マンボウぼうえんきょう
北 杜夫
[#表紙(表紙.jpg、横180×縦260)]
目 次
1 |もりや《キチガイ》メガネの巻[#「1 |もりや《キチガイ》メガネの巻 」はゴシック体]
怪盗グレート
柳の下
『さびしい王様』の中書き
大河小説
2 |おりごん《コマゴマ》メガネの巻[#「2 |おりごん《コマゴマ》メガネの巻」はゴシック体]
百人一首のこと
とぎれとぎれに
周期のこと
鬱のウツ
ノイローゼ・ルポ
こわい話
ろくでもない本の話
本屋さんへのお願い
キングコング
銀座の半日
『トニオ・クレーガー』あれこれ
電話部屋
よく覚えていない旅
賭博と食物
ヤップの祭り
キリマンジャロと戦車隊長
ヨーロッパ躁紀行
凄く恥かしい話
旅行嫌い
悲しき夏
3 |えうけえ《マボロシ》メガネの巻[#「3 |えうけえ《マボロシ》メガネの巻」はゴシック体]
ホタルの神秘
都会と虫
糸巻のタンク
趣味のない生物
ピーコック革命
音痴の弁
ビートルズの観客席
もっとゆったりと
甘えについて
理屈ではダメということ
アスピリン
風邪の直しかた
ドッピング
順位予想率
ヘボ野球
お餅のことなど
世界はひとつ、オリンピック
いちばん原始的なこと
底のソーセージ
クリスマス
幼稚園
処女喪失者の弁
机と椅子
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1 |もりや《キチガイ》メガネの巻
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怪盗グレート
一人の独身の男がいた。まっとうで、善良なサラリーマンである。
ただ、この男には子供じみた空想癖があって、夜ねるまえのひとときには、ドロボウになってみたいと好んで考えた。それも、世をアッといわせる、いわゆる怪盗という名にあこがれた。
鼠小僧次郎吉は金持から盗んで貧乏人にめぐんだし、アルセーヌ・ルパンや怪人二十面相も決して人を殺さず、堂々とした盗みをやる。
そんなふうに、その男が夢の中だけで怪盗にあこがれ、現実には健全な市民生活を送っているうち、新聞紙上に怪盗という言葉がしきりと目につくようになった。「怪盗二十二号」とか「怪盗三十四号」とか、警視庁では番号をふり、手配中との記事が新聞に出る。
男は、「怪盗」という活字を見ただけで、もう胸がわくわくしてしまって、一体こいつらは、いかなる怪盗なのかと記事をよく読んでみると、彼らのやる盗みはぜんぜん偉大なところがなく、この世に害だけを流す、つまりどこからどこまで唾棄《だき》すべき悪人どもであることがわかった。
男はすっかりフンガイしてしまった。それから、フンガイのあまり、いつもの癖にすぎないひとときの夢想をとびこえ、断乎《だんこ》とした決意、いや妄想《もうそう》を抱くに至った。
「よおし、このおれが実際に怪盗になってやる。そして本物の怪盗とは、いかなる存在であるか、世に知らしめてやる」
そこでたちまち、自分をひそかに怪盗グレートと名乗ることにした。
「怪盗とは、盗みを働くにせよ、この世に、悪よりもより多くの善をほどこす存在であらねばならぬ」
するうちに、新聞に沖縄の記事が多くなった。祖国復帰の悲願から基地の問題から、なかには沖縄の小学生が、雪というものを見たことがないため、教科書に雪という字が出てきても、一体どんなものか想像もつかない、という挿話《そうわ》もあった。
根が善良な怪盗グレートは、すっかりこの記事に同情してしまった。
「よおし、それならばこのおれさまが、日本内地の雪をすっかり盗んで、それを沖縄に運んでやろう。これが怪盗グレートの第一番目の仕事だ」
ところで、いざ現実にそれを実行しようとして、彼にできることは、せいぜいリュックサックにいっぱい雪をつめて、飛行機で沖縄にかけつけるくらいが関の山である。それっぽっちの雪では、飛行機の中ですっかり溶けてしまうだろう。
怪盗グレートは雪計画を中止し、次なる案をねった。案をねっているうちに、ますます妄想がふくれあがってきて、もう自分は有史以来の大怪盗であり、どんな盗みであれ不可能の文字はない、とまで確信するようになった。
と、また沖縄の子供の話をよんだ。沖縄にはもちろんさしたる動物園もない。子供の夢とあこがれを満たしてくれるゾウだのキリンだのライオンだのは、絵や写真でしか見ることができぬ。
「なんといっても沖縄の子供たちはかわいそうだ。大人も気の毒だが、まず小さな子供から喜ばしてやろう」
と、怪盗グレートは考えた。
「このわがはいが、日本一の動物園からすべての動物を盗み、それを沖縄に運んでやるか」
そして、すぐさま盗みの大計画にはいった。上野動物園では檻《おり》にはいっている動物が多いので、一々鉄棒を切ったりするにも時間がかかる。
やはり自然動物園のほうが盗みやすいだろう。男は、多摩動物公園のことを、怪盗グレートの秘密調査網で探知した。なにもこんなことは、秘密なんて言葉をかつぎださずともわかるのだが。
まず男は、いかにも怪盗らしく見える扮装《ふんそう》をしようと思った。いろんな子供の本のさし絵などを研究し、石川五右衛門のスタイルまで考えたが、もっと近代的であるべきだと考え直し、白のタキシードに黒ズボン、チョウネクタイとタキシードの胸の花は赤に統一して、高級洋服店に特別注文をした。それにシルクハットをかぶろうとしたが、服がばかに高価だったため貯金が尽き、無念ながら野球帽で代用しなければならなかった。
そこで、遊び友だちのフウ子から資金を借り、この大計画を話すと、もともと彼女もいかれているので、勇んで子分役を引受けた。しかし、ちょっとしゃれてミニスカートとブーツとサングラスの扮装をすると、彼女も文無しになった。
辛うじてドロボウ用の道具を買うと、多摩動物公園まで行く費用もなく、とりあえず近くの名古屋にある東山動物園をねらうことにした。ここは日本ではじめて一部を自然動物園らしく作った由緒あるもので、ゴリラをしこんで曲芸を見せたりする、と怪盗グレートの秘密調査網は告げてくれた。
そして、ついにある夜、この二人の親分子分は、いろんなドロボウ用具をもち、闇にまぎれて動物園の鉄柵《てつさく》をのりこえた。
「小物はあとまわしにする。まず曲芸をするゴリラからねらってやるか」
二人は、秘密地図を頼りに、足音をしのばせて深閑とした道を進んだ。すると、だしぬけに、「ギャー!」という鋭い叫びが耳の横でわき起り、二人は一メートルもとびあがったが、おそるおそる懐中電燈を照らしてみると、単なるオウムにすぎなかった。
「わがはいはもともと平家の子孫で、水鳥の羽音にはおどろかぬ修行はしたが、オウムの声にまで手がまわらなかった」
と、怪盗グレートはぼやいた。
二人は、やっとゴリラの檻にたどりついた。古タイヤがつるしてあるむこうのコンクリートの建物の中に、何匹かのゴリラとオランウータンがひそんでいるらしい。
「さあ、あのゴリラを盗め。あいつらは肩車もすれば、並んでテーブルについて皿から食事もするそうだ」
と、怪盗グレートが命ずると、またチラと懐中電燈をつけたフウ子は、檻の前に、「ゴリラはフンを投げることがありますから御注意ください」と書いてあるのをよみ、ゴリラなんか平気だが、フンを投げつけられるのは真平だ、と尻ごみをした。
そこでゴリラもあとまわしにして、トラとかヒョウをねらってゆくと、やはり「あぶない! 柵の中にはいらぬこと」と注意書きがあり、二人ともためらってしまった。
秘密地図によると、ウシカモシカというのがおり、シカならまあ安全だろうと忍んでゆくと、なんだか猛牛めいた生物で、「性質は荒い」と記されてあり、アフリカゾウはこれはもっと危険らしかった。
性質のおとなしいインドゾウならと思い、そこの鉄柵をのりこえ、堀をこえ、夜はゾウが入れられている飼育舎の扉をこじあけてみると、ゾウとはこんなにでっかいのかと今更のように思われるやつがおり、ためしに尻を押してみても、鼻をひっぱってみてもびくともせず、おまけにゾウが鼻をひとふりすると、二人とも五メートルもはねとばされた。
「インドゾウにせよおとなしくない。動物学の本はウソを書いてやがる」
と、怪盗グレートは、したたかに打った腰をさすりながら、ぼやいた。
こうして、二人ともだんだん弱気になってきた。おまけに、フクロテナガザルとかいうやつが、ギョッとするほど甲高い面妖《めんよう》な声をあげるので、そこらじゅうの闇が不気味になってきた。
「いやあ、ここはバケモノとユウレイと悪魔どもの巣だ」
と男は思ったが、怪盗グレートの名誉にかけて、フウ子をはげましなお進んでゆくと、今度こそ二人ともヘナヘナと腰を抜かした。
前方に、見上げるような巨体、圧倒的にグロテスクな黒影が三つも立ちはだかっていたのである。それこそ古代の怪獣恐竜たちの姿そのものではないか。
二人は五分ほど腰を抜かしていたが、相手がちっとも動かないので、あるいは死んでいるのかとも思い、おそるおそる近づいてみると、死んでいるどころか、はじめからコンクリートで造られた模型にすぎなかった。
「なんたることだ」
と、怪盗グレートはうめいた。
「わがはいはもう怒ったぞ。こうなったら、生命《いのち》をかけても、スズメ一羽、ミミズ一匹くらいは盗んでやるぞ」
二人は進んでいった。すると、広い土の空地があって、そこにはほんの低い竹の柵しかない。
秘密地図によると、それはキリンの遊歩場で、むこうの石造りの建物にキリンたちは入れられているらしい。
「キリン! これなら大丈夫だ。キリンは人を食べたりはしない」
と、怪盗グレートはおもおもしく言った。
「キリンならあたしもライオンより性にあうわ。でもこの広場に、昼間はキリンが放し飼いになってるのでしょ? こんな低い柵で逃げないのかしら」
と、フウ子もようやく元気になった。
「あるいはここのキリンはブタのように足が短いのかも知れん。それこそ珍種だ。とにかく急げ! もうどのくらい時間をムダにしたかわからん!」
二人は低い柵をとびこえ、少し道より高くなっている広場へ突進した。すると、やっぱりそこにはキリンが逃げぬよう、道からは見えぬ深い堀が隠されていて、二人とも転落し、あちこち打撲傷を受けた。
しかし、執念にもえた二人は、気丈にも堀からはいだし、大きなキリンの飼育舎の扉をハンマーでぶちやぶった。
だが、キリンはものにおどろきやすい動物である。たちまち何頭ものキリンが扉口からとびだし、広場じゅうを駆けまわった。そのキリンどもはやっぱり足が長く、駆けるのも早く、怪盗グレートとその女子分がいくら追いかけても、とてもつかまらぬのであった。
そこで二人はついに一計を案じ、ハシゴとロープを用いて、キリンの飼育舎の屋根にはいあがった。そこはたいへんに高く、今にもすべり落ちそうで冷汗を百リットルもかいた。
その屋根の上から、フウ子が持参の釣竿《つりざお》をのばした。これはもともと、池の金魚一匹に至るまで盗むつもりで用意してきたものである。糸の先に枯葉をつけ、これでキリンを釣ろうとした。
すると、はたして一頭のキリンが近づいてきて、本当に枯葉に首をのばし、べろりと長いシタを出した。
その瞬間、怪盗グレートは、さっとロープを投げつけ、それはものの見事に長いキリンの首にまきついた。とたんにキリンはダッと走りだし、怪盗は高い屋根からひきずり落され、女子分もはずみをくらって転落し、二人とも枕を並べて気絶してしまった。
――ふと、怪盗グレートは目をあけた。だれかが自分らを抱き起し、介抱してくれている。
「ああ、見まわりの夜警につかまったのだ。さすがの怪盗グレートも、いよいよこれで最後だ」
と、男はがっくりして思った。
しかし、そのよぼよぼの爺さんみたいな相手は、夜警でもないらしく、どうして君らはこんなばかげた真似をしているのだ、とやさしくたずねた。
もはや平凡人に戻った男が、ありのままをぼそぼそと話すと、貧相な爺さんはおだやかに言った。
「それはたしかに立派な計画だが、君らには手にあまることだ。それに君らは体じゅう傷だらけだ。まあ、少し休んでいたまえ」
そして、なにか薬みたいなものをかがされたと思ったら、二人ともすぐ眠ってしまい、次に気づいたときには自分らのアパートの部屋の床の中に寝ていた。しかも五日ほど眠っていたらしい。
怪盗グレートであった男は、しょぼしょぼした目で、とにかくたまっていた新聞をよんだ。アッと思った。大トピックとして報道されている記事によると、多摩動物公園と東山動物園の主だった動物が一日のうちにみんな姿を消してしまい、次に沖縄に自然動物園がひらかれるというビラがまかれ、大ぜいの子供らが行ってみると、本当に沢山の動物たちが米軍基地の芝生の中で遊んでいた。もちろん危険防止の処置もちゃんとほどこされていた。どんなに沖縄の子供らが喜んだことか。そして、三日後、その沢山の動物たちは、またもや忽然《こつぜん》として元の動物園へきちんと戻されていたという。
えせ怪盗グレートに手を貸してくれた人物こそ、一名ジバコとも呼ばれる、かの史上最大の怪盗×××だったのではあるまいか。
(布告。怪盗×××以外、怪盗の真似をしてはいけません。日本政府並びに警視庁並びにこの文章の作者)
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柳の下
第一の副題
――作者の中年となりたることを記念した唯一のエロ小説――
若い男性――少なくともこの地球上の――にして、女性について夢を抱かぬ者がいるだろうか。
彼にしても夢想がなかったわけではない。しかし、彼の場合には、自分と女性とは絶対に一生縁があるはずがないという、一般の男性とは逆の、おそろしく絶望的で、不毛で、閉ざされた観念をひしとかき抱いていた、というのが特徴である。
それは、完全に鞏固《きようこ》な妄想といってよかった。
なるほど彼はずんぐりむっくりしていた。顔立ちもパッとしていなかった。おまけに薄給の身で、貧相で、立身出世できようとは占師も言ってくれたことがない。
といって、彼よりもずっとちんちくりんの、もっと容貌|魁偉《かいい》の、ぜんぜん無職の男だって、女についてはそれぞれの夢を見る。まあ三流品の女とはいつかは結ばれるだろうと考える。競輪で当てて、鼻のかけた娼婦を買ってやろうくらいの気概はある。少なくとも、ヌード写真を眺めて、ニタリと笑うことくらいはする。
ところが、彼となると、自分はむろん生涯童貞であり、全世界ブス代表の女であれ見合さえもしてくれず、どんなうらぶれた娼婦であれ自分には声一つかけてくれっこないと、天地神明にかけて信じこんでいたのである。
こういう男こそ、それこそヌード写真を山ほどためこんで、せめてもの架空な夢に浸るのではないか、と世人は考えるであろう。
なるほど彼は以前、中間小説誌、三流週刊誌をよく買った。それにはエロ小説もよく載っていた。よく? いいや、そうでないものは望遠鏡で捜さねばならぬほど稀《まれ》といえた。
そうした小説を彼が読んでゆくと、おどろくべし、そこに登場する女は、彼がこの目で見知っている女と違い、風呂にはいるわけでもないのに裸になるのであった。或いは裸にされるのであった。そういう具合に衣服をとると、おどろくべし、そこには乳房とかお尻とかいうものがついていて、それを男がいじったりするようであった。更におどろくべし、なんと性器というものがあって……。
そういう雑誌には、もちろんヌード写真も載っていた。そして、彼はこわごわ、目をつぶるようにして、姿のいい裸女の形態を垣間《かいま》見た。乳房とかお尻とか腿《もも》とかいうものも、どうにか必死の勇をふるって眺めた。
そんなふうにして、はたして彼は昂奮《こうふん》したろうか。わくわくと胸をときめかして、現実では起り得ぬつかのまの空想にふけったりしたろうか。
否、断じて否。
それほど彼の絶望は強く、生涯、いや七生を通じて女性とは縁があるまい、という確信を深めるだけであった。まして性器などというものとは……。
エロ小説を読みだして、女が裸になりそうになると、彼は底なしの空虚の念にとらわれた。オッパイが現われかけると、思わず涙が滂沱《ぼうだ》としてその頬を滴った。いよいよ肝腎《かんじん》な個所にさしかかると、比類なき悲傷が彼の胸をつらぬき、気が遠くなるか、よよとして泣き伏してしまった。それから、彼は最後の気力をふりしぼり、その雑誌をビリビリに引裂き、洗面器の中で燃やしてしまうのであった。
ヌード写真を見るのも、それと同様であった。とても間近く肉眼では見られぬので、彼はアパートの六畳の間の壁際にそれを立てかけ、自分は反対側の壁までさがってきて、ちらと横目で見ては目を伏せ、思いきってもう一度、股ぐらから逆さまに覗《のぞ》いてみては、身も世もあらぬほど絶望して、目をつぶって突進し、罪のない写真をビリビリに引裂くのであった。一度たりとも、彼は顔を赤らめたりはしなかった。その顔は蒼白《そうはく》になり、くちびるまで血の気を失い、ひたすらに悲哀の念に縛られるばかりで、ニターリとするどころではなかった。
それも何年か昔の話である。
もはや彼は、エロ小説やヌード写真の載っている雑誌を買ってこない。
深い水底のような諦念《ていねん》、それが彼をおおいつくした。完璧《かんぺき》な諦念とは安らぎに通ずるものである。
従って、現在の彼は、その若さにもかかわらず、落着いて、さしたる悩みもなく、ほとんど幸福そうにすら見えるのである。本当はロボットじみてきたのかも知れないが。
日が昇り、日が落ち、そうして時が経ってゆく。月が満ち、月が欠け、そうして時が過ぎてゆく。
ある朝、彼は会社へ出勤のため駅へ急ぐ途中、ふと道端にタンポポの花を見つけた。そこは少し高級な団地の中を過ぎる道で、アスファルトの道のはずれの土に、ひっそりとその黄色い花弁は咲いていた。
毎日通う道だのに、そんなものが目に映るのは特殊なことといってよかった。判で押したような情味のない彼の日常では、たとえおどろおどろしい人喰い花が咲いていたとて、気づかずにいたかも知れない。
「こんなところに、まだタンポポがあったか」
と、ちらと思った。
「してみると、今は春なのだな」
そのまま彼は急ぎ足で通りすぎた。
しかし、遥《はる》かな郷愁のようなタンポポの花弁の印象は、彼の脳裡《のうり》のどこかに刻みこまれていた。その日は残業で、彼が家路を辿《たど》っていたのは十時をすぎていたが、すでに大半が暗く寝静まった団地の中を過ぎるとき、自分でも唐突につぶやいたものだ。
「あのタンポポ、どこにあったっけな」
周囲は暗く、もとより昼間見た一株の野草がどこにあるのかわからなかった。
彼はべつに立止りもせず、歩みをつづけた。
とはいえ、知らず知らずその足はのろくなり、ここ何年となく覚えたことのない得もいえぬ甘酸っぱい感情が彼の内部を吹きぬけていった。
なまぬるい晩春の夜であった。星も見えず、夜空はひたすら淀《よど》んだように地上にかぶさっていた。
石のように定《きま》りきって変化が起ろうはずのない彼のまわりに、なにかさゆらぐもの、うごめくものの気配がした。というより、彼の内奥に芽生えるものでもあるのだろうか?
彼は声なくわらった。自らを嘲《あざけ》るように。
「いくらおれだって、たまにはこんな気持にもなろうさ。春だもの」
団地が尽きると、しばらくもっと暗い閑散とした道路がつづく。昼間は車の往来もはげしいが、この時間にはひっそりとしている。彼のアパートまで、そこから五分とかからない。
ふと、前方の道の右側に、一本の樹木が、黒いうえにもかぐろく、しかもへんに朦朧《もうろう》と斜めに立っているのが目に映った。
「おや、変った形の木だなあ」
と、彼は思った。
「こんなところに、こんな木があったっけ。毎日々々、この道をおれは歩いているのだがなあ」
近づいてみると、細い柳であった。幼時の記憶の底に沈んでいたものが、僥倖《ぎようこう》にぽっかりと浮んできたような風情の、柳の木であった。
「ほう、たしかに柳だ」
と、彼は独語した。
「もっともタンポポだって柳だって、天然記念物になったという話も聞かないし、あったってべつに不思議はないわけだ。ただ、単に、今までおれの目にはいらなかっただけのことなのだ」
彼は近づいて、立止って、なんの奇もない一本の細い柳をしげしげと眺めた。すべてが黒いだけだったが、枝が誘うようにしなだれかかり、その長細い葉たちも情感をこめて手招きをしているかのようであった。
「柳か」
と、もう一度、彼は独語した。
「柳の下にはドジョウか、それとも……」
すると、間髪を入れず、それが出現したのである。
髪はあくまで長く、面《おもて》はほそく、目はさらに糸のように細く、白っぽい着物をまとった体も細く、すべてが柳に似ていたから、女にはちがいあるまい。ただ、その下半身が靄《もや》のように尻すぼみに霞《かす》んでいた。足らしきものはぜんぜんなかった。それが柳の下の、暗黒の闇に浮いていた。
その細いくちびるが動き、かぼそいながら確かに女の声が伝わってきた。
「うらめしやー」
彼がいくらかなりともびっくりしなかったといえば嘘になる。
立ちすくんで、まじまじと、相手の青白い顔立ちを見つめた。暗闇が満ちているはずだのに、この世のものならぬ青白い肌はくっきりと見えた。さながら皮膚自体が燐光《りんこう》を発するかのように。
彼はぼんやりと胸の中でつぶやいた。
「……女だ……」
そして彼女の下半身をもう一度見た。
「……幽霊か。おれに話しかけてくるのだから、やはり生身の女じゃないな」
実際、会社でも彼は女の子から声ひとつかけられなかった。女とみれば電光のごとく逃げてしまうのだから、よほどの変人と思われ、仕事上の用事のときには、女たちは文字をかいた紙片を置いていった。
「うらめしやー」
と、また女の幽霊が言った。長い髪をおどろにたらし、地底にひきずりこむような声で、物凄《ものすご》く陰々と。
彼は、どもどもと口を動かした。
「ああ、こんばんは」
女の幽霊は、意外そうに、あんがい人間じみた声で言った。
「あら、あなたはおどろかないわね」
「おどろく?」
と、彼はオウム返しに答えた。
「だって、ぼくは絶望しきって諦《あきら》めきった男だ。この胸の中はかさかさして砂漠よりも乾いている。驚くなんて情感は起りっこないさ」
「あたしがこわくないの?」
幽霊は、髪をかきあげて、燐光の発する不気味な青ざめた細面を、彼の眼前に突きだした。
「ちっともこわくはない」
「じゃ、これなら?」
幽霊は、なよなよした細い手をのばし、その指で彼の頬を撫《な》でた。氷よりも冷たい触感がした。
「いい気持だ」
と、彼は独白のように言った。
「どうしてこんなに快いのだろう? そうだ、君が女だからだね。なんて素晴らしいことだろう!」
彼はうっとりと目をつぶった。
そして、次に目を開いたとき、幽霊の姿は消えていた。暗闇だけが、妙になまめかしく拡がっているばかりであった。
何日か経った。
彼の日常には変化はなかった。朝起きて会社へ急ぎ、夜の始まりにはアパートへ戻る。そして、寝るまえの閑《ひま》つぶしに、エロ小説など出てこないよう、官報や汽車の時刻表や電話帳などを読む。
といって、彼の心の隅には、あの女の幽霊の記憶はこびりついていた。一晩は、丑三《うしみつ》どき、わざわざアパートを抜けだして、柳の木のところへ行ってみた。が、どういうものか、そうして意識して捜すと、柳の木はどうしても見つからないのであった。
また何日か経った。
彼の帰宅の時刻は、ちょうど先夜と同じ頃あいであった。柳の木が、偶然のように、前方にくろぐろと立っているのも同様であった。
彼はその下に立ち、十数分かを待った。幽霊は現われてはこぬ。
自分では初めから期待などしていないつもりであったのに、やはり気落ちして、彼はのろのろと家路を辿った。アパートの自分の部屋のまえで、鍵《かぎ》を取りだそうとしたとき、その粗末な戸が内側からすっと開いた。
内部には、女の幽霊が立っていた。いや、薄暗い宙に浮いていた。
「君か」
と、彼は口ごもりながら言った。
「こんなところにきて、いけなかったかしら」
と、幽霊が低い声で言った。けっこう嫋々《じようじよう》としてひびくように彼は思った。大急ぎで言った。
「ちっともいけなくないよ」
「あなた、まだあたしがこわくない?」
「なぜ? ぼくには人間らしい喜怒哀楽が乏しいんだ。それに、君はちっともこわく見えないよ」
「でも、これまであたしを見た人間は、みんながみんな、キャアとかギャアとか叫んで、腰を抜かしたわ。あなた、本当にあたしを見ているの?」
「見ているとも」
確かに、彼は青白い女の顔をじっとむさぼるように見つめていた。それが現世の人間の女でなかったから、そのような勇気が出たといってよい。
「灯りをつけてよく見て」
突きつめた声で、幽霊が言った。
「電気をつけてよいのかい? 明るい中でも君は平気でいられる?」
「太陽の光でなければ大丈夫」
彼は電燈をつけ、その光の下で幽霊を見た。暗闇と違い、その肌は隠花植物の胞子のように白茶けていたが、それでもずっと生きている人間に近く見えた。下半身を除いては。
「これでも、こわくない?」
「ちっとも!」
と、彼は語調を強めて断言した。
「ああ、君は女だ。その君がぼくに声をかけてくれる。奇跡としか思えない。どうして君は、ぼくの部屋なんぞにきてくれたの?」
「あなたが好きになったから」
幽霊は顔を伏せて、聞えるか聞えないくらいの声で言った。
「あたしだって、人間にこわがられてばかりいるの嫌になったから」
長いこと無味乾燥で波風も立たなかった彼の心は打ち震えた。
幽霊は、その裂けたほそい隙間のような白い目をあげて、さらに囁《ささや》いた。
「ねえ、もしあなたがあたしを嫌いじゃなかったら、夜、ここにいてもいい?」
「もちろんだよ」
どもりがちに彼は答えた。
「ぼ、ぼくも君が好きだよ」
「本当かしら。だって、あたし生きている女じゃないもの。あなただって、もしあたしを抱いたら、きっとあたしを嫌いになるわ」
「そんなことがあるものか。大体、ぼくにとって、この世に女性はいなかったし、今後だっていないはずだった。それが、今は一人だけいる。つまり、君だ」
「あなたの言葉を信じたくなる」
幽霊は彼の胸にもたれかかった。ほとんど重みはなかったが、それでもなんらかの実在感があった。彼はその気味のわるい顔を起し、夢中でそのくちびるに自分の口を重ねた。氷のような感触であった。だが、彼の心は熱く燃えた。
そのまま、彼と女の幽霊は、しばらくの間、動かなかった。
――その夜、二人は一つ床に寝た。
「抱いてもいい?」
と、彼は言った。
「でも、あたし生きている女とは……」
「黙って。ぼくにとって、女は君一人しかいないのだから」
彼は痩《や》せた女の体を抱きしめた。やはり氷のように冷たかった。着物をはだけて、その乳房に触ってみたが、それは少しもふっくらとしていず、陶器のように冷たかった。
「ねえ、やめて。ほら、あなたはがっかりしたでしょう?」
悲しげに、幽霊が囁いた。
「いいや」
彼は熱い吐息のように言った。
「こうしていると、とても安らかだ。こんな気持をぼくは生涯味わえないと思っていたんだ。君はすばらしいよ」
「本当?」
「本当とも。自分でまだ信じられないくらいだ」
枕元で、水の流れるような音がした。時間が流れるのかも知れなかった。
「あたしも信じられない。それなら、毎晩あなたのところにきてもいい?」
「いいどころじゃない。ぼくは幸福だ」
幽霊のひややかな体を抱きながら、安らかに、このうえなく安らかに彼は眠った。
目ざめると、朝の光がカーテンの隙間から流れこんでいて、女の幽霊の姿は消えていた。しかし、夜になれば彼女がまた現われることを、彼は確信することができた。
その通り、幽霊は夜ごと、彼の部屋に戻ってきた。そして二人は、仲のよい兄妹のように抱きあって眠った。
朝がきて、幽霊は消え、夜がきて、幽霊は現われた。その夜空に、月が満ち、月が欠けた。そうして月日が経っていった。
「あなた、まだあたしが嫌いにならない?」
ときどき、幽霊はそう尋ねた。
「とんでもない。君こそ、ぼくが嫌いにならないのか」
「前より好きになるだけ。こんなふうに、だんだん好きになるのが自分でこわいよう。だって、あたしの肌はこんなに冷たくて……」
「それを言うな。ぼくはそれが好きなのだから。君といると、やさしい夢の精と一緒にいるような気がする。とても安らかになれる。君のほかは、あとはなんにも要らない」
「あたしも」
二人は頬をつけあって眠りこみ、そして枕元を、かすかに水の流れるような気配がした。
太陽が幾回も幾回も昇り、月が幾回も幾回も昇った。
彼自身の満ち足りた気持は変らなかったが、女の幽霊はときどき、いつもよりしつこく訊《き》くようになった。
「ねえ、あなた、本当はあたしが嫌になったのじゃない?」
「どうしてそんなことを言うんだ。君以外に何があると言うのだ、このぼくにとって」
「でも、信じられないわ。あなたは若い男性だし、それがいちばん求めるものを、あたしは欠いているのですもの。大体、下半身が……」
「もうよせ。ぼくがどんなに君に満足し、感謝しているか、ぼくの心を取りだして見せたいくらいだ」
「そう? 本当にそう?」
「本当の何百倍も本当さ」
すると幽霊は、ようやく安心したように眠りこむのだった。彼も眠った、ほとんど安らかに。彼は意識して、自分の下半身を幽霊に近づけないようにしていた。近づけたとて、そこにはなんにもありはしないのだが。枕元で、相変らず水の流れるような音がした。
戸外では、ゆっくりと季節が移っていった。夏も去り、秋がきて、すぐに冬がきた。木枯しが吹き、小雪のちらつく宵もあった。
その間、彼は女の幽霊と、かなりの回数、小さな言い争いをした。いつも彼女が、自分の体の異常さを言いたてることから、それは始まった。
「どう、こんな寒い夜に、あたしの冷たい体はたまらないんじゃない?」
「ばかな。ぼくはただ君の存在が……」
「でも、でも、肝腎なものが存在しないんですもん。あなたがそれに満足しっこないことくらい、いくら幽霊でもわかるわ」
たしかに彼女は時と共にヒステリックになってゆくようであった。彼は懸命に彼女を説得し、彼の鞏固《きようこ》な哲学を述べ、自分がどれだけ満ち足りているかを誓約しなければならなかった。ようやっと幽霊は納得し、こぼした涙が粒になっている顔をそのままに、彼の胸にしがみついてくる。
彼はその涙をなめた。ふしぎなことに、女の幽霊の体はあくまで冷たいのに、涙はほの暖かかった。限りない愛情をこめて、彼は幽霊の頬を撫で、その痩せた肩を撫でた。
彼が幽霊に誓約した言葉は嘘ではなかった。彼は自分自身、心底からそれを信じていた。だが、果してそうであったろうか。幽霊が不具の体をなげけばなげくほど、彼の心の奥底に動揺するものがありはしなかったか。
枕元で、水が流れるような音が幻聴のようにひびきつづけた。やっと彼が眠りつくまで。
のっそりと暖かみのない太陽が昇り、のっそりといっそうくすんだ色に太陽は沈んだ。日中、空はあるときは鋼《はがね》のように冴《さ》え、あるときはうそ寒げに煙っていた。けれども、いつとはなしに、柔らかな水色が深まるようになった。枯枝に芽がひらき、ジンチョウゲの香りが漂ってきた。
ある日、彼は団地の中で、タンポポの黄色い花弁がつつましく咲いているのを見つけた。ほんの一株の花ではあったが、ここ何年かのうちに畠《はたけ》や空地がすっかり消えてしまったこの界隈《かいわい》の中で、いかにも幼少時の記憶のなごりのように際立って見えた。
「春だな」
と、彼は以前には考えられなかった複雑な気持で思った。
「あれから、もう一年経ったのか」
このところ、女の幽霊の様子はますます芳《かんば》しくなかった。
あまり口をきかなくなった。青白い顔に、微笑も浮べなくなった。ひたすら悲しげで、ひたすら陰気で、その冷たい体全体から、鬼火に似た妖気が匂ってくるかのようだった。うつむいて、よく涙をこぼした。涙は水銀のようにねばっこく丸まり、いつまでも乾かなかった。
その有様は、普通の感覚でいえば、おぞましくもぞっとするものでもあった。いわば幽霊がもう一度化けて、一段と怖《おそ》ろしく、背筋が寒くなる印象を与えた。だが、彼はそうは思わなかった。やはり彼女がいとおしかった。
ただ、自足した安らぎの気持はもうなかった。幽霊が悩み、悲しむにつれ、彼も悩み、悲しんだ。なにより、しばらく前、幽霊が恨みがましく問い質《ただ》した事柄、そのことをひそかに考えている自分に気がついた。それを幽霊に気づかれまいとして、彼の態度はぎごちなくなった。
彼はなるたけ幽霊から離れて寝るようになった。その骨ばった体を抱いても、すぐに手を離し、幽霊に背をむけて眠った。さもないと、夢の中の自覚しない行為であれ、彼女をもっと悲しませはしないかと危惧《きぐ》したからである。
夢路に入るまえ、枕元で聞きなれた水の流れるような音がした。或いは、それは幽霊がすすり泣いているのかも知れなかった。
すすり泣きの合間に、うそ寒い吐息のように、女の幽霊はきれぎれに問うた。
「もうあたしが嫌いになったのでしょ」
「いいや」
彼は必死に言いはった。
「それどころか、こわいんじゃない? あたし、こんなに骨と皮になって、前よりも冷たくて……」
「とんでもない。お黙り。ぼくの心は変りっこない」
彼は胸が一杯になり、地上のあるかぎりのやさしさをこめて、彼女の髪を撫で擦《さす》った。それは蜘蛛《くも》の糸よりも細かったが、金属のように固く、さわるたびに、地底の洞穴の隙間風のような音を立てた。
彼は嘘をついているわけではなかった。だが、幽霊の体から手を離して目をつぶると、一体どこまでが真実なのか、自分で自分をあざむいているのではないかという観念が頭をもたげてくるのを、どうするわけにもいかなかった。
辛うじて、彼は眠った。夢の中で、彼はふっくらとした生きた人間の女を抱いていた。ひどい罪深さにうなされて、彼は目を覚ました。まだ暁は訪れていないようだった。
それなのに、隣に寝ていたはずの女の幽霊の姿は消えていた。
幾日も幾日も、彼は待った。太陽が空を渡るあいだ、月が夜空を横ぎるあいだ、ずっと彼は待ちつづけた。限りない悔恨を心に抱きながら。
待ちに待っても、幽霊は戻ってこなかった。彼はほとんど諦めかけた。そもそも諦念というものが彼にふさわしいものではなかったか。悲哀の念と入りまじって、なにか安堵《あんど》の気持と、昔の乾ききった平安とが徐々に帰ってくるのが感じられた。
昼が夜となり、夜がまた昼となった。梅雨が降りつづき、しとしとと降りつづいたあと、こまかい生れたての柔らかな蚊がものうく室内をとびまわる季節になった。
彼は完全に諦めていた。
ある晩、久方ぶりに床の中で汽車の時刻表とぶ厚い電話帳をそれぞれ十ページほど読み、スタンドを消そうとすると、ふいに、ものの気配がした。
床のすぐ横手に、女の幽霊がうずくまっていた。以前よりもひときわ青白く、もっと痩せこけ、更に陰惨に。
「君か」
ようやく彼は言った。
「あたしよ」
と、幽霊が言った。どうしてもこの世のものでない滅々として陰気な声で。
「あなたのそばにはいっていい?」
「もちろん」
そう答えはしたものの、心のどこかはうとましかった。それほど久しぶりに見る幽霊は不気味で怖ろしくも感じられた。
彼のかたわらに、冷気が吹きこんできた。そして形とも一種の重みともつかぬ幽霊の体がすべりこんできた。
「抱いて」
と、そのものが言った。
彼は冷たい枯木のようなその体を抱いた。すんでのところ手を離しそうになった。
「離しちゃ、いや!」
と、息吹きだけがささやいた。
「今夜が最後よ。そして……」
彼は脂汗を流す思いで、じっと幽霊を抱いていた。
「あたしの愛を……」
かぼそい声はほとんど聞きとれなかった。ただ、枕元で水の流れるような音がした。さらさらとそれは流れつづけた。果てることなく流れつづけた。
と、はたとその音がやんだ。
彼はつぶっていた目をひらいた。抱いていた女の幽霊の感触が、ふいに変ったように感じられたからである。
薄暗くしたスタンドの灯りでも、その変化ははっきりとわかった。いくら常ならず青ざめていたとはいえ、その頬も、痩せこけた腕も、なにか筋肉らしいものではあった。それが今や、灰のように崩れていた。もろく、ぐずぐずと形がくずれ、くずれるそばから宙へ消えていった。
そしてあとには、灰白色の骨だけが残った。それも今にももろく崩れそうに、しかしはっきりとした骸骨がかたわらに伏していた。彼は骸骨を抱いて寝ているのであった。
けれども、先ほどまでの恐怖はなかった。逆に、思いがけない突きつめた愛情が、彼の頭を狂おしく駆けめぐった。
「おまえ……おまえ……」
彼はうめくように口走った。そして、あまりにむなしい骨のつらなりが損ぜぬ程度に、その重みとてない骸骨を抱き、幾遍も幾遍も撫でさすった。
「君だけを愛してたんだ。どこからどこまで……」
鍾乳石《しようにゆうせき》のような歯がむきだしになっている口元へ、彼はくちびるを重ねた。それはかさかさして骨そのものであった。しかし、氷のように冷たいとはいえなかった。いつもの幽霊には感じられなかった暖かみを有していた。
暖かみ? はじめて彼は凝然として気がついた。下のほうからそれは伝わってくるもののようであった。
彼は布団の中で足をのばしてみた。自分のものでない足に触れた。しかも、あきらかに血の通った暖かみあるすべすべした素足。
夢中で彼は足と手でもさぐった。上半身こそ骸骨になってしまったけれど、以前にはなかった下半身がそこにあった。しかも生きて柔らかく息づいている女の下半身が。
息をつめて、彼はなおもさぐった。すらりとした足の上には、むっちりとして暖かく弾力に満ちた腿があった。指を上へ辷《すべ》らせるにつれ、そのすばらしい腿はもっと熱くなり、刻一刻と熱くなり、そこに豊満なたぐいない腰と、それから、まぎれもないなまめかしく濡れたそのもの[#「そのもの」に傍点]ずばりが……。
瞬間、我知らず、
「ギャアー」
と、彼は絶叫した。瘧《おこり》のように震えながら絶叫した。
いくらなんでも、まさか、この世に、こんな身の毛のよだつこわいものがあろうとは!
第二の副題
――巷《ちまた》に囁かれる北杜夫廃人説を立証した作品――
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『さびしい王様』の中書き
皆さんは、うら若き王様の運命が次第にもの哀《がな》しく、悲劇的な様相をおびてゆくらしいことに、とうにお気づきでしょう。と共に、大多数の読者は、自分らと関係ないサインなんかについて長々と読まされて、腹もお立てになったことでしょう。
「大体、この北杜夫って作家は、人一倍のらくらして、ごくたまに書くとなれば、人の百倍ばかげたものを書きやがる」
それがやっぱりこの世の複雑さを知らぬ人の意見だと私はあえて言いたいのです。王様の生活にも裏があるように、どんな些細《ささい》な人間にも裏があります。そして、悲劇的でない人間っていうのは、この世にごくちょっぴりしかいないのですね。
まず私が、「前がき」を書こうなんて思いついたことが悲劇のはじまりです。前がきができれば、次にはついその本を書かざるを得ません。そこで私はこの物語を書きだしました。しかも、この雑誌に連載の約束をしてしまいました。充分に日時があると思ったからです。
ところが、やがて私は病気になりました。むかしだったら入院ものの病気です。しかし、今は医学も進歩していますし、お医者さんと相談して、注射と投薬を受けながら、無理をしないで仕事をつづけるように致しました。いったん、約束をしてしまったからには、それを果そうとしたのです。
なにも私は、病をおして書いたのだ、なんて愚痴をいうつもりはさらさらありません。「前がき」なんぞ書いたばっかりに、私が難儀しているさまは、自分で考えても自業自得で、まさしく正真正銘の喜劇です。ああ、腹の皮がよじれる。しかし、そのあと、矢継早にいろんなことが起りました。一人の友人が、まだ若くてこれからというのに、前ぶれもなしに死にました。物語の世界で人が死ぬのとは訳がちがいます。ずっしりした重みのあることなのです。そういうことが身辺に相ついだのです。
私の仕事は予想外に遅れました。夏の暑さと、神経の疲労で、食欲もなくなりました。いらいらして、もの凄く怒りっぽくなりました。むかしの王様だったら、もうどこでもいい、シャボンとタワシだけ持って戦争をおっぱじめていたことでしょう。
私がウナギ屋と戦争をしたのもそのためです。その日、私は昼にミルク一杯とゆで卵一つ食べただけでした。疲れてだるくて、それしか喉《のど》を通らなかったのです。そこで夕食にはぜひとも栄養をとらねばと考え、私の好物のウナギの蒲焼《かばやき》を頼みました。そのウナギ屋ははやっていて、前にもよくずいぶんと遅くとどけてくることがあったので、五時半に電話をして、六時半にはとどけてくれるように頼みました。ところが、七時はおろか、七時半になってもウナギはつかないのです。また電話をしました。すると、こんでいて、すぐ出るところだという返事でした。「すぐ出る」というのはこのウナギ屋の常套《じようとう》文句でしたし、それならそうとはじめからそのむね断わるべきです。八時十分まえ、ついに私は空腹と立腹に堪えかね、もう一度、家人に電話をさせ、「まだ出ていないのでしょうね」と尋ねさせました。「出ていません」という答えでした。三分後、私はもうウナギを食べるより餓死するほうがマシと断定して、また電話をし、「もういい。ウナギは断わるが、おかみさんを出せ」と宣戦布告のつもりで言いました。すると、むこうで置きっ放しの受話器から、「だって、なぜはじめからこんでいて遅れると断わらないかと説明しろって言うのよ」などという腹立たしげな声がきこえてきました。その瞬間、なんと、ウナギがとどきました。三分ではつく距離ではありません。すべてが出鱈目《でたらめ》です。私は空腹で死にそうだったにもかかわらず、これは罪のない出前持さんにそのままウナギを持って帰らせました。同時に、やっと電話口におかみさんが出たので、私がその無責任さをなじりますと、同じ名の別な家(しかも目標とする隣家まで同名というのです)に間違えてとどけたためとのことです。それが単なる詭弁《きべん》であることは大火事より明らかなこと(私は警察署と区役所の出張所に問いあわせて、同じ番号の町内に、二軒そのような家が並んでいないことをちゃんと確かめました)はまずいいとして、「それでウナギは返したのですね」とむこうが言いましたから、「ああ、返したよ」と私が言った瞬間、ガチャリと電話は切れました。「済みませんでした」のひとことも言わず、会話のどの一句にもそのそぶりもみせないのは、あまりといえばひどい態度ではありませんか。それにその電話の切り方。店がこんでいて、忘れることもあるのは仕方ないでしょう。しかし、いやしくも商人道徳のミジンもないその根性は許せません。
私はその夜、いや、次の日も立腹のため一行も書けませんでした。本気でもう作家なんかやめ、あのウナギ屋より安くてうまいウナギ屋をこしらえ、目にものみせてやろうと計画まで練りました。何日も何日も、ウナギ屋として修行するにはどうしたらよいか、と考えていました。どうです、童話以上に、なんともバカバカしく愚かしい話でしょう。とはいえ、これは現実そのままの話なのです。
しかし、私はそのような悪条件のなかでも、残った理性をかきあつめ、いったん約束したものだけは果そうと、がんばりました。人間、あんなウナギ屋よりは節度を守らなくちゃいけませんからね。しかし、これはちょっと人聞きはいいようでいて、本当は間違ったことなのです。作家というものは、ウナギ屋の道徳とはまた別なものですから。作家はウナギ屋より身分の低いもので、ウナギ屋より破廉恥であってよく、否、むしろ破廉恥であるべき存在なのです。しかし、私はもう半分、ウナギ屋と化していましたから、半分は作家でなくなっていたわけです。そして、ウナギ屋は炭火を起して、ウチワであおぐものらしく、慣れぬ私は目がくらんで、書く文字も次第に乱れてゆきました。あまつさえ、滴る汗で字が滲《にじ》んできました。なにより、その憎さも憎きウナギ屋の配達区域内に住んでいるというだけで、ちょっと文章がゆきづまると、自分がやがてこしらえるウナギ屋のこと、そのあとの大ウナギ合戦のことをどうしても考えてしまうのです。そこで私はいったんウナギのことをひとまず頭からたちきろうと、おそるべき早わざで、原稿用紙だけカバンに入れて汽車に乗り、一人で涼しい山奥の小屋にやってきました。すると、今度は夜は涼しいというより寒すぎて、おまけに、着がえのシャツもない有様でしたから、歯がガチガチいいました。それでも私は充分に余裕のある期日にちゃんと約束どおりの枚数を書きあげ、わざわざ汽車に乗って山路をのぼってとりにきてくれた編集者に手渡しました。
そして、ホッと吐息をついて、「そもそもウナギ屋が……」と言いかけ、そのままどっと床に倒れてしまいました。その後も、「ウナギ、ウナギ……」とうわごとを言ったらしいのです。
編集者は心配もし、訳もわからなかったのですが、山小屋には電話もなく、かつ次の汽車で帰らねばならなかったため、とりあえず私をベッドにかつぎこみ、急いで駆足で山を降りました。駅から苦労をして医者とウナギ屋に特別丁寧に電話をしておいて、動きだそうとする汽車にやっとのことでとび乗りました。
それから、彼は汽車の座席に腰かけ、私の原稿をよみだしたのですが、次第々々に眉をひそめ、額から脇の下から汗が滲んできました。読みにくい字や間違った字を直し、すぐ印刷所にまわせるようにしようとしたのですが、そのうち字がまったく読めなくなってきたからです。そこでアイスクリームを十三個食べて汗をひっこませ、落着こうとしましたところ、今度はお腹《なか》が痛くなってきました。それでも彼は良心的な編集者でしたので、なおかつ、読めない個所に赤棒をひきつづけていったのですが、やがて目のまえが真赤になり、そのまま気を失いました。東京駅から彼は救急車で社へ運ばれたのです。
社では、もっと神経の太い編集者が私の原稿を一瞥《いちべつ》したうえ、緊急に特別の処置をとりました。つまり、この世の作家の中には、物凄く早く書くため、字がたいへん読みにくい人もあります。もともと悪筆の人もいます。ところが、どんな世界にも専門家、ベテランというものがいて、特別なベテランの文選工は、誰にも読めそうもない文字までを、ちゃんと読むことができ、正確な活字を拾ってしまうのです。そこで私の原稿は、ベテランのなかでもベテラン、それこそ生き神さまのような文選工の人に渡されました。その人は噂《うわさ》によると、なんにも書いてない原稿からも活字を拾えるほどの大家でした。
しかし、その文選工の神さまでもやはり駄目だったのです。彼はほとんどの文字を拾いました。だが、どうしても一ページに何行かずつ空白ができ、彼は傷つけられたプライドと疲労のため入院してしまいました。やっと重体という状態から脱したとき、ベッドのうえで、彼は憤然としてこう訴えました。
「日本語、ローマ字なら、いかように書いてあっても私は拾える。しかし、あの原稿には、いかんせん、ストン語がまじっている」
社では原稿をゼロックスで写し、超速達として、おまけに電報までつけて、山の中の私のところへ送ってきました。電報には、こうありました。
「アカセンノカショノストンゴヲ ニホンゴニアラタメラレタシ」
そのずっとまえに、私はぽっかりと目をひらいていました。気づいてみると、見知らぬ頭の禿《は》げたおじいさんが、ベッドの横に坐って、鼻毛を抜いていました。
「あなたはどなたですか?」
と、私は尋ねました。
「わしは医者です。気がつかれたようですな、してみると、わしの診立《みた》てどおり、あんたはやはり死んでいなかったわけだ」
「なんともすばらしいお診立てです。で、私はどのくらい寝ていましたか」
「三日三晩です。そのあいだ、わしはずっとあんたを見守っていた。もっとも、ときどき脈をとっただけで、あとは鼻毛を抜いていただけだが」
「先生のように御親切なお医者さんに診て頂いたのは生れて初めてです。でも、私のところに三日もついていらしては、ほかの患者さんが困りませんか」
「なに、わしは齢とって、開業をやめたところでな。玄関の扉に釘《くぎ》を打とうとしたところに、電話があったので、最後の人助けと思って、近所の樵《きこり》に頼んで、乳母車で運んでもらってきたのですじゃ」
「感謝致します。それにしても、三日三晩も抜く鼻毛がよくありましたね」
「人間、齢をとると、頭の毛は減るが、鼻毛はふえるものですじゃ。そのほかは、ウナギを食べていました」
「え、ウナギ?」
と、私はベッドの上で半身を起しました。
年老いた医者は、やさしくそれを抑えつけ、
「とにかく、どういうわけか、朝、昼、晩とウナギがとどくのです。こんな山の中にですぞ。あんたは眠っている。わしにしても腹がすく。そこで、あんたの代りにそれを食べました。無断で食べたことはわるいと思うが」
「いえ、とんでもない」
と、私が手をふった瞬間、エンジンのこわれそうなオートバイの音がして、「チワー」という声と共に、ウナギがとどきました。医者はそれを受けとってきて、
「そら、きましたぞ。もっとも遠くからひどい山道を持ってくるので、グズグズに崩れて、冷えきってはいるが。今度こそあんたが食べる番だ」
「いえ、ある理由で、私はウナギのことを考えたくないのです。申訳ないが、むこうで、私の見えないところで、それを召上ってくださいませんか」
「ははあ、それでわかった」
と、老人の医者はうなずきました。
「わしにしても、三度々々ウナギをとるとは、ウナギ好きをとびこえて、よほど変った人だと思っておったところだ。昨日なぞは六回きましたぞ。今日はまだ昼なのに、すでに七回きている。あんたは毎日ウナギを食べすぎて、ウナギ・アレルギーにかかったと診断します。さっき、ウナギと聞いたとき、あんたの顔いろはさっと変り、五体が痙攣《けいれん》しましたからな」
「その診断には少し異論があります。しかし、これを説明するには……」
と私が言いかけたとき、今度はオートバイで郵便屋さんがやってきて、超速達便と電報をもってきました。私はまず電報を読み、ぼんやりした頭脳で考えました。
「はて、おれはストン語なんて知っていたかしらん。たしかに知らんぞ。知らん文字を書けるはずがないじゃないか」
「なにか、わるい報《しら》せかな」
と、親切な老医が尋ねました。
「先生、あなたはストン語というのを聞いたことがありますか」
「少なくとも、わしの知識にはありませんな」
「そうでしょう。私はちゃんと日本語で書いたのです。それをストン語なんて。これがその原稿のコピーです」
「なるほど、あんたは、もの書きですか。どれどれ、なるほど日本語のように見えますな」
「その赤線の部分がお読みになれますか」
「ううむ、これは何語でしょうな。不可解千万だ。インクの汚染《しみ》ではなかろうか」
「いや、文字です、断乎《だんこ》として文字です」
「もし、これが文字なら……いや、これはあんたが書かれたのでしょう? それなら、あんた自身なら読めるわけだ」
私は赤線の部分を読もうとしました。すると、おどろくべし、それはやはりストン語だったのです。私はいつのまにかストン語なるものを覚えこみ、しかも、同じようにいつのまにか、それを忘れてしまっているらしいのです。
私は次のような電報を書きました。
「ストンゴワスレタ モハヤイタシカタナシ ストンゴノカショヲ ケズッテクダサイ」
これをいかにして早く打電するかが問題でしたが、年寄りのお医者さんは事もなげに言いました。
「なに、もうじき、ウナギ屋のオートバイがくるに決ってる。むこうは日ましに多くウナギをとどけてくるから、それに頼めばいい」
その言葉も終らないうちに、あえぐようなオートバイの音がして、ウナギがとどきました。
「先生、電報を頼みます。それからどうぞむこうへいらして、ウナギを召上ってください」
「わしはもう結構。あんたももう大丈夫なようだから、これで失礼しますじゃ。わしまでウナギ・アレルギーになってはたまらん。ところで、もうあのウナギ屋に注文を取り消されたほうがいいですぞ。あんたの病気の原因がそもそもウナギですからな」
「次にきたら取り消しましょう。本当に親切にして頂いて、往診料と治療代は存分におとり下さい。といっても、私がまた倒れてしまわない程度で」
「いや、わしはずいぶんウナギを食べた。こうしましょう。もう一度、乳母車を呼んでもらって、あとはウナギ代と差引きにしましょう」
ああ、医は仁術という言葉は、まだこの世に残っていたのです。それに、この山麓《さんろく》のウナギ屋さんの誠実なことったら。そう言っている間にも、もう次のウナギがとどきました。もっとも、あとで請求書を見ましたら、ウナギ代のほかに、オシャカになったオートバイのタイヤ十三本分の代金も含まれていましたけれど。
それよりも、参ったのは、すぐまた出版社から電報がきたことです。
「ストンゴケズッタラ 三〇マイブンゲンコウタリヌ アトニホンゴデ三〇マイ ツイカサレタシ」
そこでまた、私は良心的なウナギ屋の精神になってしまい、つづきを書きだしたわけです。あのストン語の部分は、なんだかとてもよかったと思うのですが、深海に落ちた石ころのようなもので、もはや回収するすべはありません。どうです、この世の裏側は、想像するよりも、あんがい大変にみじめにうら悲しく、かつ泥臭いものでしょう?
それに、ちょっとしたことが、いかに大きく波及してゆくことか。そもそも、はじめのあの無礼なウナギ屋のために、生命には別状なかったとはいえ、とにもかくにも三人の人間がうち倒れてしまったのです。
ですから、王様のサインの御練習についても、読者の皆さんにもいくらかはわかって頂きたいのです。それは決して架空な絵空事ではなく、やはり本物の血と汗につながるたぐいのものだったということを。
少なくとも、いまこの瞬間、私には王様の労苦が、身にしみてわかるような気がします。私はタイプライターを叩いているのではなく、一語々々、万年筆を握って、それも残った力をこめて、気力をふりしぼって、丁寧に一字々々……。
ああ、ペンダコが痛む。ひとまず万年筆をおいて、少ししゃぶっているとしよう。
おや、スルメの味がするぞ。いいや、やはりペンダコはペンダコで、酒の肴《さかな》にもならんなあ。
そら、また電報がきた。なんだって?
「ギリギリノシメキリアト三ジカン クドイヨウダガ ケッシテストンゴヲシヨウスルナカレ マタ オウサマノサインヲグタイテキニカクナカレ トテモインサツフカノウ ヘンシュウチョウナラビニインサツジョチョウ」
言われなくとも、その点は大丈夫ですとも。王様のサインを模してみせるほど、私の指も頭脳も頑丈じゃあない。それに、ストン語なんて本当に私は知らないったら。
まだ一通あるぞ。なんだって?
「ウナギハタリマシタカ タリナケレバテハイヲオシミマセン ヘンシュウシャ」
ああ、この世の大部分の人間は、みんな親切なのだなあ、ほんとに涙が出るくらい。つまり、残忍さと同じじゃないか。
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大河小説
今から七、八年まえの話である。
作家、南弥太郎氏は、だしぬけに大きな望みを抱いた。
当時、氏は五十五歳で、友人の作家、評論家などがボツボツ他界したりする年齢に達していた。
南氏は、どちらかといえば私小説家で、作品にも短いものが多い。しかし、さらりとした自然描写と、しんみりした心境描写と、ニヒルな人生観に卓抜なものがあり、固定読者も多く、批評界からも出版社からも高く評価されていた。
現に、文学全集にも氏のものが半巻、又は一巻として必ずはいり、その収入で、彼はこのところあまり仕事もせず、毎日、縁側で日向《ひなた》ぼっこをして、飼猫の背を撫でていられた。
そのほかの時間には、読書をした。若いころ感動して読んだ世界の名作などを読み返したりした。
そうやってゆうゆうと日を送っていると、またもや同年輩の作家が癌《がん》で倒れた。
南氏はその新聞の報道をよむと、思わず膝《ひざ》の上の猫をバッタとはらい落し、
「うむ、おれもこうしてはおれん」
と呟《つぶや》いた。
彼はもともと勤勉であり、あまりのうのうと日を送った反動もあって、たちまち一つの計画を胸に抱いた。
自分のライフワークを書き残してから死のうと決意したのである。
それに、彼の脳裏には、最近また読み返した『戦争と平和』だの『カラマゾフの兄弟』なぞの大作がどうしてもちらついた。
「おれはほとんど短編ばかり書いてきた。しかし、生涯の決算に、ひとつ大長編をものしてやろう」
彼はじっと瞑想《めいそう》にふけった。七日七晩瞑想にふけったころ、或る出版社で長らく彼の担当をしていた編集者がたまたまやってきた。
南氏は、自分の計画を編集者に打ち明けた。
「君、ぼくは大長編を、大河小説を書きだそうと思うのだ」
「え、それはすばらしいですなあ、先生」
と、編集者は叫んだ。
もっとも、そりゃ駄目ですなあと即座に言う編集者もあまりいまいが、南氏の場合、そう世辞を言われるだけの作家であったことも確かである。
「ぼくはあたかも仇討《あだうち》に出るときのように真剣なのだ。この仕事のためには、他のすべての仕事を断わってしまうつもりだ」
と、南氏は勢いこんでつづけた。
「なにより、ぼくはとてつもなく長い奴を書きたい。大体、ぼくの描写は簡潔なもので、またそれを人も讃《ほ》めてくれた。しかし、今度はバルザックのような、椅子一つ描くにも十ページを費やすような描写をやってみたい」
「すばらしいです、先生」
「それに、ぼくの昔の短編は、どうも主人公をすぐ殺しすぎた。もっとも昔は、肺病などですぐ人は死んだがな。そのため、みんな短い小説になってしまった。ぼくは若いころは虚無的でもあったしね。しかし、齢をとると、人間の考えもだんだんと変ってくる。ぼくは七日七晩考えたのだが、まず初代の主人公は、ぜひとも長生きさせねばいかん」
「初代のとおっしゃいますと、二代目、三代目も出てくるわけですか」
「まあそういうことだな。一大年代記小説にしようと思う。登場人物も次第にふくらんでゆく。それを一人々々克明に描く。こうしていけば、いくらぼくが短編作家とはいえ、いやでも大長編になってしまう」
「すばらしいです、先生。で、それはうちの雑誌に連載ということにしますか」
「君、ぼくはもっとこの仕事を重大に考えておるよ」
と、南氏はじろりと編集者を見た。
「連載には締切などというものがある。ぼくは一切の制約に関係せず、書下ろしでこの仕事をしたい。書きあげたら、そのときは本にして貰えば有難い。そうだな、こうずっしりと厚い奴で、五、六冊にはなるかな」
「ぜひぜひ。私はすぐ社へ戻って、社長と出版部長に報告致しましょう」
かくて、南氏は一大長編を書下ろしで開始することになった。
彼の意気ごみたるや、まさしく大変なもので、その前では帽子もカツラも脱がねばならぬほどであった。
事実、彼は一切の他の仕事を断わってしまった。
資料と原稿用紙を山ほど積みあげたもので、彼の書斎の床は陥没し、大工を入れねばならなかった。
かくて構想三年、彼はまず第一枚目を書きはじめた。
主人公は山根彦三郎という男にした。彼は慶応四年、それも九月となって明治元年と改元された日から三日経って、山陰のとある僻村《へきそん》に呱々《ここ》の声をあげる。
もう数年で明治から百年となるそうで、その頃にはこの長編もできあがるであろう。明治百年に明治元年生れの主人公の登場する大河小説が発売される。なんたるタイミングのよさ、そんなことも南氏は計算に入れたのであった。
主人公彦三郎は難産の末、ようやく生れることにした。その出生の情景からして一枚でも長く、と南氏は意図したのである。母親が陣痛を起してから、赤子がオギャアと泣くまで、三日三晩かかり、すでに四十八枚の原稿用紙を費やした。おまけに産婆は、赤子の臍《へそ》の緒をいやに長く切り落した。
ヘソの緒の長い小説をと、南氏は意欲したのである。
そのため、主人公はたいそうな出臍になってしまったが、たしかにこの小説こそ長い長い大河小説になってゆく模様であった。
出版社の会議では、もっとも南氏の意図がはじめから信じられたわけでもなかった。
「南さんの大河小説ね」
と、出版部長がやや冷淡に言った。
「全部で五、六冊になるというのか?」
「はあ、大した意気ごみでいらっしゃるようです」
「まあ、四百ページの本、一冊にでもなったら上出来ではないかね」
と、出版部長は言った。
もう十年まえになるか、社で長編書下ろし叢書《そうしよ》を企画し、南弥太郎氏も加わったのだが、他の作家が四百枚も五百枚も書いたのにひきかえ、南氏の小説は百九十八枚で終ってしまった。これではとても長編といえない。そこで活字を大きくし、ぱらぱらに組み、紙も厚いのを使って、なんとか長編叢書の体裁をつくろったというにがい経験が、出版部長にはあった。
「まったく」
と、社の文芸雑誌の編集長も口をあわせた。
「あの人に五十枚のものを頼むと三十枚で終ってしまう。百枚と頼んでもせいぜい五十枚だ。それならばと、二百枚と頼むと、それはぼくの柄ではない、とか言って断わられてしまう。南さんは大体長編には向いていないのだな」
「そうなのだ。あの人はちょっとしたことで主人公を殺してしまう。もう少し長くなっていいと思っていると、だしぬけに自殺させたり、或いは餓死をさせたりしてしまう。あれでは大河小説にはならんよ」
「いや、しかし、南先生は今度の主人公は長生きさせると自分でおっしゃってました」
と、担当の編集者が弁護した。
「若いころは南先生は食うや食わずでしたし、それは小説の主人公を自殺もさせたくなったでしょう。しかし、今は文学全集の収入で、かなり人生観も変ってきた筈です。人相からしてのどやかに、ゆうゆうたるところがありますね」
「まあ、いい」
と、社長が断を下した。
「せっかく南先生が、それほどの意気ごみで大長編を書くというのなら、ゆっくりやらせてみようじゃないか。君、君はときどき南先生のところへ様子を見に行って、進行状況を知らせてくれ。主人公には、なるたけうまいものを食べさせて、病気もせぬように、できることなら多産系の女房でも貰って、沢山子供を作らすことだな。万一、主人公が死んでも、その子孫によって小説が長くつづくように、うまく南先生に吹きこんでくれ」
一方、南弥太郎氏のほうは、営々として大長編を書いていた。彼自身も内心不安でもあった。大々大河小説のつもりが、できてみたらありふれた長さの普通の長編になってしまうのではないか。
そのため、描写はくどいほど念入りに、たとえばリンゴを一つ母親が皮をむいてくれる個所でも、
「それは丸くて赤くて正真正銘のリンゴであった。食べてみると、確かにナシや桃ではなく、ましてやバナナではなく、英語でアップルと称せられる果実に間違いなかった」
などと記す有様であった。
そして夜ふけ、その日の仕事を済まして、彼は原稿の枚数をかぞえ直した。
「いちまーい、にまーい、さんまーい」
そうしてみると、主人公彦三郎がまだ十歳にもならないうち、原稿枚数ははや四百枚に達していた。そんな長さの小説は彼はまだ書いたこともない。
ようやく南氏は自信を持ち落着いてきて、担当編集者ともなごやかに雑談できるようになった。むろん、原稿は見せていない。未完成の原稿をよまれることを、彼はむかしから極度に嫌った。
「先生、いかがですか、進行状況は?」
「うむ、彦三郎はついに郷里の山村を離れて、大阪の紙問屋に丁稚《でつち》にゆく。これから彼の波瀾《はらん》万丈の人生が展《ひら》かれるのだ」
「今、何歳くらいになりました?」
「小学校を出たところだ」
「栄養不良などではないでしょうな」
「大丈夫だ。動物性|蛋白《たんぱく》としてイワシの丸干し、植物性蛋白として豆腐を充分にとらしてある」
「丁稚に行って苦労するのじゃありませんか」
「それは苦労もする。しかし、栄養には気をつけさせよう」
「そうです。なにより肺病にさせちゃいけませんな。むかしの肺病は死病ですからな。体格はどのくらいですか」
「まあ、中肉中背だ」
「もう少したくましい若者に成長させるわけにいきませんか。早熟のほうがいいですな。早いとこ女とくっついて子供を作るわけにいきませんか」
「だって君、まだ小学校を出たばかりだよ」
「しかし、八歳で父親になった例だってあります。もう彼の精子は成熟しつつある筈です。あまりマスターベーションなどで浪費させぬようにして下さい」
「君は妙なことばかり言うな。主人公には主人公の運命がある。彼らは自ら生命を持って動いてゆくのだ。ぼくの頭の中の操作だけではいい小説にならん」
「その運命が先生の場合、どうも暗いほうへ転がることが多かったですからね」
「大丈夫、彦三郎の手相のことをもう書いた。彼はすばらしく長い生命線を持っている。君、ぼくは本当に今度こそ大長編となってゆく予感がするよ」
「それで私も安心しました」
――それから何カ月の月日が流れ、南弥太郎氏は長編を書きつづけた。
月に三、四遍は編集者が様子を窺《うかが》いにくる。
「君、日本は朝鮮へ出兵する。すぐに清国に宣戦だ。彦三郎もついに出征と決った」
「え、出征ですか。それで生命は大丈夫ですか?」
「それはなんともわからん」
「で、このまえのお話ですと、彦三郎が見染めていた女がいましたな。彼女との間はどうなったのです?」
「残念ながら、彦三郎はふられた。彼は自分の出臍に劣等感を抱いている。そこでどうももう一押しが足りなかった」
「惜しいことをしましたな。せめて彼女を強姦したらどうですか。そして子種を残して、それから戦地へ行くことにしたら?」
「駄目だ。彦三郎はもう船に乗ってしまった」
「激戦に会わせないことですな。ここで生命を落したら、大河小説はもうお終《しま》いですぞ」
「ぼくも危惧を感じている。しかし、運命というものは人の手によってどうにも変更できんからな」
――また月日が経って、
「君、喜んでくれたまえ。彦三郎は無事に凱旋《がいせん》した」
「そりゃよございました」
担当編集者ははらはらと落涙した。
「こうなったら、一刻も早く結婚させましょう。彦三郎も適齢期を越している筈です」
「ところが彦三郎はあまり人相がよくないのだな。おでこがでっぱって、頬がこけて、頤《あご》がまたでっぱっている。そこでどうも女が寄ってこない」
「それは美女などを求めすぎるからです。高望みはいけません。どんなオカチメンコでもいいじゃないですか。ただ、骨盤は大きな女のほうが宜しいですなあ」
「だが、それに加えて、彦三郎の勤めていた紙問屋が没落してきた。彼はここのところ給料も貰っておらん。これでは世帯はもてんよ、君」
「どうでしょう、彼を東京へでも出るようにさせたら」
「うむ、ぼくもそう思い、彦三郎もそう思っているようだ。東京の薬問屋へ奉公させようかと思っている」
「それはいいですなあ。万一、病気になったときにも心強いし」
「なに、明治の頃の薬なんて、ろくすっぽ効かないよ、君」
「先生はどうも危険思想をお持ちですからなあ。しかし、彦三郎もそろそろ芽が出るようにしてやってください。もともと頭の切れる男なんでしょう?」
「それは、わが大河小説の主人公だからな。そうだ、そろそろ芽を出さんことにはいかんな」
――更に歳月が流れた。南氏は営々として原稿を書きつづけ、彦三郎はなかなか嫁が貰えなかったが、「ハヤクヨメモラエ」などという担当編集者の何通もの電報やら手紙やら電話やら面と向っての直談判により、とうとう妻帯した。
しかも、それから小説の上で十月十日の日が流れると、
「君、子供が生れた。男の子だ。彦三郎もついに父親になった」
「え、とうとう!」
編集者はまたはらはらと落涙した。
「おめでとうございます。実におめでたい」
「いや、実のところ、ぼくも自分の子供を生んだような気がするよ。彦三郎にすっかり情が移ってしまっているからな、これだけ長いこと主人公につきあっていると」
「さようでございましょう。早速、社から御出産のお祝いをおとどけすることに致しましょう」
「だって君、これは小説の中の話だよ」
「いや、出産のお祝いくらい訳はありません。先生の本物のお子さんが誕生されるより、わが社としては嬉しいことですからな。ところで、その赤ん坊に風邪を引かせたりしてはいけません。ぜひとも暖かく、隙間風など当らぬように……」
ところが、この赤ん坊が続々と、毎年のように生れだした。彦三郎の妻の三弥子という女は骨盤が大きく、たしかに多産系のようであった。それに、彦三郎もなかなか精力絶倫のごとくであった。
「君、また生れたよ。今度は女の子だ」
「これで四番目ですな。いや、女の子もいたほうが小説の彩りになります」
小説の上で次の年、
「君、また生れた。しかも双子だ」
「え、またばかによく生れますな。しかし、これで私もホッと致しました」
「ぼくもホッとしたよ。これで彦三郎に万一のことがあった場合にも、子供たちの運命を書いてゆけば大河小説になるからな」
――しばらくして、
「君、また生れたよ」
「え? しかし、あまり子沢山になって彼らを養いきれないということはありませんか」
「その点は大丈夫だ。彦三郎は今では薬問屋の大番頭だ。近いうちに独立することにもなっている。いや、なかなか生活力|旺盛《おうせい》な男だよ」
――またしばらくして、社に電話がかかり、
「君、また生れた。一貫三百もある男の子だ」
社では社長が渋い顔をして、担当編集者の報告を聞いた。
「もう八人目の筈だ。そうそうは出産祝は出せん。君、南先生に、もうそのくらいで子孫は充分でしょうとうまく言ってくれ」
「しかし社長」
と、編集者は主張した。
「小説はもうすぐ明治天皇の御崩御にかかるらしいです。乃木大将は殉死します。愛国者である彦三郎もどういう発作を起して自刃するかも知れません。子供まで道づれにしかねませんな。そのとき、危うく生命を助かるには、八人くらい必要です。出産祝はぜひ出してやって下さい。鯛も安物で結構ですから……」
しかし、山根彦三郎は、遥かに強靭《きようじん》な生命力を有する男のようであった。彼は乃木将軍殉死の報を聞きながら、平気で飯を八杯も食べた。
じきに第一次大戦である。その前に、彦三郎は小さいながら自分の製薬会社を始めていた。大体、明治の薬はまだ漢方と西洋医薬品が入りまじっていたが、彦三郎は早くから西洋医薬品に目をつけ、大戦の結果ドイツからの輸入が途絶えると、いち早く国産品を開発した。大戦の好況と相まって、山根製薬会社はたちまち発展し、札束はざわざわとはいってくる。
すると彦三郎は女を囲いだした。それも三人である。この三人の女に、それぞれ子供が生れだした。これが総計九名で、本妻の九名の子と加え、十八名の彦三郎の子孫ができたわけである。
先に、あれほど彦三郎の子供の誕生を祈っていた編集者も、そろそろ逆の不安に捉《とら》われだした。
「その、二号、三号の子供たちの運命も小説に書かれるわけですか」
「むろんだよ、君。こうした日陰者の子たちは、それぞれ陰影を帯び、それがまたこの大河小説にこよない色彩を与えるのだな」
「それにしても、その十八名の子供たちの人生を記してゆくとすると、これはたいへん厖大《ぼうだい》なものになりますな」
「そうとも。その大変な厖大な小説を、そもそもぼくは意図していた。これでようやく基礎ができたというものだ。といって、日本はいろいろと災厄に見舞われる。十八名くらいがアッという間に大震災で焼け死んでしまうことも起るかも知れない」
「はあ」
「そこでぼくは、そうした事故を防ぐため、本妻の次男を、パラオ島に送ることにした。また五男は、いずれは南米に渡る。そこで彼らの人生が新しく始まるというわけだ。こうしておけば、日本国がたとえ沈没してしまっても、小説は終らない」
「なるほど、しかしあまりに複雑にしてしまうと、小説自体が混乱してきはしませんか」
「なに君、人生は、この世は、複雑なものだ。縦糸と横糸とが縦横にからみあっている。そのような複雑極まる大河小説をぼくは書くのだ」
「はあ、まったく期待しております。ところで、これは小説の一つの山ともなりましょうが、彦三郎はいつ頃死ぬのでしょうな」
「それはぼくにもわからないな。今まで大病一つせずにきた。鼻風邪とニキビと痔《じ》がちょっとわるいくらいだ。どうも丈夫すぎて、なかなか死にそうにないな」
「どうでしょう、そういう不死身のような男が、関東大震災などで悲惨な最期をとげるというのは?」
担当編集者がそんなことを言ったのは、彼は彼の第六感で、この大長編の成行きにおぼろな不安を覚えたからであった。
「まあ、そういうことも有り得るな。しかし、これは震災が起ってみないことにはわからない」
「震災まであとどのくらいですか」
「そうだな、今のペースで書いてゆけば、あと半年くらいで大正十二年九月一日にはなるだろう」
そして、とうとう関東大震災は起った。大地は震動し、あちこちで火災は起った。彦三郎はまったく危なかった。大きな瓦が落ちてきて、彼の脳天に命中した。しかし、彼は特別の石頭であったので、瓦は粉々にくだけたが、彼自身はピンピンしていた。
「君、無事じゃったよ、彦三郎は」
と、南氏はペンだこを撫でながら言った。
「そうだろうと思いましたよ」
と、編集者はこたえた。
「で、一族の中で、誰も怪我人は出ませんでしたか」
「皆、無事じゃった。二号の子供が、ちょっところんで膝小僧をすりむいただけだ」
「皆さん、お達者で結構ですなあ」
と、編集者は多少皮肉まじりにそう言った。
そのあと、編集者はあまり南氏のところに近寄らなかった。
なにより、社で美術全集の企画が出て、彼は出版部に移り、その責任者となったからである。
それに、当初の心配はまったく杞憂《きゆう》で、彦三郎にはやたらと子供ができ、このぶんでは予定を上まわる大長編になることは間違いないと思われた。
南氏のところには、新入社の編集者が、ときどき廻っているようだった。彼は単にこう報告した。
「南先生は、まったく凄《すご》い勢いで仕事をされているようですよ。南米へ行った五男のその後のことを書くと言われて、南米へ三カ月ほど取材に行かれるそうです」
「あの人は、飛行機は愚か、汽車にもよう乗らん人だったがな。乗物恐怖症なのだ」
と、編集長が首をかしげた。
「いや、南先生は今や仕事の鬼と化しておられるようで。原稿は相変らず見せて頂けませんが、どうも大変な量となっているらしいです」
「その原稿は大切だな。万一、火事にでもなると南さんの何年もの苦心も水の泡《あわ》だ。社で保管すると申しでてくれないか」
編集者はそのことを伝えに行ったが、
「南先生も火事のことを考えられたようです。もう原稿は銀行の金庫を借りて、その中へ入れたと申されておりました。なんでも一番大きな引出しを三つ借りられたそうで」
「そんなになるのか。一体、何枚くらいになっているのだ?」
「その点は隠しておられますが、どうももう五千枚は越えた模様で」
「五千枚?」
と、編集長はおどろいて言った。
「それで、時代はどの辺に差しかかった?」
「いま、昭和五年で、ロンドン軍縮条約が調印されたところのようです」
「それで、一体どの時代まで書く予定なのだ?」
「むろん戦後二十年、明治百年とかいう構想らしいです」
「すると、あと三十五年もあるな。登場人物はますますふえるだろう。どうもこちらが考えていたより長すぎるようだ」
報告を聞いた出版部長も腕組みをした。
「今までで五千枚か。一冊で千枚を入れるとしても五冊になる。まあ、大長編としてそこらが限度だな。これが十冊も二十冊もの本になっては、とても読者がついてこない。そんな大部の本を読み通すような読者はそうはいないからな。大衆小説とは違う。南さんのは純文学だからな。これはなんとかして、早く小説が終るようにしむけんといかんぞ」
「しかし、南先生はもう夢中でして。人間の歴史を通じて一番長い小説になるぞ、と気負っておられます」
「で、主人公の彦三郎とかは、まだ元気なのかね?」
「はあ、昭和初期の不況でしばらく沈滞していたようですが、また新しい愛人を囲ったようです」
「もう人物をふやすのはいかん! その女は石女《うまずめ》ということにしろ。必ず南さんにそう伝えろ」
「ですが、長男がもう嫁を貰っていまして、その妻がすでに懐妊したようです」
「なんだ? 孫がもうできてくる? これは大変なことだぞ。そのうちぞろぞろ孫だらけになるぞ。なにしろ十八人の子供を持っているのだからな」
社であれこれ議論をしているうちにも、南氏は営々と書きつづけた。彦三郎の子供たちは次々と結婚し、そして次々と子供を作っていった。どうも山根一族はすべて多産系のようで、彦三郎の孫はジュズつなぎに出現してきた。
人物の名前にしても大変である。南氏は大きな紙に大家系図を書き、それを机の前の壁に貼《は》りつけ、一人生れるたびに新しく書き加えた。
そして、その孫の一人々々まで、彼はまことにくわしく書きつづっていったのである。
新しい編集者はなんとか社の意向を伝えようとしたが、南氏は自分の小説に夢中になっていて、
「君ねえ、新弥が――といっても君にはわからんか。これは彦三郎の四男の二番目の子だ。これが幼稚園に行きだしてねえ、たちまち喧嘩《けんか》をおっ始めて、五人の相手を叩きのめした。どうだ、強いだろう」
「それはたしかにお強いですが、出版部長が言われますには……」
「それからねえ、ブラジルに行った五男は現地人と結婚したが、むこうの女は情熱的でねえ、もう妊娠九カ月というのに、毎晩のように……」
若い編集者としては、それ以上口をきく気にならず、すごすごとして引返した。
かくて歳月は流れ、小説の上でも歳月が流れ、長編はますますとめどもなくふくらんでゆく一方であった。
美術全集の刊行が終り、古いなじみの編集者がふたたび南氏の担当となったとき、彼は呆然とした。
山根彦三郎を元とする家系図を眺めると、子供が二十一人(彦三郎は新しい愛人にも早くも三人の子を生ましていた)、孫が総計八十人できていた。その数は年と共にふえてゆきそうだ。しかも南氏は、その一人々々の人生をことこまかく描こうとしている。
「で、なんですか、今まで一人も死んだ者はないのですか?」
と、編集者は尋ねた。
「ああ、死なんね。どれもこれも至極健康でねえ」
「しかし先生、これは駄目ですよ。いくらなんでも登場人物が多すぎます。これじゃ収拾がつかない。少し人員整理をして下さい」
「人員整理というと?」
「つまり、死亡させるのです。肺病でも事故死でも自殺でもよい。先生が得意な方法じゃありませんか」
「だがねえ」
と、南氏はしんみりと言った。
「今度ほどぼくが作中人物と同化したことはないよ。どの一人をとってみても、肉親以上の親しみが湧《わ》く。彦三郎のどの孫も、ぼくの孫のように思える。どうしてそれをむざむざと殺せよう」
「ああ、ああ」
と、編集者もため息をついた。
「先生のそのお顔じゃ、一人を殺すのもたいへんでしょうな。しかし、一大決心をして一人を殺したところで、登場人物はまだ百何十人と残っていますね。これが昔なら、コレラか何かを流行させて、一遍に何十名かをほうむることもできますが……」
そこで編集者ははたと膝を叩いた。
「先生、もうじき小説の上では戦争になるでしょう?」
「そうだ、いま神風号が世界記録を樹《た》てようとしているところだから、すぐ蘆溝橋《ろこうきよう》事件だな」
「そして太平洋戦争|勃発《ぼつぱつ》です。そこで、山根一家はじゃんじゃん出征するわけですね」
「そうじゃんじゃんでもないよ、君」
「いいや、お国のためです。実際学徒から五十歳の老人まで兵隊に行ったのですからな。彦三郎の男の子たちの半数は出征して貰わんことには」
「そりゃ何人かは兵隊に行くだろうな。歴史を変更するわけにはいかん」
「そこです、なるたけ激戦地へ向わしてください。ガダルカナル、ニューギニア、フィリッピン、その方が小説に迫力が出ます。それにパラオ島へ行っていた一家も死にますな」
「君、そう簡単に言ってくれるな。考えただけでぼくは胸が痛むよ。もっとも、パラオ島へ行っていた次男一家はもう日本に戻っているが」
しかし、歴史は進行してゆき、日本は大戦に突入し、彦三郎の幾人かの息子たちも戦地に向った。
南氏は彼らをなるたけ後方の部隊でのんびりさせたかったのだが、運命の手は変えることができない。中国へ行った一人の息子の部隊は、ついに全滅の悲運をあびた。ところが、ふしぎな運命の手によって、その息子は数日まえ偵察に出て狙撃《そげき》されて重傷を負い、部隊が包囲される直前に後送されていた。しかも、そこの野戦病院にはすばらしい軍医がいて、彼は生命をまっとうしてしまったのである。
しかし、日本はじりじりと敗戦への道を辿《たど》っていた。
フィリッピンに向うわが輸送船団は敵潜水艦により五隻が五隻とも撃沈された。そして、彦三郎のかつての三号の三男も、海中にほうりだされた。その記録は編集者の手によって提供されたものであり、編集者は生存者が一名もいないということを確かめてから提供したのである。
ところが、その息子はどういうものか二日二晩海中に漂っていて、味方の駆逐艦に救助されたという。
「先生、そりゃおかしい。先生は事実を歪《ゆが》めるつもりですか」
と、編集者は気色ばんで詰問した。
「なにも歪めてはおらんよ。この『丸』という雑誌を見たまえ。あの船団で助かった者が三名おる。当時の秘録としてちゃんとここに載っている。彦三郎の息子は、たまたまその三名の中の一人だったのだ」
編集者は唇を噛《か》み、それからさりげなく言った。
「彦三郎の家はたしか深川でしたな」
「そうだ、同じ屋敷内に長男一家も同居している」
「ときに、B29の空襲がそろそろ始まりますな」
「その通りだ。いま、サイパンが奪われようとしているところだ」
「深川は三月十日の夜間空襲で全滅しています。生き残った人のほうが少ないですよ。これを利用しなくてはいけません」
「なんだと、彦三郎を焼死させろというのか?」
「いや、まあ。それは神さままかせですが、たとえ彦三郎が奇跡的に生き残ったにせよ、家族の何人かは死ぬでしょうね。なにしろあのときの空襲は……そうだ、私が記録を調べてきましょう」
ところが、編集者が期待していた昭和二十年三月十日が訪れるまえに、彦三郎はふしぎな直感力に従って、甲府に疎開してしまった。甲府もやがて一夜にしてやられる。編集者がそう念じていると、甲府空襲の直前、彦三郎は今度はだしぬけに長野へ疎開してしまった。
そして驚くべし、あれだけ長く続いた悲惨な戦争が終ってみると、山根一族はまだ誰も死んでいなかった。もちろん戦地で危ない目に会った者もあったが、立派に復員してきた。内地で焼夷弾《しよういだん》の下をかいくぐった子供たちも多かったが、せいぜいかすり傷くらいしか負わなかった。
「こりゃおかしいですよ、なんと言っても」
と、編集者は抗議をした。
「あれだけの大戦争で、これだけの一家に一人の犠牲者もなかったというのはおかしいですよ」
「いや君、決してぼくがわざとやったわけではない。誓ってもいい。ぼくは登場人物にあやつられて無心に筆を運んでいるだけだ。どうも山根一家にはふしぎな守護神がついているとしか思われない」
「守護神ですって? 私には先生が、かつてのニヒルなきびしい精神を失ったとしか思えませんよ。妙に人情ぶかくなっていますよ。この間は、南米の孫娘を勝ち組の暴挙で――終戦後、南米では日本の勝利を信じた連中が傷害沙汰をおこしたといいますが、その人達の手で――殺すようにあれほど念を押しておいたのに、先生は結局それができなくて、代りに娘の飼っていたオウムを一匹殺しただけだそうじゃないですか。奥さんに聞きましたが、先生はそのオウムが死んだあと、一時間もサメザメと泣いておられたそうですな。その人情ぶかさがいけないのです」
「たしかに君の言う通りかも知れん」
南氏も暗然とした顔をして言った。
「どうも人間、齢をとると涙もろくなってな」
「それじゃ先生、勇気を出して、その山根一家の守護神、その元凶を倒そうじゃないですか」
「何のことだね」
「つまり山根彦三郎、この人物がそもそもいかんのです。あまりにたくましい生命力と好運に恵まれている。彼はいま幾つです?」
「こうっと、もうかれこれ八十歳というわけだな」
「それ見なさい。そんな前世紀の遺物をいつまでも生かしておくから、ほかの誰も死なんのです。彼を死なせれば、あとはばたばたと片づきますよ」
南氏は深いため息をついた。
「たしかに彦三郎はもう齢だ。しかし、心臓は丈夫だし血圧も低いし動脈硬化もまだきておらん。もうそう書いてしまったのだ」
「急性肺炎を起させなさい」
と、編集者はいかめしく言った。
「老人性の肺炎は助かりません。おまけに戦後の薬品もない時代だ。大丈夫、お陀仏《だぶつ》しますよ」
南氏は、深い悲しみのうちに筆をとった。昭和二十一年の冬、彦三郎はついに肺炎を患った。見る見る病勢は悪化してゆく。医者も首をふった。電報が打たれ、一族の者があちこちから集まってきていた。
ところが数日のち、南氏は喜色満面で編集者を迎えた。
「君、彦三郎は助かったよ」
「え、助かりましたか。しかし、そんな筈はない」
「ペニシリンだよ、君。ペニシリンを進駐軍から入手できたのだ」
「だが、あれほど重態だとおっしゃっていたのに」
「なに、チャーチルの肺炎だって癒《なお》ったのだ。彦三郎が助かって悪い理由がない」
「勝手になさって下さい」
編集者は憤然として席を立った。
混乱した戦後がつづいたが、日本は見事に復興していった。戦災で工場を失い、大打撃を受けていた山根製薬も復興してきた。ペニシリン、ストレプトマイシン、新しいサルファ剤などを続々と開発し、今や業界の三大メーカーの一つとも言われるようになった。
一族の者は、この製薬会社に関係している者が多かったが、他の商売をやっている者、学者になっている者、ジャーナリストになっている者、いずれも立派にやっていて、自殺したり餓死したりする者は一人もなかった。
ついに彦三郎にはひい孫まで生れてきた。いったん生れだすと、今は百名を越えている孫たちが、続々とひい孫たちを生産し始めた。戦後の食糧難も過ぎていて、いずれも元気このうえないひい孫たちで、オッパイやミルクをどっさり飲み、丸々と肥っていた。
このひい孫ラッシュは、南氏の仕事をひときわ大変なものにした。あとからあとからひい孫が誕生するので、その名をつけるのも一仕事であった。ついに南氏は電話帳をひろげ、開いたページの名を片端からひい孫にとっつけ、またその名を山根一家の家系図に書きこんだ。
今や、その家系図は八畳の部屋一杯に拡がる大きな紙となっていた。そして、なお一層とどまるところを知らぬげに複雑化してゆくようであった。
「どれもこれも愛情深き登場人物だが」
と、さすがの南氏も弱音を吐いた。
「ぼくも、もうどれがどれやら、この昌夫というのが誰の子だったのか孫だったのか、混乱してきた。一々家系図を眺めに行って、それを捜すのに十分から二十分かかる」
「それごらんなさい。だからあれほど戦争で大量に殺せと言ったじゃありませんか」
「しかし、もう戦争は済んだのだ。これは、この小説を出すときは、家系図を別冊としてつけにゃあならんな」
「出版できるかどうかわかりませんよ。こんな不自然な小説。第一、いつになっても終らんじゃないですか」
編集者はだいぶぶっきら棒になっていた。
「なに、出版できんでもいい。とにかくこの大々々大河小説を書きあげることは、ぼくの執念だからな」
編集者は、じっと我慢をして、なお入れ知恵もした。彦三郎を癌にさせろというのである。彦三郎は胃癌になった。ところがたまたま人間ドックにはいっていたもので、非常な早期発見ということで、手術をして全治してしまった。
「そんな老人が手術に堪えられますか?」
「なに君、この医学雑誌に八十歳以上の癌手術の成功例が載っている。決して不自然ではない」
編集者は、次には彦三郎を自動車事故にあわせようとした。時速七十キロで正面衝突させようとした。これなら絶対に助かりっこない。ところが、彦三郎は立派に生きていた。
「そんなばかなことが!」
「いや君、まさに正面衝突するところだった。ところがその日は大雨だった。運転手はブレーキを踏む。高速度で下が濡れていて急ブレーキというのは、凄いスリップをするそうだな。くるりと車が一廻転してしまう。両方の車が一|廻転《かいてん》して、横腹をこわしただけだった」
――かくて彦三郎は生きつづけ、歳月が流れ、南氏はなお書きつづけた。
とうとう現代、南氏がそうして書いている時代にまできてしまった。
彦三郎は百歳で、なお顔にはつやがあり、足腰は弱らなかった。そして彼の子供は二十五人、孫が百二十三人、ひい孫が百八十人、ひいひい孫が六人となっており、その中でただの一人も死んでいなかった。
「ダメですよ。こんな小説、そもそもインチキですよ!」
と、編集者はすっかり立腹して叫んだ。
「全然リアリティがないですよ」
「そんなことはない」
と、南氏は断言した。
「現に、これはついこの間の、九月二十九日のタス通信じゃが、『世界最高齢者死す』というのだ。そのシラリ・ミスリモフという爺さんは百六十歳で死亡したのだが、八十八歳の妻と二十三人の子供のほか、孫、ひい孫、ひいひい孫の数は総計二百人を越しているとある。しかも、百三十歳のときに、自分の子供だって作っている」
「本当ですか」
「切抜きを見せよう。しかも、この爺さんは、実は死んでいなかったのだ。三日後の新聞で誤報だと伝えられた。彼は言っている。私が死んだなんてとんでもない。世界の新聞が私が死んだと報道していたとき、私は果樹園の手入れをしてリンゴを摘んでいましたよ、とね」
「ははあ」
「だから彦三郎はまだまだ元気でいいわけだ。どうも新しい子供くらい作りそうな予感がするよ。彼はこのところ九竜虫など飲みだしたからな」
「そりゃお元気で結構ですが、小説のほうはどうなるんです?」
「そうだなあ」
と、南氏もさすがにしょんぼりして腕組みをした。
「ぼくにもどうなるのかさっぱりわからん」
「なにか彦三郎を破産させるような方策はありませんか」
「それがねえ。彦三郎は生活力は旺盛だからなあ。もう彼のまわりには優秀なブレインが取り巻いている。山根製薬は発展してゆくばかりだ。彦三郎自体だって、最高の医者どもに取り巻かれている。これはどうもなかなか死にそうにないなあ」
「彦三郎が死なないと、小説も終りませんか」
「やはり終らせるわけにいかんねえ。成功者の伝記じゃないんだから。やはり悲劇的要素でしめくくらんことには。それに、万一、彦三郎が死んでも、あとに残った三百何十人の人生がある」
「すると、小説は永久に終らんというわけじゃないですか」
「終らんねえ。最後の手段は、水爆戦争でも起させることだが、愛する登場人物を皆殺しにして、その他の人類まで死なせるような真似がどうしてできよう」
二人は、おのがじし深いため息をついた。
教訓。作家というものは、なかんずく大河小説などを書こうとする作家は、すべからく残忍であるべきである。
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2 |おりごん《コマゴマ》メガネの巻
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百人一首のこと
季節はずれの文章といわねばなるまいが、大体が私が時期はずれの人間で、しかも正月原稿というものはたいてい十一月ころ書かされるものだ。「晩秋の落葉について一文」などと暑い盛りに言われたりする。私はアマノジャクなので、その逆をゆくわけである。
百人一首そのものが、今では時代はずれになった。むかしはどこの家でも、女たちは和服などきて、百人一首をやった。今ではこんな悠長な光景は少ない。女たちもみんな爪をのばしているので、折角の爪が折れてしまったら、と思うのであろうか。
幼いとき、姉たちが百人一首をやっていた。私はようやく平仮名をよめるようになっていたので、入れてもらったが、一枚もとることができなかった。私は一つの和歌を教えてもらい、それを丸暗記した。「みよしのの山の秋風さよふけて……」という奴である。そればかりを狙っていた。「みよ……」といえば電光石火とってしまった。一枚だけ狙っているのだからとれるわけである。
そのうち、私はもう少し別の上の句をもつ和歌も覚えだした。そうなると事は面倒になった。「ふくからに……」も頭に入れておかねばならない。「大江山……」も忘れてはならぬ。それでも「みよしのの」は私の最初の得意札であったから、これだけは絶対に人手に渡さなかった。
ところがそのうち、私がまたもう少し別の上の句のものを覚えるようになると、事はますます面倒になって、つい「みよしのの」もお留守になった。アッと思ったときはもう遅い。姉がその札をとってしまっていた。
私は小さいときはカンシャクもちであった。一時修養をしてすっかり温厚な人物になったが、さきごろから、そんな真似もつまらないと思いなおし、ふたたびカンシャクもちになりはじめている。しかし、子供のときは天然のカンシャクもちであった。婆やはそれをムシのせいだと言い、私にマクニンを飲ませた。すると回虫が一つ二つ出はしたが、カンシャクの虫は出てこなかった。そのため私はなにかにつけカンシャクを起した。
そのときも私はカンシャクを起し、「ぼくのほうが早かった」と主張した。姉はとりあわない。私にも、姉がたしかに早くとったことが理解できたので、私はますますカンシャクを起した。姉の手から「ふるさと寒く」の札をひったくり、真二つに裂いてしまった。
それから私の家ではセロファンではりあわせたその札を使用せざるを得なくなった。これは甚だ人の目につき、みんなはその事件をけっして忘れず、私の悪口を言った。
私たちが次第に大きくなったころ、戦争が始まった。はじめは中国とで、それからアメリカやイギリスとはじまった。そうなると、すべてが軍国調でないと気がすまない人たちがいて、小倉百人一首はみやびすぎるというので、愛国百人一首というのをこしらえた。
小倉百人一首は特にすぐれたものではない。古今調の良さも悪さも凝縮されている。万葉の歌にしても枕詞《まくらことば》だけのつまらぬ歌をえらんだり、勝手にわるく改作してしまったりしている。それでも、とにかくこの百人一首は優雅な調べがあり、何よりも古くから親しまれていて、正月の遊戯としてふさわしいものであった。
ところが新しい愛国百人一首のほうは、すぐれた歌があるものの、子供にはそんなことはわからなかった。ごつごつしていて、詠みあげようにも詠みようがなかった。私たちはあきれて、この新しい百人一首を二度とやらなかった。私たちの父は茂吉という歌人で、この愛国百人一首の選出にあたった一人なのであったが。
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とぎれとぎれに
戦後、父が大石田に疎開していたとき、随筆の稿料が着き、その金額が予想よりも多かったらしく、
「屁《へ》のようなものを書いたら、こんなにくれたよ」
と、嬉しいような憤慨したような口調で言ったことがある。
身をしぼるようにして作った短歌の稿料は安く、それに比べて安易に書いた随筆が思いがけず高かったもので、複雑な心境だったのであろう。
首尾一貫してこのわずか何枚かの雑文を書いてゆく能力が、現在の私にはない。精神的にはかなりの鬱状態で、肉体的には肝臓がわるいことが発見され、禁酒を命じられた。
大げさに言えば、廃人に近い。私としての屁のようなものすらなかなか書けない。これまで私は小説こそ滅多に書けなかったが、屁のような雑文はまあ人並の速度で生産してきた。それもできないとなると、これは驚くべきことである。
驚いてばかりいても仕方がないので、無理矢理にぽつりぽつりと書く。
鬱病という病気にはしばしば自殺がつきまとう。それも信じられないほど巧妙に目的を果すことが多い。私の知っている例は、病室の洋服かけの釘《くぎ》(もっと別な名称があるのだろうが、出てこない)にバンドを掛けて首を吊《つ》った。その釘はぶらさがるには低すぎる位置にあった。しかし、その男はそこにバンドをかけておいてベッドからとび降りる反動を利して縊死《いし》をとげた。
この病気は絶望感に閉ざされるうえ、罪業念慮といって、自分が生きていては周囲に迷惑をかけると信じこんで死を選ぶのである。ただ、本人の自覚とは逆に、直り得る病気である。
ところが、たとえ精神科の医者でも鬱病にかかると、そういう知識も無駄になって、おれは絶対に直らんと思いこんでしまう。大学病院にいたとき、一人の教授が鬱病となり、私が担任になった。相手は専門こそ異なれ、いやしくも教授である。それが、私が顔を出すたびに、
「君、ぼくのは特殊ケースで、治療をしても無駄だよ」
と、かぼそい声でおっしゃる。しかし、実際はかなり短時日でお元気になってしまった。
いま、私は自分のためにこの文章を書いているのである。だが、万一他の人の役に立ってくれてもいい。
外界に平和とかいわれるものがつづくと、人間は自分を攻撃しだすものだからである。
過去のことを、それもかげりをおびたことをいろいろ思いだす。
高校生のころ、私は知人と一緒に松本市の郊外を歩いていた。冬のことで、荒涼とした野づらであった。そこに黒っぽい影のように一人の老人が佇《たたず》んでいた。知人が、
「あれは宇野浩二ですよ」
と言った。知人は松本の人で、何人かの文化人の疎開にも世話をした人である。
すると、その老人がくるりと背を向けて、むこうへ遠ざかりはじめた。自分の顔を知っている者を避けたような、いかにも慌しい動きであった。そのときのお姿は、なにか人間嫌いというか、孤独そのものの観があった。
ずっとのちになって、私が売文業にはいったあと、たしか文芸家協会のパーティで、宇野氏がテーブルの横に坐っておられた。私は父とむかし親交のあった氏に、ひとこと御挨拶をしたかった。それで思いきってそばに行き、名を言って、お辞儀をした。
すると氏は、私にむかって性急になにか話しだされた。ところがあいにく、すぐ向うでバンドがけたたましく演奏していて、お言葉が少しも聞きとれない。私はかがみこんで氏の口のそばに耳を持っていった。それでも少しもわからない。しかし私は、まさか音楽がうるさいから、やむまで待ってくださいとは失礼のようでとても言えなかった。なんとかお言葉を聞きとろうと努力したが、甲斐《かい》がなかった。宇野氏はその凄《すさ》まじい喧噪《けんそう》の中で、かなり長いこと性急につづけざまに口を動かしておられたが、やがて口を閉じられた。私はこれ以上お邪魔をしてはわるいと思って、お辞儀をし、その場を離れた。
今になって、氏が何を話されたのか、しきりと気になって仕方がない。たわいもないことだったかも知れない。しかし、私にとって唯一の機会だった貴重なお言葉を聞きのがしたような気がしてならない。そして、なんともいえぬもの悲しさを感ずる。
雑文集のゲラが出てきて、その中に、以前書いた梅崎春生氏のギックリ腰のことがあった。その頃、氏自身がそのことを滑稽味のある文章に書かれ、私のことも出てくるので、新潮社の人と半分冗談まじりにお見舞にいったときのことである。いま読み返してみると、ずいぶんとふざけた文章である。そして、氏はもうこの世におられない。
私はそのときを含め、二度しかお目にかかったことはないが、やさしい方であった。冗談まじりの中に実におやさしい感じを受けた。
そのときの私の戯文は今となってはいかにも場違いのように思われ、けずろうかとさんざんに迷ったが、これが私の或る意味の運命と思い、結局残すことにした。けれども、ずっとそのことが気にかかってならない。氏からふざけた電話を頂いたときのことなどがあれこれと思いだされ、これまたなんともいえぬ気持になる。
私はかなり冷酷な人間で、自分を含めて「死ぬものをして死なしめよ」などと思ってきた。
それが、死ということに今までにない恐怖の念を覚える。他人の死も、自分の死もそうである。医学生時代から見てきたあれこれの患者さんの死のことも長いこと頭にひっかかる。
マンボウ航海をしていた半年の間に、姉と一人の叔父が死んだ。叔父は癌《がん》の末期であったから必然のことといえたが、姉の死は唐突のことであった。その姉を私はかなり好きで、ときにはずいぶんと好いていたことを、今ごろになってしきりと思いだす。
そうかと思うと、医学生のときの屍体《したい》解剖のことなども考える。なんだか自分が真面目でなく、屍体を冒涜《ぼうとく》したような気がしてたまらない。私は怠けていて、私の受持の腕だけがいつまでも残り、他の学生が半分やってくれた。そういうことがひどい罪悪のように感じられる。
こういうことを書いても、まず失笑されるのが落ちであろう。私は七割方ふざけた人間で、いずれまたそうなるであろう。しかし、自分が死ぬとき、「人口が減ってよかった」とにっこりして言えるかどうか自信がない。
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周期のこと
私はかなり長い期間、同人誌で書いていたが、その間に書いた作品のリストを調べてみると、相当量を書いた年もあるし、まったく不作の年もある。注文を受けるようになってからも、もちろん書けるときは書き、書けないときは書かないから、その創作態度にはさして変化はないつもりである。
もとより外的条件は無視できないが、仮に時間の有無の点からいえば、某県立病院に一年出張して一人で七十人の入院患者を診ていた時期も、夜の些細な時間を盗んで比較的よく書いていたし、それに比較してありあまる多くの時間を無為に過した時期もある。
俗っぽくいえば、調子のいい時期、あるいはスランプの期間があったというわけである。それに、どうも周期があるような気がしてならない。そしてそれは、精神医学のほうで外因性、内因性という言葉を使うが、その内因性といってよいかも知れぬとも考えられるのである。
人間の気質を分類するのにさまざまな方法が行われているが、もっとも一般的に、分裂気質、循環気質、てんかん気質(粘液質)、神経質、ヒステリー気質などにわけることができる。
交際嫌いで一人閉じこもって読書とか野山を友にするというような人は分裂気質に属する、というわけである。
ここで重要なのは、分裂気質に分類された人にしても、百パーセント分裂気質に属するのでなく、他の気質も合わせ有していることで、循環気質二十パーセント、神経質十五パーセント、ヒステリー気質十パーセントというふうにもっとも単純なペーパー・テストにも現われ、その中で分裂気質が一番高い山をなしていることを指す。
してみると、ほとんどの人間が循環気質をある程度有しているわけで、下田教授も循環気質は正常人の共通性格であることを述べている。
躁鬱《そううつ》病と循環気質は別個のもので明らかに一線を画さねばならないが、循環気質を説明するのに、その誇張された例としてこの病気のことを記すのが簡単であろう。
躁病の状態では、人は生気ハツラツとして意気|軒昂《けんこう》、早口多弁、多動多業なるにかかわらず疲れを知らない。意想は奔逸して、手紙を書くにしても電光石火、逸脱しながらとめどがない。その一例。
「自分は赤坊が生れては大変、皆様はお丈夫で、病院へ養生のため入院しました、慶応病院のベッド、ベッドの物狂、小説、小説のロマンス、ロマンスの物狂、ああだまされた。狐、狐の嫁入り雨がふる、雨、雨、アーメン、リバイバル、それではメソジスト教会、今井牧師様が仰言《おつしや》った、クリスチャンの目の涙こそ雨がふる、秋雨です、秋です、秋ちゃんは秋に生れませんでした……」(植松教授『精神医学』より)
鬱病はまったくこの反対で、感情は閉ざされ、何をする気力もなく、口数も少なくぼそぼそ声で、人に会うのも嫌になり、つまらぬことに罪悪感を覚え、結局役立たずの自分が生きているのは他に迷惑を及ぼすと考えて自殺を企図したりする。
躁鬱病はこの躁期と鬱期が交互にくるのである。なお躁期なら躁期、鬱期なら鬱期だけを持続する患者もある。内因性の病気で、特に外的原因がなくて起り得る。破産、失恋などにより人は鬱状態になるが、これは反応性鬱病と呼ばれ、真性の鬱病と区別される。
循環気質はこの躁鬱病と親和性がある。病とまでいかないが、昂揚期、沈潜期を交互にくり返す。調子の高い波と、調子の低い波があるわけである。
躁鬱病の患者を観察していると、その周期はさまざまである。毎年春になると具合がわるくなる人もある。三、四年の周期をもつ人もある。毎年発病していた人が、ある年齢からまったく平静に復すこともある。
躁鬱病はごく一部の人のことだが、循環気質は大なり小なり一般人が、むろん作家にしろそれぞれ持っているものである。一人の作家の業績を調べてゆくと、あきらかに大きな波を有していることが認められることがある。一つの典型例としてゲーテの場合があろう。
それは人はさまざまな外的要因にも左右されるだろうが、こうした内因的な要素をないがしろにするわけにいかない。
クレッチマーは体格に於《おい》て、肥満型が循環気質と親和性があると説いているが、これはむろんパーセンテージの問題である。
いずれにせよ調子の波の低いときにぶつかったら、ジタバタしても始まらない。はっきりと鬱病なら薬もあるが、単なる気質の波では効果もない。宜しく旅行をするとか本をよむとかしているのが賢明というものであろう。
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鬱のウツ
朝日新聞の第一面の、しかもトップ記事に、画期的な「ウツ病の薬」というものが載った。また週刊朝日にも更にくわしい記事が出た。
私はこの薬については何も知らない。事実、そのように効くのかも知れない。しかし、一般常識からいって、まだこの薬は実験段階といってもよい。戦後多く出た精神病の新薬、たとえば分裂病のクロールプロマジンなどは確かに画期的な薬であったが、このウツ病の薬を大新聞がいきなりトップ記事にしたのは、少々行き過ぎであったように思う。
もちろん、この薬が本当に画期的なものである可能性は大いにあるし、私はそうなることを望んでいる。自分のウツ病のときに使用したいからだ。だが、まだ実験例が少ないので、もう少し様子を見ているところだ。
ところで、この新聞記事のおかげで、今までのところ私はむしろ被害を受けている。
「北さんはちっとも仕事をしてないようだが、いいウツ病の薬ができたそうだし、それを飲んで早く治して、もっとどんどん書くべし」
などという意の手紙が、その当時かなり舞いこんだ。
原稿依頼を受けても、相当のウツなので、そう言って断わろうとすると、相手は、
「でも、ウツ病の新薬ができたそうじゃないですか」
と、喰いさがったり、或いはバカにしたように笑ったりして、なかなか引退《ひきさが》らない。
なにせ大新聞のトップ記事だけあって、その影響力は甚大であるのだ。
大体、世間の人は、私が本物の内因性躁鬱病であることを、どうもわかってくれないようだ。まして、ウツ病のとき、どんなに無気力であるか、絶望感にうちひしがれるものか、とても理解できるはずがない。私は自殺を試みたことは一度もないが、頭はどんよりと濁り、全身けだるく、正直いって歯ブラシに歯ミガキをつけることも大儀でできなくなり、女房につけておいて貰う始末だ。まして、二階の書斎へ行くため、階段を登る気力がなくなる。原稿を書くなどとんでもない話だ。
躁病のときは、人に迷惑はかけるが、自分では愉《たの》しい。ところが困ったことに、昭和四十六年以後、躁病というほどの元気さが一度も起らぬのである。
やや躁的になったことはある。一昨年までは、これはこのあと三カ月くらい躁期がつづくだろうとほぼ推定ができた。それが、ほんの三、四日、長くて一週間でまた元へダウンしてしまう。
これは体がおよそ七十歳なみにガタがきたのが原因であるようだ。九月、十月と私はほとんど寝ていた。もはや躁病になっても騒ぎまわる体力もなくなったのだと思った。
それからあまりといえば何もしないのに疲労が激しすぎるので、あちこち体の検査を始めた。肝臓はそれほど悪くなかった。すると、突如として私は癌ノイローゼとなった。胃と十二指腸は、変形があったり糜爛《びらん》があったりしたが、まだ癌とまでいっていないとわかった。
しかし、そのころ、私は痔《じ》の出血がやまなかった。常識からいえば痔であろうが、念のため直腸癌をも疑い、検査して貰うため病院へ行った。
待合室でうつろに待っていると、いやしくも医師免許をもつ私が、「これは直腸癌くさい」と直感し、ほとんど目まいを感じた。けれども検査の結果は、単なる痔であった。
そのときは実にホッとし、帰宅した私はいささか躁的になって、
「おれは頭のてっぺんから足の裏まで、どこからどこまで悪い。つまり髪は白髪がふえた。脳ミソはもっともヘンだ。目は近視と乱視がある。鼻もわるいし、虫歯だらけだ。内臓だって、胃、十二指腸、肝臓が要注意だ。肺病の既往症もある。それに痔の大出血だ。足には水ムシがある」
と、むしろ得意げに言い、上機嫌であった。
ところが、数日後の夜、寝床に坐って煙草を喫っていると、胸骨のうしろに違和感を覚えた。煙草の煙が沁《し》みるようでもある。また、なにか狭窄感《きようさくかん》があるようでもある。
「食道癌!」と、ピカリとひらめいた。その部分が喉《のど》から胃までの下方三分の二の辺りであり、それは食道癌の好発部位ではなかったか。
またもや鬱々となって、私はウイスキーを飲みだした。医者からは禁じられているものの、毎夜、飲まないと頭の異常な重たさ、ストレスがとれず、酒と薬を併用しないと眠れないからだ。
すると、その部分に、酒も沁みるようである。と思った瞬間、私は嘔吐《おうと》していた。
それから幾晩も、私は悶々《もんもん》として酒を飲み、そのたびに吐いた。今度こそ本物らしく思え、検査に行くのがこわくて、一晩々々気をまぎらわすために飲み、かつ嘔吐した。
やっと決心して医者へ行くまえに、なだいなだ君に電話して、胸骨のうしろ辺にかくかくの違和感があると述べると、
「君、食道ってものはずっと後ろにまわっているだろ。胸骨のすぐうしろってことはあるまい」
ああ、食道癌の好発部位なんてことを覚えていて、食道がどう通っているか、もっと初歩の解剖学の知識を忘れていた。
だが、ノイローゼ患者というものは、そもそもそういうものなのである。わが体調は依然として芳しからぬ。どこかにもっと恐るべき悪い個所がひそんでいると私は信じている。
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ノイローゼ・ルポ
すでに古典ともいうべき軽妙なユーモア小説、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』の冒頭は、病気の話からはじまっている。
主人公はある日、大英博物館へ出かけてゆく。ちょっと気分がすぐれなかったので、たぶん乾草熱だと思い、書物を借りだして、その手当をよむ。それから、なんの気なしにページをくると、おそろしい、悲惨な結果をもつ病気のことが書いてある。その「前駆的症状」の項を半分もよまないうちに、主人公は「おれはこいつにやられている」と考えた。
彼は恐怖のうちに凍ったようになっていたが、やがて絶望のものうさの中で、ふたたびページをくり「チフス」のところを開く。すると、自分が確かにチフスにかかっていることを発見する。どうやら、かかってから何カ月も気がつかないでいたようである。
それから、他にもなにか病気にやられていないかしらと、舞踏病のところを見ると、はたしてこれにもやられている。そこで、徹底的に調べようと思いたち、病気をアルファベット順に調べだす。すると、おどろくべきことがわかった。オコリにはなりかけていることが判明した。腎臓《じんぞう》病は割に軽いらしかった。コレラはひどくこじれている。ジフテリヤには生れながらにかかっている。
結局、かかっていないと結論をくだすことのできる病気は、ただ一つ、膝蓋粘液腫《しつがいねんえきしゆ》だけであった!
われわれは、この主人公を笑ってはならぬ。われわれだって、薬の広告の適応症のところを見ると、そのいくつかが自分にあてはまっていることに気がつく。そこで慌てて薬屋へ行ったりするのである。
だが、これがひどくなると、それは心気症とよばれるノイローゼの一群に入れられなくてはならぬ。彼らは医者へ行って「君はなんともないよ」といわれても、
「この医者はヤブだ。おれがこれだけわるいのにわかりゃしないのだ」
と、べつの医者へ出かけてゆく。次から次へと医者を訪れ、胃下垂があるねえ、などといわれると、ようやくホッとする。こういう患者を神経科医は実に多く見ている。一方、ノイローゼという概念があまり普及しすぎると、実際に器質的にわるくても、ノイローゼと片づけられて放置してしまう例だってなくはない。
いろんな病気が恐れられるが、ちかごろの親玉はガンであろう。日本の死亡原因の一位は脳卒中など血管系のもので、二位をガンがガンとして占め、三位が心臓の疾患、ということになっている。
たとえば文士が何人かあつまると、文学の話などせず、
「この中の一人はガンで死ぬ確率なんだな」
「銀座のバーにガンのビールスがいるのかな」
などという会話を本気でしている。他の職業の人も同様であろう。
かくて、ガン・ノイローゼなどという言葉が生れる。実際、言葉は簡単に作られすぎるが、このことはあとでふれよう。
ともあれ、ガンはのっぴきならぬ重みをもつ病気であるし、私自身、私の診断によれば確実にガンにかかっているようなので、築地の「国立がんセンター」を訪れてみた。
玄関をはいると、広い待合室があり、ここに十数名の人が腰かけてテレビを見ていた。気のせいか、沈鬱そうである。一人、平気でタバコをふかしている人を見て、なぜとなく私はホッとした。外来は午前中なので、そのころにはこの広間は人でみたされるらしい。さらに横手に廊下があり、看護婦さんが新しい椅子をはこんでいたが、
「ここぎっしりになります。立っている人もありますよ」
ということであった。実にここを訪れる外来患者だけで日に五百名を越えるのだ。
久留病院長にうかがった話。
「外来の患者さんはふえていますか?」
「年々ふえています。ことに池田前首相のご病気以来、ずいぶんふえましたね」
「ガン・ノイローゼという言葉も、こういう病院の立場でいうと、むしろ早期発見に役立つと思うのですが」
「その通りです。そのノイローゼという意味は二種あると思うのですが、逆にガン・ノイローゼと片づけられて、立派な乳ガンであったこともあります。乳ガンというのはなかなか診断がむずかしい……」
ここで、いささか本題を離れるが重要なことであるのでうかがった話を記すと、日本でも乳ガンがふえつつあるらしいというのである。十年まえの統計によると、日本では女子の子宮ガン三分の二に対し、乳ガン三分の一、イギリスでは前者五分の一に対し後者五分の四、逆の比例がでていた。その原因として、赤ん坊をうんで、乳腺《にゆうせん》が増殖して、乳をやって、それがすめばもとにもどる、それが乳をやりたがらない、あるいは人工中絶をする、それは銃砲の中に弾丸を入れっ放しのような不自然なものだということである。
明治時代の日本の女は、五十にもなると、何人も子供をうんで乳をやって、乳房はやわらかいというのが多かった。それが今ではその齢になってもかたい、いわば乳腺症といわれる状態も多い。
「そのシコリが問題ですね。これは乳腺炎などガンでないことも多いが、ガンであることもある。その区別を触診でぴったりつけられる医者は東京で百名くらいじゃないかと思うんですがね」
現在、がんセンターにくる人の中で、八十パーセントがガンでない。その人たちはガン・ノイローゼといわれてもよいが、その行為には意味がある。ガンは早期発見のみが治癒《ちゆ》をもたらすからである。
「私の意見では、一年に一回検査をうけろということですね。肺の検査は、集団検診などあって恵まれている。しかし一番多い胃ガンの検査は、本当は国家でやってくれればいいが、これには千円くらいかかる。できれば個人で検査を受けてほしい。なんでもなかったら一年後、なにかの記念日みたいにして検査を受ける。あやしい点があったら三カ月とか、六カ月後調べて前と比較する、これが一番大事でしょうね」
肺ガンは、日本ではアメリカの三十年前ころの速度でふえている。石炭を使う工業からくる煤煙《ばいえん》が関連していることは明らかだ。しかし欧米では石炭が重油に変っていて、今後肺ガンはへってくるのではないか。こういうふうに、ガン対策も医術の面ばかりでなく行政面が大きく関係する。
「実際、私なんかも一生でガンの患者さんを一万名治せるかと思っているのですが、原子爆弾一発落されればメチャメチャですからね」
広島では白血病はへってきているが、ちかごろになって胃ガンがふえてきているのが認められるという。
「バスの排気ガスなんか明らかにわるいが、アメリカなんかではやかましく規制しているはずです。道路をよくしなくちゃいけません、立体交差にして。車がとまって発車するとき排気ガスがでるんですからな」
お医者さまが道路のことまで心配しなくてはならない。最後に、ガンなんかないくせにガンを極度に心配するノイローゼについて、
「全然無知な人は幸福ですよ。本当に知識をもってる人も大丈夫です。生兵法《なまびようほう》が一番いけませんな」
と院長はいわれた。これはあらゆるノイローゼについてのずばり直言であろう。
いわゆるノイローゼ時代になってから、それに対する薬も数多く生れた。クロールプロマジンという薬は「メスに代る脳手術」とまでいわれたが、これはむしろ狭義の精神病の薬で、メプロバメートなど精神安定剤といわれる薬が日本に出現したのは昭和三十一年のことである。
最初にメプロバメートを発売したD製薬学術部竹屋氏の話をききにいった。
その記念すべき最初の新聞広告には、
「全米治療界の話題、文化人病、都会人病の新しい薬、トランキライザーの国産第一号」
うんぬんの文句がある。
そこに描いてあるマンガは、頭の細長い現代人がいて、その頭の中を、電車が疾走している、電話がジャカスカ鳴っている、さらに女の顔がある、ソロバンが踊っている、といったぐあい。このマンガは厚生省から「嫌悪《けんお》をもよおさせる」といって叱られた由。
ところで、このような薬は本場のアメリカにおいて、昭和三十一年の売りあげが実に二億ドルである。
日本人の薬好きは世に名高きところだ。その一因は自由に薬局から薬を買えるということもある。欧米では医薬分業のせいもあって、医師の処方がなければなかなか薬が買えぬし、薬の広告にしろ医家むけのは許されているが、一般大衆に広告してはならぬことになっている。
日本には製薬会社と名がつくのがおよそ三千、その薬の売りあげ高の伸びは大変なものだ。昭和十一年の、物価の面からいって二億五千万円という数字は比較にならぬとして、昭和二十五年三百十九億、三十年八百九十五億、三十七年二千六百五十五億、三十八年三千三百六十三億の数字を示している。その中で、精神安定剤系統の薬を発売している社のその比率は二十パーセントくらい。実におびただしい精神安定剤がのまれていることになる。
狭義の精神病に主に使うクロールプロマジン、レセルピン系統をのぞいて、その薬品名はアトラキシン、ミルタウン、ハーモニン、トランキ、アトラックス、バランス、コントール、ホリゾン、セルシンなど。
そうした薬の広告で、D社の製品として一番反響があったのは「夜勤者の昼間睡眠」というのが一位で、次位は「奥さまのイライラ」であったという。神よ、奥さまのイライラに対して、われわれは今や高価な薬代をはらわねばならない。
ある大学の神経科外来。神経科というのはむかしの精神科で、もっと広い意味をもたせ、神経痛から脳|腫瘍《しゆよう》までの疾患をうけもつようになったものである。精神科より神経科のほうがきこえがよいということもある。かつては「脳病科」どころか「ふうてん院」などという言葉があって、世人はよほどのことがなければそこを訪れなかった。
しかし、昨今の神経科は繁栄している。そこの粗末なベンチに待っている人々は、一見ふつうの人とちっとも変りがない。
むかしは医者からして特異といってよかった。精神科などを志願する医者は、うちがその種の病院である者、または変り者、奇人といって間違いなかった。私が神経科の医局にはいったころは、先輩たちの多数はこうした人であった。それほど変人でない精神科医が出現するようになったのは、それが商売として成立つようになったからである。もっとも、これには私の文章につきものの誇張があることも付言する。
一室では、新患に対して予診係が奮戦している。そのカルテをもって、まず一診とよばれる部屋で、患者たちは教授、助教授、講師などのえらい医者に診察されるのである。一方、べつの二つの部屋で、もっと若い医者が、再来の患者の治療に当っている。外の廊下のベンチには、ずらりと人が並んでいる。一見、なんでもなさそうな人が。
「先生、私の病気は一体なんというのですか?」
「まあ、不安神経症といってよいでしょうな」
「しかし、私は〇〇神経科医院では自律神経失調症といわれましたよ。どっちがほんとなんです?」
「それは君、精神的には不安神経症といってよく、肉体的には自律神経の失調が……」
若い医師は疲れきっているようである。概してノイローゼの人は、話がくどくどと長い。
実に多くの人が、病名を確かめて、ゆゆしい不安を解決しようとしている。なにかそうやって割りきることに救いを求めているかのようである。一方、ジャーナリズムもそれに応じて勝手な名前を提供する。基地ノイローゼ、受験生の親ノイローゼ、ながら病、等々。名をつければ、それで半分は解決したと思うような風潮がどこかにある。
もう一つの部屋では、中年の医師が、やはり再来患者の訴えを聞いている。
「一、二、三、四、五って数えなくちゃならないんです。その五のところのぐあいがなんともいえないんで。そこがうまくゆかないと、始めからやり直しってわけです」
われわれにしても、電気を消し忘れたかと気になってもう一度見にゆくとか、ポストの中に手紙がうまくはいったかと手を入れてさぐってみることはある。その程度の昂じたのが強迫神経症である。
この男は、あらゆる行為に、数字をとなえねば気がすまない。靴をはくにしても、ドアをあけるにしても、まず数字をとなえなければ行為が進まない。
「先生、その、一、二、三と数えていって……」
そのとたん、閉めてあったドアがバタンとあいて、三十がらみの女が顔を出す。その男のまえに診察をすましたはずの女である。
「先生、もうひとこと。あたしが絶対に発狂しないってこと、確かなんでしょうね?」
息をきらし、まぶたがひくひくと震えている。医者がいう。
「大丈夫ですよ。ノイローゼと精神病は、まあ水と油みたいなもんなんだから……」
「でも……何か確かめる方法はないんですか。脳波をとるとかレントゲンをとるとかして」
「そんなことをしても、あなたのいう精神病の診断はつきゃしません」
かなりのやりとりがあって、女はやっと顔をひっこめた。
数字をかぞえる男がすむと、頭痛と不眠の男、赤面恐怖症の女、書痙《しよけい》、といったふうにノイローゼ患者がつづく。この神経科の外来の六十パーセントがノイローゼだという。
近ごろは、他の外科や内科からまわされてくる患者も多い。整形外科から、どんなふうに顔を直しても「ちっとも美しくならない」と訴える女性がまわされてきたりする。
実にノイローゼはありとあらゆる症状を起すのである。そもそも、病理解剖的には身体にも脳にも変化がない、そのくせ身体的あるいは精神的に障害が自覚されるものをノイローゼとよぶ。いわば心の病である。
しかし、心の病といっても、おどろくべき症状をひき起すことがある。ヒステリーもノイローゼの一種だが、ときには足がマヒしてしまう、目が見えなくなってしまう、知覚がなくなって手に針をさしてもわからない、などという場合もある。
午《ひる》すぎ、神経科医局で、三々五々医者たちがテンヤものを食べている。カレーライスとラーメンと五目ソバ、一人がウナギをとると、
「おっ、凄《すげ》えなあ」と仲間がいう。
大学の医者の若手は無給か、しがない給料にすぎないので、五目ソバ以上のものはなかなか食べられない。私の場合でいえば、四年間無給で、五年目に月給九千何百円をもらった。
「なにかノイローゼについて無駄話をしてくれませんか。お一人ひとことでもいいですから」
「そうですね。ぼくは入局したばかりですが、ノイローゼに一番興味をもちますね。将来、精神分析に進もうと思ってますが、日本では精神療法の普及はなかなか困難じゃないですか。第一の理由が経済的のことにからまるんですが」
日本人は、注射や薬に対しては金をはらうべきだと思っているが、相談や話だけだと、これはタダでいいと思っている。
私は以前、飛行機の中で隣の米人から職業をきかれ「精神科医だ」というと、
「それじゃ、金持だな」といわれた。
むこうの分析医は高いのである。それでもザワザワと患者が行き、美容院へゆくくらい気軽に行くところから「美容院セラピー(療法)」という名があるくらいである。
「ぼくは有体《ありてい》にいえばノイローゼ患者はきらいだな」
と、べつの医師がいやにハッキリといった。
「分裂病にはなにか神聖なところがありますよ。人間存在についてハッとするようなことがある」
文学好きの医師なのかもしれない。
「ノイローゼというのは、ふつうの人間でしょう? その癖や心情の誇張されたものにすぎないでしょう? 彼らは甘えてますよ、だんぜん甘えてますよ」
「だって君、それは無意識界の作業なんだから」
と、先の医師が口をはさんだ。
「私はですね、ノイローゼと精神病のどっちの肩ももたないが」
と、入局五年の医師がいった。
「世間ではノイローゼという言葉を使いすぎますよ。精神病とノイローゼは区別しなけりゃいけません。外来にいると、親が同伴してきて、娘をさして、実はちょっとノイローゼ気味で、という。診察してみれば立派な分裂病だ。ノイローゼなんていってタカをくくっていたらとんでもないことになる」
これは私も同意見である。大体ノイローゼというのは自覚が強く、ある場合はたいしたこともないのに病院へ自らやってくるものだ。同伴というケースはしばしば精神病のことが多い。分裂病患者は、自分が病気であるという自覚がなくて、おまえはおかしいから病院へ行けといわれても、なにおれは健全だと主張するのが大半である。
「ノイローゼによって自殺」
という記事がよく新聞に出る。
この大多数は、抑鬱病、あるいは分裂病であろう。ノイローゼ患者というものは自分の身をいとしむもので、めったに自殺などしないものだ。
「ノイローゼが昂じて」
という表現も間違いである。はじめから狭義の精神病だったのだ。
といって、ノイローゼ患者が各自で深刻に悩んでいることは確かなのである。もっともつらいのは、他人には理解されないことだ。ここが、こう悪いといって説明することがむずかしい。彼らは一人で悩まねばならない。蟻《あり》地獄におちたアリのようなものだ。
だが、その一部の者が、病気を無意識に口実にしようとしていることも確かなことだ。自分は過去、そうそう人にヒケをとらなかった。だが今では同僚から抜かれてしまった。しかし、それは自分の責めではない。病気のせいなのだ。
「実際、病への逃げこみ、っていうフロイトの言葉は見事だとは思いますね」
べつの医者がいう。
「彼らは劣等感をもつ者が多いが、裏返せば優越感をもちたがるんですよ。完全欲が強いんです。治療をしていればわかるが、十の症状が五になってもなかなか満足しませんからね。それがゼロにならないまでは。でも北さん、あなたは神経科医だし、そのまえでこんなことをいうのは……」
「いや、ぼくは医者というより患者のほうですよ。ただ一つわかっているのは、自分が医者になったおかげで、どうやらあちこちの病院をぐるぐる廻らないですんでいるらしいということです。ところで、ノイローゼはやっぱり今でもふえつつありますか」
「ふえていますねえ」
異口同音である。
むかしからノイローゼはあった。ノイローゼ、ニューローシスという言葉は、十八世紀にスコットランドのカレンという医者がはじめて使っている。もちろん有史以前からノイローゼ患者はいたはずである。
用語の概念は時代によって変ってゆくが、とにかくノイローゼと呼ばれるものは、戦後急激にふえてきた。精神病は、戦時でも平和時でもその数には大差がない。ところがノイローゼのほうは、平和病、文明病といわれるくらいふえてきた。
戦時にもノイローゼはあった。戦争神経症とよばれるもので、しかし生命財産が失われようとしているときには、一般のノイローゼはかえって少なかった。
共産圏の医者に、
「この国でもノイローゼはいるか?」
ときくと、
「いや、ごく少ない。社会制度が正しいからである」
と答えるそうである。しかし、私はどうかなとも思う。
戦時中のわが帝国陸海軍には、だらしないノイローゼなんてほとんどないことになっていた。しかし、ヒステリーを臓躁病などとよんで、実際にはちゃんといたのである。ともあれ、戦時中にはノイローゼは少なかった。それがふえだしたのは、戦後も物資が豊かになってきてからのことである。ストレスにしろ、戦時のほうが激しかろうと思われるのだが、これは外面的な平和の中で、格差が、不均衡が次第にふえつつあるためである。人間は「おのれ自身を知れ」よりも、はるかに自分と他人とを比較したがる。
すべての人が窮乏していた時代では、人間はたいへんな苦しみをも堪えしのぶことができる。しかし、ステレオ、テレビにかこまれた今では、他と比較して、もっと強い不満、自信喪失が身をついばむ。
フロイトは個人を問題にした。一方、フロイト左派とよばれる学者たちは、ずっと社会的要因を重視するようになっている。むろん双方は折り重なってひき離すことのできぬ存在だ。
ある心理学者の雑話。
「それは社会はたしかに背後にありますよ。しかし、ノイローゼの直接の原因は、むしろみみっちい個人的な問題、夫に愛人ができたとか、姑《しゆうとめ》とのこととか――この姑の問題はまだ厳として日本に存在しますよ――そういうことで、基地とか原爆なんてものじゃありませんよ」
「ノイローゼは非常にふえてはいるが、むかしとの比較は簡単にはできませんな。わかるのは病院を訪れる患者数のことなんだから」
私の子供時代は、脳病院である私の家の前を、子供たちがこわそうに走って通ったりした。どうにもならぬ精神病者を家人が連れてきた。ノイローゼ患者は内科医などへ行っていたケースが多いであろう。
それが、今では簡単に人々は神経科を訪れるようになった。その原因の一つに、ノイローゼという言葉が一般に用いだされたことも重要であると思う。この言葉は、かなりすっきりしていて、文明的で、ときには自己満足すらひき起す。神経衰弱、精神衰弱などの呼名よりわれわれの好みにあったのだろう。
いつごろからノイローゼという名が新聞雑誌上に登場したかを調べてもらったら、昭和二十八年とのことであった。私の予想より遅いが、見かけ上の繁栄が訪れだした時代である。
ところが、現代病といわれるノイローゼは、ますます高まるストレスにより、その症状も多様に劇的になっているのか?
違うのである。ただ頭が重い、眠れない、イライラするくらいの、平凡な、平均的な、ありふれた症状が圧倒的に多くなっているのだ。たとえばヒステリーにしろ、むかしはテンカン様に身を弓のようにのけぞらせる発作が少なくなかったが、近ごろではメッタに見られなくなっている。
このことをどう解釈するか、私はまだ納得できる意見を聞いたことがない。
ともあれ、いやがうえにもふえつつあるノイローゼは大きな問題ではあるが「なんでもかんでもノイローゼと呼ぶノイローゼ」だけは、だんだんとやめてもらいたいものである。
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こわい話
怪談といっても、現代のきしるような雑音の中ではあまり怖《おそ》ろしくもない。怖ろしいほどノンキに聞きふけるだけの余裕もない。
しかし、昔ながらの古びた怪談であっても、なにかしら身近な具象性があるときはやはりこわい。話の質よりもむしろ環境である。私は学生時代はよくアルプスに登った。戦後の食糧難の時期であったから、短い登山期が終ると、山小屋はしめられ、番人も下山してしまう。晩秋など、一人で尾根を縦走していて、そうした無人小屋に泊ると、さすがにいい心地もしなかった。下界のこわさという意識でなく、夜になって高山の緻密《ちみつ》な静寂がおしよせると、山塊の厖大《ぼうだい》さ、わが身の微細さが否応もなくおしよせてくるのである。そういうときは下界できかされた怪談などはかえって蘇《よみがえ》ってこない。オバケがでるかとビクビクもしない。かえって、ごく尋常な人間がひとり、ひょっこりここに現われてきたらたまらないような気がしたものだ。
病院関係の雑誌でこういう怪談をよんだ。ある大学病院の二階か三階に入院していた若い奥さんが、よくなって退院することになった。彼女には若い親切な夫がついていて、病院でも評判になるほどやさしく看病していたが、いよいよ退院の日、彼は階段を歩いておりた。奥さんのほうだけ身体《からだ》をいたわってエレベーターに乗った。ところがこのエレベーターが墜落し、気の毒にも若妻は死亡した。そのことがあってから月日がたち、ある夜、婦長さんが見まわりをしていると、そんな夜ふけに、エレベーターがあがってくる音がする。ガラガラと扉があいたが、内部を覗《のぞ》くと誰もいない。おや? と思っているうちに、扉はしまり、エレベーターは音をたてて下っていってしまった。婦長はあやしみ、当直の看護婦たちにそれとなく尋ねると、みんなは青い顔をして言った。「あのエレベーターは、夜中にときどき人がのっていないのに動くんです」
この話の舞台の病院を私はよく知っており、その話が実話であるとはどうも思えないのだけれども、古びて今にもぶっこわれそうなエレベーターにのるたびにあまりいい気持はしない。
こうした話をばかばかしいという人は、かえって幽霊じみた話ではなく、自然現象とか運命そのものをあつかったもののほうがこわいかもしれない。大体女の人は芋虫裸虫のたぐいが苦手だが、ベンスンという人の短編におっかない芋虫の話がある。
ある男が友人の別荘によばれて泊っていると、一夜いやな夢にうなされる。階下のホールから天井から、壁から奇妙な形をした巨大な芋虫が一杯むらがっている夢である。翌日、散歩をしていると、友人が一匹の芋虫をみつける。もちろんごく小さな芋虫にすぎないが、なんだか昨夜の夢にでた芋虫に似た恰好をしている。友人はそれを見て、「おや、こいつはカンサー(cancerとはラテン語の第一義ではカニという意だが、英語の第一義では癌である)みたいな足をしているな」といって、芋虫を葉っぱにのせて池に流してしまう。男はそれを見て不安になるが、あとでその場所にきてみると、芋虫は溺《おぼ》れもせず水を泳いできて、友人の足許《あしもと》に這《は》いあがる。友人は、「おや、こいつはやはりぼくが好きらしいよ」といって芋虫を踏みつぶしてしまう。
その夜、男はまた奇妙な感じにうなされる。気づいてみると、またしても階下はあの大きな芋虫の群で一杯で、しかもやがて合図をうけたように、友人のねている寝室の扉のほうにおしよせてゆき、扉の隙間からずるずると這いこみだす。友人に知らせようとしても声がでない。芋虫が一匹も見えなくなってしまってから、彼はそれがやはり夢であったことに気づく。
しかし、それから半年もたって、男はその友人が癌にかかったことを知らされるのである。
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ろくでもない本の話
私が幼いころから本に興味をもたないどころか、むしろ煙ったく思ったのは仕方のないことであった。家には父のあつめた書物が堆《うずたか》く積まれていて、それも開いたとて読めもしない和書であったり七面倒くさげな本であることが多かったので、本というものは単なる場所ふさぎの無用の長物としか思えなかった。なにぶん私たち子供が寝ている二階が父の居間であり、ここに積まれた書物の重みで、天井がさがってき、大工がきて突っかえ棒をあてたりしたのを覚えている。こうなっては読書を覚えるどころか生命が危ういのである。
それゆえ私は、そのころ全盛を極めていた少年|倶楽部《クラブ》という少年雑誌以外のものを読んだ記憶があまりない。これには南洋一郎、高垣|眸《ひとみ》、佐藤紅緑、山中峯太郎という人たちが執筆していて、マンガにしても冒険ダン吉、ノラクロなどが活躍してはいたが、どうしても読物のほうが魅力があった。現在、マンガが読物を圧倒して世の大人たちをなげかしているが、いろんな要因はあるにしても、こういうすぐれた児童作家がいなくなったからではないか。反面マンガのほうは進歩している。マンガをなんとかしてゲキメツしようとしている先生方も、かつてのタコの八ちゃんと最近のマンガを虚心に比較してみることを忘れてはなるまい。
もっともマンガを私は大人になっても見てはいるが、童話ならぬ児童読物の類にはさすがに御無沙汰しているから、現在『緑の無人島』とか『ジャガーの眼』をよみかえしてみたらどんなふうに感ずるかは断言できない。幼いときの食物の記憶などと同様、こうした印象は懐かしさのなかに増強されるものであることも間違いなさそうだ。江戸川乱歩の児童もの『怪人二十面相』などもわくわくして読んだ記憶があるが、この間よみかえしてみたらあまり面白くもなかった。この人のものは初期の『二銭銅貨』というような短編が文句なしにいい。中学にはいったころ、図書館へ行って、私は伏字のある乱歩集をみんな読んでしまった。あまりよい読書体験とはいえない。
そのほか少年時代に人並以上によんだのは昆虫《こんちゆう》に関する書物である。ファーブルの『昆虫記』も小学校の終りのころ文庫本でよんだが、もし現在のように子供むきに書きなおされた適当な『昆虫記』があったとしたら、あのような難解さからくる呪縛《じゆばく》にも似た懐かしさは感じられなかったかもしれない。
そのころ、私は本屋へゆくと自然科学関係の棚の前にだけ佇《たたず》んだものだが、あるとき一軒の古本屋で、蝉《せみ》の学者である加藤正世という人が出している「昆虫界」という同好雑誌のバックナンバーを見つけた。この雑誌は第二次大戦の中ごろまで出されていたが、初期のものは内容こそ充実してはいなかったが、昭和初年の経済の安定していた時期の趣味の雑誌としての風格を有していた。特に表紙にばかでかい昆虫の原色写真がのっていた。こんな雑誌があることを夢にも知らなかったから、私は古びてかつ華やかな表紙を前にしてほとんど恍惚《こうこつ》とさえなった。財布をしらべ、二冊を買った。家へもどってから貯金箱をしらべ、自転車にのってまた残りを買いに出かけた。
次第に私の昆虫研究熱は高まってゆき、私のささやかな本棚はすべて昆虫関係のものとなった。今から思えばかなり貴重な本もあったように思う。少なくとも種々の昆虫同好会の機関誌のバックナンバーは、いま集めようとしてもむずかしいのである。
戦災で家が焼けたとき、私は停電でまっくらな家の中へ引返し、ラジオ一台と兄の登山靴ひとつを持出した。もう一度引返し、めくら滅法に五、六冊の昆虫の本――それは専門的な本で自分には身分不相応なものと思っていただけよけい貴重に感じられた――と、ドイツ語の辞書――その年私は高等学校へはいっていてそれが必要だと思えたからである。しかしいざ授業が始まってみると、この辞書の一部はキザミ煙草をまく紙にしてしまった――を持ちだした。すぐ近くまで迫っている火を横目で見ながら、私はそれらを庭の隅につんであった砂利の中にうめた。この書物は今もまだ私の本棚に残っている。
高等学校から大学時代、私はいくらかの昆虫以外の本もよみだしたが、本をあつめるということは決してしなかった。なぜなら、私はいつも地方の学校にいて、寮、あるいは下宿生活をしていたが、その下宿を頻々《ひんぴん》とかえたからである。引越しには手数がかかる。おまけに終戦後の物資の乏しい時代であったから、シャツ一枚、靴下一足でも無駄にはできない。ボロでもなんでも行李《こうり》につめて保存しておかねばならぬ。従って引越しのときにはこうしたガラクタ荷物を荷車につんでひいてゆくのだから、そこに重たい本なんぞあっては不都合である。その当時、私は中型のミカン箱を一つもっていて、その中に入れられるだけの本しか持っていなかった。大学時代、一番小型の本棚をひとつ買った。するとこの本棚に入れられるだけの本を所有するようになった。本が先ではなく、置く場所が先なのである。しかしこの関係は実にふしぎなもので、もし新しい本棚を買うとすると、いつの間にかそれが一杯になる本を所有することになる。
といって、幼年期の厖大なおそろしい本の記憶は私の脳裏にこびりついていたので、けっこう本好きになってからもなお私は本を集めようとはしなかった。本当に必要な本しか買わなかったし、少したまってくると適当に人に貸したりして散逸するようにした。一、二度は古本屋に売りに行ったことがあるが、これはあまりに安く、売るより捨ててしまったほうが気分がよいことが多かった。
それでも、ものを書いたりするようになると、どうしてもなんということもなく本がたまってくる。ろくな本こそなかったが、そういうろくでもない本ばかりがたまってくることは、尚更《なおさら》不安でもあった。私がもっとも愛好するのは古本屋の店頭に日ざらしになっている三十円均一という場所であるので、人に誇るに足る本があつまる筈もなかった。しかし、なにか考えている小説の題材に利用できるような本を、この三十円均一の中から見つけだしたときは、格別に嬉しくなる。どうもケチな性分が私にはつきまとっているらしい。
先年、私ははじめて自分の本が売れて、勝手に使っても怒られない金を得たが、やはり一番嬉しかったのは、もう三十円均一の場所ばかり捜す必要はなく、古本屋の奥の方にはいっていって、ずっしりした書物などを手にとることができることであった。以前はそのときどきに不可欠な本を買うだけであったのを、今度は本棚の前をぶらついて、これはいつか役に立ちそうだぞとか、これはまあ持っていてもいいなと思える本まで、買いこもうと思えば買えることであった。おまけにケチな性分はどうしてもとれず、たとえば一冊五千円の古本を買ってしまったあと、やはりなんだか損な気分が襲ってきて、またぞろ三十円均一の場所に歩みより、ここでなら十冊買っても安いものだという意識で、要らない本まで買いこんでしまったりする。
そうなると本はみるみる増えてきて、むかし父の家にあった本の何十分の一にもならぬとはいえ、次第に私の周囲を圧迫するようになってきた。本棚を一つ二つ買ってきても、畳につんである本を入れるとむなしいのであり、あとはまた畳の上につんでゆくより仕方がない。世の中には立派な蔵書の蒐集家《しゆうしゆうか》がいて、立派な書庫などに収めれば気持もよいことだろうが、大部分三十円均一の本ばかり山とたまっても始末に困るであろう。三十円均一でも重さには大差がなく、床がぬけてしまうことだってあるかもしれない。いつか私はカンシャクを起し、そういう本を庭先につみ、火をつけてビールを飲むということをやりそうな予感がしないことはない。
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本屋さんへのお願い
私はなんとか言いながら、本をよむことが結構好きらしい。いや、大変に好きらしい。こうして日本という国に住み、いながらにして日本文字で世界各国の名著まで手軽によめるということは、つくづく有難いことだとよく考えるのである。
大体、日本人というのは実によく本をよむ。電車の中でまで読む。これは本屋さんにとっても有難いことではないか。
外国の町を歩いていて、書店があんがい少ないことに気がつく。また、日本の書店とは性格がちがっている。
書店で雑誌をあつかうことが少ないのである。西ドイツ、オランダのように「多少は売る」ところがあり、イタリー、スイスのように「原則として売らない」ところがあり、英国やフランスのごとく「売らない」国もある。
では、どういうところで売るかというと、タバコ売店だのホテルだの空港だの、国によってはスーパーマーケットだのガソリンスタンドなどで売る。
はじめて訪れる外国の町にわずか滞在して、ちっとも書店に行き当らないのは悲しいことだ。中近東のようなキテレツな文字の国でも、それでも書店があれば、殊に表紙や挿絵《さしえ》などから、世界に知られた名作童話のようなものを眺めて、ああ、ここでも訳されているな、と愉しい気持になるものだ。
それが実に少ない国が多い。空港へ行けば、どこでもありふれたペーパーバックばかり並んでいる。エルサレムのような空港にも「007」ばっかり並んでいる。これではイヤになる。
そこへいくと、日本には書店が沢山あって、アメリカの一・五倍あって、学術書からペーパーバックから雑誌まで並んでいるところは大いに有難い。
といって、気がかりな点もある。小さな本屋では、本を置く場所が狭い。そこにもってきて昨今の全集合戦である。しまいに、全集と、文庫と、雑誌しかおけなくなるのではないか。
全集にはむろん名作が収められている。しかし、そういうものに収録されぬ名作も沢山ある。また、千部くらいしか出ぬ本に貴重なものがある。そういう本を、商売の邪魔だとは思わないで頂きたい。やはり本屋さんをやるような人は、日本文化の一翼を担っているくらいの気持をちょっぴりでも持って頂きたい。
世界の書店の直面している一番の問題は、はっきりいって「展示場の不足」である。小さな本屋ほどそういうことで、全集と雑誌になりがちとなろう。
そこでもし客が頼んだなら、安い文庫本一冊でも、面倒臭がらずに取り寄せて頂きたい。それは本屋さんの務めであろう。
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キングコング
私は頭脳の発育がよくないのか、怪獣映画などもはじめは大好きであった。ゴジラに始まるわが国のそれも、封切りされるたびにわざわざ見に出かけた。
しかし、いくらなんでも、近ごろの怪獣の乱造にはさすがにうんざりしてきたし、かつての怪獣への自分の夢までこわされるようで、腹立たしくもなってくる。そもそも怪獣とは、めったに出現しないからこそ怪獣なのであって、こうやたらとゴロゴロしていては、いかに怪異に見せかけようとも、もはや怪獣ではない。
怪獣の始まりは、やはり「キングコング」ではなかったかと思う。この映画を、私はかなり小さい頃に見た。本当はろくすっぽ見なかったのだが、魂をしびらせる空想の中で見た。
キングコングは評判の映画で兄がそのあら筋を語ってくれた。なんでも途方もない化け物のようなゴリラが出てくる由だ。そう考えただけで、私の胸は痛いほどとどろいた。
その日は、母も兄も姉もいたようだったから、珍しく家族の大半がうちそろって映画を見にいったようだ。
むかしの映画には、ニュースとか漫画などが幾つもついていたように思う。パラマウント映画かなにかの見慣れた画面が映り、いよいよ「キングコング」かと思っていると、それはまたニュースなのであった。
そうしているうち、私の昂奮《こうふん》は次第に高まり、自らの空想のうちに、まがまがしい恐怖と変じていった。それで、いよいよ「キングコング」が始まると、まだ物語の発端で小猿さえもが出てこないうち、私はワッと泣きだしてしまった。
こういうとき、母はすこぶるきびしい。私をなだめるどころか、即座に廊下へ追いだしてしまった。女中がいたようにも思うし、案内嬢の一人が私をあやしてくれたようにも思う。とにかく私はずいぶん泣いていて、泣きやんだあとも、映画を見に席に戻ることはこわくてできなかった。
そのうちに姉が出てきて、「大してこわくないから大丈夫よ」と言うので、私は暗い場内へはいっていった。
映画はもう終りの場面だった。キングコングがエンパイア・ステート・ビルに登りだすところで、途中で美女を一人さらい、さて頂上に着くと飛行機隊がやってくる。コングは飛行機を叩き落したりするが、結局、無数の機銃弾を打ちこまれ、あえない最期をとげる。
ほとんどこわくなかったし、コングがむしろかわいそうであった。しかも肝心の部分を少しも見ていないので、あとで惜しくってたまらなかった。それよりも、「キングコングを見て泣いた」という評判が、それから長いこと私につきまとって参った。
私に言わせれば、「コングを見て泣いた」のではなく、「見ないで泣いた」のであって、画面のコングより、私の幼い空想の中のコングのほうがすごかったわけである。
ずっとあとになって、大人になってから私はその映画をテレビでふたたび見た。今度は全部見て、むろんのこと泣きだしはしなかった。
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銀座の半日
先日、久方ぶりに銀座へ出た。夜に訪れることはあるけれど、昼間の銀座を見るのは数カ月ぶりのことである。白昼の光に照らされて、見なれた建物が並んでいると、なんだか面はゆい気までする。
わざわざ銀座まで出てきたのは、映画の試写を見るためであった。トーマス・マン原作の「トニオ・クレーガー」という映画だが、日本では封切りされずにそのまま返してしまうとのことである。『トニオ・クレーガー』は、若き日の私の愛読書である。愛読書というよりも、かような小説があったために、私も小説のようなものを書きだしたというくらいの、懐かしく忘れがたい本である。
しかし、映画のほうは大した出来栄えではなかった。これではわずかにマンの読者を懐かしがらせるだけであろう。なにより、少年トニオのあこがれの的になる金髪のインゲもハンスも、ちっとも可愛くないのである。原作はマンの若い時分の、多分にメランコリックな作品だが、単なる感傷には終っていない。しかし、映画は徒《いたず》らに平凡な感傷に終始している。
それでも、胸をつかれる場面がいくつかあった。いずれも原作の舞台となったマンの誕生の地リューベックの風景である。少年トニオが友人と別れて自宅の入口をくぐる。カメラがひかれると、その家はマンの生家であるブッデンブロークの家が使用されているのがわかる。かつて冬のさ中、こごえるような寒気の中を、私はこのブッデンブロークの家を探して通りをさ迷ったものであった。そして、映画の中に、霧を通して見知っている教会の特有な尖塔《せんとう》が現われたりすると、私は訳もなく胸がしめつけられた。
この感動は、ごく、個人的なものにすぎない。しかしまた、リューベックの町が、それだけの感動をひき起す情緒を有していることも確かである。それは古さと持続性、木と紙の日本の都市には見られない堅牢《けんろう》さである。たとえば銀座にどれほどの年月がつもったら、これほどの懐かしさが生れてくるか。おそらく、もっと矢継早に変化してしまうであろう。
映画は人には告げられぬ私の感傷のうちに終った。うしろの席で、ガーッといびきをかいていた映画評論家らしき人も目ざめた。私はややうつろな気持を抱いて、まだ日の高い銀座の街中へ出た。
時刻は三時半ころである。私はしばらく前から、身体《からだ》のことから禁煙をはじめていた。煙草をやめると、なによりテキメンに食欲がつく。それも高級な料理というより、デパートの食堂クラスの料理を欲求するのである。
昼食は家で済ましてきたが、こうして外へ出た場合に、なにか食べてみたかった。日劇が近くにあった。ここの建物に名前は忘れたが、カレー専門の店があって、五十円からのカレーライスがある。五十円のカレーといえばボリュームも多からぬであろうし、中途半端な時間の食事には好適であろうと思った。ところが、店の前へ行ってみると、その安いカレーは時間が定まっていて、現在の時間ではできぬようであった。
煙草をやめて食欲が出ると、料理の見本の並んだショーウィンドウの前でジロジロと眺めるのが、なかなかの愉悦でもある。そこで私は、ひとまずカレーを中止して、遠からぬフード・センターまで歩いていった。
二階へあがる。ここに各種の店が並んでいる。その見本棚を、一つ一つ、実にお上りさんのごとき時間をかけて、私は克明に見た。バーベキューのでっかい料理がある。こんなのは時間からいって食べるわけにいかない。せいぜいチャシュウメンくらいのところで行きたいが、せっかくここまで来て芸がないようだ。お茶漬の店があるが、これはむしろ酒をのんだときのあとにしたい。ウナギ屋、キモ焼がある。大いに気持が動いたが、やはり重いような気がして中止した。スシでもいいが、客が一人もいない。どうも気が重い。
結局私は、そこをたいそうな時間をかけて一周し、とどのつまりはどこにもはいらなかった。腹をすかして家へ帰ったほうが夕食がうまかろうと思ったのである。外へ出ようとすると、以前私の気づかなかった地下がある。はいってみるとそこに二つの大衆的大食堂があった。日本料理からシナ料理から西洋料理(これは考えてみるとあまりにニッポン的呼名である)まで揃《そろ》っていることはむろんである。
そのショーウィンドウを、またまた大層な時間をかけて、私はとっくりと研究した。それでも心は定まらず、はいっていって生ビールの大ジョッキ一杯だけ頼んだ。あれだけの時間をかけて、結局ビール一杯では損のような気もした。しかし、結局、心を千々に乱されたのち、私はそのまま家へ帰ったのである。
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『トニオ・クレーガー』あれこれ
先ごろ、私はひどい憂鬱状態で、まったく何もできず、その間、ひょっとした加減で、実に久方ぶりに、トーマス・マンの訳書をひっぱりだしてみたことがある。
すると、河出版の文学全集の月報に、中田美喜氏が「トニオ・クレーガー」という文章を書いていて、「へたにこの本の悪口でもいってみろ、ただではおかぬ、と、いまさらもうそんなことをいうつもりはない……」「この小さな本が道づれであるなら死んでもいいとさえ思われた」云云《うんぬん》の文句があった。
好きな人はやっぱりメチャに好きなのだなあ、という感慨に打たれた。
吉行淳之介氏も若いころ「クレーガー」にいかれたらしいが、あるとき私に、「あれは、うまく人をだますように書いてあるんだよ」と話したことがある。これは、氏のしゃれっけと羞恥《しゆうち》に敏感な、ひとひねりひねった表現であろう。
私にしても、むかしその文章のかなりを暗記したりしたが、一杯ある好きな個所の一つに、末尾のほうでクレーガーがとある海浜に滞在した折、その宿でたまたま舞踏会があり、かつて愛慕をよせたハンス・ハンゼンとインゲボルク・ホルムの同類が現われ、クレーガーはやはり影の中に隠れて、二人をじっと窺《うかが》って想いにふけるところがある。
「ぼくは君らを忘れていたろうか……」のくだりの原文は、
Hatte ich euch vergessen? fragte er. Nein, niemals! Nicht dich, Hans, noch dich, blonde Inge!
その訳を、手元にある本から、順序不同に抜いてみる。古い御訳の場合もお許し頂きたい。
実吉捷郎氏訳。(岩波文庫)
「僕は君達を忘れてゐたのか。と彼は問ふた。いや決して忘れたことはない。ハンス、君のことも、インゲ、君のことも。」
竹山道雄氏訳。(「混乱と若き悩み」より。新潮社)
「自分は君たちを忘れてゐたらうか? ――と彼は問ふた。――否、否! 君を忘れたことはなかつた、ハンス。君も忘れたことはなかつた、インゲ!」
豊永喜之氏訳。(「愛の孤独」三笠書房)
「僕は君等を忘れてゐたらうか、彼はさう自問した。いや、決して忘れたことはない。ハンス、君のことも、金髪《ブロンド》インゲ、君のこともまだ忘れてはゐない!」
佐藤晃一氏訳。(「世界文学全集」河出書房)
「ぼくはきみたちを忘れたのだろうか? と彼は自分で自分に尋ねてみた。いや、けっして忘れはしない! きみも、ハンスよ、それからきみも、金髪のインゲよ!」
高橋義孝氏訳。(新潮文庫)
「自分は君たちを忘れてゐただらうか、と彼は自問した。いや片時も忘れはしなかつた。君も、ハンス。それからお前も、金髪のインゲ。」
森川俊夫氏訳。(「ドイツの文学」三修社)
「きみたちを忘れたことがあったろうか? とトーニオはたずねた。いや、一度もない。ハンス、きみのことは忘れなかった、ブロンドのインゲ、きみのことも忘れなかった。」
それぞれに私にとっては有難いものだ。なにせ私はひどい語学オンチで、昔この小説の私訳を作ってみたいという妄想《もうそう》を有したこともあるが、このごろでは題名くらいしか読めず、それを破廉恥に訳したりすると、クレーガーがインゲと結婚してしまうことにでもなりかねない。そこで、こうした各種の御翻訳をみんな盗んで、いろいろと配列してみ、時代をも考え、なによりも自分の好みから、この個所の日本文をこしらえてみると、
「ぼくは君たちを忘れていたろうか、と彼は自問した。――いいや、決して! ハンス、君のことも、インゲ、君のことも……。」
としたい。ちっとも変りばえはしない。
前半はどんな訳でもさしてかまわぬが、「ナイン、ニーマルス!」のリズムは、「いいや、決して!」にとどめて、それ以上つけ加えたくない。金髪という言葉は、この作品にとって重要な調べなのでなんとか入れたいが、この漢字もブロンドと仮名にしても、なにか語感と視覚をこわし、どうしても入れるのなら「君のことも、ハンス、君のことも、金髪のインゲ」と語順を変えたい。
ついでに、もっとわからないけれど英訳も見てやろうとしたが、手元にはペンギン・ブックス、マーキュリ・ブックスなどのロウ・ポーターの訳一つしかなく、それは、
Had I forgotten you?" he said, no, never. Not thee, Hans, not thee, Inge the fair!" となっている。
theeはyouの雅語で、ロンドンに長くいた英訳もするチェコの人にたまたま会って訊《き》くと、fairは日常会話でもよく用い、金髪という意より、美しいという意が強い。ブロンドというと、なにか俗っぽい感じを受ける、とその人は言った。かなり凝った訳のようだ。
(追記。サロウルのIn another language" という本に、一九六三年に死んだポーター女史のこと、彼女自身のマンの訳業の思い出が出ていた。)
これでもうヤッカイな話は御免だが、実をいうと、私は鬱病の薬をのみすぎて頭が変になり、「トニオ・クレーガーのすべての訳本をみんな欲しい。いかなる国語にてもよし」なんぞと大それた注文を発し、考えてみたら、仮に一カ国語で一冊ずつとしても、何十冊という本がとどきそうで、おまけに私の知っている語学の大家がもう御老境で、万一その先生に亡くなられたら私には完全に役立たずになってしまう。慌ててとり消した。
一年か二年まえ(どうも記憶がわるい)中原弓彦氏に教えられ、日本にきたその映画のごく小規模の試写を見に行ったことがある。
冒頭の、少年のクレーガーがハンスと帰校してきて別れ、一つの玄関に入ろうとし、カメラがバックをすると、それが例の「ブッデンブロークの家」で、マンの読者は胸が緊《し》めつけられるだろうが、あとはどうしても映画には無理で、要所々々に原作のナレーションが流れるところだけが、わずかに愛好者のひそかな感傷を誘うにすぎない。初めからイメージをこわされるのは、われわれの感覚でいえば、クレーガー少年のほうがずっと可憐《かれん》で、ハンス少年のほうが妙にいかつく肥っていて小憎らしく見えるのだ。終末の海辺では、大人のクレーガーがメチャメチャにセンチに馬の鼻づらを撫でたりして、とても恥かしくて見ていられない。むろんのこと、日本公開はされなかった。
なお、マン自身の『フェーリクス・クルル』の朗読レコードは以前から日本にきていたが、「クレーガー」のレコードも今はある。
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電話部屋
子供のころ、私は長い間電話がかけられなかった。
当時の電話は、むろん把手《とつて》をぐるぐると廻し、交換手に番号を告げる奴である。その交換手に番号を言うのがまず恥かしかった。
それからその家の人に、
「〇〇君いますか?」
と尋ねるのもどうもうまく行かなかった。
バカみたいな話であるが、中学二年くらいまで私は電話というものをかけたことがなかった。
私の生れた家の電話は、二階への階段のあがり口についていて、そこが三畳ほどの小部屋になっていた。「電話の部屋」とみんなは呼んでいた。
たまたま人がいないとき電話が鳴っても、私はよう受話器をはずすことができなかった。電話から聞えてくる大人の声に対して、とてもまともな返答ができなかったからだ。
ある冬の寒い朝、そのとき私は中学二年であったが、起きてシャツを着てこの「電話の部屋」を通りかかった。すると二階から父がどかどかと降りてきた。大層な昂奮状態を示していた。
彼は私の名を呼び、「はじまったぞ、はじまったぞ」と言った。
私ははじめ何のことやらわからなかったが、それから慌ててラジオの前に走った。そして太平洋戦争開始の報知を聞いた。このことは『楡家《にれけ》の人びと』にそのまま描写してある。
どことなく苦手であった「電話の部屋」のことを追想すると、どうしてもこの記憶が浮びあがってくる。
八丈島へ行ったことがある。宿の女中がほがらかで、行儀作法には縁遠いが、感じがよかった。部屋の蛍光燈《けいこうとう》の紐《ひも》をひっぱって、
「おや、つかない。あっ、ついたやあ」
とか大きな声を出すのである。
電話が鳴ると、やはり大声で応対し、やがて一人の泊り客の部屋にむかって、
「お客さん、電話だあ!」
と、大声でわめく。
明日帰るという晩、ふと壁を見ると、そこに大きな蜘蛛《くも》がいた。部屋の番号が四番である。私は不吉なものを感じた。
一体に私は飛行機はこわいのである。はじめはそうでもなかった。乗る回数がますにつれて、だんだんとこわくなる。ジェット機なんていうものは特にこわい。
先日、八丈島で飛行機事故があったときも、私はこのときのことを思いだした。マッハ三とかいう旅客機の計画記事をよんでも、飛行機はこれ以上早くなる必要はないと思う。
西サモアのホテルにいたとき、いきなり航空会社から電話がかかってきた。その英語がさっぱりわからない。私は英語がしゃべれないのだが、殊に電話ともなるとますますわからない。ところがこの電話は、よくよく聞いてみると飛行機の時間の変更を告げているものであった。そうなるとこちらも必死である。二時間も出発が早くなったから、あと三十分以内に事務所へきてほしいという。
大体が西サモアと東サモアを結んでいる航空路は、ポリネシアン・エアラインズとかいう小さな会社のもので、その飛行機も実にちゃちなものである。客が一杯になると平気で予定をくりあげてしまう。おもしろいといえばおもしろいが、あのわかりにくい電話には閉口した。
私は自分の家を持ってからも、かなり長い間電話なしで過していた。もちろん申し込んでおいたが、なかなかつかなかった。
そのうちに赤ん坊が生れたりして、なにかと電話の必要を痛感してきた。なによりも、ときたま所用の方が直接家に尋ねてこられるのには閉口した。引き受けられる仕事ならいいが、どうしても断わりたい場合、わざわざ御足労を願った人にそれを言うのはいやなものである。
たまたま或る会で、中村武志さんにそのことを話したら、中村さんは越智信平さんを紹介してくださった。そして私は親子電話のことを教えて頂いた。親子電話なら早くつくというのである。
ところで、私がそれまで電話を拝借していたお隣に、また親子電話の件をお願いするのはいささか気がひけた。親子電話はどちらかが使っている間は、もう一方にはかからない。それで迷惑をかけては相すまぬ。といって電話は欲しい。
そこで親子電話をお願いすることにして、お隣との間にベルをつけた。つまり、向うが電話をかけようとしてかからないときは、遠慮なくベルを押して貰うのである。それを聞いたときは、こちらは長話をしていてもなるたけ早く切る。
そのように気を使って、いざ電話がついたのであるが、今までのところお互いに不便を感じたということはない。考えてみれば電話をそうしょっちゅう使う筈もないし、遠慮もされているのであろうが、まだベルが鳴ったことは一度もない。特殊な家業でない限り、親子電話で充分だと私は思った。(付記。やはりお隣に迷惑をかけたこともあるとのちにわかった。)
電話で腹が立つのは、間違いの電話がかかるときである。間違いに気づくと、むこうは大抵そのままガチャンと切ってしまう。失礼ともなんとも言わない。
聞くところによると、狙った家に電話をかけて留守を確かめ、然るのちに押し入る空巣狙いがいるとのことである。そんな話をきくと、そっけない間違い電話がつづけてかかったあとなど、どうも気分がよくない。といって、私だって間違い電話をかけることはあるのだから、あまり大きな声では憤慨できないのである。
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よく覚えていない旅
とにかく近ごろメチャに記憶がわるいが、この旅行については実におぼろげな記憶しか残っていない。当時、日記代りに手帳にメモをしていたから、その手帳でもあればもう少しはっきりするはずだが、あいにく今、山の中にきており、調べる手段もない。
たしか、私が仙台の医学部を出て、東京へ戻り、慶応病院の助手になった年だと思う。医者になったのは父の強制で、はっきりいって医者という職業は好きでなかった。
その以前から私は小説めいたものを書きだし、二、三の習作を同人雑誌に発表していたが、ちょうどその頃、『幽霊』という最初の長編の末尾を書いていて、しかも実に難航しており、果して自分の夢想どおりに書きあげられるかどうか暗澹《あんたん》たる心境であった。
たまたま、母と妹と一緒に旅行に出た。飛騨の高山から岐阜へ出、鵜飼《うかい》を見たりした。終戦からこのような余裕のある旅をしたのははじめてである。今の世でいう恰好のレジャーというわけだが、私の心はこのうえなく索莫としていた。それでも母たちの手前、私は仮面をつけていたのだが、名古屋で二人と別れることにした。
私は各駅停車の東京行きの汽車に乗ったが、母からかなりたっぷりお金を貰っていて、途中どこかで下車をし、見知らぬ土地で一人寝て(それまで旅をしても宿屋に泊った経験があまりないので、一人で宿屋に泊ることは奇妙な孤独が味わえるのであった)、最後の段階にかかっている小説のことを考えようと思った。
その途中下車をどこにしようかと考えるより、とめどない夢想のほうが先に立ち、気がつくとずいぶんと走ったようで、私はとっさに次に停車した駅でとびおりた。浜松の二つか三つ手前か先の駅らしかったが、その名前をいま思いだせない。
海のそばの宿屋にはいった。夕食に年とった女中さんがきて、給仕をしてくれた。本来なら給仕されるのは嫌いなので、さがって貰うのだが、その女中さんはあれこれとよくしゃべった。私はついビールを追加し、彼女にも飲ませ、そのとりとめない話を聞いていた。
するうち女中さんは、
「ずいぶんお寂しそうですね」
と言った。私はそんな顔をしていたらしい。それから彼女は、
「女でもお呼びしましょうか」
と言った。
世の女性は顔をしかめられるだろうが、つまり、遊女を世話するというのである。私はギョッとしたが、世間のことを何も知らないと思われるのはシャクだから、わざと、その値段を聞いてみたりした。それから、婉曲《えんきよく》にそれを断わった。
女中さんは、床をとり、なぜか心配げに「おやすみなさい」と出ていった。
翌日、沖を見ると小島があるので、そこに渡れるかどうか尋ねると、小さな定期船のところまで宿の者が送ってきた。妙に親切で気づかってくれるというふうであった。島に渡り、孤独な時間を過し、次の定期船で戻ってくると、宿の者はなぜかホッとしたような表情で迎えた。
あとから考えると、どうやら、私は自殺志望者と疑われていたのではあるまいか。とにかく、そんな表情をし、そんな態度でいたらしいことは確かである。
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賭博と食物
このまえ曾野綾子さんが、私と心理学者の相場均氏がマカオでトバクですってしまい、まことにショボンとした顔をして三浦一家に食事をおごってもらった、という文章を書いておられた。
この件を少しく補足しておこう。曾野さんは何万と書いておられるが、相場氏が十万近く、私が七万すった。しかも、はじめのうちは二人とも数万ずつもうけており、そのもうけをはきだしてそれだけするとなると、その落差は大きく、ガックリくるのもやむをえない。
私と相場氏はマカオでトバクをやるのは二度目である。前回も似たような経過をたどった。最初の晩かなりかせぎ、夜中の三時ころホテルに戻ってきて、
「おい、もうやってはいかんぞ。明日はポルトガル料理をしこたま食べて、シャンペンをふんだんに飲もう」
などと話しているが、翌日も結局トバク場にいつづけ、スッテンテンになり、帰りの船の中ではシャンペンならぬ香港《ホンコン》製のビールをちびちびとまずそうに飲む仕組になる。
マカオはポルトガル料理のおいしいのがあり、シャンペンが安いが、いざトバクをやってしまうと、そんな料理店へはいれなくなってしまうのであった。前回は相場氏は夫人同伴だったが、香港へ帰ってから、この二人はホテルの食堂で焼き飯を一つとり、皿を二つもらい、二人でわけて食べている始末であった。
今回は私のほうに女房がついていて、そして香港に女を連れてゆくのは実にたいへんなことで、女というものはショーウィンドウがあるたびに立止り、店へはいって物色しはじめ、ダンナはじっとそれを堪えていねばならぬ。
「買物はマカオから帰ってから。なあに、そうすりゃいくらでも買ってやる」と私は繰返したが、事実はその逆となった。
それでもマカオへ行く前は、私たちもおいしいものを食べた。シャティンというところの広東《カントン》料理はおいしかった。ことにエビのゆでたのを手でむいて食べるのが何ともいえぬ。観光客の必ずゆくアバディンのシーパレスという船型のレストランでは、巨大なイセエビ、魚、貝などの生きて飼っているところを見せるが、料理のほうはずっと落ちる。昼食などには、広東料理の飲茶《ヤムチヤ》というのが簡便でよかった。駅弁のように皿をいれた箱を首にかけて売り子が席をまわってくる。現物を見て、欲しい皿をとればいいのである。シュウマイにも、エビのはいったのや、いろんな種類がある。
香港ではクルマエビが安くてうまいが、日本へもきているという。東京のすし屋などで使っているのには、かなり香港ものがあるはずだ。
ところが、さてマカオへ行くと、まともな食事をしたのはトバクをやりだす前の一回きりであった。トバクにはかなりの神経を使う。肉体も疲労する。それで、二時間もやったら、一休みして食事でもしなければいけないのだが、いざやり出すと夢中になり、食事もとらずやりつづけ、挙句の果て、もう資金がなくなり、青い顔をしてバーへ行って、ようやくサンドイッチを一つ食べる、などというありさまである。
ほうほうの態で香港へ戻ると、三浦、曾野夫妻とお子さんの太郎君がマニラから着いていて、やっと豪華な食事をおごられることになった。しかし相場氏は、「あの夫婦は不吉だ。実にけしからぬ」といった。実は曾野さんたちが香港へきてから、いっしょにマカオへ行こうと予定していたのである。相場氏は、自分がすったのを、予定どおり現われぬ曾野さんのせいにして、罪をなすりつけようとした。人間は、自分が不幸になると、他人をも不幸にしたい心理が起る。
「ようし、うんとご馳走を食べて、彼らにうんと散財をかけよう」
と私たちは決心したのだが、曾野さんの文章にもある通り、どうも私たちは食欲がなく、意気があがらなかった。
北京《ペキン》料理の前菜もけっこうな味だった。二種ばかりの料理が来て、それからみごとなカモが現われた。いずれもけっこうな味なのだが、どういうわけか胸が一杯で、あまりはいらないのであった。三浦一家はニコニコし、大いにパクパク食べ、いかにも幸福そうであった。私たちはガッカリし、気がめいり、不幸であった。食後に、大皿に山盛りのスイカとメロンが来た。
「これは高くつくな。きっと彼らは散財する」と私は思いながら、メロンを一きれ食べた。するとその間に、太郎君は三きれも食べてしまって、ニコニコした。私はなんだかガックリきた。
考えてみると、私はお宅へ伺ったときもご馳走になっているし、いつかそのお返しをしたいと思うのだが、曾野さん一家のケンタンぶりにかんがみ、おいそれとその決心がつかないのである。
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ヤップの祭り
カメラマンの藤森さんと助手のMさんと、さんざ待たされた末、私はグアムからヤップ島への飛行機に乗った。ヤップの国連デーの祭りを見にゆくためである。
この飛行機が四発のプロペラ機のDC6、もう世界のどこへ行ってもそう簡単にお目にかかれぬ奴だが、乗りこむと私らのほかに日本人が沢山いた。一人は南洋一帯に服を売っている商社の若いYさん、あと六人はグループの若いお嬢さんたちであった。機がとびたって、座席の背を倒そうとすると、がんとして動かばこそ。Yさんに聞くと、この飛行機の半分の座席はこわれているとのこと。
それでも早朝六時、ヤップ島の空港に無事着陸。すぐそばにゼロ戦の残骸が見える。
掘立小屋の空港の荷物検査がなかなか厳重であった。植物類の持ちこみがもっともうるさい。たとえばヤシの害虫であるヤシカブトムシはこの島にはいないので、他の島からはいってくるのを警戒しているのだ。その代り、酒、煙草の持ちこみはほとんど無制限に近い。私は機中にウイスキー三本と煙草二カートンの箱を置き忘れ、その飛行機で別の島へ行く日本のお嬢さんの一人が持ってきてくれて柵《さく》越しに手渡してくれたが、そんなものには係員は注意も向けなかった。
バスでこの島にただ一つあるホテルに向う途中、赤土の道で、まわりのヤシも植林というより野生化した感じで、なんとなく荒れはてた感じを受けた。
しかし、二十分ばかりで着いたこの島の中心コロニアにあるホテルは、なかなか瀟洒《しようしや》なものであった。十室あり、一室に三ベッドがある。ただ、ずっと前に予約したはずの私たちの名は通じていなかった。どういう手順の狂いであるのかはわからぬ。しかし、部屋があいていて、とにかく一室を確保できた。こういう土地では早い者勝ちである。
藤森さんにとって、まずやることはレンタカーを確保すること、祭りの撮影許可を得るため大酋長《だいしゆうちよう》ロボマンさんに挨拶することであった。レンタカーは島に幾台もないし、大酋長の権威は絶対であるからだ。
私がホテルの部屋で休んでいると、助手のMさんがとびこんできて、両方ともうまくいった、これから大酋長に挨拶に行って下さい、と言う。二年前の拓大調査隊の報告書では、この島には六台のコンテッサのレンタカーがあると記してあった。私は尋ねた。
「コンテッサですか」
「いや、ホンダです」
「そいつは素敵だ」
「ところが、そうじゃないんです」
行ってみてさすがに驚いた。ボロ車も数多く見たが、この車は右のドアがぜんぜん閉らない。輸出用の車で左ハンドルだから、私が手でおさえていなければならない。幸い、すぐあとでダットサン(サニー)のもう少しマシな奴と変更できた。
市庁舎の中で、それほど歳とっていない大酋長はタイプライターを傍において事務をとっていた。どうもモダンな酋長だな、と私は思った。藤森さんはロボマンさんと呼んで話していたし、彼もそう呼ばれてその通りに応対していた。あとで考えると、発音が両者の間で微妙に違っていた。
ヤップ島の四十歳以上の人はみんな日本語を話すと聞いていた。ロボマンさんも日本語を話すが、今は英語のほうが達者らしい。
「ニホンニモ行ッタコトアリマス。ナラ、キョウト」
「それで、この日本語の名刺は日本でお作りになったのですね」
「ソウデス」
その日本文字の片面には、「ヤップ協同連合リニス・ルーアマウ」とある。ロボマンとは記されていない。それを尋ねると、クリスチャン・ネームだと答えた。名刺のローマ字のほうにはヤップ連合のジェネラル・マネジャーとあるし、私たちの撮影には障害のないよう、さっそく他の酋長にも連絡しようと、親切に言ってくれた。
私は話の途中、
「あなたがハイ・チーフでいらっしゃるのですね」
「イヤ、ミドルクライネ」
「御謙遜《ごけんそん》を」
とにかく私たちはロボマン大酋長に土産物を渡し、相手も親切に手配してくれるというので、ホッと安堵《あんど》した。
そのあと、私は来るときのびにのびたマイクロネシアン・コンチネンタルという航空会社を信用できぬ気持だったので、帰りが遅れては大変と、事務所へ行って帰りの飛行機の再確認をした。藤森さんは、祭りのほかに撮《と》りたいものがたくさんあると言って、帰りをもっと遅らせる手続きを始めた。私にひきかえ、仕事熱心な人である。
その間、私は建物の日かげに坐っている男女のところへ行って、五十がらみの男に「今日は」と挨拶した。
「コンニチハ。アナタ、ニホンジン?」
「そうです。煙草、吸いますか」
「ニホンノ? アメリカノナラ持ッテイル」
この言葉はあとで実にしばしば聞いた。
又、戦争中、比較的被害が少ないように思っていたこのはずれの島も、相当の空襲を受けたようで、当時の建物はすべてやられ、今あるのはすべてあとで建てたものだとロボマンさんも言っていた。
この男もグラマンなどの爆撃のはげしかったことを言った。私はなんだかわるいような気になって、東京も大半焼かれた、私の家も焼けたというと、
「ヒロシマト、ベップ(長崎の間違いと思われる)ダケジャナイノ?」
「それは原子爆弾です。日本の大きな都会たいてい焼けました」
男はそのことは知らなかったらしく、まわりの若い男女にしきりと土地の言葉で早口で伝えはじめた。
――その日は車でざっと視察する予定で、まず、ヤップ島といえば石貨と浮ぶ、その古い石貨が多く残っている地域へゆく。コロニアの近くで、役所で貰った仮地図では、英語でストンコイン・バンクと記してある。
行くほどもなく、路傍に大小さまざまの石貨が目にはいるようになった。この石貨には、さまざまなエピソードが伝えられている。これらの石はヤップ島には産しない。昔、はるばるとパラオ島などからカヌーに乗せて運んできたものだ。大きさ、石質、形などだけでその価値は定まらない。それを運んでくるのに、どんなに多くの労力が払われたか、というような歴史的要素が加わる。たとえばカヌーが沈んでしまって二人の人間が死に、残った一人がわずか一つの石を持ち帰ったというのならば、実に貴重なものになる。逆に汽船によって多くの石が運ばれた場合、その価値はずっと低くなる。
道が行きどまって、タロ芋とヤシ林の中に、一軒の家があった。トタンと木とヤシの葉のその小屋の軒先の日かげに、老若《ろうにやく》二人の女と少女が黙然と坐っている。
声をかけると、年とったほうは、やはり日本語をしゃべった。藤森さんがカメラをとりだし、助手に「あのラジオを前に」と命じると、彼女は自分でソニーのラジオを手に取って前面においた。
そこで教わった石貨陳列所という場所は、人の気もなかった。ずらりと大きな石貨が並び、むこうに社のような建物がある。石貨は古び、小さな草が生え、周囲にはヤシが林立し、落ちた実から芽がのびている。見あげる空の、またなんという濃い輝かしさであったことだろう。そしてすぐむこうに拡がる海の、なんという静かさ、美しさであったことだろう。
あと、島をざっと半周した。このダットサンも馬力がなく、ちょっとした坂道をロウにせねばならなかったし、おまけに道が白い粘土質になってきて、ぬかるみの場所は、藤森さんと私が下車して、やっと突破せねばならなかった。
フンドシ一つで自転車に乗ってゆく男、半面、きれいな服にわりと上質の手さげカバンを持って歩いてゆく少女など、さまざまだ。
コロニア近くまで戻ってきて、マーケットに寄った。いきなり一人の男がベラベラッと上手な日本語で話しかけてき、説明してまわった。各種の果物や野菜、豚肉、魚など、週に二回市が立つ由。シャコ貝のかたまりを一人の男が八十セン(セント)で買い、日本語のうまい男はあまった切れはしを手に、
「コンヤ、コレヲサシミニシテ、イッパイヤルノネ」と言った。
薄暗い屋内の中央に広いテーブルがあり、その長椅子にじっと腰かけたままの半ズボンだけの老人がいた。私は最後に老人の横に坐り、腕の入れ墨について尋ねた。老人はむろん日本語を話したが、ぽつりぽつりとたどたどしかった。その中にドイツ語がふとまじった。つまり、ドイツ領時代の生きのこりであったのだ。私は胸が一杯になり、そのあと写真をとろうとすると、その息子というのが日本語で金をはらえといった。そこで私はカッとなったが、とにかくホテルに戻り、少し反省して、あの息子はアメリカ流にドライなだけだ、ケニアのマサイ族なんて写真は一人につき一シリング取りやがるからな、と考えていると、助手のMさんが汗みずくになってとびこんできて、
「大失敗しちゃったです。さっきの大酋長と思った人はロボマンさんじゃなかったのです」
そこでこれから別の土産物を持って、本物の大酋長を捜しにゆくのだという。日本酒はもうないが、たまたまマーケットに売っているからそれを買ってゆくという。
幸い、大酋長とはうまく会えたし、先のルーアマウさんはロボマンさんの親類で、もう大酋長のところへ連絡が行っており、そのときは慌てたが、あとでは笑い話になった。
その夜、飲みすぎ、翌朝下痢と痔《じ》の大出血。午前中ダウンし、しかし今日は運動会があるので広場までゆく。ヤシの葉でふいた日よけの見物席に老若男女《ろうにやくなんによ》がぎっしり集まっている。私は見なかったが、綱引きとか二人三脚など日本調のものがあった由。レースでは、南洋のオリンピック選手たちはちゃんとしたユニフォームにスパイクをはき、他ははだし。一応テープをはる係と一着から三着までの旗を渡す係がいるが、進行のほうは遅々として進まない。大体スケジュールから四、五時間は遅れているようだ。それでも学校別の生徒たちの席もあって、途中で袋を拾ってその中に足を入れてピョンピョン跳ぶレースなど、たいへんな喚声や笑声が起きる。
観衆はヤシの葉であんだ籠にタロ芋や焼き魚などの弁当を持ってきている者も多い。売店もあって、米の横に野菜と肉を煮たものを紙皿にのせたものがとぶように売れている。私はヤシの実一個を六セントで買った。穴をあけて貰って、一口すすると、なまぬるくてあまりうまくない。重い実を持って、疲れて、暑くって呆然としていると、ロボマン酋長がいるとMさんが教えにきてくれた。
大酋長は飲物類の売店の台に寄りかかって、缶《かん》ジュースを飲んでいた。色シャツに半ズボンにゴム草履といった姿である。フィジー島の酋長などもふだんはそういう恰好をしているが、踊りなどのときは古式の正装をする。すると、そこらのおっちゃんと見えたその男がたちまち威厳と貫禄にあふれてくる。
この大酋長はもっと無造作で、しかも枯れた味というか、いかにも暖かみのある人格者らしかった。一人が「ハイ・チーフ」と呼びかけ、土地の言葉でなにか話しかけたときも、わざと威厳を作るというようなことは少しもなかった。周囲にたむろするヤップ人たちも、そこに大酋長がいるということをあまり意識していないようであった。
私はここで失礼があってはならぬと、深々とお辞儀をし、わずかな会話をしたが、温厚で人徳者であることが確かに感じとれた。
「今日の運動会は愉《たの》しみのためのものでしょうが、明日の踊りは伝統やしきたりが愉しみより多いのでしょうか」
と訊くと、この感じのよい大酋長は、予期に反して、
「ソンナモノナイネ」
と簡単に答えた。ただ、うしろの売店の女にもう一本缶ジュースを注文したとき、その女はさすがにうやうやしくしていた。
この日の最終レースの三千メートルマラソンに、服商の日本Y青年が出場し、とにかく見事に完走した。はじめはトップグループにいたが、ある場所まで行ったらカーッと日ざしにやられ、頭がガーンとし、小さな連中にも見る見る抜かれてしまったという。彼はいかにもはしっこそうだったが、この暑さに慣れない者はここの住民にはとても敵《かな》わない。
夜、若い日本お嬢さん部隊も到着し、マーケットにいた日本語ペラペラの男もやってきて、「あなたね」というと、「アナータトヨベーバ、アナータトコタエル」と歌をうたい、ヤップ島は独立すればいいのに、とカマをかけると、「ソレオオキナコエデイエマセン」、小さな石貨はいくらで買えるかと問えば、「ソレモワタシ、ハッキリトイエマセン」と完全にはぐらかされてしまった。キリスト教については、適当に捨てる、いきなり全部捨てるとまずい云々。どうもなかなか喰えない男のようだ。
その夜、部屋に戻ってから又飲みすぎて、翌朝またもや下痢と出血。おれもバカな男だなあ。
しかし、肝腎《かんじん》の祭りの日だから、やっと十一時前にふらふらと出ていったら、市庁舎のまえに、朝早くでっかいカメラをごっそり持って出かけていった藤森さんたちが憮然《ぶぜん》としていて、七時半に始まるというのが、まだなんにも始まらないと言った。
そこには日本のお嬢さんたちと共に、もう一人の日本人がいた。ヤップ人と同じくらいに焼けて素裸で素足で、フンドシと腰みのだけをつけている。心理学専攻の大学生だそうで、卒論のためヤップ人の心理テストをやっているという。酋長の息子の家に泊りこんで、はじめからフンドシ一つの生活をしているため、どこからどこまで見事に黒い。
そこでオッチョコチョイの私は、市庁舎の内が売店にもなっているので、そこでフンドシと腰巻きと首飾りを買いこみ、シャツとズボンを脱ぎ捨て、そのI青年にパンツの上からしめてもらったところ、彼とちがい全然カッコわるい。前を通るヤップ人やら白人やらが笑って取りまいて眺める始末だ。
I青年がビンロウジュの実を取りだして、もう噛《か》んでみましたか、腹にも効くといいますよ、と言う。青い実をキンマの葉でくるんでこれに石灰をかけ、まず奥歯ですばやく噛みくだくのだそうだ。ところが私は歯がわるい。彼のようにすばやくはできない。そのにがいこと、更にうっかり汁をのみこんだら、むせるやら吐きだすやら涙までこぼれた。赤い汁で指先からタオルから染まってしまった。
おまけに、素足でヒョコヒョコ広場まで行ったら、またもや腹具合がおかしくなり、Mさんに車でホテルまで送って貰い、トイレにとびこむと又ひどい下痢。これではどうしようもない。
昨日までの輝きわたる空に比べ、今日は昼から曇りだした。おしきせのホテルの昼食を、消化しやすいものだけちょっぴり食べ、薬を山のように飲み、出かける支度をしているうちに、雷がわずかに鳴り、たちまちスコールがきた。
祭りの英文のプログラムには、あとのほうに土地のダンスらしいのが並んでいるので、それだけ見ようと寝ていて、雨があがったが、腹をひやさぬよう、腹にバスタオルをまき、フンドシと腰巻きをつけ、今度はゴム草履をはいて、トボトボと祭りの広場に行ったら、まだ始まらない。ヤシの葉で屋根だけ作ってある見物席でできるだけ年とった人をさがし、一人の老人の横に坐りこんで話しかけると、果してこの人もドイツ領時代からの生き残りであった。
いろんな時代を比較してみてくれと頼むと、日本語でこんなふうに言った。
スペイン人。ジン持ってきて、梅毒持ってきて、ヤップ島人の人口減った。
ドイツ人。頭いい。酒は土曜だけ。日曜は休んで月曜から働けと言った。人口ふえた。
日本人。アワモリ持って来た。淋病《りんびよう》と結核持ってきて、また人口減った。しかし、日本の教育よかった。生徒、親の言うこときく。
今のアメリカの教育、子供、親の言うこときかない。今のみんな、恥かしさ知らない。言うことをきかない。子供ナマイキ、いい人になれない。
右の言葉は半分は老人のくりごとであろう。
他の人たちの話を綜合《そうごう》すると、若い者たちはいちばんアメリカを受けいれているようだ。青少年たちは英語をしゃべり、話しかけてき、ごく稀《まれ》に日本語をまじえ、アメリカ以外の国のことはあまり念頭にない。アメリカは金を出し、どんどん政策をはこぶ。しかし、インテリの話では、島人の気持よりアメリカ流をおしつけるから、ヤップ人の幸福とはまた別のものともいう。日本に対する好意、批判は半々。日本語を話す年配者は日本をなつかしがり、日本の煙草をくれという。アメリカ煙草を出すと、それは持ってると断わったりする。そして、予想以上に、一部の人はその頭の程度、言い方はそれぞれにせよ、外国というものについて批判力があるようだ。私はあとで、こうした島は長年の間、いろいろな外国の支配下におかれてきたので、かえって、第二次大戦の敗戦以外、外人を知らぬわれわれ日本人より、生理的に感覚的に、そうした視野を持てるのではないか、と考えたりした。
日本語が中年以上の人々に忘れられていないのは、日本に対するなつかしさというより、南洋の島々の言葉が違うのでその共通語として使われるかららしい。沖縄の西表《いりおもて》島が各島からの出かせぎ人が主なため、各島の方言より内地語を使っているのと似ている。ただし、沖縄では日本内地は絶対であり思慕している。このヤップでは全体としては日本はやはり遠い国だ。しかし、第一の外国はアメリカだが、日本はやはり第二の外国であって、近ごろ日本人がよくやってくるため、また懐かしさも湧《わ》き、日本語もうまくなったようだ。
そうこうしているうちに、やっと踊りが始まった。最初はアメリカ人女教師にひきいられた小学生のフォークダンスである。こういう教師はアメリカ流の熱意と献身をたしかに抱いていることが、生徒たちのときどき間違えたりする中で、助手と懸命に踊っているその姿にうかがわれた。老人の話とは別に、アメリカの奉仕者は一生懸命やっている。そのやり方と島人の心とは食いちがうだろうが、これら子供が大きくなったとき、ヤップ島はどう変ってゆくか。
観客は無邪気に、善良に笑いながら、この踊りを見ていた。次のシッティング・ダンスというのが始まる前に、また大層な時間がかかるのだが、彼らは泰然と愉しんでいる。せっかちな日本人、私はいらつくが、どうしようもない。世界じゅう暑い国ではほとんどどこでも、ゆったりとしていないと身が持たない。これが怠け者もつくる。日本人には怠け者が少なく、そのためエコノミック・アニマルにはなれるが、心のゆとりもなかなか持てぬ。
坐りダンスは広場に並べられた板の上で行われた。美々しく飾りをつけた若い女たちが進んでき、さらにオッパイ丸出しの、これは色つきでない腰ミノをつけた老婆たちがつづく。ワッとそのまわりに見物人がおしよせた。
若い彼女らは坐る。人山でよく見えない。マイクで何か放送があり、広場の内側にいた島人の観客がぞろぞろ外へ移動し始めた。しかし、のんびりしている。
すると、向うから役員か、下っ端の整理係らしい島人が、凄《すさ》まじい勢いで走ってきて、なにやら叫び、人々を追っぱらった。カメラをすえた白人が一人、まだ坐っていた。凄まじい勢いのヤップ人は、わめきちらし、「ゲッタウェイ!」とか叫んだので、白人もやっと引退った。そのヤップ人は別のヤップ人になだめられ、島人のポリスもそこへ寄っていった。酔っぱらっているのだろう。これも「島」によく見られる一現象である。
マイクが英語で観客に坐るように注意し、途中、日本語で、「坐って下さい、うしろの人が見えないから」と言うと、みんなの間からドッと笑い声があがった。私たち日本人の観客は約十名ばかりだったから。それもバラバラで私の周囲には見えない。白人はその四、五倍。
躁《そう》病期であった私は、「イークスキューズ・ミーイ」と声に出して坐ると、まわりのヤップ人たちがまた笑った。白人がジロリとこちらを見た。
坐り踊りはお経のような歌で、優雅で伝統的なものであろうが、テンポがのろく、見ていて外来者にはあまりおもしろくない。私はあきてしまい、怒られないよう遠くをブラブラしたり、また坐ったりしていると、みんな私を見てゲラゲラ笑う。私はもう疲れていて、腹具合も心配で、辛うじて手をふったり、「なーんですか」などというと、またゲラゲラ笑われた。なんでこんなに笑われるのか、腹が立ったが、怒る気力もなくなった。あとでようやくその原因がわかったが、若い十五くらいの奴が「コンニチハ」と日本語で話しかけてき、次に、「あなた変だ。へんな恰好だ」などとペラペラ早口に英語をしゃべるので、「だまれ。ウルチャイ。おれ疲れてる」と言うと、仲間のほうへ戻っていって、みんなでこっちを見て笑いあっている。まるで私は見世物の猿のようであった。
夕食の時間なので、私は途中また笑われながらヒョコヒョコとホテルに戻り、部屋にはいって鏡を見ると、実に変てこな生物がそこに映った。つまり、なまっちろい裸で、腹に巻いたバスタオルがずれ、フンドシもずれ、腰巻きもねじまがって、お尻は泥まみれのパンツが丸出しで、これじゃみんな笑うのが当然だ。せっかく原住民の恰好したのに、これじゃ祭り用の礼装に反する。カッコよくヤップ人に化けた大学生の日本青年が、フンドシの巻き方を教えてくれたとき、パンツもとれと言ったけど、パンツをはいていてまだよかった。それにしても水たまりの残った地面に坐ったため、泥まみれのパンツである。私は慌てて、着がえをした。ヘトヘトである。
夜になって、藤森さんたちは撮影不能といって戻ってきたし、最後は「マーチング・ダンス」とやらで、どうせアメリカナイズされたものだろうと私もゴロゴロしていた。しかしカメラマンの活躍に比し、いかにも何もせぬようなので、ちょっとだけ見ようと、最後の気力で出かけて行った。もちろんこのたびは洋服姿である。
すると、今度は初印象からして違っていた。広場の入口が群衆で一杯である。その中から迫力に満ちた歌声がひびいてくる。私は人垣をくぐって前の方へ出た。
まさしくカッコいい少年や若者たちである。テンポも早く、目まぐるしく手足をふりまわし、廻転《かいてん》し、カッコよいリズムの歌を叫んでいる。いきなり想像もしなかった素晴らしい踊りが出現したので、私は正直いって驚いた。彼らはこれから広場へ入場する直前なのだ。
タヒチのわきのモーレア島で見た踊りは見ごたえがした。フィジーの槍踊り、あれもちょっと勇ましかった。だが、観光用にしくまれすぎている。それよりずっと生々しい迫力がそこにはあった。
聞いていると、その勇ましい掛声、歌の中に、なんだか聞き覚えのある文句がある。「テンニカワリテー」というような語感。これは「天に代りて」ではないのだろうか。「ホイ」という掛声もある。
すると「ワン・ツー・スリー」という掛声がひびいた。ニューカレドニアの小島で原住民の踊りを見たが、これがいい加減で、親分が「ワン・ツー・スリー」というのであった。
また言葉が似ているからその人種の発生は、などという論があるが、これは屡々《しばしば》危険である。ニューカレドニアの日本人二世の人が、ここでは海のことをナギサというと教えてくれたが、別に日本語とは関係ない。
そう思って、さっきの日本語らしいのを無理に日本語と結びつけるのも考えすごしかと私は考えた。
踊りは勇ましく目まぐるしく、活気と熱気をともなって、広場の中央へ徐々に進んでゆく。
「ラララ」という発音がある。「ラリレーララー」それはたしかに英語の節まわしに似ていた。英語やアメリカの歌ならはいっていても当然だ、と私は思った。すると、「ホイダラホイ」と聞える。やはり日本語に似ている。昼間日本語で話した中年の男がそばにきたので、私は尋ねてみた。彼はパラオの出身で、ヤップ島にはパラオ人がずいぶんいるが、魚とりなどはパラオ人のほうがうまいので、両者の間はあまり仲がよくないと聞いた。パラオ人に言わせるとヤップ人はガンコだといい、ヤップ人に言わせるとパラオ人はずるいということらしい。
「あれ、日本語まじっているのですか」
「ヤップ語。日本語少シ」
「英語は?」
「英語モ少シ。イロイロ」
「これは古い踊りですか」
「古イ踊リ」
そして彼は、かたわらの男に、土地の言葉で訊いた。
「ハジメ、トラック島カラ渡ッテキタ。マス[#「マス」に傍点]トイウ踊リ」
「でも、ずいぶん変ってはいるのでしょう」
「ソウ。平和ノ踊リネ」
「しかし、ずいぶん勇ましい踊りだ。むしろ昔は部落々々で戦争があったから、戦《いくさ》の踊りじゃないのですか」
「ホントハソウ」
とにかく、そのマーチング・ダンスとプログラムにある踊りは、水際立って統一がとれて見事であった。昼間の退屈さは一遍にふきとんだ思いがした。
次に、別の部落のマーチング・ダンスが始まった。踊り方、歌は変化はあるが、根本は同じものである。夜空は暗く、かがり火でもあればふさわしいと思うのだが、照明といえば、高い塔の貧弱な明り一つしかない。本当は昼間のうちに済む予定だったので、そこまでの準備ができなかったのだろう。
すると、その照明代りに、自動車を使用し始めた。人波で一杯でゴッタがえす中を、物凄いエンジンの音を立てて何台かの車が進んできて、ヘッドライトを向けた。更にもっと凄まじい音を立ててでっかいトラックまでやってきた。その屋根から後部荷台から人が鈴なりになっている。クラクションの音がひびき、群衆の中に車たちは進み、なおも踊っている少年、少女、若者たちの黒光りする肌を照らした。
今度の歌にも、ときに明瞭な異国の言葉、英語や日本語めいたものがまじった。ハーモニカの伴奏が短くはいる。
「ホイナラホイ」
「オイテクレ!」
「ワン・ツー・スリー・フォー・ファイブ・シックス!」
という掛声。
こみあった群衆の中で、ビンロウジュの匂いが、プーンと私の鼻をついた。隣の若者が噛んでいるのだ。
踊りの一隊は、くるりと廻ったり、ジルバに似た恰好もする。すばやく、熱気とリズムに満ちた乱舞。
ときおり、「ゴシンセツ」とか、「ワスレラレヌハ オセワサマ」とか、「モットヤレ」などという日本語らしき掛声が私の耳を打った。元の歌も次第に変化し、日本語や英語がたしかにまじっていた。現地の人に聞いたり、あとで私たち日本人同士で聞いた言葉を話しあって、そう結論がついた。意味よりもむしろ間投詞として使われているようだ。
その前にあって私は見損ったが、「バンブー・ダンス」というのは、竹を竹刀《しない》のように使い、地面を叩いたり、空中でバシバシ叩きあったり、どうも剣道がはいっているのではないか、とY青年が述べたものだ。
終って、酒をのんでいる人々もいるようなので、万一を思い、私はアチコチにいる日本の若いお嬢さんの半分を呼び集め、一緒にホテルへ戻った。島の人々はおとなしいが、酔っぱらいは危ないことがあると教えられたからだ。しかし実際は、私はヘトヘトでヒョロヒョロしていて、彼女らに助けられてホテルに辿《たど》り着いたというのが真相である。
翌日は藤森さんたちは隣のマップ島へ行き、私はまだ下痢でホテルで寝ていた。へばっているくせに、夜、ヒョコヒョコ下の食堂へ行くと、アメリカ平和部隊の若者なんかがきていて嬉しそうに日本娘と話しているので、余計な口出ししたり、へこましてやろうとして酒のんでデタラメな英語をシャベると、デタラメなので肝心な皮肉は通ぜず、あげくの果て、また下痢してダウンする。我ながらなんということだろう。
それでも、日本語を話すお婆さんが部屋を直しにくるので、雨が降りだして外へは出られず、階下の食堂で、忘れぬうちにと原稿を書きだしたら、凄い勢いでアッという間に二十枚も書き、(こんなに早く書いたのは生れて以来だった)読み直すと、躁病のせいでヘンなことばかり書いてあって使いものにならぬことがわかり、ますますゲッソリした。
ずっと雨で、心配していると、やはり別の船でマップへ出かけていったお嬢さんたちが、キャアキャア笑いながら帰ってきた。とても歓待を受けたという。ヤシ酒がおいしかったという。ずっと遅く藤森さんたちも戻ってきて、マップ島はもっと田舎でとてもよかったと言った。マングローブの茂みやヤシ林も人の手の加わらぬ自然のままだそうである。更にマップ島の酋長も立派な人で、正確な日本語と正確な英語で、識見豊かで、ヤップの開発計画をいかにするべきかを、実に理論的に話したので感服したと、いつもは寡黙な助手のMさんが珍しく雄弁に私に話してくれた。よほど感じいったのであろう。
その酋長イリボアンさんは「むかし日本は金は少なかったが原地人の能力にあった援助をしてくれた。アメリカは金があり、目的のための援助を与えるが、はたして住民にとって利益があるかどうか」と微妙な発言をしたそうだ。昔はともあれ、これからの日本はその親切な言葉のように、もう少し立派な国際国家になってほしい。
ヤップ島はやがて南洋諸島の中で田舎ではなくなる。ジェット機が私の帰る日に、はいりだしたからだ。私はこの島にきて、怒りだしては下痢し、へばっては下痢し、みんなに迷惑ばかりかけ、こんな日本人ではヤップ島人に愛想をつかされる。ヤップは階級制度が厳然としていて、本当は九つの階級があるそうだが、一等民から五等民までしか問題にされない。それ以下のは人間と見なされないのだろう。私はどうも人間でない階級に見られたようだ。
それにひきかえ、私以外の若き日本人はみんなヤップ島人の友好をかち得る人々だった。日本にはまだ救いがある。若き新しい日本人たちの多くがそうなのだろう、と年とって、「近ごろの若い者は……」と言いがちの私も、この旅の末につくづく思った。
若いお嬢さんたちが、マップ人に教わってきた、かつての日本の歌をうたってくれた。
「一つとやあ 日の丸み旗のあさぼらけ みどりの島には南洋で」
「二つとせ 二つとないのはヤップ島 景色のよいとこ南洋一」
「三つとせ ミカンは年に二度熟し パパイヤ、バナナはいつもある」
日の丸み旗はもう沢山だが、あとの歌はいつまでも残ってほしい。
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キリマンジャロと戦車隊長
私の母は昭和四十一年の暮に満で七十歳になったが、好奇心つよく旅行好きで、毎年のように海外へ旅している。それが今度、中近東・アフリカ旅行団というのに参加するといいだした。アフリカといえば、いくら開けてきたとはいえ、文明国の旅行のようにはいくまい。
あまつさえ母は今回にかぎり、
「外国を旅していて、年とった親を息子がいろいろ世話してる旅行者なんか見ると、うらやましいわ」
と、かつてないことを私にいった。
それまでは一人で勝手に旅していた母である。私は危惧《きぐ》を感じ、最後の親孝行とも思って、同行することにした。ところが私は母の世話をするどころか、逆に、
「まだ起きないの。見物旅行のバスに乗り遅れますよ。トイレはまだ?」
などとこまごました世話を受け、次第に小学生から幼稚園生のごとき心境に達したのである。せっかく一人でトイレくらい行けるようになっていたのに、母のおかげでまたダメになってしまった。
私は団体旅行というものははじめてだが、当然母が一番の高齢者であろうと思っていたら、上には上があるもので、八十二歳の御老人という方が加わっていた。この人は最後まで元気で、どこの遺跡を見にゆくにもひょこひょこついてきて、しかも常に寒暖計を持参しており、各地の温度を計るのが趣味という珍しい人であった。
「今日は三十五度で今までで一番暑い」
などと報告する。ケニアのアルシャというところでは、
「日向《ひなた》で四十五度です」
と、うれしそうにいった。
少し、アフリカの話をしよう。
ケニアのナイロビ(ここはまた近代的な町である)に着くと、私たちを待っていたのは、フォルクスワーゲンのぴかぴかのワゴンであった。天井がひらいて、ここから動物の写真を撮るようになっている。木村俊之介氏が二年まえこの地をまわったときは、まだジープ様のトラックであった由である。この一つをとっても、ケニアが日に日に観光地化していることは明らかだ。
それでも、ナイロビの空港からホテルへゆく間に、もう、自然動物園にいるダチョウの群が見えたもので、みんなは勢《きお》いたってしまった。一人が、
「ライオンだ!」
と叫んだ。しかしよく見ると、それは黄色い牛であった。
私たちはナイロビの自然動物園を見ないで出発したので、はじめは動物に飢えていた。一日目は何も見られなかった。路上にひき殺された大トカゲ一匹を見たばかりである。この大トカゲは私の見たところ、一メートルはとてもないようであった。しかし、その日の宿泊地ですでに一メートル三十以上との評価を受けていた。今ごろは日本に帰っての土産話に、二メートル以上に化けていることは確かと思う。
二日目、いよいよ保護地の動物が出没するというので、一行はますます勢いたった。ある一人のお医者さんのごときは、車の天井を開けっ放しで席に突ったち、この日の行程四百八十キロ(赤土のかなり広い平坦な道が延々とつづいている。一日に四百八十キロ走れるほど道がよいのである)の間、突ったち放しであった。そして、「前方三百メートルにジラフ!」などとわめいていたようだ。
この人ははじめ「司令官」、のちに「戦車隊長」という呼名を受けた。
とうとうキリマンジャロが姿を現わしてきた。ヘミングウェーの小説を何回となく読みふけったため、またそのずいぶんと大衆的に作られた映画にすら憧憬《どうけい》を養われていたため、この見渡すかぎりの平原の上に現われたアフリカ一の高峰は、私の感傷に充分に応えてくれるものがあった。それはうす青く、頂に白い雪をまとって、幻想のようにそびえていた。
運ちゃんがころあいのところで車をとめ、「写真をとれ」といった。私はふるえる手でカメラをかまえた。
と、前方に戦車隊長の車がとまっている。戦車隊長は相変らず屋根の上ににゅっと頭を突きだしている。わるいことに、この頭、しかも後頭部が禿《は》げていて、それがアフリカの陽光を受けて燦然《さんぜん》と輝いている。
私はカメラのしぼりを調節した。しかし、どのようにカメラをかまえてみても、この禿頭がはいってくる。キリマンジャロと禿頭という構図は、私のイメージの中になかったものである。それで、私は前方の車が出発して視野から消えてしまうまで、じりじりして待たねばならなかった。
ともあれ、日と共に私たちは数えきれぬ動物を見た。ついには飽きてしまって、終りには私は、それに集まる観光車のほうばかり写真に撮ったものである。
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ヨーロッパ躁紀行
ロンドンでは、ピカデリー・サーカスのヒッピー族にしても、グリニッチ・ヴィレッジの公園のアメリカのヒッピーに比べ、てんで活気がない。一人は腹がへってるから金をくれと私にぼそぼそした声で告げた。私は烈火のごとく怒って、ごろごろしないで働け、と言ってやった。一人は似顔絵を描いて売ろうとしていたが、もうてんで下手で、私の小学生時代の絵よりもひどい。
私は、こいつら無気力な大英帝国の末裔《まつえい》どもに愛想をつかし、ウイスキーの水割りに氷のないことに憤った。ただ、ウイスキーに氷を用いぬことを含めて彼らにも古い伝統はある。私が感心したのは、インターナショナル・ホース・ショウを見たときだ。馬と狩猟に関しては、英国人はまだ貴族だ。それからチョーサーのカンタベリ物語に出てくる一六七六年からの旅籠屋《はたごや》の建物が半分残っているパブ(公衆バー)の雰囲気《ふんいき》にもまた由緒を感じさせた。
それ以外はすべて気に喰わぬ。大英博物館など見だしたら、何日かかるかわからないから、私はマダム・タッソーの蝋《ろう》人形館へ出かけた。先輩の医者も同行した。ところが雨の中を延々|長蛇《ちようだ》の列、気ちがい観光客の行列だ。私はこいつらはほとんどがアメリカ人だと思って、前にいた小さな男の子に話しかけ、なんだか変なので国籍を問うた。そしたらブリティッシュと答えやがった。つまり、イギリス中の田舎者もざわざわとロンドンに集まっているらしい。私の先輩の医者も頭にきちまって、何十分も行列してやっと人波で蒸風呂みたいな内部へはいると、私と一緒に日本語で英国を罵倒《ばとう》しはじめた。ところがこの男はロンドン生れで八歳までロンドンにいた人間なのだ。しかもロンドンに大人になってからも何回もやってきているはずだのに、シリングもペンスもクラウンもわからず、私に値を訊《き》く始末だ。この大人物が学会の用で先へ帰ってしまってから、私は人波でごった返しの、恐怖室なんて身動きもならぬマダム・タッソー館の中で、こいつは英国は確かに没落すると更《あらた》めて断定した。そこで遊戯室で、さいぜん、なんだ子供じみてバカみたいだと一笑に付して眺め去った一ペニーをとる遊戯の機械を慎重に研究しはじめた。つまり、いまや英帝国は一部の伝統をのぞき、習慣の相違から、日本に犬を売るななんて後進国みたいなことを言いだすから(もっとも英国ジャーナリズムのきわもの記事は別として、日本人の犬の飼い方もまだ後進国なみである。まっとうな動物愛護の精神が生ずるゆとりがまだ日本にはない)それに氷もろくにないから、私はついに英国も終りだ、この大きな一ペニー貨もいまに日本の一円アルミ貨みたいになりそうだとパッと躁病的発想をした。いまのうちに伝統ある一ペニーを沢山所有しておけば、将来値が出はしまいか。そこで私は、このわずか一ペニー獲得機械で、ラスベガスでよりも慎重にやりだし、何回もすってはまた一ペニーを交換してき、ついに最後に四十枚くらいの一ペニー貨を獲得した。そいつを全部ポケットにつっこんですばやく退散した。ずいぶんでっかくて重い貨幣のことゆえ、ポケットが超満員でほとんど破れかけた。
ロンドンのことはもう中断。こんな国なんか相手にしておれぬ。しかも先のホテルも追いだされて、ロイヤル・ホテルなんて名ばかり立派なホテル個室五ドルというので大喜びで予約したら、名だけロイヤルで、精神病院の独房みたいなみじめな小部屋にぶちこまれた。その部屋にはトイレもシャワーもむろんない。一階ごとにそんな小部屋が百くらいある形だけ巨大なホテルで、トイレにゆくのに何十メートルを歩かねばならぬ。
とにかく私は英帝国に愛想をつかし、飛行機の切符はあったが、落っこちそうなので、特急列車で、連絡船でドーバーを渡りパリにきた。ここには昔からの文学友だちの辻邦生《つじくにお》もいることだし、今度こそゆっくり体を休めるつもりであった。ところがドゴールの野郎が本当にパリを白くしちまいやがった。凱旋門《がいせんもん》を昼間見たときは、昔と比べ、あんまりちゃちに見えるのでびっくりした。あまつさえ、ここもまた変に暑かった。私の躁病はますます悪化し、翌々日には、たちまち辻と二人で汽車に乗り、フランスを後にして行先も知らず旅立っちまった。まったく休養どころではない。
私たちがどのような地方を旅したかは重大な秘密に属する。ともあれ、はじめスイスのチューリッヒにき、トーマス・マンの墓を訪れたことは確かだ。これは辻が別のところにもっと真面目な文章を書くはずだが、マン崇拝者の私たち二人にとってまさに天佑《てんゆう》といった感じであった。私はロンドンで或る本屋に入ってうろついていたら、生意気にも(そういう躁的な状態のときは、そんな具合に感じるのだ)トーマス・マンなんて店員に言っている野郎があり、そばに寄っていったら、英訳のしかも抄訳のマンの本をひらいていたから、お前さんなんかにマンがわかりますかね、ここにいる私は九十パーセントのドイツ人よりマンについて権威である男でありますぞ、と言ってやろうとしたが、言葉が出てこなかった。
ともあれ、私はマンの墓の前にぬかずき、いずれいつかは、いよいよ死ぬ準備の仕事を始め、たとえばこんなろくでもない原稿なんぞもはや書かぬとその霊前に誓った。涙が溢《あふ》れてき、私はひざまずいて膝が汚れた自分のズボンを、日本へ戻っても絶対に洗わず、本気の仕事をするときだけ、どんなに黴《かび》が生えてこようとも、そのズボンをはいて原稿用紙に向おうと決意した。
その教会を出ると、嵐のような雨となり、私たちは湖を船で戻る計画を捨て、電車でチューリッヒに戻った。そのため、チューリッヒにあるマン記念館(これは木、土の午後二時から四時までしか開かぬ。たまたまその日が土曜であった)にも、閉館五分前にタクシーで駆けつけ、『トニオ・クレーガー』や『ブッデンブロークス』の原稿を目にした。これまた天佑。
そのあと、私たちがどこへ行ったかは、もう重大秘密。ともあれチロルの山奥へも行って岩山で辷《すべ》って転落もしかけた。だが、もっともっと辺境へ行き、それこそ日本人なんかおよそきたことのない秘密の別天地。帰りはまたもの凄い鈍行を四回も乗り変えたり、モーツァルト号なんていい名の特別列車にも乗った。
しかし、こうして飛行機でなく汽車で旅していると、その土地がずっと実感できる。ミュンヘンなんて都会でもすぐその郊外は広大な畑となり牧場となる。私は北海道をまるで知らないが、とにかく日本は狭く人間が多すぎる。カナダ、南米、オーストラリアなどは日本人移民を許可している。私の考えでは、全日本人の十分の一がそういう広い土地へ散らばるべきであり、政府もこの計画に本腰になってくれねば困る。日本人は長い鎖国の結果、あまりに人種的にも純でありすぎる。もっと世界各国人とこんがらかり、なにがなにやらわからぬ人種とならねばならぬ。
同時に、初期の南米移民、あの観念では時代遅れだ。彼らは外地へ行って金を稼《かせ》ぎ、母国へ戻って田畑を買い戻すことしか考えなかった。ごく少数の海外雄飛の念をもったインテリがいたため、彼らの指導で、南米では今も日本人社会は地位を得ている。これからの移民は、出稼ぎ人根性では駄目だ。新しい人種、新しい国家を作ろうとする意欲くらいを持つべきだ。
さて、旅の終りに、私はコペンハーゲンに二日滞在して日本へ帰ることにした。ここはトーマス・マンの金髪|碧眼《へきがん》の世界である。顔を見るとさして美人もいないが、彼女らの後ろ姿はなんともカッコいい。それまで私は、とても人には言えぬ暴言を吐きながらいろんな国の街を気ちがいそのものズバリの勢いで駆けまわっていたが、ここの若い女のカッコよさには完全に参った。ミニの本場のロンドン娘も、いきなパリ娘も(シャンな女はどだい夏にパリにいるはずもないが)この北欧の女のカッコよさにはとても及ばぬ。私は我知らず「おれはカッコわるい、おれはカッコわるい」と今までの大声に比べ、呟《つぶや》くようにもぐもぐ言いながら、ホテルに逃げ帰った。
そして、せめてもう少しカッコよくならぬものかと、カバンの中からいろんなシャツをとりだして着て鏡に写してみるのだが、みっともない中年男が存在するばかりだ。だが、私の躁病はそんなことではまだへこたれぬ。一度、白昼の街の中で英語をわめくアル中の老婆がいた。小びんの酒をぐびぐびやっては、これからダンスをやるとか、べろんべろんになって見物人にからむ。ところがここの連中も観光客もみんな臆病人ばかりで、みんなせいぜい笑ったり写真とったりしているが、彼女が近づくとたじたじと逃げる。ゴーオンとか、ダンスをやれとか怒鳴るのはこの私一人。なにがフリーセックスだ。そりゃインポの別名だ。
さて、羽田へ帰りつき、税関があまりにのろいので、私は又もや癇癪《かんしやく》を起してしまった。ヨーロッパ(共産圏は知らぬ)はとうに共同体で、税のかかるもの持ってるかと国境で訊くのも殆どおざなりだ。そこで私は疲労と立腹に床にひっくり返り、なんたる後進国、大物の密輸だけを掴《つか》まえろ、そのくらいの眼力はないのか、と煙草すいつつ仰向けにねていたので、カバンを調べられるのも一番ビリになってしまった。しかし、私の当った税関の人は親切だった。日本人旅行者がいろんな土産を山ほど買ってくるのもいけないので、羽田税関のせいばかりではない。私のカバンには一つ一ドルくらいの雑品しかなかったが、前の晩飲んでしまうつもりの酒一本余分に持っていて、生れて初めて空港で税を払い、タクシー代がなくなって大狼狽《だいろうばい》をした。
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凄《すご》く恥かしい話
私がドイツ語を習ったのは、松本の旧制高校の一年からだが、ちょうどそれが終戦の年で、入学も八月で工場動員、九月から初めて学校が始まったものの、食糧難で畑作業とか休講ばかりであった。
冬休みも寮の食糧事情が解決せず二カ月もある始末で、二年生になったころも、ドイツ語文法の教科書はふだんの三分の一も進んでいなかったと思う。本当の話、二年生になって、まだデル・デス・デム・デンなんてやっている生徒もいた。
みんな怖るべきほどできないので、先生もイヤになってしまったことだろう。小栗浩先生にも教わったが、小栗先生は級長ならまだ答えられるだろうと、初め、その頃クラスの級長をやっていた私を何回か当てた。ところが、その級長というのはべつに勉強ができる男というのではなく、学校側と交渉する小使い役みたいなものだから、まして私は寮活動でろくに学校にでなかったから、当てられて一度も答えなかった。すると、もう小栗先生は私を指名することをやめた。
世間では、医者はカルテをドイツ語で書くからドイツ語はできるだろうくらいに思っているが、あれは術語の単語を並べるだけで、まともな文章をつづるわけではない。しかも使用する単語が限られているから、一般学生よりもっとできなくなる。
私は大学病院の医局にはいって二年ほどして、柄にもなくドイツ留学なぞを思い立ち、といってドイツ語はぜんぜんダメだから、やはり松高の恩師である望月市恵先生に手紙を出し、和文独訳を勉強したいから通信教育をお願いしたいと申し出た。すると、まず高校一年の文法教科書の例題をやってみなさい、と返事がきた。私はガックリもき、いささかフンゼンともし、とにかくそれを送ると、あちこち赤インクで一杯直されているので、さすがに自信喪失どころか茫然自失した。
のちにマグロ船の船医になってヨーロッパへ行ったとき、地中海へはいるとラジオにドイツ語もはいりだした。おかしなことに、故郷に帰ったような気分になり、じっと耳をこらしたのだが、打明けると、理解できたのは「イッヒ・リーベ・ディッヒ」というひとことくらいであった。それはラジオドラマで、とてもじゃないが早口にすぎた。
ハンブルクに着いて、会ったドイツ女にお世辞を言ってやろうと思い、「シェーン」なんて言葉はさすがにひかえ、少ししゃれてh歟sch(可愛い)という用語を使用したのだが、このウムラウトの発音がわるいらしく、皆目通じない。お世辞にもならなかった。
レーパー・バーンで飲んで若い女たちと話すと、彼女らはしきりと「アー、ソウ。アーソウ」と言う。日本人も多い町だから、私はこれを日本語かとも思った。高校で習ったように「アハ、ゾー」とは言わないのである。また、会話の終りに、しきりと「ネ?」「ネー?」とつけ加えるのも日本語かとも思ったが、これは低地ドイツ語のニヒトで、つまり「ニヒト・ヴァール?」の意であることがのちにわかった。
しかし、酔っぱらって深夜、私は一人の若い女性と彼女のアパートの部屋まで行ったのであるが、このときのみは私のドイツ語は完全に通じた。否、通じたように錯覚したのである。
シラフだと構文を考えたり語尾変化なぞ考えたりするから、ちっとも言葉が出てこない。それがグデングデンだと、出鱈目《でたらめ》、無手勝流になり、かえって通ずるようだ。とにかく、知らず知らず、中途から私たちは「ドゥー」(お前)でしゃべっていて、わるくない思い出である。
その後、しかし悲しいかな、ドゥーツェンできる女性と私は出会っていない。
ちょうどその頃、現在の私の妻が、商社マンだったその父の赴任に伴い、しばらくハンブルクに住んでいた。
ハンブルクにいる日本人の数は多いし、やってくる日本人も多いから、日本船員の相手をする商売女でなくとも、けっこうカタコトの日本語を話すドイツ人が多かったそうだ。公園などで写真を撮っているとき、前を過ぎるドイツ紳士が、「ゴメンナサイ」とか、「スミマセン」などと挨拶することもしばしばだった。そこで彼女も、私と同様、「アア、ソウ」も「ネ」も日本語だと思っていた。
日本人旅行者は、外国へ行くと大量の買物をする。また在住日本人が魚屋などで、ドイツ人の食べぬイカだのカズノコだのを求めるので、結構な商売になる。日本人は金にだらしがないからいいカモだ。妻がハンブルクへ行ったころ、商店の看板に「ALLIGATOR」という文字をしばしば見た。ワニ皮のバッグなどを売る店なのだが、妻は最初、日本人があまり買物をするので、その文字を日本語の「アリガトウ」かと思ったそうである。しかも、その「アリガトウ」をドイツ流に「アリガトール」と書いたのだと思いこんだそうだから、オチまでついている。
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旅行嫌い
私はときたま旅をするが、私を旅行好きと思う人があったら、とんだ間違いだということである。私もすでに中年の域に達し、その不精さは日と共に昂じつつある。
ところが、この十一月は、否応なく旅をしなければならなかった。いま戻ってきて、この稿を書いているが、もはや私は当分自室から一歩も出たくない。人にも会いたくない。できれば部屋の中に尿器をも具《そな》えて、トイレにも行きたくないほどの心境である。
はじめに、九州の南端の種子島《たねがしま》へ行くことになった。早朝に起き、羽田から全日空で大阪を経由して鹿児島へ行き、そこから三たび東亜航空とかいう会社の小さな飛行機で種子島に午後の三時には着いた。早いといえば早いが、こういう現象を私は好まぬ。第一に一年に一度か二度の早朝の起床のため、羽田でとんだ失態をやった。どんな失態かというと、ある著名な方を別な著名な方と錯覚したのである。その人の顔くらいは私だって写真でよく見知っているのであるが、どういう訳であんな錯覚をしたのか未《いま》だにわからぬ。とにかく私は別な方のお名前を口にして自己紹介をし、そのまま気づきもせず行ってしまった。おまけにこのネボケが仲々直らず、種子島では忙しかったりして、間違いに気がついたのは三日後であった。それから顔から火がでる思いで、そもそも朝早く起きたりして旅に出たりするのがいけないのだと大いに腹を立てた。
それはまだいい。種子島では私はルポを書かねばならないのだが、最初の晩泥酔をして、翌日起きるとカメラマンも何もすでに宿にいなかった。そういう人たちは仕事熱心で朝から取材に出かけたのである。私は大いにバツが悪かったが、二日酔の上に下痢をしていた。山のように薬をのんで少しは取材した。しかし、どうにも堪らぬので迎え酒をすると、これが行きすぎて、次の日にも二日酔と下痢である。頭は重く痛く、前の日に土地の人から聞いた話も皆目わからなくなってしまっている。こんなことばかり繰返して私は戻ってきた。そのルポを私はまだ書いていないので、どのようにしたらよいのかと今困惑しているのである。
種子島から戻って、一日おいて今度は鳥取方面へ出かけねばならなかった。これは講演のための旅行だが、私は今までに一度講演に引っぱりだされ、死ぬる思いをし、講演会自体を危機におとしいれ、もう終生講演だけはしまいと決心していたのであるが、これがやむを得ない事情にてどうしても行かねばならず、あまつさえ私の妻がついてくることになっていた。これは私が結婚以来一人で勝手に旅行に行ってしまったからで、彼女は内心おもしろくなく、せめてこのくらいの旅へでも連れていかないことには一家は離散するというような運命に及ぶかもしれなかったからだ。それにしても女などというものは旅行を楽しむもので、カバンには着がえを入れ、ミカンだのビスケットだのまでカバンにつめ、そういうものはみなこちらが持たねばならず、夜行で鳥取に着いたときはますます頭は重く、それだけならよいのだが私が兵隊にとられるより嫌いな人前の話をせねばならず、一家離散のほうがまだマシなくらいであった。
宿へ着いて、私はコカコーラにウイスキーを入れ、何を話したらよいか真剣に考えはじめ、いくつかの挿話を考えだし、しかしこれだけでは二十分で終ってしまうであろうと考えた。もう一人の講演者は湯川博士であったから、むろん重々しいお話をなさるにちがいなく、その点こちらは気は楽だが、二人きりのため一時間話せという主催者の命令であった。私はそれをようよう四十五分に値切り、それでも四十五分はもつまいと思ったので、時間のひきのばし戦術に出、およそ地上に於ける講演の中でもっとも益のない無駄話を冒頭に述べたのであるが、その無駄話が意外に長く、気づいてみると案外時間が経っていて、せっかくウイスキーをのんで考えだした話ができずに終ってしまった。それでも四十五分ちゃんと話してしまったのだから、私は満足し、これはコカコーラ・ウイスキー効果のためであると断定し、翌日の松江での講演のときも、一時間まえにウイスキーをのみだした。ところがこれがまわってしまって、会場に着くと頭はくらくらし、何をしゃべったらいいのかてんでわからず、慌てて濃い茶を持ってきて貰って茶碗で七杯のんだ。それから話を始めたところ、十五分で息切れがしてき、かつ舌がもつれだした。あとの三十分どのようにしていたか、もう死んでも講演はしたくない。
それで死ぬる思いの役割はすんだのであるが、この辺で妻にサービスしておかないとあとあとまでたたるとまずいので、そのまま博多まで汽車で行くことにした。これがまた長い旅で、飛行機というものも恐ろしいが汽車はのろいのである。博多で妻は菓子だの何だのミヤゲモノを買いだし、そこで私と議論になったが、私はすぐ敗北し、ミヤゲモノを入れるためのカバンを買った。それから講演料を貰って懐ろが暖かかったので、自分自身のために色つきシャツとネクタイを買った。そういうものを買ったばかりのカバンにつめて、なお余裕があるので本まで買ってつめた。なんだか公金を横領した犯人がやる買物のようであった。
そうした訳で、私は半月ほどのうちに九州の南と北へ二度旅をし、人は私を旅行好きと思うかもしれないが、私はわずか旅をしても一貫目ずつ痩《や》せ、妻はよろこんでミヤゲモノをくばり、私はもう乳母車にも乗りたくなく、それにしてもこれから書かねばならぬ種子島のルポは一体どうしたらよいのであるか。
(付記。その後、私は講演が生理的にまったくできなくなり、母校のものもお断わりしている。)
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悲しき夏
ずっと体の調子がわるいので、念のため胸のレントゲンを撮った。むかし軽い浸潤をやったことがあるからである。結果は大丈夫だったが、なおだるさがつづく。医者の不養生でほっておいたら、妻からガミガミ言われ、やっと肝臓の検査をした。すると、結果は半ば凶と出た。当分、禁酒しろと言われたのである。
これにはガックリきた。しかし、ちょうどスランプで、まあこの夏はゴロゴロしていようと、山地にきた。
薬を山のように持ってきている。それをのんで、酒をやめて、といってもまったくやめるとショック死など起すと困るので、ビールの小びんぐらい飲んでいると、涼しさと養生のためか、むやみに食欲が出てきた。
ゴハンを三杯くらい食べる。こんなことは何年来のことである。この調子でゆくと、体もすぐ回復しそうで、東京は猛烈に暑いらしく、まあうまくやったと思っていた。
ところが半月も経たぬうち、またなんだか疲れてきた。食欲も元のモクアミになってしまった。私のいるところが湿けるためか、どうも具合がよくない。
仕事ははじめ、一日に二枚くらい書いていた。まあこんなところで仕様がないと思っていると、そのうちに一枚になり、ゼロになった。
週刊誌ばかり買ってきて、野球の放送ばかり聞いている。このままでは、どうなってしまうのかと思う。
子供のために、実にしばしば花火を買う。むかしの線香花火は大きな火の玉ができて、けっこう見栄えがしたものだが、近ごろの線香花火はひどいものである。その代り、進歩した花火がいろいろとある。
妙な箱にはいった奴とか、連発にしても二十連発とか、派手な奴がある。「空とぶ円盤」というのは、円盤状のブリキみたいな奴で、これに火をつけると、シュルシュルと火を吐きながら空中高く舞いあがり、アッという間に、屋根にあがってしまった。火事になるのではないかと十分間くらい様子をうかがっていた。一時間後、また心配になって外へ出てみた。寝るときに、なお心配だったが、そのうち雨が降ってきたので、やっと安心した。
要するに何もしないので、花火ひとつに対して何時間も気を使うのである。
今日、祭りがあって出かけていったら、沢山の屋台が出ていた。風船釣りというのがある。水を入れたゴム風船を、カギで釣りあげるのだが、カギについているのが紙の紐《ひも》なので、水に濡れるとすぐ切れてしまう。
昨日、妻と子供が出かけていって、みんな紙を切らしてしくじってしまったそうだ。今日も子供がせがむのでやらしたら、幾つも幾つも釣りあげる。これはすばらしいことだと目を見はっていたら、実は子供は直接カギを手に持ってやっていたのであった。
それから戻ってきて、一夏を花火とゴム風船だけで過すのもひどいので、この原稿を書きだしたが、どうしても書けず、ついにウイスキーを用いた。私の肝臓はまた悪くなる。
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3 |えうけえ《マボロシ》メガネの巻
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ホタルの神秘
日本人にとって、もっとも親しくなつかしい昆虫《こんちゆう》の一つは、あきらかにホタルであろう。その青白い幽玄な光は、魂という言葉を思い起させるほど神秘的であり、かつ美しくはかなく、われわれの感傷的な嗜好《しこう》にぴったりする。
事実、ホタルは、むかしから詩歌に多くうたわれてきた。山城国宇治川のあたりには、むかしはおびただしい源氏ボタルが発生した。その交尾のときは、幾千幾万というホタルが空中を入りみだれて飛びかったもので、古人はこれを「ホタル合戦」と呼んだ。そしてその神秘的な光を、源三位《げんざんみ》頼政の亡霊とも考え、その霊がホタルとなって、今もいくさをするのだと考えた。俳人の一茶は、「和睦《わぼく》せよ石山|蛍《ぼたる》せた螢」という句を詠んだほどである。
日本でもっともよく知られたホタルが、それぞれ源氏ボタル、平家ボタルと名づけられていることによっても、この発光する虫がそれだけ日本人の心に溶けこんでいたことの証拠ともいえよう。
この二種類のホタルの幼虫は、水の中に棲《す》む。しかし、本当はこれは珍しいことで、世界にはおよそ二千種のホタルがいるが、水棲《すいせい》のホタルはわずか四種で、そのうち二種が日本にいるわけだ。他の多くの種類の幼虫は陸棲で、カタツムリなどを餌《えさ》にして育つ。ファーブルが観察したのもこの類である。
源氏ボタルの幼虫は清流に、平家ボタルのそれは田の水のなかに多く棲み、それぞれマキガイを食べる。ことに源氏ボタルの幼虫は、日本住血吸虫の中間宿主であるカタヤマガイを食べるので、益虫とされている。彼らは口から特殊な液を出し、陸棲の場合はカタツムリを、水棲なら貝を麻痺《まひ》させて、その肉をスープのように吸い込む。
私の子供時代は、まだホタルはありふれた虫であった。小学校の教科書にも、「ほ、ほ、ホタルこい、あっちの水はにがいぞ。こっちの水は甘いぞ」というホタル追いの文章がのっていて、東京の真ん中に住んでいても、平家ボタルが宵闇《よいやみ》を飛んでゆくのを見ることができた。
平家ボタルより大きく光も強い源氏ボタルは、田舎に行かねば見られなかったが、それでも夏の縁日などに、ごく普通に金網の籠に入れて売られていた。値段も安かった。私たち子供は、源氏ボタルを買ってもらい、夜ねるとき、これを蚊帳《かや》のなかに放して楽しんだ。
電燈が消され、まっくらな室内で、半分眠気におそわれながら目をひらいていると、ホタルは蚊帳にとまりながら、青白く明滅した。ときどき、燐光《りんこう》の尾をひきながら、すーっと空中を飛んだりした。美しく、もの悲しく、かつ神秘的な気配がした。いずれにせよ、ホタルは、われわれ日本人にとって、忘れがたい夏の風物詩であったことは確かである。
しかし、他の昆虫同様、最近、ホタルは見る見る減った。農薬のため、田んぼなどに多かった平家ボタルも減った。源氏ボタルの幼虫の棲む清流も、工場の廃液などによりよごされた。また川岸がコンクリートによって固められてしまった。
ホタルは水べの草や木の根元に卵をうみつける。かえった幼虫は、近くの小川まではっていって、水底にもぐりこむ。そして一年間を水中で暮し、やがて岸べのやわらかな土中にもぐってサナギになるのである。幼虫の棲む水がよごされ、食物の貝が減り、また岸べがコンクリート化されては、彼らの育つ環境はまったく破壊されてしまったといってよい。
こうして、われわれにとってなつかしい源氏ボタルも天然記念物に指定されるほど少なくなった。その産地も、はじめ全国十二カ所が指定されたのだが、うち三カ所にホタルがいなくなって指定が取消され、さらに三カ所もあぶなくなっているのが現状だ。
現在、東京でホタルを見られるのは、皮肉にもある広壮な庭園をもつ料亭である。ここでは、パーティーのあとに、地方から集めてきたホタルを暗い庭に放つ。都会人にはけっこうな見ものだし、外人の客も日本情緒を味わえるというわけだ。
これはショーとして優雅なものではあるが、こうして営業用に集められたホタルの末路は哀れである。パーティーの終りに、客は数匹のホタルのはいった籠《かご》をみやげとしてもらう。これを家まで持ち帰って、子供たちに見せるのならまだしも、男の客はしばしばその帰途バーに寄り、鼻の下を長くしてホステスにホタルをやってしまったりする。
料亭のほうでも、今では遠く四国の高知、九州の別府あたりから、ホタルを飛行機でとりよせている。業者から買う費用が一匹五円、百万匹放つと五百万円かかる。業者は一匹二円くらいで、産地の子供たちに採集させる。
「ほ、ほ、ホータルこい」という昔の俗謡は美しかったが、こう商売がからんできては、せっかくのホタルの幽玄な光も値が下がるし、第一、ただでさえ少なくなったホタルが、本当に絶滅してしまうだろう。
西インド諸島のキュキュヨーと呼ばれるホタルは、一等星を肉眼で見たと同じくらいに輝くそうだ。はだしの土人はこのホタルを足の指に結びつけて、チョウチン代りにする。また、アメリカ軍が一八九八年にキューバで戦ったとき、負傷した兵士を手術しているうちにランプが消えたが、びんにいっぱいつめたキュキュヨーの光のおかげで、無事に手術をすますことができた。こうなると、「ホタルの光」の語句も実際的というわけだ。
世界中のホタル見物で最大のものは、タイ国のそれである。川岸のマングローブ樹に集まった雄のホタルは、毎分百二十回発光し、同じ間隔をおいていっせいに明滅するので、川のおもてを暗闇と閃光《せんこう》が交互に訪れるという。
ホタルの発光は神秘的なものであったが、現代の科学は、徐々にその神秘を解明しつつある。
ホタルの成虫の発光は、求愛のためと推定されている。平家ボタルや源氏ボタルは、それぞれ種類によって、光のまたたきのパターンが違う。雌はそれによって相手を識別し、求めている光にあうと、応答の明滅信号を出す。源氏ボタルの雄は、三、四秒おきに、短い光をぱっと発する。一方、雌の光はもっと強く、二、三秒おきに一秒くらいつづく光をともす。
北アメリカ産のピラリスというホタルは、雄は平均五・八秒ごとに光を発する。雌はこれに応答するが、雄の発光から二・一秒たつと返事の光を出す。人間がたとえば懐中電燈でまねをしてみると、その光の色や長さに関係なく、雄の合図から二・一秒ごとに応答しさえすれば、相手をおびきよせることができる。
ホタルの幼虫も光るが、これは外敵をおどろかすための警戒信号であろうと解釈されている。
もっとも、ホタルの発光には異論もあり、外国産のホタルには成虫になってからは光らず、幼虫時代だけ光るものもあれば、卵が光るものもある。また交尾を昼間おこなう種類もある。したがって、すべてが愛の信号でもなく、また敵をおどろかす役目もさして果さず、逆に敵の目につきやすい場合もあるらしい。現に熱帯地方のカエルがホタルをたくさん食べすぎて、内臓が蛍光燈《けいこうとう》のように光って照らしだされているのは、しばしば見られる光景だということだ。
いずれにしても、ほんのちっぽけな甲虫《こうちゆう》であるホタルの、下腹部のわずかな部分から発せられるこの光は、人間の照明技師の夢でもある。普通の電球の光は、およそ一〇パーセントの効率しかなく、残りの電力はみんな熱となって失われてしまうのである。ところがホタルは、エネルギーを完全に一〇〇パーセント、目に見える光に変じさせるのだ。
この光の秘密は、二つの化学物質にある。一つはルシフェリンという合成物質で、ラテン語で「光を発するもの」という意味である。もう一つはルシフェラーゼという複雑な酵素で、アデノシン三燐酸、またはATPと呼ばれる物質であり、これは筋肉にエネルギーを与えたり、食物をエネルギーに変えたり、細胞を成長、増殖させたり、傷を癒《いや》したり、頭脳に考えさせたりする。いわば生命そのもののひらめきのような神秘的物質である。この物質のおかげでホタルは何べんでも新たに発光することができるので、これは「光を発せしめるもの」という意味の名前だ。
科学者たちはこれまで、ホタルが発光しようとしたとき、その神経組織が小さな空気弁を開いて、細胞のなかに酸素を送りこむだけだと考えてきた。しかし現在では、その神経の末端が、他の多くの高等動物のように、アドレナリンを分泌するのではないかと考えている。それが発光細胞中のルシフェリンとルシフェラーゼとをうまく混合し、ある種の電流が起りやすい状態にして、光を放つらしいのだ。
ホタルの発光についてはまだまだ神秘がつきまとっているが、宇宙時代にふさわしく、これを地球以外の惑星の生物の有無を調べるために使おうという計画がある。
ホタルの発光細胞から液体を抽出し、さらにATPを除いたものが、そのために有効な観測の道具となるというのだ。この抽出液をある組織につけ、もしそれが光ったならば、それはATPの存在を証明する。すなわち、なにか生命あるものが最近まで生きていたという証明になるのである。
宇宙科学者たちは、宇宙において生命の痕跡《こんせき》をさがす方法を開発中である。現に、観測気球が二十五キロ以上の高空から、胞子とか花粉とかカビなどの、小さな生命あるものを持ち帰っている。
だが、月や火星では?
そのために使用するホタルの発光物質を求めるため、アメリカの宇宙研究者たちは、日本特産のウミボタルを輸入している。これは昆虫のホタルとは違うが、同じような発光組織をもち、発光細胞から液体を抽出しやすいのである。
空想をたくましくしてみよう。
最初の無人宇宙船が、たとえば火星に降りたつ。機械の腕が外部へ出、ひとつまみの火星の塵《ちり》を採集する。これと前述のホタルの抽出液がまぜあわされ、感光機械がそれを検査することになろう。もしも塵の中にATPを含んだ細胞が一つでもあれば、その混合物は光を発し、つまり生命あるものが存在したことを明らかにしてくれるであろう。
はかない、微妙なホタルの光。それはわれわれの国土から減少して夏の宵の情緒を失わせつつある反面、このように未来をかけた探検に一つの役割を果そうとしてもいるのだ。
もちろん、むかしなつかしいホタルをふやそうとする努力も行われている。おもにホタルの生息地の環境を保護することで、ある程度の効果はあげている。しかし、その完全な人工飼育は、せいぜい幼虫までの段階で、成虫になるまでの飼育はまだ成功をみていない。
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都会と虫
デパートの虫売場が繁盛しているという。そこには大きなカゴがあって、生きたカブトムシとかクワガタムシとかカミキリムシとかタマムシなどが入れてあって、小学生くらいの子供がずらりと取囲んで人垣をなしている。
虫はどれもかなり高価である。カブトムシの雄が七十円、雌が五十円くらいである。それがどんどん売れるらしい。彼らがいるところへ行けばいくらも採集できるものであるから、アホらしいという人もいる。デパートの商魂を憤慨する人もいる。しかし、生《は》えているところではロハのワラビも、都会ではかなりの値がするのだから、半ばやむを得ない。
夏休みの宿題用に子供がこれを買うので、標本を作らせる宿題はやめさせろ、とよく投書欄にも出る。実際にそうならなげかわしいことだが、このところ多くの学校は生態観察のみを課しているはずで、標本のために買われるばかりではあるまい。
やはり大多数の子供たちは、本物のカブトムシが珍しく、かつ好きなのだ。それが電池でうごくオモチャでなく、本当に生きてガサガサ動いているところに引きつけられるのだ。また、これを買ってやる大人たちにしろ、あんがい自分が子供のころの郷愁にひたっているのだ。
一匹の虫をつかまえる、これを逃げぬように囲いに入れておく、それに餌《えさ》をやって生かしておく、という過程は、人間の本能で、これがついには家畜を持つという文明の入口につながった。
あるSFにこんな筋がある。一遊星に遭難した一群の人間がいると、だしぬけに他遊星人のロケットが現われ、みんな捕《つか》まってしまう。気づいてみると、オリの中に入れられており、他のオリにはいろんな動物がいて、どうやら地球の動物園のような具合らしい。食物だけが与えられる。人間たちは絶望し、また退屈し、たまたま自分のオリにネズミみたいな生物が入りこんでくるのを捕え、小さなオリを作ってそれを飼っておく。すると、急にその遊星人が彼らをオリから出してくれ、丁重にあつかい、あとでこう言う。
「高等動物だけが他の生物を飼ったりするものです」
それゆえ、デパートで虫を売っていることを私は一概に非難する気にはなれない。ただ、デパートで虫を買うことは、いわばインスタント採集で、その安直さをなげきたい。
東京のような大都会には、チョウもトンボもほとんどいなくなったと大部分の人は信じているが、ここ二、三年、虫たちはむしろふえている。セミも確かに多くなった。私の家の庭の片すみの、ほんの小さなサンショウの木には、毎年アゲハチョウの幼虫が発生する。
これは私の独断ではなく、串田《くしだ》孫一氏もそういわれた。氏は対談かなにかの番組で、放送局へ引っぱり出される途中、ビル街にも幾種かのチョウを目撃した。放送が始まると、アナウンサーが言った。
「都会にはちっともチョウも見られなくなりまして……」
「いや、おりますよ。現に私はここにくる途中……」
しかし、そもそも虫がいないことを主題とする番組であったので、アナウンサーは頑として自説を主張しつづけた。だが、自然に興味をもつ人の目には、まだまだ都会にも虫を発見できる。ゴキブリ、ハエ、カ、アリなどを除いても、少なくとも一本の木、一本の草の周囲には必ず微細な虫類の営みが見られるはずだ。
団地住いにしろ、もしその子供に自然観察者の目がありさえすれば、一鉢の雑草によって立派な宿題ができる。そういうふうに指導するのが本筋であろう。
都会にもまだ虫がいるということの反語のようだが、むかしなら山、好適な採集地といってよい避暑地くらいの場所では、実に虫が少なくなってしまった。たとえば箱根、軽井沢といったところである。かつては夜の訪れと共に、灯に集まる蛾《が》がガラス戸のむこうに群をなしていたのに、今は数えるほどだ。その減り具合は、都会のそれとどちらが顕著だかわからない。
もちろんそこでは、カブトムシをロハで捕えることもできる。しかし多くの子供は、別荘の庭の誘蛾燈にいたカブトムシを見つけ、キュウリをやって飼っておくという程度で、本来はカブトムシはナラなどの樹液に集まるという観察をした子供がどれだけいることか。またその幼虫は?山に行くことができたから立派な宿題ができるとは限らない。
ともあれ、かつて虫ケラと呼ばれて軽蔑《けいべつ》されていた一部の虫が、その数の減少によって商品価値が出てきた。人間はどんどんふえる。この伝でゆくと、人間が交通事故で死亡して、その賠償金がカブトムシ一匹という時代がくるかも知れない。
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糸巻のタンク
プラモデルの模型をこしらえるのが流行している。飛行機でも船でも、実に精巧にできていて、これに熱中するのは、私にも充分わかるつもりだ。
しかし、私の子供のころは、いまのようなプラモデルはなかったし、オモチャにしても、電池で動くのではなく、せいぜいゼンマイであった。そのかわり、子供たちは子供たちで工夫をして、自家製のオモチャで遊んだりした。その一つの例として、糸巻製のタンクのことを書いておく。
糸巻はミシン糸の木製の糸巻である。これは両側に輪があるから、そのままころがすこともできるが、これを戦車に見たて、いかにも戦車らしい動きようにしたのは、当時の子供のせいいっぱいの知恵であったろう。
まず両車輪にナイフでギザギザをつけ、これがキャタピラとなる。動力は輪ゴムである。何本かの輪ゴムを、糸巻にあいている軸穴に通す。片端は動かぬよう、マッチ棒の上からロウソクのロウをたらして固める。もう一方の端から出た輪ゴムは割箸《わりばし》の先につけ、この割箸をぐるぐるまわして輪ゴムを巻くのである。
これだけでも戦車は動くことは動く。しかし、糸巻と割箸との摩擦が多く、スムーズには動かない。そこで、両者の間に、ロウソクを輪切りにし、穴をあけたものを入れるのがコツであり、秘伝である。
こうして何台ものタンクを作ってみると、それぞれ性能に差があることがわかる。輪ゴムを何本入れるか、ロウソクの厚さはどのくらいか、また割箸の長さによっても、スピードもちがえば、航続距離もちがってくる。なかにはキチガイじみて早く走るが、たちまちストップしてしまうのもある。したがって、戦車らしくしずしずと、しかも長く動くやつを作りだせるまでには、かなりの修練が要る。
私は十台ものタンクのゴムを巻き、部屋のむこうの端から、こちらの陣地にむけて発車させると、大急ぎで陣地にもどってきて、やはり手製の割箸で作ったゴム鉄砲(輪ゴムをとばすやつ)で、これら戦車隊を迎え撃つ遊びに夢中になった。
小型の糸巻のタンクは、いわば軽戦車で、動きも早く、真っ先にやってくるから、まずこれを狙い撃つ。ゴム鉄砲が当るとひっくり返りもしないが、進む方角が横むきになってしまうから、まずこれは撃破ということになる。一方、でっかい糸巻の重戦車は、ゆうゆうとやってきて、キャタピラのせいで途中においた障害物をのりこえ、輪ゴムくらい当ってもなおかつ進撃してくるから横っちょのキャタピラを慎重に狙うようにしなければならぬ。
そして戦車隊をすべて撃退するか、ついに一台か二台、わが陣地を突破されるか、まことにスリルがあっておもしろかったものだ。
いまの子供は、既製品を買ってきて、もっとスリルに富んだ遊びをするだろう。しかし、この糸巻のタンクにしろ、ゴム鉄砲にしろ、私たちは自分らで作り、いろいろ考えて工夫をこらし、その性能を改善していったものだ。そこに、こうした粗末なオモチャの遊びのなかにも、なんともいえぬ喜びがあったようだ。
たとえば輪切りにしたロウソクに何本ものゴムが通るよう、できるだけ大きな穴をあけようとして、何度それが割れてしまったことか。そういう苦労をしてこそ、この戦車は単なる糸巻ではなく、堂々と本物らしく見えたのである。
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趣味のない生物
女性が化粧をするのはちっともわるいことではない。女と動物とはどう違うかというアンケートに、オーストラリアの女子大生は、
「動物は女のように化粧によって化ける楽しみとわずらわしさを持たない」
と、こたえた。
化けるのはけっこう、大いに可愛く美しくなっていただきたい。
ところがそのくせ、化け方のうまい女性というものはあんがい少なく、かえって本物の化物じみてしまうのが多い。似あいもしないのに髪をへんな具合にそめ、アイシャドウをつけ、あっぱれ化けたつもりでいるから始末にわるい。
私の一番好きな言葉は、おのれ自らを知れ≠ナあり、これは実に深い意味あいを有しているが、これをもっと単純に、自分の姿恰好を知れ≠ュらいに女性に願いたくなる。
たとえばドイツ女性はあまり美しいとはいえぬが、これが十五、六、七くらいの女性は実に愛くるしい。ピチピチしている。清潔である。そういうのを見ていると、化粧なしの女が一番いいと思われてくる。
それから私は、すべての女性に趣味をもちなさい、とすすめたい。
あるいはこの言葉は現代の若い女性には当てはまらぬ、という人もあるだろう。なるほど彼女らは活溌に人生を愉《たの》しむかのようだ。海や山へゆく。あらゆるスポーツをする。詩や文章を作ったり、ガクモンなんてものをしたりする。
だが、実はそれが長続きしないことが多いのである。たいてい結婚を機として、彼女らのそうした可能性は、くだらぬ日常の中へ埋没してゆく。
それは理解のない男性のせいだ、と主張する女性もあるだろう。だが、それだけではない。金も閑《ひま》もありすぎる多くの夫人が、実に無趣味であることを私は知っている。
はっきりいって、男には仕事がある。それに嫉妬《しつと》してはいけない。自分も仕事なり趣味なりをもつことである。多くの女性は、はじめ男の愛情に期待を抱き、次には子供に愛情をそそぐことに夢中になる。そうして子供も大きくなって、自分から離れてゆくとき、そこには何が残っているか?
その索莫さから病気になる中年をすぎた女が実に多い。それも心理的な病気が多い。医者が、「趣味をもちなさい」と言うと、実に多くの夫人が、
「あたしは一向に無趣味なので」
とこたえる。
趣味一つないということは、自分が充実していないことだ。カラッポだということだ。かつての才媛《さいえん》がそんな有様なのだ。それを「男の横暴のせいだ」と逃げる女性に私は与《くみ》しない。
最後に、女と男は異なった生物なのだ、ということは知っておいたほうがいい。男女同権とは両者が同じになることではない。
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ピーコック革命
生物では雌と雄の数が異なるものがある。チョウのある類では雌が少なく、雄がその関心をひくために、華美な鱗粉《りんぷん》で羽を飾っている。概してチョウは雄のほうが美麗である。しかし、考えてみれば、競争相手の雄がみんな同じようによそおわれているのでは、むだなことではないか。
人間の男女の比率は、ほぼ一対一である。女がおしゃれをするのは当然だ。えらそうな女がなんといおうと、一般の女性は男性に従属して生活するものゆえ、よりよき男性を獲得せんがために、かつ自己のナルシシズムを満足させんがために、より美しくありたいと努めるのは自然である。
しからば、男がおしゃれをしてよいか。結論をいえば、男性はいかなる恰好をしてもよい。それだけ男は複雑多様なものだからだ。
だが、なにがピーコック革命だ。こんなところに革命などという語を使わんでほしい。革命というものは、もっとエネルギーのある、男らしい行為だ。
そもそも男とはなんであるか。古来から狩猟者であり、戦士であり、闘士であった。それ以外の何者でもなく、そうでないやつは、解剖学的に男に見えようとも、断じて男ではない。一体、髪をなでつけたりしてから、マンモスの鼻にとびつけると思うのか。
近ごろは、やたらと「カッコいい」と言う。カッコいいのはわるくないことだ。しかし、それが外形のことばかりにとらわれているのはなんたることか。獲物に迫る勇猛さ、投石の術、落し穴を掘る狡知《こうち》、そういうものがカッコいいのだ。
古代と現代とは違うといわれるか。現代の男性の生き方とはどんなものか。これまたすべて戦争である。合戦である。男はすべて武士であり、日々刻々、合戦に明け暮れているのである。そうでない男は、よくて中性だ。合戦に従事し、血まみれとなり、誇らしく「カッコいい」と自負できぬ者に、だれが男という名称を与えられよう。
むかしの武士は美麗なヨロイカブトを身につけ、香などたいた。これは男のナルシシズムである。死を賭《と》した合戦に従事するとき、これは許せる。
しかるに、合戦もせぬくせにヘアドライヤーなどふりまわし、整髪剤を選びに選び、クリームぬりたくり、ほそっこいズボンなどはいて、「カッコいい」などと思っているのは、すべてインポテンツである。その証拠に、クジャクの真似をして、それほどもてているか。仮に一歩をゆずって女の子が集まってきたとして、そいつらはすべて男のなにものかを知らぬ軽薄劣等な女どもである。
たまたま佐藤愛子著『花はくれない』なる紅緑伝をよんだところ、フンドシを常用した紅緑氏は言っている。
「なんだ、この頃の男はサルマタなどという醜悪なものをはいている。サルマタ! 名前からして下劣きわまる。そんなものを喜んではいているようだから、今の奴は肝ッ玉がすわっておらんのだ」
今の若い者には、フンドシにせよサルマタにせよ、カッコわるいと映ろうが、男ともいわれぬ、だらしなき、めめしき、吹けばとぶような、外形と内容をはきちがえるような、心情低劣にして頭脳トウフのごとき連中が七色のパンティーをはいたとて、一体カッコいいのか。
なにも質実剛健、敝衣《へいい》破帽を旨とせよというのではない。むかしの旧制高校の敝衣、ビート族、これらは自己を他と区別せんがためのおしゃれである。くり返すが、男はいかなる恰好をしてもよい。おしゃれもまた勝手である。しかし、肝心なのは、それがすべて合戦用でなければならぬということだ。
人間には、言いかえれば男には、幸福な人生というものはない。存在するのはただ英雄的な生涯があるばかりである。これはショーペンハウアーの言葉だ。
現代は一応平和な世の中で、合戦などという言葉は不穏当だといわれるか。しかし、外形的な平和のなかにこそ、真の合戦は存在する。合戦をするかしないか、そのわかれが判然とする。
怠け者と自他共に許す私にしろ、日夜、合戦に従事している。寒風吹きすさぶなかで線路工事に励む労働者の方に、ひけをとらないと断言できる。私は厳寒の夜半、わざとストーブをとめ、七年まえのコールテンのズボンに、防弾チョッキとしてドテラをまとって合戦している。頭のフケもつもらせ放題で、うっかりシャンプーをすると、脳細胞に影響を与えるといかんから、絶対に洗わぬ。
女房は「臭い」というが、そもそも生命を賭した合戦が、血なまぐさいのは当り前である。合戦用の衣服をつけているから、煙草で焼け焦げをつけようが、インクとびちろうが、一向にかまわぬ。
とはいえ、私は床屋に行けば、ドライヤーをかけ、整髪剤も塗ってもらう。日本の床屋ではそれを断わっても、べつに安くならぬからで、いわばこれは略奪の精神であり、武将の心がけである。
また私は外出の折、しばしば身だしなみよく出かける。私の合戦は机の上のもので、舞台から降りた俳優が素顔に戻るのと同様である。なにより、血しぶきにぬれたまま、そこらの路上を歩いては、間諜《かんちよう》としての正体がばれる。
私のは特殊ケースだといわれるか。これは一つのたとえである。いやしくも男子たる者、いかなる職を業とするとも、日々すべてこれ合戦ではないか。サラリーマンはビジネスをとるにふさわしい合戦用の身だしなみをすべきだし、カラーシャツは擬装用、ネクタイは縄と心得、それ以外のことに気をくばるのは無益なことだ。
男も女も美しくあるがいい。だが男の美と女の美は根底から違う。外見よりも、ひたぶるな心、痛ましき才能、すさまじき認識、不気味なる知恵、そういうものが男の美しさというものだ。そのすべてをのぞむのは理想だが、その一つすら有さず、持とうと意欲もせず、いたずらに髪の毛くしけずり、ツメみがきたてるのにウツツをぬかすとは、醜悪このうえもない。
大体がクジャクという鳥こそ役立たずである。インドクジャクからシロクジャクという品種が作られたが、あの人工的な羽毛のなんとうす汚ないことか。男たる自己の内容に自信もなく、合戦を行う気力もなく、せめて外形のみカッコよく、みみっちい、哀れな、目をおおうべき羽毛ひろげたとて、真に気韻ある女が寄ってくるものか。
「カッコいい」などという言葉は、中身のカッコわるいエセ男性が発明したものである。男性の女性化というが、彼らはもともと男ではない。区役所はすぐさま性別を変更すべきだ。
これは暴論だといわれるか。さよう、暴論である。しかし、暴論も吐けぬのは、まあ人間としてつまらない。
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音痴の弁
小学校のころ、恩地という名の同級生があり、珍しい姓なので、その名が呼ばれるとき私は思わずクスリとした。しかし彼はちっとも音痴ではなく、逆に私のほうが完全な音痴で、唱歌だけはどうしても乙になってしまった。本来なら丙となるべきところであろう。
幼いころから遊んでいた従兄《いとこ》がいたが、これは歌がなかなかうまかった。草笛でもなんでも器用に鳴らすのである。私も一生けんめい真似をしてみたが、草の葉はスウとも鳴らない。これは悲しいことで、歌がうまくうたえぬのはやむを得ぬとしても、草の葉まで鳴らせないのではとても駄目だという劣等感をもった。
もう少し大きくなると、従兄は今度はハーモニカをもってきて器用に吹いてみせた。私が吹いてみると、これは草笛とちがって、ちゃんと音がでる。音楽にはならぬが、とにかく音がでるのである。私はシメタと思い、ひそかに「ハーモニカの吹き方」とかいう子供用の本を買ってきて練習をした。ハーモニカの楽譜にはオタマジャクシでなく数字が記してある。オタマジャクシでは絶望するより仕方ないが、数字なら、そのとおりにハーモニカの穴を吹けば、なんとか節らしい形になる。私は従兄にかくれて練習をし、いくつかの曲をそらで吹けるようになった。つまり「蛍の光」なら「蛍の光」なりに、頭の中にその数字が浮ぶので、まことに空恐ろしい丸暗記といわねばならぬ。
それでも私は得意になって、あるとき従兄に吹いてきかせた。すると相手は感心すると思いきや、そんなのはハーモニカの吹き方ではない、ベースというものを入れなくてはいけないといった。そこで私は負けん気をだして、ベースがはいるよう猛練習をしたのだが、音感ばかりでなく、私の舌も運動神経もすこぶるお粗末だったので、かすかにベースを入れるためには、おびただしい唾液《だえき》がハーモニカの穴に浸入するということになった。最後にはいくつかの音階がそのために鳴らなくなり、私のハーモニカ練習もそれで終りを告げた。
私のもっとも尊敬する作家にトーマス・マンがあるが、この人は自分でもヴァイオリンをいじくり、若いときにはバッハなどに耽溺《たんでき》して、その作品の多くに音楽がでてくる。初期の長編『ブッデンブローク一家』にはピアノに熱中するハノー少年の姿があり、短編『トリスタン』『神童』などにその嗜好を見せているばかりか、晩年の長編『ファウスト博士』となると、すこぶる難解な音楽理論を展開する。私はマンの作品はかなり丹念によんでいるつもりだが、悲しいかな、『ファウスト博士』あたりの克明な論議となると、さすがについてゆけない。
人間というものは自分にない才能というものに殊さらあこがれるものだが、私くらいの完璧《かんぺき》の音痴となると、べつにジタバタする気もしない。しかし、音楽という形式にはいつも羨望《せんぼう》を感じている。言語というものは大脳皮質を通過し、むしろ冷却作用のあるものだが、音楽というものはもっと脳幹的、根源的なもので、身を投げだしていても否応なしに侵入してくるものらしい。そこが羨《うらや》ましくもあり、恐ろしくも感ずるのである。
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ビートルズの観客席
七時半、ビートルズが登場するまで、会場はあまりわき立たなかった。なにか舞台と客席がしっくりしない。おびただしい警官の数と、ひんぴんと繰り返される主催者側の注意が、ファンたちを必要以上に金しばりにしたのかもしれない。
しかし、写真によっておなじみのビートルズの姿が現われるや、悲鳴に似た絶叫が館内を満たした。それは鼓膜をつんざくばかりの鋭い騒音で、私はいかなる精神病院の中でも、このような声を聞いたことがない。
口笛を吹く。「リンゴ!」とどなる。ハンカチを持った手をふりまわす。たしかにビートルズの音楽には、原始的な衝動をひき起す何ものかがある。しかし肝心の歌声は、喚声によってほとんど聞きとれない。明らかに音楽そのものが目的でなく、生きているビートルズそれ自体が目当てなのだ。彼らのちょっとしたしぐさ、たとえば手をふるなどの動作に、ファンたちは熱狂する。
愉快そうに身をゆすっている青年、これは、この種の音楽を聞く態度であろう。しかし、私のわきにいた二人の少女の表情は、きわめて特徴的であった。熱狂とはほど遠い痴呆化した表情で、彼女は舞台をみつめている。それが、やにわに両手をふりあげ「キー」と叫ぶ。それから、ふたたびぐったりと痴呆の表情となる。
過去、人間たちはさまざまな熱狂を示したが、その激しいものは必ず集団のそれである。人間は、おのれ一人の身の不安、自信のなさを無自覚のうちにも感じとっているのだろう。その不安は、ひとたび集団の熱狂の中に自分を投げ入れることによって解決される。みじめな個人から解放され、もっと大きな陶酔の中に羽ばたく錯覚が得られる。
ビートルズのファンにもさまざまな段階があろうが、その一部は、あきらかに集団ヒステリーのそれである。彼らは、一人でビートルズのレコードを聞いて、あのように絶叫するであろうか。
試みに生身のビートルズの演奏を、観客席に自分一人だけで聞いたとしたら、いかなる反応を示すだろうか。かたわらには身をよじる仲間もいなければ、叫びつづける仲間もいない。ファンたちは、こんな立場を最高の夢と思うかもしれないが、いざそれが実現したら、うそ寒い気持に襲われるにちがいない。
ビートルズのファンの大半は、仲間を、自分とまぜこぜになって熱狂する集団を必要とする。すなわち、彼、あるいは彼女自身の弱さのゆえだ。独立するだけの力を持たぬからだ。
ビートルズの演奏は、三十分で終った。客の大半が外へ去ってからも、席を立とうとせず、ハンカチを顔におしあてて泣いている女性がかなり目についた。
会場を出ると、一人の泣きくずれる少女を、他の三人の少女が肩を貸して歩かせていた。カメラマンがそこを写した。少女らはすごい見幕でそれを追い、「そのカメラ返して!」と絶叫した。
ファンたちよ、いくらでもビートルズを愛するがよい。しかし、会場を出て、私は、なにかむなしい感じにつきまとわれてたまらなかったのである。
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もっとゆったりと
挫折《ざせつ》という言葉は、近ごろでは社会的、政治的意味合いで流行語のように使われているが、もちろんもっと広範囲な言葉である。
子供が学校になじまず登校を嫌がるのも、入学試験に失敗するのも、会社員が同僚に先にポストを取られるのも、一種の挫折にはちがいない。
「挫折」については、もっと高級な論議を他の方はなさるであろうと思われるので、私はごくありふれた挫折について書こう。
どんな偉い人でも、その人生には幾回か挫折の念にとらわれるというのが普通である。夏目漱石にしろ、英国に留学した折は、いわゆる神経衰弱になった。これは、当時の留学生は背中に日本国を背負うといった重荷があったためと、日本で考えていたのと、いざ英国に渡ってからと、英文学、或いはもっと広い文学ということについて、彼は疑問に突き当ったからである。もっと近年に漱石が留学したのなら、そのような症状は出なかったかもしれない。漱石が文豪ともなった人物だからこそ、その挫折感はむしろ大きかったにちがいない。
われわれ小人は、もっとしがない挫折を味わうことが頻繁《ひんぱん》である。
自分のことで恐縮だが、私自身のむかしの体験をあげる。
小学校のころ、私は不器用だが体力は人並で、成績は優等のほうであった。それが五年生の冬、急性腎炎となり、三学期をまるまる休んだ。四月になって学校に出てみると、三カ月以上休んだ授業がまるきりわからなくなっていた。なかんずく算術など、かつて百点ばかりとっていたのが、三十点などというみじめな有様だった。
それに加えるに、戦争のせいもあって、学課以上に体育が重視されていた。それなのに、私は更に一学期間、体操の時間は見学をしていなければならず、つまり学問的にも体力的にも、急激に劣等生となった。
このことは、以前なまじっか優等生であっただけに、いっそうつらく感じられた。ある日の算術の時間、先生が問題を出し、早くできたものから先に帰ってよいことになった。どういうわけか、私はそれができた。そこで、同じく早くできた秀才の生徒と一緒に帰り際に、「どうしてみんなできないのだろう」と言った。私にしてみれば、自分が劣等生であることを自覚していて、ごく率直に口に出た言葉である。するとその生徒は「ちぇっ、生意気言ってらあ」とあざけるように言った。私は誤解を受けたわけで、ずいぶんと悲しく口惜しかったのを覚えている。
そんなふうに、じめじめした劣等生になると、その反撥のせいか、一時、私は悪イタズラをするようになり、一部の生徒から嫌われた。
正直いって、当時、私は学校へゆくのも厭《いや》だったと記憶する。その代り、中学校へはいったら、新しく出直そうと決心し、やはり体力的劣等生であったが、なんとか立ち直れた。私の場合は、新しい環境がよかったと考えられる。
しかし、中学四修で高校を受験したときも、完全にあがってしまい、見事に落第した。そのときは、必ず合格してやるぞと気負いすぎたのである。その代り、二次試験で当時あった東大附属臨時医専の試験には、べつにはいりたくもないというリラックスした気分でいたせいか、ずいぶん高い倍率であったのに、合格してしまった。
日本は狭く人間が多すぎるためか、どうもせっかちで慌しすぎる傾向にある。そしてムキになり気負いすぎる気質がある。オリンピック選手にしろ、みなそうである。
そのため意図に反し、逆に挫折の憂き目にあう。
ノイローゼといっても、種々様々で一概には言えないが、中にはこの挫折をごまかす口実――無意識に――である場合も多い。つまり、フロイトに「病への逃避」という言葉があるが、病気になることによって、自己をだますのである。会社で同僚におくれをとったのは、自分の能力のせいではなく、病気のせいなのだという口実になる。
よくノイローゼ患者で、医者から「なんでもない」と言われると、不満に思い、あちらこちら医者を転々とする場合がある。病気が重いといわれるほど、その医者を信頼したりする。
つまり、自分を客観視できぬのだ。客観的には大した症状でもないのに、自分では重症だと思いこみがちで、少しずつよくなっていっても、なかなか満足しない。つまり完全欲が強いので、まったくの健康を望みすぎるのだ。もっと本当にわるく、気の毒な患者さんのことは考えず、ついつい上のほうばかりに頭がゆく。
日本全体がもっとゆったりとした動きになってくれないと、種々の挫折もふえる一方であろう。
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甘えについて
私は旧制松本高校の出身だが、むかしは松高は信州で最高学府であり、松高生は市民から親しみをもたれ、かつ大きな顔もしていた。
伝統の駅伝競走のときなど、当時運動部総務をしていた私は、「コースに当る市電は止めてしまえ」などと乱暴な指示をしたことがある。市民は駅伝を愉しみにしていたが、これによって迷惑をこうむった人たちもいるだろう。今ふりかえってみて、自分たちが「いい調子」だったことを反省せざるを得ない。
よい先生方も多かったが、それが当然のように、先生のお宅に遊びにゆき、飯まで食べさせてもらった。むかしの高校の特徴とはいえ、学生の甘えもずいぶんあったと思う。
私はそういう経験があるので、自分が大人になってからも、はじめ、学生の人たちの頼みをできるだけ聞くようにしていた。ところが、これが無責任もはなはだしいのである。
早慶戦の特集をやるから、対談をやってくれと学生から頼まれた。対談者も頼んでくれというのである。私は、それほど親しくもないが、自分と同年配の某作家に頼み、氏も快く応じてくれた。
しかし、その対談の載った新聞はついに送られてこなかった。私はその作家にも悪いような気がして困った。こちらは、相手が学生というので、時間の都合をつけ、他の仕事を断わったりして応じているのである。あまりといえば「あとは野となれ」ではないか。
こういう例はいくらもある。私の出た大学の記念祭をやるというので、趣意書に一文を、と頼まれたことが何回もある。私は原稿を送った。その半数があとはナシのつぶてであった。
あまりにひんぴんとこうした不愉快を体験したので、私はもう学生といっても特別あつかいをしなくなった。むしろ学生というとイヤな気さえするようになった。
次のような電話がかかってきたことも何回かある。
「ぼくはあなたの後輩です。いま飲んでるところですが、飲みに出てきてくれませんか」
私にしてもそれほど閑人《ひまじん》ではない。何かの折に知りあった、人間的に気持のよい後輩であるならできるかぎり応じてやりたいが、私だって小学校から幾つかの学校を出てきており、単に後輩というだけで一々つきあっていたらとても身がもたない。今は肉体的にも無理だ。
私がいくらかの旅をしているというので、どこどこの自動車探検旅行をしたいから隊長になってくれ、という依頼もある。聞いてみるとなんら具体的な案もできていない。要するに他人のフンドシで相撲をとろうというのである。
外国旅行をしたいが金がないから航空会社の支店長に紹介してくれという依頼もあった。私が紹介してどうしてタダになるのか。私自身タダになんぞならないのである。
近ごろはお手伝いさんがなく、私はある女流作家がお手伝いさんを雑誌で募集したおこぼれの手紙をまわしてもらったことがある。気持のよい、つつましい手紙もあった。しかし、それよりずっと多いのは、「わたしはなんにもできませんが」と言いながら、休日、給料を過大に要求している手紙である。自分の能力は考えず、要求ばかり多いのだ。
ある家の若いお手伝いさんは恋人がいたが、まだ若すぎるので二年は待つという話しあいになっていた。それを、休日に出ていって、そのまま帰ってこなかった。これでは、その家だって心配する。困るだろう。人に迷惑をかけてもかまわぬという若い人がふえているのではなかろうか。
これでは若い人を信用することができない。信用されなくては、その人の人生だってうまくいかないだろう。
要するに、学生であれ、若い人であれ、無責任であり、自分と他人とに甘えすぎている。そして、有体《ありてい》にいって、現実の社会はもっときびしいのである。若い時代の身勝手な甘えは、きっとのちになってその人に悪くはね返ってくるだろう。
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理屈ではダメということ
この世には、いろいろな学問がある。学問とまでいかなくても、長年苦労をしてきた老人の知恵、経験者の教え、理論やら理屈やらが一杯ある。
どれもムゲに捨てさるわけにはいかない。まったくバカげたようなことでも、一理あることが多い。雷がなるときに蚊帳にはいり線香をともすのも、科学的にわずかながらの根拠がある。臍《へそ》をとられぬよう腹巻をさせるのも、子供に対して教育上の理屈にはなる。
といって、どんなに整然とした理論であっても、それがいったん人間のことに関係してきたとなると、それで万事をおしはかるというわけにはいかない。人間というものがそれだけ複雑極まるものだからだ。どんな卑小な人間でも電子計算機のおよばぬところがある。現在のように科学万能が叫ばれるようになると、往々にして機械を誇大視しがちだが、精巧な人工頭脳といっても、あれは優秀な白痴にすぎぬ。
むかしは経験とか勘に頼ってきたことを、ちかごろではなにかしら科学に頼る。結婚判断などについても、生れとか方角に代って、心理テストなどが週刊誌等で幅をきかすようになった。それは決してわるいことでなく、たとえば社員の採用試験などに、ある種の心理テストを応用するのは、禿頭《はげあたま》の頑固課長の勘よりも遥《はる》かに確かといってよい。といって、せいぜい週刊誌にみられるくらいの簡単なテストで、人間の性格がそれほど判ってたまるものではない。
それは、ほんのわずか人間の心をかすめる程度のものだ。いくつかのテストを組み合せて、辛うじてその人間の心の輪郭がおぼろに浮びあがってくる。そこのところを間違えてはならない。下手な科学性は、往々にして逆に非科学性を意味する。
心理学者というような人は、人間の心についてほかの人よりも知る機会が多く、といってこれらの人々が妻をよくうごかし子供をよく育てられるかというとそうでもない。理屈はわかっているのだが、自分のこととなると意のままにならぬ。それが人間というものなのだ。精神科の医者にしても、自分の妻のヒステリーをうまく治せるものではない。そこが困ったことで、反面それゆえにこそ人生はおもしろい。
戦後はアメリカの心理学が多くわが国にはいってきた。それがマスコミの力によって、どこのタロベエまでが、さまざまのコンプレックスを除く法とか、いかにして現代社会に適応する円満なる性格をつくり得るか、などということを理屈では知っている。知っていても、それほどみんなの人生がうまく行ってはいないようだ。
どんな立派な理論でも、どんなつまらぬ人間一人を包含するにもどうしても貧しいものだ。かならずあちこちがはみだす。頭がはいれば足がでる。脛《すね》をひっこめれば臍がでる。人間は、わずか一種の動物ではあるが、それこそ各人さまざまで、自分の個性ということを忘れてはダメだ。数千冊の本をよもうとも、「おのれ自らを知れ」という古来の言葉にはおよばない。
腹をたてたりすることは精神衛生にわるいとされる。腹をたてながら食べると食物も吸収されぬ、副腎皮質ホルモンとやらの分泌が混乱するのだ、腹をたてるのは幼児期になにか心の傷痕があったからだ……というように、心理学の本をよんでゆくと立腹の害毒たるやおそるべきものがある。といって、いつもニコニコしている人が、それだけの仕事をしているか、他の人より真の幸福をつかんでいるか、というとそうでもなさそうだ。
長命者にアンケートしてみると、理屈はさまざまだということがよくわかる。
食事ひとつにせよ、菜食主義者もおれば、肉をどっさり食べる人もある。
「わたしは水分だけはたっぷりとる」
「水のとりすぎはいけませんね」それこそ千差万別である。
要は、いろんな理屈やら理論があっていいのである。ただ、それに人間がふりまわされるようであってはやはり間違いだろう。
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アスピリン
私が戦争末期、学徒動員で工場へ行っていたころ、担任の老教師が学生たちの身を案じて実に丹念に仕事を見てまわってくれた。それを、私たちは或る滑稽な渾名《あだな》をつけたりしたものだが、今から思うと実に申訳ない。
先生はあるときこういう話をした。自分は神経痛で長いこと苦しんでいた。薬を用いると少しは効くが、じきにまた効かなくなってしまって、別の薬を用いねばならない。ある日たいそう痛みが来て、苦しんでいると、家人が心配してアスピリンを出してきた。そんな単純な薬が効くものか、といって一人で憤っていた。そのうちに気が変って、ああして案じてくれるのだから家人の気休めにまあ飲んでみよう、と服用したところ、痛みがピタリととまり、以来一度も神経痛が起らなくなったという。
その後、私は医者になったが、理論では割りきれない現象にはたびたび会っている。
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風邪の直しかた
幼いとき、毎冬のように風邪ばかりひいていたように記憶している。
熱が高くなると、丹念に胸を聴診され、それからカラシの湿布を胸にされた。肺炎の防止のためである。
現在では肺炎も抗生剤ですんでしまうから、そんな面倒なことはやらない。しかし、カラシの湿布をされるときには、いかにも重大そうでこれで学校が何日か休める、と私は考えた。
そのほかに、吸入器というものがあった。アルコール・ランプに火をつけ、やがて湯が沸騰してくると、シューッと霧状に噴霧される。それを大口をあいて喉《のど》にうけるのである。むずがゆいような、いがらっぽいような、独特の感触がした。
カラシの湿布も、吸入器も、とにかく懐かしい。
わたしの家は医家であったから、風邪をひいても、体温表が渡された。これに日に三度体温を測って、赤鉛筆で記入してゆく。赤線が稲妻形に上下して、病気のくせに、なにか楽しいような気分もした。
室内の火鉢には洗面器をかけて湯気をあげておく。食事はオカユと梅干とカツオブシである。
薄いカユに梅干を入れると、鮮紅色がその白い部分ににじんでいって、やはり特有の感じがした。どうも風邪ばっかりひいていたので、わたしは病気に親しみを抱いていたらしい。
もっと大きくなると、卵酒をのむことを覚えた。これもたいそうおいしく、風邪気味になるたびに卵酒がのめるもので、私はそれを期待したものだ。
風邪をひいたとき、現在では抗ヒスタミンをはじめ種々の薬がある。抗ヒスタミンは鼻風邪には有効だ。といって、かなりの熱がでるほどの風邪になってしまっては、いかなる薬もあまり効がない。
つまり、風邪には特効薬がないといってもよいのである。もちろん、あまり高熱で肺炎の危険があるときは、抗生剤も必要であろうが、正直のところ、なんでもない風邪に世人は抗生剤を乱用しすぎるようだ。
暖かくして、ある期間、じっと寝ているより、本物の風邪になってしまったら手段がない。
わたしの父は、むかしから薬に頼りたがらなかった。
「ただじーっと寝ていろ」
と繰返しいっていた。
そういうふうに真の特効薬がないところから、民間では卵酒やらなにやらそれぞれの療法を案出する。
大学生のとき、仙台で風邪をひいた。下宿のおばあさんが、風邪の特効薬をつくってくれた。丼《どんぶり》一杯の熱湯に、ネギの微塵《みじん》切りが一面に浮び、梅干が三粒ほど沈んでいる。苦労してこれをのんだら、腹がガブガブになってしまった。
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ドッピング
先年、ミラノで行われたプロ自転車競走で、フランスのアンケティル選手が世界記録を出した。ところがレース直後に、ドッピング・テストを拒否したため、記録が公認されるかどうか問題になっている。
ドッピング(ドーピング)に関しては、なだいなだ氏が『会議』というおもしろい短編小説を書いている。
フランスで会議が開かれ、日本人留学生が通訳として出かけることになる。しかし、どうも医学に関する会議らしく、専門用語がわからないと困るので、日本人の医学生に頼んでついてきてもらう。
会議はドッピングについてのものだ。二人とも、そのドッピングという言葉がわからない。「だが、これは英語らしいから、いずれフランス語に訳されれば、なんのことかわかるでしょう」と二人は言って待っている。
議長が英語で演説すると、フランス語の同時通訳がマイクで流れるが、ドッピングのところはやはりドッピングと言っている。
そのうち、ドッピングの定義をくだそうということになり、ドッピングとは、ある種の薬物を使用して記録をよくすることだとわかる。「なんだ、そんなことか」と思っていると、この定義の問題で各国代表の間でケンケンゴウゴウ議論が起り、会議はそれだけで終了となるが、さて終ってみると二人ともドッピングとはなんであるかまたわからなくなってしまったという落ちである。
薬物もどんどん進歩するだろうから、将来いろんな問題が生じてくるだろう。オリンピックでもドッピング・テストをやるというが、よほど慎重に対策をねっておく必要がある。この小説なども、関係者に読んでもらいたいものだ。
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順位予想率
最近の雑誌、新聞には、プロ野球両リーグの順位予想がよく載っている。
専門の評論家、各界の有名人などによるものである。後者のは素人でまあ御愛敬《ごあいきよう》で、客観的には負けると思っていても、ひいきチームをトップにあげたりする。どうころぼうが商売ではないからだ。
しかし、いやしくも専門評論家の場合、それがどのていど当るか。無難な年は当る率も多いが、いったん波乱含みになると、専門家の予想とて総くずれになる。
かつて大洋が初優勝したとき、それを当てた人がいたであろうか。
ペナント・レースが終ると、専門家諸氏は、自分の予想順位がいかに狂っていても、そんなことは知らぬ顔である。世間でもとうに忘れてしまっている。
しかし、それではあまり無責任ではないか。
打率というものがある。防御率というものがある。そこで、予想的中率というものがあってもよくはないか。
スポーツ評論家、解説者、われと思わん素人がこれに参加する。
採点の仕方はいろいろあろう。優勝チームが当ったら10とか二位は5とか、三位以下はだんだん数字が減るようにして合計してもよい。
そういうふうにして、ペナント・レースが終ったあと、的中率を発表するのである。一年では水ものでわからない。毎年々々これをやる。
すると評論家の中でも、優勝予想率八割三分とか、あの人の通算八年の予想率は三割を割るとか、ランクがついてくる。しゃべるのがヘタな人、文章のまずい人であっても、この予想率の高い人はそれなりにベテランということになる。無責任に予想しっ放しより、おもしろいのではないか。
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ヘボ野球
少年野球で日本チームが世界一になったというニュースを読んだ。やはり、どことなく愉快である。大人になれば体力的にまだかなわないが、少年のうちなら世界一にもなれるのか。
といって、この少年チームはかなり高度の技術を持っているのだろう。製薬会社などに女子の野球チームがあって、これがけっこう強く、そこらの小会社のヘボ・チームなどはかなわない。慶応病院の医者がこの女子チームとやったら、零敗を食った。
ところで、大学時代の思い出になるが、医局対抗とか、対東大神経科野球戦などというものは、なかなか楽しいものであった。ヘタクソなのでおもしろいのである。外野にフライがあがれば、普通なら凡フライなのだが、まず長打になる。たまたま外野手がこれを取ろうものなら、両軍拍手|喝采《かつさい》である。
こういう手ひどいしろうと野球で困るのは、ベンチにいる全員をなるたけ出場させたいことである。また偉い教授、助教授というのがきておれば、野球なんてできなくても、ピンチヒッターくらいに出してやらないと具合がわるい。
そこで試合も後半になって、ここで一打逆転という場面などに、往々にしてへっぴり腰の爺ちゃん打者が登場する。相手の投手も困る。わざと打たそうと思わなくても、全力投球はできなくなる。そこで教授はけっこうセカンド・ゴロくらい打って、それをまた敵が失策して、アッパレ逆転ということがしばしばあった。
カストロ首相が野球がヘタクソなくせに、やたらと野球をやりたがるという記事を読んだ。これも見ていておもしろいだろう。相手の投手はどんなタマを投げるのだろう。
プロ野球も優勝争いの先が見えてしまっては興味なく、ヘボ野球のことなどがなつかしさをもって思い出される。
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お餅《もち》のことなど
子供のころの正月の記憶というと、やはり自分が一つ年をとるということが、いちばん嬉しかった。それがいつしか、年をとるのがいちばんいやなことになってきた。
三十歳になったときは、もはや初老の気持で、ことに私は、大学病院の医局でも勉強もせずミソッカス、ずいぶん長いこと同人雑誌で小説を書いてきたが、これもぜんぜん認められる気配もなく、いよいよこれは老いさらばえてゆくだけだぞ、と思った。
四十を越してからは、寿命が一つずつ減ってゆくのを覚えるばかりである。お餅を食べると、歯が全部、餅といっしょにとれてしまいそうで、あるいはのどにつまって急死でもしそうで、どうもおっかない。
それが子供のころは、お餅に象徴される正月というものは、やはりたのしく希望に満ちていたようだ。
火ばちに金網をのせ、餅をのせ、これが次第にふくれ、プウッと風船のような餅の子を生ずるところは、いま考えてみてもなつかしい。戦争前の一時期、これにバターを塗り、その上から海苔《のり》を巻いて食べるのが、なかなかしゃれた味であった。半ば西洋の感じがした。
お雑煮というものは、地方により、いくらかの変化、特色があるらしい。私の生れた家のそれは、病院のまかない料理みたいなもので、微妙な味わいとてなかったが、ほかの家と違っているところは、雑煮のほかに、汁粉も作ったことである。
わたしたち子供は、雑煮は一杯くらいにしておいて、汁粉のほうを三杯くらいずつ食べた。甘いもののほうが、どうしても子供には人気があって、正月というと、初日の出や松とか厳粛な気持より、やたらと甘ったるいもののような印象であった。今の世では万事が贅沢《ぜいたく》になって、甘いものにしてもさまざまな菓子があるが、あのころは汁粉を何杯でも食べられるというのはすてきなことの一つでもあった。
そういえば、懐中汁粉という、お湯を注げば汁粉となる菓子があった。あるとき、もらい物のその懐中汁粉の大箱をあけてみると、中身はKとWと記してある二種となっていた。スポーツといえば相撲か、野球も六大学リーグ戦がいちばん花やかなころで、そのKとWは慶応と早稲田をあらわしているのである。すると幼い姉が、
「あたしはケイオーよ」
と言って、K印のほうを取った。
私はつい対抗上、
「ぼくは早稲田だ」
といい、Wの方をとった。
これがどうも、そののちスポーツに限り、私が早稲田びいきになった原因らしいのである。ファンというものは、なぜ好きになったか自分でもわからぬ場合が多いが、野球の早稲田びいきに関しては、たしかにこの懐中汁粉がきっかけらしい。
私はいったんファンになると容易にそれが変らぬので、のちに慶応大学病院助手になってからも、早慶戦といえばどうしても早稲田を応援する気になってしまう。早慶戦の土曜の午後には、なにせ場所が近いから、慶応病院の医者どもは、かなりの数が神宮の球場へ出かけてゆく。切符はむろん足りない。そこで、「われわれは慶応病院の医者であるぞ」というと、応援団席に入れてくれた。
これは私にとって困ることであった。周囲はみんな慶応の応援団員で、そんな中でうっかり、早稲田が点をとったときとび上って喜べば、まずくするとなぐられてしまう。そこで私はじっと喜怒哀楽を殺し、戦局にあまり影響ないとき早稲田が見事なヒットを打ったときのみ、「敵ながらアッパレ」という具合に、静かに拍手をした。
餅のことに話を戻せば、山形県の村山同郷会というのがあり、年にいっぺん、運動会をやるのであった。ある年のそれに親類の子供たちもいっしょに出かけてみると、あいにくの雨で、出席者がごく少ない。山形の郷土料理に納豆餅《なつとうもち》があって、場内でつきたての餅で作ってくれるのだが、予定の客数がこないため、いくらでもお代りしてくれ、食べ放題であった。つきたての納豆餅はごくうまいものである。
そこでわたしたちは、翌年、今度は重箱などの容器持参で、納豆餅をごっそりみやげに持ってかえるつもりで出かけていった。
ところが今度は極上の晴天であり、黒山の出席者で、納豆餅を紙皿に一皿ずつくばっているのだが、その順番さえ容易にまわってこない。つい人ごみの後ろから重箱を差し出し、「これに五人前!」と頼むと、戻ってきたそれには、ろくすっぽ餅がはいっていない。
わざわざ容器持参で出かけていったりしたため、わたしたちは結局、一人前の納豆餅も食べられずに戻ってきたのである。
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世界はひとつ、オリンピック
近年のオリンピックの標語に「世界はひとつ」というのがある。こんなことをわざわざ言わなければならないのは、われわれ地球人がよほど喧嘩《けんか》好き、競争好きであることが背後にあるからだろう。
近ごろSFという空想科学小説が流行のきざしを見せているが、宇宙を舞台にするそれによると、地球人という言葉が、日本人、東京人くらいの感覚によってひびくのがなかなかよい。
ある遊星で野球の試合があるが、一方のチームの生物は手か足が十本ばかりもあるので、そのピッチャーは奇態な体をくねらして快速球を投ずるが、一体どの手からボールがとびでてくるかわからず、こちらはどうしても打ちこめない。と思うと、無類の強打者のホーカー族の四番打者が、一度はやりたくてたまらぬセーフティ・バントをすると、そのバントは楽々と外野のフェンスを越えてしまうのである。
つまらぬ話をしたが、要するにオリンピックであれ、要は「遊び」なのであって、その精神を忘れてはならないだろう。
「強化合宿」とか「悲壮な決意」とかいう文句を私は好まない。選手は倒れるまでがんばるがよかろう。しかし、それは「遊び」であるということを精神の一部で知っていて欲しいのである。つまり、人間にとって大切な「余裕」をもって欲しいのである。それなくしては、オリンピックなどは有害無益だ。
むかしのオリンピックには、綱引きの競技があった。あれはほほえましいものである。なぜあれをやめてしまったのか。
いっそのこと、小学校の運動会そのままに、「ドジョウすくい」や「球入れ」の競技があってもいいくらいに私は思う。世界で選ばれた何名かが、ツルツルするドジョウを懸命ににぎって力走する光景を思いえがくだけで、どれほど精神衛生によいことか。世界で選ばれた選手たちが、夢中で布製の紅白の球を投げあげ、最後に「ひとーつ」「ふたーつ」と数えあったら、われわれはもっと仲良くなれないか。
こういうことを書くと、「ふざけている」「不真面目である」とよく言われるが、私はそういう人たちを信用しないことにしている。
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いちばん原始的なこと
人間の幸福というものが、どういうものであるか、そもそも「幸福」という言葉の定義にしろ、漠然としすぎている。
ごく大ざっぱに言って、能動的な立場と、受身の幸福というものがあろう。多くの男らしい男は、仕事に生きがいを抱き、その成就に真の満足を覚えるというのも事実だが、がんらい仕事というものは楽よりも苦の多いもので、いかめしく考えないならば、その仕事を離れて、好きな趣味をやっているときのほうが、むしろ幸福に近いものというのも、完全な間違いではあるまい。
一方、これも比較しての言い方だが、女性の場合は、たとえば好きな男性に愛されているのがいちばん幸福だという受身の形が多かろうが、近ごろの女性上位の進歩した女性なら、そんな情味は女学生時代に卒業してしまったというくらいの、能動的な人もふえつつあることも事実である。
要するに、幸福といちがいに言っても、見方によって多種で、個人々々すべて微妙に異なるし、これこそ幸福だという定義はむずかしい。ただ一つ、同じ個人であれ、年齢や時代によっても変ってゆくもので、あくまでも相対的なものだ、とは言えるだろう。
私の子供のころを思いだすと、小さければ小さいほど、単純なことに幸福を感じていたようだ。
たとえば玩具とか食物である。昨今の日本は万事が贅沢になっている。私の家は、戦前のほうがたしかに金があったにもかかわらず、食物などは、今から思えば質素なものであった。これはどの家庭でも似たようなものであろう。
今なら、少し金のある家なら、子供を連れて、なにかの祝いの折などには、かなりの高級レストランへ行く。私の記憶では、父はごくたまに家族を「オリンピック」へ連れていってくれた。まあ格からいえば中級レストランで、しかし、すばらしくおいしかったと記憶している。
当時は、わが家での御馳走はまあスキヤキくらいで、しゃれた洋食などは出なかったから、この「オリンピック」のエビフライは、特別の珍味といってよかった。その印象は後年までよほど記憶に深く刻まれていて、私は『楡家《にれけ》の人びと』の中で、戦争中ウエーク島に閉じこめられ飢えに悩んだ一人の主人公が、いろんな食物を追憶する中に、このエビフライのことをいやに丹念に描写したりしている。
更にこの店には、動物の形をしたチョコレートが売られていて、そこらの板チョコではなく、ずいぶんと大きなその動物が芯《しん》まですべてチョコレートでできているのだった。これもすばらしい魅力であった。熊の首ひとつ、手を一本食べて、充分に堪能できた。まだあとにはずっしりした胴体が残っている。
そういうとき、子供の私は、たしかに幸福であった。
幸福という言葉に、多くの人はもっと精神的な意味合いを求めるであろうし、そういうことを述べられる方が多いだろう。
それなのに、たかがエビフライだのチョコレートだのと言っているのは、なんたる低俗な奴だと叱られそうだが、人間というものは精神を持つ生物であると共に、やはり動物であることに変りはない。
「衣食足りて礼節を知る」とか、多くの格言もあるが、もっとも根元的で具体的なものは食欲であり、本当に飢えてしまったら、高邁《こうまい》な理論もまかり通らぬのである。精神は美しい幻想や理想を人間に与える。といって、食べることなんてもっとも動物的な原始的な欲望だから、そんなものは下位に置く、という考え方も、私には片手落ちに思われる。
私の精神的思春期、旧制高校の時代、私ははじめてこの世の名著にも接した。若者らしい理想や、憧《あこが》れや、さまざまな成長に通ずる悩みも抱いた。
その時代は戦後の食糧難時代で、寮の飯は二食は雑炊《ぞうすい》一杯だったし、トウモロコシの粉を丸めたスイトンばかりがつづいていた。
それでも買いだしに行ったり、知人の家に招《よ》ばれたりして、ときには腹一杯食べることもあった。いつも相当に空腹ではあったが、むかしの飢饉《ききん》の飢えとまではゆかなかった。
それだから、ごくたまに米が手に入ったり、食糧切符が手に入ってパンが買えたときなど、私は北アルプスに登ってゆき、そのすばらしい景観を眺めることができたのだ。
這松《はいまつ》の匂いも嗅《か》ぎ、雪渓の美しさをも眺められた。それと共に、書物や友人との議論に目ざめさせられた私の頭は、乳臭いながら、若者らしいひたむきな考えにも浸ることができた。
わざと、こういう末梢《まつしよう》的な食物のことを書くのも、今の世の中が戦後の荒涼さに比べ、表面的には、物資に満ち、レジャーも盛んで、それを享楽できる人が、さほどそのことを有難いとも感じなくなっているからである。
私自身がとうに堕落している。買出しに行って、親切なお百姓さんが、シッポとかうらなりの売物にならぬ芋をふかしたものを、タダで食べさせてくれたときなど実に感激したのに、今では芋は嫌いだと言って食べない。
一方、インドの田舎などで、泥の小さな家に実に大勢の家族が住んでいるさまを見ると、子供は栄養失調ばかりのようで、もし自分がこういう身の上に生れたなら、むろん学校へも行けず文盲で、ただ食べることだけを追求する以外にできないのではないか、と正直に思う。
食物のことばかり考えていては、一般には下《げ》の人間である。しかし、この地球上にはやむを得ずそういう生き方しかできぬ人々も多く、そうでない人々はそれを有難いと思い、更に人間らしい幸福の存在を追求すべきであろう。
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底のソーセージ
なんといっても、子供のときの味覚ほど、すばらしいものはないと思う。
あのころは、何を食べてもおいしかった。朝、小学校へゆく私は、早く起きて、女中たちの食卓で御飯を食べたが、そこにある佃煮《つくだに》とか、梅干とか、振り掛けなどが、なんともおいしくて、
「丼に一杯、御飯をよそって、そこに佃煮と梅干と海苔をかけて、一杯五銭で売りだしたら、ずいぶんもうかるだろうな」
というような、妙なことを考えたりした。
そっと台所にしのんでいって、冷蔵庫をあけると、ハムやソーセージなどがしまってあった。ちなみに、電気冷蔵庫ができたころは、四角い小粒の氷がとれて便利だと思ったものだが、冷蔵庫はやはりむかしの氷をつめたものがいい。氷屋がシャリシャリと音を立てて大鋸《おおのこぎり》で氷をひきだすときの感じは、まったく季節感に溢《あふ》れたものだった。
ウインナソーセージなどを二、三本盗んで、隠れてかじる味わいは格別だった。プリプリと表面の皮が歯の上でやぶれる。またひそかに、レバーソーセージを一口二口失敬するのが愉《たの》しみだった。こんなおいしいものはないと当時思っていた。実際、その味はフォアグラを遥かに越えているように思われる。
といっても、フォアグラほどうまいものを、現在私はあまり知らない。しかし、いかにも高価なので、滅多に口に入れることができない。
考えてみると、料理屋でフォアグラを食べた記憶はない。昨年の夏、船で香港《ホンコン》へ行った。ラオスというフランス船なので、女房は食事を愉しみにしていたが、ろくなものは出なかった。ただ一度、フォアグラが出たが、ほんの薄い一片にすぎなかった。
ともあれ、むかし食べたレバーソーセージの味は、どうしても現在のフォアグラに遜色《そんしよく》ないように思われるのである。
今から思うと、むかしは万事に質素だったようである。弁当にしても、ソーセージの五、六きれとお香こくらいのものであった。また、私には妙なくせがあり、あまりパッとおかずが目につくのが気に入らなかった。派手に、御飯の上に一面に敷くのなどは、もっとも忌むことであった。
私は女中に頼んで、まず弁当箱の底に、六枚の輪切りにしたソーセージを敷いてもらった。その上に御飯をのせる。端っこにお香こ。外からみると、お香こしかおかずがないのである。
そういう弁当を、御飯をほじくってゆくと、はじめてソーセージが出てくる感じが好きだった。どうも我ながら妙な性格と思うが、当時、そのソーセージを底に敷いた弁当は私の気に入りで、しょっちゅうそれを作ってもらっていた。
あるとき、友達が私の弁当を指さし、
「これ、まずいんだよ」
といった。
そのとき、私は、
「中にはいってらい」
といって、御飯の底からソーセージをほじくりだしてみせた。大得意であったような気がする。
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クリスマス
わたしの子、それから友だちの小さな子供たち。
今日はパパがクリスマスの話をしてあげよう。
パパが子供のころは、日本ではクリスマスはそれほど盛んでなかった。クリスマスよりもお正月のほうが大事だった。
それでもあるとき、パパのお母さんが、デパートから一つの箱を買ってきた。開けてみると、キラキラ光る銀紙の星や、宝石のような赤や緑の綺麗《きれい》なガラス玉が出てきた。クリスマスの飾りつけだったのだ。
小さな子供だったパパは、姉や妹たちと、大喜びでそれをモミの木にくくりつけた。雪のような綿をあしらった。とても美しく、素敵だった。
わたしたちは、サンタクロースのおじいさんが、遠い国から、トナカイにひかせたソリに乗って、子供たちにいろんな贈り物をくれる話を聞いていた。
だから、パパたち子供は、夜ねるとき、靴下をちゃんと枕元に並べておいた。翌朝、のぞいてみたら、靴下にはなんにもはいっていなかった。わたしたちはがっかりした。
それでも、毎年、クリスマス・ツリーを飾ることは嬉しかった。それはとても美しかったからだ。
子供たち。
美しいものを見ることって、愉しく嬉しいことだろう?
しかし、そのうち、日本は戦争をはじめた。モミの木なんて手に入れることもできなくなった。
そこで、パパの妹は、植木鉢に棒をさし、緑色の布をかぶせて、木のように見せかけた。そこに星やガラス玉をつるしたが、それはとても貧弱なクリスマス・ツリーだった。
そのうち、戦争はもっとひどくなった。それは、まっ暗な時代だった。星もガラス玉もクリスマスそのものもどこかへ消えてしまった。
わたしの子、そして大ぜいの子供たち。おまえたちのところには、毎年、クリスマスがやってくる。パパの前にも戻ってきた。ピカピカ光る星も、宝石のようなガラス玉も戻ってきた。
子供たち。おまけにみんなはいろんな贈り物までもらえる。パパの子供のときよりも、クリスマスは素敵になった。
本当はクリスマスは外国のお祭りだが、誰でもそれを愉しむのはよいことだ。なぜって、みんなが集まって、ご馳走を食べ、話したり、遊んだりし、綺麗なカードやオモチャや本をもらって、クリスマスおめでとうと言いあうのは、すばらしいことじゃないか。
けれども、世界にはクリスマスのない国や、あっても贈り物をもらえない子供もいるのだ。
だから子供たち。クリスマスの贈り物を大事にしてくれ。たとえケーキが小さくても、ふくれたりしてはいけない。
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幼稚園
わたしの子供のころは、幼稚園に行かない子のほうが多いくらいであった。園長先生がわざわざ菓子折など持って、子供のいる家庭を訪ねたりしたものである。
わたしもその菓子折を貰った。しかし、貰ってだけおいて、結局幼稚園に行くことをしなかった。
今は時代が変った。三年保育などと三年間も幼稚園へゆく時代である。
わたしは自分の体験から、教育などというものはゆっくり始めるべきだと思っている。しかし、すべての子が幼稚園へゆくと聞けば、やはり二年保育にはやらせようと思った。わたしの娘は一人っ子だから、大ぜいの子供たちの中へはいるのはいいことだろう。
ところが、わたしたち親はちょっとした失敗をやった。娘がわるいことをすると、
「もっとお行儀をよくしないと、幼稚園へ行けませんよ」
などと言ってしまったのである。
あるとき、
「四月から幼稚園ね、いいわね」
と妻が言うと、娘はうつむいて、
「チカちゃん(仮名)、幼稚園に行かないの」
と言った。
これは大変と、
「幼稚園に行くと、大ぜいお友だちがいるよ。とても愉しいよ」
と説明しても、
「チカちゃん、行かないの」
わたしは過去を思いだした。わたしは幼稚園へ行くのが厭《いや》で、菓子折を貰ってもなおかつ行かなかったのだ。これは妙な気質が遺伝したのかも知れんと思った。
幸い、近所のお子さんで、一緒に近くの幼稚園に行くことになった娘さんがいた。
それでも、はじめて幼稚園へ行く日、わたしはなんとなく心配であった。泣いたりしないであろうか。
果して娘は、二日目、母親が帰ろうとすると泣いたそうである。しかし、泣いたのはそれ一回きりのようであった。
だんだん行くのが愉しくなって、土曜日の夜、
「明日はお休みで行かなくてもいいのよ」
「つまんない」
という具合になった。
「ママと先生とどっちが優しい?」
と妻がきくと、
「先生のほうが優しい」
幼稚園の小さい子は午前中だけなので、娘はわたしが起床するころ、もう戻ってくる。元気そうで、わたしの場合よりも他人となじめそうなので、実のところホッとした。
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処女喪失者の弁
人間というものは、いったん、一つの姿勢、殊に内面のそれを崩すと、とめどなくだらしなくなってしまうものだ、と思う。
私は同人誌時代、ずっと旧仮名を使った。文法のことももう忘れたが、旧仮名の特有の美しさは少しはわかるつもりであった。山の上の……という文章にしろ、殊にその下にいかつい漢字がくる場合、「山のうへの」と書く。この「へ」のなんとも柔らかな奥ゆかしさが私は好きであった。
それがなぜ新仮名に転じてしまったかというと、我ながら実にみみっちい、浅ましい動機である。私は小説みたいなものを書きだしてから、十年間、売れなかった。とりわけ金になるのを求めはしなかったが、ちゃんとした文芸雑誌に載せてもらいたかった。たまたま某誌が新人特集をやるというので、書いてみろと言われた。もちろん採用になるかどうかは出来栄え次第というわけである。そのまえにいささか自負のある短編を二つほど、私は同人誌に出していたが、あの原稿が今あったら、と思った。手持ちの作品が一つもなかったし、これといってその定められた枚数にあう題材もなかった。無理矢理にしぼりだすより手段がなかった。
そのころ私は三十歳を越えていて、ずいぶんと文学老年のような気がした。石原、大江、開高というようなずっと若い人たちがとうに立派な仕事をしていた。短い日時に無理矢理にひねくりださねばならぬ短編はいかにも自信がなかったし、旧仮名で書いたらますます老人らしく見え、若き新人を求めているであろう編集部はそれだけで捨ててしまいそうに思えた。そこで、ずるき私はその短編を、若そうなふりをして、生れてはじめて新仮名で書いた。卑下感ばかりではなく、とにかくまず橋頭堡《きようとうほ》をきずいて、自分で納得のゆく作品のときは、むろん旧仮名に戻るつもりであった。その短編は実にあやしげなものであったが、偶然に載せてもらえた。次作を書いてみろとも言われた。すると、ついそれも新仮名で書いた。なにもわざわざ旧仮名にするに足る文章ではなかったからである。それでも私は、今にどうしても旧仮名でなければならぬ文体を用いるとき、伝家の宝刀を抜いてみせるぞ、とひそかに考えていたが、マンボウものなんか書きだしてしまい、いよいよ宝刀どころでなくなった。むかし自費出版した『幽霊』を再刊したとき、やはり統一して新仮名にしたが、「うへ」が「うえ」になっていて、その他の旧仮名の効果も汚れはてたようで、ずいぶんと悲しい思いをした。けれども、はじめかなりの抵抗を覚えたそれも、次第に無感覚になっていった。編輯部《へんしゆうぶ》を編集部と書くようになったとき、ひでえなあと感じたものだが、いつしかなんともなくなったのと同様である。
そしていつしか、ふと気づいてみると、自分が旧仮名を正確に書けるかどうかと考えてみたとき、首を横にふらざるを得なかった。なんとかして文芸雑誌に載せてもらいたいという小ずるき計画によって新仮名を使ったとき、私はいわば処女を失ったのである。伝家の宝刀もなにも、そもそも旧仮名を忘れてしまっては、抜こうにも抜けないではないか。
いま、私は味けない情けなさのなかに坐っているが、妄想の宝刀はもうないものとして、安物ながら新品のナイフの使い方をいずれは習練しようと思っている。旧仮名を知らない若い人にとっては、それが逆に異様に映る時代になっているのかも知れない。古典が漢字も仮名も勝手に変えられてゆく時代だから、本当に精緻《せいち》な日本語をあやつられる作家はべつとして、私ごときがこんなことを述べるのが滑稽なことかも知れない。
しかし、そういう立派な作家が旧仮名の美しさを説き、学者がいかめしく文法のことを説くより、日本語堕落賞に価する私なんかがこう述べるのは、あんがい若い人に効果があるかも知れぬと思って、あえて書いた。落語家の政界進出のごときものである。この世から旧仮名がほとんどなくなっても、「おおきな」と「おほきな」は違うということ、「ゆうがた」と「ゆふがた」は違うということを、大学生くらいになったらわかって欲しい。日本語の微妙な陰影がまったく失われたら、スモッグどころのものではない。
最近、恥かしいことに今まで知らないできた吉本隆明氏の詩集を見た。これはすばらしい日本語であり、もとより旧仮名遣いであるが、ところどころ(おそらく故意に)新仮名遣いとしているところがある。旧仮名がすべて美しいというわけではなく、一つの意味あるいは一つのイメージを直截《ちよくせつ》にとらえるには新仮名のほうがふさわしい場合もある。鴎外はいわゆる文法にもっとも忠実な一人であると思うが、それでも独自の仮名遣いもあったと記憶する。こうしてみると日本語、なかんずく平仮名の使い方はつくづくむずかしく、奥行きが知れない。
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机と椅子
私の書きものをする机は、まだ独身だったころ、古道具屋で買ったシロモノである。
そのころ、机が欲しいと思い、数軒の店を見てまわった。デパートも見たが、値段の手ごろなのはいずれもチャチで、なにより小さい。私はものを書くから、できるだけ大きな机が欲しかった。
ふと当時居候をしていた兄の家の近所の古道具屋へはいったら、奥のほうに、古びた大型の机があった。年代物だと思った。黒光りしていて、引出しが沢山ついている。
値段をきいてみて、また有頂天になった。正確な値は忘れたが、ちゃちな新品の机の半分なのである。以来私はその机を愛用している。
私はなんでも、一つの物に慣れると、なかなか変えようとしない。シャツでも変えない。女房に怒られるが、セーターなぞでも着たきりスズメである。愛着がふかくなると、新品にするのが厭であった。
殊に、書斎の雰囲気《ふんいき》は大切である。机の上にごしゃごしゃにつんだ本やノートなどを、一仕事すませて片づけたりすると、そのあとアッケラカンとして、次の仕事にとりかかるまで時間がかかる。だから、机の上は掃除させない。スタンドなども、こわれかかった古いものを使っている。
それゆえ、兄の家を離れてはじめて自分の家を持ったときも、この古びた机をもっていった。机の面積をいっそう広くしてやろうと考え、書斎に机と同じ高さ、同じ幅の引出しのついた箱みたいなものを作りつけにしてもらった。自分ではたいそう気のきいた案だと思ったが、あとでしまったと思った。現在こそ机と並んで便利だが、なにしろ作りつけなので、ほかの机ではあわないのである。私の大事な机ももともと古物のうえに、さらに歳月がたって、果してあと私の生命の終るまで保《も》つかどうか測りがたい。引出しなんぞもずいぶんガタガタしている。この机がこわれてしまったら、また同じ寸法の机をわざわざしつらえるよりほかないのである。
椅子のほうも、ずいぶん古びてお粗末なものを使っている。そもそも私の祖父が大正のころ箱根に家をたてて、そのベランダに置いてあった籐椅子《とういす》なのである。戦中に私の家は焼けてしまって何もなくなった。そこで箱根の家の家具、布団などを持ってきて急場をしのいだことがある。そのなごりの椅子なのだ。その上に、座布団を二枚しいて腰かけている。
かなり前から、ミシミシいって、もう寿命がきていることはわかりきっている。そればかりでなく、一見いかにも貧弱で安っぽく、坐り心地だってよかろう筈がない。
妻も、前々からせめて廻転《かいてん》椅子くらい買いなさいと言った。私も内心そう思った。しかし、そのころ私はかなり長い『楡家の人びと』という長編を書きだしていて、椅子を変えたために、気分が変ることを怖れた。少なくとも新しい椅子に慣れるまでには、ある程度の日数がかかる。
それで、長編が終るまでと思って、椅子はそのままにした。長編が終るまでには二年半かかった。さて終ってみると、椅子はまだぶっこわれていないし、愛着もふかまるばかりだし、なにより新しい椅子をさがしにゆくのが億劫《おつくう》である。
そんなわけで、私はいまだに、古色|蒼然《そうぜん》たる机と椅子によってものを書いている。
[#この行1字下げ](後記。さすがにこの籐椅子はぶっこわれかけ、今では私はかなり上等な廻転椅子に腰かけている。その割には仕事をしない。この本に収めた雑文は最近のものから、何年もまえ、中には十年以上もまえのものまで集めたことを付記しておく。)
この作品は昭和四十八年五月新潮社より刊行され、昭和五十四年四月新潮文庫版が刊行された。