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マンボウ響躁曲 地中海・南太平洋の旅
北杜夫
目 次
マンボウ響躁曲(地中海をゆく)
マンボウ南太平洋をゆく
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マンボウ響躁曲(地中海をゆく)
今年の夏、私が避暑地の山小屋で暮していると、一人の快人物、すぐカッとなることから瞬間湯わかし器≠ニ仲間うちで渾名《あだな》されている、元海軍大尉、阿川弘之さんがその山小屋にやってきた。
阿川さんは文学的には私のずっと先輩に当るが、昔からこの知能の足らぬ後輩にも親切につきあってくださっている。
ところで、世に乗物狂は数あろうが、阿川さんは日本におけるその最たるものであろう。船に乗ると、未だに海軍軍歌を唄いだし、涙を澎湃《ほうはい》と流すと聞く。もっとも彼は外国の豪華客船にも何回も乗っているが、タキシード姿ではまさかそんな真似《まね》は致すまいと思う。
飛行機についても滅法くわしく、同じくすぐ感激する。昨年の二月、彼と一緒に私はパリにいた。それから出発の日になってタクシーでドゴール空港の見えるところに来たとたん、まったく唐突に阿川さんは、「あ、いた!」と絶叫された。私は何が起ったのかと瞬間、ギョッとした。しかし、大事件発生ではなく、単なるコンコルド機が見えただけの話である。だが、氏にとって残念なことに、よくよく見るとそれは本物でなく模型にすぎなかった。
阿川さんは汽車も、もちろん大好きだ。私はある文学全集の阿川さんの巻で、その文学紀行とやらを頼まれ、彼の広島の生家に取材に行ったことがある。被爆して焼けたが同じ場所に建てられた家の裏手に立つと、なるほど彼の初期短篇「年年歳歳」にあるように、すぐ近くに鉄橋が望見された。
少年弘之は朝な夕な、そこを過ぎる汽車の姿を見て日を送っていたのであろう。遠藤周作さんの意見によると、汽車が通るたび、「バンザイ、バンザイ」と叫んでいたら、長じてみると汽車狂いになっていたという。真偽のほどは定かではない。
なかんずく阿川さんが最近、汽車に対して特別な執念を燃やすようになったのは、某誌にとびとびに「南蛮阿房列車」という続きものを連載しているためで、これは内田百闔≠フ「阿房列車」の近代版というところだ。百關謳カは必ず「ヒマラヤ山系」と呼ばれる弟子だか子分だかを連れて旅に出たが、阿川さんの世界各国の汽車旅行の旅にも、たいてい誰かこの「ヒマラヤ山系」氏をもじった人物が登場する。昨年の七月、実は私はマダガスカル島へ彼と同行して、この役をやらされ、ガタ揺れするオンボロ列車に長時間つめこまれて、半死半生の目に会った。
そういう痛い目に会っていても、「南蛮阿房列車」はすこぶる面白く、文章にもコクがあり、私はずっと愛読してきている。
さて、その山地で、阿川さんと私は某誌の対談に応ずることになった。それも野球に関する対談である。その席で阿川さんはすべての乗物にこそ悪魔のごとき知識があるが、野球に関してはカラ駄目なことがつくづくと私にはわかった。なかんずく今の世でもっとも流行《はや》っているプロ野球に関しては、こちらが仰天するほどの無智蒙昧《むちもうまい》ぶりなのだ。
その、もう雑誌に載った対談の抜粋。
北[#「北」はゴシック体] 野球の対談といっても、ぼくはパ・リーグはあまり知らんし、高校野球もろくすっぽ知らんし……。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]その、パ・リーグなんてのが出てくるとすでに困るんだよな、オレは。どっちがパ・リーグだったかなと思うんだ。汽車の話しようよ。
(しばらく略)
北[#「北」はゴシック体] じゃ、今のプロ野球のことなんてほとんどご存じないわけですか。
阿川[#「阿川」はゴシック体] いや、それがね、何も知らないに近いんですけど、去年広島カープが優勝しましたよね、あれはセ・リーグのほうかい? それで日本シリーズに出たでしょう。あんなことは想像もしなかったことでね、あの途中から、やっぱりお国びいきなのか、だんだん興味が出てきて、テレビなんか見ましてね。それで外木場とか古葉とかいう監督かなんかいたよね。そういう名前、二つ三つ覚えたりしましたよ。
(しばらく略)
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]……それから高等学校にはいって、「お前も投げてみィや」っていうんでキャッチボールやると……。北さんよりも運動神経がないっていうのは、甚だおもしろくないんだけどね。
北[#「北」はゴシック体] まあ、車の運転はお上手だし。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]あれは運動神経じゃないですよ。昔の高校って、建物が高いでしょう。二階建てだけど、一階の窓から飛び降りても、「ドシーン」とくるくらいの高さなのに、僕がキャッチボールすると二階の窓が割れるんでね。
北[#「北」はゴシック体] 暴投して?
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]暴投って、常に暴投なんだね。それで「お前、やめやめ」ってことになって。
北[#「北」はゴシック体] なるほど、それは阿川さんにふさわしいみたいだな、暴投というのは。あるいは暴走とか。(笑)
(また、しばらく略)
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]阪神なんかもそんなことでファンになったわけ?
北[#「北」はゴシック体] いや、だいたい僕、プロ野球は戦後からなんです。その頃、阪神はダイナマイト打線ていわれて、すごい打者が揃《そろ》ってたんですよ。一番金田とか……。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]金田は阪神ですか。
北[#「北」はゴシック体] 阪神です。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]あれ、国鉄にいたでしょう。
北[#「北」はゴシック体] いや、外野手の金田です。投手の金田は、今はロッテの監督になってます。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]そうかい……。まあいいや。
(またまた、しばらく略)
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]チームプレーで思いだしたけど、開戦のとき日本の戦闘機乗り――戦闘機乗りだけじゃないんだけど、日本海軍のパイロットは世界一の技量を持っていたんですよね。これがどんどんダメになってったのは、優秀なのがミッドウェイその他で後が続かなかったことが一番大きな原因なんですけども……。(延々と日本海軍・空軍の話をする)
(更に)
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]ところで北さん、あの監督が、広島でいえば古葉かい、外木場かい、どっち?
北[#「北」はゴシック体] ああ、嫌になってきちゃったな。古葉です。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]古葉が出てきてこういうこと、サインやるでしょう。あれ、一種の暗号なんだけどね。
北[#「北」はゴシック体] ブロックサインね。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]あんなもの、私のような専門家にいわせるとすぐ解読できると思うんだけども、何種類もないんでしょう、こんなもの。
北[#「北」はゴシック体] 今、相当複雑らしいんですけどね。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]複雑にしたら、今度バカな選手が読み違えやしないか?
北[#「北」はゴシック体] それはサインの読み違えというのは明らかにありますね。それからサインを盗まれるってことも、現実にありますね。……まあ、阿川さんは暗号の専門家だから、ブロックサインを研究すれば見抜けるかもしれないけど、かなり複雑なものですよ。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]かなりったって、簡単なもんだよ。戦争時代の……、まあ、よそうか。(笑)
北[#「北」はゴシック体] 阿川さんは高校野球にも興味を示しませんか。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]高校野球って何ですか。
北[#「北」はゴシック体] つまり、甲子園でやってる……。
阿川 [#「阿川 」はゴシック体]うん、なんだか全然わからん。
ああ、こうして書き移すのも、あまりといえば阿呆らしくて嫌になってきた。
しかも、話の途中から、阿川さんはかなりの酪酊《めいてい》状態を呈してきたのである。いつもは自分で運転するから酒が飲めないが、その夜はタクシーで対談の席にきたせいであろう。
やがて彼は、だしぬけに「ジンジンジャンジャン、ジンジンジャンジャン……」と叫び、箸《はし》でテーブルを叩《たた》き、それからやにわにドイツ語の歌と海軍の歌を次々と唄いはじめ、対談は尻切れトンボというか、もはやもう滅茶滅茶になってしまった。
のみならず、そのあと阿川さんは私の山小屋にやってきて、ますます調子に乗って歌を唄い、陽気になり、口早になり、
「今度は英国、スペイン、それから北アフリカヘ出てモロッコ、チュニジアの汽車に乗るんだ。平岩弓枝さんも一緒にくると言ってくれている。君もこないかね」
「いま、ちょっと無理です。でもいいなあ。そのあとはどこに寄ります?」
「アテネに出て、ここでも汽車に乗ります。あと、ローマ、パリを通って帰るつもり」
それはもう八月も末に近づくころの話であった。
私が知らない場所がずいぶんあるので食指は動いたが、この年の前半、私は心身ともに大いにくたばり、怠けっ放しだったので、仕事が押せ押せになっている。
「諦《あきら》めるより仕方がないなあ。それにしても、向うは酔っぱらっておれの知らん歌をいい気になってがなって、羨《うらや》ましいというか、癪《しやく》にさわるなあ」
と、私は心のなかでしきりにぼやいていた。
それから、二、三日|経《た》った。
文春の編集者が尋ねてきてよもやまの雑談のあと、私は将来、長篇を書こうと予定しているブラジル移民のことについて、来年にはそろそろ取材に行かなければ、とつい洩《も》らした。
「それじゃあ、この十一月までに行けませんか。エア・フランスの切符が十一月まで余っているんだがなあ」
「そりゃ無理です。ここ当分、仕事をせにゃならんし。それに以前調べたブラジルのことも、あらかた忘れちまっている。なにせぼくはとみに惚《ぼ》けてきてますから。でも、その切符って奴はどういうものなんです?」
「うちの雑誌にエア・フランスが広告を出してます。代金の代りに、切符を貰《もら》うこともあるのです」
「そりゃいいなあ。だけど、今回はとてもじゃないが……」
残念ではあるが、やむを得ない。
その日から、何日か或いはもっと経った。
いかなる天邪鬼《あまのじやく》のはからいか、諦めていた私の心境はいきなりがらりと急変したのである。その夏、私はいつになく元気で(私の肉体は、医師免許を持つ身の名誉にかけて断言するが、六十歳を過ぎたほど老化している。念のための注、本当は四十九歳)、原稿が予定した量の二倍もはかどったことも原因であったにちがいない。
連載を開始する場合、私は途中で鬱《うつ》状態に陥るとまったく書けなくなるため、少なくとも三カ月ぶんは書きだめしておく。最近は病的にその傾向が強くなってきた。たとえば、妖《あや》しげな大人の童話を中間誌に連載することを決めてから必死に書きだめ、その第一回は八月二十日発売の号から載せられたのだが、ハッと気づいてみると、その八月中にまったくの終りの終りまで書きあげられそうな目算が立ってきた。出始めが八月発売の八回ほどの連載読物を、もうその八月には書き終えそうである。八という数字が重なって、我ながらバカバカしいやら誇らしいやらの気分であった。
私は滅多に仕事を引受けぬし、それも微量しか書かないから編集者を怒らせるが、いったん約束した以上は、世の流行作家のように締切が遅れ編集者をハラハラさせることもなく、こよなく楽させてあげている。というのも、三文作家としての自覚が常に内心にひそんでいるからなのだろう。
ともあれ、その八月も末近くの私の気分は、あたかも便秘が貫通したかのようにサッパリし、突如として頭がヘンになり、次の仕事の予定もなにもかも宇宙空間に飛んでゆき、神よ悪魔よ、ととてつもない考えにとりつかれてしまった。
それは、あれほど懲りていた阿川さんの汽車旅行に同行したいという一念である。
これは冷静に考えれば、ずいぶんと危険なことともいえた。あのマダガスカル島の上下左右にガタ揺れする恐るべきオンボロ列車の旅で、私はあやうくクタバリかけたではないか。
なにせ時刻表によれば十三時間のはずだったが、アフリカよりむしろ東南アジアの入りまじるこの奇態な島の至極のんびりした風習として、もちろん時間どおりには着かないのだ。なにせ、その年の秋、或る日のこと汽車がなんの拍子か定刻ぴったりに着いてしまったら、乗客のマダガスカル人の一人は、二月に起ったクーデター騒ぎのドンドンパチパチ事件より驚愕《きようがく》して、ショック死をとげたという話だ。
思い返せば、阿川さんと海軍の同期である加川隆明マダガスカル大使一家と私の乗る汽車は、時間表などぜんぜん無視してゴトゴトガタガタと走りつづけた。次第に暮色がつのり、はや夜にはいっている。遅延も遅延、大遅延らしい。
それなのに阿川さん一人は、同行のマダガスカル語のわかる青年と一緒に、ときに機関車に乗りこみ、汽笛の紐《ひも》を引っぱってはピーポーと鳴らし、大いに悦に入ってニコニコしていた。
大使と私はむろんのこと、おもしろかろうはずはなく、疲労が刻一刻といやつのってくる。
「おい、もうとうに着いてよいはずだのに、汽車は一体どこいらまで来ているのだ」
と、加川大使。
「あと、駅は幾つあるんです?」
と、私。
汽車はごくしばしば、貧相な停車場ともつかぬ駅にとまるのだ。
それなのに、阿川さんは駅の名を記したタイムテーブルを持っているくせに、がんとしてそれを見せない。さすがに一同に対して罪悪感を抱いたのであろう。
「ええとですね。東海道線で東京に向っているとすると、もう横浜はとうに過ぎた、と言ってよいでしょう」
それからずいぶんと経ったが、汽車は相変らず暗黒のなかをノロクサと、しかもえもいわれぬ震動を伴って走っている。
「おい、いくらなんでももう着いてもよいだろう」
阿川さん慌てて、
「そう、もう品川、それもとうに過ぎたくらいと思って頂きたい」
また時間が経ち、
「品川から東京駅まで、いやに長いもんだなあ」
と、加川大使。
「まあ、そう言うなよ。一応、済みませんと申しておきます」
それからもかなりの時間を喰って、オンボロ汽車はついに、やっと、ようやく目的地に脱線もせず到着した。私は体じゅうがこわばって、かつ痛かった。
これがマダガスカル島の首都タナナリブから東海岸のタマタブまでの汽車旅行始末。
それにしても、加川大使は歴代のマダガスカル大使のなかで、こんな汽車旅行をしたのは初めてにして最後の人物となろう。タマタブまでは空路もあるからである。これも阿川さんのおかげ、或いはその不吉にして幸福なる魔力によるものか。
事実、帰りは飛行機に乗ったら、わずか三十分でタナナリブに着いてしまった。
それでも、そのときこそ多少の恨みを持ったものの、あとで私は阿川さんに心底から感謝したものだ。「どくとるマンボウ航海記」の冒頭に出てくるマダガスカル島のアタオコロイノナという変てこりんな神さまの話を書いた身にとっては、彼のおかげなくしては、とてもこんなとび離れた島にくることもなかったろうと痛感したからである。
とはいえ、繰返すが、くたびれはてたことは、茹《ゆ》でられたタコさながらであったのだ。
しかしながら、前述のこともあって私の頭脳は少しく、いや大いに異常をきたしたらしい。
直ちに、文春の編集者に電話し、
「そのエア・フランスの切符、ぼくにくれませんか」
「え、また急にどうして?」
「阿川さんがまた旅に出るんです。それに同行したい。もうパッと閃《ひらめ》いて、辷《すべ》って転ぶ閑《ひま》もないうちに決めちゃいました」
「またもや躁《そう》病になったですか? そりゃ切符は差上げますが……」
「ここ四、五年、一遍も躁病になっていない。もう治っちゃったらしいです。ただ鬱のみ。しかし、この夏は妙に元気なので」
「承知しました。上役に相談してみます」
少し厚かましいとも思ったが、来年、文春の中間小説誌に三文小説の連載を約している。そのくらいの恩恵を蒙《こうむ》ってもよかろうと思った。
ところが、阿川さんは某社側の旅をするため、そのスケジュールを聞くと、調整するのがまことにヤッカイなことがわかった。彼はこのたびは日航を主として用いる。
かつ小さな路線の聞いたこともない会社の飛行機に乗るらしいので、複雑な連絡のために頻繁に東京に電話しなければならなかった。鬱期の私なら、電話料金がもったいなくて、旅自体を諦めてしまったことだろうに。
そんな雑事をしているうち、私の頭脳はもっと変てこりんになっていって、もはや露のかけらほどの魅力もない、女房までも、旅に連れていってやろうという途方もない妄想に陥った。
私は女房を外国に連れていってやったことは、過去二度しかない。
初めは、今はもう就役していないラオス号で香港に行った。このときは、私もまだ若く、女房が女のあさましさ丸出しで買物に熱中するのにも、それほど苦もなく尾《つ》いてゆくことができた。私としても、香港ではいつも安い万年筆やライターなどを買いこんでいた時代だったからだ。ところが一日、知人の中国人の奥さんの案内でショッピングを始めたところ、彼女は一軒の洋服店にはいり、なんと一時間も出てこなかった。このとき、私はさすがにイライラし、もう我慢できなくなって、一人孤独に路上を歩いてゆき、とある薬屋に入って、漢方薬のトランキライザーめいたものを買った。
このときの女房の買物ぶりには、漢方薬のせいもあって私はまだそれほど逆上しなかったが、彼女は香港に着いたというその日のその日、香港サイドにフェリーで渡ったと思ったら、たちまちスリにやられた。「間抜け!」と怒鳴りたかったが、まあハシタ金なので、私はジッと堪えしのんだ。のちに、随筆のタネにして、その半分ほどの金を取り返した。
二度目はずっと年月が流れて、昭和四十八年だったか、オランダ、ドイツなどの旅行に連れていった。このときは私の処女長篇「幽霊」の続篇「木精《こだま》」という作品の取材のための旅であったし、結婚するまえハンブルクで二年ほど暮したことのある女房のほうが私よりはるかにドイツ語がうまいので、まあ助手として同行させたわけだ。
ところが、この女房同伴の旅は実に惨憺《さんたん》たる結果に終った。なにせ旅の間じゅう、二人は喧嘩《けんか》ばっかりしていた。それもごくつまらないことで。
朝、私はバス・ルームにいる女房にむかって、「おい、あと何分で済む?」と、おどろおどろしき声で怒鳴る。これが連日のことであった。こんな些細《ささい》なことから、二人のあいだは次第に険悪になっていった。
あまつさえ、女房はまたスリにやられた。旅立つまえ、彼女は前回の体験に懲りて、「絶対にスリに取られぬようにできているハンドバッグを買ってきたわ」と言っていたのに、ベルリンの空港で、航空会社のカウンターに並んでいるうちに、雲か霞《かすみ》か、すでにそのバッグにはいっていた五百マルクくらい(私にとっては大金!)の金は消えていた。すぐにそこの警察にとどけたが、もちろん無駄骨折りに終った。
ここに至って、私は日と共につもっていた鬱憤のせいから、否応なく立腹したが、それは旅が終りに近づくにつれもっともっと激しくなっていった。
女という人種は、無闇に土産物を買いたがる。その旅のときは、私は残忍な古い北欧神話の神のごとき顔をして、断乎《だんこ》として女房に高いものを買わせなかったが、彼女はこまごまとしたものをしきりと買いたがった。
たとえば、ドイツのリューベックなどの名物の砂糖菓子マルチパンとか、チョコレートなどを買いたがる。女は甘いものが好きだが、某先生がマルチパンをお好きだからお土産に、という口実である。
これは私にとって理解できぬことどころか、怒髪天をつくに足る不埒《ふらち》極まりない行為といってよかった。
私が単なるケチのせいではない。そもそも私が生れて初めて海外に出たとき、つまり昭和三十三年から翌年にかけての「マンボウ航海記」のときは、外貨というものはすこぶる貴重なものであった。当時はたとえ金があっても、留学とか審査を必要とする商用のためとか以外、外国へ出かけることは許されず、五百ドル枠の海外旅行が許されたのはもっとかなりあとになる。
私は医学部の授業にほとんど出ず成績がどえらく悪かったうえに、医局にはいってからも論文一つ作らなかったため、留学生試験は書類選考で落ちてしまった。私はやむを得ず、水産庁のほんのちっぽけなマグロ調査船の船医となった。とにかくミーちゃんハーちゃんのように外国へ行きたくてたまらなかった。そのとき船長の次に外貨を多く与えられた私にしても、せいぜい三百ドルくらいではなかったか?
それでも、私は日本に留学にきていたドイツ女性心理学者が帰国するとき五万円を貸していたのを、向うでマルクで返して貰った。そのため、十カ国くらいの港でもけっこう酒を飲めたし、フランスではル・アーブルからパリまで汽車旅行し、安宿に泊ったり、当時初めての留学をしていた辻邦生夫妻と中級のレストランに行ったり、イタリアではゼノアからミラノに行って同じく安宿に泊り、コモ湖などへ行ったりすることができた。
しかし、異国の地で金が乏しいことは実に心細いものである。ミラノの安宿のぎしぎしするべッドの上で、そのとき持っていたリラはいくらいくら、これで宿代と帰りの汽車賃とそれから? と心配でたまらず紙幣からコインからすべて一枚一枚並べて数えて計算し、暗澹《あんたん》たる気持がした憶《おも》い出がある。ドルとマルクがいくらか残っていたが、それはあとの港で必要なので、とても一ドルでも余分に使う気になれなかった。
しょっぱなから、そうした外貨の苦労をしてきた私にとって、その後ずっと金の余裕のある旅行であっても、女房がチョコレートなど日本にいくらでもある代物《しろもの》を買う行為は、昔の記憶のこびりつきの生理的なものであろう、それこそ神経を逆なでされるようなものであった。
帰国する少しまえの空港で、女房はチョコレートの大箱を買った。外国のチョコレートはうまく、土産になるという心算《つもり》からであろう。
そのとき、私はとことんまで逆上し、とっさにその箱を奪いとり、
「バカ! チョコレートなんぞ日本でもおよそ同じ味だ。それに輸入品もいくらもある。こんなもの買うな!」
と怒鳴りたて、そのまま店員に突っ返した。
女房はなにか抗議したらしいが、その言葉は少しも覚えていない。
いよいよ帰国の途中、アンカレッジの空港で、女房がシクシク泣いていることに私は気づいた。少し狼狽《ろうばい》して、
「どうしたのだ?」
と訊《き》くと、
「あなたって、あまりといえばあんまりだわ。旅行中、ずっと……」
と、彼女は消えいるばかりの泣き声で言った。
しかし、断々乎として、私は自分が正しいのだと未だに信じている。
私はそのような体験から、女房と一緒の旅なんぞ絶対にするべきでないと堅く誓ったものであった。しかしながら、その夏の末の私の精神状態は、何年ぶりかで、物の怪《け》に憑《つ》かれたようになっていたことも事実である。
私は過去、外国旅行のとき、ずっと極端にケチで、というより金がなく、まともなレストランなどにはいったことはおよそなかったといってよい。
ところが近年、いくらか金の余裕もできて、パリで三度目かに会った辻邦生と一緒に一流レストランに行ったり、また昨年、某社主催のヨーロッパ講演旅行の際には豪勢な店で御馳走になったりするようになった。またその年、阿川さんとのマダガスカル旅行の帰途に辻とパリで四度目に会い、トゥル・ダルジャンの鴨《かも》料理を食べ、高いワインを注文したりした。
私の女房はむろん食いしん坊である。そして、私が食べた生ガキを主体とした「|海 の 幸《フリユイ・ド・メール》」や、甘いのとそうでないのとの鴨の味や、生の血の匂いのするフォアグラや、ブリュッセル近郊のレストランでなんともすばらしくおいしいコンソメに出会ったことなどの話をついうっかりしゃべると、相当におもしろからぬ心境に駈《か》られる様子であった。
元精神科医にして三文文士なる私は、心理学にもいささかは通じている。これは危ないとつい思った。あきらかに女房は欲求不満が嵩《こう》じつつある。このままでは家庭の破滅へつながるかも? そこで前記の状態に加えて脳神経系統の発作まで起し、
「おまえも連れていってやる。阿川さんはからかうタネができて喜ぶだろう」
と、どういう訳の訳柄《わけがら》か、地獄に落ちるのも知らずに言ってしまったのだ。
そのあと、電話連絡はますます頻繁となり、私の山小屋の電話はパンクしそうになった。阿川さんは九月十日に日本を発《た》って英国に向うそうである。
「おれはイギリスは好かん。あそこにはスモークド・サモンとロースト・ビーフしか、うまいものはありやしない。そのうえ、噂《うわさ》によると旱魃《かんばつ》だそうだ。どだい、あの国は水割りに氷も入れぬ習性だから、ルーム・サービスで氷をとっても皿にちょっぴりしかこぬ。風呂にはいっているうちに溶けてしまう。それに加えて、水飲みのおれが水さえなかったら発狂するかもしれん。だから、こちらはまずパリヘ行ってうまいものを食って、マドリッドで落ち合うことにしよう」
と、そのときは元気で頭がヘンになった私は言ったものだ。
ところが、遅く発つつもりであった私たちも日程がぎりぎりであることが判明した。
パスポートは二人ともまだ期限切れまえであったが、コレラの予防注射の期限が過ぎ、またやらねばならない。このコレラの注射は二回を要し、しかも一回目と二回目とのあいだに一週間をおかねばならぬ。女房は種痘《しゆとう》の注射を更に二日後にしなくてはならぬ。
それに加えて平岩弓枝さんが同行するとなると、スペインの旅で或る区域を百五十キロほどレンタ・カーで走る阿川さんの予定であるが、荷物もあることだし、一台の車ではむずかしそうである。とうに帰京していた阿川さんに電話すると、
「じゃあ、二台で行くことにしよう」
と、ごく簡単|明瞭《めいりよう》な、アッケラカンとした返事がひとこと返ってきた。
それゆえ車の国際免許も貰わねばならず、かつ注射の件もあったから、私たちは本当は九月を過ぎてまで山地にいる予定だったにもかかわらず、急遽《きゆうきよ》、八月末に東京に戻ることにした。
それでも、ここまでは、まだよかったといってよい。旅に出る発作的な考えを抱いて、そのスケジュールを慌しく決めていたときの私は気分|爽快《そうかい》だったのにもかかわらず、いざすべてが決定したあとになって、変に体がだるくなってきた。あまつさえ気分もなにやらうっとうしい。
東京に戻ってから、ますますひどくなった。だるいし、頭は重く、私は寝酒を飲みながらも半病人のようにじっと下うつむいていた。夏は元気だったから、そろそろ鬱の到来か? 旅の前途が急に不安になってきた。
果して、第一回のコレラの注射をしたあと、三十七度三分ほどの熱が出た。私はこれまで黄熱病やコレラの注射のあと、本来は二日間は酒も飲んではならず風呂にも入れぬことになっているが、その日にかなりの寝酒を飲んでも一度も発熱などしたことがない。どうも心身ともに急速に弱ってきた様子であった。
久方ぶりの旅を愉《たの》しみにしていた女房も、コレラの注射でやはり発熱した。二回目のあとは七度五分まで熱があがった。
「あたし、やめようかしら」
「阿呆、今さらやめるなんてできん」
小金井に二人して国際免許を取りに行ったが、女房はそのあと、だらしなく不安げな顔をして言った。
「あたし、外国で運転したことないわ。それに、阿川さんはスピード魔でしょ。ついていけるかしら?」
「なに、おれは二度、右側運転したことがある。もっとも最初はずいぶん昔のタヒチで、そのころはパペーテの町を出外れると行きかう車も滅多になかったが。二度目はアポロ11号の月ロケット発射の年のアメリカで、ケープ・カナベラルの打上げ基地から空港まで凄《すご》い速度で運転した。その車はおれの初めてのノー・クラッチで、ついブレーキをハン・クラッチみたいに踏んでいたら、──なにせそのときは時刻が迫って猛スピードの朝日新聞記者の車のあとを追っていて、もしそいつを見失ったら方向オンチのおれは空港に着けんと、必死になって百四十キロくらいのスピードでついていったんだ──そしたらブレーキが焼けてしまって、空港近くになってブレーキがきかず、前のアメリカ人の車に追突してしまった。ボンネットがめくれちまった。でも、おれには経験がある。なあに、右側通行なんてすぐ慣れちゃう」
「でも、左ハンドルでしょ。それに阿川さんは……」
「おまえが駄目だったら、半分はおれが運転してやる」
「いや、やめて! 殺人罪を起さないで」
と、女房は真剣になって言った。
なるほど、現在は私は運転がメチャメチャに下手であることを告白する。しかし、もう五回、免許を更新しているから、運転歴はかなり長い。
女房は私と結婚したあと、免許をとった。そのあとしばらく、女房が運転するときは、私は後部座席にこわい顔をして坐っていて、
「そら、信号が黄になったぞ。……おい、犬が出てきた。……バカ、こんな坂はセコに入れんとダメじゃないか」
とか、一々、小うるさく小言《こごと》幸兵衛のごとく注意したものだ。これを、「バックシート・ドライバー」という。
その後、私は女房に運転させて、それほど文句を言わなくなった。悔しいが事実を正確に述べれば、もはや女房のほうがずっと運転がうまくなっていたからである。私はここ数年来、女房にまかせっきりで東京で運転したことがない。ごく稀《まれ》に山地で私が運転すると、女房の奴、大げさに悲鳴をあげる。そして、自動車教習所のゲスな教官(こいつらは意地悪で、こんな尊称を本当はどうして言えるか?)のごとく、私の下手|糞《くそ》な運転に対して文句を言いつづけ、かつての私のごとく小うるさく注意までする。無礼な! 昔はどうだったんだ?
しかし、女房は本当に左ハンドル、右側通行に対して臆病にも並々ならぬ恐怖を抱いたようであった。そうした練習所のことを訊いてきて、一回試してみようなどとも言った。だが、注射で発熱しダウンして、そんな閑もあり得なかった。
どうも、せっかくの旅立ちのまえ、われわれ夫婦はげんなりして意気阻喪してしまったというのが実情である。
さて、慌しいうちに、私たちの出発の日がきた。ちょうどその頃、台風17号が八日くらいから九州に近づきつつあった。頭の回転の早い阿川さんは、九月十日出発の予定を一日早め、九日に発っていった。うまく台風を脱《のが》れるつもりらしかったが、九日こそいくらか悪い天気だったものの、十日の日はまったくの快晴となった。いくら頭がいいとはいえ、あまり気が早くセッカチだと、このような羽目にもなる。
私たちの出発は十一日夜で、台風のことが気がかりだったが、幸いにも上陸まえにストップしてくれて、これまた大丈夫であった。
ただ、出発の日、ギクリとすることが起った。私が昼ころ目覚めてみると、まだ荷もろくすっぽ準備しておらぬ女房がいない。お手伝いさんが、娘が盲腸の疑いがあって、と話した。なんでも、早朝からかなりの腹痛、嘔吐《おうと》、発熱などの症状を呈したそうだ。
女房は、娘をとりあえず私の兄と懇意の外科病院に入院させ、そのあと入院生活に必要なものをデパートに買いに行ってまた病院に寄り、やっと家に戻ってきたのはもう夕刻近くであった。
「大丈夫らしいわ。盲腸じゃなさそうだって。もう熱も下ったし。でも、点滴をされていたわ」
「点滴? そりゃどういう訳だ。まあいい。時間がない。早く荷物をまとめなさい」
女房は蓋《ふた》を開けてあるスーツ・ケースに、慌しくいくらかのものを詰めこんだ。そうしているうちにも、もはや頼んであったハイヤーがやってきた。
「まだ時間はあるわ。ちょっと病院に寄って、見舞ってやって」
と、動きだした車中で女房が言った。
私としても心配なことは変りはない。盲腸ではなさそうだというが、点滴など受けている娘が入院したその日の夜に、われわれ両親は不在になってしまうのである。
病院に着き、駈けるように階段を登って娘の部屋に入ると、ホッとしたことに、彼女はもう元気になっていて、熱も吐気もなく、笑顔を見せてくれた。八分間ほどその部屋にいて、娘をなぐさめ、土産を買ってきてやるからと言い、いくらかの危惧《きぐ》を残して私はまた車に乗った。幸い、兄の医院が近所にあり、あとを宜《よろ》しくやってくれる模様であった。
羽田に着くと、例のとおりたいへんな混雑である。見送り人はみんな断わったが、くだんの文春の編集者は強情にもやってきていた。
チェック・インするとき、
「エコノミーが満席なので、ファースト・クラスに代ってください」
と、言われた。
私はちょっと意味を判じかねて、文春の人の顔を見た。差額料金をとられるのではないか? しかし、べつにそういうことはないと聞かされた。私はホッとし、気をよくし、安堵《あんど》のあまりヘナヘナと坐りこみそうになった。
けれども、羽田空港の混乱ぶりは年と共にひどく、出国管理へはいる通路が四列もの行列で身うごきもできないほどである。たいへんな時間を要してやっと待合室へ入り、免税のウイスキーを一本買ってショルダー・バッグに突っこんだら、
「エア・フランス273便の方、早く早く」
と、係員が呼びたてているところであった。
それでも、ジャンボの一等座席に落着くと、さすがに幼児のように嬉《うれ》しくなった。機が滑走に移るまえからシャンペンが出る。飛び立ってからも、私は何杯もシャンペンを飲み、更に食事のときは、白と赤の葡萄《ぶどう》酒をたんまり飲んだ。
食事はフォアグラから始まった。なにか肉料理を持ってこられて取りわけるとき、私も女房も久しぶりに食欲があり、
「あの肉、三切れとれ。おまえ、とれ」
「あなた、とってよ」
すでに早くも、女房との喧嘩の前兆がほの見えるようでもある。
食後、室内を暗くしたあとも、ずっと寝ないで長時間を過し、アンカレッジ到着十五分まえ、この地の最高峰マッキンレーが見えるとアナウンスがあった。東京時間午前三時十分だが、むろん外は明るく、白いうえにも真白な高山がくっきりと望見された。
「あんな山、登る人あるの?」
と、女房。
「そりゃ、登りたい奴は登るだろ」
と、ぶっきら棒に私。
アンカレッジから乗務員も交代する。
朝食には、別に鮨《すし》まで出た。いかに日本人客が多いかの証拠だが、むろん一等客だけのサービスである。昼食にはキャビアから食事が始まった。
「フォアグラ、キャビアが出たって、阿川さんを羨ましがらせてあげましょうよ」
と女房が言ったが、豪華船にも乗りつけている彼は一笑に付すにちがいない。
外は相変らず白昼だが、食後は暗くしてスチュワーデスも寝る。しかし、もともと乗り物の中では寝られぬ私は睡眠剤をたんまり服《の》んでもどうしても眠りつけなかった。喉《のど》が乾き、ワゴンの上に置かれているエビアンを自分でコップについで飲むことが幾回だったか。女房にしてもいくらかは寝たが、似たようなものであった。この飛行中、私たちはそのミネラル・ウォーターの大びんをすっかり空にしていた。
パリに着くまえ、それまでエコノミー・クラスのサービスをしていた日本人スチュワーデスがやってきて、私たちに挨拶《あいさつ》した。まったく偶然にも、もう八年もまえ、何かの用で拙宅に遊びにきたことのある女性であった。彼女はもう一人の若い日本人スチュワーデスを連れてきた。私の本をかなり読んでいるという女性だと言う。むろんお世辞であろう。
彼女たちはエア・フランスのトランプを二箱私たちにくれた。阿川さんにはかなわぬが、同じく乗物マニアの兄もこのトランプは一箱しか持っていない。そして、やはり飛行機狂の次男とこのカードを取りあって、親子喧嘩を演じたとかいう。
私は、彼女たちのパリの住所と電話番号を聞いた。パリでは二泊するが、私も女房もフランス語は目に一丁字《いつていじ》もない。それに、スチュワーデスという職業の女性が、どんなアパートに住んでいるか、ちょっと興味を抱いて、場合によっては尋ねてみようと思いついたからである。
パリには、現地時間早朝六時五十分に着いた。
エア・フランス勤務の日本女性が迎えてくれ、私たちはハイジャック機がドゴール空港の端っこに止っていることを初めて知った。機内ではなんのアナウンスもなく、無事に定時に着けたのは幸いなことといえた。
このハイジャックの犯人は、「クロアチア解放民族戦線総司令部」のメンバー五人で女性も一人加わっていた。そもそも十日夜、ニューヨークからシカゴヘ飛ぶTWAボーイング727機が乗っとられ、まずモントリオールのミラベル空港に着陸、更にカナダ領ニューファウンドランド島のガンダー空港へ行き、次にロンドンに向った。同機は大西洋横断に必要な計器を備えておらず、パイロットも不慣れなのでTWAのボーイング727機が先導役として一緒に飛行した。アイスランドに着いた機は十一日午後二時二十分、ケフラビク空港を飛び立った。それから犯人はロンドン上空で宣伝ビラをまき、十一日夜、パリのドゴール空港に着陸、そこで一夜を過したが、フランス当局と話しあいがつき、十二日朝八時投降して機内に残っていた乗員、乗客全員が無事解放された。なお、先導機のほうは着陸まえ、パリ上空を旋回、シャンゼリゼ通りの上辺りでビラをまいた。そのまえ、ニューヨーク市警察は十日夜、犯人の警告どおりグランド・セントラル駅のコインロッカーで爆弾の仕掛けられた圧力釜を発見したが、処理中に爆発、四警官が死傷したという話題に富んだ乗っとり事件であった。
いずれにしても、私たちが到着した時点では、ハイジャック機と犯人たちは空港の隅にいたのだ。もし銃を持った警官の群が包囲していたら、さもなくても交渉がもめていたら、とても着陸できたものではなかったろう。
エア・フランスの日本女性は、わざわざホテルまでタクシーに同乗してくれた。ところが目的地に着いてみると、運転手が言うには、早朝料金だから三十パーセント増しとのことである。通訳してもらうとそういう話なのだ。
パリでそんな話はこれまで露ほども聞いたことはない。日本女性はその不埒な運ちゃんとかなり口論をしてくれた。
私が面倒くさくなって、
「いいよ、いいよ」
と言うと、女房は、
「だから、あなたはダメなのよ。あとからくる日本人がそれでみんな甘く見られるわ」
と、小癪にも、まともで正当なことをぬかす。
だが、結局、運ちゃんが身ぶりをまじえて述べたてる金を仕方なく払う始末になった。
ホテルも三流どころであった。おまけに、部屋のすぐ向いに台所らしきものがあり、うるさい音響が伝わってくる。それでもパリまで一睡もしなかった私は薬を大量に服《の》み、十一時から午後三時近くまで熟睡した。
ところで、私の方向オンチは医学雑誌に報告するに足る手ひどいものである。パリには何回か来ているのだが、どこがどこだか皆目わからぬ。それに加えて、最近とみにボケてきているから、以前に行った料理屋の名などすべて忘れてしまっている。女房はむかしドイツに在留中、パリにちょっと寄っただけで、これまた何も知らない。彼女は印象派美術館も見ていないといったが、私はあちこち案内してやる自信がまったくなかった。
それで、三年まえ辻邦生の紹介で一緒に食事をしたことがあり、ずっとパリにいる福本章さんという画家の家に電話をした。福本さんはしばらく前から、辻の新聞小説の挿絵を描いていたから記憶に残っていて、旅立つ際、辻から電話番号を訊いておいたのである。
私は生ガキが大好物で、その季節にフランスに来ると、実に実に幸福感を覚える。日本のレストランではもはや的矢《まとや》ガキくらいしか生ガキが食べられないし、おまけにベラボウに高い。
だが、九月十二日では、R[#「R」はゴシック体]の字はつくものの、まだ本当の季節には早かろうと半ば観念していた。しかし、電話口ヘ出た福本さんは、
「もうけっこう食べられますよ、それじゃ、夜は『ルイ十四世』という店を予約しておきましょう」
と言ったから、私は腰が抜けるほど嬉しかった。
御夫妻とも極めて親切な方で、夜を待たずわざわざホテルまで迎えにきて、女房を印象派美術館に連れていってくださった。
館内の絵は三年まえに見たときに比べても、やや変っていた。だが、二階のゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、ドガなどの絵の配置は以前どおりのように思われた。私はせっかくの名画もろくすっぽ見ず、一人でサッサと歩いて、まだ疲労がとれなかったから、二階の階段わきの椅子《いす》にグッタリと坐っていた。
それなのに、女房の絵を見る速度のなんと鈍《のろ》いことだったろう。彼女は丑《うし》年生れで何事につけ、こちらが癇癪《かんしやく》を日に三遍は起さねばならぬほどノロマなのである。
それにしても、このときは特別のろかった。私が居たたまれず、その所在を捜しだすと、ようやく二階の階段を福本さんと登ってくるところで、それからも牛歩のように、いやカタツムリの歩みのように、福本さんに教えられながら歩いている。大体、絵もわからんくせに(私もわからないが)、なんでこうものろくさと時間をつぶすのか? これは真の阿呆が半利口ぶってみせるための手段ではあるまいか。私は歯を喰いしばって、じっと堪え、椅子にまた坐り、徒《いたず》らに膝《ひざ》を組み直していた。
それでも、私には一つの大いなる愉悦があった。この日は日曜日で、女房がいくら買物をしたがっても、店は閉まっている。旅の帰途にまた一日パリに寄ることになっているが、その日も日曜日なのだ。
女房は旅のスケジュール表を見たとき、
「あなた、陰謀を企《たくら》んだわね」
と言ったが、必然的に自然にこうなったのである。ただ、私は往《ゆ》きにパリにもう一日滞在することをうっかり失念していたが……。
夜、八時過ぎから店へ行き、「|海 の 幸《フリユイ・ド・メール》」のほかに、女房はブイアベースを頼んだ。私はそれが嫌いでずっと注文しないからよくわからないけれど、その店のブイアベースは、スープだけの皿と魚介類ののった皿とを別に持ってくる。あとで知ったが、ブイアベースは昔はこのようにしたものだが、次第に一つ皿に盛ってくるようになったそうだ。やはり格式のある店なのであろう。女房は半分以上それを食べ残し、私は、もったいない奴め、おれに損害をかけやがったと、腎臓《じんぞう》の辺りがしくしくと痛んだ。
そんな余談は別として、パリに着いてまず驚いたことは、異常に寒いということであった。この夏はヨーロッパは猛暑だったはずだ。しかも、暑い国を旅するのだから、薄物しか着てこないし、持ってきてもいない。セーターは念のため持参したが、そんなものを一枚くらい着こんでも震えるほどの寒さなのである。
そもそもホテルに着いて、まず自分のスーツ・ケースを開けた女房は、ショックを感じた様子だった。
「あら、この服の下がない。パンタロンもないわ。おしゃれ着も……。出るとき、あんまり急いだもんで入れ忘れちゃったわ」
私は、「バカ、間抜け、ドジ、阿呆!」と叫ぼうとしたが、私のトランクを開けると、そのいちばん上に、無いと思っていた女房の衣服類がちゃんと載っていた。彼女は、私のトランクに突っこんで忘れていたらしい。それにしても、寄る年波の私に少しでも重いトランクを持たせるとは、ソクラテスの妻以上の悪妻というべきである。
翌日もますます寒かった。これではなんとかしないと本当に風邪をひくと思った。そこで、またも福本夫人の好意にすがって、女房のコート、私のレインコートを捜してまわった。
道行く人々は厚いオーバーなどを着こんでいる。これでは嫌でたまらぬ買物を、しょっぱなからしなくてはならぬのもやむを得ないことであった。
福本夫人は、御苦労にも七軒くらいの店をまわってくれた。小柄な女房にあうコートがなかなか見つからなかったからだ。辛うじて七軒目で裾《すそ》が長すぎるが、彼女が気に入ったコートを捜しあてることができた。それまでの長々しい選び方。一軒で何着もの品物を一々着て見ては、なんだかんだ言って、福本夫人、店員の感想まで聞いて、結局やめてしまう。
私のほうは、最初の一軒を一分見てやめ、最後の一軒で五分間で決めてしまった。異常に寒いから、裏打ちのあるレインコートを買った。強いて幸いなことといえば、女房のも私のも予想していたよりずっと安かったことだ。
それから、蚤《のみ》の市へ行った。これまた私にとっては恐怖の場所といえた。
果して女房は、一軒のうす汚い店で、硝子のナイフ・レストを見つけだした。一ダースで二百二十フランだという。
「よかったわ。前々から欲しいと思っていたの」
「おれは怒るぞ。硝子という奴はすこぶる重い。おれは荷がふえて重くなるのをどんなに嫌っているか、よく知ってるはずじゃないか」
ところが、福本夫人が助太刀に出た。あたしがあずかっておいて、帰途パリに寄られるとき持って行かれればよいじゃありませんか、と。彼女は実に親切な人といってよいが、私にしてみれば、そのとき夫人が悪党に思えた。
夫人は値引きの交渉に移った。やっと二十フラン安くさせ、更にもっと値切ろうとした。一つのナイフ・レストがちょっぴり欠けていたからだ。
蚤の市の主人たちは、売れんでもいい、買ってくれんでもいいといったような、一風変った表情をした老いた男女が多い。その店の婆さんも、皺《しわ》だらけで、無愛想で、ぶっきらぼうであった。
福本夫人が更に値切ろうとすると、
「そんなら、もう帰ってよい」
と、即座に言ったそうだ。それから、
「硝子に傷があるのは当然だ」
と、無表情で言ったそうだ。
結局、婆さんの言い値で買うことにすると(私はずっと渋い渋い顔で成行きを見守っていた)、婆さんは急に表情豊かになり、声も大きくなり、
「一つ、二つ、三つ……」
と数えながら、硝子器具をちょっと磨いたりして、一つ一つ粗末な紙でくるみ、袋に入れた。
或る店では、大きな木製の地球儀で、中がワイン入れになっているものが店頭に飾られていた。告白すると、私はこれにはかなりの興味を抱いたのだが、女房がそれをいじくりだすと、「くだらん」とつぶやいて、サッサとその場を去った。家具屋などには絶対に彼女を内部に入らせなかった。
大体、蚤の市はとうに外人があさりつくして、今は掘出し物など皆無といってよいと聞く。ただ、近々ここがなくなるとなれば、やはり寂しい想《おも》いはすることだろう。
ホテルに戻ると、女房は私のパンツを捨てると言いだした。
「うっかりして、こんな古いパンツ持ってきちゃった。これは捨てましょ」
私は反対したが、女房は頑固に、それも単に捨てるにしても、わざわざこまごまに切り刻み、紙にくるんで屑籠《くずかご》に入れたのである。
「なんでそんな面倒なことをするんだ?」
「だって、メイドが見ると、みっともないでしょ」
「何がみっともない。おれなんぞは、おまえも知ってるだろう、カラコルムに行ったとき、山中で四十日間はいていたパンツ(これは、はきかえると風邪をひくと面妖《めんよう》な頭脳で判断したからだ)を、もうどす黒くなった奴を、ギルギットのレストハウスに帰りついたとき、堂々と捨てたぞ」
「恥ずかしい人ね」
と、彼女は軽蔑《けいべつ》した表情でひとこと言った。
ホテルで、私は機内で知り合いになったエア・フランスの日本人スチュワーデスに電話をした。彼女はちょうどアパートにいて、今夜食事を一緒にしないかと誘うと(一部の人のごとく悪《あ》しき魂胆からではない)、喜んだ様子で、ちょうどあたしのアパートのすぐそばに相当によいレストランがあります、と返事をした。
そこで私は一昨日の先輩スチュワーデスも呼ぶように言っておいて、夕刻、女房と彼女のアパートに出向いた。
そのアパートはサンミッシェル広場に近いサボア通りの便利な地域にあるのだが、建物は相当に古び、黒ずんだ入口の扉が押せども引けどもどうしても開かない。くだんのスチュワーデスは最上階の六階に住んでいる由で、呼ぶにしたら度外れた大声を発せねばならず、警官でもやってきそうだ。
女房が隣の菓子屋に行って尋ねてみると、そこの女店員は親切に外に出てきて、ごくあっけなく扉を開いてくれた。右側についているボタンを押せばすぐ開くのである。
内部は薄暗かった。それでも私は時間に遅れそうなので、やにわに廻《まわ》り階段を登りかけた。女房がうしろから注意した。
「あなた、慌てないで。灯《あか》りがつく押しボタンがあるはずだわ」
まもなく灯りがついた。ヨーロッパのアパートには大抵この押しボタンがある。電気代を節約するためで、一定時間ついていたあと消えるようになっている。女房はかつて頑固な人間ばかりが住むハンブルクで暮したから、そのことを知っていたのだ。私だって覚えてはいたが、女房より遙《はる》かに若い女性のところへ行くのに気がせいたのかもしれぬ。
木製の階段はぐるぐると、遙か遙かつづいていた。「マンボウ航海」のとき寄った、辻邦生が初めての留学で住んでいた安アパートの部屋はたしか四階だったと記憶する。そこもそんな廻り階段であったが、その比ではなかった。三階、四階、五階……まるで登山である。座骨神経痛がたまに出る女房は息をはずませ、
「あなた、少し休みましょう」
辛うじて六階に辿《たど》りつき、ドアわきの名前を確かめ、ベルを押すと、若いスチュワーデスが出てきて、
「ここにくる人は、みんな息切れするんです」
と言った。
通された部屋は屋根裏部屋で、殊に奥の部屋は天井が傾斜してかえって趣《おもむ》きがある。かなりの本とレコードが並んでいた。少し前、エア・フランスの日本人スチュワーデスたちがパリに住まわされるのをこばんでストライキをやったことがあるが、彼女はここに居をかまえることに満足している様子であった。
全部で三室あり、ごく狭いがバス、トイレつきで月八百フランだと聞いたが、場所が良い点からいえば安いだろう。
彼女は紅茶をすすめ、レコードをかけてくれ、あれからどこかへ行ったかと問うと、
「フライトが終ったあとは、あたしは寝っきりなんです。何もやることはないし、昨日も今日もずっと眠りっぱなしでしたわ」
と笑った。
私は寝不足を解消するため、こちらの夕食の時間の遅いのはわかっているが、今夜は早く寝ようと、かなり早目にやってきた。しかし、彼女の言うには、そのレストランはやはり七時四十五分からでないと開かないとのことで、時間がかなりあまった。
彼女に、スチュワーデスになってから、何か失敗をしたか、困る客に出会わなかったかと尋ねると、
「初めのころ、機内で免税品を販売致しますから御用の方は……ってアナウンスするとき、免税品を脱税品と言っちゃったんです。日本人の乗客がドッと笑いました。フランス人の同僚が何のことかとしきりに訊くんで、ごまかすのに骨を折りましたわ」
やがて先輩のほうのスチュワーデスもきた。そして、飛行機、あるいはフライトについて雑談した。
「昔は国外線は酒が安かったんで嬉しかったんだがな。水割り一杯が二十五セントだった」
「今は七十五セントですわ」
「だからぼくは、ときたま氷と水だけ貰って、持参のウイスキーで水割り作ったりする。ぼくは生れつき貧乏性でケチなんです」
「そういえば、断乎としてお金を払わぬお客さんがいましたわ。エコノミーなのに、なにか錯覚していて、金を出す必要ないと主張して、どうしてもお金くれないんです。そのとき、あたしなにか癇《かん》にさわっちまったから、パーサーにまで言いに行って、とうとうお金とりましたの」
「それは日本人かね」
「そうですわ」
日本人客でいちばん困るのは、陳腐すぎる話だが、ステテコ姿でホテルのロビーに降りていって怒鳴られるといった事実である。当人はなんで怒鳴られるのかさえわからない。こうした例は、未だに信じられぬほど多いらしいのだ。
ようやく食事のできる時間になった。
「ジャック・カーニャ」というその料理屋はなかなか風格ありげであった。まだ若い長身のボーイが親切で、フランス語のメニューを一々丁寧に英語で説明してくれる。お嬢さんたち二人はむろんフランス語ができるが、それでもメニューという奴は高級な店であればあるほど、何とか風とかやたらにつけられていたり、そえものがあとに金魚の糞《ふん》のように並んでいたりして、複雑怪奇で、ウルドゥー語を読むよりむずかしい。
食前酒のあと、女房はフォアグラを取りやがった。それからアヒルを頼んだ。
私はボーイがクレイフィッシュというのを聞き、伊勢海老《いせえび》だと思った。この四月にトンガに行ったとき、ホテルのメニューにそれまで私が知らなかったクレイフィッシュという文字を見、闇雲に頼んだらロブスターだった。
しかし念のため、お嬢さん方に通訳してもらってくわしく尋ねると、ボーイはザリガニだと言う。それも小さな奴だそうだ。西欧でロブスターというと日本の伊勢海老ではなく、ドイツ語でフンメルという鋏《はさみ》のある大きな海ザリガニである。かつてニューオリンズで食べた名物の小さなザリガニが非常にうまかった記憶があるので、私はまずそれを頼んだ。お嬢さんたちもそれぞれ注文したが、クレイフィッシュを頼んだのは私一人であった。
ボーイが、皆さん方のそれぞれの料理にあうシャンパーニュ地方の手頃な赤ワインがあると言う。こうした店では、信頼できそうなボーイならその言に従うのがいちばん利口だ。持ってこられたそれを味見してみると、軽やかでさっぱりしていて、私は「とてもいい!」とボーイに言った。
ここまではよかった。
いざ、私のザリガニが出されてくると、それはちょっと辛みのある味つけをしたケチャップのソースがたっぷり溢れている大皿であった。その中に十何匹かの小ぶりのザリガニが並んでいる。その甲羅はごく赤かった。ニューオリンズの黒ずんだものとはぜんぜん違う。と思ううちにも、別の小柄で齢《とし》とったボーイが、もう一枚の大ナプキンを持ってきて、だしぬけに私の首から前にたれるように結びつけた。
これはソースがとび散るからだろうとは考えたが、なんだかすこぶる居心地がわるい。
のみならず、小柄な老ボーイは今度はなにかごくほそい長い代物《しろもの》を持ってきて、しきりと身ぶりをし、しゃべりかける。お嬢さんの通訳によると、それはストローで、ザリガニを食べるあいだは、このストローでワインを飲めということだ。こんな珍妙な作法は聞いたこともない。
私はおずおずと一応ナイフとフォークを握って、小柄なザリガニに挑戦しようとした。私は殊さら不器用で、蟹《かに》の鋏の内部などをうまく食べることができない。
すると、初めにきた長身の若い英語に堪能なボーイがまたやってきて、それではダメだ、手でやれと言う。ホッとして手で殻をむしりかけたが、やはりまるきりうまくゆかない。ため息をついていると、親切なうえにも親切な若いボーイ氏はまたまたやってきて、自分の手で殻をむしり、とり方を教えてくれた。
そうやってみると、どうにか肉が出てきたので、私は前かがみになって食べはじめた。すこぶるうまかった。うまいことは大いにうまいが、首からナプキンをかけられ、ときに首をのばしてほそいストローでワインを吸っていると、私は小さな子供のころ、デパートの食堂で子供用の高い椅子にかけさせられ、お子様ランチなんかを食べているような気分になった。昔の記憶のそれは愉しかったが、今はかなりみじめで自分で自分が滑稽《こつけい》に思える心境である。
ストローでワインを飲むのは、手にどろどろした赤い汁がたっぷりつくので、ワイン・グラスを汚さないためであることが理解できた。
フィンガー・ボールが出されていたが、私はこれまでそれを、食後の果物を食べたあとの、まあお体裁のようにも思っていた。ところがこのときは、フィンガー・ボールのずっしりと重みのある現実的効用、無くてはかなわぬその実存的な比類なき価値を、つくづくと心底から痛感した。なにしろ、手がべとべとになってしまうからである。
幼児さながらに首からかけられたナプキンにしろ同様である。それは、ジーグフリード線かマジノ線かのごとく、私の背広がピエロ役のごとく汚されるのを防いでくれた。
しかし、幾度もかがみこんで首をのばしてワインをストローで飲むことに私は悲惨さと苦痛を感じたので、かつザリガニの殻をむくのも次第に疲労につながる億劫《おつくう》さを覚えたので、みんなの皿に無理矢理ザリガニをわけてやった。
そうして、首からかけられたナプキンとストローから解放されたあとは、ワインを安堵《あんど》して飲み、同じワインの小びんも追加し、パッション・フルーツとかいう生れて初めてお目にかかる果物も食べたし、レモン・シャーベットも食べたし、それだけ飲み食いして四人で勘定は六百フランちょっとであった。
いかに日本の高名なフランス料理屋が高すぎるかがわかる。私は満足し堪能して、チップは少し多目に置いた。
初めこそ道化役的な難儀を強いられなければならなかったが、やはりパリはよいとこだ、言葉はわからんがなにせ食物がうまいからな、と私は更《あらた》めて思い、ニタニタと笑った。
翌日は、夕方遅くの飛行機で私たちはマドリッドに発つ。マドリッド到着予定が午後七時五分。一方、阿川さんはロンドンをやはり夕方まえに発ち、マドリッド着は午後七時十五分予定。
その差、わずか十分間である。
その日は、これからの乗物狂氏とのハード・スケジュールの旅にそなえて寝坊をしたが、優しい福本さん夫妻は昼過ぎ私らを迎えにきて、パリ郊外の自分らのアパートに連れていってくれた。
小さなお嬢ちゃんが可愛い。はじめは人見知りするのか何を尋ねても黙っていたが、私たちがウドンを御馳走になっているあいだ、幼児が乗って歩く三輪車だの自動車だの、およそ四種もの乗物を持ってきた。更に絵本だのいろんな遊び道具だのを次々と持ってくる。彼女は一人でちゃんと留守番もできるという。
私はその後の経過のわからぬ(まず心配は万々なかったが)娘のことを思い出した。福本さんのお嬢ちゃんを見ていると、幼い頃のほうが可愛かったような気がする。ともあれ、マドリッドに行ったら、東京に電話してみよう。
地下の福本さんのアトリエを見た。私はそれまで彼の絵は辻邦生の新聞小説の挿絵しか知らなかったのだが、本業の油絵は素晴らしかった。淡いブルーの色彩が多い。これは私の大好きな色である。四つのカンバスが並んでいたが、いずれも未完成のものだという。ずいぶんと苦労するのだろう。ヨーロッパや日本で開かれたパンフレットを見ると、ベニスの一風景がなかんずく気に入った。
私は夫人にむかって言った。
「いつか、画廊を通さないで御主人の絵を売ってください」
「売るのは駄目ですわ」
と、断わられてしまった。
ところで、新聞の挿絵のほうはどこで描くのかと尋ねると、アトリエの一隅に一脚の椅子がある。そこに坐って、膝の上に厚紙の台を乗せて描くのだという。といって、もちろん粗雑にするのでなく、辻や新聞社から送られた写真などの資料をずいぶんと揃えていた。だが、このすぐれた画家が一脚の椅子に坐って、膝の上で挿絵を描くという事実は、私にはなにか滑稽なようで愉しく、思わず微笑を誘われた。
そのあと近くの公園を散歩してから、わざわざ空港まで送って頂いた。
それから、わずか一時間四十五分の飛行でマドリッドの空港に降りたとき、私たちはすぐ着く阿川さんを待受ける打合せであった。
私も世話になった昨年までのマダガスカル大使、阿川さんと海軍同期の加川さんが今年スペイン大使となっているから、どうせ迎えの車をよこすだろうとの阿川さんの話だった。私たちは荷物を受けとってから、阿川さんの乗ってくる英国航空の便の荷物受渡し所へ行って、彼の出現を待とうとした。
そこまで、いささかの距離がある。女房のトランクには車がついていて紐でスイスイと引いてゆけるが、私のでっかい旧式のサムソナイトにはそれがない。おまけにパリで買った厚いレインコートと肩掛けバッグがある。私は何回か重いトランクを床に置いて、吐息をついた。
マドリッドはやはり暑い。その後の旅、北アフリカのモロッコでもチュニジアでもむろんもっと暑く、アテネでもローマでも、更に帰国するとき寄った、来るときはあれほど寒かったパリまでがまた暑くなっていた。
つまり、女房と私の厚いコートとレインコートは、ただパリの三日間に役に立っただけで、そのあとずっと旅をするのに煩雑な邪魔物、余計な腹立たしい厄介ものとなったわけである。それにしても、阿川さんがやってくるのがいかにも遅い。大使館員らしき人も見当らぬ。あとで訊いたら、空港上空でなんらかの理由で何回か旋回していた由だ。
それでも、やっと、いよいよ、立役者か大根役者登場のごとく、痩馬《やせうま》にまたがる代りに、汽車、飛行機、船、車にまたがるわれらがドン・キホーテ、阿川元海軍大尉の姿が現われた。
彼の表情はなんともいえぬニコニコ顔、特別製のエビス顔を呈していた。よほど英国での乗物の旅が愉しかったのだろう。とにかく乗物に乗りさえすれば天才か白痴のように悦に入ってしまう大人物なのだ。
それにしても、夏の末以来の異国での再会は嬉しかった。
女子と小人養い難き私の女房が言った。
「わずか十分違いで、こういうところでお目にかかるのはロマンチックですわね」
阿川さんは答えた。
「うちの女房もそういうから、こっちの飛行機とあっちの飛行機が、十分違いで着くのは単に便がそうなっているからで当り前だ。なにがロマンチックなんだと言ってやったら、女房は、あなたって、ぜんぜんロマンチックじゃないわね、って言いやがった」
その頃には大使館の人たちも来ていた。そのまま車で大使館公邸へ行くと、応接間でサラミとか豚の燻製《くんせい》の薄切りをつまみに、シェリー酒が出された。加川大使は以前会ったときのように、紳士的に元気で、海軍的に活溌な声で話した。美しい夫人も、ごく可愛い二人のお嬢さんもかつてのままだった。
阿川さんは下のお嬢ちゃんに、
「おや、ミサちゃん、歯抜けが直ったの」
と笑いかけてから、大使にむかってはぶつくさ言った。
「ほら、こいつはおれが甘い奴がいいって言うのを、セックなシェリーじゃなきゃ駄目だなんていって、これしかくれんだろ。加川は海軍時代から貴族的なんだ」
大使はマダガスカル島でわれわれを迎えたときと同様、私たちのスケジュール表を手渡した。それによると、今夜は高級な店でフラメンコを見るということになっている。
私は小さな声で言った。
「ぼくはスペインにきたら、ゴミゴミした安酒場で安い食物を食べようと思っていたんです。フラメンコなんか、映画で見てればそれで沢山だ」
「なんだ、君はまだスペインに来ていなかったの。そりゃ、おかしいなあ」
と、阿川さん。
「ええ、ポルトガルはリスボンだけ知ってますが、スペインは一度もきてないんで、憧《あこが》れてたんです。アポロ11号の打上げのとき、ぼくはアメリカでそれを見て、ロンドンヘ行ったらホテルの部屋に氷をとってもほんとに皿に十個くらいしか寄こさんから頭にきて、ちょうどパリにいた辻のところへ行って、スペインに行こうと言ったら、その夏スペインは四十度を越す暑さだというんで、怖《おそ》れをなして反対のチロルヘ行っちゃった。ふしぎにスペインと縁がないんです」
それゆえに私はスペインでは、話に聞く粗末な大衆的な店で、しかし素敵にうまいという地酒と安っぽい食物を飲み食いするのを夢見てきた。
大使は、この貧乏性のなさけない男の言をさっそく実行してくださった。
その夜は、私たちは大使夫人と館員に連れられて、美しく照明されている広々としたマヨール広場へ行き、そこらの気のおけぬにぎやかな店をまわった。ここはマドリッドの古い下町の中心地だという。
穴蔵のような小狭い店。ごった返しの超満員で、喧噪《けんそう》に満ち、ジュークボックスならぬ一体なんという古風な器械であるか、そいつがどえらい音響を低い天井にとどろかせ、反響させている。
とても席はあるまいと思われたが、折り曲がる内部のいちばんどんづまりに、大使館員がどうにか五人坐れる席を見つけるか、作らしてくれた。もっともみんな身を接するほどの窮屈さである。
地酒の赤ワインはうまかった。食物は大使館公邸で出されたものより、もっと鄙《ひな》びて大ぶりの豚の燻製やサラミ、更にイワシの揚げもの。トルティーリャとかいうジャガ芋入りのスペイン風オムレツ。見るからに安物じみていて、いくらか辛い味。パンは半分発酵していないようなものであった。
大学生の三人組くらいのアルバイト楽士が、派手な服装でギターを抱えて狭い通路をうろついている。
雰囲気はさすがに南国の情熱にあふれ、陽気でほがらかで快活で、といって、まだそれほど元気でない私にとっては、あまりといえばやかましく、煩《うる》さすぎた。
終《しま》いには酔ってきて、どこをどう歩いたかよく覚えていないが、この辺りの店は通称「ドロボー酒場」と呼ばれ、むかし海賊たちが金持から金品を盗んで逃げこんだ場所だという。
一軒の店はずっと広く、奥で職にありついた大学生楽士たちが唄っていたが、入口のショー・ケースの中には、小豚、大きな舌ビラメ、ムールなどの貝類、伊勢海老、もの凄くでっかい長さ二十センチもある化物のような真赤なピーマンなどが飾ってあった。
阿川さん、店を出ようとして、ひょいと手をのばし、カウンターの上の皿に盛ってあるアサリみたいな奴をツマミ食いする。
「店員がイヤな顔をしていたよ」
と、店を出るときそう言った。
最後に寄った店は、客はあまり立てこんでおらず、その代り、奥まった片側の大テーブルを囲んで、大学生らしい十二、三人の若い男女たちがギターを鳴らし、合唱していた。楽器はほかに、コンガかボンゴみたいな奴があったと思う。
彼ら、彼女らの声量はすばらしい。実によい声で、スペインという太陽の国から自然と沁《し》みでてくるような音声だ。日本でなら、みんな本職になれるであろう。実に愉しげに、陶然とした顔つきで、次々とギターを奏で、そして唄う。それが延々とつづき、果てることがない。もう夜半の一時だ。
酒はちっとも注文しない。こんなことでは店は儲《もう》からぬだろうと、つまらぬことまで考える。私たちも、もうワインだけを前にして、それに聞きいっていた。
他の店でもそうだったが、花売りの婆さんがやってきた。匂いをかがせる。手をふって要らぬと意思表示すると、カーネーションの茎を口にくわえ、フラメンコのステップを踏んでポーズをとってみせる。しかし、しつこくつきまとわず、あっさりと去って行った。
プラスチック製のヨーヨー売りの爺さんもくる。紐をあやつって客のまえでヨーヨーを上下させてみせるが、少しも売れぬ。
合唱している連中のところへ行っては、音楽に合せてヨーヨーをあやつったが、買ってくれという様子より、自分自身が悦に入って愉しんでいるようにも窺《うかが》われた。
結局、一つも売れず、爺さんは去る。少しもしょぼくれず、むしろ陽気な姿で。
阿川さんが、
「彼らに酒を御馳走したら」
と言い、大使館員が唄っている連中の席へ行った。若者たちは、
「ほんの一杯だけ」
と言ったそうで、礼のつもりであろう、「スキヤキ・ソング」を演奏した。
それまでの歌はほとんどスペイン民謡らしかったが、ジプシー風の歌をやるとき、みんなは手拍子を打つ。それが実にいい音で、高らかに、ほがらかに響く。阿川さんも一緒に手を叩いたが、こちらのほうは、「ブス、ブス」というような、実に貧弱な音しか出てこない。
それにしても、どの店も無闇矢鱈とかしましかった。スペイン語自体が野太く張りがあり、それが音楽と相乗効果をあげてすこぶるやかましい。
「オール躁病の国ですね」
と、私はひとこと感想を述べた。
次の日、阿川さんはまずホテルでトレド行きの観光バスの切符を買った。午後三時半の出発である。
トレドはマドリッドから南へ七十キロほど離れた、スペイン第一の美術の都といわれる町だ。まずそこにはヨーロッパでもこれはと称さねばならぬグレコ美術館(グレコの家)がある。
そのあと私たちのとった行動は、まことにセッカチな阿川さんにふさわしいものであった。タクシーでプラド美術館へ着いたのが正十二時。途中の車中で、
「ここに、どのくらい(時間を)かけようか?」
と、彼は言った。
プラド美術館はルーブルにも比せられる宝庫といってよいらしい。だが、私は印象派時代の画家たちのほか、興味を有するのはほんのわずかなのだ。
「一時ころまでも見るか」
「いや、一時十分前。ぼくには美術全集で見たほうがマシです」
と、私は言った。
「よいことを言う。ぼくもそう思う。同感だ。よし、この正面入口に一時十分前までに集合すること。各自、解散!」
と、阿川元海軍大尉は命令した。
そして、その姿はたちまちのうちに消え失《う》せた。
私も凄い早足で歩きだした。ちょっとふり返ってみると、女房は相変らず牛のようにのろのろと歩いている。そんな者にかまってはいられない。とにかく、わずか五十分でこの大美術館の要《かなめ》の名画を見なくてはならぬ。
私の歩調は、忍者の秘術である速歩にも似ていた。巨大なベラスケスの絵も、グレコ、ゴヤの絵も、走馬燈のごとく、半ば霞《かす》んで走り去った。なおも、次の部屋、次の部屋へと、私は電光(とは大げさだが)のごとき歩みをつづけた。ラファエロ、チチアーノ、ダ・ヴィンチ、更にルーベンス、ヴァン・ダイクの絵も、頭の芯が霞んで、幻のように流れ去った。
途中で、私はハタと足をとめた。これでは肝腎《かんじん》の名画を見落す怖れが、多分に、いや九十九パーセントあり得る。
そこで私の耄碌《もうろく》した頭にしては、天啓のごとく、ずる賢い智慧《ちえ》が浮んだ。
私は一階の大部屋の横手にある絵ハガキだの写真集だのを並べてある売店に駈けつけた。そして、給ハガキのパネルをぐるぐる廻し、これはという絵を捜そうとした。
名画は当然、絵ハガキになっている。そこで、その中から自分の好みにあったものを見つけだし、然《しか》るのちに、ゆっくりとその何枚かの絵だけを丹念に鑑賞しようと考えていたのである。
すると、沢山の絵ハガキの中に、ゴヤのエッチングが数枚あった。無知な私はそのエッチングを知らず、しかもとりわけそれが気に入った。
ふたたび、私は目もくらむばかりの名画、大作の飾られている部屋へはいって行った。二、三枚の絵にはちょっと時間をかけたが、
「ゴヤのエッチング、ゴヤのエッチング」
と心につぶやきつつ、部屋から部屋へと怖るべきスピードで歩みをつづけた。ところが、それがどうしても見つからない。
私は息せき切って、二階への階段を登ったが、二階には見物人が少なく、人気のある絵も少ないようであった。それでも、部屋から部屋へと、とどまることなく私は最大限の大股《おおまた》で歩きつづけた。
「ああ、あのゴヤのエッチング」
どこにも見つかりはしなかった。
私は更に三階へと登った。ここでは見物人がほとんどいず、看守が退屈そうに所在なげに椅子にかけていた。そのうえ、絵も時代が古くなって、私には何の知識もない画家の絵ばかりであるらしかった。それでも、私は各部屋をすべてまわった。
これだけの努力にもかかわらず、いかなる事情で地にひそんだのか、それとも元々飾られていなかったのか、ゴヤのエッチングの本物は、ついに私の目には映らなかったのである。
せっかくの美の宝庫、審美眼のある人なら法悦を覚えるであろう美術館にきて、我ながら一体なんたる態度であろうか。私の覚えたのは、単なる速歩競走と眩暈《めまい》にすぎなかった。
すでに約束した時間が迫っている。私は階下に降り、地下室もあることに気づいて、またその階段を駈けおりた。
すると、そこにも絵ハガキ、美術書などの大きな売場があって、阿川さんが絵ハガキを選んでいた。のみならず、のろくさい女房まですぐとそこに現われた。
私はなんだかガックリしてしまい、乾《ひ》からびた茸《きのこ》のような疲労を覚えた。それでもとりあえずゴヤのエッチングの絵ハガキは全部買った。そのあと、指定時間ぴったりに、私たち三人は大美術館をとびだした。
もとより絵のわかるはずの阿川さんがここにいる時間を惜しんだのは、或る骨董《こつとう》屋に行きたいがためであった。何年かまえ、彼はマドリッドにきて、かなり高価な古い壺《つぼ》を買いこみ、今も自宅に飾ってある由で、たいそう気に入っているという話である。
私も自分の目では美術書でかまわぬ名画より、本では見られぬかもしれぬスペインの骨董品に興味をそそられ、そのため一時十分前と言ったのである。
阿川さんはマドリッドには何回かきているから、地理には自信があったらしい。
しかし、
「多分、この辺だ。そうだ、あそこだろう」
と、独りごとを言ってとびこんだ店は、ぜんぜん違った新しい土産物屋であった。
「おかしいなあ。この辺りなのだが……。あそこの航空会社に行って訊いてこよう」
私は、もっと蚤《のみ》の市のような骨董屋がずらりと並んでいる場所を夢想していたので、もう嫌になってきた。
そのあいだにも、私の女房も近くの店員に尋ねていた。ここではパリよりも英語が遙かに通じる。やがて二人は教えられた方角に歩きだし、疲れて何もせぬ私も仕方なくずっと後方からついていった。
ようやく見つかったその店は、かなり大きな茶色っぽい建物で、五階か六階はあったと思う。こんな大きな建物をさっきの小さな土産物屋と間違えるとは、頭脳明敏なる阿川さんにしてはどこがどうなったのか、私は未だに判断に苦しんでいる。
その大きな店の一階には骨董品はなく、真珠のネックレスや宝石類ばかりが並んでいた。私はまた夢想を裏切られて、ソッポを向いていた。
しかし、
「たしかにここです。この女店員は、むかし買物をしたぼくの顔を覚えてる、と言ってる」
と、急に元気になった阿川さんが言った。
黒い服を着た、いかにも高価な品物を扱うにふさわしい、それだけ私をビクビクさせるに足る、慇懃《いんぎん》で不気味に丁重な年配の男がどこからともなく現われ、私たちを案内した。
まず、狭っ苦しいエレベーターに牛《ぎゆう》づめになって最上階まで昇る。そこにはまさしくバカ高そうな骨董品が並んでいた。それから階段を降りて一階ずつ、種類の変った品物を見せる。
古めかしい壺やら硝子器具がある。狛犬《こまいぬ》みたいな、或いはライオンみたいな、不可思議なる獣の石像がある。ヨット用のランプ、香辛料をする乳鉢がある。ありとある古びたものが山のようにある。由緒ありげなスペイン家具の揃った階もあった。
阿川さんはそれらに津々《しんしん》たる興味を抱くらしく、壺やら置物やらの値段を一々訊く。私は顔青ざめた。或る品物について慇懃な初老の男の言った数字は、私と女房の所持金の何十倍にも当ったからだ。
海底から引きあげられたという変色した大きな水瓶には、牡蠣《かき》のこびりついた跡があった。案内する男は英語がそれほど堪能ではなく、身ぶりをまじえて長々と説明する。そいつはいかにも高そうで、阿川さんはどうせ買えもしないのに、また「ハウ・マッチ?」と言う。
釣られて、私の女房まで小物の値を訊きだした。ほんの小さな壺は、日本円にして三万くらいであった。これなら買えるし、持って帰れる。それだけにケチな私はギクリとした。年代物の家具の置いてある部屋では、無理矢理、女房を素通りさせようとまでした。
結局、私たちは何一つ買わず、その店を去ったが、かなりの時間をつぶしたわけである。
阿川さんの知っているレストランヘ行くタクシーの中で、私はしきりに時間を気にせざるを得なかった。トレド行きの観光バスが、われわれが泊っているホテルを出発する時刻まであと一時間半もない。
「大丈夫かなあ。これはサッと飯をかきこまないと……」
などと言うと、阿川さんは人をバカにしたような顔つきで、
「北さん、君はあんがい神経質なんだなあ」
「そうなんです。主人は気が弱くって、いつも時間をこまかく気にするんです。そうね、あなた?」
と、女房まで私を嘲笑《ちようしよう》する口調で言った。
阿川さんの推奨するその料理屋で、彼はまずビールをとり、パエリャとこちらで呼ぶ焼飯と、イカの墨煮とをあつらえた。パエリャにはいろんな種類がある。肉だの貝だのさまざまなものを入れるため、一々、ナントカ・パエリャと名称がついているが、まあ似たようなものらしい。
阿川さんは二種類を一皿ずつ注文した。量がたっぷりあるから、三人でわけても多すぎるくらいであった。
イカの墨煮もスペイン風チャーハンも、本当においしかった。しかし、私はまだ時間を気にしていて、一度ならずそのことを口にした。
「君はほんとに神経質ですね。小心翼々だね。なあに、大丈夫さ」
阿川さんはことさらゆうゆうと、好きな食物を堪能していた。彼は一つものに凝ると、何回でも同じものを食べたがる癖がある。このことは、前に阿川さんと二回の旅をしてわかっている。
しかも阿川さんはゆったりと大人《たいじん》の風格をもって席を立ったあと、店を出るとき、そこに並べ飾られていた菓子の中から、小さなシュウクリームをまたもや素早く口に入れた。もとよりロハで。
だが、こんなことをしているうち、小人《しようじん》の私の怖れていた事態がとうとう現実に惹起《じやつき》したのである。
レストランを出たあと、タクシーを掴《つか》まえようとしたが、ぜんぜんやって来ない。大通りまで出、阿川さんと私の女房が道の両側に陣どって空車を見つけようとしたが、いつまで待っても徒労である。
「見ろ、小心翼々のほうが、だから安全じゃないか」
と、私は、腕時計を睨《にら》みながらぼやいていた。辛うじて、かなりの時間を要してタクシーを掴まえることができた。ところが道が予想外のラッシュで、遅々として進まない。私はもう極度にイライラしたが、阿川大人にしてもそのときの御心境は同様だったのではあるまいか。
しかし、まさに観光バスが出るはずの三時五十分何秒かまえ、ようやくホテルの建物が見えてきた。
「おれは、なんとピッタリすることか!」
と、阿川さんが勇んで叫んだ。
ともあれ、私たちはころがるように下車し、ホテルの玄関まえで当のバスを捜しまわった。
「こいつか。いや、違う」
とにかく、あちこちを見まわしても、トレド行きのバスは見当らないのだ。
そこで、生理的現象のあった私は、ホテルの中へ入り、ロビーわきのトイレでオシッコをした。それから、チャックを閉め忘れたかどうかと慎重に確かめたうえ、なにかぼんやりと玄関の外ヘ出ていった。
仰天させられた。阿川さんと私の女房がもう別のタクシーに乗っており、こちらに向って「早くこい」と手ぶりをしているではないか。
走りだした車中で、トレド行きバスはもはや発車してしまったことを私は聞いた。バスは数カ所のホテルをまわり客を拾ってゆくから、タクシーで最後のホテルヘ行き、バスを掴まえるようフロントで言われたそうだ。
「バスの奴、十五秒早く出やがった。けしからん」
と、阿川さんは半ば弁明じみて、怒ったように言いつづけた。
けれども、道は相も変らぬひどい渋滞である。せっかくのタクシーも、実にのろのろとしか動くことがかなわぬ。
「最後のホテルまで行って、バスに追いつけなかったときは、一体どうするんですか?」
と、私はかなりの心配とおれの危惧《きぐ》が当ったじゃないかという立腹感を覚えながら尋ねた。
「それは……」
と、さすがの阿川さんも言葉を濁し、
「それはそれで、タクシーをすっとばしてドンドン追いかければいい」
「しかし」
と、私は言い返した。
「バスは市中こそノロノロ動くでしょうが、おそらく郊外の道に出たら、ドンドンドンドン突っ走るでしょうなあ。それじゃ、タクシーだって追いつけそうもない」
「なるほど」
と、阿川さんはかすかに感服したようにうなった。
「君は珍しく、まっとうな正論を吐いたなあ」
けれども、そこまでは私のほうが分がよかったのだが、残念ながら私の危惧は大仰にすぎたことが、やがて判明した。
タクシーが観光バスの最後に客をピックアップするホテルに着いたとき、まだそこの客たちはホテルの玄関から外へも出ていなかったのだ。つまるところ、いざ当のバスが来るまで、私たちはかなり憮然《ぶぜん》として待たねばならなかった。
阿川さんはあやうく一敗を記録するところ、逆転勝利を収めた形である。けれども、タクシー代が余計にかかったではないか。
観光バスは果して、市外に出ると相当のスピードで走った。
トレドまでは七十一キロあり、二時間近くもかかるらしい。私は疲労から、途中でついウトウトとした。
「北君、君は乗物の中では眠れんと言ってたくせに、たいそうな大口をあいて、お眠りになられたようじゃございませんか」
と、あとで阿川さんが皮肉たっぷりに言った。さきほどからの鬱憤《うつぷん》をはらすつもりのようであった。
ところで、さて、バスがトレドに着いたとき、事件が起ったのである。バスはまず、飲物屋と土産物屋が並んでいる場所で停車した。
「もし帰りのバスに乗り遅れた人は、六時十五分までにここにきて待っていてください」
と、バスに乗っていたガイド役の男が英語で言った。
「チェッ、こんな観光バスとタイ・アップした店なんぞに降りるのは、そもそもいけ好かん」
と、阿川さん。
しかし、喉の乾いた客の全部が下車して店へ入り、飲物を飲みだしたわけで、仕方なく彼もその店にはいってき、私たちとオレンジ・ジュースなどを飲んだ。
ここの休憩は短時間だった。ところが、もうほとんどの客がバスに戻ってしまったあとになっても、阿川さんはまだしきりと店員となにか話しあっていた。
壁に掛けられた飾り皿を取らして、つくづくと見、いくらだと訊く。鉢や皿やら幾つも手元に持ってこさせ、裏をひっくり返したりしてしげしげと眺め、一々値を尋ねている。彼の妖《あや》しげな骨董趣味は一体どこから来たものであろう。いよいよ店を出るときも、入口近くに飾られていた陶器の大鉢の前で足をとめ、さすったり叩いてみたりした。
これはまだ事件ではない。バスが動きだし、次に停車して客がぞろぞろと降り立って或る教会へ行こうとしたとき、なぜか阿川さんは憤然とした口調で大声に私たちに訴えはじめた。
「グレコが含まれてないっていうんだ。肝腎なグレコ美術館がこのツアーにははいってないって。だからおれはガイドに言ってやった。おれたちはタクシーで美術館へ行く。それでいいかって。ところがガイドの奴、あとで乗り遅れても知らんなんて言いやがる」
阿川さんの顔は、いくらか形相が変っていた。噂《うわさ》に聞く「瞬間湯わかし器」の本領が、ついにここにきて爆発したのかもしれぬ。
もっとも、それはおおむね同輩たちのあいだでのことで、ずっと後輩の私には阿川さんは常に優しく、少なくとも私のまえで怒ったことはそれまでについぞなかった。
ともあれ、彼は早口にセッカチに言った。
「北君、君、どうする? タクシーか、バスか?」
さながらシンガポールでの山下将軍の「イエス・オア・ノオ?」のごとき迫力である。
私は少し驚き、モタモタと言った。
「……でも、少し危ないんじゃないですか? もし帰りのバスに乗り遅れると……」
「ううむ……」
と、阿川さんはうなった。それから、顔色を和らげ、
「まあ、仕方ないか。連中と一緒に行くか」
と言った。正直のところ、私は少なからずホッとした。
しかし、ぞろぞろと金魚の糞みたいにガイドのあとについてゆく外人観光客のいちばん後ろで、阿川さんはまだかなり面白からぬ表情をしていた。
初めの教会には入ろうともしなかった。トレド大寺院では一緒にはいってきたが、なにか御大層なものものしい金色だらけの一室をちらと見、
「金キラキンは好かん」
とつぶやき、一人だけ外に残った。
この寺院はでっかく、何箇所もの場所にガイドは案内する。
「まだ何か見せるつもりか」
と、阿川さんは吐き出すように言って、どこでも外で待っている。のみならず、いつの間にかどこかへその姿が消えてしまった。彼はすねてしまったのである。
しかし、それから案内されていった一室には、グレコの絵が幾枚もあり、ラファエロなどもあった。
ようやく一同が寺院を出てゆくと、阿川さんが一人ぽつねんと外で待っていたから、「グレコがかなりあった」と報告すると、
「そうか。損しちゃったな」
と、憮然としたようにのたまわれた。
余談になるが、スペインには現存する巨匠というか、奇人というか、サルバドール・ダリがいる。ごく最近の話で、私たちの旅行中のこととも思われるが、彼の針金とブリキで作った高さ二メートル近い大作がひょんなことから災難にあった。つまり、ポルト・リガトのダリ邸からフィゲラス市のダリ美術館へそれを運んだ運送屋が、美術館の扉が閉まっていたのでそこに放置しておいた。すると、通りかかったのがゴミ集めの車で、さっさとこのガラクタ(?)を積みこんでゴミ捨場に持っていってしまった。その後、その大作は未だに行方不明だという。
さて、話変ってトレドからの帰途のことである。バスはまたしても最初に寄った店に乗りつけた。そこで客たちは土産物をあさる。私と女房も土産物屋に入り、まあありふれた観光土産を見てまわった。何も買う気がしないが、バスの出る気配もない。初めガイドの言っていた時間なんて、とっくに過ぎているのに、一向に呼びにもこぬ。
多くの観光名所と同じく、できるだけ客に沢山買わして、リベートを貰う魂胆であろう。私は雑多な、安っぽいのから高価なものまでの品物を眺めまわるのにももう飽きて、一隅で煙草《たばこ》などふかしていた。こうして、ずいぶんの時間が経った。
ようやく出発するらしく、客たちがバスに戻ってゆく。その頃になって、それまで忍者のように姿を消していた阿川さんがひょっこり現われた。手には、ずいぶんと大きな紙包みの品物を持っている。
「さっきの飲物屋で、さんざん値切って、やっと六十ドルというのを、五十五ドルまで下げさせて買った」
と、いかにも満足そうである。
それは、あとで見せてもらうと、一抱えもある陶器の鉢《ボール》であった。
それにしても、そんなばかでかく重い、おまけに壊れやすい代物《しろもの》を、旅がいざこれからだというのに、一体どうやって持ち運んでゆくつもりなのだろう。大人《たいじん》のやらかすことは凡人にはわからぬ。
バスは帰りの出発が大幅に遅れ、すでに七時を過ぎていた。もっとも、この地の太陽の運行具合は、九時近くになってやっと夜が訪れるという季節であったから、七時とはいえまだ白昼のように明るい。
その夜、三人は加川大使から夕食の招待を受けることになっていた。大使の予定では私たちは九時きっかりにホテルのロビーで待ち、館員が迎えにくるという段取りである。
ところが、往きは快調に走ったはずのバスは、帰途は道路が混雑してきたらしく、しばしばノロノロ運転になる。マドリッド近くに来ると、ますますそれが甚だしくなってきた。
「こりゃ、九時というのは無理らしいな。戻ったら加川に連絡して時刻を遅らせて貰わにゃ」
果して、バスがあちこちのホテルをまわって私たちのホテルに帰りついたのは、八時五十分を過ぎていた。阿川さんは大使館に電話して、二十分間予定を遅らせさせた。おそらく一流のレストランヘ招かれるだろうし、身だしなみも一応は整えねばならない。
さて、その「コリント」というレストランの個室で、私がごく小児的な歓喜を覚えたのは、初めがまたしても生ガキを主とした貝類だったからである。何がなんでも私は生ガキに対しては貪欲《どんよく》なのだ。
加川大使は注文した白ワインの味見をし、
「ちょっと甘いな」
とつぶやくと、別種の白ワインを持ってこさせた。私なんぞには真似できぬことだが、文明国の大使ともなれば、そのような態度のほうが風格があってよいのだろう。
「こっちのカキは、大西洋でとれますから、フランスのよりおいしいようです」
と、大使夫人が言われたように、そのカキは私をたいそう満足させてくれた。
書き忘れていた。私たちがホテルに帰りついたとき、自室にはいると、卓上にスコッチ一本と、小さな封筒にはいった大使の名刺と、一通の電報が置かれてあった。それは私の母が大使館あてに打った電報で、娘が無事退院した旨が記されていた。マドリッドに着いてからも、時間がなくてまだ東京に電話していなかった。さすがにホッとし、肩の重い荷がすっかりおりたような感慨を持った。
それゆえ、ひそかな安堵《あんど》感のうちに喉を過《よぎ》る結構な酒も料理も、殊さら格別な味わいであったのは当然のことであったろう。
この席で、まったく知らないできた御馳走も賞味することができた。それはアングゥラといって、つまりウナギのまだごく小さい幼魚の料理である。
わずか五センチほどの長さの、蕎麦《そば》のように細っこいウナギの子がおよそ、七、八十匹も群をなして深目の皿に盛られて持ってこられた。日本ではウナギは次第に高くなってゆく。それなのに、生れてまもない小さな赤ちゃんを食べてしまうとは、いかにももったいないという感じだ。大きく育った奴を日本に輸出したらとつい思ったが、日本の業者どもはとうにその案を考慮中だとの話であった。
なにか憐憫《れんびん》を誘う沢山のウナギの子たちは、オリーブ油とトンガラシとニンニクの味つけで煮てある由だが、その味はと訊かれると、私の乏しい語彙《ごい》ではちょっと表現できかねる。有体《ありてい》にいってしまえば、いかにも貴重な料理(実際に高値なものだそうだ)と見えるものの、期待していたほどおいしくなかったというのが本音である。
しかし、それは時期外れのためで、ふつう十月ころからシーズンに入り、十二月頃がいちばん美味になるという。以前きたとき、この料理を食べた阿川さんもそう言ったし、大使夫人も同じことを述べた。
いずれにせよ、私の一人旅では到底味わえぬかもしれぬ珍しい料理を食べられたのは、加川大使のおかげ、或いはその友人の阿川さんのおかげと言ってよい。ゆめゆめ、阿川さんの悪口なぞ書いては、下人、非道者と悪罵《あくば》されても仕方あるまい。(そのくせ、もうずいぶんと書いてしまった)
ところで、さきほどホテルの部屋の卓上に置いてあった大使の封筒にはいった名刺には、「KAGAWA」でなく、「KEIGAWA」とその姓が印刷されていた。
ふしぎに思って尋ねると、大使は、
「それがね、カガワというのはスペイン語ではちょっとまずい意味になるんでね。淫猥《いんわい》な言葉なんだ。それで仕方なしに……」
と笑った。
こうした例は世界でいくらもあろう。
たとえばケニアでは、熊本という姓は「熱いヴァギナ」、戸原という姓は「割礼」という意になる。東アフリカ沿岸地方ではイスラム教徒が多く、アラビア語がはいりこんでおり、そこでは中村、内藤という姓は具合がわるい。共に女性性器に関係する言葉だからだ。
むかし、カツオという名の日本水泳選手がイタリアの大会に出場したら、その名がアナウンスされるたびに大|喝采《かつさい》を受けたそうだ。カツオは男性性器の意だったからである。
閑話休題、帰りの車の中でも、阿川さんはさっきのアングゥラの味について、
「季節の奴はもっとずっとずっとうまい。トローリと舌先でとろけるようでしてな」
と、しきりに繰返した。
マドリッドの章が終りになるので、ここの車の走りぶりについて、いささか述べておこう。
前日、私たちの乗ったタクシーは、女性の運転する車に追突した。あきらかにタクシーの運ちゃんの不注意である。
少し行ったところでその車はストップし、タクシーも止り、降りていった運ちゃんとくだんの女性とが、しきりに手をふりまわして議論を開始した。しばらく経ってやめ、二台はまた少し走ったが、ふたたび女性の車は停車し、さっきとまったく同様の身ぶり豊かな言い争いをした。これを三回繰返した。私はその女性がどこかで警官を呼び、弁償などについて訴えるかと思ったが、ついにそんなことは起らず、そのまま尻切れトンボに済んでしまった。
またこの夜は、ホテルから料理店へ行く途中、私たちの車はタクシーにかなりひどく横突された。聞いたところでは、この地は車の運転ぶりがかなりルーズでかつ乱暴だという話である。
明日は、いよいよ阿川さん待望の汽車の旅になる。しかし発車時刻は午後三時だから、久しぶりに寝坊もできよう。
翌日、私はゆっくりと起き、朝食をとったのちも部屋でごろごろしていたが、女房の奴は何か買いこもうとして町へ出てゆき、出発の時刻が近づいてもなかなか戻ってこない。
やっと帰ってきて、トランクの中身を相も変らずノロクサと整理し、蓋を閉めようとするが、衣類がはみだしていたりして、かなりの時間を要する。神経質な私はとうに出発の用意ができているから、イライラし、立腹し、バッグをもう肩にかけてすぐ前に突ったったまま、嫌がらせのつもりで女房のもたつきぶりをジロジロ、ギロキロと眺めやっていた。しかし、蛙の面に水である。
ところで、今日の汽車旅行はマラガまでで、七時間半とスケジュール表にある。マダガスカル島の汽車の悪《あ》しき印象の残る私には、日本で予定表を見たときは、これはこれはと思ったものだが、旅の進むにつれ次第に元気になってきていて、今は心配する気はまったく起らなかった。
なんといっても文明国の列車で、名高い特急の一等車だから、おそらく快適であろう。
大使夫人と二人のお嬢ちゃんもマラガまで同行することになっていた。
マドリッドに着いて公邸に行ったその夜、阿川さんはお嬢ちゃんたちにむかって、
「さあ、汽車のおじさんが来たよ。君たちも汽車に乗ろうよ。ママもだよ。もちろんのことさ。なにしろ、また汽車のおじさんが来たのだからね」
と、しきりに誘ったものだ。
アトゥチャという中央駅に着くと、阿川さんの言動は急に活溌になってきた。
タルゴ号という有名な列車がプラットフォームに優雅に静止しているのを目のまえにして、おそらくその胸は無性にしめつけられ、その鼓動はマラソン選手が完走したあとのような状態を呈しているのであろう。
実際にタルゴは銀色で、窓のある中央の部分が赤く塗られた、なかなかに瀟洒《しようしや》な汽車であった。おまけに、初めのスケジュール表では十三時間の汽車旅となっていたのが、この特急のおかげで七時間余で済みそうだとの話だ。
その車体を前にして阿川さんはたちまち私たちに向い、得意げに説明を開始した。
「この列車の特急はですな、──こんなこと興味あるかどうか知らんが(ここで彼は私の顔をジロリと見やった)──まず車輛《しやりよう》が短く、連結部分がジャバラ式になっていること。つまりですな、線路がうねりが多いから、芋虫のようにクネクネと進むためです。そら、市内電車の小さな奴くらいの短さの車輛をつないでいるでしょう?」
更に、
「線路はむろん広軌です。ずいぶん広いな。ヨーロッパの線路はふつう四フィート八インチ半。これはどのくらいあるかな」
と、言い終ったかと思うと、その姿はアッというまにどこかへ消えてしまった。
私は駅の構内を見てまわった。一隅に自動販売式の早撮りボックスがあり、両親と一緒の少年がそれを試みている。しかし、見本によるとごく小さな写真が出てくるまで、かなりの時間を要するらしく、私はずいぶんと見守っていたのだが、発車時刻が迫ってそこを離れるまで、ついにできてこなかった。
タルゴ特急の止っているホームに引返すと、そこでは阿川さんが二人の駅員相手に、列車の後部を指さしたり、その指を何本か立ててみせたり、しゃがんだり、立ったり、マルソーのパントマイムのごとく、いやもっと派手な身ぶり手ぶりをまじえて大奮戦の真最中であった。彼はしきりと英語をしゃべっているのだが、駅員たちはひとこともそれを解さないらしい。
ついに見送りにきた大使館の人が応援にきた。しかし、その通訳によっても、結局のところ阿川さんの質問は返答が与えられなかった。何を尋ねたのかと訊くと、
「このタルゴに3と記してあるだろ。その3の意味を知りたかったんだ。駅員の奴もわからんらしい」
大使館の人が言った。
「そんなこと聞いて、何になさるのですか?」
「そのためにぼくはここに来てるんです」
阿川さんは、ムッとしたように答えた。
すぐに午後三時定時、ウーという船の汽笛のような、しかしもの静かな合図がして、タルゴ特急は辷《すべ》るように動きだした。ベルも鳴らさずに音もなく発車する外国の汽車にしては珍しいといってもよい。
車内では、スペイン語、フランス語、英語、ドイツ語の順でアナウンスをする。
発車してすぐ、車掌が昼食の注文を取りにきた。私の女房一人だけがそれを頼んだ。
すると、座席のまえに飛行機のような一枚の板、簡便な小テーブルを差しこみ、飛行機食のように肉料理やサラダやパンや菓子などを並べた一つの盆がその上に乗せられた。
すぐあとに、飛行機そっくりに、ワインの小びんを含めた飲物類を並べた台を押してくる。阿川さんと私はビールを飲みたかった。しかし、酒は食事をする人だけということで行ってしまったが、あまり食事をとった人がいなかったらしく、まもなく私たちはビールを手に入れることができた。大使夫人が、
「あそこがスペインのヘソ、つまり中心といわれる丘です」
と教えてくれた。かすかに教会の塔などが見える低い丘陵が消えてしばらくすると、すでに人家もなく、わずかに灌木のみぽつぽつとある荒涼とした土地になる。乾燥しきった禿山《はげやま》、次に茶白色のだだっ広い平原。
タルゴ特急はマダガスカル島のオンボロ汽車のように激しく揺れもせず、席も上等で、長い時間駅に止りもせず、かなりの速度で走ってゆく。
たまに畠《はたけ》も見え、ときにケニアのそれのような赤土だらけの土地も拡《ひろ》がっている。
四時半、はじめて駅に停車した。
「北さん、蒸気機関車がいるよ」
と、阿川さんが嬉しそうに言う。
大使夫人が語るには、スペイン人は他人に迷惑をかけてもかまわぬという思想の持主だそうだ。明日はそれはわが身にふりかかるというわけで、結局は差引がトントン、公平となるという考え方の由だ。
今日も空はあくまでも真青に晴れあがり、雲もほとんど見当らず、いかにもこれが太陽の国スペインの空かと思わせる。夫人が、
「そろそろ、ドン・キホーテの場所になります」
と注意してくれる。
そのラマンチャの土地では、遠方に遙かに小さく幾つかの風車が望見された。
阿川さんによると、タルゴ特急は最高速度百二十キロだそうだが、いくらか横ゆれするため、いかにも早く走っているかのごとく感じられる。
「いま、どのくらいのスピードですか」
と、私が尋ねると、
「……それが、キロ・ポストがよく見えなくて」
と阿川氏は珍しく困ったような顔をした。
彼はキロ・ポストと時計の秒針を見て、汽車の速度をすばやく計算する特技の持主で、一昨年一緒にブリュッセルからパリヘTEEで戻った折、私はその特技にびっくりしたものだが、そんなことは常識で至極易しく当然のことだと、阿川さんは破顔して得意満面言ったものであった。
丘陵がつづき、トンネルもあり、やがて山岳地帯となって、かなり緑の色が濃くなってきた。樹々《きぎ》は、松、ポプラ、オリーブに似て非なるもの等々。
そのオリーブ畠が今度は見渡すかぎり拡がりだした。極めて整然と列をなしてオリーブ樹が長くずらりと植えられている。
もうマラガまでの半分以上走っているはずだった。その九十七、八パーセントの土地に、人も家もぜんぜん見当らぬ。六時ころ、チェックリーチェスという駅に停車した。
「ここでセビリアからくるタルゴとすれちがうと思います」
と、トーマス・クックの時刻表の本を手に阿川さんが言った。いやに丁寧な言葉遣いをしたのは、マダガスカルの汽車旅のことで彼の悪口を書いた私を意識しているためらしい。
「次の駅では、もう一つ別のタルゴとすれ違います。また、北杜夫にバカにされるかもしれんが……」
やがて、
「ああ、来た! なんだ、違った、音楽だ」
実際に、六時過ぎになって車内に音楽が流れだした。大使夫人が、
「今まで昼寝の時間というわけですね」
と、笑って言った。
意外に長く駅に止っていることになったので、みんなプラットフォームに降りて見物して歩きだした。ただ一人、私だけは面倒臭いので車内に残った。やがて、発車である。ゆうゆうと乗りこんできた阿川さんが私を見て、
「三毛猫が昼寝しているみたいな顔だな」
と、呟《つぶや》く。
汽車は単調に走ってゆく。と、この車輛では見かけなかったアメリカ人らしい一青年がやってきて阿川さんに話しかけた。先ほどの駅で大使夫人の持っていた日本製カメラを見、自分も同じカメラを持っている、香港で買ったのだ、と言う。彼は誘われて、阿川さんの隣に腰をおろした。
女房がこちら側の席から、自分の持参してきた安物カメラのことを説明しようとして、グッと言葉につまる。阿川さんがその意を、巧妙にくだいて説明してやってくれた。
それからもテキサス出身という米青年は阿川さんと長々としゃべっていた。あとで訊くと、青年は心臓がわるく三度も手術をし、どうせ人生も終りだろうと、両親にこれからの自分を好きなようにさせてくれと説得し、親たちも納得して、スペインの大学に留学してからほぼ一年になるという話であった。
私は少しうつらうつらしかけだしたが、ときおり耳をすましてみると、青年は、
「日本人は日本酒と、ほかに酒は何を飲むのか」
などと尋ねている。
「なんでも、全部飲む」
と、阿川さんは答えた。
大使夫人も今度は私たちの席に移ってきた青年と長いこと話していた。実に流暢《りゆうちよう》な英語で、私にはまったくわからない。いや、阿川さんの英語をけなすわけなのではなく、彼は大きな声で話すが、夫人の声はごく低いからだ。
九時十五分まえ、日没。まだほの明るく、西の空はいかにも大陸めいた夕映えに染まった。車掌がまわってきたとき、阿川さんは夫人の通訳で、またもやこのタルゴについていた3という数字の意味を尋ねている。どうやらタルゴ三型という新しくできた車輛のことだと判明した。
それにしても、読者もぜひ尊敬してほしい、なんたる凄《すさ》まじきその執念ぶかさ!
「線路の幅が一メートル六十七だって? そりゃどうしても信じられん」
と、まだ言っている。線路に枕木がぜんぜんない、或いは見えぬことも話題になった。
八時半、夕食。主食はチキンで、赤葡萄酒の小びんをとった。
食事を済ませたあと、阿川さんは、
「日本人の座席が汚いなんて思われると、不愉快だ」
と、たまったゴミ類をわざわざ捨てに行く。読者よ、拍手してくだされ。
大使のお嬢ちゃんたちは汽車が好きで、マダガスカルのあの大変な汽車の旅でも、最後まで平気でいた。阿川さんがきて、スペインで初めて汽車に乗れて嬉しそうだった。
上のマヤというお嬢ちゃんは十歳で、お姉さんらしく万事きちんとしていておとなしい。二歳下のリカというお嬢ちゃんのほうは、逆にオシャマで活溌でいくらか変っている。ときどき、みんなは席を交代していたが、リカが食事のあと私の前に坐り、いきなりとめどなくしゃべりだした。
マダガスカルで泥棒がきて犬が吠《ほ》えてこわかった話、お化けの話、それらはどうやらどこまでがほんとかわからぬようなものであったが、それなりにおもしろい。
「ウフォーにお化けがいるのよ」
「ウフォー? おじさんには、わかんない」
リカは姉さんのマヤのところに行って尋ねてきて、
「あのね、空とぶ円盤」
「ああ、UFOのことか。そんならユーフォーだ。それに、お化けが乗ってるの? 宇宙人じゃない?」
「それがね、マスクつけてるのと、マスクつけていないのがいるのよ。空とぶ円盤はマダガスカルで見たわ。お姉さんも見たのよ。(通路をへだてたマヤの席へ呼びかけて)ねえ、ほんとだったでしょ? それは月からくるのよ。こわかった!」
一方、さいぜんの車掌が親切で、このスペインの誇る特急についてこまごまと尋ねる一東洋人に好意を持ったらしく、阿川さんをどこかへ連れていった。しばらくして戻ってきた阿川さんは、手に羊の皮製のワイン袋を持っていた。
「後部の運転車掌が機関車の運転車掌と電話で話してる。その有様を見学させてもらった。そしたら、その車掌が、こいつを渡してくれた。北君、飲んでみろよ」
私が皮袋の先端に口をつけようとすると、
「違う、違う! 口からずっと離して飲むんだよ」
阿川さんが見本を示そうとしたとき、親切な車掌が紙ナプキンを持ってやってきて、私に渡してくれた。そして彼は皮袋から葡萄酒を飲む術を実演してみせた。ずいぶんと皮袋を口から遠く離して、両手で強く押す。すると赤い葡萄酒は一筋のほそい流れとなって、ビュッと彼の口中に見事にはいった。
阿川さんも感服したらしく、
「彼らはいつもああやってワインを飲んでるのだろうね」
「酔っぱらい運転じゃありません? 危なくないのかしら」
と、女房が心配げに言った。
長いトンネルに入ると、急に重油の臭《にお》いが漂ってきた。冷房を切ったらしく、夜になったのに逆に暑くなってくる。十時、喉が乾いてスナックのある車輛へ行ってみたが、もう終りだというふうに首をふられた。
そして十時十五分、定刻どおりマラガに到着。まずはあまり疲れぬ、快適な、それどころかずいぶんと愉しい汽車の旅であった。
一同がカサブランカというホテルに着いてから、夫人とお嬢ちゃんを除いてわれわれがその食堂へ行ったのは十一時であった。ところが食堂はもう終っていて、「十時半終了」と英語でも記されていた。
阿川さんは、一人でこれから町の食堂へ行ってくると言いはる。パエリャを食べるのだという。あくまでも、あのスペイン風焼飯に執着しているようだ。そして、本当に一人でそそくさと出て行った。
私は部屋に戻り、ルーム・サービスでミネラル・ウォーターをとった。マドリッドでは頼むといずれも小びんだったから、びんの大きさを指定せず、三本をとった。ところが、すぐ持ってこられたそれは大びんで、しかもずいぶんと横幅も太いびんであった。
いくら水飲みの私でも、一晩に大びん三本は要らぬ。参ったという気持だったが、持参のウィスキーで水割りを作って飲みだすと、逆になんとも豊かな気分になってきた。水は高くはないから、ケチな私には性があうからかもしれなかった。
女房はすぐ寝てしまう。私はチビチビと水割りを飲み、水も飲み、ずらりと並んだ三本のミネラル・ウォーターの大びんを眺めては、一人悦に入っていた。
十二時半ころ、阿川さんが帰ってきて、軽く私の部屋をノックする。ドアを開けると、女房の寝ているのに気がつきすぐ引返そうとする彼を、ようやく部屋へ招じ入れた。
阿川さんは、予定どおりスープと焼飯を食べてきたという。
「明日は、ジブラルタルを見られるな。懐しい」
「ぼくにも憶い出があります」
「あそこを通ったの?」
「マンボウ航海のときです。正月の少しまえで、ちょうどジブラルタル沖を過ぎるとき、甲板で餅《もち》つきなんかしていたっけ」
「ちっちゃな船だろ。ところが、ぼくは豪華船ミケランジェロ号であそこを通ったんだ。……そうか、ジブラルタルというと、思いついた。明日は、ヨーロッパ最南端というタリファ岬へぜひ行こう」
機嫌よく阿川さんが部屋を去ったあとも、私もまた機嫌よくチビチビと水割りを飲みつづけた。
翌日は、レンタ・カーでスペインの南端に近い、北アフリカのモロッコヘ行くフェリーの出るアルフェシラスの町まで、百五十キロのドライヴをする予定であった。
あらかじめ、ハーツの事務所に阿川さんが連絡をしておいたので、車をホテルまで持ってくるはずになっていた。
出発時間は九時と、昨日、決めておいた。ところが、ハーツの職員が勘違いをして車を空港に持っていってしまい、遅れてホテルにやってきたのは予定時刻を遙かにすぎていた。ブルー色のフォードであった。
それからも阿川さんが契約書に署名したり、車の説明を聞いたり、なんだかんだしているうちに、もう十時をとうに過ぎていた。
書き忘れたが、この旅に同行するはずであった平岩弓枝さんは、出発まえに腎臓がお悪いとかでドクター・ストップがかかってしまい、ついに御一緒できなかった。
そのため人数が減った。はじめ二台の車で行くと阿川さんが宣告し、女房が戦々|兢々《きようきよう》としたことは先に述べたが、一台の車で済むことになった。
そうなれば、神のごとき運転技術を有する阿川さんにまかせておけばよいわけである。女房は日本を発つとき、平岩さんには申訳ないが、ずいぶんとそのことでホッとしていた。
出発が遅れてイライラしはじめていた阿川さんは、急いで運転席に着き、安全ベルトを締めようとした。ところが、それがいくらやってもはずれてしまう。
「なによ、これ。ちょっと奥さん、やってみてください。……チェッ、壊れてやがる」
更に出発には新たなる障碍《しようがい》が加わった。
ハーツの職員は、ホテルの玄関横に駐車していた二台の車のあいだに、そのレンタ・カーを入れていったのだが、間隔がぎりぎりであった。それでも真直にバックすればどうということもないと思われようが、まずいことにわずかな道路をへだてて、そこにも他の車がとめてあったのだ。阿川さんは何遍もハンドルを切り返して抜けでようとしたが、ついに癇癪《かんしやく》を破裂させて叫んだ。
「なんだ、あの車。あんなところにとめやがって。おーい、誰かあの車をどけろお!」
それでも、ずいぶんの手間ひまを要して、私たちの車はなんとか斜めにバックすることができ、いざや前進できる態勢となった。
のちに女房がこっそり、私に言ったものだ。
「あのくらいのバックなら、そうわめきたてなくても、ふつうに出来ることだわ。阿川さんは前進するのはお上手でも、後進なさることは苦手なのよ」
その言葉を、旅行中、阿川さんに聞かれないで本当によかった。
とにかく私たちの車は、ホテルを出、マラガの町へ出た。するとそこに、大使夫人とお嬢ちゃんたちが道端に立っていて、手をふってくれた。彼女らは午後三時の飛行機でマドリッドヘ戻る予定になっている。
女房が、ナヴィゲーターとして、阿川さんの右側に坐った。阿川さんが言った。
「ぼくは英国で、汽車のほかに車でもずいぶん走ったんだ。そのとき、かりに幽霊氏≠ニも呼ぶ人物が同行していた。町や都会にはいったり出たりするとき、うまくナヴィゲートしてくれと頼むんだが、その人物は地図や標識を懸命に見ていて、何も言わん。苦労しいしいようやくハイウェイに出ると、『ここを、まっすぐ』と言う。当り前のことじゃないか。奥さん、あなたは大丈夫でしょうね」
女房は必死に地図を睨んでいた。
「ここから二つ道を通りこして、左折。あ、この道は狭すぎるからとばして、もう一つ先。あ、ここのようですわ」
「国道に番号がついているだろ。三七〇号線だったか。……あそこにたしかに三七〇と標識があるな。……ようし、これでよい」
方向オンチの私は、その間、まったく役立たずで無能で、ひたすら沈黙していた。
郊外をとばしてゆくと、ところどころに小さな町があり、海ぎわに立つヒルトンや、そのほかにも海を見渡せる快適そうなホテルがいくらもあった。
「こういうところに泊りたかった。旅行社に文句言わにゃならんな」
と、前進するときは神わざのような運転技術を持つ阿川さんが、片手ハンドルで車をすっとばしながら言った。
はじめのうちは右手に山、左手に海を見ながら走った。その海は、南国の強烈な太陽に、いやがうえにも青く輝かしい地中海である。
「途中で、いい加減なところで、レストランがあったら昼飯にしよう」
午後一時半ころだったか、ソトグランデ・デル・グアディアロとかいう町が間近になったところで、阿川さんはふたたび言った。
「あ、いま行きすぎたのはレストランだな。北さん、あそこにはいりましょうか」
それは海辺の料理店であった。まったくの行き当りばったりだったが、ここで私はまことに美味な料理にぶつかった。たとえ偶然にせよ、おいしい料理店を見つけることにかけても、阿川さんは神に近い能力を有する人物だと思わざるを得なかった。それは彼が食いしん坊のせいだと思う。乗物の次に、いや、それと並んで、阿川さんは舌が肥えているのだ。
海辺のシー・フードの店らしく、硝子ケースの中にさまざまな魚や貝が並んでいた。海と直接に面したテラスの屋根裏には、ツバメの巣がぎっしりと並んでつくられている。それがこよなく快い感じだ。
海では泳いでいる人もいる。ボートやヨットの姿も見える。
阿川さんは、好きでたまらぬスペイン風のイカの揚げた奴を注文した。他に、エビやカニを選んだ。私は前菜のところに、なにか貝のスープらしいものを見つけ、尋ねてみると、小さな貝だというので、それを頼んでみた。
そいつが当ったのである。ごく小さなアサリに似た貝がぎっしりと大皿にはいっており、トマトソースのような赤い汁がたっぷりかかっていた。
はじめ、少し面倒臭いなと思いつつ、手で殻を掴んで食べだしたのだが、あまりのうまさにびっくりした。夢中で、微小な肉を突つき出し、むさぼった。量はずいぶんとたっぷりあるので、阿川さんたちにも奨《すす》めると、二人とも同様に嘆声をあげた。
女房がボーイに、そのソースの作り方を尋ねると、白ワインを入れるとのことだった。その間も、私はひたすら小さな肉片をほじくりだし、ガツガツと食べていた。
「あなた、閉じている貝は死んだものなのよ。それまで食べちゃ危ないわ」
と、女房が注意した。
しかし、餓鬼のごとくなった私は、閉じている貝をもこじあけ、内部のごく小さな肉片をほじくりだし、そのなんともいえぬ微妙な味を堪能した。かなりの時間をその店で過し、出発するとき、阿川さんが言った。
「奥さん、じゃ、しばらく運転してみてください」
それは女房が道中のはじめ、
「もしお疲れになったら、少しならあたし、お代りしてみてもいいですわ」
などと、余計なことを口にしたからであった。阿川さんは懇切に、彼女にギアの段階を手にとって説明した。
「じゃ、はじめ、ちょっとゆっくり動かしてみてごらんなさい」
だが、およそみっともないことに、女房はわずか一メートル半進んだら、もうエンストした。それから、また走りだそうとして、今度はぜんぜん動かなかった。隣に坐っていた阿川さんは即座に言った。
「もう宜しい。あなたには、ちゃんと外国で運転したという証明書をあげるから、さあ代りましょう」
あとで女房に、私がそのあまりのぶざまさをなじると、
「だって、ノー・クラッチに慣れちゃっているでしょ。それに右手でギアを入れ替えるのはむずかしいのよ」
と、懸命に弁解したが、常日ごろ私の運転の下手糞さを嘲《あざけ》る彼女の失態に、私は心の中で快哉《かいさい》を叫んだことであった。
少し走ると、ジブラルタルの懐しい岩山だらけの島影がうっすらと見えるようになってきた。フェリーに乗る箇所のアルフェシラスの町には、三時過ぎには着いた。
「ようし、時間は十分間にあう。地図で計ってみてください。プンタ・デ・タリファまで約三十分。往復一時間。行きましょう」
と、前進することにかけては鬼狼《おにおおかみ》をも怖れぬ阿川さんは元気よく大声で言った。
ヨーロッパ最南端であるその町には予定どおりに着くことができた。しかし、徹底主義者の阿川さんは、
「この町のはずれに、たしか燈台があると聞いた。そこが本当の最南端なんだ。そこまで行かなきゃ」
と、なお車を走らせた。
燈台らしきものが見えてきた。しかし、要塞《ようさい》じみた建物の中にあり、おまけにずっと前に道に遮断機がおろされている。
阿川さんはそこで車をとめ、一人とびおりるや、走るがごとき速度でずんずんとその建物へと歩いていった。入口に番兵らしき兵隊がいるのが小さく見える。阿川さんはそこに辿《たど》りつくとしきりと話しあっている様子だ。
そのあいだに、一台の黒い車が、遮断機をあげて建物に向っていった。入口で止り、やがて内部へはいっていった。
かなり経ってから、阿川さんはぷんぷん怒った顔つきで戻ってきた。
「陸軍の基地だからダメだとぬかすのだ。あとからきた車には将校が乗っていたから、そいつにも交渉したが断わられた。なんという奴らだ。せっかくここまできて、ヨーロッパ最南端の燈台の下に立てんとは」
「リスボンから少し北に行くと、ヨーロッパ最西端という燈台があるそうです。そこへ行くと、貴下はヨー口ッパ最西端にきたということを証明する記念のカードをくれる。ぼくの母がそれを持ってます」
「そうでしょう、そうでしょう。それが当り前のことだ。ここの連中はなんという田舎っぺだ。そもそも文明国じゃないな」
阿川さんの憤り、執念はなお収まらず、別に燈台があると道行く人に聞いて、くねくねと曲がる細道を車を走らせた。しかし、徒労であった。そこもやはり軍関係の基地とかで、中へはいれなかったのだ。阿川さんのみならず、私らもさすがに失望し、憤慨した。
ところで、この気落ちした私たちの心を、つかのま和ませてくれた事柄が起った。
私たちが止めた車の外へ出て、基地の金網をちらちら見ながらぼやいていると、そこへだしぬけに一人の女が現われた。肥満した、しかしまんまるの頬《ほ》っぺたに愛嬌《あいきよう》のある、善良そうな中年のスペイン女性である。彼女は、
「日本人?」
と問いかけてきて、阿川さんがうなずくと、一枚の貨幣を乗せた掌を差しだし、しきりと身ぶりをまじえながらしゃべくった。大仰な身ぶりとほんのわずかな英単語から、どうやら、
「わたしは世界のコインを蒐《あつ》めている。この貨幣の代りに、日本のコインを貰えないだろうか」
という意味らしかった。私たちはむろん同意したが、たしかにまだ残っているはずの日本貨幣は、トランクのどこかへ入っており、開けて捜すのも大変なことであった。
そのとき、阿川さんが偶然、バッグから一枚の貨幣、五十円玉を見つけだした。それを女に与えると、彼女は、
「いくらの金なのか?」
と言いながら、五十ペセタの貨幣を代りにくれようとする。阿川さんは「いいよ」という身ぶりをしながら、それを押し返した。
彼女の天真|爛漫《らんまん》な喜びの表現、感謝のあけっぴろげな笑顔、動きだす車にしばらく手をふっているその遠ざかりゆく姿は、それまで不機嫌だった私たちの心をたしかに十分に癒《いや》してくれたのだ。
それはそれとして、なんだかんだ時間を費したので、モロッコ行きのフェリーの時間が気になりだした。スケジュール表には、午後五時出港とある。
阿川さんは車をすっとばし、四時四十分にはアルフェシラスの港に到着した。だが、そのあと車をハーツの事務所に返しに行かねばならぬし、その際いささかの手続きの時間もかかる。まさしくぎりぎりの時刻といえた。
その間、私と女房は、フェリーの切符売場のある建物に行き、窓口に急いだが、前に二、三人の男女が並んでいて、それがいつまでも去ってくれぬ。
なかんずく、最後の色の黒い若者は切符売りと実に長々としゃべったり笑ったりしていて、いつまで経ってもその場を動かない。もっとも、そのあいだに私たちには五時半出国手続き、六時出港だということがわかったのでまだ安心できたが、そんなことは知らぬ阿川さんは必死であったろう。
五時一分まえ、彼は私たちのところへ戻ってきて、どうなっているのかと問うた。額には汗が滲《にじ》んでいた。もし、スケジュール表に記されたとおりの出港だったなら、私たちは乗り遅れてしまったことになる。
阿川さんは事情を訊いて安心し、
「ハーツの事務所の奴に車を運転させてとんできた。この男、なにをモタモタしてやがるんだ?」
「なんでも往復の切符を買うらしくて、そのあとはあたしにはわかりませんわ」
と、女房が答えた。ようやく切符も手に入り、ハーツの男が運転する車で船着場へ行った。建物の二階が税関になっている。
少し待って、いよいよ乗船。フェリーはモロッコの真白な船で、その船名は、もちろん曲がりくねったり踊ったり逆立ちしたりしている面妖《めんよう》極まる文字で記されてあり、むろん読めようはずもなく、万が一読めたら船はたちまち沈没することだろう。
荷を運ばせたポーターが私に、
「百五十ペセタ」
と言う。あまり高いので問い返し、「高すぎる」と言うと、船内の壁に指で150という数字を書いてみせ、がんとして値引きしようとしない。
私が五十ペセタぶんの小額の貨幣を何枚か渡すと、わめきながら首をふりつづける。私は今度は百ペセタの紙幣を与え、先にやった小銭を取り返そうとしたが、ポーターめは強引に暴力に訴えてそれを奪い去った。結局、百五十ペセタの暴利をまきあげられてしまったわけである。
「あなたって、ダメねえ」
と、女房がだらしない私をまたなじった。
私たちは特A[#「A」はゴシック体]の切符を買ったが、はじめ行った大部屋は人はまばらだが、なんとなくチャチな感じである。やがて阿川さんが、
「Aの部屋は別だよ」
と言い、移動をしたが、そちらのほうが混《こ》んでいた。しかし椅子が上等で坐り心地がよさそうだったから、空所をやっと見つけ、そこに陣どることにする。
入国手続きを船内でやっているとアナウンスがあり、万事ボーヨーとしている私が珍しく手早く済まそうと思って、
「ぼくたちは行ってきますから、ちょっとこのバッグを見ていてください」
と阿川さんに頼むと、彼は、
「海軍では、士官は出港見学をやる義務があるのです」
と、厳然と言って、自分一人サッサと部屋から出ていってしまった。
仕方なしに待っていると、フェリーはもう動きだしているらしい。海は湖のように静かで揺れがまったく感じられないので、しばらく気づかずにいた。モロッコのタンジェまで、二時間半の航海のはずであった。
出港見学をすました阿川さんは、その後も少しもじっとしていない。しばらく部屋にいたかと思うと、すぐその姿はいずこへともなく消え去ってしまう。女房も外へ出ていった。私一人、ビールをチビチビと飲み憮然《ぶぜん》としていたが、やがて盗られることもあるまいと(私のバッグの底にはかなりの金がはいっていたが)、甲板へ出てみる。
あちこち回り、やっといちばん上の甲板の船首のほうに阿川さんたちの姿を見つけた。
「君、遅いねえ。マンボウたるものがなんですか」
と阿川さんは言い、
「さっきね、このフェリーが何|噸《トン》か当てっこしたろう。やはりぼくのほうが近い。二千八百噸だった」
彼は船員にあれこれ尋ねたが言葉が通じないでいたところ、ちょうど船長が通りかかって、いろいろと親切に教えてくれたそうだ。
「あのヨーロッパ側、ジブラルタルが見えるだろ。それからあの出っぱったところ。ぼくはこうして見ていて、さっき行ったタリファ岬ね、それがどうももっと北のように思えて心配したが、船長がやっぱりタリファ岬がヨーロッパ最南端だと断言してくれた」
言われてみると、ジブラルタル島が右後ろに、やや白っぽく、もはや小さく遠ざかって見えた。スペインの陸地はさして高くはないが、かなり突兀《とつこつ》とした山があり、タリファ岬は低い部分であった。
「せっかく船に乗ったというのに、君、元気ないねえ、どうしたの、マンボウ氏たるものが」
「ちょっと待ってください。なにかが……」
そのまま私は小さな椅子に坐り、長いことずっと沈黙していた。こうして遠ざかりゆくスペインの陸地を見つめていると、それがぜんぜん私と無関係のようでいて、なにか記憶の底に澱《よど》んでいるものがあるような気もした。私は半ばぼんやりと、目をつぶって久方ぶりの潮の香を嗅《か》いだり、わずかな揺れとエンジンのもたらす船の振動とを身に感じさせ、それを嬉しいと思った。そして、また目をひらいては、青海原の斬新《ざんしん》な目に沁《し》みいるような色合をあらためて満喫したりした。
突然、私は憶いだしていた。思わず、まだ近くにいた阿川さんに声をかけた。
「ぼく、思いだしました。そうだ、マンボウ航海のとき、たしかにここを通っていったんだ。ジブラルタルもそうだし、スペインの山、あのときは冬で、雪が真白につもっていたっけ。ああ、ぼく、なんだかしんみりしてきちゃった」
「そうだろうなあ。懐しいだろ。おれもそうだ。でもマンボウ先生、やっと甦《よみがえ》ったじゃないか」
フェリーは、煙突から薄い黒煙を吐きながら、そのあいだも航行をつづけていた。
船首の右寄りに、輝かしい太陽がかなり海に近くかかっており、前方の海には漁船やタンカーの小さなかげがチラホラしている。
女房が、ブリッジを見やりながら言った。
「あの船員が持ってる双眼鏡、貸してもらえないかしら」
「そういうことは、女がやりなさい。そのほうが喜んで貸してくれる」
と、阿川さん。
私たちのいる甲板よりブリッジは短い階段ぶんだけ上方にあり、その階段の前は鎖で仕切られていた。女房はしばらく逡巡《しゆんじゆん》していたが、とうとうそれをくぐって、ブリッジに登っていった。そこにいたワッチマンはすぐさま双眼鏡を彼女に貸し与えたばかりか、いろいろと親切そうにあちこち指さして説明している様子であった。
こういうとき、私の女房は図々しくなる。いつまでも、ブリッジから降りてこない。
阿川さんと私は、今度は船尾のほうへ行ってみた。そこにはかなりの客たちが、それぞれ椅子に憩っていた。私たちもそれにかけて雑談もしたが、阿川さんはふいに立上るとあちこち歩きまわり、彼方《かなた》を眺めこなたを眺め、あきらかに意気昂揚状態にあるということは大火事のごとく明らかであった。
そこに女房が戻ってきて、
「阿川大尉に報告致します。情報を得て参りました。船員が、ここの水深六百メートル、と申しておりました」
八時十分、まだ太陽は海に沈まず明るい。もう目ざすモロッコの広い平たい大地も手に取れるほどの間近さだ。そして、すぐ八時半、タンジェの港に着いた。時差が二時間あり、そのぶん腕時計の針を遅らす。
ひどく粗雑で妖《あや》しげなる土地のごとく感じられた。そのとおり、私たちはその最初から些細《ささい》なことで悩み苦労しなければならなかったのだ。
タンジェという都会の第一印象は、ひどく悪いものであり、同時に思わずちょっと微笑を誘う一面もあった。
下船するのに大混雑で、かなりの時間を要した。トランクは重いから、本能的に危惧の念も覚えたが、やはりポーターに渡した。そのポーターは、無数の小皺《こじわ》の寄った黒い顔をした、痩せてひょろりとした爺さんであった。
船着場の税関にはいったときは、他の乗客はほとんどが先へ行ってしまったらしく、辺りはがらんとしている。
おまけに、待てど暮せど私たちのトランクが来ない。発展途上国のことではあるし、私はそれが紛失しはしまいかともチラと思ったが、やがていつの間にかそのトランクが税関の外側に置かれていた。
そのくせ、私たちは更に長いこと徒《いたず》らに待たねばならなかった。なぜといって、税関の役人が仕事をやめてしまったからだ。ちょうどラマダンの断食期間に当っていて、その間、回教徒たちは夜明けから日没までひとかけらの食物も、人によっては水さえも飲まない。
役人たちは、あたかも断食が終る時刻になったので、入国者なんてほったらかしておいて、食事を始めたのだ。私たちのほかにも十数名の外人が、所在なげにその付近に立って徒らに待っていた。
役人は黙々と、何かを飲み食いしている。そのうちにその一人が、私の女房に向って、こっちへこいというふうに何か言って手招きをした。彼女が近づいてゆくと、一つの皿を差しだして食べろと言っているようだ。
あとで訊いたら、カレー・スープのようなものを飲まされたという。役人は、一人の外人の若い女性にも同じ仕種《しぐさ》をし、食物を与えた。人の好さそうなニコニコ顔で。
別の役人が、また女房を呼び、外人の女も呼び、これを食べろと皿を押しつける。
やっと彼らは仕事を再開してくれた。といっても、ぜんぜん荷を調べもせず、ただ通過させるばかりなのである。そんなことなら、私たちをわざわざ待たせておく必要もなかったろうに。
長いこと待っている間に、二、三人の土地の男たちが私たちのところに寄ってきていた。一人は予約してあるエル・ミンザ・ホテルの者だという中年の色黒の男で、私にまかせておけば大丈夫、という意のことを言った。しかし、本当はどうだかな、と私が一抹の疑惑を抱いたのは事実である。過去、何回か発展途上国でイヤな目に遭った体験があったからだ。別の男は、おれについてこいと言い、もう一人は、ミンザ・ホテルの者と称する男の身分を保証したりした。
さて、さっきのポーターの爺さんは、私たちの荷を屋外の暗い広場へ運びだした。さっきトランクがなかなかこなかったのは、爺さんは何組もの客たちの荷を引受け、その二十余のトランクを一度に二つずつ手にさげて、何回も船まで往復して運ばねばならなかったからであった。
そこには幾台かのタクシーがいた。小さい奴では三人の体と荷を運ぶことはとてもできない。ようやく大型(といってもコロナなみ)のタクシーを掴まえ、爺さんはそこヘトランクを運んでいった。
それから、果てしもないとまで思われる、癇癪を起しても甲斐《かい》のない、それこそゾッとするやりとりを私たちはやらねばならなかった。爺さんは、「二十」と主張する。
二十ディルハムといえば、一ディルハムが約六十七円だから、かなり大きいとはいえ三箇のトランクの運び賃としてはベラボウな金額だ。物価も安い国のはずである。
当然私たちは「高すぎる」「五だ」とか反駁《はんばく》した。だが、海千山千の爺さんはむろん頑固な驢馬《ろば》のように応じる気配も見せぬ。トランクがいかに重かったかと身ぶりをしてみせたりしながら、手をふりまわしてしゃべりまくる。
その騒々しいことといったら! 私は今度はしくじるまいと、交渉を阿川さんと女房にまかせて、二人の後ろに立ち、黙って、ただ威嚇するようなこわい目つきをして爺さんを睨んでいた。ミンザ・ホテルの者と自称する男が、間にはいってくれたが、爺さんはてんで相手にもしない。
その間にも、暗い広場を、「コンバンハ」「サヨナラ」と日本語をいう少年が過ぎていった。だが、結局、ついに十ディルハムに負けさせることに成功した。それでも大損なことは確かだ。
タクシーの運ちゃんとも同様のやりとりをし、やっと半額の十ディルハムで折りあった。
ホテルまではいくらもかからない。玄関の外に小さな男の子が立っていて、二人から少し遅れてホテルヘはいろうとした私に向い、
「ガイド?」と言った。
「ノー」と首をふると、
「トゥモロ?」と、なおつきまとおうとする。
私は警戒心からそれを無視した。二時間時計の針を遅らせたから、まだ早い時刻のはずだ。
阿川さんが、部屋でシャワーでもあびてから、八時に食堂に集まろうと決めた。
その時刻の少し前、私と女房とは彼よりも早く食堂に着いた。意外なことに内部が暗く、ひっそりとしている。ともかくはいってみると、すべての灯りが消されている。それでも広い食堂の向うに明るい小部屋があって、そのための薄明りのなかに、一人のボーイが受付らしきデスクの後ろに坐っているのが見えた。尋ねてみると、彼は、
「アイ・テル・ユー。アイ・テル・ユー」
と繰返すばかりで、後方の明るい小部屋の方角をしきりと指さした。
そこはバーなのであった。そこで八時半に食堂がひらくと知らされた。
私たち二人は部屋に戻り、阿川さんの部屋に電話してそのことを告げた。このホテルはかなり立派そうに見えたのだが、私はなにせアフリカなんだからと思い、タイも着けずに行ったものだった。しかし、バーで飲んでいる客たちはいずれも正装していたから、その旨も阿川さんに報告した。
「そうか。ぼくはいま部屋を出るところだったんだ。それじゃ、三分間待ってくれ。まあ早く行って、アペリティーフでも飲んでましょうや」
そこで私も二分間でY[#「Y」はゴシック体]シャツに着替え、タイもつけ、けれども女房はもう少し愚図愚図していたが、わりに早くさいぜんの食堂へと降りていった。
すると、食堂の前から横手に広がる中庭に並んでいる白い丸テーブルの一つに、阿川さんがもう坐っていて、こちらにむかって手を振った。さっきは見えなかった他の客たちも三組ほど、そこで飲物を注文していた。
私たちも、そこで食前酒を飲みながら、食堂の開くのを待つことにした。
やってきた若いボーイが色こそ黒いが、まことに整った顔立ちをしている。その態度も実に丁重で、とても感じがいい。赤いトルコ風の帽子、白のジャケットの下に覗《のぞ》いている鮮やかなオレンジ色のシャツ、膝下でしぼったやはり真白なだぶだぶのズボンと、彼のほそい足によってひときわすっきりと見える黒の長靴下。その民族調な服装が、いっそうボーイをエキゾチックな魅力にも見せていた。
三人は二度、飲物を注文したが、彼がくるたびに、女房はしきりと、
「可愛い」
と、繰返し言ったものだ。私も、彼の滅多にない感じのよさに、ついたっぷりとチップを置いた。
八時半を過ぎると、突然パッと食堂に灯がついた。それまで暗かっただけに、その眩《まばゆ》いばかりの光輝は、なんとも印象的に感じられた。食卓につき、メニューにタートル・スープの英字を見つけ、それを頼んだが期待していたほどうまくはなかった。その他に、私は、インディアン・チキンカレーというのを注文した。
「君は、それだけかい。こんなところのカレーはどうせまずいぞ」
「なんだか食欲がまるでないんです。それに、ぼくは本当にカレー好きだから、どんな国へ行っても、カレーがあるとなれば、一度はそれを食べてみる習慣です」
阿川さんが注文した地酒の赤葡萄酒は濃すぎて、そのときの私には合わなかった。
カレーは果して少しも辛くなく、有体にいって食べられるものではなかった。私は大半を残し、女房が少しそれを味見して、やはり、まずい、と言った。それでも三人はゆっくりと食事をし、デザートを愉しんだりしてしゃべっていたので、食堂を出て部屋に戻ったときは、十一時に近かった。
時差を考えあわすと、現実的にはもう午前一時のはずで、さすがに疲労と眠気も覚えたが、私の常なる習性として、ルーム・サービスで水と氷とを頼んだ。現地の変なミネラル・ウォーターだとまずそうだったので、エビアンがあるかと問うとあると言う。
たしかにエビアンのビニール製の大びんは持ってこられた。だが、あれほど念を入れてアイス・キューブを沢山と言ったはずなのに、氷はぜんぜん持ってこなかった。
「サイン?」
と言って、書く真似をしてみせたが、ボーイは何か言うのだがてんでわからぬ言葉だ。どうやらサインは要らぬと言っているらしい。だが、こんな国は珍しい。
私はそれから、濃い水割りを作ってチビチビと飲み、ときたま水のほうはガブガブと飲んだ。疲れているくせに、常日頃の習性からかなりの時間起きていた。
二時ころにはベッドにはいった。ところがその夜、私はだしぬけに目覚め、トイレヘ駈けこまねばならなかった。尾籠《びろう》な話だが、激しい下痢である。まったくの水様便である。しかも、朝までに更に三回、私はトイレに行った。同じく水に近い下痢であった。
一体、何がわるかったのか。こんなひどい症状では、何かに当ったとしか考えられない。
しかも腹がしくしくと痛みだして、しまいには顔をしかめるほどの激痛となった。ちょうど胃の辺である。
まさか盲腸ではあるまいな、と私はそんな妄想までした。盲腸は初め中央に痛みを発することが多く、やがて臍《へそ》から右下方の真中辺に痛みが移る。そもそもアフリカの旅というので用意しておいた抗生剤を女房がトランクに入れ忘れてしまったのだが、私は過去、旅行中にそんなものを用いねばならなかったことは一遍もないので、べつに気にもかけないでいた。しかし、このときはついに女房に対して腹を立てたりもした。
なんとも言えず情けなく苦しい、北アフリカヘ渡っての最初の一夜であった。
翌日は、旅の習性で朝から起きたが(日本にいては考えられぬことだ)、腹具合が心配で朝食は食べなかった。胃腸薬だけ山のように服む。やはり生理的現象により何遍もトイレには行くが、何も出ない。おそらく今暁で腹の内容部がすっかり無くなってしまったせいであろう。
それに、幸い痛みもとれていた。いくら苦しかったとはいえ、ふつうには考えられぬ虫様突起炎の心配までしたとは、我ながらひどいヤブ医者だなと苦笑せねばならなかった。
朝食の席で阿川さんが、一人の日本人と知りあったという。その人とはあとで会ったが、商人のようでもあり、銀行家のようでもあり、詐欺師のようでもあり、教師のようでもあり、旅行社の社員のようでもあり、要するに正体不明の、クレッチマーの分類に従えば細長型といわれる中年の一見、紳士風の男であった。
その日本人とはそのあと偶然にアフリカ内を一緒に旅することになって、むろん徐々に正体は判明したが、ここにはわざと書かず、その名も仮にT氏としておく。
彼は正露丸という私が子供のときよく服んだ薬を持っていた。私の状態を聞いて、親切に大量のクレオソートの匂いのする丸薬を阿川さんに託してくれた。
今日は昼まえからタクシーで、ケープ・スパルテルというアフリカ最西北端に行く予定であった。むろん阿川さんの案である。乗物と食物と、それに加えていやに端っこの好きな御仁だ。私は腹具合の危惧から、はじめ同行しないつもりでいた。しかし、正露丸を服むとその効用のためか、或いは自然の成行きのせいか、車の走行中くらいどうやら大丈夫らしいと見極めをつけた。
今度は悪い運ちゃんに出くわさないよう、阿川さんは慎重にホテルのコンセルジェに頼んでいた。それが当ったようであった。いかにも善良そうな運転手で、英語もしゃべれるし、おまけにいろいろな知識も持っていてガイド代りにもなった。
ベールで顔を隠した女の多い街のはずれには、ラィディング・スクール(運転手は立派な発音でそう言いながら指さした)もあり、どうせ辺境だと思っていたのに意外と近代的な都会なのだな、と私は感心した。回教徒の墓地の隣には、犬猫専用の墓地すらあった。
郊外に出ると、ミモザ、松、ユーカリなどの樹木が茂っている。ラクダが数頭いたが、
「あれは観光客用だ」
と、運転手は説明した。
やがて真青な目に沁みる海が見えはじめた。白い船が沖合を走っている。また、とある崖《がけ》っぷちの海岸に、赤|錆《さ》びた難破船の残骸《ざんがい》が斜めになっていた。運転手が言うには、一昨年の十二月に遭難したギリシャ船だという。
ケープ・スパルテルには、これも阿川さんの好きな燈台がそびえていた。一八六〇年にスパルテルという名のフランス人がこれを建てたとの話である。
アフリカ最西北端の燈台には、さすがに観光客がよく来るらしく、石の欄干の上にいろんな土産物がずらりと並べてある。
私たちがあちこち見渡したりしゃべりあったりしていると、どこからともなく一人の若者が現われた。女房が土産物の値を訊いたところ、エジプトのあくどい物売りを知っている私も仰天せざるを得なかった。ほんの小さな皮製のラクダが二百ディルハム、アクリル糸で編んだ実に粗末な帽子がなんと二百五十ディルハムというのだ。
あらかじめ駆引用の高い値をまず若者は言ったのだろうが、たとえ十分の一に値切れようとも、とんでもない暴利といってよい。
私は女房に、
「値切ったりもするな! こいつは頭がおかしいんだから」
と注意したが、彼女はあれこれと品物をいじっている。
私はカッとなり、かつヒヤヒヤもしたが、女房もさすがに初めから買う意図はなかったようだ。
帰途、ちょっと走ると、廃墟《はいきよ》となった幾つかの石の家があった。紀元年前の、それも遙かに古いフェニキア時代の漁港町の跡とかで、一九四五年にその一部が発掘されたものだという。沿道のあちこちに牛や馬が放牧されており、子供を乗せたロバも通るが、みんな痩せこけた動物たちばかりであった。
「この辺りは酪農が盛んだ」
と、運転手は言う。
「でも、乳が出そうな牛はいないじゃないか。たとえばホルスタインのような……」
と阿川さんが質問すると、返事はこうであった。
乳をとる牛は特別扱いされる。日の出と共に外へ出して一、二時間草を食べさせ、あとは日蔭で休ませるため、道からは見えないのだそうだ。
タンジェの街に戻って、カスバヘ寄った。むろん車ははいれないので、その前の広場に運転手は車をとめた。私たちは「ペペル・モコ」の映画などの記憶からついカスバという名だと思いこんでいたが、実はメディナと呼ぶのだと教えられた。
そのメディナでは、胡椒《こしよう》や何十種もの薬味類を大|樽《たる》に一杯盛りあげて売っていて、バグダッドのバザールにそっくりだな、と初め私はそう思った。東洋風の感じのするコーヒー・ポットや大皿などの金属製品の店、けばけばしい服をずらりとひろげている店。
しかし、運転手はすぐにごく狭い道へと私たちを案内していった。両側に店が立ち並び、人の渦で熱気のこもるごみごみしたその細道は、それこそどこまでも迷路のごとく続くのである。こんな狭い箇所はバグダッドやその他の中近東の国のバザールにはないと思う。
するうち、運転手は一軒の洋服店に女房を連れこんだ。カフタンと呼ばれる裾の極めて長いふわふわとしたワンピースを、彼女はかなりの時間をかけてさわったり、いじくったり、惚々《ほれぼれ》と眺めいったりした。
私は、トッサに、「買うな!」と大声を出した、結局、彼女は娘の土産にすると言って、モロッコ皮の小さなバッグを二千円ほどで買った。また小さな皮のラクダの値を尋ねたら五ディルハムとの返事であった。さきほどケープ・スパルテルにいた不埒《ふらち》な若者は、まったく同じ品物に二百と言ったのだ。ここでは実にその四十分の一の値である。女房はもちろんそれを買いこんだ。
その店では、初めから「十パーセント、ディスカウントする」と称していたので、女房は金を払って釣りを受け取るとき、その旨を小さな声で言った。すると、「もっと高いものの場合だ」と拒否され、しかし店員は私たちが店を出るとき、ほんの小さな皮財布をオマケだと言って女房に手渡した。
運転手は更に装飾品や宝石などの並んでいる店に私たちを連れこんだ。もちろん何も買わなかったが、どうもこの運ちゃんは自分と契約している店にだけ案内するようだと、そのとき私はチラと感じた。
メディナは商いをする店ばかりではなかった。いつしか私たちは、同じく迷路のような細道の住宅地帯にさしかかった。はげかかった壁は白か黄色で、木の窓枠が緑や赤のどぎつい色のペンキで塗られていた。
あとで気づいたが、メディナの中は商店と住宅とが同居している箇所もある。そして、運転手の話によると、こんなごみごみした貧相な地帯の家の二十五パーセントはあんがい金持で、家の中に入るとすばらしいインテリアが揃っているそうだ。ウソかホントかわからないが、金の延棒を取引きしている者もいるという。
メディナの出口で、一人のほんのいたいけな子供が寄ってきて、小さなコンガみたいな太鼓をしきりと売りつけようとする。可哀そうな気もしたが、どうせ暴利だろうと考え、無視してしまった。
午後一時少し前にはホテルに帰りついた。運転手は、三時過ぎに私たちが汽車で発つと聞くと、あとでホテルに迎えにきて駅まで送る分も含めて七十五ディルハムだと言った。親切に案内したり説明してくれた男だったから、私たちは久しぶりに喜んで金を払った。
一時がチェック・アウト・タイムだったから支払いをすまして、食堂へ行った。屋外のテーブルに席をとり、プールで泳ぐ男女を見ながら、快く晴れあがった空の下で憩うのはさすがにいい気分である。もっとも朝から何も食べていない私は空腹でたまらなかったけれど。
朝、阿川さんが知り合ったT氏も同席した。彼もまた同じ汽車で発つのだという。
その食堂の昼食はヴァイキングで、向うに色とりどりの料理がしこたま並んでいる。阿川さんはハイネッケンのビールを飲みながらなんとも幸せそうな顔をしていたが、私は水しか飲まなかった。やはり腹具合が心配だったからである。胃にさわりそうもないメロンさえも我慢して食べぬことにした。悔しく、もの悲しい気分である。
阿川さん、T氏、女房たちは、そんな私に同情ひとつせず、いろんな料理を大皿に盛っては戻ってくる。実に四、五回も席を立っては、また別の食物を運んでくる。女房は、
「あたしなんだが食欲がないみたい」
と、はじめ言っていたのだが、阿川さんは、
「嵐がくる。嵐がくる」
と、冷やかして笑った。すると、本当に空に雲が出てきていくらか曇ってきた。
そのくせ、女房はいざ食べだすと、誰にも負けずに何回も食物をとりに行った。デザートに、阿川さんが小さなシュウクリームを四つ皿に乗せてくると、彼女はシュウクリームを二つ、それに加えてカスタード・プリンも持ってきた。そんなことまで一々克明に覚えているのは、いかに私が恨みに満ちて二人の貪欲《どんよく》ぶりをジッと観察していたかの証《あかし》ともいえる。
T氏のほうは「モロッコ茶」を注文した。それはミントという草のはいったかなり強烈な香と味のするものである。T氏はそれを一口飲み、「これは凄まじく甘いですな」と、いかにも参ったというような表情をした。私も一口飲まして貰ったが、なるほど凄く甘い。
女房はずっと向うに咲いている紫色の花の名をボーイに尋ね、その返事がわからず、手帳とボールペンを取りだしてボーイに綴《つづ》りを書いてもらったりしていた。ボーイが「あなたのペンはたいへんよい」とお世辞を言ったせいか、女房は「あのボーイ、いい感じねえ」としきりに言って、終いにはみんなと一緒に写真まで撮った。
それにしても、三人がたらふく食べるのを見ながら、水一杯と、モロッコ茶ひとすすりしか飲めなかった私こそ「ああ無情」の冒頭に登場するジャン・バルジャンそこのけに哀れというべきではなかったか。
時間がきて、一同ホテルを出、タクシーの来るまで、前の店をぶらつく。薄水色のカフタンとガウンのアンサンブルを見て、阿川さんが私の女房に、
「奥さまにお似あいになりそうですから、どうですか?」
と、ブッソウなことを言う。これは私に対する嫌みである。また、阿川さんはどこでも古い絨毯《じゆうたん》とか古い布きれがあると津々たる興味を示してジロジロギロギロ、ためつすがめつ眺めたものだ。
私は荷が増えることを怖れて大きなものには恐怖心を抱いている。といっても、小さくとも宝石ではもっと慄然《りつぜん》とするが……。
さきほどの運転手が約束どおりきて、三時には駅に着いた。
だが、ここでもまたしてもポーターとモメゴトが起るのではあるまいか、と私は危惧をした。なぜなら、T氏をも含むわれわれ四名のトランクとバッグを駅のプラットフォームまで運んでいったポーターの数は、一人ではなかったからである。それでも、T氏は至極のんびりしていた。
「私もタンジェの港で嫌な目にあったんですが、ここのポーターたちは善良のようです。金を払おうとしたら、受け取らなかった。ここでは、汽車代にポーター賃も含まれているんでしょう」
阿川さんは、
「あなた、そうそう甘くはないですよ」
と、ひとこと言った。
しかし、ポーター達はとうに姿を消していて、その代り三時二十五分発予定の汽車がかなり到着するのが遅れ、私たちは徒らに煙草を吹かしたりしながら待っていなければならなかった。
退屈して、かつ空腹でぐったりしていると、阿川さんがあそこにドイツ人がいるよ、と知らせにきた。ホームにたむろする人々の中に行ってみると、まだ若いワンダーフォーゲル風の二人の男女である。女房が、「どこまで?」と問うと、フェズヘ行く、という返事であった。私たちの日程を話すと、
「タンジェにいて、マラケシヘも行かなかったのですか。とてもいいところだった。フェズもすばらしいと聞いています。あなた達のスケジュールは忙しすぎて、せっかく遙々とモロッコまできたのにもったいない感じですね」
と、青年のほうが、いかにもドイツ人らしく自己主張に満ちた非難めいた口調で言った。
阿川さんは阿川さんで、彼らと鉄道の幅が広いとかなんとか得意の話をしたが、私にはてんでわからぬ難解さといえた。二人のドイツ人は英語もよくしゃべった。
青年は私が作家で医師でもあると聞き、専門はなんだと尋ねてきた。ところが、私は医者だったくせにとっさにドイツ語が出てこなくてグッとつまり、それから「サイカアトリー」と英語で言ったが、発音がわるいせいか、相手はいぶかしげに黙っている。なんとか説明しようとしたものの、どういう訳の訳柄か昔は恋人の名より頻繁にしゃべっていた精神病者《プシコーゼ》というドイツ語さえ思いだせず、とんだ恥をかいた。
そのうちに、ようやく汽車がきた。すると、どこからともなくさいぜんのポーターたち(三人だった!)が現われ、私たちの荷をコンパートメントに運びこんだ。
T氏の先ほどの言はやはりとんでもないお人好しといわねばならなかった。彼らと私たちの間で、凄まじくも恐ろしい、この世のものとも思えぬ、おどろおどろしい応酬がそれから開始された。
ポーターどもは、とてつもない値をふっかけ、一歩も引かなかった。阿川さんが、
「荷が六つだから、六ディルハム」
と、それだけの貨幣を与えたとたん、ギァアギァアというわめき声、無闇矢鱈と手と首をふりまわす嘆きと怒りを同時に訴える大仰な身ぶりを奴らはやらかしだした。そのうるさいこと、目に害になることったら!
こちらも必死で、
「ノー、ノー、ノー、ノー、ノー」
と、T氏と私の女房はそれだけを繰返す。
私は無言で知らん顔、阿川さんは英語で「おれ、わからん」、それから日本語で、
「どうせ汽車が出ちゃうから奴ら降りるよ」
と、私たちにむかって落着いて言った。
三人のポーターのうち、いちばんしつこい痩せた長身の爺さんは、その目がわるいらしく半白眼みたいで、私は少し気味がわるかった。
だが、ついに阿川さんの言うとおりになった。汽車が動きだし、最後の最後までねばっていたくだんの爺さんも、慌ててとび降りていった。まずはわが軍の見事な勝利といえる。それにしてもしんどい勝利で、空《す》きっ腹の私はくたばりかけた。
さて、ようやく窓外はあくまで平坦《へいたん》な砂漠となった。緑の色もちらほらする低い山も見える。線路にそって安っぽい電柱が立っている。羊がいる。
しばらくすると、塩田があった。かなりの塩の山があちこちに堆《うずたか》く集められている。
この列車はなかなか豪華で、席もカラフルで美しく、かつ椅子もゆったりしており、出発まえスケジュール表でアフリカでは六時間余の汽車旅行と読み、マダガスカル島での塗炭の苦しみを思いだして、ごく不安だった私は少なからず安堵《あんど》したものだ。冷房までついている。T氏が、つれづれなるままに、
「このエア・コンディション、どこで操作するんでしょうかね」
と言い、いきなり扉口の上にある金属の取っ手を引っぱろうとした。阿川さんが咄嵯《とつさ》にその手を抑えた。あやういかな、それは警報器の取っ手だったのである。
進行方向の右手に海が見えるようになった。けっこうところどころに畠がある。ユーカリに似た林もあった。
ところで、汽車に乗ると、阿川さんはトーマス・クックのタイムテーブルを膝におき、手帳にメモを取るのが癖である。いつもメモは取っているが、車中におけるそれはその比ではない。大判のかなりぶ厚い時刻表と、ごく頻繁なメモ魔ぶり、それが彼の汽車旅行中のごく人目をひく特徴であり、これは一昨年のベルギー、フランス間でも、マダガスカル島でも、今回のスペインでも常にそうであった。
それを眺めていると、人はまず感服する。次に可笑《おか》しくなってもくる。最後にはもう呆《あき》れはててしまい、「この異常なる男は、常日ごろ、夜な夜なクックの時刻表と同衾《どうきん》して寝るのではあるまいか」とまで想像せざるを得ないのだ。
私たちのコンパートメントに、一人の若い日本女性が現われた。タンジェの駅であなた方を見かけて、日本人だと思ったと言い、退屈なので何か日本語の本はなかろうかと尋ねた。彼女は阿川さんの顔も、私の顔も知らぬようであった。
「ありますよ。でも、くだらんエンターテインメントですよ」
と私は、バッグから「怪盗ニック登場」とかいう本を取りだして、彼女に差しだした。
思いがけぬ日本女性の出現に、阿川さんがにこやかに、
「まあ、どうぞお坐りなさい」
と言うと、彼女は嬉しそうに席についた。
みんなの質問に、彼女は一年まえフランスに渡り、もうフランス人と結婚して、一緒に旅をしているのだと言った。そして、
「タンジェでは、ハシッシをお買いになりませんでした?」
「ハシッシ? いや、ぜんぜん知らない」
「あそこじゃ、いくらも売ってますのよ。旅行者と見ると、必ずしつこくつきまとって売りつけようとしますわ」
彼女は、はじめ二十ディルハムとか言ってきたのを、五ディルハムで買ったという。
「ここの田舎じゃ、沢山作っているらしいですわ。でも、観光客に売りつける奴は、あまり効かないみたい」
日本人一同は、かなりの間、いろんなことをしゃべりあっていた。
疲れてずっと黙っていた私は、あまりしゃべらぬのも変に思われるかと考え、いきなり、わざととぎれとぎれにこう言いだした
「驚かなくていいですよ。……実は、ぼくは少し頭がおかしい、もっとはっきり言うと精神病者なんです。……日本で入院していたが、よくならない。医者がアフリカに旅をすればよくなるだろうと言うんで、こうしてやってきたわけです。……打明けますと、この人(と阿川さんを指し)が病院のお医者さんで、この人(Tさんを指し)が看護人で、こちらが看護婦さんなんです。……でも、大丈夫、暴れたりはしませんから、もともとおとなしい患者だったんです」
私としては旅の気晴らしにその日本女性を笑わせてあげようと思ったのだが、この見えすいた嘘っ八の冗談に、意外にも彼女は反応を示さなかった。ちょっと黙っていたあと、半信半疑のように、
「アフリカに来ると、どうして病気がよくなりますの?」
と、尋ねてきた。
その質問に私はとっさに答えられず、阿川さんにむかって、
「先生、教えてあげてください」
阿川さんも一瞬困った顔をして、抵抗した。
「ぼくは主治医じゃないから……」
私はやっと智慧をしぼりだした。
「そうだ。主治医の先生が言ってました。ぼくは閉所恐怖症なんです。それで、広々としたアフリカヘ行ったら治るって」
彼女はさすがに笑ったが、べつに「御冗談をおっしゃってるんでしょう?」とも言わず、すぐ笑いをひっこめてしまった。
やがて彼女は自席へと帰っていった。
阿川さんが言った。
「君、下手な嘘をついたね。大体、そんなら君は億万長者じゃないか。医者と看護人と看護婦を連れて、アフリカにやってくるなんて、途方もない大金持じゃなきゃできっこない。大体、君がそう見えるかね?」
「代議士で、こちらは秘書とか秘書嬢とか言ったほうがよかったんじゃないですか」
と、T氏も言った。
「それにしても彼女、妙に笑わなかったわね。あれ、どこまでもあなたをバカにしてたのか、それとも半分でも信じたんでしょうか?……あなたは、どだいマトモには見られませんからね」
と、女房。
ひとしきりその話題に興が乗ったあと、
「あの女は、一年足らずで、もうフランス人にひっかかったんですかね。どうも近ごろの日本の女はだらしがない」
T氏がいやに生真面目な顔をして言った。
ある駅に停車し、やがて汽車が動きだしたとき、踏切に遮断機のあがるのを待っている沢山の人々が見えた。また、そこの広場は市場で、生きた鶏の肢をもってぶらさげている者もいれば、黄いろいメロンも商っている。原色の彩りが綺麗《きれい》だったので、女房がとっさにカメラを向けた。すると、子供たちが手や指を突きだして、しきりに嬉しがっていた。
夕刻、阿川さんとビュッフェに行き、今日はじめて固形物を食べた。チーズをはさんだごく固い、形だけフランスパンに似た奴である。それをどうにか咀嚼《そしやく》し、フランス製ビールで喉に送りこんだ。それまでトイレヘも行ったが、どうやら下痢はもう大丈夫だと自信がついたからである。そのトイレは、水はよく出るが紙がなかった。
阿川さんの汽車狂いにさすがにこの道中で気づいたらしいT氏が、次の駅に止ったとき、こう訊いた。
「この駅は、何分間停車です?」
「六分」
と、即座に阿川さんは答えた。だが、実際に汽車が発車したのは十六分後であった。
汽車に関して絶対に強い阿川さんが間違えを言ったのはもう一回ある。マドリッドからの車中で、女房が夏、テレビのクイズ番組で見た質問をした。
「世界じゅうで、直線でいちばん長い線路はどこか御存知でしょうか?」
「うーむ」
と、阿川さんは珍しくうなり、
「ロシアかな、カナダかな。そうだ。カナダだ」
「残念でした。オーストラリアです」
阿川さんの名誉のために強調するが、彼がしくじったのは私の記憶ではただのこの二回きりである。
また一つの駅に、木製の車輛が止っていた。阿川さんは嬉しげにさっそくメモをする。
六時二十五分、日没、広い平たい大地の上に、太陽がわずかな余光を残して沈んでいった。それが実に美しい。
「赤い夕日のモロッコに……」
と、阿川さんが節をつけて唄った。
そういえば、奇態なことに、この旅行中これまで彼は一度も軍歌を唄わなかった。私に自分をからかった文章を書かれることを極度に警戒していたためであるらしい。
しかし、或る駅に止っていた貨車の連結器がへんてこに出っぱっているのを見て、女房がいぶかって尋ねると、阿川さんは大学教授のごとく、重々しくくわしくいかめしく、まったくわからぬ難解で不可解な事柄を長々と講義をした。こんなことは、みんな私の材料になるのに。
十時近く、アナウンスもないうちに、いつの間にかカサブランカ着。ポーターとまたまた精魂こめてやりあう。それにしても、今回の旅で、私についてだけで言えば、汽車旅行はこれでお終いとなったという訳だ。まずはメデタシだと私は思った。
タクシーの運ちゃんも同様と覚悟していたが、こちらのほうは意外に素直ですぐ乗車することができた。つまり、私たちがまあ妥当な金額を言ったのを、珍しくそのまま黙ってのんだわけである。
ところが、阿川さんが日本から予約しておいたホテル(T氏もそうと聞き、わざわざ同じホテルヘタンジェから予約を入れていた)に着いたとき、今度は逆にわるいことが起った。この世はそうそうすべてうまく行くものではないことの証といえる。
最初からなにか嫌な予感がした。見るからに貧相げなホテルだったからだ。だが、アフリカまできて立派なホテルにばかり泊るのも芸がない、オンボロのほうがより微妙な土地の情緒を味わえて作家にとってよい体験になるはずだ、とすぐに私は思い返した。
しかし、フロントヘ行くと、そこの男はのろのろと調べた揚句、私らの予約がはいっていないと答えた。阿川さんがさすがに不機嫌げな表情をした。空部屋は一つしかないという。第一、そこでは英語がなかなか通じにくかった。
フロントからごく近い正面の食堂を見て、阿川さんの顔は更にけわしくなった。そこはもう閉じられているらしく真暗だったし、前まで行ってみても文字でそのことが確認されたからだ。それにしても、もう終りとはいくらなんでも早すぎるではないか。
「マンソウルとかいうホテルヘ行ってみよう」
と、阿川さんは電光石火に意志を決定した。それはタンジェでドライヴしたとき運転手が良いと言っていたホテルだった。その素早さに比し、ミッドウェイに於けるわが海軍首脳はなんとモタモタしていたことか。
運転手が苦労し時間をかけていったん降ろした私たち四人のスーツ・ケースを、やっと後のトランクに収め、別のホテルヘ向って走りだしたとき、T氏が言った。
「私が最後に出ようとしましたら、人相の悪いマネージャーという男が出てきましてね。今度は部屋はある、と言うんですよ。それがまるでギャングみたいな奴で、あれは気味わるかったなあ」
やがて着いたマンソウル・ホテルは、前者と比較せずとも堂々たる豪華な建物と見えた。幸い、われわれ、四人分、三室の部屋もすぐとれた。今度こそ良心的な運転手であったから、たっぷりとチップを与えた。この地を旅していて珍しいことである。
もう時刻はかなり遅かった。とにかく阿川さんはスナックヘ行くと言ったが、時計の針はすでに十一時半近くを示していた。
私のみ、まだ腹具合に本当の自信がなく、夕刻の汽車の中のパンだけで我慢することにした。そのくせ、部屋へはいると、すぐさまミネラル・ウォーターの大びん二本を注文した。
食事こそしなかったが、例によってウィスキーの水割りを作りチビチビと飲んだ。念のため梅干と胃腸薬とT氏から貰った正露丸をまるでツマミのように使用した。水のほうは平気でグイグイと飲む。二本の大びんの水があることは、自分でもおかしくなるほど心が安堵してかつ豊かに感じられてくることである。とにかく、私は並々ならぬ大水飲みなのだ。昨年の夏、パリは酷暑で旱魃《かんばつ》で、ついにミネラル・ウォーターも品切れになったと日本の新聞にも出ていたが、先に訪れたとき、もしやはりそうであったなら私はおそらく発狂していたことであろう。
十二時を少し過ぎたころ、女房が帰ってきて、おなか具合がどうもおかしいのでカスタード・プリンだけしか食べなかったと言った。そうこうするうちにも、いきなりべッドに倒れるように横になった。
貧血したようだとかすかな声で訴えたが、本当に顔色が青くなっている。ずっと口も利かず身動きひとつしようとしない。と思うと、いきなりトイレヘ行って吐いた。さすがに私は心配になったが、反面、今まで一行の中で買物であれ食事であれ、いちばん浅ましくもハッスルしていた彼女がついにダウンとは、痛快であるという意識も同時に湧《わ》いた。
こもごもの感情に動かされつつ、眠り薬を服んだ女房が眠ってしまったのちも私はなおかなりのあいだ酒を飲んでいた。
そのうち寝てしまって少しも知らなかったが、女房はその夜、何回も吐き、また下痢をしたという。私のときと何か似てはいまいか。
翌朝、初めて女房が本当に調子が悪いのだということが私にもわかった。熱も八度六分である。絶食するというので、栄養もと考え、部屋にオレンジ・ジュースを今日一日の分と考えて三杯取り寄せた。それにもなかなか口をつけようとしない。
朝食のとき阿川さんと顔を合わすと、彼は滅法早く起き、近くの港まで歩いて船を見に行ったそうだ。ところが、いざ港に着いたらパスポートがないと駄目だと言って入れてくれぬ。そのためまたわざわざホテルまでパスポートを取りに戻らねばならなかった。いざ港にはいると、そのように警戒される原因と思われるものは、ちゃちで小っぽけなモロッコ海軍の軍艦が港のはずれに二、三隻いただけであった。
なんでそうきびしいのかと阿川さんはしきりに憤慨する。それも並々ならぬ怒り様で、なんだかこちらが叱《しか》りつけられている感がする。まるで私自体に責任があるかのようで、むろんおもしろからぬ感情に駈られざるを得ないが、元海軍大尉閣下と旅する光栄を有す以上、これは致し方なく不可避で当然なことなのである。
ところで、阿川さんは港からホテルヘ帰るときタクシーに乗ったが、ホテルに着いて一枚の札を渡すと、運ちゃんは釣銭をぜんぜんよこそうとしない。ほんの短距離のことである。阿川さんは掌を差しだし、「アン・アン・アン!」と無意味な間投詞を連発した。すると運ちゃんは仕方なげに小銭を少しそこに乗せる。また「アン・アン・アン!」。これを何度か繰返して、やっと目的どおりの釣銭を得た由だ。さすが、威風堂々の大人物!
さて、その日の予定について、阿川さんは「車であちこち見物しようや」と言った。そのころ朝食にやっときたT氏も賛成した。
しかし、海軍の伝統に反して出発が午後一時と珍しく遅くなったのは、実は心根優しい阿川さんが、私の女房の体具合が回復するのを待ってくださったからである。けれども、その時刻になっても女房はやはり熱もとれずぐったりとベッドに横たわったまま、かすかに「あたし、寝ているわ」とつぶやいた。
阿川さんはまた悪質運ちゃんにぶつからぬよう、特に念入りにコンセルジェに頼んでいた。そのおかげで、やってきた車はハイヤーまがいの大型のものであったし、運転手も人のよさそうな男であった。
断腸の思いで女房を残して(嘘八百!)私もみんなと車に乗りこんだ。
カサブランカの街は、道路もずいぶんと広く立派だ。パウンツリーとかいう幹のすこぶる太い椰子《やし》が並木樹である。カサブランカとは「白い家」の意だが、そのとおり白い建物がすこぶる多い。
阿川さんが、運転手に、
「カサブランカって映画、見たか?」
と尋ねると、運転手はぜんぜん知らぬという。
阿川さんはわざわざその映画のあら筋を説明したのだが、運ちゃんはだしぬけに、
「カラテ?」
と、ひとこと言った。
「そんなんじゃないのよ」
と、憮然として阿川さん、日本語でため息をつく。この運ちゃん案に反して英語はダメらしい。
相当な大都会のくせに、玩具屋の店先には実に粗末なオモチャしか並んでいない。これは発展途上国すべてに通ずるもので、日本のオモチャはなんたる高級、本物のアポロ・ロケットのごとき精巧さを有するかと更《あらた》めて思わざるを得ない。
運ちゃんが急に英語をしゃべりだした。カサブランカのカスバ、いやまた間違えた、つまりメディナには古い区域と新しいのがあるそうだ。運ちゃんはニュー・メディナに車を乗りつけた。
街を走っていて、白や黒のベールに顔を隠した女はタンジェより少ないと見えたものだが、メディナにくるとやはりずいぶんと多い。
そこはタンジェのそれとそっくりだとはじめ思えたが、異なるものもかなり見ることができた。
キンキラキンに光り輝く真鍮《しんちゆう》の大皿やアラビアンナイトに出てくるような不可思議な恰好《かつこう》の薬缶《やかん》を一杯に並べている店。沢山のとてつもない大樽に薬味、オリーブのたぐいを盛りあげている店。皮製品、衣服、雑貨などのそれぞれの店。これらはタンジェと同様である。
奥へはいっていっても、タンジェのような狭っこい道はついになかった。それでも雑踏は相変らずのことである。その中を、おぼつかなく杖《つえ》をついて歩いてゆく老人、頭巾《ずきん》をかぶって目だけ覗かしている女たち、人相のわるい泥棒じみた男、掏摸《すり》に早がわりしそうな少年などがまじっている。
こちらものろのろと歩を運んでいたが、阿川さんが、
「回教徒の祈りね。汽車に乗っていたとき、祈っている人を一人も見なかったが、ありゃどうなってるのかね?」
と、運ちゃんに問うと、そうした特殊なケースの場合、あらかじめ神に申請して日に二回だけにしてもらうとか例外が認められているのだ、と彼は答えた。ふつう、八時、十二時半、三時半……という具合に日に五回も祈らねばならないのだが。
だが、こうしてみるとこの運ちゃんはけっこう英語をしゃべるのだ。先の映画「カサブランカ」の話のときは、一体どうしたのだろう?
広場で果物を沢山商っていた。果物好きなT氏が、さっそく洋梨を買いこんだ。売手は鉄の古風な秤《はかり》で時間をかけてはかる。八つで三ディルハムであった。
一隅に、一人の少年が鉄製のなんとも説明困難なる機械で、無数に積まれたオリーブの実に一つ一つ穴をあけている。ごく細い鉄の針みたいなのがその面妖な機械から出てきて、それでとにかく穴があくのだ。こんな粗末な描写では読者にはとてもわからぬだろうが、私にもぜんぜん理解できない。今もってわからない。
運ちゃんが二種類のオリーブをそれぞれたんまり取り、私たちにもくれる。一つは真黒な、しかしおびただしくこまかい皺のよった実で、いやに濃く油っぽい味であった。もう一つは葡萄色の奴で、ふつうの味がした。
私は好人物らしいこの運ちゃんが、われわれのためにわざわざ買ってくれたのかと思っていたが、実はT氏がちゃんと金を払わせられたのだとあとになって判明する。
また或る箇所では、真白な布地に刺繍《ししゆう》をしているさまも見た。実際にやっているのは中年の男だが、手伝っているのはほんの子供で、彼は男の手元にある糸巻から二本ずつの糸を両手にわけて持ち、少しずつそれをたぐる。とにかくそれで布にほそい刺繍ができてゆく。読者にはなんのことやらわかるまいが、私にはこれ以上の描写はできぬ。なにせ私は大作家じゃないんだ。
一軒の洋服屋にはいった阿川さんは、注文もしないのに無理矢理白くぶ厚いカフタン(これは女が使うものとも聞いたが真相は不明)を店員に着せられた。その姿はヒマラヤの雪男そっくりであった。
ふたたび車に乗って別な場所へ行く。
モスクがあった。内部では説教を聞いている人で一杯らしいが、外人は一歩もはいることは許されぬ。残念だが、強引に侵入すれば縛り首にされる(これは嘘)。
トランプを道端のごく小さな丸テーブルをかこんで四、五名の者がやっていた。私は「マンボウ航海」のときのアレキサンドリアの似たような光景の記憶を甦らせて、ひどく懐しい気分になった。
白いターバンを巻いた男、他にトルコ帽風だとか火星人用風だとか、実にさまざまな男性用の多彩な帽子がある。衣服にしてもジラバだのカフタンだのいろんなものがある。いや、また正確には書きまちがえたが、運ちゃんの話ではカフタンの上にジラバを着るのだそうだ。ジラバがどんなものであるか、もう面倒臭くなっちゃって、一々記す気にもなれぬ。
また或る場所で、阿川さんが車から降りようとすると、運ちゃんが、
「掏摸が多いから気をつけろ」
と、言う。阿川さんは、慎重にわざわざ財布をとりだして私に渡した。
肉、果物の市場であった。蠅《はえ》がすこぶる多く、そいつらを眺めていると、何ひとつ買う気が起らない。ふいに、タンジェでインドに於けるようなコブラ踊りを見たというT氏が運ちゃんに向って質問をした。
「コブラ踊りが見られるところはないだろうか?」
答えは、マラケシにしかそれはないというもので、どうもいい加減のようだった。
「来週、ラマダンあけになるので、それを祝うため新しい服を買いこむ人が多いんです」
と、運ちゃんは新しい知識をも教えてくれた。また車で走りだす。日本製のオートバイが大層なスピードで追いこしてゆく。とにかく道が広いので、渋滞現象なぞまったく見られない。
とある家のまえで、立ったりしゃがんだり跪《ひざまず》いたりしている一人の男がいた。と、阿川さんは車にストップを命じ、素早く降りると、今度はそろそろと近づいていった。外国人に祈りを見られるのを嫌う男もいるので、私はちょっと心配した。それはかつてドクターとしてカラコルムの高山へ行ったときの体験で、登山隊のお目つけ役ともいえる連絡将校《リエゾンオフイサー》が明らかにそうだったのだ。
第二次大戦末、チャーチルとルーズベルトが会談したという歴史ある場所に車は止った。当時のホテルは二年前に壊され、その跡がもうずいぶんと古びて見えるアパートとなっていた。
阿川さん、また興奮してとびだしてゆく。実際せわしい人だ。「Tさん、写真!」なんてことまで言っている。彼はカメラを今回の旅に持参せず(そのほうがカッコいいと自分で思ったのだろうし、私もそう信じたい)、そのため知りあったばかりのT氏に写真を撮ることを命じたのだ。元海軍軍人の神経は私には理解しがたい。私はそんなものに興味がないから、一人車中に残って、欠伸《あくび》をしていた。
次に、海辺へと走る。その展望台らしき箇所に運ちゃんは駐車し、私たちは外へ出た。
モロッコに渡って以来、初めて見る波頭が白く砕けている海であった。それは次々と打ち寄せてきて飛沫《しぶき》をあげ、その目に沁みる純白が眩い海の濃いブルーとこよない対照をなしている。海浜にはプールがあった。いつも波が高いためなのであろうか。確かに泳ぐには荒すぎる海で、ほんの渚《なぎさ》でポチャポチャやっているのはわずか数人、プールのほうは満員であった。
こうした見物の最中、私たちの心は常に満ちたりていたが、ホテルに帰りついたとき嫌な事が起った。
齢とった運転手は、出発まえ阿川さんと二時間半のドライヴで七十ディルハムでよいと約束していた。それなのに、阿川さんが百ディルハムの札を渡すと、釣りも寄こさないで知らんぷりをしている。阿川さんもT氏もしきりに催促したが、ぜんぜん馬耳東風。
阿川さんは本格的に怒ったらしく、ホテルのコンセルジェに話しに行った。コンセルジェは当然こちらの味方をする。ついに阿川さんは先ほどの札を取り返し、七十ディルハムに十だけつけて与えた。それでも運ちゃんはなおやかましくコンセルジェと言いあっている。
私たちみんなは、この老運転手を善良な男とずっと信じていたから、明日、空港まで行くのにもこの車を予約していた。しかし、阿川さんは低いひとことで、それをキャンセルした。どうもうまく行っていると思っていると、次の瞬間にはそれが逆転するものだ。それがモロッコなのかもしれない。
大人《たいじん》の阿川さんも、さすがにこの地の人間の九割に不信感を抱いてしまったらしく、明日発たねばならぬ空港までの距離をさっきの運ちゃんから三十五キロと聞き、タクシーの値も聞いていたが、
「そんなに距離があるもんか。ほんのちょっぴりなんだ。あいつ、また人をだまそうとしやがって!」
と、怒りに顔をこわばらせ、わざわざ地図を取りだして机の上に置き、ごく疑いぶかそうに立ったまま克明に調べはじめた。と、長い時間をかけてせっかく計算したのに、なんとそれは真実のことだと判明した。阿川さんは安堵のあまりか自己嫌悪のせいか、ドッと椅子に倒れこみ、深い吐息をついた。
しかし、五分後、みんなで私の部屋へ行き、女房を見舞ってやろうと親切に言ってくださった。
女房はまだ寝こんでいた。相変らず八度六分の熱だそうである。だが、T氏が沢山買いこんだ洋梨を見ると、横になったままおいしそうに、でもごくちょっぴりと食べた。
夜は、シー・フードの店へ行こうと阿川さんがまた言いだした。この人の執念ぶかさは、スペイン風焼飯もそうだったし、カキをはじめとする貝類もそうなのだが、実に実に怖るべきものがある。これを再度、いや、三、四度と繰返し食べずんばやまずといった気魄《きはく》がこもつている。いわば反復攻撃である。やはり帝国海軍魂の発露というべきか。
念のため、善良な読者のために断わっておくが、阿川さんは戦争の話をするのは大好きであるし、真珠湾攻撃の「トラ・トラ・トラ!」、わが空母全滅の「ミッドウェイ」などの映画を無我夢中になって見るらしいが、彼を好戦主義者と思われては困る。私の交際する範囲の人間たちをずっと見まわしてみても、これほどの平和愛好者は滅多にいない。このことは、私の名誉(三文作家がなにが名誉だ?)にかけて断言する。
さて、八時半過ぎ、私たちは海産物料理の店に乗りつけた。もちろん女房はこられず、可哀そうというか天罰というか寝たきりであった。
はじめ、海に面した相当に広く壁も何もない、あけっぴろげの風が快い店の席に案内されたが、食事を注文するときは、自分らで一つ道を横断したところにある小ぢんまりした本店へ行って注文するのである。例によって、大きな海老、小海老、各種の魚からカキをはじめとする貝類がどっさり氷の上に飾られていた。カキは大きさによってそれぞれの値の紙札が貼《は》られている。これとこれとこれといったふうに指さして注文する。
海老を注文するとき、私はいぶかった。なぜなら、ここではせっかく覚えた英語でクレイフィッシュと言うと日本の伊勢海老を意味し、ロブスターというと鋏のあるでっかい海ザリガニ(つまり独語のフンメル)を意味する。トンガ島、パリ、更にカサブランカと、言葉が逆転し、更に更に逆転といったわけで、私は混乱したわけだ。
正確なところは一体どうなのであろうか。私は面倒くさがり屋でかつ健忘症なので、帰国してずいぶん経ってからふと思いだして小さな辞書を引いてみた。その岩波英和辞典によると、クレイフィッシュとは「ざりがに」とあり、またそのあとに「(ロンドンの魚屋で)いせえび」とあった。やはり土地によってさまざまの意になるようだ。念のため、でっかい「ザ・ユニヴァーサル・イングリッシュ・ディクショナリイ」という英英辞典を引くと、クレイフィッシュはフランス語のクルヴィス(最近ではエクルヴィス)と同義で、清流にいる小さなロブスター、鋏のあるロブスター、海ザリガニと出ている。
阿川さんはここでも執念ぶかく、生ガキとイカの揚げものを注文した。
カキはさすがにパリやマドリッドに比し、ずっと味が落ちる。それでもなおかつ、阿川さんは皿の追加注文を発令した。どうなってんだろう、この人。
T氏は、ブイアベース、白身の魚など、小生は、半分阿川さんに半分T氏を真似た。カキ以外は、どれもおいしかった。地酒の白ワインもさっぱりしていてわるくない。
阿川さんをまたからかったりしたが、イカの揚げものはよい酒のツマミとなった。結局、私はずいぶんと彼の恩恵を受けているわけだ。食後、ちょっと愉快なことが起った。T氏はここでもモロッコ・ティを注文したが、タンジェでそれが物凄く甘くて参った体験から、
「ノー・シュガー」
と、わざわざつけ加えた。
ところが、ボーイは沢山の種類の葉巻と煙草のはいった大箱を持ってきた。つまり、T氏の発音がわるくて、葉巻を要求したように聞えてしまったのだ。T氏は、さすがに困惑したらしく、しばらくの逡巡の揚句、まあいちばん安い煙草を一箱とった。阿川さんが目くばせしてニヤリとしたが、同様に笑ってしまった私のほうも、実はあちこちでもっと失敗をやらかしている。
食事はカキをのぞいて満足したし、帰るころはひんやりと涼しく、私は御機嫌であった、掴まえたタクシーもなんらの嫌な後味をひき起さなかった。九割のモロッコ人に不信の念を抱いた阿川さんが、その料理屋までのタクシー代をホテルで丹念に確かめていたので、私が十ディルハム札をやると運転手はひとことも文句をつけなかったし、更に一ディルハムを手渡したら、「メルシー」と破顔したほどだ。(付記・このレストラン、後述のアテネの店と混同して書いたところがある。念の為、正直に告白しておこう。それほどイメージが強烈だったのだ。阿川さん、T氏、ゴメンナサイ)
ホテルに帰りついたのは十一時頃だったが、女房はまだベッドに寝ていたもののかなり元気を取戻していた。ただ、固形物をひとかけらも口にしていないので、阿川さんに負けず劣らず意地汚い彼女はしきりとブツブツぼやいてはいたが。
翌二十日朝、私は珍しくも、七時前に目が覚めた。と、ポクポクと鳴りひびくなにか快い物音が聞えてきた。
その音については、阿川さんや女房からも昨日聞いていたので、すぐその正体がわかったが、それは市場へ行く荷馬車の立てる蹄《ひづめ》の響きなのであった。
起きあがって窓から覗いてみると、より素敵な眺めといえた。荷馬車は次々とやってくる。果物を積んだそれは黄いろいメロンや赤みがかったオレンジの色が鮮やかであるし、野菜を満載した荷車は色合を異にする数種の緑と大きな真紅《しんく》のピーマンの対照が目に沁みるようだ。
一緒に窓から下の路を覗いていた女房が、
「昨日も、あの音であたし目が覚めたの」
しばらくしてふいに、
「あら、六人も乗って大丈夫なの?」
と大仰な声を出した。
なるほどその荷馬車は、瓜《うり》らしきものを満載しているうえに六人もの大人が腰かけている。馬は小柄でしかも痩せこけている。たしかに馬が気の毒だ。
その日は十時二十分の飛行機でチュニジアの首都チュニスまで乗ぶ予定であった。この日でT氏とも別れることになる。
空港までは阿川さんの疑いに反してやはり三十五キロあり、
「おかしいなあ。新しい空港ができたのかなあ。街のすぐ外だと聞いていたんだが」
と、彼は首をかしげていたが、途中、マラケシ行きの汽車が走っているのがちらと見えるや、いきなり、
「オッ、行きたかった!」
と、どでかい声を発した。いつもこうなので、こちらはビックリするし、ときには何事が起ったのかとギョッとすることすらある。
空港の出国手続きが嫌に入念であった。
私は職業を聞かれた。
「ライター」
と言うと、新聞に書くのか雑誌に書くのかと尋ねられ、双方だと答えると、役人はなにかブツブツ呟きながら不審げな顔でなかなか通してくれない。私はライターというとジャーナリストと思われ、こうした国では警戒するのかとも気がつき、
「ノベリスト」
と、言い直した。それでも同様である。どんな種類の新聞雑誌に書くのかとまたもや問いただす始末だ。おまけに泊っていたホテルの名も聞いた。一体、何のためか? 飛行機の出発時刻も迫っているのに。
旅の間に徐々に元気に、いやそろそろ五年ぶりにマニッシュ(躁病)になりかけていた私は、もうどうにも腹が立ってたまらなくなってきた。それで、我知らず声を高め、それでもなるたけくわしく説明しようとした。英語ができぬため、ときどき言葉が見つからず、つまってしまったりするのがいっそう自他ともに対して腹立たしかった。
それでもなおかつ、役人は私を通そうとしない。後ろにいた青年が現地語で役人にむかってなにかしゃべりだした。私の意をよりくわしく正しく説明しようとしてくれているらしい。それなのに木っ端役人め、豚に喰われやがれ! なおかつ、まだまだ、更に慎重にパスポートを調べ直したりしてやがる。
ずいぶんと手間どった。また、荷物検査もすこぶる厳重であった。
やっと通過して待合室に入ると、ほとんど同時に別の出国検査の窓口に並んでいたはずの阿川さんがはいってきて、これまたプンプンしている。
「なんだ、あの役人は。いくら口を尽して説明しても何だかんだ言うんだ。おまけに黙りこんだと思ったら、それから十分もおれを待たせやがった。きっと何かモロッコの悪いところを書かれるかと思っているのにちがいない。ベラボウめ、後進国!」
待合室には、はじめ私たちと他にほんの数人の人間しか見当らなかった。私は、あまり厳重に取調べられたので、他の乗客はもうとうにバスで飛行機に行ってしまったのだと思っていた。
しかし、そうではなかった。やがてゾロゾロと多数の白服の男たちがやってきて、広からぬ待合室は一杯になった。
眺めると、異様な者たちのようである。いずれもマント様の白衣をまとい、頭にも自い布をかぶって、わずかに細い黒紐でそれを巻いている。なんだか男というより、看護婦さんのようにも見えた。あきらかにこの地の人間とは違う。
そこで、私はじっと観察し、その彫りのふかい鼻梁《びりよう》の高い鋭い目つきなどから、アラブ諸国の男たちではないかと想像した。もとより、モロッコにもアラブの血は沢山はいっているが、なにがなしそう感じたのである。
時間が流れた。出発の定刻はとうに過ぎたが、なんの音沙汰もない。
「あの頭の白い頭巾、どうして落っこちないのかしら。あの黒紐はしばるというより、ただ巻いてあるだけみたいに見えるんですけど」
と、ふと女房が言った。
「それは奥さま、あなたが行って訊いてごらんなさい。女性には、この間のフェリーのときのように、男たちは優しいですから」
と、ようやく怒りが収まったらしい阿川さんが、馬鹿丁寧な言葉で応じた。
女房はしばらく逡巡していたが、ようやく彼らのほうに近づいていって、なにかしゃべっている。相手の白衣の男はなにか身ぶりをまじえながらこれに答えている。ずいぶん長いことかかったのは、両者の間に言葉の齟齬《そご》があるためらしい。周囲の男たちも、女房のまわりに集まってきていた。しまいには、一人が頭の頭巾をとり、また更めてかぶり直して黒紐でどうしめるか説明を始めだした。
あいつめ、また出しゃばりやがると私は女房に対してムッとしていたが、ようやく彼女は戻ってきて、彼らがアブダビ国(アラブ首長国連邦の一つ)の人間で、またフットボール・チームのメンバーであることを私に告げた。
出しゃばる女房の習癖には私は常々|憤懣《ふんまん》の念を抱いていたものだが、これで彼らの正体は判明したわけだ。物書きである私にとっては好都合のことで、これは彼女の功績であると認めてやらざるを得ない。もちろん、そういうことは滅多にないのではあるが。
ようやくバスがきて、みんなは乗車した。動きだしたバスの中で、私はアブダビの人たちが一様に持っているエア・バッグに気がつき、阿川さんに尋ねた。
「あのバッグ、どこのものです?」
「中国製です」
さすが阿川さん、乗物に関してはごく簡単になんでも答える。それが当っているかどうかは、神のみぞ知るだが。
機内の席について、スチュワーデスが救命具の説明などをするのを、悪いから見聞きしているふりをしているうち、ふと気がついて阿川さんに尋ねた。
「この飛行機は?」
「ボーイング727」
「そうですか」
もとより私はそれくらいの機種は承知しているが、やはり阿川さんと同様乗物狂の兄の弟としては、おどろくべきほど飛行機も車の名前も知らない。むかし小学生の頃、兄に連れられてよく立川の陸軍飛行場や追浜《おつぱま》の海軍飛行場へ通った。その当時は私は日英米の航空機の機種名をみんなそらんじていた。それに比べて、今はてんでダメなのである。
「この航空会社は?」
「RB」
「RBって、何の略です?」
「北さん、あなたは、そのくらいのことは知ってると思っていたんだがね」
「すみません」
私は沈黙した。これ以上、恥をかくのはやめよう。
飛行機は滑走路の端で止り、轟音を立て、やがて猛烈な速度で発進した。私は目をつぶっていた。機が上昇してしまうと、阿川さんが話しかけてきた。
「君は飛行機がこわいと思うことがあるかね」
「いいえ、でも、離着陸のときだけは、ゴマンの神だか仏だかマントヒヒだかに祈ります。墜落事故の九割が離着陸の際であることをちゃんと知ってますから」
「ちゃんと知ってる? まあ、いい。でも、それじゃやっぱり少しはこわいと思うんだね?」
「ええ」
「恥を知りなさい」
なに言ってやがんだ、とさすがにこの繰返された屈辱に私はそう思ったが、じっと我慢して黙っていた。私以上に飛行機をこわがる人間もいくらでもたんといるのに、この阿川大人の発言はあまりといえば傍若無人ではあるまいか。その証拠に、中学も文学も先輩に当る山口瞳さんが、ヒコーキ恐怖症であることを私は知っていた。氏の長らく続けている「男性自身」という面白く端正で風流げのあるエッセイで読んだ記憶がある。
その内容を忘れてしまったので、帰国してから編集者にその週刊誌の号を捜してもらった。以下、その山口さんの記述。
「私があまり飛行機をこわがるので、虫明亜呂無さんが手紙をくれた。
『飛行機は落ちません。飛んでいるあいだは絶対に落ちません』」
どうですか、実にいい話じゃありませんか、皆さま。それなのに何だ、いくら大先輩とはいえ、このふてぶてしい阿川めは!
まあ、よそう。私は阿川さんに深く深く感謝している。彼がついていなければ、私はカスバじゃなかったあのメディナで、必ずや迷子になっちまっていたであろう。どだい、運転手の少し長くなる英語を通訳してくれたのもみんな阿川さんである。
三座席の窓側に阿川さん、私は通路側、女房がその間に坐っていた。私がいつも通路サイドを指定するようになったのはいつ頃からであったろうか。とにかく、私は小水が近い。夜、寝ている他の乗客の前をまたいでオシッコに行くのがイヤで(他人を起してしまうこともあるから)、私はいつもそうするようになった。昼間の短時間の飛行でも習性となっている。
阿川さんが、女房に話しだした。
「実はぼく、汚い話で恐縮だが、今朝、下痢が始まりました。なに、北さんがそのそもそもの先がけだ。それから奥さま、あなたです。ぼくは三番目の犠牲者か」
やっと下痢のとまった女房は、しきりに驚いてみせた。
「阿川さんでも、そんなことがありますの?」
私は言った。
「鬼の霍乱《かくらん》ですね」
機内でアラブ人たちが立上って、しきりと写真を撮りあっている。そのカメラはオリンパスであった。
この飛行機はチュニス航空のものであったが、機内でモロッコの金はもう通じない。昨年、マダガスカル島へ行ったときもそうであった。弱い紙幣は紙屑同然となるし、貨幣はスーベニール以外の何物でもなくなる。その点、阿川さんの口真似ではないが、わが大日本帝国の円が強いのは有難いことだ。いくらエコノミックアニマルと言われようが、日本人は頭がよく(バカ、白痴はもっと多いものの)、かつ物凄い働き蜂である。これが長所であり、かつ弱点ともなっているが。
正午、アルジェリアのアルジェ空港着。一時にテエク・オフ。この国にも行きたかったが、今回は仕方がない。
ところで、阿川提督の様子がいつになくおかしい。体温計を女房が貸してやったら、
「六度五分になったら、入院します」
「なんで? 大げさだなあ」
「いや、北さん。ぼくはふだん三十五度台なんだ。一度も高かったら入院だ」
体温に関しても、異常なお方のようだ。
機内で二度目の食事が出た。アラブ人たちはむさぼり食っている。女房が前の座席にいる一人の若い男に話しかけ、お互いにつたない英語でしゃべっていたが、彼は自分のパスポートを得意げに手渡した。なんだかベラボーに長い名で、もう忘れてしまったが、かなりあちこちの国をめぐっている。それで得意げな顔つきをしていたわけがわかった。
阿川さんが他のアラブ人に、
「なぜラマダンなのに、あなた達は食べているのだ?」
と訊くと、
「旅行中はよいのだ。ただラマダンが済んだあと、一日、代用日として絶食する」
という返事であった。
また、フットボールの試合の際、昼に食べないでいると夜の試合にコンディションが良いのだという話であった。
こう書いていると、他の者ばかりが英語をしゃべり、私一人ほとんどしゃべらぬようで恥ずかしいが、確かに私は語学オンチである。これは父の血を受継いでいるようだ。父は昔ドイツに二年半も留学していながら、読むほうはかなり読めたが(左派歌人と論争したとき、茂吉はマルクス、レーニンなどの原書をとり寄せて全部読んだ)、会話のほうは最後まで下手糞であったという。
私はドイツ語をほんのちょっぴりしゃべり、英語となるとカラ駄目だ。外国へ行く機会もいくらかはあるので不便このうえもないが、どうせ自分は語学オンチなのだからと諦念《ていねん》して、これまで一切勉強はおろか、少しでも覚えようと努力したことがない。
[#この行2字下げ](附記。だが、今この原稿を書いているわが輩は躁病期である。実に五年ぶりのことだ。帰国してすぐ躁病、しかも史上稀なる大躁病になった。ゲーテにはごく大ざっぱに言って躁病七年周期説というのがあるが、彼はさすが偉大で、いったん躁期になるとこれが二年くらいも続く。晩年に少女に恋したのもそうである。同時に「詩と真実」「ファウスト二部」もついに完結させた。わが輩も少しゲーテに似てきた。今度の躁病はグレートで、今まで不得手なものまでみんなできる。昨年の暮「すばらしき仲間」というテレビ番組で、わが輩がもっとも苦手の歌をうたい、もっとも不得手の英語もしゃべったのを御覧になった読者もおられるだろう。帰国してしばらく経って、わが輩は電話するときドイツ人になりすまし、ドイツ語でダルフ・イッヒ・ヘルン・○○・ツーシュプレッヘン? と言う。ドイツ語を話す先輩、友人が少ないので、あとは英語でしゃべる。一夜、阿川さんに電話し、彼は寝ていたらしいが、外人から電話だというので仕方なくとび起きてきたとあとで奥さまから聞いた。しばらく英語でしゃべっていると、そのうち阿川さんはどうもおかしいと気づいて、日本語で「なんだ、遠藤(周作)か?」と言った。そこで正体を明かし、あとは日本語になったが、そのうち「もっと英語でしゃべってごらんなちゃいよ」と言うと、阿川さん怒って凄い早口でベラベラベラッと英語をまくしたてた。ところが、摩訶不思議なことにわが輩にはちゃんとその八割が理解できた。そこで「シャラップ! ドント・スピーク。シット! サン・オブ・ア・ビッチ! ドロップ・デッド! キス・マイ・アス!」などと米俗語の悪罵を立てつづけにあびせかけてやったら、さすがの阿川大人、その半分くらいしかわからなかったらしく、恥をかかせてやった。どうだ、わが輩は……。アッ、威張った。もう、やめる。)
午後二時、チュニス空港着。時差一時間、時計を進める。
マドリッドで加川大使に世話になったが、ここにも阿川さんの海軍同期の桜、田村豊大使がいた。海軍というものも、ずいぶん得なものだと思わざるを得なかった。
なにも大使館などに用があるはずはないのだが、なにせ阿川さんは和食党である。おまけに大使館の客となると至れり尽せりの便宜が得られる。ケチ精神、良く言えば西欧合理的精神の発達している私にはずいぶんと有難いことであった。ここで阿川さんに更めて感謝の意を捧《ささ》げる。
もう一つ、ここで今まで記してきた日本人Tさんについてその正体を明らかにしておかねばならない。実は、彼は新潮社の編集者であり、阿川さんの旅のお伴《とも》についてきたのだ。それゆえ、彼はマドリッドからずっと私たちの旅に同行していた。
この旅行記はすべて事実そのままであるが、なぜ私がTさんに関してフィクションを作らねばならなかったかは、阿川さんの発言にあった。この駄文の冒頭に、阿川さんが「南蛮阿呆列車」を書いていることを述べたが、阿川さんは英国での旅行記でTさんを「幽霊」氏と書いた。ついでスペイン以後の旅を書く予定だったから、また同一人物ではつまらんと言って、「北君、ぼくは別の人物の名にしようと思う。君もうまい具合にそれに、合わしてくれないか」と私に頼んだ。そこで私は旅の途中で偶然知り合いになった正露丸の所有者日本人を創造したわけである。ところが、阿川さんがついこの前の雑誌に次の旅行記を発表したのを読むと、また「幽霊」氏同行となっている。これは契約違反だ。これまで読者をほんのちょっぴりだましてきたのは私のせいでなく、阿川さんの責なのだ。
しかし、阿川さんの「地中海飛び石特急」もやはりおもしろかった。私の忘れていたことも書いてあった。マドリッドのホテルにチェック・インするとき、私が女房に、
「ぼくは書けない。どうしてもうまく書けない。Mr.& Mrs.のアンドという字が書けない」
と言ったとあるが、まさにそのとおりで、私はこの&という字が、いかに努力しても、逆立ちしてみても、絶対に書けない。一体、どこの悪魔の国の文字なんだ、こいつは?
閑話休題、田村大使は自ら阿川さん一行を出迎えてくれた。もちろん、日本人Tさんも別れたのではなく、一緒であったことは先に記したとおりである。
大使館公邸に着くと、阿川さん、熱が三十六度五分あると言ってまた騒いだが、旧友に異国で会ってご機嫌であった。
私たちがこれまでカスバ、カスバと言っていた言葉について問うと、カスバとは元々兵隊の駐屯地の意だと大使は言った。更にびっくりしたのは、私のおふくろ、つまり困った旅行キチガイの婆ちゃんである斎藤輝子がここにもいらっしゃいました、と大使館員が言ったことだ。
私の母は亡き夫の印税で、年に四、五回は外国旅行に出かける。二年前はついに南極にまで行った。これは世界一周より金がかかるから、兄をはじめ私も口を極めて諫止《かんし》したのだが、ついに行ってしまった。母は飛行機が落ちて死ぬのが本望だ、あたしも早く死にたいと口癖のように常常言っている。そのくせ、なかなか死なない。今年は八十一歳になるが、このままほっておくといつまで生きるかわからない。長生きするのは結構だが、新しい茂吉全集もすでに完結し、今後母のところに入る印税はちょっぴりとなる。そのときは茂太(兄)と宗吉(私)であたしの旅行費を出しなさい、とすでに命令を受けている。これは大変なことだ。旅行費はいいとして、とんでもない世界の僻地《へきち》で死なれると凄い物入りだ。しかし、私は近頃、この母をずいぶんと好くようになった。おふくろは私の祖父の血を受継いで日本人離れした点がある。ずいぶんと威張っているから、茂吉の弟子からは嫌われているし、人にも迷惑をかけているようだ。しかし、母は「そんなことはあたしはかまいません。他人が何と言おうが知ったことじゃありません」と言う。母は好き嫌いをはっきり言う人間だ。日本人は「イエス」と「ノー」をはっきり言えぬ人種だ。この点だけでも私は母が好きだ。昔は、茂吉にちっともつくさなかった女として憤懣の念も抱いた女性なのだが。
また余談にはいりすぎた。
とにかく母がいろんな国へ行くので、もう何年も前から、私は母が今度はどこへ出かけるのか尋ねる気力も失った。今、この原稿を書いている現在、彼女は南アフリカにいるはずだ。これは女房に尋ねて初めて知った。ともあれ、大使館員に、
「お母さまとは、このまえ、ここのヒルトン・ホテルでお目にかかりました」
と言われ、私はギョッとした。どこへ行っても母の足跡を追う形になる。もっとも私はカラコルム遠征隊にドクターとして参加したことがある。あんな高山、凍えるテント以外の場所には、母はすでに行っているか、いずれやってくるであろう。私より金持なんだ、おふくろは。それに、なんといっても閑がある。こちらは打明けると、大晦日というのに、セッセとこの原稿を書いている始末なのだ。
田村大使にいろいろと話を聞いた。チュニスは現在人口百万近く、観光客が年に百万から百五十万人来る。主にヨーロッパからで、ドイツ人、デンマーク人が多い。やはり北欧の人々は明るい陽光を求めるのだろう。
チュニジアの産業は石油、オリーブ油、そして観光。かつてチュニス市にはジッド、フロベールも滞在したことがあったという話であった。
カスバ、いやメディナに行くと、ここでも物売りの声がかしましい。砂漠に咲くバラ、風化した石なども売っている。
私たちが歩いてゆくと、
「ジャポネ。カラテ」
などと店員が呼びかける。
「ゼア・グート」
というドイツ語を聞いていぶかしかったが、これはドイツ人観光客が多いせいで、ドイツ語がけっこう通ずるという。
女房はまたカフタン様の服を買いやがった。チュニジアの金はディナルという名で、一ディナルが約七百円。初め店員は九ディナルと言い、それを六ディナル、三ディナルとディスカウントしていった。
ところがいざ金を払うときになって、
「いや、六としか言わなかった、三とは絶対言わなかった」
と主張し、結局六ディナルで買う。女房にはどうでもよいことかもしれないが、全部私の金なのだ。
ここでも真鍮《しんちゆう》の皿、水入れ、骨董品、スパイス、ナッツなどの店が目を引いた。
田村大使をはじめ大使館員の護衛つきで、一同ゾロゾロと歩く。掏摸《すり》も多いからだ。女房は前の二回の経験に懲りて、かつ私が口うるさく注意してやったため、今回の旅ではついに掏《す》られずに済んだ。
帰途、郊外電車が走っているさまを見、阿川さん、目を血走らしめる。三輛つづきのオンボロ電車で、白というより灰色といった按配《あんばい》だ。ごく最近、一輛の電車がショートして燃えてしまった由。
港の向うの山にテレビ塔があり、イタリアからのテレビ中継があると聞いた。チュニジアではカルタゴという白黒テレビを組立てて、ヨーロッパに輸出しているという話も意外に思えた。カラーテレビはこれからということだ。
フェニキア時代の港。小さな入江で、川のように見え、でっかいガリア船がよく入れたものだと考える。カルタゴの浴場の跡も、コロシアムの跡も見学した。
「ローマにちょっと似てるな」
と、阿川さん。
公邸に夕刻帰りつき、食前酒が出され、ツマミがキャビアやフォアグラをのせた豪華なカナッぺであった。私は喜んだが、阿川さん、熱が三十六度五分だと、また大げさにため息をつく。更に彼が期待していた日本料理が出された。聞けば元海上自衛隊員のコックが作る由で、海軍狂いの阿川さんはもっと感激して然るべきではなかったか。
大使夫人、お嬢さんが親切で、かつおもしろい話を聞いた。公邸には黒いプードルの犬がいる。十二歳の血統書つきのお犬さまで、私たちにちょっと吠えたが、あとはおとなしく、クッキーをずいぶんと食べた。
犬を飛行機に乗せる場合、一頭なら許され、籠に入れて乗せ、五十センチくらいの犬なら座席に出してくれる。猫はタダで、犬は半額、つまり子供料金。日航はまだ許可してくれず、エア・フランスでは機長の判断による。ファースト・クラス、エコノミー・クラスに一頭ずつ乗せてくれる。
いつぞやそのプードルを乗せてアンカレッジに着いたら、係の人が犬を外へ出し十五分くらい散歩させてくれた由。砂地でオシッコをさせ、水を飲ませる。もっと前、山口淑子さんが三頭の犬を連れていて大使夫人はあきらめていたところ、山口さんがキャンセルということになったので愛犬を乗せられたという。
田村大使は失礼ながら小男だが、人柄が実に人なつこく、かつ笑うのが好きな御仁であった。
阿川さんがアメリカ映画「ミッドウェイ」の話をし、あれは日本側を相当に好意的にあつかってくれた云々と言うと、二人の元海軍軍人はお互いに「貴様」と言いあって共鳴しあっている様子である。ともあれ、阿川さんは日本帝国海軍によってずいぶん得をしている。
私は皮肉まじりに言った。
「阿川さんの海軍同期の人はみんな偉い人ですね。阿川さんがその中でもっとも偉くない」
田村大使が、
「とんでもない。阿川の奴がいちばん有名だよ」
更に、
「なんで遠藤周作先生を連れてこないんだ。おれは彼のファンなんだ」
と言う。
「遠藤のユーモアは下品だよ」
「おれは下品な話が大好きなんだ。遠藤先生は汚い話を平気で書くだろう。今度はぜひ遠藤さんを連れてきてくれよ」
やがて、この田村大使が遠藤さんと同じくらいバッチイ話が大好きなことを私は知らされた。なにしろ、ウンコだのなんだのという言葉をしきりと発するのである。
奥さまが眉《まゆ》をひそめて、
「あなた、もうおやめなさい。あまりといえば下品ですよ。まだ食事も終っていないのに」
「だって、おれはそれが好きなんだから仕方がない。阿川だって北さんだって喜んでいるじゃないか」
私は言った。
「これから、大使のことをウンコ大使と呼ばせて頂きます」
「ウンコ大使。いや、結構。おれはまさにウンコ大使なんだ。なあ、阿川?」
遅くホテルヘ戻り、翌九月二十一日(日本を発ってからいつの間にかかなりの日数が経った)早朝、コーヒーと水だけ飲み、八時にロビーに集合。今日は田村大使、夫人、令嬢、大使館員と私たち総勢で二台の車で長距離ドライヴの予定だった。
書き忘れたが、ここでは空港からどこからハエが多く、うるさくてかなわない。
市中でも車は滅多にウインカーも出さず、いきなり曲がるし、車も人間もお互いに遠慮せずといった按配で、危ないことである。貧民窟は泥の家で、文明都市チュニスのビル街に比べると悲惨な感じだ。
郊外に出た。一面見渡すかぎりの草原の中を広からぬ舗装された道が通っている。やがて話に聞いていたローマ時代の遺跡、水道の跡が延々と続くのが見えてきた。
そこで車を止め、小休止をする。路傍の枯草に白い花が咲いていると思ったら、それは小さな白いカタツムリであった。気をつけて眺めると、そこらじゅうの草にびっしりとついている。かなりでっかい奴もいる。ずいぶん昔、沖縄へ行ったとき、アフリカマイマイの被害の話を聞いたし、その実物も見た。沖縄では当時、すごく大きな大害虫であるそのカタツムリをシャベルですくってトラックで捨てていた。
ブヨが集まってくる。ロバに小さな荷車を引かせた男が通る。枯れた草原の他にはオリーブの木だけ。
ところで、ローマ時代のその水道の遺跡はまさしく壮観であった。一種の高い橋に似ている。それがずらりと、ずーっと続いている。上方に穴があるというが、いかにして水が流れるのか理解できない。傾斜もないからだ。遠方に低い山があって、往時はそこから水を引いたとの話だ。
「これは、本当にローマ以上だね」
と、阿川さんが感嘆の声をあげた。帝国海軍、乗物のこと以外、いや更に食物と面妖な骨董趣味以外、彼は滅多に物事に感心したりしないのに。
「そうだろ。ローマの遺跡なんてこれに比べたら規模が小さいだろう。ところがチュニジアは観光に熱をあげてるくせに、どういう訳かあまり宣伝もしないんだ」
と、田村大使。
「あの向うの山は何て言うんです?」
と、問うと、
「ザグワン山です。水源地なんですね。昔はあそこからカルタゴまでこの水道が通っていたそうです」
と、大使館員の阿部さんが答えた。
再び二台の車に乗って出発する。赤い屋根の家が点々とあるが、フランス人、イタリア人からとりあげて今ではチュニジア人が住んでいる由。
ユーカリの並木が続くようになった。これはフランスが支配していた頃の遺産という。道の横に立っていて手を差しのべる男がいた。初めはヒッチハイカーかとも思ったが、そうではなく、物売りで、ニワトリを一羽連れていて卵を売っているのだそうだ。
赤い服を着たベルペルとかいう先住民族がいるが、今でも穴ぐら生活をしていると聞いた。べルペルかベルベルなのか、走る車中で手帳にメモした字が乱れていて自分で書いたくせに自分で読みとれぬ。
サボテンの群落がちょっと続く。サボテンという奴は異国情緒があってやはりいいものだ。椰子なんぞより遙かに。もっとも私の兄の長男はアメリカ留学中ひどい目に会った。ヒューストンで画廊をしていた、私も知っている優雅な日本女性(姓はK。中国系アメリカ人が主人であった。お互いにかなりのVIP的人物で、しょっちゅう世界旅行をしていた。私はヒューストンの彼女の家に二度世話になったことがあるし、日本に年に一度は彼女が戻ってくるのでそのたびに会っていた)と長距離ドライヴをしラスベガスヘ向ったが、途中の砂漠のでっかいサボテンに坐って記念写真をとった。ところがこのサボテンが棘《とげ》がないように見えたのに実は棘だらけで、尻からズボンから棘だらけになってしまった。もの凄い悪質の棘で服を通ってチクチクと痛い。そこで女性の前で裸になってこまかい棘をとらねばならなかったという。
九時半頃、またでっかい遺跡に着いた。砂地を歩いてゆくと、サフランに似た薄紫の花が咲いていて、意外な感じを受けた。ディズニイの名記録映画「砂漠は生きている」と同様、砂漠は魔術をも生む。また、そこらの草にさきほどの白カタツムリがやはりびっしりとたかっていた。
真青な空から、ピイピイと雲雀《ひばり》そっくりの鳥の啼声《なきごえ》が降ってくる。ずいぶんといるらしく、あちこちからその可憐《かれん》な声は聞えてくる。
オッサンという感じの番人がいた。赤い帽子をかぶり、黒カバンをさげている。こいつが金をとる。一人二百ミリアム(ディナルの下の単位で、一ディナル=約七百円=は千ミリアム)で、その代り、ちゃんと政府発行の領収書をくれた。この遺跡はティベルボ・マテスと呼ばれるらしい。
私たち一行がゾロゾロと歩いてゆくと、そこらから二、三人の男が現われてつきまとってきた。古貨幣売りである。田村大使によると、フェニキアの金もあるそうだ。デニッシュ時代の金というのは大嘘だそうだ。むこうから、
「ハウ・マッチ?」
などと、そこだけ英語で言う。三十ディナルとも言う。二人の青年と、まだ十歳くらいの少年である。少年は「アレス」などと少しドイツ語をしゃべる。「フォーティーン」とも言う。
小さな観光バスがきて、白人が二十名ほど降りてきた。コイン売りはそちらにつきまといはじめた。
さて、遺跡にはいってゆくと、なかなかしゃれたレリーフのある石がある。白い円柱が立ち、石垣がある。建物のこわれかかったものがある。その偉観に見とれていて、ふと下を見ると、モザイクの刻まれた石の上に私は立っていた。綺麗にまだ真新しくさえ感じさせるまでに残っているモザイクで、なにがなしリスボンの古い地区のモザイクの石畳のことを憶いだした。
番人がまたやってきて、大使一行を案内した。相当の規模の遺跡である。地下水、下水の跡があり、昔はここから水をくんだのであろう。ここは一九一二年から発掘されだした場所で、紀元三世紀、或いはもっと以前のものとも考えられているそうだ。帰途、また古貨幣売りがつきまとう。田村大使は、
「このコインはまがいものではないですよ。なぜならチュニジアで贋物を売ると法律で罰せられるからね」
と言う。番人もいることだし、その言葉は信じたいが、私はあくまで買物が嫌いなのだ。阿川さんも大使も買ったらしいが、私は、
「うるちゃい。黙れ」
などと日本語で言って相手にしないで、そそくさと歩いた。それでもあまりしつこいので、つい青年の一人に煙草を一本やる。いや、むこうが要求したので、まきあげられたというのが実状である。
少年が今度は私と女房に掌のコインを示し、
「アレス、アハト」
などとドイツ語で言う。
「ナイン・ダンケ!」
と言っても、なおずっとついてくる。自分に都合のわるいドイツ語は知らぬのかもしれぬ。
車まで来たとき、私はかつてエジプトの悪徳商人を値切り倒したときの体験から、車に乗ってしまえば、値下げをするだろうと砂漠のキツネのごとき智慧をしぼりだした。一つの緑青色の古貨幣が正直のところ欲しくなったからだ。
「いくらだ?」
と訊くと、
「ノイン(九)」
と言う。
私は車内に乗りこみ、
「ナイン! ゼックス(六)」
と言った。少年は七ディナルまで値引きした。私は車が走りだそうとしたら、六ディナルにするだろうと信じて、あくまでその数字を繰返し、あとは知らんぷりをしていたら、案に反して少年は向うへ行きかけた。
そこで慌てて呼びとめ、結局七ディナルで買う。いささかしてやられた感じ、或いはいささかみっともない思いである。
ふたたび同じようなかなりよい道を車は走りだす。道をしばしば羊が横ぎる。ときには牛やロバも。車はかなりのスピードで走っているので危ない。平原にラクダの姿がチラホラする。
十一時過ぎ、ケイルウアンという町に着いた。チュニスから百五十五キロとのこと。私は日本ではこんな長距離ドライヴをしたことは一度もない。
その町は綺麗で、古いモスクがあった。広い中庭にはいったが、建物の内部の茣蓙《ござ》が敷いてある部屋には外国人ははいれない。中庭の一隅に井戸があり、少女が一人、二つのバケツを下げて水くみにくる。井戸の綱をたぐって、バケツに水を入れた。たしか阿川さんが手助けしてやったように記憶している。その井戸の深さは五メートルくらいで、綱をたぐるにも時間がかかるからである。
中庭の中央には日時計があった。日時計は母との中近東やエジプトの遺跡めぐりの旅でも見たが、私はこうした古代の代物についての知識がすこぶる弱い。
なにやら由緒ありげなモスクらしいので、大使館の人に尋ねると、
「九世紀頃のものでしょう」
そのうえ彼はぶ厚い本を開いて(チュニジアの案内書なのであろう)調べてくれた。このモスクは紀元八六六年、チュニジアでいちばん古いものなのであった。当時、ベルベルとアラブが戦争をしてアラブが勝ったが、そのアラブの最初の都がこの町とのことである。
再度、車に乗って出発。町はずれに墓場があり、白い墓石がずらりと並んでいる。日本の墓地は概して陰鬱だが、外国の墓場は美しく、花も一杯飾られていて華やかなことが多い。この墓場は別に花もなく、ただ白い墓石が並んでいた。ふと、かつてニューカレドニアの首都ヌメアの墓地で、外人の墓が美々しいのに、明治時代に移民した日本人の墓のみが重々しく沈んでいたことを憶いだした。そのなかに一つ、ただ「日本人の墓」と記された墓石があった。名もなく金もなく異境に死んだ人々の共同の墓石である。あのときは、胸が一杯になって涙があふれそうになったものであった。
また広々とした平原となる。大使館の人が、
「アルファザイという雑草がこの辺に生えています。これが紙を作る原料となります。日本も輸入しています」
と、教えてくれる。
次第に光景がより南国的になり、椰子がかなり生えている。平原にも緑の色が多くなり、四角い小さな石の家が点々と見える。小さなラクダが沢山いた。
道路のみが立派である。そもそもアスファルトの舗装は、一九二〇年頃パリで初めてできた。とにかく道が良いから車は相当のスピードで走る。しかし、大使たちの乗っている車は専門の運転手だし、私の乗っている車は大使館員の阿部さんだから、阿川さんの運転よりは安心感がある。
正午すぎ、ちょっとした町を通る。白い家々のブラインドなどがブルーの色で綺麗であった。聞くところによると、いわゆるチュニジアン・ブルーというのは四色あり、家に白とブルーを使うように法律まであるそうだ。
すぐと、目的地であるスースの街に着いた。海がみなぎる陽光の下で群青《ぐんじよう》に輝かしい。リーフがあるわけでもないのに、ところどころその色が変っている。泳いでいる人も一杯いた。
ここに着いたのは十二時十分、あと田村大使と阿川さんと私の三人が汽車に乗って帰る予定で、あまり時間がなく、大急ぎでホテルの食堂に入る。食事をオーダーするのもせかれる思いで、みんな定食を頼む。ただ、二種類をとり、それぞれ味わってみることにした。と、こう書いたが、実は何を食べたか、一体どんな味がしたか、丸っきり覚えていない。あまりうまくなかったことだけは確かである。
ホテルの庭にパウム・トリーとココナッツの椰子が生えていた。前者は幹が太くあまり高くない椰子で、後者はその反対に幹がほそくキリンの何倍も背が高い。
あ、ここまで書いたら、メモ帳の先のページに食事のことが記されているのに気がついた。それによると、そのチュニジア料理は、ジャガイモ(この地で沢山とれる由)にひき肉をつめたもの、魚はタイにちょっと似た奴、その他はメモ帳に書いてないのでわからない。
慌しい食事をすまして、やっと落着いた気分で西瓜《すいか》を食べている間、
「ハイ、あと一分、四十五秒前、三十秒前……あと五秒。はい、終り」
と言ったのは、むろん阿川さんである。
自分はチョコレート・ケーキを得意の食いしん坊と素早さでとうに食べてしまっているからだ。
「イヤガラセをしてやる」
と、なんともいえない表情でこちらを睨み、あとでにやっと笑った。幼児のごとき笑顔である。しかし、駅までたった二分の由で、まだ十何分も余裕があった。なんという御仁なのだろう、この阿川弘之という男は。
やがて、田村大使と三人だけ駅へ行く。切符切りが、入口にのんびりと坐っている。午後一時四十分着、四十三分発予定の汽車である。
「遅れないと言っとるのですが」
と、駅員の誰かに聞いてきた阿川さん。
それでもどうも遅れそうである。プラットフォームに出て、線路を眺めると、狭軌で日本のそれよりもっと狭い、枕木でなくコンクリートをボルトでとめてある。阿川さん、手を広げて、駅員に線路の幅を問うているが、結局、言葉が通じないようであった。
それでもわずか三分遅れて、空色に塗られた意外に瀟洒《しようしや》な列車がやってきた。
乗りこむと、冷房も利いていて、コンパートメントではないが、想像していたよりずっと立派な車内であった。窓硝子にビンの絵が描かれ、/≠フ標識が記されている。その窓は開くが、ビンを外に捨てるなという意だと判明する。
しずかに、ごくスムーズに動きだした。オリーブ畠の間を次第に速度を増してゆく。
「何キロくらいの速度?」
「今、キロ・ポストを捜してるんだが、なかなか見当らん」
阿川さんがキロ・ポストと時計を睨んで汽車のスピードをパッと計算するのは得意な芸なのだが、私にはてんでその理屈さえ理解できぬことだ。
そのうちに、阿川さん、珍しく居眠りを始めた。汽車に乗れば、狂気のごとく(いや、このゴトクは不要であろう)はしゃぎ、トーマス・クックの時刻表をわきにメモ魔と化する彼としてはまったく異常なことで、私はそんな阿川さんの姿を初めて見た。もともと異常な人物が更に異常な様子を示すのは、不気味なことと言ってもよい。
田村大使と私も目をつぶった。さすがに早朝からの長距離ドライヴで疲れていた。それでも大使は、やがて、チュニジアのテレビのことなどを話してくれた。
イタリア語の放映は午《ひる》頃から、現地語は夕方から、午前十時半から一時間フランス語でやるそうだ。そうして、およそ一時間も経ったろうか、とある駅に停車すると、阿川さんパッと目を開き、パッと立上り、パッと列車から出ていって、パッとその姿は消え、なかなか戻ってこない。
私は大使が三つ持ってきてくれた缶ビールをあけ、飲みはじめた。そこに阿川さん戻ってきて、だしぬけに大使と海軍の口頭試問の話を始める。陸軍と違ってさすが海軍、なかなかしゃれた試験をするようであったが、その内容は忘れてしまった。知りたいと思われる読者は阿川さんに手紙を出せばいい。そのときは「阿川弘之提督閣下」と書くこと。そうすれば彼は狂喜乱舞して返事をくれるに違いない。
途中何の話もなく(これは虎造の石松代参の台詞《せりふ》で本当はかなり話はしたが)、チュニスの駅に三時五十分に到着した。
連絡がしてあったらしく、大使館員が出迎えてくれた。駅の構内で大きな穴のあいた丸パンを売っている。パン一つにしても、国によってそれぞれ違うので興味深い。外へ出ると、もっとさまざまなパンを売っていた。
阿川さんは旅程を変更して、大使と一緒にシシリー島へ行く(これは昨夜から相談していた)というので、近くのホテルの旅行社へ歩いてゆくことになった。その附近のカフェー・テラスはコーヒーやコーラを飲んでいる人々で満員で、私はそこらで何か飲んで待っていたかったのだが、仕方なしに二人についてゆく。ともあれ、街の景観、人々のスタイルはヨーロッパとアラブが入りまじっているという感じを更《あらた》めて受けた。
或るビルのチュニス・エアーの事務所へ行って、私は片隅の椅子に腰かけていた。向うで大使と阿川さんが社員と旅行の相談をしている。と思ったら、阿川さん、憤然とした形相でそこを出た。他の旅行社へ行くのだという。道々、
「なにしろ、あそこじゃ、汽車や飛行機のスケジュール表を見ようとしたら、ダメだと言いやがった。秘密書類だと言うんだ。なにが一体秘密なんだ」
大使も同様なことを話した。別のビルヘ行って、そこの旅行社では万事オーケーになったらしく、阿川さん機嫌を直し、
「私はいろいろ曲芸をしますので。そのあと、またローマで落ち合いますから」
と、いやに丁寧な言葉遣いをする。
五時にホテルに帰りついた。六時、スースで別れて別な道を通って車で帰ってきた女房も着いた。それから「幽霊」氏と四人で大使館公邸へ行く。
この国のディナル紙幣には実にいろんな札がある。五ディナル札にしても二種類あると聞いた。インドのコインのようなものだ。
夕食の前に、まだ夕景が美しいというので、公邸のすぐ近くのシリブ・サイドという高級住宅地を見学に、みんなそろって歩いて行った。ジッドなどもかつてここに住んでいた由。芸術家が多く住んでいた。
建物はほとんどすべて白い。そこにブルーの窓がある。白とブルーは、先に法律と書いてしまったが、よく聞いてみると条例なのだそうだ。観光立国をめざしているので、綺麗にという思惑が主なのであろう。たとえば、パリでもネオンとか建物の色が制限されていて、日航の支店も赤が使えないように。
ところで、そのシリブ・サイドにはホテルもある。さまざまな土産物屋もある。赤い花を飾ったレストランもある。これはあるとき、政府と喧嘩して店を閉じたという。服屋もある。女房がまたあちこちウロチョロするので、こちらは気が気でない。奇妙な壺を売っている店があった。これは私も興味をそそられたが、再々述べたようなケチ精神からむろん買わなかった。第一に荷が重くなる。これは非力な私にとっては大変なことなのである。桃太郎をアイロニカルに「気は優しくて力もなし」と称している。
狭い石畳の道は情緒があった。八百屋の店先にはさまざまな野菜の他に果物を売っている。また女房がしきりと物欲しげに目を妖しく光らせだした。告白すると、町で果物を女房が買って得をしたと思ったことが一度だけある。それは「木精《こだま》」の取材旅行でドイツヘ行ったとき、ハンブルクやチュービンゲンで、彼女はサクランボを買った。赤い奴と黒ずんだ奴とがある。こいつが実においしかった。女房が何かを買って幸福感を覚えたのは、このただの一回きりである。
ジッドが毎日来ていたというカフェーがある。この一帯は名所になっていて、観光バスがやってくる由。最後に、海も暮れかかってきたので、燈台への道を上りかけたとき、ほんの小さな少女が現われ、何か私たちに言った。フランス語である。
「ボンボンをちょうだい」
と言ったそうだ。
公邸に戻り、夕食が始まる。田村大使は、
「月給がまだこないから、青本君(大使館員)に借金して阿川とシシリー島へ行こう」
と言った。彼はこの地に赴任してまだ二週間経たないとのことで、ちょうどよいときに私たちはやってきたわけだ。
前菜にはカラスミが出た。大使夫人が言うには、パリにキャビアとカラスミを売っている専門店があるが、チュニジアにもある。今日行ったスースの少し先にあるとのことであった。カラスミといえば、戦前は日本には台湾からきた。私の父はそれが好物で、ごく薄く切り、子供たちにもちょっぴりごく稀に与え、あとは自分一人で食べていた。「マンボウ航海」のとき私はエジプトに寄ったが、そこでカラスミが名物の一つであることを初めて知った。それは大きくて安いが柔らかいもので、かなり種類も味も違う。
食事中、田村大使はまたしきりと例の話をする。夫人がいくらとめてもいっかなやめない。
「おれは遠藤周作と同様、汚い話が大好きなんだ」
「それでは、あなたのことをこれからウンコ大使と呼んでいいですか?」
と、私は更めて言った。
「いいとも。うん、ウンコ大使。実にいい名だ」
「呼ぶだけじゃなくて、そう書きますよ」
「結構。ウンコ大使。まさにおれにピッタリだ」
夫人、お嬢さん、それほど嫌な顔はしない。もう慣れてしまっているのであろう。
阿川さんも、
「ぼくはピーが今日、やっと直った」
と、これまたバッチイ話をする。
食事のイチジクがおいしかった。汚い話をさんざ聞かされたが、私はそんなものにビクともする男じゃない。おいしいものはおいしい。
また大使の愛犬の話になった。かつて同じく飼っていた猫と、まさに犬猿の仲だったそうで、その猫の名はチュビといった。猫は十年前に死んでしまったのだが、チュビと言うと、犬は怒って吠える。初め、猫が先にいて、のちに田村家の飼犬となった血統書つきの名犬も小さくなっていた。その恨みが未だに残っているのだという。
フランス製の薄荷《はつか》の茶が出る。これまたおいしい。昼間、田舎の遺跡でほんの少年が少しドイツ語をしゃべったのをいぶかしげに思っていた私は、大使たちの話を聞いていてハタと合点した。この地方は、かのロンメルとモントゴメリーの戦車軍団が死闘をやらかした場所なのであった。フランス語が外国語でもっともよく通ずるのは当然だが、ドイツ語もかなり通ずるのは、現在のドイツ人観光客のせいだけではなく、歴史的事実が厳として横たわっていたのである。
ついでにキザだが、私のガクをちょぴっと披露すれば、パウル・クレーも一九一二年、チュニジアに旅した。ピカソは乱視の所産と思っている私だが、クレーの絵は大好きである。広い意の印象派でクレーは私のベスト・スリーに入る巨匠といってよい。スイスのベルンで生れた彼は、やがてドイツのミュンヘンヘ行き、イタリアヘ旅してはもっと絵画へ目を開いた。やがて彼はスイス人というよりドイツの中心画家となるが、チュニジアに旅して「すべての色彩は私の目に焼きつく。(この辺は実はあやしい。記憶がおぼろだ)私は画家なのだ」という意の日記を書いた。クレーは両親が音楽家だったので、幼いときからバイオリンを弾き、これは晩年までつづいている。彼はモーツァルトが好きだったが、妖精《ようせい》の世界に住んでいながら、実はかなり醜いもの、意地悪きもの、攻撃的といってよい絵を描いている。なかんずく自画像がそうだ。天使の絵も沢山描いたが、晩年の「死の天使」などは死の予感と絶望と反抗とを表わしているともいえる。ここがモーツァルトとは違う。ヒットラーが政権をとった年から、ワイマールのバウハウスで教授であった彼もナチに追われて故郷ベルンに戻った。そして一九四〇年に死亡した。最後の最後まで、病院の中でも絵を描き、バイオリンも弾いていたという。合掌。
夜十二時すぎに愉しかった田村大使一家に別れを告げ、ホテルに帰ったのは一時。「幽霊」氏、今度は自分が「ピー」になったという。どうも次々とやられる。私、女房、阿川さん、「幽霊」Tさんの順。
これはなぜかと旅の間もつらつら考えたが、一つはスペインで殻もあかなかったアサリをむさぼり食った説は否定し、次にはミネラル・ウォーターも古くてあぶないのではないかと考えたが、帰国して阿川さん、Tさんの意見も参考にして愚生もつらつら考えてみるに、最大の原因は氷にあったのではないか。氷は現地の生水から作られる。その水が曲者なのだ。それ以外の理由は暑熱と強行スケジュールくらいしか考えつかぬ。
今日、阿川さんと話だけの賭をした。阿川さんは君の奥さんはきっとまた何か買ってくると言い、私はそれに反対した。なぜなら、私はほんのハシタ金しか彼女に持たしていなかったからである。ところが女房の奴、敷物を八ディナルで買ってきやがった。買得と言われたから買ったのだと弁解する。いつも弁解はするが、なおかつ買物をするのをやめようとせぬ。
その夜、私は寝酒をかなり飲んだがなかなか寝つけず、かつ暁方だったか、嫌な変な夢を見た。
一面では確かに皆さまの御好意のおかげで愉しい旅といえるが、反面、つらい、苦しい、悩ましい旅でもあると言ってもあながちホラにはならぬであろう。まだ躁期の始まらぬ私という小物にとっては。
女房が買物をするたびに、阿川さんが言ったものだ。
「お宅の旦那はいつもあんなフグ提灯みたいにふくれるんですか?」
と。
九月二十二日、朝九時、チュニス空港を離陸。行くさきはアテネだが、いったんローマに降りて、またアテネヘ帰ってくるといった複雑なスケジュールである。
機内の朝食に葡萄が出て、これはかなりおいしかった。ローマ上空にくると、女房が、
「赤い屋根が一杯で綺麗ね」
と、一端《いつぱし》の芸術家のような台詞を言う。
ここでTWA航空に乗り継ぐのだが、トランジットだから簡単にすむと思っていたら、カウンターで飛行機の切符をとられ、ずいぶん待たされた。やっと、「こっちへ来い」と係員に言われてヤレヤレと思ったところ、今度はパスポートも寄こせと言われ、トランクを開けられてかなり念入りに調べられた。更にレントゲンで手荷物検査。時間がギリギリなのでイライラする。
ボディ・チェックにしても、阿川さんはまことに念入りにやられ、ボールペンまで調べられている。私はそのあとだったせいか、すぐパスされた。
一体この厳重な検査は何事だろうといぶかったが、あとで聞いたところによると、どうやらハイジャックの犯人か、赤軍派のような危険人物が乗るという秘密情報がはいったためらしい。それにしても、私たちはほとんど駈けるようにして荷を運んだり、
「時間、大丈夫か?」
などと言いあったりしたのだ。
十数人、私たちを含めて遅れた乗客がようやくバスに乗り、飛行機に乗りこむと、すでに満席に近く、ノー・スモーキング・シートに坐らされてしまった。
機が飛び立つと、阿川さんは前に一つ空席があったので、そこへ移って煙草を吸う。私もそれに倣い、ずっと後方の席に空席を見つけ、そこで煙草を吸った。
食事のときは一々席を立つのも面倒だからむろんそのまま煙草を吸う。スチュワーデスが来るとサッと消す。窓際の席の阿川さんが、
「ぼくも吸うかな」
「スチュワーデスが来たら知らせますよ」
「中学生が煙草吸う感じね」
一時十七分アテネ着。もっともこれはチュニジアから時計をそのままにしておいたので、ギリシャ時間では三時十五分であった。
阿川さんは主に日航を使っているし、乗物キチガイで日航の初路線のときなど必ず招待飛行に乗っているので、日航の人が出迎えてくれた。
ただ、ロイヤル・オリンピックというホテルに予約しておいたはずなのに、そうなっていないという。阿川さんだけだという。仕方なしに「幽霊」氏と私と女房はホテル・キャナベルに部屋をとった。
夜、日航の招待で、八時すぎ海辺のレストランヘ行く。ヨットが暗い海に一杯もやっていた。
そこは海のすぐわきの大きな店で、八時すぎというのにまだ席はガラガラであった。しかし、注文をするのには、道ひとつをへだててその店のあんがい小さな本店へ行って、エビ、魚、貝などを品定めして決める。タコもあった。私はタコはイタリア人くらいしか食べぬと思っていたのだが。これは茹でてオリーブ油をかけて食べる。
元の広い屋根もない場所に戻って待っていると、やがて次々と料理が本店から持ってこられる。アサリとハマグリの合の子みたいな貝。まだ生きていて、レモンをかけるとピクッと動く。ちなみに、日本では今はレモンは安いのに、薄切りにしたものしか持ってこない店が大部分だ。外国では半分に切ったものがたっぷりつく。
カキもむろんとったが、フランスのものよりはまずい。小さなイワシの油であげたもの、こいつが素敵にうまい。レモン汁とよく合う。ホタルイカの空揚げは一人に一皿ずつきた。これもうまく、阿川さんむさぼり食うも、いささかとりすぎた。
白ワインは地酒をとったが、軽い辛口で貝類によくあう。およそ千二百円ほどと聞いた。とにかく日本では外国の葡萄酒は高すぎる。ロブスターも半身に作ったものがとどけられた。
そうして食べているうちに、九時半頃になると、席がようやくほとんどふさがってきた。
「フォト、フォト」
と言う写真屋が来る。「幽霊」氏は英国で阿川さんの運転する車のナヴィゲーターの役をやったわけだが、難解な市中では地図と首っぴきしているくせに何も言わず、やっとハイウェイに出ると、
「このまま、まっすぐ」
と言ったことは紹介した。
しかし「幽霊」氏はカメラに強く、私たちの写真から風景から撮ってくれたが、その技術はなかなかのものであった。それゆえ、私たちは、「フォト、フォト」と呼びかける写真屋には用はなかった。
花売りのお婆さんも来る。光るヨーヨー売りもくる。愉しく、かつおいしい店で、支店長の亀井さんに訊くと、「カナリス」というレストランだとのこと。
この亀井さんが商売柄もあって、最近の日本の事柄にくわしい。知っている人は知っているように、私はキチガイじみた阪神ファンである。そのためシーズン中は仕事量が減ってしまう。巨人阪神戦のときなど、夕食前からソワソワしていて、まずラジオをつけ、テレビが始まるとそれを観《み》、テレビが終るとまたラジオに切りかえる。その間、マジナイ、ジンクスのため、ヨガのポーズをとったり、茶を飲むかと思うと相手のチャンスには飲まなかったり、煙草もこれと同様。かつ、「それ、遠井、老いぼれてもおまえは男だ。かつての四番打者だ。ここで一本打って男となれ! 頼む、遠井。滅多にない代打なんだぞ。バカ! あんな球を見送りやがって。ああ、ああ、……やっぱりダメだったか」などと、転がったり、わめいたり、怒鳴ったりする。そのため、試合が終った頃には心身の労苦のためクタクタだ。これでは仕事なんぞできっこない。
旅の間も、ずっとタイガースの成績が気になっていた。しかし、マドリッドの大使館でも、ましてチュニスの大使館でも日本の新聞は来るがかなり遅れるので、正直の話、ヤキモキしていた。
しかし、支店長の話では、今、巨人と阪神のゲーム差四・五とのこと。まだ希望があると思う。亀井さんは相撲のこともくわしい。何でも知っている。カキの話になると、彼はシドニーでは一年じゅう食べられると言った。
阿川さんは彼とペキン―ヨーロッパ航路のことを熱心に話していた。亀井さんの語るには、ペキン―ウィーンとなる予定とのこと。そうなれば、またヨーロッパヘ早く行けることになる。
ゆっくりと愉しい食事を終えてホテルに戻ったのはかなり遅い時刻であった。昼間は暑かったが、夜は涼しく、いや、冷えるくらいといってよく、上着を着てもまだ涼しいくらいであった。料理屋を出て車に来るとき、雨がポツポツ降ったりした。しばらく前はアラレが降った由。そのあとは晴天ばかりがつづいたという。やはりこの年は世界のかなりの国、なかんずくヨーロッパは異常気象と言ってよかったであろう。
小田さんという日航の人に、僻地《へきち》の旅と思って日本から持参したカップ・ライスと、これまたちっとも読まず無駄になったクリスティの本をあげようということになって、ホテルの部屋まで来てもらった。
ところが、自室についてドアを開けようとしたら、どうしても開かぬ。なんとしても開かない。小田さんは「幽霊」氏の部屋に行って、そのむね電話をしてくれた。しかし、二十五分経っても誰一人、ネズミ一匹やってこない。
小田さんは、
「この国はこうなんです。私が行ってきましょう」
と言って、わざわざエレベーターで下へ降りていった。やがて、ようやくやってきた男はマスター・キイを持っていて、すぐドアを開けた。そして、そのまま帰ろうとした。
私は念のため、またロックして、自分のキイで開けようとすると、またしても開かぬ。慌ててもう姿も見えなくなってしまったさっきのボーイだかなんだかを呼び戻してもらい、事情を話すと、つまるところこうであった。私は普通のホテルのように内側のポッチを押してロックしたわけだが、そうするともう開かなくなるのだという。ホテルによってとんでもない錠をとりつけたりするから、こっちは難儀をする。
小田さんの話では、かつてはアテネのホテルでは鍵など壊れることが多かったとのこと。理由はわからぬ。ギリシャ神話のゼウス以前の神々が荒っぽくて戦争好きな点を、今のギリシャ人も受継いでいるのか。
小田さんが帰ったのは、そんな突発事件が起ったため、もう真夜中、十二時ちょっと前であった。
口惜しいから、そんな時間にルーム・サービスでまたミネラル・ウォーターの大びんをとる。睡眠薬(私は分裂病患者に使用するクロルプロマジンという薬を主に服む。これは睡眠薬とは違うのだが、その副作用で持続睡眠によいからだ。それにトランキライザーのたぐいを二種使う。そのためか、私は躁鬱病患者にはなっても精神分裂病者にはならぬようだ。もっともクロルプロマジン、日本の或る薬品会社の製品名はコントミンというが、これは躁病を抑えるためにも使う。ところが私は鬱病のときにもこれを服まぬと眠れないのだ。これは逆効果で鬱がもっとひどくなるはずなのに)をいつもより多目に服んで、ウイスキーもたっぷり飲んだ。明日は久しぶりに寝坊ができるし、またそうしてやろうと思ったからだ。
女房はとうに眠っている。大イビキをかいて、と書いてやりたいが、正直の話、彼女はイビキをかかぬ。私のほうが凄いイビキをかくそうだ。このことを私は初め信じなかった。そりゃそうだろう、当の本人は眠っているのだから分りっこない。ところが女房の奴、娘と一緒に私の大イビキをテープにとりやがった。それで私は初めて自分が凄まじいイビキをかくことを知ったわけだ。これはちっとも恥ではない。VIPはイビキでも何でも「大きいことは良いことだ」からだ。
私はウイスキーを飲みながら、イビキもかかずたわいもなく寝入っている女房の小物ぶりを軽蔑していたのである。
朝早く、ちょっと目覚めたが、十一時まで寝た。日本に於けるがごとくゆっくり眠れたのも久しぶりのことである。
その間、女房、美容院などに行きおる。四十ドラクマでチップを五ドラクマ置いてきたとのこと。
午《ひる》すぎ、スナックで「幽霊」氏と一緒に食事をする。女房は地元料理のムサカ、これは茄子《なす》とひき肉をはさんだ一種のグラタンであった。「幽霊」氏はスパゲッティ、食欲のない私は何を食べたか忘れた。アムステルというギリシャのビールはまあまあの味。
食事中、「幽霊」氏から、本当は阿川さんの泊っているロイヤル・オリンピックというホテルの部屋が自分たちの二室もとれていたという話を聞く。このたびの旅行で、二、三度、このような手違いがあった。
食後のコーヒーは、ギリシャ・コーヒーにする。小さなカップで、ちょっとココアに似た味がする。砂糖は初めからはいっている。ところで、旅の始まりで僥倖《ぎようこう》のファースト・クラスに乗れて気をよくした私は、アフリカヘ渡る頃には次第に元気が出てきて、躁病とまではいかないが、アテネに着いたときにはやや躁期となっていた。手帳のメモに、女房が、
「あなた、あまり大きな声、出さないで」
と言ったと記されている。
この日は別のホテルに泊っていた阿川さんはどこかへ汽車旅行に出かけたはずで、私たちだけ三人、とにかくパルテノンを見に行こうということになった。
「幽霊」氏は写真と地図にはくわしいと言ったが、前述のごとくカメラには強いが後者は当てにならない。私は先に母とのケニア、タンザニアの野生動物見物の旅の帰り、アテネに寄り、生れて初めてこの神聖で光に満ちた古代ギリシャの大建築を見た。そのときはさすがに感激したものだ。その感動は言葉では言い表わせられぬ類《たぐい》のものである。なんという燦然《さんぜん》とした文化、神話以来の伝統がこの白い神殿に凝結していたことか。
メソポタミア、エジプトの文明、ローマの偉大さ、シナの文化、その他|諸々《もろもろ》の巨大な驚嘆すべきものは数知れぬ。
ホメロスの大叙事詩、ラブレーの途方もなさ、ドストエフスキーの狂気、ゲーテの躁鬱病、大デュマのすばらしき生涯、マーク・トゥエーンのとてつもない面白さ、ディケンズの表現以上の物語性、ジョイスの前衛小説、トーマス・マンの波乱に富んだ祖国での栄光とその亡命と最後の美しきチューリッヒ湖畔のその墓。さてはアレキサンドル大王の遠征、ナポレオンの英雄ぶり、ヒットラーのヒステリー、チャーチルの落着きとジョーク、ルーズベルトのずる賢さ、ドゴールの威張りくさった態度とパリを白くしてしまった大失敗、ロシアの偉大な革命家たちと現在の腐敗ぶり(|中 国《レツド・チヤイナ》も似たようなものだがこれよりはよいように思う)、最近ではカーターの「フー・ジミー?」に始まる高尚な選挙戦術と西部開拓精神につながるその勝利。その当選後の初演説はいささかヒットラーにも似、群衆の歓声は「ハイル! ハイル!」の熱狂ぶりにも似ていた。
もうやめよう。こんなことを書き記すのは、そもそも私の柄ではない。
ともあれ、タクシーに乗りこんだ私たちであったが、なにせ私は地理オンチだし、「幽霊」氏はナヴィゲーターとして視覚ゼロであることは先に書いたとおりである。タクシーはどんどん走る。はっきり、「パルテノン」と言ったはずなのに。
さすがに所要時間と周囲の町並からどうもおかしいとにぶい私も気がつき、注意したら、はたして運転手が場所を間違えていたのであった。或いは私たち日本人をカモと見なして、わざと遠廻りをするつもりだったのかもしれない。
かつてのギリシャ人たちは一体どこへ行ってしまったのか。その繁栄から見ると没落の一途であると言える。その人間性はともかく、幾多の彫像に見られるあの人間の肉体の極限さまで失ってしまっているようだ。もっとも私はアテネとその郊外くらいしか知らぬのだから、まして今回を含めてほんの数日しか滞在していないから、これは半分は暴言かもしれない。たとえば、ソビエトヘ行けば概して、ビア樽以上に肥満したお婆さんばかり目につくが、オリンピックに出場する女子体操選手はあのようにすらりとして可憐で美しい。
二度目のパルテノンにもやや失望した。前回のとき、古めかしい箱型のカメラをすえた写真屋が一杯いて、私は面白かったから、撮られる役割よりも、彼ら時代離れをした写真屋たちの写真をしきりに撮ったものだ。その古風燦然とした写真屋がいない。パルテノンの見えるところまで来て、やっと二人見つけた。
先に来たときは、いざ神殿のある高台までずいぶん長い坂やら階段やらを登った記憶があった。それで私は、「幽霊」氏や女房に、
「これは登山ですよ。相当疲れるから」
と言っておいたのだが、観光客の群がる階段を少し登ってゆくと、あんがい簡単に一番上に着いてしまった。
或いは前回のときはバスがもっと下で止って、そこから歩いたのかもしれない。
初ガツオでも何でも最初の体験、感動というものは大きいものだが、白亜の殿堂もかつてのような感動を引起してくれなかった。それはあいにくとちょうど修理中で、内部にはいることが許されなかったことも一つの原因と言えたろう。かつて私はその真白な大理石の大円柱のわきで、一つの古い石に腰を下ろし、三十分以上も瞑想《めいそう》にふけったものだったのに。
それが今は、パルテノンもエレクテイオン神殿も薄黄いろく塗られた鉄のパイプで一面を囲んであり、「ASCENT IS NOT ALLOWED」と書いてあって、うっかりその階段に一足でも足をかけようとする者がいると、二人組の番人があちこちにいて「ピー」と笛を吹いて注意する。
ずいぶんと高い場所のせいか、日がかげってくるとひいやりとする。また太陽がさすと、白い大理石は輝くが、前回のような心の深部から立ち昇ってくる感動はもはや味わえなかった。
「幽霊」氏はしきりと写真を撮り、女房は初めてなのでお上《のぼ》りさんよろしくウロチョロしている。私はむしろ展望台に立って、眼下の美しいアテネの町並を眺めていた。
それから、これは前回は見損っていた博物館に入った。馬に乗った裸体姿の像などを見ると、昔の日本の馬のように、過去のギリシャの馬がずいぶんと小さいことがわかる。人間の足のほうが馬の腹のはるか下になっている。また、ペニスをつけた裸体像がかなりあったが、これまた私の出る幕ではない。
例によって、またこのときは躁期の訪れのせいもあって、私の見物は素早い。女房がノロノロしている間に、二回半、館内を歩きまわった。「幽霊」氏がこれまたのろい。のみならず、そこを出てから彼の姿が消えてしまった。女房と二人、手分けしてその姿を捜すも一向に見当らぬ。下のごろごろした石は歩きづらく、かつ辷り易い。
「幽霊」氏は幽霊そのもののごとく消えてしまったとしか思われない。私はもう諦めて、女房と二人で階段を降り、そこでしばらく待って見たが、やはりその影だに見せぬ。そこでまた諦念して、もっと下まで降り、観光バスやタクシーが止る場所まで来て、女房が喉が乾いたと言うのでコーラの大びんを一本買い、半分ずつ飲んだ。
一人の日本人に話しかけられる。この人は一般団体旅行の日本人観光客と違って学者でインテリであり、話しかけられても迷惑ではなかった。
そこにやっと「幽霊」氏が現われ、
「いやあ、ずいぶん捜しました」
と言う。もっとさんざ捜したのはこちらなのに。
それから三人で、「幽霊」氏が観光案内書であらかじめチェックしておいた骨董屋街へ行くことにした。
初めのうちは大きな店ばかりでちっともおもしろくもなく、ただ道端で炭でトウモロコシを焼いている光景がわずかに旅情をそそられたくらいのものであった。
どうもおかしいといろいろ捜し、人に尋ねたりして、やっと小さな店の並ぶ道に出た。今度こそ興味津々の、見すぼらしい、その反面、好奇心と安物好みの私にふさわしい場所といってよかった。
竹細工の籠ばかりの店がある。骨董屋には古めかしい鉄兜《てつかぶと》などが並んでいる。SP盤のレコードを売っている店もある。本を路上に並べて売っているので覗いてみると、すべて安っぽいマガジンばかりである。やはり路上にガラクタばかり並べてある所があった。いつのものとも知れないカメラ、その蓋だけ、万年筆、ライター、パイプ、コンパス、それらが乱雑に箱に入れられている。質屋流れのものか、盗品か、そこらで拾ってきたものとしか思われぬ。私はこういうのが大好きだ。そのくせ、やはり何一つ買わなかった。もし帰国後から始まった実に五年ぶりの大躁病の時期であったなら、トラックを呼んで一トンくらい買いこんだかもしれないのだが。
帽子のワッペン、古着の店もある。服屋ばかりずらりと続いている。一軒の小店は軍用品、軍服ばかり。また一軒ではズボンだのジーパンばかり山のようにぶらさげたり積みあげている。靴屋。古タイヤを売る店。皮製品の店ではベルト、皮の葡萄酒入れなど。また見すぼらしい本屋があって、本屋のくせに軒先に壊れかけたような古時計がいくつもぶらさげてある。路上のペーパー・バックス売り。
そのうちに、ようやく少し上等の店になってきた。と思うと、屋台でさまざまな果物を売っている。そしてごく狭い路地があり、パリの蚤《のみ》の市とも似ている。屋台のアイスクリーム屋が、
「ベリグット・アイスクリーム」
と、呼んでいる。
「ノット・タカイ。ヤスイ、ヤスイ!」
と、別の屋台の男が私たちを見ると、そんなセリフを言った。
ホテルに帰りついたのは、もう夕方であった。
阿川さんから七時過ぎ、やっと電話がある。それによると、駅員のストライキがあったそうで、予定の汽車に乗れず、隣の駅へ行って兵隊の運転する汽車で別の方角へ行ったそうだ。その代り、デルフィの神殿も見てきたという。
阿川さんの泊っているホテルに、七時半頃行くと、阿川さんくたびれて腹を空かしていたらしく、私たちの顔を見るなり、
「中国料理に決めた」
と言って、もう歩きだす。せわしいこと限りなき御仁だ。
「歩いて七分」と阿川さんは言ったはずだが、実際はその店に着くまで十四分かかった。彼と旅していると、かように時間の単位も分刻み、秒刻みにならざるを得ない。
その中国料理屋は、予想していたように中国人は一人もいなかった。阿川さん、英語のメニューが持ってこられたというのに、わざわざ漢字のメニューをとどけさせる。いかにシナ料理に関して蘊蓄《うんちく》があるかを見せるつもりだったにちがいない。彼は少年の頃から満洲に何度も行き、かつ戦争中は中国で暗号解読をやってきた。この技術がアメリカに劣ったので、真珠湾奇襲も実はアメリカのごく一部の人にはわかっていたし、ミッドウェイでは空母をすべて失い、かつ山本元帥の搭乗機は敵戦闘機に待ち受けられていたわけだ。なにも阿川さんがダメだと非難する気はさらさらないが、老眼鏡をかけてシナ語のメニューをしかつめらしく見入り、またニコニコしては中国料理のガクがいかに豊かであるかという態度をされると、嫌みの一つも言ってやりたくなる。これは私が意地悪なためではなく、人間すべてに共通する人情というものだ。
ボーイを呼びつけ、なにやらシナ料理の蘊蓄をしゃべっている。
しかし、そうして選び抜かれて運ばれてきた料理は、むろん前菜は普通のとり合せ、海老の団子、牛肉とトマトを炒《いた》めたもの、チャーハンと小海老のヌードル、スープが二種、いずれもおいしかった。阿川|大人《たいじん》に拍手、パチ、パチ、パチ。
デザートは果物とアイスクリームを取った。小粒のアレキサンドリアが種子なしで皮ごと食べるとうまい。それにジャスミン茶。ビールは現地産のものしかなかった。そのほか二千円ほど白ワイン(私の舌には少し甘かった)と赤の小びんを飲んだ。サービス料、税込みで千三百六十ドラクマ。千四百ドラクマを置く。
食事中、阿川さんがこう言った。
「北夫人が、もうなんにも買わないわ、とおっしゃるときはもっと買いたいという意味で、もうなんにも食べたくないというときは、もっと食べたいという意ですな」
と。
彼は真理を述べる男である。さあ、みんなで拍手。パチ、パチ、パチ、パチ!
九月二十四日朝、九時半に日航の車が迎えにきてくれた。
アリタリア航空で十一時十分発のところ、十分遅れで離陸。
ローマには意外に早く着いた。ここの空港で、マドリッドから実はずっと旅を共にしてきた「幽霊」氏と別れることになった。先に阿川さんが買いこんだでっかい陶器の鉢《ボール》は、チュニスの大使館で厳重に梱包《こんぽう》してもらったが、この厄介な荷物の大半を彼は持たされていた。アテネを発つとき、なにせこの地は古代遺跡の本場であるから、石ころ一つ持ちだすことも許されていないし、厳重に調べられるとも聞いていた。しかし阿川大人の妖しげな骨董趣味の荷は、別段なんということはなかった。
「幽霊」氏は、ローマの空港でこの荷をかかえ、慌しく私たちと別れた。一足先に日本へ帰るためである。それにしても、彼には写真をずいぶん撮ってもらって恩を蒙《こうむ》っているうえに、このような重い壊れやすい荷を持たせて帰させるとは、阿川さんも罪作りな御仁と言わねばならぬ。
一方、阿川さんは田村大使とシシリー島で落ちあうため、別の飛行機で行ってしまうので、私と女房二人、空港からスタツィオーネ・ディ・テルミニまでバスに乗る。阿川さんという調停役がいなくなったので、これからは私は一方的に怒れるというわけだ。タクシーに乗らなかったのは、イタリアのタクシーの運ちゃんほど暴利をふっかけるのは文明国随一だと、昔の体験や人の話から知っていたからである。
また、スタツィオーネ・ディ・テルミニは、映画「終着駅」で名高い。この人妻とのつかのまの恋の青年の心境は、かつて私はこの胸に痛いまでに感じたことがある。私の「木精《こだま》」という長篇の主人公の心境は、自己体験からきている。それゆえ、まだ見たことのないこの駅の内部を見たいということが一つ、バス代は安いということが一つの理由であった。
終着駅は帰途にもゆっくり見られるからと、ざっと覗いて、さて、タクシーと交渉にかかった。女房にかけあいをやらした。日航の人から、ここからエクセルシオール・ホテルまでの相場を聞いておいたから、ごまかされないですんだ。運ちゃんは初め、二倍の値を言ったのである。イタリアでは、まず値段を決めてからでないと、うっかりタクシーに乗ってはいけない。メーターはついているが、チップをもっとよこせと、ワアワア、ギャアギャア騒がれることがある。この点、イタリア人は身ぶりが派手だし、イタリア語はケンカ言葉にはうってつけだから、人だかりまですることがある。
それゆえ、空港からタクシーに乗るのはやめて、中央駅までの距離が長いからこの間はバスを利用するのが上策だ。
ホテルに着いて、女房は昼寝をし、私は何をしていたか覚えていないが、ともかく夕方、五時すぎから歩いてスペイン広場へ行くことにする。私の方向オンチは我ながらアッパレなものであるから、仕方なく女房のあとについてゆく。
彼女はホテルの玄関番に訊き、地図を片手に歩きだした。
「おい、本当にこっちでよいのか。ヘンな方角だぞ」
「大丈夫よ。まかしておきなさい」
「そんなこと言って、町並がいやにもの静かになってきたじゃないか」
「黙ってて。あなただったら永久に行きつけっこないんだから」
早くも夫婦喧嘩の兆候は歴然としてきた。珍しく、私は優勢であった。なぜなら、女房もどうやら方角がおかしいと思ったらしく、ときどき道を通行人に尋ねだしたからである。
「そら、みろ! 阿呆、そいつは観光客だ。向うからくるのが地元の人間らしい。あいつに訊いてみろ」
ともあれ、私たちはスペイン広場へなんとか辿りついた。
終着駅と共に、ここにまずきたのは、これまた映画の記憶からである。つまり、「ローマの休日」のヘップバーンがいかに可憐であったことか。彼女もまた私の好みの女性である。以前の躁病期、
「おれはヘップバーンと結婚したくなったぞ」
と言うと、女房の奴、
「ヘップバーンのほうが、あなたよりずっと背が高いのよ。それに、誰があなたなんか相手にしてくれるもんですか」
と、言いやがった。
私はその言葉を信じられなかった。小柄な女性だと思いこんでいたからだ。ところが、この前、映画評論家の水野晴郎さんと対談の席で聞くと、本当に彼女は私より背が高いとのことであった。つまり、共演の外国人男優が長身なので、ヘップバーンは小柄に見えてしまうのである。
それはともかくとして、彼女がスペイン広場でアイスクリームをなめつつ階段を降りてくるところを、カメラマンに隠し撮りされる。これまた、つかのまの王女さまの淡い恋情である。あの映画で、私は一遍にヘップバーンが好きになってしまった。
それゆえ、私はスペイン広場でアイスクリームをなめようと思いたったのだ。
アイスクリームといえば、イタリアはその本場である。ずいぶんと昔のイタリアの本に、たしかクリーム・アイスと記述されていたと思う。このことは調べて私は自分の本に書いたはずなのだが、自分で書いておきながら、もうそのことを忘れてしまった。そのうえ、私はミラノで大アイスクリーム店を見たことがある。相当の規模の店で、それこそ百種を越すさまざまなアイスクリームが売られていた。ちなみに、アイスクリームがうまいのは、アメリカ、イタリア、それからソビエトがあんがいうまい。
スペイン広場の階段には、ラフなスタイルの若者たち、小さな子供から老人に至るまで、それぞれの姿勢で腰をおろしていた。もとより観光客も一杯いる。上方に登っていくと、地面にベルト、飾り物などを沢山並べて売っている。いずれも安物だ。私はそんなものには目もくれず、アイスクリーム屋を捜して、一番上まで登りつめた。すると、小さな屋台があって、コーラなどを売っていたので、さっそく五色のアイスクリームを買い求めた。けばけばしいというより、毒々しき色彩であった。それで私は小さいほうを買った。三百リラである。リラは下落して、一リラが三十六銭くらいになっている。
小さな奴にしてよかった。その五色のアイスクリームは、実にもってまずかったからだ。せっかくのヘップパーンの幻想もどこかへ吹きとんでしまった。
それまで強かった日ざしが、ようやく薄らいで、かげりをおびてきて、やがて暮色が忍びよってきた。
「おれは今夜は和食を食べる。帰りにまたパリに寄るからな。そこでまた生ガキをしこたま食べる。だから、『東京レストラン』へ行こう。ここら辺りにあるはずだ。おまえ、早く捜せ」
ところが女房は、その附近に多い洋服店だの靴店だのに目を光らせはじめたのである。
たしかに、そこらはショッピング街であり、人通りも多かった。だが、私がおもしろくない感情に駈られだしたのも無理ではない。なにせ、私は滅茶滅茶に買物をする、或いは買物をされることが嫌なのだ。
「おい、そんなに店ばかり覗きこんでいないで、早く『東京レストラン』を捜せ」
「でも、あなた、あなたの靴はひどいわ。一足、買っておいたら」
「嫌だ。断乎として嫌だ。靴なんぞ東京で買えばいい」
「だって、イタリア製の靴は、はき心地がまるで違うのよ。日本で買えば高いわ」
「バカバカしい。おれはなにより、荷物がふえるのが嫌なんだ。おれが二十キロのトランクを持てないことくらい、おまえにはわかるだろ? おまえのトランクは引きずれるようになっている。おれのは旧式でそれがない」
「でも、あなたのスーツ・ケース、今、多分十六キロくらいよ。靴の一足や二足くらい……」
「十六キロだって、おれは持つのは御免だ。ヘトヘトになるのだ。おれは気は優しくて力もない。自慢じゃないが」
「気が優しいところを見たのは一遍もないわ。それに、二十キロのスーツ・ケースくらい持てなくって、あなた、それでも男なの?」
「いいさ、男じゃなくったって……。いいか、おれのトランクには、スペインで買ったおまえのブーツまではいってるのだぞ。なんなら、トランクを替えよう。おれのをおまえが持て!」
「いやよ。外人の男性を見てごらんなさいよ。第一、新婚の夜には花嫁を抱いて階段を登って寝室まで運ぶのよ。あなたに、あんな真似できる?」
「あれには、おれもたまげている。おれだったら、いいとこ、三歩だろうなあ。いまじゃ、そもそも抱きあげられんなあ。……おい、こら、余計なことを言わんで、料理屋をさがせ。これでは、まるで場所が違うだろう」
「まだ時間は早いわ。慌てなくても」
「日本料理屋だから、多少早くっても、多分開いてるだろう。ツベコベ言わんで、早くさがせ」
「たまには、あなたがさがしてみたら?」
「一人のときは、それはやる。だが、おまえを連れてきてやったんだぞ。おれが、銀座で迷子になる男だってことくらい知ってるだろう?」
「自慢にも何にもならないわ。とにかく、それじゃ、捜してみましょう」
「いったん、大通りへ出よう。とにかく、この通りではない」
暮色が漂ってきたとはいえ、まだ明るいといってもよかった。私たちはまた大通りへ出て、二つ三つの通りを捜してみたが、なかなか見つからない。
「あなた、道に馬糞《ばふん》があるから、気をつけて」
「馬車がいるからだ。そのくらい、おれは心得ている。まだ見つからんか。よし、おれも訊いてみよう。おまえはあっちの方へ行け」
しかし、やはり店を捜しあてるのは女房のほうが早かった。「束京レストラン」は、すぐそばだったが、あんがいひっそりと目立ちにくかった。というより、まだ店がやはり開いていなかったからである。
「ほら、七時から、と書いてあるでしょ。慌てることはなかったのよ。まだ十五分以上あるわ」
「そんなことくらい、おれはちゃんとわかっている。ただ、尋ねあてておかんと、不安なんだ。なにせおれはとことんまで地理オンチだからなあ」
「ちょっと、さっきの店を見てきていい? そんな顔しないでよ。見るだけで、買うんじゃないんだから」
「いかん。おれが、いったん、いかんと言ったら、それこそ絶対にいかんのだ。雷が落ちようが、地震が起ろうがだ」
「あなた、ヘンよ。なにか久しぶりに躁病になってきたんじゃない? あたし、気がかりだわ」
「何が気がかりだ? おれはここ四年間、躁らしい躁がなかったろう? 夫が元気になれば、妻として喜ぶべきだ」
「だって、あなたの悪性躁病には、もうコリゴリしちゃったわ。やることが、すべてデタラメで……」
「まだ躁病になったかどうかわからんじゃないか」
「声がだんだん大きくなってきたわ。アテネ辺りから。それに、言うこともヘンよ」
「どこがおかしいっていうんだ? おれは、いやしくも専門家だぞ。それに、躁鬱に関しては、おれ以上ガクのある医者はおらんだろうなあ。おれは精神科医で、また患者《クランケ》なんだからなあ」
「そう威張るのがおかしいのよ。さっきのお店、覗いてみていい?」
「ダメだ。それより、さっき、カフェー・テラスがあったろう? あそこへ行って、何か飲んでいよう。どうだ、そのほうが名案だろう?」
「べつに名案というほどのものじゃないけど、あなたにしては上出来のほうね」
私たちは狭い通りにあるカフェーヘ行った。しかし、道端のテーブルは満席であった。しばらく待って、やっと空席を見つけた。
「おい、早く行って、あそこの席を確保しろ。いいか、死守するんだぞ」
「ほらね、おっしゃることが、だんだん異常になってきたでしょ」
ともあれ、私たちは通りに面した席に坐ることができた。こうして、一杯の酒をチビチビと飲みつつ、前をすぎてゆく通行人を眺めていることは、かなり愉しいことなのである。
私はカンパリを、女房はビールを頼んだ。そのうちに、女房の隣の席にいた初老の男が話しかけてきた。英語であった。気さくな男で、席をへだてて、身を乗りだして私にも話しかけてきたりした。日本にも行ったことのあるヴァージニア大学の法律の教授だそうで、妻を同伴していた。タンジェにも行ったことがあるという。
私たちが、
「北アフリカの旅では、われわれはミネラル・ウォーターだけ飲んでいても次々に腹をわるくした」
と言うと、彼が答えるには、サラダと水がいけないという。つまり氷は生水から作るからという理由で、私の推察と同じであった。私は毎晩、多量のアイスキューブを使っていたからである。しかし、女房などは一杯くらいしか水割りは飲まなかったはずだ。やはり暑熱や他の原因もあるのだろう。
しかし、アメリカ人という人種は悪口もよく言われるが、とても好人物で気さくな人も多い。かつて彼らの団体旅行は、ヨーロッパ、なかんずくパリなどで馬鹿にされた。今は、それに代って日本人の団体客である。とにかく全員がカメラをぶらさげ、半分以上が眼鏡をかけ、これはと思う店で争って気違いのごとく買物をする。これでは、目立たざるを得ない。
私と女房は、三十分ほど、そのアメリカの教授夫妻と話し、「サヨナラ」を言い、「東京レストラン」へ行った。
私は父に似て(もっとも大半が悪い点ばかりだが)、ウナギが好物である。そこで、イタリア産というウナ重を頼んだが、タレが甘くてまるきりダメであった。女房はテンプラを、それから二人でサシミを一つとったが、この両者はよかった。殊にサシミはかなりうまかった。酒も飲み、二人で二万三千リラであった。
イタリアの金の単位を知らない人は驚くかもしれないが、文明国でリラはいちばん率が低い。従って金の単位もでっかくなるし、高額の紙幣はすこぶる大きく、普通の財布には折らないとはいらない。
ホテルに帰るのに、なかなかタクシーが掴まらなかった。ようやく一台の空車を見つけて乗り、遠からぬホテルに着いて、値段を問うと、千リラという。大体、彼らはメーターも倒さないのが多い。
私はやはり躁期に移行していたらしく、大声でわめきたてた。
「おれは日本のジャーナリストだ。日本のマガジンに、イタリアのタクシーはベリ・バッドだと書いてやるぞ」
などと。
女房は、
「あなた、やめて。みっともない」
と言い、ホテルのコンセルジェに尋ねに行ったところ、そのくらいの相場だと言われて戻ってきた。私は渋々、金を払った。
女房は、ホテルにはいりながらも、
「もっとおだやかに。あなたって、みっともないわ」
と、繰返して言う。
私は腹を立てたが、部屋にミネラル・ウォーターの大びん二本を取り寄せて、やっと機嫌が直った。とにかく、水を大量に、そして氷を大量に与えておけば、私という人間は無難な男なのである。
翌九月二十五日、昨夜なかなか寝つかれず十時に起きた。朝食時間もすぎているらしいので、更に部屋にミネラル・ウォーター三本とコーヒーを取りよせる。
その間に、女房は早々と買物に行ってきた。私は気が少しく大きくなっていたので、彼女に六万リラを与えていた。女房はイタリアを知らないので、その巨額(?)な紙幣を貰って大喜びをしていたらしい。しかし、靴一足と友人に土産にと財布を三つ買ったら、更に米ドルで十八ドル追加しなくてはならなかった。
「あたし、ずいぶんお金持になった気分でいたの。そしたら、札ばかり大きくてリラって安いのね。あなたは、やっぱりケチね」
と、ぼやいた。
私は憤然として、
「何をぬかす! 靴なんか、スペインでもブーツを買ってやったじゃないか」
と、またしても二人の間は険悪になりかけたが、昼食にとった生ハムとメロン、それに二人で一つとったスパゲッティがうまかったので、二人はどうやら和解をした。
それから、イタリアには殊にアイスクリームなどをわざと服につけて、上着を脱がしてふいてやって、その間に金を抜きとるという掏摸が多いと聞いていたから、また、悪質タクシーに乗るのも嫌だったから、観光バスに乗ることにした。
午後二時半発のバスで、NO2という奴である。
初め、エクセルシオール・ホテルから出発し、他のホテルをまわっているうちに満員となり、五、六人、ドイツ人が立っている始末であった。これはひどいと思っていたら、別のバス・ターミナルで観光バスNO4などの客が降り、またNO2の客が乗りこんできて、ちょうど満席となった。英語のガイドつきのバスである。
サン・ピエトロ寺院では、入口で坊さんにコインを渡す。私は本当に躁期にはいってしまったらしく、すぐ「坊主丸儲けだ」と怒りだし、一リラだってやらなかった。女房もわずか十リラの安っぽいアルミのコインだけ。
さすがに、コロシアムは見物するに足るものだが、ここでは日本人が一杯いて、一緒に記念撮影してくれなどと頼まれ、きまりがわるいのですぐ逃げだし、バスが発車するまで外からこの遺跡を眺めていた。
六時少し前にホテルに戻り、入浴する。私は寝る前に入浴するから、早くても午前一時頃が普通だ。とにかく日本でも、一家じゅうでいちばんあとで風呂にはいる。夏など、ごく稀に夕食前に汗を流すことがあるが、これは例外中の例外である。このときも例外で、さすがに旅の疲れが出たのか、感じは躁期というより躁病が始まった証拠といってよいかもしれない。
事実、私は帰国すると、まぎれもない躁病となってしまった。躁病となると、ヘンテコなことをやらかす。以前の躁病期、私は、「文士は男子一生の業にあらず」とか言いだし、実業家になると宣言した。そして遠藤周作氏に電話をし、
「ぼくは実業家になるんでありまーす」
と言うと、相手は、
「なに、失業家? そんなものになって、おまえ、なにするんや?」
とか言い、私を逆上させた。
そのとき、私は「月と十セント」という本に書いたが、石ころの缶詰を発売して実業家になろうと本気で考えたわけである。もちろん売りはしないが、その頃、帝国ホテルの旧館がぶっこわされる運命となった。私はなにせ異常な思考をする時期に当っていたから、
「帝国ホテルの玄関の煉瓦が欲しい。必ず日本文化のために役立てます」
という意の手紙を、帝国ホテルの社長か、その次に偉い人かに書いた。
それは受け入れられ、ただ私自身は行けなかったが、中央公論社の社員に頼んで、それを取りに行ってもらった。工事現場は凄まじかったという。ぶっこわしの作業中だから、ヘルメットをかぶせられ、身の危険を感じつつ、とにかく二十箇くらいの由緒のある玄関の煉瓦を貰ってきた。
ところが、今までのところ、私はまだそれを日本文化のために役立てていない。横山隆一氏がいろんなもののコレクションをされており、私は一箇をさしあげた。また、水上勉さんにも一箇をあげた。彼が床の間に飾るとか言ったからである。もし、水上さんのお宅で床の間に飾られていなかったとしても、それは私の責任ではない。
とにかく、帝国ホテルの伝統ある煉瓦は、石ころの缶詰の見本にするつもりであった。発売用のは、そこらの海岸の綺麗な石ころとか、或いは私がカラコルム登山隊に参加したとき、ヘトヘトになって拾ってきた氷河の石ころを入れる。それを発売したら、三文作家としての収入を遙かに上まわる目算であった。
しかし、以前は私は一年のうちに(それも中年になってから)、躁と鬱をくり返していた。躁期は二、三カ月しかつづかない。いくらかのノーマルの状態があり、あと、躁期の二倍の期間の鬱病におちいる。鬱の時期は実につらい。頭はどんよりと濁り、何をする気力とて起らない。二階の書斎へ行くのも億劫で、ほとんど寝室にこもりきりである。夜半、インスタント・ラーメンを自分で作り、毎夜、かなりの量の眠剤のたぐいとウイスキーをハーフ・ボトルちびちびと飲みつつ、児童マンガを見てわずかにウサをはらしている。三カ月ほどゴロゴロと寝ていて、その間、原稿はわずか百枚しか書けなかったときもある。月産三十枚では、とても日本の作家とは言えぬ。
ともあれ、私は五年前の悪性躁病を最後として、ここ四年間、躁期らしい元気さを抱いたことはなかった。もう齢をとって、躁病となる気力も体力も失ってしまったと考え、嘆き、悲観していた。もっとも、躁病になるといろいろ他人にも迷惑をかけ、なかんずく家人がその被害を受けるのだが。
今回の、五年ぶりの躁病は、私の人生において、かつてなかった最大のもので、自分で言わせてもらえば、「実り豊かな躁病」と称している。
私は子供マンガを読むのをやめてしまった。というより、その閑がないのである。私の人生におよそなかったことに、古今東西のシリアスな本をやたらと買いこみ、読破しつつある。これはまことにもって、なんとも奇怪な、面妖極まる、ケッタイなことと言ってよく、私自身、自分がどうなっているのか、半分わからないのである。
半分と書いたのは、私は自分の病気についてはっきりとした自覚があって、つまり、今、自分が発狂中であることが十二分にわかっている。このことも、精神医学界において、珍しいケースといってよい。
とにかく、私は児童マンガを読まなくなった。ほとんど、どんな流行作家より忙しく活動している。ただ、その活動がはた迷惑になることも多分にあることは認める。しかし、鬱期のときには日がなゴロゴロしていて、滅多に仕事もしない男が、只今のようにやたらと勉強し、かつ書いていることは、自分自身で驚嘆するほどだ。現に、この原稿を書いているのは、三月七日の午後五時で、場所はブラジルのアマゾン地域の都会マナウスのホテルに於いてである。そればかりではない、昨夜はコロンビアのボゴタの空港でコーヒーを飲みながらも、また機内で食事が出るまでの間も、ずっとこの稿を書きつづけてきた。機内でボールペンを紛失し、それが出てくるまで赤のボールペンで書いた。それゆえ、二枚ほどは赤い字で書いてある。だが、これは編集者と植字工のみが知ることで、これまた余計なことである。かように、余計なことを書き、かつ余計なことをするのが躁病の特色なのだ。
余談に入りすぎた。チュニジアの田村大使と向うで落ちあってどんな旅をしたかわからぬわれらが乗物狂氏、阿川さんは、六時にローマの終着駅に着く予定と言っていたが、七時半になってもまだホテルに現われない。
女房は、
「ロマンチックに、花でも持って、終着駅へ阿川さんを出迎えに行かないこと?」
などと言ったが、なにせ旅程変更など平気でしてしまう御仁だから、私はホテルで待っているのが上策だと答えた。
ただ、阿川さんがホテルに着いたとき手渡せるよう、フロントに、
「ミスター・アガワ」というメッセージを託し、裏には単に「ジャパニーズVIP」としておいた。内容はもう忘れた。
七時四十分を過ぎたころ、阿川さんからやっと電話がはいった。今、このホテルに着いたという。せっかくフロントにあずけておいたVIPのメッセージも受けとらなかったという。
「なんたる国だ。あれほどくどくど念をおしておいたのに……」
と、私はわめいた。
ところで、せっかちな阿川さんはすぐに私たちの部屋にやってきて、
「今夜は『アルフレッド』へ行こう」
と、さっそく食物の話である。
このレストランは有名で、ただ阿川さんの話では二軒あるという。とにかく、三人でタクシーに乗った。
ローマには「イヤデモクルゾ」という大通りもあれば、「モウコントイテ」(大阪弁で、もう来ないで下さいの意)という通りもある。阿川さんは、せっかくのローマの最後の晩を本物の「アルフレッド」で過したいので、しきりに気にしていた。
着いた店は立派ではあった。しかし、生ハム、サラミ、スパゲッティ、白、赤のワインにビール、それに阿川さんの得意のイカの空揚げをとるも、サラミはうまかったが、このイカがスペインで食ったのに比し、いかにもまずい。
阿川さん、怒りだし、これが本物の「アルフレッド」かどうか、向うの席にいた日本人に尋ねに行く。やはり本物なのだそうであった。おまけに、その日本人がこの店に五回きていて、通ぶっていて威張った口をきいたらしく、阿川さん、更に憤然とした顔つきで戻ってきた。
彼は、
「失礼ですが、ローマに長くいらっしゃいますか?」
と、丁寧な口をきいたのに、その日本人は阿川さんをさもバカにしたような態度だったそうで、
「こうなったら執念だ。イタ公に訊いてこよう」
と、また席を立って行く。乗物と食物に関しては、おどろくべき異常な熱意を示す男なのだ、この阿川元海軍大尉は……。
イタリア人のボーイに尋ねても、やはりこの店がオリジナルなものとわかった。
「こんなものだったかな? 味が落ちたよ、ほんとに」
「あの日本人のバカが」
と、阿川さん、しきりに憤慨する。
「まずいね、ほんとに」
「バカ、アホウ」
などとも口走る。
楽士が来たが、むろん断わった。と、白髪の小柄な主人らしい男がやってきて、私たちに日本語で書いたパンフレットをくれた。
そして、
「ニホン、バンザイ」
と言った。
そのパンフレットには、
「主人はローマで一番の名物男です。……リズ・テイラー、ソフィア・ローレン、イブ・モンタン……など、店内所せましとはられたポートレートには、だれもが目を奪われることでしょう……」
などと記されている。
たしかに格式あるレストランらしく、あちこちでフラッシュをたいて写真を写している。
だが、われらが阿川さんは、
「こんなまずいもの食わせやがって、二度とくるものか!」
と、激昂《げつこう》はなお納まらぬ。なんだか私たちが叱られているみたいだ。
俳優の名にしても、阿川さんにとっては猫に小判なのだ。彼はディートリッヒとヘップバーンしか知らぬと言う。アラン・ドロンという名も知らないと真顔で言った。どこまで本当かわからぬが、かつてここを訪れた名男優、名女優の写真も、彼にとってはなんでもないことなのだ。
勘定は二十二万三千三百リラであった。リラは安いのだが、こうしてメモ帳を見ながら書いていて、私としても損をしたと思わざるを得ない。
店を出るとき、阿川さんは、
「一生に食べられる飯の量は決まっとるのに、損した、損した」
と、まだぼやいている。いや、立腹している。
酒を飲むにしても、一人が酔っぱらってしまうと、相棒はなかなか酔えないものだ。阿川さんにこうも憤激されると、もはや躁病じみていた私も、あまり立腹する気になれなかった。
店を出て、タクシーを拾うまえに、テヴェレ川のたもとで少し涼んだ。若者が数名、ちょっとした売店のまえにたむろしていた。タクシーがなかなか来ず、女房が尋ねに行くと、言葉は通じなかったが、三人がタクシーをつかまえるポーズをとってみせた。なにかたかられそうな気がしたので、「グラッチェ。オールライト」と言っておいた。
やがて、空車がきた。このタクシーもメーターを倒さない。ホテルに着くと、二千リラだと言った。立腹のおさまらぬ阿川さん、ホテルのコンセルジェに、「こっちに来い」と言い、運ちゃんと交渉の結果、千三百リラで折りあう。
しかし、さきほど橋のたもとでタクシーを待つ間、この旅行中、初めて阿川さんは軍歌を口ずさんだ。本当は、一杯飲むと、もっとやたらと海軍の歌を唄われる御仁なのだ。それと、旅行中に不可解だったことは、旅立つ直前、ミグ25が日本に亡命したのだが、ついにその名も一度だって彼の口から出なかった。
ともあれ、阿川さんは明日、またロンドンヘ発つ。やはり汽車気違いの英国の青年が書いた汽車旅行の本を阿川さんが訳すことになって、その青年に会うためだという。
一方、私と女房とはパリヘ出て日本へ帰る。最後の晩だというので、夜もふけていたが、バーで一杯飲もうと、地下のバーヘ行く。
阿川さんは初めコーヒーを頼んだが、やがてウイスキー・ソーダに切りかえた。ソーダ割りはもうはやらないが、英国へ行くのでそんな真似をしたのであろうか。私はカンパリ・ウォーター。女房は何を飲んだか覚えていない。女房のことまで、かまっていられない。
バーは、私たち三人だけが客であった。
ピアノを弾いている男に、酒を奢《おご》ろうということになった。老けて見えるが四十歳くらいのその男は、ウイスキー・オン・ザ・口ックを頼んだ。
十年前に、ドイツに三年ほどいた男だという。フランクフルトなど、各地を音楽師としてまわったといい、わりにちゃんとしたドイツ語をしゃべる。
ただ、イタリア音楽ばかりやっていたので、阿川さんが「会議は踊る」をやってくれと、曲を口ずさんでみせたが、ドイツの音楽はまったく覚えてこなかったという話であった。
だが、やがて彼はピアノヘ戻って行き、巧みに弾き、朗々と歌った。
客はわれわれ三人だけである。なんとなく豪華で、さながら王侯貴族にでもなった気分となり、一曲が終ると、私たちはしきりと拍手をした。
阿川さんもさきほどまでの不機嫌さをまるきり忘れてしまって、上機嫌で、更に酒を追加し、とびきりのエビス顔を作っていた。
とにかく、最後の夜にふさわしい一刻といってよかった。
ピアノ弾きに、千リラのチップをやって、部屋へ引きあげた。
いざ、別々の部屋へ別れるときに、阿川さんは私には握手をし、女房にはひざまずく真似をしてその手にキスをする真似をした。
その夜は私は少し興奮して、かなりの眠剤のたぐいを用いたのに、二時過ぎに寝て、四時ごろ小水に起き、また眠剤を追加して、翌日は十時五十分まで寝ていた。
ホテルのチェック・アウト・タイムが午後二時だし、飛行機もゆっくりの時間だったから、私たちはゆうゆうとしていた。
南ヨーロッパではゆうゆうとしていることはよいことだが、私たちの場合、それがちょっと行きすぎた。いや、日本人特有のセッカチさも、私はまた持ちあわせたのである。
とにかく、朝寝坊をしすぎたので、ルーム・サービスはもうダメ。そこで食堂へ行った。ランチは十二時からというので、その食堂の前でイライラして待っていても、一向にあかない。
「バカ、アホウ!」
と、阿川さんのように思わずつぶやく。大声でどなると、女房が心配するか、或いは怒るからである。なんで阿川さんが怒っても寛容である女房が、戸籍もちゃんとはいっている亭主にむかって文句を言うのか?
あまり食堂が開かぬので、ボーイに訊くと、サマータイムが終ったからで、一時間時刻が遅れるそうだ。私は真実、腹を立て、何回も食堂と部屋を往復し、ついにバーに十二時にきて、ビールとコーヒーとミネラル・ウォーターを注文する。ところが、このミネラル・ウォーターが炭酸入りの奴で、私の好みではない。
「ノー・ギャス」
と言って、ガス入りでない奴を別にとりよせる。ちなみに、フランスではエビアンとかビッテルというミネラル・ウォーターは普通の水と変りなく、ただドイツを旅していると炭酸入りのものがほとんどだ。
ドイツのタクシーの運転手は、私の「マンボウ航海記」のころは、年寄りが多く、ヘーフリッヒ(うやうやしい)で、実に親切であったのだが、近年は「神風タクシー」も多い。これは都会の運ちゃんが外国人のことが多いのが原因らしいが、お得意のジャガイモもついにアメリカナイズ、もしくはオートメ化されてきてポンフリになってしまった。ポルノも北欧諸国やアメリカに負けない。しかし、ヨーロッパではもともと田舎者のドイツ人にとって、これはよいことかもしれない。
ホテルから終着駅までタクシーに乗る。メーターは果して倒さなかったが、千三百五十リラで、まあまあであった。ところがチップもやったのに英語をぜんぜん話さぬ運ちゃんで、汽車の駅のほうへつけてしまい、私は重いトランクを持って長いこと歩かねばならなかった。暑くて、汗が滲みでてくる。
そこでひょいと飛行機のチケットを見ると、十五時十分発となっている。スケジュール表では一時間あとになっている。これは夏時間が終ったためで、やはりキップはチェックすべきものだと思った。これはスタツィオーネ・ディ・テルミニから空港へ行くバスの中ではじめて気づいた。パリ、東京間も、十六時三十分が十五時三十分となっていた。
このあと、私と女房は無事にパリに着いた。そして、ユーゴスラヴィアの旅からレンタ・カーですっとばしてきた先輩にして親友、辻邦生と、たった一夜の会合だがなんとも実にもって愉しいタ食をすることができた。
その詳細はここに書くわけにいかぬ。なぜって、パリはあまりに陳腐な都会だから。旅の初めに書いたパリの記述で、読者ももう飽き飽きなさっていることだろう。
しかし、その夜、ただ一晩の食事は愉しかった。なんともはや、表現に苦しむほど愉しかった。持つべきものは友、そしてエスプリの豊かなギャルソン(昨今、こう呼んではいけないらしい。ムッシューと呼びかけるのが礼儀である)の、なんとも日本人には理解しがたいほどのジョーク。
ともあれ、パリまで戻ってきては、この紀行文も終りにならなくてはならぬ。
「翼よ、あれがパリの灯だ」の時代とは、あまりに変ってしまった現代だから。
それでは読者よ、長い間、駄文を読んでくださって感謝致します。ではアディユー、バイバイよ。
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マンボウ南太平洋をゆく
私は一九六一年十二月から翌年二月にかけて南太平洋の島々を訪れたことがある。そのときはずいぶん遠いところへきたという実感がしたし、もう生涯この地にくることもなかろうと思っていた。
なにせ十五年前のことである。今ではタヒチ、フィジーに東京から直行便が飛んでいて、これらの島も急に近くなった。
そして私は再びこのいわゆる最後の地上の楽園と称されている島を訪ねることになった。
同行者はカメラマンの藤森(秀郎)さん、その助手として文春のKさん。このたびの旅行では、先に私の行っていないトンガ王国が組入れられた。このことが、駆足旅をする原因になった。
トンガにはいる道は三通りある。ニュージーランドのオークランドからと、西サモアのアピアからと、フィジーのスヴァからの空路である。いずれも乗り継ぎを必要とし、三日ほど余分にかかる。私たちはフィジー経由で行くことになった。
トンガ国王は前から日本|贔屓《びいき》で、皇太子時代日本に何回もきているし、王様になってからも一度来訪され、なかんずく角力《すもう》好きでトンガ力士を日本に送りこんでから、トンガの名は急に日本人に親しみぶかいものとなった。噂によると、王様は序二段なんて日本語を知っているそうだし、テレビのカセットで角力をしょっちゅう御覧になっているそうである。
それで、春場所のトンガ力士の成績をKさんに調べて貰うことにした。もし王様に会えることになったら、話題の種となると思ったからだ。
ところが、何日か経ってKさんが浮かぬ顔つきで、
「どうもまずいです。今場所はトンガ勢はみんな負け越しらしいですよ」
「そりゃ弱ったなあ。王様、機嫌をわるくするな」
そんなことをしているうち、出発の四月三日がきた。フィジー、タヒチではまず安心であるが、観光地から外れているトンガでは何を食べさせられるかわからぬから、私はトランクにインスタント・ラーメンを十箇つめた。梅干はいつも持ってゆくことにしているが、それ以外の日本食を持参したのは初めてである。藤森さんたちもカップヌードルなどを用意していた。
シドニーまでの夜のカンタス航空は幸い空いていた。三座席ぶんをとり、毛布をかぶり、薬を服《の》んで寝こむ。ところが、かなり寝たと思って目覚めて時計を見ると、一時間くらいしか経っていない。そうこうしているうち、シドニー時間の午前五時、スチュワードがいきなり寝ている私の足をこづいて起し、ジュースのコップを渡す。ジュースがこぼれてズボンに|しみ《ヽヽ》ができ、朦朧《もうろう》としながら腹を立てる。
どうも出だしがわるいなと予感していたら、七時五分、着陸態勢にはいった機がまたエンジンをかけ、上昇を開始する。濃霧で着陸できぬので三十分ほどのキャンベラに向う由。
キャンベラの空港で長いこと待たされた。実はシドニーからフィジーのナンディヘ行く飛行機が七時間も待ち時間があり、仕方ないのでシドニーの町でも見物する予定であった。しかし、もしぎりぎりの乗り継ぎであったなら、今回の旅行のスケジュールは根本的に滅茶滅茶になったはずである。
幸い、三時間近く待たされて、またシドニーに戻れた。キャンベラでは、一人乗っていた日本人スチュワーデスが親切に、最近この地にきた井上ひさし氏に連絡しようとあちこち電話してくれたが、まだ氏の家には電話がついていないようであった(実は氏はキャンベラ大学の官舎にいたことがのちにわかった)。
しかし、もし霧がいつまでも晴れなかったら、この南太平洋の旅行記は井上ひさし会見記で終ってしまったかも知れぬ。
ナンディには夜着いた。空港ビルを出ようとすると、むっと暑い闇のなかから、私たちに向って一人のフィジー人が呼びかけた。
「北さん、気がつきましたか。ありゃあフィジーのオカマですよ」
と藤森さんが言う。
前にきたときには、少なくともフィジーでゲイ・ボーイの噂を聞きはしなかった。時が流れたのである。
そういえばナンディ空港は昔から大きいことは大きかったが、空港ビルが見違えるように立派になり、直接、機から空港内に入るボーディング・ブリッジに着くようになっている。なお、降りるまえに係員が消毒のスプレーを持って機内を歩く。甘酸っぱい匂い。これは南の島の特色だ。
大体ナンディの町はごく小さく、こんなところに国際空港を作ったのは、太平洋戦争中の米軍飛行場の跡を利用したもので、ろくなホテルとてなかった。
しかし、今は堂々としたホテルが幾つもある。その一つトラヴェロッジに入ると、ロビーに同じ飛行機に乗りあわせた自らシーメンと称する船員がいた。彼はギルバート諸島に帰るそうで、横浜、名古屋等、数カ所の日本の都市を知っている。
「ナイス・ガールと会ったか」
と問うと、彼はいきなり腰をふってゆったりしたダンスの真似をしはじめた。つまり、彼は純情な男で日本の女と寝たことはなく、ストリップを見て感激したのである。
四年前、藤森さんがフィジーの離島で沢山の写真を撮ったとき手助けをした、こちらの旅行社に勤めている、池田さんという青年から、最近のフィジーの現状を聞いた。
私の旅したときはまだ英国の植民地であり、通貨もフィジー・ポンドだったが、一九七〇年独立し、金もフィジー・ドル(一ドル三百五十円)となっている。殊に最近出た五十セントの大きな角ばったコインはなかなか貫禄があって立派だ。
ナンディには日航がチャーター機を入れはじめ、日本人の団体客がかなりくる。昨年二千名、今年は四千名を予定しているそうだ。五泊六日で、近くのマナ島などへ行き二十万円前後とはいかにも安い(あとでタヒチヘ行ってこのことが痛感された)。
食堂のメイドたちは、おなじみのちぢれ毛の丸い盆栽のような頭をしていてなつかしかった。彼女らは縦に長い櫛でその天然パーマネントの髪を丁寧にくしけずる。その態度はだらしがないが親切だ。
フィジーはかつての食人の本場であり、また角力とりのように肥《ふと》った女性がいるが、その性質は純朴でおとなしい。ただ、今は首都スヴァ辺りでは夜の一人歩きは危険だという話も聞いた。これも昔はまったくなかったことである。
しかし、田舎のフィジー人の人のよいことは確かだ。池田さんから聞いた、白人がフィジー人を馬鹿にしたジョークの一つに、フィジー人が潜水艦をハイジャックして、パラシュートとバナナ三本とスル(スカート)一枚を要求した、というのがある。
翌朝、ナンディからスヴァヘ飛ぶ。昔は小っちゃな飛行機だったが、今はホーカー・シドレー748のターボプロップ機。
スヴァの空港から市までは三十分ばかりかかる。インド人の運転手が、ガソリン(石油カンパニー)のストが金曜から四日つづいていて、日に一ドルしかガソリンが買えぬとこぼす。
私たちはスヴァでもトラヴェロッジ・ホテルを予約していた。ところが運ちゃんは、別のホテルに乗りつけ、ここは新しいいいホテルだという。どうせホテルと契約しているのであろう。インド人にはこのような小ずるい男が往々にしているようだ。
ここのトラヴェロッジ・ホテルも立派であった。アイスボックスがあり、部屋に紙バケツがあって勝手に氷を持ってこられるところが、イギリス人と違って水割りに氷をどっさり入れる私には有難い。
また、この旅行中、トンガとタヒチのボラボラのホテルをのぞいて、すべて風呂つきの部屋に泊った。十五年前の旅のときは、ハワイは別として、どこでもシャワーだけのホテルであった。さすがに隔世の感がする。町には日本車ばかり目についた。ダットサンはダッツンと呼ばれる。
レンタ・カーを借り、藤森さんがよく知っている郊外の部落へ出かける。
そのまえに、市場へ寄り、土産としてカヴァの根を買おうとしたが、「カヴァ」と尋ねても意外に意が通じなかった。
カヴァはコショウ科の木の根っこで、これを水に溶かして飲むのが古来からの風習である。麻痺《まひ》作用があり、舌にぴりっとき、沢山飲むと酔っぱらう。
ようやく一人の男が指さしたのは、白い粉末となった、いわばインスタントのカヴァであった。
辛うじて藤森さんが根っこを見つけ、一束を二ドル三十セントで買う。ちなみに亀の足だのクロダイに似た魚なども売っていた。バナナ一山が二十セントはいいとして、氷の上にのせたほんの薄い輪切りのスイカが十セントとはインフレといってよかろう。
そういえば、カッと照りつける南国の日ざしに、スヴァにきてはじめて再会したような気がした。朝は寝呆《ねぼ》けていたのであろう。
林立する椰子と群青の空と強烈な日ざし。これこそ南国の魅惑だが、はじめてそれに出会うと感激するが、椰子という奴は意外と飽きてしまうものである。三、四日もすると、椰子のある光景より、雑木林のほうがよいと思うようになってしまう。
さて、藤森さんの運転する車は、スヴァ市を出て、ナンディの方角、クィーンズ・ロードを三十分ほど走った。すぐ舗装が切れると、車体にバリバリと石の当る砂利道だ。これはかつて体験したとおりであった。
三十戸ばかりの小さな部落である。
「ブラ(今日は)」
と言って、藤森さんは酋長《しゆうちよう》の家へはいってゆき、土産のカヴァの根っこを差しだした。
木造のかなり広い内部はがらんとして、インベというゴザが敷いてあり、老若男女が坐っていた。
酋長は死んでいて、その息子の二十五歳の痩せ型の男がチーフになっているという。
彼が言った。
「カヴァ、飲むか」
すぐ古びたカヴァ・ボールが持ちだされてき、バケツの水がそそがれ、女が布で洗いだした。その布がいかにも汚い。
私は前にカヴァを飲んでいるし、そのときは金をはらってやってもらった厳粛なセレモニーであった。
だが、このたびはあくまでも一杯茶を出すといった按配で、インスタントのカヴァの粉を袋に入れ、水とかきまぜ、ものものしい演説とてない。
やがてかきまぜられたカヴァ酒が、椰子の杯に入れられて、一人の少年が跪《ひざまず》いて私に差出す。本物の木の根っこに比べ、白っぽい色合であった。うまくないことはわかっているが、仕方なしに飲み乾す。
すると、みんなが「マナ」と言って手を打つ。藤森さんもKさんもそれぞれ飲んだあと、家長から次々に杯が渡される。彼らは無造作にぐいと飲み乾す。
見ていると、ほんの幼い二歳ぐらいの幼児にも母親が飲ましている。
「大丈夫かね」
と藤森さん。
煙草を喫《す》いたいが、床一面にゴザが敷かれているので、しばらく我慢する。すると、貝がらの灰皿が出されてきた。
藤森さんがこの前撮った写真が手渡される。見ると一枚、彼が女に抱きついている写真があった。
歌を所望すると、いちばん年配の酋長の母親から唄いだし、みんながそれに唱和した。これまで聞いたこともないようなお経のような節まわしである。おそらく民謡のたぐいなのであろう。
「ヴィナカ(ありがとう)」
という言葉を教わって、私たちはそれを連発する。すると、次には手拍子の合唱が始まった。
Kさんがカセットのレコーダーをゴザの上に置く。あとでそれを廻してみても、一同はさして驚く気配もない。レコーダーなどありふれたものとなっているのだろう。
部落内を一巡する。椰子の葉ぶきの家(若い酋長はココナッツではなくミシミシの葉だと言った)を覗いてみると、新しい鏡台など置いてあったりした。
「あれは漁夫の家だ」
と酋長が言い、
「フロム・ジャパン」
とつけ加える。
日本へ行ったことがあるのかとちょっとびっくりしたが、それは彼らが床にひろげてつくろっている漁網のことであった。
貧弱な部落なのに新しい教会がある。これは南太平洋の島々に共通したことで、キリスト教の布教がこの辺りほど成功した例は少ないともいえよう。
部落の人はパンツ、ズボンをはいている以外ほとんど裸体で、ただ女性はシャツをつけ乳を見せない。
以前、私がフィジーにきたときには、「カー・シャイン」「カー・スパーク」という言葉がはやっていたが、今ではまったく消え、「ナイス・ボーラー」という言葉に変っている。「いい女」、「いい男」から「今日は」代りに使われる言葉だ。私が「カー・シャイン」のことを訊くと、酋長は、「知っている。以前のことだ」と言ったが、そのころ彼は十歳だったはずだ。
スヴァ市に戻り、目抜き通りを一巡する。もともとここは南太平洋最大の都市であり、百貨店なども多かったが、十五年まえに比べると真新しいビルがずいぶんと殖えているようだった。
夜、「新北京」という中華料理店へ行くと、一人の日本人青年に声をかけられた。伴野商会の人だという。伴野といえば、以前に私の行ったころ、日本人とバンノは同じ名称であつかわれていたものだ。
そのとき私がたいへん世話になった長嶋さんという方が今も支店長で健在だというので、トンガから戻ってきたとき食事でもしましょうと約した。
藤森さんはフカのスープがフィジーでは安く、フィジーにくるとそれを食べるのが愉しみだと推奨する。たしかに一人前六十セントと安い。ヒレがつながっておらずほぐれていて、その量は少ないが、むしろ日本のそれよりうまかった。
食事を共にしたその青年工藤さんとはホテルの部屋でも飲んだが、フィジーにきて二年目だそうで、独立以来インド人に対して排他的運動もあるが、それでもインド人は総人口の五十二パーセントもいるという。フィジー人に対しては産制が説かれているが、インド人はそれをしない。また日本がチャーターした漁船(乗組員はほとんど韓国人、台湾人)が多数操業していて、魚も相当に減ったと聞いた。
四月六日、六時起床。
スヴァ空港から予想より立派なBAO1―11というジェット機で、定刻八時離陸。
エメラルド・グリーンの海が、雪のようにリーフに波立つ白波の外に出ると、このうえなく南国的な藍色の海がひろがる。
小島があって、やはり白い一線のリーフに囲まれ、内側にチャンのような緑がこびりついている。次に、指貫《ゆびぬ》きのような可愛らしい環礁。
九時まえ早くも禁煙のサインが出る。
トンガは二百余の小島の集まる国で、全部を合せても佐渡島より小さい。もとよりほとんどが無人島である。その中の首都ヌクアロファのあるもっとも大きな島トンガタプにしろ、隠岐《おき》の島後《どうご》くらいの面積しかない。そこにフアモツ空港がある。
機が高度を下げ、雲の中に入り、それを抜けると一時コバルト色の海。岸辺にごく近くリーフの白い線。そして緑のひろがるごく平坦な陸地が見えた。ここにはフィジー、タヒチのような山がない。
空港ビルは新しいが平屋造りであった。機にあずけた荷を積んだ手押し車を人間が押してくるという、ごくのんびりとした風景である。
空港の入口に、二人のお巡りさんが立っていた。黒い帽子を顎紐《あごひも》でしめ、黒いスカートをはいている。
また文春のほうから連絡していた二人のトンガ在住の日本人、海外協力事業団の川上さんの夫人と、スーパーマーケットの一部門の長をやっている内田さんとが私たちを迎えた。
ここでは飛行機の乗客名簿がその飛行機に積まれてくる。テレックスもない。それゆえ、飛行機がいざ着いてみないと、目的の人が乗っているかどうかわからないという。
二台の車に分乗して、首都ヌクア口ファに向った。椰子林の中の土の道だ。
「ここが刑務所です」
と内田さんが言う。
見ると椰子林の外に鉄条網のバラ線が申訳にはられている。これではすぐ脱走できそうだが、島のことゆえ高とびもできない。囚人は酒を飲んで喧嘩をした者、盗みをした者、税金をはらわなかった者等々、所内でもごく自由に生活しており、トラックで病院や町へ運ばれ、掃除などをやらされているという。一応ユニフォームを着せられ、背番号がついている由だ。
「ここが角力場です」
見ると、左手に四隅に棒が立って一応土俵らしいものがある。ときどきここで角力大会が行われるそうだ。
内田さんは日本人だというので頼まれて、|まわし《ヽヽヽ》をつけてくれと言われた。そんなことできぬと断わると、もう王様が見にこられるからぜひともと言われる。仕方なしにやってみたが、|まわし《ヽヽヽ》というものはごわごわしていてうまく巻けぬ。
そのうえ行司(レフリー)をやってくれと頼まれた。軍配がないので、椰子の葉で代用した。
試合が始まると、|まわし《ヽヽヽ》がとけかかる。「ストップ」と言うと、両者が離れてしまうのでまことに困った。
一応、角力協会会長という役の、勝利者にトロフィーを与える男はオーストラリア人で、実は角力をまったく知らぬという。自分でもその役をやめたがっているが、角力気違いの王様の命だから仕方がない。
病院があった。トンガでは風邪のこじらせ、結核、糖尿病が多い。それから四年まえ、日本の取材班がニューギニアからデング熱を持ってきたそうだ。病院はなかなか瀟洒《しようしや》なものだが、外国に留学して戻ってきたトンガ医師が薄給のためいつかない。王族、政府の高官が病気になれば、ニュージーランドの病院へ行ってしまう。
首都ヌクアロファには四十分ほどで着いた。港の海岸ぞいにひろがる小さな町で、メインストリートといっても百メートルくらいしかない。しかし、なかなか整頓された町で、殊に海ぞいの地帯は芝生が美しい。
とりあえずデイトライン・ホテルという一応ちゃんとしたホテルに入る。水道の水で歯みがきをしようとすると、酸化したような味がした。あきらかに鉱水で、水のよいフィジーとは違う。あとで聞くと、飲水はすべて天水を使っている由であった。
とりあえず藤森さんはレンタ・カーを借りるため、警察の出張所に出かけた。トンガでは国際免許を持っていても運転できない。トンガの免許をとらねばならぬ。もちろん書類だけのことだが。
ついていってみると、この書類が長々とかかる。職業などまで一々書きこみ、それを持って警官が別の警官に見せ、のろのろと歩いて自分の椅子に戻り、またしげしげと眺めている。最後に二ドルを出せと言った。その二ドルを受け取った旅行社の男が外へ出ていったまま、なかなか帰ってこぬ。
もっとも藤森さんは退屈しないようであった。片隅に坐っているトンガ人としても色の黒い婦人警官がすこぶる気に入ったからである。
「あれは美人だ。いいなあ」
と、あとあとまで言っていた。
無事に借りられた車はホンダのシビックであった。一度近くの川上家へ行き、藤森さんたちが下見をするあいだ私は残って、夫人の話を聞いた。
川上さんはかつてアルゼンチンに三年いた。それからトンガにきて八年余、御主人はちょうどババウ島(カツオ漁の基地がある)へ行っていて留守であった。
背の高いメイドがいて、川上夫人は「スキ」とその名を呼んでいた。なんだかごつそうなメイドだったが、丁寧に返事をし、礼儀正しくジュースなどを運んでくる。
メイドの給料は月三十二ドルくらい(トンガ・ドルは約四百五十円)。ただスキは、物を買いにやるとき三分の一くらい余計に持っていって自分の懐ろに入れる。
これは南太平洋の多くの島の習慣といってよく、沢山持っている者から貰うのは自然で当然で、ありふれたことだ。女性人類学者の畑中幸子さん(むかし私は彼女とタヒチで会った)によっても、食事時の家のまえを通りかかると「食べてゆけ」と言われる。その逆も真である。
ところがスキは、その他に金の盗みも働いた。そういうことには一向に罪悪感はない。川上さんは一度スキを首にしたが、そのあとにきたメイドはぜんぜん働かない。スキはその点、よく働くし、髪をすいてくれたり肩を叩いてくれたり、便利なのでまた雇うことにした。
しかし、スキの真実はもっと奇なのであった。あとで藤森さんに言われた。
「北さん、気づかなかったですか。スキはオカマですよ。トンガのオカマということです」
そう言われてみれば、なんだかごつい女性のようだったし、あとで再度川上家へ行ったとき注意していると、彼女、或いは彼の話す英語がまことになよなよとしていることであった。態度にもしなを作る。
川上夫人にそのことを聞くと、庭仕事もするし、なにより御主人の留守がちな家にいてゲイ・ボーイであることは彼女にとって安全で、かつ用心棒代りにもなるからということであった。
スキはオカマという日本語を知っていて、たまに訪れる日本人の漁夫にむかって、
「あたし、オカマよ」
などと言ったりするという。
もっともトンガでスキのほかにもオカマがかなり発生したのは、そうした人種を好む欧米の船員のせいであろう。これも文明開化の一つの現われといえる。
朝日山親方が来島したとき、三力士の世話をしたのは川上夫人である。朝は食事をしないと聞いて引受けたのだが、次の日にはにぎり飯を作ってくれと言われた。初めは十箇、翌日は十五箇、ついには二十箇と頼まれた。大きな釜で米を二度炊きしなければならなかった。
トンガ王が力士を選んだのではなく、本当に選抜したのは朝日山親方である。候補の青年に角力をとらせ、その勝ち負けではなく、腰の強さなどから選んだ。
トンガ力士たちが日本へ発つとき、川上夫人も空港へ行ったが、家族がワアワア泣いていて、なんだか人さらいにさらわれるような印象を受けたという。もっともトンガ人は別れるとき大仰に泣き騒ぐのがふつうだそうだ。
トンガ王とも川上一家はしばしば会っている。王様は国民に絶対に信頼されている名君で、奇抜なアイデアをしばしば相談された。
最近、南極のオキアミが食糧源として日本でも話題になったが、すでに八年まえ、王様はその案を抱いていた。またココナッツの木に登ってその実を落す猿が東南アジアにいると聞き、その猿を輸入しようかという相談も受けたこともあった。
トンガはココナッツ、バナナのほか輸出するものはほとんどない。観光地としても外れている。以前はマグロを主にとったが、今はカツオに力を入れている。だが、その餌とする小魚も輸入なのだそうだ。トンガ漁夫は一年間日本に研修に行っているそうで、船では日本語がけっこう通用する。岸壁で魚はいくらも釣れるが、おかしなことに高い魚の缶詰を輸入している。
空港も今は滑走路ができているが、二年まえまでは草原だった由。
もっとも川上夫人は、
「もしトンガが観光ルートにはいれば、一年でトンガの良さはなくなります」
と言った。
今では、観光船がはいると、観光客に子供が金をせびる。
トンガの家でパーティをすると、ビールなどなくなるまで客が帰らぬということは聞いていたが、川上夫人によると、政府高官ですら家に招くと、酒がなくなるまで絶対に帰らぬ、もし帰る場合は残ったウイスキーなどを持っていってしまうとのこと。
トンガの経済は、ニュージーランドやオーストラリアに出稼ぎに行っている者の仕送りの金でもっている。トンガ・ドルが四百五十円もするのも経済的なことで、内田さんは五百円と考えていいと話した。国外へ出れば通用しない金である。
夕刻、内田さんがホテルにきて、部屋でおそくまで飲む。
内田さんはトンガ生活はまだ二年八カ月だが、こちらにくることになったのはまことにヒョウタンから駒といった次第であった。
知人の家へ行ったが留守なので、なにげなく新聞をよんでいると、トンガでの求人広告が出ており、重役を求むとある。彼はもう四十何歳であったが、暖かいところがいいと思い、冗談半分に手紙を出した。すると、もう忘れていたころ、ジェトロ(日本貿易振興会)から電報がきた。
「キデンノトンガヘノキボウニツキシキユウオイデコウ」アカサカトウキユウホテル一一四五 チヤーリー」
はじめてトンガの地を踏んだとき、正直のところびっくりした。もの凄くでっかいゴキブリが歩いていたからである(むかし、私もタヒチで同じ体験をした)。そもそもハワイ経由でナンディに着くとき、あまり暗いので、夫人が「燈火管制をやっているのか?」と訊いたそうだ。
契約は三年だが、結局もっといそうで、王様自ら就職を世話してやると言ってくれている。
王様は角力贔屓について、
「勝負がパッときまる。スッと済む。勝った力士が負けた力士を助け起してやるところがとてもよい」
朝日山親方が王様にハッピを贈ったとき、
「教会へ着て行ってもよいものか」
と王様は尋ねられた。
親方はその通訳を聞き、教会を角力協会と勘違いをしたそうだ。
ともあれ王様は五十歳の後半で、酒、煙草もやらず、子|煩悩《ぼんのう》で、元旦には昼から誰でも年賀に行け、女王からみな握手をされるというフランクさだという。
今年の正月、マグニチュード七・五の地震があった。東京の新聞社から電話があって、被害はどうかと問う。内田さんは、
「そういきなり訊かれたって、この島では放送は四時間しかない。新聞は週に一度だ。初めからぶち壊れたような家だから、死者もいないだろう」
と答えたら、向うは沈黙して電話を切った。
ちなみに電話も、官庁とか商店、大きな家くらいで普及しておらず、川上さんの家にも内田さんの家にもまだ電話はついていない。
内田さんは蠅叩き、洗濯板、あらゆる雑貨を日本から持ってきた。輪ゴム、洗濯挟、蚊取線香等々。それぞれみな役に立った。はじめは米も酒もないところと思いこんでいたくらいであった。
来てしばらくは、夜、雨が降ると目が覚めた。天水をとるためである。
トンガで有名な最初の日本人中尾さんは、はじめ床屋をやって成功した。はるか昔の話である。回転椅子を日本から輸入し、或る香水をかけた。素人のことゆえ耳を切ったりしたが、ぐるぐる廻る椅子にかけ香水をかけられるということだけで珍しいというので人気を博し、たいそう繁昌した。
そのどちらかといえば三流の香水、ポマードは、今でもトンガ人に愛用されていて、日本の最高のものと思われている。今は中尾さんの息子さんがいて、日本語は話せないが、子供たちの名に日本名をつけている。
翌日、少し寝坊をしたかったがカーテンが薄く、六時に目覚めてしまう。
とりあえず島をまわって撮影場所をしぼろうというので、藤森さんの借りた車に川上夫人を案内にのせ、田舎へ出かけることにした。
そのまえに私は、町でパンダヌスで編んだ粗末な帽子を買った。内田さんからも「帽子をかぶったほうがいいですよ」と言われたし、かつてタヒチに朝着いて、そのまま暑熱の下を四時間も歩きまわって日射病みたいになってしまったことがあったからである。
はじめに島の南西にあるブロウ・ホールズという名所へ行く。町を出るまえ、ビール瓶を沢山積んだトラックが前を走っていたが、トンガではビールを製造しないので、ジュースをつめたものなのであった。これはタヒチでも同じである。
トンガの部落ではたいていのんびりと馬が草をはんでいる。サラブレッドの血のはいったなかなかスマートな馬もいる。馬はトンガでは重要な交通機関で、鞍《くら》の代りに布を背におき、乗ってゆく人々にしきりに会う。或いは荷車を引かせている。
ブロウ・ホールズは海岸の岩場の潮吹き穴であった。ここの海にはリーフがなく、直接大波が岸辺の岩にぶち当り、白い飛沫《しぶき》をあげる。
その飛沫とは別に、浸蝕された岩には海に通ずる小穴があちこちに開いており、飛沫より高く、鯨が潮を吹くようにビュッと噴水のごとく水があがる。まあ一見の価値のある光景だ。
潮がひいてもビュッと吹くことがある。波しぶきとは別のフイゴのような音響を立てる。川上夫人が、もっと吹くときはヒューヒューと鳴り、それを「酋長の笛」と称するのだと教えてくれた。
またしても大波がき、穴から沖天高く吹きあがり、風でそれがなびく。藤森さんが岸辺に立ち、じっとカメラをかまえているが、そうすると意地わるくなかなか吹かない。
岸からこっちは草地となっており、そこの大樹の下に大ぜいの子供たちがいた。
近寄ってみると、おそらく遠足にきたらしい幼稚園の生徒で、お揃いの制服を着ていた。付添いの先生が、
「グッド・モーニング」
と、一同に挨拶させ、それから現地語と英語の歌をそれぞれ唄わせてくれた。私たちが帰るときも、子供たちは愛くるしく「グッド・バイ」と手をふった。
晴れていた空が急に曇り、すぐに篠《しの》つく豪雨となった。雷鳴まで聞える。今日はもう駄目かと思っていると、また青空が覗いてきた。いわゆるスコールである。
キャプテン・クックの船の着いた湾は、静かな平らかな海であった。そこに大きからぬ四角い黒い碑が建っている。何年かまえエリザベス女王が来島したとき慌てて造ったものの由で、まだ真新しい。
ところどころに村落があるが、木の家で、椰子ぶきの家は滅多に見当らぬ。豚が路上を横切るのにしばしば出会った。
トンガはずいぶんと内海が入りこんでいる。そうした海はさながら草色の湖のようで、平べったい島が幾つも見える。完全にぺったんこの島で、密生している椰子の高さしかない。
アカウンサ村というところで、手ごろな横木のついたカヌーがあり、子供たちもいたので藤森さんが写真を撮りだした。すると、あとからあとから子供たちが出てくる。
「お菓子か何かを持ってくるんだったな」
少し向うに木造の家があった。川上夫人とKさんがそこへ行って一つ一セントの飴玉《あめだま》を買ってきた。それをやりだすと、子供の数はますます殖えてくる。
「やめよう。村中の子供が出てくる」
花を持った一人の少女を藤森さんは撮りだした。だんだんとカメラを近づける。「スマイル、スマイル」と言うのだが、少女の顔はこわばり、なにか言った。川上夫人の通訳によると、「こわい」と言った由である。まわりの子供たちは笑いさざめいてはやしている。
或る部落では、ちょうど女たちがタパを叩いていた。台の木の上で、太い棒でもって力をこめて叩く一種の樹皮紙で、薄いカンピョウのようになる。乾かすとパリパリになり、これを貼りあわせて、カーペットにしたり、壁や天井に貼る。
また道端で、あぐらをかいて椰子の彫物を作っている男がいた。椰子の木に猿が抱きついている構図である。鑿《のみ》を当て、その端を木で叩く。子供たちがまわりを取り囲んでいる。
このように民芸品はすべて手造りで、一つ一つ違う。市の店に置いてもらって、売れたら金を貰う。ここでもとれる人からとるという精神が発達していて、外人はたいてい高いものを掴まされると聞いた。
遙かに走って、潮吹き穴とまったく反対側の北東のラウレア・ビーチというところで、また雨になった。
大きな岩があり、そのくぼみで雨宿りしながら川上夫人が持ってきたにぎり飯を食べる。アジの乾物もあって、Kさんが紙を燃やし椰子の枯葉に火をつけあぶったら、けっこう焼けてうまかった。魔法びんの熱い日本茶はさらにうまい。
町へ帰りついたのは三時ごろであったか。こちらも雨が降ったらしく、路上に水たまりができている。この日は四分の三ぐらい島をまわったが、西端にあるコウモリの生息地には天候がわるくて行けなかった。なんでも一本の樹に百を越すコウモリがぶらさがっているそうだ。
今、トンガには内田さんのまえにきた脱サラの井上さんという人がババウにいる。青年協力隊の青年が三人、漁業関係の仕事をしている。またトンガの男女の踊り子たちが半年ほど日本のホテルのショーに出ていたのだが、帰国するとき、二人の日本の女がついてきた。一人は男に妻がいるのを知ってそのまま帰り、もう一人は結婚した。昨年の一月にきて以来、田舎から一歩も出ていない。WHOのワン博士(日本語が達者、その夫人にはスヴァ空港であった)の奥さんが、気の毒がって家へ招き、泊ってゆけと言っても、旦那が嫉妬《しつと》ぶかい男で、この家には男がいるからダメだという。なんでも夜、戸外にあるトイレヘ行こうとしても旦那が押えつける始末。一度、実家から飛行機代を送ってきたが、未だに帰らない由だ。
それから旅行者、取材班がときどきくる。ヒッピーまがいの青年もくる。内田さんのところでは、日本人を家に泊めてやったのに金をはらわぬと苦情を持ちこまれたこともあった。
藤森さんが二百名いるトンガ軍隊の写真を撮りたいというので、許可を貰いにみんなで観光局へ行く。すると、川上夫人が、
「あら、プリンセスがいらっしゃるわ。わたし、困るわ」
と言った。
見ると、狭い室内の左側の椅子に、黒いワンピースを着た豊満な女性が坐っている。かなりの美人といってもよい。彼女は自らすすんで、このような仕事をしているという。
応対もにこやかであった。軍隊のオフィスに行けと言われ、そこで簡単に許可が下りた。
その翌日、ホテルで朝食に行くとボーイが週一回発行の英語版(別にトンガ版がある)の新聞を持ってきた。トップにプリンセスの写真が載り、七月に結婚とある。夫君は副総理大臣の息子で、総理府の高級官僚とあった。
トンガではライセンスがないと酒を買えない。旅行者もホテルのバーでは酒は飲めるが、町で買うことはできぬ。持ちこんだウイスキーもなくなってきたので、内田さんのライセンス(半紙状の紙)で、ジョニ黒を三本買った。五ドル八十セントくらいであった。
ホテルの食事はまずいといってよい。私はカレー好きだから、最初の日、チキンのカレーをとったが、ケチャップ色のそれはまるきりカレーというものではない。今夜はクレイフィッシュのカレーというものをとってみたら、ロブスターで、先のよりましだったがとてもうまいといえるものではない。なんでも白人のコック長がやめてしまって、後任がまだ決まらぬとも聞いた。
これまで毎晩、遅くまで飲んできた。そのためますます睡眠不足である。Kさんの部屋のクーラーはドイツ製で音が低いが、私の部屋のそれはニュージーランド製でもの凄い音を出す。そのくせ大して冷えもしない。
次の日、私たちは小型機をチャーターして、離島を撮影することになっており、天気が心配だったが、藤森さんは思いきって予約してきた。
「今夜は冷えますよ」
と内田さんから言われたが、まったくそんなことはなく、パジャマ一枚で汗をかいた。内田さんはもう暑さに慣れきって、雨でも降るとそれだけで寒く感じるのかもしれない。
翌朝、藤森さんたちは早くから市場の撮影に出ていった。
私は目が覚めてはいたが、さすがに疲れ、朝食のぎりぎりの時間まで横になっていた。
二人が戻ってきて、「ソ連の観光船がきてますよ」と言い、また出ていった。
しばらくノートを整理してから、私もホテルを出た。
なるほどずっと右手の桟橋に白い客船の姿が見える。しかし、かなり遠そうだったから、私は左手、つまり町のほうへ歩いていった。
馬に乗った男が、鞍つきの馬二頭をひいてやってきて、「イクスキューズ・ミイ」と声をかけ、「船からか?」「いや、ホテルだ」男は馬をひいて船の方へ向った。貸し馬屋なのだろう。
町に着くまえに、とある広場に仮小屋をつくり、観光客目当ての市場ができていた。あきらかに船からきた観光客の姿も多い。こんなところにソ連船がくるとはふしぎに思ったものだが、オーストラリア、ニュージーランド辺から客を乗せてこの辺の島をまわっているらしい。
貝殻細工の店のまえに立ちどまると、女がいきなり、「プレゼント」といって、小貝をつなげた腕輪をさしだした。
私は当然、「いらない」と言って、手をふった。しかし、女は強引である。「プレゼント」とまた言い、強引に腕輪を私の腕にはめてしまった。それから、今度は赤と白の石のネックレスを手渡した。
私はそれをおしのけ、煙草を一本やった。すると、周囲の女たちも次々と煙草を所望する。最後に坐っている婆さんに箱を渡すと、彼女はそれを返そうとしない。
しかし、そのタバコは英国のベンソン(トンガで買ったのはオークランド製)で、私にはきつすぎたので、私はそのままにしておいた。ちなみにこのベンソンは箱が金ピカで綺麗なせいか、特にトンガ人に好まれている。
さっきの女がネックレスをまた私に持たす。私は彼女らがどういう反応を示すかと思って、それを受け取り、そのまま行きかけた。
すると女はけたたましく笑い、
「一ドル」
結局、私はあっさりと一ドルを与えてしまった。値切ってもトンガ人は外人に対して絶対にまけぬと聞いていたし、暑くて面倒になったからである。
白人の子供たちが、小さなウクレレやヨットを買ってもらっている。ヨットがニドルニ十セントから三ドル、木彫り人形が三ドルから八ドルくらい、パンダヌスのハンドバッグが一ドル半。大きな丸い籠(洗濯物などを入れると聞いた)がいちばん大きいので十五ドル。
ベイトルという三輪車が沢山出ている。オートバイの先に箱のようなものをつけた奴で、それでも生意気に「タクシー」と書いてある。市内の中なら三十セントの由。もう少しまともな小さな四輪車はバギー・カーと呼ばれる。
いい加減に市場をひやかして、また町への道を辿る。右手の海岸ぞいに、これは毎日やっている市場がある。
海から引きあげた魚を、そのまま砂地で売る。私がきたときは時間がおそく、もうそこには魚のかげがなかったが、藤森さんの話ではバラキューダなどの他に、ばかでっかいハリセンボンなどが売られていた由。伊勢エビ七匹で四ドル半、アジくらいの魚を束にして吊したものが五十セントだった由。
少し陸地の方では、椰子の葉の籠に入れた貝、タロ芋類、果物、イカの乾物(ふつうトンガ人はタコは食べるがイカは食わぬと川上夫人は言っていた)などが並べてあった。椰子の実五セント、ミカン一山で十セント。
それから少し行くと、赤い屋根をした教会と王宮がある。小ぢんまりとした童話の国のような建物で、警戒されている兆候はさらにない。
メインストリートを、観光客たちと一緒にぶらぶら歩く。彼らは日本製のラジオなどが並んだショーウィンドウを熱心に眺めている。ビリヤードの店が二軒。
トンガの女たちはスカートの上にぴらぴらした紐をたらしている。タオサラというパンダヌスのゴザを腰に巻くのが正装だが、その略装とのこと。もうちょっと簡略な腰巻きはツベヌという。町ではゴム草履が多いがはだしもいる。なお、トンガ人は子供をのぞいてフィジーのように裸体を見せぬ。
──軽飛行機に乗るのは三時すぎからであった。私たちが部屋を出ようとした二時半、急にホテルの庭で太鼓とフィジーのラリーのような木を叩く音響が湧き起った。観光客たちへの踊りである。そういえば朝から中庭に椅子テーブルなどを並べていた。
男性の踊りは応援団のごときものであった。「ヘイヤー」「ウフウフ」「ワー」などと叫んでとびあがったりして、ぴたりとポーズをとり静止する。舌を出したまま動かないものもある。
集まった観光客はせいぜい四十名、それも飲物くらいしかとっていない。これではホテルは赤字であろう。
内田さんも飛行機に乗りたいというので、四人で空港に着く。
それまで藤森さんは、その飛行機の窓があくかどうかしきりと気にした。結局あかないとわかったが、他に飛行機はない。いや、もう一機あったのだが、整備員たちが冗談に、ちょっと飛んでみろと言っているうちに本当に飛びだし、飛行場の端に突っこんでしまった。その機は一応被害ないもののごとく向うに鎮座している。
チャーターした機が、約束の時間に、エンジンの音もなく着陸してきた。パイロットはニュージーランド人。地図を拡げて、これから行こうとする小島群のことを相談する。そのあいだに整備員が手動のポンプで給油をしている。
飛行機はアメリカ製で、双発だが、セスナより小さいくらいだ。パイロットを含めて六人乗り。翼などぺこぺこしている感じだが、飛行したあとの感じでは大型機よりずっと安全そうだという気持を抱かせた。
文字どおりふわりと飛びあがる。緑の陸地がじりじりと動くが、ジェット機に比べなんとのろいことか。ちなみにチャーター料は一時間百二十トンガ・ドルで、肝腎の恰好な島に行きついて天候がわるければ大損害だ。空の半ばに雲がある。
トンガタプ島を出外れてしまうと、洋々たる大洋がひろがり、島かげ一つ見えぬ。自分が金をはらうのでもないのに、これは一時間ではすむまいと私は気をもんだ。
二十分ばかり飛んだところで、あつらえ向きの丸い小島があった。中央は椰子林で、白い砂浜がぐるりと囲み、リーフはないが、その代り島の周囲をペンキで塗りたくったような真白な浜が渦巻いている。どうしてそのような現象が起るのか。ともあれ、海はさまざまな神秘の姿を見せてくれるものだ。
小島の周囲を、機は斜めになって何回も旋回した。後部座席の窓で写真を撮りまくっている藤森さんが叫ぶ。
「駄目だ。右廻りにしてくれ。架線が写っちゃう」
爆音でその声も消されがちだ。真中の席にいるKさんが、パイロットの横にいる内田さんに伝える。
およそ十数回も旋回したろうか。藤森さんからOKのサインが出る。機首を返すとき、下の海はモルフォ蝶の翅《はね》のごとき光輝を発した。彼方の雲の下に暗い幕が海までつづいている。スコールなのだ。その点で、私たちはついていた。
空港に戻ると、パイロットは、
「五十六分だから、百二十ドルよりいくらか安くなるだろう」
私は知らなかったのだが、飛行機のチャーター料は一分いくらなのであった。
ホテルに戻ってシャワーをあび、パンツ一枚で寝ころがっていると、べッド造りのメイドがくる。毎日、いつも裸でいるときにくる。そのたびに「ちょっと待て」といってズボンとシャツをつける。
朝、枕の上に二十セントを置いていたが、今朝は私が部屋にいるうちに掃除にきて、その金をのけ、「これは何の意味ですか、私のため?」と訊いた。「チップだ」と言うと、丁寧に礼を言う。
夕食は内田さんのお宅に招《よ》ばれた。
酒のつまみに出されたピーナッツは、さして大きくもないが、殻を割ると三つも四つも実がはいっている。ついロッキード事件を思いだす。
内田さんはソースのびんに巻いた釣糸を見せ、これで投げ釣りで沢山釣ったと話す。六時のNHKの海外向け放送ではタイガースは引分けで、南海に移った江夏がゼロで抑えたと聞かされ、複雑な心境となった。七時の日本放送を聞いたが、意外と明瞭にはいる。英語十五分、日本語十五分間である。
刺身もうまかったが、味噌汁と御飯がなによりおいしかった。日本を出てまだいくらも経たぬのに、このように日本食を求めるのはあきらかに老化しているのであろう。
なお、もしかしたら会えるかもしれないと思っていたトンガ国王は、折あしくアピアに行っていて留守だったが、私たちの発つ土曜日には帰ってきそうだということだった。
映画、それも空手映画がトンガでは大いに流行《はや》っていて、観衆が大騒ぎするという。それを見るため早目に内田さんのところを辞したが、空にはちょうど見頃の位置に南十字星がかかっていた。
映画館は屋根なしを含めて四軒くらいある。空手映画館へ行ったが、明日からフィルムが代るというので客が少なく、見るのを中止してホテルヘ戻った。
トンガの商売女はホテルまえにたむろしていると聞いたが、はたして海岸のくらがりからサングラスをかけた婆さんが出てきて、私の腕を握り、「今夜は愉しもう」と言って、いきなり私の局所をにぎった。
ずいぶんの年齢で、あとで聞いたら五十六歳といい、おそらくやり手婆さんなのであろう。はたして後方から、二人の女が出てきた。あまつさえ三人のオカマまで出てきた。
女のほうは大人《おとな》しく無口だが、オカマのほうはやたら騒々しい。藤森さんが写真を撮ろうとすると、一人がいきなり樹に抱きつき、腿《もも》を露《あら》わにしてポーズをとった。
一人はブラウス姿、一人は腹を出した腰巻き姿、一人はパンタロンをはいていたが、周囲が暗いから目鼻立ちはよくわからない(あとで藤森さんに写真を見せて貰ったら、二人はごつい御面相で筋肉隆々、パンタロンの子だけが女性的であった)。
そのうちドイツのジャーナリストの青年が会話に加わり、あからさまにトンガの悪口を言い、女の悪口も言った。すると、三人のオカマたちは猛然と早口に反撥《はんぱつ》した。
その間、やり手婆さんはずっと私の腕に抱きつきっ放しなので、まことに居心地がわるかった。冷やかしに、「いくら?」と訊くと、彼女は、
「マネイ・イズ・ナッシング。ラブ・イズ・ベスト」
と言い、「ビーチヘ行こう」としきりに誘う。
今夜は疲れていると逃げると、明日は必ずくるか、と熱い息を私の耳に吹きこむ。閉口して、
「多分」とか言って私は逃げた。
翌日は、八マイルほど離れた部落に旅行エージェントを通じてウム料理、こちらの名物の石焼き料理を高い金をはらって頼んでおいた。トンガでは日曜日にウム料理をするが、それまで私たちは居られなかったからだ。
十一時に、六百人ほどの住民のいるそのムア部落へ行く。
すでに準備がすすめられていた。大きな穴を掘り、太い薪を沢山積んで火をつけ、その上に白っぽいごろた石をどっさり積みあげる。
一方では、ロンゴロンゴの葉と椰子の葉で作った仮小屋がすでにできあがっている。
でっぷり肥った、黒服にタオサラを巻いた酋長に挨拶をする。酋長というのはたいてい肥っている。何もしないで御馳走を余計食べるせいか。一方、トンガ王は巨大漢であり、一般のトンガ人は体格はよいがそんなには大きくはない。
別の箇所で、女たちがタロ芋、ヤム芋などをバナナの葉でくるみ、ココナッツの汁をかけ、また葉でしばっている。赤ダイのようなかなり大きな魚を椰子の葉で巻く。綺麗に編むように包んでゆく。と思うと、まっ青な熱帯魚のようなものを引きだしてきた。
こちらの木かげで男たちが、一年から一年半の黒い仔豚の足を抑えて、刺し殺している。この辺の描写は省略しよう。とにかく殺した三頭の仔豚の内臓を出し、焼けた石の上でころがして皮を焼く。丁寧にナイフで毛を剃《そ》り、水をかける。そのあと尻から口まで長い棒を突き刺し、火の上でぐるぐると回転させながら焼いてゆく。
天候が悪化し、部落の人がさしてくれる傘の下で眺めていたが、とうとう車に逃げこむ。町では女性が日よけと雨のためによく傘を持っていた。男は滅多に傘を持たぬ。
さきほどのタロ芋や魚の包みを焼けた石の上にのせ、バナナの葉をかぶせ、その上に濡れたズダ袋のような布をかぶせて土をかける。豚を焼いているのは石の下で燃やした薪の燠火《おきび》である。雨の中でも燠火は一向に消えぬ。回転する白かった豚がこんがりと黄色になると油が滴り落ちる。
先にカヴァの宴をやってしまおうと、一軒の家にはいる。トンガではインスタントの粉はなく、カヴァの根を折り、石で叩き、カヴァ・ボールの水の中で手でもむ。正式には男性がやる役だが、このときは女であった。
インスタントに比べ、灰いろにどろりとした水で、口に入れると舌にぴりりとくる。空腹なのでなんだか酔ったような気分がした。
酋長はぶ厚い本を手に持っていたが、これがトンガ語英語の辞書なのであった。
一人の男が昔話をしてくれた。はじめこの島に流れついた二つの木があった。一つは砂糖キビで、一つはカヴァの木である。砂糖キビをかじったネズミは真直に走ったが、カヴァをかじったネズミはふらふらと走った。以来、カヴァの効用がわかったというのである。
砂糖のことをスカーというのではじめはわかりにくかった。あとで旅行社の男の家に雨やどりに行ったが、コーヒーを入れるとき奥さんがスガーという。英語ではシュガーの代りにスガーで、トンガ語ではスカーになるらしい。
雨が激しくなり、いったん先述の家へ退避したが、ウム料理のできあがる時刻の三時ごろ、現場へ戻ってみると、幸い雨があがり、ちょうど土が掘り起されるところであった。ところがその男たちが、いつの間にか旅行社の名であるTETAとマークのあるシャツを着ている。純朴であるはずのトンガ人も町の連中は抜目がない。藤森さんが立腹し、シャツを着がえさせる。
土をのけ布をとると、湯気が濛々《もうもう》と立ちのぼる。
やがてココナッツの葉で編んだポーラ(脚はないがテーブルの意)の上にずらりと並べられた御馳走は、スイカなどが彩りにそえられてまことに豪華に見えた。しかし、蠅が群がり、椰子の葉でしきりにそれを追っている。
席に着いた。私の前に坐った、酋長の次の格といったふうの背広の上着を着た男が、なにやら一分ほど現地語でしゃべり、最後に「エーメン」と言った。
それまでポーラの上にかぶせられていたバナナの葉がとりのぞかれる。
御馳走だが、先ほど豚を殺すところを見ているのと、群がる蠅のため、あまり食指が動かぬ。しかし、横にいる女が芋やら魚やらカニやら肉やらをとりわけてくれるので、わるいと思って無理に食べる。
やがて踊りが始まったので藤森さん、Kさんはそちらの方にかかりきりになるし、私一人のみ半ば嫌々食べることになった。醤油を出されたので、カニの甲羅にそれをそそぎ、豚肉などそれにつけて食べた。かりかりに焼けた皮の下に脂がついていて、意外にうまい。ヤム芋は芋のなかでいちばん高価と聞いたが、なるほどタロ芋よりうまい。それにしても、孤軍奮闘といった形である。
主に太鼓が伴奏であった。はじめはラカラカという歓迎の坐り踊りで、女は腕と頭を動かすだけ、男は手を叩き膝を叩き、くるりと廻ったり、かなり激しく動く。
ついで女一人、ニコニコしながら立って主に手にしなを作って踊る。踊り手はいずれも肌に油を塗っている。椰子の油を煮て花を加え、ビャクダンの粉などを入れたものとのこと。
酋長たち、しきりと「マリエ、マリエ!」と声をかける。「ベリ、ナイス」の意と聞いたが、踊りの始まるまえにも言うので、別の意もあるらしい。たとえば、御苦労さん、もっとやれ、などの意もあるという。
伴奏にギターと缶からが加わった。男の棒踊りは軽快で威勢がよい。次にシャンシャン音のする足輪をつけ、短い棒を持ってくるくる廻り、とびあがって掛声をかけたりする。
茣蓙《ござ》を敷いての女の坐り踊り、上体をゆるがして手ぶりが主で、かつてヤップ島でこれに似たシッティング・ダンスを見たことがある。
女がミカンを投げあげてのお手玉ダンス。二箇かせいぜい三箇しか使わぬ。藤森さんの見た南太平洋の踊りのフェスティバルのときは、六箇ぐらいを使った由。
女が一人ゆるやかに踊ると、「マリエ!」の声高く、祝儀として一ドル札を髪にはさまされた。
しかし、全体としてはやはり造られた観光踊りといった印象は免れなかった。これは食事の終りに、場違いなアイスクリームが出されたことに似ていた。
ともかく、部落の人にとっては大御馳走だったことは確かであろう。ふつうのトンガの部落では、特別の日を除き、ウム料理といっても芋だけのことが多いそうだから。
「マリエ」の意にしても、人によって言うことが違うので、或いはあやまりがあるかもしれぬ。旅行社のミスター・トンガというまぎらわしい名の男は、鼻で吹く笛のことを話し、国王は毎朝ドアのところでこれを吹かして目覚められると言ったが、以前王宮に勤めていた川上夫人のところにいるスキによると、そんなことはないという。
とにかく、せっかくの豪華なウム料理であったが、雨で退避したり、無理矢理に食べたりして、正直いって私は疲れはてた。宴が終ったころから、また雨になった。
──夜、川上夫人宅へ招ばれ、またしても日本食の御馳走になるが、なにせ夕刻近くウム料理を食べさせられているため、大きな鯛など出たがどうにもならず。
藤森さんは陽気な人だから、ホテルのボーイなどともすぐ友達になる。食堂のボーイが空手の真似をするので、角力はどうかと聞くと、知らぬという。スキも、ミスター・トンガも、角力は見たことがないので、空手のほうが好きだと言った。どうも角力は王様の一人角力のようである。
最後の夜を探訪しようと、町へ出た。倉庫のような建物から騒々しい音楽がひびいてくる。ダンス場であった。
入口に人が群がっている。満員なのかと思ったが、三十セントをはらうとすぐ入れてくれた。内部は薄暗く、エレキ・バンドがけたたましく演奏していて、ゆれ動く人の渦である。どうせゴーゴーだろうと思っていたが、ふつうに腕を組んでブルース、クイックを踊る場合も多い。
男のほうが多く、相手がないとうろうろしている。腰かけている女に頭を下げて申し込むと、必ずしもオーケーされず、キャアと言って逃げてしまわれるさまも見たし、男同士でゴーゴーを踊っている者もいる。
そのうち、場内の中央で喧嘩が始まった。一人の男が突進して、相手の腹を凄まじく打った。それきり人波で見えなかったが、すぐポリスに捕まったらしい。気をつけていると、場内にはポリスがかなりはいりこんでいる。
外でうろうろしている連中は、満員で入れないのではなかった。入場料をはらえないので、隙間のある壁から内部を覗き、せめて音楽を聞いているらしい。
映画は十一時から新しいフィルムと代るというので、それまでスナックでジュースを飲んで過す。同じ目的なのか、ベンチに坐って話しこんでいる連中のなかに、厚いオーバーを着こみゴム草履姿の男がいた。雨上りなので涼しいが、オーバーとは恐れ入った。ニュージーランドで買ったオーバーだそうで、教師だと言うが、とてもそう見えぬ髭《ひげ》づらだ。
十一時まえになって映画館に入る。香港製の安っぽい空手映画のもう終りのほうであった。無闇やたらと撲《なぐ》りあう。相手が椅子で撲りつけると、空手の一撃で椅子がバラバラになってしまう。逆に悪役の顔に空手を見舞うと、血がドバッとほとばしる。そのたびに、観衆は歓声、笑声、拍手、わめき声をあげる。その反応のほうが遙かにおもしろい。映画はヘリコプターで逃げようとする悪漢の親玉をガンで打ち落して、十分ほどで終った。
入れ替え制なので、客はみんな出ていってしまう。私たちは許されて待っていたが、ビールびんなどを片づけていて、一向に次の映画が始まらぬ。十二時からとのこと。さすがに疲れ、もう次のを見るのをやめにして外へ出ると、入場を待っている人で一杯であった。
雨がひどくなったので、ホテルヘ戻ったが、この雨ではさすがに昨夜のやり手婆さん、オカマたちは現われなかった。
翌四月十日の土曜日の朝、トンガ国王が空港に着くと聞き、藤森さんたちは早く出かける予定であった。
しかし、それもつまらぬというので、もっと遅く軍隊へ行き、行進するさまや機関銃を射《う》つさまを撮影してきた。「射て!」と号令がかかると、「セット・オーケー」などと言い、口で「タ、タ、タ、タ」と発射の真似をしただけだという。
それよりも、今日はラグビーの試合があり、午後二時に王様が臨席されるという。内田さんから頼んで貰ったら面接を許されることになった。一時半、ラグビー場へ行き、スタンドの中央の貴賓席の横に坐って待っていた。「ユア・マジェスティ」などという英語はとても話せぬから、内田夫人に通訳を頼むことにした。
二時少しまえ、一昨日会ったプリンセスがいらして貴賓席の左端に坐る。中央にひときわ大きな王様用の椅子があり、その右手の椅子は空いている。
二時きっかり、王様は黒い革ジャンパーにサングラスという恰好で現われ、お辞儀をしている私たちの前を過ぎる。さすがにでかい。いや、想像したよりはるかに重量感がある。
王様はスピーチを行うと聞いていた。インターヴューはそのあとだと思っていたが、困ったことにすぐそばに行けと侍従に言われた。
これではいつ演説になるか気にかかってゆっくり話せるものではない。ただ王様は、日本人は勤勉で理性的で、家へも靴を脱いではいってくると常に言っている日本贔屓なのを頼りに横の椅子に坐る。
私は、トンガ力士の来訪から急に日本でトンガ王国が身近なものになった。王様はプリンス時代に何回も日本へ行っておられるが、いつから角力がお好きになったのか、と尋ねた。
すると、意外にも、
「本場所はまだ見たことがない。テレビで見るだけだ」
という返答であった。
「角力はスポーツとしてあまりにシンプルすぎはしませんか」
「すぐ勝負がつくし、怪我がないからいい。礼儀を重んずるスポーツだと思う」
そして、
「日本のラグビーはクラブか?」「どんなスポーツがあるか?」
と尋ねられた。
私はスポーツを並べ、ないのはクリケットくらいだと答えた。
「王様は輪島、貴ノ花のファンと聞いていますが本当ですか」
「そう。そのほかキタノウミ、ワカミスギなど数名いる」
王様は途中で、お付きの者に革のジャンパーを脱がさせた。
「トンガ力士はまだ十両にならないか?」
私は困惑して、彼らは出世が早かったが、いま強い者と当っているので今場所は成績がわるい、二、三年の辛抱が必要だろうと答えた。
そのあいだも歓声が湧くと王様はそちらを見るし、さらに音楽が始まったので、そろそろスピーチの時間と思い、私と内田夫人は退出した。正直いって、王様があまりにでかいので、すぐ横に坐った私は少しこわかった(日本に帰ってきて二、三日して、トンガ力士が里帰りするという記事を新聞で見た)。
夫人に言わせると、私邸では王様は非常にリラックスして、向うからさまざまなことを尋ねたり、笑ったりなさるという。今日は観衆の前でもあり、いつもとぜんぜん違っていたそうだ。そういえば、先日あれほどにこやかだったプリンセスも、今日はとりすまして気品に溢《あふ》れていた。
王様の声はいくらかしわがれ声である。話しながら呼吸音がはいる。これも内田夫人に言わせると、今日は涼しかったからまだ少なかったそうで、いつもはもっとフウフウと息をするという。
そのあと、ぎりぎりの時間まで田舎の撮影をし、夕刻、トンガを離れる。内田さんが日の丸の旗を持って見送りにきてくれた。
スヴァのホテルに着くと、すぐ電話がはいった。前述の伴野商会の長嶋さんが自宅へこいと言う。
ここでも綺麗に並べられたスシ、大きなカニなどを御馳走になった。ウニがやや大味だが名物の由。こうしてみると、なんだか日本料理ばかり食べているようである。わざわざ持参のインスタント・ラーメンは川上、内田さんのところに置いてきた。
フィジー好きでタフな藤森さんも、さすがに強行撮影の疲れから胃痛を起し、「ゴールデン・ドラゴン」というキャバレーにも行かずホテルに戻って、珍しく酒を飲まずに寝る。
翌日は朝、ナンディヘ。石油ストがなおつづいているのと日曜日のせいか、空港にタクシーがぜんぜんいない。それゆえ、池田さんが車で迎えにきてくれたことは大助かりであった。
リージェント・ホテルという豪華なホテルに入る。その建物は風雅で、ロッジ風にわかれ、部屋も広々と洗練されており、おそらくハワイを含めて超一流のホテルといってよかろう。
その代り、鍵に札も棒も玉もついておらぬ。そのためその夜池田さんの家に招ばれたとき、フロントにあずけずにきた私はその鍵を紛失した。いつもはズボンの右のポケットに入れる習慣だが、いくら捜しても見当らぬ。辷り易いキイだからてっきり落したと思いこんだが、日本に帰ったら、肩掛けカバンの中から出てきた。慌てて返送したが、鍵そのものだけだったから危ないと思い、無意識のうちにカバンにしまったものらしい。
タヒチヘ行くナンディ発の飛行機は、午前一時五分発である。酒を飲んで時刻まで待つ。
タヒチヘは日付変更線を越えるので、十二日にフィジーを発ったのが、到着は十一日の七時半ころであった。時差が三時間。
「懐しいでしょ」
と、私のタヒチ贔屓を知っているKさんが言う。
しかし、空港ビルからしてがらりと変っていた。二階建ての近代建築で、送迎デッキに人が群れている。チキ(こちらの古い神さま)の像の下に、日本語の説明までついている。
カバンの出てくるのを待ったが、客がすべて去ってからも私たちのカバンは出てこない。係員らしい男が、「フィジーからか。それなら荷を消毒するまで一時間半待て」と言った。
日本を発つまえから、フィジーからだと害虫のはいるのを警戒して四時間、ときには半日、荷物が出てこないという情報を藤森さんは聞いていて、私たちは身の廻り品を肩掛けバッグにつめていたが、一時間半で済んだということはまずまずであった。
とりあえず外へ出ようとしたとき、やはり文春から連絡してもらった観光局に勤める志谷さんに迎えられる。ちょっとタヒチ美人に似ている彼女は、日本人客の応対で日曜日にも休めないとこぼしながら、親切にいろいろおしえてくれた。
ゴーギャンの息子のポールは観光客に写真を撮らせて金をとり、島に二人いる乞食の一人と言われていたが、二年前アメリカ人の物好きが連れだして、以来消息不明だという。
更に私にとってショックだったのは、パペーテの町は近代的建築が続々建ち、かつて泊ったオンボロなグランド・ホテルもとうに壊されてしまったと聞いたことだ。日本人観光客は昨年が三千四百人、今年は六千人を見こんでいるという。話を聞いただけで、十五年前のかりそめでない思い出が打ち壊されてゆくようだった。
空港でレンタ・カーを借り、ひとまずトラヴェロッジ・ホテルヘ行き、それからすぐタヒチ島の周辺を一周する道を撮影の下見にドライヴすることにした。
かつて私は人類学者畑中さんを乗せて、右まわりで島を一周した。このたびはゴーギャン博物館が一つの目的だったから左まわりで出かける。
タヒチには日本車が少なく、フィアット128だったが、六十キロくらいのスピードで走っていても、白人の運転する車がビュンビュンと追い抜いてゆく。昔はパペーテの町を出ると、行き合う車とてほとんどなかったのに。
海ぞいの道で、外洋に白いリーフの線が見える。左手は山である。他の島に比べ、花の種類が多様で(トンガではハイビスカスはほとんど赤のみであった)、家々の庭も公園のように綺麓な植込みになっている。
レストランも沢山できた。約五十キロ走った地点に「ゴーギャン・レストラン」という店があり、海辺のテーブルで昼食をとった。すぐ横が海で、小魚が泳いでいるのが見える。ここでKさんのフランス語が役に立つ。小エビのカレーをとったが、ココナッツ・ミルクがはいっていて辛くない。
すぐ先にゴーギャン博物館がある。かなり凝った建物で、訊くのを忘れたが、おそらく最近に建てられた新しいもののように思われた。
絵はもちろん複製で、モデルになった少女の写真などのほか、興味をひくものは少ない。売店でゴーギャンの絵の切手九枚で百フラン(一パシフィック・フランは三・七円)。
藤森さんはこの辺から引返そうかと言ったが、もう五十五キロくらい走っており、島の一周は百二十キロなので、私はついでに一周してしまおうと言った。そのくせ昨夜ほとんど寝ていないので、車の中でうつらうつらする始末である。
とある海岸で、一人の女が水浴していた。藤森さんがカメラをかまえたが、ついに胸から下を出さない。
道も後半になると、こちら側の海にはリーフがないので、大波が直接岸にぶつかり、道路の上まで波しぶきがとび散る場所もあった。
更にパペーテに近づくと、道路が広くなった。あまつさえ、間にグリーン・ベルトのあるそれぞれ二車線という堂々たる道になってきた。
その間、昔と違っていたのは、椰子林の中に放牧されている牛や馬がめっきり少なくなっていること(別の場所に牧場ができたとも聞いたが)、鉄の玉遊びペタンクがはやっていてあちこちでやっていたこと、スクーターが減ってバイクが多くなったことなどである。
パペーテの町へはいると、本当に私は呆然とした。道路は車でぎっしり、前はなかった信号ができ、近代的ビルが立並んでいて、かつての一種けだるいようなひなびた町の有様ががらりと一変していたことであった。
「もうぼくにはぜんぜんわからない。昔の店がどこにあるのかもわからない」
と、私はぼやいた。
海岸ぞいの道(かつてそこに船員のたむろする大きなバーがあったがその店もなくなってしまっている)を行くと、ずらりとヨットが繋留《けいりゆう》されているが、大型船は一隻もなかった。
その代り、広場で槍投げをしていたが、これは初めて見るジャベロという競技であった。高さ十二メートルくらいのパイプの先に椰子の実がつけられている。それを目がけて、上半身裸体の男たちが十数名、それぞれ十本の槍を投げる。槍は魚の泳ぐようにぶるぶるふるえながら飛び、十本くらいが椰子の実にささる。賞品は隅につながれている豚ということであった。
夜、八時半からホテルの庭でショーが始まる。御存知の激しい腰ふりのダンスである。その他にいかにも振付師がこしらえたらしい新しいダンスがいくらか。
「寅さん」の撮影部隊がきていて、某女優が一緒に腰をふったり、ライトをつけて踊りを撮影したりするため、外人観光客の顰蹙《ひんしゆく》を買っていた。私たちが見ても目ざわりで、恥ずかしかった。踊りもおもしろくなく、嫌になって途中で部屋へ戻る。
翌日はボラボラヘ飛ぶため、五時半起床。食堂もやっていないので、カップヌードルをすすりこむ。各ホテルでは電熱の湯わかし器があるのでこの点便利であった。
七時四十分の飛行機である。当然直行だと思って、途中のファヒネという島で一度降りてしまって大慌てをした。そういえばかつて私がポンポン船で行ったモーレア島にも、今は飛行機で十分で行ける。
ボラボラはこの辺でいちばん美しい島だ。リーフが白い輪となり、サンゴ礁の真白な砂地の上に着地する。
海のいろが圧倒的に綺麓であった。やや乳色をおびた濃いグリーンで、それが透明な水色となり、遠くのほうは藍色になっている。
小さなポンポン船で、奇怪な突兀《とつこつ》とした山を有する島に向う。ボラボラ・ホテルは、二つ目の終点と志谷さんに聞いていた。ところが一つ目の海岸でおろされ、ここにバスが迎えにくるという。
私は一昨夜はわずかな仮睡、そのあとタヒチの一周などしたあとの早起床なので、眠くって、木株に腰かけて、うつらうつらしていた。そのさまをおもしろがって、タヒチ人たちが藤森さんに、彼をおどかせ、そうすれば目が覚めるだろうとけしかけた由。
結局バスはこず、またポンポン船に乗りこむ。こういうところはだらしがないといってよく、離島ではまだ昔の神聖な怠け者精神が残っているのかも知れぬ。
船の終点から木のベンチのバスで十分ほどでボラボラ・ホテルに着く。記入カードに英語のほか日本語も印刷されている。
椰子の葉葺きのバンガローであった。竹のすだれの奥が洗面所となっていてシャワー室がある。
木の桟橋を海中にのばし、海上バンガローになっている部屋も多い。まず恰好な観光ホテルである。海浜には白く塗られたカヌー、それに白いヨットなどが目についた。こちらの海はピチャピチャと軽いささやくような音を立てている。
リーフの内側の海が目が覚めるような草色で、タヒチ本島で失望した私も、今更ながらその微妙に色を変える美々しさに感嘆した。
輝かしい陽光をあびて日光浴する白人たち。泳いだりカヌーを漕《こ》ぐ者もいる。
昼食後、藤森さんたちはバギー・カーを借りて撮影に出かけたが、正直のところ疲れきっていた私は同行しなかった。
薬を服んで寝ようとしたが、うとうととするくらい。外のハンモックに寝に行ったが、日ざしが強く、しょっちゅう人が通るので、また部屋のベッドに横になる。
夕刻、藤森さんたちが戻ってくる。なかなかの美人がいたが、撮影を始めると、その恋人らしい男が怒る気配を示したので途中で中止した由。タヒチでは、ホテルやレストラン、土産物屋などを除き英語は通じない。
海のいろが次第におだやかになり、うす桃いろがまじり、六時十五分、完全に昏《く》れてゆく。
七時過ぎに海辺の食堂へ行って、ヒナノというビールを飲む。ヒナノは花の名で、このほかヴァヒネ(女の意)というビールもできた。輸入品ではハイネッケンなど。
九時から踊りがあるはずであった。海辺の食卓へ行くと、十数名の日本人がいた。なかに新婚が三組。モーレア島、ボラボラ島を含めた七泊八日の旅が一人五十万円と聞いた。さすがに高いと思った。
ちなみにタヒチのトラヴェロッジの宿泊賃はツインで四千百五十フラン、シングルで三千六百フラン、ボラボラ・ホテルが朝夕食つきでツィン八千フラン、これに比べてトンガのデイトライン・ホテルは十トンガ・ドルである。
タヒチは昔からノー・チップ制であった。それでも物価はずっと安かったから、私はボーイなどには少しチップをやっていた。今はどうかというと、志谷さんは、笑って言った。
「チップはもちろん不要です。その代り、何でも物凄く高いですから、逆にお釣りを貰いたくなりますわ」
たしかに現在のタヒチの物価は東京を凌駕《りようが》するといってもよいだろう。
それでも新婚の花嫁さんは、「きてよかった」と言っていた。大体、タヒチは短時日に取材に駈けまわるところではない。新婚か恋人同伴か、或いは日時を忘れて離島でのんびりと寝そべる場所である。
やがて真暗な海上から、「オレアナー」とか歌いながらトーチをつけたヨットが近づいてきた。乗っている踊り子たちは白い長い花飾りをつけ、ますます演出過多という感じだ。
坐りながらの踊りが多かった。これはわりに伝統的なものである。「ヤリタイナ」と聞える歌もあった。しかし、そのあと観光客をひっぱりだしてゴーゴーなどを踊るのは、むかし私がモーレア島で経験したとおり。海辺のさざめきをあとに、疲労気味の私たちは早く部屋に戻る。
翌日も七時起き。朝食のジュースや果物のヴァイキングは有難かった。
船着き場の土産物店のお婆さんは、百とか二百とか日本語で言う。
ボラボラ空港からファヒネ空港を経てパペーテ空港までちょうど一時間である。
町を散策したが、失望感は強まるばかりであった。大体、むかしは海辺の近くには椰子が茂っていて、そこらの土にカニの穴が無数に空いていた。それが椰子の木はすべてなく、舗装され尽している。町外れの海辺のカヌーに坐って昏れてゆくモーレア島を長いこと見ていたものだが、そこも大きな舗装道路になっている。
変っていないのは、町の中央にある古い教会と、少々薄汚い市場くらいしかない。
市場ではカツオが大量にあがっていた。「いくら?」と聞くと、指を五本出し、次に四本にしてみせる。「ハンドレッド?」と問うと、わからないというふうに手をふった。
それでもトラックを改造したような、木のベンチのバスは昔のままだった。しかし、あの頃のように禿《は》げちょろのものでなく、車も新しく、塗装も新しい。
中国人街が、かつてのだらしのない──これは讃め言葉だ──薄汚さをわずかに残していた。
サメの歯を売っている。大きいのが二千フラン、小さいのが四百フラン。
喫茶店で、「アイス・ティ」と頼むと、女の子はけげんな顔をし、マダムのところに相談に行き、ずいぶんと経ってから把手《とつて》のついた丸いビールの大ジョッキのような飲みでのある奴を持ってきた。
街頭でもこういう場所でも、知り合いの女が出会うと両頬にキスしあう習慣は昔のままである。
その夜は、「ピタテ・ママオ」という中華料理屋へ行った。十五年まえは、中国人の店はあったがフランス料理であった。それがもう何軒も中華料理店がある。
翌日は、藤森さんたちはホテル・タハラのフロントに勤めている鳥飼さんという青年を案内に撮影に行き、私はごろごろして、ただ一つ、むかしの私の旅行記『南太平洋ひるね旅』に出てくるフランス料理屋が、「ピタテ・レストラン」として改築されているのではないかという志谷さんの予想に従って、そこへ行ってみることにした。
なぜなら、タヒチに着いてまだ西も東もわからず、おまけにレストランのメニューがフランス語でチンプンカンプンで参っていたときに、とある中国人経営の店で「カリー」という字を発見し、頼んだら日本風に汁のたっぷりした御飯つきの小エビのカレーだったので感激した思い出があったからである。
実はその店は前日に見ていた。石造りの立派なレストランで、かつてのひなびたおもかげは更にない。店の前に料理の名を記した木の看板が出ており、小エビのカレーはやはりココナッツ入りだったが、その他に小エビのカレー・ソースというのが出ていた。それが十五年前の感激をよみがえらしてくれるかもしれぬと考えた。
そのため私はホテルから五百フランはらって、タクシーでわざわざその店へ出かけてみたのだ。しかし、幻滅を味わわなければならなかった。カレー・ソースはやはり大して辛いものでなかった。おまけに、その店の位置があきらかに昔の場所とは違うとわかったからである。
よき昔は帰らぬものだな、いや、それよりも私が老化して口もおごって堕落しているからなのだ、などと思いながら、私は少ししょぼんとして食後のアイス・コーヒーを飲んでいた。
街へ出ると、到るところで古い建物を壊して空地ができている。いよいよ真新しいビルが林立するのであろう。
タクシー・ステーションにも車は見当らず、私は辛うじて市場のところで、これから昼食へ行くのか駐車しようとしているタクシーを掴まえた。
夕刻、藤森さんたちが戻る。彼はカヌーでサンゴ礁を撮影していて、カヌーがひっくり返り、両足に怪我をしてきた。もともとそのカヌーは子供が乗っていた小さなカヌーで、漕手の婆さんと藤森さんともども重量があり、出てゆくときから舟べりと水がすれすれであった。横木がついていたが、夢中になって身を乗りだしたら、アッという間もなく反対側に転覆した。カメラを助けようと両手をあげたため、足を切ったという。
私はかつて、明治時代に移民した日本人の三名の方に会ったものだ。その他に数名がいると聞いた。そのときすでに彼らは高齢であったし、十五年という歳月は流れているし、とても生きてはおるまいと考え、その存在も捜さないできた。ところが、まだ生存している人がいて、日本人旅行者が会ったことがあると鳥飼さんが言う。
もちろん、現在タヒチにいる日本人八名くらい(家族は除く)とはまったく接触がない。教会へでも行っておれば捜しようがあろうがその可能性もなく、移民局へ行っても記録がないからとてもわからないだろうという話であった。
いずれにせよ、もの寂しい話である。なかんずく私は、清野さんという方のお宅で刺身などを御馳走になったりしたことがあるので、胸がつまった。
私たちの帰国する飛行機は真夜中である。夕食はまたしても「ドラゴン・ドール」という中華料理店へ行った。それまでビールくらいで済ましていたが、タヒチを去る記念としてボジョレの赤を二本飲んだ。意外に中華料理にあう。
空港には「免税売店」と日本語が記してあった。いよいよタヒチもアンカレッジなみになってきたようだ。
結論をいえば、たとえばボラボラ島の海はこよなく美しいが、徒らに最後の楽園と過度の夢を抱いて訪れれば失望するかもしれない。ジェット機の直行便がはいった島にそれを求めるのも無理なことであろう。
なにより過密なスケジュールの仕事のために行ったことが、私の南太平洋再訪をなにか幻滅に終らせたことは付記せねばなるまい。これらの島々は勤勉とか仕事とかにはそもそも無縁であるのだから。
[#地付き]〈了〉
初出誌
マンボウ響躁曲
文藝春秋/昭和五十二年一〜六月号連載
(「マンボウ出鱈目泰西旅日記」を改題)
マンボウ南太平洋をゆく
文藝春秋デラックス/昭和五十一年八月号
単行本 昭和五十二年十一月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年五月二十五日刊