最後の戦い/ボイルドの追想/失墜した魂たち――待望の長篇第二作、ついに始動!
マルドゥック・ヴェロシティ
Prologue & Epilogue
冲方 丁
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)マルドゥック市《シティ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|使い手《ユニット》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)
-------------------------------------------------------
マルドゥック市《シティ》、戦中から戦後へ。
戦時下の死と熱を免れ/仕掛けられたもの/仕掛けたもの/人、金、物/各グループ、経済効果、建築物/形づくられる|天国への階段《マルドゥック》――遥か高みへ/複雑な軌跡/失墜。
歴史――愚かさを知る者ほど口を閉ざす。
沈黙の誓い――だが黙っている恐ろしさよりも、忘れてしまう恐ろしさの方が強くなる。
熱い思い――忘れる前に語るべきものを全て抱いて塵に還る/爆心地《グラウンドゼロ》――到達/虚無/招かれた魂/招かれざる生存(おお、炸裂よ)/いつまでも響く/衝撃の波――
9※※※※※※※※
マルドゥック市《シティ》、イーストリバー沿い。つらなる安価な建物、オレンジ色の街灯、コンクリートブロック。その狭間で、銃撃の咆吼を上げる二人の怪物が――男と少女がいた。
巨大な拳銃を握りしめ、目に見えぬ擬似重力《フロート》をまとってビルの壁面に立ち、少女を待ちかまえる男――その左足は膝上から下が消失し、重力《フロート》を足の形にして体を支えている。
全身に白いスーツ――|使い手《ユニット》の守護を存在意義とする|万能道具存在《ユニバーサル・アイテム》にぴったり守られた少女――両手に銃を握り、右手首から伸びるワイヤーをビルの窓の一つに絡みつかせ、高速で巻き戻す。そして男が撃ち放つ弾丸をぎりぎりでかわし、飛翔した。
少女の体が、壁に立つ男よりも高い位置に躍り出た。男は素早く身をひねり、これまで戦ってきた中で最も年若く、優秀な、類い希なるその同胞に向かって、引き金を引いた。
撃針が弾丸を叩くコンマ数秒前――少女の形をした怪物が、壁を蹴った。弾丸が少女の脇腹をかすめ、スーツを抉《えぐ》り取る。衝撃吸収材が火の粉となって飛び散り、肌が灼かれ、弾道に沿って黒い跡を残す。
ワイヤーが、少女の操作《スナーク》で切断された。一瞬、少女の肉体が宙で静止する。暗い夜空に浮かぶ少女の姿に、いっとき男は強い歓喜に襲われた。
ある予感が男の胸をつき、それにつき動かされるようにして銃口を狙い澄ます。
少女の右手の銃が、ぐにゃりと変身《ターン》し、新たな武器となり――頭から落下してきた。ビルの壁に肩をこすりつけるようにして滑り込んでくる少女に向かって、男が撃った。
炎が燃え上がった。少女の左手の銃から放たれた弾丸が、男の放った弾丸と正面から衝突したのだ。めくるめく火花の向こうで、少女が|右手の武器《、、、、、》を振るった。高磁圧《ハチスン》ナイフが、男の銃撃に従って開かれる重力《フロート》の壁の隙間に正確に潜り込む。
狙いは、男の銃を持つ方の腕だ。男はすかさず身をひねり、もう一方の腕を犠牲にした。
右肘のすぐ上を、刃がなぎ払った。激突から離脱へ――少女が落下し、地面にぶつかる寸前、スーツの裾がクッションに変身《ターン》し、柔らかく跳ねた。
スーツの裾を翻して少女が歩道に立つ。目の前に切断された男の腕が降ってきたが見向きもしない。右手にナイフ、左手に大口径の銃を握りしめ、ひたと男を見上げる――紛《まぎ》れもない怪物的な姿に、男は、さらに強い、痺れるような歓喜を感じた。
ますます強くなる予感――ここが約束の地、グラウンドゼロかもしれないという思いとともに男は重力《フロート》を消し、宙に身を投じた。まるで解き放たれた一個の爆弾のように。装置が損傷し、壁面に立つと体を守る重力《フロート》に致命的な穴が空いてしまう状態だった。それゆえに――いや、今|ようやく《、、、、》有利な位置を棄てて、男は、少女目掛けて落下したのだった。
すぐさま少女の体を白いスーツが覆い尽くし、
(ウフコック――)
男の胸に、その名がよぎった。最強の武器――友人であり相棒であった者の名。そして、追憶が訪れた。多くの顔が一瞬にして浮かび、抱き続けてきた思いが甦った。
かつて味方の上に爆弾を投下したときの思い。ぞくぞくするような歓喜と、身を貫くような悲しみ。そしてどんな希望も粉粉にすり潰す、後悔の渦。
自分はずっと、己を爆弾と化させ、爆心地へ到達するときを求めていたのだ。友軍を吹き飛ばし、醜く歪んだ生存者たちを生み出したあの瞬間から、ずっと。ある軌道に乗せられ、到達点目掛けて落下し続ける人生の決着を――そして、あのとき自分の口から迸った、
(おお、炸裂よ――!)
祈りの叫びを込めて、男は全ての盾を攻撃に転じ、重力《フロート》の鉄槌を振りかざして落下したのだった。全ての始まりと、多くの失墜の記憶を、胸に甦らせながら。
※8※※※※※※※
人生の定義/衝撃とは何か――もたらされた予言。
〈「衝撃限界《ダメージ・バウンダリ》理論とは、いかなる衝撃入力がダメージを引き起こすかを見極め、ダメージと非ダメージの境界領域を分ける手法である〉
預言者《シャーマン》の吐息/心を失った者の言葉=無垢なるデータの羅列。
〈衝撃は、〈速度変化《ヴェロシティ・チェンジ》〉と〈加速度《アクセラレーション》〉の二つの側面によって定義される。速度変化とは、衝撃の加速度波形の積分領域のことで、これが衝撃のエネルギー成分である。またダメージを引き起こす直前の速度変化を「限界《クリティカル》速度変化」といい、この限界速度変化の値から自由落下における等価落下高さの範囲が求められ、耐衝撃落下高さが示される〉
定義――意味論的に。
〈この限界速度変化以下では、加速度レベルがどれほど大きくてもダメージは発生しない。また、ダメージを引き起こす直前の加速度――「限界《クリティカル》加速度」以下では、速度変化レベルがどれほど大きくてもダメージは発生しない〉
風のような|囁き《ウイスパー》/最適な定義――衝撃について/男について/過去と未来について。
〈すなわちダメージの発生とは、衝撃のエネルギー成分である速度《ヴェロシティ》の二つの軸――「限界速度変化」と「限界加速度」が、ともに限界値《クリティカル》を超えることをいう〉
衝撃の定義/ある男の人生――短絡的なニュース=静止状態の端的な解説。
『彼――ディムズデイル・ボイルドが、戦時中の政治的奨励と軍事的啓蒙の産物であり、戦後の戦中批判の焦点ともなった肉体改造を許諾した理由は、失点の回復にある。入隊後、空挺部隊に志願――配属。のち転属――爆撃部隊のエリート。そして味方の上に爆弾を落とした覚醒剤中毒者。それがディムズデイル・ボイルドである』
|渦巻き《ホイール》の愉快そうな声。
「軍が配給する『どんな疲労も忘れて任務をこなしたくなる薬の、やや行き過ぎた処方』の結果、『優秀だが、このままでは深刻な問題を引き起こす可能性のある兵員』として認定され、『沈黙の誓いを守ることによって年金支給が保証された孤独な退役者』となることを拒み、『失点を回復する最大の効果がある部隊への転属書にサイン』した……か。なるほど。君は、呆れるほど理想的な被験者だな」
髪は極彩色。眼差しは剽軽《ひょうきん》で鋭利。気むずかしげでいて愛嬌のある溜め息。三博士≠フ一人の、高らかな笑い。静止状態に変化の兆し。
彼の紹介――出会い/温もりの存在/金色の体毛/一匹のネズミ/弱々しげな――心。
囁き、|渦巻き《ホイール》の声で:「そしてディムズデイル・ボイルドは、その部隊(宇宙戦略想定科学部隊)の研究開発のために中毒からの脱却を決意し、成功した。失点を回復するための研究に参加し、成功した。さらなる研究に参加し、成功した。代わりに何かが失われてゆく感覚に耐えようとし、成功した。精神的・肉体的に、いかなるダメージも生じず、むしろ偉大なポテンシャルを獲得し、新たな軍人の/兵員の/国家の優れた道具の誕生を証明したのだという考えに賛成しようとし、成功した」
囁き、|渦巻き《ホイール》の声で:「その部隊(全てが虚構の科学部隊)において、錆びた銃≠ニ渾名《あだな》されたディムズデイル・ボイルドは、決して孤独ではなかった。得難い友人がそばにいた。その友人もまた彼を必要とした。そして彼とその友人は、ある出来事(人生の静止から解放へ)において同じ方向性を持った」
囁き、|渦巻き《ホイール》の声で:「すなわち、戦後の兵器開発批判と、研究所の閉鎖に対し――彼らは、道具と使い手の関係を保つことを決めたのである」
運命の定義/変化――研究所の解体/三博士=^三者それぞれの提唱。
閉鎖「社会とは歴史的推進力によって進行する一つの軌道だ。いかなる社会的試みも、指導者選びも、改革も、すでにある推進力をコントロールすることはできない。それよりも一つの閉鎖された――いかなる推進力の影響も受けない環境において、真に進化した共同体形成を試みよう。それは、世論がこの研究所に求めることと合致する。すなわち我々はここを閉鎖し、いつか外部社会が同じくらいに進化するときまで、永遠に滞留する」
支配「いいえ、優れた指導者の創出は、決して無意味ではありません。無軌道な社会変動を、強い力で方向付けることは、価値観の転換期において極めて有効な手段です。我々はこれまで一部の政治家や軍人が求めるものを造り出してきました。その実績を生かし、今こそ真に民衆が求めるものをす造り出すべきです。そのためにはまず民衆に、安価で短期的で本来的な、苦難からの解放を体験させましょう。そうすることで我々の技術は、必ず受け入れられるはずです。そしてその使用を、決して暴走しないように厳重に管理された指導者のもとでコントロールし、社会発展に用いるのです」
同化「いや、社会から逸脱して閉鎖する試みや、社会をコントロールする試みでは、何の有用性も証明できない。そもそも個人の幸福とは、以前からそこにあって個々人を待っている一種の軌道に乗ることをいう。安易に苦痛から解放したところで、それが充実した人生であるとは限らない。社会を思考の対象にするのは良いが、個々人を思考の対象とすれば残るのは物体だけだ。個々人がその軌道から外れること――特に生命の危機から守ることこそ、民衆が求めた科学の最初の実際的な成果だ。我々は、自分が造り出したものの価値を自ら定義してはならない。民衆の前に差し出し、民衆に決めさせる。そしてそのために社会的矛盾と一体化するのだ。我々の技術を彼らに帰すために」
加速/戦時下の熱と死を免れた者たちによる都市創造。
囁き、|渦巻き《ホイール》の声で:「いつからかディムズデイル・ボイルドは、自分がどこかに向かって落下する一つの爆弾であるという思考にとらわれるようになった。誰しもが墜落し、さらなる衝撃の波をもたらす日々において、それが自分の荒れ果てた人生の意義だという思いはますます強く彼をとらえた。かつて味方の上に落とした爆弾――あれが自分なのだ」
失墜/二つの限界値《クリティカル》を超えるセグメント。
囁き、|渦巻き《ホイール》の声で:「彼は兵士だった。魂の実存を信奉する――それが兵士の特質だ」
※※7※※※※※※
力の奔流が到来した。
振りかざされた左手――巨大な銃を握りしめるその手自体があたかも一つの砲身であるかのように、男に内臓された全ての力が白い繭に叩きつけられた。
まさに爆撃だった。白い繭を中心にアスファルトがめくれ返り、路上に亀裂が走った。爆圧が荒れ狂い、衝撃でビルの窓ガラスが一斉に砕け、火花と土煙が高く舞い上がる。
爆撃の恍惚が男の体内を走り、降り注ぐ土くれとともに鎮まっていった。
濛々たる砂塵が晴れ、男は膝の下にある白い繭に見入った。少女の体も顔もすっかり覆われ、生きているのか死んでいるのかさえわからない。
右腕と左足の傷から血が零《こぼ》れ、白い繭を濡らした。男は、甦りゆく追憶に半ば心を委ねながら、弾丸の熱で火膨れした手で銃を握りしめた。かつて何度もそうしたように、
(いたぁ……い、の?)
手のひらに感じる痛みと熱さが、失われた温もりの記憶を呼び起こすことを期待して。
(な……ぜ?)
脳裏に響くやけに澄んだ声、潤んだような赤い目。金色の体毛を震わせて訊く存在に、あのとき自分の心は確かに揺り動かされたのだという思い。
男はふと自分が泣いているのかと思った。多くの感情が失われた後の、空洞のような心の底に、いっとき、かつての仲間たちの顔が甦った。自分とネズミだけではない。大勢の者が有用性を問うて戦った。たとえその全てが失墜に終わったとしても――そこには、
(あた……たかい)
男が忘れてしまった何かの意味があったはずだった。そして全てが失われた後、男の手にはただ一挺の拳銃が残されていたのだ。
「何も……痛くはない」
男は零れぬ涙に代えて呟きながら、自分の手に残されたものを持ち上げた。そして、白い繭の、ちょうど少女の頭部があるだろう辺りに、銃口をしっかりと向けた。
「俺という虚無を……止めてみせろ」
引き金にかけた指に力を込めた。
そのとき――繭が弾け飛んだ。
まるで卵の殻を破る雛鳥のくちばしのように。舞い散る白いかけらの中、少女が握った刃が正確に振るわれた。男が狙い定めたため咄嗟《とっさ》に銃身を動かせない、その瞬間を狙って。
男の全人生に、刃が潜り込んだ。六十四口径――自分にしか撃てない至高の品であり、金色のネズミが最後に残していった魂の残り香であるもの。そのリボルバーの銃身が、少女のナイフによって真っ二つに切断されたのだった。
※※※6※※※※※
そしてきわめつけの加速/急激な進展/スクランブル-|09《オー・ナイン》の成立/実施/解放。
(爆撃せよ。命を守るため。それ以外の命を灰にして)
未曾有の好景気×新たな戦場×開かれたソドムの都市×炸裂の日々=胸に抱いた語るべきものたち。その顔、顔、顔/記憶に残る言葉、意志、応答。
(はっ、マルドゥック・スクランブル-|09《オー・ナイン》ときたか。十人と三匹のメンバーで始動……やれやれ、約四分の一が人間族以外とは)
法曹関係者に密かに公開された彼らのプロフィール/永遠に静止した一瞬/沈黙の誓いに封じられた彼らの顔ぶれ/三博士≠フ一人とともに。
盲目の〈|覗き魔《ピーピング・トム》〉=|09《オー・ナイン》実働部隊の初期リーダー。男/=b針金虫《ワイヤーワーム》≠フ使い手。
「視覚障害者用ファッション――ぴったり両眼を覆い隠す斬新な帽子をかぶる伊達男。あくのある経歴、冷静な頭脳、見栄えの良さが、リーダーとして最適だった」
元スナイパー/偵察兵/遊撃/上陸部隊の英雄――孤立した戦場と混乱した指揮、接近戦――経歴を語る|渦巻き《ホイール》の声。しかつめらしいくせに、どこか愉快そうな声。
「一発の弾丸が彼のこめかみ付近を直撃し、両方の眼窩を真横に貫き、吹き飛ばしたのだ。彼の頭蓋骨は電子義眼の移植手術さえ許されぬ状態になり、研究所は彼に新たな視覚を与えることを決めた。ナノテクノロジーの副産物――彼の体内で生成される|繊虫《ワーム》≠ヘ、空気中に放出されると光学的反射を行う器体として浮遊し、彼の脳に移植された受信器を通して直接的に映像を伝達する。彼はもはや目で見ず、脳で見るようになった」
「彼の脳は、三百六十度に及ぶ複眼視覚を受け入れ、|繊虫《ワーム》≠ェ入り込める場所ならば――たとえ暗闇でも――どこでも覗くことができる。実際はナノと呼ぶにはやや大きい|繊虫《ワーム》≠ヘ、あらゆる装備は万能でなければならないという軍の強迫観念的な要請により、視覚をもたらすと同時に武器としての機能を持つに至るまで改善が重ねられた」
「敵の宇宙船に丸腰で乗り込む――宇宙空間での装備は少なければ少ないほど良い――ことを想定された彼の力は、偵察と戦闘の両立を主眼として開発された。すなわち彼の体から発生する|繊虫《ワーム》≠ヘ連結して一本の細い針金――ノコギリ刃を持つ=b針金虫《ワイヤーワーム》≠形成し、きわめて遠距離に到達し、高重圧に耐え、鋭利極まりない切断器具となるのだ」
徒手の〈|銃騎兵《マスカー》〉=二輪車部隊出身。女性/最前線で銃が暴発し、両腕を失った機銃兵。
「彼女は、レールガンが過負荷で吹っ飛ぶまで敵に向かって引き金を引き続けたのだよ。その勇敢さに敬意を表し、軍は、彼女に好きなだけ乱射し続けていられる新しい両手をプレゼントすることに決めた。しかも大変に痺れるやつを。彼女に与えられたのは超伝導体を内蔵した機械化義手――極端に増幅された生体電気を発露させることができる手だ。とはいえ電撃は、彼女にとって最も原始的な戦闘手法に過ぎない」
渦巻くように語る声。うきうきとして、淀みなく。
「彼女は両手を失ってなお、文句なしの|百発百中《ブルズ・アイ》を誇る弾丸使いだ――ただしもう銃は握らない。その手に乗せられた物体は、圧倒的な電圧がもたらす極任意の超伝導により擬似的な凝縮相をなし、音速で発射される。超能力者が意志で弾丸を飛ばすように。彼女の手にかかればコンクリートの破片でさえ機銃の弾丸に等しく、毎秒二百発余の弾幕と化す」
〈|拳骨《フィスト》〉=歩兵小隊出身。青年/化学兵器で汚染された部隊の生き残り。
「しなやかな細身、童顔、はにかんだような微笑、そして三百キロを超す体重がチャームポイントだ。汚染された神経と筋肉を回復させる過程で行われた筋骨強化――きわめて単純な試みだ。つまり、人間の筋肉と骨格の限界を遥かに超えること」
「彼は一ドルコインを紙のように折り曲げ、ねじ切り、一方で柔らかな握手を交わすことができる。その握力は〇.〇〇一グラムから六十トンまで調節可能だ。両拳は雄牛の角のように硬化し、その『鉄拳』は厚さ八十センチの金庫のドアをぶち破る」
〈|再来者《レブナント》〉=歩兵小隊出身。青年/化学兵器で汚染された部隊の生き残り。
「肉体回復のために、彼の全身には、人工的に癌化された胎児の胚が移植されている。彼一人をレブナントにするために、数千体もの堕胎された胚が用いられた。彼のキャンサード・エンブリオ細胞は、刺激を与えると無限に増殖し、欠損した器官を補うように分化する。胸から下をミンチにしても、翌朝には再び玄関のドアを叩くのだ。彼の特技は、むろん、半不死であること――そして悩みの種は、極端な速度で進む、老化だ」
〈|囁き《ウイスパー》〉=ヘリコプター部隊出身。男/視覚と連動した器械体操の名手。
「彼は都市戦で撃墜され、負傷し、脳に障害を負った。研究所は彼の脳を治療し、改造し、完全な|天才白痴《イデオサヴァン》にした。彼は、脳内に埋め込まれた複数のチップと頭皮を覆う金属繊維を通して、直感でコンピュータを操作し、意味論的データベースを構築する。彼はデータを解析し、改竄《かいざん》し、盗奪するスペシャリストだ。ただし彼自身は、もはや言語を理解しない。他者を理解しない。コミュニケーションというものを全く理解しない。彼は一日中コンピュータと接続され、データが彼の囁きとなり、精神となった。彼は意図しない。ただ予言する。現代のシャーマンだ」
〈才能溢れる愚鈍〉=研究所所属。男/黒い羊――有望視された研究者。
「かれは|直観的記憶力《フォトグラフィック・メモリー》に優れ、改造手術をさせれば右に出る者はいない技能の持ち主だ。|09《オー・ナイン》の実働メンバーでただ一人の生身――見ての通り、体重百六十キロの巨漢。タイヤを積み重ねたような腹が魅力的だ。夢は|死体安置所《モルグ》を丸ごと買い取り、自分のオフィスにすること。そして世界中の人間に高い次元への入り口を――改造手術をもたらすことだと記者の前で公言し、人体改造マニアの汚名を頂戴した挙げ句、刑務所行きを宣告された。要するに、刑の実行を免れるために|09《オー・ナイン》に救いを求めた、純然たる研究者だ」
〈|ハサミ《シザーズ》〉兄弟+〈|ネジ《スクリュウ》〉=機械化部隊所属。男たちと一匹の猿。
「彼ら三人《、、》は、最前線で心理障害を負った者を集めて作られた機械化部隊の生き残りだ。彼らは三人で一人だ。統一人格――すなわち脳に移植された装置が、彼ら全員の体験=感情/直感/思考/五感をリアルタイムで共有させ、一つの人格的存在にまとめあげるのだ。彼らは違う場所にいながら常に情報を共有する。お互いの型紙を切り抜き合う、分離不可能の|ハサミ《シザーズ》だ。血のつながりはなく、九人いた統一人格部隊は彼らを除いて全員、原因不明の意識混濁ののちに死に陥った。そして彼らの統一しきれない人格のゆらぎ≠司《つかさど》る、|ネジ《スクリュウ》と名づけられた猿――たどたどしいが人語を話す、彼らのアイドルだ」
〈|不可視《インビジブル》〉=優秀な|軍用犬《ミリタリードッグ》上がりの改造生物/犬。
「研究所は彼に、究極の隠密性をもたらした。すなわち体表の擬似透明化能力だ。彼は過度に強化された嗅覚、底なしの体力、忍耐力、瞬発力を有する。加えて体毛の一本一本が光学的な擬似透過の効果を発揮し――透明化するのだ。誰の目にも咎《とが》められぬまま接近する殺戮者。彼こそ、人類最古の戦友にして忠実な僕《しもべ》。言語能力を持ち、独自のダンディズムを考察するに至るまで発達させられた頭脳――ジョークを好み、寝酒を所望する」
〈|万能道具存在《ユニバーサル・アイテム》〉=実験動物/ネズミ。
「彼こそ、人工衛星十機分の予算を費やして開発された真の道具だ。金色の体毛を持つ一匹のネズミ――物質の四次元的展開に成功した、オンリーワンのシステムにして人格者。四つに分離して発達した大脳があらゆる値を計測し、その肉体を通して亜空間に貯蔵された物質を|反転変身《ターンオーバー》――無数の道具に変身する。だが煮え切らない性格のせいで|半熟卵《ウフコック》の渾名を頂戴した、自称『考えるネズミ』だ。彼さえいれば、どんな最新兵器も訓練なしで使いこなせるだろう。むろん使い心地の良さは抜群だ。話し相手としても申し分ない」
〈|徘徊者《ワンダー》〉=空挺部隊出身。男/眠らない兵士。
「彼の体内|擬似重力《フロート》発生装置が、三百六十度の歩行を可能にした。元爆撃部隊のエリート――味方の上に爆弾を落とした男、ディムズデイル・ボイルドとは彼のことだ」
「彼は兵士の無睡眠活動の唯一の成功例だ。多くの兵士が無睡眠活動体となるべく改造され――永遠に眠り続ける生きた死体となった。彼は、熟睡状態と活動状態をきわめて短時間で反復しながら、総体的には常に活動を続ける健康なゾンビだ。眠らない動植物の末路は知っているかね。睡眠物質の働きを抑制された動植物は、ボロボロに腐ってゆく。だが彼は健全だ。完璧すぎるほどに。彼は見事に、覚醒と睡眠の拮抗状態を成立させた――本当の自分は眠ったままなのではないかという疑心暗鬼が、やや根深く残ってはいるがね」
「十一時三十二分――彼は最後に目覚めたときの時刻だ。それが眠らない彼にとって、唯一の時間の区切り――自分の居場所なのだよ」
そして、〈|渦巻き《ホイール》〉=プロフェッサー。|09《オー・ナイン》の創始者――三博士≠フ一人。
髪は極彩色。眼差しは軽やかで鋭く、気難しく愛嬌溢れる賭博の名手。意表を突く言動/行動。野卑な美男子。饒舌にして寡黙。厳格にして剽軽。厚情にして手段を選ばず。
「それが、私が君たちに課す至上命令だ。つまり、幸福になれ――そして幸福にしろ」
彼のそばでは何もかもが|ぐるぐる回る《ホイーリー・ギグ》。|09《オー・ナイン》メンバーに、新たな/強烈な/きわめつけの人生の軌道をもたらした、極上の|運命の輪《ホイール・オブ・フォーチュン》。
「人生は回転する車輪のようなものだ。もし君たちが輪の縁にしがみつけば、君たちは頂点から下降するか、底辺から上昇するかしかない。だが、もし回転軸に居座れば?車輪がどう回転しようとも君たちは常に同じ位置にいる。そこが君たちにとっての至上の位置だ。車輪の中心――その究極点は、いつどんなときも君たちの中にある」
彼を中心とした、十人と三匹のチーム。馬鹿馬鹿しさもふくめて驚嘆に値する、スペシャルな敗残兵。チャンスではなく、とてつもない悪運によって選ばれた戦士の集団。
みな揃って二つの|限界値《クリティカル》を超えた。落下が生み出す衝撃――ごく少数の生存者を残して。
※※※5※※※※※
少女の振るった|高磁圧《ハスチン》の刃が、かけがえのない鋼《はがね》の芸術品を、一瞬で廃棄物に変えた。
刃の放つ熱が弾丸の火薬を炸裂させ、銃身の前半部が一挙に吹き飛んだ。
砕け、ねじくれる鋼鉄――圧倒的な殺意の種子が膨れあがって弾けるような爆発に、男はいっとき心奪われた。ばらばらに砕け散る鋼鉄のかけらと舞い上がる火花が、失墜していった者たちの記憶に重なった。
敵であれ味方であれ、男にとってなくてはならなかった者たち――彼ら全員が、吹き飛ぶ銃身のように虚無へ還るさまを、男ははっきりと見ていた。
加えるに/|09《オー・ナイン》関係者/法曹界から二人。
検事=近づけば髪が逆立つほどの野心/自白剤の拮抗薬が都市に蔓延/ゆゆしき事態/自白剤に代わる革命=識閾《しきいき》検査法の技術提供を条件に|09《オー・ナイン》を容認/命の危険こそ全ての福祉ビジネスを先導すると確信/〈|渦巻き《ホイール》〉に飛び込んだ男/回転の巻き添え。
刑事=幼児虐待に瞬間的に炸裂/子供が商品にされる現場に飛んでゆく優秀な誘導式ミサイル/ただしそれ以外の犯罪+賄賂《わいろ》は大歓迎/たとえ誰かが、夢はモルグを買って秘密基地にすることだと戯言《ざれごと》を吐いても優しく聞き流す/希代の悪徳刑事。
さらなる/とびきりの加速/オクトーバ社の設立。
三博士≠フ一人=|渦巻き《ホイール》の元婚約者=コントロールされた指導者のもとで都市創造を夢見る|灰かぶり姫《シンデレラ》。
「たとえば、低所得の労働者が、永遠に低所得の労働者であり続けるように仕向けることは可能かね? 彼らの子々孫々にわたって? しかも我々が独裁的だとか差別主義者だとかいった時代錯誤の誹謗中傷を避けられるよう、誰の目にも気づかれないように?」
三博士≠フ一人の返答/|灰かぶり姫《シンデレラ》の独立と跳躍/契約の言葉。
「可能です。十分に」
衛星軌道上に設置された架空の都市をプログラミングする研究=その一大成果を都市で試みる/仕掛ける/都市機能の拡大を計画的に進行させるために必要な処置=差別。
「よろしい。君に出資し、君が都市計画会議に優先的に参加できるようはからおう――我々の類い希なる技術顧問として」
マルドゥック市《シティ》の夜明けがまた一つ/落下の軌跡もまた一つ/失墜に向かって。
彼女を迎えたオクトーバー・ファミリー/|09《オー・ナイン》設立者、|渦巻き《ホイール》の血縁=祖父と従弟《いとこ》たち――彼らの顔ぶれと饒舌な名前。
ファインビル=|渦巻き《ホイール》の祖父/オクトーバー・ファミリーの創始者。|渦巻き《ホイール》の元婚約者を技術顧問に/遺志を託す。都市を支配せよ。
グッドフェロウ=オクトーバー三兄弟の長男。|渦巻き《ホイール》の従弟。極端な愛嬌。優秀な頭脳。人に肉体的=精神的打撃を与えることを嗜好/類い希な経営者=サディスト。
ファニーコート=次男――連邦検事/公明正大な平等乱射主義者/犯罪者の定義づけが都市の成立の要点。ゲイ+好き物。ギャングの恋人と持ちつ持たれつ/様々なプレイ。
クリーンウィル=三男――エンターテイメント業界の大物。強欲な変態。幼児趣味/同じ趣味を持つ部下がいると喜ぶアンダーグラウンド志向/やりきれないほどの凡俗。
そしてファミリーの衛星軌道上を巡るコロニーたち/上へ下へ/都市の表へ裏へ。
元俳優=マルドゥック市《シティ》の市長に立候補――薬漬け。|灰かぶり姫《シンデレラ》が調合した薬物で完璧にコントロール/常に幸福/永遠の演技者/素晴らしき民衆の代表。
ガン・ファイター=銃密売者/タフなギャング/連邦検事の恋人/ゲイ。兵器開発を批判する世論が生み出した新たなビッグビジネスを取り仕切る――『武器よ再び!!』『我々に自衛の権利を!!』『飛び交う弾丸/踊るハート/札束の夢!!』
|王子《プリンス》=ガン・ファイターの愛人/坊や/自分はゲイだという暗示。その父――末端神経症で指をなくして職をなくす。その母――筋金入りの薬物中毒。その妹――父親に貞操を奪われる。家族のために金を稼がねば/強迫観念的に。
|毒婦《ヴァンプ》=ガン・ファイターの腹違いの妹/超高級娼婦=殺し屋/死をもたらす〈|女狐《ヴイクセン》〉。
母親は免疫不全症候群をもたらすウイルスの巣。
妊娠発覚=受精卵に狐の遺伝子を移植。非合法のキメラ・ベービーの誕生。狐の遺伝子が抗体を生成。複数の病原体+ウイルスを保持したまま成長。
その体液/唾液/血液/愛液/涙を介して、致命的な病気を感染。殺すために寝る娼婦――ディムズデイル・ボイルドの最愛の恋人ー清冽な爆弾/ガラス越しのキス/プラスティックシート越しの愛撫/夢の中での邂逅。
多くの啓示(おお、炸裂よ)/沈黙の誓い。
出会い/再会/さらなる加速――オクトーバー社側の実働部隊が動き出す。胸に秘めた思い――宿敵がいることの素晴らしさ。
カトル・カール=元軍人たち。いまだに続く戦争の悪夢/歓喜。戦争の汚れ仕事の別名――誘拐+拷問+暗殺+脅迫=|四分の一が四つ《カトル・カール》。みな揃って赤いジャケット。金属的なマスク、あるいは化粧――原始の喜びを訴える道化師の集団/シャーマンたちが踊る祝祭/|戦争の狂乱《バトル・フレンジー》をもたらすアンダーグラウンド・グループ。
フリント=拷問は神聖な文化/カトル・カールのリーダー/元上陸部隊隊長/軍人たちの偉大なる司祭/ハイテク野蛮人/大量の殺人《スナッフ》ムービーを製作。
味方の誤爆で部下を失った。覚醒剤中毒者が爆撃機で急降下/投入された五百キロの爆弾。劣化ウラン弾の微細な破片が、頭蓋骨を貫いて彼の脳の中にとどまったまま。
その破片がもたらす美しいビジョン――
「世界の中心にそびえる巨大な山に立つ自分がいる。神聖な山の連なり――世界の中心は至るところにあり、万物の回転軸の上昇と下降が、我々に踊れと告げているのだ」
最愛の武器――長刀/最先端技術で再現された石器時代の|石刃《フリント》。世界一の|名刀《ファイン・ワン》。疾走する車の防弾ガラスごとドライバーの首を刎ねる/刀身内部を走る無数の毛細血管に精油が流れることで加重を安定させ、刃の最適角度を維持。
「ブギーマンが集まって血みどろのパーティ! それ以外にどんな説明が必要かね?」
命の炸裂=原始の宇宙《コズミック》ダンス=多彩な殺人儀礼=拷問。
グラウンドゼロの在りかを教えてくれるはずだった男/同胞=爆撃の悪夢をともに見た者。一方は地上で、他方は上空から。
歓喜の狂乱を始めよう/もう二度と、一人の生存者も残さず/加速/失墜に向かって。
※※※※※4※※※
男にはもう一度だけ銃を握りしめた。銃把を除いて、綺麗に消失した残骸を。
気づけば少女の左手の銃が、男の喉元にぴたりとあてられている。
〈これが、あなたの|充実した人生《サニー・サイド・アップ》……?〉
少女が訊いた。悲しげな眼差しだった。その頬で銀の粉がきらきら光っている。
優れた怪物として、最後まで戦い抜いてくれた少女の感情が、かすかに男の胸に響いた。
自分はクズだと教育される兵士たち――その価値は、敵が決めてくれるのだと教え込まれた。得難い友人と同じように、得難い宿敵がいることの喜びが、いっとき、失われた銃の代わりに男の心を満たした。
「彼女は、よくやった」
そう言いながら握り続けていたものを手放した。最後の魂のかけらを。亀裂の入ったグリップが、ごとっと重苦しい音を立てて地面に落ちる。
「最後はお前がやるべきだ、ウフコック」
囁くように告げた。一方の使い手からもう一方の使い手へと、自らの軌道を選んだ道具存在に向けて。
少女が悲しみのあまり目を見開いた。掠《かす》れた吐息が、少女の声を失った喉から零れ出た。お互いの呼吸が感じられる距離にまで、二人の怪物は互いに近づくことができたのだ。
その少女に、男は言った。
「二十年間、戦場に居続けてきた……俺は今、充実している」
年数を告げることで何かが忘却から救われるような気持ちだった。墓碑銘を口にするような安堵感とともに、男は、少女を見た。自分が出会えた、新しい同胞に。そして、殺戮が絆となる瞬間を、彼女に教えようとした。
「よせ、ボイルド――」
せっぱ詰まった声がした。刹那、男の目が、声の方を向き――その左手が走った。銃を棄てたその手で、少女の左手の銃をつかみながら、重力《フロート》を全開にして立ち上がったのだ。
少女の体が呆気なく白い繭から引っ張り出され、手と銃をつなぐ手袋が引き裂かれた。
同時に、男は左手に移植された繊維で、そこにいるはずの存在をつかみとっている。電子機器操作のための金属繊維――万能の道具を支配するための鍵爪で。
続けて少女の胸元目掛けて重力《フロート》を放つ。少女は背後の壁に叩きつけられ、衝撃で息を詰まらせた。それが最後の逆転の瞬間だった。男は、殺戮が絆となる戦場の光景に思いを馳せながら、かちりと音を立てて銃の激鉄を上げた。
男の操作《スナーク》を悟った少女が絶望に目を見開いてこちらを向いた。死を拒む少女の眼差しが男の根深い部分を射抜く――だが本来、心があるはずのそこには深い暗闇が広がっている。
その暗闇に今なお響き続ける、声、声、声――
※※※※※※3※※
「|何をした《、、、、》? |なぜ弾が当たらない《、、、、、、、、、》? |お前はいったい何をしているんだ《、、、、、、、、、、、、、、、》?」
ガン・ファイターの驚愕/男の新たな覚醒/どんな弾丸の軌道をも逸らす/力の壁。
「十一時三十二分になった」
呟き/毒婦《ヴァンプ》がにこりと笑う/自由落下の加速度の法則/毎秒秒速三十二フィート。
「あなたの居場所に、私も入れて欲しい」
毒婦《ヴァンプ》の囁き/全てが渦を巻いて落ちる/十一時三十二分。
「個人の至福の追求とは、すでにそこにあって待ち受ける一種の軌道に乗ることだ!」
|渦巻き《ホイール》の叫び/鬨《とき》の声。新たな戦場の至上命令――幸福になれ。
「いざ征《ゆ》かん、われらが|憧れの世界へ《ホール・ニュー・ワールド》!」
「いや、六十四口径だ」
ネズミの沈黙/驚愕。不安。そして男の確信を嗅ぎ取った声。
「本当に撃てるのか、ボイルド」
「俺なら撃てる。今の俺なら」
「――わかった。複数の銃のデータをかけ合わせてやってみよう」
十一時三十二分になると鏡を見る習慣/どこかへ落下し続ける男/鏡越しの女の微笑。
「ハロー、モンスター」
毒婦《ヴァンプ》が鏡の向こう側で囁く/男がほんとうは何者なのか知っている目。
「これが最適の形状だ。しかし何の用意もなく撃てば、お前でも手首を骨折するぞ」
「重力《フロート》で補う……完璧だ、ウフコック」
三十二が二つ/六十四口径/ついに到達して得た何か/その美しさ。心奪われるほどの殺意の宝庫/灼熱の恍惚/もう二度と、一人の生存者も残さずに。
「行くぞ。これで奴を仕留める」
「俺は今、充実している」
犬らしからぬ/犬ゆえの誇り。透明になって逃げ出せ/奴は姿を現した。逃げもせず。
「こうして最終的に刑が科せられたことに抵抗はない。むしろ誇りさえ感じる。罰されるということは……社会の一員として認められているということだからだ」
渋い声/笑み/軽やかな足取り/|天国への階段《マルドゥック》を登るように/ガス室へ。
「俺が死刑になるということは、ついに俺は人間と対等になれたということだからだ。俺は俺の心に従って、人間が差し出す毒杯を飲み干す。その苦さは問題じゃない」
「両眼を頭蓋骨の一部ごと吹き飛ばされたにもかかわらず、俺はまだ見ている。いや、よりいっそう見るようになった。ライフルのスコープ越しに無数の死を覗き見た。なのに神はまだ何かを俺に見せようとしている」
盲目の|覗き魔《ピーピング・トム》の呟き/しわがれた声/もう何度も死んだ心。
「きっと俺自身はもう何も見たくなくなってるんだろう。見たものにどんな意味があるか考えるのも嫌になってる。それでも俺は死ぬまで人間の腸に詰まったクソを覗き見る。誰かがそれを望む限り。それが、望んで死を見続けた人間につきまとう悪運だ」
「まったく、身が縮む思いですよ」
揺れ動く/ドアより幅のある巨体/人体改造マニアの汚名/|渦巻き《ホイール》の真顔の返答。
「君がそれを言うと、何かとんでもないことが起こっているような気にさせられるな、イースター博士」
「要するにあたしは軍隊が嫌いじゃないんだ。死んじまうってこともふくめて」
機械の両手に黒い革手袋/キックアクション/バイクのエンジン音/点火の瞬間、目を細める癖/行き先を確かめるように。
「あたしはまだ戦場にいる。それはそんなに悪い場所じゃない。どっちに向かって自分を回転させれば良いか知ってれば……」
そして振り返る/どこか諦めたような微笑み。
「……言ってよ、|幸運を《グッド・ラック》って」
※※※※※※※2※
男が銃口を少女に向けた。死に怯えながらも、なお戦う意志を振り絞る少女を見すえ、
(あた……たかい)
ついに取り戻したのだと思った。いっとき男の手のひらに幻が起こり、そして消えた。
残されたのはネズミがそこにいたという記憶だけ。その温もりが戻ってくることはなかった。最後の最後で、ネズミは逃げ出した。かつて捕らえられていた場所から。とうの昔に去っていたのだ。死を知ることで独立を獲得した、自意識の果てに。
それだけわかれば十分だった。ここが最後の場所であるとわかるだけで。
殺戮を絆とする手段は、他にいくらでもあるのだから。
男は体内で装置を逆転させた。男を支える重力《フロート》に、最後の役割を命じた。今こそ本当に虚無になるのだという思いがあった。全ての記憶を抱いたまま塵に還れることへの安堵とともに、男は銃の冷たい引き金をゆっくりと引いた――ネズミに、自分のほんとうの意図を嗅ぎ取られないために。
カウントダウンが始まった。男の重力《フロート》が体内で飽和に向けて収縮し始めた。今こそ一個の爆弾となるために。そうして、ついに失墜の地を得たのだという喜びが、後から来た。
その喜びを、ネズミが察知した。
「|俺は《、、》……|俺になった《、、、、、》」
あのとき/ネズミの言葉/毅然として迷わずに/煮え切らぬまま得たもの/歌う。
「変化が起こったんだ。素晴らしい変化が。いや、俺自身は今までと何も変わらない」
誇り/もう手のひらの上で震えたりはしない/歩き始めた自称『考えるネズミ』/一人で。
「ただ、俺が俺であるということを知ったんだ。俺の人生……いつか必ずやってくる死とともにある、それ《、、》を。そう……ここ《、、》が本当の俺の回転軸だったんだ」
けたたましい猿の鳴き声/彼らの統一人格/「ゆらぎ」を司る猿の身震い。
隣でゆらゆら揺れる男が一人/猿が受け入れがたいものを一方的に押しつけられ/そいつはただ揺れているだけ/死が受け入れられず/欠けた人格=もう一人の自分の死。
猿が泡を吹き始め/それでも悲鳴をあげ続け/弔《とむら》いのために鳴き続け。
〈「衝撃限界《ダメージ・バウンダリ》理論とは、いかなる衝撃入力がダメージを引き起こすかを見極め、ダメージと非ダメージの境界領域を分ける手法である〉
心を失った予言者《シャーマン》/無垢なるデータの羅列/最適な定義。
〈ダメージの発生とは、衝撃のエネルギー成分である速度《ヴェロシティ》の二つの軸――「限界速度変化」と「限界加速度」が、ともに限界値《クリティカル》を超えることをいう〉
意味論的に/意味もわからず/定義/風のような|囁き《ウイスパー》。
「武器は要りません。俺のこの拳骨が、武器っすから。俺は気に入ってます。銃で殺すより、殴り殺した方が……なんか、優しい気がしませんか」
「やれやれ、また死んじまう……。なあ、この哀れなレブナントを袋詰めにして家のソファまで届けてやってくれよ。この街の汚らしい路上で生き返るのだけは、二度と御免だ」
「実に素晴らしい。もはや自白剤が使用できないことなど問題にならん。あんたの方の識閾検査法の導入を正式に討議させよう。いやはや、これこそ科学の恩恵というやつだ」
「子供が売られ、殴られ、犯されるのを見ると、俺は気が狂いそうになる。そしてそんな子供はごまんといるんだ。早くこんな街から出たい。いつも、これだけ貯まったら街を出ようと決めてるんだ。それなのにいつまで経っても出ていけない。おかしくなりそうだ」
「ガン・ファイターの流儀で行こうぜ。俺たちが決して失っちゃならない流儀で」
「俺が家族を世話しなきゃいけないんだ。銃でも何でも売って稼がないと……。妹は……まだ十二なんだ」
「あいつら私の中のウイルスを気にして殴れも犯せもしないのよ。だからせいぜい、こうして素っ裸にして街中に放り出したってわけ。まあ、それだって大したことじゃないけれど。……ところで、上着を借りても良いかしら」
「犠牲者の苦痛こそ、信仰の極みだ。それが拷問の真髄だ。人間が都市生活を送るようになって失ったもの……自然と触れ合い続けるという、拷問のような生活だ」
「黙って俺に使われろ、ウフコック」
「お前たちの創始者は、すでに私の儀式によって迎え入れられた! これが、|あの男に私が施した拷問の一部始終《、、、、、、、、、、、、、、、、》を収めたビデオデータだ! さあ万物の回転軸に従って踊れ!」
「神は人間を不従順の状態に閉じこめたが、それは全人類を憐れむためだ! いかなる大胆な罪も、憐れみの前では膝を屈するのだよ! それが|09《オー・ナイン》の基本理念だ!」
「焼けつく焦燥の中にこそ歓喜があるものだ! 宿敵がいることの喜びを感じろ、ディムズデイル! 私とお前は一個の爆弾によって結びつけられた兄弟だ! お前が私を目覚めさせた! お前は私に美しいビジョンをもたらした爆煙の洗礼者だ!」
今こそ辿り着き/幾千万の怪物たちとともに/衝撃を生みだす速度《ヴェロシティ》/軌跡を/二つの限界値《クリティカル》を超え/響き渡る波に/忘れられない/忘れてしまったもの――
コンマ数秒の確信だった。これまでの男の全人生の時間に等しい一瞬のうちに、ネズミは、男の心の叫びを嗅ぎ取った。ともに吹き飛べという叫びを。そしてネズミは判断し、決意した。道具からの跳躍を――自分が守る者のために。
男の指が、冷たい引き金を引いた。
少女が突き出す最後の武器が、ぐにゃりと変身《ターン》した。
銃声が轟いた。何かを大声で祈るのにも似た咆吼とともに――男の体を貫いた。
まるで、もう忘れてしまった悲しみが、ふいに甦って胸をついたように。
重力《フロート》の壁が消えて無防備になった男の体を、一発の銃弾が穿《うが》ったのだ。体内の装置の働きが阻害され、収縮が遅延するのを感じた。約束されたはずの失墜の地が遠のき、
「ウフコック……」
温もりの名が零れ、フェイクである銃を構えた手が、ゆっくり下がっていった。
歓喜/一個の爆弾となる日を夢見て/場所/失墜の/爆撃の/終焉の/炸裂よ――
「さあ、私を……グラウンドゼロにつれていって。あなたならできるはずよ」
止められない/時間の流れ/十一時三十二分/もうすぐ訪れ/僅か数秒。
「ねえ……私が今ここで、あなたが望んでいるものを与えたら、してくれる?」
男の腕時計を見る彼女/時刻に合わせ/そして毒婦《ヴァンプ》の最後の/少女のような/声。
「愛してる、ディム」
男は望み通りに/女の体を叩き落とし/彼女のグラウンドゼロ/大きな爆発が。
金色のネズミの泣き声/怒り/濫用――麻薬売買を巡る事件。魂の最後のかけらが掌から失われ/焼けつく毒を持つ女を探して/そして交わされた沈黙の誓い。
何もかも失い/自分に用意された軌道/夢見ることもなく飛び乗り/爆心地を目指し/人生最後の軌跡/解放――落下/永遠のプロセス/その果ての再会。
忘れてしまう前に/毒婦《ヴァンプ》を救うため/戦い――金色のネズミの怒り/蕩尽《とうじん》。
おお/彼女の魂を/炸裂よ――/救いたまえ。
少女は驚いた顔でそれを見ていた。その右手に握られた武器――ナイフだったものが、恐ろしく口径の大きな銃に変わっているのだ。
失望とともに、おぼろげな理解が訪れた。男は、自分の死の後で肉体がどこに運ばれてゆくかをうっすら思い出した。装置は自分が死んだ後でもしばらくの間、働き続けるだろう少しずつ、ゆっくりと重力《フロート》を収縮させてゆくのだ。もう男にもそれは止められない。
遠のいたグラウンドゼロ――いや、最後の最後で彼らが運んでくれたのだという思いが湧いた。少女とネズミが、自分を約束された炸裂の場所へ運び出してくれたのだ。
ごとっという音で、自分の手が銃を放したことを知ったもはや何も握れそうもない手を、のろのろと胸元に当てた。何かこの後の出来事を確信させてくれるものがないか、期待して。そして大きな穴から零れ出す暖かい液体を感じた瞬間、体を支える重力《フロート》が完全に消えた。噴き出す血――腕と脚の傷から、まるでホースで水を撒くように。
どっど膝をつき、男は動くことをやめた。
鮮血が溢れ、残った方の膝を濡らし、排水孔へ流れ込んでゆく。そうして意識も精神も――魂さえも失われてゆく果てに、記憶の向こうから迎え火がやってくるのを感じた。
そして、ふいに少女が歩み寄った。
※※※※※※※※1
失墜のプロローグ/亡骸《なきがら》が袋に入れられ/その大きなフォルム/運ばれて/遅延する一個の爆弾/重力《フロート》は少しずつ内部で収縮/語られるべきもの全て/二つの限界値《クリティカル》を超え――
男は、ゆっくりと顔を上げて、自分の最後の同胞を見た。
少女がはっと目を見開く。死に対する無垢なまでの反応。微笑ましいほどの若さ。
何かが確かに目の前にいる相手に受け渡されたという感覚が、男のもとに訪れる。
もはや男は身動きもできない。上昇も下降もしない。ただ、何かの中心にいた。不動の究極点――回転する車輪の中心に。
ふいに、意外なほどの安堵と感謝の気持ちが、男の口をついて出た。唇を動かし、声にならない掠れた息を零す。最後のメッセージ。この少女には、それで十分に伝えられるのだ――それもまた安堵の一つだった。
少女はうなずいた。しっかりと。最後の同胞の遺志を継ぐように。彼女がいったい何を自分から受け継いだのか――それは問題ではなかった。もう何の悲しみも感じなかった。
男は自分の肉体から零れだしてゆくものを見つめた。男の唇が、また少し動いた。少女がその呟きを感覚したとき、それが男の墓碑銘となった。
男が目を閉じた。光が消え、音が消えた。
(ウフコック――)
ただ記憶だけがあった。男の意識が墜落する井戸の底で、再会する人々の顔ぶれ。魂の信奉こそ、兵士の特質であると信じた仲間たち。男の去りゆく魂が、ばらばらにほどける記憶の中を通り抜け、
(おお、炸裂よ――)
死へと至る一瞬のうちに、全人生に等しい時間を追憶した。虚無へ還る魂の軌跡を。
信仰者たちとともに/男は/亡骸は/炸裂の地へ/それぞれのグラウンドゼロへ――
そして、彼らとともに虚無の一部となれなかった者は、こう呼ばれるのだ。
憐れみを込めて――生存者と。
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[以下入力者注]
底本:S-Fマガジン2004年4月号 早川書房
底本の文中で使用されている記号と、ビューワーでルビ表示に使用される記号が同じなため表示が変になってしまう所は適宜変更しました。(回避方法が分かりませんでした)
入力者の使用したビューワーは「扉」です。
お暇な方がいらしたら、校正をお願いします。
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