北川広二
旨い地酒が飲みたい
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目 次
[#小見出し] 小野小町伝説の酒
洛北から美濃の夢蔵へ
モッコスと火の国小町
東北小町に惚れた
[#小見出し] 旅にしあれば名酒に出会う
熟成《ねむ》れ! ドラゴン
雪舟が愛した鶴
大カツラに湧く名水
伊賀の忍者酒
けもの湯での燗酒
[#小見出し] 熊野路で酌《く》む酒
紀州美人と釣り師たち
南海の地酒蔵
備長炭づくりの又やん
北山峡のイカダ師
[#小見出し] 酒づくりに賭ける
和紙の里の吟醸蔵
白い麹《こうじ》のふしぎ
鷹匠と地酒
[#小見出し] 半島に生まれた幻の酒
イカナゴ醤油と甘酒
能登のいしり酒
しょっつるに酔う
[#小見出し] 酒呑童子たち
地酒屋と飲んべえ神様
イワナに召された男たち
あとがき
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小野小町伝説の酒
[#小見出し] 洛北から美濃の夢蔵へ
全国には、およそ二千の酒造場がある。銘柄は多岐多様にわたっているが、よくみるといく通りかのパターンにあてはまる。
創業者とかかわりの深い言葉や地名にちなんだもの。めでたさを象徴したもの。あるいは清純な乙女《おとめ》をほうふつとさせるものまで、由来はさまざまだ。
たとえば、「――姫」、「――美人」、「――娘」といったネーミングは、優美でしとやかな酒質を標榜《ひようぼう》する代表例だろう。
それに類するもので、酒名に小町《こまち》≠かぶせる地酒蔵《じざけぐら》も、数えあげればきりがない。
「雪小町」(福島)、「小町桜」(岐阜)、「浜小町」(福井)、「酔小町」(滋賀)、「綾小町」(京都)……。
日本酒に使われる「小町」には、おらが町の器量よしといった親しみと願望がこめられている。史実を繙《ひもと》くと、小野小町は平安時代の女流歌人で、生没年不詳とされているが、各地に伝説をのこす謎めいた人物である。
それだけに、やれ恋多き絶世の美女だ、才色兼備を鼻にかけたわがままな女官《によかん》だ、異常なまでの男嫌いだのと、いろいろな風評が飛び交うのだろうが、それにしても晩年あわれな末路をたどった艶めかしい歌人という点だけが、ひどく強調されるのは可哀相でならない。
それでもなお地酒の銘柄に、名を多くとどめる小町。そのふしぎなかかわりを、わたしは解かずにはいられなかった。
一九九二年、十二月。わたしは、京都|賀茂《かも》川の最上流にある小町寺へとむかった。
人もまばらな出町柳《でまちやなぎ》駅に着く。明るいツートーンカラーの電車が、鞍馬《くらま》線のホームで待機していた。すわり心地のよいシート、重厚な光沢を放つ木目張りの内装、真鍮《しんちゆう》でしつらえた取っ手、叡山電鉄でもっとも古いデナ二一型という昭和三年製の車両だ。
ぎしぎしとレールを軋《きし》ませ、二両連結車が始発駅を出る。十分後、平盃《ひらさかずき》をさかさにしたような比叡の主峰が、しだいに車窓へせまってくる。
市原《いちはら》駅で降り、クルマのゆきかう鞍馬《くらま》街道を歩く。やがて、切り通しの坂のうえに石段が見えてきた。補陀洛寺《ふだらくじ》。通称を小町寺という。
境内の正面には、鞍馬石《くらまいし》で組まれた手水所《ちようずどころ》があり、清水がしたたり落ちている。その奥に、こぢんまりとした本堂が建っていた。
清水を柄杓《ひしやく》でうけ、口にふくむ。さらりとして軽く、なめらかだ。
だれもいない静かな境内を、あらためて見まわす。密生した大木が、はすかいに空へとのびている。一本の根元から十三本の幹がのびた樹齢二百年のヒノキである。なんとも奇怪だ。
境内の片辺《かたほとり》には、地苔《じごけ》がむしており、一段低いところに小さな池がのぞく。老いさらばえた小町は、この井戸に映る自分のすがたを見て、なげき悲しんだと伝えられている。
すぐとなりに、ひとかかえほどの広さの石囲いがあった。漂泊のすえ、市原の地にたどりついた小町が、風葬された場所だという。
本堂と棟つづきの住まいから、ふだん着の女性があらわれた。三千院の嘱託を兼ねる足立純章《あだちじゆんしよう》住職の長男の嫁、ゆか里《り》さん(三十二歳)であった。眼が合い、会釈をかわす。
「ちょっとお堂にあがらせて下さいませんか」
「は、はい。散らかしておりますが、どうぞ」
髪をうしろにたばねたゆか里さんは、閉めきった戸をあけ、なかの明かりをともした。
ほの暗い本堂の中央には、阿弥陀三尊像が安置され、おごそかな空気がただよう。セピア色にくすむ小野小町の老衰像が、片隅に祭られてあった。
高さ二尺五寸。顔はシワだらけ。着物の襟元《えりもと》がはだけ、アバラがむき出しになっており、裸足《はだし》のまま右手でぐいっと杖をにぎりしめている。眼はじっと一点をみつめているが、どことなく安らかな表情のようにも感じられる。
わたしは、しんしんと冷えてくる本堂にすわり、老衰像へしばし両手を合わせた。
本堂を出て、境内の高台へ通じる坂道を案内される。
つき当たりに、小野小町供養塔と彫《ほ》られた四メートルほどの石塔がそびえたつ。裏手にまわりこむと、老木のそばに建つ石碑に、有名な和歌が一首きざまれている。
花の色はうつりにけりないたづらに
我が身世にふるながめせしまに
もうひとつの石塔を、ゆか里さんが指さす。深草少将の通魂塚《つうこんづか》だ。
「百夜通えば、あなたの胸に抱《いだ》かれましょう」との小町の言葉に、深草少将は想いをたくし、雨の夜も風の夜も彼女のもとへ通いつめたが、九十九夜目にとうとう息絶えてしまったという。
下校途中の小学生だろうか、境内の清水をくんでいるふたりの子供たちのすがたが、通魂塚のたつ高台から見下ろせた。
「わたしもさきほど飲んでみたんですが、まるで酒の仕込みにはうってつけの、スカッとした水質ですね」
「うちの主人は日本酒が大好きでして、この水は酔いざめに飲むと、とってもおいしいと、つねひごろ申しておりますわ」
「日本酒で思い出しましたが、小町もどうやら酒を好んだらしいんですよ。平安時代に書かれた『玉造小町子壮衰書《たまつくりこまちこそうすいしよ》』によりますと、若いころの小町が、贅《ぜい》をつくした酒盛りに浮かれている様子が、まことしやかに紹介されていましてね」
わたしは話をつなげながら、ゆか里さんのほうへ顔をむけた。
「どんなものを食べていたんですか」
「紅《べに》スズキのえらで作った鮨《すし》だとか、フナの包み焼き、鮭《さけ》のすはやり(干物)、カモの熱汁、熊の掌《てのひら》などです。杯で樽から酒をくんで、飲みふけったといいますよ」
「えーっ。小町がそんなおごった暮らしをしていたなんて。なんだか信じられませんわ」
細おもてのゆか里さんは、いくぶんおどろいたふうに、涼しげな眼をしばたたいた。
コウヤマキの繁る寺の高台からは、市原の里が一望できた。秋は終わりをつげ、まわりの山肌は色あせている。
澄みわたる空気をありったけ吸いこむ。帰りがけに、もういっぱい水をいただくとしよう。歌人伝説をたぐっていくと、旨い地酒にめぐり会えそうな気がしてきた。
京都の小町寺をおとずれてから、約一ヵ月たった正月、自宅の電話が鳴った。
岐阜県|各務原《かかみがはら》市で酒店をいとなむ加納新一郎《かのうしんいちろう》さん(四十六歳)からであった。
四年前、美濃賀茂《みのかも》市でおこなわれた各地の蔵元有志による交流会がきっかけとなり、かれとは付き合いがつづいている。わたしとおなじくオブザーバー参加していたのだった。
「うちの近くに、淡麗で超辛口の旨さをめざす地酒蔵があるんですよ。去年までは、けっして納得のいく酒質ではなかったんですが。どうです。いまは造りの時期だし、いちどこっちへ来てみませんか」
すこし鼻にかかる高調子《たかちようし》な声で、かれは誘いかけてきた。
「ほほう。で、なんという蔵なんですか」
「小町酒造っていうんですよ」
「えっ。こまち……。あの小野小町の、ですか」
わたしは、受話器をぐいっとにぎりしめ、おもわず問い返した。
小町にあやかる銘柄が多いのは事実だが、社名にまで使用しているのは全国でもここだけだろう。京都の小町寺を訪ねたあとも、わたしにはひっかかるものがあり、それが何か、推理しあぐねていただけに、なんとも偶然なキーワードのようにきこえたのである。
「しかし、どうしてまた加納さんが、その蔵に注目しはじめたんですか」
「べつに、ひらめきを感じたわけじゃなくてね。例の日本酒の級別廃止。あれが引き金になってさ、この業界には根強いリベート取引を、小町酒造はきれいさっぱりやめちゃったんだ。よほどの覚悟のうえらしい。品質本位に取り組むといっても、地元にはまだ保守的な酒店がほとんどだから、商売上は当面手痛いだろうなあ」
かれの口調がしだいにくだけてくる。
「旧態依然とした業界体質から、脱皮しようとする意気込みがうかがえますね」
「先日、ひさびさに蔵へ行って、酒を|※[#「口+利」、unicode550e]《き》いたところ、これがなんと及第点なんだ。それを見定めてほしいと思ってね」
「わかりました。まずは、去年の酒を飲んでみますよ」
加納さんに大吟醸を一本注文し、わたしは受話器を置いた。
さっそく書斎にはいり、棚におさまる『日本の名酒事典』(講談社刊)をぱらぱらとめくってみる。あった。あった。岐阜県内の酒蔵リストの二ぺージ目に、思わず釘づけとなった。
夢枕《ゆめまくら》にあらわれた絶世の美女の言葉が創業のきっかけとなった云々、と解説欄に記されてある。初代をして、そこまで踏みきらせた小町の殺し文句とは、いったいなんだったのだろうか。
加納さんのすすめる酒に興味がつのってきた。小町とのかかわりも気になる。眼にみえない磁力に引きよせられ、わたしはさっそく現地へと飛んだ。一月末のことであった。
岐阜で名鉄をのりかえ、各務原線|新那加《しんなか》駅で下車。
各務原は濃尾平野の北端、ちょうど木曽川と長良川とにはさまれるような所に位置している。もともと農業中心の町だったのだが、いまでは岐阜、名古屋方面のベッドタウンになっている。飛騨山地があるために、冬場の冷えこみはきびしく、酒造りにはかっこうの土地柄だ。
でむかえに来てくれた加納さんと、かれの酒店「サチ」へたち寄る。郊外の小高い団地のなかほどに、その店はあった。
十五年前、父親の酒店から独立して各務原へうつり住み、妻の佐千代《さちよ》さん(四十歳)と従業員の三人で、店をきりもりしている。
店内には、「御代桜《みよざくら》」純米酒や山廃《やまはい》大吟醸、「三千盛《みちざかり》」本醸造など、さまざまな地酒がならぶ。
かれらは、冬になるとかならず、県内の酒蔵へ泊まりがけで出かける。じかに酒造りを学ぶのだ。蔵人《くらびと》と起居をともにし、おなじ釜《かま》のメシを食う。現場の苦労を味わい、思い入れがふかまればふかまるほど、店へ地酒を買いにくる人たちとのホットな交流も、よりよく進むとの発想からである。
店で雑談をかわしているうち、約束の時間がすぎていた。わたしたちは、あたふたと蔵へむかった。
「この近辺には、五、六軒の造り酒屋があるんだけど、胸を張れる蔵がないんだ。地酒専門店をこころざすからには、地元に一軒くらいちゃんとした蔵を育てたいよね」
くりくりっと澄んだ眼《まなこ》で、ハンドルを軽快にさばく。小柄で細身なので華奢《きやしや》にうつるが、かつてロッククライミングに凝《こ》っていただけあり、体つきはしっかりしている。
「同感です。造る側を守《も》りたてていかなきゃあ。有名銘柄を品ぞろえするだけでは、なんの値打ちもありません。それだけでは、吟醸ブームに乗っかり、雨後のタケノコのようにわいてきたほかの地酒屋とおなじですよね」
「地酒にこだわる人ほど、ゼニカネでなく、店主との目にみえないかかわりを重視するからねえ」
やがて、クルマは酒蔵へ到着した。
大きな杉玉のつるされた通用門をくぐる。寒仕込みもたけなわ。どこからともなく、新酒の香りがただよってくる。蔵人たちが、奥できびきびとはたらいていた。
金武和彦《かねたけかずひこ》蔵元(五十二歳)と伊藤賢治杜氏《いとうけんじとうじ》(五十歳)に先導され、なかを見てまわる。
ならぶ仕込タンクの頭上には、スピーカーがとりつけられ、さわやかなメロディが耳元へ送られてくる。小鳥のさえずり、それとも小川のせせらぎか。なんとこころなごむ旋律だろう。澄《す》んだシンセサイザーの音に、わたしは足どりも軽くなった。
「これは朝の瞑想《めいそう》≠ニいう曲なんですよ。こうして二十四時間ながしているんです」
蔵元は立ちどまり、ふりむいて解説を加える。
応接間へ通され、さっそく|※[#「口+利」、unicode550e]《き》き酒がはじまった。大吟醸「天河《てんかわ》」、純米酒「長良川」、本醸造「小町」など。器《うつわ》にたっぷりと入った新酒を、つぎつぎに※[#「口+利」、unicode550e]いていく。
ダブルのブレザーに身をつつむ蔵元は、杜氏といっしょに神妙に見守る。加納さんも、あらためて酒を※[#「口+利」、unicode550e]いている。
「蔵元。こちらへ来るまえに、去年の大吟醸を飲んでみたんですが、ズバリ申して、コシが弱く、輪郭のぼやけた酒質でした。なにかこう、造る側の迷いみたいなものがにじみでていると感じたんです。でも、これらの新酒は、ふっ切れていて、旨さの芯《しん》がちゃんとそなわっている。昨年にくらべ、ずいぶん手を加えられたんでしょうね」
わたしは、※[#「口+利」、unicode550e]き猪口《ちよこ》をもつ手を休め、酒づくりの脈どころを突いてみた。とりわけ純米酒は、日本酒度《メーター》プラス十四の超辛口であったが、とてつもないキメの細かさを秘めていたのだ。
「杜氏と相談しまして、米洗いを徹底したり、麹《こうじ》づくりを工夫したり、いろんな改良をこころみたんです」
初対面のぶしつけな批評に、かれは一瞬表情をこわばらせたが、気をとりなおすようにゆっくりと口を開いた。
「なるほど。すると、酒質については、どんなビジョンを描かれておられるんでしょうか」
「それは軽くて味のある酒といいますか、そう、米のもつおいしさがでて、クルミ味のするさりげないものをめざしているんです。なにしろ、岐阜の酒米を使っておりますので、風土《ふうど》・イズ・フード(food)でないといかんでしょう」
蔵元は洒落《しやれ》をまじえ、つくり笑いをこしらえた。浅黒くふっくらとしているが頬骨《ほおぼね》が張っているので、よけいに生真面目《きまじめ》そうな印象をあたえる。
「ここらは、日本列島のヘソの部分にあたるんでしたっけね」
加納さんがつなぎをいれる。
「そうですね。岐阜地方というのは、ちょうど本州の中心ですんで、昔からひじょうに波動エネルギーの高いところだといわれとります。醪《もろみ》の発酵もいわば生命《いのち》の波動ですから、自然音楽を流せば麹菌《こうじきん》や酵母もいきいきと活動させられるんですよ」
酒造りの本題から遠ざかるのを、すこしためらいつつ、蔵元は言葉をかさねた。ただの精神論だとおもわれはしないかと、誤解をおそれているふうでもある。
「音楽をながすところは、まれにありますが、科学的根拠は定《さだ》かでないとされているんじゃないのですか……」
わたしは、他県の音楽蔵をひき合いにだし、あえて素朴な疑問をぶつけてみた。
蔵元の奥方で、専務の宗子《むねこ》さん(五十歳)が、コーヒーをはこんできた。そして、そのまま蔵元のとなりに腰をかけた。苺《いちご》色のフラノのシャツとジーンズが似合っている。
「よく取り違えられるんですが、メロディをながすだけでは、なんの効果もありません。酒造りにふさわしい音波動かどうかが問題なんです。どうでしょう。生きとし生けるもの、人間から微生物にいたるまで、波動エネルギーが源《みなもと》になっている面があるとおもわれませんか」
わたしの問いかたが、やや挑戦的だとうけとられたのか、蔵元の話しぶりは急に熱《ねつ》をおびてきた。
「なにもわたしは、否定しているわけじゃないんですよ。実際、職場の人間関係だっておなじことがいえますからね」
「といいますと……」
蔵元は声をおとすと、しばらく口をつぐんだ。
「たとえば、相手をきもちよくおもっていないと、それが悪想念《あくそうねん》となり、心の波動となって、相手としっくりいかない。その反対もあります。ひいては、人間の潜在意識が、社会を左右しているとも考えられますよね」
蔵元は、わたしの主張にこっくりとうなずき、自然音楽との出会いを告白した。
八年前の十月五日。奈良県吉野郡|天川《てんかわ》村にある天河大弁財天社《てんかわだいべんざいてんしや》の能舞台で、月見の奉納演奏がおこなわれた。
もともと、クラシックやジャズが大好きな蔵元は、友人に誘われ、でかけていった。そこではじめて、作曲家|宮下富実夫《みやしたふみお》氏の生演奏を聴き、これまでにない衝撃につつみこまれてしまった。体のなかの全細胞が、音楽エネルギーにゆすぶられ、めきめきと再生していくような感覚をおぼえたという。
折しも、世間では地酒ブームがまき起こり、低迷していた酒造界にあかりが見えはじめてきた時期なのだが、一方ではもちこたえられない蔵は、廃業を余儀なくされていった。小町酒造においても、会社経営をめぐり、金武蔵元はひとり懊悩《おうのう》していた。
コンサートが終わり、岐阜へもどると、蔵元はいても立ってもいられぬ気持になった。すぐさま、宮下氏のすむ長野県|戸隠《とがくし》村へとんでゆき、たのみこんで、酒造りにふさわしい曲をつくってもらったというのである。
「体《からだ》のいいどきは、蔵内の音楽がよぐ聞ごえ、わるいどきは、すずんで(しずんで)るように聞ごえます。体調をチェックするのに、まごとにぐあいがいいです」
と、杜氏が白い帽子をにぎりしめ、東北弁をまじえる。
「そうですか。体調をベストに維持するのも、大切な酒造りの条件ですものね」
「一月から二月にかけて、醪《もろみ》が発酵する時分には、わたしは仕込タンクのそばで、樹の皮でできた座ぶとんにすわり、瞑想をするんですよ。ええ。毎夜です。微生物のすこやかな発育を心のなかで、ひたすら念じ、祈るんですよ」
打ち明け話が終わり、蔵元は胸のつかえがとれたように、さばさばと言い足した。
「ぼくも瞑想をよくやるんですが、あれはロウソクのあかりがいいんですってね。神経がとても安定しやすく、眼にもぐあいがいいんだって」
加納さんは、蔵元とわたしに目顔《めがお》で反応をうかがう。
「じつは、おふた方《かた》とおなじく、わたしも瞑想行法に関心がありましてね。十年前からちょくちょくやっているんですよ。眼は半眼《はんがん》にして正座するんです。こりゃおもいがけない同好の士のハチ合わせですねえ」
一同はいくぶんざわめいた。
「まっ、それはさておき、小町が創業者の枕辺《まくらべ》にたち、つぶやいた言葉というのは、どういうことなんでしょうか」
わたしは、懸案事項にそろりと口火を入れた。
「いやあ。それは今となっては、まったくわからないんです。わたしで四代目ですし、先祖のしたためたものものこっておりませんもので」
「それは残念だなあ」
「ただ、古代では暮らしのなかに、呪術が入りこんどったようですなあ。小町は霊能者のような存在だったといわれるでしょう。とかくナゾが多く、ほうぼうに出没している。それで、よけいに話がふくらみ、うちの蔵のいわれも秘密めいて扱われてきたのではないでしょうか」
蔵元はそう答え、奥方へ相槌《あいづち》をもとめる素振《そぶ》りをした。
小野氏は、近江国|滋賀《しが》郡|小野郷《おのごう》(琵琶湖の西岸、いまの志賀町小野)に起源をもつ祭祀を伝承する家柄であった。ここには、小野一族の祖である米餅搗大《こめもちつきおお》使主《みこと》を祭《まつ》る小野神社や小野篁《おののたかむら》神社が建てられている。
この神巫《かんなぎ》のながれをくむ小野氏の女は、全国に小町伝説を語り伝えたといわれる。「町」とは祭る場所のことで、信仰的女性につけられる名前なのだ。
「そういえば、小町の残した歌には、夢にまつわるものがやたらと目立つなあ。『古今和歌集』にある十八首のなかにも夢が多い。
思ひつつ寝《ぬ》ればや人の見えつらむ
ゆめと知りせばさめざらましを
っていう歌もそうですよね」
「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものをたのみそめてき
この歌だってそうね。当時、夢というのは、予感とか霊感のあらわれだと信じられていたのでしょう。自分も相手をいとおしいと思えば、相手もこちらを想う。そして、その人の夢をみることだってできるといわれますわね」
宗子さんが、蔵元のほうをチラリと見て、すこし肩をすくめた。
応接間のスピーカーからは、涼《すず》やかな曲が反復してながれてくる。風のそよぐような音《ね》だ。
「ああ、それと、小町酒造と命名されたわけは、もうひとつあります。小町が都の女官《によかん》であったころ、瘡《かさ》の病気にかかり、夢のお告げとかで美濃のお寺へきてふしぎに治ったというのです。その瘡神《かさがみ》薬師さんが、近くにあることも由来しているのでしょう」
蔵元は、てのひらをにぎり合わせ、視線をやわらげた。
「瘡神様。それはどちらにあるのですか」
わたしは、反射的にきき返した。
「となりの岐阜市岩井の延算寺《えんざんじ》の別院なんです。えーと、距離にして十キロくらい先ですかな。もとは弘法大師のひらいたお寺なんですがね」
酒談義はいつしか、小町伝説へと発展していった。
小町酒造を出て、加納さんと延算寺へ向かう。
「自然音楽が、蔵元の転機となったのは、聞くところによると、どうやらその境遇にあるようなんだ。名だたる酒造家に生まれてさ、立場上、こう振る舞わなきゃいかんとか自己規制だとかが、溜まりたまって年とともに重くのしかかっていたんだろうなあ。無意識のうちにさ」
「なるほど」
「宮下氏のサウンドに突き動かされ、さらにTA(トランザクショナル・アナリシスの略。交流分析という心理療法)にめぐり合ってさ、自由に生きようという精神世界がひろがっていったんだよ」
事情を知る加納さんは、車窓からの遠景をあおぎみて、ぽつりぽつりと語る。
「それはわたしにも、よく伝わってきましたよ。蔵の設備や技術もさることながら、造る側の理念が品質を左右しますからね」
クルマはやがて、長良川の本流にかかる橋をまたぐ。
アカマツの末枯《うらが》れる山ぎわに、延算寺本院が建っていた。参拝客がちらほらとやってくる。ひとまず、ひろい境内の入口にある庫裏《くり》をたずねた。
恰幅《かつぷく》のよい道家成法《どうけせいほう》住職(四十四歳)が、大股で玄関口にでてきた。小町酒造とのかかわりで、遠方から来たことを話し、寺のいわれをきく。
「遡《さかのぼ》ること一千年前です。小野小町は、薬師如来をまつるこちらの本堂に、二十一日間こもりました。願をかけたのです。満願の日に、清水で身をきよめたところ、病《やまい》がなおったと伝えられとります」
黒い法衣をまとう住職は、口なめらかに喋《しやべ》る。檀家の法事でアルコールをよばれてきたばかりらしく、額《ひたい》から首すじにかけて、うっすら赤みが射《さ》している。
「本尊の瘡神《かさがみ》を東院にまつったのも、小町自身なのですか」
「ええ。そのようです。小町が詠《よ》んだ歌も、石碑にきざまれとりますから。ただし、当時は小町などと名のつく女官は、都にようけおったらしいですな。くわしくはわかりませんが。瘡神様は、薬師如来のご分身ですので、皮膚《ひふ》病だけでなく、下《しも》の病気、神経痛、中気《ちゆうき》、子宝、入学、就職など、あらゆる願いごとがかなえられるのです」
「ほう。ご利益《りやく》万能というわけですね」
住職から寺のしおりをうけとりながら、加納さんがかすかに苦笑した。
「仏様の救いにおすがりすれば、かならずや功徳《くどく》を得ることができるのですぞ。おお、ちょうどよい。小町酒造さんには、毎年お酒を献じていただいとりますんやが、できれば、もっとようけいただけますよう、あなたがたからおっしゃってみて下さいな。はっはっはっ」
住職はかなりの左党とみえて、酒蔵からの施《ほどこ》しものには遠慮がない。説法口調がくずれ、声をたてて笑うと、剛直そうな面構《つらがま》えになった。
道順をおしえてもらい、わたしたちは五百メートルあまりはなれた別院へと、足早に歩いていった。
スギ木立にかこまれ、蒼然とかしこまる本堂がみえてきた。
正面階段の片脇には、岩井山《いわいざん》の霊水≠ニ書かれた手水所《ちようずどころ》があり、道をへだてた食堂の軒先から、おでんのにおいがふんわりただよってくる。
絵馬が鈴なりにぶら下がる本堂の左手に、こぢんまりとしたお堂があった。なかには、身《み》の丈《たけ》一メートルほどの小野小町像が安置されていた。
その像は、下《さ》げ髪《がみ》に十二単《じゆうにひとえ》ではなく、小町が実在した平安初期の時代考証にのっとり、意外にも、ロングドレスふうな薄地の襲裳《かさねも》で身をつつんでいた。
お堂の入口に眼をうつすと、小町酒造の献納した四斗樽が数個つまれてある。
「北川さんが、小町を追っかける理由はよくわからないけれど、今日はつくづくおもい知ったんだ。古代人《いにしえびと》は、われわれよりもずっと波動エネルギーが発達し、いわゆる、目にみえないもの≠信じきっていたんだってね。でなきゃ、当時、歌詠みなんて職業も成り立たなかったんじゃないかなあ」
「文明社会の汚れにまみれると、人間の霊感《インスピレーシヨン》はおとろえるといわれますよね」
「そう考えるとさ、微生物にあたえる音波とか瞑想効果も、あながち根拠のないもんと決めつけられないじゃないかってさ。さあて、この水をいただいて、心のくもりを払いますか」
加納さんは霊水を汲み、口をしめらしながら、半日をふり返った。
「小町が夢のお告げで、ここへやってきて病気をいやしたでしょう。そして、千年のち、酒蔵の初代の夢枕にたち、小町酒造ができたわけですから、じつに因縁めいた話ですね」
柄杓《ひしやく》をうけとる。冷水をたっぷりと注《つ》ぎ、※[#「口+利」、unicode550e]き酒でアルコールっ気《け》がのこったままのノドへながしこむ。
かたわらのかわいた石碑に水をかけると、小町作といわれる一首が、くっきりと浮きでてきた。
人ごとに汲めば薬と岩清水
湧きて恵みを松の下陰
今夜もまた蔵元は、タンクのまえで、ひたすら祈りつづけるのだろう。
[#小見出し] モッコスと火の国小町
小町の出生はナゾにつつまれ、諸説がいりみだれている。なかでも、出羽郡司小野良真《でわぐんじおののよしざね》を父とする説がいちばん有力だとされる。
良真の父にあたるのが、漢学者であり歌人でもあった小野篁《おののたかむら》である。篁は、遣唐副使に任ぜられ大陸にわたる際、勅命にそむいたかどで、隠岐島へと流された。
このとき、良真は連座して、都から肥後国山本郷へと追いやられる。配所《はいしよ》の月《つき》をながめる十一年のあいだに、次女の小町が生まれたという。
熊本県|鹿本《かもと》郡|植木町《うえきまち》小野。ここに、小町が産湯《うぶゆ》をあびたと伝えられる「小野泉水《おのせんすい》」がある。湧水量は毎分十二トン。池底からたえまなく湧きだし、けっして涸《か》れたことがないという。
小町の足跡《そくせき》をたどっているうち、その玲瓏《れいろう》たる泉《いずみ》を、ひと目見たい気持にかられてしまった。
旅のついでに、肥後の地酒蔵もたずねてみるか。「美少年《びしようねん》」「香露《こうろ》」「菊《きく》の城《しろ》」、さまざまな銘柄を思いうかべるが、舌にどうもしっくりとこない。
思案にくれ、福岡の酒販店「かごしま屋」へ電話をいれてみた。
友人の牛濱善雄《うしはまよしお》店主(三十歳)は、九州の地酒に力をそそいでいる。売るからには酒造りを一《いち》から学ぼうと、蔵へ出入りしているうち、杜氏と親しくなり、縁よくその娘さんと結ばれたほどだ。
「肥後はやっぱし焼酎たい。こっちへ来るんなら、一緒にいかんね。これを飲んで、考えちくれんな」
筑前|訛《なま》りの口調で、かれは太鼓判《たいこばん》を押した。かなりの惚《ほ》れこみようがうかがえる。
さっそく、宅配便で送られてきたのは、米焼酎「黙壺子《モツコス》」(球磨郡|上村《うえむら》 松《まつ》の泉《いずみ》酒造)であった。
封を切り、丸形グラスへ注《つ》いで、ストレートでかたむける。アルコール度数二十五度。淡麗な純米吟醸をおもわせる舌スベリとバランスのよさ。それでいて、米焼酎ならではの重量感を秘めており、こだわりなく胃《い》の腑《ふ》に染《し》みていく。
モッコスとは、曲がったことが大きらいで、こうと思えば、まっすぐに物事をつらぬく土地の男をいう。たんに頑固者《がんこもの》のことではない。
熊本にいた小町が求愛されるとしたら、そんなモッコスたちだったにちがいない。酔いがまわるほど、頭のなかで小町とモッコスがないまぜになってきた。
二月はじめ。わたしは、九州山地のふところへ旅立った。
列車は、峡谷にそってひた走る。日本三大急流のひとつにあげられる球磨《くま》の荒瀬は、下流にふたつのダムができたために姿を消し、しかもところどころが淀《よど》んでいる。
人吉《ひとよし》に近づくあたりから、やっと奔放なながれが視界にとびこんできた。人吉駅で、一時間に一本しかない二両編成のディーゼルカーにのりかえる。窓の外に目をこらすと、遠く五木村との分水嶺《ぶんすいれい》は、雪雲《ゆきぐも》でうっすらおおわれていた。
熊本県内の焼酎蔵の八割強は、すべて球磨川流域に分布している。
おなじ熊本でも、こと焼酎にかけては、肥後《ひご》と球磨《くま》の区分けは厳格である。前者は細川藩、後者は相良《さがら》藩。気候や風土も異なる。
戦国時代、求麻《くま》(現在の球磨地方)、八代《やつしろ》、芦北《あしきた》を領有していた相良氏は、島津氏の九州制圧に最後まで抵抗をしていたが、水俣《みなまた》の戦いでやぶれ、島津に帰順《きじゆん》し、どうにか求麻の旧領をまもりぬいた。
当時、相良藩の検地のため、中央から派遣された役人が、はるばると難路をふみこえ、人吉盆地をめざした。
たどりつくやいなや、焼酎をさんざんふるまわれ、まだ奥にも広々とした稲田が横たわっていようとは思いもつかず、そのままひきあげていったという。
実質は十万|石《ごく》あまりの藩であったが、わずか二万二千石としかみなされず、余分な米を焼酎づくりにあてることができたのである。
免田《めんだ》駅からほど近い表通りに、松《まつ》の泉《いずみ》醸造元が建っていた。
ひろい駐車場のなかほどに、高さ十五メートルになんなんとする肉桂《につけい》の巨木がたちはだかり、黒塗りの貯蔵庫が甍《いらか》をならべていた。
かごしま屋はすでに到着し、松岡洋世《まつおかようせい》社長(四十歳)と事務所で話しこんでいた。
「うちの初代は免田の商人で、反物《たんもの》業をいとなみながら、米焼酎をつくっとったんです。わたくしで五代目。父がはやくに病気でたおれましたんで、大学を卒業してすぐ跡をつぎましたばってんが、この業界なかなか先のあかりが見えてこんとですたい」
上背《うわぜい》があり、筋肉質な体格の社長は、礼儀ただしく切りだした。ナチュラルウェーブの前髪だけが、部分染めのように白く、鼻すじの通った風貌と釣りあっている。
「焼酎というだけで、日本酒とちがう偏見をもつ飲み手がまだ多いようですね。それに、本格焼酎が高級イメージを打ちだすと、税率引き上げの口実にもされやすいのでしょう」
わたしはそう答えて、返ってくる言葉を待った。
「まあ、いろんな面で、立ち遅れておるんでしょうね……」
「わたしは、焼酎をお茶がわりに来客へだす大分の片田舎で育ちましてね。もともと、焼酎党だったんですが、例のチューハイブームをさかいめに、本格焼酎から遠ざかっていったんですよ」
「えっ。また、どぎゃんしてですか」
「熟成不足や砂糖入りのものが、たくさん出まわりはじめたでしょう。とても飲めたもんではなかったですから」
声の調子をおとし、わたしは蔵の主《あるじ》に向き直った。
「うーむ。八○年代のはじめんことじゃったですねー」
かれは腕組みし、口もとを引きむすんだ。
焼酎業界がどん底にあった七〇年代前後は、皮肉なことに、清酒も甘口全盛のころであった。良質なものをつくろうとする地方の蔵は、ともに不遇な時代をすごしていたのである。
「イモやムギよりも、米《こめん》焼酎独特の涼《すず》やかで身の引きしまる旨さちゅうか、郷愁をかきたてる味わいがたまらんたい。流行にすり寄ったライト感覚じゃあ、やりきれませんばい」
となりにすわったかごしま屋が応じる。
「球磨の焼酎も、ここ十四、五年のあいだに、常圧《じようあつ》(百度に近い高温で蒸溜する昔からの方式。原料の香味がでやすい)がめっきり少のうなりました。そいも《それも》、はやりでしょう。ばってん、濾過《ろか》に活性炭やらばいっぱい使えば、コシもノビもなかごとなってしまいますたい」
顔つきはおだやかだが、話しぶりはするどい。年かさの宮原専務は、松岡社長にうなずいている。
「そうなんです。口あたりのソフト化を進めすぎると、本格焼酎は甲類(連続蒸溜機でつくった焼酎。アルコールの匂いや特有の味はない)にかぎりなく近づき、九百社といわれる全国の焼酎蔵の個性がだいなしです。かえって、消費者ばなれをうながすだけではないでしょうか」
のっけから建前《たてまえ》をとりはらうことで、わたしは、相手の力量をみきわめようとしていた。
松岡社長も話題をそらさない。会話はたちまちヒートアップし、二時間あまりつづいた。
一段落つき、醸造所の案内を乞《こ》うことになった。
焼酎造り四十年のベテラン高田辰男《たかだたつお》杜氏(五十六歳)が、片膝をつき、地中にうめられた甕《かめ》のフタをもちあげる。
仕込んで六日目。クリーム色の泡面《あわづら》をした一次|醪《もろみ》が、発酵の終わりを目前にひかえ、ふつふつと沸いていた。日本酒の|※[#「酉+元」、unicode915b]《もと》(酒母《しゆぼ》)にあたる工程だが、焼酎では蒸米《むしまい》をいれず、麹米《こうじまい》と水だけで仕込むのだ。
かんぬきがかけられた部屋の前に立ちどまる。昔は、麹室《むろ》(麹をつくる部屋)として使っていたという。
入口がひらかれ、裸電球がともされる。棚のうえに、古酒《こしゆ》がずらりとならんでいた。
ラベルの色も褪《あ》せたそのうちの一本を、手にとってながめる。おおっ。昭和三十三年(一九五八)の製造とある。大相撲では栃若時代がはじまり、ちょうど西鉄が奇跡の逆転で、日本シリーズ三連覇をはたした年ではないか。
かれこれ三十五年ものあいだ、ふかい眠りについていたものなのである。
すすめられるまま猪口にうけ、コハク色した三十五度の液体を口にふくむ。枯淡な飲みくちだろうとの予想を裏切り、なんと堂々たる味わいだろう。キャラウェー・シード(セリ科の植物キャラウェーの種《たね》。その香味。転じて、生木《なまき》を断ち割ったときにただよう木の匂いのこと)とそっくりのかぐわしさに口中がつつまれ、さざ波のように引いていく。
わたしは、その場に釘づけとなった。かごしま屋が、どうですとばかりにこちらへ視線をよこす。酒質に打ちのめされたまま、その部屋を出た。
となりの建物では、五人の蔵子《くらこ》(蔵人のこと)が、てきぱきと働いていた。
十八トンの仕込タンク。冷却槽。大型の減圧《げんあつ》蒸溜機(なかを真空に近づけて、五十〜六十度の低温で蒸溜するため、原料の特徴の少ないソフトタイプとなる)。場内の作業は半自動化していた。
裏口から中庭へと抜ける。ステンレス製の十トンタンクがひとつ。根元にとりつけられた装置が、わずかに振動音を発している。いわれるままホースの栓《せん》をひねり、いきおいよくあふれてきた水をコップで飲む。なんというやわらかさだろう。
「この水はいったい……」
わたしは、なみなみと二杯目をつぎ、松岡社長にたずねた。
「電子をかけて分子を細かくすると、水分が原料米に浸透しやすくなりますばい。米のほうもマイナスイオン化することで、不純物が中和除去されるとです。うちの『霧の里』は、造りに工夫をこらしたうえ、この水で仕込んどるんですよ」
かれは大らかに答え、手にもつコップの水を息つぎもせず飲みほした。いつしか、庭にたそがれがおとずれていた。
場内の直営レストランで、全員がくつろぐ。入口の看板には、焼酎道場≠ニ銘《めい》打たれてある。
地鶏《じどり》の盛りつけられた大皿が、テーブルにはこばれた。「黙壼子《もつこす》」の入った白磁のガラが、炭火のうえで温《あたた》められている。ガラは、球磨地方に伝わるもので、そそぎ口が細長く、鶴の首に似た酒器《しゆき》だ。
まもなく、燗がつかった。生《き》(湯や水で割らず、もとの状態のこと)のまま、小さな猪口《ちよく》でキュッと喉元へながしこむ。米のもつコクが口の粘膜をゆさぶる。球磨地方ならではの作法にのっとり、中指と薬指とのあいだに猪口をのせ、松岡社長へ手あつく返杯した。
「霧の里」のほうは、冷やのままロックグラスで飲《や》ってみた。このうえなく軽く、そして優しい。長いあいだの試造をへて、九二年より製品化したものである。
権力側に一杯くわせ、あまった米でぞんぶんに焼酎をこしらえていた球磨の里人《さとびと》。そんなアソビごころが、酒質にはっきりとにじみでていた。
おなじ盆地でも、京都や奈良よりもスケールが大きく、際涯《さいがい》の風土が人を自由で闊達《かつたつ》にさせるのだろうか。めいめいが口角泡をとばし、焼酎談義にふける。ガラがつぎつぎと空《から》になっていった。
「ふーっ。人吉盆地は、ヒトの胃袋の形ばしとるけん、福岡に負けんとアルコールが強いばい」
かごしま屋は眼のふちを赤くさせて、丸イスにぐったりとし、ため息をついている。
レストランの壁には、郷土の画家・久留米盈《くるめえい》氏の描いた北欧美人の水彩画がかけられていた。顔をそむけ、ドレスから豊満な乳房をあらわにし、熟《う》れたリンゴをひとかかえ持つ。
〈逃げだしたいようなときめき
出逢ひとはそんなもの……〉
絵筆《えふで》を生かす軟らかな字くばりで、そんなフレーズがしたためられてあった。
だんだんと酔いがまわる。まもなく、球磨拳《くまけん》がはじまった。
これはジャンケンを複雑にしたような古来の座敷あそびで、たがいの指の出し方で勝負をきめる。二回つづけて勝つと、はじめて一本勝ちとなり、負けた者はそのつど、行司役から焼酎の罰杯をうけるのだ。
宮原専務が行司をつとめ、松岡社長と高田杜氏が競いあう。
「いっちょにぃ!」と気合をかける声が焼酎道場にひびきわたる。まぐれ勝ちはない。相手のクセを先読みしたほうに、軍配があがる。
熱いやりとりを見ているうち、こちらもエキサイト。にわか覚えで、杜氏に挑戦をした。変化をつけて指を繰《く》りだすが、あっさりとカタがつき、そのたびに猪口をぐいっとあおる。四杯目、五杯目……。
あわよくもう一歩とせまっても、みすかされたようにうっちゃられ、軽くねじふせられてしまう。
高田杜氏は、上村《うえむら》で毎年|催《もよお》される球磨拳大会で、強豪相手にいつも上位へ勝ちすすむ腕前なのだ。今では若い世代のあいだでは行われなくなった宴席の作法や球磨拳に、松岡社長と高田杜氏は男としてのこだわりをもちつづけているという。
かごしま屋とレストランの井上支配人も加わり、まわりに勝負の輪ができて、いつのまにか飲みくらべの様相になってきた。
あくる朝、わたしと松岡社長は、蔵から五キロほど山裾《やますそ》にある谷水薬師《たにみずやくし》へとクルマを走らせた。
高峰|白髪《しらが》岳が、晴れた冬空にくっきりと縁どられている。クルマを降りて歩む。しんしんとした外気に、下っ腹が冷えてくる。
「蔵を継いだばっかりの、まだ若いころでした。ひとり息子で育てられたため、わたしは独断的で強引な性格だったとですたい。あせりもありました。仕事の方針をめぐって、社員をしょっちゅうどなりつけたり、もめごとが絶《た》えんかったとですよ」
「今ではまったく、そうは見えませんが」
「みせかけだけの自信は、醸造家として、なんの説得力ももたんと徐々にわかってきたとです。そのころ、ずいぶん落ちこみましてねえ」
かれは回顧した。朝霜《あさじも》が消えたあとの山道は、地面が湿気を吸い、歩くたびに柔らかな靴音をたてる。
「若いうちは、仕事そのものが人生の目的みたいにとらえがちでしょ。ほんとうは、仕事を通して向こう側に広がるものこそ、いちばん肝心なんですけどね」
「そうなんです。仕事はあくまでも手段であって、ゴールじゃあなかですたい。久留米盈さんはじめ陶芸家や音楽家など、田舎で生活の根をおろす人達と出会ってから、価値観が一変したとですよ。すると、あたらしい意欲がわいてきましてね。焼酎づくりがこげんにもすばらしいのかって気がついたとですよ」
自分に言いきかすようにそうつぶやくと、かれは濃紺のジャンパーの襟元《えりもと》をたてた。はればれとした表情をしている。
山門の両側には、一対の仁王像が立つ。いかめしい顔がかくれるほど、紙つぶてが全身に貼りついている。自分の病む箇所に紙を噛《か》んで投げ、うまくくっつけば治癒《ちゆ》するといわれているからだ。
腰に持病をもつわたしは、上着のポケットからチリ紙をとりだし、唾液でぬらして思いきり投げつけた。二度、三度、なかなか患部にあたらない。
松岡社長は、微笑《えみ》をたたえながめている。かれは幼いころから、祖母に手をひかれ、この山寺へよく参ったという。
本堂の裏手に、月光水《がつこうすい》≠ェこんこんと噴《ふ》きでていた。口にふくむと、歯根《しこん》にしみる冷たさである。松の泉酒造の焼酎は、創業時より、蔵の井戸に湧くこの伏流水で仕込まれてきたのだ。
「白髪岳は、ブナの原生林の宝庫でして、日本の最南限ですたい。わたしは仲間たちとマウンテンバイクをかつぎ、牛道《うしみち》(木材の伐りだし道)を登るんが、いちばんの楽しみなんですたい」
境内に植わる木々のあいだから、山の稜線が望める。
「見るからになだらかで、女っぽい山容ですね。いかにも包容力がある。土地の女性たちも、こうした器量よしが多いんでしょう。社長はしあわせだなあ」
わたしは、灯籠《とうろう》のならぶ石段を一歩一歩ひき返しつつ、ルックスのいいモッコスをふり返った。
「いやあ。球磨の女《おなごし》は働き者《もん》ばかりですたい……」
モッコスはうけ答えをにごし、照れくさそうに頭をかいた。山門までの長い石畳《いしだたみ》は、朝霧が去っていったあとのように、ぬれて光っていた。
JR熊本駅から、鈍行で三つめ。植木《うえき》駅でタクシーをひろい、七キロほど先の目的地へと走る。
人口二万あまりの田園都市である植木町は、古くから宿駅がおかれ、陸路の要衝として発展してきた。町の端には、西南《せいなん》の役《えき》の激戦地「田原坂《たばるざか》」がある。
タクシーはゆるやかな丘陵地を抜け、やがて、低い山にかこまれた池のほとりへ行き着く。朱塗りのお堂が、麓《ふもと》にぽつんとたたずんでいる。これが小野泉水か。やけに広い。
「あれが小町堂ですよ」
運転手が指さす。
足の便がよくないため、帰りの時間を約束し、下車をした。
池は、いりくんだ形をなし、周囲は二百メートルもあろうか。水草《みずくさ》のゆらめく中を、コイが群れて泳いでいる。エサをやる子供の歓声が、山あいにひびいては水面へ吸いこまれていく。
岸辺に突きでたツルリとした小岩には、注連縄《しめなわ》が巻かれ、かたわらに古びたアルミの柄杓《ひしやく》が、掛けられてあった。
ひと昔前までは、水質も良好だったにちがいない。
坂道をたどり、まぢかに小町堂をあおぐ。外観といい、まだ新しそうだ。見かけはよいが、どことなく素っ気ない。
あいた扉から、十二単《じゆうにひとえ》を着た小町の壁掛けの絵がのぞき、歌が一首添えられていた。
いろ見えでうつろふものは世の中の
人のこころの花にぞありける
彼女はいつもうしろ向きに描かれていて顔が見えず、それが美女伝説をいっそう神秘めかして感じさせるのだろう。
ここの小町堂からは、女流歌人の謎《なぞ》を解く手がかりはつかめそうにない。小町の父・良真《よしざね》の出身地は秋田だ。どうやら、そこへ行くしか決着がつかなくなってきた。小町にくわしい人物が、その町にいることはかねてより知っている。
陽気にさそわれ、さかんにコイがはねる。水面に無数の波紋がひろがっている。
わたしは、拝殿に垂れさがる鈴《すず》を鳴らし、小さく柏手《かしわで》をうった。
申し合わせた時間に、タクシーがやってきた。みると年配の運転手から、若い女性にかわっている。
「都合で交代してきまして。あのう、お客さん。小野泉水までわざわざいらしたんでしょう。どちらからおみえになったんですか」
発進するやいなや、彼女はながい黒髪をひるがえし、もどかしそうにこちらをふりむいた。
「関西からです。所用ついでに、ちょっとばかしここへ寄ってみたんですよ」
「あのう、せっかく来られたのに言いにくいんですけど、小町は植木の生まれでなく、ほんとは東北のほうだって聞きましたけど……」
田原坂タクシーの社主の娘である中山裕美《なかやまひろみ》さん(二十三歳)は、済まなそうに口ごもる。
「よくご存知なんですねえ。それにしても、女性ドライバーの進出は、こちらでもめざましいんだなあ」
わたしは、運転手の正直な物言いに感心し、話題を転じた。
「今のところこの町では、あたしで三人目なんです。熊本市内のタクシー会社をふくめると、五十人くらいかな。以前は配車とか事務なんかを手伝っていたんですが、単調な仕事に変化がほしくなって。必死で二種免許をとったんですよ」
と、はきはきとした口調で明かす。タクシーは、ミカン畑のひろがる郊外を突っ切っていった。
「こちらでは、夏祭りでミス小町を選び、人力車にのせて町内をねり歩くんですよ」
「ほう。華やかそうなお祭りですね。どうです。候補にはあがりませんでしたか」
わたしは身をのりだし、バックミラーに映った目鼻だちの整う彼女の背中ごしに、声をかけた。
「えっ、わたしなんか、そんな代表になれっこなかですよ」
「するとまだ、美人がわんさかいるってわけですか。じゃあ、いっそのことタクシー業界のミス小町≠ノでもなったらどうだろね」
「うーん。そ、それもそうですね」
彼女は、旅行者の気ままなしゃべりをあしらおうともせず、えくぼを頬にうかべた。
[#小見出し] 東北小町に惚れた
秋田県|雄勝《おがち》郡|雄勝町《おがちまち》。
わたしたちは、雄物《おもの》川にかかる万石《まんごく》橋のうえにたたずんでいた。
六月。野辺は新緑を競《きそ》い、源流の雪どけで、眼下のながれは滔々《とうとう》としている。雄勝町は、秋田県の最南に位置する山あいの町である。
「えんすがあ(いいですかな)。近くにみえるあの山が東鳥海山《ひがしちようかいざん》。そして、あっちが神室山《かむろさん》。雪をかぶったあの高いのが、西の鳥海山だべえ。神室山は、別名を南鳥海山ともいってるんし」
地元にすむ郷土史研究家の田中良治《たなかりようじ》さん(八十四歳)は、いくぶんアゴを反《そ》らし、からだを半分回転させて三方向を指さした。
梅雨入りまえの澄んだ視界のかなたに、大小の山々がうかぶ。
田中さんは、戦前より小・中学校の教師として三十年あまりつとめ、長らく地元の中学校の校長を経て退職した。その後は、書店をいとなむかたわら、在野の人として、民俗史や歴史文化のほり起こしに専念してきた。
とりわけ、小野小町への熱《ねつ》のかたむけようは半端でなく、地方の大学教授も助言を乞《こ》いにくるほどである。
小町伝説にまつわる史跡の残る土地は、全国でおよそ百四十ヵ所にもおよぶ。田中さんは、そのうち八十ヵ所あまりをこつこつとたずね歩いてきた。わけても、雄勝町は小町の生まれ故郷といわれ、小町にまつわる史跡がもっとも多いところである。
出羽郡司《でわのぐんじ》小野良真《おののよしざね》の館《やかた》であった桐木田《きりきだ》城跡をはじめ、深草少将ゆかりの寺や小町が隠遁生活を送ったという洞窟までが、この町に集中しているのだ。
「田中さんがそれほどまで小町にこだわってきたのは、いったいどんな魅力からなのでしょうか」
まだ矍鑠《かくしやく》とした明治生まれの小町博士≠ヘ、カラーシャツにネクタイ、濃紺のベレー帽がよく似合っている。
「二十五歳のころでしたかなあ。となりの湯沢《ゆざわ》市の高松《たかまつ》ちゅうところにあった小学校へ赴任したとぎのごどです。川原毛《かわらげ》温泉附近のお寺で、小町の老衰像をふと眼にしてんすよ。ふしぎに、心の引っかかりをおぼえだなんす。この町に、小町にかかわる史跡がぞろぞろと出てきたもんだがら、突きつめれば、なにか見えてくるとおもってんしよ。まあ、本格的にのめりこみはじめだなは、退職してからだども」
田中さんは、深々《ふかぶか》と回想した。
心地よい川風が吹いてくる。奥羽本線のレールをきしませ、三両連結の電車が、北のほうへと走り去っていった。
田中さんの店のクルマで、小町塚をふりだしに、町内をまわることにした。
小町塚では、毎年六月の第二日曜日に雄勝あげての「小町まつり」が、優雅に催《もよお》される。町内から選ばれた七人の小町娘が、市女笠《いちめがさ》姿で、七首の和歌を朗詠する。
小野良真が建立したと伝えられる熊野神社をおとずれたあと、農道を通り抜け、長泉寺《ちようせんじ》へとむかう。ひろびろとした田圃《たんぼ》には、植えてまもないアキタコマチの苗がさやぐ。この一帯は、古くから「小野村《おのむら》」と称されてきた。
クルマはほどなく、「御返事《おつぺち》」集落をすぎる。深草少将が姥《うば》にたのみ、小町へ恋文を送り、その返事をまっていたので、この地名がついたといわれる。
大同四年(八〇九)、小野小町は、出羽国福富《でわのくにふくとみ》の荘桐木田《しようきりきだ》(雄勝町小野字桐木田)で生まれた。
十三歳のころ京都にのぼり、三年ほど都の習《なら》わしや教養を身につけたのち、宮中に上がる。才気と美貌をもって二十年あまりつかえ、大勢の高級女官のなかでは、ならぶものがないとまでささやかれた。
しかし、三十六歳のとき、ふるさと恋しさのあまり宮中をしりぞき、小野の里へ帰って閑居。日々を歌にあけくれた。
突然都から姿を消したことに、深草少将は心をいため、郡代職なる肩書きをもらい、はるばる小町のあとを追ってくる。
「小町に面会を求めたものの、彼女は疱瘡《ほうそう》をわずらっていたので、会おうにも会えない。そこで、屋敷のそとに、山芍薬《やましやくやく》を毎日ひと株ずつ植えて百株になれば望みをききましょうと、姥《うば》を介し約束したんですね」
「そうです。少将は会いたさのあまり、山から芍薬《しやくやく》をせっせと掘り取ってきては、一本一本植えたといいます。小町のほうも、百夜《ももよ》をすぎるころには、疱瘡《ほうそう》もなおっているなだどおもうんす。秋雨《あきさめ》が降りつづいたあどでしたな。少将がやっと百本を植えおわる晩にす、橋から落ちて、ながれに呑まれてみまかってしまったなんすよ」
田中さんは、自然石でできた深草少将の板碑をあおぎつつ、くわしい解説をしてくれる。深草少将の恋の百夜通いの伝説は、熊本、京都、秋田など、計四ヵ所ある。
つぎに、向野寺《こうやじ》へクルマを走らせる。この寺は、小町の菩提寺であり、小町三十六歳のころの自作像が安置されているという。小町が腕をふるった像は、いったいどんな容貌《ようぼう》なのだろう。こころなし、ハンドルが軽くなる。
三百年の時を経た本堂の屋根は、ひなびたカヤでふいてあった。せまい境内には、だれもいない。
引戸をこじあけて、田中さんと本堂へはいる。そのいちばん奥に、伝説の美女がすわっていた。
高さ五十センチ。顔はふっくらとタマゴ形。トチの木でつくられた像は色あせ、ところどころがはがれているが、とてもあえかで、しかも凜《りん》としている。
田中さんとわたしは、唐衣《からころも》(十二単《じゆうにひとえ》よりもまえの時代の衣裳)を着た座像のまえに跪き、しばし両手を合わせた。
寺をあとにし、クルマは、雄物川本流をまたぎ、秋田杉のそびえる山裾《やますそ》へとはいっていく。別水林《べつすいりん》と呼ばれる森の奥に、小町終焉の住まいがあった。
林道の小平地に駐車。田中さんのゆったりとした足どりに合わせ、山道をたどる。
草いきれで、額《ひたい》が汗ばんでくる。まばゆいばかりの青葉でおおわれた道端に、ヤマアジサイの花が咲き、あちこちに薄紫の桐の花が散っている。
やがて、突きあたりに、草木にかこまれ藍鼠《あいねず》色した大岩が、眼にとびこむ。なかは大きくえぐれている。
祠《ほこら》の入口の丈《たけ》は、二メートル弱。スペースは畳二十枚分ほどあって、意外と広い。もともとは、縄文時代の遺跡なのだ。
よくみると、敷居と鴨居をとりつけたような跡があり、ほの暗い奥の壁ぎわには、ちんまりとした小町の石像が祭られてあった。
「小町は、この洞窟で香《こう》をたき、ひとり自像をきざんで、九十二歳で亡くなったんです」
すずしい岩陰に立ち、田中さんは、神妙な面持ちでつぶやいた。
いつものクセなのだろうか、時折両眼をとじては、手ぶりをまじえ、言葉を流暢《りゆうちよう》にかさねる。
「こんなさびしいところでも、小町にとっては安住の場所だったんでしょうか。若い時分、さんざんモテた小町は、結局、実った相愛はありませんでしたが、あれから千年の時空を超えても息づく恋と夢の歌をのこしたんですね。おやっ。岩の真上《まうえ》には、立派なブナの木がおおい繁っていますねえ」
わたしは、ほれぼれと上空を見あげた。
「ほれ。ブナは森の母といわれでいるんすべ。小町も、母の胸に抱《だ》かれていたがったなでねがったんすべがなあ」
「田中さん、九十二歳まではまだまだあります。これからも、ずっと研究に励んで下さい」
祖父ほど年のちがう相手へ、まじめくさったセリフをいう。
「いやあ。はっはっはっ。とても、とてもす。まるで小町は、わたくしの健康の守り神みたいなものでねんすがなあ」
小町博士はからだをゆすって笑った。
杉林がじゃまをして「小野」の集落が見えかくれしているが、当時なら、この位置からはくまなく遠望できたのだろう。
はっ! 冷気ただよう洞窟の片隅に、ぼんやりと人影が。唐衣をまとうあでやかな女人がすわっている……と思いきや、気のせいであった。わたしは、ひとりため息をついた。
キョロキョッ、キョロキョッ。クロツグミの鳴き声がきこえてくる。山にそろそろ黄昏《たそがれ》がせまってきた。
JR横堀《よこぼり》駅に近い旅館の一室に、わたしたちは腰をおちつけた。
投宿先は「小町荘」。先代のオーナーと田中さんは、旧縁の間柄《あいだがら》だったという。きけば六十年まえに、田中さんが代用教員をしていた小学校の卒業生が先代なのであった。その教え子も、すでに高齢で他界し、息子夫婦があとを継いでいる。
座敷のテーブルをはさんで、くつろぐ。旅行バッグから一升瓶をつかみだし、真んなかにでんと据《す》えた。
「おや。これはあ。湯沢の『福小町《ふくこまち》』(湯沢市田町 木村酒造店)の酒でねんすが。うん。大吟醸だずな。いやはやー、ゲンのいいことだんすなあ」
田中さんは、頬《ほお》をゆるめ、あぐらを組みなおした。
「べつに、ゴロ合わせで持参したんではないんですよ。昨日はじめて酒蔵へ行ってきたんです。甘口主流の秋田県にあっては、昔からシャープな酒質をつくってきた蔵でしてね」
「ほほう。やっぱり、雄物川の水で仕込むんですがな」
「そうです。ながいこと苦労の甲斐あって、今年は三十五年ぶりに全国の鑑評会で金賞を射とめました。けっして、銘柄負けはしておりません。二年まえに、ここの純米酒を飲んでみて、ピンとくるものがあったんです」
そう言って、わたしは一升瓶の封を切り、ふたつのグラスになみなみと注《つ》いだ。
「ところで、田中さん。小町というと、いつもナゾめいて語りつがれてきたんですが、雄勝町が小町の出身地だという根拠は、たんに民話伝承の積みあげだけではないんでしょう」
先ほど立ち寄った田中さんの書斎をおもい浮かべる。『古事記』、『日本書紀』、『古今集』、『群書類従《ぐんしよるいじゆう》』全巻。江戸後期の紀行家・菅江真澄《すがえますみ》の著作集など、文献や資料が、ふたつの部屋の本棚にびっしりと収《おさ》められていた。
「ええ。もちろんです。まあ、これを見でたんせ」
かれは、焦げ茶のカバンをあけ、ひと巻きの複写紙《コピー》をおもむろに取りだした。
鳥飼市兵衛《とりがいいちべえ》版「大増補日本道中行程記」。寛保四年(一七四四)に作成されたものである。
六畳間に地図をくるくるとひろげる。北は蝦夷《えぞ》から、南は九州、朝鮮半島までなんと長さが四メートルもある。旧秋田藩主・佐竹氏の別邸より発見されたもので、全国津々浦々の地名が克明に記《しる》されている。
「いいですか。ほれ。こごだんす」
と、かれは老眼鏡のフレームをつまみ、人差し指で一点をおさえた。わたしは身を乗りだし、その箇所へ視線をそそいだ。
○杉トウゲ三リ院内一リ横堀
○小野村小野小町出生ノ所三リ湯沢
と書かれてある。
「当時より、小町の出生地はここなんだと、言い伝えられてきたことが明白に証明されているんすよ。それに、小野氏というのは、ご存知のように古代祭祀の家系だんす。これは山岳信仰の修験道とふかく結びついていたなだんす」
「修験の大本山といえば、熊野三山と出羽三山ですね。ちなみに、日本三霊山は、青森の恐山《おそれさん》、秋田の鳥海山、富山の立山《たてやま》ですよね」
「今日の昼さ、万石橋からあおいだ山々は、すべて修験道の霊山で、互いに兄弟格にあだっているんす。東と西と南の鳥海山≠ェ、一ヵ所から遥拝《ようはい》できるのは、この雄勝町だけなんす。つまり、ぐるりを霊峰にかこまれたところで、小町が生まれていたというのは、つじつまの合う話なんすよ」
「なるほど。そういうことだったんですか」
座談に熱がこもってきた。わたしは、グラスの酒をぐいっとあおった。
「もうひとつ教えて下さいませんか。まえから気になることがあるんです……」
つづけて質問の矢を放つ。小野氏は、古代に鉱脈や水脈を探し、各地の山中を歩いた一族だ。神託を得るために、巫女《みこ》までつれていたという。
事実、小野氏ゆかりの土地には、金銀鉄の遺跡がたくさん発見されてきたことはよく知られている。そうすると、雄勝周辺にも鉱脈がありはしないかと疑問を持ったのである。
「そうなんす。わたしも、小野一族の鉱脈伝説に着目しておったんす。雄勝には、院内銀山があったんす。天保年間には、人口一万五千人。城下町の秋田をしのぐほどだったなだんす」
これまでの謎が、うす皮をはぐようにわたしの内部で氷解していった。
「小町荘」三代目の女将《おかみ》、菅《すが》まつ子さん(四十歳)が夕食をはこんできた。
顔は色白で、ふっくらとタマゴ形の輪郭《りんかく》。三田佳子ばりの典型的な雄勝女《おがちおんな》である。
「わたしなんかともかく、この辺の女性はオーバーでなくて、しとやかで男の人につくすタイプが多いとおもいますわ」
エプロン姿の彼女は、わたしのまなざしをはずし、田中翁にほほえみかけた。
「この町には、昔、小町伝説の資料をまとめあげた高橋正作いうのがいでてなあ。小町の母方の子孫といわれでいる。ここの孫娘が、そりゃあとても眼鼻だちのきれいな女《おなご》だったなあ。牛乳のような肌をしとったべなあ。わたくしが二十六歳のときす、その娘は二十二歳。この娘にひと目惚れをしたほどだんす。他国《よそ》へ嫁いでしまったがなあ」
酒にほだされ、田中翁の舌のすべりが良くなってきた。
「田中さん。案外とその一件が、小町研究の引き金になったのとちがうんですか」
「ふあっはっはっ。がもしれませんなあ。しょせん、想いをよせた人とは、結ばれにくいもんだがんすなあ。さあ。明後日《あさつて》は、年に一度の小町まつりだなす。〈色見えで うつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける〉わだくしは、花の色は――の歌《うだ》よりも、この淡々とした味わいが、このうえなく好きだんすよ。〈色見えで うつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける〉」
田中さんは、追慕《ついぼ》する面持ちで眼をとじ、小町の代表歌を反芻《はんすう》した。
悠揚《ゆうよう》たる節まわしに、耳をかたむける。わたしは、この翁自身こそが、伝説をきわめた人物であるような気がした。
[#第二章扉(chapter2.jpg)]
旅にしあれば名酒に出会う
[#小見出し] 熟成《ねむ》れ! ドラゴン
福岡県には、現在八十場あまりの酒蔵があり、その大半は、県の南部に集中している。
かつては灘の酒としのぎをけずり、造酒量で全国第二位をほこる時代もあった。戦後は国策にふりまわされたあげく、大手メーカーとの競争に敗れ、廃業していく蔵があいついだ。
わけても、筑後川流域は古い歴史をもつ酒造地帯で、酒蔵の多い久留米を真ん中にして、渦巻《うずま》き状に点在している。清澄《せいちよう》な水と肥沃《ひよく》な土地でとれる米とあいまって、キメ細かく切れのよい酒が醸《かも》されてきた。
九州の杜氏集団のうちで、いちばんの精鋭を輩出する土地柄なのである。
「この大刀洗町《たちあらいまち》にはもう一軒だけ、わたしら福岡銘酒会(上質な酒を鑑評会のためだけに作るのではなく、ひろく消費者に飲んでもらう等の趣旨で発足した研鑽《けんさん》を目的とする会。加盟十六社。トンネル貯蔵酒の試みも行われている)の会員蔵があるとです。かれは、ヤマメ釣りの達人でもあるんですよ」
五年前におとずれた筑後の蔵元は、温顔をたたえて口をひらいた。
「それはおみそれいたしました。ぜひとも、その人に会って酒質と釣り技のお手並みを拝見したいものです。で、どちらの蔵なんですか」
「飛龍酒造といいましてね」
「ヒリュウ……ふむ。竜《ドラゴン》ですね」
久留米周辺には、どういうわけか「若《わか》の壽《ことぶき》」「大刀乃寿《たちのことぶき》」「千年乃松《せんねんのまつ》」「敬老《けいろう》」「萬年亀《まんねんがめ》」といった長寿の願いをこめた銘柄がひしめいている。たしかに竜も縁起物で、めでたさに通じるところがある。それにしても他の蔵とくらべて、なんと勇ましい酒名だろうかと、わたしはひとりうなった。
竜は、中世の英雄伝説にしばしば登場してくる架空の動物だが、一方では敵を恐れさせる戦《いくさ》の守護神として、兵士たちの武具にかざられていた。中国では、縁起のよい霊獣とされ、王者や偉人などすぐれた存在にもたとえられる。
蔵元がヤマメ釣り師だと聞いて以来、すこし気がかりな未踏蔵のひとつとして、わたしの記憶から消えることはなかった。
酒造技術者や酒販店主、消費者有志がつどって審査する「ここに美酒《さけ》あり」選考会にも、飛龍酒造の酒はエントリーされず、蔵の全体像が依然としてつかめないまま、歳月がすぎていった。
ある土曜日の午後、わが家の電話が鳴りひびいた。
「はじめまして。わたしは、飛龍酒造の樋口《ひぐち》と申すものですが、じつは北川さんもわたくしらとおなじ山の釣りをされると、本で読みまして。他人《ひと》ごとのようでなく、ついうれしくなり、電話をさせていただいたとです」
わたしの処女作『秘酒《ひしゆ》と渓流魚《さかな》を求めて』を手に入れ、一報をよこしてくれたのだ。
「以前から、たしか釣り雑誌にも連載されとらんでしたか」
「はい。九州とか関西の月刊誌に、つたない釣り随筆を書いておりました」
「おお、やはり」
「まさか、その時分から読んでいただいていたと……」
すっかり恐縮したわたしは、あいさつもそこそこに、喉元がキュッとしめつけられる思いがした。
「腕を上げようと、釣りの本を読みふけったこともありまして。まあ、わたくしなんか蔵の主をつとめてはおりますが、いたって道楽者でしてねえ」
樋口利武《ひぐちとしたけ》蔵元(六十五歳)は、受話器のむこうで快活な笑い声を発した。仕事と遊びにつき抜けたニュアンスが、開放的な話しぶりにうかがえる。
長話《ながばなし》をかわしているうち、わたしの所属する九州ノータリンクラブの会長とも知り合いであることがわかった。意中の蔵との糸は、どうやらふしぎな縁で結ばれていたのである。
その年の冬、わたしは矢も盾もたまらず、筑後へと旅立った。
JR久留米駅。申しあわせた時刻に、蔵元が待っていてくれた。
クルマは、筑後川本流にかかる宮《みや》ノ陣《じん》橋をまたぐ。一月なかば、異例な暖かさもようやく冬本番をむかえ、薄曇りの空の下《もと》に、凍《い》てついた田園風景がひろがる。
十数キロほどすすむと、国道ぞいに蔵の大屋根が見えてきた。
一昨年、九州北部を襲った台風で、場内のエントツがへし折れ、一万八千枚もの屋根瓦が吹っとんだという。
本宅の和室へ通され、さっそく蔵元と話しこむ。屋久杉でつくられた流線形の座卓が、重厚なツヤを放っている。
「趣味といえば、キジ撃ちやゴルフに熱くなっとったわたくしが、渓流釣りにのめりこみはじめたのは、そう、四十五歳のときからでした。こうみえても、営業が大の苦手なもんで。得意先のゴキゲンとりに、山へついていったのがきっかけでした。友人からは、その年じゃ足元を踏みはずしち、谷底へ落ちるけん、やめんねなどと、さんざんからかわれましたよ」
恰幅《かつぷく》のよい蔵元は、ロマンスグレーの頭へ手をやり、昔をふり返る面持ちで切りだした。
壁のすみには、|五ケ瀬《ごかせ》川(宮崎県)で釣りあげた四十九センチのヤマメの魚拓が、さりげなくかかげられてある。
「渓流釣りは一日に、軽く十キロは谷筋をあるきますし、じつに体力がいりますからね」
「めまぐるしい冬の造りがおわるころは、ちょうどヤマメの解禁で、気分転換にいいんです。土日《どにち》は宮崎や熊本方面、山口県の佐波《さは》川まで、足をのばしたとですよ」
「渓流釣りの病《やまい》におかされる心境は、よくわかりますよ。わたしもひところは、女房の妊娠中にもかまわず、年間六十日以上も山行きに明けくれていたものですから」
釣り人同士が話に没頭すると、時間のたつのもつい忘れてしまう。
「わたくしは、負けん気が人一倍で、むずかしいもんほど首を突っこみたくなる性分《たち》なんですよ。自分流の創意工夫で、ぐーんと釣果が得られるなんて、これほど楽しいものはないですよねえ」
「ハエ(オイカワ)釣りのほうも、かなりの腕前だとお聞きしています。川のなかで腰までつかり、すいすいと数を釣りあげるのは、簡単そうにみえて奥がふかい」
「ええ。ヤマメ狂いがおちつくと、寒バエのほうにも入れあげましてね。筑後川も十五年くらいまえまでは、となりの北野町《きたのまち》から上流にかけて、瀬ありトロ場《ば》ありで、ハエの宝庫だったんですよ」
「ほう」
「その後、あれよ、あれよという間《ま》に、がまかつG杯の全国大会まで出場することになりまして。もっとも、三回戦でみごとに敗退してしまいましたがねえ」
蔵元は、サオと網《あみ》ビクをもちだしてきて、手元をリズミカルにうごかす仕草をする。尢子《しゆうこ》夫人が、紅茶をはこんできた。
「わたくしが十八のときに、うちの親父《おやじ》が逝《い》ってしまいましてね。いやおうなしに責任がかぶさり、まえの杜氏といっしょに、蔵内でずっと現場の仕事に打ちこんでいましたよ」
「その反動でしょうか。三十になると、堰《せき》を切ったみたいに本業そっちのけで、キジ撃ちに向かっていったわ。会社がかたむかないほうがおかしなくらいなんですよ。もう」
色白の夫人がほほえんで、蔵元へやんわり視線をあびせる。
床の間にキジの剥製《はくせい》が一羽、翼《つばさ》をひろげていた。首のまわりに白い縞《しま》がある雄のコウライキジだ。蔵元が韓国までわたって、撃ってきたものである。
「当時は、地酒の低迷期で、地方の蔵も事業が細《ほそ》った時代です。ご主人もやり切れぬものがあったんではないでしょうか。酒は飲む者を愉《たの》しませるものですし、造るほうにだってアソビ心がないと、旨い酒もできやしませんしね」
どういうわけか、こちらが蔵元の掩護射撃にまわっている。
「いやあ。こいつ(夫人を指して)も謡曲やらゴルフやらに凝《こ》っとりまして。似たもの夫婦ですかな。はっはっ」
ヤマメ釣りに夢中の蔵元は愛竿を座卓の上に置いて苦笑し、タバコの火をつけた。
「ところで、飛龍という銘柄をはじめて耳にしたとき、ピンとくるものがありましてね」
「ほう。なんでしょう。戦中派のわたくしらには、そう、太平洋戦争で使われた四式重爆撃機とか主力航空母艦・飛龍の名が、まっさきに浮かんできますがねえ。当時、飛龍に乗りこんでいた方から、なつかしがられて今でも注文をいただくんですよ」
そう言って、蔵元はゆっくりと紫煙をくゆらした。
「想像力のとぼしいわたしなんかには、おなじリングネームで呼ばれるプロレスの藤波辰巳が、つい頭をかすめてしまうんですよ」
「あの、わたし、フジナミさんにいちどだけお会いしたことがありますわ。もう、立派なかたで。博多の迎賓館《げいひんかん》の開所パーティのとき、友人に誘われてまいりましたの。その席で、紹介していただいたんですよ」
尢子夫人は、押さえきれないといった口調で返してくる。
〈飛龍を飲んでゐると、海の潮が満ちてくるやうに酔ひが遠くから静かにやつてくる〉
うしろに眼をやると、高橋義孝氏直筆の額が掛けられていた。話のすべりだしがいっこうにおさまらず、かんじんの酒の件は、すっかりあとまわしになっている。
「ドラゴンスープレックスで、相手をマットに叩きのめすような、飲み手の舌をこっぱみじんにする酒をつくってほしいですね」
わたしはそう言って、冷《さ》めた紅茶をがぶりと飲みほし、話題を転じた。
「そう。うちの息子(二十歳)は、いまでもプロレスの大ファンで、小学生のころでしたか、ふざけて友達の|尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨《びていこつ》にヒビをいれちゃいまして。あれ、アトミックドロップというのかしら。親ともども先方へ謝りに行ったことがありましたわ」
こちらの目論見もくだかれ、何かいいたげな蔵元をさえぎって、夫人は喜々と言葉を重ねた。
蔵元にうながされ、本宅の裏手に建つ酒造場へと足をはこぶ。
蔵内では、これから二月にかけて、吟醸仕込みがはじまるところであった。五人の蔵人が配置についている。水色のジャンパーに身をつつむ待鳥好美《まちどりよしみ》杜氏(五十七歳)が、言葉すくなに立ち働いていた。
筋肉質の体つきと時折みせるするどい眼光は、朴訥《ぼくとつ》でいかにも剛毅《ごうき》。
酒母《しゆぼ》室に十二日目の|※[#「酉+元」、unicode915b]《もと》があった。つま先だちして、上からのぞく。表面はクリーム状に泡立ち、芳香が鼻先をくすぐる。
酒母(※[#「酉+元」、unicode915b])は、麹《こうじ》と蒸米《むしまい》、水の混合物に酵母を多量に培養するもので、文字どおり、醪《もろみ》のアルコール発酵の原動力となる。
酒母を仕込む工程のひとつに、打瀬《うたせ》≠ェある。これは、酒母の品温をいったん七度前後に冷やすことによって、死滅しかけた酵母を淘汰《とうた》し、生きのよい酵母だけにするものだ。操作には手間ひまがかかることから、打瀬を省く蔵が多い。
「おやっさん。あえておたずねしますけど、打瀬はとっておられるんでしょうか」
わたしは、初対面の待鳥杜氏に問いかけた。かれは、むけられた質問に、一瞬|憮然《ぶぜん》とした表情をうかべ、ひと呼吸して当たり前のことだといわんばかりに言う。
「もちろん。打瀬をやらんこつにゃ、しっかりした酒にならんで。手抜きはだめだち」
待鳥杜氏は、若いころ野白金一《のしろきんいち》博士のもとで、じかに修業をつんだ経歴をもつ。野白博士は、大正から昭和三十年代にかけて、熊本の本格清酒造りの先端を切った人物で、酒の神様≠ニいわれるほどの技師であったという。
飛龍酒造へ移籍してからは、頭《かしら》(杜氏を補佐する役)をつとめていたが、まえの杜氏の引退にともないあとをつぐこととなった。新しく杜氏職についてから二年目。かれはようやく、吟醸造りのノウハウを全開させようとしている。
検査室に酒瓶がもちこまれる。大吟醸「飛龍」、吟醸純米酒「筑後川」、本醸造、普通酒。ラインナップが勢ぞろいした。
たっぷりと注《つ》がれた|※[#「口+利」、unicode550e]《き》き猪口を、口元にもっていく。本醸造はなめらかで、軽快。これが精米歩合五八パーセントの酒かとおもわせるほど、香味のバランスがいい。だが、わたしにはまだ物足りなく思えた。
「この軽さこそが、完全発酵に近い証《あかし》ですね。でも、まだ本当の力が出しきれていないのではありませんか」
わたしは、猪口を片手に立ったまま、そばの杜氏へ向きなおった。
「そうですか。酒をうんと熟成させて、辛口のなかに旨味《うまみ》をもたせるのが、飲みあきのせん酒質《さけしつ》じゃと思っとりますんで、もっと改良をくわえんといけませんかな」
杜氏は、謙虚な目元に変わっている。つぎつぎに酒を※[#「口+利」、unicode550e]いていく。とどめの大吟醸は、ただ淡麗なだけでなく、精妙、しかも力強い。まさしく、気高い竜が雲をいただき、天へ昇っていく晴々《はればれ》とした飲み心地だ。
「うちの蔵は、吟醸造りではこれまで多少出おくれていた感があります。たしかに辛口でうまみが欠けていました。でも、待鳥杜氏の手で、スッキリ淡麗な酒ができたと思います。これで満足することなく、さらに上を目ざします」
チェックのブレザー姿の蔵元は、俊敏なヤマメをねらう釣り師の眼つきになって、さかんに※[#「口+利」、unicode550e]き猪口をかたむける。
「たとえ吟醸ブームが去ろうとも、地方の名酒はかならず生きのこれますよ」
無口な待鳥杜氏は、わたしの言葉に耳を傾け、じっと立っていた。
近くをながれる陣屋《じんや》川のほとりを蔵元と散策する。この川は、筑後川の支流にあたり、ふた昔まえまでは、蔵人が桶や暖気樽《だきだる》を手洗いしていたところである。
「子供のころに、祖父からよく聞かされていたんですが、陣屋川にはカワウソが生息しておりましてね。竹ヤブもうっそうとしていたんです」
川幅七メートルあまりの両側は、護岸コンクリートがほどこされており、昔日の面影はまるでない。
「あのまぼろしとされるニホンカワウソがここにいたんですか」
カワウソの毛皮は良質で、外套《がいとう》の襟《えり》などに利用されていた。乱獲や河川のよごれがたたり、近年、日本では絶滅したとされている。
「うちの祖父は、カワウソの巣さがしが上手だったんです。カワウソは、自分の巣のそばの平べったい石のうえに、獲《と》った魚をきれいにならべるんですよ。祖父はそのうわ前《まえ》をハネようと、川っぷちでしょっちゅう遊んでいたとです」
「蔵元は、そんな|狩り《ハンテイング》の気風を、しっかりうけ継いでおられるんですねえ。キジといい、ヤマメといい」
「キジ撃ちは、ただの鉄砲うちとちがい、鳥猟犬《ポインテイングドツグ》を子から育てるのが楽しみなんですよ。キジは、ほら、草原の丘とか広葉樹の明るい林にすんでいるでしょ。犬が風にむかってクウォーターリングして、スピードをゆるめつつ獲物へ近づき、そして、じっと身構えます。そこへすかさず、飼い主が合図を送り、犬におびえて草むらにうずくまるキジがあわてて飛び立った瞬間が、勝負どころなんです」
蔵元は、川岸にわずかにのこったツゲの葉の茂みを手で払い、ふといゴマ塩の眉毛を上下させた。
半年後、筑後川の源流をいっしょに釣りあるこうと約束し、飛龍酒造をあとにした。もうそのころには、仕込まれた酒もふかい熟成《ねむり》からさめ、飲み手の舌をふるえさせてくれることだろう。
[#小見出し] 雪舟が愛した鶴
「まあ、いちどその眼で確かめてみろ。石見《いわみ》地方のなかではなあ、あの蔵は昔からしっかりした酒を造るとこだわいな」
鳥取にすむわたしの酒造りの師匠は、こうつぶやいた。
二十年まえよりかれは、島根県工業技術センターの外部講師として、県内を巡回指導する堀江修二《ほりえしゆうじ》技師(五十七歳)らとともに、四|度《たび》にわたりその蔵をおとずれている。きっと、ある種の手応《てごた》えを覚えたのだろう。
「いったい、どちらの蔵なんですか」
わたしは、身を乗りだしてたずねた。
「桑原酒場《くわばらさかば》(益田市中島町)といってな。仕込水は高津《たかつ》川の伏流水じゃよ。ほれ。高津川の源流域は、お前さんの好きなヤマメの濃い谷じゃないかい」
若いころ渓流釣りに凝《こ》っていた師匠は、手首を軽くしゃくる真似をした。
後日、わたしはその蔵の純米吟醸を買いもとめ、ひとり納得がいくまで、何度も舌でころがしてみた。
島根県益田市。郊外の小高い丘に、古びた堂宇が建っている。
大喜庵《たいきあん》。室町時代に生きた画僧雪舟は、ながい旅暮らしのすえ、年老いてこの地をえらんだ。眼下には、高津川と益田川が街並みを割るようにして、ゆったりとながれる。
ここまで西にくると、山陰の海はやけに明るい。三月。陽射しをあびて光る石見瓦《いわみがわら》の家々が、かざりっ気のない一望をみせている。屋根の色合いは、どことなく頑固そうにもみえる。
大喜庵の上手《かみて》にある「雪舟の郷《さと》記念館」へと足をはこぶ。
雪舟とその系譜をひく画家たちの描いた作品が、展示室にかざられていた。平日で開館直後のせいか、入館者はだれもいない。
いちばん奥にあるガラス張りのまえで、わたしは立ちどまった。高さ二メートル、横幅四メートルもある「四季花鳥図屏風《しきかちようずびようぶ》」が、配されていた。
老いた松の根元に、丹頂鶴が一羽。そして、靄《もや》にかすむ岩影に一羽。細長い首をくねらし、翼《つばさ》をたたむすがたは、番《つがい》のようでもあり、姉妹のようでもある。
そのとなりで、雪をかぶった梅の古木が、飛んでくるシラサギへ枝をいっぱいに差しのべている。
軽みと重み、遠と近のつり合いもよく、力強さを感じさせるとともに、なんとも、観《み》る者をなごます筆づかいであった。
雪舟は、山水画を大成した人物であるが、その半生は空白な部分が多く、いたって伝説めいている。
備中国赤浜《びつちゆうのくにあかはま》(現在の岡山県総社市赤浜)に生まれた雪舟は、幼少のころ小僧として寺へあずけられた。
絵に夢中になり、たびたび読経をなまけたため、お堂の柱にくくりつけられた。床にこぼれおちた涙で、本物そっくりの鼠《ねずみ》の絵を足指でかき、和尚をびっくりさせたという話は、あまりにも有名である。
やがて、京都の相国寺にうつり、知客《しか》(接待僧)として修行をつむかたわら、絵を学びはじめる。雪舟にとって、水墨画をきわめることが、禅の奥義に達する道であった。自然と人間生活のうつり変わりのなかに、釈迦の世界をみつけようとしたのである。
四十代になり、相国寺を出て、辺地へと旅立っていった。当時の画界の主流東山画壇(宗湛《そうたん》や狩野《かのう》正信《まさのぶ》らに代表される)に不満をいだいて去っていったものか、あるいは、京都に居すわったまま名声を博す御用絵師に失望し、新たな感性をひらくために自由を求めたのかは定かでない。
大内氏の領国|周防《すおう》に招かれ、しばらくすごしたあと、中国(明)へ渡る。画技をみがき、二年後日本へ帰ってみると、応仁の乱の真っ最中であった。安住するところもなく、ふたたび旅にかりたてられる。各地を巡《めぐ》り、還暦をむかえ、やっと益田に腰をおちつけたのは八十歳を過ぎたころであった。没するまでのあいだ、築庭と作画にはげんだのである。
記念館を出たわたしは、雪舟と縁《ゆかり》のふかい医光《いこう》寺と万福《まんぷく》寺をたずねた。画聖とうたわれた旅僧の境地を、少しでも手繰《たぐ》りよせてみたかったのだ。
そして、「扶桑鶴《ふそうづる》」(桑原酒場)へとむかった。
高津《たかつ》川のほとりから近い国道すじに、酒蔵のエントツが空にのびている。野菜畑の奥の表玄関で、蔵元がまちうけていた。初対面のあいさつをかわす。
仕込蔵の入口で、消毒液の入ったマットに靴底を浸《ひた》す。すでに仕込みや上槽《じようそう》(酒をしぼること)は終わり、蔵人は道具類のあとかたづけに精をだしていた。
水を張った半切桶《はんぎりおけ》のなかに酒袋《さけぶくろ》が漬け洗いされ、|※[#「酉+元」、unicode915b]櫂《もとがい》は陰干しされてある。レンガ敷きの通路を歩いていくと、冷水機の音が、ほの暗い蔵内にグォーンとひびいてきた。
検査室に通されたわたしは、蔵元と杜氏の話に、耳をかたむけた。
「はずかしながらずいぶん長いこと、伏見の桶売りをやっとりましたが、いつやめようか、いつやめようかと迷っとったんです。級別廃止をきっかけに、売り上げが半減するのを覚悟で、大手メーカーときっぱり手を切ったんです」
温和な顔だちの蔵元は、声を少しうわずらせる。額《ひたい》の広さが、いかにも石見人らしい朴訥《ぼくとつ》さをただよわせている。
「よく思い切られましたね。酒造界は激変つづきで、全国どの蔵も舵《かじ》とりに四苦八苦しています」
わたしはソファに腰をかけ、蔵元の名刺をしげしげとながめた。代々の主人の名前に鶴≠ェついているとは聞いていたが、そのとおり大畑鶴人《おおはたつると》とある。
「製造コストが叩かれっぱなしの桶売りでは、将来《さき》がありませんし、生きのこれません。杜氏や蔵人にはやはり、自分ところの酒造りに専念してもらいたかったもんですから」
※[#「口+利」、unicode550e]き酒の用意をしている竹内定夫《たけうちさだお》杜氏(六十一歳)のほうを見ながら、蔵元は面映《おもは》ゆげにほほえんだ。
窓ぎわの机に、新酒と古酒が入った猪口が、ずらりとならべられる。背すじをピンとのばし、順繰《じゆんぐ》りに|※[#「口+利」、unicode550e]《き》いていった。
袋しぼり(酒袋を吊るしてしぼる方法で、酒槽《ふね》はつかわない。首吊《くびつ》りともいう)の純米大吟醸が、ノドの粘膜をサラリとつつみこむ。舌にちっとも障《さわ》らず、輪郭のハッキリとした味わいだ。白いラベルには、一羽のはばたくツルが描かれている。わたしは、雪舟の屏風絵と医光寺の庭を思い起こした。
「島根とひと口にゆうても、石見は出雲とちごうて、酒も淡麗なものが好まれますけえ。濃いめの酒よりは、きちっと熟成《ねか》せて軽く仕上げたもんほど、飲む醍醐味が増すとおもいますけえ」
ふっくらとした面立ちの杜氏《おやつつあん》は、経験四十五年の自信をうかがわせる。
十個の猪口のうち、純米吟醸と純米酒には苦味と荒さが、ほんのり感じられた。蔵の清酒のほとんどは、自動圧搾機《じどうあつさくき》(機械で左右から加圧する方法)でしぼられ、ごく一部が袋しぼりだという。
「機械しぼりだと、たしかに人手は省力化できるでしょうが、酒質が荒くなりますよね。いちいち袋吊りをすると、手間もかかるし値段がめっぽう張って、大衆価格では出荷できないでしょう。昔からの槓杆《こうかん》式しぼりの酒槽《ふね》でやれば、味がもっと柔らかくなりますのに。どうしてつかわないんですか」
「それが……。以前うちにあるにはあったんですが、修理不能な状態になり、投棄処分にしてしまったもんで」
蔵元は、眉のあたりを八の字にした。
「しかし、仕上げがかんじんなのでしょう。おやっつぁん(杜氏のこと)らが、いくら高品質な酒をつくっても、その努力がだいなしになりますよ。槓杆式の酒槽《ふね》は、今では入手しにくいでしょうが、その気になれば手配できるはずですよ」
わたしはかまわず苦言を呈した。竹内杜氏は、※[#「口+利」、unicode550e]き猪口を手にして味を確かめている。約一時間、酒質をめぐり蔵元との対話がつづいた。
「いやあ、わかりました。酒槽《ふね》の件は、本気で取り組んでみます。なにせ、自分の蔵のことですしね」
じっと考えこんでいた大畑蔵元は、腹を決めた表情になり、さばさばとした笑顔になった。
なにかにつけ煮えきらない出雲人の気風とのちがいは、ここにもハッキリとあらわれていた。
「ところで、『扶桑鶴《ふそうづる》』という銘柄は、ご先祖の名前からとられたんですか」
わたしは、話題をふった。
「ええ。扶桑《ふそう》とは日本の別称で、それに代々の鶴≠くっつけたものです。わたしで三代目ですが、うちの父までは鶴三郎≠襲名しておりまして。なにせ戸籍の変更やらがややこしいんで、わたしは鶴人のまんまなんですわ」
「雪舟のかいた屏風絵はご存知でしょうか」
「そりゃあ歴史的にも益田といえば、柿本人麻呂か雪舟ですので。ずいぶんとまえに見たことがありますが、どんな図柄だったのやら、はて、ちょっと思い出せませんが」
蔵元は、立ったまま腕組みをした。
「雪舟がのこした水墨画のなかでは、ただ一作だけツルが描かれてあるのが、花鳥図屏風なんですよ。城主・益田兼尭《ますだかねたか》の孫が家督をついだ際、祝いのため雪舟が筆をとったらしいんです。絵をはじめて見たとき、扶桑鶴はこれにあやかって付けたものかと唸《うな》ったくらいです」
鶴とつく酒名は、石見地方ではこの蔵だけである。
「ふーむ。そんなにも魅《ひ》かれる絵なんですか。そりゃもう一度、見に行かにゃあいけんですね」
西陽が射す窓際で、蔵元は小首をかしげた。わたしは、その日たずねたふたつの庭の様子を、あらためておもい浮かべた。どちらも同じ時期に、雪舟が気のむくまま築いたといわれている。
万福寺の書院造りの廊下よりながめた庭園は、枯れた趣きであった。
流線形の池のまわりに、須弥山《しゆみせん》(仏教の世界観で、世界の中心にそびえたつ山のこと)手法の立石《たていし》をめぐらし、平坦な回遊式となっている。丸く刈りこまれたサツキの植え込み。片隅に影をおとすコウヤマキとカエデの高木。枯滝《かれだき》のうしろには、早咲きのヤブツバキが真っ紅に萌《も》えていた。
一方、医光寺のそれは、立体的であり、どこか華《はな》やいだ造りである。裏山を背に亀島をうかべる水面が、ツツジの茂みをそっと映しだし、マツとサクラの古木が、庭の石組みととけ合い、ふちを彩《いろど》る。
正面に立つと気がつきにくいのだが、棟つづきとなった庫裏《くり》からの全体のながめは、まさしくツルの恰好をしていた。池のまわりの植え込みを羽《はね》にたとえると、大きくはばたいているようにも見えた。
「ふしぎですね。ああいった庭をまえにすると、ツルの形をした池が、だんだんと心≠フ文字に思えてくるものです。それにしても、雪舟はどうしてツルにこだわりを持っていたんでしょうね」
わたしは、※[#「口+利」、unicode550e]き猪口を手にかざし、杜氏のほうを向き直った。
「日本や中国じゃあ、ツルが天女《てんによ》に身をかえる譚《はなし》があるでしょうや。禅の道でおのれを戒《いまし》め、戦乱をくぐってきた雪舟も、心のどこかに、亭主に尽くすツル女房を恋しがる至情があったかもしれませんな。いや、いや。そがあなことはありえんか。はっはっ。われわれ凡人とちごうて、枯れた境地におる者が、そがあなことは思わんじゃろなあ」
竹内杜氏は、黒縁のメガネを指でずり上げ、そう推理してみせた。
杜氏は、生まれも育ちも益田で、酒造りのオフは農業にたずさわっている。
「まあ。カメもツルも長生きのシンボルじゃし、あの時代の人々の安らぎとか健康を祈ったのではないでしょうか。うちの酒も、祝いごとにはよく注文がきますけえ」
今度は蔵元がつけ加える。
「そういえば、当時にしては雪舟は、めずらしく長寿をまっとうしたほうですね。扶桑鶴さんも、これから酒界をしぶとく生き抜いてもらわないと、わたしら飲み手も旨い酒が飲めなくなりますしねえ」
蔵元へ念を押すように、わたしは言った。吟醸香のたつ検査室は、しばしツル談義に沸いた。
蔵の創業者が、山水画を好んでコレクションしていたと聞き、拝見することとなり、母家へと案内される。廊下をきしませていくと、着物姿の鶴三郎氏(八十歳)が、ちょうど庭の手入れをしているのが見えた。
「ああ。あんたがはるばる奈良からきたちゅう文士かね」
視線が合った瞬間、先代鶴三郎氏は、ニコリともせず、こちらへ一瞥《いちべつ》をくれた。無愛想で、いかにも頑固そうである。相手にさぐりを入れず、スパッといくところは、石見人気質さながらである。
「いいえ、そんな大そうな。ただの釣り屋ですよ。高津川の伏流水で仕込むこちらの酒質にひかれ、こうしておじゃましたんです」
「そうか。息子にゃあトコトン言《い》うて下さいのう」
父の言葉に、蔵元はきまりわるそうに頭をかく。庭の池には、一メートル近い錦鯉が泳いでいた。
「しかし、けっこうな庭ですね」
「なあに、たいしたことない。ここにはなあ、戦前まで形のよいツルの置き物が三つあったんだ。鉄製でね。武器が不足した戦時中に、仕方なく供出《きようしゆつ》したもんだ。それで、うちの庭もどこかしまりがのうなってしもうたよ」
すでに現役を退いてひさしい鶴三郎氏は、もっと語りたげに、樹齢百年をこえるクロマツを見上げた。
夕方、鹿足郡《かのあしぐん》六日市《むいかいち》町にすむ友人ふたりが、わたしをたずねて蔵へやってきた。
どちらも渓流釣りを通じて知り合った間柄で、兼業農家のサラリーマンだ。ひとりは魚酔《ぎよすい》(吉中力《よしなかちから》・四十歳)、もうひとりは魚楽《ぎよらく》(桑原之也《くわばらゆきや》・三十八歳)の釣号をもつ。酒好きなかれらは、「扶桑鶴」の名は折にふれ耳にしていたが、醸造元へ立ち寄るのははじめてらしい。蔵元をまじえ、しばらく懇談する。
大吟醸を買いこみ、蔵を辞して六日市町へとむかう。三人の乗ったクルマは、高津川べりの国道を快走し、一時間ほどで最上流の町に着いた。
魚酔の家へあがりこみ、四方山話《よもやまばなし》を肴に酌《く》みかわす。
すぐ近くをながれる本流の約三キロ区域は、希少なオヤニラミ(スズキ科の淡水魚。えらぶたに眼とおなじくらいの藍色に光る斑紋があり、別名四つ目魚と呼ばれる)の生息場所でもある。かれはひそかに、オヤニラミの飼育研究をしている。
墨の濃淡が巧みな一枚の壁掛けに、ふと気がつく。魚酔の叔父が筆をとったという「竹林の七賢人」であった。
わたしは酔うにまかせ、地方蔵の実情を、かれらにゆっくりと打ち明けた。
「うーん。そうか。いつも飲んどるばっかりじゃあのうて、わしらも、酒造りの手伝いをやってみるかのぉ。なあ」
アルコールに頬を赤らめた魚酔は、片肘《かたひじ》をつき、興味ぶかそうに相棒へあいづちをもとめた。
座敷のテーブルには、タカハヤの甘露煮やウデジカ(タニウド)の味噌和《みそあ》えがならぶ。
「そういねえ。何事も経験じゃけねえ。やってみちゅうじゃあなあ」
魚楽がワサビの漬けものに口を動かしつつ、笑顔で応じる。
「われわれの釣りは、冬場は禁漁だろ。なあに、竿《さお》を櫂《かい》に持ちかえればできることさ」
そう言って、わたしはグラスの大吟醸をかたむけた。ツルがさっそうと舞い飛ぶかのような、のびやかさが舌をとらえた。乱世にあって、雪舟が独自の画風をうちたてたように、「扶桑鶴」にもそんな心境を託したくなった。
締め切った窓の外は深閑とし、耳をすますと、風が川音をはこんできた。夜はふけ、ますます声高に話がはずんでいく。
翌朝、わたしたちは、ヤマメ釣りに出かけた。
根雪をとどめる渓奥は、フキノトウが顔をのぞかせ、春にめざめようとしていた。心ゆくまで釣場を歩く。型のよい天然ヤマメが、何度も竿をしならせてきた。
高津川は、流程八十キロあまりの川だ。その最源流は、山ふところでなく、なんと県境の津和野街道ぞいにあった。山の浸食作用によるもので、本流の水源池として特定できるのは、全国でもこの一ヵ所だけである。
樹齢千年の老杉《ろうさん》が一本、真んなかにそびえ、あたりは平らな水源公園となっていた。
「ここの水は、なしてか分からんけえじゃが、昔から書道や水墨画にええちゅうて聞いとるんですよ」
今日いちばんの釣果にありついた魚酔は、帽子をとり、澄んだ湧水を指さした。菖蒲《しようぶ》の植わる池畔で、三人はいっぷくすることにした。
[#小見出し] 大カツラに湧く名水
「じつはね。京都の伏見に、折り紙つきの造り酒屋があるんだよ」
業界の友人はそう言うと、かつて二度おとずれた酒蔵をしみじみと想い起こすように眼を上に向けた。
その日、酒造技師であるかれは岐阜からの帰り道、わが家へたち寄り、いっしょに酒を酌《く》みかわしていた。
「おい。ほんとうか。伏見といえば、メジャー蔵《ぐら》のオンパレードだぜ。『月桂冠』、『黄桜』、『明ごころ』、『キンシ正宗』……」
わたしは信じられず、大手メーカーの銘柄を、知っているだけ列挙した。
「しょうがないなあ。手づくりに徹した蔵が、下鳥羽《しもとば》にあるんだよ。にごり酒の草わけでね。伏見のなかでも、古い歴史をもつところさ」
「ま、まてよ。そういえば、たしか街道すじに一軒あったっけ。うん。ひょっとすると、あの蔵なのかな」
遠い昔に、わたしは想いをめぐらせた。大学時代、京都で下宿していたころ、子母沢寛《しもざわかん》の作品を読んだことがきっかけで、新撰組にただならぬ関心を寄せていたことがある。田舎剣法をひっさげ、めきめきと頭角をあらわし、佐幕勢力として台頭したのもつかのま、やがては体制の露《つゆ》と消えていった個性集団に、みょうに引っかかりをおぼえたのだ。
地方からでてきたばかりの十代のわたしが、全共闘と機動隊とがキャンパスでぶつかり合う様《さま》をまのあたりにし、渦中に身を沈めていくなかで、そんな情動に駆りたてられたのだろう。
新撰組の屯所《とんしよ》があった壬生《みぶ》の屋敷。池田屋騒動の跡地。鳥羽伏見の戦いの場となった伏見区下鳥羽の界隈などをあるきまわった。
鳥羽街道ぞいで、ふと見かけたのが「月《つき》の桂《かつら》」(増田徳兵衛商店《ますだとくべえしようてん》)だったのだ。店先の大きな杉玉がなぜか印象にのこっている。
「オレも百三十年まえに生まれてたら、まっさきに幕府方に与《くみ》するよ。だいたい、明治維新というとさ、まるで官軍側が善玉みたいに扱われてきただろ。それがおかしいんだよ。頼まれたって、薩長土肥の酒蔵への技術指導なんぞは、まっぴらご免だね」
口をとがらす友人の言葉を制し、
「それはそうと、おやっさんは南但杜氏《なんたんとうじ》(兵庫県|養父《やぶ》郡、朝来《あさご》郡出身の杜氏集団)なんだって」
と、わたしは話の道筋がそれるのを防いだ。かれはこの手のハナシにはひどくうるさいのだ。
「うん。この道五十年、おやっさんの腕っぷしは文句ないやね。造りにはきびしく、いわゆる勝負師肌の職人さ。そう、新撰組の連中も、京の町で『月の桂』の酒を飲んでいたんじゃないのかって気がするんだ」
かれは、グラスに入った酒をせわしなくすすると、座イスから上体をせりだした。どうしても幕末期とからませたいらしい。
「話をきいているだけで、いちどその杜氏に会いたくなったよ」
大手蔵のひしめく土地で、根性をすえ、酒造りにいどむ杜氏。その意気込みが、ひしと伝わってくる思いがした。
十二月。わたしは「月の桂」を訪ねた。クルマの行《い》き交《か》う、せまい街道をへだてて、仕込蔵と本宅がむかい合わせに建っていた。
鳥羽伏見の戦いのとき、本宅は官軍側の要所にされ、ついには砲弾で焼けおちてしまったという。
応対にでてきた増田泉彦《ますだいずみひこ》常務(三十八歳)と蔵内《くらうち》へ足をふみ入れる。
ちょうど、|蒸※[#「飮のへん+繦のつくり」]《じようきよう》の真っ最中。甑《こしき》からたちのぼる蒸気で濛々《もうもう》たるなかを、白いうわっぱりを着た七人の酒男らが汗をながしている。ひときわ眼差《まなざ》しのさわやかな人物がいた。それが、西本護《にしもとまもる》杜氏(六十七歳)であった。
ほどなく、作業が一段落し、西本杜氏の案内で、仕込《しこみ》タンクの醪《もろみ》を順々に※[#「口+利」、unicode550e]いていく。
そのあと、検査室へと通された。
十六年古酒、純米吟醸、本醸造、純米にごり酒。いく種類もの酒瓶が、眼のまえにならべられる。
杜氏が、にごり酒の詰められた四合瓶を開けると、白い泡がシュワーッと音をたて、いきおいよく瓶の口へ吹きだしてきた。わたしは、※[#「口+利」、unicode550e]き猪口に八分目ほど注《つ》がれたそれを、じっくりかたむけてみた。
生きた酵母が口の粘膜を撥《は》ねるようで、とても心地よい。にごり酒は、発酵の終わりかけた醪《もろみ》を、目の荒いザル状のもので漉《こ》した酒のことだ。
月の桂では、全国にさきがけ、二十八年まえより商品化している。製造する二千石のうち、七割がにごり酒で、のこりの三割が清酒である。
「炭酸ガスが脂《あぶら》分をながしますので、ピリ辛な中華料理などにも相性がよろしいなあ。もっとも、わたし自身は、トンカツとのとり合わせが大好きで、わが家ではもっぱらコレですねえ」
長身の泉彦常務は、そう言って顔をほころばせた。
「生《なま》ですので、家の冷蔵庫に入れておくと、瓶ごと熟成する楽しみがありますよね」
「ええ。にごり酒の場合ですと、清酒とちがい、雑味までが旨さに化《ば》けるところがありますんで、玄妙ですなあ」
西本杜氏が眼を細める。二十四年まえ、かれはこの蔵へ移籍した。麹《こうじ》づくりをはじめ、工夫のいる製造工程は、労をいとわず、最後まで手仕事でつらぬく。
〈科学は情熱にほかならず〉
発酵学者・坂口謹一郎氏の直筆の額が、検査室の壁にかざられてあった。
「おやっさんは、関宮《せきのみや》町のご出身でしたね。氷《ひよう》ノ山《せん》、鉢伏《はちぶせ》連山のふもとなんでしょう。わたしは三年まえに、円山《まるやま》川の支流|大屋《おおや》川へ釣りに行ったことがあるんですよ」
※[#「口+利」、unicode550e]き猪口を片手に、口元をぬぐい、わたしは杜氏のほうを見た。
「なんと、となり町やないですか。今度、うちのそばをながれとる八木《やぎ》川にきてみませんかい。ヒラベ(方言でアマゴのこと)はおると聞いとりますけ」
杜氏は、人なつっこい調子で返してくる。
「ところで、『月の桂』は、しらないお客さんに『月桂冠』とよくまちがわれるそうですね。まったくもって似て非なり、なのになあ。まあ、命名《ネーミング》はこちらのほうがずっと古いでしょうに」
ふだん大手メーカーを手厳しく批評する友人が、強い口ぶりで話題を転じようとする。
「あっちは月桂樹で、こっちはカツラの木やしのぅ。うむ。カツラというと、うちの町に別宮《べつく》いう集落がありましてな。そこにはごっついカツラがありますんや。太い根元からは、こんこんと水が湧いて、村の飲み水になり、周囲の田畑までうるおしとるんですのや」
杜氏は、ぽつりぽつりと語った。銘柄から連想するイメージとダブり、巨木のもつ神秘さに、わたしは興味をそそられた。
酒蔵のすぐ裏手は、桂《かつら》川の本流がながれ、幅四メートルほどの堤防道が、南北にのびている。
友人とわたしは仕込蔵を出て、散策がてらにあたりをぶらついてみることにした。※[#「口+利」、unicode550e]き酒で火照《ほて》った額《ひたい》に、師走の風がすがすがしい。
「たしか、慶応四年(一八六八)の一月だったよな。鳥羽伏見の戦いがはじまったのは?」
友人がつぶやく。
「ここから二キロ先の小枝《こえだ》橋をはさんで、火ぶたが切っておとされたんだよな」
わたしたちは、葦《あし》の茂る堤防を風にさからって、気のむくまま歩いていった。
五月下旬。大阪始発の特急「北近畿」にゆられること約二時間。JR八鹿《ようか》駅に至る。
さらに、乗り合いバスで五十分あまりいくと、関宮町にたどり着いた。
中国山地の東端|氷《ひよう》ノ山《せん》よりながれる円山川の支流八木川ぞいに、集落が点在する。冬場は雪がふかく、近畿におけるスキーのメッカであり、夏場は林間学校の生徒たちでにぎわう高原の町だ。道路ぎわには、民宿、山荘、締めきったままの飲食店やみやげもの屋がひしめいていた。
バスを降り、「福定《ふくさだ》」集落から渓奥をたどる。
低気圧はどこへ去ったものか。予報がはずれて、晴れわたる空の下、山々は深緑に映《は》えていた。
一時間のち、アマゴと野生ニジマスを七尾ばかり釣りあげたわたしは、五キロ手前の「外野《との》」集落へと、午後の陽射しを背にしてひき返した。渓魚《うお》は、西本杜氏にわたす土産《みやげ》としよう。
かれの自宅は、八木川を見おろす裏山のふもとにあった。半年ぶりに顔を合わせた杜氏は農作業ですっかり日焼けし、蔵にこもっているときとはちがい、表情が和《なご》んでみえる。
「ここに帰れば、わしなんぞ隠居同然ですからの。なまじっか、年寄りが息子らに口だしするもんじゃないですしなあ」
そう言うと、かれは庭に面した座敷にすわり、にごり酒の一升瓶をポンと音をたてて開《あ》けた。
「ご隠居ですって。京都ではバリバリの現役選手でまかり通っているのに、ですか」
「ええ。まあ、朝はコップ一杯のヌル燗をゆっくりと飲《や》って、まず調子をつけましてな。田圃の見まわりをしますでな。あとは、孫の守りをしたり、村の寄り合いや山仕事に行ったりですごしてますのや。でも、酒造りのことは、かたときも頭っからはなれませんがの」
こうしたオフでも、自宅で帳面をつけ、月のうち七日間前後は上洛して、蔵内で酒の出荷管理にたずさわっている。本当のところ、年がら年じゅう酒屋者なのだ。
釣り歩いたあととあって、やけに喉《のど》がかわく。わたしは、ひとまず水を所望した。
妻の敏子《としこ》さん(六十歳)が、コップになみなみと注《つ》いで持ってきた。
「う、うまい! じつに緑々《あおあお》しくて、澄んだ味がする」
わたしは、二杯目をおかわりした。岩清水にありがちな硬さがまるでない。どこまでも柔らかく、喉にストンとおさまるのだ。
「これが、別宮《べつく》のカツラの根に湧く水ですで。この集落じゃあ、裏山から直接引いて、下《さ》がりをいただいて、飲み水にしとるんですわ」
「大カツラの根っこで浄化されて、類《たぐい》まれな水質になっているのですか」
「どうでしょうか。この水は常温でいくら置いていても、腐らないんですよ。ふしぎですねえ」
となりにすわる敏子さんが、白い歯をこぼす。杜氏は、氷のかけらをコップにおとし、そこへ純米にごり酒をたっぷりと注いだ。
ふたりで、にごり酒をロックで酌みかわす。口あたりがよいので、ついついすすんでしまう。庭先の鉢植えには、西陽をうけたベゴニアが、花びらをいっそう色濃く染め、眼をなごませる。気がつくと、ピッチが上がりすでに三杯目を空けていた。
「おやっさんは、仕事とはいえ、一年のうち大半を留守にするんでしょう。われわれサラリーマンには、とっても真似ができません」
「ここらは、ほら、寒村ですやろ。中学をあがると、京都の酒屋にのぼって稼ぐしかなかったですんでなあ」
見よう見真似で、技《わざ》を身につけ、腕前をきたえ抜いていったのだろう。時代も状況も異なるとはいえ、そういった生い立ちは、武州多摩の田舎から初志をいだき出てきた近藤勇や土方歳三らの想いの根っこと、どこかでつながっているような気がした。
すこし酔いがまわってきたようだ。わたしは、なおも四杯目をかたむけた。
「にごり酒は、品質が保ちにくいうえ、瓶割れなんかのトラブルが起こりやすいんで、他の蔵はやりたがりませんな。うちのにごりは、秘訣がありますので、そんな心配はありませんで」
かれは、眉のあたりをピクリと動かし、自信あふれる面構えをみせた。
翌朝、杜氏とわたしは、クルマで別宮へとむかった。
急勾配の道を十分ほどのぼりつめると、標高八百メートルの東鉢伏高原に着いた。集落のはずれでクルマをとめる。
苗植えがすんだばかりの田圃が、ゆるやかな斜面にひろがっており、反対側のこんもりした森に、頭抜《ずぬ》けた一本の巨木がそびえていた。五、六人の先客が、湧き水をタンクにせっせと詰めている。
これが噂《うわさ》の大カツラか。そばで見上げる。樹齢四百年。高さ三十メートル。太い根株から大小の幹が叢生《そうせい》し、支幹はゆるく左巻きにねじれ、その根元でいきおいよく清水があふれでていた。
「カツラの木は、こういった水の豊かな場所にしか生《は》えないといわれますよね。地酒蔵だって、すぐれた水がないと商売が立ちゆかないでしょうしねえ」
「そうですなあ。なにせ清酒の八○パーセントは水ですものなあ。月の桂いう名は、中国の伝説にちなんで、創業時の三百年まえに、お公卿《くげ》さんより付けられたものらしいですで」
かれは、銘柄の由来を繙《ひもと》いた。隆起したカツラの根元に腰を下ろし、ふたりでしばらく話しこむ。
唐時代に書かれた『酉陽雑俎《ゆうようざつそ》』という随筆集には「月中に桂あり、高さ五百丈、常に人ありてこれを切る――」と記されてある。
カツラの巨木の根元で、ひとりの男がさかんに斧《おの》をふるっている。男の名は呉剛といい、地上で修業を積み仙人となったが、あるとき、帝《みかど》の誕生日の宴で、貴重な天界の酒をうっかりこぼしてしまった。その罪のつぐないとして、荒涼たる月へながされ、カツラの巨樹を伐採する苦役を課せられたというのである。
首尾よく木を伐《き》れば罪は許される。けれども、そうはいかない。幹は徐々にけずられて、もうひと息というところまでいくのだが、いつのまにか創口《きずぐち》はふさがれ、びくともしなくなる。そうして、男はいつまでも難行を積むのだ。
「かなりきびしい謂《い》われですね」
「わたしらの酒造りも、いわば果てしのない戦いみたいなもんですんでな。呉剛とおなじかもしれませんぞ」
「カツラは昔から、不老不死の木だともいわれるのは、そんな伝説が手伝っているんでしょうか」
樹陰《こかげ》にすわりこんでいると、涼やかな風が吹きわたってくる。
フィフィフィッ、フィフィフィッ。ホーホケキョ、ホーホケキョ。頭上でゴジュウカラとウグイスの混声合唱がもれてきた。田圃からは、河鹿《かじか》の鳴き声がひびいてくる。
わたしは、やおら腰をあげ、ホースの湧き口に両手をあてて、ひと飲み、ふた飲みした。
「そうだ。おやっさん。この水で酒を仕込むわけにはいきませんか。もちろん、酒造りに適しているかどうか、ちゃんと分析したうえでのことですが」
「うむ。わしも、いずれ親方(常務)に言うて、本気で仕込んでみようと思っとりますで。タンクローリーで運ばにゃなりませんが。なあに」
「ぜひとも。それが果せれば、正真正銘、月の桂の酒になるんですよね。楽しみだなあ」
大カツラの梢《こずえ》のすき間から、氷《ひよう》ノ山《せん》の峰々が、遠くはるかにのぞいていた。
[#小見出し] 伊賀の忍者酒
三重県の北西部に位置する伊賀盆地。奈良との県境《けんざかい》を、赤目《あかめ》の渓流がながれている。
「赤目四十八滝」は、宇陀川《うだがわ》水系|滝川《たきがわ》の上流部にあり、四季折々たくさんの行楽客でにぎわう。
伝承によれば、役《えん》の行者が滝にうたれているとき、赤い目をした牛にまたがる不動明王があらわれ、啓示をさずかったことから、この名がついたとされる。およそ四キロをうめつくす瀑流と岩壁《いわかべ》。滝の音にひたりながらのハイキングは、壮観ですがすがしい。
かれこれ二十五年まえ、わたしは、大学にはいり所属したばかりの俳句同好会の夏期合宿で、はじめてここへおとずれたことがあった。
初日、一人あたり二百句のノルマを課せられ、粗製乱造にもひとしい俳句をひねりだしたうえ、つぎの日は伊賀上野城と忍者屋敷をまわり、さんざん呻《うめ》いたことがある。
かつてたどった景勝地は、わが家《や》からクルマで一時間。渓流ぞいのコースをめぐり、ひと山を越え、香落渓《こうちだに》へと抜けたことが幾度かあった。
赤目四十八滝が伊賀忍者の修業場であったことは、ほとんど知られていない。忍びに由来する吟醸蔵が、まぢかなところに建っていることも。
その年の一月。わたしは「瀧自慢《たきじまん》」醸造元(名張市赤目町柏原)で、杉本隆司《すぎもとたかし》専務(三十歳)と話しこんでいた。
仕込蔵《しこみぐら》の手前にある応接室のテーブルには、各種の吟醸ボトルがならべられている。
「去年の今じぶんでした。酒造りの真っ最中に、まえの杜氏が病気で倒れ、突然、東北へ帰ってしまったんです。大吟クラスに関しては杜氏みずからがやっていたものですから、のこった蔵人はどうにも手のつけようがない。いやおうなしに、ぼく一人の責任で乗り切るしかなかったんです。醪《もろみ》の管理や分析に戸惑いましたが、それまでの経験を生かし、体当たりしました」
寒造りもピークに達しようとしていた。かれは大きな眼をしょぼつかせ、経緯《いきさつ》を明かす。吟醸米《ぎんじようまい》を水で手洗いする蔵人たちのリズミカルなかけ声が、ドアごしにきこえてくる。
わたしは、以前試飲したことのある酒を改めて※[#「口+利」、unicode550e]いてみた。腰があり、舌をからめるとスベリがよい。一九九二年十月の「ここに美酒《さけ》あり」選考会で、全国百六十点のうち上位をもぎとっただけはある。それが審査員として出席したわたしにとって、瀧自慢との出会いであった。
「専務がひとり気を吐いたものが、この大吟醸ですね。この道は、もう何年になるんですか」
「まだ四年あまりなんです。大学の工学科を出て、福井の小松製作所に三年間つとめておりましたので。ぼくは、三人兄弟の末っ子なんですよ」
「ふむ」
「うえの兄らは、民間会社で根をおろして、あとを継ぐ気は皆目《かいもく》なかったんです。父の使いで母親が、頼みの綱《つな》はお前しかいないと、福井まで再三訴えにきたものですから。身を固めてしまったら、もう戻ってこないとあせったんでしょうね」
「母の涙にほだされたというわけですか」
「そういうことです。会社を辞めたあと、一年間、国税庁醸造試験所(東京都北区滝野川)で勉強しました。酒造りは、のめりこむとおもしろいものです。でも、酒造界はピンチつづきで。ぼくが兄弟でいちばん貧乏クジを引いたみたいなんですが、小さな蔵が生きのこりを賭けていくには、高品質な酒で勝負するしかないと思っています」
そう言うと、かれはおおらかに笑った。
わたしは、「滝水流《はやせ》」とネーミングされた純米酒の四合瓶を手にとった。麹米《こうじまい》は、伊賀地方産の山田錦。仕込水は滝川の伏流水。ながれるようなラベルの細い筆づかいが、ひときわ落ち着きを添える。
専務は、物ごころついたころから、蔵内を遊び場としてきた。かくれんぼをしたり、水を張った桶で泳いだり。いたずらをして、お仕置きをくらわされたのも、麹室《むろ》や|※[#「酉+元」、unicode915b]《もと》タンクのなかであった。からだに酒造りのセンスがしみこんでいるのだろう。
そこへ、杉本和三《すぎもとかずみ》蔵元(六十二歳)が外から帰ってきた。
顔の輪郭と人の好さそうな太い鼻筋は、親子そっくり。三人で地酒談義をかわし合う。
「ところで、こちらから近い赤目の滝には、よくきたものですよ。あちこちの渓流を釣り歩いていますが、あれほど人が押し寄せるのに、ながれの美しさが昔とちっとも変わらないのはめずらしい。滝をながめていると、崖を駆けのぼり、水にもぐった伊賀者たちのすがたが、瞼《まぶた》にうかぶようですねえ」
「行者滝、処女滝、それに天狗の腰掛岩。よろしいなあ。うちの先祖は、百地三《ももちさん》太夫《だゆう》のながれをくんでおります。大和《やまと》竜口《りゆうぐち》の出《で》でしてね。ここらは、三太夫の領地だったんですわ」
でっぷりとした体格の蔵元は、窮屈そうにイスヘ腰をおとし、かすれた地声を発した。
「あの伝説の人物といわれる伊賀流忍術の開祖、百地三太夫のですか」
「伝説でのうて、竜口に実在しとったようですよ。竜口いう集落は、名張市ととなりの室生《むろう》村とにふたつあります。名張の、つまり、伊賀竜口の百地家は、三太夫の生家みたいに、とかく世間で騒がれ、大和竜口のほうはあまり表に出てきよりません。そもそも、それがまちがいなんですわ」
杉本蔵元は、身を乗りだしてつづけた。
旧|伊賀国《いがのくに》の中心部は、上野と名張である。鈴鹿、笠置、布引、室生の山々でぐるりを包みこまれた盆地にひらけ、他国からの侵入は容易でない。戦国時代には、三人の上忍《じようにん》がそれぞれ中忍《ちゆうにん》、下忍《げにん》といわれる一族をひきいて君臨していた。
近江国《おうみのくに》との国境に、藤林長門《ふじばやしながと》。なかほどに服部《はつとり》半蔵《はんぞう》。大和国に接する竜口に、百地丹波守《ももちたんばのかみ》。なかでも、百地丹波守は竜口のほか伊賀上野の喰代《ほうじろ》に砦《とりで》をかまえ、強大な支配力を誇っていた。
「大和竜口の百地本家は、老朽化がすすみ、六年まえでしたか、家を建てかえることになったんですわ。古い屋敷は、こわすのはもったいないゆうて、国道筋の和風レストランがそっくり買いとりましてね」
「そういえば、いちど入ったことがありますよ。たしか、三太夫という看板のかかった伊賀肉の炭火焼きの店でしょう」
「そうですわ。ところが、そこが二年まえに火災に会い、由緒ある館《やかた》はなくなりましてなあ。惜しいこってす。今は、それを真似た建物になっとるんやないですか」
話題はいよいよ、酒蔵のルーツへ集中していった。
三月もなかば。わたしは、杉本蔵元とともに名張竜口へとむかった。
酒蔵から五、六分。雑木林にかこまれた坂道をクルマで走ると、民家のまばらな山あいにでた。朝の空気がとても清爽《せいそう》だ。
集落の小高いところに、睨《にら》みをきかすように建つ一軒の武家屋敷がみえる。俗に、百地三太夫が生まれたとされる百地家である。石垣や門構えはりっぱなのだが、たたずまいがどことなく鹿爪《しかつめ》らしい。家の造りがあまりにも整っており、歴史の匂いが感じられないのだ。
クルマを置き、標高四百メートルの山むこうにあるもう一軒の百地家をめざした。
峠道《とうげみち》の左手には、スギ、ヒノキ、右手にはアカマツやクヌギが繁っている。樹々のすき間をかすめ、蒼白《あおじろ》い木《こ》もれ陽が、放射状にさしこむ。野鳥のさえずりが、ふかい残響となって耳元へとどいてきた。
「ここらは、オオタカの生息地なんですわ。まだまだ自然林も豊富にのこされとりますで。夏場にきてごらんなさいな。集落の入口には、ゲンジボタルが群れとぶ絶好の場所もありますよ」
蔵元は、うっそうとした木立《こだち》を、ほれぼれと見上げた。
「ゴルフ場の計画がもち上がっているそうですね」
「ええ。わたしも、地権者のひとりなんですが、言語道断ですわ。日本国じゅうこれ以上、大地を蹂躙《じゆうりん》していいわけはありません。酒屋たるわたしらが、それに手を貸すなんてできませんなあ」
話をかわしつつ、せまい地道を踏みしめていく。
字のうすれた道しるべを横目に、下《くだ》りのカーブへさしかかる。崖のうえに、朱色の鳥居とくずれかけた石積みがのぞいた。戦国の山城・竜口《りゆうぐち》城の跡である。
やがて、わたしたちの視界がぱっと開けた。急斜面には、農家が点在。白梅と紅梅とが、遠目にところどころ競いあうように咲きほころぶ。
忍者の隠れ里にふさわしい奥ぶかい地形だ。直線距離にして、ここから七キロあまり北には、女人高野でしられる室生寺がある。
ほどなく、百地本家に着いた。蔓《つる》のからまる石垣のうえに、がっしりとした農家がたたずみ、うしろは竹ヤブとスギ林におおわれていた。
反対の斜面で、ふたりが田おこしをしている。三太夫の末裔、百地清豪《ももちきよたか》さん(四十歳)と中学生の長男であった。
耕運機を息子にまかせ、かれは棚田の頂きへと、わたしたちを案内した。
本家が見下ろせる小平地には、墓石が三列にならんでいた。その数およそ五十基。集落全体の墓は、浄土真宗の寺におさめられているが、百地家のものだけは代々浄土宗として、ここに祭られている。
「これが百地三太夫、つまり丹波守正西《たんばのかみまさにし》の墓なんです」
清豪さんは、五輪塔のとなりにある小さな碑を指さした。石の表面はひび割れ、わずかに苔むしている。
「ほう……。アタマの部分がひどく欠けていますが、どうしてなんでしょうか」
「昔から、こういった墓石のかけらを懐《ふところ》にしのばせると、賭け事によく効くとの言い伝えがあるらしくて、どうやら、博徒の連中が荒らして持ち去っていったようなんですよ」
木綿の作業服を着こむかれは、帽子をにぎりしめ、淡々と答える。まわりの青葉が、薫風をはこんできた。
百地家の座敷へと通される。南向きの縁側からは、さきほどの高台がよく見渡せる。
今では、石垣と川をはさんで村道がつながっているが、もとは川に面し屋敷の外は堀割り状となっていた。
六年まえに売却した屋敷には、くぐり戸や回転式の扉《とびら》がしつらえられ、納戸《なんど》から外へ抜けられる秘密の地下道もあったという。
スポーツ刈りの清豪さんは、古色蒼然とした黒塗りの木箱を両手でかかえ、むかい合わせに正座した。
「百地家系図」「百地家記録書」。箱のなかには、忍家に伝わる古文書や巻き物がぎっしり収められていた。
わたしは、おもわず卓子《テーブル》によりかかり、家系図をうけとった。生漉《きす》きの薄い和紙を、そろりとめくり、黙読をする。
本国伊賀《ほんごくいが》 大江正永百地丹波守《おおえまさながももちたんばのかみ》
八代孫
竜口城主七万石代々の領之
百地丹波守正西《ももちたんばのかみまさにし》
改め新左衛門正西寛永十七年辰年
四月十八日死亡八十五歳
とはじまり、現在にいたるまでの系譜が、細かに記《しる》されていた。
「これによりますと、大江正永《おおえまさなが》はいつの時代の人物なのかは定かではありませんが、その八代のちの孫が、百地丹波守正西《ももちたんばのかみまさにし》であるといえます」
清豪さんは、折目正しく切りだした。かれは、正西からかぞえて十五代目の当主にあたる。
「戦国時代、正西は伊賀者の頭領だったんですね」
「そうです。天正伊賀の乱をご存知でしょうか。伊賀全土の地侍たちが、ゲリラ戦法や忍びの術を駆使して、信長の軍勢をむかえ討った合戦です」
「そう、そう。それで、乱でやぶれ去り、高野山へおちのびた正西が、ほとぼりがさめて新左衛門と改名して、戻ってきたんですな」
杉本蔵元が言葉をつけたす。
天正六年(一五七八)、伊賀名張郡上比奈知の住人、下山甲斐《しもやまかい》はひそかに配下をつれ、伊勢にある織田信雄《おだのぶかつ》の居城へとむかった。
信長の全国制覇を好機とばかり、つぎのように献策したのである。
「伊賀国乱れ郷士どもの心底隔々となりて……それがしおン味方にくわわり、道案内つかまつらん」
下山の密訴から、天正伊賀の乱の火ぶたが切っておとされた。
小国とはいうものの、伊賀は信長にとって、手ごわい敵国であった。この身中の虫(裏切者)の出現に、信長はひとり笑壺《えつぼ》に入《い》ったという。それもそのはず、それまで一度として勝利をつかんだことはなかったのだ。
伊賀国の城塞の数は七百あまり。屈強な中忍と下忍をしたがえる上忍は、諸大名のもとめに応じて、諜報活動や謀略、暗殺をうけおい、その報酬で生きる、いわば異能の集団であった。
「かれらは、他国の大名たちに雇われたりはしますが、束縛されるのを極端にきらい、禄《ろく》をもらって家来になることはなかったといいます。せまい土地で、たがいに角《つの》突き合わせておりましたが、外敵には一致団結してたちむかったんですよ」
清豪さんが、声をおとして説明する。
「そういった伊賀者の気風を、信長は苦々《にがにが》しくおもっていたんでしょうね」
「信長軍に一歩もひかず、まあ、よくぞ戦い抜いたもんですわなあ」
双方の勢力は、五万対四千。とても比べものにならない。結局は敗れたものの、二年以上ももちこたえたのである。
わたしたちは、しばし四百年まえに想いを馳《は》せた。
つぎの頁に眼を通す。
「四代目の参男、北竜口村(伊賀竜口)へ養子に入家」と記述されてある。
当時では、養子に行っても元の姓を名乗れたというから、百地家にはちがいないのだが、名張のほうは、やはり分家すじにあたるのだ。
それにしても、家系図のどこをさがしても、三太夫の名は見あたらない。
床《とこ》の間《ま》にふと眼をやると、土地の売買に関する覚え書きのような書面が、横額になっていた。そこには、天保拾三年子年とあり、三名のうち立会人として百地三太夫の署名と捺印がしてあった。
「天保年間いうと、江戸の末期でっしゃろ。ふーん。この書面はあてにならへんのやろか」
蔵元が、読みにくい筆跡をなぞりつつ、首をかしげる。
「そもそも、三太夫というのは、代々襲名されていた名前ではないんでしょうか。服部一族も先祖に千賀地|半《ヽ》六|蔵《ヽ》人という者がいたので、その名を縮めて使っていたらしいんです。服部半蔵保長、その子が半蔵正成……というふうに。つまり、半蔵といえば何人もいたわけですよ」
わたしは推論をぶった。
「そうして考えると、この古文書もまんざらおかしいわけじゃないですかね。天保のころの当主が、三太夫の名を用いたとすれば」
清豪さんがうなずく。かれは、地元の農協につとめている。腰のすわった雰囲気と颯爽《さつそう》とした体つきは、いかにも黒装束が似合いそうである。
母の喜代子《きよこ》さん(六十八歳)が、茶菓子をはこんできた。本家調べがおちつき、一同あぐらを組みなおす。
蔵元は身内の気やすさで、喜代子さんとにこやかに語り合っている。蔵元の父の叔母が、百地本家へ嫁入りをして以来の付き合いである。
瀧自慢酒造の前身は、酒造りを営んでいた庄屋であったが、没落して権利を手放すこととなった。
明治のはじめ、それを譲りうけたのが、大和竜口出身の創業者、つまり蔵元の祖父なのであった。
「わたしの父親《おやじ》が十八歳のとき、初代を病気で亡くしましてね。酒造業をしている関係もあり、まだ若いものですから、百地本家の当主を後見人に立てたんですわ。わたしの幼い時分は、よく蔵にきてくれておりました。ずいぶん酒のつよい方《かた》でしたなあ」
蔵元は、なつかしそうにふり返る。
「すると、血筋をひいて、清豪さんもさぞ酒がいけるくちなんでしょうね」
生まじめそうな十五代目の顔をうかがった。
「ええ。まあ。うちは家訓と申しますか、晩酌は瀧自慢のお酒ときめています。だいいち、本醸造や純米酒は飲みあきせず、じつに爽やかですしねえ」
瀧自慢の純米吟醸には、「名張乙女《なばりおとめ》」の酒名がかぶせられている。
きびしい忍びの修練にはげんだあと、渓流で沐浴《もくよく》する伊賀の女たちの光景が、まぶしく浮かんでは消えた。
蔵の酒に共通する独特の腰とスベリの良さは、楚々《そそ》としたくノ一《いち》(女忍者)がくりだす秘術の味わいなのだろうか。
「忍者は、免許皆伝したものしか跡をつぐことはできませんが、酒界はそうはいってはいられませんしなあ。専務に屋台骨《やたいぼね》を託していかにゃなりませんでなあ」
蔵元が白い歯をみせた。
〈祖先は単なる過去の人ではない
おのれの生活の中に今も生きている〉
部屋のすみにかざられた額を、わたしたちは食い入るようにながめていた。
[#小見出し] けもの湯での燗酒
ブレーキ音《おん》を鳴らし、二両編成のワンマン列車が、無人駅へすべりこむ。
午後七時。JR小海《こうみ》線・佐久海《さくうみ》ノ口《くち》駅に人気《ひとけ》はない。めあての宿はどう行けばよいのか。ホームの踏切をまたぐと、さいわい前方にもうひとりの乗降客がいた。声をかける。
「あっ、はい。わたしも、そちらの方向なんですよ。ご一緒いたしましょう」
初老の婦人はふり向くと、こころよく同行。道すがら雑談をかわし合い、とっぷりと日の暮れた田舎道をたどる。
「こんなところまで、お仕事かなにかでいらしたんですか」
両手にあまる旅行バッグを持つわたしを、じろじろと見つめる。
「山梨の小淵沢《こぶちざわ》にある酒蔵をたずねての途中、釣りに立ち寄ったんです。仕事半分、あそび半分といったところです。ところで、こちらに住まわれてもう長いんですか」
「南牧《みなみまき》中学校へ、主人が昨年から赴任しておりまして。官舎がとなりにあるんです。今日は、上田市の実家へ帰っていたものですから」
抑揚《よくよう》の少ない口ぶりで、水先案内人はつつましやかに答えた。
やがて、川べりの国道へ出る。千曲《ちくま》川の本流が、風音にまじり、ザアザアとひびいてくる。通りすぎるクルマのライトが、静まり返った集落の遠近を映しだす。
校門のそばにくると、彼女は笑みをにじませて別れた。わたしはまもなく、山あいにひっそりと建つ一軒家へと落ちついた。
長野県|南佐久郡南牧《みなみさくぐんみなみまき》村。「鹿ノ湯」は、八ケ岳の東麓に湧くいで湯である。
五月の連休もすぎ、湯治客はまばらで、廊下から話し声がもれてくる。
サワラの原木でしつらえた宿の浴槽は、ひと坪ほどの広さになっていた。源湯でたっぷりと洗われた肌ざわりのよい木製の湯舟の縁《ふち》をつかみ、湯かげんをうかがう。ほのかにサラサラッとした感触が手先に伝わってきた。
一週間まえに道場の組み手で痛めた脇腹を、熱めの湯にひたす。旅の疲れもときほぐれていくようだ。酒造り、渓流釣り、実戦カラテ……。なぜだか、このような道《コース》へたぐり寄せられてしまう自分に、風呂のなかで、ひとり苦笑した。
浴衣《ゆかた》に丹前を着こんで、ひなびた八畳間へすわりこむ。宿の四代目オーナー・柳沢和彦《やなぎさわかずひこ》さん(二十九歳)が、食膳をかかえてきた。
「こちらは古くからの温泉ときいて来ましてね」
「ええ。なにしろ、もともとはけもの湯だったんですよ」
「泉質はナトリウム炭酸水素塩と風呂場に書いてありましたが、キズや打撲に効きめはありますかねえ」
「その昔、鉄砲傷を負った野生のシカが、裏山の湧き水で癒《いや》したのがはじまりだと、伝説のように語りつがれていますので、効能はあると思いますが。東京から毎年こられるお客さんは、お湯につかると足の神経痛が二日ほどでスッキリすると、よく言っておられます」
眉目整った歌舞伎役者ふうの若い亭主は、面長な顔にほほえみをたたえ、うなずいた。
「鹿ノ湯」が開かれて以来、およそ百年近くになる。ここは、島崎藤村もよく訪れた温泉で、かれの作品「千曲川のスケッチ」や「藁草履《わらぞうり》」にも登場する。田舎教師として任地への旅にあけくれた藤村は、明治三十五年から小諸義塾《こもろぎじゆく》の教師として、七年間教鞭をとっていたと、以前読んだことがあった。
扇形の皿に乗るふた切れの焼魚には、フキノトウ味噌が品よくあしらわれていた。焦《こ》げ目のついたそれを、割り箸でつつく。鰆《さわら》の味に似て、淡いコクがある。独酌で酒をすすった。
「それは鯉《こい》の塩焼きなんです。この辺では、佐久鯉《さくごい》といって、千曲川の水で昔から水田養殖されています。ちっとも泥くさくないんですよ」
「この酒もキレがいいですね」
「そうですか。『初鶯《はつうぐいす》』(佐久市大沢)の本醸造なんです」
「『初鶯』。はじめて耳にする銘柄だなあ。近くにきたことだし、蔵をちょっとのぞきたくなる味わいをしてますよ」
「JRで、ここから八つほどむこうの駅で降りますと、酒蔵はじきですので」
かれはひとしきり、爽やかな接客ぶりをのこして、部屋を出ていった。
ひとりになり、鯉の洗いをワサビ醤油にくぐらせては、ちびりちびりと一合徳利で酒を酌《く》む。風呂あがりの骨身に、ヌル燗がしみ通る。わたしは、コイ料理と山菜に舌鼓を打ち、陶然と酔いしれた。
あくる朝、宿の近くをながれる川をひとり釣り歩いた。
高見沢《たかみざわ》川は、流程五キロほどの目立たぬ小河川だが、魚影は濃く、あらかじめこの川に狙いをつけていたのだった。
広大な裾野は、一面の唐松林。まっすぐな幹が碧空へのび切る。チッチッチッ。ヤブ陰でミソサザイのさえずりがおこり、明るい沢べりには、ネコヤナギの芽が吹いていた。
浅瀬から中型のイワナが、竿をしぼりこんできた。真綿のような柔肌と華奢《きやしや》な体色。信州イワナの彩《いろど》りをじっくりと見定め、念願の初物《はつもの》を腰の魚籠《ビク》におさめる。
その時、左岸の樹陰から褐色のけものがヌーッと三頭、剛毛だつ背中をみせた。クマか! わたしは、少しひるんだ。よく見ると、堂々たる体格をした鹿である。
振りむき、大きな二頭がこちらを二、三秒じっとにらんだかと思うと、われ関せずといったふうに蹄《ひづめ》を返し、沢べりを駆けていった。
子づれ夫婦の鹿だったのだろうか。わたしは、しばらく竿をにぎりしめたままであった。
三時間後、竿をたたむとウェーダー(胴付長靴)のまま、もと来た坂道を引き返した。
魚籠《ビク》にはイワナが五尾。わざわざ家へ持ち帰るには、保存がきかない。釣りあげた獲物は、宿へ献上しようかなどと考えていた。
谷間の入口に、鉄筋の校舎がのぞいた。昨晩の婦人のことが、頭をよぎる。そうだ。お礼がてらに食べてもらうとしよう。
校舎の手前までくると、生け垣のむこう側に、低い屋根の官舎が見えた。割烹着で身をつつむ女性がひとり、白い縁側へ腰をおろしている。見覚えのある顔だ。つかつかと歩み寄る。こちらの釣りスタイルをみてとり、おやっというふうに会釈を送ってきた。
「昨夜はどうも。あのう、この川の奥で釣った魚なんですが、召し上がって下さい」
「めずらしい渓魚《さかな》をもったいない。いいのかしら」
「イワナなんです」
「うちの主人もイワナが好物なんですよ」
そう言って、彼女はビニール袋にうつしかえたイワナを、まぶしそうにながめている。
「谷の奥でシカを目撃しましたよ」
「そうですか。この辺りでも群れをなしているところを、よく見かけます。国道でトラックにはねられたりするかわいそうなシカもいるんですよ」
庭先へ面した陽あたりのよい板敷きに視線を下ろす。緑々《あおあお》しい葉をつけた小鉢がならび、ギシャの花枝《はなえだ》が一本、小瓶に橙《だいだい》色をほころばせていた。
「こちらへ移ってきて、あっという間《ま》でした。近ごろ年《とし》のせいでしょうか、あらためて、野鳥や草花に魅《ひ》かれてしまって」
「住むには申しぶんのない環境ですね」
「エビネランを山へ探しに行ったり、シジュウカラやヒヨドリの飛来が、楽しみになったりで。もう」
小山京子《こやまきようこ》さん(五十七歳)は、白い歯をみせる。
そこへ、夫の利久《としひさ》さんが帰宅した。日曜日だというのに、かれは修学旅行のあとの残務整理で、朝から仕事場(学校)へ詰めていたのだった。わたしは、おもわぬ立ち話にふけった。
「前にいた小諸《こもろ》市の学校は、大変荒れておりましてね。校長としての限界といいますか、おのれの無力さを、イヤというほど思い知らされました」
利久さんは、ため息まじりに昔をふり返った。
「教師《せんせい》がたがオールマイティだなんてあり得ませんよね。教育現場では、大人は子供たちにほんの少しの力を貸してあげられるだけではないでしょうか。口先じゃなく、その気になって接すること以外にないと思いますが」
釣り装束の闖入者は、いっぱしの口をたたく。老境に入った夫婦の軌跡に、ある種の潔《いさぎよ》さのようなものを感じとった。
「わたくしも、もうじき定年ですが、この道はきわめつくせないむずかしさがあります。でも、こちらの学校へ来て、ほんとに良かったとおもっています。みせたいなあ、生徒たちの挨拶ぶり。じつに爽《さわ》やかで、気持が洗われるようなんです。非行や暴力はありませんし」
南牧中学校は、全校生徒が百名あまり、教員十名の学《まな》び舎《や》である。転《こ》けつまろびつ学校生活をくぐってきたかれは、照れまじりに春霞《はるがすみ》でけむる八ケ岳の方角を見あげている。小柄な体躯《たいく》。手をやって掻《か》く頭髪に、白いものがたくさんまじっていた。
「あれが八ケ岳の主峰、赤岳ですね。はっきり見えないのが残念だなあ」
「ここからだとよく分かりません。うん。そうだ。学校へ行きましょう。一段高いんで、ながめがすばらしいんです。さあ」
かれらはわたしをうながし、歩きだした。校庭からは、薄化粧した山容が、屏風絵のごとく仁王立ちしているのが見えた。
「あの岳《やま》はね、四季折々に姿が変わるんですよ」
妻の京子さんも、はるか上空をあおいでいる。
岳《やま》は自然の守り神なのだろうか。この村の生徒たちがしなやかに育つ理由《わけ》が、ひとつだけ飲みこめたような気がした。
鹿ノ湯から八ケ岳中腹へと通じる内証の山道がある。これは昔、たくさんの鹿が傷をなおすために、湯元《ゆもと》へ下《くだ》ってきた伝説のけもの道だといわれている。この夫婦も、そのように南牧村で過去を癒《い》やしているのかもしれない。
そのあと、わたしは宿の朝風呂をつかい、何か大事なものをつかんだ気持になって、佐久をあとにした。
[#第三章扉(chapter3.jpg)]
熊野路で酌《く》む酒
[#小見出し] 紀州美人と釣り師たち
もう、かれこれ十一年まえのことである。わたしたち渓流釣りクラブの面々は、和歌山県|日置《ひき》川へ遠征をした。
日置川は、紀伊半島の中央|果無《はてなし》山地から先端部の山々にかけて源《みなもと》を発し、枯木灘《かれきなだ》へそそぐ七十キロあまりの中河川だ。川の上流は、アメノウオ(方言でアマゴのこと)の生息域である。
沿岸の熊野街道(国道四二号線)をたどり、白浜をすぎて、一路《いちろ》山あいへとすすむ。クルマのフロントガラスを雨粒がたたく。
午前九時。支流|和田《わだ》川と安《やす》川との合流点に到着した。
五万分の一の地図をかこみ、打ち合わせをすませると、八名の男たちは小班にわかれ、源流をめざしてあわただしく散っていった。
三月なかば。南国紀州の谿々《たにだに》は、ひと足はやく水温も上昇の気配をみせ、小雨のけむるなか、早瀬や落ち込みで、アメノウオが釣竿をしならせてきた。
だが、昼をすぎる頃から、天候はますます悪化。殴りこみをかけられたような勢いで、雨が降りしきる。沢すじは、味噌汁《みそしる》色のにごりにかわってきた。
竿を納め、手ごろな野営地をさがしてまわる。大塔《おおとう》村「平瀬」集落より約二キロ。日の落ちかけてきた県道ぎわに、トタンぶきの一軒家が眼にとまった。
錠《じよう》のはずれた戸口から押しいり、ほの暗い内部を点検する。湿気《しけ》て黴臭《かびくさ》いにおいが、木肌からプーンと鼻をついてくる。
土間の通路はひろく、十字に区切られて、四方は一段高い板張りの床《ゆか》。吉野建てになった小屋の外側には、谿水《たにみず》がこんこんとながれおち、ころあいな水場となっていた。雨露《うろ》をしのぐには申しぶんがない。
「オイ。ここは炭焼き小屋か、それとも伐採出《きりだ》し小屋やろかいなぁ」
「どっちゃにしろ、ずいぶん長いことつかわれとらんようやで。ちょっと拝借しょうや」
ぬれネズミの一行は、この際不法侵入も仕方があるまいと決めこみ、山小屋を占拠した。
土間の真んなかに、焚《た》き木をくべて暖をとる。しめった生木《なまき》がくすぶり、煙が小屋いっぱいに濛々《もうもう》とたちこめてきた。あわてて、格子窓をこじ開けるが、さっぱり換気がきかない。
涙目《なみだめ》をこらえ、たまらず外へ逃げる。まるで、いぶりだしを喰《く》ったアナグマの様相である。計算はずれの事態となり、ずいぶん収拾に手間どってしまった。
ようやく、焚き火は燃えさかり、アマゴ汁のまろやかな香りがただよいはじめた。一升瓶の封が切られ、ナベで熱燗《あつかん》が用意される。
和歌山にすむメンバーの南さんが、気を利かせて、地酒を三本クルマに積んできたものだ。かれは、アルコールを飲《や》らないのに、酒店で適当にみつくろってきたらしい。そのなかに「紀州美人」という銘柄の本醸造があった。
「おっ。なかなかの辛口やないか。それに、味にほんのりとツヤがあるなあ。加賀美人とか秋田おばこは聞いたことがあるが、紀州美人≠ネんちゅう呼びかたは初耳やど」
酒にうるさい年かさの時本さんが、鳶色《とびいろ》のジャージの腕をまくり、アルミのコップをかたむける。
「和歌山は、地酒はおろかオンナに関しても不作の土地柄でんねてなあ。おおっと、いや、南先輩の奥さんは別格でっしゃろがねー」
横から野次が飛びかい、渓友たちの笑い声が、カラカラと小屋にひびきわたる。
「そいつはねえ、御坊《ごぼう》にある地酒なんやでヨ。なんでも、娘道成寺《むすめどうじようじ》に登場する清姫にちなんで付けられた名やて、酒屋のオヤジが言うとったがよォ」
日置川釣行の案内《ガイド》役を引きうけた南さんが、串に刺したアメノウオをていねいに裏返しながら苦笑いをした。
「ちょっとうなずけませんねえ。安珍清姫《あんちんきよひめ》のハナシは、オンナの怨念がこもっていますぞ。だって、男女のちぎりをかわし、裏切った坊さんを逃《のが》してなるものかと執拗に追いかけ、大蛇に化けて寺の鐘ごと相手を焼き殺すという物語ですよ。そんなおどろおどろしい件《くだり》と紀州美人≠トのは、どう考えてもイメージがかみ合わないんじゃないですかぁ」
わたしは、わざと小理屈をならべたて、エンジンのかかってきた座談を煽《あお》りにかかった。
わたしのとなりに腰をおろす村岡さんが、なにか言いたげな視線をよこす。燗酒を飲み干し、口をぬぐうと、焚き火の煙に顔をしかめつつ告白しはじめた。
「それもそやのう。酒の喉ごしもわるうなる由来やなあ。そらぁ、オンナちゅうのは恐いわいな。じつはオレもなあ……長年の浮気が嫁はんにバレたときのこっちゃ。どこでどう嗅《か》ぎつけられたんか、相手といっしょに居た現場まで乱入してこられたんや。怒髪天《どはつてん》を衝《つ》く女房の顔は、今でもこの眼に焼きついとるでぇ」
串に舞うアメノウオが、こんがりとキツネ色になっている。酒のピッチが上がり一升瓶が空《から》になる。夜話はいよいよ佳境にはいってきた。
木の国和歌山は、古くから炭焼きの本場である。元禄年間に備長窯《びんちようがま》を考案したのが、炭問屋備中長左衛門だ。備長炭《びんちようたん》はもともと、紀州徳川家への献上の品なのであった。
炭焼き職人は、今でも紀南地方にかけて、三百五十人ほどがすむ。そのほとんどが兼業で、とりわけ、南部川《みなべがわ》村では梅林とのかけもちで生計をたてている。
炭の最高傑作といわれる備長炭。その原木ウバメガシは、和歌山県を中心に関東以西の海岸線から十二、三キロの山手にしか自生していない。
石油燃料の台頭で、備長炭はひところ土俵際まで追いつめられた。スギやヒノキの人工植林も拍車をかけ、近年、ウバメガシは減少の一途をたどっている。
わたしは酔眼をこらし、何人《なにびと》かがつかっていた小屋の内部をぐるりと見まわした。
造林従事者、木挽《こび》き職人、炭焼き師、連日の山仕事にあけくれ、疲れ切ったからだを山小屋でいやす男たち。小屋では家族との団欒《だんらん》もなく、たいした娯楽があるわけではない。一日のおわりに待ちうけているのは、酒と睡眠ぐらいのものである。
黒ずんだ太い梁《はり》と丸木柱の一本一本に、山の暮らしと四つに組んできた山人たちの歴史《あと》が、しっかりときざみこまれていた。
[#小見出し] 南海の地酒蔵
和歌山県内の地酒は、温暖な気候風土と食習慣が反映して、地元の嗜好にあわせた甘口傾向が主流をなしている。
ひとりの消費者として、いくつもの銘柄の純米酒を口にしてみたところ、メーターの切れた(醪《もろみ》を完全発酵させること。当然ながら、日本酒度《メーター》プラスの辛口となる)さわやかな酒質となると、わたしには、「紀州美人《きしゆうびじん》」をおいてほかにはなかった。
過ぐる年の十二月。その酒蔵を訪ねた。
師走だというのに、紀伊水道から吹きつける風は、ほんのり生暖かい。御坊《ごぼう》市は、日高川の河口にひらけた街で、古くは熊野街道の渡《わた》し場《ば》があり、日高材の集散地として発達してきた。
日高川をまたぐ天田橋をわたり、国道を少しそれたところに、熊野九十九王子社のひとつ、塩屋《しおや》王子神社がたたずむ。別名美人王子≠ニいわれ、願《がん》をかけると美人の子がさずかるというので、子安神社として親しまれている。
また、御坊という名のとおり、「御坊東町|箒《ほうき》はいらぬ、お御堂詣りの裾《すそ》で掃《は》く」と、俗謡にまで伝わるほど、江戸時代から門前町、商業の町でもあった。
人通りもまばらな商店街の裏手は、蔵屋敷がならび、往時の面影をのこしている。その下町の一角に、岸野《きしの》酒造本家が建っていた。
四斗入りのコモ樽が三つ、玄関脇にしおらしく飾られてある。ラフな格好をした奥方が、製品の包装作業をこなしつつ、ひんぱんに高鳴る電話の応対に追われていた。歳暮《せいぼ》どきで、地元の個人客もときどき買いにおとずれる。
急用で入れちがいになった蔵元を待つあいだ、本宅と背中あわせの酒造場へとまわった。
午後からの|蒸※[#「飮のへん+繦のつくり」]《じようきよう》(米を蒸すこと)にそなえて、蔵人がふたり、声をかけ合い立ち働いていた。風船状の陽だまりが甑《こしき》にゆらめく。郷里《くに》からいっしょにきたご飯炊きのおばさんは、会所場《かいしよば》(蔵人の休憩室)と台所を往復する。昼飯《ひるめし》どきも近い。
川村幸三郎《かわむらこうざぶろう》杜氏(七十一歳)は、|※[#「酉+元」、unicode915b]《もと》タンクの櫂入《かいい》れの真っ最中であった。
挨拶《あいさつ》を送ると、その手を休め、蔵内のすみずみまで気さくに案内してくれた。川村杜氏は、兵庫県|美方《みかた》郡出身の但馬《たじま》杜氏で、この蔵で十七度目の冬を迎えるという。
「まあ、ウチではこげなところだな。酒ってのは、だいたいが燗《かん》で旨くなけりゃダメだでや。国のやる鑑評会だってよ、春に冷やでやらんと、秋にさぁ、燗をつけてみて競《きそ》いあいをしたらええんだわ。ほんまに」
ずんぐりとした体躯《たいく》をゆすり、いともあっさり言ってのける。
お上《かみ》のすることに逆《さか》らったら損だという籠《こも》ったタイプの杜氏がたくさんいるなかで、なんともズバッと主張のできる人物《ひと》だろう。それだけでじゅうぶん、腕のほどが伝わってきた。
「同感です。キンキンに冷やして、酒質が判定できるわけがない。燗《かん》にしてこそ、良しわるしがわかるというもんです。いっそ燗ざましにすれば、もっと酒のレベルが見えてきますよ」
「たしかに、甘味(醪《もろみ》のアルコール発酵をじゅうぶんにやらないと、糖分をのこし甘口になる)でおぎなえば、飲み手を多少ともごまかせるがや、そうすりゃあ燗しても、味はちっとも乗《の》んねえよぉ」
白くなった五分刈り頭とふとい鼻《はな》っ柱《ぱしら》。下っ腹から押しだすようないかつい声で、杜氏は矢継ぎばやに本音を放つ。
昔ながらの槓杆《こうかん》式の酒槽《ふね》(袋に詰めた酒をしぼる装置)が、片隅にどっしりと据《す》えつけられ、裏庭に面した引戸のかたわらには、麹米《こうじまい》がムシロのうえで冷《さ》まされている。精米歩合六〇パーセントの酒造好適米だ。両手でつかんで、鼻先に近づけると、ほのかに甘栗に似た香りがした。
「今朝がたは気温が十五度だで。ここらは暖《あつた》けえのが難儀《なんぎ》だわい。醸造の安全性を考えて、ふつうより麹《こうじ》の割合をふやして造るんださ」
「それだと、おやっつぁん。糖化酵素力の強い醪《もろみ》になるんですね。でも、ともすれば酒に余計な味がでたり、酸がふえたりしませんかね」
「ああ。だから、おめえさん。もひとつヒネリが要《い》るんだがい」
〈純米酒・日本酒度《メーター》プラス五〉とチョークで書かれた二年古酒の貯蔵タンクのまえに立ちどまり、わたしは杜氏の言葉にじっと耳をかたむけた。
岸野晃一《きしのこういち》蔵元(四十七歳)が、外からもどってきた。ふたりで応接室にはいり、やりとりを交《か》わす。
しばらくして、大吟醸と純米酒、本醸造の注《つ》がれた※[#「口+利」、unicode550e]き猪口が、テーブルのうえに等間隔でならべられた。山田錦をつかった精米歩合四五パーセントの大吟を|※[#「口+利」、unicode550e]《き》く。
吟醸香《ぎんじようか》はほどよく、飲んだあとに清《さや》かな余韻が、口のなかをたなびいていく。和服の似合うつつましやかな美人を連想させる心地だ。蔵元は、こちらの意見をうかがうような気配である。
「ところで、こちらの酒名の起こりは、ちょっと誤解を招きやすいんじゃありませんか」
実直そうな面立ちの蔵元をまえに、あまりに通俗なほめゼリフを吐くのをためらい、わたしは会話をそらした。
「よく人にいわれるんですが、紀州美人といいますのは、安珍清姫からとったのではないんです。このあたりには、もうひとつの伝説があるんです。宮子姫《みやこひめ》(髪長姫《かみながひめ》)の話はご存知でしょうか」
「いいえ。なにか深い由来がありそうですね。きかせて下さい」
「昔、九海士《くあま》の浦に、早鷹《はやたか》と渚《なぎさ》というたいそう働き者の漁師夫婦がすんでおりまして。年もゆき、やっと子宝に恵まれたところ、玉のような女児《おんなのこ》でしたが、なんの因果か、頭はツルツルのままだったそうです。器量がよいのに、髪の毛がなくてはと、夫婦は不憫《ふびん》におもい、いろいろ手だてを尽くしましたが、甲斐もなし。しかし、かれらは娘をいつくしみ育てました。そうこうするうち、村では不漁がつづき、それは海の底からピカピカと光る物が災《わざわ》いするせいだろうということになったんです」
丸顔の蔵元は、ひろい額に手をあて、まるで教科書の記述を念入りにたぐりだすように、声をしぼった。
「ふむ。ふむ」
「ところが、恐がって誰も正体を確かめにいかない。そこで、自分の娘の悲劇は前世の報いだろうと、渚は村人を救うために意を決して、海へざんぶと飛びこんだんです。すると、海の底から小さな黄金《こがね》の観音さまが見つかったというんですなあ」
そこへ美代子夫人(四十二歳)が、お茶をはこんできた。
あらためて拝見すると、ふっくらと目鼻だちの整った女性《ひと》だ。小柄で、髪はセミロング。それこそ、塩屋王子神社のご利益《りやく》をさずかったようなつやつやしい肌をしている。
「お、お前。ちょっと話のつづきをしてくれんか。例の髪長姫のなあ……」
蔵元はため息まじりに、夫人に助け舟を請《こ》う。急なもとめとこちらのまぶしい視線に、いくぶんためらう仕草をみせ、主人のとなりにちょこんと腰をかけた。そして、盆を抱いたまま、口元をほころばせ、歯切れのよい解説をつなげた。
「その観音さまを庵《いおり》に手あつくお祭りすると、やがて、娘の髪の毛がはえてきたんですって。黒髪はもう、人もうらやむほどの美しさで、ある日、浜で髪を梳《す》いていると、一羽の雀《すずめ》がひと筋の髪の毛をくわえ、奈良の都へはこんでいったそうです」
「ほう」
「それが右大臣の眼にとまって、こんなみごとな黒髪なら、さぞ身も心もうるわしいにちがいないと、諸国をほうぼう探させたんです。のちに、娘は藤原|不比等《ふひと》の養女となり、文武天皇のお妃《きさき》としてお側《そば》につかえ、幸せになられたそうです」
「もとをたどれば、道成寺はその物語に由来して建立されたそうです。紀州美人も髪長姫をイメージしてつけたんですよ」
蔵元がそう締めくくった。
「なるほど。それなら謂われにふさわしい銘柄ですねえ」
じっと聞きいっていたわたしは、合点がいくと、もういちど※[#「口+利」、unicode550e]き猪口を口先に持っていった。
「しかし、女の髪の毛っていうのんは、たいしたもんですねえ」
蔵元が夫人を横目に、感心したようにつぶやく。亭主を敷く尻もまことに偉大ですが、とでも言いたげな神妙なる顔つきである。
「九州のうちの田舎にも、似たような伝説があるんですよ。大陸文化が伝わった六世紀のころ、炭焼き小五郎という男がおりましてね。顔に醜《みにく》いアザのある都の姫が、三輪明神のお告げで小五郎のところへ嫁ぎました。その姫のおかげで、炭焼き小屋の裏山に金《きん》をみつけ、夫婦は長者となったんです。近くの井戸で顔を洗ったところ、ふしぎなことにアザがとれて、きれいな女房になったらしいんです。やがて、信仰心のあつい夫婦は、中国から仏師を呼んで、臼杵の石仏をつくったというんです」
「漁師と炭焼きのちがいはありますが、どちらも裕福になって、ハッピーな筋書きなのですね。かなうものならば、あやかりたいくらいですわ」
夫人がにっこり白い歯をのぞかせる。
「級別廃止後、酒界はいっそう熾烈《しれつ》な状況ですよね。甘口な県にあって、むしろいいチャンスではないですか」
「はあ。なにぶん、田舎の小さな造り酒屋ですので」
蔵元は伏し目がちに答えた。
「スッキリとした淡麗型で、全国区に打ってでて下さい」
「うちも七年まえに、未納税(大手メーカーの下請け。桶売りのこと)はやめたんです。資金ぐりが苦しくなるのは覚悟していましたが、やはり自蔵の酒一本にしなけりゃあと決心しまして」
「関西は食の嗜好がうす味《あじ》ですが、酒は甘く味の多いものが誤って評価されがちです。しかし、そんな酒は秋になると、味がダレたり、劣化しやすい。オールシーズン旨いなんて、八方美人な酒質などあり得ません。完全発酵をきめてこそ、熟成後に、ほんとうの旨味がにじみでてくるというもんです」
「どこまで頑張りとおせるやら。うーむ。やらなくちゃいけませんね」
蔵元は、きっぱりと口元をむすんだ。
紀州の美人酒を守り育てる夫婦。伝説に登場する早鷹と渚のように、わたしにはみえてきたのである。
[#小見出し] 備長炭づくりの又やん
岸野酒造本家をあとにして、紀勢本線を南下。日置川町《ひきがわちよう》へとむかった。
隆起したリアス式海岸の裾《すそ》を洗い、鈍色《にびいろ》の海がざわめく。特急くろしお号の座席に、荒磯の香りがはこばれてくるようだ。
吟醸酒が、米と水をつかった巧みな職人技《しよくにんわざ》だとすれば、紀州備長炭《きしゆうびんちようたん》は、木と火の至芸である。
硬質ななかにも飴《あめ》のような感触。叩くとなんともいえない質感のある音。焼きのよい備長炭に触れると、燃料というより焼きもの≠フ気品がただよう。
ウナギの蒲焼き、ヤキトリ、焼き魚《ざかな》から手焼きせんべいにいたるまで、引きたてる味わいは、ガスの火とは雲泥《うんでい》の差。火持ちがよく、外を焦がさず、なかまでしっかりと焼きあげて旨味を逃がさない。よくできた炭は、食欲をさそうグルタミン酸を増加させるという。無形の技術「備長炭」は、三百年ものあいだ食文化を陰でささえてきたのだ。
昔から「女がくると窯《かま》がこわれる」とか「炭のできがよくない」などといわれてきた。禁忌《タブー》やその独特な作法は、戦前の酒造界とも共通している。
杜氏が醪《もろみ》をなめて、仕上がりをみきわめるように、炭師も煙の色とにおいとで、タイミングをはかる。どちらも、勘と経験がものをいう世界だ。
日置川への釣行を重ねているうち、わたしは、玉井又次《たまいまたじ》さん(六十七歳)のことを知るようになった。
十三歳のときから炭を焼きはじめ、足かけ五十五年目。手塩にかけた教え子たちは、全国各地に散らばっており、遠く中国やタイ、インドネシアにまで自前で指導に駆けめぐる。通称又やん。かれはこの業界では、すでに伝説的な人物といってよい存在なのである。
日置川の下流「安居《あご》」集落。本流にかかる橋をわたると、薄紫《うすむらさき》色した三筋の煙が、ゆっくりと夕空にのぼっていくのが見えた。
青いトタン屋根の裏手は、一面のダイコン畑。そのうしろには、雑木林がこんもりと茂っている。
入口の広場に原木がうずたかく積まれ、素灰《すばい》(土と灰を混ぜた消し粉)にまみれた掛《か》け矢《や》や篩《ふるい》、熊手が、見通しのよい壁際に行儀よく掛けられていた。
六基つらなる窯のうち、ふたつの口からは炎がゆれ、ほかは焚《た》き口《ぐち》が閉ざされたままである。
玉井又次さんらは、親戚の不幸事《ふこうごと》のため急遽名古屋へでかけ、帰宅は夜半になるという。作業着と地下タビすがたの三人が、それぞれの持ち場についていた。
会釈をかわす。北条潔《ほうじようきよし》(四十八歳)、山本昌慶《やまもとまさよし》(三十八歳)、長沢泉《ながさわいずみ》(二十九歳)の各氏。将来の自立をめざすかれらは、会社を辞めてまる二年、玉井さんの窯で修業をしている。
さっそく、あてがわれたプレハブ小屋で身づくろいをし、かれらにまじり仕事をはじめた。
その日、おそい夕食をすませたあと、うち二人はちかくの借家へと引きあげていった。わたしは、北条さんが担当する六番窯に張りついた。
窯焚《かまだ》きから八日目。いよいよ窯出しがはじまる。この夜は、かたときも眼がはなせない。窯のなかは千三百度にも達し、炭化がおわり、すっかり熾《おこ》った状態である。
「白炭《しろずみ》と呼ばれる備長炭は、鉄なみに硬いんですよね。黒炭《くろずみ》(ふつうの木炭)よりも、燃焼時間がはるかにながいでしょうし」
窯のまえに立ち、わたしは北条さんに問いかけた。
「陶器《やきもの》によう似たところがありまんなあ。備前焼あたりの高温窯《こうおんがま》ともそっくりやねえ。ただし、炭はかざりもんやのうて燃料やさかい。つかわれてただの灰になりまっさ」
「まあ、その点は地酒にもいえますよ。いざ人に飲まれてしまえば、あとはオシッコになるだけですから。燃料と嗜好品の宿命でしょう」
「炭のできぐあいは、意外にも、床《とこ》ならし(原木を詰めるまえに、窯の床に素灰を敷くこと)に左右されるんですわ」
北条さんは、窯口に背中をむけ、ゆったりタバコをくゆらす。午後九時。外気は冷ややかだが、屋根の下はこのうえなく暖かい。
「わずか五、六センチの厚みで素灰を敷きつめるのが、そんなにもかんじんなのですか」
「そうです。窯のかたちには、それぞれ微妙なクセがありますねん。熟練した炭焼き師ほど、床ならしを的確に決めるんですわ」
「ふーむ」
わたしはうなった。
「つまり、窯に対してちゅうか、地球に対して水平にね。ヘタにやると、空気の流通がわるうなって、焼きにムラがでてきよるさかいねえ」
「焼く人の仕事ぶりとか性格まで、窯出しに全部あらわれるといわれますよね」
「ですさかい。いつも胸がわくわくしまんなあ。手を抜こうもんなら、親方(玉井さん)には一目瞭然。それこそ、眼から火がでるようにどやしつけられまっしね」
しゃべりおわらぬうち、かれはタイミングを得たりと、タバコを地面にもみ消した。
足元のエブリ(ステンレス製の長い道具)をつかみ、窯口へ突っこんで手際よく動かしはじめる。炭をいったん手前へ引きよせ、さらにねらし(精錬)を入れるのだ。
炭同士がカキーン、カキーンと軽快な音色を奏《かな》で、青白い炎がくらがりに舞いおどる。
スコップで素灰を一、二杯さっと振りかける。バチ、バチッ! 温度差をあたえられて、樹皮がはがれ、その火の粉があたりにはじけ散った。
やがて、炭の表面が白色に変化してきた。焼けて透《す》き通るうつくしさに、眼をうばわれた。
北条さんが、エブリですばやく窯の外へかき落としていく。わたしも、もう一本のエブリを振りかざす。おもうようにならず、躍起になって窯口へ近づく。火勢は容赦《ようしや》ない。頬が焦げつくように熱くなった。エブリの先が、みるみるうちに真っ赤な色を帯びてきた。
鉄製の大きな器《うつわ》で炭をうけ、フォークリフトで箱型の枠へうつしていく。うえから素灰がかけられ、一気に冷《さ》まされる。まだ、まだ、全体量の一部にすぎない。
こうして、その夜の窯出しは深夜におよび、すっかり火照《ほて》ったからだで眠りについたのは、午前四時をまわっていた。
クイッ、クイッ……。宿舎の裏の相思樹《そうしじゆ》の木にツグミがとまり、さえずっている。
炭焼きの朝ははやい。窯場から機械音とにぎやかな掛け合いがきこえてくる。わたしは、ねむい眼をこすって、窯場へと足をはこんだ。
空《から》になった六番窯へ、すでに原木を入れようとしていた。めいめいがはつらつと働いている。
曲がった丸太にオノで切り口をつけ、木片をはさみまっすぐに成形する者。くずれかけた窯の入口を、コテで補修する者……。「炭焼き百仕事」といわれるように、なんでも屋に徹しなければならない。
玉井さんや大野三兄弟のすがたもみえる。わたしは、中途から助っ人にくわわった。
長さ二メートルあまりの太い馬目《ばめ》(ウバメガシの別名。葉形が馬の目に似ているところからついた呼び名)丸太を、根元から下にむけ、一本一本丹念に窯のなかへ詰めていく。これが炭に変わると、重さは十分の一になるという。
「おい。ゆうべの窯出しは北条かいの。あいつも、ちったあマシになったかいや。なあ、北川さんよ。ここへやってくるもんは変わり者ばかりやして、いちどおとずれたらやみつきになるんやで。ハッハッハッ」
作業帽をかぶる玉井さんは、すれちがいざま威勢のよい愛想をくれた。
「でも親方ぁ、夏場の窯出しときたら、まるで灼熱地獄のようなもんですよ。滝みたいな汗が出ちゃる」
そばで大野光明《おおのみつあき》さん(三十歳)が、すかさず合いの手をいれる。
「火をながめて働いていたら、なぜだか、なごむものがありますねえ。ちっとも飽《あ》きてこない。酒蔵で櫂入《かいい》れをしてもおなじですよ」
わたしは、酒造りの工程を引きあいにだした。
「そりゃあ、おまん。火いうのんは、原始より人間の原点やしてなあ。炭焼きも酒造りも、根本はおなじよぉ。火と水のちがいだけやわい」
「杜氏をご存知なんですか」
「ああ。酒の濾過《ろか》につかう活性炭の件でな、以前、酒蔵で杜氏に会《お》うて話したことがあるがよのォ。わしらと似たもの同士やのぅ」
「米の作柄《さくがら》や気候で、造りに工夫をこらす点までも、相通《あいつう》じるというんですか」
「ほいよ。馬目《ばめ》かてそやど。山の頂上にはえたもんもあれば、谷底のもんもある。材質が千差万別や。梅雨どきは、地面を通し、外から窯へ雨が浸透してくるんでの。これまた、空気のかげんがいろいろとむずかしいわいな」
かれは帽子をぬぎ、薄くなった頭をかきあげると、原木をかついで、窯の口からなかへ入っていった。
窯の背中にある排煙口の脇には、コーヒー色した液体が、ガラス容器にしたたり落ちていた。指先でなめると、すこし酸《す》っぱくコゲくさい。木酢液《もくさくえき》は、土壌改良や消毒などに幅ひろくつかわれている。
午後からは、原木の伐採《きり》出しや搬入、区分け作業など目白押しの仕事がひかえていた。
夕刻、作業着のまま事務所のとなりの食堂で、玉井さんと備長炭談義を続ける。酒好きの長沢さんが、風呂あがりの姿でくわわってきた。
わたしは、酒蔵で買ってきた「紀州美人」純米酒をとりだし、ヤカンに注《そそ》いで、そのまま燗をつけた。
奥方の玉井玉枝《たまいたまえ》さん(五十七歳)が、本宅から深皿に盛った自然薯《じねんじよ》のたんざくをとどけてくれた。
「なんなあ。『紀州美人』てかあ。酒もええが、わしゃホンマもんのきれいどころにありつきたいのぅ」
茶目っけたっぷりに玉井さんが、かませる。
長沢さんは、紺地のドテラにくるまり、湯呑み茶わんで酒をすすっている。かれは二年前まで、東京でコンピューター技師をしていた。
「炭焼きはの、原木を切っても幹や太い枝以外はのこすんで、切り株からひこばえ(萌芽)がでるんや。山がハダカにならんから、周期を守っとれば、生物界の調和も保たれるわけや」
そう言って親方は、膝を折り、地下タビの金具をゆるめた。
「人工林ばかりが、山の利用ではないですからね。炭は用途がひろいからなあ」
長沢さんがあいづちを打つ。
「そや。炊飯器にひとかけら入れると、旨いメシが炊《た》けらあよ。冷蔵庫や下駄箱に放りこんでおきゃあ、臭《にお》いとりにもなる。入浴剤や安眠効果の炭まくらかて考案されとるようやの」
「炭が見直され、玉井さんの志《こころざし》をつぐ人たちも育っておられますしねえ」
わたしは、むかいにすわり酒をかたむける脱都会人をしげしげと見た。
「炭焼きは、たとえ十年やっても一人前とはいえん。この業界はあまりに閉鎖的すぎたしのぅ。いつまでも、それではいかんわいな」
備長炭で外からの弟子を養成しているのは、玉井さんの窯だけである。話をかわしているうち、酒造界に厳しい忠告をされているような気がしてきた。反骨の酒屋者、いや、炭焼き蔵の名杜氏≠フごとくおもえてきたのである。
「いまだになあよ、会心の炭なんて、なかなかできやせんよォ」
「炭はものを言いませんから、折り合いのつかぬおのれとの対決なんでしょうか」
「まあ、カッコよく言えばなあ。わしも五十代なかばまでにかけては、今よりゃシャキッと焼き締めた炭をこしらえとったもんや。ほんに。やが、寄る年波にゃ勝てんのう」
「たとえ体力がおとろえても、感性はかえって研《と》ぎ澄《す》まされるといいますよ。親方」
長沢さんが表情をかえず、ぶっきらぼうに口をひらく。
「おい。あんまり年寄りを持ちあげんなや。ははっ。関西のウナギは、なみの備長でもじゅうぶん焼けるがの、ほれ、関東は背開《せびら》きで、いったん蒸すやろが。脂抜《あぶらぬ》きをすると焼きづらいがの、わしのええ時分《ころ》の炭はな、どんなウナギでもまかせとけの備長やったでぇ」
かれは、一瞬表情をひきしめたあと、そう遠くない昔を矜持《きようじ》をこめてふり返った。話しこんでいると、窯で燃えたつ炭のあかりが、見たくなってきた。
二時間後、わたしたちは窯場へうつった。今夜の窯出しは、四番窯担当の大野光明さんと弟の春雄さん(二十九歳)だ。
どちらも十年、二十年のベテラン。ビールケースを椅子がわりにして陣取り、作業を見守る。
「よーしゃ。やっと、スカッとした色になってきたなあ。さあ、ダシ(窯出し)じゃ!」
玉井さんが声高《こわだか》にさけぶ。光明さんが、気合もろともエブリをふるう。血がさわいでくるのか、玉井さん自身も立ちあがり、ひとまわり長めのエブリを手にし、腰をいれてさっそうと炭をかき出していった。
小憎《こにく》らしいほどの自然体。窯のなかの炭は、備長の最高級品「馬目小丸《ばめこまる》」と「馬目細丸《ばめほそまる》」だ。
釣《つ》り鐘《がね》状に開《あ》いた窯の口のうえに、コブシ大の閉じ穴がふたつ。それらは赤々と燃える火を映し、金色《こんじき》の眼玉と大きな口元のように見える。
あたかも、炭焼きの守護神が、口からカーッと炎を走らせ、叱りつけているがごとき光景であった。
窯と炭焼き師たちのせめぎ合いをまのあたりにしているうち、わたしは備長炭をきわめた又やん≠フ口ぐせを、かみしめていた。
「人間いうのんは、傲慢《ごうまん》な動物やよってなあ。ここの窯に来《く》りゃよ、人はみな火から教えられるものなんど。ちったあ相手の身《み》ぃになって考えてみろ、となあ」
そんな言葉の真意が、すこしだけ呑みこめた気がした。
またも夜っぴて窯出しがつづく。
[#小見出し] 北山峡のイカダ師
ガガッ、ガクーン。イカダがかくれ岩《いわ》にぶつかり、水しぶきが飛び散る。怒濤《どとう》のような揺れがからだに伝わってくる。つんのめりながら身をかがめ、思わず手すりを握りしめた。観光イカダの乗客の歓声が、白泡うずまく激流の音で途切れそうになる。
川の真んなかに立ち、ながれとおなじ勢いで下《くだ》る視界が、これほど壮観だとは。両側の絶壁の間を青い空が突き抜けている。
編笠帽に印半纏《しるしばんてん》をまとい、地下足袋《じかたび》とタンクズボンをはいた先頭のイカダ師は、ゆうゆうとした腰つきで、七尺(二・一メートル強)の櫂《かい》を操《あやつ》っていた。
海抜千二百メートルを越す山々がつらなる紀伊半島の脊梁《せきりよう》、大峰山脈。北山川《きたやまがわ》と十津川《とつがわ》の両水系は、ふところ深く渓谷をかかえこむ。
いにしえから、「一に池郷《いけごう》、二に前鬼《ぜんき》、三に白川又《しらこまた》、四に四《し》の川」とその険しさが謳《うた》われてきた。それぞれの川は北山川本流と合流し、名にしおう熊野の大峡谷となって、太平洋にいたる。
わたしがいくたびか踏みしめたこれらの幽谷は、序列どおり、釣り人をふるい立たす峭絶なところであった。
和歌山県|東牟婁《ひがしむろ》郡|北山《きたやま》村をながれる四の川へ入渓したのは、もう九年まえのことだ。偶然にも、そこでひとりの筏師《いかだし》とめぐり合ったのである。
三人の渓友とわたしは、いつものように軽口をたたき合い、国道をたどっていた。
四月なかば。水もやっとぬるみはじめ、アマゴは食《く》いっ気《け》がついてきたころだろう。車中ではひとしきり、折からの田舎暮らしがブームになっている風潮について議論になっていた。
「山村移住だ、カントリーライフだのとやたらマスコミは書きたてとるが、どれも成功例ばっかりや。失敗談がぜんぜん取り沙汰されとらんいうのも、かえってあやしいなあ」
「郷《ごう》へ入《はい》らば郷に従えで、けっしてバラ色なもんじゃないさ。土地土地のしがらみをさけて、週末田舎人にでもなれば別だがね」
「それに、田舎暮らしを志向するのは、なにも芸術家とか定年後の人間ばかりやないで。われわれ現役サラリーマンかて思うとるわ」
「まっ、ここらで適地を挙げるとすれば、上北山村か、北山村あたりだろうなあ」
「そやな。温暖で、川があり海も遠くはない。いきおい山海の幸《さち》は新鮮や。国道ぞいの村はスレとるというが、人情も厚そうやで」
七色ダムをすぎ、村の中心地「大沼《おおぬま》」集落を抜ける。やがて、廃村「小瀬」の手前から四《し》の川《かわ》林道をすすむ。
三キロほど先でクルマを止め、眼下の川面《かわづら》をながめた。奔流がうなり声をあげている。ここ数日来の雨で、水量は豊富だ。源流に入るまえに、いっちょう攻めてみよう。釣欲がはやり、そそくさと渓流釣りスタイルに身を固めて、川原へ降りていった。
しかし、だれの竿にも魚信がこない。瀬音だけの静かな渓間に、時がながれていく。
「なんやあ。魚がおらんのとちゃうかい」
気短なひとりが、呪文のごとくボヤキはじめる。
さらに上手《かみて》へ移動すると、荒瀬がつづいていた。さきほどの渓友の竿が、急に弧《こ》を描《えが》く。かれは、太めのアマゴを手元に取りこむと、手を差しあげてニッコリとかざした。やれやれ、釣り人は現金なものである。
まもなく、増水のため岩場を遡行《そこう》できなくなり、一同はあきらめ、竿を仕舞いこんだ。いよいよ本命の源流部。尺級にねらいをつける男たちは、奥をめざした。
日暮れまえになり、糠雨《ぬかあめ》が降ってきた。細長い小森《こもり》ダムが、まるで川のながれの営みを放棄させたように、けだるく淀《よど》んだ水をたたえている。
渓奥をあとにしたわたしたちは雨にたたられ、手ごろな幕営地はないものかと、村人を呼びとめては、たずねまわった。騒々しい釣り屋たちの相談をうけた人の好《よ》い年寄りが、
「うーん。村営レストランの近くがよかろうか」
と、思案のあげくその方向を指さしてくれた。
「下尾井《しもおい》」集落のはずれに、小さなレストランが一軒建っていた。まわりはきちんと刈られた緑草地で、屋根つきの炊事場が備えられてある。一も二もなく、野宴と泊まりは決まった。
軒下にフレームテントを組み、酒盛りの仕度にとりかかる。枝木《えだぎ》で刺したアマゴが、焚き火に燻《いぶ》され、香気をただよわす。酒と馳走をやりはじめようとしていたその時であった。
暗がりのなかを、ひとりの老人がつかつかと歩み寄ってきた。小柄だが矍鑠《かくしやく》として、みるからに気骨漢。四人はたがいに顔を見合わせた。
「おまえさんがた。わしはここの管理人やがの。決まりでな、キャンプはご法度《はつと》になっとるんやで……。ん、まあ、今夜は雨やし、しゃあないわのぅ」
小言のひとつも頂戴するのかと思ったら、怒気ははらんでいない。
「雨で拝借してます。いっしょにいかがですか」
わたしは悪びれず、突然の訪問者を座のなかへと迎えいれた。
「おっ。アメノウオやなあ。わしも若いころ、トバシ(方言で毛バリ釣りのこと)をよくやったもんやでの」
串におどる渓魚《うお》をみて、老人は眼を細め、一段と太目《ふとめ》な声をひびかせた。その人物は観光イカダの船頭、泉家正門《いずみかまさかど》さんであった。サファリランタンの明かりのもとで、焚き火にあたって話にふける。くべた薪《まき》のはぜる音がした。
奈良と三重とにはさまれた和歌山県の飛地《とびち》北山村は、人口六百人あまり、面積の九八パーセントが山林である。この村が観光用のイカダ下《くだ》りをはじめたのは、昭和五十四年(一九七九)のことだ。五月から九月まで、村内約八キロの奥瀞峡《おくどろきよう》をイカダが走る。
北山川では古より、紀州材(スギ、ヒノキ、ツガ、マツなど)が新宮まではこばれていた。村の活性化の目玉事業として、筏流《いかだなが》しを再現したのだった。
交通事故のケガがもとで、いったん村を離れ、名古屋の長女宅に身を寄せていた泉家夫妻は、村長より直々《じきじき》に請《こ》われ、観光イカダの船頭として村へ復帰したのであった。
「オヤジの代からイカダ師でのう。十六の年《とし》に川に出た。まともに乗りこなすのんに、三年間はかかるわなあ。それから戦争がはじまった……。召集令状がきてなあ、わしは中国へ渡ったがの。ほいで、終戦後、またイカダに乗りこんだのや。そやな、昭和四十年まで川ながしがつづいたかのう……」
かれは遠慮がちにコップの燗酒をかたむけながら、ポツリポツリと語りはじめた。
「ここから新宮までの距離《コース》は、たっぷり百キロはあるでしょうに。そ、それをイカダで?」
焚き火の煙に咳《せ》きこむ渓友が、おどろきの声をあげる。
「ああ。夏は水があるんで、ながれが速いわい。冬場は水が小さい(少ない)んで、四泊はかかったのう」
「職業柄、イカダ師にはさぞかし酒好きが多いんでしょうね。オレたちと一緒やなあ」
もうひとりの年嵩《としかさ》の渓友は、あいづちを打ち、一升瓶を片手でつかんで客人にすすめた。
「そや。よう飲みよるし、気の荒い連中も多いわさ。川ぞいにイカダ宿《やど》(あがり宿ともいう)があってのぉ。先着した組からひとっ風呂あびて、イッパイ飲《や》るのや。えっ、どんなハナシするてか。うん。川の難所を教え合ったりなあ。この商売は、一回一回がからだを張る勝負やでなあ」
焚き火へ薪《まき》をつぎたす。燠《おき》がじつに深い色で燃えさかる。どうにも今夜は、酒が飲めて仕方がない。アルコールで舌がほぐれ、船頭の口から唄がついて出た。
朝鮮と〜〜支那の境のあの鴨緑江《おうりよつこう》〜〜
ながすイカダはぁ〜〜♪
包容力のあるリズム感と節まわし。気宇壮大な気分になってくる。
「大陸にまでいって仕事をしていたとは、じつに国際的ですねえ」
わたしは、酒と焚き火でほてったからだを折りたたみイスからおこし、みずからの伝説を繙《ひもと》く泉家さんをまじまじと見た。まくり上げたシャツの腕首は、年に似合わずたしかに太い。
「戦前、朝鮮総督府からの要請でなあ、この村から三十人ほどが出稼ぎに行ったんや。大陸とくらべりゃ、日本のイカダはマッチ棒を組んだようなもんよ。あんたら、音《ね》を上げるほど、あっちはひろいどぉ。もいちど大陸で棹《さお》がふりたいのぅ」
雨はいつしか止み、かれは煙のたちのぼる夜空をじっとにらんだ。
話題が飛び火して、プロレスにおよび、座談がふたたび盛りあがる。いあわせた仲間とおなじく、かれは力道山が街頭テレビに映っていた時代《ころ》からのプロレス通なのであった。
「名古屋におった時分なあ、新日プロの興行をよう観戦したものや。早めに会場入りし、レスラーが頭をぶつけるコーナーポストをじっくりと検分したこともある。やっぱり、ほんまもんの鉄製やったでえ」
榾火《ほたび》で照らされた国際的イカダ師は、膝をたたく。これではますますお開きにできそうにない。
それ以来年に一、二度、わたしたちは北山村周辺の谿《たに》へと出漁した。
古希《こき》をすぎてもなお、泉家さんは威風堂々とし、観光イカダを乗りこなしていた。アマゴ釣りと酒盛りめあての釣屋どもを、あたたかく迎えてくれたのだった。
それから四年後、かれは観光イカダの船頭を退いた。過去の事故で負った大腿骨骨折の後遺症がおもわしくなく、自宅で療養の身となった。北山村への釣行は、しばらく途絶えてしまった。
その年の八月。見舞いの一升瓶をクルマに積みこみ、わたしはひとり北山村へむかった。泉家さんがかなり落ちこんでいると伝え聞いたのだった。
「おお、よぉく来《き》んさったのう。こんなザマでなあ、情けないこっちゃ……」
寝床についていた泉家さんは、左足をかばい、ゆっくり布団から這い出ると、股引《ももひ》きすがたのまま居間の長イスにあぐらをかいた。
「今日はコレでからだに活を入れて下さいや」
かれの大好きな日本酒を、飯台にでんと据《す》える。山陰の男酒《おとこざけ》≠フ異名をとる「鷹勇《たかいさみ》」(鳥取県東伯郡東伯町 大谷酒造)の純米酒だ。
「こりゃあ、ありがたい。おおい、コップとマグロの刺身や。早よう用意せんかい」
病《やまい》に伏すいらだちまじりに、夫人に声を張りあげている。もちまえの威勢よさは、まだ失《う》せていない。
「お酒を飲むときだけ元気が戻るんですから。ほんとに」
かね子夫人の明るい声が、台所から返ってきた。
「顔の色つやはいいじゃないですか」
わたしは、ふたつのコップになみなみと注《つ》ぎ入れた。
「それが、お医者さんには酒は控えめにしなさいって言われてるんですが、朝二合、昼二合、晩に三合飲むんですよ。寝たり起きたりの合間に」
「そりゃあ危ない量だなあ」
「でしょう。止《と》めても聞かないんで、あたしももう好きなようにさせているんですよ。ただ痴呆《ぼけ》が心配で……」
かね子夫人は、あきらめたふうに声をひそめた。
「ああ、コレに天然アユがあればのう。今どきのもんは養殖やさかい。まずうて食えん」
正門《まさかど》さんは、ふたりの会話に頓着《とんちゃく》せず、口をとがらせた。
「この人、昔から好物でねえ。川で獲《と》ってきたアユの中骨《なかぼね》をとって刺身にし、きざんだ青ジソをふりかけるんが、一番のツマミやいうて」
温顔な夫人が、そばから言葉を添える。自分専用のイカダをこしらえ、箱メガネで水中をのぞき、竿先にゆわえたハリでアユをつぎつぎにチョン掛けしていたという。
「ダムができてからいうもん、つくづく人生観までが変わってしもうたわ。川は村人の生活の糧《かて》やったでなあ」
「イカダがすたれてしまったのは、陸送の発達が最大の引き金だったんでしょう」
刺身醤油にじゃばら(北山村でとれるユズの一種)をしぼりかけた受け皿に、わたしはマグロの切り身を浸した。
「うむ。じゃが、そこへふたつのダムが追い打ちをかけてのう。川かたちが一変してもうたのんや」
かれは、虚《うつ》ろそうに酒をすすっている。大皿に盛られたメハリ寿司をつまむと、自棄《やけ》っぱちに口元へ押しこんだ。
「今でも、イカダに乗りたいいうて、毎日酒がはいるたんびに繰り返すんですよ」
色白で大柄な彼女は、駄々《だだ》っ児《こ》を見る眼で困ったようにほほえんでいる。
「それこそ、イカダながしはオヤジさんの天職だったんでしょう。現役のころの心境はどうでしたか」
わたしは真っ向から問いかけた。かれは少し口ごもり、歯茎《はぐき》をのぞかせた。
「だって、おめえさん。春がくるってえと、藤《ふじ》の花は咲くしなあ。ぼちぼちアユが跳ねて、ちゅう気分になるからやないかい。ええ。ふっはっはっ」
太股《ふともも》をさすりつつそう答え、含羞《はにかみ》のにじむ面持ちで、筏《いかだ》ぶしを口ずさみはじめた。
さぁさ、いかだは度胸で流す〜〜
一の滝にはアユ躍る〜〜
鼻唄にしたがい、夫人も小声でハモっている。
イカダ師は、戦前戦後にかけて、北山村だけで六十人あまり。隣県の川上村と上北山村にも少人数がいた。役場づとめや山仕事にくらべ、はるかに収入がよく、粋《いき》でいなせで男の花形職業といわれる時代があったのだ。しかし、それも今では伝説めいた語り草になっている。
「そう。だいいち、村娘のあこがれの的《まと》やったものねえ」
かね子夫人は、遠くを見るまなざしをした。
部屋の隅に、イカダの櫂《かい》が一本かざられてあった。つかいこなされて擦り減ったそれを手にとる。酒造りの|※[#「酉+元」、unicode915b]櫂《もとがい》とそっくりだ。
正門さんは、わたしから愛用の櫂をうけとると、両手で力強く握りしめ、長イスのうえからイカダを漕《こ》ぐ動作をした。下半身の自由はきかぬものの、いかにも堂に入《い》った身振《みぶ》りであった。
「イカダ師いうもんは、ケガしてもなんの補償もない。転落し、イカダと岩にはさまって死んだのもいたわい。当時の仲間は、みんな年《とし》で亡くなり、わしひとりになってもうた」
かれは手にした櫂《かい》をそっと置くと、低声《こごえ》でつぶやいた。
ちょっとしめっぽい風向きになってきた。わたしは、話題をふることにした。
「ところで、プロレスは相かわらず見ておられますか」
「うん。それだけが楽しみやからのぅ。このあいだの橋本真也とトニーホームとの一戦はみごたえがあったど。橋本は序列からはずされまいと必死やからのぅ。ありゃ互いに勝負を譲っとらんかったなあ」
「すると、暗黙のルールの敷かれたショー的な試合と、とことん張り合う試合は見分けられるというんですね」
「ああ。ひしひしと判《わか》るわいな。それはなあ、マットさばきや試合運びやないで。ずばり、顔付きじゃよ」
腕がなまるといったふうに、かれは両肩をゆすった。
「それはたしかにいえますね。正門さん。じつはわたしも、いよいよリングに立つことになったんですよ」
その言葉に、いささか面喰《めんくら》った表情で、こちらをのぞきこんだ。
「極真空手なんですよ。道場の交流試合で、七メートル平方の四角いマットのうえに、もうじき上がるんですよ」
「おまえさん、いったいいくつになるねえ」
好奇の眼つきになり、かれは問い返してきた。
「四十です。この年になって生《なま》キズが絶えません。中年のノンプロ・デビュー戦といったところですよ」
「そうか……。ええのう。まだ若うて。わしの分までぞんぶんに暴れてくれやい」
「この人は仕事柄、若いころから筋肉隆々としとりましてね。畳のうえに片腕をつき、手のひらに大人ひとりを載せられるくらいの握力もありましたんやわ」
「そんな芸当ができたんは、仲間うちでわしだけやったのう」
身長百六十二センチ。体重五十七キロ。鋼《はがね》のからだで水しぶきを受けてきた男は、身辺の低迷に鬱積《うつせき》し、画面に映るプロレスへ内《うち》にたぎる情熱を燃やしているにちがいない。
「ふうーっ。メリハリがよう効いて、この酒は飲みあきんわい」
皺《しわ》ばむ顔に口をすぼめ、かれはコップののこり酒を、ひと息で空《から》にした。酒びたりになっていると、舌は鈍感になるものだが、晩酌酒との味のちがいをかぎわけているようであった。
「わたしの惚れた蔵の酒なんです。坂本俊《さかもととし》っていう杜氏が、じつに腕っぷしの強い酒質《さけしつ》を醸《かも》しだすんですよ。旨さの秘密がどうしても知りたくて、先日も杜氏の出身地の島根県|平田《ひらた》までたずねてきましてね――」
わたしは、日本海のざわめきが聞こえる酒蔵と杜氏の苦労話を、あれこれと打ち明けた。老筏師は眼でうなずき、じっと耳をかたむけている。
身を置く業界のちがいこそあるが、かれらもまた、櫂《かい》を握る職人同士なのであった。
[#第四章扉(chapter4.jpg)]
酒づくりに賭ける
[#小見出し] 和紙の里の吟醸蔵
七年前、友人に勧められたのが、愛媛にある酒蔵の純米吟醸であった。
勘亭《かんてい》流の筆づかいが巧みな淡色《あわいろ》のラベル「日吉菊《ひよしぎく》」。ひかえめな吟香《ぎんか》を放ち、ほどよく酸味のきいた喉ごし。欲をいえば、腰の強さとフクラミが足りない。だが、軽い風味のなかに、変貌を予感させるのびやかさがあった。
仕込水《しこみみず》の比重(純水を零《ゼロ》とした場合の重さ)は、プラス二・○。なみはずれた水質である。
それ以来、わたしと蔵元との往復書簡がはじまった。
飲んでみての率直な感想や近況を書き送ると、手漉《てす》きの便箋《びんせん》にしたためられた返事が届く。肉厚な奉書《ほうしよ》紙でできた封筒の白さと手ざわりは、蔵内のありのままを物語っているようでもあった。
日吉菊酒造(東予《とうよ》市|桑村《くわむら》)は、ながいこと灘の大手の桶売りをしてきた。
高齢な蔵元には、ひとり息子がいるのだが、京都で歯科医を開業したため、跡継ぎがいなくなった。なかば酒造りの意欲をうしない廃業を考えていた矢先、新居浜《にいはま》で酒の小売りをする店主の励ましがきっかけとなり、手探《てさぐ》りの状態で吟醸造りをスタートさせたのであった。
そののち、わたしは各地の釣りと酒蔵歩きに忙殺され、しばらく交流がとぎれたままとなっていた。
一九九二年、秋。蔵元から一本の純米大吟醸が送られてきた。まえの杜氏は、健康上の理由で引退し、おなじ越智《おち》郡(越智杜氏の出身地は、大島と伯方《はかた》島にある吉海《よしみ》町、宮窪《みやくぼ》町、伯方《はかた》町)からきた杜氏が、バトンタッチして酒を造っているという。
さっそく封を切り、息をこらし、ひと口かたむけてみる。難点が解消しているではないか。理屈ぬきで旨い。もうケチをつける余地はなかった。
いちど蔵へ行ってみよう。伊予の渓奥にすむアマゴも見たい。
二杯目を注《つ》ぐ。酒質を讃《たた》えて、今夜は心ゆくまで飲《や》りたくなった。テーブルに置いた四合瓶のラベルの太文字が、透《す》けたグラスを通して、きらきらとゆらめいた。
愛媛県の中央部、瀬戸内へ三角に突き出た高縄《たかなわ》半島。鈍川《にぶかわ》温泉から徒歩で一時間あまり、蒼社《そうしや》川の支流をわたしはひとり釣っていた。
フットワークも軽やか。渓谷の空気は冴えわたり、水底を映す翡翠《ひすい》色のながれが、眼のまえで飛沫をとばす。
海抜千メートル前後の峰々がつらなる高縄山系は、松山平野と道前《どうぜん》平野の扇状地をむすぶわずかな谷間《たにあい》を境目に、石鎚《いしづち》山脈と袂《たもと》をわかっている。
他《よそ》の河川よりひと足早い二月が解禁なのに、まるで人気《ひとけ》がない。小ぶりのアマゴが、盛んにエサへ飛びついてくる。
午前九時半。釣りあげた数尾のアマゴの臓物《はらわた》を、ポケットナイフで取り除いた後、明るい沢べりへ腰をおろした。
メジロのさえずりが、静まり返った山峡《やまかい》にこだまする。源流部のかなたには、|東三方ケ森《ひがしみかたがもり》(一二三三メートル)が霞《かす》んでいる。口の渇きをおぼえ、渓水を両手で汲《く》む。ゆるい崖道《がけみち》を越えると、わたしはもと来た林道を引き返していった。
鈍川温泉の宿で朝風呂につかっていると、地元の気さくな常連客と意気投合してしまい、
「東予の国安《くにやす》へ行くんなら、ついでにクルマで送ってあげますけん」
と、話がトントン拍子にまとまった。
クルマは今治市のはずれをかすめ、やがて和紙を漉《す》く工場《こうば》と民家が建ちならぶ古い町並みへとたどり着いた。その一角に、こぢんまりとした外観の造り酒屋が見えた。
杉玉《すぎだま》の吊るされた玄関口をくぐる。小柄な松木盛正《まつきもりまさ》蔵元(七十歳)が、なつかしそうな面持ちをたたえながらあらわれた。みやげ代わりにアマゴを差しだす。
応接間でひとしきり懇談したあと、裏口にまわってみた。
駐車場のすみに酒箱が整然と積まれ、高さ六メートルほどの古びた貯水槽がそびえ立っていた。ポンプアップした井戸水が、コンクリートの地肌から滲《にじ》んでいる。
ひんやりとした蔵内には、純米吟醸用の大量の蒸米《むしまい》が麻布敷きで小分けし、晒《さら》されている。昼下がりの蔵内にしては、ちょっとめずらしい光景だ。大手の蔵だといやおうなしに工程が詰まり、こうはいかない。
蒸米を手にとる。米の外部が締まり、とても弾力がある。
「こうして蒸米《むしまい》を長時間|枯《か》らすと、飯粒が溶けにくく、後半まで発酵が持続して、米の芯《しん》までの味を引き出せます。うちの吟醸や純米酒は、搾《しぼ》るまで、三十三、四日はかけるようにしております」
南国では造りの安全を期し、醪日数《もろみにつすう》(仕込みをしてから酒をしぼるまでの期間。速醸《そくじよう》系でふつう二十八日程度かかる)は、たいてい短めとなる。
三十四日も醪《もろみ》を経過させるには、よほどしっかりした米洗いや蒸米《むし》、麹《こうじ》づくりをしていなければならない。
「でも、今年も暖冬気味で、気温が上がると枯らしがうまくいかないでしょう」
わたしは問い返した。
「ええ。蒸米《むしまい》をうまく枯らすのには、五、六度が適温でしょうか。今年は一月が温《ぬく》かったですが、うちが仕込みした二月は、今日みたいな冷え込みがつづいたんで助かりました」
蔵元は梯子《はしご》をよじ登り、曲がりかけた腰骨《こしぼね》をのばすようにして、ふつふつと呼吸をする仕込タンクの醪《もろみ》をみつめている。
夕方この蒸米《むしまい》をタンクに投入すると、今年の吟醸仕込みは終わり、明日からは本醸造にうつるという。
東予は和紙の生産地である。周桑和紙《しゆうそうわし》の起こりは、天保年間といわれ、農家の冬場の副業として発達してきた。
国安《くにやす》と石田《いしだ》の両地区で、百二十軒をこす紙漉《かみす》き場があったのだが、後継者不足と機械製紙に押され、今では約十分の一に減少した。「引《ひ》き流《なが》し漉《す》き」の伝統技法は消えつつある。
蔵から二百メートルほどはなれた国安の製紙工場へ、蔵元と足をはこぶ。松木家も昔は奉書造りをやっており、手漉《てす》き和紙|山本家《やまもとや》とは縁つづきにあたる。
当主の杉野和吉《すぎのわきち》さん(五十二歳)が、上着の両腕をまくり、簀桁《すけた》を手ぎわよく動かしていた。そのたびに、桁《けた》をささえる天井の漉《す》き弓《ゆみ》が、キュッキュッと音をたてる。長方形の漉《す》きぶねにはいった糊《のり》状の液が漉《す》かれ、まだ水気をふくんだ純白の和紙が、つぎつぎと台座に重ねられていく。
「ここから二キロへだてた石田のほうは、こげに白うならんです。水質のちがいでしょうな。山に行って比べてみりゃ一目瞭然ですがの、石鎚の谷は川石が青《あお》うて、高縄はみょうに白っぽいですけん」
首まわりが太くがっちりとした体格の杉野さんは、作業の手を休めて前掛《まえか》けの紐《ひも》を解《ほど》くと、ゆっくり口元を開いた。
日吉菊酒造も山本屋も、おなじ井戸水を使用している。国安や桑村は石鎚でなく、高縄山系の伏流水だというのだ。
「わたしも朝っぱらからその川を釣っていたんですが、気のせいか飲むと、いつになくキリリッとした味わいでしたよ」
杉野さんの指摘につられて思い出し、少しきばった答え方をしてしまった。
「はじめてうちの水を測定してもらったときは、あまりに比重が高いんで信じられませんでした。含有する成分によって、どこの水も多少の幅がありますが、それでも、せいぜいプラス○・五くらいまででしょう」
松木蔵元が腕組みをする。工場《こうば》の中庭には、楮《こうぞ》と三椏《みつまた》がひとすじ植えられ、三椏の乳黄色のつぼみが、陽だまりでふくらみかけていた。
日も暮れ、松木家にもどる。母屋《おもや》の掘りゴタツに足を突っこみ、蔵元と酌《く》みかわす。
「前任の杜氏は、吟醸の経験があまりなかったので、醪《もろみ》が二十五、六日をすぎてもプチッともいわんし、蔵人とのチームワークもようない。これじゃいかんと痛感しました。そのあと、運よく大島から今の杜氏がきてくれましてなあ」
臙脂《えんじ》のシャツの襟首《えりくび》ボタンをきちんと掛けたまま、蔵元は訥々《とつとつ》とふり返る。
「県内でも、杜氏不足で操業をやめた蔵が多いと聞いています。深刻きわまりないですね」
平皿に盛られた茹《ゆ》でたてのデボロ(伊予の方言でシャコのこと)をつかみ、殻をはがしにかかる。ムキ身を口に放り、カットグラスに注《つ》がれた純米吟醸をすすった。
日本酒度《メーター》プラス五。地元産の準好適米「松山三井《まつやまみい》」をつかったものである。
「ええ。もう。東予から西条、新居浜にかけては、造り酒屋がようけ集中しとる地域なんですが、オヤジ(杜氏)のきてがのうて、蔵元自身が杜氏を兼ねているところもありますけん」
「まさしく、背水の陣ですね」
「まあ、うちみたいなちっぽけな田舎蔵《いなかぐら》は、やがてのうなります。ただ、いちど口にしてくれたあちらこちらのお客さんが、時折、遠方から励ましの便りをくれるんで、それに応《こた》えたい。そんな張り合いだけで、どうにかもっとるんですわ」
蔵元は笑みをこしらえ、早いピッチで杯を空《あ》ける。なかなかどうして酒が強い。
「ことに、級別がなくなってからというもの、ディスカウントストアのすさまじい進出とあいまって、地酒界はますます混迷をふかめていますねえ」
「そうでしょう。企業化した中規模の蔵ほどしんどいでしょうな。その点、わたしらは夫婦ふたりっきり。ソロバン勘定は下手じゃし、赤字は覚悟のうえです。まあ、あくまで社会への奉仕ちゅうか、戦争で九死に一生を得た今のわたくしの人生は、おつりじゃと思って頑張っとります」
たちまち、四合入りの酒瓶が底をつき、一升瓶が開けられる。蔵元はひどく饒舌《じようぜつ》になり、遠く過ぎし話を明かしはじめた。
昭和十五年、外務省文化事業部の在支留学生となって大陸へわたる。日中をつなぐ貿易商になりたいと志《こころざ》していたのだった。
ところが、敗戦にともない事態は暗転。そのうえ内戦の熾烈化で、当時の八路軍に武装を解除され、人民裁判にかけられるすんでのところで、死罪を免れた。日本への出航地へむかう途中、ふたたび内戦の渦中へまきこまれ、僚友はみな帰らぬ人となった。身ひとつで逃亡する破目となり、万里の長城を蟻のようにして五百キロたどる。覚えた中国語だけをたよりに、半年間極限の生活を味わった。
幾度となく命を落としかけた自分の老後は、もはやおつりの人生だといっているのだ。
園美《そのみ》夫人(六十八歳)が、上体をかがめ加減にし、デスケ(アナゴ)の蒲焼きとアマゴの薄味でこしらえた煮つけを盆にのせてきた。
蔵元は「おい、母さんや。アメノウオは何年ぶりかの――」と眼を細めて箸を入れている。舌足らずの語り口と風貌は、俳優の笠智衆にどこか似ている。
わたしは、ひと息つこうと、夫人に水を所望した。はこばれたコップの水をながしこむ。とても軽くて、ほのかに甘い。複雑な地層をくぐり抜け、美酒と和紙を育《はぐく》むこの水は、いつか語り継がれるだけの伝説の水質となってしまうのだろうか。
松木夫妻と話がはずみ、夜はふけていった。
翌朝の六時すぎ、釜場《かまば》のバーナーの音で眼がさめた。外はまだうす暗い。
朝餉《あさげ》をよばれて、しばらく待機する。蒸米ができるまでには、二時間近くある。ゴム草履《ぞうり》をひっかけて、母屋の庭をのぞく。ツバキづくりが蔵元の趣味なのだ。
庭の真ん中に設けられた小さなビニールハウスに入ると、プーンと香水のような香りが充満している。中国系の白椿だ。白い花弁はすでに満開をすぎて、しおれていた。
金花茶《きんかちや》、キャプテンローなどの唐椿《とうつばき》は、ハウスのなかでもまだ開花していない。ハウスから出て庭を歩く。
道路に面して、ひときわ枝ぶりのいい木があった。抱《かか》え咲きの椿が一輪、コブシ大の真紅な花弁をつけていた。
「あれが、日吉菊なんですわ」
蔵元が指さす。
「えっ。ツバキなのに菊とはいったい?」
「先代が松山から、あまり綺麗《きれい》なので一枝《ひとえだ》もらってきて、庭へ植えました。ところが、どういうわけか、紅い花が咲き、突然変異種じゃちゅうことになりまして。それで酒名からとって、日吉菊と品種登録をしたんです」
「なるほど」
「ツバキは日陰でもよく育つし、気どらん美しさがあって、散りぎわが潔《いさぎよ》いでしょうが。大好きなんですわ。ハッハッ」
蔵元は白髪を撫《な》で、あっけらかんとした笑い声を、空気の澄んだ庭先にひびかせた。
まもなく、大きくふくらんだ甑《こしき》の帆布《ほぬの》がはずされる。本醸造用の蒸米《むしまい》が仕上がった。
平田節雄《ひらたせつお》杜氏(六十三歳)ほか蔵人たち四名。濛々《もうもう》とたちこめる湯気のなかで声をかけ合う。蔵元が駆けつけ、わたしも加勢にはいる。
ひとりが、甑《こしき》のふちにかけた半役《はんやく》(梯子《はしご》に似た木製の足台)に両足で立ち、スコップで蒸米《むしまい》をすくい落とす。下で受け、一杯になった台車をつぎつぎと押していく。蒸米の爽快な香りが鼻っ面をくすぐる。簡易放熱機でさまし、仕込みタンクへ放りこんだあと、竹製の櫂《かい》が入れられた。
壬生川《にゆうがわ》駅へ送られる道すがら、蔵元と大崎鼻にある国民休暇村の見晴らし台にたち寄ってみた。
ここからは市内が一望。眼下に、サックスブルーの燧灘《ひうちなだ》がひろがり、牡蠣《かき》の養殖イカダが波間にうかぶ。弓なりの曲線をえがく河原津海岸をながめながら、
「埋め立てがすすみ、長大な砂浜はすっかり狭《せば》められてしまいましたわい」
と、蔵元はつぶやいた。ほんのり雪をかぶる霊峰|石鎚《いしづち》。その右手には、高縄の山脈《やまなみ》が青々とうねっていた。
[#小見出し] 白い麹《こうじ》のふしぎ
蒸《む》した米のでんぷんを、麹《こうじ》が糖にかえ、その糖分を酵母が食いちぎって、アルコールと炭酸ガスに分解する。
ふたつの作用が、ひとつのタンクのなかで同時に進む。このプロセスが酒造りである。
ご飯をよく噛《か》んでいるとしだいに甘くなるのは、唾液のなかのアミラーゼが、米のでんぷんを糖にかえるからで、麹《こうじ》もアミラーゼによっておなじ役目をするわけだ。
昔から、一|麹《こうじ》、二|※[#「酉+元」、unicode915b]《もと》(酒母)、三造りといわれているように、酒造りのうえでいちばん大切な、しかもむずかしいのが麹《こうじ》づくりである。吟醸仕込みのピークともなれば、杜氏たちは不眠不休で麹《こうじ》づくりに明けくれ、精根《せいこん》をつかい果たす。
美酒が生まれるか。それとも、ありきたりの酒質になるか。造り酒屋の勝負のわかれめは、麹《こうじ》にかかっているといっても過言ではない。
二十代のころ、大阪の繊維商社につとめていたわたしは、次のシーズンにむけた織物の企画のため、福井の産元《さんもと》へたびたび出張した。
儲《もう》かるものにはなんでも手を出してみろ、という社の方針で気ままにやれたものの、ある種の引っかかりをずっと抱《いだ》いたまま、ビジネスに打ちこむ毎日であった。
三年後、見切りをつけて、わたしは会社を辞めた。社内社外の競争にイヤ気がさしたといえばそれまでだが、転職を図り、新たな道を選んだのだった。
福井の九頭竜《くずりゆう》川水系周辺は、イワナの絶好な釣場で、転職後、足しげく通ったところである。酒蔵めぐりも加わり、なつかしい土地へこんなにも足をはこぶことになろうとは思わなかった。
九頭竜川周辺にもまた伝説があった。麹の謎を解く人物がいたのだ。
「夜ふけに、仕込《しこみ》タンクのふちから醪《もろみ》の面《つら》をそっとのぞき込んでみなさいや。パッと見るだけじゃわからんでの。五分、十分と声をたてずに。そりゃすごい光景ですやわ」
「知っています。サワサワッとかすかな音を奏《かな》でる発酵のハーモニーでしょう」
「いや、いや。そんなヤワなものじゃありませんぞ。物料《ぶつりよう》(麹米《こうじまい》と蒸米《むしまい》と水の混合物)がでかい泡《あぶく》をたてて、上下左右にドドッとでんぐり返りをはじめるんですわ。ふしぎと人が寝静まった時間帯ほど激しくね。あまりにダイナミックで、見てる人間のほうがこわくなるんやわね」
蔵元は、身ぶり手ぶりをまじえたあと、フッとため息をついた。ひろい額《ひたい》のはえぎわには、うっすら汗がにじんでいる。
その日の夕方、わたしは「富久駒《ふくこま》」(福井県坂井郡|丸岡町《まるおかちよう》 久保田酒造)の事務所で話しこんでいた。丸岡町は県の北部に位置し、織物業のさかんな城下町である。その郊外に酒蔵は建っていた。
四月もなかば。酒造りは終わり、蔵内では火入れ(熱処理殺菌)の段階にはいっていた。久保田祐喜夫《くぼたゆきお》蔵元(六十歳)は、かれこれ三十五年まえから麹《こうじ》づくりを研究してきた。
機械メーカーのつくった自動製麹機《じどうせいきくき》が市販化される以前より、ひとりで機械を設計し、改良をかさねつづける技術屋肌の蔵元である。土地柄、酒造りとあわせ、織物の会社も経営している。
自分のノウハウをべつだん企業秘密にするつもりはなく、オリジナルな製麹機のことを聞きつけた酒造関係者が、各地から見学におとずれてくる。だが、たとえ機械の格好の真似ができても、つかいこなすとなると至難で、情報を持ち帰っても自蔵で生かせる人はほとんどいないという。
「しかし、どうしてそこまで、機械の麹づくりに極度なこだわりを持ってきたんですか」
冷えてしまったテーブルのお茶を口にふくみ、ゴクリと飲んで単刀直入に切りこんだ。
「わたくしは、人一倍の汗かきでしてね。冬場でも、うどん一杯でどっと汗をかく体質《たち》なんですよ」
回転イスに腰をかける蔵元は、窓ぎわのほうへクルリと体をまわした。すこし開《ひら》いた窓ぎわの壁には、畳二枚分もある大凧《おおだこ》がかざられてあり、そこには白馬《はくば》が描かれている。駒の字のかわりに、馬の絵を使用した登録商標は全国でもめずらしい。
「汗をかく……」とは。禅問答のようなすべり出しに首をひねり、わたしは蔵元の横顔をまじまじと見た。
「麹室《むろ》(麹をつくる部屋)で仕事をするとき、ほら、よく上半身ハダカになっているでしょうが。たしかに、昔ながらの勇ましい流儀ではあるんですがなあ」
「ええ。麹室のなかは三十度以上あり、はいってすぐはほんわかしてるんですが、作業をやっていると温気《うんき》でいっぱいになりますからね。わたしも地方蔵へ応援に行くんですが、ハダカで汗をタラタラとながしている人をよく見かけますよ」
「そうでしょう。よく考えてみると、不潔きわまりないものですわなあ。わたくしは、若いころから現場で蔵人といっしょに仕事をやりましたが、自分が汗かきだちゅうこともあって、なんとか機械を上手につかいこなせんものかと思案しはじめたんですわ」
「なるほど」
「たしかに、手造りもけっこうなんですが、再現性に問題がある。それを名人芸だとすばらしがっていたんでは、将来につなげません。だいたい、世の中の酒造家たちは、季節労働ちゅう杜氏制度に乗っかって、造り手たちの体をあまりにもいじめすぎていますよ。そう思いませんか」
「同感です。業界の古い体質もそこにあります。いまだに、時代遅れの意識にどっぷりつかっている」
「そういった状態はいつまでもつづきませんよ。蔵人の高齢化と人材不足は深刻です。こうしているうちにも、廃業していく蔵があとをたたない。わたしら地方の蔵が生きのびるためにも、麹づくりの省力化は必要なんですわ」
蔵元は顔をゆがめ、尻あがりの北陸弁で、ひごろの思いをあらいざらいぶちまけた。初対面のわたしが業界の外に身を置く者であることも手伝い、心を許したのかもしれない。
国税局のおこなう鑑評会で入賞に漏《も》れようものなら、おのれにムチを打ってきた杜氏であればなおさら、精神的にガックリとくる。そのうえ、現場にタッチしない経営陣ほど、どうして金賞がとれぬのかと、杜氏の腕をやたらこきおろす。
かれは、この点をも指摘しているのだった。
「わたくしは二十代のころ、近くに所有する山林の手入れのため、オフにはさんざん山仕事をやったもんですわ。ふつう、ヒノキは一人前になるまでに五十年はかかりますが、スギのほうは三十年と生育が早い。そこで、ためしにスギとヒノキをまぜこぜに植えてみたんですわ。すると、どうです。ある法則が発見できたんですよ。遅いはずのヒノキの生長が、めざましく活発になることにねえ」
どうもピンとこない。話の先を急ぐこちらを見てとり、かれは小柄な体をゆすぶって、ほほえんだ。
「つまり、競争原理がはたらかないと、微生物でもなんでも育たないってことなんですわ。そのまま麹づくりの工程にあてはめてみてくださいな」
麹室《むろ》のなかで種麹菌《たねこうじきん》をふったあとの蒸米《むしまい》は、胞子が発芽し、菌の繁殖が進んでいく。
幾度も手が加えられ、四十数時間のち、菌糸が肉眼でくっきりと見えるようになるのだが、手づくりでやると熟練度と技量の差に大きく左右され、出来ぐあいは一定でない。
「いくらでも栄養をあたえるからダメなんだなあ。酸欠ぎみにしてやればいいんですよ。すると、かれらは押し合いへし合いの動きをはじめます。見はからって、時々空気を送りこめば、しゃきっとパワーのある麹が育ちますわい。その理屈で、機械のつくりを組みたて、操作すればいいんですよ」
「そういうことなんですか。その点は、ズバリ人間もおなじですよね。肥満体と筋肉質がいい例でしょうか」
「わたしらの世代のように、兄弟の多かった昔は、オヤツだって蒸《ふ》かしイモか焼きトウモロコシぐらいだった。それを必死で取り合いをし、分けあった。飽食にうつつをぬかす現代の人からみれば、なぁんやちゅうことやろけど、モノのない時代のほうが人間が溌剌《はつらつ》としていたなあ。どんな社会でも、互いに競い合うに限りますわな」
「そりゃあ、まあ、サラリーマン社会にも競争はつきものですが……」
蔵元の指摘に、わたしはそれ以上言葉をつなげず、内心、ほろ苦い過去を回想した。
三時間後、話がようやく一段落つき、わたしたちは蔵の二階にある麹室《むろ》へとあがった。
ぶ厚い戸を開けると、特別あつらえの製麹《せいきく》機がずらりとならんでいた。開発記号三号から六号までの機種が四台。長さ三メートル、横幅一・五メートルのステンレス製の大型箱が、どっかり据《す》えられている。箱の先端に〈KUBOTA〉と設計元が刻まれてあった。
「理想的なツキハゼ型の締った麹は、まばゆいほど白くて、手にとるとすごくサラサラッとしているでしょう。そうでないものは色合いもわるいし、キレのいい酒ができない。このあたりもわれわれ人間とおなじでしょうなあ」
作業服の蔵元は、製麹機のつけ根に取りつけた小さな送風器を指先でいたわるようにまわした。
「夜中にタンクのなかで、でんぐりがえるほど元気な醪《もろみ》にするには、麹のパワーが決め手なんですね」
製麹機が、美酒を生む魔法の箱≠ノ思えてきた。
その夜、わたしは蔵から六キロはなれた山あいに宿をとった。
夜の静寂《しじま》に、遠くから竹田川のせせらぎが伝わってきた。耳を澄ませると、発酵タンクの泡音《あわおと》のごとく心地よく聞こえてくる。蔵元と酌みかわした酒のせいで、いつのまにか深い眠りについた。
翌早朝、胴長靴をはき宿をとび出すと、めあての支流へむかった。朝メシまえの釣りである。道ぞいの民家の植え込みには、水仙が色づき、浅葱《あさぎ》色のシバザクラと仲よく群れ咲いていた。その清楚《せいそ》さに眼をうばわれ、手にした釣竿を置いて、カメラのシャッターを切った。
二時間のち、少しばかりの釣果を手みやげにひっさげて、ふたたび久保田家をたずねた。
ゆうべは話に終始したため、あらためて|※[#「口+利」、unicode550e]《き》き酒の用意をしてもらう。
大吟醸、純米吟醸、純米酒、どれもフクラミがあり、腰の強さがしっかり備わっていた。酒名の図柄そのままに、野山を駆け抜ける若駒のたくましさをわたしの舌は実感した。秋にはきっと優駿《ゆうしゆん》に育つだろう。
話題がそれて、蔵元と写真談義をかわす。すると、仕込蔵の奥のプライベートルームへとわたしは案内された。
書斎のとなりは暗室になっており、引き伸ばし機をはじめ、各種の機材、薬品類、ネガフィルムなどが所せましとひしめき合い、額《がく》におさまる四つ切りの風景写真が、部屋のすみずみを彩《いろど》っていた。
どうみても、プロ写真家のスタジオそのものである。スウェーデン製のカメラ、ハッセルブラッドを愛用する蔵元は、カラー現像がまだ個人で行われていない時代から、いちはやく手がけていたという。この凝《こ》りように、わたしはもういちど脱帽した。
酒蔵に隣接した本宅の裏庭にまわり、うららかな陽が射す縁側へふたりですわりこむ。
なんと、庭の真んなかを幅二メートルあまりの清流が勢いよくながれているではないか。
「なあに、これは竹田川水系の用水路なんですよ。以前は、よくここで泳いだり、天然遡上のアユを手づかみにしたもんですやわね。縁側から友釣りもやれましたなあ」
「自宅で竿がだせるとはわれわれ釣り人にとっては、じつにうらやましい限りですねえ」
「酒造りも楽しいし、また道楽もよしです。本業にどっぷりつかりすぎていると、かえって本質が見えてこない。今はとてもヒマはありませんが、そのうち、魚《さかな》や馬などを撮ってみたいとひそかに思っているんです」
ミクロの戦いにいどみ、麹《こうじ》伝説を築きあげた主役はそう言って、ラカンマキの繁る川べりに、悠然とたたずんだ。
[#小見出し] 鷹匠《たかじよう》と地酒
「清酒の級別が廃止されてからさ、俄然《がぜん》やる気をおこした蔵が、東北にあるんだぜ。完成度の高い酒質に達するには、まだこれからだがね。銘柄は『白梅《しらうめ》』(山形県鶴岡市大山 羽根田酒造)というんだ。がむしゃらな姿勢を、オレは買うねえ」
東京で地酒専門店をいとなむ長谷川浩一《はせがわこういち》店主は、腕ぐみをして、そう答えた。
新潟で酒造りをしていた祖父の血をひいているだけあり、若いころから地方蔵をあるいてきた筋金《すじがね》入りの酒屋だ。
「そりぁあ、一石二鳥でいい。鶴岡のとなりの朝日《あさひ》村に、どうしても会いたい人物がいてね。そのうち、行ってみるとしようか」
「ネームバリューは問題じゃないよね。山形じゃほかに、これといった蔵はおもい当たらないんだよなあ」
と、もらすかれの実《じつ》をとる評価には、銘柄偏重のにおいは、みじんも感じられない。
その翌年の六月。わたしは、寝台特急「日本海」に乗り、現地へと旅立った。
山形県、庄内平野の南に位置する鶴岡《つるおか》市。「白梅」のある大山《おおやま》地区は、現在、市に併合されてはいるが、もともと独立した地域であった。
城下町であった当地区は、豊かな米どころで鳴らし、江戸時代には天領とされていた。そして、日本海北回りルートの中継地として栄え、造り酒屋が三十軒以上も軒《のき》をつらねていたという。
今では、わずか四軒になってしまったが、当時東北の灘《なだ》≠ニまでうたわれた大山にあって、いちばん古い酒として名をとどめてきたのが「白梅」なのである。
JR鶴岡駅から、海寄りに八キロあまり。羽根田酒造は、地区の中心部に建っていた。
すぐ裏手には、赤川《あかがわ》の支流|大山《おおやま》川がながれている。大山川は、近世に運河の役割をはたし、清酒をはじめあらゆる物資が三キロ先の加茂《かも》港を経て、上方《かみがた》方面へ船積み出荷されていた。
「いやあ、きんのまでの寒さが、まるでウソのようですの」
外見はいかにも優形《やさがた》な羽根田修《はねだおさむ》専務(三十八歳)は、すこし舌たらずな調子で口をひらいた。屏風状にそびえる高館山《たかだてやま》のむこうは日本海。初夏の潮騒がきこえてくるようだ。
酒蔵の奥にある本宅へあがり、会話にふける。
「子供のころから、海の魚《さかな》なんかが好きなもんで。東海大の海洋学部を卒業し、しばらく水族館につとめておりました。次男でしたから。ところが、兄が若くして亡くなりましたんで、あわてて家業をつぐことになったんですわ。あれから十五年たちますが、はずかしながら桶売《おけう》りにたよってきたんです」
「吟醸造りは何年まえからなんですか」
「一昨年からです。いつまでも、他人《ひと》の蔵の酒ばかりつくっとっても何にものこらないとおもい、再生の気持ではじめたんです」
実際、酒界はサバイバル競争に等しい。約三時間にわたり、専務とあれこれ本音をたたかわせる。
ひろい蔵内は、出荷担当者が数人出入りするだけで、いたってがらんとしていた。時折鳴りひびく事務所の電話に、専務みずからが駆けつけていく。
釜場《かまば》の通路につくえを置き、※[#「口+利」、unicode550e]き酒をはじめた。大吟醸、純米吟醸、純米酒。
どれも、生まれてまだ三ヵ月しかたたない新酒ばかりなのだが、五味(甘・辛・酸・苦・渋)の釣り合いがよく、味のメリハリがほどよく効《き》いている。安在正一《あんざいしよういち》杜氏(四十九歳)はじめ、地元出身の蔵人が仕込んだものである。
酒質をめぐり、ふたりで侃々諤々《かんかんがくがく》となる。注《つ》がれた酒を何度もかみしめていると、わたしの頭のなかを、ある山村風景がかすめた。
山形、秋田の山間は、冬になるとすっぽり雪にうもれてしまう。男たちは収入を得るため、酒造りの出稼ぎにでたり、あるいは、都会で建設現場の仕事につくなどして、一家の生計をささえてきた。
だが、村にとどまり、タカで狩りをする一群も実在した。鷹匠《たかじよう》たちである。昔から、奥羽山脈一帯は、マタギ(プロの猟師)たちのかっこうの狩座《かりぐら》となっていたが、いつのころからか、クマタカをつかう猟法が伝承されてきた。
業種こそ異なるが、かれらも杜氏集団とおなじく、冬のあいだ伝統技《でんとうわざ》にからだを張る匠《たくみ》であったのだ。
「専務。鷹匠ってご存知でしょうか。日本で最後のタカ狩り職人が、ここから数十キロ先の村にいるんですよ」
わたしは、※[#「口+利」、unicode550e]き猪口を手にもち、長々とつづいた酒談義から話題を転じた。地元米「雪化粧《ゆきげしよう》」をつかった純米吟醸が、口のなかではじける。
「ええ。知ってます。えーと、たしか、松原さんという方《かた》じゃないすかぁ」
「そう。まさしく、その人ですよ」
「まえに、地元の山形新聞でみたことがありますわ。家が火事で焼けたとき、逃げたタカを追いかけて、山を何日も歩き、やっと捜したと書いてありましたす。その記事に感動したんです。その人とお知り合いなんすか」
童顔の専務は、澄んだ視線をよこし、たずねてきた。
「七年まえに、たまたま読んだ矢口高雄《やぐちたかお》の短編劇画が、ずっと記憶のすみに宿《やど》っていましてね。つかまえた野生のタカが気が荒くて、調教に苦労した老鷹匠は、タカに片目をやられてしまうんです。でも、やがて、信頼関係が築かれていきます。人間とタカとの絆《きずな》を描いた物語なんですよ。モデルになったのが、山形の故・沓沢朝治《くつざわあさじ》さんで、この名鷹匠の弟子が松原英俊《まつばらひでとし》さん(四十二歳)なんですよ。わたしと年もおなじ。いつかどうしても会いたいとおもっていましてね」
松原さんが、朝日《あさひ》村|田麦俣《たむぎまた》にうつりすんでから、約十年近くになる。劇画を読んだころに、かれのことを知り、数年まえから手紙のやりとりをつづけてきたのだった。
「杜氏も顔まけの伝説的な職人ですのー」
「古くから公家や武家のあいだで盛んにおこなわれたハヤブサやオオタカをつかうスポーツライクなタカ狩りとちがい、生活の糧《かて》として、猛禽《もうきん》として恐れられるクマタカを自在にあやつるんです。クマタカは、翼《つばさ》をひらけば一・六メートルもありますよ」
興味がつのってきたのか、専務はためいきをつきながら、話に耳をかたむける。
「その集落のそばには、鷹匠山《たかじようやま》がそびえています。昔、鷹匠がこの山に鳥屋を設《もう》け、これをエサにして鷹をとらえ、羽を国司に献上したことから、出羽の国といわれたそうですね」
「そりゃあいちど、本人にもタカにもお会いしたいなす。せめてその山だけでも、拝んでみたいですの。クルマでそこまで送りましょう」
話が急転回し、わたしたちは朝日村田麦俣へと出発した。
クルマは、六十里越《ろくじゆうりごえ》街道の急坂を快走する。
「大学まで出はって、きびしいタカ狩りの道をきわめようとするぐらいですから、きっと哲学者ふうで、気むずかしい人なんでしょうかのー」
ハンドルを切りながら、専務は先入観をふくらませる。やがて、村はずれ。山の中腹にのびる自動車道の脇にクルマをとめ、はるかな谷間を見おろした。
雑木林にかこまれた斜面に、家々が点在し、水量ゆたかな奔流が、白い帯となって蛇行している。北国特有のトタン屋根にまじり、かやぶきの多層民家が数軒|垣間《かいま》みえた。晴れた東の空に、残雪をかぶった霊峰・月山《がつさん》と湯殿山《ゆどのさん》が、どっしり肩をならべている。
松原さんの家は、集落の高台にあった。あいにく村内にある少年自然の家へアルバイトに出かけており、晩には帰宅するのですが、と妻の多津子《たつこ》さん(三十二歳)が、幼子を抱き、玄関口にでてきた。わたしたちは、坂道をくだっていった。
「ちょっと残念でしたの、鶴岡からはいつでもこれますんで。またの機会にしますわ」
羽根田専務は、わたしにそう言いのこし、鷹匠山をあおぐと、もときた道をクルマでひき返した。
ひとまず、今夜泊まるかやぶき屋に旅具をおろす。村の行事を知らせる有線放送が、のどかにながれてくる。
着がえをすませ、愛用の渓流竿をとりだすと、わたしは夕刻までのあいだ、赤川の源流|田麦《たむぎ》川でイワナをねらうことにした。
「田麦俣」は戸数三十八軒、兼業農家ばかりの集落である。庄内と内陸とをむすぶ街道の要所で、湯殿《ゆどの》信仰がさかんになるにつれて、宿場的性格をおびてきた。
冬場は二、三メートルの豪雪に見舞われる。昭和五十四年、かやぶき屋が民宿をはじめるまえ、松原さんが、ひと冬ここに寝泊まりし、タカの訓練にはげんでいたことがある。
午後七時。民宿で夕食をとったあと、みやげがわりに、「白梅《しらうめ》」純米吟醸のボトルをぶらさげて、わたしはふたたび、鷹匠宅をおとずれた。
晩御飯をすませたばかりのかれは、居間で子供をあやしていた。
「ぼくはねえ、小学校のときから、野鳥の会なんかに所属していて、鳥類を観察するのが趣味だったんです。山登りも大好きでしてねえ。中学一年生の時分、老人と鷹≠ニいうドキュメンタリー映画をみましてねえ、いつか鷹匠になりたいと考えていたんです」
たっぷりと口ヒゲをたくわえたかれは、太くはきはきとした口調で切りだした。「ねえ」という語尾だけが「にゃあ」と訛《なま》ってきこえ、田舎育ちの温《ぬく》もりが伝わってくる。
「その人が師匠だったんですね」
「ええ。青森の高校を出て、慶応大学へはいったころは、ほら、大学紛争の真っ只中だったでしょう。ぼくも、よくデモに行ったもんですがねえ」
「ちょうどおなじころ、わたしも京都の大学にいて、全共闘で突っ走っていましたよ」
「まあ、そうこうするうち、気がついたんですねえ。ぼくの場合、政治型人間でもないし、団体行動もニガ手だし、こりゃあつとめ人にもむいていないなと。三年生になると、一年休学して、岩手県の山形村で民家に厄介になり生活したんです。陸の孤島でしたが、やはり自分は、山の暮らしがいちばんだとおもいましてねえ」
「わたしは、仕方なくサラリーマンになってしまいましたが、当時、そこまでの感性はなかったなあ」
わたしのセリフは、かれのまえではボヤキにしかきこえなかった。
「ですから、考え抜いて鷹匠になったわけではなくて、自然な成りゆきだったんでしょうねえ」
かれは明るく笑うと、がっちりとしたからだをゆさぶり、湯呑み茶碗に注《つ》いだ純米吟醸を旨そうにすすった。
タカ狩りは、中央アジア高原が発祥の地といわれる。有史以前、肉食民族である遊牧民が、タカの狩猟能力に目をつけて飼いならし、それが世界各地に伝播《でんぱ》していった。
朝鮮半島には、「一鷹《いちたか》、二馬《にうま》、三妾《さんめかけ》」なる古諺《こげん》がある。娯楽はなによりも、すぐれたタカを育て猟にいくことにあるという意味だろう。
わが国では、四世紀前半、百済《くだら》の帰化人が調教したタカを仁徳天皇へ献上したのがはじまりと、『日本書紀』に記されている。以来、タカ狩りは、皇族や貴族の遊びとして、手あつい保護をうけ、鷹司《たかつかさ》の姓まで生まれた。
空の王者を意のままにあやつるタカ狩りは、みずからの力を誇示するかのように、やがて武士のあいだにもひろまり、戦国の武将、織田信長や豊臣秀吉らも好んで狩りにでかけた。
「なかでも、家康の惚れこみようは、つとに有名でしてねぇ、テンプラを食って死ぬ直前まで、タカを手にのせていたほどなんですよ。ほら。武士の諺《ことわざ》に、一に遠駆《とおが》け(馬で遠乗りをすること)、二に鷹野《たかの》(タカ狩り)、三に武者話《むしやばなし》(武勇伝)、四に川干《かわぼ》し(川遊び)というくらいですからねえ」
「そういえば、八代将軍吉宗も、別名鷹将軍と呼ばれるくらい熱心だったと本で読んだことがありますよ」
話がしだいにはずんできた。十畳間の真んなかの囲炉裏には、大きなガスストーブがすえつけられ、煤《すす》で黒く燻《いぶ》された自在カギが、無雑作に吊《つ》るされている。
この住居も多層構造で、外観ではわからないが、なかは三階建てになっている。二歳半になる長男の浩平《こうへい》君を寝かせつけに、多津子さんは、隣室へはいった。
「そういった将軍とか大名らに召しかかえられて狩猟のためのタカ狩りをした鷹匠とはちがいましてねえ、東北の百姓のあいだに派生したのが、クマタカをつかう技術なんですよ。これは世界にも例がない。重い年貢《ねんぐ》になやまされ、しかも、山間の寒冷地に住む人たちが蛋白源を山にいる獣《けもの》にもとめたとしても、何らふしぎはないですよねえ」
部屋の壁には、犬の皮でできた背皮《せがわ》(鷹匠の着衣)が二枚かけられていた。毛なみがすばらしく、手にとり身につけてみると、なかなか暖かい。
松原さんはこれを着て、十二月から四月までの狩猟期に、山をあるき、四十匹前後の野ウサギやテンをとらえ、食用にしている。
「ウサギ鍋なんか、こたえられないでしょうね。肉類が好きなんですか」
「ええ。山にいるものはなんでも食いますしねえ。川にすむイワナだって。ウサギの刺身なんかは最高ですよ。背骨の部分からわずかしかとれませんが」
「この人、ヘビでもなんでもへっちゃらなんですから。わたしなんか、知らずにトンビの肉を食べさせられたことだってあるんですよ。もう……」
居間にもどった多津子さんが、いくぶんあきらめ顔でうち明ける。
結婚して四年目。大阪で銀行づとめをしていた彼女が、会津《あいづ》地方の山へ友人とでかけ、道に迷っているところを助けられて、恋愛のすえ結ばれたという。
話題はいよいよタカ≠ノうつった。
「十一月から訓練期にはいると、タカをたえず飢餓状態にしておかなきゃいけませんので、オフはタカに精一杯食べさせないとならんのです」
「タカは肉食ですし、エサの確保がひと苦労でしょう」
「ええ。六羽もいると、よく食べますから。月山《がつさん》新道が開通したおかげで、獣《けもの》がクルマに轢《ひ》き殺される事故が多発しておりましてねえ。それらを持って帰って、タカに食べさせたり、人家の縁の下にいるヘビをつかまえたりで……」
「それじゃあ、いつもエサを念頭において生活していないと。しんどい話ですね」
「そうなんですよねえ。山登りでヘビを見かけようものなら、ふつうの人はのけぞるでしょう。でも、ぼくはもっけの幸いと、すぐに素手でつかまえにいきます。たとえマムシでも、喜んでねえ」
やりとりがなごみ、北国の山村の夜はふけていく。
懐中電灯を片手に、松原さんとわたしは階段をきしませ、そっと上がっていった。
三階はタカ小屋になっているが、物音ひとつしない。ライトを照らすと、角材で組まれた大きな檻が両側にみえた。タカが人の気配に警戒し、いきなり「ギュッピー、ギュッピー」と鳴きはじめた。暗がりのなかのタカは、横木にとまり、するどい眼光でこちらをにらむ。
「この夫婦《つがい》が、加無号《かぶオス》と丁号《ひのとメス》で、あっちが鳥海《ちようかい》号、出羽《でわ》号、神室《かむろ》号、神宝《じんぽう》号です。長いことかかって、どうにか二羽をおなじ囲《かこ》いに入れることができましてねえ。あとは檻を仕切っています。いっしょにすると、とことん攻撃し合うんですよ」
電灯の明かりをタカから遠ざけ、かれは声をひそめた。飼い主が根っからの登山好きとあって、どの呼び名もそうそうたる東北の山岳《やま》の名である。
「最初のうちは、獲物を見てるだけでいっこうに飛んでいこうとせず、くやしい思いをしたことが多々ありますよ」
鷹匠の真価は、据《す》え込《こ》み(調教)にある。何度も絶食をさせながら、危険覚悟で仕込んでいくのだ。
「タカの眼は、四キロも先まで見通せるといいますから、飼い主よりいちはやく、野ウサギなんかを発見するんでしょうか」
「ええ。見つけるやいなや、サッと追いすがり、ツメでつかんだまま暴れる獲物といっしょに急斜面をすべり落ちるんです。ツメを放すと逃げられますから。こちらも駆けおりていきます。むこうで一、二度、ギャーツという獲物の悲鳴がきこえますと、完全に押さえた証拠なんです」
タカのツメは、大人以上の握力があり、獲物を窒息死させる武器なのである。
「ふーむ」
「まあ、三回みつけて、一匹獲れればよいほうじゃないですか。野ウサギなんかは、身をかわすのが上手なんですよねえ」
広大な雪のうえを、尾根づたいに幾日もタカを連れて歩く。自分のかわりに飛び立つ期待と、もう手元に戻ってこないんじゃないかといった不安は、いつもつきまとうという。
タカのうしろ姿をみると、ほんとうに万感胸にせまるものがあると、かれはつぶやいた。
昭和五十八年一月より、「特殊鳥類の譲渡等の規制に関する法律」にタカが加えられ、個人間の譲り渡し、売買も許されなくなった。条文の但し書きには、学術研究、繁殖などで環境庁長官が認めたものはこの限りでないとされているが、東北に伝わってきたタカ狩りは、例外として扱われていない。
松原さんは、この法律がある以上、独力でタカを繁殖させるしかないと、こうして挑戦しているのだ。だが、もし失敗すれば、日本から、クマタカをつかう伝統の狩猟法は、やがて潰《つい》えてしまう。
タカ小屋のまえで、一瞬、かれはキリリとした表情になった。夜のしじまを縫って、遠くから川音がきこえてくる。
カンジキをはき、背皮《せがわ》をまとって、男が深雪《しんせつ》を踏みしめていく。右手にヘラ(雪かき)を持ち、左腕にタカをしたがえている。そんな鷹匠の姿が、わたしの脳裏に浮かんでは消えた。
[#第五章扉(chapter5.jpg)]
半島に生まれた幻の酒
[#小見出し] イカナゴ醤油と甘酒
魚醤《ぎよしよう》――魚や貝に食塩をくわえ、ながいあいだ発酵と熟成をさせて得たエキス。つまり、醤油とおなじように使う独特な調味料のことである。
各地の漁村では、昔から新鮮なイワシ、サバ、カキ、イカ腸《わた》などを原料にして仕込むさまざまな魚醤がつくられてきた。
とりわけ、讃岐《さぬき》のイカナゴ醤油、能登のいしる《いしり》、秋田のしょっつるは、日本三大魚醤と呼ばれている。
海の幸《さち》を生かした魚醤油《うおしようゆ》は、なにも日本だけでなく、ひろく東南アジアの国々にも分布している。ベトナムのニョクマム、フィリピンのパティス、タイのナム・プラーといったものがそれである。
ところが日本の魚醤の歴史を明らかにする資料となると、それは皆無にひとしい。
古代、中世の文献には見あたらず、近世になって著《あらわ》された『本朝食鑑』のなかに「田瓏《いなか》山海の民は、別に醤汁をつくり、未醤|※[#「豆+支」、unicode8c49]《くき》汁の代わりとする。これは鰯汁という――」と、わずかに記《しる》されているだけである。
すでに伝説と化しつつある魚醤を、しかと味わってみたい。食《しよく》を引きたてる調味料が醸《かも》されてきたところには、旨い肴《さかな》ありというではないか。土地にふさわしい美酒《うまざけ》が、おのずと育つにちがいないのだ。
イカナゴ醤油は、おもに昭和二十年代まで、香川県の沿岸部|庵治《あじ》、男木島《おぎじま》、女木島《めぎじま》の漁師のあいだで手造りされてきた。
戦中戦後の食糧難時代、大豆製の醤油が自由に手にはいりにくいころの代用品であった。今となってはもう誰ひとり、イカナゴ醤油をつくる者はいない。
だが、製造のカギをにぎる人物がひとりだけいた。
しょっつる≠竍いしる≠ノくらべ、まぼろしとなってしまった醤油を探しに、わたしはひとり四国へとわたった。
二月なかば。瀬戸内に春をつげるイカナゴが、そろそろ港に水揚げされるころだ。
高松からバスに乗りこむ。やがて、国道を庵治半島へ折れると、石材加工場が軒を連ね、いろいろの種類の灯籠《とうろう》やみがきのかかった墓石、美術品が沿道にぎっしり並んでいる。
さすがに「石と魚の町」といわれるだけある。人口約七千二百人のうち、二割以上が石材関係の仕事に従事している。のこりは漁業従事者、サラリーマンなどである。
標高二百メートルの女体《によたい》山が、岩肌をざっくりとさらしているのが見えた。
大丁場《おおちようば》(採石場)から切りだされる庵治石《あじいし》は良質な御影石《みかげいし》で粘りをそなえているため複雑な造形に耐える。斑入《ふい》りの模様をもつものが、もっとも珍重されるという。
波おだやかな湾をへだてて、屋島《やしま》の台地がまぢかにせまる。源平屋島の戦いのとき、平家が軍船をかくした舟がくし≠フ入り江をすぎ、町の中心部でバスを降りる。
民家が軒をつらねる細い通りの一角に、小さな酒店があった。
主人の平井新《ひらいあらた》さんは仕事に出ていた。長男の嫁|裕子《ゆうこ》さん(三十三歳)が、本宅の裏手へわたしを案内する。
「ここが醤油造りをしていたところなんですよ。まえに家を取りこわしてしまい、道具類なんかも、わずかしかのこっていないんです」
大柄な彼女は、エプロンを風にはためかせ、愛想よくふりむいた。
駐車場の奥に、棟つづきになった仕込蔵《しこみぐら》の一部が形をとどめているが、醤油蔵《しようゆぐら》らしき面影はほとんどない。
平井商店は、もともと|※[#「井」の中に「平」]《かくひら》醤油という屋号で醤油醸造業をいとなんでおり、あわせて酒類の販売も手がけていた。戦前までは、町内に三軒の醤油蔵があったのだが、うち二軒は昭和十年代に廃業し、この店だけは、四十年代後半まで醤油づくりをやっていた。
その日の夕方。庵治漁港とは目と鼻の先にある生簀《いけす》旅館「黒乃屋《くろのや》」で、わたしたちは話しこんでいた。
屋島に夕陽が吸いこまれ、窓の外に波止場の明《あ》かりがともる。部屋のテーブルをはさんで、わたしの持参した「友白髪《ともしらが》」大吟醸(香川県坂出市本町 鎌田酒造)をかたむけあう。
「いまなら考えられないでしょうが、わたくしは五、六歳のころから、|※[#「口+利」、unicode550e]《き》き酒《しゆ》を教わりましてね。当時はまだ、清酒の小売りは自分ところでブレンドし、升や漏斗《ろうと》ではかり売りをやっとりました。若く感受性のよい舌を期待したのでしょうか、製品をしっかり覚えるよう、母親に鍛えられたんですよ」
平井新さん(六十九歳)は、恰幅《かつぷく》のよい体を反《そ》らし盃《さかずき》を空《あ》け、静かに置くと話しはじめた。
「恐るべき小学生といいますか、すごい官能の持ち主に育ちそうなスパルタ式ですね」
「いえ、いえ。※[#「口+利」、unicode550e]き酒はのびのびと楽しくやりましたが、飲酒はきびしく禁じられとりました。酒の味のわかる人間にしたかったのか、ブレンドした酒の評価について、すこしはわたくしに頼りたかったのかなとおもっています」
「なるほど」
「小さな醤油屋のせがれに生まれたので、知らず知らずのうちに、若い衆(蔵人のこと)にまじって、よく手伝ったもんです。櫂入《かいい》れや麹《こうじ》づくり。ほら、酒の仕込みとそっくりでしょう」
と、櫂入れの身ぶり手ぶりをまじえる。わたしはうなずき、相手の盃《さかずき》に酒をつぎ足した。
「醪《もろみ》のはいった五尺(仕込用の桶)と五尺のあいだのせまい板張りを、櫂を両手にもちトントンと伝っていくんです。スリル満点です。フタがないので、落ちたらおしまいですが、そんなことは言うてられません。腐らんように、一日一回は櫂入れがいりますし。うまくやらんと、醪がとび散ったりしてしまいますしなあ」
「皮膚にひっつくと、塩分がつよいので、その浸透圧でイボのような水ぶくれができるんでしょう」
「ええ。醪の表面は、若いうちはカサブタ状なので、櫂の先をぐいっと差しこんで、桶の底まで押しこむのです。そして、大きな泡を吹きあがらせるように、そのまま引っこ抜く要領でまぜるんですわ。夏場は作業がおわると、すばやく庭へとんでゆき、井戸のそばでハダカで水浴《みずあ》びをしたもんですわ」
「しかし、いまどきの醤油はおいしくないですねえ。昔ながらの本格醸造のものが姿を消し、速成ものが大手《おおで》をふっている状況です」
わたしは、メバルの煮つけを箸でつまみ、酒を口にふくんだ。シャープな切れ味の酒が、喉の奥に消えていく。ヒラメの刺身やサザエの壺焼きも、平皿に乗っている。
「たしかに大豆醤油は一年、二年と熟成《ねか》すほどよいですからなあ。昭和四十七年に廃業したとき、造り置きした在庫がまだあったんで、外で食事をするときも、醤油を詰めた小瓶をふところにしのばせたもんですよ。いまはそれもできませんからね」
黒いスーツを着こなす平井さんは、ちょっぴり口をとがらせた。
二十一歳のとき、兵役から復帰。そのあと早稲田大学へはいり、国文学の講師をめざして、古代歌謡の比較論を研究していた。
母が病《やまい》でたおれ、一転して家業をつぐこととなった。だが、のちに大手メーカーが台頭してくるにつれ、限界をさとり、醤油をつくりつづけるのをあきらめたのである。事実、こういうかたちで廃業していった地方の醤油蔵は多い。
「ところで、本題のイカナゴ醤油ですが、わたしにもつくれるもんなのでしょうか」
造りの秘訣を単刀直入にたずねた。
「ええ、できますとも。ただ、イカナゴは、昔からわりと高級な魚なんです。商売抜きにたくさん仕込むと、材料費もバカになりませんしなあ」
「すると、こちらでつくっておられたのは、売りものじゃあなくて、自家消費用だったんですか」
「そうですよ。ですから、豊漁のとき安く買い、仕込んだものです。そう、わたくしの十代のころで、ええと、一貫目で五銭だったかなあ。当時はまだ、冷蔵施設がなく、保存がききませんから、その日のうちに処理できなければ、捨てるほかはなかったのです。そのようなときに、イカナゴ醤油を仕込んだんですよ。ブランデー色の、あの甘くてトロリとしたふかい味わいはこたえられませんなあ」
平井さんは、回顧する。魚臭がひどいのだが、それを上まわる旨味が、イカナゴ醤油にはそなわっているという。
湯豆腐や冷奴のつけ醤油《じようゆ》、そのほかなんのつけ醤油にしても、めっぽう旨く、とりわけ、ダイコンの煮つけには、うってつけの引きたて役であると力説する。テーブルの料理にイカナゴ醤油があったらなあと残念でならない。
「さんざん探したある本のなかには、一日一度はかならず櫂入れをする、などと書かれてありましたが……」
わたしの話をさえぎって、
「いや、いや。それはまちがいです。仕込んだあと、二度と手をくわえたりすることは禁物です。いいですか。イカナゴと粗塩《あらじお》は枡目で等量にするんです。樽底にうすい桟《さん》かムシロを敷き、呑口《のみくち》のあたりに松葉をつめます。これらの準備がおわると、まず樽底に塩を敷いて、イカナゴをならべ塩をふり、何層にも重ねていくんです。落としブタと重石はなし。フタだけをして、すずしい暗室に置いとくんですよ」
「は、はい」
「フタをとらず、じっと半年から一年がまんしてごらんなさいな。魚肉と内臓はとけてしまい、引き呑《の》み(桶や樽の底にある栓の部分)を抜くと、松の葉に濾過《ろか》されて、イカナゴ醤油がじんわりと垂れてくるんです。そのままなめても、おいしいんだなあ。ボーメー比重計で三十五度あるのに、塩辛さをぜんぜん感じないんですよ」
言葉に強弱をつけて一気にしゃべると、かれは天井を見あげ、ふーっとひと呼吸した。田舎の造り醤油屋の主《あるじ》といった顔つきになっている。
「そこいらの吟醸よりも、はるかに旨そうですねえ」
醤油と酒をくらべるのは、荒っぽいかもしれないが、つい口を突いてでた。
「でしょうなあ。吟醸といえば、わたくしのいままで飲んだ酒のなかで、最高のものがあるんですよ。あの味は忘れられません。もっとも、酒屋には売ってやしませんが」
「ええっ。なんなのですか。イワナの骨酒《こつざけ》とかじゃないでしょうし。猿酒《さるざけ》(サルが岩のくぼみにアケビや山ブドウの実をたくわえて、雨水ととけ合って発酵し、酒となったもの。飛騨の山中などで木樵《きこり》や猟師がみつけることがあったというまぼろしの酒)とかいった類《たぐい》のものなんですか」
わたしはヒザを乗りだした。
「いえ。じつはこれが甘酒《あまざけ》なんですよ」
「はあ」
意外な答えに、一瞬わたしはからかわれたように思い、平井さんの顔をのぞきこんだ。
「数年前のことです。親しい友人が壺《つぼ》で仕込んだ甘酒を、うっかり業務用の冷蔵庫にしまったまま忘れてしまい、一年経ってフタを開けびっくりした、というんです。それで、わたくしが家に呼ばれましてね。はじめはわたしも、タカをくくってましたが、そのドブロク状のものを口にふくんだとたん、言葉をうしないました」
「どんな味なんですか!」
「それが、なんともいえないフルーティな香りでしてねえ。完成度の高い吟醸酒とは、こんな味わいだろうかとおもわせるフクラミと奥行きがありました。その晩、ふたりで壺を空《から》っぽにしてしまいましたよ」
イカナゴ醤油につづき、予想外の秘酒に追いうちをかけられた気分になった。
「甘酒がとつじょ、吟醸に大化けしたなんて、どうにも信じられません。甘酒なんて、炊《た》いた米が六、麹《こうじ》が四の割合で温湯をまぜれば、すぐできあがりますよね。容器に入れ、フタをし(小さい穴をあけておき、発酵ガスをにがす)、冷蔵庫でそのまま一年ですかぁ。誘惑に負けて、途中でフタを開《あ》けてしまいそうだなあ」
平井さんは、こちらのとまどいに相好をくずす。
折り目正しい平井さんの雰囲気は、万葉集を朗唱《ろうしよう》すれば、ピッタリはまりそうな在野の学者にみえる。
その夜の醤油と酒談義は、尽きなかった。
翌朝。わたしはイカナゴを買いに、港の近くをぶらついてみた。
平井さんが話していた棒炒《ぼうい》り≠、自宅でこしらえてみたくなったのだ。棒炒りは庵治に伝わる酒の肴《さかな》だ。酒と醤油とショウガの丸い薄切りをナベに入れ、沸きあがったとき、獲れたてのイカナゴを放りこみフタをする。吹きあがったら火を落とす。それでできあがり。
炊《た》きたての熱いのよし、冷《さ》めたのもよし、お茶漬けによし、これは絶品ですと、自信をもって勧められたので、食指が動いたのである。
漁港の近くで水産物加工をいとなむ「西幸《にしこう》商事」にたち寄る。
ボイルされたシャコやチリメンのパック詰めが、場内に積まれてある。ゴム手袋と前掛けをした西村静雄《にしむらしずお》さん(六十八歳)が、作業の手を休め、応対にでてきた。
「イカナゴは、明後日《あさつて》に高松港へ初水揚げされると聞いとるよ。うち(庵治港)にゃあそのあとだねえ」
西村さんは丸イスにまたがり、不意におとずれた個人客を、じっとながめた。わたしは、イカナゴ醤油にからむ来町のいきさつを、かいつまんで打ちあけた。
ところが偶然にも、かつて庵治に三軒あった醤油蔵のひとつが、西幸商事の前身であるというのだ。聞き捨てならなくなり、話に夢中になる。こちらの狙いがわかり、西村さんもくだけてきた。
「あんたの話に合わすわけじゃないが、わしも前からずっと考えとったんで、じつは今度やろうとおもっとる」
「といいますと」
「イカナゴ醤油を再現してみようと、内心考えとった。なんちゅうても、この町の伝統の味《あじ》じゃからの。わしはガキのころにしか経験がないんで、友人の平井さんの智恵も借りるつもりじゃ。まだ言うとらんが。商売柄、イカナゴはいくらでも都合つく。四月に仕込めば、半年後にゃあ、ぼちぼちできるじゃろ」
地元商工会の会長をつとめる西村さんは、奥まった眼をかがやかせ、まかせとけとばかり、自分の胸板をげんこつでたたいた。
「十一月には、イカナゴ醤油の正体がやっと拝《おが》めるわけですね。まちどおしいなあ。その折にもういちど、おじゃまさせていただきます」
「ああ、ああ。ぜひともきなさいや」
タイミングのよい話もあったものだ。わたしは、浮き浮きとした足どりで工場《こうば》をでた。
帰りのバスの時刻には、まだ間《ま》がある。そのまま、皇子《おうじ》神社のたたずむ高台へと登った。ハリエンジュの木々が、海からの潮風にあおられ、のけぞるように空へのびている。
竜王山、毘沙門山、五剣山。急角度にそびえる山々が、庵治の街並みをとりかこむ。漁船の蝟集《いしゆう》する港をめざし、一艘《いつそう》の小型船が白い水脈《みお》をひいて、沖合いからもどってきた。
[#小見出し] 能登のいしり酒
能登半島の北部、鳳至郡門前町《ふげしぐんもんぜんまち》。
わたしたちは、阿岸《あぎし》川の下流で竿をふっていた。ゆるやかな川にそって県道が走り、片側の山裾《やますそ》には、せまい田圃《たんぼ》が何枚もつづいている。
渓流魚というと、いかにも深山幽谷のイメージだが、釣り場からすぐそこは日本海である。
渓友の丹圃俊記《たんぼとしき》さん(三十八歳)が、土手に身をかがめ、慣れた腕さばきでヤマメを掛けている。今度はこちらの竿に魚信がきた。
釣りあげたとたん、魚《うお》はハリはずれし、草むらをころげまわる。竿を置き、すばやくつかみにかかる。はねて川へ落ちそうになったが、すんでのところで取りおさえた。パールマーク(青い斑紋)もあざやか。二十五センチのまるまるとしたヤマメだ。
四月の昼下がり。土手にはえたつくしんぼが、陽射しをうけて胞子をいっぱいにふくらませている。
二時間ほどで、型のよいヤマメが魚籠《ビク》に六、七尾そろった。ひとまず、渓流竿を納め、クルマで近くの水場へとむかう。
アテ(ヒノキアスナロ)の樹がしげる山の中腹に、小さな社《やしろ》があり、石甕《いしがめ》からこんこんと水が湧きでていた。そこからは、奥能登の山なみが見通せる。
「小学生の時分から、たびたび山へ登っては、この古和秀水《こわしゆうど》≠ナノドをうるおしたもんですよ。殺生の清《きよ》めに、まあ、いっぱいやってみて下さい。日本名水百選のひとつなんです」
バスケットボールをやっている大柄な渓友は、杓子《しやくし》をこちらへ手渡す。門前町で生まれ育ったかれは、いちどは都会へ就職し、Uターンしたサラリーマンである。
「ほんのり苔《こけ》の風味がするね。名水に旨いものなしというけど、これは例外だね」
わたしはひと飲み、ふた飲みして、口元をぬぐった。
古和秀水は門前町にある総持寺祖院(曹洞宗のもと総本山)の開祖|瑩山《けいざん》禅師が、竜神よりのお告げでさずかったと伝えられる霊水だ。
「北川さん。『亀泉《かめいずみ》』(門前町広瀬 中野酒造)の酒は、この水で仕込まれるんですよ」
「ほう。米洗いから仕込みまでだと、水を多量につかう。毎日|汲《く》みにくるとなれば、さぞかし大変だよねえ」
「スッキリとし、それでいて味の乗った酒ですんで、われわれの晩酌には欠かせません。総持寺の雲水《うんすい》たちも、亀泉の『鐘の里』っていう本醸造を飲《や》ってるようです」
「般若湯《はんにやとう》ってわけか。でも、まえに大吟醸だけを飲んだかぎりでは、いささか酸味がきつすぎたね。ふつう、醪《もろみ》の品温が一日につき、○・五度をこえると、ピルビン酸(びっくり酸)の多い酒質になってしまうんだ」
「このところの暖冬で、仕込みの温度管理がむずかしいんでしょうか。小さな酒蔵だけど、純米酒と本醸造にかけては、『菊姫《きくひめ》』や『天狗舞《てんぐまい》』なんかには負けんとおもうんですよ。いしり≠ニも、とびきりウマが合うんやなあ」
酒好きのかれは、黒ぶちのメガネに指をあて、まぶしそうに眼を遠くへうつした。はるかにかすむ猿山《さるやま》岬では、雪割草が咲くころだ。
現在、能登地方で魚醤油がつくられているのは、能都町《のとまち》と門前町とをむすぶ線の北側にかぎられる。
輪島周辺では、おもにイカの内臓で仕込み、いしる≠ニ呼ぶのに対し、門前町ではイワシをつかい、いしり≠ニいう。どちらも魚汁《うおしる》が訛《なま》ったものらしい。
四十年ほどまえまでは、奥能登の漁村では自家消費用のいしりが盛んにつくられていたのだが、今ではわずかな家内業者によって、細々と生産されているにすぎない。一年〜三年貯蔵の本格いしりを手造りしているのは、門前町ではただ一軒となってしまった。
門前町|黒島《くろしま》。わたしは、集落のはずれにある民宿「浜千鳥《はまちどり》」に靴紐《くつひも》を解《と》いた。ひとっ風呂あびて、渓友と夕餉《ゆうげ》の膳につく。
いしりとダシ汁のはいったでかい土鍋のなかには、ブリの頭がでんとおさまっている。三年熟成のいしりを小皿にたらし、イカの刺身をつけてつまむ。魚醤の臭《くさ》みが旨味となって、海の幸ととけ合う。渓友の酌をうけ、コップの純米酒「亀泉」を冷《ひ》やでかたむけた。
宿主《オーナー》の中市武義《なかいちたけよし》さん(五十三歳)は、奥の調理場で包丁をふるっている。
十三年まえに、妻の紀子《のりこ》さんとドライブイン・民宿をはじめたかれは、十五歳から外国航路の船内コックとして働いていた。古くから脈々とうけ継がれてきたいしりは、かれが船に乗っているあいだは、家族が仕込みにあたっていた。
江戸時代、黒島地区は、門前町で唯一の天領であった。
北海道、北陸、大阪をむすぶ西まわりルートの北前船《きたまえぶね》の出入りで栄え、角海孫左衛門《かどうみまござえもん》など多くの豪商を輩出した。
戦後、土地柄を反映して、地区戸数二百八十戸のうち、およそ三百五十人が外国航路に就《つ》いていた。ほかの集落と異なり、田畑をもたない黒島は、村をはなれて稼ぐしかなかったのである。
「おまちどおさん」
割烹着すがたの中市さんが、具《ぐ》のはいった大皿をはこんできた。豆腐やシメジ、クロモ、イワノリ、ワカメなどが盛られてある。
「しかし、どうしてこの黒島だけに、いしり造りの家が集中しているんですか」
箸をのばしつつ、わたしはたずねた。
「ここらには、塩田があったからなあ」
「そう。いしりはたんと塩をつかうんで、塩が貴重だった時代には、ふつうの民家では造れなかったでしょう。町内じゃあ、あとは皆月《みなづき》地区ぐらいかな」
中市さんの言葉に応じ、渓友が答える。
「能登の沿岸部では、原料のマイワシは、昔ほど獲《と》れなくなったんでしょう」
「ほやな。年々と不漁やわ。今はカタクチイワシやウルメイワシをつかうね。豊漁の年にゃあ、山からながめると、帯状の湧魚《わいな》(魚の群れ)が沖合いにくっきりと見えたもんや」
土鍋のフタをとる。コクのある発酵臭が、ぷーんとひろがった。煮えたつ鍋のなかに、クロモをくぐらせ、しんなりしたところを頬張る。磯の香りと歯ごたえがいい。
「いしりの仕込みは、これからなんですね」
「うむ。まあ、五月やな。ひとタンク仕込むのに、五千匹のイワシがいるからさ。塩も二十五キロ入りを七袋くらいやね。ウロコをつけたまんまのイワシをぶつ切りにし、樽で塩もみしていくんや。ねばりけが出るまで揉《も》むんが、いちばんかんじんや。作業はぶっ通しで四、五時間はかかるわなあ」
髪をオールバックにした元コック長は、ゆっくりと身ぶり手ぶりをまじえた。
「そのあと、タンクにうつしかえるわけですね。さらに塩を加えるんですか」
「いいや。すりこんだ塩だけでいくんや。あんまり塩辛うすると、苦味がでるし、少のうても腐るおそれがあるもんでな」
「いしりで育ったわれわれにゃあ、いしるのほうはどうも合わないな。あれはイカのゴロ(ハラワタ)やから、エグ味《み》が強えげわ」
あぐらをかいた渓友は、そう言って純米酒をハイピッチで喉元へながしこむ。
小型のプラスチック容器にはいった一年ものと三年ものをくらべると、三年もののほうが色が濃くトロリとしている。
紀子さんが、ヤマメの塩焼きを平皿に乗せてきた。
「いちど、その貯蔵風景を拝んでみたいなあ。かまいませんか」
わたしは、中市さんにねだった。秘蔵の魚醤油が熟成《ねむ》る部屋を、どうしても見たくなったのだ。
「いやあ。わしとこのいしり小屋のなかなんかは、とても乱雑にしとるんでなあ。人目にさらすほどのもんでもねえし。そ、それだけはかんにんしてな」
かれは眉間《みけん》のあたりをピクピクとうごかし、頑固に手をふった。
過去にテレビ局関係者や有名人が取材にきても、ことごとくはねつけたという。それほど内緒にしたい理由《わけ》は、厳格ないしり造りの面からも人の立ち入りをさけ、開《あ》かずの間《ま》≠ノしておくほうが無難だと思っているためだろうか。
いしりが馴染《なじ》んだブリの頭の身をつつき、コップ酒を飲み干す。けっして都会うけのするスマートな飲み口ではないが、味幅《あじはば》がある。醪《もろみ》をぎりぎりまで完全発酵をさせ、タイミングよくしぼった証《あかし》だ。
言いかえれば、最善をつくし、あとはどうにでもなれといったような突き抜けた味わいなのである。
「ところで、門前町の中心地だった黒島も、今はかなりの過疎だときいているのですが」
夕方、宿へむかう途中、黒島地区をクルマで通った。押縁下見《おしぶちしたみ》(防風用につくられた木造のよろい状の板張り)の民家がつづく裏通りは、いかにも殺伐とし、人気《ひとけ》が少ないのが妙に気になったのだ。
「そうさね。だいいち、小学生がひとりもいねんだから。二十年まえに、船舶不況が襲《おそ》ってきたろ。会社が人べらしを図り、安い給料の外国人船員を雇うようになってね。わしも、そろそろ潮時《しおどき》やと足を洗ったよ。黒島は高齢化し、年金で生活する人が多いんさ」
かれは、つい二ヵ月まえに脳血栓で倒れたが、さいわい後遺症をほとんど伴わず回復し、先日退院したばかりだった。舌たらずの話ぶりに聞き入る。
「おやっさん。海の男は、たいがい酒が強いんですよね」
渓友が水を向ける。
「ああ。コップなんか邪魔くそうてな。船のなかじゃあ、いつもラッパ飲みがあたりまえやし。だもんで、こんなザマになっちまったかの。ふぁっはっ」
中市さんは、かすかに自嘲した。北氷洋で、乗っていた船が沈没しかけ、九死に一生を得たこともあるという。
「長い船旅のあと、陸《おか》にあがれば懐《なつ》かしさもひとしおでしょうに」
「まあ。なんちゅうか。まず、どの女《おなご》をみても、全部べっぴんに見えるわな。仲間がバーの女《おなご》とねんごろになり、あとで顔をみて、しみじみ後悔したいう話は事欠かんな。わしの場合、いつもカーちゃんが寄港地に迎えにきてくれてたからなあ」
能登には、輪島男《わじまおとこ》に黒島女《くろしまおんな》≠ニいう諺《ことわざ》がある。男ぶりと器量のよい女の代表は、輪島と黒島であるという意味だ。
わたしは、昨晩丹圃の自宅で母親が話していたことを、ふと思い出した。
「若いころ、黒島の女友達によく言われたもんよ。『あんたらちゃ、おやっさまいつも腰づけで、じゃまじゃないかね。おらっちゃ、父ちゃんおらんさけえ、あっさりしてじんのびや(ゆったりしているよ)』ってねえ。あん人らは、主人が本土の港に着くと、せいいっぱいの盛装をして迎えに行ったもんよね」
黒島の主婦が、陸づとめの夫をもつ者を冷やかしたセリフなのだが、内心はさびしい女心の裏返しにちがいない。
亭主不在の家を守る黒島女のたくましさは、まるで桶のなかで二年、三年と時間《とき》を積むいしりの辛抱強さに似ているようにおもえてきた。
「いしりは、こげな田舎びた味やけど、うちの店も、近ごろは都会からめずらしげに食べにくる婦人グループなんかが、ぽつぽつ目立ちはじめたよ」
「この店をはじめたきっかけはなんだったのですか」
わたしは、病気で酒もタバコも止められて所在なげにすわる中市さんを見すえた。
「いやね。黒島はこんな過疎の村やもんで、なんとかせにゃと……。船を下りる(退職する)まえだが、甲板から空を見上げとったら、ほれ、雲が風にスーッと動かされとるのに気がついたんや」
「ふむ」
「なんでもない景色やが。わしも、風にならなきゃとおもったんや。旅をする人の交歓の場をつくろうと、カーちゃんと民宿をはじめたんや」
そこまで途切れ途切れにしゃべると、かれは唇をむすび、じっと天井を見つめた。病気になり、ふさぎがちだった気持を奮《ふる》いたたすふうにもみえる。
「安易な村おこしや町おこしの時代は、もう終わったよね。派手なイベントは、たとえ盛りあがっても一過性だし。かといって、無理に工場など誘致しようものなら、就労先は確保できても、住民とのトラブルが生じる」
「そう。これからは、交流人口に着目していかにゃいかんのやないですか。観光人口じゃなく、人と人とのかかわりや縁で、田舎におとずれる人をふやすことが、自然な活性化につながるとおもうんですよ」
酒でほんのり上気した渓友は、まじめくさって持論をひとしきりふるった。
翌朝、潮騒で目が覚めた。
二階の窓をあけると、遠浅《とおあさ》の海に岩礁が透けて見える。地元のコンブ引きだろうか、白い伝馬船が五、六艘、波間にただよっている。
階下の食堂で朝食につく。調理場ののれんをくぐり、中市さんが漬けものをはこんできた。ナスとキュウリにいしりの味が染《し》みている。中市家では、毎晩、一夜漬けをつけこむという。
「今日はこれからどうするね」
「中野酒造に参ります。中市さん。くどいようですが、いしり小屋をひと目だけでも拝見させていただくわけにはいきませんか」
わたしは、アゴを動かしながら頼みこんだ。しばらく間《ま》があき、
「あんたがそこまでいしりに惚れとるんなら。わかりました。あとで見せてあげますわ」
あれほどかたくなだったかれは、根負けしたというふうに、人なつっこく眼尻をゆるめた。
民宿のうしろのひろい斜面に、松が植わっている。その右端に、施錠されたトタン葺きの小屋が建っていた。みるからに、なんの変哲もない物置のようでもある。
ガラガラと戸をあける。濃厚な魚醤のにおいが、突如、鼻先を刺激した。
「さっ。これが、いしりの仕込部屋やわ」
広さ二十坪。一トン仕込みの杉桶が、奥に三つならび、さらにホウロウ製の同型桶が四つ片隅を埋めている。手前には、漬け物樽が十個ほど整然と置かれていた。
「中市醸造元のいしり蔵というわけですね。野性酵母ならぬ旨味の酵素が、すみずみまであふれていますねえ」
腕組みしてたたずみ、息を吸う。小屋じゅうに満ちた魚醤臭は、いつしかまろやかな香りとなって、二人をつつみこむ。
「これが、最初で最後の公開やわ」
中市さんは、ズボンのポケットに手を突っこんだまま、ぶっきらぼうに白い歯をこぼした。
クルマで迎えにきた渓友と宿を出る。総持寺の山門をすぎ、表通りをすすむ。
やがて、軒下にどでかい杉玉が吊るされた建物がみえ、クルマは玄関に横づけされた。
古色蒼然とした総ケヤキ造りの本宅の裏に、細長い仕込蔵があった。一歩はいると、戸外とはうらはらにひんやり心地よい。会所場《かいしよば》(蔵人の休憩室)の真んなかには、囲炉裏が切られ、ガスストーブがすえつけられていた。
「先月に造りがおわり、おやっさん(杜氏)も蔵人もみんな帰ってしまい、がらんとしています。なにぶん、こんな片田舎の小さな蔵ですので……」
蔵元の長女で酒造場をあずかる今野貴子《こんのたかこ》さん(四十五歳)は、小柄な背中を少し前かがみにし、戸惑い気味に切りだす。遠来の客の意図を計《はか》りかねている様子であった。
出荷担当の夫の隆《たかし》さん(五十歳)が、新酒をついだ猪口を盆に乗せ、遠慮がちにはいってきた。わたしたちはしばらく、蔵内の事情をうかがった。
「今年は純米酒を見送ってしまったというんですか」
渓友が声をうわずらせた。
「はい。おやっさん(珠洲《すず》市出身 谷内秀一《やちしゆういち》・六十六歳)が吟醸に専念できるようにと。あとは、本醸造と普通酒だけにしたんです」
「吟醸もたしかに大事かもしれません。鑑評会で金賞をとれば、杜氏の励みにもなるでしょう。しかし、飲み手のほとんどは、わたしらとおなじ普通のサラリーマンであって、弁護士や医者といった高給とりではありません。いつもぜいたくな吟醸ばかりやっている人ばかりではないんです」
と、膝を組みなおし、わたしは文句をつけた。
「吟醸ブームにまどわされることなく、飲み手の裾野《すその》のひろい通常価格の純米酒をつくっていただきたいんです。クセのあるいしりにマッチするってのは、なにもこちらの言葉の遊びでなく、それだけ酒がパワーを秘めている証拠なんですから」
うつむきかげんの夫婦に、なおも辛口の意見を見舞う。
「とかく酒屋は、自分ところの酒がどの辺なのか評価できなくって。やはり、純米酒にも力をそそぐべきだったんですね。来年こそは……。あのう、いしりがとてもお好きなんでしょうか」
「そりゃあ、土地の暮らしにとことん密着した調味料の最高傑作ですからね」
「わたしも、母が皆月《みなづき》から嫁いできたもので、小さいころからいしりの味で育った口ですので」
貴子さんが言いおわらないうち、引戸ががらりと開き、白衣をまとうひとりの人物がはいってきた。
国税局の鑑定官とおもいきや、蔵元の中野達也《なかのたつや》さん(七十三歳)であった。かれは、蔵の二階で開業する歯科医なのである。
「いささか体調をこわしとりまして、こいつ(貴子さんを指して)に酒は止められとるんですわい。この老いぼれの最後の楽しみちゅうたら、患者をちょっと診《み》るくらいかのぅ。さびれた町医者やけなあ。おお、ええ香りやなあ。ちょっといただこう。※[#「口+利」、unicode550e]き酒ならええやろ。吐くのはもったいないのぅ」
ずいぶんくだけたドクターだ。自分で病人というわりには、本人の血色はいい。新酒を皆でまわし※[#「口+利」、unicode550e]きし、雑談にひたる。
穴水《あなみず》町出身の老蔵元は、江戸時代より代々つづく医者の家系で、中野家へ養子にやってきたのだった。戦時中は、大陸へかり出され、陸軍病院で働いていたという。
ひさびさにアルコールを口にしたためだろうか、貴子さんがセーブするのも頓着《とんちやく》せず、中国やマレー半島での苦労話を、なめらかな口調でつづける。
本題をはなれ、わたしたちは蔵元のみせ場たっぷりな回顧談に耳をかたむけた。
「ベトナムじゃあゴカッピいう強い焼酎を、よく飲んだもんですわい」
「あちらは、魚醤油の本場ですね。すると、現地でニョクマムも口にされたことがあるんですか」
渓友がつっこむ。
「なに、マグナム……?」
正座したままの蔵元は、眼を白黒させる。
「いえ。ニ・ョ・ク・マ・ムですよ。ほら、ベトナムの魚醤油で」
「ふむ、ふむ。ありゃニョクマムいいますのか。たしかに、あちらにもいしりにそっくりの醤油がありましたなあ」
話は尽きなかった。
[#小見出し] しょっつるに酔う
しょっつるは、秋田県特産の調味料で、塩汁《しおじる》が訛《なま》ったものである。
秋田市内には、いくつかの製造業者があり、かつて、わたしはしょっつるを注文してみて、唖然《あぜん》としたことがある。
薄白《うすじろ》くにごった色合いで、臭《にお》いはほとんどない。舌先でなめると、ただしょっぱいだけ。文字どおり塩汁だが、はやい話が濃いめの塩水のごとき代物であった。当然ながら、鍋物《なべもの》につかっても、風味がたつわけはなかった。
わたしは、首をかしげた。近年、原料のハタハタがいくら不漁つづきだとはいえ、こんなはずはないと。その日から本物のしょっつる探しがはじまったのである。
イカナゴ醤油≠ェ姿を消し、いしり≠ェ土俵ぎわにあるように、しょっつる≠仕込む人は、今ではほとんどいなくなってしまった。
だが、男鹿《おが》半島の漁村に、昔ながらの製法にこだわりつづける家《うち》が一軒あった。男鹿への遠出《とおで》をきめたとき、道中どうしてもたずねたい酒蔵が、とっさに頭にうかんだ。
「由利正宗《ゆりまさむね》」である。一九九二年、京都府|八幡《やわた》市の会場でおこなわれた第四回「ここに美酒《さけ》あり」選考会で、全国百六十社よりの出品酒のうち、上位に食いこんだ酒であった。
審査員のひとりとして参加したわたしは、その質《レベル》の高さにうなったものである。さらに翌年の全国新酒鑑評会では、みごと金賞を射止めた。
全般に甘口傾向の秋田県にあって、「由利正宗」(秋田県本荘市石脇 斎彌《さいや》酒造店)の吟醸は、ためらいのないキレ味と奥行きがあり、独特なすがすがしさを秘めていた。クセをもつ魚醤《ぎよしよう》とわたり合うには、この酒しかないと、造りの極意をのぞきたくなったのだ。
秋田県の南西に位置する本荘《ほんじよう》市は、六郷《ろくごう》氏二万石の城下として栄えた町である。
本荘平野を子吉《こよし》川がながれ、土地は豊かにして明媚《めいび》。良質米の産地で、「江戸で関とる本荘米」と唄われたほどである。
本荘に着いたのは、まだいくぶん寒さののこる六月の土曜日の午後であった。子吉川の河口には、ウグイ釣りを楽しむ太公望が、竿をならべている。本流に架かる由利《ゆり》橋をわたると、まもなく酒蔵の看板が見えてきた。
道路をはさみ、仕込蔵《しこみぐら》と瓶詰《びんづ》め場《ば》がむかい合わせに建っており、背後は小高い山になっていた。
応対にでてきた斎藤銑四郎《さいとうせんしろう》蔵元(五十五歳)と、さっそく地酒談義にふける。
「うちは、つい七年まえまでは、アルコール添加の普通酒が主体でした。しかし、消費動向が逆風で、酒界は戦国時代にはいるにつれ、生きのこりを図るには、高品質を打ちださなきゃと考えたんです。それは、米をよく磨き(精米すること)、手間ひまかけた吟醸造りに徹することだったんですよ」
恰幅《かつぷく》がよく、健康そうな浅黒い風貌の蔵元は、遠慮がちに言葉を選ぶ。マドロスパイプをくゆらすと似合いそうな、小粋《こいき》な雰囲気をただよわせている。
「級別廃止以来、独自色やポリシーをかかげる蔵が目立つんですが、方向を見誤ると、かえって消費者ばなれをきたしますからね」
わたしは、いっぱしの酒徒として突っこんでみた。
「当方も大の酒好きなので、痛感するのですが、酒というものは、完全発酵をさせ、辛口に仕込んでこそはじめて、秋に飲みごろの旨味と幅がにじみでてくるんですよ。仕上げに、炭(濾過《ろか》用の活性炭)などをつかい処理するなんて、もってのほかです」
「いやあ、そこまで味の設計図を引かれておれば、わたしなんかつぎのセリフがつなげません。山内《さんない》村出身の高橋藤一《たかはしとういち》杜氏(四十八歳)の気風《きつぷ》もいいんでしょうね。ところで、お気に入りの肴《さかな》はどんなものなんですか」
「本荘は、山あり川あり海ありで、酒のさかなには事欠きませんが、寒いうちはやはり、しょっつる鍋ですなあ。わたくしどもも、この味で育った口《くち》ですんで」
一升は平気だという蔵元は、泰然とほほえんだ。ひところは、本荘港にもハタハタがたくさん水揚げされていたのである。
やはり、美酒のかげに魚醤《ぎよしよう》ありか。むしょうにナベ物がつつきたくなった。
蔵内を案内されたあと、ふたりで裏手の山へのぼってみた。酒の仕込みは、この新山《しんざん》の湧水なのだ。
松林のあいだからあおぐと、秋田富士と称《たた》えられる鳥海山《ちようかいざん》が、残雪をいただき、スケール大きく裾野《すその》をひろげていた。
「本荘からながめるのが、いちばん恰好がいいんでしょう。山形方面へいくほど、形がくずれていくとききましたが」
「そうなんです。鳥海山のふもとに、由利ケ原というところがあり、ヤマユリが群生しているんですよ。うちの銘柄は、そこからとったんです」
秀麗な山に守られた風土。カジ取り役の蔵元と腕っこきの杜氏がいれば、酒質もおおらかに育《はぐく》まれるらしい。
わたしは、「由利正宗」の純米吟醸と山廃《やまはい》本醸造とを買いこみ、ふたたびJRにとび乗って、男鹿半島へと北上した。
東西三十キロ、南北二十キロ。日本海の単調な海岸線をやぶるように、巨大なにぎり拳《こぶし》の形《なり》で突出した男鹿半島。
男鹿の三山と呼ばれる本山《ほんざん》、真山《しんざん》、毛無山《けなしやま》をあおぎみて、案内者のクルマで入道《にゆうどう》崎にたどりついた。
「戦時中でした。わたくしは、小学生の時分、訓練のため先生の指導で、北浦港の沖に停泊する輸送船と手旗信号をかわしたりしたものです。輸送船は夜明けに北浦から出航していぐんです。それは、夜に航海すると敵の潜水艦に攻撃されるからだす。ある日、朝礼で全校の生徒が校長先生の話をきいていだどぎ、ドガーン! ドガーン! と耳をつんざく地ひびきがしたんだす。
海中にひそむ潜水艦の発射する魚雷が、輸送船にかわされ、あの入道崎先端の岩礁にあたって炸裂した音だったんだす。まえの日の夕方、手旗信号で話した船であったんで、無事でえがったなあと、思ったものだす。土地の人の話では、撃《う》だれて何隻も沈んだままだと、あとになって聞かされました。それを思うと、男鹿の海は今なお美しさをとどめているだけに、胸がつまってくるす」
鎌田秀春《かまたひではる》さん(六十二歳)は、半島最北端の岬にたたずみ、たそがれせまる沖合へ、じっと眼をこらした。夕波が黒々とした荒磯にぶつかっている。
鎌田さんは、半島きっての漁師町「北浦《きたうら》」に生まれ育った。市の公共ガス・水道の企業管理者の公職につくかたわら、家庭裁判所の調停委員としてはたらいている。
「半世紀まえの出来事なんですね。そんな過去をはねのけるように、男鹿の海にハタハタがわんさと押しよせていたんですか。それにしても、ハタハタは神秘的な魚ですねえ。数年たって、もとの浜へ帰ってくるなんて、まるで鮭のようだ」
北緯四十度をしるすモニュメントのむこうに、白と黒の縞模様の灯台がそびえ、足元にひろがる青々とした芝生《しばふ》と、くっきり対照《コントラスト》をなしている。
入道崎のみやげもの屋は、すでに店じまいしたらしく、鎌田さんと顔見知りの店主らしき青年が、後方でゴルフの素振りをしていた。
「んだから、ハタハタは魚偏《さかなへん》に神≠ニ書くんだす。カミナリウオともいうす。十一月の末ごろ、突然、空一面がかき曇り、稲妻がはしって豪雨がくるど、海は鉛色になるす。すると、ハタハタの群れが、沖からやってくるんだす」
鎌田さんの声が、海鳴りで途切れがちにきこえる。
日本海では、海岸からあまり遠くないところを、対馬暖流がながれている。冬にむかうにつれ、暖流の末端はしだいにおとろえるのだが、そのころ大荒れがあると、暖流の層が断ち切られ、冷流が急に勢力をつのらす。産卵に適した十度前後の水温になると、この冷流に乗って、ハタハタがどっと接岸してくるのだ。
「秋田ではハタハタは、平成四年の十月より三年間にわたって、全面禁漁となり、他県もそのあと右へならえしました。やはり、乱獲がたたったのでしょうか」
わたしは、かれの答えを待った。
「不漁の原因はいろいろだす。海流の変化、水質の悪化、諸説があるなあ」
口をへの字に曲げ、鎌田さんはクルマのほうに踵《きびす》を返した。
昭和三十年代から五十年代はじめにかけて、ハタハタ漁は最盛期《ピーク》であった。漁師は、師走のわずか一ヵ月のあいだに、年間の収入分を稼いだ。三時間おきに一回は、建《た》て網《あみ》を引きあげないとはち切れるほどであったり、また、舟に積みすぎて岸辺で転覆《てんぷく》することもあったという。
漁獲高は、秋田県だけでもゆうに一万トンを超えていたのだが、このところずっと、百トンを割る年がつづいていた。
大漁時代、男鹿の各漁港を中心にして、ハタハタが水揚げされた。そのなかでも、北浦漁港は鰰《ハタハタ》の浜≠ニいわれ、漁場《りようば》の筆頭であった。
クルマはやがて北磯《きたいそ》海岸をよぎり、北浦地区へとはいる。男鹿市北浦は、人口二千人。半農半漁の町だ。
「北浦にもやあ、造り酒屋が一軒あったんだす。ほれ、あの角《かど》っこからこの建物の辺にかけてさ。でかい酒蔵だったな。銘柄? うーん。ああ、『男山《おとこやま》』といってたす。男鹿の山の略だべなあ」
そう言い終わったとき、クルマは鎌田家に到着した。すぐ鼻先が、浜になっている。
六月とはいえ、海辺の土地は冷えこむ。母のスエノさん(八十四歳)と孝《こう》夫人(六十四歳)のいる居間には、ストーブがたかれていた。
空腹の虫にせきたてられるように、さっそく、座敷の食卓へつく。ガスコンロにかけられた鍋《なべ》のなかには、ソエのお頭《かしら》が昆布ダシに浸《ひた》されていた。
ワカメの根株《ねかぶ》と赤ミズ(山菜の一種)を細かくきざみ和《あ》えたものを箸でとり、舌の先に乗せる。ちょっぴりサンショウの効いた粘り気が、口のなかでとろけ、みずみずしい風味に変わっていく。サザエの酢の物も添えられていた。
「しょっつるというど、ハタハタだけでつくられると思われがちだども、実際にゃあ、小女子《コウナゴ》も原料にすてる(している)。つまり、昔から漁師の家《うち》じゃ、二本立てで仕込まれとったわけさ。まあ、当分、ハタハタではつぐられねが」
「そうなんですか。小女子は、イカナゴとおなじもので、体長五〜六センチの幼魚を指すんですよね」
「由利正宗」純米吟醸を卓上に置き、あぐらをかいて酌みかわす。
スエノさんが、小瓶に詰めたしょっつるを持ってきた。ハタハタ三十年もの。それに、七年ものと小女子一年ものである。
それぞれを小皿に少量たらし、指の先でなめてみる。まろやか。年数のたったものほど、色合いと丸みが増し、塩と同量入れる麹《こうじ》のせいで、塩辛さはあまり感じられない。ひとなめ、ふたなめして、グラスの酒をかたむけた。
しょっつるにこだわりつづける鎌田家では、毎年、裏の物置小屋で、家族三人がそろって仕込み作業をおこなう。
甕《かめ》から汲《く》んだしょっつるを煮たてて、布袋で自然に漉《こ》すのが秘訣だ。スエノさんも、母に教わり、ノウハウをうけ継いできた。今年の春は、小女子を一斗甕に仕込んだという。
「しょっつるの味が、舌の根っこに染《し》みついちゃって。伝統を守るというより、これがなぐては食生活が成り立たねえす。夏場でもナベ物には最高だねえ」
ぐつぐつとナベが煮えてきた。海辺育ちの主《あるじ》はフタをとり、相好をくずす。同姓が多いので、地元ではかれは鎌秀《カマヒデ》で通っている。
カマヒデとは、なんだかナマハゲと語感がそっくりだ。
床の間の掛け軸には、包丁をふりかざすナマハゲが二人、いかつい顔だがよくみると、こっけいな仕草と表情をたたえている。
カマヒデさんの亡き恩師・菅原慶吉《すがわらけいきち》前市長が描いたものである。
男鹿の山 年に一度のあのなまはげの
鬼がかぞえる 除夜の鐘
と、添え書きがしてある。
ナベにしょっつるの七年ものが加えられ、豆腐、ネギ、エノキ、ソエの切り身が放りこまれる。ひと昔前は、しょっつるナベの具はハタハタだけで、これが格別なぜいたくだったと、カマヒデさんは述懐した。
「浜じゅうがお祭り騒ぎにあけくれたハタハタ漁が終わるころさ、大晦日《おおみそか》をむかえます。この夜、ナマハゲが家々をまわるんだす。ナマハゲがこねば、男鹿の正月はやってこねがらなあー。わたくしも青年団をやっとったころ、ナマハゲ役をよく演じたもんです」
「藁沓《わらぐつ》さはいて、ケラ(藁で編んだ蓑《みの》)着てさ。泣く子いねがぁ、なまけ者いねがぁ、と。ナマハゲには酒をふるまい、ちゃんとした作法でもてなすんですよ」
エプロン姿の孝《こう》夫人が、あいづちを打つ。カマヒデさんは、威勢よくグラスの酒を飲んでいる。
ナマハゲは、ナマミハギ(生身剥ぎ)が転訛したものである。ナマミとは、炉端で火にあたってばかりいるとできる皮膚の火斑《ひだこ》のことで、これができるような怠け者をいましめるために、鬼があらわれるのだ。そうして鬼は、新しい年の家内安全と大漁満作の言葉をのこして帰っていく。
ナベをつつくと汗ばんでくる。魚醤《ぎよしよう》の臭みが、食べるほど滋味に変わり、ついつい酒がすすんでしまう。
やがて、酔うほどに饒舌《じようぜつ》になるカマヒデさんの口から、秋田音頭がとび出した。
※[#歌記号、unicode303d]いずれこれより ご免な蒙《こうむ》り ソレソレ
当たり障《さわ》りもあろうけれども サッサ
※[#歌記号、unicode303d]秋田名物 八森ハタハタ 男鹿でオガブリコ
ハァソレソレ
能代春慶 桧山納豆 大館曲わっぱ……
わたしも、その名調子につられて追唱《ついしよう》。酒のまわり心地がいい。四合瓶はすでに空《から》になり、山廃本醸造「奥伝《おくでん》」の封を切る。酒盛りがつづく。
やがて、ひと息ついたところで、勧められるまま、わたしはあつあつのご飯に三十年もののしょっつるをかけ、まぜ返して頬張った。それはまさしく、豊漁の時代の味わいであった。
翌朝。カマヒデさんと北浦の浜へでてみた。廃墟と化したスレート葺《ぶ》きの番屋が、あちらこちらに無人のまま放置されており、往時の面影をひきずっている。
海は凪《なぎ》、澄み切っておだやかだ。港には、今朝の漁《りよう》からもどった小型船が、幾艘《いくそう》も波打ち際に乗りあげている。漁師夫婦が手ぎわよく綱を選《よ》り、掛かった魚をクーラーに入れていた。
黒い合羽を着けた友人の登藤鉄也《とうどうてつや》さん(五十七歳)が、カマヒデさんと眼を合わすなり、人なつっこい笑顔で「これ、食えっ、食えっ」と、魚を差しだす。みると、四十センチあまりのアイナメと同型のトラフグだ。気風《きつぷ》のよい浜っ子同士のやりとりが、しばらくつづく。
わたしたちは、防波堤の付け根までやってきた。
「まだ冷蔵設備のない時代だったなあ。ここでムシロさ張って、仕切った魚壺《なつぼ》をこしらえてさ。つぎつぎ水揚げされるハタハタを大量に溜《た》めてさ。箱詰めにすて、ひっきりなしにトラックで出荷したもんだよー」
そう言って、かれは波止場のコンクリートのうえに腰をおろした。ウミネコが五、六羽、浜の上空を舞っている。
話に耳をかたむけているうち、昨夜聴いた秋田音頭の一節が、ひとりでに浮かんできた。銀色にかがやくハタハタが、岸辺へとめどなく押しよせ、浜のにぎわいがよみがえったような錯覚をおぼえたのである。
[#第六章扉(chapter6.jpg)]
酒呑童子たち
[#小見出し] 地酒屋と飲んべえ神様
山口県は著名な政治家を輩出してきたにもかかわらず、酒造りの分野となると、いまひとつ鳴りをひそめた感がある。大手メーカーの下請けにまわり、特色を打ちだせないでいた。
ひところ九十場ちかくもあった酒造場は、ここ七、八年のあいだに大きく減り、現在(一九九三年三月)操業をしているのは三十九場。あいかわらず、悶々《もんもん》とした情況がつづいている。
こうした酒界の生きのこり競争の激化は、時代があたえた試練ともとれる。いきおい、古い殻を打ちやぶるパワフルな酒蔵《くら》があらわれてもおかしくない。
「山口県の地酒のことなら、この店主の右に出る人はいないんじゃないですか。地元の蔵を育て、じつにユニークな活動をやっておりましてね」
神奈川県横須賀市で地酒専門店をいとなむ掛田勝朗《かけたかつあき》さん(五十三歳)は、おだやかな面持ちで、わたしにひとりの酒販店主の名を教えてくれた。
掛田さん自身、湘南地方を中心に地酒文化の啓蒙活動をやるかたわら、全国をコツコツとまわり、やる気のある蔵を守りたてようと励んでいる。だが、地方蔵をささえていくのは、身近かな酒屋をおいてほかにないことをよく分かっているのだろう。
「そうですか。今回は蔵めぐりをとりやめて、そちらへ行ってみますよ」
敬遠してきたわけではないが、山口方面へは、これまでいちども足がむかぬままであった。だが、今なにかが動きはじめているようだ。わたしは、かすかな息吹《いぶき》を感じた。
中国山地の懐《ふところ》からは、県下随一の長流|錦川《にしきがわ》がながれている。上流の錦町《にしきちよう》は、水の美しさで知られ、日本でもっとも西にすむイワナの生息域だ。昔から、そんな魚族への憧れもあった。
川ぞいの集落には、ある箇所の病気を治すという酒神様≠ェ祭られている。これも、わたしには願ってもない。
掛田さんの言葉に心躍《こころおど》り、わたしはさっそく、欲張りな旅の仕度にとりかかった。
JR山口駅に迎えにきてくれた村田充利《むらたみちとし》店主(四十四歳)のクルマで十分あまり、上竪小路《かみたてこうじ》町に着く。
一本の県道が、まっすぐ南北にのびている。萩の藩主が、参勤交代で通ったこの街道は、いにしえから萩往還《はぎおうかん》と呼ばれてきた。
武家屋敷のすがたをとどめる本陣跡のすじむかいに、山小屋ふうの酒店が建っていた。看板に「ムラタ」と書かれた太文字が見える。黒々とした丸太の材質をよくみると、なんとそれは電信柱であった。
半分取りこわされた店舗のうしろ側は、ちょうど木造二階建ての改築中。一階に十一面のリーチインとコンテナ冷蔵庫を据《す》え、二階はイベントフロアと広間が完成するという。
店頭には、純米吟醸「山頭火《さんとうか》」、純米酒「五橋《ごきよう》」など県内の地酒がずらりとならべられてある。地元中心の品揃《しなぞろ》えに、店主の思い入れがひしひしと伝わってくる。
家族が仮ずまいをしているとなりのアパートの一室へと通された。さっそく、話に熱くなった。
「やっぱし、含《ふく》み香《か》(飲んだとき舌に感じる爽快な香りと味わいのこと)をそなえ、喉におちてキレがあるのが、ほんとうの旨い酒なんだとおもいますよ。それには、まず精白がよくないと」
村田店主は胸をはり、持論をふるう。明るくしゃべる表情のなかにも、時折、するどい視線をよこしてくる。
「いいかえると、涼しい酒質でなきゃダメだということでしょう。いわゆる、淡麗さと平板さとはごっちゃにされがちですが、天と地ほどのひらきがありますよね。造り手の未熟さをカバーするために、多量の炭《すみ》をつかって濾過《ろか》したものは、ただ薄っぺらく、そのうえ苦味がひどい。酔いざめもわるい。淡麗さとほど遠いものです」
かれの主張を受け、そう答えると、わたしは膝をくずして、かれの顔をみつめた。
「たしかに、いくら炭で味をならしたって、舌に障《さわ》りがでてしまいます。でも料理と組み合わせたとき、いちがいに淡麗志向もどうだろうか。山口県は、三方を海でかこまれ、山もひかえているが、土地土地によって味つけがちがうしさ。たとえば、日本海側の長門《ながと》あたりへいくと、生《い》きのいい刺身を溜《たま》り醤油でまぶして食べる。これだとさすがに、淡麗な酒では合わないとおもうんだ」
村田店主の口調が、しだいに太くなった。酒質のとらえ方で、見識の深さはおしはかれる。酒を語ろうとする者同士が本音をさらけだすための、さけて通れない関門なのだ。
「誤解しないで下さい。淡麗といっても、あくまで芯《しん》がそなわり、フクラミのある酒のことです。鳥取の『鷹勇《たかいさみ》』とか、広島県竹原の『宝寿《ほうじゆ》』の純米酒などを例にとれば明白でしょう。それらは、濃いくちの料理にもへこたれないんです」
「おっしゃることは呑みこめるなあ。ぼくらの目標とする酒質と、ほとんど一致するね」
侃々諤々《かんかんがくがく》のすえ、ヒゲ面《づら》の店主は、表情をやわらげて、バイタリティのある笑《え》みをうかべた。洗いざらしのジーンズに濃紺の丸首ジャージ。長髪の似合うかれは、酒屋というより、画家を連想させる風貌だ。
山口県は、小規模な酒蔵がほとんどで、広島や灘への桶売りでしのいできた。大手メーカーに左右されてきた歴史に終止符《ピリオド》をうち、地酒をとり戻したい。かれのこのおもいは、徐々に広まっていった。
やがて、村田店主をリーダーとする酒販店仲間がつどい、二年まえに十五名で山口|酒呑童子《しゆてんどうじ》≠結成。会では、消費者の啓蒙とPB(パーソナルブランドの略。オリジナルな酒を蔵でつくってもらい、自店だけで売るもの)づくりをめざすが、会費や会則はない。あるのは長期展望《ポリシー》だけである。メンバーは、県下の各都市に散らばっており、商売がカチ合うことはないという。
「全員が、田圃で酒米づくりの段階から体験したり、櫂入《かいい》れはもちろんのこと、麹室《むろ》で麹《こうじ》を揉《も》んだりしました。毎年、特定の蔵へたのみ、高品質な酒に『山口人の酒』と銘打ち、会員店だけで販売したんです」
「酒造りを学んだり、PBをやる酒販店は、今ではめずらしくありませんが……」
「そうでしょうね。まあ、それも消費者へのアピールと仲間との連帯には有益だったんです。そこから、戦略をかえ、本格的に応援していこうとする蔵を、まずひとつにしぼったんですよ」
「なるほど」
今度はわたしが、聞き役にまわった。
「つまり、桶売りに依存してきた蔵が自立するには、自醸酒《じじようしゆ》(その蔵が造った酒を自蔵の銘柄で出荷すること)をバックアップしてあげなくてはなりません。たとえ、都会向けでいちどきにワッと売れても、地元に一定のシェアがないと、万一の場合、蔵がコケちゃいますからね」
「純米・吟醸のブームが、いつまでもつづくとは限りませんからね」
「そうですよ。今年の冬は、全員で県下の蔵をくまなくまわりました。それで、『秋芳美人《しゆうほうびじん》』(美祢郡秋芳町《みねぐんしゆうほうちよう》 俵善雄酒場《たわらよしおしゆじよう》)に、白羽の矢をたてました。ここの野中修二《のなかしゆうじ》杜氏のひたむきさと技量に惚れこんじゃいましてね。皆で泊まりこんで、幾日も手伝いましたよ。おなじ釜のメシを食い、納得いくものがあったんです。この秋、『上酒屋《かみざかや》』(俵善雄酒場の屋号)という酒名で、大吟醸と純米酒と本醸造を発売します。これを突破口に、自醸酒の比率をふやしていけば、そのうち蔵は、大手メーカーに頼らず、独りだちできるでしょう。そういった蔵をいくつもつくりたい。それが、飲み手の舌の切りかえに、つながっていくんではないですか」
そこまで一気にしゃべると、かれは缶ジュースを飲みほした。
三月なかば。少しあいた窓から、さわやかな風が吹きこむ。陽気にさそわれ、わたしたちはブラリと外へ出た。
「店が手狭《てぜま》になったんで建て替えるわけじゃないんですよ。世の中には、プロなみの技《わざ》をもった職人肌の趣味人が、ずいぶんいますよね。何かのコレクションに凝《こ》った人もいる。鉄道模型マニア、切手収集家、自然志向のパン作り、味噌仕込みの上手なおばあちゃん……。ほら、毛バリづくりの名人だっている。そんな人達が腕によりをかけてこしらえたものや集めたものを、イベントとしてプロデュースしたいんだ。そのためには、空間《スペース》がいるからね」
「フロアを開放し、プロの芸術家の作品を展示する酒店は、たまに耳にしますが、内容がどうちがうんですか」
わたしは、ゆっくりとした足どりでたずね返した。
「たとえば、切手集めの好きな人でいくとさ、出品作のほかに、切手の発売当時の社会現象なんかを見出しふうにかざる。それと、斬新《ざんしん》でどでかい切手の絵を描《か》き、フロアーにいくつもでんとならべるんだ」
「おもしろい発想ですね」
「絵はぼくにまかせてほしい。レイアウトもね。するとさ、収集家自身が、今までひとりの世界では味わえなかった異次元の体験もできるだろうし、店へ足をはこんだ人にも新たな反響が生まれる。横のつながりだってふくらむ。そういう場で、文化とか地酒、ワインのことまでみんなでトコトン語り合う。そんな出会いと発見の場にしたいんだ」
わたしたちは、一坂《いちのさか》川のほとりにきた。古城岳、鴻《こう》ノ峰《みね》の連山が、うすれゆく春霞《はるがすみ》のかなたに輪郭をあらわした。話をかわしているうち、村田店主のねらいがやっとつかめてきた。
「秘伝の味噌づくりのおばあちゃんか。いいですねえ。村田さん。わたしも、旅先で出会う紙漉《かみす》き職人や漁師、炭焼き師なんかが大好きなんですよ」
「うん。ぼくもなんだ。いいよね。大工の棟梁《とうりよう》、彫刻家、なんといっても杜氏。一芸にひいでた人たちの話は、とても味があるよね」
かれは息をはずませ、道路ばたのわずかな土にのびるタンポポの花に眼を細めた。
多摩美術大を卒業し、東京の広告代理店につとめ、デザインを担当。十年まえにUターンし、こうして家業を継いでいる。
そういえば、村田店主を引きあわせてくれた掛田さんも、陶器《やきもの》づくり三十年の経歴をもつ。みずからが収集した陶磁器二千点を、ゆくゆくは地元横須賀市へ寄附し、美術館をつくってもらおうと目論んでいるほどだ。一見、地酒とかかわりのない道楽だが、伝統文化として奥底は通じている。地酒へのこだわりも、そこから湧いてくるのだろう。
ドッジボールの青い球《たま》が、不意にころがってきた。路上で小学生たちが、まぶしそうにこちらを向いている。村田店主は球《たま》を拾いあげ、片手でニッコリ合図すると、思いきり投げ返した。
「でも、北川さんはサラリーマンとはいえ、あちこちを旅ができて、ほんとうに羨《うらや》ましいなあ」
「とんでもない。気ままそうにみえますが、これがどうしてどうして。まあ、いわば、業《ごう》を背負った巡礼のようなもんですよ。体力だっていりますし。持病の腰痛を押して、出かけているんです」
「そうですか。じつはぼくも右ふとももに、ちょっとした故障をかかえていてね」
高校時代にラグビー部で鍛えたという頑丈そうな体つきからは想像しにくいセリフが、かれの口からついて出た。
上竪小路の界隈を一周して、わたしたちは店へと帰り着いた。
村田酒店で、五百ミリリットル入りの「山口人の酒」(玖珂郡周東町《くがぐんしゆうとうちよう》 旭酒造)を一本買いもとめ、わたしは店をあとにした。
新岩国駅から錦川鉄道へと乗りかえる。
二両編成のディーゼル車が、軌道をすべっていく。両岸をおおう雑木林と竹ヤブを映した本流が窓をよぎる。錦川清流線《にしきがわせいりゆうせん》という名にふさわしく、流れに透《す》けてみえる底石は、ひときわつややかだ。
乗客もまばら。バッグから「山口人の酒」をとりだすと、瓶のフタを盃《さかずき》がわりにして、キュッとかたむけた。
精米歩合四〇パーセントの大吟醸生酒。清《さ》やかな味わいが、口中をつつみこむ。川景色を肴《さかな》に、たちまち一合ほどを飲んでしまった。
終点の錦町駅から、町営バスに揺られ、十五分。支流|宇佐《うさ》川の中流域にある「古江《ふるえ》」のバス停で降りた。
川にかかった石橋の欄干《らんかん》に、案内板が立てられてある。しばらく歩くと、笹におおわれた生け垣のうしろに、本堂の大屋根がみえてきた。
俊道《しゆんどう》様(正式名は江龍寺《こうりゆうじ》。一六〇〇年代に建てられた)と呼ばれ親しまれているこの寺は、伝説の古刹《こさつ》だ。十五代目の住職俊道和尚は、知徳にあつく、庶民の教化に尽くした禅僧であったという。
晩年は下半身の病《やまい》に苦しみ、「酒を持って参らば、かならず腰から下の病気を治して進ぜよう」と遺言して入寂した。明治十五年のことである。
境内の端に、五坪ほどのお堂が建ち、御影石でできたつるつるの卵塔が奥にかしこまる。それはまるで、徳利を逆さにした形のようでもあった。
旅具を地べたに置き、なかへ入る。墓石のぐるりには四合瓶が林立し、日の経ったアルコールの酸臭がたちこめていた。「金冠黒松《きんかんくろまつ》」「東洋美人《とうようびじん》」「金雀《きんすずめ》」など、県内の地酒がほとんどである。
祈願名簿帳と名のついた大学ノートをめくる。
「腰と足の痛みをとって下さい」「長年の前立腺肥大症に悩んでおります」。下《しも》の訴えばかりが目立つ。近県だけでなく、四国や九州、東京方面からの参拝客も記帳していた。
そなえつけの線香をあげ、持参の五百ミリリットル瓶を墓石の頭へなみなみと垂らす。根元に敷きつめられた玉砂利にフルーティな香りをたたせ、大吟醸が染《し》みこんでいく。
この酒なら、きっと霊験《おかげ》もあるだろう。いや、虫がよすぎるか。のこり酒の入った瓶を、墓前にそっと手向《たむ》けた。
本堂は静まり返り、物音ひとつしない。わたしは、附近の縮尺地図をバッグの上にひろげ、しばらくながめていた。
すると、棟つづきとなった庫裡《くり》のガラス戸があき、綿入《わたい》れを着た老婦が、そろりとした足つきで出てきた。
寺を守る沖墨寿子《おきずみひさこ》さん(八十二歳)である。お堂に生けた花をとりかえにきたのだった。軽く会釈をかわす。
南向きの縁側に腰をかけ、沖墨さんとしばらく雑談にふける。
「わたしたち夫婦は、昭和十五年に萩《はぎ》からこちらへうつってきたんですいの。その時分はまだ、俊道様にソロバンを習ったいうおじいさんが、古江に住んどりました。本堂は寺子屋がわりにつかっていたちゅうんですいの」
二十三代目の住職であった夫は七年まえに亡くなり、単身で暮らす寿子さんは、足先をさすりながら、ぽつりぽつりと回想した。
俊道和尚の墓は、はじめは粗末なものであった。参拝者がひっきりなしに酒をかけるので、タワシで擦《こす》ると、表面がしだいに剥《は》がれ落ちてしまうほどで、夫の沖墨蓬洲《おきずみほうしゆう》氏が、今のように建てかえたという。
「地元の人にしたわれていた暮らしぶりがうかがえますね。それにしても、かなり飲んべえな和尚さんだったんですねえ」
境内の中央に、クロマツの古木が飄々《ひようひよう》とそびえたつ。妻も子もいなかった俊道和尚は、この寺で風月を友とし、酒をひとりで楽しんでいたのだろうか。
アルコールにひたっていたところだけみると、いかにも奔放で気ままにすごしていたように思われがちだが、果たしてそうだったのか。じつは、長年わずらった持病の痛みをまぎらわすために飲んでいたのではないかと、わたしには推察されるのだ。そうでなければ、禅僧としてあのような遺言を、思いつきだけでのこすはずはない。
またひとり、参拝者が酒瓶をぶら下げ、寺へやってきた。作業着すがたの中年男性である。
「下《しも》の病気ばかりじゃあなく、子宝、安産、交通安全までえっと(いろいろ)です。代参して、本人さんの患部が癒《い》えた例もあるようですよ。みなさん、口伝《くちづた》えで来《き》んさるので、ああしてお酒を持って来んさる。あちらには、処分できん量の瓶が置いちゃるんです」
寿子さんに指《ゆび》さされ、本堂の脇へとまわる。生け垣にそった細ながい庭には、酒瓶がぎっしりと積まれていた。その数およそ三万本。わたしは言葉をうしなった。
寺を立ち去る際、村田店主の右ふともものことがひょいと頭をかすめる。わたしは、かれのぶんまでもう一度、お堂で手を合わせた。
日がくれるまでには、もう少し時間がある。バス停ちかくの酒店に荷物をあずけ、近くの谷を釣り歩くことにした。
釣竿をにぎりしめ、釣場へと急ぐ。なんとなく腰のあたりが、軽やかに感じられてきた。
[#小見出し] イワナに召された男たち
梅雨入りをしてまもない東北の空は、鉛色に低く垂れこめていた。
福島市のはずれ、旧奥州街道に沿った瀬上町《せのうえまち》。県の東部を縦《たて》につらぬく阿武隈《あぶくま》川の本流と支流|摺上《すりかみ》川の合流点にほど近い。
ここに住んでいる渓流釣師の八代《やしろ》健一氏を知ったのは、三年まえだ。当時、平家伝説のあれこれを調べていたわたしは、「茂庭《もにわ》」という村落の詳細を得るために、市役所へ一通の照会文をしたためた。
書面回答の窓口となったのが、八代氏である。その一連のやりとりのなかで、互いに渓流釣りを好む者同士だとわかり、意気投合。釣歴も似たりよったりの同世代ときていた。
「茂庭《もにわ》」は、摺上川の上流に開《ひら》けている集落である。編纂《へんさん》された市史をさぐると、平家落人とはほとんど縁《ゆかり》のないことが明らかになった。
だが、そこへイワナを釣りにゆくめぐり合わせとなった。
摺上《すりかみ》川を釣りのホームグラウンドにしているかれからの誘いに、つい、食指が動いたことも事実なのだが、それだけではない。
同地区は、やがてダムで水没する憂《う》き目《め》にあると聞かされ、なおさらこの眼におさめておかなくてはとの思いに駆《か》られてしまったのだ。
ところが、イワナにまつわる奇異な事件を通し、源流釣りの裏側にひそむ魔性の魅力≠、まざまざと見せつけられる旅となったのである。
釣行前夜、八代氏の家《うち》では、釣り人たちの酒盛りがおっぱじまっていた。
八代、富樫《とがし》、清野《せいの》氏ら三人とわたし。地酒の瓶が、庭に面した座敷の卓上に据《す》えられている。「李白《りはく》」(島根県松江市石橋町 李白酒造)大吟醸七二〇ミリリットルと純米酒一・八リットル。
「うちのカアちゃんはよ、となり近所から|釣り未亡人《フイツシング・ウイドウ》と呼ばれとるとさ、オレにつくづく嘆《なげ》くんだよ。土日《どにち》はきまって、家を空《あ》けっからなー」
「そうだでば。そのぶんは、あっちでサービスしなくてはなんねがらない」
口々に冗句をはさみつつ、大吟醸をくみかわす。
「ところで、北川さん。摺上《すりかみ》川は、とんだミステリー川なんですよ。そう、昭和六十三年のちょうど今じぶん、六月でした。わたしは、女房の弟とふたりして出漁したんです」
小太りした体格の八代氏は、眼鏡をずり上げて、おもむろに切りだした。
かれの話はこうであった。ホームグラウンドにしている支流の烏《からす》川源流へ釣りに入った日のこと。たまたま、沢で出会ったおなじ町内の顔見知りが二名、奥地にわずかな手がかりをのこしたまま、忽然《こつぜん》と消え去ったというのだ。
家族の届け出により、行方不明となった日の翌々朝から、必死の捜索活動が開始された。
しかし、沢の奥ふかい場所で、わずかに二本の渓流竿が確認されただけであった。一本はブッシュ(茂み)に引っかかり、もう一本は三十メートルほど下手《しもて》の水際で発見された。
失踪(?)したふたりのあいだには、多額の金銭の貸し借りがあったことまで判明し、新たな憶測と疑惑を生んだ。そこで、遺留品の少なさからも、転落事故と遭難の両面から、あらためて山狩りがつづけられたのである。
烏川は、摺上川水系のなかではもっとも急峻なところである。七日間におよぶ捜索は、延べ人員四百五十人。福島県警をはじめ、地元消防団、アクアラング隊までが動員された。
「かれらのほうから、強引に沢筋へ割りこんできたというんですか」
わたしは、平皿に盛りつけられたイカニンジン≠箸でとり、かみながらグラスの大吟醸をグビリとかたむけた。
タレに漬けこまれたスルメと千切りニンジンが、酒とやけに相性がいい。イカニンジンは、福島地方のおせち料理にも欠かせないものである。
「そう。なんせ、かれらの歩きっぷりといったら、そりゃ尋常じゃなかったからない。年のいったほうは、川石に足を取られ、転んだりで、必死の形相をしてうしろから追いすがってくるんですよ。こちらも明け方から歩いていたもんで、抜かされてなるものかと意識し、その間《かん》、ずいぶんと重苦しい雰囲気だったんです」
「われわれ渓流釣り屋の世界の暗黙のルールとして、先行者の進路を侵してはならないってのがありますよね。よほど、ふたりは追い越して竿をだしたかったんだなあ」
「ええ。かれらも、その辺は承知していたものか、ぴったりとマークしてきたんです。朝の七時をまわったころかな、滑谷《なめや》沢との出合いで、こちらのほうからいっぷくをとったんです。そこで、憤懣《ふんまん》やるかたなく、かれらを見すえて問いかけたんですよ。あんたらはいったい、どこを釣《や》るつもりなんだ! とね」
「直談判《じかだんぱん》というわけですね」
「ふたりは無理をしていたのか、完全に息が上がってましたよ」
「それで仕方なく、めあての源流部をゆずったと……」
「そう。なんだか、いたたまれなくなっちゃいましてね。わたしらも、クルマ止めから二時間以上を歩きづめだったし、なんとも惜《お》しい気持はありましたけど」
八代氏は、アルコールで顔を紅《あか》らめて、四年まえをふり返った。
「でもさ、なんかおかしいと思わねえかい。釣り人つうのは、自分の竿は、絶対離さねえもんだべえ」
座のなかでいちばん若い清野氏が、腑に落ちないといった表情をあらわにした。単なる事故死でなく、やはりキナ臭い事件だというのだ。
「手のこみすぎたやり方だとすると、まるで太田蘭三の渓流釣り小説みたいだべなあ」
そう言うと、年嵩《としかさ》の富樫氏は、味のなじんだ凍豆腐《しみどうふ》に、箸を突きたててぱくついた。
「軽々しく断定できないよね。じつは、奈良県十津川村でも、七年まえ、実際に不可解な事件が起こったんだよ。うら若き保健婦とねんごろになったある中年の妻帯者がね、恋の道行きの果てに、逐電してしまったんだ。その後、渓奥の崖から落ちて燃えあがったクルマのなかから、女性の亡骸《なきがら》だけが見つかったんだが、相手は杳《よう》として行方がわからないままさ。深山幽谷での出来事は、捜索に限界があるからねえ」
わたしは、別件のてんまつを打ち明けた。
「へえー。すると、全国のどこかの谿《たに》で、イワナ釣りを名目に、ひそかに悪巧《わるだく》みがおこなわれてもおかしくないだべや。手はじめに釣りの味を覚えこませ、徐々に相手を奥地へとおびきだすってえの」
富樫氏が、小説の筋書きを引き合いにだし、ひとりで神妙に推理しはじめた。
「おい、おい。いいかげんにしろや。オレは今回のことは九九パーセント事故(転落死)だと思ってんだからよ」
八代氏がクギをさす。
「んだげんちょ、清野ちゃんの度胸にはまいったべ。オレは遭難した釣り場に、まる二年間足をむけられなかったけんども、事件の年の秋に、ひとりで入渓したもんなあ」
「おまけに、清野ちゃんはしびらっこい(しつっこい)釣り方をするもんな」
「ああ。へっちゃらだべー。誰もが気にして奥へ入《はい》んねえから、たっぷり大釣りができたもんな。はっはっ。だけど、帰って友達に渓魚《うお》を配ったら、人喰いイワナ≠ナねえのかと、気持わるがって食べようとしなかったべえ」
生来の負けん気を眉間《みけん》ににじませ、かれは四合瓶をつかむと、自分のグラスになみなみと注《つ》いだ。
「『李白』か。この酒は、ほんとにツヤがあるだべなあ。松江というと、宍道湖《しんじこ》のほとりだよね」
「どれどれ。うむ、酒名は月下独酌《げつかどくしやく》≠チていうのか……」
と、富樫氏が下アゴを突きだし四合瓶をながめ、ラベルに書かれた漢詩を、声をあげてゆっくりと辿《たど》り読みをした。
花間一壺酒 花間一壺《かかんいつこ》の酒《さけ》
独酌無相親 独《ひと》り酌《く》んで相親《あいした》しむ無《な》し
挙杯邀明月 杯《はい》を挙《あ》げて明月《めいげつ》を邀《むか》え
対影成三人 影《かげ》に対《たい》して三人《さんにん》と成《な》る
「よく読めたもんだねえ。李白といえば、酒をこよなく愛した唐時代の伝説めいた詩人だない。月と酒をうたった詩が多いよね。今夜は、曇って月が見えないのが残念だなあ」
八代氏が、縁側のほうを見遣る。
「ちょっと前に蔵をたずねた折、買って帰った酒です。蔵元によれば『李白』という銘柄は、松江の生まれの首相、若槻礼次郎《わかつきれいじろう》が命名したそうですよ。この人も、国会答弁に酒をひっかけていったことがしばしばらしい。ほかの代議士にとがめられると、君たちのように、わたしは酒を飲んでも呑まれはしない。李白は酒を飲《や》るほど名詩をつくったが、わたしも飲むほど頭が冴《さ》えてくるんだ≠ニ豪語したっていう話ですよ」
わたしは、酒名の由来をひとくさりぶった。酒杯がハイピッチですすみ、釣り人たちの夜話はいよいよ深更におよんでいった。
翌朝、八代氏とわたしは、摺上《すりかみ》川をめざした。
霧雨《きりさめ》を突き、国道三九九号線を北西へたどる。飯坂《いいざか》温泉街から十五キロあまり。クルマは、点散する在所を越え、深緑の谷あいを縫《ぬ》っていった。
「中茂庭」より上流が、ダムの建設予定地となり、「屶振《たなぶり》」「獅々内《ししうち》」「梨平《なしだいら》」「名号《なごう》」の各集落は、やがて湖底に沈んでいく。
「梨平」でクルマを止める。補償交渉がすすみ、まわりの山林は予想水位まで伐《き》りこまれ、取りこわされた住家のあとに、廃材やガラクタが累々《るいるい》と横たわっている。
ぽつんとのこる萱葺《かやぶ》き民家のむこうに、こぢんまりとした分校と古びた社《やしろ》が、かろうじて原形をとどめていた。ブルドーザーで掻《か》かれた境内に建つ拝殿をのぞきこむと、「御岳《みたけ》神社」という筆書《ふでが》きが暗がりから浮きでている。
クルマのドアをばたんと閉めたかれは、車体に背中をあずけ、凝然と声をつまらせた。
「ここはすっかり、廃墟となっちまったな。釣りにむかうとき、いつも通ってきたのに、あらためて降りてみると、なんだかゾクッと鳥肌が立つなあ」
「無理もないでしょう。何百年ものあいだ、土地の人が生き死にした暮らしの場ですよ。まして、ダム反対を叫び、涙をのんで去っていった村人たちの怨念とか霊気が、ただよっていてもおかしくないですからね」
わたしは、荒涼としたたたずまいをながめた。
「まっ。ひとまず、支流の柳《やなぎ》沢にでも入渓《はい》りましょうか」
八代氏は帽子をかぶり直し、そそくさと運転席についた。
柳沢を一時間ほど釣ってみたが、釣果はいっこうにかんばしくない。かれは、遠来の同行者を気遣っている様子だ。
「おかしいな。これだけやって魚信がとれないとは、毒流しでも喰《くら》ったべかなあ」
釣りコースを一任された案内者は、沢石を踏みしめながら、しきりにボヤく。
「イワナの面《かお》を拝めさえすりゃあ、それで本望《ほんもう》なんですが」
「烏川に行ってみっかな。あそこなら確実にイワナが……」
かれは、意を決してこちらを見た。
「ええ。やっぱり、そこで竿を出してみましょう。そうときたら、すぐに引き返すにかぎりますよ」
昨夜から好奇心がもたげていたわたしは、ニヤリとうなずいた。
烏川林道を奥へすすむ。源流部までは、ゆうに十五キロ以上はある。だが途中、崖くずれのため道はふさがれていた。仕方なくクルマを置き、眼下の川をめがけて降りていった。
前方を遡行する八代氏は、軽快な腕さばきで、釣竿をふりはじめる。
ククッ、グイッ! わたしの竿に、深淵の底からひったくるような手応えがきた。宙を舞ったのは、二十センチ強の中型イワナ。斑点のきわだつスマートな魚体だ。そっとにぎりしめ、見惚《みほ》れる。
渓間に、ヒンカラララ、ヒンカラララとコマドリのさえずりがきこえてくる。山形との県境、栗子山《くりこさん》や七ツ森一帯は、ブナ、ナラなどがふんだんにのこる貴重な涵養林となっている。
さらに遡行すること、三時間。ふたりは水辺の岩に腰をかけて、弁当の包みを開いた。ひんやりとした沢風が、ラガーシャツをなでていく。
地酒の二合瓶の口をひねり、ひとつしかない小さめのコップで、代わるがわる喉元へながしこむ。
「例の地点は、もっと上流ですよね。ここらは、まだけわしい渓相ではないし」
「ええ。烏川は懐《ふところ》がふかいんです。遭難さわぎがあってね。女房からどうしても、そこへは入ってくれるなと頼まれました。でも、三年目になったころ、我慢ができなくなって、性懲《しようこ》りもなく、またも烏川源流へ踏みこんだんです」
「やはり、釣果がすばらしいからですか」
「渓流屋の助平根性というのかなあ。事件のあった沢の合流点に着くと、今でも思わず両手を合わせてしまうんですよ」
「そうでしょうね」
「あの日のあくる晩から、みぞれまじりの大雨が三日間も降りつづいたんです。おまえはここらに詳《くわ》しいだろうって、捜索隊の先頭を切って歩かされましたよ。雨で川筋はかなりひどかったなあ」
幾班にも分かれ、栗子山から放射状に実施した山狩りで見つからないのは、なんとも謎めいていると、かれは繰り返す。
「わたしは、やばいポイントで二人が竿をふっていて滑落《かつらく》し、滝壺の根っこの伏流水に、呑《の》まれたんじゃあないかとみているんですよ」
「たしかに、沢底にはイワナ道《みち》と呼ばれる謎の伏流水が存在するといわれてますからね。万一、そこへはまれば、二度とは浮きあがってこない」
「かれらは、何かに憑《つ》かれたのかなあ。うーん。あの時間で渓奥をひき返しても、とっぷり日が暮れるからな。渓流魚《さかな》釣りたさに夢中になり、挙句のはて、イワナに召《め》されたんではねえんだべか」
「まさか、月あかりの下で、竿をふっていたなんてことは、まずあり得ないでしょうが……」
わたしは、酒仙と呼ばれた詩人・李白を、ふと思いだした。
李白は晩年、川のながれに映る月影をすくおうとして、水に落ちて亡くなったと伝えられる。月とイワナのちがいはあるにせよ、ベールにつつまれた事件と、ふしぎにオーバーラップしてきたのだ。
歩きくたびれて痛む右の踵《かかと》を手でさすり、わたしは、陰影に富む沢べりに視線をやった。
両岸には、桃色のイワシバナが咲きこぼれている。はるか渓奥を見通すと、そこは緑の宮殿のごとく、釣り人をあやしく手招きしているようであった。
[#改ページ]
[#小見出し] あとがき
酒を愛する世の老若男女には、一家言ある人が多い。自分なりの好みの銘柄がある。
石川県のある蔵のヤマハイ本醸造をぬる燗で飲《や》るとナベ物にうってつけだとか、秋田のどこそこにある造り酒屋の大吟醸にまさるものはないとか、各自が舌でおぼえた嗜好を、大事にしている。そういった飲み手側の確信は、個人個人の舌に頼った尺度といえる。つまり、官能とか嗜好の尺度として、酒のあれこれが語られているといっても過言ではない。飲み手にとっては、自分の口に合うかどうかがキメ手なのだから、しごく当然のことだろう。
だが、好みが多様である以上、万人が旨いとほめる酒は存在しにくい。すると、「旨い」とはいったい何なのか。
日本酒が昔から、人と人とをつなぐ潤滑油になったり、日々の疲れをいやす飲み物でありつづけてきたのは、陶酔境へと誘《いざ》なう酒たる役割のほかに、酒造りそのものに水面下のストーリーが秘められているからではあるまいか。その凝縮として酒が生まれる。たんに酔うための道具ならば、おそらく人生の節々や暮らしに、こうも作用しないと思う。
渓流釣りの延長で、地方の酒蔵をめぐり歩いてきたわたしにとって、地酒はただの口福飲料≠ナはなくなった。
地酒の世界に、好みという味覚を超えたグレード(品質の等級)があると分かったのは、酒造りにたずさわるようになってからである。
グレードの高いものとは、一定の品質水準をそなえた旨い酒であり、杜氏の器量や能力のみならず、酒蔵の歴史、気候条件、蔵元の素養、働く者の人間性にまでわたる諸要素で決まってくる。造り酒屋の社会的使命を自覚する蔵ほど、グレードアップをめざしている。
大げさでなく、それだけ地酒がメンタルで、摩訶不思議な醸造物であるように思うのだ。
こんな視点から、ほんとうの旨い酒とは、人の心をいやす酒質とはどういうものかを問いかけたとき、酒界と一見かかわりのない世界にまで、おのずと足が及んでいった。炭焼き、郷土史研究、魚醤油づくり等々の分野へ。わたしにとって、それらは酒造りの営みとどこかで結ばれた共通の意味をもっていたからである。
そういった分野の人達には、みずからの仕事へ一路突き進まざるを得ない軌跡があった。わたしは、これらの軌跡をたどることによって、旨い酒のありようを知る思いがした。地酒と人とのかかわりを探《さぐ》る飲み手のひとりとして、筆をとるに至った次第である。
本書をまとめるにあたっては、旅を通してご協力をいただいた数多くの方々に、また刊行に際しては、講談社文庫出版部の守屋龍一氏に感謝したい。
一九九四年十月
[#地付き]北川広二
本作品講談社文庫版は、一九九四年一一月刊。
本電子文庫版では、文庫版掲載の写真および巻末掲載のリストは割愛しました。
*
[著者]北川広二
一九五〇年、大分県に生まれる。同志社大学経済学部卒。渓流魚を追い求めつつ、地方蔵を訪ねて、酒造りを学ぶ。著書に『秘酒と渓流魚《さかな》を求めて』(つり人社)『日本全国旨い地酒を求めて』『旨い地酒が飲みたい』(講談社)『日本達人紀行』『杜氏一代』(無名舎出版)がある。九州ノータリンクラブ会員。みみずく倶楽部会員。純米酒・吟醸酒を育てる会代表世話人。
〔連絡先〕〒634-0844 奈良県橿原市土橋町146‐20 児玉進