北 杜夫
怪盗ジバコ
目 次
怪盗ジバコ
クイーン牢獄
猿のパイプ
女王のおしゃぶり
蚤  男
トプカピ宮殿
007号出撃す
ジバコの恋
怪盗ジバコ
怪盗ジバコの名前に関しては、百を越える異説があるので、それをここに一々詳説することはできない。
本名はもとよりわからない。その出生は秘密の帳《とばり》につつまれている。一体もともとは何国人であったのか、どのような肌のいろをし、どのような目のいろをしているかも判明していない。彼は変相の名手だったからである。
ともあれ、彼はサン・アルナウ伯と称していたこともある。アラ・ウド・デイン・キエルジの名を使っていたこともある。カルロ・ファネリ、ジョン・リン、ヤマシタ・ケンタロウ、ジェームス・エイローなどという聞いたことのあるような名とか平凡な名、或いはアジヤ・ブジバ・タルタルローなどという妙な名前を持っていたこともあった。
そのほか百の名に、渾名《あだな》、通称がゴマンとある。
わが国でも、各種の名で呼ばれているが、ここ十年来──いま、この文が書かれているのは一九××年だが──もっぱら怪盗ジバコと呼ばれている。
それがどこから由来したかにも各説があるが、その一つによるとこうである。
当時、わが日本にある方面のたいそうな権威である学者がいた。どのくらいの権威かというと、その方面の事柄については余人は一語も口をだすことができず、あまつさえ当の学者までひとことも口をきかないというほどの大学者であった。
彼は大学者であるから、むろんのこと奇人であり、変人であった。その一つは彼がケチなことである。大学者である彼のもとには、さまざまな文書が到来するが、毎日一通は、どこかの雑誌からのアンケートが来、また三通はなにかのパーティの通知がくる。アンケートは往復ハガキのことも多い。すると大学者はそれを切り離し、といって返事を出すわけでなく、それを私信のときに使うのである。だから彼が出すハガキは、新しく購入したものではなく、「東京都千代田区内幸町二の二 日本放送協会 管理局文書部行」などと印刷してあるのがペンで消され、そのわきに目ざす宛名が書いてある。パーティの返事のハガキも、決して出さず、みんなわが物にしてしまう。そのたびに彼はこう思うのだ。
「これで、五円もうけた」(当時、ハガキはまだ五円であった。)
アンケートが速達で、三十円の切手が貼られているときなどは、たいへんな御機嫌で、水に浮かして切手をはがし、みんな机の引出しにしまいこむ。
「これで、三十五円もうけた」
アンケートの返事を出せば、わるくいってタオル一本くらいの返礼があるものだが、なにしろ大学者であるから、そこまでは考えが及ばないのであった。
この大学者が、あるときひとつ小説をよんでやろうと考えた。彼は若いころ──十六歳のころまでは小説めいたものをよんだことがあるが、以来一切そのような無益な作り話に手をふれたことがない。それがどういう心境の変化か、ふと近頃の小説というものを一冊だけよんでみようと思いたった。どうせよむのなら最上級のものをと考え、あたかもパステルナークの「ドクトル・ジバゴ」という本がノーベル賞をもらうとかいうことを家人に聞いたもので、
「それだ、ドクトル・ジバゴ。なんとなく響きがいい」
と呟いた。
それから近所の小さな書店へわざわざ自身で買いに出かけた。本屋についてみると、いくらか背むしの、歯の黄いろい、うすぼけた老爺がただ一人店番をしていて、大学者の顔をみると、いきなり、
「ドクトル・|ジバコ《ヽヽヽ》ですね」
といった。
「そうだ、ドクトル・ジバゴだ。しかし、わしの買いにくる本がどうしてわかったね?」
「どうしてって、みんなが買いにきまさあ。ドクトル・ジバコは特売で、四割引きですからね」
「そうか、四割引きか」
大学者はニコニコし、老爺が棚から出してくれた本を見ると、なんだか薄っぺらで安っぽい本である。
「これがドクトル・ジバゴか」
「ドクトル・ジバコでさあ」
「なるほど、そう印刷してある。するとわしが名を覚え違えたか」
定価もたいそう安かった。それを四割引きで買った大学者は大満悦で自宅へ引返し、さてソファーに背をもたせてその本をひらいたのであるが、やがてその顔が妙に青くなり、ついで赤くなり、ダラダラと涎までたらしはじめた。
有体《ありてい》にいうと、その内容は徹底した春本であったのだ。しかも、地球上に現存するどんなそれよりも、あからさまで、どぎつく、煽情的で、もの凄いものであった。その一部をでもここに引用できるといいのだが、今はその本は日本警視庁の某室の大金庫の中に「秘」という印をベタベタ押されて門外不出である。
ともあれ、その内容が、ろくすっぽ小説をよんだことさえない大学者の心身に与えた影響は非常なものがある。彼は涎をたらし、そこらじゅうを這いまわり、うめき声をあげ、だしぬけに逆立ちしたりした。そのうち老妻におかしなふるまいをしようとして、したたか頬を叩かれ、雌の飼猫を追いかけてつんのめり、挙句の果てに、壁に掛けられたカレンダーの写真──そこには名勝の点景としてぽつんと小さく女性が写されていた──を抱いて、ふしぎなふるまいをなしたと伝えられるが、真偽のほどは定かではない。
翌朝には、大学者の精神神経系統の動乱は元に復した。のみならず、極めて立腹しはじめた。たちまち机に向うと、「ドクトル・ジバコを断罪す!」という激越な文章をかき、これを某新聞に投稿した。かかる破廉恥な、天をも地をも顧みざる、毒々しき醜悪なる小説が洛陽の紙価を高からしめ、ノーベル賞を受けるとはどういう罰当りの所業ぞや、という火をはくような一文である。彼は生れてはじめてその手紙を速達にし、机の引出しに大量に秘蔵してある三十円切手を三枚も貼ったと伝えられている。
この文章が発表されるや──大学者の文だから即座に載ったのだが──彼の立場は妙なものになってしまった。反論の投書が山積みされた。中には「題名さえもよみちがえている」というのもあった。困惑した大学者と新聞社の記者が、かの本を調べたところ、これが真赤なニセモノであることが判明した。さっそく警官同道でくだんの本屋に駈けつけてみると、老爺はいず、小首をかしげたおかみさんが、「そういえば、一度、そのような年寄りから道楽に店番をしたいからといって、お金をもらったことがある」とこたえた。
この事件は、実に曖昧モコとしているのであるが、世間の評判によると、おおむね次のように決まった。これこそかの怪盗──そのころまでわが国では彼は怪盗ドドンパと呼ばれていた──のしわざである。怪盗は、わざわざ「ドクトル・ジバコ」なる本を印刷し、自身であるか手下であるかはわからぬが本屋に手をまわし、高名なる大学者をからかったのである。
ここで首をかしげねばならぬのは、一体大学者が「ドクトル・ジバゴ」なる本をよもうと思いたったのをどうして探知したか、たとえ探知できてもその時間にインチキ本を印刷できたか、などの疑問である。しかし、世にマカ不思議なことがあれば、それはかの怪盗のしわざであると断定する風潮が、とうに世間には広まっていたのである。
なにしろ怪盗には不可能の文字がなかった。どんな大金庫でも赤子の手をねじるようにこじあけられた。こじあける? いや、怪盗が「ひらけジバコ!」と呪文を唱えると、どんな超合金の扉も暗号鍵の効もなくひらりとあく、と信ぜねばならぬ痕跡があった。
そのころから、怪盗は「怪盗ジバコ」と呼ばれだし、この名称は海をこえてかなりの普及力を有していたから、この文中でもその名を使用させて頂く。
怪盗ジバコは、過去に於て、一国の国家予算をこえる盗みを働いた。大きな犯罪を列記してゆけば、その中の六割は彼に関係するとさえ言われた。しかも、あらゆる国に於てである。世人に好奇の目をむきださせた英国の列車強盗にしろ、ニューヨーク博覧会の「暁の夜光虫」とよばれるダイヤモンドの盗難にしろ、いずれはジバコが裏であやつっているにちがいないと、大衆は信じた。
ギリシャの新聞にその名が報じられると思うと、次の日には台湾に出現した。途方もない南海の孤島でヤシの実を十箇盗ったと思うと、共産圏から金の延棒を運びだした。彼の手下は、あらゆる人種を含めて、千人ともいわれ、一万名ともいわれる。
怪盗ジバコの特色は、正体が絶対にわからないことである。彼は何国人にも化けられる。四十八を越える国語を自由にあやつるばかりでなく、大きな国のそれは方言まで意のままである。日本に於ては、東北弁、大阪弁、熊本弁を──もとより標準語はアナウンサーより明快である──巧みに使用したという報告がある。沖繩では宮古島の方言をしゃべり、本島人の年寄りとは会話が楽でなかった、とも伝えられている。過去、彼は八十六回逮捕されたと報告されたが、そのいずれもが別人であった。
ちかごろでは、警察も半ばあきらめて、ジバコと思われる男を逮捕しても、
「おまえは怪盗ジバコか?」
「残念でした。エヘヘヘ」
といわれると、「又か」というように肩をすくめて、そのまま釈放する始末である。
年齢もまったくわからない。三十になるかならぬかの若造だと主張する警部もいれば、いや、あれは影武者で、本人は足腰立たぬ老人だと言いはる記者もいる。その変相術は瞳孔のいろから骨格までを変えてしまうし、フランケンシュタインのような異形《いぎよう》の者から、絶えいるような美女にまで姿を変えるらしい。
また彼は飛行機の操縦から、ダイコンおろしのすり方、あらゆるスポーツに秀でている。格闘をやらせたらジェームズ・ボンドでも危いだろうとのもっぱらの評判だ。要するに、彼は超人なのである。
その超人ぶりにものをいわせ、ジバコは過去に於て、史上最大、最悪の盗みを働いた。彼によってつぶされた銀行は百三十八、彼によって総辞職した内閣は三つ、彼によって更迭《こうてつ》せしめられた警視総監はその数を知らぬ。
しかし、怪盗ジバコが途方もない金持になるにつれ、その盗みにはあこぎなところがなくなった。極めて余裕のある、むしろユーモアのあるものに化してきた。世間では、彼が金の捨場に困り、冗談で盗みを働いているのだ、と真顔で主張する人もいる。ときどき彼は、一万ドルを盗むのに、あきらかに十万ドルをかける、というやり口がほの見えるのだ。
この間も英国の片田舎の質屋へ盗みに入るのに、わざわざ地下道を掘り、とどのつまりは飼猫の食物を入れる小皿を一枚盗っていった。その皿が実はたいそうの骨董品なのではないかという警察の質問に対し、おやじはおろおろと言った。
「あれは絶対六ペンス以上の価値はありませんので。スーパー・マーケットで買ったばかりの品物で、へい」
なぜ怪盗ジバコのしわざであるかわかるかというと、彼は盗みの現場に一枚のカードを残してゆくからである。
そのカードには、
「無礼ながら盗みに入り申し候」
と、十何カ国語で記してあり、その下に世界各国で使われている彼の通称がおよそ五十ばかり印刷してあった。
このカードは金ぶちの、古代の王家の紋のごときすかしのはいっている上質の紙で、なかなか偽造もできなかった。従ってコレクターの間ではたいへんな高値を呼んでいて、怪盗ジバコに盗みに入られても、ちょっとした金額だとむしろ得になるというのが実状であった。
言うまでもなく、怪盗ジバコは各国の大衆の間で、隠然たる人気を有していた。オランダの女学校での人気投票で、女王が辛うじてジバコを二票凌駕した、というのが実状である。
従って、世界各国人は、怪盗ジバコが自分の国の人間であると主張してゆずらなかった。アメリカ人にいわせると、ああいう世界一のことをやるのはもちろんアメリカ人さ、ということであり、フランス人は、もちろんあんなエスプリのある仕事はフランス人に特有のものである、と言った。
わが国に於ても、怪盗ジバコは実は日本人であるという説が、ヨシツネとジンギスカンを結びつけるよりもずっと強力に信ぜられた。現に「怪盗ジバコの秘密」という新書判の本はベスト・セラーとなったが、その中ではジバコは私生児として大正八年に北海道の利尻島で生れていることになっている。
とある東京の下町の夕ぐれどき。
そこは地面の湿った露地で、人通りはほとんどなかった。ときどき、洗面器をかかえて風呂へ急ぐ男女の姿が見られるばかりである。
電車通りの方角から、一人の六歳くらいの男の子が、うつむきがちにとぼとぼとやってきた。ほころびかけたセーターに半ズボン、ちびた下駄を突っかけている。
近づいてきたのを見ると、その丸顔の顔が、なにかを懸命に堪えるようにゆがんでいる。そのまま十歩ばかり、つまずきながら歩く。と、その小さな体は、急に電柱にむかって走りだし、そのかげでしくしく泣きはじめた。これは人間というものがいかにか弱い存在であるかを証している。男の子が泣いたということより、電柱を求めたということが、である。大体、人間というものは、オシッコをするときも電柱を求める。自分はそうでないと信じる人でも、なんにもない原っぱの真中でオシッコをするとき、得もいえぬ頼りなさと空白感を覚えるだろう。
スエズ運河のサウジアラビア側は、文字どおり一木一草とてない、荒涼とした砂漠である。ただ、ある箇所に、自動車道路──本当は道路ではなく、その辺りを自動車が過ぎるということだけである──に沿って、ひとむらの灌木がある。この灌木のそばを通りかかると、どの自動車も必ずとまり、男どもがおりてゆき、灌木にむかってオシッコをする。オシッコのせいで灌木はとうに枯れてしまっている。だが、のべつぎらぎらと太陽のかがやく砂漠にあっては、オアシスと同じく、枯れた臭気のする灌木とて重要な存在なのである。
話がわきにそれたが、ともあれ男の子は、電柱のかげでシクシク泣いていた。涙にぼやけた視野に、おぼろな地面が映っている。自分の影が、道の反対側にある街燈の光をうけて、斜めに横たわっている。
と、その小さな影のわきに、もう一つの大入道のような、黒いうえにもかぐろい影が、ニュッと突きでてきた。
男の子は、ビクッとして、涙で一杯の目をあげる。
黒地のドスキンの背広を着た、背の高い紳士が、こちらを覗きこんでいた。
「坊や、どうしたね?」
と、その紳士が言った。
そう尋ねられると、男の子はまたひとしきりしゃくりあげた。それから、かぼそい、とぎれとぎれの声で言った。
「お菓子屋が……インチキ……したんだい」
「なんだって? お菓子屋が?」
「うん、あそこの角の店なの。とってもひどいおじさんがいるんだい」
「なんだって? ゆっくり説明してごらん」
男の子は言った。
「ぼく、風船ガムを買おうとした」
「うむ」
「風船ガムを一つとって、十円出した」
「ふむ、ふむ」
「だけど、おつりをくれなかった」
「風船ガムというのはいくらなんだね?」
と、紳士がゆっくり訊いた。
「五円」
「すると、五円のおつりだね」
「でも」
と、男の子は口惜しそうに唇を噛みしめた。
「あのおじさんはくれなかった」
「どうして?」
「ぼくが、はじめから、五円しか出さないというんだ」
「そりゃけしからんな。しかし、十円と五円じゃ、間違える筈ないだろう?」
「でも、そのとき客が何人もいたんだ。おじさんはジャラジャラ手に一杯お金をもってた。そん中から五円を見せて、ほれ、おまえの出したのはこいつだよ、って言った」
「五円損したわけか」
「そんだけじゃないよ」
と、男の子は唇をふるわせた。
「おじさんは、こうも言った。おまえが十円出す筈がないじゃないか、おまえはいつも五円なんだ、って。たしかにぼくはいつも五円もって風船ガムを買いにゆく。でも、今日は十円だったんだよ。ちゃんと十円もってたんだよ、それなのに……」
またもや、男の子の両眼に涙があふれそうになる。
「そうか、よしよし」
と、紳士は男の子の肩を叩いた。
「だが、君はそんなに風船ガムが好きなのかね?」
「だって、ぼくには風船ガムしかないんだよ。お父さんは死んじゃったし、お母さんはかまってくれないし……。風船ガムだけがぼくの生き甲斐なんだよ」
と、男の子はこまっちゃくれて言って、洟をすすりあげた。
「そうか、よしよし。可哀そうにな。うむ……よし、こうしよう。あしたお昼ごろ、ここに来られるかい?」
男の子はうなずいた。
「よろしい。おじさんがここで待っていてあげる。そして君に、ちょっとしたプレゼントをあげよう」
男の子は、こっくりとうなずいた。
それから目をあげてみると、黒服を着た紳士の姿はいつの間にか、かき消すように見えなくなっていた。
──その翌日の午《ひる》さがり、くだんの駄菓子屋の前でのことである。
駄菓子屋のおやじが店先に出てみると、そこの角に、一台のマイクロバスがとまるところであった。
「ふん、あんなところにとめやがって。目ざわりったらありゃしない。この通りも駐車禁止にすべきだ」
と、おやじは思ったが、もし彼が車を所有したとしたなら、その逆の観念を抱くことであろう。
と、見ているうちに、マイクロバスからぞろぞろと、およそ二十名に余る人数が降りてきた。
「ふん、修学旅行じゃあるまいし。一体なんの真似だ?」
と、おやじは思ったが、なお見ていると、大きなカメラが二台、三脚についたままかつぎだされてきた。なおレフレクターやら、組立椅子やら、こまごまとした附属物がかつぎだされてきた。
しかも、一番あとから、たいそう楚々とした二十歳くらいの美女が二人、足元を気にしながらおりてきた。
「ふーむ、こりゃ映画のロケかも知れないぞ」
と、おやじが思っているうちに、若い男が道に繩をはり、交通遮断をしてしまった。早くも、その繩の外に、弥次馬たちが集まりはじめた。
たちまちのうちにカメラがすえられ、そのうちの一台はぴたりと彼の店の正面をのぞく恰好になった。
「ウヒャ、ウヒャ」
と、おやじは思った。
「これはどうしたことだ。おれの店を背景にするつもりかな。それにしても女優をこうしてなまで見るのは初めてだ。やはり綺麗なもんだな。どうだい、あの足は。もっと近くへ来んかな」
すると、一人の女優が近づいてきて、それこそ彼の真ん前へ、一メートルとへだてられない地点で、ルージュを使いだした。
「ウヒャ、ウヒャ」
と、おやじは思った。
「これはおどろきだ。十メートル離れてるとあんなにきれいに見えたのが、こうそばに来られると、ドーランとつけ睫毛のオバケだな。いや、女は化けるものだ。といって、人間よりオバケのほうが好ましいことだって、やはりこの世にはある」
そのうちに、おやじは心の中ではたと膝を叩いた。
「映画というからには、どうせたいそうな金をかけるのだろう。おれの家を、ただで撮らしてやるという法はない」
そこで、おやじはさっそく表へ出て、そこにメガホンを持っている監督らしい鳥打帽の男をつかまえた。
「ああ、ちょいと、誰か責任者はいますかね?」
「責任者? 責任ならわたしがもちます」
「そんなら言うが、わたしの家を勝手に撮影されては困りますな」
「いけませんか?」
「断じていかんな。わたしはこういう真似はすかない」
「だって、宣伝になりますよ」
「そりゃデパートかなんかだったら宣伝にもなろうが、ごらんの通りの小さな店で、宣伝もクソもないですよ。それにライトが当ると品物も痛むだろうし、こう大ぜいで前を歩かれちゃ床だって……」
「そりゃ残念です。できたら、あなたに出演して貰おうと思ったのですが」
「出演?」
と言って、おやじの顔は妙なふうに歪んだ。
「出演料は出ますのかね?」
「そりゃあ大丈夫です。ご損はかけませんよ」
「だが、わたしがどんなことをやるんです?」
「なに、いつもの通りで結構です。そこに立って、子供に菓子を売っている……いや、あげているところです」
「あげるって、どういう訳かね?」
「なに、あなたは天使のような優しい役割を果すのですよ。貧乏な子供からはお金をとらず、どんどん菓子をやるってわけです。どうです、やってくれますか」
おやじは、自分の姿が銀幕に登場するさまを想像した。そこで、辛うじて笑顔になるのを堪えると、
「そりゃ、出演料と店の使用料をくれるなら、やらないことはないがね」
「それじゃ、さっそくやってください。あなたはそこに立つ。子供がきたら、気前よく、好きなものをどんどんやるんです。できるだけニコニコして」
アッという間もなかった。すでにカメラがジージーと廻りだしているらしい。おやじは、赤くなったり青くなったりして、固くなって立ちすくんでいる。
すると、なんだか見たことのあるような六歳ほどの男の子が、ばたばたと店へはいってきた。
片手を一つの箱の上にさしだすと、かぼそい声で、こう言った。
「おじさん、これください」
「ああ、いいともいいとも」
と、おやじはできるかぎり優しい声で言った。
「お金なんかいらないよ。もっととらないかい?」
「じゃ、もう少し」
と、男の子は五、六枚の風船ガムを取って、ポケットに入れた。
おやじがそっと窺うと、カメラはしきりにジージーいっている。そこでもう一度、とびきりの笑顔を作り、
「それっぽっちでいいのかい? もっとどっさりお取りよ」
「じゃあ」
と、男の子は十枚ほどのガムをポケットにつめこんだ。
「もっともっと」
「おじさん、有難う」
と、男の子は言って、また十枚ほどのガムを別のポケットにつめこんだ。
そんなことを繰返すうち、風船ガムの箱はすっかり空になってしまった。カメラはそれでもジージーいっている。おやじはそこで、普通のガム、チョコレート、キャラメルなどを男の子にやった。
もうポケットに入りきらなかった。両手に一杯あふれていた。男の子はそこで、ぴょこんとお辞儀をすると、外へ出ていってしまった。
と、外にいた大ぜいの男たちが、手早くカメラを片づけはじめた。女優はとうにバスに乗っている。男たちも電光石火のすばやさでバスに乗りこもうとする。
そこで慌てたのは、駄菓子屋のおやじである。
「おい、待ってくれ。君らはなんという映画会社なのだ。出演料と使用料とお菓子の代金は……」
そのとき、彼の背に固いものが触れた。ハッとしてふりむいてみると、ピストルの銃口である。さきほどの鳥打帽の監督が突きつけているのである。
おやじは叫ぼうとした。それより早く相手が言った。
「声を立てるな。わしの名は怪盗ジバコ」
それだけで、おやじの体は化石のように硬直してしまった。ジバコの名はそれほどの効果を有していたのである。
「警察には言うな。いいか、ここにカードを残していってやる。これを売ればお前はもうかるだろう」
おやじは辛うじてうなずいた。
「それから、さっきの男の子、あれがまた来たら親切にしてやれ。いいか、いつでもジバコの目が光っていることを忘れるな」
おやじはガタガタ震えながら、ようやっとうなずいた。そして目をあげると、ジバコの姿がマイクロバスの入口に消えるところであった。
ともあれ、風船ガムのいくらかをまきあげるのにさえ、怪盗ジバコはざっとこのような仰々しい手数を踏んだりするのである。
怪盗ジバコの犯罪は浜のマサゴよりも多いので、ここでは彼がいかに部下思いであるかを記すことにしよう。
一九六四年、トウキョウ・オリンピックは終った。それは見事な成功裡に幕を閉じた。ところがその後、オリンピックボケ、あるいはオリンピック妄想症というような症状がマンエンした。
ジバコの数多の子分のうち、日本人の部下の数多くが、このオリンピック妄想症にとりつかれた。つまり、あれほど声援したのに負けて口惜しい、なんとかして勝ってやりたい、今度のメキシコにはアッという大選手が現われぬものか、という思考をたどっていって、ついにはその大選手はほかならぬ自分である、という観念に到達する妄想病である。
あるやさ男のジバコの部下は、オリンピックのテレビのすべてを見たのであるが、なかんずく重量あげに魅せられてしまった。見るまえは、重量あげなんてバッカじゃなかろかと思っていたのだが、いざその競技の実況をつぶさに見、バーベルの重量が次々とあげられ、すべりどめの粉を手につけバンドをしめなおして、選手たちが無念無想の表情で精神を統一しているさま、ぐっとバーベルにとりつく瞬間、「あがりました、遂にあがりました!」というアナウンサーの昂奮が、彼の内部におしいり、頭に住みつき、とうとう自分をメキシコで重量あげに出場する選手であると思いこませてしまったのだ。
彼の好んで夢想するのは、次のような場面である。
彼はもちろんヘビイ級に出場する。おそらくフェザー級ではミヤケ選手がメキシコでも日章旗をあげてくれるだろうし、なんといっても「世界一の力持ち」はヘビイ級の勝者なのだ。
そして、いよいよメキシコで彼の出場の妄想場面となる。しかし、何時間という孤独の戦いは、憂色こいものがあった。プレスでは手がすべって、三位の成績にとどまった。得意のスナッチでは、ここぞという三回目の試技に、パンツの紐が切れ、不本意にも四位にとどまった。とうとう最後の雌雄を決するジャークである。だが、それはソ連選手たちの得意とする種目なのだ。日本の監督とコーチはすでに目を床に伏せている。
東京オリンピック二位のウラソフが二百十八・五キロを挙げた。トータルは五百七十四キロ、世界新記録である。だがそのすぐあと、前回の優勝者ジャボチンスキーが、二百十九・五キロに挑み、見事これに成功した。トータルで〇・五キロを上まわる。彼はコーチにかつがれ、満面に笑みをたたえて競技場を去った。すでに優勝は決定したも同様である。
「さて、残りました日本のカツマタ選手、どういう作戦をとりますか」
と、アナウンサーが言っている。
「ジャボチンスキーを上まわるには、二百三十キロを試みなければなりません。これは人間わざでは不可能でしょう。おそらく同じ二百十九・五キロを試み、三位入賞を狙うのではありますまいか」
だが、アナウンサーはすぐに昂奮して叫びだした。
「電光掲示板がつきました。二百三十キロ! ついにやります! やろうとしています! 敗れて悔なきその敢闘精神! カツマタ選手は玉砕を狙ったようです。祖国の皆さま、そのあくなき闘魂に拍手を送ってください!」
バーベルが新しく、途方もない重量に直された。彼は競技場へ、無数の観客の目のまえに姿を現わした。無造作にすべりどめの粉をまぶす。深呼吸をひとつ、ずかずかと歩みよってバーベルの手の位置を決める。
「ああ、これは無理だ、とてもあがるまい!」
と、アナウンサーはうめいた。
ぐいと手に堪えがたい重量がかかる。ナムサンボウ、えいと持ちあげる。反動を利して、神よ仏よ、そのまま頭上へ。
「あっ、あげました! 挙がりました! ついに奇蹟! 優勝、カツマタ選手、見事優勝であります!」
夢想がここまで及んだとき、──彼はそのとき食卓についていた──彼の妻が、ポイとなにかびん詰を渡した。
「その福神漬、あけてよ」
彼はびんを取り、なにげなく軽くあけようとした。ふたは動かない。満身の力をこめ、全筋肉をふるわしたが、やはり動かない。
妻が言った。
「なによ、開かないの? ちょっと貸して」
そして妻がエイと力をこめると、ふたはちゃんと動いたのだ。それ以来、彼、幻想のカツマタ選手は、ひどい自信喪失と自己嫌悪のとりことなり、怪盗ジバコの手下としても、ものの役に立たなくなってしまった。彼はある宝石店へ忍びこんだが、しかも宝石を盗るつもりではいりこんだのだが、サイダーの王冠を盗んできたりした。
こういう例はまだまだある。
もう一人の日本人の子分は、たぐい稀な水泳選手となった妄想を抱いた。かつての水泳日本の惨敗が、この妄想の基点となったのはもちろんである。彼は自由型の短距離選手として、メキシコ大会に出場する筈であった。
そして──彼の妄想の中では──その夢は実現された。彼の泳ぎは実にゆるやかである。少しもピッチをあげない。かるくゆるゆると優雅に手足を動かす。そのくせ先頭をゆく選手と二メートルとは離れぬまま、どこまでもぴったりとついてゆくのだった。あと十五メートルというところで、彼はがぜんピッチをあげる。手は扇風機の翼のように回転し、ほとんど目にもとまらない。そして、あと五メートルの白線のところで、易々と相手を追い越してしまうのであった。
彼は百メートルに優勝した。四百メートルでも優勝した。四百メートル・リレー、八百メートル・リレーでも最終泳者として優勝をさらった。最後のものなどは、彼がとびこんだとき、先頭をゆくアメリカの泳者との差は五十メートルあった。だが彼は、七百のターンから手の扇風機を開始し、奇蹟の逆転を為しとげたのである。アメリカ・チームの口惜しさ無念さは史上最大のもので、コーチのキッパス氏は口から泡を吹いてベッドにかつぎこまれた。
四つの金メダルを獲得すると、彼は監督に言った。
「千五百にもエントリーして下さい」
「だって無理だよそりゃ。君は四百以上泳いだことがないし、四十八歳という年だし……」
「でも、やらして下さい」
かくて彼は五つ目の金メダルを目ざしてとびこんだ。六百を過ぎると、呼吸が苦しい。ついてゆきさえすれば、必ず最後のスパートで追い抜けるのだが、しかし、あまりといえば苦しい。なに糞、日本のためだ、祖国のためだ……。
こうしてある日、新聞に次のような記事が出た。
「中年男、温泉プールで溺死。箱根小涌谷のK旅館の温泉プールに於て……云々」
──かような事件が相ついだので、怪盗ジバコはとうとう腰をあげて、部下たちの欲求不満を解消してやらねばならぬと考えた。
それは、彼自身がオリンピックに出場することである。
もとよりジバコは万能のスポーツマンであった。どんな種目であれ自信はあるし、なかんずく射撃なんてものに出て優勝しても、当然すぎて部下たちは少しも喜ばないであろう。
そこでジバコは、なんといっても大会の花、マラソンに出場することを決意した。
ところで、どこの国の選手として出場するかが問題である。日本国から出場すれば日本人の手下は大喜びだろうが、ジバコには国籍不明者という誇りがあった。そこで、東京オリンピックにはたった一名の選手を送ったチャドから出場することにした。日本からでなくても、われらが親分ジバコの出場ということになれば、子分のオリンピック妄想症はそれだけで癒ってしまうに違いない。──チャドには大学がなく、近くのセネガルの首都ダカールのフランス系大学に学ぶ者が多い。そこのチャド学生ブジジ・ブラブラーという青年は、なかなか駈けっこが早く、チャド国の大会などにも出場していたが、メキシコ・オリンピックの前年になって、人が変ったように好記録を出しはじめた。のみならず、一人でマラソンの距離を走り通し、その記録は二時間十二分三十秒であった。おまけにその記録をとったストップ・ウォッチは常々進みがちであったから、アベベの記録を破っているのではないかと推定された。
かくて、ブジジ・ブラブラー選手は、オリンピック選手としてメキシコに旅立つことになった。人々は、どうして彼が突然のように早くなったか首をかしげたが、もちろん競技の日には怪盗ジバコが入れ替っていたのである。ジバコの変相術は、顔の皺ひとつだって本物以上によく似ていた。
そのようにして、一九六八年のメキシコ大会は幕をひらいた。全世界から見物人が集まったが、怪盗ジバコの主だった子分たちも残らずやってきた。そして彼らのみが、チャドのブジジ・ブラブラー選手が実はわれらの親分であることを知っていた。
マラソンの日は、折悪しく小雨が降っていた。しかし、スタート附近に群れた百一人の選手たちは、小刻みに足を踏み動かしながら、すでにポッポと熱くなっていた。彼らの目標は、もちろんオリンピック三連覇を狙うエチオピアのアベベ選手である。
号砲一発、選手たちはそれぞれのペースでスタートしたが、やがてその一団の中から、黒い人かげが抜けだして、まるで百メートル競走のような速度でトップにおどりでた。
「あ、誰ですか、あれは?」
と、アナウンサーがかたわらの解説者に言った。
「待ってください。五十六番……ええと、チャドのブジジ・ブラブラー選手です」
「しかし無茶ですね、あんな走り方は。四十二キロ余という距離なんですからね。あれじゃすぐへばってしまうでしょう」
「チャドにはマラソンのコーチなんかいないでしょうからね。しかし、このスタートだけで、あの選手の名は新聞種になるでしょう」
選手たちは競技場を出た。最近のマラソンはおどろくべきハイペースではある。しかしブラブラー選手は、先頭に出てしまうと、次には四百メートル競走くらいのスピードで走り、次には八百メートル競走くらいのペースで進んだ。
三キロ、五キロ、そのスピードは一向に衰えない。八キロくらいになると、あとにつづく集団を遙か後方に離してしまった。
沿道には、ところどころに飲物や軽食などを用意した机が用意してある。ブラブラー選手は、そこで立ち止ると、──もちろんあらかじめ子分たちが手配したものだが──まず食前酒としてウォッカを一杯やった。次の箇所にくると、ポルトガル産のシャンペンをあけ、蒸した舌びらめをゆうゆうと食べはじめた。それだもので、後方の集団が次第に追いついてきた。ブラブラー選手はまた脱兎のごとく走りだし、かなり相手を離しておいて、折返し地点をまわった。
そこで彼は、一八四七年産のライン・ワインをあけ、血のしたたるようなビフテキを食べはじめた。そのため後続の選手団がふたたび追いついてきた。その中には日本のツブラヤやテラサワの姿も見える。
「どうもゆっくり食事もできんわい」
と呟いて、ブラブラー選手はたいそうなスピードで走りだした。
それでも、二十五キロ地点で彼は、アンチョビイをどっさり入れたミックス・サラダを食べ、三十キロのところでマンゴーにのせたアイスクリームを食べ、食後のリキュールを一杯やった。
それから葉巻に火をつけて走りだそうとしたが、雨が激しくなったので、沿道の観客から傘を一本借りうけ、それをさして走りだした。
そんなふうにたびたび時間を無駄にしたので、とうとう恐ろしい事態が起ってきた。後方に、顔もはっきり見わけられる距離に、彼と同じように黒い、哲人のような面もちをした超人アベベ選手の姿が現われたのである。アベベは自分のペースで走っていた。着実に、計算器のように、必勝を信じて。大きなストライドで、歩一歩と、ブラブラー選手に迫ってゆく。
ブラブラーは、傘を投げすてた。葉巻も投げすてた。今は懸命に走りだした。胃の腑が苦しい。ビフテキがもたれるのだ。
「松阪肉をと言っておいたのを、南米の肉を使いやがったな」
と、走りながら彼は思った。
ブラブラーは、今はあえいでいた。メキシコ・シティは空気が極度に稀薄である。彼の顔はゆがみ、足はひきつるように痛んだ。
アベベは何回かスパートして、ブラブラーを抜こうとした。が、まさに追いつかれんとする瞬間、ブラブラーはまたするすると前へ抜けだすのだった。こうして、両者のデッドヒートは競技場までつづいた。
競技場は割れんばかりの大歓声だった。両者が三メートルとは間をおかず、場内になだれこんできたからである。
「アベベ、追った! アベベ、追った! 追いついてゆく、三連勝なるか!」
と、アナウンサーは絶叫した。が、すぐに、
「ブラブラー、また離した。ブラブラー、なおリード」
実際、ブラブラーはあわや追いつかれたかと見えると、ふしぎにも掴みがたいドジョウのようにスルリと前へ出るのだった。
そのまま、ついにゴール。世紀の一戦は、無名のチャドの田舎選手、ブラブラーの上に輝いたのである。怪盗ジバコの子分たちの狂喜乱舞は想像にかたくない。
そのあとに行われた記者会見で、ブラブラー選手──実は怪盗ジバコは、わざと下手なフランス語で、どもりどもりこう言った。
「よくアベベに抜かれなかったって? なにね、あっしは、今まで、追っかけられて捕まったことが、ただの一度もないんでさあ」
クイーン牢獄
南太平洋には数知れぬ島が散在している。実際、地図をひらいてみるとゴマ粒のように島がある。その中から、たとえばタヒチ島とかクック諸島を見つけだすには、タバコを一本喫い終るほどの時間がかかるくらいだ。
オーストラリアの東に、かなり大きなニューカレドニア島がある。ニッケル鉱の産地として知られ、それを積みだす日本の貨物船が三日に一隻は訪れるという、わが国とも関係のふかい島だ。その更に東北方、日付変更線の辺りに、サモア諸島があって、その中の東サモアには日本のマグロ漁船の基地がある。そして、サモアとニューカレドニアとの真中辺りに、本篇の舞台であるフィジー諸島が存在する。
フィジー、かつての食人の本場、その原住民はポリネシアよりもメラネシア系で、頭髪はちぢれ、くちびるはぶ厚く、顔つきはごつい。体格はえらくいい。女性にしても、日本の力士にひけをとらぬ巨躯が見られる。たしかにフィジー人のそばによると、慣れぬ外来者は、今にも頭から塩をかけて食べられそうな錯覚を覚える。
しかし、現在のフィジー人は、その見かけに反して、すこぶるおだやかな、かなりおしゃれな、人の好い人種であることは間違いない。彼、あるいは彼女らは、そのちぢれた髪の毛を、日がな営々としてくしけずっている。そのために大きな木製の櫛が必需品となっている。山奥の部落の人たちまで、毎日のように泉で水をあびる。有体にいって、彼らは欧米人よりむしろ清潔といってもよい。
人が好い? ほんとうに人がいいのである。働くのはキライである。仕方なしに、働く。何日か食うに困らぬ金があれば、もう働こうとしない。なにより好きなのはビールである。のんびりと働いていくばくかの金を得ると、たいてい残らずビールを飲んでしまう。もともと彼らの酒はカヴァという木の根っこのしぼり汁であった。なにか事があればカヴァの宴というものが催されるが、正直にいってカヴァよりもビールのほうがうまい。近代のフィジー人はビールには目がない。それは、野豚の固い肉くらいを知っていた蛮人が、ハムとかソーセージとか和田金の肉とかを知ったのと同様であろう。
フィジー人は、それゆえ金さえあれば酒場へ行く。それも白人──フィジーはれっきとした英国の植民地だ──用のバーにははいれないから、公衆バーと指定されたバーへ飲みにゆく。一般にウイスキーを飲むことは許されない。フィジー人の中の特権階級──たとえば多額納税者──だけがウイスキーを飲めるライセンスを持っている。そして、一般のフィジー人は、正直のところわずかなビールを飲むだけで、すぐ一文なしになってしまう。彼らには計画性がないから、金があるだけ飲んでしまう。彼らは一応雀の涙ほどの税金を払う義務があるが、その税金分の金まで飲んでしまう連中がかなりいる。税金未納者は罰金だ。その罰金はむろん払えぬ。そうなると体刑となって、スヴァ市にある監獄へ入れられてしまう。
スヴァは、南太平洋最大の都市である。そこには数万トンの船がはいれる港もあれば、いくつかの百貨店もあれば、こぎれいな植物園もある。しかし、ここの名物はその監獄だ。スヴァ市の北の端にあって、土色の高い壁が蜿蜒と周囲をとりまいている。そのひどくいかめしい眺めは、大英帝国の植民地政策、威圧と権力の象徴といってもよい。正式の名前はスヴァ監獄というのだが、土地の者はクイーン監獄と呼んでいる。
フィジー全島の人口三十七万五千、うちインド人十八万五千、フィジー人十六万弱。インド人のほうが多いのだが、これは英国がインドから連れてきたインド人の子孫である。白人は約九千。フィジー人は自らの島でその主権を失っている。一番えらいのは白人、次がインド人、フィジー人は自分たちの島で最下層階級に甘んじている。
愚かだからか? お人好しだからか? ナマケモノだからか? それはいずれも確かなことだ。しかし、どんな人種にしろ、いつまでも同じ状態でいるとは限らない。
スヴァ市警察署長ウォルター・キッコーマン氏は昼食のため自宅へ戻った。
いつも彼は十一時半に警察を出、車で五分ほどの官舎へ帰り、昼食をとり、午後の三時近くになってやっと署へ戻る。これだけでは決して勤務怠慢ということにはならない。南方の生活では、たっぷりした昼寝の時間が絶対に必要であるからだ。店でも官庁でも銀行でも、おおむね昼をはさんだ二時間半は扉を閉ざしている。
といって、ウォルター・キッコーマン氏は一口にいって怠惰に日を送っていた。はるばる英国からこの南海の島へ赴任してからすでに五年経つ。ここの気候、風土、住んでいる人間の間では、まず三年が限度である。そのあと急速に人は南方ボケの現象を呈しだす。おまけにキッコーマン氏は、赴任当時、各地の部落へ行くとお定まりのカヴァの宴を催され、それを馬鹿正直にすすめられるままに飲んだため、いっそう頭脳がぼけてしまったところがあった。カヴァには阿片に似た麻痺作用がある。
それに加えて警察署長として腕のふるいようもない日常である。事件──英国でそう呼ばれるような事件はおよそない。フィジー人は温和で、まったくといってよいほど傷害事件を起さない。ただひそかにウイスキーを飲んで酔っぱらって町の並木をひっこぬき──彼らはとてつもない大力の持主である──クイーン監獄へ入れられるくらいのものだ。インド人とフィジー人の争いがいくらかある。観光客が盗難にあう事件がときにあるが、調べてみると犯人はいつも同じ観光客の中にまじっているのだった。島民は滅多に盗みをしない。これでは警察署長は居眠りをしていたほうがましだ。
ウォルター・キッコーマン氏はその日も自宅へ帰りつくと、ほどよく本国風にしつらえられた居間をちらと眺め、夫人にむかって、
「おまえ、海岸へ行ってきたね?」
「行きませんわ。なぜですの?」
「しかし、ここに落ちている黄色い砂は海岸の砂だ」
「お気の毒さま。それは、この鉢植の砂がこぼれたのですわ。これ、浜に咲く花ですの」
「そうか。……ふむ、客がきたな。男とはいわん。女の客だ」
「どうしてですの?」
「灰皿に喫いさしがある。ごらん、おまえの喫うタバコじゃない。フィジーのタバコだ。そして口紅がついている。誰かフィジー・タバコを喫う女がきたのだ」
夫人はおだやかにわらった。
「それもお気の毒さま。実はそれ、あたしのですの。あたし、フィジーのタバコは毛ぎらいしてましたが、今日タバコをきらしちゃって、召使いのをもらいましたの。あんがい軽くっておいしかったわ」
「そうか」
キッコーマン氏はかすかに眉をひそめ、大儀そうに食卓についた。
彼は毎日のように判で押したごとくかような推理をするのだ。実はそれはシャーロック・ホームズの真似なのである。ホームズは、いつも初対面の依頼人をひと目見て、その経歴とか最近の事件などを当ててしまうのだ。それにはホームズなりの観察があるのだが、その解釈はホームズ、あるいは作者のコナン・ドイルにあまりに都合よくできていることは争えない。そんな訳で、ウォルター・キッコーマン氏の場合は、いつもホームズの推理を真似て、それが全部が全部、ものの見事に間違ってしまうのであった。
キッコーマン氏は、ここ一年間、探偵小説ばっかり読んで暮している。彼の書斎にはポウからジェームズ・ボンドに至るありとある古今の探偵小説がぎっしりつまっているのだが、探偵小説なぞというものは、いやしくもれっきとした警察署長にとって有害無益ではないか? だが、それは他の文明国の話である。フィジー島の警察署長は、せめて探偵小説でもよんで頭を鍛えねば、ますますぼける一方なのだ。
しかし、ウォルター・キッコーマン氏が、数多の探偵小説によって怜悧になるどころか、いっそうへんなふうにぼけてしまったことは、以下の会話によって、だんだんと読者にもわかって頂けると思う。
彼はナプキンをひろげ、コーンのスープをいやにだらしなくすすった。ビールを三口のみ、現地産の固い肉を使ったビーフ・シチュウをいやいや口中に突っこみ、次にはビールを大量にのみ、ゲップをし、シャックリをした。人は彼の行儀のわるさを非難してはならない。ロンドン子がその意に反してフィジー島なんぞで五年間を過したことを考えてやらねばならない。それから彼は葉巻を喫った。
夫人が言った。
「あなた、なにか御心配事でもおありになるの?」
警察署長はギクッとした。彼のそれは当らないが、妻の推理はいつもよく当るのである。
「実はそうなんだ。だが、なぜだね?」
「なぜって、あたしはあなたの妻ですもの。それも二十年もそうですもの。そのくらいわかりますわ」
「ふむ、実はヤッカイな事が起った。おれが赴任してきてから、最大の事件といっていい。ふむ、おまえになら言ってもいいが、ラツ・ララ三世が帰ってくる」
「なんですか、土人の名ですか?」
「そうだ。土人《ネイテイブ》だ。フィジー人だ。だが、おまえも聞いたことがあるだろう。ラツ・ララといえば有名な大酋長だ。初代のラツ・ララがそもそも一八七四年にフィジーを英国にひきわたすサインをした酋長なのだ」
「そういえば、思いだしましたわ」
「そうだ。現在はラツ・ララ二世がコロラブの酋長をしている。だが、かなり落ちぶれて、観光客に槍踊りを見せてようやく食っている」
「それで、その三世というのは?」
「その息子だ。ケンブリッジを出て、ずっと英国にいた男だ。これが帰ってくると、ヤッカイなことが起りそうだ」
「どういうことです?」
「おまえも知っている通り、フィジー人とインド人は仲がわるい。しょっちゅうケンカしている。だが、それがそもそも我々の狙いなのだ。そのためにわざわざインド人をこんな遠くの島にまで移民させたのだ。インド人は土地を持たない。みんなフィジー人から借りて、椰子のプランテーションや米作をやって成功している。フィジー人にはその能力がないんだ。奴らはバカでナマケモノだからな。しかし、インド人のほうが金持になったので、ヤッカミの気持はもっている。本当はフィジー島をしぼって儲けているのはおれたち白人なんだが、奴らは白人をうらまない。代りにインド人をうらんでいる。インド人はフィジー人に対するわれわれの防波堤なんだよ」
「本当に、へんな民族主義なんてことが横行する世の中ですからね。西サモアみたいに独立する島まであるし……、大英帝国もおちおちしていられませんね」
「それなのだ。時代の波なのだ。バカなフィジー人もようやく民族なんてことを考えるようになった。つまらんことを考える奴らだ、実際。せいぜい女の尻かアメ玉のことを考えていればいいんだ。しかし、奴らの民族運動も対インド人感情のため、われわれの方向にエネルギーが向けられなかったのが実状だった。ところが最近、フィジー人とインド人を提携させて、白人にあたろうという大それた運動がある。その中心人物が英国にいるラツ・ララ三世なのだ」
「まあ」
「まずいことに、彼には人望がある。フィジー人の大立者もインド人の有力者も等しく彼を信頼しているところがある。もし彼が島に戻ってくれば、フィジー人とインド人は団結するだろう」
「おそろしいこと!」
「それで、われわれはちょっとした手段に出ることにした。ラツ・ララ三世がフィジーに着いたとたん、申訳ないが逮捕させてもらう。そしてクイーン監獄にぶちこんでしまう」
「そんな乱暴なことができますの?」
「英本国ではできぬが、ここではできる。なんとなれば、フィジーは大英帝国の植民地であるからな。植民地というものは、そもそも本国のために存在すべきものなのだ」
ウォルター・キッコーマン氏はそう叫ぶと、大きくゲップをして、ごくりとビールを飲んだ。
「そのことで、あなたは心配なさっていらしたの?」
「なに、ラツ・ララ三世のことなんか問題でない。彼の人相はわかっている。変装したとしたって素人のことだ。われわれの間抜けなフィジー人の部下にだって逮捕できる」
「では、なにが御心配ですの?」
「実はもう一つ情報がはいっているのだ。おどろいては困る」
と、ウォルター・キッコーマン氏はちょっと言葉を切って、おもむろに次の数語を言った。
「怪盗ジバコがこの島にくる」
「え、ジバコが?」
と、夫人もさっと色あおざめた。
怪盗ジバコ。楽々と一国の国家予算を越す盗みを働く史上最大の怪盗。数十の名と、数百の顔と姿をもち、絶対につかまらぬという怪盗。そのジバコがここへやってくるというのか?
「またジバコがなんのために?」
と、夫人は息をつめて問い返した。
「それはわからぬ。なにしろジバコって男は途方もない奴だからな。百万ポンドの列車強盗を働いた次の週に、どういうわけかロンドン塔でエロ写真なんか売っていたという噂だ。そうだ、この南太平洋にも一回きているぞ。たしかイースター島だったと思う、椰子の実三箇を盗んだ、と報告が出ている。なんだか訳のわからん奴だよ」
キッコーマン夫人は言った。
「それであなた、怪盗ジバコを捕えられますか?」
警察署長は口ひげをしごいて答えた。
「それは無理だ。スコットランド・ヤードやFBIが血眼になって追いまわしても捕まらない相手だもの。ソビエトや日本の警察だってお手をあげている。それをおまえ、このフィジーの警官が成功すると思うかね? たとえばスヴァの警察には白人は十人しかいない。あとはフィジー人だ。奴らがどれほどトンマで抜作《ぬけさく》で箸にもフォークにもかからぬものであるか、おまえだって知っているだろう」
「それはそうね。フィジー人の警察には無理ね。でもあなた、かりに、仮にですよ、もし万が一、怪盗ジバコを捕えることができたら、あなたは即日ロンドンの警察署長に抜擢されますわ」
「むろんのことだ。もしジバコを捕えることができれば。だが、敵はさるものなのだ」
「なにか手がかりはないの?」
「ジバコの人相かね? それがまったくないのだ。彼はおどろくべき変相の名手なのだ。たとえばここにロンドンの警察からの電報があるが、それによると、ジバコの特徴はちっとも掴めない」
「どういうのですの」
「ジバコに関して確実なのは手が二本、足も二本、というのだ。目玉、耳、鼻の数にも異常を認められず、とある」
「その電報を打った警官はよほどの低能ね」
「いや、それほどジバコの正体が不明であるという証拠なのだ。そのあとは、背は高からず低からず、目はパッチリと色白で……」
「もう沢山。それじゃ、なんにもわからないと同じだわ」
「だがね、おまえ」
と、ここでウォルター・キッコーマン警察署長はごくりと唾をのみこんだ。
「まんざらこれが無駄だとはわしは思わないのだ。わしはこれでも、数多くの探偵小説をよんで頭を鍛えてきたからな。そこら近所の間抜けな警部とは訳がちがう。ひょっとしてひょっとすると、ジバコを捕えることも決して不可能とはいえん」
「なにか手がかりがありますの?」
「つまりだな、怪盗ジバコともあろう怪賊は、ロンドン警察の電報がこちらにきていることを、おそらくもうちゃんと知っているだろうと思う。手は二本、足は二本、という内容もだ。するとジバコはどうするか? 彼は手が三本、足が四本くらいの人物となって現われるかもしれん。そこをすかさず捕まえてしまうのだ」
「でもねえ、あなた」
と、キッコーマン夫人はどこかもの悲しげに言った。
「いくら怪盗ジバコでも、足が四本になってはこないとあたしは思いますわ。あなたは探偵小説の読みすぎなのよ」
「うむ」
と、警察署長はしかつめらしくうなずいた。
「足が四本説はわしだって主張しはせん。こりゃおまえ、ジョークというものだよ。しかしあくまでも確実なのは、彼が絶対にわれわれにあやしまれぬ恰好で、やすやすと警戒線を突破してしまうことだ。多くの探偵小説がこのことを証明している。大体、怪盗などといわれる奴は、はっきり言って警察より利口なのだな。警察があやしいと睨む相手はなんでもない人間なのだ。この男はあやしくないと信じたそいつが、実は泥棒なのだ。あらゆる探偵小説によると、どうもそういう具合になっているようだ」
「それは確かね」
「そこでだ。われわれは、こいつはあやしいと思った相手は見のがすことにする。その反面、どこを叩いてもあやしくない人物がいたら、バッタのようにとびついて逮捕してしまう。どうだね、この方針は?」
夫人ははじめてほほえんだ。
「あなた、すてきだわ。ジバコもきっとひっかかるわよ。でも、もし捕えても、相手は脱走の名人じゃない?」
「その点は大丈夫だ。ここのクイーン監獄はね、二代目所長が閑にあかせて、絶対に脱獄できぬ秘密の部屋を作りあげた。この人もあらゆる探偵小説をよんだ人だから、どこにもヌカリはない筈だ。いくらジバコだって、そこに叩きこまれればグウの音も出まいよ」
「すばらしいわ、あなた」
「ふむ、考えてみるとこれは部下だけにはまかしてはおけん。船が着く日には港に、飛行機が着く日には空港に、わしがじきじき出張しようと思うのだ」
ウォルター・キッコーマン氏は、かつて大西洋をこえてアメリカに着いた船から降りてくるアルセーヌ・ルパンを、沢山の乗客の中から見事見つけだしたガニマール警部の眼力を、ふいに自分の体内にも感じたようにぶるぶると武者ぶるいをした。
スヴァ警察のフィジー人巡査の一人に、ウナ・ギメーシという二十五歳の青年がいた。
彼らフィジー人巡査はフィジー島の名物の一つでもある。その制服が一風変っているのだ。上着は紺だが、下半身は白色のギサギザのついたスカートなのだ。絵ハガキにも、観光パンフレットにも、この白いスカートをはいたお巡りさんの姿は必ず出てくる。
ウナ・ギメーシは、今までに上司に命じられてこうした写真のモデルになったことがある。背がすらりと高く、色は黒いが南洋ではなかなかの好男子であったからだ。勤務熱心で、仲間うちの評判もよい。もっとも生活は楽ではなかった。薄給の上に、すでに子供が五人もいる。いくら物価の安いフィジーでも、なかなか大変である。手柄を立てて昇給させてもらいたいのだが、あいにく事件といえる事件もない。
それどころか、逆に不幸な運命がウナ・ギメーシを襲った。
ある日の夜八時ころ、彼がスヴァ市の大通りの交通整理を終えて帰途に着いたとき、遙かむこうから凄じいスピードで突っ走ってくる車を見つけた。明らかにとてつもないスピード違反である。
そう認めた瞬間、ギメーシは通りに走りだして、大手をひろげていた。いくらなんでも無鉄砲な行為だが、それほど彼は職務に忠実なのであった。
車はハンドルを切って、けたたましい摩擦音を立て、舗道に乗りあげそうになって危うくとまった。ウナ・ギメーシは走り寄って、窓を叩いた。
それより早く、ドアがひらくと、けたたましい罵声がとんできた。白髪の白人の紳士が、目をいからせて、ギメーシに指を突きつけてわめいている。かなりきこしめしているらしく、アルコールの匂いがぷんぷんする。助手席には金髪の三十がらみの女が乗っている。
ギメーシは言った。
「スピード違反、それに酔っぱらい運転ですな」
白人の紳士はがなりたてた。
「なにを! こら、おまえはわしが見えんのか! わしを誰だと思う? スヴァ監獄所長だぞ!」
ウナ・ギメーシは監獄所長の顔を知らなかったが、知っていたとしてもおそらくきびしい態度をとったであろう。
「どなたであろうと、違反は違反です。警察まで来て頂きましょう」
ところが、ギメーシにとって不運なことに、酔っぱらい紳士は本物のクイーン監獄所長その人に間違いなかったことだ。白人の警部たちは青くなって、所長の前に平身低頭した。所長はなおも口汚なくわめきちらしながら、ふんぞりかえって車に乗りこむと、これ見よがしのスピードで走り去った。
この事件がこれだけに終らないのが、植民地フィジーの現状である。何日かすると、上役のフィジー人警部が弱りきった顔をしてウナ・ギメーシを呼びつけた。
「ギメーシ、弱ったことをしてくれたな。大体白人に手出しをするもんじゃないよ。おまけに相手はエラ物ときている。おまえの立場は極めて不利だ。ギメーシ、万一の場合の覚悟だけはしておいてくれ。われわれもできるかぎり努力はしてみるが」
こういう理不尽な言葉に対して、ギメーシはあきらめきったようにコックリをした。それが長年の間フィジー人のとってきた習性なのだ。
何日か経つと、彼はまた上役のところへ呼ばれた。
「ギメーシ、とても強い圧力がかかっているのだよ。おまえの首はまず絶望だ。ただひとつ、チャンスがある。おまえも薄々知っているかも知らんが、フィジーにはフィジー島始まって以来の秘密の警戒網がはられている。私はおまえをそれに参加させることにした。手柄を立てるんだよ、ギメーシ。それが千に一つ、おまえを救う道なのだ」
ウナ・ギメーシは、別室に連れていかれて、そこで白人の警部から、はじめて警戒網の全貌を聞かされた。
「ラツ・ララ三世が帰ってくるのだ。常識的に考えて、船で港にはいってくるか、ナンデイの空港におりるかだ。他に近海まで船できて、カヌーでどこかの海岸から上陸する手があるが、これはちょっと考えられん。ギメーシ、おまえはナンデイの空港へ行け。ラツ・ララ三世は変装しているかも知れんが、どうせ素人のことだ。おまえにだって見抜けるだろう。あちらに写真が揃えてある。よく研究しておけ」
「ラツ・ララ三世を見つけたら、どうするのですか?」
「逮捕するのだ」
「え、またどうして?」
「それが命令だ」
と、白人の警部はひややかに言いきった。
ウナ・ギメーシはラツ・ララ三世の評判をよく聞いていた。彼が島に戻ってきたら、そのときこそフィジー人は、これまでの屈辱の歴史を脱して、フィジー人のためのフィジー島を作りあげる日がくるであろうと、ギメーシも半ば夢のように信じていたものである。その民族の希望の主を逮捕しなければならぬのか? だが、それが職分とあらば致し方ない。
それほどギメーシたちは悲しいまでの従順さに馴らされてきたのである。
「もう一つ、これはおまえたちには荷が過ぎることだが、怪盗ジバコがこの島にくる」
「え、ジバコが?」
ギメーシとて怪盗の噂はよく知っていた。
「すでにジバコの手下どもが、かなりの数フィジー島に入りこんでいる情報がある。だが、親玉はこれからくるらしい。もし万が一、ジバコを発見できたらもちろん逮捕する。そうなったら、昇進は思うがままだ」
「なにかジバコの特徴でも?」
「それに関しては、キッコーマン署長じきじきの指令が出ている。いいか、少しでも疑わしい人物は、ほっておけ。逆に、どこからどこまで、これはジバコではないと思われる人物がいたら、うむを言わさずひっくくるのだ。彼には特徴なんてない。ただ、ジバコの用いるカードを持っている筈だ。これには、無礼ながら盗みに入り申し候、と印刷してあって、蒐集家の間でたいそうな高値を呼んでいるそうだ」
ウナ・ギメーシは、残念なことに探偵小説なぞ読んだことがないから、この疑わしい人物はほっておけという指令は理解しかねた。だが、フィジー人の悲しいまでの従順さがこう言わした。
「イエス、サー」
それからウナ・ギメーシはナンデイ空港にはりこむことになった。ここはスヴァ市から車で西へ六時間の位置にあって、一九六一年からジェット機が発着するようになった南太平洋最大の空港がある。もっとも国際便は週に三便だ。
タヒチ経由のハワイからの便が着く火曜日の午後二時、彼はいつものように空港の税関にはいっていった。そしてハッとした。そこにいるのは、民間人の姿をしているが、まぎれもない警察署長キッコーマン氏であったからだ。
署長は、巡査姿のギメーシを見ると、もったいぶって言った。
「いいか、あやしい奴は見のがせ。間違うのではないぞ。もっともおまえはラツ・ララ三世の発見に全力を尽すがよい。ジバコはおまえには無理だ。ジバコはわしが引受けるからな。今日はどちらかがこの空港に現われそうだぞ。なんだかそんな予感がする。それでわしはわざわざとんできたのだ」
そうこうしているうちに、時間通りにダグラスDC8ジェット旅客機が空の一角に現われ、つつがなく着陸した。空港ビルの手前まで滑走してくる。その機体が止り、やがて扉があくとタラップを踏んで乗客たちが降りてくる。約十名ほどの人数である。この旅客機はなおニューカレドニアへ飛ぶのである。
フィジー人は目がいい。なかんずくウナ・ギメーシは異常なほどの遠視がきいた。税関の窓から、タラップを降りてくる乗客の人相をじっと見て、あたかも双眼鏡で見るようにその詳細がはっきりとわかった。
一番あとから降りてくる長身の男、そのくろい顔を一目見て、ギメーシはハッとなった。ラツ・ララ三世ではないか。なるほど変装して眼鏡なぞかけている。しかし、ギメーシにはたしかに彼と直感できた。
ああ、こうなっては自分はラツ・ララ三世を逮捕せねばならぬのか。この手で、われわれフィジー人の救世主を? それはいやだ。といって、それが警官としての自分の義務なのだ。
もし、あの他の乗客の中に、怪盗ジバコがいたなら! 自分はラツ・ララをほっておいて、怪盗にとびかかることができる。そうすれば、警官の義務を裏切らずに済む。ああ、ジバコが本当にいてくれたら!
そうひそかに念じて、ウナ・ギメーシはもの狂おしいまなざしで、こちらに向って歩いてくる乗客たちを見やった。遙かに他の乗客を引離して急ぎ足でやってくる先頭の男、その男を見たとき彼はまたしてもハッとなった。
いかにもあやしいのである。徹頭徹尾あやしいのである。そのだぶだぶの服装といい、髭づらの顔つきといい、ギラリとむきだした目玉といい、この世にギャングと泥棒とスリとサギ師と山賊とを合せた存在があるとしたら、まさしくこの男なのだといわねばならぬ、いかがわしく兇悪な気配が充満していた。
ウナ・ギメーシは思わず一歩前に出た。
その見るからにあやしい男は一人だけ離れて空港のビルに近づいてきたので、署長もそのおどろしい姿に気づいたようであった。キッコーマン氏は口髭をひねって言った。
「おまえ、ああいうのは本当はあやしくないのだからな。だまされてはいかんぞ」
そのうちに、その見るからにあやしげな男は出入国管理の窓口を通って、早くも一人だけ税関の中にはいってきた。
そして、巡査姿のギメーシを見ると、ギクリとしたように目をそらした。ウナ・ギメーシはまた思わず一歩前に進んだ。
すると、署長キッコーマン氏がささやいた。
「落着け。あやしくない、あやしくない」
男はそそくさとギメーシの前を通りすぎようとして、だぶだぶの上着の前を合せようとしたが、その上着の下に、なにやら黒い金属が光るのをギメーシははっきりと認めた。それはピストルではないか。
「あ」
と心に叫んで、ギメーシは三たび一歩前に進んだ。
男はいよいよ慌てたふうにそれを隠そうとする。たちまちガシャンと音がして、床に一梃のワルサー型拳銃が落っこちた。男は大慌てで拾いあげる。ウナ・ギメーシは、今や男にとびつこうとした。
それを、探偵小説に関しては権威である警察署長が制した。
「あやしくない、あやしくない。ピストルなんぞ持ってるのは、あやしくない証拠だ」
むこうでは男が懸命にピストルを隠しに押しこもうとして身をよじると、今度は横腹のへんが奇妙に波立って、たちまちけたたましい響きと共に、床に機関銃が一梃落っこちた。
「心配ない。心配ない」
と、警察署長は呟いた。
「マシン・ガンなぞ持っているところは、ちっともあやしくない証拠……」
しかしウナ・ギメーシは根が単純な男である。あくまであやしい男のふるまいを見ては我慢がならなかった。彼は署長の制止をふりきって、パッと男にとびかかった。
二人はしばしもみあった。
「あ、これ、あやしくないというのに……」
と、警察署長は止めようとしたが、そのとき男のポケットにギメーシの手がかかってビリビリと破けるや、バラバラと床にちらばった白い紙片がある。
署長はさすがにそれを覗きこんだ。
「無礼ながら盗みに入り申し候」と十何カ国語で印刷され、更にジバコの各国に於ける通称がずらりと並んでいる、王家の紋章のごときすかしのはいった、まぎれもない世に名高きジバコのカードであった。
「やや、ジバコ!」
と、署長は大声を立てた。
「掴まえろ、ジバコだぞ!」
そのとき、男に組みついていたウナ・ギメーシは、アッと思う間にふわりと身体が浮いて、ズシンと床に投げだされていた。
しまったと、起上ろうとする。
その彼の目に、今しも四人ばかりの警官があやしい男めがけて組みつくのが映ったが、次の瞬間、四人が四人ともものの見事に投げとばされていた。
ウナ・ギメーシは確信した。こやつこそ本物のジバコなのだ。そうでなければ、かくまで水際だった腕前は持っていないだろう。よし、捕えずにおくものか。
警察署長キッコーマン氏がやっとピストルを取りだして、乱射した。しかし、ジバコはひらりと身を躍らせると、その姿は正面のドアから向こう側へ消えた。そのドアは空港ビルの外へ通じるのである。
ウナ・ギメーシが数歩遅れて外へとびだしてみると、横手の歩道に接して一台の空《から》のオープン・カーが駐車していて、ジバコが身軽に運転台へとび乗るところであった。
「待てえ!」
そう叫んだとて相手が待つ筈はないが、こうした場合一応そう叫んでみるものなのである。ウナ・ギメーシは追った。車はするすると辷《すべ》りだす。ギメーシは走りよりざま、とっさにその後部座席にとびのった。瞬間、ぐっと加速度がつき、ギメーシはよろけて後ろに倒れ、後頭部をどこかにぶつけた。意識が霞み、空港ビルの正面を凄じい勢いで通過しながら、そこへばらばらと走りでてきた署長や警官たちが、「車、車!」と叫んでいるのをチラと意識した。
どのくらい気が遠くなっていたかわからない。気づいてみると、空気がうなっていた。車は百キロを越す速度で突っ走っている。運転手席には、ジバコが背を丸めてハンドルを握っている。ウナ・ギメーシはあくまでも職務に忠実であった。
「おい、車をとめろ!」
と、風にまけぬ声で叫んだ。
ジバコは知らん顔をしている。ギメーシはカッとなった。太い黒い両手をのばし、ジバコの首をしめようとした。と、逆にその手首をぐっと掴まれた。瞬間、体じゅうの力が抜けてゆく感じがした。よほどの怪力か、或いはなにかの術で掴まれたとしか思えない。
「慌てるでない、お若いの」
と、ジバコは片手で運転しながら、微笑を含んで言った。
「騒がなくとも、私はもうすぐ掴まってやるよ」
ウナ・ギメーシにはその意味がわからなかったが、まもなくジバコは本当に車の速度をゆるめ、道端に停車すると、こう言った。
「手錠をもっているかね、ウナ・ギメーシ君」
「な、なんでおれの名を?」
「ジバコが知らぬことはない」
と、相手は言って、つるりと顔を撫でた。
すると、先ほどまでの見るからに兇悪な悪漢づらが消えて、親切そうな紳士の顔が現われた。
「これも私の本当の顔じゃないがね」
と、ジバコは言って、腕時計を見た。
「もうラツ・ララ三世は無事に脱出できたろう。じゃ、私の手に手錠をかけなさい、ウナ・ギメーシ君」
「なんだって? ラツ・ララとあんたは関係があるのか」
「べつにないね。しかし、あの人物を官憲に渡さないほうがいいと私は思ったのだ。思ったことは実行する主義でね、私は」
「それで……わざとあんたは掴まる気か」
「ちょっとした趣味でね。私を捕えたら、おそらく君の立場も安泰だろう」
ウナ・ギメーシはうなだれた。
「おれはあんたを掴まえることはできない。ジバコさん、フィジー人は信義というものを知っているつもりだ」
「なに、掴まえたまえよ。私は一向に困らない。なぜって、地球上のいかなる警察でも、このジバコを半日と捕えておくことはできないから」
「それは違う。あなたは知らないのだ。ここのクイーン監獄といえば……」
「しっ。早く手錠をかけろ。警察の車が追いついてきた」
それは本当だった。砂埃をあげてすっとんでくる自動車には、身を乗りだした署長の姿まで見える。ウナ・ギメーシは、今は致し方なく、言われるままに怪盗ジバコに手錠をかけた。
キッコーマン署長の昂奮ぶりはたいへんなものであった。
「でかした、ギメーシ。おまえは部長だ。即日昇進だ。そしてこのわしはロンドンの……。おい、運転手、ここでとめろ。この部落の教会には電話があったな。スヴァ警察に連絡しておこう。いや、わしがかける」
そして、キッコーマン氏は得意満面の体《てい》で電話をした。
「スヴァ警察? ああ、ホワイト・ピッグ君か。やったぞ、ついにやった、ジバコを捕えたのだ。本当だとも。しかし奴は逃走の名人だ。スヴァ監獄のとっておきの部屋に直接入れてしまおう。監獄に連絡しておいてくれ。なに、それはできない? どうしてできないのだ?」
キッコーマン氏の耳に、次のようなホワイト・ピッグ氏の声が伝わってきた。
「だって署長、監獄に入れようにも、クイーン監獄自体がなくなっちまったのですぜ。ええ、かれこれ一時間のうちに、建物から塀まですっかり消えちまったのです。おそらくジバコか、奴の手下が盗んじまったにちがいありません。あとの空地に、例のジバコのカードが落ちていましたからね。あの監獄がなくては、ジバコを一時間でも捕えておくことは、とても、とても……」
猿のパイプ
日本国作家、北杜夫氏は、京都山岳連カラコルム遠征隊に参加することに決り、心配と不安の情に、さまざまに変色しながら日を送っていた。
山では確実に大ナダレがくるだろう。彼はおし流され、あまつさえ身をささえるザイルは見事に切断されるであろう。また大落石が起り、彼はカエルのように圧しつぶされ、三本の虫歯だけが遺品として日本へ帰ることになろう。そう思うと北杜夫氏は、身も世もさらさらないほどで、夜は眠れず、どこかへ雲がくれしてしまいたいと思った。
しかし、そうはならない事情があった。北杜夫氏は賭博に凝って、全財産を失っていたからである。そして、カラコルム登山隊に参加し、山の小説をかくということで、出版社から前借に成功したのであるが、そのいきさつは次のようなものであった。
出版社では、北杜夫氏の借金の申し出に対し、始めからいい顔をしなかった。北杜夫氏ははじめ、一大大河小説をかく、と言った。
「ふんふん、といって、大体あなたの小説には女が出てこないのでねえ。それじゃ売れませんよ」
と、出版部長は言った。
「いや、女はかなり出してる筈ですよ」
と、北杜夫氏は主張した。
「だが、あなたの小説に出てくる女はたいてい八十歳以上か、さもなければ五歳以下だ。それじゃ男の読者の気をひくことはできませんよ」
「しかしですね」
と、北杜夫氏は主張した。
「この世には、そういう女性に興味をもつ男性もかなりいるんですがねえ。それに、僕は若い女性だってかなり登場させる予定です」
「といって、あなたの書く女性はやたら厚着してるんでねえ。この間は八枚も着物を着ている女だった。その前の女は六枚もズロースをはいておった。一体あなたは衣料会社と何かあるんですか」
「いや、僕自身が寒がりなんで。愛する作中人物を、とても痛々しくて寒い目にあわせたくないんですよ」
と、北杜夫氏は抗弁した。
「そんなことは理由にならんです。この前も、せっかく若い女が海で泳ぐと思ったら、なんとヨロイカブトを着ていた。一体この現代に、ヨロイカブトを身につけて泳ぐバカがいますか」
「あの女性は水泳の達人なんです。それでヨロイカブトをつけても泳げるという設定はぜひとも必要なのです」
と、北杜夫氏は抗弁した。
「大体、あなたの作中人物は裸にならん。それではダメですなあ」
と、相手はにべもなく言った。
「しかしですね」
と、北杜夫氏は主張した。
「僕は医者でもあるんですよ。女の裸なんぞは、そこらの作家の何十倍も見ていますよ。そして一般の小説に出てくるような見事なオッパイは、五百人に一人もいませんねえ。僕はリアリズムを信奉しますから、とても愛するわが作中人物に、貧弱なオッパイを出させるなんてことはできませんよ。僕はインターン時代に、五百の性器だって見ている。五百に一つ……」
「その五百の性器のことを書いてくれませんかねえ」
「ダメです。リアリズムを信奉すれば、大体あんなものはろくでもないものです」
「あなたはそういうことを言って、女性の読者をも失うんです。ところで、あなたはカラコルム登山隊に参加するそうじゃありませんか」
「ええ、まあ」
「それなら、あなたは山岳小説を書くべきです。そこに、女性の登山隊を登場させなさい。外国の登山隊には、女性のパーティもいくらもいる。べつにリアリズムに違反しないでしょう?」
「そうですね」
と、北杜夫氏は答えた。
「しかし私は、彼女らに十枚の毛糸のシャツと、ヤッケと、羽毛入りの高所服を着せてやろうと思います。なにしろ雪と氷の世界ですからね。そのくらい着せないことには……」
「けっこうです。いくらでも着せるが宜しい。しかし、山では大ナダレが起り得ますな?」
「それは起るでしょう」
「彼女らは大ナダレにまきこまれるのです。なにしろヒマラヤのナダレだ。二千メートルは流されるでしょう。その間に、衣服はみんなはがされてしまうことは必然です」
「みんなですか?」
「みんなです」
「しかし、下には十枚のシャツを着ているのですよ。いくらなんでも、二、三枚は残るでしょう」
「いや、なにしろヒマラヤのナダレですぞ。ブラジャーからパンティまでとれてしまうに決っている」
「だって、あなたはヒマラヤのナダレを見たことないじゃないですか」
「あなただって今は知らない。それをじっくり見てきて、リアリズム精神をもって女性登山隊の遭難を書けば、ほら、これをあげますよ」
と、出版部長は言って、一枚の小切手を差しだした。北杜夫氏は、いつものノロマさに似あわず、すばやくそれをひったくったが、部長はニヤリとして念をおした。
「必ず大ナダレに巻きこまれさせなくちゃいけませんぞ。それも超特大の大ナダレですぞ」
「承知しました。しかし、十枚のシャツがはがれるよりも、私は彼女らが雪ダルマになってしまって、結局なんにも見えないほうに賭けますね」
と北杜夫氏は言って、出版社をあとにした。
もっとも北杜夫氏は、心配と不安のうちにのみ日を送っていたわけではなかった。登山隊から彼の名刺がとどき、彼の氏名の下に、Member of All Kyoto Karakorum Expedition と印刷されていた。それを見ると北杜夫氏はすっかり得意になり、同様の名刺を新たに千枚作らせた。それから親類から知人、行きつけのバーなどをめぐって、名刺をくばって歩いた。それでも足りずに、町角に立って、通行人に名刺をくばった。
北杜夫氏が羽田を発ったのは、登山隊の本隊が発ってから半月のちのことであった。
機がとびたつと、北杜夫氏は水わり二杯とビール二本と日本酒二本を一遍に注文し、それをまぜあわせて飲みはじめた。それから、隣席をじろりと見ると、そこにはドイツ人のようでもありトルコ人のようでもありイタリア人のようでもありアルメニア人のようでもある、でっぷりと肥満した紳士が坐っていて、セブンアップとコカコーラとオレンジジュースをまぜあわせて飲んでいた。
北杜夫氏はいやしくも小説家である。見ず知らずの人間の職業、性格、その日常生活を空想してみるのが習慣であった。
「このでぶっちょは一体なんなのだろうなあ。商人でも大学教授でもウオノメ治しでもなさそうだなあ」
食事が持ってこられると、北杜夫氏はゴハンにジャムを塗り、水に塩を入れて食べはじめた。それからふと隣席を見ると、紳士は果物にミート・ソースを塗り、コーヒーにサラダのドレッシングをかけて食事をしていた。
「へんてこなことをするなあ」
と、北杜夫氏は考えた。
「こいつは一体全体、どこのどういう何者なのだろうなあ」
「何者でしょうかなあ」
と、急に紳士はこちらをむいて、流暢な日本語でそう言うと、人が好さそうにニコニコと笑った。それから葉巻と巻煙草を一本ずつ口にくわえて火をつけ、同時に嗅タバコを鼻の穴に突っこんだ。
北杜夫氏はすっかりびっくりしてしまって、口ごもった。
「いや、私も実はそう考えていたところで。あなたは実に興味ある人物です。実にすばらしい……」
「そう言って頂けると光栄です」
紳士はもったいぶって、ちょっと会釈をした。
「私は、こう見えても探険家なのですよ」
「ほほう、探険家!」
「そうです。世界のあらゆる秘境へ行っています。まだ南極へは行っておらぬが……」
北杜夫氏は、探険家とはすばらしい、自分もそういう名称に対し、かねてから憧れを抱いていたのだ、と述べた。
「そうです。しかし、私は言語学者でもある。百九十ほどの国語を知っておるし、その半分は母国語同様に話すことができます」
北杜夫氏は、それはすばらしいことだ、実は自分は母国語すらも正確に話せないので、自分のことを白痴ではないかと称する一部の人間もおり、かねてから悩んでいたのだ、と述べた。
「しかし、私は商人でもあります」
と、紳士はつづけた。
「世界の秘境から珍奇なものを持って帰る。ものによっては、数万倍の利益があがるものです。たとえば(と紳士は指にはめていた五カラットもあろう青ダイヤを示した)この原石はアダブ地方で私が拾ったものです。ロハですぞ」
北杜夫氏は、実は自分も一攫千金ということに情熱を抱いている、そのため賭博にも手を出したが逆の結果となってしまった、ときにそのアダブ地方というのはどこのことであろうか、と問うた。
「それは教えられませんな。私はこうしてあなたと知合になったばかりで、あなたの名も知らんわけですからな」
と、紳士は言った。
そこで北杜夫氏は、さっそく五十枚の名刺を取りだして紳士に渡した。紳士は平気な顔でそれを眺め、
「ほほう、カラコルムへ行かれるのですか」
北杜夫氏がうなずくと、紳士は言った。
「カラコルム、あそこは掘出物の宝庫といってもよいところです。私も三度ばかり行った」
「お言葉ですが、カラコルムは山があるばかりで、貧しい地方と聞いています。ダイヤが出たという話も聞かない。そんな掘出物なぞあるのですか?」
「あなた」
と、紳士は微笑した。いかにも人を信頼させるような微笑である。
「世間に知れていては、もう掘出物ではありません」
「なるほど」
「たとえば西パキスタンでは、ラウリピンディの郊外にタキシラという遺跡があります。ここでは、紀元前二世紀などといわれる仏像が出たりする。古い貨幣が出たりする。タワジンと呼ばれる古貨幣がありますが、これは現在の相場で、お国のお金で一枚が百六十万円ほどします」
「ほほう」
「私がむかし行ったころは、まだそれがあった。現に私は幾枚かそれを掘りだしたものです」
「ふむ、ふむ」
と、北杜夫氏は身を乗りだした。
「しかし、今はありゃしません。みんな掘りつくしてしまった。あなたがタキシラへ行けば、附近の住民が仏像の首だの古貨幣だのを売りつけようとするでしょう。首は百ルピー(一ルピーは七十円)貨幣は十ルピーくらいのものです。バカな観光客がそれを買います」
「贋物ですか」
「むろん、まがい物です。そこらで大量生産しています。だって考えてごらんなさい、紀元前二世紀の貨幣が七百円で買えるものですか」
「そりゃそうですな」
「まがい物は原価せいぜい十五円、本物は百六十万円、しかも持っておればどんどん値があがる」
「もう本物はないでしょうか」
「ないですな。最後の数枚を私が獲得してしまいましたからな」
紳士は言って、葉巻と巻煙草と嗅タバコをもう一服やった。
「こういうことは、探険家の素質と学者の眼力と商人の抜目なさがなければできません」
「ごもっともで」
と、北杜夫氏は感服して吐息をつき、羨しそうに尋ねた。
「もっとほかに、あの地方で価値のあるものはありませんか」
「さよう」
と、紳士は今度は巻煙草を鼻の穴に差し入れて喫いながら、
「普通の旅行者が買うものはカシミア絨毯でしょうな。といって、私に言わせればこんなものは無価値なものだ。カラコルムの奥地へ行けば、アイベックスとかマルコポーロという特殊な野性山羊がいます。山岳地帯に棲んでる奴ですな。この角《つの》はなかなか見事なものです。といって、せいぜい客間を飾るだけの代物ですな。おまけに日本の木造家屋では、あんな重いものをかけると壁がくずれるかも知れませんな」
「その、さきほどのタワジン貨幣のようなものは、まだほかにないですか」
と、北杜夫氏は口ごもりながら問うた。
「さよう」
と、紳士は口髭をひねって、
「ないこともない。それこそとびきりの代物です。といって、はじめてお会いするあなたに、私がそれをお教えする義務もないと思います」
「一々ごもっともで。しかし、こう考えたらいかがでしょう。こうして飛行機の座席に隣りあわせ、あなたは探険家であり、私もカラコルムの高峰にわけ入る者です。これはなにかの因縁でしょう。まして飛行機というものは危険なものです。このような空気より重いものが宙に浮くということがそもそも不合理です。いつ墜落するかもわからない。そうなったら鼻の頭をすりむいたではすまないわけです。いわば私たちは運命の神の手にあやつられているようなものだ。どうでしょう、遺言のつもりで、あなたのその秘密をお話になるわけにいかぬでしょうか」
と、北杜夫氏はいつにない雄弁をふるった。しかし、紳士は微笑した。
「あなた、探険家というものはいつも死の手に半分掴まれているものです。私は気球で空をとんだことがあるし、凧に掴まって飛んだこともある」
「ははあ」
「私はエンパイアステートビルからとびおりたこともありますぞ」
「なにかパラシュートでも」
「いいや、生身の体でですぞ。もっとも一階からだったが」
北杜夫氏はクシャミをし、それから言った。
「そうすると、あなたは教えたくないとおっしゃるわけですね」
「そうは言いませんぞ。私はあなたの飲みっぷり、つまりサケとビールとウイスキーをまぜこぜにして飲むところが気に入った。食事の仕方もなかなか個性がある」
「いや、あなたにはとてもかないません」
「それでじゃ」
と、紳士は今度は嗅タバコを耳の穴に入れ、次第に横柄な口調になりながら言った。
「私は特別にあなたに教えてあげよう。もっとも、いくら教えても、あなたはとても手に入れることはできないだろうがな」
「それで結構です。後学のためにぜひうかがいたいものです」
「あなたは、私がこうやって嗅タバコと巻煙草と葉巻をやっているのに、パイプをやらないのにお気づきかな?」
「そう言われれば」
「私はパイプを持っていないわけではない。ただ、それが特別のパイプであって、このような場所ではおいそれと人前に出せないからです」
紳士はそう言うと、エアバッグの中から、黒いいかめしい箱をとりだした。それは黒檀の箱で、三つばかり鍵がついていた。
「あなたに、特別に見せてあげよう」
紳士は別に鉄の小箱をとりだすと、懐中からとりだした鍵の一つで、それを開けた。すると、中にもう一つ小箱がはいっていた。紳士は別の鍵でそれを開けると、中に三つの鍵がはいっていた。それが黒檀の箱の鍵らしい。
「私はこの箱は常に身辺から離さないですぞ。どんな銀行の金庫に入れとくよりも、そのほうが気が休まりますからな」
と紳士は言った。
北杜夫氏はそのものものしさに、目を皿のようにして紳士の手元を注視した。
「この三つの鍵は、ふだんはむろん別々にしまってあるのですじゃ」
と紳士は言って、鍵を差しこんだ。
黒檀の箱が開いた。すると、内部はすっかり鉄で作られていることがわかった。真紅のビロードをめくると、真青の綿があり、それをめくると藤色の絹があり、それをめくると安っぽい鼻紙の包みが現われた。
さらにそれをとると、──そこには一つのパイプがあった。
それはいかなるパイプであったろうか。いかなるパイプにも似ていなかった。どうやらパイプであると見わけられるだけで、白木を小学生がけずったような、すこぶる原始的なものであった。一口にいって、ゲップとシャックリを同時にもよおさせるシロモノであった。
「これが、その特別なパイプですか?」
と、北杜夫氏は失望して尋ねた。
「あなた」
と、紳士はあくまでも生真面目に、ほとんど厳かに言った。
「これが世にいうギルギットのパイプ、或いは猿のパイプといわれるものです。これがどのくらいの価値があるか、大英博物館はこれと同じ容量のダイヤの値をつけたが、私はそれでは手放したくなかったですな」
「この、このパイプにですか?」
と、北杜夫氏はあっけにとられて訊き返した。
「なぜって、これは尋常のパイプではないのです。奇蹟が行われなくてはこれが世に生れることはない。なにせ、猿が作るパイプですからな」
「猿がパイプを作る?」
「それも偶然にですじゃ。あなたねえ、ギルギット地方から北を、ギルギット河、やがてはフンザ河が流れています」
「知っています。私が行くのもその地方です」
「これは滔々たる濁流だ。雪溶けの水で、落ちたら最後凍え死んでしまいます。この岸辺から流れの上に、スベルカッチャと呼ばれる巨木が突きだしていることがある。必ず流れの上に突きだすのが特徴だ」
「なるほど」
「スベルカッチャは、何十年に一度しか花をつけない。花をつけると実がなる。ヒョウタン型の実です。これを猿がきて食べる。なにしろそんな流れの上に斜めに出ているから、猿でもないかぎり到達できないわけだ。実は柔かいが、その種子は固く、妙な形をしておる。すなわち、このパイプの形です。猿が実を食べ、しかも偶然にうまく芯だけ残すと、このギルギットのパイプが残るというわけですじゃ」
「ふむ、ふむ」
と、北杜夫氏はうなった。
「それは珍しい話です。しかし、その実がなった年には、かなりの数のパイプができてよい筈ですが」
「ところが、スベルカッチャの実には強力な麻痺作用があってな。それを食べる途中で猿が中毒してしまって、バッタバッタと河の中に落ちこむのですじゃ。たまたま毒に強い猿がいて、はじめて芯のところまで食べられるのです」
「ふうむ」
と、北杜夫氏はすっかり引き込まれて、
「それならなんとか人間がその実をとってきて……」
「それもダメですぞ。猿の唾液が塗られて、はじめてパイプは光沢も出るし、形が永久に残るのです。人間が果実から芯をとりだしても、やがてグズグズにくずれてしまうのですじゃ。まあこのパイプができるのは千億に一つのかねあいだし、ましてそれを手に入れるのは奇蹟以外の何者でもないのです」
紳士は話し終ると、パイプの箱に厳重に鍵をかけだした。その煩雑な手続きが終ると、紳士は言った。
「わたしは香港でおりますですじゃ。では、ごきげんよう」
北杜夫氏はカラチで不機嫌な日を送った。ホテルにはいると、用もないボーイまで五人も荷物にとっついてきて、なかなか部屋から出て行かず、あっちをバタバタやったり、こちらで鏡に自分の顔を映してみたり、トイレの水具合を試したり、ベッドの下を覗きこんだりした。
北杜夫氏は腹を立てて怒鳴った。
「なんだ、おまえら、五人も突っ立ったりうろついたりしても、チップはやらんぞ。一人になったらやる。それまでコーンリンザイ、チップはやりませんよう」
それがまたもの凄い英語であったので、彼らにはチップという単語しか伝わらなかったらしい。たちまちボーイの数は十人にふえ、こちらでベッドの毛布をはたけば、あちらでは窓を開けたり閉めたりし、一人のボーイは机の上をふきはじめた。
「何をやっても無駄だぞ。まあ、たんと騒ぐだけ騒ぐがよい」
北杜夫氏はふてくされたようにベッドにころがった。すると一人が枕をもっていってしまい、一人がバネの調子を試そうとギコギコやり、一人はなんとベッドを分解しはじめた。
「もういい、もういい、さあチップでも何でも持ってゆけ」
北杜夫氏が降参して小銭を出すと、十五本ばかりの手がさっとのびて、彼の掌からあるだけの小銭をさらい、あれだけいた人員が一秒間で部屋から消え失せた。
あとには枕もなければ毛布もない、屑籠もなければ魔法びんの水もないというテイタラクで、北杜夫氏は憮然として呟いた。
「これでは、ホテルの中にテントをはらねばならんなあ」
それにしても冷房が利きすぎるので、北杜夫氏は調節をしようとした。旧式の把手みたいなのがついており、それを動かそうとすると、ボロリと把手がとれた。同時に、冷房器からは地獄よりも冷い空気がシューシューとほとばしりはじめ、寒いのなんのって、カラコルムの氷と雪の高山でもこれほどではあるまいと思われた。
北杜夫氏は慌てて電話をかけて、ボーイを呼んだ。すると、またしても一連隊ほどのボーイが駈けつけ、冷房器をガシャガシャやり、とれた把手を前にして鳩首会議をひらいた末、「これはもうなおりましぇーん」と言った。
「なおらんといって、なんとかしてくれ。このままでは凍え死んでしまう」
北杜夫氏はやけになって紙幣をちらつかせた。するとボーイたちはそれを奪いとるや活動を開始し、二箇の電気ストーブと三箇の石油ストーブをかつぎこんできた。
その夜、北杜夫氏は片方からは寒風をあび、片方からは熱気をあび、翌朝になると猩紅熱と肺炎とオタフク風邪をいっぺんにひきこんだような気分がした。彼は狼狽して体温計を脇の下にはさんだ。それも念のため、二本の体温計を両脇にはさんだ。すると片側の体温計は四十一度八分を示し、もう一方のそれは零下三度を示していた。
「こいつはたまらん」
と、北杜夫氏は独語した。
「パキスタン一の大都会でこの有様じゃあ、カラコルムへ行ったらどうなることやら」
しかし、やがて気を取り直して、こうも独語した。
「いや、それでこそ秘境なのだ。それでこそスベルカッチャの実もなるし、猿のパイプもできるのだ」
三日後、彼は空路をとび、首都ラウリピンディに着いた。そこから、カラコルムへの入口であるギルギットまでの航空路がある。といって、それは高山の谷間を縫って飛ぶので、少しでも雲が出ると欠航になる。北杜夫氏は何日も待たされ、悪態をつきながらバザールなどを見物して日を過した。
ある日彼は、露地の奥をずっと進んでいって、軒の傾いた石造りの店のつづく、いかにもあやしげな地域に辿りついた。辺りは油の臭い、馬糞の臭いに満ちている。うす汚ない風体《ふうてい》の男たちが、所在なげに膝をかかえて路上にうずくまっている。
と、入口を毒々しい緑のペンキで塗りたてた、うさん臭い土産物屋らしい店が目についた。どこがどうとは言えぬが、いかにもうさん臭いのである。北杜夫氏は呟いた。
「うむ、おれの第六感によれば、これは麻薬か密輸の巣窟か、もしそうでないとしたら、そうではないな。ともかくはいってみよう」
入口をくぐると、頤鬚を生やした目の鋭い、ステテコの親分のようなシャルワールと呼ぶ白い広いズボンをはいた中年の男が、じろりとこちらを見る。しかし、北杜夫氏の旅行者らしい身なりを見ると、慌ててもみ手をして愛想笑いをした。
「おお、シナの大人ですな」
「ちがう、ちがう」
「では、ビルマ人か?」
「うんにゃ、インド人だ」
北杜夫氏は腹を立ててそう答えた。とたんに、気づいてみると、彼は店の外に突き出されていた。北杜夫氏はようやくパキスタンとインドとがたいそう仲がわるいことに気がつき、「おれは日本人だあ」とわめきたてた。とたんに、彼はまた店の中に電光のように引きこまれ、気づいてみると、キツネだのタヌキだのモモンガアだのの毛皮の山に埋まっていた。男は言った。
「これ買いなさい。この狐、ただの四十ルピー」
「いらん、いらん」
「ではこの雪ヒョウ、ただの八十ルピー、あなた得するよ」
「いらんたら」
「ではこのアイベックスの角、すばらしいよ、ただの百ルピー」
「いらん、いらん、絶対にいらん」
と、北杜夫氏は飛行機の中のでっぷりとした紳士の言葉を思いだしながら言った。
「ではねえ、あなた、すばらしいもの見せるよ。ほら、これ。これタワジン貨幣といってね、タキシラという遺跡から出た紀元前のもの、これただの三百ルピー、あなた得するよ」
「そんなまがい物買うなら首を吊ったほうがマシだ」
と北杜夫氏は呟いたが、ふと思いついてこう言った。
「せめてギルギットのパイプでもあればねえ」
すると、男の顔色が変った。見ていて気味がわるくなるほどの変りようであった。あえぐようにこう言った。
「なんだって、ギルギットのパイプ?」
北杜夫氏は事態がどういうことか理解できなかったが、
「そう、あるいは猿のパイプともいう」
男はあえいだ。
「サ、猿のパイプ! どうしてあなたはそんなことを知っているのだ?」
北杜夫氏はいささか気味がわるくなったが、自分は何を隠そう日本の遠征隊の一員であること、珍奇な猿のパイプとやらを発見するのが目的である、といかめしく返答した。
すると、男の顔色がまた変った。声を低めて、
「あなた、悪いことをいわんから、そんなことはやめなさい。あれは決して手にはいるものじゃない」
「どうしてだね、やめろと言われればなおやりたくなるのが人情だよ」
「まあ、黙ってこちらにお出でなさい」
男は北杜夫氏をひっぱって、背後の扉をおし、薄暗い一室に連れこんだ。むっと異臭のする部屋である。片隅のベッドに、七十歳はとうに越しているであろう老人が、痩せこけて、乾からびて横になっていた。色のわるい唇を蠅が這っていた。
「私の父です」
と、男は低い声で言った。
「猿のパイプに憑かれて、四十年間を棒にふった男です。彼はもとナガールの王族の出だった。それが幻のような猿のパイプを追いかけて、とうとう家は没落し、このようなしがない店でほそぼそと暮すようになってしまった。父はもうお終いです」
ひとしきり黙ってから、
「まだうわごとに猿のパイプのことを言っている。気の毒なものです。もっとも考えようによっては無理はない。あのパイプには一国の富以上のものがあるのだから……」
最後の文句は、呟きのように淀んだむし暑い大気の中へ消えた。
──二日後、幸いに飛行機がとんで、北杜夫氏はギルギットに到着した。ここはかなりひらけた村落で、しゃれたレストハウスがある。村人たちがレストハウスに土産物を売りにくる。しかし、北杜夫氏は猿のパイプのことは口に出さなかった。どうせこのようにひらけた場所では入手は不可能と考えられたし、内心あきらめてもいたのである。猿のパイプという奴は、よほどの奇蹟でもないかぎり存在しないものらしい。
ともあれ、先行している登山隊に追いつかねばならぬ。そこで彼はジープをやとったが、ギルギットから先の道は、体じゅうにジンマシンが出るほどあやうい、千仞の絶壁の上をたどってゆく難路であった。遙か下方には泥色に濁りきった奔流が渦を巻いている。
おまけにひどいボロ・ジープであった。急坂に差しかかると四輪運転となるが、ギアを入れかえるたびに、ガリガリガリと凄じい音がする。ラジエーターは沸騰し、シュウシュウと鯨のように湯気をふく。振動のたびに車体はバラバラになりそうな不気味なきしりをあげる。
「いやあ、これは生命が五つほどなければとてもたまらん」
と、北杜夫氏は助手席にしがみつきながら叫んだ。
「五つくらいじゃダメですぜ」
と、フンザ帽をかぶった運転手がにやりとして言った。
「大体この道では二カ月に一回、ジープが墜落するんですが、どういうわけか、ここ四カ月、一回も事故がない。どうも悪い予感がしますよ」
「ゆっくり行きたまえ、ゆっくり」
「それがこのジープめが、アクセルを踏むとスピードが落ち、ブレーキを踏むと突っ走ったりするへんてこな奴でね」
そのうちに、どこかでボウーンというおどろしい音響がとどろくと、黒煙がもうもうと噴きだし、運転手と北杜夫氏は慌てて車をころがりおりた。
「どうしたんだ、え?」
「連結器とバッテリーとキャブレターとファンをいかれたようです、タイヤが三つダメになったし、ガソリンもないようですなあ」
「どうなるんだ、一体?」
「ここを通りかかるジープから、少しずつ部品を貰うんでさあ。三日に一遍ジープがくるから、鋲一本ずつ貰っても、何カ月か経ったら……」
「冗談でないぞ、おい」
北杜夫氏は心細そうに周囲を見まわした。辺りは荒涼とした岩山である。すぐ下には濁流が流れている。
と、その濁流の上に、一本の巨木のようなものが、斜めに岸から突き出しているのを彼は認めた。
「おい、あの木はなんというのだ?」
と、北杜夫氏は期待に胸をふるわせながら尋ねた。
「へえ、あれですか。土地の者はスベルカッチャとか呼んでいますが……」
「スベルカッチャ! して、あれはどういう木だね」
と、北杜夫氏はとどろく胸をおさえて、無理に何食わぬ顔をして尋ねた。
「どういう木って、あまりない木ですがねえ。そうそう、去年のことだったが、あれに花が咲いて一杯実がなりましたよ」
「実がなった? 去年?」
「滅多にそんなことはないそうだがね。あっしもそんな光景を見たのは始めてでさあ」
「ふむ、それでなにか、もっと変った現象が起らんかね?」
「そう言われれば、猿があれに集まるんですよ。この辺りには滅多に猿がいないんだが、どういうものか、どっからともなく集まってくるんでさあ。猟師がそれを射ちにきますよ」
「ふむ、猟師がね」
と、北杜夫氏はゴクリと唾をのみこんで言った。
「それで何かい、その猟師は猿を射つだけで、ほかに目的はないのかい?」
「ほかにと言いますと?」
「たとえばスベルカッチャの実を集めるとか……」
「猟師は猟師でさあ。でも、ふしぎな言い伝えがありますよ。その実が猿にかじられて、パイプそっくりになるというような。そのパイプを手に入れると、無病息災になるとね」
「ほほう、して、そのパイプを手に入れた者はいるのかね」
「なあに、言い伝えですよ。あっしの爺さまのころの言い伝えですよ」
してみると、この運転手は猿のパイプの本当の価値は知らないのだな、と北杜夫氏は思った。そのほうが好都合だ。去年スベルカッチャの実がなったのが事実なら、ひょっとしてひょっとすると、猿のパイプがこの世に誕生しているかも知れない。
北杜夫氏は無理をして登山隊を追いかける気持が薄れてきた。山に入れば困苦に満ちた生活となろう。あまつさえ危険を冒して大ナダレを観察しなければならない。まして女性登山隊の登場する小説をかくのはシンドイことである。万一、猿のパイプが手にはいれば、あの小切手を出版部長に突っ返して、ついでに小説家も廃業し、モナコかなんぞでカードをあやつれる身分になれるかも知れぬ。
「この辺に、部落はあるかね」
と、北杜夫氏は遠まわしに訊いた。
「ここから七キロほどのところに村があります」
「そうか、とにかくそこへ行こう。ジープは半年以内に直せばいいよ。なにも慌てることはないよ」
「インシャラー(神の御心のままに)」
と、運転手はこたえた。
北杜夫氏はよたよたと村に辿りつくと、村長に硝子玉の首飾りをやった。村人たちにはビー玉を与えた。子供たちには仁丹を一粒ずつやった。
そのため彼は、すばらしい異国の旅人という印象を与え、村一番の家──といっても石と粘土の穴倉みたいな家であったが──に暮す身分となった。
翌日から彼は、運転手を通訳として、スベルカッチャのことを訊きはじめた。しかし、どうも要領を得ない。スベルカッチャという語を口にしても、村人たちはけげんな顔をして首をふるばかりなのである。しかし、通訳の運転手は言った。
「奴ら、隠してるんですよ。スベルカッチャは信仰の対象にもなっているんです。外国人には話したがりませんよ。聖なる木がけがされると思ってるんです」
そこで北杜夫氏は作戦を変えた。自分は好事家で蒐集家であるから、珍しいものがあれば高価に買うと言いふらしたのである。
すると、村人たちはあらゆる雑多なものを運んできた。キツネの尻尾、カエルの乾物、アイベックス山羊の耳、なにやら毛のようなもので作ったホッスのようなハエ追い器、ボロボロのカシミア絨毯、ごろた石、木切れ、かつての英国登山隊の罐詰のから、泥で作った什器《じゆうき》などである。
北杜夫氏は、それらを十把ひとからげに無造作に買いこんだ。カエルの乾物にまで一ルピーをはらった。そのため彼は大富豪と思われ、近隣の村からも続々と、ガラスのかけらやらアンズの種子をつぶす棒やら曲った釘やらヘソの緒やらを持ってやってくる者がふえてきた。
彼は一山のガラクタを前にして、撫然として呟いた。
「こうしているとバタ屋の親方だな。まあいい。こうして評判が伝われば、もし猿のパイプを持っている者があったらもちろん見せにくるだろう」
しかし、なかなかパイプは出現しなかったし、それに関するいかなる噂も伝わってこなかった。ガラクタの山は今やピラミッド状になり、異様な臭気を放っていた。同時に、北杜夫氏の財布の中身は急速に減っていった。
これは別の話になるが、同じころ東大登山隊がカラコルムの山にはいっていた。ドクターは精神科の医者で、日本を出るときウルドゥ語で、「この辺にキチガイはいるか?」という言葉を教わってきて、人さえ見ればやたらとその文句を発していた。パキスタンの精神病者を研究しようと思ったからである。ところが、その答はいつも、「パキスタンにはキチガイなどいない」というのであった。しかし彼が山にはいったころ、「一人のすごいキチガイがいて、やたら金をばらまいてガラクタでピラミッドを作っている」という風評が伝わってきたが、それは実は北杜夫氏のことだったのである。
そんな一日、北杜夫氏と一緒にぶらぶらしていた運転手がやってきて、
「旦那、たいそう買いこみましたな」
「うん」
と、浮かぬ顔をして北杜夫氏は答えた。
「どうもあまりいいものはないな」
「いや、なかなかいいものもありますよ。あの便所の戸なんぞは、由緒あるものですよ」
「だがねえ、君がいつか話していたパイプみたいなのが僕は好きなのだよ」
「パイプですって? すっかり忘れていた。スベルカッチャのパイプを持っている男がいますよ」
「え、どこに?」
北杜夫氏はさすがに顔色を変えた。だが、はやる心を抑えて、
「まあパイプといってもね、無価値なものだからね。僕のガラクタ趣味で集めるんだから、まああまり高い金は出せんね」
「まあとにかく見るだけ見ることになさったら?」
そこは隣村のうらぶれた一軒家だった。喉に甲状腺腫のこぶのある爺さんが出てきたが、一目見て、陰険で、因業《いんごう》で、業《ごう》つくばりだと北杜夫氏は直感した。
しかし、薄暗い家の中に一足踏みこんだとき、彼は息の根がとまる思いをした。片側の壁に無造作にかけてあるのは、まさしく猿のパイプではないか。あの飛行機の中で紳士の見せたものとそっくりではないか。運転手が言った。
「旦那、あれがそのパ……」
「しっ」
と、北杜夫氏は慌ててさえぎった。
「そこにある茶碗を売らんかと訊いてくれ。そこのニワトリの首と繩みたいな奴と籠みたいな奴も……」
爺さんは果してそんなガラクタにどえらく高いことを言った。北杜夫氏はおとなしく金を払い、
「じゃ、もう帰る、と言ってくれ。それから、今までの買物のおまけに、そこにあるパイプみたいな奴を貰ってゆく、と伝えてくれ」
しかし運転手が通訳すると、爺さんは手をふりまわしてなにやら叫びはじめた。
「とんでもない、と言ってますぜ。あれは猿がくわえてきたもので、アラーの神が宿っていて、やるなんてとんでもないと言ってます」
「じゃあ、十ルピー、いや百ルピーやると言いたまえ」
「ダメだと言ってます、金には代えられん、と」
「じゃあ何が欲しいんだ、おれはそんなもの欲しくないぞ。ただちょっとした記念にと思っただけなんだ。こんな一文にもならんつまらんパイプだが、突拍子もないことをやらかすのが僕の趣味でね」
「このパイプは病気を治す力があると言っています。薬を沢山くれるなら考える、と」
「やる、やる。薬は近代抗生剤から梅干エキスまであると言ってくれ」
「金もやはり欲しいそうです」
「やる、やる。君のジープ代をのぞいて、財布ごとやると言ってくれ」
「あなたの着ているシャツとズボンも欲しいそうです」
「やる、やる。ついでに煙草とライターとボールペンをやると言ってくれ」
こうして北杜夫氏は身ぐるみはがれたが、奇蹟のような猿のパイプを入手することができたのである。
彼は一文なしになったが、帰りの飛行機の切符だけは持っていた。上着もズボンもなかったが、この国ではステテコだけでも奇異な目で見られなかった。しかし、いよいよ日本へ行く飛行機の中では、北杜夫氏はちょっとした混乱をまき起した。
「おそれいりますがお客さま」
と、スチュワーデスが言った。
「この毛布を腰にお掛けになってはいかがでしょうか」
「暑い、暑い、とても毛布なんぞ掛けられん」
「では、おそれいりますがこちらへどうぞ」
そして北杜夫氏はトイレの中へ入れられてしまい、日本までずっとトイレの中で立ったり坐ったりしていたのである。
それでも彼は意気軒昂たるものがあった。税関で少しびくびくしたが、無知な役人は北杜夫氏がかかえている猿のパイプを一目見て、「民芸品ですか」と侮蔑したようにひとこと言い、羽田空港全体よりも価値多い宝物を易々と通過させてしまった。
北杜夫氏は家に帰りつくとさすがに疲れが出て、三日寝こんだ。起上ると、パキスタンで平たい小麦粉のチャパティばかり食べていた反動で、ウナギとスシとラーメンをやたらと食べ、今度は下痢をして五日寝こんだ。起上って、ようやく猿のパイプを手に入れた歓喜を実感として受けとめ、とびあがって天井に頭をぶつけ、またしても一週間寝こんだ。
そのあと北杜夫氏は、猿のパイプのカラー写真をとり、国立博物館をはじめ各地の博物館に発送した。それには、
「世紀の驚異、猿のパイプを競売に付する用意あり、館長、係官、警官、銀行員、税務署員を派遣されたし」
と記してあった。
ところが待てど暮せど、どこの博物館からも何の音沙汰もないのである。「ははあ、わが国の博物館では猿のパイプの価値も知らないのだな」と北杜夫氏は考え、今度は大英博物館、メトロポリタン美術館、ルーヴル博物館、ベルリン博物館、エルミタージュ博物館などに写真と文書を発送した。
そうこうしているうちに、北杜夫氏が本当は同行すべきだった登山隊が帰国してきた。北杜夫氏はさすがに羽田に迎えに行った。
「ひどいなあ、北さん。あなたがいつまでたっても追いつかないもので、てっきり遭難したと思ってひと騒ぎだったのですよ」
「いや、それがジープはぶっ壊れる、持病の狭心症が出るという有様で……」
と、北杜夫氏は弁解しかけたが、登山隊の一人に視線が行ったとき、その顔色がさっと変った。その男がくわえているのは、まさしく猿のパイプではないか。
「あんた、そのパイプはど、どこで手に入れたのだ?」
「これですか」
と、相手はけげんそうに答えた。
「これはギルギットのバザールで売ってた奴ですが。パイプというより、パイプのごときもの、と言うべきものでしょうな」
「バザールに? そんな筈はない。これは非常に珍しいもので……」
「だって、束になって置いてありましたよ」
「そんな筈はない。これはそもそも猿が作るもので……」
「猿ですって? 冗談でしょう。人間が作るんですよ。作っているところを、僕はちゃんと見ましたよ」
「それで、それで」と、北杜夫氏はどもりながら言った。「君はそれを一体いくらで買ったのだね?」
「なあに、安いものですよ」
と、相手は無造作に言った。
「一つ、半ルピー(三十五円)です」
北杜夫氏の体はへなへなとその場に崩れおちてしまった。
それから一カ月後、北杜夫氏はうらぶれて、下町の屋台で飲んでいた。
猿のパイプの一件は、考えれば考えるほど癪の種子《たね》であったし、あまつさえナダレを見てこないため山の小説は書けず、出版部長は小切手を返せとは言わないものの、五十人の美女が裸になるという小説を書けと要求した。
「ああ、これから寒くなることだし、五十人の裸女はさぞかし寒いだろうなあ。いっそのこと大火事でも起すことにしようか」
などと、ブツブツ呟きながら、北杜夫氏は二級酒のコップをなめた。
と、ゆらりと空気がうごいて、隣に一人の紳士が腰かけた。すらりとした長身で、彫りの深い浅黒い顔立ちで、こんな屋台にくるのはいぶかしいような紳士であった。
「日本酒」
「へい」
「ビール」
「へい」
紳士は日本酒とビールをまぜ、そこに胡椒を少しふりかけて飲みはじめた。屋台の親父はあっけにとられたように眺めていたが、やがてどうしたことか、コックリコックリと居眠りをはじめた。紳士は親父が眠ってしまったのを確めると、
「北杜夫さんですな」
と、朗らかな声で言った。
「そうですが?」
「しばらくでしたな」
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
「フ、フ、フッフッフフ」
と、紳士はこらえかねたように笑った。
「猿のパイプは残念でしたな。私は愉快でたまらなかったですじゃ」
その声! それは飛行機の中で会ったあの肥満した紳士のそれではなかったか。
「あなたは、あなたは?」
と、北杜夫氏は口ごもった。
「さよう、あのときの探険家と同一人物ですじゃ」
「だって、あの紳士はあんなに肥っていたし、外人だったし、歳だってとっていたし……」
すると、紳士は北杜夫氏の耳に口を寄せるようにして言った。
「わしの名は怪盗ジバコ」
「え?」
北杜夫氏はカメレオンのように変色した。
怪盗ジバコ。彼ならば若かろうが年寄りだろうが、肥っていようが痩せていようが、好きなように姿恰好を変えられるのも当然である。その正体を絶対に知られず、易々と国家予算を超える盗みを働く史上最大の怪盗、わざわざ地下道を掘り猫に食物をやる皿一枚を盗んでいったりする得体の知れぬ怪盗。
「ジバコさん」
と、さすがに鄭重な言葉になりながら、北杜夫氏は言った。
「あなたの名にはかねがね敬意を表しています。しかし、なんといったって、あなたはひどすぎる。なんであなたはあんなにひどく僕をだまくらかしたですか。あの土産物屋の主人やジープの運転手は……」
「さよう、わしの部下は全世界到るところにいるのでな」
「それにしても、どういうわけでこの僕なんかを手玉にとって喜ぶのです?」
「すまん、すまん。わしはイタズラが大好きでな。そのつぐないは十分にしよう」
「僕は泥棒から金は貰いませんよ」
「なに、君はいま悩んでいる。五十人の裸女をどうしたら暖くさせられるか、と」
「えっ、またどうしてそんなことまで知っているのです?」
「このジバコに」
と、相手はおもおもしく言った。
「わからないことはない。実をいえば、各国の警視庁の会議までつつぬけなのだ。君、君は五十人の裸女を書く必要はないよ。なんとなれば、わしは君を、日本に於ける怪盗ジバコの伝記作家に任命しようと思っているのだから」
「それはたしかに光栄なことで」
と、北杜夫氏はどもりがちに言った。
「けれども、どうして僕なんかに目をつけられたのですか?」
「わしの伝記作家は」
と、ジバコは言った。
「まず一風変っていて、好奇心の強い人間でないといかん。君は猿のパイプの一件でそれに合格したわけだ。もう一つの条件は」
ジバコは嗅タバコを取りだして耳の穴に入れながら言った。
「これは少し言いにくいことなんだが、間が抜けていて愚かで、あまり大作家であってはいけないのだ」
「それはまたどうしたわけで?」
と、北杜夫氏は少なからずムッとして問い返した。
「どうして大作家であってはいけないのです?」
「大作家はなにからなにまで完全に造形する。偉大な人物は偉大な人物として小説に書いてしまう」
と、ジバコはどこか寂しげにこたえた。
「わしは小説の中で永久に生きたいとは思わん。それより、わしは世界各国の人々の夢想の中に生きたいのだ」
それから、
「さあ君も一服やりたまえ。嗅タバコはやらない? じゃあこれでもやるか?」
そう言ってこの不可思議なる怪盗は、ポケットから無造作に五本ばかりのギルギットのパイプを取り出して、北杜夫氏に差しだした。
女王のおしゃぶり
怪盗ジバコの数々の行跡をすべて書き記したら、大百科事典のごとき厖大な書物となるであろう。なにしろ彼は赤子のとき、乳母車にのって町を押して貰っていたが、道端に非常に立派な空の乳母車がおかれているのを見ると、まだ這い這いしかできなかったのに、乳母の隙を見て──彼女は極度の近眼であった──乳母車を這いおりると、むこうの乳母車に這いあがり、わざとけたたましく泣声を立てた。びっくりした近眼の乳母はその立派な乳母車を押して帰ってきてしまった。それどころではない。母の胎内から生れるとき、帝王切開の手術があったが、生後五分のその赤ん坊は、手術室からメスと鉗子《かんし》とホウタイ一本を盗ってきてしまったという話も伝えられている。
ジバコは幼時にして父母を失い、一家離散の憂目にあって、極度の貧困をよぎなくされた。そんなことから、彼は天成のドロボウの道にはいったのであろう。若いうちは、ずいぶんあこぎな盗みもやった。しかし、盗みにかけてのこの天才は、ほどもなく巨万の富をつむにつれ、余裕ある盗みしかやらなくなった。彼はありあまっているところからのみ盗った。ドロボウの帝王である。たまたま貧しい家に忍び入り、猫の皿一枚を盗んだりするが、そのあとに残してゆく例のジバコのカード、「無礼ながら盗みに入り申し候」と十何カ国語で印刷してあり、紋章のすかしのはいったカードを蒐集家に売ることにより、貧乏人は逆に多額の収入を得てしまうのであった。
今では全世界にちらばるジバコの子分は五千人とも一万人とも言われるが、これは主だった者だけの数であり、その配下のチンピラまであげれば厖大な数にのぼるであろう。ある国では、ジバコの子分たちは合法的な「ドロボウ株式会社」を経営しており、ちゃんと必要経費をあげ、きちんと国に税金をおさめている。
すでにジバコの財産は測り知れぬといってよい。もはや彼は富のために盗みを働く必要はまったくない。残っているのは、いかに見事に仕事をやりおおせて、彼の芸術的自尊心を満足させ、世間の好奇心に豊かな話題を提供するかにある。しばしば彼は、一万ドルの盗みをやるのに十万ドルを使った。世間の人々は、これをジバコがあり余る財産をなんとかして減らそうとしているのだと噂している。
それゆえ怪盗ジバコの行跡は千花撩乱の多様さがあり、ため息をつく見事さから、ゲップが出る粗雑さから、突拍子もない悪いたずらまである。従って、これを一々書きとめることは、各国に於けるどんな彼の伝記作家にしろ不可能なことだ。
ここでは、日本に於ける一つの事件を記そうと思うのだが、これは怪盗ジバコが窮地に陥った数少ない例として、彼自身忘れがたい思い出の一つだと告白したことを附記しておこう。
鎌倉市の郊外に住む山下岳衛門氏は日本の有数な山林王の一人である。曾祖父の時代からのその山林は今では評価できぬばかりの価値に殖え、彼は自宅から箱根まで自分の土地だけを踏んで達せられるというのは実際の話だ。
ごく稀にロールスロイス・シルバークラウドUに乗って自分の土地を見まわりにゆく氏のような男にとって、落ちつく先は蒐集の道であった。
彼は金にあかしてさまざまな物品を蒐集したが、比較的世間に知られたものは茶器のそれである。岳衛門氏は唐物文琳《からものぶんりん》の大名物の茶入や、染付叭々鳥《そめつけははちよう》の香合《こうごう》や、|古銅下蕪 管耳《こどうしたかぶらかんみみ》の花生《はないけ》や、利休小尻張《りきゆうこじりばり》の与次郎の釜や、千道安共筒《せんどうあんともづつ》の茶杓や、人々の垂涎《すいぜん》の的《まと》である名器をごろごろと所有していた。
なかでも最大の名器とされるのは、喜左衛門井戸の茶碗であった。世間に隠されていたことに、岳衛門氏はこの名器を一年三カ月にわたって所持していた時代があったのである。といって岳衛門氏は、心底からこれらの茶器を愛でたわけではなかった。彼の鑑賞眼はゼロに等しかった。そもそも喜左衛門井戸には、それを最初に所持した者が零落して、乞食のような生活を送りながら、なおこの茶碗を肌身放さず持ち歩いていたという時代から妙な因縁話がつきまとっていた。のちにこれを手に入れた松平不昧《まつだいらふまい》公は、ふしぎな腫物ができた。家来たちはこの茶碗は不吉だから手放すように進言したが、公はついに首を縦にふらなかった。この喜左衛門井戸の魔性の魅力も、山下岳衛門氏には猫に小判であったといってよい。茶碗を手に入れてから、なにかの拍子で腕にジンマシンができた。すると彼は恐れおののき、即座に天下の名器を手放してしまったのである。
そんなようなわけで、岳衛門氏はなにも茶器に執着する理由はなかった。たまたま茶器というものは金を要して、しかも通人らしく見えるからだけのことである。やがて彼は茶器にも飽きてしまうと、いろいろ雑多な品物の蒐集を始めた。そして、およそ五年前から、ひょっとしたことがきっかけとなって、おそらく終生つづくかもわからない情熱を傾けるに足るある物を見つけだした。それは──赤子のくわえるおしゃぶりである。
あるとき岳衛門氏は、軽い胃潰瘍を病み、禁酒をしたり、種々の食養生をしたりしたが、なかなかよくならなかった。主治医は禁煙をすすめた。煙草をやめるのは酒をやめるのより遙かにむずかしい。どうにも唇が寂しくてたまらない。
岳衛門氏はチュウインガムをなめたり楊枝《ようじ》を噛んだり薄荷《はつか》パイプをすったり、いろんなことをやってみたが、ついに満足のゆくものを発見した。それがおしゃぶりであった。氏は赤ん坊のすうゴムの乳首のついたおしゃぶりをちゅうちゅうとすって、久方ぶりに心のたゆとうような、満ち足りた心境を覚えた。言うなればそれは、失われつつある性の最後のなごりのような気もした。岳衛門氏はかなり以前に夫人をなくしていた。それ以来、ほとんど女体に接したことがない。そういう欲望はもともと少なかった。ところが、おしゃぶりをしゃぶっていると、なにかほっとして、それから得も言われぬやすらぎを得るのであった。フロイト学派に言わせれば、彼は口唇期の状態に退行したともいえる。
山下岳衛門氏は、起きぬけからおしゃぶりをしゃぶるようになった。人と対座したときもしゃぶっている。トイレでもしゃぶっている。風呂の中でもしゃぶっている。ロールスロイスに乗って外出するときも、しゃぶっているので、近所の人々は、「ロールスロイスよりも乳母車に乗れば」と陰口をきいた。
やがて岳衛門氏は、一つのおしゃぶりでは満足せず、種々のおしゃぶりを集めだした。そのようにとりどりのおしゃぶりを集めることは、彼にとって、数多の美妓をはべらせるような心境にも通じたのである。
日本では江戸時代からおしゃぶりが一般に使用されているようであった。挽物細工《ひきものざいく》のもので、明治になっても同じく挽物のアレー型のものがあった。そのうちセルロイド製となり、ゴム製品、プラスチックと変移している。笛を仕組んで鳴るようになっているのもあれば、歯固《はがため》といって歯ぐきにあうように凹凸をつけたものもある。がらがらと併用されるものもある。
山下岳衛門氏がおしゃぶりを蒐集しだしたことが、出入りの商人の間で評判が立つと、さまざまなものを持ちこむ者が跡を絶たなかった。加藤清正公のお使いになったものと称して、うやうやしい箱書などあるものをもったいぶって持ってくる。石川五右衛門のものというのもあった。更にひどいのは、本当は三種の神器ではなく四種の神器であって、その一つは天照大神が使われたおしゃぶりで、これがその実物だというのもあった。ところが岳衛門氏はみんなその話を真に受けてしまい、片端からすこぶる高価に買いこんだものである。
やがて岳衛門氏は外国のおしゃぶりにも手を広げるようになった。すると、さすが蒐集家の世界である。「おしゃぶり連盟」とか、「世界おしゃぶりクラブ」とかいう会があることがわかった。こうして手を広げてゆくにつれ、氏の許にはネルソン提督のおしゃぶりとか、アフリカのプクプク族の象の骨のおしゃぶりとかがかつぎこまれるようになった。
そのうちに岳衛門氏得意の絶頂ともいえる時が到来した。ロンドンで行われた「なんでもかんでもがらくた掘出物クラブ」主催の大競売会に於て、氏は「女王のおしゃぶり」を競り落したのである。
「女王のおしゃぶり」というのは、エリザベス一世が使った、金とエメラルドの柄のついた、象牙製のおしゃぶりであった。しかもそれは女王が赤ん坊のとき使ったものではない。彼女がロンドン塔に幽閉されていたとき、やるせなさとヒステリーをまぎらすために用いたもので、そのため象牙のその部分に女王の歯型がついているといわれる。
「女王のおしゃぶり」を岳衛門氏と最後まで競ったのは、アメリカはフィラデルフィアの住人トーマス・マン氏であった。トーマス・マンといっても文豪ではない。世界に知られたトーマス・マンの中にはイギリスの経済学者やアメリカの政治家がいるが、このトーマス・マン氏は鶏のトサカだのカメレオンの肉だのを罐詰やびん詰にして売っている男であった。ハワイのワイキキ通りに日本の蜂の子などを含む世界のいかもの食品を売る店があるが、これも氏の経営である。
「女王のおしゃぶり」の競り金額は厖大にふくれあがり、とうに山下岳衛門氏とトーマス・マン氏の一騎打となっていた。ついに、いかもの罐詰製造業者は叫んだ。
「五万五千ポンド!」
間髪を入れず岳衛門氏は応じた。
「七万ポンド!」
この一足とびの跳ねあがり方には、さすがのトーマス・マン氏もついてこられなかった。かくして「女王のおしゃぶり」は岳衛門氏のものとなったのである。額に汗を滲ませたトーマス・マン氏は、そのあと岳衛門氏の手を握り、
「わたしはこれまで世界一のおしゃぶり蒐集家だと自他共に許していた。が、こうなったらその名はあなたにゆずらにゃならん」
と、ため息まじりに言ったものである。
氏は日本へ帰ってからも、この「女王のおしゃぶり」を入手したことを固く秘めていた。むろん盗難を恐れたのである。しかし、なんのかのと噂は洩れ易いものだ。殊に三流週刊誌がこれを記事にしてからというもの、岳衛門氏はいろいろなゴシップの種とされた。氏のところに一書を寄こして、「どんな由緒があるにしろ、たかがおしゃぶりに七千万円も使うとはけしからん」と言ってくる憂国の士もあった。テレビ、展覧会などに出品を求められることも屡々であった。「あたしの子供はオネショをしますので、その女王のおしゃぶりとかを一度しゃぶらせて頂ければ、治るかも知れません」という悩める母からの手紙もあった。しかし、岳衛門氏は固く門戸を閉ざして、一切のことにとりあわず、盗難には一層の警戒をはらった。
「女王のおしゃぶり」のしゃぶり心地は、ふかく彼を魅した。それをしゃぶると陶然となって、さながら女王自身とくちびるを交しているような気持がした。あの伝説に包まれる女王は、おそらく、このように堅く、ひややかな、犀利なくちびるを有していたのではないか。
それに要した出費のことに関係なく、岳衛門氏は今や「女王のおしゃぶり」なくては生きている甲斐がないと思った。もし万が一、これを奪われるようなことがあったら?
彼は財にあかして堅固な蔵を屋敷内に建て、考えられるかぎりの盗賊予防の手段を講じた。そのためかあらぬか、「女王のおしゃぶり」を狙うドロボウなんぞ現われはしなかった。それでも岳衛門氏の心は安らかとはいえなかった。これほどの逸物が自分の手にあるのは奇蹟といってよい。いつか、必ず不幸なことが起るのではないか。
そして、果してその通りになったのである。
ある朝、岳衛門氏はエスキモーの使うトナカイの角のおしゃぶりをくわえながら、食堂から書斎へ戻った。そして見た。机の上に見慣れぬ紙片がいつの間にか置かれているのを。そこにはこう記されていた。
「来る十一月八日、女王のおしゃぶりを頂きに参上つかまつり候 怪盗ジバコ」
山下岳衛門氏が色を失ったのは言うまでもない。
彼はさっそく執事の天鈍吉兵衛《てんどんきちべえ》を呼びよせた。古くからいる執事で、もう八十歳を越していたが、未だに矍鑠《かくしやく》として、山下家にとってなくてはかなわぬ人物であった。
「爺、これを見てくれ」
吉兵衛は主人の差しだした紙片をじっと見つめた。その顔は次第に憂いをおびてきたが、さしたる動揺は見られなかった。やがてこの老人は、口の中でぶつぶつ呟きはじめた。
「爺、何をぶつぶつ言っているのだ?」
「旦那さま、結局六千九百八十万円の御損でございます」
「どういうことだ、それは?」
「怪盗ジバコのことは、私もようく存じております。あの怪盗は未だかつて、失敗という文字を知らないというではありませんか。おそらく女王のおしゃぶりは奪われることでしょう。ジバコは盗みのあとにカードを残していきます。あのカードはわが国の好事家の間で約二十万円の価値があるそうですな。ですから、差引き六千九百八十万円の損失というわけで」
「ばかな。そんなふうに諦めてしまっては困る。なんとかそれを防ぐ手段を講じなければ。それにわしは、女王のおしゃぶりの価格が惜しいのではない。あのおしゃぶりはわしの生き甲斐だ。なんとしても奪われてはならない。たとえ怪盗ジバコであろうとも」
執事はじっと考えこんだ。
「むずかしいでしょうな」
「むずかしいのはわかっている。爺、お前はむかしからわしの家をたびたび救ってきてくれた。なにかよい智慧はないか?」
「さよう」
吉兵衛はまたじっと瞑目したが、
「私もかなりの歳月生きてきまして、世間のことは少しく存じております。これは尋常の手段では防げませんでしょう。警察とかそのようなものに頼っては。相手が特別あつらえの怪盗である以上、それに匹敵する名探偵を依頼するのが上策でしょう」
「それは誰だ、そんな人物がこの世にいるものかね?」
「心当りがございます。しかし、その名は私の胸に秘めておきましょう。怪盗の挑戦状がきた以上、もはや敵の手が身辺にのびていないとも限りません。いや、そう見て間違いないでしょう。不肖天鈍、最後の御奉公として、ともあれ全力を尽してみましょう。おお、こうしているうちにも時は流れる。では旦那さま、ごめん」
そう一礼すると、この忠義な執事天鈍吉兵衛はあたふたと部屋から出て行った。
その日を境として、山下家の邸内は戦闘状態にはいった。
山下家は二万坪の敷地をもっていた。古めかしい邸宅はさして宏壮のものではない。しかし玄関わきに長屋があって、ここには数家族の警官が住んでいた。むかしから、広すぎる邸内の警護の点から、警官たちをただで下宿させておくのが慣習だったのである。
敷地の大部分は、雑木林である。すっかり霜がれて茶がかった櫟《くぬぎ》や楢《なら》の落葉がうずたかく積もっている。また松の林もあった。あちこちに藪や池もあり、盗賊がひそむにはもってこいの環境であった。
かつて岳衛門は、チンピラ盗賊にそなえて、この広い林の中に、多数の落し穴を掘らせたものであった。万事古風なのがこの家の伝統であり、彼の趣味でもあった。ところが、この落し穴がたいへん巧妙に表面を隠されていたので、散歩の途中、岳衛門自身が落っこってしまって、大騒ぎになることが再三であった。以来、この落し穴は竹でかこってあったが、今やその竹はとりはらわれた。広い邸内は油断なくして一歩も歩けず、使用人たちは万一の用意に小型の気球をもってこわごわ忍び歩く始末であった。
邸内の中央どころを壊して建てられた土蔵は堅固なもので、中は幾室かにわかたれ、入口からすぐの間は普通の居間になっていた。ここで岳衛門と執事の吉兵衛はひそひそと密議をこらすのだった。
「爺、邸内の警備に、もう十名ほど警官を下宿させたらどうかね。それから屈強の下男をもう二十名ほどやとったら」
「旦那さま、それは危のうございます。只今、お屋敷内にいる巡査、下男、女中、これはすべて身元も確かなら、すべて何年、十何年まえからいる気心の知れた者たちです。それを新しく雇うとなると、これはどんな人物がまぎれこんでこないとも限りません。なにせジバコの子分は日本だけでも千何百と申しますから」
「それはもっともだ。して、警察の方にはちゃんと頼んであるか」
「十二分に手配がしてあります。警視庁の警部が何人も所轄の警察に出張してくるそうです。お気づきかも知れませんが、門前の道を通る通行人の数が殖えておりますが、あれはもう変装した警部などがまじっているのでございます。もっとも、私はそんなことをしてもジバコには無駄だと思いますが」
「ばかにお前はジバコの肩を持つじゃないか。関東大震災のときタンスを三つかつぎだしたお前がそんなことでは困る」
「しかし旦那さま、ジバコの手腕は並々ならぬようでございます。私めはあれからジバコについていろいろと調査をしましたが、それによると、彼の変装術は魔術的だそうではありませんか。さきほど私は新しく人を入れることに反対しましたが、今までいる使用人にもこれからは気を許すことはできません。なぜなら、ジバコは下男の竹松にも女中のとよにも易々と化けてしまうからです」
「女にもか?」
「むろんです。いつぞやジバコはオッパイを五つもつけた女に化けたそうです。そのほうが女よりも女らしいというわけですな。それでチェッコスロバキアの高官が、そのオッパイ五つの女にたぶらかされて、易々と国家秘密を奪われたのですぞ。オッパイとおしゃぶりは共通しております。旦那さまもくれぐれも……」
「なに、わしはオッパイなどにはたぶらかされん。それにしても、その五つのオッパイはどういうような配置になっていたのかな」
「つまらないことをお考えになってはいけません。それよりも、これからは誰であろうと気を許されぬことです。たとえ警官でもドロボウと思ったほうが賢明でしょう。幸い、この蔵は堅固なものですし、表の戸を閉めきってしまえば金庫の中にはいったようなものです。ここは警官の手も借りず、旦那さまと私めで守るのが上策といえましょう」
「うむ、そうだな」
たしかに蔵は金城鉄壁のものであった。文字どおりその壁には鉄板がはいっている。入口からすぐの居間は普通の日本間だが、畳二畳がどんでん返しを打つようになっていて、その下はおどろしい水牢になっている。岳衛門の古風な趣味からこれを作ったものである。
その次の間には、なんと釣天井の仕掛がほどこしてあった。岳衛門の本当の気持をいえば、工事をした大工をすべて密殺してしまいたいところだったが、さすが昭和の御代にそんな真似は許されなかった。しかし祝宴の席で、彼はミョウガをやたらと大工たちに食わした。ミョウガを食べると物を忘れるという弥次喜多の物語の故智に倣ったのである。
どこかおめでたいところのある岳衛門はミョウガで安心していたが、天鈍吉兵衛はさすがにもっと智慧が働いた。怪盗ジバコは蔵を作った大工たちに手をのばして、どんでん返しや釣天井の秘密を聞きだすかも知れない。そこで警視庁に手をのばして、その大工たちのすべてを留置させてしまった。いささか乱暴だが、理由はなんとでもつけられる。この世では、罪ある人が大手をふって外を歩いていることも日常茶飯なら、罪ない人が牢につながれたりすることもありふれたことだからである。ある一人の大工など、仕事の帰りに子供たちの真似をして、イヤミ先生の「シェー」をやったという廉《かど》で逮捕されてしまった。その「シェー」が、そこからほど遠からぬ町角で起った交通事故の原因になったというのである。
一方、岳衛門と吉兵衛は蔵の内座敷で──もう蔵には他の何人たりとも一歩も入れなかった──日がな密議をこらしていた。
「やはり怪盗が侵入するとすれば、この入口でございましょうな。ここよりほかに出入口はございません」
「だが爺、これは鉄の扉だし、内から錠をおろしてしまえば幽霊でもないかぎり……」
「いや、相手は幽霊以上の存在です。大銀行の金庫の扉なぞも易々と開けてしまうそうですな。この部屋までジバコは侵入してくると見て作戦を立てましょう。私どもはここに、この位置におります。幽霊のように怪盗がはいってきたら、どんでん返しが待っています。それもボタンを押すとか、紐をひっぱるとかいう動作をするとすれば、ジバコたるもの当然気づく筈ですが、このどんでん返しはもっと近代的にできております」
「そうだ、赤外線装置だったな」
「さよう、ジバコはピストルかなにかを突きつける。私たちは恐れおののいたふりをして手をあげる。手が赤外線にふれる。すでに怪盗は水牢の中へと落下している筈です」
「うむ、愉しみだな。あの水牢は甲賀流の流儀で作ってある。あそこに落ちたらもうあがれやせぬ。どのようになぐさみものにしてやるかな」
「しかし、怪盗はあくまでも怪盗です。どのような魔術でこの部屋を突破するやも知れませぬ。だが、その次の部屋で、おそらく天井の下敷となってあえない最期をとげるものと思われます」
「そうだ、あれは電子頭脳で動くのだったな」
「はい、畳の上にわずかでも動くものがありましたら、時速百キロの速度で天井が落下致します」
「だが、どんでん返しにしろ釣天井にしろ、まだ実験をしたことがないな。あれをこしらえてからかなりの月日が経っている。ひとつ、スイッチを入れて実験してみよう」
「さようでございますな」
そこで吉兵衛は秘密のスイッチを入れた。
「これでもう目に見えぬ赤外線が流れております。うっかり手をあげてはいけませぬ」
と、吉兵衛が言ったか言わぬうちに、あたかも岳衛門が立っていた畳がぱっくりと開いて、彼はたちまち水牢へ転落、と思われたが、辛うじて畳のふちにつかまった。
「これ吉兵衛、助けてくれ、ひっぱりあげてくれ!」
ようようのことで上にひきずりあげられると、岳衛門は肩で大きく息をした。
「これは何事だ! わしは手なんぞあげなかったぞ。なんとしたことだ!」
「いや、私にも理由が……ああ、わかりました。あそこに蠅がとんでおります。あれが赤外線をよぎったのでしょう」
「蠅が? いや微妙なものだな。しかし、このように敏感な装置では……」
と、岳衛門が言いかけたと同時に、隣室でガラガラガラズシンと、凄じい音響がとどろいた。
「吉兵衛、何事だ?」
「釣天井が落ちたようでございますな。まさか怪盗が……」
吉兵衛はふたたび天井をまきあげるスイッチを押し、おそるおそる隣室を覗きこんだ。そこには人影のかけらすらなかった。が、よくよく仔細に調べてみると、ペシャンコになった小さなゴキブリの死体が発見された。
「なるほど、なるほど。あのゴキブリめの動きを電子頭脳が発見したわけですな。さすがは精巧な電子頭脳だ」
「感心していては困る。精巧は精巧だが、あまりに精巧すぎる。これでは怪盗をやっつける前に、わしたちが水牢に落っこったり、天井の下でペシャンコになったりしかねない」
「たしかにそのようでございますな」
「あぶない、あぶない。吉兵衛、早くスイッチを切れ」
──そのような騒ぎのうちに、十一月八日、当の怪盗の指定日がきてしまった。
その前の晩、次のような電報がきた。
「ガクエモンドノ コンヤハユックリオヤスミアレ アサハヤクカラハユカヌ ワガハイハネボウナノデネ   ジバコ」
岳衛門は腹を立てたものの、怪盗は信義を守るだろうと考えたので、睡眠剤を多量に飲んで熟睡した。翌朝、ゆっくり起きだして、気に入りのおしゃぶりを三つばかし口にくわえていると、また電報がきた。
「ケイカンノカズスクナシ モノタリヌ ヨルウカガウカラ ソレマデニケイシチョウニタノミモットゾウインセヨ   ジバコ」
警護の警官にこれを見せると、これはジバコの作戦で、おそらくザワザワと各署の警官を集めさせ、お互いに見なれぬ顔のその中に子分たちをひそませるつもりであろうと語った。
「一度などは三百八十一人の警官でジバコをとりかこんだことがありましたが、ひどい失敗をしましたよ。ジバコが警官に化けてるという情報がはいったのです。そこで警官同士お互いをとらまえることにしました。百九十人の警官が百九十人の警官を逮捕した。お互いに動けぬよう手錠をかけあったのです。ところが口惜しいじゃないですか。残りの一名がジバコだったのです。彼はゆうゆうと逃亡しましたよ。ですから、今夜はお互いに顔見知りの警官しか使いません」
「しかし、顔見知りといったって、相手は変装の名手なんでしょうが」
「ですから、警官の間で合言葉が決められているのです。もし疑われたら、おれはジバコだぞ、という手筈になっています。怪盗ならまさかそうは言わんでしょう」
山下岳衛門はなんとなく警察に不信の念を抱きながら、居間へ戻った。あのような警官たちではとてもジバコは捕まえられまい。こうなれば自衛の手段を講ずるより手段がない。
夕刻になると、彼は家をすっかり閉じさせた。警官たちには戸外の警備に当ってもらう。どんなことがあっても戸を開けてはならぬと使用人たちに厳命した。
「いいか、警官は信用できん。大体、警官の服ほど変装しやすいものはない。それにまぎれて誰が侵入してこないとも限らん。それに比べればお前たちはまだしも信用できる。だが、今夜はわしと吉兵衛だけで蔵を守る。だれもはいってきてはならぬぞ。もちろん錠は閉めておくが、はいってきたならお前たちの誰であれ怪盗と見なす。わしは日本刀とピストルと猟銃と飛びだしナイフと水鉄砲で武装しておる。いいか、間違ったら生命はないぞ」
そう言いおいて、岳衛門は呼んだ。
「爺、吉兵衛!」
「はは、これに」
「わしはお前だけが頼りだ。では、そろそろ蔵へはいるとしよう」
二人は蔵の入口を厳重に閉めた。それから念のため、一番奥の部屋にはいって、「女王のおしゃぶり」の安置されている金庫を調べてみた。価値あるおしゃぶりは、まだ確かにそこに輝いていた。岳衛門はいとおしそうにおしゃぶりを撫で、五分ばかりちゅうちゅうと吸った。それから金庫をぴったりと閉めた。その部屋には他の何千というおしゃぶりや、茶器や、掛軸や、その他の蒐集品も収められていたが、岳衛門はそれらをひと渡り見まわし、
「なに、こんなものはすべて盗られたってわしは惜しくない。ただ女王のおしゃぶり、あれがなくってはどうしてこれからの生涯が送れよう。爺、わしはもしも怪盗がここに押し入ったら殺すつもりでおる。こりゃ正当防衛じゃからな。お前もその覚悟を決めてくれ」
「もとよりでございます。いくら怪盗とはいえ、しょせんはドロボウ、そんなものは討ち果してなんの悪いことがありましょう。ただ、むこうは討ち果されたくないと思っているでしょうし、結局智慧のあるほうが勝つでしょう」
「なんだかわしに智慧がないようなことを言うな。しかし、わしだっていろいろ考えた。たとえば爺にも知らせてないが、敵が毒を使ってくることを考えた。ジバコは人間を殺すのが嫌いだそうだから、まあ麻酔薬だな。そこでわしは、使用人たちに水道の水も飲むことを禁じた。全部ミネラルウォーターだ。食事も罐詰の肉に罐詰の餅だ。ここにもそれが準備してある。さあ、ぼつぼつ夕食にしようか」
「お言葉を返すようですが、ジバコがもし毒を使おうと思いたてば、なんで罐詰に入れられないことがありましょう。罐詰会社、小売店、配達人、すべてジバコの子分でないことがどうして保証できましょう」
「なんだ、気がかりなことを申すな。そんなことを言うなら、ちょっとみんなの様子を見てきてくれ。みんなもう罐詰の夕食をすましたころだから」
「承知致しました」
天鈍吉兵衛は蔵の扉をあけ、一歩廊下に出ようとして叫び声をあげた。
「や、や、旦那さま、やられておりますぞ!」
岳衛門は愕然として扉から首だけ出し、外を覗いてみた。廊下の隅に、柔道四段ということで特に蔵まえの警戒をゆだねられた書生の宗太郎が、うつぶせに微動だもせず倒れているのである。
「旦那さま、ここから出てはなりませぬ。二人とも出ればうまうまと敵の手に乗せられます。私めが調べましょう」
吉兵衛は駈け寄って、書生を抱き起した。書生の首はがくりとたれた。
「うむ、昏睡だ。死んでいるのではない。おおい、誰かおらぬか!」
しかし、言葉を返す使用人の声はなかった。吉兵衛はむこうへ走っていった。そしてやがてもたらされた報告によると、おどろくべし、十数名いるこの家の使用人は、いずれも深くぐっすりと寝こんでいるというのである。
「いかが致しましょうか、旦那さま。警官を呼びましょうか」
「いや、それはまずい」
と、岳衛門は眉宇《びう》に決意をみなぎらして答えた。
「それではみすみす敵の術中に陥る。爺、こちらへはいれ」
彼は蔵の扉をぎいと閉ざし、厳重に錠をかった。それから、種子島とも見える古風な銃に火繩を差しこみ、きっと扉を見つめた。
「爺、どんでん返しと釣天井のスイッチを入れろ」
「しかし、あれは危険で」
「いや、昨日殺虫剤をまいておいたから、もう蠅もゴキブリもいまい。こうなったら、お前と二人だけで女王のおしゃぶりを守るのじゃ」
「はは」
「わしらは夕食はぬきにしよう。そのほうが目が冴える。口寂しくなったら、ほれ、このおしゃぶりをしゃぶるといい」
「はは」
こうして、二人の主従は緊張の時刻を過していった。五分、十五分、三十分、と時は流れる。だが、こうした場合、時の流れのなんと遅いことであろう。時計を見れば、まだ九時にもなってはいぬ。あと三時間余。自分はこうした緊張に果して堪えられるだろうか、と岳衛門氏は思った。
次第に、なぜともない不安が彼を満たしてきた。これで大丈夫であろうか。あっという間に、家の者すべてを眠らしてしまった怪盗のことだ。この岳衛門と吉兵衛の二人だけで宝を守りきれるであろうか。
ふと、ある疑惑が湧いた。自分と二人きりでこの部屋にいる吉兵衛は、果して本物の吉兵衛であろうか? 怪盗はどんな人間にも皺ひとつ変らず化けられると聞いている。もしや、いつの間にか吉兵衛が入れかわり、あそこにああして坐っているのが怪盗ジバコということはあるまいか。その可能性は絶対にないとは言いきれぬ。
そういえば吉兵衛は、なにかさきほどから怪盗をかばうような言辞をもらしはしなかったか。
岳衛門はゴクリと唾をのみこんだ。なおしばらくを逡巡した。それから、重苦しさに堪えかねて口を開いた。
「爺」
「なんでございましょう、旦那さま」
「お前は……お前は本物の吉兵衛か?」
吉兵衛はしばし口をつぐんでいた。だが岳衛門には、その顔がひそかにニヤリと笑ったような気がして堪らなかった。
「またどうして、そんなことをお言いになる? 旦那さま」
「まあいい。わしの神経かも知れぬ。しかし吉兵衛、お前が本物かどうかを調べる方法があるのだがね」
そう言いながら岳衛門は、片手に火繩銃、片手にコルトをしっかりと握りしめ、足で水鉄砲の引金をまさぐった。その水鉄砲にはトウガラシ入りの水がこめてあるのである。
「旦那さま、これはどうしたわけで?」
「いや、これは一つの試みだ。だが、場合によってはお前の生命も貰わねばならぬ。怪盗ジバコを相手としては、あらゆる可能性を疑わねばならぬからな」
「ごもっともで」
天鈍吉兵衛はおそれる気配もなく、主人の目をじっと見つめた。
「もしお前が本物の吉兵衛なら」
と、岳衛門はつづけた。
「お前はずっとむかしのことを、たとえばわしの小さい頃のことも知っている筈だな?」
「もとよりでございます」
と、吉兵衛はなおじっと主人を見つめながら答えた。
「なんなりとお尋ねくださいませ」
「よろしい。では尋ねよう。わしが小さいころ、赤トンボを捕えるときどのようにしたかな?」
岳衛門はぴったりと火繩銃とピストルと水鉄砲の狙いをつけながら言った。すると、彼をホッと安堵させたことに、たしかにこういう吉兵衛の声が聞えてきた。
「はっはっは、トンボ捕りでございますか。旦那さまは指先をぐるぐるとまわしながら近づいていかれて、アーカトンボ、アカトンボ、めえめが見えるなら目をまわせ、と唄われましたよ」
「なるほど、その通りだ。それでわしも安心した。だが、もう一つ訊こう。これは爺しか知らない筈のことだ。わしの小学校時代、一番恥ずかしかったことはなんだ?」
「はっはっは、それはですな、旦那さまが授業中にオシッコに行きたくなられて、それを先生に言いだせずにとうとうもらしておしまいになった。そのためみんなからションベン虫と……」
「もういい、もういい。よくわかった。お前は本物の吉兵衛だ。おお、こんなことをしているうちに十時になったぞ。あと二時間だ」
岳衛門は火繩銃の銃先をさげながら、ホッと肩を落した。しかし吉兵衛は、あくまでも真面目な顔でなおこういうことを言った。
「旦那さまは、そのほかにも爺とよく睨めっこをなさいましたな。こんなふうに、ほれ」
「なに、睨めっこ? はて、そんなことをしたかしらん」
「こうでございますよ、ほれ、私の目をごらんあそばせ」
岳衛門はなにげなく吉兵衛の目を見た。はじめはぼんやりと、それから魅せられたように。
すると、こういうことが起った。彼の体はなにか前後にゆらいだように見えたが、そのままぐにゃりと横になった。その口からは安らかな寝息が洩れてくる。
こちらでそのさまを見つめていた天鈍吉兵衛は、にやりと笑った。
彼はその年齢にしてはおどろくほど素早く躯を起すと、蔵の入口をあけた。むこうの廊下に、書生の宗太郎が先ほどと同様、横ざまに深く眠りこんでいる。
吉兵衛はその生ける屍にむかって、こんなふうに呼びかけた。
「おい、兵六、起きろ。もう大丈夫だ」
その声はさいぜんと違って、若々しく張りがある。すると兵六と呼ばれた宗太郎は、むくむくと体を起した。
「親分、うまくいきましたか?」
「当り前だ。アクビが出るほどだ。さあ、はいってこい」
吉兵衛──実は怪盗ジバコは、手ばやくどんでん返しや釣天井のスイッチを切ると、宗太郎に化けていた子分の兵六を従え、蒐集物のうずたかい奥の間へはいっていった。高価な金庫もジバコの手にかかっては箱根細工ほどのむずかしさもない。ひとしきりいじくって、
「ひらけえ、ジバコ!」
と彼が言うや否や、その扉は間髪を入れずひらいた。
ジバコは「女王のおしゃぶり」を無造作に掴み、手の上でもてあそびながら、兵六を従えて入口の居間へ戻った。そこでは山下岳衛門がだらしなく眠りこんでいる。
「親分、一服盛ったので?」
「いや、催眠術だ。こういう男は実にかかり易い。催眠術学会に一例報告ものだ」
「して親分、これからどうします?」
「そうだな。台所に倒れている書生を一人目をさまさせよう。そいつにちょっと変装をほどこして、催眠術をかけて、この蔵へ連れてこよう。奴は自分がジバコ、しかも間の抜けたジバコの役割を果すだろう。警官隊をひきいれて、そいつを捕まえさせる。その間におれたちはおさらばだ」
「いつもながらお見事な段取りで」
「なに、つまらんよ。おれはこんなつまらん仕事には飽き飽きするよ。こういうたわいもない盗みは、おれの伝記作家たちにも話してやらんことにしている。さあ兵六、台所にいる書生を一人連れてこい」
そのとき、信じられないことが起った。どこからともなく、かすかな、しかし堪えようのない含み笑いがひびいてきたのである。
「フッフッフッフッ、フフフフフフ」
その笑い声は、あるときは天井の方角から、あるときは畳の下から聞えてくるもののようであった。
怪盗ジバコも、さすがにギョッとして、その視線を慌しくさまよわせた。だが、それはわずかな時間であった。彼はきっとなって言った。
「腹話術だな。兵六、お前が腹話術で笑っているのだな」
すると、日本支部関東地区第三アジトの三番目のきれものである筈の兵六が、今やその口を大きくあけて笑いだしたのだ。
「フフフフ、ハハハハ、さあ手をあげて貰おうか、怪盗ジバコ君」
その声はほがらかな中にも凜々とした張りがあり、いつもの兵六の声とはまるきり異なっていた。
そして、その手には小型のピストルがしっかりとかまえられている。しかも、一分の隙もないかまえ方だ。さすがのジバコも思わず両の手をあげた。
「お、お前は?」
「君がそんなにうろたえることはなかろう、ジバコ君。君が執事の吉兵衛に化けられるのなら、探偵のぼくも君の子分の兵六に化ける暇くらいはあるからな」
「探偵か」
と、そのときジバコは最初の衝撃からすでに立ち直っていた。
「吉兵衛が探偵を頼むといっていたのは、盗聴装置でちゃんと聞いている。しかし、おれはそれを無視した。なぜなら、日本にはこのジバコの鼻をあかすような名探偵は存在しないからだ」
「しかし、ぼくは立派に君の鼻をあかしているのじゃないか、ジバコ君?」
「待て、ちょっと待ってくれ」
ジバコは首をたれて──そんな様子を彼はほとんど人に見せたことがないのだが──じっと考えこんだ。その顔に微笑が浮んできた。ほとんど愉快げな微笑が。
「そうか、わかったよ、名探偵君。こんなところで君に会えるなんて、光栄と思うよ」
「わかってくれたか、ジバコ君」
「もちろん。ちょっとした盲点だった。君は明智君だね?」
「そうだ、ぼくは明智小五郎だ」
深讐綿々《しんしゆうめんめん》たる名探偵と怪盗は(ここ、江戸川乱歩調)じっとお互いを見つめやった。
「おっとジバコ君、ぼくに催眠術をかけようとしても無駄だよ。探偵ともなればいろいろなことまで研究しているのでね」
「もちろん君にそんな小細工はしない。だが明智君、君がまだそんなに矍鑠としているとは思わなかった。ジバコの調査網もそこまで探知できなかった」
「なに、怪盗とか名探偵はなかなか年をとらないということは、世界の常識じゃないかね、ジバコ君」
「その通りだ。明智君、君がそのように達者でいるところを見るのは実に喜ばしいことだ」
「ぼくだってそうだよ。この世に怪盗がいなければ、ぼくの存在価値もなくなるのでね」
「君には敬意と友情を感ずる。して、このジバコをどうするつもりだね?」
「もちろん逮捕するのだ」
明智小五郎はなお油断なくかまえながら、片手で横手に眠っている山下岳衛門の背にエイと活を入れた。岳衛門は息を吹きかえすと、まだ五里霧中のように、きょろきょろと周囲を見まわした。
「おや、これはどうしたことだ。わしは眠っていたのかな。宗太郎、なんでこんなところにいる。ここには来てはならぬと固く言っておいた筈だ」
「ぼくは宗太郎ではありません。明智という者です」
明智は顔に手をやって、変装を半ばときながら言った。
「おお、あんたが高名な明智さんか。吉兵衛が胸にひめていたという名探偵はあんたか。いや、あんたならジバコに対抗できる。吉兵衛でかした!」
「ここにいるのは吉兵衛ではありませぬ。この男こそ怪盗ジバコです」
「なんと! それなら本物の吉兵衛はどこにおる?」
「おそらくお宅のどこかの押入にでも、猿ぐつわをかまされてほうりこまれていましょう」
「だが、そんな筈はないぞ。わしはこの吉兵衛とさきほど昔の話をした。それも他の誰も知らないことをな。いくら怪盗ジバコでも、そのような昔話まで知っている筈がない」
「ジバコは催眠術の名手です。おそらくあなたは暗示にかかって、ジバコが勝手にしゃべっているのを、あなた自身が内心で思っているように聞きとったにすぎません。その証拠に、彼がいま手に握っているのは何だと思います?」
「おお、女王のおしゃぶりだ! なんということだ。吉兵衛、いやジバコ! よくもよくもわしの生命に等しいおしゃぶりを!」
「昂奮してはいけません。ですが、もうそれは取り返したのです」
明智小五郎は一歩前に出ると、片手を差出して言った。
「ジバコ君、さあ、それを返して貰おう」
それまでじっとおとなしくしていた怪盗ジバコは、このときも意外に素直であった。
「ハッハッハ、明智君。今日のところはおれの負けだよ。それじゃ、このおしゃぶりは返そう。そのあとはおれを早く警官へ引渡すのだね。おれはまだ牢屋というものを知らないのだよ。後学のため早く味わってみたいものだな」
「君はどうせ脱獄するつもりだろう。以前のぼくの好敵手、怪人二十面相も必ず脱獄したものだ。そのほうがぼくとしても有難いのだがね。一回捕まえてそれで終りじゃ、こちらも商売あがったりだからね。まあせいぜいうまくやってくれたまえ。さあ山下さん、外の警官を早く!」
山下岳衛門氏はとびあがって外へ出てゆき、十人ばかりの屈強な警官を連れてきた。
「やあ岡部警部ですな。ぼくは明智です。ここにいる警官は大丈夫でしょうな」
「ええ、絶対に大丈夫です。明智さん、大手柄ですな。怪盗ジバコを捕えたなんて、明日は世界じゅうの新聞のトップニュースになりましょう」
岡部警部はふるえる手で怪盗ジバコに手錠をかけた。そして十人の警官がまわりを取りかこんで出ていった。
あとには山下岳衛門と明智が残った。
「明智さん、なんとお礼を申しあげてよいやら。このおしゃぶりのしゃぶり心地ときたら、それこそ何物にも代えられませんからな。エリザベス女王の唾液が沁みこんでいるのですよ。それから深い類いない歴史とがな」
そう言って岳衛門は、満足げにそのおしゃぶりを口にくわえ、ちゅうちゅうと吸った。それから妙な顔をした。ついで血相変えて叫びだした。
「やや、このおしゃぶりは違いますぞ! しゃぶり心地がてんで違う。ごらんなさい、女王の歯型もない。これは贋物ですぞ!」
明智は慌てなかった。
「ふん、すりかえたか。ぼくの目の前でそんなことがやれるとは、思ったよりも器用な奴だ。だが心配は要りません。どうせ奴が身につけている筈だ」
そのとき、遙か戸外で叫び声があがったようだった。その騒ぎは次第に大きく、ピリピリと呼笛が鳴ったりした。
「明智さん、あれは?」
明智は動かなかった。じっと目をつむって呟いた。
「いずれは逃げると思っていたが、それにしても早すぎる。ジバコは予想以上の大物かも知れない」
五分後、息せききって岡部警部がとびこんできた。
「明智さん、申訳ない。逃しました、見事に逃げられました」
「一体どうしたのです?」
「門のパトカーのそばまできたとき、するりと手錠から脱けだしたのです。調べてみましたら、鉄のように見えるが実はプラスチック製の伸縮自在のもので、私たちの手錠はいつの間にかみんなすりかえられていたのです。ジバコはパッと走りだした。いや早いのなんのって、目にもとまらぬとはあのことです。しかしこちらは大勢だし、パトカーもあるし、逮捕は時間の問題と思ってました。ところが五百メートルも走ると、相手の数がふえました。そこらじゅうから同じような影が十人もとびだしてきて、一緒に逃げだしたのです。それがみんな吉兵衛の恰好をしているじゃありませんか。ええ、十人は捕まえました。だが、肝腎のジバコは逃したようです。なにしろどれが本物かわかりませんもので」
「うむ、なかなか敵もやるな」
「しかし、その十人を調べれば、ジバコの組織というようなものもわかるかも知れません」
「無駄だよ、岡部警部、そいつらはどうせ一日雇われた浮浪者どもだよ」
そのとき、かたわらでウームという声がした。山下岳衛門氏が気を失ったのである。その身体はへなへなと崩おれ、くちびるからこのような呟きが洩れた。
「ああ、女王のおしゃぶり、おれのおしゃぶり、おしゃぶり、おしゃぶり……」
それから十日後のことである。山下家に一つの航空便の小包がついた。そして痴呆のようになっていた岳衛門氏を狂喜させたことに、その中にはあの「女王のおしゃぶり」、本物の女王のおしゃぶりがはいっていたのである。
けれども、岳衛門氏を喜んだままにはしておかなかったことに、それには次のような手紙が附されていた。
「謹啓、先日お騒がせして入手せし『女王のおしゃぶり』は、小生の予想どおり、まったく歴史的価値なきまがい物とわかりましたゆえ、ここに御返送致します。なお斯界《しかい》の権威トーテンコップ博士の鑑定書を同封します。ついでながら、小生の拝見しましたところ、貴殿の蔵にある蒐集物は、茶器掛軸その他すべてこれほとんどがまがい物にて、貴殿は数億円の財宝を所有していると信じていらっしゃるが、小生の評価によるとせいぜい十万円というところです。従って、せっかくのどんでん返し、釣天井、すべてこれ無益なものと思われますので、宜しくお取りはずし下さい。あの装置の評価額は、およそ八千万円と思います。
頓首。
二伸、明智小五郎君に宜しく。日本にかくもすぐれた探偵が現存することを発見したことは、小生の今回に於ける唯一の収穫でした。小生はしばらく南米で仕事をしなければなりませんが、いずれ再会の折もあることと存じます。それでは警察を含む日本の皆さん、しばらくさようなら、バイバイよ」
蚤  男
この世には秘話というものがある。
本当の秘話とは、二、三の当事者しか知らないことである。時が経つにつれ、永久に埋没してしまう事件と、何十年も経ってはじめて発掘される話がある。ここに記述する事件なども、おそらくここに書いておかなければ、誰にも知られないで歴史は過ぎてゆくと思われる。これは、世人の想像を越える一つの事件ではあった。
第二次大戦中、アメリカの秘密工作機関OSSの活躍は華々しかった。そこではアメリカの頭脳を集めた種々の秘密兵器も開発された。もっとも中には失敗に終ったものもなくはない。たとえばネコ爆弾というのは、猫は空中から落されると、身をひるがえして好きな箇所に落ちる、また猫は極度に水を嫌う、従って猫に爆弾をつけて敵の艦隊に落せば、猫は海中でなく軍艦の上に落下するという理論であった。だが、実験してみると、飛行機から落された猫は即座に失神してしまい、ものの役にも立たなかったのである。
また焼夷弾をつけたコウモリ爆弾というのも計画だけに終った。放たれたコウモリは、実験用の木造部落へ舞いおりず、故郷のカールズバッド洞穴めがけて飛び去ったのである。このときの指導者は、コウモリ学の権威、ハーバード大学のL・フェイザー博士であった。
なかでもOSSが実用化した兵器の中で変っているものに、一種の強力女性ホルモンがあった。野菜にかけると葉からしみこみ、時間にも熱にも消えうせない。敵の兵士がこれを食べれば女性化して戦力が落ちる。もっともたいそう高価な薬であったので、OSSはある特定の一人を狙うことにした。その一人とは誰あろう、アドルフ・ヒットラーである。
一九四四年早春、OSSの工作員はオーベルザルツベルクのヒットラー山荘に潜入し、農園の小作人を買収した。その一月には連合軍はローマ近辺のネッツノに上陸し、三月にはソ連軍はドニエストル河の線に達している。ベルリン大爆撃はとうに開始されていた。ここでヒットラーを女性化すれば、一気に戦いの終結を見ることができるだろう。工作員からは、薬を野菜に撒布したと報告があった。そして連絡がとだえた。
OSSの本部では、今か今かと情報を待っていた。ひそかに連絡を受けたチャーチルでさえ、この作戦に甚大な願いをかけた。彼は欧州上陸作戦に未だ自信が持てなかったのである。──が、期待は期待だけに終った。いかなる情報も、ヒットラーに異常が起ったとは告げてこなかった。いかなる理由であの薬品が失敗したか、戦後二十年経った今でも、OSSの中では謎と見なされている。
だが、──ここからが秘話になるのだが、薬品は立派に功を収めたのである。ただその事実が完全に外部に洩れなかっただけなのである。
ヒットラーは夜おそく、ときには夜明けに寝て、たいそう寝坊をするので、朝食は午近くになる。彼は野菜と果物ばかり食べる。ところがそのとき、同席していた愛人エヴァ・ブラウンが熱いチョコレートをすすっているのを見ると、総統はだしぬけに手をのばしてそれを飲み、
「アッハ、シュメックト・グート」
といった。
それが日本語にしてみると、「あら、おいしいわ」というような妙に甲高い声であったので、エヴァは思わず総統の顔を見た。すると、なんとなく様子がおかしい。例のチョビ髭がいくらか薄れているようである。
ヒットラーは給仕を呼び、チョコレートを三杯もお代りして飲んだ。それから廊下に出てゆくと、いきなり警護に立っている親衛隊のシュミット大尉の頬を撫で、
「あんた、男前ねえ」
といった。
その日を境として、ヒットラーとエヴァ・ブラウンの夜の生活も、それまでとは変ったものになった。彼はもはや愛人にちっとも興味を示さなかったのである。のみならず、彼の体型、声などに抜きさしならぬ変化が起ってきた。
エヴァは主治医のモレル教授を呼んだ。このモレルという男が、体《てい》のいいイカサマ医者であった。ヒットラーには前から持病があって、おそらくパーキンソン氏病と思われるのだが、だしぬけに震えがくるのである。そのことから、ヒットラーは健康に関して大げさに、やれめまいがするとか、心臓が弱いのだとか自分で信じこんでいた。そこにつけ入ったのがモレルである。
モレルの人物像については、後世の史家からもあしざまに描かれている。「柄は大きいが内容のない老人で、その態度はペコペコして卑屈であり、言葉は不明瞭で、日常の習慣は豚のように不潔だ」などと書かれている。しかしこのモレルは、はじめベルリンで性病医として開業していたが、ふとしたことからヒットラーの脚にできた湿疹を治してやり、以来侍医の地位をしめたのであった。
戦後判明したところによると、モレルがヒットラーに使用した薬は二十八種のさまざまの調合剤である。たとえばヒットラーの胃痛をやわらげるために、ストリキニーネとベラドンナの複合剤を与えたが、この丸薬ははっきりと体に害がある。それでもモレルにたぶらかされたヒットラーは、せっせとこの丸薬をのみつづけた。この薬品について忠告した他の医師は解任されてしまった。
モレル博士とは、ざっとこのような男であったのである。
さて、エヴァ・ブラウンに呼び寄せられたモレルは、総統の体に異常があると聞かされた。そこで、診察をしようとして、総統の部屋へ行ってみると、一目で様子がおかしいことがわかった。特徴あるチョビ髭はもうかなり薄れていて、喉仏がひっこんでしまっていた。あまつさえモレルが聴診器を取りだして胸を見ようとすると、ヒットラーは妙なふうに身をよじって、
「あら、いやーん」
と言った。
そして、その胸にははっきりと隆起が認められたのである。
さすがのモレルも驚愕した。はじめ彼は、それを自分の調合したインチキ薬の副作用かと思った。しかし、どう考えても理屈にあわない。そうこうしているうち、やはりエヴァに呼ばれた党書記長のボルマンがやってきてしまった。
ヒットラーはまた、
「いやーん、恥ずかしい」
と、ほとんどソプラノで言った。
ボルマンも驚愕した。慌てて部屋を出て、
「モレル博士、これはどうしたことだ?」
「さよう」
と、モレルはへどもどと言った。
「これは一種の御病気ですな」
「なんという病気だ」
「さよう、アラ・カルテ・マンマリス・プログレシーバ・マグナーリスに近い症例かと存じます」
と、モレルは出鱈目を言った。
「ふむ、なんだか女性化されたようだが」
「そういう奇病なのです」
「原因はなんだ?」
「まだわかっておりませぬ。遺伝とヴィールスとバクテリアとホルモンとその他諸々の要因といわれております」
「もっと進行するか」
「そういうこともあり、そうでないこともあるようです」
「ふむ、とにかく重大なことだ。モレル博士、これは重大秘密だ。他言をしたら生命はないぞ」
「わかっております」
「博士は全力を尽して、総統の奇病を治療してくれたまえ。あとのことはわしがやる」
ボルマンは頭の切れる男であった。明日は総統会議があって、国防軍最高司令部を代表するカイテル、ヨードル、ヒムラーの常任代理フェーゲライン、リッベントロップの常任代理ヘーヴュルなどが集まることになっている。あのような総統を人目に触れさせてはならない。
ヒットラーには影武者が幾人かいた。そこでその影武者の一人A三号を急遽呼び寄せることにした。A三号は側近の者でさえ見わけられぬくらいよく似ている。当分、A三号を表に立てて、その間に総統が治ってくれることをボルマンは祈念した。
一方、モレル博士のほうは自室に戻ってきて、気つけのブランデーを飲み、腕組みして考えこんだ。どう考えても、未だかつて聞いたことのないような症例である。常識から考えて、急激にホルモン系統のバランスが崩れたと思われるから、一応男性ホルモンの注射を試みてみるか。幸い、男性ホルモンなら各種のものの手持ちがある。
モレルは一大薬品倉庫ともいえる部屋を持っていた。なにしろヒットラーの健康をつかさどる身の上だから、カバに喰わせるほど薬品を与えられていた。それでモレルはいろいろな特殊丸薬を作りだし、党幹部たちに与えて一身代をこしらえていたのである。
モレルはその中から八種の男性ホルモンをとりだして、部屋の片隅の実験用テーブルでそれらをまぜあわせた。なんでもまぜるのが彼のお家芸である。
「ふむ、これだけ混ぜれば、相乗作用でもの凄く強力になるぞ」
と、彼は呟いたが、たちまちはたと疑惑に突きあたった。
この強力男性ホルモンによって、総統が元に戻るのはいいが、前よりも更に男性化してしまったらどうだろう。ヒットラーはもともと気むずかしい男である。多くの異常才能者に特有な、気まぐれ、カンシャク、ヒステリーを持ちあわせている。彼に仕えるのは薄氷を踏む思いなのである。いつ、とんでもない雷と電光がとび、こちらは首をちょんぎられるかもわからない。
それより、「あら、いやーん」とか言っている女性化した総統のほうがまだマシではないか。これはうかうかと全力をこめて治療したりしないほうがいいかも知れない。
そう思って、この多分にいかがわしいところのある医者は、ニタリと笑った。
そのときである。何者かの手が背後からそっとのびて、モレルの口を濡れた布でおおった。わずかうめいて、モレルの体はぐらりと崩おれた。
ヒットラーの影武者A三号が到着し、彼はつつがなくその任務を果した。作戦会議でも立派にやってのけた。もともとこうした作戦会議では、それぞれに関係した軍人が報告を述べ、それに対してヒットラーは、みんなの意見なぞ求めず、断乎として自分の決意を主張したものだ。戦争全般の情勢について本当に知っているのはヒットラー一人であったからである。
A三号はそれとそっくりにやってのけた。彼はメッサーシュミット163の製作をひとまずおき、V2号に全力をそそげと言った。そして──歴史上に於てもその通りになったのである。これは広い目で見ると大失敗であったと後世の戦史家は評している。
一方、もう一人のヒットラーのほうは、いくら女性化したといっても本物の総統なのであるから、これを一室に監禁してしまうわけにはいかなかった。ボルマンが口を酸っぱくして、「総統は御病気なのですから」と言って、室内におとなしくしているようになだめるほかはなかった。
ところがあるとき、本物の総統は贋物の総統を見てしまった。ヒットラーというのは自己愛の強い男である。それが今は女性に変化し、自分とそっくりの男性を見てしまった。
やがて、
「総統が総統を愛撫しています」
というエヴァ・ブラウンの報告に、ボルマンは愕然となった。大ドイツ共和国にかけて秘密を守らねばならぬ事柄である。それが、女のヒットラーが男のヒットラーを自室にひっぱりこんでいちゃついているようでは、とても皆の目から隠しおおせるものではない。
「モレル博士」
と、彼は頼みの綱の医師を呼んだ。
「どうだろう、治療の様子は? なんだかますます女性化しておられるようだ。というより、もはや脂ぎった女だ。すごいソプラノでしゃべられる。なによりも、あの贋の総統を部屋にひっぱりこむのがまずい。男性ホルモンでも使ってなんとかならぬか。せめて中性にまで戻してほしい」
「男性ホルモンは強力に使っておりますが、まだ効果が現われぬようで」
とモレルは答えたが、その実彼は葡萄糖溶液しか注射していなかったのである。
「しかし、贋の総統から関心をそらすことなら手段もあるかと存じます」
「どういう手段だ」
「絹のドレスだのミンクのコートだの、ありとある豪華な衣類を与えることです。女性ならきっと心を動かすでしょう」
もうどうしてよいかわからぬボルマンは、さっそくこの手段を実行した。すると、本当に効果があることがわかった。今や豊満な胸をしたヒットラーは、各種のドレスを次々と身にまとい、鏡の前でうっとりと姿を映してみ、さては鏡にむかって化粧など始める有様であった。
だが、それにも限界があった。ある程度ドレスとたわむれると、ヒットラーはまたしても贋のヒットラーを求めたからである。
「もっと総統が心底から夢中になられるものはないか。もっと魂から魅せられるようなものが?」
とボルマンは言った。
「ございます。宝石です。それもダイヤです。ダイヤモンドの光輝には、総統はもっと執着されるでしょう」
とモレルは言った。
「なるほど、それは一理ある」
「しかし、いやしくも総統のことです。ちゃちなダイヤを与えても、じきに飽きてしまわれるでしょう。これはとびきりというダイヤを、何百粒、何千粒と用意しなければいけません」
「しかし、そんなダイヤがどこにある?」
「アムステルダムでわが軍が獲得しました大量のダイヤが、ベルリンに保管してある筈です」
「モレル博士、あなたは妙なことを知っておるな。もっとも多くの高官に近づきのあるあなたのことだ。よし、さっそく手配しよう」
ボルマンが指令を出してみると、モレルの話は本当であることがわかった。オランダのアムステルダムはダイヤ売買の元締である。さきに独軍がオランダに侵入したとき、英国はわざわざダイヤモンド作戦という作戦を発動して、あやうく大量のダイヤを英国に移すことに成功した。だが、アムステルダムにあったダイヤの四分の一は独軍の手に落ちたのである。
その大量のダイヤが、特別機によって山荘へ運ばれてきた。ボルマンは、かなりの袋にぎっしりつまったダイヤを、「総統、贈物でございます」と猫撫声で言って、ヒットラーのベッドの上にザアーッとあけた。たちまち、目もあやな光輝が一面にみなぎる。
「おお、美しい!」
と、ヒットラーはソプラノで叫んだ。
それから、ベッドの上のダイヤをざらざらとすくい、ざらざらと落してみ、とりわけ大きなスクェア・ダイヤに頬ずりをしたりした。そのさまを見、ボルマンはホッとして引退り、モレルに「うまく行っているようだ」とささやいた。
その日の午後のことである。ヒットラーの居室にモレルがはいってきた。
「お注射の時間でございます」
ヒットラーはなにせ急激な女性化によって体に不快感を覚えていたので、それまでもおとなしく注射されていたのである。
「痛くないようによう?」
とヒットラーは言って、むっちりとした腕を差しだした。
ところがモレルが注射したのは麻酔剤であった。ヒットラーは昏々と眠ってしまった。その顔を覗きこんでモレルは、
「ここでおさらばしてもよいのだがな。まあひとつ、モレル博士の男性ホルモンがどのくらい効くか験してみよう」
と、妙な言葉を呟き、ヒットラーの尻にもの凄くでっかい注射器を突き剌した。
すると、奇蹟的なことが起った。ヒットラーの胸の隆起がかすかに、しかしそれとわかるほどしぼんできた。口髭が目に見えぬほど、しかし着実にのびていった。そうして一時間も経つと、ヒットラーはすっかり元の総統に戻ったのである。
「これはおどろきだな」
と、モレルは悪戯っぽく呟いた。
「どうなるか、ちょっと起してみるか」
それから注射針の先で、ヒットラーの鼻の穴をコチョコチョとくすぐった。ヒットラーは激しくくしゃみをした。そして、
「東部戦線!」
と、すっかり昔のような威勢のよい声でわめきながら目を覚ました。
「イタリア戦線! 欧州要塞! なんだこれは? この石ころはどうしたのだ? や、モレル、早くこれを片づけろ!」
「さっそくお片づけ致します」
と、モレルはうやうやしく一礼すると、手早く何千粒のダイヤを袋に収めた。
「では、引退りますでございます」
モレルは更に鄭重に一礼すると、袋を持ってドアから出て行った。
──このときを境として、モレル博士と大量のダイヤは煙のように山荘から消えてしまったのである。いや、あとになって半死半生のモレルが、ぐるぐるにしばられて、薬品戸棚のうしろから発見されたが、その陳述は全然要領を得ないものであった。
読者にはとうにおわかりであろう。怪盗ジバコはモレルと入れ代って、うまうまと大量のダイヤを奪い去ったのである。この秘話を知っている者は、ジバコの子分のうち幹部級の者と、世界に於ける彼の伝記作者に限られていたのである。
この世には奇談というものがある。綺談というのはおもしろい話だが、奇談のほうは珍妙な話である。この綺談や奇談があってこそ世の中がしのいでゆけるので、それらがまったくなくなったらこの世はどれほど無味乾燥になるだろう。
デンマークはコペンハーゲンに有名なチボリ・ガーデンズ・サーカス団がある。その「蚤のサーカス」は昔から音に聞えたものだったが、最近ではヨーロッパ唯一のものといわれていた。
各国の王、大統領、大使などがこの蚤のサーカスを観、「コペンハーゲン滞在中もっとも印象に残るもの」と記者に洩らすのが常であった。だが、この蚤のサーカスにも悩みがあった。肝腎の蚤が滅多にいなくなったからである。DDTなどの薬品の普及以来、たちまちこの事態が起ってきた。
サーカスに使うには、蚤であればなんでもいいというわけではない。若い、元気のよい蚤が必要である。これは、高等馬術には良馬が必要なのと同様である。
日本の生んだ馬術家遊佐幸平氏に「遊佐馬術」という名著があるが、これはフランスの馬術家フィリスの本を独自の視点から解説したものである。フィリスはサラブレッドでなければ乗らなかった。悍威《かんい》のある、敏感な、ちょっと脚を使ってもどんどん前に出てゆくような馬でなければ調教しなかった。大きな石でもころがっているときには、わずかな力でも動かすことができるが、停っている石はなかなか動かない。それと同じく、旺盛な天賦の推進力のある馬でなければ、とても高等馬術は仕込めない。
蚤のサーカスでも、まず沢山の蚤を集めてくると、これに跳躍をやらせた。何回も記録をとり、跳ねる力が抜群だと思われる蚤を選出した。それから、そういう蚤をマッチ箱のような平たい小箱に入れて飼っておく。蚤は跳ねるたびに頭をぶつけるので、しまいに跳ねなくなる。かくして、威勢はよいが跳ねない蚤ができあがるのである。
そうなると、蚤たちに目に見えないほどの細い糸をつけて、小人の国のそれより小さな大砲をひかせたり馬車をひかせたりする。ちょっとした芝居を仕込む。
彼らの食物は、時間をきめて団員が自分の血を与える。容器に入れて腕にあてがっておくと、蚤たちは勝手に血をのむ。団員はかゆくて大変だと思うだろうが、一定の箇所で血を吸われるので、かゆいのはその部分だけである。普通に蚤に喰われてやりきれないのは、蚤という奴は同じところから血を吸わず、ちょっと吸っては他の場所に移ってゆく。そのため、たった一匹の蚤がいてもあっちこっちかゆくなって堪らないのである。
だが、そうした駿馬《しゆんめ》ならぬ駿蚤《しゆんそう》はおろか、駄蚤すらもが稀になってしまった。サーカスでは、そのため犬の蚤を集めて訓練もしてみた。蚤にもいろいろ種類があって、犬につく蚤はイヌノミである。ところがこのイヌノミは物覚えがわるくて、ものの役に立たぬことがわかった。
「やはり、人間の血を吸っている蚤でなければ頭がわるいか」
マネージャーのエルス・トープ氏は頭をかかえて街を歩いていた。
「こうなればスペインの貧民窟へでも行って蚤を集めるか。しかし、それでは費用がかかりすぎる」
とある橋の袂に、一人のうす汚れた男がふらふらしながら立っていて、行きすぎようとするトープ氏を呼びとめた。
「あ、あんた。おれの名はフリッカ。ど、どうだ、おれは可愛いだろう」
フリッカとは少女の意である。とてもその名に似つかぬむさくるしい男である。酒の臭いがぷんぷんしている。コペンハーゲンで、白昼にこんな酔っぱらいがいることも少なければ、こんな浮浪者じみた男がいることも稀であった。
「うん、可愛いね」
と、トープ氏は言って、相手にせず歩み去ろうとした。
「あ、あんた、ちょっと待ってくれ。タ、タバコを一本くれないか。かわいいおれの名に免じて」
トープ氏は無言で、シガレット・ケースを男の前に開いてやった。男はそれを掴もうとして、ふらりとよろけ、トープ氏の体に寄りかかった。トープ氏はそれをおしやり、
「さ、取りたまえ」
「タック(ありがとう)、マンゲ、タック」
と、男は酒臭い息を吐きかけながら、ケースからタバコを五本ばかり抜きとった。
トープ氏は舌打ちして、急ぎ足でその場を離れた。
五分間くらい歩いたと思われる。急に、ある感触が氏の体を貫いた。つまり、一箇所がむずむずとかゆくなったのである。つづいて、もう一箇所。
「蚤だ!」
と、トープ氏は心に叫んだ。
「しかも、極めてかゆい。こいつは元気のいい蚤だぞ」
彼は目についたカフェーにとびこんだ。トイレットにはいった。いらだたしく上着をとり、Yシャツをめくりあげた。
いた、いた。跳ねた。なんとその跳躍の見事なこと! しかし、トープ氏の専門家の指先は、まもなくそいつを掴まえた。
「すばらしい!」
彼は恍惚と呟いた。実際、これほどの蚤は、ここしばらく見たこともなかった。この蚤は、一体どこから彼にとっついたのか?
そう考えたとき、トープ氏はすでに半分裸体の姿でトイレットをとびだし、あっけにとられている人々を尻目に、いっさんに駈け出していた。息せききって、さきほどの橋まできた。
幸い、フリッカと名乗る男は、まだ橋の欄干にもたれていた。
「君、君、フリッカさん」
「な、なんでえ」
と、酔っぱらいはどもどもと言った。
「あ、あんたか。タ、タバコを取返しにきたか」
「そうじゃない。君に訊きたいのだが、失礼だが、君には蚤がいるかね?」
「な、なに、蚤? そんなもの、いねえ」
と相手はこたえた。
しかし、トープ氏の専門家的の目は、フリッカの首すじや腕に何箇所かのそれらしき刺跡をたしかに見てとった。
「いやねえ」
と、トープ氏は相手を安心させるようにゆっくりと言った。
「ぼくは昆虫学者なのだ。蚤の研究をしているのだ。蚤がいれば、買ってもよいのだが」
「衛生課の役人じゃねえのか」
と、フリッカは言った。
「ほんとだな。ノ、蚤を買うって? 一体、いくらで買うんだ」
「一匹、五十オーレ出そう」
「ふん、お、おれの蚤は、おれの家族みてえなもんだ。そりゃ安すぎるよ」
「じゃ、一クローネ出そう」
「だがな、血をわけてやった蚤だぜ。それを、へへ、涙が出らあ」
「いくらなら売るね?」
「そ、そうだなあ。まず三クローネは貰わにゃあ」
トープ氏はわざとむずかしく考えるふりをした。むろんさっきのような立派な蚤なら三クローネ(約百五十円)くらい問題ではない。
「少し高いが、よし、三クローネ出そう」
トープ氏がついにそう言うと、相手は、
「ほんとだな? ほ、ほんとに三クローネ出すのだな? して、あんたは蚤を何匹ほしいね?」
「君には何匹ほどたかっているのだ」
「さあ、な、何匹かなあ。一匹かも知れんし、十匹かも知れんよ」
「十匹いたら、十匹買おう」
「ほ、ほんとか? じゃ、もし二十匹いたら?」
「二十匹買おう」
「じゃ、もし百匹いたら?」
「まさかそんなにいることもあるまい」
「さがしてみなきゃわかんねえじゃないか。じゃあ、と、とにかくおれと一緒にきなよ」
それから二人はフリッカのアパートへ行った。コペンハーゲンにもこんなところがあるかと思われる老朽した建物であった。
「さ、ここだよ」
室内に一歩はいって、トープ氏は仰天した。床一面、酒びんがころがっている。辺りは臭気に満ちている。一隅に汚ならしいベッドがあった。
フリッカはその上に横になると、
「さ、昆虫学者さん、す、好きなだけおとりよ」
と言った。
するとおどろくべし、ベッドの四方からむらむらと無数の蚤が湧きでてきて、フリッカの体にとりつくと血を吸いはじめた。はだけた胸などはゴマ粒をばらまいたようにダンダラ模様になったほどである。
「君はそんなに刺されて平気なのかね」
と、さすがのトープ氏も吃りがちに尋ねた。
「なんでもねえ。お、おれは蚤に対して抵抗性ができてる。かえって気持いいくらいだよ。蚤はおれの家族なんだ」
そう言うと、フリッカは急に声をふるわせて、
「おれはこんなに汚ねえから、お、女の子がかまってくれねえ。だ、だから、せめて蚤と寝るんだよう」
と、涙をこぼしはじめた。
「蚤はおいらを好いてくれる。黙っていてもおれのところに集まってくる。おれには蚤を惹きつける体臭みたいなものがあるんだな。お、おれの考えでは、コペンハーゲンじゅうの蚤がこの部屋に集まってるような気がするよ。決してホラじゃあねえ」
トープ氏は今は職業的な立場から、忙しく頭を回転させた。この男はまさしく蚤の宝庫といってよい。
「おれは、ノ、飲代にも困っているんだぞ。とても食物や衣服にまで手がまわらねえ。だ、だから、おれは土色みたいな顔してるし、ボロボロの服を着てるから、女の子が相手にしてくれないんだ」
と、フリッカは叫んだ。
「よかろう、とりあえず君の蚤を一匹三クローネで、三十匹買おう。それだけの金があれば君は小ざっぱりした服も買える筈だ。わたしの研究の様子によって、きっと定期的に蚤を買ってあげるよ」
と、トープ氏は内心の喜びを無理に隠しながら言った。
とりあえず、その日は三十匹の蚤をマッチ箱に入れ、金を払ってそのアパートをあとにした。
さて、この蚤を訓練しはじめてみて、まことにすばらしい蚤たちであることがわかった。不適格の蚤はほとんどいなかった。力も強く、ぴちぴちしていて、今までは十二頭立てであった小人の国の馬車を六頭で引けるのだった。物覚えも決してわるくなかった。
このとき以後、チボリ・ガーデンズ・サーカスの「蚤のサーカス」が、これほど繁栄したことはかつてなかった。見物人は押すな押すなとつめかけた。次々と新しい出し物が企画され、それが評判に拍車をかけた。マルセル・マルソーがそのころデンマークで公演したが、そのときの絶讃の新聞評に、
「マルソーの至芸は、わが蚤のサーカスに匹敵するものである」
と書かれたほどである。
もっとも喝采をあびた出し物は、「蚤の重量あげ」というのであった。特に選ばれた筋骨たくましい蚤の選手たちが次々と登場して、自分の体の三倍もある鉄のバーベルをあげる。これにはスリルがつきまとった。バーベルをあげ損った選手は、その下敷となって死亡してしまったからである。評判は抜群だが、蚤の消粍も激しい出し物であった。
だが、今は蚤の宝庫がある。フリッカという男のところへ行けば、いくらでも補充がつくのである。こうして、「蚤のサーカス」の繁栄は永久に約束されたかに見えた。フリッカ自身は、相変らず浮浪者みたいな恰好をしていた。たまたま金がはいっても、それをみんな飲んでしまったからである。
しかし、世の中はそうそうはうまくゆかない。ある日トープ氏がまたフリッカのところへ行くと、相手は狡猾そうににやりと笑って、
「き、きたな、昆虫学者め。い、いやさ、エセ学者め。おまえが何者かはもうちゃんとわかったぞ。おまえらが蚤のサーカスでしこたま儲けていることくらい、ち、ちゃあんとわかっているんだ。さあ、もうボロ儲けはさせないぞ」
トープ氏は失敗ったと思ったが、相手は果して蚤の値を吊りあげにかかった。こちらとしてはどうしても蚤が欲しい。ついに一匹十五クローネで手を打った。
だが、それからあとのことは言わずしてわかる。一回ごとにフリッカは値を吊りあげ、三十クローネ、五十クローネ、ついには八十クローネでなければ嫌だと言った。トープ氏は背に腹は代えられず泣く泣くそれを払った。
金のはいったフリッカは、やはり酒ばかり飲み、──なにぶん他のことに欲望がなかったのである──浮浪者みたいな恰好で街をふらついていたが、ある夜、特別にふらふらしながら、ふと一軒の洋品店のショーウィンドウを見ると、そこに素敵なシルクハットが一つだけ飾ってあるのが目にとまった。
「きれいなシルクハットだなあ」
フリッカは、ふだんおよそ考えたことのないことを考えた。飲みすぎていたらしい。
そこでその店へはいっていって、それをくれと言った。店員は大いにあやしんだが、その汚ならしい男がふところから無造作に紙幣の束をとりだすのを見ると、慌ててもみ手をはじめた。
フリッカはアパートの部屋へ戻って、そのシルクハットをかぶり、歪んだ鏡に映してみた。輝くようなすばらしい帽子であった。ただ、そこからはみだしている頭髪がいかにもむさくるしかった。
「い、いい帽子だ」
と、彼は悦に入って呟いた。
「しかし、髪を刈らにゃあいかんな。帽子と不似合だ」
翌日、床屋へ行って帽子をかぶってみると、ますますすばらしかった。だが、首から下がいかにも不似合だった。そこで、彼は出かけていってタキシードを買ってきた。ついで靴下を買った。その次に靴を買った。なにぶん金は十分にあったのである。
そうすると、顔色こそわるいが、そこに一人の紳士が立っていることを、フリッカは鏡の中に見出した。
「こ、こりゃどうだ。どこの貴族かと思うばかりだ。し、しかし栄養失調みたいな貴族だ。すこしうまいものでも食べるか」
そう呟いて、彼はレストランへ出かけた。それまで彼は腐りかけのスモレブロットばかり食べていたのである。
すると、馬子にも衣裳である。彼がそのあとカフェーで憩っていると、たちまち一人の女性がかたわらに現われた。女はなにやかや彼の気を惹こうとする。
「こ、こりゃどうだ」
と、フリッカは思った。
「おれは蚤以外には好かれないと思っていたが、どうやらおれの身なりのせいだったらしいぞ。そ、そうか、おれはもともといろんな動物を惹きつける魅力があるのかも知れんぞ」
ともあれ、彼はその女性と一夜を過し、それをすばらしいと思った。ただ、彼がりゅうとしたタキシードを脱いだとき、女性が眉をひそめ、「あんたって……」と侮蔑の言葉を洩らしたので、これはやはり上っつらだけでなく心底から紳士にならねばと考えた。
そこで彼は下着を買い、三年ぶりで風呂にはいり、上等の石鹸と香水とローションとハンカチとティシュ・ペーパー一箱を買った。
こうして、彼は日一日と紳士らしくなり、ちゃんとしたレストランで食事をとり、それまではアクワビットという焼酎みたいな奴しか飲まなかったのだが、ベルモットとワインとブランデーを飲むようになった。そろそろ金が心細くなったが、なあにそのうちトープ氏がやってくるさと彼は思ったものだ。
トープ氏は果して訪れて来た。そしてびっくりした。室内こそ以前のように汚なかったが、そこに見たこともないような紳士を発見したからである。フリッカは部屋の中でもシルクハットをかぶっていた。
「誰かと思ったら君か」
トープ氏は、あっけにとられて相手をじろじろと見た。
「また、ずいぶんめかしこんだな」
「そ、そうとも」
と、フリッカは言った。
「おれには、き、貴族の素質があるってことがちゃんとわかったよ。お、女どももおれをほっとかないんだ。てへへ、ずいぶんいい思いもしたぜ」
「それはいいが」
と、トープ氏は疑わしそうに言った。
「君、そんなに綺麗にしちまって、蚤は大丈夫だろうね?」
「だ、大丈夫とも。蚤も女もおれを好いている。蚤なんぞ、こうやって部屋だけ汚なくしておけばいくらでも湧いてくるんだ。そしておれがベッドに横になりさえすれば、みんなおれの血を吸ってとびきり元気になるんだ。そ、そんなしょぼい顔をすんなよ。さあ、今日は何匹買う?」
「そうだな、二十匹も貰おうか」
トープ氏は、ベッドに横になったフリッカに集まってきた蚤をとらえて容器に入れたが、なんだかいつもより蚤の数が少ないような気がした。この前まではこんなものではなかった筈だ。
「ねえ君、フリッカ君」
と、トープ氏は不安そうに言った。
「君がどんな身なりをしようが君の勝手だが、ぼくはなんだか前のほうの君が好きだよ」
「なんだって」
「君はよれよれの服がよく似合うし、垢がたまっているところなんかたまらなく魅力だった」
「つ、つまらないことを言うなよ。おれのタキシードが似合わないって言うのかい? ところが女たちはそうは言わねえ。へ、肝腎なのは女の子だからなあ。さ、帰って貰おうか」
トープ氏は首を傾けながらアパートを辞したが、彼の危惧は当っていた。ほどもなくフリッカ自身、なんだか蚤が少なくなってきたのに気がついた。日一日とそれははっきりしてきた。なんといっても蚤は飯の種である。
「こ、こりゃ本当かも知れねえ。こいつは注意しないといかんぞ」
フリッカにしても、自分の体を清潔にしすぎたことが、蚤を前のように誘引しなくなった原因であろうと考えたので、彼はまた入浴をしなくなった。歯も磨かなかった。それでもなおかつ蚤の減るのはやまなかった。慌てた彼は、タキシードや清潔なシャツを脱ぎ捨て、洋服箪笥におしこんでおいた昔の臭気あるシャツやズボンをとりだしてきて身につけた。しかし、神よ悪魔よ、蚤は見る見る減っていった。
次にトープ氏がアパートを訪れたとき、フリッカは以前の汚なさに戻っていたが、この男は半裸体でベッドに横になり、いかにも情けなそうな声で、
「こいこい、蚤こい」
と、徒らにうめいていた。
事態を知ったトープ氏は驚愕した。
「それで、一匹もいないのか」
「い、一匹もいねえ」
まさしく蚤のサーカス存亡の危機である。サーカスの関係者が大挙してやってきて、フリッカを尋問した。なんとあっても昔のフリッカに戻って貰わねば困るのであった。
そして、トープ氏の監視の下に、さまざまな実験が行われた。また腐ったスモレブロットだけを食べさせ、アクワビットだけを飲ませた。外見だけは昔のフリッカといささかも変らなかった。だが、蚤だけは決して戻ってこなかった。
それから或る日にちが経って、チボリ・ガーデンズ・サーカスの奥まったテントの中で、小さな集会がもたれた。「蚤のサーカス」が最後の公演をするというのである。
集まったのは王侯貴族ばかりであった。みんなは大きなテーブルのまわりに並んで、それぞれ拡大鏡を持って、蚤たちの見事な演技を息をつめて眺めた。ときどき静かな喝采が起った。
すべてが終ると座長が言った。
「これをもちまして、わが蚤のサーカスも永久に幕を閉ざします」
観客たちは、とにかく蚤が手にはいらなくなった事情を聞き、哀悼の言葉を述べ、深い悲しみのうちに帰って行った。それを送った座長が部屋に戻ってくると、まだ一人の客が残っていた。それはシャルロットとかいうユダヤ人の大金持の由で、まぶかいシルクハットの下に、頤鬚をたらした魔法使いのような人相があった。
「お帰りはこちらで」
「いや、座長」
と、相手は言った。
「わしはかくも見事な蚤のサーカスが姿を消すことに憤りを覚えますのじゃ」
「おそれいります」
「蚤がいなくなったといって、世界の後進国にはいくらも蚤はいますのじゃ。どうしてそれを取り寄せないのかな」
「それも考えましたが、とても費用の点でむずかしいので」
「わしはちいとばかり金を持っておる」
と、奇怪な老人は言った。
「その金を、あなた方の蚤のために役立てて悪い理由がありますかな」
「光栄なことで」
と、座長は頭を下げ、
「しかし、蚤のサーカスを打ちきることに決意致しましたのは、もっと深い理由がございますからで」
「ほう、どんな理由かな」
そこで座長はフリッカという男の話、それにたかっていた優秀な蚤がもう得られなくなった話をした。
「つまりですね」
と、傍らから蚤の調教師も言った。
「フリッカの蚤は、馬にたとえるならサラブレッドという蚤です。それでなければ、重量あげや『トリスタンとイゾルデ』を演ずるなんてことはとてもできません。たとえそこらのヤクザな蚤が手に入るにしても、私はそれを調教しようという気になれません。サラブレッドに乗っていた馬術家が、そこらの荷車引きの馬に乗る気がしますか?」
「なるほど、おもしろい話だ」
と、ユダヤ人の老人は深く頷いて、
「フリッカはもう元に戻らぬのかな?」
「全力を尽していますが、もうダメなようです。大学の先生にもいろいろ尋ねておりますがまるで原因が掴めません。強いて言えば、フリッカは女にもてず、女の代りに蚤と寝ていた。それが女と寝たりしたもので、蚤が嫉妬したとしか考えられません」
「さあ、それはどうかな」
と、怪老人は笑って、
「しかし、そのフリッカのような特殊体質の男をどうして捜されないかな?」
「それがそこらにざらにいれば苦労は致しません」
「だが、捜せばきっといるじゃろう」
「そうあって欲しいのですが」
「世界にはいろんな人間がいるものじゃ。心臓が右についてる奴なんかゴロゴロいる。その蚤男とやらを、きっとわしが捜してあげる。蚤のサーカスの看板はそれまで下さないで欲しいものじゃ」
そう言ったかと思うと、ゆらりと空気が揺れた。座長と調教師が慌てて周囲を見まわしたが、その怪老人の姿はもうどこにも見えなかった。
そのとき以後、世界各地で妖しの現象が頻々と起った。夜、何者かに家の中に侵入される。しかし、朝になってよくよく調べてみても、なにも盗られていない。
日本に於ても同様なことが起った。ある男が夜中に蚤がいるらしくてかゆくてたまらず、といって目もよく覚めず、無意識に手を動かしながらうとうとしていると、なにやらふわりと口をふさぐものがあった。アッと思ったがそのまま深く眠ってしまった。翌朝、何者かの忍びこんだ痕跡を発見したが、それ以外にはなんの異状も見当らなかった。ただ、その男の言によると、うるさい蚤もどこかへ行ってしまい、まことによく眠れたというのである。
ある老婆はもっとよく見ている。隣で孫娘が、「かゆいよう、蚤がいるよう」と言っているのを聞いてしばらくすると、なにやら体がしびれて来、眠けがさしてきた。が、老婆は眠りきらず、黒いモウロウとした影が忍びこんできて、孫娘の布団に手を差しいれるのを見た。
それでハッとなって懸命に目だけ見開いていると、曲者はやがて手をひきだし、そこになにかつまんでいるように見えた。その手を畳におき、なにかを追うようにいざっていったが、「ダメだ、五センチしかとばない」というがっかりしたような声を残して、曲者の姿は消えた。
ドヤ街などでは事件はもっと頻繁に起った。たいていボリボリと体をかいていると、いつとも知らず前後不覚に眠ってしまうのである。目ざめてみると、体が少ししびれていた。
読者にはとうにおわかりであろう。シャルロットとかいう怪老人は実は怪盗ジバコの変相であり──もっとも本当の正体を誰も知らないのだから、確言はできない──彼が全世界何千という子分に指令を発して、蚤男、あるいは蚤女を捜しているのだということを。ジバコは義侠に富んだ男である。しかし平凡な義侠はやらない。なにか彼の心に触れる事柄でないと、指先一本うごかさない。
もし読者の中に、われこそは蚤男である、と自負する方がいたら、ぜひとも怪盗ジバコに教えてやって欲しい。いや、ジバコの探知網は、必ずや君をほどなく発見しよう。
そら、ひめやかに戸外に足音がする。あれこそジバコの足音ではないか?
トプカピ宮殿
イスタンブールは、モスクの街である。市内にある回教寺院の数は実に五百三十六。ボスポラス海峡からたちのぼる淡い靄の中に、その丸屋根が、どこを歩いていても必ず視野にはいってくる。
もっとも著名なものは、サンタ・ソフィア寺院、アーメッド寺院などである。後者は、内部が青いタイルがはりつめてあるので「|青の寺院《ブルー・モスク》」と呼ばれている。或いは、六本の尖塔を持っていることから、「六本足の寺院」とも呼ばれることがある。これをこしらえたサルタンが、部下に「金のモスクを作れ」と命じた。ところが、「金」という言葉と「六本」という言葉が甚だ似ていたために、あやまって六本の尖塔をもつモスクが作られたとも伝えられている。総元のメッカのモスクにしろ尖塔は五本であった。それでサルタンは狼狽し、慌ててメッカに二本の尖塔を寄贈したという。
「もっとも、いくら立派なモスクがあったって、モスクを食べるわけにはいかんからなあ」
と、ジバコは呟いた。
われわれの知っている史上最大の怪盗ジバコではない。自由自在に肥満もすれば痩せもし、巨億の富を動かし、世界の警察を嘲弄している怪盗ジバコではない。
そのとき、イスタンブールの裏町をさまよっていたジバコは、まだ二十歳になるかならぬかの無名の青年であった。しかも、うらぶれた青年であった。もちろん、彼はまだジバコという名を持っていない。しかし、ここでは物語の統一上、ジバコと呼んでおく。
彼はそれまでヨーロッパでかなりの──といってもちゃちな盗みを働いていた。警察に追われ、食いつめてトルコまで流れてきたのである。
このときの彼の風貌を描写できれば、現在に於けるジバコ伝説に貴重な数ページを加えられると思うのだが、その点はやはり曖昧模糊としている。せめて時代でもわかれば彼の年齢を推量できるのだが、これもまた現在のジバコの固く口を閉ざすところである。
ともあれ、そのときのジバコは、まだ若く、痩せて、やつれて、空腹であった。
「畜生、モスクがパンに見えやがる」
と、彼は呟いた。
だが、そんなときでも、一塊のパンにのみかかずらう男では彼はなかった。
「なあに、いつの日か、おれは必ずあのモスクを一つそっくり盗んでやる」
そう昂然と彼は独語した。
いつしか彼はバザールの一角に足を踏み入れていた。イスタンブールのバザールの繁栄、その喧噪、そのごった煮ぶりは、昔も今も変らない。そこではかしましい物売りの呼声の中で、西洋と東洋が同居している。
「なにはともあれ、腹を作らにゃいかんな」
ジバコは、道路の片隅に台を広げている一見意地わるそうなパン屋のそばに歩み寄った。穴のあいた丸パンを一箇とる。
「いくらだい?」
トルコにきて半月というのに、もうジバコは土地の言葉がぺらぺらになっていた。
「五クルシュ」
「ほらよ」
ジバコは小さな五クルシュ貨幣を差しだした。実をいえば、それがそのときの彼の全財産であったのだ。
瞬間、さすがにむなしい感じに襲われた。と、ほとんど反射的に彼の指先は器用に働いた。それからジバコは、片手でパンをほおばりながら、その場を離れた。
パン屋は、いま受取った銅貨を空罐に投げ入れようとして、ひょいと見ると掌の貨幣がなくなっている。
「こりゃどうだ。おれは確かに持っていた筈だが。おおい、待ってくれ、お客さん!」
「なにかね」
ジバコはのこのこ引返した。
「おれはあんたから、金を受取ったか受取らなかったか、どっちかね?」
「さあ、どうだったかなあ。やったかも知れんし、やらなかったかも知れないよ。それによって、おじさんはどうするつもりだい?」
「もし、おれが金を受取っていたら、おれはぴょこんと頭を下げて、毎度ありーというよ。もし、金を受取っていなかったとしたら、おれはどなりたてるよ」
「そうだなあ」
と、ジバコは言った。
「たしか、まだあげなかったみたいだよ」
「やはりそうか。それなら、おれは怒鳴りだすぞ」
「ちょっと待て。しかし、おじさんはまだぼくにパンをくれなかったよ」
「はて、そうかしらん」
と、パン屋は考えこんだ。もちろん、さきほどのパンはとうにジバコの胃の腑に収まってしまっている。
「そう言われると、なんだかそんな気がしてきたぞ」
と、見かけによらず善良そうなパン屋は首をかしげ、
「よし、じゃこうしよう。おれはあんたにパンを一箇渡す。あんたはおれに五クルシュをくれる。これなら公平だろう」
「そうだよ、それが商売というものだよ」
「商売? そうとも、おれは商売人だ。しかも凄腕のな。あんたが口ひげを生やすころには、おれはきっと大きなパン屋を開いているぜ」
そう言って、パン屋はパンを一箇ジバコに手渡した。ジバコはさきほどの貨幣を今度は本当に渡す。そして彼は、また歩きながら二つ目のパンを呑みこんだが、そうやって少し腹の状態がマシになってくると、ちくちくと良心が彼を責めた。
こんな貧しいお人好しのパン屋に損害を与えることは、彼の信条にもとることである。
「だが、今はやむを得ない」
と、ジバコは呟いた。
「まあ今日のところは、おれが五クルシュでパンを十箇ほど頂いちまわなかったことを、あのおっさんに感謝してもらっておこう」
もとより、喧噪のバザールには、金持らしい男女の影もないではなかった。ジバコがちょっと指先を働かせれば、彼らの財布を頂戴することはたやすいことである。しかし彼は、しばらく前から、このスリという行為が嫌でたまらなくなっていた。
「スリなんてのはドロボウのうちにはいらない。あんなものは指先の器用さとチャンスだけだ。しかしおれは、自分で計画を立て、その幻の映像を幻でなく作りあげる行為こそ真のドロボウだと思う。ドロボウとは創造なのだ」
雑踏を歩きながら、若きジバコはそうひとりごちた。
と、ぷーんといい匂いが鼻をついた。二箇のパンでどうやら音を立てなくなっていた胃の辺が、ふたたび締めつけられるような匂いである。
見ると、町角でシシカバブを焼いて売っている。
トルコ料理で世に名高いものが、このカバブの類である。カバブとは焼肉を意味する。いろいろな種類のカバブがあり、それぞれナントカカバブと名前がついている。その中でもっとも有名なものがシシカバブで、これは羊の肉を金串にさして焼いたものである。われわれは羊の肉が苦手のことが多いが、このシシカバブをほおばってみれば、認識が変ってくるであろう。近ごろではシシカバブは世界じゅうに名を売り、イスタンブール・ヒルトンなどでは、シシカバブを注文すると、記念にこの金串を一本ずつくれる。飾りがついていて、恰好の土産品になる。
閑話休題、このシシカバブが焼ける匂いが漂ってきて、近づくと油のたれる音がじゅうじゅうとし、ジバコは思わず唾を呑みこんだ。といって、懐中にはもはや一文もない。一人の髭づらの男が、道ゆく人に呼びかけている。
「えー、シシカバブ。えー、シシカバブ」
ジバコは近づいていって、声をかけた。
「おじさん、いい声だね」
「おれもそう思っとる」
「渋くて、コクがあって、なんともいえないな。ただ……」
「ただ、なんだね?」
「ただ、ぼくは医学の心得もあるんだけれど、ちょっと心配な点がある。梅毒にかかって、それが頭にくるまえ、どもりがちになるものだ。おじさんは少しどもるよ」
「なんだ? おれが梅毒だ? とんでもねえことをぬかす奴だ。おれはどもらんぞ」
「じゃ、おじさんが一番得意な言葉、言いやすいセリフはなんだい?」
「それは」
と、髭づらの男はちょっと考えて言った。
「このバカでっかく尻の穴のしまらぬ抜作め! って文句だな」
「そりゃちょっと長すぎるや。その次は?」
「そうだな、やはりシシカバブって文句かな。こりゃおれの商売だし、今までに百の百倍のその百倍くらい口にしてるからな」
「じゃ、そのシシカバブを十回連続して正確に一息に言えるかい?」
「冗談じゃねえ。百回でも言えるぞ」
「もし、間違えずどもらずに言えたら、ぼくは一リラ(百クルシュ)を賭ける」
「よし、おれは何を賭けるのだ?」
「シシカバブ、一本」
「ようし、この生意気な野郎め!」
そうわめいたかと思うと、髭づらの男は、まず口を舌でなめて濡らし、ゆっくりと息を整えてから、凄い勢いで唱えはじめた。シシカバブシシカバブシシカバブ……。まったくそれは流暢そのものであった。少しも淀みがなかった。ジバコ自身でさえ、これはきっと一リラをとられる、その金をどうしようかと考えたほどだ。
しかし、十遍目、男はついに|シカバブ《ヽヽヽヽ》と言ってしまった。
「そら違った。シカバブじゃない、シシカバブだ」
「うーむ」
男はうなって、それでも黙ってシシカバブの串を一本手渡してくれた。ジバコがそれを食べ終ると、男は、
「よし、もう一回やらしてくれ」
だが、今度は八遍目でしくじった。次は七遍目、その次にはあせりと口の疲労により、三遍目でもうしくじった。そのたびにジバコはシシカバブを一本ずつ食べることができた。
「おのれ、もう一回!」
「およしよ、おじさん」
とジバコは相手をとどめた。
「もうあんたは疲れているよ」
「うむ、口がしびれてきた。これはどういうことなのだ。シシカバブとおれはもう何十年仲良しだったのに、シシカバブに裏切られるとは思わなかった。待てよ、おれはお前の言う通り梅毒が頭にきているのかもしれんぞ」
髭づらの男は急におろおろと心配げになり、気の毒になったジバコは慌てて言った。
「そうだ、脳梅毒かどうかを検査するには、瞳孔を調べるといい」
「お前にそれができるか?」
「もちろん」
ジバコはもったいぶって、相手の瞳孔を調べる真似をした。
「大丈夫だ。なんともない。ヒポクラテスにかけて梅毒ではなかった」
「おお、そうか。おれはホッとして、今にもおっ死《ち》にそうな気がするよ。有難う有難う」
「いや、どう致しまして」
そう言ってジバコはその場を離れたが、あんな善良そうな男に損失を与えたかと思うと、またしても胸がしくしく痛んだ。
「御免な、お二人さん。このジバコはいつまでもこんなジバコじゃいないからな」
と、彼はひとりごちながら雑踏の中を歩いた。
するうち大通りに出てきて、雑踏はますます途方もないものになってきた。あちこちから物売りの呼声が、その人いきれを縫い、世界じゅうのうす汚ない男女と浮浪者が集まってきたかのような観がある。
その群集の中に、乱暴にも野菜などを積んだ荷馬車が乗りいれてくるのである。しかもゆっくりくるのではなく、ガラガラと威勢よく乗りいれてくる。人ごみが慌ててわかれる。
もっとも慌てるのは、道の真中に台を出して商いをしている木っ端商人たちである。店を持てぬ彼らは、布地だの果物だのパンだのを台一つに乗せて商いをしているのだが、荷馬車がくるとエッチラ台をかかえて道のわきに待避する。そしてまた台と共に道の中央に戻るのである。眺めていて、それは滑稽にも見えたし、また、もの悲しくも目に映ずるのだった。
その中で、なんと宝石を売っている屋台があった。汚ない台の上に、二、三十の蓋をあけた赤い絹ばりの小箱を並べて、それでもその中にはキラキラした宝石らしいものが光っていた。
「大道の真中の宝石売りか」
ジバコは呟いて、なぜとなく微笑ましくなった。
若い宝石売りは、外人らしい夫婦者をつかまえて、大奮戦の最中であった。
「ホンモノ、本物よ。トルコにきたらトルコ石、外国へ行けば十倍もするよ」
しかし客は、いい加減に品物をかきまわした挙句、ついと行ってしまった。若者はうらめしげにその後ろ姿に声をかけたが、たちまちとびあがって台を片づけはじめた。向こうからやってくる荷馬車の御者が怒声をあびせてきたからである。
赤い小箱が、二つ三つ、うつろな音を立てて街路上に落ちた。ジバコはとんでいって、荷馬車の下敷きになろうとする小箱をすばやく拾ってやった。
「あんがと、あんがと。この世にはいい奴が少ないのにね」
と若者は言い、大儀そうに台を元の位置へ戻しはじめた。
ジバコはなんとなく若者に好感を抱いた。いくらかの言葉を交した末、若者の商売を助けることにした。彼はサクラの役を演じた。そのせいかどうか、夕方までに、ようやく宝石は一つ売れた。といって、しがない商いにはちがいなかった。
「あんがと、一割やるよ」
と、宝石売りは小銭をジバコに手渡した。ジバコはそれを有難く貰うことにした。
「あーあ」
と、店じまいをしながら、宝石売りはジバコに話しかけた。
「ここにはトルコ石もエメラルドも猫目石もダイヤモンドもある。だけど全部まがい物だ。あーあ、せめて本物の石で商売したいな。なにもトプカピ宮殿にあるような奴でなくってもな」
「トプカピ宮殿ってなんだい?」
とジバコは尋ねた。
「トプカピ宮殿を知らんのか。あんたはイスタンブールの人間じゃねえな」
「そうだ、田舎からきたんだ」
「後学のために、あそこは一遍覗いてみな。あそこには、世界一っていうエメラルドもあれば、世界で三番目っていうダイヤモンドもある。それこそゴマンてえ宝石がある。あれを見ていると、こんなまがいの石ころ売るのが悲しくなるよ。おいらの夢はな、ちゃんとした宝石店を持って、そこで本物の宝石を売ることさ。それこそ商売ってもんだからな。そこにはさ、こう素晴しい陳列台があって……。おや、あいつ、どこへ行った?」
宝石売りの若者は、不思議そうにきょろきょろと視線をさまよわせた。
つい今し方まで確かそばにいた筈の見知らぬ青年の姿が、いつの間にか煙のように消えてしまっていたからである。
トプカピ宮殿は博物館となっていて、文字通りゴマンの宝物が展示されている。
わりに最近、「トプカピ」という映画が公開されたのを読者もご存知と思う。一団の盗賊が巧智をこらして、トプカピ宮殿から大エメラルドとダイヤモンドに飾られた宝剣を盗もうとする物語である。ところが、その一室の床には夜には電流が通じ、一歩でも何者かが室内に足を踏み入れれば警報が鳴る装置がある。そこで盗賊共は一人の仲間を天窓からロープで逆さ吊りにし、空中から宝剣を盗もうとする。
これは映画だけの話である。トプカピ宮殿の床には、現在までのところ、こんな装置はほどこされていない。しかし、宝物のほうは、映画に登場する何倍も、それこそゴマンと存在するのである。
トルコ石やメノウのついた金きらきんの壺がずらりと並んでいる。豪華な水パイプ。金の象が浮彫されたオルゴール。宝石だらけの箱や刀剣や笏《しやく》。エメラルド製のコップ。金ぴかのコーランの入物や香炉や嗅ぎ煙草入れ。
まだまだ大物があった。三万箇の宝石がついているという玉座。重量五十キログラムの金の大燭台。そして真打ちはもちろん、世界最大のエメラルドと、世界で三番目のダイヤであろう。
「あのダイヤモンドが、世界第三のもので、八十六カラットございます」
と、案内人が説明すると、外人の観光客の群からホウと嘆声が洩れる。周囲の粒ダイヤを入れると、それはなんとニワトリの卵ほどにも見えるのである。
「そしてこちらが」
と案内人は声をはりあげる。
「世界最大の大エメラルド、重量実に三キログラムでございます」
「三キログラム!」
「身につけたら、相当へたばるな」
観光客たちはそれぞれに嘆声をあげる。そして御婦人方は、自分の指にはめている宝石が、急にちゃちに、味気なく思われてくるのだ。人生ってなんてつまらぬものだろう。
ジバコは観光客のうしろに立って、その大エメラルドを見つめた。ここ十日あまり、毎日彼はこの部屋にやってきているのである。
巨大な緑色の輝き。それは宝石という概念からとび離れたものであった。もっと圧倒的で、おしつけがましい、ほとんど不気味な存在物であった。
「傷もある。色も均一でない」
とジバコは、強いてその大エメラルドの欠点を洗い立てて、こみあげてくる身ぶるいを抑えようとした。だが、どうしてもこう思った。
「あの巨大さ、あの重量感。見事だ!」
それから、こう胸に宣言した。
「この地上で滅多に見られない見事なものがここに存在する。それゆえ、このおれがそれを盗ってみせる」
彼の眼差《まなざし》は鋭く、その顔は天窓からさしこむ光線を斜めに受けて、なぜとなく憂鬱げに見えた。
ジバコは石畳にひびく足音を殺すようにして、ざわめく宝物室を出た。しばらくは夢想にふけりながら、あてもなく歩く。
気がつくと、昔のハレムの一角にきていた。そこには石を畳んだ四角い泉があった。中央に噴水がある。遠い過去の日、ここにハレムの美女たちが群って水浴をし、テラスからこれを眺めてサルタンはその夜の相手を決めたと伝えられている。
泉には浅く水がたまり、その底にいくらかの貨幣が沈んでいるのが見えた。観光客が投げ入れたものである。もう一度その地を訪れることができるというローマの泉の伝説とはちがい、彼らはハレムの女のごとき女性にめぐりあいたいと、その貨幣を投げたのであろう。
「おれはこんな泉など当てにしまい」
と、若きジバコは思った。
「女なんてものは、男が一人前になれば自然に寄ってくるものだ。おれは奇蹟や金で女を購おうとは思わない。おれは百人前の男になってみせる、百人前のドロボウに」
泉の水がぼんやりと雲影を映している。目をあげれば、遙か彼方に、ボスポラス海峡をへだてて、ウシュクダルの市街が霞んで見える。
「それには、あのエメラルドを盗らねばならぬ。こいつは、ちょっとした仕事だぞ。ジバコの仕事とよんでよい仕事だ」
若きジバコは昂然と独語した。
「それには資金が要る。節を屈して、ちゃちな仕事を少しはしなくてはならぬな」
それから日が経って、トプカピ宮殿の監守の一人でウダ・ヨーンと呼ばれる中年の男が、ある日、急に腹痛を起して早退した。顔いろがたいそうわるく、仲間の監守は、
「なんだかおっ死《ち》にそうな様子だな」
と噂したが、案に相違して、ウダ・ヨーンは三日ほど経つとけろりとした顔で出勤してきた。
のみならず、顔いろが以前よりもよくなっていた。顔に刻まれた皺も少なくなってしまったように見えた。
「お前、なんだかいやに元気そうになったな」
と言われると、
「そうかも知れねえ。とにかくえらく腹が痛んで、熱が出て、こいつはダメかと思ったら、昨日はケロリとなって、かえって体の調子がいいくらいだよ」
というのがその答であった。それにつけ加えて、
「ただ喉をやられたようだ。しゃべるとどうも苦しい」
「そういえば、いつもと声が変っているようだな」
「あまりしゃべらずにいよう」
そう言って、ウダ・ヨーンは古い陶器類の飾ってあるうす暗い展示室へと歩き去った。
もとより、そのウダ・ヨーンはジバコの変相であった。魔術的な変相術、変体術を駆使する後年のジバコに比べ、それはまだ原始的な変相であった。頬をふくらますにはふくみ綿を用い、顔の皺まで一本々々描いたのである。従って、あまり仲間と一緒に明るい場所にいることは危い。
一方、ジバコは医者に変相して、毎晩本物のウダ・ヨーンの下宿を訪れていた。彼には多少の医学の心得がある。そしてウダ・ヨーンを、死にもせず、起きられもせずといった状態におくように努力した。ウダ・ヨーンが出した欠勤届けも手に入れて破り捨ててしまったことはもちろんである。
こんなふうにウダ・ヨーンに化けたジバコは、毎日、宝物室を巡回しては作戦を立てた。しかし、彼の表情は曇りがちであった。
床に電鈴こそ装置されていなかったが、展示物の警護はまことに厳重であることがわかった。昼間はとても無理である。夜間は、三十分おきに銃を持った兵士と監守が巡回にくる。そして、宝物、なかんずく大エメラルドなどを入れた壁にはめこまれたショーウィンドウの硝子《ガラス》は、特殊硝子が使われていて、尋常の硝子切りではかなりの時間を要すると思われた。おまけに宝石に手をふれれば電鈴が鳴る装置がある。三十分間のうちに、その宝石を盗みだすのはとても不可能といってよかった。その展示場を開ける鍵は、館長しか開けられぬ金庫の中に眠っていて、ここ五年間に一度しか使用されていぬことがわかった。
今でこそジバコには何千の子分もあれば、その秘密研究所では数々のドロボウ用新兵器が作りだされている。だがそのとき、ジバコは無名の青年で、まったくの一人ぽっちであった。
ジバコが思い悩んでいるうちに、一つの情報が耳にはいった。監守に化けていたからこそ得られた情報である。
その大エメラルドの造られた時代その他が曖昧であるので鑑定を依頼したという噂である。近日中に、大英博物館名誉顧問ほか三十七の肩書を有する、かの六千ページに図版八十七ページの大著「世界の宝石」の著者、サー・シラザア・マショウ博士が鑑定のためにイスタンブールを訪れるというのであった。
「そのときには、あの展示場が開かれる。とにかくあのエメラルドが取りだされるのだ。なんとか細工する隙もあろうさ」
ジバコは胸をおどらせた。それから、じっと瞑想にふけった。
シラザア・マショウ博士がやってくるというのは本当であった。それから半月も経たぬうち、イスタンブール港にはいった客船のタラップを、知っている人は知っている白髪の片眼鏡をかけた博士が、ゆっくりと降りてくるのが目に映った。だが、ふしぎなことに、出迎えたのはトプカピ宮殿の館長一人であった。
「これはマショウ博士、このまえお目にかかってから何年になりますかな。遠路はるばる御苦労さまです」
「なに、わしの役目ですからな。こと宝石に関しては、わしはどこへでも参りますじゃ」
老齢のマショウ博士も、手を差しのべながらしわがれ声で言った。
「だが、あのエメラルドの由緒、出生はすっかりわかっている筈じゃ。大体わしの『世界の宝石』の千八百五十三ページから千八百七十一ページを開いただけでも……」
「マショウ博士、これにはちと仔細がございましてな、あまり大声を出さないで頂きたい。とにかくこれへ」
館長は博士を車に招じ入れた。そしてホテルまでゆく車の中で、ひそひそと話した。
「あのエメラルドについてはもとよりなにもかも判明しております。時代考証というのは口実にすぎません。実は妙な噂が立っておりまして」
「噂じゃと?」
「噂というより、はっきりした抗議といってもよい。あの大エメラルドが贋物だというのです」
「ほほう」
「私らのところへはいくつかの投書がきております。一言でいえば、距離をへだてているので確言はできないが、あのエメラルドの光輝には疑わしい点がある、という主旨なのです。それがけっこう名のある宝石商とか、名の通った貴族だとか、そういった人からのもので、私らとしても等閑に附せない事柄です。なんとしても至急調べねばならない問題でして」
「それなら、あなた方で調べられたらよかろうに」
と、マショウ博士は冷やかに言った。
「それが、そういう疑惑を越えて更に広範囲にひろまった噂といったものになっている様子です。ここは単に当事者が調べるより、あなたの名声と権威に頼りたい気分になりまして」
「わしはどうでもよい。宝石を見るためにわざわざここまできましたのじゃからな」
「で、公開の席で鑑定をお願いして、万一にも贋物ということになると大変ですので……」
「宝石には二種ある」
と、マショウ博士はきっぱりと言った。
「本物と、贋物ですじゃ。贋物なら贋物で致し方なかろう」
「ですが、それではトプカピ宮殿の伝統に傷がつきます。一点たりともオリジナル以外はおかないというのが私どもの誇りでしたからな。万一贋物の場合は、それをどういうふうに発表するか、考慮する時間が欲しいわけで」
「で?」
「鑑定は、あなたと私と二人だけで、トプカピ宮殿の館長室で行いたい。明日九時にお迎えの車を差しあげます。そのままホテルからトプカピ宮殿にきて頂きたい。鑑定が済むまで、記者その他、いかなる人間とも会わないで頂きたい」
「けっこうですじゃ」
マショウ博士は無愛想にこたえた。
車はホテルに着き、運転手がとりわけうやうやしくドアをあける。マショウ博士は、じろりとその運転手の顔に視線を走らせ、あとからおりてきた館長をふりかえり、そっと訊いた。
「あの男はおかかえの運転手かな?」
「そうですが、なにか?」
館長はふしぎそうに答えた。
──その夜、いや翌日の暁方のことである。マショウ博士の部屋は静まりかえっていた。すべての灯は消され、ただマショウ博士の静かな寝息が聞えてくるばかりである。それでも闇に目が慣れれば、古風な室内の様子がおぼろげにわかるのは、そろそろ夜が白みかかっている証拠であろう。
突然、部屋のドアが、静かに静かに開きはじめた。なんの音もしない、なんの気配もしない、ただドアだけが静かに開いてくる。
マショウ博士がびくりと動いたように見えた。だが、ぐっすり寝入っている証拠には、相変らず規則正しい寝息が伝わってくる。
ドアはついに三十センチほど開いた。その隙間から、なにか黒い影がついと忍び入った。なんの音もなく、なんの気配もしない。忍者を思わせる行動である。
黒い影はじりじりと動いて、マショウ博士のベッドに到達した。しばらく寝息をうかがう。それから電光のように、博士の口を濡れた布でおおった。やがて、手の下の筋肉がぐったりとなるのが感じられる。
黒い影はスタンドに灯をつけた。ぐったりとなっているマショウ博士を一瞥して、それから壁際のトランクのそばに駈け寄った。むろん鍵がかかっている。しかし、彼が針金を差しこんでいくらかの時間をかけると、蓋はわけもなく開いた。
「宝石の鑑定というのはおれはよく知らないんだ」
と、黒い影、つまりジバコは呟いた。
「こいつはなにかルーペを持っているだろう。おや、妙な器械があるな。これを持っていこう」
彼はごそごそと荷物をかきまわしていたが、革袋につつんだずっしりと重く固いものが手にふれた。
開けてみて、さすがのジバコも息をのんだ。今までに幾度眺めたかもわからぬあの大エメラルドが、そこに燦然たる光を放っていたのである。
「どうしたことだ? いやいや、エメラルドは今もたしかにトプカピ宮殿にある筈だ。してみると、これはまがい物か?」
ジバコはずっしりとしたエメラルドを灯にすかして、よく見た。光質といい色つやといい、まがい物とはとても思えなかった。
「しかし、これはどうしても贋物の筈だ。だが、なんのためにマショウ博士はこんな贋物を持っているのだ? はじめて見たときからなにかあやしい感じがしたが、どうもうさん臭い野郎だ」
ジバコはしばし考えこんだが、なんら納得のゆく考えに到達することはできなかった。
「まあいい。この贋物があれば、仕事はいっそうし易くなる。天の恵みかな。それではマショウ博士、まあ夕方ころには目が覚めるだろうから、ゆっくりとお寝み。それまでにこちらは一仕事済ましておくからね」
ジバコは、しばらくマショウ博士の寝顔を観察したのち、手早く用意してきた道具をひろげて変相にとりかかった。彼の手が目まぐるしく動く。鏡を覗きこむ。手がうごく。そしてしばらくすると、そこにはもう一人のマショウ博士が立っていた。ついでジバコはルーペや二、三の器械、それからずっしりと重い、まがいの宝石を、用意した袋につめると、灯りを消し、するりと部屋を抜けだした。
あとには、ベッドの上に昏睡したマショウ博士が残される。静かに時が流れる。
と、世にもふしぎなことが起った。
「ふっ、ふっ、ふっ」
という忍び笑いがひびいてきたのである。
昏睡していた筈のマショウ博士が笑っているのだ。闇の中に、博士は今やパッチリと目を見開いていた。そして、この奇怪な老人は、こんなひとりごとを呟いていた。
「ふっ、ふっ、ふっ、お若いの、なかなかすばしこいな。どうやらただのコソ泥でもなさそうだ。お前さんがなにをやるか、ちょっと拝見させて貰うかな。わが輩は、こうしたことが大好きなのでね」
かつてはサルタンの寝室であったトプカピ宮殿の館長室は、窓というものがなかった。暗殺を恐れたサルタンが窓というものを作らなかったのである。かつては十五の金色燦然たる燭台がこの部屋を照らしたものだ。が、今は平凡に電燈がついている。
この部屋に通ずる路が四つ、いずれにも何重もの厳重なドアがある。もっともドアの少ない路からハレムの女たちがはいってきた。いずれにしても、外界から隔絶された奥まった部屋であることは確かである。
その部屋の机をはさんで、館長とマショウ博士が対坐していた。机の上には、大エメラルドが傲然と鎮座している。きらびやかな古き歴史が、このエメラルドという形をとって、そこにぬっと姿を現わしたという観があった。
「では、マショウ博士、ぞんぶんに見て頂きましょう」
緊張した声で館長が言った。
「さよう」
と、ジバコの化けたマショウ博士は、きらりと片眼鏡を光らし、おもむろに持参したカバンの口をひらいた。
実はジバコはまだその時分、宝石の鑑定について、ろくすっぽ知識もなかったのである。なんとなくルーペを目に当てて、ものものしげに眺めてやればいいのだろうと考えていた。幸い、マショウ博士の荷物から盗んできた面妖な器具がある。館長といったとて、べつに宝石の専門家ではあるまい。
ジバコはまず一つの器械をひっぱりだした。それがなんであるかは彼にはわからなかった。
「さて館長、しからば鑑定にとりかかる」
「なにとぞよろしく」
「これがなんであるか、おわかりかな?」
「それはモース硬度計でしょう」
「さよう、モース硬度計でありますじゃ」
とジバコは答えたが、内心少しぎくりとした。
とにかく硬度を測る器械であるらしい。だが、それをどうやって使うかがわからない。
「近ごろは科学的な鑑定が進んできとる。いろいろな器械もできてきておる」
と、彼は時間かせぎに言った。
「しかし、これが肝腎のことですぞ。最後に残るものはやはり直感。選ばれた者がルーペによって見る、その心霊的直感にあるのですぞ」
「ごもっともで」
と館長はこたえた。
「もとより私どもも、博士の直感を頼りに、こうしてわざわざ来て頂いたので」
ジバコは、すんでのところで、「それなら、わしの直感によれば……」と言いたいところであった。しかし、それではあまりに簡潔すぎて、館長の納得を誘えぬであろう。この世には、理由はともあれ、もったいをつけることが必要であるときが確かにある。
「これがモース硬度計である以上、まず硬度を測りますじゃ」
と、彼は言った。
そして、器械を取りあげ、エメラルドに近づけ、なにやらある仕草をした。
「うむ、なるほど」
「早く測って頂きたい」
と、館長がうながした。
「もう測りましたぞ」
「えっ、しかし博士はまだ何もせぬようだったが」
「とんでもない。不肖マショウ、硬度を測るくらい目にもとまらぬ早わざで為すことができる。そのためにサーの称号も受け……」
「本当に目にもとまらなかった。さすがはマショウ博士」
と、館長は感服のいろを湛えて言った。
「して、硬度はいかほどで?」
「さよう、三・一四一五九……」
「なんと! そんなに低いですか。エメラルドの硬度はおおむね七・五から八くらい……」
「なに、わしは円周率をちょっと復習したわけですじゃ」
と、ジバコは慌てて言った。
「さよう、硬度は八・〇〇〇三五九くらいですな」
「なるほど」
と、館長はホッとしたように言った。
「次はなにを測られますかな?」
「さよう」
と、ジバコは次の器械を盲滅法にカバンから取りだした。それは金属の箱で、なにやらいかめしい彫刻が刻まれていた。
「館長、これはなんだと思われるな?」
「箱ですな。中には何が?」
ジバコは蓋をあけてみた。すると、なにやらほそい木の根っこみたいなものが何本もはいっていた。
「これはなんだろうなあ。なあに館長が知ってるだろう」
と、内心すっかり弱りながらジバコはそれを示した。
「まず、かようなものでな」
「なんでしょうな。こんなもので宝石を鑑定するのですか」
と、館長は疑わしそうに言った。
「なんだか、噂にきく日本のヒゴのズイキみたいではないですか」
「さよう、ヒゴのズイキですじゃ」
と、ジバコは調子をあわせた。
「ははあ、それをどう使われるので?」
「これをこのように……水に浸して、水がないときは唾をつけて、このように宝石に巻きつける。ぎりぎりとしばりますのじゃ」
「ははあ」
「そして、こうやって小指でぶらさげる。これは最近オランダで発明された法で、つまり比重を測るのですじゃ」
「なるほど、寡聞にしてまだその方法は知りませんでした。して、比重はどのくらいで?」
「三十五・六七」
「なんと! ダイヤモンドの比重が三・五で、エメラルドは二・六から……」
「いや、言い間違った。ちゃんと二・六五と出ておりますぞ。ズイキのしなり具合でそれがわかる」
幸い、館長は宝石が贋物かどうかということばかりに気をとられていたので、ホッとした様子で性急に問いかけてきた。
「そちらの器械はなんですかな」
「これはですじゃ」
と、ジバコはその針金と管とが複雑に曲りくねった変ちくりんな器具を前にして、すっかり弱りながら、
「つまり、ここに点火と書いてある。ここに火をつけるのですじゃ」
ジバコはマッチの火を近づけた。すると、シュッと音がしたかと思うと、管がくるくるとまわりはじめた。そして先端から、シュッシュッと目まぐるしく閃光をほとばしらせた。
館長はギョッとして椅子からとびあがり、机の下に隠れようとした。ジバコもできることならその真似をしたかった。しかし、彼は我慢して、平気な様子をよそおった。
器械は一分間ほどシュッシュッと火をとばしながら廻っていたが、どうやら爆発もせずに静かにとまった。
「それは一体全体なんでござるか?」
と、おっかなびっくり館長が尋ねた。
「さよう、これこそ近ごろ大英博物館で発明された器械で、俗にネズミ花火ともいっておる。つまり、この閃光を受けた宝石の反射によって、屈折率を測るのですじゃ」
「ほほう、していかなる数字が出ましたかな?」
「エメラルドの屈折率は館長はご存知と思うが」
「一・五六から一・五九くらいですかな」
「さよう、ぴたり、一・五八九七と出ましたぞ」
館長はホッとし、ジバコ自身も安堵の胸を撫でおろして額の汗をふいた。しかし、あまりふくと変相がはげるのである。
「では、いよいよ、直感による最後の鑑定にとりかかる」
彼はもったいぶってルーペを目にはめ、ジロジロギロギロと大エメラルドを眺めはじめた。上から見、横から見、斜めから見、下から見た。さすがに彼は今にも自分の正体がばれはしまいかと、苦しげに呼吸した。その吐息につれ、館長も心配と危惧に身を乗りだし、苦しげに呼吸した。
ついにジバコはルーペを外した。
「私の見たところ、つまり宝石に関しては地球と呼ばれるこの星で第一人者と自他共に許すこのサー・シラザア・マショウ博士が全智全能をしぼって鑑定したところ、この大エメラルドは、まさしく本物でありますぞ!」
「おお神よ、感謝します」
館長は叫んで、どっと椅子に沈みこもうとして、椅子もろともうしろにひっくり返った。その隙に、ジバコがカバンの底にひそめてきた、本物のマショウ博士から奪った贋物のエメラルドを、机の上のエメラルドとすりかえたのは当然の成行きである。
「それではマショウ博士、鑑定書をお願いしますぞ」
と、ようやく起き直った館長が喜色満面に叫んだ。
「承知しました。わしはさっそくホテルへ戻って、五百ページの鑑定書を書きましょう」
「そんなに長くなくとも、博士の署名だけがあれば」
「いや、長いのはわしの趣味ですじゃ」
「それではさっそくお車を」
「いや、そのままそのまま。館長は宝石についていて欲しい。万一盗難にでも会うとこれまでの苦心も水の泡ですからな」
館長は直立不動の姿勢をとると、ものものしい口調でこう述べた。
「私は、トプカピ宮殿は、イスタンブールは、否、トルコ全体は、マショウ博士の御足労に対し、雨あられの感謝を捧げていることを、決してお忘れないように」
「まったくその通りですな」
ジバコは皮肉に言うと、ずっしりと重いカバンを取りあげた。
夜であった。まして、ここは暗黒であった。
そこはイスタンブールの昔の地下水道であった。城内で使用する水に毒が投じられたりしないため、千五百年まえのサルタンがこの地下の貯水槽を作ったのである。
懐中電燈をつけると、林立した石柱がおぼろに浮きあがった。今は水はちょっぴりとしかたまっていない。その水をぴしゃぴしゃと踏みながら、ジバコは歩いた。肩から吊った袋には、ずっしりと重い大エメラルドがはいっている。
「もうとうにマショウ博士も目覚めたろうから、今ごろは大騒ぎをしてるだろうな」
と、彼はほくそえんだ。
「非常線がはられて、軍隊までが動員されてるかも知れないぞ。重量三キロのエメラルドだ、見つからん筈がない、と館長は吠えているだろうな。だが、どっこい、このジバコはそんなものをかかえてのこのこうろつきまわったりする間抜けじゃないさ」
宝石を盗ろうと計画しはじめてから、彼は真先にその隠し場所を考えた。それがこの地下水道だったのである。彼は前からここを調査し、とある壁の石を一つ外して、その奥に宝石を入れるに足る空間をこしらえておいた。今、それが役に立つのである。
「それにしても、あのマショウ博士はなんであんな精巧な贋物を持っていたのだろうな。彼も宝石をすりかえるつもりだったのか。そうすると、彼はあのエメラルドが贋物だということを言わぬかも知れない。それならそれでいっそう好都合だ。いずれにしても、マショウ博士という奴は、一遍洗ってみる価値のある人物だな」
ひそかに目印をつけておいた箇所にきた。ジバコは石の数をかぞえた。ここから右へ七つ、下から五つ、そこの細工された石をいじると、それはぽっくりとはずれた。
「さあ、大エメラルドさん、ほとぼりがさめるまで、ここでおねんねしておくれ。いつの日か、このジバコが私設美術館をつくるときには、すばらしい褥《しとね》の上に飾ってあげるからね」
ジバコは懐中電燈の光で大エメラルドをもう一度眺めた。すばらしい光輝。光輝はもはや彼一人のものなのだ。
それから彼は台座の裏を見た。館長室でちらっと、そこになにか文字が彫ってあるのに気づいていたからである。
「A・L」
たしかに、そう読みとれた。
「A・L。これはなんのことだ?」
彼の知識には、それに相当する言葉はなかった。いや、盲点になっていたのだ。
「A・L。一体なんのことだ?」
彼はもう一度、今度は声に出して呟いてみた。
そのとき。
「それが、わからんかね?」
朗らかな声が後方からひびいたのである。
ジバコはさっと身をひねって、懐中電燈をつきつけた。そして、体中の血液が凍るような驚愕を覚えた。
「あ、おまえはマショウ博士」
「ふっふっふっ」
と、白髪に片眼鏡の怪老人はわらった。それは昨夜会ったマショウ博士の声とはまったく違っていた。
「お若いの。本物のマショウ博士はな、今もロンドンのとある一室に監禁されているよ」
「じゃ、おまえは何者だ?」
ジバコは、相手に威圧されるのを覚えながら、懸命に気力を取り戻そうとした。
「わが輩の名は、そこにちゃんと書いてある。A・L。すなわちアルセーヌ・ルパン」
「ア、アルセーヌ・ルパン!」
さすがのジバコも、へなへなと体が崩おれそうになった。
「あんたはまだ生きていたのか」
「ごらんの通りだ」
と、ルパンは年老いた中にも朗らかな声で言った。
「だが、わが輩ももう年をとった。わが輩は今、自分が壮年のときに働いた盗みの決着をつけているところだ」
ルパンはふしぎに人を惹きつける微笑を浮べた。
「いいか、お若いの。お前さんは大エメラルドを盗ったつもりでいるが、実はトプカピ宮殿に置いていったほうが本物だ」
「え、じゃあ?」
「本物はな、わが輩がもう三十年も前に盗んでしまった。代りに贋物を置いていった。三十年間、トプカピ宮殿に飾られていたのは、わが輩が作った贋物だったのだ」
「そして、それを?」
「そうだ。本物はわが輩の美術館にずっとあったのだよ。しかし、このまま死んでは世間の人に申訳ない。わが輩は本物を返そうとして今度の芝居を企んだ。トプカピ宮殿にあるエメラルドが贋物だというデマは、わが輩が流したのだよ」
ルパンは愉快そうに笑った。
「お若いの。実をいえば、世界の博物館、美術館にあるオリジナルという奴の、実におびただしい数が贋物だった。本物はみんなわが輩が盗んでしまったからな。だがな、世間の奴らの眼玉なんか節穴よりひどいものだよ。みんなわが輩のつくった贋物を有難そうに拝んでいるのだからな。お前さんも、ドロボウである以上、もう少し眼を磨かんといかんな」
ジバコは素直に頭をたれた。
「わが輩は、盗った本物をみんな元の位置へ返してから死のうと思っているのだ。いずれはまた、わが輩くらいの眼力と腕を持った人間が生れてくるかも知れんからな。お若いの、お前さんにはちょっと見どころがある」
「恥ずかしい」
と、ジバコは足元の水の中にもぐりたい気分だった。
「昨夜、お前さんが忍びこんだ手口はなかなか見事だった。が、もしお前さんがわが輩に危害を加えるつもりだったら、お前さんは一撃でのびていた筈だよ。麻酔薬だったからわが輩は眠らされたふりをして様子を見ることにした。わが輩は五分間くらい平気で呼吸をとめられるのだよ。お若いの、お前さんもだんだんと腕を磨くのだな」
ルパンは言葉をつづけた。
「お若いの、わが輩ももう年だ。死期が迫っている。わが輩は知られずして消えてゆく。これからは、お前さんたちの時代だ。が、くれぐれも、ケチなドロボウにはなるなよ」
「はい」
ジバコはこっくりした。
「では、わが輩はもう行く。今度のわが輩の役割はお前さんがしてくれたからな」
ルパンはゆっくりと背を向けると、そのまま遠ざかろうとした。
「あ、ルパンさん。これをお返しします」
と、ジバコは慌てて、ずっしりとしたエメラルドを差しだした。
「それはお前さんが盗ったものだ。わが輩にはもう不要だ。贋物とはいえ、アルセーヌ・ルパン作の贋作、相当の値にはなる。切って売るのだね。ひとかどのドロボウには資金が要る」
最後の声は、むこうの円柱のかげに消えた。しばらくすると、ルパンのいる気配もすっかりなくなった。
「アルセーヌ・ルパン。あの人こそ怪盗だ。怪盗の名にふさわしい人だ」
あとにとり残されたジバコは呆然と呟いた。しかし、この青年は、やがてきっとむこうの暗闇に目をすえると、こう独語した。
「だが、いつの日か、このジバコはきっとあの人以上の怪盗になってみせる」
やがて、ジバコの姿はイスタンブールから消えた。
しかし、喧噪のバザールの中で、パン売りの男と、シシカバブ売りの男と、インチキ宝石売りの男とが、ある日仰天したことは附記しておく必要がある。
三人はいつものように自分の商品を売っていた。そしてふと見ると、自分が一通の封筒を握っていることに気がついた。その中にはかなりの額の紙幣、そして、
「君の人間性のために。○○○」
と書きなぐった紙片がはいっていた……。
──そのときから、ずいぶんと歳月が流れた。あの三人はどうしていることか、あのとき中年だったパン屋やシシカバブ売りは果してまだ生きていることか。もし生きているにしても、あのときの「○○○」という署名を果して覚えているであろうか。そしてその名を、今の世では世界にあまねく知られている「怪盗ジバコ」と結びつけて考えることが、果してあるであろうか。
007号出撃す
聖ミケル・聖ジョージ上級勲爵士、サー・マイルズ・メッサヴィ海軍中将、というより通称Mは、いつものように冷淡な、そのくせいらだったような視線を、彼の事務所の机の上にすえていた。
暗号電報の綴込みをひきよせると、軽蔑したような目つきですばやく目を通す。二、三のものには、眉をしかめてわずか何か書きこむ。面倒臭げに既決の籠にほうりこむ。或いは、どこかの部に短い電話をし、ぶっきら棒な命令をくだす。
すべてが、てきぱきと、そっけなく、無愛想で、不機嫌のうちに行われた。Mのいつもの日常なのである。あとには、極秘の赤星のついた綴込みが一冊残った。
Mは渋面を作って、パイプをくわえるとマッチで火をつけようとした。その火がなかなかつかないのである。彼はたしかに七本のマッチを無駄にした。Mがいらだっている証拠である。
インターフォンのランプがまたたいた。
Mはスイッチを押し、気むずかしい声で、
「何かね?」
「007号が参りました」
「よし、通してくれ」
Mはゆったりと椅子に坐り直すと、パイプをくゆらそうとした。しかし、いまいましいパイプはまたもや消えており、Mは癇癪を起して十本のマッチを一度にすった。
「アッチッチ」
手を火傷しそうになり、怒りに満ちた視線をあげて見ると、すでに机の前に、おなじみ007号がにやにやしながら立っていた。
どうもいつものように隣室で女秘書の尻を撫でてきたらしい。或いは手っとり早くキスでも?
「ジェームズ」
と、Mは苦りきった表情で言った。
「どうだ、その後元気か?」
「はあ、すこぶる元気です。ただ、ここのところ仕事──生命をかけた仕事がないので、少しばかり贅肉がついたようです。それと、ちっとばかり頭の毛が薄くなったような気がします」
「ふむ、トレーニングはつづけていたじゃろうな?」
「はあ、日本の万歩計というのを買いこみまして、一日一万歩は歩くことにしています」
「ばかな!」
と、Mはこめかみに静脈を浮きあがらせて怒鳴った。
「おまえはいやしくも、わが秘密情報局部員の、しかもゼロゼロ台の番号をもつ男だぞ。格闘とかランニングとか射撃のほうはどうだ?」
「少しはやっております」
と、ジェームズ・ボンドは落着いてこたえた。
「しかし、ここのところわざと手を抜いております。なぜなら、私の読者、つまりイアン・フレミング作の007物語をよむ読者は、私があまりに強すぎるので少々飽きがきているようです。私がもう少し人間的弱点があって、もう少し危機に陥って難渋してもよいように考えている様子です」
「それじゃ」
と、Mは苦虫を噛みつぶし、ついでにパイプの柄まで噛みきってしまった。
「ジェームズ、おまえがあの007物語で得意になるのは勝手だが、あれは世界中で有名になりすぎていて、ここにもいろいろな投書がくる。それがわが英国秘密情報部、ひいてはこのわしまで関係してくるのは困ったものだ。『ドクター・ノオ』の事件で、わしはおまえの拳銃を代えさせたな」
「そうです。私の愛用のベレッタの二五口径は婦人ものと言われ、ワルサーPPK七・六五ミリのものに代えられました」
「そのとき、わが兵器係のブースロイド少佐が、ワルサーはどこの国でも弾丸がたやすく手に入るのでよいと言ったな」
「その通りです」
「しかし、拳銃の専門家から、次のような投書がきておる。いやしくも拳銃使いなら、自分専用の弾丸を使っている。ブースロイド少佐と彼のスタッフなら、市販の弾薬の八分の一の製作費でもっと完璧な弾丸を作れるだろう。英国秘密情報部もずいぶん手抜きをやるものだな、とな」
「ははあ」
「更に、おまえは左の脇の下にホルスターを吊っておるが、そんなものはボタンがけの長靴やアル・カポネと同様、過去の遺物だとあるぞ。これからは、腰骨の右うしろにホルスターをつけろ」
「ははあ」
「しかも、これはアメリカ人からの投書だが、007号は五分の三秒で拳銃を抜けるように訓練させられるというが、FBIの連中は四分の一秒以下で抜くことを要求されているし、そこらのアメリカの警官でさえ、生きているうちに年金をもらうつもりなら、二分の一秒で抜くというぞ。そうしたことを、キングズリー・エイミスという作家が本にまで書きおった」
「ははあ」
「これは、ジェームズ、おまえに対する侮辱だけならいいが、ひいては大英帝国の名誉にもかかわることだ。それにおまえは妙に食通ぶるらしい。おまえが『カジノ・ロワイヤル』の中で特製のマティーニの作り方を講釈するところがあるが、その中にキナ・リレを入れたりするのは噴飯物だと酒の通は言っておるぞ」
「ははあ」
「要するに、おまえはばかげた人気によって増長しておるのだ。なんだ、いやしくもゼロゼロ台の殺しのナンバーが万歩計などとは!」
「しかし」
と、ジェームズ・ボンドはあくまでも自信たっぷりに抗議をした。
「私は女に対するトレーニングだけは欠かしておりません」
「おまえが女に対して凄腕なのは認める。過去のいろんな事件に於てもな」
と、Mは渋々うなずいた。
「しかし、あまりトレーニングをつみすぎて、女によって骨抜きになるのではあるまいな」
ジェームズ・ボンドは凄みを見せてにやりと笑った。
「私が女好きなことは確かです。過去に無数の女に惚れております。しかし、それによって骨のかけらも抜かれたことはなく、すべて女どもを征服し、彼女らを利用しております。私の哲学の一端を申しましょうか。私がたとえ絶世の美女にうつつを抜かしているように見えても、私の魂の一部は常にこう呟いているのです。この牝め! と」
「それは結構だ」
と、Mは灰色の瞳をじっと007号の上にそそぎながら言った。
「ところでジェームズ、今日呼んだのはほかでもない。また出かけて貰わなくてはならない」
「私もそろそろ万歩計と縁を切りたいと思っていたところで」
と、ボンドは皮肉に、しかし内心本気になって胸をはってこたえた。
「私が出馬しなければならないとなると、さぞかし生命の危険に満ちた仕事でしょうな」
「いや、生命の危険はまずあるまい」
「それはまたどうしたことで?」
「相手が、人の生命を奪うことが嫌いな男だからだ」
ボンドは鼻先に皺を寄せた。
「失礼ながら、それは私の仕事じゃありませんな」
「だが、わしは命令する。おまえにやって貰わねばならん」
と、Mは突然いきりたって怒鳴った。
「なぜなら、これは大英帝国の存亡に関係することだからだ」
ボンドは冷静に上役の表情を見つめた。過去、彼はソビエトのスパイ組織、はては世界を破滅させようとする陰謀をいくつも阻止してきた男である。しかし、それらの事件に対して指令を発したときよりも、Mは更に緊張して、否、むしろ畏怖しているようにさえ見受けられた。
「で、相手は?」
しずかにボンドは訊いた。
Mは、むしろそっけなく答えた。
「怪盗ジバコだ」
ボンドの顔には複雑な表情が浮んだ。彼とても怪盗ジバコの噂はよく聞き知っている。今ではその名は、英国首相の名よりも、人口に膾炙《かいしや》しているのである。といって、いくら怪盗とはいえ、たかがドロボウはドロボウではないか。それが、一国家を背景とした組織と戦ってきたボンドのプライドに触れた。
「ジバコのことは、スコットランド・ヤードにまかしておけば宜しいでしょう」
彼はひややかに言いきった。
「それがそうはいかん」
Mの表情は峻厳そのものであった。
「ジェームズ、おまえは過去、スメルシュ、ブロフェルド、スペクトル、ゴールドフィンガー、ドクター・ノオなどと戦ってきた。そしておまえは立派にやってのけた。が、今度の相手はそれよりも上手だ」
「といって、ジバコという奴はもうあこぎな盗みもしないというじゃありませんか。せいぜい飼猫の皿一枚を道楽に盗むくらいで」
「ここ数年はそうだった」
Mは沈鬱な声を発した。
「それがひょっとしたことで、彼はとんでもない宣言を発してきたのだ。大体ジバコは、とうに王侯のような身分で、某所にのんびりと隠棲して暮しておった。これはちょっとした城で、その中でうまいものをたべ、美酒をのみ、ハレムのように美女をはべらして暮しているという情報だった」
「ほう? ハレム?」
と、ボンドは多少羨望に近い声を出した。
「そうだ。なんでもでかいプールがあって、世界各国の美女を泳がせておった。そのプールはただの水ではない。なんでも日本産の葛粉とかいうものを入れ、各種の食前酒を入れた微温プールだそうだ。するとこれが美酒入りの葛湯というものになる。ねばねばとして手足の自由が利かぬ。これを泳ぎ切った女は、つまりとりわけピチピチとした女というわけだ。ジバコはその夜はその子を相手にするのだな。まず彼女の全身にべっとりとついた葛湯を舌でなめる。どこからどこまでな。これがジバコ流の前戯で……」
「もう結構です」
と、ボンドは憤然としてMの言葉をさえぎった。こと女に関しては、怪盗ジバコであれドクトル・ジバゴであれ、彼がひけをとろうとは思われぬ。
「怪盗ジバコという奴は、少なからず生意気な奴らしいですな。私もちょっとちょっかいを出してやりたい気になりました」
と、ボンドはうめくように言った。
「ちょっかいではすまぬ。ぜひともジバコを捕えねばならぬ。ことは大英帝国の生死に関することだ」
Mの声はあくまで生真面目であった。
「というと、ジバコめがまたぞろ何かをやりだすということで?」
「そうだ。はじめはたわいもないことだった。ジバコが、例の道楽というか趣味というか、ちょっとした盗みを働こうとした。ジェームズ、おまえは八百年前、ルイ二世が作った豚のオルガンというものを知っておるか?」
「私は、たとえばソ連内務省の特別部、かつてスメルシュとかOKRとか、或いはGPU、OGPU、NKVD、MVDなどの名称で呼ばれている機関のことはよく承知しております。しかし、豚のオルガンとは!」
「これは本当の話なのだよ、ジェームズ。つまりルイ二世は、箱の中に十二頭の豚を並べて入れ、キーを叩くと豚の尻に針がささって、ブーと鳴るオルガンをこしらえたのだ」
「御冗談を!」
「いやいや、わしもその話を聞いたときは噴きだして、すぐには調査も命じなかったのだが、これは真実の話だった。しかも、その豚のオルガンを、わが国のコレット公爵という男が所有していたのだな。怪盗ジバコはこれを狙った。例によって予告状を発してきた」
「ジバコのやりそうなことですな」
「そこで、スコットランド・ヤードがいきりたった。なにせ彼らは今まで何度となくジバコに鼻を明かされてきたからな。彼らも考えた。オルガンの盗難を防ぐことはむずかしい。しかし、豚を奪われまいとしたのだ」
「豚を?」
「そうだ。オルガンに入れる豚は、ただの豚ではない。なにしろ個体によってドレミファを発する特別な純血種の豚なのだ。コレット公爵はこの豚の飼育所を持っている。スコットランド・ヤードは、オルガンを放擲して、その豚をすりかえたのだ」
「なるほど」
「しかし、ジバコの手腕を怖れるあまり、この純血種の豚の輸送に慌てすぎた。そのため、高貴な豚はすべて死んでしまった」
「で?」
「ジバコはオルガンを盗むことに気をとられて──むろん首尾よくオルガンは盗みおったが──豚のことは二の次となった。これまでのジバコの仕事としては最大の失敗といえる。せっかくのルイ二世のオルガンもそこら近所の豚のためろくな音響を発しなかった。しかも世界に唯一のオルガン用の豚たちが死滅したことを知ったとき、ジバコは激怒した」
「ドロボウふぜいが何を怒ることがありましょう」
と、ボンドはむっとしたように眉をひそめた。
「しかし、ジバコが怒ったことは事実なのだ。彼は、かくも貴重な文化財をむざむざ廃物にしてしまうような国家は、存続の理由がないと通告してきた」
「ほほう、なかなか大言壮語しますな」
「ジェームズ、真面目に聞いてくれ」
と、Mは悲痛な表情をした。
「かつてドイツ軍がドーヴァー海峡を渡ろうとしたときよりも、わが英国は危機に直面している。ああ、チャーチル卿が健在だったら! 女王にはまだこの報告はなされていない」
「一体ジバコは何を企んでいるので?」
「ポンド紙幣の偽造だ」
Mは吐き出すように言った。
「ジバコの組織、その信ぜられぬ魔術的な科学力で、偽造紙幣を出されたとしたら! その紙幣はまったく本物と区別はつかぬだろう。ただでさえポンドが危い時期だ。ポンドといえば過去の世界経済を握っていたのだ。世界の基軸通貨《キー・カレンシー》だ。それが今はあやうい。そこに大量の偽造紙幣をばらまかれては! ああ、大英帝国は滅びる!」
「落着いてください」
007号、ジェームズ・ボンドは上役を非難するようにきっぱり言った。
「たかが、相手は一人のドロボウです」
「おまえはインフレというものを知っておるか」
Mは冷い灰色の目をあげて、
「インフレというものがどれほどこわいものか知っておるか。世界で最大のインフレはいつどこの国で起った?」
「さあ」
と、ボンドはためらいがちにこたえた。
「まあ、第一次大戦後のドイツではありませんか」
「おまえは世間知らずだ。女と車とギャンブルと殺しを除いてはな」
と、Mはにべもなく言った。
「第二次大戦後のハンガリーだ。一九四六年、ハンガリーでは一|垓《がい》ペンゴ紙幣というのが発行された。一垓というのは、一兆の一億倍だ!」
Mはそのまま頭をかかえて机の上に突っ伏してしまった。
ジェームズ・ボンドも、今は真剣な顔で身じろぎもしない。
やがてMは肩で息をし、顔をあげると、007号のたくましい肢体にすがるような視線を流し、
「ジェームズ、大英帝国の危機を防げるのはおまえしかいない。おまえだって、一垓ポンドでバーボンのウイスキー一杯しかのめない身分になりたくはあるまい。ジバコはまだその某所の別荘、つまり彼の城に美女たちと暮している。しかし、いずれ彼が世界のどこかへ旅立つという情報がはいった。そここそは、ポンド紙幣の偽造の本拠地だろう。ジバコを旅立たせてはならない。それを喰いとめてくれ。ジバコに対抗できるのは、この世におまえしかいない」
「その情報というのは?」
「わしは先にジバコの別荘にゼロゼロ台番号の秘密情報部員を三名送りこんだ。葛湯のプールなどは彼らの情報だ。しかし、その後ばったり音沙汰がない。おそらくすでに捕えられているのだろう。そこで最後の切札であるおまえ、007号を派遣するというわけだ」
ボンドはすっくと立ちあがった。決然として言った。
「つつしんでその御命令を拝受致します」
「ありがとう」
と、Mもいかめしく立ちあがった。
「その某所のジバコの山荘に侵入する作戦には、英国空軍が全面的に協力する。この作戦のすべてが、大英帝国を救う道につながるのだ」
007号は、急遽出発したため、はじめはその目的地もろくろく知らなかった。
英国から、ジェット旅客機によってイスラエルのテルアビブ・ジャファに着く。
すると、その空港に、英国空軍の誇る新鋭のケストレル戦闘攻撃機、ジャベリン戦闘機、バルカン爆撃機等が数十機待機していることがわかった。更に、イスラエルの新聞には、「英空軍、イスラエル合同大演習」の記事がのっていた。
ある日の午後、英軍機はいっせいに飛びたち、ジェームズ・ボンドは貧弱なプロペラ機に乗ってそのあとを追った。
「これはどういうわけだ?」
と、詳細を知らされていないボンドは、操縦士に訊いた。
「どこへ行くつもりだ?」
「あなたをパラシュート降下させるのです」
と、相手はこたえた。
「わたしは軍の者ですが、これまでわが軍は、さながらノルマンディー上陸作戦のごとき計画を練って、ジバコの山荘附近に少数のパラシュート部隊を降下させました。それが全部音沙汰無しです。どういうわけかまったくわからんです。それで、上層部もそういった大作戦をとりやめて、あなたのような選りぬきの秘密情報部員に頼ることになったのではないですか。大軍隊を動かすとなると、これは国際問題ですからな」
「その場所というのは?」
「シナイ山の北方です。モーゼの昔は知らず、今では人跡未踏、おそろしい荒涼とした土地です。あんなところに怪盗ジバコが住んでいるとは信じられませんな」
「なぜMはこのおれに、そういう点をもっと説明してくれなかったのかな」
と、ボンドはぼやいた。
「おそらく秘密情報部でも、最後の最後まで007号をジバコの山荘に送りこむことを秘したかったのではないですか。あなたは腕ききだが、といってジバコの変相術は魔術的と聞きます。ジバコの子分だってあなたに化けられぬ道理はありません」
「おれは本物の007号だ」
と、ボンドはむっとして言った。
「しかし、パラシュート部隊が消えてしまったというのはどういうことだ。ジバコがより強力な軍隊を持っているというのか」
「なにもわかりません」
と相手はこたえた。
「ただ、ジバコがわれわれの襲来を探知して、あらかじめ準備をしていたことは確かですな。敵はレーダーから何から具えているのでしょう。ですから、わが空軍は今日はシナイ山の附近を演習と称して飛びまわります。レーダー攪乱用のアルミ片もまきちらします。その間に、われわれの旧式機がそっと侵入するというわけです」
ボンドはあまりに大げさだという顔をあからさまに示し、窓外から地上を眺めた。
赤茶けた岩山のつづく土地であった。これほど殺風景な大地のむきだしの隆起を彼はまだ見たことがなかった。一木一草とてなかった。すべて乾燥しきった鉱物の支配する土地であった。
「モーゼもとんだところに奴隷たちを連れてきたものだ」
と彼は思った。
「汝姦淫するなかれ。こんな土地にきては頭がへんになって、そんな文句も考えつくかも知れん」
機は上昇に移った。岩山は、下界のおぼろな起伏として溶け去った。夕刻がきて、すぐ夜になった。その間に、英空軍の最新鋭機はほしいままにその国土一帯を飛びまわっていた。いかな精巧なレーダーにせよ、ボンドの乗っている小型機ひとつをマークすることは不可能であろう。
機はエンジンをとめた。そのまま滑空に入る。これで聴音機による探知からものがれられることになる。
「この地点です、007号」
と、操縦士が言った。
「とびおりて下さい。今、高度五千フィートです。あまり早く落下傘をひらかぬように」
「わかっている」
ボンドはむっとして答え、まず一塊りの物資を投下した。そのすぐあとから、彼は暗黒の空中に身を躍らせた。
彼は少なからず腹を立てていた。この大仰なお膳立、いやしくもジェームズ・ボンドが出動するというのに、たかが一盗賊にこの騒ぎ、それこそ大英帝国がジバコを並々ならず怖れ、007号をもってしてもその成功を危ぶんでいる証拠である。それは彼の自負心を傷つけ、怪盗ジバコへの憎悪を並々ならずかきたてた。
それゆえ、彼は我ながらカッコいいスカイ・ダイヴィングの姿勢をとって、暗黒の空間をびゅんびゅんと地上へむかって落下をつづけた。ジバコめ、こんな恰好ができるならやってみろ。
先に投下した荷には、特殊眼鏡によってのみ見られる特殊な塗料が塗ってあった。ボンドのすぐ真下をそれは慧星のように落下してゆく。と、パッと同じ塗料の塗られた落下傘がひらいた。自動的に地上千フィートに達すると開くように調節されているのだ。
ボンドもとっさに自分の落下傘をひらく紐を引いた。ぐいと肩に衝撃が加わる。下界は漆黒の闇で、特殊塗料と特殊眼鏡によって彼にはよくわかるが、この黒い落下傘と黒い物体と黒い姿のボンドの降下が、いかなる敵の目にも映る道理がなかった。
ボンドは落下傘の紐をあやつり、物資用の落下傘のあとを追うようにした。幸い、風はない。すぐに着地である。ボンドは見事な身のこなしをした。落下傘に引きずられることもなく、素早くベルトを解き放した。
すぐ前方に物資の落下傘が落ち、ゆらゆらと地上をのたくっている。ボンドはポケットからゴキブリを殺すにもちいるような噴霧器を取り出し、二つの落下傘にむけて秘密薬品を噴霧した。すると黒いパラシュートは、奇術のように、紐に至るまで見る見る溶けて消え去った。これで、あとになって落下傘を発見され、何者かがこの地域に降下したという証拠は消えた。
ボンドは次に物資の包みを開いた。まず彼の武器として最新式の麻酔銃。これは麻酔薬のついた微細な針を三百メートル先までとばす。消音器つきの、狙いの不正確な拳銃よりずっと効果がある。
次に、普通の拳銃、これは敵に追いつめられたとき、自殺するように自分の頬にむけ引金を引くと、弾丸は逆に反対方向にとんで敵を倒すというスパイ映画ではありふれたもの。もう一つは、あらぬ方角にむけて引金を引くと、弾丸は実は両横側にとびだし、油断をしている横手の敵を倒すという拳銃。
ボンドは、この三種類のピストルによって武装をした。
次に、食糧の包みが現われた。一錠で半日間のエネルギーを持続できるという丸薬、普通の乾パン、乾肉、飲料水などのほかに、ボンドの愛飲するジャック・ダニエルのバーボン・ウイスキーやベルーガ・キャビアなどがはいっていた。ベルーガ・キャビアは一びんが五十ドルもする。
「Mもなかなか気が利くな」
と、ボンドは呟いた。
「もっとも、大英帝国の危機を救うにしては、安い費用だ」
最後に、かさばった包みがあった。これがボンドの乗物で、この辺りの岩だらけの荒地を移動するには、ジープでも役に立たない。秘密情報部の工作部が智慧をしぼって、この小型の乗物を工面した模様であった。
ボンドは包みをほどきながら独語した。
「あんがいキャタピラのついたごく小型の戦車のようなものではないかな」
ところが、いざその金属の物体が現われると、なんとそれはただの三輪車にすぎなかった。そこらのデパートに売っている、子供用の、安物の三輪車に間違いなかった。
ボンドは激怒した。
「いやしくも車を運転させたら一流のレーサーも追いぬけと合図をするほどの、このジェームズ・ボンドに三輪車のペダルをこげというのか。おれは愛車ベントリイのギアをセコンドに入れて四十マイルで走り、サードに切りかえて八十マイルで走る男だ。まして、トップに入れたら! それをなんだ? この三輪車では時速一マイルも出ないではないか」
しかし、いつまでもぶつくさ文句を言っているわけにはいかなかった。或いは敵方には、ガソリンの臭いを探知する機械とか、排気管の音を敏感に聞きとる聴音器があるのかも知れぬ。ここは敵地で、そして彼には必ず果さねばならぬ任務があった。大英帝国の没落を阻止するという至上の任務が。
ここいらは、夜目にははっきりとわからぬが、岩山に囲まれた台地のようであった。ボンドは包装の布などを消失液によって始末をした。それから、食糧を三輪車の荷台にくくりつけ、比較的安全と思われる岩かげに入り、バーボンをのみ、キャビアを賞味し、乾肉をかじった。
それから一夜の仮眠にはいった。ときどき、周囲の岩山から落石の音がした。しかし、007号はそんな音響で神経をびくつかせるような男ではなかった。ぐっすりと安楽に眠りこんだ。
しかし、本当の身の危険に対しては、彼の神経はレーダー以上に敏感であった。
はっとして目ざめると、暗闇の中を、三名の敵が忍び寄ってくる気配がした。
ボンドは半身をひねると、二梃の拳銃を引きぬき、一瞬にしてその三名の敵らしきものを射殺した。
「情け無用。ゼロゼロセブンは殺しの番号」
と、彼は銃口をふっと吹いて呟いた。
三名とも、頭にターバンを巻いたアラビア人風の男であった。ライフルと短剣を持っている。二人は完全に即死、一人だけがまだ虫の息を残していた。
「おい、ジバコの本拠地はどこだ?」
と、ボンドはその男を乱暴にゆさぶって問うた。
「おら、知らねえ」
相手はそのままがっくりと首をたれた。死んだのである。
「麻酔銃を使うのだったな」
と、ボンドは舌打ちしたが、どうもこの男たちの風体からいって、ジバコの直々の子分とも思えなかった。おそらくこやつらはこの地方を徘徊する野盗のたぐいであり、それをジバコが利用しあやつっているのかも知れぬ。
ともあれ、銃声を立てたのはまずかった。即刻、この場所から移動しなければならぬ。
と、そのほかにまだ生物のいる気配が漂ってきた。
ボンドはじりじりとにじり寄って、岩かげから覗いてみた。なんのことはなかった。そこには三頭の馬が首をたれて佇《たたず》んでいた。野盗たちの馬で、彼らはそこで下馬してボンドに近づいてきたのであろう。銃声に驚いて逃げなかったところをみると、戦闘に慣れている馬にちがいない。
「馬か」
と、ボンドは呟いた。
「なるほど、こういう地形では、馬が一番便利な乗物かも知れないな。三輪車よりずっとマシだ。ひとつ、あの馬に乗ってみるか」
ところが悲しいかな、英国秘密情報部の誇る007号も、あらゆるスポーツに秀でてはいるが、馬に乗ったことがないのであった。これはジェームズ・ボンドのせいというより、彼の伝記作家イアン・フレミング氏が英国紳士のたしなみである狩猟と縁がなく、馬が苦手であったせいであるらしい。
ボンドは一頭の馬に近づいて、鐙《あぶみ》を踏んでまたがろうとしたが、馬の右側から乗ろうとしたので、どうにも足がへんな具合になって鞍にまたがれないことがわかった。そこでボンドは、天性の運動神経にものをいわせ、ヤッと直接馬の背にとび乗ろうとした。すると、勢いあまって、反対側に転落してしまった。
ようよう鞍にまたがり、左手に行かせようとすると、馬は右手に行きたがった。ボンドはそれを制止させようと手綱をひきしぼった。すると馬はそのまま長い平頸をぐいとふりおろしたので、ボンドはもんどり打って馬の首ごしに落馬した。
「これはどうにもならん」
と、さすがのボンドも音をあげた。
「これでは百メートル行くうちに、肋骨の二、三本と頸の骨を折らねばならん。三輪車のほうがまだ無難というものだ」
そこでボンドは、食糧をつけた三輪車にまたがり、渋々ペダルをこいだ。大地は凹凸の岩地で、これはひどく足腰を痛める作業であった。
営々ペダルをこいで、ようやく四方を大岩に囲まれた場所に辿り着き、ボンドはしばらくの仮眠をとった。
しかし、暁方からその夢は破られた。遙かに、馬蹄のとどろくひびきを聞きとったのである。
そっと覗いてみると、十騎、二十騎という、集団の野盗どもが、岩の台地を疾駆してゆく。岩山を駆けのぼってゆく一団もある。
その行動がいかにも統率がとれ、ゆるぎない包囲の網を徐々にしぼってゆくのが見てとれた。
「これは単なる野盗ではないな。やはりジバコの息がかかっているのだ。わが英軍の精鋭の五十名のパラシュート部隊が消息を絶ってしまったのも、これではやむを得ぬことかもしれない」
と、ボンドはひとりごちた。
相手の人数は、総計すると数百騎はあろう。真向からこれに太刀打ちすることは不可能である。それに、ジバコの山荘が一体どこにあるのかとんと不明なのである。ボンドは思案にくれながら、じっと隠れ場所にひそんで、相手の出様を監視していた。彼らは三頭の主のない馬が戻ってきたことから、おそらく何者かがこの地区に潜入したのを知ったにちがいない。仲間の三人の死体もとうに発見されているであろう。
午後になって、ボンドの隠れている岩場のそばに、うまいことに一騎が立止った。それはおそらく一支隊の長らしく、金きらの腕輪をつけている。彼は下の台地を捜索している部下の配置を高所から指図するため、ただ一騎、ボンドのそばまで登ってきたのであろう。
これはチャンスであった。ボンドはとかげよりも音なく忍び寄り、人と馬にむけ麻酔銃を発射した。微細な針とはいえ、おどろくべき効果があった。その男はしばらく何事もないように鞍の上から下界を眺めていたが、やがておもむろに首をたれた。同時に、彼の乗馬もがっくりと膝を折った。
ボンドは走り寄り、まさに眠りこもうとする男の髭づらを激しく叩いた。短刀を喉元に突きつけ、
「言え、ジバコの隠れ家はどこだ?」
男はうめくように言った。
「すぐこの近くだ。しかし、それを知っても、おまえはその内部にはいれっこない」
「なぜだ?」
「毒虫帯と毒ガス帯と電流帯と放射能帯の四層がこれを保護している。スパイめ、ジバコさまに近寄ろうたってそうはいかぬ」
男はそのまま首をたれて眠りこんだ。
ボンドは、男のぐったりとなった身体から手を放し、忙しく頭を働かせながら腕組みをした。
周囲の岩だらけの世界、その中を数百のジバコを守っているらしい野盗どもの目をかすめ、三輪車を駆ってジバコの秘密の山荘を発見することは容易でない。それにこの男の言葉を信ずれば、四層の危険きわまる防禦地帯があるらしい。これを突破するのはクレムリン宮殿に忍びこむより難しそうだ。
「なあに、それでもいくらでも方法はあるさ」
ボンドはふてぶてしくにやりと笑った。
その作戦は、わざと自ら敵の捕虜となることである。過去、幾度となく彼は凶悪な敵に囚れる羽目となった。そして身の毛もよだつ拷問を受けたりした。しかし、必ずその難関を切りひらき、逆に囚れの身となったことが幸いして、敵の本拠地を潰滅させたり、親玉をやっつけたりしたものだ。
彼には、いかなる逆境をも突破し、それを利用できるという信念があった。その自信を高める一つのものに、ボンドという男が女に対して持つ独特の魅力、というより魔力のことがある。
今までの彼の敵手は、必ず身辺にとびぬけたいかす美女をはべらしていた。その美女が、ひとたびジェームズ・ボンドの実物を見ると、ころりと彼になびいてしまい、彼の味方となり、窮地にある彼を助け、それまでの主人である男を易々と裏切るというのが、007号の世界のいわば定まりであった。地球上のいかなる女にせよ、その牝どもは、ジェームズ・ボンドには自分の生命を捨てるほどぞっこん参ってしまったものである。
「よし、その手でいこう」
ボンドは決心した。
「幸い、ジバコのそばには美女がうようよしているらしい。おれにはうってつけの舞台だ。それに、三輪車のペダルをずいぶんとこいで、足腰のトレーニングもできている。コンディションは近ごろになく好調だ。Mはそこまで考えたのかな?」
今やボンドは、こそこそと身を隠すのをやめることにした。
意気揚々と、三輪車のペダルを踏み、下の台地にむかって姿を現わした。
たちまち数十騎の野盗の群が彼を取り囲んだ。首領らしいのがライフルを突きつけて叫ぶ。
「おまえは何者だ」
「おれは英国の秘密情報部員だ。怪盗ジバコを捕えにきたのだ」
「なんと! 者ども、こやつをひっくくれ!」
ボンドは抵抗もせずにぐるぐる巻きにされ、目隠しをされ、馬の鞍にしばりつけられた。そうして、いずこかは知らぬが、ジバコの秘密の山荘へと連行されていった。
どのくらい経ったかわからない。
ボンドは馬からおろされ、ぐるぐると階段を登ったり降りたりしてひきずりまわされ、ついにひやりと冷房の感じられる一室で目隠しを外された。
目の前に、すらりとした、筋肉の固くひきしまった北欧系の美女が立っている。
「007号だね、おまえ」
いきなり女はそう言った。
「その通りだ」
とボンドはこたえ、おれの顔と名前はこれだけ世界に売れ渡っているのかと、ちょっと得意な気にもなった。
しかし、女は冷淡そのものだった。
ボンドを連行してきた野盗団の首領にてきぱきと命じ、ボンドの身体をくまなく調べた。ボンドがいささかプライドを傷つけられたことに、彼女は最新式の麻酔銃と逆打ち拳銃と横打ち拳銃をちょっと手に取ってみただけで、玩具でも扱うように、そのままポイとそばの屑物籠にほうりこんでしまったことだ。
次に女は、ボンドがずっと愛用しているローレックス・オイスター自動巻腕時計を手にとり、
「一分十三秒遅れている。安物だわね」
と言って、そのまま返してくれた。
そのあと、ボンドは否応《いやおう》もなく地下牢に投げこまれてしまった。
岩をくりぬいた地下牢である。入口には特殊合金らしきドアと、覗き穴一つ。
ボンドの靴のかかとには、ヤスリとナイフが仕込んであったが、先ほど油断のない女に取りあげられてしまっていた。衣服は、ある刺戟を与えると爆発する化学繊維でこしらえてあったのだが、これも脱がされて、みっともない半ズボンとアロハ・シャツに着がえさせられてしまった。ライターに仕込んだ送信機も取りあげられてしまった。
もはや脱出はおろか、味方との連絡も不可能である。
だが、ボンドはゆうゆうと床に横になり、ひとときの睡眠をとった。いずれはジバコの配下である美女たちが味方になってくれるであろう。どのようにして彼女らを籠絡するか。いずれにせよ、ひとたび彼女らをこの腕で愛撫してしまえば、もうこっちのものだ。
それゆえ、ボンドは自分の肉体的魅力を最大限に発揮するよう、アロハの胸をはだけ、たくましい胸部と胸毛を誇示するようにして横たわっていたのであった。
夕刻、岩牢を訪れる者があった。
覗き窓から顔を見せたのは、漆黒の髪に星のような瞳、熟れこぼれんばかりのくちびるを持った東南アジア系の女であった。
「囚れの方、怪盗ジバコさまがあなたを晩餐に御招待したいと申されております」
「それは有難い」
落着きはらってボンドは答えた。
「ちょうど腹もへってきたところだ。いつでも参上すると伝えてくれ」
「では、これから直ちに」
女は、鍵をあけてドアを開いた。護衛の用心棒などは見当らぬ。彼女は、ダーク・スーツ、蝶ネクタイ、白い上にも白いYシャツ、短靴からカフス・ボタンに至るこまごまとした紳士用の服装一式をそこに用意していた。
「どうぞお着かえ下さい。あたしは後ろを向いておりますから」
本当はボンドは自分の裸体を彼女に見せたかった。しかし、彼はおとなしく着替えをした。
女に導かれて、廊下へ出てゆく。行くほどもなく、辺りの光景が一変した。ベルサイユ宮殿にも劣らぬ豪華さである。岩山の中に、かくも美々しい住処《すみか》をきずくとは、ジバコの資力は並々ならぬものにちがいない。
途中、岩をくりぬいた窓から眺めると、そのむこうの岩山にレーダーがまわっているのが見えた。更に機械室らしい前を通りかかると、半開きのドアの隙間から、さながら原子力発電所のごとき内部がちらりと見えた。
「ふむ、ジバコという奴は、思ったより大物臭いぞ」
と、さすがのジェームズ・ボンドも思った。幾つもの彫刻などの林立した部屋を通り、それから西洋と東洋の粋をこらした大きな部屋に通される。
蝋燭に風よけガラスのついた銀のシャンデリアの下、丸いマホガニーの大テーブルの向こうに、おそらく怪盗ジバコと思われる異様な人物が腰をおろしていた。
古色サンゼンとしたフロック・コートに、これも前世紀もののシルクハットをかぶっている。灰色の頤鬚が長い。魔法使いの爺さんとも思える風体である。
「なんだ、貧相な野郎だな」
と、内心ボンドは考えた。
それから、その考えを無理に心から追いだそうとした。なにせ相手は変相の名手と聞く。その素顔を誰も知らないのである。一体、若いのか年寄りなのかもわからない。正体不明の敵なのだ。
「ボンド君」
と、その老人が言った。食卓についているというのに、古風なシルクハットを脱ごうともせぬ。
「君に会えて嬉しく思っておる。君の噂はよく知っている。世界のどこの空港へ行っても、007物語のペーパー・バックスがずらりと並んでおるな。ジバコ物語よりも多いくらいだ」
「私もあなたに会えて少しは光栄です」
と、ボンドはこたえた。
「しかし、あなたは今は大英帝国の敵だ。あなたの晩餐の招待を受けるのも、敬意からではなく、私の腹がぐうぐう鳴っているからにすぎません」
「そうだろう。君はかなりの食いしん坊のようだからのう」
と、平然としてジバコは応じた。
「君は下宿ではポテト・サラダをそえた冷いロースト・ビーフばかり食っているそうだが、まあ秘密情報部員の給料ではそれもやむを得まい。その代り、君は任務に就いて世界各国を訪れると、なかなか美食をすると聞く」
「それは、うまい料理とすてきな女があってこの世が成立つと私は思っていますからね」
「その通りだ。しかし、わしは君が酒通とも食通とも思っておらんよ。君のやることは、本当の貴族趣味からいうと、田舎者の仕草といってもよいな」
さすがにボンドはむっとした。それから腹立ちを押えて、さりげなく言った。
「御講釈によると、今夜はたいそうな御馳走を頂けるようですな」
「いいや、君」
と、ジバコは手をふった。
「わしは君を非難してはおらんよ。人間、好きな酒をのみ、好きな料理を食うのがなによりいい。これが一番じゃ。わしとてもそうしている。しかし、君は自分が飲みかつ食っているものが一流のしゃれたものであると錯覚しているところがちょっとまずいな」
「私は金が無尽蔵にあるというわけではないので。なにせ大ドロボウではないですからな」
ボンドは、せい一杯の皮肉をこめて言った。
「まあ、その通りじゃろう。今夜は君の好きそうな酒と食物を用意した。なにせ辺鄙な土地で、君の舌にはあわぬかも知れんが、わしのせい一杯の好意と思って頂きたい。わしは勝手をさせてもらって、自分の好きなものを食べる。どうじゃ、それならいいだろう?」
「まことに結構で」
「君は食前酒として、スミルノフの白ラベルのウォツカをやったらどうだ? それとも君の得意なレモンの皮を浮かせたマティーニにするかね」
「両方頂きましょう。あなたは?」
「わしはこれじゃ」
と、ジバコは粗末なびんから自分のグラスに貧相たらしい液体をそそいだ。
物凄い金髪のグラマーな女が出てきて、ボンドの酒を手早く調えた。
ボンドは舌にピリッとくるアルコール分六十五・五度のウォツカを味わいながら、
「ところで、あなたのそのお酒はどういうもので?」
「これは北京の酒じゃ。二鍋頭《アルクオトウ》と呼ばれている。うまくて実に安い。わしは食前酒としてこれを愛用しておる。日本のショウチュウよりも安いのじゃ。そのくせアルコール分は六十五度ある。ところで君の食事じゃが、スープはここにリストがある。なにせ山の中ゆえ、百三十三種しかできないらしい。まあ勝手に選んでくれ」
「トチのスープというのがありますな。これは何のことで?」
「スッポンのスープじゃ。日本名でそう呼ぶのだ。君も日本で仕事をして、そのくらいのことは知らんかな。これは精力がついてなかなかいい」
ボンドはそれを頼んだ。
「ところで君の食事じゃが、前菜としてはスコットランドの高地もののスモークト・サモン、魚はクレブスシュヴェンツェ・ミット・ディルトゥンケ。これはドイツ名だがな、クリームとイノンドの実で作ったソースをそえた海老じゃよ。次にのろ鹿の腰肉がいいじゃろう。いや、君は健啖家だから、その間にシャコの焼肉をはさむがいい。君の好きなムートン・ロスチャイルドの五三年のワインにちょうどあう。もっともこのワインは年代ものとはとても言えないのだがね。だが、人の好き好きにわしは口は出さん」
料理は次々と出てきた。いずれも、とっかえひっかえ、さまざまな肢体の美女が運んできた。といって、無数の美女がいたわけではない。ボンドの前に現われたのは、はじめ目隠しを外されて以来、七人の女にすぎなかった。
ボンドは美酒と見事な料理を愉しんだ。しかし、主人公のジバコの前には、まだなんの皿も現われてこない。
そのとき、鞭のようにしなやかで褐色なポリネシア系と思われる美女が、うやうやしく一つの大皿をジバコの前に運んできた。
ボンドは興味津々として、その皿を覗きこんだ。食事に対してひとかどの偉そうなことをいう怪盗ジバコなる人物は、一体どんな料理を食べるのであろうか。
そこには、なにやら油じみた平たいパンのごときものが二枚のっていた。
「それは一体なんで?」
と、ボンドは好奇心を抑えかねて訊いた。
「君はこれも知らんのか。これはネパールとかパキスタンのプラターというものだ。彼らの主食はチャパティというパンで、プラターはそれを羊の油であげたもので、ずっと上等なのだ。もっとも、君、クロワッサン一つ買う金で三十枚は買えるがね」
と、巨億の富を有する筈の怪盗ジバコは答えた。
「それしか召しあがらぬので」
「ああ、わしはこのところ三食ともこれだ。胃腸の調子がすこぶるいい」
「ところで」
と、ボンドは馬鹿にされたような憤懣を抑えながら訊いた。
「あなたが今度飲みだされた酒はどういうもので?」
「ああ、これは日本のドブロクじゃよ。これもすこぶる安い。米から作る酒だが、醗酵度がむずかしい。わしは自家用のドブロクのために、日本の長野県に研究所を一つこしらえておるがな」
ボンドはいまいましげに舌打ちした。
「だいぶ日本がお好きなようで」
「ああ、あの国はおもしろいよ。いまわしの数ある名の中で、もっともポピュラーになったジバコなる名も、大体あの国から発生したものだからな。さて、食後にコニャックでもやるか。君の伝記作家によると、君はヘネシーのブランデーを好むそうだが、そのXOを一度も飲んだことがないらしいな。まあ、一杯やってみたまえ」
ボンドは顔をしかめてそれを舌の先に丸めてみた。いまいましいことに、かつて彼が飲んだいかなるコニャックよりそれはうまかった。
「けっこうな味です。ところで」
と、ボンドは窓外に見える広いプールをちらりと見やりながら、反撃に転じた。
「私の得た情報によると、ここにはサルタンのハレムのようにザワザワと美女がはべっている由ですが、見渡したところ、私の前には七人の女しか現われませんな。葛湯のプールで泳ぐ数十名の美女を愉しみにしていたのですが。あなたは酒や食物にだいぶケチのようであらせられるし、怪盗ジバコも噂ほどではないようですな」
ドブロクをたしなんでいたジバコはおだやかに笑った。
「むろんハレムとは大げさだ。わずか七十人ほどの女がいただけだ」
「ほう。して、ほかの女たちはどこにいるのです?」
「なにせこの山荘が探知されたらしく、いろんな連中が忍びこもうとやってきてな。たしか君の仲間の秘密情報部員も二、三人いたよ。おまけに落下傘部隊までやってきてな。だがわしは人を殺すのは好かん。皆さんに気持よく逗留して貰いたいのでな。それぞれ一人ずつ女をあてがって愉しく暮して貰っている。そんなことで、わしの身のまわりの世話をする女性はたった七人になってしもうた。君にも一人女をつけようと思っておる。しかし、君は危険な男らしいから、岩牢で生活して頂きたい。食物の差入れなどに、君の好みの女を選ばせてあげよう」
もとよりボンドは、先ほどから七人の女たちに、ちらちらとモーションをかけていた。ところが、反応がちっともないのである。過去の敵方の女どもは、いくら冷淡さをよそおい、或いはボンドに憎悪をむきだしにするように見えても、最初の瞬間から、実はジェームズ・ボンドになびいてしまい、やがては味方を裏切ってボンドを助けるのが常であった。
ところが、ここにいる各国の選りぬきの美女たちは、本心からボンドに無関心だとしか思えなかった。それはボンドのプライドをいたく傷つけた。たとえ同性愛の女にせよ、いったんこのジェームズ・ボンドが愛撫したなら、ぞっこん彼に夢中になってしまったものを。
彼女らは、反面、変ちくりんな老人姿のジバコに対しては、尊敬と憧憬とひたむきな愛情をこめた視線を送るのだった。これほどまでボンドが無視され、侮辱されたことはかつてなかった。
ただ一人、南米人らしい少し年をとった女が、ボンドにも親切そうな、同情のこもった目差しをむけてくれた。だが、彼女は女としてずっと落ちた。他の六人の女が超一級品なら、この女は四流品くらいにすぎなかった。肌もぶよぶよしているし、御面相もパッとしない。
ボンドの怒りは次第にたかまってきた。
そうだ。なにも女に頼る必要はない筈だ。過去の敵は身辺に怪力の男だの不気味な武器を使う手ごわい用心棒をおいていたものだ。それが、ジバコの身辺には女しかおらず、ジバコはただ無力な一人の男といってよい。いったんジバコを人質にしてしまえば、何百の野盗どももどうするわけにもいくまい。
ボンドは葉巻を喫い終ると言った。
「たいそう結構な御馳走を有難う。そこで、あなたにはたいへんぶしつけだが、私の任務を果すことにしたい」
「どういう任務かね」
「つまり、怪盗ジバコをとらまえることだ」
次の瞬間、ボンドはもうジバコと身を接していた。相手がどこに隠しているか知れぬなんの武器も使えないように。
そして、相手の片腕を逆にとってねじりあげ、片手でジバコの頸動脈目がけて、必殺の打撃を打ちおろそうとした。
と、自分の身体が宙に舞ったような気がした。腰をしたたかに打ち、めまいを覚えながらボンドはよろよろと立上った。
目の前に、ジバコの姿が平然として立っている。
「うぬ!」
ボンドは突進した。そして、またもやしたたかに投げつけられた。今度は頭を打ち、これ以上戦いをつづける気力も失われた。
「さあボンド君、食事の腹ごなしがすんだら岩牢に戻ったほうがいいね」
と、あやしき老人姿のジバコは息も乱さずに言った。
「ところで、君の世話をする女はどれにする? 遠慮なく言いたまえ」
「あのぶよぶよした南米の女がいい」
すっかり自信を失ったボンドは、蚊のなくような声でそう呟いた。
南米の女は、見かけこそ魅力十分というわけにいかなかったが、なかなか親切であった。のみならず、食事を運んでくる際にも、明らかにボンドに気があるように見えた。
ボンドはしきりと胸毛をちらつかせ、
「ねえ君、ぼくをここから出して貰うわけにいかんかね」
「ダメよ、そんなこと。ジバコさんに叱られるわ」
「だが、この木のベッドは固いんだ。岩の上に寝るのと変りがない。ああ、せめて、君のふっくらとしたベッドに横になって、そして君がすっかり裸になって傍に寝そべっていてくれたら! それこそ天国だ。君とぼくとのエデンの園だ」
女は明らかに動揺したようだった。そっと唾を呑みこむ音がした。
「ねえ君、ぼくは決して脱走したりはしない。野盗がこわいからね。ただ、君のそばに行きたいだけなんだ」
ボンドは必死にくどきつづけた。
女は次第に熱っぽい目になってきた。
「今夜ね」
と、ひとこと囁いた。そしてボンドの食べ終った食器を持って帰っていった。
ボンドはにやりとした。ひとたびあの女をベッドの中で愛撫したなら、むろん彼女は彼の奴隷、彼の傀儡、彼のあやつり人形となるに決っている。彼の意のままに、牢の鍵は手渡し、武器をも見つけてくれ、或いはジバコに毒くらい盛るであろう。
その夜、暗闇の中で、女は言葉通りひそかに忍んできた。そっと牢の扉をあけ、ボンドの手をひき、自分の部屋に連れこんだ。
二人は生れたままの姿で、ベッドに横になった。ボンドは腕によりをかけ、自信たっぷりの自分の全エネルギーを傾けて、彼女を完膚なきまでに征服してやるつもりであった。
闇の中で、やがて人間のうめき声が高まっていった……。
三日後、怪盗ジバコは自家用の垂直離陸のできるジェット機に乗って、高空を飛んでいた。操縦は女の一人にまかせ、彼はゆったりした座席に収まって、チビチビとドブロクを味わっていた。
してみると、ジェームズ・ボンドがジバコの行動を阻止しようという企みは失敗に帰したのであろうか。
「どこへ行きますの、ジバコさま」
と、美女の一人が訊いた。
「さあ、どこにしようか。なにせ世界じゅうに於けるわしのアジトは多すぎるのでね」
「今までの山荘は放棄なさるのですか」
「もちろん。場所を感づかれては意味がない。あんなものは誰にでもくれてやるさ」
「ところで、あなたがポンド紙幣の大がかりな偽造をなさるという噂は本当なの?」
「そんなことをするものか」
ジバコは高らかに笑った。
「むしろポンドの危機に際し、わしはささやかな資力をさいて、ポンド防衛をやっているくらいだ。ポンドの切り下げが行われれば、これは他の国にも波及する。それはすなわち、大衆が困るというわけだ。わしは大衆の味方じゃからな」
「それなら、なぜ英国に向って、そんなポンドを偽造するなどという挑戦状を突きつけられたの?」
「なに、わしはあの007号、ジェームズ・ボンドという男に一度会ってみたかったからじゃよ。英国の危機にはどうせあの男が乗りだしてくるからな。どれ、親愛なるボンド君がいま何をしているか見てみよう」
ジバコは自分の山荘の内部が写るテレビのスイッチを入れた。
そこはジバコがボンドを夕食に招いた一室であった。その床にかがんで、一人の男がせっせと床を磨いている。それは、なんと英国の誇る伊達男《だておとこ》、007は殺しの番号ジェームズ・ボンドその人に間違いないではないか。
画面に一人の女がはいってきた。例の肉のしまりのわるい南米の女である。彼女はボンドにむかってズケズケと言った。
「さあ、あんた。何をモサモサしているの。それが終ったら窓を拭いて。それからあたしの昼食の支度をして」
ボンドは這いつくばったまま、うつろな下等動物のような目つきで女を見あげた。
「はい、女王さま。私はあなたの奴隷です」
そううめくと、彼はいきなり女の足元に這い寄って、女の裸のくるぶしを嘗《な》めようとした。
女は冷淡にぴしゃりと彼の頭を叩いた。
「奴隷なら奴隷で、あんた、ベッドの中でもうちっとしっかり奉仕できないの?」
その情景をテレビで眺めていた怪盗ジバコは、やれやれというふうに肩をすくめて、スイッチをひねり、画面を消した。
「わしはなんともがっかりしたよ」
と、ジバコは傍らの五人の選りぬきの美女の腿を代る代る撫でてやりながら言った。
「ジェームズ・ボンド、007号といえば、もう少し芯のある男と思っていたのだがなあ。なにも射撃や格闘のことではない。あいつは、少なくとも女に対しては凄腕だと聞いていた」
ジバコはむしろ悲しげに呟いた。
「それが、あの有様はなんじゃ? あの南米の女は、わしのまわりにいる女の中で、一番セックスが弱い筈なんだがなあ」
ジバコの恋
怪盗ジバコの子分たちは、世界のあらゆる国に於て加速度的に殖えてきた。どんな下っ端《ぱ》の子分、そのまた弟分のチンピラに至るまで、自分がいやしくもジバコの息のかかったものであることを誇りとし、センスのあるドロボウの仕方を誇りにしていた。彼らの大部分は、いかなる変装姿の大親分の姿をもちらとも見たことはなかったのであるが。
しかし、組織というものは、あまりに巨大になると、必ずその末端は腐敗する。怪盗ジバコの目が直接とどかぬのはもちろん、ジバコが信頼する幹部級の目すらもとどかぬようになるからである。
こうして、ジバコの子分の中にも、ずいぶんとその親分の名を恥ずかしめる者も出現してきた。子分でもなんでもないのに、ジバコの配下であると称する与太者も無数にいる。
ある男は、「水爆の安あがりの作り方」という機密文書らしきものを沢山コピーし、これを未開発国家などに売りつけた。その男はジバコの幹部であるというライセンスを所有しており、そういう小国家の高官は、ジバコという名に驚いてやすやすとだまされてしまうのであった。怪盗ジバコの秘密研究所なら、水爆を三千ルピーくらいで作る方法も発明するであろう。
例の「無礼ながら盗みに入り申し候」というジバコのカードの偽物などゴマンとあり、またこれが高く売れ、本物と偽物とを鑑定する専門の商売人まで店をかまえる始末であった。
「ジバコの爪のアカ」と称するゴミみたいな薬は、各国のドロボウたちの間で引っぱり凧で、そのインチキ薬屋は産をなした。
「ジバコの変装集」という豪華版の写真集は、アメリカだけで二十万部売れた。更に「ジバコの素顔」なる写真がライフ誌に持ちこまれたときの騒ぎは想像もつかない。これがむろん真赤な偽物とわかるまでの三日間、ライフ社は創業以来の混乱に包まれた。
あまつさえ、ジバコの盗品だから半値で売るなどと称して、原稿一枚書くとペン先が曲ってしまう万年筆だの──日本に於けるジバコの伝記作者である北杜夫氏もこの万年筆を十本も買ったのだ──「ジバコに盗みに入られる法。そのカードを売ればあなたは十倍もうかる」などというパンフレットを売る悪徳商人も沢山現われた。ある商人などは、アラスカへ行って、「ジバコ盗品を買えば必ず得をする」の名の下に、エスキモーの氷の家に電気冷蔵庫を売りつけたりした。
ジバコが眉をひそめたのは当然である。彼は苦虫と九竜虫五十匹を噛みつぶした。もはや悠々と閑居している気がしなくなった。
すぐに旅仕度をした。身の休まる閑とてなく、世界のあなたこなたを飛びまわる日がつづいた。彼の人生観には反するが、まことにやむを得ぬことである。
ここはアフリカのケニア。
しばらく前、この地もアフリカ全土を吹きまわる動乱の嵐の中にあった。民族は自覚し、彼らは独立した。しかし、こうした大変革期には、新しい生命の芽生えと共に、往々にして盲目の狂乱も行われる。
かつての主人であった白人たちは去った。しかし、白人は野生動物保護には力を尽していた。その法規が崩れ去ると、黒人たちは食糧難を口実に野生動物の出鱈目な狩猟を開始した。一方、商売のために動物たちを片端から殺戮する連中も暗躍した。
彼らはヘリコプターを使い、機上から象を射った。ジープの間にロープをはり、縞馬の群をなぎ倒した。
われわれは幼いころから胆を冷やす猛獣映画を見たり、怖ろしい猛獣小説をよんできている。野獣たちは強く猛々しく、人間はか弱い存在な筈であった。しかし、実際は象でもライオンでも一発の銃声と共にころりと倒れるのである。この地上で、人間より強く兇悪なものは確かにいない。
だが、時間と共に秩序は回復していった。多くの野生動物たちにとっても、ふたたび安楽な日が訪れた。少なくともかなり開けているケニアに於ては。
もっとも管理の行きとどいているのは、首都ナイロビにあるナイロビ自然動物園である。なにせ空港からホテルへ行くあいだにも、ここにいるダチョウなどが見えるので、観光客はたちまち昂奮してしまう。
次に路傍を見て、
「ライオンだ!」
と、いっそう昂奮して叫ぶ。しかし、これはそこらに飼われている黄色い牛なのである。
さて、自然動物園の中では、厳然たる法則がある。万々が一にも、野獣を人間が傷つけた場合、これは人間のほうが悪いのである。たとえ野獣に襲われた場合ですら、獣を射殺すれば罪となり、正当防衛とはならない。
もっとも、この広々とした自然動物園に住む動物たちは、いとものんびり暮している。シマウマの群がいる。カモシカの群がいる。そこからわずか離れた土地に、ライオンの家族が寝そべっている。
どうしてここで弱肉強食の悲惨な戦い、野性の慄然たる世界が展開しないのかとふしぎに思われるが、彼らは十分に人間たちの手によって餌を与えられているからである。
それにしても、観光客がもっとも見たがるのはやはりライオンだ。痩せても枯れてもいやしくも百獣の王である。監視人の車が公園内を巡回してゆき、観光客を乗せた車の運転手に、どこそこにライオンがいると告げる。
すると、少なくとも十数台の車がその地区に殺到する。みんな、胸をときめかせ、カメラをかまえて。
いる、いる。数頭のライオンがくさむらの中の灌木のかげで昼寝をしている。彼らもあんがい暑さに弱いのか、かげになったところに頭を突っこみ、車が三メートルの距離に近づこうが微動だにしない。
もっともナマケモノは雄である。彼は舌をたらし、ハアハア息づくくらいで、およそ何もしない。
雌はそこにゆくと、もう少し動作をやってみせる。ひっくり返って背を地面にこすりつけたりする。子供は──これはえも言われず可愛い。たいていの動物の仔はかわいいが、ライオンの仔はその中で最高のものに属する。
といって、これらライオンの家族たちが、近づく車に向って、牙をむきだしたり、居丈高に咆哮したりすれば観光客はもっと満足する筈だが、彼らはあまりにも太平至極なのである。どだい、自動車に対して完全に無関心だ。
彼らの目には、車というものは、ときどきうるさく近寄ってはくるものの、それ以上何もせず、まったく無害のシロモノであるという観念が形成されているらしい。ネズミが出てくれば彼らは反応する。しかし、車には決して反応しない。
こうしてのんびり寝そべって家畜然としているライオンを写真に撮したとて、われわれのほうも大して満足しない。われわれは、アフリカといえば、無数の猛獣映画によってつちかわれた背筋の凍るがごときスリルを期待していたからだ。
それゆえ、日時の許す観光客は、ナイロビ自然動物園には愛想をつかして、ケニアのもっと奥地にはいってゆく。大体、キリマンジャロを見ずして、ケニアにきたといえるであろうか。
そのアフリカ一の高山はやはり優雅な形態をしている。一面のだだ広い平原の彼方にそびえることからして実物の二割高方は印象ぶかい。更にヘミングウェイの名作からもたらされるイメージが三割増し。
この山麓附近で見られる動物たちは、自然動物園のそれよりも、かなり野生味をおびている。ジラフの群がゆったりと歩み去る。強烈な日ざしを受けたその毛皮のなまめかしい輝き。
といって、ここもおおむね動物保護区に指定されており、動物を射ったりしてはならぬ。自然動物園と異なるところは、もし人間が野獣に襲われた際、これを殺害しても罪にはならぬことだけだ。
その代り、車の運転手──これは動物案内人としてのライセンスを持っており、単なる運ちゃんではない──は、乗客たちの生命に責任を有しており、滅多なことでは車から外へ出してくれない。野獣たちは車を無害な動物と思っているから襲ってはこぬが、いったん人間が外へ出た場合、これはまったく別種の動物と見なされ危険が伴うからだ。
車の中に閉じこめられて、写真だけ撮っていては、なんらのスリルも味わえない。一体、アフリカは手に汗握る冒険の土地だった筈ではないか。
そこで、本格的な狩猟を行なう人もいる。もちろん保護区以外の土地でだ。ところが、誰でもやってみたいこのサファリは、ちょっとやそっとの金では不可能である。まあサファリらしいサファリを愉しむには、なんと一日五百USドルかかる。
やむを得ないことである。われわれにはそんなに金はない。そのため、九十九パーセントの観光客は、せいぜいムテイット・アンディへ通ずる保護地、タンザニアにはいってマニアラ自然公園からアンボセリ保護地、つまりキリマンジャロの周辺をぐるりと一巡して帰ってくることになる。内心は、ミミズ一匹でも捕えたり、スズメ一羽でも射殺したいとうずうずしているのだが。
──とある年の二月、この辺りとしては暑熱もいくらかしのぎ易い時候、どこといって特色のない中年のアメリカ人夫妻が、ナイロビからムテイット・アンディへの道を車を走らせていた。案内人は乗せていないが、坦々たる赤土のかなり幅広い道路がつづいており、道に迷う心配はなかった。
「あ、カモシカ」
と、夫人が叫ぶ。カモシカにもいろんな種類がいる。それがあたかもカモシカのようにしなやかに(北杜夫氏の文章がおかしなシロモノであることはこれでもわかる)一躍して灌木の茂みに消える。
「ふん、そんなものはつまらん」
と、赤ら顔の夫は言った。
「サイとか象とかライオンでないと、およそスリルがない。ああ、サイが出てこんかなあ。そうしたらおれはこの車をぶっつけてやる。過失ということにしてな。そしてサイの角を客間の壁に飾る」
「あなたは口ばかり達者なのね。このまえもホテルの部屋にゴキブリが一匹出てきたら、ベッドの上で悲鳴をあげて、あたしに助けを求めたじゃないの」
「ゴキブリはゴキブリ、サイはサイだ。おれは小さな生物が苦手なのだ」
そうしてぎらぎらと輝く空の下、遙かにキリマンジャロの雪の頂きを望む草原を車を走らせてゆくと、前方の道に一人の男が立って、とまれという合図をしているのが見えた。
「あれは白人だな。こんなところで何をしているのだろ」
シュミット氏──それがこの夫妻の姓であった──は、いぶかしく思いながら停車をした。
白いヘルメットをかぶり、白い半ズボンをはいている。何国人かも定かではない。いかにもこずるそうな目つきだ。
しかし、男は流暢な英語で言った。
「旦那、どちらまでいかれますか」
「アンボセリ保護地だ」
「旦那は男まえですな。その顔で、射とめた象の上に片足のせて、にっこり笑ったところはなんともいえないでしょうな」
「しかし、閑がない」
と、シュミット氏は苦りきって言った。
「なあに、五分間の閑でいいのですぜ」
「五分?」
「せっかくアフリカまできて、動物たちの写真だけ撮って帰るというのはつまりませんや」
「それはそうだが。君はぼくに狩猟をさせてくれるのか。しかし、それには許可が……」
「本物の狩猟をするとなると大変です。しかし、いろいろと裏口がある。要するに、あなたは巨象の腹に片足をかけた写真が欲しいわけだ。故国へ帰って自慢の種になる。え、そうでしょう?」
「まあ、そんな写真があってもおもしろいな」
「じゃ、こちらにいらっしゃい」
男はシュミット夫妻を連れ、道から少し奥へはいっていった。灌木のかげにジープが隠してある。男はシュミット夫妻を乗せ、強引に道なきブッシュの間を走った。
「そこにヘルメットがある。それをかぶりなさい。弾薬帯をしめなさい。そのほうがいかにも猛獣狩りらしく見える」
と、男は四輪運転のギアを入れかえながら指図した。
「まさか、ぼくが本当に猛獣を射つわけじゃないのだろうね?」
と、臆病風に吹かれたシュミット氏は尋ねた。
「大丈夫です。あなたの身にいささかの危険もない。相手はもう死んでいますからな。さあ、ここです」
男はジープを停めた。
指さす彼方に、一山ほどある巨象が横倒しになっている。男はてきぱきと言った。
「さあ、そのライフルを持って。そして象の腹に片足をのせて。苦み走った顔をして。さあ、奥さん、パチパチとお撮りなさい」
ひとしきりの写真撮影がすむと、男は言った。
「サイの頭に片足をかけた写真を撮りたくないですか? いかしますぜ」
「そうだな。サイはいかすな」
そこでシュミット氏はまたジープに乗せられ、巨大な黒サイの倒れているところへ連れていかれた。撮影がすむと、
「ワニの口の中へ片手を突っこんでいる写真はどうです?」
「そうだなあ。ワニも素敵だな」
それが済むと、
「ゴリラの首をしめている情景は?」
「もういいよ、君。ゴリラは虫が好かん。だが、よい記念になった。いくらだね、お礼は?」
「象が百ドル、サイが八十ドル、ワニが五十ドル、しめて二百三十ドルです」
「ばかな!」
と、シュミット氏はさすがに憤然として抗議をした。
「たかが死んでる獣のそばで写真を撮っただけじゃないか。そんな暴利が許せるか!」
「しかし旦那」
と、男は気味わるく丁寧に言った。
「本物のサファリをやるとしたら、どれだけの費用が入用かご存知ですか。象一頭が何万ドルにつくかも知れませんぜ。それに、もしあんたがこの正当の代償を払わぬようなら、私はここであんたとおさらばしますぜ。あんたの車のある道まで無事に辿りつけるかどうか、まあ神に祈るのですな」
「待て君、払わんとは言わん。そら、二百三十ドル」
「ありがとう、旦那」
男は、頭から湯気を立てているシュミット夫妻を道まで送りとどけた。夫妻の車がやけにエンジンを噴かせて行ってしまうと、男はにんまりと呟いた。
「まったく割のいい商売だ。とてもこたえられん」
この男は、はじめは野生動物の密猟者の一人なのであった。象牙、獣皮などを密売するのだが、近ごろは監視がきびしくなったのと、中間搾取が多すぎるので、大した利益にはならなかった。
それが、数頭の獣を殺し、しこたま防腐剤をつめ、ばかな観光客をだまくらかす商売は、まったく濡手で粟といえた。
「おれさまは頭がいいなあ」
と、男はぎらぎら光る太陽を見あげて呟いた。
五分後、またしても、遙かむこうから土埃の尾をひいて一台の車がやってくるのを認めた。正式の案内人の乗っている車だとまずいので、彼は双眼鏡でよく確かめた。
フォルクスワーゲンの小型車に、たった一人の老人が乗っている。
「カモネギだ」
と、男は呟き、車を停めるために道端へ出ていった。
首を突きだした貧相な、しかし金だけは持っていそうな老人は、どこからどこまで、本物の正真正銘の間抜けのトンマの抜作であるように見受けられた。
「なに、象の腹に片足をのせる? ライフルをかまえて? このわしが?」
老人は勢いこんで車からとび出してきた。
「君、それこそむかしからのわしの夢じゃった。なに、サイとライオンとゴリラとワニと野牛とがよりどりだって? それを全部、写真に撮ってくれ、カメラは五台持ってきている。わしはもうわくわくするぞ」
インチキ商売の男は、この老人なら象一つで三百ドルはふんだくれそうだとにやりとし、お世辞たらたらに老人を野獣の死んでいる場所へ案内した。
現場につくと、老人は肝臓から腎臓からため息をつき、
「なるほど、大きな象だ。もっともだいぶ腐臭がしているところをみると、死んでからかなりになるな」
「そんな臭いなんか写真には写りませんや。さあ、ライフルをかまえて。カメラを私にお渡しなさい」
「いや、わしはライフルより、こちらの武器を選ぶな」
老人はそう言うと、ポケットから大型のピストル様のものを取りだした。その後部がずいぶんとふくれている。その見たこともない変ちくりんな玩具みたいなものを象に向け、老人は引金を引いた。
すると、驚くべし、猛烈な火炎が湧き起った。超小型の火炎放射器だったのである。
インチキ商売の男はど胆を抜かれた。しかし、ひとかたまりの黒い残骸になってしまった商売道具の大切な象を見ると、おどろきより怒りが勝を占め、老人につめ寄って叫びはじめた。
「おい、一体なんて真似をしやがる。大切な象だぞ、牙一本でどれだけするか。いやさ、これを射ち倒すのにどれほどの費用がかけられているか。おい、その変な武器を捨てろ。おれのライフルは素早いぞ。さあ、弁償して貰おう。一万ドル、びた一文欠けても許さぬぞ。たとえいま金を持っていなくとも、おまえを人質にして、必ず金を取りたててやるからな」
「わしはそんな金は払わんよ」
と、老人はのんびりした声で言った。
「それより、ゴリラとサイと……それから何じゃったっけな。そこで写真を撮って貰おうか。さあ、案内してくれ」
「ふざけるな、死に損いめ! おれを誰だと思っているんだ。泣く子も黙る、怪盗ジバコさまのアフリカ支部の一の子分の三下のその下のチンピラだぞ。さあ、驚いたろう」
「ジバコはおまえとは関係ないな」
「なにを! なにを根拠としてそんなことが言えるんだ?」
「なぜって、このわしがジバコだからじゃよ」
老人は急に声音を変え、ゆっくりとそう言った。
インチキ密猟者は青ざめた。いくら貧相な老人に変装しているとはいえ、その声の貫禄、急に二倍にもふくれあがったかのような威圧的な身のこなし、これこそ噂に聞く怪盗ジバコその人なのではあるまいか。
しかし、男は多少腕力に自信があった。うろたえたように見せかけて、いきなり老人にとびかかった。瞬間、もんどり打って投げとばされていた。逆手をとられた。もはや微動だもすることもできぬ。
「やはり、この老人は本物のジバコなのだ」
男はぜいぜいと喘ぎながら思った。怪盗ジバコ相手では勝目がない。今や男はすっかりしおたれて、相手の言うなりに、彼の商売道具である野獣の死体のところへ案内した。そのたびにジバコは精妙な武器でそれを焼きはらった。
最後にジバコは、きっとした目つきで言った。
「おまえ、ちゃちな商売のつぐないをするんだな」
いきなり男の服に手をかけると、ビリビリに引き裂いた。同時に、片足で傍らにそびえていた赤蟻の塔を突きこわした。半裸体の男を、赤子をあやつるように、そこへ突き倒した。
たちまち怒り狂った無数の赤蟻が男の肌を刺しまわる。苦悶にころげまわる男を眺めて、ジバコはひややかに言った。
「さあ、とっととどっかへ消え失せろ。このおれがこんな残酷なことをするのだから、おれの怒りがどれほど大きいかを知れ。二度とジバコのジの字も口にするな!」
ジバコは憂鬱であった。
自ら身を乗りだして、末端の子分、或いは子分と称する木ッ端連中の不始末、悪行の数々の尻ぬぐいをつづけているものの、その数はゴマンとあり、とても身一つでは間にあわなかった。
「これも身から出た銹《さび》か」
ジバコはかつてない憂鬱さにとりつかれていた。
ドロボウの帝王、義賊、しゃれた機知ある盗難を企んで、この世の大衆には一文も損をかけず、むしろ大衆のストレスを解消している男、ノーベル平和賞の候補にさえあがっている男(さすがにこの案は各国の警察から横槍が出てお流れになった)、そのような栄光に包まれた人気絶大のジバコとはいえ、しょせんはドロボウはドロボウにすぎないのか。
ドロボウとは社会の滓である。怪盗といっても、単に大きな滓にすぎないのではないか。彼が金に困らなくなって以来、彼は盗みとはいえちょっとしたギャグ、むしろ善行をつんでいるつもりであったのだが、その本質はやはり悪なのではあるまいか。
ジバコは憂鬱であった。
彼はちょっとした青年観光客のさまをよそおって、沈んだ気持にふけりながら、そのときパリの街を歩いていた。なんだかすっかり煤が洗われて白くなって情緒の失われてしまったパリを。
ようやく雲の低くたれこめた陰鬱な空がひらけ、さわやかな水色が覗かれる季節となっていたが、ジバコの心境は北ヨーロッパの冬の閉ざされた雲あいそのものであった。
サンジェルマン・デ・プレのカフェーに寄る。大道に出た椅子はほとんど客で一杯である。空いた席も見当らぬ。
一つのテーブルに、若い、まだ十八、九と思われる清楚な女性がただ一人坐っていた。人を待っている顔つきではない。あらゆる心理学、超心理学に通ずるジバコには、そのくらいのことは一目でわかった。
「失礼して宜しいでしょうか」
青年紳士のなりをしたジバコは、わざと下手なフランス語でそう言った。
「どうぞ」
ジバコは若い女の真向いに坐った。給仕がくる。
「水」
と、ジバコは英語でそう言った。
「ミネラル・ウォーターで?」
「どんな種類がある?」
と、ジバコはアメリカ人観光客をよそおってそう訊いた。
「たとえば、エビアンとかボルビックとかビッテルという銘柄で」
「それを全部」
と、ジバコは英語で言った。
「ぼくは水が欲しい。ああ、水、水」
ミネラル・ウォーターがくると、ジバコは一口ずつ味わってみた。それから、
「みんなまずい。こんなもの飲めたものでない」
と、ため息をつき、
「|水道の水《ロー・ド・ロピネ》」
と、物凄く下手なフランス語で言った。
給仕は肩をすくめて、コップ一杯の水を持ってきた。アメリカ人と日本人と蛙だけが飲むという水を。
「うまい!」
と、ジバコは叫び、その場でチップをはずみ、
「|水さしに一杯《アン・カラフ・ドー》」
給仕は軽蔑の目差しを投げ、むこうへ去った。
さて、ジバコが真向いの若い女性を更めて眺めてみると、その瞬間、彼の心はぎくりと緊めつけられた。
このような不可思議な、霊妙な、ときめくような心情を抱いたのは、一体何年ぶりであろうか。おそろしく遠い過去の忘れられた心情に近い。
たとえば、もの寂しい気持を抱いて野に寝そべっていて、ふと頬に触れたカヤツリグサの感触。そのときの大地のしめり。或いは上空を飛んでいたほそい胴体をしたトンボの翅のきらめき。
なんというふしぎな懐しさ。心の痛むようなひそやかな内奥のふるえ。
ジバコは若い女性をじっと見つめた。
金髪であった。碧眼であった。琥珀色の肌であった。黒いなにげない細身のウールのワンピース、テーブルの上におかれたスウェードの黒いバッグ、そしてちらと視線を下にむけると、すらりとした細すぎる足の下に、やはり黒いスウェードの靴が見えた。すべてがなにげなく、少しも金はかかっておらぬくせに、なんともこのうえなくシックであった。真珠のブローチも小粒な人工物で、安物であることは一目でわかるが、それがなんとほっそりとした彼女に調和していることか。
化粧はしていない。マニキュアすらもしていない。ただ、いきいきとした小鹿の美しさである。
怪盗ジバコたる彼は、ここずっと美女に囲まれて暮してきた。餅肌のふっくら型、ひきしまったアラビア馬のごとき精悍な女、カゲロウのごときたおやめ、キングコングに近いグラマー、骸骨に薄皮をつけたファッション・モデル型、角力とりより巨大なフィジーの女性、どれでもよりどり見どりであった。
しかしジバコは、若いころは恋と思われる情事に身をやつしたことはあったが、ここ十年来、心から女を愛するということがまったくなかった。少なくとも恋することはなかった。すべての偉大な英雄と同様、女にうつつを抜かすよりももっと重要なことを自分がしていると信じていたからである。
いま、目の前の小鹿を思わせる若い女性は、赤い飲物を口へ運んでいた。おそらくはイタリアのカンパリ酒であろう。それは安酒だが、なんと彼女のくちびると似つかわしく見えることだろう。
一瞬にして、怪盗ジバコはこの小娘に恋していた。
やわらかな若草のそよぎ、乾草の匂い、遠くでのどかに鳴く牛の声、空のどこかでさえずるヒバリ、或いは霧のたちこめたしっとりと濡れた舗道、たそがれに鳴りだす古い教会の鐘の音、そういった情緒豊かな印象が、一遍に彼の胸中によみがえってきた。
ドロボウを業として励んできたここ○○年間、滅多に考える閑のなかった心情である。
ジバコは相手の澄みきった碧眼を直視できぬような気分になった。彼はうつむいて、水道の水をガブガブと飲んだ。
そのとき、
「ジバコさんですね」
と、むこうの娘が言った。
ジバコは百人の警官に包囲されたときよりも驚愕した。幹部級の子分にすら、彼の好き勝手な変装を見ぬかれたことはない。ましてぼんくらな警察官などには。ずっとむかし、思いがけずアルセーヌ・ルパンと出会ったとき以上の驚愕が彼を襲った。
しかし、ジバコはすぐに自分をとり直した。
「どうしてぼくがジバコとわかりましたか?」
と、一語々々確かめるように彼は言った。
若い女はえも言われず可憐に微笑した。
「だって……だって……あたしは怪盗ジバコが好きですもの。愛していますもの。恋していますもの。たとえどんなに姿形を変えていなすっても、恋する男をどうしてあたしがわからないことがありましょう」
「それは」
と、さすがのジバコも口ごもった。このたわいもない小娘の前で、一世の怪盗といわれるジバコも口がすくむような気がした。
「それは光栄なことです。マドモアゼル。しかし、このジバコも今日ばっかりは少しびっくりしましたよ。なぜって、変装をかくも簡単に見抜かれたことは過去に一度もない私ですから。あなたには、特殊能力、霊感というようなものがおありなのですか」
「あたしはしがない爪みがきの女です」
と、若い女はこたえた。
「ですけど、恋はすべてを超越するものではないでしょうか。もちろん、この世界にあなたを恋し、あなたに憬れている女性は数限りないことでしょう。中には単に怪盗ジバコの富に憬れている女も含めて。しかし、あたしはその数多の女性の中で、もっとも純粋に心底からあなたを愛していると言いきれる自信があります。あたしの夜毎の夢はあなたのことですし、あたしの日中の夢想もあなたのことでした。一目見て、ジバコさんだとわかりましたわ」
「だが、私の顔も姿も変幻自在だ。私がもしヨボヨボの腰の曲った爺さんとしてあなたの前に現われたとしても、やはり私が見抜けますか」
「だってあたしは」
と、可憐な娘はつつましく、だがきっぱりと答えた。
「あなたの姿恰好を愛しているのではありませんもの。あなたの魂に恋してるのですもの」
ジバコは女をじっと見つめた。柔かなうねるような金髪、カリブ海よりも濃く澄んだ碧眼、ほそいうなじ、すべてのものが、彼の若かった時代の忘れ去られた夢を象徴しているかのようであった。
ほのかに月光を映す海、落葉の朽ちた匂い、黄昏《たそがれ》の人気なき舗道の感触、高山の稀薄な大気。
若いころ苦労をつんだジバコには、そうした詩的なうるおいを抱く余裕が少なかった。それだけに、その夢はいっそう貴重でかけがえのないものであった。
男は能動的に愛するものだ。女は受動的に愛される存在だ。しかしジバコは、この小鹿のような小娘から愛の告白をされたことをこのうえもなく嬉しいことに感じたし、彼の心はたちまち少年のように彼女に対するおののくような恋情に満ちた。
「私がたやすく正体を見抜かれてしまったことは、私にとって恥辱といってよいのですが」
と、ジバコは丁寧に言った。
「それよりも私はあなたと偶然に会い、知合になれそうなことを遙かに嬉しく思います。あなたとの出会いは、これからの私の人生を変えることになるかも知れぬという予感さえ抱きます」
女はパッと頬を染めた。
「すると、しがないあたしにちょっとでも好意をお持ちになってくださいますの?」
「好意以上のものを。口では言い尽せぬほど」
「おからかいになってはいけませんわ」
「私の目を覗いてごらんなさい。私がどんなに真剣にものを言っているかおわかりでしょう」
「光栄ですわ、ジバコさん。でもお忙しいあなたの瞑想をこれ以上妨げてはなりません。それに私は店へ戻る時間です。これで失礼します。今日の五分間の体験を一生宝物として胸に抱いて暮しましょう」
「とんでもない、マドモアゼル」
と、ジバコはすがるように言った。過去、小国家の年間予算を上まわる盗みを働いたとき以上に真剣そのものであった。
「もし、あなたさえ宜しかったら、私はあなたとずっとおつきあいを願いたい。ぜひ御住所を、お電話を教えて下さい」
「本気でそうおっしゃるの?」
「世界のすべての神にかけて!」
「でも、あなたが本気になられたら、あなたの強大な組織は、あたしの住所くらいすぐお突きとめになられるでしょう?」
「それはもちろんです。しかし、私はあなたの蜜のようなくちびるから直接それを伺いたいのです」
女はじっとジバコを見つめた。
「あたしはあなたを愛しています。ですから、愛する人に、生意気なようですけれど、一つ申しあげたいことがありますの。愛ゆえの言葉ですわ」
「ほほう、何です?」
「あなたはドロボウの帝王です。あなたの盗みはむしろ大衆を富ませ、世間にユーモアを与えます。ですけれど、あなたはあまりにも力と富とを持ちすぎるようになられました。あなたの子分は何万というではありませんか。あなたは世間をアッといわせ、尊敬と愉しみを与える盗みをなさる。ですけれど、今ではそれは怪盗ジバコ国ともいえる強力な組織力によるそれが多すぎます。あなたお一人の頭脳、あなた個人の腕前を発揮なさることがだんだんと少なくなりました。あたしはあなたのためにそれを惜しみます」
言い終って、女は下をむいてまた頬をパッと染めた。
「まあ、あたしとしたことが、なんという言い方を! きっとあなたにお会いできて夢中になって昂奮してしまったのですわ!」
そのまま女はつと立上ると、逃げるようにその場を去った。
ジバコはあとを追わなかった。
そのままじっと考えこんだ。このうえなく憂鬱げな表情で。
娘の言ったことは本当であった。
彼ジバコは、むかしはどんなにかみじめな日を送ったことか。懐中に一文もなく、公園のベンチに寝、幾度ひややかな星空を仰いだことか。
それが今は、彼はたしかに力を有しすぎている。腕ききの子分もざわざわいるし、始末に困る子分に至っては多すぎる。各国の警察の秘密会議も彼には筒ぬけだし、彼の秘密研究所では、各種ドロボウ用新兵器が続々と試作され、実用化されている。いかなる銀行の金庫を破ることも、もはや易々たる仕事となってしまった。
「おれはちっぽけな人間にすぎぬのだが、身分不相応の存在になってしまったのかも知れぬ」
ジバコは、その夜わざと泊った安パンションの歪んだ壁を眺めながら思った。
かつての彼はどこへ行ったのか。この頭脳とこの腕一つ、頼るものはすべてそれだけで、見事な芸術的盗みを働いたジバコはどこへ行ったのか。
「おれはまた裸一貫、身ひとつからやり直そう」
刺すような悔恨に包まれながら、ジバコはそう決心した。
「おれの組織は解散させよう。盗んだ数々の美術品は、元の場所に返してやろう。おれの財産は貧民にわけ──いや、それではあまりにありきたりすぎる。いっそ火星ロケットでも作って、札束と金貨をつめて火星にむけて発射させよう」
ジバコは一番安物のゴロワーズに火をつけ、きっと視線を一方にすえた。
新しい希望と勇気とが、その力強い瞳に溢れてくるようであった。
「よし、おれは裸一貫から再出発する。そのうえで、あの女性の前にもう一度現われよう。彼女はそのとききっと微笑してくれるだろう。天使よりも愛らしい微笑を……」
その夜、ジバコの夢は生涯になかったほど、つつましくも甘美なものであった。
──それから幾何《いくばく》かの日が流れた。
パリの夜は更けまさり、エッフェル塔はくろぐろと寝静まっていた。
その下に、音もなくひとつの黒い影が忍び寄った。手には一本の鑢《やすり》を持っている。
これこそ、単身、やすり一本で、エッフェル塔をそっくり盗もうとする怪盗ジバコその人の姿であった。
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年六月二十五日刊