覆面作家の夢の家
北村 薫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目白《めじろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)岡部|良介《りょうすけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]装画●高野文子
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〈帯〉
美貌のお嬢様が挑む謎
人気の〈覆面作家〉は、実は大邸宅に住む御令嬢で、しかも名探偵。今回は、12分の1のドールハウスで起きた小さな殺人(?)に秘められたメッセージに取り組んだ…
まずは自己紹介。岡部良介、『推理世界』の若手編集者。ある日編集部に送られてきた原稿が見所ありということで、作者に会いに行ってびっくり。世田谷の大邸宅に住む、天国的な美貌の御令嬢だった。〈覆面作家〉としてデビューしたが、現実世界に起こる難事件にも、信じ難い推理力を発揮する。かくして、お嬢様に振り回される日々が続く……
北村薫◎きたむらかおる
一九四九年、埼玉県生まれ。早大卒。「鮎川哲也と十三の謎」シリーズの一冊『空飛ぶ馬』(東京創元社)でデビュー。九一年、『夜の蝉』(同)で日本推理作家協会賞受賞。他に『冬のオペラ』(中央公論社)『水に眠る』文藝春秋『スキップ』(新潮社)などがある。
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覆面作家の夢の家
北村 薫
角川書店
目 次
覆面作家と謎の写真
覆面作家、目白《めじろ》を呼ぶ
覆面作家の夢の家
[#地から1字上げ]装画●高野文子
[#地から1字上げ]装幀●小倉敏夫
[#改ページ]
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覆面作家と謎の写真
双子《ふたご》同士のびっくり結婚式というのを、聞いたことがある。そういう兄弟と姉妹が結ばれた――というだけなら驚かない。これが確か、別々に交際を始めて、〈兄ちゃん、ボクの彼女に会ってくれよ〉〈オレも会わせたい娘《こ》がいるんだ〉。一堂に会してみたら、何と相手も双子の姉妹だったという世にも不思議な話。
ともあれ、めでたい。
「妙な感じだな」
隣の椅子《いす》で、そうつぶやいたのは千秋《ちあき》さん。口調は乱暴だが、世田谷《せたがや》の豪邸に住む御令嬢。ネービーブルーのジャケットが、色白の顔を引き立てている。
〈御令嬢〉は商売ではない。しかし、就職難も何のその、食うに困らず、仕事口の心配などないのが御令嬢というものだろう。けれども、千秋さんには別にお金を稼《かせ》ぐ手段がある。――作家なのだ。
最初の原稿を、わが世界社に送ってくれた。見所ありということでデビューなさったが、それ以来、担当となり、面倒をみるようになった。
ところで、世の中には理屈で説明のつかないことが多い。千秋さんの性格というのもそれだ。今ではあまり聞かなくなった言葉に〈内弁慶《うちべんけい》〉というのがある。その逆の〈外弁慶〉なのだ。外ではまるでサーベルタイガー、しかし、一歩お屋敷の中に入ってしまうと羞《は》ずかしがり屋の子猫になってしまう。その状態の時に〈ペンネームをどうしますか〉と聞いたせいか、正体を明かさぬ〈覆面作家〉ということになっている。
今日は仕事ではなく、披露宴《ひろうえん》の会場に並んでいる。
「何が妙です?」
聞き返すと、千秋さんの、形のいい唇が動いて答えた。
「お前があそこにいるみたいだよ。お雛様《ひなさま》の片方になってさ」
視線の先のテーブルには新郎新婦が並んでいる。男は岡部優介《おかべゆうすけ》。兄貴である。ちなみにこちらは双子の弟で、岡部|良介《りょうすけ》。ユースケ・リョースケと続けると、売れない漫才コンビのようだ。
「兄貴は、何度も見ているじゃありませんか」
「そうだけどさ。今日は特別。どうしてだろうな」
首をかしげる。その鼻先をつーっとイワトビペンギンが流れて行った。
こういうと、なかなかシュールだが、実はごくごく軽く世を渡る、風船のペンギンである。店の中を数羽、シグナルレッドの嘴《くちばし》を振りつつ闊歩《かっぽ》している。ふわりと浮かび、バナナの皮のような羽毛のついた頭を天井につけ〈俺《おれ》はなぜ、こんなところにいるのだろう〉と考え込んでいるやつもいる。そうかと思えば、観葉植物の鉢の横に降りて、〈万事、オッケー〉とばかり呑気《のんき》にこっちを見ているやつもいる。
おかしな店だ。
「ま、ここに座れ」
と、兄貴がいったのが元日の朝だった。きちんと着替えていた。こちらは、パジャマの上にジャンパーを引っかけるという、だらしのない格好だったが、取り敢《あ》えず、
「おめでとう」
兄貴は、頭をかいて、
「……いや、どうも。……ありがとうといおうか、何といおうか」
「?」
「どうした」
「正月は何回も迎えているが、新年の挨拶《あいさつ》をして礼をいわれたのは初めてだぜ」
「う……」と顎《あご》を引き、「そうか。年頭の挨拶か。――こいつ、紛らわしいことを」
無茶苦茶だ。
「何をいってるんだ。本当におめでたくなったのか」
兄貴は、引いた顎を撫《な》でながら、
「うむ。そんなところだ」
びっくりした。
「まだ早いぜ」
「いや。〈まだ〉ともいえん。もう三十だからな」
「そうかなあ」
「ああ」
兄貴は、力強く頷《うなず》く。
「――結局、何がいいたいんだ」
「いや、身を固めようと思うんだ」
コンクリで? とまぜっ返せば、一昔前のコメディだ。
「なるほど、めでたい」
相手の見当はついていた。わが世界社のライバル、洋々出版の編集者、静《しずか》さんである。実は我が兄貴は警視庁の刑事。ある事件を通して、優介、良介、そして千秋さん、静さんの友達の輪が完成したのである。兄貴の奴《やつ》は、そのリングの一つを、より強固なものにしようと画策していた。それに成功したらしい。別に長幼の序など気にはしないが、先にゴールインしてくれれば、こちらも落ち着く。
「式は身内だけでやる。ただし、友達に知らせんわけにもいかん。そこで、披露宴の方だがな――」
「うん」
「捜査一課で聞いたところ、恵比寿《えびす》ガーデンプレイスの何とかいうホテルでやるのが〈お・洒《しゃ》・落《れ》〉らしい」
そんなこと、警視庁で聞くなよ。
「〈お・洒・落〉と、切っていったのか」
「ああ、人差し指を立てて小首をかしげながらな。――ただし、その情報源が一課の誰かは捜査上の秘密だ」
「知りたくもないよ、そんなこと。――で、そこでやるのか」
「いや、美奈子《みなこ》さんがいうには、〈手作りのウェディング・ドレスを着て、お友達のレストランでやりたいわ〉」
「声色《こわいろ》はいいよ。普通にいってくれ」
「すまん。臨場感を持たせようと思ったもんでな」
「目に浮かんだよ。――彼女、案外堅実なんだな」
「うむ。実は、選択肢は二つあってな。手作り路線で行くか、さもなくば、帝国ホテルに会場をとって何百人を招く大パーティーをやるか、どちらかだといわれたんだ。マキシム・ド・パリに行くか、お茶漬け流し込んで寝るか、みたいなもんだな」
「で、まあ、日本人だからお茶漬けをとったわけだ」
「そうだ、〈日本人やったら蹴鞠《けまり》やろ〉みたいなもんだな」
全然会話が繋《つな》がっていない。しかし兄貴は、にやにやしながら鼻を動かしている。何をいわれても嬉《うれ》しいらしい。
「すると、ケーキも?」
「ああ、手作りだ」
静さんは、南青山のケーキ屋さんと知り合い。確か、そこでは〈ウェディング・ケーキを二人で作ってみよう!〉というサービスをやっていた。殆《ほとん》ど実費で作らせてくれるのだ。二時間ずつ三回ほど通うと、愛のケーキが完成するという次第。
「日が近づいて来たら、出掛けて行って粉をこねることになる。どうだ、羨《うらや》ましいだろう」
「ああ。兄貴たちが波の上、こっちは海の底からセンボー鏡で覗《のぞ》いているようだ」
一応、羨望鏡という洒落なのだが、分からなかったか、あるいはそんなことはどうでもいいのか、兄貴は背筋を伸ばし、
「で、披露宴の日取りは四月一日、場所は〈イワトビペンギン〉と決まった」
「何だ、そりゃ?」
鳥の頭の上にでも集まるのだろうか。
「そういう名前の店なんだよ。烏山《からすやま》にある。オーナーがペンギン好きなのさ」
「南極料理でも出すのか?」
「いや、これがまったく無関係にフランス料理なんだ」
ぶるぶると首を振ってしまった。
「わけが分からないといおうか、似合っているといおうか――」
「何?」
「何でもないよ。しかしなあ、四月一日でカラスヤマの〈イワトビペンギン〉か」
「うん」
「冗談だと思われないかなあ」
新郎側友人は警察関係、新婦側友人は出版関係。千秋さんは、当然、花嫁の知り合いなのだが、兄貴|曰《いわ》く、
「お前の隣にしておいてやる。――この恩情を有り難く思え」
「おかしなところで、恩を売るなよ」
「こっちは親戚《しんせき》がいなくてさみしい。ちょうどいい。どうだ、近日親族としておこうか」
勝手なことをいっていた。もっとも、千秋さんには特殊技能がある。何でもお見通しの名探偵の才だ。それを思えば、警察関係といえないこともない。
さて、本日となり、エープリル・フールだと思わなかった人間が、ここに集まった。
店の中に入ったら、あちこちにペンギンが浮かんでいる。これには、おそれいった。一度来たらしばらくは忘れない店だ。
披露宴というよりは、結婚を口実にしたパーティーといったくつろいだ感じ。口あたりのいい白ワインを飲むと、アルコールに弱いお嬢様の目が、とろんとする。そこへ、花嫁ご自身が白いドレスの裾《すそ》を揺らしてやって来た。洒落た長いヴェールから覗く、瓜実顔《うりぎねがお》が輝いている。
「ねえ、覆面先生――」
「あい」
「もう何人も歌ってるわ。聞いてるだけだと」そこで、手をマイクを握る形にして震わせ、「禁断症状が――」
静さんは、歌って踊れる編集者なのだ。
「あいあい」
千秋さんは機嫌よく立ち上がった。脇《わき》に置いてあったインクブルーの帽子を、髪を押さえるようにきゅっと被《かぶ》り、花嫁と腕を組んで進み出る。静さんが手を振ると、洋々出版の連中が用意したらしいカラオケが鳴る。二人は昔懐かしいピンクレディーのメドレーを踊り出した。
静さんは踊りはお手の物。お嬢様も、これに関しては彼女の弟子だ。お酒のせいで時々、操《あやつ》り人形の糸が緩《ゆる》んだようにカクッとなる。しかし、それがまた妙に魅力的である。
新しい皿を運んで来たお店の女の人が、
「まあ、美奈子ったら」
半分、こちらに話しかけるようにいわれたものだから、
「あ、あなたですね。静さんのお友達というのは」
彼女は、にこっと笑った。唇がちょっと厚い。右目の下にほくろがある。
「はい。鳥飼《とりがい》さくら」
「静さんが『わるつ』にいた時のお仲間でしたっけね」
『わるつ』は女性誌、静さんはそこから現在の『小説わるつ』に移ったのである。
「そうです」と、鳥飼さんは頷き、「すみません、馴《な》れ馴れしくって。――この間、花婿さんとお会いしたから」
二人|揃《そろ》って、今日の打ち合わせに来たのだろう。その兄貴は今、シンバルを打つ猿の玩具《おもちゃ》のように、一所懸命、手拍子を打っている。
「はい?」
「初めてのような気がしないんですよ。似てらっしゃるから」
「あ、なるほど」
「あれみたいに――」
鳥飼さんは頭の上を指さす。イワトビペンギンが一羽浮いていたところに、誰かが突いたもう一羽が流れて来た。軽く当たって、数センチ離れ、天井に並んだ。
「ほら、双子みたいでしょう」
そういわれればそうだ。
「トリガイさんっていったけど、握り鮨《ずし》の〈鳥貝〉ですか、それとも――」
「鳥を飼う方です」
「ふーん。やっぱりっていったら、おかしいかな」
「さあ。でも、うちの主人、名字に〈鳥〉が入っているから、ペンギンのこと好きになったのかも知れませんよ」
「鳥と花が好きなんだ」
「え?」
「さくらさん」
「まあ」
さーくーら、という声が起こった。踊り終えた静さんが、今度は、さくらコールをしているのだ。鳥飼さんは、あらら、という顔をして、
「勤務中なんだけどなあ」
この人も歌って踊る、と見た。
「お客の機嫌を取るのも仕事のうちでしょう」
「それもそうね」
鳥飼さんと入れ違いに、千秋さんが戻って来た。幽霊が胸元でする手つきのまま、腕を頭上高く持ち上げたような変な格好をしている。
「どうしたんですか」
「音楽が止まった時、このポーズだったんだ」
「だからって、固まることはないでしょう」
とにかく、ご苦労様、と、コップを渡す。
「ウィスキー?」
「ウーロン茶ですよ」
「よーし」
くいくいと飲んでテーブルに置き、天井を見上げ、にこっと笑って、とんと床を蹴った。伸ばした手で、一羽のペンギンを柔らかく捕らえて舞い降りる。そんな筈《はず》はないのに、お嬢様がやると、スローモーションで降下して来るように見えた。
ペンギンの体長は四十センチぐらい。間近で見ると、膨らんだお腹《なか》が運動不足の中年男のようだ。
お嬢様は、両手でそれをかかえ、見つめながら椅子に座った。
「なあ、リョースケ」
「はい」
「兄さん夫婦と、一緒に住んでるのか?」
「いや、コンパクトな家ですからね。こっちが出ました」
都心は便利だが高い。何より探すのが面倒だった。不景気なもので、近所の安アパートが空いていた。そこに入った。
「ふうん」
千秋さんはペンギンの嘴《くちばし》に、自分の鼻をちょんちょんとつつかせる。
「気に入りました?」
と、鳥飼さんがいった。千秋さんは、
「あ、いけなかった?」
「いいんですよ。可愛《かわい》がってもらうんなら」
お嬢様は、〈可愛がっている〉証拠に、イワトビペンギンの頭を手でいい子いい子する。
鳥飼さんは笑って、
「よかったら、さしあげましょうか」
「え、いいの?」
「喜びますよ。そのペンギン、面食《めんく》いだから」
「え?」
「覆面先生のお噂《うわさ》は、静さんからうかがっています。わたしも今日、一目見てファンになっちゃいました」
千秋さんは俗界の基準を超えた、天国的|美貌《びぼう》の持ち主なのである。ちなみに、天使のような、の誤植ではない。雑誌の編集をしていると、様々な文章を読むことになる。自然のなりゆきとして、雑学が身につく。〈天国的〉というのは、シューベルトの何とかいう交響曲について誰かがいった言葉だそうだ(ちっとも身についていない!)。
ともあれ、千秋さんと初めて出会った時、まず浮かんだのが、この三文字だった。鳥飼さんも、その容姿に感銘を受けたらしい。
「本読んだ途端にファンになってもらった方が嬉しいな」
鳥飼さんは、レジからセロテープを持って来て、お嬢様の肩にペンギンの、オレンジ色の木の葉のような足をとめた。
「肩乗りペンギンだね」
最後に兄貴がぎくしゃくした調子で、お礼の言葉を述べ、お開きになった。型通り、戸口のところに新郎新婦が並んで見送る。そうしないと二次会、三次会と引き回されるからだろう。皆なを追い出した後、都内のホテルで一泊、明日から南の島に行くという。結構なことだ。
「お茶でも飲みたいところですがね」
左手には公園の木々の緑が広がり、空には春の月が出ている。六本木ならまだ閉まる店もないが、この辺りの喫茶店だともう開いてはいないだろう。
「車の中で話そうか」
千秋さんは何でもなさそうに、横手の駐車スペースを示す。黒塗りの高級外車が停まっていた。
「お迎えですか」
「いいっていったんだけどね」
お嬢様が足を向けると、見覚えのある運転手の田代《たしろ》さんが、眼鏡の銀の縁を月光にきらりと光らせながら降り、ドアを開けてくれる。
千秋さんは右肩を擦《す》り寄せるようにして、
「ペンギン、はずしてくれる?」
自動車に乗るのに、このままというわけにはいかない。指をテープにかけると、お嬢様は、〈飛ばさないように気をつけて〉といった。
「他の鳥のために、だよ」
「ペンギンが空を飛んでたら、スズメやカラスが驚くでしょうからね」
「そうじゃないよ」
「え?」
「これだって風船じゃないか。いつだったか新聞に出てたよ。風船突っついて、切れ端を飲み込んだらしい鳥のことが。――ビニールは消化しないから、胃の中に残って苦しんだらしいよ」
座席に腰掛ける。千秋さんはこちらの住所をいわせる。送ってくれるようだ。
お嬢様はペンギンの横の羽を、子供の手をにぎるようにつまんだ。イワトビペンギンは狭い空間の中で、斜めの棒を大きくした〈イ〉の字のように浮かび、千秋さんと向かい合った。
「今みたいなこと考える瞬間には、この子も単なる〈ビニール〉なんだ。――でも、こうして顔を見てると愛情感じちゃう。何ていうか、人格感じる。――面白いもんだね。気持ちって」
車は、滑るように走り出している。する筈だった打ち合わせを思い出した。
「次の取材は、どこにします?」
恋人同士が出掛ける場面だ。
「ごく月並みな二人なんだ。ごく月並みなとこがいいな」
「というと、やっぱりディズニーランド辺りですかねえ」
お嬢様は唇を突きだし、
「いいけどさ。でも、面倒だろう、パスポートとか」
「――千葉県に行くのに、パスポートはいりませんよ」
ああ、と口を開け、
「そうか。日本にもあったのか」
どこか、ずれている。
「フランスにもありますよ」
千秋さんは用心深く、
「どこのフランス?」
「埼玉」
「本当?」
「嘘《うそ》ですよ」
車が停まり、片足を降ろした時、お嬢様は待って、といった。振り返ると、ペンギンを差し出す。
「これ、やるよ。置いてやって。ね、邪魔にならないだろう」
「はい」片手で横抱きにして、ペンギンの顔を、それから千秋さんの顔を見て、いった。「名前をつけてもいいですか」
お嬢様は、目をしばたたき、それからこくんと頷《うなず》いた。
「でも、いじめちゃ駄目だよ」
アパートの部屋の明かりを点《つ》け、荷物を置き、早速《さっそく》ペンギンのクチバシをつまんでやった。丸い目が二つ、上目|遣《づか》いにこちらを見る。軽く揺らすと、子供が、はしゃいでいるように見える。
いってみた。
「こら、千秋」
勿論《もちろん》、お嬢様のお相手だけしていればいいわけではない。花時には、本格推理に並々ならぬ愛情を持つ尼口銃児《あまぐちじゅうじ》先生のお宅にうかがった。観桜《かんおう》の会があったのだ。
先生のお宅の裏手が見事な桜並木。一段下が通りになっているのだ。庭に出れば借景で、いながらにして花見ができる。
「立派なもんですねえ」
「うん。神奈川の桜は、みんな、ぼくのもんだ」
世界社からは編集部の末松《すえまつ》も来て、他に尼口先生と親しい若手作家の方の顔も見えた。
「松も先生のものです」
と胸に手を当てて、いったのは、当然、末松。
「嬉しくないよ、全然。ほら、そっち持って」
尼口先生は、引き締まった体を小まめに動かして庭に椅子やテーブルをセッティングする。四時近いのに、暑いぐらいの日差しである。青い空に桜の花の雲の取り合わせが明るく、まるでスライドの画面でも見るようだ。
バーベキューのセットも出る。
「日が伸びましたねえ」
「締め切りと春の日は伸びるもんだよ」
「そりゃあ、ご勘弁《かんべん》を」
「落ちれば真っ暗になる」
「まったくで」
「でもさ、暗くなるとやっぱり寒いから、早いとこ始めちゃいたいんだ」
「後、誰かいらっしゃるんですか」
「うん、洋々出版の静」
「あ――」
「さっき、電話あってさ。〈もーし訳ございません。たーだ今、向かっておりますので〉って。そば屋の出前だよ」
「静さんといえば、この間までバリ島に行ってたんですよ」
夫婦別姓というのが問題になっている。一応、静さんは岡部美奈子になったのだが、仕事上は今まで通り〈静美奈子〉でやっている。
「あ、そうなの。新婚旅行だな」
結婚したというのは当然、ご存じだ。うちの兄貴が相手だというのは、何となく照れ臭くてしゃべらないでおいた。
「そうなんですよ。――先生の新作が『踊るバリの殺人』でしたね」
『小説わるつ』に連載になっていた連作長編だ。旅先があちらになったのも、その影響かもしれない。帰った後の日曜に、おみやげを持って二人で挨拶《あいさつ》に来た。回るところがあるようなので長話も出来なかった。どちらも不規則かつ夜の遅い仕事だから大変だ。
「うん、帯のコピーが〈同じバリなら、読まなきゃソン、ソン!〉ていうんだ」
「はあ」
「静がつけたんだけど、どう?」
「あの人らしいですね」
「そういう問題じゃないんだよ」
椅子、テーブルの用意が出来て、取り敢《あ》えず乾杯をした。
「バリっていえばさ、感ずるところがあったんだよ。スキューバダイビングやってさ」
「はい」
尼口のアマは、実は海女《あま》ではないかと噂される。これを知らないファンはもぐりともいわれる。先生のお宅は海にも近い。夏には〈神奈川の海はぼくのものだ〉となる。ある編集者が訪ねたら、玄関に、水中マスクをつけ、黒のウェットスーツ姿で現れたという。曰く、〈打ち合わせ? 海の中でやろうよ〉。
「海の中にサメの巣があるっていうんだよ。固まっているところ」
「それは凄《すご》い。虎の穴みたいだ。冒険小説風ですね」
「だろう? そそられちゃってさ。インストラクターに、〈行ってみよう〉っていったんだよ。そうしたら、OK」
「大丈夫なんですか」
「〈行ける〉っていうんだから、サメったってホオジロザメみたいに凶暴なやつじゃないだろう、と思ってさ」
「季節にもよりますよ。ハルサメは弱い」
「くっだらねぇー」
「すみません」
「それで、どんどん泳いで行ったらさ、寒天《かんてん》溶いた中に何か立ってるように、棒みたいなのが見えたんだ。〈あれっ、サメの死骸《しがい》かな〉と思ってさ、近づいて行ったら、そいつが、ぐぐっ、ぐぐぐぐーっ、って向きをかえたんだ。横向きの団扇《うちわ》の表を見せるみたいにさ。大きな壁が目の前に広がってく感じ」
「壁だったんですか」
「マンボウだよ」
「へえー」
「畳にして三畳ぐらいは楽にあったぜ」
「それは得難《えがた》い体験ですねえ」
尼口先生は、色の濃いベルギー産のビールをぐっと飲み干し、
「そこでぼくは電撃に撃たれたね」
「クラゲでもいたんですか」
「違うよ」
「これぞ謎解《なぞと》き物語だと思ったんだ。――そこにいるのは確かに一匹の大マンボウ。しかし、ある角度から見ればサメの死骸だ。そうとしか見えなかったものが向きがかわることによって、どんでん返し。隠された正体が現れる。そこに妙があり、ドラマがあり、ロマンがある。舞台もよかったしねえ。〈これは、神様が見せた天の啓示ではあるまいか〉。そう感じられた。海中で、手近の岩に座り座禅しながら、粛々《しゅくしゅく》と過ぎ行くマンボウに、〈どーも〉と礼をしてしまったよ」
「日本的ですねえ」
「そうでもないんだよ。案外、もぐる奴って水中で座禅するのがいてね、これが欧米人に多いんだ」
「本当ですか」
水中マスクにシュノーケルでもぐってみたら、海中のあちらこちらに結跏趺坐《けっかふざ》した外国人が見えたら、これはミステリアスだろう。
夜になってしまうとさすがに肌寒いから、夕暮れ時から、がんがんやってしまおうということになった。そこへ、我が義理の姉がやって来た。
「どーもどーも、静でございます」
「こいつ、〈お昼っからうかがいます〉っていったんだぜ」
「あはは」と、意味なく両手を挙げ、「もーし訳ございません。何でもいたしますんで。バリの踊りでもやりましょうか」
「いいよ、そんなの」
「先生のご本にちなみまして、南にまいりました。はい、こちらおみやげです。猿の神様の木彫りの人形。魔よけになります」
「祟《たた》りそうだな。――ところでさあ、結婚したんだって」
「えへへ。お聞き及びの通りです。魔がさしまして。――バリの奥の温泉で一緒に打たせ湯に打たれて来ました。――あらまあ、そんな。いいんですのよ、お祝いなんて」手で尼口先生の肩を叩《たた》く格好をして、「――お米券で」
ナチュラルハイである。
「分かったよ。とにかく働け。家事見習いだ」
「はいはい、わたくし、バリの飯炊《めした》き女でございます」
「バリじゃ飯なんか炊かないだろう」
尼口先生は、器用な上にそういうことが好きらしく、キッチンで、美奈子さんや若手女流作家の方と並んでバーベキューの下ごしらえをしていく。男たちは大皿やビールを運ぶ。静かに燃える世界社の青い炎と自称する末松は、腰を落とし、束ねた後ろ頭を見せながら、火を燃え上がらせようとしている。
「……ぼく、こういうの好きなんです」
「何だか危ないな」
末松は、そこで条件反射のように肩を低め、辺りをうかがいながら、
「……外で火を燃すって、結構テクニックがいるんですよ。ふふふ」
やがて、庭での花見パーティーとなる。焼けた串《くし》を選んでいると、美奈子さんが寄って来た。〈どうですか、兄貴は?〉と聞いたら〈あら、嫌だ〉。何が嫌なんだか分からない。そのまま、逆に質問して来た。
「覆面先生はお元気ですか」
「ええ。明日、ディズニーランドに行くことになってます」
「まあ、よかったですね。わたしもご一緒出来れば、新妻が二人になったのに」
お嬢様の姓が新妻《にいづま》。――新妻千秋とおっしゃる。
「取材ですからね。語呂《ごろ》合わせのためにやるんじゃありません」
「そりゃそうですね」
日が落ち出すと、全面サッシの窓から、室内の光が溢《あふ》れて、桜が淡雪の山のようだ。いつも、目をこらせば、そう見えると思ったより白く見えるのが桜の花である。
美奈子さんは、串を縦にして取れる肉、タマネギを食べ、次に横に持ち替えると、
「ディズニーランドといえば、ちょっとばかり妙なことがあったんですよ」
「ほう?」
「〈イワトビペンギン〉のさくらさん。あの人、一昨年まで『わるつ』で、わたしと一緒に仕事していたんです」
「それは聞きました」
「〈変わったお店〉の特集で、真夏の夜、あそこに取材に行きましてね、ご主人と意気投合しちゃって、結局、結婚したんです」
縁があったのだ。
「はい」
「去年の春で退職したんですけれど、その時に、わたしも『小説わるつ』の方に移った。――ま、天地激動の時だったわけです」
「それも大袈裟《おおげさ》だろうけど」
「当人にはそうだったんですよ。で、さくらが〈ねえ、『わるつ』卒業記念にディズニーランドに行こうよ〉」
「なるほど」
別に不思議なことでもない。一方が結婚してしまったら、しかも片方がレストラン、片方が編集者という、異なる〈職場〉に分かれたら、旧友が親しく会うことも難しくなるだろう。
「日曜に行くことになっていたんですけれど、これがなかなか障害がありましてね。さくらが雨天順延《うてんじゅんえん》といったので、最初の予定日がアウト。次が曇り。この日は、式の準備の関係で都合が悪くなった。三回目にからっと晴れて、さて、気分よく舞浜《まいはま》の駅に降り立った二人であった」
「実況中継ですね」
「岡部さん、肉のたれがシャツにつきそうよ」
「あ」
「そういうとこは、あの人と似てるわ。やっぱり双子ね」
「どうも」
「――で、ディズニーランド。中に入って、機嫌よく遊んで帰って来た」
「事故もなく?」
「ええ」
「だったら、どこが妙なんですか」
「わたし達には、妙なところはなかったのよ。ただね――」と、わざとらしく声をひそめ、「心霊写真って知ってるでしょう?」
風の加減か、薄桃色の花びらがひとひら二人の間を器用に縫《ぬ》って流れた。
「さくらには、今回、一方《ひとかた》ならぬお世話になったでしょう。バリから帰ってご挨拶に行ったわよ」
「そうでしょうね」
「こちらの写真も見せた。自然な流れで、あちらの写真、もう一回見せてよ、となった。アルバムが綺麗《きれい》に整理して棚に並んでいた。結婚式の写真を見て、何の気なしに隣のアルバムも抜き出して見たのよ。そうしたら、あの時のディズニーランドの写真があった。ああ、そうだったっけ。シンデレラの王子様が靴を片手に歩いているところに出っくわしたっけなあ――」
飛躍する。
「何ですか、それ」
「ほら、ディズニーランドの中ってキャラクターが歩いてるじゃないですか。あの一人ですよ。凝《こ》った演出だったんです。ペンキ塗り立てみたいな水色の服着た、背の高い王子様が現れた。靴を持ってる。で、わたしに向かって〈おー、あなたはシンデレラじゃ、あーりませんかー。この靴、あなたのじゃ、あーりませんかー〉」
「それじゃあ、吉本《よしもと》ですよ」
「まあ、口調はともかく、そんな風に話しかけられたわけです。それはいい。ところが、その後、チュロスを売ってる緑の車のところに行ったんですよ」
「チュロスって何です」
「何もご存じないんですねえ。明日、覆面先生を連れていらっしゃるんでしょう。少しは予習しておいた方がいいですよ」
「だから今、やってるんです」
「まあ」
美奈子さんの説明で、チュロスというのは、棒状の食べ物だということだけは分かった。
「混んでたから買わないで、写真だけとってパスしたんです。何てことなく、次の写真に移ろうとして〈あれっ〉と思いました」
「霊が写っていたんですか」
「そうなんです。その前の年まで同じ編集部にいた、唐崎《からさき》さんっていう人の姿が、列の中に確かに見えるんです」
「それは恐《こわ》い。いつ亡くなった方なんです」
「いや、まだ元気です」
だったら、別に驚くことはない。
「人間てのは足があって歩くんだから、どこにだって行きますよ。とんでもないところで、とんでもない人に会うことなんて結構ありますよ」
美奈子さんは、残った肉を口に入れると串を置き、手を横に振る。
「足があっても、歩いちゃあ来られない」
「海の向こうにでもいるんですか」
といったら、
「そうなんですよ、ニューヨーク」
「あ、それじゃあ――」
入社以来、ご指導いただいた左近《さこん》先輩という方が去年、ニューヨークに渡った。ライバル洋々出版がアメリカ駐在の社員を置き、あちらの生の出版情報入手と版権の早期獲得に乗り出したからだ。こちらもその対抗手段を取ったわけだ。
「聞いたことありますよ。英語ペラペラの切れ者ですね。向こうで、売れ筋の本を要領よく押さえてる人でしょう」
「そうです。――お茶いれてもどって来たさくらさんに見せると〈あら、本当っ!〉とこれもびっくり。休暇で戻って来てたか、他人の空似《そらに》だろうということになりました。だって、それ以外に考えられませんものね」
「後は、ニューヨークで〈どこでもドア〉を売っているかどうかですね」
そこへ、尼口先生のお声がかかった。
「静ー。今度、夏やるから。泳ぎとバイキングだぞ。その時、遅れて来いよな」
「――は。どうしてでしょう」
「もぐってさ、得体《えたい》の知れないもの採っといてやるから。罰として、それ焼いて食べさせてやる」
美奈子さんは両手を挙げて、海草のように体を揺らし、
「ひぇー」
末松が、横から口を出す。
「これが冗談じゃないんですよ。ボク、去年、エイみたいなの食べさせられそうになりました」
「――エイみたいなの?」
「何だか分かんないんですよ。火にかけるとこまでいったんですけど、幸か不幸か、焼いたら凄い臭《にお》いなんです。皆なが鼻をつまみました。で、こりゃあ、食べられない、ということになった。――それにしても、本当に海の神秘ってのは底知れないですね。何がいるか見当もつかない」
美奈子さんは頷きながら、
「泥棒だっていますよ」
尼口先生が、首をかしげる。美奈子さんはニヤリとし、
「――海中ルパン」
「くっだらねぇー」
アパートに着く。
前は兄貴と二人だったが、今はペンギンと暮らしている。これが、肌では感じないほどの微妙な空気の流れに乗って、ふらふら遊び歩く。どこに行ったのかと思うと風呂場《ふろば》の天井に頭をつけていたりする。
今日は玄関に迎えに来ていた。逆さまにしたマッシュルームのような形の足先をつついて、それから留守番電話をチェックした。
お嬢様の声が入っていた。
東京駅は上がホテルになっている。他県に出ようという時の待ち合わせには、その入り口の喫茶室が便利だ。明日もそこで落ち合うことになっていたのだ。ところが――
〈あの……、えー〉
口ごもっている。エレベーターに乗るタイミングの取れないおばあさんのようだ。お宅にいらっしゃる時の千秋さんは、万事この調子。羞《は》ずかしがり屋の国から羞ずかしがりを広めに来たようになってしまう。
〈……明日ですが、他の方との待ち合わせを……同じ場所で入れさせていただいたのですが……その……よろしかったら、心細いものですから一時間ばかり前から……いらしていただけたら……〉
何だかよく分からない。とにかく早く行けばいいわけだ。
開店少し前から行っていて、開くと同時に席に着いた。
高い高い天井には、大きな葡萄《ぶどう》の実が下がっているようなシャンデリア。その実が内にそれぞれぽっと灯を秘めている。格調があるというか、貫禄《かんろく》があるというか、とにかく落ち着いた雰囲気である。
「よ、リョースケ。悪いな」
お嬢様がやって来た。ハイネックの黒のTシャツに、同じく黒がベースのゆったりしたタータンチェックのシャツをひっかけている。縦横の白や赤の線が鮮やかに浮かび、粋《いき》である。頭には革のハンチング。心細そうには見えない。
「こういうわけだ。聞いてくれ――」
巻き舌になって〈聞いつくれ〉と聞こえる。時代劇のようだ。説明によると、どうやって調べたのか、昨日、某出版社の編集者がお宅を訪ねて来たそうだ。どぎまぎしたお嬢様はインターホン越しに〈急にいらしても、お会いする心の準備が出来ていません〉とおっしゃった。仕事の依頼なら、当面、世界社と洋々出版の分だけで手一杯だ、とも付け加えた。しかし向こうはなおも〈ご挨拶《あいさつ》だけでも〉という。断り切れず、取り敢えず、今日この場なら会えると伝えた。
「だからさ、そろそろ来る筈なんだ。ダンディライアン社の錦木《にしきぎ》さんて人」
タンポポ社といえば童話を出しそうだ。それを横文字にしたダンディライアン社は、ヒロイック・ファンタジーやホラーに力を入れている。
ホップ・ステップ・ジャンプのように順序よく、三人目の客、その錦木氏が、光に満ちた外から入って来た。どうして当人と分かるかといえば、千秋さんの著書を、胸の前に掲げている。黒縁眼鏡に大きなマスクをつけた中年男だ。これで小学校の近くをうろついていたら警察に通報されるに違いない。
お嬢様が軽く手をあげて合図する。錦木氏は、はっと足を停めた。美貌に驚いたのだろうが、並外れているのは容姿だけではない。
千秋さんがこちらの席に回り、錦木氏を迎えた。彼は、マスクをはずすと、早速、名刺を出し、
「打ち合わせのお時間にお邪魔をして申し訳ございません」
こちらも名刺を渡し、
「いえ。――何しろ内気な方ですから、一人で会う、とはいえなかったんでしょう」
千秋さんは、頭に手をやり、
「そういうことさ」
錦木氏は、眼鏡の奥の目をぱちくりさせた。そして、洞穴でも覗《のぞ》き込むように首を動かし、お嬢様を見る。
「……あの、失礼ですが、本当に昨日の覆面先生でしょうか?」
「そうだよ」
錦木氏は、首をひねり、そこで大きなくしゃみをした。ひねったままのくしゃみだったから、首を痛くしたかもしれない。
「失礼いたしました」
「風邪かい?」
「いえ、花粉症なんです」
ティッシュを使う。
「大変だね」
「夜がつらいですね。鼻がつまって眠れないんです」また、くしゃみをする。それで疑問もどこかに飛んで行ってしまったらしい。
「本日は、顔合わせだけということですが、いずれぜひお作が頂戴《ちょうだい》できればと――」
千秋さんは、水のみ鳥のようにぺこんぺこんと頭を下げ始める。
「ごめんね」
「長編が無理でしたら、まず短編。わたくしはですね、覆面先生にぜひ正統本格を書いていただきたいんですよ。クイーン流のダイイング・メッセージ、はたまたカー流の密室――」
「そんなこといったって、ノーアイデアだよ」
そこに頼んだケーキが来た。千秋さんは、その皿を見つめ、
「例えばさ、ここにお菓子があるよね」
錦木氏は、けげんそうに、
「はい」
「これが安倍川餠《あべかわもち》だとする」
「――チョコレートケーキですよ」
「だから仮にだよ」
10
「さあ、第一行目がこの安倍川餠から始まる。これがおいしい。ある安倍川餠屋さんのだ。ところが町には、もう一軒、お店がある。ライバル同士で鎬《しのぎ》を削っている。ところがある日に、安倍川のほとりで男が死ぬんだよね」
「ほう」
「体一面に黄《き》な粉《こ》がまぶされている。安倍川で黄な粉をかけられてるんだから、これは餠屋さんの争いがからんでいると思うじゃないか」
錦木氏がいう。
「思いますかね」
「男は心臓が弱かった。死因は心臓|麻痺《まひ》だ」
「あ、そういうのがカーにありましたよ」
「そうかい。で、ね、男は死ぬ間際に河原に指で文字を書き残していた」
「何と?」
「〈カー〉」
「なるほど。それ、いただきましょう」
錦木氏は、皿の上の餠でも貰《もら》うようにいう。お嬢様は、あわてて、
「――ちょっと」
しかし、相手は頷きながら、
「『愛と死の安倍川、黄な粉は見ていた』」
もう、題まで考えている。
「これ、話にならないっていう例なんだよ――」
錦木氏は、逃げるのが一番とばかり、伝票を持って立ち上がる。お嬢様はあわてて後を追い、何事か耳打ちする。錦木氏はまたくしゃみをし、それから肩を落とした。
「なるほど、それでは仕方がない」
一旦そそくさと立ったもので座りにくくなったようだ。
錦木氏は結局そのまま、顔合わせだけはした、ということで帰って行った。
「同業者として、気持ちがよく分かりますね」
「声をかけてもらえるのは、本当に有り難いんだけどね」
「で、どうなるんですか、安倍川事件の真相は?」
「いえないよ、馬鹿馬鹿しくて。〈こんなことしか考えられない、面目ない〉という例なんだ。笑われるからいわないっ」
しかし、謎というのは妙なもので、いくらくだらないといわれても、解決が分からないと気になるものだ。舞浜へと向かう電車の中で腕組みをして、お嬢様に〈考えてるな、やめろやめろ〉といわれてしまった。
駅に降りる。二人連れは大体において男と女か、女と女だ。男同士で来るところではないようだ。
千秋さんは、入り口に着くまでの間の木々の眺めを、まず喜んでしまった。深緑のスポンジを輪切りにして、木の幹に刺したようだ。シルエットにすれば巨大な麩《ふ》菓子が並んでいるようだろう。何とも非現実的な感じがする。
「不思議の国みたいだね」
なるほど、間からチェシャ猫が顔を出したら似合いそうな枝振りだ。
「今まで西洋風の庭は人工的で肌に合わないと思い込んでいました。でも、こうして見ると奇妙な魅力がありますね」
「うん」
「岸田今日子《きしだきょうこ》さんだったか、マリエンバートで庭園の写真を撮って来たといいます。贅沢《ぜいたく》がしたかったんですって」
「ほう」
「その贅沢というのが、一年経ったらアルバムに貼《は》って、脇《わき》に書くことなんです。〈去年、マリエンバートで〉って」
11
中に入るともう、右も左も分からない。入社したての社員がオフィスの戸を開けた時のようだ。美奈子さんに、昨日、初心者コースというのを聞いておいた。そのマニュアル通り、まず〈カリブの海賊〉とかいうものに向かう。あちらの冒険物語のパノラマ化である。乱歩《らんぽ》にタイムスリップしてもらって、この体験記を書いてもらったらどうなるだろう、実物のディズニーランドよりも妖《あや》しげに、煙霧の流れや舞う水滴などを現出させるだろう、と考えた。
隣のレストランで、お昼を食べる。これまたパノラマの一部で夕暮れ時が室内に作られている。ベランダから出た庭の部分には赤い提灯《ちょうちん》が点々と吊《つ》られている。
「えーと、〈カー〉と書いてあったんですよね」
「まだ、いってるのか」
「教えてくれないからですよ。推理作家のカーだろうか。――どうも、心臓が弱い被害者を、ショック死させたようだ。カーにも似たようなのがあるという話でしたよね。とすれば、カーのその作品と同じ手だ、という意味か」
「それだったら、新作にならないだろうよ」
「そうですね。すると車か。これも直接的すぎる。では、激情の犯罪であることを示すのか」
「どういうこと」
「カーっとした」
「おいおい」
肉料理が来る。ナイフとフォークを握りつつ、
「ヒントをくださいよ」
「〈安倍川で殺されていた〉というのがひっかけかな」
「は?」
「は、じゃないよ。安倍川とくれば安倍川餠。思考をそっちに誘導しようというわけだ」
「安倍川餠とは関係ない。すると、黄な粉はどういうことになります」
「だからさ、黄な粉には別の目的があったんだ。というより、そいつが殺害方法。つまり、黄な粉をかけてショック死させたわけだ」
「ええー」声をあげながら、肉を切った。力が入ったので皿まで切りそうになる。「どうして黄な粉をかけられるのがショックなんです、アレルギーですか?」
落語に『饅頭《まんじゅう》こわい』というのはあったと思うが――。
「そう、アレルギーだよ。そっから先は、自分で考えなよ。羞《は》ずかしくっていえないよ。あたしがさ、どういう状況で、あの話をし出したか思い出してごらんよ」
お嬢様はサラダを口に運ぶ。
「状況?」
千秋さんは、そこで〈くしゅん〉と可愛いくしゃみをした。わざとのようだった。――くしゃみ。
「あ、そうか」
「お話だったら物語の中に伏線がなきゃいけないけどね。この場合は、どういう場面で話し始めたかが伏線だよ」
「つまり、被害者は重症のアレだったわけですね」
「そう」
「すると〈カー〉というのは?」
「真相を伝えようとして、途中で、絶命したんだね。いっとくけど、横書きだよ」
テーブルの上に、指で書いてみる。これはすぐに分かった。横棒は左下に折れる直前で止まったのだ。
「〈カフン〉と書こうとしたんですね」
お嬢様は黙って、水を飲んだ。こちらは続ける。
「――河原で押さえ付けて、〈杉花粉をまぶすぞー〉といって黄な粉をかけたわけですね。そのショックで被害者はやられた。残した文字が〈カー〉」
「笑ってくれよ」
なるほど当たり前に考えたら話にならない。お嬢様が、アイデアのパロディとして述べたのも頷ける。しかし、である。これでも作品にできる人がいるのではないか。表現とは、そういうものだろう。
「――テレビで杉林が映ってさ。風が吹くと黄な粉を撒《ま》くみたいに、さーっと花粉が流れたんだ。散るというより、本当に撒く感じ。こっちまで、鼻がくすぐったくなるようだった」
「編集部にも、毎年やられるのがいましてね」
「そうかい」
「〈今年はまだ大丈夫なのかい、――花粉症?〉って聞いたら、怒られました。〈その言葉を口にするなっ。黙っていれば眠っている。呼ばれたら目覚めるだろう〉って」
「何年も付き合ってると、花粉症も人格を持って来るのかね」
12
ホーンテッドマンションというのは、つまりお化け屋敷で、ここも美奈子さんのお薦《すす》めだった。乗り物に乗り、かなり長いこと、暗い中を二人だけで行ける。
カーブで、乗り物がお椀《わん》を傾けたようになった時、ふうっとかかる千秋さんの重みは蜉蝣《かげろう》ほどのものに感じられる。
華奢《きゃしゃ》な体だ。
お嬢様は、そこから出ると〈ここまでおいで〉というように、とっとっと走って行ってしまう、見失ったかと思うと、お土産ものの店でアライグマの毛皮を模した帽子を買っていた。黒革のハンチングは無造作にポケットに押し込むと、早速、新しい帽子をぎゅっと被る。
しばらく行くと、賑《にぎ》やかな音楽が聞こえて来た。二階のベランダに、ピンクや水色黄色の砂糖菓子のような星や渦巻きを飾った家があった。そこが野外劇場になっていた。すでに観客が前庭の席を埋め、舞台ではディズニーおなじみのキャラクター達が袖《そで》のゆったりとした服を着て踊っていた。
「あっ、ミッキーマウスだ」
叫んだのはこちら。
「子供みたいだな」と、お嬢様はなかなか冷めている。「ディズニーランドなんだ。ミッキーマウスがいるのは当たり前だろう?」
「これが、なかなかそうでもないんですよ」
「どうして」
「ディズニーランドに、ミッキーは何人いると思います?」
「さあ……。これだけ広いんだから、二、三人いるのかもしれない。――でも、筋からいったら一人かなあ」
「そうなんですよ」予習の成果である。昨日、美奈子さんに聞いたのだ。「コンセプトとしてミッキーは一人なんです。あっちでも見た、こっちにもいた、ではコピーになってしまいますからね。このディズニーランドの中で、ミッキーは一時に一カ所にしか現れないそうです。美奈子さんは、もう十回以上、ここに来たらしい。でも、パレードは別として、まだ園内を歩いてるミッキーには出会っていないようです」
その時、何かが頭の中に、テレビの二重写しのゴーストのように浮かんだ。
それがはっきりしたのは、行きつ戻りつ、はなはだ不経済な歩き方をしていて、ある行列に行き当たったからだ。ここでは行列ほど珍しくないものもない。少し歩けば、どこにでも人の列がある。並ぶこと自体が楽しみになるような人と人が来るところなのだ。さて、その行列を〈!〉の符号の長い〈棒〉とすれば、男の子女の子の連なる先の〈点〉は緑色の車だった。
玩具《おもちゃ》のクラシックカーのようなそこでは、スティック状の食べ物を売っていた。
「チュロスだ……」
「何だい」
「いえ、〈去年、ディズニーランドで〉という話なんですがね」
美奈子さんに聞いた〈心霊写真〉の話をした。千秋さんは、歩きながら、偽アライグマの帽子の嘘《うそ》の尻尾《しっぽ》を首に回し、
「ふうん」
「ミッキーマウスは一人だけれど、こっちは他人の空似《そらに》なんでしょうね」
千秋さんは、尻尾の先をいじったままで返事をしない。
「何を考えているんです」
「ん。いや、何も――」
13
海の向こうからの電話というのも、近頃は隣町からのように気楽にかかって来る。ただネックとなるのは時差だけだ。こちらが働いている時、向こうが深夜だったりする。
『推理世界』の連載小説が出版されることになり、たまたま書籍の方に行っていた時、電話が鳴った。用件が終わった後、こちらに回してくれた。〈一言、どうぞ〉というのである。
「岡部君、元気?」
お懐かしや、左近|雪絵《ゆきえ》先輩である。ベッドからかけているのかもしれない。
「はい」
「ニューヨークの夜もなかなかに濃いわよー。わたしも、カレイドスコープのような毎日を送ってるわ」
どんな毎日だ。
「先輩、酔ってるんですか」
「馬鹿ね」
有望作家の作品を押さえた話などをしてくれた。新人の力量を見抜く眼力は、縦の文章が横文字になっても相変わらずのものらしい。
「作家といえば、フクちゃんはどう?」
「スローペースながら、書いています」
「公務の方はいいわよ。聞きたいのはゴシップ」
「は?」
「風の便りに伝わって来てるわよ。いろいろと、ね!」
「悪い風が吹いてるようですね」
先輩は、ふふふ、と笑い、
「軽やかに迫るのよ。逃がしちゃ駄目」
「この間、ディズニーランドに行きました」
「ありゃー、子供だねえ」
「公務です。取材ですよ」
「こら、デートに会社の金使わないの。あっちは、五億十億、端金《はしたがね》っていう子なんでしょう?」
「そこで、お聞きしたいことがあります」
「ほう」
「洋々出版のニューヨーク詰め社員に唐崎さんて人がいるでしょう?」
「何が〈そこで〉よ。関係ないじゃない。話題をかえたな」
「いや、不思議なことに、これが繋《つな》がるんです。覆面先生とのお話で、出て来たことなんですよ。詳しいことは、追ってお話ししますがね。とにかく、ご存じでしょう、唐崎さん」
「そりゃあ知ってるわよ。狭い世界のライバルだもの。檻《おり》の中の二匹のライオンみたいに、毎度、顔を合わせてるわ。ちょっと苦み走ったいい男。かなり出来るみたいね。ま、あたしが相手じゃ、役者不足だけど」
「二通りに取れますね」
「こら、世界社はあたしで持っているんだぞ」
「はいはい。それで、ですね――よくお会いになるんだったら、ついでに聞いてみていただけますか」
「ニューヨークの穴場?」
「違いますよ。去年の春三月、浦安《うらやす》のディズニーランドに行ったかどうか、です」
「はあん?」
「似た人を見たっていう声があるんです。当人かどうか賭《か》けになりましてね」
先輩は嘆息し、
「つまらない話ねえ。――世界は狭い。ハンカチ一枚買うのにヨーロッパに行く金持ちだっていますからね。ニューヨークから千葉に行ったって不思議はないわよ。ニューヨーク、成田《なりた》、浦安ね」
「おっしゃる通り、つまらないことですから、無理にでなくても結構です」
先輩は、軽く睨《にら》むような調子の声になり、
「女がらみの素行《そこう》調査じゃないでしょうね」
「は。――今のところは違うと思います」
「変なの。ま、それとなく聞いといてあげるわ」
「お願いします」
そして、
「あ、岡部君。例の件だけどね」
答が返って来たのはさすがに一瞬後ではなく、翌日のことだった。海を越える電波は働き者である。
「速いですね」
「疾《はや》きこと風の如し、よ。風林火山陰雷霆」
「何ですか、イン、ライテイってのは」
「あら知らないの、風林火山て、続きがあるのよ。孫子《そんし》の言葉。雲のように隠れ、雷のように襲うの」
「なるほど、なるほど」
「何、納得してるのよ」
「いえ、別に他意はございません。――それで、どうなりました」
「ああ、ディズニーには行ったそうよ。彼氏、まだ独身だから、家庭サービスじゃあない。デートでしょうね」
「何だ、やっぱり」
千秋さんが口ごもったりしたから、つい、勘ぐってしまった。一番簡単な答が正解だったわけだ。
「それがね、〈やっぱり〉じゃないのよ」
「え?」
どういうことだ。
「行ったのは、〈ディズニーワールド〉なんだって」
「何ですか、それ?」
「フロリダにあるのよ」
「フロリダって、アメリカのフロリダですか」
「そうよ。バーじゃないわよ」
「つまり、本家ですね」
「違うわよ。本家はカリフォルニアにあるの、それが〈ディズニーランド〉。離れがフロリダの〈ディズニーワールド〉で、分家がフランスと日本にあるわけ」
「ややこしい」
「東京の地下鉄路線図より、ずっと簡単よ」
「そのフロリダの〈離れ〉でも、チュロスは売ってるんですかね」
「知らないわよ、そんなこと。――とにかく、〈去年の春は、日本に帰ってない〉って。あ、それからね」
「はい」
「双子の兄弟もいないそうよ」
電話が切れてから、しばらく妙な気分になってしまった。
フロリダ、カリフォルニア、フランス、ウラヤスの〈ディズニーランド〉が、空間のねじれで繋がっていたらどうだろう。それぞれに瞬間移動の出来るポイントがあったとしたら。――ミッキーは一人という大方針も、それなら貫ける。
いや、それが万華鏡《まんげきょう》のような器だったら、どうか。ゲートをくぐった瞬間、入場者は世界の四カ所にカタンと分かれる。それぞれの場所で歩き、食べ、遊ぶ、パレードを見、夜空のもと外に出た途端に、もとの一人に戻る。
遊園地を舞台にした幻想小説にでもありそうな、そんな〈不可思議〉がひたひたと胸に満ちて来た。
14
千秋さんのお宅の庭も、春と共に賑《にぎ》やかになって来た。雪柳《ゆきやなぎ》の白がこぼれるような辺りから、椿《つばき》が列を作っている。彩りも様々で、薄桜の地に薄紅の絞《しぼ》り模様を見せるものもあり、また椿という日本調の言葉からは想像もつかない、赤は赤でも、色がこぼれ滴《したた》りそうなほどに鮮やかなレッドもある。
麗《うら》らかな――花粉症の方ならぞっとするような――好いお天気だ。雀《すずめ》が一羽、干されてふっくらとした小さなぬいぐるみのような姿を、暖かい地面の上に見せ、そのまま、ちょんちょんちょんと、前を横切って行った。
「岡部さん……」
お珍しや、お嬢様が庭にお迎えである。ご命令があったのか、他には誰も出て来ない。一歩、家から外に出てしまうと性格が一変する千秋さん。あまり女らしい格好を人には見せない。その代わりに、といおうか、新妻邸の中では、パーティー会場にでもいるかのような盛装をなさっている。――一言でいえば、外でも中でも普通ではない。
「まぶしいですね」
明るい日差しの中に立つ千秋さんは、パールホワイトのドレスである。そのお澄ましな白に映《は》えて、長い髪と大きな瞳《ひとみ》の黒がくっきりと浮かび、顔から首筋の子供のような肌の色が柔らかく温かい。
「本当、いいお天気になりましたわね」
「いえ――」
〈まぶしいのはあなたです〉と押したら、鼻持ちならないだろう。
洋館、という言葉がぴったりくるような建物に、すぐには入らず、石人の置物のある分かれ道から奥に入った。東京とは思えない静寂が、木々の梢《こずえ》から降りてくる。次回作の打ち合わせは、資料を渡すだけで、すぐに終わった。
小高くなったところに東屋《あずまや》がある。下った向こうは池で、先に洒落《しゃれ》た縁を持つ座敷が見える。新妻邸には何度も来ているのに、まったく知らない場所だ。ディズニーランドにはかなわないだろうが、しかし、ジョギングには十分な敷地だ。
東屋の席に、ハンカチを広げた。昔の映画か何かのようだ。しかし、このドレスで直接座っていただくのも、どうかと思う。
「あ……。申し訳ありません」
お嬢様は、悪びれず腰を下ろす。パーティーの席を抜け出して来た二人のようだ。もっとも、こっちは冴えない背広姿である。
柱に、小さなクモがいた。クモといっても可憐《かれん》なほどの草色のおちびさんだ。予期せぬ来訪者に驚いたのか、つつーっ、と高くまでかけ上がり、そこで、投げつけられペシャンコになったように平たく静止した。
「あの、この間の話ですけれどね、〈去年、ディズニーランドで〉の件」
「……はい」
「何だか気になったものですから、海の向こうの謎の人物の行動を確かめてみたんです。そうしたら――」
と、結果を説明した。千秋さんは、軽く指を挙げ、
「あ、やはり」
「どこが、〈やはり〉なんです」
「その……。女の方と、そういうところに行く方だ、というのと、それからちょっと魅力的な方らしい、ということです」
「は?」
おとなしい時の千秋さんなので、〈は、じゃないよ〉とは切り返さなかった。
「いえ、それなら〈筋が通るな〉と思ったんです」
「分かりません」
お嬢様は、眼下の池に春風が作る、わずかな波を見つめる。額の髪が、揺れている。
「……わたしにも、分からないのです、本当には。ただ、あのお話をうかがった時、ふと、〈こんなことかな〉と考えたものですから」
何か考えようがあるのだろうか。
「他人の空似《そらに》じゃないんですか。そうとしか思えませんが」
千秋さんは両手を合わせ、
「同じ職場にいた方が、二人でいっているのです。そうとは思えませんでした」
「だって、他にどんな――」
お嬢様は、わずかに首を傾け、
「岡部さん、この話で、一番不思議なのはどこでしょう」
15
千秋さんは、どこか哀しげに目をしばたたいた。
「チュロスを買おうとする列の中に唐崎さんがいた。美奈子さんには、それが一目で分かった。でも、――さくらさんは気づいていなかった。写真の持ち主であり、それをアルバムに整理するまでの間に何度も見ていたのに。――ここですよね」
「あ」
「さくらさんが見せたのは結婚式のアルバムだけだったのでしょう。ディズニーランドのものは、美奈子さんが一人になった時、たまたま抜き出してしまったアルバムに入っていた」
「すると、隠していた?」
「勿論《もちろん》、ディズニーランドから帰ってから、美奈子さんの写っている写真は渡したと思います。でも、そのアルバムに収められている形では見せるつもりはなかった」
「……となると、実は、そこに唐崎さんがいると知っていた?」
「そうではないでしょうか」
「では、美奈子さんとだけではなく、日にちを合わせて、同時にこっそり唐崎さんとも会っていた? いや、そんなのはおかしい。体が二つあるわけじゃあない。そんなおかしなダブルデートが出来る筈がない。――第一、唐崎さんはアメリカにいたんだ」
「ですから、一番合理的な考え方は〈去年、ディズニーランドで〉だと思います」
「と、いいますと?」
「浦安行きは雨天順延《うてんじゅんえん》だったのですよね。曇りの時も、さくらさんの方の都合が入って延期したといいます。お天気を待っていたと考えると、つじつまが合いませんか。そうすれば、写真のトーンが揃います」
「――揃う? トーン?」
「去年の、つまり今年からいえば、一昨年の写真と、です」
眉が寄ってしまう。ちょっと考え、頭の引き出しの中を整理してから、
「すると、唐崎さんの写っている一枚だけが前の年のものだった、というわけですか」
「と、考えれば、何の矛盾もないでしょう。そのために晴れた日を選んでディズニーランドに出掛け同じ場所を写真に撮っておいたのです」
「どうして、そんなことをするのです」
「そこが人の心の微妙さではないでしょうか。今の推論が正しければ、さくらさんは唐崎さんとお付き合いしていたわけですよね。それがうまくいかなくなった。さくらさんは取材であった〈イワトビペンギン〉の方と、あっという間に結婚を決める。唐崎さんはアメリカに行く。さくらさんは、おそらく、唐崎さんと撮った写真は処分したと思います。ただ最後の一枚、〈去年、ディズニーランドで〉の記念、それが特別な日だったのかもしれない。その日の空気と共に彼の姿の写っているものを残した。総《すべ》てを捨てるということが、どうしても出来なかった。本の間にでも挟《はさ》んでおけばいいのですが、それも秘密めいて落ち着かない。隠すのが礼儀だと思うけれど、日陰にしまい込みたくもない。――同じ季節に同じ場所に行けばいい。その時の写真に混ぜておけばいいのです。堂々とアルバムに入れておける。いつでも開いて思い出に浸れる。――ディズニーランドに行くのが好きな人が側にいるなら、面倒なことではない。実は、一番簡単なことでしょう」
千秋さんは、一気にそういった。
「なるほど」
草色のクモはいつの間にか、姿を消していた。散歩に行ったのかもしれない。
「いうまでもありませんが、これはわたしが、たまたまそう思ってしまったということです。御伽噺《おとぎばなし》ぐらいに現実性のない空想です。だから、あまり軽々しくいう気になれなかったのです。そこで語られるのは、心と心が――この場合なら、さくらさんと唐崎さんの心ですけれど――重なることがどれほど難しいか、ということです」
「どちらもそれぞれの思いを持ち生きている人間ですからね」
千秋さんは、ひたむきに、
「でも、その写真は、さくらさんと〈イワトビペンギン〉さんの心が重なることの妨げには、決してならないと思います」
「そうです、そうですよ。向き合えば、後は心は、重なるというより重ねて行くものです」
千秋さんは立ち上がり、手を後ろに組んで、行きつ戻りつした。
「ペンギンさんは元気ですか」
「ええ。少し、ダイエットしたようですけれど。風があるとふわふわしています。のんきです」
「のんきはいいですね」
立って横に並んだ。どこから飛んで来たのか、小指の爪の先ほどの桜の花びらが、千秋さんの肩にとまった。
「しばらく、のんきにしましょうか」
「締め切り、待ってくれます?」
「駄目です」
16
今度もまた、お嬢様に、縦のマンボウを横向きにして見せてもらったな、と思っていた。そうしたら、数日後、世界社のロビーで、千秋さんと尼口先生がばったり会った。
お嬢様と歩いていたら、ちょうど帰ろうとする尼口先生が通りかかったのである。型通り、ご紹介する。千秋さんは、ペコンと頭を下げ、
「怪しいものじゃないからね」
ちょうど尼口先生のお話をしていたところですよ、というと、先生は、照れた子供のような調子で、
「えー。また悪口、いってたんじゃないのー?」
「いいえ、この間の海の話ですよ。覆面先生にも直接、聞かせてあげてくださいよ」
「あ、感銘を受けたね。よーし」
尼口先生は眼鏡をはずすと、機嫌よく横手のソファに座り、南の海の体験を話し始めた。
「――それが、ぐぐぐぅーっ、と動いたら何と四畳半ぐらいのマンボウなんだ。ゆらりと揺れた海草が畳の縁に見えたね」
千秋さんは〈へぇー〉と感嘆している。話は、前より練られていたが、どこか違うところがあるような気がした。首をひねっていると、千秋さんが、つんつんと膝《ひざ》をつつく。
「聞いたかよ、リョースケ。六畳ぐらいのマンボウが――」
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[#挿絵(img/03_069.png)入る]
覆面作家、目白《めじろ》を呼ぶ
千秋さんから貰《もら》ったイワトビペンギンだが、なかなか管理が難しかった。すぐに逃げ出そうとする。
夜、帰って来て、風を入れようと窓を開けた。その時、外に出ては困ると思って、狭い風呂場《ふろば》に入れた。天井に頭をつけて、じっとしている。これなら安心――と思ったら、ちょっと目を離した隙《すき》に抜け出し、窓の方につーっ、と流れて行く。
「おおっ!」
あわてて追いかけ、足先をつかんで引き戻した。軽すぎるほどに軽いから、空気の流れにすぐ乗ってしまうのだ。
ひと月経つと、今度は痩《や》せて来た。ダイエット大成功という姿だ。それにつれて、床の方に居住範囲を移す。ふわふわしなくなったのはいい。安心出来る。だが、しだいにあちらこちらに皺《しわ》が広がり出した。みすぼらしくなってしまった。
「結局、ガスを抜きました」
と、報告したのは梅雨も明けた頃だった。お嬢様は、きらきらする外の光を背にして窓際に立っていた。まぶしい白のドレス姿だ。
「それで……?」
「畳んで、机の引き出しに寝かせてあります」
お嬢様は、微笑《ほほえ》み、
「眠っているのですね」
「冬眠ならぬ、夏眠です」
千秋さんは、鳥の声を聞きに寄った窓辺から、テーブルに戻り、アール・グレイの紅茶の、お代わりをいれてくれる。香りが風に乗って漂う。
勿論《もちろん》、風船の話をするためだけに、ふわふわと来たわけではない。千秋さんの二冊目の本が出ることになった。その打ち合わせだった。それが一段落して、気楽な世間話になったところだ。
「しかしですね、夏眠というのもまんざら冗談じゃあない。七月になると、もう眠り出すハチがいるそうですよ」
千秋さんは、薄い紅茶茶碗を手に、首をかしげる。
「ハチなら蜜《みつ》。――夏って、蜜の稼《かせ》ぎ時じゃあないんですか」
「僕も、そう思っていたんですがね。ハチの中でもマルハナバチ、その中でもコマルというのがいまして――」
「困る?」
「いえ。〈小さい〉方のコです。コマルハナバチ」
「ああ、なるほど」
「それの活動時期というのが二月頃から六月頃らしいんです」
「すると、……一年の半分以上、寝て暮らしているんですね」
のんきである。
「そうなりますね」
「お詳しいんですね」
「いや、全部、応募原稿の中に書いてあったんです」
我が『推理世界』でも新人賞の公募をしている。下読みをするのが編集部員の役目だ。単調な作業が続くわけだから、大体は難行苦行。原稿に取り囲まれ、こづかれている夢を見たりもする。しかし、ごくごくまれに〈これぞ本命〉と思う作品に当たる。これが醍醐味《だいごみ》だ。
「今年は、僕が読んだ中から受賞作が出ましてね。題は素人《しろうと》っぽい。古めかしいんです。『桜草《さくらそう》は花盛り』」
「それに、ハチのことが書かれているんですね」
「ええ。今度、作者に会いにも行くんですがね。その前に、電話であれこれ聞いたら、よく知っているわけです。書いたのがマルハナバチ・ファンクラブの会員なんです」
千秋さんの大きな目が、丸くなる。
「そんなクラブがあるんですか」
「ええ。何にでもファンはいるんですね。会員の中に、宝飾デザイナーの方がいて、体は金、羽はプラチナでデザインしたバッジを作っているそうです」
「本格的なんですね」
「はい」
「マルハナさんの、どこが魅力的なんですか」
「まず、容姿だそうです」
「……?」
「ふかふかした毛が生えていて、ころころして可愛《かわい》い。また、やることが抜けているのもいい。東京の公園辺りでも寒い時には、カレ氏が地面に転がっているそうです」
「ハチが? 地面に?」
「ええ。向こう見ずに巣から〈よおしっ〉と飛び出したのはいいが、寒さに負けて〈ぽとん〉と落ちてしまう」
「まあ」
「これをファンの間では、ガス欠と呼んでいるそうです」
千秋さんは、心配そうな顔つきになり、
「ハチのガソリンスタンドはありませんものねえ」
「あまり、聞きませんねえ」
「困ったコマルくんは、どうなるんですか」
「日が差したりして暖かくなると、また元気になって、〈ぶうん〉と飛び出すようです」
「寒さに弱いんですね」
「困ったことに暑さにも弱い。だから、本格的な夏が来る前に寝てしまうらしい。ま、コマルじゃなくてオオマルなんかになると、夏もがんばってるそうですけれどね」
「オオマルハナバチ、ですね」
「はい」
「面白いんですねえ」
自分の好きなことを書くと、自然、熱も入る。この作者――金山真奈美《かなやままなみ》といったが――の場合もそうだった。
「サクラソウはご存じですね」
長い茎の先に薄桃色の花をつける。
「はい」
「園芸店などにも出ているそうですけれど、野生のものはどんどん減っているそうです」
「ああ……」
「この人が書いて来たのは主婦の話。ヒロインは、目の前に桜草の原が広がる家に住んでいる。毎年、春と共に桜色の波が視界に広がる。でも、実は、その原も長い時間の流れの中で滅びに向かっている」
「開発されてしまうんですか」
「いや、原そのものは保護されているんです。――でも、それだけだと五十年、百年の単位で考えると駄目なんですって」
「どうしてです」
「マルハナバチがいないからです」
千秋さんは、ちょっと考えていう。
「つまり、マルハナさんがいないと、受粉がうまくいかないんですね」
「そうなんです。サクラソウは変わった花なんです。雄蕊《おしべ》の長い花は雌蕊《めしべ》が短い。雌蕊の長いものは雄蕊が短い。――どっちに転んでも自分の花粉は届かない。マルハナバチが、あちらの花、こちらの花と動いて、それを運んでくれてる限り、その方がいいんです。ただし、ハチが来なくなると子供が出来ない」
「それだと、すぐに滅んでしまいませんか」
「ところが、雄蕊と雌蕊の高さが同じ花がごくごく少数、咲くようになっているんですって。ハチなしの期間が続くと、自然、その種が増えることになる」
「うまく出来ていますね」
「でも、自家受粉だけだと、花の数はやはり減って行く。長い目で見ると、どうしてもハチの力が必要なんです」
千秋さんは、眉《まゆ》を寄せ、
「ところが、……その原の周りではもうマルハナバチが住めない」
「そうなんです」
お嬢様は手を組み合わせ、しばらく考え、
「ミツバチなんかは養蜂《ようほう》家の方が運べますよね。マルハナくんでなく、ミツくんではいけないんですか」
「いけないんです。サクラソウの場合は、トラマルハナバチの、それも女王に限るんですって」
「そんなに難しいですか」
「自然の法則からいくと、サクラソウが咲く頃、野鼠《のねずみ》の古い巣なんかで冬眠していたトラマル・クイーンが目を覚ます。そして蜜を吸いに来る。こういう仕組みになっているそうです。手順はできている。――イギリスだかどこだかの〈風が吹くと桶屋《おけや》が儲《もう》かる〉には、マルハナバチと鼠が出て来るそうですよ」
「どういう風に?」
「戦争があると――と始まるそうです。戦争があると未亡人やオールドミスが増える。一人暮らしの女性は猫を飼う。猫が増えると鼠が減る。鼠が減ると、鼠の巣穴が空く。そうするとマルハナバチが増える。マルハナバチが増えるとクローバーが増える。クローバーが増えると牛が――、といった具合だそうです」
「……そうすると、サクラソウの原を昔のままに保つには、まず周りに野鼠の住めるような林を作る必要があるわけですね」
「そうなんです」
お嬢様は、ほっと溜息《ためいき》をついてしまう。
「難しいんですね。――で、その難しいことが、昔は普通だったんですね」
「見た目には平穏無事に花を咲かせる、しかしマルハナバチの訪れることのないサクラソウの原が、ヒロインの心と重なるわけです」
つまり、『嵐が丘』の荒野のようなものだ。
「ああ、なるほど」
「そういった日常の中で、彼女が夫に対して、漠然たる殺意を抱き始める。やがてそれが――、という話です」
「綺麗《きれい》で恐いお話のようですね」
「なかなか、よく書けていますよ。ただし、自分のよく知っていることを題材にしているだけに、別のタイプの話が作れるかどうかが不安なんです。出版社としては、受賞作だけで終わってもらいたくない。いいものを二作三作と連打してほしいわけですからね。で、今度会いに行って来るわけです」
千秋さんは、頷《うなず》いて、
「その辺も確かめにいらっしゃるのですか」
「というより、まあ顔合わせですね。お宅が東北。しかしまあ、その入り口辺りですから、たいした距離じゃあない。東北道に乗ってしまえば一本です。ドライブして来ます」
「お車を買ったんですか」
「ええ、中古ですがね」
とにかく忙しい。車を買っても、乗るひまがないと思っていた。免許証は身分証明書代わりだった。しかし、心境の変化といおうか、あれば乗りもするだろう、という気になったのである。今のアパートに駐車場があるのも大きかった。
そういうわけだから、この出張も〈新幹線で行ってタクシー〉という場合よりは丹念に、道筋を調べてある。福島に入ったところでインターを降り、山の向こうの町に入るのだ。
「原稿だけで知っている人に、初めて会うというのは、玉手箱でも開けるみたいに楽しいものですよね」
「玉手箱では、おじいさんになってしまいますわよ」
「じゃあ、玩具《おもちゃ》箱かびっくり箱だ」
宝石箱かもしれない。
新人作家との対面といえば、先輩の命令を受け、このお屋敷に来た時のことを思い出す。千秋さんも、同じことを考えたらしい。遠くを見つめるような目になって、いった。
「最初にお会いした時は冬でしたわね」
「はい」
あれから、いろいろなことがありましたわね、といい、続けて、
「……目白《めじろ》のこと、覚えていらっしゃいますか」
「は?」
ここは世田谷《せたがや》だ。目白からは大分、離れている。お嬢様は、外にちらりと睫《まつげ》の長い目をやり、
「赤沼《あかぬま》が、いつも春になると……」
「あっ、思い出しました」
赤沼というのは、新妻《にいづま》家の執事。しかしながら、執事という職業に似合わず、肩幅の広い、いかつい人物である。
うららかな陽光がさす頃になると、お屋敷の庭に、ライムグリーンの小鳥が訪れる。それを見て、赤沼執事は毎年、叫ぶ。
――お嬢様、鶯《うぐいす》です。鶯がまいりました。
目白なのだ。トリ違えている。
「そういえば、椿《つばき》の花の蜜を吸いに来るんでしたね」
「ええ、小さな顔が、花粉で黄色にお化粧されます」
「ハチみたいに、吸うんですね」
お嬢様は、悪戯《いたずら》っぽい顔になり、
「夏になると現れる目白もいますの」
「こちらに?」
「いえ。今、おっしゃった町があるでしょう。それを聞いていて思ったんです。もう一つ北のインターから入ったところの山奥に湖があります。夏は涼しいところで、ハーブ園なんかもあります。うちの料理を作ってくれているのが山科《やましな》と申しますの。その子供が、そちらに小さなホテルを作りました」
「ほう。すると、お子さんも料理がご専門で?」
「はい。父親から教えられ、その後、きちんと修業もしたようです。山科も、腕は自分以上だといっています」
「すると、それが売り物ですね」
「はい。評判がいいようで、常連のお客様もついたようです。わたしも夏には何日か参ります」
「そこに目白が来るんですね」
「ええ。……夏の盛りに初めて行った方は、びっくりしますわ」
群れでもなして寄せて来るのだろうか。だとしたら、ツーイ、ツーイとやかましいことだろう。
「そういう山奥で涼しければ、原稿もはかどるでしょうね」
一応、編集者という立場は忘れない。仕事の遅い千秋さんは小さくなり、
「今年はワープロを持って行きますわ」
「だったら、僕も一日ぐらいは監督に行きましょう」
千秋さんは、にこっと微笑み、
「何もないところですけれど、お散歩ぐらいは出来ます。岡部《おかべ》さんの分も、お部屋を用意しておきましょう」
有り難いことだ。
福島の新人作家のところへは、その数日後に出掛けた。内規に〈出張に際しては公的交通機関を使用すること〉となっている会社もあるようだ。世界社の場合は、そう堅いことをいわない。帰ってから、ガソリン代、高速料金を請求すればいい。
うちから直接、北に向かった。七月も下旬に入ると、当然のことながら、本格的な夏である。緑の色、雲の様子が力強い。濃い影と一緒に、車は進む。
インターから下の道に降り、大きく山の向こうを迂回《うかい》する。田圃《たんぼ》の稲の中から、いきなり地面が盛り上がっているように見える。山というのは〈遠くにあるもの〉という気がしているから、新鮮な感じがする。たいしたもので、上まで手抜きなく木が生えている。その量感に圧倒される。狸《たぬき》でも狐《きつね》でも、住んでいて不思議はない。東京の風景に慣れていると、こういう自然を見るだけで、まさに目を洗われるような気分になる。十キロほど行ったところで左折して、上り坂に入る。
道は広いままで、金山さんの町に続いていた。手紙で、分かりやすい略図をもらっていた。実際に来てみると、山間ということから想像していたよりも、ずっと大きな町だ。車を走らせて行くと、今は北から南、どこの大通りも、双子《ふたご》のように同じになってしまったことがよく分かる。コンビニがあり、レンタルビデオの店があり、茶髪の子まで歩いている。
約束のファミリーレストランに車を停める。正午という約束だったが、余裕を持って出たのと、高速がすいていたせいで、四十分ほど早い。しかし、他で時間をつぶす当てもない。ゲラは持って来てあったから、仕事をしながら待つつもりだった。
念のため、『推理世界』の最新号を手に持って、中に入る。金山さんは、もう来ていた。写真も送ってもらってあったので、すぐに分かった。小柄で丸顔。鼻も丸い。子供っぽく愛嬌《あいきょう》のある容姿なのに、目元が、追われた兎《うさぎ》のように不安そうだ。生まれて初めて編集者に会うので、入社試験でも受けるように緊張しているのだろう。ドアをずっと見ていた瞳が、『推理世界』に気が付いた。彼女は座ったまま礼をし、それからあわてて立ち上がる。リラックス出来ればと、にっこり笑ってあげたが、金山さんが、その時、また頭を下げたので見えなかったろう。無駄になってしまった。
「お早いですね」
「あ、いえ、今来たところです」
メニューを開き、焼き肉定食に決めた。テーブルを見ると、金山さんはジュースを三分の二ほど飲んだところだ。〈お食事は?〉と聞くと、きのこ雑炊《ぞうすい》を頼んだ。
送ってあった著者校正用のゲラを貰《もら》い、チェックをする。訂正は殆《ほとん》どなかったので、簡単にすんだ。
後は食べながらの話になる。
「お知り合いの反応はいかがでしたか」
金山さんは、やや下がり気味の目をぱちぱちさせ、
「いえ。まだ話してないんです」
「照れ臭いんですか」
「まあ、そうです」
と、雑炊のスプーンを見つめる。
「ご主人は、ご存じなんでしょう」
「はい。まあ」
「どうでした」
「〈ふうん〉と、いってました」
亭主が女房に殺されかかる話だから、素直に喜べないのかもしれない。
受賞第一作の構想について聞いた。アドバイスをし、調べることをメモした。一段落したところで、サラダのトマトにフォークを刺したら、金山さんがいった。
「マルハナバチトマトというのもあるんですよ」
「え?」
「受粉しないトマトって、中がスカスカして、おいしくないんです」
「あ、それじゃあ、マルハナバチが花粉を運んだものですね」納得しかけて、疑問が湧いた。「でも、マルハナバチって、蜜蜂と違って飼えないんでしょう」
「それが日本のハチじゃなくて、西洋マルハナバチっていう種類なんです。オランダの会社が技術開発に成功して、ハチのコロニーを一セットずつ輸出してるんです」
マルハナバチの団体さんが〈日本にはトマトの蜜があるぞ〉といいながら渡航して来るところが頭に浮かんだ。〈オランダ〉といわれたもので長崎の港に着くところを想像してしまった。ハチは皆、カステラの箱に描いてあるようなバテレンの格好をしている。
「へえ、驚いた。人間って、何やりだすか分かりませんね」
「それを買って、受粉させるんです」
「そういうことが出来るんだったら、サクラソウだって大丈夫じゃありませんか」
言下に、
「駄目なんです」
「どうして」
「外国のものって強いでしょう。日本のカメがミドリガメに追いやられています。植物にしたって、侵略するように上陸して来るものもあります。西洋マルハナバチも同じ。気が荒いんです」
「日本のはおとなしいんですか」
「ええ。手の上に乗せても平気です」
「へええ」
「だから、向こうの蜂にはかなわない。その上あちらは大型で、無理に蜜を吸おうとするから花を壊してしまう。トマトは、その年のものに受粉出来ればすむ。でも、もしこれが帰化したら大変なことになるんです」
便利なものには、問題点もあるわけだ。
「その辺は大丈夫なんですか」
「そこを考えたのか、一世代で終わるようなセットになっているんです。――だから、毎年売れるんですけれど」
「ああ、なるほど」
「でも、何かの間違いがあったらいけないというので、日本でも、在来のマルハナバチで同じことが出来ないか研究されているんです」
餠《もち》は餠屋、ハチはハチ屋である。よく知っている。
「――ファンになったきっかけは何かあるんですか」
金山さんは、山の向こう、この辺りの中心都市の名をあげた。さっきインターを降りたところだ。
「あそこの博物館で自然観察会があるっていう記事が、『県民だより』に載っていたんです。会場が植物園でした。花が好きだったし、一山越えればいいわけですから、気軽に参加したんです。そうしたら、植物よりもそこに来ていた、ころころしたハチに目が行って、〈まあ、可愛い〉って口走ったんです」
好きなことだと、打って変わって能弁《のうべん》になる。
「ふんふん」
「そうしたら、案内の学生さんがすっかり喜んじゃったんです」
「ほう」
「場所が広いですから、学芸員さんだけじゃあ手が足りない。植物の方をやってる大学の方がアルバイトで来ていたんです」
「ははあ、その人がファンクラブの人ですね」
「はい」
「会員は何人ぐらいいるんです」
「まだ十人もいないんです。パソコンで、マルハナバチの情報をやり取りしています」
全国どこでも、マルちゃんについて会話が交わせるわけだ。
「便利な時代になりましたねえ」
「はい。幸い、わたし、パソコンの身近にいますし」
「そうでしたね」
金山さんは、電気製品のチェーン店で働いている。コンピューターはこんな、といっては失礼だが、山間の町にも、進出して来ているのだ。
「小学校、中学校でもパソコン教育やっているんですよ。ここ、そういうことが盛んなんです」
店の規模こそ都市型の店舗とは比べ物にならないが、地域の人には便利なお店になっているという。今日は遅番なので、ゆっくり出ればいいそうだ。
食後のコーヒーを飲みながら、パソコンのことを話す。昼時だから、お客は次々に入って来る。ドアが何回目かに開いた時、金山さんは実に複雑な表情をした。気絶する一歩手前のような、おびえた子供のような、そして、それだけではない何かだった。
人情として後ろを振り向きたくなる。金山さんが、さきほどこちらにしたような、ぎこちない挨拶《あいさつ》を見えない人に送ったので、自然に振り返ることが出来た。
中年女性、その年頃にしては珍しい大柄の人が、販売店のものらしい制服を着て立っていた。目はぎょろりとしていて、突き出し気味の受け口が、喋《しゃべ》りだしたら勢いがいいように見えた。要するに圧迫感のある人だった。
その女性は、鷹揚《おうよう》に会釈《えしゃく》を返すと奥の席に着いた。
「職場の方ですか」
「ええ」
「でも、さっきのお話だと、別に勤務中抜け出して来たわけじゃあないんでしょう」
私服なのだから、当然である。
「はい」
「何だか、びくっとしたように見えましたよ。恐い上司なんですか」
金山さんは、はっきり答えず、ただ、
「主任さんです」
「ああいう人が、店長より強かったりするんですよね」
金山さんは曖昧《あいまい》な笑いでごまかした。これは、相当の相手らしい。
「お店の人は、お昼、よくここに来るんですか」
「近いのが、おそば屋さんか、ここなんで、どっちかですね。森崎《もりさき》さんは、大体、ここに来ます」その人は、定食らしきものを食べ始めたようだ。金山さんは、背後に感じる主任さんの視線に、わずかに体を揺らしながら続けた。「今日は、午後から白河《しらかわ》のお店の方に行くそうです」
「研修会かな」
「わたしには、よく分かりませんけれど。――ああ、そうだ」
「何です」
「お帰りはまた東北道に、お乗りになりますよね」
「ええ」
「でしたら、森崎さんの後を付いていらしたらいいですよ」
「近道があるんですか」
「はい。山越えになりますけど、半分ぐらいの時間で向こうに出られます。道はちゃんとしてますから」
「だったら、そうしようかな」
当人と実際に会って話すというのが最大の目的である。打ち合わせも大体すんだところだ。主任さんの食事が終わるのに合わせて、切り上げることにした。
レジにいる主任さんの背中に近づき、金山さんが、〈どうも〉と頭を下げる。〈ああ〉と答えて、森崎さんは、こちらの顔を、刷毛《はけ》で壁にペンキを厚塗りするように、こてこてと見る。金山さんは、気の弱い子供が母親に弁解でもするように、
「東京からいらした方なんです」
「ふうん」
それから、森崎さんは、にっこりと営業用に近いような笑みを浮かべて、半分こちら、半分金山さんにいう。
「ご主人のお知り合い?」
金山さんは、瞬《まばた》きをしながら、
「いえ。その――ちょっと懸賞みたいなものが当たって、その会社の人なんです」
何だか、こっちは電話勧誘のセールスマンみたいだ。主任さんは、たちまち、いぶかしげに眉を寄せる。そして、顎《あご》を上げるようにしていった。
「何の懸賞?」
金山さんは、一歩引いて、〈それは、また後でお話しします〉と口ごもり、
「……で、あの、取り敢《あ》えずお帰りになるんで、インターまでの道があれなんで……」
もう別にどっちでもいい、と思った。しかし、ここでそういったら、また角が立つだろう。努めて快活に、
「いやあ、東北道にお出になると聞いたんで、後をついて行かせてもらったら、と思ったんです。よろしいでしょうか。――何しろ、生まれて初めて来たところなもんで。ははは」
外に出るとむっとする。坂道をかなり上ったが、それでも高原のような冷気に包まれてはいない。主任さんは、芥子《からし》色の軽自動車だった。5ドアだ。すぐに、その全てをバタンバタンと開けて風を通している。
クーラーをつけ、出発態勢を整えていると、金山さんが自分の車から冷えた缶ジュースを持って来てくれた。心くばりが嬉《うれ》しい。飲むより先に、まず額に当ててしまう。
彼女は、もう一缶を上司のもとに運ぶ。渡しながら何か話し、一緒にドアを閉めている。単なる主任とパートという以上に、まるで獅子《しし》の前の鼠といった感じになっている。金山さんが、いじめられっ子に見えて来た。
車のエンジンがかかる。金山さんはこちらに戻って来て、
「いろいろとお世話になります。よろしくお願いいたします」
と、頭を下げる。前髪が揺れる。額に玉のような汗をかいていた。
「いやいや。こちらこそ」
会釈をして、動き始めた主任さんの車の後を追った。中心地に建物は集まっているが、左折するとすぐにそこを抜けてしまう。市街地に厚みがないのである。しばらく行くと古めかしい橋を渡る。下に目をやると、思いがけないほど高いことが分かる。橋は、車一台が通れるようなものだ。対向車が来たら待つしかない。そこを過ぎると、突然道が狭くなった。嫌な予感がした。案《あん》の定《じょう》、砂利道になった。
「ちゃんとした道だっていったのになあ」
愚痴《ぐち》が出る。しかし、車は通れる。そういう道なら、ここでは〈ちゃんとした〉ものなのだろう。
芥子色の車は少し前を上って行く。木漏《こも》れ日が車体に落ちて、ちらちらする。道は右に左に急カーブの連続だ。両側を木立に囲まれたところでは、世界が光と影のだんだら模様になる。
道からは、やがて砂利さえも消えて、ただの山道になっていく。夏でも土は白く乾いておらず、ねっとりと黒っぽく見える。左右にタイヤの跡がへこんで続いている。道路の真ん中に頭を出した岩を見た時には、まいったと思った。しかし逃げ場はない。ハンドルを切ったら崖《がけ》にぶつかるか落ちるかだ。徐行しながら進んだが、足の下で〈がりり〉と岩が車体を噛《か》んだ。
「こんな道、よく通るよな」
舌打ちをしたとたん、下りのワンボックスカーが来た。土地の人は普通に行き来しているらしい。主任さんの車はブレーキをかけたまま、動かない。〈どうしよう、すれ違えるところまで下がろうか〉と首をねじってみたが、場所が場所だけに積極的にそうしようという気も起きない。こちらが二台だから、遠慮してくれたのだろう。ワンボックスは軽々と下がって行き、一つ前のカーブで内側に寄せて止まった。慣れたものである。もっとも、擦《す》り抜ける時に気が付くと、紺色の横腹が大きくへこんでいた。どういうところで接触したのかと思うと恐ろしい。
そこを曲がると視界が開けた。左側の谷を見てしまう。さっき越えた川が、はるか下で水面を光らせているのだろう。
運転を安心出来る奴にまかせて助手席にいたら、眺めだけはいい道だ。対岸の山に向かって、鳥の群れが飛んで行くのが見えた。おそらく、一生に一度しか通らないルートだ。一人だったら不安だが、先導がいる。必ず目的地に着くと分かっている。
〈車が砂ぼこりで化粧するのは我慢して、この眺めでも楽しむか〉と思った時、――とんでもないことが起こった。いきなり前の車が、頭を谷に振ったのである。
ガードレールは急カーブのところに、古めかしいのが立っているだけだ。緩《ゆる》やかにくねっているここでは――この方が工事としては大変だろうと思うが、大きな石が路肩《ろかた》に埋められている。随分と昔にやったものらしい。その高さはまちまちで、低いところでは石が苔《こけ》むし、殆《ほとん》ど埋まっている。崖に向かって走れば、間違いなく乗り越えられる。
危ないと思ったところで、車は反対側に揺れる。右の木にヘッドランプが当たった。そちら側に突っ込むなら、まだよかったろう。はじけて、また方向を変えた。急ブレーキを踏んだようで、谷の直前で、車はつんのめるように止まった。目の錯覚か、その勢いで後部が持ち上がった気がした。
車は、真正面を谷に向けていた。前輪が、路肩の石に乗っている。石の高低があるので、斜めに傾《かし》いで、そこで奇跡のように踏みとどまっていた。
フロントガラスには、視界一面の空が映っていた筈《はず》だ。運転者には、自分が宙に浮いていると思えたろう。その恐怖に負けたせいかどうか、足がブレーキペダルを離れたらしい。ぐぐっと車体が空へと滑り出した。がくんと揺れたのは前輪が空間に落ちたのだ。
腹を擦って止まるかと思ったが、なまじ車体が傾いでいたのがいけなかったらしい。左の車輪が飛び出したので、右を軸にして投げを打ったような形になった。車の前半分が重心を越えて迫《せ》り出し、後は自らの重みでゆっくりと落ちた。芥子色の軽は鼻面を斜面につけ一回転し、がらがらという音だけを残して視界から消えた。
前の車が、おかしな動きをし始めたところで、こちらは当然のことながらブレーキをかけていた。時間の感覚がなくなっていたが、おそらく一瞬間の出来事だったろう。
車が見えなくなった後、一拍《いっぱく》置いて、さほど大きくはないくせに腹にこたえるような、ずん、という響きがあった。
ドアを開けて外に出、崖を覗《のぞ》く。車は、川に入る手前の岩に引っ掛かり、甲虫《かぶとむし》が倒れたように腹を見せている。下から赤黒い火が出ていた。車体を包んだ緑と炎が、鮮やかな対比を見せた。次の瞬間、濃い煙が噴き出し、火の舌を内に包んだ。澄んだ空気の中に、もくもくと濃く湧き上がる煙は、妙に現実感のないものだった。車から、転がり出る人はいない。
思考停止の状態で立ち尽くしていると、対向車が来た。軽トラックだった。合図をするまでもなく、止まって降りて来た。頭の薄くなった、実直そうなおじさんである。
「こりゃあ、ひどい」
「岩を伝えば、下まで行けないこともないと思うんですが」
おじさんは首を振った。
「気の毒だが、あの火の回り方じゃ助からんだろう。俺にゃあ、機械のことはよく分からんけど、側に行ったところで爆発でもしたらえらいことだ。――それより、まず警察だな」といって、こちらの車をじろりと見る。「ぶつかったわけじゃあなさそうだな」
そんなことは考えてもいなかったので、憮然《ぶぜん》とするより、むしろ〈なるほど〉と思った。容疑者でもあるわけだ。簡単に帰れそうもない。
おぼろげながら〈森崎〉と記憶していたので、運転者の名前と勤務先を伝えた。町に着いたところで警察に連絡してもらうことにした。
待っている時間というのは、もどかしいものだ。その間に、数台の車が通りかかった。自分が落ちそうなカーブに曲芸のように停車して、谷を覗く人もいた。
思ったよりは早く、パトカーと救急車が一緒にやって来た。緊急車両以外は道路閉鎖をしたそうだ。すぐに現場検証という運びになった。
「あの車が前を走っていたんです。この辺りで急におかしなハンドルさばきになったんです――居眠りでもしていて、はっとあわてたみたいな」
そういうしかなかった。こちらも同一方向に向かっていた、追突した痕跡《こんせき》もない、タイヤの跡も証言通りだ。警察としても他に考えようはないだろう。ただ、パトカーの後部座席に座って、ここまでの経過などを話し始めた時に一点だけ気になることを思い出した。
「――缶ジュース」
黒縁の眼鏡をかけた、中年の警官がボールペンの手を止めて、こちらの顔を見た。
「何ですか」
「いや、町を出る時、僕と二人、缶ジュースを貰《もら》ったんです。道が悪かったんで、こっちは開ける余裕もなかったんですけれど、あの――森崎さんには慣れた道ですよね。もしかして、片手ハンドルでプルトップを引っ張ろうとして、それで運転がおかしくなったんじゃないかと――」
いっている内に、自分でも〈無理な推測かな〉と思えて来た。相手も、気がなさそうに〈ほう〉といっただけだった。
結局、町の警察まで行くことになった。ここまで戻ったのなら、と、金山さんの勤め先を覗いてみた。ところが、いない。
〈体調が悪いので休む〉という連絡があったそうだ。あの妙に落ち着かない様子も、そのせいと考えれば納得できる。
帰るのに、また例の山道を行く気はしない。車の処理が終わっていなければ、通行止めも続いていることだろう。結局、もと来た広い道を採った。ところが一人になると人間はいろいろなことを考える。金山さんのことだ。具合の悪いのは体調ではなく、心ではないか。人と顔を合わせられないほど、動揺しているのではないか。
気になって、夜、兄貴のところに電話してしまった。
「あらあら」
と、若奥様が出た。ライバル誌『小説わるつ』も、発行日は我が『推理世界』と同じ頃だ。校了|間際《まぎわ》なら会社で徹夜も当たり前だが、今は比較的楽な時期だ。妙なもので――、というより当たり前なのかもしれないが、家にいる美奈子さんの声は、職場にかけた時のそれとはまったく違う。声にエプロンがかかっているようだ。
兄貴と替わる。こちらは相変わらず。
「別に邪魔ではないぞ。気にするな」
「何ともいってないよ」
「おお、そうか」
「今日、福島まで行って来た」
「一々、報告しなくともいい。兄は許す」
「……つきあってられないから、しばらく一方的に話すぞ」
今日の事件について説明した。兄貴も、さすがに襟《えり》を正し、
「そりゃあ大変だったな」
「それでだが、帰り道、喉《のど》が渇いて来て、貰った缶を信号待ちの間に開けた。そして、走りながら飲んだんだ」
「危ないぞ」
「その間に考えた。金山さんは主任さんが入って来たんで、明らかに動揺した」
「うん」
「しかし、話の中で〈主任さんはよくここでお昼を食べる〉といったんだ。おかしいだろう?」
兄貴も、すぐにいいたいことを察して、
「会いたくない相手なら、立ち回り先は避ける筈だな。まして、特別な時なら――」
「そうだよ。賞をとって、その雑誌の編集者が来るんだからな。落ち着いた気分で話したい筈だ」
兄貴は、ちょっと考え、
「ひけらかしたかったんじゃないか。〈どうだ、どうだ〉と」
「いや、聞かれても、受賞のことは隠していたよ」
「そうか――」ちょっと間を置き、「それだけじゃないだろう。お前、いったい、何を考えたんだ」
「うん。その主任さんに近道の先導を頼んだ――ということは、相手を確実に、そちらに行かせるということだろう。それと同時に、山道に向かう彼女に、自然に缶ジュースが渡せるわけだ。暑い日だったし、ちょっとした挨拶《あいさつ》代わりということなら手渡してもおかしくない」
「それはそうだな」
「その缶に睡眠薬が仕掛けてあったとしたら、どうだい」
兄貴はあっさり、
「飲めば、眠くなる」
「当たり前だ」
兄貴はなだめるように続けた。
「いいか、そういうつもりなら普通は缶は使わんだろう。毒劇物混入事件なら、紙パックの容器に注射器で毒物を入れるか、あるいは単純に瓶の口に細工《さいく》をするかだ。缶は処理が難しすぎる。お前が貰ったのも、落ちた人のと同じタイプだろう。そんなことができそうな缶だったか」
「いや、そういわれると弱いが――、例えば、飲む時、唇の当たるところに薬を塗っておいたらどうだろう」
「味や臭いで分かるだろう。量が少なければ効かないだろうし、やり過ぎれば見た目でも分かってしまう」
「う、うん」
「ま、いいたいことは分かる。明日、手を回して、聞ける範囲で聞いておいてやるよ」
蛇《じゃ》の道は蛇《へび》である。翌日の晩には、もう結果が分かった。
あの缶ジュースは、開けられていなかった。
編集部に、千秋さんから電話がかかって来た。
「あの、御指導いただけるのは、いつ頃と考えたらよろしいでしょう」
「はあ?」
ちょっぴり恨みがましい声になって、
「山科《やましな》のホテルの件ですが――」
「おお!」
「いかがでしょう」
「も、もう、いつでも参上いたしますよ。えーと」と、いってから我に返って手帳を開き、「でも、できたら土日の方が有り難いですね」
左近《さこん》先輩がいたら、勘がいいから〈仕事をだしにしてデートをするな〉とやっつけられるところだ。千秋さんは、〈土日ですね〉と繰り返し、そこで、
「新人作家さんは、いかがでしたか」
兄貴より、タンテイさんとして確かなのは千秋さんの方だ。缶に問題はなかったと聞いて、ふっ切れた筈なのに、やはり落ち着かない。率直に、お嬢様の意見を聞いてみた。
「いかがでしょう」
御返事は、
「……変ですね」
「やっぱり、そう思いますか」
「その方のお住まい、山科のホテルから、そう遠くありませんでしたよね」
「はあ。少なくとも県外に出るというほどではありませんが――」
嫌な予感がした。案《あん》の定《じょう》、
「その方も、土日に一緒にお招きするわけにはいかないでしょうか」
いわなければよかった。
「そりゃあ、理由はいくらでもつけられますね。単なるお祝いの御招待でもいいし、先輩作家に創作の秘訣《ひけつ》を聞く、でもいいし」
「後の方は困ります」
「とにかく、何とでもなりますが」
「……目白《めじろ》」
「は?」
「いえ。何でもありません」
おかしなお嬢様だ。
「取り敢《あ》えず、向こうの都合を聞いてみますよ」
「お願いします。それから、――岡部さんの車で行くことにしてよろしいですか」
「おお!」
お嬢様は、お抱え運転手の田代《たしろ》さんがハンドルを握る大きな外車でいらっしゃることと思っていた。
「それで、金山さんの町に寄り、合流することにして下さい。ただし、出発の前に確かめたいことがあります。お亡くなりになった方の住所を調べておいて下さい」
10
土曜日の早朝、お屋敷の前に中古車を停めた。約束の時間に、大きな門が開いた。
お嬢様は、喪《も》を意識してか、半袖《はんそで》のシャツも、パンツも黒。同じく黒のベレーをかぶっている。色白の顔が、くっきりと引き立っている。てれたような笑みを口元にわずかに浮かべると、ベレーをくっと深くかぶりなおし、さっとこちらに走りだして来た。
助手席のドアに、どんと手をついた。伏せたベレーの黒い丸だけがしばらく見えていた。やがて、さっと顔があがって、
「待たせたな」
いうやいなや、もう乗り込んでいた。二人だけの遠出は初めてである。〈事件〉がなければ、くつろげたろうが、気にかかることがあるから、あまりのんきな話にもならない。
「金山さんに聞きました。森崎さんの旦那《だんな》さんも勤め人のようです。〈土曜日は、多分いるだろう〉という話です」
「そうか」
「金山さんには、〈これも何かの縁だから、お焼香《しょうこう》させてもらいに行くかも知れない〉といっておきました。それで、森崎家までの略図をファックスしてもらったんです」
「なるほど」
「途中で、先方に電話を入れておきましょうか」
千秋さんは、首を振る。
「いや、いいよ。あたしが、ふらりと訪ねて行く。目撃者のお前が、わざわざ行くというのも妙だろう。〈何かやましいことがあるからお焼香に来たのか〉なんて、かんぐられてもつまらない」
「それもそうですね」
「お前、旦那さんに顔は見られてないんだろう?」
「はい」
「だったら、あたしの兄貴になりな。運転手として来たことにすればいい」
「はあ」
途中のコンビニで、不祝儀《ぶしゅうぎ》ののし袋を買った。千秋さんには、いくらぐらい包めばいいかという常識がない。
「百万円はいらないだろうな」
「そうですね」
用意してやった。車から出ると、外の暑さが身に染《し》みる。だが、黒ずくめの服装でも千秋さんの周囲は涼やかだ。そこで世界が、きゅっと引き締まっている気がする。
「こういうことで嘘《うそ》つくのは、気がひけるけどな」
「でも、真実を探るためですからね。森崎さんが空から見ていたら許してくれる筈ですよ」
「そう思わなくちゃあ、やれないよ」
高速に乗ると、この前よりは混んでいた。お盆にはまだまだ間があるが、帰省《きせい》ラッシュを避けようという車もいるのだろう。それでも出発が早かったから、余裕を持って着いた。ビデオテープを巻き戻したように、一生に一度しか来ないだろうと思った町の中を行く。途中から大通りを折れて、略図を見ながら、進む。
瓦も壁も真新しい新築の家があった。そこが森崎家だった。
外に出ると、うるさいほど油蝉《あぶらぜみ》が鳴いている。クーラーの室外機が回っていた。
「いるね」
千秋さんは、何のためらいもなく、インターホンのボタンを押した。ややあって、機械を通したこもった声で〈はい〉という返事があった。お嬢様は、主任さんの職場の名をあげた。〈春に退社していたので不幸を知るのが遅れた、びっくりした〉と話した。
玄関までの短い前庭には、夏草が我が物顔に背伸びをしていた。抜く人もいないようだ。草の臭いが鼻に迫る。玄関を開けたのは、主任さんとはまったく印象の違う、人の良さそうな痩《や》せたおじさんだった。鄙《ひな》にはまれな千秋さんを一目見ると、目をぱちくりさせていた。男ならたいていの場合、美人を見ると親切になってしまう。ご苦労様というように、何度も頷《うなず》き、
「暑かったでしょう」
千秋さんは、バスガイドが説明するような手つきで、
「こちら――」
後は引き取った。
「兄です」
仏壇に手を合わせた後、おじさんが運んで来てくれた麦茶を飲む。手持ち無沙汰《ぶさた》なので、差し障《さわ》りのないことを、と思って家をほめた。
「新しいおうちはいいですねえ」
「いや、ローンが大変で。……やりくりの苦しいところで、逝《い》かれてしまいましたからねえ」
差し障りがあった。
千秋さんがいう。
「頼りがいのある人でした」
「そうだったねえ」
「命の恩人です」
「ほう?」
意外な展開になった。何を話すつもりだろう。
「うちに、スズメバチが巣を作りました。〈夜ならおとなしくしてるだろうから、棒で落として殺虫剤でもかけたら――〉って、何げなく話していたんです。そうしたら、主任さんが、止めてくれたんです」
おじさんは、茶碗を置いて、
「そらあ、そうだろうな」
「うっかりすると大変なことになるんですってね」
「そうだよ。あいつは、四、五年前、実家に行ってた時、納屋《なや》でやられてな。病院に運び込んだ。いやあ、大苦しみして、えらい騒ぎだった。スズメバチの針やら毒やらの仕掛けは、さっぱり分からんけれど恐いもんだねえ」
お嬢様は神妙に頷く。おじさんの話は続く。
「――あいつの村には、スズメバチ採りの名人がいてね。始末してくれって頼んだら、すぐに来た。皆なで遠くから見物した。それが、長袖《ながそで》着て、手袋してるだけなんだ。頭も、帽子被ってるだけ。両手に二挺拳銃《にちょうけんじゅう》みたいに殺虫剤のスプレー持って、ハチに引っかけながら、向かって行く。時々、刺されても、〈おお、痛《いて》えっ〉なんて、いいながら、払ってる。びっくりしたよ。特異体質ってやつだろうな。あんなこと、普通の人間がやったら、命がいくつあっても足りないよ。そんな具合で、刺されても人によっちゃあ、軽くすむのもいるようだ。でも、うちのはそういかなかった。それだけじゃない。お医者さんにいわれたよ。抗体とかなんとかの関係で」
おじさんは、ごくっと麦茶を飲み、
「――今度刺されたら生きちゃあいられない、ってね」
11
金山さんの家までの道も、略図を貰っていた。指示通りに進み、車をつけて妙な気になった。こちらも、壁、門の汚れていない新築だった。相似。――とはいっても建築ラッシュの昨今だ。ごく自然な偶然かもしれない。
玄関先に現れた金山さんは、わずかの間に、一見して分かるほど痩せていた。目が大きくなっている。努めて微笑《ほほえ》み、
「お茶でもいかがですか」
用意をしたというので、形だけいただき、すぐに車に乗り込んだ。千秋さんが後部座席に座り、金山さんと並ぶ。旦那さんは、いないらしく、顔を出さなかった。
高速で北に一区間だけだから、下の道を行くことにした。いくつかの話題が表れては消えた後、金山さんはおずおずと切り出した。
「森崎さんのところに、いらしたんですか」
「ええ」
それ以上の話にはならない。
国道を走り、山間に入って行く。湖への林道の表示を見て折れる。数年前に開通したばかりという、もったいないような、いい道だ。やがて、木々の間に光る湖面が見え始めた。
テニスコートもあった。赤茶色の地に、青緑のコートが色紙を貼《は》ったようだった。当然、そこは水平に作られている筈だが、こちらの道が上り下りしているために、斜めにかしいで見えた。
目的のホテルが近づくと、千秋さんは寡黙《かもく》になった。ただ、T字路で〈右〉といったきり、口を結んでいる。こちらは寂しくなっている。松の林が続いている。
やがて、道沿いにぽつんと建っているヨーロッパ風の洒落《しゃれ》た建物が見えて来た。向かいに、草むらを刈り取って整地したような広い駐車場がある。周りからは、山の木々が枝を伸ばしている。
「そっちに入れて」
千秋さんは低くつぶやくと、金山さんの方に向き直った気配。そして、ゆっくりといった。
「スズメバチのこと、聞いたよ」
金山さんが、あっと息を呑《の》む。
お嬢様の言葉は続いた。
「――そりゃあ、パニックになるよね」
「わたしは……」
いいかけた途端、金山さんは悲鳴をあげた。何事が起こったのかと思った。すぐに分かった。何匹かの小さなハチが車の窓を叩いていた。まるで誰かを呼ぶように。
振り払おうとハンドルを切り、駐車場に曲がったが、ハチは逃すものかとばかりに、わっと追って来る。いや、その数を増すようだ。
「嫌っ」
金山さんは、ハチに強い筈なのに、明らかに恐怖の声をあげた。そして何と――車の窓を下げた。
「外だよ。外にいるんだ。開けちゃあいけないっ」
千秋さんが止めたが遅かった。狂ったように小さなハチが車内に躍《おど》り込んで来た。
羽音は、閉じ込められた空間の中で異様に大きく響いた。二匹、三匹と続いた虫が、凄《すさ》まじい勢いで狭い車内を飛び交う。鼠花火を空中に放したようだ。
「どうします?」
手で顔をかばいながら、聞く。
「エンジン、切っちまいな」
「ここで、ですか」
「かまわない。広いんだから邪魔にはならない。切って、早く外に出るんだ。この子達、刺すからねっ。刺されるとはれるよっ」
それは穏やかではない。千秋さんは、ぱっとドアを押し開けた。金山さんの手をとって、引きずるように外に連れ出す。虫は、こちらを追って来るかと思ったが、案に相違して、車の周りをぶんぶんと飛び回っている。
「何がなんだか分からなくなっちゃったんだね」
千秋さんが、沈痛な調子でつぶやいた。はるかに年上の金山さんが、まるで落ち着きのない子供のような目でお嬢様を見た。言葉は続いた。
「――パニックだね。あれはアブだよ。集まって来たんだ。外のそいつが、車の中に湧き出したような気がしたんだね。あんたがやったみたいに」
金山さんは、自分の力では動かしようのないものを、無理やり動かすように、徐々に首を曲げ、頷いた。その途端、自分が肯定したことに驚いたという顔付きになり、次いで、顔を両手で覆《おお》った。
足元に、大きな山蟻《やまあり》が、何も知らずに歩いていた。
12
しばらく経つと、煙草の煙が薄れるように、虫の群れがいなくなった。ドアを開け、中の居残り組を追い出し、エンジンをかける。その途端、また虫が戻って来た。
車を正規の駐車位置に収め、荷物は後のことにして取り敢えずホテルに向かう。
「熱か何かに引き寄せられるんでしょうか」
「どうだろうな。あたしは、排気ガスによって来るって聞いたけど」
知ってたんですか、といいかけて言葉を呑んだ。分かった。
「これが目白ですか」
「うん。この辺りじゃ、そう呼んでるそうだ。目のところが白いんでね。――車がエンジンかけて、走り出すと、近くの目白が全部ついて行っちまう。それぐらい、自動車が好きなんだ。――まあ、あんまり、有り難くない歓迎だけれどな」
頭の上を、巨大な鰈《かれい》のような形をした雲がゆっくりと流れて行く。一日は、夕暮れに向かって行く。
玄関に檻《おり》があり、山で捕まえたらしい狸《たぬき》が入って寝ている。その横に、見慣れたいかつい顔が立っていた。山のホテルの雰囲気に合わせるため、くつろいだ私服になっているが、どうも似合わない。
「お嬢様」
赤沼執事である。ということは田代さんも来ているのだろう。監視がきびしい。なかなか二人切りにはさせてくれないようだ。
「あたし達だけで話したい」
「かしこまりました」
二階の奥の落ち着いた部屋に案内してくれた。和室である。
「どうしてこんなことになっちゃったの」
赤沼執事が出て行くと、千秋さんはさっそく金山さんの隣に座って、聞いた。金山さんはもつれた糸の束をほぐすように、少しずつ話していった。
「うち、去年、家を建てたんです」
「うん」
「同じ頃に、主任さんも家を壊して新築しました。その支払いの時になって、主任さんに税金のことを聞かれたんです」
金山さんは、両手で頬《ほお》を撫《な》でるようにしながら、
「――親御《おやご》さんが、この際だから何百万か出してくれるそうなんです。でも、お金を貰《もら》うと税金取られるんじゃないかというんです。――うちは親からどうこうということはなかったんで、即答はできませんでした。けれども、家を建てる時にはあれやこれやがあるでしょう。家の百科事典みたいなのを買ってあったんです」
そういう実用書は町に溢《あふ》れている。
「――調べてみます、といって帰ったんです。何かいいことが書いてあるといいな、と思いました。そうしたら、家を建てる時でも、親からお金を貰ったらやっぱり税金を取られると書いてある。でも、そこに特例というのがあったんです。一定の条件を満たせば免税になる」
金山さんは、すでに暗記しているらしく、すらすらと条件を並べた。
「〈贈与者は、父母か祖父母〉〈被贈与者の所得が千二百万円以下、ただしサラリーマンの場合は千四百三十一万円以下〉〈贈与者が過去五年間、被贈与者と同居していないこと〉〈新築であること〉〈被贈与者が住む家であること〉〈住宅床面積が五十平方メートル以上二百四十平方メートル以下〉〈贈与を受けた翌年の三月十五日までに、家を取得し住むこと〉」
そんなことに関心を持たない人間には、無味乾燥《むみかんそう》な言葉の羅列《られつ》だ。ああ、そうですか、と思うだけだ。
「これを満たしていれば、三百万貰っても無税なんですって。普通だと、親からそれだけ貰ったら三十万五千円、税金を納めなければいけないそうです」
つい、いってしまう。
「親から貰って申告するかな」
金山さんは疲れた声でいう。
「だから、日常的に常識的な額をちょこちょこ貰っているのはかまわない。多額でも、学費なんかだと申告の必要はないんです。ただし、家を建てた時は、費用をどこから出したかの内訳を申告する。そこに〈贈与があった〉と書くと、課税の対象になるわけです」
「ううむ」
「わたしは、この〈特例〉を読んで嬉しくなって、本を主任さんに見せました。条件はみんな当てはまる。普通の人ならそうです。そして、申告の時になりました。〈まあ、三十万五千円のためなら、一日ぐらいいいか〉と主任さんは休みを取って、税務所に出掛けて行きました」
話の方向は大体見えて来た。
「――主任さんは、夕方、青い顔をして店に出て来ました。〈どうしたんですか〉と聞いたら、つぶれたような声で〈お金は取られた〉というんです。驚いてわけを聞いたら、待った末に、ようやく番が来た。そうしたら書類を見た担当の人が、〈壊して建てたんですか〉と聞くそうです。〈はい、前のところに新築したんです〉と答えたら、にっこりして〈それは新築じゃあありません、改築です〉といわれたそうです」
「へえ」
「びっくりして、〈新しく建てたんです〉といっても、〈前に建っていたんでしょう。それなら、新しく建てたことにはならないんです〉という返事です。わたしも、主任さんも建て替えですけれど、二人で話す時には、新築、新築といっていました」
言葉の恐さだ。普通、家が建っての祝いは新築祝いだ。その本が説明不足だ。どういう場合が〈新築〉なのかを、きちんと注記しておくべきだ。
「――主任さんは、〈どうしてちゃんと調べてくれなかったのか〉といいます。〈後から考えれば、いろいろなことに物入りだったんだから、三百万はそっちに使ったともいえる。家のための贈与ともいえない。少なくとも、まるまる申告する必要なんかなかった筈だ。第一、こんなことになると分かっていたら、一度に貰わずに少しずつ貰う。ローンで苦しくて、食べるものまで切り詰めてる時に、こんなことになるなんて〉って、本当に、がくがく震えてるんです」
お嬢様ならともかく、われわれ一般庶民にとっては、三十万というのは小さな額ではない。
「――次の日も、〈ひと月、働いたって、あの分を考えたら、ただ働きだ。そう思うと、何をする気力もなくなる〉っていわれました」
その気持ちは、分からないでもない。
「――わたしは、もう苦しくって、苦しくって。帰って、うちのに相談しました。そうしたら、怒られました。〈貰った分だけ取られた。規定通りで、何のおかしなこともない。それを、どうこういう方がおかしい。当たり前のことが当たり前に行われただけだ。そんなことで、くよくよしてるやつを見ると腹が立つ〉っていうんです。〈少しでも弁償《べんしょう》しようか〉っていったら、怒鳴《どな》られました。〈馬鹿か、お前は〉といわれました。まったく、その通りです。正論ですよね。でも、今度は主任さんに会う。主任さんは、わたしの顔を見ると何かいいたくなる。それが分かる。確かに、三十万も取られると分かっていたら、常識的な額の範囲で何年も貰うとか何とか、絶対にした筈ですよね。それを、わたしのせいで書類にして、税務所まで出掛けて行ってしまった。わざわざ休みまで取って。――だまされたような気になる筈だ。そう思う一方で、〈自分でも確認すべきだろう〉と思い、また〈こんな風に書いてある本を見せられたら、わたしだって、それ以上調べたりはしない〉とも考えました。そうこうしている内に、主任さんの顔を見るだけで、吐き気がしたり、頭が痛くなるようになりました。でも、お店では、特に主任さんの前では、そんな顔は見せられない。――辞めたかった。でも、それを、うちでほのめかしたら、また怒鳴られました。わたしが弱いのが、たまらなく不愉快なんです、うちのは。――それに」
と、金山さんは視線を落とした。
「――うちもローンがありましたから、実際、おいそれとは辞められなかったんです。わたしの稼《かせ》ぎも計算に入れてありましたから」
13
しばらく黙っているお嬢様の方に、聞いてみた。
「で、結局のところ、どういうことを、どうして考えたんです。どこからスズメバチが出て来たんです?」
「そりゃあ、お前のいうことを聞いてさ、やっぱり変だと思ったんだ。わざわざ、お昼に鉢合わせするなんてさ。そこで、事故だろう。となると、〈冷えた缶ジュース〉というのが気になった」
「やっぱり〈缶ジュース〉ですか」
「違うよ。〈冷えた缶ジュース〉さ」
「は?」
「は、じゃないよ。――冷えたのを車から出してくれたんだろう?」
「そうですが」
「その場で自動販売機から買ったんじゃあないよな。――お前達は、ずっと話してたんだ。打ち合わせもした。後から来た森崎さんが食べ終わるのも待った。どう考えたって一時間以上は経っている。夏の日盛りに、それだけの時間置いてあった車の中から、どうして〈冷えた〉ジュースが出て来るんだ」
「あ――」
「クーラーボックスが入っていたわけだろう、当然」
「そうですね」
「旅行に行くわけじゃあない。町の中を行き来している人が、わざわざクーラーボックスに飲み物なんか入れないだろう」
「そういわれればそうですね」
「何らかの作為があったとする。その仮定に、クーラーボックスというのは、ぴったり当てはまる」
「はあ?」
「だからさ、森崎さんに〈缶ジュースを〉渡したかったんじゃないと考えてごらん。〈クーラーボックスから出した何か〉を、同時に後部座席にでも散らしたと考えたら」
「あっ」
「そうだろう。金山さんの話によれば、マルハナバチは寒さに弱い。冷気によって短期間冬眠状態になってしまう。捕まえたやつを眠らせておく。右手にジュースを持ち、左手でその子達を握る。缶を渡しながら話しかけ、片方の手を後ろで開けばいい。車に入れば、ハチはやがて目を覚まして飛び回り出す」
金山さんが、ぼんやりとした声でいった。
「あの朝、岡部さんがいらっしゃる朝、庭に出たら、野萱草《のかんぞう》のオレンジ色の花に、トラマルハナバチが何匹か来ていました。萱草はワスレグサです。苦しいこと嫌なことをとろけるように忘れることが出来たら――、でも、わたしにはそんなことは出来ない。生きてくる中で起きてきた何やかやに苦しめられてぼろぼろになるだけだ、そんなたまらない気持ちがこみあげて来ました。揺れる花を見ていて、そこで、ふと思ったんです。主任さんが、あの山道を行く。もし途中で、車の中にハチが現れたら、運転を誤るかもしれない。わたしには見えないところに行ってくれるかもしれない。――どうして、そんな恐ろしいことを考えられたのか、今では分かりません。でも、その時には、そうすれば自分に責任のないところで、ことが解決するような錯覚に陥《おちい》ってしまったのです。〈原因はハチ、わたしではない。自然のこと。ハンドルを握っているのは主任さん、わたしの手が、それをねじ曲げるわけではない。たまたまそうなるだけだ〉って。それでハチを集めて、冷蔵庫に入れたんです。そして、クーラーボックスを用意しました」
14
千秋さんはいう。
「走っている車の中にハチが出て来たら、普通は驚くよね。でも、それだけで大事になるだろうか。――なるかもしれないけれど、ならないかもしれない。――そこで考えたんだ。森崎さんは極端なハチ嫌いだったのかも知れない。そういう人が相手なら、おとなしいマルハナバチが出てもパニックになるかもしれない。まるでスズメバチでも、出て来たみたいに」
ちょっと間を置いて、
「――そこで、〈待てよ〉と思った。犬に噛《か》み付かれたことのある人は、犬恐怖症になったりする。日本で恐いハチといえば、何といってもスズメバチだ。もし、森崎さんがこれにやられたことがあったとしたらどうだろう。車という密室の中で、ハチが羽音をたてて飛び回り出したら、もう冷静な判断は出来ないのではないか。これは聞いてみるだけのことはある。もし、そういう事実があったとしたら、逆に、こんな〈変わった方法〉が取られるのも頷《うなず》ける」
金山さんは、うなだれ、
「……そうなんです。主任さんの、その話は聞いていました。マルハナバチの中でも、トラマルは大型ですし、体の色もオレンジや黒が含まれています。……かなりのことは起こるだろうと思いました。岡部さんが、車で徒《つ》いて行く。何が起こるにしろ、後で聞けると思いました。また、自分は現場の近辺にはいなかったということの証明にもなるような気がした……のだろうと思います。……自分のことで〈だと思います〉なんていうのも変ですけれど、本当に、あの日は雲の上にでもいたみたいで、何をどうしていたのか、よく分からないんです」
千秋さんは、座り直した。
「だからといって逃げることは出来ないよ。自分でもそう思ってるんだろう。それなのに、旦那に気兼ねして、思い切って総《すべ》てがいえない。だから苦しいんだろう」
「…………」
「でもね、森崎さんには、あの日、一番恐いことが起こったんだよ。きっとハチに気が付いた時、心臓が溶けた鉄みたいに熱くなったと思う。それから、自動車が崖に掛かった時から崖に落ちるまでの、永遠みたいな瞬間。その時、どんな気持ちだったか。それを考えるとね、逃げちゃいけないと思う」
金山さんは、小さく頷いた。
15
ご自慢の料理というのも、こうなっては喉《のど》を通るものではない。千秋さんは、その名シェフに、パンプキンのカップスープと小さいアイスクリーム、消化が良くすぐ流し込めるお粥《かゆ》を作ってもらった。
金山さんに、ほんの少しでも、お腹《なか》に入れてもらった。こちらもお付き合いした。
待っている内に、パトカーが着いた。三人で乗り込んだ。二人で帰れたのは九時過ぎだった。
風呂から上がって、ホテルの案内を広げていると、赤沼執事がノックした。
「御苦労様でした」
おにぎりの乗ったお盆を持っている。
「こりゃあ、どうも」
「お嬢様が差し上げろとおっしゃいまして」
気がききますね、といいかけて、
「お嬢様は、お食べになりましたか」
「いえ。もう、お休みになりました」
こちらは食べてから寝た。
翌日は、よく晴れた。朝食の後、二人で散歩に出た。千秋さんはチャコールグレイの細身のパンツに、白のシャツだ。栗色の帽子を被っている。
松の林に向かう。
「あの人の旦那さんは〈余計なことをいう〉と思うだろうね。黙っていりゃあ、分からないことだから」
「しかし、ほうっておいたら、金山さんは壊れたろうと思いますね」
千秋さんは細い道に入って行きながら、
「旦那が、奥さんの立場になれる人だったら、こんな事件は起きなかったろうな」
「そうですね」
「森崎さんも、金山さんも、両方とも無事だったろう。でも、旦那はそんなこと、一瞬も考えないだろうな。ただ驚き、怒鳴るだけだ。自分の人生を、奥さんが目茶目茶にしたと思うだろうな」
時季外れのオダマキが、二輪、咲いていた。林の間の道だ。空は、道の上に細く切られている。
「人が生きていくのも難しいけれど、人と人が生きていくのも難しいですね」
森崎さんと金山さんの、二軒の真新しい家が目に浮かんだ。
「離婚するんだろうな」
「多分」
羽虫が、目の前を横切って行った。それを見ながら、確認してみた。
「証拠はない。だから、あの――目白ですか、あれで反応を見ようと考えたわけですね」
千秋さんは、少し語調を替え、
「――金山さんがいえないことを抱えているとしたら、目白がその背中を、少しだけ押してくれるかと思ったんだ」
「きっかけですね」
「うん」
「金山さんはハチの好きな人。事件に無関係なら、かえって目白を面白がるかもしれない。――少なくとも、うろたえることはない筈ですよね」
「そうだよな」
「うまく行きましたね」
「行きすぎたな。〈何ですかあ!〉と妙な顔されて、後で笑いながら夕食をとれるとよかった」
夕食で思い出した。
「あ、おにぎりをどうも」
「なーに、ちょっと気が付いたから――」わずかに、間を置いて「山科に、頼んでやったんだ」
しばらく歩いてから、千秋さんは立ち止まり、腰に手をやった。そして、いった。
「何だよ」
「いえ。――おいしかったです」
鳥が鳴いた。
16
「だから、よく握れていましたって」
千秋さんは、水音のする方にずんずん歩いて行く。向こうを向いたままで、
「――じゃあ、どうして分かったんだ」
「分かるものですよ」
小川が流れていた。湖に行くのだろう。見ると、赤紫の小さな花が咲いていた。
「あ、ツリフネソウです」
足が止まった。
「何だい」
「そこの花ですよ。ほら小さな船が、茎の先に吊《つ》られているようでしょう」
千秋さんは、腰をかがめ、
「本当だ」
「これが咲いていると、マルハナバチが来るんですよ」
「分かるのかい」
「ええ。この件に関しては、ちょっとばかり調べましたからね」
そういっているうちに、本当にころころしたハチが飛んで来た。
「へええ」
「これ、マルハナバチ専用の花なんですって」
「どうして」
「ま、見ていて下さい」
ハチは、人が見ていることなど意に介さず、小さな花にとまる。よく見ると、吊られた船は、袋のような形になっている。マルハナバチは、その入り口から寝袋にもぐり込むように、体を突っ込んで行く。花房の奥に蜜が隠れている。
「うわあ、ぴったりなんだね。計ったみたいだ」
「自然は神秘ですねえ。オーダーメイドの服みたいに、合うんですからね」
「だから、マルハナバチ専用か」
千秋さんは感嘆してしゃがむ。こちらも隣に座ったが、斜面で足元が落ち着かない。右に転がった倒木に手を掛け、体を支えようとした。
ところが、手を置くものはなく、体はそのまま、ふーっと倒れていく。長く続いていると思った木は、すぐそこで切れ、先がなかったのである。
マネキンでも倒すように、どうっと引っ繰り返ったから、さすがのお嬢様も驚いた。振り返って、
「大丈夫か、リョースケ!」
間抜け過ぎる。〈痛い痛い〉と顔をしかめるわけにもいかない。
「ははは」
「見せてみろ」
滑った右手の内側に、木の端で擦《す》ったらしい長い傷が、川のように流れていた。見る間に、あちらこちらに小さな血の玉がふくらんでくる。
「痛そうだな」
「いやあ」
「早く帰って、薬を塗ろう」
「平気ですよ。それに、こんな傷だと、引っ掻《か》かれたか、と思われる」
千秋さんは、まじまじと傷の流れ具合を見て、
「本当だ。でも、どうしてお前が、引っ掻かれるんだ?」
千秋さんの白いシャツが汚れないように、右手は後ろに回した。
左手が、入れ違いに細い胴を抱いた。
「こうしたせいです――」
※マルハナバチに関しては、マルハナバチ・ファンクラブの菊地千尋さん、並びに『保全生態学入門』鷲谷いづみ・矢原徹一著、『マルハナバチの経済学』ベルンド・ハインリッチ著/井上民二監訳/加藤真・市野隆雄・角谷岳彦訳(共に文一総合出版)に、ご教示いただきました。記して、御礼申し上げます。
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[#挿絵(img/03_137.png)入る]
覆面作家の夢の家
由井美佐子《ゆいみさこ》先生は、固定ファンを持つミステリ作家である。『推理世界』に、尾道《おのみち》を舞台にした連載を始める。秋風が、涼しいというよりは、もう肌寒くなる頃、その取材にお供した。
本来なら、こちらで宿の手配など細かく面倒を見るわけだ。ところが尾道に、先生の知り合いの方が嫁《とつ》いでいらしていた。〈この機会に――〉という電話を受けると、先生は本名もペンネームも同じだから、〈わー、美佐子、懐かしいーっ〉てなもんで、泊まるなら何とか館と決めてくれた。おまけに、殺人事件の舞台ならここと御推薦――物騒《ぶっそう》な話だ――の上、案内まで買って出てくださった。
尾道の街を歩きながら、そのお友達が、
「なぜか琴の音のころころしゃんと鳴っている公衆トイレもあります」
「そこで密室殺人があったら恐いですね」
「斜面に張り付くような千光《せんこう》寺のたたずまいもなかなかのものです」
「高台にあるんですか」
「尾道が一望のもとに見晴らせる公園になっています。ロープウェイで上れます」
「じゃあ、まずそこに行ってみましょう」
というわけで、千光寺公園に向かった。ロープウェイの乗り場が、ここでは市街地にある。こういうものは、よほど山奥に行かなければお目にかかれないと思っている身には、台所でアイドル歌手に会うように意外である。発着場までは急な階段になっている。
「リフトがあればいいのに」
と、由井先生。
「おんぶにだっこね」
と、御学友だったお友達が、明るく澄んだ声でいう。
「わたし、もう四十なのよ」
顎《あご》を出す真似をする。どうして、なかなかそうは見えない。――まあ、だからこそ四十と公言するのだろうが。
面長《おもなが》の顔に、眉《まゆ》も細い。髪は後ろに流し、額を出している。そのせいで余計面長に見えるのだが、そんなことより、髪がかからず、開放的な気分になれることの方を取るようだ。目鼻口のパーツは、それぞれ小さめだが配置がよろしいので、感じがいい。
「何とおっしゃるうさぎさん」
と、申し上げたら、
「うさぎ年じゃないわ」
人が、すぐにロープウェイの小さな箱いっぱいになるくらいやって来る。ほう、と息をつく。東京で思っていたより、ずっと観光客の多い街だ。ガイドさんが最後に乗り込み、録音でなく、生の声で説明してくれる。
公園に着くと展望台の建物に入り、螺旋《らせん》階段をくるりくるりと回って、上に立つ。秋の青空が広がっている。
はるかに瀬戸内海と、居並ぶ造船所のクレーンの列を見下ろす。海まで迫った山並みが、ジオラマのようだ。天高く、鳶《とび》が羽を広げ、気持ちよさそうに滑空している。
長い髪を風に揺らしながら、由井先生がいった。
「千光寺さんというと、思い出さない?」
「何をですか」
「眼下に海と家々の屋根を一望出来る――」
「は?」
「『獄門島』に出て来るお寺、あれも千光寺よ」
『推理世界』の編集者だから、横溝正史の作品名ぐらいは分かる。
「あ、そうですか」
「横溝先生の岡山のお宅に、行ったことがあるの」
「お会いになったんですか」
「だったら、〈うかがった〉というわよ。最近の話。文学散歩として行ったの。土地の方が案内してくれるツアーがあって」
「はー」
「自分一人だったら分からないところを、〈なるほどなるほど〉と、見ることが出来た」
「例えば?」
「そうね。〈『本陣殺人事件』で、たそがれ時、謎《なぞ》の三本指の男が現れて、水を下さい、といった一膳飯屋《いちぜんめしや》が、ここです〉とか」
びっくりした。
「あるんですか、それ」
「もう、食堂じゃあないんだけれど、建物は昔の面影を残して建っているの。見ると、〈おお、横溝!〉と思うわよ」
「ははー」
またまた、間の抜けた合いの手をしてしまう。
「コースケイシというのもあった」
「は?」
「金田一耕助ゆかりの石ね。熱海《あたみ》のお宮の松みたいなものよ。〈横溝先生が散策中、そこに座って構想を練った〉という石」
「――耕助石か。まるで、日本昔話だなあ」
「形からして、最中《もなか》か羊羹《ようかん》になりそうだったわ。とにかく、〈ミステリ作家たるもの、これに座らずして何としょう〉と思って、雨上がりだったんだけど、上をティッシュで拭《ふ》いて座って来たわ」
「はあ」
濡《ぬ》れなかったろうか。
「その近くに千光寺さんというお寺があったの」
「同名異寺ですか」
「そう。ちょっとした高台にあるんで、『獄門島』のお寺の名前は、そこから取ったんだろうという話だった。――でも、こっちも高いところが千光寺ね。何か高さとネーミングが、関係あるのかしら」
お友達が、
「お寺は修行の場だから、本来、高いところが多いんでしょう」
「そうねえ。何とか山《ざん》何とか寺《じ》だものねえ」
展望台の縁が金属板になっていて、東西南北の方角が記入してある。ありがちなことだが、相合《あいあ》い傘《がさ》に男女の名前が刻んであったりする。
「けしからん。こんなところに、こんなことする奴《やつ》らは、ぜぇーったいに別れるぞ」
と、由井先生は怒る。ちなみに先生は独身である。
北の方に行くと、〈十年たったら、山上美々子になるんだモン〉と彫ってある。
「夫婦別姓がどうとかこうとかいいますけど、こういうのを読むと、女性心理は微妙なものですね」
「何よ」
「つまり、これは、山上クンを好きな美々子チャンが書いたものでしょう」
「そりゃそうね」
「彼女は、彼氏の姓になることを切望している。相手のものになりたいと思っている」
「ま、そういうこともあるでしょうね」
「しかし、名前というのは、――特に女性の名前というのは面白いものですね。名は状況を表すというか。姓が代わると、結婚したらしいし、名前で呼ぶのを許す男がいたら、心を許しているわけだろうし――」
お友達が、割り込んで、
「美佐子と美々子は、一字違いね」
関係ないが、兄貴と結婚した静《しずか》さんの名前は、美奈子《みなこ》だった。先生は、フン、と鼻を鳴らして、
「由井美佐子でいるんだモン」
「――だモン?」
鳶が頭上に来た。思ったより大きい。先生は、空見たか、と天を仰ぎつつ、
「当分はね」
展望台を下り、茶店の前に出た。
尾道ゆかりの作家をあげれば、『暗夜行路《あんやこうろ》』の志賀直哉《しがなおや》、ここで若き日を送った『放浪記』の林芙美子《はやしふみこ》。そういえば芙美子という名も一字違いになる、などといっていると、こんな看板があった。――〈林芙美子が未練を残しながら飲めなかったひやしあめ この機会にどうぞ〉。
「あら、面白い」
先生は、ジャケットの茶色の背中を見せて、すうっとお店に入っていく。ひやしあめを買うのかと思ったら、まず質問。
「表の〈林芙美子が未練を残した〉というのは、何の本に書いてあるんですか」
やさしそうなおばさんが、
「いやあ、うちの主人が考えたんですよ。看板を出そうという時。――ひやしあめは大正の頃からありました。〈林芙美子は、あこがれを梃子《てこ》にして大作家になった人だから、これでいいんじゃないか〉って」
創作なのか。しかし、立派に論理がある。これは何論法というのだろう。
お友達がいう。
「そうねえ。〈志賀直哉が未練を残しながら飲めなかったひやしあめ〉じゃあ、確かに合わないわねえ」
「――由井先生が、未練を残さないように飲んでいきましょう」
「そうね、あれこれいうだけで飲まなかったら、ひやかしあめになっちゃうから」
お店に入る。ひやしあめを売るのは暑いうちで、今はあめ湯だという。三人、椅子に並んで飲んだ。さらっとしている。思ったほど甘さがしつこくなく飲みやすい。生姜《しょうが》の香りが漂う。
それから、後は〈未練〉が一行《いっこう》の流行語になった。お茶を飲んだお店で、チョコレートパイの持ち帰りが出来ないと聞くと、それは〈未練のチョコレートパイ〉、備前焼《びぜんやき》の花瓶を買おうかどうしようか迷い、あきらめると〈未練の花瓶〉である。
やはり、尾道は遠い。翌日、まだまだ日の高いうちに乗った帰りの新幹線も、京都を越える頃には闇《やみ》の中を走っていた。ごうっという音と共に、黒い紙を貼《は》ったような窓の外を、明かりの点々が後ろに飛んで行く。
お友達に、〈車中でどうぞ〉と、手作りの栗の渋皮煮《しぶかわに》を貰《もら》ったが、これがまた甘過ぎず、そして栗の風味が十分に残っている。しっとりとした味わいで、おいしい。マロングラッセなど足元にも及ばない。
「いやあ、これは凄《すご》い。隠れた尾道名物ですね」
「何だったら、レシピ貰ってあげるわよ。彼女に作ってもらったら」
「あの尾道の方に?」
「違うわよー。あなたの彼女」
「ははは」
「何、笑ってるのよ」
「いえ別に」
「――しかし、とげとげのいがと、かちんかちんの鬼皮と、渋のある薄皮に包まれた栗が、これだけ柔らかくおいしくなって、目の前に出て来るんだから、不思議なものね」
「そりゃあ、一見して、中身まではわかりませんよ」
姫路《ひめじ》を過ぎた辺りで買っておいた白鷺《しらさぎ》弁当を開く。
「どこが〈白鷺〉なんでしょうね」
「分からない」
普通の弁当であった。醤油《しょうゆ》入れが、鯛《たい》の形をしたプラスチックの容器になっている。蓋《ふた》が赤い。
「赤といえば、これぐらいの大きさの実のなる、背の低い木がありましたっけね」
「センリョウ、マンリョウね」
「縁起《えんぎ》がいい」
「マンリョウの赤い実がなる品種に〈宝船〉っていうのがあるわ」
「おお」
これでもか、である。
駅に停まったところで、食べ終わった。先生は、その醤油入れをティッシュでくるくるとくるむ。そしてハンドバッグに入れた。
「何」
こちらの眼が、いぶかしげになっていたのだろう。
「いえ。……どうして、捨てないんです」
由井先生はいった。
「鯛だったでしょう」
「ええ」
「魚拓《ぎょたく》にするの」
乗っているのは、ひかりだった。横をのぞみが駆け抜けた。希望は光よりも速い。がたん、と、こちらの車体が揺れた。
当然、ジョークだと思ったが、先生は淡々としている。
「――これを忘れたら、〈未練のお醤油入れ〉になっちゃうわよ」
「何とおっしゃいました」
「聞こえなかった? 魚拓」
冗談でも聞き違いでもなかったのである。
帰って数日後の昼、思いついて、お嬢様に電話をした。
「まあ、岡部さん。めっきり、お寒くなりまして……」
「時候の挨拶《あいさつ》は省略しますが」
「前略ですのね」
「ぜひ、ご紹介したい催し物があります」
空いているというので、ハチ公前で会うことにした。
「岡部さん、公用?」
と、真美《まみ》ちゃん。
「打ち合わせだよ。今度の本の」
世界社の青い炎こと、末松《すえまつ》が、
「〈打ち合わせ〉の〈待ち合わせ〉、渋谷《しぶや》ですか」
ややこしい。
「ああ」
「僕も明日、渋谷で人と会うんですがね。自分がどこに行けばいいか、分からないんです」
「何?」
「この間、電話で場所を決めましてね。書いといたんです。で、安心して、すっかり忘れちゃって、今、メモ見たら、読めないんです」
「自分の字だろう」
「自慢じゃないですけど」
「そりゃそうだ」
末松の机に行く。見ると、封筒の裏の走り書きだ。時間は〈3時30〉と読める。その下に片仮名《かたかな》で、何やら書いてある。
「……〈ペルマパートス〉だろう」
「そう読めますよね」
「喫茶店だろう」
「いや、違ったような気がするんですが。ほら、店の名前のようなものは、その下に書いてある」
「なるほど。じゃあ用件だろう。〈ペルマパートス〉の本でも出すのか」
「何です、それ、ギリシア人?」
「知らないよ」
真美ちゃんが、裏から覗《のぞ》き込んで、
「渋谷だったら、それ、〈パルコパート2〉じゃないの」
うーむ。書かれたことの真意を読み取るのは難しい。――とは思ったが、この時には、まだ、今回、お嬢様が謎の文字の解読に取り組むことになろうとは、想像もしていなかった。
渋谷の駅から、外に出る。一口に〈ハチ公前で〉といっても、ポップコーンの袋を開き損ない、中身を撒《ま》き散らしたような人の波だ。どこにいることやらと思ったら、千秋さんは、本当にハチ公の正面に立ち、日本一有名な犬とにらめっこしていた。道行く人を随分と眺めて来たハチ公も、〈変な奴《やつ》が来た〉と、思っていることだろう。
「お待たせしました」
お嬢様は、くるりと振り返り、
「今、来たところさ」
今日は、白のゆったりとしたタートルに革のジャケット。白黒の細かい格子の帽子を被っている。
「――どこに行くんだい」
「まあ、着いていらっしゃい」
目指す会場は、デパート。そこの大型洋書店。しかし、横文字の本が見たいわけではない。奥がギャラリーになっている。絵本や版画、型染めなどの展覧会に、よく使われるそうだ。
一歩、足を踏み入れて、千秋さんは眼を輝かせた。
「わあ」
「この前、家具の博物館で、椅子《いす》のミニチュアを見せてもらったでしょう。あのお返しですよ」
さほど広くはない会場の壁際につけて、長机か、あるいは専用の展示台かを並べてある。そこにはグレーの厚地の布がかけてあり、小さな部屋の模型が展示してある。
「いろいろあるんだ」
入ってすぐのところは、洋風の部屋が続く。天井のあるもの、なくて横から覗くもの、オルゴールの蓋《ふた》を開けるように屋根の上がるものなど、タイプはいくつかある。
小さいながら、テーブルにはレースのテーブル掛けがかかり、陶器の食器が来客を待つかのように、配置されている。
「ドールハウスというそうです」
「――人形の家?」
「といってしまうと戯曲の方を連想するから、でしょう。原語でいうのが普通なようです。今、ちょっとしたブームらしいですよ」
こういうものに凝《こ》り出せば、きりがないだろう。より精密なものを作りたくなるに違いない。はまると、どこまでも深みに吸い込まれそうな趣味だ。
「全部、自分で作るのかなあ?」
「小道具の類《たぐ》いは売ってもいるそうです。小さな家具から、ケーキ、パンに至るまでね。でも、そこを買わずに工夫するのが面白いともいいますね。お皿や茶碗を、自分で焼く人までいるそうです」
「へええ」千秋さんは感心しつつ、「大きさが同じだね。こういうのって、規格が決まっているの?」
「ええ。十二分の一というのが、世界統一の縮尺だそうです。以下、二十四分の一、四十八分の一と小さくなる。日本だと、自分の住んでる家が欧米より狭い。作ったものの置き場が、だんだん、なくなって来て、小さい方に走り出す人もいるそうです」
「なるほど」
えへん、と咳払《せきばら》いをして、
「――溯《さかのぼ》ればエジプトのファラオの墓からも、こういったものが出て来ています。その後、多種多様なものが現れました。近いところで、ヨーロッパにおいては、女の子がお勝手のことを覚えるようにと、ままごとの出来るものが作られました。これがニュールンベルグ・キッチン」
「ニュールンベルグで、作ったのかい?」
「あ、はあ、ま、そうなんでしょうね。――で、史上名高いドールハウスがいくつかある。中でもイギリス女王メアリーに捧《ささ》げられたものが知られている。これは当時の技術の粋《すい》を尽くしたもので、中に飾られた油絵も、当時一流の画家が腕を振るったという豪華さ。ウィンザー城にあったので、近年の火事の時に、ファンは何よりもまず〈ドールハウスは無事か〉と心配したそうです」
「無事だったの?」
「はい」
千秋さんは、腕を組んで、
「随分、予習してあるんだなあ」
「いささか」
下に置いてあるものだけではない。壁掛けタイプの部屋もある。
洋間だけではなく、奥の方に進むと日本の家もあった。駄菓子屋さん、荒物屋さん、八百屋さん。それぞれに細かい商品が並んでいる。
八百屋さんは二階建てで、上の軒に赤い風鈴《ふうりん》が下がっている。短冊《たんざく》が微妙にかしいでいる。わざとそうなっているのだろう。それで空気の流れが表現される。現実の世界は、もう肌寒いが、ここには夏の風が吹いている。ただの夏ではない。一昔前の懐かしい夏だ。〈大人〉が〈子供〉だった頃に見た風景だ。
二階の窓が開いていて、六畳間が見える。座布団《ざぶとん》が置いてあり、畳の上にじかに湯飲み茶碗が置いてある。そして――、
「釣竿《つりざお》だ」
と、お嬢様。
「ここの御主人は釣りが趣味のようですね」
「……下をおかみさんにまかせて、道具の具合をみているんだね」
「明日あたり、仲間とどこかの川に出掛けるのかもしれません」
「だとすると、よく分かるな。気持ちがはやるんだね。竿を出さないわけにはいかないんだ」
「今、どこに行ったんでしょう」
「階段を下りてる途中かな」
「おかみさんは?」
「この店先の横の、作られていない辺りにいるんじゃないかな。お隣がまた別のお店でさ――」
「乾物《かんぶつ》屋さんとか?」
「うん。そこのおばさんと世間話をしている。お客さんが来たら、〈いらっしゃいっ〉と一歩踏み出して、この世界に戻って来るんだ」
「なるほど」
千秋さんは腰をかがめて、下から覗《のぞ》き、
「凝ってるね。ほら、鴨居《かもい》のところ、ちゃんと魚拓の額《がく》が掛かってる」
「どれどれ」
ここで、あのお醤油入れと再会できるわけだ。
「いやあ、鯛だ、めでたい」
「どこで釣ったのかな」
新幹線の中、と答えようとした時、
「岡部さん、来てくださったのね」
由井先生だ。連れがいた。
どこかで見たような人物だ。いかつい顎に髭《ひげ》を生やしていた。鼻も無骨《ぶこつ》で、眉も繋《つな》がりそうに濃く、どちらかといえば野性的な顔立ちなのに、総体として見ると粗野《そや》な感じを与えない。由井先生と二人並ぶと、仲のいい夫婦のように見えた。
一つ上の階の喫茶店に入った。
「――こちら、作家の……」
〈作家の覆面作家〉です、というのも妙なものだが、千秋さんのペンネームがそうなのだから仕方がない。
奇抜な名前だから、由井先生の記憶にもあったようだ。
「まあ。被《かぶ》り物を取ると、随分、可愛《かわい》いお嬢さんなのね。岡部さんの掌中《しょうちゅう》の玉?」
手玉に取られています、とも答えられない。〈はあ〉とか〈まあ〉とか、もごもごいい、次いで千秋さんに、由井先生の名を告げる。お嬢様が頭を下げる。
今度は、由井先生が、連れに向かって、
「こちら、岡部さん。世界社の担当の方」
それから、髭の男性を紹介してくれた。聞いて、〈ああ〉と思った。『推理世界』にこそ縁がないが、新聞の文化欄などで写真を見る。歌人で、和歌史にも詳しく、学者評論家としても筆が立つ。一言でいえば、NHK3チャンネルの顔だった。藤山秀二《ふじやましゅうじ》。
「意外でしょう。藤山先生も、こちらの御趣味があるのよ」
藤山氏は、髭の中の唇をにこりとさせ、
「そういういわれ方をすると、何かあやしげなことでもやっているように聞こえますね」
由井先生も笑って、
「本当」
「――人の繋がり、集まり、というのは、いろいろな方向に向かって出来ますからね。僕の歌の仲間は、ドールハウスのことを知りません。関心がない。そういう風に、ぱっと切り替わるところが、かえって面白い」
由井先生にしても同じだ。あまり、趣味のことを表に出さない。
「どういう風にして、お仲間になったんです」
「わたしがね、前から小さいものが好きだったの。五年ぐらい前かしら、新宿を歩いていたら、こちらのグループの作品展にぶつかった。その時は、たまたま会場の方から要請があったそうで、小物の販売もやっていたの。普通のドールハウスのお店では売っていないものを、少しだけ売り出したそうなの」
「小物といいますと?」
「あの時は――」
藤山氏が、
「洗濯|挟《ばさ》み」
「そう」と、由井先生は、親指と人差し指の間を少し空けて見せ、「こんな、小さな洗濯挟み。家に帰って、じっと見ていたら、何を使って、どう作ったかが、分かって来た」
「謎解きみたいですね」
「ええ」
「正体は何だったんです」
「――それは教えられないわよ。仁義としてね」
「著作権ですね」
「そう。逆にいえば、〈これが、あれに使える!〉なんて閃《ひらめ》いた時の喜びがいいの。醍醐味《だいごみ》ね。お店で、コーヒーを混ぜるのに、使い捨てのプラスチックのスプーンが出ると、もう、〈スコップになるだろか、いや、椅子の背に〉なんて考えちゃうもの」
「何事も創意工夫ですねえ」
由井先生は頷《うなず》いてから、
「そういうわけで、まずは、洗濯挟みに感銘を受けた。記帳をしておいたから、次回の案内が来た。出掛けて行って、そこで会員になったわけ。で、当然のことながら、〈洗濯挟みの作者は誰ですか〉と聞いたら――」
「藤山先生だったんですね」
「そう。びっくりしちゃったわ。あの博識の先生が、小指の先ほどもない洗濯挟みを、こつこつと作ってるところなんて、想像も出来ないでしょう」
藤山氏は、手を振って、
「いや。別に博識じゃあ、ありませんがね――しかし、まあそれから、よくお話しするようになりました」
「手ほどきしていただいたんです。作風が合ったもので、ちょうどよかったんです」
よく分からない。
「作風?」
「この道にも、いろいろな行き方があるわけです。ひたすら忠実に、建築の様式を再現しようという人もいる。現実にはないファンタジックな世界を創造する人もいる。我々のは、部屋の様子から、物語というか、人が立ち上がって来るようなものを目指しています」
「あなた方、わたしのハウスの前で、あれこれ考えて下さってたでしょう。ああいう風に見てもらえると、本当に嬉《うれ》しいわ」
千秋さんは、それから由井先生に、八百屋の店先に並んだネギやら大根の作り方を聞いていた。
由井先生の東大宮のマンションにお伺いした。尾道ものの短編についての打ち合わせだ。入ってすぐの応接間には、ドールハウスの茶室が飾られていた。
仕事の話が一段落したところで、先生が雨に気づいた。応接間の前は、北向きの小さなバルコニーになっている。その硝子《ガラス》窓に、水の線が引かれ始めたのだ。
「ちょっと失礼。取り込むものがあるから」
南向きの方にベランダがあるらしい。我がアパートで窓を開けると、直下に往来の人の頭が見える。先生のところは超高層マンションの二十五階だから、二重サッシの戸を引くと、銀線の流れる曇り空の大画面が、眼前に広がったことだろう。
さて、取り込んだのは洗濯物だけかと思ったら、他にもあった。先生は、鉢を一つ持って戻って来た。
「雨に当てちゃあいけないんですか」
「そりゃあ植物だから、ほとんどは大丈夫よ。だけど、〈湿気大好き〉じゃあないものもある。午前中に水やりしたばかりだから――」
「飲み過ぎに注意ですね」
鉢を、テーブルの上に置く。中に入れた時はここと、もう位置が決まっているようだ。布のような柔らかさを感じさせる赤や黄色の花が、色とりどりに咲いていた。華やかだ。丸い葉がいくつも立ち上がっているところは、小さな傘をあちらこちらでさしたようだ。雨が降ったから連想が働くのかも知れない。
「面白いですね、この形」
「キンレンカよ」
「は?」
「金の蓮《はす》の花。葉っぱが、小さな蓮の葉みたいでしょう」
「ああ、なるほど」
首をねじって下から見ると、こちらが水に沈んで蓮の葉を見上げているようだ。表は緑濃い葉の裏側が、光を透かすせいもあってか、柔らかな若苗《わかなえ》色に見える。
「ナスタチウムともいうわね。この葉の向きが、すぐに光の方に傾くの。レーダーみたい」
「生きてる証拠ですね」
由井先生は、あでやかな花をちょんとつつき、
「……『金瓶梅《きんぺいばい》』のヒロインが潘金蓮《はんきんれん》だったわね」
確か、希代《きだい》の妖婦《ようふ》だった筈《はず》だ。
「名前を聞いたことはあります」
先生は小さな鋏《はさみ》を取り出すと、ちょきんと若い葉を切った。
「食べられるのよ」
「そうなんですか」
「花も食べられる。サラダに入れてね」
先生はいったん、台所に行く。そして、白いお皿に、水洗いした葉が一枚出て来た。つややかな緑が、綺麗《きれい》だ。
「ま、お茶菓子にはならないけれど、味見にどうぞ」
目の前に鉢植えになっている葉を口に入れるのは、初めての経験だ。
「どこかで食べたような味ですね」
「何かしら」
よく噛《か》んでみる。
「分かった。カイワレだ」
「あ、そうかもしれない。ビタミンCがレタスの十倍だっていうから」
「趣味と実益を兼ねているわけですね。眺めて、食べられる」
「そうなるわね。楽しみが多い、というわけ」
うちのベランダでも、何か育てようかと思ってしまう。ただ、世話の方が三日坊主になり、気が付いたら、土はからから、葉は虫に食われて穴だらけ、というのが落ちかも知れない。
「こんなに高いと、虫も来ないですか」
「全然、とはいえないけれど、やっぱり下とは違うわね」由井先生は、そこで、ふと気が付いたというように「――ところで、この間の覆面さんとは、なかなか、いい雰囲気だったじゃない?」
「……虫がつく話で思い出されるのは、あまり光栄じゃありませんね」
もっとも、あちらが〈高いところの花〉ではあるから、あながち、見当違いでもない。
「あら、ごめんなさい。――でも、あんな作家さんがいると、編集者としても楽しみね。ちょうど『推理世界』の最新号が届いたから、あの子のところだけ、読んでみたわ」
「はあ。有り難うございます」
「面白かったわよ。でも、変わった理屈を考える子ね」
「確かに覆面先生の論理は、ちょっとばかりワープしますね。でも、それが正鵠《せいこく》を射抜くことが多々ありまして」
「え?」
千秋さんの、現実世界の名探偵ぶりについて、当たり障《さわ》りのないものをいくつか御披露《ごひろう》した。由井先生は、途中から、妙に真剣に聞き始めた。
「といった具合です」
「……凄《すご》いわね。わたしなんかミステリ作家の看板は掲げてるけれど、現実の事件となったら、まったく駄目よ」
「誰だってそうですよ。それが普通です。そうでなかったら、そこら中、名探偵だらけになってしまう」
由井先生は、こちらの言葉にではなく、一人でうんうんと頷き、
「……あの子にだったら聞きやすいわ。相談しやすい」
「は」
正面から、こちらを見て、
「ねえ、あの覆面さんに、一つ、事件解決の依頼をしたいの」
思わず背筋を伸ばしてしまった。
「ええっ。でも、今、覆面先生にも原稿を頼んでいるところなんですよ」
「そこを何とかしてよ。もし、うまいこと謎が解けたら、次の書き下ろしも、必ず世界社で書くから」
拝まれる。
「そんなこといわれたって――」
「ほーらほら。口で、そういったって、正直なところ、どんな事件か知りたくなったんでしょう」
「いや、別に知りたくはなかったんですが――今、そういわれて、ちょっとだけ知りたくなりましたよ」
出て来い、出て来い、池の鯉《こい》、と無理やり引っ張り出された感じだ。
「〈どんな事件だ〉って、聞いてごらんなさいよ」
かなわない。
「どんな事件です?」
由井先生は、胸を張って答えた。
「――殺人事件」
細かいチェックの背広を着た男が倒れていた。
男は、演奏の山場にさしかかった指揮者のように手を伸ばした形で、横になっている。顔の左の半面が見えた。顎鬚《あごひげ》が床に着いている。胸元からそこまで、刷毛《はけ》を動かしたような血の跡が、床に描かれていた。
「藤山さん……ですね」
「ええ」
「もう、駄目なようですね」
「そうね、手遅れみたい」
「背中に刺さっているのは――弓ですかね」
「そうね」
「かわった凶器ですね」
「それも意味ありげなんだけれど、問題はあの指の先」
角度を替えて見る。藤山先生の右の人差し指が突き出されていた。そこの床には、明らかに、血の文字が書かれていた。
「――〈恨〉」
「何だと思う」
「そりゃあ、〈恨み〉という一字ですからね。自殺だとしたら〈悔しいことがあって死ぬ〉という意味でしょう。他殺だとしたら、〈殺されて残念無念〉といったところでしょう」
「――それって、何だか、間が抜けていない?」
「でも、当人は真面目でしょう。死ぬ気で書いたんですから」
勿論《もちろん》、本当の犯行現場で、こんなのんきなやり取りはできない。倒れている藤山先生の大きさは十二分の一である。部屋の壁は二面しかない。こういうタイプのドールハウスを、コーナー・ボックスというそうだ。
由井先生が、奥から出して来て、応接間のテーブルの上に置いたのだ。
「コーヒー、いれなおすわね」
本を広げて立てたような二面の壁の隅に、金庫らしいものがある。明るい鼠色《ねずみいろ》に塗られている。作りからするとロッカーといった方がいいのかも知れない。ただし、旧式の重々しいダイヤル錠がついている。壁には、大学のポスターが貼られている。
いい香りと共に、由井先生が戻って来る。聞いてみる。
「大体、このドールハウスが、どういうわけで送られて来たんですか」
「挑戦なのよ」コーヒーを一口飲んでから、「――ミステリの話をしていて、その様々なパターンのことになったの。密室やアリバイという言葉は、あちらにもすぐに分かった。だけど、ダイイング・メッセージというのは、聞いただけでは何のことやら分からない。説明してあげたわ。〈殺された人間が何らかの方法で、犯人を告げるメッセージを残すものだ〉。――藤山さんは、最初、茶化《ちゃか》したわ。〈どうして残すんです?〉っていうから、〈それはまあ、誰にやられたか分からないと残念だから、でしょうね〉。次には〈普通に犯人の名前を書けばいい〉。だから、いってあげた。〈それについては、普通、『犯人が現場にいるから、直接書いたら消される恐れがある。だから、知る人ぞ知る、解く人ぞ解くという形でメッセージを残すのだ』といわれます。でも、それは、本当は不要の理由付けです。蝶《ちょう》には、やさしくも強い羽があって飛翔する。和歌は五七五七七の枷《かせ》を翼として高みに上るでしょう。同じことです。これがミステリの羽なのです〉と」
「……五七五七七と同じですか。偉いこといいますねえ」
「基本よ」
「で、どうなったんですか」
「――そんなことをいったのが、藤山さんを、いたく刺激したようなのね。ちょっと考えてから、〈それじゃあ、わたしがそのダイイング・メッセージとやらの問題を出しましょう〉」
「それは変わってますね」
「でしょう。何のことやら分からない。聞いても、にこにこしている。その場はそれで終わって――」
「しばらくしたら、これが送られて来た――というわけですね」
「ええ」
改めて、その十二分の一の部屋を見る。いうなれば、これが立体のミステリなのだ。由井先生は溜息をつき、
「――でもねえ、さっきもいった通り、謎を作るのと謎を解くのは別なのよ。わたし、〈読者への挑戦〉のついた本格でも、そこで考えてみたためしがない。だまされるのが楽しみで、ただもう先に進んじゃう。だから――」
「カンニングしようというわけですね」
「人聞きの悪い」めっ、と怒る顔をして、「――探偵団を結成して、ことに当たろうというわけよ」
ものはいいようである。コーヒーを飲む。味が深い。いい豆を使っている。カップを置いて、
「しかし、珍しいでしょうね」
「何が」
「いや、もし、これがミステリだったら超絶技巧、人の死なないダイイング・メッセージものじゃありませんか」
探偵団の最初の会合は、数日後、同じ由井先生のマンションで開かれた。
千秋さんは、濃紫のシャツの上に、縞《しま》のジャケット。ボタンは貝らしい。
コーヒーにクッキー、そしてテーブルの中央には、問題の〈問題〉が置かれる。
千秋さんは、興味深げにそのコーナー・ボックスに見入る。
「余計なものが、ほとんどないね」
由井先生が答える。
「送るため、ということもあるでしょうね。壊れないように簡単になる」
ポスターは灰色の壁に貼ってあるし、ロッカーもコーナーに固定してある。被害者も床に貼り付けてある。これなら、多少、手荒く扱われても大丈夫だ。
「でも、それだけじゃない。手掛かりとしては、これで十分ということなんだろうね」
先生も頷《うなず》く。千秋さんは、倒れた小人の後ろ頭を見つめて、
「人形を作ることは、よくあるの?」
「人によって違うわ。わたしや藤山さんは、普段は作らない」
「これは特別なんだ。――何で出来てるの」
「粘土ね。それに背広を着せてる」
「男でも衣装を作るの?」
「ええ。藤山さんは、布使いがうまいのよ。――洋服って作るのが難しいの。薄さが出しにくいから」
「そうか、布地の大きさは十二分の一に出来ても、厚みの方は駄目だものね」
「ええ、ハンガーに掛けても妙に突っ張ったりする。藤山さんは、その布地を器用になだめるの。というわけで服の方はお得意のところ。顔は、鬚が生えてたりして特徴がある。――だから、簡単に作れたでしょうね」
お嬢様は、頷き、
「で、この謎々は、いつまでに解かなくちゃあいけないの」
「同封されてた手紙によると、クリスマスまで時間をくれるそうよ。それでも答が出なかったら、教えてくれるって」
「……クリスマス」
「ええ」
千秋さんは顔を上げ、
「あのねえ」
「はい?」
「何ていったらいいのかな、……お二人の御関係は、どうなってるの」
由井先生は、巨人が、紙を大きな鋏《はさみ》で切り取ったような、シンプルな白のワンピースを着ていた。その白い袖《そで》に包まれた腕を組み、
「タンテイさんは、やっぱり、そこから来るか」そして、「お友達よ。ドールハウスの会で顔見知りになった。その後、テレビの録画採りで、たまたま一緒になってね。本の案内の番組。その後、渋谷から帰る途中で、お店によってお話ししたの。短歌のことを調べるついでがあったから。それが、一回では全部聞けなかったから、連続講義になった。何度かお会いしているうちに、いろいろと話すようになったわけ。仕事のこと……」
にこっと笑って、〈人生のこと〉と付け足した。そして、
「――度々会うというわけでもないけれど、ひと月かふた月に一回、どちらからか電話してる。心掛けていて、これといった展覧会とか、音楽会を選んで出掛けるのよ。――藤山さんはね、ああ見えても、もう五十なの。でね、〈五十の声を聞くと、もう、くだらない本を読んだり、音楽を聞いたり、絵を見たりする余裕はないと、しみじみ思う〉って。生きて行く残り時間を考えてみると、それをつまらなく埋められないって。そういう人が、一緒に、いろいろなところに行って、いろいろなものの前に立ってくれている、というのは、光栄だと思うわ」
「つまり、あちらは、〈二人で並んで同じものの前に立つと、過ごしている時が、深いものになる〉――と思っているわけだね」
「それは分からないけれど、少なくともわたしにとってはそうね、何しろ藤山秀二は鑑賞家、批評家として一流だから。そういう人の話を聞きながら、ものを見られるというのは、実に贅沢《ぜいたく》なことだわ」
「ふうん。それで、謎解きのゴールがクリスマスか。だとしたら、何を意味してるかは、分かりきってない?」
と、千秋さんはいう。視線を受けて、先生は、
「今更、照れる年でもないから、はっきりいうけれど、それは勿論《もちろん》、考えたわよ。でも、別にそっけなくしたわけでもないし、プロポーズを断ったわけでもないの」
何だか分からない。
「は?」
「は、じゃないよ。一番、簡単なのは、〈見た目そのまま〉だろう」
「と、いいますと?」
先生が、解説してくれる。
「自分の口からいうのも何だけれど、男の心臓に矢が刺さっている。これは、キューピッドのものと考えられるじゃない。それに〈ハートを射貫《いぬ》かれました〉と」
「あ、なーるほど。で、犯人は由井先生」
「そこよ。だから、被害者が書いたのが、美佐子の〈美〉とか、さもなければ、もうちょっと遊んで、唯一《ゆいいつ》の〈唯〉なんかだったら、誰に聞くまでもない。意味するところは自明でしょ?」
「まあねえ」
「ところが怨恨《えんこん》の〈恨〉よ。どうかと思う。わたしは格別、恨みを受ける覚えはない」
ちょっと考え、
「――〈なぜ、ぼくの燃える思いを分かってくれないんだ〉という意味の、〈恨み〉じゃないですか」
「それにしちゃあ、言葉が強いわよ。〈恨〉じゃあ、まがまがし過ぎる。人形で告白するという洒落《しゃれ》っ気とバランスが取れないでしょう」
「……確かにねえ」
しかし、大きく揺れた振り子が返って来るように、由井先生は元に戻る。
「とはいうものの、求愛説も捨て難いの。あちらの専門が歌でしょう。平安貴族だったら、恋愛の初めに、ウイットに富んだ和歌を送るのがお決まり。――わたしたちは、互いの趣味がドールハウス、そして、こっちの仕事がミステリ作家だから、歌代わりにこういうものをよこしたと考えれば――」
「ぴったり来ますね」
「そんな風に、あれこれ考えると、わけが分からなくなりますねえ」
「でしょう?――でね、この年になったんだから」と、わざわざ胸に手を当て、「こんなことには図々しくなっているかというと、そうでもない。一人相撲のいい気な解釈して、〈恋の挨拶《あいさつ》だって!〉なんて、笑われたら、首でもくくりたくなるわよ」
「女心ですねえ」
千秋さんがいう。
「もし、――プロポーズだったらどうするの」
「そうね。こっちも何かドールハウスでも作って答えるわ」
「新居の?」
「うーん。どうかなあ。――とにかく、ここまでお互いに一人で来たでしょう。その気楽さっていうのは分かっているのよ。――だからねえ、今うまくいってるのに、あえて生活を変える必要があるかどうか――」
煮え切らない。しかし、これも現代日本から消えつつある美徳――羞《は》じらいかもしれない。千秋さんは、それにはもう、構わずに、
「とにかく、謎がすっきり解けないのは、しゃくだよね。三人よれば何とやらだから、知恵を絞《しぼ》ってみよう」
いってみた。
「怨恨《えんこん》の〈コン〉といわずに、〈ハン〉と読んだらどうでしょう」
「韓国語ね」
「そちらから連想するものはありませんかね」
由井先生は、しばらく考えていたけれど、結局、
「浮かばないわね」
それでは――と持てるミステリの知識を総動員してみる。
「この字が、実は〈恨〉じゃなかった、というパターンもありますよね」
「というと?」
「〈ペルマパートス〉」
「何?」
「いえ、何でもありません。――つまり、〈恨〉に読めたけど、被害者は別の字を書くつもりだった、という場合ですよ。漢字じゃなくって、似たアルファベットだったとか。違う字を書きかけた途中で力つきたとか、逆から読むとか」
「ああ、あるわね、そういうパターン。でも、どれも駄目そうね」
「……そうですね。〈概〉が辛うじて似てるけど、途中で〈恨〉とはなりませんものね。他の字でもないし、別の向きからも読めない」
自分でいって、自分で打ち消していれば世話はない。
千秋さんは、自分がドールハウスの中に入ったような顔付きで、こちらのやり取りは無視していたが、やがて、
「このロッカーは開かないの?」
「これぐらいの大きさがあれば、普通は開くように作るんだけれど、これは固定されているわね」
「ということは、中身は関係ないということね」お嬢様は眼を細め、「針、ある?」
先生は、え? と首をかしげる。
「そりゃあ、あるけど……」
「あれが抜けそうだと思わない?」
千秋さんの指が、ロッカーの前面を指す。そこには、現実の大きさに拡大すれば、名刺ぐらいの大きさのカードを入れるポケットが付いている。誰の使うロッカーかを示すように、名札を入れるところだ。
「そうね!」
先生は早速、針を持って来て、その先端を使って、極小のカードを引き出す。小指の爪《つめ》の先程しかない。
「何か書いてありますね」
千秋さんがいう。
「表に〈藤山〉」
声に合わせるように、カードは返される。「字がある!」
そちらは表以上の、細字だ。由井先生は、煎餠《せんべい》ほどの大きさの虫眼鏡を出して覗《のぞ》き込む。
「漢字らしきものが三つ、それぞれの上に丸|括弧《かっこ》みたいなものが」と、手でドームの天井のようなカーブを描いて、「いくつか付いている」
「それって、丸い矢印じゃないかな」
「え?」
「つまり、ダイヤル錠の回転を意味するんだよ。右にどれだけ回すとか、左に何回合わせるとか」
「…………」
「で、〈漢字らしきもの〉はやっぱり漢字なんじゃないかな。〈恨〉みたいな」
「……?」
「それがきっと、数字を表しているんだよ。ダイヤル錠の番号。忘れちゃうと困るから、名札の裏にメモしてある。ただし、数字をそのまま書いといたら、錠の意味がないだろう。だから、漢字で表した。持ち主には、すぐに分かる暗号にした」
「そうか……」由井先生は、自分の言葉を追いかけるように、こっくりをして「――そうね」
「だとすれば、〈恨〉という漢字も、ある特定の〈数〉を表しているんだよ。それに近づくヒントが、これじゃないかな」
由井先生は、さらに真剣に目を細め、紙に向かう。
「読めない?」
「ちょっと無理。小さすぎて、元の字自体がつぶれてる。――これじゃあ、ヒントにはならないわ」
千秋さんは、大きな眼を、小気味よくしばたたかせ、
「読めないことも含めて、鍵《かぎ》じゃないかな」
「え?」
「そっち側に、生徒募集のポスターが貼られているだろう。あの大学名――」
「江戸川女子大」
「藤山さん、大学にも出ているって話だったよね。だとすると、この大学、実在のものじゃない?」
由井先生は、当然、といった顔で、
「そうだけど」
「実在のお菓子屋さんを再現したりするドールハウスもある、という話だったよね。逆もまた真なり。ドールハウスを見て、そのお店に行くことだって出来るわけだ。――ところで、この大学は実際にある。となると、この部屋も、このロッカーも、〈本物〉が、ちゃんとあるんじゃないかな」
「つまり――」
「〈来て、確かめろ〉ってことだよ」
由井先生が、〈死体〉に連絡を取ると、幸い、翌日が学校に出る日だという。講義の前に、研究室で会おうということになった。
我々も同道する。由井先生が〈難問に対して探偵団を結成した〉というと、出題者の方は、むしろ面白がっていたらしい。
作家先生二人のお供になるのだから、会社の方にも説明はつく。出張ということにして、おかしくない。
藤山先生の教えている大学は、東京のはずれにある。最寄《もよ》り駅からはバスで、かなりの時間をかけて行く。川沿いの道を右に曲がり、左に曲がりして進む。
「風景が、東京らしくなくなって来ましたねえ」
「けんけんで埼玉に行けるくらいのところらしいわよ。選挙の時には、向こうの宣伝カーの声ばかり聞こえてくるって。あっちの選挙権はないのにね」
バスの窓から、歩いて通う女子大生らしき姿も見かける。明るいうちなら、ダイエット代わりにちょうどいいのかも知れない。勿論、バスの中にも若い娘は何人もいる。
小さな郵便局の前で降りる。
道は一本。これから宅地になるような、均《なら》した地面があり、我々の背よりも高く薄《すすき》が生えていた。あいにくの曇天だったが、暗い空に銀色の薄の穂が揺れている様は、それなりに風情のあるものだった。
由井先生が眉をひそめ、
「雷だわ」
厚い金属板をがらがらと鳴らすような音が、重く沈んだ雲の向こうからして来た。降り出してはたまらないと、自然、速足になる。
「今時、雷とは珍しいですね」
「おどろー」
大学の建物は、想像していたよりはるかに立派なものだった。英国風の、――といっても、どういうものがイギリス調なのか、よく分からないのだが、とにかく、そんな感じを与える煉瓦《れんが》造りの大きな校舎があった。事務室で聞くと、すぐに〈死体〉が、にこにこしながら現れた。無論、わざとだろうが、あの人形と同じ背広を着ている。
「まずはお昼にしましょう。近頃の女の子は口がおごっていますからね、それに合わせるせいか、ここの学食は、なかなか評判がいいんですよ」
学食というのも懐かしい言葉だ。入ってみると、さすがに女子大、明るく洒落た食堂、テーブルには花が飾ってある。何と、昼食はバイキングだった。
「これ、こんにゃくですかね」
「コーヒーゼリーだろう」
「はああ、デザートまでちゃんとあるんだ」感心してしまう。学食というイメージではない。「女の子ばかりだから採算が合うんでしょうね。飢えた男の学生を連れて来たら、たちまち食べ尽くされる」
「まるで、蝗《いなご》の襲来だね」
食後のお茶までちゃんと飲んでから、エレベーターに乗り、藤山先生の研究室に向かう。四階であった。
中に入って驚いた。部屋の一方の隅が綺麗に片付けられている。置いてあるのはロッカーだけだ。壁にあるのは例のポスターのみ。つまり、我々の前に現れたのは、まさにあのドールハウスの〈本物〉だった。
藤山先生は満足げに、顎鬚を撫でる。
「いくら何でも、最初からこうだったわけじゃあないんでしょう?」
と、由井先生。
「ええ。自然にものが増えるのが研究室の宿命です。あのロッカーの上も、床も雑物が置いてあったんですがね。いらっしゃるとうかがって、余分なものは片付けました。大掃除にもなったから、一石二鳥でしたよ。ポスターも事務から貰《もら》って来て貼りました。まあ、現実が虚構を模倣したわけです」
由井先生は、腕組みをし、
「それだけ手間をかけて下さるのは、わたしたちが、正しい道を進んでいるせいかしら」
「さあ、どうでしょう」
といいながら、机の上の紙を取る。赤く〈恨〉と書かれている。
「――さすがに、床に赤絵の具を撒《ま》くわけにもいかなかったものですからね。これで代用します」
しゃがんで、それを床に置き、
「わたしが、この辺に倒れている――とします。まあ、横にならなくともいいでしょう。そこは想像して下さい」
〈後は、お手並み拝見〉といった様子で、椅子に腰掛ける。
由井先生は、つかつかとロッカーにより、挿さっている名札に手を伸ばす。そして、くっと藤山さんの顔を見る。出題者は、にこにこと笑っている。札は引き抜かれた。名刺ぐらいの大きさである。
由井先生は、それを探偵団の仲間にも回してくれる。
厚紙を切って作ったカードだった。こう書かれていた。
(図参照)
[#挿絵(img/03_187-188.png)入る]
10
千秋さんが予測した通りだった。上の丸い曲線は矢印、下は漢字だった。
つまり、このロッカーは、右に三回〈葵《あおい》〉の位置にダイヤルを合わせ、次いで、左に一回〈千鳥〉、右に二回〈泉〉と回せば開くのだろう。
由井先生は、改めてしげしげとロッカーを眺め、
「随分と古めかしいものですね」
「そうなんですよ。金庫でもないのにダイヤル錠というのは、ものものしいでしょう」
「いつも、この錠をかけておくんですか」
「いやいや。科学者じゃあないから、劇薬も爆発物も、驚異の新発明の設計図もありません。それに、本当の貴重品なら、研究室に置きませんよ。これはただの物入れです。――だから、錠があるんで、かえって迷惑なんです。うっかり、ダイヤルにさわると閉まってしまう。そうなると、開けるのには数字合わせをしなくちゃいけない。わたしのような物ぐさには、これが面倒なんです」
「ロッカーにダイヤル錠というのは、珍しいんでしょうね?」
「そうでしょう。昔のものですね。この学校は物持ちがいいんです。何といっても客商売ですから、目に付くところは女の子好みに替えています。しかし、研究室の備品は、なかなか新しくならない。――もっとも、昨今の、使えるうちに何でも取り替えてしまう風潮には、反対です。だから、ぼくはこの古めかしいやつでいいんですけれどね」
由井先生は、頷き、
「このロッカーは、前任者からの引き継ぎですか」
「ええ。石川先生という方が使っていらっしゃいました。王朝文学が御専門でしたね」
「引き継いだ時には、〈石川〉というカードが入っていたわけですか」
「そうです」
「その時には、裏に数字が書いてあったわけですか」
藤山先生は、顎鬚を引っ張るようにしながら、愉快そうに、
「さあ、どうしましょう。ゲームの世界では、〈わたし〉は質問に答えられないわけですよね。意識は西の方に行ってしまっているわけですからね。ルール上、どこまで、しゃべっていいんでしょうか」
千秋さんが、いった。
「前任者は事務で聞けば分かるよね。それを聞いた我々が、その石川さんのところまで行ったことにしたらどう?――そう考えて、石川さんの知ってる範囲で答えてくれないかな」
「そうですね。ここまで来て、そのカードの裏を見たということで、後は機械的な作業と考えましょう。わたしがこのロッカーを引き継いだ時、ここに入っていたカードには、こう書いてありました」
藤山先生は、メモ用紙を取り、次のように書いた。
(図参照)
[#挿絵(img/03_190-191.png)入る]
「どこかに書き付けて、しまっておくという手もありますがね。石川先生も、わたし同様、そんなまどろっこしいことは出来なかったんですね。しかし、ダイヤル錠の番号が扉に付いているというのも面白くない。だから、一ひねりしたわけです」
由井先生は頷いた。そして、問題点を整理する。
「ここで、謎は、〈葵〉が〈23〉、〈泉〉なら〈34〉、〈千鳥〉で〈62〉。だったら〈恨〉は何だ。――というものになった、というわけですね」
「そう、一歩前進ですね」
由井先生は、こちらを振り返って、
「何か聞いておくことはあるかしら」
千秋さんが、いう。
「そりゃああるけど、聞くとアンフェアになるようなことばっかりだからね。ここから先は、自分達で調べなけりゃあ、いけないだろうなあ。……あ、それじゃあ、次の段階がクリア出来たかどうか確認のために、〈数字〉でも聞いておこうかな」
藤山先生は、首をかしげる。
「どういうことです」
「だからね、例えば銀行の暗証番号か何かも、同じ理屈でやっているとしたら、それが〈検算〉の材料になるだろう」
何をいっているのか、皆目《かいもく》、分からない。だが、藤山さんは、にっこと笑って、
「頭のいいお嬢さんだ。いいでしょう。ここだけの話ですよ。秘密ですからね。――私の暗証番号は〈一八八六〉です」
11
とにかく、この手掛かりを踏まえて、探偵団の会合を持とうということになった。お嬢様が、一日待ってくれというので、明日の晩。ところは、再び由井先生のお宅。
仕事を切り上げ、せい高のっぽのマンションに着いたのは、七時過ぎだった。入れ、というので、台所に足を踏み入れて驚いた。テーブルの上は、色鮮やかな、お菓子の山である。とはいっても、これがただの代物《しろもの》ではない。
「リョースケ、どうだい。パティスリー・スズミのサンマルクだぜ」
お嬢様が、親指と人差し指で、十円玉ぐらいの皿を持ち上げ、嬉しそうに見せる。
パティスリー・スズミというのは、ある事件を通して知ったお菓子屋さんの名である。サンマルクはそこの看板ケーキだった。
「いやあ、驚きましたねえ」
指先でつまめるような、可憐《かれん》なケーキがそこにあった。小さいなりに、形、色合い、おいしそうな質感がそのまま出ていた。
「御指導いただいちゃったんだ」
千秋さんの、お手製らしい。こちらを待つ間に、講習会が行われたらしい。
「覚えがいいんですよ、覆面さん」
そう続けると、泥棒のレッスンでも受けているようだ。
「どうやって作るんです。こういうの?」
「粘土だね。そっちの大福なんか、皮作って餡《あん》をくるむ。煎餠《せんべい》は、伸ばして、お醤油《しょうゆ》代わりに絵の具塗るんだ。まあ、本物と同じような手順かな。でも、本物じゃあない。――かといって偽物でもないんだ。別のものだね。うーん、もうひとつの真実かな」
おはじきよりもはるかに小さい煎餠の色艶《いろつや》、ひびの入り方など、まさに迫真の出来である。
「食べたくなりますね」
お嬢様は、嬉しそうに、
「だろう?」
しかし、本当に食べるわけにはいかない。食事の方は、お鮨《すし》を三人前とってあるという。
「駅そばを入れて来ましたが――」
「あいそのないこと、いわないでよ。男だもの、デザート代わりに食べなさい」
お茶をいれ、お鮨をつまみながら、懸案事項の検討に入った。来る道々、考えて来たことを話してみた。
「漢字というのは、へんとつくりに分かれたりしますよね。〈葵〉が〈23〉だった。その草冠《くさかんむり》が十の桁《けた》の〈2〉、癸が一の桁の〈3〉を示している――というのはどうです」
由井先生が、答えた。
「草冠のつく字が、二十番代ということ?」
「ええ。一揆《いっき》の〈揆〉なんかは、十の桁は分からないけど、下は三」
「〈千鳥〉なら、そのまま〈千〉と〈鳥〉?」
「ええ、で、〈泉〉は〈白〉と〈水〉」
「でも、その場合は、どっちが十の桁かしら。上にあるのは〈白〉の字だけど、〈泉〉って部首からいえば〈水〉の字の仲間でしょう」
「うーん」
「それにね、最大のネックがあるわよ。そう考えたんじゃあ、せっかくのヒントが役に立たない。〈恨〉がいくつを表しているかに近づけないでしょう? だって、三つの鍵の中に、立心偏《りっしんべん》の字も、〈艮〉というつくりの字もないんだもの」
「それはそうですね」
お嬢様が、ガリをかりりと噛《か》みながら、すまなそうにつぶやいた。
「そうそう、〈恨〉だったらねえ――」
二人同時に、え? といってしまった。千秋さんは、あっさり、こう続けたのである。
「〈80〉だと思うよ」
12
〈80〉の出所について、千秋さんはこう語った。
「春に、世界社で、尼口《あまぐち》先生と会ったろう」
記憶の糸を手繰《たぐ》る。そういえば、会社のロビーで、本格派の雄《ゆう》、尼口|銃児《じゅうじ》先生と千秋さんとの会話があった。
「ええ」
「あの時、聞いたんだ。尼口先生、マンボウには特別な思い入れがあるんだって」
「ほう」
「御先祖をたどると、遠く鎌倉時代の歌人、藤原|萬望《まんぼう》に至るんだってさ」
由井先生が首をひねり、
「聞いたことないわね」
「あたしにもよく分からないんだけれど――」と、思い出す瞳になり、「藤原|実方《さねかた》とかいう人の歌をもっとひねったような、玄人《くろうと》受けする、手の込んだ歌を作っていたそうだ」
「そう聞いても、ますますチンプンカンプンだわ」
千秋さんは、唐津《からつ》らしいお茶の茶碗を、手で撫《な》でながら、
「数は少ないらしいけど、作品は尼口家の家伝に残っているそうだよ。残念ながら『新古今』なんかの勅撰集《ちょくせんしゅう》には入っていないようだけど。で、誰も知らないのが残念で、いずれ顕彰《けんしょう》のために、中世を舞台にした和歌ミステリを書きたいといってた」
それなら、世界社で原稿依頼しようかな、などと現実的なことを考えながら、自分の茶碗を覗いたら、茶柱が斜め四十五度に傾いて立っていた。
お嬢様は続ける。
「――この前もいった通り、漢字が数字を表しているんだろうという見当は、すぐについたんだ。さて、それがどういう法則に基づいているのか。――そこで、真っ先に考えたのは、藤山先生の専門が和歌、短歌だということさ。ということは、その道に通じた人に聞けば、案外簡単に解ける謎かも知れない」
「あ、それで尼口先生に――」
「そうなんだ。それに尼口先生は、こういった謎々が何より好きらしい。――締め切りが明日だっていうのに、夕刊にちょっと難しいパズルが載っているのを見た。そうしたら、解けるまで仕事にかかれなかった、なんていってた。そういう人だから、この話を聞いたら、きっと乗ってくれるだろうと思ったんだよ」
由井先生が、
「大学で、藤山さんに〈聞きたいことはあるけれど〉といったのは、それね」
「そう。〈恨〉が数字に置き換わるようなシステムが歌の世界にあるか、ということさ。――でも、それを藤山先生に聞いちゃったら、〈探偵団〉を結成した意味がないものね」
「それはそうね。で、尼口さんに電話したわけね。何と答えたの」
「しばらく〈数、数、数……〉と考えて、それから、〈百首歌の題じゃないかな〉といったよ」
百人一首なら辛《かろ》うじて知っているが、百首歌というのは聞いたことがない。
「何です、それ?」
「受け売りで羞《は》ずかしいんだけど、申し上げちゃうね。歌をまとめて発表する時の形さ。私的にはいろいろと作られていたらしい。だけど『堀河百首《ほりかわひゃくしゅ》』というのが、その最初の公のものであり、同時に決定版なんだって」
「『堀河百首』……ですか?」
「うん。堀河天皇が命令してまとめさせた百首歌。一番目の〈立春〉から、百番目の〈祝詞〉まで、百の題が決められているそうだ」
といって、千秋さんは、コピーを渡してくれた。
「――『国歌大観《こっかたいかん》』という本を見ればいいということだった。早速、資料を作って来たよ」
そこには、次のようなテーマが、ずらりと並んでいた。
[#ここから1字下げ]
1立春 2子日《ねのひ》 3霞《かすみ》 4鶯《うぐいす》 5若菜
6残雪 7梅 8柳 9早蕨《さわらび》 10桜
11春雨 12春駒《はるこま》 13帰雁《きがん》 14喚子鳥《よぶこどり》
15苗代《なわしろ》 16菫菜《すみれ》 17杜若《かきつばた》 18藤
19款冬《やまぶき》 20三月|尽《じん》
21更衣《ころもがえ》 22卯花《うのはな》 23葵 24郭公《ほととぎす》 25菖蒲《あやめ》
26早苗 27照射《ともし》 28五月雨《さみだれ》 29蘆橘《はなたちばな》 30蛍
31蚊遣火《かやりび》 32蓮《はす》 33氷室《ひむろ》 34泉 35荒和祓《なごしのはらえ》
36立秋 37七夕 38萩 39女郎花《おみなえし》 40薄《すすき》
41刈萱《かるかや》 42蘭《ふじばかま》 43荻《おぎ》 44雁《かり》 45鹿 46露
47霧 48槿《あさがお》 49駒迎《こまむかえ》 50月 51擣衣《とうい》 52虫
53菊 54紅葉《もみじ》 55九月尽
56初冬 57時雨《しぐれ》 58霜 59霰《あられ》 60雪
61寒蘆《かんろ》 62千鳥 63氷 64水鳥 65網代《あじろ》
66神楽《かぐら》 67鷹狩《たかがり》 68炭竈《すみがま》 69炉火《うずみび》
70除夜
71初恋 72不被知人恋 73不遇恋
74初逢恋 75後朝恋《きぬぎぬのこい》 76会不逢恋《あいてあわざるこい》 77旅恋
78思 79片思 80恨
81暁 82松 83竹 84苔《こけ》 85鶴 86山
87川 88野 89関 90橋 91海路
92旅 93別 94山家 95田家 96懐旧
97夢 98無常 99述懐 100祝詞
[#ここで字下げ終わり]
13
文字の列を見つめていた由井先生が、しばらくして、つぶやいた。
「……綺麗《きれい》」
「わけの分からないものもありますけれど、全体として見ると、伝統を感じますね」
「こういうことをする精神ていうのが、俳句の季語なんかに繋《つな》がっていくのよね」
コピーには重々しい解説が付いていた。曰《いわ》く、〈院政《いんせい》期歌壇の金字塔ともいうべき作品で、最初の多人数百首、組題百首であり、百首歌が初めて公の場の歌となり、中世和歌の採るべき基本的性格を決定的にした和歌史上記念すべき作品である〉また、〈その堀河百首題は、中世の多くの歌人によって広く詠み継がれている〉。
千秋さんが、いう。
「別の題での百首歌っていうのも、勿論《もちろん》あるにはあったんだ。でも、和歌の百のテーマといって、ごく普通に浮かぶのは、これみたいだよ」
「なるほど。となれば、藤山さんが、数字を置き換える時、これを使っても無理じゃあない。洒落《しゃれ》てるしね」由井先生は、そういって、千秋さんを見つめ、「――で、こういうコピーを出して来るということは、ヒントとも、ぴったり符合《ふごう》したわけね」
「うん」
そうだった。鍵と錠前は一致するのか、だ。確認する。なるほど、〈葵〉は〈23〉、〈千鳥〉は〈62〉、〈泉〉は〈34〉である。
「それから、藤山先生の暗証番号、〈一八八六〉ともぴったりだよ。〈18〉と〈86〉で――」
由井先生が、手を拍《う》った。
「藤山だわ」
「そう置き換えると、ただの数字にも味わいが出て来ますね。電話番号なんかも、漢字で書けるわけだ」
「ええと……、〈〇七〇四〉なら〈梅に鶯〉ね」
「〈七一九六〉で〈初恋、懐旧〉ですよ」
しばらく、遊んでしまった。だが、千秋さんは難しい顔をしている。
「どうしたんですか」
「いやあ。まだ、何も解決していないもんだからね……」
そうだった。〈恨〉の表す数字が分かっても、その意味がつかめなければ、相変わらず事態は五里霧中《ごりむちゅう》だ。
「八十、といわれて思い当たることはないんですね。〈その数が御自分を表している〉というような」
由井先生は、考え込んでしまう。
「……年齢じゃあないし」
「八十にしちゃあ、お若いですからねえ」
「ぶつわよ」
「そうだ。〈二人を合わせると八十になるよ〉というのはどうです。そういうプロポーズ」
「うわあ、歯が浮くわね。――でも、それも駄目よ。数が合わない」
袋小路だ。『国歌大観』のコピーを見つつ、「この〈恨〉というのは、〈恋の恨み〉ですよね」
「そうね」
「じゃあ、こう考えたらどうです。〈八十〉も何も問題じゃあない。『堀河百首』の〈恨〉にたどりつけたら、それでもう正解だって」
十六人の作者が、それぞれの題で歌を詠んでいる。〈恨〉にしても同様だ。藤原|公実《きんざね》という人の〈うしとのみ人の心を見しま江の入江のまこも思ひみだれて〉に始まって、つれない相手への切々《せつせつ》たる恋情が語られている。これが、そのままメッセージではないか。
千秋さんが首を振る。
「それだったら、むしろ、ドールハウスの床には〈72〉と書くんじゃないかな。そして、ヒントから『堀河百首』に近づかせる」
一覧表を見てみる。〈72〉番は〈不被知人恋〉となっている。
「これ、何て読むんです?」
「〈ひとにしられざるこい〉」
由井先生が、また〈うわあ〉といった。
「ますます、歯が浮くわね」
千秋さんがいう。
「とにかく、そっちの方が、恨みつらみよりはロマンチックだよ。――まだ、つれなくもされていない相手に、いきなり〈恨〉というのは、ちょっと……」
そういわれれば、その通りだ。まとめてみる。
「――ええと、〈80〉と数字が書いてあったのなら、それは〈恨の歌〉を示していたのかも知れない。しかし、〈恨〉と漢字が書いてあったのだから、これは逆に、数字を示している、というわけですね」
「そうでなかったら、こんな凝《こ》った問題を出す意味がないよ。解いた結果が、やっぱり〈恨〉でしたじゃあ、しまらない」
「うーむ。これは難しい」
「八十ならヤソね。キリスト、キリスト教、キリスト教徒。――うーん、関係なさそうだなあ」
由井先生が、さらに首をひねったがうまい解決は出て来なかった。
結局、この日の検討はここまで。一歩進んだということで、一休み。何かまた思いついたことがあったら、連絡を取り合うことになった。
新妻邸まで千秋さんを送った。お屋敷町は、繁華街と比べて闇《やみ》の落ちるのが早い。
「……ん?」
思わず声をあげてしまった。
「なんだい?」
道を横切ろうとした時、何げなく振り返ったら、塀に張り付く黒い影が見えた。気のせいかと思ったが、やはり人間らしい。黒っぽいコートを着ている。顔は立てた襟の間に沈んでいる。こちらが歩きだすと、ふわりと壁から離れる。視線を感じた。
今かかわっているのが、本物の殺人事件だったら、真剣に考えたろう。この〈事件〉に関係など、あろう筈がない。ことは模型の家で起こったのだ。謎の男が暗躍したりするわけがない。
ひゅう、と強い風が吹きつけて、思わず目を細めたら、その影もいつの間にか見えなくなってしまった。気のせいかも知れない。
「いえ、別に」
「変な奴だな、リョースケ」
御当人ほどではない、と思うが。
14
新宿のホテルで、ミステリ作家の座談会があった。尼口先生も出ていらした。その後、飲むことになったので、お隣に座った。取り敢《あ》えずビールをついで、
「どーも」
百首歌の件については、こちらもかかわりがあることを知らせ、御礼申し上げた。
「いやあ、ぼくね、日本の伝統については、ちょっとうるさいんだ」
「はあ。――しかし、御先祖が歌人とは存じませんでした」
「でも、そう聞くと納得するだろう。ちょっとさあ」と、頬を撫で、「この顔の線なんか、みやびだよね」
「――あ、はあ」
「だけど、題詠《だいえい》っていうのも、日本らしい面白い行き方だよね」
「〈初雪〉なんて御題を頂戴して作るわけですね」
「そう。でね、平安も半ばを過ぎると歌の世界がさ、だんだんと、型から入る作り方になって行く。そういうのを、あの『堀河百首』が象徴しているんだよね。こういう流れを、パターンによるもので低い、とする見方もあったんだよね。でも、パターンによって低いものばっかりできるんだったら、ジャンルは滅びるよね」
「まあ、そうでしょうね」
眼鏡をきらりと、きらめかせ、
「ところが、これがそうでもないんだな。出て来る歌人、それぞれに個性がある。制約が個性を押し潰《つぶ》すんじゃない。個性がパターンを自分のものにして、――むしろそれを発条《ばね》にして飛んじゃったりする。それがまあ、ジャンルの成熟だね。実際にそのパターンを通して『新古今』なんかは、とんでもない高みに行き着いちゃった。卑しいリアリズムなんかが、竹馬はいて物干しに上ったって、届かないようなところにね」
とうとうと歌論を述べられた。ことのついでに、といっては失礼だが、八十で〈由井〉、あるいは〈恋〉を連想させるものはないかと聞いてみた。
「うーん。東海道に〈由比〉の宿があるけど、五十三次だから、八十番目ってことはないしな。三輪なんて名前だったら、ぴったりだけどね」
「みわ、がですか?」
「そう。〈80〉っていうのは、三つの輪だともいえるだろう」
「ああ、なるほど」
「〈恋〉にしても中途半端だな。〈88〉だったらいいんだ。そいつが恋だっていうのは、古典的な謎々だからね」
「え?」
「ラディゲの小説に出て来るだろう。〈88〉っていうのは、ハートを上下に二つ重ねた形だよ」
飲み込めない。
「ほら」
ビールのコップに着いた水滴を指先に取って、テーブルの上に書いてくれた。何とか、分かった。うまいことを考えるものである。
15
次の会合は、お嬢様のお宅で開かれた。おかげで、由井先生は三度びっくりすることになった。
最初の驚きは、駆け出し作家がとんでもない豪邸に住んでいること。しかし、それも、いつもラフな格好だったお嬢様が、見慣れぬ服装で現れた時の驚きに比べれば軽いものであった。千秋さんは先輩への敬意を示そうとしてか、迎賓館《げいひんかん》に出かけるようなドレス姿であった。
由井先生は、眼をお嬢様に向けたまま、囁《ささや》いた。
「岡部さん」
「はい」
「やっぱり、変わった人ですね」
「まだまだ」
いうまでもない。三度目の、そして最大の驚きは、胸元の真珠の控えめな輝きにふさわしく、千秋さんが、中身まで深窓《しんそう》の御令嬢に変身していたことである。
きらめくシャンデリアの下、ドレスのお嬢様と向かい合って、フルコースをいただく。何となく、『田舎《いなか》のねずみと都会のねずみ』の前者になったような気分で、腰が落ち着かなかった。しかし、スープに口をつけたところで、すんなり料理に引き込まれた。豆から作った綺麗な青磁《せいじ》色、妙に凝ったところのない素直なおいしさであった。
「あ、これが、山科《やましな》のお父さんの――」
千秋さんは、微笑《ほほえ》んで頷《うなず》く。けげんそうな顔をしている由井先生に説明する。
「――いや、こちらの料理をやっていらっしゃるのが山科さん。その息子さんが、福島の方で、味自慢の素敵なホテルをやっていらっしゃるんですよ」
「まあ、ご一緒なすったんですか」
「ええ、この夏――」
いってから、給仕をしてくれている新妻家の人々の顔を、思わずうかがってしまう。皆、何事も聞かなかった、という表情をして黙々と仕事を続けている。
千秋さんは屈託《くったく》なげに、
「はい、一晩」そこで、右手のナイフを軽く上げながら、「――そうそう、あの次の朝、岡部さん、手首を切ったんですよね」
由井先生は絶句している。――これを納得できるように説明するのは並大抵のことではない。
食後のお茶は、検討会を兼ねて、お嬢様の部屋でとることになった。
その後の経過を述べたが、由井先生の方も進展はなかった。というより、締め切りが迫っていて一週間ばかりは何も考えられない状態だったという。
「何だか、子供が宿題が仕上がらなかった言い訳いってるみたいね」
由井先生は、紅茶茶碗を口に運びながら、ほうっと息をつく。
頼みの綱の千秋さんは、そこで、
「わたしも行き詰まったのです。だから、人に聞いてばかりで狡《ずる》いんですけれど、お茶飲み話に、このことをある人に話してみました」
おやっ、と思った。千秋さんは、いささか対人恐怖症の気味がある。あまり、親しくない人物とはお茶など飲めない筈だが……。
お嬢様は続ける。
「――そうしたら、その人が、〈千秋、こう考えてみたらどうだい?〉というんです。……あら、岡部さん、どうかなさいました?」
「いえ」
「〈出て来た答は、ただの〈80〉ではない。もっと別ないい方もできるんじゃあないかね〉って」
由井先生が、首をひねる。
「は?」
「そして、せっかくお二人が見えるなら、探偵団が揃《そろ》ったところで、そのことを申し上げようというのです」
何だか分からない。その時、ノックの音がした。赤沼執事のそれとは、響きが違って聞こえた。
「――千秋、いいかな?」
お嬢様が立ち上がって、はい、と答えた。こちらも立ち上がって迎えることになる。
入って来た男は、ざっくりとしたセーター姿だった。風格と無邪気さを併《あわ》せ持つような、不思議な人だった。眉が形よく、その下の瞳も力強い。肩の辺りを見た時に、思わず声が出てしまった。
「あっ。――あ、あ」
由井先生が眉を寄せる。
「どうしたのよ」
「――黒い影だ」
「ええ?」
お嬢様を送って来た時の、不審人物と同じ姿形に思えた。怪しい男は、テーブルに近づき、にっこりと笑った。
「千秋が、いつもお世話になっているそうで。父の春夫です」
16
こちらが由井美佐子先生、こちらが岡部良介さん、と紹介された。
「馬鹿に、かたくなっているわね」
由井先生がいう。
「い、いえ、別に」何かいわなくては、と記憶の畑を掘り返し、「――確か、今はアジアのどこだかにいらっしゃると、おうかがいしましたが」
農業技術の改良だか、開拓だかに取り組んでいるという話を、静さんから聞いたことがある。
「あら、ここだって、〈アジアのどこだか〉よ」
父君は、どちらにともなく頷き、
「そちらの仕事は一段落しました。しかし、おかげで面倒なことが持ち上がりましてね。〈勘弁《かんべん》してほしい〉と逃げて来たところです」
千秋さんが、くすくすと笑い、
「王族の称号を貰ってくれといわれたんですって」
新妻王。何だか変だ。そうなったら千秋さんは、本物の王女様になってしまう。
「は、はあー」
臣下のような声をあげてしまった。父君がいった。
「先日は、千秋を送ってくださって、どうも――」
「あ、やっぱり」
「いや。出て御挨拶すればよろしかったんですが、日本に着いたばかりだったものでね。――それに、この子が、どんな連れと歩いているのか、こっそり見てみようとも思ったんです」
「はあ」
「出て行っては悪いような気もしましたよ。親というのも、変に気を遣《つか》う、損な立場ですね」
千秋さんが、父君にお茶をつぐ。
由井先生が、本題に入った。
「〈80〉が、ただの数字じゃないって、どういうことでしょう?」
「はい。千秋から聞いた話の流れなら、それは〈80〉というよりは、〈百首歌の中の八十番目〉ということではありませんか」
千秋さんは、そうか、と、こっくりをする。由井先生は、狐《きつね》につままれたように、
「勿論、それはそうですけれど――」
父君は、面白そうに娘に視線を送る。親子で分かり合うのは、まことに結構だが、こちらにも了解させてほしい。
「それで何か、分かるんですか?」
お嬢様は、ゆっくりと、
「正解かどうかはともかく、父のいいたいことは分かる気がします。こうではないでしょうか。……日本人なら、〈百首の歌の八十番目〉といわれたら、何のことだと思うか」
膝《ひざ》を打った。
「そうか。〈『百人一首』の八十番目を見ろ〉っていうんだ」
「筋は通っていると思います」
由井先生がいう。
「で、何なんです。八十番目の歌って?」
新妻氏は、
「作者は、堀河です」
「え?」
「待賢門院《たいけんもんいん》堀河」
「へええ。これは凄い。堀河から出て堀河に行くんだとしたら、本当に凝ってますね。それで、肝心の歌は?」
「これです」
そういって、父上は、ズボンの右のポケットから『百人一首』の絵札を取り出した。こういう歌だった。
長からむ 心もしらず 黒髪の
みだれてけさは 物をこそ思へ
千秋さんが、あっと声をあげ、それから、やさしい目を札に向けた。
「……まあ、なつかしい」
子供のような声だった。そうか、と思った。「千――、いえ、お嬢様がお小さい頃、それで遊んだのですか」
「ええ。覚えがいいものでね、誰もかないませんでしたよ」
「ちょっといいですか」
手に取る。印刷の、これといったことのない札だ。年代ものの、名のある絵師の手になるものではない。それだけに、親しみやすい。〈はーい〉と、可愛い声を挙げて、百人一首をやっている千秋さんの姿が目に浮かぶようだった。
こちらは、何となくにこにこしてしまったが、由井先生は釈然《しゃくぜん》としない。
「あの、これだって、どちらかというと恋の悩みの歌ですよね。問題がすっきり解決したとは、到底《とうてい》、思えないのですが」
「そうですね。歌の意味とかいうことを考えていたら、この道も行き止まりです。――千秋、お前はどう思う」
お嬢様は、札を見た瞬間に何事かをつかんでいたようだ。花のように笑い、
「――お父様、意地悪ですわ」
「おや。何のことかな」
千秋さんは、そこで、不思議なことをいった。
「ポケットは左右にあります。――左に隠していらっしゃるのでしょう」
新妻氏は、苦笑いした。
「まいったな」
千秋さんは、そこで総《すべ》てがすっきりと解けたという顔になり、
「一番最初に考えた通りです。矢はキューピッドのもの。そして、文字は由井先生を示していたのです」
17
由井先生は、さっそく〈恋の矢に射貫かれた人〉を自宅に招待したそうだ。そこで、真相を示したという。
謎が解けたら、世界社に書き下ろしをしてくれるという約束も、めでたく実行されることになり、今度は、その打ち合わせに出掛けた。
「いかがでした」
「藤山先生、恐れ入ってたわよ。まさか、解かれるとは思わなかったって。気持ちよかったわ」
ふと見ると、キンレンカの鉢があった。しかし、あの色鮮やかな花が見えない。緑の丸い葉だけになっている。
「あれ、どうしたんですか」
「ああ。藤山先生が来た時、サラダを作ったの」
「そうか。あれは、花も食べられるんでしたね」
「ええ。全部、食べさせちゃった」
そういって、由井先生は艶麗《えんれい》に笑った。
18
千秋さんのお父さんは、年明けまでは新妻家にいるそうだ。〈いささか、古めかしいけれど、あんなことの後だ。お正月は百人一首でもやりに来なさい〉とおっしゃる。
それはそれとして、やはり、解答が正しかったことをお伝えしておこうと電話をした。
千秋さんが出て、外で会おうという。新宿で、ドールハウスの展覧会をやっているのだという。知らないうちには目につかないが、そういうものがあると知ると、途端に催しの存在に気づくものだ。
会場のビルのロビーで待ち合わせた。
由井先生のおっしゃっていたニュールンベルグ・キッチンもあった。はるか昔、はるか遠くのヨーロッパで、女の子たちがままごとをした道具が、今、日本まで来ている。それをこの目で見る。奇縁《きえん》といってよかろう。
だが列に並び、さまざまな展示を眺めはしたものの、実のところ、千秋さんその人に、最もよく見入っていたのかも知れない。
外に出た時には、もう、辺りはとっぷりと暗くなっていた。ビルの前庭には、大きな池があった。照明を受けて輝く、その表が透明な芝生のように見えた。絶え間無くわき出る水が、縁から、一枚のテーブルクロスを垂らすように流れ落ちていた。奇跡的といっていいほど、ほころびのない、透明な布が、冬の冷気の中にどこまでも続いていた。
千秋さんは、黒のボルサリーノにカジュアルコート。暗い色のパンツには、オリーブグリーンの縦縞が入っている。手袋が、目の覚めるような若草色だ。
「しかし、よく気が付きましたね」
「百人一首のこと?」
「ええ」
「だって、読み札があれば取り札がある。――理屈だろう。由井先生の名前が美佐子。そこで、あの歌をじっと見てれば、自然と答が浮かんで来るよ」
ほら、といって、コートのポケットから、札を取り出した。
[#ここから5字下げ]
みたれてけ
さはものを
こそおもへ
[#ここで字下げ終わり]
[#挿絵(img/03_221.png)入る]
「あ、持って来たんですね」
あの日、千秋さんがお父さんの左のポケットから出させた取り札だ。
水戸黄門《みとこうもん》の印籠《いんろう》のように突き出すのを、行頭の文字を拾って読む。
「み・さ・こ」
「うん」
ダッフルコートを着た小学生ぐらいの女の子が走って着て、水面に手を伸ばす。お母さんらしい声が、寒いのに、と叱責《しっせき》する。子供は、はしゃぎながら走って行く。
「クリスマスには、余裕で間に合いましたね」
「そうだな」
千秋さんと初めて会ったのも、クリスマスを迎えようという頃だった。今年も、時の歯車が回り、ジングルベルの鳴る季節が近づいて来た。
「しかし、恐ろしく手の込んだダイイング・メッセージでしたね」
「死ぬほど考えないと、分からないな」
「これが小説と現実の差ですかね」
「というと?」
「小説だったら、こんなのリアリティがないといわれるでしょう。――しかし、現実っていうのは。決して、そんな生意気な判断に縛《しば》られるもんじゃありませんからね」
「そうだな。小説だったら、せいぜい読み札を持って倒れてて、取り札を連想させるぐらいのところかな」
二人並んで、ここにこうしていることも非現実的なことに思えた。水晶のような水を眺め、水のような大気を吸っている。
女の子の去った後は、大都会の谷間とは思えぬ静寂が辺りを包んでいた。
お嬢様は、〈みさこ〉の札を差し出した。その手を止めると、けげんそうな瞳がこちらを向く。
遠い昔から、ずっと見つめ続けていたような気がした。思わず、
「ほしい札は、ただ一枚、――〈ち、あ、き〉」
歯が浮く、成層圏まで浮き上がるようなことをいってしまった。
千秋さんの目が大きく開かれた。二つの大きな莢《さや》だ。長い睫《まつげ》に縁取られたその右と左に、双子の地球が浮かんでいる。栗色の地球は、輝きを宿した水の惑星。芯《しん》には、黒い大きな瞳。
一歩近づくと、千秋さんは顔を伏せた。柔らかなものが、胸に入った。華奢《きゃしゃ》な背中に手を回すと、声が囁《ささや》いた。
「……良介さん……」
あまりに自然だったので、すんなりと、聞き流しそうになった。だが、何かがおかしい。気が付いて愕然《がくぜん》とした。外弁慶《そとべんけい》の口調ではない。
千秋さんは、あどけなくこちらを見上げる。
「――今、何ていった?」
「……良介さん」
「――〈リョースケ〉じゃなく?」
「…………」
お嬢様は、羞ずかしそうに顔を隠した。よく考えれば、〈岡部さん〉でもない。抱き締めながら、聞いた。
「お屋敷でもない、外でもない。きみは、どこにいるんだい」
千秋さんの声が、ふわりと胸に響いた。
「ここ。……わたしの家に」
※尾道の情報については、尾道短期大学の光原百合様、横溝ツアーについては、株式会社アスの青山融様、ドールハウスに関しては、ドールハウス愛好家浅羽莢子様に、ご教示いただきました。また百首歌につきましては『セミナー[原典を読む]3 千載集』松野陽一(平凡社)、『新編国歌大観・第四巻』(角川書店)を参考にさせていただきました。記して、御礼申し上げます。
[#改ページ]
底本
角川書店 単行本
覆面作家の夢の家
著 者――北村 薫
1997年1月30日  初版発行
発行者――角川歴彦
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
《→ 〈
》→ 〉
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
蝉《※》 ※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]「虫+單」、第3水準1-91-66
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90