楡家の人びと (上)
北杜夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)職人|気質《かたぎ》をむきだしにして
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)彼はふんどし[#「ふんどし」に傍点]ひとつのまま
[#ダイエレシス付き○]:文中ドイツ語綴り字(ウムラウト)指定
(例)Sch※[#ダイエレシス付きU小文字]ttelzittern
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目次
楡家の人びと
第一部
第二部
第三部
解説(辻邦生)
[#改ページ]
第一部
第一章
楡《にれ》病院の裏手にある賄場《まかないば》は昼餉《ひるげ》の支度に大童《おおわらわ》であった。二斗|炊《だ》きの大釜《おおがま》が四つ並んでいたが、百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たちの食事を用意しなければならなかったからである。
竃《かまど》の火はとうにかきだされ、水をかけられて黒い焼木杭《やけぼっくい》になった薪《まき》が、コンクリートの床の上でまだぶすぶすと煙をあげていた。しかし忙しく食器を並べている従業員の誰《だれ》も、そこへ行って燻《くすぶ》っている薪を始末しようとはしなかった。そんなことにかまっている閑《ひま》もなかったし、なによりもそこは伊助《いすけ》爺《じい》さんの領分だったからだ。彼はもう十五年この病院で飯を炊いていて、おまけに御多分にもれぬ一刻者《いっこくもの》、ちょっとしたことでも他人に嘴《くちばし》を入れられることは容赦できない臍曲《へそまが》りだったのである。
その伊助爺さんは、充分にみんなをじらしておいたうえで、やおら大釜のぶ厚いふたを取りはらった。すると熱気のこもった炊事場の空気のなかに、もっと火傷《やけど》するくらい熱く、ねばっこく、親しみぶかい湯気が濛々《もうもう》と立ちのぼった。爺さんは櫂《かい》のような大しゃもじを両手に取りあげると、ざぶりとバケツの水に浸し、ふっくらと見事に炊きあがった大量の飯をかきまわしにかかった。釜の底のほうの飯を持ちあげるには、小《こ》柄《がら》な伊助は木の踏台に乗らねばならなかった。そうやって飯をひっくりかえしている彼は、かなりのせむしであった。前かがみになればなるほど、その背中の隆起した瘤《こぶ》はふくれあがってくるのだった。しかもその服装がまたよくない。少なくとも賄いをあずかる以上はもっと清潔であるべきなのに、その着物はすっかり黒ずんでいて縞《しま》模《も》様《よう》も定かでなかった。厚ぼったい前掛も同様である。手にも顔にも煤《すす》がこびりつき、要するにまっ白に炊きあがった飯とはまったく対照的な存在といえた。この黒く煤けた背の低いせむしの男が、独自の職人|気質《かたぎ》をむきだしにして一心不乱に飯をかきまわしているさまは、どことなく奇怪で、いくぶん滑稽《こっけい》な光景でもあった。その身なり風態《ふうてい》のため、彼は実際の齢《とし》よりずっと老《ふ》けて見えた。本当はまだ爺さんと呼ばれるのは気の毒な年齢だったのに。
伊助に清潔な身なりをさせるためにこれまで試みたさまざまな企ても、結局は徒労に帰した。彼が言うのには、自分には自分のやり方があり、着心地のわるい上っぱりなんぞつけた日には、まっとうな飯は炊けっこないというのだった。院長先生さまがぴんとした髭《ひげ》をおったてなさって、まっとうな診《み》たてをなさるのとおんなじことだ。わしの強情は親ゆずりだ。死んだ兄貴だってわしとそっくりの気性でな。
といって、伊助がもっと皆を困らせたのは予防注射のときである。彼は職務上から言っても、まっ先にチフスだのコレラだのの予防注射を受けねばならないのだが、そんな妖《あや》しげなものを彼がおとなしくやらせるわけがなかった。そのうえ彼は大師《おだいし》さまを信じていて、自分にかぎり伝染病なんぞにかかるわけがないと主張するのである。考えた末、伊助が昼寝をしているところを抑えつけようとしたところ、彼はふんどし[#「ふんどし」に傍点]ひとつのまま跣《はだし》で逃げた。病院の下手は土地が一段低くなり、竹藪《たけやぶ》になっている。その竹藪の中に逃げこんでしまってどうしても出てこない。そんなわけで楡病院のこの飯炊きは、未《いま》だかつて一度も予防注射をしたことがないのである。
しかし伊助の炊く飯がとびきり上等で口当りのよいことは誰にしろ認めねばならない。この夏の米騒動以来、ときどき外米をまぜねばならぬので以前のような具合にはいかないが、楡病院の当主である基《き》一郎《いちろう》院長が何回となく、「うちの病院の飯は日本一うまい」と讃《ほ》めたたえただけのことはあったのである。もっとも院長はなんでも「日本一」というのが口癖ではあったけれど。
伊助は、ほうほうと立ちのぼる湯気にまみれて手慣れた手つきで大釜の飯をかきまわし終ると、いつものように長く言葉をひっぱって、しわがれ声をだした。
「ほうれーえ」
これが合図であった。大勢の従業員がばらばらと寄ってきて、飯を容器に移しはじめた。むこうでは大鍋《おおなべ》から汁《しる》をよそっている。アルミニウムの食器がかちゃかちゃ鳴る。下に車のついた配膳台《はいぜんだい》が押されてくる。日に三度の、慌《あわただ》しくも活気のある光景なのである。
賄いはたしかに一面において楡病院の中心でもあった。そしてここのところ、大まかで単調な病院の菜《さい》にも思いがけぬ変化のあることが少なくない。この九月には寺内内閣が倒れ、最初の平民宰相|原《はら》敬《たかし》があとを継ぐと、みんなの食膳には洩《も》れなく尾頭《おかしら》つきがついた。なぜなら、この病院の当主である基一郎院長は政友会の代議士でもあったからだ。もっともごく小さな鯛《たい》で、若い書生たちは鰯《いわし》でも食うように骨ごと呑《の》みこんでしまった。そしてつい先ごろ、あれだけ執拗《しつよう》に頑《がん》張《ば》っていた独逸《ドイツ》がついに屈服した。さすがのカイゼルも――カイゼルというと病院の関係者はどうしても院長の髭を思い浮べずにいられなかったが――とうとうへたばったのだ。
町ではこの戦争に半ば無関心であっただけに、なお一層ころげこんだお祭り景気を愉《たの》しもうという気分にあふれていた。日比谷公園には、戦捷《せんしょう》祝賀の連合国旗に彩《いろど》られた山形の大門が建ち、群衆は押しあって怪我《けが》をした。飾りつけはなかなかの見《み》物《もの》であった。独逸軍国主義にひっかけた「軍国酒器」というこわれた大ビヤ樽《だる》もあったし、「灸千《キュウセン》屁《ヘ》イ輪《ワ》」(休戦平和)とかいうなんだか意味のよく通じない三間半の大イタチの造り物もあり、哀れな独帝が首を吊《つ》られている人形もあった。夜には提燈《ちょうちん》行列が出たし、昼には花電車が走った。こういうことは病院の誰か彼かが見物に行ってニュースをもたらすのである。すると病院を一歩も出たことのない婆《ばあ》やから患者から、いつの間にか自分自身でその光景を見たような気分になった。芝の附近で一台の花電車が火を発したのを見たのは、ちょうどそのころ病院に勤めるようになったばかりの少し足りない看護人であった。彼は最初の東京市内見物に出て、たまたまこの僥倖《ぎょうこう》に行きあわせたのである。
「ほだらよう、アッと思うたらパチパチと火がでてよう、幕やら旗やらに燃えついてよう、蒸気ポンプがとんできただ、蒸気ポンプがよう」
すると、病院の中に小売店をだしている天理教にこった小母《おば》さんまでが、花電車というものは危ないものだ、桑原桑原、と言いだすのだった。
賄いの菜のことに戻《もど》れば、原内閣も独逸降伏も棚《たな》からボタ餅《もち》のことであったが、それに加えてもうすぐ楡病院の「賞与式」の日がくる。おまけに今年はこの青山に大病院を建ててから十五周年だという話だ。次には暮の餅つきがあって、正月がきて……と考えるのは、なにも大飯食らいの書生や看護人だけに限られなかった。
……むっと湯気のこもる賄いの外には、もう本格的な冬の凍えた空気がはりつめていた。腐りかけたブリキ缶《かん》に何杯もたまっている賄いの屑《くず》を二、三匹の穢《きた》ない犬があさっていた。彼らは近所の原っぱに巣くっている野犬で、追っても追っても性懲《しょうこ》りなくやってくるのである。銀杏《いちょう》の大木は枝ばかりになって、それでも北風に立ちむかうような恰好《かっこう》で風呂場《ふろば》のわきに突ったっていた。浴場は院長自慢のものである。外観こそうす汚れ、壁際《かべぎわ》に堆《うずたか》く積まれた石炭|殻《がら》があたりの風景をいっそう寒々とさせていたが、内部にはタイルばりの大《だい》浴槽《よくそう》があった。浴槽の下には奇妙に渦《うず》を巻いた鉛管が走っていて、この湯こそ治療効果満点のラジウム風呂というのであったが、その秘密は院長しか知らない。しかし楡病院の入院案内書には、このラジウム風呂のことが特に一項目をもうけられて、ものものしい美文で説明されていたのである。
風呂場から少し離れて、小さいのや大きなのや、古いのや新しいのや、あまり上等とはいえぬ長屋風の家がごしゃごしゃと立並んでいた。これらは職員の住宅でもあったし、数名からときには十数名もいる書生が住んでいる場所でもあった。基一郎院長がまだ本郷で開業していた頃《ころ》から、郷里の出身者、あるいはほんのわずかな関係から、彼のところに食客となっている書生は数多かった。彼らは病院の手伝いをし、勉強をし、医師試験を受けて医者になっていった。現にいまの楡病院の医師、薬剤師の多くはこうした者から成立っていたのである。もっともいくら試験を受けても合格しない者もいたが、院長は彼らに相《ふさ》応《わ》しい仕事を世話してやった。もっとひどいのは、何年も飯を食べ、食べるだけでゆうゆうと月日を過している者もいた。いつの間にか行方不明になってしまう者もいた。だが、彼らを養うことは基一郎の道楽の一つでもあったのである。
楡基一郎は決して怒らない、あるいは怒った気《け》色《しき》を露ほども顔に現わさない男である。誰にでも愛《あい》想《そ》がよかった。もっともこの愛想のよさは多分に調子のいいことであり、ときにはお世辞そのままに上すべりに響いたが、ともあれ院長は猫《ねこ》にだって誰にだって愛想がよかった。
あるとき、ぐうたら者で有名な一人の書生が、どうしたわけか朝早くから病院の玄関の廊下に立っていたことがある。ただなんとなく立っていたのである。彼は常々自分は医者になる勉強をするために東京に出てきたのであり、楡病院の廊下を掃くために存在しているのではない、と広言していた。そのくせべつに勉強をするわけでもなかったから、仲間からも蔭口《かげぐち》を利《き》かれるし、内心いくらか気に病んでいたらしい。それでも誰がふき掃除なんかするものかというくらいの顔をして廊下に立っていると、そんな朝っぱらから院長がやってくるのが見えた。基一郎は近づいてくると、実に愛想のよい笑顔を見せて声をかけた。
「いや、ご苦労、ご苦労」
それがあまりにも優しい口調だったので、同時に基一郎はすこし顔を上むけて頤《あご》でものをいう癖があったので、書生は半分気がとがめ、半分腹を立ててこう言った。
「ご苦労って先生、ぼくはなんにもしちゃいないのです」
「いやいや君、朝早くからそうやって廊下を歩いていてくれると、病院には活気がでる。いかにも繁昌《はんじょう》しているように見える。いや、ご苦労ご苦労」
こんな話はざらにあるが、基一郎にしてみればそれは皮肉でもなんでもなく、本当に心底からそう思っていることは間違いなかった。
風呂場の横手にごしゃごしゃと立並んでいる家々は、必要以上に楡病院に居住している人々のためであったが、楡家の娘や息子や女中たちの住いもやはりその中にまじっていた。要するに大変な大世帯《おおじょたい》なのであり、無理に建てまされたり改造されたりしていて、いかにも雑然としているのはやむを得なかった。あながち壮麗という言葉を使っても言いすぎではない楡病院の正面からの景観にくらべると、この病院の裏手、賄いから始まって大浴場と何軒もの家屋が密集している地帯は、なんだかうらぶれた大都会の裏町のように見えた。
その中でいくらかましに見える二階建ての普《ふ》請《しん》が、院長夫妻をのぞいた家族の家屋であった。それなら院長は一体どこに住んでいたのか? それは「奥」であった。楡病院の正面のまるで宮殿のような大理石造りの建築――と初めて見る者は誰しも思った――の右半分は患者のための特等室になっている。しかし左半分は、事務室や待合室や外来用の診察室もあったけれど、なお廊下を辿《たど》ってゆくと、そこから先はみんなが「奥」と呼んでいる院長夫妻の住む特殊な部屋々々なのであった。病院の一々名前も覚えられぬ従業員たちの中でも実際に「奥」を知っている者は数少ない。大廊下をしきっている黒ずんだどっしりした扉《とびら》から先は勝手に出入りを許されず、「奥」づきの女中が用を弁じた。「奥」にはいわば紫の雲が漂っていた。なんでも洋式の「すんばらしい」便所や、独逸から院長がわざわざ持帰ったダブルベッドとやらが具《そな》えてあり、壁は女心も男心をも誘うようなピンク色に塗ってあるそうだ、と病院の下《した》っ端《ぱ》の連中は噂《うわさ》した。院長先生はお子さんさえ裏に住まわせている、あんなに沢山の広い部屋があんなさるのだから一緒に暮されたらよかろうに、というのは初めてこの病院に勤めた者がたいてい一度は抱く感慨であった。
その「お子さんたち」の住む裏の二階屋の階下からは、そのとき単調な子供っぽい節まわしの唄《うた》がきこえていた。一方の声はかなり甲高いまだ小さな女の子のもので、もう一方のはずっと年寄った女の、疲れたような眠たげな調子っぱずれの声であった。
青山墓地から白いオバケが三つ三つ
赤いオバケがみっつみつ
そのまたあとから袴《はかま》はいた書生さんが
スッポンポンのポン
そうやって遊んでいるのは基一郎の三番目の娘|桃子《ももこ》で、今日は日曜で学校は休みなのである。相手をしているのは下田の婆やで、肥満した、いかにも柔和そうな、自分の子供を犠牲にしても主家の子女を大事にする、一昔まえの典型的な乳母といってよい女なのだ。
かつて下田ナオは東京帝国大学附属病院の看護婦養成所を優秀な成績で卒業した。それから日本赤十字病院に勤めた。そのまま勤めていたなら彼女はとうに主席看護婦の地位に近づいていたかも知れない。しかしナオは不幸な結婚をした。不実な男は逃げ、残された小さな男の子は栄養不良で死んだ。そうした彼女を楡家に連れてきたのは基一郎である。同郷のこともあったが、院長は以前からナオの素質を見抜いていたのである。彼女は本郷時代の楡医院に勤め、青山に移ってからも楡病院の看護婦長を勤めた。しかしやがて彼女は、病院の勤務よりも、もっと楡家に親《ちか》しい存在、家族の中に溶けこむというよりほとんど家族以前の存在になった。つまり彼女は乳を与えない乳母になったのだ。基一郎の妻ひさが病弱だったところから、実母に代って長女の龍子《りゅうこ》の世話をし、次々にあとから生れてきた四人の子供をすべて手塩にかけた。今となってはナオはとうに楡家にとってかけがえのない女中頭であり、まるで百年も昔からこの家に根をおろしているとしか思えない「下田の婆や」なのであった。といって彼女はべつに主《ぬし》みたいな年寄りではなく、この年ちょうど五十歳だったが、更に附言すれば、当時は人生五十年といえば上の部に属していたのである。ナオが院長夫人ひさ、つまり「大奥さま」と同じ年齢だったこともなにかの因縁なのかも知れなかった。
桃子は近所にある青南小学校の五年生で、まだ女としての顔立ちの見通しは判然とはきかないものの、それでも姉たちにくらべて遥《はる》かに器量が落ちていることだけは断言できた。鼻は丸まっちいといってよく、頬《ほお》は下ぶくれしすぎていて、目はくるくると愛嬌《あいきょう》よく動いたが、いささか愛嬌がありすぎた。が、そんなことは彼女の責任ではなかったし、自分が姉たちより病院の誰彼にずっと人気のあることを彼女はよく知っていた。桃子はかなりおませのくせに、こんな子供っぽい遊戯にも夢中になる性格で、小鼻のわきに汗までかきかねない熱中ぶりだった。
「せっせっせ」と、彼女は息をきらして合図をするのである。そして唄にあわせて、相手と交互に掌《て》を打合せた。
青山墓地から白いオバケが……
この遊戯は、「スッポンポンの」というところで腕組みをするように腕を組合せ、最後の「ポン」でジャンケンをする。桃子は下田の婆やを負かしに負かし、ますます活気づき、婆やがいい加減へこたれているのにいっかな止《や》めようとしなかった。
かたわらでは、長《なが》火《ひ》鉢《ばち》にかけられた小鍋がぐつぐつ煮えていた。それは流感で隣室に寝ている桃子と二つ違いの弟のための粥《かゆ》であった。桃子たちは平生《へいぜい》はやはり賄《まかな》いの御飯を食べた。もっとも菜の少ないときは別におかずを与えられたけれど、「奥」をのぞいては楡家の家族はみんな賄いでできる食事をとっているのだった。彼らの食事は病院の配膳が終ったあとになるので、大抵ずっと遅くなる。
しかし桃子は遊戯に夢中で、もうお昼でかなり空腹になっていることなどまるで念頭にないらしかった。
袴はいた書生さんがスッポンポンのポン
「ちえっ、なにがスッポンポンだい」
と、唐紙《からかみ》ごしにむずかる声がした。楡家の末っ子|米国《よねくに》の声である。
「ぼくのお粥まだ? こちとら、もうてんでお腹《なか》がすいちゃったい!」
米国は上の姉たちが聞いたら目をむいて小言を言いそうな文句を吐きちらかしたが、そのあと犬が遠《とお》吠《ぼ》えするように咳《せ》きこんだ。この年|猖獗《しょうけつ》を極めた悪質のスペイン風邪にものの見事に彼はやられていたのだ。そしてこの末の子は腺病質《せんびょうしつ》の気味があり、たとえ何も流行していなくてもすぐに風邪をひくのは例年のことであった。
米国とはまた途方もない名前だが、これは基一郎の多分にはったり気味のハイカラ趣味である。桃子と六つ違いの兄は欧洲《おうしゅう》といった。基一郎がむかし独逸に留学する直前に生れたからである。次に基一郎がアメリカ漫遊を試みた年に生れたのが米国で、ベイコクではあんまりというので郷里の和尚《おしょう》の意見によってヨネクニとよませた。そればかりではない、長女の龍子にしろ次女の聖子《せいこ》にしろ、当時にしてはかなり風変りの尖端《せんたん》的な名前といえたが、実は楡基一郎という姓名そのものが自らのハイカラな感覚によって創造されたもので、彼が親から貰《もら》った名前は似てもつかない田舎じみたものだったのである。
その楡家の家族の中で一番平凡な名前をもつ桃子は、隣室でむずかっている弟の声を聞くと、とっさになにか応酬してやる言葉を考えた。なぜなら彼女は決して弟と仲が悪くはなかったものの、少なくとも下田の婆やに関しては仇同士《かたきどうし》なのであった。姉や兄は齢《とし》が違っていた。この年少の二人だけで婆やの取りっくらをするのである。夜、二人は一室に婆やをはさんで寝るのだったが、眠りながらも双方とも婆やの腕を片一本ずつしっかりと抱きしめていた。下田の婆やはといえば、そんなふうに争奪戦の間に挟《はさ》まれ磔《はりつけ》みたいに腕を引っぱられながらも、平気でたいそうの鼾《いびき》をかいて眠りこけた。
しかし桃子は、弟をやりこめることを中止し、その代り前よりずっと甲高い声で歌いだした。
「せっせっせ、青山墓地から……」
下田の婆やは弱ったようだった。病気の米国も心配だったが、うっかり桃子の意志を無視して立っていってしまうと、桃子は急転直下泣きだす怖《おそ》れがあった。彼女の泣虫は有名だった。つまらないことで実にたやすく泣きだすのだ。声はあまり立てず、その代り造り物みたいに大粒の涙をぽろぽろとこぼすのである。
ちょうどそのとき、がらりと格《こう》子戸《しど》のあく音がした。
「婆やさん、また新聞見せてもらえんかね?」
「あっ、ビリケンさんだ」
桃子は喜んで立上り、せっかくのジャンケンポンも忘れてしまったようだった。
ビリケンさんは新聞を声をだして読むのである。朗読するのである。しかも突拍子もなく面白《おもしろ》い抑揚をつけて。たとえ内容はよく理解できなくとも、桃子にとってそれは楡病院という雑多で広範囲な機構から生ずるさまざまな愉しみの一つといってよかった。
ビリケンというのは一時流行した西洋人形の名称であったが、それに加えてついこの間まで政権を握っていた寺内前首相の渾名《あだな》でもあり、ちょっと頭のてっぺんが突出している人間は当時よくこの渾名を冠せられたものである。楡病院のビリケンさんもまた、イガグリ坊《ぼう》主《ず》の顱頂《ろちょう》がおあつらえむきにとがっていた。彼はもう何年も病院にいる施療《せりょう》患者の一人で、どこかわからないが確かに脳がわるいということだった。楡基一郎は昔は内科百般の医者であったが、独逸では主に精神病学を修め、帰朝してからは脳を病む患者をあつかいだした。青山に新病院を建設してからは、門には二つの看板がかけられた。一つは以前からの『楡《にれ》病院』であり、もう一つは『帝国脳病院』という名称である。現在では実際のところ、結核をはじめとする各種の病人もいることはいたが、入院患者の主流は精神病の人たちが占めていたのである。
もっともビリケンさんがどんなふうに脳がわるいのかは、桃子はもとより下田の婆《ばあ》やにもわからなかった。もうずっと以前から彼は病院内を普通に歩きまわり、配膳《はいぜん》の手伝いをしたり植木を移すのを手伝ったりしていて、言動にしてもそれほど変っているとは思われない。もしかしたら新聞を節をつけて読むのが病気なのかも知れない、と桃子は思ったりした。
新聞は「奥」でもとっている。病院でも数種類とっている。それは娯楽室にまわされるが、古くなったのは更に下田の婆やのところに集められてくる。この二階屋でも長女龍子の夫、養子の「若先生」が新聞をとっているが、そういう古い新聞がすべて束となってここの押入れに積まれてあった。下田の婆やはこれをあとで屑《くず》屋《や》に売るのである。
ビリケンさんはべつに新しいニュースを知りたいのでやってくるのではなかった。ときには何カ月も前の新聞を読むこともある。二、三日前の新聞にめぐりあうこともある。なんでも活字を読みあげるのが愉《たの》しいらしいのである。
彼はずかずかと上ってきて、押入れから一束の新聞をとりだした。順序もなく積んであるのをいい加減につかむのだから、行きあたりばったりであり、どんな新聞、どんな日《ひ》附《づけ》にぶつかるかは仏さまだけが知っていた。
「ほう、こりゃ都《みやこ》か。こりゃ新しい」と、彼は呟《つぶや》いた。
その間に下田の婆やはすっかり煮えあがった粥の鍋《なべ》を持って立って行った。しかしビリケンさんは、早くもいくらか声を震わせて読みはじめていた。
彼は「世界の上に未《いま》だ嘗《かつ》て観《み》られざる横浜市の祝捷《しゅくせふ》行列」の記事を読んだ。なんでも、戦いは捷《か》てり平和は来《きた》れりと高唱する在留外人を中心として、山車《だし》や花自動車や馬車があわせて百五十余、列の長さは三十余町にわたり、地球上の民族は敵国を除いて総《すべ》て殆《ほとん》ど集まったというのである。次に彼はもう一枚の新聞をとりあげて、「安い米は当分食へぬか、正米も期米も依然として高し」と読みあげた。「米は来年には一石五十円はおろか七十円にもならうといふ。そんな高い米を食はなくとも我《われ》等《ら》は愉快な生活ができるくらゐの意地あり、一月《ひとつき》に一日や二日の米無日《こめなしデー》を実行するに何の苦があらん」
「それ、つまらない。もっとほかのをよう」と、桃子は鼻を鳴らした。
「あいよ。米無しデーはたまらねえからな」
ビリケンさんは気安く答え、今度は半分|醤油《しょうゆ》のしみのある古びた新聞をひっくりかえしはじめた。
「世界に誇るべき大発明、天然色写真の完成、赤貧と闘へる発明家飯田|湖《こ》兆《てう》氏」
と、彼は素敵な調子をつけて読み、桃子はなにがなしうっとりと、着物の裾《すそ》がはだけるのもかまわず、まるで男の子のように膝《ひざ》をかかえた。
と、廊下に軽い足音がし、同じように軽く障子《しょうじ》があいて、基一郎の次女聖子がはいってきた。彼女は、そのだらしのない妹が見ても確かに羨《うらや》ましくなるような様子をしていた。江戸紫の絵羽《えば》の金紗《きんしゃ》に朱の袋帯を立《たて》矢《や》の字《じ》にしめ、その鮮やかな色彩は、彼女の血の気に乏しい肌《はだ》の色をいやがうえにも人形のように見せていた。そして彼女が後ろむきになって障子を締めたとき、三つ編みにして輪にされた後ろ髪につけられた幅の広いリボンがゆらゆらと揺れた。聖子はもう流行おくれになっていたとはいえマーガレットに結うのを好んだし、またそれがよく似あったのである。桃子は一瞬、年下の弟がよくやるように、「ちえっ、いいなあ」とでも言いたげに口をとがらせたが、すぐにビリケンさんのほうに向き直った。自分もいつかはあのようなお召を着ることができようとはとても考えられなかったが、しょせんこの姉も自分とは種類を別にした人間であり、それを羨ましがったり憧《あこが》れたりするのはお門違《かどちが》いであることを桃子はちゃんと承知していたからだ。
たしかに聖子は、誰でもちょっと目をみはらせるような娘であった。ほそ面《おもて》で、色白で、そのうえ来春学習院を卒業することになっている移ろいやすい貴重な年齢でもあり、唇《くちびる》から頤《あご》の辺りには、まだ脆《もろ》そうな少女のふくらみが残っていた。これが長女の龍子となると、母親ゆずりのもっと犯しがたい気品が具《そな》わっていたが、その顔は目に見えて縦にのびすぎ、鼻はいくらか鷲鼻《わしばな》となっていて、なにか冷やかな、いかつい印象を与えた。聖子はちょうどいい微妙な中間に位置していたといえる。もう少し龍子に近づけばどうしても親しみに欠けたであろうし、もっと桃子に近づけばこれは愛嬌のありすぎる堕落であったろう。そのため楡病院の誰彼《だれかれ》はなにかにつけこう噂《うわさ》せざるを得ないのだった。そりゃあなんといったって、聖子さまが一番の別嬪《べっぴん》さね。
その聖子は、新聞をひろげているビリケンさんを認めると、目にとまらぬほどかすかに眉《まゆ》をひそめ、決して行儀のよいとはいえぬ桃子の姿勢を見るともっと眉をひそめた。しかし彼女はただこう言った。
「龍さまはまだ?」
「龍さま? お二階じゃない?」
桃子はもう一度、聖子の姿を見、さすがに羨ましげに「また出かけるの?」と口に出しそうになったが、しかし彼女はあやうくその言葉を呑《の》みこんだ。「お出ましになるの?」と言わなければならないのだ。そうでないときっと姉は叱《しか》るにきまっている。桃子が物心がついてからの記憶にある聖子は決してそんな姉ではなかった。もちろん十三も齢の違う龍子から小言をいわれるのならこれは仕方がない。「奥」に閉じこもっている母親はあまりにかけ離れた存在であったし、龍子が桃子にとって姉というより母に近く感じられるのは自然のことである。しかし、かつては遊び友達であったはずの聖子までがへんにつんとして、自分より上の姉の味方に変じていったことは、どうしたって桃子には癪《しゃく》にさわることであった。学習院がいけないのだ、と彼女はわけもなくそう考えた。
乃木《のぎ》将軍が院長となって以来、平民の子女もはいれるようになった学習院の女学部に、さっそく龍子を入学させ、ついで聖子をもそこへ送りこんだのは基一郎の意図である。龍子は楡家にさまざまな学習院言葉を輸入し、基一郎はもちろんこれを嘉《か》納《のう》した。はばかりのことを御不浄、お床《とこ》をお床《じょう》、蚊帳《かや》を蚊帳《かちょう》と呼ぶようなたぐいである。これはいかにもそぐわない、とってつけた、田舎者が東京の文明にあこがれるようなものであったが、基一郎の感覚では楡家にはこれが必要なのであった。なぜなら楡家は基一郎が一代で新しく創《つく》りあげ、なお創りあげつつあるもので、なんでもいいからほかと変った伝統みたいなものをかき集めたかったからである。学習院でも普通友達同士は「さん」づけで呼び、ときに「様」と呼ぶ。大名華族の子女は様づけで呼ばれるが、そうとわかれば基一郎が自分の家族に「龍さま」「聖さま」を持ちこませたのは当然のことともいえた。
一方、ビリケンさんは、聖子がはいってきたとき多少|逡巡《しゅんじゅん》したようであった。桃子なぞは嬢ちゃんで済んだが、聖子となるとこれはお嬢さまであり、かなり「奥」に近い存在となるからだ。更に龍子となればほとんど「奥」に直結した若奥さまであり、うかうか新聞などを読むどころではなかった。
しかし彼はもうすでに新聞を読みかけており、いったん読みだした以上、彼にとってほかのことは実に稀《き》薄《はく》になってしまうのだった。
「写真界の驚異なる世界的大発明の天然色写真はわが同胞によつて発明完成され……」
と、彼はつづけた。しばらくは口ごもるような声だったが、次第になにもかも忘れ、ときには高くときには低く、桃子がなにより愉しみにしている独特の抑揚をつけて読みすすんでいった。
「忝《かたじけ》なくも梨本宮《なしもとのみや》妃殿下には農展に於《おい》て現品の台臨を辱《かたじけ》なうし、御《ご》褒《ほう》詞《し》あらせたるやに伝聞す……」
かたじけないが二つもあるなあ、と読みながら彼はちらと思った。
それは或《あ》る資産家の息子の発明美談なのであった。父親の失敗から一家倒産の運命となったその男は、奇《く》しき逆境から一転して、ついに三万二千の色彩を三つの原色素によって完全な天然色写真に大成するに至るのである。一西洋画家はこの写真を一見するや驚嘆し、「肖像画家は亡《ほろ》びるであろう」と叫んだという。
三万二千も色彩があるとは知らなんだ、と声高く読みすすめながらビリケンさんは思った。
聖子はしとやかに長火鉢のわきに坐《すわ》り、そこにあった『淑女画報』をめくっていた。彼女は姉の龍子を待っているのだった。二人はこれからお招《よ》ばれに行くのであり、自分が出来|損《そこな》いの桃子や隣で咳《せき》をしている米国とはもはや別世界の住人であることを彼女は自覚していた。しかし正直のところ、それは主として龍子から伝わってきた「奥」の強制力であり、自分もかつては桃子たちと同じ場所にいたことをも覚えていた。ビリケンさんの奇妙な節まわしを聞いていると、聖子は、急に昔の自分の古巣を、泥《どろ》にまみれて遊んだりした時代を、へんに懐《なつ》かしく恋しいような気分に囚《とら》われてゆくのを感じた。が、聖子は慌《あわ》てて、よく姉がやるように首すじをしゃっきり[#「しゃっきり」に傍点]とやや後方にそらした。そうやっていれば、たとえば桃子が腹《はら》這《ば》いになって両足を宙にあげて絵本を見るような下町っ子にちかい自堕落さとは明らかに区別されるのだ。そうやって聖子はしとやかに気品をみせて、『淑女画報』の目次を目で追っていった。表千家流正午茶会情景、和洋折衷の家の訪問仕方、令嬢文字書き方、御別荘に於《お》ける九条|公爵《こうしゃく》四令嬢、……。
こちらでは、ビリケンさんがいよいよ熱を加えて読んでいた。発明者は貧窮のうちに努力を重ね、うっかり一枚のガラス板を砕いてしまったとき、男泣きに泣いたことも再三にとどまらなかったという。
「夫人菊子は臨月の身にて夫を助け、食もほとんど廃して努力……」
桃子は内容をはっきりと理解しているわけではなかったが、ビリケンさんの声《こわ》音《ね》に魅せられたように、だらしなく膝をゆすっていた。
「二月九日一子を分娩《ぶんべん》し、翌十日第一の発明は完成した。これぞ七月二十三日に特許を得たるセルロイド・カーボン・チッヒである」
セルロイド・カーボン・チッヒか、ふん、なるほどなあ、と次の活字を追いながらビリケンさんは思った。
「今明日に農展に出品さるる一枚の天然色写真こそ、日本有数の美人を撮影せるものにして、この名誉を荷なひてモデルとなりしは下《した》谷《や》の久松葉おはんである。天然色写真は三個の写真撮影機により撮影され、氏の発明したる炭粉紙ともう一つの秘密の物を重ねて剥《はく》離《り》した時に、三万二千の色彩は一枚の写真に吸集され表現されるのである」
いつの間にか聖子は、自分がうっかり淑女画報から離れ、ビリケンさんの声に耳を傾けていることに気がついた。たしかにその朗読ぶりもその内容も表千家なんぞより面白かったからである。
しかし、ビリケンさんの節まわしが一段落ついたとき、廊下の隅《すみ》の階段を降りてくる足音が聞えた。それは基一郎の長女龍子の、まがいようもなく明瞭《めいりょう》にはきはきとした足音であった。
聖子ははっとして思わず首をしゃっきりさせた。それから、とうに子供も持っている自分とは八つ違う姉、基一郎夫妻の信念を鏡のように映している姉、なんといっても楡家の正統である姉を迎えるために立上りかけた。
しかしビリケンさんはそのとき恍惚《こうこつ》となっていて、龍子の足音も聞き洩《も》らしたようであった。またもや彼は次の新聞にとりかかった。
「桃吉御殿の栄華は十年の悪夢よ、恋ざめの岩倉具張《いはくらともはる》」
その美文調の小見出しはすっかり彼の気に入ったようだった。これでこそ腕によりをかけての朗詠ができるというものだ。
「風流貴公子岩倉具張氏が新橋の美妓《びぎ》桃吉の仇《あだ》なる姿に迷ひて、一門に傾く悲運を顧みず、遂《つひ》には母を捨て妻を捨て子を捨てて、恋|三昧《ざんまい》の月日十年は夢のやうに過ぎぬ……」
その文句は、聖子のきつくさらしを巻いた胸の奥になんとなく侵入していった。たしかに彼女はその先を聞きたいと思った。しかし龍子の足音はすでに玄関の前にとまっている。この毅《き》然《ぜん》とした姉は、下《した》っ端《ぱ》の奉公人や癒《なお》りかけの脳病やみなんぞには決して顔の筋肉をゆるめないのだ。そんなものがのさばっている席には顔を出そうともしないのだ。「恋三昧の月日……」なぞという奇妙な節まわしを、彼女の気を許した同類であり輩下である聖子までが聞きいっていると知ったら、どんな冷やかな侮《ぶ》蔑《べつ》にあふれた視線をあびせることであろうか。
聖子は裾を気にしながらしゃんと立ちあがり、ふしだらな恰好《かっこう》でビリケンさんの朗読にすっかり熱中して聞きとれている桃子に、まるでその姉そっくりのけだかい[#「けだかい」に傍点]視線をながすと、そのまま部屋を出た。そしてこの二人の、楡家の一面の代表ともいえる姉妹は、間もなく玄関から出てゆく気配がした。
「いやだ、それ熱すぎるったら!」
隣室からは米国の甘える声がきこえた。下田の婆やに世話されて粥《かゆ》をすすらせて貰《もら》っている楡家の末っ子は、充分に病気の特権を利用しているのだ。すると、桃子は急にビリケンさんの読みあげる呪縛《じゅばく》から解き放された。たちまち彼女は空腹を覚えだした。
「婆やあ、あたしの御飯、まあだ?」
彼女は、姉たちに聞かれなくて幸いといえる、とてつもないきんきら声でそう叫んだ。
*
楡病院の正面の門柱は、いかめしい見あげるような石柱であった。芯《しん》の芯まで堅く、緻《ち》密《みつ》で、頑丈《がんじょう》な御《み》影石《かげいし》であった。石というからには芯まで堅いのは当然といえようが、わざわざこう断わらねばならない理由はあとでわかる。
二つの門柱にはそれぞれぶ厚い木の看板がかかっていた。この表札はちと大きすぎた。縦の長さは人の背くらいは充分あり、目につきやすいことは確かだが、いささか美観を損じていると言わねばならなかった。しかしこれが基一郎院長の好みとあれば致し方のないことである。片方には『楡病院』、もう一方には『帝国脳病院』と肉太の文字がくろぐろと焼きつけられていた。
門番が開閉させるのにひどく骨を折る重々しい鉄柵《てっさく》の門は、上方が水平ではなく、閉ざされたときに山形をなすように端のほうが高くなっているばかりか、にぶい光沢を放つ鉄柱は、真ん中辺と上部でくるくると渦《うず》を巻いたり波形にうねったりして、せい一杯|威《い》嚇《かく》的な、ものものしげな外観を人々に与えようと努めているかのようだった。
門柱の両脇《りょうわき》はずっと背の低い鉄になり、もう一つ御影石の柱が立ち、そこからずっと赤《あか》煉《れん》瓦《が》の塀《へい》に連なっている。十五年の風雪を経た煉瓦塀はややくすみ、古びてしっとりとしたおもむきを見せていた。だが、それは正門から左手だけのことであった。右手の塀はいやに真新しい紅色を呈していた。真新しいというより、人工的な無理|強《じ》いの毒々しさ、決して上品とはいえぬ脂粉のけばけばしさと言ってもよかった。どうしたことなのか? その煉瓦塀は建て直されたのだろうか、特別に赤い色の煉瓦でも使って? いやいや、右手の塀は今しがた基一郎好みの化粧をほどこされたところなのだ。煉瓦の表面に、洩れなく酸化第二鉄、つまり紅殻《ベンガラ》が塗られ終ったところなのである。もちろん左手の塀もこれから紅を加えられようとしているのだ。なにか事があれば仰々しい祝典、会合、行事をせずには気がすまない基一郎にとって、楡病院帝国脳病院創立十五周年記念日が迫っていたからである。本来ならちょっとした別館を建てますとか、いくらかの改築をほどこしたいところであったろう。しかし病院はすでに仕上っていた。敷地にも余裕がなかった。それに打明けていえば、基一郎院長は郷里の山形県南村山郡の郡部から出馬した昨年の選挙に相当の出費を余儀なくされたのだった。その代り彼は名誉心を満足させ、病院の従業員からは二倍の尊敬を受け、その特大の名刺の肩書に一層の光彩を放つ衆議院議員という名称を刷りこむことができたのである。それにしても選挙には金がかかった。倹約家の彼の妻ひさが、滅多にうごかさぬ口をひらいてぶつぶつと愚痴をこぼすに充分なほどの金がかかった。それゆえ今は、意にそぐわぬことではあったが、病院中をくまなくぴかぴかに磨《みが》きたて、新しくペンキを塗り、煉瓦塀に紅殻を塗らせるくらいのことで満足しなければならなかった。
病院の煉瓦塀の内側、植込みから砂利の前庭に移るところに、五、六人の男たちが腰をおろしていた。かたわらには紅殻を入れたバケツや刷毛《はけ》が置いてある。午前中ずっと塀の化粧をやっていた出入りの職人たちであった。彼らはさいぜん賄《まかな》いで食事をすませ、そこでさんざん油を売り、さて前庭に戻《もど》ってきてからもまだ容易に腰をあげようとしないのだった。なにしろ塀は長かったし、院長の命令だとはいえあまり乗気のする仕事でもなかったから。
それに院長はとっくに外出していることを一同は知っていた。最近楡病院が買いこんだ箱型のT型フォードが昼まえ玄関先にとまっていたが、やがてフロックコート姿の院長がステッキを伊達《だて》に持ち、数名の見送りを受けて自動車に乗りこんだのだった。フォードが砂利道に音を立てて正門をでる間、せわしげに塀に紅殻を塗っていた一同は、座席に鷹揚《おうよう》にもたれた院長が窓|硝子《ガラス》ごしにこっちを見ているのを横目でちゃんと窺《うかが》っていた。院長の顔は自動車の振動のためばかりでなく上下にうなずくようにうごき、いつものように「いやご苦労ご苦労」と言っているかのようであった。
そのあと、今日の宿直らしい副院長の高田が通りかかったときも、彼らは平気で坐《すわ》っていた。なぜなら高田はどうせ雇われ者で、将来の病院の実権を握る立場にはいないことを、職人たちはちゃんと知っていたからだ。いずれは龍子の夫の若先生が副院長の職を継ぐことになるだろう。それに楡病院には親類筋にあたる医者が沢山いた。基一郎院長のことだから、息子たちもどうせ医者に仕立てるだろうし、下の娘たちにもむろんのこと医者の婿《むこ》を迎えるにちがいあるまい。そうやって院長は次第に楡病院を一族郎党の医者で固めてゆく計画であることを、病院の関係者はみんな承知していた。
といって、現在の高田副院長が立派な医者で、なかなか人望もあることは認めねばならなかった。背中に楡病院の文字のある法《はっ》被《ぴ》を着た職人は、キセルのがん首を地下足袋《じかたび》の裏ではたきながら、ペッと唾《つば》を吐いた。
「高田先生の診立《みた》てはええそうだなあ。医学博士となると、こう胸をぽんぽん叩《たた》く音がまるっきりちがうそうじゃあねえか」
「そりゃあなあ。だが院長先生にゃかなわねえ。院長は患者の頭をぽんぽんとやらかすね。それでどこが悪いか、いっぺんにわかるっていうからなあ」
「院長先生は博士でねえそうじゃないか」
「日本の博士じゃねえ。しかしドクトル・メジチーネだ」
「そりゃどっちが偉《えれ》えんだ?」
「あた棒よ。なにせドクトル・メジチーネといやあ、こりゃ外国《げえこく》の博士さまだ。ドクトル・メジチーネとくりゃあ、そんじょそこらにはざらにはいねえ」
「さあ、ぼつぼつ始めるかな」と、頭《かしら》だった職人が声をかけた。
一同がやおら腰をあげて、今度は塀の内側を水で洗い、紅殻を塗りはじめたとき、門を二人乗りの空の人力車がはいってくるのが見えた。病院の玄関の前にとまると、ほどなく二人の若い女が乗りこみ、車夫はてきぱきとその膝《ひざ》を膝掛けでくるんでから、前にまわって梶棒《かじぼう》を握った。
「あ、ありゃあ聖子さまだ」
さきほどドクトル・メジチーネを礼讃《らいさん》した職人は、仕事の手を休め、すこしむこうをよぎってゆく人力車にむかってぺこりと頭をさげた。すると、聖子はこちらにむかって、わずかに首をうごかして挨拶《あいさつ》をかえした。どこか困惑したように、ほとんど認められないほどに口元をゆるめたが、冬の曇り空の下のその血の気のない表情は、そうしたかすかな微笑によってなおさら職人の心を打ったのである。一方、隣にボアのショールに包まれて、しかし明らかに首をしゃっきりさせて乗っているその姉龍子のほうは、そんな職人の挨拶にはてんで気がつかないようだった。気がついても彼女はそんなものを頭から無視するか、たとえ冷淡な挨拶を返してもその表情は小ゆるぎもしなかったことだろう。すると、そんな姉の態度を感じとったのかどうか、聖子もすぐに首をまっすぐ前にむけた。そして楡病院の彩《いろど》りであるこの姉妹は、顔立ちの相違はあってもなにか対《つい》のような類似の姿勢をとりながら視界から消えていった。
「いやあ、トテシャンだなあ」
あとを見送った職人は思わず呟《つぶや》いた。ドクトル・メジチーネを礼讃したときよりも、ずっと心底からの感慨をこめて。
「なんだいおめえ、若奥さんのことかい?」
「うんにゃ、妹のほうだ。ありゃあどうしててえしたもんだ」
「楡病院じゃな」と、もう一人が口をだした。「どうも女のほうができがいいぜ。あの二人とも学習院だ。それにくらべて息子たちのほうはどうもあんまりできがよくねえ」
「息子ってまだちいせえんだろう? あの小学生のよ?」
「いや、まだ上にいるんだ。いま仙台《せんだい》の高等学校にいってらあ。なんでももう二度ほど落第したって話さ」
「そういやあ、あの小せえのもあんまり利口そうな面《つら》でもねえなあ」
「そこにゆくと女たちのほうはずっとできがええぜ。あの若奥さんなんざあ、てえしたきれもんになるぜ。なにせ龍さま、聖さまだからなあ」
職人たちはそこで声を立てて笑いあったが、この学習院ゆずりの呼称には、どうしてもなじめなかったからである。女中や下田の婆《ばあ》やさんなどからそうした呼び名を聞くと、はじめは誰《だれ》だってびっくりせざるを得ないのだ。なんだって、あの若奥さんが龍さまだって?へええ、おっかねえ名前だなあ。そうして彼女らの名前にも本当は子がついているのだと聞かされて、ようやく安心をするのだった。
「それにしたって、龍さまと呼ぶにゃ度胸がいるぜ」
「しっ、しっ。院代《いんだい》のおでましだ」
みんなは急に忙しく手を動かしだした。病院の玄関から、いかにも代表者らしい黒の背広に身をかためた鶴《つる》のように痩《や》せた男が出てきたからである。といって、彼は長身|痩《そう》躯《く》ではなかった。背も低かった。要するにあまり貫禄《かんろく》のあるとはいえぬ小男なのだが、そのくせ少なくとも楡病院に関係する者すべてにとって彼は隠然たる勢力を持っていた。一切の実務の権限を握る院長代理であったからである。
院長代理、つまり院代という呼び名も基一郎が発明したものであった。それは副院長とは別《べっ》箇《こ》のもので、事務長といったほうがふさわしかろうが、しかし院代と呼んだほうが威厳があり、ものものしく、基一郎にとっても院代自身にとっても、ずっとその発音は好みにあったのである。
その院代、勝俣秀吉《かつまたひできち》は、かつて楡病院に世話を受けていた書生の一人であった。幾人もの朋輩《ほうばい》同様、もちろん彼も医者になるつもりであり、人並に勉強をした。当時の医師試験は前期後期の二回からなっており、秀吉は難なく前期の学科試験に合格した。ところがなんぞ計らん、なにか不可解な運命の摂理によって、どうしても後期の実地試験に合格できぬという羽目になった。彼は一度落ち、二度落第した。次の年の試験日が近づくにつれ、彼の顔いろは青ざめ、神経質そうな瞼《まぶた》はひくひくと震えた。楡病院の医者たちは心配して、彼の試験のためいろいろな模擬問題を出してやった。質問されると秀吉は憑《つ》かれたように正確な答を口にした。事実彼は夜も寝ずに――というより本当は眠れなかったのだが――勉強していたのである。それだけ知っていれば今度はわけなく合格だ、と医者たちはうけあった。だがその言葉を秀吉自身どうしても信ずる気になれず、また事実そのとおりになった。何回受けても彼は落第した。その間に秀吉より後輩の者が立派に医師免許をとり、彼はあからさまな嘲笑《ちょうしょう》の波が自分をとりかこむのを感じた。実際はさまざまな人生をたどる書生たちがおり、その不運に同情こそすれ秀吉を嘲笑する者とていなかったのだが、ともあれ彼の神経はまざまざとそれを感じとった。こうして勝俣秀吉はもはやそれ以上試験を受ける気力を失ってしまったのである。彼は黒岩涙香《くろいわるいこう》の『噫《ああ》無情』を身につまされてよみ、浅草の女義《おんなぎ》太夫《だゆう》に通うことでわずかに気をまぎらした。
しかし、どんな人間であれその能力を見《み》出《いだ》すことに秀《ひい》でている基一郎は、秀吉をそのまま捨ててはおかなかった。彼に薬局を手伝わせ、つぎに事務をとらせた。そして秀吉は、やがて堂々たる大病院に発展していった楡病院の煩《はん》瑣《さ》な事務長の仕事をつつがなくやりとげたばかりでなく、すでに院長の片腕ともなっていたのである。何回かの増築を重ねた楡病院は私立病院としてあまり類のない発展をとげ、そして基一郎は医業ばかりでなく政治に手を出すことになった。昨年衆議院議員に当選したとき、院長は秀吉を呼びよせて、いつもの何層倍も親しみのある、人をそらさない、誰でもこの院長のためなら身を粉にして発奮せざるを得ないような口調で言ったものだ。
「勝俣、ぼくはねえ、これからずっとずっと多忙になるよ。病院のことをあまりかまっておれなくなる。君はぼくの代理として宜《よろ》しくやってくれ。院長代理としてな。そうだ、院代という名前にしよう。院代という判こをつくるんだね、早速。大きい判がいい、こう四角くって大きいのをな」
それは言葉だけではなかった。院長は事々に秀吉を立て、診療以外の一切を院代にまかせきりにした。院長がある訴えを聞き、ある決定を迫られたとき、彼は落着きはらって、やや頤《あご》を上に向けてこう言ったのである。「ああ、それはな、院代先生に相談なさって……」院長はじかに答えることはせず、するりと身体《からだ》をかわしたわけだ。これは楡病院の最高の統率者としては上々の処し方といってよかったが、勢い院代の権力を増大させることになった。院長は秀吉のことを院代先生と呼ぶのだ。そうなれば蔭《かげ》では彼のことを院代、院代と称している病院の連中も、面とむかってはもちろん院代先生と呼ばざるを得なかった。院代は事務室の横に自分専用の個室を持っている。そこの机の引出しにはいっている数多《あまた》の印形《いんぎょう》の中には、『楡病院帝国脳病院院代』と彫られてある四角い判があって、今ではこの判なくしては一切の病院の機能は進行しないのである。そして、この奇妙なひびきを有する院代という名はその職を現わすのではなく、あたかも勝俣秀吉自体と変りない固有名詞とまでなっていた。
院代は先に述べたようにほそぼそと痩せた小男だったが、その服には皺《しわ》ひとつなく、そのハイカラーはいやがうえにも固くぴんと首元に立っていた。広い額と頬《ほお》はややあおじろく、その瞼は今も神経質そうに縁なし眼鏡の奥でひくひくと震えた。そして鼻下によく手入れのされたチョビ髭《ひげ》をたくわえていた。彼はもともとひょこひょことせわしなく歩く男であったが、近ごろはその歩行ぶりにも悠然《ゆうぜん》たるところ、楡病院に於《おい》て自分が果している役割を反映する悠揚迫らざるところが加味されてきた。しかしそれは多分に意識的なもので、彼の本質から離れた運動神経の制御であったから、彼が強《し》いてゆっくりとその足をうごかしてゆくところは、まるで鶴に似た鳥類が変にぎくしゃくとその肢先《あしさき》で水底を探り探り歩いてゆくさまとそっくりであった。それをおぎなうのに、院代はもう少し見映えのする恰好《かっこう》を案出した。およそ人目のある場所を歩くとき、必ず彼は腕を背中に組んだ。第四|腰椎《ようつい》の辺りに親指だけを組みあわせた両手をあてがい、他の指は軽く優雅にそれとなく上方に立てる。院代自身としてはなかなか重々しい姿勢と思えたのだろうが、うしろ手に組んだその指の恰好は、なんだか鶴の尾っぽの模倣のようにも窺えたのである。
院代はさきほど基一郎院長を見送った。院長の留守を、いや院長がいてもいなくても楡病院をあずかる責任者の身にふさわしい、充分に慇懃《いんぎん》でどことなくそっけない態度で、動きだした箱型の自動車を見送った。それから自室に戻る前に事務室を覗《のぞ》いてみると、そこでは日曜日のこととてほかに人もいないがらんとした部屋に、会計係の大石がうろうろと金庫の扉《とびら》を閉じているところであった。
あまり頼りになりそうもない大石を会計に雇ったのは院代である。胡麻《ごま》塩《しお》頭のこの初老の男は特別神経質で、格別気が小さかった。彼は年がら年じゅう帳簿とにらめっこをしていた。そのうえ用があってもなくても日に十何遍となく金庫を改めなくては気が済まないのだった。いつも彼は必要以上にせわしく算《そろ》盤《ばん》をはじいている。首をのばして帳簿をのぞきこむ。それから不安に堪えかねたように天井を見あげる。また算盤をぱちぱちやる。ついでよろよろと立上り、事務室の隅《すみ》にある金庫の前にかがみこむのだ。神経質にぎざぎざのある重い文字板を合わせ、どっしりとした扉をひきあけ、内部を覗きこんでなにやらぶつぶつ呟いている。それからのろのろと扉をしめ、机に戻り、ふたたび帳簿を見やって吐息をつく。そのくせ小一時間もたつと、またぞろ金庫を改めに行かねばいたたまれないのだった。
この気の小さい初老の男は、院代の意見によれば会計に打ってつけなのであった。彼なら決して間違いをしでかすはずはない。まかりまちがっても楡病院の金を一銭銅貨一枚たりともちょろまかす怖《おそ》れはないのだ。とはいえ院代にとっては、自分よりかなり年配のこの会計係が、かつて試験恐怖症に悩んだ自分よりずっと神経質でおろおろしているところを見るのがかなりの愉悦であったことは争えない。大石のそばに立つとき、院代勝俣秀吉は、自分が夢や錯覚ではない楡病院の重鎮であることを確実に自覚できたのである。
大石は、両手をうしろに組んで事務室に現われた院代の顔を見ると、まるで自分の担《にな》う重荷に堪えかねた人間のように、途方にくれた恰好で首を横にかしげながら、ほとんど信じられぬといったような口調でもごもごと訴えた。
「院代先生、院長先生はまた四十円お持ちになったです。こう毎日々々、二十円、三十円ずつ、そして今日は四十円と持っていかれましては……。しかし院代先生、代議士というものは一体そんなに金の要るものなんでしょうかねえ」
院代勝俣秀吉はすぐには返事をしなかった。まるでお前らのような下じもの者に、かような深遠で複雑な事情を説明しても仕方がないといわんばかりの表情で。
彼は返事をせずに窓と反対側の壁を見やった。そこにはずいぶんと古びた大きな黒板がかかっていた。黒板にはすでに色の剥《は》げかかっている白ペンキの線がひいてあり、同じく白ペンキで月火水と曜日の文字が記してあった。その下には白墨で日《ひ》附《づけ》が書きこまれており、それぞれの曜日の診察を担当する医師の名、または宿直医の名が記されていた。だが、真先に院長の予定が、その出席する会合や訪問の予定がずらりと並んでいた。それを見ると基一郎院長はあまり病院にいる閑《ひま》とてないように思われるのだったが、院代はその文字を眺《なが》め、自分自身が基一郎であるかのようにもっともらしくうなずいてみせた。おもむろに彼は言った。
「それは君、代議士ともなれば一国の政治をうごかす者だよ。院長先生が出席される会の会費だって安かろうはずがない」
しかし院代勝俣秀吉は、院長がその名刺の肩書にふさわしく御多分にもれぬ女好きであって、会計係のこぼす二十円や四十円のうちどのくらいがそちらの方へ流れてゆくかわかったものでないことをちゃんと承知していた。が、もちろん彼はそんなことは口に出さなかった。彼は院長の御多忙とその比類のない御《お》人柄《ひとがら》につき、病院の者なら誰でも知っている事柄を何分かしゃべった。楡病院の創始者であり今は衆議院議員である基一郎を讃《たた》えることにかけて、院代は決して人後に落ちなかった。彼はその院長に登用され重んじられているのだったから。
それから彼は、おそれいって益々《ますます》おろおろしている大石に、会計簿を自室に持ってこさせた。鼻に皺を寄せるようにして、どこといって欠点のない、几帳面《きちょうめん》な、だが神経質な文字がふるえている帳簿を調べ、さてその終りのところにたっぷり朱肉をつけて「院代」の判を押した。彼はなんにでも判を押した。賄《まかな》いの献立表から俥屋《くるまや》の請求書に至るまでべたべたと判を押した。「院代」の判がなければ楡病院の機能は麻痺《まひ》してしまうのである。そしてこの四角い判を紙に押しつけるとき、なんという歓《よろこ》びと誇りを彼は感じたことか。
いま彼は、もう判を押す書類が手元になくなってしまったので、ほそい青白い手をうしろに組みながら病院の玄関先に出てきたのだった。戸外はさすがに寒かった。これはやはり部屋の中にいたほうがよかった。しかし彼にとってすっかり見慣れたものだったとはいえ、横手のほうにずらりと並んでいる円柱の列を一目見たとき、もう少し門のほうまで行って、いくら見ても見飽きない楡病院正面の景観を更にもう一度眺めたいという欲求に、この痩せた小男は訳もなく駆られたのであった。
それは他《ほか》へ行ったなら通用しない、院代勝俣秀吉のごく個人的な感傷であったかも知れない。しかし、たとえなんの関係のない者だとしてもはじめてこの病院を見渡したとしたら、良いほうへ傾くか悪い印象に傾くかは別問題として、やはり多大の感銘を抱くことは間違いなかった。明治の初期の人間であったなら文句なく口をあんぐりあけて驚嘆したであろう。もし仮に昭和の人間だとしたら、理解できぬというふうに曖昧《あいまい》な、もしくは困惑したいくらかの軽蔑《けいべつ》を含んだ笑いを頬に刻んだことであろう。
事実、明治三十七年にこの病院の主だった前面が竣工《しゅんこう》したとき、近隣の者はちょうど異国の黒船が急に眼前に現われたかのように、あっけにとられたものであった。むろん東京市民のことだ。建物自体は驚くに当らない。しかし中央街や盛り場とはちがい、電車通りの附近はすでに後年の形をなしていたものの、あとは広大な墓地と、ところどころにかたまった人家と、だだっ広い空地がひろがる青山|界隈《かいわい》のことである。病院の下《しも》手《て》は一段低い谷間になっていて、そこはまだ一面の田と畠《はたけ》で夏には蛙《かえる》の声がかまびすしかったし、現にこの大正七年になっても、その田畑の半分は残っていたのである。そういう場所にこの堂々とした、ほとんどいかがわしいと思われるような建築物が出現したとき、近隣の者はやはり目を見張り、噂《うわさ》に花を咲かせ、首をかしげたのであった。みんなが必要以上にこの病院に注目したのは、それが官公立のものではなく楡基一郎の個人病院だったということと、もう一つは端的にいってそれが精神異常者、気違い、気じるしを多く収容する病院だったという事実である。町内の一部に病院設立に対する反対運動が起ったのも無理はなかった。しかし、いざ楡病院が完成してみれば、附近一帯の商家はすべてその恩恵を受けて成長したといっても過言ではなかった。まだ明治神宮も存在しない当時の青山五丁目一帯の人々にとって、楡病院はすでに一つの名所、一つの目印ともなっていたのである。人々は家の在処《ありか》を尋ねられたときにこう答えた。「ああ、長谷《はせ》さんなら楡病院を少し行きすぎて右に曲って……」あるいは「それなら脳病院のすぐ手前でさあ」あるいはもっと簡単に「さて、病院のすぐそばにそんな家があったっけかな」
院代勝俣秀吉は、そういう歴史的風俗的な意味合をこめて、小さい躯《み》をそらすようにして楡病院の正面を飾る円柱の列を眺めわたした。その柱は一言にしていうならばコリント様式のまがいで、上方にごてごてと複雑な装飾がついていた。一階、二階の前部は、そうした太い華やかな円柱が林立する柱廊となっていたが、階上は半ば意味のないもったいぶった石の欄干を有するところから、バルコニーと呼んだほうがふさわしいかも知れなかった。さらにもう数歩を退いて眺めれば、屋根にはもっとおどろくべき偉観が見られた。あまり厳密な均衡もなく、七つの塔が仰々しく威圧するように聳《そび》えたっていたのである。一番左手のものは、おそらくビザンチン様式を模したもので、急|勾配《こうばい》な傾斜をもってとがって突っ立ち、先端にはまるで法王でも持っているような笏《しゃく》にも似た避雷針がついていた。次の塔はもっと丸みをおび、おだやかに典雅に自分の存在を主張していた。そうして実に七つの塔がすべて関連もなく、勝手気ままに、それぞれ形を異にしながら、あくまで厳然と人々を見おろしているさまは、それがどんな意味合であれ吐息をつくほどの一大奇観というべきであった。なかでも珍妙なのは、正面玄関の上の時計台に指を屈せねばならなかった。それは他のすべての塔、すべての円柱、いや建物全体とかけ離れていた。ほとんど中国風、というより絵本で見る竜宮城《りゅうぐうじょう》かなにかを思いおこさせた。それでもそれは、とにかく中央にでんともったいぶって位していたのである。
院代はうしろに組みあわせた手をほどき、チョッキのポケットからとりだした懐中時計を見やった。時計台の大時計の針を気にしたのである。なぜならその大時計は、常に進んだり遅れたりして、まともな時刻を一向に示そうとしなかったからだ。院長は常々時計の遅れるのを好まず、あからさまに渋面を作った。しかしそれが進んでいるときはべつに文句を言わず、そればかりか相好《そうごう》をくずして、「ああ、うちの時計は十五分進んでいるな」と、ほとんど愉快そうに言うのだった。そのくらいならいっそ一時間も二時間も進ませたらよかったろうが、それでは時計の役目を果さないというものである。院代が自分の懐中時計と見くらべたところでは、大時計はちょうど五分ほど進んでいた。うむ、まずまずだな、とうなずいて院代はふたたび両手を背中にまわした。
そして院代勝俣秀吉は、大きからぬ身体をせい一杯のばすようにして、楡病院の全体をほれぼれともう一回眺めやった。彼の感覚によれば、それはあきらかに幻の宮殿であり、院長基一郎の測りがたい天才のもたらした地上の驚異そのものなのであった。円柱は白く、高貴に、曇り空の下にもどっしりと連なっていた。尖塔《せんとう》は怪異に、円塔はそれを柔らげて、写真だけで見たことのある異国の風景さながらにそそりたっていた。屋根の上には塔ばかりでなく、いくつもの明りとりの窓が、それぞれ独立した屋根をつけて突出していた。もともと屋根裏部屋の天窓なのであろうが、楡病院にかぎりこれは純然たる飾りなのである。全体を一瞥《いちべつ》して、もっとも人目を惹《ひ》く柱廊のあたりに注目すれば、これはスペインルネッサンス様式の建物だとある人は説明するであろう。しかし彼とてもまた、少し視野をずらせば、全体の統一を破るふしぎな突出、奇妙なふくらみ、なんといってよいかわからない破天荒の様式に目をやったとき、どうしたってその既成の知識の混乱と絶望のなかに匙《さじ》を投げ捨てたことであろう。なかんずく竜宮城を髣髴《ほうふつ》とさせる時計台に至っては……。
しかし、これこそ楡基一郎の天来の摂取力と創造力との結晶ともいえる建築物なのであった。彼はすべての図面を自分一人で引いたのだ。外遊時代、彼がひとりひそやかな昂奮《こうふん》を抱いて打眺めた数多《あまた》の建物が、彼の中に沈《ちん》澱《でん》し、かきまぜられ、そのいかにももったいぶった、鬼《き》面人《めんひと》をおどろかさざるを得ない精神の基準に従って、奔放に、誇らかに、随分とあやしげな情熱をこめて形をとってきたものであった。基一郎は素人《しろうと》とはいえ、もともと建築に、なにやかやとでっちあげることに、並々ならぬ興味と才能を有していた。彼は全霊をこめて図面を引き、出入りの棟梁《とうりょう》大工たちを督励し、この滅多にない建物を作りあげたのだった。彼は自ら深川の木場《きば》に材木を買出しに出かけた。石材も吟味した。棟梁はほとんど音《ね》をあげた。だが、院代を初めとする大多数の人間が、基一郎を特別な人間あつかいにせざるを得ない大病院はこうして完成したのである。
もちろん現在に至るまでは幾多の増築や改築があった。院長は閑《ひま》さえあれば新しい図面を引き新しい考案を加えたからである。左手の、階下は「奥」、階上の珊《さん》瑚《ご》の間《ま》を含む一郭は明治の末に建てまされたものであったし、裏手につづく病棟に至っては増築につぐ増築を加えられていた。そして全体を知っている者に明らかに感じとれることは、楡病院は正面こそ、人目につく表のほうこそたしかに類のない偉容を誇っていたが、裏手のほうはかなり安っぽく粗末になっていることであった。更に打明けていえば、コリント様式を模した一抱えもある円柱にしても、人はこれを当然大理石と見るであろうが、実は基一郎の発明ともいえる人造石なのであった。大半がコンクリートで、しかしこれを丹念に磨《みが》かせると大理石そっくりの光沢がでるのだ。だが、それはまあいい。まったく信じがたいことに、その円柱は、といって人造石の集積でもなかった。芯《しん》は正真正銘の木材にすぎなかった。木材の上に薄く人造石が貼《は》りつけてあるというのがまぎれもない真相なのであった。そして巨大な円柱ばかりでなく、この天才的な見かけ倒しの精神は、堂々として人目を奪うこの建物すべてをおおいつくしていたのである。
もちろん院代勝俣秀吉は、そんなことはよく承知していた。承知していたとて、彼の目に映ずる楡病院の偉容がいささかも減ずるわけではなかった。大理石まがいの人造石を貼りつけた壁は白々と輝き、摩訶《まか》不可思議の塔は天をめざして屹立《きつりつ》していた。その見せかけの絢爛《けんらん》さのみを狙《ねら》ったごしゃまぜの不統一が、もとより院代にわかるはずはなかった。そして彼は今更ながら感嘆し、満足の吐息をついたのだった。むこうで煉《れん》瓦《が》塀《べい》を塗りかえている数名の職人の姿も、彼の目には単に蟻《あり》かなにかがうごめいているくらいにしか映らなかった。
それでも院代はそちらのほうへ近づいていった。そして院長のやるように頤《あご》を前にのばして、塀にむかって刷毛《はけ》を動かしている紺の法《はっ》被《ぴ》の背中にむかって声をかけた。
「大分|綺《き》麗《れい》になったねえ。あ、それから胡《ご》粉《ふん》を塗るのを忘れちゃいかんよ、胡粉をな」
煉瓦と煉瓦の間の部分に白く胡粉を塗ってなおさらくっきりと目も覚めるように見せかけるのは、これまた基一郎の発明なのである。
相手は、わかってまさあという具合に腹の中で舌打ちして、さて声にだしては丁寧にこう答えた。
「これがすっかり乾いちまったらすぐにやります。そうじゃないと紅殻《ベンガラ》と色がまじっちまうんで」
院代はおもむろにうなずき、いやご苦労ご苦労とは口にこそ出さなかったが、ちょうどそのような雇い主の態度でしばらく皆の仕事ぶりを鼻に皺《しわ》を寄せて観察していた。それからゆっくりと向きを変え、病院の玄関のほうへ引返していった。両手をうしろに組みあわし、鶴《つる》のような足のあげ方をしながら、その院長代理の姿は大玄関の中へ消えた。職人たちは今度こそ、声にだして「へ!」と言った。
辺りは静かであった。昂奮した脳病患者の叫び声とて聞えず、わずかに松の枝に雀《すずめ》たちの群れが集まってちちと鳴いた。日曜で外来は休みなので人々の往来もなく、楡病院は一見しずかに憩《いこ》っているように見えた。ところが、いい加減|嫌々《いやいや》仕事をしていた職人たちの注意を引きつけたことに、またもや玄関の前にひとつの小さな人影が現われたのである。
それは基一郎の末娘、桃子であった。風邪がはやっているから戸外へ行かぬようにとめられていた彼女は、もう部屋にこもっているのに飽々したのだ。彼女は下田の婆《ばあ》やの制止もきかず、ゴム毬《まり》をもって病院の横手をまわり、毬をつくのに都合のよい石畳の玄関先にやってきたのだった。婆やがつけてくれたガーゼのマスクはとうに袂《たもと》に入れてしまっていた。そしてちっとも戸外の寒さなんぞ気にかけず、器用に毬をつきながら、甲高い声でこんなふうな唄《うた》をうたった。
むこう横町のお稲荷《いなり》さんへ
一銭あげて
ざっと拝んでおせんの茶屋へ
腰をかけたら渋茶をだして
渋茶よくよく横目で見たらば
米の団子か土の団子
お団子だーんご
この団子を犬にやろうか猫《ねこ》にやろうか
とうとうトンビにさらわーれた
それはたいそう忙しい毬つき唄であった。「一銭あげて」というところでは親指と人差指で丸をつくる。「ざっと拝んで」では拝む真似《まね》をする。「腰をかけたら」では片手の握りこぶしを尻《しり》にあてがう。これをすべて毬をつきながらやるのである。後半になるともっと忙しくなる。次第に毬をつく速度が速くなり、桃子は両手をあげたり、片手を毬の下にくぐらせたり、ぱっと裾《すそ》をひらいて股引《ももひき》をはいている足をむきだしにしたりした。
「嬢ちゃん、ようよう」
職人たちの間から声援の声があがった。
そのため桃子はますます勢いづいた。彼女はもう得意満面であった。丸まっちい鼻の頭に小粒の汗をかき、忙しく毬をつき、忙しく唄った。彼女は下町の長屋の小娘さながらであった。無我夢中で仕《し》種《ぐさ》をし、ちびた下駄《げた》をつっかけた足を跳ねあげた。そして彼女は、自分でも惚々《ほれぼれ》するくらい実にすばやく毬を小刻みにあやつりながら、最後のもっとも困難な技術を要する追いこみにかかった。
「たったのた、おたたーのた、ひなふなみ……」
さいぜん、院長のドクトル・メジチーネと聖子とのことを礼讃《らいさん》した職人は、夢中で毬と奮戦している桃子を見やりながら、思わずこう呟《つぶや》いた。
「どうもあの下の娘は、あんまりできがよさそうでねえなあ」
第二章
例年十二月十四日に、楡《にれ》病院では「賞与式」というものを挙行する。この日が明治三十七年に青山に新病院を設立した開院記念日に当るからである。賞与式はたいてい午後早くから始まり、たいそう時間がかかるのを常とする。その年に特に働きのあった者だけが賞を受けるのではなく、楡病院の従業員すべてが、出入りの職人に至るまでなにがしかの賞を貰《もら》うからである。それは賞という名に価《あたい》する品物のこともあったが、ずっと下《した》っ端《ぱ》のほうになると、貰っても貰わなくても大して違いのない物のことが多かった。それでも楡基一郎はあくまでも勿体《もったい》ぶって、ほとんど厳かに、下働きの下女にさえ、ちゃんと「賞」と書かれた手拭《てぬぐい》一本をくれてやったのである。手拭は元旦《がんたん》の式のあとでも全員が貰うし、盆の納涼会のときにも全員が貰う。それゆえ楡病院に関係した者たちは、少なくとも手拭に関するかぎり不自由はしなかったのだ。
賞与式は二階の娯楽室で行われる。娯楽室はちょうど中央玄関から後方の幾|棟《むね》かの病棟《びょうとう》に通ずる大廊下の階上に当り、百二十畳敷きの大広間であった。年に何回かここでは患者慰安のための演芸会が催される。日比野雷風が居合抜きを見せたり、男女の漫才がやたらとぱちぱちと扇子を鳴らしたり、職員と患者有志によるちょっとした芝居が演じられたりする。もちろん賞与式のあとの従業員の宴会もここでやるのだし、基一郎の衆議院出馬のときには無数の手紙の発送はここでなされた。職員から書生から動員されてせっせと宛《あて》名《な》を書いたり印刷物を入れたりさせられたが、そのうしろを末っ子の米国《よねくに》がちょこちょこと走り、桃子はすっかり面白《おもしろ》がって自分も一生懸命切手の糊《のり》を嘗《な》めた。基一郎のもっと上の子供たちはそんなところに顔を出さなかった。そしてそれが、桃子たちの記憶に残る唯一《ゆいいつ》の選挙というものであった。実際の運動は遠い山形県で行われていたのだったから。そのほかのときには娯楽室の百二十畳の畳はむなしくひろがり、隅《すみ》のほうに机がずらりと積み重ねられているばかりであった。
しかし、この日は、久方ぶりに娯楽室は人に満ちていた。百人にあまる男女が六列となって、正面にむかって静粛に並んでいた。看護婦たちは洗いたての純白の看護衣を身につけ、みんないくらか顔をうつむけていた。看護人も事務の者も、それぞれせい一杯の身なりをしていた。書生たちもこの日は紋附《もんつき》袴《はかま》に威儀を正していた。いつもはだらしなかったり剽軽《ひょうきん》だったりする連中が、そんなふうに正装してもっともらしい顔をしていると、なんだかまったくの別人のように見えた。
書生といわれている男たちの中には、楡家の、すなわち基一郎やその妻ひさの親類の者もいた。現に将来の楡病院の中堅をなすにちがいない金沢清作や韮沢《にらさわ》勝次郎の姿もあった。前者は東大の医科を卒業するばかりになっていたし、後者は千葉医専へ通っていた。彼らは院長夫妻と明瞭《めいりょう》に血のつながりを持っている人たちなのだ。しかし、彼らはまだ書生の部類に数えられ、書生と似たような生活を送ってきたのだ。たとえ親戚《しんせき》の者であっても赤の他人と区別せず、特別扱いしないというのが基一郎の一貫したやり方であり方針であった。彼らに最初から家族待遇を与えればおそらく発奮心を失わせてしまうであろう。かつて奮励努力して楡病院を築きあげてきた基一郎の、これは当然な信念だったといえる。素質がよく勉強して大成していった者は、赤の他人だろうが重んじて一族に加えてゆく。そうでない者は親類だとて断じて甘い顔は見せない。現にこの病院を継ぐことになっている楡|徹吉《てつきち》は、基一郎の郷里の村の出ではあったが、古老も知らぬ遠い先祖はいざ知らず、べつに血縁関係はなかったのだ。だが徹吉は基一郎の養子となり、四年まえ長女|龍子《りゅうこ》の夫となったのである。
それゆえ、血のつながりを持つすでに医学士に近い者も、そうでない書生も、門番の爺《じい》さんや患者よりも頭が可笑《おか》しいという噂《うわさ》の看護人などと一緒に、みな一様に娯楽室の畳の上にかしこまって直立していた。女中や看護婦も列をつくってもじもじと指先をいじくっていた。気の毒にもこの人たちは、短からぬ賞与式のあいだ、じっと立ちつくしていなければならないのだ。
一方、賞を与える側の人たちは、従業員とむかいあって一段高い所にいた。演芸が行われる舞台の上にいたのである。中央に机がすえつけられてあって、そこに楡家の当主、一代でこの病院をつくりあげた男、当年とって五十五歳の衆議院議員楡基一郎が、人をそらさぬ鷹揚《おうよう》な微笑をたたえ、黒《くろ》羽《は》二《ぶた》重《え》の紋附姿でかまえていた。本当は彼は洋服姿のほうを好んだ。黒い厚地のダブルの服を彼は一《いち》分《ぶ》の隙《すき》もなく着こなすことができたし、そのほうが金鎖もひときわ映えるというものだ。彼は極上のから安っぽいのから各種の金時計をいくつも持っていて、時と場所に応じてそれを使いわけるのである。
楡基一郎はもともとの姓名を金沢甚作《かなざわじんさく》という。樹氷で名高い東北|蔵王《ざおう》山《さん》の麓《ふもと》を、山形市から上《かみ》ノ山《やま》町まで土埃《つちぼこり》のひどい県道が通じている。その県道に沿っていくつかの村があるが、その村の一つで代々|庄屋《しょうや》をやっている、しかし当時はすでに零落した金沢文左衛門の家に、四男として甚作は生れた。彼は小学校を出たあと隣村の農家に養子にやられたが、一年も経《た》たぬうちに舞い戻《もど》ってきてしまった。これは文左衛門の許さぬところだったが、同じ村に住む彼の姉のお亀《かめ》さんという女が甚作を可愛《かわい》がり手元に置いてやった。しかし甚作はここにも居つかず、やがて行方が知れなくなってしまった。なんでも仙台《せんだい》にいるとのことだった。そのうち東京に出たという噂があった。そうして幾年という月日が経ち、人々がとうに甚作の存在を忘れたころ、彼はひょっこり村に現われたのである。戻ってきた甚作は、真新しいカンカン帽をかぶり、はじめて袖《そで》を通したとしか思えない着物を着ているばかりか、みんながあっけにとられたことに、正真正銘の医師免状をもつお医者さまになっていたのだ。彼はみんなを唖《あ》然《ぜん》とさせておいて、東京の土産物というのをくばって歩いた。その土産にはろくなものとてなかったが、とにかく彼は故郷に錦《にしき》を飾ったのである。土産物をくばり終ると甚作の姿は村から消え、ふたたび幾年となく現われなかった。次に現われたときには、すでに村人がうかうか口もきけないほど紳士然としており、なんでも彼は妻帯して医院をもち、たいそうな繁昌《はんじょう》ぶりだとのことであった。彼が取出した大型の名刺を見たとき、みんなはなんのことやら理解できなかった。村にいた頃《ころ》から甚作は百姓を嫌《きら》い、百姓じみた自分の名を嫌い、自分は決してこんな名前で一生を過さないと広言していたものだが、いま彼は、基一郎という兵六玉《ひょうろくだま》の四男坊らしからぬ名前に変っているばかりか、一体どのような口実をもうけたのか、天変地異そのままに、姓までが変っていたのである。楡家に養子にはいったのではない、楡というのは彼が独創的にこしらえてしまった姓なのだ。それにしてもなんという姓なのだろう。こんな姓がこの世にあるものだろうか。名刺の活字を読みこなす者が殆《ほとん》どいなかったので、当の本人がそのたびに重々しく読んできかせねばならなかった。それから基一郎こと甚作はまた持参した東京土産をくばった。今度の土産は前回のものより大分立派といえたが、それでも内容より外箱のほうが遥《はる》かに立派であった。楡基一郎は土産物をくばって東京へ引返し、もうずっとやってこなかった。すでに彼は立身出世をした人物、鄙《ひな》びた東北の村には用のない男だったからである。それでも故郷と彼との間はまるきりとぎれたわけではなかった。基一郎は附近の村から二人も養子――これも独特のやり方であったが――をとり、また彼を頼って上京していった若者も少なくなかったからだ。基一郎が洋行するときにはもちろん通知がきた。青山に大病院を建てたときにもやはり通知がきた。彼はこうした場合、特別|大形《おおぎょう》な通知状を刷らせるのであり、刷らせたからにはあまり関係もない所へも発送するからである。大判の通知状とたまげたような噂話だけのなかに楡基一郎はずっとかき消えていたが、先年になってまったく久方ぶりにだしぬけに、カイゼル髭《ひげ》を生やし洋杖《ステッキ》をかいこんだその姿が三たび村に現われたのだった。彼は南村山郡の郡部から出馬したのだ。洋行のドクトル・メジチーネと宮殿のような病院では足りずに、代議士になろうとしているのだ。彼は人力車にゆられ、村の有力者を露はらいに立て、有権者の家々を挨拶《あいさつ》してまわった。今回は土産物はくばらなかった。戸別訪問は許されていたが、土産物はさすがに選挙違反だったからである。その代り、上ノ山一番の旅館を借りきった選挙事務所を中心として、人から人へと相場の金が流れていった。かくして楡基一郎は当選したのである。
……いま彼は、百二十畳の畳に居並ぶ病院関係者を前にして、一段高い舞台の上にゆったりと立っていた。そうして、その経歴からしてどのような偉丈夫かと人は想像するだろうが、実際は彼はかなりの小男であった。貧弱ではなかったが、それでも小男にちがいなかった。その代り、その頭髪は黒々と若々しく光沢があり、実に丹念に櫛《くし》があてられ、その髭は更に黒々と豊かで、先のほうはぴんと跳ねあがり、自信ありげな濃い眉《まゆ》と相まって、ややほそい、ほとんど柔和といってよい眼《め》といくぶん上品すぎるように見えるほそい鼻梁《びりょう》とが与える繊細な印象をもっとたくましく強め、もったいぶった落着きを与えていた。彼はその外貌《がいぼう》のために人には知られぬ気を使うのだ。自慢のカイゼル髭を整えるためにチックをぬり、何度も何度も指先でひねりあげ、どれほどの時間をかけることか。それから彼はなんと粉白粉《こなおしろい》を顔にすりつけた。スプレーで香水をふりかけた。こうして、愛《あい》想《そ》がよく同時に威厳のある楡基一郎院長ができあがるのである。
基一郎が前にしている机の横には、数えきれぬ雑多な「賞」がのせてある机がすえられ、そこに院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》が、院長に負けず劣らずとりすました顔つきで立っていた。いやがうえにも細いその眼は、縁なし眼鏡の奥でどこを見ているのかわからなかった。その横手には、近所の青雲堂主人、高田万作がだぶだぶのフロックコートをつけてひかえていたが、彼もまた背が低かった。そうして賞与式の立役者であるこの三人が揃《そろ》いも揃って小男であるところを眺《なが》めると、これは単なる偶然なのか、あるいは院長が自分の恰幅《かっぷく》と品位を保つために小さな男ばかりを身近においているのかわかったものでないと思われてくるのだった。
青雲堂の高田は、やはりかつて医者を志していた男である。しかしその通りにならず、二、三の医院を転々としたあと楡医院の薬局にはいった。楡病院となってからは事務をとったりしていたが、数年前から青山の電車通りのそばに、小さな、しかしその名は青雲堂という文房具店を開いていた。彼がなにかにつけ楡病院の行事を手伝ったのは、前職員ということもあったが、こまめによく気がつくその実直さと、常ににこにこと笑顔を絶やさないその性格と、なによりいざとなると大男そこのけの朗々たる声をはりあげることのできるその喉《のど》と肺活量とが尊ばれたからである。
実際、青雲堂――ちかごろでは彼は姓名を呼ばれるより店の名で呼ばれた――は、一年でもっとも大事な行事である賞与式に欠けてはならぬ人物であった。彼は朗々と賞を与えられる人々の名をよみあげるのである。つまり病院の従業員すべての人の名をよみあげるのだ。すると呼ばれた人は列の間をぬけ、中央にあけられた道を通って舞台の前に進み、段をのぼり、院長の前に立つ。そばから院代が賞のはいった箱を、あるいはもっと粗末な包みを、あるいは単なる手拭を院長に手渡す。基一郎は悠然《ゆうぜん》と、かつねんごろに、当人に授与する。そこで貰った人はうやうやしくお辞儀をして引退《ひきさが》る。次の名前を青雲堂がよみあげる。これが蜿蜒《えんえん》と繰返される。
院長の立っている後方には椅子《いす》がおいてあって、そこには基一郎の家族が坐《すわ》っていた。彼らは老いも若きも男も女も、基一郎が好きで好きでたまらぬかような式典に最後まではべっているよう義務づけられている。それは一家全員の前で賞は与えられねばならぬのだ。それでこそ賞与式はますます華やかに、意義ぶかく、どこかの殿中におけるがような仰々しさを加えるというものだ。
家族たちはそれぞれ別様な表情をして坐っていた。端に近いほうの席にいる桃子は、さっきから期待に堪えかねたように身体《からだ》をゆすっていた。彼女には毎年の賞与式が面白くってたまらなかったのだ。なぜなら、青雲堂のおじさんがこの日ばかりは生真面目《きまじめ》至極に、おまけに終りに殿《どの》をつけて名前を、――たとえば「吉田勝三郎殿」と聞いたこともない名前をよみあげると、なんと平生《へいぜい》「さいづち」と呼ばれているはずの頭の平たい看護人が、びっくりしたように二、三度きょろきょろと周囲を見まわしてから、おそるおそる進みでてくるのだ。「宝田たづる殿」と呼ばれると、常々、その突拍子もない笑い声で、賄《まかな》いをにぎわしている狆《ちん》のような顔をした看護婦が、真赤に顔をほてらしていやにしずしずと進みでてくるのだ。そういう情景はいくら見ても飽きがこなかった。今日は綺《き》麗《れい》なおべべを着せられてさすがに下町娘らしくは見えないこの末娘は、大広間に集まっている百二、三十名の人間の中で、賞与式が長ければ長いほどよいと願っている唯一の存在といってもよかった。いやもう一人、御本尊の楡基一郎がいることはいたが。
院長は例年、賞与式のはじまりに当って一場の訓辞をたれ、一同の労をねぎらい、いっそうの奮励を願うのが常だった。しかしこの年はそれが長かった。特別長かった。無理はない、青山に新築してから十五周年なのだ。訓辞も長いが貰い物もきっと奮発されることだろうと、一同はじっと足のだるくなるのを我慢した。
今や院長は、政治のことなんぞを話しだしていた。新しい時代はきたのだ。官僚軍閥の内閣が倒れ、政党の内閣が生れたのだ。その首相は誰《だれ》あろう原敬《はらたかし》、その蔵相は誰あろう高《たか》橋是清《はしこれきよ》、これすべて私の盟友である、と院長は臆面《おくめん》もなく言いきった。次に彼は世界情勢にまで触れた。わが帝国はいまや世界の一等国である。私がむかし外遊していた頃はそう呼ぶのに未《いま》だはばかるところがあった、しかし今は名実共に日本は世界の強国に伍《ご》したのだ。それから突然、あまり関連もなく彼は船成金の悪口を言いはじめた。彼らがあっという間に自分の何十倍も金儲《かねもう》けをしたことが面白くなかったのかも知れないが、基一郎はこう予言した。船成金たちには来年は苦しい年となるであろう。それにひきかえ、わが楡病院は地道に着実に発展の道を辿《たど》ることであろう。そうして、彼は最後に病院にとってはもっと重要なことを発言した。すなわち楡病院は帝国脳病院との合体であるが、とうにその主流は後者のほうに傾いており、また私立の病院に帝国の名を冠するのはいささかおこがましいとの意見もある。この十五周年を機会に、来年正月元旦より病院の名称を統一するつもりである。その名は――ここで基一郎は極上の機《き》嫌《げん》で、はじめて真剣に耳を傾けだした一同を見まわした――楡脳病科病院という。脳病科[#「病科」に傍点]とつけたところが私の斬新《ざんしん》な考案で、それは単なる脳病院よりずっと広い意味を含ませ、一般世間の狂人を収容する病院に対する誤解をとくに役立つであろう。
ははあ、そういうものかな、と聞いている一同は訳もわからずに合《が》点《てん》した。
「私は」と、なおも院長はつづけた。彼は普通の会話では「ぼく」と言い、機嫌がよくなるにつれてよく「ぼかあねえ」と言ったが、それは決して軽佻《けいちょう》にはひびかず、充分にモダンで人の上に立つ者として可笑《おか》しくもなかったのである。しかし基一郎はこうした訓辞の際には「私」といったが、その「私」が「ぼかあ」というときとそっくりに尻上《しりあが》りに鼻にぬけて発音されると、なんともいえない奇妙な感じを与えるのだった。
私は、と彼はそんなことにおかまいなくつづけた。独逸《ドイツ》国はベルリン大学、或《ある》いはハレ大学に於《おい》て精神病学を修め帰朝して以来、ずっと精神病者のために尽力してきた。こうした努力は世間では往々低く見られがちである。しかし私は諸君と共に、身体がうごくかぎりこの困苦多い道に努めるであろう。そしていつの日かその功は認められ、私はおそらく男《だん》爵《しゃく》を授けられるであろう。
「男爵を授けられるであろう」と、事もなげに、それだけ得意然と彼は言いきった。
それはなんの根拠とてない基一郎一流の放言であったが、そのいい加減な言葉が一同に与えた効果は絶大なものがあった。ごく少数のいくらか教養のある連中は、またかというように、かすかに気づかれぬように頬《ほお》の筋肉をひくつかせた。院長のうしろに腰かけている若先生、龍子の夫徹吉はむっとしたように眉をしかめた。偉いことは偉いのだろうが、この養父の調子のよさが、彼にはまったく気性にあわなかったのである。一方、その膝《ひざ》に三歳になる男の子を抱いている龍子は髪の毛一本うごかさず、まっすぐ前を直視して坐っていた。そのとりすました表情は、父親がそう言うからにはむろん父は男爵になるに決っていると語っているかのようだった。
そして彼女の信念は、同時に大多数の従業員一同が抱いた気持だったのだ。ただ彼らは龍子のように冷静にその言葉を受けいれられなかった。みんなはあんぐりと口まであきかねない様子だった。彼らはびっくりし、畏怖《いふ》し、おずおずと正面の壇上を見あげた。そこでは未来の男爵楡基一郎が胸をそらし、我とわが言葉ににこやかに微笑し、しめくくりの訓辞をつづけていた。そしてその瞬間、一同の眼には院長は断じて小男には映らなかったのである。
一方、椅子に坐っている家族のうちで、まだ喉に湿布を巻いている末っ子の米国《よねくに》は、そろそろ退屈さに辛抱できぬ様子だった。
「ああ、ああ、早くはじまりゃいいのに」と、彼はほとんど苦しそうに呟《つぶや》き、金壷眼《かなつぼまなこ》をくるくるとまわした。
「黙ってなさい。もう始まってんのよ」と、隣席の桃子は言った。彼女もすっかり退屈していて、しかし姉としての立場からのみこうたしなめたのである。
幸い、じきに賞の授与は始まった。まず勤続十五年の表彰が行われたが、楡医院時代からの者も少なくなかったから、もちろん十の指では足りなかった。青雲堂主人は、巻紙をひろげておもむろによみあげた。
「勝俣秀吉どの」
これは妙なものであった。院代は賞品を院長に手渡す役柄《やくがら》だったからだ。彼はかなり大きな箱包みを取りあげ、院長に渡し、すぐそれを自分で受けてお辞儀をした。しかし、それからあとはなかなか厳粛に事はすすんだ。
「加倉井多助どの」
それぞれ神妙にかしこまって、そっと列をぬけ、中央にひらかれた畳の上を進んでくる。実にさまざまな歩きぶり、段の登り方、表彰を受ける仕《し》種《ぐさ》、そのどれ一つをとりあげても面白くおかしく、言おうようない興味と熱意をもって桃子は躯《み》をのりだした。
ところで、この賞与式のかげの人、院長夫人ひさは、二百三高地と渾名《あだな》のある丘のような髷《まげ》も下からは見えぬほど、少し上向き加減にまっすぐ顔を正面にすえたまま、彫像のように身じろぎもしなかった。鼠色《ねずみいろ》の縫紋に黒地のつづれに縫いのある帯をしめ、ほそい金鎖を長く胸にたらしている彼女はちょうど五十歳で、しかし得意然と賞品を渡しているその夫よりずっと老《ふ》けて見えた。長女の龍子よりももっと顔が長く頬がこけているため、どこかのっぺりした感じで、そのくせ鼻はするどく高貴に隆起し、龍子の倍の角度をもつ鷲《わし》鼻《ばな》となっていた。親しみのもちにくいその老いた顔から、若い頃の容貌を想像することは難かしかったが、少なくとも個人的なものではないいかつさ、ある血筋がつもった年数によって現わすどうしようもない古めかしい品位が窺《うかが》われた。彼女は秩《ちち》父《ぶ》の旧家、それも基一郎の実家のように零落していない、床柱もまだどっしりと黒光りのする庄屋の出だったのである。「大奥さまを見ていると、あっしゃあお殿様を思いだしますね」とある出入りの商人が評したが、たしかにひさの間のびのした無感動さには、若々しいがさつさとか新興のいきいきとした活力とは縁が遠いものがあった。彼女の内心は露ほどもその表情に現われなかったし、一体怒っているのか喜んでいるのかさえわからなかった。昔からあまり口もきかない性《さが》でもあった。
だが、単にひさは、幾代もの血の淀《よど》みからくる古びはてた品位の中にしずまっている女にすぎなかったのだろうか。いや、とんでもない。一面からみれば、現在の楡病院をつくりあげたのは院長夫人だともいえるのだ。ひさと基一郎こと甚作がどんなふうにしてめぐりあい夫婦の契《ちぎ》りを結んだかは楡病院の誰も知らないが、基一郎が医院をかまえるのに妻の実家の援助があったのは確かなことだ。しかし、そのあと本郷|界隈《かいわい》随一の流行医となり病院を築きあげていったのは基一郎の才覚ではないか。それはもちろんのことだ。だが表には目立たぬひさの内助の功がなかったなら、現在の楡病院は存在しなかったにちがいない。はじめは苦しかった。基一郎の派手好みは極端だったし、狭い医院には食客の書生たちがごろごろしていた。彼らが勝手気ままに香《こう》の物《もの》にかける醤油《しょうゆ》にすら、家計をあずかるひさは気をくばらねばならなかった。彼女は醤油を多量の水で薄め、塩を加えた。万事につけそのくらいの気苦労をしたのである。そして基一郎の留学中はどうだったか。その留守中、医院の看板をしっかりと守り、雇いの医者を監督し、以前に劣らない形で帰朝した夫に引渡したのは誰の功績か。彼女の皺《しわ》、皮膚が白すぎるのとその襞《ひだ》が浅いためあまり目立たないとはいえ、一見おっとりと微動だもしない顔に刻みこまれた無数の皺こそ、その証明にほかならなかった。
今では楡病院は安定し、発展の頂に達し、――基一郎だけはそんなことは夢にも考えなかったが――ひさの苦労の種は大半失われた。といって、彼女はなお「奥」にあって厳然と、目立たず陰に籠《こも》って、病院の屋台骨をささえていたのである。基一郎は天来の野方図な直感のままなにやかやと計画する男だ。その計画は必ず達成されたが、そのかげでひそかに金の心配をし、誇大になりがちな夫の夢を現実的にしっかりと裏づけてやったのはすべてひさの力である。それゆえ内情を知っている院代などは、正直にいって院長より大奥様のほうが煙ったかった。毎週院代は、神経質な大石の手による病院の会計簿を「奥」に持参するわけだが、基一郎はろくすっぽ手をふれようともしなかった。が、院長夫人のほうはいつの間にか確実に細密に目を通しているのだ。こういう事情は病院じゅうあまり人の知らないことであった。なぜなら、ひさは決して表に立たず、無口に感情を現わさず、常にひっそりと「奥」にこもっていたからである。それでも例外中の例外として、奥づとめの女中の一人が、院長と大奥様が諍《いさか》いをしているのを耳にとめたことがある。それはどうやら院長の女癖に関することのようだった。院長は珍しく狼狽《ろうばい》して、それだけいっそう優しくなだめすかすような口調で言っていた。「わかった、わかった、ひさ。みんなおまえが偉いのだ。おまえ一人で倹約して金をためて病院を建てたのだ。そうとも、この病院はみんなおまえの手柄だ。みんな、みんな、なにもかもおまえの手柄だよ」
賞与式に関していえば、毎年この七面倒な儀式の実質をつかさどっているのは、実は院長ではなくてその妻であった。基一郎はただ得意満面となって賞を授与していればよいのだが、誰に何をやり誰には何をやる、その百に近い品物をきめ買い整えるのはすべてひさがかげでやる仕事なのであった。今年は十五周年で、十五年勤続者にはそれ相応のねぎらいをしなければならない。そう思ってひさは、昨年の選挙でかなり手元は苦しくなっていたのを、十数名の勤続者すべてにそれぞれに応じた着物を贈ることにしたのだった。彼女を悩ましたのは昨今の物価高である。米ばかりでなく、なにもかもが倍以上の値段になっていた。いやいや、楡病院をもってすればそんなことはなんでもないことだ。彼女を目には立たなかったが本当に憤《いきどお》らせたものは、基一郎の政治とやらだ。一体なんの必要があって夫は政治なんぞに首を突っこまねばならぬのだろう。彼女個人から見れば、政治はとめどない金の浪費としか映らなかった。夫はいつものように誰をも納得させる調子でこともなく言う。ああおまえ、金なんか出たって、それはまた戻《もど》ってくることだ、有形無形にちゃんと返ってくるのだよ。ところが地道一方の性格であるひさにはそうは思えなかった。現にいま基一郎は、新庄《しんじょう》の方に北海道の大農式をとりいれた開発会社をつくっている。それは彼の出馬の表看板でもあったのだが、ひさの冷静な玄人《くろうと》的な眼によれば、今までのところその会社はもりもりと札を喰《く》って泥《どろ》を吐きだす新機械トラクターとやらの化身にすぎなかった。
「松原《まつばら》伊《い》助《すけ》どの」
青雲堂の声がひびいた。ひさは――彼女は病院の従業員の名と顔を「奥」にこもっていながら一人残らずわきまえていた――あの穢《きた》ない伊助にまで上等な羽織《はおり》袴《はかま》を与えねばならぬのかと、しかしそんなことは表情にも出さず、まっすぐ正面を見つめていた。
しかし、桃子や米国の喜びようは大変なものであった。あのいつも煙突から這《は》いだしてきたような爺《じい》さんが、今日はどうだろう、一体どこから借りてきたのだろう、かなりよれよれで変色していたとはいえ、ちゃんと羽織袴に居ずまいを正しているのだ。顔にも手足にもちっとも煤《すす》はついていなかった。伊助はまるで怒ったような顔をして進みでてきて、大きな箱を鷲づかみにして受取った。しかし慣れぬ袴が足さばきを意のままにさせなかったとみえ、段をおりるところで目に見えてよろめいた。
「下田ナオどの」
青雲堂の声がひびき、桃子も米国もすんでのところで手を叩《たた》くところだったが、あの懐《なつ》かしい下田の婆《ばあ》やが姿を現わした。子供たちにとって生みの親よりも親《ちか》しい存在――もっとも楡家の場合世間一般に比べてその親は常にはるかに遠いところにいたが――温和に優しく肥満したその身体《からだ》の中にどこまでも埋没してゆきたい存在、その下田の婆やが、大勢の人の列の中から、今日だけは一人の奉公人として出てきたのだ。それはそぐわないことといえた。本当は彼女は舞台の上の家族の席にいて、手塩にかけた子供たちの世話をしていてよいはずであった。しかし賞与式は年に一度の式典であり、基一郎院長はたとえ自分の親にすら形式ばって賞を手渡してやりたい趣味を多分に有していたのだ。
下田の婆やが不似合にかしこまって、ひさが自ら選んだ着物のはいった箱をとりわけうやうやしくおし戴《いただ》いたとき、疲れたようにぼんやりと視線を下方にすえていた聖子の頬にも、かつて自分をあやしてくれた者への甘えのなごり、理《り》窟《くつ》をこえた感謝の微笑がおしのぼってきた。しかし、その隣に坐っている姉の龍子は、母親同様、ほとんど無関心といった態《てい》で、まっすぐ前にむけた顔の表情を崩さなかった。龍子にしても下田の婆やに対する気持に変りがあろうはずはない。だが彼女はそんな世間的な感情よりも、楡基一郎の方針、主義、理想をより重んじたのだ。父親の場合はそれは天来の性癖からでた、かなりの滑稽《こっけい》味《み》をもって扱える余裕のあるものといってよかったが、それが龍子となると、父親の大いにはったり気味のある精神を抽象し、限局し、かたくなに形式化しているところがないではなかった。基一郎が賞与式を仰々しく挙行したい以上、彼女にとってももちろん賞与式は仰々しく厳粛に運ばれねばならぬのだ。
龍子の膝には、今年三歳になる峻一《しゅんいち》が抱かれていた。この一刻《いっとき》もじっとしていられぬ年齢の男の子、基一郎の初孫を抱いていることが、よけいに龍子の表情をこわばらせる一因でもあった。峻一はさっきからむずかり気味に足をばたばたさせている。窮屈な紋附《もんつき》などを着せられて、ただでさえ子供に甘くない母親にじっと押えつけられているのだから堪《たま》らないのは無理はない。といって、いやしくも楡病院当主の長女の長男である以上、たとえ三歳であろうが生れたてであろうが、晴れの賞与式の舞台には厳然とひかえていなければならない。それが基一郎の嗜《し》好《こう》であり、龍子にとっては神聖な信念なのであった。それゆえ龍子はさっきからまだ理《ことわり》もわきまえぬ幼児の耳へ、ほとんど威《い》嚇《かく》といってよい言葉を何回か囁《ささや》いていた。いよいよ峻一が膝からずりおちそうになると、彼女は表面はそ知らぬ顔で賞与式の進行を見守りながら、ひそかに子供の腿《もも》をいやというほどつねりあげた。気の毒な子供はべそをかいたが、しかし泣きだすことはしなかった。この母親がいざというときにはすこぶる厳しいことだけはわきまえているからだった。
一方、峻一の父親、龍子の夫である徹吉は、子供がつねられていることにも気づかず、満悦しきって賞を与えている養父のものごしを眺《なが》める気もしないまま、むっとした表情で天井の方角を見つめていた。彼の顔立ち、その姿全体には、いくら楡病院の後継ぎと定められているとはいえ、また少年時代から言葉ものごしを基一郎夫妻にきびしくしつけられてきたとはいえ、どこか消しがたい素《そ》朴《ぼく》さ、よくいえば誠実で、わるくいえば田舎じみた朴《ぼく》訥《とつ》さがこびりついていた。彼がその妻と並んでいるところを見るとますますその印象は深まるのだが、龍子が他の事を冷淡に無視して楡家の家風を重んずるのと同様、徹吉も学問に対しては似たような没入を示したもので、その点からみれば、ある種の近似があるといえるのかも知れなかった。しかし、それでは夫妻仲はもとよりしっくりというわけにはゆかないのである。
三歳の幼児までが賞与式に参列を強《し》いられている反面、この席には二人の家族が欠けていた。一人は長男の欧洲《おうしゅう》で、ちょうど仙台《せんだい》の高等学校に在学中だったからである。もう一人は家族と呼ぶにはためらわれる存在だったが、とにかく基一郎が事実上の養父となっている或《あ》る特別の少年で、しかもその本尊は現にちゃんと楡病院にいたのである。しかし、さきほどみんなで彼をこの席に連れてこようとしたところ、たいそうな勢いで逃げ、今ごろはおそらく病院の蒲《ふ》団《とん》部屋かどこかに隠れひそんでいるはずであった。
打明けていえば、それはたまたま造化の神のやる悪戯《いたずら》、赤子のころから目を見はるほどの発育をとげた怪童、現に小学校六年生で六尺一寸になんなんとしている辰《たつ》次《じ》であった。彼は基一郎の郷里の村からもっと山奥の炭焼きの子として生れた。怪童は身体のままに大飯を食い、貧しい父親がどうにも養いきれずにいることを聞きつけたのが基一郎である。彼は辰次を戸籍上では郷里の親戚《しんせき》の家の養子とし、東京へ出して世話をしてやると言った。辰次は父親に連れられて上京し、父親は三日東京見物をしたあと、困るほど図体《ずうたい》の大きい息子が寝ている隙《すき》に山形へ逃げ帰った。あとで辰次はすばらしい声量で泣いた。その泣き声は楡病院の敷地のみならず、近隣四方までひびきわたり、のちのちまで人々の噂《うわさ》になったところでは、「ライオンの吼声《ほえごえ》」そのままであった。
基一郎の目算は、もとより辰次を相撲《すもう》とりにすることであった。懇意にしている出羽ノ海親方がやってきて、この怪童に玩具《おもちゃ》をくれた。部屋に連れていって稽古を見せ、さまざまに御馳《ごち》走《そう》した。これが何回か繰返されたあとで、どうだ辰次、相撲とりはいいぞ、おまえ力士になるか、と基一郎が訊《き》くと、辰次はふくれあがった顔をのろくさと横にふった。彼は桃子たちの行っている小学校とは別の、青山小学校の五年生に編入されたが、そのぼそぼそ語るところによると、将来自分は医者になるつもりだというのである。とにかく彼は図体の大きいわりに気が小さく、身体ばかりふくれあがってしまったため言語動作がはなはだにぶかったが、相撲とりになれという勧誘だけには断じて首を縦にふらなかった。彼がどう考えているのかは傍《はた》からおし測ることは難かしかったが、辰次が人並はずれた自分の肉体を羞《は》じていることだけは確かなようであった。基一郎が当時よく得意になって、「ぼくはねえ君、日本一頭のよい男と、日本一身体のでかい男を養子にしたんだよ」と客に話したように、基一郎はなにかといえば辰次を人前に出させたがったが、それは往々不成功に終った。現に今日の大事な賞与式にしても、みんなの説得にもかかわらず、辰次はついに出てこなかったのである。さすがに無理強いもできなかった。なにしろ力はあるし、ふだんはぼそぼそ聞きとれないほどの声でしゃべるくせに、いったん泣きだしたとなれば、近隣四方にひびきわたってしまうのだから……。
その間にも、賞与式は休みなく進行していた。とうに十五年勤続の表彰はすみ、なにやら口実をもうけた種々の功労者の表彰もすみ、あとは有体《ありてい》にいえば十《じっ》把《ぱ》ひとからげの、例年なら手拭《てぬぐい》一本組の、しかし今回は特に桐《きり》の下《げ》駄《た》がはいった紙箱の授与に移っていた。これは人数が多かった。いつまでたっても終りそうに見えなかった。
「田中吉五郎どの」
「佐藤城作どの」
「波山まさどの」
青雲堂の声にもさすがにときどきむらがでてきていた。ひびわれたり、真ん中辺でしゃがれたりした。しかし院代はあくまでもとりすまして、決して急ぐことなく紙箱を院長に手渡していた。基一郎となれば、これは時とともに生気をおび、ますます泰然となり、とりわけゆっくりと箱を与え、おもおもしく胸をそらして挨拶《あいさつ》を受けた。満足しきった鷹揚《おうよう》な微笑を口元に浮べ、相手がしゃちこばって段をおりるのを最後まで見送った。その間に彼は指先でごくそっと、丹念に手入れをされたカイゼル髭《ひげ》の先をまさぐった。そしてようやく「次」というようにうなずいてみせた。幾度も唾《つば》を呑《の》みこんで喉《のど》をととのえた青雲堂の声がひびく――「徳井定子どの」
これでは永久に賞与式は終りそうになかった。
起立している連中の足はだるく、大《おお》火《ひ》鉢《ばち》が四方の隅《すみ》に置いてあるものの寒気は百二十畳の畳から湧《わ》きあがり、坐《すわ》っている家族の者たちの顔にもはっきりと疲労のかげが貼《は》りついてきた。基一郎の式典にもっともひたむきに精神的に参加しているはずの龍子さえ、さっきまで毅《き》然《ぜん》として前方を見すえていた顔が、目に見えて眠たげになった。ただ一人、桃子は疲れ知らずに青雲堂の声を愉《たの》しみ、もし青雲堂のおじさんが病気になったらこの役はビリケンさんにやらしたらよかろうと考え、進みでてくる人々の恰好《かっこう》を一々|可笑《おか》しがり、お辞儀の仕方ひとつにも深甚《しんじん》の興味を抱いた。その間、隣ですっかり退屈しきって身体をゆすったり流感のなごりの咳《せき》をしたりしている弟を、じろりと見やったりもした。
突然、その二つ違いの弟米国が、まるで咳の発作に襲われたように喉から妙な呼気を吐きだしはじめた。そればかりではない、広間全体にひそやかな、しかしどうにも堪えられない忍び笑いがひろがってゆく気配がした。
「なによ、あんた」
桃子は蓮《はす》っぱに弟を突つきかけ、ひょいと視線を前に戻すと、こういう現象が目に映った。
左右に人々が並んでいる真ん中の通路を、伊助とはまた異なったふうに風態《ふうてい》のわるい門番の豊《とよ》兵衛《べえ》爺さんが凄《すさ》まじい勢いでやってくる。そう、豊兵衛は名前を呼ばれたのだ。一度呼ばれ、二度呼ばれ、三度呼ばれてはじめて自分のことだと気がついた。そこで彼は滅法|慌《あわ》てて、末席からまわりの人を押しのけるばかりにして中央の通路に出てきたわけなのだが、おそらくあまり急ぎすぎて、通路に出てきてから行きどころを見失ってしまったらしい。彼はきょろきょろと不安そうに視線をさ迷わせた。すんでのところで舞台とは反対に歩いてゆきそうにもなった。それからやっと方角を見定めるや、滅法もない速度で歩きだしたのだ。常々彼はがに股《また》で名を売っている男である。しかし、このときほどそのがに股が目立ったことはなく、平《へい》家《け》蟹《がに》が異常直進でもしだしたようなその姿は、賞与式の席に列していることを瞬間人々から忘れさせるに充分であった。忍び笑いは伝染してひろがり、もちろん桃子もその恰好を一目見たとたんに吹きだし、なんとか笑いをこらえようと自分の腿《もも》やら手の甲やらを懸命につねった。
しかし、半ば目のくらんだ豊兵衛は、とてつもない足音を立てて段をとびあがり、まだ院代が賞品を院長に手渡してもいないのにずいと手を突きだした。基一郎は騒がなかった。いやご苦労ご苦労というように二、三度うなずき、特別しずしずと賞品を差しだして大切な賞与式の品位を保とうと試みた。だが豊兵衛は、さながら強奪するかのように紙箱をひったくった。お辞儀も何も忘れてしまってくるりと向きを変え、ふたたびどたどたと段をきしませると、前にもまして物凄《ものすご》い電光石火のがに股で退出した。
もう桃子はこらえきれなかった。彼女は泣き上戸《じょうご》であると共に笑い上戸でもあったのだ。泣くほうは造り物のような大粒の涙を奇術のように分《ぶん》泌《ぴ》するだけで声は立てないが、笑うほうはまったく節度のないげらげら笑い、ころがって苦しむほどの莫迦《ばか》笑いになりがちである。彼女は懸命にこらえた。そのため無理に体内に押しこめられた衝動は、彼女のただでさえ愛嬌《あいきょう》のありすぎる顔をむざんに歪《ゆが》めた。喉元は痙攣《けいれん》し、その辺りから、なんだか拷問《ごうもん》にでもかけられたような、まさに断末魔ともいえるばかりの不気味な音声が洩《も》れた。
「桃さま」
隣席の聖子がたしなめた。しかし家族の中で一番しとやかなはずのその聖子も、あまりにも大形《おおぎょう》な桃子の苦しがりようを見ると、知らず知らず自分も頤《あご》が胸につくくらいうつむき、小刻みに肩を痙攣させはじめた。が、彼女ははっと我にかえり、しゃんと首を起した。隣に年もゆかぬ子供を抱いている姉、楡家の子女は女のほうがしっかり者で出来がよいと噂される中での代表者、自分自らそれを自覚し、かたくななまでに基一郎の法螺《ほら》がかった形式主義を肯定し実行している龍子の、普通では気づかぬほどかすかな身ぶりを感じとったからである。それは一つの警告、ややもすれば楡病院という多人数の環境がもたらす自堕落さから聖子を救済し、この姉を見習えという警告なのであった。
龍子はまっすぐに身体を起していた。さきほどのやや眠たげな疲労はその顔からすっかりぬぐいさられていた。年に一度の楡病院の神聖な式典が、今やつまらぬ土足で冒涜《ぼうとく》されようとしている。門番の爺やのがに股が問題なのではない。桃子のような出来|損《そこな》いが笑う笑わないのが問題なのではない。父基一郎がもったいぶって挙行したいと望んでいる式典は、当然仰々しく厳然ととり行わねばならないはずだ。それは狭いだけに容易に変更を許さぬ一つの意志といえた。その心意気は龍子の顔をひときわ冷たくけわしくさせた。彼女は、膝の上で母親の毅然とした精神を感じたらしくすっかり温和《おとな》しくなった幼児をぐいと抱きなおし、まだいくらか笑いの余波の残っている広間を、まるで挑戦《ちょうせん》でもするような目つきできっ[#「きっ」に傍点]と見すえた。
第三章
「いやいや、ぼくは酒はやらないんで。さあ黒田君、さあ三瓶《みひら》、あなた方でやって……。ぼくはねえ君、これを飲む。これはボルドーといってね、ボルドー、こりゃあ名前がいい。ぼくはこれが一番でね」
そう言って基一郎は自分のコップにはボルドーをつがせた。ボルドーといっても、ボルドー酒とは縁もゆかりもない飲料である。アルコール分は全然なかった。それは当時売りだされた赤い色をした甘いサイダーのことなのだ。透明なコップにそそがれた赤い液体はシューッと音を立て、炭酸ガスの泡《あわ》が底からたちのぼってきた。それを基一郎はごくおいしそうに飲んだ。ひと息にコップ半分ほどをぐいとやり、残りはさらにおいしそうにちびちびと飲んだ。知らない人が見たとしたら、単なる色つきサイダーを飲んでいるのだとはとても思えなかった。
そこは「珊《さん》瑚《ご》の間《ま》」であった。
珊瑚の間はちょうど「奥」の階上にあたり、隣には「貴賓室」がある。こうした名称はすべて基一郎の発案、いや発明ともいうべきで、「貴賓室」といってもただの洋風の応接間なのである。政治に関係する客などあれば――基一郎はつまるところ田舎代議士にすぎなかったから名のある政治家が訪れることもなかったが――院長は貴賓室で応対する。山形県から上京してきた客などあれば――田舎代議士といっても彼が内務大臣になにごとかを囁《ささや》けば県知事が更迭《こうてつ》されてしまうといった時代であったから、いろいろと陳情にやってくる客は絶えなかったのである――基一郎は珊瑚の間に泊めてやり、彼らの度《ど》胆《ぎも》をぬくという寸法なのだ。
珊瑚の間は十二畳の日本間であった。黒塗りの格天井《ごうてんじょう》、鳳凰《ほうおう》の透彫《すかしぼ》りの欄《らん》間《ま》、高麗《こうらい》べりの備前畳などに基一郎好みのこけおどしの精神が充分に示されていて、かつ障子《しょうじ》の外は洋風のテラスになっていた。珊瑚の間という名称は、床の間の壁一面に珊瑚がちりばめてあるところからきていたが、この珊瑚も実は模造品なのである。だが基一郎はすべての客にこう説明するのにちっとも羞恥《しゅうち》を覚えなかった。
「なにねえ、ぼくのちょっとした趣味でねえ、ここに珊瑚をちりばめてみましたよ。ですから、まあこの部屋を珊瑚の間といっているわけで」
それと共に人目を惹《ひ》くのは、違い棚《だな》にもその下にも、幾つかの大小の飾り戸棚があって、その中には基一郎が外国から持って帰った品物がこまごまと陳列されていることだった。オランダの陶器もあればフランスの銀器もある。なかでももっとも品数の多いのは独逸《ドイツ》製品であった。独逸は基一郎が二年余をすごした地であるし、また彼の贔《ひい》屓《き》の国なのである。しかし飾り戸棚に収めておくのはいぶかしい品物まであった。ゾリンゲンのナイフから鋏《はさみ》から、さては爪《つめ》切《き》り、毛抜きに至るまでが陳列されていた。一体どこに爪切りや毛抜きを麗々しく飾っておく家があろう。だが「奥」へ行ってみれば独逸製品はもっと跋《ばっ》扈《こ》していたのである。基一郎夫妻の使用しているダブルベッドもそうであれば、「貴賓用」と記してあって一般の者は使用できない手洗いの西洋便器まで基一郎が持帰ったものであった。こうしてみると、彼は一体学問をしに留学したのか、輸入業者として出かけて行ったのかわからなくなってくる。
違い棚の上方の壁には議員が下賜《かし》される御真影がかかっていたが、基一郎は不断はそれにむかって頭をさげることは全然なかったくせに、相手が地方からの客となるとこう説明するのを忘れはしなかった。
「あの御真影は陛下からじきじきに賜わったものでねえ」
こうして珊瑚の間に泊められた客は、おどおどしてろくすっぽ眠れはしないのである。
珊瑚の間は平生《へいぜい》はあまり使用されはしなかった。ここで食事をすることは異例なことで、まして家族一同が揃《そろ》って珊瑚の間に集まるのは、賞与式と元旦《がんたん》くらいのものであった。
今年は特別長くかかった賞与式をすまし、夕刻から娯楽室で始まった慰労の席に顔をだしたあと、基一郎はついさいぜん、珊瑚の間の家族の晩餐《ばんさん》に加わったところだった。それはごく内輪のささやかな祝宴であり、客と呼ぶほどの者とていなかったが、それでも不断は見られぬ顔も二、三あった。
一人は慶応病院の教授をしている黒田で、彼は基一郎とベルリン時代一緒に下宿していた仲である。彼の名前は楡《にれ》病院の門の前にある立看板に記されているのだが、実際は診療を手伝っているわけではない。表面を飾ることが好きな基一郎が名義だけそれ相応の礼をつくして借用しているのだった。もう一人は子供たちが「秩《ちち》父《ぶ》のおじさま」と呼んでいる頭の禿《は》げあがった青木徳太郎で、彼はひさの兄なのである。最後の一人は生れてはじめて昨日山形から上京してきた三瓶城吉であった。丸顔の、日焼けした、太い眉《まゆ》と無骨な口元に真正直なきかん気を現わしている、山形弁丸出しの青年で、遠慮もなく酒をいくらでも飲み、ときどき奇妙な大声をだして、末席にいる桃子や米国《よねくに》を面白《おもしろ》がらせていた。ところが彼は徹吉の弟なのである。血のつながりはなくても楡家の子供たちの兄弟格なのである。
「ほうか、お嬢ちゃん、ほんなに泣虫《なきむす》か。ほだな、おれんどこじゃ寝小便《ねしょんべん》する奴《やつ》を小便《しょんべん》むぐしといってる、ほんならお嬢ちゃんは涙むぐしだべ」
彼はすでに額の辺りを真赤にほてらし、はるか席のへだたっている桃子にむかってそう言うと、卓の上の小《こ》皿《ざら》が振動するほどの笑い声をたてた。さきほどまで彼はおどおどしてあまり口もきけないでいたのだった。無理はない、彼ははじめて上野駅に着き、兄が養子になっている目の玉を丸くするほどの病院に連れてこられ、仰々しい賞与式に参列し、なんちゅう部屋だっぺと腹の中で思った御殿のような「珊瑚の間」とやらに案内されてしまったからだ。
そういう彼をこの席に呼んだのは基一郎の意向である。城吉はずっとむかし兄が東京へ行ったあと、やはり上《かみ》ノ山《やま》町の高松屋という旅館に婿養《むこよう》子《し》に貰《もら》われていったが、最近そこの当主が死に、城吉があとを継ぐことになっていた。高松屋の主人といえば小さな町では顔役の一人である。将来病院をつがせるつもりの徹吉の弟ではあるし、これは次回の選挙に役に立つと基一郎が考えたのにふしぎはない。しかし城吉はすこぶる飲《の》ん兵衛《べえ》のようであった。いったん酒がはいったとなると、さきほどまで小さくかしこまっていたのが遠慮もなにもなくなってしまった。彼は真正直で好人物でそしてかなり粗野で、こんなたいそうな病院、たいそうな部屋、たいそうな料理を前にしては、せいぜいあびるほど酒を飲まねば損だと考えたらしかった。
一体どのくらい飲めるのかと訊《き》かれたとき、彼はぶ厚い唇《くちびる》をなめて言ったものだ。
「ほだなっす、まず塩なめて一升だべなあ。こだな立派な料理があれば、そりゃあ二升でも三升でも。いやあ、まずまず」
そしてぐびりと盃《さかづき》を干し、それが茶碗《ちゃわん》でないのをいぶかるように舌打ちをしたが、
「おれが兄貴に勝てるのは酒ぐらいなもんだな。これはおれの出来がわるいんではなぐて、兄貴の出来がよすぎたべ? こりゃあかなわねえ。子供のときから兄貴にはかなわねえとこがあった。神童だったっぺ、兄貴は? ただ酒だけはそうはいかねえ」
城吉がしゃべりだすと勢い一同の視線はそちらに集まったが、龍子《りゅうこ》だけは端然とそ知らぬ顔をしていた。一体どういう理由でかような人物が、楡病院の中でも高貴な珊瑚の間にまぎれこんできたのか理解できなかった。彼女は理解しようとも思わなかった。こういうときは頭から無視するにかぎるのである。無口なひさも、このほうは龍子のように意識的ではないものの、その感情を相かわらず表に現わさず、城吉の酔声が聞えているのかどうかもわからないといった様子で、しずかに柔らかいものを選んで箸《はし》をうごかしていた。
一方、城吉の兄、今では東北の片田舎とは遠く離れ、楡病院の二代目院長を約束され、基一郎のはなはだ貴族的な――と彼は思わざるを得なかった――長女龍子を妻としている徹吉は、一言でいえば困惑と索寞《さくばく》とした孤独の感情にとりかこまれていた。さきほどまで息子の峻一《しゅんいち》が座にいたときはまだよかった。彼にとって養父基一郎は恩人ではあったが、年が経《た》つにつれどうにも生理的に肌《はだ》にあわぬ人物と思えてきたし、楡病院自体はもっと肌にあわず、わずかに三歳になった息子が泣いたり障子をやぶったり紙きれに出《で》鱈《たら》目《め》な絵をかきなぐったりするときにのみ、なにかほっとした、自分自身の感情にひたれる時間をすごせるような気がした。妻でさえ、本心を打明ければ彼には自分のものとは思えなかった。なるほど四年まえ、彼がこの養父の長女を妻と呼べるようになったとき、彼はたしかに感激したのを記憶している。龍子は自分のような者からあきらかに一段高い場所にいる、生《きっ》粋《すい》の都会育ちの学習院出の令嬢なのだ。しかしいま、懐《なつ》かしい血をわけた弟が無礼講に東北弁を吐きちらかしているのに対し、ひややかに無関心をよそおっている妻を眺《なが》めていると、それが寝室を共にする女どころか、今まで一度も会ったこともない、芯《しん》の芯まで赤の他人のように思えてくるのをどうするわけにもいかなかった。彼女はたしかに自分のものではなかった。龍子はあくまでも楡家の、基一郎のマニアじみたはったりとひさの目に見えぬ古い血の織りなせるあやしげな意志にあやつられている女なのだ。せめて峻一がここにいたなら。あの子には少なくとも半分自分の血がまじっているはずだ。しかし、さきほど基一郎はその初孫を抱きあげ、まるで彼の地盤の有権者に対するように、調子のよい愛《あい》想《そ》を言ったものだ。
「おお、重い重い、大した重さだ。おまえは本当にえらいねえ」
そして、それきりだった。この席に結局は邪魔になる幼児は下田の婆《ばあ》やの手によって連れ去られていったのだ。基一郎に果して孫に対する愛情があるかどうかはすこぶるあやしい。が、とにかく彼は頑《がん》是《ぜ》ない孫にさえひとことのお世辞をいうのを忘れない男だったのである。
これがひさとなると、一体峻一をどう思っているのか想像もつかなかった。そばに近づけようともしなかった。世間の爺《じい》さん婆さんは、孫という存在には、たとえ目玉が三つあろうとも溺愛《できあい》をそそぎがちなものである。しかし楡家では、祖父は偶然の機会に見えすいたお世辞をいい、祖母は孫が存在しているかどうかも関知せぬといった無表情に閉じこもっている。一体こんな家庭があってよいものなのだろうか。家庭? 徹吉の感覚によれば、楡家は断じて家庭などというささやかな暖かみを持った存在ではなかった。それはずっと殺風景にひろがったいかがわしい機構にすぎなかった。いや、まあいい。こうした酒席でこんなことを考えるのがそもそも間違いなのだ。そう一人うなずいて、徹吉はしばらく手をつけずにおいてすっかり酒も冷えてしまっている盃に手をのばした。
本当は彼は弟と胸襟《きょうきん》をひらいて語りたかった。弟がどんなに酔っぱらっても、思う存分酔わしておき、その呂《ろ》律《れつ》のあやしい懐かしい故郷の言葉を聞き、自分もその故郷の言葉で応じたかった。徹吉は以前、実母が死んだとき帰省して以来、ずっと故郷を訪れたことがなかった。だが、彼もまた特殊な立場にしばられている存在である。そうした個人的な願望は楡病院の記念の晩餐に対しては席をゆずらなければならない。そのことを徹吉はよく理解していた。なにはともあれ彼は、山形の僻村《へきそん》を離れて、東京に、楡病院に、すでに二十年余をすごしてきた人間なのだ。
徹吉は基一郎の生れた村の隣村の農家に生れた。決して貧農というほどの家ではない。しかし村のどの家でも、二男三男は機会さえあれば養子にやるのが半ば定まった風習であった。分家をさせれば本家の田畠《でんぱた》を減らすことになるからである。幸い徹吉には身分不相応な話がきた。この少年が附近数カ村始まって以来の秀才だということを聞きつけて、この辺りの立身出世者、東京の繁昌《はんじょう》開業医楡基一郎が手元にひきとるといってきたのである。徹吉は父親に連れられて上京し、東京の中学校に入れてもらった。彼が十五歳のとき、明治二十九年のことである。といって徹吉の身分はそれほど保証されているわけではなかった。口ではごく簡単に養子といっても、それは基一郎のお家芸の調子のよさが多分にあった。東北の僻村の神童も東京の学生にまじったなら凡才と化してしまうかも知れない。徹吉が本郷の楡医院に暮すようになったとき、基一郎夫妻には龍子がいただけであったが、のちになって長男の欧洲《おうしゅう》が生れた。徹吉の立場は微妙だったともいえる。しかしそんな世俗的な考えに囚《とら》われる年齢ではなかったし、なにより東北人特有の粘り強さで彼は勉強をした。まだ本郷にあった楡医院の書生部屋の薄暗いランプの下で、ほかの書生たちが立川文庫に読みふけったり焼芋を食ったり吉原《よしわら》の女の話をしているかたわらで、彼は辞書をくり数学の公式を写した。勉強、そして決して功利的なひびきのみではない立身出世の夢、この中学生はランプの下で当時兵隊に行っていた郷里の兄に――この兄はやがて日露戦争で戦死をした――こまごまとした文字で真剣に手紙を書いた。
「愚生事も四月の学年試験も相終り成績は非常に悪《あ》しく有之《これあり》何とも申訳も無之次第に御座《ござ》候《さうらふ》。受験者二百人程にて十一号にて有之候。最初は二号|其次《そのつぎ》は四号|此度《このたび》は十一号|嗚呼《ああ》何ぞ愚痴の甚《はなは》だしきや神明も為《ため》に怒るらむ、然《さ》れども亦《また》何ぞ志をひるますに足らむと存じ居《を》り申候」
またこんな手紙もある。
「余の一身上には何も障害無之次第にて候|也《なり》。病院にては一室ありて勉強するの外は業とてもなければ幸福の至りと存じ居候。嗚呼前途|尚《なほ》遠し、男児生きて志を学界に委《ゆだ》ね孤燈の下勉強しつつあるものが、いかでか養子等の事に関係せむや。只今《ただいま》は修業時代也、今より如何《いか》なる変遷《へんせん》あるやも知るべからず。然れども父母等はよく余に注意を加へて勉強をうながし給《たま》へるは実に有難《ありがた》き事と存じ居り候」
一方、医学というもの、患家の信用の絶大な楡医院の診療室からみる医術そのものは、徹吉の目に最初から、ほとんど肉感的に偉大な、一生を捧《ささ》げて悔いないものと映じた。たとえば夜中、ひきつけを起した幼児がかつぎこまれてくる。寝巻姿の基一郎がちょっとした処置をほどこしてやる。すると見るまに生気のなかった幼児が息を吹きかえし、けたたましい泣き声をあげる。途方にくれていた母親は院長の手をおし頂いて感謝の涙にくれるのだ。むかし基一郎は医科百般をなんでもやった。気管に異物がつまった少年が、二、三の医者をまわってどうしてもとれず楡医院に連れてこられる。すると基一郎は奇妙な器具をとりだす。骨でつくった棒のようなもので、曲った先のほうになにやら毛のようなものがついている。それを苦しがっている少年の喉《のど》に突っこむと、そっと覗《のぞ》いていた徹吉は思わず目を見はったのだが、一分とたたぬうちに異物はとれたのだ。そのあと基一郎が附《つき》添《そ》いの親にこんなふうに自慢するのも徹吉の耳に決して奇異にはひびかなかった。「これはねえあなた、ぼくの発明した器械で、日本に一つきりない。自分でいうのもなんだが、ぼくは名医、つまりオーソリティなんですからな。ここにいらしたのは実際運がよかった」名医である養父に、医学そのものに、純朴《じゅんぼく》な憧《あこが》れの念を抱いて徹吉は勉強した。彼は首尾よく一高《いちこう》に、東京帝国大学医学部に入り、そしてその成績はかつての神童の名を恥ずかしめなかった。養父は機《き》嫌《げん》よくそのたびに言った。「徹吉、おまえはえらい。ひとつ金時計をくれてやろう」なに、それは調子のよい言葉だけのことだった。もう五つばかり貰っていてよいはずなのに、徹吉はまだ一つも金時計を所有していなかった。時計はどうでもいい。基一郎が二回の洋行をし、楡医院は青山の大病院となり、まして院長が代議士なんぞになろうと計画しだしたとき、徹吉はもう以前のように養父を尊敬の念だけで眺められなくなっていた。彼は養父の意に従い、精神科の医局にはいり、基礎的な学問をしながら楡病院の診療をも手伝っていた。だが専門医となった彼が養父の診察ぶりを見ていると、どうもときどき首を傾けざるを得ないことがある。基一郎の腕がわるいというのではない。養父はたしかにすぐれた臨床医であった。しかしその調子のよい口《く》説《ぜつ》は往々にして行きすぎになりがちのように徹吉には思えた。
基一郎は普通の診察のほかに患者の頭に聴診器をあてるのである。心臓の音や肺臓の呼吸音をきくときと同じように頭を聴診するのである。そして院長は自信にみちて患者に告げるのだ。
「いや、君の脳はわるい。たしかにわるい。ぼくのあげる薬をのみなさい。これは日本一の薬なんだから」
もっと驚いたことに、院長はものものしく耳鼻鏡を額につけ、患者の耳の穴を覗きこむことがある。耳のわるい患者ではない。頭のわるい患者の耳をだ。
「ああ、あんたの脳はただれている。腐りかけている。ちゃんとそれが見えている。こりゃ入院しなけりゃいけませんな。まあぼくにまかせなさい。腐った脳をちゃんと癒《なお》してあげる。ぼくはねえ君、ドクトル・メジチーネでねえ、専門家、オーソリティなんだから」
早発性|痴《ち》呆《ほう》その他の精神病には一般に自覚が欠如している。それゆえ患者にまっとうな医学知識を説くのが正しいやり方でないのはもちろんのことだ。ときにはいい意味で患者をだますこと、妄想《もうそう》にかこまれている病人になんとかして医師を信頼させるようにしむけることは不可欠なことだし、意味のある口説《ムント・》療法《テラピー》なのだ。ところが基一郎はそんな必要もない普通の神経衰弱患者にも、田舎の物分りのにぶいお婆さんどころか立派なインテリの学校の先生にさえ、この流儀でおし通すのだ。そしてその結果はどうだろう、院長は断然彼らの信頼をかちえてしまうのである。まっとうな診察、正当な理論的な説明よりも、ずっと患者たちはこのカイゼル髭《ひげ》を生やした小男の医者を信用し、また癒りも早いのである。なんにしても不思議な人物なのだ、この楡基一郎という男は。
実際不思議な人物だとしか徹吉には思えなかった。彼は養父を以前のように尊敬もできなかったが、といって軽蔑《けいべつ》もできなかった。たしかに基一郎には一種の力がある。その新しがり屋もわるいことではない。楡病院では新薬でも新式器具でもいちはやく取入れられるし、ジアテルミーを輸入したのは本当に日本一早かったかも知れない。だが、あのラジウム風呂《ぶろ》は? 徹吉の知識によれば、あの浴《よく》槽《そう》の曲りくねったパイプからラジウムが発生するとはどう考えても理《り》窟《くつ》にあわなかったし、その風呂が楡病院入院案内に説明されているほどの効用があるとはとても信じられなかった。だが基一郎は得々として客にまで言うのである。「ぼくのとこのラジウム風呂にはいってみるんですな。そんな頭痛なんぞいっぺんにとれてしまうから」
だが、徹吉が養父をどう考えようとも、基一郎はもっと大局に立ってこの養子の成長をじっと見守っていた。そして徹吉がひとかどの、いや確かに頭角を現わす医者になると見極めをつけたとき、長女の龍子を与える決心をきめたのである。それには長男の欧洲が病院を継ぐには年齢が若すぎることと、あまり出来がよくないことも一因にちがいないが、徹吉をいよいよ楡病院次代院長と内心できめたとき、基一郎はこういうことを言った。
「徹吉《てつきち》、おまえの徹吉という名はどうも田舎くさい。これからは徹吉《てつよし》と名乗りなさい」
自分の姓から名前から平気でがらりと改造してしまう養父の命とあれば仕方なかった。徹吉《てつきち》先生でなく今後は徹吉《てつよし》先生と呼ばなければいけない、と院代を通じて病院じゅうに布告がなされた。しかし長年の習慣がそうすぐ変えられるものではない。人々はやはりうっかり徹吉《てつきち》先生と呼んでしまった。そこで基一郎はひさの意見を入れ、今度は若先生と呼ばせることにした。これはどうやら成功した。が、徹吉自身はこの呼称がいやでいやでたまらなかった。彼はそれほど若くもなかった。今から四年まえ龍子と夫婦になったとき、彼はすでに三十三歳であった。そうして三十七歳にもなった今、彼はまだ博士になっていないのだった。養父がなにやかやと病院以外のことに手をだす結果として、病院を手伝わねばならぬため研究の時間を奪われてしまったし、なにより学究肌の彼としてはいい加減な論文をつくりたくはなかったからである。養父はよく言った。「徹吉、おまえはえらい。洋行させてやる」だがそれも金時計と似たようなもので、そのうち世界大戦が勃発《ぼっぱつ》してしまった。しかし今はそれも終った。徹吉にしてみれば、雑事の多い現在の環境でより、やはり近代精神医学発祥の地|独逸《ドイツ》で落着いた仕事をやりたい心算《つもり》であった。が、とにかく彼はむかし自分が子守をしたこともある、十二歳年齢のちがう龍子を妻に与えられたのだった。このことは彼の幸不幸とは別問題だが、彼の地位がもはや楡病院において不動のものになったことは事実である。一方、龍子の側からみれば、あまり風采《ふうさい》のあがらぬ徹吉を夫にすることにおそらく喜びも感じられなかったろうが、ある偏狭な意志に自らすすんで支配されている彼女は、一言もいわず父の意に従ったのである。なぜなら基一郎は常々言っていたではないか。「ぼくはねえ君、日本一頭のいい男を養子にしたんだよ」それが「日本一|身体《からだ》の大きい男」だったらまた話は別かも知れないが。
その「日本一身体の大きい男」のことは、そのときちょうど話題になっているところであった。
「どうですか、その辰《たつ》次《じ》君とやらは?」と、基一郎同様|好角《こうかく》家《か》の黒田が訊《き》いた。
「いやそれがねえ君、非常に人見知りをするのでねえ」と、基一郎はソップをスプーンですくった。
基一郎は固形物をあまり食べない。ボルドー酒ならぬボルドーを飲み、ソップをすすってばかりいる。彼はスープのたぐいをすべてソップと呼び、従って楡家では誰《だれ》もがソップという言葉を使っている。基一郎はそのソップばかりをもう三杯もお代りし、卓上の菜《さい》にはほとんど手をつけなかった。さいぜん彼は幼い子供たちにソップをのむときの外国仕込みの作法をきかしてやったばかりであったが、それなのに本人がそれをのむときは、なんとしたことだろう、あきらかに耳につく音響がひびきわたった。おまけに丹精こめた自慢の髭の先にまでそれははねかかっているではないか。
基一郎はそんなことにおかまいなく、今度は赤い甘いサイダーをいかにもおいしそうに飲み、
「あれを学校に入れるときが君ねえ、大変だったよ。なにしろ図体《ずうたい》が大きいんで、机も椅子《いす》もあうのがないんだ。ぼくはそれで、特別あつらえの机と椅子を寄贈せにゃあならんかった」
基一郎の言葉には山形弁のなごりのかげさえなかった。といって東京弁というわけでもない。一種独特の発音であり発声なのである。未知の者が、先生の御郷里はどちらで? と訊くと、基一郎はときにはこんなふうに答えた。ぼくにはねえ、郷里なぞというものはありませんよ、なに、ぼくの言葉? ああ、これはベルリン訛《なま》りでしょう。
「それでまた相撲《すもう》とりになるつもりはないのかね?」と、黒田が訊いた。
「それが君、辰次はどうしても医者になるというんだ。あの身体でねえ。あれに医者になられたら困る。あんな医者が現われたら、これは君ねえ、患者さんがみんな逃げてしまうよ」
一同は笑った。
「だが、まあ見ていてごらんなさい。辰次は自分でもわかってきていますよ。普通の世界に自分が住めないってことをねえ」
基一郎は自分はなにもかも見通しで、自分の立てた計画に齟齬《そご》はないというように一人でうなずき、片手でソップのついた髭の先をひねりあげた。黒田が言った。
「すると君は、いずれ横綱の父親ということになるね?」
基一郎はまんざらでもなさそうに破顔し、一座の者もそれぞれに笑い声を立てた。しかし、さすがに龍子の笑いはいくらかこわばっていた。いくら父の好みとはいえ、戸籍のことを知らぬ世間の人々に、あの化物のような辰次を自分の弟と思われるのはあまり嬉《うれ》しいことではなかったから。
「辰次を……伊《い》助《すけ》がほんとうに可愛《かわい》がって……」
と、それまでまったく口をきかなかったひさが、すぼまった口からぼそぼそと言った。彼女はまったく無表情でおりながら、それでも一座の話にはちゃんと耳を傾け、人並以上に気をくばっているのだった。
「伊助というのはうちの病院の飯《めし》炊《た》きでね。これは日本一の飯を炊きますよ。……さあ、それをねえ君、どんどん食べてくれたまえよ、さあ三《み》瓶《ひら》」
自分はボルドーとソップばかり口にしている基一郎は、すっかり赤い顔をしてもっともよく飲みもっともよく食っている城吉に食卓のものをすすめたが、珊《さん》瑚《ご》の間《ま》の晩餐《ばんさん》というからにはどんな珍味があるかと思うと、実のところはそうではなかった。楡病院の食事は多人数を対象とする賄《まかな》いが中心であるから万事が大まかである。「奥」では別のものを食べてはいるが、これも奥づきの女中がいい加減につくるものだから洒落《しゃ》れた料理にはほど遠い。この夜の食卓にも品数だけは出されていたが、どれもこれも見掛けだおしで、不統一で、缶詰《かんづめ》からそのまま皿《さら》にあけたようなものが多かった。といって、上ノ山町から出てきたばかりの城吉には、途方もない山海の珍味と映ったのはもちろんである。
基一郎はそういうところをよくのみこんでいる男であった。
「さあ三瓶、それを食べてみてくれたまえ。それはコンビーフというものだ。アメリカ製だよ、君」
「ほだか、ほんならちょっくら食ってみっか」
城吉は輪切りにされたコンビーフを自分の皿に移すと、あっという間もなく、皿にあふれるほどのソースをだぶだぶとかけた。
「さあ、桃子、米国《よねくに》、おまえたちももう少しボルドーを飲むか」
基一郎の機嫌は殊《こと》のほかよく、小さな子供たちにまで愛《あい》想《そ》をふりまいた。
桃子にしてみれば、不断は大っぴらにはいることを許されぬ珊瑚の間に、大人たちにまじって席を与えられていること自体、わくわくするような得意と緊張のいりまじった体験である。姉たちはよく「奥」で両親と共に食事をする特権を有していたが、桃子や米国にはそんな機会は滅多になかった。姉たちが「奥」の子であるのなら、下の子はいわば「賄い」の子なのだ。なんだか桃子たちは日《ひ》蔭《かげ》の子かなにかのようであり、その父親はたいへん高貴な身分で滅多に姿を現わさず、たまたま桃子たちを見かければ、なるほどあれもわしの子だったなというわけで、相好《そうごう》をくずして、大きくなったな、偉い偉いと讃《ほ》めるのである。
桃子ははしゃぎ、自分でボルドーのびんを大切そうに傾け、赤いサイダーがコップに泡《あわ》を立ててゆくのを大きく瞠《みひら》いた眼《め》で見守った。
「ぼくも、ぼくも自分でつぐよ」
弟が流感のなごりのがらがら声で主張した。
「だめ、あんたはこぼすから」
桃子はボルドーのびんをひしと抱きしめて絶対渡すものかという気がまえをみせたが、聖子になだめられて渋々びんを渡した。そして今度は、米国がつぎそこなってテーブルをびしょびしょにしないものかと、眼を皿のようにして弟の手元を注視した。
「ときに欧洲君はまだ仙台《せんだい》で?」と、秩《ちち》父《ぶ》の青木徳太郎がきれいな禿頭《はげあたま》を桃子たちのほうにむけて、つまり基一郎のほうをむいて尋ねた。
「あれはまだ試験が終らないのでねえ」と、楡家の当主は答えたが、彼はこの大層な名前をもつ長男にあまり期待を抱いてはいなかった。欧洲は体格こそ彼の子にしては珍しいほど恵まれて育ったが、それだけ鷹揚《おうよう》にこせこせせず、すでに二回落第を記録していた。しかし基一郎はそうは口に出して言わない。
「欧洲はなかなか人望があってねえ。どこか親分|肌《はだ》のところがあるんで、いろいろと活躍していますよ。たしか柔道部で……」
「剣道部でございますわ」と、龍子が冷淡に訂正した。
「そう、剣道部でねえ。対抗試合にもみんな勝ってしまう。なかなか偉いところがありますよ」
基一郎は席にいもしない自分の息子にも世辞をいうのである。しかし龍子は、決して身内を卑下してみせるわけではなく、ごく客観的に他人を批評する口調でけんもほろろに言ってのけた。
「あの人はそれこそ総領の甚六《じんろく》です」
なんだかその口調には、楡家の息子は名前だけものものしくてまったくろくでなしだ、だからこそ女の自分がしっかりしなければならぬのだと改めて納得しているようなおもむきがあった。しかし龍子は事実、父親が平生《へいぜい》の人をおだてる調子ではなく、どこか嘆声にちかい声で「龍子、おまえが男の子だったらなあ」と呟《つぶや》くのを昔から何回も聞いて育ってきたのである。
龍子があまりきっぱりと欧洲のことを葬《ほうむ》りさってしまったので、秩父の徳太郎は今度は基一郎の次女のことに話題を転じた。つまり、しばらく見ないうちに聖子さんはすばらしいお嬢さんになった、その花嫁姿を見たら自分のような禿頭も――とここで彼は自分の見事な光沢のある顱頂《ろちょう》をつるりと撫《な》でた――きっと夢中になってしまうであろう、と述べたのである。聖子はややあおざめた頬《ほお》に急に血の色をみせてうつむき、大人たちはそれぞれに肯定の微笑を洩《も》らした。誰がどう見ても聖子はそうからかわれるだけの価値を有しているように思えたからである。
すると、こういうことが起った。秩父の徳太郎はずいぶんの大声で――なぜなら土地には「秩父の高声」という言葉があるとおり自分は声が大きいのだと彼は前にも説明したことがある――この冗談を言ったのだが、それよりも更に大きな胴《どう》間《ま》声《ごえ》で、城吉がそれに賛成の意を表しだしたのである。城吉は一目見たときから、兄の嫁御を敬遠したが、その妹には感嘆の眼を見張っていたのだ。しかし口にだしてそれを言う勇気がなかった。今や一升の酒はその勇気をかもしだし、きっかけが与えられたとなると、その訥々《とつとつ》たる弁舌には岩をも微《み》塵《じん》にする力があった。幸い甚《はなは》だしい東北弁は大部分の人たちの理解を不可能なものにしたが、さすがに聖子は羞恥《しゅうち》と困惑の中に今にも消え失《う》せそうな風《ふ》情《ぜい》をみせた。
基一郎はそんな聖子の姿をこちらからちらと見やった。はたして彼はこの一番の器量よしの娘にも世辞を言ったろうか。いや、彼は黙っていた。無言で自らにうなずくように、片手で訳もなく髭《ひげ》の先をまさぐっていた。ぴんとはねあがった髭の先端を二度ひねり、三度ひねった。こういうとき、彼は余人の追従を許さぬ先見の明と斬新さを誇る計画をねっているか、あるいはすでに軌道を走りだしている計画を改めて反芻《はんすう》し、我とわが考えに会心の笑みをもらしているのである。このときは後者の場合であった。彼の水白粉《みずおしろい》で化粧された顔にはまざまざと満ちたりた微笑がうかんできた。なぜならこの次女の婚姻、当然楡家になにものかをつけ加えるべき結婚の相手は、まだ誰も知らないことであったが、すでに決定していたのである。基一郎がもはやきめてしまったのである。
相手は家柄《いえがら》であった。代々御殿医をし、現在もその一族の者には名のある医者が幾人もいた。臨床医ではないが、ひとつの学閥に勢力をもつそうした家と親戚《しんせき》関係を結ぶことは、楡脳病科病院の将来にとって益のないはずがない。当のその青年はまだ医学生の身ではあるが、成績もすこぶる優秀のようだ。相手が名もない家であったなら、基一郎はもちろん彼を養子に望んだであろう。だがこの場合はやむを得なかった。しかし花婿《はなむこ》も花嫁もまだ学校を出ていないのでは、こういう話は早すぎはしまいか。いやいやとんでもない、というのが基一郎の意見であった。時計は遅れているのより進んでいるほうがよいし、物事も早ければ早いほどいい。結婚は将来でもよいとして、とりあえず婚約だけでもさせましょう。この計画はもう親同士の間で決められてしまっていて、あとは本人同士をひきあわすことが残っているだけであった。そして基一郎にしてみれば、本人同士なんて言葉はもとより眼中になかったのである。
基一郎は満足の笑みを洩《も》らした。それから何《なに》喰《く》わぬ顔で、すっかり酔っぱらってしまった弟を懐《なつ》かしいながらも面目なく感じてますますむずかしい顔をしている徹吉にむかって声をかけた。
「徹吉《てつよし》、おまえもいずれ留学せにゃならんのだから、独逸の事情なんかをいろいろと黒田先生に訊《き》いておきなさい」
なに、黒田の知っている戦前の事情なら自分で話してやればよいのだから、これはむろん黒田に対する世辞と解すべきである。
次に基一郎は、女中に命じて隣室の貴賓室から一冊の本を持ってこさせた。それは『神経衰弱の治療及健脳法』と題する書物で、その著者は誰かと言うに、『楡病院帝国脳病院長ドクトル・メジチーネ楡基一郎著』とそこに記してある。その本は貴賓室の硝子《ガラス》戸《ど》のついた書棚《しょだな》にはいつも何十冊となく並んでいるのだ。
基一郎は本を手にとると、高松屋旅館の若主人にむかって言った。
「三瓶、これはぼくが書いた本でねえ。これを特別に君にあげよう」
ところが、三瓶城吉は酔眼をひらいて表紙の文字を苦労して読んだ挙句、胴間声でこう答えた。
「こだいむずかしい本は、おら要らねえ。大体おれは神経《すんけい》衰弱でもないし」
しかし、その兄がかたわらから慌《あわ》ててなにかとりなしたので、城吉はぺこりと頭をさげた。
「ほうか、ほんなら有難《ありがた》く貰《もら》っておくべ。読めはすねえかもすんないが」
そのやりとりを眺《なが》めていた黒田は、思わず笑いを誤魔化すために咳《せ》きこんだ。黒田自身は友人基一郎からすでにその書物を数回も貰っていたもので。
しかし決してインチキな本というわけではない。巻をひらくとまず「緒論」とあって、
「肉を離れて霊なく、霊を去ツて肉無し。霊肉元|是《こ》れ一如《いちにょ》。霊|豈《あに》無形と云《い》はん、肉必ずしも有形ならんや」
と、堂々とした、少々堂々としすぎる文章が書かれているのである。もう少し先へゆくと、「此《こ》の摩訶《まか》不可思議なる神経系は、大哲人ショウペンハウエルをして、『絶対不可思議器官』と叫ばしめ、又《また》悟道の覚者をして、『墨絵に画《か》ける松風の音』と唱せしめたが……」と、東西にわたる学識が披《ひ》瀝《れき》してある。そして著者は嘆じているのである。「進歩の裏には退歩ありとか、見よ先の迷信時代、宗教時代は既に過ぎ去り、今や正に科学的時代に入り、幾多神秘の宝庫は此の鍵鑰《けんやく》に依《よ》つて開かれ、無線電信通じ飛行機成り『ラヂウム』出《い》で『スピルヘーテ』露《あら》はれ、開物成務の目的は幾何《いくばく》ならずして彼岸に到達せんとする趨勢《すうせい》を示し居《を》るにも拘《かかわ》らず、人心|漸《やうや》く危《あやふ》く肉体日に虚弱ならんとするは何故《なにゆゑ》であらう乎《か》……」それゆえ著者は欧米精神医学の知識を説きさり説ききたり、それに加うるに、貝原益軒の養生訓、白隠禅師の遠羅天《おらて》釜《がま》、若生形山禅師の精神清潔法、平田|篤胤《あつたね》の鍛錬法などの智慧《ちえ》に至るまで列記してやまないのである。これを良書と呼ばずしてなにが良書か、といわんばかりの本なのだ。
たしかに摩訶不可思議なところのある男だ、と黒田は基一郎のことを考えた。いや、ショウペンハウエルに従えば絶対不可思議な男とでもいうべきかな。
それから黒田は、基一郎の二度目の洋行、彼がアメリカへ船出するときの事件を憶《おも》いだして、今度は咳ばらいだけでは足りず、どうしても天井に顔をむけてにやにやせざるを得なかった。
そのとき黒田は通知状を受け、相当に多忙だったにもかかわらず新橋駅まで見送りに出むいたのだった。なぜならその大判の通知状には、ドクトル・メジチーネ楡基一郎は今般何月何日横浜港出港のかなだ丸にて渡米することとなったが、万一お閑《ひま》である方は横浜まで御《ご》来《らい》駕《が》あらせられたく、そうでない御《ご》仁《じん》は何時何分新橋駅発の汽車を見送って頂ければなんとも幸甚《こうじん》である、という意味のことが圧倒的な美文調で印刷してあって、いやでもせめて新橋まで送りにいかねば罪悪感にかられるような気分に襲われたからである。
黒田は時間に遅れそうになり、人力車を急がせて新橋駅に着いた。ところがとうに時刻がきているのに、一向に基一郎の姿は見えない。あとでわかったことなのだが、基一郎はその「何時何分」に詐欺《さぎ》といってよいほどのさば[#「さば」に傍点]をよんでいたのである。そんなことは露知らぬ黒田は、待てど暮せど当人が現われぬので、駅前の店へ行って電話を借り、基一郎の病院にかけてみた。すると院長先生の一行はもう二時間も前に出発されました、おっつけ駅に到着するころでしょう、という返事である。仕方なく黒田はいらいらしながら待っていた。ついにしびれをきらして駅前の電車通りに出た。すると、「行列」が彼方《かなた》からやってきたのである。
あれは一体なんなのだろう、とはじめ黒田はいぶかった。しかし間もなく、先頭をきる紺の法被姿《はっぴすがた》の男がおしたてている大幟《おおのぼり》の文字が目にはいった。そこには墨くろぐろと大書してあったのだ。「祝 楡基一郎先生御渡米」それは決して茶番とは映らなかった。あまりにも徹底した愚行はむしろ厳粛でもある。そのとおり行列は粛々と進んできた。大幟のあとにはやはり法被姿の男が数名、それから相撲とりが何名かいた。もちろんぺいぺいの下《した》っ端《ぱ》なのだろうが、そのひときわとびだしたざんぎり頭はたしかに行列に異彩を加えていた。次に数台の人力車がつづいた。先頭の人力には、この日の立役者楡基一郎がフロックコート姿でおさまっていた。彼は貴族のように悠然《ゆうぜん》と、こんなことは日常茶飯事だといわんばかりに軽くなにげなく背をもたせていた。そして思いだしたように片手をそっと優雅にあげ、髭の先をひねりあげているようだった。人力車のあとには二十名ばかりの人たちが従っていた。いずれも羽織《はおり》袴《はかま》で、かなり疲労したような気配が漂っていたが、それでも列をくずさず粛々と進んでくるのだった。そこにも法被姿の男たちがまじっていて、先頭のものよりは小さかったが、三本ほどの幟をかついでいた。そしてこの一行のまわりやうしろを、ときならぬ為《え》体《たい》の知れぬ行列を珍しがって、大勢のその辺りの子供たちがぞろぞろとついてくるのだった。……
いやはや絶対不可思議な人物だ、と黒田は腹の中で呟き、もう一度出てきた笑いを口の中で噛《か》み殺した。
食卓にはもう茶菓がだされていた。自分では何も食べない基一郎はなおも城吉にすすめていた。
「さあ三瓶、ひとつ食べてみてくれたまえ。これは長崎のカステーラというものだ」
「ほだか? ほんなら食べてみんべえ」
小さな子供たちはくすくすと笑った。殊に桃子は莫迦《ばか》笑いを起しそうになり、それを堪《こら》えようと無茶苦茶に顔をゆがめた。
と、そのとき、下手の唐紙《からかみ》があいて、下田の婆《ばあ》やが顔を見せた。が、彼女は部屋にはいりきらず、廊下に残っている何者かを、しきりにすかしたり誘ったり叱《しか》ったりしているようだ。で、ついにその渋っていた主は珊瑚の間に姿を見せた。ぐずぐずと、いかにも厭《いや》そうに、まるっきり首をたれて。
それは大きすぎて大飯食らいで、とうとう東京の楡家の養子となったあの山形の怪童であった。その並外れた図体《ずうたい》は決して恵まれた良質の発育の結果とは見えなかった。むしろ一種の畸《き》形《けい》、自然に反した異常発達、脳下垂体ホルモンの分《ぶん》泌《ぴ》不均衡による肉体の滑稽《こっけい》な膨脹《ぼうちょう》と思われた。しかも彼はまだ小学六年生なのである。これからの身長の雪だるま式の増加は保証されているといってよかった。
「おお、辰次か」と、基一郎は自分のためこんだ宝物の一つを見るように、満足しきって少々だらしのない声をだした。「さあ、こっちにきなさい」
だが怪童はうごかなかった。着ている特別あつらえの学生服もすでに窮屈げであった。彼は部屋にはいってきたものの、ほとんど敷居の辺りにべたりと坐《すわ》ってしまい、自分の不《ぶ》恰好《かっこう》なまでに大きな膝頭《ひざがしら》に目を落していた。その頬は丸くふくれあがり、大きすぎさえしなければあどけないといってもよかった。だがそれは少年時かぎりのもので、おそらく時とともにその顔は長く、丈ののびると同じように縦にのびてゆくにちがいないことが予想できた。頤《あご》の骨はすでに目に見えて下方に張りすぎていた。
「辰次、こちらにきて御《ご》挨拶《あいさつ》をしなさい」
滅多に唇《くちびる》をひらかぬひさが、ぼそぼそと重い口をうごかした。彼女の低い聞きとりがたい声は、往々院長のなめらかな舌の動きよりももっと人々を従わせる秘められた権威を持っているのだ。
が、それでも怪童はべたりと坐ったままであった。彼の身体《からだ》に逆比例した小心と内気、これまで過してきた人生が彼にあびせてきた好奇と嘲笑《ちょうしょう》が、この少年に自分の身長を能《あと》うかぎり人に示すまいとする習性をさずけてしまったのだ。郷里では大飯ぐらいのでくの棒、楡病院にきてからは基一郎の虚栄心を満足させる道具、そういう事情を辰次がわきまえているわけではなかったが、本能がたしかに彼にこう命じたのである。辰次、おまえは立つな。おまえはなにしろ大きすぎる。
すると、基一郎はこういうことをした。卓上のカステラのはいった皿《さら》をとりあげたのだ。
「辰次、そら、この菓子をあげる」
辰次の頭《ず》蓋骨《がいこつ》は人並の大きさであった。つまり頭部の上半分は身体の異常発達についてゆかなかったのだ。そのことと年齢とが、彼をひょいと立ちあがらせた。人々の視線には目もくれず、カステラの皿をめざしてずかずかと進んできた。彼が立ちあがったとき、はじめて彼を知る者はあらためて目を見張った。坐っているとき予想していたより、怪童ははるかに上背があったからである。黒田は生真《きま》面目《じめ》に評価するように腕を組み、思わず「ふうむ」とうなった。秩父の徳太郎も高松屋の城吉も、自分たちより遥《はる》かに背の高いこの気味のわるい小学生を、あっけにとられたように見あげていた。一方、龍子はまるで醜悪なものでも前を通るように、視線をまったく別の方角にむけた。
辰次は基一郎の手から菓子皿をうけとると、またその場にべたりと坐った。珍しい菓子を貰ってはみたものの、これから一体どうしてよいかわからぬといった様子だった。しかし事実上の養父は言った。
「辰次、勉強をしているか?……よしよし、もうむこうに行ってよい」
辰次は菓子皿をかかえて実にすばやく退場した。このでかい養子は、賄《まかな》いのそばにある伊《い》助爺《すけじい》さんの小さな煤《すす》けた住いに暮しているのである。
「いや、もし力士になったら、これは本当に横綱じゃ」
秩父の徳太郎が、独り言のように、しかし独り言にしてはずいぶんと高い声で言った。
基一郎は相槌《あいづち》を打たなかった。ここにもひとつ自分の卓抜な計画が軌道にのって進んでいるのをひそかに愉《たの》しむように、半ば無意識に髭の先をまさぐりながら、自分自身にうなずいているようであった。
客たちは煙草《たばこ》を吸いはじめた。徳太郎も城吉も――城吉は煙管《きせる》だったが――さっきから煙草を吸っていたが、黒田もはじめてこのときシガレットケースをとりだした。
と、基一郎もなにか合図でも受けたように、自分も懐《ふとこ》ろから銀のケースをとりだした。ぱちんと蓋《ふた》をあけると金口の巻煙草が並んでいる。一本をくわえて火をつける。そして彼が煙草をふかすところを観察してみると、これがまた一種独特なものであった。彼はぜんぜん煙を吸いはしなかった。口をすぼめるようにして、くわえた煙草を二、三度すぱすぱと忙しくふかす。吸うというより、先端の火を吹きたてるのである。ひとしきり煙を立てると煙草を口から離し、灰が卓上に落ちようが畳に落ちようが、すましかえって何喰わぬ顔をしている。ややあってようやく煙草を口にもってゆき、やたらと忙しくぷかぷかと煙をたてる。
実は基一郎はまったく酒を嗜《たしな》まぬのと同様、煙草もふだんは喫《す》いはしないのだ。彼は単に、客に対する愛想のためにのみ金口の煙草をくわえてみせたのである。
第四章
戦捷《せんしょう》と物価|騰《とう》貴《き》とスペイン風邪の年は暮れた。
楡《にれ》病院では二十八日に餅《もち》つきをする。出羽ノ海部屋から上は十両どころの力士が七、八名やってきて、賄《まかな》い裏の広場に大きな焚《たき》火《び》を焚き、素裸となって勇ましい掛声と共に、昼から夕刻までかかって大量の餅をつく。そのあと彼らはふるまい酒をのみ祝儀《しゅうぎ》を貰《もら》って帰ってゆくのだが、楡家の図体《ずうたい》のでかい養子はやはりどこかに隠れていて姿を見せなかった。
大《おお》晦日《みそか》には病院じゅうの大掃除をする。これにはたいてい夜中までかかる。基一郎は天井の隅《すみ》にも塵《ちり》ひとつなく、床はどこからどこまでぴかぴかに磨《みが》きたてるのを好んだからだ。電燈からガス燈からすべての燈火がつけられ、その光の下で病院じゅうが動員されてせっせと掃除をする。真夜中の広いがらんとした廊下を磨き終ってほっとすると、もう除夜の鐘が鳴っている。
一夜が明ければ正月だ。大正八年の元旦《がんたん》は、うすく曇ってどことなくおぼろな光のみちている穏やかな朝に始まった。まったく珍しいことに、ここ何年か大戦のうまい汁《しる》を吸っていた人々に争いがたい不景気の到来を暗示するように、この元旦の夜、突如風速十五メートルの風雨が襲来したのだったが、少なくともその朝はそんな気配のかげすらなかった。
楡病院、いやこの朝から『楡脳病科病院』となって看板のかけかえられた門から眺《なが》めると、御大層な円柱のならぶ病院の前景、殊《こと》に正面玄関の附近は、曇り空にもかかわらずほとんど晴れがましく、にぎにぎしいといってよかった。実におびただしい人がその辺りに集まっていたからである。家族をはじめ病院の主だった医師職員、看護婦や看護人やさては患者に至るまでが威儀を正して整列しているのだ。これから衆議院議員の院長先生が宮中に参内《さんだい》するのを見送るというわけなのだ。
玄関の前にはT型フォードがすでにエンジンをかけ、光り輝くばかりのシルクハットにフロックコート姿の院長が乗るのを待っていた。ところが基一郎はなかなか乗りこもうとしなかった。片手に純白の手袋を握った彼は悠然《ゆうぜん》と居並ぶ誰彼《だれかれ》に愛《あい》想《そ》を言ったり髭《ひげ》をひねりあげたりしていて、充分以上にこのかけがえのない気分を味わい愉《たの》しもうとしていた。まるで自分がそのころ講和特使として欧洲《おうしゅう》に旅立つ西園《さいおん》寺《じ》公《こう》にでもなったかのようである。
かたわらに立っている菅《すが》野《の》康三郎《こうざぶろう》は気が気でなかった。彼は基一郎の実家の遠縁に当る家の出で、山形の農学校に入学していたこの青年は、つい半年まえ基一郎の呼出状によって上京してきたばかりであった。役に立ちそうな男は一人でも多く楡病院にかき集めるのが基一郎の方針である。そして前々日、康三郎は院長からいきなり、「元旦はぼくは宮中に参内しなけりゃならんのでねえ、菅野、ひとつ君、伴《とも》をしてくれたまえ」と言われたとき、彼はほとんど気が遠くなりかけたのだった。宮中、参内、そういう言葉は田舎育ちのひょろ長いこの青年の胆《きも》を奪い、なるほど代議士というものは大したものだと嘆じさせ、昨夜は緊張のあまりほとんど睡眠をとっていないのだった。彼ははらはらするほど悠然とかまえている院長の横で、借着のため身体《からだ》にあわぬ紋附《もんつき》の袖《そで》を幾度もひっぱった。
ようやくのことで基一郎は殊さらゆっくりと車に乗りこんだ。しゃちこばって康三郎もあとにつづいた。いよいよ車は動きだそうとする。時期を待ちかまえていた院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》は、このとき小さな身体をせい一杯のばし、両腕をこれまたせい一杯上にのばして、奇妙に甲高い鼻声でこう叫んだ。
「院長先生、ばんざあい!」
実際、青雲堂の主人でも呼んでおくべきだったのだ。院代の声も演出もこの場面にふさわしくなかった。それに整列した人たちも、まさか万歳をやるとは思っていなかったので、唱和する声がすぐにはつづかなかった。それでも、ぼつぼつと、実に不《ふ》揃《ぞろ》いに、人々は口々に叫びたてた。
「万歳、ばんざあい!」
基一郎は車の硝子《ガラス》ごしに莞《かん》爾《じ》と微笑《ほほえ》み、いやご苦労ご苦労というように、しかし光り輝くシルクハットが落っこちない程度にうなずいてみせた。そしてにぶい音を立てて箱型フォードは動きだしたのだが、実にこのとき、信じがたい事件が出来《しゅったい》したのである。
ただでさえ固くこちこちになっていた康三郎は、今度こそ本当に胆をつぶし叫び声をあげそうになった。なにか自動車の屋根の上にどさりと相当の重量の物体が落下するにぶいひびきがしたと思うと、いきなり屋根の半分をおおっている幌《ほろ》をつきぬけて、まがいようもない人間の足が二本、にゅっと、彼の目のまん前に突きでてきたのである。
二階のバルコニーから一人の男がとびおりたのだった。そこは元来が特等患者だけが遊歩できる場所なのだが、できるだけ大勢の観客の前を出発したかった院長は、今日は特にその豪華なバルコニーを開放し、大して病状のわるくない患者を選んで居並べさせたものだった。その一人が突然の万歳の声に神経系統をゆさぶられたものか、訳もない衝動に身をまかせ、ごてごてと飾りのついた石の欄干を乗りこえるが早いか、ひらりと宙に躯《み》を躍《おど》らせたのだ。そして喜劇映画そこのけの偶然によって、今しも宮中へ向おうとする院長の自動車の上に的を射当てたように落下したのである。
狼狽《ろうばい》と混乱は大変なものであった。瞬間|茫《ぼう》然《ぜん》としていた大勢の男たちはばらばらと止った自動車をとりかこみ、屋根に半分埋まっている病人をひきずりだそうとあせった。看護婦たちは悲鳴をあげ、応急手当の道具を持ってこようと右往左往した。医者は――幸い医師の数には事欠かなかった――ようやっと自動車の屋根からおろされて昂奮《こうふん》のあまり手足をばたばたやっている男をその場に寝かせ、骨が折れていはしまいか、打ちどころが悪かったのではないかと撫《な》でまわした。一方、院代たちは院長先生にお怪我《けが》がなかったかと顔をひきつらせ、口々に自分でも意味のわからぬ吃《ども》った言葉を言いあい、辻褄《つじつま》のあった行動をとる者は一人もいなかった。
基一郎一人が泰然としていた。彼はまだ自動車の座席に何事もなかったように腰かけていた。ちっとも衝撃を受けたようなところは見られなかった。落着いた声でこう言った。
「代りの自動車を」
なるほど上部の幌には大穴があいていて、宮中に伺《し》候《こう》するに相応《ふさわ》しいとは言えなかった。院代が息せききってこの命令を伝え、書生の一人が近所の自動車屋へ電話をかけるために走っていった。そのとき報告がきた。まったく僥倖《ぎょうこう》にも、今しがたとびおりた男はかすり傷ひとつ受けていないというのである。男は昂奮を鎮《しず》めるため注射をされ、もうむこうへ運ばれてゆくところであった。これを聞くと院長はゆっくりうなずき、はじめて車の外へでた。
楡基一郎はこの突発事件におどろくほど冷静にかまえていたが、それでもさすがに、先ほどまでの上々の機《き》嫌《げん》を損じたであろうか。折角の晴れの舞台が滅茶々々《めちゃめちゃ》になったこと、縁起でもないこの一年のはじまりに対して、いささかなりとも眉《まゆ》をひそめたであろうか。いやいや、彼はそんな男ではなかった。病院として大いに外聞のわるいこの不始末に舌打ちし、従業員の監視の行きとどかぬことを説諭したりして、一同をますます恐縮させてしまうようなことは決してしなかった。人々が少しばかり薄気味がわるくなったことは、院長は騒ぎが静まったあと、時と共ににこやかに、底ぬけに、機嫌がよくなっていったことだ。
その院長の上機嫌は、まもなく依頼した自動車が到着し、今度は万歳もしなかった代り、つつがなく病院の門を出発できてからもずっと続いた。基一郎は、まだ動《どう》悸《き》が収まらぬ康三郎にむかって何度も繰返したのだ。
「菅野、今日はとてもいい日だ。患者さんが落ちても怪我ひとつしない。これは君ねえ、奇《き》蹟《せき》だよ。自動車に穴くらいあいたってなんでもない。いや、今年はとてもいい年になるよ」
東京生活半年足らずの菅野康三郎は思った。いやこの院長先生は人物だ。なんにしても偉い人だ。これでこそあの大病院も経営できるし衆議院議員にもなれるのだ。そして彼は、車が大内山に近づくにつれ、このすぐれた人物に従って参内する光栄と感激にふたたび躯《み》をふるわせたのだった。
しかしこの考えは、いざ宮城に着いてみるとかなり裏切られねばならなかった。康三郎は自分はどこかに待たされるのだろうが、少なくとも院長ははるか彼方《かなた》からでも陛下に拝《はい》謁《えつ》を賜わるのであろうと想像していたのである。ところがそうではなかった。車は二重橋を渡ってはいってゆき、ずっと奥まった御殿のところでとまる。そこには戸外に天幕がはってあり、ずらりと記帳台が並べてある。基一郎はそこに歩いていって署名をし、それで参内はおしまいなのであった。もうあとは帰るばかりなのであった。康三郎は昨夜からろくろく寝ていないばかりでなく、今朝ほどから幾度も苦しいまでに動悸を高めていたあとだったから、どうもなんとなくだまくらかされたような気持になったのもやむを得ないと言わねばならなかった。……
元旦の患者飛び降り騒ぎはしばらく病院中の語り種《ぐさ》となったのは勿論《もちろん》だが、事は小さくても語り種となるような事件は跡を絶たなかった。なにしろ大世帯《おおじょたい》ではあるし、事の大小よりそれが皆の胸にどうひびくかが肝腎《かんじん》なことである。
たとえばさいづち頭の看護人が朝、残り物の魚の頭を食べて太い骨を喉《のど》に立てたとき、たしかにこれは賄いだけの範囲にとどまらず、薬局から医局へまで騒ぎが波及したものだ。その骨はいかにも所を得て突き刺さったものらしく、みんなが背を叩《たた》いたり御飯を大量に呑《の》みこませたり呪《まじな》いをかけてみたりしても効がなかった。次に医局に連れてこられて居合せた医者が三人も代る代るこれを除去しようと試みたが、これまた益がなかった。院長でもいれば二十余年前の新発明の器械でも取出して往年の腕を見せてくれたかも知れないが、この日もいくつかの会合のため不在であった。ついにこれは楡脳病科病院ではどうにもならんということになり、さいづち頭の看護人は眼《め》に涙をためてよその専門の病院へ行かねばならなかった。魚の骨は八時間の余、彼の喉から離れなかったのである。
また感冒ワクチン事件というものも起った。流感は年が更《かわ》っても一向に衰えなかったもので、新しがり屋の基一郎は、さっそく当時できたてのワクシン――ワクチンではなくワクシンと箱には書かれていた――を従業員全員に使用することを命じた。ところがワクシンを注射された健康者はすべて腕が赤く腫《は》れあがってしまったばかりか、幾人かの発熱者まで出た。飯《めし》炊《た》きの伊《い》助《すけ》だけはなんともなかった。彼は例によって注射されるとき姿を隠していたからである。
病院の中ばかりでなく、世間でももちろん事件は起っていた。このほうは存外みんなの話題にのぼることは少なかったが、何日か経《た》ってからビリケンさんがその新聞の記事を朗読するのを妨げるわけにはいかなかった。新年早々、島村抱月《しまむらほうげつ》のあとを追って松《まつ》井《い》須磨子《すまこ》が自殺をした。「梁《はり》へ緋《ひ》縮緬《ぢりめん》の細帯を掛け髪の毛一筋も乱さず美しく化粧したるまま縊死《いし》をとげをり……」と、ビリケンさんはとりわけ声を高めて読みあげ、桃子は小鼻をうごかしながらうっとりと聞き入り、ちょうど隣室で下田の婆《ばあ》やに帯を結んで貰っていた聖子もまたこの朗読を耳にしたのである。彼女は婆やにむかって「いやあねえ」というようにかすかに眉をひそめてみせた。しかし聖子は、近くの青山斎場で須磨子の葬儀が行われた夜、見物に行った病院の者が婆やに噂話《うわさばなし》をしたと聞いて、なぜかその有様を尋ねたい様子を示した。ごくそれとなく、ほとんど完全な無関心をよそおって。
しかし、すぐと華やかに大《おお》相撲《ずもう》が始まった。相撲好きの院長に習って、人々は「栃《とち》木《ぎ》山《やま》は稽《けい》古《こ》で左の足首を傷《いた》めたそうだ」などと噂した。病院の主だった連中は一度はまた天幕ばりの下で行われる場所を見に行かされるのだった。たまたま聖子が行った七日目には、切《きり》の大錦《おおにしき》と大《おお》戸《と》平《ひら》の一番にたいへん長い物言いがついた。いつまで経ってもらちがあかず、聖子は先に帰ったが、その父親は悠々として客と話していた。「いやねえ、君ねえ、あれは明らかに大錦の勝ですよ」ところがこの物言いは、一時間四十分もつづいた挙句、大錦が踏切りを自ら認めてけりがついた。すると基一郎は悠々としてのめもしない煙草《たばこ》をすぱすぱやった。「君ねえ、踏切りがあったなんてことは初めからわかっていますよ。しかしあああっさりそれを認めちゃいかんねえ」
わずかな日数のうちにさえ、病院の内にも外にも数々の事件が起る。そのたびごとに、人々は仰天し、あるいは可笑《おか》しがり、あるいは真剣な表情になる。しかし日が経ってゆく。週が、月が積ってゆく。一体あのときは何があったのか? 何かがあったことはわかっている。あのようなこと、このようなことが確かにあった。だが、それは刷られた活字のようなもので、あのいきいきとした感情のうごきはもはや帰ってこない。また新しい事件が起る。院長がみんなに議会の傍聴券をくばったのだ。衆議院議員楡基一郎が議会で演説をぶつというのだ。そこで菅野康三郎をはじめ何人かが、日比谷の木造の議事堂にそれを拝聴にゆく。康三郎はのびあがって目をこらす。たしかに、遥《はる》かむこうの壇上に、院長の姿が見える。上背が足りないのがいささか欠点だが、それでも胸をそらし、しきりにカイゼル髭をひねり、もったいぶって何事かを演説している。どういうことなのか? それはほとんどわからない。傍聴席にまで声がとどいてこないからだ。康三郎は耳に手をあてがう。それでも内容はわからない。病院に戻《もど》ってきたあとで院長に会えば、たいへん結構な御演説でした、とでも言うより方法がない。院長はにこやかにうなずく。「そりゃねえ君、演説というものはああいう具合にやるものだよ」ずっとあとになって、彼の演説の梗概《こうがい》がわかった。基一郎は青山墓地移転説を唱えたのだ。都心にあのような広大な墓地を遊ばせておくのはもったいないから、宜《よろ》しく郊外へ移すべしと演説したのだ。
なに、院長の演説なんてどうでもよい。もっと人々の興味をそそる事件も起る。辰《たつ》次《じ》が、あの六尺三寸もある怪童が、とうとう相撲とりになることを承知したのだ。彼はこの年中学校へ入学していたが、おそらく今までの何層倍も好奇とひやかしの種にされたのだろう、自ら医者になりたいという志望を断念したのだった。自分のような者はしょせん相撲以外に身の置場所はないのだと気づいたのだ。基一郎の顔はほころびる。「辰次、おまえは偉い。なんでも買ってやる」大きすぎる少年を可愛《かわい》がっていた伊助|爺《じい》さんは、信仰している大師《おだいし》さまのお守りをそっと与える。こうして辰次はわずかな荷物と一緒に出羽ノ海部屋にひきとられてゆく。まだまだ事件はたんと起る。「奥」でひっそりと計画され、病院の連中には気づかれぬ事柄《ことがら》もある。聖子が、父親が白羽の矢を立てた青年とひきあわされたのだ。どちらも否応《いやおう》はない。たとえ否応があってもそんなことは問題外だ。両家の間で事改めたやりとりがあったわけではないが、こうして二人は事実上の婚約者になる。もちろん二人が交際をするわけではない。両家が交際をするのだ。
一方、ひさが観菊会のためにローブ・デコルテとかいう御大層な服を作る。旧弊な彼女はそれまでずっとそうした会にも袿《けい》袴《こ》で通してきたのだ。それがモダン好きの夫の慫慂《しょうよう》によってとうとう怖《おそ》ろしい恰好《かっこう》をさせられたのだ。彼女は大きく襟《えり》をくった襞《ひだ》が無《む》闇《やみ》とある長い薄いドレスを着る。繻《しゅ》子《す》に毛皮をトリミングしたストールを肩にかけ、つばの甚《はなは》だ広いボンネットをかぶる。どんな表情をしているのか、顔はレースにさえぎられてわからない。とにかく病院の連中はそんな姿を見たことがない。大奥さまは化けたのだ。西洋の魔法使いの婆さんだ。しかしひさは、いったん服を身につけてしまえばいささかも動じない。無感動に落着きはらって車に乗りこむ。満悦しきった基一郎が洋杖《ステッキ》を脇《わき》にかいこんであとにつづく。
とにかくさまざまの事柄が起る。だが、さて思い返してみると、一体何があったのか? あんなこと、こんなこと、それは確かにあったのだ。しかし今は何時《いつ》だろう? 正月が、院長の参内が、あの途方もない事件が起ったのはついこの間のように思っていたのに、もう暮が迫っている。ふたたび賞与式が、餅《もち》つきが、大掃除が近づいている。一体この一年なにがあったのか? 伊助は十年一日のように煤《すす》だらけの恰好で大釜《おおがま》の飯をかきまわしている。門番の豊《とよ》兵衛《べえ》はひどいがに股《また》で、院代先生は鶴《つる》そっくりの姿でひょっくりひょっくり歩きまわる。若奥さまはボアのショールに包まれて今日もお出ましだし、桃子嬢ちゃんは莫迦《ばか》笑いをしたあと大粒の涙をこぼし、末っ子の米国《よねくに》さまはまた風邪をひいた。この一年果してなにがあったのか? なんにも。人々は変らない。楡病院は変らない。せっかく院長が斬新《ざんしん》な名称を考えたというのに、誰《だれ》もわざわざ楡脳病科病院とは呼びはしない。楡病院、あるいはもっと簡明に、脳病院。人々も病院も変らない。時計台の針は幸いなことに滅多に遅れず、たまに遅れれば事務員が慌《あわ》てて直しにゆく。五分ばかり進めてくる。大円柱はどっしりと大理石そっくりの光沢を放ち、尖塔《せんとう》は避雷針をにぶく光らせて聳《そび》え立っている。一体この一年なにがあったのか? それはあった。朝鮮では万歳事件が、パリではヴェルサイユ条約の調印が、支那《しな》では五・四事件が。しかしそれがどうしたというのだ。人々は考える。なんにせよ一年が経ったのだ、と。そして人間も病院も変らない。幸い死んだ者とていない。病院は繁栄している。そしてその繁栄は永久につづくように思われる。円柱も七つの塔も永久に。
だが、それは錯覚というものだ。時間の流れを、いつともない変化を、人々は感ずることができない。刻一刻、個人をも、一つの家をも、そして一つの国家をも、おしながしてゆく抗《あらが》いがたい流れがある。だが人々はそれを理解することができない。一体なにがあったのか? なんにも。そして暮の賞与式が近づいてくる。みんなは今年は何を貰《もら》えるか、おそらくは今度はずっと品物が落ちるであろうと考える。実際なんの変化もありはしない。一年くらいで人間はそう歳《とし》をとりはしない。本当に何事も起らなかったと同じなのだ。人々も、病院も。
しかし、誰にもそれとわかる一つの変化は意外に早くきた。大正九年五月十日の総選挙に、予想を裏切って楡基一郎は落選したのである。
この年、選挙は行われるはずではなかった。新年早々新装なった壮麗な国技館、もはや雨天順延などということのなくなった国技館の桟《さ》敷《じき》を持った基一郎は、養子を未来の横綱として送りこんでいることもあって、上々の機嫌で客を招待したものだ。ところが片方では普選要求の声が激しくなっていた。普選を迫る民衆は演説会を開き、示威行進をし、衆議院、首相官邸に殺到した。この圧力に堪えかねた原内閣は、二月末、急転直下衆議院を解散したのである。
またぞろ、ひさの感覚とは相入れぬ選挙騒ぎだ。さすが感情を面《おもて》にださぬ彼女の眉も曇りがちとなり、しかしその夫は自信満々であった。ひとしきり山形から上京してくる客が殖え、ふたたび娯楽室にはずらりと机が並べられて無数の封書の発送がなされた。しかし、楡病院に於《お》ける騒ぎは、「奥」でひそかに金の心配をするひさを除いて、まずそんなものであった。いよいよ戦場は山形県に移っていたからである。基一郎は汽車でわざわざT型フォードを輸送した。さらに楡脳病科病院の縮尺模型を精巧な貝殻《かいがら》細工に造らせ、自分の髭《ひげ》にはいつもの二倍チックを塗りこみ、もったいぶった微笑をうかべて郷里《くに》元《もと》へ乗りこんだ。鎧袖一触《がいしゅういっしょく》、そう彼は信じた。果報は寝て待て、下《した》っ端《ぱ》の運動員すらそう思った。ところがなんぞ図らん、ものの見事に彼は落選したのである。
あきらかに過ぎた楽観が、安易さが、油断が、蹉《さ》跌《てつ》の最大の原因といえた。候補者自身から悠々《ゆうゆう》としすぎていて、たとえばビリケンさんが読みあげた記事にあるように「一票を追ひて戸別に死物狂ひの突撃、足を擂《すり》粉木《こぎ》にして最後の狂奔」という気《き》魄《はく》に欠けていた。基一郎は持参の自動車を乗りまわし、自動車なんて見たこともない大人や子供がぞろぞろ尾《つ》いてくるのに向って髭をひねくり、すでにわれ勝てりとほくそ笑んでいた。勢い周囲の者も弛《し》緩《かん》した。先年のように上《かみ》ノ山《やま》町第一の旅館を借りきって選挙事務所に仕立ててからかなり経って、表の看板の文字が間違っているのが発見された。一人が慌てて駈《か》けこんできて言ったのだ。「あれではおまえ、衆議院議員候補でなく、象《ぞう》議院議員だべ」また基一郎が北海道の大農式と銘打った開拓会社があまり成功していなかったのも一因であろう。しかし田舎の――いやそうでなくても選挙は金が第一である。前回の選挙から基一郎は金持候補という評判を持たれていた。これも不利となった一因かも知れぬ。人々は期待し、期待のわりに金は湧《わ》いてこなかった。それでも金はたしかに流れたのだ、ひさが吐息をつくに足る金が。しかし間に立つ人間が習慣と楽観から、次々と半分ずつ懐《ふとこ》ろに入れてゆくうちに、いざ末端にたどりついたときにはケシ粒ほどに、あるいは無と同等ほどになっていた。だが、理由は何時《いつ》だっていくらもある。なにはともあれ、楡基一郎は予想を裏切って確かに落選したのである。
院長はしかし大して落胆もしないように見えた。少なくともそうした気配は露ほども人前には示さなかった。それまでと同じように愛《あい》想《そ》がよく、調子がよかった。
「いやねえ君、個人の問題じゃないよ、これは。もっと大きな立場から見んことにはね。政友会は市部じゃあまずかったが、郡部は圧倒的だ。二百七十名というと、これは君ねえ、絶対多数だよ。解散の理由も立ったし民意も徹底させたわけだ。今までもそうだったが、もうこれからは政友会の世界ですよ」
それだけ圧倒的な政友会公認候補として落選してはなお恥辱だろうが、基一郎はそうは言わなかった。
「ぼくの落選なんて問題じゃあない。落選といったって君ねえ、僥倖《ぎょうこう》という言葉があるだろう? ぼくのは、まあ、それの反対みたいなものだからねえ」
むかし楡医院の書生をしていてその後ずっと楡家とは離れていたが、最近博士号をとった男が挨拶《あいさつ》にきた。今度開業するというのである。
「や、君、博士か。それは偉い。偉いねえ、君。それではぼくがひとつ記念に金時計をあげよう」
そう言って基一郎は自分がぶらさげている時計を取りだしてみせた。
「これは君、安物なんだ。君にはもっといいのを、ぼくが独逸《ドイツ》で使っていたのをあげる。今ちょうど修理にだしてあるが、あれが直ってきたら進呈しよう。しかしねえ君、まず人間を作らなけりゃいかんよ。そうでないと本物の金時計をしていてもまがい[#「まがい」に傍点]に見られる。ぼくくらいになると、これはたとえ鍍金《めっき》の時計でも本物に見られるからねえ」
それから基一郎はたいそう親切に開業に際してのこまごました注意を与えた。
「開業医というものは君、常に患者さんに感謝される医者じゃないといかんよ。ぼくはねえ、いつだって感謝されてきた。十年も経ってからまだ手紙をくれる患者さんはざらにいる。ぼくのとこに入院している人はねえ、退院のときはよく写真なんか置いてゆくよ」
基一郎は立上って大きな文《ふ》箱《ばこ》を持ってきたが、その中にはそういう写真がぎっしりとつまっていた。多くは現在の楡病院の玄関横の円柱の傍《そば》とか階上のバルコニーの欄干にもたれ、さまざまな人物が、いかにも今こそ写真を撮られるぞというふうに、壮士風に腕組みをして身がまえているのである。裏を返せば墨くろぐろと、「呈楡院長閣下楡病院入院患者島田|巳之助《みのすけ》明治四十三年二月撮影」と記されてある。この「院長閣下」が嬉《うれ》しくて、基一郎はこれらの写真を大切に保存しているのかも知れない。
だが、これは一つの衰退、衰退とまで言わなくてもここ三十年間楡基一郎が見せてきた卓抜な精力と着想、あとの尻《しり》ぬぐいはひさにまかせて常にとどまることなく奔放に野心満々として前進してきた一つの精神にとって、ある停滞を、彼の生涯《しょうがい》がすでに頂点に達してしまったことを暗示しているのかも知れなかった。少なくとも過去を、――彼が自分一個の頭脳で図面を引き大工たちを督励して築きあげたざらにない大病院の建物を背景にして、自分を閣下と呼ぶ患者が気ばった顔をして写っている写真を、基一郎はかなり長い間しげしげと眺《なが》めていたのである。その顔は写真の患者たちと同様に生《き》真面目《まじめ》であった。こうしたやや黄ばんだ写真にそういう表情で見入ること自体が、平生《へいぜい》彼が示すむしろ無邪気な虚栄、ごく天然自然なので文句を言う気にもなれぬ自画|自《じ》賛《さん》とは類を異にしたものと言えるかも知れなかった。
しかしながら、院長に逡巡《しゅんじゅん》のかげが見えてきたというなら、それはあやまりである。基一郎は落選したとはいえ決して政治から足を抜きはせず、政友会の院外団の常連であった。それでも代議士当時に比べてその外出の頻《ひん》度《ど》はずっと減っていたから、ここしばらくいささか人まかせにしていた診療と病院の経営にふたたび身を入れるようになったのである。彼の立居ふるまいは以前どおりいきいきとしていた。雄弁というのではないが、その話しぶりは人をそらさなかった。診察室では熱心に病人の訴えを聞き、さらに熱心にいかに自分がオーソリティであるかを説いてきかせた。それから不意に手をのばして相手の頭に聴診器を当てたり、わざわざ耳鼻鏡をつけて相手の耳の穴を覗《のぞ》きこんだりした。
「ああ、脳の神経はべつに傷《いた》んでいない。君ねえ、これは君自身思っているほど悪くはないということですよ。これは単に神経衰弱、ベアルドのいうノイラステニイということにすぎない。ぼくのあげる薬を飲んでみたまえ。これは君ねえ、ケー・エヌ丸といってぼくの病院にしきゃない薬ですよ」
それはそうに違いない。その丸薬は基一郎の処方を自分の病院の薬局でつくらせたものだったし、ケー・エヌというのは自分自身の頭文字なのである。
また別の患者に対しては、
「ほう、そんなに首すじが凝る? いやねえ、そんなことを気に病んじゃいけませんよ。怒れば気上る、喜べば気|緩《ゆる》まる、悲しめば気消ゆ。これはあなた、貝原益軒の言葉です。病とは気病むなり。ブロイレルという学者にいわせれば有情的観念複合体という奴《やつ》です。なに、どうしても気にかかるというのなら、特殊マッサージをやってあげてもいい。これはただのマッサージじゃない。この器械はあなたねえ、日本でここにしきゃないのだから。じゃああちらで、うちのマッサージ主任に治療して貰《もら》いなさい」
患者が別室のたいそう掛け心地のよい椅子《いす》に坐《すわ》って待っていると、そのマッサージ主任とやらが現われてくる。彼もまたかなりの小男で、細ぶちの眼鏡をかけ、施術に現われるときにはいつも院長先生のお古のモーニングに身をかためている。手には誰だって見たこともない器具を持っている。片手で握る柄《え》があり、その先に二つの歯車がつき、そのまた先に薄い金属の円盤がつき、更にここから直角に折れた金属棒の先端には丸いゴム製の毬《まり》がついている。彼が片手でぐるぐると歯車についた把《とっ》手《て》をまわすと、なんだか複雑そうな連繋《れんけい》運動によって円盤はびりびりと振動し、ゴム製の毬はもっと微妙にびりびりと振動する。これを患者の首すじに当てがい、およそ二十分間ほどぐるぐると把手をまわすのである。この器具はなんでも目新しいものには手を出す基一郎がアメリカから持帰ったものだが、別段技術を要するものではない。この男も楡病院の書生の一人で、医者になれるだけの才覚はなく、かくて把手をぐるぐるまわすだけのマッサージ師となったのだ。主任といっても彼一人だけなのである。ところがこのマッサージはなかなか好評で、施療《せりょう》を受けにくる患者の中には彼に名ざしで菓子折をとどける者もあった。紙包みにはこう書かれてある。「楡病院マッサージ主任先生」
それから基一郎は大勢のお伴《とも》をひきつれ、病院じゅうを回診してまわった。小《こ》柄《がら》な院長は疲れ知らずに歩きまわり、尾《つ》いてゆく若い医者や看護婦のほうがへとへとになった。
といって、基一郎が疲労を覚えなかったわけではない。五十七歳といえば当時の人間にとってすでに老境である。忙しく患者に対するとき、愛想よく従業員に語りかけるとき、胸をそらして客を迎えるとき、その顔には光沢と張りと活気があり、その頭脳は機敏に、その口はなめらかに動いた。
しかし朝、彼が目ざめるとき、常にその身《から》体《だ》はだるく、腰骨のあたりがしきりと固かった。意識全体が濃い霧の帳《とばり》のようなもので蔽《おお》われていて、自分はいま一体どこにいるのか、ここは一体どこなのかという漠然《ばくぜん》とした不安につきまとわれるのが毎朝のことだった。しかし基一郎が身動きをするのを感ずると、今までそれを静かに待っていた早起きの彼の妻が熱いにがい茶を立ててくる。基一郎はそれをすぐすすりはしない。かなりの猫舌《ねこじた》だったからだ。といってひさは茶をぬるめなかったし、基一郎も持ってこられるのは熱いのを要求した。彼は次第にはっきりしてくる意識のなかで、辛抱づよく、あるいはやむを得ず、茶がさめるまで待つのである。ようやく茶をすすり終るころには、平生の四分の一ほどの基一郎になっている。
基一郎は独逸製のダブルベッドからおりたつ。パジャマの上にガウンを羽織る。それから彼は入浴に出かける。小さな家族|風呂《ぶろ》にではない。病院の裏手にあるラジウム風呂へだ。彼は「奥」を出、玄関の横から後方の病棟《びょうとう》へ通ずる大廊下を歩いてゆく。大廊下がつきると中廊下をゆく。中廊下がつきると小廊下をゆく。そのまま行けば賄《まかな》いに出てしまう。そこで途中の小さな出入口から下駄《げた》をつっかけて外へ出、別棟《べつむね》の浴場へ行くのである。広い浴槽《よくそう》にはなみなみと湯がみなぎっている。院長先生ただ一人のための湯だ。小さな浴槽ではない。銭湯の湯船よりずっと大きな浴槽に朝から湯をわかすのはもったいないことにちがいないが、院長がどうしても朝湯にはいるとあれば仕方がない。基一郎に言わせれば、早朝から景気よく湯を立てるのは活気があって有意義なことなのだ。幸い彼は猫舌であると共にぬる湯好きなので、ごくぬるく湯を沸かせばよい。
がらんとした浴場に、基一郎はただ一人裸になる。広々とした浴槽に、外で身体を濡《ぬ》らしもせず、どことなく聖なる川にでもつかる信徒のようにそのままずぶりとひたる。打明けていえば、彼はこのラジウム風呂を理論をとび離れて、だんぜん信じているのである。この湯こそ彼の活力の源泉なのである。彼はぬるい湯にじっと浸《つか》り、かるく目をつぶる。身体を洗いもせず、実に長いこと陶酔的に身動きもせずつかっている。だだっ広い浴槽、わずかな湯気をたててひろがっている透明な湯、その片隅《かたすみ》にぽつねんと眼をつぶる小柄な老人、それはいくぶんポンチ絵に似た、それだけにむしろ陰気な、孤独な光景ともいえた。しかし、基一郎自身はもちろんそんなことを夢にも考えはしない。しずかに、時間をかけて、ぬるい湯が全身にけだるく沁《し》みこんでくる。それと共に霊妙なラジウムだかなんだかが、皮膚を通り、血管をひろげ、眠っていた脳細胞を目覚めさす。彼はうすく眼を開く。なお五分ほど湯の中に静まっている。手拭《てぬぐい》で顔をこするでもなく、手足をのばすでもない。しかし彼の頭脳は回転しはじめる。今日一日の、この月の、いやもっと遠い将来に対する計画と予見が、目まぐるしく訪れては去り、去っては訪れる。そして狭く強く意識を集中してそれらの考えを考えとおすとき、彼の五体に残っていた昨夜来の停滞、年齢のもたらす疲労は跡形もなくぬぐい去られている。少なくとも彼自身はそう感ずるのだ。あきらかにラジウム風呂が効いた[#「効いた」に傍点]のだ。
基一郎は別人のように慌《あわただ》しく湯をはねとばしながら風呂からあがる。ろくすっぽ身体をふきもしない。濡れた身体にふたたびパジャマとガウンをつけ、くるときと逆の道順をたどって「奥」へ戻《もど》ってくる。
それから彼の身だしなみが、お洒落《しゃれ》が、役者のような制作がはじまる。入浴したあとでも一向に血の気のささぬ肌《はだ》にクリームをすりこみ、水白粉《みずおしろい》をつける。ついで頭髪と髭《ひげ》に対する時間をかけた手入れ、それは少しずつ多くなってきた白《しら》髪《が》に対する配慮のため年と共に長い時間を要することになったが、基一郎は鏡にむかって実に丹念に黒チックをぬりブラシを用いるのだ。細心に神経を集中して彼は手をうごかし、鏡にむかって顔をうごかす。
「髭ブラッシを」と彼は言う。するとひさがそれを差しだす。
「髭チックを」と彼は言う。すると寡《か》黙《もく》の妻がそれを差しだす。
基一郎は病的なまでの執念を見せて、最後に大切な髭を仕立てあげる。非の打ちどころないまでに、優雅に、かつ威厳を保たせて、その先をぴんとはねあげる。それから、ややほっとした安《あん》堵《ど》の気持を抱きながらスプレーで香水をふりかける。こうして自信にみち、活力にみち、調子がよく愛想がよい楡基一郎院長ができあがるのである。どれだけ多忙な一日に対してもいささかも動じない基一郎が。
しかし、ごく最近になって、病院の者たちが記憶しているかぎり判を押したようだった院長の習慣にひとつの変化が起きた。院長は朝風呂だけでなく、屡々《しばしば》夜にも入浴するようになったのだ。
楡病院のラジウム風呂は、午《ひる》すぎから患者の入浴に当てられる。かなり病状のわるい病人もいることだから監督つきの集団入浴であるが、夕刻までにはそれが終る。夜にかけて、従業員もはいればあまり病気の重くない患者もはいる。それらの人にまじって院長がひょっこりと顔をみせるようになったのだ。一般の人たちにはほどよい湯加減も、彼にとっては熱すぎた。それでも基一郎院長は、「君、これは熱すぎはしないかねえ? 熱くない?ほう、そりゃ偉いねえ」などと言いながら、一同にまじって入浴するのである。
彼の年齢が、朝一度のラジウム湯では効果が足りなくなったのであろうか。それもあるかも知れぬ。しかし院長は、こうしてみんなが一日の疲れを休めて垢《あか》の浮いた終り湯にひたっているときを狙《ねら》って、なお病院のために奮闘しているというのが真相なのであった。彼は一緒に裸になって湯につかりながら、従業員にお世辞を言ったりねぎらいの声をかけたりした。病人にも励ましの言葉をのべたり讃《ほ》めあげたりした。同時に、これは以前にはなかったことなのだが、病人――もちろん単なる神経衰弱くらいで自分の判断をくだせる人だったが――にむかって、入院料の請求までしてみせた。市の委託患者のほかは自費患者である。そしてかなり多数の者が入院料を滞らせたり全く払っていなかったりしたものだが、以前にはそんなことに院長はあまり関心を抱かなかったはずだった。少なくとも院代まかせ事務まかせであったはずだ。ところがどういうものか、この前代議士は近ごろ急にそんなことを臆面《おくめん》もなく口にするようになったのである。
「ああ君か。君はもうじき退院できるよ。ぼくが、オーソリティが保証するのだから大丈夫だ。まあ大船に乗った気でいなさい。ところで君、なんだよ、入院料はやはりちゃんと払わなけりゃいかんよ。今度うちの人がきたらちゃんとそう話すんだよ。それを覚えていられなくちゃ、君、これはやはり困るねえ」
ある夜、院長はまた風呂にやってきた。いつもに似ず、たった一人の男が湯につかっているばかりである。浴場の電燈は暗く、湯気がたちこめているため、その顔も定かではない。基一郎はかなり穢《きた》なくなっている湯に手拭をつけた。そう熱くはない。ゆっくりと身体を沈め、むこうに見えているあまり見なれない頭にむかって声をかけた。
「君、どうかね、元気かね」
はい、元気でおります、と相手は答えた。
「このラジウム風呂はとても具合がいいだろう? ぼくなんぞはねえ、このおかげでまだ若い者に負けないくらいぴんぴんしているよ」
はあ、とても、と相手は答えた。
「いや、いい湯だ。ときに君は入院料をためたりしてはいないだろうねえ」
相手は困惑したように沈黙してしまった。基一郎はいささかもためらいを覚えずにこう言った。
「払えなかったら払わんでいいよ。しかし払えるんだったら、これは君、ずぼらをきめていては困るからねえ」
しかし湯気の中で相手の身体がうごき、こちらにまともに顔をむけたとき、さすがに院長もそれ以上入院料を請求することはしなかった。相手は当直にそのころ雇った医者だったのである。
ともあれ、基一郎は奮励していたのであった。迫ってくる老齢をラジウム風呂によって癒《いや》し、世間では倒産が相つぐ不景気の中にあって、以前にもまして精力的に機敏に頭をめぐらして、病院の一層の隆盛のために力を尽しているのであった。選挙による少なからぬ失費を回復し、彼の糟糠《そうこう》の妻の危惧《きぐ》を霧散させてやるために。そして楡脳病科病院は小ゆるぎもしないように見えた。円柱も尖塔《せんとう》も門の鉄柵《てっさく》も。彼の計画がどうしてゆらぐはずがあろうか。辰次は見込みどおり相撲とりになった。聖子が願ったりの夫を持つのも時間の問題だ。あとの子供たちにはまたそれぞれの方針を立てよう。そして次の選挙には……。
基一郎は確信していた。その確信、その自負が彼という男を今日まで盛りあげ成功させてきたのだった。今回の選挙のことはまず別として、それ以上自分の予想と計画が裏切られようとは夢にも考えてはいなかった。そんなことが、まさか、あとを追ってやってこようとは。
*
「聖さま、なにを黙っていなさるんです? まっすぐ顔をあげてわたしの顔をご覧あそばせ。ご覧になれないのですか? それはご覧になれますまい。あなたはそれだけの恥知らずのことをなさったのですから」
龍子《りゅうこ》はどこからどこまで端然と正《せい》坐《ざ》し、自分の前に首をうなだれ黙りこくるしかすべのない妹を、ひややかな憤《いきどお》りにみちて見すえていた。
彼女の言葉はいささか切口上めいていた。彼女は姉として妹に対しているのではなかった。むしろ母親として、否《いな》、楡《にれ》家《け》の代表者として、基一郎とひさを一緒にした精神の権《ごん》化《げ》として、八つ年下の妹を詰問《きつもん》し、なじり、その意志をひるがえさせようとしているのだった。それが彼女の義務であり、半ば自己暗示にかかった神聖な権利ともいえた。
そこは龍子と徹吉の居室、階下にはずっと年下の弟妹が住む二階の一室であった。もうそろそろ朝晩は冷えかかる季節で、かたわらの箱《はこ》火《ひ》鉢《ばち》の上では達《だる》磨《ま》堂《どう》の鉄瓶《てつびん》が澄んだ音を立てていた。そしてまぎれこんできた蟋蟀《こおろぎ》が部屋の隅《すみ》で翅《はね》をすりあわせていた。病院の裏手には草むらも多かったし、崖《がけ》から下は一面の竹藪《たけやぶ》になっているくらいだから、室内にはいってくる虫数も少なくなかったのである。
聖子はうちひしがれた絶望の中で、たった一つのかたくなな想《おも》いにすがりついていた。そうしてひたすら畳の面《おもて》を見つめている彼女の耳に、蟋蟀の声はたしかに伝わってきた。どこか別世界からのごとく、遠く、絶えることなく……。一方、龍子のほうは、むろんのことそんなかぼそい声など聞いてはいなかった。
「あなたには本当にわかっていなさるのですか? 御自分がなさろうとしていることがどんな大それたことかを? わたしはあなたを見損《みそこな》いました。あなたは自分一人のものじゃありません。楡家の一員なんです。一体そのことを本当に考えなさったことがありますか? あなたはお父様もお母様もお許しになったと思っていなさる。いいえ、お許しになったのではありません! 諦《あきら》められたんです、見捨てられたのです! あなたがお父様たちの御意志を裏切って、そう、ほんとに考えようもないやり方で裏切って、どこの馬の骨かも知れない男と……。いいえ、そんなことはわたしが許しません。許せないことです、恥ずべきことです!」
一体何が起ったのか? 何が龍子をこれほど憤らせ、少なからず芝居がかった口をきかせているのか。
龍子に言わせれば、それは信じがたい屈辱、破《は》廉《れん》恥《ち》極まりない醜聞なのであった。聖子が、自分と同じく学習院を出た次の妹が、事もあろうに、立派な婚約者がいるというのに、どこの誰とも知れない一英語教師に愛を捧《ささ》げたというのだ。ずっと下の出来損いの弟妹ならば話は別だ。聖子だけは、楡家の子女として恥ずかしくない娘と思っていた。自分と一緒に楡病院を背面から守《も》りたててゆくべき立場、いわば龍子が目にかけている輩下であり同僚であるはずであった。それがどうだろう。まったくそこらの下町娘同様に、言うもけがらわしいことに、一人の男を愛し結婚する……それはいくらでも愛し結婚するがよい。だが折角の有意義な婚約を御破算にして、結婚したいという相手は……それが楡病院になにほどかをつけ加えるであろうか。その逆だ。どこからどこまでその逆だ。婚約者の家に対しても、世間に対しても、父基一郎の顔を丸つぶれにさせ、うしろ指をささせ、蔭口《かげぐち》をきかせるだけなのだ。なんの言い分も立ちはしない。なんの申し開きもできはしない。こんなことは堕落した家に於《おい》てのみ許されることだ。いやしくも楡、この滅多にない姓を名乗る家に於てはあり得ない、あってはならぬことなのだ。
龍子の昂《たか》ぶった巫女《みこ》にも似た精神はそう感じ、そう嘆じ、うつむいて唇《くちびる》を噛《か》むしかすべのない妹を、ますます芝居がかった口上で叱《しっ》責《せき》してやまなかった。しかし、実はそのときすべてはもう終っていたのである。
先日聖子がそのどうにもならぬ心を母親に打明け嘆願したとき以来、愕然《がくぜん》とした基一郎もひさも能《あと》うかぎりの手を尽したのだ。聖子を監禁同様にし、詰問したり、すかしたり、おどしたりした。一つにはかなり功利的な立場から、一つにはもっと単純にわが子を思う親の立場から、あるいは秩《ちち》父《ぶ》のおじさまが呼びだされ、あるいは昔の学校の教師が依頼された。相手の男に対しても早速調査がなされた。佐々木というその男は何年かアメリカにいてつい一年前に帰国した聖子より十二歳年配の男で、専門学校の教師をしていたが、二人は当時流行のダンス場で知りあったのである。基一郎がひそかに願ったように、彼がアメリカ帰りを鼻にかけた女たらしでもあったなら、また事態は別の収拾を見せたかも知れない。だが佐々木はべつに聖子を一時のなぐさみものにしたわけではなく、正式に人を立てて聖子を貰《もら》い受けたいと申し込んできたのだ。もちろん二人が愛しあっていようが、相手の男が龍子がいきり立って罵《ののし》ったようにどこの馬の骨ともつかぬ男とは違っていようが、基一郎がそんなことを重要視するわけはない。しかし、もっとも肝腎《かんじん》な聖子の気持が、いかなる説得にも頑《がん》として動かなかったのだ。その顔立ち同様、基一郎の子女の中ではもっとも気立ての優しいはずの聖子が、このようなてこでも動かない強情さを示すとは信じられぬことであった。
娘の思いつめた気持が尋常のものでないとさとったとき、基一郎はどんな手段に出たであろうか。二人を引離すためになおも術策を弄《ろう》したろうか。いや、彼はそんな男でもなかった。彼は世間一般の父親よりむしろあっさりと諦めたのである。こうなったら致し方はない。聖子には好きなように結婚をさせる。自分はこの娘のために、病院のために、できるだけの手は打ったのだ。その配慮がなにかの天運によって無に帰するのなら、それはそれで仕方がないことではないか。
しかし、基一郎はつい昨日のこと、「奥」に呼びだした龍子にむかってこう語ったのだった。
「龍子、今度のことは仕方がない。娘の不始末は親の不始末だ。お父さんは頭をさげておわびをしなけりゃなるまい。なに、頭をさげるなんてことは、場合によってはなんでもない。だがねえ龍子、今度ばかりはお父さんはがっかりしたんだよ、まあお前にだけ言うのだが……」
それからなおつけ加えて、
「ダンスなんてものは、あれは龍子、よくないものだねえ。これから先、そう、お前にももっと子供ができるだろうが、ダンスだけはやらせないようになさい。子々孫々、ダンスなんてものはいけない」
基一郎のダンスについての感慨はひとまずおくとして、この語りかけは以前ときどき聞かれたような、「龍子、お前が男だったらなあ」という台詞《せりふ》にも似たいかにもしみじみとした口調だったので、父親を絶対視しているその娘は、平生《へいぜい》にもましてまっすぐに毅《き》然《ぜん》と首すじをそらしたのであった。
たしかに、すでに父親が放擲《ほうてき》し母親が諦念《ていねん》した聖子のことを、この楡家の長女は断然許す気になれなかった。その妹が自分の後継者としてつつがなく育ってき、そのゆえにこそ聖子一人を桃子たちから区別して一種特別の情をそそいできただけに、その落胆、その憤りは根強かったといえる。
龍子はなおも妹をなじり、かきくどいた。無抵抗に一言も口返答をしない聖子が対象というよりも、なんだか誰《だれ》もいない空間にむかって自分の信念を吐露しているようなおもむきがあった。
わたしたちの父親がいかに日夜寝る間もなく病院のために骨身をけずってきたか、誰もが知っている通り楡病院は先年創立十五周年を迎えた、だがそれは青山に新築してからのことだ、本郷に医院をかまえてからは三十何年がとうに経《た》っている、その間わたしたちの母親はどうしていたか、どんな苦労をなめたか、お母さまは夫が養っている大勢の書生たちの醤油《しょうゆ》を水で薄めたのだ、自分はたくわんの尻《し》っぽを齧《かじ》ったのだ、そうしないと医院はつぶれてしまうところだったのだ、と龍子は、その頃《ころ》は自分だってせいぜい赤ん坊だったことを棚《たな》にあげて説きすすめた。そう、そうした父母の努力によって現在の楡病院はできあがったのだ。しかしこの規模の大きな病院はどうなるのか。基一郎だからこそこの隆盛をみることができたのだ。凡庸な院長ならば、五人かかっても現状を維持できまい。まして他人は当てにならない。どうしても親族の、それも有能な医者が必要なのだ。そういう父親の願いを、長年の求めを、あなたは一人勝手にふり捨てることができるのだろうか。それも恥知らずの、無節操な、罰当りの、まっとうな家なら耳をふさぎ目を閉ざすであろう下《げ》賤《せん》ないかがわしい事柄《ことがら》のために?
「よくお聞きなさいまし」と、龍子はつづけた。「一体誰か一人でもあなたの味方になった人がありますか? みんなあなたより世間をよく知っている人たちです。みんなあなたのためを思って反対したのです。そう、たとえばもし徹吉《てつよし》がいたとしても、あの人はお父様とはまるで逆の性格ですが、もちろん賛成しはしなかったでしょう。当然のことです」
彼女の言葉の中にもあるように、その年の初夏、龍子の夫徹吉は前からの念願どおり渡欧したのであった。横浜を出る船に見送りにきた基一郎の言葉を借りれば、「万里の波《は》濤《とう》を越えて」妻子を置いて究学のために旅立っていったのだ。もっとも基一郎はそのあと一同を見まわし、「いやねえ、ぼくが向うへ行ったころはこれはたしかに万里だったが、今はせいぜい三千里くらいのところだ。なに、そのうち飛行機に乗って十日もあればヨーロッパに行けるようになる」銅鑼《どら》の音が鳴りひびき、見送り人は船から降りた。数多《あまた》のテープが投げかわされ、あるものはむなしく油の浮いた海に落ち、あるものはうまく相手に掴《つか》まえられ潮風にもつれあってたなびいた。基一郎は満足気に、ほほう、なかなか活気があってわるくないなというほどの顔をして、しかしテープには手を触れようともしなかった。「ぼくはねえ、こういうことは周りの者にさせることにしている。あんなものを掴んで、うっかり海に引きこまれると危ない」一方、夫を見送る龍子は、船のペンキの匂《にお》い、潮風の匂い、そしてときならぬ別離の騒ぎに昂奮《こうふん》しておしっこがしたいと言いだした六歳になる息子をきびしく叱《しか》りつけ、怒ったような厳粛な表情で佇《たたず》んでいた。夫と別離することよりも、徹吉が洋行すること、楡病院の二代目院長にふさわしい箔《はく》をつけて戻《もど》ってくるであろう、ただそのことへの誇りと期待が、彼女の顔を殊《こと》さら厳粛にさせたのだった。
そして今、うなだれて、そのくせ固く強情に殻《から》の中に閉じこもっている妹を前にした龍子は、それまでの他人行儀なきびしいとりすました態度を急に和らげた。毅然として相手を見おろしていた姿勢をくずすと、仲のよい朋輩《ほうばい》になにか冗談事でも話すように、声の調子に微笑さえ加えてこう言った。
「ねえ聖さま、あなたはまだ若すぎるのよ。なにも知らなすぎるのよ。それは好きな人と結婚できればと、誰だってそう思います。でも結婚ってそんな単純なものじゃないわ。長い生活、それは一人々々のいっときの事柄じゃなくて、家とか世間とかと共に一緒に進んでゆくものなのよ。聖さま、あなたはこのわたしが喜んで徹吉の妻になったのだとお思い? 打明けて言いますとね、わたしは厭《いや》だったわ。こんなことは、わたしはあなたにしか話しません。でもわたしは、一言も言わずにあの人の妻になったのだわ」
話しながら龍子は、相変らずこわばった表情で畳を見つめている聖子を探るように見た。
「わたしにはあなたが羨《うらや》ましいくらい。なぜって、わたしは徹吉の妻になるように初めから決っていたようなものですもの。わたしは楡病院の後継ぎを夫に迎えなけりゃならなかったのですもの。もし欧洲がもっと早く生れていたら……いいえ、それでも駄目《だめ》、欧洲は落第ばっかりしているのですからね。でもわたしは、といって厭々結婚したのでもないの。なぜかおわかり? お父様がいつもおっしゃってました。ぼくは日本一頭のいい男を養子にしたよって。日本一というのはもちろんお父様の十八番《おはこ》です。まあ日本で千番目か一万番目か、そこいらのところでしょう。それでも秀才は秀才です。あんなふうに田舎者くさいところはとれなくっても、楡病院を引継ぐ人はあの人しきゃいません。だからわたしも……自分の口から言うのもなんですが、わたしはそれほどおかしな御面相じゃありません。もっと若いころは……正直いって引《ひく》手《て》数多《あまた》というところだったのよ。それでもわたしはお父様からそう言われたとき、ちょっとだってためらわなかったわ。むしろ喜んで徹吉と一緒になったのです。誇りをもって……なぜって、わたしは楡家の娘なんですからね。あなたはわたしにくらべたらずっと楽な立場だわ。わたしにはほんとにわからない。どうしてまたあなたが、あんな佐々木なんていう素姓《すじょう》もわからない……」
そのとき、聖子が躯《み》をうごかした。ふいに、身体《からだ》の奥をはじかれたように顔を起すと、いつもよりもっと血の気のない、目立つほど頬《ほお》のこけた、それだけにいっそう黒くきらきらとする眼をまっすぐに姉にむけ、わなわなと唇をふるわせながら、低い、そのくせはっきりと聞きとれる声でこう言った。
「おやめになって。あの人はそんな人じゃありません」
瞬間、龍子はまじまじと妹を見つめたまま、とっさに反応を示し得なかった。これほどきらきらと黒く輝く、これほど依怙地《いこじ》でひたむきで無我夢中な、まるで挑戦《ちょうせん》するような瞳《ひとみ》を妹が持っていようとは今の今まで知らなかった。しかし、すぐと前にもました憤激がおし寄せてきて、龍子は全身をきっ[#「きっ」に傍点]と緊張させると、知らず知らず高まった声でこう叫んだ。
「まだ、あなたにはおわかりになりませんか?」
ほんの一秒か二秒、この姉妹は睨《にら》みあった、片方は厳然と、片方は痛いほど唇を噛みしめて。しかし長くはつづかなかった。すぐに聖子の抵抗はくずれ去った。折れるようにうなじがたれた。そのうえに容赦なく姉の声がひびいた。
「聖さま、あなたは少しもわかろうとなさらない。あなたの思っていなさる結婚がどういうものかわきまえておいで? 親からも親戚《しんせき》からも見捨てられるのですよ。何不自由なく育ってこられて、英語教師の給料でどうやって暮してゆくおつもり? あなたは一ぺんだって御飯を炊《た》いたことがおあり? 手《て》鍋《なべ》さげてもというのは唄《うた》の文句です。どんなみじめな……よくお聞きなさい、あとになってどれほど欺《あざむ》かれて後悔なさっても後の祭りですよ」
龍子は自分自身も御飯の炊き方も知らないのを棚にあげ、硬直して黙りこくったままの聖子を、なおしばらくの間かきくどいた。なんとかして妹を翻意させ、救出しようと試みた。だが無駄《むだ》であった。かたくなな沈黙、身じろぎもしない強情さがそれに報いた。
「最後に申しておきます」とうとう龍子はきっ[#「きっ」に傍点]と眼をすえて言った。「あなたはまさか甘く考えていなさるのではないでしょうね? お父様たちがお許しになったというその意味をわきまえておいででしょうね? あなたは二度とうちの、そうです、楡家の門をくぐれないのですよ? 当然です、当り前のことです! たとえ許されてものめのめと顔見せできないはずです! それはお父様は偶然あなたと会えばお笑いになるかも知れなくってよ。しかしあなたを娘と思ってじゃありません!お父様は捨猫《すてねこ》にだって笑顔をおむけになるのですからね。それだけ、単にそれだけです。お母様はあなたが目の前にいても知らぬ顔をなさるでしょう。話しかけられても顔をそむけられるでしょう。いいですか、それでも宜《よろ》しければ、お好きなようになさいまし。親の顔に泥《どろ》を塗ってままごと遊びをなさいまし。……聖さま、それでいいの? もう一遍考えて……」
しかし彼女は口を閉ざした。さっきからまったく同じ姿勢、同じ沈黙で妹は坐《すわ》っていた。強情に、かつての聖子とは信じられぬほど強情に、微動だもせぬ拒絶の意を秘めて。
怒りが、急速に龍子の胸にこみあげ、だが彼女は最後にもう一度言った。
「ひとこと御返事をなさって。……どうしてもお気持は変らないのですね」
龍子は妹をじっと見下ろしていた。ほんのかすかな変化、たとえ髪の毛一本のうごきに対しても、もっと違った言葉をかけようと待ちかまえていた。しかし、同じことだった。ふいに龍子はしゃっきりと首を立て、取りつく島もなく憤《いきどお》りと軽蔑《けいべつ》にあふれた声で宣告した。
「よござんす。それではこれできまりました。あなたはもうわたしの妹じゃありません。赤の他人です」
彼女はすいと立上った。ちょっと隣室へ行きかけたが、くるりと向きを変え、障子《しょうじ》をあけて廊下へ出ると階段をぎしぎしいわせながら降りていってしまった。
姉の足音が聞えなくなり、なんの気配もしなくなってから、かなりしばらくの間聖子は身じろぎもしなかった。それからその華奢《きゃしゃ》な身体は急激に畳の上にくずれおちた。堪《こら》えに堪えていた屈辱と苦痛、よりどころのない不安と絶望的な反抗心、そしてすがりつくように念じているただ一つの恍惚《こうこつ》、それらが入りまじり重なりあい、彼女の肩を小刻みに震わせ、間歇《かんけつ》的な嗚《お》咽《えつ》を喉《のど》から洩《も》らさせた。無意識に畳に爪《つめ》をたて、また次には指先までを死んだようにぐったりさせながら、彼女は長いこと突っ伏していた。
ふいに、彼女はおやと思った。時をおいておしよせてくる抗しがたい針のような悲しさの中で、或《あ》る記憶が、或る奇妙な節まわしが、ひょっこりと浮んできたからだ。それはたしかにあのビリケンさんの声にちがいなかった。その声は言っていた。「……夫人菊子は臨月の身にて夫を助け……」「風流貴公子|岩倉《いはくら》具張《ともはる》氏が……遂《つひ》には母を捨て妻を捨て子を捨てて……」「……梁《はり》へ緋《ひ》縮緬《ぢりめん》の細帯をかけ……髪の毛一筋も乱さず美しく化粧したるまま……」
聖子はそんな場違いな記憶のいたずらにほんの瞬間気をとられて、ふと涙にぬれたあおざめた顔を起した。だが、すぐとその顔はふたたび畳に伏せられた。畳の冷たさを頬に感じ、その表と頬のすれあうかすかな音を耳の奥の方で意識しながら、彼女はまたひくひくと肩を背を痙攣《けいれん》させはじめた。
その年の初冬、またぞろ一月も経《た》てば賞与式がやってくるというある日、菅《すが》野《の》康三郎は「奥」に呼ばれた。
珍しく風邪気味の院長は昼から床をとらせていた。院長はダブルベッドのある寝室に寝ていなかった。軽い病気のときはスプリングなどない畳の上に蒲《ふ》団《とん》を敷いて寝たほうがよい、そのほうが気に張りが出て、病気に打勝つ抵抗力も増すのだ、と彼は言ったものだ。それが真理かどうかは神さまだけがご存知だが、基一郎が言うといかにも真理らしく聞えるのである。
平生はあまり使用しない八畳の間の中央に床をとらせて院長は寝ていたが、康三郎が顔をだすと、いつものように人をそらさないにこやかな笑顔をむけた。
「ああ、菅野、もうぼくは癒《なお》ったよ。なに、少しばかり疲れたものだからわざと寝ているのだ。ときに君、油を少し持ってきてくれたまえ」
「油と言いますと、どんな油でしょうか、先生?」
菅野康三郎が楡病院にきてからすでに二年半が経っていた。この頃では彼はなかなか丁寧な東京弁を話した。院長夫妻、殊にひさが東北弁を嫌《きら》ったからである。といって、文字で書けばわからないが、ある抑揚、話し方の節々に、郷里の調子が離れがたくこびりついているのはやむを得ないことであった。
「どんな油でもいいよ。そう、この間|病棟《びょうとう》の壁にペンキを塗らせたろう? あのペンキを溶いた魚油でよい」
「油をどうなさいます?」
「天井に塗るのだ。ここの天井にずうーっと塗って欲しい」
「天井に?」
「そうだ。天井一面に、鴨《かも》居《い》のところもずーっと。このままではどうも寂しい感じがするからねえ」
院長の命令とあれば仕方がなかった。康三郎は魚油を持ってきて、踏台に登り、刷毛《はけ》で天井に塗りはじめた。基一郎は片隅《かたすみ》にのけた蒲団に、横になったまま、康三郎の手元をすこぶる熱心に注視していた。そうしながら彼は唐突に話しかけた。
「菅野、今夜もまたくるかねえ?」
「はあ?」
「そら、西軍の飛行機だよ。また照明弾を落すかねえ」
ちょうどその頃、東宮御統率の下に大演習が華々しく行われていたのである。西軍のサ式、ニ式の飛行機が大挙して――といってもせいぜい十機ほどであったが――代々木上空に襲来してきたし、昨夜は昨夜で「魔のエフ十六型」機が巨大な姿を探照燈の光芒《こうぼう》の中に現わしたりしたのであった。
「飛行機というものは怖《おそ》ろしいよ、君、闇《やみ》夜《よ》に乗じてやってこられたら防ぎようがあるまい?」
「それはそうで」
康三郎はいい加減に返事をした。踏台の上にせい一杯のびあがって刷毛をもつ手を動かしていたから、それどころではなかったのである。
「ツェッペリンか」基一郎は連想のおもむくまま、独り言のように呟《つぶや》いた。「ツェッペリンというのはどうも名前がいい。菅野、日本もどうしてもあれを作らにゃあいかんねえ」
「はあ」
康三郎は生返事をした。といって彼は、この院長を純朴《じゅんぼく》な気持でずっと崇拝してきたのだった。ときに騙《だま》されたような気がしたり、ときにおやおやと思うこともないではなかったが、楡基一郎はやはり滅多にいない人物、カイゼル髭《ひげ》をもう一対《いっつい》くらいつけてもったいぶってもいい資格を有する人物だと彼には思えた。事実、院長が話すこと放言することはぴたりと実現することが多かったのである。
つい先日、ほんの半月前、世間のことにあまり関心もない病院の連中もさすがに愕然《がくぜん》とするような惨事が、まして政友会に関係する院長にとっては寝耳に水の不祥事が起った。東京駅構内で原首相が暗殺されたのである。
「莫迦《ばか》者《もの》がいるねえ、世間には」
と、基一郎は慌《あわただ》しく外出の支度をしながら康三郎に言った。
「しかし政治をとる身はいつだってそういう危険を覚悟しなけりゃならん。畳の上で死のうとは決して思わぬと原さんは前から言っておられたよ」
院長は自分もまたその一人であるとでも言うように髭をひねりあげたが、残念なことに彼のところにはべつだん刺《し》客《かく》も現われそうになかった。基一郎は最後にこうつけ加えた。
「見ていたまえ。今度は是清《これきよ》だよ」
そしてその通りになった。西園《さいおん》寺《じ》公《こう》は結局腰をあげず、前蔵相高橋是清が次代首相と決ったのである。
康三郎は以前からときどき高橋邸へ院長の親書をとどける役目をおおせつかっていた。表町の宏壮《こうそう》な私邸の、秋草の六曲|屏風《びょうぶ》や寿《じゅ》老人《ろうじん》の立像などが所狭しと置いてある応接間にしばらく待たされ、それから書生に案内されて芝生のひろがる庭に通される。庭の一隅《いちぐう》の籐《とう》椅子《いす》に背をもたせて、達《だる》磨《ま》のような是清|翁《おう》が和服姿で英字新聞を読んでいる。康三郎が近づいても目をあげようともしない。こちらは、その白い達磨髭の布《ほ》袋腹《ていばら》の老人が基一郎院長の親分格の人物だとわきまえているから、かしこまっておそるおそる待っている。ややあって相手が新聞をおろしたとき、ふるえる手で手紙を差出す。是清は封をきり、なにか知らないが基一郎が毛筆でこまごまとしたためた手紙をごく簡単に読み終る。書生が硯箱《すずりばこ》を持ってくる。是清はさらさらと、ときにはほんの一行か二行したためる。その手紙を康三郎がうやうやしく持って帰ると、院長はいかにももっともらしくうなずいて言うのだ。「いや、ご苦労ご苦労」
菅野康三郎はそんな追憶にふけりながら、手と肩を大いにだるくさせた挙句ようやく天井一面を塗り終えた。粗悪な魚油の臭《にお》いは室内一杯にたちこめ、康三郎は息がつまるほどだったが、院長は至極満足した様子で床の中からいくらかの金冠のある歯並びを見せた。
「ああ菅野、綺《き》麗《れい》になったねえ。この部屋はどうも平凡だった。しかし、これで確かに見違えるようになった」
「院長先生、この臭いはどうも。唐紙《からかみ》をあけますか」
「なに、臭いなんてなんでもない。ちょっとした発明でこんなふうに見違えるようになる。光沢《つや》があって重みが出るだろう? いや、なかなか綺麗だよ、君」
康三郎がいささかいぶかしく思ったことに、院長は魚油の臭気などまったく意に介そうとせず、床に仰向いたまま、妖《あや》しげな方法で面目を一新した天井を眼をほそめて実に長いこと見渡していた。にこやかに、上機嫌《じょうきげん》に、しかしどことなく疲労の淀《よど》んだような眼《まな》差《ざ》しで、いつまでも。
第五章
桃子の少女時代は、気ままで、なんのかげりもなく、好き勝手なふるまいの許される、あまり上品とはいえないが小さな女王のそれにも似ていた。人がそう評したのではなく、主として自分でそう思いこんでいたのである。
よく汗をかく丸まっちい小鼻と下ぶくれのした愛嬌《あいきょう》のある頬《ほお》をもつこの末娘は、礼儀作法とはまず縁がなく、病院のとりどりの従業員が発する決して上等とはいえぬ言葉をすべて吸収して、下町っ子さながらに活溌《かっぱつ》に遊びほうけていた。賄《まかな》いで看護人と一緒に食事をしながら莫迦《ばか》笑いをするかと思うと、猫《ねこ》にしつこく紙袋をかぶせようとして手ひどくひっかかれたりした。
もちろん彼女はそのみやびやかならざる言動を、学習院出の貴族的[#「貴族的」に傍点]な姉たちから叱《しか》られればそのときはしゅん[#「しゅん」に傍点]となった。姉たちと自分とは身分が違うこと、たとえ同じ屋根の下に住んでいても、彼女らは「奥」の子であり、自分は「賄い」直属の子であるという観念は、物心がついたときから桃子の頭の隅《すみ》にこびりついていた。幸い姉たちはこの妹を半ば無視していたからうるさく監督されることもなかったし、桃子は下田の婆《ばあ》やの庇護《ひご》の下にまずは太平楽に暮していた。両親はあまりに遠い存在であった。稀《まれ》に「奥」に呼ばれて両親と一緒に食事をするとき、桃子は箸《はし》のあげさげまでをひさに監視されるのを感じ、ろくに食物の味さえわからなかった。基一郎はといえば、顔を会わしさえすれば実にいい優しい父親なのである。
「おお、しばらく見ないうちに大きくなったな、桃子。おまえ大きくなったら何になりたい」
「ピアノひきになりたい?」と、桃子は答える。
「ああ、そうかそうか。よしよし、ピアノを習わしてあげる」
絵描《えか》きになりたいと言えば、
「ああ、いいとも、いいとも。それでは絵の先生を呼んであげよう」
もっともこれは会っているときだけの話であり、決して実現されないことであり、悲しいことにそのあと桃子は滅多に基一郎の顔を見ることもないのである。
母親のほうは、それと裏腹に厳格であった。彼女は娘に笑顔ひとつ見せたことがなかったし、稀に口をひらけば、陰にこもったぼそぼそした声で、「なんです、そのお言葉は?」と言ったまま、すっと顔を元に戻《もど》すのだった。実際この母親の前には出たくなかった。母親という感じすらしなかった。単に煙ったい峻《しゅん》厳《げん》な存在、自分とは別世界の格式の高い「奥」の御《み》霊《たま》にすぎなかった。
しかしその「奥」と、それに従属する姉たちの居室を除いたすべての世界が、桃子がのびのびと呼吸できる素敵な天地として残されていた。
そこにはなんでもあった。面白《おもしろ》い気のおけない人たちがいた。誰《だれ》もが、この少々だらしのない嬢ちゃんを可愛《かわい》がったりからかったりし、彼女の言うことはたいてい大目に見られ通用した。「奥」では息がつまるけれど、ここでは桃子は大威張りでとびはねることができた。病院の外でもそうだった。楡《にれ》病院の娘であることがわかると、あちこちの店のおかみさんは彼女に特別な待遇を与えてくれた。そのため桃子の小さな頭には、自分は姉たちよりはずっと劣等ではあるが、それでも相当に名の通った人気のある人物なのだという観念が植えつけられた。たとえば小学校に入学して受持の女教師から、
「楡さんのおうちはどこ?」
と尋ねられたとき、桃子はびっくりし、芯《しん》の芯からふしぎそうに相手の顔を見つめながら言ったものだ。
「ああら先生、そんなこと知らないの?」
彼女はどこにでも出没した。看護婦部屋へ行ってカルタをとり、書生部屋へ行って焼芋を貰《もら》った。薬局へ行って「頭がいたい」と嘘《うそ》をつくと、白い上っぱりをつけた薬剤師は赤《あか》葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》をちょっぴり入れた水に砂糖をまぜて飲ませてくれた。ちょうど父親が愛飲するあのボルドーと似たような色合だった。
小学校の友達が遊びにくると、桃子は得意になって、病院の中でも一番ものものしい部屋、貴賓室や珊《さん》瑚《ご》の間《ま》へ連れていった。これは大っぴらというわけにはいかなかった。院代などに見つかると、彼は縁なし眼鏡を光らせて鶴《つる》のような歩き方で近づいてきて、「ここでおいたをすると、お母様にまた叱られますよ」と猫撫声《ねこなでごえ》で言うのだった。
それでもうまく高貴な部屋にもぐりこめると、そこには友達に見せびらかすに足る品物がたんとあった。貴賓室の片隅にはこれも独逸《ドイツ》製のピアノが飾ってあった。飾ってあるというのは、誰もこれを弾く者がなかったからである。昔は龍子《りゅうこ》が、そのあとは聖子が、これをポンポンと鳴らしたことはある。頭髪がむく鳥の巣みたいな痩《や》せたピアノ教師が通ってきた頃《ころ》もあったのだ。ところが楡家の子女たちは音楽の才能があまりないこと、というより滅多にない立派な音痴であることが判明しただけであった。今ではこのピアノはその上にセーブルの磁器などを飾るための台であるにすぎなかった。
しかし桃子は誇らしげに友達にむかって言うのである。
「あたしが女学校にはいったら、お父様がピアノの先生を呼んできてくれるのよ」
それから彼女は、基一郎のさまざまな土産品を、父親そこのけのもったいをつけて見せびらかした。ナイフやフォーク、さては毛抜きや爪《つめ》切《き》りに至るまでを見せた。
「これ、なんだかわかる?」と、彼女は一抱えもあるような古くなって黄ばんだ丸い物体を指して小鼻をうごめかすのである。「駝鳥《だちょう》の卵よ。これでオムレツを作ったら何十人前もできんのよ」
「駝鳥の卵なんておいしいの?」
「おいしいのよ。ほっぺたが落っこちそうだってお父様が言ってたわ」
次に彼女は貴賓室の書棚《しょだな》から、ぶ厚いアルバムを幾冊も取りだしてきた。
「ほら、これ外国の写真よ」
「どこの外国?」
「どこだか知らないけど外国よ。ほら、これ、外国の女の人よ。この帽子、へんでしょう?」
それは基一郎の滞独時代のもので、微細なペン画を思わせるいろんな都市とか風景の絵葉書が貼《は》りつけてあった。昔年《せきねん》の伯林《ベルリン》、カイザー・ウィルヘルム記念寺院の尖塔《せんとう》は楡病院の塔の二倍もとんがり、シュロス橋の上には一頭立てあるいは二頭立ての馬車が輻輳《ふくそう》していた。クリスマスとか謝肉祭のきれいな色つきのカードも貼ってあった。なかには基一郎自身の姿もある。多くは日本人クラブなどの記念写真で、若かりし基一郎はすでにカイゼル髭《ひげ》をぴんと立て、胸をそらし心もち顔を横にむけ、大抵一同の中央どころにすましかえっている。胸に薔薇《ばら》の花をさし白の蝶《ちょう》ネクタイをした、どこの俳優かと思われるポーズをとった基一郎単独の写真もあった。横の空白には彼の実に読みがたいペン字でこう書かれてある。
「明治三十四年九月十三日ハ余ノ誕生日ナルヲ以《モッ》テ記念ノタメ写真ヲトリ之《コレ》ヲ以テコノ画《ヱ》端《ハ》書《ガキ》ヲ作ラシメシモノナリ。又コノ月ハ余ガ試験論文ヲ始メテ作リシ月ニシテ大イニ将来記念トスルニ足ルベキモノ也《ナリ》。西暦一千九百○一年九月於|独乙《ドイツ》国ハレ大学 楡基一郎」
しかしそんな写真よりも、桃子はアルバムをくって更に驚くべき写真を捜しだした。おそらく基一郎が年の市かなにかの見世物小屋で買った絵葉書らしく、その一つには全身|刺《いれ》青《ずみ》だらけの女が写っていた。首から下、足のつま先に至るまで奇妙な男女の顔とか古代の地図にあるような記号めいた図案が一面に彫られている。もう一つには、なんと首が二つある人間が両方の頭をそれぞれ左右に傾《かし》げており、基一郎の読みづらい文字でこう説明してあった。
「此《コ》ノ二頭人間ハ女ニシテ、右ノ方ヲエルフヰイ[#「エルフヰイ」に傍点]、左ノ方ヲベアンカ[#「ベアンカ」に傍点]ト言ヒ、其《ソ》ノイヅレカノ名ヲ呼ベバ一方ノ頭ノミ返事スルナリ。年齢十七歳ナリシト言フ」
また大きな酒びんと並んでいる小人の写真には、
「独乙国ライプチヒ市ビンテミーレルノ料理店ニ於《オ》ケル丈三尺体重五貫二百|匁《モンメ》年齢三十四歳ノ給仕人ノ図ハ即《スナハ》チ之ナリ。記念ノタメ之ヲ求ム」
まだまだ写真はたんとある。しかし桃子はそこらでアルバムをいじくるのをやめ、今度は友達にオルゴールを鳴らしてきかせた。大きなラッパのついた蓄音機もあったけれど、これを鳴らすと音が大きすぎて、きっとうるさい大人たちがやってくるにちがいないからだ。それは鉄の円筒型のオルゴールで、ねじをまくとぐるぐると廻《まわ》りだし、沢山の穴のあいた鉄板の不可思議な作用によって、妙《たえ》なる楽の音をひびかせるのである。
「どう? 素敵なものが一杯あるでしょ?」
「そうね」と、相手の女の子は羨《うらや》ましそうに口をとがらせた。「でも、これ、あんたのものじゃないじゃない」
「今はね」と桃子は言った。「でも、あたしが大きくなったらお父様があたしにくれるわ」
「だって、あんたには兄さんや姉さんが何人もいるじゃないの」
「それでもこれだけはあたしのものよ」と、桃子は断《だん》乎《こ》として主張した。「このオルゴールと駝鳥の卵はね。それよりあんた、こっちにきてごらんなさいよ」
彼女は相手を珊瑚の間の床の間へ連れていった。
「あれは珊瑚よ。珊瑚って高いのよ。これみんなで百円の何倍も何倍も……きっと千万万円くらいするわ。この半分はあたしが貰っちゃうんだから」
少なくとも、「奥」から解放されているとき、この楡家の末娘は幸福そのものといえた。病院の中では遊び相手にも事欠きはしない。裏の長屋に住んでいる従業員の子供、近所の子供、それに弟の米国《よねくに》をまじえて、彼女は男の子よりもずっと活溌に遊びほうけた。崖《がけ》の竹やぶをくぐり、ぐみの樹《き》に実がなれば口を真赤にしてほおばった。なかでも彼女の気に入ったのは探偵《たんてい》ごっこという遊戯である。一人が悪漢になって逃げまわるのを探偵たちが追跡するのだ。捕えると樹の幹に帯でぐるぐる巻きにゆわえつけてしまう。下田の婆やが自分よりも米国を可愛がったようなとき、彼女は弟を悪漢にしたて、いやというほどきつく木にしばりつけた。可哀《かわい》そうな米国はどうしても自分で紐《ひも》をほどくことができず、しまいに通りがかった女中が見つけてくれるまでしくしく泣いていなければならなかった。
彼女はよく青雲堂へ遊びに行った。病院の門を出てしばらく行くと元ノ原という原っぱがある。そこを斜めに突っきってゆくと交番があり、電車通りに出る少し手前に青雲堂の小さな店がある。賞与式には欠くべからざる喉《のど》をきかせるおじさんが、いつもにこにこと彼女を迎えてくれる。同じように小《こ》柄《がら》なおばさんも優しくお茶を入れてくれたりする。ここは言ってみれば天国のようなものであった。青雲堂は帳面《つけ》になっていたから、なんでも無《た》代《だ》で買えるのだ。赤い色をしたゴム毬《まり》、画用紙からノート、色鉛筆を五十本かかえこんだとしてもお金は要らないのだ。しかし桃子があまりに上等な写生帳を持っていこうとしたりすると、青雲堂のおばさんは優しく、「桃さま、あなたはまだお小さいのですから、それはもったいなさすぎます。ね、こちらになさい」ととがめるのだった。この夫妻は楡病院に長くいたから、やはり桃さま、聖さまなのである。桃子はちょっとふくれて、それでもこのおじさんおばさんの言うことはよくきいて、その代り特別大きな消しゴムも紙袋に入れてもらって帰ってくる。彼女は毎月たしかに十箇《こ》の消しゴムを買った。しかし気前よく――なぜなら自分では少しも痛痒《つうよう》を感じなかったもので――みんな友達にくれてしまうものだから、いつも消しゴムには不足していた。
桃子は家では小遣いというものを貰えなかった。お金がなくても別に不自由はないはずだが、それでもやはりお金は欲しかった。正月とか盆の納涼会のときに病院の従業員一同は金一封を渡され、桃子も一緒にそれを貰ったが、しかし袋には十銭しかはいっていなかった。基一郎のところにくる親類の者とか客などがたまに子供たちに小遣いをくれ、それが桃子の大切な収入源といえた。秩《ちち》父《ぶ》の禿頭《はげあたま》のおじさまは桃子のような子供に大枚五十銭をくれ、彼女はおじさまを大好きになったが、もっと屡々《しばしば》訪れてくるその弟のおじさんは秩父|饅頭《まんじゅう》しか持ってこなかった。山形からくる客たちも大抵はけちで、名産ののし梅しか持ってこなかった。のし梅はいつも楡病院にあふれ、桃子はのし梅の顔を見るのも厭《いや》なくらいだった。彼女はいつもお金がなくってぴいぴいしていた。なぜなら彼女は相当の浪費家で、青雲堂でとればすむものを別のお金の要る店で買ってしまったり、食べるものも不足していないはずだのに一人で駄菓子《だがし》を買いこんだりする癖があったからである。
賄いの隅で、みんなからナベと呼ばれている古い患者が、ときどき小《こ》鍋《なべ》で牛肉のこま切れをぐつぐつと煮ていることがあった。彼もビリケンさんと同じく市の委託患者の一人で、ふだんはなんでもないのだが、一月に一遍ほどの割合で癲癇《てんかん》の発作を起すのである。ナベさんは賄いの菜《さい》で足りないとき、牛肉のこま切れを五銭買ってきて、賄いが空いているときに一人で煮てひそかに食べるのである。
あるときまたナベさんがたった一人でぐつぐつなにか煮ているのを見かけて、桃子がそばへ行ってみると、彼は鍋から湯気のたった肉の小片を割箸《わりばし》でつまみ、ぺろりと食べてみせて言った。
「嬢ちゃん、これ、うまいんだぞう」
桃子は唾《つば》を呑《の》みこんだ。なんとしても一口食べてみたかった。
「ねえ、ひときれちょうだい」と、思いきって彼女は言った。
「あげないよう。とってもうまいんだから」
「それじゃ、一口だけ売ってよ」
と、その頃外で買食いの味を覚えた桃子は、三銭しか残っていない自分の全財産を思いうかべながら、一息に言った。
「この肉は高いんだぞう」
「いくらなの?」と、彼女はおそるおそる訊《き》いた。「三銭じゃ足りない?」
「三銭か」と、ナベさんは言った。「三銭じゃ、せいぜい三きれだな」
桃子はとびたつ思いで家へ駈《か》けてゆき、三枚の一銭銅貨を握って駈け戻り、醤油《しょうゆ》で煮しめた牛肉のこま切れを貰って食べた。それはおそろしく固かった。が、それでも彼女は滅多にない御馳《ごち》走《そう》を味わったような気がしたのである。
また彼女はお金がたまったとき、病院の廊下に売店をだしている天理教に凝った小母《おば》さんのところへ行き、牛肉の缶詰《かんづめ》を買いこんだ。この小母さんは客がないときは店の後ろについている小部屋へ行き、「たあすけたあまえ天理王のみこと」と太鼓を叩《たた》くのである。その音はどうしてもかなり遠方まで響きわたったから、病院の中で店をやらせるには不適当だという意見に対して、院長は平気で常々こう言っていた。
「なに、あれは活気があっていいものだよ。それに天理教のお祈りで癒《なお》る患者さんだっていくらかはいるかも知れんしねえ」
この店で売っている缶詰にはたしかに「牛肉うま煮」と書かれてはあったが、実は鯨の肉なのであった。しかし桃子はお金を払ってこれを買ってひそかに一人で食べ、世の中にこんな美味なものがあるかしらんと思った。いくら彼女が楡家の子供たちの中で下《した》っ端《ぱ》だとはいえ、ふだんはもう少し上等の肉を食べていたにもかかわらず。
まだまだ彼女の出費の種は尽きなかった。青山の電車通りを五丁目から四丁目のほうへ辿《たど》ると、善光寺という寺があり、毎月一回この附近に縁日がでた。桃子は下田の婆《ばあ》やに連れられて出かけて行った。アセチレン燈が特有の匂《にお》いをたてて点《とも》り、その光の下で、ほかほかと暖かい鯛《たい》焼《や》きを売っていた。金魚が洗面器の中で群れをなして泳ぎ、小さな亀《かめ》が這《は》いでようとして首をのばしていた。こちらでは威勢よくバナナを売っていたし、あちらではゼンマイ仕掛けのブリキの人形がひょこひょこ動いていた。いや、まだまだ、たとえば指の中から色つきハンカチの出る手品が、五色の砂が、だんだら飴《あめ》が、きれいな絵本が売られていた。ああ、欲しいものは山ほどあった。そして懐中はあまりに乏しかった。あのきっと千万万円もする珊瑚が自分のものであったなら。あの珊瑚のひとかけらを壁からほじくりだして、いま目の前にぴよぴよ鳴いているこの雛《ひよこ》と交換することができたなら! 桃子は胸が一杯になり、どきどきして、目がまわりそうになった。下田の婆やにとめられたのをふりきって、思いきって紙の着せかえ人形を買いこむと、それでもうお金はなくなってしまった。するとほそい硝子《ガラス》の管の中にはいった色つき水がとりどりの色をして並んでいた。鼻をたらした男の子がおいしそうにそれを吸っている。桃子は駄々をこねだした。いけないと言われると地《じ》蹈《だん》鞴《だ》を踏み、ついには大粒の涙をぽろぽろとこぼした。下田の婆やもこうなっては仕方がなかった。そんなものを飲ませたことがわかったら彼女の立場はなくなるであろう。「内証ですよ」と念を押して、婆やは一本の色つき水を買ってくれた。桃子は涙のついた下ぶくれした顔を急にほころばし、ちゅうちゅうと音を立ててほそい管から橙色《だいだいいろ》の水をすすった。かすかに甘い味がした。そしてそれきりのことだった。
楡脳病科病院の名物患者の一人に島田さつきという中年の女がいた。彼女はビリケンさんやナベさんのように外へ出てはこなかった。彼女は誇大|妄想《もうそう》をもつ患者の一人で、自分の前に平身低頭する者以外にはたちどころに居丈高な乱暴を働くのである。そのためずっと鍵《かぎ》のかかる部屋に入れられていたが、その中で彼女はせっせと札《さつ》を作っていた。毛筆で紙にいい加減な図案を描き、五円、十円、百円と記した。下の方には、島田さつきこれを作る、全世界に通用するものなり、と書かれてあり、彼女は機《き》嫌《げん》のよいときには百円札であろうが惜しみなく人にくれてやるのである。楡病院の内部に於《おい》てはもうずいぶんとこの札が流布《るふ》されていて、桃子も幾枚か持っていたけれど、さすがにこの札で夜店の品を買うというわけにはいかなかった。米国《よねくに》が小さいときには、彼女はこれで弟をだました。全世界に通用する十円札で、うまうまと彼からお八つの菓子を購入したりしたのである。
ところがやがて米国も日本国で本当に通用するお金の種類を覚えるようになった。貨幣の単位を覚え、彼もときたま秩父のおじさまなどからお年玉を貰ったりするようになると、桃子のだらしのない浪費ぶりとは断然逆の精神を発揮しはじめた。小学校の三年にもなると、彼は立派なしまり屋、堂々たる勤倹貯蓄家に変じていた。下田の婆やに買って貰った貯金箱の中に、じゃらじゃらというほど銅貨白銅貨を蓄えていて、五|厘《りん》たりとも使おうとしなかった。ただで物の買える青雲堂以外の店は彼には眼中にないのであった。
あるとき桃子は縁日で変ったものを買ってきた。それはセルロイドで兎《うさぎ》だの亀だのの型ができていて、そこに色のついた砂糖が流しこんである。すぽりととると動物の形をした砂糖菓子が食べられるのである。桃子は少し食べてみたが、単なる砂糖の味しかしない。もう飽きてしまっていると、米国が欲しそうにやってきて、ぼくにも食べさせて、と言った。
「いやよ。買うなら売ってあげる」
珍しいことに、しまり屋の弟は、もし安いのならお金を出してもいいと言った。
「これは十銭もしたのよ。半分しきゃはいってないから五銭でいいわ」
ところが大金持のはずの弟は、五銭なんてとんでもない、まあ二銭ならと主張した。
「駄目よ。絶対に五銭よ」
「そんならぼく要らないや」
吝嗇家《りんしょくか》の弟はあっさりと諦《あきら》めてしまった。そうなると急に桃子は惜しくなった。せめて二銭でも手にはいればそれだけ得ではないか。とうとう彼女はその条件で承知したのだが、米国はそれでもって更にうまい商売をした。彼は砂糖菓子を食べてしまうと、残ったセルロイドの型に青雲堂からただで買ってきた粘土をおしこんで兎や亀の形をこしらえた。彼はなかなか手先が器用であり、絵具で綺《き》麗《れい》に彩色をした。それを見ると、桃子は急にまたそれが欲しくなった。ついに彼女は動物一つを一銭で買いこむ羽目になったのだが、計算をしてみると、型は六つあったから六銭も弟にまきあげられてしまったわけである。……
このような買食いを、金銭のやりとりを、母親や姉たちに見つけられたらどんなに叱責《しっせき》されたか知れないが、幸い楡病院に於ては親子兄弟の間にたぐい稀《まれ》な距離があった。上の姉たちに比べて文句なく平民的[#「平民的」に傍点]な桃子は従業員たちに人気があり、大手をふって好き勝手な場所に出没した。
彼女はよく四百四病と渾名《あだな》のある瀬長という書生のところへも遊びに行った。
瀬長はやはり医者志望の青年なのだが、医者になるより先にまず彼自身が病気の巣といえた。それも本当に身体《からだ》がわるいというより、今でいうノイローゼ、やたらとさまざまの症状を自らつくりだしては気に病まずにいられない性格なのであった。楡病院に寄宿する身であれば薬など病院の薬局から貰《もら》えばよいだろうに、この男は乏しい財布をはたいて売薬を片端から買いこんでくる。新聞広告を見るたびに、彼はこの薬こそ自分を悩ます疲労感、頭痛、胃腸の不順を解決してくれるものと思いこみ、矢も楯《たて》もたまらず買ってきてしまうのである。そしてその効能書を読んでいる間が、彼の日常のうちもっとも気力の充実した時間といえた。
それゆえ彼の広からぬ机の上には、とりどりの薬の箱が溢《あふ》れるばかりに並んでいる。『かっけ新薬 銀皮エキス』というのもあれば、『ブルガリン』と称する薬はメチニコフ博士唱導とやらの乳酸菌製剤で、彼の胃腸はこれによって辛《かろ》うじて蠕動《ぜんどう》をつづけているのである。また『ピータ』というのは、「青春の泉」と銘打たれた滋養強壮料であり、同じく栄養強壮剤『鉄フィチン』には、「仏国の碩学《せきがく》ポステルナック博士の創製せるフィチン酸の鉄塩にして神経系疾患、身体虚弱、貧血、生殖器衰弱等の特効新薬なり」と説明が附されている。その中にまじって、『七日つけたら鏡をごらん 色白くなるゲンソ液』などというびんも置かれている。瀬長はそのほか伊助|爺《じい》さんの教示に従って、大師《おだいし》さまのお守りこそ試さなかったが大量のかつお節の汁《しる》を飲んでもみたが、彼をとりかこみ彼を悩ます数限りない症状はいささかも改善されはしなかった。
瀬長は薬に関する雑誌新聞広告の切抜きを沢山持っていた。その一つを彼は桃子に読んできかせたが、それは仙丹《せんたん》という薬の会社が贋物《にせもの》の横行に業《ごう》を煮やして、新聞一|頁《ページ》の大広告を出したものであった。その文章は桃子にはむずかしすぎたが、四百四病の瀬長は、これを平易に念をこめて熱っぽく解説してきかせたものである。
「商標の侵害に関し敢《あ》へて天下に檄《げき》す」
と大きな活字があり、贋物の顛末《てんまつ》を述べたあとで、
「……以上は一例なるも尚《なほ》全国に渉《わた》りて探査せんか其数|幾何《いくばく》なるも知るべからず。かくして猶《なほ》放任せんか、啻《ただ》に我仙丹の声価を失墜せしむるのみならず、満天下仙丹愛好|諸彦《しょげん》に対する本舗の責任を如何《いかん》せん。則《すなは》ち断乎涙を揮《ふる》うて馬謖《ばしょく》を斬《き》るの決意に出《い》で、次の方法に依《よ》り国法の制裁を仰ぎ、仍《よ》つて以て之が鏖滅《あうめつ》を期し、本舗の重責を全うせんとす」
と、まるで一国の宣戦布告の大詔でもあるかのような文句が連ねられている。その方法というのは、もし贋物を発見された方は五包を買いとり本舗顧問弁護士まで郵送されるならば、実費のほか金壱円|乃至《ないし》壱百円の謝金を呈す、というのである。
瀬長は最後にため息をついて言った。
「この贋物を見つければ大したお金が貰えるんだよ。そうすればぼくはもっともっと鉄フィチンを飲んでもう少し人並の身体になれるのだが……」
「ほんと? だったらあたしもその贋物を捜してみるわ」と、桃子は大いに乗気になって受けあった。
しかし桃子は、『色白くなるゲンソ液』にもやはり関心を抱いた。このあまりしとやかでない楡家の末娘は、一言でいえばある部分だけかなり早熟で、というよりあまり芳《かんば》しくない知識欲が旺盛《おうせい》だったからである。
雑多な人間のたむろする、そして監督者がいなければずいぶんと野卑な言葉もとびかわす楡病院の賄《まかな》い界隈《かいわい》は、彼女の成長する環境としてはたしかに適当とはいえなかった。誰《だれ》と誰があやしいとか、日本性学会主催の『性と恋愛との講演会』を傍聴に行った書生の報告とか、少女が聞くにふさわしくない会話がそこでは屡々《しばしば》交《か》わされていた。おまけに桃子嬢ちゃんはうっかりすると、小鼻をひくつかせながら大層な興味をもってそれに聞きいったものである。
ビリケンさんがさまざまな記事を朗読したあとで、ときどき一、二枚の新聞を持っていってしまうことに桃子は気がついた。そしてそれは、新聞にのっている芸《げい》妓《ぎ》の写真、甲子《きのえね》家《や》の東造とか金《かね》廼家《のや》のきぬ若とかいう女の写真を切抜くのが目的であることを彼女は知るようになった。
「それどうするの?」と彼女は訊いた。「その女の人が好きなの?」
「うんにゃ」と、ビリケンさんは慌《あわ》てた。「そりゃいろんな顔があるから、見くらべてみるだけのことだよ」
たしかに桃子は、性と恋愛とやらについて津々《しんしん》たる興味を抱いたようだった。門番の豊《とよ》兵衛《べえ》爺さんがなぜあのようながに股《また》で歩くかも彼女は聞き知った。おそらくは脱腸かなにかで、爺さんのあそこは物凄《ものすご》く大きい、狸《たぬき》の八畳敷だというもっぱらの噂《うわさ》であった。桃子は一目でよいからそれを見たいと念じた。豊兵衛は夏、よく着物の裾《すそ》をはしょって腿《もも》を丸出しにして歩くことがある。なにげない顔をして桃子はついて行った。ところが相手は、彼女の欲するところをちゃんと知っていたらしく、爺さんはいきなりくるりとこちらに向き直ると、ふんどしに手をかける恰好《かっこう》をして言った。
「嬢ちゃん、見せてやっか?」
さすがに桃子はあとをも見ずに逃げた。息せききって逃げてから、そのあと彼女はたいそう惜しい気がしてたまらなかった。
しかしながら桃子のそうした日々、――男の子そこのけに探偵《たんてい》ごっこに夢中になったり、ピーッと蒸気の音を立てて車を引いてくる煙管《きせる》直し「ラオ屋」が落すぴらぴらした紙を拾うためにどこまでも蹤《つ》いて行ったり、狸の八畳敷とは一体どういうことになっているのかと首をひねったりした自由気ままな子供の日々は、意外に早く過ぎて行った。
年と共に、彼女が成長し自分の周りをいくらか落着いて眺《なが》めわたすと共に、彼女の有頂天なおっちょこちょいの精神はかなり傷つけられた。自分と姉たちとの隔差、待遇、身分の相違があまりに甚《はなは》だしかったからである。といって、いつまでも下田の婆やに甘えているわけにも行かなかった。敵役《かたきやく》の米国よりもっと幼くて強力な相手、龍子の長男|峻一《しゅんいち》が大いに婆やの手と時間を奪ってしまったからだ。
そこで桃子はひがんだ。大いにひがんだ。誰も自分をかまってはくれない。自分は本当に楡家の娘なのだろうか。姉たちは若奥さまでありお嬢さまであるのに、自分は腰元、下女、賄いの落し子にすぎないのではないか。姉たちの言種《いいぐさ》はいつもこうであった。
「お寝《やす》みなさいとはなんです? お寝みあそばせとおっしゃい」
「さようなら、というのは下品なお言葉です。御機嫌よう、とおっしゃるものよ」
へ、さようでございますか。それはあなた方は学習院出のお姫さまでございましょうからね。へ、てめえら、いってえなにほざいてやがんだ? 出入りの大工の巻舌《まきじた》の方がはるかに桃子には覚えやすかった。
小学校を卒業する間近になって、基一郎があまり当てにもしないような調子で言った。
「桃子、おまえも学習院を受けてみるか」
桃子は自分がどういう学校へ行こうがちっとも関心がなかったが、父親にそう言われてみると、急に学習院とやらへ行ってみたくなった。そうすることによって、今は楡家の子供たちの中で数にも入らない自分もひょっとしたら姉たちの仲間入りができるのではないか? しかし学習院の編入試験は競争率が高かった。競争、――ああ、毬《まり》つきと探偵ごっこなら自分は誰にだって負けやしないのに。のし梅よりも嫌《きら》いな勉強、それを人一倍しなければ学習院にははいれない、そう思うと桃子は大きな梅干を種子《たね》ごと呑《の》みこんだような気がした。おまけに姉たちは少しも期待も同情も示してくれなかった。気立ての優しいはずの聖子も、あきらかな軽蔑《けいべつ》の口調で皮肉まじりにこう言った。
「桃さま、あたしは誰にも自分の妹が学習院を受けるなんてことをひとことも言ってありませんよ。そんなに遊んでばかりいて、……五十人に一人の割で、あたしなんか神経衰弱になるくらい勉強したものよ。言っておきますけど、あなたはとても受かりっこありませんからね」
へ、さようでございますか、どうせそのとおりでございましょうよ、と桃子は心の中で舌を出した。それで基一郎が頼んだ家庭教師がきてみると、この楡家の末娘は探偵ごっこをしに行っていて行方不明というのが毎度のことであった。
自他の期待にそむかず学習院の編入試験を落第したあと、桃子はちょうど同年配の親類の子浜子――と桃子は思っていたが、実は基一郎がある女に産ませた子であった――と一緒に、手当り次第あちこちの学校を受けてまわった。当時は受験日が別々になっていたから、彼女にふさわしく何回でも受験できたのである。雙《ふた》葉《ば》、三輪田《みわた》、聖心と彼女は次々と試験を受けてまわり、同じように片端から落第した挙句、ようやくのことで下田歌子が校長をしていた実践高等女学校に合格した。彼女は小鼻をひくつかせたろうか。いやいや、この学校の制服には桃子はうんざりした。それは下まで裾のある長い紺の袴《はかま》で、紺の色によって本科と実科を現わし、もっぱら専売局の女工と渾名《あだな》をつけられるのもやむを得ないといわねばならなかった。
こうして女学校へ行くようになってからも、彼女の楡家に於《お》ける地位は少しも上昇しはしなかった。その姉たちの何分の一すらも、「奥」では桃子を重要視する気配がなかった。「制服がいけないのだ」と桃子は考え、せっかく入学した学校へゆくのも厭《いや》になった。
今では下田の婆やはすっかり峻一にかかりきりになっており、その腹いせにあるとき桃子は、夜店で皮がすっかり黒ずんだバナナを買ってきて、身の白い部分は自分で食べ、変色した部分を小憎らしい甥《おい》の口に突っこんでやった。ところが、この楡家の三代目である小さな峻一は、いやに嬉々《きき》として腐ったバナナをごくおいしそうに呑みこんだものだ。
桃子はせい一杯の軽蔑の表情で鼻の頭に皺《しわ》を寄せた。
「いやあねえ、この子ったら、まるで餓《う》えてるみたい」
平生《へいぜい》姉たちから自分に向けられる眼《まな》差《ざ》しを、彼女は能《あと》うかぎり真似《まね》ようと努力した。
「ほんとに下町っ子そっくりだわ。これで龍さまの御長男が聞いてあきれるわ」
すると、こういう声がした。
「なにが下町っ子だ」
かなり野太い、しかしいかにも面倒臭げな、その当の本人からして出しても出さなくてもどちらでもよいと言いたげな、投げやりで眠たげな声であった。
もう一人の人物がその部屋の畳の上に寝ころんでいたのである。それは基一郎夫妻の長男、ずっと仙台の高等学校へ行っているため滅多に楡病院では顔を見ることのない欧洲《おうしゅう》であった。
彼は常々典型的な往時の高等学生の恰好をしていた。といって、垢《あか》まみれの弊衣破帽でもない。基一郎の血はどこか争えず、彼はなかなか外観を重んじた。その紺がすりの着物にしても、様子よくほころびればそのまま着用したが、いったん彼の美の基準にそむいたとなれば、惜しげもなく捨て去ってしまう。朴《ほお》歯《ば》の鼻緒にしても、一般に売られているものではなく、わざわざあつらえて作らせた直径一寸もある代物《しろもの》であった。
桃子の記憶の中では、この兄は遥《はる》かむかしから高等学校の生徒であり、現在も同様であれば、これから先も永久に高等学校に在籍しそうな気配がした。欧洲はときどき冬夏の休暇にだけ戻《もど》ってくる。しかし長く家に滞在することはなかった。柔道部の合宿とやらへ行ってしまうからである。いつぞや基一郎が「欧洲は柔道部で……」と言って龍子に訂正されたことがある。そのときはたしかに彼は剣道をやっていた。ところがそのあと、柔道の試合に選手が足りなくて無理やりひっぱりだされたところ、体《たい》躯《く》抜群の欧洲は一同があっけにとられる力量を示した。以来彼は柔道部に移り、今ではその主将ともなっているのである。
「なにが下町っ子だ」
と、ふたたび欧洲は、不機《ふき》嫌《げん》げな、かつ面倒くさげな声を出した。
「お前は一体、ここの家がどんな大層な家だと思ってるんだ?」
桃子はびっくりして沈黙した。この兄とはあまり口をきいたこともなかったし、なによりその朴歯の鼻緒に怖《おそ》れを抱いていたからである。
「いいかね、お前の姉貴らは、どこのお家柄《いえがら》といったふりをしてるが、あんなものは猿芝《さるしば》居《い》だぞ。いくら身なりだけ整えたって、おれんちはもともとどん百姓の出だからな。桃子、お前も学習院かぶれなんぞするんじゃないぞ。下町っ子なんて言うんじゃない。おれたちはといえば、これはどん百姓にすぎないんだからな」
学習院に対する意見はもっともとしても、どん百姓という言葉は桃子には不満であった。彼女は言った。
「でも、家《うち》はお金持なんでしょう?」
「金持であるものか」
と、滅多に顔を合わせぬため、ビリケンさんやナベさんよりもずっと他処《よそ》者《もの》の感のする兄は断言した。
「お前は病院が大きいからそう思ってるのだろうが、教えてやるが家《うち》には金なんぞ少しもない。みんなこけおどし[#「こけおどし」に傍点]だ。桃子、ここの地所だって借物なんだぞ。親《おや》父《じ》が選挙で大損をするしな。本当をいえば、金なんぞ一文もないといってよいくらいだ」
もとより怪童の辰《たつ》次《じ》とは比べものにならないが、早くもでっぷりと贅肉《ぜいにく》がついたようにも感じられる楡家の長男は、なんだか嬉《うれ》しげに、いつになく饒舌《じょうぜつ》に、「うちは一文無しだ」と繰返した。
「それなのにあの女《め》郎《ろう》どもは、いつだって帝劇だ三越だとぬかしおる。いいか、桃子、この家がどん百姓の証拠に、たとえば誰ひとり芸術を解する者がいない。ピアノだって弾けやしない。芝居を見たってなにがわかるものか。まともな本ひとつ読む者がいないじゃないか。まったく猿芝居そのままだ」
桃子は息をのみこんだ。思いがけぬ衝撃を受けたのである。緊張のあまり小鼻をひくつかせてから、おそるおそる訊《き》いてみた。
「それなら……どんな本を読めばいいの?」
高等学校五年目の貫禄《かんろく》者はこたえた。
「それはだな。たとえば、西田博士の『善の研究』とか、夏目漱石[#「夏目漱石」に傍点]の『出家とその弟子』とか、……まあそういったものだ」
言い終ると、欧洲はぐるりと身体のむきを変え、幅の広い背中をこちらに向けた。もはや問答を打ちきったのである。
しかし、桃子は最後にどうしてもこう尋ねずにはいられなかった。本の話はどうでもよいとしても、「うちは一文無し」という言葉はそのままに捨ておけなかった。小さな声でこう言った。
「でも、あの珊《さん》瑚《ご》は……」
「なんだって?」
「珊瑚よ。珊瑚の間の珊瑚よ。あれはずいぶんと高いものなのじゃない?」
すると、彼女の考えもしなかったこの家の秘密をいろいろと知《ち》悉《しつ》しているにちがいない兄は、ぎくりとするほどの大声を立てて笑いだした。その豪放な、突拍子もない、無責任な笑い声の中に、「莫迦《ばか》だなあ。あれはみんな擬物《まがいもの》さ」という言葉がたしかに桃子の耳を打ち、彼女は一瞬|奈《な》落《らく》の底に突き落されたような気がした。……
幾日か桃子は悩んだ。深刻に悩んだ。もとより上の姉たちの境遇は望むべくもないが、いつかは自分も味わえると思っていた綺《き》麗《れい》なお召、自動車に乗っての外出、そういったものへのきらびやかな幻想が音を立てて崩壊してゆくようにも思えたのである。彼女は、米国《よねくに》がいつも大事に抱きかかえている貯金箱の内容まで連想してみた。こうなっては夜店でうかうか物を買うどころではなかった。
彼女は四百四病の瀬長のもとを訪れ、利殖の道を講じようとしたほどだ。
「ねえ、いつかのロシヤのお札《さつ》、まだ売ってるかしら」
瀬長は仙丹《せんたん》の贋物《にせもの》を発見し損《そこな》ってから、オムスク政府発行の留《ルーブル》紙幣を幾枚も買いこんだりもしたのである。それは新宿の――当時はまったくの場末にすぎなかったが――大道などで売られていて、一ルーブルがわずか数銭であった。もとは邦貨一円以上の価値がしたものが、戦争の結果相場が下落したのである。しかし大道商人の言によれば、「これさえいま買っておけば、やがて五十割の利益は確実」ということであった。
だが瀬長は、桃子の質問に、情けなそうに首をふった。
「駄目《だめ》だよ。嬢ちゃん、あの札はやっぱしもうなんの価値もないんだよ。ただの屑紙《くずがみ》同然なんだ」
鉄フィチンはじめ数多《あまた》の薬の効もなく、この男は最近ますます各種の症状が昂《こう》じていた。なかんずく背骨の突起の形態が明瞭《めいりょう》に異常で――と彼は確信した――その附近の神経組織を慄然《りつぜん》とするまでに混乱させたもので、彼は睡眠中何度もはっと目を覚まして蒲《ふ》団《とん》から上体を起し、背骨を叩《たた》かねばならなかった。そうしないと呼吸|麻痺《まひ》のため二度と目覚めることはないと思われたからである。
その絶望にみちた瀬長の顔いろは、いっそう桃子を不安にした。とうとう彼女は思いきって、声をひそめて下田の婆《ばあ》やに訊いてみた。
「婆や、うちにはどのくらいお金があるの? あの珊瑚はインチキよ。土地もみんな借物だってこと、あたしは知ってるわ。本当をいって、百円はまだ病院の金庫の中には残ってるんでしょう?」
「とんでもございません。桃さま」と、婆やは桃子をほっとさせたことに、それが絶対に嘘《うそ》でないと一目でわかる善良な真剣さを見せて保証してくれた。「百円なんてものじゃありません。その何層倍も院長先生はお持ちですよ。またどうしてそんなことをお言いです?」
しかし桃子を恐慌《きょうこう》に陥《おとしい》れた柔道二段の肥満した兄は、ある夜、桃子がおかずがまずいと我儘《わがまま》を言ったときも、だしぬけに野太い声で叱《しか》りつけた。
「なにをぬかす、桃子。独逸《ドイツ》じゃあ食べるものもなくてみんな難儀してるんだぞ。独逸の子供は栄養がわるくて、転べばすぐ骨が折れるっていうくらいだ。食いたがり病や一寸法師病が流行《はや》ってることくらい、お前だって知ってるだろ。おかずが厭なら食わんでいい、飯とお香こがあれば有難《ありがた》いと思わなくちゃいかん」
すると、食卓の向う側に坐《すわ》っていた米国が、目をくるくるとまわしてこの話に意外な興味を示した。彼は食いたがり病と一寸法師病について質問し、欧洲のいい加減な説明を聞くと、すっかり異国の子供らに同情して言った。
「それならぼくも、これからお香こしか食べないや」
事実彼は二、三日この言葉を実行し、下田の婆やが心配してあれこれと説得しなければならなかった。
ところで、歳《とし》もいかぬ弟にこうした影響を与えた当の欧洲はその夕食をすませると、すぐ二人の書生を連れて外出し、三人で牛飯を八杯も平らげたことを桃子は聞き知った。
しかしさすがの桃子も、それから幾日も経《た》たぬうち仙台へ帰っていった欧洲が、そのまえ病院の事務室にのそりと現われ、小心者の会計係大石から、かなりの金額を持っていってしまったことまでは探知できなかった。
週に一度、会計簿が持ってこられる院代|勝俣《かつまた》秀吉《ひできち》の部屋では、こういう光景が見られたのである。
「それから、この、ここのところですが……」
と、丹念に記された会計簿の一箇所を指さしながら、早くも胡麻《ごま》塩《しお》頭の初老の会計係の顔は、目に見えて青ざめ、その指先は小刻みにふるえた。
「この、ここのところは……」
と、彼は舌がうまくまわらないというふうに繰返した。
「これは、つまり、欧洲さまが合宿の費用とおっしゃいまして、つまり、お持ちになりましたので……」
院代勝俣秀吉は、椅子《いす》に腰をおろしたまま鶴《つる》のように首をのばし、縁なし眼鏡の中のほそい目をさらに細めるようにして、その数字をしかつめらしく確認した。ちかごろますます院長の口調に似てきた、しかし奇妙に甲高い鼻にぬける声で、
「合宿の費用ねえ。しかしこれは君、ずいぶんと多すぎるのじゃないか」
「は」
と、机の向う側に立っている大石は、毎度ながら、あまり頑丈《がんじょう》でない自分の肩に不相応に降りかかる重圧に堪えかねるというふうに、すっかり途方にくれて頤《あご》をがくがくやった。
「ふむ」
と、院代は鼻声で言った。
しばらくしてから、
「ふむ」と、もう一度鼻から息をした。
それから院代はそりかえって椅子の背に上体をもたせ、むずかしい表情となって、必要以上に長く黙考する仕《し》種《ぐさ》をした。彼は天井を見あげた。腕組みをし、またその腕をほぐした。横手の方を見やった。顔を元に戻し、ようやく口をきると思われたが、三たび「ふむ」と鼻から言ったきり、また腕をくんだ。
その間、気の毒な会計係はしゃちほこばり、神経質に両手をこすりあわせながら佇《たたず》んでいた。そうした相手の不安、危惧《きぐ》、次第にたかまってくる心臓の鼓動を、まざまざと勝俣秀吉は感じとり、ぞくぞくするような快感をもって、この貴重な雰《ふん》囲気《いき》をむさぼりのんだ。
ようやくのことで彼はうなずいた。
「まあ、よかろう」
ほっと安《あん》堵《ど》する相手の吐息を確実に聞きとりながら、秀吉は鷹揚《おうよう》につづけた。
「欧洲さまは学校でも大将株でいらっしゃる。いろいろと責任もおありなのでしょう。よろしい。君ねえ、これは私から、奥のほうへはよいように伝えましょう」
痩《や》せて小男の院長代理は手をのばし、沢山の印形《いんぎょう》のはいっている小箱から、あまりに手慣れた『楡脳病科病院院代』の大きな四角い判をとりだした。たっぷりと朱肉をつけ、大石の神経質な文字がふるえている会計簿の一隅に押しつけた。一見無造作に、だが「これが満たされた人生だ」というほどの感慨を十二分に手と全身にこめながら。
楡病院の賄《まかな》い界隈《かいわい》には、更に多様な人間がたむろしていた。その一人々々が、脳細胞のあまり豊かといえぬ桃子に大なり小なりの影響を与えるのである。
ぐうたら者で有名で、いつぞやただなんとなく病院の玄関に立っていただけで基一郎からねぎらわれた書生は、佐久間《さくま》熊《くま》五《ご》郎《ろう》といういかにも働きのありそうな名であった。そのくせなにひとつ仕事をしようとせず、勉強とてせず、賄いで食事をしたあともっとも愚図々々と油を売っている常連の一人であった。
彼は歳《とし》こそ若かったが賄いでは顔役といえた。無駄話をするとき、その並外れた胴間声はたしかに他の声を制圧した。まして彼は戦争の話が大好きであったから、その甚《はなは》だしく唾《つば》をとばす話しぶりが勇ましいのもやむを得ないといわねばならなかった。
「今二十三日正午より帝国は独逸と交戦状態に入れるを以《もっ》て、わが陸軍の○○○○○○○○の○○は直ちに予定の行動を取ることとなれり」
熊五郎――そのいつも赧《あか》らんだ顔には慢性の発疹《はっしん》があったから、みんなからは痘痕《あばた》の熊さん、或《ある》いは疱瘡《ほうそう》病《や》みと呼ばれていた――は、そんな突拍子もない文句を、だしぬけに昂然《こうぜん》と唱えだしたりするのである。一体なんのことなのか。それは大正三年の夏に日本が独逸に対し一方的に開戦したときの号外の報道なのだ。
さらに、
「帝国海軍活動」と、熊五郎は吼《ほ》えてみせる。「予《かね》て○○○○を完成し○○○○○○に集合せし我が海軍の○○○○は、○○○○を兼ねつつ○○○○舳《ぢく》艫《ろ》相啣《あひふく》みて○○○を解纜《かいらん》し、威風堂々○○○方面に向ひ○○の途に就くべし」
このあまりに多すぎる○○○○を、彼は異常な熱意をこめて、唾とともに暗誦《あんしょう》してみせるのだ。彼は調子にのるとすぐ演説口調になった。なにぶん彼はもはや医者になることを諦念《ていねん》し、自分は今後、活動写真の弁士、さらに弁護士、大政治家、という道を歩むつもりだと宣言したりしたもので。
「このマルマルマルマルという箇所が、なんとも言いがたい趣なのでアル。いやあ諸君、勇ましきかぎりではないデスか!」
そして、自らの○○○○に感に堪えて、その発疹のてっぺんまで、目に見えてどす黒く赧らんでゆく……。
ところがこの熊五郎は、戦後の不況が訪れだしたころ、急転直下、社会主義者をもって任じだした。それには楡病院のT型フォードの運転手が急に見えなくなったことも一因であったようだ。その運転手は無口な、ごくおだやかな、ほとんど恥ずかしがり屋といってよい性格の男だったが、あるとき青山署の刑事が彼のことを調べに病院に現われたことがある。そういう報知は争いがたく速やかにひろがる。「朝鮮人なのだそうだ」とか、賄いでこそこそ噂《うわさ》されているうちに、突然彼は病院を去っていった。事実は彼は青森県人で社会主義者でもなんでもなく、兄が死亡したため郷里へ帰ったのである。
ところが、熊五郎は、善良な人民が官憲の毒《どく》牙《が》の犠牲になったと主張し、なんとも唐突に、資本家を打倒しなければいかぬ、と言いだした。
「資本家って、どういうことなの?」
と、桃子は尋ねた。
「あんたの父《とっ》ちゃんなども資本家だ」と、熊五郎は彼女をおびやかすように肩をそびやかした。「ちかごろの賄いの飯のまずいこと。これでは我々はどうすればよいのか。あまりといえば諸君、ひどいのではないデスか!」
桃子は自分の家が資本家といわれて、半分ホッとし、半分侮辱されたようにも感じた。
しかし熊五郎は、牛飯をおごられているためかどうか、楡家の長男のことは悪くいわなかった。
「欧洲《おうしゅう》さんは相当の人物であるデスぞ。虚無主義者のおもかげがあってなかなかいい」
しかし、勝手きままな主義とやらの名称を桃子の小さな頭に吹きこんだ以上に、熊五郎が彼女に影響を与えたのは、桃子が小学生のころから活動写真に連れていってくれたことである。もとより名のある活動写真館ではない。青山の電車通りをずっと渋谷のほうへ行くと、小屋と呼ぶにふさわしい朽ちかけた木造の青山館というのがあった。以前は尾上《おのえ》松《まつ》之《の》助《すけ》主演の旧劇ばかりをやっていたが、その頃《ころ》はいわゆる泰西もの、毎週写真替りのごくお粗末な連続西洋物をやっていた。
それにしても、それはなんと滅法もなく素晴らしい、胸のとくとくなる、掌《てのひら》にじっとりと汗をかく特別あつらえの世界であったろう。ぎしぎしいって腰の痛い平土間の木の椅子も、いまにも崩れかけそうな小屋の天井も、たった四人の楽士の奏楽がやみ、背広や羽織《はおり》袴《はかま》、ときには大時代のフロックコート姿の弁士が登場するや、桃子の念頭からはすべてが消え失《う》せた。
青山館ではまだ長々と前説《まえせつ》をやった。なにもかもが数年遅れなのである。
「……かくて薄幸の美女ローランド、義理と情けのしがらみに、足すくわれて哀れにも、底ひも知れぬ淵川《ふちかわ》の、水の藻《も》屑《くず》と消えてゆく、……という泰西の悲劇全四巻、あまり詳しく申上げましては興味を失う怖れあり、委細は画面と共に御紹介……」
桃子は痛いほど掌を打合せた。小鼻からふうと吐息をついた。だがなんといっても、彼女を心底から昂奮させたのは、善悪のいたく判然としたアメリカの西部劇、悪漢と正義漢との活劇であった。
青山館の弁士たちはむろんのこと三流四流で、前説こそなかなか流暢《りゅうちょう》にやってのけたものの、中説《なかせつ》となると、とてもそういう具合にはいかなかった。彼らは説明台の豆電球の下で、台本を音をたててめくり、うろうろなにか言いだしたころには、画面は一向おかまいなくずっと先へ進んでいる。しかし、そんなことはいささかも桃子の興味をそぎはしない。一方、画面だけ見ていて、言わずもがなのことばかりしゃべる弁士もいた。その声はとても声帯から出たものとは考えられず、腎臓《じんぞう》あたりがむせんでいるようにも思われた。そんな声で彼は、観客が盲目でもないかぎり明瞭《めいりょう》に理解できる点まで、まことに詳細に説明してきかせるのである。
「今や悪漢は、あっ、ふところからピストルをば取りいだし、右手にかまえたピストルからパッとあがる白煙、……ピストルの弾は、あっ、追いせまりしジャックの左の肩に命中、ジャックは撃たれし肩を抑えて、あっ、バアッタリと倒れた……」
しかし、場面はいよいよなくてはかなわぬ追跡の情景に移る。さすが饒舌《じょうぜつ》の弁士も、ここで鈴を鳴らして楽隊にひきわたす。四人だけの楽士は急調子に滅茶々々《めちゃめちゃ》に「天国と地獄」をかきならし、悪漢の乗った自動車は踊りながら崖《がけ》っぷちを疾走し、名探偵《めいたんてい》の自動車はさらに車輪もとれよと疾走する。観客席は湧《わ》きたち、桃子は声をだして椅子から腰を浮かしたが、そこでフィルムはむなしくも終りとなり、「あとは来週おたのしみ」という段取になる。
あるとき、羽織袴の弁士が、男と女が間近く顔を寄せている画面をさして、なにか言った瞬間、背後からだしぬけに、「弁士、注意!」という声がかかった。
桃子がびっくりして、ふりむいてみると、それは後方の臨監席にいかめしく腰をおろしている巡査のあげた声とわかった。
あとで熊五郎は舌打をしながら言った。
「嬢ちゃん、官憲というものがいかに横暴なものであるか、おわかりかな? ああやって彼らは社会主義を弾圧するのだ」
ともあれ活動写真は、こうして桃子にとって病みつきのもの、あるかないかの魂を痺《しび》れさす麻薬ともなった。
女学校へはいってからは、桃子は友達と、あるいは単独で、毎週々々活動写真館へ通いつめた。すでに青山館では物足りなくなっていた。赤坂の帝国館、新宿の武蔵野館、ときには浅草の電気館にまで足をのばした。その小遣いを捻出《ねんしゅつ》するため、彼女はさまざまの苦労を、――たとえば女学校へ通う市電の定期券の代金を会計の大石から受けとりながら、実は学校まで歩いて通ったり、さては弟の米国に頭をさげていくらかの融資を頼んだりしなければならなかった。いよいよ切《せっ》羽《ぱ》づまると、彼女は哀れっぽい鼻声をたて、下田の婆《ばあ》やからお金をまきあげた。
「桃さま、この前も差上げたばかりでしょう。婆やだって、そうそうお金はございませんよ」
そう言いながらも、自分がすべて手塩にかけた楡家の子供たちに甘すぎる下田の婆やは、結局そっと幾何《いくばく》かの金を手渡してくれるのだった。
こうして、空気の濁った魔法の場内、ラムネを抜く音と煎餅《せんべい》をかじる音、粗末にして同時に豪奢《ごうしゃ》な、外界から隔絶された小さな魂の避難所、陶酔的に身をゆだねられるかけがえのない人工のうす闇《やみ》は、まさしく桃子のものとなった。
いまは、悪漢と名探偵の果てることのない追跡ごっこよりも、彼女の心はより多く、甘美な恋愛ものに惹《ひ》かれていった。この世の中に恋愛とかいうものがあることは、『性と恋愛との講演会』についての書生たちの報告により、むかしから知ってはいた。だが、青山館とは比べものにならぬ石造りの活動写真館の弁士たちは、なんと流暢に、すべての観客の心に沁《し》みとおる弁舌を聞かしてくれたことであろう。
彼らの発声は、桃子の胸をしめつけ、その声の流れるままに恍惚《こうこつ》とさせ、ほとんど涙ぐましくさえするのだった。
「西欧の詩人恋愛を詠じて曰《いわ》く」
と、その声ははじめは低く、さとすがごとく彼女の鼓膜をくすぐった。
「願わくは鏡となりて君が姿を映され、ねがわくは小鳥と化して君が窓を訪《と》わん。そのとき鷹来《たかきた》りて我を襲うとも、我その爪《つめ》に裂かれて君の窓辺に死なん」
声は次第に高まる。
「又曰く。……風は風に睦《むつ》み、波は波を招く。日光は大地を抱擁し、月光は海洋に接吻《せっぷん》す。若《も》し君、唇《くちびる》を我に許したまわずば、万物の接吻も夫《そ》れ何の価値ぞ、と!」
声はむせぶがごとく桃子の横隔膜までをふるわせた。
「ああ、恋愛は生活の美酒、生命の河。一切を生み一切を司《つかさど》る。恋愛なるかな、恋愛なるかな、恋愛なくして何の青春ぞや!」
ほんとうにそうだわ、と桃子は闇の中で真剣にうなずいた。ほんとうにそのとおりだわ。
彼女はそのころすでに初潮を見ていた。もともと愛嬌《あいきょう》のある頬《ほお》はなおさら下ぶくれしてきて、そのため目がいっそう細まる難はあったが、その腕にも足にも、幼い少女のものとは微妙に異なる肉がむっちりとつきかけていた。
ほんとうにそうだわ。この世で一番大切なものは、恋愛、これしきゃないんだわ。
そうして桃子は、レッテルに「美の熱愛者よ、ほんのり色白くなるこの一滴を」と記された美顔水『レートフード』を買ってきて、せっせとその頬にすりこんだ。瀬長のもっている『色白くなるゲンソ液』よりこちらの「ほんのり」というところが気に入ったのである。彼女は相変らず賄《まかな》いに出没して書生や看護人の噂話に熱を入れて耳をかたむけていたし、また数えきれぬ恋愛もの活動写真を観賞したため、自分が恋愛についてはひとかどの権威者になったような気がした。
彼女は学校から戻《もど》ると、即座に大嫌《だいきら》いな専売局女工と渾名《あだな》される制服を脱ぎすてて別の着物に着かえ、すましかえってなにげなく附近の道を歩きまわった。いかにも恋愛の対象になりそうな青年がくると、彼女はおぼこ娘のように顔を伏せたりはしなかった。やや上をむいた小鼻をいっそう空にむけ、ふっくらと下ぶくれした頬には微笑さえ浮べてすれちがった。そのこまっちゃくれた表情はまるでこう言っているかのようであった。――ちょいとこっちを見てごらん、恋愛のオーソリティがここを歩いているんだから。
さらに彼女は、楡病院にときおり遊びにくる浜子から、おどろくべき事実を聞き知った。実は浜子は桃子とは母を異にする姉妹であること、このことは桃子はすでにどこからともなく聞かされていたから、さして衝撃も受けなかった。それよりも彼女らの父親基一郎は、誰《だれ》でも彼でも好き勝手に結婚させてしまうというのだ。それが彼の趣味であり、同時に病院の勢力を拡張する手段なのだ。それは龍子、徹吉からはじまって、あらゆる親類、ものになりそうな書生、はては看護婦から出入りの職人にまでおよんでいる。現に最近「奥」勤めの丸ぽちゃの顔をした女中がやめた。その原因はなんだろう? 彼女は将来ある男の嫁になるようひそかに白羽の矢を立てられたのだ。その画策を聞き知って彼女は郷里へ逃げ帰ったのだ。そのある男とは誰か? それこそあのとてつもない怪童、今では蔵王《ざおう》山《さん》という名前をもつあの辰《たつ》次《じ》なのだ。なにしろ基一郎は、十年先のことまで予定に組んでいる。自分も――と浜子は特殊な境遇にあるませた口ぶりで言った――もとより例外ではない。自分はおそらく、将来楡病院の中堅となる金沢清作か韮沢《にらさわ》勝《かつ》次《じ》郎《ろう》の嫁となる運命にあるのだ。
「それであなた、あの人たちのこと、好きなの?」
桃子はほそい目をせい一杯|瞠《みひら》いて尋ねた。
「好きなはずがないわ」
と、浜子はこたえる。
「わたしの好きなのはヴァレンチノですもの。でも、仕様がないわ」
「ヴァレンチノだって!」と、桃子はむきになって言った。
「あんなひと、どこがいいの? リチャードやアントニオ・モレノのほうがずっと素敵よ。でもヴァレンチノだって、そりゃあ清作さんよかましだけど……。あなた、家出をしちまいなさいよ。そして、恋愛をするのよ」
「家出? 恋愛?」と、浜子は欠伸《あくび》をこらえるように口をすぼめた。「なにをしたって、無駄《むだ》よ。活動写真みたいにはいかないものよ」
「でも、恋愛はしなくちゃいけないわ」と、桃子は真剣に主張した。「恋愛のない結婚なんて許されないことだわ」
「まあ、見ててごらんなさい」と、浜子はどことなく憐《あわ》れむように相手を見やった。
「あたしが清作さんのお嫁さんになれば、あなたはきっと勝次郎さんと結婚させられることになるわ。そうでなければ、その逆よ」
「わたしが勝次郎さんのお嫁さんですって? あのちんちくりんの人と?」
桃子は瞬間|莫迦《ばか》笑いを起しかけた。韮沢勝次郎は基一郎の生家と遠縁の家の出である。律《りち》義《ぎ》で朴訥《ぼくとつ》で東北弁は未《いま》だに抜けず、しかし医学生の頃も学校から戻ってくると、正門のわきの小さな門をくぐるとき、きちんと帽子をとってはいってくる。彼はすでに慶応病院の医局にはいり、かたわら楡病院の診療をも手伝い、その人柄《ひとがら》も医師としての腕前も高く評価されていて、桃子にしてもふだんだったら彼のことを「ちんちくりん」などと評する気持は露ほどもなかった。
しかし問題が問題である。滅多に顔を合わせることのない、だが疑いようもなく優しく偉い父親のはずだった基一郎は、いまや権謀術策を恣《ほしいまま》にする妖《あや》しの人物、長閑《のどか》に呼吸していた楡病院の雰《ふん》囲気《いき》全体からして、黒雲と陰謀につつまれた瘴気《しょうき》の漂う悪人どもの巣のごとく桃子には思えた。赤坂帝国館の弁士なら、このとき兇々《まがまが》しい嗄《しわが》れ声を発して、すべての観客に悪《お》寒《かん》と戦慄《せんりつ》をひき起させるはずだ。
「あたしが、あのちんちくりんの人と?」
桃子は繰返し、無理に中途で打切った莫迦笑いのためか、それとも急激な心の動揺のためか、そのいくぶん下り気味の目《め》尻《じり》に涙まで浮べた。
それから彼女は、何者かに誓うかのように、ほとんど厳粛にこう言った。
「でも、誰《だれ》がどう企《たくら》もうとも、あたしは恋愛をするわ。きっとそうに決っているわ」
しかし、桃子のあけっぴろげの朗らかさは、こうした事柄によって、いささかも曇りのさした気配はなかった。ただ挙動が前にもまして粗暴となり、活動写真見物が週二回、三回にまで増加した。病院の玄関から出入りすることは、「奥」でひっそりと監視している赤の他人よりも疎《そ》遠《えん》な母親の目にとまる怖《おそ》れがある。そのため桃子は、裏の崖《がけ》に生えた竹藪《たけやぶ》をくぐりぬけ、着物にほころびを作りながら外出して行くのだった。
一方、疱瘡《ほうそう》病《や》みの熊五郎も、桃子そこのけの動揺の中にあった。この怠け者の自称社会主義者は、たまたま芝浦で行われた労働祭《メーデー》――それは開催第三回目のもので、ビリケンさんの朗読によれば「検束者続出し殺気を含んだ」ものであったそうだが――の行進をわざわざ見物に出かけたものだ。そしていたく心を傷つけられ、共産党というものに不信の念を抱いて帰ってきた。なぜなら行進してゆく彼らは、通りかかる市電を見れば万歳を叫び、自動車がくれば嘲罵《ちょうば》をあびせるまではよかったのだが、何としたことだろう、両の足で歩いて手をふってやる熊五郎に対しては、一顧だに与えてくれなかったのである。
だがこの労働祭は、桃子にとっても無縁なものではなかった。露国盲目詩人エロシェンコが検挙されたのである。盲目の詩人、エロシェンコ。すべての響きが彼女の胸を打った。新聞に出たその写真も、同じように翳《かげ》りをおび、哀愁に満ちていた。もしこの異国の男と自分が出会うことがあったなら。詩人はおずおずと手探りに彼女の頬にその痩《や》せた手を触れるであろう。そしてあの弁士たちのそれよりさらに沈んでうら哀《がな》しい声で、たしかにある言葉を囁《ささや》くであろう。そして彼女、つまり桃子は、このときばかりはうつむいて、とっておきの消えいるばかりの一語をくちびるから押しだすのだ――「はい」と。桃子は平べったい寝床の中でこう夢想し、こう想像し、生れてはじめて寝《い》ねがての夜を過した。だが、これだけ彼女の心をかき乱した盲目の詩人は、無政府主義者という嫌《けん》疑《ぎ》で、ほどもなく国外に追放されていったのである。
それから数日後、桃子は案外けろりとした顔でこう尋ねた。
「無政府主義者ってなんなの」
主義に関しては権威者である熊五郎はこたえた。
「それは、アナーキストといってな、なかなか大したものなんだ、嬢ちゃん。むやみに爆弾なぞを投げてな」
それからまた数日を経て、桃子が青雲堂のある小《こう》路《じ》を通りかかると、むこうから医局帰りらしい韮沢勝次郎が歩いてくるのが見えた。律義な彼は、とるにも足らぬ楡家の末娘に対しても、鄭重《ていちょう》に足をとどめて会釈《えしゃく》をした。ところが、何も知らぬ醇朴《じゅんぼく》一方の勝次郎がいぶかしく思ったのは、常々本当の年齢より大分下としか思えないあけっぴろげな笑顔を返すはずの桃子が、急に表情をこわばらし、つんとそっぽを向き、ほとんど走るようにして傍《かたわ》らを通り過ぎていってしまったことだ。
一方、桃子のほうは、言いがたい屈辱と憤激の渦中《かちゅう》にあった。
「ほんとにずうずうしいったらありゃしない」と、彼女は息を切らしながら考えた。「そ知らぬ顔をして、あんなふうに挨拶《あいさつ》するなんて。みんな共謀《ぐる》になっているのだわ。共謀《ぐる》になって、あたしを陥《おとしい》れようとするんだわ」
彼女は、べつにはいるつもりもなかった青雲堂の店にとびこんだ。ぐるりを見まわし、一番上等そうなノートを数冊、見るからに高そうな鉛筆削り器、おまけに兎《うさぎ》の形をしたとてつもなく大きな消しゴムを十|箇《こ》ばかりもかかえこんだ。
「これ、つけといて頂戴《ちょうだい》な」
顔をだした青雲堂のおばさんに向って、彼女は押しだすように言った。
「まあまあ、なんですか、桃さま。そんなに消しゴムをどっさり……。鉛筆削りだって、このあいだお持ちになったばっかりでしょう?」
だが、いつもは説得力のあるはずの優しいおばさんの忠告も、このときばかりは効を奏さなかった。
「これ、みんな要るのよ。必要とするのよ。べつに文句を言われる道理はないわ。じゃあ、消しゴム十《とお》ね、わかった?」
桃子はあらあらしく蓮《はす》っ葉《ぱ》に言い捨てると、両手に一杯獲物をかかえ、そのまま店をとびだした。半町か一町、わき目もふらず歩いた。それから彼女は、ともすれば掌《てのひら》からこぼれ落ちそうになる兎の消しゴムの特有の柔らかさ、はずむような弾力を意識し、ふいに涙腺《るいせん》の辺りがこそばゆくなるのを覚えた。
しかし彼女は、なんだか邪悪げな色をその目に浮べ、肩をひとゆすりすると、こんなふうに挑《いど》むように心の中で呟《つぶや》いた。
「あたしゃ、アナーキストなんだからね」
第六章
海は、右手のほうの岩の重なる磯《いそ》では、底ごもりした重量のある吼声《ほえごえ》をあげていた。幾重にも連なっておし寄せる波は、つややかに濡《ぬ》れた暗褐色《あんかっしょく》の岩にぶつかっては白い飛沫《しぶき》をあげ、泡《あわ》立《だ》ち、渦《うず》を巻いた。しかし、やや薄《うす》墨色《ずみいろ》をおびたなだらかな砂浜のひろがるここでは、海はもっと穏やかな呟きを洩《も》らしていた。波のひいていったあとの砂地は、黒ずんで、際《きわ》どく脆《もろ》く平滑に輝いた。そこに足を踏みいれると、足裏は甘《あま》酸《ず》っぱい感触のうちにもぐってゆき、そこらに無数に穴をあけた小《こ》蟹《がに》の巣のように、こまかい気《き》泡《ほう》をたちのぼらせるかと思われた。かたわらでは打上げられた海草が髪の毛のようにもつれ、すがた珍しい貝殻《かいがら》をごそごそとうごかす甲殻類《こうかくるい》が、また打寄せる波の音にあわてて首をひっこめた。
そして、微風が吹いていた。磯の香が身体《からだ》一杯にまつわりつき、遠くの方で、絵画に似た雲のたたずまいの下で、海が微妙にその色を変えた。
しかし桃子にとって、恵みぶかい海浜の風物も感触も、もとより眼中にないのであった。海の与える愉悦を、あらゆる束縛の放棄を、彼女はおそろしく子供っぽい方法で享受《きょうじゅ》した。波打際で無性にばちゃばちゃやること、海水をひっかけあうこと、意味もない歓声、あるいは金切声をひびかせること、それ以外のことにおおむね彼女は無縁であった。
またそうした環境に彼女が置かれたことも事実である。そこは三浦半島の鄙《ひな》びた海水浴場で、女学校の同級生の家がひと夏を借りた民家に、桃子はじめ二、三の友達が半月の余も招かれていたのだ。大正十一年の夏で、彼女たちは三年生になっていた。同居の大人も気さくな人たちであった。同じ年齢の女学校仲間、小うるさい監督者もいないこと、そして夏と海とが、ひときわ彼女らの歓声を恣《ほしいまま》のものにした。
こうしたなんの煩《わずら》いもない日常のうちに、しかし桃子の心は、ふっとかげりを帯びることがないではなかった。その一つはこの年、基一郎が箱根の強《ごう》羅《ら》に別荘を建てたのはよいとして、桃子は海から戻《もど》ったあとも、箱根へ行くことを許されていないことだった。別荘開きに招く客も多いからという理由で。――ところが桃子よりもずっと客の邪魔になるはずの幼い峻一《しゅんいち》は、気位の高いその母親と一緒にちゃんとそこで過していたのだ。
「どうせそうよ。どうせそうなのよ」
桃子は無意識に粗い砂をつかみ、目の前を横切ろうとする小蟹に投げつけた。
「わかっているわ。あたしには、なんだって、わかってるんだから」
しかし桃子の心にもっと衝撃を与え、柄《がら》にもなく、幾分|霞《かす》んで見える水平線の辺りに視線をこらして考えこませたのは、去年の暮の聖子の結婚についての疑惑であった。
その結婚はいかにも秘密に包まれているように思われた。なるほど結婚は正式に行われた。しかし式に出むいて行った肉親は、基一郎夫妻に龍子《りゅうこ》、ちょうど帰省していた欧洲《おうしゅう》までで、桃子以下の子供たちは綺《き》麗《れい》さっぱりと省略されてしまった。楡《にれ》病院のもつ雑駁《ざっぱく》さに関しては慣れっこになっている桃子も、さすがにこのときはいぶかしく思った。そればかりでない、その日を境として、聖子は完全に楡病院から消失し、里帰りもなにも、二度と皆の前に姿を現わすことがなくなってしまったのである。
実際は桃子は、彼女にはどういう人なのかろくにわからない男のところへ嫁いでいった姉と、幾度も会っていた。下田の婆《ばあ》やに連れられて、かなり長い間市電にゆられ、ごみごみとした小《こう》路《じ》を通り、板塀《いたべい》がこわれかかっている小さな家へ着くのである。聖子を訪ねるとき、婆やはいつもかなり大きな風呂《ふろ》敷《しき》包みを携えていた。嵩《かさ》ばかり大きいその内容は、泥《どろ》のついた玉葱《たまねぎ》、人参《にんじん》、その他の季節の野菜や果物、ときには袋に入れられた幾何《いくばく》かの米、あまり価値のあるものとてないが、下田の婆やが賄《まかな》いからそっと貰《もら》ってきたせい一杯実直な贈物なのであった。
煤《すす》けて饐《す》えた臭《にお》いのする形ばかりの台所に、そうした手土産の数々を運びながら、呟《つぶや》くように聖子がこう言うのが聞きとれた。
「婆や、ほんとうに済まないわねえ、いつも……」
「いえ、いえ、聖さま。とんでもございません、何もできなくて……」
二人はぼそぼそとしばらく語りあっているようだった。
一方、桃子はもの珍しさのほうが先にたった。書生たちの住む長屋よりもっと朽ちかけて小ぢんまりとした家、しかし六畳の居間には、それだけ目に立って新しい鳩《はと》時計があり、硝子《ガラス》ごしに洋書の並ぶ本箱がある。そして、やがて茶を入れ菓子を出してくれるよその人となった姉のものごしには、学習院と龍子の範疇《はんちゅう》に属していたかつての聖子には見られなかった、たぐい稀《まれ》な優しさが感じとれた。
うきうきと桃子は粗末な和菓子をほおばった。それから口早に、何から話してよいか戸惑いながら、学校のこと、米国《よねくに》のけちさ加減、峻一の憎らしさを、息をもつかず述べたてた。ときどき彼女は、知らず知らずとんでもない野卑な言葉を発し、我ながらはっ[#「はっ」に傍点]とした。しかし、聖子はそれを叱《しか》らなかった。
「あら、そう」
「まあ、そう」
血色のよくない頬《ほお》に微笑を刻みながら、聖子はただ言葉少なくうなずいてくれた。もともと桃子はこの姉が嫌《きら》いでなかった。いま、よその家にお嫁に行ったこの姉の、かすかな微笑、今までになかった親愛の情は、桃子をはしゃがせるに充分なものがあった。
彼女は最後の菓子を頬ばりながら、もごもごと難ずるように言う。
「聖さま、どうしてうちに遊びにこないの?」
聖子は微笑した。言おうようなく優しく。
「ええ、ええ、そのうちにね」
かたわらから下田の婆やが声をかけた。
「さあ、遅くなっては申訳ございませんから、もうお暇《いとま》することにしましょう」
いつも、そそくさと婆やはこの家を辞するのだった。それからなにげなく、ちょうど桃子が夜店のバナナを買うことを禁ずるときのような調子で、
「聖さまのところへいらしたことは内証ですよ」と、念を押す。
こうした何回かの訪問を、数多《あまた》の泰西活動写真によるあまりにも豊饒《ほうじょう》な知識に照合せしめれば、桃子の脳髄も、次のような結論をくだすことは容易であった。聖子は両親の意にそわぬ結婚をしたのだ。そのための勘当、出入り差止め、弁士のいう薄幸の身の上にあるのだ。ああ、気色のわるい悪人ども! その原因こそ、恋愛、「窓辺に死す」ほどの恋愛でなくてなんであろう。
桃子はほっとため息をつき、輝かしく藍色《あいいろ》にひろがる海を見やった。打寄せるものうい波音を聞いた。すると、彼女の頭の中には、こういう涙ぐましい考えが、抜きさしがたく形造られてくるのだった。
「あたしも恋愛をしなければ。聖さま、あなた一人を不幸のままにしておかないわ」
当時にしてはハイカラな、しかし全身を甚《はなは》だしくおおいかくす海水着の下で、かなりふくらみかけた乳房がわななくのを彼女は意識した。
その恋愛は、浜にころがる貝殻ほどに世に充満しているはずであった。この鄙びた海水浴場には人影とてまばらであったが、それでも恋愛の対象、日焼けしてひときわ歯の皓《しろ》い若者の姿には事欠きはしなかった。ある私立大学の合宿が、漁師の家を借りて開かれていたかである。
ほとんど最初の日から、桃子はその溌剌《はつらつ》とした群像のなかから、限られた一人を、けだかい神秘的な直感によって選びぬき、心に留めた。その若者は特に肌《はだ》がくろかった。何より目に立つことは、常に赤い褌《ふんどし》をしめていることであった。彼は抜手を切って鮮やかに泳いでゆく。ずっと深い沖のほうに飛込台が立てられてある。また白いペンキの剥《は》げかかった木の台が浮かされている。赤褌の若者はやすやすとそこまで泳ぎつき、しばらくその姿よい裸形《らぎょう》を陽《ひ》にさらしながら憩《いこ》っている。
あそこまで行きつくことができ、あのブイの上で、彼のかたわらで、ほんのしばらくでも一緒に波にゆられることができたなら。結果は火を見るよりも明らかだ。恋愛[#「恋愛」に傍点]はそのとき確実に桃子のものとなるのだ。
だが、どうすることもできぬ障碍《しょうがい》がそびえていた。情けないことに、桃子は少しも泳げないのであった。ブイまで泳ぎつくことは愚か、彼女の身体は全然水に浮いてくれようとはしないのだ。更に腹立たしいことに、彼女ひとりのはずの聖なる思念を、彼女の友達たちがみな一様に抱いていることがわかったのである。「赤褌さん」と、思召《おぼしめ》しの若者のことを彼女らは噂《うわさ》した。不幸中の幸いとして、彼女たちのうち誰《だれ》一人として、沖合のブイまで泳ぎつく能力を持ちはしなかったが。
みんなは砂浜に寝そべって、あけすけに話しあう。
「ほらほら、赤褌さんがこっちを見ててよ」
「赤褌、なんて呼ぶのは気の毒じゃない?」と、一人が異議を述べたてた。「赤い褌、といったほうが素敵だわ」
「それなら、紅《くれない》の犢鼻褌《たふさぎ》よ」と、明星派《みょうじょうは》の歌人を父に持つ少女が言った。「たふさぎ[#「たふさぎ」に傍点]というのは、ふんどし[#「ふんどし」に傍点]のことなのよ」
へ、なにがたふさぎ[#「たふさぎ」に傍点]でございますかよ、と桃子は思った。憤然として熱した砂地から立ちあがり、海へ走った。
彼女は勢いよく、波打際のほんの浅いところにとびこんでいった。思いきって顔を海水につけ、死物狂いに手足で水を跳ねちらかした。だが、むっちりとしているはずの彼女の肉体は鉄と同様であった。たちまち、彼女は塩辛い水をしたたかに呑《の》み、むせながら腰までの海中に立ちあがった。
「ほんとにいまいましいったらありゃしない」と、片手で目に沁《し》みる海水をはらいながら、彼女は思った。「どうしてあたしは泳げないんだろう? あのブイまで行きつけさえしたら! あそこで恋愛[#「恋愛」に傍点]が手招きしているというのに」
しかし、日ならずして、海浜のもつ濶達《かったつ》な空気は、ここに遊ぶ大学生と女学生とを近づけた。
とはいえ、それは個々の交わりではなかった。あくまでも集団と集団との接触であり、微細な海底動物が寄りあつまって別種の形態を形造るごとく、彼ら[#「彼ら」に傍点]という若者たちのすがたの中に、目に立つ赤い褌さえ埋没した。お互いに無言の契約でもあるかのように、みんなはそうした範囲の中で、ごくありきたりの、乳くさい遊びに興ずるのだった。
桃子もその例外ではあり得なかった。彼女はとびきり甲高い嬌声《きょうせい》をあげたが、他の女友達と同様、それは限られた対象に向けられたものではなかった。心の中はいざ知らず。
しかし桃子は、いよいよ海辺を去らなければならぬ日が近づいたとき、ちょっとした奸策《かんさく》を弄《ろう》した。この海岸に着いて早々写した彼女ら一同の写真の裏に、それぞれの姓名と住所を書き記したのである。
彼女はそれを、もっとも気安く話しかけられる河馬《かば》という渾名《あだな》の大学生に手渡した。
「これが、あたしたちの住所よ。一度くらいお手紙|頂戴《ちょうだい》な」
それから、横にいる赤褌さんにむかって、桃子はなにげなく、だが無限の神秘的な祈りをこめて言った。
「ねえ、あなたもよ。忘れないでね」
――企《たくら》んだとおりの効果はあった。桃子が暑い盛りの東京に戻り、残余の夏休みを仕方なく米国などと共に過していると、大学生たちから絵葉書がきた。もっともそれは形どおりの寄せ書であり、安田というごく平凡な赤褌さんの名も並んでいたが、おそらくは同様の葉書が彼女の女学生仲間のところへ送られたことは間違いなかった。
しかし、自信満々桃子は待っていた。自分は絶世の美《び》貌《ぼう》というわけにもいかないが、なかなか人好きのする魅力に欠けることはないと彼女は信じていたし、それを裏書するように、その年の春、見知らぬ男から手紙を貰ったこともあったのである。
その痩《や》せて陰気そうな男は、学校帰りの彼女の前にすっと近づいてきて、一言もいわず白い封筒を手渡した。開いて見るまでもなく、恋文だな、と彼女は直感した。内容は一度ゆっくりお話したいから何時《いつ》どこそこでお待ちしているというもので、末尾に和歌が三首記されてあった。その意味が彼女にはどうしても汲《く》みとれず、書き写したものを書生の誰彼に見てもらったがそれでもわからず、なにより気味のわるそうな男だったから、彼女はわくわくはしたものの、結局指定の場所へ行くことをしなかった。それきりのことで、その男は二度と彼女の前に現われなかったが、大いに桃子の自負を強めるのに貢献したのである。
だが、赤褌さんの手紙はなかなか来なかった。信じがたく、理不尽なことではあるが、手紙がこないのは事実であった。病院の裏手の樹々《きぎ》には、油蝉《あぶらぜみ》がすでに倦《う》み疲れたような声を立てていた。それから、小柄なつくつく法師が慌《あわただ》しげに鳴いた。それはもはや夏も終りに近づきつつあることを告げる晩鐘でもあった。
「ねえ、あれはツクツクホーシって鳴くのか、それともオーシーツクツクなのか、教えてあげようか?」
と、黐竿《もちざお》を手にした米国が、金壷眼《かなつぼまなこ》をくるくるとまわして、賢《さか》しらげに言った。
「うるさいわねえ。そんなこと、どっちだっていいじゃないの!」
いたく機《き》嫌《げん》を損じながら、桃子は思った。――赤褌さんって、あんがい血のめぐりがわるいんじゃないかしら。それにしても、まさか、あたしの魅力に気づかないなんてこともあるまいに。
夏休みも残り少なくなり、さすが自信家の桃子の信念もぐらついてきたころ、一通の封書がきた。裏を返すと、墨で大きく安田生と書いてある。人員の多すぎる楡病院のもつ大まかさは、男文字の封書であってもなんの支障もなく彼女の手元にとどけさしたのだ。
感激は予期したほどなかった。なにぶん桃子は性急な期待を持ちすぎ、いい加減待ちくたびれすぎたもので。
ただ彼女は、こんなふうに思った。
「それごらんなさい。ちゃんとこうなるのよ。あたしがこうと思ったことは、ちゃんとそうなっちゃうんだから」
幸いなことに、このたびは和歌は見当らなかった。愉《たの》しかった海の生活をときどき追想している、自分の家は渋谷にあるが、友人が住んでいるため屡々《しばしば》青山を訪れる、このあいだお宅の病院のまえを通り、あなたのことを思いだした、というような文字が几帳面《きちょうめん》に記されてあった。
「わざわざ調べにきたんだわ」
と、桃子は考えた。
「うちの病院が大きくて資本家なのはまずよかった。これで貧しい長屋にでも住んでいれば、それこそ薄幸の身になるのだわ」
友人の家はお宅とごく近い、何日にも友人を訪ねる約束だが、夕刻早くには元ノ原をしばらく散歩するつもりだ、原っぱのはずれに大きな松の木があるが、もしその辺でばったりお会いすることでもあったら非常に嬉《うれ》しいと思う、とその手紙は結んであった。べつに彼女のことを讃《さん》美《び》したり、ローマン的な文句はなかった。
「男なんてみんな不良よ」と、桃子は片手でちんまりとした鼻の下をこすった。「誰もが似たようなことを書くんだわ。どんな女でも、そんなところへのこのこ出かけてゆくとでも思っているのかしら。それに、元ノ原なんて病院のすぐ前じゃないの。ほんとに常識がない」
しかし、一刻が過ぎると、彼女は急速に落着きを失った。潮風にやけた彫りのふかい安田の顔立ち、朗らかな声の抑揚がよみがえってきた。いったん蔵《しま》った手紙をとりだし、怕《こわ》いものでも見る気持で、三たび読み、四たび読んだ。すると、まだ髪を二つにわけ三つ編みにして背に垂らしたこの恋愛の権威者は、まったく頼りのない、自分で自分におろおろする、目的もなにも夢のように霞んだ恋する乙女[#「恋する乙女」に傍点]に変じていた。
その夕べ、彼女は浴衣《ゆかた》姿のまま、ひそかに家を出た。あらたまった恰好《かっこう》をするのは憚《はばか》られたからである。元ノ原の隅《すみ》にはわずかに蜻《とん》蛉《ぼ》とりの子供らがたむろしていた。原っぱを我知らず足早によぎってしまうと、人気のない小学校の横から交番の前にかかる。サーベルを吊《つる》した警官がじろりとこちらを見る。そこで大急ぎに通りすぎ、青雲堂の前も夢中ですぎ、電車通りまで出てしまった。それから、ずいぶんと迂《う》遠《えん》な廻《まわ》り道をして、再び元ノ原の近くまで戻ってきた。
夏の日はなかなか昏《く》れない。かなり遠方から、松の木の下に立っている若者を見つけた。やはり白っぽい浴衣姿である。うしろ姿を見せ、つまり病院の方角をむいて佇《たたず》んでいる。
「あたしを待っている。ああして一人の男があたしを待っている」
すると、たいそう得意な気持と、自分が活動写真の一員でもあるような余裕がたちもどってきた。
彼女はいつもの桃子にかえり、近づいて、充分に落着きはらった声をかけた。
「あら」
それから、こちらをふりむく相手の顔も見定めずに、まっかな嘘《うそ》を、何《なに》喰《く》わぬ顔で元気よく口にした。
「あたし、ちょっと用足しに行ってきたのよ」
しかし次の瞬間、彼女の語尾は尻《しり》すぼみになり、どうにもばつ[#「ばつ」に傍点]のわるい戸惑いを感じた。
ふりむいた相手が別人だったわけではない。それはたしかに安田であった。だが海浜で奔放な陽光をあびていた赤褌さんとは、全然違った人のように思えた。黒く日焼けしていた顔の色がかなり剥げてしまっているためであろうか?
「やあ」
と、相手は言って、ぎこちなく白い歯を見せた。
だが、なんとなく全体がちぐはぐであった。海浜の濶達な空気はここにはなく、そして二人は、別種の生物であった大学生たちと女学生たちではなく、生れてはじめて出会った桃子と安田なのであった。
若者は、女学生たちから畏《い》敬《けい》の目をもって見られたのびやかさ、引き緊《しま》った筋肉と赤褌の威容を跡形もなく失って、ほとんど吃《ども》った口ぶりで言った。
「お元気ですか?」
すると、こちらの少女も、自分ながら他人がしゃべっているとしか思われぬ声をだした。
「ほんとに、お久しぶりでございます」
しかし、彼女はすっかり度を失ったわけではなく、やたらとどきどきする体内のどこかにひそんでいる天然の桃子は、同時にこんなふうに舌打した。――どこかが可笑《おか》しいわ。こんなはずではないはずだわ。早く、早く、それを取戻《とりもど》さなくては。
青年と少女はぎくしゃくとどうでもいいような会話を交わし、それでもつつがなく、二人並んで歩きだした。病院とは逆の方向、小学校の横から南町の停留所のほうへむかって歩いた。ようやくたそがれてきて光を失った水色の空に、小さな蝙蝠《こうもり》の影がよぎった。
桃子は、あ、蝙蝠、と口にだすつもりだった。いつぞや見た泰西活動写真に於《おい》ては、女が、あ、燕《つばめ》、と言うのであった。しかしどういうわけか、その単純な言葉がとっさに口から出ず、彼女は地《じ》蹈《だん》鞴《だ》を踏む思いがした。
面《おも》はゆい沈黙を破って、ぼつりぼつりと安田が口にする文句は、おそろしくありきたりの言葉ばかりであった。桃子の友達たちは元気でいるか? 東京の夏は暑い。夏の終りは殊《こと》に暑い。それでも日が暮れてくると日中よりはしのぎやすい……。
まあ、なんてことでしょ、と天然の桃子は思った。あたしは赤褌さんを見損《みそこな》ったわ。この人は、いざ一人となると、女の前で口ひとつきけない、つまらない、意気地のない、哀れな、見すぼらしい男にすぎないんだわ。
しかし、もうしばらく並んで歩くと、彼女の心にはまた別種の考えが、喜ばしく抑えがたく、湧《わ》きたつようにおしのぼってきた。それは決して桃子の一人よがりだけともいえぬ、ふしぎな本能による誤つはずのない直感であった。
この人は本当にあたしを愛している。本当に恋してるのだわ。だからどぎまぎして、こんなふうに固くなってしまっている。そうよ、それが恋愛というものなのよ。
それゆえ彼女は、それまでに見聞きした恋愛のあらゆる知識を動員して、それとなくつつましく、だが情熱をこめて、安田にぴったりと寄りそって歩いた。ときに下駄《げた》の鼻緒でも切れてつまずいたかのように、行き悩んだ仕《し》種《ぐさ》までした。
だが、反応はなかった。安田の態度も言葉つきも、はじめと少しも変るところがなかった。
桃子はいらいらと考えた。――ほんとに不器用ったらありゃしない。いくらなんでも、手ぐらい握ってもいいころなのに。
それからこう思った。――この人は活動写真ひとつ見たことがないのだわ。きっとそうよ。だからこんなになんにも知らないのだわ。
「活動写真を、御覧になります?」
と、天然でない桃子は、つつましやかな声をおしだした。
「活動ですか」と、ようやく若者は、かなりぎこちなさのとれた調子で言った。「ぼくは滅多に見ないなあ。……そう、カリガリ博士は見ました。あれは面白かった。新芸術表現派の映画ですね」
新芸術表現派という言葉にはぎくり[#「ぎくり」に傍点]としたが、カリガリ博士という一語を聞くと、桃子の抑制は瞬時にして吹きとんだ。
「カリガリ博士!」
と、彼女は大きな声をだした。
「あれをあたし見損っちゃったの。だってあたし……ほら、新聞に写真がでてたでしょ。カリガリ博士ってこわい顔してるでしょ?」
「そう、ちょっと不気味ですね」
「それから、眠り男セザレよ。眠ってる女を殺そうとしてるとこよ。厭《いや》よ、あんなの。あたし、とても見る気がしなかった。……だけど、本当は見たかったの。惜しいことしちゃった。あたしはちゃんと知ってるの。カリガリ博士になったのは、名優ウェルネル・クラウスよ」
「さあ、……忘れたな」
安田は、いささかあっけにとられたように呟《つぶや》いた。しかし、いったん歯車が外れたとなると、桃子はもう相手の顔色を窺《うかが》う余裕がなかった。
「ほんとは、あたしのうちは芸術に縁遠いのよ。お兄さまが言ってたわ。でもその兄だって、出《で》鱈《たら》目《め》ばっかり。夏《なつ》目《め》漱石《そうせき》の『出家とその弟子』なんて、……あたし、本屋に買いに行ったのよ。そしたら店員に言われたわ。そんな本はありません、別の著者の同じような本だったらありますって」
安田は半ば訳がわからず、仕方なさそうに、うつろな笑い声を立てた。
「でも、なにも新芸術でなくっても、面白い活動写真はたんとあるわ。『暗黒の妖星《ようせい》』ってご存じ」
相手は首をふった。
「名花マリオン・デヴィス嬢よ。一回見たら、きっとあなた好きになることよ。あたしは、アントニオ・モレノだけども。それはあたしが女だから仕様がないわ。まだまだいくらも面白いのがあるわ。『ハリケーン・ハッチ』なんて。それからロイドって途方もないのよ。あ、それどころじゃなくて、もうすぐデブ君が日本にくるんですって。活動写真じゃなくて、本物のデブ君がくるのよ。浅草の『ニコニコ大会』で挨拶《あいさつ》するわ。これはもちろん見に行かなくちゃ……」
桃子はほとんどとめどがなくなった。あとからあとから野方図に言葉がおし寄せて来、もはや恋愛[#「恋愛」に傍点]すらも二の次になった。安田はしかし、苦情もいわず、その辺の小《こう》路《じ》を二人して並んで歩きながら、彼女の活動写真に関する博学な弁舌に熱心に聞き入っていた。少なくとも桃子にはそう思えたのである。
気づいてみると、辺りはかなり薄暗くなりかけていた。
「あら」と、桃子はびっくりしたように言った。「ずいぶんもう遅いわ」
こういうところが大事なのよ、と同時に彼女は心の中で合《が》点《てん》をした。良家の子女がつつしみを忘れちゃあね。
「本当だ」と、安田も言った。「うっかり話に夢中になっていて……。お宅の前までお送りしましょう」
桃子は慎みぶかくそれを辞退し、ちょっと言い争った末、結局元ノ原まで送ってもらうことにした。すでに蜻蛉とりの子供らの姿も消え、わずかに昏《く》れのこった上空に蝙蝠の影のみちらちらする原っぱのはずれで、二人は握手ひとつせずに別れた。
「とても愉しかったわ」と、桃子は実感にあふれた声をだした。「またお散歩しましょうよ、ね?」
「手紙を出します」と、相手は生真面目《きまじめ》な顔つきになって言った。
「あ、それならね」と、桃子は甘ったるい声で言った。「封筒には女みたいな字、書けない? 女の名前のほうがいいわ。たとえば安田敏子とか……」
ほんとにこの人は恋愛の素人《しろうと》で、一々教えてあげなくちゃね、と彼女は心の中で思った。安田は笑って、受けあった。……
家に戻ると、彼女の額はふしぎな疲労のようなもので燃え、しかし身体の節々まで自分のものでないかのように軽かった。下田の婆《ばあ》やが食事に遅れた彼女を叱《しか》ったが、一言も口答えせず、せかせかとした食欲をみせて、茶《ちゃ》碗《わん》や皿《さら》を空にした。
「今日はいくらなんでも活動写真の話ばっかししすぎたかしら?」
と、しばらく経《た》って彼女は考えた。
「でも、あれでいいんだわ。あの人はもっと活動を見なくっちゃ。そうだ、そのうちに二人で活動を見に行こう。そうすれば、もちろん……」
こうして、やがて新しい学期が始まってからのちも、幾度か二人は楡病院の近所で落合い、乳くさい、なんということもない一刻の散歩を共にした。
安田の態度には、さしたる変化も見られなかった。桃子にとっては、煮えきらぬ、物足りぬ、歯がゆいものと感じられたが、それは単に安田の見かけによらぬ内向的な性格からくるものらしかった。しかし桃子は、それを活動写真による知識の欠如からくるものと解した。
そんなわけで、いつも彼女は活動写真の話をしだしてしまい、それも滔々《とうとう》と、ため息をついたり、手をひろげたり、小鼻をひくつかせたりしながら、息をもつかず述べたてるのであった。すっかり自分自身夢中になってしまい、気づいてみると、折角の恋愛の権威者としての演出もなにも忘れてしまっていて、もう別れねばならぬ時がきていた。
だが彼女は、こういう会話もした。
「安田さんは、何を勉強なさっていらっしゃるの?」
経済学を学んでいる、という返事であった。
「経済ねえ」
と、彼女は自信なさそうに呟いた。それがどういう学問であるかよくわからぬが、少なくとも病院とはあまり関係がありそうもない、と彼女は考えた。そして自分の父親基一郎が、娘を医者以外の者に喜んで嫁にやろうはずもないことを、最近では彼女もよくわきまえていた。
ふいに、勢いこんで桃子は尋ねた。
「それなら、会計と関係があるんじゃない?」
「かいけい?」
「会計よ。ほら、お金を勘定したりする会計よ」
安田は珍しく高らかな声を立てて笑い、それは関係がまるきりないことはない、が、またどうしたわけで? と訊《き》いた。
桃子は何も言わなかった。しかし彼女の脳裏には、あの誰《だれ》から見ても頼りなげな、胡麻《ごま》塩《しお》頭の、楡病院の会計係大石に代って、この青年がいかにも好ましい様子で、金庫を背に事務室の机の前に坐《すわ》っている光景が、すばやく描かれて消えたのである。
――だが、こうした桃子の行状が、かなり広範囲にわたる楡病院関係者の目にまったく触れぬということはあり得なかった。ほどもなく「奥」へひとつの報知が行き、つづいて、こういうことが起った。
それまで易々《やすやす》と桃子の手に渡っていた安田の手紙は、彼女のもとまでとどかなかった。そのため彼女は露ほども知らなかったが、ある夕方、楡病院の威《い》嚇《かく》的な鉄柵《てっさく》の門を、院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》が、このときばかりは腕を背中に組まず、なにか急ぎの用でもあるかのようにひょこひょこと出てゆくのが見受けられた。
秀吉は元ノ原を通り、青南小学校の横手を南町のほうへ辿《たど》った。それから彼は歩度を落し、探るように試すように、縁なし眼鏡の奥から前方をすかして見た。小学校のはずれにポストがある。その横に、大学の制服を着た青年が人待顔《ひとまちがお》に佇《たたず》んでいる。
勝俣秀吉はしてやったりというふうに頷《うなず》いて、持前の鶴《つる》のような足どりでごくゆっくりと近づいて行った。その痩《や》せて小《こ》柄《がら》な姿は、それから急に思いきってずかずかと青年の前に歩み寄り、なにか声をかけたようだった。長身の相手はいぶかしげに秀吉を見下ろし、返事をする。すると院代勝俣秀吉は、その腕をうしろに組み、せい一杯背筋をそらすようにして、何事かをしきりと述べはじめた。
そうして二人はかなり長いこと向いあって話していた。大半は秀吉が話した。青年はうつむいて、怒ったような表情で下駄を突っかけた自分の足先を見つめていた。最後に決りがついたようだった。青年は乱暴にくるりと身体《からだ》のむきを変え、相当の歩幅で、暮色の漂いはじめた通りを遠ざかりはじめた。その姿が角を曲って見えなくなるまで、秀吉は背筋をのばしきったままの姿勢で、ポストの傍《かたわ》らにせい一杯の威厳を見せてかまえていた。それから彼はかすかにうなずいた。これでよし、というように……。
このとき以後、桃子の手元には待ち望んでいるなんの通知もやってこなかった。彼女は手紙を書いた。二度書き、三度書いた。にもかかわらず好ましい青年の便りはなかった。少なくとも彼女のもとにはとどかなかった。
混乱と疑惑、絶望と憤激が、こもごもに桃子を襲った。一度彼女は、住所を頼りに安田の住む界隈《かいわい》を訪ね、一軒一軒表札を見て歩いているうち、急に居たたまれぬ気持になり、逃げるようにしてその場を去った。夜、桃子はまだ婆やと弟と三人で一室に寝る。下田の婆やの豊かすぎる鼾《いびき》は、このところひときわ彼女のいらだたしさを助長させた。
「きっとほかに女ができたのだ」と、彼女は闇《やみ》の中に目をこらし、あまり良家の子女[#「良家の子女」に傍点]らしからぬことを連想した。「男なんて、みんな不実なのだ」
それからまた思った。
「あたしはあんまり活動写真の話をしすぎたのかもしれない。あの人は活動が嫌《きら》いだったのだ」
最後に、彼女は口惜しさに痛いほど唇《くちびる》を噛《か》みしめながら、こう心に誓った。
「なによ、あんな見かけ倒しの赤褌なんか。この世には男なんていくらでもいる。いいわ、もっともっと恋愛してやるから。あんな男、見返してやるから……」
桃子の決意とはまったく意に反した破《は》綻《たん》、それだけ劃然《かくぜん》として物事の決着をつけた事件は、意外と早くきた。
秋がようやく深まっていた。基一郎自慢のラジウム浴場のわきに屹立《きつりつ》する銀杏《いちょう》の大木は、こまやかな濃い黄にその葉の色を変えた。朝晩は肌寒《はだざむ》いまでに冷え、近所の原っぱから賄《まかな》いの残飯をあさりにやってくる野良《のら》犬《いぬ》の毛は、屡々《しばしば》前夜の雨に濡《ぬ》れてうす穢《ぎた》なくこびりつくようにねていた。
そのような季節の変化には桃子は影響を受けはしなかった。ようやく不《ふ》埒《らち》な心の痛手――と彼女は思った――から脱却したこの楡家の末娘は、幼く背に三つ編みを二本垂らす髪型から、上級生の一束にして髷《まげ》をつけるやり方に改めていた。彼女の髪は有難《ありがた》いことに漆黒で、その長さを友達と競っても滅多にひけをとらなかった。本当にこの髪は誰にだって負けやしないわ、と誇らしく思いながら彼女は、その頃《ころ》買って貰《もら》った晴雨計の玩具《おもちゃ》を眺《なが》めながら考えるのだった。
その独逸《ドイツ》製の科学|玩具《がんぐ》は、ちょうど平和博覧会文化村にあった洋館のような東屋《あずまや》で、可《か》愛《わい》らしく精巧に造られており、晴天のときは戸口からノートを持った女学生が現われ、雨天には洋傘《ようがさ》をさした紳士が現われてくる。だが当然の遊動桿《ゆうどうかん》の仕組、つまり運命のいたずらによって、女学生と紳士とは決して出会うことはないのである。
「それだって、いくらでも方法はあるわ」と桃子は考える。「いざとなれば、あたしは女ボーイにだってなっちゃうんだから」
当時は女ボーイなどというふしぎな呼称が一般に行われていた。桃子は新聞の広告欄で「月収八十円以上」と読み、これだけあればどれほど活動写真を見られるかと考えた。また南米移民――その大部分が休職軍人とのことであったが――の花嫁捜しの記事までも、桃子はいやに丹念に読みふけるのだった。とにかく、親の定《き》めた婿《むこ》などにそっぽを向くこと、自分自身で男を捜すこと、それがなにより大切であり肝腎《かんじん》なことなのだ……。
ある土曜日の昼すぎ、もちろんすぐ遊びに出かける気で、桃子は太平楽に、活溌《かっぱつ》に、勢いこんだ顔をして学校から戻《もど》ってきた。
すると、すぐ「奥」へ呼ばれた。
そこで彼女を待ちもうけていたものは、まことに破天荒な耳を疑う事柄、文字どおりの青天の霹靂《へきれき》、いかな泰西名画台本にしても滅多に想像を許さぬ、しかしどこまでも厳とした一つの事実であった。これからすぐ彼女は、誰でもない高等女学校三年生の当の本人の桃子は、仮祝言《かりしゅうげん》をあげるというのである。
これこそ楡基一郎独特の謀略、しかし彼にしてみればごく当然の、先見の智慧《ちえ》にあふれた決定なのであった。桃子には聖子の二の舞を踏ませてはならない。それにこの末娘は、どうもある方面が早熟で、しかもこれまでの一、二の事実が証明するようにけっこう男好きがするのではないか。そうしてみれば基一郎が、世間一般の人間より遥《はる》かにすばやく反応する自分の指先を早手まわしにうごかしたのは当然である。あたかも将棋の駒《こま》を動かすように、――基一郎はもとから将棋を好んだが、この楡病院の創始者は往々にして、相手の隙《すき》を窺《うかが》い、二つの駒を一遍に移動させることは周知の事実なのであった。
それにしても、桃子の受けた衝撃は大きすぎ、誰彼があれこれと指図するのに、ほとんどぼんやりと、なんの意志もないあやつり人形同様に従った。ただ、涙がとめどなくこぼれた。有名な彼女の造り物みたいな大粒の涙は、あとからあとから両の目にあふれ、頬《ほお》をつたい、頤《あご》から床にまで滴《したた》り落ちた。
「一体、誰と?」
この気の毒な、無理からぬ、だが事情を知らぬ者にとっては滑稽《こっけい》な質問は、ずいぶんしばらく経《た》ってから、呆《ほう》けたように彼女の唇からおしだされた。
「高柳先生ですよ。とてもそれは立派なお方ですよ」
基一郎が心安く「おっかさん」と呼ぶ、むかし彼が本郷に開業した頃から親しくしている「神田のお婆さん」が、ちっとも慰めにはならぬことを、持前のがらがら声で告げた。
それじゃ金沢清作でも韮沢《にらさわ》勝次郎でもなかったのだ、と桃子はかすかに思った。高柳先生? すると彼女は急にはっきりと思いだしてきた。
その年の六月、彼女は手の甲にかなり大きな粉瘤《ふんりゅう》を生じ、慶応病院の外科へ行って切開して貰ったことがある。そのときの医師が高柳なのであった。彼女はそのあと何回か薬を塗りに通ったが、最後の日、担当の医者はきさくに言った。
「今日はこれで医局もおしまいだから、ひとつ桃子さんに御馳《ごち》走《そう》でもしましょう」
もちろん桃子は大喜びだった。基一郎は高柳をよく知っているし、そのため彼の許《もと》へ施《せ》療《りょう》に行かされたのだし、なにより附《つき》添《そ》ってきた下田の婆やまで二つ返事でそれを許したのであった。二人は浅草へ行き、帝国館で洋物を観《み》、浅草パウリスタで洋食を食べた。
桃子は上機嫌《じょうきげん》でこんな知識まで披《ひ》露《ろう》してみせたりした。
「カフェー・プランタンて、貨《か》幣《へい》不足不足《たらんたらん》てわけなのよ。カフェー・パウリスタは、貨幣|放《ほう》り出した、よ。ね、お金がみんななくなっちゃうでしょう?」
「面白《おもしろ》いことを知っていますね」
広すぎる額と横手に甚《はなは》だしく突出した耳をもつ相手は、にこやかに相槌《あいづち》を打った。
高柳はもちろん楡病院まで送ってくれ、桃子は、額と耳に難点はあるものの、なんという優しい人だろうとこの医師のことを考えた。
その高柳が、いま、いきなり眼前に、のっぴきならず現われてきたのである。してみると、謀略はすでにあのときから企《たくら》まれていたのであろうか?
下田の婆やまでそれに加担していたのであろうか?
それは当らずといえども遠からぬ思考であった。高柳四郎は仙台《せんだい》の近在の酒造りの家の出である。彼が属目《しょくもく》するに足る医師であること、実家が決して繁栄していないこと、年齢は十四ほど違うが、いずれも基一郎の目鼻にかなう事柄といえた。それに基一郎は外科医も一人は身内にかかえておきたかったのである。脳病科にもいずれは外科手術を要する時代がくるにちがいない。基一郎は例によってざっくばらんの言種《いいぐさ》をした。君、ぼくの婿養子になり給《たま》え。末娘を君にあげる。そうすれば、いずれは君を留学させてやる。
だが、さすがの基一郎にしても、このように事を速やかに行うつもりでもなかった。まことに天晴《あっぱ》れにも粗雑な仮祝言を電光石火に挙行する気になったのは、桃子の行状を彼は彼なりに大形《おおぎょう》に憂《うれ》えたからである。
一方、桃子はようやく、総《そう》身《み》がわななくほどの悔しさを覚えだした。なんという陰謀、なんという陥穽《かんせい》、ついに彼女は涙ばかりでなく、ひきつけたような嗚《お》咽《えつ》を洩《も》らしはじめた。みんなが、彼女をなだめたりすかしたりした。珍しく母親までが傍らにきて、優しげな声をかけた。下田の婆やは背後でおろおろしていた。父親はちょっとだけ支度の間に顔をだし、そして言った。「なんでもいい、なんでもいい」
そんな間にも、奥づとめの女中が、桃子の髪を耳隠しに結った。髪結一人呼ばれていなかった。神田のお婆さんだけが、がらがら声でてきぱきと指図をした。桃子の涙はとまらなかった。その大量の水滴は、ぶ厚く塗られた化粧を片端から洗い汚した。
桃子は恋愛とは別《べっ》箇《こ》に、自分の披露宴のことをそれなりに夢見ていた。それは芝の紅葉館か築《つき》地《じ》の精養軒で行われる、そして自分自身|見惚《みと》れるであろう花嫁|衣裳《いしょう》……。ところが怖《おそ》ろしいことに、このたびは、世の花嫁の丹念な姿づくりの閑《ひま》さえなかった。彼女はなんだか見たことのあるような黒地に鶴模様の五つ紋の振袖《ふりそで》を着せられた。おそらく聖子の古物でもあろう、帯だけはかなり見栄《みば》えのする朱の金襴《きんらん》の宝尽し模様。
それから娯楽室へ連れてゆかれた。百二十畳の広間の中央どころに、向いあって二列にそれぞれ十名ほどの人数が、朱塗の膳《ぜん》を前にして坐っていた。四方八方、いかにもだだっ広くむなしく、それだけそらぞらしい眺めといえた。
だが、桃子にとってはもとよりそんな光景も目に映じはしなかった。正面に坐らされる。左隣には神田のお婆さん、右隣には濃い茶の背広姿の高柳が坐る。極めて略式に事は運んだ。桃子は半ば虚脱状態にあり、神田のお婆さんが盃《さかずき》を取らしたり置かしたりするのを夢うつつに感じ、筥迫《はこせこ》の房の朱色のみを見つめて過した。涙だけは依然としてひっきりなしに溢《あふ》れでた。彼女にあっては、涙が涸《か》れ尽きるということを知らず、物理現象の許す範囲にひときわ大粒の水滴となってこぼれ落ちるのであった。
宴が終り、着更《きが》えをし、玄関先へ連れて行かれると、もはや暮色というより夜となっている庭先に、人力車が二台用意されていた。
夢魔のなかのように俥《くるま》にゆられながら、桃子はぼんやりと思った。
「これはすべて父の策略なのだ。高柳先生はそんな悪い人ではない。よく説明すれば、きっとわかってくれる……」
どこか方角さえも定かでないが、とある料《りょう》亭《てい》に俥はとまった。
そこで桃子は、現在自分の身に起っている事の成行きが、決して幻や架空のものではなく、取返しのつかぬ決定的な真実のものであることに遅ればせながら気がついた。次の間の中央に、けばけばしいまであでやかに目にとびこむ色彩の寝具が、ただ一組とられているのを彼女は確かに見たのである。
それを垣《かい》間見《まみ》た瞬間から、桃子は我を忘れた。自分が何をし何をしゃべったのか、彼女はほとんど覚えていない。ただ彼女は常軌を逸して我武《がむ》者《しゃ》らに、同じように被害者ともいえる高柳の胸を拳《こぶし》で叩《たた》き、遮《しゃ》二《に》無二《むに》泣きじゃくりながら、きれぎれの言葉で、懇願し、哀訴し、嘆願した。一体なにを? 自分はまだ女学生の身なのだ、せめて学校を出るまで潔《きよ》い身でありたい……。そうしたことを、彼女は長いこと貯《たくわ》えてきた性の知識の恐怖に身をこわばらせながら、綿々と訴えたのである。
男はなんとか彼女を落着かせようとした。だが無駄《むだ》であった。楡基一郎先生が与えてくれたこのお嬢さんは、まったく途方もない迷惑至極な有様を示していた。ようやくのことで高柳は、なおも夢中で自分を叩こうとする少女の両の手を捕え、桃子さんの言うことはよくわかった、自分はあなたの意志を決して踏みにじりはしない、と何遍も繰返さねばならなかった。
高柳はむっと怒ったような顔つきで――事実彼は立腹していたのである――女中を呼び、もう一つ別に床をとらせた。それでも強情な小さな花嫁は横になろうとしなかった。高柳は自分が先に床にはいり、幾度も先ほどの誓約を反復し、風邪をひくから寝るだけ寝るようにと説得しなければならなかった。
桃子は涙に腫《は》れた目をこすり、別室で寝着に着かえた。それからまた数多《あまた》の活動写真による知識を反芻《はんすう》し、いったんとった帯をぐるぐると寝巻の上から下半身に巻きつけた。全身を固くし、離れた蒲《ふ》団《とん》の中にもぐりこんだ。
瞬時も警戒をとかず、彼女は緊張して待っていた。隣の寝床の男もさすがに寝つかれぬらしく、ごそごそと身動きする気配が感じられた。ずいぶんと長い時間が経っていったように思われた。ようやく彼女は寝息らしいものを聞きとった。それが果して狸寝《たぬきね》入《い》りであるのかどうか、彼女はじっとまた長いこときき耳を立てていた。寝息は次第に大きく、ときどき断続して鼻にかかる鼾まで洩れてきた。
ひとつの安《あん》堵《ど》が、桃子の悲しみ、悔しさをあらためて蘇《よみがえ》らせた。ぐったりと疲れきり、精も根も尽きはてたような虚脱感に襲われながら、彼女は思った。
「あたしは……はじめは……この人を決して嫌いじゃなかったのだ。それにしてもお父様は……ひどい……なんてことを……なんてまたひどいことを……」
しばらく絶えていた大量の涙が、またもやとめどなく圧倒的に溢れてき、彼女の枕《まくら》をしとどに濡らした。
第七章
徹吉《てつきち》は、夢を見ていた。
映像は漠《ばく》としながら、ときに意外に野方図に鮮明になったりした。おれは夢を見ている、そうかすかに意識にのぼることもあったが、また朦朧《もうろう》とたゆたってゆく写像の流れに誘いこまれ、身をゆだねた。
ねこ柳の花《か》穂《すい》がふくらんでいる。現実にはあり得ぬほどふくらんだその花穂は、半ばの係恋《けいれん》、半ばの疎《そ》遠《えん》の感を持ち、なまめかしく銀色にひかるのである。麗《うら》らかな陽光が照りつけている。長いあいだ雪に閉ざされる東北の山村にあっては、待ちわびた、一種の香りさえもつ、恩寵《おんちょう》のような光線である。そのくせ村道は雪どけのぬかるみであった。朝のうちはまだ凍っている。それが溶けてくると、泥《どろ》まみれの足はずぶずぶともぐって歩行に難儀を覚えた。草鞋《わらじ》がすでに切れかかっている。そうして、彼の行く先の尋常高等小学校は、まだ小一里もあるのである……。
徹吉は、一度目覚めたようだった。というより、半覚醒《はんかくせい》の状態で、今し方のパノラマにも似た夢をうつうつと反芻《はんすう》した。
このところ、ひっきりなしに、毎晩のように夢を見る。その対象が次第々々に、むかしへ、過去へと遡《さかのぼ》ってゆくようである。
はじめは、時おり妻子の夢を見た。龍子《りゅうこ》はいやに傲慢《ごうまん》な顔つきをして彼と諍《いさか》いをする。些《さ》細《さい》な原因の諍いだが、むこうのほうが口早に、間断なくしゃべりたてる。その像に向って、こうも言ってやろう、ああも言ってやろうと思っているうち、目が覚めてしまう。峻《しゅん》一《いち》はもっとしばしば夢に出てくる。別れたときは六歳であった。幼稚園へ行くのを厭《いや》がってよくむずかっていたが、その顔をくしゃくしゃと歪《ゆが》めて泣こうとする瞬間の顔貌《かおかたち》が、幾度か夢に現われた。基一郎も出現することがある。もったいぶった様子で近づいてきて、なにか言いかけるが、そのままくるりと向うをむいて、小暗い宮殿のような建物の中へ歩いていってしまう。
ところが半年ほど前から、もっと古い時代が夢に現われてきた。本郷にあった楡《にれ》医院のランプの吊《つる》されたくすんだ書生部屋の一隅である。誰《だれ》と名を言えぬ書生が、雑書を背負って廻《まわ》ってくる貸本屋から、数冊の書物を、おそらくは浪六《なみろく》もの、涙香《るいこう》ものらしい書物を受取っている。と、そのとき、たしかに夢に嗅《きゅう》覚《かく》が働いた。徹吉が上京した当時、その箱の中に美人や万国の兵士の附録絵がはいっているため印象に残った、パイレートという舶来の煙草《たばこ》の煙の香である。少年の身にとって香ばしいような甘《あま》酸《ず》っぱいような、ふしぎな執着のもたれる香りである。また顔立ちははっきりしないが下田の婆《ばあ》やもその辺りにいる。まだ若く、白い看護衣をつけて片手をあげて書生に指図している。
下田ナオは、上京したばかりのおどおどとした少年の自分にむかって、「東京ではお餅《もち》のことをオカチンと申します」などと、やや小生意気な口調で教えてくれたものだったな、と目覚めてから徹吉は追憶を蘇《よみがえ》らせてみたりもした。
そして、ここ最近、夢はさらに過去へと遡った。
こごった雲に半ば閉ざされた蔵《ざ》王《おう》の峰が現われることがある。山襞《やまひだ》にはまだ雪が残っていて、陰影がごく濃い。徹吉の生家の、ひびのはいった蔵の白壁が見えることもある。それから家の前の、常々そこで顔を洗った、ほんのちょろちょろとした流れ。近くの宝水寺という草深い寺の境内。それらはもとよりおぼろに霞《かす》んだり誇張されたりしながら、脈絡もなくつかのま現出しては消えさった。と思うと、夢の中のもう一つの夢のように、目覚めてから思念してようやく思い当るような子供じみた奇妙な光景を見ることもある。毛ぶかい狒々《ひひ》が着物の裾《すそ》をはだけた若い女をかかえている。その前に立ちはだかって一人の武士が刀をかまえている。あるいは山賊が居丈高な身ぶりをしてとある女房《にょうぼう》をおどしている。それはどうやら、ずっと幼いとき村にかかった人形芝居の場面のようでもあった。
そしてまた、父の姿が現われた。田舎の実父の姿である。ひどく小さく、ひどく衰えて、持病の痰《たん》に咳《せ》きこんでいるさまである。この実父の訃《ふ》報《ほう》を徹吉は七カ月前に受取っていた。その頃《ころ》は少しも夢に現われなかったものが、半年も経《た》ってからなぜしきりとその姿が現われるのか、とにかく夢のなかの実父は痰に悩みながらも生きていて、しかし一度もこちらに顔を向けることをしなかった。小さな後ろ姿だけがよく焦点もあわずにゆらぐ。徹吉が物心ついた頃から、父はすでに痰を病んでいた。そのため、出羽《でわ》三山、蔵王山などのいろいろの神に願掛けをして、好きなものを断《た》ったりした。魚肉をやめたり、穀断《こくだち》、塩断《しおだち》までした。そんなふうであった父が、とうに死者の仲間にはいっているはずだのに、夢の中ではひどく小さく衰えて生きていて、なお喉《のど》にからまる痰のため背を折り曲げるようにして苦しんでいるらしい有様に、徹吉は目覚めてから、なんともいえぬ寂しい気持に襲われたものだ。彼がその父の墓参へ行けるのは、いつのことになるのか目算も立たない。
そういえば、徹吉は十五の歳《とし》に楡家の世話を受けて以来、意識して郷里と遠ざかっていたのだった。未《いま》だ神や仏のみならず狐狸《こり》のたぐいまでを信じている東北の僻村《へきそん》に背を向け、窮理の学のため励んできたはずだった。いや、なによりも東京の言葉、習慣に早くなじむこと、楡病院の一員に加わること、そして自分がひとことしゃべるたびに面白《おもしろ》がって笑う東京の中学生たちに決してひけをとるまいと気負うこと、それがせい一杯の、あの当時の少年の願望であったのだ。
そうして、これまでに見たさまざまの夢像を追想してみて、徹吉はひそかに思った。
「それにしても、いろんな事情や遠慮があったにしても、自分は故郷を疎遠にしすぎてきた。自分は楡病院の後継ぎであると共に、やはり東北の、あの村の人間なのだ。弟は、城吉は、どうしているだろう? 妹は今ごろは草とりで大変なことだろう。手紙も書いてやらなければ」
それから、徹吉はふたたびぎこちない眠りに入った。
すると、いつしか、次のような夢を見た。
薄暗い研究室らしいところである。自分はしきりと灰白色の、ぶよぶよとした、人間の脳髄らしいものを刻んでいる。それがどうもうまくいかない。徹吉はそれを薄い切片にして、硝子《ガラス》板の上に載せたプレパラートの標本にしなければならない。気ばかり焦《あせ》ってどうしてもうまくいかない。そのうちに脳髄は形が崩れ、みるみる薄穢《うすぎた》ない粘液のようなものに化してゆく……。と、同じように行き悩んだ心理の行程が現われた。どことも知らぬ樹木の茂った山道を歩いてゆく。まだ暁の暗い時分らしく、足元も定かではない。手には提《ちょう》燈《ちん》を持っているようである。そのうちに、足が水中をかくような抵抗を覚え、どうしても一歩も先に進まなくなった。樹々《きぎ》に隠れて下のほうに川がほの見えるようである。と、前のほうに人影がいて、それがふりむいて自分を叱《しか》った。それは父であった。たしかにその顔が眼前に迫るように見えた。
瞬時にして徹吉は浅い夢路から解き放された。が、父にちがいなかった顔立ちはすでに朦朧として崩れ、ただ痛みに似た心のゆらぎだけがあとに残った。
徹吉は身動きをし、吐息をついた。固いベッドが躯《み》の下できしんだ。
「あの山は、関山峠ではなかったか。そうだ、たしかに父に連れられて、関山越えをしていたのだ」
徹吉が上京したときは、まだ山形まで汽車がなかった。実父と一緒に、山形から関山峠を越え、十五里ほども歩いて作並《さくなみ》温泉へ着き、翌日|仙台《せんだい》へ出たものであった。
なんという懐《なつ》かしい記憶の隅《すみ》に埋没したむかしの夢。だが、こんなふうに間断なく古びた夢に眠りを妨げられるということは、自分がかなり神経を疲らしているからなのではなかろうか。――徹吉は、そんなふうにも思った。
すでに暁方《あけがた》らしかった。しらじらと曇りをおびた光が窓からさしこんでいた。しかし、物音とてなかった。市街電車の動きだした気配も、骨格の太く逞《たくま》しい馬にひかせた麦酒《ビール》樽《だる》を積んだ荷車の通る気配もなかった。アムゼル鳥の啼《な》き声《ごえ》すら聞えなかった。朝夕の薄明の中で、この鳥は朗らかな、同時にいくらか悲哀のこもった声を送ってきてくれたものであった。もうその時節が移っていることはわかっていても、唯《ただ》の一つもその声が伝わってこないことに、徹吉は奇妙にやるせない戸惑いを覚えながら、まだ輪郭の明瞭《めいりょう》でない室内を見まわした。
漆喰《しっくい》の剥《は》げかけたくすんだ壁。それを蔽《おお》い隠すために、一方の壁にだけ掛けられた刺繍《ししゅう》のある古びた布。
やはりここは故郷の香りどころか東洋のかげさえない、南|独逸《ドイツ》のバヴァリアの首都|民顕《ミュンヘン》の下宿の一室にすぎなかった。そして彼、徹吉は、前途に夢多き少年ではなく、すでに四十の齢《よわい》を越えて何かにつけ疲労を覚えがちの、顔いろも冴《さ》えぬ一人の若からぬ留学の徒なのであった。
徹吉はおよそ四カ月前、このミュンヘンに来た。故国を離れてから、すでに二年余が経っていた。
徹吉ははじめ伯林《ベルリン》にいて、次に墺太利《オーストリア》の首都|維納《ウィン》へ行き、そこの神経学研究所に於《おい》て、麻痺《まひ》性《せい》痴呆《ちほう》者《しゃ》の大脳についての一論文をまとめたのであった。ウインには同胞がかなりいた。同じ医学畑の留学生がほとんどであった。しかし彼らは、徹吉より一まわり年下の少壮気鋭の徒か、あるいはすでに日本で一応の仕事をやりとげ、外遊それ自体を余裕あるひとつの余得と自ら見なすことのできる学者かであった。
徹吉の立場は異なっていた。彼はずっと養父の病院の診療に従事しなければならなかったため、小さな論文ひとつ書く暇と余力がなかった。もはや若くもなかった。帰国すればふたたび齷齪《あくせく》とした開業医の生活が待っていることであろう。
独逸のマルクも墺太利のクローネも暴落していた。甚《はなは》だしい物価|騰《とう》貴《き》、ストライキの多い騒然とした社会不安、落着いた勉学には不適な空気ではあったが、通貨の暴落は他国の留学生の羽振りをよくするという一面もあった。一部の文部省留学生たちはかなりの贅沢《ぜいたく》をしていた。石炭を積んだ馬車が街上をよぎるのを、血の気の薄い土地の主婦がしばらく目送しているような光景を尻《しり》目《め》に、美酒に酔い、若い女と戯《たわむ》れていた。そういう連中と関《かか》わりなく、徹吉は教室に通った。むかし、本郷の楡医院にたむろする医学書生の中には、じゃらじゃらとした服装をし、口には女のことを断たず、勉学といえば『蘭氏生理学生殖|篇《へん》』という書物だけを暗記するというふうの軟派も少なくなかったが、ベルリンやウインのナイトクラブに出入りする留学生の多くは、徹吉に彼らのことを思い起させたりした。
べつに清廉《せいれん》を求める気もなかったが、徹吉は不《ふ》犯《ぼん》の生活を送ってきた。言葉に不慣れのこと、年配の留学者の不適応性、なにより徹吉は、二十数年前山形の片田舎から上京した当時にも似た、おどおどとした気おくれを異国のすべての事物に感じていた。ときどき、いかにも若やいだ、髪の明るい瞳《ひとみ》の大きな少女と街で出会ったりするとき、徹吉は舶来の煙草の香りに奇妙に五官をくすぐられた、あるいは浅草観音の境内で売られている洗い髪の芸《げい》妓《ぎ》ぽん太の写真にひそかに憧《あこが》れた少年時のような、年齢にふさわしからぬまぼしげな視線を戸惑わせるのだった。それから、慌《あわただ》しくせかせかと、余光の消え難《がた》い香柏樹《とうひ》の並木の立つ街路をわけもなく辿《たど》っていった。古い鈍《にび》いろの寺院に鴉《からす》が群れているのを長いことひとり眺《なが》めていることもあった。冬には、よく川岸に降り、一面に粗い布でも擦《こす》るような一種きびしい音を立てて流れている凍りかけたドナウの川《かわ》面《も》を見おろしたりした。
そうした徹吉の日常は、他の同胞の目に、からかいの対象にふさわしい朴念仁《ぼくねんじん》として映らざるを得なかった。
「君、そんなことをしていると本当にノイってしまうぜ。少しは遊び給《たま》え」
そう真顔で案じてくれる者もあった。「ノイる」というのは、神経衰弱《ノイラステニイ》から来た和洋|混《こん》淆《こう》の医者仲間の用語である。徹吉は笑ってビールの杯をあげてみせた。しかし、それも半リットル入りの杯にすぎず、彼はどうしても心から憂《う》さを散じる気分になれないのであった。
教室では彼は根《こん》をつめて働いた。久方ぶりに肌《はだ》に感じる学問の味、そしてここには伝統と巨匠たちの頭脳に培《つちか》われた真の学問の雰《ふん》囲《い》気《き》があった。薄暗い、いかつい、なじみがたい強情と徹底の支配する、黴臭《かびくさ》く涯《はて》のない世界が。そして徹吉は、むさぼるようにそれを受けいれた。ほとんど性のふるえにも似た心情さえ伴って。
ある夕方、徹吉は部屋の隅でひとり麻痺性痴呆の脳を切出していた。脳髄の各部分で細胞がどういう具合に変化するかを探るのが目的であったから、一つの脳から構造のちがう部分を五十余も切取らねばならなかった。そうした数十の脳片を一つ一つ瓶《びん》に区別するのは煩雑《はんざつ》でありすぎる。徹吉は一人で工夫をして、日本から持参した墨をすり毛筆で脳片に印をつけることにしていた。インクではうまくいかないが、東洋の墨はこの目的によく適合してくれる。
と、背後に人の気配がしてふりむくと、そんな時刻なのに、昨今は滅多に教室に姿を見せぬ、すでに隠退した猫《ねこ》背《ぜ》気味の名誉教授の姿がそこにあった。徹吉は驚き、手が汚れているので直立して敬礼した。ついで、緊張して自分の手仕事をつづけた。老教授はしばらく徹吉の仕《し》種《ぐさ》を眺めていたが、やがて独りごとのように呟《つぶや》いた。
「日本人はなかなか器用なものじゃ」
それからまた、こうも言った。
「骨の折れる仕事じゃ。四週間仕事では駄目《だめ》だから、辛抱してやりなさい」
染色がうまく行かず、遅々として仕事がはかどらぬ折、徹吉はよくこの老教授の言葉を思いだし、弱気になる心を鞭《むち》打《う》った。気安く言葉を交わす者もいないまま、窓外を眺めて検鏡に疲れた目を休めていると、背の高い、そばかすだらけの、口数の少ない標本係の女が、通りがかりにふと声をかけて行くことがあった。
「疲れまして?」
顔立ちこそごつごつしていたが、その抑揚は柔らかく張りがあった。そんな通り一遍の言葉にも、徹吉はあるときは言いようもなく心を和ませたものだ。
そのような日常、下宿と研究室の間を往復する一年半の生活の末に、徹吉はウインで百数十|頁《ページ》の一論文をまとめることができた。彼の留学の当初の目的、彼を渡欧させた養父基一郎の目算では、それで充分であり、博士論文としても楡病院の後継者たる資格としても、それで事足りるはずであった。
だが徹吉は満足しなかった。学問という目《め》路《じ》はるかな厖大《ぼうだい》な海洋、長年の念願の末、自分はようやくその岸辺に立ち、その波に足先を洗われている。おそらくは彼の生涯《しょうがい》に於て唯一《ゆいいつ》の機会にちがいなかった。いくらかの見聞旅行をして帰国するようにと勧める養父の手紙にもかかわらず、徹吉は笈《きゅう》を新たにしてミュンヘンに来た。ここには独逸《ドイツ》精神医学界の一方の旗頭《はたがしら》ともいえるカイザー・ウィルヘルム研究所がある。
ミュンヘンに来てみると、この威容を整えた南独の都には、ウインでは見られなかった街を濶《かっ》歩《ぽ》する軍服姿が頻々《ひんぴん》と目につくのであった。そして徹吉は、屡々《しばしば》、自分にむかって、こそこそと「ヤップス!」という声が放たれるのを聞いた。夕刻、教室からの帰途、小食堂へ寄り、卓の向う側に坐《すわ》っている老人に、「失礼します」と会釈《えしゃく》をして坐ろうとすると、相手は一言も言わず、つと[#「つと」に傍点]席を立ってしまうことさえあった。
仕方がないことだ、と徹吉は眼《め》をつむって考えたが、ヤップスという蔭口《かげぐち》にも、ときに小童から浴びせられる「支那人《ヒネーゼ》」という呼称にも、べつに心の動くことはなかったにせよ、こうした老人の直截《ちょくせつ》な行動には、やはり胸のどこかは傷つけられた。
そういうとき、徹吉は自然と猶太《ユダヤ》人のことに考えが及んだ。ウインでもミュンヘンでも、彼らは極端な侮《ぶ》蔑《べつ》と排斥の対象とされていた。あるとき徹吉が遊んでいる児童に慰みに学校名を問うたところ、それぞれに競って答えるうちに、一人が後方を指さして、「あいつはユダヤだよ」と言った。集まった児童がどっと目くばせをして笑った。日本人の留学生からして、「あの女は九一でねえ」などと、あからさまな軽蔑を現わして言うのであった。はじめ、徹吉にはなにがなし猶太人に対する同情、あるいは自分以上に劣等視される者への余裕が湧《わ》いた。しかし、彼らが戦後、為替相場が暴落して国民が貧窮している中にあって、却《かえ》って財産を増し、ウインの大新聞すらもおおむね我が物としていること、あるいは一つの教室をすべて猶太系の者で固めていること、そういう噂《うわさ》を耳にしたり、殿堂《ジュナゴーゲ》の内部でこの種族の行うなにか結束的な儀式を目撃したりするにつけ、いつしか彼らに対して嫌《けん》厭《えん》と警戒の気持を抱くようになったのも疑いのない事実であった。徹吉はよく、古本屋の店内で医書を捜しながら、つれづれに大衆雑誌をめくってみることがあった。猶太人たちはあらゆる角度から徹底的に攻撃されていた。日本人の漫画もあった。戦中の雑誌であったが、日本人は徹吉が見てもひどく狡猾《こうかつ》そうな猿《さる》として描かれ、あるいは青島《チンタオ》のまわりをうろつく痩《や》せこけて目つきのわるい野良《のら》猫《ねこ》として描かれていた。そういうペン画を見るたびに、やはり徹吉は眉《まゆ》をひそめている自分に気がついた。
しかし、徹吉はミュンヘンに来て早々、もっと手ひどい、全身をゆすぶられるような衝撃を受けたことがあった。他人には理解できぬ、徹吉自身にしてもあとになってみれば、友人に洩《も》らすのさえ気恥ずかしい些《さ》細《さい》な事件にすぎなかったが。
エミール・クレペリン。その名に学生時代から徹吉は親しみ、畏《い》敬《けい》と憧憬《しょうけい》の念を抱きつづけてきた。クレペリンは近代精神病学|建立《こんりゅう》の巨匠である。徹吉は以前から彼の『精神病学』の後の版、そして初版本すらも手に入れて大切にしていた。初版本は小形で三百八十頁を越えぬ書物にすぎない。その各論で述べられている疾病《しっぺい》には、のちのクレペリンの分類の特色を見ることはできない。しかしこの学者は、版ごとに目を見はる新しい概念を増補してゆき、ずっと後世になってもゆるがしがたいゴチック大寺院にも似た分類法を確立したのであった。徹吉がミュンヘンに来た理由にしても、この一代の碩学《せきがく》の顔容に一目接したいという、ひそかな、しかし切実な念願を無視することはできなかった。
その日、まだ新しい研究室に慣れず、昼食を教室の近くの粗末な食堂ですまして戻《もど》ってきてからも、徹吉は仕事が手につかずぼんやりとしていた。すると、あから顔のよく節介をやくハンブルク大学から来ている医者が傍《かたわ》らに来て言った。――これから講堂で活動写真をやるそうだから行きませんか。クレペリン教授もくるそうですよ。
徹吉は心《しん》悸《き》のたかぶるのを覚えた。渇仰仏《かつごうぶつ》の前に額《ぬか》ずこうとするような、つつましいおののくような心が湧いた。――自分は東海の国からきた一遊子にすぎません。けれども貴方《あなた》を一目見たいがために遥々《はるばる》とやってきた者なのです。徹吉はそんな少女じみた文句をおずおずと述べてみたい心境にまでなり、胸のうちで本当にいくつかの単語を組立ててみさえした。
講堂の中央はまだがらんとしていた。階段となった座席に坐っていると、やがて数名の助手、それから見覚えのある医長と話しながら一人の老翁《ろうおう》がはいってきた。あれがクレペリンだな、と徹吉は直感し、まるで恋する者のように五体がこわばるのを覚えた。隣にいたハンブルク大学の医者がそそくさと降りてゆき、丁寧に握手をして、しばらくなにか話をしている。そこに医長に連れられて、東洋人らしい顔貌《かおかたち》のまだ若い男が近づいて行った。肌はやや灰色をおびた黄色である。クレペリンはその男とも握手をした。
あから顔のハンブルク大学の医者が戻ってきて、持前の朗らかな声で、「紹介してあげましょう」と言った。
徹吉はためらい、そして訊《き》いた。
「あの東洋人はどこの国の人です?」
「ああ、あれはジャワの医者ですよ。今日、教室を参観にきたのです」
ジャワという言葉が徹吉を勇気づけた。無意識のうちに彼の故国との比較をなしたのである。それにあの男は一参観人にすぎない。自分は現にこの教室で研究に従事している者である。
徹吉は我ながらすばやく立上り、あから顔の医者と並んで階段を降りた。近寄ると、老教授がちらとこちらに顔を向けた。頭髪は白く、太い眉はまだ真白ではない。鬚《ひげ》は長く粗く箒《ほうき》のようでもある。灰色の眼光は鋭い。老いてはいるが、野武士にも似た風貌である。咄《とっ》嗟《さ》のうちに、徹吉はこれだけを見てとった。
徹吉ははっきりと名を名乗った。今ここの教室の顕微鏡室で仕事をしている者であることを述べ、鄭重《ていちょう》に名刺を差出した。相手はそれを受取ったが、名刺の文字を見ようともしない。さらに徹吉にむかって一言も発しない。そのままふりかえると、銹《さ》びてはいるが透《とお》って力強い声で、
「諸君、どうか席に着いて頂きたい」
と言った。はぐらかされたような、戸惑いと羞恥《しゅうち》と疑惑を覚えながら、徹吉は引返して席に着いた。
左下方の席にクレペリンは坐った。隣の医長と話している横顔を盗み見しながら、徹吉は動揺する気持を制した。いまは時期がわるかったのだ。映画の開始の前で忙しかったのだ。それにしても単に手をのばして握手くらい与えてくれてもよさそうなものだのに……。
窓が閉ざされ灯《ひ》が消され、映画が始まった。種々の精神病者、神経病者の行動に現われるものを写したものである。徹吉はそれまでもよくしたように手帳を開き、薄闇《うすやみ》の中で要点を筆記した。
「Sch※[#ダイエレシス付きU小文字]ttelzittern 五、六人。choreatisch ニフルヘル。stereotypisch ニフルヘルノモアル。一《ちょ》寸《っと》見ルト Katatonie ノ Stereotypie ノヤウニモ見エル。肩、手、ソレカラ首トイフ風ニフルヘル……」
だが徹吉は、ややもすると映画の画面よりも、左下方に黒い像となって坐《ざ》しているクレペリンの方へ意識が傾きがちであった。老碩学はときどき声を発した。「少し早すぎる。もう少しゆっくり。……うむ、それでよい」
一時間余りもかかって、映写はようやく済んだ。講堂が明るくなった。こまめに動くハンブルク大学の医者がすぐ立って行き、クレペリンに向って礼を述べた。野武士の風貌を有する老翁は手を差出して彼と握手をした。訳もない衝動に駆られて、徹吉も足早に近づいた。そして丁寧に礼を言った。ところがクレペリンは最前と同様、それに対して一言も応《こた》えない。頭から徹吉を無視しているようでもある。そのとき横合から、小《こ》柄《がら》な若いジャワの医者が挨拶《あいさつ》に来た。すると、老学者は無造作に手をのばしてその男と握手をした。徹吉はまだ覚《さと》らなかった。彼は次には自分が握手を貰《もら》えるものと信じていた。長年の間敬慕していたこの碩学の掌《て》を、なんとしても握りたかった。それで、クレペリンとジャワの医者の握手がまだ済まぬ一瞬に、我知らず、自分から手を差出しかけた。と、白髪の老学者は、握手の終った手をそのままつと[#「つと」に傍点]ひっこめ、くるりとこちらに背を向けるなり、階段を降りていってしまった。
茫然《ぼうぜん》と、――それから屈辱と憤《ふん》怒《ぬ》の念に固く縛られて、徹吉はその場に立ちつくしていた。彼のこわばった姿勢には、さきほどの映写にもあった緊張病患者の強硬症のようなおもむきさえあった。やや前腕を曲げ、両の拳《こぶし》をしっかりと握りしめていた。その拳が小刻みに震えるのを彼は自覚した。丸い見映えのせぬ近眼鏡の奥の両眼は、痛いまで瞠《みひら》かれていた。そんなふうに瞠いた目で、講堂の奥の入口から出てゆくエミール・クレペリンの黒い背広の後ろ姿を、徹吉は瞬《まばた》きもせず、最後までじっと見すえていた。彼の唇《くちびる》もまたわなわなと震えた。それは言葉を形造りはしなかった。しかし徹吉は、その胸のうちで、おし迫ってくる言おうようなくたかぶった感情、――憐《あわ》れむべき、それだけに鞏固《きょうこ》な生《き》のままの感情に圧倒されながら、こんな田《でん》夫《ぷ》のような罵詈《ばり》を幾遍となく繰返したのである。
「毛唐め。この毛唐め!」
徹吉が高等学校に在学中に、日露戦争が起った。宣戦の大勅がくだった日、生徒たちは嚶鳴堂《おうめいどう》に集められ、校長の訓辞を聞いた。そのあと上級の学生が演壇に立ち、戦争は戦争、学生の本分はまた別のところにあるという意味のことを述べた。すると一人の教師が、いきなりつかつかと壇上にのぼり、まだ話し終えぬその学生を引きずりおろしてしまった。そして烈々として次のような言葉を吐いた。今は国家多難のときである。国民は命を賭《と》して戦っているのである。それなのに学生の本分のなんのと洒落《しゃら》くさいことを言っていられるか。どうしてこういうときに安閑として授業などやっておられるか。どしどし授業を休み、新橋の停車場へ行って出征の兵士に万歳を唱えろ。そういうことを火炎《ほのお》のような弁舌で吐きつけたのであった。徹吉は感動してその言葉を聞いた。「毛唐!」と胸の中で歯ぎしりしたとき徹吉が覚えたのは、実に二十年前の、そのような昂奮《こうふん》、無思慮ながらひたむきな気のたかぶりであった……。
しかし、心身ともに疲労して下宿へ戻ると、日本人留学生の間で「日本|婆《ばあ》さん」と呼ばれている肥満した上《かみ》さんが、狭い台所兼食堂の卓の上に、カナリヤの籠《かご》を置き、小鳥に手の指を一本立てて見せながら、やや嗄《しわが》れた、疲れたような声で歌っていた。
きょうはヨハナ あすはスサナ
恋が年じゅう新しい
それがほんとね 実ある学生さん
それはずいぶんと古い時代の、学生の間で唄《うた》われた歌謡なのであった。彼女は娘の頃《ころ》から、母親と一緒に、ミュンヘンに入りかわり立ちかわり訪れてくる日本人留学生の世話をしてきて、今では六十に手が届く年齢になっていた。戦争中をのぞき、日本人だけを下宿させた。自室の壁の古びて黒ずんだ小さな十字架の基督《キリスト》像、同じように古びた聖母の石版画の横に、日本製の絹《きぬ》団扇《うちわ》、それから漆絵の雪を頂いた富士山の額などを掛けていた。アルバムには世話をしてきた数多《あまた》の日本人留学生の写真が貼《は》られており、なかには何人かの日本人と並んでまだ娘々した彼女の写真も残っていた。彼女は伊太利《イタリア》米を上手にガス火で炊《た》き、鋤焼《すきやき》までして、ときどき徹吉たちに食べさせてくれたりした。
徹吉はミュンヘンに来た当初、この日本婆さんの許《もと》に、他の留学生が旅行中で留守の部屋を借りてはいっていたのである。
彼女は、まだむっとした顔つきの徹吉にむかって、片指でカナリヤをあやしながら、愚直なまでの善良さに溢《あふ》れた皺《しわ》のきた顔に微笑を刻んだ。
「このカナリヤは、もうわたし同様お婆さんなんですよ。ごらんなさい、片方の足はリュウマチであんなでございますよ」
こわばっていた徹吉の心は半ばほぐれた。彼は何|刻《とき》か前あれほど昂奮した自分をいくらか恥じた。
彼は思った。今日の俺《おれ》は、まるで子供みたいに憤怒したな。それからまたこうも思った。だがあの学者、あの偉大な老学者もやはり似たような小児性を現わしたのだ。
――しかし、このとき以来、徹吉は前にもまして寸暇を惜しみ、かたくなに一徹に業房《ぎょうぼう》で励むようになった。彼は倹約をして粗末な食事で済まし、丹念に古本屋の書庫を漁《あさ》って、現在の自分の仕事とは直接関係のない心理学書や、古い精神医学雑誌のバック・ナンバーを買い求めた。彼は、日本を発《た》つときには考えもしなかったひそかな野心を抱きはじめていたのである。帰国すれば自分は閑暇とてない一臨床医とならねばならない。しかしそれだけでは終りたくない。いずれは時間に余裕のできる日もくるであろう。楡病院の一隅《いちぐう》に、どんなはかないものであれ研究室を作り、そこで三年に一つでもよいから小さな論文をまとめよう。そのための資料、文献を能《あと》うかぎり集めておくというのが、かなり突きつめた徹吉の念願となった。固苦しい学問といえども或《あ》る人種には麻薬に似た作用をする。数歩そこへ足を踏み入れかけた者の初心《うぶ》な耽溺《たんでき》が、徹吉をこうした計画に誘ったのかもしれない。しかし、さらに勘ぐって考えてみれば、白髪の老学者から握手を拒否されたという一小事件も、あながち無視することはできないのであった。
初夏になった頃、徹吉は日本婆さんの家を引移らねばならなかった。下宿捜しには思いがけぬ難儀をした。新聞広告を出すと、貧窮しているミュンヘンの家々からは幾つも手紙がくるのだが、いざ行ってみるとなかなか満足した部屋は見つからない。
ある家では、実直そうなかみさんが訥々《とつとつ》とした声で、毎日|丸麺麭《ゼンメル》三つだけの代価を支払ってくれ、と言った。その頃、小さな丸パン一|箇《こ》は一万五千マルクした。徹吉はしばらくその部屋を借りたが、かみさんはすでに翌日から、「ドクトルはビール一杯二十五万マルクすることをご存じでしょうねえ。貧しい寡《やも》婦《め》がせめて一杯のビールを飲めるように、どうか余計に払ってください」と、哀れっぽく執拗《しつよう》に値を釣《つ》りあげにかかるのだった。ある家では、頭の禿《は》げた胴まわりの太い男が、いやに愛《あい》想《そ》なくぶっきら棒に、「一カ月三百万マルク」と言い、徹吉は値切る気持も失った。ある家では百万マルクの手金を置き、泊ってみると夥《おびただ》しい南京虫《ナンキンむし》に襲われた。辛《かろ》うじてラントヴェール街の、日本婆さんの家からほど遠からぬ場所に落着くことができるまでに、徹吉は十数カ所の部屋を訪れねばならなかった。
夏になると、教室はがらんとした。高原の都市ミュンヘンを、ときどき雷雨が襲った。なにか社会全体が、或る動揺を、落着かぬものを含んでいるような気がした。ホーフブロイのような大麦酒《ビール》店《てん》も、めっきり客足が減っているようであった。しかし徹吉は、そのようなことにも殆《ほとん》ど気をとめず、暑苦しい空気のこもった研究室へ通い、兎《うさぎ》の脳髄を使っての実験に精根をこめた。
そして、その夏の終り、西暦一九二三年九月三日の夕刻、徹吉は検鏡に疲れた目をしばたたきながら、行きつけの食堂の隅《すみ》の卓に坐《すわ》った。その日は朝からこまかい雨が降り、なんとなくうすら寒かった。物価は日を追って値を上げ、近頃は簡単な食事をとるにも百三十万マルクはかかる。一度に多くのポンド貨を替えておくわけにもいかず、頻繁《ひんぱん》な銀行通いはほとほと神経を疲らせた。
徹吉は一杯のビールを前にし、懐《ふとこ》ろから幾通かの手紙をとりだした。いずれも故国からきた便りである。なかにはかなり以前受取ったものもあったが、一日の業を終え、一杯のビールを飲み、日本文字で書かれた家族友人の手紙を読み返すのが、つかのまの解放感を味わえる唯一《ゆいいつ》のひとときなのである。妻からの便りもあった。龍子《りゅうこ》はいつも非常にせわしない調子で、文字からしてそそくさと、内容もあまり整ったとはいわれぬ便りを寄こすのだった。
拝啓 お前さまにはすこやかに御勉学のことと思ひます。当方は皆無事ゆゑ、ただ桃子には実際弱つてしまひます。前便にも書きましたが、あの子は高柳四郎、といつてももううちの姓なのですが、それを嫌《きら》ひで嫌ひでまだ我儘《わがまま》申します。四郎は漢口《かんこう》の同仁会病院の外科部長となつて赴任しました。二、三年漢口へ行くことはお父様も御賛成ですが、桃子が学校を卒業次第、あたしに桃子を漢口へ連れて行けと申されます。それなのに桃子はまだ結婚を厭《いや》だなどといひ、あたしは処女だなどと人前ではしたないことをいふ有様にて、自分の妹ながら仕様のない出来|損《そこな》ひだと、本当に腹も立ちます。
峻一《しゅんいち》も元気でをります。ただ学校でも友達ができず、学校へ行くのにむづかつてむづかつて部屋の隅に隠れたりしますが、そんな隅の方に籠《こも》つたりするのはお前さまに似たのではありますまいか。お父様もお歳《とし》を召されました。猫舌《ねこじた》が益々《ますます》昂じてきて、近頃はオートミールにボルドーを入れ、さまして飲まれるやうになりました。お前さまが早く研究を済まして帰られる日を待ちます。事情が許せば、あたしにヨーロッパまで迎へに行つてもよいとお父様は申されます。今から楽しみにしてをります。お母様もお達者です。最近はお父様のすすめもあり、いろんな慈善団体に外出されるやうになりました。あたしもお供して、愛国婦人会、福田会、同情会、青松寺の法話会などに参ります。あたしにはそのほか、種々のおつきあひも多く、それこそ毎日忙しい日を送つてゐます。それにしても桃子は、四郎が漢口へ行つてやれ嬉《うれ》しやといふ顔をしてゐて本当に仕様のない子です。お前さまからも、きつく叱《しか》つてやつてください。欧洲の方はどうにか仙台《せんだい》の医学部にははいりましたが、身体《からだ》ばかり大きく、相変らずのほほんと柔道か何かそんなことばかりやつてゐるやうにて、これまた叱りやりください。聖子にはあたし会ひません。米国《よねくに》は部屋の中で虫ケラを飼ふ癖あり、いづれも困り者にて、せめてあたしだけでもしつかりしないことには、お父様の病院もつぶれてしまひます。お父様は徹吉はミュンヘンへ行く必要なかつたとおつしやられますが、一日も早く研究お済ましになつて帰られるやう、なにか手つとり早く済ます方法はないものでせうか。 草々
徹吉はこの古びた手紙を今また読み返し、汚れた卓に肘《ひじ》をつきながら、あれこれと家族のこと、病院のことに思いを馳《は》せた。それにしても妻の便りは筆跡も文意も粗雑で、なんだか身勝手なことばかり書いているように思われた。学習院の何様と話しているときのような、端然とした、取りすました龍子の姿はここにはなかった。そして、それがけっこう龍子の生地《きじ》でもあることを、夫である徹吉はわきまえていたし、父と病院に対して誇大観念を抱いていること、「お父様の病院もつぶれてしまひます」というような箇所には苦笑を洩《も》らさざるを得なかった。楡病院がそんなに簡単につぶれてしまうはずもない。龍子が、その夫がどのように苦労して異国で生活をしているのか、いささかも意に介せず、派手な外出を常としているらしいことも窺《うかが》われた。龍子に言わせればそれも「病院のため」なのであろうが、末尾の「ミュンヘンへ行く必要はない云々《うんぬん》」の文句には、徹吉は読み返すたびに大人げない抑圧された憤《いきどお》りを感じた。
峻一のことを考えるときのみ、徹吉は心が和んだ。わずか三行で片づけられているが、龍子はおそらく下田の婆やに子供をまかせきりで外出しているのであろう。この次にはもっとくわしく書くよう言ってやらねばなるまい。そんなことを思いながら、徹吉はここの土地の者の飲み方とはおよそ正反対に、一杯のビールをちびちびと時間をかけて喉《のど》へ送った。
そこに夕刊の新聞売りが来た。実に粗末な服装をした頬《ほお》のこけた少年である。徹吉は二種類の新聞を買った。それから、なにげなく一面に目をやると、伊太利《イタリア》と希臘《ギリシア》とが緊張した状態にあることを報じたその下に、"Die Erdbeben-katastrophe in Japan"という活字がいきなり目にとびこんできた。「日本大震災」である。
徹吉は、片手で眼鏡の柄《え》をおさえるようにして、わずかばかりの記事を息をつめて読んだ。上海《シャンハイ》電報。地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵|工廠《こうしょう》は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海《あたみ》、伊東の町はまったく無くなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した……。もう一つの新聞もほぼ似たような記事である。
どうも現実の感がしない。徹吉はもう一杯ビールを取り寄せた。持ってこられた杯を、一息にぐっと半分ほど干した。それからまた眼鏡の柄をおさえるようにして、こまかい活字を一語々々読んだ。
次第に、おぞましい危惧《きぐ》が、徐々にふくらんでゆき、とめどもなく圧倒的にふくらんでゆき、抑えがたく居たたまれぬまでに膨脹《ぼうちょう》していった。富士山頂がとぶ? 大島が海中に没する? これは東京一帯の死者十万というようなものではない。大異変である。何世紀に一度あるかないかという大異変である。どうしたらよいのか? 日本婆さんのところへ駆けつけるか? あそこには三人の同胞がいる。いやいや、彼らとてこれ以上の情報を持っているはずがない。それならば、今ここに海を越えて遥《はる》かへだたっている自分はどうしたらよいのか? 楡病院、――病院も崩壊したにちがいない。家族の者で、一体何人が生き残っているだろう? 一体|誰《だれ》と誰が生き残ったのか? それとも?
徹吉の完全にかき乱されくつがえされた感情は、ついにここまでに達した。
暗澹《あんたん》たる心持。まさしく現在も未来も混沌《こんとん》となったような心持。徹吉は辛うじて眼鏡の柄をおさえ、三たび新聞の活字に見入った。
第八章
大正十二年の夏を、楡《にれ》基一郎は主に箱根|強《ごう》羅《ら》の山荘に過した。
登山電車の終点の駅から強羅公園の位置まで登り、右手に数町を辿《たど》ると向山という地名がある。その名の通り、明神ヶ岳、明星ヶ岳のなだらかな外輪山の連なりを一望の下に見渡せる地に山荘はあった。その辺りはまだ開けていず、年を経た杉林《すぎばやし》がつづき、附近には三軒ほどの別荘が見られるばかりである。
朝な夕な、ひぐらしが群がって鳴いた。夜には、早雲山から吹きおろしてくる突風が杉の梢《こずえ》をゆるがせて山津波にも似た音を立てた。この夏はじめてこの山荘に過す桃子も米国《よねくに》も、黄色い硫黄泉の湧《わ》く湯殿へ通ずる暗い渡り廊下の中途で、物怪《もののけ》のようにそびえる杉の巨木の黒いかげに、屡々《しばしば》胆《きも》を冷やさねばならなかった。まして小学一年生の峻一《しゅんいち》にとってはこの山の家の夜は寂しすぎた。下田の婆《ばあ》やがついてこなかった事情もあって、この基一郎の初孫は二日に一度は東京へ帰りたいと駄々《だだ》をこねた。
一方、基一郎の機《き》嫌《げん》は殊《こと》のほかよかった。政情は不安定で、殊に高橋是清《たかはしこれきよ》のあとを継いだ加藤首相が重態と伝えられていたからである。憲政会では今度こそ我党内閣と勢《きお》いたち、政友会も負けずに力んでいたが、基一郎にとってはそんなことはどうでもよかった。もとより政友会が後退しては困るが、急を告げる政情不安に伴って来訪する客の殖えたことを喜んだのである。来年は総選挙の年に当る。前回の落選のあと、政治はもうこりごり、何にもならぬお金の工面をするのは、と泣くようにして訴えた妻ひさの手前もあって、基一郎は表面は何《なに》喰《く》わぬ顔をしていたが、実は野心満々として種々の手を打ちはじめていたのであった。
彼は浴衣《ゆかた》をだらしなくはだけ、ベランダの籐《とう》椅子《いす》にかけて、山形からきた客と応対をする。
「独逸《ドイツ》もいよいよ破産状態だそうだねえ、君。この新首相ストレーゼマンとやらの暗殺説は本当かねえ、君」
傍《かたわ》らにひさがひかえているので、基一郎は関係もない独逸のことを持ちだして、自慢のカイゼル髭《ひげ》をひねくった。一向にミュンヘンにいる徹吉のことを念頭に浮べている気配もなかった。
「さようでございますなあ。まんず、いや、私は一向に独逸の事情にうとい者でございまして」
と、客は懸命に標準語を使おうと努力しながらしきりに小刻みに頭をうごかし、話題を日本のことに転じた。
「ときに蔵王《ざおう》山《さん》もいよいよ十両で」
「そうだとも、君。あの身体《からだ》で強くなければこりゃ嘘《うそ》だ。じきに入幕しますよ。まあ見ていてごらんなさい」
辰《たつ》次《じ》、あの相撲を嫌《きら》って逃げまわっていた大飯食らいの怪童は、その麓《ふもと》で育った蔵王山の名を名乗って以来、まずまず順調に番づけ面をあがっていたのである。
「それは、はあ、大関は間違いないと地元の者も大変な力の入れようで」
「ただどうも動作がにぶい」と、基一郎は喜ばしさを噛《か》み殺すように眉《まゆ》をしかめた。「君、こんな小さな奴《やつ》にこう下からとびこまれるとね、へなへなとなるんだ、腰がねえ。この前は痩《や》せこけた真砂《まさご》石《いし》なんぞに吊《つ》り出された。真砂石は君、茶屋の聟《むこ》さんになったばかりではりきっていたからな。ところであの蔵王を吊り出したあと、自分でもぺしゃぺしゃとなりましたよ。よほど重かったんだろう」
客はひとしきり笑ってみせ、それから急に真顔になってこう言った。
「それに致しましても、青山の御病院は、こう正面から眺《なが》めました景観は、はあ、いやもう大したものでございますな」
「いや、なにねえ君」と、今度は基一郎はこみあげる得意さを隠しもせずに破顔した。「あれはねえ、あれでもぼくがいろいろと苦心をしたもので。ローマのヴァチカン宮殿を模したものですよ」
厚顔にも基一郎はすましかえってそんな台《せり》詞《ふ》を言ってのけたが、客のほうはヴァチカンが何であるか一向にわきまえなかったもので、ますます懸命に感服のいろを現わそうと努め、さらにこう世辞を言った。
「御病院の御自動車に新橋まで送って頂きましたが、あれはなんという車でございましょうか?」
「最近車を変えましてな」と、基一郎は愛用の銀のケースから、のめもしない金口|煙草《たばこ》を取出した。
「現在二台使っているが、……一つはフィアット、これは伊太利《イタリア》の車でガソリンを食べませんよ、君。もう一つは、ふむ……」
基一郎は突然の健忘におちいったようだった。ちょうど六十歳の彼は近頃《ちかごろ》ひょいひょいと度忘れをする。しかし彼は長く考えこんだりする男ではなかった。
「あれは……ビーチ、たしかビーチという名で。君を乗せたのはその方ではなかったかねえ」
ベランダのはずれの廊下でこの話を聞いていた小さい峻一は思わず笑いだした。車はビュイックであったからである。峻一が覗《のぞ》いてみると、しかし基一郎は落着きはらって煙草に火をつけ、せわしなく一、二度すぱすぱやり、あとは煙草のくゆるのにまかせたまま、いとも悠然《ゆうぜん》とかまえているのであった。……
基一郎に将棋を教えている横井六段が三日ほど滞在していったことがある。
基一郎の将棋には特徴がある。相手かまわず自陣を銀櫓《ぎんやぐら》に囲いあげる。せっせと囲う。それから残った金《きん》を繰上げて、まっしぐらに敵陣に迫ってゆく。自陣が破られても銀櫓のためもあってなかなか粘り強い。そのほかに相手の隙《すき》を窺《うかが》って、両方の手を使い、二つの駒《こま》を一遍に移動させるという特技を有する。
使用人相手の将棋ならそれでもよかろうが、将棋を教えている当の師匠にむかってその特技を実行するのには、横井六段も内心|辟易《へきえき》していた。いやしくも自分は専門家であり、無造作に指した棋譜にしろ幾回でも並べ直すことができる。駒が一つ勝手に動いていることがわからぬ道理がないし、基一郎自身そんなことは充分承知している癖に、なおかつ彼は敢《あ》えて実行するのである。それに加えてこの楡脳病科病院院長は大駒落ちを指したがらなかった。たとえ師匠であれ、何枚も駒を落したうえ敗戦となっては口惜しくてたまらぬからである。駒落ちの定跡《じょうせき》を教えてもいかにもつまらなそうな顔をしている。そこで横井六段も近頃は心得て、わざと落手《らくしゅ》を指して一度は相手につけこませることにしていた。
その日は思いきりのサービスのつもりで、四枚落ちに二番つづけて負けてやったあと、基一郎の所望で平《ひら》手《て》の局が始められた。ここでも負けてやれば基一郎の機嫌は上々だろうが、それでは師匠としての身上が勤まらぬので、横井はせめて相手を勢《きお》いたたせるように努めることにした。中盤どころで、彼は緩手《かんしゅ》を二、三回指した。ところが肝腎《かんじん》の相手が少しもそれに気がつかない。師匠の苦心にもかかわらず、将棋は一方的に基一郎の旗色のわるいものとなってきた。こうなっては誤魔化しの悪手《あくしゅ》も指せぬなと横井が考えていると、基一郎が急にもじもじしてきた。世間話を始めて一向に手をおろそうとしない。気をきかして横井六段は手洗いに立った。そして戻《もど》ってくると、――これはひどかった。死んだも同然の基一郎の角《かく》は動けるはずのない横手に移動していた。あまつさえ自玉《じぎょく》の脱出口となる端《はし》歩《ふ》がいつのまにか突かれていた。そればかりではない。基一郎は何喰わぬ顔をして庭先を眺めながらこう言ったのだ。
「さすがにいい風がきますねえ、ここは。ところで師匠、今度はぼくの番でしたな」
しかしその夏の終り、基一郎の生活は多忙を極めた。東京と箱根の間を何回か往復した。八月二十四日、病状が軽快した、いや重態だ、と両政党を一喜一憂させていた加藤首相が歿《ぼっ》し、内閣は辞表を捧呈《ほうてい》した。憲政会はたまたま雷に飛立つ雁《かり》を見て「天下鳥だ」と縁起をかつぎ、政友会は相手を阻止すればよいという態度をとった。
そのあと基一郎は強羅の山荘に戻り、菅《すが》野《の》康三郎に連れられてはるばる山形の上《かみ》ノ山《やま》町からやってきた三《み》瓶《ひら》城吉を、にこやかに迎えた。基一郎は、徹吉の弟であり上ノ山町では顔役である城吉をねぎらい、あちこち箱根の山中を見物させた。だが彼の目的は別にあった。城吉もよくそれを承知していた。城吉が昵懇《じっこん》にしている男が今度の山形県県会議員に立候補する。基一郎が衆議院に立つには、まず知合いの県会議員を確保しておくことが有利である。そのための城吉の上京、そして箱根までやってきての相談なのであった。
基一郎は城吉が意外に思うまでその妻を怖《おそ》れており、相談は決して山荘の中では行われなかった。
基一郎は朗らかな声で言う。
「三瓶、今日はひとつ、レストランというところで西洋料理を御馳《ごち》走《そう》しよう」
そうして二人は外出してゆくのだが、強羅の駅前にある小さなレストランにも、まして宮ノ下の富士屋ホテルの食堂にも行きはしなかった。二人は強羅公園前の鄙《ひな》びた茶店に入り、それぞれかき氷を飲みながら、深遠な政治の問題、いかにして城吉の知人を当選させるかという密議にふけるのであった。要点は金のことである。基一郎がこれこれの金を出せば、あとは地元でなんとかなる、と城吉は述べ、基一郎は鷹揚《おうよう》にうなずいた。よろしい、明日君と一緒に東京へ帰り、銀行から金を出して君に持たせよう。そのほか基一郎は上ノ山近郊の徹吉や城吉の生れた村に橋を一つ寄附することを決めた。橋の名は「基一郎橋」である。
その日は八月三十一日であった。夕食のあと、基一郎はその日の新聞をもう一度見なおしながら上機嫌で言った。
「三瓶、颱風《たいふう》が九州にきているが、これが日本海に抜けてしまえばあとに心配はないそうだ。二百十日もまず無事だねえ」
新学期が始まるため、峻一もその母親も米《よね》国《くに》も、前日すでに東京に帰っていた。桃子だけが城吉の委細かまわぬ東北弁に莫迦《ばか》笑いを起さぬよう身体をよじっていた。ひさは無感動に、抑揚の乏しい声で康三郎を相手にぼそぼそと話していた。
翌日、基一郎と城吉とは十時すぎの電車で強羅を発《た》った。駅まで行く間、山地特有の驟《しゅう》雨《う》がきた。基一郎は用意周到に蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っている。「三瓶、はいりたまえ」とは言うものの、それは口先だけのことで、実は基一郎一人がさして歩いてゆくのである。駅に着くまでに城吉はしたたかに濡《ぬ》れた。雫《しずく》の落ちる着物のままに登山電車に乗りこむと、基一郎は彼方《かなた》の席を指さしてすまして言った。「君、あちらに坐《すわ》ってくれたまえ」
昼前、ここはあくまで晴天の小田原に着き、二人は汽車を待った。基一郎は梅《うめ》漬《づ》けの瓶《びん》づめを二つ買い、そして言った。
「この梅漬けが名物でねえ。これを持って行きたまえ。いい土産になる」
梅などはむしろ山形が名産地といってよい。城吉はあまり面白《おもしろ》からぬ気持で、瓶を待合室のテーブルの上に置き、駅前へ出てみた。かっと照りつける日ざしをあびる軒の低い小田原の家並、向うに海があるのだからなるほどあちらの町が少し低くなっているな、と城吉は思った。
そのとき、大地が震動したのである。かつて経験したことのない、底ごもりした雷鳴にも似た、為《え》体《たい》の知れぬ恐怖をおしつける地鳴りがとどろいた。同時に、城吉の身体は、衝撃と共に上方に突きあげられ、それから激しく上下左右にゆさぶられた。立っているのが難かしく、倒れるように城吉は地に伏せた。その大地が咆哮《ほうこう》し、生きもののように揺れうごき、のたくった。背後の待合室からころがるように人々がとびでてくる。うつ伏せのまま揺られつづけている城吉は、眼前に次のような光景を見た。
駅前の広場をへだてて二階建ての家がある。それが激しく揺れていると見る間に、ぎゅうっとかしいでそのままつぶれた。右の角に富士屋ホテルの自動車を置く家がある。これも変なふうに歪《ゆが》むと、障子《しょうじ》がはじけるように外れ、家全体が斜めにつぶれた。叫び声、悲鳴があちこちであがるようである。
凄《すさ》まじい地震は、瞬時にして過ぎ去ったように思われた。もとより動転した城吉には時間の観念も失われていた。大地の動きが収まったらしいので、彼は見苦しい姿勢から起き直ろうとした。が、すぐに追いかけて余震がきた。余震は一分か二分くらいの間隔をおいて、最初と同じくらいの激しさで大地をゆさぶり、家々を崩壊させた。地面が割れ、そこから泥水《どろみず》が吹きでてくる。
そのうちに余震もさほどひどくなくなってきたし、これ以上の災厄《さいやく》もあるまいという余裕もでてきたので、城吉はいくらかの弥次《やじ》馬《うま》にまじって、崩壊した家の方へ近づいて行った。人々が倒れた家々の瓦《かわら》をはがし屋根を抜いて、不幸な犠牲者を救いだしている。一人の髪もほぐれた中年の女がかつぎ出されてきた。顔から手から血まみれである。
「なんだべ、こりゃあ?」と、城吉はその生々しい血の色を見ながらはじめて考えた。「この地震は、なみの地震ではなかっべな。ほだ、こりゃあ箱根山が爆発したんだ、きっと」
なぜなら彼は、一昨日|大涌谷《おおわくだに》見物に出むき、硫黄の蒸気を吹く赤っぽい荒涼とした山頂に立ちながら、草鞋《わらじ》をはいた足裏に地熱を感じ一抹《いちまつ》の危惧《きぐ》を抱いたからであった。
と、城吉の前方を、黒《くろ》絽《ろ》の羽織を着、片手に蝙蝠傘をさした小男が、なんだか視察でもするような具合にあちこち見まわしながら歩いている。それまでまったく城吉の意識の外にあった基一郎であった。その胸にたれた金鎖が傘の傾きようによってときどき陽光をきらりと反射させる。傘をさしているのは暑い日ざしを防ぐためである。あらためて城吉は、自分の額に滲《にじ》んでいる汗の玉に気がついた。
「基一郎先生」と、彼は声をかけた。
基一郎はふりむいたが、とりわけその表情を動かしはしない。城吉がそこにいるのは当然にして必然であるというほどの顔をしている。
「三瓶」平生《へいぜい》と変らぬ声でこう言った。「これは君、どうして大した地震だよ。これでは汽車は不通だろうねえ」
「ほだなっす」
城吉は汗にまみれた顔をうごかしてぎくしゃくと相槌《あいづち》を打ったが、内心、基一郎の落着きに感服もした。
そのうち、数カ所から火の手があがっているのがわかった。崩壊した町の上を黒煙が低くなびいてくる。通りは荷物をかかえた避難民で一杯だが、まだ余震はやまず、誰《だれ》も火を消そうとする者がいない。ひび割れた道に不気味な余震にゆられながら、城吉は新しい不安を覚えた。
「ここにいたってしょんねえ。どっかさ逃げねばならねえ」
彼は、ふしぎげな好奇の眼《め》でまだあちこち見まわしている基一郎に、やや乱暴な言葉を吐いた。基一郎はうなずいた。城吉が考えたようにとりあえず安全な場所に避難するというのではなく、なんとしても東京へ戻らねばならないというのであった。表情には示さぬが、彼は彼で病院の安否を気づかっていたにちがいなかった。
線路伝いに酒匂《さかわ》川《がわ》のほうへ向った。前後に避難者の群れがつづく。基一郎はさすがに蝙蝠傘をすぼめ、それを杖《つえ》にして、歩幅は狭いが意外な速度でひょいひょいと枕木《まくらぎ》を越してゆく。あとから尻《しり》をはしょって城吉が従った。
酒匂川の鉄橋が見えてきたとき、基一郎の顔にはじめて狼狽《ろうばい》のいろが見えた。鉄橋は横倒しになり、曲りくねった鉄骨が川の中に落ちこんでいたからである。それに基一郎ははじめのうちこそ驚くほどの速度で歩いたが、もういい加減へたばってきたようであった。そのとき、またもや余震が二人の立っている大地をゆさぶり、基一郎はしゃがむようにして身をささえた。
「これは危ない。危ないよ、君。三瓶、君が先へ行ってくれたまえ」
鉄橋を避け、川岸を少し遡《さかのぼ》り、それから下《しも》曾我《そが》へ出た。駅の附近が甚《はなは》だしく陥没して、駅の建物は完膚ないまでに崩壊している。線路が晩夏の不吉な強い日ざしを受け、重なりあったり、奇態な具合にねじくれたりしている。基一郎はその無《む》慚《ざん》な光景を見ると、わざわざそこへ行き駅員が九名圧死したことを確かめてきた。
国府津《こうづ》には暮色のうちに着いた。ここは地盤が高いためか目に立つ損害はない。民家で生ぬるい水を貰《もら》い、線路の砂利の上に寝る。線路の上が一番地割れの心配もなく安全であるという基一郎の意見からであった。緊張と昂奮《こうふん》のためかさほど空腹を覚えない。それでも、夜になっても頻々《ひんぴん》と余震がつづき、城吉は屡々《しばしば》目ざめねばならなかった。眠ったかどうかわからぬうちに基一郎に起された。まだ夜半である。暗いなかを線路伝いに辿《たど》り、朝まだき大磯《おおいそ》に近づいたころ、線路の上に汽車が脱線していた。客車が何輛《なんりょう》も横転し、木の部分がざくろのように割れている。附近に菰《こも》をかぶせた死体がある。そればかりか、むきだしの死体までごろごろしている。動くことのない汚れた腕が横のほうにだらりと差しのべられている。城吉はぞっとし、目をそむけて通り過ぎた。無言で基一郎がついてくる。
朝、大磯の駅前で乾物屋が開いているのを見つけ、牛肉の缶詰《かんづめ》を買った。なんとか飯を食べられないかと訊《き》くと、前の晩に鮨《すし》を作った残りの飯があるという。酢のきいた飯をわけて貰い、城吉はがつがつと喉《のど》から奥へつめこんだ。基一郎はいくらも食べない。牛缶の汁《しる》に水を入れ、その露を缶に口を当てて飲んでいる。柔らかからぬ肉片のほうはすべて城吉に与える。奇妙なことをする人だと思ったが、この基一郎のふるまいは城吉には有難《ありがた》かった。ここで地下足袋を手に入れ、二人ともはきかえた。
平塚《ひらつか》、茅《ち》ヶ|崎《さき》、藤沢と歩きに歩いて、戸塚で日が暮れた。土《ど》塀《べい》はくずれているが門がまえのしっかりした家を見つけて、基一郎が言った。
「三瓶、あの家は方角がいい。君ねえ、行って泊れるかどうか頼んでみてくれ」
「そりゃ先生、先生行ってけらっしゃい」
「君、行ってくれたまえよ」
「いや、先生行ってけらっしゃい」
城吉は強情を張った。言葉に自信がないためばかりでなく、彼はこの一日あまりのうちに裸一貫の自分に自負を抱いてもきたのである。基一郎先生は、屋敷の中で金鎖をつけてすましかえっているうちは偉いのだろうが、かような天変地異に出会って一人ほうり出されては、単に足の弱い無力な老人にすぎないと思われてきた。現に遅れがちになる基一郎を助け助け城吉は歩いてきたのである。
結局、基一郎が先に立ってその家に頼んでみることになった。城吉が聞いていると、楡脳病科病院院長というようなことを言っている。前代議士とも言っている。どちらの言種《いいぐさ》もあまり効がなかったようであるが、その家では蚊帳《かや》を貸してくれ、裏の竹藪《たけやぶ》に吊《つ》って仮睡をとることができた。焚《たき》出《だ》しの温かい握り飯も持ってきてくれた。
そこをまた暗いうちに発った。そんな時刻なのに東京方面へ急ぐ人たちが大勢いた。すでに朝鮮人暴動の流言がとびかっており、線路の上を十人二十人と隊《たい》伍《ご》を組んで歩いた。基一郎ははじめからびっこをひいて遅れがちになる。城吉自身にしても慣れぬ地下足袋のため足一面に豆ができ、それがつぶれて大層痛い。しかし何処《どこ》から現われるかも知れぬ朝鮮人のほうが遥《はる》かに怖《おそ》ろしい。彼らは武器を持っているという噂《うわさ》であった。先ほど城吉たちの前後を歩いていた人たちはとうに前方の暗闇《くらやみ》の中へ消え、二人だけが取残されている。
「三瓶、ぼくはもう駄目《だめ》だよう」
突然、基一郎はさながら幼児が駄々をこねるように、いかにも情けない声をあげて立止ってしまった。
「ほだなこと言うもんでねえ、先生。愚図々々してればそれこそ危ねえ」
「しかし、ぼくはもう駄目だよう」
小《こ》柄《がら》の、今は着物も何も汗と泥でよれよれの見すぼらしいこの老人が、もはや精も根も尽きはててしまっていることは一目でわかった。城吉は往生した。周囲の暗闇が彼には不気味である。致し方なしに、線路のわきに腰をおろして落着かぬ休息をとりながら、城吉はひそかに思った。――こだなことになったらもうしょんねえ。もし朝鮮人出たら、先生なげて俺《おれ》だけ助かる。
すると、基一郎がぼそぼそした声で言った。
「三瓶、君は一人で歩くと危ないよ。君の言葉は大体よく通じない。もごもご言っている間に、朝鮮人と間違えられる」
あれ、先生は人の心を読むだべか、と城吉はややぎくりとした。それからまた思った。なあに朝鮮人と間違えられたっておれぁかまわねえ。生命《いのち》あっての物種だ。
ところが、へたばっている荷厄介な連れを励まし励まし、保土《ほど》ヶ|谷《や》辺りまで来たとき、城吉はやっと基一郎の言葉に合《が》点《てん》が行った。夜はまだすっかり明けきってはいない。しかし辻々《つじつじ》に人が群れている。異様に殺気立った雰《ふん》囲気《いき》がひしひしとこちらにまで伝わってくる。人々は手に手に竹槍《たけやり》も持ち、抜《ぬき》身《み》の大刀を地に突き刺している者もある。次の辻では、二人の若者が――あれが朝鮮人だなと城吉はちらと思ったが――かなりの群衆の中に捕えられており、こづかれたり罵《ば》言《げん》をあびせられたりしている。
城吉たちも尋問を受けた。基一郎はここでも楡脳病科病院と前代議士を持ちだしたが、昂奮をむきだしにした青年団の若者がうさん臭げに城吉を見、城吉はぶ厚い唇《くちびる》を閉ざしたまま思いがけぬ恐怖の念に駆られた。そしてそれは、やがて路傍に生々しい死体が投げ捨てられているのを見たとき頂点に達した。死体は地震によるものではなく、一瞥《いちべつ》で刺殺されたものと理解できたからである。――先生なげてこなくてよがったな、と彼は思った。
みじめな恰好《かっこう》をし、目のおちくぼんだ基一郎は、こんなときにもかぼそい声で自慢をした。
「そら見《み》給《たま》え。君一人だったらどんなことになったかわかったものではない。ぼくが言った通りだろう?」
電柱が焼け焦《こ》げて倒れ、蜘蛛《くも》の巣のように電線が路上をふさいでいる場所があった。まだぶすぶすと余《よ》燼《じん》の残っている箇所がある。化物のように黒ずんだ人々が徘徊《はいかい》している。
辛《かろ》うじて鶴《つる》見《み》まで来たとき、行路病者同然となっていた基一郎に僥倖《ぎょうこう》が訪れた。まったく偶然に、知人の自動車と出会ったのである。知人は近くで降り、車をそのまま青山までまわすように計らってくれた。急にぐったりとなり、手足をとられるようにして乗りこむと、基一郎はしばらく肩で息をしていたが、歩かずに済む身にとっては更《あらた》めて驚愕《きょうがく》するに足る窓外の見渡すかぎりの災害の跡に目をこらしはじめた。それから、彼の目は閉ざされた。ときどき疲れきって生気のない視線が瞼《まぶた》の下からすべりでるが、それはすぐまた隠れた。城吉が心配して問いかけるのにもほとんど返事を返さない。こうした沈黙の、半眼を閉ざした彼の状態は、車が青山通りに差しかかるまで続いた。
青山は被害が少ないように見受けられた。火災の跡もなく、家々はおおむね無事に立っているようであった。間もなく元ノ原のこちらから、どうしても場違いの感のする、それだけ威容に満ちた塔を林立させて白っぽい楡病院の前景が見えてきた。病院はつつがなく聳《そび》えていた。尖塔《せんとう》ひとつ崩れていなかった。病院の無事を祝福する城吉の言葉に、基一郎は閉ざしていた目を薄くあけ、平生になくけわしい声で言った。
「ぼくの造った建物が、そうむざむざ壊れるはずがない。君、そんなことは当り前だよ」
しかし、車が近づくと、病院はまったく無事というわけにはいかないことがわかった。基一郎が屡々|紅殻《ベンガラ》を塗らせて目新しく見せかけていた煉《れん》瓦《が》塀《べい》が、出来|損《そこな》いの積木細工のように段階をなしてむごたらしく崩れている。その下方に割れた煉瓦が乱雑に積み重ねてあった。また病院の屋根《やね》瓦《がわら》の大半が落下していた。更に大理石の光沢を誇る壁にも円柱にも、ところ嫌《きら》わず汚辱のような亀《き》裂《れつ》が走っていた。あとになって城吉がしげしげ観察してみると、芯《しん》の芯まで石材と信じていたこの建築物が、亀裂の底にまごうかたのない木材を忍ばせていること、殊《こと》に大円柱はごく表面だけに石を貼《は》りつけたものにすぎないことがわかり、さすがに彼も一驚した。なんだべ、こりゃあ、と彼は思ったものだ。こりゃ化けの皮が現われただ。テンプラ・コンクリだったべか。
もっとも城吉のそうした感慨は後のことになる。車が病院の正面玄関前にとまり、やつれはててはいるものの院長先生が怪我《けが》もなく戻《もど》られたとわかると、ばらばらと大勢の者が馳《は》せ集まって来、幽霊でも出現したかのような――と城吉は思った――大層な騒ぎとなった。そうした人数の背後に、着剣をした兵士が幾人も玄関わきに佇《たたず》んでいるのを城吉は認めたが、それは三連隊から警護にまわされてきた兵隊たちで、そのにぶく光る銃剣のいろは、病院の壁を這《は》いまわる数多《あまた》の亀裂や足元に散乱する割れた屋根瓦などと相まって、この情景をひときわ尋常ならぬゆゆしいものに見せていた。
座席の位置の関係上、城吉が先に車を降りる。誰も彼に言葉ひとつかけるではない。城吉をおしのけるようにして、基一郎を助けおろそうとする。誰の目にも院長が、その着物の甚だしい汚れからおしてもひどく弱っているように窺《うかが》われたからである。その手をまたおしのけるようにして、院長は車から降り、さすがに平生の愛《あい》想《そ》よい笑顔も出ず、背後を、円柱に亀裂の生じた玄関を見返った。と、そこに龍子《りゅうこ》が駆けつけてきたのである。
それは緊張と自負と責任感と――とめどなく昂《たか》ぶり奮いおこされた自意識の権《ごん》化《げ》ともいえる姿であった。縮《ちぢみ》の浴衣《ゆかた》にきりりと襷《たすき》をかけ、足は草鞋《わらじ》で固めている、と見えたが、これは普通の麻裏草《あさうらぞう》履《り》を紐《ひも》でしっかりと足にゆわえつけているのだった。そしてかなりの長さの短刀が、その帯の間からこれ見よがしに覗《のぞ》いていた。龍子のやや面長《おもなが》の、しかしわずかばかりの鷲鼻《わしばな》が常々いかつさを垣《かい》間見《まみ》せているその顔立ちが、このときほど犯しがたい凛《りん》乎《こ》さを示したことはなかった。その切長《きれなが》の目はやや吊上《つりあが》っているようにも見え、前からこの兄の嫁ごを敬遠している城吉は、仇討《あだうち》という連想を脳裏に浮べながら思わず後ろに退《さが》ったほどだ。
龍子は人々を押しのけて基一郎の前に立った。父を迎える平俗な感情の動きは、いささかもその顔に現われはしなかった。それほど彼女の内面の緊張は大きく、盲信する父親の留守に自分ひとり病院を守ってきたという気のたかぶりは、なおさら彼女の表情を固くし厳粛にし、能面に似たものにしていたのである。切口上で、ほとんどひと息にこう言った。
「ようこそお帰りになられました。病院も無事です。皆、患者さんも無事でございます。それから箱根のお母様方も、すべて御無事でいらっしゃいます。お母様方は、十国峠をぬけて三島の方へ出られる、そう昨日|報《しら》せが参りました」
箱根の山荘に残っていたひさ、桃子、康三郎たちが災いをまぬがれたという報知は、宮ノ下の出入りの植木屋が昼夜兼行で連絡に走ってくれ、基一郎の帰着より一日早くもたらされたのである。
一方、こうした毅《き》然《ぜん》とした愛娘《まなむすめ》の――といっても龍子はこの年三十歳になっていたが――出迎えを受けた基一郎は、まったく常日頃にないだらしのない反応を示した。いつぞやの新年の参内《さんだい》の折、やはりこの玄関先で二階からとび降りた一患者の足に自動車の幌《ほろ》を突き破られたときも眉《まゆ》ひとつ動かさず泰然としていたこの男、人々の狼狽《ろうばい》する場面になればなるほどすましかえった落着きを見せるこの院長が、このときばかりは平生の自己統御の客観性を喪失し、あられもない喜悦ぶりを現わしたのだ。この三日間にわたるさして頑丈《がんじょう》でもない老いた肉体の疲労が、冷静な点では比類のない彼の神経機能までを狂わせたのであろうか。ともあれ基一郎は、「おお!」というような呻《うめ》き声を発した。その顔が妙な具合に歪《ゆが》み、これまでに見られなかった多くの皺《しわ》を露出させた。それから彼は、龍子の報告に答えるでもなく、周囲の者にねぎらいの言葉をかけるでもなく、さながら三半規管でも侵された動物のように、なにかを捜し求めるかのように、その丈の低い身体《からだ》をおぼつかなく二度ほども回転させた。
ようやく基一郎の感情のはけ口、その対象が見つかった。鶴見からここまで彼を運んできてくれた知人の自動車の運転手である。基一郎はだしぬけに太からぬ腕をのばし、その朴訥《ぼくとつ》そうな男の袖口《そでぐち》を掴《つか》んだ。罪人でも捕えるような素早さであった。常々|肌《はだ》身《み》離さず持っている鰐皮《わにがわ》の不《ぶ》様《ざま》に大きい財布を電光のように取りだすと、同じように唐突な素早さで財布ごと相手におしつけた。
「これを、君ねえ、これを全部君にあげる。持って行ってくれたまえ。さあ、さあ」
しばしの応対があった。ようやく運転手が財布を受けとると、院長は更にあからさまな生地《きじ》をむきだしにした。すなわち、楡基一郎はそのままへなへなと崩れるようにその場に倒れかかったのである。咄《とっ》嗟《さ》に院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》がその身体をささえた。しかし彼もまた小柄であったため、二つの身体は危うく傾斜し、そこを七、八人の手がささえた。
芝居じみた混乱のうちに、基一郎は玄関の内に運ばれた。地下足袋が脱がされると、また新しい動揺が起った。院長の色の白い足は破れた血豆でいたく腫《は》れあがっていたからである。水道がとまっているため、裏の井戸から濁った水をくんだバケツが運ばれた。そして一同が多すぎる手で院長の足を洗い治療をほどこしている間、三瓶城吉はまったく事件の外にほうり出され、無骨なその顔にかいた汗を徒《いたず》らに掌《てのひら》でふいていたのであった。
あとで、院長の足を洗った茶がかったバケツの水で、城吉は自分の身体をふいた。
第九章
間断なく船首にかきわけられ舷《ふなべり》にまつわる波の音、そのかき乱された白泡《しらあわ》はやがて濃藍《のうらん》の海に溶け、あとは巻き立つような雲の微動だもしない水平線までちかちかと緻《ち》密《みつ》に豪華に煌《きらめ》く熱帯の海。昼まえ、その海の涯《はて》に二つ三つの小島の影が浮びあがってきた。小《お》暗《ぐら》いまでの緑が盛りあがる島影である。更に次の島が現われる。富士に似た形の山が聳《そび》え、そこに白雲がまつわっている。
毎日デッキゴルフを誰彼《だれかれ》なく大人たちにせびり、負けてやらないと腿肉《ももにく》のように赤い面《めん》貌《ぼう》をしかめて泣く米人の子供が、神経にさわる嬌声《きょうせい》をあげて手すりから島を指さしている。徹吉《てつきち》は額に汗を滲《にじ》ませながらそのうしろを通り、船橋《ブリッジ》へ登って行って双眼鏡を覗《のぞ》かせて貰《もら》った。すると、どこか懐《なつ》かしい日本の山を思わせた島の樹木は、椰子《やし》の林であった。水のすぐ上に、絵に描《か》いたような椰子の樹《き》が立ち並んでいる。その背後には種類も定かではない原生林が盛りあがりからみあっている南方の小島にすぎないのであった。
その横手の方にも、雲の奥に陸地らしいものが連なっているようである。それが次第に近づいてきて、漠《ばく》とした影がうす青い現実の山として現われてきた。
「あれがスマトラですよ。スマトラの本島です」
隣に立った船の士官《オフィサー》が言った。
徹吉はうなずいて、双眼鏡から眼《め》を離し、一続きの低く霞《かす》んだような陸地を、ふしぎな懐かしさと、ここしばらく彼につきまとっている訳もないいらだたしさとをもって眺《なが》めた。どうもこうして眺めると日本の陸地を見るような気がする。陸地というものがすべて似かよって見えるのか、それとも三年半を外地で過した望郷の念がもたらすものか、彼は判断しようとも思わなかった。
昼食をすましたあと、いつの間にか空の四半分が曇り、あちこちに驟雨《スコール》の幕がたれはじめた。船の前方は狭《さ》霧《ぎり》がたちこめたように見え、雲がけわしく動いている。そのうち、凪《な》いで油のように見える海面を、にぶく光る帯のようなものが進んでくる。と見る間に、強い風と共に横ざまに雨しぶきが甲板や窓に叩《たた》きつけてきた。が、それはすぐあがった。たちまち眩《まばゆ》い光の粒子に満ち満ちたどぎつい空が拡《ひろ》がってゆく。それでもいくらか堪えがたい蒸暑さが薄らいだようであった。
龍子《りゅうこ》は、上甲板の椅子《いす》に憩《いこ》っているアメリカ人船客と一緒に、椅子に背をもたせている。徹吉から見ると少しも似あわない、藤色《ふじいろ》の、裾《すそ》に襞《ひだ》のたいそう多いジョーゼットのワンピースを着、繻《しゅ》子《す》のリボンのついたつば広のホース・ヘアの帽子を目《ま》ぶかにたらして眠る真《ま》似《ね》をしているらしい。徹吉は英語を話すのが得手ではないし、短からぬ期間異国に暮したあとにもかかわらずやはり外国人と接するのは気が重く、彼らとは挨拶《あいさつ》くらいしか交わさない。それなのに龍子は同船の日本人と交際するよりも、どうもすすんで米人たちの話に割りこんでゆく。聞いているとほんのわずか片言の英語をしゃべり、あとは相手に頓着《とんじゃく》なく平然と日本語でおし通す。船の士官《オフィサー》がくると通訳をさせる。白人の子供の手を掴《つか》まえ、あちこちいじくり、「本当に可愛《かわい》いわねえ。お猿《さる》さんみたいな顔をして」と、しゃあしゃあとした顔で愛《あい》想《そ》か悪口かわからぬことを言ったりする。……
龍子は三カ月前、欧洲《おうしゅう》に来た。業を終えた徹吉は巴里《パリ》で彼女とおち会い、幾何《いくつ》かの国を通り一遍の旅行をしたのち、大正十三年十一月の末、二人はマルセーユから榛《はる》名《な》丸《まる》に乗って帰国の途についたのである。
そのまえ、慌《あわただ》しい旅先の仮《か》寓《ぐう》で、汽車の中で、料理店の中で、龍子は震災の惨状について夫に語った。まるでその天災が彼女一人のためにのみ起ったかのような口ぶりで話した。いかに最初の激震が強烈なものであったか、楡《にれ》病院の煉《れん》瓦《が》塀《べい》は瞬時にして道路にむかって崩壊したのだ。余震におびえる不安な夜、あまつさえ朝鮮人襲来の報知があった。院代|勝俣《かつまた》秀吉《ひできち》はぶるぶる震えてものの役にも立たず、肝腎《かんじん》の父親は生死不明である。そのときいかに彼女が陣頭に立って病院の者を叱《しっ》咤《た》したか、四百人の人員をかかえる楡病院の保有米は五日に満たない。幸い車が無事であった。いかに彼女が院代を伴《とも》にして区役所に米の配給を陳情し、徹吉に電報を打つため中央郵便局と、懐剣を帯にさしこんで駈《か》けずりまわらねばならなかったか。そしてようやく基一郎が戻《もど》ってきた。「お父様はあたしが生きているのを御覧なさって、嬉《うれ》しさのあまりそのまま倒れてしまわれたわ。運転手に財布ごとお金をおやりになって。本当にもったいない」しかし足じゅう血豆に腫《は》れあがってベッドにかつぎこまれた基一郎は、いつまでもそのまま失神している男ではなかった。横になったまま三《み》瓶《ひら》城吉を呼び寄せると、病院中の金をかき集め、彼に渡した。即刻山形へ戻り、米とトタン板を調達すること、大工と人夫を頼んで東京へ送ることを命じた。「本当にお父様は頭が働きなさるわ。しかしお父様はやはりお歳《とし》をとられました。オートミールをボルドーで冷やして召しあがるし、物忘れもひょいひょいなさいます。お前さまが帰られたら、もうお父様に御苦労かけないようにね」
で、峻一《しゅんいち》は? と徹吉は問うた。大震災の話の中に少しも息子のことがでてこなかったからである。するとその返事はこうであった。地震が起って病院の者が退避し余震がやや静まってから、龍子は院代を督励して患者と従業員の安否を調べた、そのあと気がついてみると、前庭の隅《すみ》で峻一は下田の婆《ばあ》やにすがって泣いていた。「あの子はそれからも余震をこわがって、ずっと家の中にはいらないんですよ。何日も自動車の中で寝ている有様ですのよ」これを聞いて徹吉は、このわが子さえも顧みない気丈な養父の長女、目の前でおおらかな食欲をみせながらしゃべっている自分の妻に対してひそかに腹を立てた。
また龍子は、他の弟妹たちの悪口も述べた。彼女はこの年の春、高等女学校を卒業したばかりの桃子を漢口《かんこう》まで送って行ったのだが、智《ち》能《のう》が足らず我儘《わがまま》な、勝手放題にだらしのない、楡病院の娘であることへの自覚も見識もまったく欠如しているその末妹は、船旅のあいだ間断なく見苦しい顔で涙をこぼしつづけていた……。要するに龍子の述べたことは、すべて父親と自分自身と病院に対する信仰と礼讃《らいさん》、その他のものへの侮《ぶ》蔑《べつ》と罵詈《ばり》なのであった。わが子さえをも無視するこの崇高な魂にとっては、その夫がどのようにして敗戦後の混乱した国で慰みとはほど遠い生活を送ってきたかということなど、もとより眼中にないにちがいなかった。それはそうだ。独逸《ドイツ》には震災もなかったし、なにより楡病院が存在しなかったから。
――しかしながら、あの「日本大地震」の記事を新聞に見て以来、徹吉は何も手につかぬ暗澹《あんたん》とした気持で十日余を過したものだった。
翌日の朝刊にはこう述べられていた。東京はすでに戒厳令が布《し》かれ戦時状態にはいった。横浜の住民二十万は住む家もなく食もない。ニューヨーク電報によれば、大統領クーリッジは日本のミカドへ見舞の電報を打ち、直ちに旅順港にいる米国分艦隊を日本へ発航せしめた。なお日本の地震はミュンヘンの地震計に感応し、朝の四時十一分に始まり五時少し前にもっとも強く感応した。
翌々日には、死者はすでに五十万、と報じてあった。日本の大小の休火山はふたたび活動を始め、東京、横浜、熱海《あたみ》、御《ご》殿《てん》場《ば》、箱根は滅亡してしまった。政府は一部大阪一部京都に移転した。東京は今なお火《か》焔《えん》の海の中にあり、電報電信の途はまったく杜《と》絶《ぜつ》している。
次の日も、また次の日も、さすがに徹吉は教室へ行く気がしなかった。下宿の一室に為《な》すこともなく閉じ籠《こも》り、そのくせあやつられたようにいつの間にか所持品を整理しようとしている自分に気がついた。重い足をひきずって食事をしに行くと、客の幾人かがわざわざ席を立って見舞の言葉を述べに来たりした。そういうとき徹吉は呆《ほう》けたように相手の顔を見つめ、それから気がついて辛《かろ》うじて一語をおしだした、「ありがとう」と。そうしているうち日本からの直接通信がはじめて倫敦《ロンドン》に届いたという記事が新聞に出たが、それを読むと事態は更に深刻のように思われた。民衆と軍隊との衝突、朝鮮人と軍隊との市街戦が報じられており、また新首相|山本《やまもと》権兵衛《ごんべえ》伯爵《はくしゃく》に対する暗殺企図、数名の大臣の死亡が記されてあった。
こうした真相の定かではない報道を異国で読む心理はまた別物である。一行のこまかい活字が、その何層倍もの不吉な予感を育《はぐく》み成長させた。徹吉はほとんど家族のことを諦《あきら》めかけた。夜はよく眠れず、暁《あけ》がたになってとろとろとすると、以前にもましてしきりに夢を見る。龍子のような姿恰好《すがたかっこう》をした女と峻一らしい様子をした子供とが、いずれも向うをむいて畳の上に坐《すわ》っている。いくら呼びかけてもふりかえりはしない。そのうち夢が覚めてしまうのだが、死んだ実父の夢像と思いあわせ、徹吉は諦念《ていねん》を心に言いきかせようと努力した。ある夜は地獄図にでもあるような火《か》焔《えん》の靡《なび》いているさまを夢に見、びっしょりと寝汗をかいていた。そうした心労の日夜を過した九月中旬に、彼はようやく一通の電報を受けとることができたのだ。「カゾクビョウインブジ」――徹吉は一人で麦酒《ビール》を飲みに街へ出かけてゆき、傍《かたわ》らでどよめく労働者たちの音声を、歯痛がようやく薄らいでくるような感慨をもって聞いた。翌日、教室で使う材料を買いに出、あれこれと色素を選びながら、だしぬけに神仏に謝したくなる気分に彼はおちいった。
せかれるように、連日徹吉は教室へ通った。九月の末というのに街路樹の葉が黄ばんで落ち、街には底にこもったただならぬ気配が淀《よど》んでいるように思えた。為替相場は急落を続け、国民党の集会が禁じられ、集会所や大きな麦酒店が軍隊と警官によって固められたりした。そういう状態に関《かか》わりなく徹吉は教室へ通った。
そのうち故国から震災後の手紙が到着しはじめ、しきりと帰国をうながしてきた。うす汚れた料理店の片隅にじっと目をつむり、白髪のまじりはじめた頭髪をまさぐりながら、そのもっともな慫慂《しょうよう》を無視することを徹吉は動揺する自分に強《し》いた。生涯《しょうがい》に許されたこの唯一《ゆいいつ》の機会を失うわけにはいかない。それが我儘であれ利己主義であれ、自分はやりかけた業を中途で放棄するわけにはいかない。
冬が意外に早く訪れた。西暦一九二三年、十一月八日、ミュンヘンには初雪が降り、古めかしい家々の軒に、街上に白く積った。ひどく寒い日で、この日の為替相場は英貨一ポンドが二兆七千九百三十億マルクを算していた。徹吉は午前中教室で標本を覗き、午後は二つの臨床講義に出席し、夕食をすませてから精神病学会の講演を聴きに行った。長い討論があり、会が終った十一時すぎにはもう雪はやみ、凍《い》てつく街に煙のような霧がたちこめていた。中央停車場の前まで辿《たど》ってくると、そこの広場が群衆で一杯である。なにかわからぬが緊張した不穏の空気がみなぎっているのが感じられ、徹吉はそこを避けて帰路を急いだ。下宿に帰りついて床に就いたのは十二時をまわっていたが、夜半の街に犬の遠吠《とおぼえ》がし、歯切れのよい、鋭い節の行進曲をうたう隊《たい》伍《ご》がいくつかむこうの街路を過ぎていった。
翌日、また雪の降るなかを教室に急ぐ途中、処々《ところどころ》に軍隊が屯《たむろ》しているのを見た。教室にきて徹吉ははじめて昨日何が起ったか――もとより社会状勢にうとい徹吉にはそのほんの輪郭を知るのがせい一杯だったが――を聞いた。昨夜、なんでもビュルゲルブロイ講堂で大集会があり、執政官カールが軍司令官ロッソウ将軍を伴って演説をした。その最中、突如、武装した一団の先頭に立って、アドルフ・ヒットラーという男が闖入《ちんにゅう》してきた。彼は卓の上にとびあがると天井にむけていきなり手にしたピストルを発射した。それから演壇のところへ突き進み、こう叫んだ。「国粋革命はいまや火《ひ》蓋《ぶた》を切った。この会場は完全武装をした六百人の隊員が占拠している。誰一人会場を出てはならぬ。現バヴァリア、中央両政府は更迭《こうてつ》され、臨時統一政府が組織された。軍、警両宿舎ともわれらの手に帰し、軍隊および警察隊はハーケンクロイツのナチ党旗をひるがえして当市に向って進軍中である!」――だが、事は、この蜂《ほう》起《き》は破れたのだ。夜の明けぬうちに、すでにオデオン広場もゼンドリング門もカール門も軍隊に占領されたことからもそれはわかる。
その日の夜、行きつけの食堂で食事をしていると、「皆さま、今日から警察時間が八時までです」と給仕の娘がふれて歩いた。外へ出てみると、戒厳令の布かれたミュンヘンの街は、なにか鬱勃《うつぼつ》たるものをはらみ、一人で歩いていると知らず知らず急ぎ足になる。小《こう》路《じ》を縫ってオデオン広場まできたとき、機関銃を据《す》えた一隊の兵士と、黒い毛ふさのある抜身の槍《やり》を持った騎馬巡査とが二列にそこを固めているのを見た。ルードヴィヒ街道は電車がとまり、馬車や自動車の往反もなく、薄い夜霧の中に不気味に凍えきって静まりかえっていた。
翌々日には大学全体が休講になった。日本婆さんのところを訪ねると、彼女はくすんだ台所の隅で、彼女同様年老いて色艶《いろつや》もわるいカナリヤを見守りながら、実直な危惧《きぐ》を露《あらわ》にして呟《つぶや》いた。
「学生さんが百人ばかり殺されたそうですよ。今夜あたりはいよいよベルリンから軍団がやってくるそうです。そうなると危のうございますよ」
戒厳令はそのような不安な状態で幾日も続いたが、徹吉は落着かぬ気分を払いのけるようにして教室の仕事に打ちこんだ。そこには他と隔絶されたひややかな空気が存在したからである。そのうちいつしか戒厳令も解かれ、ヒットラー、ルーデンドルフ、クリーベル等九名の者が国事犯として起訴されたことを、徹吉は遠い世界の事柄《ことがら》のようにいつもの汚れた夕食の卓で読んだ。その間にも通貨は暴落をつづけ、ついに英貨一ポンドが一二○○○○○○○○○○○○マルク、つまり十二兆マルクにまで達した。そのことは生活にさらに煩雑《はんざつ》な影響を与えた。纒《まと》まった書物を購《あがな》おうとする折、その度ごとに銀行へ急ぎ、カバン一杯の紙幣をかかえて書店へ駈《か》けつけねばならなかった。翌日になるとその紙幣の山がまた半分の価値に下落する恐れもあったから。
「だが、それも今は終ったのだ」
と、徹吉はひとりごちた。
すると、喜悦に近い感情がつかのま湧《わ》きあがり、船の振動と共に快く彼の体内をかけめぐった。今は悔いもなく日本へ戻るばかりである。それだけの労苦をこの三年半彼は果してきたのだし、将来の研究の土台になる書籍も、あの事情の中にあってはよくやったといえるほど集めることができた。その大部分はとうに日本に着いて楡病院の蔵に収まっているはずである。また養父や養母が以前から徹吉に望んでいた博士号も、ウインで仕上げた論文を日本へ送っておいたものに対しつつがなく授与されたという通知を、マルセーユを発《た》つ直前に彼は受取っていた。帰国した徹吉の立場はおのずから別のものとなるであろう。もちろん老いてきた養父の代りにしばらくは診療に励まねばなるまい。だが、あれだけの規模の病院を更に拡張する必要はない。現状を維持して行けばよいのだし、基一郎が養っていた書生たちもそれぞれ一人前の医師になりかけている。やがては閑《ひま》が、そういってわるければ時間が、養父が政治にかけた半分の金と時間が得られるにちがいない。その時間を自分は徒《あだ》やおろそかにはすまい。そして徹吉は、病院の隅にいつの日か建てられるであろう自分一人のささやかな研究室の幻影を目に浮べ、胸のうちが熱くなるのを覚えた。もとより大学の医者たちと競うつもりはない。ただ自分なりのものを、ゆっくりと、余生と時間とをかけて……。それに有難《ありがた》いことに、自分には生活費をけずって購った貴重な書物がある。その一部は日本の大学にも揃《そろ》っていないはずの文献が。
そうした徹吉の気持を乗せて、長かった印度洋も終りを告げるマラッカ海峡を船はすべるように走っていた。海の色はいくぶん緑色を帯び、近くの海面はとろとろとした鉛のようでもある。うねりはまったくなく、ただ実にこまかい皺《しわ》が一面に寄っている。象の肌《はだ》にさわるような感じでもある。
かたわらに龍子がきた。
「ああ、本当に揺れなくっていいこと。……あのトンプソンとかいう人のしゃべるの、英語なのかしら。まるっきりわからないわ」
「なにもお前、日本人もいくらも乗っているんだから、わざわざ外国人を選んでつきあわなくてもいいじゃないか」と、徹吉は言った。
「でも、私は人の話を聞くのが厭《いや》なのよ」と、龍子はぞんざいな口調で言った。彼女は至極丁寧な言葉遣いを用いぬときは、一体にけんもほろろのぞんざいな口をきく。「みんな退屈しているでしょう? 身の上話まで聞かされるのはかなわないわ。あの三等にいるなんとかいう音楽家なんか、甘粕大《あまかすたい》尉《い》がどうとかこうとか、……社会主義者なのじゃないかしら」
「外人だって同じことだろう」
「でも外人ならいくらしゃべったって、あたしにはなんのことやらわかりませんからね。それだけ気楽だわ」
徹吉は目の下にくだけてゆく白泡《しらあわ》の跡を目で追い、そして言った。
「峻一はどうしているかな?」
「また」と、龍子はいくらか面倒臭げな声を出した。「それは大きくなりましてよ。お前さまを見ても覚えていないでしょうね。今ごろは日米戦争なんて言って遊んでますわ」
「日米戦争?」
「ほら、アメリカの、なんて言ったかしら、排日移民法とかができたでしょ、……病院の人たちもそれでみんな憤慨しましたのよ。熊《くま》五《ご》郎《ろう》ってご存知でしょう、熊五郎が賄《まかな》いでアメリカ討つべしって演説して、……院代が言っておりましたわ。そういうのが米国《よねくに》や峻一にも波及するんです。米国《よねくに》が米国《べいこく》と戦争する、じゃあ笑い話にもなりませんわ。それに、子供雑誌にも日米未来戦なんて話ばかりでるんで、軍艦の玩具《おもちゃ》を買ってくれくれって困るわ」
徹吉は笑った。
「元気でいいじゃないか」
「でも内弁慶《うちべんけい》よ、ほんとに」と、父親と病院と自分自身以外のことを滅多に讃《ほ》めたがらぬ妻は、にこりともせずに言った。「学校じゃ隅《すみ》の方に小さくなってるのよ。ほんとにお前さまに似たのですわ。顔立ちは少しお父様似のところもありますけれど」
そうしてまた龍子は、養子である夫に対して遠慮|会釈《えしゃく》もなくその父親の礼讃《らいさん》をはじめた。震災で楡病院の本館はびくともしなかった。が、ほんの少し、或《ある》いはかなり、もっと有体《ありてい》にいうならば龍子自身もびっくりしたほどの亀《き》裂《れつ》が、壁やバルコニーや円柱に生じ、巧妙に隠蔽《いんぺい》されていた木材の部分を覗《のぞ》かせてしまった。しかし尽きることのない基一郎の発明の才は、この瑕疵《かし》をやすやすと解決したのだ。すなわち基一郎は多くの紙縒《こより》を作らせ、コンクリートに浸して亀裂を埋めさせた。その上からコンクリートを塗り砥《と》石《いし》をかけると、どこぞやの宮殿を髣髴《ほうふつ》させる楡病院の威容はたちどころに再現されたのであった。
「お父様はあたし達《たち》のために新しい家をお建てになったのよ。病院の向って左の横手に」
と、喜ばしげに得意気に、龍子はこのときはじめて打明けた。
「これはお前さまには黙っていろって言われていましたの。あたしが出る前に建築をはじめて……あたしはそんな無駄《むだ》なことおやめなさってと何度も言いました。でもどんな家ができているか楽しみだわ」
それから龍子は、その年の総選挙に結局基一郎が出馬しなかったことに話を及ばせ、――震災のこともあって山形の前工作もうまく行かず、なによりひさの強硬な反対に彼は屈したのである――さぞ無念であったろう父親の心境をうべなうように口調を早めた。
「お母様のおっしゃることも一理はありますけど、出馬さえされていれば、もちろん当選したわ。憲政会なんかに負けやしませんでしたわ。そしてまた宮中に参内《さんだい》なさるんでしたのに……」
徹吉がややむっとして黙っていると、龍子は晴れ晴れとした顔でなおこう言った。
「お父様はお前さまの帰られるのを本当にお待ちになっていらっしゃるわ。新しい家を建てて、今ごろは前の煉《れん》瓦《が》塀《べい》をまた新しく塗りかえさせていらっしゃるにちがいないわ」
その口調には、それだけの人物である楡基一郎からそのようにして迎えられるからには、徹吉はこれまで以上にしっかりしなければならぬこと、老いつつある父親を助けて楡脳病科病院を一層もりたてていかねばならぬという願望と要求とが、如実《にょじつ》にまざまざとこめられているのであった。
――新嘉坡《シンガポール》、そして香港《ホンコン》。
船足は決して早くはなかったが、むしろ遅々としてはかどらないように思えたが、それでも尚《なお》、刻一刻、たしかに日本へ、故国へ近づいて行っていることが徹吉には理解できた。客観的に、かつ生理的に、そしてまた心理的に。そう、シンガポールの支那《しな》人《じん》街の漢字の看板からして、すでに言おうようなく懐《なつ》かしかった。「万応涼茶」「広安欧美貨店」「華英電影戯」、その中にまじって「日本理髪」「日本薬房」というような文字。電車の中で言葉が通じなくて困っていると、一人の馬来《マライ》人が寄ってきて、片言の日本語で通訳してくれたこともあった。「ナニナニ?」「ヒトリ四銭、二銭オツリ」なによりも出港のとき、山高帽に黒の紋附《もんつき》、白足袋をはいて右手に扇子といったいでたちの老人が岸壁に見送りにきていた。徹吉がその姿を飽かず見つめていると、妻がせかせかと彼を呼びにきた。反対側の舷《ふなべり》では乗客たちが争って銀貨を海中に投じている。扁平《へんぺい》な小船に乗った男たちが、そのたびに海にとびこんで器用に貨幣を拾いあげる。
「ほら、銅貨だと見むきもしませんでしょ。すれっからしだわ。あんな連中にお金をほうることはないわ。本当にもったいない」
と、憤懣《ふんまん》を露《あらわ》にして龍子は言った。
香港を出港したのは、その年もおし迫った二十九日の正午であった。
昼食を終えて甲板に出てみると、左手にくっきりと支那大陸の山々が見える。前方には赤はげた岩石からなる小島が点在している。濁りをおびてとろりとした海に、黒い帆のジャンクが眠るように浮んでいる。後方をふりかえると、すでに香港の山が霞《かす》んでいこうとしている。
「もうすぐですよ。もう日本に帰ってきたようなものですよ」
先日の仮装大会で児《じ》雷《らい》也《や》の蝦蟇《がま》に扮《ふん》して人気をあつめた船員が、歯をむきだすようにして笑って過ぎた。もっともこのずんぐりとした小男は、乗客たちに常々同じような挨拶《あいさつ》をするので有名でもあった。――もうすぐですよ。スエズ運河を過ぎたら、もう日本に着いたようなものですよ。
それでも徹吉は、相手の邪気のない笑顔にあわせて自然と頬《ほお》がほころぶのを覚えた。そして、しばらくサロンで憩《いこ》おうかと歩きかけたところに、エジプトから同船した商社の桜井という男がきた。持前のがらがら声で船中の誰彼《だれかれ》を批評し、西洋人の女に「ケツ子さん」だの「マル子さん」だのという渾名《あだな》をつけては一人で笑いこけるという性癖の男である。
彼はいつになく生真面目《きまじめ》な顔でやってきて、まわりを見まわし、そして言った。
「楡《にれ》先生、なんでも東京の私立精神病院に火事があって、人死《ひとじに》もあったように支店に電報がきておりましたよ」
徹吉は一瞬はっとした。が、まさかという気持がすぐに蔽《おお》いかぶさってきて、その場はそのままに済ました。
ところが夕食のあと、船の事務長が彼のところに香港の英字新聞を持ってきた。小さく、昨夜東京の私立精神病院に火災があり、三四三名の患者中一〇八名が行方不明で、また十三の屍《し》体《たい》が発見された、という記事が載っている。場所も病院名も不明ではあるが、患者数からおして楡病院を否定することはできなかった。しかし徹吉は強《し》いて疑惑を払いのけようとした。大震災のときにはあれほど絶望の気持におちいったのに、それは杞《き》憂《ゆう》にすぎなかったではないか。
「私立の精神病院といっても、うちだけじゃありませんからね」
と、徹吉は朴訥《ぼくとつ》な笑顔で言い、なにか冗談を言おうとしたが、それがうまく喉《のど》からでてこなかった。
「事務長さん、賭《かけ》を致しましょうか?」
と、ふいに、かたわらから奇妙にはしゃいだ声で龍子が言った。
「賭けるって、何をです、奥さん?」
丸顔の見るからに好人物の事務長は、今にもだぶついた頬がころげおちそうな笑顔をむけた。
「もし、火事がうちの病院でしたら、あたしはエジプトで買った壁掛を差上げます。ほかの病院だったら、事務長さんがなにかくださるのよ」
「それは公平じゃありませんな、奥さん」と、事務長はもじもじと言った。「奥さんの病院が丸焼けに……(ここで事務長は目に見えて逡巡《しゅんじゅん》した)なったとしたら、とても私は壁掛を頂きかねますからね」
「そんなことどうでもいいでしょう。あたしは壁掛を差上げたいのです。事務長さんにはほんとによくして頂いたのですから……」
「まあまあ」
と、見かねて同席していた船医が口を出した。
「まあ、そうですな、明日の朝までに電報がこないとしたら、これは奥さまの勝です」
「そうよ、あたしの勝です。お気の毒さま」
と、ほとんど蓮《はす》っ葉《ぱ》な口調で龍子は言った。
「莫迦《ばか》な、お前どうかしているぞ。あの壁掛はお前の気に入りじゃないか」
と、徹吉は不器用に言って、無理やり妻を自室へ連れて行った。
しかしどうも落着かない。龍子はさらにいらいらしているようである。徹吉は彼女に睡眠剤を与えて早く休ませ、自分は一度上甲板へ出て行った。月影もなく一面に黒くおしひろがった海、船はゆったりと左右にかしぎながらその暗黒の海上を進んでいる。マラッカ海峡辺りに多かった夜光虫の光輝はこの夜は見られなかった。絶えることのない船のにぶい振動、潮の香とペンキの臭《にお》い、そして吹きつける海風はすでに肌寒《はだざむ》いまでになっている。徹吉は暗い海上に船の灯《ひ》をひとつ認め、それが右《う》舷《げん》の彼方《かなた》を行き過ぎてゆくまで見送った。さきほどからの胸さわぎはまだやまない。それを払いのけるように頭をふり、徹吉は船室に戻った。着更《きが》えをし、灯を暗くして寝床にもぐりこんだ。十一時|頃《ごろ》であったと思われる。まだ寝つかれないでいた徹吉は、ノックの音を明瞭《めいりょう》に聞き、咄《とっ》嗟《さ》にベッドをすべりおりた。同時に横手のベッドに寝ていた龍子がすばやく半身を起す気配が感じられた。
ドアをあけると、事務長が立っていた。やや面《おもて》を伏せるようにして、彼は告げた。
「楡先生、やはりお宅です」
そして一通の電報を手渡した。……
*
焼跡には、菊科の雑草がおびただしく群生していた。草花に趣味をもつ書生の言によれば、ヒメムカシヨモギという舶来の雑草で、鉄道草とも明治草とも呼ばれるそうである。鉄道草は春、こまかく柔らかい形をとって一面に萌《も》えだした。だがやがて、他の雑草をすべて圧倒する旺盛《おうせい》な繁殖力を示し、今ではアカザのように強い雑草まで隅へ追いやってしまった。夏が近づくと人の背ほどにまでのび、柔らかかった葉も大きく乾いて情緒のないものになってきた。そして中心が黄の白い小さな花弁をつけはじめ、そうした風《ふ》情《ぜい》のない花と葉が一面におい茂っているさまは、焼跡の無秩序をひときわどぎつく露《あらわ》にしているようでもあった。
あの年末の出火、――恒例の餅《もち》つきのあとの火の不始末から病院を全焼し十余名の死者を出した火災から、すでに半年が過ぎていた。
鉄柵《てっさく》の門と煉瓦塀は残っていたが、これがかつての楡脳病科病院のそれと同じものかと疑われるほどくすんで見すぼらしく見えた。中央玄関のあった辺りに、粗末な外来診察所が建てられていた。ずっと視線を雑草の茂るなかを左の方へ辿《たど》ると、二階建ての家――木造ではあるが外壁に白っぽい石をはりつけた家が見え、それは徹吉の帰朝を祝して基一郎が新築した家屋で、一部に火がはいったものの焼失をまぬかれた建物を修復して、今では家族の者全員が住みついているのである。裏手の方へまわると娯楽室だけが焼け残り、その附近に建てられたバラック建ての家屋と共に、ずっと数を減じた病院の従業者たちの住居となっていた。
かつて目をそばだてるに足る外観を誇った病院は、今は影も形も留《とど》めていなかった。それの存在した空間には初夏の空があり、不吉なまでに繁茂した雑草があった。敷地の右手のはずれのほうには、煉瓦造りの病棟《びょうとう》の外郭だけが崩れ残っていたが、異国の宮殿をいかがわしく模し鬼《き》面《めん》人《ひと》をおどろかせた尖塔《せんとう》も円柱も、幻のように消えてしまっていた。三百数十人を数えた入院患者も今は一人もいなかった。楡病院の機能は、現在わずか二十坪ほどの仮《かり》普《ぶ》請《しん》の外来診察所に限られていたのである。それにしても病院復興の緒《いとぐち》くらいすでに見られてよくはないか。あの火難からとうに半年が経過しているというのに?
事実は不幸は更に重なっていたのである。その前年に火災保険の期限が切れていたのを、院長はそれを更新しようとしなかった。彼に言わせれば、保険というものは、「あんなものは君ねえ、意味がなく単に無駄《むだ》なもので、保険会社を儲《もう》けさすためばかりのものですよ」ということになるのだが、そういう計画にみちた杜《ず》撰《さん》さ、石橋を渡らずに川をとびこえるという奔放さによって、基一郎はこれまで幾多の成功をかち得てきたのである。もっとも彼は前年世間を騒がした王子病院の火災のあと、すぐさま多くの消火|栓《せん》を病院内にもうけさせていた。だが寝入り端《ばな》を襲われた人々は、消火栓を使用するよりも自分の生命《いのち》を救うため身ひとつで逃れねばならなかったのだ。火のまわりが意外に早かったのは、徹吉の帰朝を迎えるため華々しいことの大好きな院長が、前面の景観よりずっと見劣りする後方の病棟から賄《まかな》いから、一面にペンキを塗らせて外観を整えさせたのが一因ともいわれる。ともあれ、楡病院は一夜にして全焼し、火災保険は入らず、あまつさえ病院の復興も許されていないというのが現状であった。
入院患者に犠牲者を出した基一郎に、警視庁の調べはきつく、世間の非難は集まった。病院の敷地は借地であったが、地主から退去を迫られ、それが裁判|沙汰《ざた》になっていた。病院が繁栄していたときには考えも及ばなかった冷たい視線、危惧《きぐ》、呟《つぶや》きが附近一帯の町内から洩《も》れていた。理由は楡病院が、狂人、狂者、瘋癲《ふうてん》、ものぐるいを収容する危険な病院であるということである。病院復興反対の運動は裁判の相手である地主から出ているもののようであったが、警視庁にも運動の手がはいったらしく、入院病棟建設に対して禁止の通告がきた。こういうときに基一郎の政治好きの悪い波がおしよせるとは皮肉であった。政友会が天下をとっていたときとは逆に、今では憲政会の息のかかった警視庁は事ごとに基一郎に不利な態度をとった。政党が変るたびに警視庁の上層部も更迭《こうてつ》され、そしてその警視庁がすべての病院の監督に当っていた時代である。楡病院のとる道は一つしかなかった。どこか東京の郊外に土地を借り、そこに入院病棟を新設する。しかし、政治道楽と派手な外観を尊んだ基一郎には、実状を知った家族の者が一驚したほどその資金がなかった。といって、形ばかりの外来診察では、残った従業員の給料さえまかなうことは難かしい。
……徹吉は、今し方外来診察所を出、白衣姿のまま、そうした八方ふさがりの重苦しい気持を抱いて、焼跡に繁茂した鉄道草のあいだの道を歩いていた。つれづれに引きちぎると、この舶来の雑草も懐《なつ》かしい青臭い匂《にお》いを発した。しかし徹吉は、この雑草にどうしても親しみが抱けなかった。傍若無人にのび花をつけているその雑草は、いかにも病院の災《さい》厄《やく》とひきかえに繁栄してきたように思えたからである。それはまったく人の丈ほども伸び、向うを歩いている人影は辛《かろ》うじて肩から上だけを覗《のぞ》かせていた。
そして徹吉の視線は、鉄道草の茂りの彼方に、ぽつんと一つ離れて残っている蔵の外郭にひきつけられた。蔵にも火が入り、完全に屋根が焼け落ちていた。おそらくは震災のときにはいった亀《き》裂《れつ》を修復していなかったために、火災が鎮火した暁方《あけがた》から再び燃えだしたのだということを聞いていた。この蔵さえ無事であったなら、少なくとも徹吉が滞独時代苦労して蒐《あつ》めた書籍だけは助かったのだ。うす汚れ燻《くす》んだ蔵の白壁を眺《なが》めるにつけ、ここ半年他事にまぎれてきた胸の疼《うず》きが、今ようやく蘇《よみがえ》ってくるのを徹吉は感じた。帰国して焼跡に立ったときには、ただ茫然《ぼうぜん》として、悲痛の念さえも起らなかった。なによりも義父基一郎の落胆を、彼は励まし見守ってやらねばならぬ立場にあったからだ。
四十年の努力の結晶である病院を一朝にして失った基一郎は、平生《へいぜい》の自制を喪失し、一時は病院の者が憂慮するほどの精神状態を呈したのである。入院患者に犠牲者を出した院長の責任を問うた新聞記者に対し、彼は掴《つか》みかかるばかりの気配で言ったという。「君、それは無礼だぞ。患者はちゃんと全員安全な場所まで退避させたのだ。それでも何人かがわざわざ火災の中へとびこんで行ったのだ。君、尋常の神経でそんなことを言って貰《もら》っては無礼だぞ」基一郎の意中は察しなければならぬとしても、やはりこれは暴言というべきである。基一郎は裁判相手の地主の代理人に対しても充分侮辱罪が成立つほどの暴言を吐き、警視庁へ呼びだされても不始末をしでかした病院の長として言うべからざる暴言を吐いた。警視庁では院長の更迭《こうてつ》を考えているという報知を、徹吉は院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》から聞かされたくらいである。幸い、基一郎の異常な昂《こう》奮《ふん》状態は長くは続かなかった。そのあとに以前の彼を知る者にはいぶかしいほどの沈鬱《ちんうつ》状態がきた。裁判の成行き、病院再建の資金の調達、かつての基一郎ならおそらく人の目を奪う敏速な手腕を発揮したろうに、このたびは彼のなめらかにうごく口元は閉ざされ、その行動はどこかぼんやりしていた。院長はもう駄目になったのではないか、火難の衝撃で老いぼれはててしまったのではないか、というのが周囲の者の偽らぬ考えであった。あれほど基一郎を絶対視し、その一挙一動に敬意をはらうにやぶさかでなかった院代勝俣秀吉すらも、「ですから病院の地所だけは買っておいたほうがいいと前々から私が申上げていたのですが、君ねえ、土地なんかは借地で充分だよ、その金をほかに回転さすのが金の使い方というものだよ、とおっしゃって、とうとうお聞きとどけにならなかったのです」と、いささか不信の念をこめて愚痴をこぼしたほどであった。
とにかく基一郎は、病院再建の目算も遅々として運ばぬまま、診療はすべて徹吉たちにまかせ、鬱々として焼け残りの広からぬ家に蟄居《ちっきょ》していたのである。診療をまかせるといっても、外来患者の数は微々たるものであった。今日も徹吉は朝から診察所につめていて、午前中に診た患者が二人、昼すぎから訪れた相談人が一人にすぎなかった。
徹吉は重い足を運んで、蔵の裏手に出た。かつては右手に賄い、左手に基一郎自慢のラジウム風呂《ぶろ》が建っていた場所である。浴場は辛うじてその姿を留めていた。焼失した部分にトタンを囲って、今も風呂場として使用されていた。そんな大きな浴場に入る人員もいないのに、これだけは基一郎のきっぱりとした言葉によって、無駄なことながら未《いま》だに湯が立てられているのだった。
賄いの跡から先は茫々と鉄道草の伸びるにまかせた空地になっている。そこに峻一《しゅんいち》が米《よね》国《くに》と書生の熊《くま》五《ご》郎《ろう》と一緒に、地面にかがんでなにかやっているのを徹吉は認めた。思わず声をかけると、峻一はこちらにふりむいた。しかし、困ったような、中途半端な、義務感からきたような笑顔をほんのわずか見せると、すぐに照れたように向うをむいてしまった。ずいぶんと背ののびたその十歳の男の子、留学中ずっと考えていたおもかげとはかなり違って成長した峻一は、半年|経《た》った今、未だに父親に慣れ親しまないのだった。近づこうとした徹吉の足はためらった。明らかに自分を意識して向うをむいてかがんでいる小学校三年生の長男を、彼は寂しい満たされぬ気持に捕われながら、そのままほっておいてやることにした。たとえ近づいて何をやっているのか尋ねたとしても、どうせぎこちない、なじめない他人に対するような返答しか期待できそうにない。
徹吉は足を返して、ふたたび蔵の横手をよぎった。この冬、三年半ぶりに故国に戻《もど》った実感を味わう余裕もないまま、彼はこの焼跡で焼け残った書籍を掘り起したものだ。数千の、ひとつひとつ購入時の思い出につながる書物、その大部分はむろんのこと灰になってしまっていた。だが一部が、まわりだけ焼け焦《こ》げて、水浸しになって、泥《どろ》に汚れて、灰のなかに形骸《けいがい》を留めていた。肉親の骨でも拾うように、徹吉はそれを掘り、天日に干したものであった。大学でも揃《そろ》いはないと思われる精神神経学雑誌は綺《き》麗《れい》さっぱり焼けてしまっていた。ヴントやブロイラーやビンスワンガーのいくらかが焼け残った。周囲は焼けただれ、中央の部分だけが痛々しく残って。干して乾かした書物は、頁《ページ》を繰ろうとすると焼けた部分がもろくも崩れた。あの当時は極度の緊張のため機械的に徹吉はその営みを続けたものだが、いま更《あらた》めて追想すると、どうしようもない空虚さが胸を浸した。病院はいつの日か再建されるかもしれない。しかしあの文献をふたたび集め直すことはむずかしい。いや、彼は病院の再建のため身を粉にして働かねばならぬだろう。してみると、無に帰した病院と書物とは彼の生涯《しょうがい》を決定づけたことになる。彼は、徹吉は、つまるところ研究という道には縁がなく、一臨床医として生涯を終えることになるのだろう。
徹吉は、運命というものを感じた。無常というものを感じた。いずれも深い意味あいを有するものではない。彼の故郷である東北の農夫が天災に対して感ずる、ごく素《そ》朴《ぼく》な本能的な思考である。徹吉には原始的な信仰もなかった。しかし彼は、弟の城吉からの便りで知ったことだが、実父がその晩年に法然上人《ほうねんしょうにん》の念仏八万遍を志し、どうしても声が出なくなってしまうのを、なお数《じゅ》珠《ず》をもち算盤《そろばん》をおいて、蝉《せみ》のなくような、何を唱えているのかわからぬような声で執拗《しつよう》に続けていたという心境を、なにか理解できるような気もした。そういえば彼は、十五歳になった年――その年徹吉は上京したのだが――父に連れられて湯《ゆ》殿山《どのさん》の初詣《はつもう》でに行ったものであった。東北の山村ではこの山を崇《うやま》い、息子が十五に達すると湯殿山参りをするのである。出発のまえには毎朝水を浴び、魚介虫類のようなものまで殺さぬようにして精進する。多くの一厘銭《りんせん》をひとつひとつ塩で磨《みが》いて賽銭《さいせん》の用意をする。そして御山参りの第一日は夜半まえに村を発《た》ち、本道寺というところまで十四里を歩くのである。二日目はまだ暁にならぬころ志津という村に着き、そこで先達《せんだつ》を頼む。湯殿山の谿谷《けいこく》にかかると御山が荒れだした。豪雨が全山を撫《な》でて降り、笠《かさ》はとんでしまい、茣蓙《ござ》もちぎれそうであった。それでも先達はひるまずに六根清浄《ろっこんしょうじょう》御山|繁昌《はんじょう》と唱えて登ってゆく。そのうち一面の氷で埋められた谿《たに》を渡るところへきた。徹吉がおそるおそる渡ろうとすると、突風が凄《すさ》まじい響きを立てて吹きつけ、彼は危うく転倒しかけた。するとうしろを歩いていた父が鋭い声で叫んだ。「徹吉、這《は》え。べたっと這え」徹吉はその場に身を倒し、冷たい氷の上にしがみついたものだが、恐怖と共に、何ともいえぬ敬虔《けいけん》な気持も味わったと記憶している……。
「若先生」
と、彼を呼ぶ声がした。鉄道草の茂るなかを徹吉を捜しにきた看護婦の声であった。
「患者さんが一人お見えです」
すでに若からぬ徹吉はうなずいて、ちょっとふりかえって峻一のほうを眺め、それから足早に外来診察所の方へ引返していった。
一方、徹吉の去ったあとの雑草のあいだの道で、峻一は丈高くのびた鉄道草の茎を折り、しきりと地面に並べていた。軍艦の形をつくっているのである。
「これが戦艦|薩《さつ》摩《ま》ね」
と、峻一は言って、大砲を現わすほそい茎を何本も並べた。
「そんなのあるかい。そんなにやたらと大砲がついててたまるかい」
と、中学生の米国は、こんな遊びにやや飽々しているらしく、批評がましい声を出した。
だが、この乳臭い遊び事に加わっているなかで、もっとも熱心なのはほかならぬ痘痕《あばた》の熊五郎であった。多くの書生たちが郷里へ帰ったり他に職を求めたりしているのに、この怠け者の書生はなお便々と楡病院に寄食し、もっぱら子供たちの相手をして日を送っているようだった。
「そうだ、これが土佐、加賀、紀伊《きい》、尾張《おわり》……」と彼はすこぶるひたむきな声で言った。「そしてこっちが天《あま》城《ぎ》、赤城、高《たか》雄《お》と……。これで十六|隻《せき》、これで八八艦隊が揃った」
かつての社会主義者は、どうしたことか今また厳然たる軍国主義者に変じていた。
「この八八艦隊を作ろうとして、われわれがどんな苦労をしたですか。いいかね、官吏から会社員から月給を差引いてお金を集めたものだ。ぼくだってお金を出しましたよ、そりゃあもう大変なものだった。これが全部できあがりゃあ日本は絶対に負けない。それでやっこさん、アメリカめが慌《あわ》てたね。なにしろ軍艦を作るスピードは日本のほうがぐんと早かったからね。そこで軍縮案なんか出しやがったんだ。いいかね、五五三なんて馬鹿《ばか》げた案を呑《の》んだ政治家どもは腰抜けだ。移民を蹴《け》られて歯がみをしたって、悲しいかな、八八艦隊は今はないのですぞ。しからば我々はどうすればよいのか。坊や、どうするね?」
「もう一遍、八八艦隊を作ればいいよ」と、峻一は答える。
「そうだ、偉い、よく言った!」熊五郎の渋茶色をした顔の発疹は目に見えて赧《あか》らんだ。「そのとおりだ。国民がふたたび一丸となれば八八艦隊を作り直すくらい訳はない。海軍条約なんか糞《くそ》をくらえだ! いいかね、薩摩、土佐、紀伊、尾張……」
「あ、おじいさまだ」と、そのとき峻一は言って立上りかけた。さきほど父親から声をかけられたときとはまるきり違う活溌《かっぱつ》さで。
こちらの唯《ただ》ひとつ残った二階屋の裏口から姿を現わしたのは、たしかに基一郎にちがいなかった。だが、どのような変りようがそこに見られたろう。かつての洒落《しゃれ》者《もの》、もったいぶった姿恰好《すがたかっこう》、精力と計算にみちた物腰は一見跡形もなく失われていた。浴衣《ゆかた》にだらしなく帯を巻きつけ、両手にはなにかびんのはいった洗面器をささえていた。下町の老人がちょっと銭湯へ出かけるといった風態《ふうてい》である。その小《こ》柄《がら》な身体は、火災以来、ひときわ目に見えて縮んでしまったようにも窺《うかが》われた。
そればかりか、基一郎は浴衣の裾《すそ》をくるりとまくり、脛《すね》をむきだしのだらしのない恰好のまま、今は見るかげもなく応急の囲いだけをした浴場へむかって歩きだした。蔵の裏まできたとき、峻一が幼い声で呼びかけたが、その孫の声にも気がつかないようであった。やや前かがみになり、地面を見つめてせかせかと足早に歩いた。
このところ彼は金策に疲れきっている。大丈夫と信じていた或《あ》る信託銀行には断わられ、知人に紹介された或る金主はたしかに現金を持っているようだったが厖大《ぼうだい》な利子を要求した。あまつさえ昨夕の万朝報には、楡病院に対する誹《ひ》謗《ぼう》の記事が載っていた。楡脳病科病院は町内百余名の反対があるにもかかわらず再築を強行する計画で、その資金に困り家賃まであげ――基一郎は青山墓地と病院との谷間にかなり貸家を持っていた――町内では非難の声が高まっている、云々《うんぬん》。
しかし基一郎は、眉《まゆ》をひそめ考えこむようにして浴場の前まできたが、そこで釜《かま》を炊《た》きつけている伊《い》助爺《すけじい》さんの姿を認めると、昔のままに愛《あい》想《そ》のよい笑いをやつれた頬《ほお》に刻んだ。
「伊助、いや、ご苦労ご苦労」
「これは先生さまですか」
他の事物とは異なり、伊助爺さんの姿だけは昔と大した変化がなかった。背の瘤《こぶ》がいっそう隆起し、そのためどんなに努力しても前かがみの姿勢を変えられないのだが、相変らず煤《すす》けて黒ずんで、不幸な大火災もこれ以上のうす穢《ぎた》なさを彼には与えることができなかったように見受けられた。
「まだ風呂は早いで。上っつらは熱うなったかも知らんが、底の方はまだ水で……」
「なになに、それで結構」
基一郎は自分自身に頷《うなず》くように、もう一度疲れたような笑顔を肉の薄くなった頬に刻んだ。
浴場に入り、申訳に作られた板の間の隅《すみ》で、せっかちな慌《あわただ》しさを見せて裸になる。手伝おうとする伊助を断わって、広い浴槽《よくそう》の上にわたしてある板を一枚々々はいでゆく。いい加減に湯をかきまぜ、ろくに外で身体を濡《ぬ》らしもせずずぶりと浸《つか》る。
それから基一郎は奇妙なことをした。腕をのばし洗面器をひき寄せると、その中にころがっているのは彼の愛飲するボルドーのびんであった。ボルドー酒ならぬ単に赤く色のついたサイダーなのである。ちゃんと栓《せん》抜《ぬ》きとコップもはいっている。基一郎は栓抜きをとりあげると、何回かこんこんとボルドーの王冠を叩《たた》いた。その薄手の金属音は、広々としたがらんと殺風景な浴場の中にしばらく反響する。それだけの手数をかけて丹念にボルドーの栓を抜いたのだが、おしこめられた炭酸ガスは赤い液体を泡《あわ》と化してびんの外にあふれださせた。狼狽《ろうばい》して痩《や》せた老人はコップでそれを受ける。ようやく泡が静まってくると、今度は前にもまして慎重にコップのふちまで赤いサイダーをつぎたす。
コップを捧《ささ》げ持ったまま、ふたたび基一郎は肩までぬるい湯にひたる。おもむろにコップを唇《くちびる》にあて、一口のむ。もう一口、隆起した喉仏《のどぼとけ》がごくりとうごく。それから彼は目をつぶる。片手にまだボルドーの半分はいっているコップを持ったまま、じっと目をつぶる。どんな想念がその頭を訪れているのか。彼の頭髪は半白になっていた。以前は人工的な丹念な手入れにより、つややかに黒々としていたその髪は、今は油気もなく、生気を失い、ところどころほつれていた。威厳を見せたそのカイゼル髭《ひげ》だけは、黒チックのためまだ黒さを保っていた。しかしかつての時間をかけた手入れ、入念な配慮はほどこされておらず、かえってこの老人全体を、貧相に、滑稽《こっけい》にさえ見せていた。急速に皺《しわ》のきた血色のわるいその顔、骨の浮きだした胸部、そしてその瞼《まぶた》は閉ざされたままであった。広い湯の面《おもて》にぽつねんと浮いたその頭に、一体何が、どんな考えが去来しているのか。瓦《が》解《かい》と絶望、屈辱と諦念《ていねん》?
ふいに、その瞼がひくひくと動いた。目がうすく開かれた。すると、やや濁った白眼と大きからぬ瞳《ひとみ》が、一瞬気味のわるいかがやきを放ち、同時に痩せて骨の浮いたその小柄な身体《からだ》が、ふしぎな精力を帯びたかと思われた。腕をのばして湯槽《ゆぶね》の外のボルドーのびんをとる。勢いよくコップにつぎたす。二口三口音を立ててのむ。
だが、それもつかのまのことであった。やがて目の光がにぶく、ぼんやりと定まらなくなる。しばらくその視線は、おぼつかなく頼りなげに、トタンで囲ってある横の壁に、天井にとさ迷っていたが、やがて瞼は再度閉ざされた。片手に飲み残しの赤い液体のはいったコップを持ち、ぬるま湯に浸ったままの沈思、果てることのない呆《ほう》けたような沈思……。
これが昨今の、楡基一郎の日常の一齣《ひとこま》であった。
*
……へんに肌寒《はだざむ》かった。まだそれほど冷える夜ごろではないはずだのに、ぞくぞくと皮膚の表層に鳥肌が立つような気がした。そのくせ額から頬が、いや身体全体が熱っぽかった。胸の内部に慢性に燃える熱源があり、それが全身をほてらせ、ただ皮膚の表層だけが異様に寒冷を感じてふるえるようであった。
熱があることははじめからわかっていた。だが聖子は、体温計を手にとる気がしなかった。水銀柱が無情におびやかすように昇るのを見るのが怖《おそ》ろしかったからだ。
しばらく前、彼女は夫に隠れてひそかに町医者の診察を受け、肺結核、それもかなりすすんでいるのではないかという宣告を受けていた。肺病、そのまま死病につながるこの語句を、彼女は夫に打明ける勇気がなかった。久しい以前から佐々木と聖子との夫婦生活は、破局とまでは行かないまでも、堪えがたく重苦しいものになっていたからである。
親の決めた婚約者を打捨て、あらゆる反対をおしきり、勘当同然となって――事実聖子はあれ以来一度も楡家の門をくぐったことはなかった――一緒になった二人の結婚生活は、はじめのうちこそ甘く濃《こま》やかなものであった。しかし、いつとはなしに、目に見えぬ罅《ひび》が徐々に大きくなっていったのは争えぬ事実である。お嬢さん育ちの聖子と、若いうちから渡米して苦労をした佐々木の気質の相違からきたのかもしれない。一英語教師の職ははじめから佐々木の求めるものではなかった。或る商社に入り、まもなくそこもやめ、二、三の職を転々とした。
そこからくる生活の苦労はもとから覚悟をしていた。佐々木がしきりに欲しがった子供がついにさずからなかったことも原因の大なるものではない。聖子を心底からうちのめしたのは、夫の酒癖であった。酒をのんだときの夫は性格が一変してしまう。ここ一年来、それは病的にまで昂《こう》じていた。意のままにならぬ人生が佐々木をすさませた。いったん飲みだすととめどがなくなる。昼間から飲み、夜じゅうあちこちを飲み歩いて暁方《あけがた》になって戻《もど》ってくる。酩酊《めいてい》して寝てくれればまだよい。大抵そういうときの夫は、常人とは思えぬ昂奮状態にある。寝ている妻をひきずり起し、ねちねちと難癖をつけ、彼女の実家のことを罵《ば》倒《とう》し、そこらのものをひっくり返したりする。翌日は夜まで死んだように寝る。目覚めるとしきりに後悔し、聖子にわびるが、それは長くはつづかない。そして、その間隔が最近目に見えて狭《せば》まっていた。
聖子は、さきほどまで横になっていた蒲《ふ》団《とん》から起き出した。着物のまま仮寝をしていたのである。夫は朝まで戻らないかもしれない。しかしふいに帰ってくるかもしれない。夜中に戻ってきたときには酒を要求し、彼女をいたぶりながら朝まで酒をあおるのである。どんよりと血走った目をし、よろけながら呂《ろ》律《れつ》のまわらぬ声をはりあげる夫の姿を想像しただけで、彼女は身のすくむ思いがした。それはもう嘗《かつ》て聖子が身を投げだして愛した男ではなく、ひたすら怖ろしい別《べっ》箇《こ》の生物にすぎなかった。
聖子は二、三度|咳《せき》をし、だるく熱っぽく同時に寒気のする身体を運んで、火《ひ》鉢《ばち》の炭をつぎたした。灰になった炭がもろく崩れる。ほかに為《な》すこともないようにぼんやりと鉄瓶《てつびん》をかける。あれほど、人の噂《うわさ》にのぼるほど整っていた彼女の顔立ちの、なんと生気なくやつれはてたことか。身だしなみを、容貌《ようぼう》を整えようとする気力をとうに彼女は失っていた。
聖子はこれまでに屡々《しばしば》下田の婆《ばあ》やから、真心をこめてもってきてくれる米や野菜のほかに、お金をも受取っていた。それが母親から出たものであることはわかっていたが、その母はついに一度も顔を見せてはくれなかった。思いきって楡病院を訪れるのは彼女の矜持《きょうじ》が許さなかった。あれだけの反対をおしていったん出た家に、どうしておめおめと顔出しできようか。
だが、今度の病気、医者から安静を命じられ療養をすすめられた等閑に附しがたい疾患、いまも刻一刻とこの身を蝕《むしば》んでいるにちがいないこの病については、彼女はどうしてよいかわからなかった。しらふのときの夫に打明ければ、もちろん彼は入院をすすめるだろう。だがその費用はどこからでるのか。実家さえ元の状態にあったなら、聖子は恥を忍んでその援助を求めたにちがいない。しかしその実家は、――聖子は楡病院の火災のあとそっと近所まで行ってみたことがある。震災のあと修復された懐《なつ》かしい煉《れん》瓦《が》塀《べい》だけは残っていた。そしてそのほかに、元ノ原のこちらから見ると、何ひとつ残っていなかった。天空にそびえたっていた病院は跡形もなく消失してしまったのだ。その後の病院の困窮については、たまに尋ねてきてくれる下田の婆やから問わず語りに聞かされていた。窮境にある父親にこのうえ迷惑をかけることは許されない。
――自分は死のう。
突然、このような唐突な考えが、聖子の胸に、ごくたわやすく、唯一《ゆいいつ》の解決としておしのぼってきた。
――自分は死のう。
聖子の視線は、かたわらの茶箪《ちゃだん》笥《す》へと移っていった。その中には薬の袋がある。最近眠れない夜をすごす聖子のために、いつぞや下田の婆やが持ってきてくれた睡眠剤である。まだ十包は残っているだろう。あれを一遍にのんだなら、そのまま二度と覚めることのない眠りにはいれるだろうか?
だが、その思考は一瞬のものであった。死ぬのは厭《いや》だった。額が燃え、全身が身の置き場もないほどだるい、そしてそのゆえに、彼女は生きていたかった。どんなみじめな思い、どんな苦しみがあろうとも、死はそれよりも怖ろしく、厭《えん》悪《お》されるものであった。
戸外で蟋蟀《こおろぎ》が鳴いている。おのがじし競うように間断なく……。すると記憶が、まざまざとした記憶が蘇《よみがえ》ってきた。あれはあの楡病院の裏手の二階の間であった。姉が強硬に自分をかきくどき佐々木との結婚を翻意させようとしたのは。そして何だろう、あの奇妙な朗読調の節まわしは? 「……緋《ひ》縮緬《ぢりめん》の細帯をかけ……髪の毛一筋も乱さず美しく化粧したるまま……」
「ビリケンさん!」
と、聖子は我知らず声に出して言った。
ビリケンさん、あの新聞を朗読することだけを業としていたとんがり頭の男はもうこの世にいない。昨年の暮の火災の犠牲者の一人であったからだ。ビリケンさんもいない、病院もすでにこの世に存在しない。
しかし聖子は、思わず知らず目《め》尻《じり》に溢《あふ》れてきた涙を手の甲でおしぬぐった。ビリケンさんの追憶はそれと重なった一人の少女の像、彼女の妹の桃子の姿を意識の上にのぼらせたからである。
その桃子は今は少女ではなかった。漢口《かんこう》の同仁会病院の外科部長である四郎の妻として異国に生活しているのであった。あの毬《まり》つきばかりしていた妹、弟の米国《よねくに》といさかいばかりしていた妹、活動写真の話ばかりしていた妹、それが人妻となり、今は遠い支那《しな》の都会で暮している、そう思うと聖子は、以前には考えもしなかった親しみと愛情を、あの頬《ほお》の下ぶくれした少々だらしのない妹に痛いほど感ぜざるを得なかった。そしてその桃子は、まもなく日本へ戻ってくる。
強制的に漢口へ連れていかれてから、桃子は頻々《ひんぴん》と便りを寄こした。あの桃子がと思われる、告白的な、少なからず感傷的な手紙であった。「聖子姉さま、あなただけが私の味方です。私がこんなことを書けるのは貴女《あなた》だけです」というような文句が屡々目についた。
桃子は泣く泣く龍子に連れられて漢口へ行ったのだ。その夫にはどうしても我慢できなかった。基一郎のとったあまりにも唐突な策略は、消しがたい心の傷痕《きずあと》を彼女に与えたからである。ある日、彼女はふらふらと切符を買い、船に乗った。揚《よう》子《す》江《こう》をくだると次に九《きゅう》江《こう》という港がある。港に着くと、夫の手配によって日本の警官が待ちかまえていて、そこから彼女は否応《いやおう》なく連れ戻された。それでも、やがて彼女は漢口の生活にも慣れた。三人も召使いを使う生活にかなり満足したようだった。そのうち彼女は妊娠した。そのことは決定的な作用を桃子に与えた。楡桃子は四郎の妻であること、彼女の人生はそういう具合にきめられてしまったことをようよう彼女は納得した……。そうした親たちも知らぬ桃子の心の秘密、告白を、逐一聖子は告げられていたのであった。
しかし腹の中にいる子供が大きくなるにつれ、桃子の望郷の念はふたたび強まった。どうしても初めての子を異国の地で産みたくはない。なによりも楡病院、彼女が育ち彼女を認め優しくしてくれた人々も大勢いる病院へ戻りたい。どのようにして彼女が両親を説得したか、それは聖子の知るところではない。おそらく桃子の帰国が許されたのは、夫の四郎が遠からず任期が切れて帰国することに決ったのが最大の原因であったのだろう。
聖子はだるい身体を動かして、文《ふ》箱《ばこ》からしばらく前にきた桃子の手紙を取出すと、達筆とはほど遠い丸っこい文字をもう一度辿《たど》ってみた。
聖子姉さま。あたしはもうすぐ日本へ帰れるやうになりましたの。幾度も幾度もお父様にお願ひして、たうとうお許しが出たのです。どんなに嬉《うれ》しいことか、本当にどんなに嬉しいことか、聖さまだけにはわかつて貰《もら》へることでせう。
あたしなんか病院ではどうせ邪魔者だつてこと、ちやんと知つてゐますわ。あたしなんかどうだつていいのです。あたしは龍さまや聖さまにくらべ、何もかも劣等で、病院にとつて役立たずなんですもの。御免なさい、これは皮肉でなく、聖子姉さまが今のやうになられたから、あたしだつてこんなことが言へるのよ。あたしが好きなのは下田の婆や、ビリケンさん、四百四病の瀬長さん、痘痕《あばた》の熊《くま》さん、さういふ病院の人たち、それに聖さま、貴女だけです。
あたしが帰つたつて、あたしはどうせ偉い人間ぢやないから、暖かく迎へて貰へないつてことくらゐわかつてますわ。それに、今は娘を迎へるどころの病院の状態ぢやないつてことも。ですけど、今度はあたし一人ぢやない、お腹《なか》に子供がゐるのです。さつきもあたしのお腹を蹴《け》つたのですよ。男の子だつたらどんなによいか、男の子だつたら医者になつていづれは病院の役に立ちます。あたしだつてそのくらゐのことちやんとわきまへてゐてよ。お父様だつて、あたしのことはどうでもいいとして、新しい孫の顔を御覧になつたらきつとお笑ひになると思ひます。
男の子だつたらどんなにいいかしら、いつも果物を売りにくる支那人がお呪《まじな》ひを教へてくれました。これはとても可笑《をか》しなお呪ひで、真面目《まじめ》にやる気になれません。それからうちのコックは、沢山|海老《えび》を食べると男の子がうまれると言ひますの。ほんといふと、あたしは海老ばつかり食べてゐて、なかなか高くつきますわ。
早く早く病院の誰彼《だれかれ》に会ひたい、聖さま、早く貴女のお顔が見たい。あたしの赤ちやんが男の子であるやう、聖子姉さまも祈つてゐて下さい。本当にね。その代りお土産はどつさり持つて行きます。聖さまだけにですよ、いろんなものを。なんだかそれは内証。
聖子は何回か目尻を指先でこすり、それからやつれた顔に歪《ゆが》んだような微笑を刻んだ。
――桃さま、あたしもあなたにはやく会いたい。本当に……。
戸外ではなお蟋蟀の声が絶間がない。夫が戻ってくる気配は更にない。しかし聖子はずっと、いつまでも待っていようと思った。
彼女はのろのろと妹の便りを封筒に入れ、文箱を持って立上ろうとした。
そのときである。だしぬけに不快感が、ついぞ経験したこともない突きぬけるような不快感が彼女を襲った。むずがゆいものが胸から喉元《のどもと》へとこみあげてくる。彼女はそれをこらえるように喉元に手をやった。が、それは堪えがたいものとなり、噴きだすように突きあげてきたものを、聖子は身体を折り曲げるようにして畳の上に吐いた。大量の血。それはぶつぶつと泡《あわ》立《だ》ち、あまりにも鮮紅色で、彼女は目の前が一面に真赤になったような気がした。なによりもその厖大《ぼうだい》な赤いものに圧倒され、眩暈《めまい》を覚えながら彼女は咳《せ》きこみ、片手で口をおおい、もう一度身体を海老のように折り曲げた。さらにねばっこい血液が口をおさえた指のあいだから吹きでてきた。
意識が霞《かす》み、巨大な暗いもののなかに引きこまれてゆくのを感じて、聖子は必死に、あがくように、しがみつく思いで念じた。生きたい、生きたい、苦しい、苦しみたくない、死にたくない……。
その願いに反して、病勢は意外に早く最悪の経過を辿《たど》り、聖子はそれからわずか一カ月後、慶応病院の一室で長からぬその生を終えた。
暁方であった。附近の病室も廊下も静まりかえっていた。
病室につめていた楡家の血族は、龍子、米国、帰国してまだ間もない桃子の三人だけであった。そして、この二人の女が揃《そろ》いも揃って目に立つ大きなお腹を、妊娠のごく後期の姿を示していた。
医者が短く挨拶《あいさつ》をして室外へ去った。龍子はベッドのすぐわきに近づき、かたい、こわばった表情で死者の面《おも》をじっと見おろした。死が、それまでの生活のやつれを聖子の顔からぬぐい去っていた。頬こそこけていたけれど、色艶《いろつや》こそ欠けていたけれど、そのほそい鼻梁《びりょう》、閉ざされた口元は、このうえなく端正で、美しいといってもよかった。
龍子の表情は乱れなかった。だが彼女は、しげしと妹の死顔に見入り、はっきりとうしろの者にも聞きとれる声で、病院と父親に叛《そむ》いていった、もはや息をすることのない妹に語りかけた。
「あなたがあのとき私の言うことを聞いていらっしゃれば。……そうなさっていれば、こんなことにはならなかったでしょうに」
龍子の背後には、桃子と米国が立っていた。桃子は不《ぶ》恰好《かっこう》な腹部に両手をやって、うつむいて、声は立てずに、とめどもなく大粒の涙をこぼしていた。彼女にできることは、ひっきりなしにあとからあとから、なんだか造り物のようにも見える大粒の涙をほそい両眼から分《ぶん》泌《ぴ》すること、それだけであった。坊主頭《ぼうずあたま》の中学四年生の米国も、その目を少し赤くしていた。が、隣にいるすぐ上の姉が、あまりに大量の涙を顔じゅうに滴《したた》らせるので、彼はいささかのばつの悪さ、それほど涙の出てこない自分に罪ぶかさをも覚えていた。
さらに後ろのほうに、ぽつねんと一人、聖子の夫が立っていた。彼は親類とは名ばかりの楡家の人たちに対して遠慮して、というより挨拶ひとつするでない基一郎の長女を避けて、ほとんど戸口のそばに佇《たたず》んでいた。
なおしばらく聖子の死顔を見おろしていた龍子は、ふいにしゃっきりと首を起した。それから桃子同様腹部の目立つ姿を二、三歩|退《さが》らせると、とりつく島もない冷たいけわしい表情で、横手にいる佐々木のほうに或《あ》る身ぶりをした。その身ぶりは、さあ、私たちはお別れをしました、お前が挨拶をしたいのなら、もしお前にその権利があるのなら、勝手に好きなようにするがいいでしょう、とでも告げているようであった。
第十章
春が来ようとしていた。いや、もう春といってよかった。青山墓地の手前の谷あいの畠《はたけ》にはだんだらに菜の花の絨毯《じゅうたん》が敷かれ、小さな花虻《はなあぶ》が集まっていた。その絵具に似た黄の花弁はまだいくらか冷たい風にゆらぎ、ふりおとされた虻は空中で次の足場を求めようと羽音を立てた。一冬を銹《さ》びた色彩に過した墓地の常緑樹も、たとえば生垣《いけがき》のマサキも新しい色合の芽をのばそうとしていた。
それにひきかえ、楡《にれ》脳病科病院の構内は、ところどころに見える仮《かり》普《ぶ》請《しん》の粗末さだけが目に立って、がらんとうち沈んで見えた。なにより夏の間ほしいままに繁茂していた人の丈ほどもある鉄道草が姿を消していたからである。それが生い茂っていたときも殺風景にうらぶれて見えたものの、いざ見渡すかぎりの雑草がなくなってみると、その空虚さはひとしおであった。冬、伊《い》助《すけ》や書生たちは立枯れた鉄道草の茎を刈取り、風呂《ふろ》の焚《た》きつけにしたものだ。それでも仔《し》細《さい》に眺《なが》めると、刈取られた茶褐色《ちゃかっしょく》の茎の跡に、新しい芽が、小さな柔らかな緑の葉が、今ちょぼちょぼと萌《も》えでているのが見てとれた。
唯一《ゆいいつ》の本普請である家族の住む二階屋の裏手には、数多《あまた》のおむつが干されていた。それぞれに元の浴衣《ゆかた》地《じ》の模様を見せて、こればかりは盛大に。いまこの家には、あとからあとからおむつを汚す、生後三カ月ほどの赤子が二人もいるのだ。昨年の暮近く、わずか五日の間隔をおいて生れた二人の男女の赤ん坊。先に生れたのが、望み通りに桃子が生んだ聡《さとる》――この名前を自分で案出したとき、桃子は有頂天になった。楡聡、たった二字の、なんとすっきりと洗煉《せんれん》されて誰《だれ》の子よりも聡明《そうめい》に偉くなるにちがいないその名――で、もう一人が龍子《りゅうこ》の二番目の子、藍子《あいこ》である。
その小さな藍子を抱いて、さきほどから下田の婆《ばあ》やは蔵の横手からラジウム風呂の前手をゆっくりと歩いていた。そしてときどき赤子をゆすりながら、彼女は、いつの頃《ころ》のものかもわからない俗謡をぼそぼそとした声で口ずさんだ。
青山墓地から 白いオバケが三つ三つ
赤いオバケがみっつみつ
そのまたあとから 袴《はかま》はいた書生さんが
スッポンポンのポン
下田の婆やの甚《はなは》だしい調子外れは、近頃ますます度が昂《こう》じてきたようであった。それはまるでお経のようにも響いたが、そんな守唄《もりうた》があってもなくても、藍子は至極おとなしかった。おとなしいというより、むしろ生気に乏しかった。真綿の一杯はいった銘仙《めいせん》のちゃんちゃんこに包まれたこの女の子は、少しもむっちりしていず、色も白すぎて、どことなく頼りなげに見えた。その代り、やや青みがかった白《しろ》眼《め》と黒ずんで大きな虹彩《こうさい》がひどくうるおいを帯びていて、淡々《あわあわ》しい、柔らかく上の方にほつれている頭髪ともいえないような髪の毛と共に、どうしても大人たちの情感をくすぐるように生れついていた。泣くときもかぼそい声で泣いた。長くけたたましく泣くだけの活力も有していないようであった。母親の乳の出がわるく、半分牛乳で育っているこの赤子は、その牛乳も飲み残してややもするともどすことが多かった。それからかぼそい声で泣いた。ほどもなく泣きやむと、小さなうえにも小さな上瞼《うわまぶた》を少し赤く腫《は》らして、大人たちの腕の中で、いかにも頼りなげに、なんだかしょんぼりした面《おも》もちで、やや下を向いてじっとしていた。
誰も彼もが、このおとなしい、目鼻立ちのよい赤子を抱きたがった。「ほんとに、なんて可愛らしい。なんてまあ可愛《かわい》らしい。ほら、このお口、このお手々」と言いたがった。
あやされると、藍子はほんのわずか笑った。ほんのわずか――そしてすぐにまた無関心な、頼りなげな表情に戻《もど》るのだったが、それがいっそう大人たちの心をたわいもなくかきたてた。「こんな別嬪《べっぴん》さんはいませんよ。聖子さまの生れ代りでしょうね。聖子さまよりもっと別嬪さんになりますよ、ほんとに」
と、古くからいる看護婦も言った。
もとより下田の婆やの打ちこみ方は大変なものであった。楡家の子女をずっと次々に手塩にかけてきた彼女にとって、久方ぶりの小さな赤子である。婆やは自分の手の中でじっとしている小さなかけがえのない生物を、象のようにほそい目を一層ほそめてしげしげと覗《のぞ》きこんだ。そしてその口からは、思わずお経のような節まわしが洩《も》れた。
「青山墓地から……白いオバケが……」
下田の婆やは、若い看護婦や、ましてや痘《あば》痕《た》の熊《くま》五《ご》郎《ろう》の無骨な腕には、この大切な宝物を渡したがらなかった。もし万一、落っことしでもしたら。そうでなくても、このお姫さまは特別に脆《もろ》く華奢《きゃしゃ》にできているのだから、そう、婆やは――それが龍子の意図であるかどうかはわからなかったが――この特別製の赤子のことを、口をすぼめるようにして「お姫《ひい》さま」と呼んでいた。
一方、桃子にはこれがおもしろくなかった。
なるほど彼女には、長いことそれ一つに念じていた男の子、歳《とし》のちがう夫への嫌厭《けんえん》を裏返して身体《からだ》の震えるほどいとしくてたまらぬ聡《さとる》がいる。だがその赤子は、すべてにつけなんと藍子と対照的であったろう。聡はまるまると――腕や足にはくびれた輪ができるほどよく肥《ふと》っていた。一生けんめい餅《もち》や鯉《こい》をとっても乳のよく出ぬ龍子にくらべ、桃子の乳房は大きく乳腺《にゅうせん》がしこっていて、いくらでも乳を分《ぶん》泌《ぴ》した。しかし発育こそよかったけれど、有体《ありてい》にいって聡は醜いといってよかった。藍子のように色白ではなかった。肌《はだ》がくろく毛深く、額の濃いうぶ毛はいつになっても薄くならなかった。そしてたった三月余の赤子ではあるが、その耳がへんに横の方に突出しているのを桃子は――おそらく桃子だけは――はっきりと認めることができた。そのうえ聡は癇《かん》持《も》ちで激しくけたたましい声で泣いた。乳を吸わせるとき、桃子の乳房は初めは張りすぎていてうまく吸いつけない。するとこの赤子は癇癪《かんしゃく》を起し、のけぞって、顔じゅうを充血させて、とりわけものものしい泣き声を立てた。
だが、いくらまだ赤子とはいえ同じ赤子の姉の子に比べて明瞭《めいりょう》に醜かったけれど、それだけになお一層、桃子は聡がいとしかった。無性に抱きしめて殺してしまいたいほどに。
それなのに人々の寵愛《ちょうあい》はすべて藍子にあつまった。誰ひとり聡をかまってはくれなかった。事実はさほどでもなかったのだが、ひがんだ桃子の心はそう考え、そう断じ、そう唇《くちびる》を噛《か》みしめさせたのだ。誰かが聡を讃《ほ》めようとすると、彼女はそれを単なる世辞、あるいは皮肉としか受取らず、こんな口のきき方をした。「ええ、ええ、そりゃ大きくなったわ。この子はこんなに醜いから、大きくなるくらいしか能がないのよ」これではうかうかとこの色の黒い赤ん坊に愛《あい》想《そ》を言うわけにもいかなかった。ただ一人桃子は夢中でわが子をかまい、少しでも泣けば時間も場所もわきまえずすぐさま乳首をふくませた。
「ほらほら、お乳よ。沢山お飲み。お餅や鯉なんて食べなくっても、あたしにはたんとお乳があるんですからね。ほらほら、たんとお飲み……」
今また桃子が聡を抱いて裏手へ出てみると、むこうのほうで下田の婆やに抱かれている藍子を、書生の熊五郎が柄《がら》にもなくむきになってあやしている光景が目に映った。
「嬢ちゃん、ばあ。そら、ばあばあばあ」
「嬢ちゃん、じゃありません。おひいさまです」
と、ちかごろ一層肥満して頤《あご》が二重になり頬《ほお》のたるんだ下田の婆やは、このときばかりはその善良すぎる柔和な顔にせい一杯の威厳をきざんで、そう注意した。
へ、なにがおひいさまでございますかよ、と桃子は心のなかで唇を噛んだ。
「婆やさん、こりゃ風が冷たい。風邪をひかせちゃいけないよ。風邪をひかせるとチブスに感染《うつ》りやすくなる。なにせチブスが流行《はや》るってからなあ」
痘痕《あばた》の熊五郎がそんなことを言うこと自体不似合で、桃子には口惜しく腹立たしく、彼女は足早に近づいてゆくと乱暴に自分の子を抱き直した。
「熊さん、赤ちゃんもチブスになるの?」
「そりゃあなりますよ。赤ん坊はどんな病気にだってなるよ。大人の病気と赤ん坊の病気、つまり二倍病気になるってわけだ」
「そんなことより、あんたの痘痕、それほんとに天然痘《てんねんとう》とは違うの?」
「こりゃ挨拶《あいさつ》だね。そんなこと言われて、ぼくはどうしたらよいですか。この暴言にぼくはいかに対処したらよいのか。いいかね、横浜の天然痘だって、ついそこの品川まできてるからね。聡ちゃんに感染《うつ》ったってぼくは知らんですよ」
気色をわるくして熊五郎は行ってしまった。
と、聡がむずかりだした。しょっちゅう癇を起すその子は、抱いて歩いているうちはよいが、立止るとすぐそっくり返って手足をばたつかせだす。ゆすぶってやっても、たちまちその顔はくしゃくしゃに歪《ゆが》み、しぼりだすような聞くに堪えぬ音声がその喉《のど》から洩れてきた。
桃子は慌《あわ》てて乳首を含ませようとした。が、強情な赤子は一層そりかえり、ひときわ激しい泣き声を立てた。
「桃さま、それはおぽんぽんがすいていなさるのじゃございませんよ。おねむ[#「おねむ」に傍点]なんですよ」
と、見かねて下田の婆やがかたわらから口を出した。
「そんなこと言って婆や」と桃子はかっ[#「かっ」に傍点]となって畳みかけるように言った。「婆やは少しも聡を抱いてくれないじゃないの。聡なんか……ちっとも可愛いと思ってくれないじゃないの!」
「とんでもございません、桃さま」と、婆やは意外な桃子の剣幕におろおろして言った。「聡さまには、ちゃんとお母さまがついていらっしゃるじゃありませんか。ほんとにそんなことをおっしゃって……」
「いいの、いいの。でも婆や、少しでも聡を可愛いと思うのなら、ちょっとでも抱いてやってよ。そりゃあ婆やのほうが抱くのは上手なんだから。ほら、こんなに婆やに抱かれたがって泣いているわ。その藍さまは……おひいさまは、あたしがだっこしてあげますからね。いいでしょう?」
「もちろんでございますとも」
困ったように、下田の婆やはうなずいた。
そこで二人の女は男女の赤子を交換した。桃子は自分の腕の中に、軽い、少しも暴れたりしない柔らかな身体を抱きかかえて、そのひよわそうな、しかし自分の子と比べてあまりにも目鼻立ちの整った小さな顔を覗きこんだ。赤子のほうは、少しびっくりしたように、大きすぎる黒い瞳《ひとみ》で訳もわからずに叔母を見つめ、それからすぐ視線をわきにそらして、なんとなくしょぼんとしたようにおとなしくしていた。
「かわいいわ。この子ったらほんとに可愛い顔をしている」
と、思わず桃子は咳《つぶや》いた。
それから、彼女は指先で、競争相手の姉の子供の白い頬をつついた。
「この子ったら、こんな寂しそうな顔をして……。ちっとも頬《ほ》っぺがふくらまないのね。おっぱいが足りないの? 気の毒に。叔母さんのおっぱいをあげましょうか? でもね、お前のお母さまはね、あたしみたいな下《げ》賤《せん》な女がお乳をやったと知ったらお怒りになるわ。おお、よしよし、本当に可哀《かわい》そうにね」
桃子は、そんなことをとりとめなく、憑《つ》かれたように呟きつづけた。そしてふと視線を転ずると、下田の婆やに抱かれた聡がいつの間にか泣きやんで、泣いたあとの穢《きた》ない顔をこちらに向けているのに気がついた。色のくろい、少しも上品なところのないその子。なんだか夫の厭《いと》わしいところばかり似たように思われる人相のわるいその子。すると突然、たとえようなくみじめな、居たたまれぬ気持が襲ってきた。
「渡して。あたしの聡を渡して!」
なにか言おうとする下田の婆やにおかまいなく、桃子は奪うように聡をとり戻した。邪《じゃ》慳《けん》にそのむっちりとした身体を抱きしめ、そのまま二階屋の裏口にむかって逃げるように歩きだした。
後方で心配げに彼女を呼ぶ下田の婆やの声がした。腕の中では、乱暴にあつかわれた聡がふたたび火のように泣きたてた。しかし桃子はその二つの声を無視して、半分走るように歩いた。彼女のほそい両眼には涙が一杯たまっていた。それはついに溢《あふ》れだし、下ぶくれした彼女の頬に次から次とつたわった……。
だが、それから三十分後、桃子はむしろけろりとした顔をして、台所の横の六畳の間に、新聞をひろげていた。かたわらに珍しく、罪のない顔をして両腕をひろげて眠っている聡をおいて。
「条例を無視して市が水道料金の不当利得」と、彼女はぶつぶつと声にだして読んだ。「バラック建ての建坪の不明を理由に、連用|栓《せん》の名の下に……」
なんてつまらない記事だろう、と彼女は思った。本当なら、ここにあのとんがり頭のビリケンさんがいるところだ。奇妙な素敵な節まわしで、もっと面白い記事を読んでくれるところだ。それにしても、なんていい人だったろう、あの人は。
そして彼女は、手のおもむくままに別の新聞をめくった。
「女店員と芸《げい》妓《ぎ》を斬《き》った西《にし》巣《す》鴨《がも》の痴漢捕はる……」
すると彼女のほそい瞳は急にいきいきとしてき、かたわらに寝ているわが子の存在すらしばし忘れて、その記事に目をよせて読んだ。「……前科者から変態性欲へ……婦人を傷つけては一種の快感を……」
「ちょいと、おしげさん」
と、桃子はほがらかな声をあげて、隣の台所にいる嘗《かつ》ての奥づとめの古い女中を呼んだ。
「おもしろいから、あなたも聞きなさいよ」
そして桃子は、とても子供のある身とも思えぬような軽々しくも晴れ晴れとした顔つきで、小鼻をひくつかせながら、次の活字を大きな声で読んだ。
「……美人を見ると斬りつけたくなる。むらむらと煩悩《ぼんなう》起り……」
茶の間の壁際《かべぎわ》には、ところどころ傷のついた黒塗りのピアノが置かれてあった。以前は貴賓室にあった独逸《ドイツ》製のピアノである。あの火災の折、何もかもが焼失した中に、このピアノだけはどうした奇《き》蹟《せき》か書生たちによって二階から運び出されたのだ。しかし、どうせ運びだすのなら、何よりも先に、もっと手軽に、いやたとえ生命《いのち》をかけても、珊《さん》瑚《ご》の間《ま》の御《ご》真影《しんえい》を持ちださねばならなかったはずだ。御下賜《ごかし》の御真影は誰にもかまわれぬまま焼失し、あとになって院長も院代も色を失い、このことに関しては口を閉ざしておくようにと病院の従業員たちに達しがあったほどだ。幸い御真影についてはまだどこからも咎《とがめ》はなく、傷のついたピアノだけが、弾く者もいないままここに放置されているのであった。
ピアノの横の柱にはぶ厚い暦がかけられていた。一日一日、一枚ずつめくるカレンダーで、粗末な紙には大きくその日だけの数字が刷られ、土曜日は青、日曜には赤色のインクが使われているばかりか、祭日には仰々しく日の丸の旗が印刷されていた。そのぶ厚い暦は、めくるのを忘れられるのが屡々《しばしば》だったが、それでも何日かおきには何枚かの紙がはがされ、とにかく大正十五年の四月も終りに近づいていることを示していた。
その、桜もとうに終り、春も酣《たけなわ》の朝から上天気を思わせる或《あ》る日曜日、菅《すが》野《の》康三郎は院長の許《もと》に呼ばれた。
楡基一郎はさきほど早い朝食をすまし、二階の自室に――かつての「奥」の部屋と比較してはごく見すぼらしい日本間にひきあげてきたところであった。朝食は判で押したようにオートミールとボルドーである。昨年から基一郎は尿に糖が見られ、周囲の者はこの甘い赤いサイダーに危惧《きぐ》の念を抱いていたが、この院長の嗜《し》好《こう》を変えるというわけにはいかなかった。彼はたしかに日に半ダースのボルドーを飲んだ。朝からして、熱いオートミールの上にボルドーをだぶだぶかけてぬるくし、大匙《おおさじ》でかきまわして、その目をそむけたくなるような尋常ならぬ食物を音を立ててすするのであった。最近は益々《ますます》、老人特有の無関心さ、野方図のだらしなさが目に立って、毎度々々手入れの行きとどかぬその口髭《くちひげ》の先に、オートミールとボルドーの混合液がたっぷりと附着した。院長は食事が済むと、さすがにナプキンでそれをおしぬぐった。そそくさと、ごくいい加減に。
しかし基一郎が、火災以来の落胆とおしよせる老年の衰えにより、あれからもずっと気力を喪失したまま徒《いたず》らに壊れたラジウム風呂《ぶろ》の中でボルドーをのんでいたといえば、それはあやまりである。殊《こと》にこの一カ月、彼は十年前の活力をみせて、診療こそ徹吉たちにまかせていたものの、慌《あわただ》しい外出を繰返していたのであった。つけ加えればごく最近、例の土地の借地問題に関する裁判に、楡病院は勝利を収めた。院長は久方ぶりに相好《そうごう》を崩し、口先では「なにねえ、勝つのはもともと当り前だよ。田辺(弁護士の名であった)がもっとはきはきやってくれたら、こんなものは半年で解決していたよ」と落着きはらって言ったものの、さっそく妻と長女とを浅草の観音さまへお礼参りにやったほどだ。ともあれ、さすがに老《ふ》けこんではいたけれど、基一郎は一時の衝撃から立直り、彼の頭脳はふたたび機敏に、ときには誇大に、独自の回転をみせだしていたことは間違いなかった。
そこに、縁なし眼鏡を光らせてうやうやしくしのびやかに、院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》がはいってきた。先日基一郎が金を借りることに決った信託会社へ出す、連帯保証人の委任状の草稿を持参したのである。
基一郎は非常な速度で目を通した。
一、拙者儀 ヲ以《モッ》テ代理人ト定メ左記事項ヲ委任ス
一、債務者楡基一郎ガ関東信託株式会社ヨリ金 円|也《ナリ》ヲ左記条項ニ基《モトヅ》キ借受ケタルヲ以テ右債務ニ就キ拙者所有別紙物件目録記載ノ物件ヲ担保ニ提供シ第一順位ノ抵当権ヲ設定シ連帯保証ヲナスコト
一、弁済期限 大正拾 年 月 日
一、利息 年壱割ノ割
一、利息ノ支払時期 毎月弐拾五日限リ支払フコト
一、期限ニ元金ヲ完済セザル時ハ遅延日数ニ応ジ年壱割 分ノ割合ニ依《ヨ》リ損害金ヲ支払フコト
「これでいいよ、君」
と、基一郎はそそくさと面倒臭げにうなずいた。それから、あからさまにいまいましげな表情を作ると、こうつけ加えた。
「こんなものはいい加減でいいんだよ。なにも、こんなものはねえ、君。……ではご苦労だが、これを塩原さんのほうへ持って行ってくれたまえ」
かしこまって院代は細い鶴《つる》のような体《たい》躯《く》を室外へ消し、入れ違いに学生服姿の菅野康三郎がはいってきた。康三郎の顔を見ると、基一郎は待ちかまえていたように口早に言った。
「君、紐《ひも》を沢山集めてくれ。そう、荷作りの紐でも何でもいい。できるだけ沢山」
「何になさいますので?」
「地所を測るのだ」と、院長は言った。「紐をずうっとつなげて、一|間《けん》おきに紙縒《こより》をしっかりと結んでくれたまえ。紐はできるだけ長く、そう、一町もあれば足りるかな」
なんのことやらよくわからぬまま、康三郎が紐の用意をしている間、基一郎は自ら台所へ行って弁当を命じた。海苔《のり》をまいた握り飯である。
「そう、鰹節《かつおぶし》を入れて、半分は梅干を入れて……それから香こに佃煮《つくだに》、どんな佃煮があったかねえ?」
糖尿病のため食物に注意しなければならなくなって以来、微量だった基一郎の食欲は増加し、その嗜好も変化し、あまり摂生とてせず、単なる握り飯の弁当にもあれこれと口をだすのであった。
近頃《ちかごろ》にしては珍しく洋服に着がえた基一郎は、弁当の風呂敷包み、大量の紐、画用紙、定規、鉛筆などを入れたカバンを康三郎に持たせ、家を出た。渋谷まで市電に乗り、――楡病院の二台の自動車は一台は焼失し一台は手放してしまっていた――渋谷から玉川電車に乗りかえ、三軒茶屋で降りた。そこから松原まで歩くのである。
途中、基一郎ははじめて何も知らぬ康三郎に打明けた。これから世田谷松原の土地を調べにゆくこと、そこに新病院を建設するつもりであることを。
院長の口調は、康三郎が上京した当時と同じようになめらかで、雄弁というわけではないが次から次へと移ってゆき、人を心服させる、あるいは人をたぶらかす力をすっかり回復しているようであった。
「土地のことはもう地主に諒解《りょうかい》を得てある。病院の設計ももうできているよ。請負師も決っている。どうだ、ぼくのやることは君、実に電光石火だろう? 青山の土地は裁判には勝ったが、病院を建てることはまだ警視庁の許可が降りていない。そんなものを待っていては、いつのことになるかわかったものではない。そんなものを便々と待っている男じゃないよ、ぼくは」
それからまたこうも言った。
「院代たちは青山の土地に執着しているが、それは時代を見ないということだ。青山なんぞは君、いずれは家がびっしり建つよ。東京はどんどん発展する。世田谷なんぞもいずれは東京市に編入されるようになるにちがいない。大病院は郊外に建てる、そして青山は外来診察を主にして、郊外の病院に患者さんを送る、そういうふうにしなけりゃ駄目《だめ》だよ、君。ぼくは何時《いつ》だってひと時代もふた時代も先を見ているからねえ」
基一郎の弁舌を聞いていると、康三郎の胸には、やはりこの院長先生は人物だ、人にすぐれた人物だ、人は老いぼれたなどと言うけれどこの院長のめぐらす計画には間違いがない、という考えがどうしても浮んでくるのであった。とはいえ、康三郎には一抹《いちまつ》の疑惑がないわけでもなかった。郊外に新病院を建てるのはよいとして、その資金はどこからくるのか? 現在楡病院の多からぬ従業員に対する給料も滞りがちで、あまつさえ真偽は定かではないが、古くからいる奥づとめの女中、下田の婆《ばあ》やなどの奉公人の貯金、その零細な金額までも院長が借りてしまったという噂《うわさ》を彼は耳にしていた。
そういう康三郎の胸のうちを見すかすように、事もなげに基一郎は言った。
「君、ぼくには金は一文もないよ。それでもちゃんと病院はできる。君も覚えておきたまえ。頭だよ、そして信用だよ。松原に土地を借りて病院を建てる。その病院を抵当にして金を借りて、土地と建築の費用を払う。まあ見ていたまえ、今度の病院はバラックだが、いずれはあの青山の病院のようにしてみせる。あの二倍の規模の宮殿のような病院にしてみせる。それまではぼくは死ねないよ。病院を作って、それからもう一度代議士に出馬する。君、ぼくの顔いろを見てみたまえ、つやつやしているだろう? 若い者そこのけだろう?ぼくがいったんこうと思ったからには、いつだって必ずその通りにやりとげるからねえ」
康三郎は歩きながら院長の横顔を盗み見た。その皺《しわ》のきた顔はあまりつやつやしてもいなかったけれど、白いもののまじった長い眉《まゆ》毛《げ》の下の両眼には、たしかに人を説得するだけのいきいきとした輝き、なにか圧倒される活力があった。
三軒茶屋から先はまったくの田舎道である。日はうらうらと汗ばむほどに照り、道は白く乾いていた。そういう道を二人は長いこと歩いた。基一郎は上機嫌《じょうきげん》で、ひっきりなしにしゃべりつづけた。しばらくまえ世間を騒がした汚職事件、復興局に関する「あがちヶ原事件」についても語った。
「君、渡辺といえば指折りの大地主だが、内実は苦しいんだねえ。だが政治にはいろんな裏面があるよ。君なんかにはまだわからないだろうが、政治というのはおもしろいよ。医者は個人が相手だが、これは一国が相手だからねえ」
梅ヶ丘という土地に着いた。辺りは一面の麦畠《むぎばたけ》である。その中に一軒だけある見るからに豪農らしい家が地主であった。その家に入り、もう話はついているらしくひとしきり世間話をして、土地の図面を借りた。まだ昼に早かったが、茶を入れてもらって弁当も食べた。康三郎が見ていると、基一郎はもともとあまり固形物を食べない男であったのに、旺盛《おうせい》な食欲をみせて握り飯をほおばっている。
先生、どうも威勢がいいな、と康三郎はそんなことにも感服しながら思った。
それから、目的の土地にむかった。前方はもとより、横を向いても、うしろをふりかえっても、見渡すかぎりの麦畠である。小川が大層のどかに流れている。そこを渡っても、見えるものは青い麦畠のみ、はるかにぽつんぽつんと農家の藁《わら》屋根《やね》が散在している。
いや、これはひどい田舎だ、と康三郎は考えた。こんなところに病院を建てて、一体患者がくるものだろうか?
そんな康三郎の思いにはおかまいなく、基一郎は先に立ってすたすたと歩いた。ふいに立止って、康三郎をふりかえった。
「ここだよ、君」
同じような麦畠のひろがるどこまでも単調な見栄《みば》えのしない風景である。前方がやや小高くなっていて、雑木の林が、おそらくは櫟《くぬぎ》か楢《なら》の林がずっと向うにつづいている。康三郎がなんだかがっかりしてしまって返事をせずにいると、基一郎はほとんど浮き浮きした口調で言った。
「見たまえ。ここはいい土地だ。前方が低く、後方が高い。これは末広といって、とても縁起がよいものなのだ。いや、いいねえ、君。とてもいいよ、ここは」
「一体どのくらいお借りになるのです?」
と、仕方なしに康三郎は訊《き》いた。
「七千坪、いや八千坪はあるかな。それをきっかりと測らねばならんのだ」
「私がですか?」
と、おどろいて康三郎は言った。そんな何千坪もある土地をまるきり素人《しろうと》の自分が測量できるはずがない。
「しかし、その図面がおありになるのじゃありませんか?」
「いや、こんなものは杜《ず》撰《さん》なものだよ。とても信用できない。あとあとに問題が残るからねえ。なに君、ぼくの言うとおりにすれば訳はない。ぼくはねえ、こういうことにかけては専門家だよ。ぼくの言うとおりにやってくれたまえ」
基一郎はカバンから、ところどころに紙縒《こより》を結んだ大量の紐を取りだした。否《いや》も応もなかった。康三郎は、院長が図面と見くらべながら指示するままに、一町もある長い紐を持って麦畠の中を歩いた。畠の土は黒く柔らかく、踏みこむ靴《くつ》はずぶずぶと土の中にもぐった。澄みきった空には雲雀《ひばり》が啼《な》いている。その姿を認めることはできなかったが、遥《はる》か高空で啼いているそのうららかな声は、見渡すかぎり拡《ひろ》がる麦畠のうえ一面に降ってくる。だが康三郎にとっては、雲雀の声に耳を傾ける余裕もなかった。
境界点に基一郎が紐の一端を持って立つ。康三郎は指示される方角に紐をはってゆく。紐がぴんとはると、基一郎がそこまで行って、次の方角を指示する。土地の形は四角くなく、単に縦と横を測るだけでは済まされなかった。基一郎は器用に定規を使って、路上にひろげた画用紙の上におおよその土地の図形を描いた。それを幾つにも分割し、その一つ一つの土地を測ることを命じた。一箇所の距離を測ると、戻《もど》ってきてその数字を記入した。
「ここはみんな斜めになっている」と、靴を泥《どろ》だらけにした小《こ》柄《がら》な老人は、額の汗をぬぐいながら、一向に疲れた気配も見せずに言った。「こういうところは横と縦だけでは駄目なんだ、君。対角線を測って垂線をおろして、つまり三角形の面積を出すわけなのだ」
晴れわたった空では雲雀が啼き、眠くなるような陽光がふりそそぎ、一面の麦畠は青々と静まっていた。遥か彼方《かなた》に二、三の農夫の姿が見えるだけで、ほかに動くものの影もなかった。そののどかな風景の中で、年老いた小柄な男とまだ若い長身の男は、飽きることなく紐をはり、歩き、立止り、戻ってきては画用紙に測量の結果を記入した。
思わぬ時間が経《た》っていった。空はまだ青く澄みわたっていたが、暖かな光がいつしか失われ、目にとまらぬほどの翳《かげ》りがどこからともなく忍び寄ってきた。
「これで終りだよ、君。ここは真四角だから、ここからあの櫟林の一番はずれの樹《き》、あそこまで測ってくれたまえ。ここはざっとでいいよ。これでおしまいだ」
さすがに疲労のいろを見せて基一郎は言い、ゆっくりと麦畠の中を道のほうへ引返していった。
あとに残った康三郎は、もういい加減手慣れてきていたので、紙縒のついた紐をかなり伸びている麦の畦《あぜ》の間にたらしながら、たるまぬように、かつ紐の端を動かさぬようにして、一本の櫟の木にむかって足早に進んだ。紐が一杯になったところでたぐりよせ、そこからまた同じような神経を使って進んだ。目的の櫟の木に辿《たど》り着き紙縒の数をかぞえて間《けん》数《すう》を頭に入れ、ほっとしながら元きた道を引返しはじめた。
むこうに、麦畠の間の道に、院長がかがみこんでいる姿が小さく見える。おそらく画用紙の上で熱心に計算をしているのであろう。ところが数歩すすんだとき、康三郎の目には、その院長の姿が妙に前のめりになり、そのまま頭を土につけるように、さながら蟾蜍《ひきがえる》かなにかが叩《たた》きつけられたような恰好《かっこう》になるのが見えた。
「院長先生!」
と、あやしい予感に襲われて、康三郎はこちらから呼んだ。
返事はない。基一郎の不自然な態勢は同じままである。
康三郎は走りだした。柔らかい畠の土にとられて足が重い。
「院長先生!」もう一度呼ばわりながら彼は走った。
康三郎が駈《か》けつけたとき、基一郎の身体《からだ》はごろりと地面の上に横になっていた。その顔をひと目見て、康三郎は慄然《りつぜん》とした。院長の目はどろりとし、白《しろ》眼《め》だけがにぶくひろがって、自分を認めたかどうかも定かではない。康三郎はその身体を抱き起そうとした。と、その片腕だけがあがくようにびくびくと動き、なにかにぶい音声がその口から洩《も》れた。
「院長先生!」
度を失った康三郎は三たびそう呼んだが、相手の色のない唇《くちびる》から出てくるものはおびただしい涎《よだれ》ばかり、幼児のたらすような、意志にも気力にも関係のないごく動物的な涎ばかりであった。あきらかに院長はなにか言おうとしているらしいが、聞えるものは言葉にならぬにぶい喉《のど》のあえぐ音声だけである。
これは自分の手に負えることではない、助けを呼ばなくては、と康三郎は判断した。
彼は、院長のこわばった身体を土の上に仰向けに寝かすと、そのまま麦畠の間の道を走りだした。地主の家まではかなり遠い。ただずっと向うの畠の中に一人の農夫の姿が見える。
「おーい」
と、走りながら康三郎は叫んだ。しかし、ぽつんと見える農夫がこちらに気がついた様子はない。
「おおーい!」
周囲はどこまでも緑一色にひろがる麦畠で、あまりに広く、あまりに遠く、息せききって走りながら、なおも大声で呼ばわりながら、康三郎は無我夢中の自分の絶叫がむなしいことをちらと意識した。
かなりの時間を経て地主の家へ運びこまれた基一郎は、ふかい昏睡《こんすい》をつづけた。喉がごろごろと鳴り、意識と関係のない重苦しい呼吸が色のない唇をふるわせた。そして彼は、似たような状態を二時間つづけたのち、家族の者や病院の医師たちが駈けつけるのを待つことなく、息をひきとった。枕頭《ちんとう》にいたのは赤の他人ばかりであった。菅野康三郎は遠い径《みち》のりを電話をかけに行っていてまだ戻っていなかったのである。
――葬式には、さすがに多くの来会者があった。花輪の数はおびただしく、出羽ノ海部屋の力士が十数名も巨躯をもてあますようにひかえていたこと、火災まえを思わせる楡病院の法《はっ》被《ぴ》を着た職人たちがきびきびととびまわっているのが目に立った。しかし、家族の目には、なかんずく龍子の目には、そうした光景も徒《いたず》らにむなしく貧相にそらぞらしく映らざるを得なかった。
「もし病院が今のような状態でなかったなら」というのが、涙ひとつ見せず毅《き》然《ぜん》として直立している彼女の心の中であった。「お父様のお葬式はこんなものではなかったろうに。もっともっと盛大に、お棺の中のお父様がにっこりお笑いになって、ご苦労ご苦労とおっしゃるほど立派であったことでしょうに」
その棺の中には、基一郎の幾つかの愛玩《あいがん》の品――先年の火災のためこれというものも残っていなかったが――と共に、生前愛飲していたボルドーのびんが六本、丁寧に清められて収められていた。これも龍子がせめて一ダースというのを、周りの者がようようその半分で納得させたのである。
そしてこの年、楡病院の創始者である金沢|甚作《じんさく》、つまり楡基一郎が六十三歳で唐突に――彼を知る者にはひとしく信じられぬほど唐突にたわやすく世を去った年の十二月、大正天皇が歿《ぼっ》し、年号は昭和と改められた。
[#改ページ]
第二部
第一章
小《こ》柄《がら》な木製の、車体の前部に救助網をつけた、四輪の市電がチンチンといって、喧《やかま》しく鼓膜を痛めつける響きと共に通過する。円タクがエンジンをふかしてそのわきを追越し、荷馬車は悠長《ゆうちょう》な蹄《ひづめ》の音を立て、蕎麦屋《そばや》の小僧は片手で危ない荷をあつかいながら迅速にペダルをこぐ。雑貨屋、八百屋、紙問屋、見るからに清潔とはいえぬ暖簾《のれん》をたらした飲食店、「少年|倶楽部《クラブ》発売」と幟《のぼり》を立てた小ぢんまりとした書店、――青山南町の電車通りはにぎわっていた。大部分紙と木からできた、ごみごみと薄汚れた、軒の低い軒並ではあったが、今はこの通りもにぎにぎしく活気に満ちているといってよかった。かつて楡《にれ》病院が新築された明治三十七年には予想もつかなかったことであるし、その十五周年記念日に院長楡基一郎が得意満面となり数多《あまた》の賞品をおびただしい時間を費やして病院の関係者一同に手渡した頃《ころ》と比較してさえ、隔世の観があった。この昭和の御代《みよ》となって考えれば、大正九年に明治神宮が完成したことが、青山|界隈《かいわい》の発展と結びついているのかもしれなかった。いやいや、東京市自体が否応《いやおう》なくどこもかしこも急速に家が殖えふくれあがってきたのだ。新たに荏《え》原《ばら》、豊《とよ》多摩《たま》、南《みなみ》葛飾《かつしか》などの隣接郡部を編入し、一挙に十五区から三十五区となり、人口五百万をもつ世界有数の大東京市ができあがったのはつい先頃のことなのだ。
しかしここ青山に於《おい》ては、明治神宮への参道と反対の方角、青山墓地へとむかう一帯の地域は、概して電車通りのにぎやかさとは縁がなかった。その辺りはお屋敷町で、華族、実業家、陸海軍の高官などの邸宅が並んでいたからである。そのくすんだ塀《へい》は前を通る子供たちが飽々するほど長く、門内の細やかな砂利には常に竹箒《たけぼうき》の跡があり、樹木におおわれた母《おも》屋《や》は大方古めかしい静寂のなかにしずまっていて、人間が住んでいるかどうかさえ疑われた。
そしてまた、色も褪《あ》せた低い煉《れん》瓦《が》塀《べい》に囲まれた楡脳病科病院の前までくると、更にそうした屋敷町ともあきらかに雰《ふん》囲気《いき》を異にしていた。かつて附近を睥睨《へいげい》し塔を林立させて聳《そび》えていた宮殿まがいのいかめしい病院は消失し、どこにでもあるような、特色とてない、平凡な木造建築がそこにあった。火災後のバラック建ての外来診察所はすでに朽ちかけた風《ふ》情《ぜい》をもち、その後方に同じように粗末なささやかな入院|病棟《びょうとう》が見えた。その敷地は往時から見ると半分以下に縮小され、なおよく注意して眺《なが》めると、病院の看板には『楡脳病科病院分院[#「分院」に傍点]』と記されてあった。世田谷松原に新設された病院のほうが「本院」となっていたのである。
それでも楡病院は、ずっと貧弱に縮小されてしまったとはいえ、なおかつ町内に独自の地位を占めてはいた。精神病患者を収容する特殊な病院であることがその第一の理由で、第二の理由はその周りにいくつかの原っぱ[#「原っぱ」に傍点]、つまり空地が存在したことである。昔からの元ノ原はこれもいつしか半分の面積に縮小されていたが、家のたてこんできた昨今はなおさら意味のある空地であったし、なにより以前ゆゆしい病棟の連なっていた墓地寄りの地所が、――それを仕切る煉瓦塀だけは残っていた――今ではひとつの名所、近所の子供たちを集めるこの附近で一番広い原っぱとなっていた。
その原は、訪れる人々の数によって、急に生気を帯びにぎにぎしくさざめいて見せたり、突然がらんと人《ひと》気《け》もなくなっていやにひろびろと拡《ひろ》がって見せたりした。春から夏にかけて、その各々はごく見すぼらしいあまり名も知られぬ小さな植物、しかし一面に手でかきわけてゆくほどの群落となると馨《かぐわ》しい褥《しとね》ともなる雑草たちによって、芳醇《ほうじゅん》に化粧された。お互いに葉を投げかけあって甘《あま》酸《ず》っぱい水気をひそませ、泡吹虫《あわふきむし》の唾《つば》にも似た巣を点在させ、※[#「虫+奚」、第3水準1-91-59]※[#「虫+斥」、第3水準1-91-53]《ばった》や蜻蛉《とんぼ》を誘《ひ》きつけてくれる、ありふれていながら同時にかけがえのない珍《めずら》かな子供たちの宝庫。その草むらはやがて繁茂し尽して乾ききり、いつしか種類を変え、次第にうらぶれたものと変ってゆくうちに、タデとかカヤツリグサなどのその一つ一つの形態と色彩とがふしぎに鮮やかに目に映じてくる……。
季節に応じ、また敏感にそれぞれ時代を反映して、子供らは多様な遊びを工夫した。しばらく前までは、この原ではごく単純な微笑《ほほえ》ましい戦争ごっこが行われた。たいてい一人が玩具《おもちゃ》のラッパ、或《ある》いはそれに擬した木切れを持ち、勇ましく突撃して行きながら突然仰むけに倒れたのちも、じっと微動だもせずに長いこと木切れを口にくわえていた。「死んでもラッパを離しませんでした」という修身の教科書にある木《き》口《ぐち》小《こ》平《へい》の状態を示していた。ところが最近では、子供たちは雑草の間に幾条もの紐《ひも》をはりめぐらしたが、これは鉄条網のつもりであるようだった。そこへ物干竿《ものほしざお》を抱いてにじりより、最後に甲高い爆発音を叫んで片端から死んでゆくのだが、もとより肉弾三勇士、彼らの言葉で「爆弾三勇士」のあからさまな模倣にちがいなかった。
原っぱの隅《すみ》には、古びて廃墟《はいきょ》じみた赤煉瓦の建物の残骸《ざんがい》が残っていた。昔の楡病院の中で珍しく本物の石を用いた病棟のなごりであったが、あちこち崩れかけ、未《いま》だにむなしい、おぞましい、傷ついた空洞《くうどう》をもつ形骸をさらしているのだった。子供らもそのそばには近寄りたがらなかった。なぜなら、焼け焦《こ》げた煉瓦の集積はいつ崩れ落ちてくるか測りがたい様子を示していたし、彼らのあいだでは、そこは「気ちがい女が首を吊《つ》った跡」と口々に言い伝えられていたからだ。従って彼らは、この自分たちの貴重な遊び場、いくらか気味がわるいなりにそれだけ魅力的なこの空地を、「脳病院の原っぱ」と呼んだ。
この原には、子供たちのみならず、閑暇をもてあます大人の姿も出現した。その大多数は子供たちにまじって児童と同じ遊戯、凧《たこ》あげとか草野球にかなり真剣に興じていた。別の者はまた自分なりの散策を試みた。ときどき白い看護着をつけた女に附《つき》添《そ》われた男が意外にしっかりした足どりでそぞろ歩いていたが、それは疑いもなく脳病院の入院患者に相違なかった。毎日のように毛並美しいシェパードを運動させに連れてくる和服を着流した男は、着物の袖《そで》を片手でおさえ、せい一杯遠くにこれ見よがしにボールをほうる。犬は跳躍し、せわしい息の音をひびかせながら雑草の間を嗅《か》ぎまわる。その主人は愛犬の優雅な身のこなしを熱心に注目しながら、こんなふうに明瞭《めいりょう》な英語をしゃべった。「ジャナー、そらレフトレフト、いやもっとライト、ジャナー」しかし原の片隅には、ずっと薄汚れた恰好《かっこう》の男も見られないことはなかった。それは捨てられている雑多な屑《くず》の中から空缶《あきかん》のたぐいを拾いだすバタ屋で、長い鉄製の手鋏《てばさみ》で缶をつまんでは背の籠《かご》にほうり入れていた。少しかがみながら、追い立てられるように手早くせかせかと。
墓地に接する「脳病院の原っぱ」は、いま沈んだ色合にうそ寒く拡がっていた。なにより雲が低くどんよりとたれ、やがてくる霜を、雪を、暗示しているようであった。ぽつんぽつんと独立して、数名の大人や子供が凧をあげていた。季節には早すぎるのにこうして凧糸をあやつっている彼らは、凧に関してはいわば専門家で、その凧は長く尾をひきながら、くぐもった空の遥《はる》かに遠くに小さく悠然と浮んでいた。
一方、原の入口近くの路上には、もっと大勢の子供がたむろしていた。半分は洋服、半分は垢《あか》で袖口が光っている袷《あわせ》を着た男の子たちである。ちびた下駄《げた》をつっかけ、破れた足袋《たび》の先からまっくろな爪《つめ》ののぞいた彼らの足元には、極めて庶民的な闘技場、穴があき銹《さ》びついた洗面器に、古い茣蓙《ござ》をかぶせていい具合にくぼみを作った道具がすえられてあった。そこで彼らは飽きることなくベーゴマを闘わすのである。二、三人のいくぶん年長の子、小学校の上級と思われる男の子たちは、ごく冷静な職人的な表情をしていた。迅速に機械的にコマに紐を巻きつける。一瞬緊張して身がまえる。さっと紐をひくと、コマは唸《うな》りを生じて闘技場にとびだし、確実に的確に敵方のコマをはねとばす。するとその冷静なベーゴマの職人は、はねとばされてなお地面の上で廻《まわ》っている相手のコマを手早くつまみ、無造作にふところに入れた。その懐《ふとこ》ろは、すでにかなりの数の小さく丸い鉄製の捕獲物のため、ずっしりと快く重かった。
そうやって遊んでいる子供たちのなかに、目立って服装のよい女の子が、こまっちゃくれて小首をかしげて、みんなの遊びを見やっていた。赤いふっくらとしたセーター、短いスカートの下に、黒の靴下《くつした》をはいた足がすんなりとのびている。すぐ向うに見える楡病院の娘、この年から小学校へ行くようになった藍子《あいこ》である。赤子のときのしょぼんと弱々しげだった様子はまったくなく、また幼児時代の評判はあきらかに大げさで、こうして成長してきた彼女には、むかし近所で別嬪《べっぴん》さんと呼ばれた亡《な》き叔母聖子の愛くるしさ、品のよさは具《そな》わっていなかった。殊《こと》にまくれあがった唇《くちびる》が小生意気に意地わるげな印象さえ与えたが、清潔な赤いセーターが目に立つここの場面に限定していえば、やはり彼女は可愛《かわい》い娘、可《か》憐《れん》な少女といわれても間違いではなかった。藍子はその服装、その顔立ち、その生いたちからいって、ここに集まる子供らの中では特別な地位を確保しているもののように見えた。近所の「お屋敷」の子女はこんな場所には現われなかったからだ。なによりこの少女、楡藍子は、この場面にはもっとも重要なベーゴマを、豊富に、ほとんど無尽蔵に所有していた。かつてその叔母の桃子が消しゴムを無《む》闇《やみ》やたらと買いこんだと同様、藍子も帳面《つけ》になっている青雲堂から、この安っぽい、しかし小粒ながらずっしりと手ごたえのある玩具を好き勝手に持ってきてしまったからだ。
といって、彼女はベーゴマの遊戯に参加しているのではなかった。自分ではやろうとはしなかった。その代り彼女は、特権をもった小さな女王さながらに、両手に溢《あふ》れるほど握っているこのうえない財産を、気ままに、杜《ず》撰《さん》に、投《な》げ遣《や》りに、そこらの男の子にわけ与えてやったのである。藍子は、自分より小さな鼻汁《はなじる》のこびりついた男の子に、いきなりベーゴマを一つ与える。
「あんた、やってごらんなさいよ」
男の子はびくっとして、照れたように笑って、急に有頂天になって、それだけは忘れたことのない丈夫な紐を、むきになって固く貰《もら》い物のコマにゆわえつける。五秒後には折角のそのコマを失うだけのために。
「駄目《だめ》ねえ。じゃ、もう一つあげるわ」
それも似たような結果に終ると、藍子の口調はとげとげしくなる。
「今度きりよ。あたし、もう知らないから」
自分がせっかく特別に目をかけてやった男の子があっけなく敗退すると、彼女は素気なくぷんとして、その子のそばから躯《み》をどけた。次の瞬間には、また別の男の子にベーゴマを与えたくなる贅沢《ぜいたく》な気まぐれさと我儘《わがまま》さとをもって。
しかし、ここに群がっている子供たちのなかに、実はもう一人楡病院の子供がいた。徹吉と龍子《りゅうこ》の三番目の子、藍子の弟に当る周二である。
近頃ではよく「昭和っ子」という言葉が使われたが、病院の従業員一同から愛玩《あいがん》されて育った藍子は、ほんのわずかなところでその呼称に該当しなかった。しかし周二は、昭和二年の夏に龍子がドライヴの途中出血し、予定より一月早く生んだ男の子で、昭和元年生れの者が正確には大正っ子であるのなら、彼こそ明確な昭和の子である筈だった。
ところでこの周二、正真正銘の昭和っ子は、震災から立直った新時代のいきいきした活力、たくましい斬新《ざんしん》さを少しも現わしてはいず、むしろその逆といえた。まだ本格的な冬には早いのに、ごてごてとふくれあがった綿入れを着せられている周二は、その裾《すそ》が長すぎ、なんだか支那《しな》服《ふく》を着たチャンコロの子のようにも見受けられるばかりか、裏をあてた裾一面にびっしりと泥《どろ》をこびりつけていた。その姉とおおよそ服装からおもむきを異にするのは、藍子は屡々《しばしば》その母親に連れられて外出したりするからで、何から何まで下田の婆《ばあ》やの手にゆだねられているこの末っ子のほうは、龍子の趣味や好みから放擲《ほうてき》されていたためであった。
周二は姉に比較すると、恵まれた家庭に育ったという繊細さがまるでなく、見苦しいほどのびた坊主頭《ぼうずあたま》のずっと左のほうにつむじ[#「つむじ」に傍点]がついて、その顔立ちはへんに臆病《おくびょう》げでひねこびた鼠《ねずみ》を連想させた。彼は他の子供たちにまじってかがみこんではいるものの、遊戯に加わるではなく、誰《だれ》からも、その姉からも無視されているのは明らかであった。彼はまだベーゴマを一人前に廻す術《すべ》を知らなかったし、その姉のように一人で青雲堂へ行き、好き勝手に豊富な玩具を無代《ただ》で持ってきてしまう術も会《え》得《とく》していなかった。彼はさっきから薄く口をあけ、羨《うらや》ましげに、しかし或《あ》る程度の諦《てい》念《ねん》をわきまえて、他の子供らの活溌《かっぱつ》な動作を、ぽかんと無気力に眺めていた。
と、コマのとりっくらに夢中になっている四、五人をのぞいて、子供たちは慌《あわ》ててふりむいて、坐《すわ》っていた者も急に立上って、「あ」というように後方を見やった。ちょうどそのとき、むこうの角から、隊《たい》伍《ご》を作った一隊の歩兵の列が現われてくるところであった。
この辺りは、代々木の練兵場で演習をすませた兵士らが三連隊へ帰る道すじに当っていたから、「兵隊さん」の姿を見たとてべつに珍しいことはなかった。音を立てて加農《カノン》砲が通ることもあったし、大勒《だいろく》と水勒をつけた毛並のよい馬にまたがった将校の姿にも慣れっこといえた。そういう将校たちは、子供たちに目もくれぬほど胸をそらし厳然としていたり、或いは子供たちに微笑し手をふってやるほどの余裕を持っていた。無理はない、彼らが大正末の軍縮時代に背広姿でこそこそと歩きまわった頃とは時代が違うのだ。とうに学校では軍事教練が行われていたし、なにより日清《にっしん》日露の遠い過去は別としても、満洲《まんしゅう》事変、上海《シャンハイ》事変に於《おい》て勇壮無比の活躍をし、日本の生命線を守り、国威を発揚した軍隊の中堅なのだ。
あたかもその威風を誇示するように、その一|箇《こ》小隊の兵士に、軍歌の号令が下った。まず隊列の先頭を歩いている一人の下士官が、息を吸いこみ、真剣な眼《まな》差《ざ》しをやや上方へそらしながら、こんなふうに歌いだした。
「ここは御国を何百里、離れて遠き満洲の……」
すると、小隊の全員が等しくせい一杯に大きく口をひらいた。それぞれ疲れきり、それだけ真《しん》摯《し》に、三八式歩兵銃をゆすりあげて、惰性のような声をはりあげた。
ここはおくにをなんびゃくり
はなれてとおおきまんしゅうの……
先頭の一人があとを続けた。
「赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」
全員が、おもおもしく、がさつに、なにより勇ましく合唱した。そうしたしゃがれ声の合唱となると、かなり古風で感傷的でのびやかな歌詞をもつこの軍歌は、また別のおもむきを呈してくるのだった。
あかいゆうひにてらされて
とおもはのずえのいしのした
歩兵の隊列は、いま子供らの横手を過《よぎ》りつつあった。兵士、兵士、兵士、そのいずれもがたくましく日に焼け、歌声をひびかせ、埃《ほこり》を立てて過ぎてゆく。子供らの憧《あこが》れを満たす鉄砲、弾薬盒《だんやくごう》、短剣をつるした皮のバンド、泥のこびりついたゲートル、大地を踏みならすその靴、それらが輻輳《ふくそう》し、重なりあい、集団となって、むせるような鉄と皮とカーキ色の服と汗と土の匂《にお》いをたてながら、しぼるような声で歌いながら、すぐ目の前を過ぎてゆく。
藍子はのびあがるようにして、その隊列の中から、一つの見慣れた顔を捜した。軍《ぐん》靴《か》が鳴り、銃身が光り、野太い軍歌が彼女の耳を打って過ぎた。
「定一《さだいっ》つぁんはいないわ」
と、藍子はぽつんと、つまらなそうに呟《つぶや》いた。
「定一つぁん?」
と、常々彼女が所有しているベーゴマの豊富さに敬意を表するにやぶさかでない年上の少年が訊《き》いた。
「うちの書生よ。もう一等兵なのよ」
佐原定一は楡家の若い書生の一人であった。真面目《まじめ》で律《りち》義《ぎ》で、自分からすすんで命じられた何倍ものことをやってのける。藍子が言ったように、彼は病院の賄《まかな》い界隈《かいわい》では定一《さだいっ》つぁんと呼ばれたが、彼が楡病院に住みこんでいる間は、藍子もベーゴマ遊びに加わることはできなかった。なぜなら定一は、病院の外へ出てゆくお嬢ちゃまやお坊ちゃまのそばに、いつも神経をこらしてつきそっていたからだ。彼が兵隊へ行くようになってから、ようやく藍子はその性格に応じた気ままな冒険をするようになったのだが、一方彼女はこの書生が大好きで、家のそばを通る兵隊の集団の中に佐原定一の顔を捜すのが習慣にもなっていた。
「定一つぁんはいないわ」
と、藍子はこましゃくれた、どこか批評がましい表情で繰返した。
「あの人はもう上等兵になっている筈だわ。もうきっと馬に乗っているのよ」
「上等兵は馬になんか乗りゃしないさ」
と、年長の少年が馬鹿《ばか》にしたように言った。
「おれ、これ持ってる」
そのとき、さきほど藍子から三度ベーゴマを恵まれた鼻汁のこびりついた少年が、ふいに短ズボンのポケットから、にぶく黄色く光る金属の小さな筒を取りだしてみせた。それは小銃の薬莢《やっきょう》で、日曜日に三連隊の中にある「鉄砲山」に遊びにゆくと、幸運にめぐりあえば拾うことができるものであった。笹《ささ》におおわれた小《こ》径《みち》がうねうねと通じるその小山は、平生《へいぜい》は兵士たちの射撃練習場であったからである。
藍子は、まだ触ったこともないその薬莢をさながら真珠の首飾りのようにちらと見て、そのくせつんとして、さりげない口調でこう言った。
「そんなもの、あたしが定一つぁんのとこへ行けば、二十でも三十でも、いくらでも貰えるわ」
薬莢を出して見せた少年は恥じいって、こそこそとその宝物をポケットにしまった。だが彼は気がつかなかった。その高慢な少女の弟が、急に躯《み》を乗りだして、もともとしまりのわるい口を二倍の広さにあけ、感に堪えたように、ほとんど痴《ち》呆《ほう》的な熱意をもって、その薬莢にまじまじと見惚《みと》れていたのを。
すでに兵士たちの隊伍は子供らの視界から消えていた。立山墓地の角を曲り、青山墓地への谷間にかかっていることが、断続する歌声から聞きとれた。
ぐんりつきびしきなかなれど
こおれがみすてておかりょうか
しっかりせよとだきおこし
かりほうたあいもたまのなか
おりからおこるとっかんに
とおもはようようかおあげて
おくにのためだかまわずに
おくれてくれなとめになみだ
歌声は遠くなり、かすかになり、墓地をおおう樹木にさえぎられたが、そうしてかぼそく漠然《ばくぜん》となってゆくにつれ、その短調のメロディは、軍歌とはいえぬような哀愁を湛《たた》えてくるのだった。
だが藍子は、目ざとく別の関心事を見つけ、はしゃいだ声でこう叫んだ。
「あ、ママだわ」
なるほど、楡家が最近買いこんだばかりの黒塗のぴかぴかした車が、遥《はる》か彼方《かなた》の角を曲ってくるのが見えた。すぐさま小走りに走りだした藍子のあとについて、数名の子供たちも土の道路ににぶい下駄《げた》の音を立てた。すると、ようやくそのころになって、意味もなくぼさっと立っていた周二は、勘のわるい鸚《おう》鵡《む》のように姉の言葉の真似《まね》をした。
「あ、ママだ」
そして、彼もまた長すぎる綿入れの裾に足をとられながら、どたばたと懸命に皆のあとを追って駈《か》けだした。
自動車はすでに門の前にとまろうとしていた。流線型とは縁の遠い真四角にきりたった箱型の車で、後の世から見れば霊柩車《れいきゅうしゃ》とも見えるだろうが、当時発売されたばかりの三十三年型のクライスラーなのであった。こうした新車を持っていることは、楡家の経済状態がようやく回復してきたことを示しているとも言えようが、そのとおりこの家の女主人《おんなあるじ》、今では若奥さまから奥さまに昇格している龍子の外出の頻《ひん》度《ど》は、このところ目に見えて増加していた。
子供たちが藍子のあとを追ったのは、彼らにとって「ママ」という呼称も珍しかったうえに、車から降り立つその「ママ」の姿も甚《はなは》だモダンに、見物するに足るものと感じられたためである。しかし今日はお招《よ》ばれではなかったらしく、龍子は不断着のままで、男仕立てのカシミアの黒いスーツを着、サテンのスカーフを襟《えり》に巻いていた。その髪は襟足をきれいに揃《そろ》えた断髪である。
息をきらした藍子が、今までの遊び仲間の自堕落さ、不行儀さをそのままに叫んだ。
「ママ、お土産、とってきた?」
すると、よたよたとあとから駈けつけた周二が、そっくりそれを真似した。
「ママあ、お土産とってきたあ?」
龍子はちらと歳《とし》もゆかぬ二人のわが子を見やった。同時に、そのまわりに集まっている子供たちをも。立山墓地の前手に並ぶ長屋風の家の子供らにちがいなかった。彼女は目に見えるか見えぬほど、近頃その母親ひさのおもかげにますます近似して面長《おもなが》になった顔を、不機《ふき》嫌《げん》げにわずかに横にふった。そして一言もいわず毅《き》然《ぜん》として、にこりとも頬《ほお》を緩めずにその姿をすばやく門の中へと消した。昔に比べれば見るかげもなく貧弱な、それでも藍子のわきに洟《はな》をたらしている子供らにとっては別世界とも思える門の中へ。
「お土産、ないんだね?」
と、自分までがっかりしたように一人の子が呟いた。なぜなら、この家の娘である藍子は、ときたま素晴らしく大きな人形を持って出てきて、彼らのパチンコの的にしてくれたりすることもあったからだ。
「今日はないわ。だけど、明日はきっとママがとってきてくれるわ」
年上の男の子が――彼はもっとも多くベーゴマを獲得した一人だったが――羨望《せんぼう》を裏返してひやかすように言った。
「おまえのお母ちゃん、泥棒《どろぼう》だな」
「なぜ? なんで泥棒?」
「だって、とって[#「とって」に傍点]くるのは泥棒さ。泥棒でなければ、ちゃんと買って[#「買って」に傍点]くる筈だよ」
すると、すべての子供らがこの説に賛同して、嬉《うれ》しがって藍子をはやしたてた。
「わあーい、おまえのお母ちゃん、泥棒だ」
藍子ははじめ理解しがたい態《てい》にふしぎげな顔をしていたが、急にきっ[#「きっ」に傍点]となって、腹を立てて、いかにもきかん気に、小生意気に、睫《まつ》毛《げ》のながい黒目勝ちの瞳《ひとみ》を瞠《みひら》いたあまりに眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せながら、一息にこうまくしたてた。
「だって……だって……ほんとにママは買ってくるのじゃないわ。あたしが青雲堂からとってくるのはお金は要らないのよ。買ってくるのじゃないわ。それとおんなしよ。ママはデパートもお金は要らないんですもん。お帳場だから、買ってくるのとは違うのよ。ママはとってくるのだわ、なんだって……。泥棒じゃあないんだわ」
この理《り》窟《くつ》にみんなが納得したわけではなかった。しゃべっている藍子自身、どうも自分の言種《いいぐさ》に釈然としない気持だったが、それでも子供たち一同は思わず知らず首をこっくりさせ、訳もわからずにもっともだと思って、藍子の母親の泥棒説はそのままになった。なにより、あまりこの赤いセーターを着た少女の気を損ずると、もうベーゴマを貰えなくなってしまうかもしれないからだ。
そこで、この騒ぎともいえぬ騒ぎは一段落つき、みんなは三々五々元の場所へ戻《もど》っていこうとした。ところが、藍子だけはそうはならなかった。楡家の門の中から頬がまんまるく赤い女中が出てくると、いきなり彼女のほそい腕を掴《つか》まえたからである。女中はもう一方の手で周二の肩の辺りをも掴まえた。しかしこの男の子の方は大人しく掴まえられてはいなかった。無性に手と足をばたばたやり、そのため彼のむさくるしい綿入れは今にも破れそうにひきつれた。
すると、自分もなんとかして逃げようとしていた藍子は、そのとき急に態度を変えた。自らおとなしく門の中へはいってゆこうとしながら、こまっちゃくれた優越的な声で弟に呼びかけた。
「周ちゃん、知らないわよ、ママに叱《しか》られたって」
弟はそれでもきかなかった。彼はさいぜんまでの縮こまった様子とはまったく別人のように激しく、顔をせい一杯に歪《ゆが》め、全身をくねらしたりのけぞらしたりして、ついに女中の手をふりはらった。
それから、姉と諦《あきら》めた女中が家へはいってしまったあと、――周二は一人きりになって、さきほどのベーゴマの闘技場をかこむ子供たちにまじって、長いこと、実に長いこと、他の少年がコマをとったりとられたりするのを眺《なが》めていた。ずいぶんと長い時間が経《た》ち、原っぱで凧《たこ》あげをしていた人影も見えなくなり、急速にたそがれが迫ってきた。そして、その原の上空を、塒《ねぐら》へもどる鴉《からす》の群れがとびすぎた。こちらの少年の数も半数に減ったが、なお周二は動こうとしなかった。
誰《だれ》も彼に注意をはらう者はなかった。ところがその周二は、そのころになって急にもじもじとして、上目遣いに周囲を盗み見て、思いきって決心したようにかたく握っていた拳《こぶし》をひらいた。するとそこに、長いこと握りしめられていたため汗で湯気が立つ、たった一つのベーゴマが現われた。そして彼は、突きつめた脅《おび》やかされたような表情になると、たもとから取出した紐《ひも》を、不器用に何回もしくじりながら無類の時間をかけて、かけがえのないコマに巻きはじめた。
ちょうど一勝負ついたところであった。大将株の少年が、またもやふところに獲物のコマをしまいこみながら、軽蔑《けいべつ》したように言った。
「おまえ、やんのかい、え?」
周二はうなずいて、一歩前に進んだ。すでにその臆病《おくびょう》げな顔は緊張のため一層あおざめ、憑《つ》かれたもののように唇《くちびる》をかたく噛《か》みしめていた。彼はぎくしゃくとコマを握り、その手を他の少年のやるように二、三度前後にふってみた。躯《み》をこわばらしてかまえ、死物狂いに紐の端をひいた。
彼のコマはろくに廻《まわ》りもしなかった。辛《かろ》うじて洗面器に敷かれた茣蓙《ござ》の上に落ち、ふらふらとよろめいた。そこに唸《うな》りを立てて回転する相手のコマがぶつかった。周二の唯一《ゆいいつ》のコマは跳ねとばされ、それを手早く拾いあげながら冷酷に年長の少年が宣告した。
「はい、終り」
周二は諦めがつかないふうだった。洗面器にかぶせられた茣蓙の上を見つめ、「あー」というような低い情けない声を出し、手をだらりとさげ、まだ中腰のまま動こうとしなかった。
「邪魔だよ、おめえ」と、誰かが言った。しかし周二はなんだかふぬけてしまったように、姿勢を変えようとしなかった。
しかしそのとき、周二の身体《からだ》は乱暴に抱きあげられた。優しく親切だった定一《さだいっ》つぁんと違い、いまやってきた楡病院の書生はもっと端的に手っとり早く物事を処理する男であった。そして楡家のこの末っ子は、なお諦めきれぬように薄く口をあけ、わずかに足をばたつかせながら、自分の家のほうへと否応《いやおう》なく運ばれて行った。
夕《ゆう》餉《げ》は簡単なものであった。鮭《さけ》の粕汁《かすじる》が主なものであった。それもダシをとるわけではなく、目を愉《たの》しませる野菜を入れるわけではなく、顔をしかめるほどしょっぱい鮭の切身と葱《ねぎ》のぶつ切りだけの粕汁だったが、子供たちは喜んで何杯も御飯のお代りをした。一体に山形出の女中の多い楡家の菜《さい》は常に塩味の濃いものであったし、子供たちもそれに慣れているのである。子供といってもこの日は藍子と周二だけで、長男の峻一《しゅんいち》の姿は欠けており、父親の徹吉は医局の会のため不在であった。
龍子の食事はせかせかとすばやい。自分より目上の、或《ある》いは身分の高い客でもいないかぎり、あたふたと粗雑に実にそっけなく済ましてしまう。他人が食べている最中でも、済んだ食器をせわしなく片づけだす。自分の食べ残した鮭の切身を子供の茶碗《ちゃわん》の中へほうりこむ。その礼を失すること、傍若無人ぶりは、たしかに高貴と名づけてもよい。
いまも龍子は済んだかぎりの食器を女中にさげさせ、「これを下げたら、ジェリーを奥に……」と命じた。
龍子は「奥」と言ったが、それは食事をとっているこの八畳の茶の間にすぎず、往時の楡病院に於《お》ける「奥」とはまったく意味合を異にしていた。どこの中流家庭でもいわれる「奥」にすぎなかった。強《し》いてこの部屋の変っているところを捜せば、一方の押入れをひらくと、そこにぴったりとあつらえたように、焼け残った基一郎の遺物、ずいぶんと時代がかったマホガニーの大机が据《す》えられていることである。丸い扉《とびら》が上からしまるようになった、無《む》闇《やみ》と引出しの多い堂々とした大机である。龍子はこれを「西洋|箪《だん》笥《す》」と呼んだ。そしてその父親から伝わった妖《あや》しい血の囁《ささや》きによって、この茶の間を「西洋箪笥の間」と呼ばせたがったが、そんな長ったらしい名称はついに普及せずに終った。だが龍子はこの発音が好きで、なにかにつけ、「西洋箪笥の右手の二番目の引出しを明けると……」などと言いたがったのである。
ジェリーがとどけられた。かかえるほど大きな鉢《はち》にたっぷり作られたゼラチンのジェリーで、ぷりぷりと柔軟な表面の光沢を通して大粒の苺《いちご》が幾粒もはいっているのが見てとれた。これは当然みんなの食後の菓子と思われようが、龍子は器をとるとそのまま次の間へはいっていった。
そこはやはり八畳の客間があったが、今はそこに蒲《ふ》団《とん》が敷かれ、近ごろ背丈ばかりのほほんと高くなったこの家の長男、むかし龍子が弟の欧洲《おうしゅう》にむかって言った「総領の甚六《じんろく》」という言葉を近ごろ往々親類の大人たちからたてまつられたりしている峻一が、すこし血の気が失《う》せて、いかにもおれは病人だぞというような顔つきで、しかしもっとはっきりいえば、なんの苦労もない太平楽な様子で横になっていた。
一体何が起ったのか? 峻一は鼻から出血をしたのである。たかが鼻血だって? いやいや、それが滅多にない稀有《けう》な、ただならぬ生命《いのち》にかかわるような鼻血で、一時は家族の者も色を失ったほどの特別な鼻血なのだ。
峻一は武蔵《むさし》小《こ》山《やま》にある中学校へ行っている。昔の内弁慶《うちべんけい》な点は改善されたが、その名のニュアンスに反して成績はあまりよくなく、なによりもおだてられるとすぐいい気になって、いろいろな悪戯《いたずら》を企《たくら》むクラスの仲間すべての罪を一身に背負ってしまう。教師が激怒する悪戯は、調べてみるとたいていこの峻一が首領株であることが発覚したが、実は首謀者はほかにいて、彼は祭りあげられた案山子《かかし》にすぎなかったのである。そして先日こんなことが起った。彼らは休み時間によく焼芋を買った。教室の窓から紐をつけた籠《かご》をたらし、塀《へい》の外にいる焼芋屋から焼芋をつりあげるのである。ところが教員室の窓からこの焼芋がゆらゆらと上昇してゆくところが発見されて、彼ら、なかんずく峻一は大目玉を喰《く》った。それからまた日が経って、蔭《かげ》の首謀者が言いだした。
「楡、焼芋屋がきているぞ。おまえ、もう一度やる勇気があるか?」
「ここは場所がわるいよ。教員室がすぐ下だもの」と、このところ少し智慧《ちえ》のついた峻一は言った。
「よし、それじゃ屋上へ行こう。ずっとはずれのほうでやるんだ」
数名の者が屋上へ登って行ったが、蔭の首謀者は、副級長の城木《しろき》達紀《たつのり》も一緒に連れてゆくことを忘れはしなかった。城木は成績に比例した生真面目《きまじめ》一方の少年ではなかったし、万一の場合、副級長も同類であるとなると、罪が軽くて済むと考えられたからである。
「楡、君がやっぱり一番うまい。やってくれるか?」
「おれは十銭出すよ。だが籠をほうるのは誰かやってくれよ」と、さすがに大分智慧がついてきた峻一は言った。
すると、副級長の城木がすすみでた。男らしくさっぱりとこの許されていない事業を引受け、はずみをつけて籠をほうった。紙でくるんだ貨幣のくくられた籠は、するすると長い紐をひいて、心得た焼芋屋が待ちかまえている塀の外に落下した。
「うまい」と、二、三人が叫んだ。
「うまい!」と、またもや智慧が薄れてきた峻一が、感に堪えたような声をあげた。
ところが、すべてが上首尾であったのに、焼芋のたっぷりはいった籠がゆっくりとたぐり寄せられてくる段階にはいったとき、突然、下のほうの窓から蝙蝠傘《こうもりがさ》の柄《え》が突きでてきて、この籠にちょっかいを加えだした。
「畜生! ありゃあ二階だ。誰か行ってくれ。楡、おまえの役だ」
「心得た!」
すでにすっかり智慧を失った峻一は、迅風《じんぷう》のごとく走りだし、大層な勢いで階段を駈《か》けおりたところで、他の生徒に真向《まっこう》から出会頭《であいがしら》にものの見事に激突したのである。相手ははじきとばされただけで済んだ。ところが峻一の方は鼻血をほとばしらせ、しかもこれが単純な鼻血という概念を越えたおびただしい量で、いつになっても止ろうとしなかった。彼は医務室にかつぎこまれ、やがて家へ電話がかけられた。
それからの騒ぎのことはひとまずおくとして、とにかくいま峻一は、とうに出血もとまり、いくらか青ざめてはいるものの、臨時に仕立てられた病室である客間に至極上機嫌で寝そべっているのだった。彼はたいそう得意な気持でいた。よく妹や弟にむかって、「人間は身体の全体の血の量の三分の一、血が出てしまうと死んでしまうんだぞ。ぼくはな、その三分の一のちょっぴり前まで血が出てしまったのだ」などと自慢してみせたりした。なによりも毎日毎日ふんだんに、血止めによいといわれる、しかしそんなことはどうでもよい、舌にとろけるような鉢一杯の苺入りのジェリーが食べられるからだ。
龍子は合理的な精神の持主であった。せめて他の子供にも一片のジェリーを与えればよいのに、彼女は峻一の食器を片づけジェリーの鉢を与えると、あとの子供たちは顧みず、さっさと自室へ去っていってしまった。
そこで峻一は床の上に腹《はら》這《ば》いとなり、人の好《よ》さそうな長すぎる顔に比類のない満足さを現わして、スプーンでジェリーをすくい、あんぐりと口をあけ、ゆったりと時間をかけて味わい、またあんぐりと口をあけた。そのさまをこちらの部屋から同じように口をあけて周二は見守っていた。彼の視線は、スプーンから兄の口へ、兄の口からジェリーの鉢へと真剣に移動した。それでもその兄は一口やろうとは言わなかった。むしろ見せびらかすようにいかにもおいしげに、そのスプーンを動かした。それはそうだ、なにしろ彼は滅多にないことに、自ら信ずるところによれば全身の血液の三分の一を失い、まさに死の一歩前まで両足を踏みこんだ得《え》難《がた》い人間で、一人きりで思うさまジェリーを食べる資格充分な持主なのだ。峻一は弟の突きつめたような視線を意識しながら、あたかも極楽浄土にでもいるような満悦した面《おも》もちで、殊《こと》さらゆっくりと大型のスプーンでジェリーをすくった。……
その夜、ジェリーの魅惑をようやく絶ちきった周二は、二歳違いの姉の相手をしてしばらく遊んだ。侍童のように唯々《いい》諾々《だくだく》と、綾《あや》取《と》りやお手玉のような少女の遊びをやった。もっとも彼は不器用で、たいてい藍子に癇癪《かんしゃく》を起させ、姉の器用な仕《し》種《ぐさ》をぼんやり見つめたりすることのほうが多かったが。
藍子は「一番初めは一の宮、二また日光東照宮……」と歌って、小さな手《て》毬《まり》を畳の上でついた。「三また佐倉の宗五郎、四また信濃《しなの》の善光寺……」
次には周二にこぶしを作らせて、「ずいずいずっころばし胡麻《ごま》味噌《みそ》ずい、茶壷《ちゃつぼ》におわれてどっぴんしゃん……」という、極めてありふれた、しかし意味もよくわからないふしぎで不可解な遊びもやった。
最後に、この二人の幼い姉弟は、むかいあって坐《すわ》り、お互いの掌《てのひら》を交互に打ちあわせながら、こんなふうな唄《うた》を歌った。
李鴻章《りこうしょう》の禿《は》げあたま
負あけて逃げるはチャンチャン帽
坊《ぼう》主《ず》に剃《そ》られて泣いてって
帝国万歳大勝利
こうした時代のずれた黴《かび》の生えた唄を子供たちに教えこんだのは下田の婆《ばあ》やにちがいなかったが、この歌詞の各行の末尾と次の行の冒頭は同じ発音で、自然と繰返して何遍でも歌うようになるのが特徴といえた。「ていこくばんざいだいしょうりっこうしょうの……」という具合である。そして藍子たちはなんの邪気もなく歌ったのだが、それでもなにがなし日本帝国はこのうえなく強く、逆にチャンチャン帽、チャンコロ、すなわち支那人たちは弱虫で取るに足らない存在であることが小さな頭に沁《し》みとおる、ということも否定できなかった。
しかし、すぐに子供たちの寝る時間がきた。下田の婆やが、たるんだ頬《ほお》に無数の皺《しわ》のきた、だがその皺の一つ一つに無限の無私の愛情をこめた顔を現わして、二人の子を歯みがきに連れていった。周二は大きすぎる歯ブラシをぎくしゃくとあつかって長い間かかって歯をみがいた。だがそれは本当は無益なことでもあった。なぜなら彼は最近、枕元《まくらもと》に赤い色のついたサイダー、かつて基一郎が愛飲したあのボルドーを吸呑《すいのみ》に入れておき、寝ながら飲むという悪癖を有していたからだ。
玄関の次の間、七畳半の変則な間取りの和室が、藍子たちの寝る場所になっていた。長っ細い箪笥と角ばった柱時計、それがこの部屋の附属物のすべてであった。
藍子が寝巻に着かえて一つの蒲団にもぐりこんだとき、遥《はる》か青山墓地をへだてた三連隊の消燈《しょうとう》ラッパの音が、かぼそいながらはっきりとこの部屋まで伝わってきた。
「あのラッパ、嫌《きら》い。寂しいんですもん」と、下田の婆やに蒲団を直して貰《もら》いながら、藍子はませた口調で欠伸《あくび》まじりに言った。「あたし、眠れやしないわ。『戦友』って歌だって悲しい歌よ。……戦いすんで日が暮れて、だの、時計ばかりがこちこちと、だの、みんな寂しいわ。藍子、眠れやしない」
「さあさあ、藍さま、ちゃんと眠れますよ」
と、下田の婆やは蒲団の上を叩《たた》きながら言った。
すると藍子はあっという間に、嘘《うそ》のようにあっけなく寝こんでしまった。造り物の人形みたいに寝息も立てず。
そこで婆やは自分も寝巻に着かえ、電燈を暗くし、溶けそうにだぶついた頬を崩して周二の寝床にもぐりこんだ。龍子の子供たちの中で一番|下《した》っ端《ぱ》で人気もなくみんなからかまわれぬ周二ではあったが、それを満たしてなおお釣《つり》がくるまで、下田の婆やの常軌を逸した愛情は、現在この子に注がれているのだった。楡家の子女を幾人となく次々と手塩にかけてきた下田ナオにとっても、おそらくはこれが天から与えられた最後の務めと思われた。あまつさえ当年六十四となったナオの年齢が、彼女の柔和な脳髄に硬化をひき起し、この六歳の男の子を構造からして違ったかけがえのない子供、世間に無数にいる他の子供たちからとび離れて可愛《かわい》い特別あつらえの坊ちゃまと思いこませたのだ。周二のあまり利口そうでない行動に対しても、彼女は一種厚かましい解釈を下した。周二が障子《しょうじ》を破ればそれは類《たぐ》い稀《まれ》な資質による元気さのせいで、彼がめそめそすればそれは言いがたい品性の争えぬ現われで、彼がクレヨンで滅《め》茶《ちゃ》滅《め》茶《ちゃ》な図案を描けば、「このお歳《とし》でもう字を書きなさる」ということになった。もし万が一、周二がその兄や姉から泣かされようものなら、下田ナオは自分も胸が一杯になって、その肥満した体《たい》躯《く》で周二の小さな身体をおおいつくし、「泣くんじゃありません、周ちゃま。ほらほら、婆やがついているのですからね」と、だらしなく甘く優しくなぐさめる始末であった。
とりわけ周二が臆病に怖《おそ》れおののいた最大の出来事は、あの東北の炭焼きの息子であった辰《たつ》次《じ》、今では頭を大銀杏《おおいちょう》に結い、黒《くろ》羽《は》二《ぶた》重《え》の紋附《もんつき》を着て一人前の関取になっている蔵《ざ》王《おう》山《さん》の来訪である。たまたま遊びから戻《もど》ってきて、玄関におそろしく巨大な、普通の人間社会ではあり得ない看板のような草《ぞう》履《り》を見《み》出《いだ》すと、この末の子は早くも顔色を失い、泣きだしそうに唇《くちびる》を歪《ゆが》める。蔵王山の姿を見もしないうちに、彼の幼い脳裏には、どうしても信じがたく理解しがたい、実に今では六尺八寸もある化物じみた巨人のおもかげ、長く異様にはった頤《あご》、ぶ厚くまくれた唇、そこからぼそぼそと洩《も》れる人間離れのした不明瞭《ふめいりょう》な声音がなまなましく浮んでくる。周二は蔵王山のいる座敷には近寄ろうともしなかった。無理に連れていこうとすると、顔をくしゃくしゃに歪め、せい一杯の力で抵抗した。それから便所の中へ逃げこみ、一体何をしているのか、一時間も二時間も出てこないことがあった。戸に耳を当てて様子を窺《うかが》うと、ときたま堪えかねたようにしゃくりあげるかぼそい泣き声が聞きとれた。そんなときにも、この意気地のない末っ子をなぐさめるのは下田の婆やの務めで、また彼女以外には成功しない役柄《やくがら》であった。彼女は警戒心の強い野良《のら》猫《ねこ》でさえ気を許すような、とろけるような調子で言ったものだ。「さあさあ周ちゃま、蔵王山はもう帰りましたよ。もうどこにもいやしません。さあさあ、婆やがちゃんとおんも[#「おんも」に傍点]まで行って見てきたのですからね」そのくせ彼女は、この溺愛《できあい》する男の子のことを、意気地なしだとか弱虫だとかとは露ほども思ってみなかったのである。
なかんずく彼女を悦に入らせたのは、どういう訳か周二が赤いボルドーに対し執心に近いほどの愛好を示したことで、これも婆やの動かしがたい解釈によれば、「ほんとにこの坊ちゃまはお祖父《じい》さまの血を受けついでいらっしゃる。きっと大先生みたいにお偉くおなりになりますよ」という盲信の根拠となるのであった。
そんなふうに婆やから特別の寵愛《ちょうあい》と庇護《ひご》を受ける周二ではあったが、彼女が一緒の寝床に寝てくれることは、半分は大安心なことで、半分は有難迷惑なことともいえた。なぜなら下田の婆やは、大切でならぬその子供より先に、どうにもならぬ生理的現象によって、自分が先に死んだように深くぐっすりと寝入ってしまうからである。そしてこのところ彼女は、甚《はなは》だしくふるえ、底ごもり、反響する大《おお》鼾《いびき》をかくようになっていた。
この夜も、下田の婆やはたわいもなく眠ってしまった。すでにその寝息は次第々々に高まってゆき、喉《のど》にからみ、鼻孔にからみ、どうしてかような音響が生れてくるのか信じられぬほどの鼾となって、ついにはでっぷりと肥満した身体全体がただならず震動する小山となった。
毎夜のことながら、周二はぱっちりと目を開いていた。睡《ねむ》気《け》は一向にやってこなかった。かたわらで、大好きな下田の婆やが、今はまったく別種の、突けども押せども反応のない取りつく島もない物体と変じて、たとえようもなく怖ろしい鼾を立てていた。吸入された空気が彼女の鼻の奥でぶつかりあい反響しあい、わずかの間隔をおいて、今度は吐きだされた息が彼女の喉でごろごろと鳴動し、ときにははっとなって寝床から逃げだしたくなるほどの、圧倒的な、おしつけがましい、にぶくきしんだ咆哮《ほうこう》となった。どんな悲しいことがあったにせよ、常に自分をすっぽりとほの暖かく包んでくれる存在、身を投げだして埋没できる揺籃《ゆりかご》、いつもにこにこと優しいその下田の婆やも、今や縁もゆかりもない不気味な怪獣のようにすら思われた。本当は彼女のこの寝入りばなの高鼾はまもなく低まって安らかになり、そればかりか彼女は夜じゅうずっと気をつけて、この年齢になっても往々おねしょ[#「おねしょ」に傍点]をする周二をゆり起し、朦朧《もうろう》としている少年にしびん[#「しびん」に傍点]をあてがってやるのだったが、そんなことは周二自身にはわかりっこない事柄であった。
周二は突き放されたような心細さのなかで、じっと目を開いていた。五|燭光《しょっこう》のあるかないかのかぼそい明りが点《とも》っているばかりで、七畳半の部屋は今はいやにだだっ広く、明りの及びがたい天井もいやに高かった。婆やの断続する大鼾の絶え間に、柱に掛けられた時計が時を刻んでいた。規則正しく、はっきりと酷薄なひびきで……。
姉が、むこうに何も知らず眠っている姉が、たしかさっき言いはしなかったか。あの歌は寂しい、と。「時計ばかりがこちこちと……」という歌詞を周二もまたよく暗記していた。そして彼は、下田の婆やに大半を取られてしまっている寝床の隅《すみ》で、否応《いやおう》なく耳にとびこんでくる怖ろしい鼾の中で、急にめそめそと泣きだしたい気持に襲われた。
周二は身体を蒲団から乗りだし、救いを求めるように枕元を探った。煖房《だんぼう》とてない室内は冷えきり、寝巻の袖《そで》から出ている腕がしきりと寒かった。しかし、ボルドーを入れた吸呑はほっとしたことに確かにそこにあった。彼は吸呑のほそい口に口を当て、冷たい甘い液体を一息に吸った。まだ炭酸ガスの気《き》泡《ほう》がぶつぶついっていて、舌を甘《あま》酸《ず》っぱくくすぐった。三口ほど飲むと、かなり気持が落着いてきた。彼はふたたび蒲団にもぐり、小さな躯《み》をちぢこめ、じっと目をつぶった。
やがて、猛威をたくましくしていた下田の婆やの鼾は少しずつ静まってゆき、それと共に、隣に丸くなっている男の子の薄く開かれた口からも、いつしか低い気弱そうな寝息が洩れはじめた。
第二章
徹吉の、飾り物とてない、壁もくすんだ、畳も古く黄ばんだ無味乾燥な居室、下の子供たちが寝る七畳半の間の真上に当る十畳の和室は、いつということもなく年と共に、目に見えぬ塵《ちり》が人間の住まぬ屋根裏部屋に知らず知らず層をなしてつもるように、多くの書物がわがもの顔にのさばり、集積し、本棚《ほんだな》に溢《あふ》れ、乱雑に畳の上にまで積み重ねられるようになった。仮綴《かりとじ》の薄っぺらな書物、あるいはにぶい光沢を放つ皮表紙のぶ厚い書物などが、あちこち赤線を引かれ、覚え書の紙片を挿入《そうにゅう》されて、堆《うずたか》く……。
大正十五年の春、養父の基一郎が歿《ぼっ》したのち、徹吉は当然新しい院長として楡《にれ》病院を引継いだ。有体《ありてい》に一口でいって、それは彼の柄《がら》ではなかった。災厄《さいやく》後の過渡期の病院、灰燼《かいじん》の中から無理算段に再建をはからねばならぬ、医療とはまた別の苦難を背負うにはふさわしくなかった。しかしすでに軌道は敷かれていた。基一郎はすべての計画を綿密に立て、しかし自ら着手することなくして死んだのである。楡病院の当時の立場としてはあまりの冒険、大それた博打《ばくち》とも思えたが、郊外の世田谷松原に七千六百坪もの土地を借りる話しあいはすでにまとまっていた。基一郎自らの手による新病院の図面はとうに引かれ、請負師まで早手まわしに決っていた。基一郎の遺《い》骸《がい》はもはや口をきくことはなかったにせよ、徹吉は初めからこの計画を聞かされていたし、院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》はもっと詳細に知《ち》悉《しつ》していた。そして、すでに焼かれて骨と化した基一郎の遺志は、楡家の一族をあやつり、一筋に新病院建立《こんりゅう》への道を進ませたのである。
だが最初の二、三年、殊《こと》にその事業に着手した年は、新しい院長徹吉にとって悪夢に等しいものといってよかった。基一郎であるならすました顔で切抜けられるであろう世間一般にざらにある面倒事も、後を継いだこの養子を徒《いたず》らに途方に暮れさせた。なにより徹吉は金銭に関して極端に無知無能で、どこからか金を工面せねばならぬこと、借金というその概念を思い浮べただけで、必要以上に極端な絶望にうちひしがれがちであった。
辛《かろ》うじて金を得る手《て》蔓《づる》が掴《つか》める。それも切《せっ》羽《ぱ》づまった最後の手段、高利貸の金なのだ。徹吉は院代勝俣秀吉と一緒に、相手を料亭《りょうてい》に呼んで、不慣れな世間話を無理に交わしながらいろいろともてなす。やがて相手はやおら大きな黒カバンをひき寄せ、無造作に札束を取出す。徹吉は指先に唾《つば》をつけ、不器用に長いことかかって、この欲しくてならぬ百円紙幣の束を数えてゆく。――おかしい。金額があわぬ。札が足りない。五万円なくてはならない筈だのに、四万五千円しかそこにはない。そこで徹吉はいぶかしげに難詰《なんきつ》するように顔をあげる。なに、それが当り前、なんの不思議もないことなのだ。一割の利子は初めから差引かれているのだ。然《しか》もそれは一カ月の利子で、一年経《た》てばその利子は元金を越えるのだ。世間に無知な徹吉の面前で、相手はまるで綿屑《わたくず》ひとつの取引きでもするかのように、ごく軽やかな調子で、そればかりか歯にかぶせた幾つかの金冠がすっかり垣《かい》間《ま》見《み》える上機《じょうき》嫌《げん》の笑顔となってこう言う――お厭《いや》ならおやめになるがよいでしょう。情けなさ、口惜しさ、我知らず指先がふるえだすほどの憤《いきどお》りがこもごもに徹吉を襲った。傍《かたわ》らでは、彼自身も無知で無力でこの問題についてなんの助言もできぬ勝俣秀吉が、同じように途方にくれて、小柄で頼りなげな痩身《そうしん》をやや折り曲げ、意味もなく爪先《つまさき》で畳のおもてをひっかいた……。
当時の徹吉の小型の日記帳には、こうした事柄に不慣れな彼を必要以上に悩ましたこまかいメモが乱雑に記されているのだが、徹吉はあとになってからもこれを読み返す気がしなかった。
「今日、仮登記ガスミ、約束手形ヲ出シテ、現金ヲ受取ル筈《ハズ》ニナツテヰタ。然ルニ……」
「東京弁護士会副会長弁護士佐久間茂雄、電話四谷二四三三」
「青山ノ家屋、新築病院ヲバ、二番抵当権ノ設定ヲシテ貰《モラ》フコト(勝俣ニ委任シテヨシ)」
「返リ証、(金ノ出来ル場合ニハ即時ニ解除スルコト)」
「七万トシテ三割、一年ニ二万一千円、三ケ月ニ五千二百円(半年)」
「川本氏ニ頼ミシ処《トコロ》、秋場源三氏ガ金主デアルコト、八万円デ一ケ月三千円ヅツ貰ヒタイコト、手数料七分ト云《イ》フコト。利子ノ点デコレデハ到底支払ヘナイ」
「塩崎《シホザキ》氏。財産目録今夜中ニ送ルコト」
「大原ガ手続ノ書類ヲ持ツテ来テ、四万五千円ノ方ハ十二月三日マデノ期限ニスル、ソレ以後ハ日歩《ヒブ》十銭ヲ払ヘト云ツタ。却《カヘ》ツテ感謝スベキデハナイカ、ソレガ承知デキナケレバ直《ス》グニモ書類ヲ持ツテ帰ル、ナドト云フ。涙ヲノンデ従ツタ。シマヒニ登記料三百円用意シロト……」
「平塚《ヒラツカ》先生、楡病院ニハナントイツテモのれんノ力アルカラト励マシテクレル」
「坂本カラ電話カカリ、クドクドト云ヒ、最後ノ手段ヲトルトカ云フモノダカラ……」
「登記所ヘヤツタ勝俣ノ報告ニヨルト、二百八十何円トツテ、関口トイフ代書所ニ茶代トシテ十円四十銭置ケト大原ガ云ツタノデ勝俣ハ置イテキタサウデアル。実ニヒドイ」
「警視庁衛生課ヨリ電話ニテ明日午前九時ヨリ新病院ノ方ヲ視《ミ》テ呉《ク》レル由《ヨシ》」
「視察。半出来ノタメモウ二三度視ネバナラヌト云ハレタ」
「頭ガスツカリワルクナリ、夜ガドウシテモ眠ラレズ……」
「坂本ノ方ヲ片《カタ》附《ヅ》ケヨウトシテ勝俣ヲ事務所ヘヤル前ニ、二万円ヲ龍子《リュウコ》ガ住友ノ支店ニアヅケ、ソレカラ二万円ノ小切手ヲ作ツテ持ツテ行ツタガ、イザ坂本ノ処ニ行ツテミルト保証小切手デナケレバ駄目《ダメ》ダト云フ。ソノウチ時間ガ経ツテ駄目ニナリ……」
「十二月三十一日。夜ニナツテ松ヲ立テタリシタ。今年ハ差押ヘモ喰《ク》ヒ、マコトニ切羽ヅマツタノデアルガ、十二月二十八日ノ期限前ニナントカ片ガツイタ。トニカクコノ年ヲ切リ抜ケラレタ。コレハ神明ノ加護デナクテ何デアルカ。同時ニ大恩ヲウケタ方々ノコトヲ終生忘レテハナラヌ……」
そのような状態のうちに、辛うじて新病院は形をなしてゆき、市の委託患者を収容する許可もおりた。基一郎の設計の才は、この新病院を遠くから眺《なが》めると一見堂々としたものに見せた。玄関の一郭だけは、基一郎得意の石を貼《は》りめぐらした、木造としてはひとかどのしゃれた建物といってよかった。だが、あとに連なる幾棟《いくむね》かの平屋の病棟《びょうとう》は、基一郎がよほど心魂にこたえたらしくコンクリートの防火壁だけが要所々々にものものしく作られていたが、その他はバラックもバラック、もっとも安価に粗末に造られるよう初めから指図がしてあって、あまつさえ金もまともに払って貰えぬ業者はそれに輪をかけて手抜きをした。
そのためこの楡脳病科病院の新院は、開院まもなく不祥事を続出させた。ひとつは患者の自殺で、当時の精神病院に自殺はつきものとはいえ、ほかの病院より多くを数えたのは、看護人の数も訓練も足りぬためと判定された。もう一つは患者の脱走で、これはしばらくのあいだ楡病院の名物のようなものであり、いったん脱走しようと企てると、患者は実にやすやすと病室から脱《ぬ》けだした。いくらバラック建てとはいえ、窓には鉄格《てつごう》子《し》がはまり扉《とびら》には鍵《かぎ》がかかるようになっていたのだが、患者がひそかに畳をあげると、その下には紙のように薄い床板しか存在しなかったからである。
屡々《しばしば》警視庁から文書がきた。
「衛医丙第一〇六三号ノ一、昭和二年六月三日、代用精神病院経営者楡脳病科病院楡徹吉殿。
代用精神病院指定ノ期間更新ニ関スル件。首題ノ件ニ関シ曩《サキ》ニ承諾書御提出中ノ処別紙ノ通《トホリ》指令|相《アヒ》成《ナリ》候《サウラフ》ニ就《ツイ》テハ平素病者ノ保護治療及其他ノ施設ニ関シ相当御考慮相成居候コトト被認《ミトメラレ》候モ近時病者逃走ノ事故|頻発《ヒンパツ》シタルモノアルハ公安保持上|寔《マコト》ニ寒心ニ堪ヘザル次第ニ有之《コレアリ》候ニ就テハ今後一層諸般ノ点ニ留意シ病者ノ看護|並《ナラビニ》治療上万遺憾ナキヲ期セラレ度《タク》……」
文面こそいかつく鄭重《ていちょう》であったが、徹吉は警視庁の衛生室に出頭し、頭をたれて叱責《しっせき》を受け、病棟改造の試案を直ちに文書にして提出するようきびしく命じられねばならなかった。
なによりも楡病院の二代目院長である徹吉は、こうした院長業務に不適というか、病人を診察することよりも更に多くの時間を割《さ》かねばならぬさまざまな経営者としての実務、煩雑《はんざつ》な末梢事《まっしょうじ》に向いておらず、不器用で、頭がきれず、傍《はた》で見ていても歯がゆいほどもたつくのであった。にもかかわらず、否応《いやおう》なく彼の背におわされた数限りのない義務は、徹吉をへとへとにし、すりへらし、めっきり白《しら》髪《が》を殖やさせ、その二、三年の間に十年も歳《とし》をとらせ、むっつりと不機嫌にした。
それならば肝腎《かんじん》の医師としての彼の才能、患者を診察し治療してゆく技倆《ぎりょう》はどうであったか。徹吉ははじめこの点には豊かな自負を抱いていた。学問に関してはそうそう他人にひけをとらないと考えていたし、なにより精神医学の本場|独逸《ドイツ》での最新の知識を三年半にわたって吸収してきた筈の自分である。いや、その以前から彼は、実施家としては確かに才能を持っていたにちがいない養父の診察ぶりに対して、ひそかに首をふり批判もしていたほどなのである。
それなのに、いざ彼が新院長として、楡病院最高の権威として、患者を能《あと》うかぎり速やかに癒《なお》してみせて世間の評判をとり、衰退しかかった病院を復興させる使命をおびて診察室に坐《すわ》ったとき、どうしたものかその信念はぐらついた。なるほど彼は全力を尽した。他の雑事に疲れきり、ぐったりとなりながらも全力を尽した。基一郎のような自己|礼讃《らいさん》を、一人よがりの放言を、事実に反したハッタリを吐きはしなかった。早発性|痴《ち》呆《ほう》患者にはそれにふさわしく、神経衰弱患者にはそれ相応の態度をし、説明をくだした。ところが徹吉がひそかに驚いたことは、どうも自分は彼らの信頼をそれほどかちえていないということであった。学理にのっとった正当な説明よりも、基一郎のように耳鼻鏡をつけて相手の耳の奥を覗《のぞ》きこみ、「ああ、君の脳は腐っている。たしかに傷《いた》んでいる。君、このケー・エヌ丸という薬を飲んでみたまえ。これは日本一の薬なんだから」と言ったほうが、明らかに効果があり本人の納得を誘うようでもあった。といって、徹吉自身そういう言葉を吐く気にはとてもなれなかったし、もし吐いたとしても、それは基一郎と徹吉とでは口調から態度からどうしても違う筈であった。
自己の判断も稀《き》薄《はく》で危なっかしい患者の信用が得られないのなら、患者の家族の信頼は尚更《なおさら》得られなかった。当時の狭義の精神病者、真の狂人は、癒るほうがむしろ稀《まれ》といえた。しかし基一郎は家族にむかってそうは言わない。「まかし給《たま》え、まかし給え、あなた、私は専門家、オーソリティなんだから」すると、かなり屡々、癒らない筈の狂人が癒る、あるいは癒ったように思われることもあった。それが徹吉の場合は、学問と当時の未発達な治療術とそれに伴う無理からぬ自信のなさの板ばさみになって、そう簡単に家族を安《あん》堵《ど》させるに足る言葉が出てこなかった。彼は心配そうな家族の前で、自分が悪いことでもしたかのように視線をそらし、不得要領の言葉を吃《ども》りがちに呟《つぶや》いた。これでは誰《だれ》でもこの医者をあまり信頼するわけにいかなかった。
なによりいけないのは、徹吉の心の底でその信念がぐらつき、やはり養父は自分より上の医者だったのではあるまいか、いやそれよりも、自分は臨床医としてもともと不向きなのではあるまいかという疑惑と逡巡《しゅんじゅん》が生じてきたことである。何も知らぬ、古くからいる看護人などのひそかな噂《うわさ》の声が、ときとすると彼の耳にまではいってくることがあった。「やはり大先生は偉かったな、こう頭をぽんぽんと叩《たた》くだけで、どこが悪いかちゃんとわかりなさったからな。今の院長にはそれができねえ」
徹吉はなんといっても養子の二代目であり、なにかにつけ宮殿のように見えた楡病院を創《つく》りあげた養父と比較され、批判される運命にあった。そして、基一郎の亡霊はまだ確かに生き残っていた。松原の病院にも、青山の病院にも、その医局にも看護部屋にも、家族の住む居室にも、至るところに生きていた。生前の基一郎の、度外れした調子のよさ、口先だけのいい加減さが鼻につき顰蹙《ひんしゅく》していた人々までが、彼が死んでしまうとそういう点を忘れてしまった。死亡してまださして歳月も経たぬのに、昔の院長、楡基一郎は、すでに伝説の中の人物と化したおもむきがあった。その偉大な点だけがあやまたず人々の記憶に尾をひいて残り、少なからぬ欠点すらも歪《ゆが》められ誇張されて、やはり珍しく偉大なこととして思い出された。
「いや、火事のあとでも基一郎先生はねえ、なんの苦もない顔をなさっておりましたよ。借金の証文を破いてしまわれたのを知っているかね? 借金取りの前でねえ、その証文を、これはなにかの間違いでしょうとおっしゃったかと思うと、平気の平左でびりびりと引裂いてしまわれたんだ。ああいう真似《まね》は君、われわれにとても出来ることじゃあない」
なかんずく人々が亡《な》き基一郎への感服と崇拝の念を強めたのは、当初|菅《すが》野《の》康三郎が危惧《きぐ》したごとく麦畠《むぎばたけ》ばかりであった世田谷松原の土地が、見る間に発展の機運を持ち、事実発展しだしたことである。三軒茶屋から玉川電車の新線が伸び、近所に山下という駅ができた。追いかけて小田原急行電鉄が開通し、梅ヶ丘、豪徳寺というもよりの駅ができた。新病院はこの二本の郊外電車の交《こう》叉《さ》する近くに存在するのである。駅の附近にはたちまち人家が殖えだし、そうなるとこんな田舎に病院を建てて……などと案じていた人々は、今さらながら基一郎の先見の明、その卓抜な直感力の冴《さ》えに驚嘆の念を覚えるのだった。
松原の楡病院には、基一郎の老妻ひさをはじめとして、院代勝俣秀吉が初めから移って腰をすえていた。金沢清作、韮沢《にらさわ》勝次郎らの、基一郎が早くから一族郎党として育ててきた医者が泊りこんで診察に従事していた。二、三年の危機の時代、苦闘の時代を過ぎると、青山の病院こそ相変らず貧相なものにすぎなかったが、こちらの新病院にはようやく安定の気配が現われだし、将来の発展の目安がはっきりと打ち出されてきた。ひどいバラック建ての病棟も徐々に改善されていった。
「基一郎先生がこうとおっしゃったことは本当に間違いないよ、君。実際あのお方は、何年先まで見通しだったからな。借金なんてものはなんでもない、金は天下のまわり持ちだからねえ、とよくおっしゃっていたが、あと四年、なに三年で……。いや君、もう楡病院にはどこでも喜んで金を貸してくれるよ。いくらでも借金ができるということは、これは君にはわからぬ大したことですよ」
と、院代勝俣秀吉は新しく雇った若い会計係にむかって、かつて高利貸の前で徹吉と一緒に途方にくれた影さえ見せず、教示の口調で鼻声で言った。あの神経質な徒《いたず》らにおろおろするばかりの会計係大石は、青山の病院のほうに残してきていたのである。
院代は、基一郎の乙にすましかえったおもかげ、その奔放なやり方を追想し、そうすることによって亡き院長の余人に真似のできぬ直感力が自分にも附与されてゆくような気がした。その神秘的な直感力に従い、彼は麦畠の中に途方もなく巨大な広告板を打ち立てた。それは前を過ぎる小田急電車の窓からもずいぶんと威圧的に大きく見え、院代勝俣秀吉は、それを眺める電車の乗客がみんな頭が変になり、立派な精神病者となって、押すな押すなと病院におしかけ、たしかに生きてにこやかに微笑している基一郎院長が、院代よくやったと讃《ほ》めてくれる夢を、ある夜実際にまざまざと見た。
彼は誰よりも熱心に基一郎を伝説化し、その自ら伝説化した基一郎の幻影にあざむかれ幻惑されて、さらに誇大化した伝説を作りあげた。週二回青山からやってくる現在の院長徹吉などは、近ごろでは彼はどうでもよかった。金沢先生や韮沢先生のほうがむしろ頼りになると思った。青山の病院はもう問題ではなかった。この松原の病院こそ今は楡病院の本山であり、自分はその本山の院長代理、押しも押されもせぬ重鎮なのだ。そして彼の考えどおり、――実際規模からいって楡病院の主流は誰の目から見ても松原の新院のほうにあったから、それからほどもなく、院代の腰をすえた松原の病院の門には、「楡脳病科病院本院」の文字が、青山のそれには「分院」の看板があげられたのである。
そしてこの本院に、実に久しいこと夏冬の休暇にしか顔の見られなかった欧洲《おうしゅう》が、ようやく仙台《せんだい》の医学部を卒業して戻《もど》ってきた。茫《ぼう》洋《よう》と、鷹揚《おうよう》に、ますますでっぷりと肥満した体《たい》躯《く》を現わした。といって、彼はそのまま松沢病院の医局に勤務し、楡病院の医療にたずさわることはなかった。彼は卒業したばかりの身分、これから修行しなければならぬ嘴《くちばし》の黄色い医師にすぎなかったからである。
しかし二代目の徹吉院長に失望した人々は、この欧洲のゆったりと貫禄《かんろく》ある姿に言い知れぬ期待を寄せた。なんといっても、欧洲さまは基一郎先生の直接の血を受けた御長男なのだ。当然近い将来この本院の院長役を継がれるお方だ。どうだろう、ときどき病院内の敷地を――大部分畑地をつぶしただけの荒れはてた土地にすぎなかったが――一見いかにもつまらなそうに散歩されるあの態度、あ、欠《あく》伸《び》をされた、その欠伸のなんと鷹揚に大口をあいてなんと長時間かかったこと。すべてが、なにかにつけ神経質に看護人にまで小うるさく注意をしたり、下うつむいてむっつりと陰気に回診をしたりする養子の徹吉院長とは違う。そうした院代勝俣秀吉の感慨は、そのまま他の職員たちの意見となり、しまいには一部の患者たちの感想にまでなった。彼らは楡病院の業務には少しも関係しない欧洲の姿を遠くから垣《かい》間《ま》見《み》て、頼もしさとなにがなしの尊敬の念を抱いた。なかんずく院代は、必要もないのにさまざまな用件を、自分で考えだした病院改善に関する試案をしつらえて欧洲のところへ出むいてゆき、その意見をもっともらしくただした。その立場でもない欧洲は困惑して迷惑げに、いつも決ってあっけなくぶっきら棒に言う。「うん、それはそれでいいだろう」院代はかしこまって退出し、まわりの人々に感慨を洩《も》らした。「欧洲さまは、さすがこせこせしていらっしゃらない。やはり大器、お父上の血を受けついでいられる」
院代勝俣秀吉は、近ごろでは青山から徹吉がやってくると、表面の鄭重さのなかに、見る人の目にはわかるごくそっけない態度を示した。最近めっきり白髪がふえ猫《ねこ》背《ぜ》気味になった徹吉院長のそばで、勝俣秀吉は両手を背骨の腰の辺りに組み、この人は単に仮の一時的の院長、ここにいる私は現在も未来も楡病院本院のもっとも実際的な立役者、その名も由緒《ゆいしょ》ふかき院代であるという見識をこめて、縁なし眼鏡を光らし、小《こ》柄《がら》な痩《そう》躯《く》を鶴《つる》のようにひょっくりひょっくり歩ませるのであった。まるでそうすることが、亡き基一郎先生をより崇高な存在に高め、その亡霊をしてにこやかに「ご苦労ご苦労」と破顔させると信ずるかのように。
徹吉の家庭生活もまた、もし一言で片づけるならば、幸福とは縁遠いものといえた。彼もまた、単純に平凡に、愚かにもたわいなく、自分の子を愛《いと》しいと思う心情に変りのあろう筈はなかった。しかし、留学中いつも脳《のう》裡《り》に思い浮べていた長男の峻一《しゅんいち》が、帰国した彼をまるで赤の他人のようななじまない眼《まな》差《ざ》しで眺《なが》めるのを知って以来――もちろんそのことだけではなかったにせよ――なにかが狂った。どこかはっきりとは指摘できぬ内奥《ないおう》の歯車がほんのわずか歪みをみせ、それからいつということもなく、以前には考えてもみなかった殺伐な日常が始まった。
今では青山の分院の私宅、焼け残った家屋にいくらかの建増しをした自宅には、彼の家族と女中たちだけが居住している。義母のひさ、その子の欧洲、米国《よねくに》らはすべて松原の本院のほうへ移っていた。唯一《ゆいいつ》の例外として基一郎の末娘桃子は麻布《あざぶ》霞町《かすみちょう》のそばに借家住いをしており、漢口《かんこう》から戻ってきたその夫の四郎が毎日、青山の病院へ通勤してきていた。
いわばその青山の家は徹吉にとって初めての水いらずの家庭であり、いろいろと遠慮も多かった彼にとって、初めて誰にも口をさしはさまれぬ家長の立場といえた。だが、病院再建の煩雑事は、徹吉に家庭をかまう閑《ひま》を与えるどころか、心底までおしつぶした。それは彼の性格までを変え、あるいはひそんでいたその生地《きじ》を露《あらわ》にし、人好きのせぬ、不愛想な、ひときわ内閉的なものにした。一日の業務を果し、自宅に戻ってきたときには、徹吉はぐったりとなり、すりへり、口をきく気力も失って、一般家庭の団欒《だんらん》、妻子となごみ談笑しようとする余裕がなくなっていた。もとから性格のあわぬ妻ばかりか、まるで子供たちからも疎《そ》外《がい》されたようなその日常。それでも、徹吉はふとこう思うことがあった。峻一はまあ仕方がない。あの子がちょうど物心がつく時代に自分が不在だったからだ。しかし、すぐに生れた藍子《あいこ》も、それから二年のちに生れた周二も、一様に父親になじもうとしなかった。徹吉から見るといぶかしく腹立たしいことに、さして子供の面倒をみるとも思われぬその母親になついていった。なるほど龍子はいくらか家の経済状態がよくなるにつれ、贅沢《ぜいたく》ともいえる土産物を子供らに買ってはきた。しかし土産物だけで解決のつく問題ではなく、徹吉は病院での診療についての自信喪失と同様、自分は家庭人としても根本的に不向きなのではないか、片寄った、偏《へん》頗《ぱ》な、個人としても父親としても不適格な性格なのではあるまいか、という疑念が抗《あらが》いがたく頭をもたげてくるのを感じた。
そうして、そのような寂寥《せきりょう》、もの足りなさ、索寞《さくばく》とした感情を抱いて徹吉が自分の部屋に戻るとき、わずかばかりの焼け残りの書物のある自室の机の前に坐るとき、彼ははじめていくらかほっとした、自分自身の時間をとり戻せるような気がした。同時に、自分をとりまく冷えた空気を、そのなかに生きている徹吉という一人の初老の男を、客観的に自覚できるようにも思った。自分ひとりの時間、深夜の、ほんの幾何《いくばく》かの、しかしかけがえのない、しんと年《とし》甲斐《がい》もなく涙の滲《にじ》むような時間。
はじめ、うとましい気持で彼はかたわらにあった書物に手をのばしたことを記憶している。あの火難のあと、並々ならぬ苦労をして蒐《あつ》めた書籍が幾すくいかの灰と化してしまったのを見《み》出《いだ》したとき、彼はほとんど書物というものに憎《ぞう》悪《お》に似た感情さえ抱いた。書物を蒐集《しゅうしゅう》するという行為のむなしさ、はかなさを感じた。自分は学問にはもはや縁のない人間である、書物を蒐めるなどということはもう生涯《しょうがい》すまい、そう固く心に言いきかせた。
だが、心のうつろさからふと一冊の本を手にとり、そのある頁《ページ》をひらき、その幾行かを辿《たど》ってみたとき、徹吉は我知らずそこへ誘いこまれている自分を発見した。我に帰って彼は慄然《りつぜん》とした。その言いようもなくなぐさめられた気持、その戸惑い、嫌《けん》悪《お》と魅惑、――あやぶみながらいぶかりながら、彼は逡巡する手で次の頁をくった。ときどき覚醒《かくせい》と反省とがこもごもに彼を襲った。自分はこんなことをしていてよいのか。養父のあとを継いだ自分の立場、その困難な特殊な立場、まだ病院は危機を脱してはいない。山ほどの返済、新|病棟《びょうとう》の改築、警視庁からの難詰《なんきつ》がつもりつもっている。その楡脳病科病院の新院長の自分がこんなことをしていてよいのか。こんな単に紙と活字との集積にすぎぬ本を、非生産的な逃避の心境をもって読みふけっていてよいものなのか。――だが、徹吉はすばやく次の頁をくった。
ようやくいくらかの余裕、どうにか先の見通しがつく安堵の時期が訪れたとき、徹吉は心に思った。たしかに自分はあくせくと働いてきた。今となっては、いささかの息抜き、自分に一刻の解放感と冷やかな慰めを与えてくれる少しくらいの勉強を続けてもよいのではないか。もとより時間を食い仕事場を要する研究は望むべくもない。その代り、ちょっとした遊び半分の書きものをしてみるのも悪くないのではないか。どうやら神経衰弱状態とも思える最近の自分にとって、それは手軽で意味のある精神療法ともなることだろう。――こうして、自室に閉籠《とじこも》る徹吉の時間は次第に多くなっていった。
はじめ徹吉は、一般的な『医家雑誌』医事月報にでも載せる考えで、日本に於《お》ける近代精神病学|勃興《ぼっこう》の小史をまとめてみようという心算《つもり》であった。明治の初期以来、片山《かたやま》国嘉《くにか》、榊《さかき》俶《はじめ》、三宅《みやけ》秀《しゅう》、江口《えぐち》襄《じょう》、神戸《かんべ》文哉《ぶんさい》、呉《くれ》秀三《しゅうぞう》などの先進は、いずれも欧洲の学問を導入し、わが国に移植した。神戸は英人ヘンリー・モーズレイ(原著者顕理貌徳斯礼氏と記してあった)を訳して『精神病約説』を著わし、江口は独逸《ドイツ》のシュウレを訳して『精神病学』を出し、三宅はその『病理各論』の中に精神病|篇《へん》を収め、榊は初めて日本の大学に精神病学教室を独立せしめ、呉はクラフトエビングによる『精神病学集要』を著わした。訳語の変《へん》遷《せん》ひとつを見ても、それがどれほどの労苦であったかがわかる。Bl※[#ダイエレシス付きO小文字]dsinn は初め失神と訳され、やがて痴狂、痴《ち》呆《ほう》となった。Sinnest※[#ダイエレシス付きA小文字]schung は文学的ともいえる「五官の迷誤」という訳から妄覚《もうかく》となった。Katalepsie には疆梗《きょうこう》、蝋様撓屈《ろうようとうくつ》症、強梗症などのさまざまな難解な漢字が当てられた。
呉秀三は楡基一郎よりしばらく前に独逸に留学したが、後者が独逸製のピアノ、ベッド、便器、ナイフから爪《つめ》切《き》りなどを持帰ったのに対し、前者は一面では大脳解剖学並びに大脳病理学、それもオーベルシュタイネル――いつぞや幻のように徹吉の背後に立ち「四週間仕事では駄目《だめ》だから、辛抱してやりなさい」と言ったのはその老いて名誉教授となった姿であった――を中心としたウイン学派とニッスルを中心としたハイデルベルヒ学派の双方を伝承し、もう一面では、クラフトエビング、エミール・クレペリン――その生きた面影《おもかげ》に徹吉もまた忘れがたい感情で接したのであったが――の臨床精神病学を持帰った。呉が故国に将来したクレペリンの学問は、その『精神病理学』の第六版によるもので、躁鬱《そううつ》病、早発性痴呆などの、ヨーロッパの学界に於《おい》ても未《いま》だ目新しい、未知の概念を含んでいた。そして主にクレペリンの流れを踏む呉学派は日本の精神病学界を統一していったのだが、呉はその門下生に、病床日誌、カルテを、かえって七面倒な訳語による日本語で記させた。日本には日本の精神病学がなければならぬという見識に基づいていたのである。
徹吉はそうした日本精神医学の根本となった独逸精神医学、クレペリンやオイゲン・ブロイラーやエルンスト・クレッチメルを産みだしたその母体、せいぜい十九世紀前半に於ける独逸精神医学界から興味半分に書きはじめるつもりであった。そこにはフリードリッヒ・ナッセ、フリードライヒ、グロース、ブルムレーダー、そして「精神疾患は脳疾病《のうしっぺい》である」と断言した偉大なウィルヘルム・グリージンガーなどの学者がいた。だがそうなると、その前時代の伝説的な男、その情景を描いた絵画によって誰にも知られている、精神病者を鎖から解放したフィリップ・ピネルをはじめとするフランス学派を蔑《ないがし》ろにするわけにもいかないと思えた。徹吉はそれまでほとんど無縁であったが、調べてみると、そこには無視することのできぬ歴史的な医師たちの名が並んでいた。ピネルの二人の弟子、ギヨーム・フェリュとエスキロール、更にゆるがせにできない幾つかの名とその業績……。
それならばいっそのこと、と徹吉は奇妙にいらだたしい昂奮《こうふん》につながる肉体の疲労のなかで考えた。もっと古く、ずっと歴史を遡《さかのぼ》っていって、そもそもの医学の発祥の地、ギリシアまで、前史時代まで、あの医学の父ヒポクラテスまで遡っていったらどんなものであろう? 医学史は今までに数多く書かれている。しかし精神医学史、少なくとも近代精神医学につながる立場で述べられた書物はまだない筈だ。
それは大それた、身分不相応の、羞恥《しゅうち》を覚ゆべき、はっきりいって誇大妄想的な夢想には違いなかった。彼が、徹吉が、再建途上の楡病院の院長が、こんな荒唐《こうとう》無《む》稽《けい》のばかなことを考えていてよいものか?
だが、危惧《きぐ》と逡巡《しゅんじゅん》に関《かか》わりなく、いつしか丸善に、直接ロータッケル書店に、徹吉が留学当時なじみになったミュンヘンやベルリンの古本屋へ注文される書物の数は殖え、遥々《はるばる》海を越えて送られてきた書籍が、彼の居間の本棚《ほんだな》を満たし、溢《あふ》れでて畳の上にまで乱雑に積み重ねられるようになったのは、半ば必然の過程でもあった。
徹吉が調べたところによると、否《いな》、調べるまでもなく、太古の精神病者は、明らかに魔がついた、悪霊《あくりょう》によるやむにやまれぬ産物であった。心霊的、降神的な存在であった。古代インドの文献、ヴェダ、マヌ法典、マハヴァラタ、ラマヤナなどがそれを証している。そして彼らの学問によると、霊魂は心臓のくぼみに住み、肉体を道具として用いている。それはブディ(知能)とアハンカラ(意識)をもち、いつかはプラナ(呼吸)の中へ退き、プラナは生きた魂となって身体《からだ》から離れ、いずこへとも知らず転生してゆくのである。
ギリシアでは、まずアスクレピオスの神殿があった。この神殿の前で狂人を癒《なお》すため、威圧的な儀式をもって巫女《みこ》たちは踊り狂ったが、実は彼女ら自身が狂っていることは火を見るより明らかともいえた。然《しか》しながらギリシア人の実証的な精神は、単に肉体を苦しめるもののみが病気であるという概念から、精神を歪《ゆが》めるものもまた病気の一種であるという斬新《ざんしん》な概念を辿《たど》っていった。おそらく最初に人体を解剖したアルクマイオンは、眼球を摘出し、われわれの感覚が脳と連絡していること、人間の理性の謎《なぞ》は脳の中にあるらしいと気づいた新知識人の一人であった。一方、詩的な思弁にふけりたがる同時代の医師たちを非難したヘラクレイトスにとって――これも後の世から見ればずいぶんと詩的な思弁にちがいなかったが――理性は人間の内部にある火に依存するものであった。火が乾いていれば理性、霊魂は健やかであるが、これが湿っているほど病気に近く、湿気が極度に過剰になると、低能や狂気が現出する。
さて、医学の父と呼ばれる先駆者、ずっと何世紀かを眺めわたしても明瞭《めいりょう》な高峰として目に立つヒポクラテスは、癲癇《てんかん》すなわち「神聖な病」に関する序言のなかで、もっとも重要なことを発言している。「この疾病は、他の疾病より一段と神的であるとか、神聖であるとかいうことは決してなく、他の疾病と同様、自然の原因で起るように思われる。……最初にこの疾病をデーモンと結びつけこれを神聖化したのは、偉大な敬虔《けいけん》と深遠な知識とで偽装している魔法使い、清祓《せいふつ》師《し》、詐欺師《さぎし》、法螺吹《ほらふ》きの放浪者のような連中なのだ。これらの者は自分たちが途方にくれ、この疾病を癒すことができないため、それを神性のヴェールで覆《おお》い隠しているのである」そしてヒポクラテスは、その臨床観察家の眼《め》でもって、産褥性《さんじょくせい》狂気を、恐怖症《フォビア》の例を、譫妄《デリリウム》を、記憶|障碍《しょうがい》を、大出血のあとに起った急性精神錯乱を記述した。彼は精神疾患を分類し、癲癇、マニー、メランコリー、パラノイアなどを記載した。ヒステリーは彼によると女に限られた身体疾患で、子宮が身体の中で動きまわるためのものとされた。しかし彼もまた狂気を或《あ》る種の体液によるものと考えており、なかんずく黄色胆汁《たんじゅう》と黒色胆汁が主役を演じた。また季節的な要因も重要性があり、躁病《マニー》、鬱病《メランコリー》、癲癇は春の病気とされた。
またギリシアにはすべての知識の荷ない手、滅相もなく頭のよい哲学者たちがいた。ソクラテスはしかし、自分自身が幻聴や昏迷《ストポール》状態をもつ偉大な分裂病患者であったようで、プラトンも人間の本質に独特の鋭い分析を加えたにせよ、純粋に医学の面からいえばヒポクラテスよりも後退していた。彼によると、非合理的な霊魂は病気になり得るので、狂気には三種、メランコリー、マニー、痴呆《デメンチア》がある。愚かさには狂気と無知という二種がある。狂気はある場合には病気のために起るもので、別の場合は神々からの賜物《たまもの》である。アリストテレスもまた心臓論者で、感覚や知覚の機能を露ほども脳や脊髄《せきずい》には結びつけなかった。彼はヒポクラテスの胆汁説を修正し、黒胆汁自身が狂気の原因ではなく、真の原因は寒暖で、胆汁は単にそれを伝えるだけのものであるとした。だが彼の教え子ストラトンはもっと脳に多くの注意を向けた。
哲人たちにすっかり混乱させられて、それから徹吉は着実なエフェズスの分類医学者ソラヌスのほうへむかって行った。彼の急性及び慢性疾患の二大著作はウレリウスのラテン語の翻訳に受け継がれ、ごく要所ではあったがその英訳本を入手することができた。幸いなことに徹吉には、個人で万を越える蔵書をもち、ギリシア、ラテンはもとより十数カ国の言語をそのさして大きくもない頭《ず》蓋骨《がいこつ》の中へすっかりつめこんでいる哲学者であり言語学者である知人がいた。あまり知識を頭につめこみすぎて自分ではいつも頭痛がするから楡《にれ》病院の薬が欲しいと言っているこの秀《ひい》でた学者は、徹吉の請《こ》いに応じて黴《かび》の生えた書物を捜しだしてくれ、それを食欲のない子供のようにいかにもまずそうな顔をしながら訳してきかせてくれた。そしてソラヌスは面白《おもしろ》く有益であるといえた。やはり徹吉は一介の医師にすぎず、医者の書いた書物はよく理解でき堪能《たんのう》できるようであった。その治療法の点でしょっちゅうディオクレスやエラシストゥラトスやヘラクリデスと論争しているそのソラヌスの書物は。
さらにアレキサンドリアの学者たち、そこからローマへ移住していってつかのまの科学的殿堂をきずいた学者たち、なかんずく精神病を「感覚の疾患」と呼び、すでに妄想と幻覚を明瞭に区別したアスクレピアデスがいた。しかしエピクロス派に盲目的に従わないストア派のキケロは、人間は肉体と霊魂とより成っているのになぜ前者にばかり注意がはらわれ後者の癒《いや》しの技術がこうもなおざりになっているのか、と賢明な言葉を吐いたが、同時に彼としては当然のことながらこうも言った。「霊魂を癒す術は存在する――それは哲学である」しかし彼が精神病に関して当時の医者たちより更に進んだ独創的な考えを持っていたことも明らかであった。またコルネリウス・ケルススは百科事典的な医学書を編纂《へんさん》しており、幾多の狂人の治療法をもあげていた。ときには患者の頭髪を剃《そ》り、そこへ薔薇油《ばらゆ》を塗りつける類《たぐ》いの治療法を。また「病める者全部を癒すことは不可能である。もしそれが可能なら、医者は神よりも優れたものになろう」と断言したアレタイオスがいた。もっと多くの、はじめて知る徹吉をある意味で瞠目《どうもく》させた医学者たちがいた。徹吉の貧しい知識の中で、乱雑にかき集められた古代の人々の思考、その業績は時代もばらばらに前後し、更《あらた》めて初めからもう一度組立て直さねばならなくなった。そしてギリシア・ローマの精神医学史の最後に、文字通り最後の人として、ガレノスの伝記が登場してきた。ヒポクラテスとは七世紀へだたったこの男が紀元二百年に死んだとき、医学史は長い涯《はて》のない暗黒時代へと続いてゆくのである……。
徹吉ははじめ、近代精神医学が勃興《ぼっこう》するその前史として、その仄《ほの》かに薄暗い、或《ある》いはどぎつく暗い背景として、このギリシア・ローマ時代、それからその遺産が完全におしつぶされた中世までの時代、またルネッサンス当時の精神医学、ついで十七世紀十八世紀の、やがて真の黎明《れいめい》の訪れが胎動する時代、――そうした各時代を、ほんの素描、ほんの前がきとして書いてみるつもりであった。片手間の備忘、おそらくは原稿用紙数十枚で片がつく心算《つもり》であった。ところが、実際にはそうはいかなかった。自分で唖《あ》然《ぜん》としたことに、そのそもそもの発端、ギリシア・ローマ時代を、いがらっぽい慰め事として、つかのまの逃避の場所として、ぼつぼつと手をつけだし筆をとって書きだしたのがたしか二年半前であったか。昨年それはもう終っていた――単にギリシア・ローマ時代のみが。そして、そのはしがきに過ぎぬ発端に、文字を埋めた原稿用紙はすでに三百数十枚に達していた。
これはどうなるというのだろう、と徹吉はさすがに憂鬱《ゆううつ》な気持で考えた。こんな調子でこのあとも続けてゆかねばならないのか? とんでもない! そんなことは大それたこと、いや、実に愚かしいこと、嗤《わら》うべき迷妄にすぎぬ。それは自分の役割ではない。第一それは、近代精神医学とは関係なく、全くの余計な煩雑物《はんざつぶつ》にすぎないではないか。こう思いつつそう感じつつ、さながら悪習に囚《とら》われた情けない男にも似て、徹吉はやはりぼつぼつと次にくる古い時代のことを調べだしていた。ときどき、彼は書物を投げだして自らを嘲笑《あざわら》った。ああ莫迦《ばか》げている、莫迦げている。こんな古代の人間の幼児のごとき解釈を、たわいもない治療法を覚えたところで、それが自分にとってそもそも何になる? なるほどその治療法は奇抜である。瀉血《しゃけつ》や吐剤や下剤はまだよいほうで、患者を能《あと》うかぎり傷《いた》めつける拷問《ごうもん》や笞《ち》刑《けい》や暗黒の部屋への幽閉や水中への投げ込みがしきりと行われていた。
だが、と徹吉はまた自問した。こうしたことを果して本気で笑っていられるか? ずっと近代になって、徹吉のいう真の精神医学が発達してきてからも、治療自体は果して進歩したと言えるのか? 十八世紀にはショック療法に通ずる種々の身体療法が発達した。たとえばチャールス・ダーウィンの祖父エラスムス・ダーウィンが発明したいわゆる「ダーウィンの椅子《いす》」は、患者は特殊な椅子に縛りつけられ、口や鼻や耳から出血するまで激しく回転させられた。十九世紀の独逸でも、どこから考えても偉い立派な医師が、患者たちを特殊な袋に入れたり強制起立を励行させ、あるいは嘔《おう》吐《と》療法、疼痛《とうつう》療法が推奨された。すぐれた医師ホルンは患者に、一回について手《て》桶《おけ》二百杯を下らない冷水を勢いよくあびせかけた。そして現在はどうなのか? なるほど精神病の中で唯一《ゆいいつ》の脳細胞の変化を知ることができた麻痺《まひ》性《せい》痴呆には、マラリアによる発熱療法という強力な武器はできた。癲癇患者にも発作を抑える薬がある。躁病《そうびょう》の患者もそれを収容しておくのは大変な難儀とはいえ、時期がくれば平静に戻《もど》る。だが肝腎《かんじん》の早発性痴呆患者には? わずかばかりの鎮静剤、昔ながらの水治療法、鎖につなぐことこそなくなったが、隔離して、見守って、ある者には作業をさせ、ある者には保護衣を着せ……そのほかに何があるのか? まだ革命的なインシュリン療法、電気療法、――それらはまもなく徹吉たちの手にも与えられたが――まして第二次大戦後世界が所有するようになった多種類の著効ある薬剤は現われてはいなかった。疾患の精密な分類、症状に関する厖大《ぼうだい》な知識こそさずけられてはいたが、治療に関しては古代からいくらも進歩していないように思われた。
その通り、楡病院に入院している患者――狭義の狂人の多くは、なかなか癒ってはくれなかった。どんな一介の町医者にとっても患者が癒るということは一つの喜びにはちがいない。患者も感謝すれば、家族も感謝する。狂人相手ではそれが少なかった。逆に訴えられることもままあった。そして徹吉が渋い表情で面接してみると、訴えを起した患者の親、あるいはその兄弟と称する人物は、徹吉の学んだ精神医学にかけて、屡々《しばしば》患者自身よりももっと病的であった。なるほど患者が癒らずに長いこと入院していることは、病院経営には有利なことといえる。しかしそれは院代勝俣秀吉をこそ喜ばせたかもしれないが、徹吉の胸に傷を与えた。
あるとき徹吉は、患者から眉《み》間《けん》を目のくらむほど直撃されたことがある。それは口もきかず動こうともしない荒廃期に達した早発性痴呆患者で、回診に訪れた徹吉がその顔を覗《のぞ》きこもうとしたとき、どうしたものか、彼の症状の経過から考えて実に珍しいことであったが、矢庭に拳《こぶし》をのばして院長の眉間に打撃を加えたのであった。それが非常な勢いだったもので、かがみこんでいた徹吉は突きとばされ、院長としての権威をまったく放擲《ほうてき》するみじめな恰好《かっこう》で尻《しり》もちをついた。院長回診に従ってきた医者や看護婦が慌《あわ》てて患者をとりおさえたが、しかし後尾のほうにいた若い見習看護婦はどうしても我慢できず、下うつむいて長い間くすくすと笑った。
額の激痛はあとにまで残った。しかし徹吉が外来診察所に戻ってくると、幾人かの通院患者が待っていた。なかんずく基一郎時代から通ってきているけばけばしい身なりの老婦人は、実に長時間をくどくどとしゃべり、いっかな椅子から立上ろうとしなかった。
「あたくしの病気は、これは一体全体何と言うのでしょう、先生? たしかにそんじょそこいらにあるような病気じゃあございませんわ、そうでしょう、先生?」
徹吉は、奥さんのは心気症というもので、御自分で考えているほど心配すべきものではないのだ、と答えた。
「そんな筈はございません。大先生はそんなことおっしゃいませんでした。半分は贅沢《ぜいたく》病、そう、贅沢病とおっしゃって、それからあとの半分は、これはあたくしにはわかりませんが、そんじょそこいらにないような、外国の病名をおっしゃいましたよ。あたくしはもう来るたんびにそれを聞いたもんですが、それをすっぱりと忘れてしまうもんで、それもやはりあたくしの病気のせいなんでござんしょうねえ?」
徹吉は、思いつくままに幾つかの独逸《ドイツ》名を並べてみせた。
「さあ? そうじゃございませんわ。たしかにそれとも違っていました。そんな平凡な名前じゃあなくって、こうなかなか覚えられないような、むずかしくて滅多にないような名で……あたくしはそれを聞くと、それだけで胸がこうどきどき……一体この世にこんなふうに胸がどきどきする人がいますもんでしょうか? これはざらにはないことですわ。それを大先生がちゃんとした病名で名づけてくださいましたのに、一体あなた様はあたくしの病気がおわかりなんでしょうかねえ? そんじょそこいらにないようなあたくしの病気を、ねえ先生? 大先生はあたくしを特別扱いになさって、お薬も特別の外国から来たお薬しかくださいませんでしたよ。外国からきたお薬を今日頂けるんですか? 薬剤師もあの頃とは変っていますのでしょう? あたくし不安ですわ。とても堪《たま》らないほどこう胸が……血圧をもう一度測って貰《もら》わなくっていいのかしら。そのお薬はこう白くって、ただ白いのでもなくうっすらと黄色味がかっていました。それもところどころピカピカ光って、あれは幾通りもの薬を調合したものに違いありませんわ、それも外国からとり寄せたお薬ばかりで……」
徹吉はまだずきずきする眉間の痛みをじっと辛抱しながら、たしかに外国からきた薬をすぐにも調合させましょう、と返事をした。
「それであたくしが良くなりますものかどうか、失礼ですけど大先生は、たしかに五種か六種のお薬を……まあいいですわ、飲んでみればわかります。あたくしが敏感なことは診察をされた先生にはわかって貰えているでしょうが、まさかそのお薬を飲んであたくしがそのままお陀《だ》仏《ぶつ》するようなことはないでしょうねえ? ええ有難《ありがと》うございます、その先生のくださるお薬は、病気でない人にどんな作用をするんでしょうか? 姪《めい》にちょっと飲ましてみるつもりですから。いいえ、なにも先生のお腕前をお疑いするわけじゃございませんわ。ただあたくしは敏感で、それもそんじょそこいらにないほど敏感で、そのことは大先生がようく御存じでしたわ。先生にもあたくしの病気をもっとよくわかって頂きたいのですが、一体こうへんなふうに胸がどきどきする、頭がこうお盆でもかぶらせられたように……ああ駄目《だめ》ですわ、とても説明もできませんし、先生にはわかりっこありませんわ……」
徹吉は、辛抱してじっと耳を傾けて、それは植物神経、つまり自律神経の不調和のせいであると自分は考える、と言った。これは失策であった。言うべからざる失言であった。え、植物神経って一体全体なんでございますの? それをあたくしにようくわかるように、そんじょそこらにはないこの病気と結びつけて説明して頂けませんか? そこで徹吉は説明した。ひとこと話すたびに邪魔がはいった。それは滔々《とうとう》と奔河の流れのように迸《ほとばし》り、徹吉の言葉をおし流し、まったく行方も知れぬ彼岸にまで到達せしめて、再度、三たび、いや何十遍となく、要らざる無駄な腹の立つ質問となっておし寄せてくるのであった。ああ、もしこの女を「ダーウィンの椅子」に縛りつけてぐるぐる目もくらむほど廻《まわ》してやることができたら、と徹吉は心底から思った。せめて手桶二百杯の冷水治療をほどこすことができたら。それが現代医学のもっとも妥当な治療のように自分には思える。それでなくても、せめて一言簡単にこう言えたら――「奥さん、私は貴女《あなた》にはふさわしくない医者です。どうか、今すぐここから出て、よその医者のところへお行きなさい」と。だが、情けないことに、少しでも多くの収益を挙げねばならぬ楡病院院長の立場として、口先まで出かかったその言葉を徹吉は呑《の》みこまねばならなかった。病院の会計の面からいえば、この女はそうそうはない上客、どんな高価薬を出しても、いやそれが高価であればあるほど満足してくれる大事な賓客《ひんきゃく》だったからである。
眉間の痛みがようやく薄らいできたとき――それには一週間の余もかかったが――徹吉はこう反省した。自分はある意味で敗残者、やはり臨床医には向かない男なのだ。大体あのような患者は精神科医にとって日常茶飯のことだし、それをにこやかに堪えられぬような医者はそもそも失格なのだ。といって、彼の立場として、精神科医という職業をそう易《やす》々《やす》と投げ捨ててしまうわけにはいかなかった。ただ前にもまして、徹吉は一日の業務を終え、次第に書物が跋《ばっ》扈《こ》してきたその自室に戻るとき、ほっと肩をおとし、ようやく一人きりになれたことに、麻薬に浸るような安《あん》堵《ど》を覚えたことは争えない事実であった。
……そして徹吉は、多くの秀《ひい》でた頭脳とたゆみない観察によって建立《こんりゅう》された古代の精神医学が、たそがれの中へ、薄闇《うすやみ》の中へ、ついには真の暗闇の中へと消えてゆき、解体してゆく歴史を辿《たど》っていった。そのような時代にも、ときどき迷信と頭からの認識放棄に屈しない科学者たちが残っていた。だがそれも、精神医学そのものを悪魔とその手下共を研究する学問と変じさせてゆく趨勢《すうせい》には抗し得なかった。治療は悪魔払いの呪文《じゅもん》ばかりとなり、僧侶《そうりょ》たちは精神医学を医学から除外し、代りに鬼神論《デモノロギー》という名を与えた。十世紀の写本はヒステリーの治療法を遺《のこ》しているが、それは子宮が体内を動きまわるというヒポクラテスの考えを伝承し、ただ大変に長い呪文を唱える点が異なっていた。「父なる神、子なる神、及び聖霊なる神の名に於《おい》て。おお天使の軍勢の主よ、……われらの弱さの病を見そなわし給《たま》え、われらの本性の形に目を注ぎ、汝《なんじ》の御《み》手《て》の業《わざ》なるわれらを軽んじ給うことなかれ。汝われらを創《つく》り給いしなり、われら自らを創りしにあらず、汝のはした女《め》○○の子宮を抑え給え、而《しか》してその悩みを癒《いや》し給え。そは烈《はげ》しく動くなり。……われ汝に嘆願す、子宮よ。三《さん》位《み》一体《いったい》の名に於て。もはや人を悩ますことなく汝の場所へ戻れ。そこより動くなかれ。逸《はや》るなかれ。而して怒ることなく神が汝を元おき給うた所へ帰れ」呪文はまだまだ蜿蜒《えんえん》と続くのである。だがこれはまだいい。やがて「悪魔病」「魔女疾患」という類の名称が益《ます》々頻繁《ますひんぱん》に用いられるようになり、否《いな》、すでに狂者はすべて魔女であり悪魔なのであった。そして二人のドミニコ会の修道士ヨハン・シュプレンガーとハインリッヒ・クレーマーという男が、怖《おそ》ろしい確信をもって『魔女の槌《つち》』という書物を書く。こうして魔女たちは――その多くは精神病者であったに違いないが――、それを治療するより滅ぼし炭化してしまう火《か》焔《えん》の中へくべられてゆく……。
そうした涯のない読書、遅々とした深夜の執筆の合間に、徹吉は疲れきって、ぼんやりとなって、自分でおぼつかない手つきで緑茶を濃く入れ、その熱さにため息をつきながら飲んだ。ときとすると朝ろくろく読む閑《ひま》もなかった新聞を手にとって、かなり長いあいだ疲れ直しに眺《なが》めていることもあった。
この一月、昭和八年一月末の紙上で、徹吉はヒットラーが独逸の政権をとったという記事をよんだ。「惑星ヒトラー氏、遂《つい》に政権を掌握す」という見出しと、なかなか精悍《せいかん》な顔《かお》貌《かたち》の男が腕をふりあげて演説している写真が載っていた。ヒットラー? すると、自分がミュンヘンにいたとき騒擾《そうじょう》を起したあのアドルフ・ヒットラーとかいう男が、この人物なのか。独逸の首相、あの男も偉くなったものだ。あの事件のあと、二、三の日本人留学生が集まっていた席に、参謀本部附の高橋という少佐が顔を見せて、「私はヒットレルとカアルとルーデンドルフが一緒だと聞いてこれは大事だと思ったのだが、これでは革命は失敗だな。第一に軍司令官のロッソーを手に入れて、まず兵営を占領しなけりゃ駄目ですよ」と解説してくれたものであった。といって、徹吉にはほとんど理解もできない他の世界の出来事にすぎなかったものだが。
徹吉はなにがなし自分と縁があるような気のするこのヒットラーに、関心と親しみの念を抱いた。だしぬけに共産党を弾圧したり――それは日本に於ても強力に実行されていたが――するところが、信念をもち実行力に富んだやり手のようで、小気味がよいとも思われた。徹吉の知っている敗戦後の疲弊し混乱した独逸、あのような国を建て直すのには、こうしたやり口、こうした人物でなければ駄目だとも思った。しかし見るまに独裁の形をとったそのナチスが、今度は非独逸的書物の焚書《ふんしょ》を行なったという報道には、はっきりと徹吉は渋面をつくった。本が焼けるということ、その脆《もろ》い紙片がめらめらと火焔に呑まれてゆく情景の想像そのものが、徹吉の記憶を突つき、堪えがたいものにした。日本の新聞も伝えていた。「ドイツの文化清掃運動に狂奔する党員学生団は国粋社会党の制服に身を固め、宿命づけられた非ドイツ的著書文献を広場にうづ高く積みあげ、嵐《あらし》のやうな拍手|喝《かっ》采《さい》裡《り》に一々著者の名をよみあげて、次々と世界的名著を惜しげもなく焼却してゆく。……灰になつた主なものは、マルクス、レーニンなどの社会主義文献、フランスのアンリ・バルビュス、米国のアプトン・シンクレア、ドイツのエミール・ルードヴィッヒ、マグヌス・ヒルシュフェルドの性科学の文献などである。ベルリンと同時にフランクフルト・アム・マインに於ても一万五千の群衆の前で焚書が行はれた」徹吉は医書以外をほとんど読まぬ男であったが、ヒルシュフェルドの書物は周知のものであった。
だが、独逸のことは遥《はる》かに遠い事柄《ことがら》といえた。それよりも、徹吉が深夜にめくる新聞の活字によると、日本自身がまたしても難関に、懸念される「非常時」に差しかかっていた。「満洲国を承認せず、きのふ十九国委員会で……」とか、「松岡代表鉄火の熱弁、報告書を徹底的に爆撃、連盟に最後の反省を促す」とか、「日満軍の熱《ねっ》河《か》討伐進展す」とか、ついには「国際連盟脱退! 詔書|厳《おごそ》かに渙発《くわんぱつ》さる」「連盟よさらば」などという大見出しが目にとびこんできた。徹吉は、なんとなく自分自身に似て孤独になってゆくような祖国の将来について、無知になんの根拠とてなく、しばらくの間それでも真剣に考えこんだ。だが、そんなこともどうでもよい。精神病者を診《み》るために精神科医がいるように、そのためには本職の政治家や軍人たちがいるではないか。
徹吉は自分と無縁と考えられる問題から離れ、ふたたび自分の調べ物に帰り、ヴィラノヴァのアルノーについての記述を調べていった。この医者は熱心なガレノスの研究者だったが、あまりに遠くまで眼光がとどきすぎ、癲癇《てんかん》を月と、メランコリーを火星と結びつけていた……。やがて肩が堪えがたくだるくなり、頭の芯《しん》が朦朧《もうろう》となり、徹吉は部屋の隅《すみ》の寝床に、精も根も尽きてもぐりこんだ。しかし極度の頭脳と肉体の疲労は逆に不眠を誘いがちである。徹吉は一度起きあがり、彼の病院を訪れる不眠症患者に与える二倍量の睡眠剤を嚥《えん》下《か》した。このところ、それが毎夜のことともなっていた。
第三章
龍子《りゅうこ》にとって、夫の行状、なかんずく次代院長として父基一郎の手腕を遥《はる》かに下まわるというその評判は、たとえがたく腹立たしいものであった。もとより尊敬する亡父が十八番《おはこ》だった「日本一頭のいい養子」という台詞《せりふ》をそのまま信じはしなかったが、いつぞや聖子にも述べたことがあるように、日本で千番目か一万番目くらいの能力は持っていることと信じていた。ところがどう思案してみても、最近の龍子の評価によると、その夫は日本で百万番目、いやいや一千万番目くらいの男に下落していた。
今では松原の病院が本院となり、そもそも楡《にれ》病院が隆盛を誇った発祥地青山のそれは貧弱な分院にすぎない。徹吉は双方の院長をかねてはいたが、それは表面上のことで、楡家の財産はすべて長男である欧洲《おうしゅう》の名義になっている。もちろん徹吉と欧洲は将来財産を半分ずつにするよう基一郎の遺言書はあるが、このぶんでゆくと松原の病院は欧洲のものとなり、青山の病院が徹吉のものとなるであろう。はじめ龍子は、松原の病院は一時的な仮のものと考えていた。あんな田舎、麦畠《むぎばたけ》ばかりの肥料臭い僻《へき》地《ち》、それにひきかえ青山は楡家にとって由緒《ゆいしょ》ぶかい歴史のある土地であり、基一郎の亡霊が留《とど》まるならここをおいてはない筈だ。それを肝腎《かんじん》の青山をさしおいて、松原に力をそそぎ――本当は松原でも青山でも楡病院に変りはなかったのだが――医師や薬剤師や古い看護人などをむこうに移すのは本末転倒のやり方だ。院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》はまあいい。院代のもったいぶった、そのくせちっとも見《み》栄《ば》えのせぬ鶴《つる》に似た歩きぶりは、とうから龍子の癇《かん》にさわっていたからである。その松原の病院が、次第に外形を整え、病棟《びょうとう》も改善し、大部分だだっ広く拡《ひろ》がった荒地にすぎなかったその地所が整地され、大きな運動場や農場などができてゆくのを見ていると、龍子は我ながら奇妙に面白《おもしろ》からぬ感情に捕われた。その夫をこそ愛してはいなかったが、青山の土地、病院、貴重な忘れ難《がた》い追憶を崇《あが》め愛していたからである。そしてまた彼女は、血のつながる弟の欧洲をも少しも好いてはいなかった。
もしお父様が生きていらっしゃったなら、と龍子はかたくなに狭《せば》まった意識で考えた。たとえ青山の病院が三坪の診察所だけになったにせよ、そこに「本院」という看板をおかけになるだろう。その重みで診察所が倒れるほどの看板を。それなのに、いくら形だけ大きいとはいえ、本院の名称を易々《やすやす》と松原へ与えてしまうなどとは、本当に見識のない、田舎者の、情けなく破《は》廉《れん》恥《ち》な考え方だ。
更に彼女の忿懣《ふんまん》を誘ったのは、不幸な火災のあとならばともかく、この時期になっても青山の病院が未《いま》だに赤字で、本院からの援助を得て収拾をつけていることを知ったことであった。龍子は或《あ》る日、無責任な霊感にさそわれ、その母親の日常を思い起し、会計係大石を自宅の茶の間、龍子だけのいう「西洋|箪《だん》笥《す》の間」に呼び寄せ、くわしい報告を聞いたのである。
「これは何です?」
と、彼女は実は少しもわからない帳簿を居丈高に見やりながら、冷酷な調子で訊《き》いた。
「これは本……院長先生のお求めになった御本で……」
大石の胡麻《ゴマ》塩《しお》頭は昔のままで、しかし近ごろは帳簿を見るときは老眼鏡をかけ、その神経質な身ぶりは相変らずであったが、それでも院代勝俣秀吉が松原へ去ってからはかなり落着きを取戻《とりもど》しているともいえた。
「ああ、そう、洋書ですね?」と龍子は頷《うなず》いた。「洋書でなければこんなに高い筈はありません。洋書を買うのは結構です。お父様もずいぶん洋書はお買いになったものです。しかし今は時代が違います。昔の楡病院とは違うし、世の中が何もかも違うということです。これはいくらなんでも多すぎると思わないこと、大石さん? あたしから徹吉に申すわけには参りません。そういうことを貴方《あなた》、会計係がしっかりするのが務めじゃありませんか?」
龍子は自分の贅沢《ぜいたく》な買物のことは棚《たな》にあげてそう言ったが、ほどもなく大石を放免した。青山の病院の数少ない入院患者では、しょせん松原の病院に対抗することは不可能だと納得したからである。それにしても未だに赤字とは! 夫はよくものめのめとあの院代や欧洲たちの――この人選も妙なものだったが――本院から融通して貰《もら》っていられるものだ!まともな男、一人前の男、少しでも骨のある男なら、そんなことは有り得ない、考えられないことだ。
龍子の巫女《みこ》にも似た頭のなかで、その夫の価値は益々《ますます》縮小し、影が薄れ、かようなほどだらしのない、取るに足らぬ男にすぎなかったのかと臍《ほぞ》を噛《か》ませ、我知らずけわしい表情でしゃっきりと自分のうなじを立てさせた。翌日、まだあとをひいている腹立たしさから、彼女は以前から目をつけていたリスの毛皮のコートを買った。彼女が贅沢をするのは、おちぶれかかった楡家の格式、権威を保つという立派な名目があったからである。
龍子はもはやその夫に愛《あい》想《そ》をつかしたのであった。逆に徹吉にその妻のことを聞いてみれば、これもまた似たような感想を洩《も》らすに違いなかったけれど。
ふしぎなことに、まさか徹吉に対する諦《あきら》めの反動でもなかったろうが、最近、龍子はもう一人の男、以前は顔を見るのも厭《いと》わしかったあの辰《たつ》次《じ》、蔵《ざ》王山《おうさん》に急に興味を抱くようになっていた。なるほど、こちらのほうは基一郎の台詞「日本一大きい男」の名を辱《はずか》しめなかったが、相撲《すもう》の強さの点となるとそうもいかなかった。
客観的に見れば彼のことを弱い力士と評し去っては苛《か》酷《こく》にすぎたであろう。相撲の社会で幕内力士にまでなることは、これは立派な出世、成功者と言わねばならぬ。しかし彼の並外れた身長からいって、人々の――楡家や世間の人々の期待は大きすぎた。
蔵王山が全盛だったのは、昭和になりたての一時期、楡病院の苦闘時代の頃《ころ》で、前頭《まえがしら》筆頭にまで昇進した。その前場所、長い特別製の小手をふって横綱西ノ海をふりとばしたときなどは大した膂力《りょりょく》というべきで、どちらが横綱なのかわからないような相撲ぶりであった。見あげるような長身を利したさば折りは彼の有力な武器だったが、あるときこの手で相手を傷つけ、以来この武器を禁じられてしまった。しかし三役入りは確実と思われた前頭筆頭の場所で、彼は意外にふるわなかった。どうも相撲にむらがあった。闘志に欠け、つまらない相手に意味もなく負けた。次の巡業中に彼は膝《ひざ》を傷《いた》めた。これが決定的な要因となった。もともと彼は上体が大きすぎ高すぎ、足腰がそれに伴わなかったからだ。ずるずると地位をさげ、幕内のどん尻《じり》にしばらく――かなり長いこと留まっていた。蔵王山の滅多にない見あげるばかりの身長、そのもたもたとした相撲ぶりの人気は抜群で、殊《こと》に小学生たちは横綱に劣らぬ声援を彼にあびせかけた。協会はその人気を顧慮したとも考えられる。しかしいくら好奇半分の声援がとぶとはいえ、現実に星を残せなくては仕方がなかった。彼は十両に落ち、今ではその下のほうに危なっかしく位置していた。
龍子は或る本場所の最中、「西洋箪笥の間」に、今では青山の病院の薬局長――といっても薬局は彼一人だったが――をやっている菅《すが》野《の》康三郎を呼びつけた。
「一体どうして」と、彼女は不機《ふき》嫌《げん》そのものを声音に現わして言った。そういうとき、彼女の口調は急にぞんざいになるのであった。「蔵王山はあんなにだらしがないの? あんなにみっともなく……世間の人が笑うほどみっともなく負けるのでしょう?」
「それほどみっともなくはございませんよ。今場所は今までのところ勝ちこしております」と、菅野康三郎は答えた。
といって、世間が蔵王山を特別の目で眺めていることも事実であった。なにしろ彼は大きすぎるのだ。滅法もない怪力をふるって当り前、さもなければこれは恰好《かっこう》な笑い話、ゴシップの種とされた。たとえば新聞によくこんなふうな記事が出た。「蔵王山辰ちやんは四日の相撲選手権大会でも他愛もなくころりと負け。勝つたといへば笑はれ、負けたといへば笑はれ、まるで笑ひのためにこの世に生れて来たやうな哀れにも大きな彼氏。笑つてはくれても尊敬してはくれない世間に、身体《からだ》とは正反対に至つて気の小さい辰ちやん、孤独の天地を求めて閑《ひま》さへあれば釣《つり》に出かける。その電車の中で、『まあ、三人分の席をとるわ』などと笑はれたくない一心で決して坐《すわ》らず、省電の真鍮《しんちゅう》の柱によツかかツてゐると、その柱がまたゆれるので、乗客がプツとふき出す。まこと身体の置き場のない辰ちやんです」
龍子はにこりともせずに言った。
「勝ちこしている? そりゃ当然です。当り前のことです。蔵王山は大体横綱になる筈だったのじゃありませんか? 誰《だれ》だってそう言っていたわ。それなのに、あのみっともない有様はなんでしょう。あんな六尺八寸、それとも九寸だったかしら……その身体で負けるなんてことがそもそも考えられやしません。一体全体なんていう……」
「彼は腰が弱いのですよ。なにぶん膝を傷めましたから」と、菅野康三郎は蔵王山を弁護した。
「膝ですって? 相撲取りなんてものはそりゃ怪我《けが》もします。でも強い者はやっぱし強いじゃないの?」と、次第に粗雑な口調になりながら龍子は目をすえた。「負ける原因はどこなんです? それにはそれ相応の理由がなくっちゃなりません」
「相手が小さすぎるんですな」と、康三郎は苦しまぎれに、しかし半分は本気でそう言った。「それに蔵王山は運動神経がにぶい……あれほどの身体には神経だってゆきとどきかねるのでしょう。そこでもたもたしているうちに、相手に下からとびこまれるんです。こんな具合に、こう腰の辺りに(と康三郎は思わず身ぶりまで交えた)まるで蝉《せみ》が大木にとまるような恰好ですがね。そしてぐんぐん押してこられると、蔵王山はなにしろ下半身が弱い。ああいうふうに下からもぐりこまれてはお終《しま》いですな」
「お終いですって? なにを無責任なことを! それなら、下からとびこまれないように、もぐりこまれないようにすればいいじゃないの。たとえば手で突っぱるとか、……あの長い手で突き放せばそんなことになる筈がありません」
「突っぱりはもう」と、康三郎は言った。「昔からさんざん皆から言われている手なんで。ただ先にも申しあげましたように、彼は運動神経がにぶい、どうしても手の出方が遅い、そこを下からかいくぐられるのです」
「それならば、こう頭を下げて、土俵につくくらい頭を下げて突進していったらどんなものなの? 上半身をこう下げるんです。そして手を前に突きだして……あのくらい長い手を持っている相撲取りは他《ほか》にないのですからね」
「そうはおっしゃいましても」と、康三郎はすっかり困惑しながら言った。「相撲というものは手をついても負けになりますから……」
「それは叩《たた》き込み、いいえ、はたき込みって言うのでしょう? そんなことちゃんとあたしは存じております。康三郎さん、あなたはあたしが相撲のことをなんにも知らないとお思い? あたしは昔は稽《けい》古場《こば》へよく遊びに行ったもんです。先代の出羽ノ海親方がそれはそれはあたしを大切にしてくれて……お嬢さんお嬢さんて言って、満洲《まんしゅう》に巡業に行くときなんかどんなお土産でも買って参りますよ、って言いますから、あたしは馬を一頭頼んだんです。そしたら親方は本当に馬を一頭持ってきましたよ、朝鮮のちっぽけな馬でしたけれど。あたしは蔵王山が相撲取りになった頃のこともよく存じています。もうその頃は稽古場に参りませんでしたけどね。蔵王山はちっちゃい相手にころころ負けるんです。それは相撲になりたてだから仕方ないでしょう。それでもお父様があまり御心配なさるものですから、あたしはたまたま出羽ノ海親方に会ったときに訊いてみましたわ。一体先の見込みはあるものでしょうかって。そしたら親方はこう言いました。むかし大砲《おおづつ》っていう横綱にまでなった力士がございましょう、辰次はあの式なんです、大丈夫、大砲並には行きますよ、って。出羽ノ海親方は目の利《き》く人でした。お父様だって認めていらっしゃいました。稽古場ではきびしくって、弓の柄《え》を持って弟子の臀《しり》をぴしゃぴしゃぶって……。その親方がはっきりとそう断言してくれたのです。辰次は、蔵王山は、当然横綱にまでならなくちゃいけない筈です。お父様だってそう信じてお亡《な》くなりになったのですからね。……一体はたき込みが……それならこう頭を下げて出ていって、しかもはたき込まれない方法があるにちがいないわ。先代の親方が生きていたら、きっとその方法を教えてくれたでしょう。康三郎さん、あなたにいい智慧《ちえ》はないの?」
「それは今の親方だってよく指導なさってくれているでしょうし、蔵王山自身だって、あれでいろいろと考えたり悩んだりしているのです」
「でもあたしが考えますのにはね、蔵王山が負けるのは、もぐりこまれるとか、とびこまれるとか、そのはたき込みとか、そんなものじゃないわ。あたしはそう思います。あたしは辰次を知っています。辰次の顔を見るのは嫌《きら》いでしたけれど、遠くからちゃんと知ってます。あれは意気地がないんです、小学生のときからそうだったわ、あの図体《ずうたい》で意気地がない……」
菅野康三郎は、今度は自分でもはっきりと頭を動かしてうなずいた。はじめて龍子がもっともな妥当な意見を述べたからである。彼はもう一度うなずいた。
「まったくその通りで。……あの男は気が弱い、自信がない、なにがなんでも勝ってやろうという気《き》魄《はく》と闘志がございません。正直のところ、神経質でびくびくして……」
そのとき、龍子の表情が変った。なにかを思いついたように、それも天来の妙策でも浮んだかのように、急に自信たっぷりに一人でそそくさと合《が》点《てん》をした。
「康三郎さん、あなたはいまなんと言って?神経質でびくびくする? それは神経衰弱の症状じゃないこと?」
「ええ、……まあ、それは言ってみれば……」
「そうですとも。神経衰弱ですとも。辰次は昔から、小学生のときから神経衰弱でした。あんな途方もないライオンみたいな声で泣いて……。ところで康三郎さん、病院にはあのケー・エヌ丸という薬があるでしょう? そら、あのお父様がお創《つく》りになったお薬が」
「ケー・エヌ丸ですか。今はあれはつくっておりません。あれはもう古い薬ですから」
「古い? そんなことございません。お父様はあれでどんな患者さんだってお癒《なお》しになりました。つくっていないって、まあ何ということでしょ。康三郎さん、あの薬のつくり方、処方はわかること?」
「ええ、それはわかっております」
「それならば、すぐに、大至急、ケー・エヌ丸を作って頂戴《ちょうだい》。それを蔵王山に飲ませるんです。ああいう薬は、どのくらい経《た》ったら効くものなの?」
「さあ、それは」と、菅野康三郎は不本意そうな迷惑げな声音で言った。「あれは常用する薬ですが……単に胃から吸収されるのでしたら、十五分から三十分くらいで効いてきましょう」
「そう、胃から吸収されるのね、十五分から三十分で……。それならあなた、取組まえに支度部屋へ行って、ケー・エヌ丸を蔵王山に飲まして下さい。普通よりずっと量を多くしなくちゃならないわ。なにしろあの身体ですからね。そういうことは康三郎さん、あなたのほうがよくおわかりでしょう。いいこと、支度部屋でケー・エヌ丸を飲ませる。それから作戦を……あたしもよく考えてみましたがね、結局もぐりこまれないように頭を下げて、それもはたき込まれないように中くらいに頭を下げて出てゆくことが肝腎《かんじん》です。もっといいのは突っぱることよ。理《り》窟《くつ》から言ってもそうでしょう? あの長い手で突っぱる、もう一つの手でもぐりこまれないようにおしとばす、そう、きっと立ったまま突っぱるからいけないのだわ。中腰になって、そして突っぱるのよ。それでももぐりこまれたら、それは相手はずいぶんと姿勢が低くなっているに違いないわ。そんなものをおしつぶせないようでどうなるんでしょう? 思いきっておしつぶしてやるのよ。体重だってずいぶんあるのでしょ。こう、思いきって、相手をぶっつぶす勢いで、そう、粉々にする勢いで、ぐしゃりとおしつぶすのよ。運動神経がにぶくたって、そのくらいのことはできる筈です。あなたの言ったように、闘志が足りないのです。はじめから負ける気でいるのよ。それはきっとケー・エヌ丸が解決してくれますわ。そして作戦を、まず中腰となって突っぱるという作戦を、蔵王山に教えてやって頂戴。いいですか、誰からとは言わないで、或る相撲の専門家からの伝言だと言って、この作戦を伝えて頂戴。そうすれば蔵王山は必ず勝ちます。それは勝つのが当り前ですわ。康三郎さん、それを大至急やって下さい。あたしも蔵王山の勝つところを見に参りますから」
「見にいらっしゃるんで? 本当に場所へお出かけになられますか?」と、菅野康三郎はびっくりして、おびやかされたような不安げな声を出した。
おかしなことに、龍子はそれまで本場所を見物に出かけたことは一度もなかった。出羽ノ海親方がちやほやしてくれる稽古場へこそ行ったことはあるけれど、その父の愛好ぶりとは逆に、わざわざでくの坊みたいな相撲取りが勝ったり負けたりする土俵を見に出かける気を彼女は少しも起さなかったのだ。だがこのたびは、自分の霊感に、ケー・エヌ丸と自ら考案した作戦にいたく満足し、気をたかぶらせて彼女は両国の国技館へ出かけていった。
かなりよい位置にあった楡家の桟《さ》敷《じき》はとうに手放されてしまっていた。しかし「蔵王山後援会」という桟敷があって、前もって申込めば龍子が出むいてゆくのになんの差支《さしつか》えもなかった。それは明日が千秋楽だという一日、そして蔵王山のそれまでの星は、この場所はずいぶんと奮戦したとはいえ一つの負越しで、この日と千秋楽に勝をおさめて辛《かろ》うじて勝越せるという状態であった。
龍子が、今日は白と紫の矢がすりの着物で到着したのは、十両の土俵入りが済んだ直後で、大鉄傘《だいてっさん》の下にひろがる桟敷はまだがらんとしていた。それは徒《いたず》らに緋《ひ》毛氈《もうせん》の色をくりひろげて、大部分人《ひと》気《け》もなく、とりどりの座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》をむなしく並べて拡《ひろ》がっていた。ある桟敷には早くも招待客のための折詰や土産物が堆《うずたか》く積まれ、ただ肝腎の客の姿はまだ見られず、それは幕内の取組も大分進んだころに現われるのに違いなかった。しかし、こうした特権階級の桟敷をはるか下に見下ろす四階の大衆席は、前夜から国技館をとりまいて並んだ人々によって、ぎっしりと隙《すき》間《ま》もなく埋めつくされていた。
蔵王山後援会の桟敷には、どうしたものかこの日に限って、いつも顔を見せるその常連、金力にも社会的地位にも恵まれ、故楡基一郎とも親交の深かった人たちの顔が欠けていた。龍子はちらと見てその実状を知ったのだが、貧相な背広服姿の二人の男は、どうやら山形県県庁の出張所の「木《こ》っ端《ぱ》役人」らしかった。ただもう一人の和服姿の老人の正体が知れなかったが、これは山形県からわざわざ上京してきた、むこうでは実力があるのかも知れないが、どうということもない「田舎っぺ」の好角家の一人にすぎないことがわかった。その挨拶《あいさつ》はずうずう[#「ずうずう」に傍点]という発音のためろくに聞きとれはしなかったが、その老人は末尾に、「どうも御苦労さんで……」という意味のことをずうずう[#「ずうずう」に傍点]とつけ加えた。龍子はかっ[#「かっ」に傍点]となった。大体このどこの馬の骨かわからぬ死損《しにぞこな》いの爺《じじ》いは、なんの権利があってそんな常識外れの挨拶を口にするのか。一体、楡家を、楡病院を、その家族を何と心得ているのか。そもそも父基一郎がいなかったなら、蔵王山はその名を冠する山の麓《ふもと》で未《いま》だに炭を焼いていたことだろう。彼を上京させ、さんざ苦労した挙句に、ようやっと相撲取りにさせたのは誰の努力なのか。それを礼儀知らずにもけったいにも「御苦労さん」とは。その言葉は、亡父基一郎しか言えるはずのない、言おうと考えるだけでも非常識で不《ふ》埓《らち》な精神の現われと考えられるものなのだ。
そこで龍子は端然と彼らに背を向けた。狭い桟敷のなかで文字どおり背を向けるのは困難であったから、拒否と嫌《けん》悪《お》でこりかたまったその肩をむけた。そして前から端の席に坐っていた菅野康三郎だけを相手にした。ときどきずうずう[#「ずうずう」に傍点]という呼びかけが、質問が、かたわらから龍子に発せられた。しかし、彼女は眉《まゆ》毛《げ》のひとすじすら動かさず、ちょっとでも横を向いて、当り触りのない会話を交わそうとする意志さえ見せようとしなかった。そこに人間と名のつく生物がいるなどということは初めから気づかなかったかのように。
それでも龍子の機嫌は決して悪くはなかった。彼女は小さな木箱にはいった煙草《たばこ》盆《ぼん》ほどの火《ひ》鉢《ばち》に手をかざしながら、菅野康三郎に囁《ささや》いた。
「康三郎さん、あたしの言ったようにしてくれたでしょうね?」
「大丈夫です。ケー・エヌ丸はちゃんと飲みます。はじめけげんな顔をしていましたから、徹吉先生の申しつけだと言ったら、彼は喜んでうなずいていました」
「そう? それからあの作戦のことも忘れなかったでしょうね?」
「中腰の突っぱりですな。これも大丈夫です。蔵王山自身それをやるつもりでおりました。彼、今日はなかなか元気でしたよ。肌《はだ》にもつやがあって。今日は充分な相撲を取るでしょう」
「そう、それであたしもわざわざ来た甲斐《かい》がありました」
そう言われてみると、康三郎はまた不安になった。彼は蔵王山の今日の取組の相手二子岩が上昇気運に乗った力士であること、今までに二敗しかしていないこと、冗談でなく相当にむずかしい相手であることをそれとなくほのめかそうとした。しかし龍子はそんな言辞に耳もかさなかった。ケー・エヌ丸と中腰の突っぱりが、すっかり彼女の意識を占領してしまっていることは明らかであった。
龍子は、はじめて見る国技館のさまざまな印象を、半ば侮《ぶ》蔑《べつ》まじりに康三郎に語った。なかんずく登場してくる力士や呼出しや行司の顔立ち、態度について、あからさまな悪口を言った。まあ、あの呼出しの声ったら喉頭《こうとう》癌《がん》の猫《ねこ》みたいね、とか、あの相撲取りの顔ったら不器量も不器量、鬼瓦《おにがわら》そこのけだわ、相撲取りが不器量だってことはあたしは前からわきまえていましたけれど、こんな鬼瓦みたいな顔があるとはね、とか……。そういうせかせかとした際限もない悪口は、龍子の内部にある抑えがたい昂奮《こうふん》、その期待と危惧《きぐ》とをまざまざと示し現わしているのだった。――ようやく桟敷の通路を行きかう人の列が多くなり、大鉄傘の下全体が、ときおりの歓声や嘆声を別として、わーんとしたにぶいどよめき、人いきれに満たされてこようとしていた。
そのとき、土俵の上では二人の力士が今しも四股《しこ》を踏みだしたというのに、場外れなまばらな拍手が起った。西の花道を、にょっきりと突きでた長身を前かがみにして、当の蔵王山が案外すばやい足取りで歩いてくるのだった。その頤《あご》の長い、しばしば漫画の材料にされる面《おもて》は通路にむかって伏せられ、果してケー・エヌ丸の効果があったのかどうか判断をくだすことは難かしかった。
同時に、龍子のいる桟敷から遠くもない東の花道を、ほとんど小《こ》柄《がら》といってよい肌の黒い毛深い力士が静かに土俵へと向った。
「あれは……あれは何者なの? あれが二子岩? あんなちっぽけな相撲取りが? 康三郎さん、あれが本当に蔵王山に勝つとでも思っていなさるの?」
「二子岩は小さいです。しかし、わざ師です。油断はできない……」
と、菅野康三郎は自分も次第に訳もない昂奮にとらわれながら呟《つぶや》いた。
龍子はもう口をきかなくなった。土俵上の力士の動きをも、ほとんど気にかけなくなったことが傍《そば》にいてもわかった。彼女はもう土俵にいる力士の面相の悪さも批判しなかった。なんとなれば西の土俵下にひかえている蔵王山のほうが、もっと馬のように顔が長く、頤が突きだし、悲しい滑稽《こっけい》さをたとえがたく如実に示していたものだから。
やがて、怖《おそ》れていた、期待していた、その時がきた。六尺八寸の長身をもてあますように、自らこそばゆく恥じるように、蔵王山はのっそりとその宿命づけられた姿を土俵上に現わした。ひとしきり、国技館の鉄傘の下はざわめいた。まだ一階の桟敷はまばらながら、それは人気力士の、少なくとも大関横綱級の力士の登場を思わせるざわめきであった。四階の席の小学生の団体が黄いろい声で叫んだ。
「フレー、フレー、ざ、お、う、さ、ん!」
龍子はその声援に感動したようだった。きっ[#「きっ」に傍点]と前かがみになり、固く握った拳《こぶし》をその膝に据《す》え、前の通路をよぎる茶屋の若い衆のかげにうるさそうに首をふった。
「蔵王山!」と、背後から、上方から土俵へ姿のよい――もし声に姿があるものならば――たしかに聞き惚《ほ》れるに足りる声がかかった。それも一つ二つではない。
「声を、声をかけておやりなさいよ、さあ早く」
と、龍子が康三郎にささやいた。
そこで菅野康三郎は叫んだ。我ながらかすれた、道化を思わせる、少しも貫禄《かんろく》のない声で。
「ざおうさんー!」
「やめなさい、おやめなさい。みんながこっちを見ています」
と、龍子は拒否の身ぶりをまじえ、まことに勝手に、激しくささやいた。
土俵上では、未だに悠々《ゆうゆう》とした、あまりに悠々とした仕切り直しが、伝統ある悠長な儀式が続けられていた。しかし龍子は、身をこわばらせてそのさまを眺《なが》め、ほとんど独りごとのようになにかしらを呟いた。たとえば蔵王山が四本柱につるしてある笊《ざる》から塩をつかんで土俵にまく動作にも、半ば無意識にその要らざる批評をやめなかった。
「ああ、あれでは駄目《だめ》よ。あんなにけちけちしてちょっぴり塩をまいては。二子岩のほうがずっと沢山威張って塩をまいているじゃありませんか」
そして、最後の瞬間がきた。二人の力士は睨《にら》みあって、腰をおとして仕切って、さっと同時に突っかけていった。ポンチ絵じみて巨大な力士と、それと反比例して小柄な力士とが。蔵王山は自分の力量一杯に奮戦した。それは誰の目から見ても納得できた。龍子の作戦を彼がうけいれたのかどうかはわからない。とにかく彼は突っぱった。天来の長い腕をのばし、下からかちあげるように、繰返し繰返し小兵《こひょう》の相手を突き放した。一つのその鉄砲は、精悍《せいかん》な色黒の二子岩をほとんど土俵|間《ま》際《ぎわ》まで突きとばした。だが、その二つの交互にくりだす腕《かいな》は、惜しいことに電撃的ではなかった。はっきり言えばのろく、隙があった。体勢を立て直した二子岩は、敏活にその突き出される腕をかいくぐった。さっと長大な相手の腰にしがみつき、両回しをしっかりと取り、ここを先途とぐいぐいと寄った。蔵王山は投げを打った。慌《あわ》てて狼狽《ろうばい》して自信もない投げを打って、そのため腰がくだけ、そのままよたよたと、なんのこらえるすべもなく、土俵を割った。滅多にない巨体が、自分の半分ほどしかないと見える小兵の相手に、脆《もろ》くもあっけなく押し出されたのである。
国技館全体がどよめいた。そのどよめきは、そのほとんどが堪《こら》えることのできぬ失笑、ばかでかい巨人がなすこともなく敗れ去ったことに対する愉悦、大多数の見物人にとっては無責任な好奇心と裏腹の、どこかほっとしたような、これ見よがしの笑い声であった。世間一般大衆がだらしのないおのが身よりも更にだらしのない男を、弄《もてあそ》び嘲《あざけ》り侮辱しようとする、ごく上機嫌な、あからさまな哄笑《こうしょう》であった。「蔵王山後援会」のすぐそばの桟敷では、さきほどからたった一人でつまらなそうに酒をくんでいた初老の男が、感に堪えたように、この世にもこんな愉快なことがあったのかと自認したかのように、すっかり悦に入り、「ほう、ほう」というような声をあげ身をよじりながら、徳利から直接酒を飲もうとしてひょっとこのように口をとんがらかした。
龍子は勝負が決ったとき、瞬間硬直したようであった。それからしゃっきりと首すじをのばし、すばやく、――実にすばやい動作で自分の草《ぞう》履《り》を取ろうとして躯《み》をかがめた。
「え、お帰りになるのですか?」
自分の昂奮と落胆にすっかり閉ざされていた菅野康三郎は、狼狽して、度を失って、龍子のむしろ無表情ともいえる顔を見上げた。しかしその龍子は、彼にただひとことの返事も与えず、限りない屈辱と憤《ふん》怒《ぬ》とをその肩に現わして、早くも通路をむこうに遠ざかってゆくところであった。菅野康三郎もごくりと唾《つば》を呑《の》みこみ、自分も急いでそのあとを追った。
*
青山の古ぼけた木造校舎の青南小学校、その斜め向いの幼稚園、そこの角にある交番、更にそこから電車通りへ向う小《こう》路《じ》の途中にある青雲堂の店、それらはすべて昔のままであった。青雲堂の隣にあった人力車のたまり場こそ消えていたが。しかし青雲堂は決して隆盛しているとはいえなかった。すぐ向うの電車通りに、もっと大きな規模と綺《き》麗《れい》な近代的な飾りつけとをもつ高島文房具店が店をかまえたからである。
それでも青雲堂のこまごまとした雑貨の並べられている店先――隅《すみ》の方に積み重ねられたノートや安っぽい玩具《おもちゃ》の上には往々うっすらと埃《ほこり》がたまっていることさえあった――には、いつもそのおじさんか小母《おば》さんかが、小柄な、本当に対《つい》のような小柄な姿を見せ、しかもこの二人は、同じように似かよった、心底から人の好いにこにこ顔をいつも絶やさないのであった。
桃子は――もう昔の小娘ではなく一人前の人妻であり母親でもある桃子は、しかしその後も頻々《ひんぴん》とこの店を訪れた。借家の霞町《かすみちょう》の家からわざわざ出かけてきて、青雲堂のおじさん、小母さんと罪のない昔話、尽きることのない世間話をした。店先から奥へはいると、ぎしぎしと鳴る昼でも薄暗い急勾配《きゅうこうばい》な階段があって、二階のたった一|間《ま》の八畳の間に通される。床の間には東郷|元帥《げんすい》直筆の掛軸、例の「皇国の興廃この一戦にあり……」という覆《ふっ》刻《こく》が掛けられてあって、終りのところに元帥|伯爵《はくしゃく》東郷平八郎と署名がされてあった。
ここは気がおけなかった。おじさんも小母さんも彼女を鄭重《ていちょう》に扱ってくれた。楡家のなかで取るに足らない、まったく無視され日蔭《ひかげ》者《もの》にされている自分――と彼女は必要以上に被害|妄想《もうそう》的に考えた――を、まともに扱い、いそいそと茶を入れてくれ、ときには近ごろ雇った気のきかぬ小僧一人に店番をまかしたまま、いつまでも喜んで桃子の無駄口に耳を傾けてくれるのだ。
ときには彼女の息子の聡《さとる》、今は小学生の聡がやってきた。打合せておいたので、下田の婆《ばあ》やが藍子《あいこ》を連れてきた。歳《とし》を同じくする二人の男女の子供は、はしゃいで急勾配のぎしぎしいう階段を登り降りし、店の品物を好き勝手にいじくり、しまいにベーゴマだのビーズだの色のついた写し絵だの日光写真だのをポケットに突っこんだ。もちろんその前に小母さんに見せ、それは帳面につけられて、月末に楡病院の会計係大石のところへ持っていかれるのだった。
聡は、赤子のころ桃子を慨嘆させたときとは別人のように、色こそ黒かったが目鼻立ちのはっきりした子に成長していた。はじめ、桃子は聡を猫《ねこ》可愛《かわい》がりに可愛がった。段々と大きくなって、人が「いいお坊ちゃんですね」と言うようになると、どうしたものかその愛情がかなりさめた。なにより桃子はわが子のおもだちに、殊《こと》に横のほうに突出した大きなその耳に、まぎれもない夫への近似を、いや酷似を認めたのである。その代償かどうかわからぬが、彼女は猫を飼いだした。それもそこらで拾ってきた捨猫で、その数も三匹で、これらがやがて仔《こ》猫《ねこ》をうんだ。その仔猫、むくむくと綿毛のように動き何にでもじゃれつく七匹の仔猫、桃子にとってこの世にこんないとしいもの、生命《いのち》を投げだしても悔いないような存在はないとも思われた。彼女の生来のだらしのなさ、或《ある》いは彼女の讃《たと》うべき性癖の本領が、この愛玩物《あいがんぶつ》のためにたぐい稀《まれ》に発揮された。彼女は仔猫たちの運動を妨げぬよう、家じゅうの唐紙《からかみ》に猫用の通路を、つまり大穴をあけてしまった。その穴をかいくぐって親子あわせて実に十匹の猫が家じゅうを駈《か》けめぐり、柱や襖《ふすま》やらに爪《つめ》を立て、部屋の隅には、桃子の丹精こめたかつお節と魚のだし汁《じる》のかけられた御飯が食べちらかされたまま放置され、縁側の隅には、猫たちに小用をさせるための砂のはいった木箱がそれに相応《ふさわ》しい臭気を立てているのだった。
そしておよそ一年ほど前、或《あ》る事件が、無視することもできぬ一つの波《は》瀾《らん》が起った。徹吉と桃子の夫四郎が衝突したのである。衝突というより一方的に、徹吉が四郎を面《めん》罵《ば》したのである。
四郎の立場も同情するに価《あたい》する気の毒なものといえた。彼は毎日青山の病院へ通い、きちんとその業務に励んだ。しかし内心は不平満々、愚痴と怨《うら》み事《ごと》で一杯であった。無理もない、彼は見事に詐欺《さぎ》にかかったような心境をどうしても押しのけることができなかったのだ。嘗《かつ》て楡基一郎はどんなに人をそらさぬ信頼できる口調で言ったことか。
「君、ぼくの養子になり給《たま》え。末娘を君にあげる。そうすれば将来洋行させてやる」しかし、基一郎が与えてくれたその娘は、そもそもの始まりから人には告げられぬ途方もない有様を示したものだ。確かに身を寄せるに足ると信じていた七つの塔と円柱の並び立つ病院は、一夜の火災に跡形もなく消え失《う》せてしまった。そして彼に言質を与えてくれた当の養父は、あっさりと幽明|界《さかい》を異にしてしまった。苦情を言いたくとも、口のうまい養父は、今いるところは天国か地獄かそれは知らないが、とにかく現実界からは手のとどかぬ場所で、おそらくにこやかに笑って未だに巧言を弄《ろう》しているに違いなかった。基一郎が死ぬと、他の楡家の家族たちはあまり自分を重要視してはくれなかった。いや、なによりも根本的な原因は、四郎にとって、どうしても精神科という職業が気に入らないことであった。何年経《た》ってもそれは肌にあわなかった。外科を続けていさえすれば、というのがどうしても彼のひそかな愚痴になった。あまつさえ家へ戻《もど》れば、自分を愛していないということがはっきりわかる妻が、常識を越えただらしなさで家事をかまわず、家じゅう猫の爪跡と排泄《はいせつ》物《ぶつ》が充満していた。そのころ四郎は博士論文を作っていて、その実験材料にせめて猫をでも用いれば、むしろ思いきった事態の解決、手術ともなったかもしれない。しかし桃子はさっぱり訳がわからないことに、夫はやつめうなぎ[#「やつめうなぎ」に傍点]を材料に選んだ。自宅にまで彼は生きたやつめうなぎ[#「やつめうなぎ」に傍点]をどっさり持ち帰ってきて、桃子の住むその家の中で解剖したりするのであった。ところで桃子のほうは、生れつきにょろにょろ[#「にょろにょろ」に傍点]したもの、細長いものが大嫌《だいきら》いだった。彼女は蛇《へび》を見ると足がすくんだし、鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》さえも食べる気がしなかった。それなのに、ぬめぬめといやらしくとぐろを巻く十数匹の細長い生き物! 彼女は矢も楯《たて》もたまらず甲高い声で抗議を言った。夫のほうにはもっと居丈高になるべき正当な文句があった。それで二人の間には、猫とやつめうなぎ[#「やつめうなぎ」に傍点]との優劣、その功罪、それを家庭に持ちこむことの可否について、涯《はて》のない、ヒステリックな、どうどうめぐりの論争が持ちあがり、とどのつまりは、病院で保っている無理|強《じ》いの平静さのため余計むしゃくしゃしている四郎が、思わず妻の髪を掴《つか》んで引きずり、桃子のほうは隣近所にまで響きわたる甚《はなは》だ大形《おおぎょう》な悲鳴をあげるという騒動を惹起《じゃっき》したのである。
四郎の失言の背景にはこうした無理からぬ要素があった。ある日、青山の楡病院内に於《おい》て、彼の長い間の鬱積《うっせき》が忍耐の限度を越し、言うべからざることを口にしてしまった。それも噛《か》みしめて吐き捨てるように、赤裸な内心を露《あらわ》にして。つまり、「馬鹿《ばか》の相手はもう沢山だ。もう御免だ」という意味のことを声高に述べたのである。馬鹿とは、むろん楡病院に入院している精神病患者のことである。この言辞が院長の耳に入ると、珍しく徹吉は激怒した。徹吉自身患者たちを診ることに苦痛と重荷を感じているにもかかわらず、ふしぎなくらい彼は激怒した。昔から楡病院では、間違っても精神病者を蔑《べっ》視《し》する類《たぐ》いの言葉を吐いてはならぬという鉄則があった。基一郎は看護人たちに、かげでも患者を呼び捨ててはいけない、必ず患者さんと言いなさい、とこればかりは口やかましく繰返していたものであった。基一郎のそれは人道主義というより多分に商業主義の匂《にお》いがしたが、とにかく世間一般の人の用いる気ちがいに対する呼称は、少なくとも楡病院の門内では禁句であったのである。それを「馬鹿」とは。このもっとも単純で明確な言葉を、当の楡病院の医者がもっとも非難さるべき語調をこめて臆面《おくめん》もなく放言するとは。徹吉自身いらいらと神経が疲れていて、もともとはずみ[#「はずみ」に傍点]にすぎぬそんな言葉を軽く受け流す度量に欠けていたと言わねばならぬ。しかし院長は四郎を呼びつけ、滅多にないことに声を震わせながら面罵し、「すぐ出てゆけ!」とまで怒鳴りつけたのである。
当然、あとに気まずさが、しこりが残った。どちらも、かたくなな冗談を解せぬ性格であった。そこでしばらく経って四郎は松原の病院の勤務となり、代りに金沢清作が青山の診療を手伝うことになった。桃子たちは下北沢の駅近くの借家に引越し、そこから四郎は本院へ通うようになった。騒動の種であった猫を桃子は新しい家へ半分だけ連れていった。
だが、そんなわけで世田谷に住むようになってからも、桃子は聡をほんの小娘の女中にまかせっ放しにして、わざわざ電車に乗って市電に乗りかえて、青雲堂に茶飲み話にやってくることをやめはしなかった。横の家で電話をかけると、たいてい下田の婆やも、藍子や近ごろでは周二をも連れてやってきた。
「聡がねえ、このごろちっとも学校へ行かないんで、あたしほんとに厭《いや》になってしまうわ。そりゃ小学校も変って、行く気がしないんでしょうが、このごろほんとにあたし、あの子が憎らしくなっちまうことがあるの」
と、彼女は下田の婆やに、蓮《はす》っ葉《ぱ》な口調で愚痴をこぼすのだった。
「何をおっしゃるのです、御自分でお腹《なか》をお痛めになったお子さんじゃありませんか」
と、下田の婆やは、青雲堂の小母さん、おうめさんが出してくれた芋羊羹《いもようかん》を丁寧に楊《よう》枝《じ》で切りながら、生真面目《きまじめ》にたしなめた。
「そうよ、そうよ。あたしって子供の産み方も下手なら育て方も下手《へた》糞《くそ》なんだわ。まあ藍さま(彼女は小さな姪《めい》に対しても楡家のまがいものの伝統的な呼び方をした)、いい服ね、ほんとにいいわ、それ。あなたって赤ん坊のときは憎らしいほど可愛かったのよ。聡がその逆に醜くって。あたしはあんたが憎らしかったわ。可愛すぎたから。今だって結構まだ可愛いけど」
こんなふうに桃子は、子供の前であろうが誰《だれ》の前であろうが、あけすけにずけずけと思うことを口にする習性をやめはしなかった。いたく朗らかに、今も下ぶくれしたその頬《ほお》をゆるめ、細い目をもっと細めながら。
「ああら、叔母さま、それ本当?」と、藍子はませてこまっちゃくれて言って、ぺろりと舌まで出してみせた。
藍子にかげで言わせると、桃子叔母さまって人は少ししゃべりすぎて、それも少し下品なふうにしゃべりすぎるけれど素敵に面白《おもしろ》い人で、そして彼女はこの叔母が大好きであった。
一方、部屋の隅に腹《はら》這《ば》いになって、今日は短ズボンをはいている周二は、紙の上に一生懸命なにか書いていた。彼は来年小学校にはいることになっていたが、幼稚園には行っていなかった。その兄や姉の通った南町幼稚園の園長先生がやってきて、この下の男の子に菓子をくれた。しかし周二は結局菓子だけを貰《もら》って幼稚園には行くことをしなかった。それには下田の婆やが「あんなに厭がってらっしゃるのを無理に……」と主張したことも大なる原因であったけれど。
彼は誰も熱心に教えてくれる者がいなかったため、まだ片仮名を書くことができなかった。自分の名前を書くのがせい一杯のところだったが、壽《ことぶき》という漢字だけは知っていた。佐原|定一《さだいち》のあとにきた何でも手っとり早く処理をする書生が、「坊ちゃん、まず最初に、一番むずかしい字を教えてやろう」と言って、彼の知っているなかで一番むずかしい字、「壽」という文字を書いてみせた。すると周二は夢中になってそれを真似《まね》し、ずいぶんへんなふうに歪《ゆが》んではいたけれど、とにかく「壽」をでっちあげた。大人たちは無責任にそれを讃《ほ》め、周二は閑《ひま》さえあると得意中の得意の壽という字を書いた。
周二はこのごろでは、青雲堂で無代《ただ》で買物をすることを覚えていた。だがそれは、その姉のやるように大っぴらのものではなかった。さっきも彼は店で一本の赤鉛筆を手に取り、「小母さん、これ貰っていい?」と小声で言い、小母さんが頷《うなず》くとほっとしたようにそれを削って貰い、次に今度はかなり大判のスケッチブックに手をのばして、同じことを訊《き》いた。しかし、小母さんは首を横にふった。周二が品物を沢山持って行けば行くほど彼女の店は儲《もう》かるのだが、そういうことをこの夫婦は決してしなかった。「周ちゃま、あなたはまだお小さいんですから……」と言って、スケッチブックの代りに、裏が白くなっている広告紙を何枚か与えた。
そのさまを眺《なが》めていた桃子叔母さんは、さっそく口をさし挾《はさ》んだ。
「おうめさん、スケッチブックくらいあげなさいよ。あたしだって覚えてるわ。青雲堂でいろんなものを買うのは本当に楽しかったんだから。大体お金が要らないしね」
「あなた様はまた」と、おうめさんは言った。「なんですか、鉛筆削りを幾つも……それから消しゴムを一遍に十も持ってってしまわれたことがありましたね。あたしがおとめしましたのに」
すると桃子は、身体《からだ》を折り曲げてころころ[#「ころころ」に傍点]と笑った。
いま、周二は広告紙の裏に新しい赤鉛筆で、際限もなく「壽」を書いていた。壽、壽、壽、……。
「まあ、周ちゃん、それ一体何?」と、なんにでも口を出す桃子叔母さんは訊いた。「それは模様なの? 記号なの?」
「これ、コ、ト、ブ、キ」と、周二は折角の壽を知らぬ叔母に背を向けたまま、一語々々怒ったように力をこめて言った。
「ほんとにむずかしい字を書きなさる」
と、周二に対しては目のない下田の婆やがほくほくと、自慢たらたらといった風《ふ》情《ぜい》で言った。
「また婆やは周ちゃんが御《ご》贔《ひい》屓《き》だからね」と、桃子は平気でひやかすように言った。「しかし家《うち》じゃあ、男の子は駄目《だめ》なのよ。欧洲、米《よね》国《くに》、みんな名前だけは大層なものだけど、学校はできなかったわ。峻一《しゅんいち》さんだってあまり出来ないそうじゃない? 楡《にれ》家《け》では女のほうが上等なのよ。質がいいのよ。これは昔からそう決っているわ。ただ下のほうはそうもいかないんだけど……。藍さま、あんたは大丈夫よ、きっと質がいいから」
「しかし周ちゃまは」と、むっとしたように下田の婆やは口をはさんだ。「それは利発でいらっしゃいますよ。このあいだは台所の横の女中部屋から五十銭銀貨をお持ちになって……」
「なんですって、五十銭?」
壽の字に飽きて、周二と藍子が階下へ行ってしまったので、下田の婆やは話をはじめた。事実はこうだった。近ごろ周二は前よりももっと頻繁《ひんぱん》に一人きりで外へ出、夕方にやってくる紙芝居に夢中になるのだったが、彼は他の子供たちに比べて不幸といえた。なぜなら彼は一銭もお金を持っていないからである。紙芝居の拍子木の音を聞くと、大勢の子供たちが駈《か》けるように集まってきて、一刻も早く一番前のほうに陣どり、争って手に握った一銭銅貨を差出した。紙芝居のおじさんはそれとひきかえに、紅白のねじり飴《あめ》を一本ずつ手渡してくれる。子供たちはそれをしゃぶりながら、粗末な絵の画面に、しゃがれたおじさんの説明に、とっくりと見入り聞入るのである。ところが周二には飴を買う資金がなかった。折角前のほうにいたのに、紙芝居屋の手によって邪慳《じゃけん》におしのけられてしまった。「さあ、飴を買わない子はうしろ、うしろ」周二はときどき羨《うらや》ましげに他の子供の飴を盗み見ながら、後方からのびあがって、辛《かろ》うじて、長い不気味な爪をもち赤いマントをひるがえした髑《どく》髏《ろ》面の怪人の姿を見た。「……さあて、そのとき現われたのは、正義の怪人、黄金バット! ウワッハッハッハ!」紙芝居屋はそこでおどろおどろしく小太鼓を打鳴らす。――そのようなことが繰返されたのち、どうやら周二の小さな頭にもお金というものが必要であることが認識されてきたらしい。女中部屋で彼は棚《たな》の上においてあった財布を見つけた。当然のことながらそれをあけ、一番大きな銀貨を一枚とりだし、そのまま一人で表へ遊びに行ってしまった。紙芝居屋が来なかったので、彼はかなりの道のりを歩き、青山墓地の手前の谷間にごしゃごしゃと密集している家々の前で、しゃぼん玉を売っている爺《じい》さんを見《み》出《いだ》した。それは特別製のしゃぼん玉液に違いなく、こんな虹《にじ》よりも綺麗なしゃぼん玉を彼は見たことがなかった。そこで見知らぬ子供たちの間にはいっていって、生れて初めて所有した貨幣を差出した。すると爺さんはじゃらじゃらと貨幣のはいった袋を取出し、彼に釣銭《つりせん》を渡しだした。周二にはわからなかったが、五銭と十銭の白銅が二、三枚で、あとはすべて一銭銅貨であった。それはびっくりするほど多く、差出した彼の掌《てのひら》に溢《あふ》れるほどになり、周二ははじめて自分が怖《おそ》ろしい罪悪を冒したらしいということに気がついた。そして彼は、地面の上にしゃぼん玉液のはいった竹筒を置き、両手にこぼれ落ちそうな銀貨の山をかかえて、途方にくれ虚脱しているところを、あとを追ってきた女中によって逮捕されたのであった。
「まあ、それじゃ泥棒《どろぼう》じゃありませんか!」
と、すっかりあきれて桃子叔母さんは叫んだ。
「とんでもございません、桃さま。なんてことをおっしゃる。周ちゃまはお金の価値なんて御存じないのです。それにほんとにお気の毒です。むかしは病院も広うございました。敷地も広いし、一緒に遊ぶ職員の子供だって沢山いました。みんなあたしが育てたお子さま方は、病院の外へ出なくても済んだものです。お金なんて触らなくて済みました。それに桃さま、桃さまはそのくせずいぶんとお金を欲しがりましたよ。婆《ばあ》やがずいぶんと沢山差上げたものでした」
「まあまあ婆や、それは婆やは恩人よ。あたしの大恩人よ。婆やが死んだらあたし銅像を建ててあげますからね」
「またそんなことをおっしゃる。とにかく昔と今じゃあ違いますよ。お可哀《かわい》そうに周ちゃまは、そのため書生なんかからまで叱《しか》られて……でもちゃんと何もかもおわかりになりましたよ。それからは婆やが一銭ずつ差上げるんです。もう女中のお金なんか持って行かれませんよ」
「当り前じゃないの、そんなことは。周ちゃんは来年はもう小学校でしょう?」
「でも婆やが感心しますのは、お金の種類もまるきりご存じないはずなのに、周ちゃまはちゃんと五十銭銀貨を持っていかれたことです。普通のお子さんなら、せいぜい五銭銅貨というところでしょう」
「まあ、婆やったら!」
と、桃子は上半身を折り曲げてころころ[#「ころころ」に傍点]と笑った。
しかし「昔と今」という婆やの言葉は彼女の追憶をかきたて、ちょうどそこへ戻ってきた幼い姪や甥《おい》にむかって、昔の病院のことを、かなり誇張を交えながら、上機嫌《じょうきげん》に、とめどもなく饒舌《じょうぜつ》に話しだした。お伽噺《とぎばなし》の城のような七つの塔があったこと、幾十本という円柱が連なり、その円柱はとても子供の腕ではかかえられなかったこと、それからここの青雲堂主人が一役買う厳《おごそ》かながら愉悦に満ち満ちた賞与式のこと……。
「そりゃあ昔は大勢いろんな人がいたものだわ。それこそ用もない人までごろごろしていたわ。患者さんだってそれは沢山……お札《さつ》を作る人までいたんですからね。安い札じゃないのよ。なにしろ百円札ですからね。周ちゃんにそれをあげたいものだわ。そしてあのビリケンさん、……気の毒にあの人も……その人は新聞を読むのよ、こんな具合に、こんな素敵な調子でね」
と、桃子は傍《かたわ》らの新聞を取りあげて社会面をめくった。
「……新生共産党の魔手、水兵に伸ぶ。長《なが》門《と》、榛《はる》名《な》、山城の乗組員に三名の赤い手先」
と、彼女は奇妙な抑揚をつけて朗読したが、たちまち大形《おおぎょう》に顔をしかめた。
「まあ、共産党って本当に恐《こわ》いわ。軍艦の中にまでいるのね。いつだったかも太平洋航路の船の船員の話が出てたっけ。組織があって、秘密の連絡をするのよ。検挙しても検挙しても彼らはひそんでいるんだわ。陰謀を企《たくら》んで地下にもぐって……」
それから彼女はやや落着いて、こう彼女一流の感想を述べた。
「あたしも昔は社会主義についても知識があったものよ。アナーキストなんて言葉もね。盲目の詩人エロシェンコなんて、今では誰も知らないでしょう。(彼女はちょっと追憶にふけるように、そのほそい目を一方の空間に投げた)……でも共産党はいけません。何をするかわかりゃしません。なにしろこのあたしが共産党と間違えられて掴《つか》まったんだからね。ほら婆や、あのマルキシズムって渾名《あだな》の赤い布地があったでしょ。あたしがその着物を着て歩いてたら、一丁目の交番で呼びとめられたのよ。まるっきり尋問だったわ。それで楡病院の娘だと言ったら、失礼にも信じないで病院に電話までかけたわ。犯人扱いよ、まるっきり。あんなひどい目に会ったのは初めてだわ。でも、そのくらい共産党ってものは恐いものに違いない。一体何を企むかわかったもんじゃないのですからね」
次に桃子は茶を一口飲み、もう一回ビリケンさんの真似をしてみせるつもりで、また別の新聞をひろげた。
「白昼、芝の煙草《たばこ》屋《や》にルーブル犯人現る……。あら、また出てきたわ。ルーブル魔よ、これ。まだ掴まらないのね」
それは昨今好適の新聞種を提供している、ロシヤのルーブル紙幣を折り畳み日本の紙幣に見せかけ、釣銭を受取って逃走する怪盗というか、ちゃちな賊というか、とにかくそのルーブル犯人の記事であった。桃子の連想はすみやかに飛躍した。
「ルーブル、あたしもこれを買おうと思った時代があったわ。婆や、あの瀬長さんよ、あの特別の神経衰弱よ。あの人がこのルーブル紙幣を持っていたわ。あの人、今どこにどうしていることやら。まさかこの犯人が瀬長じゃあないでしょうね。あんな気の弱い人に犯罪は無理ね。あの人ったらもう薬ばかり買いこんで……あたし、まだ覚えているわ。メチニコフ博士唱導の『ブルガリン』、『かっけ新薬 銀皮エキス』……あたしって記憶力がいいのかしら。あの人の症状ときたら、それこそとんでもない。なにしろ夜に寝ていて、急に呼吸ができなくなるって言うの。もちろん神経だわ。それで背骨を叩《たた》いて、それでようやっと呼吸ができるっていうんだから……金魚なんか水の中でも呼吸してるわ。……ねえ婆や、米国さんはどうもあの瀬長の悪影響を受けたんじゃないこと? どうも近頃《ちかごろ》へんよ、これまた神経よ」
その米国は肺尖《はいせん》カタルで中学を一年休学したのち、青山の農業大学に入学した。その後、母ひさたちと共に松原の病院に暮すようになり、はるばると青山まで通ってきていた。楡家の息子として医科をとらず農科へ行ったのは不思議といえようが、一つには彼が少年時代から風邪ばかりひいているような体質だったのと、もっとあからさまな桃子の意見によれば、その成績がすこぶる悪く、とても医学部は無理だと判断されたからでもあった。その米国があるとき喀血《かっけつ》をした。そう自分で断言した。聖子の例があるので家族一同も事態を憂《うれ》えたのであるが、調べてみるとハンカチにほんのちょっぴりついた血、おそらく喉《のど》あたりから出た血に相違ないことが判明した。しかし専門医がいくらか肺浸潤の気味があると言ったし、なにより米国自身が重態の肺病であると信じこんでしまったため、とりあえずまたかなり長いこと休学をし、この年やっと農業大学だけは卒業したところなのであった。
しかし桃子は、しばらくも一つの話題にとどまっていなかった。彼女のところどころ飛躍しすぎて内容もよく理解できない饒舌を、それでも面白そうに聞き入っている姪《めい》や、きょとんとしている甥にむかって、彼女は自分から夢中になって話し続けた。
「面白い人がそれこそ沢山いたのよ。みんなあたしを、この桃子叔母さんを可愛《かわい》がってくれて……。でも、その人たちの大半は今はもういないわ。疱瘡《あばた》の熊《くま》五《ご》郎《ろう》さんはまだ本院に残っているけど。あの人も弁護士、政治家になるって言っていたけれど、仕事はなんにもやらなかったわ。そんなふうに沢山の人がいて、お父様が、あなた方のお祖父《じい》さまがみんなを養っていたのよ。でも病院が焼けてしまって、死んだ人もあれば、郷里《くに》に帰ったり、行方知れずになった人もずいぶんいるわ。なにしろそんな沢山の人を養うこともお給料をあげることもできなくなってしまったのですからね。でもあなた達《たち》、むかしの楡病院は、それこそ滅多にない……御殿のような病院だったのよ」
それから突然、別の思念が、別な感情が彼女を訪れ、桃子はふいに下田の婆やのほうに勢いよく向き直った。
「でも、あたしって不幸な女ね。ね、婆や、こんな不幸な女ってこの世にいるものかしら」
そうした台詞《せりふ》はかつての活動写真の弁士たちの影響のなごりともいえようが、そういう桃子の顔つき自体はちっとも不幸そうでなく、むしろ朗らかに、自分の弁舌にますます生き生きしてくるようにも見受けられた。
下田の婆やはもごもごと、子供たちの手前もあって、桃子の突然の言種《いいぐさ》を否定する言葉を述べた。
「婆や、ほんとにそう思うの? 婆やは知ってるじゃないの。何もかも知ってる筈じゃないの。水臭い、本当に水臭い。あたしは不幸な女よ。生れたときからもう不幸だったわ」
婆やがなんとかそっととめようとする努力の甲斐《かい》もなく、桃子は自分の声に激してきて、幼い姪甥たちの手前もわきまえず、性急に、抑えきれない彼女本来の性格をそのままに、息をもつかず述べ立てた。
「婆や、あたしは言いますけどね、婆やにだけ言いますけどね。楡家って家は、本当に冷たい、たとえようもなく冷たい家ね。上の者は、質のいい人たちは大事にされるわ。でもそれは愛情じゃなくって、功利的なだけなのよ。家が、病院だけが大事なのよ。その本質は血も涙もないわ。お父様だってお母様だってそういうお方よ。こんなこと言いたくはありませんけどね。そして、お高くすましている上の者はまあいいとして、……本当になんてお高く……けれども下の者は、あたしのような下《した》っ端《ぱ》は、人間の中に入れて貰《もら》えないのだわ。それはあたしは出来のわるい女です。そんなことは重々承知してます。でも少しは人間扱いしてくれたっていいじゃないの。まるで品物みたいにやりとりして……」
そしてだしぬけに、あれほど上機嫌に快活そのもののように見えた桃子の目《め》尻《じり》に、光るものが、まがいようのない水滴が現われた。それは見る間に大粒の涙となり、彼女の下ぶくれした頬《ほお》を、次から次へと伝わった。
下田の婆やは度を失ったようだった。彼女は皺《しわ》だらけの手を前に差しのべ、徒《いたず》らにおろおろと繰返した。
「桃さま、おやめなさい。なんてことをおっしゃる。なんてことを……こんなところで……」
藍子と周二もすっかりびっくりして、しかしその意味もわからず、殊《こと》に周二のほうはぽかんと口を明け、叔母の頬をつたわる涙の行列を、半ばあっけにとられ、半ば興味に駆られてぼんやりと見守った。
しかし桃子は涙で一杯のほそい目をすえ、久方ぶりに涙が流れたことに昂奮《こうふん》し胸が一杯になって、声もとぎれとぎれに繰返した。
「……下っ端は駄目よ。相手にされない……誰《だれ》も相手にしてくれない……踏みつけられるだけ……なんて、なんて不幸な……」
だが、すっかり下田の婆やをうろたえさせたその桃子の状態は、幸いなことにそれほど長くは続かなかった。実に豊富であったその涙は、おかしいほど短時間に乾《ひ》あがった。そして彼女は、まだいくらか顔が歪《ゆが》んだように見えるものの、しかしいつものだらしはないが朗らかな桃子自身をすでに充分に取り戻《もど》した様子で、こう繰返した。
「泣いたのはあたしのしくじりよ。だけど藍さまも周ちゃんもよく覚えておきなさい。この桃子叔母さんは、不幸な、本当に不幸な星の下にめぐりあわした女なのですからね」
言うだけ言ってしまうと、彼女の機嫌はすばやく直った。もうすっかり、どこからどこまで奇術のように直ってしまった。桃子は漢《かん》口《こう》時代の話を始め、栄養価満点の――そのため彼女はずいぶんと肥《ふと》った――支那《しな》料理のこと、召使いたちが余り物で作る猥雑菜《ウェイツァツァイ》という雑炊《ぞうすい》がすこぶるおいしいこと、男の子が生れるという妙な呪《まじな》いを教えてくれた爺《じい》さんのこと、一度日本へ逃げ帰ろうとして失敗した大冒険のことなどを、相手が婆やであろうが小さな甥姪であろうが委細かまわずに語りつづけた。
「うちの病院が焼けたときにはね」と、彼女は身を乗りだしてあまり上品でない言葉を早口に述べたてた。「漢口日報にもちゃんと出たもんよ。漢口で出ていた日本語新聞だけど、そこにねえ、ちなみに漢口同仁会病院外科部長楡四郎氏の夫人は、楡脳病科病院院長楡基一郎氏の三女である、なんてね」
そう得意気に、いかにも誇らしげに小鼻をひくつかせるようにして語り、桃子は芋羊羹《いもようかん》の一切れをすばやく口に入れた。
そこに青雲堂のおじさんが階下から上ってきた。このおじさんはよく詩吟をやってくれたものだ。嘗《かつ》ての賞与式の立役者であった喉《のど》は争えず、その詩吟は子供たちには奇態な音声としか思えなかったが、たしかに音《おん》吐《と》朗々たるものといえた。しかし今日は彼は、尺八を吹いてきかせた。青雲堂主人が口に当てると、その竹の筒はこれまた不可思議な妙《たえ》なる音をひびかせるのであった。しかし藍子と周二が争ってそれを借りて吹いてみても、それはすうすうと息の音しか立てなかった。
その有様に、桃子叔母さんは尺八というものの難かしさ、青雲堂主人のさすがに立派な技術に感服し、それからどうしたものかあまり理由もなく、すっかり悦に入り一人で面白《おもしろ》がって、不行儀に上半身を折り曲げ、ころころ[#「ころころ」に傍点]としばらくのあいだ笑いころげた。
第四章
一体、歳月とは何なのか? そのなかで愚かに笑い、或《ある》いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮してゆく人間とは何なのか? 語るに足らぬつまらぬもの、それとももっと重みのある無視することのできぬ存在なのであろうか? ともあれ、否応《いやおう》なく人間たちの造った時計の針は進んでゆく。もっともいろいろな時計がある。五分おきにとまってしまう時計、やたらとせわしく進んでしまう時計、一年に三十秒しか狂わぬ時計がある。嘗《かつ》ての楡《にれ》病院の時計台のそれのように、人為的に無理矢理五分ずつ針を動かされてしまう時計もある。しかし機械にすぎぬ時計を離れて、「時」とは一体何なのか? それは測り知れぬ巨大な円周を描いて回帰するものであろうか? それとも先へ先へと一直線に進み、永遠の中へ、無限の彼方《かなた》へと消え去ってゆくものであろうか?
だが、そもそもそんなことはわかりはしない問題なのだ。一体|誰《だれ》がそんなことを考えよう? 少なくとも楡家に住む人間が、楡脳病科病院に関係する者すべてが、どうしてそんなことに頭を患《わずら》わせる必要がある? なにはともあれ時は移ろってゆく。なるほど「昔と今」を人々は見わけることができる。ごく具象的なものにかこつけて、近視的に、乱視的に。かつて天空に聳《そび》えていた楡病院の塔は、その創立者の院長と共に消えてしまった。代りに半分以下の敷地、貧相な病院がそこにはある。あのがに股《また》で歩く門番の豊《とよ》兵衛《べえ》の姿も今では見ることができぬ。幾人もの、ああした人、こうした人の顔が、身ぶりが、その声《こわ》音《ね》が消えてしまった。だが、賄《まかな》いの顔役伊《い》助《すけ》爺《じい》さんの姿はやっぱり青山の病院に残っている。ずっと腰が曲ってしまったが、やはり十年一日のように煤《すす》だらけで。もともと伊助の腰は昔からこんなふうだったのではないか?毎日その姿を眺《なが》めている人々はそう思う。松原の病院へ行けば院代先生が相変らず縁なし眼鏡を光らせ、前よりも大きな『楡脳病科病院本院院代』という四角い印形《いんぎょう》を、手慣れてしかし入念に、幾つもの書類、書きつけに押しつけている。遥《はる》かむかし試験恐怖症に悩んだ書生っぽの彼を知っているごくわずかな人たちは言うだろう。勝俣秀吉《かつまたひできち》も変ったものだと。だが大多数の者にとって、院代のおもかげには少しの変化も認められない。なるほど、それは前よりも歳《とし》をとった? いや、院代はもともとこのくらい歳をとって、あんなもったいぶった顔つきをしていたのではないか?みんなはそう感ずる。次代院長の徹吉先生だってその通りだ。昔からあのくらい疲れた顔つきで、神経質そうで、あのくらい白《しら》髪《が》がまじっていたにちがいない。毎日、少なくても一週おきに顔を合わせている人たちにとっては、それが間違いのないもっともな感想なのだ。久方ぶりに会う者、遠くから離れて見られる者だけが、いくらかずつの、或いは思いがけない変化を感じとることができる。「時」の移ろいを体験することができる。しかし楡病院の内部に閉ざされている者にとっては、「時」はためらい、停滞し、動きをとどめているかのように見える。そしてその中に暮す人々のほとんど変らぬ日常は、そうして歩みを怠っている「時」のなかに埋没している姿なのだ。
しかし、ずっと歳もゆかぬ子供たちの上に現われる変化は、誰の目にもこれとわかる。子供なんて裏の崖《がけ》に生える竹藪《たけやぶ》の筍《たけのこ》みたいなものだ。それはずんずんと大きくなる。ごく短期間と思うまに、あれあれという間に成長する。たとえば基一郎のあとに残された大人たちが、幾枚かの証文に、借金に、利息に苦しんでいたときに生れた生粋《きっすい》の昭和っ子の周二が、いつのまにかもう小学生なのだ。幼稚園にも行かなかった彼は、うそ寒そうな表情で入学の検査を、形式だけの検査を受けにゆく。周二に対しては突拍子もない贔《ひい》屓《き》の引倒しをする怖《おそ》れのある下田の婆《ばあ》やに代って、新しくきた年かさの女中がついてゆく。雨天体操場で裸にされて周二は体重とか胸囲を測られ、ある一つの机の前で、今までにかかった病気、伝染病について質問される。附《つ》きそっている新来の女中はこれに答えることができない。一つ一つ先生が優しく訊《き》いてゆく。「ジフテリヤは?」周二はいやに大きくうなずいて、せい一杯|明瞭《めいりょう》に返事をする――「はい」と。本当は彼はそんな病気にかかったこともなければ、そんな名前を聞いたこともないのだ。しかし、いつもはちっともかまってくれない母親が、昨夜|毅《き》然《ぜん》として何遍も繰返して訓戒したではないか。「いいですか、小学生になったらなんでも元気よく『はい』と言うんです。黙っているのが一番いけません。何だかわからないことがあっても返事をなさい。質問されたら手をあげるんですよ。ほかの子供たちに負けないで……負けちゃ駄目《だめ》ですよ。勢いよく、元気よく、誰よりも真先に、立上って……」そのため周二の健康診断書の既往症の欄には、ジフテリヤの上に丸印がつけられる。そればかりか、最初の時間、受持の訓導とはじめて顔を合わせたその時間、先生が「道を歩くときにはどちら側を歩くか、知っている人?」と質問したとき、周二はおずおずと、しかしどうしようもない観念に捕われて手をあげる。ところがクラスじゅうの者の大半が、周二よりもさらに高らかに誇らしげに手をあげている。そこで周二は、半分折り曲げた右手をかざしたまま中腰で立上る。先生が彼を指さす。すると当のその少年は、棒立ちになったまま、うつむいて、早くも半べそになりながら一言も口をきかない。一体道を歩くのにどちら側を通ったらよいのか、父も母も、楡病院の誰一人だって教えてくれはしなかった。教師は事態を救うために、急いでほかの生徒を指さし、その少年は活溌《かっぱつ》に答える――「左側!」。周二はといえば、まだ席に阿《あ》呆《ほう》のように突っ立ったまま、辛《かろ》うじて泣きだすのをじっと堪《こら》えている。それでも、そういう事情は楡病院に伝わりはしない。大人たちは昭和っ子の周二に向って声をかける。「え? 学校で何を習った? サイタ、サイタ、サクラガサイタ、ってかい? さすが新しいもんだ。昔はハナ、ハト、マメ、マス、ミノ、カサ、カラカサって、こういう具合だったよ」しかし最初の父兄会のとき、子供の教育のためわざわざそういう場所に出むいて行くことをしない徹吉や龍子《りゅうこ》に代って、先の年かさの女中が教師の言葉を仕方なしに伝えてきた。「楡君はどうも変ったところがある。知りもしないことに手をあげたがる。おかしな虚栄心というか、これはお家《うち》での教育に欠陥があるのではないか。書取りの点があまり良くない。良くないというより、片仮名も教えたように書けない癖に、妙な漢字を幾つも幾つも書いたりする。壽《ことぶき》、壽、壽……と。これはやはり家庭での教育が……」
だが、そんなことはそもそも「時」の本質とはかかわりのないことだ。たとえ関係があるとしても、それは片手間のちょっかい事にすぎぬ。「時」はもっと大きなことをやってのける。楡病院の人たちが、その存在もわきまえないで暮しているうちに、「時」は小さな些《さ》細《さい》事《じ》を集積し、或いは夢想もできなかった大鉈《おおなた》をふるう。それは間断なく何事かを生じさせ、変化をもたらし、大抵の人間たちの目には見えぬ推移と変遷《へんせん》のかげで、そしらぬ顔をして尚《なお》かつ動いてゆく。どこへとも知れず……。
しかしながら、「時」のもたらしたあからさまな変化、ある局面、ある動乱、新聞面をにぎわせ無責任な噂話《うわさばなし》の種となる事件は、もちろん楡病院の看護人に至るまでの目にも映じた。その真相、その秘められた意味は別として。実際、この二、三年に多くの事件が起った。号外の鈴の音の高鳴る事件が。満洲《まんしゅう》事変はすでに過去のものとしても、翌年には上《シャン》海《ハイ》事変が起り、便衣隊という言葉を楡病院にまで伝えた。看護人同士の蔭口《かげぐち》に、「あいつは便衣隊みたいな奴《やつ》だ」という具合に。満洲国が一方的な日本の国威のうちに独立したと思うと、常々暴力をふるう患者が「桑原、桑原」と呟《つぶや》いた五・一五事件が起った。リットン報告書よりもみんなの耳目を集めた「玉ノ井バラバラ事件」が起ると思うと、白木屋が火災を起し、屋上に避難した客はそこに飼われていたライオンの吼《ほ》え狂う声にいっそう肝をつぶしつつ、飛来した陸軍機から投下されたロープにすがって救助された。共産党検挙の報道が相つぐうちに、帝国は決然と国際連盟の席を蹴《け》とばして立ち、三陸に大津波がおし寄せたかと思うと、読売新聞社の社員は三原山の火口に降下し「世界的大探検成功」という号外を発行した。疑獄事件が続き、神兵隊事件が、若槻《わかつき》総裁の襲撃事件が起ると見るまに、国民のほとんどすべてが鳴りわたるサイレンに歓喜した。皇太子|継宮《つぐのみや》明仁《あきひと》親王が誕生したのである。しかしその翌年、周二が小学校に入学した年の昭和九年の正月早々、青山と松原双方の病院の賄い界隈《かいわい》や宿直部屋をにぎわした話題は、あまり歴史書には残っていない大事件、エチオピア王子の嫁さがしの一件であった。色こそ黒いが若きエチオピアの王子リジ・アリア・アベベ殿下は、白羽の矢を日本女性に向けたのだ。自薦他薦の志願者百余名――せめて桃子がもっと若く処女であったときならと思われるのだが――の中から、黒田|子爵《ししゃく》の次女|雅《まさ》子《こ》嬢が決定した。それまで楡病院の誰一人として、まず徹吉くらいを除いて、大体エチオピアなどという国の名前を知らなかった。ところが日本国じゅうの話題をさらったこの世紀の婚約は、イタリアから横槍《よこやり》がはいったためお流れとなった。従ってその翌年、やがては日本と盟友となるべき運命にあるイタリアがエチオピアに侵入したとき――それはドイツのヴェルサイユ条約破棄、再軍備宣言よりもっと皆の耳目を打った――楡病院の全職員、いや日本国民のすべてが見知らぬ黒ん坊の住む国エチオピアに同情した。憎むべきイタリア、そして弱々しく気の毒なエチオピア! みんなは口々に言った。「イタリアの奴らが攻めこんだら、よく仕込んだライオンを放つんだ、ライオンを。いや毒蛇《どくじゃ》がいい、何万匹という毒蛇を!」
実際さまざまな事件が起る。どこの個人の家庭でも、世間全体でも、広いどこか名も知れない世界の涯《はて》に於《おい》ても。だが、それは起るのが当り前なのだ。そもそも事件が起るのが世間であり世界というものではないか。その関連を、余分なものを排除して一筋につながるその過程を、人々は見わけることができない。少なくとも楡病院の中に於ては誰も。ましてすべてを不可思議にあやつってゆく「時」の流れを認識することはできない。そもそも「時」はそんな事件とは関係がないのではないか? だが、なにはともあれそれは動いてゆく。移ろってゆく。一刻また一刻、とどめることもできず、抗《あらが》いがたく、茫漠《ぼうばく》とまた確実に、何事かを生じさせてゆく。一体どこへ向って? 誰がそんなことを知ろう。誰がそんなことをわきまえよう。
だが、こうした数多くの事柄《ことがら》が、世間に、世界に起っていた期間に、楡家のなかに於ても幾つかの事件が起った。それは楡家の内部で、賄いの伊助や下《した》っ端《ぱ》の看護人たちの目にはつかず、それでも否応なしに起った。世間の出来事に比べればもとより些細な事件、しかし楡家自身にとっては等閑に附《ふ》すことのできぬ事柄が。
……その廊下は陰鬱《いんうつ》に薄暗く、殺風景で、心を暖めてくれるものは何ひとつなく、いかにも冷酷なコンクリートの床の固さが、草《ぞう》履《り》を通して足裏に感じられた。
恐怖と絶望の念にとらわれて、桃子はそこに立ちすくんでいた。おろおろと、まったくどうしてよいかわからず、かたわらに置かれた輸送車の上でひっきりなしに呻《うめ》いている男を、徒《いたず》らに毛布の上から撫《な》でさすってやりながら。
ここまで一緒に輸送車を押してきてくれた看護婦は、扉《とびら》の内側へ去ってしまった。桃子は、廊下に、輸送車のわきに一人きり取残され、話しかけたり頼りにすることのできる人間は誰もいず、そして輸送車の上では、いくら声をかけ励ましてやっても応答のない、しかし意識も濁りながら執拗《しつよう》に苦《く》悶《もん》をつづけている男が、間断なく、いたましく聞くに堪えぬ呻き声をあげていた。
それは彼女の夫、四郎にはちがいなかった。だが、人間の顔貌《かおかたち》というものはこうも変るものであろうか。その顔はほんの短時間のうちに怖ろしいほど憔悴《しょうすい》していた。そしてそれが短い間隔をおいて、見るもむざんに歪《ゆが》み、或る恐怖を、この病人自身がおそらくは意識のずっと奥のほうで襲われている堪えがたい恐怖を示すように濁った白《しろ》眼《め》がむきだされた。その一種異様な恐怖の表情は、見ている者の、――たった一人で附添っている桃子の背筋を凍えさせ、居ても立ってもいられない同様の恐怖に包みこむのだった。夫の広い額には、こまかい冷汗が一面に浮んでいた。桃子は幾遍もハンカチでそれをぬぐった。だがそれは、又もふつふつと明瞭にこまかい玉となって、とどめがたく湧《わ》きあがってくる。
桃子の愛嬌《あいきょう》のある下ぶくれした顔も、今はひきつって醜く歪んでいた。そして彼女は、恐怖に圧倒されながら夫をさすりつづけ、気も顛倒《てんとう》して我知らずゆえもない詫言《わびごと》を口走っていた。
「……あなた、御免なさい、御免なさい……」
しかし、夫はそれに答えてはくれず、思わず耳をふさぎ、そのまま逃げだしてしまいたくなるような獣じみた呻き声だけを洩《も》らすのだった。
「御免なさい、御免なさい、あなた……」
なおも夢中になって繰返しながら、同時に、桃子の小さな頭脳の一部は、ひとつのことを考え、いらだち、憤激していた。……遅い、なんて遅い、なんてまあ遅いこと。手術の用意はまだできぬのだろうか? 本当に運が悪かったのだ。何もかも運が悪かったのだ。日曜日の夜で、宿直の医者しかいないのだ。大急ぎで他《ほか》の医者を呼んだりしているのだ。きっと大手術になるのだもの。それにしても遅い、またなんと遅すぎる……。家からはまだ誰も来てはくれぬのか? 当然連絡は行っている筈だ。母親は無理としても、幾人かの肉親が、親類が駈《か》けつけてこなければならぬ筈だ。いつまでも自分をたった一人きりで、こんな怖ろしい目に会わせてはおかない筈だ。実際こんなに怖ろしくみじめに孤独で、頭は錯乱してもうどうしてよいかわからず、しかも目の下の夫の額にはまたもや新しい冷汗が、そしてそのすっかり人相の変った顔には、ともすれば目をそらせたくなる苦悶の表情が……。
突然、ひとつの疑惑が、おぞましい電光のように桃子の意識にさしのぼってきた。きっと誰も来てはくれまい。自分たちのような、みんなから軽視され、無視されている夫婦、この桃子と四郎のところへなぞは誰も来てはくれまい。ふだんだったら一応は顔を見せにくるだろう。しかし、今は、楡家にとってもっと重要な事柄がひかえているのだ。養子の四郎と楡家の屑《くず》で下女に等しい桃子のことなどは、たとえそれが生死に関《かか》わる問題であろうとも、却下され、おしのけられてしまうのだ。なぜなら、楡家の長男|欧洲《おうしゅう》の結婚式が明日あるからなのだ。
ここしばらく、本院全体がこの問題で湧きたち、昂奮《こうふん》し、あとからあとから山積みされる結婚式のためのこまごまとした準備に忙殺されていた。落成したばかりの新宅の奥の間では、机のうえ一杯に紙をひろげ、披《ひ》露宴《ろうえん》の席順をどのように定めるかとか、誰と誰に祝辞の言葉をのべさせるとか、涯しのない協議がつづけられていた。それは厳粛で滑稽《こっけい》でなにより疲れはてる、ともあれなくてはかなわぬ厖大《ぼうだい》な作戦会議であった。実に些細なことが、一同の、楡家の主だった顔ぶれの顔を曇らせたり、にこやかにさせたりした。山形の上《かみ》ノ山《やま》町から上京してくる徹吉院長の実弟、無骨な三《み》瓶《ひら》城吉が自ら希望をする謡《うたい》をはたしてやらせたものかどうか、ずいぶんと真剣に討議された。意見が二つにわかれ、しばらくもみにもみ、それから一同はようやく納得した。それは院長の弟のことだ、やらせないわけにはいくまい、ただし、宴のあいだは一滴も酒を飲ませず、めでたく済んだあとは三升でも飲ませる……。
欧洲の婚約はおよそ半年前にととのっていた。大半は母親ひさの意向、しかし同時にまた楡病院全体の意向でもあった。欧洲自身も、この趣旨にごく鷹揚《おうよう》にぞんがい即座にうなずいた。なにぶん彼は医師免許をとってまだいくらも経《た》たないとはいえ、親類じゅうで評判になった反復する落第と浪人のため、その年齢だけはすでに三十の半ばを越えようとしていた。彼は、その身体《からだ》に比例して肉づきのよい頬《ほお》をほころばせさえして一人の女性を娶《めと》ることに同意したのだが、それを機会に、病院とは別に、その傍《かたわ》らに一軒の私宅を持ちたいという意向をもらした。それはもっともな意見でもあった。ひさ、欧洲、米国《よねくに》らの家族は、未《いま》だに松原の病院内の、そこだけは初めから見映えのする玄関の階上に住んでいたからである。そこは狭くて場所が足らず、しょっちゅう人々は鼻をつきあわせていなければならず、階下からは病院の業務の音響が昼夜を問わず伝わってきた。欧洲は仙台《せんだい》から戻《もど》ってきたときからこの状態に満足せず、いつかは自分のための場所、一日の仕事が終ったなら病院と絶縁して憩《いこ》える家を持ちたいと念願していた。ひさは反対はしなかった。長男が嫁をもつ機会に私宅をつくるのは賛成だと言った。しかし彼女は、もしその私宅ができたとしても、自分は元の場所に、病院の階上に残るつもりだと、ぼそぼそした声で断言した。なんとなれば、基一郎と自分とはずっと、本郷で開業して以来、病院というものから離れたことがない。病院は自分の一部であり、自分は病院の一部なのである。お前は好きなように私宅で寝るがよかろう。だが自分は病院に残る。病院の階上で暮したほうが、夜おそく外出から戻ったような場合にお前の嫁に迷惑をかけなくてすむ。そのほうがずっと気楽だ。なに、焼けた青山の「奥」は特別だったが、昔の本郷の狭苦しい医院の生活に比べれば、今の部屋住いでも極楽のようなものだ。
ひさの言葉はそれなりに一徹な傾聴するに足るものであったが、欧洲には欧洲の人生に対する考え方、並はずれて悠々《ゆうゆう》と過した学生時代に培《つちか》われたにちがいない自分なりの生き方の設計図があった。そして、それに従って、病院のすぐ横手に私宅の新築が急がれることになった。彼は亡父のように自ら図面をひくような才は持たず、すべて他人《ひと》まかせにした。けれども、はじめは新婚の夫婦のための小ぢんまりとした家のつもりが、いずれはもっと老境に達して病院から移さねばなるまい母の居場所をまず考え、彼自身の料理の趣味から台所を非常にたっぷりととり、それに伴って食堂や居間や自分らの寝室を考慮に入れてゆくと、相当に大がかりな建築になるのを防ぐわけにいかなかった。なかんずく院代勝俣秀吉のごく強気な主張が、物事をすべてしかつめらしく大形《おおぎょう》な成行きへとおし流した。院代の意見によれば、楡家の真の跡とりであられる欧洲さまの新宅をいい加減なものですますということは、故基一郎院長への冒涜《ぼうとく》となるというのだ。たとえそのため楡病院の借入金が一時的に殖えようとも、不肖この院代のあずかる楡病院本院の屋台骨はもはや寸毫《すんごう》も揺らぐことはない。ついに、ひさが眉《まゆ》をしかめるほどのずいぶんと贅沢《ぜいたく》な建築への決定がなされた。それは、やがては鯉《こい》を泳がせる池、築山《つきやま》、雪見|燈籠《どうろう》、洗い石と、陳腐にしかし端然と膳《ぜん》立《だ》てをされた内庭を有する家屋にまで発展していた。
今は欧洲はかたわらにおしのけられた。この新築への立役者、すべての監督者は、院代勝俣秀吉なのであった。彼は他の者が首を傾けたくなるほど、異常な熱意、大層な意気ごみをもって事を運んだ。大丈夫、欧洲さまの御婚礼までには確かに間にあわせます、と彼は頼まれもしないのに、勢いこんでひさと欧洲のまえに誓約を立ててみせた。そうして、並々ならぬ速度で取りかからせた仕事現場を、彼は間断なく、腕を背骨の腰の辺りに組み、ひょっくりひょっくりと鶴《つる》のように、縁なし眼鏡をかけたあおじろい顔の頤《あご》を突きたてて歩きまわるのであった。
昔から楡病院へ出入りしている棟梁《とうりょう》は、院代の気質、しかも年と共に変遷してきたその気質を熟知していたから、べつに衝突も起さなかった。しかし他の大工、左官、庭師たちの間に、院代は顰蹙《ひんしゅく》と混乱をまき起した。なにしろ彼は柄をわきまえぬ熱情に駆られ、あれこれと質問し、意見を述べ、ここはこうやったほうがよいとか、この壁はどんなになるのだねとか、なにやかやと執拗に性懲《しょうこ》りなく口を出さずに済まされなかったからだ。彼は一本の柱の前に立ち、しかつめらしく鼻を寄せて吟味し、撫で擦《さす》ってみ、いかにも専門の知識をわきまえているかのように言う。「うむ、この木はいい。確かにいい。これなら基一郎先生だって気に入られる」それから漆喰《しっくい》がこねられている所にきて、この漆喰は上質かどうかを尋ね、壁が乾くのには今の季節ではどのくらいかかるかと訊《き》き、もし雨が降ったらという疑惑にしばし鼻の頭に皺《しわ》を寄せ、向うに見えるまだ壁もはいっていない柱ばかりの家屋を心細そうに眺《なが》め、あんなことで一体屋根が崩れてこないものかという猜《さい》疑《ぎ》心《しん》に一杯になって、またぞろ職人の邪魔をしに歩み寄ってゆく。殊《こと》に庭師とのやりとりをそのままに記したら一冊の本ができてしまうにちがいなく、自分の意見を庭師から嘲弄《ちょうろう》まじりにけんもほろろに一蹴《いっしゅう》されてしまった院代は、口惜しさ無念さのあまり、ひそかに難解な『築山庭造伝』という書物を夜の寝床で読了したほどだ。なに、その原因といえばほんのひとこと、「こうしたほうがおもむきがあるのではないかね」と、いつもの癖で口をすべらしたことに対するそれが涙ぐましい結果であった。
院代勝俣秀吉の労苦の結実として、或《ある》いはその星の数ほどの余計な口出しにもかかわらず、新宅は立派にできあがった。それは結婚式に充分に間にあった。内庭の池はすでに植込みの葉かげを映し、新築の家にはまだ漆喰の臭《にお》いが立ちこめてはいたものの、真新しい木の香の匂《にお》い、ひえびえとした青畳の匂いがそれをおぎなってくれた。それは欧洲の新妻――病院の連中は一、二度訪れたことのある彼女のことを、「人形のような」嫁さんだと評したが、楡病院ではせいぜいこの程度の杓《しゃく》子定規《しじょうぎ》な形容詞しか用いられぬのだった――を迎えるにふさわしく、いや遥《はる》かにそれを上まわる規模で、院代が満足の吐息をもらし、「これで私も大先生に顔むけができた」と呟《つぶや》いたほど上首尾にできあがった。そして、その新宅の奥の間で、夜ごと夜ごと披露宴に関わる涯のない作戦会議が行われるようになっていたのである。しかしながら、そういう重要な一家の会議となると、桃子は、いかに自分が楡家のなかで末席で相手にされぬ存在であるか、今さらのように痛いほど認識させられねばならなかった。桃子に珊《さん》瑚《ご》の間《ま》の珊瑚が贋物《にせもの》であるということと、半分嘘《うそ》っ八《ぱち》の書物の名称を教えてくれただけの兄の欧洲は、嫁をとるというためにこれだけの家を建て、一族郎党は湧きたち、真剣に日夜奔走している。それなのに、彼女は大切な猫《ねこ》たちの住むにも手狭な借家住いで、養子の夫四郎は通勤のしがない月給取りにすぎない。そもそも格が違うのだ。別扱いなのだ。この桃子と、あのごく一部の高貴そうな人間の皮をかぶった連中とは……。
そうまたしても桃子が嘆き忿懣《ふんまん》しているさ中に、今度の不幸な事件が惹起《じゃっき》したのである。
最初はなにげない、日常にままある瑣《さ》末《まつ》な出来事と思われた。朝、四郎は腹痛を訴え、今日は病院を休むと言った。いつにもまして不機《ふき》嫌《げん》にじっと蒲《ふ》団《とん》をかぶっている夫のそばに、桃子はあまり近寄らなかった。それほどの病気とは、彼女も夫自身も考えていなかった。翌朝、腹痛は急にひどくなり、四郎は「島田さんを呼んでくれないか」とかなり苦しげな声で言った。「韮沢《にらさわ》さんに来て貰《もら》いましょうか?」という桃子の言葉を、「いや、島田さんがいい」と、夫はときおり訪れる激痛に顔をしかめながら打消した。島田というのは明治のそれも初めの頃《ころ》の済生学舎出の、近ごろ松原の楡病院が宿直代りに雇っていたよぼよぼの老医であった。本院には副院長格の韮沢勝次郎もいるし、その他にも昔から顔なじみの医者、或いは大学の医局からアルバイトにきている若い新鋭の医者たちもいる。なにもあんな黴《かび》の生えた老医を頼まなくてもいいだろうにと桃子は考えたが、継《まま》っ子《こ》扱いされて心の内部に多くの葛藤《かっとう》のある四郎にとって、むしろこの島田が親しくかつ優越してつきあえる相手であったのだ。近所で電話を借りて頼むと、島田医師は昼ごろ来てくれた。四郎が邪慳《じゃけん》に桃子を追いはらうので、桃子が座を外していると、「なあに四郎先生、これはそうじゃあありませんな。熱も大したことはないし、これは単なるガスたまりですよ。ガスがでればすぐよくなります」という、島田の乱杭《らんぐい》歯《ば》の間から空気の洩れるような――事実洩れていたのだが――聞きとりにくい声が聞えた。桃子はほっと安《あん》堵《ど》し、それに島田が帰ると夫の症状はずっと軽減したようで、その不機嫌も直ってゆくようであった。だが、これが一時的のおそろしい欺《ぎ》瞞《まん》であった。基一郎が養子とするほど目をつけた医師である四郎自身が、往々にして医者は自分自身を診《み》られないという、その不可解な自己欺瞞、説明もつかぬ判断のあやまりの虜《とりこ》になってしまったのだ。間もなく再発した苦痛は、素人《しろうと》の桃子が見ていてもゆるがせにできない、すぐ専門の医者を呼ぶべきほどのものと思われた。それなのに四郎はかたくなに怒気まで含んで断わりつづけたのだ。「余計なことをするな! 俺《おれ》にはちゃんとわかっているのだから……」夕刻、夫が二度目の嘔《おう》吐《と》をしたあと、桃子はそっと電話をかけて韮沢勝次郎に相談をした。しかし彼女自身、夫の意見を無視もできなかったから、その言葉はあやふやで、すぐに来てくれという断定的のものではなかった。夜になって韮沢がきてくれ、……それからあとは悪夢のように慌《あわただ》しい、神経を極限にまで虐《しいた》げる時間がつづいた。韮沢の顔はこわいほど真剣であった。「すぐ、大急ぎで車を。すぐ手術をしなければ。……とんでもない、腹水がもうこんなにたまっていますよ」
韮沢勝次郎にあとの連絡を頼み、桃子はいかにも冷たく凍《い》てついた夜の道を、今は苦痛に喘《あえ》いでいる夫を乗せて慶応病院まで車を走らせた。そしてその途中、もうすぐ道玄坂へかかるという坂の途中で、病人の状態に急変が起った。はじめ、運転手がぎょっとなってふりかえるほどの短い叫びが夫の口を洩れた。桃子にはわからなかったが、それは致命的な腹膜の穿孔《せんこう》を告げる肉体の叫びにちがいなかった。それからその身体はふいにぐったりとなり、意識も混濁してしまって、ただ死にかけの魚のように、その手足がそれ自体意識をもって昂奮し、抑えつけるのに困難なほど気味わるくあがこうとするのだった。
……そしていま、桃子は、未だに一人ぽっちで、薄暗く殺風景な廊下に、瀕《ひん》死《し》の夫のわきに絶望して立ち、その身体を撫でながら徒《いたず》らに嘆願の声をあげていた。まるでそうやって嘆願すれば、その苦痛が薄らぎ消えてゆくとでも思うかのように。
「あなた、御免なさい、御免なさい……」
そのとき、突然そばに人影が動き、それがまた幽霊のようにだしぬけに現われたように思われ、桃子は一瞬びくっとした。だがそれは、臆病《おくびょう》げにおそるおそるこちらを窺《うかが》っている弟の米国――もう二十六歳になっていた――の姿であった。彼は予想もしていなかった義兄の激しく苦悶する姿に、すっかり度肝を抜かれ、その姉の数層倍も怖《おそ》ろしくなり、できることならもう数歩、後退《あとずさ》りしたいところらしかった。
その頼むに足りぬ米国の態度、顔つきが、急激に桃子の倒れかかっていた心を立直らせた。自分でも意外にきつい、はっきりとした、詰問《きつもん》する口調で彼女は言った。
「米国さん、誰《だれ》が……誰と誰とが来てくれました? あなた一人じゃないでしょう?」
米国は怖ろしそうに寝台車の上で呻いている病人をちらと眺め、どもどもと口籠《くちごも》りながら言った。
「ぼくは勝次郎さんと一緒にきた。……勝次郎さんは部長先生を呼ぶって、今むこうで電話をしている……」
「それで? ほかの人は? お母さまは無理として、お兄さまは? 青山の人たちは? 青山にも連絡してくれたでしょう?」
「ぼくは、……ぼくにはわからない。ぼくはただ勝次郎さんと……」
その瞬間、桃子ははっきりとさとった。どうせ相手にはされなかったのだ。婚礼を明日にひかえた楡家の人々にとって、桃子と四郎のことなどやはり問題にされないのだ。死のうが生きようが露ほどもかまわれないのだ。思えば夫は、四郎は、不《ふ》憫《びん》な人だ。このあたしと一緒になったばっかりに、お父様が亡《な》くなってからは少しも重要視されず、同じ養子の徹吉からは面《めん》罵《ば》され、不遇で楡病院の片隅《かたすみ》に追いやられ、そのためいつも愚痴たらたらで、この桃子の髪まで引っぱり……それも無理からぬことではあった。当然のことであった。なんと気の毒な不憫なひと……。
こういう意識と反省が、ほんの一瞬の間に、めまぐるしく桃子の頭のなかを、その小《こ》肥《ぶと》りした肉体の隅々までをも駈《か》けめぐった。そして彼女は泣いた。ほしいままに泣いた。彼女は特有の、滅多にない大粒の涙を顔じゅうに滴《したた》らし、理由はあることながら、結婚の当初から未だ嘗《かつ》て一度も愛したことのなかったその夫、ときには本気になって死んでくれたらと願ったその夫の身体に、必死にとりすがり、哀願と詫言《わびごと》をきれぎれに口にし、見るも見苦しいほど泣きくずれた。
同時に、彼女は意識の片隅で、楡家を憎んだ。ひたすらに、一念こめて、ほとんど妄想《もうそう》的に、楡家の血族の主だった人たちを、そのすべてを、今こそ真実に心底から憎んだ。
そのとき、目のまえの扉《とびら》が開かれた。二人の看護婦が出てきて、そそくさと四郎を輸送車ごと手術室におしこんだ。棒立ちに突ったってそれを見送りながら、桃子は思った。あの人はきっと死ぬ。もちろん死ぬ。そのような不幸に不憫に定められて生れついているのだもの、このあたし自身のように……。
そして、その桃子が唇《くちびる》を噛《か》みしめて予想したとおりになった。二日後、彼女の夫楡四郎、以前の高柳四郎は、桃子がそこまで執念ぶかく考えたように、新婚の欧洲とその妻が旅行先の宿屋でようやくくつろいでいた頃、慶応病院の新築された外科病棟で息をひきとり、二十八歳の桃子は早くも未亡人と呼ばれる身となったのである。
もう一つの事件は、それから三《み》月《つき》ばかり経《た》って、青山の楡家のほうで起った。それも掃除をする女中のほか滅多に訪れる人もない、書物ばかりのさばっている徹吉の居室の内部で起ったため、事の成行き、その真相は当の徹吉と龍子以外の誰にも知られなかった。
徹吉はしばらく前から青山の分院の診察日を週三日に、松原におもむく日をわずか一日に減らしてしまっていた。これはまだ復興途上にある楡脳病科病院の院長として、誰の目から見ても、徹吉自身に言わせても、怠慢に過ぎることであった。しかし彼は、すでに例の精神医学史の仕事を、『アリス』の文句ではないが、初めからはじめて、中途もやりとげて、終りまでやりぬく決心を固めてしまっていた。彼は時間が欲しかった。切実に貪婪《どんらん》に、時間が欲しかった。徹吉の筆は、ようよう中世の悪魔と魔女の復活の時代、各地に頻《ひん》発《ぱつ》した集団精神病、鞭打苦行《むちうちくぎょう》、舞踏狂、児童十字軍、ユダヤ人迫害、修道院内に於《お》ける集団|憑依《ひょうい》などを記し終えた。やがて他の分野には輝かしいルネッサンスが訪れる。しかし魔女たちの処刑はむしろこの時代から盛んになってくる。中世全体を通じて焚刑《ふんけい》に処せられた被害者は、十五世紀とそれに続く二世紀に火中に投ぜられた犠牲者よりも少ないのである。しかし、のちにチルボルクが「最初の精神医学革命」という名を与えた幾人かの忘れられぬ医師たちもこの時代に輩出していた。コルネリウス・アグリッパ、パラケルスス、デルラ・ポルタ、ヨハネス・ワイアーなどが。彼らは大なり小なり中世的雰《ふん》囲気《いき》から遁《のが》れられなかったにせよ、他の完全に迷妄に捕われた人々とは違った見解をも示した。ワイアーはその『悪魔の幻について』の中で、悪魔は実在するものの、たとえば性交に影響をおよぼすことはできないこと、また魔女たちが叙述するものは現実的な行為ではなく、悪魔に吹きこまれた幻想なのだということ、魔女の幻はベラドンナ軟膏《なんこう》で消すことができるし、リカントロピー(狼《おおかみ》に変身すること)も魔法ではなく妄覚にすぎない、ことなどを述べていた。一方、パラケルススも後世から見れば随分とおかしな論議を行なってはいるものの、また特別の秘油とか一角獣の角などという処方を連発したものの、多くの観察と考察をなし、『悟性を奪う疾患について』を著わした。その中で彼は言っている。「聖なる舞踏病」はなにも天使が起すものではない、なんとなれば天使が疾病《しっぺい》を作るなどということはあり得ぬからである……。
すでに徹吉の机の横の本棚《ほんだな》の一段には、ぶ厚い原稿の山が積み重ねられていた。これまでの労苦だけでも彼の肩には重すぎた。然《しか》もまだ序論の、はしがきの部分だというのに。一体自分はこんな調子で、と彼は幾度も暗鬱《あんうつ》な気持で自問してみたものだ、これからもこうやってずっと続けてゆくのであろうか? これから十七世紀のスイス人プラッテルや、バーゼルのハルダーや、英国の偉大な臨床家シーデンハムが現われてくる。そして十八世紀、この世紀になってはじめて精神医学は独立した真の学問になるのである。ようやく徹吉が当初に目ざした現代と直結する医学の歴史とその考察が開始されるのである。それからの厖大《ぼうだい》な調べなければならぬ書物の数々。考えてみただけで、目のくらむあまりに遥かな道程といえた。重すぎる荷、無謀といえる負担にちがいなかった。自分は悠々《ゆうゆう》自適できる隠遁《いんとん》した教授ではなく、二つの病院の長を勤める時間のない開業医にすぎないのだ。それでも自分はなおかつこの重荷を背おってゆくのであろうか? そして沈んだ気持で彼は自答した。自分はやはりやってゆくだろう。果して何年かかるのか見当もつかないが、出来栄《ば》えは更に見当もつかないが、いずれにせよ、やってゆくことだけはやってゆくことだろう。
そして最近、ふしぎなことに、徹吉ははじめ途方にくれ自分の身に不相応に感じたその重荷に、いつしか慣れて麻痺《まひ》してしまっていることに気がついた。つまり重荷を背おっているのが日常のごく当り前の定《き》まりで、ほかの状態のことを考えられなくなったのだ。それはやはり重苦しく辛《つら》くも感じられたものの、実はその内部に彼だけに通ずる、愉悦と陶酔と、たまさかの痛いほどの精神の昂揚《こうよう》とが含まれていることは前々からわかりきっていた。
徹吉は診察日を減らすと共に、母校である東大の教室とは別に、遠からぬ場所にある慶応病院の精神科の医局にも顔出しをするようになった。研究会にも出席した。彼と慶応とは別に関係はなかったが、往時の楡病院は慶応の医局員の週二日ほどのアルバイトの供給場で、現在の教授も若い医局員時代、楡病院にきていたことがあった。そういう関係もあって、徹吉は慶応出の先輩待遇のようにしてその医局に出入りできたのである。徹吉の意向としては、大学に出入りすることによって日夜進んでゆく学問から遅れないためと、同時にその図書室に目をつけたのであった。そこには近年のドイツ精神医学の本はかなりよく揃《そろ》っていたし、かつ助教授がフランス学派のためそちらの文献も少なくなかった。
若い入局したての医局員から見ると、ときどきやってくるこの楡先生という白《しら》髪《が》まじりの古い先輩らしい男は、為《え》体《たい》のわからぬ存在といえた。彼は教室に現われると教授となにか話をする、糞面白《くそおもしろ》くもない話を。それから図書室へはいっていって調べものをしているようだったが、行ってみると、椅子《いす》に腰かけたまま居眠りをしていた。いつも図書室へ入り、必ずしばらく居眠りをし、そして帰ってゆくのだった。
自宅に於《おい》ても、徹吉の性癖には少しずつあまり芳《かんば》しからぬ変化が見られた。なによりも、まだ耄碌《もうろく》する歳《とし》でもないのに、非常に屡々《しばしば》度忘れをした。病院の用事までを度忘れした。眼鏡を置き忘れ、その置いた場所が思いだせなかった。龍子とはまた別の性急さで二階から降りてきて、さて階下に着いてみると、一体何をしに下にやってきたのかわからないことも間々あった。夕食の席で、それでも彼は世間一般の父親のように子供たちに問いかけることがある。「今日は学校で何を習った?」高校の受験|間《ま》際《ぎわ》の峻一《しゅんいち》は「ええ、まあ」と言い、藍子《あいこ》は活溌《かっぱつ》にませた口調で、周二はうつむいて不得要領に答える。ところがその父親は、子供らの返事を聞いてはいなかった。その何事かに心を奪われた一見ぼんやりとした表情からおして、あきらかにそんな答えなどぜんぜん聞いていはしなかった。
もっとひどいこともあった。その夜、徹吉は周二と二人きりで食事をしていた。食卓には豚肉のいためものが出ていた。豚肉は周二の好物で、しかし彼は少年時の米国のようにどこかけちな精神が発達しており、菜にしても好きなものから先に箸《はし》をつけようとはしなかった。一番まずそうなものから食べていって、最後に一番おいしいものを食べるという習癖を有していた。周二はそのやり方で御飯も済まし、さて半分ほど残しておいた脂《あぶら》ののった豚肉の切身を満足そうに眺《なが》めた。すると、そのとき、すでに茶を飲んでいた父親が、それを食べ残したものと見たのか、だしぬけにこう声をかけたのである。「周二、その肉をくれるか?」それがいやに切実なひびきの声だったので、周二はいやとは言えず、さりとて「はい」とも言えず、うつむいたまま黙っていると、徹吉は箸をのばして肉片をつまみとり、非常な速度で咀嚼《そしゃく》しはじめた。そしてそれを三度繰返すと、せっかく大切に周二がとっておいた肉片はすっかり消え失《う》せた。呆然《ぼうぜん》と涙ぐましくさえなっているわが子を残して、その父親はそそくさともう一杯茶を飲み、座を立って行ってしまった。徹吉にしてみれば、これからの数刻の精神と肉体の労働を考え、どうしてもその肉を食べておきたい衝動に駆られたのだろうが、周二にとってはあまりにむごい行為といえた。
そんな肉片奪取事件こそ知らなかったものの、夫の昨今の日常、なかんずく病院の業務を減らしてしまったことに対して、龍子がますます面白からぬ感情を抱いていたことはもちろんである。しかし、或《あ》る夜のことかなり遅く、龍子が徹吉の居室を訪れたのは、なにもはじめから口論をする意図を持っていたわけではなかった。長男の峻一が前々から危惧《きぐ》されていたように第一志望の高等学校の試験に受からなかったこと、その今後の方針について相談するつもりであった。
徹吉は尿が近い。夜になると殊《こと》に近い。そこで彼は近ごろ、居室に子供の用いるしびん[#「しびん」に傍点]を置くようになっていた。しかも彼の仕事机のすぐわきに。龍子は乱雑に取りちらかされた机の周辺、とりわけそのしびん[#「しびん」に傍点]にあからさまな厭《えん》悪《お》の情を示したが、それでもなんということもなく二人は、しばらくの間、世間一般の夫婦のよくやる会話を交わした。
平生《へいぜい》、龍子は用件が済めばそそくさとその部屋を出てゆくのが常だったが、この日はなにかしらもう少し話したい、なにか胸につかえているものを言っておきたい気持が湧《わ》いてきた。そこで彼女はもう一度口を開いた。ごくさりげなく。
「松原の本院では、むかし、うちがやっていたような演芸会を復活していますのね。このあいだ行ってみましたら、ずいぶん盛大にやっていましたわ。それに、いつの間にかテニスコートまでできて……。患者さんも遊んでましたが、演芸会だのスポーツだのってことは、治療の面でも有益なんでしょう?」
「それはもちろんいい」と、そろそろやりかけの仕事のほうに気をとられながら徹吉はこたえた。
「演芸会をやる広間では、ふだんは箱を作らせたり、作業療法をさせるって本当ですの?」
「うん、そうやっている」
「うちはお父様の御意向で、いつでも新しい治療をいち早く取り入れてきましたのね」と龍子はつづけた。「それでもあたし、松原の病院ばかりだんだん立派になって、……こちらは依然として貧弱なのがはっきり言えば癪《しゃく》にさわりますわ」
「なにを莫迦《ばか》な。同じ楡病院じゃないか。今の段階では、まず向うに主力をそそがねばならないことはわかりきっている」
「だけど、本来ならこちらが、この青山が本院と名乗るべきものです。それにしても、青山の病院が収益をあげられない……それは焼けたあとは仕方ありませんでしたわ。でも今は病棟《びょうとう》もあって入院患者もあって、それでもまだ赤字というのはどうしてもおかしいわ」
「何も赤字じゃない」そろそろ妻を煩《わずら》わしく感じながら徹吉はぶっきら棒に言った。
「いいえ、赤字です」と、急に龍子はひらき直って切口上に言った。「あたしは存じております。最近も心配になってまた大石に尋ねてみました。帳尻《ちょうじり》があっているのは松原のおかげなんです。ほんとに恥ずかしい!」
「恥ずかしい? 恥ずかしいって、それはどういう意味だ?」
と、いらついてきた徹吉も思わず声高に問い返した。しかし、彼は一応自制した。
「お前、いいかね、精神科というものはその規模がむずかしいのだ。小さな診療所ならこれは成立つ。大病院ならむろんもっとよい。しかし、中途|半端《はんぱ》な大きさでは下手をすると経費倒れになるのだ。うちは、青山はどうもその中途半端なのだ。市の委託患者の費用なんて、これはごく安いものだ。委託患者の数が知れたものだとそのうちの何人かに高価薬を使えば経理面ではなんの得にもならない。だから相当数の患者数が必要だし、それには松原のような規模が要る」
「それはよくわかりますわ。ただ、正直いってお前さまはあまり病院の仕事に熱心でありなさらないし、……あたしはお前さまと夫婦だから申しあげますが、お父様だったなら、この病院でもっと立派におやりになれる筈です」
お父様|云々《うんぬん》の言葉は徹吉の劣等意識に触れた。怒りだすのも大人げなかったが、彼は我知らず性急に言った。
「そんなことに女は口を出すな。おれはちゃんと計画を立てている。いずれそのうちに着工することになろうが、青山の病院は今のままでは駄目《だめ》だ。今のバラックをとりこわしてそこに新築の病院を建てる。もちろんそう大きな病院ではない。その代り設備を立派にして、特等、一等の患者さんを入院させる。ほかの患者さんは松原へ送る。今だってお前、青山の外来で診察した病人はどんどん松原へ送っているのだ。こちらだって、なにも松原のおかげばかり蒙《こうむ》っているわけではない。そもそも松原の病院を作ったのはおれじゃないか。あのときの血の出るほどの苦労を、お前も知らないわけじゃあるまい」
「でもあれは、本当はお父様の御計画、お父様のお力ともいえます」
まことに致し方のない悪い癖で、龍子はついまたしても亡《な》き父親を――それもやたらと敬語をつけて――もちだした。
そのため事態はずっと悪化した。二人の口調はもはや問答というのではなく、第三者が聞けば滑稽《こっけい》な口論という状態までおちこんでいった。だが、二人ともかなりの年齢に達していたため、やがて休止期が訪れた。二人は将来のこと、いつかは自分たちは分家をするようになるであろうが、そのときの財産のことなども話した。病院が分離してこう大小とわかれると、青山のそれをもっと隆盛にしておかなくてはならないと、どういうわけか血のつながった弟を好きでない龍子は主張した。なに欧洲は恬淡《てんたん》な男だから、たとえば箱根の家をこちらの名義にしてくれるとか、その他《ほか》もよいようにはからってくれるはずだと徹吉は言った。いや、母親や弟がどうこうというのではない、しかし向うにはなにしろあの院代がついていますからね、と龍子は言って、自分でも少し笑った。
「とにかく、お前さまのその御計画は結構です。その青山に設備の整った立派な病院をお建てになるってことは」と、かなり機《き》嫌《げん》の直った龍子はまた問題を前に戻《もど》した。
「そこでお前さまにお願いがあるのですが、ぜひあのラジウム風呂《ぶろ》を、病院にもう一度こしらえて頂きたいのです。あれがなくっちゃいけませんわ」
「ラジウム風呂だって?」と、徹吉は少しあきれて声を高めた。「あんなものはお前、どうってことはない。効果なんぞありはしない」
おそらくその徹吉の口調には、何かにつけ引合に出される養父が得意にしていたラジウム風呂を、つい必要以上に侮《ぶ》蔑《べつ》するひびきがこめられていたにちがいない。そのためかたくなな父親崇拝から遁《のが》れられぬ龍子の心はひどく傷つけられた。
「そんなことはございません」と、ふたたび彼女は切口上になった。「あたしはお父様の御本をちゃんと読んでおります。あの『神経衰弱の治療及健脳法』という本を。あれには水治療法として……」
この愚かしい妻の弁舌が今度は急に徹吉の心を刺《し》戟《げき》し、またしても大人げない言葉を吐かせた。
「つまらぬことを! 大体お前、あんな本はもう古いのだ。冗談じゃない、まったくもって……。ラジウム風呂なんてそもそもインチキだ。インチキ極まるものだ!」
龍子の表情は一見至って冷静で、落着きはらったもののように見えた。が、それは彼女の内心がいたく憤激していることの証《あかし》ともいえた。
「お前さま」と、彼女はそこで一度言葉を切った。「あの本が古いことは確かでしょう。それはお前さまはずっとあとにドイツで御勉強なさったのですから。しかし、お父様のことを悪く言われるおつもりでしたら、それは間違いというものです。お前さまは中学生のとき上京されて、どのくらいお父様の世話をうけられました? あたしはお父様の娘ですが、もしあたしがお前さまの立場でしたら、口が腐ってもさようなことは申しますまい。それにお父様は御立派な医者でした。あのラジウム風呂でよくなった人をあたしは何人も知っております。それにあたしは昔うちの病院へきていた方に挨拶《あいさつ》されることがありますが、みなさん必ずこうおっしゃいます。大先生が生きていられたらなあって。娘のあたしが言うのもおかしいですが、お父様は御立派なお方でした。そして代議士にもなられて……」
徹吉はいらいらしながら聞いていた。妻の言分にはもっともな点があった。たしかに基一郎は自分の恩人である。しかし問題はまた別な筈だ。なにより龍子の取りすました、一段高いところから物を言う態度口調がどうにも我慢できなかった。さらに代議士という言葉を聞いた瞬間、これまでずいぶんと長い歳月|鬱積《うっせき》してきた感情が一挙に爆発して、彼は吐き捨てるように短く言った。
「代議士、……あれは猿《さる》よりも下等なものだ」
そう言われて、龍子も今は表面上の冷静さを失った。彼女とても代議士というものにさほど尊敬の念を抱いているわけではない。しかしたまたま基一郎が代議士であったとなれば、これは猿よりも遥《はる》かに上等の存在でなければならなかった。
「それは何とでもおっしゃるが宜《よろ》しいでしょう。しかしお前さまは、御自分が無能院長と蔭口《かげぐち》をきかれていることをご存《ぞん》知《じ》ですか? あたしの耳にはちゃんとはいっております」
龍子は膝《ひざ》をきちんと坐《すわ》り直して、徹吉の心に刺さること、明瞭《めいりょう》に手痛いことをこまごまと述べはじめた。勢い徹吉も、心にたまっている鬱憤を、そういうお前はいかに見栄《みえ》っぱりでだらしがなくて箸にも棒にもかからぬ女であるかということを応酬した。そして次第に二人の言葉のやりとりは、もはや理性も何もない、ほとんど浅ましい、いかにしたら相手をより多く侮蔑し傷つけられるかという泥《どろ》仕《じ》合《あい》と化してきた。しかし、どうしても龍子のほうが流暢《りゅうちょう》に口がまわった。もしこの場に興味半分の審判官でもいたとしたら、まさに龍子の側に軍配をあげようとしたことであろう。
そこで堪《こら》えかねた徹吉は、ついに男性の特権であり、切札ともいうべき言葉と行動を敢《あ》えてした。すなわち、「女のお前に何がわかる!」と叫ぶと同時に、片腕をのばして龍子の肩の辺りを突いたのである。すると、はずみというものか、龍子はもろに後方へひっくり返り、後頭部を本棚《ほんだな》に打ちつけた。すると乱雑に無理やりに積み重ねられていた上方の書物が十冊近くもばらばらと降ってきて、彼女の乱れた姿のうえに、音を立てて落ちかかった。
龍子は本を払いのけ、ごく素早く起直った。着物を直した。しばらくきっ[#「きっ」に傍点]と口を結んでいたが、やがていくらか吃《ども》った口調でこう言った。
「わたくしは、生れてこの方、人に手をあげられたことはございません。……まして突き倒されるなんてことは……。あたしは、こういう目に会わされて、黙って忍従できる女ではありません。あたしは……この家を出てゆきます」
必然的に徹吉も無理に声をおし殺して言った。
「出てゆけ」
そして徹吉は、机の上に開かれた書物――それはその時代に原稿が差しかかるのはまだかなり先のことになろうが、十八世紀の精神医学の総括ともいうべきピネルの『精神錯乱に関する医学的哲学的概説』であった――の上にかがみこんで、その妻が部屋を出てゆく気配を背中にまざまざと感じとりながら、憤激を辛《かろ》うじて抑えながら、なんとかして一刻も早くそこに開かれた文字の世界に没入しようと努力した。
ところで、その場かぎりの言葉の行きちがいだけではなく、龍子は本当にその家を出て行ったのである。子供たちが何も知らないうちに、その三人の子、峻一と藍子と周二とをあとに残して。
第五章
欧洲《おうしゅう》の妻千代子は、神田の古い暖《の》簾《れん》のある菓子問屋の末娘として生れた。木煉《もくれん》瓦《が》を敷いた電車通りに面した、彼女の生れた古い家屋は震災で焼けたが、そのとき彼女は浴衣《ゆかた》姿のまま万世橋前の広瀬中佐の銅像まで逃げ、それから上野の不忍《しのばず》ノ池《いけ》まで逃げて野宿をしたものだ。
震災後建てられた家は、やはり昔からの菓子問屋の造りそのままで、表に面した部分は店、その奥が家族と奉公人の住むところ、さらに背後は工場となっていた。そしてこの吉《よし》田家《だや》は、明治の末期から旭飴《あさひあめ》いう名の、痰咳《たんせき》に効くという半ば薬で半ば菓子の飴を製造し発売していた。その商標は、亀《かめ》千代《ちよ》のような前だれ髪の少年が御《お》膳《ぜん》を前にして坐《すわ》っている絵で、かたわらに「すき腹にめし 痰咳に旭飴」と記されてあった。
裏の工場といっても、機械とてないほんの手工業のもので、夜明けに飴屋から米で作った飴を大八車に積んで運んでくる。それを大《おお》桶《おけ》に移し、吉田家伝来の幾種かの薬を入れ、大きな櫂《かい》にも似た棒で桶の周囲をまわりながらかきまわす。これはのちに機械仕掛となったが、まだ千代子が少女のころは、その飴を缶《かん》に入れる作業も女工たちが一々手でしゃもじ[#「しゃもじ」に傍点]ですくって入れていた。別の女工が蓋《ふた》をのせる。次々と封が貼《は》られ、印紙が貼られる。それらの缶もベルトの上を移動するのではなく、少したまると繩《なわ》をまわして台の上を引寄せるのである。
その工場の雰《ふん》囲気《いき》が千代子は好きであった。いくら見ていても飽きなかった。それに店には、遊び相手になる同年輩の丁稚《でっち》、すなわち小僧が幾人もいた。千代子は工場からすぐ出られる裏の路地で、下町の楽しい暮景のなかで、鬼ごっことか石《いし》蹴《け》りをして育った。夜には正月でなくともカルタを取った。彼女はこの生活がすっかり気に入り、御茶ノ水女学校を出てからも、姉が嫁に行ってしまったのちも、自分がいつかこの懐《なつ》かしい家を出て、よその家へゆくなどとは露ほども考えはしなかった。
しかし、いつまでもそうしている訳にもいかなかった。彼女は小《こ》柄《がら》で、いくらか佗《わび》しい感じのするほど細面《ほそおもて》の、二十二歳の女に成長していた。母親はしょっちゅう言った。「あたしらの頃《ころ》は、十六、七にもなればみんな嫁に行ったもんだ」そこに持ちあがったのが楡《にれ》家《け》の長男の話である。仲を取りもったのは、近所に住む、故基一郎が「神田のおっかさん」と呼んでいた、あの桃子の仮祝言《かりしゅうげん》のときにも一役買ったお婆《ばあ》さんである。彼女は本当の江戸っ子といえた。「ひ」を完全に「し」と発音し、「ござんす」というのを「ごぜんす」と言った。そのお婆さんは両家の母親とも親しく、なにより好都合だったのは、楡家のひさが未《いま》だに神田の愛国婦人会に顔を見せることであった。千代子の母はひさと一度会っただけで惚《ほ》れこんでしまった。その上品さ、鷹《おう》揚《よう》さ、礼儀正しさ、つつましさ、――この母親の息子なら間違いないと思った。彼女の経験によると、嫁入る際にもっとも肝腎《かんじん》なのは姑《しゅうとめ》の問題で、このお母さんなら千代子は仕合せにやってゆけると信じた。ひさのほうでも乗気になった。なりこそ大きいが息子の欧洲が、嫁をとるのにまた学生時代のように落第と浪人ばかりを繰返しては堪《たま》らぬと思ったからである。
こう双方の母親が乗気となっては、この縁談がまとまらないわけはない。こうして欧洲と千代子は結婚した。唯一《ゆいいつ》の例外である楡桃子を除き、すべての人に祝福され、披《ひ》露《ろう》の宴も帝国ホテルの孔雀《くじゃく》の間《ま》で。ただ恒例の写真を写すとき、ちょっとした齟齬《そご》が生じた。写真屋は二人に向って、すまされておとりになるより笑われて、と言い、「はい、笑って」と合図をした。千代子のほうはそうは言われてもすぐには笑えない気分であった。欧洲はといえば、馬鹿《ばか》正直に即座ににたりと笑った。それでその写真ができてみると、花嫁のほうはいかにもしょんぼりと、この結婚が厭《いや》で厭で堪らぬというふうに、花婿《はなむこ》のほうはその逆に、してやったりとだらしなく相好《そうごう》を崩しているという具合に写ってしまっていた。
千代子はまた披露の席で、ふと目に映った蔵《ざ》王山《おうさん》の巨《きょ》躯《く》にもびっくりした。噂《うわさ》には聞いていたが、まさかこんなにも不気味なほど大きいとは考えていなかった。そしてまた、誰《だれ》やらがマイクもなしで広い会場にひびきわたるほどの、しかも耳慣れぬ東北なまりの謡《うたい》をやりだしたときには、いっそう消えいるばかりの気持になった。あとで、それは義兄徹吉の弟の三《み》瓶《ひら》城吉という、上《かみ》ノ山《やま》町の宿屋の主人の声であることを知らされた。
それでも千代子は新婚旅行の間にも、木の香も新しい邸宅に於《お》ける新家庭の夢をそれ相応に追い続けていた。しかし、旅行から戻《もど》ると、まず夫婦水入らずという夢は破れた。二人の留守のあいだ、どういう気の加減か、ひさはまあ試しにというつもりで新宅の奥の間――そこは離れのようになっていていつかは欧洲も母を迎えるつもりだったのだが――に一晩泊ってみた。すると先の自分の言葉に反してそこが大層気に入り、もう狭苦しい病院の階上には戻ろうとせず、そのまま松の老樹のようにどっしりと腰をすえてしまった。これには欧洲も苦笑を洩《も》らしたが、千代子のほうはまだ安心していて、義母のそばに暮したほうが行儀作法を覚えられるであろうくらいに殊勝な気持を抱いていた。
ところが、外で会えばまことに非の打ちどころのない御母堂と思えたのに、実際に一緒にひとつ家庭に住んでみると、なかなかそうでないことがわかってきた。どうも楡家の人は外面《そとづら》はよいが内面《うちづら》がわるいということを、次第に彼女は認識しなければならなかった。初めての食卓に着いたとき、ひさはこう言った。「わたしは昔はあたたかい御飯を頂いたことは一度もないよ。そのくらい病院の他の人のことを考えてやらねばならなかった」千代子はなるほどそういうものかと感じ入ったものだが、といってこの姑に冷飯を与えるわけにもいかなかった。そればかりかひさは総入歯のため、固いものは食べられず、姑の食事にはいつも気を病まねばならなかった。温かい御飯で済めばどれほど楽かわからなかった。しかしひさが立派なつつましい精神の所有者であることは確実で、彼女は少しでも菜《さい》を残すということが気に入らぬ様子だった。自分の歯にあわぬ食物があると、彼女はそっとその皿《さら》をおしやり、ぼそぼそと口のなかで呟《つぶや》く――「米国《よねくに》」。するとその席には、夫の弟の米国――大体千代子は前から楡家の人々とひき合わされてはいたが、それはひさ、徹吉、龍子《りゅうこ》、当の欧洲の四人にすぎなかった――という青年が坐っていて、「は、頂きます」と言ってその皿を受けとる。受けとっただけで食べはしない。そのまま済むこともあれば、ひさがそれに気がついて、もう一度あるかないかのごく微妙な動作でうながすこともある。すると米国は慌《あわ》ててそれを食べた。あるとき米国の皿にたっぷり醤油《しょうゆ》が残っているのを見て、ひさは動いたか動かないかわからぬほどわずか顔をそちらへ向けて呟いた。「米国」「は」と答えて、米国はその醤油をいきなり舌を出して綺《き》麗《れい》になめた。
そのように母親の前ではかしこまっているくせに、その母がいないとなると、米国の言動にはかなり変化が見られた。だしぬけに千代子にむかって、「ぼくは考えるところがあって、しばらく肉食をやめます」と言ったことがあった。その「考えるところがあって」という言い方には、ずいぶんと深刻げで不可知な悩みのごときものが感じられ、彼女はなんとなく気味がわるかった。そうかと思うと、いきなり「ぼくは肺病ですから、バタを食べねばならない」と独りごとのように呟いて、半ポンドのバタを豆腐でも食べるように一度に半分ほど平らげてしまったこともあった。この「肺病ですから」には、千代子はもっと心配になり、欧洲に訊《き》いてみると、「なに、あいつの口癖さ」ということであった。
その妹の桃子となると、これは新婚旅行から帰って早々、その不幸な夫の葬儀を行わなければならなかったが、千代子が悔みを述べても口をきかず、まるで敵意を持っているとしか思えぬ目つきで、こちらを試すようにすかすようにじっと見つめた。桃子はごくたまに松原の病院にやってきたが、いつも千代子の前ではそわそわしていてろくに挨拶《あいさつ》もしなかった。――なんだかへんな家だ、おかしな家だ、あたしの嫁入ったこの楡という家は、と千代子はおぼろな予感を抱かざるを得なかった。どうもこの家では親子兄弟がてんでんばらばらに生存しているようで、その一人々々がまた一風変っているように思われた。夫に桃子のことを問うと、「あいつはだらしがないだけさ」というさも面倒臭げなぶっきら棒な返事が戻ってきて、「米国さんは一体何をしてなさるの?」と問うと、病院の裏手の農場の面倒を見て貰《もら》っている、という返事であった。
それまで千代子は、精神病院というものを観念としてもろくに知らなかったから、はじめは病院のそばにも決して近寄らなかった。病院の玄関のわきを通り、幾棟《いくむね》かの病棟《びょうとう》のわき、テニスコートのわきを大急ぎで通り抜けると、ひろびろとした多少の起伏のある土地が拡《ひろ》がっている。かなりの部分が菜《な》や葱《ねぎ》を植えた畠《はたけ》になっていた。一部には竹柵《ちくさく》の囲いの中にいくらかの鶏たちが遊んでおり、その背後はちょっとした櫟林《くぬぎばやし》であるようだった。更に歩を進めると、近所の小川から水をひいた細長い池があって、そこから相当に広い運動場が望まれた。遥かに遠く低く粗末なブリキの塀《へい》がつづいていて、その内部が楡病院の敷地であることを示していた。この裏手の塀の外は未だに一面の麦畠であった。
そうしてもの珍しく半ばこわごわと、千代子が一人で散歩をしていると、なるほどこの農場の面倒を見ているという米国の姿を見かけることがあった。けれども彼は働いているわけではなかった。いつも仕方ないから足を動かしているといったふうに目的もなさそうに歩いていたり、鶏小屋のわきの丸太の上に腰をおろして、妙に真剣に飽きることなく鶏の動作を見つめていたりするだけであった。その米国の影のように、常にもう一人の男が附《つき》添《そ》っていた。色の黒い、顔の四角い、目のぎょろりとした、なにより顔にぶつぶつと吹出物のある、ずんぐりとして肩だけ盛りあがっているうさん臭げな男であった。この男もべつだん働いてはいなかった。せいぜい畠を指さして米国になにか言っていたり、鶏小屋のわきでは坐《ざ》している米国のそばに突っ立って、「トットットウ」というような声を――単に声だけをあげているにすぎなかった。本当に働いているのは農夫のような身なりをした小男で、どうも米国がまず最初のひそひそとした暗示を与え、それを附添っている顔の四角い吹出物のある男が命令として伝え、最後にその小男が実際に鍬《くわ》をふって畠を耕したり鶏に餌《えさ》を与えているらしい様子であった。といって、千代子は彼らの生態をそれほどくわしく観察していることもできなかった。運動場にむかって、病棟からさまざまの服装をした人間の集団がぞろぞろと、白衣を着た看護婦や看護人に附添われて出てくるのが見えた。それは狂人にちがいなかった。千代子は彼らの姿が遥《はる》か向うに望見されるだけなのにもかかわらず、怖《おそ》ろしくなって慌てて家へ逃げ帰った。
「あの米国さんのそばにいつもいる顔の四角い人は誰なの?」と、彼女は夫に訊いてみたことがある。
「あれは熊《くま》五《ご》郎《ろう》といってな、昔からうちの――青山が焼けるずっと前から書生をしていた男だ。どうも近ごろ、すっかり米国の子分になっているらしい」
と、無関心な調子で欧洲は答えた。
これはのちの話になるが、千代子が嫁入って二年経《た》ち三年経つうちに、裏手の広い土地は見違えるほどすっかり立派に整備されていった。病棟の周囲には芝生が植えられ花壇ができ、テニスコートは二つに殖え、畠はよく耕され、鶏は数十羽となったばかりか、家鴨《あひる》やさては七面鳥までがたむろし、櫟林はほとんどけずられて梨園《なしえん》となっていた。それと共に、米国と熊五郎が使役する男は二人となり三人と殖えた。米国が総監督だけを勤めるのは当然としても、熊五郎がますますもって如《じょ》雨露《うろ》ひとつ持たないことが気にかかるというか、なにか気に触ってたまらなかったので、もう奉公人に遠慮なく口のきけるようになっていた千代子は彼に問い質《ただ》してみた。
「あなたはどうしてそう何ひとつやらないの?」
「ぼくは……わたしは痔《じ》がわるいのです。それも非常に、非常に悪いのです」というのがその返答であった。
あるとき千代子は夫に尋ねてみた。
「あの農場の野菜や、鶏の卵なんかは病院の賄《まかな》いで使うんでしょうが、あまることもあるんでしょう?」
「そうだ、病院で使っている。しかし米国は金をとって病院に納めているんだ。時価よりは安くね。あまったぶんはどうも近所で売っているらしい」
「そうなの。……それで米国さんは、その金で小作人を雇っているのね」
「いいや、あれはみんな病院で給料を出しているんだ。七面鳥を買ったり鶏小屋を建てたりする費用もだ」
「それじゃ米国さんは丸儲《まるもう》けじゃありませんか」
「なに、そればかりか、あいつはお母様から毎月小遣いを貰《もら》っている」
「まあ」と、千代子はさすがにびっくりして言った。「それじゃ米国さんはずいぶんお金がたまってたまって困るでしょうね」
「まあ俺《おれ》よりはね」と、欧洲はそういう具合になっているのだから仕方ないさというように、至極|恬淡《てんたん》に言って丸い短い頤《あご》を撫《な》でた。
だが、米国や熊五郎はべつに千代子に迷惑はかけなかった。なんといっても、ひさが、自分の母がこのお義母《かあ》さんならと保証してくれた姑が問題の種であった。
ひさは家の中、――目下の者や召使いに対しては意外と粗雑ではしたない口をきいたりした。しかし大切な客でもくると、その物腰は静かにひそまって端正で、その言葉遣いは並外れてものものしく、商家に育った千代子は最初のうち、そういう席で口をきくのが怖ろしかったほどだし、ときとするとひさが耄《もう》碌《ろく》のためか「……ござますでござます」などと言うものだから、慌てて茶をさげて退《さが》ってきて、人《ひと》気《け》のない他の部屋で一人こみあげてくる笑いのおさまるのを、辛《つら》く、もの悲しく、しかしやはり可笑《おか》しく、しばらくの間じっと待たねばならなかった。
ひさはかなりの頻《ひん》度《ど》で外出した。種々の慈善団体などの会合と、そういう席で否応《いやおう》なしに切符を押しつけられる催物の見物に、本院の自動車オペルで出かけていった。もし車がないとなると、タクシーとかハイヤーを利用することは決してなく、その外出は陰に籠《こも》った不機《ふき》嫌《げん》さのうちに取《とり》止《や》めとなった。ひさの観念では、タクシーに乗ることはお金を必要とするぞっとする無駄《むだ》遣《づか》いで、その点自分の家の自動車ならこれはただで倹約なことである、と本気で思いこんでいるらしかった。そのため本院の車はひさ専用の自家用車のようなものになり、欧洲夫婦が使用できるのはむしろ例外に属するといってよかった。
ひさが外出するとき、千代子は女中たちと一緒に玄関に並んで坐《すわ》って見送った。帰宅の際も、芝居などで帰宅が夜遅くなるときも同様であった。全員が眠い目をこすって待っていて出迎えて、千代子は女中と共にひさが着物を脱ぐのを手伝い、床にはいるまで傍《そば》にはべっていなければならなかった。「もういいから先にお寝《やす》み」とは、ついに一度もこの義母は言ってくれなかった。
奉公人の手を相応に仕事に応じて利用することが、この姑は下手なようであった。むかしの楡医院時代からの習癖として、彼女はその年齢となってもなんでも自分でやろうとした。貰い物などをすべて自分の寝室の隣の部屋の押入れに蔵《しま》いこみ、またぞろそれを出してきて人にくれてやった。千代子が嫁にきて以来、かつての青山の楡家に於ける山形ののし梅と同様、千代子の実家で製造される旭飴はこの松原の家に溢《あふ》れだした。ひさは旭飴をもみんな丁寧に押入れに蔵いこみ、どうでもいいような連中とか稀《まれ》に遊びにくる青山の子供などにくれてやった。「すき腹にめし 痰咳に旭飴」と記された、この甘くいくらか薬臭い水飴を。
嫁入って最初の大《おお》晦日《みそか》が近づいてきた或《あ》る晩、千代子は本当にびっくりした。十二時を過ぎようとする夜ふけに、ひさが一山の五十銭銀貨を前にし、それを一枚ずつ小袋に入れているからだった。それは正月に病院の関係者一同にやるお年玉で、楡病院では火災以来賞与式がとりやめになっており、それでもこのお年玉の袋をつくる役目を、ひさは誰の手も借りずに自分でやらねば気が済まないのであった。その作業はごくのろのろと、しかし丹念でなにか本能的な真剣なもので、千代子も「誰かにおやらせになっては」という気にはとてもなれず、彼女もいやいやこの作業を手伝った。
院代|勝俣秀吉《かつまたひできち》という男も、千代子にはどことなく不可解であった。院代は毎朝、奥のひさの部屋へ伺《し》候《こう》してきて、また欧洲にも挨拶をするが、その物腰はすこぶる鄭重《ていちょう》で慇懃《いんぎん》を極めた。しかし他の使用人に対しては横柄《おうへい》で威張っていた。「かねどん」と、彼は古くからいる女中に言う。「廊下をもっと磨《みが》くようにみんなに言いつけなさい。もっとぴかぴかと、人が辷《すべ》って転ぶくらいに……」そして彼は腕をうしろに組んでひょっくりひょっくり病院へ戻って行く。
千代子にむかって彼はこう言った。「正月の新年式には御家族さますべてが病院にいらして頂くことになっております。楡病院の昔からのしきたりでしてな」
そこで千代子はこわごわ――彼女が病院内に足を踏み入れたそれが最初であった――演芸会をしたり雨天運動場になったりする広い板敷の部屋へ連れていかれて、壇の後方にひさたちと並んで椅子《いす》にかけて、新年式なるものを見学した。病院のすべての従業員、出入りの大工から植木屋までがそこに並んで、青山の式を終えてやってきた徹吉院長から、お年玉を、ひさが手ずからしつらえた金一封を貰っていた。
かつての賞与式と違って、この金一封を、まさか一々院代が院長に手渡すわけにもいかなかった。金一封は箱に積まれて徹吉の前に置かれており、養父と違ってこうした行事を好まぬ二代目院長は、訓辞ともいえぬ一応の挨拶も口を開くか開かぬうちに終えてしまい、ごく無造作に簡単に、金一封を次々と手渡してしまうのであった。またそれを貰う人々も金魚の糞《ふん》のようにぞろぞろと列をつくって、さっさとあっけなく、これといった礼儀も尽さずに小袋を受取って引退《ひきさが》った。
これではどうしようもないわいとでも言いたげに、憮《ぶ》然《ぜん》として慨嘆に堪えぬ面持《おももち》で、院代勝俣秀吉は落着きなく立っていた。彼は、楡脳病科病院の輝かしい歴史と伝統とを踏みにじっているに等しい情けない現院長の見映えのせぬ横顔を、不信と軽蔑《けいべつ》の眼《まな》差《ざ》しで縁なし眼鏡の奥からじろりと見やった。それから期待と希望とをもってちらと横手に腰をかけている欧洲のほうを見やったが、欧洲はそのとき退屈そうに頤を撫でてそっぽを向いていた。
楡基一郎の亡霊の支配する楡病院の再現を、院代勝俣秀吉ほど衷心から、真心こめて、日夜夢に見るほど熱烈に願った者はいない。彼は賞与式を、あの栄光ある幾刻《いくとき》かを復活させたくって堪《たま》らなかった。昭和八年度に、その三十周年記念の大々的な祝典をあげたくて目がくらむほどであった。その前年の基一郎の七回忌の日から、彼はその計画を練り、ひそかに暖め、全身で抱きしめていたものである。それなのに、あのいまいましい、蒙昧《もうまい》な、病院経営の才も人心を掌握する能も爪《つめ》のかけらほどもない徹吉院長は、まだ病院はそんな祝典をあげるほど安泰ではないとして、時期|尚《しょう》早《そう》としてこの案を取りあげてくれなかったのだ。
しかし、院代には更にひき続いてもっと大きな夢ができた。彼は楡病院の歴史をふりかえり探求し考察を加えてみた。すると青山にあの異国の宮殿にも似た病院ができる以前に、本郷に基一郎が医院を開いてから十五年の年数を経ていることがわかった。この年数は当然つけ加えて然《しか》るべき数字と思われた。そうやって計算してみると、来《きた》るべき昭和十三年は、三十五周年というより楡病院開院五十周年と銘打って少しもおかしくはない。五十周年、半世紀、これは区切りがよく発音がよく、院代勝俣秀吉の胸をこみあげてくる感動と恍《こう》惚《こつ》とで一杯にした。おまけに――おまけになどと言っては罰が降りようが、この昭和十三年は基一郎の十三回忌にも当る。なにもかもが最初から仕組まれているようにあつらえむきであり、大がかりな祝典、行事にふさわしく、これはなにかの啓示、神と仏のくだしたもうた恩寵《おんちょう》にちがいないと院代勝俣秀吉は確信した。幸い、否《いな》、当然のことだが、病院は一路隆盛へと向っている。世間の精神病者にとって不幸なことに、院代にとってはかたじけないことに、日本では脳病院のベッド数がそもそも不足していた。一方、田舎でもようやく座《ざ》敷牢《しきろう》に閉じこめておくというような風習から離れ、ずいぶんと遠隔の地から楡病院に入院してくる病人も少なくなかった。青山の分院はいざ知らず、松原の本院は現在のところ満床につぐ満床で、毎年のように病棟は改築され増設されつつある。基一郎の先見の明により土地はたっぷりあるし、その土地も先の火難のときの経験にこりて、借地であったのをすでに買収し楡病院の所有地となっている。このぶんでは患者数に於《おい》て往時の楡病院をしのぐ日もそう遠いことではあるまい。そして五十周年記念日が訪れるころには、徹吉に代って、基一郎の正当な後継者である欧洲が、この本院の院長となっていることであろう。
院代勝俣秀吉は、この夢に惑溺《わくでき》し陶酔することによって、現在の徹吉院長のふがいない態度をひとまず許すことができた。彼は新年式のあとで、千代子にむかってこんなことを言った。
「奥さま、まことにしまりのない式をお目にかけて……だが、もうしばらくお待ちになってください。じきに欧洲さまが院長になられて、その暁には不肖この院代が……」
事情を解せぬ千代子には、その院代の親しみを抱きにくい痩《や》せてあおじろい顔、その何事かを思いつめたような縁なし眼鏡の奥のほそい目が、なんとなく気味がわるかった。
院代は幻想の五十周年へむかって、かつての青山の病院をしのぐ隆盛へむかって、執念をこめた活動を開始した。それはこまごまとした事柄《ことがら》、たとえば病院の玄関前に立てる医師の名を記したブリキの看板ひとつにまでおよんだ。彼は韮沢《にらさわ》勝次郎、金沢清作の二人を副院長とすることを提案した。
「この二人は大体同格ですし、このくらいの病院ですから、副院長も二人くらい作らないことには……」
「しかし、金沢さんは青山の分院にいるのだから」
「いいえ、青山の医者の名ももちろんここに並べます。実際に診療に来て貰うことも多いのですから。この二人の名の上に副院長としておいて、そのあとに本院と分院全部の医者の名を……」
そして院代は、本当はそんな話は聞きたくもないという顔をしている欧洲にむかって、現在いる医者の名をいちいち克明に並べたてた。
「しかし佐藤君や島崎君は慶応の医局から派遣されているのだし、これはじきに代るよ、医局の都合によってね。病院にずっと長くいる医者の名だけでいいだろう」
「いや、変ったら変ったで書き直せば宜《よろ》しいでしょう。できるだけ大勢のほうが大病院らしく見えましょうし、それにペンキ代なんて知れたものです」
楡病院では、最近テニス熱が盛んになっていた。欧洲がその肥満した身体《からだ》に似あわず敏《びん》捷《しょう》に動いて――彼は柔道も剣道も有段者であったが――けっこう強かった。事務に学生時代には選手だった男がいた。生れてはじめてラケットを握った熊五郎が、このところ一日じゅうテニスばかりしているため、めきめき腕をあげていた。その他の医者も職員も、閑《ひま》のときには軽症の患者もまじえてコートに立った。そのため楡病院は、対抗試合に於ていやに輝かしい戦果をあげた。東大と慶応の精神科をこれは医者だけで問題なく打破った。他の精神病院との親善試合でも必ず勝利を握った。ただどうしても勝てない相手、それは市立の松沢病院であった。なんといっても精神病院の代名詞に使われるその大規模な松沢病院の職員の数は楡病院より遥かに多く、テニスむきにできている男も少なくなく、さすがの楡病院も――本来は相手側の職員である欧洲もその日は味方側に加わったのだが――太刀打ちできなかった。
院代勝俣秀吉は、テニスのことは何ひとつわきまえず、スコアの数え方も知らないくせに、楡病院がテニスで他の精神病院を打破る度数が殖えるたびに、テニスコートのそばに足を運ぶことが多くなった。対抗戦で勝利を握ることは、いやがうえにも楡病院の名声を高め、いっそうの箔《はく》をつける事柄のように彼には思えたし、自分自身はこんな競技には不向きだが、他の者を励まして、なんとかして一度でも松沢病院を負かしてやりたいものだ、というのが彼の念願ともなった。院代はコートのそばで一時間も行きかう白球の行方をじっと観察していて、それから傍《かたわ》らの薬剤師に訊《き》いた。
「あの男は強いねえ。いや、実にうまいよ、君。見慣れぬ顔だが、新しくはいった看護人だったかな?」
「あれは患者さんですよ」
「患者さんか……」と、残念そうに未練らしく院代はなお呟《つぶや》いた。「見たところちっともどこも悪そうでないがな。どうせじきに退院なのだろ? あの人をうちの職員に雇うわけにもいかないだろうねえ」
慶応の医局から週二回勤務しにくる医者が代り、新しくいかにも運動神経の発達していそうな若々しい男が赴任してきたとき、院代はさりげなく、しかし内心では勢いこんで尋ねた。
「先生はテニスをやられますかな?」
「テニス? いや駄目《だめ》です」
「しかし見るからにすばしこそうな身体つきでいらっしゃる。どうぞテニスもやってごらんになって……」
「それがね、ぼくは自分でもあきれるくらいぶきっちょで、本当にどんなスポーツもできないんです」
すると院代は二、三度しかつめらしく頷《うなず》いて、腕をまわした背をくるりとその医者に向け、急ぎの用でもあるかのようにその場から遠ざかっていった。彼はこの若い新来の、しかし確かに役立たずとわかった医者に、もはや興味を失ったのである。
姑《しゅうとめ》のひさに仕えることはまあ仕方がない。それはどこの家に於ても必然的にありがちな、諦《あきら》めねばならぬ事柄だ。しかし千代子をもっと狼狽《ろうばい》させ、根本から目算を狂わせたのは、ほかならぬ龍子の出現であった。
そもそも最初の出会いから、千代子は、この義姉とはしっくりといかない予感めいた行き違いがあったというか、およそ勝手な女、他人《ひと》の思惑もかまわぬ女だという印象を抱かざるを得なかった。それはまだ千代子の結婚まえのことで、欧洲が松沢病院でボーナスが出たというので吉《よし》田家《だや》と楡家の主だった人々を招待し、ジンギスカン料理を食べに行ったことがある。当時ジンギスカン料理はまだ珍しく、中華料理屋で前菜のようにあつかわれていたが、千代子ははじめて食べる羊の肉の臭みが鼻についたので箸《はし》をつけるのをやめ、いずれ出てくるであろう中華料理を愉《たの》しみに待つことにした。ところが、無口な徹吉のわきに坐っていた龍子が、極めて断定的に、完全にどこからどこまで今日の主人役といった口調で、もうみんなジンギスカンでお腹《なか》が一杯でしょうから――彼女は自分自身の理由のみですべてを判断する癖があった――中華料理はやめにして、あとは御飯だけに致しましょう、と宣言した。「皆さん、お宜しいでしょう?」そして結局そういうことになった。せっかくの招待の御馳《ごち》走《そう》の席で、千代子が食べたのはお香こと御飯だけであった。食物の怨《うら》みというものはおそろしく、以来千代子が、内心肝にめいじてこの義姉を煙ったく感じていたのは事実である。
その龍子が、最初は一見ひっそりと目に立たず、だが千代子から見ればやはり居丈高に大手をふって、だしぬけに松原の家に現われ、ついにそこに居住することとなったのである。
龍子は徹吉といさかいをして青山の家を出たあと、しばらく行方をくらましていたが、ひさの実家である秩《ちち》父《ぶ》の家におよそ半年間も厄介《やっかい》になっていた模様である。ようやくそこも居づらくなって、松原の家にやってきたのだ。もとより徹吉とのあいだに和解が行われるよう、ひさたちも手を尽したにはちがいないが、双方とも水準以上に依怙地《いこじ》な点が多々あって、それは成功しなかった。ひさにしてみれば龍子は実の娘ではあるし、養子の徹吉にむかしから満足もしていないのだから、どうしても龍子の味方になった。欧洲にしてみても、お互いに肌《はだ》があわぬのは重々承知していたが、この姉を家に置くことに強硬に反対する理由が見つからなかった。内心では渋々、表面ではまあそうなったのなら仕方がないさという顔をして、彼は龍子が自分の家の居候《いそうろう》になることを承知した。その代り欧洲はさっそく家の建増しにとりかかった。長い渡り廊下をつけて独立した姉のための二部屋を大急ぎに作らせた。同じ家の中に住むにしても、彼は能《あと》うかぎりこの姉と離れて住みたかったからである。
はじめ龍子は、さすがに静かにおとなしくしていた。だがそれはわずかな期間にすぎず、まもなく彼女は天来の自我を主張しはじめ、自信に満ち満ちて大きな顔をしだし、わが物顔にふるまい、勝手気ままに家のなかを攪乱《かくらん》した。もともと龍子のくる前から、この家ではひさが厳然とした実権を握り、千代子はせいぜい女中頭といった格だったが、ただならず自己中心に発言する龍子の登場によって、指揮系統がますます寸断され混乱させられた。第一に呼称の点でも、以前はひさが大奥さまで千代子は奥さまで済んだわけだが、今度は奥さまが二人になった。そこで龍子は、女中たちにむかって自分のことを中奥さま、千代子を若奥さまと呼ぶように指示したが、この中奥さまはやがて蔭《かげ》では、「お中《ちゅう》さま」という奇妙な呼称に変形した。
お中さまは、そもそも自分が毛《け》嫌《ぎら》いしている筈の弟の家に泰然とのびやかに居すわって、なんの気がねも遠慮も毛頭なく、ただでさえ影の薄かった千代子をさらに片隅《かたすみ》へと追いやった。これほど傍若無人で、あけすけに礼儀もへちまもなく思ったことをずけずけ言い、かつ行動する人類を千代子はまだ知らなかった。これはと思う客人の前ではひさ同様、龍子の口のききようは上品でみやびやかなもので、態度物腰にも粗漏はなかったが、いったん目下の者――龍子はあからさまに千代子を目下と見なした――の前では、思わず首をかしげたくなるような言葉遣いになった。その敬語の遣い方はあるときは身内に鄭重《ていちょう》で、どうも世間の常識とは逆のようであった。と思うと、龍子は食卓では、ひさと反対に非常にせわしない態度を示した。他の人にかまわず、迅速に自分一人の食事を済ましてしまう。おまけに自分の茶碗《ちゃわん》によそってある御飯を、「これは手をつけてありませんからね」と言うなりさっとお櫃《ひつ》にあけてしまう。そして龍子自身は、まだ食事中途の一同を充分に落着きのない気分におとしいれておいて、さっさときびきびと席を立った。女中に「あとを早く片附けなさいね」と御丁寧に言い残しながら。
龍子がこの松原の家に姿を現わしてしばらくすると、彼女の子供たち、青山の子供たちが母親の許《もと》に遊びにきた。最初はひそかな密会、父親に隠れてそっと母親を尋ねてきた模様であった。千代子は現場を知らなかったが、龍子の突然の失踪《しっそう》以来、七カ月ぶりに母親に再会できたその子供らは、子供として当然の反応を示した。周二は「ママ、ママ」と言って母の膝《ひざ》にすがっていつまでも泣き、藍子《あいこ》ははじめ同様だったがやがてけなげにも自分は涙をぬぐって弟をたしなめ、ずっと年長の峻《しゅん》一《いち》は困ったような照れたような顔をして傍《そば》に突っ立っていた。龍子もさすがに感無量といった面持《おももち》で、ひときわ毅《き》然《ぜん》とした表情となり、滅多にないことにいつまでも優しく周二と藍子の背中を撫《な》でさすった。
だがやがて、この青山の子供らが母親を尋ねてくるのは、半ば公然とした行事のようになった。青山の病院の車は、水曜日に院長回診の徹吉を乗せてくるほか――徹吉は松原にやってきても、むろんのこと龍子とは顔を合わせなかった――しょっちゅう本院と分院の間を行き来している。その車に乗って子供たちはよく日曜日の朝遊びにきて、夕方の車で帰る。ときとすると土曜日の晩から泊りがけでくることもある。
他の家庭と異なり、ひさはこの孫たちを少しも可愛《かわい》がりはしなかった。せいぜい旭飴《あさひあめ》の一缶《かん》を与えて、あとは食事の折、聞えるか聞えないかくらいのぼそぼそした声で、藍子と周二の箸の持ちようを叱《しか》ったりした。千代子が見ていても、この二人は箸をまともに持てず、なんだか妙な具合にぶきっちょに握るのであった。青山の子供たちは祖母の――おばばさまと彼らは呼んでいた――愛情こそ蒙《こうむ》らなかったけれど、龍子の久方ぶりの多分に気まぐれの感のする、しかしその父親には決して望めない馥郁《ふくいく》とした愛情をたっぷりと受けることができた。
子供たちと別れて暮しているため、龍子の母性愛は、目ざめ昂進《こうしん》させられたのにちがいなかった。明日、子供たちが遊びにくることがわかると、彼女は台所に自ら出馬してそこをすっかり占領して、甲斐々々《かいがい》しく周囲に迷惑をおよぼしながら、ケーキを焼いたりジェリーを作ったりした。そして女中たちに言うことには、「明日は青山のお子さまたちがいらっしゃいますから……」そのお子さまたちは龍子が生んだ子にちがいないのだから、千代子はいつもふしぎな気持になった。それから戸《と》棚《だな》や冷蔵庫を開いたり閉じたりして念入りに調査し、上等の肉でもあれば自分の部屋へ持っていってしまい、やがて訪れる自分の子供らと親子水入らずで鋤焼《すきやき》をしたりした。そのくらいならまだいい。子供らが青山へ帰る際、彼女はやむにやまれぬ母性愛から、そこらにある果物や菓子やはては卵や魚の乾《ひ》物《もの》までを、片端から包んで箱に入れて大荷物にして持たせたがった。まさか彼女が松原の病院の隆盛をおもしろく思わず、せめて果物のいくらなりとも青山へ運んでやりたいと念じたわけではなかろうが、ときとすると青山の子供らが帰ったあと、洗いざらい何もかもが無くなってしまっていることがままあった。千代子が愉しみにしていた白桃の箱は空っぽであった。米国《よねくに》の農園でできた大量の梨《なし》も――これは小さくて酸《す》っぱかったが――姿を消していた。戸棚の中のチョコレートの箱まで見えなくなっていた。少し大形《おおぎょう》に言えば、あたかもジンギスカンの軍隊が進軍した跡のような風景といえた。そのため千代子は、ときにはこれと狙《ねら》いをつけた貰《もら》い物《もの》の果物籠《くだものかご》を、こそこそと自分たちの部屋に隠したりしなければならなかった。この家は欧洲と自分との家であるはずなのに、この有様はなんとしたことであろう。どうしてこんなに自分はまるで居候であるかのようにおずおずと小さくなっていなければならぬのか、そして当の居候の本人がどうしてああも晴々とずうずうしくこちらの領分を侵略してくるのか、千代子にはどうしても理解できなかった。
千代子が落着けるはずの茶の間の次の間も、往々龍子に占拠されてしまった。龍子は近ごろ謡《うたい》を習いだした。それは、そういう師匠の宅には良家の子女も多く集まることだし、将来峻一の嫁をさがす際にも好都合であるという、まことに早手まわしの計画でもあるらしかった。ときどき師匠が松原の家にも来宅したが、そういうときには龍子は下にもおかぬもてなしぶりで、女中たちの手は完全に奪われてしまった。しかし仕舞を習っている龍子はなかなか上達しないらしく、それが蔭で窺《うかが》っている千代子の唯一《ゆいいつ》の溜飲《りゅういん》の下げ口であった。唐紙《からかみ》ごしに師匠の声がする。
「そこはですな、前にお出になるときこうなさるのでまずいのです。……波風の水の……、ここは狭うございますがね、引かれて……ときて、左の足でおとめにならんから調子がわるいのです。こういうふうにく[#「く」に傍点]の字の形に退《さが》っていらっしゃって……いや、足はね、藁人《わらにん》形《ぎょう》の足を刻んだようにこういう具合に……」
そして師匠がやがて「おしも[#「おしも」に傍点]を拝借」とか言うと、そこへ案内するのは千代子の役目であった。
いや、そんなことくらいはまだいい。龍子がこの家ですっかり主人顔をして、下《した》っ端《ぱ》の千代子のことを直截《ちょくせつ》に仮借《かしゃく》なくあしざまに言っていることは確かなようであった。千代子には当初から彼女に同情し味方になってくれた女中が一人ついていて、その女中の口から、千代子はさまざまな自分に関する悪口を聞くことができた。彼女にはまだ子供ができなかったが、「子ができない嫁などは昔ならすぐ帰されたものですよ」とか、「欧洲には本来なら華族の娘でもなんでも貰えたのだが、お母様がお急ぎになったばっかりに」とか、「下町の商家の娘がきてからは、家のなかの言葉遣いが急に悪くなった」とか、――そのたびに千代子の胸は煮えくりかえったが、いくら口惜しくてもどうやら相手の方が強く手ごわそうで、せめて彼女はその女中とあれこれと龍子の言動についての蔭口をきいてうさを晴らした。二人は龍子のことをひそかに「お中《ちゅう》」と呼び捨てにして、「お中がね」「お中ったらね」と皮肉やら批判やらを何遍も何遍も繰返し言い、次にはその子供たちの欠点まで並べたてたりしていると、ようやく彼女の気持はいくらか晴れてくるのだった。――そのため千代子は、嫁入るまえ楡病院の職員たちから「人形のよう」と形容された、いかにもおとなしそうだったその千代子は、ずっと歳月が経《た》つうちに、親類の間でもちょっとした皮肉屋、小うるさく人のあらさがしをする女とまで言われるようになった。なるほど彼女は実に巧みにひと目見た他人の欠点を捜しだし、もっと巧みに芸術的にそれを表現することができるようになった。龍子という偉大な蔭の督励者のおかげでもって。
ところで肝腎《かんじん》の千代子の夫、欧洲は彼女の目にどう映じたのか。はじめ、十四歳も歳《とし》が違うせいもあって、また鷹揚《おうよう》に肥満した体《たい》躯《く》、さも面倒臭げに短く済ますその言葉からは、どうも茫漠《ぼうばく》としたその正体が掴《つか》み難《がた》かった。もちろん夫婦のことだ。日と共に夫の性格を彼女なりに理解はしてきたが、それでも千代子は、やはり夫の本当のところはわからない、心底は正体不明であるという印象から遁《のが》れることができなかった。なによりも夫はその年齢から推察して学生時代をあきれるほど悠々《ゆうゆう》と送ったらしいが、一体どのくらい落第したのか浪人を繰返したのか、その点を千代子は最後まで知らなかった。夫が学生時代の話を始めると、彼女はなにか悪いこと、不吉なことでも聞くかのように、慌《あわ》てて自分から話題をそらそうとしたものである。
少なくとも欧洲には、なまなましい欲望とか覇気《はき》とかがほとんど見られないことは確実であった。たとえば病院を更に大きくしようとか、基一郎のように積極的に次代の医者を養成しようとかいう意図は少しも起さなかった。彼自身が年齢とは別にまだほやほやの医師であることとは無関係に――事実、基一郎伝説のなかに生きる院代などにとって欧洲はやんごとない錦《にしき》の御《み》旗《はた》であったのだが――彼は自分の病院の業務に関係することを嫌った。そして松沢病院の一医局員として出勤して、早々と戻《もど》ってきてはテニスをやり、院代を嘆かしたことに、将来自分がこの病院を経営してゆくという意志を何時《いつ》になっても示さなかった。徹吉もこの義弟にすすめた。自分も忙しいから、時期がきたら松原の本院の院長を引継いでくれるようにと。だが欧洲はそのずんぐりした首を縦にふらなかった。ついに最後まで。
彼は七面倒で厄介な院長業などをする気にはなれなかった。自分自身の生活だけを大事にしたかった。幸い楡病院の苦闘時代には学生の身というのでうまうまと体をかわし、現在は正直にいって気楽で不自由ない身の上である。その家庭こそひさと龍子のために思う通りにならなかったものの、この責任から解除された気ままな身分は、おそらく永久に変ることなく続いてゆくであろう。性にあわぬ姉のふるまいを妻が訴えるとき、彼はわずかに顔をしかめた。といって、自分が腰をあげて解決に乗りだし、事を一層こんがらからせたりする気にはとてもなれなかった。せめて真平《まっぴら》御免な波風が立たぬよう、母親を鄭重にあつかい、院代の言うことにはただ頷《うなず》き、姉にも好き勝手にふるまわせて干渉はしなかった。そして彼は、重苦しい厄介な人生の実務には背を向けて、人生のもっと軽く明るい半面、すなわち自分の趣味に生きた。
「米国はおれなんかよりも金がたまるさ」とは言ったけれど、欧洲自身はもちろん最上の結構な身の上であった。万一彼が金を使いたいといえば、院代勝俣秀吉が、たとえ新しい借入金のことでむずかしい顔をしていたその瞬間に於《おい》てもほとんど相好《そうごう》を崩して、すぐさま欲しいだけの金を会計に命じてくれたからだ。しかし欧洲は、少なくとも千代子が嫁入った当時は、あまり金を使おうとしなかった。彼は料理が趣味で、手造りの料理で客を招いた。あちこちの板前やコックと知合となり友達づきあいをしたり、ホテルの支配人に頼んでその料理場を見学し、大きな銅の容器に――コック達は赤鍋《あかなべ》と呼んでいた――鳥の骨を見せてどろどろと煮つまっているデミグラスを覗《のぞ》いてみたり、特にコック長に言って大鍋に大量に作られているコンソメの味見をさせて貰《もら》ったりした。彼はそこばかりは自分の主張を押した広い台所で、自分でわざわざ買出しに行ってきた魚を器用に刺身にした。大根をあきれるほどすばやくかつらむき[#「かつらむき」に傍点]にして糸のように細く切ってつま[#「つま」に傍点]を作った。千代子のほうが食卓に坐《すわ》りきりで客と応対をし、台所に手伝いに行きたくとも夫のほうが遥《はる》かに料理にかけて自分より上《うわ》手《て》なので、彼女はまたしても取残されたようなもの寂しさを味わわねばならなかった。
しばらく経つと、欧洲はカクテルに凝りだした。自室の戸棚の中にさまざまな洋酒のびんを蒐《あつ》め、夕食まえの一刻、それを無造作に調合したりシェーカーをふったりして愉《たの》しんでいた。それからいくらか渋い顔をして、母親や姉も交えた夕食の席へ出むいていった。そのくせ彼は、自分たち夫婦だけが別に食事をとるというような手段、いささかなりとも波風の起りそうな目《もく》論見《ろみ》は決して立てようとしなかった。
更に月日が経って、彼ら夫婦の間にどうも子宝が恵まれそうにないとわかると――それはかなりのちの話になるが――欧洲ははじめて相当に贅沢《ぜいたく》で金のかかる趣味、狩猟をやりだした。何梃《なんちょう》もの猟銃、パーディとかリチャードとかいう英国製の銃を手に入れ、これに丹念に磨《みが》きをかけて壁に掛け、またぞろ手にとって撫でたり擦《さす》ったりすることは、千代子が眺《なが》めていてもずいぶんと愉しそうな、生涯《しょうがい》をかたむけるに足る事柄《ことがら》のように思えた。そして犬が飼われた。はじめはライ号、ついでライジングサン号とナイル号、純血の元気の満ち溢《あふ》れるポインターは、しょっちゅう小屋の金網を前肢《まえあし》でひっかき、長く尾をひいて鳴き立て吠《ほ》え立てた。それがまた龍子の居室に間近かったものだから、お中さまはひとしきり犬と欧洲について悪口を述べ、ひさも犬の鳴き声と関連して、「欧洲は嫁を貰ってから母親を大事にしなくなった」という感慨を洩《も》らした。欧洲は犬と銃こそ最上等のものを揃《そろ》えはしたが、それほど大した猟はやらなかった。せいぜい福島の雉猟区《きじりょうく》――これはもっとも容易な猟である――とか茨城《いばらき》の取手とか小田急沿線の鶴川《つるかわ》とか五日市とか伊豆とか、或《ある》いは近隣の川などに出かけるくらいのものであった。しかし、たずさえて帰った山鳥や雉や水鳥――その一羽ずつはきっとすこぶる高くついているにちがいないのだが――を長いあいだ応接間にぶらさげ、さりげない得意顔、しかしおそらく一国を征服してしまったほどの昂奮《こうふん》を内蔵した自慢顔をして客に示した。いくらかの覇気、いささかの欲望を欧洲が見せる、それはごくわずかな瞬間といえた。猪《いのしし》を射《う》つことが彼の念願で、毎年々々熱心な計画を立て、猟師たちと連絡もおさおさ怠りなかった。そして欧洲のそれにあてがう費用と日時からおして、猪なんぞ何頭でも訳もなくざわざわと撃てる筈であったのだが、いつもなにか途方もなく残念な、起り得る筈もない障碍《しょうがい》が生じ、つまるところ欧洲は生涯に一度も自ら撃った猪の獲物をぶらさげることができなかった。それでも彼は、その犬と銃の立派さ加減から、やがて世田谷区の猟友会会長に推されるようになったのである。
欧洲は能《あと》うかぎりこの世のややこしい現実面に背を向け、のびやかに屈託なげに客に手料理を食べさせ、猟の話をし、銃器を磨き愛《あい》撫《ぶ》し、溌剌《はつらつ》として斑《まだら》のある犬たちの頭を撫でてやった。彼は自分に与えられた恵まれた非生産的な日常を、自分の選んだ結構な趣味を、彼なりに大切に育《はぐく》んでいた。しかしそれは彼自身の人生の享楽《きょうらく》の仕方で、その妻は無視されたわけではないが結果はのけものにされ、仲間に加わって自分も愉しむというわけにはいかなかった。
だが、そんなことよりずっと先に、松原の家ではこれまで述べてきた挿《そう》話《わ》の集合よりもずっと重大な、千代子にも真剣な負担のかかる、しかもなるたけ暗黙のうちに隠密《おんみつ》裡《り》に処理しなければならぬ事件が起っていたのである。千代子にとって案に相違した新婚家庭のなかに、つけ加えて龍子が出現してますます彼女の心を暗くした頃《ころ》からいくらも経たぬうちに、そのあまり外聞のよくない事件はだしぬけに起った。
下北沢の借家に寡婦《かふ》として暮していた桃子が、一人息子の聡《さとる》を残して行方不明になったのである。前から欧洲はその末妹を好いていないにもかかわらず――千代子から見るとどうも楡家では親子兄弟姉妹のすべてが仲良くないようであった――この家にきて一緒に暮すようにすすめていた。桃子はそれを諾《うべな》わなかった。聡が小学校へ行きたがらず、従って別の月謝も高い私立の小学校へ入学させるときには相談にきた。そのほかは松原の家に滅多に寄りつかず、家の中も散らかし放題にしたまま、数匹のこれも気ままな猫《ねこ》と一緒に暮していた。そうなれば欧洲ももはや口を出さず、――桃子の生活費はひさの指図で病院の会計から出ていたにちがいないが――それ以上干渉もしなければ迷惑も蒙《こうむ》りたくないという意向のようであった。その桃子が突然にいなくなったのである。彼女が姿を消してから三日経って、まだ小娘の女中がおずおずと松原の家にその旨《むね》を伝えにきた。
そして、女が住んでいたとは思えないほど乱雑に散らかった家の中に、一通の書置が見つかった。その手紙は何時に似ずむっつりと渋面をつくった欧洲が破り捨ててしまったため、千代子は内容を知ることができなかったが、ともあれ、これほど苦虫を噛《か》んで噛んで噛みつぶしたような夫の顔を彼女は想像してみたこともなかった。常におっとりと、にぶいほど悠然としてなにより温厚な人と思っていたその欧洲は、さすがに声を荒らげたりはしなかった。その代り、傍《そば》にいてもはらはらするほどの、このうえない不機《ふき》嫌《げん》な渋面をつくり、こんなことを口の端《は》にのぼらせるのも厭《いや》で堪《たま》らぬというふうに、噛んで吐き捨てるように言った。
「あいつは男をつくったのだ」
それから、しばらく怕《こわ》いような沈黙をつづけたのち、
「聡はうちで引取らねばなるまい。これはまあ仕方がない」
最後に、欧洲はやや落着いてきて、それだけ聞きようによってはいっそう険しく立腹して、妻に語るともなく独白のように呟《つぶや》いた。
「あいつは、やはり楡家で一番の屑《くず》だ。屑の、ろくでなしだ。万一戻ってくるようなことがあっても、もう決してうちの門はくぐらせない。門のそばにも寄らせない」
しかし桃子は、戻ってきはしなかった。少なくとも欧洲と千代子の前には姿を現わすことはなかった。聡は松原の家に引取られ、一室を与えられ、半ば主人側の子、半ば召使いたちの子のようにして育った。まだ小学校四年生のくせに変にませて不良じみているように窺《うかが》われるその男の子、新しく代った小学校にもやはり行きたがらずずる休みをするこの聡を、恵まれぬ自分の子供代りに育てる気にはとてもなれず、そうかといって打っちゃっておくわけにもいかず、千代子はほとほと心を悩ました。
彼女がせっかく嫁入ってきたこの家、この楡という姓の家は、どうやら間違ってはいってきてしまった場所のように思われてならなかった。千代子はときどき矢も楯《たて》もたまらず実家へ帰りたくなり、そのたびに訳もない罪の意識に襲われながら、こわごわ姑に伺いを立てた。ひさはもとより常にそれを許した。しかしいつもわざとしたようなかなりの沈黙の末に、にこりともせず、能面のように感情を示さぬ顔の底から低くこう言うのだった。
「行ってきなさい。ゆっくり、行ってきなさるがよい」