そして彼は躁病《そうびょう》の患者であった。躁病という病気は甚《はなは》だしく騒々しい。その精神は疲れ知らずの自信満々の、往々度外れた昂揚《こうよう》状態にある。八代は三度目の入院であった。いつも二カ月ほどで良くなって退院するが、一年も経つと、またぞろ金は濫《らん》費《ぴ》する、あちこちの知人には迷惑をかけるというわけで、家族が無理矢理に彼を楡病院へ連れてきた。すると彼は大威張りで入院する。看護人はおろか医者までも自分の侍従のようにあつかって、それから鍵《かぎ》のかかる病棟に閉じこめられ、大声で演説したり大層な裏声で歌ったりして周囲に迷惑を及ぼしていたが、一月も経つとかなりその状態は収まってき、開放病棟に移された。
ところが彼は、まだ落着きを欠いた出しゃばりの精神を失っていないため、指示されたようには生活しようとしなかった。あまつさえ三度目の入院で病院内の事情にも通じていたし、他の精神病者の姿を彼なりに観察していて、他人の病名をあてるのが彼の得意とするわざともなっていた。八代は無断で病棟を出、ぐるりとまわって病院の玄関からはいってきて待合室に泰然と腰をおろし、次の瞬間には事務室にずかずかはいっていってしばらくしゃべり、次には薬局をも覗《のぞ》いてみた。それでは困るので、許しのない行動をするともう一度閉鎖病棟に移しますよとおどかすと、八代は昂然と答える。
「そんなことをすれば、私はまた騒ぎだしますぞ。それではわざわざ病人を悪くするようなものだ。一体病院がそんなことをしてもいいものですか?」
なにより困るのは、八代が外来を訪れる病人や附添人を掴《つか》まえ、「あんたが何病か当ててみせようか。あんたは早発性|痴《ち》呆《ほう》だ。それに違いない」とか、「あんたは癲癇《てんかん》の発作が起るのだろう? 隠しても無駄だ。かくいう私は躁病患者だがね」などと言うことであった。
この半癒《なお》りの、いやまだ立派な病人の八代が、院歌の話を耳にはさみ、そんなものはおれが作ってやるといとも簡単に言いきった。そして、わざわざ自発的に院代の部屋へおしかけてきた八代を、はじめは顔をしかめながら渋々いい加減に応対していた勝俣秀吉は、三十分後には半ばこの躁病患者を見直し、乗気になり、どちらかというと共鳴してしまった。精神昂揚者が似たような精神に出会ってうち震えたのである。八代は楡病院を讃《ほ》めたたえ、自分は実はもう癒ってしまっているのだが、居心地がよいから――ただ娯楽室のオルガンこそいかにもひどい代物《しろもの》だが――あと半年は入院しているつもりだと述べた。それから、院歌のことならこの私が作詞も喜んでやってあげる、と無造作に自分自身に頷《うなず》いてみせた。
「君ねえ、いや、あなたねえ」と、院代勝俣秀吉はさすがに半信半疑の面持で尋ねた。「作詞もおできになりますか?」
「まかしなさい、まかしなさい、院代さん。あんたが見ていやだったらやめりゃいいんだから。あんたにそれだけの鑑賞眼があればの話ですがね」
勝俣秀吉は、そのあと大急ぎで担任の医者に会い、あの八代という男は本物の作曲家であるかどうかを尋ねた。返事は、たしかに作曲家である、とのことであった。
一方、病室へ戻った八代のほうは奔逸する連想のおもむくまま、最初の十五分間を費やして四行で三連からなる詩を作詞し、さらに次の十分間によってこれに曲をつけ、早くもその歌を口ずさみながら院代の許《もと》へやってきた。院代勝俣秀吉は、あまりの素早さにあっけにとられ、またしてもむらむらと疑惑の雲に閉ざされたが、さて詩をよんでみると、彼のかような事柄に不慣れな感覚によれば、それはそう悪くないように思われた。「都を遥か離《さか》りきて、緑したたる芝園《しばぞの》に……」という出だしのもので、「緑したたる」とは実際より誇張されてロマンチックで素敵だと思った。しかし「都を遥か」にはちょっとためらわれた。郊外とはいえ、世田谷松原は立派に東京市の一部なのであるから。院代がそう述べると、相手は即座に考えるそぶりも見せず、畳みかけるように口をひらいた。「それなら……松の……松の風鳴る松原の、としたらどうです?」院代は目《ま》のあたりに見たその電光石火の早わざに、今度こそ本当にびっくりし畏《い》怖《ふ》を覚えた。この男は天才なのではなかろうか? 次に八代が、二、三回繰返してその歌を歌ってきかせると、それがたしかに精神病者の心の緊張をほぐし、しかも快活に浮々させるメロディを有していると勝俣秀吉は判断し、リズムをあわせながら自分でも拍子をとって何遍も頤《あご》をがくがくやった。
院代は念のため、その作詞を自分以外の人にも見せてまわったが、誰もとりたてて異論を唱える者はなかった。なにはともあれ、院代先生がそれほど浮々と相好《そうごう》を崩《くず》していたものだから……。
そしてその日がきた、五十周年記念の祝賀日が。
はじめ院代が意図した三日間にわたる大演芸会は取止めとなっていた。病人にさように毎日芝居を見せるのは芳《かんば》しくないと医局から文句が出たからである。平凡に第一日目は賞与式と演芸会、第二日目は運動会と職員の慰労会、それで行事は終了することになった。
院代勝俣秀吉にとっては、発端から上々の辷《すべ》り出しというわけにはいかなかった。その日の朝、院代は全職員とはいわなくとも、手すきの者をすべて集め、ひさや欧洲たちにも臨席して貰い、その面前で病院の屋上に立てたほそい鉄柱に、厳《おごそ》かにしずしずと院旗をひるがえす心算であった。ところが院代が外へ出てみると、誰かが気をきかしすぎて、院旗はとうに鉄柱にあげられていた。のみならず、それは少しも翩翻《へんぽん》とひるがえってくれず、甚だ見映《みば》えせずにだらりとたれていた。
復活された賞与式にしても、勝俣秀吉を本当に満足させはしなかった。たしかに賞与式の膳立《ぜんだて》は揃《そろ》っているように見受けられた。本院の娯楽室は往時の青山のそれよりも広く、居並ぶ職員、出入りの職人の数にも遜色《そんしょく》はなく、そして古式[#「古式」に傍点]に則《のっと》って青雲堂の主人が呼ばれていた。彼は小柄な身体には大きすぎるフロックコートに身を固め、むかしといささかも変らぬ朗々たる声《こわ》音《ね》で読みあげていった。
「松原伊助どの」
すると、青山の分院から表彰者の一人として参列しているあの飯炊きの伊助爺さんが、十五周年のときに貰った紋附|袴《はかま》に威儀を正して、しかしすっかり腰が曲って、以前からの背中の隆起と相まって、松原の病院の人々の目には異様と思える風体《ふうてい》を列の間から現わした。
「大石龍三郎どの」
青雲堂主人が力をこめて朗々とよみあげるたびに、壇の後方の椅子に腰かけさせられている欧洲の妻千代子は、羞恥《しゅうち》に堪《た》えかねる思いがした。こうした悠長《ゆうちょう》な声を聞き、こうした光景を正面からじっと最後まで眺めていなければならぬとは、実際なんという運命であろう。
倦《う》むことなく青雲堂はつづける。
「宝田たづるどの」
かつては青山の賄《まかな》いで箸《はし》もころげぬのに突拍子もない声で笑っていた狆《いぬ》に似たその看護婦は、今では歳《とし》もとり、本院の看護婦長になっていた。
そういう人々が列をぬけ、おもはゆそうに段をあがってくるたびに、院代はもっともらしく頷《うなず》き、手間《てま》閑《ひま》をかけて台の上から賞品の箱をとりあげた。しかし、肝腎《かんじん》の立役者がこの壇上には欠けていた。誇らしげに胸をそらし、一々カイゼル髭《ひげ》をひねりあげ、能《あと》うかぎり賞与式を長びかせようと努めているかのように得意満面となって賞品を授与した前代の院長、基一郎が……。その席には代りに徹吉がいた。めっきり白髪がふえ、疲れたように猫背気味になって。そして彼は機械的に節度もなく箱を受取り、なんの威厳も品位も示さず、そそくさと相手に手渡した。
院代勝俣秀吉は、幾度か眉《まゆ》をひそめ、前院長のおもかげを今更のようにしのび、徹吉院長ではどうしようもないわいとひそかに悲憤しなければならなかった。
しかし、夜の演芸会はなかなかの盛況といえた。二百五十名を越える、こうした席にどうにか出てくることを許された患者たちは、ぎっしりと娯楽室の畳の上を埋め、比類のない熱心さで、遠慮なく笑ったり拍手したりしながら観覧をした。本職の芸人が出るまえに、職員や患者の有志による寸劇、ちょっとした芝居が演じられた。そして自分も熱心に眺めていた院代勝俣秀吉は、精神病者とはとても思えぬ彼らの器用さ巧妙さに感服し、さすがうちの患者さんだと満悦の態《てい》でうなずいたものだ。
ところが、やがて舞台に一人の男――それも患者であった――が出、落語を一席語りはじめた。これが実につまらないというか、どこといって笑える箇所が露ほどもなかった。事実、ぎっしりと人のつまった観客席からは、くすりという忍び笑いさえ起らず、誰も彼もがむっつりと生真面目な表情となって、しんと厳粛にこの話に聞き入っていた。志願の落語家はすこぶるひたむきに、このうえない真《しん》摯《し》さで語りすすめ、困ったことには持時間をとうに過ぎているのに、いっかな話をやめようとしないのであった。ついには看護人が出ていって、なだめすかして、この男を舞台からひきずりおろさねばならなかった。
だが、なんといっても、とびきりの圧巻、絶頂の観《み》物《もの》、どこといって山場のなかった五十周年記念の真打《しんうち》は、翌日の運動会における院代勝俣秀吉の行動であった。その日は日曜日でもあったし、町内にくばられたビラの効用もあって、朝からぞろぞろと近所の子供たちがつめかけてきた。彼らは入口で、「すき腹にめし 痰咳《たんせき》に旭飴《あさひあめ》」の、新しく発売された固型のドロップ状をした飴の小罐《かん》を貰い、それを口にほおばりながら、一緒に貰ったゴム風船を片手に、運動場の繩《なわ》ばりの外で早くも追っかけっこをしていた。一方、子供たちの保護者、同時に脳病院に好奇心を抱く大人の姿も少なくなく、紙の万国旗は多すぎるほどそこらじゅうにつるされ、のみならず景気をつける花火がすでに幾発も上空にこだました。
そのとき、こちらにたむろした病院関係者の席の横合、十名ほどの雑多な楽隊の前に、輝くばかりに目に立つハイカラーをつけ、フロックコートに身をかためた院代勝俣秀吉が、つかつかと歩み寄り、そこに置かれた壇上に小柄な痩身《そうしん》をせい一杯のびあがらせてすっくと立ったのである。そして、彼は必要以上にしゃちほこばり、ただならず去来する幾星霜の感慨をこめて、さっと片手を上方にふりかざした。そこには黒い細い棒が握られている。
一体何が起ろうというのか。さよう、院代勝俣秀吉は開会に先立って一つの歌――あの楡脳病科病院の院歌の指揮をとろうとしているのだ。院代自身、まさかこのようなわが身にふさわしからぬ行いをやろうとは考えていなかったのだが、五十周年記念に常軌を外れて熱中する院代を、おもしろ半分に事務の者が焚《た》きつけたのであった。肝腎の作詞者であり作曲者である八代は、とうに退院してしまっていた。あと半年は病院にいると院代のまえで言いきったその躁病患者は、上辷《うわすべ》りする連想のおもむくままに院歌を二十五分間でつくってしまうと、ほどもなく自分で勝手に電話をかけ、家人を呼びハイヤーを呼び、あと一カ月は入院していたほうがいいという医者の勧告をふりきって、意気|軒昂《けんこう》と退院していったのである。しかし彼は乱雑に書きちらかした楽譜を残していった。楡病院には譜がよめる者が一人としていなかったため、一度近くの小学校の先生を頼んでオルガンを弾《ひ》いて貰い、手すきの者、軽症の患者が集まって小学生のように合唱の稽《けい》古《こ》をした。曲はヘ調の四拍子の快活で同時に陳腐|極《きわ》まるものであったが、最後の折返しのところで作曲者はいい気な芸術的感興に駆られたらしく、当然平凡に納まってよいその音調を変ニ長調へだしぬけに急転させていて、そこの部分がどうにも歌いにくかった。まして祝賀日の日は迫っていて歌の練習ばかりをするわけにもいかず、いきおいこの院歌の最初の斉唱には、一|抹《まつ》の危懼《きく》が、当然の疑惑が感じられた。そうなってみると、院歌のそもそもの発案者、院代勝俣秀吉はまったく音楽の素養に欠けていたにもかかわらず、事務員たちの機嫌とりの慫慂《しょうよう》と自らのやむにやまれぬ情熱とが相まって、いま楽隊の前の壇の上に立ち指揮棒をふりあげるという羽目に立到ったのである。
院代の縁なし眼鏡の奥のほそい目、その瞼《まぶた》は神経質にひくひくと震え、もともと蒼白《そうはく》なその顔はいやがうえにも青くなった。かつて試験恐怖症に悩んだその小心が、この場慣れぬ破天荒の舞台に際して蘇《よみがえ》ってきたのかもしれなかった。しかし、彼はのびあがるように爪先《つまさき》立ち、思いきり背筋をのばすと、捨鉢《すてばち》の勢いをこめてさっと指揮棒をふりおろした。するとチンドン屋に毛の生えたくらいの楽隊は演奏を開始し、そのけたたましい音響に勇気づけられて、院代は闇雲《やみくも》に、半ば目がくらんだまま、前日手をとって教えこまれたとおり喘《あえ》ぐように棒をふりつづけた。
短い前奏が終ると、整列した従業員、ごく一部の患者たちが、おずおずと、かなりばらばらに歌いだした。
松の風鳴る松原の
緑したたる芝園に……
聞きとれたのはそこら辺《あた》りまでであった。或る者は歌詞を忘れてしまい、或る者は曲を忘れてしまい、別の者はいい加減いやになって、照れたように口だけを動かした。そのため院代勝俣秀吉が期待した運動場をどよもすような大合唱は起らぬどころか、歌は尻つぼみになり、かぼそくとだえがちになり、二番に移るころにはすっかり消えはててしまった。
しかし、そうした経過が果して院代の耳に達していたかどうかは疑わしい。それほど彼は痛ましい熱中、筆にも尽せぬ献身の努力のさ中にあったからである。彼が逡巡したのは指揮棒をふりおろす前の一瞬であった。今はその束縛がとれ、心理の垂幕《たれまく》は引きちぎられ、現にトランペットとトロンボーンは調子よく鳴りわたり、クラリネットが甲高《かんだか》い響きを上下させ、太鼓とシンバルまでが勇ましく叩かれている。そこで院代勝俣秀吉は、のぼせあがり上気し、避けがたい衝動に胸をそらせ、せい一杯の身ぶりで指揮棒をふりつづけた。
「なんだね、ありゃあ。滅茶苦茶じゃないか」
と、あきれたふうに見物人の一人が呟《つぶや》いた。
患者の一人もまたこう言った。
「松の風鳴るといったって、この病院にゃ松なんぞないぜ。櫟林《くぬぎばやし》ならあるけんどな」
一方、院代勝俣秀吉は、人々をすっかり茫《ぼう》然《ぜん》自失させておいて、自らはけだかくも孤独に、比類なく一所懸命に奮戦した。彼が棒をふりあげふりおろす仕《し》種《ぐさ》は、あたかも器械体操にも似ていたが、次第々々にその動作が早く、そのテンポはもはや楽隊の演奏とまったく遊離していた。楽隊のほうでも、とうに誰一人そのせわしく突拍子もなく動く指揮棒を見ている者はいなかった。そして、突然、演奏がやんだ。曲は終ったのである。まだ指揮棒をふりまわしていた院代は、そこで初めて気がついてその驚くべき動作をやめ、額の汗をぬぐった。
だがすぐに、景気よくまたもや幾発かの花火があがり、楽隊は「愛国行進曲」を奏しだし、つつがなく運動会の幕は切って落された。昔も今も変りのない、陳腐ながらも常にいきいきとした、大の男をもつい熱中させる幾つかの競技が始まったのである。紙ばりの紅白のダルマがよちよちと走り、糸につるされたパンはふらふらと口から逃げまわり、盥《たらい》に入れられた泥鰌《どじょう》はその粘液にものをいわせてつるりと指の間から抜けおちた。幾つかの競技には、向うところ敵なき皇軍が暴虐非道な支那軍を討伐するに類した名称が冠せられていた。名称には関わりなくそういうたわいもない競走にふける人々の群れのなかには、青山の藍子や周二、松原の家に暮す桃子の息子の聡もいた。この三人は特権を利用してどの競技にもほとんど参加したけれど、すばしこい聡すら一度も入賞することができなかった。なぜなら、彼らと一緒に走り障碍物《しょうがいぶつ》を抜けるのは大なり小なり頭がおかしい人たちで、その幾人かは子供たちに気を使ってゆっくり走ってくれたものの、他の大多数は子供なぞはおしのけて、真剣に歯を喰いしばって力走したからである。
いつまでも勝負のつかぬ綱引きがあり、病棟対抗の毬《まり》入《い》れがあり、とび入りをまじえたスプーン・レースがあり、最後に呼び物の「豚とり競争」が行われた。それは院代の発案になるもので、米国の飼育している仔《こ》豚《ぶた》を運動場に放し、掴まえた者には第四回支那事変国債を進呈するというのであった。アナウンスについでやがて豚が放たれ、それは数十名の殺気立った患者たちに追われてころがるように走りだした。早い、早い。一体誰がこのように豚が早く走れると想像したであろう。だが、韋駄《いだ》天《てん》の豚もついに追いつめられた。人々がおし重なって抑えつけたので、どの男が豚を捕えたのか判断することは不可能であった。――やがて夕方の斜光をあびた運動場からは急速にざわめきと人かげが消え、紙の万国旗だけがしおたれてたれさがり、あちこちに子供らの捨てた紙屑《かみくず》や旭飴の空罐《あきかん》が散らばって、こうして楡病院の五十周年記念は終りを迎えようとしていた。……
だが、娯楽室で行われたその夜の職員慰労の宴は、にぎやかに深更までつづいた。わずかだけ顔を出した欧洲、かなり長いことつきあっていたがもともと酒の飲めぬ院代や医局の医師たちも去り、ついには七、八人の看護人と薬局の者が残るばかりになった。その中でもっとも大きな顔をしてしきりに盃《さかずき》を重ねているのは、ほかならぬ痘痕《あばた》の熊さん、佐久間熊五郎で、彼の顔一面の吹出物はこのところほとんど癒っているようだったが、それでもその痕跡《こんせき》が、酒をのんだ赧《あか》ら顔に不明瞭《ふめいりょう》に浮びあがっていた。
「徐州《じょしゅう》の次は漢口《かんこう》、あとは漢口だ……」と、彼は一同を睥睨《へいげい》して、すでにとろりとしてきた目をむきだした。「そこで蒋介石《しょうかいせき》は降服する。だが、まだまだ、あとにはソ連と英米がひかえている。そいつを叩きつぶさにゃあ……」
「蒋介石を相手にせず、ですからな、もう」
と、若い薬剤師が追従《ついしょう》のように言った。
「そうだ、真の敵はアメリカである。アメリカはこの間も支那への義《ぎ》捐金《えんきん》を千万ドル集めたそうだ。ダンス会かなんかやってちょっと千万ドル。千万ドルといえば、これはどうして大したものだ。莫迦《ばか》にするわけにいかんですぞ、諸君。なにしろ千万ドルといやあ……」
なにぶんこの熊五郎は正確な職分を持たぬというものの、楡病院のなかではやはり堂々とした古狸《ふるだぬき》、最近勤めだした連中にとっては一目も二目もおかねばならぬ男にはちがいなかった。そしてこの年四十二歳になる熊五郎自身、そのことを鼻にかけ、少なからず得意としている傾向があった。彼は三年ほどまえ楡病院の看護婦とおそい結婚をし、夫婦二人で病院内の宿舎に住んでいた。
いまも熊五郎は新米の看護人に命じて、そこらの膳《ぜん》から目ぼしい残り物を持ってこさせ、酒の残っている徳利もすべて集めさせ、いよいよ酔いに濁った目つきでくだを巻きはじめた。
「大体お前さんたちは、不平ばかりいっていても駄目だぞ。脳病院なんぞに勤めておもしろくないと思っているのだろ。たかが一年や二年勤めたくらいで、脳病院はわからんよ、お前さん。ぼくを見給え、ぼくを。ぼくは大正六年の春から楡病院にいるのですぞ。勤続二十三年ですぞ。十五周年の賞与式のときには……大体お前さんたちは、むかしの楡病院を知らんからな。あの頃からいる連中はこの本院にもいくらもいない。むかしの院長だって、この熊五郎には一目置いていたものですぞ。ぼくが廊下に立っていると、ご苦労ご苦労なんて言ってな。あのころはぼくは改革者をもって任じていたものだ。この熊五郎がひとこと言うと、とたんに賄《まかな》いの飯がよくなる。だがなあ、お前さんたち、二十三年もいると、住心地がよくなるものなのだ、住心地が。ぼくは生れながらに楡病院にいるような気がするですぞ。院代が死んだら、ぼくが次代院代になる。大体あの院代って奴は鼻の頭から妙な声を出しやがって……」
「佐久間さん、まあ一杯」
「佐久間? いいや、ぼくはな、楡熊五郎という男ですよ。おっと、あまり飲むと、また痔《じ》が出る。ところで諸君、今日からぼくは楡姓となるですぞ。まず米国さんの義兄というところだな。大体二十三年もいると、まずそういう具合になるのだ。ぼくは楡病院が気に入ったから、いずれはここの院代になる。今の院代は自分の息子を事務になんぞ入れおって世襲させるつもりだろうが、そうはいかない。ここは居心地がわるくないからな、二十三年もいると。お前さんたちにはわからんだろうが……」
確かに熊五郎が居心地がわるくないと感ずるのは、もっともなことといえた。なにしろ彼は米国のあとについて養鶏場や農場をぶらりと一巡するばかりで、自ら手を下しては何ひとつせず、あとは気がむくなりに一日じゅうテニスをしていればよい身分なのだから。
熊五郎の酔いはさらにまわってきたようであった。
「……さてお前さんら、敵は黄河の堤防を切りおった。なかなかやるですぞ、敵さんも。……いいか君たち、愚図々々出征もせんで一体何をしているんだ。子供たちだってみんな戦っているぞ。父さま僕も立派な荒鷲《あらわし》に……とくらあ。せめて満蒙《まんもう》に行きたまえ、満蒙に。ぼくなんぞは、若いころは青雲の志を持っていたものだ。大体心がまえが違っておった。大きな声では言えぬが、社会を改革しようとしたものだ。しかし日本の進路をようく若いうちから見極めたものですぞ。……予《かね》て○○○○を完成し○○○○○に集合せし我海軍の○○○○は、……なんのことかわからんだろう、お前さんたち? それだから近ごろの若い者は駄目だというのだ。父さま僕も立派な荒鷲に……○○○○舳《じく》艫《ろ》相|啣《ふく》みて○○○を解《かい》纜《らん》し……というんだ。千万ドルはけしからん、千万ドルは……」
そのうち、佐久間熊五郎のずんぐりした身体はぐにゃりとつぶれた。赧《あか》らんだ角ばった顔、そこにさらに赤ぐろく浮きでた吹出物の痕跡、――彼はそのまま目を閉ざして寝入ってしまいそうな様子を見せた。
「佐久間さん、さあ佐久間さん」と、一人が熊五郎をゆり起した。すると熊五郎は一度目を薄くひらき、眠そうに煩《うるさ》そうに大儀そうに、濁った声でどもどもとこう言った。
「……楡、楡熊五郎だぞ、おれは」
第八章
徹吉の仕事は終末に近づいていた。
すでに彼の大版の固苦しい感じの著書『精神医学史』の上巻――ギリシア、ローマ時代から十八世紀に至る精神医学の歴史を説いたものであった――は刊行され、ピネル、エスキロールなどのフランス学派から十九世紀前半のドイツ精神医学を述べた中巻もゲラ刷が出はじめていた。主に医学書を扱っている金原書店から刊行されたもので、初版は印税なしという条件で、図版を多く入れたため徹吉はいくらか出資をしなければならなかった。そのほかにこの厖大《ぼうだい》な仕事の附随物、本来はその仕事の発生の契機となった『日本精神医学史序説』が、これは二百三十|頁《ページ》ばかりの薄い表紙の一冊本として、同じ書店から前年の暮に刊行されていた。徹吉はそれを箱根に於《お》ける一夏の滞在中に書きおろしたのである。
そして、いよいよ徹吉の筆は、彼の熟知している部分、日本の精神科医が師として仰いできた近代ドイツ精神医学に及んできた。多くのすぐれた学者たち、その名はすべて身近なものであり、なんらかの意味で学生時代からなじんできたものであり、その幾人かは徹吉が直接その顔貌《がんぼう》、その謦咳《けいがい》に接したことのある人物であった。
昭和十四年の一月、破竹の勢いで勝ち放してきた横綱双葉山が、七十連勝目の日に新進|安芸《あき》ノ|海《うみ》の外掛《そとがけ》にどうと倒れ、国技館の大鉄《だいてっ》傘《さん》下は愚か日本国中を昂奮《こうふん》の渦に叩《たた》きこんだころ、徹吉の前には、揺がすことのできぬ一つの巨峰、エミール・クレペリンの業績が立ちはだかっていた。かつてミュンヘンで徹吉の差しだした掌を拒否し、くるりと背を向けて去っていったあの野武士のごとき風貌の学者が。
徹吉はクレペリンの一つの肖像写真を見つめた。薄い白い頭髪、未だ黒い眉《まゆ》と鋭い眼《まな》差《ざ》し、箒《ほうき》のように粗《まば》らにささくれたその口髭《くちひげ》。すると、いぶかしいことに十数年まえの動《どう》悸《き》にみちた一刻が、躯《み》のふるえるような屈辱感が、まるで昨日のことのようになまなましく蘇《よみがえ》ってくるのが感じられた。自分がそのようにまだこの異国の学者に――クレペリンはとうに歿《ぼっ》してもいた――執念ぶかく怨《うら》みに似た気持を抱いていることに、徹吉は自分ながらあきれ、強《し》いて苦笑を洩《も》らそうとした。彼は原稿と書籍の散乱した机の上に片肘《かたひじ》をつき、目をつむってあの当時を――気負って倦《う》むことなく顕微鏡を覗《のぞ》いていた留学時代を追想した。鴉《からす》が群れていたウインの古い鈍《にび》いろの寺院、粗《あら》い布でも擦《す》るように一種きびしい音を立てて流れていた凍りかけたドナウの川面、徹吉の会釈に応《こた》えず小食堂の卓からつと[#「つと」に傍点]席を立ったミュンヘンの老人の姿、さらに常に朴《ぼく》訥《とつ》な笑顔をたやさなかった懐《なつ》かしい「日本婆さん」のおもかげなどを。
するとふたたび、クレペリンの明瞭な像が、否応なく執拗《しつよう》に立帰ってくるのだった。徹吉を露骨に無視して講堂の奥の入口から出てゆくその黒い背広の後ろ姿、それをわなわなと震える拳《こぶし》を握りしめて棒立ちになって見送った彼自身のすがた……。その映像を思い浮べると、徹吉はおかしいほど躯《み》が緊張するのを覚え、ふたたび無理に苦笑を洩らした。
一代の碩学《せきがく》クレペリンは、同時に敬虔《けいけん》な禁酒論者としても知られていた。もともとそれは彼の精神病学に深く根ざしたものであり、憂国の念からほとばしりでた観念でもあり、その禁酒運動はすこぶる熱烈で長年にわたるものであったが、いかんせんミュンヘンは醸造業の本場であった。クレペリンが新聞に禁酒の論文をかくと、新聞はこの大学者の原稿を没にしてしまった。あまつさえ「飲まず屋の教授どの」とか「リモナーデ党」とかいう渾名《あだな》まで奉った。大きな麦酒《ビール》店《てん》で学生たちが三リットル入りの長大なビールの杯を傾けながら、「おおクレペリーン! おおクレペリーン! 水なんて持ってどこへ行くの?」という戯《ざ》れ歌《うた》を高唱しているのを徹吉は聞いたことがある。また或る雑誌に載せられたポンチ絵のことをも彼は憶《おも》いだした。一人の、すでに不朽の作を幾つか書いた近代ドイツ詩人がいる。しかし祖国は戦いに敗れ、革命は起り、為替《かわせ》相場は下りに下る。詩人はゲーテ以上の天分を抱きながら、ついに怨みを呑《の》んで餓死をする。その屍《し》体《たい》は解剖され、脳髄は精神病学教室に送られる。精神病学教室の長は、この世に稀《まれ》な詩人の脳髄を得て雀躍《じゃくやく》し、歓喜きわまり、生れてはじめて一杯の赤《あか》葡萄《ぶどう》酒《しゅ》をぐいと飲みほす……。
徹吉は、夜半をすぎてどこからともなく隙《すき》間《ま》風《かぜ》のくる彼の書斎で、大部分灰と化した炭火の上に手をかざしながら、十数年まえの異国の学生たちの口調を思いだしてぼんやりと呟《つぶや》いてみた。O! Kr※[#ダイエレシス付きA小文字]pelin! O! Kr※[#ダイエレシス付きA小文字]pelin! Wo gehst du mit dem Wasser hin?
期待していたいくばくかの解放感、ひとときの微笑を含んだゆとりはやってこず、むしろいがらっぽい悲哀の念が強く徹吉をつつんだ。あの巨匠は本当にどこかへ行ってしまったのだ。比類なく巨大ながっしりとした業績をあとに残して。そして今、眇《びょう》たる東海の島国で、眇たる徹吉という男が、これほど疲れきりながら、その業績をおずおずとたどり跡づけようとしているのだ。
一時、近代精神医学は、厖大《ぼうだい》で冗長な分類学の中にその本体を見失おうとしたことがあった。ひどいときには、プラータの二十三病についで、ハインロートの四十八病が提案された。しかし病像をそれぞれの症状から分類しようとせず、経過の全体の観察から掴《つか》もうとしたのがクレペリンの業績である。彼は哲学という言葉を嫌《きら》った。ダカンやピネルを哲学的態度ときめつけ――実際には当時の自然哲学は生物学を意味していたのに――彼のいう自然科学精神にもとづいて自分の仕事を進めていった。その教科書の最初の形態『精神医学提要』の二版で、クレペリンは精神病を二つに分類し、外因的な治癒《ちゆ》可能のものと、内因的な不治なものとにわけた。ある患者の一群は自然に回復し、反面他の患者の一群は回復を見ることなく結局は精神荒廃に陥ってゆく。診断は予後から決定され、経過によってその診断の当否が確かめられた。これはかなり乱暴な、多くの個々のものをそこからこぼれ落す見方ともいえようが、ともあれ混乱していたものを統一し、明確にし、首尾一貫させる力を有していた。一八九六年に刊行された八百二十五頁の彼の教科書の第五版に於て、クレペリンの体系はほぼ完成した。一八九九年の第六版になると、はじめて躁鬱《そううつ》性精神病の名が記載される。クレペリンは二つの大きな主な精神病のグループ、早発性|痴《ち》呆《ほう》と躁鬱病とを分類したのである。その体系は鞏《きょう》固《こ》に明晰《めいせき》に、次第に修正されつつふくれあがり、一九二七年の第九版では二千五百頁に近い堂々とした二巻の書物となった。この版は彼の死の翌年、ランゲと共著で出版されたものである。
クレペリンの診断学には反対の声も少なくなかった。早発性痴呆については、パッペンハイム、エルンスト・マイヤー、コルサコフなどが反対をした。早発性痴呆の患者のおよそ十三パーセントは一見なんの欠陥もなしに治癒することが指摘された。躁鬱病についても、メンデルやカールバウムがその概念の矛盾する点を指摘した。だがこの主要精神病を二つのグループにわける主張は、あらゆる教科書に於《おい》てやがて古典的なゆるぎのないものとなっていった。一方、クレペリンの学説が、彼のまったくの独創によるものではないこともまた事実であることに徹吉は気がついた。早発性痴呆の名称は、すでに一八六〇年にフランスのモレルによって使われている。ゴーチエもソーリもルグランもその言葉を用いている。躁鬱病にしても、ファルレやバイヤルジェやカールバウムがすでに早くからその概念を説いていた。そうして見ると、クレペリンの学問は、あきらかに一世紀にわたるフランス、ドイツ両国の精神医学のおのずからなる結集という観がした。ともあれ、そこには一人の巨人がおり、一つの理論に完全さを要求するためにはかなりの犠牲も辞さない或る強烈な意志をもって、詳細に整理された無数の症例と個々の観察群から、がっしりとした一つの大系を生みだしたのである。
その大系は、あとにつづく秀《ひい》でた学者たちの手によって、形骸《けいがい》ばかり残る袋小路から遁《のが》れでる運命をも有していた。なかんずくオイゲン・ブロイラーは早発性痴呆の概念全体を訂正し、分裂病という名称に変えさせた。また別の批判者である『体型と性格』の著者エルンスト・クレッチュマーは、クレペリンの業績をより豊かに拡張していった……。
精神医学史という一つの限られた領域にせよ、それはまぎれもなく人間全体の、人類の歴史にちがいなかった。そこには人間たちの偏狭さ、その迷妄《めいもう》、同時に栄光にまで結ばれる強靭《きょうじん》な努力の跡がまざまざと刻みこまれていた。そこには古来から絶ゆることのない精神異常者の姿があったが、またその異常者たちはいわゆる正常者と質が異なり、あるいはその性格が誇張されているため、なおさら人間というものを浮彫りにしてくれた。彼らに対する社会の反応は、またこのうえなく人間らしい際《きわ》立《だ》った反応でもあった。そして、社会から一つのデモクラティックな精神――それをなんと呼んでよいものか徹吉にはわからなかったが――が失われるたびに、精神医学もまた明瞭な沈滞期に陥るのを例とした。
こうした歴史を展望し記述すること、それ自体が客観的な批判精神というものに通ずる筈《はず》であったが、徹吉にあってはこの過程がふしぎなほど粗略になされたといってよい。なるほど彼は数多の書物をむさぼり読み、個々の歴史、個々の症例に通じはした。しかし知識の堆積《たいせき》は、彼の視野を拡げはせず、深めもしなかった。ちょうど煩雑《はんざつ》な分類学に狂奔した学者たちが、肝腎《かんじん》の病人から、人間自体からますますかけ離れていったように。それは対象から離れること、冷静に展望することではなく、密着であり埋没でありすぎた。徹吉にとって、それゆえ彼の勤勉に、たしかに勤勉に学びかき集めた精神医学史は、いわば極端に閉ざされた世界、発芽すべき種子を凍りつかせた世界、きらびやかな不毛の世界と呼べないこともなかった。
しかし、そのようなことは夢にも自覚せず、徹吉は自分の仕事を進めていった。それは今は急速度に、彼の本来の業務をしばしば放擲《ほうてき》しなければならぬほど、傾斜をころがる雪玉のような姿勢で進行していた。彼は、アドルフ・マイヤー、カール・ヤスパース、ビンスワンガー、シュトラウスなどの業績を辿《たど》ってみた。しかし、それらは精神医学史に於てはあまりに新しすぎ、なまなましすぎ、もっと後年になってみなければ論述は難《むず》かしいと考えられた。だが、どうしても無視できぬもの、もっとも扱いに当惑するものがそこに登場してきた。ほかならぬフロイトとその協力者、またそれに続く幾人かの分析学者たちである。ジグムント・フロイト、この明らかに同時代の医師たちの中でよかれあしかれもっとも著名な人物は、長らくドイツでは極端な誹《ひ》謗《ぼう》と排斥の対象とされてきた。ドイツ医学を奉ずる日本に於ても同様であったし、徹吉にしても彼の学説を認め信ずる気には少しもなれなかった。フロイトは一九三〇年にゲーテ賞を受けている。それはようやくドイツ国内にみなぎる彼の学説への憎《ぞう》悪《お》の衰退を告げる現象かと思わせたが、ヒットラーの擡頭《たいとう》はふたたびこの老人の晩年をおびやかした。ベルリンに於ける焚書《ふんしょ》では彼の著書は焼かれ、昨昭和十三年ドイツがオーストリアを併合したとき、フロイトはその生涯の大部分を過したウィンを追放されている。フロイトが現在ロンドンで暮していることを徹吉は知っていたが、その学説の同情もないごく大ざっぱな概略を記述しながら、やはり偉大と呼ばねばならぬこの男がそれから幾月と経ることなく歿することまでを察することはできなかった。……
仕事の合間に、徹吉はときどき家を出、明治神宮まで歩いて参拝に行った。彼が学んだドイツの教授たちが、非常に熱心に足を使って運動をとることを無意識のうちに見習っていたのかもしれなかった。
いつの間にか、神宮の木立にも新緑が鮮《あざ》やかになってきた。徹吉は拝殿の前に頭をたれ、自分の仕事の完成と皇軍の武運長久とを祈った。それから裏手の道へ出て、そこのベンチに長いこと腰かけていた。若葉のいろが目に沁《し》みるようで、彼は半ば目を閉ざし、ついに終りに近づいてきた自分の仕事のことを思いやった。ときには居たたまれぬほどの昂奮《こうふん》が、ときにはうつうつとした眠り心地が、こもごもに彼を訪れた。なるほど彼はここ十年間仕事をしつづけてきた。我ながらよくやってきたと思えるほどに。ずっと若いころ、彼は仕事というものを、もっと特殊な事柄に、奇妙な脳髄の仕《し》種《ぐさ》に――さらに孤独で、激越で、心を蝕《むしば》む現世とほど遠い領域と夢想していたものだ。だが今となっては、仕事は些《さ》細《さい》な彼の日常にすぎなかった。少なくともその集積といえた。それに費やされるエネルギーは異質のものではなく、たとえば三度々々の食事をすること、以前あったように妻と争うこと、たまたま子供らに疎遠感と失望とを覚えること、そうした日常|茶《さ》飯《はん》の同じく神経を病む雑事と似たものにすぎぬように徹吉には思えた。そこには氷結も純粋も虚無もなかった。平々凡々たる男の多少の強情さ、――それが彼の仕事であり、彼の生活であるともいえた。
一匹の蠅《はえ》が彼の膝《ひざ》にとまり、少しずつ移動し、一度とびたってまた彼の膝に戻った。徹吉はそれを追わずに、蠅が自分からとび去るまで見守った。ようやくにして立上り、靴の下に鳴る砂利を踏んで帰路についた。表参道までくると、勤労奉仕の女学生の一団が玉《たま》砂《じゃ》利《り》の上を清掃していた。彼女らの子供々々した姿態に、徹吉は自分の年齢を感じ、またそういう若い一群が一生懸命地面を掃いているという行為に、単純で一|途《ず》な感謝の念を抱いた。
徹吉はまた渋谷まで歩いて、宮益坂の中途にある小さな映画館で内外のニュース映画を観ることも稀《まれ》ではなかった。中国での戦いはいよいよ果てしのないものと思われたし、ノモンハンでは新しい戦闘が起っていた。国外でも――パラマウント・ニュースは、蜿蜒《えんえん》と連なるマジノ線のコンクリートで固められたいかつい要塞《ようさい》を写しだした。ぽっかりと開いた穴から重々しい砲口が突きだしていた。しかしその前面の対戦車帯、林立した短い鉄骨のあいだには草が繁茂し、鉄条網の後方を往来する歩哨《ほしょう》の姿には未だのどかな余裕があった。向うには羊の群れさえ見えた。だが画面は、それと対《たい》峙《じ》するドイツ側のジークフリート線を写しだした。ヒットラーがこの一年間に全ドイツの土木機械総力の三分の一を集めて一気に造りあげた、マジノ線に勝《まさ》るとも劣らぬ地下要塞の姿である。そのどちらもがゆゆしく鉄壁の感を抱かせ、相手の攻撃に小揺ぎもしないように見えた。しかし徹吉はまさしく風雲急を思わせるその国境地帯――かつて彼はそこを汽車で越えていったものであった――を眼前にし、懐かしさよりも訳もない気のたかぶりを覚え、ひそかにジークフリート要塞に声援を送った。
映画館を出ると、初夏がこようとしている青空が眩《まばゆ》かった。街には坊主刈の頭が急に殖《ふ》え、ときどき不《ぶ》恰好《かっこう》な附属物を背にして木炭自動車が走っていた。徹吉は足早に宮益坂を降り、そこを流れている濁った川の橋の袂《たもと》でしばらく立止った。橋の上から黒く汚れきった川面を卵の殻が流れてゆくのを目で追い、――やがてまた足早に市電の停留所へと歩いていった。
そしてその六月の下旬、ついに彼の十年来の労苦が終りを告げる日がきた。
その完成の到来が遠からず訪れることは、もとより前々からわかってはいた。しかし、この仕事はあまりに長い歳月つづけられてきて、徹吉にはそれがなぜとなく不気味で、心底から信じられないような気になった。そうして思い返してみると、今さらのようにこの仕事が彼に課した重荷と圧迫、そういってよければひそやかな陶酔とよろこび、――その不幸と幸福とが、うとましくかつ誇りやかに、彼の内部で渦を巻き、彼をとりまいて流動した。それにしても、このように居心地のわるい幸福、このように精力的な不幸というものが果してあるものだろうか。
はじめは絶望的な飲み干すべき海としか思えなかったものだ。敗北と破産が目に見えているにもかかわらず、否応なしに彼はこの仕事にとりつき、遅々として進み、遅々として進むうちに、とにかくここまでやってきたのだ。多くの停滞が、意気|沮《そ》喪《そう》が、また多くの精神|昂揚《こうよう》が、実り豊かな日々が、交互にこの歳月に訪れた。数限りない障碍《しょうがい》、――なかんずく自分は何をしているのか、この楡病院の二代目院長が何をしているのかという後ろめたい神経をすりへらす意識。しかし、それはもうすぐ済む。もうすぐ、たしかに、完全に、間違いようなく、彼はこの長ったらしい作業から解放されるはずだ。だが本当に終るのだろうか? もしも終ったとしたら、本当に完了したとしたら、どのような恍惚《こうこつ》とした喜悦が身を包むであろうか? 実際ここ何年か、彼は屡々《しばしば》そのことを考えたことはある。だがそれはあまりに現実性が稀《き》薄《はく》で、あまりに夢物語で、彼はいつもその無益な先走りの考えを自らおしのけてしまったものだ。しかし今やそれは嘘《うそ》ではなかった。たしかに終りがくる。それが当然なのだ。昼が夜となり、季節が移り、年が更《あらた》まるように自明なことなのだ。それももうすぐ、もう一歩、もう紙一重の問題なのだ。
――その日、徹吉は朝から重苦しい気分にとらわれていた。数日来ひいている季節外れの鼻《はな》風邪《かぜ》のせいかもしれなかった。前日の診察日、それが終ってからの院長会議、さらに無理をおして夜半すぎまで続けた仕事の疲労が残っているのかもしれなかった。それでも彼は習慣通り机の前に坐った。前日の原稿用紙がそこに開かれている。彼はおそるおそる自分の丸っこい字体を眺《なが》めたが、このときほどその字《じ》面《づら》がしらじらしく、無味乾燥に映ったこともなかった。そうして彼は長いことそうやって坐っていた。すぐ仕事にとりかかれそうな気配はなかった。頭脳は重く淀《よど》み、つまった鼻がいっそう気分を憔悴《しょうすい》させた。彼はそこらに積まれた書物を手にふれるままに取り、そこここをせわしくめくってみた。ついで幾度か洟《はな》をかんだが、さきほどはつまっていた鼻から、そうなると意地わるく執拗に薄い水洟が分泌されてきた。
昼まえ、彼はようやく原稿用紙の桝《ます》目《め》に文字を埋めはじめ、一枚半を書いたところで、頼んでおいた笊《ざる》蕎麦《そば》がきたことを告げられた。彼は慌《あわただ》しく階下に降りていって食卓にむかった。すると水洟がまたたれはじめ、あやうく蕎麦の上に落ちそうになって、どうにも彼の神経をいらだたせた。そのためせっかく軌道に乗りかけた彼の筆は、食事のあとは渋滞してしまい、午後は自分ながら情けない、徒《いたず》らに水洟をかむ憂鬱《ゆううつ》な時刻となった。四時すぎ、彼は床に横になり、夕《ゆう》餉《げ》まで昼寝をした。
起きあがってからも、一向に気分は冴《さ》えなかった。今日はもうきっぱりと諦《あきら》めるべきかもしれないと考えながら、徹吉がのろのろと階下に降りてくると、居間にはすでに夕餉の支《し》度《たく》、久方ぶりの鋤焼《すきやき》の用意が整えられていた。皿に盛られた牛肉のいろはごく鮮やかで、子供たちの姿はまだ見えなかった。子供と一緒に食事をするより、徹吉は一人静かにその肉を食べたかった。そこで彼は自分でせわしくガスに火をつけ、鍋《なべ》にまず脂身《あぶらみ》を入れ、鋤焼というものはこうするものだと思われるままに調味料と野菜と肉とを加えた。卵を割って器におとし、まだ肉が充分煮えてもいないうちに箸《はし》をつけはじめた。風邪気とうっとうしい気分にもかかわらず、その肉は甚《はなは》だ美味と感じられ、下田の婆やと子供たちが居間にきたときには、徹吉は皿に盛られた半分以上の肉を平らげていた。それから、あまり腹を満たすのはよくないと考え、御飯はやめにして、ほとんど子供たちと入れ違いに席を立った。
舌に甘く感じられた牛肉の故《せい》か、夜、徹吉の筆は徐々に動きだした。それは次第に早く、熱っぽく、今はあまりとどこおらず、原稿用紙の桝目を埋め、行を埋め、次の紙へと移行していった。夜半になる少しまえ、徹吉は通し番号を記している原稿用紙の左隅に、3000という数字を記した。とうとう三千枚に達したという事実に、彼は瞬間、ささやかな感動を受けた。しかし、そのしばしの感動をおきざりにして、彼は稿をついだ。
午前一時、原稿は三千四枚目に達した。そこは一つの休止点でもあった。明日、最後のちょっとした記述、近代精神医学が新しく獲得した治療法に対する期待を述べ、あとは結語も何もなしに終了にしようと徹吉は考えた。精神医学はそもそもの出発点から他の医学に遥《はる》かに立ちおくれている。一般医学とは異なり、精神医学に於ては病気そのものに対する明確な基準すらなかった。それはようやく医学の分野に組入れられたばかりで、大きな過渡期にあり、これからの展望すらも予想するわけにいかなかった。
とにかく今日はここで終りにしよう、と徹吉はもう一度考えた。なにより疲労がはっきりと自覚できた。背骨から肩にかけて重くるしい鈍痛があったし、目もかなりしょぼしょぼしてきた。が、頭脳の一部に、それまで焚《た》きつけられ、昂奮させられ、なお燃えている箇所があって、その部分が、疲労した彼を誘《いざな》い、もう少しやれ、もう何枚かだけやれと主張した。惰性的に、半ば疑心暗鬼ながら徹吉はその声に従った。
はじめにはまた渋滞があった。それから筆は不安なほど速《すみ》やかに、おそらくあとから見れば粗雑なものにはちがいないが、当の本人にはごくなめらかに調子よく辷《すべ》りだした。二時半をまわるころ、徹吉はほとんど疲労を忘れた。頭脳の痺《しび》れがとうに感覚を不明瞭にし、目はにぶい重たさを残してむしろ冴《さ》えてきた。かつて想像もしなかったほど文字が速やかに書かれ、新しい用紙がめくられ、こうなってはもはや終りまで書くより仕方がないということを、徹吉はすでに自覚していた。長い仕事にあっては無益で有害な徹夜を彼は以前からの経験で避けてきたものの、今はすでに終了を目前にして、そんな道徳にかまってはいられない段階といえた。
三時四十分、彼は鶏鳴を聞いた。未だ暗黒の戸外で、それは幾度も繰返し、ふしぎにいらだたしい不吉そのもののような声で鳴きつづけた。ときどき洟をかむ作業を機械的に繰返しながら、徹吉は稿をつづけた。そしてようやく夜の白みかかるころ、かなりせかせかと一瀉《しゃ》千里に、三千十五枚で彼の仕事は終った。
徹吉は最後の句点を打った。半分空白の原稿用紙の左下の隅に、「了」の文字を書き、それがどうも不釣合に目ざわりなように思えたので、すぐに棒を引いて消した。
頭の芯《しん》がじいんと鳴っているようで、肉体はわずかに重く無感覚に、目だけが冴えていた。
――ともかく終ったのだ、と徹吉は自分に頷《うなず》いた。
そして、徐々におしよせてくる疲労感にとり巻かれながら、十年余の仕事が終了したこと、その夢のような『精神医学史』を終りまで書いたということに、なんとかして感激をかきたてようとした。しかし、彼の精神も肉体も極度に萎《な》えしぼんで、生ぬるい虚脱と空白感だけがべっとりと刻まれていた。どうして歓喜が、せめてもの満足と充足感が訪れようとしないのか? 三千十五枚の労苦に満ちた作業、そのあとに、このような疲労のみ沁みわたる曖昧《あいまい》なむなしさばかりが残ってよいものなのか?
徹吉はしばらく茫然《ぼうぜん》と机の前に坐っていた。それから立上って、書物ばかりが跋《ばっ》扈《こ》する殺風景な彼の書斎を不機《ふき》嫌《げん》な目つきで見直して、ふと思いついて部屋を出た。外へ、戸外へ出てみようと意図したのである。
廊下には乏しい灯がともり、壁際《かべぎわ》に沿って並べられた本棚《ほんだな》を照らしていた。だがそのかぼそい光は、階下へ通ずる古びた絨氈《じゅうたん》を敷いた階段の中ほどまでしか及んでいなかった。徹吉はゆっくりと危ぶむような気分でそこをおりた。
家の中はまだ寝静まっていて、女中の起きだす気配もなかった。跫音《あしおと》を忍ばせて徹吉は玄関へ出、そのすり硝子《ガラス》から白っぽい暁の光がさしこんでいるのを見た。下駄を突っかけ、錠をまわし、きしる戸を気にしながら外へ出た。
しらじらとおぼろな光のたちこめた、日の出まえの乳色の空がそこにあった。昔からのくすんだ煉《れん》瓦《が》塀《べい》が視界をさえぎり、その内側にまつわった蔦《つた》の葉も、下駄で踏む土もしっとりと濡《ぬ》れているように思われた。徹吉はここ何年か東京の暁方を知らない。未明に起きて仕事をすることは箱根の滞在中に限られていたからだ。ひんやりと湿った空気が快く、どんよりと濁った五体を目ざめさせ、痺《しび》れきった頭の芯を癒《いや》してゆくようであった。そして徹吉は、この薄明の静まりかえった世界にひぐらしの群唱が伝わってこないことに、――それはドイツで暮したころのアムゼル鳥の鳴き声かもしれなかったが――なぜとなく物足りぬ満たされぬような気がした。しかし、すぐと雀《すずめ》の群れが屋根に舞いおり、忙しくちち[#「ちち」に傍点]と鳴いて、やがて元ノ原の方角に飛び去っていった。
徹吉は家の横手を通って裏へと足を運んだ。
暁の冷やかさのもたらしてくれた多少の生気の蘇《よみがえ》りのなかで、彼はもう一度、自分の長年の仕事がついに終ったのだという事実を反《はん》芻《すう》してみた。たしかにそれは一つの仕事ではある。日本ではむろん最初のものだし、これだけまとまったものはまだ外国にも現われていないはずだ。しかし、とどうしても徹吉は考えざるを得なかった。ウィンの神経学研究所の図書室ただ一つをとってみても、羨《うらや》むべき厖大な文献が蒐《あつ》められている。彼らにはそうした恵まれた環境と、なにより言語の面の有利さがあるのだ。自分はたとえばフランス語の一論文を読むのにも営々とした時間の浪費を常に強《し》いられてきたものだのに。
心はふたたび沈みがちとなり、ほとんどみじめな、索寞《さくばく》とした気落ちが彼を領した。徹吉はとぼとぼと台所の前を行きすぎた。廃墟《はいきょ》のような煉瓦建築が行手にたちはだかっていたが、それは現在は物置代りに使っている、焼けおちた昔の病棟の一部であった。そこから区切りもなく隣接した病棟の裏手――震災後のバラック建築を移した貧相な建物が目にはいった。
並んでいる鉄格《てつごう》子《し》のはまった窓々、その一つの奥から、なにかほのじろいものが覗《のぞ》いている。患者、ぼんやりと外を眺めている女患者の顔であった。近づいて徹吉は、それが新しい武器インシュリン療法の効もなく、次第に痴呆へ、精神荒廃へと陥りつつある、よく見知っている中年の女であることに気がついた。おそらく彼女は生涯をこうして病舎に閉じこめられて過すことになるのだろう。そして自分はそれを単におぞましい気持で見守ってゆくより仕方がないのだろう。だが、少なくともこの女のほうが自分よりはずっと若い。
徹吉が近づいても、女患者の顔貌にはいささかの変化もなかった。そのしまりなくふくれた顔はまったく無表情で、いま目の下に立っている和服姿の男がこの病院の院長であることをわきまえているとも思えなかった。彼女を見つめているうちに、徹吉は一人の学者から一人の臨床医の立場に戻った。彼はなにか声をかけてみようと思った。
すると、だしぬけに女がわらいだした。こうした患者に特有な、うつろにふぬけた、抑揚もなく底もない、人間としてのすべての了解をおしやってしまうような笑いを。
徹吉は、低く長くだらしなく際限なくわらう女を、はっとして気おされた気分で見つめていた。それから彼女が笑いやむまえに、くるりと彼女に背を向け、かなり足早に自宅の方へ引返していった。その猫背気味にかがまった後ろ姿はどことなくぎこちなく、あたかも遁走《とんそう》してゆく者のおもむきがあった。
その夏の箱根の滞在中、徹吉は久方ぶりにゆったりと緊張をゆるめた日々を送る心算であった。ところが長年にわたる習慣はどうにもならなかった。彼はやはりひぐらしの鳴きだす前の未明に起き、なんらかの書物を読んでいる自分を発見した。『精神医学史』下巻の文献目録と索引をつくる仕事がまだ残っていることに、安《あん》堵《ど》に似た気持すら抱《いだ》くほどであった。
夏休みはとうに始まっているのに、子供たちの姿は見られなかった。前年の夏から、彼の子供たちは夏休みの前半を、欧洲たちの滞在する葉山の旅館で過すようになっていた。それが龍子の差金であること、子供らが自分より遥かに懐《なつ》いている母親と海岸で暮していることを徹吉はよく承知していたが、そして長らく別居している妻と和解するつもりもさらさらなかったものの、徹吉はそれを黙認していた。子供たちにはやはり母親が必要なのだ。なにより自分が父親としての責を甚だしく疎漏にしていること、子供たちもまた少しも父親を好いていないことを彼は自覚していた。それにしても、以前はうるさく騒いで叱らねばならなかった幼い者たちの姿がまったく見られないことは、徹吉にやはりうら寂しい気持を抱かせた。
毎年の夏、山荘に籠《こも》ってばかりいた徹吉は、それでもこの夏は努めて戸外へ出た。強《ごう》羅《ら》公園へ行って、木洩《こも》れ日の落ちてくる、ペンキも剥《は》げかかったベンチにしばらく坐っていた。次に猿の檻《おり》を眺めた。次にプールのそばに佇《たたず》み、自分と関係のない子供らが水をはねかえすさまを見た。そうやって散策する彼のコースはほぼ定っており、一見変化のない勉強をつづけてきた彼の索寞《さくばく》とした日常と似かよっていないこともなかった。
しかし、ときには徹吉は裏山へと歩いていって、陰気な杉林の中を辿《たど》り、繖形《さんけい》科の白い花が咲き木株に白い切屑《きりくず》のこぼれている伐採地を辿り、山腹の小《こ》径《みち》をどこまでも辿っていった。道を横切って山水の流れている場所まできて、その小流に沿って森の中にわけ入った。腐植土がもろく足の下でくずれ、茶色になった杉の落葉が饐《す》えたような湿った匂《にお》いを立てていた。とある岩の上に彼は坐り、目の下をかすかな音を立ててすばやく流れてゆく水の表《おもて》に見入った。小暗い森、絶えることのない山水のひびき、それは彼に故郷を、東北の僻村《へきそん》をしのばせた。徹吉は持参した水蜜桃《すいみつとう》を二つ、流れに沈め、それが冷えるのをじっと待った。やがて丁寧に皮をむき、見る人もないのを幸い、自分ながらぶざまな大口をあいてかぶりついた。甘美な汁が溢《あふ》れるように溜《た》まり、そのこぼれる汁が惜しく、もったいなかった。
むさぼるように二つの桃を食べ終ってその口を手の甲でぬぐいながら、おれはどうもいささか食いしんぼうの気があるな、と彼は自問した。だが、こうして誰に邪魔されるでもなく、豊かな白桃を二つもむさぼり食べられるのは、実際なんという幸福であろう。彼の生れた村、彼が幼少期を過した時代には、菓子といえば水飴《みずあめ》くらいしかなかった。たいそうな御馳《ごち》走《そう》といえる、山を越えてはるばる運ばれてくる魚はいたく塩づけにされていて、たまに塩の甘い魚があれば、それは最上等の珍重すべきものとされた。彼が十五歳のとき実父に連れられて上京した折、その初日に十五里を歩いて作並《さくなみ》温泉に出た。翌日は仙台の旅館で最《も》中《なか》という菓子を生れてはじめて食べ、この世にこれほどの美味なものがあろうかと驚嘆したものであった。東京の本郷にあった楡医院に着くと、紅《あか》い毛氈《もうせん》を敷いた客間には大きなランプが煌々《こうこう》と輝き、さながら別世界の観がした。最中などはもはや珍しくなかったし、蕎麦《そば》の種物《たねもの》をはじめて食べ、最中よりもさらに感動させられた。郷里を発《た》つとき、母はそっと彼にわずかばかりの小遣銭《こづかいせん》を渡し、東京には焼芋というものがある、腹が減ったらそれを食え、と言ってくれたものだったのに。
二つの水蜜桃を食べ終えたことに徹吉は満足し、必要以上に豊かな気持になった。彼は前日、籠《かご》を背おって桃を売りにきた女から、自分から出ていって一箱を購入したのである。やはり藍子や周二たちはいないほうがいいのかもしれなかった。あの幼い連中ときたら、なんでも呆《あき》れるほどもったいなく片づけてしまうのだから……。
といって、やがて箱根にやってきたその子供たちはもうそれほど幼くはなかった。医学部へ行っている峻一は別としても、藍子も前の年に女学校に入学していた。ミッション・スクールの東洋英和女学校の生徒になって、手も足も屈託なくのび、人知れず日本を去った叔母の桃子の世辞どおり、仲間や教師からも可《か》憐《れん》と見られる少女に成長しつつあった。制服のえび茶のスカーフがまた彼女にはよく似あって、自分自身それを得意としているところがあった。彼女は新しい環境がすべて気に入り、たとえばその女学校で仲間を呼ぶとき、斎藤ならサイ、向山ならムコというように省略した愛称を呼ぶことまで――彼女自身は姓の楡を省略することができぬのでアコと呼ばれた――なにもかも気に入り、大柄なあから顔の、日本語は片言しかしゃべれない、ベルトのバックルを背に廻したワンピース姿のカナダ人の校長ミス・ハミルトンのことを、年齢にふさわしくひたむきに崇拝していた。しかし他の日本人の教師、ショパンのことを正確にチョピンと英語読みにする英語の教師や、宗教上の問題から夫に皿をぶつけられたという噂《うわさ》の高い、額に傷のある物理の教師などは、彼女から悪意のある渾名《あだな》を蒙《こうむ》り、またその渾名が上級生たちのつけたそれより奇抜で垢《あか》ぬけているため、学年を越えてかなりの普及力を有していた。藍子はこの夏、母親と一緒に葉山にしばらく過したあと、はじめて野《の》尻《じり》のキャンプに参加をした。東洋英和女学校の合宿のすぐわきにYMCAの合宿があり、そこで習い覚えた歌を、彼女は箱根にきてからも日がな歌いつづけた。
キャン キャン キャンプ野尻は
われらの力
元気をだして がんばろじゃないか
野尻はわれらの力
このほがらかな、若やいだ、かなり甲高《かんだか》い歌声に周二と聡《さとる》が加わり、急に箱根の山荘はにぎやかに活気をおび、徹吉にとってはやはり眉《まゆ》をしかめる場所となった。しかし藍子は、わざとらしく大人びたすました表情となって、幾つかの聖書の文句を口にしたりした。ほそい声で讃《さん》美歌《びか》をうたうこともあった。なによりも「主の祈り」を、あきらかに意味もなく、しかし一見このうえなく敬虔《けいけん》な顔つきで唱えるのであった。
彼女は祈りを唱えたあと、そのほっそりした身体《からだ》つきにしてはおどろくほど旺盛《おうせい》な食欲を見せた。東洋英和では給食があって昼は学校の食堂《キャフテリア》で食べる。さしてうまからぬその給食を、生徒たちは大半あました。そこで教室に「お食事表」という紙が貼《は》られ、全部食べた場合には丸印が、御飯をお代りした場合は二重丸が記入されることになった。負けず嫌《ぎら》いの藍子はだんぜん二重丸が多く、この「お食事表」のために彼女の胃袋は拡張したのかもしれなかった。
徹吉はほとんど無縁に、ときにいささかの寂しさを覚えながら、こちらから、遠く離れた子供たちが遊び戯れるさまを眺めていた。それぞれいつの間にか大きくなった。とりわけ藍子のごくちょっとした動作の節々に、徹吉はやがて女になってゆくなにものかを認め、ひそかに胸をつかれた。そういえば以前、藍子は聡や周二たちとふざけちらしながら入浴したものである。それがいつからか、弟や従《いと》兄《こ》とは別箇に風呂場へゆくようになっていた。
ふしぎなものだ、と徹吉はぎこちなく無責任に思った。それから、その娘がやがては――案外ほどもなく嫁にゆく年齢に達するであろうことを考えて愕然《がくぜん》とした。妻なら、あのいまいましい顔を見たくもない龍子なら、そのような問題を手《て》際《ぎわ》よく片づけてくれるにちがいない。しかし自分に一体そうした才覚があるだろうか。
しかし徹吉が娘の将来のことを柄にもなく思い患《わずら》ったのはわずかな時間にすぎなかった。もっと彼にとって密接な問題がやってきた。ベランダの籐《とう》椅子《いす》に坐り庭でさわいでいる子供たちの声を聞いている折、強羅公園の噴水の水が池に次から次へと波紋を生じさせるのをぼんやりと眺めている折、杉木立の黒いかげをとおして冷たい月光が窓《まど》辺《べ》にさしこむ折、それは徐々に形造られて、あやまたず彼の許《もと》へやってきた。ごく簡単にいうならば、日本には日本の精神医学書がなければならぬという考えである。日本にも種々の教科書があることはある。しかしそれはいずれも欧米の――なかんずくドイツの教科書の翻案といってよい。だが日本には日本の精神病者がおり、その病像はあきらかに外国と差違がある。躁《そう》病や鬱《うつ》病の比率も異なれば、ヒステリーの発作の状態にしても明瞭に異なっている。同じ日本に於ても地方により時代により変化する、変化しつつあるものなのである。
それは性懲りもない夢想、身分不相応の意図、誰かほかの人間がやるべき領分にはちがいなかったが、またしても徹吉は、たとえ粗末なものであるにせよそれをやってみよう、結局は自分はそれをやりだすにちがいないという妄想《もうそう》じみた考えに捕われていった。どうして自分がやっていけない理由がある? なによりも自分には楡病院の数千というカルテがひかえている。東大と慶大のカルテを参照できる強みもある。いや、日本各地の精神病院で、それぞれ興味ぶかい症例を捜し歩いてわるいわけがどこにあろうか? まずなによりも、個々の症例、日本の患者の病像を能《あと》うかぎり沢山|蒐《あつ》めることだ。たとえそれを批判もなく脈絡もなく羅《ら》列《れつ》するだけでも意味があることではないか? 日本はもとより東洋の盟主である。東海の眇《びょう》たる島国ではなく、遠からず必ず世界の日本になろう。日本にはその国土から発した精神医学書がなくてはならない筈だ。そして徹吉は、遠い昔カルテをすべて日本語で書かせた恩師|呉《くれ》秀三教授のことを懐《なつ》かしくも畏《い》敬《けい》に似た念で追想した。彼がウィンにいたとき、名誉教授オーベルシュタイネル――それはいつぞや徹吉の背後に立ち「四週間仕事では駄目だから、辛抱してやりなさい」と言ってくれた人であった――が、無造作に万年筆をとって呉教授|※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1-91-13]職《りしょく》二十五年祝賀の文を書いてくれはしなかったか。それは次のような文章であった。
「教授呉秀三君在職二十五年ノ祝賀ニ際シ、君ガ嘗《カツ》テ余ノ教室ニアリシヲ初メトシ、勤勉ナル日本ノ学士ガ数多ク此《ココ》ニ来遊セラレシコトヲ想ヒ、懇切ナル礼問ト賀意トヲ寄スルモノナリ。千九百二十二年一月二十三日。プロフェソール、ドクトル、ハインリヒ・オーベルシュタイネル」
その「日本」という語句を老齢の名誉教授は「日の昇る国」と書いたものであった。もとより西欧人に特有の世辞と解すべきであろうが、しかし日本は本当に「日の昇る国」ではないのか? まだまだ欧米には劣っているものの、いずれはそうなるべきものを明瞭にはらんでいるのではないか? ある一瞬の気のたかぶりのなかで、徹吉は躇《ためら》いもなくそう思い、そう断じた。
――しかしその夏の終り、徹吉は自分の一人よがりな勝手な夢想とはかけ離れた、神経にさわる幾日かを過さねばならなかった。下田ナオ、一体何十年楡家にいたのかもわからぬ女中|頭《がしら》、その何十年を病気らしい病気とて知らなかった下田の婆やがついに病みついたのである。
彼女はその年七十一歳に達していた。もう働くには無理な年齢といえたが、彼女は至極達者で、女中たちにこまごまと指図をしたり、自ら綻《ほころ》び物をつくろったりするのを誰もやめさせるわけにいかなかった。しかし夏のくる前ころから――あとから考えれば――めっきり深く皺《しわ》が刻まれ、あまつさえ持続する不快感に襲われているようだった。いや、彼女を苦しめた腹部の痛みはとうにその頃から存在していたにちがいなかった。しかし彼女は言った。
「婆やも歳《とし》をとりましたよ。どうも暑さには弱くなって。……でもまた箱根に行かして頂ければ、すぐに元気になりますよ。本当に申訳ございません」
彼女は以前にもまして汽車に酔い、幾度も吐きながら強羅の山荘にたどりついた。言葉通りにしばらくは気力をとり戻して、若い女中と一緒に徹吉の食事の世話、あれやこれやの雑事を倦《う》むことなく例年どおりやっているように見えた。いくら休むように、ぶらぶらしているように説得しても、この老いて一徹な女は決して聞こうとしなかった。
彼女の生《いき》甲斐《がい》である子供たちが箱根にやってくると、その皺だらけの顔にはふたたび見なれた微笑が刻まれた。しかしある日数が過ぎて八月の中旬、下田の婆やは徹吉の許にきて、ずっと腹痛がつづいていること、そのため夜も眠れないということを、おずおずと面目なさそうに、なにより気力も失って苦しげに告げた。その訴えを聞き、そのやつれて色のわるい顔を更《あらた》めて見守ったとき、徹吉は自分のうかつさに慄然《りつぜん》とした。
彼女はその日のうち、ちょうど来あわせていた菅野康三郎に連れられて東京に帰され、慶応病院に入院した。あとは副院長の金沢清作が面倒を見てくれる筈であった。いくらも経《た》たぬうちに連絡があった。徹吉の怖《おそ》れていたとおり、結果は癌《がん》であり、手術は不可能というのである。
例年の仕事から解放されていた徹吉は、子供たちと一緒に八月の末に東京へ戻った。ここ半月ほどのうちに、下田の婆やはさらに痩《や》せ衰え、さらに憔悴《しょうすい》し、見舞客の誰もが一目見て、いずれは駄目なのだということがはっきりと理解できた。それでも下田の婆やは注射をされて苦痛が遠のいたときには、すっかり脂肪を失った頬《ほお》をほころばしてこう言った。
「もうすぐ婆やは元気になりますよ。婆やは芯《しん》が強いんですから。今日はとても気分がよくって、すっとして……。入院なんかさせて頂いてほんとにもったいない……」
彼女は半身を起し、見舞客に、そこにある果物をぜひ食べてくれるように何回も繰返した。婆やが心底から、自分はもうすぐ癒《なお》るのだと確信しているらしい様子に人々は目をそらし、婆やを安心させるためにそそくさと梨《なし》の皮をむいた。なかんずく周二は、一人でメロンを半分も食べることができた。誰も彼をとがめず、周二は異常な幸福感さえ覚えた。
しかし下田の婆やは、やがて自分の死期、それもすぐ間近に迫った死期を悟ったようであった。それも強情な、かたくなな、一|途《ず》な悟り方で、人々の気休めの言葉、体《てい》のよい慰めの言葉を頭から受けつけなくなった。そして彼女はどうしても楡家に、――あの桃子がよく口を極《きわ》めて罵《ば》倒《とう》した家、しかし婆やにとっては地球上にそこしか居場所がないと信じている家に連れ帰ってくれと、執拗《しつよう》に間断なく言いはった。その主張はほとんど妄想《もうそう》じみているようにも感じられ、有体《ありてい》にいえば気味がわるいほどであった。
九月の末、感傷的な気持から徹吉は下田の婆やを退院させ、自宅に連れ戻った。奥の間を仮の病室とした。ほとんど即日、彼女の容態は悪化したように見え、ときどき意識が溷《こん》濁《だく》して、うつろな目をあげ、いぶかしそうに周囲を見まわした。
「ここはどこ、です?……箱根? 山形?」
すでに黄疸《おうだん》がきていて、癌特有のむごたらしい病理と相まって、その頬骨があらわれ見違えるばかりに憔悴した顔を、一種いやな色、おぞましい色、目をそむけたくなる色に変じさせていた。あれほどふっくらと人々を抱擁するように肥満していた肉体の、なんという残酷な痩せ方であったことだろう。胸には肋骨《ろっこつ》がくっきりと痛々しく浮きだし、手も足もなんと今はほそく、骨ばかりで、そしていやな色の、とうに死にかけた泥のようなかさかさした皮膚がその上をおおっていた。下田の婆やは、今は頻々《ひんぴん》と苦痛を訴えた。いつもの堪《こら》え性《しょう》がなくなっていた。制御するものが欠け落ち、苦痛に堪《た》えかねて、呻《うめ》いて喉《のど》をならして身もだえた。あれほど我慢強く、かつて愚痴ひとつ洩らしたことのない下田の婆やが。
一週間後に、最初の危篤状態がきた。多くの人々が彼女の枕頭《ちんとう》にやってきた。青山の病院にいる者はもとより、青雲堂のおじさんおばさんも、松原の病院の古手の職員、欧洲や米国や院代や熊五郎に至るまでがやってきた。たとえ楡家の誰が死ぬにしても、これだけの心の籠《こも》った憂慮は集められぬに相違なかった。人々はそれぞれの反応を示したが、こうした必然的な死を前にして能《あと》うかぎり鈍感に、似たようなため息しか洩らさなかった。ただ一人、米国だけは違っていた。彼は廊下から室内をちらと見て、まごまごして、それから病室にはいらず洗面所へ行って嗽《うがい》をした。むかし「奥」づとめの女中であったしげという婆やが通りかかると、彼はおどおどした声で言った。
「下田の婆やは、ぼくたちをわかるのだろうか?」
「もうわからないでしょう、多分」
「少しはわかるんじゃないか? みんなよく平気でいるもんだ。大体人が死ぬというのにあんなふうにざわざわして……。下田の婆やは苦しいということが自分でわかるのかな?」
「仏さまになりなさるんですよ。大丈夫ですよ」
「いや、大丈夫なもんか」
米国は不安げに金壺眼《かなつぼまなこ》をさ迷わせ、おそろしく深刻な表情をし、またなにか言おうとしたが、すでにしげは立去ったあとであった。米国は水道の栓《せん》をひねり、もう一度嗽をし、結局一度も病人のそばに寄ることなく帰っていった。
下田の婆やはまだ死ななかった。意識も不明瞭なまま、それから一週間の余も呼吸を続けていた。年少の子供たちは学校から戻ると、玄関口でそっと声をひそめてこう訊《き》いた。
「まだ、婆やは、死ななかった?」
それはなぜとなく残忍なふうに聞えた。大人たちはせめて一刻も早く死が訪れて、下田の婆やを苦痛から解放してくれ、自分たちもこの面倒事から解放されることを願っていたものだから。藍子も周二も奥の間に入ることは禁じられていたものの、それでも二人はやっぱり婆やを覗《のぞ》きにいって、婆やが注射の助けを借りて眠っているときには、長いこと、その別人のようになった親しみにくいやつれた顔を眺めているようであった。徹吉は、下田ナオを自宅に戻したことを後悔した。
その夜、――下田の婆やが息をひきとる前の晩、徹吉が行ってみたとき、枕元には松原からきた韮沢《にらさわ》勝次郎と看護婦と藍子と周二がいた。徹吉は子供らを叱《しか》ったが、二人は廊下に出て、障子のかげからまだこちらを覗いていた。
下田の婆やの、色のわるい乾《かわ》いたくちびるがひくひくと動いた。
「……どこ? ここは、どこです?」
ふいに、濁ったほそい目が、ぽっかりと開いた。
「聖さま、……何をなさるんです、聖さま」
それから、
「痛い、痛い。ここはどこ?……どこにいらっしゃるんです、周ちゃま、周ちゃま?……」
やがて苦痛が、おそらくは単に肉体の反応にすぎない、見る者のほうをかえって蝕《むしば》むような苦痛が、見るかげもなく変色した下田の婆やの顔を歪《ゆが》ませはじめた。今夜はなかんずく激しいように思われた。徹吉は機械的に勝次郎と短い会話を交わし、彼女の肉体にはすでに害のある、といってそれしか手段のないモルヒネの注射を早めることにした。あとを勝次郎にまかせて彼は部屋を出た。子供たちの姿は見えなかった。
徹吉は遥かなむかし、「東京ではお餅《もち》のことをオカチンと申します」と、やや小生意気な口調で少年の自分に教えてくれた、まだずっと若かった下田ナオのおもかげをふと追想しながら、足早に廊下を辿り、手洗いにはいった。放尿を始めたとき、彼のはいるまでたしか明りのついていなかった手洗いの奥に、誰かがひそんでいるのに気がついた。間隔をおいて、おし殺してしゃくりあげる声が聞きとれてきた。その声は、かつて蔵王山の巨《きょ》躯《く》を恐れてしょっちゅうこの場所に逃げ隠れていた楡家の末っ子、来年は中学の入学試験を受けねばならぬ周二のものであった。……
そのようにして下田の婆やが確実にやってくる死の手にゆだねられている間、九月一日の朝まだき、ドイツ軍はポーランドの国境を突破し、新しいヨーロッパの大戦が発火していた。
第九章
「蔵《ざ》王《おう》は泣いていましたよ。おれのようなものでも女房が貰《もら》えたってね」
と、昭和十五年の二月中旬のあるひどく寒い夜、松原の自宅に戻ってきた欧洲がひさに報告をした。
彼はスフでぴかぴか光るカーキ色の国民服を着、さらに頭を丸坊主にしていたが、そうやって短く刈りあげた彼の頭《ず》蓋骨《がいこつ》は上から押しつぶしたように横に平たく見えた。楡家のなかでは洒落《しゃれ》者《もの》で趣味人でもある筈《はず》の欧洲が、そうした恰好《かっこう》で茶の間の卓の前に窮屈げに坐ったところは、たしかに不似合そのものといってよかった。一体に彼は基一郎の血のせいか、以前から新しがり屋のところがないではない。なによりこの時局に狩猟をしたりすることにいくらか気がとがめてもいたため、せめて身なり風体だけでも時代の尖端《せんたん》を行こうと努めているようなところがあった。彼はその新調の国民服姿で、蔵王山辰次の結婚式に参列してきたのである。
新婦はさとと言い、出羽ノ海部屋の手伝い女をしていた。かつては蔵王山が夜遅く戻ってきても自ら戸をあけに出ていった部屋頭のかみさんが、やがて苦々しげに「なんだい、今ごろ」と床の中で呟《つぶや》くようになって以来、いつも戸をあけにゆくのがさとの役目であった。彼女は自分からすすんで、化物のようだと人の噂《うわさ》する巨人の嫁になったのである。
「それはよかった」と、背を丸めて火《ひ》鉢《ばち》に手をかざしながら、ひさがぼそぼそと言った。「辰次も、これでどうにか……」
あとの言葉は不明瞭《ふめいりょう》に尻《しり》つぼみになった。彼女の声は聞きとりがたく、顔全体が一面に小《こ》皺《じわ》におおわれ、しかしその髪は白《しら》髪《が》染《ぞめ》のため不自然に黒々としていた。
「ほんとに優しそうなお嫁さんでしたよ」と、今はすっかりこの一家の一員となっている千代子が言った。「米国さん、あなたもいい加減にお嫁さんを貰ったら?」
米国はたしかに健康そうな血色のよい顔を上向けた。しかしその金壺眼《かなつぼまなこ》は、ちょうどひどい貧乏人が多額の寄附金を申し出られでもしたかのように、嫂《あによめ》の発言にあきれかえって不安げにまたたいた。
「ええ、まあ」と、彼は口の中でもごもごと言った。「ぼくがせめて人並の身体をしていれば……」
「おまえのは結核でもなんでもないよ」と、兄の欧洲がさえぎった。「人並以上の身体だよ。よしんば仮に……仮にだよ、少しばかりの浸潤があったところで、結婚がべつに害になるはずもない」
「兄さんはちっともわかっていない」と、米国は突然、真剣に怒ったように相手の言葉をさえぎった。「ぼくにはぼくの人生観があるんです。ぼくは医者にならなかった。楡家の中じゃあいわば特殊な境遇にあるわけです。それでもぼくはぼくの生き方をしてきて、誰にも迷惑はかけてはいないし、誰の世話も受けないできたわけです」
「誰の世話も受けない……」と、千代子は自分の胸の中で義弟の言葉を繰返して、一人皮肉をこめて胸の中でわらった。米国が近ごろ場所柄もなく奇妙な論議をすることは、彼女にとってさして珍しくもない経験だったからである。
しかし、滅多に弟と話す機会のない欧洲は、あからさまに意外げな、おどろいた顔つきをした。
「おまえの言い方はおかしくないか? おまえが医者にならなくっても別段わるい理由はあるまい? おまえはちゃんと農場をやっていてくれるし、……そんなひがんだような言い方はおかしいよ」
「いや、そんなことではないんです。ぼくは自分の生き方に責任を持ちたいし、……ぼくの寿命のことだってわきまえているつもりです」
「なんだって? 寿命? まるでおまえは今にも死にそうなことを言うじゃないか」
「まあ、ぼくがどのくらい生きるかは誰もわかりゃしません。結核なんて、実際問題じゃないのです。ぼくはずっと養生してきましたし、結核はどうやら固まったようです」
「……どうやら固まった」と、胸の中で客観的に反復しながら、千代子は湯を急須についだ。
「じゃあなにか? おまえはほかに病気でもあるというのか?」
と、弟の一風変って真剣な言いまわしに、やや気色を損じながら欧洲は尋ねた。
「それはまだ言えません」と、米国の顔つきはどこまでも生真面目《きまじめ》一方で、顔色こそよかったものの、どこか悲劇的な相をもおびていた。「余計な心配をかけたくありませんから。それがぼくの生き方です」
「しかしおまえ、おれも医者だぜ」と、かなり腹を立てたように欧洲は言った。
「だが、現代医学ではどうしようもないという病気もありますからね」
「……癌《がん》か何かとでも言うのか?」と、欧洲は素人《しろうと》が何を言うかというように、それでもわずかながらどことなく心配そうに言った。
「いや、そんなもんじゃない。まだわからないんです。そしてもしそれがわかったら……いや、ぼくは言いたくありません」
「米国!」と、欧洲は滅多にないことながら、肥満した体躯に相応した野太い声をだした。「なんでおまえはそんなもったいぶった言い方をするんだ? そんな曲りくねった……」
そのとき、ひさがぼそぼそと言った。
「おやめ、もうおやめ、米国は病院へ行って診《み》て貰うがいい」
それでこの問答は、中途半端のまま打切りとなった。
ほどもなく元の鷹揚《おうよう》さを取戻した欧洲は、茶菓子を食べながら、義兄徹吉が昨年完成した大著『精神医学史』のことに話題を転じた。専門家の間でその書物は非常に高く評価されている。それは瞠目《どうもく》すべき書物なのである。自分が松沢病院の院長から聞いたところによると、忝《かたじけ》ないことに、光栄なことに、学士院賞の候補にまでのぼっているということだ。
「その、学士院賞というのは、何かえ、名誉なものかい?」
と、ひさがだしぬけに訊《き》いた。
「それは政府のくださる賞ですからね。学者にとっては最大の名誉です」
「徹吉は、あれで、なかなかの勉強家だから……」と、ひさは低く呟《つぶや》いた。
そしてひさは目に立たぬほどに合図をし、のろのろと躯《み》を起すと、千代子につきそわれて自室へと去った。
――しかし、学士院賞|云々《うんぬん》の言葉は、やがてひさから龍子へと伝わっていった。そしてその少々誇張された報知を聞いたとき、長らく夫と別居し、お互いに元通りになろうとする気配も見せぬ仲である龍子は、いささか不自然な事ながら、そのあとしばらく相好《そうごう》を崩《くず》すほど喜ばしく誇らしく思ったのである。夫婦の仲とはこれは別問題の事柄なのだ。父基一郎が嘱目して養子にした男が学士院賞という賞をとる、それは亡父の名誉でもあり、楡家の名誉でもあろう。そのあと龍子はじっと重々しい考えにふけりながら一人胸に呟いた。
「そのくらいの事をして当然だわ、あの人も」
ともあれ龍子は、まだ手にとったことのない、その評判のものであるという書物を見たいと念じた。欧洲の部屋にはそれがあるが、借りにゆくのも業腹《ごうはら》で沽《こ》券《けん》にかかわると思われた。そのため龍子は外出の折わざわざ丸善に寄ってそのぶ厚い三冊の本を手に入れた。彼女は隅《すみ》から隅まで序文と後記を読んだ。ついで難解な冒頭の部分をかなり読んだ。それから大儀になってやめ、なかなか大した滅多にない書物だと誇らしく思い、置場に困ったので小《こ》箪《だん》笥《す》の上に大事そうに載せた。
春がきて、待ち望んでいた学士院賞が発表になった。龍子が欺かれたように思い衝撃を受けたことに、楡徹吉の名、その楡病院の院長であり彼女の夫である名はどこにも見られはしなかった。龍子は厳然とうなじをそらし、重々しくうなずき、しばらくのあいだ不《ふ》機嫌《きげん》であったが、そろそろ箪笥の上の書物が邪魔に目ざわりになりだしたので、窓の下に細長くつくられた押入れの中にそれを入れた。やがてその上に箱やら紙袋やらが積み重ねられ、ついには龍子が風邪《かぜ》をひいたときに使用した便器までが積み重ねられ、ぶ厚い徹吉の労作『精神医学史』も完全にその姿を没した。
東洋英和女学校の地下室の薄暗いクローク・ルーム――生徒たちはクロック・ルームと呼んでいた――で、クラスメートと間断なくしゃべりちらしながら、この春から三年生になった楡藍子は帰り支度《じたく》をしていた。
下駄箱をあけると、踵《かかと》の少々斜めにすりへった彼女の靴の上に、小さな桃色の封筒がのっているのが目についた。見るまでもなくSの手紙で、クラスの中でももっとも数多くの手紙を受取る一人である藍子は、その折角の少女たちの愛情に対して、どちらかというと冷淡であった。しかし藍子は無造作に封筒の裏を返してみて、そこにアグネス・ニールセンという妙にたどたどしい署名を認めると、常日頃になく、そっと大切げにカバンに収めた。
アグネスはもともと別科の生徒で、最近になって彼女のクラスに編入されてきた少女であった。別科というのは、海外勤務の親と一緒に外国で生活していて帰国した者を集めたクラスである。彼女らが日本語に適応するようになると適当な学年に編入される。大半は日本人であるものの、英語が達者だったり、フランス語ができたり、制服を着ずにしゃれた私服を着ていたりするため、このミッション・スクールの中でも一種特別な目、往々にして羨望《せんぼう》の目で見られたりした。ましてアグネスはスウェーデン人を母にもつ混血児であった。彼女の肌はそばかすだらけで、ぬくり[#「ぬくり」に傍点]と背ばかり大きく、決して可《か》憐《れん》というわけにいかなかったが、彼女の瞳《ひとみ》は造り物のようにうす青く澄み、髪も亜麻《あま》色《いろ》で、クラスの者のさまざまな臆測の種になっていた。
そのあいの子のアグネスから手紙がきたということは、藍子の自尊心を甘くくすぐり、一方ならず誇らかな気分にさせた。なにしろ一風毛色の変ったことが彼女の好みであったし、アグネスの青い瞳、下手《へた》糞《くそ》な日本字はそういう藍子の気性にぴったりした。それに彼女はこのところ外国に憧《あこが》れてもいた。なかんずくフランスが贔屓《ひいき》であったが、おそらくスウェーデンにしろフランスのそばにある国には違いなかろう。
世界に低迷する暗雲にもかかわらず、フランス映画はそのしばらくまえ、一つの頂点に、一つの爛熟《らんじゅく》期に達したとも思われた。昭和十二年にジャン・ルノアールの『どん底』、ジュリアン・デュヴィヴィエの『我等の仲間』が、十三年には同じく『舞踏会の手帳』が、昨十四年には『望郷』やレオニイド・モギイの『格《こう》子《し》なき牢獄《ろうごく》』が、日本に於《おい》て封切された。その大部分を一回ならず藍子は観賞し、ルイ・ジュヴェの男爵《だんしゃく》に、ジャン・ギャバンの親分パリーに、いたく変化し易《やす》い時期にある彼女の心は、宝塚少女歌劇を見るよりも更にこそばゆくゆさぶられた。フランス映画に登場する女たちもそれぞれに素敵であった。別科からきたアグネス・ニールセンは容姿は決して端麗とはいえないが、ともあれ青い瞳と亜麻色の髪をしていて、心をくすぐる変った人種であることは間違いなかった。
「大体封筒に名前を書くなんて、あの人は手紙の書き方も知らないんだわ」
と、まだ手紙の内容も読んでいないのに、藍子はアグネス・ニールセンのそばかすだらけの面長の顔を、憎からぬ気持で思い浮べながら考えた。
しかし、たちまち周囲でけたたましい笑声が起った。
「か、かいびゃく以来の……開闢《かいびゃく》以来の不良少女、あたしのバッグをちょっと持ってて」
「なによ、あなたこそあたしのを持ってよ、さあ開闢以来の不良少女」
すると、明らかに情が薄いとしか思われぬ藍子は、せっかくの手紙のことをあらかた忘れてしまって、いかにも大将株らしいぞんざいな口調で一同を制した。
「さあみんな、真の不良少女はもっと静かにするものよ。どうせここは格子ある牢獄なんだから……」
事の次第は次のようなものであった。もっとも単純な渾名《あだな》、「松田のランプ」と呼ばれる額が広く禿《は》げあがった音楽を担当する男の教師がいる。少女たちは、それがよほど心をゆすぶる男性でない限り、少なくとも表面上では男の教師に点が辛い傾向がある。松田のランプは小言も大声では言えぬ性分であったし、なによりごく近い過去に結婚したという前歴があるため、生徒たちの並々ならぬ悪戯《いたずら》の的とされた。その日、藍子たちのクラスは、音楽室の押しドアに机と椅子をつみ重ねてバリケードを築いた。迫害を蒙《こうむ》りやすい教師はドアをあけようとしばらく苦労したのち、少なからず腕の筋肉と呼吸とを疲弊させて他の教師の応援を頼みにいった。そのわずかな時間に、藍子たちは比類のないすばやさ、水際《みずぎわ》立って統一された行動をとった。教師たちが駈《か》けつけてきたとき、椅子も机も整然と一分の狂いもなく並べられ、教場は水を打ったような何喰わぬ顔の静粛が支配していた。しかし、「ヨコモッチン」と呼ばれる背の低い舎監的な立場にあるオールド・ミスは、すぐさま彼女らの偽計を見抜き、教壇に真直に直立すると、無骨な腕をぐっと生徒たちのほうへ差出してこう叫んだ。
「あなた方は……あなた方は、まったく開闢以来の不良少女です!」
そのオールド・ミスの、時をつくろうとする雄鶏《おんどり》にも似た態度こそ観物であったし、その憤りに震えた台詞《せりふ》はしばらくの間、生徒たちの流行語になることは間違いなかった。
「でも凄《すご》かったわねえ。ヨコモッチンの口の大きかったこと」
「狼《おおかみ》の化けた婆さんよ」と、冷淡に藍子は言いきって、ちょっと口をゆがめ、彼女の癖である出まかせの作り話をつけ加えた。「あなた方、ヨコモッチンがなぜ売れ残ったかご存知? 彼女は丙午《ひのえうま》の生れなのよ。おまけにあの大口でしょう? それは人間の男なら誰だって怖《おぞ》毛《け》をふるうわ」
「丙午ですって?」
「そうよ。有名な話だわ。むかし、ヨコモッチンは一人の男を好きになったの。でも愛情というものは往々にして一方的なものよ。男はほかの女と結婚したの。そういうことが何遍も何遍もつづくのよ。そのためヨコモッチンは涙を流して、この世のすべての女に復讐《ふくしゅう》しようと誓ったのよ。ヨコモッチンがあたしたちをいじめようとする情熱は、そこから湧《わ》いてくるのだわ」
少女たちは藍子の話に、常々欺かれつけてはいるものの、津々《しんしん》たる興味を持って聞き入った。藍子の話には作り事が多すぎたが、それでも半分はどこか本当らしい匂《にお》いがしたし、それが彼女の人気の源泉にもなっていた。
彼女たちが一年生の折、街に一過性の流言|蜚語《ひご》が流れたことがある。「赤マント」と呼ばれる癩《らい》病患者の怪物が出没し、若い女の頚《くび》に牙《きば》を立てて生き血を吸うというのである。東洋英和女学校に於ては一時その噂で持ちきりだったが、ほどもなくアコ、つまり楡藍子がその正体を見とどけたのであった。彼女は夕暮に自宅のそばの青南小学校のわきを通りかかった。するとポストのわきに一人の小柄な老婆が、黒いインバネスのようなものを着て佇《たたず》んでいる。老婆の顔は見るからに上品げで、しかし神のような直感力に恵まれた楡藍子はなにかしら不吉な予感に襲われ、老婆が誘うように微笑《ほほえ》みかけたとき、その唇《くちびる》から犬のようにとがった歯がちらりと覗《のぞ》いたのを見《み》遁《のが》しはしなかった。彼女はすぐ横町に折れて後をも見ずに逃げ帰ったが、そのとき身動きをした老婆のマントの裏地――血塗られたように不気味な赤い裏地をたしかに見てとったのだ。
「顔が崩《くず》れているとか、醜悪だとか、そういう噂はまるっきり嘘《うそ》なのよ」と、藍子は校庭でクラスじゅうの者に囲まれながら、報告した。「優しい優しい顔をしているのよ。そこが赤マントの怖ろしいところだわ」
このようにたわいもない藍子の作り話のなかには、誰にも知られない代り、どうしても罪がないとは言われないものもあった。まだ小学生のころ、藍子は数多くの慰問袋を戦地に送った。といって、袋はみんな女中に作らせ、彼女自身は青雲堂から便箋《びんせん》だの鉛筆だのを、また最近帳面になって金の要《い》らぬ木村屋からキャラメルだのチョコレートだのをどっさりとってきて、それを袋につめるという作業をしたにすぎなかった。しかし彼女は、支《し》那《な》大陸で戦っている名も知らぬ兵士のために沢山の手紙を書いた。無代《ただ》で持ってきた品物であると思われては受取る兵士の感銘が薄かろうと考え、わざと幼なっぽくこう書いた。「私は毎日朝早く起きて家じゅうの人の靴を磨《みが》きます。それからおうちの前の通りを綺《き》麗《れい》に掃除します。お父さまがお小《こ》遣《づか》いをくださったので、私はこの慰問袋を兵隊さんに送れるわけです」すると何カ月も経《た》って、藍子の出《で》鱈《たら》目《め》な手紙よりずっと心の籠《こも》った返事がきたりした。藍子は嬉《うれ》しがり、つい調子に乗りすぎて、次にはこんなふうに書いた。「私の家は貧乏ですので、兵隊さんに喜んで貰える物が差上げられません。これは私が納豆を売って得たわずかなお金で買ったものです……」すると遥々《はるばる》支那からたいそう感激した手紙がき、それも一方ならず真剣で個人的のことをさまざまに問い質《ただ》す文面であったので、さすがに藍子は怕《こわ》くなり、それからそのような手紙を書くことをやめた。……
しかし藍子は今、なんの罪もなさそうな顔をして、口端をわずかゆがめて、まことに勝手に仲間の少女たちをさとしていた。
「つまりヨコモッチンは悲劇の人なのよ。あたし達は彼女に同情しなければいけないわ。風にそよぐうつくしきもの楓《かえで》よ、神を思う清らけきもの楓よ、まあつまり、そんなふうに決定!」
やがて少女たちは、三々五々クローク・ルームを出、校庭を過《よぎ》り、校門を出た。本来なら藍子は右手の六本木の停留所から市電に乗る。しかし彼女は仲間と一緒に左手へと折れた。鳥居坂をくだったところに彼女らの行きつけのアイスキャンデー屋がある。アイスキャンデーをはしたなく齧《かじ》りながらふたたび学校の前を通過する、それが当時もっとも尖端《せんたん》的で流行のスタイルと見なされていた。まだ季節にならず、アイスキャンデー屋は今は揚げ饅頭《まんじゅう》を売っているはずで、饅頭では優雅なスタイルとは言いかねたが、少女たちの舌に美味に感じられることには変りがなかった。
藍子は一同の中心となって両手をぶらぶらさせて歩いた。彼女のカバンは他の少女が大切そうに下げていた。そういうカバン持ちと取り巻きを従えて藍子が鳥居坂の上に差しかかると、下方から三人の中学生――それも近くに存在するため東洋英和女学校とはとりわけゆかりの深いといえる麻《あざ》布《ぶ》中学校の生徒がやってくるのが見えた。藍子たちから見てもまだ幼い連中で、肩から掛けたズックのカバンの色も真新しく白く、一目で一年生と知れた。そのくせ彼らは油のしみた紙袋を交互に手渡し、揚げ饅頭をとりだして歩きながら食べていた。
「まあ生意気!」
と、藍子のカバンを持った少女が大げさにため息をついて言った。
しかし次の瞬間、彼女らの首領株である藍子がとった行動には、一同はさすがにびっくりし、唖《あ》然《ぜん》とした。藍子はつかつかと中学生の一団に近づくと、ちょうど紙袋に手を入れてうつむいていた端っこの少年に、「こら」と言って手を差出したのだ。確かに「こら」と言うのがこちらにいる少女たちの耳にもとどいた。中学生は目をあげたが、その顔一面にまざまざと驚愕《きょうがく》のいろを浮べると、そのまま暗示にかけられたように紙袋を藍子に手渡してしまった。藍子はすばやく揚げ饅頭を一つ取りだし、残りを相手の手に戻し、何喰わぬ顔をしてこちらへゆっくりと歩いてきた。他の二人の中学生もあっけにとられたらしく、徒《いたず》らに藍子の後ろ姿をじろじろと見送ったにすぎなかった。
この大胆不敵な藍子の行動に、仲間の少女たちは今更ながら驚嘆の目を瞠《みは》ったのだが、当の藍子は心の中でぺろりと舌を出していた。なんとなれば、彼女が饅頭を奪った相手は、この春から麻布中学校に入学していた弟の周二であったから。
姉の藍子が快活に晴れがましく女学校生活を送っているのにひきかえ、周二はほとんど陰気な屈託に満ちた学校生活を送っていた。なにより覇気《はき》と体力が要求されだした時代に、昔からめそめそしがちであったこの末っ子は、かなり不器用にしか適応できなかったのである。
この年、日本は聖戦四年目を迎え、かつ皇紀二千六百年の祝典を迎えようとしていた。ゆゆしき二千六百という数字にかこつけて、あらゆる報道機関は純一無垢《むく》のわが国体を讃《たた》え、万世一系の天皇をいやがうえにも神聖なものにし、一九四○年というずっと数の少ない西暦などはどこか遥《はる》か遠方へとおしやってしまった。
たとえば朝日新聞社は毎年元旦の紙上にその年の計画を発表するのを常としたが、「紀元二千六百年本社の新事業」というのは次のようなものであった。修練|橿原《かしわら》道場を奉献、全国官国幣社に国運隆昌祈願、奉納武道大会、日本体操大会、日本文化史展覧会……。長らく人気の的であった横山隆一の『フクチャン』は『ススメ、フクチャン』と改題され、アララギ派の歌人斎藤茂吉は次のような歌を寄せた。「あめの下ひとつなるこころ大きかも二《ふた》千《ち》年《とせ》足り六百《むつもも》の年」「もろごゑに呼ばはむとするもの何ぞ東|亜細亜《アジア》のこのあかつきに」
中学校の入学試験にしても、この年から新考査法がとられ、学科試験はなく、内申書と口頭試問と体力検査だけになった。徹吉は懸垂もろくにできぬわが子のために庭に簡単な鉄棒を作らせた。また見知らぬ人の前でものを言えぬ周二の性格を案じて口頭試問の練習もさせた。なじみのない人間のほうが実際的であろうと考えられたので、閑《ひま》のある松原の佐久間熊五郎が頼まれることになった。
「君はどこで生れましたか?」
熊五郎は彼の前に直立した院長の末っ子に、持前の胴《どう》間《ま》声《ごえ》で無造作に、しかしいささかぎこちなくそう尋ねた。
周二はもじもじと答えかけて早くも言葉をとぎらせた。
「東京の赤十字病院の……」
そんなにくわしく言わないでよい、と咳《せき》ばらいをして熊五郎は助言しなければならなかった。それから次第に興味を覚えてき、すっかり教師めいた態度になって横柄に言った。
「返事の前に、はい、と言ったほうがいいな。短くきびきびと、はい、と言うんだ。……ところで君は、どんな人物を崇拝しているかね?」
周二は口早に不動の姿勢で答えた。
「はい、楠木正成《くすのきまさしげ》と野口英世です」
「ふむ、どういう点を……どこが彼らの偉いところかね?」
すると周二は口ごもって、下うつむいて、赧《あか》くなったまま黙りこんだ。
熊五郎が松原の病院へ戻ってから、賄《まかな》いで不遠慮にこう断定したのも当然といえた。「ありゃ駄目だ、あの院長の下の息子は。とても受かりっこないですぞ」
しかし彼の予言に反して、周二はどうにか一次志望の麻布中学校に入学することができたのである。といって彼は、他の多くの少年のように生れて初めてはく長ズボンのこそばゆい感触を、余裕をもって享楽するというわけにはいかなかった。
毎朝、彼はその小心さからかなり早目に床を脱けでる。そのくせ無意味に愚図々々と時間をつぶし、実際に家をとびだすときはぎりぎりの差迫った時刻になっている。市電の便が悪いため麻布まで歩いていかねばならない。早くも後悔と不安にみちた顔つきで、周二はにがい湿った空気の淀《よど》む立山墓地のわきを降り、ついでごみごみとした家並の間をわき目もふらず歩いてゆく。霞町《かすみちょう》まで出ると、ここから登校の生徒の姿が急に多くなる。学校に一番近い停留所、赤十字病院下まで電車に乗ることは禁じられているからだ。電車でくる生徒たちも一つ前の停留所で下車をし学校まで歩くように定められている。しかし霞町まできて他の生徒の姿があまり見当らないとき、周二の胸は急に鼓動を早め、彼は周囲を見まわして小走りに走りだす。こんなことならなぜもう五分早く家を出なかったのか。赤十字下までくると、ちょうど着いたばかりの市電から二、三名の麻布中学生がとび降りてくる。遅刻しそうになってずる[#「ずる」に傍点]をきめこんだ上級生なのだ。彼らは電車がとまらぬうちにとび降り、尻の辺《あた》りで揺れ動く薄汚《よご》れたカバンを片手でおさえ、懸命に坂を駈けのぼってゆく。万一ここの停留所で下車する現場を見つかれば大変なことになろうし、朝礼に遅れれば体育館に集められ、教練か体操の教師――彼らにはすべてスッポンとかダニとかいうような、いったん睨《にら》まれたら最後卒業まで祟《たた》りを受けることを暗示した渾名がつけられている――からこっぴどく油をしぼられる羽目になるのだ。周二も今は真剣に夢中でせい一杯に走る。だが上級生は見る見る差を開けてゆく。呼吸が苦しい。なんでしょっちゅうこんなみじめな情けない残酷な状態で息を切らさねばならぬのか。ようようサイレンの鳴りだすまえに校門へとびこむと、ひとしきり汗が――運動による発汗と不安の極致にあった冷汗とが一度に吹きでてくる。
周二の登校ぶりは単に一つの象徴であった。何事につけ彼は自分が不適格者だという後ろめたい観念から遁《のが》れることができなかった。なかんずく教練の時間、――「気ヲツケ」が、単なる不動の姿勢が、このように七面倒な厄介なものだとは周二にしても思いもよらぬことであった。それは「軍人基本ノ姿勢」であり、「故ニ常ニ軍人精神内ニ充溢《ジュウイツ》シ外厳粛端正ナラザルベカラズ」という、ただならずものものしい行為なのだ。
竹の鞭《むち》を手にした、答礼のとき五本の指がだらしなくばらばらになる准尉は、しかしこと教練教科書に関しては、おどろくべき博覧強記ぶりを示した。「気ヲツケ」とはそもそも何であるか? それは次のようなものでなければならぬ。
「両|踵《カカト》ヲ一線上ニ揃《ソロ》ヘテ之《コレ》ヲ著《ツ》ケ両足ハ約六十度ニ開キテ斉《ヒト》シク外ニ向ケ両|膝《ヒザ》ハ凝ラズシテ之ヲ伸バシ上体ハ正シク腰ノ上ニ落チツケ背ヲ伸バシ且《カツ》少シク前ニ傾ケ両肩ヲ稍々《ヤヤ》後ロニ引キ一様ニ之ヲ下ゲ両|臂《ウデ》ハ自然ニ垂レ掌《テノヒラ》ヲ股《モモ》ニ接シ指ハ軽ク伸バシテ之ヲ並ベ中指ヲ概《オホム》ネ袴《コ》ノ縫目ニ当テ頚《クビ》及|頭《カシラ》ヲ真直ニ保チ口ヲ閉ヂ両眼ハ正シク之ヲ開キ前ノ方ヲ直視ス」
そのためシントクと呼ばれるその准尉――もとは新特務|曹長《そうちょう》の略だったが、現在は旧特とでも呼ばるべきで、しかしこうした中学校の渾名は皇紀のごとく連綿とつづくのである――は、しばしば不動の姿勢ひとつについて一時間をつぶした。
「こらお前、教科書に何と書いてある? 両眼ハ正シク之ヲ開キ、……お前はちっとも正しく開いておらんじゃないか!」
また行進が、単に歩くことが、この場合は歩調をとって「勇往|邁進《マイシン》ノ気概」を示して堂々と歩くことが、これほど難儀なものとは予想すらできないことであった。その歩幅は「七十五|糎《センチ》」ではなく、「約七十五糎」でもなく、「オヨソ七十五糎」でもなく、「概ネ七十五糎ヲ基準トス」と答えねば教官を満足さすわけにはいかなかった。幸い、周二以上に行進の苦手な者もいることはいた。その一人はどういうものか尻が後方に出、首が前方に出、緊張すればするほど家鴨《あひる》の歩行ぶりの忠実な模倣となった。もう一人は手も足も人並はずれて長く、それがゼンマイ仕掛のようにぎくしゃくとしか動かず、さらに教官に怒鳴られるとその運動神経は恐慌を来《きた》し、右手と右足、左手と左足が一遍に前方へふりあげられた。そして、三番目に教官から叱責《しっせき》されるのが周二の役柄であった。
更に周二を困難な立場に追いやったのは、ゲートルの巻き方にいつになっても習熟しなかったことである。分列行進の最中、故意に企《たくら》んだように彼のゲートルがほどけだしてくる。それは下のほうに丸まり、ついで端っこが地面にたれ、足を踏みだすたびに意地わるく宙に舞う。たしか上級生が言いはしなかったか、「ゲートルはゆるく巻いとくものだ。とけるたびにしばらく休めるからな」と。そこで周二は思いきって列を抜け、小石まじりの校庭にしゃがんでゲートルを直しだす。しかし彼には上級生のような余裕がない。能《あと》うかぎり急いで巻き直して立上ろうとすると、早くもそれは半分方落ちかかっている。結局は初めからやり直すよりほかはない。ふと気がつくと、教官がすぐ傍《かたわ》らに立っていて、周二は一瞬頭の芯《しん》がくらくらする。教官はあまりにもたもた[#「もたもた」に傍点]している生徒が怠けているのではないかと観察しにやってきたのだが、その生徒は見るもむざんに色あおざめ、両の手は徒《いたず》らに震えながら滅裂な行為をとろうとあがいていることが一目で見てとれる。その真《しん》摯《し》の極にある逆上と恐怖の表現に教官は満足し、無言でそこを離れ、辛うじて周二は無事にふたたび行進の列に加わることができる。
それにしても、なんとかしてこのような状態から抜けだしたい、たとえ錯覚でもよいから「あいつはおもしろい奴だ」と言われる一人前の中学生になりたいという欲求も、強く周二を襲った。たまたま上級生を前にしてスッポンと呼ばれる教官が訓示をした。「近ごろ、学校の帰りにフルーツとやら[#「フルーツとやら」に傍点]へ行く者がおるという話だ」このフルーツ・パーラーのことを「フルーツとやら」と呼ぶ流行語はたちまち校内に拡がった。
或る日の放課後、周二は並んで校門を出た二人の友人にむかって唐突に言いだす。
「ねえ、フルーツとやらへ行ってみないか?」それから大急ぎでつけ足す。「ぼくが奢《おご》るよ」
言ってしまってから彼は緊張のあまり、どことなくひねこびた、うそ寒げな表情になる。友人は不審げに周二を見やるが、すでに最悪の場合を予想している周二は相手の顔つきも目にはいらない。ともあれ彼らは、教師の目につく可能性の多い霞町を避け、材木町のほうへ、東洋英和女学校の方角へ歩きだす。しかし歩一歩と進むにつれ、周二の足は重く、舌は乾《かわ》いてくる。万一見つかったとしたらどのような罰則、ひょっとしたら停学という事態も覚悟しなければならぬのではないか。といって、自分が言いだしたことを今更ひるがえすのはあまりといえば意気地《いくじ》がない。だが結局、最後に、すっかり自己|嫌《けん》悪《お》にうちひしがれながら、周二は、みじめな、かすれた声で言う。
「……今日はやめた方がいいかな?」
「なんだい?」
「注意があったばかりだし……補導協会がきっといるよ」
そんなことは初めからわかっているさ、といったふうに友人は軽蔑《けいべつ》の念を露《あらわ》にする。だが彼らにしてももともとフルーツ・パーラーへはいることを主張する気もなかったし、せいぜい不機嫌げに、この渋滞、この醜態をかもしだした周二を難ずるように見やるばかりだ。幸い、目の前に揚げ饅頭を売る店があった。喘《あえ》ぐように周二は言う。
「あれを買おう」
そんな些《さ》細《さい》なことでも、当時の中学生にとって、なかんずく周二にとっては途方もない大事業をなしとげた感がするのだ。ようやくほっと息をつき、虚勢をはってぶざまにそれをほおばりながら鳥居坂をあがってくると、だしぬけに一人の女学生が現われ、一瞬のうちに彼は揚げ饅頭を奪われる、という事件が起る。
こうして、東洋英和女学校の間では藍子の株はますます上り、あれは姉だとは言えない、言っても信じて貰えない周二は、およそだらしのない奴、事もあろうに女から饅頭をまきあげられる情けない奴と蔑《さげす》まれる。
しかし、藍子も周二も、その夏のしばらくを――これが海浜で過す最後の夏となったが――例年のように母親と一緒に葉山に暮すことができた。
この年四十七歳になるその母親は、甚《はなは》だしく目に立つ白い海水着に白い海水帽をつけ、浜で憩うよりも多く海中で過した。他人の思惑を委細かまわぬ気質は歳《とし》と共に助長され、海岸にくるまえ銀座で、「華美な服装はつつしみましょう」というビラをつきつけられたときにも、龍子はきっ[#「きっ」に傍点]と冷酷な眼《まな》差《ざ》しで相手を見すえ、その婦人団体の女はばつが悪そうに思わず視線を伏せたものであった。
龍子はこの年、YWCAで自分の娘のような若い女性たちにまじって水泳の講習を受けた。持前の気性を発揮してあらかた講師を独占し、根掘り葉掘り正統なクロール泳法を習得しようとした。若い講師はおどおどと言った。「そうです。片手を抜きあげるとき、もう一方の水中の手は前方四十五度くらいにあるべきなんです。奥さまのは真下にきてますでしょう? 水をかきだすまえに、一呼吸抑えるようになさって下さい」そのため龍子は葉山にきてからも、子供たちにしかつめらしくクロールの講釈をし、自ら若からぬ腕をふりまわして模範的な型を示したりした。
しかし藍子と周二は、この母親のためにひどく恥ずかしい目にも会わねばならなかった。
飛込台よりもずっと先に、ペンキの塗られた木のブイが浮いており、二人の姉弟はある日そこまで泳ぎついた。ぴちゃぴちゃとブイを打つ波の音、水からあがった身には寒いほどの潮風が、いかにも沖合遥かまできたことを二人に告げ、四肢《しし》の疲れがむしろ彼らを夢見心地にさせた。しかし、だしぬけに傍らで叫び声があがった。先客の三人の若者が面白そうに言いかわしているのである。
「おい、見ろ見ろ、あれを見ろ」
「いやあ、なるほど」
「ぜんぜん進まんな」
「おい、あれは婆ちゃんだぜ」
藍子たちが顔をあげてみると、波間を白い海水帽がこちらにむかって漂ってくる。一目見て、二人の母親だとわかった。龍子はクロールで、彼女のいう正統派のクロールを用いて泳いでいる。たしかにその形は整っていた。しかし、抜き出す手のなんとのろく、その進み方のなんと限りなく遅いことだろう。それでも龍子は顔をふかく水につけ、やがて横ざまに顔をあげるとぱっくりと魚類のように口をあいて呼吸をし、一|掻《か》き一掻き、目に見えぬほどわずかずつこちらに進んでくる。二人の姉弟はいたたまれなくなって海中にとびこみ、夢中になって浜辺をさして泳いだ。
浜は例年よりいくらか寂しく見え、葦《よし》簾《ず》ばりの小屋はたしかにその数を減じていた。しかし、浜は一言でいえばまだ華やかといってよかった。ビーチ・パラソルの群れがとりどりの彩《いろど》りをそえ、家鴨の形をした浮袋を抱いて紅毛の少年が走っていた。乾いた砂地には陽炎《かげろう》が立ち、白く平たい貝殻のころがるそこは、足の裏が火傷《やけど》するまでに熱せられていた。
……藍子は、すんなりとほそい、やや細すぎる四肢を砂の上にのべ、じりじりと背を焼く陽光を感じながら、ひとしきりじっとしていた。
彼女は昨夜海岸で見た夜光虫の光輝のことを考えた。実際、おびただしい夜光虫の群れがその夜は海岸近くに集まっていたのである。波の穂が青白く光り、きらきらと崩れ、一面に燐光《りんこう》をながした。そのかぼそいながら目もあやな幽鬼の光は、素足になって腿《もも》まで濡《ぬ》らして手で掴《つか》もうとすると、するすると幾筋にも溶けて掌から流れ去った。それなのに、弟の周二が駈《か》けてきて不細工なことを言ったものだ。夜光虫の正体を見つけたよ。小さな米粒みたいなものだよ。
――ばかな奴。
藍子はそう心に唱え、次にこう心に呟《つぶや》いた。
――氷アズキ、か。
彼女の食欲は相も変らず旺盛《おうせい》で、しかしその食欲は幸いなことに、彼女の典型的に少女めいて細い姿態に影響を与えはしなかった。もっとも、彼女の大食ぶりを表にして二重丸で示してくれた女学校の給食はすでに廃止になっていた。一度赤痢事件を起したことも一応の原因であったが、なによりそうした給食を許さぬほど食糧事情が徐々に悪化していたのである。現に、葉山にくるまえ、藍子は兄の峻一に連れられてデパートへ行った。たまたま兄の中学校友達、あの焼芋事件の仲間の城木|達紀《たつのり》も一緒であったが、三人がデパートの食堂によると、「米無し御献立」の日に当っていて、食欲をそそるものは何一つなかった。
――鰮入《いわしい》り卯《う》の花《はな》めし、か。
藍子は今またそう心に呟いた。卯の花っておからのことだわ。おからってとりわけおいしいものじゃないけれど、それでもやっぱり結構おいしいわ。兄さんたちはどうしてあんなにまずそうな顔をしたのかしら。……身動きをすると、乾いたこまかい砂が、百千の目に見えぬ小《こ》蟹《がに》の走るように、彼女の手足からこぼれ落ちた。
――城木さん、か。
彼女は、妙に兄と気性が合ってたびたび一緒に野球見物などに行ったことのある城木の顔立ちを思い浮べ、知らず知らずそのあら[#「あら」に傍点]を捜した。額が広すぎて、きっと早く禿《は》げるにちがいない。眉《まゆ》毛《げ》がゲジゲジ眉毛だ。頤《あご》が前に突きだし、花王|石鹸《せっけん》のマークに似ている。――といって全体の印象はそれほど悪くないな、と藍子は砂の上に片肘《かたひじ》を枕にしながら小生意気に考えた。ずっと以前箱根に遊びにきたころに比べると、城木さんもなかなか成長した。なによりちょっと浅黒くて、肩幅の広いところがいい。
その城木に、たしかこの正月、慶明戦のラグビーを見に行った折、何かのきっかけから、或ることを言ったことを思いだし、藍子は、陽光がきらめき周囲に人声のさざめく浜辺でちらと舌を出した。もし城木さんが教授になったら、と彼女はそう言ったのだ、自分は城木さんの奥さんになってもいい。なんで教授でなければいけないのか、と相手は笑って問い返した。なぜなら、自分は人一倍すぐれた医者を夫に持つ義務がある、それも本当なら養子に迎えねばならないのだ、と、むかし叔母の桃子から吹きこまれた観念を藍子は平然と口にした。養子はいやだよ俺は、と城木は言い、峻一と二人で大口をあいて笑った。
――城木さんがアグネスみたいな手紙をくれたら、どんなものかな。
藍子は常日ごろ身辺に絶えぬSの手紙のことを考え、これだけとんでもなく焼けた顔を彼女らに見せてやりたいものだと思った。……彼女の前後左右には乾いた熱気が放射され、砂も海も空も眩《まばゆ》く光輝に満ち、目をつぶるとくらくらとする暗黒の視野のなかに、童話じみて彩られた火の玉が幾つも浮んで移動した。首すじが四肢が熱く、ひりひりとし、そのくせ身体の深部はけだるく、ものうかった。
――それにしても、奥さんになる、はひどかった。まるで小学生じみてるわ。
藍子は我知らず、もう一度ちらと舌を出した。いきなりくるりと身体を横転させた。太陽は、灼熱《しゃくねつ》した円盤は、ほとんど頭上にあった。思考を中絶させる奔放な光線が降りしきり、周囲の浜は湧《わ》き立っていた。打寄せ引返してゆく波の音と、ゆえよしもない嬌声《きょうせい》とが入りまじった。そのとき、ふいに横手の上空に爆音がひびきだした。やがてそれは鼓膜に突きささる金属音となり、同時に、ぴったりと寄りそった三機編隊の小型機が、ジュラルミンの翼にきらきらと陽光を反射させながら、裸体の人波でにぎわう浜の上空をあっという間に通過した。見る見るその機影は遠ざかってゆく。
――煩《うるさ》いわ、ほんとに飛行機って。
藍子は顔をしかめた。常々女学生仲間が可《か》憐《れん》と見る、その小ぢんまりとまとまった卵型の顔を大形《おおぎょう》にしかめると、片手で砂をはらいつつ活溌《かっぱつ》に一息にはね起きた。
そのとき、ずっとこちらの波打際に、その日葉山に到着して一泳ぎしてきた兄の峻一が立っていた。ひょろりと背《せ》丈《たけ》ばかり上方にのびた、来年は医学部を卒業しようというこの大学生は、固く棒立ちになって、すでに黒点と化した機影をいつまでも見送っていた。彼の顔からも腕からもまだ潮水がぽとぽとと滴《したた》った。しかし、その間のびのした顔はこのときばかりは真剣で、やがてそこに、ほとんど恍惚《こうこつ》とした喜悦の情がおしのぼってくるのが見てとれた。
峻一はここ二年ほど軍の飛行基地参りから遠ざかっている。もちろん初めて目にする機種であった。その見慣れぬ低翼単葉の戦闘機の深いカウリングを、美しい曲線をなした翼のフィレットを、敏捷《びんしょう》な淡水魚を思わせる胴体を、彼はわずかな時間のうちにしっかりと記憶に留めた。それから目を奪うその速度を。そしてなによりも、その機体の下部はなめらかに、あまりに平滑に――何もなかった。脚は引っこめられているのだ。
峻一は背後をふり返った。そこに、背丈はずっと小さいながら、一緒に泳いできた周二がさきほどまでの彼と同じ姿勢で突立っていた。二人は顔を見合せた。峻一の人のよさそうな長細い顔はへんなふうに歪《ゆが》んだ。漁色家の老人が臨終の際《きわ》に絶世の美女でも目の前にすれば、かくもあろうかと思われるような顔つきであった。ほとんど厳粛に彼は言った。
「見たか」
「うん」
周二も雫《しずく》のたれた顔をふかぶかと頷《うなず》かせた。そして、この年齢をへだてた兄弟は、どちらからともなく手を差しだして、しっかりと握手を交わした。
二人はこのとき、たまたま予期もせず思いもかけず、嘗《かつ》て夢想していた形態が突然現実化したとしか思われぬ新鋭機をその目でしかと見たのであった。それは――そのとき二人は知るすべもなかったものの――その七月に初めて正式に採用された、のちにゼロ・ファイターとして世界に知られるようになる零《ゼロ》式艦上戦闘機一一型の姿であった。
第十章
青山の楡病院の事務室で、最近は事務長という呼称を受けている大石が、老眼鏡をかけて熱心に新聞を読んでいた。賄《まかな》いの隅《すみ》でも看護人が別の新聞を開いていた。松原の病院でもあちこちで似たような風景が見られた。大体が外の世界に関心の薄いこうした人々が、これほどむさぼるように新聞を読みだしたことは、昭和になってから嘗《かつ》てなかった。昔は、殊《こと》に基一郎が代議士であった頃は、書生たちもしきりに政治を論じたものであった。現在は一国の運命をあげつらう人物は少ないものの、しかし人々はあのビリケンさんのように声こそ出さなかったが、生真面目《きまじめ》な表情で新聞を見つめることが多くなった。たしかに、この昭和十六年の春以来、多くのことが矢継早に起った。米の通帳制が実施された。日ソ中立条約が調印された。日米交渉が発足した。日蘭会商の打切りが声明された。ドイツ軍がソ連領に侵入した。すべてが唐突で予期しなかったことであり、次には一体何が起るのか予測することはできなかった。しかし、それは、その底知れぬ深みのなかにかげを没しているものは、徐々におぼろげな形態を浮びあがらせ、人々の頭上に重苦しくおおいかぶさってきた。それは新聞やラジオを通じて、日一日と抜きさしならぬ形態を明瞭《めいりょう》にしてきた。楡病院の誰も彼もが、そのことを噂《うわさ》し、あれこれと論議をした。軽症の患者までがそのことに無縁ではなかった。しかし、他のことなら奔放な妄想《もうそう》を形成し得る彼らも、日本をめぐる激しい波立ちに対しては、新聞の見出し以上のものから抜きんでることはできなかった。なんにせよ事態は彼らにとって巨大にすぎ、個人の能力の範囲を逸脱していたからだ。ともあれ、あまり新聞を読まぬ楡病院の人々もそれぞれの面持で統制された紙面を見つめ、そこからあまり変りばえのせぬ意見を引出した。夏から秋へかけ、本当なら新聞をよむのさえ面倒臭がる人々にも関心をひき起させる多くのことが起り、時間は重なりあって変化を生みつつ、嘗てなかったほど速《すみ》やかに、一瀉《しゃ》千里に流れていった。
七 月
「独軍相次ぐ大戦果発表 ソ連機四千百を撃破捕虜四万戦車二千二百破壊」
「けふ御前会議開かる 帝国の最高国策決す 現下の情勢に不動の決意」
「陸軍半ケ年の戦果発表 十二大作戦 重慶《じゅうけい》逼塞《ひっそく》 蜿蜒《えんえん》四千|粁《キロ》の大戦線」
「第一回支那事変生存者行賞 殊勲者|誉《ほまれ》の金鵄《きんし》勲章 陸軍八千九名海軍四十六名」
「外食転向で砂糖異変 余る筈《はず》が喰《くい》込《こ》み配給やり直し」
「国内態勢強化のため近衛《このゑ》内閣総辞職決行 首相、昨夜辞表を捧呈」
「大命近衛公に再降下 直《ただち》に第三次組閣に着手」
「仏印の共同防衛成立 日仏完全に意見一致す」
「英、米、日本資産を凍結」
「帝国、毅然《きぜん》英米に対抗 外人の資産凍結 外人関係取引取締規則あす公布即日実施」
「日英通商航海条約 英、突如廃棄を通告す 米と呼応、我国を牽制《けんせい》」
「米こそ平地に波瀾《はらん》 我が手段平和的 伊藤総裁、反省を要請」
「蘭印、果然英米に追随 金融協定停止資産凍結」
「我が陸海軍の精鋭仏印南部に増派 仏印|極《きわ》めて友好態度」
「昨年の日蘭石油協定、蘭印、突如停止を発表 相次ぐ措置に成行重視」
八 月
「我が陸海軍最高指揮官|凛然《りんぜん》仏印防衛を宣言 海鷲《うみわし》も西貢《サイゴン》郊外到着」
「日、泰間に借款成立す 英米の資産凍結に対抗」
「ル大統領 対日目標に石油禁輸強化を発令 ソ連には優先的処置」
「英、世界情勢好転と妄断 東亜対策硬化を呼号 真意は米の勢力依存」
「英米|執拗《しつよう》に対日|威嚇《いかく》 和戦は日本次第と英官辺言明す」
「ABCD線の動向を衝《つ》く 国際電話 シンガポール、国境に鉄条網を布《し》く 日本人の商社は帰り支度《じたく》 フィリッピン、夜遅くまで飛行演習 悲壮な邦人の決意」
「世界支配の謀略露呈 英米共同宣言 国民一致対抗の要」
「全面的援助を条件に 対日策へソ連誘引 英米、三国会談で企図」
「代燃車のみを許可 バス、タクシーの統制強化」
「有閑人ある勿《なか》れ 国民動員態勢を確立せよ」
「東亜の破局到来せば英米は提携と豪語 英首相、対日|誹謗《ひぼう》の暴言」
「防空必勝の栞《しをり》 難波《なんば》中佐談 許されぬ都会離脱、焼夷弾《しょういだん》は隣組で消せ」
「太平洋問題の所信 野村大使、米に伝達」
「家庭の鉄銅も応召 武器となつて報国 さあ手放さう身辺の不必要品」
「米の臨戦態勢|進捗《しんちょく》 帰朝の若杉公使語る」
「近衛メッセージ 米、慎重に研究 注目される今後数週間」
九 月
「帝国興亡の一大危局 一億国民奮起の秋《とき》 馬淵《まぶち》陸軍報道部長、祖国防衛の覚悟要望」
「レニングラード攻防 独ソ戦局転換の鍵《かぎ》 独軍、赤軍防衛線に激突」
「日米交渉は継続 ハル長官記者団に語る」
「在英領邦人引揚げ 欧洲その他へ客船二隻を派遣」
「日米会談に重慶焦慮 蒋《しょう》、米政府に哀訴す」
十 月
「皇軍、鄭州《ていしゅう》を占領 包囲戦線蜿蜒六十粁」
「英米マニラ会談 空軍共同作戦討議 対日包囲陣の強化画策」
「統制の強化あるのみ 生活切下げも当然 商相、国民に覚悟要望」
「対米交通|杜絶《とぜつ》緩和に旅客船三隻を配船 日米間に話合ひ成立」
「来るぞ日本船 在米同胞歓喜の声」
「今ぞ皇国興廃の関頭 我海軍は健在なり 平出《ひらいで》大佐講演 日米間の危機力説」
「近衛内閣総辞職 成立以来三月で退く」
「近衛内閣電撃の幕切 発表の声もふるふ伊藤総裁」
「大命、東条陸相に降下 組閣工作今暁|略《ほぼ》完了」
「不退転の決意を披《ひ》瀝《れき》 鉄石の団結を要望 東条首相の重大訓示」
「来年度の卒業は九月 高校、大学予科も加ふ 国防の一翼に」
「日米問題への言及 米大統領回避せん あす放送に態度慎重」
「発砲戦争は既に開始 中立法の全廃要求 ル大統領挑戦的放送」
「時局防空必携 一弾は覚悟せよ隣組 働ける者は皆部署を持て」
十一月
「わが決意を過少評価 米の認識改まらず」
「近く航空協定も成立 濠洲《ごうしゅう》全く対米依存 危機の幻影に戦々|兢々《きょうきょう》」
「日米関係打開に来《くる》栖《す》大使を派遣 野村大使を援助」
「対日包囲に躍《おど》る敵性陣営 米、縦横の暗躍」
「連合軍の欧洲上陸戦 ソ連、英米に泣訴す」
「龍《たつ》田《た》丸《まる》ほか二船、米国を出帆 引揚邦人千六百八十八名」
「交渉好転は困難 日米の主張|対蹠《たいしょ》的 米紙論評」
「駐支海軍陸戦隊 米、引揚げを考慮中」
「パナマ政府類例なき暴挙 在留邦人締出し 米の傀儡《かいらい》グ大統領 我が抗議を無視」
「反省促し厳重監視中 帝国政府絶対容認せず」
「途方に暮れる邦商 パナマ政府再考|肯《がへん》ぜず」
「対日|輿《よ》論《ろん》挑発に必死 頻《しき》りに詭《き》弁《べん》を弄《ろう》す 英米巨頭暴論の狙《ねら》ひ」
「兵役法施行令を大改正 丙種合格者も召集 第二国民兵、兵籍に編入」
「祖国の土に泣く龍田丸船客 米、参戦へ驀《まっしぐ》ら 対日戦備に主力を 船客帰朝談」
「我慢せよ寒い冬 煖房《だんぼう》使用にこの標準」
「けふハル長官と会談 来栖大使華府入り」
「危局即応準備全し 陸海両相、全軍の決意強調」
「首相、外交三原則を闡明《せんめい》敵性行為を断《だん》乎《こ》排除 戦火波及は極力防止 事変完遂妨害許さず」
「外相演説 対米協調限度あり 交渉長時間を要せず」
「日米会談を聴く 東京華府国際電話 我を非妥協|呼《よば》はり 米、両相演説を気に病む」
「野村、来栖両大使、深更まで打合せ ハル長官と会談続行」
「危局避け難し 英国側の見解」
「日米けふ第三次会談 記録的長時間の討議」
「西亜、比島から引揚船 日枝《ひえ》丸《まる》と箱根丸神戸入港」
「太平洋の平和維持に日米ともに真剣 非公式会談二時間半」
「対米第二次配船決定 月末頃、龍田丸を派遣」
「帰《き》趨《すう》決定時期近づく 成否一に米の態度 日米会談関頭に立つ」
「会談最高潮に達す 米国、文書を手交 第四次会談、対日態度を要約す」
「重大局面に到達 第五次会談 大統領会談要請 米、成否決定の提案か」
「華府の空気悲観的 米、飽くまで原則論固執」
…………
*
その十一月の中旬、海軍軍医中尉に任官したばかりの城木|達紀《たつのり》は、空母|瑞鶴《ずいかく》に赴任するため、軍医学校の同僚と共に倉皇《そうこう》と東京駅を発《た》った。
老いかけた父母と、一人きりの弟との意味もない短い会話。遅れて駈《か》けつけてきた叔父がしきりに冗談をとばし、しきりに彼を励ました。そして、すぐ発車である。
すべてが慌《あわただ》しく、寝苦しい夜の夢のようで、ただ彼自身、その目まぐるしい時間の推移に我ともなく身をゆだねている状態といってよかった。ここ数日に折重なった軍医学校の形ばかりの試験、卒業式、茶話会、荷造り、母校の医局への挨拶《あいさつ》、退校式、そして出発。
だが、この春から――彼が東大医学部を卒業して都《つ》築《づき》外科に入局したときから、この慌しい流れは始まっていたのではなかったか。甲種合格の彼は海軍二年現役を志願していた。教授は海軍の軍医少将で、フレッシュマンの城木に、はじめから虫様突起炎はもとより、本来ならもっと古手のやる胃の手術にまでメスをとらせてくれた。九月に彼は海兵団に入り、銃剣術と行軍を一カ月やらされ、ついで築地の軍医学校で海軍衛生学をまことに即席に叩《たた》きこまれた。その間にも、日本をとりかこむ世界情勢は、日と共に変化し、ひしぎあい、切迫しつつあった。軍医学校の内部でも、必然的に或る重苦しい空気が醸《かも》しだされていた。いずれは何かが起る。戦争をやるかやらないかの問題ではない。いつかは、どこかで、新しい解決法をとらざるを得ない立場に日本は追いこまれているのだ。やるより方法がないのだ。城木も当然そう感じたが、心の一方では、まさかという気持が理《り》窟《くつ》よりも根強くはびこっていた。なかんずくアメリカと事をかまえるなどとは、いくらなんでも、まさか。
……単調な絶えることのない車輛《しゃりょう》の振動――果てしないような、ときには意外に短く感じられる或る距離を走りきると、汽車は速度を落し、きしみながら一つの駅に停車した。そのたびに、ふと我に帰ったような気がすることもある。逆に、汽車がふたたび動きだし、窓外を流れ去る丘陵や雑木林をぼんやりと目で追っていると、さきほどの車輪の響きの休息が、ひとときの夢であったかと思われることもある。わざとしたような輝かしい初冬の空であった。空は酷薄なまでに晴れあがり、雑木の葉が枯れ黄ばみ、そこに淡い日ざしがこぼれ、戯れていた。幾つかの都市が過ぎてゆき、やがて寒みを帯びた水色の空を暮れ残して、風景はたそがれた。
二等車の車内には軍医学校の同僚が大勢いた。送ってきた教官もいた。しかし、ひとしきり盛んだった笑い声、とりとめもない放談はじきにとだえた。とうに夜だった。汽車はひときわ速度を増したかのように走りつづける。大抵の者は寝いっていた。誰もが昨夜もろくろく寝る閑《ひま》もなかったはずだ。城木達紀も第一種軍装の胸に頤《あご》をつけるようにしてまどろんだ。
呉《くれ》で、半数の者が下車をした。呉と麻里布《まりふ》へ行く連中である。彼らはそこでそれぞれの艦に乗艦するのである。短い挨拶、短い握手、そして彼らは海軍|行《こう》李《り》をかついで暗いホームに降りてゆく。民間人が乗りこんできて、彼らの立った座席はすぐ埋まる。
暁方《あけがた》、連絡船が関門海峡を越えた。城木にとってははじめての体験である。門司で、また佐世保行のかなりの人数が別れる。急に車内が――べつに空席があるわけではないが――がらんとしてしまったようだ。あとに残ったのは城木達紀を含めて四人のみである。彼らは、彼らの艦のいる佐《さ》伯《えき》まで行くのである。
佐伯で、三人の者は予定通りの行動をとれた。一人は戦艦|陸奥《むつ》へ、二人は空母赤城へ、それぞれ手をふりながら定期|内《ない》火《か》艇《てい》に乗りこんだ。残った城木は桟橋《さんばし》に立ってそれを目送した。しかし、彼の乗るはずの新鋭空母|瑞鶴《ずいかく》はすでにここにはいなかった。「出だしがわるいな」と彼は独語した。
「また逆戻りか」荷物をかついで歩きだす。瑞鶴は十八日まで呉にいて、十九日出港するとのことである「急遽《きゅうきょ》十八日までに呉にて乗艦すべし」というのが彼のとるべき行動であったが、旅の疲れが五体の節々にまでこみあげてくるのを彼は感じた。今日はまだ十六日である。佐伯防備隊へ行って了解を得、汽車の時間を調べ、その夜は別府に一泊した。一風呂あびると、ほっとしたような、何事もなかったような気が蘇《よみがえ》ってきたが、その夜、彼は何度も胸苦しい夢から目覚めた。薄墨色にひろがった湾内に目ざす瑞鶴の姿がある。小さなボートに乗ってそこに辿《たど》り着こうとすると、見る見るその艦体が遠ざかっていってしまう。
翌朝、早朝の汽車に乗り、ふたたび関門海峡を渡る。今日もまたどこまでも突きぬけるように澄みわたった空である。右手にはのどやかな海が展《ひら》けている。左手にはゆるやかな起伏をもつ中国の山々が連なっている。それにしても、なんという罪のない、なごやかな、眠気をもよおさせる眺《なが》めであろう。昨日は周囲にいた同僚はすでにいない。汽車にゆられているのは城木ただ一人である。漠然《ばくぜん》としたいらだち、かすかな不安につきまとわれながら、城木はこの冬を迎えようとしているおおらかな自然を眺めた。群がり立つ松の緑が柔らかい。松はこれほどまで親しみぶかい色彩をしていたものか。
夕刻、呉に着いた。海軍定期発着所に赴《おもむ》くと、沖にいるべきはずの瑞鶴の姿がない。予定をくりあげて出港したあとなのであった。昨日にもまして、疲労が――思わず気が抜けてゆくような疲労感が城木達紀の全身をおおった。しかし愚図々々している場合ではない。鎮守府の人事部へ急いだ。艦の行方がわかるまで小半時を要した。瑞鶴は十八日の夜中まで大分に入港しているとのことである。艦からして慌しい行動をとっている。直ちに荷をまとめて引返す。汽車の連絡のあいだ、真夜中の広島の町を少し歩いてみた。ここも城木には未知の町である。そうした未知の旅、しかも否応なしの緊迫した旅中にあるという感慨が、暗い町中からおし寄せてくるようであった。
三たび関門海峡へ向って動きだした車中で、彼は平和に眠っているであろうわが家のことを考えた。自分でも意外なほど、しんとした気持で父母のこと、弟のことを思った。それから二、三の友人のことも思った。中学を出てからも交際をつづけてきた楡峻一のことも意識にのぼってきた。
城木と時を同じくしてこの春に慶応大学精神科の医局にはいった楡峻一は、やはり九月の初めに召集を受け、東部第七部隊に入隊していた。城木の立場とは異なり、峻一にとってそれは文字どおりの青天の霹靂《へきれき》、思いもよらなかった運命といえた。彼は第一乙で、兵役に関しては、少なくともずっと先のことと思っていたようだった。事実、この報知を聞いたとき、城木もなぜとなく可笑《おか》しくなってしまったのを覚えている。むかしから飛行機気違いで、日米戦未来記などという小説本には目がなかった男だが、そのひょろりと間のびして育った身体つきや顔つきを考えただけでも、戦争とはおよそ縁もゆかりもない、役立たずの人間としか思えなかった。峻一はとりあえず軍医候補生の志願をしたらしいが、或る期間は一兵卒の生活を送るにちがいなく、中学時代の教練の際の峻一を思いだすにつけ、気の毒なような、可笑しいような気分がこみあげてならなかった。
この十月の末、日曜日の外出日、城木は峻一の家に電話をしてみたことがある。ひょっとしたら峻一と会えるのではないかと思ったのである。その目的は果せなかったが、しかし城木は峻一の妹の藍子と会った。電話口に出た藍子が――いつもは単におしゃまで可愛らしい友人の妹とのみ思っていた藍子が、ひどく真剣な声で、ぜひお会いしたいと言ったのである。彼女は渋谷まで出てきて、喫茶店で茶を飲んだ。峻一を除いて、その妹と二人だけで会うのは、城木にとって初めての体験であった。そしてハチ公の銅像前で藍子の姿を認めたとき、城木は彼女がいつの間にか急に成長したように思われ、ほんの瞬間どぎまぎしたものであった。しかし、彼女はやはり小さな乳臭い女学生にすぎなかった。
「お兄さまは痩《や》せちゃったわ、ずいぶん。陸軍って、いやあねえ」
そう言って藍子は、まだ幼なげな眉《まゆ》をしかめてみせた。
「海軍だって同じことさ」
「でも陸軍てあたし嫌《きら》い。泥臭いんですもの」
だが、城木がもうじき卒業のこと、いずれは船に乗ることを言うと、目のまえの少女の顔が急におかしいほど真剣になり、その似あわしからぬ生真面目さが、彼女をふいに何年も成長させてみせた。
「もうお乗りになる船は決っていらっしゃるの?」
「まださ」
「じゃあ、おわかりになったら、藍子に教えて」
その口調は幼いなりに真剣で、城木はぶっきら棒に、うん、と言った。別れるとき、彼女はやはり妙に大人びた丁寧な口調で言った。
「どうか、お大切に。ごきげんよう」
城木は薄暗い車中の振動にゆられながら、藍子のへんにぎくしゃくとした口調をぼんやりと思い返した。それから、彼は眠ろうと努めた。……
大分には、十八日の昼まえに着いた。海軍波止場に直行する。今度こそ瑞鶴はそこにいた。同型の姉妹艦|翔鶴《しょうかく》と共に、どっしりと平べったい鼠色《ねずみいろ》の巨体を、すぐそこの沖合に浮べていた。長大な飛行|甲板《かんぱん》と小ぢんまりとしたマストとの対比が、いかにもこの艦が特殊な、ほとんど童話じみた特殊な能力を秘めているようで、いまはその力を隠して、じっと微動だもせず憩《いこ》っているかのように見えた。城木達紀は友人の楡峻一とは異なり、航空機にも軍艦にもとりわけ関心があるわけではない。それにしても瑞鶴の現実の姿は、彼のこの三日間のせせこましい不安と疑惑を洗い流してくれた。万が一乗りはぐれたら、と、小学生そこのけに、別府の一旅館での夢を本気になって彼は憂慮していたのである。
定期の時間を聞き、町へ引返して小さな寿司屋にはいる。その鮨《すし》はすこぶる美味に感じられた。こんなおいしい鮨をここしばらく食べたことはない、と城木は必要以上の心のほぐれを覚えながら思った。
隣で鮨をつまんでいた軍服の男が、いきなり、
「軍中、あなたはどこかへ行かれる?」
と訊《き》いた。
「瑞鶴? うわあ、ありがてえ」
塚本中尉と名乗るその男は、洒落《しゃらく》に伝法《でんぽう》にそう笑って、穢《きた》ない乱杭《らんぐい》歯《ば》を露《あらわ》にした。彼もまた瑞鶴を追って呉からあたふたと急行してきたのだそうである。城木はまた必要以上にほっとした。塚本中尉の歯こそ穢ないものの、その目は人なつこく、豪胆そうで、訳もない頼もしさを城木は感じた。この飛行機乗り――そう塚本中尉は自ら言った――の出現によって、三日間城木が感じていた孤独感はあらかた拭《ぬぐ》い去られた。塚本中尉はようやく手元にきた皿盛りの二つ目の鮨を、目まぐるしく矢継早に乱杭歯の間におしこんだ。
「うまい……うまいですなあ、この鮨は。これは米がいいんですよ。九州の米がいいんだ」
乗艦は夕刻の定期になった。定期には士官室以上の者がかなり乗っていたが、瑞鶴の舷《げん》側《そく》は右舷しか使用されていない。近づけば、見あげるばかりに巨大な鉄の塊《かたまり》である。それがこれからの自分の住家であるというより、その鼠色の鉄の船はもっと非情でとりつく島もなく、人間たちと関係のない存在とも思われた。内火艇が後進をかけ、ひとしきり海水が泡立ち、微動だもせず腰をすえて屹立《きつりつ》している巨艦の脇腹にひたひたと音を立ててぶつかった。
副長に案内され、第一士官次室、第二士官次室と着任の挨拶をして廻る。夕食後、新任候補生たちと艦長に伺《し》候《こう》、そのあと軍医長に挨拶をする。主計課の中尉と同室の二人部屋を割りあてられた。ベッドが整わないため、その夜は士官病室のベッドに寝る。疲労と昂《こう》奮《ふん》が入りまじり、城木は果して寝つかれるかと案じた。機関室の躁音《そうおん》、船が間断なくあぎとうにも似たにぶい音響が伝わってくる。しかし毛布をかぶると、意外に早く、なにも考える暇もなく、ねばっこい眠気が彼を夢路にひきずりこんだ。そして、彼がなじみのないベッドに寝入ったとほとんど同時に、瑞鶴は錨《いかり》をあげ、二万九千八百|噸《トン》の巨体をしずかに湾外へと移動させはじめた。
艦は内部から見ると、また完全に別物であった。鉄の隔壁が、天井が、柱が、すべてそれ自身の生命を持っているかのようだった。人間は途方もなく大きな生物の体内にひそみ駈けずりまわる小鼠にも似ていた。タラップがある。ハッチがある。長い狭苦しい廊下がある。無数の部屋がある。すべてが鉄で殺風景そのものである。それは複雑|極《きわ》まりない迷路で、どこも同じように見え、逆に自室の扉までが目新しくも見え、その内部に閉ざされると、初心の外来者は、左右の観念、前後の観念、さては上下の観念まであやしくなってくる。城木達紀は早く艦内の地理を覚えようと、努めて夜の巡検についていった。艦内旅行という言葉は決して大形《おおぎょう》ではない。甲板は三段にわかれている。下の二段に翼を折り畳んだ飛行機がぎっしりと積みこまれ、整備員がたかり、飛行機用のエレベーターが三台、チンチンチンと音を立てている。鋼鉄製の建物の内部というより、艦自体が大工場そのままであった。艦底の機関室の廊下には、すでにむっとした熱気が、油の臭気が、絶え間なく回転しすれあい唸《うな》り声をあげる機械のどよめきがたちこめている。一人で自室に帰ろうとすると、途中から方角がわからなくなってくる。長さ二百七十米、幅三十七米、上下幾層にものびている艦内が、その何層倍にもふくれあがり入りくみ、故意に企《たくら》んだ迷路を形成しているかのようだ。
「イクラ歩イテモワカラヌノハ船ノ中ナリ」
と、城木は日記に記した。
日記をつけるのは、子供のころを除き、実に久方ぶりの体験といってよい。赴任が決ってから、彼はなにがなし簡略な日記をつけはじめた。布表紙の粗悪な手帳であった。
勢い、西も東もわからぬ城木の日常は単調なものであった。午前中、医務室で診療をする。はじめは見学に近い。しかし、定例|疾病《しっぺい》検査のため、数多《あまた》の兵員の局所までを診《み》なければならなかった。
先輩の軍医はてきぱきと片づける。
「出せ!」
ひとしきりしごいて、
「サックを渡しておいたのに、こんな病気になるとは何事だ!」
城木にはまだそういう口調が出てこない。軍人であるということよりも、診療をしているとつい医局の延長であるような気分が襲ってくる。診療室の隣が手術室となっており、レントゲンその他の器械も完備している。城木は心底から盲腸患者でも発生してくれることを願った。急に放りこまれた厳然とした仕組にあやつられた未知の世界、そのなじみのない組織の中で、彼が存在理由を見出せるとしたら、メスをとること以外にあり得ないからだ。一人、右の精液|腺《せん》にこりこりした硬結を触《さわ》れる者がいた。その睾丸《こうがん》をいじっている間、彼はわずかばかり自分を納得できる時間を過したような気がした。
診療がすめば、第二|士官次室《ガン・ルーム》か、自室で時を過すよりない。艦橋へでも行けば、艦の行動ももう少しわかろうが、新入りの軍医としてはその気が起らない。
艦の震動は少なかった。ごくわずかの揺れを感ずるばかりである。最初の朝、起床して舷窓から覗《のぞ》くと、すぐ目の下に、手がとどくほどのところにのたうつ波があった。水平線が見え、海と空のほかに何もなく、土佐沖を進行中と聞いた。翌日の朝、右舷に八丈島が見えた。陸地らしいかげはそれきりで、わずかにうねる海面、ときに白く砕ける波頭がふしぎにのろのろと次の波頭と交替する。
北方へ進んでいることだけがわかった。次第に寒くなってくるのが明瞭に感じられる。出港のときは毛布一枚でも暑かったのに、今では二枚にしても寒い。城木は行李の奥から褞袍《どてら》を引っぱりだした。
艦の行先を想像する気にもなれなかった。しかし同室の主計中尉は主張した。
「結局は南へ行くと思うね、俺は。いったんどこかに集結したうえでな。南方作戦をアメリカの出方なんぞかまわずにやると思いますよ。このままじゃジリ貧なんだから」
ガン・ルームの先輩たちが、にやつきながら説明した。瑞鶴は速力と搭載《とうさい》機《き》の犠牲になって装甲はろくすっぽない。魚雷一発|喰《くら》ったらまず御《お》陀《だ》仏《ぶつ》だろう。新艦のため訓練もゆきとどかず、一部の飛行機搭乗員は発着艦がせい一杯だ。
「運のわるい船に乗りあわせたもんですなあ。軍中。しかも出港の六時間前にね」
と、寿司屋で会った塚本中尉が乱杭歯をむきだしにして笑った。
「だが、本艦は早いですぞ」と、先任の中尉が言った。「本艦が戦闘速力を出すと、壁がペコペコとしなって音がしますぞ。ペコペコとね」
医療関係の暗号文書を担当させられることになり、城木は新任の主計兵曹長と一緒に、掌暗号長から海軍甲暗号の読み方作り方を習った。はじめは至極|難《むず》かしいものに見えたが、実例について文を作ってみるとあんがい単純なもので、乱数表、暗号用語表を手に入れれば専門家にはすぐ判読されそうな気がした。子供のころの暗号ごっこをなにがなし連想しながら城木が作文をしているうち、二十二日の午後、瑞鶴は千島列島の一つ、エトロフ島の単冠《ヒトカップ》湾に入港した。
舷窓から見ても、どんよりと重苦しく雲がたれた空であった。海は鉛のように冷たく重く光り、雪をかむった山のつづく荒涼とした島が目の前にあった。白い雪と黒い地肌のきびしい交錯、一木一草とてない、人の気配さえない北国の島である。湾内にも北太平洋の波がおしよせ、ただ一本長くのびている桟橋に白く砕けていた。その附近に漁師の小屋らしいものが三軒見える。一本の無線マストがうそ寒く立っている。見ているうちに霧がかかってきて、無線マストのかげも淡くかすんでゆく。にぶい鉛色の湾内には、かなりの艦艇が浮んでいるようであったが、城木にはそれを確かめる閑《ひま》がなかった。
翌朝、総員が飛行甲板に整列、軍艦旗掲揚後、新嘗祭《にいなめさい》の式典があった。寒風にとばされて小さな雪片が紛々と舞ってくる。君が代の吹奏が雪片の乱れのなかを、寒々とした潮騒《しおさい》のなかをひとしきり流れた。そして、思わず躯《み》がひきしまるのを覚えながら、城木は見た。いつの間にか、雪山に囲繞《いにょう》された広からぬ湾内に、瞠目《どうもく》するに足る数の艦艇が集結していたのである。それは実際以上に多数の数に見え、あたかも海を埋めつくすようにも見えた。いずれもいかめしく鋼鉄でかためられ武装した姿を、荒涼とした北の海にどっしりと据えていた。
一夜のうちに何が起ったのか? いや、何が起ろうとしているのか? 空母が四隻――その日の夕刻には六隻に殖《ふ》えていた――ついこのあいだ別れた軍医学校の同期生の乗っている赤城、加賀の姿が見え、大分から同行してきた姉妹艦翔鶴がすぐ横手にいる。戦艦の比《ひ》叡《えい》、霧島。重巡の利根《とね》、筑《ちく》摩《ま》。駆逐艦がその間に小ぢんまりと、しかし猛々《たけだけ》しく浮んでいた。いずれも戦うために造られた鉄の艨艟《もうどう》であった。一体、何が起ろうとしているのか? 幼年時代、城木は軍艦の玩具《おもちゃ》でよく遊んだ。軍艦というと、なぜか童話じみて非現実なものを想像した。本物の軍艦を見ても、心の隅にはどこかそのなごりが揺曳《ようえい》した。しかし、いま見る艨艟たちは、もとより玩具ではなく、不気味になまなましかった。荒涼として連なるエトロフ島の自然がむしろ死んでいた。艦艇たちは明らかに生きて、息づいて、何か為《え》体《たい》の知れぬ目標にむかって身じろぎするのをじっと堪えているように見えた。それにしても、何を狙《ねら》おうというのか、このもの寂しい海を圧して集結した艦艇の群れは?
ただごとではない、とわずか六日まえ乗艦したばかりの城木も直感した。寒気のためばかりでなく、緊張に躯のこわばるのを覚えた。なんにしろ、ただごとではない。
答えは、その日の夜早くに与えられた。士官室に准士官以上集合、艦長より予想もしなかった作戦計画の発表があった。
その夜ふけ、城木達紀はあまり飲めぬ酒をしたたかに飲まされ、よろめきながら自室に戻った。同室の主計中尉の姿はまだ見えぬ。頭の芯《しん》が朦朧《もうろう》と回転し、しかしどこかにしらじらしい覚醒《かくせい》感がくっきりとこびりついていた。机に向い、日記帳をひらいた。
「ハワイヲヤルトハタシカニ痛快デアル。日本モ来ルトコロマデ来タトノ感ガ深イ。ナニヨリ、コノ作戦ガ成功シナケレバ、皇国ハ危ナイノダ。シカシ危険率ノ多大ナルコトヲ考ヘルト、死ヌナドトハ少シモ考ヘヌ自分ダガ、一種漠然タル不安ヲ感ジナイデモナイ。ダガ誰ノ顔ヲ見テモ、死トイフコトニ対シテ痛切ニ感ジテヰル風ニハ見エヌ。今ノウチニ遺書ヲ書イテオケト人ハ笑ツテイフガ、何モ書キタイトハ思ハヌ。マタ書クベキコトモナイ。自分トシテハ、死ヌナドトハ毛頭考ヘハセヌガ、モシ死ナネバナラヌナラバ、従容《ショウヨウ》トシテ慌《アワ》テズニ死ネルヤウナ気ガシテクルノハ妙ナモノダ。タシカニ奇妙ナ、ヘンニ奇妙ナ気分ダ。……」
乱雑な字で同じことを繰返し書いているように思われ、俺は酔っているな、と彼は自分に頷《うなず》いた。日記帳をしまい、服をぬぐと、城木達紀は寝《ね》棚《だな》の上段によろめきながらころがりこんだ。
冬の北太平洋は荒天の連続であった。単冠《ヒトカップ》湾を出て、一日か二日だけ晴れていた。あとは灰色の雲が海につくほど陰気にたれこめ、暖かみのいささかもない海はただならぬ力を秘めて咆哮《ほうこう》した。海全体はやや灰色をおびて黒ずんで見える。しかし、それは至るところで引裂かれ、ぶつかりあい、攪拌《かくはん》されていた。ときどき海は粘土のような密度をおび、ふつふつと煮えたぎる熔鉱《ようこう》炉《ろ》、うねうねと上下する熔岩の流れのように見えることもあった。しかしそれは突然生命をとり戻し、あらあらしく呼吸し、身もだえ、戦慄《せんりつ》し、目まぐるしく相貌《そうぼう》を変え、躍《おど》りながら走り、崩《くず》れ、猛《たけ》りながら流動した。波頭がくっきりと白い鬣《たてがみ》のように進んでくる。それが伸びあがり、頂点に達すると、烈風がその波頭を打ち払い引きちぎる。するとそれは無数のこまかい飛沫《しぶき》となって、うねり狂う海面を吹きとび、次の波頭を白く霞《かす》ませた。
機動部隊はそうした北の海の無拘束な暴威のなかを、空母を中心として進んでいた。蒼《そう》龍《りゅう》、飛龍、赤城、加賀、翔鶴《しょうかく》、瑞鶴《ずいかく》が三隻相対の平行陣形をとって進んだ。前側方にぽつんと小さく、筑摩、利根がいる。後側方には複雑なマストを屹立《きつりつ》させた鉄の浮城そのままに、比叡、霧島の艦影が見える。空母の周辺は駆逐艦隊がとりかこんでいる。艦はいずれもひどくがぶっている。側方にいる千メートル間隔の翔鶴がひどく大きく、すぐ横手に見える。その平たい艦体がぐっとのしあがり、艦首を真向《まっこう》から泡《あわ》立つ波間に突っこみ、起きあがりこぼうしのようにまた躯《み》を起す。飛沫が艦橋にまで飛び散るのが見える。
艦隊に従っている給油船はさらに難航しているようであった。それは煙突からおびただしい黒煙をあげ、息切れしたように、咳《せ》きこんででもいるかのように波に弄《もてあそ》ばれた。それらはまったく水平線から姿を消してしまうかと思うと、次の日には喘《あえ》ぐように瑞鶴の横手を通りぬけ、前方の艦に給油をしていた。
海上に濃霧《ガス》のたれこめる日もあった。ねっとりと陰鬱《いんうつ》にガスは視界をおおい、すぐ前方の艦がすでにぼんやりと見える。他の艦艇の姿はときどき霧の中に散見されるだけで、しかしガスと共に波がふしぎと低くなる。あれだけ縦揺れを繰返していた艦の動揺がほとんどなくなると、なにかこれが夢のような、果してハワイに向って進撃中なのかどうかあやふやなような気分も襲ってくる。
緊迫感が一向にやってこないのが、城木達紀には不可解であった。なるほどハワイ攻撃をはじめて聞かされた夜には、抑えきれぬ感情の動揺があった。出港前夜の酒宴のときにも異常の酔い方をした。もっとも誰も彼もがへべれけになっていた。放歌高吟、文字通り杯盤狼藉《はいばんろうぜき》であった。泥酔してベッドに倒れ、寝たか寝ないかのうちに、「各員配置につけ」の拡声器の指令である。城木の配置は機銃|甲《かん》板《ぱん》の応急治療所であった。とても起上れる状態ではなかったが、「合戦準備配置につけ」ではすべてのハッチを閉ざしてしまう。下手をすると部屋に閉じこめられる怖《おそ》れがある。遮《しゃ》二《に》無二|跳《は》ね起き、ぐるぐる迷いながらようやく応急治療所にとびこみ、城木は辛うじて遅刻を免れた中学生の心境を味わった。
その日は、気分が一日じゅう晴れなかった。胸がむかつき、艦の上下するたびに激しい嘔《はき》気《け》が喉元《のどもと》までこみあげてくる。はじめは二日酔いのためかと思ったが、やがてこれが船酔いなのだと気がついた。煙草が喫《す》えなかった。煙草を口元まで持ってゆくと、ぐっと胸元へこみあげてくる。しかし船に酔ったという顔をする気になれなかった。城木は無理に食事を口へおしこみ、さりげない顔で煙草に火をつけた。口に持ってゆく。やはり嘔気がくる。仕方なくくすぶる煙草を片手にかざし、徒《いたず》らに灰の長くなるままにまかせた。もし彼が友人峻一の家の歴史にくわしかったなら、それが嘗ての楡家の家長基一郎の煙草の喫い方と等しいことをさとったであろう。
午前中の診療、応急治療所の備品の点検、その他にはさして仕事はない。城木はときどき後甲板へ行って、湿っぽい、塩っぽい、顔に吹きつける潮風を吸いこんだ。海は薄墨色に、そのあちこちに白い波頭と飛沫を見せてうねっている。遥か彼方《かなた》に、後続の給油船がうねりに翻弄《ほんろう》されているのが見える。彼は何回も深呼吸をした。嘔気をもよおさせる荒天も艦隊の行動を隠すには、打ってつけといってよい。それにしても、彼がこの北太平洋のど真ん中に、ハワイへ向う機動部隊の艦上にいようとは、家族の者は夢にも考えてはいまい。
「本日ヨリ又日課一時間繰上リテ○四○○起床、総員配置ニツケノ指令アリ、終ツテ診察ハ○五四五ヨリ。昼食十時、夕食三時デハ全ク感ジ出《イ》デズ、然《シカ》シ時計ヲ見ルト食欲起ラヌガ、時計ヲ見ヌト結構空腹ヲ覚エル。二十六日ヅケノ日米会談ノ模様入電アリ。米国ハ急ニ強硬ニ日本ニ支那仏印ヨリノ撤退、米国ノ四原則ノ強行ヲ提出シ、会談ノ前途ハ殆《ホトン》ド絶望的ナリト。本艦隊ノハワイ作戦マデ何トカ交渉ヲ遅延サセテ貰ヒタイト一般士官連中ノ取《トリ》沙汰《ザタ》ナリ。単冠湾出航以来ズツト燈火管制デ、居住区モ通路モ薄暗ク、ソレガ唯一ノ緊張感ヲ与ヘル」
閑《ひま》なときは、士官病室でもう一人の若い軍医と将棋をさす。頭がにぶく重たく、一向に指手を考える気力が湧《わ》かない。相手はしつこく、ぶつぶつ独語しながら長考する。その独語と長考とが、城木には言いようなくいらだたしかった。彼は自分の手番がくるとすぐ駒《こま》を動かし、そのためさして強いとも思えぬ相手に一番も勝てなかった。
昼寝もよくする。いくら寝ても寝たりない感じで、頭も肉体も間断なくけだるい。ぼんやりと家のことを考える。渋谷駅まえの雑沓《ざっとう》の中で別れた藍子の顔を思ってみることもあった。それは彼のけだるい頭脳のなかで、いやに大人びて、たしかに彼に好意をもつ一人の女性の表情として浮んできた。
「更ニ日課一時間繰上リテ○三○○起床トナル。当直ノ士官病室デ寝スゴシテ配置訓練ニ出《デ》損《ソコ》ナツテシマフ。既ニ十八度ラインヲ越エ、日附ハ本来ナラバ今日モ十二月一日ノ筈《ハズ》ダガ、又引返ス都合上、元ノママニシテオクラシ。艦内ハ湿ツポク、身体中ジメジメスル。一三○○ヨリ軍歌ノ時間アリ、ソレマデ昼寝、イクラ寝テモ眠イ。不規則ナ生活ノタメカ。一三○○トハイヘ、以前ノ午後四時ナリ。飛行甲板ニ出ルト、曇天ノ空ニイヤナ色ノ刷毛《ハケ》デハイタヤウナ雲ノ縞《シマ》ガ棚《タナ》引《ビ》イテ、嵐《アラシ》ノ前後ノヤウナ一種気味ノワルイ眺《ナガ》メデアル。本艦ノ前ニ行ク赤城、加賀ノドチラカガ曳船《エイセン》補給ヲ行ツテヰル。補給ヲ終ヘタ給油船ハ一ツ二ツト姿ヲ消シテ、今ハ黒煙ヲアゲル船ハ二隻シカ見当ラナイ。……」
「X日ハ十二月八日ト決定サレタ。ハワイヨリノスパイノ報告ニヨレバ、現在パール・ハーバーニハ戦艦八隻、航空母艦二隻、巡洋艦十隻、潜水艦モ一隻位ヰルトノコト。飛行機屋連中ノ意気|旺《サカ》ン、シカシ瑞鶴ノ艦爆艦攻隊ハ敵航空基地ガ目標トナツタラシイ。整備員タチハ一日中飛行機ト取リクンデヰテ忙シサウダ。夕刻、有熱患者トシテ腹痛ヲ訴ヘル兵ヲ診タトコロ、明瞭ニ Appe デアツタ。 Ope ハ軍医長ト相談ノ結果、内科的ニ治療ヲ続ケルコトトナツタノハ物足リヌ。……」
「風雨強ク波高ク艦ノ動揺又|甚《ハナハダ》シ。二十度以上ローリングシ、廊下ヲ歩クニモ左右ニフラツク。アチコチデ器物ノ転落スル音響、時々猛烈ニ波ガ打チツケテ魚雷ノ当ルガゴトキ振動ヲ感ズ。艦橋ニ上レバ、雨ハシブキノ如ク、風ハ身ヲ倒スガ如ク、波ハ上甲板ヲ洗フホドデアル。……」
「本日ヨリ日中ハ艦内|哨戒《ショウカイ》第二配備、夕刻後第三配備トナル。従ツテ寝室ノ扉ヲ締メラレルト一日中配置ニツケヌタメ、大慌《オホアワ》テデ配置ニツク。相変ラズ曇天、天未ダ我等ニ幸《サイハヒ》シテヰル。朝食ハ各自ノ配置場所デトルタメ、我々モ兵員同様三箇ノ握飯ヲパクツク。診察時間、※[#「やまいだれ+票」、第3水準1-88-55]疽《ヒョウソ》ノ兵来リ、 Nagelbett 辺ニ Eiter ラシキ白イ物ヲ見タノデ、伝達麻酔デ強引ニ爪ヲトツタトコロ、 Eiter ノアトハ殆ドナク、之ハ取リ過ギタト内心赤面シタ。……」
「イヨイヨX―二日トハナリヌ。昨日ト同ジク日中ハ第二配備。空ハ曇ツテヰルガ、前方ニ青空ガ見エ、雲ガ棚引イテ見事ナ朝焼ケ、コイツハ晴レルカナト危ンダガ、朝焼ケハ天気ガ悪イトイフ通リ、スグニ曇ツテ風モ強クナリ、夜ハ雨サヘ降リダシタ。……明日ヨリ第一配備ナノデ、寝室ノ扉ヲ第三配備ノ時アケテ貰ヒ、身廻リ品ヲ応急治療室ヘ運ビ、今夜カラココデ寝ルコトトスル。……」
十二月七日、日本時間午前一時総員起床。すでに緯度は沖繩《おきなわ》辺になっていて、昨夜からまったく寒気を覚えなくなった。
起きがけは曇天であったが、やがて雲間から日光が燦々《さんさん》として洩《も》れはじめた。見るまに雲が開き、目に沁《し》みいるような水色が現われてきた。久方ぶりに仰ぐ雲のない透きとおった空気の層。それもなんだか現実感のしない、光のおびただしい粒子が奔放に踊っている色の濃い青さであった。水平線に近いところは、四方ともぼんやりと曇っている。天頂ばかりが輝かしく明るく光り、それ自体が一つの奇《き》蹟《せき》のようにも見えた。同時に、陰鬱にひろがっていた海面も変化した。陽光をあびてうねる波の背がどぎつく緑色をおび、影の部分が青黒く見える。艦首に砕ける波の白さがひときわ目に沁みるようである。その海面すれすれを黒い海鳥が一羽滑走してゆくのを城木は認めた。島が近いのだ!
すでに給油船は艦隊と別れて水平線の彼方に姿を没した。作戦上のD点である。そしてこのとき、機動部隊は一斉に真南に針路を変え、二十四ノットに増速した。さすがにびりびりと艦の振動が身体に伝わってくる。艦首に立つと、烈風が躯《み》をひき倒すほどの勢いで吹きつけてくる。間近の海面はとぶようにあとへあとへと流れ去る。あたかも、艦艇自身が生命を持って身ぶるいをして突撃してゆくような感であった。各空母は、今は七粁の間隔に広く散開し、艦首に白く波を散らし、船尾にそれよりも高く白波を盛りあがらせてまっしぐらに南下してゆく。とうに敵の哨戒範囲にはいった筈で、戦闘用意、ガスマスク装着の指令がくだった。
まだ予期していた緊迫感のやってこないことに、城木達紀は後ろめたいような戸惑いを覚えた。彼は自問した。恐《こわ》くはないか? いいや、虚勢ではなく、少しも。不安か? 漠《ばく》とした不安はある。しかし、心の大半はむしろ鈍磨しているようで、これといった感慨も湧《わ》いてこない。なんとかなる、という気がしきりとする。人々の表情を見ても、格別感情の動きが現われているとは思えない。
昼食後、なんの用もなく、城木は昼寝をして過した。それでもしきりと眠い。どうしてこんなにも眠いのか? 夕食後、借りてきた雑誌の短篇小説を読んだ。さして感興も湧かなかったが、平生通り読書できたような気がした。艦内拡声機から、南《な》雲《ぐも》長官発の情報が伝達されている。
「真珠湾内には戦艦八隻、重巡約十隻、軽巡及び駆逐艦数隻が碇泊《ていはく》している。航空母艦は全部出動中で在泊していない。今後の情報に特に変化のないかぎり、艦船攻撃は真珠湾に集中する。敵は目下のところ特に警戒を厳重にしているとは認められない」
その夜、彼は、狭苦しい応急治療室のひときわ小さなベッドに横になるまえ、日記帳に感慨をこめて小さな文字を記した。
「今宵月影|皎々《コウコウ》、海面ニ金波銀波燦々トシ、星影鋭シ。敵ニ発見セラレタリトノ確証ナシ。明日ハ大成功ナラントノ予感ス」
高速で走る艦の動揺、間断なく伝わってくる重々しい波しぶきの音を身に感じながら、このときも意外に早く、城木達紀は眠りについた。もっとも彼はこの夜だけ用意した睡眠薬を飲んでいた。
……慌しい、はじめて切迫した時が流れた。その一瞬一瞬はたしかに緻《ち》密《みつ》なようで、そのくせ城木は朦朧《もうろう》としたけだるさがどうしても頭の芯から去らないのを感じた。睡眠薬を飲みすぎたのだ、と彼はそれを薬品のせいにした。ずっとまえから飛行甲板では轟々《ごうごう》と試運転の爆音がとどろいている。そこらじゅう全体が、あらゆるものが、鼓膜を圧倒するエンジンの騒音で埋めつくされたかのようだった。ちょっと甲板を覗《のぞ》いてみると、排気管から青白い炎が薄闇《うすやみ》の中にとびかい、黒々と翼のすれあうほどぎっしりと並んだ飛行機たちは目ざめ蘇《よみがえ》り、精悍《せいかん》に身ぶるいしているように見えた。あきらかに高速で走ってゆく艦とその背に待機している飛行機の群れが主役で、暗い甲板にうごめく人間たちはひどく小さく、かえって無機物のようにも見えた。
空はまだ明けていない。十九日の残月が断雲に隠れ、また姿を現わしている。海は吸いこまれるように黒く拡がり、白波の砕けているところだけそれとわかる。うねりは強く、瑞鶴は上下に揺れ、かつときどき大きく横揺れをした。まだ夜の帳《とばり》のなかにある海上のところどころに、高速で走る他の艦影がくろぐろと見える。水平線に低く層雲がたなびいているのがわかるようになった。頭上の空がかすかに明るみをまし、白みを帯びた不透明な硝子《ガラス》のような色合を呈しだした。そのようやく明けかけてゆく空と暗い海を背景にして、前方と側方を走ってゆく空母のかげは、獲物を前にした獣の悽愴《せいそう》さを示していた。
しばらくまえから甲板の爆音は静まっていた。応急治療室は、艦橋から飛行甲板をへだてた斜め後方の箇所に、甲板のすぐ下に側方に突出した二坪ばかりの鉄の小室である。その狭い部屋に、三名の衛生兵とともに城木達紀は配置についていた。消毒器はさっきからぐらぐらと煮立っている。消毒を終えたメス、鉗《かん》子《し》、縫合糸、注射器はガーゼの上に取りだされている。もとよりここではまともな治療はできない。応急の手当だけを加えて、重傷者は下の治療室へ運ぶのである。何事もなく準備も無駄となって済むか、それともこの小部屋が生臭いねとねとした血におおわれるか、城木はそんなことを奇妙に客観的な気持でぼんやりと思った。そのくせ頭の回転は確かにどこかにぶく、睡眠薬を飲みすぎたのだ、と彼はまたもや二、三度強く頭をふりながら思った。
城木たちが配置についてから、この治療室に二人、訪問者があった。一人はまだ子供々々した顔の艦爆の搭乗員で、申訳なさそうな声で言った。
「アスピリン、一錠頂けますか?」
城木がどうしたのかと尋ねると、相手はかたく切口上で言った。
「何でもないのであります。ただ頭が重いんであります。アスピリンを頂けたらと思いまして」
それから整備員の一人が、目にごみ[#「ごみ」に傍点]がはいったと言ってやってきた。城木は自分で上瞼《うわまぶた》を裏返して、ようやく見つかった小さな黒いものをガーゼで除いた。艦が揺れるため思いのほか時間がかかった。
「発艦は大丈夫か?」
と、城木は訊《き》いた。
「大丈夫でしょう。夜中はもっと揺れていました。本日こそ天気晴朗にして波高しであります」
整備員は片目をしょぼしょぼさせながら、いかにも嬉《うれ》しそうに破顔した。そして急いで出ていった。
あとはやることがなかった。ふたたび甲板では爆音が響きだして、消毒器の湯のたぎる音を打消した。爆音は刻一刻高まる。内臓までをゆすぶるようにそれは響きわたっている。棚の上ではかなり大きな瓶《びん》にはいったプロカイン液が艦の動揺につれてゆれている。何か忘れたものはないか? こんなふうに徒《いたず》らに眠気のとれぬ気持で呆然《ぼうぜん》と突っ立っていてよいものか? 何か大事なことを、たとえば手術を終えて腹腔の中にガーゼを入れ忘れるというような肝腎《かんじん》なことを忘れているのではないか? 突然、焦《あせ》りに似たようなものが、怕《こわ》いような緊張感が、城木の背筋を通りすぎた。彼は狭い室内を見まわした。メスの光、ガーゼの白さ、注射器の見慣れた形態、そして……まだ何か忘れたものはないか?
日本時間午前一時三十分。
「発艦です! 発艦します!」
と、外へ出ていた衛生兵が叫んだ。
城木は治療室から外へとびだした。扉の前に、飛行甲板からやや低く、整備員が待機するポケットがある。そのすぐ前方に、三連装の二十五|粍《ミリ》機関砲の銃座がある。城木はポケットに立って、薄明の中にひろがる飛行甲板を見た。その瞬間、一機の零《ゼロ》式艦戦が、ひときわ激しく大気を切り裂く金属音を立ててすぐ眼前を疾走していった。甲板の両側と艦橋から、皆がちぎれるように帽子を、手をふっている。
その瞬間、思考が跡絶《とだ》えた。湧き起りおし寄せ周囲をどよもす爆音が、小さな思念さえをも吹きとばした。ただひたすら単純に圧倒的に、ぐっとこみあげてくる生々しい、そのくせ堅くこわばった原始的な感情があった。
まだ薄暗い甲板上に合図の青燈がふられる。二番機の輪止めが外され、輪止めを抱いたまま整備員が甲板にひれふす。轟音《ごうおん》を残して予備タンクをつけ翼燈をつけた零戦は、次々と薄闇のなかを発艦してゆく。
零戦が六機、次に二百五十キロ爆弾を抱いた九九式艦爆の黒いかげがあとに続いた。操縦席の前部にいるパイロットは、いずれも怕いような、歯を喰いしばったような顔つきで前方を睨《にら》んでいる。過荷重発艦のうえに艦の動揺が激しいからだ。後部の偵察員は横を向いて手をふっている。挙手の礼をしながら白い歯を見せている者もある。それらが一瞬のうちに眼前を通りすぎる。飛行甲板を出外れると、機はわずか沈むように見える。しかしそれは見る間に、ようやく明けかかった空にあやまたず舞いあがってゆく。
艦は風に立って、上下にがぶりながら、嘗《かつ》てない高速で走っている。烈風が城木の左頬《ひだりほお》に痛いように吹きつけた。しかし海風のためばかりでなく、城木は顔面がこわばるのを覚えた。頬の筋肉全体がぎこちない。二十五粍機関砲の銃座についている兵員が懸命に帽子をふっている。むこうの艦橋のわきに立つ連中もひっきりなしになにか叫んでいる。しかしその声は爆音に消されてまったく聞えない。
九九式艦爆の発進はやまなかった。それはエンジンを全開させて、あとからあとから無尽蔵に、城木の眼前を通過してゆくように思われた。烈風の吹きすさぶ薄明のなかにとどろきわたる轟音、轟音、轟音、――城木達紀は顔面のこわばるのを意識しながら、能《あと》うかぎり大きく弧を画いて帽子をふりつづけた……。
*
徹吉は、怠惰に、鬱々《うつうつ》と、不機嫌に日を送っていた。来年は還暦を迎えるこの日ごろ、彼はめっきり疲労を節々に感ずるようになった。怠惰に――といっても院長業務のほうは以前よりはむしろ気を入れてやってはいたが――日を過すことが、くすぶって陰鬱な愉《たの》しみのような気もした。あの長年にわたる『精神医学史』の仕事を終えたとき、彼は自分でもうろたえるほどすぐさま次の仕事への着手を考えたものであった。事実、彼はそれを念頭におき、松原の本院へ出むいた折にもぼつぼつと古いカルテをいじくり、整理|箪《だん》笥《す》を注文したりした。だが、それはじきに中絶した。全く中絶したとはいえないが、前の仕事のように精力的に手をつけてゆくことはできなかった。彼は言いようのないしこりの残る疲労を覚えた。今にして思えば、十年来|遮《しゃ》二《に》無二、寝る閑《ひま》さえ惜しんで身を虐《しいた》げてきた疲労が体内にずっと蓄積されていたのではあるまいか。まあいい、しばらく休息が必要なのだ、と彼は自分に頷《うなず》いた。ところが一時的の意識した怠惰に身をゆだねると、その怠惰は一層のだるさ、意気|沮《そ》喪《そう》、投げやりな自堕落な気分をひき起した。睡眠をとりすぎたためなおかつ頭の冴《さ》えぬという現象に似ていた。それは隠微な後ろめたい愉悦にも似ていたが、一方ではこの状態に対する反省が、こんなことをしていてどうするという意識が、ちくちくと心を責めた。といって、無理に書物を開くと、それは見るも索寞《さくばく》とした無味乾燥な風景と同様で、徹吉はやがてそれをおしやった。あたかも自分が別人のような気がした。自分はこの歳で、もう老いさらばえて萎縮《いしゅく》してしまったのか。困憊《こんぱい》し、疲弊し、沮喪して、これでもう終りなのか。あの燃え立つような気分は二度とやってはこないのか? そして彼は、つまるところ疑惑に満ちた怠惰に身をまかせたまま、得もいわれず不機嫌になった。
妻の不在の生活、女中たちを統率して身のまわりのこまごまとした世話をやいてくれた下田の婆やの死去、彼の日常はその点でも殺伐で自堕落なものとなった。彼の身だしなみは簡素というより偏狭であった。服、ネクタイをほとんど変えなかった。一つには着慣れたものへの偏《へん》頗《ぱ》な愛着があり、一つには面倒臭かったからである。そのくせ彼は一面に於《おい》ては、ごく几帳面《きちょうめん》で、ある季節に対して一|帳《ちょう》羅《ら》ともいえる背広を自分でハンガーにかけ、ブラシをかけた。寝台の整頓――彼は一年ほど前から書物だらけの居室の畳の上に鉄製のベッドをすえた――に関しては、不慣れな女中を戸惑わせた。寒い季節でも彼は厚い蒲《ふ》団《とん》が苦手である。タオル地の薄掛けを三枚も四枚も、それも似たような薄掛けにきちんと順番がきめられてある。その上に毛布を重ねる。この薄掛けの順番が狂っていると、徹吉は舌打をして女中を叱責《しっせき》した。
自分の性癖がなんだか悪いほうへ、忌わしいほうへ向っているような気がしてならなかった。なによりも暖かい目で事物を見守れぬような気がする。わが子さえも――徹吉は果して自分が彼らを愛しているのかどうかあやふやな気がした。むかし養父が孫の峻一を抱いて「おお重い重い」とおざなりの世辞を言うのにおもしろからぬ気を起したものだが、昨今では彼は、自分に隠れて別居中の母親に会いにゆく子供らに、憎しみに似た感情を覚えることもないではなかった。
彼は女の子、他人が可愛いと讃《ほ》める藍子にはとりわけ期待を抱《いだ》かなかった。肝腎なのは男の子である。それなのに、峻一にしろ周二にしろ学業が人にすぐれるどころか、むしろ劣等に近いということは、甚だ理性的でない憤りを徹吉に与えた。徹吉自身は故郷の小学校では神童と呼ばれた。上京してからも、主として言葉の点から困苦に満ちた一時期はあったものの、常に優等生、秀才で通してきた。彼にはふがいないわが子が理解できなかった。頭のよしあしは別として、彼らは大体努力しようとさえしない。
それでも峻一はどうやら医学部を卒業し、慶応精神科の医局にはいれた。峻一が精神医学の術語を徐々に使いこなせるようになったとき、徹吉は久方ぶりに父親らしい満足の情を味わった。そして思いがけず峻一が応召したとき、同じように父親らしく少なからず失望した。忠君愛国の念はいささかも人に劣ってはいない徹吉ではあったが、なんといっても息子がこれから学問をしようという首途《かどで》に兵役につかねばならぬ事実は、徹吉をほとんど狼狽《ろうばい》させた。それなのに、仄聞《そくぶん》するところによると、龍子はいささかもうろたえたりはしなかったらしい。彼女は秩父のひさの実家から刀を入手してきて、やがては軍医少尉になれるはずの峻一に無言で手渡したという話だ。そういうことを聞くにつけ徹吉は、ずっと会っていない妻を小癪《こしゃく》だと思い、自分とは無関係だと思いつつ、なおやり場のないいまいましさを覚えた。
周二の一学期の成績も、二学期の臨時試験の成績も、その父親にとっては当然の忿懣《ふんまん》の種となった。親子双方にとって不幸なことに、中学では席次が明瞭《めいりょう》な数字の形態をとって告げられる。徹吉はふがいない次男を叱責し、陰気にうなだれるだけで発奮しそうにないその周二の様子に、またまた憤りをかきたてられた。日米交渉のひきつづく圧迫感も、この老いかけた男の頭をひときわ重苦しくさせ、院長会議の判で押したような話題もその不機嫌をつのらせた。このところ精神病院にとって最大の問題は、看護人の不足、薬品の不足、そして配給制となって主食一人二合三勺にすぎぬ食糧の不足であった。もっとも楡病院は主食に関しては偶然に有利な立場にあった。松原の病院は以前から山形から米を取り寄せていたが、配給制になるまえ貨車一台の玄米を買いこんでいたからである。小さな私立病院の院長がしかつめらしく言うのを徹吉は多少後ろめたい気持で聞いた。「私のとこじゃ豚も飼えませんよ。大体残飯が出なくなってきたのだから。楡君のところは大世帯だから何とかなるだろうが」なるほど楡脳病科病院本院は豚に関しても松沢病院につぐ豊かな状態といえたが、それも次第に変窟《へんくつ》になってきた米国《よねくに》の所有物で、彼から一頭の豚を供出させるのは一騒動であると院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》がこぼしていた。
先代の院長に心服しすぎ徹吉を蔑《ないがし》ろにしがちであるとはいえ、楡病院にとって並々ならぬ功労者であるその院代も、最近はめっきり頭の毛が薄くなり、独特な鶴に似た歩行ぶりにも明瞭な老いが感じられていた。院代もこのところずっと不機嫌で、なんとなればさ来年の楡病院五十五周年の祝典を計画するよりも、この冬の石炭や木炭を確保するのがなによりさし迫った彼の任務、それも困難な任務であったからだ。そしてまた、病院の事務を手伝っている彼の一人息子に赤紙がきはしまいかと深刻に神経質に案じてもいた。勝俣秀吉にしても忠君愛国の念に劣るところはなかったのだが、今は老いを感じてきた身にとっては、一人息子を召集されずに戦いに勝てればと考えるのも当然なことと言わねばならなかった。彼は以前はあまり身辺に寄せつけなかった熊五郎と、かなり長いこと時局問題を論じたりもした。熊五郎は太い眉《まゆ》を昂然《こうぜん》とあげて、「だから僕は、無礼なアメリカ討つべしと大正の頃からしょっちゅう言っていたもんです」と言い、院代はなぜとなく狼狽して、「それはそうだがねえ、君。そう簡単に君は言うがねえ……」と口ごもり、思わず背後の壁に掛けられた基一郎の写真に目を走らせた。院代は欧洲や徹吉と相談して、楡病院の自動車を一台陸軍へ献納することにした。どうせ病院用の配給の乏しいガソリンによって残った一台をほそぼそと動かしているのが現状であったからである。この自動車献納については、珍しく即座に徹吉と院代の意見が一致した。……
――ともあれ楡徹吉は、その日の朝、七時近くになって目を覚ました。快い覚醒《かくせい》ではない。昨夜も彼は古い時代のカルテに目を通そうとして、結局それを果さずにベッドにもぐりこんだのであった。あまつさえタオルの薄掛けの順番が狂っていたらしく、寝苦しい、頭の一部が常に目覚めている、後悔がましい一夜を過した。鬱々として目覚めて、まず女中に注意しなければならぬと思った。煖房《だんぼう》とてない部屋はいたく寒く、空気の当る頬や耳たぶが冷たく、このところ骨ばってきたような足の下部もしきりと寒かった。毛布をもう一枚ふやすべきかも知れぬ。それに、やはり湯たんぽを入れるべきだろう。そういえばミュンヘンの冬にも湯たんぽを使用したものだった。今は解剖学の教授をしている洒落《しゃらく》な友人が、昔は吉原に湯たんぽの湯を売りにきたものだと語ったが、湯たんぽというものは確かに便利なものだ。ただしばしば病人が湯たんぽによって火傷《やけど》し、その部分の知覚が麻痺《まひ》して意外にひどい壊疽《えそ》を起してしまうことがある。その点をぬかりないようにして湯たんぽを入れさせよう。
徹吉はしばらくためらってから、ひと息にベッドから起きだした。下の畳にだらしなく丸めて脱ぎ捨ててある、二枚重ねたシャツを手早くかぶる。シャツの冷たさが、一瞬彼を身ぶるいさせたが、といって行《あん》火《か》などによって暖めた肌着を着るのは彼の習慣ではなかった。股《もも》引《ひ》きをはく。着物を着、褞袍《どてら》を羽織って粗雑に帯を巻きつける。帯はむかし龍子が選んでくれた上等のもので、しゃりしゃりとした手《て》触《ざわ》りがし、巻きつけながら徹吉は舌打をした。
それから彼は中腰になって、散らかっている坐り机のわきに置いてあるラジオのスイッチを入れた。やがてかすかなぶーんという音が伝わってくる。なにがなしこのところ、彼は起きぬけにラジオを聞くのが習慣となっていた。雑音が入り、それからいきなりこう聞えてきた。
「……臨時ニュースを申しあげます、臨時ニュースを申しあげます」
徹吉は、おやと思った。まだ足袋《たび》をはいておらず、スイッチをひねってから足袋をはくつもりであったが、一抹《まつ》の疑惑から彼は動こうとした姿勢をとどめた。それから、衝撃を受け、棒立ちになり、息をのんだ。アナウンサーのなにか性急な声が、多少雑音のまじるラジオからこう響いてきたのである。
「大本営陸海軍部発表。十二月八日午前六時。帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
にぶい痺《しび》れと共に頭の芯が見る見る空白になってゆく感じがした。その一瞬、世界じゅうが空白となり、徹吉の周囲で時間が歩みをとどめたかと思われた。この巨大な事態の成行きを、彼の頭脳も全身も受納することができなかった。
徹吉はしばらく自失して、固くこわばって、下にさげた両手の拳《こぶし》を痛いほど握りしめて、畳の上に直立していた。ふと、かすかに、くすんだウィンの街頭の光景が彼の脳裏をよぎった。一見して生活にうち拉《ひし》がれた血の気の薄いかみさんが、路上をゆく石炭を積んだ馬車を虚脱したように目送している光景である。それを象徴とした甚《はなは》だしい貧困とインフレととめどもない社会不安……。
徹吉は下唇を噛《か》みしめ、激しく心に囁《ささや》いた。
「負けてはならぬ、負けては……」
そして、わなわなと躯《み》の震えてくる昂奮《こうふん》に縛られながら、いつぞやミュンヘンの講堂で屈辱と憤《ふん》怒《ぬ》に満ちて肌の白い老学者の後ろ姿を凝視したときと同様、我知らず激しく次のような言葉を唇からおしだした。
「毛唐め! 毛唐め!」
アナウンサーが同じ報道を繰返している。徹吉は慌しく足袋をはこうとし、身体の平衡を失ってよろめき、辛うじてこはぜをはめ終ると、ふたたび室内に直立した。じっとしていることは困難であった。どうするという目的もないままあたふたと室外へ出、足早に薄暗い階段をくだった。 階段の下は、三畳ほどの小部屋になっている。隣が藍子たちの寝る七畳半の部屋である。徹吉がまさに階段を降りきろうとしたとき、その小部屋を周二が通りかかった。制服のズボンをはき、上半身はフランネルのシャツ姿である。彼は寒そうに猫背になって洗面所の方角へ行こうとした。訳もない衝動に駆られて、父親は呼びかけた。
「周二、始まったぞ。アメリカと始まったぞ」
この父親がこんなふうに親しく情感をむきだしにして息子に呼びかけたことはおよそなかった。周二は足をとめ、眠そうな顔を徹吉のほうへふりむけたが、はじめそこにはいぶかしげな逡巡《しゅんじゅん》だけがあった。それから、徐々にそこにぼんやりとした理解が、覚醒が、驚きのいろが浮びあがった。
「本当?」
と、彼は言った。それも父を前にしては一度も示し得なかった、子供らしく自然で率直な声のようにひびいた。常日頃になく、生々《いきいき》としたかげが、息子のいじけたような顔にさっと立ちのぼるのを徹吉は見たような気がした。
周二はいつになく敏捷《びんしょう》に身をひるがえして、徹吉の視界から去った。ラジオのある居間へ走っていったようだった。
徹吉は階段の下に立ちすくんでいた。先ほどからひきつづいた血流の湧きたち、なにがなしの不安、そして、常々息子との間に争いがたく存在していた垣根がふと除かれたように思える蒙昧《もうまい》な幸福めいた感じ、しょせんは否応なく覚めて錯覚であると気がつくつかのまの酩酊《めいてい》感のなかに、彼はなおしばらくじっと立ちつくしていた。
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第三部
第一章
昭和十七年の夏の初め、じっとしていても汗の滲《にじ》むある日の午《ひる》さがり、松原の楡《にれ》脳病科病院本院の裏手、農場の一隅《いちぐう》にある梨園《なしえん》の材木の上に、二人の男が腰を下ろしていた。しょっちゅうお互いに影のように対《つい》をなして一緒にいることの多い楡米国《よねくに》と佐久間熊五郎である。彼らははたから見ても、仲のよい主従というより、なにかうさん臭い、病院という機構からはみでた二人組という感じがした。
よれよれの作業ズボンをはいた熊五郎は短くなった煙草を吸い、指が熱くなったのでもう一方の手に持ちかえ、口をとがらすようにしてなおも諦《あきら》めわるくそれを吸った。熊五郎よりもう少し清潔なズボンをはいた米国は傍《かたわ》らの梨の木の虫の喰《く》った幹をぼんやりと眺《なが》め、地面に落ちて腐りかけた未成熟の梨の実をまた仔《し》細《さい》に眺めやった。四方の木立からは油蝉《あぶらぜみ》の炒《い》りたてるような鳴き声が降ってきて、白く乾《かわ》いた地面をこまかい蟻《あり》が縦列をなして蠢《うごめ》いていた。
むこうの囲いの中では、沢山の雌鳥《めんどり》たちが地面に首をのばして忙しく餌《えさ》をついばんでいる。七面鳥はもういなかったが家鴨《あひる》が二羽だけ交っていて、なにかの拍子に、この家鴨たちと鶏たちの間にかなりの騒擾《そうじょう》が起ることがある。しかしそれはすぐ静まる。その鶏たちの数はここのところ目に見えて減っていた。更に鶏小屋のむこうに豚小屋があって、豚たちは滑稽《こっけい》味《み》とはほど遠く重々しく短く鼻を鳴らしていたが、その頭数もいつしか半数に減じていた。
理由は幾つかあるにせよ、その最大の原因は鶏や豚の世話をする人間がいなくなってしまったからである。米国と熊五郎は以前、三人の使用人を使っていた。それが次々とやめて――そのうちの一人は出征し一人は徴用されていた――今は初老の痩《や》せこけた頼りなげな男が働いているばかりである。それならば肝腎《かんじん》の統帥《とうすい》部の二人が働けばよさそうなものだが、彼らの怠惰な人格と長年の習癖により、このような時代となっても、なかなかおいそれとは腰があがらないもののようであった。
今も、さきほどから二人はずいぶん長いこと腰をおろしているくせに、なんら農園の将来について有意義な会話を交《か》わした模様もなかった。米国は、そこが日かげだったにもかかわらず、古びた麦藁帽《むぎわらぼう》を脱ごうとしなかった。胸部疾患に関しては前歴があることだし、なにより頭部顔面への日光の直射は避けるべきだというばかに鞏固《きょうこ》な信念を抱いていたからである。
「佐久間君」
と、ふいに米国は言った。熊五郎が米国につき従っている理由は、この奇妙におずおずとした、自分を同輩、あるいはそれ以上にあつかう響きをもつ呼びつけのせいかも知れなかった。長年、彼は熊さん熊さんと呼びつけられ、内心おもしろからず思っていたからである。いっそのこと、いつぞやの五十周年記念の酒席で酔ったまぎれに放言したごとく、「楡熊五郎君」とでも呼ばれればなお嬉《うれ》しかったにちがいないが。
「真太君は、あれはもうずっと兵隊に行かなくて済むのかね?」
「真太?」と、ちょっと熊五郎は戸惑ったが、すぐに軽蔑《けいべつ》したように鼻先でわらった。「ああ、院代の息子ですかい。そりゃあ癒《なお》ればどうか知りませんが、胸膜炎てのはどだい肺病のことでしょう? さあ、癒るものかどうかね。もっともそのほうが院代はお喜びでしょうがね」
「肋膜《ろくまく》だよ、肋膜炎」
「でも、つまりは肺病でしょうが」
「まあ、そういったようなものだが……」
熊五郎が地声の胴《どう》間《ま》声《ごえ》で、肺病という語を発するたびに、米国の瞼《まぶた》はおびえたように神経質にまたたいた。米国は内心、いや表面にも現わして、先日応召して身体検査を受けた結果、即日帰郷となった院代の一人息子、勝《かつ》俣《また》真太に対して羨望《せんぼう》の念を抑えることができなかった。なんとなれば彼は病的に召集令状がくることを怖《おそ》れていたからである。彼は病院とか役所とか、なんであれその要務員は召集から免れるという噂《うわさ》を聞いた。それだけでも一見無為の徒ともいえる彼米国は不利であるうえに、その名前自体がいっそう不吉にも損な立場であるにちがいないと、近ごろではかなり本気になって思い患《わずら》っていた。事実、これまでの生涯に於《おい》て、彼は他人からヨネクニさんと呼ばれるよりベイコクさんと呼ばれるほうが多かったのだ。
米国は突然、耳をすまして何かの気配を窺《うかが》うような様子をした。なにがなしの疑惑と猜《さい》忌《き》心《しん》を露《あらわ》にして、ひとしきりじっと鶏小屋や豚小屋を眺《なが》めまわしていたが、やがて独語《ひとりごと》のように口をひらいた。
「佐久間君、君はこういう経験があるかね? 急にこう、なんて言ったらいいか、幕みたいなものが、透明な幕みたいなものがたれ下ってきて、あちら側の世界と自分とが遮断《しゃだん》されてしまうんだ。何もかもちゃんと見えている。音も聞える。そのくせそれらは以前のものとは明らかに異なっている……」
「さあ知らんですなあ」
熊五郎は少しも相手の言葉に関心を示さず、無骨に無愛想にそう言った。米国はときどき他人が聞けばいぶかしく思うような発言をすることがある。しかしその聞き役である熊五郎にはまさしく馬の耳に念仏で、露ほども反応を示さず、それが反面、この二人の不似合な組合せを長いこと成立させている要因なのかも知れなかった。
「ぼくにはねえ」と、米国はつづけた。「鶏の声も聞えてくる。豚の声も聞えてくる。ところが彼らは非生物の感じなんだ。彼らは動いて音を立てている。そのくせちっとも生きているようには感じられない。……どういったらいいか、これは非常にこわいような、つまりこわいように興味のある事柄なんだ。一体世界というものがあって……」
それから彼は、話しだしたときと同様、だしぬけに沈黙した。
鶏が羽ばたく音がし、豚はきれぎれによく響く鼻息をし、油蝉は執拗《しつよう》に飽くことなく鳴きつづけた。
「豚は豚でさあ」と熊五郎は言い、汚れた指先で円満に起状した鼻の頭をかいた。「それにしても、うちの豚は固いね。殺してすぐ食べるのがいけないんでしょうが……」
下手の方角から、ボールを打つにぶい音がかすかに伝わってきた。おそらく職員が患者を相手にテニスをやっているのであろう。しかし最近では新しいボールが手に入らなくなり、空気の抜けたようなぺこぺこの弾力のないボールしか使用することができない。そのせいもあって熊五郎はこのところテニスに熱意を示さないのであった。
「ボールを盗む患者さんがいてね」と、彼は金《きん》鵄《し》の箱を手で弄《もてあそ》びながら言った。金鵄は昔のゴールデン・バットである。金色の鳶《とび》が弓の先にとまっている意匠だったが、最近のものにはその弓の柄がなくなっていた。「そいつはけっこう何でもわかるしテニスもうまいんですが、いつの間にかボールを五箇も六箇も隠していましたぜ。そのボールを取りあげたら泣きだす始末でね」
「健康な者は……それはなんといったって……」
と、米国は不明瞭《ふめいりょう》にぽつりと言いかけて、またふいに言葉を跡切《とぎ》らせた。
そういう米国自身はなかなか引緊《ひきしま》った身体つきをしており、不本意にもほどよく日焼けをし、少なくとも楡家の家族の中では見栄《みば》えのする外見を有しているといってよかったのだが、そのややくぼんだ眼《がん》窩《か》の奥の金壺眼《かなつぼまなこ》には、不安げな、ほとんど猜《さい》疑《ぎ》に近いかげが淀《よど》んでいた。その口がためらった末まさに開かれようとしたとき、熊五郎が胴間声で言った。
「あのテニスコートの向うの病棟《びょうとう》にちょっと見られる女がいるが、言うことがおもしろいやね。おら脳病院じゃ上級生だよ。もう帰してくれよ。上級生と下級生と一緒にされてたまるもんじゃない。そうがなるんですよ、その女は。ところでぼくも楡病院の上級生だが、近頃の連中は、看護婦でも何でも素質がわるくなってね、米国さん。そう言っちゃあなんだが、楡病院が何たるかを知らない。上級生と下級生の区別もわからない。あの気違いの女はなかなかいいことを言いますよ」
「人間というものは……」と、米国は呟《つぶや》いて、また言葉を跡切らせた。「人間はみんな他人をつけ狙《ねら》うよ。精神病者というものはよく何者かにつけ狙われるそうだね。その点ぼくは以前、彼らに親しみを抱いていたものだが、実際にはそれほどの差はないな。ただある境界の内か外かにいる区別にすぎないんだ。ぼくはどちらも嫌《きら》いだね。そこへいくと、あのアスパラガスがにょっきりと、そら君、黒土をもたげて、……あれにはねえ、共感を抱《いだ》かせるものが、動物とか植物とかの差を越えた共通のいきいきとした感情というか、つまりアスパラガスにはある高貴さが、自分のなまめかしい形態に対する羞恥《しゅうち》というものを知らず知らずわきまえているといったような……」
「アスパラガスはやめてほしいと院代めが言いましたよ」と、熊五郎はもっそりと相手の言葉をさえぎった。「麦畠《むぎばたけ》にしたらと言うんです」
「麦……」と、米国は呟いた。「病院の塀《へい》を越せば麦畠だらけじゃないか。そりゃぼくは麦飯を好いている。あれは人間と親和性のある植物だからね。しかし自分で麦を作る気はしないよ」
「院代は将来の自給体制を敷こうというんですよ」
「だが、うちの病院には米は確保してあるはずだ。たしか配給制になるまえに貨車一杯買いこんだそうじゃないか」
「それはここしばらく大丈夫でしょうがね。百年ですぜ、戦争は」
「百年……」と、米国はさも軽蔑したように呟いた。だが、争いがたい狼狽《ろうばい》が彼の内心を通りすぎたことは明瞭であった。
「佐久間君、生《なま》のアスパラガスなんて今どきレストランでも食べられるものじゃないよ。ぼくはこういう時代だからこそアスパラガスを作る。アスパラガスは北海道と長野にしかできないといわれていたが、ぼくはちゃんと成功した。それにアスパラガスというものには何かがひそんでいるんだねえ。たとえば透明な幕がたれてきて、今まで活溌《かっぱつ》に動いていた鶏が急にぎこちなく、曖昧《あいまい》な影のように見えてきても……」
「だが、アスパラガスってうまいものじゃないですな」
と、熊五郎はにべもなく言いきった。
この初夏、米国たちはかなりの量のアスパラガスを収穫した。しかしそれは繊維ばかりの、ごちごちの、歯ごたえのありすぎるもので、はじめ賄《まかな》いを覗《のぞ》いてみて「脳病院でアスパラガスをつけるところはまず家《うち》くらいのものだろうねえ、君」と悦に入った院代勝俣秀吉も、すぐにその笑顔をとり消さねばならなかった。「野草でない野菜をつけて貰《もら》いたい」と一患者が訴え出たりしたからである。
「正直いって、食べられたもんじゃなかったですぜ」と、熊五郎はいつものことながら歯に衣《きぬ》せずに言った。
「あれは少し大きくしすぎたんだ。それに、アスパラガスというものは先っぽだけを食べるものなのだよ」
「そりゃ不経済ですな」
「不経済という言葉を悪くとっちゃいけないよ。生命というもの自体が……この生命という言葉は、透明な幕がたれてきても自己を失わぬそういったものをぼくは指すのだが、そういうものはすべて見様によってはひどく不経済なもので……」
「米国さんがアスパラガスが好きなら、ぼくもいくらでも手助けしますよ。アスパラガスって奴はどうも戦時むきじゃあないが」
「間違っては困るよ」と、米国はなにか歯がゆそうに、かつ弁解するように言った。「ぼくはアスパラガスの味が好きなのではない。ぼくは欧洲《おうしゅう》兄さんのように美食をしたいとは思わない。人間の舌なんて相対的なものだからね。ぼくはある理由から粗食に堪《た》える修行をしたこともある。本当のことを言って、ぼくは麦飯とふりかけ[#「ふりかけ」に傍点]があれば満足できるのだ。そのことはぼくにかすかな自信というか、ある信念を植えつけてくれた」
「それは莫迦《ばか》げたことでさあ」と、熊五郎はけんもほろろに、粗雑な口調で言った。「なにもあんたが麦飯を食うことはない。欧洲さんの作りなさる御馳《ごち》走《そう》を食べていなさればいいんだ」
「ぼくが普通の身体《からだ》、普通の神経をしていればだよ」と、米国は多少|怨《うら》みがましそうに、指先で片手の甲を撫《な》でた。「なによりぼくが考えなくちゃならなかったことは、ぼくの寿命が限られていることだ。ぼくはまず自分の虚弱さがどの程度のものかを確かめ……」
「まあまあ米国さん」
と、熊五郎は一向に動ぜず、明日の天候でも論ずるかのように、あるいはむずかる子供をいい加減になだめるかのように、どうでもよい冷静さをもって言った。
「この熊五郎が責任をもって受けあいますが、米国さんは大丈夫健康なものですよ」
「健康?」
米国は思いもかけぬ言葉を聞いたとでもいうふうに、ぼんやりと単調にその言葉を反復した。彼の滑稽さと深刻さとがわかちがたく入りまじっている顔面には、このときなおさら一種奇妙な、押し隠した泣き笑いのような、どんな心理学者でも戸惑いそうな複雑な表情が刻まれた。それは諦念《ていねん》にちかい自嘲《じちょう》のいろとも見えたし、或いは手ひどい侮辱を受けた憤りとも見てとれた。
熊五郎は相手の感情の起伏などにはもとより無縁のようであった。
「そういえば米国さんはちっちゃいときしょっちゅう病気ばかりしていた。スペイン風邪《かぜ》なんぞをね。いや、あなたの肺病だって大丈夫でさあ。そういう人が長生きをするんですよ。ぼくの親父なんぞは病気というものを知らなかったが、四十九歳でころりとゆきましたよ。これはふしぎとそういうもんでね」
米国は黙っていた。無言のまま、地面に落ちて腐れかけた梨に目をやった。しかしその肩を落した姿勢には、いかにも、みんなが打合せたように意地わるくそう言うのだ、自分はどうしてもそう見られるのだ、誰もわかってはくれないのだ、と気落ちして半ば不貞《ふて》腐《くさ》れたような気配が現われていた。
油蝉は暑さをいやますように鳴きつづけ、ときどき風向きのせいか間隔をおいて、鶏小屋と豚小屋の臭気が強く漂ってきた。
しばらく沈黙をつづけたのち、米国は決心したように、更《あらた》まった口調でものものしげに言った。
「佐久間君、ちょっとここを見てくれ給え」
彼はYシャツをめくりあげた。その下のランニングシャツもめくりあげた。そして顔や腕に比べるといささか生白い背を熊五郎の方へ向けた。
「なんですね、この背中ですかい?」
「この肩胛骨《けんこうこつ》のところ。その下の筋肉がへこんでいるだろう?」
「どこいらで?」
「ここのところだ」と、米国は真剣そのものに、その声に苦痛の響きさえこめて、不自然に曲げた片腕の指先でその箇所を示した。「この辺の筋肉が、ほかのところと比べておちているだろう?」
「べつに変りはありませんぜ」
と、なんの同情もなく、というよりろくすっぽ注意も払わずに熊五郎は言ってのけた。
「そんなことはあるまい。ここの辺だよ?」
「いやあ、どう見てもどうってことはないねえ。だが、そこがどうかしたのですかい?」
米国はそれには説明を与えず、窮屈げな姿勢を変え、大儀そうにのろのろと、あやふやな手つきで実にのろのろとシャツを直した。
「なにかあるんですか、そこに?」
と、熊五郎がぶっきら棒に、面倒臭そうにもう一度問うた。
「いや、いいんだよ、君」
米国は遠くを見るような目つきをした。それから思い直したように言った。
「この戦争は本当のところどのくらい続くだろうなあ」
「百年ですよ」と、自明のことを訊《き》くものかなという顔つきで、熊五郎は無造作さを愉《たの》しむように答えた。「まあ、終りはないね」
「だって君、珊《さん》瑚《ご》海《かい》でもミッドウエイでもあれだけやっつけたじゃないか。真珠湾と合わせると、敵にはもういくらも戦艦も航空母艦も残っていなそうじゃないか」
「といってアメリカ本土は無傷だからね。これはワシントンを占領するまでは済まんですよ」
「まさか、それほどまで敵は戦争を継続しはすまい」
「米国さん」と、熊五郎はおしかぶせるように、相手をおびやかすように言った。「失礼だが、あんたはそういうことには無知だ。この戦争はそんな生易《なまやさ》しいものじゃありませんぞ。ぼくの言うことは昔から外《はず》れたことがない。ぼくは昔から予言者だった。米国さん、あんたが子供のころ、ぼくは八八艦隊のことを教えてあげたでしょうが。あのときは一つの機会だった。あそこでアメリカを叩《たた》きつぶしておくべきだった。あのときならまず一年で済んだね。そして日本は日本、東洋をおさめて、アメリカはアメリカで向うに引っこんで平和が成立つはずだった。今となってはもう遅い。生存か滅亡か、喰うか喰われるかですぞ」
米国はおろおろと視線をさ迷わせ、気弱そうに呟いた。
「それはわかっているが……」
熊五郎は、そうした米国の様子を上から見下ろすように心地よさげに眺め、ぶ厚い唇《くちびる》をなめて話をつづけた。彼の声《こわ》音《ね》には、こういうとき往時のなごりの演説口調が交ってくるのだった。
「ぼくは基一郎先生に、つまりあんたのお父さんに世話になったが、まあ正直言って、居てやったようなものでね。本当に将来を見る目がぼくにはあるのですよ。政治家になるつもりだったが、政治家連中がへっぽこばかりでねえ。こう言っちゃなんだが、あんたのお父さんも政治家とは言えんねえ。三流だったねえ。だからぼくは野に遺賢として隠れることにしたんです。まあこういうことはあまり人には言えんが、ぼくの言うことにはまず間違いはないですぞ」
米国がときどき奇妙な訴えをなすと同様、熊五郎も屡々《しばしば》こういう弁舌をふるうのだったが、米国はほかの者と違っておとなしく、ほとんど頷《うなず》くようにして熊五郎の饒舌《じょうぜつ》に聞き入るのが常であった。お互いに許容しあっているというか、あるいは不感症になっているというか、とにかくこの二人は自分の言いたいことをそれぞれ分に応じて言いあえる間柄といっていいのだった。
「だが、昔はまだよかったね」と、熊五郎は調子に乗って声を高めた。「基一郎先生もへっぽこ政治家だったが、今の時代にもってくれば人物ですよ。むかしは書生一人々々にしろみんな気概があった。一国の運命を論じたものだ。欧洲さんなんぞも。あれはなかなかの人物と思っていたが、駄目になったね。乙にすまして、熊五郎君、なんて言うようになっちゃお終《しま》いだね。結婚をして駄目になりましたよ、欧洲さんは。そこにゆくとこの熊五郎は嬶《かかあ》をもっても、そんなものは屁《へ》とも思っていないからね。ぼくは大体社会主義者だった。しかし日本の運命というものを考えて、まず国家を立てるという見地をとった。ぼくには大局を見る目がありますからな。もし戦争が終れば、ぼくは今度こそ社会主義者として活躍しますぞ。米国さん、あんたは少し毛色が変っているが、楡病院の連中なんてくだらんもんですよ。それもどんどん小物ばかりになってきてね。大体、院長は院長、院代は院代、看護人は看護人の範囲を出ないんだからね。その中でうごめいている蛆虫《うじむし》ですよ。病院のことしか知らないんだからね。そういう連中とつきあうには骨が折れますよ。ぼくは仮面をかぶっていなくちゃならないね、せいぜい防空班長佐久間熊五郎という仮面をね。院代の奴が職員をはじめ患者全部がはいれる防空壕を作れなんて言いやがって、ああいうのは目がないですよ。この春のちゃちな空襲ですっかりおどろいちゃってるが、ぼくはちゃんと被害を視察に行ったのですぞ。爆弾一つでちっぽけな民家一軒つぶれただけで、まず問題じゃない。それに大規模な空襲を受けるようになったら日本は負けですよ。そもそも患者を防空壕へ入れるってのは無理だ、どこへ逃げてくかわかったものじゃない」
米国は熊五郎の好き勝手な長広舌《ちょうこうぜつ》をあまり聞いていないように見えた。彼は彼で自分の関心事にあらかた心を奪われていたからである。
「君はもう歳だから兵隊にとられることはなかろうが……」と、彼は放心したように呟いた。
「ぼくがですか。不肖、熊五郎はまだ四十七歳ですぞ。百年戦争ですぞ。いずれはお役に立つことがあろうが、ぼくは大体そう言っちゃなんだが、司令官の器なんですよ。しがない一兵卒となってもぼくの能力を発揮することはできない。だが、アメリカ相手ならひとつやってやろうとも思いますよ。支那兵相手では……ぼくは東洋人を殺したくない気もするんでね。このあいだ支那から山口が、ほら看護人でいたでしょうが、あの山口が内地に帰還してやってきましたが、支那じゃあ日本軍はずいぶんひどいこともやってるらしいです。駐屯《ちゅうとん》していると住民がお世辞を言いにやってきて、前にいたのは日本兵《リイペンピン》――これはずいぶん悪意をこめた言葉らしいですよ――だったが、今度のシーサンたちは皇軍だと言うそうです。とにかく支那兵を相手に戦うのは相手にとって不足だし、なにかいやな感じがしますね。そこへゆくとアメリカ相手は規模が大きい。大東亜共栄圏なんてなかなか雄大だからね。まあぼくが出馬してもふさわしい戦場であるですぞ。ぼくが司令官なら、百年をまず三十年に縮めてみせるね」
「君は……」と、米国はちょっと吃《ども》りながらかぼそい声で言った。「君は勇敢だし、それだけの力を持っている。だがもしぼくが……ぼくは丙種だが、近ごろは丙種もどんどん兵隊にとられている。しかしぼくは病人なんだ。いま説明したくないが、ぼくは自分の寿命について明確な判定を持っている。そのくらいの病気を……不治の病気をぼくは持っているのだ。だが軍医なんぞにはそれがわかろう筈はない。東大のれっきとした専門家でさえ首をかしげたんだから。……いや、ぼくには無理だ。ぼくはどんな時代にでも自分に責任を持ちたいし、正直でありたいと思う。もしぼくが兵隊にとられることを怖れていると言ったら、君はぼくを……その臆病とか……非国民とか思うかい?」
「いいですか、米国さん」と、熊五郎はぎろりと目を剥《む》いて言った。「この熊五郎は末梢《まっしょう》事《じ》に捕われるような、そんな尻《けつ》の穴の小さい連中とは違いますぜ。言うなれば大政治家の器ですぞ。有体《ありてい》にいって、あんたは軍隊に行っても役に立たない。アスパラガスを作っていたほうがずっといい。まあ戦争のことはこの熊五郎にまかしておきなさい」
「そうは言っても、峻一《しゅんいち》君なんかもさっととられてしまったのだからなあ」
「峻一さんですか。仏印に行ってるとかですねえ。彼はあんたよりも大丈夫です。この熊五郎が幼児教育をしましたからな。あんがい抜群の手柄を立てるかも知れないですぞ」
「仏印……そうだ、仏印か」と、米国は意気|沮《そ》喪《そう》したようにしょんぼりと独語した。「ほんとに戦争はそんなに長く続くかな」
「百年です。冗談ではないですぞ」
「佐久間君、君はぼくと違ってたくましい男だが、人間というものはねえ、寿命がわかってみると……あと何年も生きられない、それも普通の症状ではなく、……まあそんなことは話したくないが、天寿というか、その残された何年かを……それを非国民というふうに思われるとぼくは非常に辛いんだ」
「わかってますよ、わかってますよ」
と、熊五郎は相手の言葉をろくすっぽ聞きもせずに手をふった。
「さて、豚に餌《えさ》をやらねばならぬか。大政治家で司令官の器は、平生はひっそりと、時期がくるまでこうやっているんでさあ」
「君、何も君がやらなくてもいいよ」と、米国は慌《あわ》てたふうに生真面目《きまじめ》な顔つきで制した。「志村君がやってくれるよ」
「そうですな。人それぞれに分がありますからな」
熊五郎はふたたびゆっくりと、かなりうす汚《ぎた》ないとはいえ王侯のような風格を見せて、材木の上に腰を下ろした。
「今年はイチジクの出来がわるいですなあ」
「ああ、あれはカミキリムシのせいだよ」と米国はどこかほっとしたように言った。「イチジクにつくのはキボシカミキリだ。その幼虫のせいなんだ」
「ゴマダラカミキリじゃないんですか」
「いや君」と、米国は熱心に言った。さきほどまでのみじめな弱々しいかげがその顔から失われ、急に生気が蘇《よみがえ》ってきたようであった。「キボシカミキリというのは、なにかくすんだような風格があるね。ゴマダラはありふれていて俗っぽくて安っぽいんだ。たとえばぼくが例の透明な幕に遮断《しゃだん》されたような気分に陥るときがある。ふと見るとそこにキボシカミキリがいる。それは長い触角をゆらめかして、イチジクの葉の上に肢《あし》を踏んばっている。それはふしぎな存在なんだね。そこだけ光をあびているようで、影がくっきり浮んで……鮮やかないきいきとした影があるってことは、そいつは確かに実在している証拠だろうね。ふと気がつくと、さっきまでぼくを取囲んでいた目に見えぬ幕が溶けだしてくる。キボシカミキリを中心として、しずかに、それとわからないほど、しかし着実に溶けだしてゆくんだ。ぼくは息をつきだす。ほっとするほどぼくの喉《のど》をなめらかに空気が流通しはじめるのだ。それはぼくの肺に達し、君、空気が肺に満遍なく行きわたってゆくことがぼくにははっきりと理解できるのだ……」
米国はひとり自分の殻の中に閉じこもって語りつづけ、かたわらに坐っている熊五郎は聞いているのかいないのか無感動に頤《あご》を撫《な》で、むこうのほうからは豚小屋と鶏小屋の臭気が強く流れてき、あたりの木立からはなお油蝉《あぶらぜみ》の合唱が絶えることなく降りしきってきた。
*
雑草はうらがれかかってこまかい実をつけていた。踏まれても踏まれても一層の旺盛《おうせい》な生命力を有し、この広大な平原を一面におおい尽していた。ところどころに土のむきだしになった箇所があって、馬の蹄《ひづめ》と車輛《しゃりょう》の轍《わだち》の跡が刻みつけられていた。大地はゆるく起伏し、雑草の中に伏せていると、地平線はわからなかった。しかし、すでに夕靄《ゆうもや》が低く下りてきて、見渡すかぎりの野がやがてかげりを帯びだしてゆくことは明らかであった。
周二はその雑草のなかにさっきからじっと伏せていた。片手に銃を握り、しかしここ当分教官の号令はありそうになく――なぜなら教官は別のクラス、別の分隊の方へ行ってしまったからだ――そうやって楽な姿勢で伏せていると、甘酸っぱい自足に似たものが静かに身体を満たしてゆくのが感じられた。
なるほど一昨日からの習《なら》志野《しの》の教練は、体力のない周二にとって一面では苦難の連続であった。わずか半日の行軍にしろ、銃の重さを――中学に入学当時あれほど持ってみたいと思っていた三八式歩兵銃の重量をつくづくとさとらせてくれた。匍《ほ》匐《ふく》前進はさらに辛《つら》かった。とはいえ、それは単に中学三年生の野外教練にすぎず、三日間の学課から解放された時間、強制された一種の遊びの期間ともいえた。なかんずく、このたびは特殊な愉悦が与えられていた。ただの五発ではあったけれど、はじめて空砲の射撃を許されたからである。
空砲とはいえ、そのとき、周二は肩にくる思いがけぬ衝撃を、とりわけむさぼるように受けとめた。快い爆発音を耳に聞いた。さらに鼻孔をくすぐる硝煙の匂《にお》いを吸いこんだ。しかし一発射《う》ってすぐ前進しなければならなかった。彼は槓桿《こうかん》をあやつって遊底をひらいた。と、一瞬の間に空《から》の薬莢《やっきょう》が勢いよくとびだし、かたわらの叢《くさむら》へと落下した。慌てて草をかきわけたが、彼の指はむなしく根元の土をまさぐるにすぎなかった。周囲の仲間たちはとうに前方を走ってゆく。周二も反射的にそのあとを追おうとし、ためらい、次の瞬間絶望しながら走りだした。もう遅い、と彼は次に身体を伏せたとき思った。引返してもさっきの叢を見つけることは不可能だ。仕方がない。こういうことになってしまったのだ。彼はあやつり人形のように駈《か》け、伏せ、次の空砲を発射し、空の薬莢を今度は大切に弾薬《だんやく》盒《ごう》に収めながら、不安と危惧《きぐ》がみるみる拡大して一つの像を形造るのを感じた。それは、夕闇《ゆうやみ》の、ほとんど夜といっていい涯《はて》しのない原の中を、彼一人が徒《いたず》らに叢をわけてむなしく薬莢を捜し歩かせられている光景である。彼はそのあとにくる罰則のことをちらと考え、機械的な動作をつづけながら、自分が何をしているのかもろくにわからなくなったが、しかしそれは彼の思い過しにすぎなかった。夕刻宿舎に戻ってから、空の薬莢はべつに数を調べもせずに集められたのである。
――あのときは運がよかった。
いま、雑草の匂いを嗅《か》ぎながら、片手で弾薬盒をもう少し横にずらしながら、周二はまたしてもあのときの恐怖の情を思い返してみた。こうしてもう十数分も草の中に伏せていられることまでが稀有《けう》な幸運とも思われた。あちこちでコオロギが翅《はね》をすりあわす音がした。のみならず周二の目の前に一匹の大きなコオロギが這《は》いだしてきて、ゆったりと後肢《あとあし》をもてあますように移動し、やがて短く跳《は》ねて叢に消えた。そのつかのまの虫の動作を周二はじっと目で追い、我知らず地面に頤《あご》をつけてみた。それから片頬《かたほお》を触れた。ひややかな感触、どことなく拒むような感触、それでいてそのざらざらした、それでいてしっとりと吸いこむような感触は快かった。なにか遠くへ誘われるような感じもした。授業も教練も、つまり学校に附随するものが何もなく、その一切から遁《のが》れて――なぜならそれらは単に周二に屈辱の感をしか与えなかったから――ただこうやってしばらくでもじっとしていられたら。何も求めず、求めようともせず、すべてから解放されていつまでもぼんやりと身を横たえていられたら。そういう退嬰《たいえい》的な逃避の念は、周二の中学校生活が進むにつれて抗《あらが》いがたく日と共に成長してもいたのである。
といって、周二は自分ながら唾棄《だき》すべきじめじめと卑屈な泥沼から抜けだして、もっと明るく快活に生気をもって、つまり仲間からも一人前の中学生と認められる立場に這いあがろうとこれまでも屡々《しばしば》努めたことはある。しかしそれは、たとえば以前だしぬけにフルーツ・パーラーへ行こうと提案したときのように、弱者の追いつめられた短絡的な反応、一時的にかっとなった余裕のない反射にすぎず、あとに一層の自己|嫌《けん》悪《お》と絶望を残すのを常とした。
たとえば、やがてその一周年がくる忘れがたい十二月八日の日、周二は他の生徒にもまして、地に足のつかぬような、身ぶるいともつかない一種特有のふしぎな数刻を体験したのであった。登校した生徒たちは校庭に群がって、妙にひっそりと真剣な囁《ささや》き声を交わしていた。教師たちは教員室に閉じこもって一人も姿を見せない。昼まえ、宣戦の大詔が発表され、同時に、生徒たちを正直のところ失望させたことに、午後から平常通り授業が行われるむね告げられた。一部の生徒はこの未《み》曽有《ぞう》の戦争により、さし迫っていた学期末試験が中止されるのではないかと早合点して喜んでいたのであるが。
しかし刻々と戦況の発表も告げられた。香《ホン》港《コン》の攻撃、マレー半島の奇襲上陸、そして午後一時。「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり」の発表。歴史は新しくなったのだ、と一教師が昂奮《こうふん》した声で言い、周二はその言葉を強く心に諾《うべな》った。つめたく晴れわたった空にも、葉を落しつくした校庭の桜のたたずまいにも、なにかごく微妙な変化があり、すべてが目新しくも荘厳に感じられはしなかったか。それは一つのきっかけ、一つの啓示ではなかったか。今までのみじめたらしい意識を捨て去り、彼が過去と絶縁して新しく生きはじめるための恩寵《おんちょう》の日なのではあるまいか。
午後の二時間目は武道の時間で、二クラス対抗の試合形式の試験が行われた。以前から、これも周二のはかない意欲の現われの一つであったが、彼は武道は柔道をとっていた。もちろんいささかも強くなく、逆にますます劣等意識を高めるだけの作用しかもたらさなかったが、この日の周二はいつもとは違っていた。ふだんの試合の場合、彼は勝とうとするよりも何とか見っともない負け方をしまいと腰を落して、相手の出方を窺《うかが》うのが常である。しかしこの日は、彼のどことなくひねこびた血色のわるい顔は、極度の気のたかぶりによって歪《ゆが》んだようにこわばっていた。これは単なる柔道の試験ではない、と立上りながら彼は心に誓った。相手をアメリカ人と思え。そいつは敵なのだ。これは闘いであり、まがうことのない戦争なのだ。投げるとか倒すとかが問題ではない。ぶちのめし、叩《たた》きつけ、息の根をとめてしまえ! 周二は目をすえて正坐し、相手と、彼と同じくらいの背《せ》丈《たけ》のアメリカ人――残念ながらやはりそうは見えなかったが――と礼を交わし、立上るや否や突進してそいつの襟首《えりくび》を力まかせに掴《つか》んだ。それから闇雲《やみくも》の闘志をみなぎらしてぐいぐいと押し、右に引っぱり、左にひねくり、とっさに足払いを――というより相手の足を遮《しゃ》二《に》無二蹴とばし、かつて想像したこともないおそろしい力で大外刈りをかけようとして腰が崩《くず》れかけたが辛うじて立直り、またもや技《わざ》もなにもなく力まかせに相手をゆすぶった。敵も黙ってはいなかった。さっと跳《は》ね腰のようなものを掛けてきたが、今は神秘的な力にあやつられた周二は、ぐんと腰で突きとばすようにしてそれを避けた。そして再び相手を粉《こな》微《み》塵《じん》にするほどの勢いで襲いかかろうとしたが、このとき、だしぬけに理解できないことが起った。先ほど何か衝撃を受けたような気がしたことはした。だが、闘志は溢《あふ》れるほどあるのに、急激に身体じゅうから力が失われてゆくのが感じられた。言いようのない気分のわるい脱力感、それが見るまに全身を浸し、一時的の精神力までをはかなく押しやり、もはや戦闘をつづけるのは不可能だということを彼にさとらせた。そして周二は相手から手を離し、そのままおよそだらしのない姿勢、下腹部を抑えるような恰好《かっこう》でその場にずるずるとうずくまってしまったのである。当の相手も、あっけにとられたようにその場に突っ立ったままであった。だが柔道の教師だけはすぐ事態を察した。彼はうずくまった周二の背中をかかえるようにして抱きあげ、何遍か畳に強く落下させた。その頃になって他の生徒たちもようやく事態がどういうものであるかをさとったようだった。つまり周二は、跳ね腰の膝《ひざ》に股《こ》間《かん》を一撃されて睾丸《こうがん》があがってしまったのである。あちこちに忍び笑いが起り、やがてそれは波のように柔道場全体に拡がった。こうして折角の周二の革命的な自己改善への意欲も、一同の抑えるところを知らぬ上《じょう》機嫌《きげん》な失笑のうちに幕が閉じられたのであった。……
いま、周二は雑草のなかに身体を没して、つかのま幼年時代の原っぱや、同じく箱根の山中における退行的な甘美な追憶に躯《み》をゆだねていたが、やがて周囲に散開している仲間たちの間から、しっしっ[#「しっしっ」に傍点]という警戒の囁《ささや》き声が起った。教官がふたたびやってきたのである。しかもそれは、ふだんは上級生の教練を受持っていて周二たちとはなじみの薄い配属将校であった。
配属将校は噂《うわさ》によると、他の老朽准尉に比べて話せる人とのことだった。支那《しな》戦線帰りで、きびきびした号令をかけた。そのそぶりには、わざわざ生徒たちを必要以上に苦しませようとか、その失策をなんとかして摘発してやろうとかいう配慮は見られなかった。なにより周二を安《あん》堵《ど》させたことは、彼が下級の生徒たちの名も顔も知っておらず、常々教練の際に槍玉《やりだま》にあげられがちの周二も、今は多数の中の目にとまらぬ一員にすぎなかったことだ。
ふたたび周二は不器用に匍匐をした。しかし彼の遅々たる進みぶりも、雑草と集団の中にかき消されて、目には立たないであろうことが自覚できた。周二はそっと配属将校のほうを盗み見ながら思った。彼は自分を知らない。自分が楡周二という教練の劣等生であることを知らない。自分は個人でもないのだ。このクラスの、この小隊の一つの単位にすぎないのだ。そして周二は、このひとときが、教室に於ける授業よりも校庭に於ける体育よりも遥《はる》かに楽な、緊張の解ける状態であることを発見した。
最後に突撃があった。周二たちは着剣をし、躍《おど》りあがって、草と土の起伏をとびこえ、喉《のど》一杯の喊声《かんせい》をふりしぼって突撃した。
「おおむね宜《よろ》しい」と、配属将校はうなずいた。それから生徒たちの突撃ぶりに本当に満足したのか、あるいは彼の野戦における追憶が感傷をもたらしたのか、生徒たちに叉銃《さじゅう》を組ませ、自分のぐるりに集めた。そして本物の戦争の挿《そう》話《わ》を幾つか話したが、それはにきびの多い中学生たちの興味をそそるに充分なものであった。
「であるから」と、彼は最後に言った。「突撃は日本軍伝統の力なんだ。スターリングラードがなかなか陥《お》ちないのはなぜかわかるか? ドイツ軍は突撃をやらない。彼らは人的損耗を避ける作戦をとっている。まず火力で叩いて、敵の抵抗がなくなってからはじめて前進をする……」
遥か遠方のソビエトの地、スターリングラードの激戦は夏の終りから続いていた。ドイツ軍は九月の初旬に市中に突入し、陥落は時間の問題と思われていたのに、それがなかなかやってこなかった。「全市|灰燼《かいじん》化へ」「独軍中央停車場占拠」「残るは赤色十月工場」「ス市今や余す僅《わず》か二区」というような新聞の見出しがつづいたのは十月末のことだったが、その後ばったり報道が跡絶えている有様であった。それに代って南太平洋海戦や、サボ島沖夜襲戦や、ソロモン海域の激闘が日本国民の耳目をさらってはいたのだが。
「もう向うは雪になっている。ソ連軍は雪を待っていたのだ」と、配属将校はつづけた。「こういうときにこそ肉弾突撃の力が発揮される……」
「先生」と、一人の生徒がだしぬけに言った。彼は学課こそ劣等だったが、教練体育の教官には常に目をかけられ、また教官の気に入りそうな壺《つぼ》を心得ている大柄な少年だった。「ぼくらが、この三年生全体がスターリングラードにいたら、もう占領しちゃってますよ」
それから彼はおどけて舌を出し、照れたように「そうでもないかな」とつけ加えた。
「いや、そうかも知れんぞ」
配属将校は上機嫌《じょうきげん》に寛容に笑い、ほっとした生徒一同はひとしきり緊張を解いてざわめいた。
もう夜がこようとしていた。広大な原は薄暗く、お互いの顔が小さくほの白く見え、周囲一面にコオロギが群がり鳴いていた。しかし、よほど好気分になったらしい配属将校は、なお宿舎へ戻ろうとせず、低い声で歌を披《ひ》露《ろう》した。それは思いがけぬ低い美声で、薄闇の濃くなってゆく辺《あた》りの雰《ふん》囲気《いき》にしんみりと沁《し》みとおっていった。
一《ひと》日《ひ》二《ふた》日《ひ》は晴れたれど
三日四日《みかよか》五《いつ》日《か》は雨に風
道の悪《あ》しきに乗る駒《こま》も
踏みわづらひぬ野路山路
歌詞は短くなく、配属将校の珍しい調子に乗った独演は長々とつづき、周二は傍《かたわ》らに坐っている仲間の腹がなにか悲しげに音を立てるのを聞いたように思った。
しかし周二は我知らず真剣に考えていた。こうして薄闇のなかに溶けこみ、個人々々の区別もつかず、自分一人の意識もぼんやりと遠のいて、集団の中の見わけがたい一員として埋没していることは悪くないものだな。さきほどの突撃、あれは息こそ切れたものの、なにか爽快《そうかい》な気分もした。血が湧《わ》くような気がした。自分は体力もないし教練の点もわるい。だが実際の戦闘の場、砲煙のたちこめるスターリングラードにせよソロモンにせよ、そこはあんがい気楽で自分にも向いているのではないか。自分らは突撃してゆく。半数、過半数がやられるだろう。弾《たま》に当れば、あとは死が解決してくれる。万一当らなければ敵陣に突入してぐさりと銃剣を突き刺す。いずれにせよ何もかもが一瞬のことで決るのだ。自分は死をこわいとは露ほども思わない。たとえこれからも長く自分が生きていったにせよ、他の者がたやすく受け入れられるのびやかな歓《よろこ》びよりは、じめじめとしたせせこましい自意識、自分で自分が厭《いや》になる煮えきらぬ苦悩のほうがどれだけ多いことだろう。ただ一瞬をかけた突撃、九十パーセントの死の中にあってのみ、自分は他の人並の連中に伍《ご》してゆけるのだ……。そのように周二は、うそ寒くなった野のなかで、雑草や汗臭い教練用の外被や皮具のたてる油じみた匂いのなかで、この単純すぎる弱者の考えを、空腹を忘れるまで考え通した。そのため、やがて「解け銃《つつ》」の号令がかかったとき、周二は我知らず粗暴な動作をし、組合わされた|※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖《さくじょう》を取り去るときひどくがちゃつかせ、相棒の生徒は難ずるように彼を見た。
完全に夜になってから宿舎に戻った中学生たちは、当番がバケツから盛っておいた飯と汁の前に争ってとびついた。がやがやという喧噪《けんそう》、放埓《ほうらつ》なかしましさが見る間に土間を満たしていった。
「なんだ、こりゃ? このおかずは?」
「材木だ」と、一人が叫んだ。「歯がたたんぞ。板みたいだ」
「これはミガキニシンだよ」と、一人が説明した。
「ニシン? ニシンてのはこんなもんじゃないさ。こりゃ材木だ。食えたもんじゃないぞ」
こうした無拘束な喧噪を前にすると、ひとときまえ気負いたった昂揚をみせた周二の心も、いつものように次第に萎縮《いしゅく》してゆくのだった。およそ殺風景な長細い卓をかこんでいる一人々々が、その個性を離れて、自分よりも遥かに逞《たくま》しく生気に溢れ、人とも世とも調和した羨《うらや》むべき人種のように彼には思えた。実際にはクラスの中には、周二よりももっとひ弱な、もっと無口な、もっと出来のわるい少年もいたにもかかわらず。周二はおそるおそる黒い固い魚のようなものを噛《か》んでみた。腹はすいていたし、それは皆の言うようなひどいものとは思えなかった。丼《どんぶり》に盛られた飯も麦だらけだったが、いくらでも喉《のど》につめこめられた。しかしながら、周二をみじめな気持にさせたのは、自分が皆のように「ちえっ、ひでえ飯だなあ」と口に出して言えないこと、といって「なんだい、うまい飯じゃないか」とは尚《なお》さら言う元気のないことであった。周二はただうつむいて黙々と食べた。ろくにもどされてもいない歯ごたえのありすぎるミガキニシンを誰よりも綺《き》麗《れい》に丁寧に食べた。そして彼は思い出していた――あの米国叔父さんが箱根の山荘で、一人だけ麦飯に塩なんぞをふりかけて奇妙にも深遠な表情をしながらゆっくりゆっくり咀嚼《そしゃく》していた有様を。
食事が済むと、もう寝る時間であった。土間の両側に板の間が高くなっていて、一応畳が敷いてある。そこに毛布にくるまって、肩と肩を接して雑魚寝《ざこね》をするのである。しかし大多数の者が横になったあとも、一隅に何人かがかたまって、なにかしきりと笑い声を立てていた。彼らは一冊の小冊子をかこんで、交わる交わる一節ずつ小さな声に出して読みまわしていた。ふいに一人が頓狂《とんきょう》な甲高《かんだか》い声を出した。それはあまりに露骨な、そのためかえって情味もない教科書のようにひびく文句であった。それから、おし殺した、悦に入ったような卑《ひ》猥《わい》な笑い声がしばらく続いた。
その夜の最初の不寝番に当っていた周二は、そのとき銃を持って所在なげに土間に立っていたが、その文句はとぎれとぎれに彼の耳にはいってきた。周二にはその意味も判然とは理解できなかったが、ともあれそれは女に関する、それも猥本といわれる類《たぐ》いのものを彼らが読んでいることは確かであった。すると、そう思っただけで周二の頬にはかっと血がのぼってきて、それを居もしない誰かにさとられないために彼は足早に歩きはじめた。彼には自分の訳もない頬のほてりが、あたかも罪の刻印のようにも意識されたのである。そのくせ彼は、猥本のまわりに集まった連中のなかに、それとなく加わることができたらと痛切に念じてもいた。猥本を見ること自体が目的ではない。彼らと一緒になって、あのような卑猥な、つまり健康な、ごく自然にむきだしの笑いをわらうことができたら!
しかし、そのうち彼らも寝てしまった。あっという間に一様にすばやく寝こんでしまった。ずらりと河岸《かし》にあげられたマグロのように寝入っている中学生たちは、とりどりの寝息を洩《も》らし、その寝息のひとつひとつが傲慢《ごうまん》な自負のように周二には思われた。そういえば昔、常に彼を庇護《ひご》してくれた下田の婆やさえも、夜にはその滅法もない鼾《いびき》によって彼を遠ざけ、心細い孤独感のうちへ追いやってしまったものだ。そんな年齢のむかしから、周二にはいくらか不眠症の傾向があった。さらにこの習志野の宿舎にはおびただしい蚤《のみ》が跋《ばっ》扈《こ》していた。その猛襲ぶりには皆が異口同音に、「蚤がいやがって眠れたもんじゃない」と言ったものだが、周二から見ると、その声には無造作な余裕があり、その顔色にはけっこう悠々《ゆうゆう》とした睡眠をむさぼったとしか思えない生気があった。彼自身は、ひどくみじめな、うとうととも眠ったかどうか定かでない一夜を過したものだったのに。
露出した棟《むな》木《ぎ》につるされた裸電球がにぶい光を投げ、その下で疲れきった中学生たちはおのがじし泥のような睡眠をむさぼっていた。もっとも例外がないわけでもなかった。今も一人の少年がむっくりと起上り、半ば朦朧《もうろう》としたしかめ面で、ほとんど反射的に身体のあちこちを掻《か》きはじめた。その少年はクラスでも評判の特別に華奢《きゃしゃ》な端麗な顔立ちをしていたが、今はその顔をくしゃくしゃと歪《ゆが》め、足から背中から猿のようにひっかいた。周二も以前から内心ひそかにその少年に惹《ひ》かれてはいたが、といって友達になりたいという願望を起すにも気おくれを感じた。なぜなら相手は、少女めいた姿態をしているくせに運動神経もあり、学業も優等で、つまり周二から見ると不可解なほど恵まれ選ばれた人間の一人で、遠くから羨望《せんぼう》を抱《いだ》いて眺《なが》めているより仕方のない存在といえたからだ。それゆえ、その少年が自分と同じように蚤に堪えかねて泣きべそに近い顔をしたことは、周二の胸に、なにかほっとした、安堵感のようなものを湧《わ》きあがらした。しかしながら、お互いに蚤に弱いからといって、二人の間の距《へだた》りが短縮されるというわけでもなかった。「ぼくは君よりももっと蚤に喰《く》われ易《やす》いんだ」と言ったところで、その少年がべつだん周二と親交を結んでくれるという理由はあり得なかった。
やがて不寝番の時間も過ぎた。ゲートルをとり、上着とズボンを脱いで、周二も毛布の間にもぐりこんだ。そうして、躯《み》を縮こめるようにして、彼はじっと待っていた。横になっただけで、昨夜喰われた跡がすでにかゆくなりはじめていたが、彼はじっと堪えていた。果して、一分も経《た》たぬうちに、ふくらはぎの辺《あた》りをもぞもぞと這《は》ってゆく感触が伝わってきた。つづいてもう一匹。
数の知れぬ蚤たちを捕えようとして抵抗を企ててもしょせん無駄なことは昨夜の経験でわかっていた。こうなったら諦《あきら》めて、絶望して、一刻も早く血を吸いきらしてしまうより他ないのだ、と周二は目をしょぼしょぼさせながら考えた。だがじきに手が腿《もも》の辺りに行ってしまい、そうなるともうヒステリー気味にそこらじゅうをかきむしる益《やく》のない動作が始まった。
自分は決死の突撃ならいくらでもするけれど、と彼は情けない気持で考えた。蚤のいる所はやはり駄目だ。してみるとやはり軍隊には向かないのだ。
周二は何遍か起直り、毛布をはぐって見、それからまた絶望的に横になりながら、強《し》いてだらしのない自分を叱《しか》った。ここは生命をおびやかされる戦地ではなく、たかが三日間の野外教練にすぎない習志野の兵舎なのだ。こんなことでどうする。兄は、峻一兄さんは今ごろ前線でどんな危険にさらされているかわからないじゃないか。
といって彼は、その兄がむしろ上機嫌で楽々と毎日を送っているような気がしてならなかった。あれほど日米戦争の実現を予言し準備をしていた兄である。その兄の前では今のこの時間にも実際の空中戦だって演じられていよう、峻一が好きで好きでならなかった日米の飛行機の群れが。峻一はどこか前線の基地で、あのほそ長い顔をせい一杯ほころばして、彼我《ひが》の激闘に悠然《ゆうぜん》と見入っている……そのようにこの弟は、他の楡家の大人たちがとても信じないであろうことを、習志野の宿舎の垢臭《あかくさ》い毛布の下で蚤に悩まされながら、たわいもなく、しかし生真面目にひとしきり想像していた。
軍医少尉に任官した峻一が、この夏まで在仏印の独立混成旅団の野戦病院にいたことはわかっていた。しかし最近どこかへ転出したらしく、その行先は徹吉たちの間であれこれと臆測されていた。
つい先日――周二が習志野の教練に出かけるほんの数日まえ、徹吉宛に「公用」と大きな判の押された軍事郵便がきた。徹吉が急いで開いてみると、中味は藁半《わらばん》紙《し》一枚に謄写版で刷られたもので、その文面は次のようなものであった。
謹啓向寒の候皆様御健体の御事と存じます お大切なる御子弟を護国の大任に捧《ささ》げ給ひ銃後皆様の御苦労|甚大《じんだい》と存じ感激に堪へませぬ
御子弟峻一君(その名だけ鉛筆書きで記されてあった)愈々《いよいよ》御健体にて護国の大任に御奮闘の事御安心下さい 私部隊長として着任以来本日を以《もっ》て満一年となりました 顧みるに昨年十二月八日遂に米英に対する宣戦の大詔|渙発《かんぱつ》せられ御稜威《みいつ》の下《もと》陸海空に大勝を博し大東亜建設の戦果を着々見るに至りました事御同慶に堪へません しかし乍《なが》ら聖戦大建設の前途|尚《なほ》多事多難と存じます
部隊はこれまで北部仏印にあり河内《ハノイ》市内外に於《おけ》る米英権益の占領確保及対支封鎖の任にありました処|此《こ》の度《たび》命によりまして太平洋の真唯中《まっただなか》当地○○に参りました
御大切なる御子弟を多御預り申し海軍と共に太平洋上対米最前線の護国の大任にあります事誠に責重く任大なるを痛感し私は全力を尽して居る次第でございますが菲《ひ》才《さい》微力|何卒《なにとぞ》皆様の御後援御|鞭撻《べんたつ》を賜り度《たく》御願ひ致します 当地○○は四面|茫々《ぼうぼう》たる大青海 天|亦《また》果しなき大青空 白波白雲の去来 星夜満天の星 時に皎々《こうこう》たる満月 誠に大自然の大景美事なものでございます 霜月といふに光尚強く夏服に御子弟等の顔は真黒に焼けて居ります 唯今御子弟等は日本国の御恵みにより何も困つて居りませぬ 従つて御子弟よりあれを送つてくれこれを送つてくれと言はれます事は唯有れば便利と言ふものであります 私の考へでは銃後皆様よりは何もいりませぬ 唯時時御鞭撻及び故郷山河の御便りを賜はれば幸甚と存じます
昭和十七年十一月
御一同様 鈴木部隊長
この謄写版刷りの末尾に、やはり鉛筆書きで、「追伸峻一君は今般自分の指揮下に分遣されました」という文字が見えたが、兵卒が書いたものにちがいなく、なんだか文字を習いたてのようなたどたどしい字くばりであった。
一日遅れて、峻一自身の葉書がついた。
都合により大分|御無沙汰《ごぶさた》致しました。父上の御手紙サンヂャックで一度拝受、松原の欧洲叔父様たちの寄せ書きも受取りました。このたび仏印を離れ表記の通り奇想天外の処に来ました。愈々《いよいよ》武運に恵まれて来たとでも言ひませうか、気候といひ紺碧《こんぺき》の海といひ大分天国にも近附いた様です。
身体はなんとか病気一つせず、オゾンを腹一杯吸ひ強烈な紫外線を浴び、一朝有事の際には充分実力を発揮し、銃後の皆様の御期待に背《そむ》かぬ御奉公の出来る日の来たらんことを待構へてゐます。葉書は一枚しか書けませんから、松原の皆様方にも宜《よろ》しくお伝へ下さい。
追伸。出来たら小さな英和辞典御送り下さい。 草々
そして、その表記の場所というのは、「横須賀局気付 ウ壱○参ウ壱○○(す一)」というのであった。
徹吉はその便りを藍子《あいこ》や周二にも見せたものの、相談できる相手ではなかったから、松原の欧洲たちに示し、その意見を聞いた。欧洲の考えでは、南方の島には違いないこと、おそらく南洋群島のいずれかの島の守備についたのではないか、陸軍海軍双方がいるというからにはそれほど小さな島ではなく、いずれにせよ南洋諸島は日本の鉄壁の基地であるから生命の心配はあるまい、ということで、そういう方面に関しては無知な徹吉もその意見に頷《うなず》き、一方ならず安堵したようであった。
「この部隊長もなかなか話せそうな人じゃありませんか、この文面を見ても……」
と、欧洲はなお義兄を安心させるように言った。
「ほんとうに」と、千代子も口をあわせた。「白波白雲の去来……なんですか、詩情のおありのような方のように思われますわ」
しかし徹吉が帰ってしまったあと、千代子はいささか意地のわるい好奇心をむきだしにして、あれこれとさきほど見た峻一の――彼女のもっとも苦手とする龍子、つまりお中《ちゅう》さまの長男の便りを分析してみせた。
「およそ峻一さんらしくない手紙ね。……いよいよ武運に恵まれ……銃後の皆様の御期待に背かぬ……あれはきっと検閲があるからでしょうね。本当は峻一さんはしょんぼり、げっそりしているのよ。だって、あたしは憶《おぼ》えていますが、峻一さんくらい情けなそうな顔つきで入隊した人もちょっといないんじゃありません? きっとそこは何にもない孤島なのよ。それだからわざわざ部隊長が、何もいりませぬ、なんて気を使っているのよ。その口の下から峻一さんは英和辞書を欲しがっているじゃありませんか」
「だっておまえ、南洋諸島に本屋なんぞあるまいさ」と、欧洲が面倒臭げに言った。
「でも峻一さんはへたばっているのよ、本心はね。天国に近づいた、なんてつい本心が出て自棄《やけ》になって書いたのでしょう。身体はなんとか病気一つせず……なんだかおかしな文章とお思いにならない? 普通なら、お蔭さまで達者ですと書くところでしょうが、……一朝有事の際には、なんてところと完全に遊離しているのよ。……身体はなんとか病気一つせず……大分天国に近づいてきたようです……」
「おまえは記憶力がいいな」と、欧洲もいささかあきれ顔で言った。「おれはもう忘れたよ、そんなことは」
しかし、峻一がどこか不明の島に移動になったことを、もっとも冷静に受け入れたのは、ほかならぬその母親の龍子であった。彼女は徹吉の訪問の際にはむろん同席しなかったから、その夜の夕食の席ではじめて事の顛末《てんまつ》を知った。
近頃ひさは入歯の具合もよくないため、少量の糯米《もちごめ》と白身の魚だけを煮て食べる。毎夜の食事のためひさに一人前の新鮮な白身の魚が用意されていた。ところが、千代子の知るところではなかったが、いつしかそれが二人前になった。龍子が勝手に台所に命じたものであろう。龍子の感覚によれば、松原の家でひさと自分は特別な上位に位する人間であるから、それは当然なことであるともいえた。そして彼女は、自分のためには刺身にされた鯛《たい》を平然と他人を無視して食べながら、息子の峻一の運命を聞かされてもその眉《まゆ》はぴくりとも動かなかった。
「南洋……」と、彼女は言ったものだ。「南洋にはあたしも一度旅行をしたかったものです。男の子なんてものは、若いうちどんどん苦労をしなくちゃいけません」
龍子が発した言葉はほとんどそれだけであった。世の母親のように一向に息子の安否を気づかい案ずる気配はなかった。
しかし彼女に、峻一に対する愛情がなかったわけではない。龍子は「小さな英和辞典」の話を聞いた。徹吉はおそらくコンサイスくらいを送るであろう。そこで彼女は、別居している夫に対する対抗意識も働いて、ぶ厚い大英和辞典を直ちに小包にして発送した。そのどこともわからぬ「横須賀局気付 ウ壱○参ウ壱○○(す一)」という島へむけて。
第二章
あくまでも群青《ぐんじょう》の海原、盛りあがって砕けて散る波頭、そこを高速に進む精悍《せいかん》な機動部隊、――夜には艦体がひときわ大きく見え、すっかり燈火を遮蔽《しゃへい》したその黒いかげが、さながら自らの意志をもつ生物のように白く泡立つ航跡をひいて突き進んでゆく……。
空母|瑞鶴《ずいかく》は戦いをつづけていた。
はじめて城木|達紀《たつのり》が乗組んだころ、先任の将校から「運のわるい船に当りましたなあ」と冷やかされた言葉とは裏腹に、瑞鶴はむしろその名を具現して好運と武勲に恵まれた艦といってよかった。
たしかに開戦以来、瑞鶴を含む空母六隻を主幹とする南《な》雲《ぐも》艦隊は、休むまもなく出撃し、広大な大洋を乗りこえて攻撃をかけ、矢継早にほとんど華やかに戦果をあげていた。なかんずく最初の数カ月、国民を熱狂せしめた日本軍の目を奪う進攻、相次ぐ戦略拠点の奪取と歩調を合わせて、この高速の機動部隊は不死身であり、損害らしい被害を知らず、太平洋から印度《インド》洋《よう》までを荒しまわった。荒しまわるという言葉はおだやかでないにしろ、しょせん戦争は殺伐なものである。白い航跡を長く曳《ひ》いて海原を進む艦艇こそ美しいが、その目的は血腥《ちなまぐさ》いものであった。城木の眺《なが》める飛行機|搭乗員《とうじょういん》、その将校の多くは恬淡《てんたん》で豪放な、人好きのする連中であったが、彼らは飲むときは徹底的に飲んだ。攻撃が終った夜、あるいは間近に出撃をひかえた晩、彼らのストームはしばしば城木の居屋にまで及んだ。
「なにを寝てるんだ、軍中! さあみんな叩《たた》き起せ!」
その支離滅裂な叫び、酒に濁って血走ったその目の奥に、城木は人間の持つもっとも原初的な感情、死への恐怖の情をちらと垣《かい》間《ま》見たような気がした。なんといっても彼らほど死と直結している人間はないのだ。といって、器物を破壊したりするその酔っぱらいが、全機動部隊にとってもっとも頼りになる戦闘機乗りであり艦爆乗りであることに変りはなかった。その同じ男が、落着いた微笑さえ見せて、ちょっとピクニックへでも出かけるような顔つき、死などということは毛ほども考えぬという顔つきで出撃してゆくのだ。
わずか数カ月という記憶が、城木の中ではおそろしく膨脹《ぼうちょう》し、錯綜《さくそう》し、ぎっしりと内容をつめこまれて思い出された。普通歳月というものはいったん過ぎ去ってしまえば、あっけないほど短く単純に感じられるものである。それがこの場合は逆であった。実際の数倍、十数倍もの年月が経過したような思いがした。
たとえば真珠湾を攻撃して内地に帰還していった頃のことは、まるで幼少期の夢のようにも遥《はる》かなものとして追想される。日本を見る前日、空母の搭載機は一足早く内地の基地へ飛び立った。それがひどく心細くも思われ、かつ艦内は相変らずむし暑く、果して本当に日本が近づいているのかどうかまで疑われた。しかし、艦は確実に北上し、夕刻にははっきりと気温の低下が感じられ、快晴の翌朝、今はむなしく長くひろがる飛行|甲板《かんぱん》を吹きすぎる風はすでに寒かった。そして、水平線の向うにうす青く、しかしのちのちまで脳裏に刻みつけられたほどくっきりと、胸の迫るほど鮮明に、二つの隆起となって四国の山々が望まれた。それは祖国、彼が生れ彼が育ち、彼を意志とは無関係に思いもかけぬ戦場にひきだし、しかし彼がそのためには一身を投げだしても悔いはないと感じている祖国の姿であった。その際《きわ》立《だ》った特徴とてもない島影を目にしたとき、城木は自分が相当の長期の航海を、少なくとも半年よりは短くない航海を果してきたようにも感じたのである。しかし対潜警戒のため第一配備で、配置場について握り飯を食べているうち、沖ノ島を過ぎ、機雷原を避けてずっと四国の島寄りを航海した。それから佐田《さた》岬《みさき》を越えて内海に入る。海面は鏡のように凪《な》いでいる。信じられぬ平和な海、いかにも自分と密接していると思える平和な島々。まもなく第三配備となると、城木の胸には子供のような喜悦の情がふつふつと湧《わ》きあがってきた。帰ってきた、ついに帰ってきたのだ。なにも自分の力ではないが、予想以上の戦果をあげ、それどころかアメリカ太平洋艦隊の主力をおおむね叩きつぶし、つつがなく祖国へ戻ってきたのだ。
しかし、戦争は遮《しゃ》二《に》無二のおそろしい速度を要求した。帰港は単に補修と諸物品の搭載を意味している。ほどもなく出港の日がくる、沖へ出て艦載機の収容が始まる。次の食事の際は、声高《こわだか》にしゃべる飛行機搭乗員の顔が出《で》揃《そろ》って急ににぎやかになる。
瑞鶴は他の空母と共に、長駆ラバウルを攻撃した。パプア島、ラヴァを爆撃、ニューギニア上陸作戦を掩《えん》護《ご》した。ようやくトラック島の基地へ戻ってくると、給油船が横づけになって赤腹を出すほどたっぷりと燃料を補給する。翌日には隣接のポナペ島基地が敵機動部隊に襲われたとの報があり、突然出港になる。こうした敵機動部隊へのやむを得ぬ応接はその後も屡々《しばしば》繰返された。三月の初め呉《くれ》に入港したときも、南鳥島が空襲され、敵機動部隊内地へ向うという報がもたらされた。すぐさま出港用意の命令が出る。しかしながら、いつも追跡もむなしく敵空母とは遭遇できないのであった。
瑞鶴が加わった次の大きな作戦は、C作戦、つまり印度洋作戦である。セイロンを叩き、英国東洋艦隊を撃滅し、印度洋の敵交通路を寸断するのが目的であった。
南雲艦隊が集結したスターリング湾を出港したあと、まず彼らを悩ましたのは艦内の猛烈な暑さであった。もとより出撃すれば舷窓《げんそう》を閉めきっての穴蔵生活である。診療室は蒸風呂のようで、じっとしていても防暑服の中までうだりあがり、額にも手の甲にも汗が玉をなして滲《にじ》みでてくる。しかもあとからあとから診療室へ患者がやってくる。そのいずれもがつまらない風邪《かぜ》ひきである。ある一日、受診者は四十名を越えた。城木は暑さと疲労にいらいらし、せめて一刻なりとも舷窓を開け放ちたいと強迫観念に似たものにとりつかれ、意味もなく怒鳴りたくなるのを辛うじて堪《こら》えた。誰も彼もが不自然にいらついていることは明らかであった。副長から感冒患者発生の原因、対策を要求された先任の軍医中尉が一応の報告書を持っていったところ、それが抽象的総論的であるというので、こんなことは素人《しろうと》でもわかると副長は声を荒らげて立腹した。そのため軍医連中が遅くまで兵員の就寝状態を見てまわり、多くの者が露天甲板で寝、そうでなくても裸で寝るという綿密な結論を得、辛うじて副長の機《き》嫌《げん》をとりもった。その結論にしても、どんな素人にせよ類推できるものにちがいなかったけれど。
名無しの権兵衛事件というものも起った。巡検のあと、艦爆乗りの佐々木中尉がガンルームで電話をかけていたが、突然、血相を変えて怒鳴りはじめた。
「俺は佐々木中尉だぞ。莫迦《ばか》にするな! 貴様、姓名を言え!」
事の次第は次のようなものであった。受話器に所用の会話のほかに、不謹慎にも流行歌を高唱する声がはいってきた。そこで憤慨した佐々木中尉はその当人を電話に出さしたところ、大分酒を飲んでいるらしく、舌ももつれる返答をする。分隊姓名を名乗らせると、名なしの権兵衛だと答えた。
「なにを言うか! 名を名乗れ! 名を言えというんだ!」
「それですから、名なしの権兵衛であります」
城木が見ていると、佐々木中尉は凄《すさ》まじい勢いで部屋をとびだして行った。しばらくしてガンルームに連行されてきた者を見ると、それは以前城木が淋病《りんびょう》の治療をしてやった乱視の電気屋であった。淋病ばかりでなく、内地に帰港した折、病院で眼鏡を合わせてやったこともある。幾度も診療室にきている兵員なので城木にはなぜとなく親しみが持てる。しかし、その口唇の辺はすでに腫《は》れあがって血が溜《た》まっている。更に追いかけて、佐々木中尉は激しい音を立てて往復ビンタを喰わせた。電気屋はよろけ、そのたびに泣き笑いのような、おそらくは筋肉の反射にすぎないのだろうが、ちょっと人を侮《ぶ》蔑《べつ》したような笑いの表情をする。それにますます憤って、佐々木中尉はつづけざまに彼をなぐった。電気屋の顔はひきつったようになり、血が筋をなして唇の端から流れ落ちた。
傍観者の城木が気分がわるくなって横を向いたとき、佐々木中尉はようやく相手を釈放した。「貴様、内地へ帰っても上陸どめだぞ!」と一声あびせながら。
しかし、そのような個人の些《さ》細《さい》事《じ》に関係なく、戦争は――艦と艦、航空機と航空機、国と国との戦闘は否応なく進行していた。
コロンボ攻撃の前日、城木たちは初めての見聞をした。夕食を食べ終って、そろそろ洋上に夕《ゆう》映《ば》えが訪れようとしたころ、ふいに敵飛行艇一機が触接したのである。はじめ先頭を走る阿武《あぶ》隈《くま》の辺りで対空射撃をやっているのが見えたが、やがて上空直衛の零《ゼロ》戦がこれに追いすがった。これは結構な観物といえた。零戦はすばやく攻撃をかけるが、烏《からす》を突つく雀《すずめ》くらいにしか映じない。敵機はなかなか落ちない。鈍重な様子ながら、小さな雲に隠れたり、水平に旋回をしたりしながら、じりじりしたくなるほど落ちない。ようやくその機体から一筋の黒煙が流れはじめ、次第に高度を下げると見るまに海面に接触、黒煙が濛々《もうもう》とたなびいた。すべての者が、全艦隊の見物人が快哉《かいさい》を叫んだ。しかし敵機は撃墜されながらも、日本艦隊発見を打電していた。従って、翌朝のコロンボ攻撃は敵も承知ずみの強襲となった。
いつもながら殺気立つ攻撃隊の発進を見送るのは、すでに慣れっこになっている。しかし、帰ってくる艦爆が生々しい弾痕《だんこん》を見せているのはともかく、未帰還機を出したのは瑞鶴として最初のことであった。その日の未帰還艦爆五機、つまり十名が戦死をした。その中には佐々木中尉も交っていた。同じ艦に乗組み、毎日笑ったり怒鳴ったりしていた人間がもう姿を見せず、それもふっとどこかへ消えてしまって、ふたたび姿を現わすことがないという事実は、口に言えぬほど奇妙で、戸惑いを感じ、かつ信じがたいことでもある。
「戦艦も航母もみんな逃した。割があわねえ、割があわねえ」
ガンルームで、佐々木中尉と親しかった塚本中尉がいつまでも独《ひと》りごとのように呟《つぶや》いていた。
「ツリンコマリーをやれば、今度こそ出てきやがるだろう。見ていろよ、見ていろ」
一方、翌朝まだ夜も明けぬころ、城木達紀は看護兵に叩き起された。機関科の兵が一人かつぎこまれたというのである。
「えらくへばっております」と、看護兵はなんだか気味わるげに言った。
診療室へ駈《か》けつけてみると、へばっているどころの騒ぎではなかった。見開かれた目がぐっと釣上り、瞳孔《どうこう》が完全に散大しているのが一目見てわかる。歯がむき出され、唇《くちびる》は色を変えている。脈をさぐれば脈はない。心音も聞えない。呼吸も停止してしまっている。城木は直ちに心臓|穿《せん》刺《し》をしてロベリンを注入した。それから人工呼吸。もとより何をやっても駄目であろうことは最初からわかりきっていた。一時間人工呼吸をつづけたのち、死亡と認定した。
聞けばその三機曹は昨日の午後当直に立っていて、おそらく熱射病のためか――機関室は摂氏五十度からあった――急に気分がわるくなり吐きだしたので、摂氏三十七度の待機室で休ませておいた。平生から胃弱でよく休む男だったためと、かつ戦闘中でもあり、周囲の者もまたかと思って受診もさせなかった。それが夜明けごろ痙攣《けいれん》を起して意識不明になっているのを発見し、医務室へかつぎこんだものだという。
腹腔内にフォルマリンを注入し、その日の午後、水葬に附した。敵機の哨戒圏《しょうかいけん》を脱したとはいえ、所在不明の敵艦隊を索《さが》し求めている際である。短くラッパが吹奏され、甲板にいる当直者だけが挙手の礼をする。柩《ひつぎ》はごくあっけなく、濃藍《のうらん》の海へ吸いこまれる。うねりのない、ごくわずかにさざ波の立つ、あくまで色濃い海であった。艦首の切る白波が目のさめるほど緻《ち》密《みつ》に純白で鮮《あざ》やかで、その水《みな》泡《わ》は艦の舷側《げんそく》に沿って拡散し、縮緬皺《ちりめんじわ》の刻まれた藍色《あいいろ》の海を横のほうへ辷《すべ》っていって消える。次の水泡があとを追う。
その海は、かつて楡徹吉や龍子が渡った同じ海、さらに古くは基一郎が渡った同じ印度洋である。船客たちはデッキ・チェアーに寝そべり、無聊《ぶりょう》と退屈さに欠伸《あくび》をし、「あ、トビウオ!」などとつかのまの気散じをし、むくむくと湧き立つ積乱雲が絢爛《けんらん》と色を変える夕べには、そぞろに故国のことをしのんだりした同じ海である。
もとより城木達紀はそのようなことに関係はない。しかし彼は、ぎらつく陽光を吸いこんであくまで無表情にきらびやかに色深くひろがる海を、一瞬の感慨を持って眺めた。さきほど柩が投下されたことが錯覚であるかのような気がした。――死ななくてもよい人間が一人死んだ、と彼は思った。そしてこれが戦争なのだ。
城木は乗艦してしばらくの間は、かなり克明に日記をつけていた。しかし、ほどもなくそれが粗略になり、ついには無記入の日が多くなった。ただ戦闘の日には、応急治療室の机の上に手帳をひろげ、拡声器から伝わる戦況を慌《あわただ》しくメモをする。コロンボを叩いてから、三日おいてわが機動部隊はツリンコマリー港を襲撃した。
「四月九日 ○八三○ 配置ニツケ
○九○○ 攻撃隊発艦 未ダ黎明《レイメイ》ナリ
一○○七 右八十度敵水艇一機接近 一○一○ 忽《タチマ》チニシテ右七十度附近ニ撃墜ス 黒煙天ニ冲《チュウ》ス
一一○○ 四一小隊一番機ヨリ『ワレ敵高角砲台ヲ爆撃効果甚大』翔鶴《ショウカク》飛行隊ヨリ湾内ニ戦艦アリト
一一○五 一五五|浬《カイリ》 十八度方向ニ敵航母一駆三航行中
一一二○ 四三小隊一番機ヨリ『湾内ノ軽巡九隻爆撃中』
一一三五 敵母艦攻撃ノタメ艦爆発艦ス
一一五三 ツヅイテ艦爆十五機発艦
一二○○ 敵機数機接近スル故《ユエ》警戒ヲ厳ニセヨ
一二五三 敵軽巡二隻撃沈
一三五三 突然敵爆撃機九機赤城ヘ投弾 対空戦闘
一三五八 敵航母撃沈!
一四四五 翔鶴二四小隊一番機敵重爆九機発見追撃中
一五○○ 敵重爆七機撃墜 二機ハ雲中ニ逃亡ス
一六一三 我艦爆全機収容
一九三○ 対空戦闘用意
二○二五 対空戦闘要具収メ」
その夜のガンルームは湧き立っていた。ついに英空母ハーミスをやった。それも搭載《とうさい》機《き》もなく、陸地へ平電で「ハリケーン出発せしや」と慌《あわ》てふためいて応援を求める始末で、護衛駆逐艦と傍にいた商船を片づけるまでわずか十五分の時間しか要しなかった。
「赤子の手をひねるようなものさ」と、ビールに顔を赧《あか》らめた艦爆乗りが言ったが、その放言は全員の、全艦の気持を代表しているといってよかった。印度洋を思うさま荒しまわって、またしてもわが艦艇の損失は皆無である。まさに無敵、負ける道理がない、そういう気負った観念が知らず知らずこみあげてくるのも無理はないといわねばならなかった。
瑞鶴が姉妹艦の翔鶴と共に主力と別れ、台湾の馬《ま》公《こう》へ向う航海中に今回の戦闘に於ける英霊の告別式があった。総員が上部一番格納庫に集合し、僧侶《そうりょ》の読経《どきょう》裡《り》に式は厳重に進行した。しかし城木がふと眺めると、その僧侶というのは防暑服の上に袈裟《けさ》をかけた工作長で、さらにその横に城木の患者の一人である万年|脚《かっ》気《け》の整備員が真面目《まじめ》くさって経を読んでいる。城木は一瞬、場所柄をわきまえぬ滑《こっ》稽《けい》感を覚えた。それから急激にむなしいような怖《おそ》れに襲われた。いずれは必然的に、抗《あらが》いがたく、誰か彼かが同じようにこの艦からも失われてゆくのであろう。それが戦争なのだ。
翌々日、馬公に入港し、支那建築の多い町を城木は物珍しく見物をした。軍医長のすすめで、土地名産の文石《ぶんせき》という石を千円を投じて購入した。上陸をしないかぎり金はたまるばかりだったからである。馬公では何日か滞在できる予定だったし、町をあげて大歓迎会を開いてくれる手《て》筈《はず》になっていた。ところが敵機動部隊出現の報があって――さらに追いかけて夕食後日本内地が空襲を受けたとの電報がきた――翌日これを追跡するため直ちに出港ということになった。城木は思った。やれやれ、せわしいことだ。しかし、これが戦争なのだ。
だが城木は、いや艦の全員が、すべてをまだまだ甘く気をゆるめて考えていた。戦闘は、戦争は、いつまでもそのような生易《なまやさ》しい経過を辿《たど》りはしなかった。
五月五日、瑞鶴、翔鶴を軸としたMO機動部隊は、すでに接敵を予想して第一配備となりながら、ソロモン列島の南側をまわって珊《さん》瑚《ご》海《かい》へ出た。
すでに前日、ツラギ上陸部隊が敵機動部隊の再三にわたる攻撃を受けている。一方、わがポート・モレスビー攻略船団はラバウルを発し、ニューギニア南東端を目ざして航行中である。おそらくここ一両日中に、日米両艦隊はなんらかの形で衝突しなければならぬ運命にあった。それも史上最初の空母同士の決戦という形で。士官室の飛行機屋がしきりと残念がるのは、瑞鶴らの艦隊が珊瑚海に到着するのが二日遅れたことが原因であった。ラバウルに零戦を空輸するのが予定よりずっと手間どったためである。そうでなければツラギを襲った敵機動部隊をとうに捕えられる位置に出ていたはずである。
「五月六日。午前第二配備、診察終リテ昼食セント Gun room ニ屯《タム》ロシテヰルト、敵機動部隊発見飛行機用意搭乗員整列ノ号令アリ、一同|俄《ニハ》カニ活気ヅキ飯モソコソコニ配置ニツク。シカシ初メ三○○|哩《マイル》ノ地点ト言ツテヰタノガ後ニ四○○哩ト分リ飛行機ハ飛出セズ、一同悲観。艦隊ハ給油中デアツタガ、給油ヲ打チ切リ、給油済ミノ駆逐艦二杯ト瑞鶴翔鶴ノミ二十六|節《ノット》ノ速度ニテ南方ニ突込ミ始メル。夜、速力ヲ落シテ十節トナリ北上ス。ハジメ意向ガ分ラナカツタガ、塚本大尉ノ説明ニヨルト、敵ニ接近シタ後ハ深入リセズ、敵ガ別動ノ祥鳳《ショウホウ》ナドニオビキ出サレルノヲ待ツ積リノ由。作戦ガ図ニ当レバヨイガ」
「五月七日。実ニ不快ナ、残念ナ一日デアツタ。起床後シバラク状況判明セザリシモ、○六○○頃翔鶴索敵機ヨリ昨日ノ敵機動部隊発見ノ報アリ、直チニ雷装セル艦攻十二機ヲ初メ、翔鶴ト合セテ六十機近ク発艦、然《シカ》ルニ何事ゾ、此《コレ》ハ索敵機ノ見誤リニテ敵ハ油槽《ユソウ》船《セン》及ビ二三ノ駆逐艦ノミナリト。早速本艦ヨリ無電ニテ帰レ帰レノ報ヲ送リシモ意通ゼズ、ナカナカ戻ラズ、コノ間ニ祥鳳敵機ノ攻撃ヲ受ケ大火災ヲ起シ間モナク沈没トノ報アリ、シキリニ応援頼ムノ報アレドモドウニモナラズ。
敵マデ三二○哩トノコトデ、五戦速三十五節ニテ近接、日没ヲ覚悟シテ本艦ヨリ艦攻艦爆合セテ十五機、翔鶴ヨリモ同機数発艦、戦闘機ハ帰艦ガ夜トナル故着艦デキズトテ連レテ行カズ、初メカラ乾坤一擲《ケンコンイッテキ》ノ攻撃ノ気《キ》魄《ハク》甲板上ニ漂フ。而《シカ》ルニ之ハ後ニ搭乗員ニ聞イタ話デアルガ、攻撃隊ハ敵航母ヲ発見セザルウチ敵艦戦ニ食ヒツカレ、隊長機ヲ残シテ本艦ノ艦攻スベテ撃墜サル。戦闘機ナキタメ手ノ出シヤウナカツタトノ兵曹長ノ話デアツタ。一方艦爆隊ハ索敵成功セズ、遂ニ夜間着艦ニ具《ソナ》ヘテ全機爆弾ヲ捨テタトコロ、十分後ニ敵航母ヲ発見、実ニ無念ナリキト。
コノヤウニ戦果ハナク未帰還機多ク、南海ノ夜ハ雨モヨヒノ空ニテ星影モ見エズ、全ク暗黒ノ中ニ時々僚艦ヨリ探照燈ヲ照ラシテ位置ヲ指示シナガラ攻撃隊ノ帰還ヲ待ツノハ悲壮デアツタ。士官室デハ坪井大尉、村木大尉遂ニ戦死ト認定サル。村木大尉ハ奥サンヲ貰《モラ》ツテ幸福サウデアリ、イツモ愉快ゲニ話シテヰタノニ、生者《ショウジャ》必滅トハイヘ愛惜ニ堪ヘズ。明日ハ弔《トムラヒ》合戦ト皆歯ヲ喰ヒシバリタリ」
翌八日、ほぼ同勢力の日米の空母同士は、文字通り真向《まっこう》からぶつかりあった。未明に飛び立った索敵機が相手を発見したのもほとんど同時刻なら、それぞれの攻撃隊が発艦し敵へむけて殺到したのも同時刻といってよかった。従って瑞鶴と翔鶴合わせて六十九機の攻撃隊の機影を見送り、その最初の報知を心待ちにしだした頃、早くも敵機の群れは襲来した。それは、印度洋の飛行艇の触接などは演習か子供だましに思える、肌を逆《さか》撫《な》でする死の恐怖を頭上からおしかぶせる襲来であった。
空には雲が断続して群れていた。前方には低くこごった雲があって、薄暗いスコールの幕がたれている。しかし、その間の青空は輝かしく、不吉なまでに眩《まばゆ》く目に沁《し》みた。だしぬけに「対空戦闘!」を拡声器が叫んだ。城木が応急治療室の出口から見ると、はじめはなんの変化もないように思われた。翔鶴はそのとき八千メートルほど離れた海面にいたが、その上空に、斑《まだら》に黒い汚染《しみ》のようなものが浮びだし、見るまに数を増し、しばらく凝結したように見えたが、やがてゆっくりと拡がりはじめた。味方の対空砲火である。同時に、城木は見た。その黒い華《はな》の散る空から、小《こ》礫《いし》のようなものが、おそろしい速度で翔鶴目がけて降ってくるのを。それが城木が錯覚のように垣《かい》間《ま》見た敵の急降下爆撃機であった。そのほかには何も見えぬ。味方機も見えぬ。いや、見る余裕がない。
そのとき、瑞鶴はすでにスコールの瀑《ばく》布《ふ》の中に突入していた。篠《しの》つくような叩きつける雨脚が視界をすっかり遮《さえぎ》ってしまう。そのくせ瑞鶴の全対空射撃は火《ひ》蓋《ぶた》を切っていた。それは牽制《けんせい》射撃というよりも盲射《めくらう》ちのように城木には思えた。全高角砲、全機銃が、薄暗い雲のなかへ、雨のなかへ遮二無二発射される。その音響は鼓膜を破るばかりで、艦の全身がびりびりと震えるほどである。敵機よりも、その常軌を外《はず》れた轟音《ごうおん》、震動、闇雲《やみくも》の応射が、城木に生れてはじめて、恐怖というものにじかに肌を、全身をさらけだした感を与えた。応急治療室のすぐ前の二十五ミリ機関砲の銃座、そこで射ちまくっている兵員の形相の変った顔面を城木は見た。
「奴《やつ》ら、こわいんだな。こわいんだな」
と、彼はちらと、なんとか余裕を取戻そうとして思った。
彼自身もこわかった。毛穴が開くほどこわかった。開戦から半年、さまざまに覚悟も決め戦闘にも慣れてきたと思っていたのに、こんなにこわいことがあろうとは、いざその現場に立至らなければ想像もつかないことであった。
「出るな、出るな、スコールから出るな」とも彼は思った。
しかし、じきに不連続線の切目に出た。眩い空と海とが見えた。そして敵の攻撃を一手に引受けてジグザグに回避している翔鶴の姿が見えた。その同型の姉妹艦、開戦から常に瑞鶴と行動を共にしてきた巨大な空母は、そのとき全身をほとんど爆撃による水煙にかき消されてしまっていた。その後部からたしかに黒煙があがっている。またしても水煙が濛《もう》々《もう》と立ち昇り、視野には映じない敵機の集中攻撃を受けているにちがいないが、艦全体を蔽《おお》う水煙のため爆弾が命中したのかどうかも定かでない。瑞鶴自身も急角度の回避運動をしており、急角度に曲るとぐいと身体がよろけるほどである。ふたたびスコール中にはいり、視界が閉ざされた。瑞鶴はこの戦闘を通じ終始幸運にめぐまれたのだが、もう一度スコールを出たとき甲板にいた全員が胆《きも》を冷やした。同じく盲目の回避運動をやっていた味方巡洋艦が、まさに衝突せんばかりの位置にいたからである。
敵の第一波が去ったつかのまに、上空直衛の零戦を収容した。一人の搭乗員が射抜かれたタンクの油が目に入り、応急治療所に洗浄にきたが、短く城木に言った。
「敵機はなかなか優秀です。こちらにも自爆したものがあります」
翔鶴はどうしたかと見ると、水平線の彼方《かなた》に辛うじて船体が覗《のぞ》き、マストだけ突出しているが、後甲板から黒煙がたなびいて、ちょうど撃墜された飛行機が浮いているようにも窺《うかが》われる。そこへまた敵の第二波が襲来し、翔鶴からはっきり火柱が上るのが見え、ついで黒煙がひとしきり高く湧《わ》き起った。そのとき、城木は翔鶴はもうやられたと思った。
さきほどまでの恐怖感はいつの間にか去っていた。おそらくは麻痺《まひ》であろうか、はじめの顔面のこわばるような意識はもはやなかった。またひとしきりの対空戦闘、そしてようやく――時間の観念も失われていたが――敵機が去った頃、サラトガ(後にレキシントンと判った)撃沈の報がもたらされ、あちこちから歓声があがった。常々無口の、故意のようにぶすっとした顔つきの看護兵が、そのときほどあけっぴろげに相好を崩したのを城木は見たことがなかった。
瑞鶴はスコールのかげに退避したため無傷ではあったが、しかし甲板上は次第に慌《あわただ》しく、悽愴《せいそう》なおもむきを呈してきた。遅い昼食の握り飯を食べ終ったころ、攻撃隊が帰着しだした。
「一名機上戦死らしいです!」という報に城木が駈《か》けつけると、九九式艦爆の後部座席にうつむいて動かない搭乗員がいる。顔をもたげると、それは昨日、爆弾を捨てたのち敵空母を発見したといって残念がっていた新井兵曹長であった。顔面にはすでに死相が漂っており、脈も触《さわ》れなかった。身体を機外にかつぎだすと、服内にたまっていたおびただしい鮮血が海風にあおられ、どっと周囲に溢《あふ》れ散り、かかえていた整備員も城木も血まみれになった。そのまま応急治療所にかつぎこむ。右|脇腹《わきばら》から機銃弾らしきものがはいって鶏卵大の傷を作り、左|肩胛骨《けんこうこつ》下部に抜け、そこは小児の拳《こぶし》が入るくらいの射出口となってざっくりと筋肉が露出している。両肺はまったく気胸を起し、心臓|穿《せん》刺《し》をしようとしても触知できない。処置をほどこすすべもなく、暗然とした思いで、城木はその身体から血にまみれた手を離した。
その間にも間断なく母艦は搭載機を収容していた。翔鶴は発着不能に陥っているため、翔鶴の飛行機もすべて瑞鶴に着艦してくる。嘗《かつ》てない混乱と騒擾《そうじょう》、ついには収容しきれず海上に不時着する帰投機が出てくる。甲板では破損の多い機、エンジンの傷《いた》んだ機を片端から海中に投棄しはじめている。翔鶴は黒煙の尾をひきながら戦場を離脱し、水平線にはとうにその影もない。それまで安易な戦闘に慣れてきた城木の目には、その切迫した光景と雰《ふん》囲気《いき》が実際以上に不吉なものに映った。
とはいえ、この珊《さん》瑚《ご》海《かい》海戦は、客観的に見て日本の勝利といってよかった。やがて翔鶴の火災が鎮火し修理中という電報がきたとき、城木もはじめて勝利感をまざまざと肌に感じた。わが方が失った祥鳳は搭載機二十七機の改造空母であるに比べ、撃沈したレキシントンは搭載機九十機の米海軍最大の正規空母であり、同じく空母ヨークタウンをも撃破していたからである。しかし戦略的に見ると、日本はポート・モレスビー攻略作戦を中止せざるを得なかったし、かけがえのない搭乗員を多く失ったのであった。
「五月九日。大本営ヨリ今期海戦ノ戦果発表アリ、即《スナハ》チ『我帝国海軍ハ六日ヨリ珊瑚海ニ於《オイ》テ英米機動部隊ト思ハルルモノニ対シ戦闘ニ入リ、七日米戦艦一撃沈、英ウォースパイト型大破又ハ撃沈、翌八日サラトガ撃沈、ヨークタウン撃沈確実、カルフォルニア型戦艦一、重油船一大破、大巡大火災ヲ生ゼシム、本海戦ヲ珊瑚海海戦ト称ス』トノ意ノ文章ナリ。本日ハ残存ノ戦艦群攻撃ノ命ガ四Fヨリ出デタルモ、使用ニ耐ヘ得ル機、艦攻七、艦爆同機数位ニシテ、結局攻撃ヲ取|止《ヤ》ム。本艦ハ結局機上戦死一名、海中ニ墜落死セル整備員一名アリシニヨリ、戦死ハ二十一名トナツタ。翔鶴ノ搭乗員ノ損失ハコノ三倍ニテ、尚《ナホ》敵機ノ爆撃ニヨル被害ソノ後詳報入リ、戦死一○○、重傷九五、軽傷三○、重傷中ニハ危篤ノ者モ多数アル模様、医務科ノ天手古舞ガシノバレル。翔鶴ハ前甲板後甲板左舷及ビ艦橋ニ近キ右舷機銃甲板ニ被弾ヲ受ケ、機銃ハ吹ツトビ、信号員整備員ノ多数ガ爆風ニヨリ海中ニトバサレタリトイフ。投錨《トウビョウ》装置モ破損シ繋留《ケイリュウ》モデキズ、入渠《ニュウキョ》ノタメ呉カ横須賀ヘ直航スルラシ」
二日後の夕刻、飛行甲板に総員集合、今まさに去ろうとする珊瑚海の夕映えの海に向い、一分間の黙祷《もくとう》を捧《ささ》げた。水平線には一|連《つら》なりの豪華な積乱雲が身じろぎもしない。それは濃紫色に、天鵞絨《ビロード》のような鼠色《ねずみいろ》に染まり、きらめく朱と金に縁どられている。一瞬雲間から最後ににぶく燃えたつ平たい太陽が姿を覗《のぞ》かせ、おだやかな波の背に紅を流した。見る見るうちに沈んでゆく。幾筋かの直線光を、桃色、黄、水色と微妙に淡く三段に色わけられた空に斜めに残しながら。それもつかのまで、急速に海の表面がかげりを帯びる。その中を航跡が妙にむなしく長く尾をひいてゆく。その航跡に沿って青白く光る今夜のおびただしい夜光虫の群れを暗示しているかのようである。早くも南十字星がかすかに低くまたたき始めた。
自然は残酷なまでに美しい、と城木達紀は思った。そうして、目に映る自然があまりにあでやかに絢爛《けんらん》と見えることに、ふっと一|抹《まつ》の危惧《きぐ》を覚えた。人間は死ぬ間《ま》際《ぎわ》に、風物をこのように胸に沁《し》みて眺めるのではないか。
しかし、人間というものはあくまでも現金なものであった。危険海域を離れて一路トラック島へ向っている翌日には、眠いような幸福感めいた気分さえ訪れた。群青の海も、そこを進むMO作戦南洋部隊の編入を解かれた瑞鶴と巡洋艦二隻駆逐艦二隻の小艦隊も、いかにものびやかに平和そのもののように見えた。
医務室に、瑞鶴に着艦していた翔鶴の戦闘機乗りの山口大尉という髭面《ひげづら》の男がきた。実は長らく淋病を病んでいたがもう大丈夫と思う。近々結婚しようと思うので全治判定をしてくれ、というのである。尿を検鏡してみると、上皮細胞が多く、その間にたしかに怪しい菌体が見える。
「どうも危ないです。再検査が必要です」と告げると、いかにも落胆したらしく子供のような泣き顔をした。
「癒《なお》るのかね、軍医どの。一体癒るものなのかね?」
城木は、内地へ戻るまでに必ず癒してやると受けあった。それから、もっとも死ぬ確率の多い商売と妻を娶《めと》ることの関連について、思ったことを率直に問うた。すると、淋病に対してはすこぶる気の弱かった山口大尉は、髭面を天井にむけて呵々《かか》大笑した。
「君、人間というものはそう死ぬものじゃないよ。艦だってなかなか沈むもんじゃない。見給え、あれだけの大海空戦で、沈んだのは祥鳳一杯じゃないか。死のうたって人間はぞんがい死ぬもんじゃない。俺は女房を未亡人なんぞにはしないよ、君」
山口大尉は自信たっぷりにそう言ってのけたし、城木もそのとき確かにその言葉を胸の中で肯定したものである。
――だが、彼らは誤っていた。戦争は日と共に加速度的に犠牲を要求しはじめていた。
瑞鶴が先にドック入りをしていた翔鶴のあとを追って久方ぶりに呉に入港し、士官連中がつかのまの芸妓《エス》遊びに日を送っているとき、突如、凶報がきた。
「六月六日。此《コ》ノ日大凶報入ル。即チMI作戦ニ従事セシ我航母全滅ノ悲電入リタルナリ。赤城、加賀、蒼龍《ソウリュウ》、飛龍スベテヤラレテシマツタラシイ。ミッドウエイ上陸一時中止、AL作戦モ一時取止メトナル。一日中|鬱々《ウツウツ》トシテヰタ。一挙ニシテ日本ノ満足ナ本式空母ハ現在ノトコロ瑞鶴一杯トナツテシマツタワケデアル」
こうして、事実とはかけ離れた大戦果発表に酔う国民とは別に、城木は運命のミッドウエイ海戦の真相を知る、ごく限られた、暗いかげを持つ一人ともなった。
しかし、空母瑞鶴は戦いを続けた。
初夏には北方部隊に編入され、霧に閉ざされたキスカ島周辺の陰鬱《いんうつ》な海を長いこと水すましをやった。水すましとは、索敵をしながら同じ海域を、その名を冠する水棲昆虫《すいせいこんちゅう》のようにぐるぐる廻るのである。ねっとりとまつわりつく霧、じっとりと湿った飛行甲板、そうした暗く頭を抑えつけられるような天候や灰色の海を見ていると、このあいだまでの南方の暑さが夢のようにも思い返される。だが、それも長い期間ではなかった。八月中旬には瑞鶴はふたたびソロモン海域へ向った。そのしばらく前、米軍はふいにガダルカナル島に上陸していた。同島をめぐる攻防戦は日ましに激化し、海空の戦闘、補給線の叩きあいは、涯《はて》しのない一大消耗戦と化しつつあった。その中にあって、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と、瑞鶴は修復なった姉妹艦翔鶴と共にその主役を演じた。そして瑞鶴は常にその名のとおり幸運に恵まれた。同じ戦場にいて、いつも損傷を受けるのは翔鶴であり、他の空母であり、瑞鶴は搭載機を失いこそすれ、艦自体は未だ不死身のように無傷であった。
「瑞鶴は沈まぬ」という迷信じみた観念が、いつとなく乗組員のあいだで信じられた。しかしその実、明日は一切がわからぬという生死紙一重の人生が、彼らをそうした観念にもしがみつかせていたのである。それよりも、密閉された艦内は、生死などということを考えさせぬくらいに暑かった。兵員病室の患者がどうしても微熱がとれぬ原因が判明した。病室自体が摂氏三十七度を遥《はる》かに越え、体温計をふって水銀を下げても、その温度までたちまち昇ってしまうからであった。
その中で城木達紀は惰性と運命に身をまかしていた。度重なる戦闘は感覚を鈍磨させた。もはや身に迫るなまなましい緊迫感が、恐怖感がやってこないことは不思議なくらいであった。もちろん「戦闘用意」の令がかかるたびに、なじみとなった戦慄《せんりつ》は走る。だがそれは、どこかいったん女を知ったあとに女に接する感情にも似ていた。新しい軍医も乗艦していて、城木は上甲板わきの応急治療室ではなく、艦内の治療室の配置となっていた。艦内にいると敵襲の際、拡声器の指令以外まったく様子がわからない。そのことは甲板にいるよりもっと不安をかきたててよいはずであったが、城木はそれを単に「いやな感じ」と思ったし、死のうが生きようがどうでもよいと思うことすらあった。おれは南方ぼけ、戦争ぼけになったらしい、と彼はときどき呟《つぶや》いたものだ。巡検後に飲むビールの量が明瞭《めいりょう》に増え、遅くまで他の士官とブリッジや将棋をつきあう日常は、惰性以外の何ものでもなかった。
一空母の軍医の身では、もとより客観的な戦局の判断はむずかしい。しかし、ガダルカナル島を中心として、日本軍が今までにない障碍《しょうがい》に遭遇していること、そればかりかじりじりと圧迫されだしていることは理解できた。なにより瑞鶴の戦力自体の変化、つまり飛行機搭乗員の質の低下は否応なしに納得しなければならなかった。開戦のころ、瑞鶴の飛行機搭乗員は、赤城、加賀などに比べれば、まだまだ技倆《ぎりょう》が落ちるといわれていた。とはいえ、珊瑚海当時はすでに歴戦の兵《つわもの》であった。それがガダルカナル奪取をめぐる戦闘の際には、度重なる損耗により、ほとんど顔ぶれが一変していた。それも、未経験のほうへ、未熟なほうへと変っていたのである。
城木はそれでもまだ日記をつけてはいた。乗艦した当時と比べ遥かに文字も粗雑な、ほとんど書きなぐりの日記を。
「八月二十四日。○四三○索敵機出発。○九三○配置ニツケ。敵ノ大艇ニ触接サレタルラシ。終日戦闘配食。午前ノ索敵成功セズ。
一三○五突如戦闘用意、間モナク対空戦闘ノ令カカル。西木兵曹、前方ノ翔鶴ガ爆撃サレテ水柱二三本上ツタトテオロオロシナガラヤツテクル。第一次攻撃隊出発、二五○哩ノ地点ニ航母二、戦艦二、巡六、駆十ノ大艦隊ヲ発見シタトノコト。緊張シテヰル間ニ対空戦闘トナリ、機銃、高角砲ヲドンドン射チダシ、今当ルカ今当ルカト気ガ気デナシ。何カ仕事ヲヤツテヰルカ外デモ見テヰタ方ガヤハリ気ガマギレテ良イ。シカシ後デ聞イテミルト、上空直衛ノ味方ノ戦闘機ヲ気モ動転シテ射ツタモノトノコト、後デ各指揮官コツピドク叱《シカ》ラレタ由。
一四○○第二次攻撃隊出発、然《シカ》シ夕刻ニ至ルモサツパリ音《オト》沙汰《サタ》ナシ。暗クナツテヤツト二次攻撃隊ガ帰ツテキタノデ、戦況イカニト期待シテヰタトコロ、コイツ等ハ全然敵ヲ見ツケ出セズ、空《ムナ》シク帰ツテキタトノ事、アイタ口ガフサガラズ、コンナ事モアルモノカト悲嘆ニクレタ。今度ノ飛行機屋連中ハ今マデノニ比シ誠ニパツトシナイ感ジデアル。以前ノハ荒ツポカツタガ頼《タノ》母《モ》シサガアツタ。
一次攻撃隊、時間ノ二○○○ニナツテモ一機モ帰ラズ、皆打落サレタモノトハトテモ考ヘラレヌ。油ガ切レテ不時着シタモノラシイトノ事、ソレニシテモ位置クラヰ無電デ知ラセアツテ何トカナリサウナモノナリ。
余リ緊張シ通シナノデ昨日カラ腹具合思ハシクナカツタノガ更ニ悪クナリ、夕食モ食ハズ早ク寝ル。枝隊ノ龍驤《リュウジョウ》、敵襲ヲ受ケテ火災ヲ起シタトノ事、沈マネバヨイガ」
「八月二十六日。○四○○配置ニツケ、以後第二配備、診察終リテホツトシタトコロ、○八○○配置ニツケ戦闘用意、敵大艇キタルトノコト、コレハズヰブン時間ヲカケテヤツト撃墜シタラシイ。戦闘機モ丸デ下手デアルサウナ、初陣《ウヒジン》ミタイナ奴バカリデ実ニ心許《ココロモト》ナイ。
一昨日ノ爆撃デ、翔鶴ハ回避ノ際、艦戦一機海中ニ落チ、ソレニツイテヰタ六名戦死トノコト、ヨク狙《ネラ》ハレル船デアル」
「八月二十八日。ブカ島(ソロモン北端)ヘ艦戦十機出発、ガダルカナル攻撃ノ中攻ノ掩《エン》護《ゴ》ニ使フ由。ガダルカナルノ敵前上陸ハ二十四日カラ何回カ企テタガ途中デヤラレ、今度ハ駆逐艦ニ上陸員ヲ乗セテ夜間上陸スルトノコトデ、ナントカ成功サセタキモノナリ」
「八月三十一日。終日水スマシ。ガダルカナル続々上陸中トノコト、然シ本艦ノ零戦天候不順ノ為九機不時着、使ヒモノニナラナクナツタ由、無念。午後機関科ノ診療ヲ行フ。汗モノ患者圧倒的、顔ノ青キ者多シ。主計科モ同時ニ行ヒ、之亦《コレマタ》青白キ者多シ、多数要注意患者トス」
「九月四日。○四○○配置ニツケハ、眠クテ仕方ナキ為、ウツツノ中ニ不貞寝《フテネ》ヲシテヰタトコロ、再度配置ニツケアリ、サスガニ慌《アワ》テテ服ヲ探シタガ、昨日交代シタ従兵ガドコカヘ片ヅケテシマヒ、ウロウロスルウチニ、ハッチヲ閉ザサレテシマツタ。今ニモ敵潜ノ魚雷ガクルカ対空戦闘ニナラヌカト気ガ気デナイガドウニモナラズ、死ヌナラ死ネト思フモ、コンナ艦底ニ閉ヂコメラレテ死ヌノハ厭《イヤ》ダト思ツタ。ソノウチ第三配置トナリ、ヤウヤクハッチガ開イタガ、実ニヒドイ目ニ会ツタモノダ」
「十月十五日。○五一五朝食時敵大部隊発見ノ報アリ、然ルニナカナカ飛行機発進ノ模様ナキ為イブカシク思ツテヰタトコロ、敵ハ小サナ輸送船団ニシテ、ソノ後方ニ機動部隊ガ居ラヌカト索敵中トノコトナリ。○九三○遂ニ此ノ敵ヲヤツツケル事ニナリ、艦攻艦爆翼ヲツラネテ発進、一二○○第二次攻撃隊発進、残ルハ爆攻合セテ数機トイフ大攻撃ブリデアツタガ、相手ハワヅカ数隻ノ輸送船団デ相手ニ不足、アツト言フ間ニヤツツケテ来ルナラント思ヒシニ、○二○○一次攻撃隊帰着、四名ノ負傷者アリ、一名ハ相当ノ重傷ナリ。スベテ応急治療室デ処置セシタメ詳細ハワカラズ。戦果|如何《イカン》ト聞ケバ、防空巡洋艦カイロ型一隻撃沈、駆逐艦一大破トノコト、ゴツソリ出カケテ行ツテコンナ結果トハ情ケナイト、一同インド洋珊瑚海当時ヲ懐シム。我損害艦爆艦攻各一。
日没後第二次攻撃隊帰艦。久方ブリニ夜間着艦ヲ見ンモノト艦橋ニ上ルニ、先頭ノ機、右ニ流レナガラ着艦シ、余リニ右ニ寄リスギシ為信号|檣《ホバシラ》ノ索ニカカリ、艦橋ノ入口ニ翼ヲブツケ、グツト右ニ曲リテ十人バカリノ人間ヲフツトバシ海中ニ落下、一同色ヲ失ヒテ海ヲ覗《ノゾ》キコンダ時ハ、機ハ脚ヲ上ニシテ人影ハ見エズ、甲板上ハ悽愴《セイソウ》ナ騒ギトナツタ。応急治療室ニテ処置ヲ手伝フ。計十名以上ノ死傷者ヲ出シ、ウチ一名ハ胸部打撲ニヨリ肺出血ヲ起シ重態ナリ。
第二次攻撃隊ノ戦果ハ、二隊ニ別レ一隊ハ敵ヲ発見セザリシ為、巡一ニ爆弾四命中、輸送船ニ一二発命中位ニシテ撃沈ニハ至ラナカツタトノコト、重ネ重ネノ醜態ニテ、コンナ飛行機屋バカリデハ、モシ珊瑚海ノヤウナ情況デアツタラドンナコトニナルデアラウト一同慨嘆シタ」
「十月二十二日。ズツト身体ノ調子思ハシカラズ。便通不規則ニシテツマルカト思ヘバ下痢シ、食欲アルカト思ヘバ無食欲トナリ実ニ変調ナリ。体重モ何キロカ減リ、顔モ痩《ヤ》セタト言ハレ憂鬱《ユウウツ》ナリ。本日モ他艦ノ曳航《エイコウ》給油ノ為十二|節《ノット》クラヰノ微速デ水スマシ。
ガダルカナルノ陸軍ノ攻撃ハマタ明日ニ延期サル。然シ陸式カラハ戦捷《センショウ》我ニアリ、御安心ヲ乞フトノ無電ガ来テ居リ、司令部モ上陸シテ総勢二万近ク、之カラモマダ上陸スルサウダカラ、ヨモヤ攻撃失敗ニ終ルコトハナイダラウト思フ。ゼヒトモ成功サセタク、マタ成功シテ貰ツテ、寒イ内地ヘ帰リタキモノナリ。本日下痢五回。成行キニマカセル」
「十月二十五日。朝頭痛デ配置ニツカズ寝テヰタトコロ、ガダルカナル敵飛行場占領トノ拡声器ノ声入リ、大イニ元気ヅク。
トコロガ午後、飛行場占拠ハ誤リニテ、陸軍ハ飛行場ノ一角ニトリツキ交戦中トノコト、一同ガツカリスル。此ノ前ト同ジヤウナヤリ方デ、ナゼ取リモシナイ飛行場占領ノ報ヲ出シタノカ。ソノ上、前衛部隊ニ敵B17飛来、由良《ユラ》及|秋月《アキヅキ》被害ヲ受ケ、前者ハ仲々ノ損傷トノ報入リ、憂鬱限リナシ。
陸軍ハ今晩七時ニ再ビ攻撃ニ出ルトノコト、ナントカウマクヤツテクレト神ニ祈リタクナル」
「十月二十六日。○一○○突然異様ノ音響ニテ目ヲ覚マシ、ウツラウツラシテヰルウチ配置ニツケノ令アリ、慌テテ服ヲ着ル。後デ聞ケバB17ヨリノ爆弾海中ニ炸裂《サクレツ》セシ音デアツタト。危フキカナ。
敵航母二杯発見ノ報アリ、一次、二次攻撃隊発艦、マモナク対空戦闘。自分ハ士官室ノ配置ノ為外ノ様子ガ全クワカラナカツタガ、敵機三十機バカリ、マヅ瑞鳳《ズイホウ》ニ一発命中セシメ、ツイデ翔鶴《ショウカク》ニ攻撃ヲ集中、二発バカリ命中シ大火災ヲ起シタトノコト。○九○○頃甲板ヘ出テミタトコロ、瑞鳳ノ火災ハ止《ヤ》ンダガ、翔鶴ハ白煙|濛々《モウモウ》ト吹キダシ仲々鎮火セヌ模様、一同実ニ運ノ悪イ船ナリト噂《ウハサ》シアツタ。
一○○○第一次攻撃隊帰艦、本艦ノ飛行機ハ殆《ホトン》ドヤラレ、爆攻二三機ヅツシカ帰ラヌ模様、瑞鳳、翔鶴ノ発着不能ノ為、コレラノ機ハ皆本艦ニ収容ス。一三○○第三次攻撃隊発艦、コノ頃、敵空母一|轟沈《ゴウチン》、一大火災、戦艦一轟沈ノ報入リ、一同大イニ喜ブ。第三次攻撃隊ハ即チ大火災ヲ起シナガラ浮ンデヰル航母ニ止メヲ刺スベク出発シタルナリ。
夕刻ニナツテ、戦果モ次第ニ拡大シテユクラシイガ、犠牲モ誠ニ大キイコトガ判ツタ。何十機トイフ数ガ未帰還、本艦ハ士官室ノミニテモ八名、ソノ他ニ士官次室、准士官室ニモ帰ラヌ者多数トノコト、言フ言葉モナシ、敵ハ二ツノ見事ナ輪型陣ヲナシ、航母ヲ中心ニ巡、駆ガグルグル廻ツテ、ソノ防禦《ボウギョ》砲火ハ実ニ凄《スサマ》ジイモノデアツタト」
「新聞電報発表サル。二十七日大本営発表トシテ、航母四隻撃沈ヲ初メトスル戦果ガ並ンデヰルガ、大分前日ノ評定トハ差アリ。本日モ研究会アレドモ諸説|紛々《フンプン》トシテ定マラズ、今ノトコロハ航母二隻撃沈ラシイ。明日|隼鷹《ジュンヨウ》ノ飛行家連中ガ来レバ又紛々トスルヤモ知レズ、仲々海戦ノ戦果ノ判定ハ難《ムヅカ》シイモノト思ツタ。
一三○○隼鷹ニ着艦機上戦死セル藤田大尉ノ水葬隼鷹ニテ行ハルルニツキ、総員右舷ニ集リテ之ヲ送ル」
……そして、その十一月の初め、明けかけた豊《ぶん》後《ご》水道の沖合に、数隻の駆逐艦に守られた平べったい鼠色の空母のかげが現われた。なにかうす汚れたようなその艦体、――それは艦も機も乗員も疲弊して、三カ月ぶりに内地へ戻ってきた瑞鶴の姿であった。
その未明、為《え》体《たい》のわからぬ轟音で城木は目覚めさせられた。あたかも魚雷でも喰《くら》ったような凄《すさ》まじい音響である。その底ごもる爆発音は次々と連続し、なかなかやむ気配がない。敵襲でないことは、配置につけのラッパがないことからわかるが、さすがに寝ている気がしない。これは豊後水道入口の狭《せば》まった海面に、敵潜水艦に備え、駆逐艦が爆雷の威《い》嚇《かく》攻撃をやっていたのであった。懐《なつ》かしい内地、夢にまで描いた内地、葉を落した雑木林、忘れかけた畳の感触、角《かく》火《ひ》鉢《ばち》にかけられた鉄瓶《てつびん》に湯のたぎる音、街の雑沓《ざっとう》、そのなかにはきっと沢山のあどけない子供や和服姿の女が交っている……その平和な、のびやかな、心安まるはずの内地への帰還にまで、執拗《しつよう》な戦争のかげはつきまとっていたのである。
しかし、つかのまの休養と整備を終えた瑞鶴は、徳山近海で新しい搭乗員のために連日発着艦訓練を行なったのち――その間、はじめて新鋭の一四試艦攻の公試があったが、テスト・パイロットが操縦するためか、その着艦ぶりは実に滑《なめ》らかであった。そうして見ると、経験豊富な搭乗員がいかに貴重であるか、その頼みとなる熟練者がいかに多くこの一年で失われてしまったかが、城木のような素人にも更《あらた》めて痛感されるのだった――その年もおし迫ったころ、久々に横須賀へ入港した。そして城木は二晩三日の帰省を許された。一年ぶりのわが家である。朝食の味噌《みそ》汁《しる》が熱く甘く、葱《ねぎ》は舌にとろけるようで、白い飯にも言いがたい家の味が沁《し》みているようである。夕《ゆう》餉《げ》の鋤焼《すきやき》も甚《はなは》だしく美味であった。しかし彼が肉を更に所望すると、配給でこれしかないのだと母が済まなげに告げた。
明日は帰艦という日の夜、城木達紀は楡|藍子《あいこ》と会った。彼自身が藍子に電話をしたのであった。友人峻一のその後の様子でも聞けるかも知れないと心に言いきかすようにして。その実、彼は藍子に会いたいと念じたのだ。なにもそれは藍子でなくてもよかった。惰性のような芸妓《エス》遊びへの悔恨が、ふたたび戦場におもむくまえに、なにかしら無垢《むく》の少女の像を彼に求めさしたのである。記憶のなかにある藍子はそうした感傷にふさわしく充分に可《か》憐《れん》であったし、なんということもない淡い一刻《ひととき》、とりとめもない幼い会話を城木は求めたのである。
しかし、そのわずかの邂逅《かいこう》は、思いがけないものとなった。夕食後という時刻に、藍子が自ら主張して外へ出てきたことは、不在の母と無干渉な父のその家庭からおしてさほど不思議ではなかったにせよ。
……そこは神宮|外苑《がいえん》の、信濃《しなの》町駅に近い、芝生と木立にかこまれた一隅であった。冬の霧が急に深くたちこめだして、向うの街燈の灯が滲《にじ》んでいた。たまたま通りかかる自動車のヘッドライトが、その灰白色の微粒子の層を、つかのま童話じみたものに浮びあがらせ、あとに痛いほど冷やかな闇《やみ》を残した。
いくらかの酔いのなごりが、より深い酩酊《めいてい》に城木を誘った。あたりを閉ざす闇と霧の壁、耳たぶを刺す寒気、深い静寂、それは異質の見覚えのない世界のような気がした。少なくとも彼にとっては、あといくらも残っていない時間の恵んでくれた、いかにも脆《もろ》い、壊《こわ》れやすい珍《めずら》かな世界のようであった。
彼と一緒に石のベンチにかけている藍子との間にしばらく会話がとぎれ、闇と霧と寒気とを吸いこんでいると、隣の少女がふと架空の気体に似た存在のようにも思えてきた。
「寒くない?」
と、城木は何度目かの似たような短い言葉を吐いた。それから、家まで送っていこうと言って立上りかけたとき、ふいに彼は、その問いかけには関係のない、低くかぼそいながらどこか絶叫にも似た、押しだすような切迫した声を聞いたのである。
「お死にになっちゃ、いや!」
それは唐突な、場違いの言葉のように響いた。そして藍子はまっすぐに前方を、やや下方を直視し、向うにある街燈の霧を通したかぼそい黄色い光が、その横顔をいかにも固く突きつめた表情に、あたかも小さな巫女《みこ》ででもあるかのようにこわばらせて見せた。
とっさに城木は返答ができなかった。すると藍子は、相変らず躯《み》を表情をこわばらせたまま、機械仕掛の人形のように、同じ言葉を、低くきれぎれに反復した。それから、地味な紺色のオーバーに包まれたその女学生の身体は、堰《せき》を切ったように平衡を崩《くず》して隣の男に寄りかかった。
冷たい闇のなかで、かすかな光のなかで、城木はその脆《もろ》い柔らかな生き物を見下ろした。少女の顔は溺《おぼ》れかけたもののように震えながら仰向いていた。城木の身体のかげとなっておぼろな輪郭しかわからなかったが、おそらくは青ざめて、おそらくは凍えきって、ただ黒々とした瞳《ひとみ》だけが喘《あえ》ぐようにこちらを見つめていた。その唇《くちびる》は救いを求めるようにわずかに開き、頼りなくふっくらとまくれあがって見えた。
城木は我知らず、その小さな口のうえに自分の口を重ねた。唇の感触ははじめ冷たかった。だが、その頬《ほお》は意外に熱く火照《ほて》り、それよりも熱いきれぎれの少女の息吹《いぶ》きが、やがて彼らの口づけを、辺《あた》りを閉ざす寒気とはおのずから別なものにした。幾度目かに、城木は相手のくちびるが開き、おずおずとした何も知らぬ舌が、息をのんで震えおののくのを知った。お互いの外套《がいとう》が二人の思いがけぬ抱擁をなおさらぎこちなくさせたが、そのかさばった厚い生地の下で、藍子の華奢《きゃしゃ》な身体がまるでただならぬ恐怖に襲われたかのように硬くなり、ついでぐったりと緊張を解くのが感じられた。
はじめて城木は藍子の顔から自分の顔を離し、ふいに不可解なまでいとしいものとなったその顔を、更《あらた》めて見定めようとした。と、彼の腕の中で少女がなにか言った。さきほどまでの口調とがらりと変った、まるきり子供じみた、あけすけに躯《み》をもたせかける、熱に浮かされたような、かえって技巧的とも思えるような甘え声であった。
「ほっとしたわ。藍子、安心したわ。どうして? ねえ、どうして?」
もとよりそれは、返事を期待するような言《こと》問《とい》ではなかった。そして、城木の肩に頬をもたせたまま――まるでそのさまは、これで何もかも一切が解決し落着したと心の底から安《あん》堵《ど》したとでもいうようなおもむきがあった――一方の手で相手の海軍外套をとうからの恋人さながらに撫《な》でながら、藍子はだしぬけに口早に言葉をつづけた。まるきりたわいもない、愚かしいまでにたわいもない幼児じみた言葉を。
「……藍子はずっと昔から考えていたの。藍子にはどこかに別のお兄さまがいて、きっといつか帰っていらっしゃるって。だって峻一お兄さまはちっとも藍子を好きな所へ連れていってくれないんですもの。自分一人で飛行場なんかばかりへ行っていて……。だから藍子はその別のお兄さまのことばっかり考えて、もしそのお兄さまが帰ってらしたら、贈物をしようって、消しゴムをどっさり集めたの」
「消しゴム?」
と意味もなく城木は問い返した。
「そう、消しゴムなの。いろんなのがあるのよ。色も形も。青雲堂ってお店があって、家《うち》はそこはただで買えるの。それでも藍子、ほかの店でも珍しい消しゴムがあると、お金を出して集めたのよ。そういう何十っていう消しゴムをちゃんと箱に入れて蔵《しま》っておいて、もしお兄さまが帰ってらしたら、はい、ってそれをあげるつもりだったの。そうするとお兄さまは、藍子ありがとうって、藍子を優しく撫でてくれるのよ。藍子、女学生になってからもまだ消しゴムを買ったわ。その箱をまだ持っているの。藍子って、莫迦《ばか》でしょう? ねえ、ほんとに莫迦みたいでしょう?」
もとよりそれも返答の不要な質問であった。その代りに城木は、もう一度藍子を――この一年彼が過してきた日常とはあまりにへだたった事柄をたわいもなく話しつづける少女を抱きしめた。今度は安心しきった相手の唇がむさぼるように彼の唇を求めてき、凍えきった闇のなかで二人のかげはしばらくの間動かなかった。それは平時では考えられない唐突な結びつき、おそらくは限られた僅少《きんしょう》の時間のもたらした、いわば戦争の生んだ偶発の抱擁ともいえた。
しかし現実に、外套の下の藍子の身体、来年女学校を卒業するその細いいくらか骨ばった身体は、ふたたび何かの恐怖に堪えかねるかのように小刻みに固く震えた。そして彼女は、もはや自分の夫ときめこんでしまっている男の胸に、わけもなく何も考える余裕もなく、二度三度とひしとすがりついた。
第三章
米国の――日本が全力を奮って戦っている敵国アメリカのことではなく、今にして思えばなんの因果か親からさような名前を与えられてしまった楡|米国《よねくに》の精神状態は、このところ益々偏《ますますかたよ》ったほうへ、はかばかしくないほうへと傾いてゆくようであった。千代子が初対面のときからいぶかしく思った奇妙な気質、偏《へん》頗《ぱ》な言動がいっそう助長されていたが、千代子にしても楡家に嫁入ってから十年という歳月が経《た》ち、この変り者の義弟に気がねするということはすでになかった。相変らずひさと龍子に実際上の権力を握られて鬱積《うっせき》している彼女の心は、ややもするとこの義弟を気分のはけ口、べつに悪意はないにせよ一刻《ひととき》の慰み物とすることもなくはなかった。
また米国は米国で、彼にとっては忠義な家来であり朋輩《ほうばい》であり上官でもある佐久間熊五郎は別格として、どういうものか、近頃ではずけずけと自分にものを言うようになった嫂《あによめ》にいろいろなことを打明けたのである。
「お嫂《ねえ》さん」と、彼は二人だけで茶の間に残った折など、仔《し》細《さい》に湯飲み茶碗《ぢゃわん》をもてあそびながら、重大な告白でもするかのように、柄にない――と千代子は感じた――深刻げな表情で独《ひと》りごとのように話しだす。「正月が終って……もう客もない。こんなにざわざわと客のくる家、……本当は来なくってもいい客ばかりなんだ。それでも客が来なくなると、あなただってなにか空虚《うつろ》な感じがするでしょう? そういうとき人間は、自分の腕なんかをつくづく眺《なが》めるものです。ふだんは腕なんてなんのふしぎもない存在で、あるのかないのかもぼく達は忘れているもんです。だが、そうやってみると、たるんだ皮膚がおおっている。そこに毛が生えている。自分とは関係のないおかしな物体のように見える。一体そこに何本毛が生えているのか、つくづくと知りたい気分にもなってくる……」
「莫迦《ばか》おっしゃい」と、千代子は米国のものの言い方には慣れているくせに、ときにはそのあまりの愚劣さにかっ[#「かっ」に傍点]となって言い返す。「毛が何本あるかなんて……。猿より三本多いだけですよ」
「いや、ぼくの言うのは」と、米国はちょっと逡巡《しゅんじゅん》して、しかし実験でもするように金壺《かなつぼ》眼《まなこ》を寄せて自分の腕をつくづくと見る。そのさまは常軌を失しているというか、なにか埓《らち》を越えた厚かましさのようなものが感じられた。
「毛が何本あるかという事実ではなく、それを知りたいという欲求が起ってくる。その意識をさしているんですよ。こうやって見ると不思議なものだ。その他にこの皮膚には汗腺《かんせん》や脂肪腺なんてものが無数に穴をあけているのですよ。それから、こうやって撫《な》でると、静脈がだんだん浮きあがってくる。ほら、ここですよ、お嫂さん、ちょっと触《さわ》ってごらんなさい」
「いやですよ、気味がわるい」
「そうなんです。気味がわるいんですよ、お嫂さん。それをわかってくれる人はこの家にはまったくいないんです。ぼくが思うに、これは医者の家のせいだと思うんです。あまりに人間の身体を見慣れている、物体として見慣れている、そのための不感症というか……」
「米国さん、お茶を入れましょうか」
「いやいや、お茶なんて結構。お茶どころか、気味がわるいでしょう? どうです? 自分の腕であっても気味がわるいでしょう? だがもう少し、しばらく我慢をしてじっと眺めてみるんです。するとその不気味な腕が、それでも自分のものであるという意識によって、なんとなくいとしくもなってくるのです。これは不思議なものですよ、ずいぶん長いことじっと見つめていなくちゃならないんですが。そして、その次にくる感情は何だと思います? 一体全体何だと思います?」
「さあ、一体全体なんなの、それは?」
と、千代子は多分の冷笑を声に含ませて訊《き》いた。しかし、相手はその程度の嘲笑《ちょうしょう》を意に介すどころか、自分の話題のなかにすっかり没入していることは明らかであった。
「むなしさです」と、米国はほとんどいかめしく言いきり、のみならず首すじまでしゃんとのばしたようであった。「空虚《うつろ》さです。おそろしい空虚さです。ちょうど正月が終って、料理もなくなり、松も取るばかりになって、酒を飲みたいばっかりにやってくるろくでなしの客も来なくなり、そうしてあとには四方八方がらんとしたむなしさが残る。ちょうど今、現在のような状態を感ずるのです」
「まあ、それでようやくさっきの話に帰るってわけ? まるで落し話みたいね」
と、千代子は真剣このうえもない義弟の表情をけっこう面白がって、あまり飲みたくもない茶を自分の湯飲みについだ。
「でも、あたしはお客さまがこなくなっても、ちっともうつろには感じませんよ。ただほっ[#「ほっ」に傍点]とするだけ。またどうして正月が終るとむなしいの?」
「お嫂さんはそう感じないのですか?」
と、芯《しん》からびっくりしたように米国は問い返した。
「客が問題ではない。正月そのものが問題なのです。楡家の正月のあり方が問題なのです。普通の家だったら、元旦という朝には、家じゅうが集まって、新年おめでとうと言って、屠蘇《とそ》を飲み、お節供《せち》なんかをつまんで、まあ一家|団欒《だんらん》するわけじゃありませんか。ところが家《うち》じゃあてんでばらばらに自己流にやるんです。むかしの青山の奥には子供なんかはいれなかった。そこでぼくなんか子供のころは賄《まかな》いへ行って、書生と一緒に屠蘇をのみましたよ。今のこの家ができたとき、ぼくはこれで家《うち》も小ぢんまりと家庭的にまとまってきたかなと蔭ながら思っていました。ところがますますばらばらなんです。第一この食堂にみんなが顔を合わせることがない。お母さまはまあお歳《とし》だから、御自分の居間で皆の挨拶《あいさつ》を受けられるのはいいとして、あとの連中まで自己流なんです。ぼくは興味をもって元旦はここで観察してたもんです。まっさきに龍さまが――と米国は昔の習慣のまま徹吉と別居中の姉のことをそう呼んだ――現われて、いきなり一人で屠蘇の盃《さかずき》を、それも一番下の大きい奴《やつ》をとりあげてちょっぴりついで嘗《な》めて、米国さん、お屠蘇ってものはまったくおいしくないものね、とおっしゃって、そのまますたすた行っちまいました」
「それはお義姉《ねえ》さまは……お中《ちゅう》さまはせっかちなところがおありですからね」
と、千代子はさりげない声のなかに十二分の皮肉をこめて言った。
「次に現われたのは欧洲兄さんでした」と、米国はやむことなく熱心につづけた。「つまり、あなたの御主人です。ふむ、今日は正月か、と兄さんは言いましたよ。それから新聞を少し読んで、次に自分で屠蘇を一杯のんで、これまたどこかへ行っちまいました。つまり、誰一人、米国、新年おめでとう、と言いはしないのです。みんなを待って、みんな一緒に元旦を祝おうなんて気持は露ほども持っていないのです」
「それはお忙しいからですよ。病院の式がひかえているからですよ」
「そうです。そのとおりです。その式にぼくたちまで全部出席しなけりゃならんからです。しかし、あれは単なる式です。形骸《けいがい》だけのものです。ところで院代は少し耄碌《もうろく》というか、神がかり的になってきたと思いませんか? わが楡脳病科病院は今や創立五十五周年を迎え……って確か五遍は言いましたよ。なんだか自分が院長で創立者であるかのような訓辞を、それをこんなふうなおそるべき鼻声で……」
「でも、あの人は本当の意味の功労者よ。欧洲もそう言ってますわ」
「もちろん、もちろん。ぼくはそんなことを言ってるのじゃありません。ええと、何を話していたんでしたっけ? そう、そう、つまり病院の式なんかばかりを重んじて、この家はまるで病院の附随物みたいなものなんです。家があって病院があるのではなくて、すべてはその逆で、ぼくに言わせれば、それもただの病院じゃなくて、次第々々にそれがみんなに影響していると思うんです」
「それはどういう意味?」と、千代子はさして相手の言葉に重きをおきもせずに言った。「精神病がみんなに感染《うつ》るっていうの?」
「感染りはしませんがね」と米国はしばし自分の声に聞き入るような表情をした。「ある意味ですべてに鈍感になると思うんです。精神病者の中にはいろんな妄想《もうそう》をもつ人がいるんですよ。ぼくは医者じゃあないが、むかしから精神病院の中で育ってきたんですからね。たとえば世界が今にも破滅するという確信をもっている人間がいます。空の色もただならぬ色をしている。太陽の輪郭が変った。地上にはかつてない瘴気《しょうき》が漂っている。そう確かにその人間には感ずるのです。ところが医者の側じゃあ一向平気だ。そんな妄想に一々おつきあいしていたら身がもたないわけですからね。そんな途方もない、このうえもない恐怖を笑ってすませるわけです。だが、世界が破滅するという怖《おそ》ろしい指摘まで笑ってすませる習慣から、すべてのことに鈍感に、無神経になってゆくわけです。たとえば正月の屠蘇を好き勝手に飲んだり飲まなかったりするのも、その一つの現われじゃないですか」
「そんなこじつけの議論はないわ、米国さん」と、千代子もさすがに可笑《おか》しくなって声に出して笑った。「そりゃあ、あたしの実家《さと》ではみんなが集まってお屠蘇をのみましたけど、それは単なる習慣ですわ。なにもそんな世界の破滅とは関係ないわ。この家はたしかに奇妙なところもありますけど、それは個人主義というか、なかにはちょっと変り者がいて、ただそれだけのことで……そんなこと言って米国さん、あなたこそ御自分で少し変り者だとお思いにならない? お嫁さんもちっとも貰《もら》おうとしないで、家庭とかお屠蘇とかいっていて、あなたくらいこの家の者でないような顔をしているような方もありませんよ」
「それは当然です。ぼくはいつでも除外者であり傍観者だった。理由は簡単です。それはぼくが楡病院の息子に生れて医者にならなかったからです」
「またそんなことを。お医者さまのほうがいいなんてことちっともないじゃありませんか。あたしも正直いって商家の出ですから、医者とか病院にはほんとはなじめない気がするわ」
「そんなことをおっしゃっても駄目です」と、米国は坐り直して、ほとんど非難の色さえ顔に浮べながら躯《み》を乗りだした。「お嫂《ねえ》さんはもうこの家で十年暮した。なんとか言っても知らず知らず染まってしまっているんです。いいですか、このぼくがあなたよりもずっと長く楡病院に暮して、しかもその毒気に染まらないでいられたわけは何だと思います」
ちょっと沈黙したあとで、米国はつづけた。
「その理由はぼくが病身だからです。しかも死病だからです。いいですか、それを誰も知らない。ぼくは決定を、最後の宣告を受けるまでは誰にも言いたくない。ぼくはもう何年という間それで悩み、じっとそのことばかりを考えてきた。つい口をすべらしたこともあった。だが、誰も本気にしてはくれない。欧洲兄さんなんかは頭から莫迦《ばか》にして、お前の結核は大丈夫さなんて言った。冗談じゃない。結核なんぞでぼくはそんな大騒ぎをしやしません。もっともお嫂さんだから言いますが、家《うち》には肺病の素質もあることはあるのです。お母さまもむかしやられたことがあった。中の姉は胸で死にました。それに今度入院した聡《さとる》だって、あんな元気な、少し不良じみたところもある子だったじゃないですか。やはりちゃんと体質的な遺伝があるんです。はっきり言って、聡は予後はよくないんじゃないかと思いますよ。聖《せい》さまみたいに急激な転帰をとるか、それとも一生を病身で過すかはわかりませんがね。そして、このぼくです。ぼくは本来ならとうに生きていない人間なんですよ。冗談じゃない、とうに呼吸を、新陳代謝をとめていたかもしれないんです。しかしぼくは結核を克服した。なぜだと思います? ぼくが自分の身体の条件をよく承知していて、それこそ慎重に、死ぬほど大事に扱ったからですよ。そうしてそのぼくが、本来なら死ぬべき病気を辛うじて克服したこのぼくが、もう一度死病に、今度こそ絶対に助からない病気に冒されたとしたら、どんな気がすると思います? お嫂さん、それが想像できますか?」
「あまり想像したくないわ」と、もはや米国の言辞には滅多なことでは驚かなくなっている千代子は、平気でずけずけと答えた。「それにしても米国さん、あなたはどうしてそう簡単に、死病とか、死ぬべきとか、新陳代謝をとめるとか、そんな言葉ばかりを使いなさるの? あたしには、あなたがそんなにお身体が悪いとは、どうしても思えませんよ。はっきりいって、あなたは長生きをしますよ。そんな愚痴をくどくど言いながら、誰よりも長生きしますよ」
「ぼくが長生きをする?」
と、米国は投げつけるように言って、少し身体を後方へずらした。彼のくぼんだ眼《がん》窩《か》の奥の金壺眼《かなつぼまなこ》は、いわば手ひどい侮辱を受けたかのように、落着きなく二、三度しばたたいた。
「ぼくが長生きをする?」と、彼は呆然《ぼうぜん》とした体《てい》で、もう一度繰返した。「これはひどい。これは面白い。これは異なことを聞いたものだ。ぼくの身体が悪くない? 一体どういう根拠で、お嫂さんがそんな無責任なことをおっしゃるのか、いやいや、ぼくにはちゃんとその理由が判っている。つまりあなたが楡家の鈍感さ、無神経さに染まってしまっている証拠なんだ。いいですか、あなた方は自分らが健康だからといって、およそ無神経な健康さを誇っているからといって、本当の病気を、それも不治の病気を持っている者を笑う権利などないはずですよ。さっき正月の話が出ましたが、あなた方は正月がきても単に一年|歳《とし》をとるだけだ。しかしぼくの場合、正月は一年寿命が……限られた寿命が確実に一年少なくなってゆくことを意味しているんです。いわば正月は、ぼくにとって死滅と滅亡への象徴といってもよいのです」
「死滅と滅亡……」と、千代子は腹のなかでひそかに愉《たの》しく呟《つぶや》いて、この奇態な義弟の存在が自分にとってかなりの気散じになっていることを感じ、ほとんど相手に感謝の念さえ覚えた。しかし、それを顔には現わさずに彼女は言った。
「あたしはべつに健康を誇ってはいませんよ。あたしはこんなふうに痩《や》せっぽちで、米国さんなんかよりも虚弱じゃありません?」
「とんでもない」と、米国は勢いこんで片手をゆり動かしてみせた。「それは見せかけにすぎない。おそろしい欺《ぎ》瞞《まん》です。もしあなたが、ぼくくらいの病気に冒されているとしたら、とても平気でそんなことを口に出せるものじゃあない」
「といって米国さんは、平気で自分のことを死病だとかなんとかおっしゃるのね。こう申しちゃ悪いのでしょうが、あなたはなんだか病気であることと、寿命が少ないことを自慢しているみたいに聞えるわ」
「自慢ですって? なんということを! 人間が死をまえにして、自慢なんぞしていられるものですか。そんなふうに物知り顔に意見をすることが、大体死と縁のない人間の証拠なんです。ぼくに言わせれば、それこそ厚かましい、不真面目《ふまじめ》極《きわ》まる、不謹慎な態度というべきです」
「それじゃお聞きしますが、米国さん、あなたは一体どういう病気にかかっているとおっしゃるの? いつも言葉を濁してしまうじゃありませんか。あなたも男なら、ずばりと言ってごらんなさいよ」
米国は眉《まゆ》をひそめるようにして、相手の顔をじっと見つめ、気味のわるいものをそこに認めたとでもいうように、慌《あわ》てて気弱く目をそらした。彼は今度は自分の爪《つめ》を眺《なが》めた。掌を返し、拇指《おやゆび》の下辺りの肉を指先で押してみた。ついで深いため息を洩《も》らした。どことなく犯罪人が自白するときにはく吐息に似ていないこともなかった。
「あなたはそれを本当に知らないのですか?」と、彼はついに呟いた。おそろしく真剣で深刻で、そのためその顔つきはかえって滑稽《こっけい》に見えることは致し方のないことであった。
「ええ、もちろん知りませんとも。知ってるはずがないじゃありませんか」
「そうですか」と、米国はまた吐息をつき、奇妙に憤激した内心をその顔に現わした。「兄さんはてんでぼくのことなんか問題にしていないんだ。それならそれでいい。それじゃお嫂さんには聞かしてあげますが、聞いたってどうせあなたには判りはしますまい。ぼくの病気は……脊髄《せきずい》性進行性|筋萎縮《きんいしゅく》症、というんです」
「え、脊髄性……筋萎縮?」と、千代子も思わず問い返した。
「脊髄性進行性筋萎縮症」と、臨床講義をする教授ででもあるかのように、米国はとりわけ重々しく繰返した。それは彼がつかのま威厳に近いものを示し、背筋を真直に伸ばした唯一の瞬間といってもよかった。「これをラテン語でいうと、アトロフィア・ムスクロールム・プログレシィヴァ・スピナーリス、とこういうのです」
「ラテン語はまあ結構ですが、それはまた一体どういう病気なの?」
「これはそもそも」と、米国はふいに大層な熱意を、まるで喜悦の情ともいえるほどの熱意を示して説明を始めた。「脊髄の前角神経細胞と前根の変化を主とするもので……」
「そんなこと言ってもあたしにはわかりませんよ。手っ取り早く簡明にいうとどうなの?」
「つまり、脊髄がやられるため、筋肉の萎縮が起ってくるのですよ。往々にしてこの肩胛《けんこう》骨《こつ》の下部に現われます。そこの部分の筋肉がずっと落ちてしまう、凹んでしまう、そうやってどんどん痩せてゆくのです」
「でも米国さんは痩せてはいないじゃありませんか」
「それは末期のことです」と、米国はもどかしそうに手をふった。「はじめは肩胛骨の下辺り、それも中年から始まってごくわずかずつ進行してゆくわけです。まあまあ、ここでちょっと待っていて御覧なさい」
米国はいつもに似あわず素早く立上ると、乱暴に障子を開けて室外へ消えた。千代子はいい加減|飽々《あきあき》もしてきたけれど、せっかくの義弟の病状を聞くこと、――それがもし真実に存在するものならば――それに伴う彼の危惧《きぐ》と意気込みとを聞いてやることを無下《むげ》に退けるわけにもいかなかった。
やがて彼は一冊の書物を、それも一目で専門書とわかるぶ厚い固い表紙の書物を持って戻ってきた。
「そら、ここを御覧なさい。脊髄性進行性筋萎縮症と、ちゃんと記されているでしょう。この経過及び予後という項を御覧なさい。……経過は徐々に進行性であるが、中途で急に進むこともある。また経過中に球|麻痺《まひ》の症状を発し、或いは横隔膜及び他の呼吸筋が侵されて呼吸不能となることがある……。そして、ここを読んでみて下さい。そらここです」
米国は、いくら同じ家のなかに長く一緒に住んでいる嫂とはいえ、一種ぶしつけな無神経さで、千代子の傍《そば》にぴったり寄りそうように坐り、ひたすらに書物の或る箇所を指で示した。
「予後は絶対不良である、とこう書いてあります。そして治療は? そら、ここです。治療、無し。電気療法も単に患者の慰めとなるのみ……。どうです、この意味は? この意味はお嫂さんにも理解できるでしょう。ぼくはこの著者は……もちろん神経疾患の大家なんですが、さすが大家だと思いますね。気休めも誤魔化しも何一つ書いていない。それこそ非情なもの、ゆえに科学的なのです。治療、無し。この簡潔な、千金の重みのある言葉、それが脊髄性進行性筋萎縮症の正体なのです」
米国は一息にそう言いきって、ふいに口を閉ざした。じっと目を眇《すが》めて横手のほうを凝視した。眉《み》間《けん》には深い皺《しわ》が刻まれ、そのためごくかすかに鷲鼻《わしばな》となっているその鼻の附根にまで、なんとなくみじめたらしい皺が寄るのが見てとれた。
「それは……それは大変な病気ね」
と、一応は挨拶《あいさつ》に困ったように、稍々《やや》口ごもりながら千代子は言った。そのくせ彼女は津々《しんしん》たる興味を覚えこそすれ、取り立てて義弟の身を案ずる様子は少しもなかった。はじめから米国の言うことを信用していなかったからである。
「でも、その病気に、本当に米国さんはかかっているの? 家《うち》には医者も沢山いることだし……」
「この病気の診断は非常に難《むず》かしいんです。なにしろ誰でも筋肉がずっと落ちてしまってからはじめて気がついて医者にゆく。医者だってその頃になるまではわからない。ぼくは幸か不幸かそれをすばやく、何年も前に気づいたものです。どうも肩胛骨の下辺の筋肉が落ちているのではないか、とね。それもほんのかすか、あるかないかのうちに気がついたのです。そのくらいぼくは自分の身体には注意を払っていましたからね。それからぼくは専門書を読んで、それがどんな種類の疾患か理解しました。そのときの気持は話したってわかるものじゃない、健康人には絶対に金輪《こんりん》際《ざい》わかるものじゃあないのです」
「まあまあ米国さん、それであなたはそのままほっぽってらしたの? 医者にはお診《み》せにならないの?」
「もちろん、専門家の……これ以上はないという専門家の診断を仰ぎました。東大の教授でしたがね、首をかしげたのです。こう深刻な顔で首を傾《かし》げました。診断は非常に難かしいんです。ぼくの奴はなにしろごく初期ですからね」
「それで、あなたは何と言われました?」
「まだわからない、とこう言われました。非常に徐々に進行してゆく病気ですから、どんな専門医も初期に診断を確定するわけにはいかないのです。ぼくは慶応にも慈恵にも行ってみた。いずれも似た結果でした。その疑いはあるが断定はできない……。そりゃそうでしょう。ぼくには彼ら専門医の気持もよくわかります。治療法もない死病を、どうして患者にそうはっきりと宣告しましょう……」
「待ってよ、米国さん。それにしても、ひょっとしたら、その……その脊髄なんとかという病気でないかもしれないという確率だってずいぶんあると思うわ」
「お嫂さん、人間一人が生きるか死ぬかという場合に、ぼくはそんなふざけた考え方をしませんよ。ぼくはじっと観察してきているのです。怖《おそ》るべき意志と忍耐とでもって、じっと自分の肩胛骨の下を観察してきたのです。すると、はじめて気づいたころに比べ、今は確かにまたいくらか筋肉が落ちているという結論に達しないわけにいかなかったのです」
「それじゃあなたは……どうして徹吉お義兄《にい》さまとか、韮沢《にらさわ》さんとか金沢さんとかに相談なさらないの?」
「相談して何になりましょう? 治療法のない病気なんですよ。それに、みんな気休めを言うに決っています。それはそうに決っています。共謀《ぐる》になって気休めを言いますよ。ぼくは然し、自分の病気をしかと認識して死にたい。それだからぼくはよその病院へ行ったのです。この気持がわかりますか? 健康な者にはわかりっこありませんよ。それにぼくは、本当を言いますと、欧洲兄さんには打明けたことがあるのです。そして、端的にあからさまに言いますと、一笑に附されたのです。冷笑といってもよいかも知れない。つまり、てんで問題にしてくれないのです。ぼくは兄さんがあんな冷淡な人だとは知らなかった。なに、構いません。ぼくは楡病院のなかの自分の立場をよく心得ていますから……」
「米国さん、妙なことをおっしゃるのはやめてよ。でもね、あたしにはもちろんわからない問題ですが、その病気が本当に進むのは、つまりはっきりと診断がつくのはいつ頃なんです? あなたの場合じゃありませんよ、普通の、一般の人の場合ですよ」
「四十歳近くじゃあないですか。そのころには一目見ても筋肉の萎縮が目立って……。しかし、診断がついてもなんにもなりません。治療法が露ほどもないのですから」
「でも、米国さんは今年三十四でしたっけ? すると普通より何年も前に病気を発見したというわけね? それでも病気ってものは、専門家も考えもつかない経過を辿《たど》ることもありますわ。もし米国さんが四十歳になって、万一その肩の筋肉が……」
「やめてください」
と、米国はまた目を眇《すが》めて横のほうを見ながら、やや甲高《かんだか》い声できっぱりと言った。
「ぼくにはわかっています。お嫂さんもぼくを莫迦にしているんだ。ぼくが脊髄性進行性筋萎縮症なんぞではないと内心決めているんだ。ぼくのことなんかには冷淡無比なんだ。それならば見てみましょう。あと何年か経《た》って、ぼくが誰の目から見ても、むざんな怖ろしい症状を呈してきたら、お嫂さんはどんな気持がするか、そのときになって欧洲兄さんがどんな反応を示すか。なに、いずれわかることです。ぼくはなにもみんなを責めているわけじゃあない。ぼくの病気は稀《まれ》な疾患です。何万人、何十万人に一人という稀有《けう》な疾患です。ぼくはそれを誰にも理解してくれとは言わない。それでも、こんなふうに無下《むげ》に、冷淡に扱われると、人間である以上必然的に一種の……たとえてみれば人とも世とも距《へだ》てられたというような感情を抱きたくなりますよ。そうでなくてもぼくは、外界から自分一人が遮断《しゃだん》されてしまうような違和感に悩まされているのです。ああ、この不快な、まどるっこい、そのくせ刺すような悩み。しかしぼくはよく考えるのですが、人間というものは、たとえてみれば原罪みたいな具合に、本来こうした悩みにつきまとわれる存在なのじゃないかとも思うんです。つまり、楡の家では、誰もが忙しすぎたり勝手気ままだったり鈍感であったりして、たまたまぼく一人が、不運にもみんなの感覚をよりあわせて、恵まれない代表者として、それを感じているのじゃあるまいか、と。みんなはそれぞれに自分の毎日を無思慮に――と言っちゃあ失礼ですが――過していればいいんだ。徹吉|義兄《にい》さんは努力してあんな大部な本をこしらえたが、大体ぼくのように感じて[#「感じて」に傍点]いたら、そんな仕事はできるものじゃない。欧洲兄さんは客を招《よ》んで手料理を御馳《ごち》走《そう》していればいい。悠々《ゆうゆう》と猟をして、このあいだみたいに世田谷の猟友会員から兎《うさぎ》の毛皮を集めて陸軍に献納して、表彰状を貰っていればいいんです。これはなにも皮肉じゃあない。ところでぼくの仕事は、感じ、悩み、じっと待つことなのです。それがぼくの運命で、ただどんな生き方をしたところで、ぼくらはみな一様にいつかは死んでゆくはずです。たまたまぼくはその死に一番近くて、そのためぼくの生き方は或る制約を受けるだけのことです。それでもぼくは自分の運命をわきまえていることに、ただそれだけの理由で誇りと安らぎを覚えることもあるんです。万一自分の病気に気づかずに、はっと気がついたときはもう末期になっていてじたばた[#「じたばた」に傍点]とあがく、そうした狼狽《ろうばい》だけは避けることができるからです。知らないで死ぬのと、何もかも承知していて死ぬのとどちらが幸福か、まあぼくは自分や他の人たちをこれからの長からぬ期間、冷静な目で見ているとしましょう。誰がどんなことになるか、まあそのときになってみなければ誰もわかりますまい」
米国はこの長談義を、瞼《まぶた》がひくひくと動くほどおそろしく生真面目《きまじめ》な表情で、ほとんど一息にしゃべった。そうして話している間にも、彼の気分、その感情のゆらぎは何段階にも変化してゆくようであった。はじめはやや激しく、それからくどくどと愚痴っぽい口調で、ついで諦念《ていねん》に近いいささか陰鬱な調子で話した。そして遠くを見やるような、おずおずとさ迷っていた視線をかなり長いこと一方の壁に凝然と据えたもので、さすがの千代子もどことなく不安となり、ばつ[#「ばつ」に傍点]がわるく気味わるくもなったほどであった。
突然、米国は妙に改まって、他人行儀に、陰気に声をひそめて言った。
「お嫂さん、お騒がせしました。では、お寝《やす》みなさい」
そして彼はふいに立上り、意外に素早い動作で――千代子にはなぜとなく物の怪《け》のようにも見えたのだが――その姿はつと茶の間を出、うしろ手に障子をしめると、足音もなく千代子の視界から消えた。……
それにしても、その夜米国と交えた会話、彼の話しぶり、その尋常でない印象は、千代子の心に或る憂慮を、ひょっとしたら自分はこの義弟を誤って見ていたのではないかという疑惑を生ぜしめた。
とうとう或る日、千代子は夫に自分の猜《さい》疑《ぎ》を打明けてみた。つまり、米国は本当になんらかの重い疾患を病んでいるのではないかということ、それに対して夫が義弟の言うように冷淡に無責任にそれを放置しているのではないかということを、さりげなく問い質《ただ》してみたのである。
欧洲は例によってぶっきら棒に、しかし腹も立てずに鷹揚《おうよう》に言った。
「莫迦だな、お前。あいつの言うことを本気にしているのか?」
それから千代子を安《あん》堵《ど》させ、かつ、あの米国さんて人は、と改めて苦笑させたことに、欧洲は厄介な弟の症状についてこう説明してくれた。
「もちろん俺はあいつからそのことを聞いたとき、ほっておきはしなかったよ。あいつはこの俺には診《み》てくれとは一言も言わなかったがね。まあ俺も大した医者じゃないから文句は言わないが、それでもやるだけのことはやっておいた。つまり、米国を診察したという先生方に一応連絡してみたね。返事は? 決りきったことだ。そのような病気の徴候は認められないということなんだ。あいつは一人で枯尾花に怯《おび》えて騒ぎまわっているだけなのだよ。そこのところが病的といえば言えるがね」
「そうでしたの。それであたしも安心しましたわ。米国さんの話を聞いていると……そりゃああたしもたっぷり眉に唾《つば》をつけて聞いているのですけれど、それでも神経がいらいらしてくるときがありますわ。あたしは聡の入院のことで神経をすっかり疲れさせているんです。桃子さんはどこにどうしているか知りませんけれど……。そう、そのお名前を言うのはあなたはおいやでしたね。それにしても米国さんは、まるで分裂症になった哲学者みたいな顔をして、楡家でまともな神経があるのは自分一人だというようなことを言うのよ」
「あいつが病気に執着するのは」と、欧洲は近頃ますます肥満してきて二重になった頤《あご》を無造作に撫《な》で擦《さす》りながら言った。「はっきり言って、あいつは兵隊にとられるのが怕《こわ》いのだよ。それで重病の診断書を欲しがっているのさ。それも権威のある大学なんかでね。もちろん自分でそうと意識しているかどうか知らんが、少なくとも無意識の裡《うち》にあいつはそれを求めているんだ」
「そういえば確かに……」と、千代子も多少意地のわるい気持で頷《うなず》いた。「あの人は病的に戦争を怖れているようなところがありますわ。そしてまた御自分の名前に必要以上にこだわっていますわ。このまえあたしの姉が参りましたでしょう? そのとき、あたしは姉の前でうっかり米国《べいこく》さんて呼んだのよ。もちろん冗談ですわ。そしたら米国《よねくに》さんは、顔色を変えて、ぼくの名前は米国と書くが、これはベイコクではなく、豊葦原《とよあしはら》千五百《ちいほ》秋《あき》の瑞《みず》穂《ほ》の国という意味のヨネクニなのです、なんて真剣な顔で姉にむかって言うのよ。あの人は、ときたま奇妙な冗談を言うかと思うと、ありふれた冗談もわからないときがありますわ。トヨアシハラチイホアキノ……そのときの真剣な顔ったら気味がわるくなるくらいよ。もちろん今の時世に米国なんて名前を持ったら肩身の狭い思いをするのは当然だということはわかりますけど。でも、あの人はもっと病的というか、ひねくれているようなところがありますわ」
「実際あからさまに言うと」と、欧洲は苦々しげに呟《つぶや》いた。「米国の気質が昂《こう》ずると家《うち》のような病院に入院するようなケースになる。あいつが軍隊に入れば、それが一番端的な治療法になると俺は思うよ」
「そんなことおっしゃっちゃ気の毒ですわ。あたしは米国さんのことをふしぎな人だとは思いますけど、悪い人じゃあありませんわ。ただ、しょっちゅう不治の病のことを話されると、はじめはこちらもひやかし半分に聞いていましても、そのうちになんだかへんな気持になってくるのです。米国さんが、確かにその脊髄なんとかっていう病気でないにしても、ひょっとして何かの拍子に、あの人がもし若死なんかしましたら、あたしは寝覚めが悪いというか、とてもこう居たたまれないような気持になるんじゃあないかしら」
「大丈夫さ」
と、面倒臭げに、興味もなく、欧洲は話を打切った。
「あいつは長生きをするよ。実際世の中はそうしたものなんだ。米国はきっと、家じゅうで一番長生きをするさ」
「あたしもそう言ってあげたんですけれど」
と、千代子も言って、年老いた姑《しゅうとめ》の用を足すために腰をあげた。
*
楡米国が、日ましに苛《か》烈《れつ》の度を加えてきた戦局とおよそ無関係に、おのが身の難解な病気のことばかりを丹念に案じていた頃――昭和十八年の一月の末、城木達紀は赤道を越えたニューブリテン島の要衝ラバウルにいた。瑞鶴《ずいかく》の艦載機がラバウル基地を応援にゆくことになり、城木は先発隊の一員としてトラック島から一足先に駆逐艦でラバウルに到着したのである。
ガダルカナル島の戦局は久しく前から極限にまでおし迫っていた。完全に制空権を奪われ補給はつかず、ガ島は餓島と呼ばれ、その守備隊の鬼気迫る悪戦苦闘ぶりはラバウルの基地員の間でも半ば伝説めいてしきりと取《とり》沙汰《ざた》されていた。思いがけぬ強力な米軍の反攻、それは内地では想像もつかぬほど、ガダルカナル島から幾つかの島を距てたここラバウルではひしひしと感じられたし、またいつその運命がこの島を襲わないとも限らなかった。
ラバウル湾の桟橋近くには、ドラム罐《かん》、或いはぶ厚い大きなゴム袋に詰められた物資が堆《うずたか》く積まれていた。ぎっしりと米を詰めたあとに幾何《いくばく》かのかつお節、蝋燭《ろうそく》、マッチを収めた袋、あるいはカボックの綿の間に座金から外して一個ずつにした弾丸をつめた罐、それはいずれもガダルカナル島向けの鼠《ねずみ》輸送をやるための集積物であった。暗夜にまぎれて高速の駆逐艦で海峡に近づき、積みこんだドラム罐やゴム袋をそのまま海中に投棄して引返す。ガダルカナル島の陸軍がこれを小発艇で捜して引上げるのだが、果してその何割が彼らにとどくものか類推することも困難だった。最近では駆逐艦の輸送すら難《むず》かしく、微々たる潜水艦の輸送に頼っているのが現状であった。
とはいえ、敵の「空の要塞《ようさい》」ボーイングB17の襲来こそ定期便化していたものの、当時のラバウルにはまだ戦爆連合の大編隊の空襲は少なかった。そこは地獄の相を呈している最前線に比べればなんといっても後衛の大基地で、将校たちは木の葉を電燈の傘にした雅趣豊かともいえる宿舎でゆっくりとビールを飲むこともでき、兵卒も主に朝鮮や沖繩出の女たちのたむろするごく殺風景な慰安所の前で、便所を待つ人々のように行列を作ることもできた。
なかんずくその自然、――南国となじみの薄い日本人の目にはひときわ明確な線と色彩に隈《くま》どられた、芳醇《ほうじゅん》な光に満ちたこの地の風光は美しかった。それは決して予期したほど強烈には目に映らなかった。すべてのものが単純に明るく、いわばその明るさのなかに中和され、一種のどかな、もの静かな趣さえ呈していた。海の色、空の色、そして植物、個々のものたちは原色に色濃いが、その各々の濃艶《のうえん》さがそれぞれ相殺《そうさい》されて、全体としてはそれほどどぎつい印象を与えないのだった。事実、東飛行場から眺める花咲山と呼ばれる摺鉢《すりばち》型の火山は、奇怪な白茶けた肌を覗《のぞ》かせこそすれ、ゆるやかな裾《すそ》野《の》をひいて、どこか日本の風景をしのばせもした。しかし、辺りには造り物のように見える椰子《やし》林が佇立《ちょりつ》していた。あくまでも背高く、ここが日本を遥《はる》かに離れた熱帯の島だということを示す象徴として。そして繁茂する緑の植物を白みわたらせるほど眩《まばゆ》い光線が、かっ[#「かっ」に傍点]と肌を刺す暑熱と共に降りしきってきた。一方、日ざしの蔭の部分は対照をなしてか、黒いまでに暗く見え、海からの微風のためひいやりと快かった。
しかし城木達紀はゆっくりと風景を観賞している暇もなかった。上陸してすぐ警備隊の病院へ行くと、軍医長からデングにはまずたいてい全部かかるとおどかされた。ベッドが足りず、コンクリートの床の上に椰子の葉の茣蓙《ござ》を敷いて寝かされている熱性疾患や熱帯|潰瘍《かいよう》の患者のむさ苦しい姿をちらと見て引返すと、瑞鶴からきた整備員や衛生兵の宿舎の割当てがつかず混乱を呈していた。医務科も治療室の配慮が全然されていない、近くの柳原部隊の本部へ行き、分隊長と交渉して治療室を共同で使わして貰《もら》うことにする。天幕を張って兵員の一部を収容、一部は小林部隊の兵舎を借りることとなり、夕刻になってその三兵舎を消毒をし、衛生兵は柳村の病舎で寝かせて貰うことに決めた。すっかり暗くなってから士官宿舎に戻ったときは、城木はくたくたとなっていた。が、その間、何事につけ器用な一人の兵長を入院|病棟《びょうとう》へ赴《おもむ》かせて、キニーネ、ザルブロ、体温計、オブジェクト・グラスなどをすばやく銀蠅《ぎんばえ》させたことが唯一の慰みとなった。城木も乗艦してすでに一年余を経、軍隊の要領を否応なく覚えずにはいられなかったのである。スコールが二度、三度と、戸外のバナナの葉を激しく叩いて過ぎる。雨期にはいったのかと噂《うわさ》しあいながら、蚊帳《かや》をめくって慣れぬ粗末なベッドに横になった。
しかし眠りついたかと思うと、さっそく空襲警報で起されねばならなかった。防空壕《ぼうくうごう》の所在もまだわからぬので、一同|丈《たけ》の高い縁の下にもぐりこんだが、蚊の群れに追われて、じきに外へ逃げださねばならなかった。蚊のほうを気にするほど、陸上で経験する空襲は余裕があるともいえた。敵機はかなりの高度のB17三機である。くっきりと探照燈の光芒《こうぼう》に捕えられて、しかし味方の高射砲は見ていても歯がゆくなるほど見当外れに炸裂《さくれつ》した。その音響だけは夥《おびただ》しくかまびすしかった。ラバウルの砲火がたった三機の敵機に集中しているように思われ、そのくせ効果は少しもなく、敵機は照明弾を落して悠々と爆撃して去った。といって、こちらの被害もさしてないらしく、要するに大形《おおぎょう》な外観だけで、神経をいらつかせ腹が立つばかりの騒ぎともいえた。
二日後、瑞鶴の飛行機隊が到着した。何十機という艦爆、艦攻、艦戦の集団が空を圧して現われ、轟音《ごうおん》をひびかせ砂《さ》塵《じん》をまきあげて次々と着陸するさまは、さすがに胸がしめつけられ、理由もなくわくわくするような光景であった。傍にいた基地の整備員が昂奮《こうふん》した口調で城木に話しかけた。
「空母の飛行機がきてくれたら百人力であります。本当の話、空母の搭乗員《とうじょういん》はみんな腕達者で、発着を見ていても実に頼もしくなります」
素人《しろうと》の城木が見ても珊《さん》瑚《ご》海《かい》当時に比べればはっきり技倆《ぎりょう》の落ちている現在の瑞鶴の飛行機乗りも、陸上基地の搭乗員に比べると、ずっと上の腕を持っているようであった。それでも城木はやはり身内を讃《ほ》められたような嬉《うれ》しさを覚え、気安く返事を返してやると、相手は娑《しゃ》婆《ば》言葉になりながら性急に言った。
「今度こそ新攻勢をとるんでありましょうね。艦載機がこれだけ応援にきてくれているのですからね。そうそういつまでも押されていて堪《たま》るもんですか!」
だが、その整備員はもとより城木自身も何も真相は知らなかった。事実は上層部はガダルカナル島を諦《あきら》め、至難の撤退作戦を援護するため、虎の子の空母の艦載機を派遣したのである。
城木のラバウルに於ける日常は、もう一人の瑞鶴の軍医が寝こんでしまったため、あくせくとした診療と定期空襲による睡眠不足に明け暮れた。一方、彼はそろそろ行われる筈《はず》の転勤の辞令を心待ちにもしていた。もし艦からあがり、内地勤務に就くことができたら、彼は楡藍子と結婚することを真面目に考えていた。そのようにあの夜、あの冷たい闇《やみ》と霧に閉ざされたつかのまの邂逅《かいこう》のとき、城木は藍子とはっきり約束を交わしたのであった。それは夢のような記憶で、たかだか一カ月前の事柄というのに、遥か過去のことのようにも思われたし、薄くぼやけた架空のことのようにも思われた。しかし城木は、どことなく早まった、ひょっとしたら間違った行為をしたのではないかと感ずることもないではなかったが、いかにも幼げな藍子のくちびるの感触の記憶は、彼にもっと別なことを告げた。それは、ともすれば戦争の巨大な惰性のなかに自己を見失いそうになる彼に、なんらかの支えを、自分個人の人生を思いださせる作用をなしてくれた。ともあれ、彼はもし自分に長生きができる可能性さえ見出せれば、藍子を嫁にしたいと本気で念じたのだ。それにはどうするかということまで考えは及ばず、あたかも頑《がん》是《ぜ》ない小学生のような単純さで。
彼のラバウルの滞在も同じように単純に――と彼は感じた――過ぎていった。
「○三○○頃マタ空襲、探照燈デ敵機ヲ掴《ツカ》ンデモナント高角砲ノ威力ノ情ナイコトカ、縁ノ下デ蚊ニ喰《ク》ハレナガラ憤慨シテ見物、徒《イタヅ》ラニ高角砲ノ音ノミケタタマシ。
朝、艦爆隊ブインニ至リ攻撃ノ予定デ出発セルモ雲ノタメ引返ス。宮島大尉発熱四十度。時々発汗シテ気持良クナルガ又熱ガ出、夕刻三十九度、腰痛、関節痛、頭痛、眼痛ヲ訴ヘ、コレガデング[#「デング」に傍点]トイフモノカ、明日血液ヲ見ル予定」
「夜、今津中尉ノ許《モト》ニ至リビールノ御《ゴ》馳走《チソウ》ニナリ談話中、都《ツ》築《ヅキ》外科ニヰタ小林少佐ガ太田部隊ニ居リ、明日ムンダニ出発トノコトヲ聞キ、急イデ訪問、折良ク休憩室ニ居ラレタタメ久濶《キュウカツ》ヲ叙シ三十分バカリ話ス。頭モ坊主、デングノタメゲツソリ痩《ヤ》セテ人相変ツテヰタガ口ブリハ元気。教室ノコトヤ当地ノ衛生状況ナドヲ話ス。明日ガ早イトイフノデワヅカノ時間デ別レル。健在ナレ。
敵大部隊(戦艦四、巡四、駆若干)現レ、七十五空出撃、夕刻戦場ニ到達ト無電アリタルモ、ソノ後詳報ナシ」
「朝三時頃空襲、イツモヨリ低ク、探照燈ニ輝ク機影キラキラト美シイ。高角砲ノ当ラザルコト例ノゴトシ。
朝、攻撃隊発進トイフノデ○六○○トラックデ飛行場ヘ行ツタガ、天候不良ニテ延期。軍医ガ行ツタトコロデ仕様ガナイガ、飛行長ノ仰セデハ致方ナシ。昨日ノ血痰《ケッタン》患者ノ痰、TBガフキイ[#「ガフキイ」に傍点]ノ二位ナリ。明日送院ノ予定。
本日|高砂丸《タカサゴマル》入港、患者収容後直チニ出港セリト」
「○二○○定期空襲ニヨリ本艦飛行機十機以上損傷。艦攻六炎上、戦二、爆二使用不能トナル。飛行場ノ空真赤トナリ、実ニ癪《シャク》ニサハル空襲デアツタ。
朝、零戦二十二機ブインニ発進。午後、残部ノ艦攻カヴィエンニ逃避、セメテコノ二倍飛行機ガアツタナラトツクヅク思フ」
「少閑ヲ得テ、花咲山火山三連峰、椰子《ヤシ》林ナドヲスケッチスル。艦ニ戻ツタナラ絵具デ彩色スル積リ、サウシテスケッチシテヰルト、静カデ、人間ノ運命トイフヤウナモノガ、フツト感ジラレタリシタ。眉《マユ》ノ濃イ、目ノギョロリトシタ、歯バカリ白イ原住民通リカカリ、シキリト、ジャパンボーイ、ナンバーワン、アメリカンボーイ、ナンバーテン、ト言フ。煙草ヲヤツタラ、歯ヲムキダシテ大喜ビシ、ミヨトウカイノ……ト愛国行進曲ヲ歌ツテミセタリシタ」
「昨夕不時着セル吉村中尉、一晩漂流シテ、今朝飛行艇ニ発見救助サレテ帰リ来ル。十八時間漂流ニシテハ元気、冗談マデトバス。シカシ考ヘテミレバ死ノ半歩手前マデ行ツタワケニテ、戦争ハ生死ノ観念ヲヒドク稀《キ》薄《ハク》ニスルコトハ確カダ」
「夜中ノ定期空襲一時間足ラズデ終ル。本日ヨリ常用防空壕ヲオ向ヒノ奴ニ定メル。宮島大尉平熱ニ戻リ、サスガニホツトシタガ、我々ノ部隊ノ患者モ三十名ヲ越エテヰル。
珍シク午前中ボーイング来襲、吉田中尉ノ小隊追ヒカケルモ駄目。
ガダルカナル島ノ部隊ハドウヤラ撤退シタラシイ。新攻勢デハナク、撤退作戦デアツタ訳デ、サスガニ気落チスル。
夕食時、荒木中尉ラノ戦闘機ブインヨリ還ル。全機無事。皆無事デアツタコトハ久シブリノコトデアル。夜、スコール沛然《ハイゼン》タリ」
そのうちに、心待ちにしていた転勤電報がきた。城木の新しい赴任先は新興丸という船であった。汽船を改造した砲艦で、大湊《おおみなと》にいるということがわかった。そのようなボロ船で北の海の哨戒《しょうかい》とは有難くないと思ったが、空母に乗っているよりは危険率は少ないであろう。とにかく今の城木は一つしかない生命を能《あと》うかぎり大事にしようという心境に駆られていた。それよりも赴任の途中、東京へ寄る閑《ひま》くらいはあるだろう。もう一度藍子と会って、今度は落着いてゆっくり話しあうことができるだろう。
追いかけて基地撤収の命が瑞鶴の乗員に出た。飛行機隊は十日に発《た》ち、他の要員は十二日に駆逐艦によってトラック島へむかうことが決った。
その二月九日のことである。また予定が変更されて、十一日に入港する十七隊の谷風と浦風に分乗することになり、準備に大童《おおわらわ》だった。と、日本時間夜七時のラジオが、ガダルカナル島撤退の報を告げた。その報道には、撤退という言葉は使われてはいなかった。「……ブナ、ガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年八月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘|克《よ》く敵戦力を撃砕しつつありしが其《そ》の目的を達成せるに依り、二月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」
「負けたのなら負けたとはっきり言やあいいんだ」と、軍医長がしきりと憤慨した。「そんな誤魔化しをやるから、内地じゃあ前線がどのような状況なのかわからんで、未《いま》だに安易な気持でいるんだ」
そして彼らが寝ついたころ、ここ三日ほど悪天候のため無沙汰になっていた空襲警報が鳴った。
「やれやれ、これがラバウル空襲の見収めか」と、みんなぶつぶつ言いながら宿舎を出た。防空壕へはいる者はあまりおらず、その入口附近で、ひたすら腹の立つ、しかしどんな仕掛花火より見ごたえのするその夜景を見物していた。
「壕にはいらんかね」
「いや、蚊がいやがるからな」
「蚊のほうがこわいですか?」
「こわいねえ。デングだけはおれは真平《まっぴら》だよ」
今夜の敵機は高度を低くとっていた。探照燈の交《こう》叉《さ》する光芒《こうぼう》に捕えられたその青白い機影に向って、徒《いたず》らに轟音《ごうおん》と共に高角砲がむなしくその前後に炸裂《さくれつ》していた。それから機関砲の曳光弾《えいこうだん》が妙にゆるゆると夜空に突進していった。敵機も射《う》っているらしく、赤や青の曳光弾の交錯がひときわこの瞬間の夜景を美々しいものにした。
「畜生、当らんな」
「あんなに当らんものかな。何をしてやがるんだ、一体?」
敵機は東飛行場を爆撃した。更にラバウル市街の上空でも投弾した。腹にこたえるような震動が彼方《かなた》で湧《わ》き起り、ひとしきり味方の砲も激しく応射された。と、先行の三機編隊のB17が行きすぎて間もなく、新手の三機が同じく低空で真直《まっすぐ》こちらに向ってくるのが見えた。そのあとにも後続敵機がいる模様である。城木は防空壕の入口近くに立っていたが、正直のところその中へもぐろうと思った。後方で「退避! 退避!」という叫びもあがったのである。しかし誰かが言った。「心配|要《い》らんさ。航路角を見ろよ」
そのため防空壕の入口に集まってきた幾人かは、つい足をとめて、そのまま敵機を見つめた。その進路はなるほど少し角度がずれていた。しかし皆とかたまって立っていた城木達紀は、のしかかるように大きくなってきた、白々と探照燈に浮きだした敵機を見上げたとき、咄《とっ》嗟《さ》に本能的な危険を感じた。敵機の機関砲は地上へむけて掃射されており、その赤と青の火の玉のような曳光弾が一瞬こちらへ向けられたように思った。次の瞬間、何かが目の前でぱっと眩《まばゆ》く爆発した。目くるめく閃光《せんこう》と轟音。
瞬発信管附きの敵機の機関砲弾が、城木たちのすぐ前方で炸裂したのである。同時に城木は、頭部と胸部を棍棒《こんぼう》で殴《なぐ》りつけられたような打撃を受け、意識も霞《かす》みながらその場に昏倒《こんとう》した……。
第四章
徹吉は昭和十四年にその労作を仕上げたあと、心に懸《かか》っている次の仕事――日本に於ける症例のみを基本とした精神医学の纒《まと》まった教科書《レールブーフ》を書こうという意図に、かなり長いあいだ手がつけられずにいた。もちろん長年にわたって積った疲労、仕事を終えてぐったりとなった虚脱感は意外に長く尾をひいた。そして突如として米英と戦端を開いて以来、緒戦の相次ぐ戦果は、このすでに老境に達した一人の医師、院長業をもつ医学者を幼児のような昂奮《こうふん》の渦のなかに巻きこんだのであった。少なくとも彼は戦争には勝負があり、負けることもあり得るということを知ってはいた。「なんとしても負けてはならぬ!」というのが、開戦の報を耳にしたときの、真剣な、おし迫った彼の感慨でもあった。
だが、最初の間、わが軍の進撃ぶりは彼を呆然《ぼうぜん》とさせるほど速《すみ》やかで水際《みずぎわ》立っており、日本にはこれだけの国力があったのかと改めて嘆じさせ、ラジオが『軍艦マーチ』を、『敵は幾万』を奏するごとに、彼は年《とし》甲斐《がい》もなく――或いは歳《とし》のゆえに――身内が熱くなり衝動的にぐるぐると室内を歩きまわったりもした。徹吉は頻繁《ひんぱん》にニュース映画を見にゆき、小柄な精悍《せいかん》な日本の兵士たちが、或いは敵前上陸をし、或いは落《らっ》下《か》傘《さん》部隊として降下して白人の勢力を駆逐し、そこへ大東亜共栄圏なるものを確立してゆくさまを二度も繰返して眺《なが》め、ふと目頭《めがしら》が熱くなるほどの感動を覚えた。こういう状態では、なかなか新しい仕事に取りかかる落着きが得られなかった。
しかし、遠く南方圏にひろがった日本軍の戦線が延びきった頃、ようやく徹吉はぼつぼつと、次第にかなり精力的に、懸案であった病者の症例を蒐《あつ》めだしていた。火難以後の楡《にれ》病院の古いカルテを分類し整理しはじめると共に、ときどき東大や慶応病院の精神科の医局へ出かけていって、臨床講義に出されるような興味ぶかい症例のメモをとった。そしてたまたま、ヒステリーの病像に多くぶつかったことから、徹吉はまずヒステリーの臨床例を集中的に蒐めてみることにした。外国の教科書によると、その定型的な発作は後弓反張と呼ばれる、身を著しく弓のようにのけぞらせる癲癇《てんかん》様の痙攣《けいれん》発作であることは周知のことであった。然し、日本のヒステリーの症例を数多く蒐めてみると、意外なほどその発作は少ないように思われた。しかも時代と共にますます減少してゆくような傾向にあった。
これ一つをとりあげてみても意味がある、と久方ぶりに学究の面差しになって徹吉は考えた。そのくせ彼は――まだその段階ではなかったのに――その原因を素人《しろうと》そのままに性急に考えたこともまた事実であった。つまり、白人の女って奴《やつ》は、と彼は苦々しげに思ったものだ。なんにつけ態度が大げさなのだ、感情の振幅が激しすぎるのだ、言いかえれば、じっと忍従することのできる日本女性に比べ、だらしなく戦時むけでなく弱虫にすぎないのだ、などと。
ともあれ、徹吉の蟻《あり》にも似た営々とした作業がふたたび軌道に乗りだしたとき、枢軸軍がようやく当初の圧倒的な威力を喰《く》いとめられ、逆に敵に主導権を握られ、その反攻の前に徐々に圧迫されはじめたのは皮肉であった。盟邦ドイツの戦況にしろ、徹吉は並々ならぬ関心をもって新聞紙上にその跡を辿《たど》っていたのであるが。
そして昭和十八年――この年徹吉は六十二歳になっていた――二月の初め、徹吉をいたく悲嘆させた一つの報道が小さく新聞紙上に出た。前年の秋から初冬にかけて、ドイツ軍の猛攻の前にスターリングラードがまさに陥落しようとしていたときにはあれほど大々的に報道されたのに、その逆の立場、つまり逆包囲された独軍の大部隊が遂に連絡も杜絶《とだ》え、殲滅《せんめつ》され、ついには降服するという悲劇のときには、注意しないと見落してしまうくらいの活字の大きさになっていた。
「スターリングラード戦闘を停止 独総統大本営で発表 英雄を追悼《ついとう》 独国民一斉自粛」
という見出しがあり、
「ベルリン特電三日。ベルリン放送局はスターリングラード地区戦闘停止特別発表に続いて、『わたしは一人の戦友を持つてゐた』といふかの戦友追悼の荘重な葬送曲を奏《かな》で、さらにベートーヴェンの第五シンホニー『運命』を放送した。独政府は同時に来る六日まで四日間を英雄追悼の日とする旨を布告した。この期間中は劇場、音楽会、キャバレー等は閉鎖され、一切の娯楽的催しは停止される筈《はず》である。かくて深刻な現実の前に独国民はいま最後の決意を固めてゐる」
という解説がついていた。
ヒットラー総統は重大化したソ連戦線のため前線に飛び、「ヒ総統|伯林《ベルリン》に帰還。東部戦線今や安泰、英霊五十四万二千に感謝の演説」という記事が載ったのは、それから一月半も経《た》ってからのことであった。
だが、ドイツの悲運にばかりかかずらっているわけにはいかなかった。「ガダルカナル島より転進」の大本営発表は、それからわずか五日後のことだったのである。
徹吉は祖国日本と盟邦ドイツの運命を、眉《まゆ》をひそめて真剣に憂えた。その武運を祈ること、前線の兵士たち――その中には長男峻一も交っていたが――の健闘を願うことについて、当時往々にして狂熱的な愛国者の権《ごん》化《げ》となっていた多くの隣組長に決してひけをとるものではなかった。
そのくせ徹吉は、或る時期、ふとしたことがきっかけとなって、一部の愛国者に言わせれば非国民的な許されざる行為をとったことがあった。打明けて言えば、それは多寡《たか》の知れた闇《やみ》の罐詰《かんづめ》の購入であったが。
松原の本院へ診察に行った徹吉は、あるとき種々の雑用のため遅くなって、滅多にないことながら欧洲の私宅で晩飯の御馳《ごち》走《そう》になった。徹吉の目から見ると、青山の自宅のそれに比べ、松原の家のそれはいつも文字通りの御馳走で、徹吉は内心やや嫉《しっ》妬《と》の念さえ抱いていたものだ。
といって、その夜は菜は貧弱なものであった。そこで、久方ぶりに義兄を食卓に迎えた欧洲は、「何もないから、今日は罐詰料理で我慢して下さい」と言い、自ら立上って罐詰を幾つか食堂に持ってきた。彼は台所に命ずることなく、自分で気さくにその場でそれをあけ、大まかに皿に盛った。そうやって何やかやと食料品をいじくることが彼にとっては一つの愉悦であったもので。
それはタラバ蟹《がに》とコンビーフとアスパラガスの罐詰で、当時すでに珍しくなっていたものだし、殊《こと》にあとの二つは敵国アメリカの製品であった。アスパラガスは太く柔らかく舌先でとろりと溶け、蟹もコンビーフもそれぞれ徹吉の舌を充足させた。
「うまい。うまいね、これは」
徹吉は忙しく箸《はし》を運び、なにか非常に稀有《けう》な精神病者の症例でも発見したかのような熱意をこめ、平時であるならピクニックの食品であるようなその料理を、繰返してひたむきに讃《ほ》めた。
青山の自宅に於ける食生活は、肝腎《かんじん》の主婦もこれといった監督者もいないため、何事につけ質素な徹吉をすら満足させることがなかった。徹吉は美食家とはおよそ反対ではあったものの、かなりの食いしん棒といってよく、それは年齢につれてむしろ助長されてきた。青山の台所は下田の婆や亡《な》きあと、しげという婆やが指図をとっていた。しげは昔の「奥」勤めの女中の一人であったが、今は小さく萎《しな》びた、かなり狷介《けんかい》な老婆となっていた。言葉使いも乱暴で、以前から子供たちが台所にたむろしていたりすると、「こんなとこで邪魔ばっかりして。さあ、あっちへ行った、行った!」などと追い立てもした。そして、このしげが主になって作る料理は、病院の賄《まかな》いのそれにも似て実質的ながら無味乾燥なもので、お世辞にも美味とは言えなかったのである。
「うまいね、このアスパラは」
と、徹吉はまるで欠食児童のように幾度目かの呟《つぶや》きを洩《も》らした。欧洲がそれに応じた。
「それは米国が作る奴とは違いますよ」
「これは外国製品なのだろう? 今どき、よくこんなものが手にはいるね」
と、徹吉はかなりの羨望《せんぼう》を露《あらわ》にして訊《き》いた。
「闇《やみ》ですがね」と、欧洲はぶっきら棒に言った。「伝手《つて》があるのですよ。ぼくが松沢で受持っている患者の家なんですがね。もちろんかなり高価だが、まあこう何もかも無くなってゆく時代ですから、少しまとめて買いこんでおいたのです。お気に入りましたら、少し差上げましょう」
「うん、そうするか。それは大いに有難いな」
その席にはひさの姿が欠けていた。昨今では珍しく外出をしていたのである。それから龍子は在宅はしていたものの、夫を避けて、離れの間にひそんでいる筈であった。
千代子が義兄に言った。
「この罐詰も実はあたし達の居間に隠してありますの。お義母《かあ》さまが近ごろますます持前のお癖が昂《こう》じていらっしゃって、何でも御自分の押入れにお蔵《しま》いになってしまわれるのです。反物でもお菓子でも罐詰でも……。そしてそれを思いだされたようにごくたまに病院の人たちにあげていらっしゃいますが、あたし達が頂くわけにはなかなかいかないのです」
「あれはちょっと病的だな」と、欧洲も苦笑した。「貰《もら》い物もみんな蔵ってしまって、滅多にこちらの前には出てこないからな。たまに菓子なんぞが出てくると、もう黴《かび》が生えてる奴で……」
「反物にしてもずいぶんとお持ちですわ。押入れの上段にぎっしり……。あれをもう少し活用してくださるとあたしも助かるんですけれど」
「そう、旭飴《あさひあめ》も大分ためてるようだな」と、欧洲が二重になった頤《あご》を撫《な》でながら笑った。「とにかくお母さまの貯蔵癖も相当なもんだ。こちらも少し真似《まね》ねばと思っていますよ」
「でも、病院の貰い物も全部蔵われてしまわれては、こちらにまで廻りませんわ」
千代子はなおひとしきり愚痴を言った。ついでにお中《ちゅう》さま、龍子のことについても愚痴を言いたかったが、さすがに徹吉の面前でそれを言うわけにはいかなかった。
徹吉と欧洲はしばらく病院のことを話題にした。
「青山の伊助はまだ達者でいますか?」
「ああ、だがもう歳だね。腰がすっかり曲ってしまって、歩くのも大儀そうだ。杖《つえ》をついてよちよち歩いてね。女房のおしまさんがこのところ飯《めし》炊《た》きのほうをやっているようだ」
「大石君ももう歳ですしね。本当なら楡病院もそろそろ新陳代謝を計らねばならないときですが。といって若い元気のよい者はみんな兵隊にとられるわけだから……。松原でもご存じでしょうが事務も看護もだいぶ手薄になりました。なにしろ四十五歳の茂松(霜田茂松はいつぞや三越前で桃子を認めてくれた運転手であった)まで応召ですからね。このままでゆくと、病院経営というそのものが難儀なことになってゆきかねませんな。若い看護人もいないとなると、終《しま》いには暴れる患者さんはお断わりしなければならないという事態もきますよ。ついこの間も、体格のえらくいい分裂病患者が保護室の扉をぶち壊しましてね。これが柔道三段とかで、おまけに病院の連中をアメリカのスパイだという妄想《もうそう》を持っているんです。米鬼め、叩《たた》き殺すぞ、ってわけで、誰もおっかながって傍《そば》に近寄れない。ぼくが松沢から帰ってきてちょうど病棟へ用があって行ったもんで、仕方ないから久しぶりに柔道をやりましたよ。むこうは『撃ちてし止まむ』の精神だから、一人と一人じゃ敵《かな》いっこありませんがね。ぼくが組みついたところを三人がかりで抑えつけて、ようやっと電気をかけたですよ。そういうのが一人いるだけで病棟じゅうが戦々兢々《きょうきょう》になりますな。そこへゆくと松沢にはそういうのを取り抑える専門みたいな看護人がまだいますがね」
「何よりも事故だけは避けるようにしてくれ給え」と、徹吉は一時|咀嚼《そしゃく》するのをやめて言った。「家《うち》は私立病院なのだから。むかしは一人脱走があったというだけで、ずいぶんと警視庁がやかましかった。私立と官立とでは同じように考えてはならない。手に余る患者さんは無理に入院させる必要はないよ。そういうのは松沢にまわして……もっとも君が決めるわけではないんだが、韮沢《にらさわ》君なんかにもそのように伝えてくれ給え」
「ええ、そういう方針でやろうと思っています。ただ院代が近ごろ入院患者の数が減ったとぶつぶつ言いますがね。院代はこのところ少し元気がないので……今日はお会いになりましたか? ええ、あの通り、なんだか前のような元気さがない。彼も耄碌《もうろく》してきましたかな?」
「いえ、まだずいぶんと矍鑠《かくしゃく》としておりますわ」と、千代子が口をはさんだ。「あたしには少なくともそう見えます。前のようにひょこひょこ歩きまわりませんが、精神的にはますます旺《さか》んで、少し誇大妄想的のところがあるような気も致しますわ。このまえもあたくしにこんなことを申しました。楡病院も私の目の玉の黒いうちにシンガポールに分院を、なんて……。それはまあ冗談としても、ほらあなた、お稲荷《いなり》さまをこしらえたじゃありませんか。ええ、テニスコートの横手に。なんでも身守稲荷とかいう……土地の古老の人に聞いたそうなんですが、鳥居まで立っていて、ちゃんと油揚があげてあるんです。そこに作業療法に出る患者さんたちが一々参拝して……。あたくしそれを見て驚きましたわ。あれは院代の命令ですわ、もちろん」
「まあいいさ」と、欧洲がむしろ面白そうに言った。「なんといったって院代は偉い男なんだから。稲荷くらいこしらえたって……それに、親父が生きていたら当然稲荷をこしらえているさ」
徹吉もその意見に賛成の意を示した。それよりも彼は、終始当初うつむいてろくに口もきけないでいた欧洲の妻千代子が、いつということもなく、いろいろ愚痴やら批判やらをけっこう臆面もなく言い放つようになったことに気がついた。その早口の話しぶりはやや小うるさく、どことなく龍子の口調を髣髴《ほうふつ》とさせるところもないではない。楡家に長らく住むと女たちはいつしかなんらかの影響を受けるのであろうか。それとも女の本性がそのようなものなのであろうか。
しかし徹吉は、その感慨を強《し》いて探ることもなく、食卓の上に残っていた御馳走を――欧洲たちがすでに茶を飲んでいるのに――幾本か残っていたアスパラガスを次々と口に入れた。
「欧洲」と、彼は病院の事柄を話していたときよりも真剣な声で言った。「これはうまいよ。この罐詰を俺にくれるのは有難いが……どうだろう、俺もその伝手《つて》という所から少しこういう罐詰を売って貰うというわけにはいかんだろうか?」
「それはなんとかなるでしょう。話してみましょう」
「そう願えれば……。なに、少しでいいんだ。ちょっぴりでいいんだ。といって、この際少し多いほうがいいかな?」
そのような経過があって、徹吉はアメリカ製品のコンビーフとアスパラガス、それに上等のタラバ蟹の罐詰をそれぞれ一ダースずつ手に入れることができた。
このような買物は徹吉にとって未知なものであり、高価な洋書を購《あがな》うよりももっと贅沢《ぜいたく》で、少々ばつ[#「ばつ」に傍点]が悪いくらい心を魅するということは争えなかった。三十六箇の角型の、あるいは丸い罐詰の群れを自室の畳の上に積み重ねたとき、徹吉はなにがなし罪深いほどわくわくしてしまって、しばらくレッテルを眺めたり、ずっしりと重いその手ごたえを慎重に測ってみたりした。これは徒《あだ》や疎《おろそ》かに食べてしまえるものではない。どうしてどうして、戦争はこれからも非常に長くつづくに違いない。すべてが窮迫してき、やがてはこのような食品はあたかも黄金のように見えることになろう。青山では松原のような御馳走はないが、といって藍子や周二らの子供たちも充分腹に満ちて食べてはいる。べつにこの罐詰を子供たちに与えてやる必要はあるまい。
そして徹吉は自分の仕事のことを考えた。未だ軌道に乗っているとはいえないにせよ、ぼつぼつと材料が蒐めだされている次の仕事、おそらくは二年か三年のちには、自分はそれを纒《まと》めだすことになろう。それを考えただけで、徹吉は我知らず期待と懸念の予感に躯《み》が固くなるのを覚えた。あのなじみ深い、そのくせいつになってもどことなくぎこちなく物慣れぬ感のする、夜半の、孤独の、恍惚《こうこつ》と索《さく》寞《ばく》さとの入りまじった時間。あの終りもなく救いもないような、そのくせ彼の生《いき》甲斐《がい》でもある時間。そのちょっとした合間に、休止期に、自分がこの罐詰を食べ元気をつけて悪い理由がどこにあろうか。
そうだ、と徹吉はなおも柄にないこまごまとしたことまでを考えた。机のわきに、小皿と箸《はし》とマヨネーズのびんと魔法びんに熱い茶を用意しておこう。筆がなめらかに予定より進んだ夜、蟹かアスパラガスの罐をあける。それは淡泊に舌を愉《たの》しませ喉《のど》を魅してくれることであろう。仕事が行き悩んで精も尽きた夜、コンビーフの蓋《ふた》の裏についた白い脂肪はおそらく新しい活気を呼んでくれるであろう。それまで、そのときまで、その大事なかりそめならぬ時期まで、この罐詰には手をつけてはならない。
そこで徹吉は、ちょうど空《から》になっていた、かつて留学の際に使用したトランク――その古びた皮には各地のホテルのラベルが隙《すき》間《ま》もなく貼《は》られていた――を持ってきて、得がたい罐詰をその中につめこんでみた。ところがアスパラガスの罐が嵩《かさ》ばりすぎて、それには入りきらぬことがわかった。そこで徹吉は同じく留学時に使用した、長持に似た、二重にベルトのついた大トランクの内容を出し、その中に彼の宝物を入れてみた。すると今度はトランクが大きすぎ、さすが三ダースの罐詰も底のほうにちょっぴりとしか見えぬような仕儀となった。なんとなく物足りぬ、残念な感に徹吉は捕われ、今では白髪のほうが遥かに多い、やや猫背の、近眼鏡の奥にしょぼしょぼとした目を持ったこの老医学者は、与えられた玩具《おもちゃ》に不満をもつ幼児のように心に呟いた。
「これでは足りぬ。もう少し溜《た》めねばならぬ」
そこで甚《はなは》だ不似合なことながら、徹吉はわざわざ、くすんで湿った味噌の匂《にお》いのする台所へ出かけてゆき、同じようにくすんで小さくむっつりとしているしげに、罐詰の貯蔵について質問をした。徹吉を安《あん》堵《ど》させたことに、もとより上等なものはなかったが、鮭《さけ》、牛肉、貝柱、筍《たけのこ》などの罐詰が、台所の縁の下にはかなりの量貯えられていた。徹吉はしげの許可を得て、その幾つかを自室へ持帰った。
当時、魚や肉類の罐詰は配給になっていたが、まだまだ町で入手することが可能であった。そこで徹吉は、かつて精神病理学史の文献を求めたのに近い情熱を傾けて、その後も幾種類かの罐詰を入手した。決して自分でも食べず、さながら珍奇な標本でも蒐集《しゅうしゅう》するかのように、大トランクの底に蔵いこみ、それが次第に堆《うずたか》くなってゆくことに言い知れぬ満足を覚えた。鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》の罐詰というのも一ダース買い、一体中味がどんなふうになっているのか覗《のぞ》いてみたい気も起きたが、偉大な精神力をもってその誘惑を絶ち切った。
彼は罐詰を蔵いこむだけで一つもあけず、藍子や周二らに食べさせてやろうとは少しも考えなかったが、どこか遥かの南海の孤島で御国のために戦っている長男の峻一には、さすがにそのいくらかを送ってやりたいと考えた。
その後も峻一からはときたま便りがきた。こちらからの便りや小包もとどいており、彼は病気もせず元気で毎日を送っている様子であった。しかし先の部隊長の手紙とは裏腹に、「今度の処は無いものづくしで不自由の限りです。有るのは金と暇ばかりです」とか、「ライターを一つお送り下さい。補充の石も」とかいう文句も末尾に必ずつけ加えられていたし、最近松原の家へ行った便りには「当方|益々《ますます》元気です。かなし水なし果実なし、金は余れど買ふものなし」という、なんだか矛盾した、狂歌もどきの文字が書いてあったそうである。
徹吉は蟹と鮭と鰻の罐詰を二つずつ選びだして、小包にして横須賀局気付ウ壱○参ウ壱○○(す一)へむけて発送した。コンビーフを送ってやりたかったが敵国の製品でははばかられたし、もう少し量を多くしたらという考えも、なに軍隊の給与はそれほど悪くあるまいと思い直して中止した。そして徹吉は、残りの罐詰を入れた大トランクの蓋《ふた》をぴったりと閉め、どことなく自足した守銭《しゅせん》奴《ど》のような面持で自分に頷《うなず》くのであった。
といって、もちろんそれは徹吉の当時の日常のごく一面にすぎなかった。戦況は日と共に芳《かんば》しくなかった。徹吉の顔を曇らせたことに、北アフリカでも連合軍は強力な攻勢をとり、独伊軍は歩一歩と後退をつづけていた。そしてその五月の末に至り、徹吉を悲嘆させた相つぐ凶報がきた。五月二十一日、国民の期待を一身に背おった連合艦隊司令長官山本|五十《いそ》六《ろく》の戦死が公表された。更に追いかけて三十日に至り、大本営はアッツ島の玉砕を発表した。徹吉がそれを聞いたのは夜七時のニュースで、食卓には藍子と周二もいた。ミッドウエイ以来敗戦を糊塗《こと》し、撤退を転進と無理に呼んだりしていた軍部が、はっきりと敗北の事実を公表したそれは最初のものであった。
「アッツ島守備部隊は五月十二日以来きはめて困難なる状況下に寡《か》兵《へい》よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、五月二十九日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌《てっつい》を下し、皇軍の真髄《しんずい》を発揮せんと決意し、全力を挙《あ》げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後《じご》通信まつたく杜《と》絶《ぜつ》、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加しえざるものはこれに先だちことごとく自決せり。わが守備部隊は二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎|保《やす》代《よ》なり。敵は特種優秀装備の約二万にして五月二十八日までにあたへたる損害六千を下らず」
徹吉は凝然と箸を置いた。かたわらで周二が唾《つば》を呑みこむのが聞えた。しかし、このよかれあしかれ日本軍に特有の全員玉砕の報――それはやがては極端にいえば日常茶飯事の報知ともなるのだが――をはじめて耳にして暗然と唇《くちびる》を噛《か》んだこの父子にしても、そのとき藍子が示した反応にはさすがにびっくりした。
藍子はその春に東洋永和女学校――もともとは東洋英和なのだが、戦争|勃発《ぼっぱつ》と共にその名称も改称された――を卒業し、聖心高等女学院の生徒になっていた。彼女はひときわ身長を増し、乳臭さの残った女学生の幼さから、ほっそりとしすぎてはいるものの或るそこはかとない成熟を予感せしめ、一人の女に近づいてきた徴《しるし》を示していた。もっとも彼女の顔はこのところ目立って痩《や》せ、目の下に憔悴《しょうすい》したような隈《くま》ができていることもままあった。
そのとき、藍子はだしぬけに嗚《お》咽《えつ》を洩《も》らしはじめた。うつむいて、肩をふるわせて嗚咽を洩らし、ついで低く、だが堪えかねたように激しく、次のようなほとんどヒステリックな叫びを吐きだした。
「悔しい!」
父親と弟とが驚いてそちらを見やると、その涙に濡《ぬ》れた顔は醜く歪《ゆが》み、かつ貧血した病人のように蒼白《そうはく》だった。次の瞬間、彼女はつと[#「つと」に傍点]席を立ち、逃げるように向うへ、自分の部屋へと走り去った。つまずくようにしてはしたなく、顔を両手で掩《おお》いながら……。
藍子の我知らぬ感情の爆発は、もとより理由のあるものであった。ここしばらく、彼女は自分から未来の夫と心に決めた城木達紀の安否を気《き》遣《づか》うあまり、夜の眠りも妨げられがちであったのだ。
昨年の暮、城木と思いがけぬ接吻《せっぷん》を交わして以来、藍子は至極変り易《やす》い、その十九という年齢にうち震える、いわば極端な恍惚《こうこつ》から極度の絶望の感情のあいだを、投げやられ投げかえされていたといってよい。最初には我を忘れた喜悦があった。東洋永和女学校の仲間のうちでも崇拝者の多いこの少女が、これほどまでにいきいきとした、きらきらと輝く瞳《ひとみ》を有していることは嘗《かつ》てないと思われた。「アコ、あなたはどうしてそんなに悲しいほど美しい目をしているの?」と、やがて近づく別離のためひときわ感傷的になった級友が言った。「そう? あたしの目は綺《き》麗《れい》? 本当にそうなの? よかったわ。本当によかったわ。あなたのことあたしは忘れない」と、藍子は変にはしゃいで、混乱した言葉をややヒステリックに言って、友達の腕を痛いほど握りしめ、それから、ぼんやりと定まらぬ、意識を奪われたような視線を別の方角に据えた。
やがて卒業式が近づいてくる。おびただしいノートへの別れの言葉と署名、それぞれのグループの記念撮影、或いは開戦時までの校長であったミス・ハミルトンの尽きぬ思い出話、――それは果てしなくつづく、せわしい、落着かぬ、ふしぎに悲しく喜ばしい日々であった。だがその中にあって、いつも真先になって何かにつけ皆を煽動《せんどう》する役の楡藍子が、日ましに寡《か》黙《もく》となり、引っこみがちになってゆくのは、いぶかしくげせないこととして目に立った。
藍子は、一通だけ城木達紀の手紙を受取っていた。それは城木がトラック島の基地から出したもので――藍子自身にはそんなことはわからなかったが――一月の末に藍子の手元にとどいた。非常に慌《あわただ》しい便りで、二人の将来に関する具体的なことは特に書かれてはいなかったものの、藍子はその杓子定規《しゃくしじょうぎ》の文面から、はっきりと自分が愛されていることを理解できたように思った。しかし、いずれまたゆっくり便りする、とその手紙は結んであったが、その後待ち望んでいる便りは一向にとどかなかった。たとえ大きな作戦にしろ今までの例だと三カ月ほどで終る、長くても三、四カ月でいったん内地に帰港する筈《はず》だが、呉に入ることが多いから果してそのとき会えるかどうか判らない、だがそろそろ転勤の時期でもある、どういう異動となるかは不明だが、いずれは内地の陸《おか》勤めになることもあろう、と別れるとき城木は言ったものであった。――そして時間はのろのろと、はじめはやるせない恍惚のうちに、やがてはいらだたしい不安と空虚さのうちに過ぎていった。一《ひと》月、二《ふた》月、そして三《み》月。だが、城木からはなんの音《おと》沙汰《さた》もなかった。
藍子は毎日の戦況ニュース、新聞の報道に克明に注意を向けるようになっていた。レンネル島沖海戦というような戦果の発表があると、その末尾に、もしや我方の損害空母一隻などと出ているのではないかと、胸を緊《し》めつけられながら、恐る恐る盗み見た。それは神経を極度に疲労させる、痛々しい緊張の連続する日々であった。彼女にははけ口がなかった。今でもさして稀《まれ》ならず松原の家で会っている母親にも、仲の良い友人にも、城木のことを彼女は一言も打明けていなかった。この少女には、自分の運命は自分で定めるという矜持《きょうじ》があった。龍子から伝わる一風変ってかたくなな、藍子の場合には未だ小さく可愛らしい矜持が。
新しい環境の聖心女学院に登校しはじめたころから、彼女の焦心と疑惑は日と共に濃くなっていった。幼時から我儘《わがまま》に気ままに育った藍子は、じっと堪《た》えしのんでただ受動的に待つという状態に慣れていなかった。まして戦局が新聞の解説によるまでもなく「苛《か》烈《れつ》を極《きわ》め」決して楽観を許さないことは、彼女の不安をひときわ真剣なものにした。しばらく前から、藍子はしばしば悪夢によって目覚めさせられた。空一面にかぐろい敵機が数限りなく乱舞し、胡麻《ごま》粒《つぶ》のように爆弾を投下している。下方の海面はひき裂かれ奔流し、そこに瑞鶴《ずいかく》とはかくもあろうかと思われる空母が斜めに沈みかかり、火《か》焔《えん》と黒煙に包まれ、まさに断末魔の相を呈している……。翌朝、彼女の目の下にははっきりと隈ができた。それゆえ聖心のクラスに於ける彼女の評判は、東洋永和に於けるそれとはまるきり逆のものであった。藍子は、口数の少ない、取っつきにくい、むしろ陰気な少女と化していたからである。
あたかもそのような時期に、「アッツ島玉砕」の発表があったのだ。アッツ島と城木達紀の運命とはもとより無関係であろうが、その凶報は藍子を根底からゆり動かした。先に便りを受取ってからすでに丸四カ月が経過している。何かがある。何かが起ったのだ。なにか不幸な、考えたくない、しかし考えざるを得ない事柄が。それともこれは単におし迫った戦局のせいにすぎないのだろうか?
藍子は不吉な予感に矢も楯《たて》も堪《たま》らなくなった。しばらくを堪えた。逡巡《しゅんじゅん》した。それから遂に決心をした。城木の家を訪《たず》ねてみようと思い立ったのである。
楡峻一と城木達紀は親しくつきあっていたものの、両家のあいだに交際があったわけではなかった。従ってその日曜の午後、藍子が世田谷|上馬《かみうま》の城木の家を捜したのは、まったく住所ひとつ――それも同じく出征中の兄峻一の部屋にあった手帳から見出したものである――が頼りであった。
その辺《あた》りは閑静な、といってさして大きからぬ住宅の続く区域で、藍子は二、三度、人に尋ねたりしたが、当のその家を捜し当てるまでには意外に閑《ひま》どった。自宅を出るときも何回かためらったため、ようやく木の門柱に目ざす表札を見出したときは、晴れあがっていた初夏の空もいくらかかげりを帯びだしていた。藍子は門前でまた躊躇《ちゅうちょ》した。そのとき、彼女の頭上をなにかすばやく過ぎる影があり、見上げると、それは白い腹を反転させて斜めに上空に飛び去ろうとする燕《つばめ》であった。
「ああ、燕がきている」
藍子は一瞬その清《せい》楚《そ》なすばやい影を見送った。燕は春にくるものだろうが、彼女はその年、まだ燕を見ていなかった。今年最初の燕を見たこと、それも辛うじて尋ねあてた城木の家の門前で見たことに、彼女はなにかそれまでの抑えがたい疑惑を拭《ぬぐ》い去られたような幸運の訪れに似たものを感じた。それに勇気を得、藍子は門をはいった。
すぐに格《こう》子《し》戸《ど》の玄関がある。かなり古びた平家の日本家屋である。横手に庭があるが木戸に遮《さえぎ》られて母《おも》屋《や》を窺《うかが》うことはできない。
藍子は呼鈴を押し、そして立ちすくんだ。跫音《あしおと》が聞えるまでかなりの時間がかかった。
「はい?」
藍子は格子戸に手をかけた。思いがけずするすると大きく開いた。家の中はすでに暗い。達紀の母親であろう、その面立ちはよく見わけがたかった。
「どなた様でしょう?」
藍子の沈黙が長かったので、相手が切口上でうながした。藍子は一息に言った。
「あたくし、楡峻一の妹でございます。兄が……」そこで彼女は絶句した。
「あ……楡さんでいらっしゃいますか。……それは……」
いくらか相手の語調はほぐれたようだったが、それでもなお冷たくこわばっているように藍子の耳には聞えた。彼女はやや伏せていた顔をあげ、また一息に、他の事を何も考えずに言った。
「あの、達紀さんはどうしていらっしゃいますでしょうか? 最近お便りがございましたでしょうか?」
わずかの沈黙があった。それは無限の長さのように感じられ、ついで藍子は、次のような恐ろしい、あまりに恐ろしい言葉をたしかに両の耳に聞いた。
「……達紀は、戦死致しました」
城木達紀の母は、低いながらはっきりとした口調でそう言った。だが、彼女は次の瞬間、思わず足袋《たび》跣《はだし》のまま玄関のたたきにとびおり、格子戸の外に立っている初めて見る少女を危うく支えてやらねばならなかった。戦死した息子の親しい友人の妹と名乗るその少女が、いきなりふらふらとよろけ、そのままその場に倒れかかったからである。
*
欧洲の言を待つまでもなく、楡病院の関係者の中で応召される者は少なくなかった。以前は無用と思われる人間まで松原の本院にはごろごろしていたものだが、次第にその数が減り、看護にしろ事務にしろ今は人手不足の状態を示してきた。この昭和十八年は楡病院の開院五十五周年に当るわけなのだが、そういうおし迫った時局のことを考えて、院代|勝俣《かつまた》秀吉《ひできち》は大々的な祝賀を諦《あきら》めねばならなかった。ごく簡単な式とつつましい品物の授与でそれは終った。というより、院代はこのところさすがに老いこんでいて、五年前のような精神|昂揚《こうよう》状態には立ち至らなかったのである。そしてその六月、仕事をせずに徒食することにかけては第一人者である、当時四十八歳となる佐久間熊五郎のところにまで遂に赤紙がきた。
米国は自分が召集を受けたかのように狼狽《ろうばい》し、かけがえのない腹心の部下であり朋輩《ほうばい》でありときには指導者でもあった熊五郎の手をおろおろと握った。しかし、当の相手は意気|軒昂《けんこう》というか、胆が太いというか、神経がこまやかでないというか、悠然《ゆうぜん》として平気の平左の顔つきをしていた。
「米国さん、大丈夫」と、彼はぴくりと濃い眉《まゆ》をあげてみせた。「ぼくがあなたのぶんまで戦ってあげます。あなたは安んじてアスパラガスを作っていればいい。それからキボシカミキリを大事にして」
病院の一同の前では彼はもっと大言壮語した。
「熊五郎出陣!」と、彼は見栄《みえ》を切ったものだ。「いよいよぼくが出陣する秋《とき》がきたですぞ。威風堂々○○○方面に向い○○の途に就くべし……というわけだ。諸君、期待を大にして待つべきですぞ。ぼくは畏《かしこ》くも天皇陛下と楡病院の御為《おんため》に……」
しかしながら彼には、今も楡病院の看護婦をしている妻もあれば幼い男の子もいた。妻子のまえで熊五郎がどのような態度を示したかは不明だが、ともあれ人前では昂然と、どこかの司令官のごとく莞《かん》爾《じ》として、彼は米国をはじめ病院の者多数の見送りを受けて東京駅から発《た》っていった。本籍が山口県なので山口の歩兵二三三連隊に入隊するためである。
熊五郎はずっと怠惰に気ままに要領よく、これまでの人生を過してきた。その長年の体験と持前の図太さによって、軍隊の中であれ戦争の中であれ、ほぼ似たようにさしたる障《しょう》碍《がい》もなく立ちまわれるとごく簡単に確信していたところがあった。しかしいざ山口の連隊に入り、若い者は二十二歳から年寄りのほうは五十歳までの第二乙の補充兵の仲間たちと一緒に内務班教育が始まると司令官ならぬ身の二等兵の熊五郎は、早速に徹底的にその予想を裏切られた。連日聞きしにまさるビンタの連続であり、その被害を熊五郎がなかんずく多く受けねばならなかったのは、彼の横柄に横着に見える目つきのせいかも知れなかった。夜はおびただしい南京虫《ナンキンむし》の群れに襲撃され、首すじが真赤に腫《は》れあがった。最初に彼らは土のつまった俵を差しあげさせられた。五、六回の者が軽機関銃か擲弾筒《てきだんとう》、七、八回で重機、二、三回しかあがらぬ者は小銃手と、将来定めるためであった。その理由を知っていてずる[#「ずる」に傍点]をきめこんだわけではなく、熊五郎は二度しか俵をあげることができなかった。ずんぐりと猪《い》首《くび》のこの男は、一見なかなか力もありそうに見える。
「貴様、本気でやっとるのか? それしかあがらんか!」
熊五郎は汗みどろとなって土俵に組みついたが、もはやそれ以上は不可能であった。長年にわたる楡病院での特権的生活様式は、彼の精神のみならず肉体をもすっかりなまらしていたのである。
山口の連隊にいたのはわずかな期間であった。一週間後にはもう熊五郎たちは汽車につめこまれた。下関から関《かん》釜《ぷ》連絡船に乗る。船は対潜警戒のためジグザグ航行をして夜|釜《ふ》山《ざん》に入る。アメリカと戦うほうが華々しくていいと豪語していた熊五郎の意図に反し、彼らは遥々《はるばる》満洲を経由して中国大陸へ送られるのである。満洲国境から貨車となった。二日、三日、四日と貨車はひた走りに走る。身体《からだ》は棒きれのように固くなり、ぎっしりと兵を満載して走る貨車の上から小便をするのが一苦労であった。すれ違う列車、貨車が内地へ帰還する兵隊で一杯である。その兵たちの顔貌《がんぼう》が異様であった。思わず目をそらしたくなるような凄《すさ》まじい目つき、大陸の土壌のようなかさかさした皮膚の色であった。個々の顔立ちを離れて、彼らは一様に、熊五郎たちの貨車にいる内地からきた新米の兵士たちのように生ぬるい顔をしておらず、まったく別種の生物のように見えた。
北支の涯《はて》しない麦畠《むぎばたけ》の間を走り、南京《ナンキン》対岸の浦《ほ》口《こう》で下車した。猛烈な炎暑である。宿舎までの行軍のあいだ、水は一滴もなく、喉《のど》がひきつれて声がでないという状態を熊五郎は体験した。船で南京に着く。今度はひどい悪性の水で、腹痛と下痢が始まった。更に行軍ののち、漢口《かんこう》まで船で三日間の道中、熊五郎は激しい下痢のためずっと絶食し、甲板《かんぱん》に気息|奄々《えんえん》と、一見ふてくされたように寝ころがっていた。周囲の連中も下痢のし通しで、赤痢と診断された者が一人二人と下船していった。熊五郎は船中に残っていたものの、漢口に着いたときには完全に動けず、彼だけトラックで運ばれるという特権を得た。
漢口には半月ほどいた。煉《れん》瓦《が》造りの宿舎に入り、下痢もようやく癒《なお》り、彼らは米の中の芥《ごみ》拾いというつまらぬ作業をやらされた。外出もでき、煙草を売って菓子を買った。次第に熊五郎は最初の衝撃から立直り、楡病院での要領から軍隊に於ける要領への転換をなしつつあったが、ビンタを喰らう率は一向に減りはしなかった。連日、友軍の爆撃機が頭上を過《よぎ》って重慶《じゅうけい》へ向うのが見てとれた。
漢口から砂《さ》洋鎮《ようちん》まではトラックであった。ひどい砂埃《すなぼこり》で、飯盒《はんごう》の中にまで乾《かわ》いた黄色っぽい砂が層をなしてたまった。砂洋鎮から二十日間の行軍ののち大隊本部のある董《とう》市《し》に着き、そこで熊五郎たちは六カ月間の初年兵教育を受けた。盛夏の炎天の下の行軍演習で二名が死亡したが、その間、熊五郎は痔《じ》の手術のためある期間猛烈な訓練を免れることができ、かつイタリア降伏のニュースにも悲憤|慷慨《こうがい》している余裕がなかった。もともと彼は痔が悪かったが、それがひどい垂《たれ》痔《じ》となったため、連隊本部まで後送されて手術を受け、更に師団司令部のある当陽《とうよう》まで下って再手術を受けた。脊髄《せきずい》に一本麻酔の注射を打たれる。足を天井から下った滑車で釣りあげ、簡単|明瞭《めいりょう》にじょきり[#「じょきり」に傍点]と切られた。これだけ切れば今夜は唸《うな》ってもよい、と軍医から不寝番に申し渡しがあった。そして熊五郎は唸った。脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませ、歯を喰いしばりながら一晩じゅう唸りつづけた。せめてあと一本麻酔の注射をして貰《もら》えたら。だがそれはかなわぬことだ。あれだけ昂然《こうぜん》と胸をそらし、自分が出陣すれば戦運|忽《たちま》ち我にありといったふうな豪語を並べて出征した彼の、今はなんとみじめな打ちのめされた姿であろう。とがめられぬのを幸い、いやそれどころでなく、やむにやまれぬ激痛に苛《さいな》まれて、熊五郎は一晩じゅう呻《うめ》き、唸《うな》り、更に呻き、また唸った。
十二月になって、中隊のいる周家城《しゅうかじょう》へ行き、更に熊五郎の小隊は中隊から三里ほど離れた半月山という所の分屯《ぶんとん》隊に派遣された。そして、さして変化のない、ゲリラの危険には常につきまとわれているものの、退屈さと意味もない反復の繰返される日常が始まった。
半月山附近は、ずっと低い禿《は》げた丘陵がつづいている。半月山には五、六十戸の難民区がある。そこからぽつんぽつんと人家のある水田の中を二|粁《キロ》ほど離れた小高い箇所に分屯所はあった。ぐるりを鉄条網で囲み壕《ごう》が掘りめぐらしてある。その中のバラック建ての兵舎に寝起きし、毎日|歩哨《ほしょう》か作業――薪《まき》割《わ》り、炭焼き、難民区への買出しなど――の日常が続いた。中隊からは三里離れている。有線電話をひいても一晩で切断されてしまう。従って敵襲の際は銃声が報知であり、応援隊がくるまで十七、八名の人員で分屯所を確保しておくのが彼らの任務であった。
敵襲はいずれもゲリラの小規模なものが、一カ月に二度ほどあった。水田の中の支那《しな》人の家々には必ず犬が飼ってある。その犬の鳴き声によって危険な夜はそれと窺知《きち》できた。それでも油断をしていてだしぬけに手榴弾《しゅりゅうだん》を投げこまれたりすることがままあった。昼間は望楼での、夜は柵《さく》の内側を巡回しての歩哨《ほしょう》がもっとも重要な役目といえた。昼間、討伐に出動することもあったが、日本軍の姿を見ると、少なからず熊五郎を得意にさせ安《あん》堵《ど》させたことに、敵は一弾も応射せずに逃亡した。
熊五郎は、翌年の一月、董市に於て一期の検閲を通り一等兵になった。そして、それきりであった。抜群の功名を現わすどころか、熊五郎は捕虜を逃してしまうような失態をやり、罰則として一カ月連続歩哨に立たせられた。難民区に買出しに行くこと、十日に一度、中隊へ手紙や慰問袋を取りに戻ることが限られた愉《たの》しみともいえた。中隊のある周家城までは兵三名が弾《たま》ごめをした銃を持って往復するのである。手紙はおおむね二カ月ほどで内地からとどくようであった。妻からの手紙を、米国からの便りを、病院の従業員たちの寄せ書を、熊五郎は今はしんみりした面持で読みふけった。出征まえの昂然とした、調子のよすぎたその気概は、さすがに日と共に彼の体内から去ってゆくもののようであった。
もっとも、たまに酒をのんだ夜など、この頭の四角いずんぐりとした猪首の男は、かつての楡病院の賄《まかな》いにおけるように、仲間の一等兵を相手に気炎をあげることもないではなかった。だらしのないイタリアを罵《ば》倒《とう》するのが熊五郎の癖ともなっていた。
「ちょっ、あのバドリオの奴。恥ずべき裏切り者めが! ドイツだって荷厄介がなくなってかえってさっぱりしただろ。それにしても、あのバドリオの奴、武士の風上《かざかみ》にもおけん奴だ!」
あるいは、
「こんなところで守備なんぞについていないで、重慶まで堂々と進攻すべきだな。おれが司令官ならとうに命令を下しているな。不肖この佐久間は、そもそも作戦ということについてはひとかどの意見を持っとるのですぞ」
太平洋のただ中、東経一六六度北緯一九度の地点、ハワイと日本のほぼ中間に浮ぶ小さな低い島が、ウエーク島――日本軍が占領してから大鳥島と改称されたウエーク島であった。面積はわずかに四・七五平方キロメートル、外周二十九キロメートルの小島にすぎない。
島は全島|珊瑚礁《さんごしょう》から成っている。いくらかの岩、あとは珊瑚虫の形造った丸石、細片、砂ばかりで、それが強烈な太陽の下に殺伐なほどしらじらと輝いている。椰子《やし》一本あるわけではなく、ボサと呼ばれる葉の丸く厚い灌《かん》木《ぼく》といくらかの雑草、あとは無数に集まってくる海鳥と野鼠《のねずみ》のはびこる、高潮がくれば全島潮をかぶりそうな、細長くコの字型になったみすぼらしい島であった。
あからさまに言って、ここは人の住める島ではなかった。しかし戦略的要地という観点から、開戦時四千の米軍がいたし、日本軍が占領してからも陸海軍合わせておよそ五千の兵員が守備についていた。そして昭和十七年の九月、仏印にいた独立混成旅団から一箇大隊が大鳥島に分遣されたとき、それに附属した患者救護班の軍医の一名として、楡峻一はこの絶海の孤島に暮す運命となったのである。
といって、毎日はのんびりとした気楽なものであった。見えるものはかっ[#「かっ」に傍点]と照りつける陽光の下に白く反射して平坦《へいたん》に拡がる砂《さ》礫《れき》、あくまでも群青《ぐんじょう》の空と海、聞えるものは間断ない潮騒《しおさい》と海鳥のしゃがれ声ばかりである。暇は山ほどあった。そしてやることはほとんどなかった。いわば峻一たちは、季節の移りもない常夏《とこなつ》の孤島に幽閉されたといった形であった。
しかし、初めのうち島の生活は、居住設備といい食生活といい極《きわ》めて恵まれたものであった。米軍の整った宿舎、豊富な食糧――ピックルス、オリーブの実、アイスクリームまであった――がそっくり使用できたからである。補給船も定期的にはいってきた。味方の航空部隊も健在であった。多いときには、この島の南部に三本の滑走路をもつ飛行場には、一式陸攻、零《ゼロ》戦が八十機ばかりも待機していた。峻一は閑《ひま》のあるのをよいことに、毎日のように飛行場へ出かけてゆき、哨戒《しょうかい》に飛びたつ葉巻型の陸上攻撃機を見送り、さてはずらりと並んでいる零戦のそばにやってきて、整備員と言葉を交わしたり、惚々《ほれぼれ》とそのジュラルミンの機体を撫《な》でたりした。かつて戦争の始まる前年、峻一はこの機種を葉山の海岸でいち早く見ていたものであった。それはたとえば青年が長いこと夢想していた少女とそっくりの姿態を、現実に行きずりにちらと瞥見《べっけん》した感情にも似ていたが、いまはその魅惑に満ちた精悍《せいかん》な戦闘機が彼のすぐ前に、翼を接して居並んでいるのだ。飛行場を訪れるときの峻一の頬《ほお》は常にだらしなく崩《くず》れ、これが二年間軍隊生活を送った男とはとても思えない人のよさ、戦争そっちのけの満悦ぶりを示していた。
「このエンジンは榮《さかえ》か。壽《ことぶき》とはやはり音が違うな」
と、彼はいっぱしの専門家ぶって整備員に言った。
「この零戦の初期の型を知っているかね? もっとフィレットが長くスマートだったような気がするな。もっとも今のほうが強そうではあるが」
しかしながら、ウエーク島が常に平穏無事であったわけではない。恒久とも思える島の静寂をかき乱して、戦艦を含む敵艦艇の艦砲射撃を喰ったこともあり、機動部隊による電撃的な空襲を受けたこともあった。なかんずく艦載機によるそれは完全な奇襲となり、せっかく集結していたわが方の飛行機はほとんど全機地上撃破されるという被害を受けた。しかしそのときにしろ、人員、地上施設には損害というほどの損害はなく、どちらかというと、戦争というものはこの程度のものかと、さして勇猛でない峻一を安《あん》堵《ど》させたくらいのものであった。
だが、戦局の推移は、この一つだけとび離れた島をいつまでも安穏なものにしておかなかった。ガダルカナル島を完全に奪取した米軍は、やがて飛石作戦に出、六月三十日、レンドバ島に上陸、八月十五日、ベララベラ島に上陸、次はラバウルに次ぐ拠点ブーゲンビル島を狙《ねら》っていることは火を見るよりも明らかといえた。ソロモンの敗勢はこの孤島にいても如実に実感できた。なにより、もっとも力強く頼もしく思われていた友軍機が、次々と移動し、今では零戦が十数機残っているにすぎなかった。
そして、急転直下、昭和十八年の十月初旬、ウエーク島は敵大部隊のかつてない執拗《しつよう》な攻撃を受けたのである。
まだ夜の明けきらぬ払暁から、おびただしい艦載機の爆撃が始まった。戦時治療所で配置についた楡峻一は、じっと長いこと否応なしに間断ない轟音《ごうおん》を聞いていた。そうしていつまでも為すことなくむっつりと待機していることは、次第に苦痛に、堪えがたいものになってくる。まだ負傷者は一人もかつぎこまれてこない。そこでつい彼は壕《ごう》の入口から顔を出し、戦闘の様相を、なにより敵機の形態を見極めようとした。そのような危急の場合にすら、飛行機そのものに彼は明瞭《めいりょう》な好奇心を抱いていたのだ。
しかし、そんな場違いな好奇心、無知な余裕は瞬時にして吹きとばされねばならなかった。明けかけた空一面が、薄墨色の煙のようなものでおおわれており、閃光《せんこう》と砲声と硝煙の匂《にお》いが島全体の形相を一変させていた。そしてその黒ずんだ空を、おそろしい速度で不吉に黒い影が飛びこうていた。敵機グラマンの大集団である。それはほとんど無数とまで感じられた。ほんの一瞥で、足島の方角から三十機ほどの敵機が、更に反対側の飛行場の方角から四十機ほどの群れが、こちらに突っこんでくるのを峻一は認めた。まるで激しいスコールのように、向うの粒砂がはねあがり煙ってゆく。それだけで充分であった。まるでどの敵機も赤十字の印をつけたこの治療所を目標にしているかのように見えた。峻一はくるりと向きを変えたが、背後でどっと何かが持上る気配がし、その爆風に押されるように彼は治療所の中へころげこんでいた。頭から血の気が引いてゆくのが自分でわかった。
一人も負傷者がかつぎこまれてこないのも当然であった。この激しい銃爆撃の下では担架隊も動きがとれないのだ。
だが、敵機の第一波はスコールが止むように遠のき、それと共に引きもきらず負傷者が運びこまれてきた。外科医でない峻一は手術の助手を勤める。それでも任務のあること、忙しく手を動かしていることは有難かった。外では艦砲射撃も加わってきたらしく、気味のわるい空気をひき裂く落下音がつづいている。その音響に耳をすましている暇がないことは救いであった。それでも峻一はときどきふらふらと手術台を離れた。もともと彼が漠然と医者となったのは自分の家が医家であったという理由からだが、精神科は血を見なくて済むというのも大きな原因の一つである。学生時代、峻一はつまらない散瘤腫《さんりゅうしゅ》の切開を見て貧血を起してしまったこともある。それが今は、腕も衣服も血まみれで、床までぬるぬると気味わるく辷《すべ》るようになってきた。
昼ころ、敵の砲爆撃が一時やんだ。
峻一は、仏印時代からずっと一緒であった東大出の佐藤という軍医中尉と一緒に治療所を出てみた。すると、ぎくりとしたことに、直接、敵の艦艇が視界にはいっていた。ちょっと見まわしただけでも十隻では利《き》かぬ鼠色《ねずみいろ》の船体が、意外に間近くの海に点々と浮んでいた。この大きからぬ島は完全にぐるりを敵にとり囲まれてしまったとしか思えなかった。
「これは敵さん、上陸《あが》ってくるつもりかもしれんぞ」
と、佐藤中尉があちこちほじくり返されている殺風景な周囲の砂丘を見回しながら、ぽつりと言った。
峻一は答えなかった。彼もたしかにそう信じたからである。そして彼は、そのとき咄《とっ》嗟《さ》の間に、ひたすらに無言で念じた。連合艦隊よ、来てくれ。敵の背後からやってきてくれ。少なくともトラック島にはかなりの艦隊がいるはずだ。なんとか早く来てくれ。敵の大機動部隊があそこに、すぐ目の前に恰好《かっこう》な目標として小憎らしいほど悠々と集結しているではないか。奴らがおれ達を粉《こな》微《み》塵《じん》にしてしまうのは時間の問題だ。徹底的に叩《たた》いたうえで上陸してくることだろう。それまでになんとか間にあってくれ、頼む、連合艦隊よ、そのための艦隊ではないか、頼む。
佐藤中尉の言も早計とは言えなかったし、峻一の切なる願いを笑ってはならなかった。時と共に敵上陸の公算は益々増加していったからである。島を囲んだ敵艦は去る気配も見せなかったし、敵機の襲来もやまなかった。その夜は夜っぴて艦砲射撃がつづき、夜明けと共に敵機の群れはふたたび跳梁《ちょうりょう》を開始した。味方の航空機、十数機いた零戦は昨日|邀撃《ようげき》に飛びたっていったが、もちろん全機未帰還である。島の上空はほしいままに乱舞する敵機に満たされていた。そのうちに重要書類焼却の命令が伝達された。司令部も敵の上陸を覚悟したに相違なかった。対空戦闘は今朝からは中止され、味方の銃座も砲台もぴったりと沈黙したまま、ただじっといらいらと神経を極度に虐《しいた》げながら待っていた。やがて開始されるにちがいない敵の上陸を。
敵機の爆撃は間歇《かんけつ》的に跡絶《とだ》える。万一の僥《ぎょう》倖《こう》を期待して峻一は外へ出てみた。しかし、敵艦隊はやはりそこにいた。ウエーク全島が死滅するまで去らぬとでもいうように、駆逐艦らしいのがゆっくりと移動していた。その背後に停止している大型艦は戦艦であろうか。空母の姿は見えなかった。おそらくずっと背後にいて艦載機を発着させているのであろう。
前夜、峻一はろくに寝ていない。彼のおっとりと間のびのした顔にも、さすがに憔悴《しょうすい》の色が争えず浮び出ていた。彼は昨日来の疲労を今さらのように感じながら、ほとんど投げやりな気分で、砂《さ》礫《れき》のうえに腰をおろした。今は敵機の影もなく、艦砲も射ってこない。信じがたいつかのまの重苦しい静寂が、逆に彼に根ぶかい諦念《ていねん》を押しつけた。
昨日あれほど痛切に願った連合艦隊の来援を、彼はもはやそれほど期待する気になれなかった。峻一は妙に客観的な気持で考えた。それは味方はいつかはやってきてくれるだろう。しかし自分らのためにはおそらく間にあうまい。敵の上陸が明朝として、あの大部隊のまえに自分らが殲滅《せんめつ》されるのにさほど時間はかかるまい。
すると彼は、なにか非常に心残りのような心情に駆られて、思わず頭をふった。自分は、二十八歳である自分は、このままこの小さく平べったい孤島であっけなく人生を終えてしまうのか。なんだかあまりに短かすぎる。戦いの常としても、どうしても心残りがする。せめて一度だけ内地へ戻ることができたら! 一度内地の空気に浸ったなら、あとは心おきなく死んでゆけるような気がする。ここはあまりに遠すぎる。遺骨すら果して内地へとどくかどうか。それではあまりに空虚すぎはしないか。――そして峻一の脳裏には、なぜということもなく、懐《なつ》かしい日本列島の形態が、小学校の地図にあったように単純な赤い色をして浮んできた。それから唐突に、三枚の女の見合写真が次々と思い出されてきた。それは彼が慶応の医局に入りたての頃、世田谷松原の家で彼の母親が見せてくれたものであった。これは頼まれた写真ですが、と龍子はざっくばらんに言った、もしこの中にお前の気に入るお嬢さんがいたら遠慮なくそうおっしゃい。ぼくは三十すぎだな結婚は、と峻一は即座に言って、そのくせ津々《しんしん》たる興味を持って写真と経歴書を研究してみた。一人はなかなかの美人で、ただ目元に険がありすぎるように思われた。もう一人は……いやそんなことより、もしあの一人を娶《めと》っていたら。たとえ一カ月であれ結婚生活を送っていたらどうであろう。そして峻一が知っている女というものは、仏印時代の痩《や》せこけた安南《あんなん》人の女一人にすぎなかった……。
空の一角から、遠雷に似た底ごもる音響が伝わってきた。またしても死肉に群がる禿鷹《はげたか》のような敵艦載機の執拗《しつよう》な来襲を告げる音響であった。このぶんでは敵の上陸を待つまでもなくウエーク島そのものが消滅してしまうのではないか。つかのまの物思いを打壊されて、峻一はそそくさと壕となっている戦時治療所にもぐりこんだ。
二日目の夜がきた。空襲はやんだが艦砲射撃はひとしきり激しさを加える。あらゆる情況から考えあわせて、敵の上陸作戦は必《ひっ》須《す》なものであることは疑いようがなかった。そしてこの夜――峻一は聞かなかったが――島の北部を守備する海軍部隊の方角で、一連の機銃掃射の音響が湧《わ》き起った。それは当時島にいた米軍捕虜――はじめウエーク島を海軍部隊が占領したときの捕虜四千のうち百名ほどの技術者が残留していた――の全員が、あらかじめ早手まわしに処刑された音響であった。
――だが翌朝、すべての予想を裏切って敵艦隊は去っていた。水平線には煙のかげもなかった。黒ずんだ岩に当り、白い砂礫におし寄せ、藍色《あいいろ》の海が目の下から見渡すかぎり遮《さえぎ》るものもなく拡がっている。そして島はまだ残っていた。あちこちに大穴をあけられ、しかしもともと荒涼とした砂礫のみからなる珊瑚礁の島はあんがい思ったほどの変化を見せず、もちろん地上施設はすっかり破壊し尽されたものの、灌木とこまかい粒砂のうえに、早くもものうい陽光の火照《ほて》りが立ちこめようとしていた。
二晩の不眠に目の下をおちくぼませ、完全に死を覚悟していた楡峻一は、入道雲を背にしてかすかに丸くひろがる何もない水平線を前にして、思わずへなへなと坐りこみたいほどの虚脱感を覚えた。
第五章
ここ箱根の山中では、相変らずひぐらしが群がって鳴いた。明星《みょうじょう》ヶ|岳《たけ》の稜線《りょうせん》はなだらかな起伏を見せ、杉木立の間を伝わってくる風は涼しかった。群がり起るひぐらしの群唱を聞いていると、戦争が遥《はる》か彼方《かなた》のものとも思え、徹吉は訳もない罪悪感を覚えた。
確かにこの夏、昭和十九年の夏の強《ごう》羅《ら》は静かであった。多くの別荘が戸を閉ざされたままでいた。そして例年の夏のように捕虫網をふる子供の姿よりも、足早に散歩する外人――ドイツ人の姿が頻々《ひんぴん》と目にはいった。多くのドイツ人が箱根に住居を与えられて暮していることを、徹吉は駅前の商店のかみさんから聞き知った。この六月、連合軍はついに北仏に上陸し、新兵器V一号の登場はあったものの、盟邦ドイツも今や東西から圧迫され苦戦していることは明らかであった。ときどき徹吉は散策の折に彼らに行きあったが、彼らの多くは表情を崩さずに自分の散歩をつづけ、ごく稀《まれ》に機械的な日本語で挨拶《あいさつ》する者があった。
「こんにちは」
「こんにちは」と徹吉も言った。
そして両者はごくわずか会釈しあって、それぞれ孤独の相を示しながら行きちがった。
はじめ徹吉は一人の女中を連れて強羅にきたのだが、今では女中を帰し、一人きりで自炊生活を始めていた。彼が箱根にきたのは例年の習慣であったし、今ではかなりの材料の集まった自分の第二の仕事、おそらくは最後の仕事を書きだすきっかけを作ろうというのがなによりの意図であった。かつて徹吉は、毎夏の箱根滞在中に半年分の仕事をはかどらせたものだ。
だが、以前はうるさく騒いで彼の仕事を妨げた子供らの声、その遊ぶ姿はこの夏は見られなかった。藍子も周二も、この四月から始まった継続的な学徒動員によって、夏の最中もずっと工場で働いているのであった。彼らは完全に学校から、授業から離れて、毎日軍需工場に出勤しているのだ。戦局はそれに比例して重大化していった。つい先ごろ、サイパン島のわが守備部隊玉砕の悲報が告げられた。在留邦人も運命を共にしたようであった。
「壮絶サイパン同胞の最後 従容《しょうよう》として婦女子も自決 世界驚かす愛国の精華」
というような記事を、ストックホルムから特派員が報じていた。
サイパンといえば内南洋最大の要衝である。防備も固いであろうその地域が、ほしいままに敵機動部隊によって蹂躪《じゅうりん》されていることは、今更のように徹吉を慨嘆させ切《せっ》歯《し》扼腕《やくわん》させた。わが無敵連合艦隊は何をしているのか?
おそらく南洋のどこかの島には長男の峻一がいる筈《はず》であった。ここずっと、半年以上便りもなかった。このような情勢の下では、峻一が無事でいることのほうが可能性が薄いようにも思われた。といって、自分の心に諦念《ていねん》を言いきかせる気にもなれなかった。むしろ徹吉はこんなふうに思った。くよくよ思い患《わずら》うな。今は私事に思い患うにはあまりに重大な局面なのだ。誰も彼もが、夫や息子を、大君のために捧《ささ》げているではないか。
徹吉の心理は年《とし》甲斐《がい》もなく、いやむしろその老年のゆえに、ひたぶるに単純に「屠《ほふ》り去れこの米鬼」というような新聞の論調に染まってもいたが、自分の現在の日常をふりかえってみると、滅私奉公とはまた別の、戦争とは関《かか》わりのないあまりに個人的な事柄にすぎないように思われた。そのため徹吉は一人ひっそりと山荘に暮しながら、背後につきまとう後ろめたさを覚えないわけにいかなかった。たとえ個人のはかな事にせよ仕事が進捗《しんちょく》していさえすれば、まだしもそんな気持も消えていこうが、嵩《かさ》ばった資料を毎日のようにあれこれといじくった末、それをまとめる第一歩に一向にはいれないことが、徹吉を余計いらつかせた。こうしているうちにも峻一は危険にさらされながら戦ってもいよう。義弟の米国までこの初夏に応召した。まだ子供の――と徹吉はどうしても思った――藍子も周二も戦線に武器を送る手伝いをしている。それに比べると自分の存在は、こうして病院を副院長の金沢清作にまかせて避暑にきている自分は、この時局に恥ずべきではないか。西欧の翻案でない精神医学の教科書《レールブーフ》を書こうという自分の意図は決して無意味ではないにせよ。
かつて遮《しゃ》二《に》無二根をつめて仕事に打ちこんだ覇気《はき》、執拗《しつよう》な精力が、今や次第に衰えて消えようとしていることを徹吉は薄々自覚しなければならなかった。彼の頭はほとんど白髪となっていた。近眼鏡の奥のしょぼしょぼとした目は、ややもすると遠く外輪山《がいりんざん》の稜線を眺《なが》めながら、ぼんやりと過去の事柄をのみまさぐっていた。
そうしてやや猫背気味にかがんで、夕ぐれに徹吉は、石《せき》油《ゆ》罐《かん》に穴をあけた簡略な竈《かまど》に乾《かわ》いた杉の落葉をくべた。火をつけていぶる煙に目をしょぼつかせながら、粗朶《そだ》を入れ、薪《まき》を入れた。わずかばかりの米を入れた釜《かま》をかけた。そのままたそがれの迫る勝手口の土の上にしゃがんでいた。やがて米の煮える懐《なつ》かしい匂《にお》いがし、ねっとりとした湯気が吹きこぼれてくるまで。燠《おき》を七輪にとり、そこで茄子《なす》を入れた味噌《みそ》汁《しる》を煮た。こうして自炊をするのは留学以来のことであった。ミュンヘンの日本婆さんの家で、ときどき徹吉はイタリア米を炊《た》いたものだ。春、郊外の林へ行って、採る者もいない蕨《わらび》をつみ、そんなものを食べて大丈夫かという顔をしている媼《おうな》の前で、卵とじにしてむさぼり食べたこともあった。あの頃は留学生の中では年配者だったとはいえ、自分はまだ血気|旺《さか》んともいえた。遠い過去の記憶が、まるで自分の人生もようやく終末に近づいたことを告げしめるかのように、そこはかとなく、ふつふつと徹吉の胸に去来した。
仕事への情熱は別として、食欲だけは衰えていず、それが有難いような気恥ずかしいような気持がした。徹吉は鮭罐《さけかん》をあけた。罐切りが金属の蓋《ふた》を切ってゆく抵抗感と、やがて現われる魚肉の綺《き》麗《れい》な断面に、徹吉はしばしすべての関心を集中した。彼はそれまで苦心をして蒐《あつ》めたもっと上等な罐詰を幾つか持参してきてはいた。ところが、いざそれをあけようとするときになって、自分でもいぶかしいほど躊躇《ためら》われた。どうしても勿体《もったい》なかった。もっと後まで、いよいよというときまで取っておきたかった。――俺もずいぶんけちになったものだ、と彼は考えたが、それは元々の彼の性格でもあったし、そのことを別段反省しようとは思わなかった。
暖かい飯、醤油《しょうゆ》をかけた鮭肉、茄子の味噌汁、それらをがらんとした山荘の一室で、笠《かさ》の汚《よご》れた薄暗い電燈の光の下で、徹吉はかなりの満足をもって噛《か》みしめ、舌鼓を打った。これは悪い生活ではなかった。人間はこのくらいのところで自足すべきだし、現に彼は充分に満ち足りていた。ただ、仕事さえ端緒についていたら、戦局がもう少し好転してくれたら、そして苦労をしている息子や娘たちに対してなにか後ろめたいようなこの感情さえなかったなら……。
徹吉は幾つかの小さい蛾《が》の羽ばたいている窓のそばで、無意識に爪先で歯をほじくり、茶碗《ちゃわん》に濃く出すぎた茶をついだ。
とはいえ、周二や藍子の動員生活は、なにもその父親が一人孤独に山荘で考えていたほど、難儀なものでもなければ悲壮なものでもなかった。
周二は大森にある、主《おも》に爆弾投下器、機関砲を作る工場へ動員されていた。なるほど最初、彼は過重の労働を割りあてられた。それは倉庫係で、太い鉄の棒や角材を運搬車に積みこまねばならなかった。重い鉄棒は肩の皮膚をすりむかせたし、うっかりすると指をつぶす危険があった。周二は工場に配属されて旋盤をいじっている仲間が羨《うらや》ましかった。なにより彼らが見慣れぬ機械を動かして、鉄棒から実際にねじを作ったりしているところを覗《のぞ》くといかにも面白そうに思われた。少なくとも学校生活よりは仲間たちは愉《たの》しげに見えた。なにしろわずらわしい授業も試験も今はなく、切削油をはねとばしてバイトをあやつっていればよいのだ。もっとも倉庫係も慣れてみればそれなりに余得があった。閑《ひま》なときは徹底的に閑で、午前中だけで仕事が無くなってしまうことも多かった。昼休みの始まる前に周二たちはピンポン台を占領し、独特のルールで飽かずピンポンをやった。できるかぎり多人数にまわす必要があったから、ゲームは七点先取、或いは五点先取で勝負がつくのだった。更にノータッチ制というのが行われたが、それはたとえどんなに得点でリードしていても、いったん猛烈なスマッシュを喰《く》って球にバットを触れることなく抜かれてしまえば、それで勝負は負けと決るのだった。やがて周二たちは、退勤時間を待つことなく工場を抜けでる法を案出した。ジャンケンで負けた者があとに残り、数人分のタイム・レコーダーを押すのである。昼すぎから映画を見にいったり、遠からぬ本門寺の境内へ行ってゴロ・ベースをやったりした。まるで彼らは何年か逆戻りをしたようで、小学生のやる遊戯に夢中になって半日をつぶすのであった。そういう点から見ても、戦争は、動員生活は、彼ら学徒にとって確かに終りのない休暇にも似ていた。
「九九式BTK……BTKってなんだと思ったら、爆弾投下器の略じゃあないか。ばかばかしい」
「一機の事務の女がよ、いつも俺のほうをじっと見て通るんだ。気があるんだな」
「田中の奴がいつもあらえびすの本を脇《わき》にかかえて電車に乗るのを知ってるかい? あいつ、女学生たちに表紙を見せてやがんだよ」
これが彼らの会話であった。
そして周二は、中学校での平常の授業があった当時に比べ、この工場生活を、かなりのびやかに、平素のじめじめとした劣等意識から解放されて過していた。
しかし、サイパンが陥ち、テニヤンにも米軍が上陸したころ、この経過が変った。周二はもう一人の仲間と、第二機工場の実動力調査という事務系統の仕事を割りあてられたのである。
それはすこぶる楽な仕事であったが、反面、神経を使う厭《いや》な任務ともいえた。日に四回、工場内を巡回する。旋盤、ミーリング、形削盤などの機械がけたたましく動いているが、工員が持場を離れたり、機械の故障で動いていないものがある。それに印をつけ、ある時間における実動率を表にして提出するのである。それは決して工員の怠慢を調べる調査ではない。単にある時間の実動率の比割を調べる目的なのだが、現場の工員のほうはそうは受取らなかった。
周二が工場内を機械の番号を謄写版で刷った紙を手にして廻ってゆくと、隣の機械のところで油を売っていた工員が、横手から慌《あわ》てたように、しかもちょっと凄《すご》みを利《き》かせて口を出す。
「おっと学生さん、この機械は動いてますからね。間違わないで貰《もら》いたいね」
要するに周二たちは、工員から彼らの勤務ぶりを調査するスパイのように思われていることは明らかで、周二は日に四回の巡回に出てゆくのが心苦しく足が重かった。
巡回は十五分で済んでしまう。実動率を算出して表を作る仕事も十五分で済んでしまう。四回それを繰返すだけで、あとは何もやることがないのである。おまけに周二ともう一人の相棒は、鳥の巣のように小ぢんまりと出っぱっている工場の二階の一室を与えられていて、そこで本を読もうが寝ころがろうが自由という恵まれすぎた境遇であった。しかし気の弱い周二はその境遇を享受するどころか、しょっちゅうびくびくと気を病んでいた。その最大の原因は、彼らの担任の教師、ブスケと渾名《あだな》される小柄な老人が、選《よ》りに選って、周二が時間をもてあましてぼんやりしているときに限って、神出鬼没に現われたからである。
ブスケは動員のはじめから、自分の教え子の働くようになった工場内を丹念に熱心に飽くことなく、巡回してまわった。生徒たちが汗にまみれて働いていると、彼は胸が一杯になり、思わず涙もろくもうるんだ声をかけた。
「怪我をせんようにな。無理をせんでな。大丈夫け?」
ところが生徒たちが何もせずに駄べっているところに行きあうと、彼はとたんに不機《ふき》嫌《げん》になった。
「お前ら、仕事はないのけ? 怠けているんではないのけ?」
そのブスケが、周二たちの二階の小部屋に、巡回の一つの道順として必ず訪れてくるのだった。それもどういうわけか、周二が実際に現場を廻っているときとか、或いは計算をして表をこしらえているときには一向にやってこず、さてその長からぬ仕事が終って背のびをしているときに、わざとしたように出現するのであった。
「お前ら、仕事はないのけ? だいぶ閑そうじゃが」
「いまこの表を終えたところです」
「もう何もやることはないのけ? いつもお前らはそうやって何もせんで坐っているがな」
ついに周二たちも一策を案じた。彼らは実動率の調査を終えてもそれをすぐ表にする仕事にはかからなかった。一人が窓辺に椅子をすえ、向うの倉庫のかげからブスケの姿が現われるのをじっと監視しているのである。やがてずんぐりと小柄な教師が、おぼつかない足どりでこちらに向ってくるのが見える。
「敵襲!」と、その一人は言った。
そしてせかせかと彼らはこまかい数字をびっしりと書きはじめる。やがて、のろのろと階段を登ってきた熱意に溢《あふ》れた老教師は、ひとしきり意味のわからぬ表を背後から見つめ、やがて満足げにもごもごと言った。
「お前らもこのごろ忙しいようだな。無理せんようにな。大丈夫け?」
――一方、姉の藍子のほうは、麻《あざ》布《ぶ》の広尾橋にある電気工場で、カーキ色の作業着をつけ、額に日の丸の手拭《てぬぐい》を巻いて、大きな台に一列に並んでせっせとコイルを作っていた。そこは学徒工場と指定された一室で、他の女工員たちの姿はなかった。そしてこの職場は静寂そのもので、このミッション・スクールの生徒たちがいかに行儀よく、時間中ほとんど無駄な会話も交《か》わさずに作業に励んでいるかを示していた。なかんずく楡藍子は、人一倍うつむいて、目まで必要以上に伏せるようにして指先だけを動かした。殺風景なカーキ色の服が、彼女の痩《や》せた――以前に比べ目に立って痩せた顔立ちを、殊《こと》さら輪郭をはっきりと浮びださしていた。その頬《ほお》はしかしあまりに血の気が薄く、なにか病気でもあるかのように暗く陰気に見えた。そして級友たちの見る彼女の性格もまた同様で、なにより無口で冷たく、近寄りにくい少女という印象しか得られなかった。クラスには東洋永和女学校から藍子と一緒に進学してきた生徒が二人いたが、彼女らは元々の藍子の気質を知《ち》悉《しつ》していただけに、聖心の専門部に入学した頃から突然のように変化したその友人のことが益々不可解に思われた。あのアコが、――誰彼《だれかれ》に巧妙な渾名をつけること、ときには冗談にすぎる悪戯《いたずら》を企《たくら》むこと、途方もない作り話をそ知らぬ顔で述べたてることに関しては比類のない才能を持っていた、陽気で快活でかなり威張ってもいたあの楡藍子が、どうしてまったくの別人のような、正反対の暗い沈黙のなかへひっこんでしまうようになったのだろう。
「あと十分よ」
と、一人の少女が秘密めかして囁《ささや》いた。
「そうね」と、話しかけられた少女は壁の電気時計を見やって、くすくすと笑った。「今日の跳《は》ね方はどうかしら?」
学徒工場の主任は、三十歳をいくらも越えていないと思われる、頬骨がいたく突出し、眼球も人間にしては過度に突出している男であったが、生真面目《きまじめ》な、あまりに生真面目な性格であることは疑いようがなかった。それに加えて、年頃の少女たちを監督するにしては、初心《うぶ》というか、融通が利《き》かないというか、とにかく聖心女学院の生徒たちが勤務時間をすまして夕刻帰途につく前に挨拶《あいさつ》をするたびに、主任は椅子からバネ仕掛の人形さながらにとびあがった。その跳ね上り方がまた尋常のものでなかったため、蔭で蛙《かえる》先生という渾名を蒙《こうむ》っていた。そしてとびあがるように椅子から立上った彼は全身をこわばらせ、直立不動の姿勢をとると、生徒たちに向ってぱっと挙手の敬礼をした。その腕は過度の緊張のためぶざまに折れ曲った角度をとり、その揃《そろ》えた五本の指は、勢いあまってぶるぶると震えた。そのような姿勢で、毎度のように一本調子にしゃちほこばって言った。
「は、ご苦労さまであります!」
主任のそのとび上り方、滅多に見られぬ方式の敬礼、軍隊調のその挨拶ほど、ここに動員できている少女らを喜ばせたものはなかった。単にその跳ねぶりをもっと見たいという意図から、彼女たちは昼食の前にも彼に挨拶するようになっていた。彼女らの代表として組長が言う。
「食事に行かして頂きます」
すると主任は、蛙と※[#「虫+奚」、第3水準1-91-59]※[#「虫+斥」、第3水準1-91-53]《ばった》を合わせたほど身体中の関節に力をこめて跳ねあがり、ぱっと凄《すさ》まじく無類の敬礼をし、息をつめて棒のように言った。
「は、ご苦労さまであります!」
少女たちは笑いをこらえるため、ほとんど厳粛な表情になった。それから息をつめて職場を出、お互いに肩を叩《たた》きあって笑った。
「今日の跳ね方はあまりよくなかったわ」
「そうね。ちょっとこのところ勢いが足りなくなったみたいね。可哀そうに蛙先生も疲れてるのよ。少し跳ねるのを休ませてあげなくちゃ」
そんなときにも、楡藍子はほとんど笑いはしなかった。
聖心の生徒たちは工場内の食堂で各自持参した弁当を食べる。勤労動員が始まったころ、彼女らはその食堂で出す食事をとったものだ。工場長がじきじきに、配給量より遥かに少なくてよいこれこれの米を持ってきて頂ければ、本食堂では栄養価は厳密に保証できる昼食を出すことになっています、と説明をした。そして試食というべきその第一回の食事は、ハヤシライスまがいのもので、少女たちをかなり満足させるものであった。ところがそれは最初の一回きりで、次の日からは掌《てのひら》を返したように粗悪なものに代ってしまった。なにより御飯がひじき[#「ひじき」に傍点]、乾燥|薯《いも》のまぜもので、米の量のほうがずっと少なかった。そのためはじめ全員が工場の出す食事をとっていたのが、だんだんと家から弁当を持ってくる者が多くなり、今では全員が弁当を食べていた。時代からいってまぜ御飯のほうが当然といえるのだが、彼女らはまだ純粋の米の弁当を持ってこられる家庭の生徒が多かったからである。
もっとも例外もなくはなかった。荒井千恵子という近眼鏡をかけた小柄な少女は、喜んで今でもこのひじき[#「ひじき」に傍点]飯を食べていたが、彼女がちょっと目を見張るに足る豪壮な邸宅に住む身分であること、そして少し足りないのではないかということはもっぱらの噂《うわさ》であった。彼女は工場の食事をすませると、さて自宅から持参した普通の大きさの弁当箱を開いた。
「あなたってよくそんなにお食べになれるのね。一体どこへはいるの?」
荒井千恵子は真面目に言った。
「あたしはやせてるから沢山食べなくちゃいけないのよ。あなた方のほうが少なすぎるのよ」
「それなら、もっと大きなお弁当箱をお持ちになったら? 工場の御飯ってひどいでしょ」
「あら、おいしいわ。この刻んだお薯は少し苦いけどね、これ、こういうふうに黒くなったのは。でもひじき[#「ひじき」に傍点]っておいしいわ。代用食って思ったよりおいしいものよ海藻麺《かいそうめん》なんて。あなた方、雑炊食堂の雑炊ってご存知? こないだ女中がバケツに一杯買ってきたの。あれ暖かくするとおいしいものよ。どろどろしていて、つるつるっていくらでも食べられるわ」
たしかに荒井千恵子は身体に似あわぬ大食漢で、もの選びをせずどんなものでも嬉々《きき》として食べた。当時、工場で、乾燥バナナと呼ばれる、バナナを黒く乾《ほ》してセロファン紙に包んだ菓子がよく配給になったが、皆がもてあましているその乾燥バナナを、彼女はいくらでも胃の腑《ふ》へ送りこみ、いくらでも底なしに欲しがった。
その日も荒井千恵子の健啖《けんたん》ぶりは、ひとしきり少女たちの話題と笑いの種となった。千恵子はといえば、そのことを露ほども恥じることなく、むしろけろりとして得意がるところさえあった。
「あなたは配給量だけで暮さなければならなくなったら、どうなさるの、荒井さん?」
「あたしはあなた方みたいに選《え》り好みをしないわ。乾燥バナナってあんなにおいしいのに、三好さんはお嫌《きら》いね。それでは戦時の女性として失格よ」
「いよいよとなったらあたしだって食べてよ。でも、そういうものをひっくるめて、今の三分の一しか食べるものがなくなったら、荒井さん、あなたは一番先に餓《う》え死になさるわ」
「そんなことなくってよ」と、荒井千恵子はあくまでも本気で一息に言った。「そういうときのことを考えて、あたしはこのところちゃんと節食しているのよ」
みんな笑った。涙のこぼれるほど笑った。だが、そんなときにも、隅《すみ》のほうに坐っている楡藍子の頬は崩れず、ちらと歯をかすかに覗《のぞ》かせたきり、その口は閉ざされてしまった。そんな彼女を前面に押しだして元気づけてやりたいと思ったのか、東洋永和時代からの友人が言った。
「皆さんはご存知ないけど、ほんとは楡さんて凄《すご》い大食家だったのよ。荒井さんに絶対負けないくらい。給食の御飯をいつも三遍もお代りしたものよ」
「ほんと?」皆はいっせいに藍子のほうに目を向けた。
すると、藍子は黙って困ったような微笑を浮べた。ほんのわずか頬をゆるめた。お義理のように寂しげで陰気でぎこちない微笑を。
藍子や周二の工場勤務は、主観的にいって、大人たちが考えるほど大きな環境の変化とはいえなかった。それに比べると楡米国の応召は、底の底から全神経をゆすぶられる、凶悪な悪魔の襲来としか思えない、だが厳然とした運命の※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]腮《あぎと》といってよかった。しかし彼は、一見何事もないように、不可思議な沈黙のうちにその衝撃に堪《た》えた。こうなったら一刻も早く幹部候補生になって任官することだという欧洲の忠告や、さすがに今となっては義弟の健康を案じてなにかと口を出す千代子の言葉に、彼は謎《なぞ》めいた薄笑いを浮べながら終始無口にうなずくばかりであった。そして彼は青山の病院の人々に挨拶する暇もなく、千葉の鉄道第一連隊へ入隊していった。当時は召集系統が乱れていたため、もよりの連隊にはいるとは限らなかったのである。
米国が内心、痛切に願っていた唯一の希望の綱は、第一日目に脆《もろ》くも切れた。営庭に整列して、「病気の者、前に出ろ!」と言われたとき、おずおずと隊列を離れた数名にまじって、彼もまた一足遅れて前に出た。軍医のまえで彼は懸命に口を開き、最初に肺浸潤の名を、それから一念こめて脊髄《せきずい》性進行性|筋《きん》萎縮《いしゅく》症の名を言った。
「なに? なんだと?」
「脊髄性進行性筋萎縮症と大学で言われました」
「筋萎縮だと? どれ見せろ」
米国が全霊をこめて呪《のろ》ったことに、その軍医はせっかくのゆゆしき病気の名称を知らないとしか思えなかった。彼は型通りの診察をしたのち、その無知を暴露しまいがために――と米国は固く信じた――いやに大声に粗暴に突っけんどんに言い放った。
「なんでもないじゃないか! 筋萎縮などありはせん!」
こうして、あれほどその稀有《けう》な疾患と共に並々ならず兵役を怖《おそ》れていた楡米国の運命は定まったのである。
なお悪《あ》しき運命の波は矢継早に彼を襲った。あまり例のないことだったが、彼は幹部候補生の試験に合格できず、同僚の補充兵六百名と共に二等兵のままで、早くもその八月、中国大陸へ、当時第十一軍が占領したばかりの衡陽《こうよう》へ送られることになった。
出発の風景からして異常に心細いものであった。大部分丙種の西も東もわからぬ補充兵たちは銃も持たされなかった。鉄兜《てつかぶと》もなかった。軍《ぐん》靴《か》さえもなかった。彼らは地下足袋をはき、肩から竹筒の水筒をさげていた。それが装備のすべてであり、少しも勇ましいところのない敗残兵さながらの光景といえた。
途中、品川、大阪、福岡から少数の兵が合流をして、総員千名になった。朝鮮、満洲、北支――米国はかつて熊五郎がとった道筋と同じ順路を踏んで貨車にゆられつづけた。北支の見渡すかぎりの麦畠《むぎばたけ》の上を、妖《あや》しくひろがった暗雲のように数も知れぬ飛蝗《ひこう》の群れが飛んでいた。バッタは貨車と反対の方角に飛んでゆく。従ってすれ違う速度も大きかろうに、形容通り天日を暗くして移動してゆくその大群はいつになっても終らなかった。想像を絶したその集団が過ぎ去るまで三十分近くを要した。米国はパール・バックの『大地』を読み、その映画も見ていたが、まったくそれと同様の凄まじい飛蝗の大群であった。それは中国大陸の大きさを、その底の知れなさをまざまざと象徴する光景であったが、米国はほどもなく駄目になると自分で確信する疲れた身体を貨車にゆられながら、目を半開きにしてうつうつと、涯《はて》しなく飛び過ぎてゆくぶ厚い虫類の雲の層を見やっていた。
漢口《かんこう》で、はじめて鉄兜、銃、皮靴などを支給され、ようやく兵隊らしい姿|恰好《かっこう》になった。するとまるでそれを待っていたように、武昌《ぶしょう》に着いてはじめて兵舎にゆっくりと寝られると思ったその真夜中、大規模なB24の空襲があった。弾薬庫がやられ、朝までおどろおどろしい誘爆がつづいた。そのうちガス弾が破裂したというデマがとび、大半は中年すぎのかき集めの補充兵たちは顔色を変えて動揺した。その中でじっとうずくまりながら、米国はひたすらにこう思った。
「駄目だ、駄目だ、もうすぐ自分は駄目になる。どうせそうなるのだ。内地にいたらあと数年は生きられただろう。だがもうお終《しま》いなのだ」
千葉を出発したときから彼は何十遍となく、似たような言葉を胸に呟《つぶや》いてきたのである。
岳州《がくしゅう》まで貨車で行き、そこからいよいよ行軍が始まった。この五月、精鋭の第十一軍が、長沙《ちょうさ》、衡陽、桂林《けいりん》、柳州《りゅうしゅう》をめざして出撃したのがこの岳州であった。それは、一つにはB29用に整備されつつある敵飛行基地の占領、一つには海上輸送が困難になったため鉄道沿いに進撃して南方と日本とを陸路で結びつけようという計画、一つには敗勢|蔽《おお》いがたい戦局の中でせめて大陸に於てでも華々しい戦勝ニュースをもたらしたいという、相当に無理|強《じ》いな、しかし雄大で大規模な作戦なのであった。第十一軍は米空軍の制空権下に長沙、衡陽を抜き、更に西下を続けていた。鉄道の開通が主目的であったから、衡陽に千葉鉄道第一連隊の本部ができ、そこへ米国たちは向わされたわけである。
日本軍がずっと前方を進撃をつづけている、いわば勝軍《かちいくさ》の後づめの行軍の筈だのに、実際には補給線はのびきっていて、やはりそれは怖るべき難儀な行軍であった。岳州から先は、軍工路と呼ばれる道路が、樹木の少ない、灌《かん》木《ぼく》と雑草のちらほらする丘陵の上をうねうねと通っている。連日の雨で、その褪紅色《たいこうしょく》に近い赤土の道は泥濘《ぬかるみ》と化していた。辷《すべ》らないで歩くのがせい一杯で、ゆっくり歩いていてさえ転倒する者が続出する。ときには膝《ひざ》までもぐりこむ。人間の足をねばっこく捕えて離さない、それ自体凶悪な意志を持つかのような泥濘である。車輛《しゃりょう》がすべて行き悩んでいる。トラック、馬にひかせた大砲、それらが泥の中に立往生し、足で歩く米国たちがその傍《かたわ》らを追いこしてゆく。
あまつさえ最初のうちは敵機の来襲に備えて夜間にのみ行動した。昼間は丘のかげ、百姓家などに休んでいて、暗くなってから歩きだす。周囲は漆黒の闇《やみ》である。半ば手探りの、遅々とした行軍であった。一晩に七|粁《キロ》から八粁しか進まない。
初老の年配者も多くまじる頑健《がんけん》ならざる兵士たちは、幾何《いくばく》もなくはっきり疲労の色を濃くしていった。半分眠りながら雨に濡《ぬ》れしょぼたれながら、ただ前に行く者の姿を見失うまいとして、一歩々々辷る坂道を登り降りする。そんなとき、幾度か米国は朦朧《もうろう》とした目にすっと妖《あや》しい影を見たように思った。敵だ、ゲリラだ、とぎくりとする。するとそれは、何本かかたまった木立に変じてしまった。
夜間行軍はやがて何名かの事故――行方不明者を出したのち取りやめになった。闇のなかで小休止するたびに、彼らは思わずとろとろと居眠りをする。「出発、出発」と前部から後部へと小声で伝達してゆくのだが、それが聞えずに寝こんでいて取残されてしまうのである。それに連日、雨雲が低くたれこめていた。雲の上に爆音だけは響くが、敵機のかげを一度も見なかったので、それからは昼間歩くことになった。といって、米空軍の跳梁《ちょうりょう》の跡は歴然と皆の目に映った。道路のわきに焼焦げたトラックが、累々《るいるい》として仰向いているのである。
昼間歩くようになってからも、行程はあまり延びはしなかった。足をとる泥濘、ろくろく食べてもいない体力の消耗が、一時間一粁という実にのろのろとした速度しか許さなかった。
食糧は出発のときからすでに不足していた。漢口を出るとき、鱈《たら》の乾《ひ》物《もの》が一匹ずつ配給になり、それが唯一の動物性蛋白質であった。今日は頭だけ、明日は胸だけ食べろと命令が出たが、腹をすかした兵士たちは忽《たちま》ちのうちに食べ尽してしまった。あとは乾燥|味噌《みそ》に乾燥|醤油《しょうゆ》、これだけは食糧と交換できるから最後まで持っていろと厳命を受けた岩塩だけで、肝腎《かんじん》の主食は幾日分もありはしなかった。あとは自給自足すべしというのである。
水田があると、疲れきった兵士たちも歓声をあげて突進し、両手で遮二無二稲穂を抜いた。露営地で一晩かかって鉄兜の中で籾《もみ》すりをする。大豆の畠があっても同様である。そのほか湿地帯にはときどき蓮《はす》があった。通りすがりの百姓家に大釜一杯の米酒《ミイチュ》が醗酵《はっこう》していて、全員が酔ったのは稀有《けう》な僥倖《ぎょうこう》といえた。半月目くらいから誰もが目に見えて弱ってきて、朝、出発の号令が出てもなかなか起上れない者が殖《ふ》えてきた。
衡陽への中間に長沙があり、米国たちはそこへ到着するのを愉《たの》しみにしていた。長沙といえば名の通った都市であるし、長沙へ行けば何かあるだろう。ところがいざ着いた長沙は、米空軍に徹底的に叩かれた瓦《が》礫《れき》の町にすぎなかった。その廃墟《はいきょ》を、ゲートルも巻かず外被を着たひょろひょろの兵が幾人かうろついている。彼らは長沙の野戦病院の入院患者で、食糧を求めて町をさ迷っているのだった。
「駄目だ、駄目だ、とても駄目だ。衡陽に着くまでに自分は倒れる。必ず倒れる」
と、楡米国は思った。
実際、長沙をすぎると彼の顔はむくんできた。もちろん彼一人のことではなかった。ある朝――そこは小川が流れている気持のよい場所で、彼らはそこに二泊して疲労を回復することになっていたが、その兵はたしかにその朝、川で洗濯をしていた。それが夕刻になって、寝そべっている様子がおかしいので同僚がゆり起そうとすると、首ががくりとたれた。いつの間にか死んでいたのである。栄養失調死だ、と自分らもむくんだ顔をしながらひそひそ補充兵たちは囁《ささや》きあった。
そういう状態になりながらも、なお部隊の秩序が乱れなかったのは、明らかに幾人かの下士官たちの力、その怖ろしさのゆえといってよかった。士官は事実上の指揮者ではなかった。輸送指揮官は高専出の中尉で、決して兵隊を怒鳴らなかったし、見習士官の軍医も同様であった。しかし、すでに大陸の戦闘を充分に経験している、いわば歴戦の鬼|軍曹《ぐんそう》が四名いた。彼らは不屈のエネルギーを見せて、へばりきっている老齢の兵士たちをぶんなぐった。皇軍の伝統の力は、これらの鬼軍曹のもたらす恐怖によって支えられているといってよかった。彼らは戦争というものを熟知していたから、未経験の将校たちが実際面に於て彼らに頭があがらぬことがそれとなく窺《うかが》われるのだった。彼らのエネルギーが尽きないのは、少数の体力もあり気もきく一群の兵士たちにかしずかれているためかもしれなかった。実際、食糧もないはずの野営地で、彼らはどこからか手品のように手に入れてきた酒を飲んでいた。鶏をしめて飯盒《はんごう》でぐつぐつ煮ていた。ともあれ彼らは、絶対不敗、神州不滅の精神を堅持し、腹をすかしたひょろひょろの部隊を叱《しっ》咤《た》し引きずっていった。
「腹に力を入れて歩け! なんだ、そんなざまでどうなるんだ!」
その叱咤は米国のくたくたになった五体をむしろ粉砕するかのようだった。
「駄目だ、駄目だ、もう倒れる、もうすぐ倒れる」
と、米国は思った。
そのくせ彼は倒れもせず、銃身の重みを肩に喰《く》いこませながら、前に行く兵に遅れぬことだけを念頭に歩きつづけた。落《らく》伍《ご》することはもちろん死を意味する。ところどころの要地を日本軍は占領しているだけで、周囲はすべて敵地であった。といって米国は、まだ敵兵は愚か、軍工路のわきで支那《しな》の住人の姿さえ見たことがなかった。一度だけ、遥《はる》か畠の向うをモッコをかついで逃げてゆく百姓の後ろ姿をちらと見たのを唯一の例外として。
夜、その日は幸運に百姓家にはいりこめた米国は、飯盒で煮た枝豆を食べ、乾燥味噌を嘗《な》めた。枝豆は昔から彼の好物であったが、食べ終ると腹のどこいらにはいったかわからないほど微量に感じられた。いつぞや彼は或る信念にもとづいて麦飯とふりかけで食事を済ましたことがある。あの頃は、これでどんな境遇になっても自分は生きていかれると信じたものだ。しかし、ああ、ここにあの一杯の麦飯がありさえしたら。
以前は念頭を去ることのなかった脊髄性進行性筋萎縮症のことを、ここしばらく彼は忘れていた。忘れていたというよりも、それどころではなかったのだ。しかしその夜は、屋根の下にいるという安心感から彼は久方ぶりにその業病のことを思いだした。自分の背中はどうなっているだろう。栄養不良と、銃、背嚢《はいのう》の重さにより、おそらくげっそりと肉が落ちてしまっているのではないか。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ」
と、彼は心に呟《つぶや》いた。
米国はのろのろと軍靴を脱いだ。その底が大きくはがれかけている。濡《ぬ》れた靴を、民家に泊るたびに藁《わら》を燃してかざしたのがいけなかったのだ。こんな靴でこれからどうして長いこと歩いていけるのか。
米国は更に顔をしかめて痛そうに靴下を脱いだ。汚れた繃帯《ほうたい》が現われた。もう何日も前から大きな擦過傷ができているのだ。しかし衛生兵はこんな傷に繃帯の交換をしてくれない。せめてここに脱脂綿をはさめたら。瞬間、彼は松原の楡病院の治療室を思いだした。あそこでは何回か、目にとまらないほどの傷の手当をして貰ったものだ。オキシフルで丁寧に洗って、マーキュロクロームを塗って、ヨードフォルムの粉をふりかけて、目の覚めるほどの純白のガーゼをあてて……。
米国は情けなそうにいま脱いだ泥まみれの靴下を見やった。それは白い純綿の厚い靴下だった筈だのに、今はぴらぴらに薄くなっていた。破けてはいないが、目がはっきり出て、実に頼りなく薄くなっていた。
「靴下というものはだんだんと溶けてゆくのだ。しまいに無くなってゆくのだ。ああ、駄目だ、駄目だ」
と、彼は思った。
更に彼はズボンの膝頭《ひざがしら》に目をやった。平生ゲートルを巻いているその上の膝の部分がすりきれて穴があき、下の袴《こ》下《した》が現われていた。
「ああ、ズボンまで溶けてゆく。これで衡陽まで行きつけるはずがない。ああ、駄目だ、駄目だ、駄目だ」
と、彼は思った。
その夜、米国は懐《なつ》かしい松原の病院、それも自分の領分の農場の一部にある鶏小屋を夢に見た。何十羽という鶏たちがのどかに啼《な》き声を立て、餌《えさ》をついばんでいる。七面鳥も羽毛をふくらませている。熊五郎がそこにいて、青山にいたときのように顔一面の痘痕《あばた》を近寄せて、どれにしますかい? と親しげに言う。あれがいい、あれを丸焼きにするとしよう、と米国は丸々と太った雌鶏《めんどり》を指さす。七面鳥はどうですかい? と熊五郎が言う。七面鳥がそばにくる。それは極度に肥満して、なんだか豚のようにも見える。豚がいい、豚が、と米国は大急ぎで言ったところで、せっかくの夢から湿った藁《わら》の寝床へ解き放たれた。
翌朝、いつまでも起上らない米国はじめ数名の者は、鬼軍曹の一人に叩き起された。彼は一同を見まわして怒鳴った。
「貴様ら、戦争もしないうちにこんなざまでどうなるんだ!」
しかし軍曹は次の瞬間、急に声を和《やわ》らげて言った。この戦場の古兵は、そんな心理的なかけひきを充分に心得ているようであった。
「いいか、株州《しゅしゅう》までゆけば汽車がある。汽車があるんだぞ。もう一息だ!」
なるほど株州からは断続的に鉄道があった。しかし果して鉄道と称していいものかどうかは疑わしかった。軽列車と呼ばれるそれは、トロッコに毛が生えたような代物《しろもの》で、しかも線路はところどころ木製であった。鉄路ではなく木路である。米国たちはこの軽列車につめこまれて相当の距離を走った。不通の箇所にくれば、あとは線路伝いに歩いてゆくより仕方がない。ここずっと幾日も、彼らは太陽を見ていなかった。どんよりと思いきり低くたれた雲、そこからひっきりなしにひいやりと肌寒いほそい雨が降りそそいでくる。雲上に籠《こも》るような爆音がひびくことが多くなった。すべて敵機にちがいなかった。腹にこたえる底ごもりする機銃掃射の音響が、彼方から、前方の雨に煙る方角から伝わってくる。どこかの駅がやられているのであろう。
濡れしょぼれながら、ときによろめきながら、枕木《まくらぎ》を一本ずつ踏みこえて米国は歩いた。
「枕木があと千本つづいたら……それまで自分は持つだろうか? いや、駄目だ、駄目だ、駄目だ」
ひっきりなしにそう思い、そう心に言いきかせながら、それでも楡米国はまだ倒れる気配は見せず、おちくぼんだ金壺眼《かなつぼまなこ》でじっと執《しつ》拗《よう》に前の兵の背を直視し、長年彼の頭脳を離れたことのない脊髄性進行性筋萎縮症のことも今は忘れはてて、一歩々々、にぶく重く無感覚になった足を蹌踉《そうろう》と運びつづけた。
小休止になって地面にうずくまると、しょぼ降る雨が肌に寒かった。このところ朝晩はめっきり冷えこみ、ここ大陸に於ても季節が変ろうとしているのが明瞭に感じられた。……
*
その十月の中旬、久方ぶりに日本国民を雀《じゃく》躍《やく》せしめた大戦果の発表があった。大本営発表によれば、ここずっと傍若無人にフィリッピン、沖繩、宮古、奄《あま》美《み》大島、台湾と各地の空襲を繰返していた敵機動部隊を遂にわが航空部隊は台湾東方海上に捕捉し、これに「殲《せん》滅《めつ》的打撃」を加えたのである。航空母艦だけでも撃沈破実に十三隻、そして敵機動部隊は「敗走中」「潰走《かいそう》中」という表現を大本営発表は使用した。
松原の楡病院の事務室には古めかしい型のラジオが置いてある。扉を一つへだてて院代勝俣秀吉の私室がある。院代はニュースの時間には気をつけていて、『軍艦マーチ』や『敵は幾万』の演奏があると、近ごろ一段と細く萎《しな》びてしまったような身体を、大急ぎで、そのため益々ひょっくりひょっくりと目に立つ歩きぶりで事務室に運んでくるのだった。
その台湾沖航空戦の厖大《ぼうだい》な戦果をラジオに耳をつけるようにして聞き終ると、院代はしばしの沈黙ののち、事務員に向ってこのうえなく厳粛に言い放った。
「君ねえ、これは元寇《げんこう》だよ」
「は?」
「元寇だと言ってるのだよ。わが国を犯そうとする者はすべてこういう運命を辿《たど》る。敵の船は悉《ことごと》く沈み、その一兵だに本国に帰れない。……君、これでアメリカは降服しないかねえ?」
「さあそれは」と、大戦果に喝采《かっさい》するにやぶさかでなかった事務員も口ごもった。「まだ降服というところまでは……」
「だが君、航空母艦十三隻といえば、敵の機動部隊は全滅といってよいだろう? もう攻めてこれるどころか……。なに、飛行機さえなければ、君、アメリカ兵なんてものは腰抜けばかりだからねえ。サイパンやその他の島の奪回だって易々《いい》たるものだよ。……さて、ぼくも歳をとったが、戦勝の日まで死ねないよ。戦勝の日には楡病院で大々祝賀会をやる。それはもう五十周年記念どころの騒ぎではないよ。君ねえ、人間は二年も三年も先を見ることが肝要だ。なに君、これでアメリカの反攻は完全に頓《とん》挫《ざ》してしまったわけだ。見ていたまえ、これからわが連合艦隊が出撃してゆくから」
ところが不可解なことに、それだけ大打撃を蒙《こうむ》って潰滅《かいめつ》したはずの敵艦隊は、ほとんど日を経ないうちフィリッピンのレイテ湾に侵入し、あまつさえスルアン島、レイテ島に上陸を強行してきた。一方、わが艦隊も遂に出撃し、新聞の見出しによれば「赫々《かくかく》相次ぐ大戦果」をあげた。航空母艦だけの撃沈破にしても実に十五隻である。
院代勝俣秀吉は喜色満面となり、しかしいくらかいぶかしげに言った。
「君、アメリカって奴は、ずいぶん航空母艦をもっとるねえ。台湾沖と合わせて二十八隻だよ。だが、いくらなんでもこれで敵も航空母艦が尽きたろう」
「いや、まだわかりませんよ。物量の国ですから」
「いくら物量の国だって、二十八隻だよ、君? そんな無尽蔵にあるってわけがあるまい。まあいい、まだ何隻かあるとしよう。だが敵の艦隊はもう片輪だよ。八割方やられているよ。しかも敵は上陸なんかしおって、退《ひ》くに退けない状態だ。いわば気息|奄々《えんえん》としているところだ。これを陸上からと海上からとおっとり囲んで全滅させてしまえばいい。今度こそ敵を海に追い落さないことにゃあ。まあ見ていたまえ。ここで全連合艦隊が出てゆくべきだな。それが当然の作戦だよ。基一郎先生ならもちろんそう命令を下されるはずだ」
しかしそのわが連合艦隊は、実はフィリッピン沖に於て逆に再起不能の損害を蒙ったことを、――この戦闘で巨艦|武蔵《むさし》が沈み、また真珠湾攻撃部隊のうちただ一隻残った空母、嘗《かつ》ての城木達紀の乗艦|瑞鶴《ずいかく》もこの海戦で撃沈されたのであったが――もとより院代勝俣秀吉が、いや、ほとんどすべての日本国民が知ろうすべもなかった。
院代にとって理解できないことに、いつまで経っても連合艦隊は敵船団を全滅してくれず、逆に米軍は着々と上陸地点を固めてゆくのであった。代って神風特別攻撃隊という特攻隊が出撃し、これも敵空母を九隻撃沈破したと発表されたが、それでも米軍の攻撃はやまなかった。敵機はなお変ることなく乱舞している模様である。院代勝俣秀吉は、一体敵は航空母艦をどのくらい所有しているのかと気味がわるくなり、一見基一郎ばりの調子のいい言葉が出てこなくなった。神風特別攻撃隊については、「忠勇無双だな、君」とひとこと言い、「まあ見ていたまえ」とは遂に言わなかった。
そうこうしているうちに、サイパンを基地とするB29が東京の空に侵入してきた。はじめは高々度からの偵察が目的で投弾はしなかったが、やがてきらきらと銀白色に輝くその機影が見事な梯団《ていだん》を組んで、高速にしかもゆうゆうと帝都の上空を窺《うかが》う日が多くなっていった。
本格的な冬に移ろうとする季節であった。空は厭《いや》になるほど高所まで透きとおり、そこを辷《すべ》るように移動してゆくB29の機体はかなり大きく、とがった長い両翼、四つの発動機までがはっきりと見てとれた。翼のあとに薄い白い気体のようなものを吐きだしていたが、それはまもなく凝って鮮《あざ》やかな飛行機雲となってゆくものらしかった。
院代勝俣秀吉は、防空壕の入口に立って、半ばの好奇心、半ばの恐怖心を抱《いだ》きながら、この敵機の編隊を見送っていた。ぶ厚い防空|頭《ず》巾《きん》をかぶりその上に鉄兜《てつかぶと》をかぶっているその姿は、頭でっかちの子供のように貧相に滑《こっ》稽《けい》に見えた。編隊の前後左右に高射砲の弾《たま》がまばらに炸裂《さくれつ》していた。しかしその多くは徒《いたず》らに見当外れに小さな煙の幕をはるばかりで、敵機は辷るように泰然と遠ざかっていった。
「あれがB29か」
と、院代勝俣秀吉はおっかなびっくりの姿勢のまま呟いた。しばらくして、
「あれがB29か」
と、誰に言うともなくもう一度呟いた。
それ以上彼は、B29に対して格別の批評を加えなかった。しかし、まだ敵機の消えた方角の空を見やっている、相変らず縁なし眼鏡は光っているもののめっきり皺《しわ》の多くなったそのもったいぶった顔には、かなりの昂奮《こうふん》、かなりの漠《ばく》とした不安、そしてそれより多くの嘆賞のいろめいたものが確かに窺われた。
第六章
松本市の駅前から遠からぬ浅間温泉まで小さな車体の電車が通っている。途中に横田という停留所があるが、そこは昔から遊廓《ゆうかく》の多い宿場として知られ、人家も少なくない。しかし横田からいくらか南へずれた元町の附近は、道路に沿って一並びに人家がつづくばかりで、一歩裏手へ出れば畠《はたけ》や水田が拡がり、そこにぽつんぽつんと百姓家風の家が散在していた。
凍《い》てついた寒気のなかに、あちこちの家から洩《も》れる灯が滲《にじ》むように見えた。数日前に降った雪がそのまま田の畦道《あぜみち》に固く凍りつき、東の方角に夜目にも白く真冬の装いに連なる王ヶ鼻連峰を見上げる田の外れに、一軒、そこばかりは眠りこんだように灯の洩れぬ家があった。もっとも格《こう》子戸《しど》の玄関の外には薄暗い電球がついていて、宮崎という表札を読みとることができた。
折からその門口に人影が見え、暗い家の中を覗《のぞ》きこむようにして声をかけた。
「お晩です」
「どなた?」と、すぐ内から応ずる声がした。「え、篠《しの》田《だ》さん? おやまあ、ようこそ。はい、お晩です。お寒いところをようこそ」
そのかなり甲高《かんだか》い、あけっぴろげな、少々しまりのない声には聞き覚えがあった。少なくとも楡家の人間ならはっと思い当る特徴ある声《こわ》音《ね》であった。ついで内からそそくさと格子戸を開けた小肥りをした女の顔立ち――上《うわ》瞼《まぶた》の腫《は》れたようなほそい目、下ぶくれをした頬《ほお》には、年月によっても左右されない、若々しく気さくな愛嬌《あいきょう》があった。
まったく珍しいことに、それは昭和十三年に日本を離れて以来、青雲堂の老夫婦にさえ音《おと》沙汰《さた》がなく、生死のほども不明であった楡桃子だったのである。
彼女は誰にも知られず、また知らせようともせず、昭和十八年の暮に日本へ戻っていたのだった。夫は上海《シャンハイ》で友人と紡績工場をやって成功し、その頃には少なからぬ人を使うようになっていたのだが、彼が妻子を連れて日本へ引上げる決心をしたのは、なにも戦局の変化を見通したわけでもなく、桃子の望郷の念からでもなく、信州にいる両親がすっかり年をとったためと、翌年には小学校へゆく一粒種のさち枝を日本の学校へ入れてやりたいという理由からであった。故国へ戻って両親と一緒に住むようになった彼は、松本市中で軍関係の豆炭工場を始め、たまに東京へ所用で出かけることもあったが、桃子は一度も同行しなかった。楡病院のある東京へは行きたくないというのである。なるほど、いつぞや新宿の三越前で母親ひさから無視されたときからしばらくの間、楡と名のつくものに対する桃子の嫌《けん》悪《お》は常軌を越した根強いものとなり、口を開くと彼女は楡家の誰彼の悪口を言った。だが時が経《た》つにつれ、彼女の口ぶりが変ってきて、楡一族の話は決してしないものの、懐かしい下田の婆や、疱瘡《あばた》の熊五郎、新聞を朗読するビリケンさん、神経衰弱の瀬長、門番の豊兵衛などのことを、もう昔から夫も知り尽している筈《はず》なのに、なにかにつけ繰返し話しだしてやまなかった。それゆえ夫の宮崎伊之助は、内地へ戻ったなら、桃子が真先に青雲堂の店をでも尋ねたがるのではないかと想像していた。しかし、いざ信州へ落着くと、桃子はかえってかたくなに心を閉ざした様子があった。昔の自分はもう死んでしまって、今は新しい別の人間として生き始めているのだ。現在と関係のない遠い過去の話ならいいけれど、まだ尾をひいているなまなましい過去とは一切絶縁する、というのがその言い分らしかった。
とはいえ、それはずいぶんと対立と葛藤《かっとう》を内蔵した心理にはちがいなかった。現に、いま尋ねてきた篠田――市内に住んでいて宮崎が工場をやりだすとき世話になった男であった――が、大正の初めから中頃まで青山に、それも楡病院から遠からぬ青山六丁目に住んでいたということを知ったとき、桃子は言いがたい昂奮《こうふん》を示し、その夫が意外に思ったことに、「あたし、楡病院の娘なんです」と、ほとんど誇らかに言いだしたものだった。頭のなかとは裏腹に、口だけ先に動いてしまったという様子ではあったが。
「さあさあ、どうぞ。いま主人はお風呂へはいってますが、もうあがるところですよ。ええ、年寄りも奥で寝てしまって。さち枝ですか? あの子もお爺《じい》さんお婆さんと寝るようになってから、ほんとに夜が早くなって、夕飯がすむともう寝ちまう始末でね」
桃子はいそいそと言って、篠田を炬《こ》燵《たつ》へ招じ入れ、皿に大盛りにした漬《つけ》菜《な》と茶道具を運んできた。
「まあこの菜をつまんでみて下さいよ。あたしがはじめて漬けた野沢菜なんだけど、どうして評判がわるくないんですから」
篠田は楊《よう》枝《じ》で漬菜を口へ運び、桃子が更《あらた》めて下ぶくれした頬をほころばしたことに、もっともらしく世辞を言った。
「そうせ、これはなかなか。奥さん、とてもはじめてのものとは思えんじ」
それから篠田は、窓をすっかり掩《おお》ったぶ厚い暗幕を見て首をふった。
「いや、防空効果満点だな、奥さん」
「皆さん笑うんですよ。でもあたしはこうと思ったら心配でならぬ性分でね。その雨戸は隙《すき》間《ま》ができるんですよ。だからこんなふうにものものしくしちゃってね」
「東京は空襲で大変なようだが、松本はまあ大丈夫ずら」
「でもあのB29の性能って大したもんだそうじゃないですか。主人は怒るんですよ。警報も出ないのにしんき臭くっていけないって。でも、いずれはどんどんやってくるに決っているわ。歳《とし》のせいで、あたし心配性になったのかしら」
「なあに、奥さんは若いで」
篠田のぶっきら棒な世辞にも、桃子はまんざらでもない様子であった。事実、彼女の肌には光沢《つや》があり、目元にいくらか小《こ》皺《じわ》は見られるものの、たいてい四つ、うまくゆくと五つ、悪くとも三つは年よりも若く見られた。それがたいそう桃子には得意で、なにかにつけわざわざ「歳のせいで」などと言いたがったのである。
桃子は今度は羊羹《ようかん》を――夫の仕事が軍関係のことから容易に手にはいったのだが――ぶ厚く切ってきて客にすすめ、おもむろにぼつぼつと、青山|界隈《かいわい》の些《さ》細《さい》な思い出話を始めた。それも遠まわしに明治神宮|辺《あた》りから始め、穏田《おんでん》橋《ばし》の辺に移り、ようやくのことで青山五丁目の電車通りにまで及んでくるのだった。
「あの角に、増田屋ってお蕎麦屋《そばや》があったのを覚えてらっしゃるかしら?」
「蕎麦屋がありましたな。なにせ古いことだが……」
「その細い通りをはいってくると、途中に青雲堂って文房具店があったでしょ」
「さあてね、なにせ……」
「ほら、あの頃はまだ隣に俥屋《くるまや》があって……」
そんな具合にして、夫が風呂からあがってきて席に加わってからも、結局は桃子は篠田に昔の楡病院の偉容を語らせるまで口を閉ざしはしなかった。
「……わしら脳病院の前手は急いで通ったもんせ。墓地から見ると煉《れん》瓦《が》造りの鉄格子のはまった病棟《びょうとう》があって、青白い顔した女がその中からおいでおいでをしてな。気味がわるかったじ」
すると桃子は鍵《かぎ》のかかる部屋でせっせと紙幣を作る女のことを話しだし、その紙幣には五円、十円、百円があったこと、「島田さつきこれをつくる。全世界に通用するものなり」と毛筆で書かれてあったこと、といってもその札で夜店の品物を買うことはできず大いに口惜《くや》しがったことなどを息をもつかずしゃべり、上半身を折り曲げて小娘のようにころころ[#「ころころ」に傍点]と笑った。
そのくせ桃子は、篠田が夫にちょっとした用件を話して帰ったあと、茶器を片づけるでもなく、ぼんやりと炬燵に背を丸めたまま浮かぬ顔をしてかなり長いこと沈黙していた。
宮崎伊之助が、そういう桃子のなにか思い悩んでいるらしい姿を見るのは決して稀《まれ》なことではなかった。汗ばむほどの炬燵の暖かさと、背に迫ってくる夜気の冷えを同時に感じながら、彼は言った。
「お前、思いきって東京へ行ってみたらどうだね。石神《しゃくじ》井《い》の守田君のところで喜んで泊めてくれるし……そうでなくっても、せめて青雲堂に手紙を書いたら? お前は一人で考えこんでばっかりいるが、青雲堂のおじさんたちはお前の手紙を貰《もら》えばどれほど喜ぶか知れやしない。まあ俺としてはそういうことを言えない立場かもしれないが、下田の婆やさんにしろ青雲堂のおじさん達にしろ……」
桃子は激しい拒否の身ぶりで夫の言葉を遮《さえぎ》った。唇《くちびる》を噛《か》みしめ、じっと一方に目を据えた。本来なら彼女のほそい両眼から造り物のような大粒の涙がこぼれだすところだが、しかし彼女は泣くことをしなかった。外地に暮した六年の歳月が彼女に涙腺《るいせん》を制御することを会得させたのかも知れなかった。だが彼女の愛嬌のある下ぶくれした顔はこのとき醜く歪《ゆが》み、四十に手のとどこうとしている年齢をしばし露出させた。こう一息に彼女は言った。
「あたしは悪人よ。人でなしよ。罪人よ。でもあそこに、楡の家にさえ近づかなければ、あたしは世間に顔の通る女なんですよ。あたしはあなたとさち枝にせい一杯尽さなくって? あたしは一人前の妻であり、母親じゃなくって? あたしが昔の楡病院を思い出すのは、あれは現実とかけ離れた、とうに無くなってしまったお伽《とぎ》の世界だからだわ。あそこには楡桃子って女がいました。元気に買食いをしたり活動写真を見たりなんかして……。だけど今いるのは宮崎桃子です。楡家とはなんの関係もない、敝《へい》履《り》のように捨てられた女です。もちろんあたしには罪があるわ。あたしはここにこうしてひっそりとひっ籠《こも》っていれば、まだ人間として生きていられます。でも青雲堂のおじさんおばさんにとっても、あたしはもう死んだ女なんです」
「なにもお前、そんなふうに考えなくたって、楡病院と関係なく青雲堂と個人として交際すればいいじゃないか」
「でも、あれから何年経って? 下田の婆やも歳をとっていました。青雲堂のおじさんおばさんだってかなりの歳よ。それを……逃げるように日本を離れて……あたしは浦島みたいなものです。こんな幽霊のような女がのこのこ尋ねていって、そしてもうあの人たちがこの世にいないってことがわかったら、もしそうなったらあたしはどうなるんでしょう? 気が違うわ、間違いなく気が違うわ」
「莫迦《ばか》な。お前は悪いほうへ、自分をいじめるようなことばかりを考えたがるんだよ。そうして一人でお前は寝床でくよくよ思い患《わずら》っている。大丈夫さ、下田の婆やさんはずいぶんの歳だったからそれは万一ということもあろうが、青雲堂のおじさん達はきっと達者だよ。病気ひとつしたことのない人たちじゃないか」
「でも、あたしが青雲堂へ行って」と、桃子は明るからぬ電燈の斜光を受けて目の下に隈《くま》の見える顔をあげ、癇走《かんばし》った、或いはだだっ子のような声で言った。「一体何を話すの? まさか昔の病院のことばかり話すわけにもいかないじゃない。そしてその……私がいなかったあいだの話は、きっと私の胸から膿《うみ》を出すわ。私は不幸な女です。生れたときから不幸な運命がつきまとっていたんです。それがあなたとさち枝のおかげで、こうやってまるで幸福みたいな顔をして暮しているんです。あなたには子を捨てた女の気持がわかりっこないわ。聡《さとる》はあたしを憎んでいる。あたしにはちゃんとわかります。一体どんなふうに育ったことやら……あたしはそれをそっと聞くことも許されない女です。今更なんの権利があってそんなことができるでしょう。あたしは駄目だわ。きっと駄目になる……」
その瞬間、ようやく彼女のほそい両眼に、光るものが、危うくこぼれ出ようとするほど分泌されてきた。それを溢《あふ》れさせまいとするように桃子は目を瞠《みは》った。それからひとしきり鼻をすすりあげ、辛うじて襲ってきた激情に堪えることができたようだった。
「……ほんとにみんなどうしているかしら、毎日々々空襲だって言うのに? あたしは楡って家は大嫌《だいきら》いだけど、もちろん一人々々を憎んでいるわけじゃないわ。藍《あい》さまも大きくなったでしょう、それから周ちゃんも……。まあ青山も樹が多いし、松原は郊外だから比較的安全でしょうが。……藍さまって珍しく優しい子だった。もうそろそろお嫁さんになる年頃でしょう。だけど、あたしは藍さまにも会いたくありません。自分がみじめになるからよ。藍さまは聡とおない年なんですからね」
信州の一月の夜気は尋常ならず冷えていた。古びた鴨《かも》居《い》が、天井が、今にもきしむ音を立てるかと思われるほど、一つの掘炬燵を除いた室内には硬《かた》くこわばった寒気がみなぎってきた。
「さあ、ぼつぼつ寝よう」
と、疲れたような声で夫が言った。
桃子は陰気に頷《うなず》いた。しかし彼女は炬燵からものうげに立上るまえに、独《ひと》りごとめいて、この世の悲劇を一身に背負ったかのように、こうくどくどと繰返した。
「あたしはここにひっこんで誰にも知られずに暮して、歳をとって、そうして誰にも知られずに死にますよ。万が一、藍さまにしろ周ちゃんにしろ顔を合わしたとしたら……そんなことはあるはずもないけれど……あたしはそれだけできっとがたがたと崩れてしまうわ。青雲堂のおじさん達が元気でいるよう、あたしはここでただ祈っています。あたしって、そんな運命に生れついている女ですもの」
しかし、桃子がさすがに想像もしなかったことに、前夫の子、聡はすでにそのときこの地上にいなかったのである。前年の夏、聡は経堂の病院に於て粟粒《ぞくりゅう》結核のため息をひきとっていたのだった。もう一つ桃子が考えもおよばなかったことは、ちょうどそのとき、彼女の家から電車で十五分とかからぬ浅間温泉の宿屋の一室に、今し方話したばかりの周二が一人で泊っていたことであった。
その年の上級学校の入学試験は一月末に繰上げられていた。一次試験は内申書によるもので、二次試験には授業とてない動員学徒のために、「勉強しなくても解答可能」な筆記試験と作文が行われることになっていたが、そもそもそんな不合理な試験が存在しよう筈もなかった。ともあれ、周二は二次試験のため、生れてはじめて信州までの旅をし、浅間の一旅館の炬燵の上で、奇妙な疎遠感をもつ数学の公式集などを開いていたのだった。
周二らの動員生活は、暮から新年へかけて空襲を告げるにぶく断続するサイレンの響きが頻繁《ひんぱん》になるにつれ、次第に閑暇の多い放埓《ほうらつ》なものに変ってきた。工作機械の疎開が始まり、学徒の大半は余剰人員になりだしたからである。周二は、あの院代勝俣秀吉を感奮させた台湾沖航空戦のしばらく前から旋盤に配置されていて、その戦果の発表のときは年老いた院代と同様、マイクから流れでる厖大《ぼうだい》な敵空母撃沈の数量にひどく胸を躍《おど》らせ、気負いたって夢中でバイトをあやつったものであった。しかし今では一台の旋盤に学徒が三人もつくという有様で、あまつさえ廻されてくる部品も滞りがちであった。ときどき資材運びに狩りだされ、寒風の中を走るトラックに積まれた鉄材の上に危うくしがみつき、それが済むと、あとは徒《いたず》らに工場の一隅で油を売るという毎日が続いた。
昼間から工場を抜けだして映画を観《み》にいったりする連中に、周二もまたしばしば加わった。彼らは建物疎開地に指定された場所へ出かけてゆき、頼まれもしないのに建物をひき壊《こわ》すのを手伝ったりした。地響きを立てて二階屋が崩《くず》れおちると、一緒に綱を引っぱっていた警防団の男が汗をぬぐってにこやかに言った。
「君らはどこの工場へ動員されているのかね?」
「大森です」
「今日は電休かね?」
「ええ」と、中学生たちは答えた。「退屈だから手伝いに来たのです」
「そうか」と、相手は満足げに頷き、かたわらの少年の肩を叩いた。「君らのような若者がいるかぎり日本は負けやせぬ。そうじゃないか、おい」
疎開をする人々は、道端に持ちきれぬ家財道具を並べて売っていた。周二らは空《から》の一升びんを幾本か買いとり、遠くから石をぶつけてしばらく遊んだ。建物の崩壊する重苦しいひびき、硝子《ガラス》の割れる明るく乾《かわ》いたひびき、破壊することは彼らはなんでも大好きであった。そして仲間にまじって、この無益な行為にふけるとき、周二はいつものじめじめした自意識から離れ、柄になくのびのびと呼吸できるような気がした。少なくとも平時に於て中学五年生を律している秩序や規制は彼らから遠く離れたものになっていた。
東京のどこかが手ひどくやられたという報知を聞くと、彼らは閑《ひま》にまかしてわざわざ焼跡を見物しに出かけた。焼跡はどれもこれも酷似して同じように見えた。黒じみた灰と炭の累積があり、破れた水道管からちょろちょろと水が流れだしていた。黒焦げになった電柱が倒れ、電線が蜘蛛《くも》の巣のように地上にもつれていた。初めの外観と関《かか》わりなく、どの人間の内臓もそれぞれ似かよっているのと同じことであった。
敵機に対するおおらかな憎《ぞう》悪《お》、ひろびろと焼けはらわれた光景に対する訳もない爽快《そうかい》感が、こもごもに周二を訪れた。彼は思った。なんであれ焼けてしまえば似たようなものだし、どのように生きたにせよ死んでしまえば同じようなものだ。そして死の予感は、そのかぐわしいとまで思われる匂いは、すぐ横手に、ごく近い未来に漂っていはしまいか。彼は焼け焦げた地面を靴先で蹴《け》り、自分が幼いころ自由に姉や従兄《いとこ》たちと箱根の山中で遊びまわったときに比較しても劣らないほど、近頃になく翳《かげ》りのない晴れやかな表情をしていることをまざまざと感じた。
周二たちは夕刻までに工場へ戻り、タイム・レコーダーを押して、いっぱしの産業戦士らしく帰途に着く。少数の者は学生服に戻っていたが、大抵は作業着として与えられている国防色の上着のままで、それもわざと油まみれにし、殊さらむさくるしい恰好をすることが流行していた。なかには胸に大きくAとかOとか白ペンキで血液型を記している者もあった。混雑する省線に乗りこむと、乗客たちは油臭い彼らを避けようとして身をひき、それがまた彼らの心を甘く擽《くすぐ》った。彼らは傍若無人の高声で話をする。
「お前らが脱走していったあとでな、俺たちゃ、あおられたぞ。ごっそり仕事がきたんだ」
「済まん、済まん。明日は代ってやるから」
「三機じゃバンコの配置変えがあったってな」
「ああ。四尺旋盤の突っきりだ。ガタガタの旋盤でオシャカばかりできやがる」
「一機の商業の野郎たちが草間たちに眼《がん》づけして生意気なことぬかしやがったそうじゃないか。一度本門寺辺りへ呼びだして一発やったるか?」
とはいえ、彼らはこうして会話の合間に、声を低めて間近に迫ってきた入試のことをも話した。上級学校へ進学したからといって、新しい動員先、別の工場に移るだけのことには違いなかったが、それでも彼らはうす汚《よご》れた白線帽に昔ながらのひたむきな憧憬《どうけい》を寄せていた。その点だけで、彼らはやはり学生であったのだ。
周二は省線の中で友人と別れる。渋谷から地下鉄へ乗り、神宮前の駅から家まで辿《たど》る道は、早目の夜が訪れようとしていて森閑と暗い。稀に行きちがう人影はものものしく防空|頭《ず》巾《きん》に身を固めていた。犬の遠《とお》吠《ぼ》えが聞えたが、応ずる他の犬の声はなかった。飼犬たちも多くは捨てられたり殺されたりしているのだ。やがてこのところどころ傷《いた》めつけられた都会の上におおいかぶさろうとする夜は、燈火管制のゆえだけではなく、異常に濃く深く、あたかも古代の、原始時代のそれを連想させた。周二はいやに鋭く響く自分の靴音に耳を傾けながら、奇妙にしんとした気持で歩を運んだ。支那《しな》事変当時から演習帰りの三連隊の兵士に茶を出していた「兵隊婆さん」の屋敷のまえを通る。考えてみれば、あのころは銃後などという言葉があって、のんびりとしたものであった。可《か》憐《れん》なベーゴマの献納、献金、防空演習、すべてなんとたわいのない事柄にすぎなかったろう。そして現在の戦況、米軍のリンガエン湾への上陸も、徐々に激しくなってゆく本土への空襲も、彼自身の毎日の工場通いも、やがては同じように子供だましの安逸なものとして記憶されるようになるのかも知れない。
周二は鼻孔から呼吸をした。昭和二十年一月の凍《い》てついた空気を。同時に彼はなにかの匂いをその夜気のなかに予感していた。それは死の匂いにちがいなかった。単なる観念としての、幻想としての、豪華で直截《ちょくせつ》で一切を解決してくれるであろう死。それは弱者として生きてきたこれまでの長からぬ彼の生涯と、いよいよ身近におし迫ってきた戦局のもたらした感覚の迷誤に相違なかったものの、彼自身は何もそんなことを認識できる筈もなかった。戦争は彼がもっと小さかった時分から間断なく続いており、戦争とはどういうものか、その影響がどう自分に及んでいるのか、否、平和というものが一体この世にあるものなのかどうかということさえ、周二はすでに考えてみることもできなくなっていた。
周二は戦局の逼迫《ひっぱく》とは関係なく、理《り》窟《くつ》をとび離れて、日本が敗北しようなどとは露ほども考えなかった。といって結局はアメリカに勝つという意識をも持ち得なかった。ただ、いずれはこの内地に敵の上陸軍を迎え討たなくてはならず――まだその当時は本土決戦という文句は呼称されていなかったけれど――そこでは勝敗は別としてありとあらゆるものが轟然《ごうぜん》と音を立てて崩壊し、敵味方の別なく絢爛《けんらん》たる破滅と祝祭に似た死が訪れる筈であった。そしてそう思いそう信じるとき、周二の心は不安や絶望から確実に解き放たれた。なぜなら、それは自分一人の死ではなく、すべてのものの上にあやまたず降ってくる巨大な神聖な死であったから。
昨今の周二の心情や行動は、すべてがそうした観点から律せられていた。工場を抜けだして映画を見にゆくこと――事実、空襲におびえる街にはその反面いかにも閑をもてあまして目的もなさそうな人種が溢れていた――以前の周二なら当然二の足を踏むような行為をも、彼は別人のように余裕をもって実行することができた。
あるとき、彼は新聞の映画広告欄を調べ、午前中から一人で渋谷の百軒|店《だな》まで出かけていったことがある。かつての繁華街も見る影もなくもの寂れていた。殊に目的にしてきた小さな映画館ときたらおそろしく荒れはて、ちょっと見たところでは閉鎖しているとしか思えなかった。それでも破れかけた立看板が立っており、切符売場にはぽつねんと一人の女の子が坐っていた。館内の壁は落ちかかって漆喰《しっくい》が見え、廊下にはおびただしい紙屑《かみくず》が散らばっていた。二階へあがってみると、上映開始時間にはまだ間があるというものの、観客は周二を除いて一人もいなかった。座席は布がすっかりはぎとられ、スプリングのばねや藁《わら》がむき出しになっている。これで果して本当に映画が上映されるのかどうか疑われてくる始末であった。手《て》摺《すり》から階下を覗《のぞ》くと、それでもあちこちにまばらに人影が坐っていないこともなかった。周二はむしろ満足した気持で、天井にたった一つ点《とも》っている電燈を眺め、彼にとってはずっと現実的な[#「現実的な」に傍点]夢想にひたりはじめた。つまり、この架空じみた廃墟《はいきょ》のような建物は、いかにも市街戦の終末の修《しゅ》羅場《らじょう》にふさわしいということ、窓々に銃器が据えつけられ、甲高い金属音が反響すれば天井からは乾《かわ》いた壁土が落下してくることであろうということを。周囲に立ちこめる硝煙の匂い、饐《す》えた血潮のどんよりとした流れ、そしてどさりとにぶく重苦しく肉塊の倒れるひびき、――そうした涯《はて》しのない夢想は、やがてジリジリと間のびのしたベルの音と共に何年も前の時代劇が始まるまで飽かず続けられた。そして周二は、うそ寒げに肩をすぼめながら、心にこう呟《つぶや》いた。
――とにかく、そのときまで[#「そのときまで」に傍点]生きていなければ。それまで無駄死にをしてたまるものか。
夜、枕元にゲートルと鉄兜《てつかぶと》と非常食糧や救急薬のはいったズックのカバンを置いて床に就くとき、周二は遠足を明日にひかえた小学生そのままの充足感を覚えた。警報の鳴らない夜は物足りないくらいだった。昨年の暮近く、毎夜のようにB29が単機ずつ、嫌《いや》がらせのように繰返し幾回も侵入してきたことがあった。はじめ周二は服を着、ゲートルをつけたまま勢いこんで待機していた。それから一向に彼の夢想する大規模な豪華な空襲にならぬことに気色を損じ、服を脱いで寝巻に着かえた。高射砲の音響が近づいてきたとき、さすがに彼は躯《み》をもたげて窓から夜空を窺った。かぼそい探照燈の光芒《こうぼう》があちこち心細げに捜索しているのが見えた。
――こんなちゃちな[#「ちゃちな」に傍点]空襲で自分が死ぬはずはない。
ふたたび床にもぐりこむと、幼い頃から不眠症気味であったこの数え年十九の――歳ばかり徒らに増した周二のうえに、ふしぎと素早い眠気が厚ぼったくおおいかぶさった。それはかつて経験したことのない、甘美で恵みぶかい睡眠といえた。
当時の周二の日常は、ざっとそのようなものだったのである。
しかし松本高等学校の受験におもむいた彼は、また別種の旅を、滞在をした。父母や兄によってささやかな旅行にすら連れだされた経験のない周二には、たかだか信州までの距離も生れてはじめての旅行らしい旅行であった。もの珍しく半ばぼんやりと、ゆるやかな裾《すそ》野《の》をひく八《やつ》ヶ|岳《たけ》を、凍って冷え冷えと沈んだ色合にひろがる諏訪湖《すわこ》を彼は見た。塩尻《しおじり》を過ぎると、速度を落した車窓の遥《はる》か左手に、薄く雪をかむったアルプスの前衛が連なりだした。ぼしゃぼしゃとくすんだ、多少赤味を帯びた枝ばかりの落葉《から》松《まつ》の梢《こずえ》ごしに、蒼白《あおじろ》い山脈はこよなく美しく目に映じた。と、その稜線《りょうせん》の背後に、言いがたい重量感を秘めた雪と岩の殿堂が垣《かい》間《ま》見えた。それが穂高であった。また雪の精さながらに全身白く輝く女性的な姿は乗鞍岳《のりくらだけ》であった。汽車はきしみながら、ところどころ雪の残った盆地を黒煙を吐きながら進んだ。右手の車窓にはなだらかな山稜がつづき、とうとう最後に王ヶ鼻と呼ばれる岩山が魁《かい》偉《い》な相貌《そうぼう》を現わすと間もなく、汽車はいかにも鄙《ひな》びた地方の小都市という感のする松本の町に辷《すべ》りこんでいた。
煤《すす》けたような背の低い家々の並ぶ電車通りが駅前から一直線に通り、待っていると可笑《おか》しなくらい小さな電車がきた。浅間温泉へゆく電車なのである。徹吉はつてを求めて周二のためにそこに宿を予約しておいてくれた。しかしその父親は、受験へ旅立つ息子にむかっては、甚《はなは》だ不器用な文句を一言与えたにすぎなかった。
「いいか、落着いてな。落着いてさえいればどんな問題だって解けるものなのだ」
電車を降りると、甚だしい寒気で耳たぶが刺すように痛かった。ふしぎに清冽《せいれつ》な、東京の工場の躁音《そうおん》や空襲騒ぎとはいささかも関《かか》わりのない澄明な空気である。すでに暮色がしのび寄り、西方に連なるアルプスの峰々はきびしく凝結しながら、凍てついた薄明のなかに、屏風《びょうぶ》のように立ちはだかっている。眺めているうちにも、広範な風景は徐々に変化していった。空の光が薄れてゆくにつれ、山々は紫色をおびながらその突兀《とつこつ》とした立体感をひそめ、影絵のような平板なものへと変りはじめた。
宿に着いたときから、廊下を大勢の小さな子供が頻繁《ひんぱん》に行き来しているのが目についた。聞いてみると、東京の疎開児童とのことであった。その日の慣れぬ未知の旅が周二を感傷的にさせ、彼は夕食のあと、トランクの中へ入れてきたビスケットの袋を持ち、小学生たちの部屋を訪れてみた。彼らは年齢相応に騒ぎまわるでもなく、無気力に、見るからに虚脱したように、広からぬ部屋に三々五々に坐っていた。あやうい手つきで靴下をつくろっている子、腹《はら》這《ば》いになって親からのものらしい手紙に読みふけっている子、口を薄くあけて他の子供の仕《し》種《ぐさ》を眺めているだけの子もあった。活溌《かっぱつ》な、いきいきとしたところがまるでなかった。収容所を思わせる風景で、隅《すみ》のほうでごそごそしている子がいたが、生真面目な顔つきでシャツの縫目を捜していた。虱《しらみ》でもいるのかも知れなかった。周二が持参したビスケットを出しても、児童たちは最初なかなか手を出さなかったが、一人が手をつけると、またたく間に袋はからになった。
部屋の中央に、手造りのボール紙の将棋盤が放置されており、これも手造りの薄っぺらな駒が散らばっていた。
「将棋をやろうか」と、周二は誘ってみた。
小学生たちはもじもじとゆずりあった。
「君やれよ」
「ぼくより、達ちゃんがいいよ」
そんなやりとりがしばらくあったのち、とうとう中で一番強いと衆目の一致した病弱そうな子がボール紙の盤に向った。
周二が将棋を覚えたのは小学校にはいってすぐのことで、彼に壽という漢字を書いてみせた書生が同じように無造作に手っとり早く教えてくれたものであったが、下田の婆やは将棋をさす周二を見て、「大先生は、将棋が二段でいらっしゃいましたよ。教えにこられた専門の先生をもどんどん負かされてしまわれたものです」と相好《そうごう》を崩《くず》して喜んだものだった。早くから駒になじんだせいもあって、周二はその祖父のように一度に二つの駒を動かしはしなかったものの、工場の隅で行われる学徒や工員の将棋仲間のあいだでは決して弱いほうではなかった。
しかし、見るからに病弱そうなその疎開児童は思いがけず将棋が強く、二回とも周二が負けた。熱心に眺めていた周囲の子供たちは、はじめて嬉《うれ》しそうに笑った。そうして親元を離れて愉《たの》しみも少なく暮しているにちがいない頑《がん》是《ぜ》ない子供たちの間にまじっていると、周二は自分がもうかなり大きく、かなり大人に近づいていることを今更のように感じないわけにいかなかった。そして――理由もつかぬ漠とした羞恥《しゅうち》の念を彼は覚えた。もし幸いにして高校に合格できたとしたら、たとえそれが似たような動員生活にせよ、目新しいおのずから別種な世界が自分のまえに開かれるのであろうか。
……筆記試験は、ヒマラヤ杉に囲まれた松本高等学校の古風な校舎の中で行われた。合間の休憩時間に校庭へ出てみると、空は晴れていたが寒々としたグラウンドの一隅で、松高生が三、四人、蹴球《しゅうきゅう》の練習をやっていた。一人だけユニフォームを着たキーパーが汗みずくになってボールにとびついている。他の連中が順ぐりにゴールへ向ってシュートしているのだが、一人は大鴉《おおがらす》にも似たマントを着たまま下駄ばきでボールを蹴《け》っている。その男の頭髪は背にかかるまでに長い。がらんと他に人《ひと》気《け》のない広いグラウンド、その向うに見えるだんだらにどす黒く迷彩をほどこした商業学校の建物、そして松高生の大部分は動員へ行っている時代のことを考えあわせると、それはずいぶんと悠長で不可思議な、時代錯誤としか思えない光景といえた。グラウンドの横手にある寮はひっそりとして、ほとんどの窓が閉ざされている。それでも少数の学生が生活しているらしく、二、三の窓に蒲《ふ》団《とん》が干されてあった。
翌日は朝から雪となった。小やみなく雪は降りしきり、その日は試験のない周二は、宿の炬《こ》燵《たつ》でぼんやりと――そのくせ感覚だけは妙に冴《さ》えてくるようだったが――一日を過した。灰色の空から際限なく舞い落ちてくる雪片を眺めていると、あまりに静かで、現実離れしており、戦争のことなどなにか遠い国の出来事のようにも思われた。夕刻、雪がやんだ。静寂を倍加した松本平は白い眠りに閉ざされ、一切の動きが止ったかのようで、その静寂にはそのくせずっしりした重みがあり、あるいはこの錯覚のほうが真実なのではないかという気さえした。
翌日、口頭試問と体格検査を受け、周二の試験はそれで終った。しかし彼は帰京を一日のばすことにした。最初の一瞥《べつ》から並々ならず彼を魅したアルプス連峰に、このたびは登ることは不可能としても、せめてその内懐《うちぶとこ》ろにもう少し近寄りたいと念じたのである。話だけ聞いている上高《かみこう》地《ち》への入口である島々《しまじま》の宿場だけでも覗いてみたかった。
松本駅から島々線の電車に乗り終点で降りる。そこから島々の宿場まで、一昨日の雪の残った村道を、梓川《あずさがわ》の水音を耳にしながら周二は辿った。枝をくくられた桑畠《くわばたけ》があり、藁《わら》ぶきの農家があり、薪《まき》を背負ってゆっくりと歩く村人に出会う。ふりかえると、王ヶ鼻連峰につづく東方の山々が白銀の色に冬の日を反射している。そうした戦争のかげの露ほども見られぬ自然のなかにいま自分がいるということ、雪の残った道を行く自分の跫音《あしおと》が非常にかすかに意味ぶかげに耳に達してくるということ、それ自体が周二には思いがけぬ新鮮な体験のように思えた。
ひっそりとした宿場を過ぎてからも、周二はなお梓川沿いに先へ先へと歩いた。稲核《いなこき》という部落を過ぎたころから、晴れていた空が曇りだし、周囲の風景が目に見えて厳《きび》しくなった。梓川はずっと下方になって黒ずんで流れ、両側の山はのしかかるように迫っている。ところどころ道が凍りきっていて、ともすると足が辷った。
ふいに白いものが、雪がちらつきだした。川風にあおられて粗《あら》い雪片が斜めに乱れ飛んでき、周二の顔の面にまともに吹きつけた。それ以上先に進むのはためらわれたし、なにより雪を避けるのが先決の問題であった。一つの橋の袂《たもと》から道路から分れた小《こ》径《みち》があり、樹木の密生した崖際《がけぎわ》を通るようになっている。周二はそちらへ進んでいった。すると、あつらえたように、崖下にちょっとした洞穴《ほらあな》が見つかった。入口の天井から幾本もほそい氷柱《つらら》が下り、じめじめした岩肌にはなにかの鉱石のような条紋が浮きでていた。周二はそこへはいりこみ、雪のやむのを待った。
雪は横なぐりになったり、逆に上空に舞いあがったりしながら、音もなく降りしきった。このまま本格的な雪になるのではないかと危ぶまれたが、先ほどまでの晴天を考え、周二はしばらく様子を見ることにした。宿から持参した弁当を開き、箸《はし》を持とうとして手袋をとると、指先がじきにかじかんでき、何遍も彼は息を吹きかけねばならなかった。
小さな洞穴には、薄暗いながら一種特有の青みがかった光が満ちていた。外の雪の反射によるものかも知れなかった。とりどりの長さに入口にさがった氷柱も、特有の光を放っていた。或るものはうす緑の、或るものはうす青い光を滴《したた》らせた。そして冷気が、頬を、手の甲を刺した。苛《か》酷《こく》な、同時に清冽《せいれつ》な寒気である。そそくさと弁当を食べ終えてじっとうずくまりながら、周二はなにがなしの畏怖《いふ》を覚えた。度重なる空襲の下、生命がもっと直截《ちょくせつ》におびやかされている東京の日常にあっては、かつて覚えたことのない畏怖である。そうして洞穴の青みがかった薄暗さと痛みに近い冷気のなかで、霏々《ひひ》と降り乱れる雪を見つめていると、ふしぎな本能的な感覚が周二の体内に蘇《よみがえ》ってくるようであった。少なくともその瞬間、彼は自己の生命が愛《いと》しかったのである。
間もなく、降りはじめたときと同じように唐突に、雪はやんだ。いつの間にか空に青い部分が覗きだしていた。新しく薄く積った雪の上を、周二は島々の駅へと引返した。――こうして、周二の松本に於ける短い滞在は終った。
しかし、すでに翌日の汽車の中から、数日間遠のいていた戦争の現実が戻ってくるのを防ぐわけにはいかなかった。汽車は富士見高原の辺りで敵機を避け、かなり長時間停止したり徐行したりした。そうしていると、晴れあがった冬空をきらきらと輝きながらB29の編隊が東京の方角へむかってゆくのが望見された。乗客はおし黙ってそれを見ていた。新宿には二時間以上も遅れ、夜になって着いた。駅は騒然とし、押しあいへしあいする人波でごった返している。銀座、日本橋など中心部がやられたらしく、省線も数箇所不通のため身動きもできぬ雑沓《ざっとう》であった。その中に罹《り》災《さい》者《しゃ》と一目でわかる人々が大きな荷物をかつぎこんでいる。一人、顔も薄汚れた、鉄兜をかぶったままの中年男がいた。彼のおちくぼんだ両の目は、ほとんど愉悦に近い活気に輝いていた。
「さあ、俺は綺《き》麗《れい》さっぱりと焼けたぞ」と、その男は雑沓の中で周囲を見まわしながら怒鳴っていた。「これでなんの憂いもなく戦《いくさ》ができる。なあ諸君、そうじゃないか?」
それから彼は、傍《かたわ》らを行き過ぎようとする一人の工員風の男をだしぬけに捕えた。
「さあ君、握手だ。こんなさばさばした気持は初めてだぞ」
超満員の電車が構内に進入してき、人波がどっと移動し、まだなにかわめいている中年男の声をおし消した。
人波と喧噪《けんそう》に押されながら、周二は感傷に捕われがちのその年齢にふさわしく、ちらとその瞬間思い返した。壮麗に連なるアルプスの峰々、目新しく稀《き》薄《はく》に澄みきった大気、そしてふしぎなうす青い光に満ちた小さな洞穴の記憶。そこには今まで考えてもみなかった別種の生き方、存在の方法、思考の形態があるのかも知れなかった。もし試験に合格することができたら、そしてつかのまであれあのヒマラヤ杉に囲まれた校門をくぐることができたら……その瞬間、周二は確かに自分の合格を願ったようであった。出発の際も、受験中も、なにか他人《ひと》事《ごと》のように疎遠に考えたその当然の願いをはじめて痛切に祈ったのである。
だが、それから一週間すぎたが、待っていた合格通知はついに彼の手元にもたらされはしなかった。そうわかってみれば、周二は人並の失望と落胆からあんがい即座に――平時の学生には考えられぬほど素早く立直った。彼は自問した。――どうせ同じことなのだ。試験に合格しようがしまいが、自分を待っている、自分に残されている運命はもともと堅固に決定されたものなのだ。
そして彼は、その運命の揺がしがたい不変性、その童話じみた破滅性を、厳粛にかつ爽《そう》快《かい》のことのように思った。たしかにあらゆる情勢が周二の確信を裏書きするように思われた。フィリッピンでは米軍はルソン平原を一気に南下しマニラ市に突入していた。ヨーロッパでは赤軍が潮のようにベルリンに迫っていた。連日警報が鳴り、ラジオがブザーの音を重苦しく響かせた。
「東部軍管区情報。敵、数目標、南方洋上より本土に接近しつつあり」
「……関東地区、関東地区、空襲警報発令。東部軍管区司令部より、関東地区に十時三十分、空襲警報が発令されました。警報終り」
「……目下のところ敵の主力は中部軍管区にあるも、後続部隊は依然北上中なるをもって警戒を要す」
「……敵の後続部隊は依然伊豆半島を北上中なり」
「……京浜地区に侵入せる敵は、一機宛三機を数う。依然主力は静岡附近にあり」
その断続するブザーの響き、更に傷ついた街にこだまするサイレンの響きは、周二の予感が徐々に確実に迫ってくることを期待させるかのようにおぞましく、同時に甘美に魅するように彼の鼓膜を打つのだった。数日おきに大規模な空襲があり、そのたびにどこかの都市が焼けていた。工場では更《あらた》めて工作機械の疎開が急がれ、周二たちは旋盤の仕事よりも機械をトラックに積みこむのに汗を流した。しかしこれらの機械が山間の工場に無事にとどくものかどうか疑わしかった。駅には滞貨が山積みになっており、空襲があれば一つ二つの駅が焼けていた。
毎日、寒さがきびしかった。信州のどこか快かった澄明な寒気とはまた異なる、まるで戦争の変形された一症状と思われるような都会のいがらっぽい寒さであった。防火用水にはる厚い氷を割ることが、どこの家でも日課の一つとなっていた。夜に警報が鳴ると慌《あわ》てて熱湯をかけたりしたが、薬《や》罐《かん》一杯の湯くらいで溶けきる氷ではなかった。実際、この冬のような東京の寒さを周二は経験したことがない。そのくせ空は大方は毎日突きぬけるように晴れあがった。あたかもそこに飛行機雲のほそい縞《しま》模様が描かれることを空自身愉しんでいるかのように。
死とは何だろう、と周二は考えることがあった。もともと思考には伝統的に不適な楡家の一員の頭脳で、長い間の軍国的な教育や勤労動員のためなおさら発育の不全な頭脳で、漠然と考えたのである。そのくせ彼は、実際の死というものを自分がごくわずかしか知っていないことに気づき、ほとんど愕然《がくぜん》とした。彼がその過程をつぶさに観察した唯一の例、それは他《ほか》ならぬ下田の婆やの死にすぎなかった。あのような長期の苦しみ、痩《や》せ衰えた顔《がん》貌《ぼう》と気味わるく色を変じた皮膚の色、喘《あえ》ぐような呼吸の音と苦痛に堪えかねた呻《うめ》き声、その長い道程の涯《はて》にようやく死が待ちかまえていたのだった。周二は見たわけではないが、従兄《いとこ》の聡の死にしても似たようなものだったのではないか。そして死は稀有《けう》のこと、例外のことに属しているといってよかった。ようやくのことで一人の人間が死ぬと、多くの生きた人間たちが集まって死者を悼《いた》み、花を飾り、読経《どきょう》をする。死がそれだけ驚異に価するものであり、生者をおびやかし、慄然《りつぜん》とさせるだけの重みを有しているからだ。しかし現在は違う。死は日常茶飯事のことであり、取るに足らぬおびただしい小石ほどそこらにころがっているものなのだ。もしかすると、基本的な生の涯に死があるという考えが、そもそもの誤りであり欺《ぎ》瞞《まん》なのではあるまいか。死が根本であり土台であり、生がその上に薄くかぶさっているというのが真相なのではないか。また同時に、爆弾の破片が死をもたらすというのももっともらしい欺瞞だ。それは単なるきっかけ、触媒にすぎぬ。その無味乾燥な破片によって、死がその地底の王国から解放され蘇ってくるのだ。生は仮の姿であり、死が本来の姿なのだ。たまたま戦争という偶発事によって、それまで怠惰にたれこめていた引幕が開かれ、死はようやく暗い蔭の領土から足を踏みだし、おおっぴらな天日の下、白昼の中にまで歩みを進めるようになったまでだ。――こんなふうに周二の思考は混乱したものであったが、ともあれ彼の感覚はこの偏《へん》頗《ぱ》な思考を諾《うべな》い、それが一貫しておらず混沌《こんとん》としていればいるほど、その考えを胸に叩きこみ嘉《か》納《のう》したのである。
やがて想像を絶した途方もなく荘厳な死が、この地上に君臨する筈《はず》であった。それこそは緻《ち》密《みつ》に充実した無である。そのまえではすべての生ははかない影にすぎぬ。彼、周二はこれまで、その取るに足らぬ生のなかで、なんとみじめにおずおずと、数えきれぬ劣等感に悩まされながら息をひそめていたことか。こうして燦然《さんぜん》とした死が大手をふって濶《かっ》歩《ぽ》しようというときに、そのような湿っぽい自意識こそ笑止なものではないか。そう考えるとき、周二は自分が生れてはじめて濶達に自由に呼吸できるような気がした。
しかし熱っぽく彼の夢想する「死」は、あくまでも観念的な幻影にすぎなかった。それならば一体、自分は現実にどのようにして死ぬのか? すると周二の頭脳には、次のような考えが抜きさしならず立昇ってきた。いずれはこの東京が戦場となる日がくるであろう、――周二はそのことをほとんど祈願するように確信した――辺りには砲煙が立ちこめ、一面に赤茶色に焼けはてた瓦《が》礫《れき》だらけの終末の日が。そのとき自分は、壕にもぐって一人爆雷を抱き、近づいてくる敵の戦車のキャタピラの音に耳をすましているのだ。一瞬の轟音、戦車は炎上し、自分の五体は粉々となってその痕跡《こんせき》もとどめぬ。自分はそれを眉《まゆ》一つ動かさず、鼓動も高めずに、ごくなにげなくやってのけることだろう。それまではなんとしても早死にをしてはならない。……
ときどき周二は未明に起き、工場へ出勤するまえの一刻を、近くの立山墓地の散策に費やした。ここばかりは戦争の波動を蒙《こうむ》らぬその墓地の静寂の中で、彼の「死」に関する夢想をほしいままに育《はぐく》むためである。冬のそんな時刻には、墓地はまだにぶい薄明のなかに静まっている。霜柱が足元でこころよい感触を残して崩れ、吐く息が白い。周二は生垣《いけがき》や鉄柵《てっさく》にしきられた墓石の間の小《こ》径《みち》を足のむくままに歩いた。ときには冬靄《ふゆもや》が辺りの風景をぼやけさせ、一種お伽《とぎ》じみた雰《ふん》囲気《いき》を漂わすこともあった。そんなとき、周二は実に古い記憶を――あの懐かしい下田の婆やの調子の外れた俗謡の節まわしを憶《おも》い起すこともないではなかった。「……青山墓地から白いオバケが三つみつ赤いオバケが三つみつそのまたあとから袴《はかま》はいた書生さんが……」
だが周二は、ほとんど憤然としてその古い記憶を抹殺《まっさつ》した。なんと愚かしく無縁な思い出。周囲に並び立つ墓石、その苔《こけ》むして黒ずんだ墓石さえも、彼には無意味に感じられた。それは平時の退屈な死の記録にすぎぬ。やがてやってくる巨大な「死」の前では、墓石などというものはそもそも無益で滑稽《こっけい》な存在ではないか。――そう考えそう頷《うなず》くとき、周二はその瞬間、自分が非常にけだかい[#「けだかい」に傍点]表情をしているにちがいないと思った。
ある朝、周二は谷を一つ越して青山墓地へまで足をのばした。そこは立山墓地より遥《はる》かに広大だったが、綺麗に整頓《せいとん》されすぎていて、周二の妄想《もうそう》じみた観念とそぐわない感じであった。そろそろ足を返そうとしたとき、だしぬけににぶくサイレンの音が響きだした。
思いがけぬ時刻であった。腕時計を見るとまだ七時前である。サイレンは初め警戒警報として鳴りだしたのだが、途中から底ごもりして断続した。唐突な空襲警報である。
早くも味方の戦闘機が哨戒《しょうかい》を開始しているところを見ると、大規模な空襲になるのかも知れなかった。そうなればどうせ交通機関は停止してしまうことだし、急いで工場へ出勤するよりもしばらく様子を見たほうが利口のようであった。そう思って周二はゆっくりと墓石のあいだの道を引返した。そうしているうちにも、薄く曇ったような空には、機影こそ見えなかったが、ひっきりなしに爆音が轟《とどろ》いた。
と、遠くから砲声のような音響が伝わってきた。爆撃の音なのか、高射砲が射撃を開始したのかわからなかった。相ついで鼓膜を聾《ろう》する爆音を立てて、陸軍の三式戦闘機が一機、墓地の樹木に触れそうな低空をかすめて過ぎた。
ちえっ、いやに慌《あわただ》しいな、と周二は舌打をした。
彼は視界の開ける青山墓地のはずれまできた。崖《がけ》になった目の下にはごみごみした民家が密集している。その谷をへだてて、周二にとっては幼いころ遊び場とした原っぱがあり、その左手に立山墓地、その右手に楡病院の裏手が望見される。
とにかく家に戻って情報を聞くより仕方がないな、と周二は思った。
だがそのとき、下方の家々の間から警防団らしい声が、大声で怒鳴っているのが周二の耳にも達してきた。小型機だから注意しろと言っているようであった。小型機? サイパンの基地から小型機が襲来するはずがない。してみると、艦載機なのであろうか。敵の機動部隊がついに内地までを襲うようになったのであろうか?
思案をめぐらしている暇もなかった。「退避! 退避!」という声がひびいてきて、同時に周二も見つけていた。谷をへだてた原っぱの向うの上空を、どす黒いかたまりとなって見慣れぬ戦闘機らしい機影が十機ほど真直にこちらに向ってくる。と思うまに、その密集編隊がさっと解かれ、おのおのの機が猛烈な速度で斜め上空に散らばるのが見えた。すべては一瞬の間だったが、周二はその特徴ある翼の形を見極めることができた。そいつは疑いもなく敵の艦上戦闘機ヴォート・シコルスキーF4Uであったのだ。彼らが散開したのは――周二はようやく気づいたのだが――左方の立山墓地の方角から味方の三式戦闘機が数機突っこんで行ったからである。たちまち空一面に、エンジンを全開させて急上昇するときに起る、なんとも形容しがたい背筋をぞくりとさせるような唸《うな》り声が轟きわたった。
一機々々の行動を見守る暇はなかった。期待していた卍《まんじ》どもえの空中戦は展開されはしなかった。敵味方の機影は散開しあって衝突し、離脱し、大部分は薄い雲の中に隠れ――ほんの寸時の間に周二の視界からは機影がすっかり失われてしまった。ただ唯一の例外として、薄く曇った空にひらひらと漂っている一機があった。それは失速し、まるで糸を切られた凧《たこ》のように回転しながら莫迦《ばか》にゆっくりと落ちてゆくところであった。煙も吐いていなかった。周二は目をこらし、それが味方の三式戦闘機であることを確認した。
畜生! と、彼は思わず呪《じゅ》詛《そ》の言葉を胸に呟《つぶや》いた。畜生!
墜落機が消え去ってしまうと、もう空にはなんの影もなかった。今し方の戦闘が嘘《うそ》のようにも思えた。すべてが通り魔のように一瞬のうちに終ってしまったのだ。同時に周二は、自分がそれまで機銃掃射や空中戦のそれ弾《だま》のことをまったく念頭におかず、遮蔽《しゃへい》もなしに無《む》防禦《ぼうぎょ》に全身をさらして突っ立っていたことに気がついた。事実は茫然《ぼうぜん》自失していたのだが、彼はそのことを、ひどく勇敢な誇らしい行為のように思った。
空は平穏であった。遠方から爆音だけは伝わってきたが、今のところ緊迫した異常も起りそうになかった。周二は崖を降り、小走りに家への道を急いだ。
家族の者は裏手の防空壕に行っているらしく、家の中は無人であった。つけ放しにされたラジオだけがひっきりなしにブザーの音を立て、情報を伝えていた。敵機は関東一帯の飛行場、列車、船舶などを攻撃しているようであった。ラジオは数百機と伝えていた。(翌日の新聞によると延一千機ということであった。)無数の敵機、それも空母から飛び立った艦載機が日本本土の上空を群れ飛んでいるという事実、その明瞭《めいりょう》なおしつけがましい光景が、短いアナウンスから生々しく感じとれるようであった。周二は人《ひと》気《け》のない居間のラジオの前に坐り、ときどき外へ出ては空を見上げた。味方機は何回も見えた。午後、グラマンと思われる集団がかなりの高空を迅《じん》速《そく》に飛んでゆくのを見た。こうして、敵の艦載機の攻撃は夕方までやまなかった。
翌日も、早朝から敵機の攻撃が始まった。あちこちで高射砲が、三連隊の方角から機関銃が盛んに射っている。晴れあがった空は弾幕にまばらに点綴《てんてい》されている。その中をどす黒く不吉な影のように、グラマンやヴォート・シコルスキーの小編隊が幾つも間をおかず飛びすぎていった。今日は味方機が目に見えて少ない。視野にはいってくるのはあらかたは敵機である。図解や写真でのみ知っていた――周二は兄峻一の影響でそれには精通していたのだが――敵の艦載機が、架空の領域からだしぬけにこの世にぬっと姿を現わし、高速で飛びちがい、傍若無人に跳梁《ちょうりょう》しているのであった。といって、その印象はどことなく現実感が稀薄で、寝苦しい夜の夢魔のように感じさえした。しかしその悪夢に似た映像は、周二の「死」の観念とこのうえなくしっくりした。
彼は緊張して空を見あげながら、ふしぎな充足感を味わい、心に呟いた。
――いよいよ近づいてくる。あの時[#「あの時」に傍点]が近づいてくるのだ。
それを裏書きするかのように、米軍はその日、硫黄《いおう》島《じま》に上陸していた……。
そのうちに、数日後に雪がきた。稀《まれ》に見る大雪が。一日じゅう雪は降りつづき、周二は夕刻、全身真白になりながら家路へむかった。青山の界隈《かいわい》は人通りもなく、ところどころ二尺も降りつもった雪のなかを、周二はぶすぶすともぐりながら歩いた。雪はすべての雑音を吸い尽して、暗くなった街をにぶく光らせていた。
翌日の出勤は難儀を極《きわ》めた。プラットホームの端に雪が凍りつき、あふれた群衆に押されると、線路にころげ落ちないようにするのがせい一杯であった。電車はなかなか来ず、やっと到着したそれも超満員で乗れるどころの騒ぎではない。幾台も待った末に辛うじて乗りこむと、今度は徐行したり停ったりして一向に進まない。車内は身動きもできぬ混雑であった。むっとした人いきれ、骨がぎしぎしいうような圧迫、ついにはあちこちから罵《ば》声《せい》や怒号がとびだしてくる。
三時間の余もかかって工場に着くと、平生の半数くらいの学徒が少年工と一緒に工場の一隅《いちぐう》で焚《たき》火《び》をし、米を炒《い》って食べていた。部品が遅れて仕事がないという。彼らは特攻機が大挙出撃するという噂《うわさ》を話していた。
「硫黄島の周《まわ》りには敵艦がうじゃうじゃしてやがるんだろ。こんないい目標はないさ」
「だがなあ」と、一人がいくらか心細そうに言った。「こっちの基地だって叩かれてるしな」
「いや、今までの特攻機は一度に五機とか十機とかいう数だろう。それが今度は三、四百機一遍に出撃するそうだ。そいつが全部突っこめば何とかなるさ」
「爆弾投下機が不足なんだって」と、別のおとなしい生徒が口を出した。「いま第二工場で造っているのが特攻機用だと聞いたぜ」
「そりゃお前、遅すぎるよ。なにも投下器なんか要《い》らんはずじゃないか。紐《ひも》かなんかでくくって行きゃあいいんだ」
一同は自堕落に笑いあった。周二も笑った。どこか白痴めいた声で。
何年ぶりかというその大雪が溶けきらぬうち、二日おいてまた雪になった。その日は艦載機とB29の大編隊が呼応して来襲し、降りつむ雪の中に、楡病院から遠からぬ地域にも数箇所火災が起った。火《か》焔《えん》がめらめらと舌を出し、まるで半ば麻痺《まひ》したこの都会が苦しげに息づいているかのようであった。たなびく黒煙と執拗《しつよう》に燃えさかる火の手、その上にやむことなくさらさらと雪が降りしきった。
夜になって、一切が静かになった。傷痕《きずあと》を増した都会はふかぶかと雪に蔽《おお》われたまま眠りについた。その雪、夜目にもほの白く微光を放っている雪の堆積《たいせき》すらも、周二にはなにかただ事ならぬ意味ありげな象徴のようにも思われた。彼はいつものように防空カバンを枕元に置き、衣服やゲートルをきちんと整えて床に就《つ》きながら――その部屋はもはや生存しているとは思われぬ兄峻一の部屋であった――一つの幻想を瞼《まぶた》に描いた。それはこの常ならぬ雪が連日降りつづき、決してやむことなく異常に降りつづき、この都会も戦闘もすべて白く包まれ、ついには全地球が氷河時代のような厚い氷の層に埋もれてゆく光景である。
いずれにしても、それは終末の、終焉《しゅうえん》の幻想にちがいなかった。その夜、周二の眠りはとりわけ安らかなものだった。
当然のことながら戦争の進むにつれ、楡脳病科病院の経営、業務にも大きな変化が見られた。サイパン失陥当時、松原の本院、青山の分院双方とも職員の数は開戦時の半分になり、入院患者数はおよそ三分の一に減じていた。空襲が始まってからは更に患者数は減少の一途を辿《たど》った。このような情況の下では、新規入院を断わる方針がとられたことも一因であったが、患家のほうでも来院をためらう、或いは明瞭に精神のおかしい病人をもほっておかざるを得ないというのが実情であるようだった。
精神病院の院長会議でよく問題になったが、空襲に対しては精神病院は完全にお手あげといってよかった。患者全体の防空壕を造るなどということは問題外のことで、ただでさえ脱走の危険のある患者を一々避難させていては、そのたびに行方不明者が続出するであろう。いよいよの事態に備えて待避訓練は行われたが、それとても軽症の患者に限られ、重症患者に対してはどうなることかと匙《さじ》を投げるより仕方がなかった。治療の点でも、医師、看護人、薬品の不足は蔽《おお》うべくもなかった。辛うじて事故を起さずに患者を収容しておけるのが僥倖《ぎょうこう》のようなものであった。
それはすべての医療機関におし寄せた必然的な波で、たとえば慶応病院精神科では――そこから楡病院はずっとアルバイトの医者を派遣して貰《もら》っていたのであるが――昭和二十年の初頭、教授と助教授と講師を除いた医局員が、相次ぐ出征者のため残留者はたったの二名になってしまっていた。
徹吉と昵懇《じっこん》の慶応精神科の教授は、昔からいかにもその職にふさわしい風格に満ちた診察ぶりを示したものだ。彼は安楽椅子の背にもたれかかり、思いだしたようにダンヒルのパイプを口へ持ってゆきながら、患者の訴え、家族の訴えにゆったりと聞き入る。余計なことはひとことも口に出さない。傍《そば》にいる筆記係には患者の現症のごく要点を簡潔に伝えるだけである。それゆえその筆記係は、医局員の中でもかなりの古手が選ばれて、教授の口にする何倍もの文字をなめらかにカルテに記入していったし、更にその横に、処方などを記す見学をかねた若手の助手がひかえているのが常であった。教授の外来診察には最低医局員を二人要した。それだけの権威を大学の教授診察ともなれば有していたのである。
それが今となっては医局員の総数が二名になってしまった。一人は午前中は外来の再来患者の診察に当らなければならない。一人は病棟《びょうとう》の勤務に当らなければならない。といって教授診察の日には、この病棟係が筆記者として教授の傍につくことはついた。しかしそれも午前十一時近くまでであった。インシュリン治療をしている入院患者の昏睡《こんすい》を覚ますため、葡《ぶ》萄糖《どうとう》の注射をする時刻である。そこでその助手は立上り、教授に「失礼します」と言って、慌しく病棟へ走ってゆく。そのあとは、最高の権威である教授ともあろう人が一人きりになって、患者を診察するたびに、わきを向いてぼつぼつと自らカルテに文字を記入しなければならなかった。あまつさえ教授はとうに大好きなパイプと縁を切らされていた。今では配給の巻煙草を剃刀《かみそり》で三分の一に切ったものを、みみっちく煙管《きせる》につめて喫《す》う始末であった。これでは伝統ある教授診察の権威もあらかた損じられると言わなければならなかった。
大学までがこうなったか、と、たまたま慶応病院を訪れてその実情をつぶさに見た楡徹吉は嘆ぜざるを得なかった。もはやまっとうな施療は愚か、病院を存続してゆくことが難《むず》かしい時代に差掛っているのは明瞭といえた。大正年間の楡病院の火災のときも幾人かの犠牲者を出した。まして空爆を受けたとしたらどのような目をおおう事態になるか測り難い。徹吉は休院を考えたが、ずっと減少しているとはいえ、以前から入院している患者を無下《むげ》に放りだすこともできないように思われた。
しかしながら二月の初旬、当局の勧告により事態が一挙に解決することになった。日本医療団というものができ、すべての大きな医療機関を国営にする動きである。松原の本院がこれに該当し、東京都が買上げ、いずれは松沢病院の分院として発足することになる。同時に警視庁の命令により、青山の分院は患者の転院が済み次第閉鎖休院とする。
感傷を抱《いだ》く暇もなかった。欧洲は最初からこの案に賛成で、彼は名目では楡病院の責任者ではなかったものの、松原の病院を都に売渡して身軽になれることをむしろ喜んでいるようであった。たしかに感傷を抱いている余裕もなかった。前々から秩父に疎開したらという欧洲の意見を、「わたしは病院から離れて暮そうとは思わないよ」と一蹴《しゅう》してきた老齢のひさも、この話を聞いたあと、しばらくの沈黙ののちぼそぼそと言った。
「そうかい。お上《かみ》からのお話ならそうするほかないだろうね」
それから、
「そうなったら、わたしも秩父にゆくことにしようか。お前たちに迷惑ばかりかけているようだから」
ひさはこのところ歩行が難儀になっていて、空襲のたびにリヤカーで防空壕まで運ばれていたのである。
このひさのさりげない聞きとりにくい声が、楡家の人々のせい一杯の感慨を含んだ諦念《ていねん》の声を代表しているといってよかった。院代|勝俣《かつまた》秀吉《ひできち》――今では誰からも楡病院の主《ぬし》のように思われている院代ですら、格別の異議を差しはさまなかった。
「戦《いくさ》に勝つためには致し方ございません」
と、彼は眼鏡の奥の細い目をもっと細くして、病院の門のわきに欧洲と並んで立ちながら背後をふりかえった。彼もまためっきり老いこみ、ひときわ背もしぼんだように小さく見えた。台湾沖航空戦のとき「アメリカ降服」を予想した勢いのおもかげすらなかった。風《か》邪《ぜ》気味なのか、しょっちゅう鼻をぐすぐす[#「ぐすぐす」に傍点]とすすりあげていた。
「あの旗をおろさねばならないのでしょうな」
院代はいくらか愚痴っぽく言って、ぐすぐす[#「ぐすぐす」に傍点]と鼻を鳴らし、屋上の鉄柱の上にだらりと色も褪《あ》せてたれている青い旗を見あげた。それは七年前の五十周年記念日に際して、院代があたふたとした情熱をこめて制定した院旗にちがいなかった。
欧洲は、あんなものはどうでもいいさという面持でちらと旗を見やり、
「勝俣君、君は風邪をひいてるんじゃないか。熱はないのかね?」
「なに、ほんの鼻風邪です。しかし欧洲先生、この松原の病院は空襲なんぞでは焼けはしませんよ。大先生が選ばれた土地ですからね。まだこれだけ周囲に畠もあれば林もあるんですからな」
「さあ、先のことはわからんよ」と、ぶっきら棒に欧洲は言った。
「いや、ここは絶対大丈夫です。私は青山だってそんな心配は要《い》らないと思いますよ。あそこは一度不運に見舞われた土地ですからな。今度は幸運がつきまとう番です。大先生でしたら休院なぞなさらないと思いますよ。こういう時代にこそ堂々とやってゆくのが病院の任務というものだよ、とおっしゃいますでしょうな」
欧洲はなんとも答えなかった。
「それにしても、楡脳病科病院が松沢病院の分院になる、楡病院の名前が消えてしまう……私には正直いって夢としか感じられませんな。なんだかこう奇妙でとても信じられないような……。いやはや、大変な時代です」
体格のよい欧洲に比べるとひどく貧相に見える院代勝俣秀吉は、ぐすぐすと鼻をすすり、それからこう独《ひと》りごとのようにつけ加えた。
「まあ、なにもかも戦《いくさ》に勝つためでしょうがな。それにしても大変な時代というもので。いや、大変な時代ですな」
第七章
峻一は、寝苦しいひとときの午睡から目覚めた。
板張りのうえに珊瑚礁《さんごしょう》の岩石をおおった壕《ごう》の、狭苦しい、薄暗い、換気がわるくむっと熱気のこもるベッドに、うつうつとした目を開いた。まだ意識はどんよりとしている。重たくこびりついた倦怠《けんたい》感、舌のひきつれたような感じ、そして胃の辺に夢の中から引続いたひりつくような鈍い痛み。
この夢からは覚めたくはなかった。彼は――家族の者がとうにその生存を諦《あきら》めていた楡峻一は、やつれた顔、肋骨《ろっこつ》の浮いた胸元に一杯汗を滲《にじ》ませながら、内地の夢を見ていたのである。そのくせ意識の一隅は眠りこんでおらず、これは夢だからだまされるなよ、と囁《ささや》きかけてくるのもいつものことであった。
「どうせ夢さ。夢に決っているのだ」
そう思いつつも、つかのま満足しておぼろな映像を追いかけ、目覚めてはその都度、新しい根強い幻滅と失望に襲われる。
夢には銀座通りの雑沓《ざっとう》が現われることもあった。中学の教室、あれこれの級友の姿が現われることもあった。もっとも頻繁《ひんぱん》に見るのは青山や松原の楡病院、そこに居住する多様な人々の姿おもかげである。更にあからさまに言えば、食物のかげが常にその夢につきまとった。料理がぎっしり並んだデパートの食堂の見本|棚《だな》が大写しになることもある。と思うと、薄暗い台所の隅《すみ》で下田の婆やが大きな擂鉢《すりばち》にとろろ汁を作っている。彼女は眠たくなるような音を立てて擂《すり》粉木《こぎ》を廻している。いつまで経《た》ってもその作業は終らない。そこで彼、峻一は、ちょうど傍にあったお櫃《ひつ》から湯気の立つ飯を山盛に擂鉢の中へほうりこみ、手《て》掴《づか》みで遮《しゃ》二《に》無二、口へ、喉《のど》の奥へと押しこむ。実に透明な味で、いくら食べても腹に満ちてこない……。
今し方は、どこかの料理屋らしい大広間を夢に見た。見渡すかぎりお膳《ぜん》が並んでいる。正面の床の間を背に、ひさが、能面のような顔をしたおばばさまが坐っている。父親の顔も、珍しいことに母親の顔も見える。院代が小柄な痩身《そうしん》をのばしてしきりと一場の挨拶《あいさつ》をしているところを見ると、なにか祝いの席ででもあるのか。ところが、さて峻一が自分の膳を眺《なが》めると、そこにはなんの菜《さい》も茶碗《ちゃわん》もお椀《わん》もない。ただ丸い金属製の罐《かん》が幾つも積みあげてある。それはどうやら欧洲叔父の妻の実家で造っている旭飴《あさひあめ》の罐のようであった。
そして今、マットを敷いただけのベッドの上でようやく意識がはっきりとしてきた峻一は、身体を動かすのも大儀な虚脱感に包まれながら、訳もなく思わず知らず自動的に呟《つぶや》いた。
「すき腹にめし、痰咳《たんせき》に旭飴」
それはあまりに直截《ちょくせつ》な生《き》のままの欲望に直結する言葉だったので、苦笑する気にもなれないどころか、むしろ淀《よど》んだような憂鬱《ゆううつ》さが峻一の心を領した。
果して、そんな観念さえもが有害な刺激になったらしく、胃の辺がきりきりと痛んだ。極度にだるく生気なく、何をするのも億劫《おっくう》なくせに、じっと横になっていることもまた苦痛であった。胃壁を内部から執拗《しつよう》にこづく矢も楯《たて》も堪《たま》らぬ欲求が、居たたまれぬいらついた気持に彼を追い立てるのである。
峻一はのろのろとベッドのうえに起き直り、壁につるした水筒に口をつけた。このところ雨が少ないので、水もまた貴重なものになっている。いつぞやの大空襲で、一切の地上施設、食糧庫、貯水タンクをやられてしまってから、二、三の湧水《わきみず》や井戸が急に重要なものになってきたが、低い珊瑚礁にすぎぬこの島では、にがく濁った塩っぽい水しか湧《わ》いてこなかった。天水が不足してくると、炊事から飲水までこの塩水が使用されるのである。
峻一はもう二口三口、生ぬるい水をすすった。といって、いくら水を飲んでも腹が不快になるばかりで飢餓感をまぎらわすわけにいかないことを、これまでの経験は告げていた。
「ボサ粥《がゆ》のほうがまだいい。これではとても夕食まで堪えられそうにない」
配給されるほんの一|掴《つか》みの飯に、兵隊たちはボサの葉を多量に入れて薄い粥にした。そうすると或る程度腹になにか収まったという感じがする。しかしボサの葉は下痢を誘った。ある者は逆にひどい便秘をした。一時ごまかしのこの食品はかえって体力の消耗をうながすようであった。兵隊たちがタコグサと呼ぶ、葉が厚ぼったく糸をひく草も同様であった。そのため雑草食をやめるように指示があり、今朝方も峻一は、当番兵の運んできたほんの湯飲茶碗一杯にも足りぬ飯を、乾燥野菜がわずかに箸《はし》の先にひっかかる薄い味噌《みそ》汁《しる》と共に胃の腑《ふ》へ送りこんだきりであった。その飯、潜水艦が運んできた麦も何もはいっていない精白された飯、それはあまりに柔らかくふっくらと貴重そのもののように目に白く、その代りあまりにあっけなく稀《き》薄《はく》に喉元《のどもと》を通っていった。峻一はそれを味わう間もなく、ついつい咀嚼《そしゃく》する余裕もなく、ほんの三口でつるり[#「つるり」に傍点]と呑《の》みこんでしまった。一体いま何を食べたのか? 食前よりもいっそう堪えがたい飢餓感が強まった。これぐらいなら食べないほうがいっそまし[#「まし」に傍点]だ。食事を終えるたびに、ほとんど狂おしく峻一はそう思った。しかも、次の食事が支給されるのは夕刻である。しばらくまえから日に二食の状態に彼らは追いこまれていたのだ。
峻一のもともと縦に長すぎるしまりのない顔も、今は極端に頬《ほお》がこけ、その日焼けにしても、なにかあおぐろい不快な色を呈していた。胸元には肋骨がくっきりと浮きでており、半ズボンからむきだされた臑《すね》は滑稽《こっけい》なまでに骨そのものの形態をとってひょろ長く見えた。といって、この島では、峻一はまだよいほう、まだしも健康者の部類に属していた。どこの陣地でも、医書に載っている以上に典型的な栄養失調者、骨と皮ばかりのくせに腹ばかり異様に膨脹《ぼうちょう》した兵士が、自ら動く力もなく目ばかりうつろに見開いてごろごろしていた。彼らははっきりと死を宣告された人間であった。その状態から回復するには食べることより方法がないのに、作業に出られぬ者には一段と食事の配給が減らされたからである。
死は緩慢に、しかし確実に、歩一歩と彼らに迫ってきた。最後は老衰死と変りがなかった。蝋燭《ろうそく》が点《とも》りつくすように、そこはかとなく、ふっと、その境界も定かならずに死の手にゆだねられる。さきほどまでたしかに呼吸をしていた者、寝息を立てていた者、呻《うめ》き声を洩《も》らしていた者が、いつと気づかないうちに、このうえなく静かになっている。彼らの心臓はもう動きを停止している。おちくぼんだ眼《がん》窩《か》の奥の瞼《まぶた》は二度と開くことがない。唇《くちびる》が色を変え、そのかさかさした肌が温度を失い、その手足には早くも硬直がこようとしている。このような音のない死、自らあがくことのない死、周囲の者も騒ぎ立てることのない死は、今ではこの島ではごくありふれた事柄、夜が明けて灼熱《しゃくねつ》した太陽が砂《さ》礫《れき》をしらじらと輝かすと同様、一日の経過に附随した定まったものともなっていた。それも今では二十名、三十名というまとまった数が失われてゆくのだった。あるときの食事にかつお節の一片が、ほかに何もないそのかけらのみがくばられたことがある。そのあと、ばたばたと息をひきとる者が続出した。それから見ても、このウエーク島守備隊の大多数が、辛うじて生命を維持できる限界にあることは明らかだった。
補給船の懐かしい船影――それも末期には五十|噸《トン》あるかないかの、船首に旧式な五|糎《サンチ》砲《ほう》をつけた貧弱な船にすぎなかったが――を見なくなってから、すでにどのくらい経《た》つことか。クェゼリン、ルオット島の玉砕以来、ウエーク島は完全に孤立し、戦場の後方におきざりにされてしまったのだ。そうして、敵機の来襲は別として、じりじりとやってくるもっと巨大な敵、飢えとの戦いを開始せねばならなかった。
それでも減食が実行されだした頃は、まだまだ余裕のあるものだった。椰子《やし》一本|見《み》出《いだ》せぬこの孤島にも、捜してみれば食糧源は乏しくはなかった。海には魚がふんだんにいた。以前は、パラシュートをほどいて網を作り、慰みに漁をしたものだが、その投《と》網《あみ》がろくろく拡がらなくても、捨てられた残飯に集まる一尺も二尺もある魚がいくらもとれたものであった。爆撃のたびに浮きあがる魚もおびただしかった。海鳥もまた豊富であった。かもめ、あほう鳥、なかんずく季節には飛行場が真黒になるほど大群をなして海燕《うみつばめ》が産卵にやってきた。斑《まだら》に白い鶏卵を小型にしたような卵が足の踏場もないほど地上にころがっていた。当番兵に命じて、洗面器で食べきれぬオムレツを作らしたりしたものだ。
だが、それらは忽《たちま》ちにして減った。いったん食糧源として狙《ねら》われ、隊ごとに漁夫あがりの兵が出されて組織的に捕獲しだし、禁じられているのにダイナマイトを使用したりしだすと、あれほど手《て》掴《づか》みで捕えるほど豊富であった魚もめっきり釣れなくなった。海鳥の卵も無くなり、空爆と腹をすかした人間の手におびえた親鳥たちは島に近づかなくなった。
空爆といえば、敵機の来襲は頻繁で定期的のものだった。ミッドウエイを基地とするらしい四発のコンソリデーテッドや双発のカタリナ飛行艇が毎日、島の周囲を哨戒《しょうかい》し、置《おき》土《みや》産《げ》のように爆弾を投下していった。ときたま艦載機の来襲があった。峻一の判断によると、どうもこの島の近くを通過する敵の機動部隊は、ウエーク島を一種の演習地と見なし、彼らの主戦場への往復に飛行機を飛ばしてくるもののようであった。そして峻一は、ダグラス・ドーントレスの急降下爆撃機が、グラマン・ヘルキャット艦上戦闘機が、不吉に黒い集団となって、背筋を痺《しび》らせるような音響を立て、島の上空を乱舞し蹂躪《じゅうりん》してゆくのを一再ならず壕の入口から盗み見た。かつて峻一は、胸をときめかせ細長い顔に恍惚《こうこつ》の情さえ浮べて、ほとんど半日、羽田や立川や追浜《おっぱま》の空を、そこを飛びすぎる各種の飛行機を飽かず眺めやったものである。その彼も、今は飛行機というものがつくづくいやになった。腹の底から、堪《こら》え性《しょう》もなく厭《いや》になった。それはまがいようもない悪魔の産物であった。いかにも神経にこたえる音響を発し、彼の生命をおびやかし、あまつさえ魚と鳥を追いはらう兇々《まがまが》しい存在に間違いなかった。
魚と鳥につづいて、峻一たちの食糧になったのは鼠《ねずみ》である。峻一の赴任当時、道路をトラックで走ると、あとには轢《ひ》き殺された鼠の死体がいくつも転がっているほど、それは無数の繁殖ぶりを示していた。はじめ兵隊たちは鼠には手を出さなかった。やはり伝染病のようなものを警戒していたのであろう。しかし、それもある期間にすぎず、なかんずく「軍医殿も食べている」という評判が立つと、全員が鼠を追いかけだした。箱に餌《えさ》を入れて一種の罠《わな》をつくるのである。そしてそれほど長からぬ月日が経つうちに、あれほど殖《ふ》え放題だった鼠の姿がばったりと目につかなくなった。とかげ、うに、なまこ、食べられるものはすべて食べたが、量的に多寡《たか》が知れている。植物相はもっと貧弱で、ボサ、タコグサ、チョウセンアサガオ、すべて栄養になるよりも害になるほうが多いようなものだった。
こうして、徐々に島には、飢餓の色が濃くなっていった。まだ全員が餓死しないですんでいるのは、潜水艦による補給が何回か行われたからである。それも多くは敵機を避けて夜間浮上し、ゴム袋につめた食糧を海中に投棄する。それを小舟によって回収してくるのだが、その潜水艦の補給もついに打切りになったということを峻一は聞かされていた。戦局がいよいよ敗勢に傾いていることをも承知していた。沖繩にも敵軍が上陸し、あまつさえ内地は連日の空襲を受けている由だ。どう考えても八方ふさがりの状態で、どこをどのように楽天的に考えてみても、生きて内地の土を踏める可能性は皆無であった。といって、峻一はそのようなことを思い患《わずら》って極度の絶望を感ずるということもなかった。それだけの余裕がなかった。それより前に、なんらかの口に入れられるものを獲得するのが、先決の、より重要な関心事であった。
いったん栄養失調がある程度まで進めば、絶対に助からぬことを峻一は否応なしに知らされていた。戦闘治療所の一郭には蚕《こ》棚《だな》になった入院病棟がある。衛生兵が軍医を呼びにくるのは、病人の脈がいよいよ結滞してきた間《ま》際《ぎわ》である。強心剤を打ち葡《ぶ》萄糖《どうとう》液を注射してやると、あるかないかだった脈がある程度持ち直す。けれどもそれはほんの瞬間のことであり、その治療は文字通りの形式にすぎなかった。真の栄養失調者はいくらヴィタミン剤を与え葡萄糖を与えても回復することはあり得ないということを、峻一たちはさんざ体験させられ匙《さじ》を投げていた。なによりも病人たちは自分で出歩いて魚ややどかりを捕えることができない。それができなくなったら彼らはお終《しま》いなのだ。じっと寝ころがっていてさえ、支給される食事だけでは体力を維持するカロリーが不足なのだ。
島は、今はすべてが食物を中心として動いていた。事が食物に関するかぎり、軍隊としての秩序も統制もないといってよかった。陸軍部隊の炊事場は一箇所である。各隊からの当番が飯を運びにくる。その帰途、彼らが灌《かん》木《ぼく》の茂みに隠れて飯を喉《のど》におしこむというような事件は一再ならず起った。更にその飯を個々にわけるには手製の秤《はかり》が使われたが、その周囲に何人もの兵が群がって猜《さい》疑《ぎ》ぶかい目でそれを監視していた。実際、ちょっとの油断もできなかった。鼠の肉を飯盒《はんごう》で煮てとっておくと、いつの間にか盗まれてしまった。魚が沢山とれたとき乾《ほ》して隠しておくと、これもどう嗅《か》ぎつけるのか、わずかの留守の間に姿を消していた。戦闘治療所には脚《かっ》気《け》患者のためと称して、はじめいくらかの青豆があった。これが頻々《ひんぴん》と盗まれた。腹を立てた佐藤軍医中尉が自分で管理を引受け、寝床の下の板をはがしてその奥に青豆の箱を隠した。それでも青豆の減るのはやまなかった。佐藤中尉は魚をとるために長いあいだ留守にしがちであったから、誰かが忍びこむ時間はいくらもあったのだが、口さがない衛生兵たちは噂《うわさ》をした。「盗《と》られるとか何とか言って、軍医殿が自分で食べてるのと違うか」佐藤中尉はいっそう腹を立て、どうしても犯人を捕えようと、箱の上によく拭《ふ》いた硝子《ガラス》板《いた》をのせた。指紋を見つけるためであったが、青豆に生命をかけた犯人はどんな探偵小説よりも見事に完全犯罪をなしとげた。
もっとも佐藤中尉の存在は、峻一たち医療班の者にとって貴重なものであった。各隊はそれぞれ漁撈《ぎょろう》班を作って魚をとっている。島に二名だけいる憲兵も、なにもやることがないため地引網などをこしらえてせっせと魚をとっていた。医療班には漁夫あがりがいなかった。しかし器用な佐藤中尉は、ワイヤーをほぐして鑢《やすり》をかけて釣鉤《つりばり》を作った。偽装用の網から糸を作った。硝子を丸く切り、自動車のタイヤのゴムを用いて水中眼鏡まで作った。彼はけっこう沢山の獲物を釣ってきて――その当時はまだ魚がいくらもいたのだ――峻一たちの食事を豊かにしてくれた。間もなく峻一もそれに習い、医師としてよりも漁師として過すほうが多くなった。
思えばあの頃は、戦闘治療所の勤務であった頃はまだよかった、と峻一は思う。しばらくまえ配置変えがあって、彼は戦闘部隊の大隊づき軍医として、個人壕に住んでいる。戦闘治療所にいた頃は、患者を診《み》るのでかなり忙しくはあった。しかし患者たちに注射をして廻ったあとで、彼は一本の葡萄糖溶液のアンプルを切り、ごくごくと一息に飲んだ。水《みず》飴《あめ》を溶かしたものを患者たちに与えたあとでも、飴を一嘗《な》めした。現在はやることはほとんどない。その代り、軍医としての余得もまったくない。以前の当番兵はいい男だった。峻一が親切にしてやったせいもあるが、罐詰《かんづめ》の空罐に土を入れてキュウリを作り、まるで小さな盆栽のようなそれを峻一のところへ持ってきてくれたりした。
「ようやく一つだけなりました。どうか召しあがってください」
峻一は、その小指くらいのキュウリを有難くおし頂くようにして、半分貰《もら》って慎重に味わった。新鮮な野菜にはたしかに宝石に等しい価値があった。
今度の当番兵にはそのような人間的な交流が望めなかった。無口な、陰気な男であった。口をきくのも億劫《おっくう》げな様子をしていた。有体《ありてい》にいうならば、それは性格というより、いよいよ差し迫ってきた食糧事情の罪に帰せらるべきであろう。峻一にしても以前は沢山魚がとれたときには、気前よく当番兵にそれを与えたものだ。今は自分一人のための魚を釣るのも困難で、たまたま豊漁であったときも、かつて中学時代焼芋を買うとき真先に十銭を出した筈の峻一は、守銭奴のようにそれを隠してしまった。それでは相手から最少限の義務以上のものを期待するのは無理にちがいなかった。その当番兵は戦車部隊の一員で、彼らはいつぞやの機動部隊の来襲後、ウエーク島に補強された部隊であった。当時はいずれは敵の上陸は必《ひっ》須《す》のものと考えられていたし、戦車の姿はいかにも力強く頼もしく見えたものだ。しかし今となってみると、せっかくの戦車部隊も余計で無用な長物としか思われなかった。彼らが来たために島の食糧事情は一層わるくなり、戦車は空爆を避けて飛行場近くの壕の下に動くこともなく徒《いたず》らに眠っていた。そんなこともあって、まことに理《り》窟《くつ》を越えた小児的な偏見と自分でも思えたのだが、峻一はこの当番兵に好印象を抱き得なかった。彼が自分の壕に食事を運んでくる途中、百粒、いや二百粒の飯をくすねているのではないかという疑惑から彼は離れることができなかった。たしかにそれは浅ましい想念で、考えるたびに自分が厭になってくるのだが、自己|嫌《けん》悪《お》よりも何よりも、空腹はのっぴきならぬ巌《いわお》のような圧力を有しているのだった。以前は、女気のないこの孤島でアメリカ製の食糧のたっぷりある生活を送っていた頃は、女のことをよく考えた。だが、今となっては、女などというものは取るに足らない、考える価値もない無用の存在といえた。朝の勃《ぼっ》起《き》はとうに無くなっていたし、性欲を対象とするなんらかの姿が夢に現われることもまったくなかった。
考えるのはひたすら食物のこと、一|途《ず》に執念こめた食物のおもかげである。それも初めのころは、美味で量も多いと記憶されている各種の料理が脳裏にのぼった。天金の天ぷら、スエヒロのビーフステーキ、オリンピックの海老《えび》フライ、――あの海老フライは大きな海老が三匹ついて、パセリをちらした白いソースがかけてあった。あれを尻《しっ》尾《ぽ》まで食べる。ビフテキは特大の奴を注文して、脂身《あぶらみ》のところにこってり辛子をつけて真先に食べる。肉といえば鋤焼《すきやき》もいい。大皿に山盛の目に沁《し》みるばかり赤い肉。まだ煮えきらぬうちに卵を三つほど落した器にとってむさぼり食べる。そのあとに少し鮨《すし》の握りを――とろ[#「とろ」に傍点]と章魚《たこ》と赤貝を三十か四十ほど。これでいくらか腹が満ちてきたから、そのあとは茄子《なす》の紫色の小粒の奴とキュウリの種子《たね》のあるのに醤油《しょうゆ》をかけて茶づけにしたい。焼松茸《やきまつたけ》なんかもいくらか賞味する。それではやはり足りぬから、あとは何でもよい、たとえばトンカツ、これはそこらの名も知れぬ店のでよいからなるたけぶ厚いもの、それにブルドックソースをだぶだぶかけて、ついでに皿に盛られた御飯の上にもソースをかけて、トンカツと御飯を一緒にフォークですくって思いきり大きくあけた口の中へ入れる……。
これらの情けないほど幼稚な、とりとめなく放埓《ほうらつ》な夢想は、しかし刻《とき》が経ち飢えが真実に身に迫るにつれて、もっと遥かに単純な形態をとっていった。洒落《しゃれ》れた料理などはもう浮んでこなかった。それよりも、ふっくらとした手《て》触《ざわ》りの大福餅《だいふくもち》を、目のまえに高くピラミッド型に積みあげ、両手を使って片端から、矢継早に、絶えることなく喉《のど》におしこむ想像図が、寝ても覚めても峻一につきまとった。そして最後に、究極に残ったもの、それはやはり米の飯の幻影であった。炊《た》きたての飯を腹一杯、食道がつまるまで、これ以上はいらぬというところまでほおばってみたい。なにも多くは望まない。一度、ほんのただ一度だけ、心ゆくまでの満腹感を味わってみたい。
今も、薄暗い壕の中で、寝床にしているマットレスの上で、峻一はいつもながらのかなえられぬむなしい幻影を追いつづけた。そこは青山の、それも火災前の古い楡病院の賄《まかな》い場であった。竈《かまど》の火がかきだされ、水をかけられて黒い焼木杭《やけぼっくい》になった薪《まき》がコンクリートの床の上でぶすぶすと煙をあげていた。背中が瘤《こぶ》のように隆起した伊助|爺《じい》さんが、やおら二斗炊きの大釜の蓋《ふた》を取りはらう。すると、ねばっこく親しみぶかい湯気がほうほうと立ちのぼった。背の低い伊助は木の踏台に乗り、櫂《かい》のような大しゃもじで、ふっくらと見事に炊きあがった飯をかきまわしにかかる。やがて彼は長く言葉をひっぱってしわがれ声で合図をする。「ほうれーえ」そのかけ声と共に、大量の飯は大勢の手によって患者の食器であるアルミニウムの容器に移されてゆくのだった。あの釜から手掴みでごっそりと飯をすくいとれたら! なんというふくよかな湯気の香、なんという充実した飯の感触であることだろう。
だがそれは、幻影にすぎなかった。なんの益ももたらしてくれぬ空想にすぎなかった。あとにはいっそうの空腹感と、いらいらと落着かぬ空虚さとが残った。
峻一は首をたれて、心に情けなく呟いた。
「すき腹にめし、痰咳に旭飴」
祖母は、おばばさまはどうしていることだろう。まだあんな能面のような顔をして生きているのだろうか? 相変らず押入れの中に旭飴の罐をどっさり貯えているだろうか?
峻一は水筒からもう一度水を飲んだ。それから手製の草《ぞう》履《り》をはき、半ズボンに上半身裸体の姿のまま、壕の折れ曲った入口から外へ出た。
かっ[#「かっ」に傍点]と真白などぎつい反射光が目を射た。ゆるい起伏をなした砂《さ》礫《れき》が一面にしらじらと輝き、その間から強烈な暑熱が立ちのぼっていた。後方の島の中央部の方角には、兵隊たちが浜《はま》紫《し》檀《たん》と呼ぶ幹の固い灌木と、やむを得ぬ食糧源ともなるボサとが一連の緑地帯を形造っている。しかし、その緑は心を潤《うるお》してくれる柔和な色彩ではなかった。親しみを拒絶する、厚ぼったい光沢を有するくせにどこか荒《すさ》んだような緑であった。
わずか向うには海が拡がっていた。午後の陽光を受けて、群青《ぐんじょう》に明るく輝かしく駘蕩《たいとう》と拡がっている海。その濃さ、その緻《ち》密《みつ》さ、ちらほらと見える白い波頭と奥深い藍色《あいいろ》の対照の鮮《あざ》やかさ、――それはたしかに見惚《みと》れるに足る絢爛《けんらん》とした南国の海にちがいなかった。しかし峻一はあまりに長くこの海を眺めて暮してきた。それは彼の目にいらだたしくさえ映じた。その輝く海は、非情で冷酷な存在、彼をこの眇《びょう》たる島に閉じこめる凶悪な存在としてしか映らなかった。
峻一は壕の入口から横手のほうに廻った。壕はわずかな小山となって盛りあがっている。そのかげに、二坪に足らぬ峻一の農園があった。
潜水艦から種子を供給されてから、各自二坪の農園をもつことが命令された。石と砂ばかりのこの島にも、飛行場のわきに土壌があった。以前、米軍が土を運んで菜園にしていたものである。この土で兵士たちはそれぞれささやかな畠を作った。菜はよく生えた。煙草もよく育った。しかし期待した甘藷《かんしょ》は駄目だった。茄子は茎だけ灌木のように大きくなり、あまり実はならなかったが、水をかけてやると何回でも花を咲かせた。
峻一もまた自分で苦労して土を運んできて、自分の畠を作ったのだった。そこにはいくらかの菜が生えていた。いささかのヴィタミンの補給にはなろうが、一向に腹の足しにはならなかった。隅《すみ》のほうに見栄《みば》えのせぬ甘藷の蔓《つる》がのびている。それは突っ立つようにひょろひょろとのび、ずいぶんと日が経つのに、それ以上少しも大きくならないのだった。そっと掘ってみると、肝腎《かんじん》の芋は少しもついていなかった。
峻一はその傍に中腰になって、ズボンをおろした。ここ何日か便秘していて、空腹とはまた別種の不快感の種となっている。峻一はかがみこみ、じっと祈る者のような姿勢をとった。そうしていても大儀で、前に組んだ手の甲は老人のように萎《しな》びて見えた。背中にじりじりとうんざりするような陽光が照りつけてくる。彼の肌は年じゅう絶えることのない太陽の直射に黒褐色《こっかっしょく》に焼け、しかしどうしても健康色とはいえず、皮膚の底に淀んだような厭な病的な色があった。
峻一がしゃがんでいる場所、その姿勢からも、前方の海岸線が見てとれた。二、三の影がそこをゆっくりと動いている。漁をするぼろぼろの衣服をまとった兵たちで、潮の引きはじめた礁《リーフ》のうえにも、裸体でふんどしひとつの姿がひょこひょこと辿ってゆくのが見えた。
そろそろ時間だ、と峻一は思った。なんとかして魚を釣らねばならぬ時間なのだ。一昨日、峻一は大きな平あじを一匹釣った。それを三分の二食べ、昨日の朝は煮ておいたその残りを食べた。そういう別途に得た食物がある間は、峻一はできるだけ体力を消耗しまいとただじっとひたすらに寝ていた。それが無くなると、いらいらとせかれるように、また早く食物を獲得しなければならぬという切迫した心情が突きあげてきた。ときによると半日の努力の末に、ほんの小魚しか得られず、失われたエネルギーと比較して割があわないことは確かだったが、配給される食事だけを摂《と》っていては、じりじりと衰弱してゆくことは判りきっている。それに、なんらか余分の食物をとらないことには、不安の念に堪えられなかった。心理的にも、とにかく小指ほどの小魚であれ、配給以外のものを口に入れねばならなかった。
「平あじをせめて三匹釣ることができたら」
と、峻一は不自然な恰好《かっこう》でしゃがみこみながら痛切に考えた。
およそ三十分も峻一はその情けない姿勢をとっていた。その結果、辛うじて先端が石のように固い便が出た。彼は、その犬の糞《ふん》に似た小さな排泄物《はいせつぶつ》を、大切そうに少し土を掘って甘藷のそばに埋めた。これで一つのことは満足に済んだ。あとは魚を釣るばかりである。
大隊づきの軍医としての彼の日常は、およそ役目に乏しく、ほとんど何もやることがないといっても過言ではなかった。栄養失調者には――厳密にいえば峻一を含めて全員がそうだったが――まったく打つ手がない。定期検査で重病者を選びだして入院させたくとも、入院病棟は余地がなかった。毎日死亡者が出るものの、その手続きは峻一の手を要さなかった。死亡診断書はガリ版で印刷してあって、氏名だけ書きこめばよいのだが、それはすべて衛生兵がやった。本来の峻一の任務は、戦闘、つまり空爆による被傷者の応急手当をし、重傷者は野戦病院である戦闘治療所に送ることにあったが、この点に関しても峻一はまったく閑《ひま》であった。以前は敵機の来襲のたびに、各所の高射砲陣地、機銃陣地は華々しく応射したものである。それが味方の損害を大きくするばかりで効果が薄かったため、近頃ではいくら空襲があっても応戦することもなく壕にじっと待避していることが多くなった。峻一が応急手当をすべき怪我人はふしぎなほど出なかった。たまたま不運にも直撃弾を受けた陣地は全員が死亡し、中途半端な負傷者は生じないのである。
食糧倉庫に忍びこんで掴まった兵は重営倉に入れられた。ろくに食物を与えられぬためいくらも生きのびない。血便を出すようになると、一応軍医が呼ばれた。といって、それは形式だけで、なんらの処置もほどこすことができなかった。それは死刑であり、殺人に等しかった。峻一はさすがに憤慨してみたものの、有体にいって更に怖《おそ》ろしい考えが、自分の心の奥に巣くっていることも自覚できた。つまり、死亡者が多ければ多いほど食糧はより保《も》つのである。他人が死ねば、自分がそれだけ生きのびる日数は殖《ふ》えるのだ。孤島に幽閉された四千幾百かの将兵、もはやどこからも補給のつかぬ限られた食糧。
「どんどん死んでくれるより仕様がないやな」という衛生兵の言葉を峻一は耳にしたことがあったが、それは単なる冗談以上のものを含んでいた。
峻一が慶応の医局に入局して草々、受持の患者が危篤になったことがある。彼は先輩《オーベン》の医者と共に徹夜をして強心剤やリンゲル氏液を射ちつづけた。病人は意外に長く持ち、三晩目の未明に息を引きとったが、そのとき峻一の心をかすめたのは「人間一人が死ぬというのは大変なものだ」という感慨であった。しかし、いま、この島では死はごく簡単な、投げやりな、あっという間のもので、日と共にそれはますますあっけなくなってゆくに違いなかった。以前は死亡者は荼毘《だび》に附されて陸軍墓地と呼ばれる丘に埋葬された。現在では指だけ切りとって焼き、あとの死体は空爆によってあけられた穴、戦車壕の一隅などに投げこまれて簡単に砂礫をかけられるのだった。要するに、島はもはやあらゆる意味で、人間の住む限界に達していた。自殺者も出た。ある大尉の拳銃による自殺で、発作的なものと判定された。それにこのところ河豚《ふぐ》による中毒死が激増していたが、ある意味では自殺と呼んで差支《さしつか》えないかも知れなかった。河豚を食べることを禁ずる命令は前々から何遍も出されているのだったが。
といって、峻一はそうした陰惨な面、考えれば考えるほど絶望的になる現在の状況から、多くのとき本能的に目をそらしていた。それが彼の生来の性格でもあったし、なによりも頭が四六時中ぼんやりしていて、一つ事を突きつめて考えることは困難であった。そして、用便をすましてふたたび壕の内部に戻った彼の脳裏には、おし寄せる空腹感と、一匹の平あじのほかは何もなかった。一昨日釣ったような、ぷりぷりと弾力のある青光りのする平あじ!
彼は寝床の横から、罐詰の空罐をとりあげた。手製の釣道具を持つと、日よけに戦闘帽をかぶって、上半身裸体のまま、外へ出た。
定期便の敵機は午前中にきていたから、まず午後は平穏であろう。砂礫の間をごくゆっくりと彼は歩いた。このごろ特に感ずるのだったが、身体全体がひどくだるくすぐ息切れがする。壕の入口をくぐるときなど、よくよろけて石を積み重ねた壁に手をつかねばならなかった。なんでもないと思われるちょっとした穴とか水たまりをとびこえようとして、しばしば失敗した。記憶している自分の五体の働きと、現在の手足の動きようとは、違っているのだった。七十歳の老人にでもなったら、かくもあろうかと思われるような頼りなさであった。
右手の海岸には、座礁した諏訪《すわ》丸《まる》の船体が、傾いて後尾を海中に没している。まだ戦況が有利なころ、定期的にやってきてくれたこの補給船は、島のすぐそばで、峻一たちの目のまえで敵の潜水艦によって雷撃されたのである。船は沈まずに海岸へ強行座礁したものだが、未だにその残骸《ざんがい》の半ばをむなしく海面から上にさらしているのだった。戦闘治療所にいた頃は、諏訪丸は峻一の主な釣場であった。陸地へ乗りあげている船首の下側に人間のくぐれるぐらいの穴があって、そこから船の内部へ入り、甲板《かんぱん》へあがることができる。引潮のときはちょうど船の中央部あたりまで海上に現われている。斜めになった甲板から海中に糸をたらして、べら、ぼら、平あじなどを釣った。
しかし、今は諏訪丸は遠すぎた。峻一は左手の、ずっと海中へのびている礁《リーフ》のほうへ歩いていった。足元の小石はごろごろして草履をはいた足にも歩き難かった。それは元は珊瑚礁の細片らしく、波に洗われて丸くなっていた。多孔質のおもしろい形をしたものもあった。うっすらと黄色味をおびているもの、薄い赤い縞《しま》がはいっているものもあった。まだ島が太平だった頃、峻一は退屈しのぎに美しい石を捜し、拾ってきて蔵《しま》っておいたこともある。しかし今は、その石の堆積《たいせき》は徒《いたず》らに歩行を困難にする、徒らにしらじらと陽光を反射する殺伐な存在としか思えなかった。
戦車壕とボサの茂みがあって、峻一はそれを避けて海浜へくだった。ボサのまわりには乾《ひ》からびたような雑草が生えていた。小豆《あずき》くらいの棘々《とげとげ》した実がついていて、それが峻一の足をちくちくと刺し、いくつかは半ズボンの裾《すそ》にもくっついた。以前は、その草の実は内地のイノコズチを思い起させ、峻一につかのまの感傷を与えたこともある。しかし今、彼は眉《まゆ》をひそめてその実をズボンからとり、いらだたしく下へ投げ捨てた。彼には、この島の自然が、殺風景な草木までが、なにか人間に敵意を持つように思えてならなかった。目に痛く常に眩《まばゆ》く輝いている砂礫、間断なく――もう何年も――とどろいている潮騒《しおさい》。
礁《リーフ》の濡《ぬ》れた岩のうえを、彼はかがむようにしてのろのろと辿った。うっかり辷《すべ》って転んではならない。ちょっとしたすり傷でも、熱帯性|潰瘍《かいよう》となって、不潔な噴火口のような傷口を形造り容易に治癒《ちゆ》しないのである。礁のずっと先端のほうに、離れ離れに二、三人の人影があった。更に附近の海中にも、肩から上を、或いは首だけを出して釣りをしている兵の姿がぽつんぽつんと浮んでいた。海は広く眩く、人間の頭は小さく、あまりに遠く離れ離れに浮いていた。毎日見慣れた風景ではあるものの、峻一はひどく索寞《さくばく》とした孤独感を覚えた。彼らは決して一緒にならない。おのがじし孤立して、てんでんばらばらに魚をとっている。峻一とても同様である。
しかしすぐと峻一の意識は、これからの漁に、その期待と不安の念に溺《おぼ》れこんでいった。礁の半ば辺りで、すぐ下の海が泡立って浅瀬になっている場所で、彼は慎重に準備をした。空罐の底から一匹のやどかりを取りだし、貝殻から身をひきだして小さくちぎった。以前はさざえの殻にはいったずいぶんと大きなやどかりがいて食糧にもなったのだが、近ごろは小粒のものしか見つからない。
小さな鉤《はり》に餌をつけ、竹刀《しない》から作った細い腰の弱い竿《さお》で海中に木綿の糸をたらした。水は気味のわるいほど透明で、ゆらゆらと揺れる表面のかげが濃淡をなして下方の岩に、砂に映しだされた。そしてじっと目をこらしていると、ときどき小さな黒いかげが海底をすばやく動いて消えた。兵隊たちがドンコと呼んでいるハゼに似た小魚で、浅瀬に多かった。いくら魚が減ったといっても、こんな小指くらいの雑魚《ざこ》はまだ少なくなかった。もっとも以前は、ここいらの礁《リーフ》の海中には、華美な色彩、奇態な姿をした熱帯魚が大群をなして泳いでいたものだが。
ドンコ釣りは、当ったらすぐ合わせるのである。峻一はじっと海中を覗《のぞ》きこんで神経をこらした。意外に早く、竿にぶるぶると手《て》応《ごた》えがきた。仔《し》細《さい》に見ればなんの奇もない灰色の小魚である。しかし、その濡れた肌はつややかで、活溌《かっぱつ》に跳ねているこの生き物の最初の印象は素晴らしかった。
「今日は調子がいいぞ。運がつきそうだぞ」と、峻一は心に頷いた。
実際いくらも経たないうちに、三匹のドンコを釣ることができた。それから峻一は次の釣り、彼の空腹を満たし、けだるい五体に幾《いく》何《ばく》かの力をつけてくれる筈《はず》の、いわば本番の釣りの仕掛にとりかかった。釣りあげたばかりのドンコを太い鉤につける。鉄片の錘《おもり》をつけた偽装用の網の長い糸、不細工な太い木の竿、そんな道具で彼はこれまで数えきれぬ魚を釣ってきているのである。
しかし出だしは好調だったように思えたその日の釣りは、それから一向に芽が出なかった。太陽は相変らずかっと射るような光線を送ってき、波は音を立てて岩にぶつかってこまかい水泡を残し、少しむこうの海面はぎらついて眩かった。そこへたれている糸はさっきからぴくりともしない。
横手のほうの海面に浮んだ小さな頭が視界にはいっている。顔を水面に伏せたりあげたりしている。本当はその漁法が一番確実なのだ。泳ぎながら、できれば水中眼鏡をつけて下を覗き、海底近くを泳いでいる魚を手釣りで釣る。峻一も初めのころはそうして釣っていたものだが、今は体力が許さない。
うっとうしく憂鬱《ゆううつ》な長い時間が過ぎていった。峻一は不器用に坐り直して竿を持ちかえた。自分は一体何をしているのか? なぜこんなにもみじめな状態で、一匹の魚を待ち望んでいなければならないのか? じりじりと背中を太陽が焼く。それと一緒に、もともと乏しくなっている体力が、気力が、じわじわと確実に身体から抜けてゆくような気がした。たしかに太陽という奴は有害なのだ。いっそ諦《あきら》めてドンコを煮て食べようか。いやいや、あんな骨ばかりの小魚ではこれだけの労力と引合わない。なんとかしてもっと量のある、血となり肉となる大型の魚を食べねばならないのだ。
しかしながら、彼の手には未だになんの手応えもなかった。
……気がつくと、礁《リーフ》の上にも、海中にも人影がなくなっていた。そろそろ夕食の時刻なのである。潮が満ちはじめてきていて、礁に砕ける波音がひとしきり高くなった。
気落ちして、諦念《ていねん》して、それでもようやく食事の時間がきたということを心に言いきかせて、峻一はくるときよりも足早に自分の壕へ引返した。
しかし、その夕食を――乾燥野菜を炊きこんだ湯飲茶碗一杯ほどの飯と罐詰の魚肉の一片を食べ終ると、いつもながらのことだが空腹感は極限にまで達し、じっとしているのが苦痛であった。彼はそれを能《あと》うかぎりゆっくりと咀嚼《そしゃく》し、惜しみ惜しみ呑みこんだつもりだった。それでも瞬《またた》くまに飯粒は消えてしまい、あとにどうにもならぬヒステリーじみた欲求だけが残った。
なにか奇《き》蹟《せき》は起らぬものか。補給船なり病院船なりが、だしぬけにやってくるということは起らないだろうか。だが日本本土が危《き》殆《たい》に瀕《ひん》している現在、その期待はどう考えてみても実現される道理がなかった。内地は手ひどく空襲を受けているらしい。学生時代に自分が予言し夢想した通りになったのだ。ああ、日本国民の半数がせめて自分の爪《つめ》の先ほど飛行機に関心を持っていたなら、こんな羽目に陥らなくて済んだのではないか。その予言者であり先覚者である自分が、せめてもう一杯飯を食べられぬものか。いっそ敵軍が上陸してきてくれたら。そのときにはいくらなんでも緊急に握り飯がくばられることだろう。炊きたての大きな握り飯、それを食べ終ったら自分は死んでもかまわない。さっぱりと潔《いさぎよ》く勇敢に戦死してみせよう。あの母が手渡してくれた備前《びぜん》勝光《かつみつ》という軍刀をふるって敵の上陸用|舟艇《しゅうてい》の前に立ちはだかってみせよう。そんなことは実に訳はない。実にたやすいことだ。だが、握り飯、握り飯、それをほおばるときの、喉《のど》を通ってゆくときのあの充実した感触……それも多くは望まない、ただ一度、一度だけでいいのだ。ほんのそれだけの望み、ずっしりと大きな握り飯、握り飯、……峻一は声に出して呟いた。握り飯、握り飯、握り飯……。
それから峻一は頭をかかえるようにして、マットレスの上にごろりと横になった。落着け、落着け。ヒステリーを起してはいけない。この島で生き続けてゆくためにはなにより冷静さが必要なのだ。この小さなドンコも空腹に駆られて食べたりすることはよそう。それよりもう一度運だめしをしよう。ドンコが新鮮なうちに、今晩やってみたら? ここのところ日が暮れるとすぐ寝る生活を続けてきたが――大きな壕には自家発電の設備があったが、峻一の壕では蝋燭《ろうそく》であった――以前は夜よく赤鯛《あかだい》に似た魚が釣れたではないか? それにしてもまず今はじっと横になることだ。なによりも呼吸を静めて休息することだ。
……その夜、半月がにぶく島を海を照らしだしているころ、峻一は諏訪丸の斜めにかしいだ甲板の上にいた。ブリッジの下部にまで海水がどっとおし寄せ、陰気に底ごもりする響きを立てては引いてゆく。船自体がとうにその機能を停止した鉄屑《てつくず》の廃墟で、一人でその上に立っていると不気味なほど陰気で、鉄《てつ》銹《さび》の匂《にお》いがした。更にここから眺め渡す島、にぶい月光の下に低く拡がっている島のなんと荒涼としていることか。ところどころに壕が、陣地が盛りあがっているのが判るが、絶えて動く人影はない。
しかし峻一はそれらの光景に対しても別段の感慨も抱きはしなかった。彼はもうかれこれ一時間も、手《て》摺《すり》ごしに糸をたらし、神経を集中してひたすら当りのくるのを待っていた。それにしてもこの日は――果してこの日だけであろうかという疑惑が押しのぼってくるのを抑えがたかったが――あまりといえば手応えがなさすぎた。こんなことが続けば、むしろドンコを専門に釣って食糧にしたほうがいいかも知れない。
峻一は何遍目かに糸をたぐりよせ、餌のつき具合を調べ、それからそれを舷側《げんそく》から遠方へほうろうとはずみをつけて身体をひねった。すると、ぬるぬるした甲板に草履をはいた足がつるりと辷った。あっという間に身体が仰むけに転倒し、そのまま傾斜した甲板を辷って、すぐ下方に渦を巻いている波の中へずるずると引きこまれていった。
一瞬、五体が海水と共に攪拌《かくはん》されたのを覚えている。呼吸が苦しく、もがいて潮を呑み、それから峻一は辛うじて海面に首を出して荒い息をついた。混乱した頭で事態を見極めようとした。すると、意外に遠くに諏訪丸の半ば沈んだ船体があった。せいぜい沈んでいる船尾の辺りに浮びあがっていい筈だのに。しかし峻一は慌《あわ》てなかった。海岸は近いのだ。それにいくら体力が消耗しているとはいえ水泳にはかなり自信があった。少し泳げば背の立つところまで行けるだろう。
そのときになって彼は、自分がまだ釣糸をしっかり握っていることに気がついた。たぐり寄せてみると途中で切れている。苦労して作った鉤《はり》は失われてしまったのだ。彼は残った糸を握ったまま泳ぎだした。
ところが、海岸が一向に近づかないのである。諏訪丸も横手のほうになっていたが、その黒い影からも次第に離れてゆく。
流されている、と知って峻一ははじめて愕《がく》然《ぜん》とした。斜め後方へ、たしかに沖へ向って流されている!
峻一は海面に顔をつけた。クロールになって、遮《しゃ》二《に》無二泳いだ。自分にこれだけの力が残っているのかとあやしまれるまで、水をかき水を蹴《け》った。それから顔をあげてみた。海岸は少しも近づいてはいない。もう一度、狂おしく努力した。ついに腕が疲れ、足が麻痺《まひ》した。殊《こと》に左足がさきほどどこかに打ちつけたらしくよく動かない。海岸は明瞭に前よりも遠ざかっているようだ。泳ぐよりも潮の流れのほうが早いのだ。彼は叫んだ。三声か四声叫び、すぐとその企てのむなしさに気がついた。波の音が叫び声を打消してしまうのだ。
急にがっくりと気落ちして、なにより手足が動かなくなって、彼は波に身をまかせた。水を呑むまいと、わずかに重い手だけを惰性のように動かした。そうしていると、海水の冷やかさが身に沁《し》みた。夜になっても波打際の水はなまぬるいのを彼は知っていたが、いま周囲にある潮の流れはかなり冷たかった。そして彼の身体を急速におし流しつつあった。
それでも峻一はまだそれほど絶望を感じはしなかった。というより彼の動転した心には、一部にぽっかりと虚脱したところがあって、ほとんど他人《ひと》事《ごと》のようにぼんやりと考えた。一体どうなるのかな。このまま溺《おぼ》れ死ぬなんてことが実際に起るのかな。
彼はもう一度泳ごうと努力した。それから同じようにそれが効がないことを知って、はじめて氷のような恐怖が心を鷲掴《わしづか》みにするのを覚えた。
自分は死ぬのだろうか? こんなふうに簡単に、あっけなく、情けない状態で死ぬのだろうか? 波がかぶさってきて呼吸が苦しい。海岸線はますます遠くなっている。空に半月が見え、星が見えた。顔に波がかぶさり、彼は次第にだるくなる手を動かしながら、ただ浮いていることにむなしい努力を続けた。ではやはり死ぬのか? 本当に死ぬのか? 諦念が峻一の心にきざしはじめた。
すると、頭の片隅《かたすみ》に、母の像が浮んだ。軍刀を彼に手渡しながら「立派に戦っていらっしゃい」と言った龍子の姿が。ついで、自分の部屋の様子が目に浮んできた。隅の開きになった押入れの中には、彼が苦心して描いた百何十枚かの飛行機の絵が今も蔵《しま》ってある筈であった。この押入れには、いつぞや非常食の乾パンを蔵っておいたこともある。ぼろぼろになって蛆《うじ》の湧いた乾パンの袋を峻一はまざまざと目の前に見た。それから、ずっとむかし愛用していた特別上等なヨーヨーの形態が浮んできた。そのヨーヨーを周二が非常に欲しがって泣いたりしたものだったが。周二といえば、物欲しそうにじっとこちらを窺《うかが》っているその顔立ちが浮んできた。その幼い弟のまえで、彼峻一は大きな器一杯の苺《いちご》入りのジェリーを、見せびらかすようにしてゆっくりゆっくり口へ入れているのだった……。
そんなふうに、さまざまの人のおもかげが、追憶の断片が、次々と矢継早に峻一を訪れて消えた。今は仰向いてわずかに波の上に口だけ出している彼は、喘《あえ》ぎながらかすかに心に思った。終りだ。いよいよ終りだ。こんなふうに昔の記憶が浮んでくるようではいよいよ自分は死ぬのだ。
彼にとっては無限に長い時間が過ぎ、半ば朦朧《もうろう》となりながら、峻一はわずかに水を呑むまいと頭をもたげた。すると、すぐそこに海岸が見えた。幻影かと思った。しかしそれは、寄せて砕ける波が白く一筋になっている、その背後に月光にほの白い砂礫と黒い灌木林を見せた明らかな島の姿であった。潮の流れが円を描いていて、知らず知らず彼を島のそばへ流れつかせたのだ。
動かぬ手で幾掻きかすると、足が海底に触れた。よろけながらふらつきながら、峻一は岸に辿り着いた。
そのまま彼はうつぶせに倒れた。困憊《こんぱい》しきって、このうえ動く気力もなく、しかし彼の頬《ほお》を涙が流れた。それは海水の滴《しずく》と入りまじったもののかすかにほの暖かく、これは涙なのだなと彼は心の片隅でちらと意識した。
第八章
三月、四月と――その間には硫黄《いおう》島《じま》の玉砕、米軍の沖繩上陸、小《こ》磯《いそ》内閣の総辞職、さてはヨーロッパでは赤軍のベルリン突入などの暗いニュースが続いたが――楡病院にも慌《あわただ》しく急速な変化が進められていった。
世田谷松原の本院の看板が外され、代りに「東京都立松沢病院分院梅ヶ丘病院」という看板がかけられた。もっとも病院の内容自体が変化したわけではない。入院患者も従業員もそのまま都の病院に受継がれたからである。もちろん主だった職員は松沢病院から派遣された人員と交替した。新しい院長がくることになった。元の楡病院の副院長|韮沢《にらさわ》勝次郎は伊豆の片《かた》田舎《いなか》の町へ疎開して開業することになった。また院代勝俣秀吉もこれまた辞《や》めるほかなかった。どれほど彼が感慨無量であろうと、都の病院では名誉あり伝統ある院代という役柄を続けるわけにいかなかった。といって青山の病院も無期休院で、そちらへ移るということもできなかった。彼はやむを得ず隠退し、とりあえず豪徳《ごうとく》寺《じ》のそばの借家に移り、近いうちに甲府へ疎開するつもりだと言った。ひさは珍しく感情を面に現わして、夫の亡《な》きあと楡脳病科病院の屋台骨を荷なってくれた、この小柄で痩《や》せた老人の手を握ってねんごろに感謝の言葉を述べた。欧洲に対しても院代の退職金を特別に計らってやるよう、くどく念を押した。そしてこの年七十七歳になる彼女自身は、ようやく皆の意見を容《い》れて秩父の実家へ疎開していった。
当主である欧洲は広大な病院を都に売り、多額の金を手に握った筈であった。病院の賄《まかな》い界隈《かいわい》で、このような戦局のさ中にも、「欧洲先生は百万長者だぜ。これだけの病院は、いくら都の強制買上げだと言ったとて相当のもんだぜ」と噂《うわさ》されたものである。これを機会に欧洲は徹吉と相談して、財産を分け、青山の家を正式に分家することにした。そのあと欧洲は妻の千代子に言った。
「これで俺の役目は済んだ。地下の親父《おやじ》は慨《なげ》いているかも知らんが、こればっかりは仕方がない。それに本当を言って、個人で病院をやってゆける時代じゃあないのだ」
それから、
「精神病の医者なんてものも役立たずになるな。俺は百姓になるつもりだよ。食物がなんといっても先決の問題だからな」
と呟《つぶや》いたが、千代子はその意味を判じかね、夫が意味もない冗談を言ったのだと思っていた。
しかし欧洲は、実際に人を介して北海道に土地を求めだしていたのである。彼はいざという場合、もともと熱心ではなかった医者|稼業《かぎょう》をさらりとやめて農場を経営しようという目算を立てていたのだ。もっと有体《ありてい》にいえば、彼はこの戦争の成行きを以前から彼なりに絶望的に感じとっていた。滅多にないほど落第を繰返し人並はずれて悠々《ゆうゆう》と送ってきたその人生が、彼にこの時代には稀有《けう》となっていたもの、即《すなわ》ち常識を、残し保有させていたのである。楡家の一族のなかで、彼は敗戦思想を抱《いだ》くことのできた唯一の人物であった。中部太平洋に敵が進攻してきた頃、猟友会が軍からの命令で猟銃を集めたことがある。つまり南方の島のジャングル戦に於《おい》ては一発ずつ射つ三八式歩兵銃や九九式歩兵銃では敵の自動小銃に太刀《たち》打《うち》できぬため、猟銃に散弾をこめてこれに対抗するという案なのであった。愛銃を供出させられた落胆ばかりではなく、このあまりに泥繩式の話を聞いたとき、欧洲は戦争は負けたと感じた。そして昔から自分の病院のことは他人まかせにして何ひとつ積極的な方策をとらなかったこの楡家の長男は、生れてはじめて思いきった計画を立てた。松原の病院も青山の病院も、いや彼の勤めている松沢病院もがいずれは焼失する日がくるであろう。そうなったら自分は新しい天地を北海道に、農場主としての生活に求めよう。それが楡家をより長く存続させる道なのだ。
とりあえず欧洲は結婚以来住み慣れた自宅を引払い、松沢病院内の小さな官舎へと移ってゆくことになった。
そこで住む場所を失って宙に迷って狼狽《ろうばい》したのが龍子であった。彼女は松原の病院が都のものになるとはいえ、自宅は欧洲が確保しておくものと思っていた。さもなくとも新しい住居を買いいれるものと思っていた。母について秩父へ疎開するというわけにゆかず、まして三間ばかりの欧洲たちの官舎に同居するというわけにもいかなかった。そこで彼女はおもむろに思念し、熟考し、再考し、細思し、沈思した挙《あげ》句《く》、十年以上も別居していて顔も合わせたことのない夫に詫《わ》びを入れることにした。彼女はそれを決して悪びれることなく毅《き》然《ぜん》としてやってのけた。徹吉は内心おもしろからず思ったものの、やむを得ずこれを許した。尚《なお》つけ加えれば、青山の自宅にたった一人残っていた女中がどうしても郷里に帰りたがっていたし、下田の婆や亡きあと台所の主《ぬし》のような存在であった婆やのしげが、やはり近々千葉県の姪《めい》のところへ疎開することが決っていたのである。新しい女中を捜せる時代ではなかった。そういう事情もあって、徹吉は一応むっとした顔つきをしながら龍子が戻ってくるのを許したわけだが、もとより藍子も周二もこのことをたいそう喜んだ。
だが、やがてしげ達も青山の家を去り、日中は子供たちも工場へ出かけてひときわがらんとした家の中で、徹吉と龍子はお互いに不《ふ》機《き》嫌《げん》に二人きりで食事をした。
「この飯はなんだ」と徹吉が言う。「また芯《しん》がある。一体飯くらいちゃんと炊《た》けるようになったらどうだ?」
「だってお前さま」と、龍子は平然としてうなじをそらし、むしろ得意げに聞える口調で言う。「あたくしはこの歳まで御飯など炊いたこと一度もございませんもの」
一方、青山の病院も日ましにがらんとしていった。患者は家へ帰るか転院をし、それと共に従業員たちも辞《や》めていった。飯炊きの伊助爺さん夫婦もとうとういなくなった。運転手の片桐はずっと以前、ガソリンがなくて役立たずの車を或る大臣に売ったときに、そこへ勤めるようになっていた。事務長の大石は最後まで残った。だが患者の転院がすっかり済むと、やはり茨城の田舎へ疎開していった。
あとには、人気のなくなったものさびれた病院の中に、菅野康三郎と、古くからいる渡辺という婦長とその姪の若い看護婦三人が残るきりになった。それからもう一人、楡病院にとってはいて欲しくない不思議な人物が、一室を占領して居すわっていた。
その男は、野呂瀬という名からして妖《あや》しげな人物で、もとはといえば松原の病院の入院患者であったのだが、退院後も家族から頼まれて、人手不足の折から青山の病院で働くようになっていたのである。だが彼はまだ入院していたほうが遥《はる》かに正当だと思われる人物で、およそ役に立たなかった。なにより風態《ふうてい》からして異様であった。頭は人一倍大きい。しかし肩から下半身へかけて次第に尻すぼみになっていて、足のほうは小学生くらいの発達しか見せていなかった。その足で、彼は予想外の速度でちょこちょこと歩くのだった。ときどき家の裏手をもの欲しげにうろついていることもあったが、病院の者だというので龍子はさして気に留めないでいた。
すると或る日のこと、野呂瀬はいきなり玄関からはいってきて、出てきた龍子に向い、
「ちょいと奥さん、この菓子いらんかね?」
と言った。手に皿を持っていて、その上に餡《あん》を葛《くず》粉《こ》で包んだような生菓子が十ばかり載っていた。
龍子はその「ちょいと奥さん」にかっとなり、憤然として彼を追い払ったあと、婦長の渡辺に尋ねてみた。
「あの男は何者です、あの不《ぶ》恰好《かっこう》な頭でっかちの男は?」
「それが奥さま、あの人は大変な人で……」と、婦長はおおよその経過を述べた。「もともとうちの病院が休院になるしばらく前からいるんですが、やることといったら毎日そこらをほっつき歩くだけです。それが御飯の時間になるとちゃんと帰ってきて、あっという間に自分の分を平らげて、注意してないとほかの人のまで食べてしまって……」
「なんの病気だったんです? 白痴なの?」
「わかりません。松原の病院のことですから。けれども頭はいいらしくて、一高を出たというのは嘘《うそ》じゃないようでございます」
「どうしてそういう人を、病院に置いておく必要があるんです?」
「それはもう野呂瀬の家のほうへ何回も引取りにくるように連絡したのですが、ちっとも音《おと》沙汰《さた》がなくて……野呂瀬はなにしろ食事時間以外は町をうろついて、どこからかお菓子を捜してくるのです。今どきお菓子なんて……一高出でそういう変な才能は残っているのかも知れませんわ。それをどうもこの辺のお屋敷へ売りつけて歩いている様子なんです。そればっかしじゃございません。このあいだは風呂敷包みを持って裏口から出るところを見ましたものですから、あたくしが掴《つか》まえてみますと、お米じゃありませんか。病院のお米を盗んでいるのです。お菓子だってお米と交換しているのかも知れませんわ」
「一体なんてことです。康三郎さんに頼んで、一刻も早くそんな男は追いだしなさい!」
「もちろんでございます、奥さま。でもあたくしが悲しくなってしまいますのは、野呂瀬は名目上は楡病院の職員なんでございますからね。あたくしも長らく病院に勤めさせて頂きましたが、いろんな変った患者さんはおりましたけれど、まさかこんなひどい職員と一緒に住もうなんてことは……」
しかしながら、普通の感覚、普通の時代では考えられぬことに、この男はまだまだ病院の中に腰をすえ、そこらを小さな足で意外に素早く歩きまわっていたのである。
ところで、建物だけ残された楡脳病科病院の院長である徹吉は、ちょうどその頃、山形県の上ノ山町に滞在していた。
病院を閉鎖することが決ってから、彼は疎開のことを考えだした。なによりここ数年来|蒐集《しゅうしゅう》してきた精神病患者の特異な症例、そのノート、抜き書きのカードが相当量に達していた。はじめ彼の目算した仕事を書きはじめてもよいだけの準備はすでにできていた。更に火難以後の青山の病院の厖大《ぼうだい》なカルテ、これは病院にとって、当の徹吉にとって、かけがえのない財産といってよかった。それに焼いては惜しいいくらかの貴重な書物もある。
就中《なかんずく》、疎開についての徹吉の決心を固めさせたものは、三月十日の最初の夜間東京大空襲であった。それまで徹吉の心の底には、どこか事態を軽んずる考え、というより誰の心にも生じがちの、他の場所はやられることもあるにせよ自分の家だけは免れるのではないかという希望的観測が残っていた。だがその夜半、百三十機のB29はそれまでの戦術を変更し、房総方面から単機、あるいは数機ずつ進入してきて、無数の焼夷弾《しょういだん》をばらまいた。夜空は一晩じゅう不気味にただならず赤く彩《いろど》られ、その反映で人の顔立ちまではっきりと見てとれた。日が経《た》つにつれて、その惨状が予想外に大きいこと、関東大震災を遥かに越える被害であることが口づてに伝えられてきた。本所《ほんじょ》に住んでいた藍子の友人が焼死したことがわかった。「ぼくの工場の仲間は三人ずっと出てこない。もちろん死んだんだ」と、どこか憑《つ》かれたような表情で周二も言った。
めらめらと舌を出してゆく火焔《ほのお》の幻想、その生き物のような舌が書物や紙を呑みこんでゆく光景が、徹吉から離れなかった。大正末期の火難の体験から、彼は心に傷痕《きずあと》のような恐怖を抱きつづけていたのである。こうして、病院の始末もつき、これからも工場へ通わねばならない子供たちにも龍子という保護者を得たとなると、いささか利己的であるようにも思えたが、徹吉の心は定まった。一刻も早く疎開しよう。上ノ山町には弟の城吉が旅館をやっている。あそこへ行けばなんとかなる。そして、自分の最後の仕事、これを果さないで死ぬのはどうしても心残りと思っていた仕事に着手してみよう。
しかしながら、さて疎開の荷物をまとめる段になって、これが意外に困難なものであることがわかった。なにより徹吉は決断力がにぶくなっていて、持ってゆく書物と残さねばならぬ書物を選《え》りわけることが難《むず》かしかった。いったん諦《あきら》めて、また心残りがして、ついつい手にとって頁《ページ》を繰ってみたりして、気がついたときには半日が経っていた。どうしても置いてゆかなければならなくなった書物の一部を、徹吉は菅野康三郎や工場を休ませた周二を督励して、空《から》のガレージへ移させた。それからまた気が変って、裏手の煉《れん》瓦《が》造りの物置へ運ばせた。
「こんなことしても無駄ですよ」と、このところいやにはきはきものを言うようになった周二が指摘した。「窓は開いているし、戸だって木なんですからね」
「いやいや、そうでない」と、徹吉は自信なげに言った。「いや、どんなことになるのかは誰にだってわからないのだからな。少なくとも家の中よりは安全なはずだ」
それから徹吉の別の財宝、つまり何年かまえに大トランクにつめこんでおいた上等の罐詰類をどうしても持っていきたかった。極度の吝嗇家《りんしょくか》のような精神をもって、今までほとんどそれに手をつけていなかった蟹《かに》、アスパラガス、コンビーフ、さては鰻《うなぎ》などの罐詰の数々……。
ともあれ、ようやくのことで大量の荷物の発送が終り――といって徹吉の気持からいえば書物のほんの一部、カルテのほんの一部にすぎないと思われたのだが――徹吉自身も妻子を残して一人山形へ旅立った。
三《み》瓶《ひら》城吉のやっている宿屋高松屋は上ノ山町の外れにある。その庭はよく手入れされ、その門に掲げられた札は由緒ありげに古びていたが、どちらかというと二流旅館で、客の半数は近隣の百姓の湯治客によって占められていた。
「兄貴よくきた」
と、城吉は禿《は》げあがった額を早くもほてらして、奥の間の囲炉裏のまえで何本目かの徳利を手にとった。
「ここにきたらゆっくりしてけらっしゃい。なあに、東京では兄貴が大将かも知れんが、上ノ山町さきたらおれが面倒みる。ただなあ、急にこの家が陸軍病院になるという話があってな、そうなったら兄貴を置いておくわけにゆかねえべ。それでいく[#「いく」に傍点]のとこへ相談しに行ってみたんだ」
いくというのは徹吉の実妹であった。上ノ山町から少し離れた堀田村――徹吉の生れた村の隣村であったが――の鈴木治衛門という家に嫁に行っている。いざという場合には鈴木の家で置いてくれるというのである。
徹吉はアメリカとの戦争が始まる前の年、高松屋へしばらく逗留《とうりゅう》し、父母の墓参や親戚《しんせき》まわりをしたが、今度上ノ山へきたのはそれ以来のことである。
「あしたはおれと墓参りでもして、その帰りに治衛門のところへ寄ってみるべがなっす。いや、東京も大変だろうが、上ノ山町もだんだん騒がしくなって来たなあ、困ったもんだ。兄貴がずっと長く疎開するとなると、いろいろ戦略を立てておかないとなあ」
「ほだな」
と、徹吉は言った。少年時代から久しく使わなかった郷里の言葉が、このとき我知らず、ごく自然に出た。
どこへ厄介になるにせよ、東京から送った相当量の荷物を置く場所のある部屋を貰《もら》わねばならない。しかし、と杯を受けながら徹吉は思った。そのときにこそ自分がけちけちと病的な精神をもって貯《た》めこんだあの罐詰類が役に立つであろう。金よりも何よりも、あの高価だった罐詰は一疎開者の土産物としてこのうえないものにちがいない。
その罐詰はもとより、書物もカルテも数年来かき集めた貴重な資料の類も、もしかしたら駅に積まれたまま焼失して自分の手元にとどかぬこともあり得るという当然の可能性を、このとき久方ぶりに会った弟と酒をくみ交わしてほのぼのとなっていた徹吉は、さすがに考えることができなかったのであった。
*
ベルリンが陥落し、ヒットラーの自殺が伝えられてきた。そして長年、盟邦として戦ってきたドイツは五月七日無条件降伏をした。沖繩での戦いも絶望の度を加え、九州から東北に至る日本の空は連日のように敵機に蹂躪《じゅうりん》されていた。すでに硫黄島を基地とする戦闘機P51が空襲に参加し、交通機関から通行人にまで銃撃をあびせかけてきた。
周二の行っていた大森の工場は四月中旬の空襲で焼けた。焼跡の片づけが済むと、いったん動員が打切りになった。学徒たちには半月の休暇が与えられ、ついで千葉県の暁部隊という工兵隊に動員令が下った。周二たちはその本部のある田町で三日間地下壕掘りをやらされた。それからまた休暇があり、やがては彼らは千葉へ連れてゆかれ、敵の本土上陸作戦に備える陣地作りをやらされる予定であった。
その年に上級学校へ合格している者も、引きつづき八月まで中学の動員先で働くことになっていた。ただ例外として、上級学校からその動員先に編入すると通知のあった者は現在の職場を離れることができるのだった。こうして、別れてゆく者、引続き中学から暁部隊へ派遣される者の二派ができたが、二次試験の医専の入試にも落第した周二はもちろん後者に属していた。
すでに一年の余、勉学とまったく縁のなかった中学生たちは、与えられたつかのまの休暇中、ひっきりなしに仲のよい者同士が集まって離別の宴を開いた。お互いに自宅から配給の酒とか食物を持ち寄って、どこか適当な友人の家に集まるのであった。離別、それはその日ごろには文字通りの具体的な意味合を有しているのに違いなかった。彼らはお互いの手帳の後ろに住所を――自宅の住所や入学した学校の寮の住所を書きあった。それから慣れぬ酒に酔って、放歌高吟した。昔の流行歌から、蒲《がも》生《う》君平《くんぺい》や西郷|南洲《なんしゅう》の漢詩の朗吟、二・二六事件の青年将校たちが歌っていたという昭和維新の歌、最後には肩を組みあって、「さーらばラバウルよ」という当時|流行《はや》っていたラバウル航空隊の歌を高唱した。
「元気でな、死ぬなよ」
「ああ、空襲なんぞでは死なんさ」
そう言いあって、地方の上級学校へ去る者は去っていった。
ある夜、この集会が周二の家で行われた。一同が夜ふけて散ずると、女中手とてない龍子が我慢ならぬ体《てい》で眉《まゆ》を釣りあげて言った。
「なんです、あのあなたのお友達は? まるで与太者か無頼漢みたいじゃないですか!」
「でも」と、周二は横を向いてぽつりと言った。「みんないずれは死ぬ連中なんだよ」
そうして、そうこうするうちに五月二十五日の夜がきた。東京最後の大空襲の日が。
その前々日にも、二百五十機を数えるB29の夜間空襲があり、慶応病院を含む地域がこの日に焼けた。防空壕の外へ出ていた周二は、突然、頭上に蒸気の噴射するような焼夷弾の落下音を聞いた。楡病院と青山墓地との谷間の家並から盛んな火焔が立ち昇り、それを見た周二は、反射的に衝動的に、あらかじめ掘ってあった穴に矢継早に蒲《ふ》団《とん》類を投げこんで土をかけた。ところがその火災は奇《き》蹟《せき》的に消しとめられてしまい、翌日彼らは苦労して泥まみれの蒲団を掘り出し、天日に干さなければならなかった。
「落着きが肝腎です、人間は」
と、今は事務服のような袖口《そでぐち》の上っぱりを着、もんぺをはいた龍子は顔をしかめ、いらだたしげに蒲団の土を払った。
「偶然ですよ、あの火事が消えたのは」
と、むっとしたように周二は答えた。工場を休んだ藍子は黙々とシャベルを動かしていた。
大きな空襲があったあとは、敵機も整備の時間が要《い》るにちがいなく、いくらかの間隔があくのが常であった。その例に反して、一日おいた二十五日の夜十時すぎ、空襲警報が鳴った。ラジオの情報からおしても大規模な空襲になりそうな気配であった。
龍子と藍子は早くから裏手の防空壕にはいった。昂奮《こうふん》し気負いたった周二だけが、防空|頭《ず》巾《きん》の上に鉄兜《てつかぶと》をかぶり、火叩きを銃剣のように握った風態できっとなって戸外に立ち、ときどき家へ駈《か》け戻ってラジオの情報を聞いたりしていた。防空壕の戸口から明りが洩《も》れるのを認め、周二が覗《のぞ》いてみると、一隅に泰然とうずくまっている彼の母親が、懐中電燈をつけて膝《ひざ》の上に謡の本を開いているのだった。しかし、そんな些《さ》細《さい》な光をとがめるにも当らなかった。すでに、四方の夜空はあかあかと照り映えはじめていた。
それは三月十日の夜間空襲の再現、いやそれを更に大規模にした、執拗《しつよう》に連続した攻撃であった。敵機は低空を単機ずつ、東の方角から西へ向って侵入してくる。探照燈が模索し、あおじろいジュラルミンの機影が浮びあがると、地上から曳光弾《えいこうだん》が噴水のように集中してゆく。いやにのろく、震えながら赤い火の玉が数限りなく夜空に駈けのぼり、ふっと消える。
谷をへだてた墓地の方角、その左手の方角の空が真赤になり、その赤さは刻一刻と濃くなっていった。探照燈の光芒《こうぼう》も薄らぐほどの明るさである。一機また一機と、B29がその上に焼夷弾をばらまいてゆくのがはっきり見える。それは空中で分解して無数の火の粒子となり、燃えさかっている地帯の上にあとからあとから落下してゆく。どうしてあれほど沢山の爆弾を投下する必要があるのかと疑われるほどだ。防空砲火につきまとわれながら、先のB29が消えさると、もう次の敵機が現われてくる。
「頑張れ、頑張るんだ」
と、周二はその燃えさかる地帯の人々にむかって心の中で叫んだ。
真暗な家の中へ駈け戻ってみると、つけ放しのラジオが、「なお後続部隊あり」とさっきから同じことを繰返している。
風が激しくなった。地平線のどぎつい赤さはすでに尋常なものではなく、その中で火焔がひとしきり立ち昇ってゆらぎ、前景の家並が黒くくっきりと浮きでてきた。敵機の侵入はいつまでもやむ様子がない。弧を描いて曳光弾が集中しているが、それもいくぶん弱まってきたようだ。横手のほうから、小さな赤い粒が敵機に追いすがってゆくのは味方の戦闘機なのであろう。はじめのうち、二、三の敵機が火に包まれたときには、近所の暗闇《くらやみ》のなかから喝采《かっさい》の声が伝わってきたが、それも涯《はて》のない空襲に疲れたのかばったり聞えなくなった。
周二はときどき防空壕の戸をあけて、さすがにもう謡の本を閉じている母親と、無言でうずくまっている姉に報告した。
「これで五機やっつけた。だけど、まだまだいくらもくる」
「落着きなさい。防空壕にはいってらっしゃい」と、龍子が叱《しか》りつけるように言った。
「ぼくは不死身さ」
と周二は乱暴に言い捨て、なおも引きもきらず侵入してくる敵機と、まさに東京の最後ではないかとも思われる豪華にも兇々《まがまが》しい夜景とを、為《え》体《たい》の知れぬおののきに縛られながら眺めてやまなかった。
突然、すぐ真上で爆音がした。のしかかるように巨大なB29の機体が、横手に立っている銀杏《いちょう》の樹の梢《こずえ》ごしに、手をのばせばとどきそうな低空を通過していった。機体の下の爆弾倉が開いているのまではっきりと見てとれた。それは流線型の、金属の工芸品の極致とも見える物体であった。現実のものとも思えず、さながら神話の怪鳥の化身のように見えた。翼と胴がにぶく光を反射し、ぞっとするようなあおじろい妖《あや》しい美しさであった。周二が身の危険も忘れ、茫然《ぼうぜん》と見惚《みと》れて立ちすくんでいたほどに。
我に帰って周二は意味もなく呟いた。
「敵もなかなかやるな」
しかしその頃から、B29の機影は次第に間近を通過しだした。一度、空にぱっとなにかが閃《ひらめ》き、無数の砕けた星の細片となると、きらめきながら落下してくるようであった。周二は防空壕へとびこみ、反射的に身をすくめ、やがてくるであろう爆発音を待った。しかし、それは伝わってこなかった。ただ彼がふたたび外へ出てみたとき、青山の電車通りの方角に紅《ぐ》蓮《れん》の炎が立ち昇っていた。また母《おも》屋《や》の屋根になにか金属性のものが落下する音が耳を打った。高射砲の破片かも知れなかった。一時待避するつもりで防空壕へ入りこみ、また出ようとして身動きすると、母親の手がいきなり周二の手をぐっと握った。意外に強い握り方であった。
「じっとしてらっしゃい。ちょこちょこするんじゃありません!」
幼児を叱るような口調で怒ったように言い、龍子はなおその手を離さなかった。
ちょうどその頃、かつて楡家の当主基一郎がその土地を測量中に倒れた松原の病院、今は松沢病院梅ヶ丘分院となっているその病院は、猛火のただ中にあった。まだ附近に林や水田が多いその病院がそれほど早くこのような運命を辿《たど》るとはほとんどの従業員が考えなかったことだが、当時の松村分院長の報告書がその顛末《てんまつ》を次のように伝えている。
「午後十時五分頃、警戒警報発令。同二十三分頃、空襲警報発令。
全従業員戦闘配置ニ就《ツ》ク。全患者避難準備態勢ヲトル。来襲敵機B29、二百五十機、東南及ビ西南ノ両方面ヨリ来《キタ》リ、最初東方、次イデ北方ニ火ノ手上リ、次第ニ四方ニ迫リ来ル。風ハ西南風ニシテ、風速|漸《ヤウヤ》ク強キヲ加ヘツツアリ。
午前一時半前後、病院東南隅ヨリ道路ニ渉《ワタ》ツテ第一回焼夷弾落下、ウチ院内建物ニ落下セルモノ合計八個内外、何《イヅ》レモ防護員ノ初期防火活動ニヨリ消シ止メラル。然《シカ》シナガラ、四方ニ上レル火焔ト、煙ト、火ノ粉トハ空ヲ覆《オホ》ヒ、類焼ノ危険ノ迫レルヲ感ジ、女子病棟患者ハ避難ヲ開始、コノ間患者六七名紛レ去ル。男子病棟ニ於テモ全患者ヲコンクリート廊下ニ避難セシメ、人員点呼、異常ナキヲ確カム。病者避難ニ際シ、病院西北部ノ垣《カキ》ヲ破リ一般避難民ガ構内ニ侵入シ、患者ガコレニ紛レ込ミ迷惑セリ。
第一回ノ火災ヲ何レモ大事ニ到ラズシテ消シトメ、一同一段落ト感ジ、従業員負傷者野島春治ノ手当ヲ命ジヰタル所、午前二時三十分頃、敵機(煙立チコメテ機影ヲ認メ得ザリキ)ニヨル焼夷弾ハ本館、炊事場、及ビ全病棟ノ範囲ニ雨ノ如ク降リ来リ、確認セラレタルモノ二百発以上ニ及ブ。病者小林殿、興奮怒号、病者藤本殿、焼夷弾ノ直撃ヲ受ケ担架ニテ避難(午前三時絶命セラル)四患者紛レ去ル。更ニ木原殿救助シ得ズ。
斯《カ》クテ病棟ノ大部及ビ本館ノ大部、炊事場等炎上シ、処置ナシト認メラル。患者ノ避難完了セルヲ以テ、午前三時半頃、テニスコート内ニ集合セシメ人員点呼ヲ行フ。行《ユク》辺《ヘ》不明患者十三名、従業員負傷者三名ナリ……」
……周二はかなり長いあいだ防空壕の中にいた。ときどきわずかの時間外を窺《うかが》い、母屋にもその背後の病院にも異常がないのを確かめた。
そして、それとわからぬ緊張した異様な時間が過ぎ、気づいてみると、敵機の侵入はもうやんでいるようであった。
その代り、空一面がただならぬ色に染まっていた。はじめは地平線に近い部分の夜空の赤さだったのが、今は中天から隅々まで火焔の色を反映していた。それはどぎつい、ぞっとするような、紫がかった不透明な赤さ、この世のものではないぶ厚い色彩の混淆《こんこう》であった。
そして南から烈風が吹いていた。いつの間に風がこんなにも強まったのか。それも立っているのが困難なほど、颱風《たいふう》に近い激しさで不気味に赤く染まった夜空の下を吹きすさび、かつ無数の火の粉を目まぐるしく運んでいた。
周二は門の前まで走り出てみた。玄関のわきにあったバケツで防火用水の水をくみ、それを半ば意味もなく片手にさげながら。
すると、青南小学校の方角へ通ずる小路を、あとからあとから避難者の群れが駈けてきた。大荷物を持っている者もあれば、まったく素手の者もある。そればかりではなかった。避難者がとぎれると、それぞれ何か荷物をかついだ一隊の兵士が、軍《ぐん》靴《か》の音をひびかせて駈足で楡病院の前を通りすぎていった。それは青南小学校の屋上に陣地を作っていた高射砲部隊らしかった。
「軍隊までが逃げるのか」と、歯がみする思いで周二は心に呟いた。「だが、ぼくは逃げないぞ」
吹きすさぶ烈風の音、それにまじって重苦しい地響きに似た音響が轟《とどろ》いてくるようだったが、昂奮した周二はそれをも意識しなかった。彼はほの明るく照らしだされた路上を駈け、周囲の様子を窺おうとした。病院の前面の家々にはまったく人の気配がない。
そのとき、病院の従業員たちの通用門から、小柄な人影がとびだしてき、そのまま立山墓地の方へ走ってゆくのが見えた。両手に風呂敷包みをさげた頭でっかちの黒い影、それはあきらかに、そのときまでなお病院に泊りこんでいた野呂瀬の後ろ姿にちがいなかった。周二は声をかけようとした。だが足の短く小さなその影は、火の粉をまじえた烈風の中を見る見る遠ざかっていった。
周二はただ一人、その通用門からはいって病院のぐるりを廻ってみた。病院にいた筈の菅野康三郎や婦長の渡辺たちの姿はなかった。病棟の裏手にきたとき、二階の庇《ひさし》の下にちろちろと炎が舌を出しているのを認めた。火の粉がとび移ったのであろう、烈風から蔭になっている場所だったが、少し大きく炎が上にのびるとすぐ風に引きちぎられてしまい、又ちろちろと燃えている。周二はさげているバケツを見た。ほとんど水ははいっていない。周囲を見まわし、遠からぬ場所に防火用水を見つけた。
最初の一杯はとどかなかった。途中で風にとばされてしまうのだ。次の一杯を手にして、周二は呼吸を静め、「ひい、ふう、みい」と心に言いきかせて風の合間を狙《ねら》った。嘘のように、見事に火は消えた。周二はなお二杯水を投げあげ、そして思った。
「どうだ、大したものだぞ、ぼくは大したものだ」
ところが、そんなふうにして意気|旺《さか》んに周二が無人の病院を一巡して戻ってくると、壕から出て玄関先にいた龍子が、この息子を激しく叱責《しっせき》した。
「どこへ行っていたんです? もう逃げなきゃなりません!」
そう言われてみるまでもなく、青山南町の方角から押しよせてくる火の海は、すでに無数の火の粉を楡家の前面に吹きつけていた。
「どっちへ逃げます?」
とっさに、周二の心には、一つは参道から明治神宮への道と、一つは病院の横手の原から墓地へ逃げる道とが浮んだ。墓地は火勢の風下にある。といって参道への道はもうふさがれていることだろう。
どうせ隣の原っぱから逃げられるから、病院に火がつくまでは大丈夫だ、と周二は判断した。
突然、彼は何ひとつ家財を持出していないことに気がついた。一昨日は慌《あわ》てて早手まわしに穴へ投げこんだ蒲団まで干したままになっている。そうだ、ラジオだけは助けよう、と彼は思った。思ったときは、うしろで叫んでいる母親の声を無視して、玄関から家へとびこんでいた。
家の中は真の闇であった。とうに停電になっていて、あいにく懐中電燈も用意していない。手探りで居間へゆき、ラジオをかかえて引返そうとした。すると闇のなかで、いきなり藍子らしい柔らかな身体とぶつかった。
「周ちゃん?」と、たしかに姉の声がおろおろと泣きだしそうな声で言った。「暗いわ。電気はつかないの?」
「駄目だ。早く出ろよ」
なにか持ちだすつもりらしかった藍子もそのまま周二についてきた。
外に出ると、彼らをじりじりと待っていたらしい母親が、このうえなく立腹した様子でこう叫んだ。
「何にも持つんじゃありません! 身ひとつで逃げるんです!」
「身ひとつ……か」周二は、そんな切羽つまった瞬間にも、どういうわけかその言葉がひどく可笑《おか》しくなって頬を歪《ゆが》めた。それから、まるきり反対のことを考えた。「さあ、これからが生きるか死ぬかの瀬戸際だぞ」彼は堪えがたい緊張に身震いし、いよいよ激しさを加えてきた烈風の音響を聞いた。
周二はやにわにかたわらの防火用水にとびついた。バケツで、頭から――鉄兜と防空頭巾をかぶってはいたが――立てつづけに三杯、水を身体にあびせかけた。
「やめなさい」と、龍子がきつく言った。「それより、バケツに水をくんで持ってゆくんです」
三人はそれぞれバケツを持ち、一団となって家の裏手から病院の裏手へと辿った。途中、周二はかかえてきたラジオを防空壕の奥へほうりこんできた。
病院と原との境まできた。そこは粗末な板壁で、下方の鉄条網がかなり取れてしまっていて、充分人がくぐりぬけられるだけの隙間があった。しかしそこまできたとき、周二はさすがに慄然《りつぜん》とした。
さきほど病院の周囲を廻ったときは、原はたしかに原として存在していた。暗くひろびろと、たとえいかほど火が迫ったにせよ燃えるものとてない安全至極な場所として。それがいま眺めると、その原のうえを嘗《な》めるように火焔が渡っていた。原っぱ全体が、地獄そのままの火の下にあるように見えた。
しかし、もう少し落着いて眺めると、それは火焔ではなかった。幾千億、何兆という火の粉がかたまって、渦を巻いて、烈風と共に吹きとんでゆくのだった。
三人は、片腕で顔を防ぐようにして、身をかがめながら、この原を横断しはじめた。空は吼《ほ》え猛《たけ》っていた。地も鳴っていた。風圧で身体が倒れそうになり、目のまえを無数の赤いものが乱れ飛んだ。熱風が藍子の手から、走るときこぼれてほとんど空になっていたバケツを吹きとばした。
しかし、じきに墓地に到達した。木立が火の粉から彼らを守ってくれた。そこには多くの避難者がいた。
背後をふり返ってみると、病院に火のつくところであった。乱れとぶ火の粉にまぎれて、どこまでが燃えついた真の炎かは定かでなかったが、やがてその長い年月見慣れてきた病院全体が、あっという間に燃えあがった。それは巨大な炬《きょ》火《か》であった。まだ病院としての形態を残しながら、吹きすさぶ烈風にあおられ、長細い炬火として燃えあがった。
それから三人は、虚脱したように墓地の奥へと進んだ。墓石のかげ、樹のかげに数えきれぬ避難者がうずくまっていた。広くなって砂利の敷いてある道端に、三人もうずくまった。かたわらで声がした。
「墓地は大丈夫かしら?」
「大丈夫だろう。もうすぐ火が通りすぎる」
周二は片目があかなくなっていた。原を通りすぎるときに火の粉がとびこんだらしい。今になってしきりと痛み、涙がとめどなく出、かつ彼は悪《お》寒《かん》がしてとまらなくなっていた。脱出するまえに三杯も水をかぶった彼は、原っぱを通りぬけたくらいでは少しも服が乾《かわ》かず、頭からみじめに濡《ぬ》れしょぼたれ、哀れな情けない恰好をしていた。鉄兜と頭巾はとっていて、ついさきほどまであれほど自分としては英雄然とふるまっていたこの楡家の末っ子は、今はすっかり意気|沮《そ》喪《そう》し、子供っぽい丸刈の頭をむきだしにして、寒さと目の痛さに堪えかねたようにこまかく躯《み》を震わせていた。
そんな周二を、龍子はだしぬけに両手で引き寄せた。自分の膝の上に急にだらしなくなった息子の頭をのせ、その背中をさすってやりながら、彼女は挑戦するような目つきで、木立越しに頭上を乱れとんでゆく火の粉の奔流を見つめていた。
その傍《かたわ》らでは、藍子が痴《ち》呆《ほう》のように生気なく顔を伏せてうずくまっていた。彼女はさっきからひとことも口をきかなかった。
二日後の昼すぎ、藍子と周二の二人は自宅の焼跡を歩いていた。灰の堆積《たいせき》はまだ冷えきらず、踏みこむと下のほうは熱く、もろく足元で崩れた。
むかしの基一郎時代の楡病院に比べれば遥かに縮小していたとはいえ、二人の頭のなかでは、病院は相当広い敷地を有していた筈であった。それなのに、綺麗さっぱりと焼失してしまうと、その敷地は意外に狭く、ここにあの建物が建っていたのかと意外に感じられるくらいであった。
病院の玄関の柱が二本残っていた。空のガレージもそのままの姿であった。また裏手の煉瓦造りの物置が崩れかけながら形骸を留め、その一隅に明らかに徹吉の書物のなごりのぶ厚い灰の層を残していた。それ以外は一切が消失していた。わずかに土台の石を残しながら、むなしい、索寞《さくばく》とした、灰の累積にすぎなかった。一足々々、靴が埋まるほどの深い堆積。
周二はすでに元気さを取戻していた。というより、わけもない浮々とするような昂奮が引続いていて、彼は乱暴に焼跡の上を踏みにじり、おそらく病院の鉄格子らしい曲った鉄棒を蹴《け》とばしたりした。
墓地で夜を明かしたあと、龍子たちは幸いに類焼を免れた副院長の金沢清作の家に厄介になっているのだった。その家は病院と青山墓地との間の谷間にあり、その谷間に密集した家々が焼けないで済んだのはまったくの奇蹟といえた。つまり、あまりの強風が火焔の波を低い谷間をとびこえて通過させてしまったのだ。
その空襲の被害がどれほどむごたらしく広範囲なものであるか、もとより周二は正確に知るすべもなかったが、感覚的に、直観的にはよく承知していた。前日彼は自転車を借りて、青山南町から明治神宮への参道前辺りを一巡していたからである。
路上には電線が蜘蛛《くも》の糸のように散乱していた。ここかしこの焼跡はまだぶすぶすと燻《くすぶ》り、きな臭い異臭が鼻をついた。青南小学校の建物は焼け焦げながらまだ建っていた。しかし、すっかりがらん洞《どう》になり、窓もすべて破れてしまっていた。周二は渋谷に住む友人の家の安否を尋ねてみる計画だったが、すぐそれが無益なわざであることに気がついた。ところどころの石造建築を残して、一望千里、嘘のように見渡せるのである。大地は余分な建築物の影を一|擲《てき》して、焼けただれたその皮膚を露出させていた。あまりにむなしい、赤茶けた砂漠のような、信じられないほど広々としたその眺望《ちょうぼう》。
更にもっとどぎつい光景が周二のまえに開かれた。青山の電車通りには、一群の人々が働いていた。電車通りの歩道に並んでいる防空壕を掘り起しているのだった。そして彼らは、その中からなにか硬直した物体を――もちろん人間の屍《し》体《たい》をひきずりだしていた。参道の入口まできたとき、さすがに周二は目をそむけた。そこにはおびただしい屍体が集積され、高さ二メートルを越すピラミッド状の小山をなしていた。衣服をまとったものもある。裸で、まったく炭化して焼木杭《やけぼっくい》と変りのないものも混っている。そうした集積所が二箇所あった。
周二は参道を少し自転車を走らせた。欅《けやき》の並木も消え、いつも家があったところがどちらを見てもがらんと見通しになっているのが異様な感じであった。参道のアスファルトの路上に、無数の六角形の跡が刻まれていた。おそらく数千発の焼夷弾がこの一帯に集中して落下したにちがいなかった。明治神宮の境内へ逃げようとした人々の上に、それは雨のように降りそそいだことであろう。
そうして、にがいような乾いた気持をもって、自転車のペダルを踏み、奇妙に客観的な視線を厖大《ぼうだい》な殺戮《さつりく》の跡にむけているとき、周二の心には次のような考えが抜きさしならずおしのぼってきた。
「ついに近づいてきた。あの時[#「あの時」に傍点]が近づいてきたのだ」
――いま周二は、自宅の焼跡を歩きまわりながら、同じ考えを幾度も心に噛みしめていた。
裏庭にあったわずかばかりの畠、そこにはいくらかの菜が生えていたのだが、綺麗さっぱりその緑が喪失していた。樹々にしてもそうだった。大銀杏《おおいちょう》の根元だけが炭化して異形の姿をさらし、その附近にあった防空壕の内部にも火がはいって、せっかく周二が投げこんでおいたラジオも内部の金属の機械だけを残して焼けてしまっていた。
病院の焼跡から、周二は焼け焦げた鉄兜を三つほど拾いあげた。これはまだ役に立つかも知れなかった。ガレージのクリーム色の鉄の扉に、彼は焼木杭を拾っていくらかの文字を大きく記した。
「楡、全員無事、金沢清作方ニ転進ス」
一方、藍子はさっきから一箇所にじっと佇《たたず》んでいた。そこは――間取りがはっきりしなかったが――たしか彼女の部屋の跡にちがいないように思われた。
あの夜、火が迫ってきていよいよ家を捨てて逃げなければならなかったとき、そして周二がラジオを取りに家の中へ駈けこんだとき、藍子もまた真暗な家へはいっていったのは、はっきりとした理由のあることだったのである。彼女は机の引出しに蔵《しま》ってある日記帳、というより、そこに挾《はさ》んであった、人には告げられぬ思い出の品を取出そうとしたのである。ほかならぬ城木達紀の遺品、彼女の手元にある唯一のその手紙であった。
結局それは果されず、たった一通のその手紙を焼失してしまったのだ。藍子はかがみこんで、灰の層を手ですくってみた。この中にあの手紙の灰もまじっているかと思ったが、すべてがあまりにむなしく、彼女はしばらくして灰を掌からこぼした。涙も出てこなかった。
「もう行こう。何してんだよ」
と、こちらから周二が乱暴にうながした。
彼は焼跡から拾った鉄兜を重ねて、それを脇《わき》にかかえていた。彼は彼で自分の想念に囚《とら》われていて、沈みきった姉の様子に関心をもつ余裕がなかった。
龍子と藍子は、昨夜相談したところによると、近々徹吉の疎開先である山形へ行くことになっていた。しかし、周二には中学からの動員の義務があった。六月一日に彼は麻布中学校に集合し、そこから千葉の暁部隊へ送られる筈《はず》だった。そのこと自体彼はなんとも思っていなかったし、むしろ彼の夢想する「死」の君臨するにふさわしい場所だと考えていた。そもそも九十九里浜は、「日米戦未来記」のむかしから敵が上陸を狙《ねら》っている場所ではないか。
「早く帰ろう」
周二はもう一度姉をうながし、藍子がのろのろと立上るのを見ると、それを待たずに先に歩きだした。
しばらくは病院の敷地である。中に瓦《が》礫《れき》のつまった浴場の跡などがあった。やがて原っぱにはいる。原っぱの草も大半焼け焦げてしまっている。
原を少しきて、周二は後方をふりむいた。すると十歩ほど離れた病院と原との境界の辺りに姉がいて、なにか足元の黒いものを、沈んだ表情で、半ば無意識のような動作で靴先で突ついていた。それは半分灰に埋もれた、角ばった暗緑色の棒のようなものであった。
焼夷弾じゃないのかな、と周二は思った。こんなところにも落ちていたのか。あの空《から》の焼夷弾を持って帰ってみんなに見せてもいいな。
周二が二、三歩そちらへ向って歩きだしたその瞬間である。なんの前ぶれもなかった。なんの予感もなかった。突然、それが爆発した。斜めに宙に吹きだした太い赤黄いろい炎と、一瞬そこらを蔽《おお》いつくす黒煙とを周二は見た。彼はなにか叫び、同時によろけるようにとびのいた藍子が鋭い悲鳴をあげるのを聞いた。
彼女の髪が燃えていた。はっきりと燃えているのが見えた。周二はとびつくと、姉の身体を地上に押し倒した。夢中で地面におしつけ、手で叩《たた》いた。藍子が苦痛と恐怖にころがりまわるため、その作業は手間どった。
ようやく姉を引きずり起したとき、髪の毛と肉の焦げる異臭がはっきりと周二の鼻をついた。髪の燃えたのは表面だけのようであった。しかし藍子のこめかみから左頬の上部へかけ、べっとりと皮膚がむけ、思わず目をそむけたくなるように赤く爛《ただ》れた肉が露出されていた……。
第九章
畠の土は白く乾《かわ》ききっていた。ここ何日も晴天がつづき、胡瓜《きゅうり》やいんげんも疲れたように葉をたらしていた。茄子《なす》の葉裏にとまっていたてんとう虫が、のろのろと葉の表へ移動してゆき、ものうげに翅《はね》を開いて飛びたった。だがそれはいくらも飛ばず、じきにそばの茄子の葉にとまった。
その畠の横を、徹吉は戸惑うようにのろのろと歩いていた。古びたカンカン帽をかぶり、村人と変らぬ古びた浴衣《ゆかた》に地下足袋《じかたび》という姿で。その顔には、疎開した当時と比べてさえ、何年も急に歳をとったような心労のかげが見受けられた。やや猫背気味に歩いてゆく彼の髪には、いつの間にかほとんど黒いものがなくなっていた。
弟の三瓶城吉のやっている高松屋旅館が陸軍病院に接収されたあと、徹吉は実妹のいくの嫁入り先である、堀田村の鈴木治衛門の家に厄介になることになった。堀田村では大きいほうの百姓である治衛門の家では、長男が二歳の女の子を残して出征していた。その代り、東京に嫁入っていた次女が三人の子を連れて疎開にきていた。その中で徹吉は土蔵の中の部屋をあてがわれ、万事に親切に世話されていたものの、相次いで訪れてくる悪いニュース、それに伴う心痛を柔らげるわけにいかなかった。
第一に、疎開荷物が焼失したことである。いよいよそれが自分の手元に着かぬと確認したとき、彼はやはり何日か茫然《ぼうぜん》自失して過した。チッキにして送ったわずかの書物、わずかのノート類だけを除いて、ではあの資料類は無に帰したのか? かつての『精神医学史』のときほどの打込み方はしなかったものの、何年間か苦労してかき集め、カードに作ったあの材料は? それから昭和二年来の病院のカルテも? それは取り返しのつかぬものであった。灰となった資料は永遠に地上から失われてしまったのだ。そうして、あとに残ったこの自分、この徹吉という男はどういう存在であろう? 牙《きば》を欠いた年老いた獣にせよ、これほどみじめな、役立たずな、目的を失った哀れな存在ではあるまい。
「おまま(御飯)だす」
と、土蔵の部屋に妹のいくが徹吉を呼びにくる。しかし、その兄は薄暗いなかに頭をかかえるようにしてじっと坐っていて、生返事しかしなかった。
「早くきたらよかんべ」
と、再度いくが呼びにくることがある。すると徹吉は、ようやくのろのろと立上った。いくが気づかって言う。
「ほたい心配《すんぱい》したら、身体にさわるべっす」
それほど徹吉の憔悴《しょうすい》ぶりははた目にも明らかだったのだ。
病院が焼けたという報知を受けたとき、徹吉はしかしそれほど衝撃は受けなかった。前々から覚悟を決めていたからである。それでも「ヤケタ ミナブジ リユウコ」という電報を何遍も眺《なが》め、どうしても落着かず、近所の河原まで行って、雑草のかげでもう一回読み直したりした。「ヤケタ」とはあまりに直《ちょく》截《せつ》でぶっきら棒で情味のない表現である。まさか電報代を節約したとも思えぬが、そんなことにも性格のあわぬ妻に腹立ちの気持さえ湧《わ》いてきた。翌日、青山に住む知人からもう少し長い電報がきた。「オタクビヨウインセツタクリサイミナブジ」するといずれにせよ広範囲な空襲で、書物を積んだ裏手の煉《れん》瓦《が》造りの物置が残っているとは考えられなかった。
「病院なんか焼けるのは仕方ない。人間さえ無事なら」
と、徹吉は心に強《し》いるように考えてみた。
しかし、燃えて灰になってしまったにちがいない書物のことを考えると、さすがに胸が痛んだ。もう二十年以上もまえ、彼は青山の焼跡にうずくまって、灰の中から焼け残りの書物の残骸《ざんがい》を掘り起したことがある。そのあとで彼は固く心に言いきかしたものだ。「もう生涯、本を蒐《あつ》めたりするような真似《まね》はすまい」と。しかし目に見えぬ塵《ちり》がいつしか部屋の隅《すみ》につもるように、ふたたび彼の身辺は事実上の妻ともいえる愛着ぶかい書物で埋まってゆき、その中で彼は娯《たの》しみの少ない殺風景な生活をつづけ、そしてまたもや今度の災厄に会ったのだった。だが、それは堪えるべきだ。日本という国家自体が亡《ほろ》びるか否かの瀬戸《せと》際《ぎわ》に立っているのだから。
しかし、追いかけてとどいた報知、藍子が怪我をしたという報知は徹吉を更《あらた》めて狼狽《ろうばい》させた。自分がその娘のことをあまりかまわなかったと思うにつけ、居ても立ってもいられない気持に陥るのだった。詳細を告げる龍子の手紙は一週間も経ってからやっと着いた。それによると藍子は梅ヶ丘近辺の青田という小さな外科病院――幸いに院長が欧洲とも懇意だった――にやっと入院することができたということだった。
藍子はそこに一カ月間入院していなければならなかった。当時の乏しい薬品が、傷口の化《か》膿《のう》を防げなかったのだ。そして一応は治癒《ちゆ》したその跡、左頬の上半部に、醜い凹凸《おうとつ》のある、しかも赤く気味わるくてらてらとした瘢《はん》痕《こん》組織を残した。それ以上の治療は不可能であった。そこで前々から鈴木家に頼んであったように、およそ十日ほどまえ、龍子は藍子を連れて山形へきたのだった。
いま畠の間の道を歩いてゆく徹吉は、うしろをふりかえれば、その藍子の姿を見ることができた。
彼女は麦藁《むぎわら》帽子をかぶり、もんぺをはき、かがみこんで畠の草を取っていた。そうやって少しでもこの家の手伝いをさせるのは徹吉の意図ではあったが、なにも直接に藍子に命じたわけではなかった。
徹吉は疎開したときから、何ひとつ仕事とてしない自分が徒食することに後ろめたさを感じないわけにいかなかった。そこで畠へ行く妹のいく――彼女も早くも背がいくらか丸まっていた――のあとについていって、「おれも助《す》ける」と言って草取りの手伝いをした。だが、それはもう彼にふさわしい仕事ではなかった。じきに肩が痛んだ。背が痛んだ。指先も満足に動いてくれないようであった。
器用にてきぱきと草をむしりながらいくが、
「ほだなことしなくともよいのに」
と、ふりかえったときには、徹吉はもう立上って、草取りを諦《あきら》めて、妹の動作を呆《ほう》けたように眺めていた。
「いく、お前は器用だ」
と、その兄は済まなげにそんなことを言って、幼少期以来ずっと別れていた妹を讃《ほ》めた。
馬《ば》鈴薯《れいしょ》を掘るときにも「助《す》ける」と言って同行したが、結局は何もせず、ただ傍《そば》にたって眺めているばかりであった。
妻子までが鈴木家に厄介になるようになったとき、徹吉は龍子に言った。
「いいか。ぶらぶらしてないで畠の草取りを手伝いなさい」
龍子はちょっと黙っていて、それから「はい」と答えた。しかし、それはそのときの言葉ばかりで、彼女は絶対に草取りをやろうとはしなかった。そればかりか、土蔵の中の自分たちの居室に引っこんでばかりいて、世話になっている人々となじもうともしなかった。食事のときもてきぱきと自分だけ済まして、食後の団欒《だんらん》に加わろうとはせず、一人そそくさと席を立った。徹吉は妻の態度を叱った。しかし、龍子はやはり毅《き》然《ぜん》として草取りなんぞに出むこうとはしなかった。
そのため父と母との間に立って、藍子は困惑したといってよい。あまりに不運であったその怪我、おそらく自分の生涯を台無しにしてしまうであろう火傷《やけど》に対して、彼女は泣き事ひとつ洩《も》らさなかった。より大きな絶望と諦念《ていねん》が彼女の心を満たしていたからである。その底知れぬ深い諦念が、彼女に表面的には意外にしっかりとした態度をとらせ、毎日幼い子の子守をさせ、自らすすんで畠の草取りに加わらせたのだ。おそらくは何も考えず機械的に。
藍子の麦藁帽の下には、頭を包んだ日本|手《て》拭《ぬぐい》があった。その頭髪は丸坊主にされ、まだほとんどのびていなかった。左頬の傷跡は手拭にも隠しきれず、遠くから気味のわるい赤《あか》痣《あざ》のように目に映った。しかし彼女は、なじみの薄い叔母《おば》のわきで、かがみこんで一生懸命草をむしっていた。ときどきその動作を休め、沈んだ陰気な表情で照りつけてくる夏の空を見あげた。
かつてその少女は、明るく勝気でおしゃまで、常に遊び仲間の間でも牛耳《ぎゅうじ》をとっていたものであった。「あんた達、この公園のブランコはあたしのお祖父《じい》さまが公園に寄附したものよ。嘘《うそ》だと思うんなら、箱根土地株式会社の事務所へ行って聞いていらっしゃい」そう言ってスカートが風にまくれて腿《もも》が丸出しになるほど、得意げにブランコを漕《こ》いだものだった。あるいは蒲《ふ》団《とん》の塹壕《ざんごう》の上に勇ましく突っ立ち、「さあこい、便衣隊め!」と叫んだものだった。「あなた方、ヨコモッチンがなぜ売れ残ったかご存知? 彼女は丙午《ひのえうま》なのよ。おまけにあの大口でしょ? それは人間の男なら誰だって怖《おぞ》毛《け》をふるうわ」そう言って、悪戯《いたずら》っぽい微笑と共に女学生仲間を見まわしたものだった。「……つまりヨコモッチンは悲劇の人なのよ。あたし達は彼女に同情しなければいけないわ。風にそよぐうつくしきもの楓《かえで》よ、神を思う清らけきもの楓よ、……まあつまり、そんなふうに決定!」
いま藍子は、そんな記憶もとうに失われてしまったもののように、次の雑草に移るため中腰のままだるそうにいざった。
徹吉は結局そんな藍子をふりむいて見ることをしなかった。胡瓜の支柱に立てた竹棒に、赤《あか》蜻蛉《とんぼ》が翅《はね》をきらめかして、とまろうとして、宙にためらっている。
東方には蔵《ざ》王《おう》の連山がつらなっているのが望まれた。山麓《さんろく》はゆるやかな起伏をみせ、しかし上方にはいくつもの襞《ひだ》が陰影を刻みこみ、その山頂の附近は雲におおわれて見えなかった。この辺《あた》りの農民にとっては聖なる山として信仰の対象にもなっている山である。徹吉は緑濃いその山腹を眺めた。幼い日、朝な夕な、いや間断なく眺めて暮した山影である。そのときといささかも変らぬ山を見上げながら、いまこうして自分が、年老いて、抑えがたい心痛を心に抱いて立っているということ自体が、ふしぎな信じられぬような気もした。
西方は土地が一段低くなって、酢《す》川《かわ》と呼ばれる川が流れている。そのむこうが土手になっていて、鉄道線路が通じている。今しも貨物列車がのろのろと酢川の上に煤煙《ばいえん》を吐きちらかしながら通ってゆき、その音響が余韻を引いて鼓膜の奥に残った。
見まわすと、周囲の田畑にはぽつりぽつりと働く人影があった。太陽がじりじりと照りつけ、下手の梨畠《なしばたけ》では油蝉《あぶらぜみ》がうるさく鳴いていた。
それは一見平和そのものの光景といえた。だが戦争の波動はすでにこの東北の僻村《ヘきそん》にも及んできていた。七月にはいってから、警報がしきりと出た。そのたびに村の火の見櫓《やぐら》の半鐘がけたたましく鳴らされるのである。つい数日前には東北地区全般にわたって空襲警報がつづき、かつ午後一時近くから釜石《かまいし》が艦砲射撃を受けた。これだけ遠く距《ヘだ》たっている堀田村まで、ガラス戸にひびき、にぶい音響がかすかに伝わってきた。その翌日には北海道が全面空襲を受け、室蘭《むろらん》が艦砲射撃を受けたとラジオが伝えた。艦砲射撃まで受けるようになっては、日本本土自体がほとんど敵のなすがままになっているといってよい。
「どうなるのか」重苦しい気分で徹吉は自問した。「一体どうなるのか」
そのとき、とうに戦死しているにちがいない長男の峻一のことがちらと脳裏をかすめた。
「御国に捧《ささ》げたのだ」
と、徹吉は強《し》いて背筋をのばすようにしてひとりごちた。そして、胡瓜畠の傍で、突然、彼は身体が硬直するような気のたかぶりを覚え、両拳をしっかりと握りしめて心に強く思った。
「だが、戦争には負けてはならない。まだまだ、なんとしても負けてはならない!」
八月六日、広島に「新型爆弾」が投下された。九日、更に新型爆弾は長崎に投下された。同日、対日宣戦布告をなしたソ連軍は満洲、樺太《からふと》に侵入した。この日は延千六百機の艦載機が東北各地方に来襲し、釜石はふたたび艦砲射撃を受けた。
そうして、暗澹《あんたん》とした徹吉の思いのうちに、また何日か経った。
その日、八月十五日は朝から晴れわたり、家のなかでじっとしていても、汗が滲《にじ》むような暑さであった。庭の土も白茶けていた。治衛門が庭の樹に水をやっていた。この地方の少し大きな農家では庭を綺《き》麗《れい》にしつらえ、畠以上に手入れも怠らないのである。
しかし徹吉は落着かず、朝から三度も龍子と諍《いさか》いをした。この日の正午に天皇陛下の御放送があると早朝からわかっていたからである。十一時になると、彼は口をすすぎ手を洗った。一昨日、二度も回虫が口から出、御放送の間にそうした不始末があっては、と気になって堪《たま》らなかった。それから彼は羽織|袴《はかま》に着がえた。更に口をすすぎ、手を洗った。
「お前ももっときちんとしなさい」
「だってお前さま」と、怒ったように龍子は言った。「あたしは着物ひとつ持っておりませんのですよ」
十一時半になると畠からいく達が戻ってきた。徹吉が正装をしているのを見ると、それぞれ着物を着がえようとし、ちょっとした騒ぎになった。
「暑いなっす」
「天皇陛下がお話するの? なんて?」
と、小さい子供が尋ねた。
「ソヴィエトとも戦争になったんでしょう。ほだから、みんなでしっかり頑《がん》張《ば》るように言われるんだよ」
と、疎開者である治衛門の次女が教えていた。
「いよいよ一億玉砕だなっす」
と、治衛門がむっつりと言った。徹吉もふかく頷《うなず》いた。
「天子様のお声を聞けば、わたすはいつでも死《す》んでもえっす」
と、いくが言った。
藍子も血の気のない顔に決意のようなものを浮べ、常々頭をおおっている手拭をとった。すると、その下から見苦しい、女とも男ともつかないような坊主頭が現われた。
みんな囲炉裏ばたに正坐して、棚《たな》の上のラジオを前にした。
正午の時報が鳴った。アナウンサーの声が言った。
「これより畏《かしこ》くも天皇陛下の御放送であります。謹《つつし》んで拝しますよう」
「御起立ねがいます」という声がかかったので、一同がラジオのまえに直立した。幼い子供たちまで。
君が代の奏楽が流れだした。徹吉の背後で、いくが緊張のあまりか、ひとしきり咳《せ》きこむのが聞えた。……
遠く離れたあちらこちらで、誰もがこの放送を聞いた。千葉では、その日の陣地構築の作業が休みになっていた周二が、分宿している農家の土間でこの放送を聞いた。天皇の声は妙に甲高《かんだか》く聞きとりがたく、かつひっきりなしに雑音がはいった。ふと周二は、自分の前に直立している中学の仲間が、肩をふるわせて嗚《お》咽《えつ》しているのに気がついた。それから、ようやく周二も聞きとった。それが一億総|蹶《けっ》起《き》をうながす勅諭ではなく、意外にも、青天の霹靂《へきれき》とでも呼ぶよりほかないことに、終戦を、敗戦を告げる言葉であることを。彼はなにより茫然《ぼうぜん》とし、一体何を、どう考えてよいのかもわからなかった。日本人がまだいくらも生きているというのに、戦争が終るということ、人為的に戦争をやめることができるということを周二は考えてもみなかったのだ。それは人の手によっては変更の許されぬ自然現象のように、民族の滅亡までは永遠につづくものと思っていた。それが敵方の共同宣言の受諾とは! 降服とは! そんなことが可能だとは! 彼はふらふらと農家の庭先に出た。頭上からぎらぎらとした白い直射光がふりそそいでくる。空は突きぬけて陶器のように青かった。なんという空白な、しらじらしくもむなしいその青さ。周二は一瞬、眩暈《めまい》を覚えた。その眩暈が、心理的なものなのか、或いは乾ききった暑熱によるものか、自分でもわからぬまま、彼は二、三度頭をふった……。
信州の松本では、桃子が自宅のラジオの前で、身体を折り曲げて、久しく見せなかったとめどもない大粒の涙をこぼしていた。彼女はここ数日、たとえようなく怖《おそ》ろしい日を送ってきたのだった。広島、長崎に甚大《じんだい》な損害を与えたらしい新型爆弾――すでに新兵器の原子爆弾らしいという噂《うわさ》があった――が、この次には松本に落されるという広範囲なデマがとんでいた。家財道具を荷車に積んで近隣の村に退避してゆく人の数はおびただしかった。昨日、桃子はとりあえずさち枝だけを、王ヶ鼻山麓の山辺という村にあずけてきたところだった。夫は工場へ行っていた。年老いた義父と義母は未だに放送の内容が掴《つか》めず、泣き伏した桃子に驚いた様子であった。桃子は涙で一杯の顔をあげて言った。「おじいさん、日本は負けたんですよ」すると、そうして言葉を発してみると、彼女の全身をおおっていた情けなさ、口惜《くや》しさ、これからどうなるのかという不安の下から、ごくかすかな安《あん》堵《ど》が、少なくとも自分たちはもう新型爆弾によって殺されることはあるまいという、あるかなき安堵めいたものが、ためらいがちに湧《わ》きあがってきた。
一方、この放送をまったく知らないでいた者もいた。たとえば佐久間熊五郎――いつぞや彼は楡熊五郎と自称したことがあったが――もその一人であった。昭和二十年の四月、彼の属している師団は満洲へむけ移動を開始した。その頃からソ連の侵攻が考えられていたからである。行軍して漢口《かんこう》へ、更に貨車で北支を通って満洲へ、――しかし制空権は完全に奪われていて、夜だけしか動けなかった。黄河の鉄橋は完全に爆砕されていた。こうして満洲の四《し》平《ヘい》に着いたときは、七月も末になっていた。じきにソ連の対日宣戦布告である。関東軍は総崩れになっているらしい。八月十五日から十六日にかけて、熊五郎たちの中隊は四平の町から二里ほど離れた岡の上に個人々々の壕《ごう》を掘っていた。ここが最後の抵抗線でこの岡を死守せよという命令が出ていた。十六日の午後、熊五郎の壕もほぼ完成した。横手を見ると、隣の壕がかなりの遠方に見え、戦友が小さく頭だけ覗《のぞ》かせている。こんな稀《き》薄《はく》な陣地で、怒《ど》濤《とう》のような敵の侵攻を喰いとめられるとも思えなかった。これでいよいよ俺も最後だな、と彼は思った。さすがに妻と子のことを思った。死ぬときには、天皇陛下万歳、と一声叫ぼうと思った。それから彼は、素掘りの壕の内部にちょっとした窪《くぼ》みを作り、そこに弾丸を並べられるように細工をした。足元にたまった土をシャベルですくって外へほうりだそうとしたとき、後方から馬をとばしてくる兵士が見えた。それが終戦の報を伝えにきた伝令であった。――四平の町へ戻って、夜、涙ながらに銃の菊の御紋章を鑢《やすり》でけずって消した。三日|経《た》つとソ連軍がやってきた。丸腰で行進させられてゆく日本兵にむかって、住民が雨あられのように石をぶつけてきた。熊五郎たちは野戦倉庫に一カ月半入れられ、季節が寒くなりだした頃、列車に詰めこまれた。そうして熊五郎は、ソヴィエトへ、シベリアへ、バイカル湖畔のウローヌデへと運ばれていった。その収容所で、七百人中五百六十人が死亡した。二年経って生存者が復員したが、その中に佐久間熊五郎のなじみぶかい顔は、ついに交ってはいなかった。
*
堀田村の田畑のなかの道を、川原の小石の上を、山麓の小《こ》径《みち》を、徹吉はうつむいてとぼとぼと歩いた。それが為すこともなく呆《ほう》けたようになった徹吉の日課となっていた。地下足袋をはいた足をひきずるようにして、杖《つえ》をつき、背を丸めてとぼとぼと歩いた。老残の姿だな、と自分でも思った。
彼の生を受けた国は破れた。病院は焼け、息子の音《おと》沙汰《さた》はなく、娘は怪我を負い、生涯の最後の仕事と思っていた資料は失われた。わずかに山河だけが残されていた。幼少期を過した、懐《なつ》かしい、かりそめならぬ山河が。
畠のへりの萱《かや》のかげにきて、彼は坐し、沈黙した。何を考えるというのではなかった。けだるい疲労と諦念、そして自分の生涯はもう過ぎ去ったのだという意識。晩夏の光が強く射し、草いきれと土の匂《にお》いがした。
午後にも、川原近くの桜桃のかげにきて、一人沈黙して坐していた。息をしずめて坐っていた。絶ゆることのない水音、それが過去へ、遠い昔へと彼をいざなうようであった。
この川原の石はおおむね白味を帯びて水苔《みずごけ》も生えていなかった。川の流れは青く澄んでいるが、酸がまじっていて魚も住まず虫も卵を生みつけない。この水を田に引くと稲作に害があるため、いつの頃からか酢川と名づけられている。たまたま大水が出て酢川の水が近くの淡水の川にまじることがあった。するとその川に住んでいる魚族が群がり死ぬという現象が起った。村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだ。ところが徹吉の少年時代、何者かが深夜、故意に堤防を破って酢川の水を他の川に流入させるという事件がときたまあった。酸《す》い水がまじると、川の魚は真黒になるほど浮びあがって川下へと流される。それを梁《やな》で取れるだけ取って、あとはそ知らぬ顔をしているという一種の密漁である。これを村人たちは「酢川落《すかお》ち」と称していた。
酢川落ちが発見されると、村役場では人足を出して堤の修理をする。一方、村人たちは先を争って川へ出むいてゆき、弱りきっている魚を捕える。つまり余得にありつくのである。そのため法に触れるこの酢川落ちも、村人にとっては一種の楽しみといってもよく、一つの年中行事のようにもなっていた。徹吉も酢川落ちのときには息せき切って走った。そして、川岸にあぎとう小魚を夢中になって双手ですくいあげたものだ。
「徹吉、ずいぶん取ったなあ」と母が上機嫌《じょうきげん》で言った。
「まだまだ、なんぼでもいたっす」
その酢川は、今も徹吉の前に変らぬ水音を立てていた。徹吉はほの光るその川面を横に、黙して一人、足元の石を選びながら前かがみになって歩いた。あれから、少年時代から、ずいぶん長い年月が経ったような気もする。案外短い須《しゅ》臾《ゆ》の間のような気もする。しかし、彼に確実にわかっていることは、自分がいたく老い、疲れ、しぼり尽されたように空虚になっているという事実だけだった。
徹吉は頼りなげな目的もない散策を繰返しているうち、季節は移っていった。川原に多かった月見草はとうに姿を消し、禾《か》本《ほん》科《か》の雑草がはびこり、それもやがてうらぶれた色に変じた。
その間、龍子は一人で家を捜すため東京へ戻っていった。藍子と、暁部隊の動員を解除された周二とは、高松屋に世話になっていた。龍子の上京にははじめ徹吉は反対した。世の中は混乱しているし、焼野原になった東京で家など見つかる筈がない。第一食べるものにも困るだろう。しかし龍子は例によって我意を通し、即座にこの計画を実行した。なにより彼女にとっては、たとえ食物にまずまず不自由しないにせよ、都会を離れた田舎《いなか》の生活が堪えられなかったからである。
龍子には徹吉には見られない現世の実行力があるようだった。彼女は短時日のうちに、西荻窪《にしおぎくぼ》の駅の近くに小さな四間ばかりの家を見つけ、ほどもなく住居を得た藍子と周二も帰京することになった。それぞれ多からぬ荷物のほかに、五升ほどの米をひそかにかついで。
そして徹吉一人が、未《いま》だに鈴木治衛門の土蔵の中に日を送る身の上となった。徹吉は少なくともその冬をここに厄介になるつもりであった。世情は慌《あわただ》しく、騒然としていた。戦犯の逮捕がはじまった。天皇がマッカーサーを訪問された。治安維持法廃止、政治犯即時釈放、天皇制批判の自由、とGHQから矢継早の指令が出た。日本は占領されているのだった。大きな駅には浮浪者、戦災孤児が群れ、一夜明けると地下道にころがった彼らが、そのまま冷たくなっているのが発見されるという報道もあった。この冬には、大量の餓死者が出ることは間違いなかった。
徹吉には今は都会が怖ろしかった。少なくともここでは、よく炊《た》けた純米の飯と味噌《みそ》汁《しる》と新鮮な野菜には事欠かない。終戦直後の、進駐軍が婦女子に暴行をするとか掠奪《りゃくだつ》するとかいう村人の噂もまず嘘だということがわかった。理《り》窟《くつ》から考えてそんなことを米軍がやろうとは思えなかったが、それでもこれだけの戦争のあとだけに、村人たちの憂慮に徹吉は自信を持って応対できなかったものだ。先日、徹吉は進駐兵をはじめて見た。村の入口にジープが止っていて、二十歳をいくらも越えていなそうな三人の米兵が快活にしゃべりあって笑っていた。まるで外国人をはじめて見た男のように、徹吉はおどおどとその横を過ぎて歩き去った。
夜、ときどき彼は、わずかばかり残った書物、クレペリンの教科書などを繙《ひもと》いてみることもあった。しかし、すぐと大儀になって巻を閉じた。彼の荷物のなかにはいくらかのノートもあって、もとより総括的な仕事は望むべくもないが、ささやかな小論文を書こうとすればできないことはなかった。が、徹吉は一種うとましい気持でそれを見やり、ふたたびカバンの奥へ蔵《しま》いこんだ。なにより彼には、もはやなにかを為そうという気力がなくなっていた。それを支える体力もなかった。何もなかった。完全に何もなかった。少なくともそんなふうに思われた。
西欧の学者たちが定年となり隠退してからのちも、精力的に厖大《ぼうだい》な業績を残すという例を徹吉はよく承知していた。だが、そのような事実は今は彼への励ましとはならず、むしろよりいっそう彼の気をめいらせた。
意外に早く訪れた老年の生理が、彼の諦念の情に拍車をかけた。歩いてもすぐ息が切れた。頭は常にうっとうしく、どんよりとし、尿意がますます頻繁《ひんぱん》となった。この地方の他の多くの家と同様、徹吉の寄《き》寓《ぐう》している家でも便所は戸外に建てられている。夜中に間にあわなくて粗相をしてしまったことも一再にとどまらなかった。
稲刈が済み、田の中に落穂を拾う子供たちの姿も見当らなくなった。夜はめっきりと冷えた。土蔵のなかに一人寝ていると、柿の落葉が軒に当るかすかなひびきまで聞えてきた。そういう夜、徹吉はなかなか寝つかれず、東京で生活を始めた家族たちのことを思った。龍子の便りによると――進駐軍の検閲のため手紙の下部がセロファンで封がしてあった――地方にいては想像もつかない生活費が入要なようであった。もっとも着のみ着のままで焼けだされたのだから、それも無理はないのかも知れなかった。しかし、その莫大《ばくだい》な金額は彼を不安にし、ほとんどおびえさせた。有体にいって、徹吉は松原の病院を売った分前も受けていてかなりの金持ではあったのだが。
決して無駄使いをしないように、と書いてやると、折返して龍子から返事がきた。無駄使いとはとんでもない。自分らには戦災者用配給の毛布を除き蒲団一枚なかったのだ。私が箱根の山荘から運んできたり、知人に無理を言ってどうにか工面をつけているのだ。昨日も自分は峻一の居場所を確かめるために、ボロボロのパン一枚を齧《かじ》っただけで、一日じゅう復員局から何から駈《か》けずりまわったのだ。そしてその挙《あげ》句《く》、峻一についてはなんらの情報も得られはしなかったのだ。のんきな田舎で、無駄使いなどと考えて貰っては困る。
徹吉は叱責《しっせき》を受けた児童のようにしょぼしょぼと目を伏せ、龍子の手紙を畳みながら、軒先に落ちてくる柿の落葉の音を聞いた。
このうえなく晴れ渡った或る日の午後、徹吉は日課となっているあてのない散策に出た。古びた黒の背広を着、地下足袋をはき、杖をつきながら。
村道に出て少しゆくと、大層な勢いで走ってくるジープに出会った。山形市にいる米兵なのであろう。後方に砂《さ》塵《じん》を濛々《もうもう》と立てているものだから、徹吉は慌《あわ》てて道端に退避し、よろけてすんでのところで溝《みぞ》に落ちそうになった。その瞬間、彼は米兵がひどく憎らしかった。日清《にっしん》、日露の戦役とわが国は勝ち進んできたのに、ついに奴《やつ》らに負けたのかと思った。それは徹吉が見せた実に久方ぶりのわずかな気のたかぶりであった。
それから徹吉は杖をとり直して、少しく村道を辿《たど》り、右手に折れてだらだら坂を登っていった。蔵王の湯所《ゆどころ》のひとつである高《たか》湯《ゆ》へ通ずる道である。
秋だった。晩秋であった。さながら丸みを帯びたような柔らかな日ざしが、さまざまに色を変えた山林にそそいでいた。すがれた下草では虫が鳴いていた。よろよろと生気のないバッタが道の上に這《は》いだしてきたりした。
木々は美しく紅葉しているのもある。黄金色に日を照りかえしているのもある。微妙な淡い茶色、あるいは渋い茶色と変じかけているのもある。その中にまじって、常緑樹の濃い緑が、どこか沈んだ対照を見せている。
一本の漆がひときわ赤く紅葉していた。徹吉はそのわきで足をとめ、息をつき、少年時に見慣れた赤い葉を見つめた。すると古い追憶が忽然《こつぜん》と泉のように蘇《よみがえ》ってき、彼をほとんどうろたえさせた。
徹吉が小学校の生徒だったころ、児童たちを威圧していた年長の童子がいた。他の児童たちを引具して山の中を恣《ほしいまま》に遊びまわるのである。ある春の日、彼は徹吉たちを連れて大きな漆の木の前に立った。小さな芽が枝の先端から萌《も》えかかっている。彼はその芽をつみとると、一同を居並ぶように言いつけ、それぞれ腕をまくらした。そして芽のつみ口から出る白い汁で、前膊《ぜんはく》の内側のところに、女陰と男根の像とを描いた。もとよりごく単純化されたたわいもない絵である。描いて貰うと、児童らはなにか嬉《うれ》しい気がして、声をあげて笑った。徹吉も笑った。次の日みんなが腕の絵を見せあうと、漆の汁のついた跡だけ黒い模様となって乾いている。ところが徹吉のだけはそうではなかった。赤くなって少し腫《は》れあがっている。時と共に、そこがかゆくなり、痛味も加わって、ついに小さな女陰と男根図から汁が滲みだした。徹吉はこれを父母に打明けることができなかった。なにより少年にとっては揺がしがたい罪悪感を覚えたからである。沢蟹《さわがに》をつぶしてつけると癒《なお》るという者がいた。そこで徹吉は沢から小さな蟹を捕えてきて、その臓《ぞう》腑《ふ》を化《か》膿《のう》しかかっている傷口になすりつけた。しかしなかなか治癒《ちゆ》しない。いったん痂《かさぶた》ができて、癒るかと思うと、その下の傷口は尚《なお》ふかく膿《う》んでゆくようである。およそ一月余、このことで徹吉はひどく悩んだ。とうとう傷を母に見つけられ、その成行きを白状させられた。母は彼を父のところへ連れていった。叱るかと思っていた父は大声で笑い、どろどろした油薬をつけてくれた。傷口はほどもなく癒り、徹吉は更《あらた》めて父に畏《い》怖《ふ》に近い尊敬の情を覚えたものであった。
あの傷は瘢痕《はんこん》となって、たしか高等学校に入るころまで残っていた筈だった。そして、いま、年老いた徹吉は、路傍にたったまま、だしぬけに上着の袖をずらして前膊の内側を凝視してみた。もとよりかすかな跡さえ残ってはいなかった。
徹吉は戸惑いした気恥ずかしいような気で、思わず周囲を窺《うかが》った。木々の諸《もろ》葉《は》だけが午後の陽《ひ》ざしに照り映えていた。
徹吉はまた歩を運びだした。道の土のうえにときどき炭がこぼれている。上方の炭焼小屋から運ぶ途中にこぼれたものであろう。
道が急になったので、徹吉は何遍も息をつぎ、とうとう道端の松の根元へ腰をおろした。足元から黒い蟋蟀《こおろぎ》が幾つも逃げた。歩いてきたためと、日ざしが強いため、いくらか肌に汗をかいていた。
そこは小高くなっていて、下方を見ると視界の半分は樹にさえぎられていたが、あとの半分は稲刈も終ってがらんとした村里が眺め渡せた。小さな藁《わら》ぶきの家々、宝水寺をかこむ杉の木立、沈んだ色合の田畑、ほの光る一筋の川、玩具のような鉄道線路、その向うのやはり黄褐色《おうかっしょく》に変じた丘陵、――彼の故郷のごく平凡な、しかし今は、胸に迫る風景である。
おれはこの土地から笈《きゅう》を負って出ていって、遠い東京へ、本郷にあった養父の楡医院へ行ったのだったな、と徹吉は思った。すべてがなんと古く、なんと夢のようであることか。そういえば、実父に連れられて上京する折、苦労をして関山峠を越えていったものだが、その夢をミュンヘンの下宿のベッドで見たこともあった。そう、作並《さくなみ》温泉に着く前、騎兵隊の演習に出会ったものだ。兵卒は黄の肋骨《ろっこつ》のついた軍服でズボンには黄の筋がはいっており、士官は胸に黒い肋骨のある軍服で赤い筋のはいったズボンをはいている。一隊が広瀬川の岸に散開して鉄砲を射った。それから抜剣し橋を渡って突撃した。徹吉はそういう光景を見るのが初めてだったから、しばし足の疲労も忘れた。
そういえば、浅草の観世音境内には、日清戦争の平壌《へいじょう》戦のパノラマがあって、彼もわくわくして見物したものだ。師団司令部の将校たちの立っている向うには火煙が天を焦がしていて、その煙がむくむくと動いているように見えたものである。境内には、そのほか砂がき婆さんと呼ばれる老婆もいた。五、六種の色のついた砂の袋を持っていて、見物人のまえで、祐天和尚《ゆうてんおしょう》だの、安珍清姫《あんちんきよひめ》だの、観世音|霊験《れいげん》記《き》だのを、物語をしながら巧みに砂で絵を描いてゆく。白狐《びゃっこ》などは白い砂で尾の辺《あた》りから描いて、赤い舌をちょっとちらし、最後に黒い砂で目をつける。……だがすべてがなんと古く、なんと夢のように霞《かす》んでいることか。無理もない、鉄道馬車がはじめて通りだした頃のことではないか。その鉄道馬車にしても、郷里で見た開化絵を実際に目《ま》のあたり見る心持がした。そうした東京に比べ、彼の郷里はなんと草深く見すぼらしく思いだされたことか。
あの頃は、彼がひとこと口を開くたびに真似《まね》をして笑う東京の中学生たちに対し、奴らに負けてなるものかと子供心にも気負って勉強したものだ。「愚生事も四月の学年試験も相終り成績は非常に悪《あ》しく有之《これあり》何とも申訳も無之次第に御座候《ござさふらふ》。受験者二百人程にて十一号にて有之候。最初は二号其次は四号|此度《このたび》は十一号|嗚呼《ああ》何ぞ愚痴の甚《はなは》だしきや神明も為《ため》に怒るらむ、然《さ》れども亦《また》何ぞ志をひるますに足らむと存じ居り申候」そんな手紙を日露戦争で死んだ兄に出したこともある。そして楡医院の診療室から見る医術というものは、一生を捧げて悔いないものに映じたことも確かであった。「これはねえあなた、ぼくの発明した器械で、日本に一つきりない。自分で言うのもなんだが、ぼくは名医、オーソリティなんですからな。ここにいらしたのは実際運がよかった」調子のよい養父基一郎の自慢話も、徹吉の耳には決して奇異にはひびかなかった。そういえば、徹吉が一高、帝大に入学できたたびに養父はよく言ったものだ。「徹吉、おまえは偉い。ひとつ金時計をくれてやろう」――そして松の根元に坐っている老いた徹吉は、あの調子のよい養父の言葉が、まざまざと、すぐ近くで、すぐ耳元で聞えたような気がした。
いま徹吉は――その当時こそ一度も貰うことをしなかったけれど――金時計をチョッキのポケットに入れていた。基一郎が死んだとき遺品として貰い受けたものである。鎖つきのその懐中時計を引きだし、ぴちりと音を立てて蓋《ふた》をあける。時刻は四時をいくらか廻ったところだった。徹吉はそのまま、懐中時計の長い秒針がこちこちと廻ってゆくのをしばらくのあいだ見つめていた。
秒が分となり、その分がやがては時となり一日となってゆくのだろう。こうしてみると、時間の経つのはそれほど早くはない筈だのに、しかし刻《とき》は、実際にはなんと早く流れるものであろう。それもすべてのものをこれほどまでに空虚におし流して。
突然、おれの生涯はもう終った、という意識が強く襲ってきて、徹吉は頭が胸につくほどうつむいた。故国は徹底的に戦いに破れ、わずかにこの自然が残っている。そして老いさらばえた自分の人生ももう終りといってよい。
気負って、心たかぶって、精根を傾け勉強をした自分はどこへ行ったのか? 両拳をわなわなと震わせて、講堂から去ってゆくエミール・クレペリンの後ろ姿を睨《にら》みつけた自分はどこへ行ったのか? 更に幾千という夜な夜な、小さな蟻《あり》が巣穴を形造るように、営々として『精神医学史』の稿をついだ自分は?
太陽が移動をして、徹吉の坐っている場所は蔭になり、彼はかすかな寒気を覚えた。しかし彼はその姿勢を動かさなかった。
『精神医学史』――あれは血肉をわけた自分の子供ではある。なんらかの自負があの書物と共に自分にはつきまとっていたものだ。しかし、今、自分は多くの犠牲をはらって生みおとしたその書物を誇ろうとは思わない。愛してはいるが、誇ろうとは思わない。あれは果して自分の子であろうか? あれは多くの学者たちの産物で、たまたま自分がそれを育てたにすぎない。自分がやらずとも、いずれは誰かがやったことであろう。それにしても、感情的にいわせてもらえば、あの本はやっぱりわが子のようなものだ。
わが子? 峻一、藍子、周二よ、と徹吉は思った。自分はおまえ達にとってよい父親ではなかった。何もかまってやれず、むしろお前たちを不幸に陥れた。だが、これがわかって貰えるだろうか? 決してお前たちを愛さなかったというのではない。だが、何かが、自分の生れつきが、性格が、なにか諸々《もろもろ》のものが、ある宿命のようなものが、物事をこのように運んでいったのだ。だが、弁解はすまい。自分はたしかに冷たい父親であった。世間のよき父親ではなかった。そのように何者かが自分を動かしていったのだ。そうして、そのままに今、その生涯が過ぎようとしているのだ。
愚かであった、と徹吉は思った。自分は、――自分の一生は一言でいえば愚かにもむなしいものではなかったか。あれだけあくせくと無駄な勉強をし、そのくせわずかの批判精神もなく、馬車馬のようにこの短からぬ歳月を送ってきたにすぎないのではないか。いや、愚かなのはなにも自分一人ではない。賢い人間がこの世にどれだけいるというのか。自分の周囲、少なくとも楡病院に暮していた人々は、有体にいえばすべて愚かであった。誰も彼もが愚かであった。だが愚かなら愚かなりに、もっと別の生き方もできはしなかったか? 少しは妻ともなごみ、子供たちをも慈《いつくし》み、せめて今の意識をもう少し早く持つことができたら! それにしても、自分はなんと奥底まで疲れ、気弱になってしまったことだろう。
誰かここに人がいて、それでもお前はお前なりによくやったと言ってくれぬものか? 数えきれぬ不慣れな難事に悩まされながら、自分はともかく病院を再建した。一方では、一開業医の身であって、こつこつと資料を蒐《あつ》め、夜も寝ずに読み、整理し、纒《まと》めていった。その病院は今は灰となり、生涯の最後の仕事と思っていた資料は焼失してしまったが。だが、それは個人の力の及ばないことだ。とにもかくにも、自分は自分なりに励んできた、働いてきた。それをも愚かなことといって悔いねばならぬのか。たとえ調子のよい養父の基一郎でもいい。ここに出てきて、ひとことこう言ってくれぬものか――「徹吉、お前はよくやった。もう一つ金時計をくれてやろう」
そんなことが起らぬことを徹吉は知っていた。
日が斜光になり、急速に辺りの気温が下ってゆくようだった。まだ木々の梢は、一日の最後の暖かそうな日を受けて諸葉を輝かしていたが。
晩秋の山の静寂。そしてなんと親しみぶかい、しみじみとする、いくら見ても飽かぬ色合だろう、と徹吉はその黄葉紅葉を見やりながら思った。欧洲の秋にはこのような紅葉はない。これは日本のものだ。わが故国のものだ。そういえば自分は、遥々《はるばる》とヨーロッパくんだりまで勉強に行ったものだった。すべてが夢のような気がする。敗戦後のドイツで、他の留学生たちが贅沢《ぜいたく》をしている中で、労働者にまじって塩水のようなスープをすすり、皮革のような肉を食べ、浮いた金で書物を購《あがな》ったものだ。そう、古い鈍《にび》いろの寺院に鴉《からす》が群れているのを長いことひとりで眺めていたこともあった。それから、一面に粗《あら》い布でも擦《す》るように一種きびしい音を立てて流れている凍りかけたドナウの川面……。夢だ。すべてが夢だ。ただ確実なのは、自分がここにこうして、生涯の終りに故郷の山村に戻ってきて、この松の根元に腰を下ろしているということだけだ。
なんという親しみぶかい紅葉した山林。だがやがて冬がくる。ある朝、雪が蔵《ざ》王《おう》の山頂近くをはだらに彩《いろど》っているのが見える。その白いものはだんだんと近寄ってくる。そしてついにある日、里にもそれは降ってくる。この山村一帯はいずれはふかぶかと雪におおわれ、子供心にも厳《きび》しかった長い冬が訪れるのだ。
雪。あの白い輝き。あの非情にひややかに地上をおおうもの。子供のころ彼は、見渡すかぎりの雪原にある畏怖を抱いていた。雪の深い朝は学校へ通うのが難儀で、腰まで没するということも稀《まれ》ではなかった。だから春になって、道の片隅に乾いたところが見えだすときは嬉しかった。そういう土の乾いたところを、子供らは「草《ぞう》履《り》道《みち》」と呼んでいた。草履で歩けるというほどの意味だったろう。
風もないのに梢からひらひらと葉が落ちる。そして徹吉は寒気を覚えた。さっきからしきりと寒気を覚えていた。そろそろ帰らねばなるまい。
身体《からだ》を起そうとすると、足元で乾反《ひそ》った落葉が意外に高い音を立てた。同時に彼は気がついた。左足の自由が利《き》かないのである。手をやろうとすると、左手もぶらりとさがったようにこれまた自由が利かない。咄《とっ》嗟《さ》に徹吉は医師としての知識を思いだした。とりあえず、能《あと》うかぎりそっとその場に横になった。落葉が頬《ほお》を刺すがそんなことにかまっていられない。意識は清澄なようである。
――これはパレーゼだな。左半身の不全|麻痺《まひ》だな。溢血《いっけつ》ではないだろう。おそらくちょっとした血栓《けっせん》か、脳血管の攣縮《れんしゅく》というところだろう。
奇妙に客観的な気持で、徹吉はそんなことを考えた。
――このままで落着くかもしれないな。もっと大きな発作が起らぬかぎり大丈夫だ。そうあって欲しい。
じっと横たわって、徹吉は目の前のうらぶれかかった下草と土とを眺めた。突然、だしぬけに、恐怖が背筋を伝わってきた。人生を諦《あきら》めきっていた身には矛盾する、躯《み》が震えるほどの恐怖である。身体が、殊《こと》に左半身がしきりと寒い。死にたくない、と突きつめてそう思う。
と、それまで怕《こわ》いほど清澄であった意識が、ぼんやりと濁りはじめた。次第に目が霞《かす》んでゆくようである。茶褐色の、黄色の、黒ずむまでに赤い木の葉が見える。それが段々と白ずんでゆくようである。ふと、片側に真白な視野が見えた。
――雪か。
これは幻覚だなと思う。しかし、その白いものは拡がっていった。目をつむり、目を開くと、一面に真白な世界であった。純白に柔らかな輝きを帯び、このうえなく清浄に、このうえなく渺茫《びょうぼう》と氾濫《はんらん》するように、それは拡がっていった。非常な静けさと、自分の動《どう》悸《き》の音がした。と、そんなときにも、思いがけぬ追憶がきた。冬のさ中、十五歳になって村の若者たちの仲間入りをした兄が、鮭《さけ》の頭にハッパを仕掛けて狐《きつね》をとったときのことである。徹吉もふかぶかと降りつむ雪のなかを兄についていった。雪の上に点々と手負いの狐のたらした血が滴《したた》っている。それは鮮《あざ》やかに、点々と、木立の間を縫って、長く長くつづいている。いま、意識もぼやけてきた徹吉は、その血痕の跡をどこまでもつけていこうと思った……。
ふいに、もっと朦朧《もうろう》とし、どんよりとした波のようなものが押しよせ、徹吉のかすかな意識をもどこかへさらっていった。
三十分後、通りかかった村人が、松の根方に倒れている徹吉を発見した。抱き起してみると、かすかに口をきき、まだ脈は確かなようであった。
第十章
終戦から三カ月近く経《た》って、曇り空のある肌寒い日、桃子はビロードの道行のコートを着て――戦争中はそんなものを着るどころではなかったが――青山の病院の焼跡に立った。上海《シャンハイ》から帰国して信州に籠《こも》って以来、それがはじめての上京であった。
あれから、楡家に関係するものには近寄らないと夫に言明してからほどもなく、桃子はとうとう堪《こら》えきれなくなって、青雲堂のおばさんに手紙を出した。戦争の影響でそう頻繁《ひんぱん》な文通というわけにはいかなかったが、とにかく桃子は、自分が置いていった子の聡《さとる》が結核で死んだこと、下田の婆やもやはり死んでしまったこと、米国《よねくに》や峻一《しゅんいち》の出征、それから青山の病院も松原の病院も五月二十五日の空襲で焼けたこと、などをすでに承知していた。もちろん青雲堂の店も焼け、とりあえず金沢清作の家のある近く、青山墓地との間の谷間に引越した模様であった。おじさんの字で、おばさんのおうめさんが目を悪くして医者に通っていると便りのあったのは終戦直前であった。その後ずっと便りはなかった。
今度の桃子の上京も突然のことだった。商用で上京する夫について東京へ行ってみようと、その間《ま》際《ぎわ》になって急に決心したのである。浅草の日輪寺に埋められている聡の墓に詣《もう》でるつもりだったが、そのまえに青雲堂のおばさん達を訪ねて、つもる話をしたかった。ついでに、青山の焼跡も一目見ておきたかった。なんといっても桃子はその土地で生れ、育ち、長い懐《なつ》かしい日を送ったのにちがいなかったから。
しかし、青山通りには、彼女の懐旧の情をそそるものは何ひとつなかった。なにもかもが徹底的に焼き払われていた。闇市の露店も見えず、あるものはトタン板を集めた見るも哀れなバラック小屋ばかりであった。人の行き来もごく少なかった。記憶に残る形態がすっかり消失していて、むかし通い慣れた、青雲堂の店のあった小路への入口がはじめ見つからなかったほどだ。角にあった増田屋という蕎麦屋《そばや》ももとより影も形もなく、一面に平《へい》坦《たん》な焼跡ばかりで、もともと細かった小路はこんなにも狭かったのかと思われた。
青南小学校のコンクリート建ての建物だけは残っていた。すっかり煤《すす》け、窓も破れはてたまま。ところどころの窓には板が打ちつけてあった。あそこの家、ここの屋敷と、名を知っている家々の塀《ヘい》だけがつづいていた。土蔵が一つだけ、ぽつんと建っている焼跡もあった。
楡病院を見渡す角に立ったとき、くすんだ煉瓦塀がそれでもまだ残っているのを見て、桃子の胸はひどく緊《し》めつけられた。それにしても、それはあまりにも燻《くす》んで古びて、低い塀であった。むかしはけっこう堂々と見えたものだったのに。
塀のなかには何もなかった。他の焼跡と同様であった。ただ病院の玄関が半分|崩《くず》れかけて残っているのが見え、桃子はそちらへ近づいていった。すると、鉄筋のガレージだけが原形を留めていて、そのクリーム色に塗られた鉄の扉に大きくなにかが書かれていた。
消えかかった、木炭か何かで書いた文字のようであった。
「楡、全員無事、金沢清作方ニ転進ス」
どうやらそう読みとれた。その横に住所も記してあった。
罹《り》災《さい》したあとに、誰かが書きつけたものであろう。それにしてもこれは誰の字だろう。
そのとき、ガレージの中で、何かが動く物音がした。扉の一番端が開いている。そしてそこから、だしぬけに、うす汚《よご》れた男の顔が覗《のぞ》いた。
それはぼろぼろの国民服のようなものをまとった、髭《ひげ》も髪もぼうぼうのむさくるしい五十がらみの男だった。いかにも猜《さい》疑《ぎ》ぶかい、睨《にら》みつけるような目つきで男は桃子をじろじろと見た。
桃子は思わず一歩下った。それから、誰か病院の関係者が住んでいるのかしらんと思った。それにしてもあまりに穢《きた》ならしいうろんな男だ。
「なにか用かね?」
男が詰問するように言った。
桃子はいささかむっとし、どもりながら言った。
「あたしは、ここの家の……楡の親類の者です」
「ふん」
と、男はまたしばらくの間、桃子の顔を様子を眺め廻した。
「ここの家の者か。だが言っておくがね、俺はここを立ちのかんよ。ずうっと俺が住んでたんだからな」
「あたしは何も……ただ焼跡を見にきただけですよ。あなたはどなたです?」
「誰だっていいじゃないか。ここに住んでる者だよ。いいか、ここは俺の住居だからな」
男はもう一度疑いぶかそうに桃子を睨みつけた。それからガレージの奥へ引っこんだ。
桃子はひどく侮辱されたような気がした。現在の自分には関係のないことではあるが、この正体のわからぬ男の態度、そのものの言い方が無性に腹立たしかった。なにより彼女は自分の感傷を――思い出のありあまる青山の土地を久方ぶりに訪れて複雑におし寄せてきた感情の波立ちを、ひどくぶしつけなやり方で壊《こわ》されたのが腹立たしかった。
彼女は足早に、楡病院の焼跡から遠ざかろうとした。事実、むしゃくしゃしながら二十歩ほど歩いた。それから彼女の足はためらいがちになり、ついには立止って、元きたほうへ引返しはじめた。もうおいそれとそうそうこの土地へ来ることもないであろう。
――それにしても、なんて無礼な男だろう。あんな男をのさばらしておいちゃあいけないわ、と桃子はまるで自分の家に侵入されたかのようにまだ憤慨していた。だが、こうも思った。きっとこれが今の東京の姿なのかも知れないわ。まだのんびりした田舎《いなか》にいてはわからないけど、東京の生活はなにもかもずっと大変なことに違いない。それにしても無礼な、なんて人を人とも思わない男なんだろう。
それから、二度とガレージには近寄らぬことにして、病院の裏手を一まわり歩いてみた。
昭和になってできた病院の姿はおぼろにしか浮びあがらず、昔の、七つの塔と円柱の林立した病院のおもかげばかりが立ち帰ってきた。
――そう、ここいらがたしか昔の賄《まかな》いだった。伊助|爺《じい》さんが猫背姿で歩いていたものだった。そして、むこうにラジウム風呂と長屋があって……。あのころはあたしは毬《まり》つきばかりしていたものだ。毬つきでは誰にも負けないと威張っていたものだっけ。
桃子の頭の隅を、なにがなしその毬つき唄がよぎっていった。
むこう横町のお稲荷《いなり》さんへ
一銭あげて
ざっと拝んで おせんの茶屋へ
腰をかけたら渋茶をだして
渋茶よくよく……
あとの部分がふいと出てこなくなった。どうしたのだろう、あれほど呼吸をするようによく歌っていたものだったのに。それにあたしは記憶力はわるくないはずだのに……。あたしもいよいよおばあさんになってきたのかしら。
空はまるで今にも雪でも来そうな気配に曇り、ひときわ肌寒く、土台石がむなしく残っているばかりの焼跡に、いくら立っていても仕方がなかった。彼女はぐるりと裏手をまわって、元の私宅の門のところから、がらんとした道路へ出た。
門を――煉瓦塀の間の空間にすぎなかったが――通るとき、桃子は思った。
――あたしは今、こうやって、楡の家の門を通っている。二度とくぐるまいと思っていた門を、とにかくはいって出たわけだ。といっても、それは誰もいないからなのだ。単に家が焼けて、本当ならあたしを迎えてくれるはずのない住人がどこかへ行ってしまった、ただそれだけのせいなのだ。あたしがこうしてまだ生きていることなんか、誰も考えてもくれまい。
そして彼女は、青雲堂への土産《みやげ》に持参した信州蕎麦のはいった風呂敷包みをかかえ直して、かつての自分の家の焼跡をあとにした。元ノ原の横を通る。そこにもなにか大きな建物の焼跡があった。してみると、自分の知らない間に、この原にも建物が建ったのであろう。
元ノ原。ここではあの赤褌《あかふんどし》さんと何回か待ちあわせをしたものだ。好ましい青年だった、あの人は。そしてあたしはなんとおぼこな娘だったことだろう。活動写真の話ばっかりして。
ますます空が心細く暗みを増し、桃子は足を急がした。
十分後、彼女は青山で唯一の焼け残りの地帯と思われる、谷あいにごみごみと密集した家並の前にいた。番地を頼りに捜すと、じきに同番地の細井という家が見つかった。老朽の長屋風の建物で、前の溝《どぶ》に汚水が淀《よど》んでいた。
桃子は声をかけてみた。
「高田さんというお宅はありませんか?」
髪のほつれた、ぎすぎすした感じのかみさんが顔を出して、面倒臭げに言った。
「隣ですよ」
その平べったい壊れかけた家屋は途中で仕切られていて、すぐ横手にもう一つ格《こう》子戸《しど》があった。見ると、柱に「高田万作」と青雲堂のおじさんの名前が出ていた。
格子戸に手をかけたとき、桃子の胸はさすがにときめいた。楡家に関係した人たちの中で、今は自分を迎えてくれる唯一の存在となったこの夫婦を尋ねるのも、実に七年ぶりのことなのだ。留守でなければいい。
戸ははじめ鍵《かぎ》がかかっているのではないかと思われた。が、それは単に立てつけが悪いのだとわかった。ようやく桃子はそれを身体がはいるくらいにあけ、
「ごめんください」と声をかけるかかけないうちに、「どなた?」という低いかすれた声が聞えた。
土間はほとんどなく、すぐ四畳半の部屋になっている。左手が狭い台所らしい。声は奥の障子ごしに聞えた。そこにもう一間あるのであろう。
桃子は返事をしなかった。おばさんが障子を開き、「まあ、桃子さまじゃありませんか!」と言って駈《か》け寄ってくるのを期待した。そしてその瞬間、桃子の脳裏には、いつぞや、ずっと古いむかし、自分が青雲堂の店先から奪うように持ってきてしまった鉛筆削り、十個もの兎《うさぎ》の形をした消しゴムの形態がまざまざと浮んできた。
障子があいた。小さな老婆が姿を現わした。それはおうめさん、青雲堂のおばさんに違いなかった。だが、彼女の両瞼《りょうまぶた》はほとんど閉ざされていた。その間からかすかににぶく白いものが覗《のぞ》いている。
「どなたです? 主人はいま留守で……」
彼女は少し仰むくようにして、両手を前にだして、わずかこちらに進んだ。
桃子は愕然《がくぜん》として気がついた。おばさんは盲なのだ。目が悪いとは聞いていたが、しばらく文通を怠っていたうちに本当の盲目になってしまっているのだ。もう一度、相手は言った。
「どなたです?」
とうとう桃子は声に出した。
「おうめさん! 桃子です。あたし、桃子です」
「桃子さま? 桃子さま? ……本当に桃さまですか?」
小さな老婆は両手を前に差しだし、泳ぐようにしてこちらに進んできた。桃子はとっさに下駄をぬぎ、畳の上にとびあがった。小さな頼りない身体を支えた。風呂敷包みが音を立てて足元に落ちた。
老婆は見えない目を上向けて桃子をまさぐった。小さな、かさかさしなびた手が、桃子の髪を、額を、頬を、鼻を、口をまさぐった。
「おお、本当に桃子さまですね。……あたしゃこんなになっちゃって……にわか盲で何もわからないのですよ。……ああ、桃さまだ、本当に桃さまですね」
「おうめさん!」
桃子はそれ以上しばらく口をきくことができなかった……。
ちょうど偶然、それと同じ時分、正確には桃子が青雲堂の老夫婦を尋ねたその日の夜に、西荻窪の龍子たちの住居にも思いがけぬ訪客があった。
半月まえ、徹吉が倒れたという報に龍子はすぐ山形へ発《た》ち、五日まえに戻ってきていたが、さすがに浮かぬ顔つきをしていた。徹吉は生命をとりとめた。しかし左半身の麻痺が著明で、当分は絶対安静が必要と言われた。そうなれば鈴木家の好意を受けて、なお当分その世話を受けるより方法がなかった。山形市から苦労して看護婦を頼んでつけることにし、とりあえず龍子は帰京したのである。甚《はなは》だしく旅行の難儀な時代で、切符を入手するには半日以上行列しなければならず、その汽車にも窓から辛うじて乗りこんで立ち詰という旅をしなければならなかった。珍しく帰京後、龍子は日中から寝こんだりした。藍子を枕元に呼び、「あたしも長いことないかも知れませんからね……」などと大げさなことを言ったが、それは結局病気というよりも疲労の蓄積にすぎず、その日は元気に松沢病院内の社宅にいる欧洲を訪ね、秩父の疎開先から戻っている母親のひさから、ようやくのことでシーツを三枚貰ってきていた。
夜の十時を過ぎた時刻であった。龍子は早くから床に就いた。彼女はさきほど、あまり受験勉強をしているようにも見受けられない周二を叱《しか》り、ひとしきり小言を言っていたが、このところふてくされたような周二が反抗的な言辞を弄《ろう》したことから、たいそう不機《ふき》嫌《げん》に、「いいですか、お父様も御病気だし、あたしももう長いことないんですからね」と捨《すて》台詞《ぜりふ》のように言って自分だけ先に寝てしまった。藍子もやることがなかった。そろそろ戸《と》閉《じま》りをして床に入ろうかと思った。
そのとき表の格子戸のあく音がした。錠を閉め忘れていたのだ。昨今はぶっそうだから、日が暮れたら錠をさすようにと常々龍子が言っていたのに。それにしても今時分誰であろう。
藍子は形ばかりの玄関へ出た。
表についている薄暗い電燈の光の影になって、なんだかたいそう肥満した軍服姿の男が、叩《たた》きの上にどさりと大型のトランクを置いたところだった。
藍子は玄関のスイッチを入れながら、ふりかえって男を見た。ぼろぼろの軍服がはちきれそうになっている太い胴体、その頬はふくれあがってだらりとたれるばかりになっている。瞼《まぶた》もふくれて眠そうな細い目をしている。その男がこう言った。
「藍子」
同時に、藍子も茫然《ぼうぜん》として呟《つぶや》いていた。
「お兄さま?」
そのままへなへなと彼女は玄関の板の間の上に坐りこんでしまった。
事実、それは峻一だったのである。あのひょろひょろと痩《や》せた峻一とはまるきり別人のように、顔も手も胴体も常ならず、不気味なくらいふくれあがっていたが、それでもやはり峻一にはちがいなかった。それにしても、それは造化の神のやった残酷な悪戯《いたずら》としか思われなかった。あきらかに健康な肥り方ではなく、その水ぶくれしたような茫漠《ぼうばく》としまりのない顔立ちは、滑稽《こっけい》なようでいてどこか悲劇的な相をも呈していた。
餓死寸前になっていたウエーク島の守備隊は、八月十六日正式に降服をした。九月二日、米軍は上陸してきた。捕虜になった日本軍には彼らの豊富な食糧が与えられた。なかんずく軍医であり将校である峻一はふんだんに濃厚な食物を食べることができた。こうして二カ月、栄養失調でひとしきりひょろひょろに痩《や》せこけていた峻一が、ふしぎな生理作用によって、こんなふうに化物じみて不健康にふくれた体《たい》躯《く》、ぶざまな滑稽な顔だちになってしまったのだ。峻一はその日浦賀に復員し、その足で大きなトランクをかついで青山の焼跡へ行った。次に金沢清作の家へ行き、この西荻窪の家を教えられ、そのまま即座にとって返して、くたくたになりながらも、やっとここまで辿《たど》りついたところだった。ただならず肥満した兄は、精も根も尽きはてたというように吐息をつきながら、玄関の板の間に、にぶい重そうな音響を立てて腰をおろした。靴をぬごうとかがみかけて、もう一度吐息をつき、うしろをふりかえった。
「みんな元気か? ……藍子、その顔はどうしたのだ? 怪我をしたか?」
まったく予期せぬときに、幽霊のように現われた、死んだとばかり思っていた兄のその言葉を聞いた瞬間、長いことじっと堪え忍んできた藍子の心のどこかが、ぷつりと切れた。不幸な火傷《やけど》を負って以来、――その当座こそ痛みと絶望に泣きもしたものの、傷が醜い瘢《はん》痕《こん》となって治癒《ちゆ》して以来、彼女は誰にも泣き顔ひとつみせないできたのだった。それが思いがけぬ兄の生還と、そのひとことの言葉によって、心のどこかが破れた。片側は沈んだ顔立ちながら端整な、しかしその片側には目を惹《ひ》く大きな瘢痕のある彼女の顔はみじめにゆがんだ。彼女はそのまま化物のように肥った兄の背に身を投げかけた。そして、堪えかねた、長く尾をひく嗚《お》咽《えつ》がその口から激しく洩《も》れた。
そのとき、左方の戸口から周二が現われた。最初の一瞬、彼もそこにいる並外れてふくれあがった男を、兄とは判じかねた様子だった。だが、彼もまた茫然として口の中で呟いた。
「お兄さん、生きていたの?」
終戦からこの方、周二はまた以前の覇気《はき》のない顔立ちに、更に投げやりになったような顔つきに戻っていた。その陰気臭い顔には、やはり瞬間、ぱっと喜悦のようなものが拡がった。それは更に拡がり、少なからず度外れした顔面の筋肉の歪《ゆが》みとなった。その口からは、こんな文句がとびでてきた。
「またずいぶん肥ったね。……またなんて……どうしてそんなにぶくぶく肥ったの?」
そして彼は、突っ立ったまま笑いだした。神経的な、耳ざわりな、ヒステリックな笑い声であった。
狭い玄関に、周二の常軌を逸した笑い声と、藍子のしゃくりあげる嗚咽とがしばらく入りまじった。
*
年が暮れ、年が明けた。疲弊し、困憊《こんぱい》した年が。ひと月ふた月と経ち、そしてまたかなりの日数が経った。疲弊し、混乱した日々が。
それでも季節だけはめぐってきた。なぜとなく罪ぶかいとまで感じられるやわらかな陽光が空からさし、ここ西荻窪の駅に立っていても、ちょうど停車した電車――あちこちの窓には硝子《ガラス》がなく板がはりつけてあった――の上を、一匹のモンシロチョウがひらひらと舞っていった。その軽やかな姿だけが世相からかけ離れている感じだった。事実、満員の電車の扉から吐きだされる群衆は薄汚《うすぎた》なくむさくるしかった。おびただしい群衆、――前年の暮には渋沢蔵相が来春の餓死者一千万と推定し、またこの正月には「日本経済極度に逼迫《ひっぱく》、食糧三百万トン不足」と総司令部が日本占領報告書を発表したものだが、それにしても、まだこれほど多くの人々が生き残っているのかと感じられるくらいの雑沓《ざっとう》であった。
駅がとりわけ混雑している理由はまだほかにあった。発疹《はっしん》チフスの蔓延《まんえん》を防止するためのDDT撒《さん》布《ぷ》班が駅の乗降口に待ちかまえていたからである。人々は強制的に白い粉末を撒布器からふりまかれた。首すじへ、袖口《そでぐち》へ、更に胸元へ、――和服姿の婦人も否応がなかった。粉がとびちり、人々のただでさえ汚れた衣服にこびりついた。そのさまを二人のMPが事務的な関心をもって監視していた。白い鉄兜《てつかぶと》をかぶった彼らの肩から上は、ごったがえす日本人の群衆の頭からひときわ抜きんでて、絶対的な権力の象徴のように見えた。
この界隈《かいわい》は戦災を免れていたが、駅の前が広く強制疎開の空地になっていて、そこに闇《やみ》市《いち》が繁昌《はんじょう》していた。闇市といってもまだ小屋ひとつあるわけではない。ただ路上に紙を拡げ、あるいは木箱をおき、少しましなのは木の台をおき、その上でさまざまな食品、物品が商われていた。輪切りにしたふかし芋があった。乾燥芋があった。数箇ずつ積まれた蜜《み》柑《かん》があった。魚の乾《ひ》物《もの》があり、するめがあった。皮つきの落花生の小山があった。今川焼様のものが売られていたが、その餡《あん》は乾燥芋の粉末から作った緑色の餡であった。にぎり飯を新聞紙の上に並べている復員軍人風の男がいたが、そのにぎり飯は間もなく売切れた。手巻きの煙草も、簡便煙草巻器も売られていた。鋳物の鍋《なべ》や釜《かま》、飯盒《はんごう》やアルミの弁当箱、肉ひき器めいた金具などが積まれていた。白い真新しい軍手が束になって並べられ、ズックを加工したベルトが吊《つる》され、こちらでは糸や針、むこうでは刃物類がにぶく光っていた。売手――その多くはにわか商人なのかも知れないが――の傍《かたわ》らに置かれたボール箱の中には、十円札が無造作におしこまれた。それもこの二月中旬まで流通していたいわゆるいのしし[#「いのしし」に傍点]には肩のところに証紙が貼《は》ってあり、他は新円切りかえで発行された俗にアメリカ十円といわれる緑っぽい十円札であった。
売手たちはべつに声をだして客を誘うわけではなかった。たいていは無言で商品の前に立ったり坐ったりしていた。買手のほうもぞろぞろとそのまわりに群れ、羨《うらや》ましげに品物を見て廻ったり、慌《あわただ》しく十円札を投出して乾燥芋を一袋受取るばかりで、ほとんどが無言であった。それでもこの闇市には、切羽つまった生命力のようなもの、陰鬱《いんうつ》ながら何かの胎動する活気のようなものがあった。
もう夕方であった。踏切のほうの道から、袖もすりきれた陸軍の軍服を着た肥満した男が、なんとも判定に苦しむ表情をして歩いてきた。そのふくれあがった顔は、一見のんびりしているようにも見えれば、どこか痴《ち》呆《ほう》のようにも見え、あるいは悲哀にみちた憂え顔とも受けとられるのだった。要するに、もともと細長い顔が、水腫《すいしゅ》のようにむくんでいるため、内心を端的に表わすことが困難なのである。それは銭湯帰りの楡峻一で、真新しい、しかし彼の足には小さすぎる下駄を突っかけていた。
復員してからの峻一は、なんだか虚脱してぼうっとして日がな寝ていた。家族の者はもとよりこれを当然だと思った。なにせ彼はウエーク島という絶海の孤島に長いこと幽閉され、九死に一生を得て戻ってきた身なのだ。しかし、峻一の虚脱している期間は少し長すぎた。一度、慶応の医局に挨拶《あいさつ》に行ったが、すぐ勤務しようとはしなかった。新年になって、はじめて父親を見舞に山形へ行った。徹吉はその後、鈴木家よりも看護に便利だというので上ノ山の高松屋旅館の一室に移されていたが、数日後リュックサックに一杯米をかついで戻ってきた峻一の第一声は、「お餅《もち》を腹一杯食べさして貰《もら》ったよ。有難かった」というそんな文句であった。もっともそのあと峻一は龍子にむかって、「はっきりいって親父はもう駄目です。生きていても廃人ですよ」と報告したが、龍子はその言葉にやはりそうかと重々しく頷《うなず》くと共に、そういう医者らしい言葉を吐いた峻一に実のところほっとした。峻一が本当に痴呆化したのではないかと、内心心配していたからである。
峻一はそれでも二月から慶応の医局へ出勤するようになっていた。慶応病院は焼けたが、北里講堂を含む旧館が焼け残っていて、そこに精神科の医局があった。外来もそこに急設されていた。出征していた精神科の医局員たちもそれぞれ軍隊から戻ってきていてもう人数に不足はなかったが、戦争中入局した者がほとんどなかったため、峻一はやはり一番下っ端の医局員で、もちろん無給であった。峻一の勤務ぶりは、はっきりいって熱心ではなかった。朝は往々にしてひどく遅く、ときたま理由もなく医局を休んだ。家でぐうたらしているときもあれば、気がむくと周二と一緒に十坪ほどの庭を畠にする作業をし、それから駅前へ行って当時おびただしく発行されだした仙花紙の粗末な雑誌を買ってきて、畳の上に仰向けになって読みふけった。そうかと思うと、彼が日本に戻ってきて最初に覚えた歌、「りんごの歌」を間のびのしただるそうな声で口ずさんだ。「赤いりんごにくちびーる寄せて だまあって見ている青い空《そーらー》 りんごはなんにも言わないけれど……」
今日も彼は少し早すぎるくらいの時刻に医局から戻ってきて、いま銭湯からの帰りなのであった。医局へ出勤するとき、彼は欧洲叔父から貰った古背広を着る。しかし銭湯へ行くときは、それをぼろぼろの軍服に着かえていた。往々にして銭湯で衣類その他が紛失することを承知していたからだ。湯は想像を絶して混んでいた。湯舟の中はどことなく貧相に見える裸体の群れが隙《すき》間《ま》もなくぎっしりとつまっていて、相当のあいだ待たない限りその中に割りこむことは難《むず》かしかった。なかんずく峻一の身体は昔と異なって人より遥かに容積があった。それでも、彼は帰国してからこの何カ月かにかなり痩せたというか、ぶよぶよと水ぶくれしたようにたるんだ肉がいくらか引きしまってきていた。とはいえ、その裸体を人前にさらすことに彼が羞恥《しゅうち》を覚えるほど、それはまだ水腫に近い病的の肥満ぶりを示しているのだった。
それでも、とにかく湯にはいれた。一週間ぶりの入浴であった。彼は結構いい心持になっていた。そのふくれあがった表情からはその内心が読みとれなかったけれど。
「むかしは家《うち》にもラジウム風呂なんてのがあったっけ。あの大きな……。だがとにかく、湯というものはいいものだな」
昏《く》れ残った空にふいに爆音がし、液冷の小型の三機編隊が頭上をよぎっていった。
峻一は一瞬びくっとして空を見上げ、それから気ぬけしたようにその機影が消え去るのを見送った。
「P51……ムスタングか……」
と、彼は呟《つぶや》いた。
そのさまにはどことなく、若いころは鳴らした好色漢がもう性欲も失せた老人になって、異国の若い女をまぶしげな複雑な気持で眺《なが》めているというようなおもむきがあった。
それから峻一は闇市のところで寄り道をした。魚の乾物の前でじっとその青光りする肌を見つめた。つややかな林《りん》檎《ご》の前ではもっと長いこと立止った。芋餡をはさんだ餅を買っているかみさん風の女をじろじろと見た。それから商人たちの手元に束になって集められている十円札をも。
新円と切りかえになるまえは、峻一も闇市で好きなものをかなり自由に買うことができた。しかし今は一切の預金は封鎖され、貯金の引出しは一カ月に世帯主三百円、他の家族百円に限られていた。このわずかな金額と、箱根の別荘を人に貸してある家賃とが、今は龍子たちの全収入であり、使い得る全金額なのであった。売食いをしようにも物がなかった。従って峻一には小《こ》遣《づか》いとてもなく、今日も湯銭だけ持って家を出てきたので、買いたくとも林檎一箇|購《あがな》うことはできないのであった。それでも峻一は闇市を見てまわるのが好きだった。終戦前のウエーク島では、餓えた兵隊がごろごろしているばかりで、全島捜しても何もなかった。それが今はともかく物が、現物が、こうして目の前に並んでいる。それを眺めてひそかに愉《たの》しむことだけはできる。要するに、と峻一は羨ましげに蜜柑の山を離れながら思うのだった、預金の封鎖さえ解除される日がくればいいのだ。家《うち》にはまだ預金だけはあるはずなのだから。
しかし、しばらくして戻ったわが家にも楽しいこととてなかった。六畳の居間も箪《たん》笥《す》ひとつあるでなく、殺風景そのものだった。欧洲のところから貰ってきた――欧洲は二台持っていたので――ラジオだけが、それでも蜜柑箱の上に置かれてあった。もともとこの家自体が、いい加減老朽で壊《こわ》れかけていた。戸袋はあるにもかかわらず雨戸が一枚もなかった。前の住人が燃してしまったとでも考えるより仕方がなかった。水道もない。台所の前に井戸があったが、釣《つる》瓶《べ》はなく、空罐《あきかん》に金鎚《かなづち》をしばりつけたものを投げこんで、ロープで引上げるのだった。その水をドラム罐に汲《く》んでおいて使用した。ガスはあったが、大体そのころガスはろくに出はしなかった。米を炊《た》くときはガス栓《せん》をあけ放して待機している。夜も更《ふ》けてきた頃にシューッとガスが出る音がする。急いで火をつけても、御飯がまだ炊けないうちに、またガスがとまってしまったりした。そうするとそれから慌てて焜《こん》炉《ろ》に火を起さねばならなかった。
居間の大き目の卓袱《ちゃぶ》台《だい》の上には、すでに夕《ゆう》餉《げ》の支《し》度《たく》ができかかっていた。
峻一はそれをちらと眺め、「また芋パンか」と呟き、大儀そうに身体を一方の壁に寄せかけた。
実際、このところ楡家の食卓はほとんど三度々々が芋パンの連続であった。簡便パン焼器というものがあって、箱の両端が金属になっており、この中にウドン粉やもろこしの粉をといて塩を加え、電流を通ずると簡単にパンができた。もっともそのパンは角切りにしたさつま芋と大半はもろこしの粉のため、世辞にもふっくらというわけにはいかず、ぼそぼそと舌に味気なかった。
一方、藍子は畳のうえかがんで、伏眼になって、そのとき一つの罐詰をあけようとしていた。それがこの夜の彼らの菜になるはずだった。それは暗緑色をした米軍の放出物資の罐詰で、それが配給になるときはもちろん主食が差引かれるのである。米軍の罐詰には――それはもったいなくて滅多にあけられなかったが――さまざまなものがあった。スクランブル・エッグやチーズ、バター、ときには単なる液体のスープなどがあった。英文が刷りこんであるが符牒《ふちょう》らしく、いざあけてみないと中味がなんであるかはわからない。一度ひとかかえもある罐詰をあけたところ、これがゼリーのはいった七面鳥の肉で、鼻につくほど七面鳥を食べることができた。もっともそのときの主食がふかし芋では決して調和した味とはいえなかったけれど。
「あら」
と、罐を切り終った藍子がかすかな失望したような声をあげた。
「粉よ。これ何かしら?」
台所から戻ってきた龍子が、中腰のままその粉を嘗《な》めてみた。
「グリーン・ピースらしいね。グリーン・ピースの粉ですよ」
「やれやれ、そんな粉がおかずか」
と、こちらから峻一が呟いた。
結局その夜は、闇市で買ったジャムと二切れずつのパンだけで済ませることになった。そのパンに対しても、峻一はぶつぶつと文句を言った。卓袱台の端に無骨な把《とっ》手《て》のある金属の器具が取りつけてある。それは肉ひき器に似ていたが、要するになんでも粉にする粉砕器なのである。龍子はこれで大豆を粉にしてパンにまぜた。近ごろでは茶がらを干しておいて、それも粉にしてパンにまぜた。
「この茶がらの粉をまぜるのはいかんなあ」と、峻一はもぐもぐと口を動かしながら言った。「こんなもの栄養なんてありませんよ」
「そんなことありません」と、龍子はそそくさとパンを手でちぎりながらきっぱりと応じた。「栄養はちゃんとあります。だって戦争中、軍馬に茶がらを集めたことがあるじゃありませんか。馬だってちゃんと食べて、そして元気になるんです」
「ああ、ああ」と、峻一は情けなそうな吐息をついた。彼はこのところ精神が弛《し》緩《かん》したとでもいうか、抑制にかけていて、どことなくだらしのない饒舌《じょうぜつ》を弄《ろう》するのが常であった。「こうとわかっていたら、あのチョコレートやキャンデーを持ってくるのだったなあ。ぼくの持って帰ったものはなにせろくでもないものばかりだからなあ。ああ、あのチョコレート!」
ウエーク島で捕虜になってから、峻一は支給されて余ったチョコレートやキャンデーを貯《たくわ》えていた。いざ復員船が到着したとき、彼はそれをみんな置いてきてしまった。内地は焼野原になっているという噂《うわさ》だったし、食糧よりも別の生活必需品のほうが大事だと思った。ウエーク島に於ける彼の体験によれば、日本内地も米軍に占領されているのであるから、まさかこれほどの食糧難であるとは考えられなかったのだ。それで彼が苦労してかついできた大トランクの中味はといえば、ぼろぼろの下着、靴下、更に仏印時代に手に入れた黄ばんだ紙、歯みがき粉や歯ブラシなどであった。ゴムの袋に入れた水《みず》石鹸《せっけん》まであった。書類、日記などを除いてなんでも持って帰れたのだから、せめて医務室の顕微鏡を一台持って帰っていたら! だが、島ぼけと栄養失調のにぶく鈍磨した頭脳では、そこまでの智《ち》慧《え》が働かなかったのだ。
峻一はとうに自分のぶんのパンを食べてしまって、気だるそうに壁に寄りかかり、なおくどくどと愚痴を言った。
「藍子、なにしろこんな大きなチョコレートがあったんだぞ。どうしてあれを持ってこなかったんだろうなあ」
彼はため息をついた。それからひどくだしぬけに、たいそう間のびのした声で口ずさみはじめた。「あーかいりんごにくちびーる寄せてえ……」
「峻一!」
と、きびしい声で龍子がとがめた。
彼女は、突然の立腹の発作に襲われたようだった。あまりにも落ちぶれてしまった楡家の食卓の光景、そしてあまりにもだらしのない長男の態度が彼女の激情を誘発したのにちがいなかった。
「峻一」と、龍子はもう一度声を強めて言った。「お前は長男です。いいですか、楡家の長男なんですよ。お父様もあんなふうにおなりになってしまって……。お前には義務があります。病院を、楡病院を復興する義務があるのです。それを忘れちゃいけませんよ。震災の翌年の火事のときだって、うちはみじめに焼けたものでした。火災保険もとれなくって。それでもちゃんと復興しているんです。大体お前は……」
「わかっていますよ」と、峻一は多少困惑してどもども[#「どもども」に傍点]と言った。
だが龍子はやめなかった。
「お前、うちがお金持だなんて夢にも思っちゃいけませんよ。財産税でとことんまで取られたんですから。残ったお金も使えやしませんしね。それにお前、欧洲をもう頼ることはできませんよ。欧洲だってすっかり貧乏になってしまっているんですから」
松原の病院が戦災に会ったとはいえ、松沢病院の社宅に移っていた欧洲は焼けだされたわけではなかった。秩父に疎開させた荷物も相当量あった。それゆえ欧洲は現在の生活に限っていえばまだまだゆとりがあったのだが、事実は彼もまた敗戦によって手痛い打撃を――その度合からいえば青山の人々よりも大きな打撃を蒙っていた。病院を売って間もなく、彼は北海道に相当の開拓地を買った。いよいよとなったときは農場を経営して暮そうと考えたからである。すぐに松原の病院は焼け、その当時、人々は欧洲の幸運と先見の明を羨んだものだ。だが敗戦となり、この冬に農地開放が始まった。不在地主である欧洲の土地は没収され、さらに財産税で動産をあらかたうしない、――いずれにせよ、むかしは結構な身分であった欧洲もまた、松沢病院の給料と売食いとの生活を余儀なくされているのであった。
母親ひさの老衰も、欧洲夫妻の苦労の種となっていた。ひさは未だに糯米《もちごめ》を常食とした。量はほんのわずかだが、かたくなに糯米でないと気にいらないのだった。それからどういうものかたいそう大根おろしを好むようになったが、それは天皇陛下が大根おろしを召上るということを誰かから聞いたためらしかった。大根おろしに葱《ねぎ》のみじん切りにしたものを混ぜ、木《き》匙《さじ》で丹念にすりあわせ、あまつさえそれを糯米とくしゃくしゃに混ぜ合せて食べた。決して見よいものではなかった。糯米と大根と葱を手に入れるために千代子はそれなりの苦労を払わせられたが、ひさにはそれが理解できないもののようだった。いつもこう言った。「いくら物がないといったとて、わたし一人分のものがないはずがあるまい」
狭い社宅の開きになっている押入れに、ひさは自分の持物をぎっしりとつめていた。反物でもなんでもまだずいぶんと持っているようだったが、滅多なことでは千代子に下げ渡してはくれなかった。龍子も貰い物をするために屡々《しばしば》この母親の御機嫌伺いに出かけた。するとひさは炬《こ》燵《たつ》の中から――彼女は春になってもまだ炬燵にはいっていた――隠しておいたらしい鉢《はち》に盛ったさつま芋のふかしたのを取りだし、「お食べ」と言って差出した。その芋はずいぶん古いものらしく、割ってみると糸を引いていた。挙《あげ》句《く》の果て、龍子がさまざまに現在の苦衷を訴えると、ひさはよろよろと立上って、押入れからたった一本の手《て》拭《ぬぐい》を取り出してきて、もがもがと言った。「これを持ってゆくがよい」
欧洲のところへ客がきて、その客を送り出して千代子が居間に戻ってみると、いつの間にか足の不自由な筈《はず》のひさがそこにいて、客の飲み残したズルチン入りの紅茶を音を立てて夢中になってすすっていたことがあった。その姿は老醜というよりも、もっと気味のわるい、抑制も判断力もとうに失った、老いさらばえた動物のように見えた。そしてその老婆は、思いだしたようにこう呟くのだった。
「米国《よねくに》はまだ戻らんかい?」
千代子たちの調べたところによると、米国の属していた部隊はとうに復員しているらしく、戦死公報こそなかったものの、彼の生還はまず絶望といってよかった。中国の奥地で終戦時の混乱のなかにどのような運命を辿ったのか、こればかりは想像してみることもできなかった。だがひさは、思いだしたようにぼそぼそと呟いた。「峻一だってちゃんと帰ってきたじゃないか。どうして米国はまだ戻らんのかい?」それから、千代子に助けられて食卓に坐って、ふるえる手で木匙を握って、目をそむけたくなるような汚ない無節制な食べ方をはじめるのだった……。
「欧洲を頼るわけにはいきませんよ、もう」
と、こちらの家では龍子がもう一度繰返し、まるで怒ったように続けた。
「峻一、おまえは開業できないの? どんな小さな医院でもいいから、楡医院という看板をかかげることはできないの? おまえがその気になれば、資金はあたしがなんとかしてみせます。青山の土地も箱根の家も売って……それに、あたしには痩《や》せても枯れても学習院からのお友達が幾人もいます。みんな昔とは違って貧乏になってしまってますが、それでも新円のことや……」
「だってお母さま、そりゃ無理というものですよ」
と、峻一は壁に寄りかかったまま、母親の言葉をさえぎった。
「ぼくは精神科医としてまだ駈《か》けだしですよ。なにしろ医局にはいっていくらもしないうちに兵隊にとられたんですからね。これから修行をしなけりゃ」
「修行? それは勿論《もちろん》です。結構です。だけどおまえはちっとも熱心に医局へ行かないようじゃないの。そんなことでは教授の覚えもよいはずがありません。いいですか、おまえには楡病院再興という使命があるのですよ。そんなことをおまえがちっとでも考えているとはあたしには思えません!」
そんなふうに頭から高飛車に言われて、峻一はさすがにぶざまに肥満したその身体を壁から起した。むっとしたように性急に言いはじめた。
「お母さまにはちっともわかっちゃいないんだ。ぼくはまだ当り前の身体じゃないのですよ? とんでもない。尋常な健康状態じゃないんだ。すぐ疲れるんです。ちょっと早く歩くと動《どう》悸《き》がする。立ちくらみがする。ぼくは奇《き》蹟《せき》的に、なにかの拍子に生きて帰った男なんですよ? こうやって生きているのがぼくにはまだ信じられないときがある。そういうことを、みんなはちっともわかってくれないんだ」
しゃべっているうちに、峻一は自分の言葉に昂奮《こうふん》してきたらしく、いっそう性急な調子でつづけた。
「大体、人間の生きられる島じゃないんだ、あそこは。あんな殺伐な……ぎらぎらする石と砂と……どこをどう考えても生きのびられるはずがなかったんだ。ぼくは二度死ぬとこでしたよ。一度は海で溺《おぼ》れかかったし、一度は直撃弾が壕のすぐ横に落ちたんだ。ぼくは気を失って半分埋まっていたんですよ。そればかりじゃない、毎日々々が食うために生きるか死ぬかの浅ましい戦いなんだ。ちっぽけな魚を獲《と》るために、実に浅ましい思いをするんだ。七月にたまたま病院船がはいってきて千名ほど後送できたから食いつなげたようなものだ。あの船がこなかったら終戦までに全員餓死ですよ。ああ、いやだいやだ、ぼくは思い出すのもいやだ。あれは本物の地獄だった。ぼくはしょっちゅうまだ夢に見ますよ。夜中に目を覚まして、冷汗でびっしょりになっているんだ……」
峻一は癇癪《かんしゃく》を起したように一息に言うだけ言うと、ぐったりとふたたび背中を壁にもたせた。
食卓の空気が白けきったようだった。藍子はうつむいて茶をついでいた。周二は眉《まゆ》をひそめて、それでも自分には関係がないというように横をむいて、仙花紙の雑誌をぱらぱらやっていた。
龍子は峻一の言葉にごくかすかな同情は覚えた。が、それよりももっと大きな憤激が彼女の心を通りすぎた。情けないような、やるせないような、かすかな諦念《ていねん》もいりまじった、種々の心理の織りなせる憤激が。それは自分の期待に応《こた》えてくれぬ長男に対する憤りであろうか? それとも、もっと広範囲な時代への?
彼女は、まだむっとして黙っている長男のぶよぶよと腫《は》れた顔を、じっと批評するようにしばらく見つめていた。それからその視線を転じ、雑誌をもてあそんでいる周二のうえに留めた。
――この子にも期待は持てない。この子も駄目だ。
と、龍子はそう思った。
周二はこの年の入学試験にも、高校と医専の双方とも落第してしまっていた。第一勉強しようという意欲を持合せないように見えた。予備校へ通わせようとしても、「いいよ、予備校なんか」と言った。いつもふてくされたようにろくろく口もきかず、ぷいと「図書館へ行ってくるよ」と言い捨てて家を出るが、実はその図書館で周二は勉強するのではなく探偵小説を読んでいたのだった。彼は惰性のように、いい加減に、どちらかというとかなり低級な探偵小説を借りだす。席について本をひろげても、実際にはなかなか読みださない。周囲の席から人々が一心不乱に読書している気配が伝わってきて、ただでさえ周二に、「自分には本当はなんのやるべきこともないのだ」というじめじめした意識を引き起させるのだった。家が焼けたとき、或いは千葉県で敵の本土上陸に備えて地下陣地を構築していたときは、確かにいきいきとしていたその顔は、今はいつも投げやりに、陰気に曇っていた。なにより彼は、「死に遅れた!」という感情から離れることができなかった。あの豪華な、絢爛《けんらん》とした、壮大な「死」への幻想、それはとうに灰のように崩《くず》れ落ちてしまっていた。……彼は無理|強《じ》いに自分を低級な活字の世界へとおしやる。辛うじて一つの世界が彼の前にひらかれる。陳腐な、愚かしい、ときには煽情《せんじょう》的な世界が。そこではたわやすく必然的に殺人が行われる。しばらくの間、周二はその筋を追い、だがやがて目を本から離して心に呟くのだ。「人間を一人くらい殺してそれがどうだというんだ。莫迦々々《ばかばか》しい。何にもないのだ。実際この世には何にもないのだ……」
周二は、今もつまらなげに、ふてくされたように、一人孤立して、粗末な雑誌の頁を意味もなくめくっていた。
龍子の視線は、最後に、うつむいて茶をすすっている藍子のうえに落ちた。右側の沈んだ横顔をこちらに向けて、藍子は坐っていた。その髪もようやくもうのびていて、ほそい鼻《び》梁《りょう》とかすかにまくれあがった口元とがこのうえない調和を見せていた。そして、その母親はひそかに胸をつかれながら思った。「聖子に似てきた。ほんとに聖子にそっくりになってきた」
娘に立派な医者の聟《むこ》を迎えて、そして病院を隆盛へと導いたのは、亡き父基一郎の卓抜な方策である。それが楡病院の伝統でもあったのだ。
だが藍子が茶碗を置いて、その顔が斜めにこちらに向いたとき、その左のこめかみから下に、あまりにも明瞭に痛々しく、赤紫色に変色した痣《あざ》が、こまかい凹凸を見せた皮膚と肉の傷痕がはっきりと見てとれた。いずれもっとよい時代がきたら手術を受けさせることも考えられるが、たとえどんな手術を受けたにせよ、あれだけの傷痕はとても半分も隠しおおせるものではあるまい。
――せっかく器量よしに育ってくれたのに、もういい家には嫁にやれまい。
龍子はぐっと胸に迫る情けなさ、屈辱のような悲哀感を覚えながら思った。
――夫ももう駄目だ。三人の子供は誰一人として頼りにならない……
だが、龍子の心は決してしぼみ萎《な》えはしなかった。彼女だけは、せめて彼女一人だけはこの逆境に意気|沮《そ》喪《そう》してはならなかった。負けてはならなかった。たとえ他の者がどんなにだらしなかろうとも! 理不尽な怒りにかりたてられ、龍子は衝動的にきびきびと席を立った。
台所から足音も荒く干した茶がらを持ってくる。卓袱台の端に取りつけた粉砕器の中に入れる。そして龍子は、しゃっきりとうなじを立て、何者かに挑戦するかのように唇を噛《か》みしめながら、せかせかと、力まかせに、ぐるぐると把手をまわして茶がらをひきはじめた……。
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解説
三島由紀夫は『楡家の人びと』について「この小説の出現によって、日本文学は真に市民的な作品をはじめて持ち、小説というものの正統性《オーソドクシー》を証明するのは、その市民性に他ならないことを学んだといえる」と書いている。ここで市民性というのは、平凡な生活を送り、その生活に人生の過不足ない意味を感じ、それを生の権利とさえ感じている健全な性格、というほどの意味であろう。したがってそれは俗人性、凡庸性と言いなおしても、一向に差しつかえないものである。
では、なぜこうした俗人性、凡庸性が小説の正統性《オーソドクシー》の証明になるのであろうか。いや、その前に日本文学はこうした意味での「市民的な作品」を今までに持ったことがあるのだろうか。むろん漱石《そうせき》、鴎外《おうがい》以来、われわれは市民の喜悲を扱った作品を持たなかったわけではない。戦後文学においても新しい視点から市民性を扱った作品を幾つか数えることはできる。しかしそこには、つねに一貫して「人生いかに生くべきか」のモラルへの探究があり、「ある自己」より「あるべき自己」への激しい憧憬《しょうけい》があり、自己|嫌《けん》悪《お》や現実否定の姿勢をふくみ、現在を脱出してたえず未来に生きようとする心組みを抱《いだ》いていた。たしかにそこでは市民的な人間が主題となってはいるが、それを見る眼《まな》ざしは、決して平凡な生に過不足ない意味を感じる市民的な視線ではなく、むしろ激しく憧憬的であるか、皮肉《アイロニカル》に否定的であるかする視線であった。
われわれは、言わば火の燃えさかる煖《だん》炉《ろ》の前にゆっくり坐って、この現実の生[#「現実の生」に傍点]をあるがままに心ゆくまで愛好し、たのしむことをしなかった。人間の愚かしさ、騒々しさ、軽薄さ、図々しさを人間らしい弱点として愛することをしなかった。人間が生き、迷い、喋《しゃべ》り、ぺてんにかけ、見栄《みえ》をはり、笑い、失望し、死ぬ姿を、そのままで「よし」として腕に抱きしめることができなかった。つまり俗人性や凡庸性を愛したり、それに魅了されたりすることがなかったのである。
こうした精神風土のなかでは、当然ながら、市民的な文学は育ちにくかった。少なくとも俗人性や凡庸性にしみじみと見入り、そこに人間を感じ、人間の宿命を見る文学は生れなかった。
しかし小説が市民階級とともに生れ、市民の平凡な生に「詩」を見《み》出《いだ》していったとすれば、まさしく俗人性や凡庸性こそが小説の正統性《オーソドクシー》の証明であることは当然である。そして事実、われわれは楡家一族――楡基一郎、龍子《りゅうこ》、聖子《せいこ》、徹吉、欧洲《おうしゅう》、米国《よねくに》、桃子、下田の婆や、勝俣《かつまた》秀吉など楡病院に生きる人々の姿をみるとき、その俗人性、凡庸性が、いかに生きいきと描きだされているかを知って驚くのである。
たしかに人物は正統的な現実描写によって描かれ、明治、大正、昭和の時代の変遷が、緻《ち》密《みつ》な風俗絵巻とともに展開する。われわれはまだ原っぱのあった頃の青山|界隈《かいわい》を眼に見、戦争にむかって傾斜してゆく時代の声を耳に聞く。明治ののどかな菊の香りがし、大正の暗い社会不安が頁《ページ》から這《は》いあがってくる。それは時に微細であり、時に客観的であろうとする。しかしわれわれが、そこに、いかに一見自然主義風な細密描写を見ようと、それは何ら自然主義とは関係はない。なぜならここには真の意味の市民性――あの生に対する憧《あこが》れにみちた健全な愛着、北《きた》杜夫《もりお》が深く傾倒したリューペックの詩人がイローニッシュなエローティクと呼んだものが、いきいきと目覚めていて、そうした微細な事物の集積の背後から、甘美な法悦感のように、立ちのぼってくるからである。
こうした人間の俗人性、凡庸性――人間が生き、そして死んでゆく単純な事実――への、アイロニカルな愛着は、何よりも移りゆく時への深い哀感となって示される。『楡家の人びと』は、ちょうど英雄時代の没落をホメロスが哀感をこめてうたったように、過ぎさりゆく市民時代への挽《ばん》歌《か》であると言ってもいい。泣き、笑い、憤りながら、いつかわれわれが親しくなった人物は老い、舞台から消えてゆく。
≪一体歳月とは何なのか? その中で愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮してゆく人間とは何なのか?≫
こうした物悲しい問いつめるような調べはこの作品全編のなかに聞きとれる。
≪だが、そんなことは『時』の本質とは関《かか》わりのないことだ。たとえ関係があるとしても、それは片手間のちょっかい事にすぎぬ。『時』はもっと大きなことをやってのける。(……)それは間断なく何事かを生じさせ、変化をもたらし、大抵の人間たちの目には見えぬ推移と変遷のかげで、そしらぬ顔をして尚《なお》かつ動いてゆく。どこへとも知れず……≫
こうした「時」の流れにいや応なくつき動かされ、変貌《へんぼう》してゆく人間の姿が、赤裸な形で、あらわになるとき、われわれはそこに「宿命」の厳《きび》しい相貌を見ることになる。たとえば楡桃子の楽しい夏休みを知っている者には、その後の彼女の人生遍歴に、ある感慨を覚えないわけにゆかない。しかもそれは次の世代の楡|藍子《あいこ》の女への成長となんと似かよった形をとることだろう。
人々の「宿命」は、それぞれの時代、環境、特殊な条件によって別個の姿をとりながら、なおそこに、われわれがどうすることもできぬ「宿命の原型」のようなものが立ち現われる。しかし『楡家』には、宿命の決定論的な暗さはない。それはむしろ「生れ、そして死んでゆく人間」であることへの、哀感にみちた歓喜で彩《いろど》られている。この作品を特徴づけるあたたかなユーモアは、ただそのことによってのみ説明される。
もちろん千五百枚をこえる大作が単なる主題と情感だけで支《ささ》えられるものではない。そこには作者の並々ならぬ小説技法への配慮が働いている。一例を挙げれば、楡一族の背後を流れる時代を象徴する事件、風俗は、つねに小説中の人物の視点からのみ眺《なが》められている。たとえば人物の会話、ビリケンさんの朗読、楡|峻一《しゅんいち》の行動、城木|達紀《たつのり》の視野などからわれわれが共通の運命とした戦争へ傾斜してゆく時代、風俗を見てゆくのである。われわれが楡一族の運命の変転に泣き笑いしているあいだ、いつか日本の運命の推移を体験しているのは、こうした作者の慎重な配慮があるからである。
『楡家の人びと』の人物が、いずれも作者をめぐる一族の人々をモデルにしていることは周知の事実である。しかし北杜夫が父に歌人斎藤|茂吉《もきち》をもっているため、この問題は特殊なニュアンスを帯びてくる。作中に登場する楡徹吉は種々の点で斎藤茂吉の面影を濃く伝えている。とくにミュンヘン留学当時の徹吉、老いて故郷に帰る徹吉の姿には、作者は、意識的に、茂吉その人の肉体をつけ加えている。しかし他方では、楡家の没落を描くという主題上の要求と、大詩人の姿の圧倒的な巨大さの点で、楡徹吉から、歌人としての側面と、茂吉の人間臭は切りとられている。そこには活力にあふれた明治人楡基一郎の陰で、病院経営に喘《あえ》ぎながら、執念の虫となって、精神医学史を書きつづける一医学者の姿が描かれているだけである。
作者が『楡家』を書く直接の動機を与えたトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』の場合も、作中人物の多くはほとんど現実のモデルを持っていると言われる。しかし現在、われわれに意味を持つのは、小説世界の中で泣き、笑いする作中人物だけである。それは現実に酷似しながら、ちょうど水槽《すいそう》のなかの世界を見るように、まったく別個の世界である。『楡家』の場合も事情は同様であって、われわれはやはり楡基一郎をはじめとする作中人物を、『楡家の人びと』という小説世界にのみ生かしておくべきであり、そうしてこそ一段と深く小説的な感動を味わうことができるはずである。
もちろん楡家の人びとと同時代を体験した多くの読者は、たとえば蔵王《ざおう》山《さん》のなかに、両国国技館の土俵で頼りない表情をしていた出羽《でわ》ヶ|嶽《たけ》の姿を認めるにちがいない。また藍子や周二とともに懐かしい昭和初期を追体験し、二・二六事件の日の雪や、東京大空襲の紅《ぐ》蓮《れん》の炎をまざまざと感覚のうえに呼びおこされるにちがいない。
しかしわれわれは同時にそうした現実的な事柄が、作者の詩人の眼をとおして、いかに微妙に、詩的事物に変貌しているかに容易に気づくはずである。おそらく重要なことはその点であって、それは作者の自然を描くみずみずしい抒情《じょじょう》にふるえる文章と相まって、この作品を、あくまで風俗小説からぬきんでた第一級の作品たらしめているのである。
作者自身この作品について次のように書いている。
≪『楡家の人びと』は私にとって十年まえから、いつかは書かるべきものであった。とうの昔に、この作品は仮題を付されて、私の創作ノートに載っていた。私は漠然《ばくぜん》と、それを書く時期を四十代と思っていたが、急に予定を繰上げることになったのは、自分の健康に自信を失ったためと、昔のことを知っている人たちがぼつぼつと死にはじめたからである。
親類の間をめぐって昔の聞き語りをとり、大正年間の新聞の抜き書きを作り、おぼろに第一部の輪廓ができたのは、昭和三十六年の初夏のことで、その八月十六日に筆をとりはじめ、昭和三十八年十二月十四日に稿を終えた。三部とも各十章でまとまっているが、これは最初から予定していたことではなく、できてみたらそういう具合になっていたのである≫
私は、北杜夫が第三部のゲラ刷りを持って、この作品は長過ぎはしないだろうか、と訊《たず》ねた日のことを、いまもよく覚えている。私はそれを読み、魂の底から感動した。私は、長いということが、その感動を生みだす重要な要素である作品があるとしたら、まさしくこれこそその一つであると思った。それは長いということを感じさせないことであり、永遠に終ってほしくないと思う作品だということである。
『楡家の人びと』とはそういう作品であることを、読みおわった読者なら、同意していただけるに相違ない。
辻 邦生