マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust――排気
冲方丁
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|充実した人生《サニー・サイド・アップ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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[#ここから2字下げ]
contents
Chapter.1 曲軸 Crank Shaft
Chapter.2 分岐 Manifold
Chapter.3 合軸 Connecting Rod
Chapter.4 導き Navigation
後書き
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Mardock City【マルドゥック市《シティ》】
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港湾型重工業都市。政令中枢に設置された“天国への階段≠ニ呼ばれる螺旋階段状のモニュメントを都市名称の由来とする。
[#ここで字下げ終わり]
Mardock Scramble【マルドゥック・スクランブル】
[#ここから3字下げ]
マルドゥック市における裁判所命令の一種。人命保護を目的とした緊急法令の総称。
[#ここで字下げ終わり]
Mardock Scramble-09【マルドゥック・スクランブル―|09《オー・ナイン》】
[#ここから3字下げ]
緊急法令の一つ。非常事態において、法的に禁止された科学技術の使用が許されることをいう。
[#ここで字下げ終わり]
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characters
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ルーン=バロット
Rune-Balot……少女娼婦
ウフコック=ペンティーノ
OEufcoque-Penteano……事件屋
ドクター・イースター
Dr.Easter……事件屋
シェル=セプティノス
Shell-Septinos……賭博師
ディムズデイル=ボイルド
Dimsdale-Boiled……事件屋
ベル・ウィング
Bell Wing……スピナー
マーロウ・ジョン・フィーバー
Marlowe John Fever……ディーラー
アシュレイ・ハーヴェスト
Ashley Harvest……ディーラー
クリーンウィル・ジョン・オクトーバー
Cleanwill John October……取締役
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Chapter.1 曲軸 Crank Shaft
1
生き残る――配られるカードに対してバロットが思ったことは、それだった。
二度と、何の抵抗もできぬまま殺されるつもりはない。逆に相手の心臓をこの手でつかみ取るためにも、何としてもゲームを生き残らねばならないのだ。シェルという男が仕掛けたゲームを生き抜き、この事件をバロットのゲームにするために。
ブラックジャック――それが、このカジノでの、最後のゲームの名だった。
ディーラーが、テーブルの右端から順にカードを配っていった。バロットに来た最初のカードはクラブのQ。10点札――良い《パット》カードである。このゲームで印《スーツ》に意味はないが、
『クラブに縁があるな。ポーカーでは、その印《スーツ》で勝った』
ウフコックのそんな言葉が、左手の手袋の内側に浮かび上がっている。
――運が良いってこと?
『悪くない』
というのは要するにバロットの緊張を宥《なだ》めるウフコックの気遣いだった。バロットはその言葉を、祈るように握りながらディーラーの表札《フェイスカード》を見た。なんとクラブのAである。
――どこが良いの。
思わずぼやいた。手袋の裏側[#「裏側」に傍点]で、ウフコックが飄然《ひょうぜん》と肩をすくめている感じがした。
続いてバロットに二枚目が配られた。印《スーツ》はまたもやクラブ。ただし6だ。合計で16。
思わずディーラーのカードを見た。Aの隣の、伏せられたカードを。
テーブルの右端に座った片眼鏡の男が、果敢にカードを追加《ヒット》する声が聞こえた。
そちらを見ようとするバロットを、ウフコックが素早く止めた。
『まだ、他人《ひと》のカードは気にしなくて良い』
バロットは、うつむいて自分のカードを見つめた。問題はカードではなくバロット自身だった。急に、場違いなような気がして心臓がどきどき鳴り出している。このカジノに入って初めての、本格的な緊張といって良かった。16がどんな数字なのか思い出そうとしても思い出せない。ドクターは何と教えてくれたか。良い数字か、悪い数字か。
片眼鏡の男の|このまま《ステイ》という声が聞こえた。老紳士も|このまま《ステイ》。
婦人の追加《ヒット》――一瞬の沈黙、そして|このまま《ステイ》。
「追加《ヒット》」
すぐ隣でドクターの声が上がった。どきりとした。自制心を振り絞ってドクターのカードを見なかった。心臓の鼓動で体が揺れ、気持ちが揺れた。まるで地震だった。
「|このまま《ステイ》」
ドクターが言った。勝負を乗り切ったのだ。
バロットは顔を上げた。微笑するディーラーと目が合った。一瞬で引き込まれた。
〈追加《ヒット》〉
ディーラーは機械的な動作でカードを滑らせ、バロットの目の前に三枚目の数字を現した。スペードのJ。その短剣のような黒い印《スーツ》に、ぐさりとやられた気がした。
「負け《バスト》です」
ディーラーの律儀な声とともに、何もかもがさっと消え失せた。カードも、チップも。そして勝負も。ディーラーがそれらを所定の位置に収め、そして伏せカードを開いた。
7である。ルールではこの場合、Aを11として数え、|合計18《ハード・エイティーン》。いずれにせよバロットの負けだった。動いても、動かなくても。では動いた分、良かったか。
そうでもない。うーん、と唸るような声がした。片眼鏡の男である。バロットが引かなければ、クラブのJが――片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》が自分の所に来ていたのだ。面白いはずがなかった。
ブラックジャックでは、どこに座るか――誰の隣に座るかが、極めて重要だ。下手が一人いて余計なカードを引けば、周りが迷惑をこうむるからだ――などというドクターの教えが思い出された。それがディーラーにとって有利な点の一つなのだと。
さっきは何も思い出せなかったのに。やけに恨めしくなった。
ディーラーが、勝った人間と負けた人間とを、ポケットの中の要らないものでも分別するみたいに分けていった。勝ったのは老紳士とドクター。配当はそれぞれ一倍。
『では、プランの第一段階に入ろう』
ウフコックが、まるで今のゲームなどなかったかのように告げた。
――さっきは、どうすれば良かったと思う?
『第一にすべきことは、それがわかるようになることだ』
身も蓋もなかった。バロットは黙ってまたチップを場に置いた。無性に悔しかった。
バロットの最初のカードは2。今度は印《スーツ》を無視した。つづいて5――合計7。
ディーラーのフェイスカードはJ。10点札だ。そのフェイスカードと、自分のカードとを頼りに、またそれぞれのゲームが始まった。
『バンクロールを表示する』
ウフコックの言葉が浮かび上がった。了解の合図として軽く右手を握ると、右手袋の内側に、数字の列が一瞬にして浮かび上がった。
まず、バロットの持つ全資金額。その横に、それを十等分した出動原資。さらには、一回のゲームにおける上限時金額《マキシマム》、下限賭金額《ミニマム》、そして、これまでの支払額である。
これが、全資金を原資《バンクロール》とした、資金管理表だった。
カジノでの最も根本的な戦法は、暗記術でも、駆け引きにおける心理戦でもない。
自分が持っている資金を、いかにしてシステムとして管理するかである。
そもそも確率上、どんな戦法も、カジノ側に有利に設定されたルールを、客に有利にすることは不可能なのだ。だがそれも長期的な確率にのっとった場合であり、短期的には客の側の連勝もありうる。重要なのは、その連勝の波に乗ったとき、どれだけの資金があるか、あるいは波に乗るまで、いかにして資金を持続させるかということなのだ。
バロットが場に置いたチップの額は三百ドル。先ほどのゲームも同じ額だった。何もそれがバロットの気持ち[#「気持ち」に傍点]を表しているわけではない。純粋に戦略上の額なのである。
このとき、バロットの手元にある原資《バンクロール》の総額は、六十三万ドル強。
それを十分の一にした額を準原資《ミニバンク》といい、一単位の出動資金《セッション》となる。
現在、一単位は六万三千ドル強。これがなくなるまでを、一区切りと考えるのである。
そのミニバンクを二十分の一にした金額を、一ゲームに賭ける金額の上限とし、さらにそれを十分の一にした額が下限、すなわちゲームごとの単位《ユニット》となる。
だから現在、バロットが出すべき単位は、三百ドル強という計算になる。
一ゲームごとの賭金の上限をミニバンクの十分の一とした場合、原資総額を失う確率は、約一%となる。さらには、原資総額が変化するたびに正確な計算を続けることで、その確率を〇・〇一%にまで下げることが、確率統計上、可能だった。
『まずはできるところからやっていこう』
数表を右手に表した後、そんな言葉が、左手の手袋に浮かび、ふっと消えた。
そのときである。バロットは唐突に、自分の緊張の理由を理解した。
できることが少なすぎるのだ。このゲームでプレーヤーが実際に操作できるのは、チップだけといっていい。いかさま[#「いかさま」に傍点]防止のため、プレーヤーがカードに触れることもない。
ポーカーのような心理戦や、ルーレットでの体感覚をフル活用した必勝法も、ここでは意味がなかった。ただひたすら、不確実な綱渡りを繰り返すしかないのだ。
だから、妙にやきもきしていたのだし、そのせいで雰囲気に容易《たやす》く飲み込まれていた。
だが不確実な綱渡りを成功させる鍵は、決して運だけではない。操作不可能なものはさておき、自分にできることは全てやるからこそ綱渡りにも意味が生まれるのだ。そしてそれこそ、ゲームの戦術以前にドクターやウフコックから教えられたことだった。
そうしたことが、急に、心の真ん中に心地よく響いた気分になった。
間もなく、バロットの番になった。カードを改めて見た。2と5で、合計が7。
〈追加《ヒット》〉
定石もなにもない。どんなカードが来てもバストすることはないのである。実質的にはこれが二枚目といえた。来たカードは8――これで、合計15。
フェイスカードは、10点札のJ。ディーラーは、合計数が17以上になるまで引き続けるのがルールである。15では、ディーラーがバストする以外に勝てない。ならば引くべきではないのか。複雑な確率はともかく、単純に、バロット自身がそう思った。
〈追加《ヒット》〉
そう告げた途端、ほんの少し、心臓が跳ねた。だが前回とは違って、雰囲気でカードを引かされた[#「引かされた」に傍点]わけではない。自分自身の選択だという意識があった。
目の前で、するりと四枚目のカードが並んだ。数字は7。合計で22である。
「バストです」
またさっきと同じように、あっさりとチップが消えていった。
さもあらん、というような雰囲気だった。バロットのような少女が、この深遠不可思議なゲームでそう簡単に勝てるわけがない――客もディーラーもそう言いたげだった。
それはそれで良かった。事実なのだから。素直にそう思える自分がふいに現れ、それまでの自分に代わって席に着いた感じだった。
ディーラーの伏せカードは6――合計で16である。ルールにより、そこからさらに一枚引いた。5のカードだった。合計が21。そこかしこで溜め息が聞こえた。
バロットがカードを引かなければ、ディーラーのバストで全員勝っていたのである。
だが結果、全員が負けた。とはいえバロットはもはや気にしていない。勝ちたいなら、自分がどうカードを引くかまで読んで勝てばいい。そんな強気な思いが湧いていた。
全員のチップが没収され、また新たなゲームが始まった。バロットはそこから二度負け、一度勝ち、そこからやがて勝ち負けが交互に起こるようになった。
負けるときには、どうあがいても負けるのがブラックジャックである。
自分がカードを引いたせいでも負けるし、引かなかったせいでも負ける。
数字が12のときに引いたらバストし、16のときに引かなかったら結局負けた、ということもざらにある。さらには、引いても引かなくても結局負けることが決まっているような勝負が、一回や二回ではなく、五回も六回も続くことだってあるのだ。
かと思うと、そのうちそれが逆転して、どうしたって勝つという状態になる。
自分がどうしようが、他の客がどうしようが、圧倒的に勝ち続けるのだ。ただの運といってしまえばそれまでだが、その運を手に入れるため、これまで多くの人間が膨大な執念を費やし、数多くの必勝法を編み出しては、激しい戦いを繰り返してきたのだ。
そして今のバロットにとって、戦いとは、自分の気持ちそのものに他ならない。
勝つにしろ負けるにしろ、心の動揺を誘われてばかりでは意味がなかった。
『呼吸を整えて』
ウフコックは、繰り返しその言葉を示している。
それが自分をコントロールする有効な手段であることはバロットもすでに知っていた。
銃を初めて撃ったときに覚えたのも呼吸だった。隠れ処《が》に連れてこられた後や、裁判が終わった後などで、頭痛がひどかったとき、ドクターから教えられたのもそれだった。
バロットは自分が一番落ち着いているときの呼吸の仕方を思い出し、その通りに息を吸い、吐く努力をした。息など勝手に激しくなったり落ち着いたりするものだと思っていたが、実際に意識し始めると、気分や体調が呼吸次第で驚くほど変化するのがわかる。
腹で呼吸すれば安心を、胸で呼吸すれば希望を感じた。肩で息をすれば自然と鼓動も早くなるし、全身の脈動に合わせて呼吸することで、確固とした自分の存在を感じた。
チップを失うときも得るときも、同じように穏やかに呼吸するように努めた。
それだけで、初めてこの席に着いたとき、自分がどれだけ硬くなっていたかがわかる。
またそうした緊張や不安は、不思議なことに、決してチップの額が原因ではなかった。
六十万ドル――これまでの生活では到底考えられない額である。
確かにドクターが言っていたように、このまま金だけを手に入れて事件のことなどすっかり忘れてしまってもおかしくなかった。
だが同時に、激しい憎悪も感じていた。その憎悪が、金による諦めを許さないでいた。
それは金そのものへの憎悪だったし、それを巡る人間への憎悪だった。自分も周りの人間も、ほとんど一人の例外もなく、金を巡って悲しい目に合ってきた。悲しい目に合えば合うほど、逆に金が心の拠《よ》り所になっていった。金さえあればと思うほどに誰かにつけ込まれ、つけ込む人間もまた、どこかで何かに支配され傷つけられていた。
だから今、問題は金ではなかった。金を名目にして延々と傷つけられてきた自分が、逆に金を支配し、自分が勝つためのゲームの駒として利用しているのだ。そのことが何よりバロットの胸中を熱くさせたし、その熱は決してゲームを妨げなかった。呼吸の内にぴたりと収められ、いかなる状況でも最善の選択をするという意志を後押しさせた。
勝負は確実な勝利にはほど遠く、ミニバンクは刻々と減り続けている。自分が一歩進むごとに少しずつ退路が消えてゆく感じがした。だが動揺はほとんどない。自分には明らかな助けがあり、チャンスがあった。最善を信じて、進み続けるべきだった。
やがて三十ゲーム近くが消化された辺りで、バロットは、ふと、あることに気づいた。
ディーラーの動作に、何か[#「何か」に傍点]を感じたのだ。それが何であるかしばらく考えた。
自分の番が来たとき、バロットは、たった今感じたもの[#「もの」に傍点]を試してみたくなった。
〈追加《ヒット》〉
一瞬、ディーラーがタイミングを狂わせた。原因の一つはバロットのカードである。
Qと9。合計で19である。そこからさらに引くことは、普通ありうることではない。
ディーラーがカードを滑らせた。カードは2。バロットの無謀な選択に、あからさまに溜め息をついていた他の客たちの呼吸が[#「呼吸が」に傍点]一斉に乱れるのを感じた。
合計で21――テーブルに座って初めての、バロットのブラックジャック[#「ブラックジャック」に傍点]だった。
ディーラーが伏せカードを開いた。なんと10点札である。
合計で20――ただ一人、バロットだけが勝った。ディーラーが冷静に一・五倍の勝ち金をバロットに支払っている間、客たちはバロットに注目しっぱなしだった。
とはいえ、すぐに皆、ただのまぐれだと理解し、バロットから目を離している。
当のバロットも勝てると考えてした選択ではなかったのだ。そのことが顔に出ていた。
だが確信はつかんだ。配当を受けながら、その意味を考えた。
どんな意味か、というのではなく、そのことに、果たして意味があるのかどうかを。
――ウフコック、訊きたいことがあるんだけど。
『どうした?』
――ディーラーの人、狙って配ってるみたいなの。
『狙う?』
――私たちが息を吐き終わる瞬間を。
何を言っているのかと訊かれて、答えられる自信はなかった。
だがウフコックの返答は、バロットの意表を突いた。
『どうしてそれがわかった?』
まるで、たった今それを教えるつもりだった、とでもいうようなのだ。あるのかないのかわからなかった意味が、急に、具体的な重みを持つのが感じられた。
――わざと長く息を吐いたの。そうしたら吐き終わるまで待ってた[#「吐き終わるまで待ってた」に傍点]。
『それに気づくほどなら、この段階ですべきことは終わったようだ。君は、自分の力で勝利に向かっている』
ウフコックにそう言われて嬉しい反面、急に不安が首をもたげ、慌てて返した。
――そんなことない。負けっぱなしで、どうしたら良いのかわからない。
『今はまだ、勝つ必要はない。この段階での目的は、有意義に負けること[#「有意義に負けること」に傍点]だ。君はドクターが用意したプランに先んじている。君は勝つ。俺がそのバックアップをする』
かっと胸が熱くなった。強い安堵感が、身体の真ん中で、一本の柱として据えられた感じがした。どれほどの圧力でも決して折れない、柔軟な弾力をもった柱だった。
『この勝負でひと段落するな』
ウフコックの言葉に、カードシューのほうを見た。バロットがカードの山に差し込んだ、あの赤い透明なカードが現れ、ゲームが一巡したことを告げていたのである。
『次のシャッフルの後、プランを進める』
バロットは両手を握りしめ、ウフコックへの返事とした。
ゲームがいったん終了し、ディーラーがカードを集め、滑らかな手つきでシャッフルを始めた。右手の資金管理表によれば、通算ゲーム数は二十八回。うち、勝ったのは実に七回のみ。引き分けが三回、負けが十八回。差し引き三千三百ドルのマイナスだった。
テーブルではまた客同士の会話が始まっている。
バロットはじっとシャッフルの様子を見つめた。何かがつかめそうだった。客の呼吸に合わせてカードを配る理由が。それが何であれ、自分の能力を発揮できる予感があった。ただ運に身を任せるためにここに座っているわけではないのだ。そう思っていると、
「楽しいだろう?」
ふいにドクターが訊いてきた。その横で、婦人がにこにことこちらを見ている。
バロットはうなずいた。十分に落ち着いた動作だった。ドクターが満足げに微笑み、また婦人に話を振った。バロットのような少女でも、このゲームの魅力には逆らいがたい、などという話を。そうやって、バロットの不自然さをカバーしてくれているのだ。
やがてシャッフルが終わり、ディーラーから片眼鏡の男に赤いカードが手渡された。男が赤いカードを山に差し込み、全体がカットし直され、二巡目のゲームが始まった。
『プランの第二段階だ。基礎戦術を表示する』
左手にウフコックの言葉を感じた途端、左手袋の裏側に、びっしりと記号が浮かんだ。ディーラーのフェイスカードと、自分のカードを元にした、一連の戦術表である。
『徐々に情報を増やしてゆくぞ』
バロットは素早くカードと表とを対比した。
戦術表の横列には、自分のカードの合計数、縦列にはディーラーのフェイスカードの数字が並び、全ての場合における戦術記号が記されている。
今、自分のカードは9と5で、合計14。ディーラーのフェイスカードは、5。戦術表の一点が、現在の戦術記号を太字にして示した。
14のとき、フェイスカードが5であった場合の戦術記号は、S――ステイである。
バロットの判断ではヒットだったが、違った。一見して勝負どころ[#「勝負どころ」に傍点]と思われたが、実は耐えどころ[#「実は耐えどころ」に傍点]だということが、バロットにはちょっと意外だった。
バロットは、示された記号通り、その勝負でステイを告げた。
ディーラーが、ちらっとバロットを見ながら伏せカードを開いた。Q――合計で15。
ディーラーは17以上になるまで引き続けなければならないというルールにより、さらに一枚引き、Jを出した。合計25――バストである。バロットは素直に感心した。
――ヒットだと思った。
『この場合、それは誤りだ。このゲームで最も引く確率の高いカードは、10、J、Q、Kの四種類の10点札だ。こちらのカードが何であれ、ディーラーがバストする確率は、あまり変わらない。10点札が来る確率は三一%。単純計算で、他の数字の四倍の確率だ』
――|10の引力《テン・ファクター》。
思わずそう返していた。そのことはすでに教えられていたが、実際にカードを見た印象[#「印象」に傍点]のせいで忘れていた。バロットはちょっと姿勢を正してウフコックの言葉を感覚した。
『また、ディーラーのフェイスカードが5の場合、バストする確率は四三%。五回に二回はバストする計算だ。ステイして相手の自滅を待つほうが、勝つ確率は高い』
支払いが終わり、次のゲームで来たカードは、Jと6――合計で16である。
ディーラーのフェイスカードは7。
すぐに戦術表の一角が記号を太く浮かび上がらせた。記号はH――ヒットである。
これもまた意外だった。バロットの気持ち[#「気持ち」に傍点]ではステイなのである。だがそれは結局、自分が教えられた法則をきちんと身につけていないということにすぎないのだ。
そういうバロットの反省を察したのか、今度はウフコックのほうから説明してきた。
『こちらが12から16の数字で、ディーラーのフェイスカードが7以上の場合、ステイすると七五%の確率で負ける。逆に、こちらが17以上で、ディーラーのフェイスカードが2から6の場合は、ステイしたほうが圧倒的にこちらが勝つ確率が高い』
――|7以上《セブン・アップ》の法則。プレーヤーは17以上、ディーラーは7以上が強い。
また教えられたことを思い出した。
『そうだ。逆に、こちらが15か16の場合、負けて当たり前[#「負けて当たり前」に傍点]だ。ヒットすることで、負ける確率を七五%から六三%にまで下げられる。動かないよりは動くべきだ』
その言葉に従い、バロットは三枚目のカードを追加《ヒット》した。
引いたカードは無情にもKだった。明らかなバストである。
ディーラーが開いた伏せカードもJの10点札だ。合計17。引いても引かなくても負けていた。しかしどちらが最善かといえば、この場合、引いて負けたほうが良い。
ブラックジャックは「負ける」ゲームである。毎回勝つことなど不可能なのだ。大事なのは、戦術を正確に駆使して、より高い確率で勝てる状態へと移行することである。
その長い道のりを果てしなく進む精神力こそが求められるゲームだった。
次のゲームで、またもや攻めどころ[#「攻めどころ」に傍点]が来た。10と5――負けて当然の15である。
ディーラーのフェイスカードはQ。ステイはしない。降伏《サレンダー》も手としてはあるが、今は守りどころ[#「守りどころ」に傍点]ではない。バンクロールはまだ豊富にあるし、ミニバンクが一つも削られていないうちから、降伏すべきではなかった。
〈追加《ヒット》〉
そう告げたとき、またディーラーがちらっとバロットを見やった。引いたカードは4。
〈|このまま《ステイ》〉
反射的に告げた。合計で19。ディーラーが伏せカードを開いた。8である。
勝利者は、バロットと片眼鏡の男だけだった。
束の間、バロットを淡い充実が満たし、大きく息をついていた。
2
『そろそろ、周囲の状況も把握して良い頃合いだ』
ウフコックが言葉を挟んだ。バロットが、他の客のカードにも興味を持ちだしたことを敏感に察しているのだ。初期の段階では禁じられていた行為である。
――他の人たちがどんなふうにカードを引いているのか、知りたいの。
ちょっと言い訳がましく返すと、
『君の対応の早さは素晴らしい。やや早いが、第三段階に入ろう』
その言葉が浮かぶや否や、左腕の戦術表が、さっと消え、新たな表が浮かび上がっている。それまでのほぼ六倍[#「六倍」に傍点]の情報量だ。即ち、ディーラーをふくめた、テーブルにいる全員分の戦術表[#「全員分の戦術表」に傍点]なのである。加えて、全員分の戦績[#「戦績」に傍点]が示された。
最も勝っているのが片眼鏡の男で、それに追いすがるように老紳士とドクターが続き、婦人とバロットが似たりよったりの負けといった感じである。
また、ディーラーがバストした回数も示され、ほぼ五回に一回はバストしている。
中でも興味を引かれたのが片眼鏡の男だ。圧倒的に勝っているのである。明らかに勝ちの波に乗っていた。それがこの男の力なのか、ただの偶然なのか、それが問題だった。
カードが配られた。バロットに来たカードはJと2。
一方、男の前に来たカードは4と6――合計で10である。
「倍賭け《ダブルダウン》」
男が告げた。ディーラーのフェイスカードは4。ウフコックの示す戦術表と寸分違わぬ選択だった。男がチップを重ね、招いたカードは9。合計で19だ。ダブルダウンを宣言した場合、カードは一枚しか引けなくなるが、これはほぼベストの状況だった。
ゲームが進行し、バロットはステイした。
伏せカードは、8だった。さらにディーラーは5を引き――合計17。
バロットも負けたし、他の客も負けていた。勝ったのは、片眼鏡の男のみ。
次のゲームに入った。注目すべき男の前に来たカードは、8と6。
「倍賭け《ダブルダウン》」
一瞬、バロットは聞き間違えかと思った。だが男はどっしりとチップを置いている。
ディーラーのフェイスカードは、3。ウフコックの示す戦術表では、動かずにステイすべき手である。ところが、そこで男が引いたカードは、7。
合計で21――なんとブラックジャックである。
男の顔が満面の笑みに染まった。これでディーラーがブラックジャックにならない限り、ブラックジャックとダブルダウンとで、三倍の配当[#「三倍の配当」に傍点]が入ってくる。
そして男のその願いは叶い、ディーラーはバストして負けた。バロットもふくめ、全員が勝ったのだが、片眼鏡の男の勝ちは、明らかに輝きが違った。
さらに次のゲームで、男は16からヒットして勝ち、そこでゲームが終了した。カードがシャッフルされる間、必然的にその男の勝利についての話題が客同士で盛んになった。
――あの右端の人、すごい。
『あの男、ディーラーに目を付けられている』
――勝ちすぎているから?
『それ以前に、勝たせられている[#「勝たせられている」に傍点]』
咄嗟《とっさ》には、意味がわからなかった。
――勝ちすぎてるから、ディーラーに目を付けられたんじゃないの?
『うまくディーラーに操られている。勝っているのは偶然だ』
そのときバロットは片塀鏡の男について、あることを感覚していた。
――あの人、苦しそう。
テーブルにいるひとびとの中で、一番、呼吸が荒れているのだ。
『君の指摘は鋭い』
ウフコックはそんなことを言っている。バロットは核心を突いた。
――呼吸と関係があるの?
『ある』
――でもあの男の人、勝ってる。
『勝率の問題ではない』
何かが変だった。そしてふいに、自分が考え違いをしていることに気づいた。
――今まで賭けていたお金もわかる? 負けたお金の額も?
ウフコックの対応は、実にそつ[#「そつ」に傍点]がなかった。
『了解した』
そう返すや、全員の戦績に加えて、あっという間に収支表が現れた。
バロットがここに座って以来の、テーブル全員分の、勝ち金と負け金の計上である。
驚いたことに、片眼鏡の男は、負け額では[#「負け額では」に傍点]かなり多い。最も少ないのが老紳士で、ドクターがそれに近いところで負け額を抑えている。バロットは最初の段階での負け額が多かったが、その後の展開では半分以下に抑えていた。そして、勝ち金と負け金の差では、片眼鏡の男と婦人の二人が、実はほとんど同じような額で負け越している[#「負け越している」に傍点]のだ。
これではまるで、勝てば勝つほど金額の上では損をしているようなものではないか。
――こんなにあの男の人が負けていると思わなかった。
『誰も、そうは思わないだろう』
――ディーラーのせい?
そうとしか考えられなかった。何らかの手段で、男の賭金計算を狂わせているのだ。
『半分はゲームの性質[#「ゲームの性質」に傍点]のせいでもあるし、あの男の性格もそれを助長[#「助長」に傍点]している。だが、それとは別に、明らかなディーラーの意図が臭う[#「臭う」に傍点]』
――意図? どうやって?
『巧妙な誘導だ』
シャッフルが終わり、今度は老紳士が赤い透明なカードを山に差した。カードがカットされ、片眼鏡の男が意欲旺盛にチップを置いた。額は五百ドル。では男のバンクロールは最低でも百万ドル近くあるのかというと、決してそうではなさそうだった。
最初のカードが配られた。バロットはそのタイミングを感覚した。
片眼鏡の男が息を吐き切った直後だった。カードが来た瞬間、男が軽く息をのんだ。
男のカードは9。それから他の客にも配られ、バロットの前には7のカードが来た。
ディーラーのフェイスカードは4。ディーラーがほとんど間髪入れず男の二枚目のカードを配った。まるで突き刺さるナイフのように。6のカードが、男の息を詰まらせた。
そして、バロットの二枚目のカードが配られた直後、
「倍賭け《ダブルダウン》」
男の声が聞こえた。思わず、男のカードをちらっと確認してしまった。合計15。
まず負ける手[#「まず負ける手」に傍点]である。他の客も、どことなく男のカードに注目しているようだった。
男が招いたカードは8。合計で23――バストである。男の顔が歪んだ。
バロットは慌てて自分のカードを確認した。7とJ。ステイの手である。
なんだか自分のカードの印象が薄くなっているようだった。正確な戦術表があるから選択には迷わなかったが、それよりもつい片眼鏡の男のカードに気がいってしまう。
――私が、あの男の人が気になるのも、ディーラーのせい?
これは単純に、男の様子を、自分の気持ちから切り離すための質問だったが、
『そうだ。君もディーラーの誘導に半ば引っかかっている』
というウフコックの言葉に、内心、ぎょっとした。
『ディーラーの目的は、我々全員の態度を崩し、本来ありえない行動をさせること[#「本来ありえない行動をさせること」に傍点]だ。そのために、全てを呼吸のリズムにのっとって演出している』
――呼吸のリズム?
『誘導術の基礎だ。息を吐き切って吸いに入る一瞬、人間は最も無防備になる。その無防備な瞬間を狙うことを呼吸法《ブレス・マニュアル》という。それをもとに、色々と応用している』
――たとえば?
『このゲームには幾つかのポイントがある。その一つがディーラーのフェイスカードだ。我々は、自分のカードよりもディーラーのフェイスカードが何であるか[#「ディーラーのフェイスカードが何であるか」に傍点]という判断[#「判断」に傍点]に基づくべきだ。しかし多くの客は自分のカードの印象[#「自分のカードの印象」に傍点]で、そのことを忘れてしまう』
――あの男の人、あんなにゲームに集中しているのに?
『彼は集中[#「集中」に傍点]しているわけではない。ただ単に熱中[#「熱中」に傍点]しているだけだ』
ずいぶんと手厳しかった。バロットは思わずまた姿勢を正した。
『ディーラーの誘導術の一つは、印象の操作といえる。客が何にどんな印象を持っているかを把握し、それを意図的にずらして[#「ずらして」に傍点]ゆく。君もそれに引っかかった』
――私?
『あの男は、今やディーラーが示す印象[#「印象」に傍点]の最たるものだ。他の客があの男の真似をするかどうかはともかく、潜在意識のレベルでは確実に強い印象が残る。ディーラーは客たちに植え付けられた印象をもとに誘導すれば良い』
――どうやって?
『俺と君とでゲームをしてみないか』
バロットはちょっと目を丸くした。そのときちょうど、バロットの番になった。
〈ステイ〉
それを聞いて、ディーラーは自分の伏せカードを開示した。7である。合計11。
そこからディーラーはさらに7を引いて18になった。
さっとチップが没収されたが、バロットの興味は、もはやそこにはなかった。
――それで、どんなゲーム?
『これから、シャッフルごとに一人ずつ客が席を立つ。それが誰かを当てるんだ』
――席を立つ? どうしてそんなことがわかるの?
『このディーラーの交代時間まであと一時間もない。苦労して印象づけ[#「印象づけ」に傍点]した客を、他のディーラーに渡したくはないだろう』
まるで餌づけをした獲物みたいな扱いである。バロットはちょっと眉をひそめた。
――お客さんがこれ以上増えたら?
『それはない。あるとしたら、ディーラーの予想外の状態といえる』
――どうして?
『我々が席に着いて以来、このディーラーは周囲に目を向けようとしない。他の客に対し、この席を、親密な者同士が座る近寄りがたいテーブルとして印象づける[#「印象づける」に傍点]ためだ」
どうしてそこまでわかるのか、とは訊かなかった。自分の手を包んでいるこれ[#「これ」に傍点]は、限りない智恵を授けてくれる魔法の手袋なのだ。バロットはただただ感心した。
――でも、どうして一人ずつなの?
『呼吸のリズムは一人一人違う。ディーラーが確実を期すれば、そうなる。このディーラー、全員の金を根こそぎ奪う気だろう。一人ずつ、効果的に奪い尽くしてゆく』
気づけばカードが二枚とも来ていた。JとKで合計20。もはやフェイスカードを見るまでもなかった。バロットはほとんどカードを無視して、客たちに注意を向けた。
――あの女の人。
というのが、バロットの予想だった。片眼鏡の男が、そう簡単に席を立つとは思われなかったし、老紳士はこつこつとゲームを組み立てている。もし動くとしたら、同伴である婦人の指示に従うタイプだろう。その点、この肥った婦人は豪快な賭け方をする。負け額も、すでに数千ドルだ。いずれ、座っていたくともチップのほうがなくなるだろう。
『では、あの女性が次のシャッフルで席を立ったら、君の勝ちだ』
――あなたは誰が立つと思っているの?
そのときバロットの番になった。ディーラーが優しく微笑しながらこちらを見つめている。バロットも、相手の微笑の奥に潜むものに負けず、淡々とステイを告げた。
結果はバロットの一人勝ちである。片眼鏡の男が、顔に血をのぼらせてウェイターを呼び止め、ジンのグラスを取り、酔いで勝負熱を冷まそうとするようにあおった。
『右端の男だ』
ウフコックが告げた。バロットはちょっとびっくりした。あんなに熱中[#「熱中」に傍点]しているのに。
『まあ、それ以外の人間が席を立たないことを祈りつつ、ゲームを見てみよう』
バロットはちょっと毒気を抜かれたような気分でチップを置いた。全員のチップが置かれ、カードが配られた。自分のカードはもうほとんどバロットの目に入っていない。
代わりにその視点は、片眼鏡の男と肥った婦人のチップの額にあてられている。
男は五百ドルを最低額とし、そこからことあるごとに倍賭け《ダブルダウン》を繰り返した。
婦人は気ままに三百ドルから千ドル近い額をいったりきたりしているが、倍賭け《ダブルダウン》はほとんどしない。どちらも、バンクロールが健在なうちは、梃子《てこ》でも席を立ちそうにない。
シャッフルから十ゲームほどが過ぎた辺りだった。片眼鏡の男が、17のカードを前にして果敢にヒットした。来たカードは4。合計21――男の一人勝ちだった。
「賢明な選択でしたね」
すかさずディーラーが言って、使用したカードを所定の位置に廃棄《ディスカード》した。
男のカードを片づけたのは一番最後だった。21を叩き出したカード――それをさも貴重なもののように、ディスカードの枠に置いた。その様子が、肌にぴりっと来る刺激のようにバロットには感じられ、思わず首筋を撫でつつウフコックに干渉していた。
――今、ディーラーは、わざと言ったの? お店のマナーとかじゃなくて?
『店のマナーは即ち誘導[#「誘導」に傍点]だが、今のディーラーの対応は、かなりオーバーだな』
――なんだか、あの男の人が偉いみたい。下手なお世辞。
『お世辞でも言われれば嬉しい。そこに心の隙が出来る。どんな言葉を放り込めば心の隙が出来るか、このディーラーは熟知している。全て、気分良く負けさせるためだ』
バロットはきな臭いものを感じて鼻に皺を寄せた。気分良く負ける――それで良いという客は沢山いるだろう。有意義な娯楽《アミューズ》こそが大事なのだと。冷静な心、乾いた手で勝利をもぎとりに行くのは、むしろカジノからすれば無粋なことでしかない。
そして華やかな雰囲気、無償のサービス、丁寧な応対の後で、カジノ側に有利に設定されたハウスエッジが、客のチップを一寸刻みにするのだ。それこそ|鋭い刃《エッジ》のように。
バロットは、ふと、もし自分がここでバンクロールを失ったらどうなるかを考えた。
出直しになったらどうなるか。裁判のことを。連邦法違反の容疑者になるということを。ただ暴力に耐えるしかなくなる日々に戻ることを考えた途端、背筋がそそけ立った。
ゲームへの興味など、いっぺんに吹き飛びかけた。娯楽どころではない。それこそ、乾坤一擲《けんこんいってき》の勝負なのだ。この程度のディーラーでまごついていられない。そう思うや、
『焦るな』
強い戒めの言葉が左手に浮かび上がった。ウフコックにしては厳しい言い方だが、それだけバロットの気持ちを敏感に嗅ぎ取っている証拠だった。
『まずは君が、敵の手口を知るのが先だ』
バロットはうなずく代わりに左手を握った。強く。そして全感覚をこのゲームに向けた。ディーラーに。客に。そしてカードに。遠回りこそが最短なのだと言い聞かせながら。事実、ウフコックもドクターも、これまで常に最短の道のりを示してくれた。
何よりウフコックの言葉が身にしみた。敵の手ロ――ウフコックはただ助けてくれているのではなかった。それ以上に教えてくれているのだ。無力であることからいかにして脱出するかを。自分は勝つ。そのための助けもチャンスもある。そう強く思った。
ふと、そのバロットの耳に、片眼鏡の男の声が響いた。
「これは、ヒットすべき手と思うかね?」
なんとそんなことを、ディーラーに訊いている。男のカードは合計15。
ディーラーのフェイスカードは8。確かに微妙だ。だがディーラーは淀みなく答えた。
「状況によりますが、定石ではヒットです」
一流のディーラーであれば、客のこうした質問にはすぐさま答えられる。ブラックジャックの定石は約二百九十通り。その全てを暗記していなければ一流ではない。
「ただし、倍賭け《ダブルダウン》するかどうかは、プレーヤーの気持ち次第でしょう」
ディーラーが涼しげに言った。いつの間にか、倍賭け《ダブルダウン》が男の専売特許になっていた。
「流れを呼ぼうとすれば代価が必要になります」
ディーラーの言葉に男はうなずき、勇敢にヒットした。15からJを。バストだった。
だが男は、言われた通りこれが代価であるというように目を閉じ、肩をすくめている。
『ダブルバインドだ』
――ダブルバインド?
『誘導の前提を、相手の心に滑り込ませることを、ダブルバインドという。あの場合、倍賭け《ダブルダウン》かどうか、という言い方で、ヒットすることを前提にしてしまっている』
――でも、本当にヒットしたほうが良かったんでしょう?
『基礎戦術は、ディーラーの誘導に引っかからない限り有効な戦術でしかない。ディーラーの狙いは、男の頭の中からヒット以外の選択を消すことだ』
――消す?
『倍賭け《ダブルダウン》は大げさな提案だ。大げさに提案することによって、その他の問題を棚上げにしてしまっている。しかも、気持ち[#「気持ち」に傍点]に従うなどというのはごく曖昧な表現だ。選択の基準を、曖昧さの中に封じ込めてしまっている。あの男がヒットしたのは、大げさな提案や曖昧な基準といった、ダブルバインドの結果でしかない」
――どうすれば良かったの?
『そもそも、戦術が問題なのではない。あの男が第一に知るべきことは、自分が負ける[#「負ける」に傍点]ということだ。しかしあの男が抱いているのは華々しい勝利だけだ。負ける[#「負ける」に傍点]ことが、そのための代価[#「代価」に傍点]などというのは明らかな欺瞞だ。今の場合、負けはただの負け[#「負けはただの負け」に傍点]でしかない』
片眼鏡の男にしろ婦人にしろ、カードを引けば引くほど自分が引いたカードに熱中[#「自分が引いたカードに熱中」に傍点]してゆくようで、もはやディーラーのフェイスカードなど、眼中にもないようだった。
「倍賭け《ダブルダウン》」
男がそう言ったのは、わずかに数ゲーム後だ。そして13から9を引いてバストした。
ディーラーのフェイスカードは6――定石ではステイすべき手だった。
男の崩壊が始まった。今までは音もなく崩れている感じだったが、それが轟音を立てて砕けてゆくようだった。もしかすると、どこかで|触れてはいけない金《スケアード・マネー》に手を出したのかもしれない。生活費や滞在費といった金だ。そう思われるほど気負いが激しく、婦人がまだどこか気楽に熱中している分、その様子は際だっていった。
15や16といった手から倍賭け《ダブルダウン》を敢行して自滅し、チップを大賭けしたかと思えばディーラーのフェイスカードがAであることに呆然とする。いつの間にかディーラーが男の選択に対して口を出すようになり、男もそれにすがっていた。ディーラーいわく、
「倍賭け《ダブルダウン》は攻撃の手です。流れには攻撃が似合う場面と守備が似合う場面があります」
いわく、
「私が今まで見てきたプレーヤーの中でも、あなたは攻撃が似合うプレーヤーだ」
いわく、
「攻撃すべきかどうか、十分に必要な時間をかけて考えて下さい」
いわく、
「悔いは流れを妨げます。悔いをなくすには、ご自分の気持ちに従うのが一番です」
こんな調子で片眼鏡の男の鼻面を引きずり回し、一方では婦人がその口車を耳にしてどんどん賭け金を増やしていった。そしてそのつど、ウフコックが辛辣な注釈を入れた。
『攻撃[#「攻撃」に傍点]と守備[#「守備」に傍点]というのも曖昧な表現だ。似合う[#「似合う」に傍点]などという言葉は、選択基準を曖昧にし、ディーラーの誘導につかまりやすくするための言葉にすぎない』
また、
『すべきかどうか[#「すべきかどうか」に傍点]、とか、十分に必要な時間[#「十分に必要な時間」に傍点]などといった言い方は、選択を混乱させるための束縛《バインド》だ。あの男の頭は、もはや倍賭け《ダブルダウン》かどうかという選択だけに陥っている』
さらには、
『バストしたら負けだ。そのことを悔い[#「悔い」に傍点]と言ったところで、なくす[#「なくす」に傍点]ことはできない。その後でブラックジャックを出して高額の配当を得ても、負けている[#「負けている」に傍点]ことに変化はない。攻撃という言葉が第一|束縛《バインド》の核になり、悔いという言葉が第二|束縛《バインド》の核になっている』
といった感じでウフコックは的確にバロットへ注意づけをしてくれた。下手に複雑なプランを練るよりも、よほど効果的にゲームの攻略法を教えてくれるようなものだった。
男と婦人の負け額が異様に伸び上がった。二人とも、すでに三万ドル以上負けている。
――このディーラーの人、どういう人なの?
『売れっ子だ。成績も上々、売り上げも大きい。ゲームへの造詣も深く、客への応対も一流だ。このカジノにしてみれば金の卵だし、本人もそのことを自覚している』
――嫌な人。
『そう思っていることを、相手に気取《けど》られないようにしてくれ』
――どうすれば良い?
『勝ったら笑ってやれば良い。負けたら、むっとしてやれ』
そしてその通りにしているうちに、カードシューの中のカードが尽きてきた。
片眼鏡の男はいつの間にか少額での賭けに転じている。百ドルか、それ以下で。
『俺の勝ちだ』
ウフコックが自信たっぷりに告げた。
やがて、最後のゲームになった。赤いカードが出て、ゲームの一巡を示したのである。
そして男にとっても、最後の勝負となった。男は12からヒットして10を引き、そこでチップが尽きた。少額での賭けに転じたのは、単に残りがなくなったからだったのだ。
シャッフルに入るとともに、男が立ち上がった。預けていた帽子と上着を受け取り、
「悪い勝負だったかな」
そう、ディーラーに訊いた。
「流れに乗るには、代価が必要です」
ディーラーが真面目な顔で返した。男はうなずいた。そして去っていった。
3
シャッフルの間、話題はもっぱら男の敗因についてだった。ドクターが話題を振り、婦人がディーラーに男の敗因を尋ねた。ディーラーは当然の代価であるという態度を崩さず、老紳士が、あの男は熱くなりすぎて己の運を見失ったのだと言った。
『必然の負けだ』
というのが、テーブルにいるひとびとの言葉をまとめたようなウフコックの言だった。
『自分のカードへの印象づけから始まり、ヒットし続けること、高配当の倍賭け《ダブルダウン》、そして21というブラックジャックへの印象づけ。ここまでがんじがらめにされては、負けるために座っているようなものだ。特に小さなカードへの執着がひどかった」
――小さなカード?
『どう確率計算をしても、6以下の数字の小さなカードはディーラーに有利に働く。ディーラーは男に、攻撃という言葉で小さなカードを求めるよう[#「小さなカードを求めるよう」に傍点]繰り返し誘導していた』
男の姿は、もうこのフロアのどこにも見ることはできなかった。まるでバストしたせいで一瞬にして消え去ったカードのように。だが男はどちらかといえば、反省するよりも勝負の余韻に身を任せるタイプだろう。華々しい勝利を経て、無一文に転じた余韻に。
それは娯楽の余韻だ。別に明日からの生活に困ることもないのだろう。自分とは違って。バロットはそう思った。問題は、男が負けたことではなく、負けさせられた[#「負けさせられた」に傍点]ことだ。
華々しい勝利など実在せず[#「実在せず」に傍点]、単に無一文への道のりの途中にそういう状況があったにすぎない。一時の勝利さえ、ディーラーの演出であり、カジノの売り出す[#「売り出す」に傍点]幻想なのだ。
そうした幻惑と戦うすべを持たねば、勝とうとする気持ちさえ、負けるための階段でしかない。まさしく、マルドゥック市《シティ》の象徴たる|天国への階段《マルドゥック》≠フ、負の面のように。
そんなことを考えているうちに、またぞろウフコックの言葉が浮かび上がった。
『最初のゲームは俺の勝ちだったな』
ウフコックが悠然と言う。バロットはちょっと意地になった。
――次は、私が当ててみせる。
『では、次のゲームだ。あの老人と女性のどちらが先に席を立つかな?』
――絶対、女の人。
『では、俺は老人のほうだ』
――私が女の人を選んだから?
『いや。俺は断然、あの老人だと思う』
どうにも驚きだった。どう考えたら、あの老練を絵に描いたような紳士が、いかにも金遣いの荒い婦人よりも先に、敗退するなどといえるのか。
シャッフルが終わった。今度は婦人が、赤いカードを山に差した。ディーラーが滑らかにカードの山をカットし直し、バロットが席に着いてから四巡目のゲームが始まった。
片眼鏡の男が去ったせいで、老紳士が右端の席になった。一番最初にカードを配られる席である。ディーラーは老紳士の呼吸を巧みに読んでカードを滑り込ませるが、老紳士の堅実さはまるで崩れない。その隣の婦人の派手さや、ドクターも派手に賭けているように見せているせいで、老紳士の落ち着きがひときわ異彩を放った。
ときおりディーラーが投げかける言葉にも誘導は見つけられない。いわく――
「あなたはゲームをよく知っておられる。教えを乞われることも多いでしょう」
いわく、
「あなたのようにゲームの楽しみ方を知っている人間は、このフロアでも数少ない」
いわく、
「人生を知っている人ほど、ゲームを有意義に楽しむものですが、あなたは特に自分以外の人と一緒に楽しむ方法をご存じだ」
ときには、
「今のヒットは、賭けたチップを考えれば当然でしたね」
というディーラーの言葉に対し、
「いや、むしろ無謀だった。チップの多寡で自分のゲームを左右しようとは思わんよ」
などというふうに、老紳士のほうでさりげなく訂正を入れてしまう。ディーラーが失礼しましたとばかりに軽く頭を下げる光景さえ見られるのだった。
中でも老紳士の塁実さが際だつのは、彼の手に|21《ブラックジャック》の手が来たときだ。
老紳士がAとJを引いたときの判断こそ、彼の全てと言ってよかった。
「イーブンマネー」
そう告げたのである。これは、21の場合にのみ可能な選択だった。イーブンマネーを宣言した時点でプレーヤーの勝利が確定するが、配当は一倍に下がるというものだ。
ディーラーも21だった場合、引き分けになって勝負が無効になるのを避けるための選択だが、それにしても欲がない。確実な勝ちのみを拾う、極端なまでの堅牢さだ。
ディーラーも余計なことは言わず、とてもそこに誘導があるとは思われない。
だがそれでも、ウフコックの言を考えれば、そこにも誘導はあるのだ。より確実にチップを吐き出させるための方法が。バロットにはまだそれがわからないだけで。
そしてそれを知る前に、バロットはある異常に遭遇した。
女性の負け額がどんどん増え続けるのである。どこまで負ければ気が済むのかと思われるほどの大敗だった。十五ゲームほど終えたところで、通算七万ドルを超えた。
にもかかわらず婦人のチップが不足する気配はない。まるでチップを詰め込んだ金庫を傍らに置いているようなものだ。そう思って、バロットは、あっとなった。確かに金庫はあった。婦人の隣で、堅実にチップを保持し、ときにその中身を増やす金庫が。
婦人が、13からヒットして10を引いた。バストである。不運というしかない。
だが金額が桁《けた》外れだった。ディーラーが没収したチップは千ドルを超えていたのだ。
そのゲームで勝ったのは、老紳士とドクター、そしてバロットだった。
要するに婦人だけが低迷しているのである。だが婦人に、焦りは見られない。
「勝てる波が、すぐそこまで来てる気がするの」
婦人がそんなことを囁いた。誰にか――隣の老紳士である。
「試してごらん」
老紳士が尊大な笑みを返す。それが許可だった。
婦人が太い指でごっそりとチップを握った。どこからか――老紳士の籠からだ[#「老紳士の籠からだ」に傍点]。
――わかった。
思わずウフコックに告げた。
――あの女の人。なんであんなに賭けられるのかと思った。
『ということは、君も、あの女性のバンクロールの源泉《もと》に気づいたのかな』
――あのおじいさんのほうを選んだのは、それがわかってたから?
『むろんだ』
――ずるい。
ぼやいた。手袋の裏側で、ウフコックが忍び笑いをしているような気がした。
完全にバロットの考え違いだった。婦人が老紳士を引き回しているような雰囲気は、結局、老紳士の愛嬌みたいなものだった。実際は、婦人のほうが依存しきっていたのだ。
『自分から気づいたんだ。もっと喜んで良い』
ウフコックが告げた。つまり婦人はチップを持っているのではない。供給されているのだ。そしてディーラーの誘導もまた、それを理解した上でのものだった。
そのことが、バロットにもはっきりとわかってきた。たとえば、
「勝つ波を感じるのに、なかなか勝てないのね」
と婦人がぼやくと、ディーラーが慰めて、
「私たちは、まだカードに愛されるには年季《としつき》がたりないのでしょう」
「どうしたら、もっと勝てるようになるのかしら」
「色々と試しながら、ゲームを知る人から教えを乞うのが一番でしょう」
表面的にはこの二人に対するあからさまなおべっかだが、事態はもっと深刻だった。
『老人にとって最も重要なプライドを刺激しているんだ。あの老人は、今や慈悲溢れる援助者だ。そういう役割を、ディーラーも老人も、婦人を利用して作り上げている』
というのが、ウフコックの解説である。
『ディーラーのすべきことは少ない。老人はもともとそういう心理に浸っているし、婦人も徹底的にそれに寄りかかっている。毒リンゴを渡す瞬間は、いくらでもある』
――でも、あのおじいさん、ディーラーの言うことに反対してるのに。
『それも誘導の一部だ』
――どういうこと?
『わざと部分的に誤った情報を提示し、相手に訂正させる[#「相手に訂正させる」に傍点]んだ。そうすることで相手の口から答えを言わせ[#「答えを言わせ」に傍点]、そのように行動しやすくさせる。誘導の後の、加速[#「加速」に傍点]だと思えば良い。老人にとっては自分の考え[#「自分の考え」に傍点]だが、ディーラーの意図にのっとった思考にすぎない』
めまいがしてきそうだった。よくもそこまで周到に他人を操ろうとするものだ。
しかも相手を操作している気配など、毛ほども見せない。なんという巧妙さか。
『さて、我々のゲームの進行はどうなっているかな?』
カードではなく、誰が席を立つかというゲームのことだった。
――あの女の人だと思う。
それでもそう告げた。老紳士のチップは、婦人に割譲しているとはいえ、そう簡単には消えてなくなりそうもなかった。老紳士の誘導のタネがプライドにあるのだとすれば、そのプライドに賭けてチップをなくすようなことはしないだろう。
やがて、全ゲームが消化された。赤いカードが現れ、ディーラーがバストしたところでゲームが一巡したのである。思った通り、老紳士はしっかりとチップを保持している。
「思ったよりも、増やせなかったようだ」
唐突に、老紳士が言った。とともに、従業員を呼び、預けていた帽子と上着を受け取っている。バロットはかろうじて、ぎょっとした顔をしないでいられた。
老紳士が席を立った。むろん、チップはだいぶ残っている。そのチップを、なんと婦人に全部手渡したではないか。婦人はにこやかにチップを手にし、老紳士は、もう自分は十分に楽しんだというようにバーのほうへ悠然と去っていってしまった。
『彼のプライドの結末だ。彼は自分の限界をよく知っている。これ以上、チップを増やせるだけの集中力が持続するとは限らない。自分の疲れ切った姿を見せるより早く、彼女に戦利品を贈呈し、自分は撤退するに限るというわけだ』
バロットは呆然としている。そんな男の心理など全く考えてなかった。今までどうやって老紳士が女性を口説いてきたか、女性に何を求めてきたか、わかるような気がした。
『なかなか面白いゲームだっただろう?』
――どっちも当たらなかった。
『だが目的は達成した』
――目的?
『君は俺との会話でディーラーの誘導を無効にした。俺の心配事は、君がディーラーの示す印象[#「印象」に傍点]のほうを、我々の目的よりも優先してしまうのではないかということだった』
なんとなくそんな気はしていたが、こうまっすぐに告げられると、どう反応して良いかわからなかった。するとウフコックはちょっといたずらっぽく言い加えた。
『君を誘導する勝負[#「君を誘導する勝負」に傍点]に関しては、断然、俺のほうが有利だ。ディーラーには、君と身近に会話する方法はないのだから』
あまりに直截《ちよくせつ》な言い方に、バロットは眉をひそめた。
――意地悪な言い方はしないで。
『実態さえ理解してしまえば、この程度の印象づけで自分が不利になるような誘導に振り回されることはなくなる。逆に、相手の意図を見抜く目を養う[#「見抜く目を養う」に傍点]には絶好の相手だ』
ウフコックはさらりとそんなことを告げ、さらにこう付け加えた。
『もちろん、俺やドクターの誘導にも振り回されることはない』
それは、印象や誘導がどうというのではなかった。それが悪意かどうかも、結局は大したことではないのだ。問題は、バロットにどれだけ多くのものが見えているかだった。
――私、あなたを信じたい。あなたたちを。それは悪いこと?
『君は君自身の判断を磨くべきだ。君は君の事件の解決に、そういう方法を選んだ[#「そういう方法を選んだ」に傍点]』
――私、きっと一人じゃ勝てない。
『君のサポートは我々の職務の一つだ。そして君は自由に、我々を使うかどうか[#「使うかどうか」に傍点]を決められる。我々の提示するプランを選択するかどうか[#「選択するかどうか」に傍点]を』
――それも、あなたの誘導?
『そうだ。君に俺を使ってもらい、俺の有用性[#「有用性」に傍点]を証明してもらうための』
ウフコックはきっぱりと答え、そして、こう言った。
『俺は道具だ』
その言葉に、バロットはかすかに目を細めた。
『俺のプライドは、あの老人のプライドに似ている。他者に関わることで自分の有用性[#「有用性」に傍点]を証明してもらうしかない。俺は俺の価値を、他者に対して試し続けなければならない』
――私は、あなたを使いたい[#「使いたい」に傍点]。あなたは……あなたがいなくなっても[#「あなたがいなくなっても」に傍点]私一人でできることを増やしてくれるから。
それがバロットにとっての最高の有用性[#「有用性」に傍点]だった。ウフコックは、決して人を自分に依存させようとはしない。どこまでも対等に接してくれていた。
――私、あなたを有意義に使う。もう二度と、あなたを裏切りたくない。
『ありがとう、バロット』
ウフコックの言葉が浮かび上がった。
『俺は良い相棒《バディ》に巡り会えた』
4
シャッフルが終わり、ドクターが赤いカードを山に差したとき、
『ランニングカウントを表示する』
ついに、ウフコックからその指示が来た。
『プランを進めるぞ。そのことをドクターにも教えておくんだ』
バロットはチップを置くと、その指で何気なくテーブルを叩いた。
ドクターはすぐにそれに気づいた。娯楽に慣れた者が持つ当然の気遣いのように。
「カードが待ち遠しいのかい?」
〈うん。だんだん面白くなってきた[#「面白くなってきた」に傍点]。もう少し工夫してやってみる[#「工夫してやってみる」に傍点]〉
勝負に酔ったようなドクターの顔の中で、その目だけが、ちらりと、冷静に動いた。
「そいつは強気な発言だ。実に頼もしいじゃないか」
ドクターはそう感嘆して愛嬌を振りまき、頼もしい隠れ蓑《みの》を演じてくれていた。
一方で、バロットがゲームに集中[#「集中」に傍点]していることは誰もが察している。それこそ本気で勝とうと思っているかのように。そのことは場違いでもなんでもない。このテーブルに座る誰もがそう思っているからだ。ただ、確実に勝つ手段がないだけで。それを持つということがどういうことか、まだバロットでさえ知らなかった。
全員がチップを置き、ゲームが始まると同時に、バロットの左腕の表が変化をみせた。
『ポイントの見方はわかるな?』
ウフコックが訊いた。バロットは左腕の手首を、ぐるりと数値表がとりまいているのを感覚した。現在のポイント数と、カードの内訳。そしてポイント数ごとの出資の上限と下限が表示される仕組みだった。
――大丈夫。わかる。
バロットは素早く表を把握した。ポイント数が高ければチップを増やし、低ければ減らす。エース・ファイブ・カウントと呼ばれる、初歩《ランニング》のカウンティングであった。
プレーヤーに最も有利なカードは|A《エース》、カジノに最も有利なカードは|5《ファイブ》という観点により、残り枚数から有利不利を判断するシステムである。Aが場に出たら一枚につきマイナス二点のポイント。5が出れば、プラス二点。2から6が出ればプラス一点、7・8・9はゼロ、10と絵札はマイナス一点というように、点数を加算してゆく。そしてポイント数ごとに、プラス十点以上、五点以上、五点未満、ゼロ、ゼロからマイナス五点、マイナス五点以下、と場合分けをし、チップの賭け額を上下させるのである。
これまで使用してきた基礎戦術も同時に参照するし、右腕の資金管理表も、チップ増減の根拠となる。これらの数値を把握することで、これまで運頼みだった場面で、ゲームを大幅にプレーヤー側にとって有利に運べるようになるのだ。
バロットが場に出したチップは、三百ドル。
今、最初の二枚のカードが全員に渡った時点で、ポイントはプラス二点。
バロットの目の前にあるのは、8と6のカードで、合計14である。
そしてディーラーのフェイスカードは9。戦術表はヒットを示している。
婦人が、16から果敢にヒットした。来たのは2で、合計18。
バロットの腕でポイントが変化し、三点に。
ドクターが13から4を引き、合計17。ポイントは四点になった。
バロットがヒットし、6を引いて、合計20。すかさずステイ。ポイントは五点に。
ディーラーが伏せカードを開いた。カードは9。ポイントは変わらず。
ディーラーは合計18――婦人とバロットの勝ちであった。
場のカードが廃棄《ディスカード》され、バロットはチップをつかんだ。ここで初めてポイントが意味を持った。ポイントは五点。それに従い、三百ドルから六百ドルヘチップを増やした。
バロットのカードは6と7で合計13。婦人とドクターにも、2から6までの小さなカードが主に来ていた。ディーラーのフェイスカードは6。
婦人もドクターも、果敢にヒットしてバストした。バロットは戦術表に従ってステイ。
ディーラーが開いたフェイスカードは、2。そこからルールに従ってカードを引き、4を出した。さらに引いて、ぴたりと5を叩き出し、合計17になった。
バロットも負けた。小さなカードが連続することでプレーヤーに不利な状況が生まれていた。いわゆる耐えどころ[#「耐えどころ」に傍点]である。だがポイントは八点に増えている。耐えるべき今の状況のどこかに、必ず勝負どころ[#「勝負どころ」に傍点]が来るのだ。
バロットはポイントに従って六百ドルを出し、チャンスを待った。ふとディーラーがバロットに目をあてるのが感覚でわかった。そこで、すかさずドクターが声を上げた。
「そうそう、それで良いんだ。あまり小さく賭け続けていても、つまらないだろう?」
バロットは顔を上げ、ちょっと首を傾《かし》げてみせた。
〈ゲームは忍耐だって、叔父さんが言ってたから……〉
「目的のない忍耐ではストレスが溜まってしまうよ。遠慮することなんかないさ」
そのドクターの隠れ蓑によって、ディーラーの注意がわずかにバロットから逸れた。
ドクターは、16からヒットを告げた。出たカードは3。すかさずステイ。
ドクターも大したものだった。ウフコックの助けなしで、チップを保持しているのだ。バンクロールも戦術表もチップの増減も、頭の中で弾きだしているに違いなかった。
バロットはドクターと同じように16からヒットして8を出し、バストした。
六百ドル分のチップは、カードとともに藻屑となった。
だがそれでようやく、ディーラーがバロットから目を離すのが感じられた。
バロットがカウンティングをするとは思っていないだろうが、少しでもその気配を出すと、すぐに違和感を察知してくる。実際このディーラーが優れている証拠だった。
ポイントは五点の上下をいったりきたりしている。一時、九点になったが、すぐにマイナスに転じた。このまま勝負どころが来ないままゲームが進行してしまうのかという微かな不安を感じつつも、バロットはただまっすぐにカードを捌《さば》いていった。
やがて序盤が終わりかけた頃だった。婦人が大賭けを続けてきた甲斐があったのか、千ドル以上の額でブラックジャックを引き当てた。ディーラーがおめでとうを告げ、その隣で無惨にもバストしたドクターに、惜しかったというようなことを言った。
「勝負どころは、限られた席のようなものさ。勝つ人間の隣には、必ず負ける人間が座ってるもんだよ。ただ一つ事があるとすれば、その逆もまた然り[#「その逆もまた然り」に傍点]ってことでね」
それから、ドクターは婦人に背を向けるようにして、バロットのほうを見た。
「我々も負けてはいられない。流れを呼ぶのに代償が必要なら、堂々と支払うべきだ」
そう言って、ドクターが大きく賭けた。バロットは、ウフコックに干渉して、
――ドクターは、わざとああ言ったの?
『そうだ。獲物[#「獲物」に傍点]を選別するディーラーに対して、ドクターが逆誘導[#「逆誘導」に傍点]した。婦人かドクターの、どちらかが敗《ま》けることで、もう一方に勝運が舞い込む、という考え方だ。婦人が負ければ負けるほど、ドクターは大きく賭けるという予告だ。ディーラーの狙いは婦人に絞られた。その上でドクターから搾《しぼ》り取る気だ。君は一番最後ということになる」
一番最後[#「一番最後」に傍点]。それはひどく不快な隠喩をバロットに連想させた。デザート[#「デザート」に傍点]とか甘い物[#「甘い物」に傍点]とかいったものを。美味な名前だと客の誰かが言った[#「美味な名前だと客の誰かが言った」に傍点]。ふいにバロットの中で、容赦のない何かが首をもたげた。一番最後に手を出そうというなら、そういう顔をして待ちかまえてやろう。リンゴの中に差し込まれた一枚の剃刀を、相手に食わせてやるために。
そう思いながら、バロットはポイント数の増減を生真面目に追った。傍目《はため》には何を基準にチップを上下させているのかわからないから、婦人などは、そんなバロットを見て、
「移り気が激しいのね。私にも、そういう時期があったわ」
などと、勝った勢いのせいか上機嫌で口を出してきた。バロットは素直にうなずいた。つい色々と試したくなるのだというように。婦人はそれで良いのだと言わんばかりにうなずき、自分はチップを手のひらいっぱいにつかんでテーブルに放り続けた。
「勝てる波が来たかしら? 波を感じるわ」
婦人はチップという肉厚の餌を、弾猛なピラニアみたいなカードに投げ与えている。
沢山餌をくれてやれば、ピラニアが自分にだけはなつく[#「なつく」に傍点]とでもいうように。
実際は、ピラニアにとって食い応えのある餌の在り処を教えるだけだ。
だが――確かに、バロットも、波を感覚することはあった。ときおり、ポイント数の向こうに、予感のようなものを感じるのだ。バロットは、その感覚を追った。
銃の射撃とも違ったし、ルーレットでボールを追うのとも違う感覚だった。同じものが常に違う順序で並べ替えられることで、意図せぬ模様が浮かんでは消えてゆく。その明滅する流れをつかむにはどうしたら良いか。バロットは深く静かに感覚していった。
中盤に入るや、ポイント数が大きく加算された。五点から八点、八点から十一点。
そして十一点が十三点になった瞬間だった。来た、という感覚があった。
バロットは初めて、婦人に倣《なら》うように、チップを大きく積み重ねて場に置いた。
婦人がこちらを見た。ディーラーの視線もバロットにあてられている。バロットは波を感覚していた。小さなカードの波が引き、プレーヤーに有利な状況が生まれるのを。
カードが配られた。バロットの前に来たカードは、9と9。
すかさずフェイスカードを確認した。7だ。ぎりぎりだが、賭けてみる他なかった。
婦人が15からヒットしてバストし、ドクターも13からヒットしてバストした。
バロットは、この席に座って初めて、カードに手を触れた。
〈分割《スプリット》です〉
両手の人差し指で、それぞれのカードに触れ、左右に分けた。それから同額のチップを一方のカードのもとにも置いた。どんなカードが次に来るか、ということよりも、自分がどんな模様の上に立っているのか[#「どんな模様の上に立っているのか」に傍点]、ということを感覚するので頭がいっぱいだった。
ディーラーが新たなカードを引いた。バロットの右手の9のカードに、Jが重なった。
〈ステイ〉
バロットの呼吸に合わせて、左手のカードに、するりとAが重なった。これで、右手に19、左手に20を得た。一瞬、テーブルの誰もがバロットの勝利を確信した。
〈ステイ〉
ディーラーが伏せカードを開くのを見守りながら、バロットはこの波の推移を感覚した。頭がどんどん醒めてゆき、首筋がちりちりした。
ディーラーが開いたカードは8。合計15。それもまた全体の模様の一部だったし、ルールによってさらにもう一枚引かねばならないということもふくめて、流れだった。
バロットはふと目を閉じ、ここで大事なのは何だろうと考えた。
ウフコックに訊こうとしたが思いとどまった。目を開くと同時に答えが現れていた。
ディーラーは6のカードを引いた。21――バロットの両手はまさかの敗北を喫した。
チップがさっと消え、カードが消えた。だがバロットはそれを見ていない。負けることで何かを悟るのでもない。意識がはっきりした。ただそれだけだ。全体の模様が細密画のように組み合わされていること、何の隙間も存在しないことが感じられていた。
ゲームの細密画[#「ゲームの細密画」に傍点]は、決して塗り重ねられるということがない。
こうむった負けが消えることも、手に入れた勝ちがなくなることもなかった。
ディーラーが何かを言った。惜しかったとかそういうことを。そして、バロットに対しては、もはや何の誘導も必要ないとばかりに、カードを配っている。
ポイントは六点から十点、十点から十四点、そして、十四点から十二点へ。
バロットはふいにまた、それ[#「それ」に傍点]を感覚した。遠目には何だかわからなかった影がゆっくりと近づいてきて、徐々に輪郭を浮かび上がらせてゆくように。
バロットは、上限の額を確かめ、チップを置いた。下限の出資単位《ユニット》が三百ドルだから、上限はその十倍である。何度か積み重ねて、ようやく上限いっぱいに達した。
婦人がぎょっとした。ディーラーはさも一流らしく微動だにしない。
ドクターが口笛を吹き、バロットは三千ドルの賭金の背後で、カードを待ち構えた。
婦人とドクターのもとにそれぞれ10点札が来た。ポイント数は、十二点から十点へ。
バロットのもとに、5のカードが来た。ポイント数はプラス二点で十二点になった。
そこから二枚目のカードが配られるまで、ポイント数は増加し続けた。
バロットの前に、二枚目のカードが配られた。再び、5のカードだった。
ポイント数はその時点で、十七点。ディーラーのフェイスカードは2。
婦人がヒットした。14から8を引き、バストした。
ドクターがヒットした。16から2を引き、ステイした。
ポイント数は過去最大の、十九点。バロットのカードは5と5――合計で10。
ディーラーがバロットを向いた。その瞬間、バロットが告げた。
〈倍賭け《ダブルダウン》〉
ディーラーが目を細めた。婦人が呆然とした顔になった。戦術上、当然の選択だが、賭けた額が桁《けた》外れだった。バロットはチップを積み上げるのに少し苦労した。
積み上げられた六千ドルを、ディーラーが見つめた。最後にとっておいた獲物の甘い中身を確認するように。その手が滑るようにしてカードシューに触れた。ディーラーの動作に、あらかじめ仕込んでおいたカードを抜くというような怪しい動きはなかった。
カードが来た。バロットはゲームが始まって以来、無視してきたカードの印《スーツ》に目がいった。クラブのQだった。合計20。それが、甘い中身に仕込まれた剃刀の刃だった。
〈ステイ〉
ディーラーがさっと伏せカードを開いた。クラブのAが現れた。2との合計で、13。
ルールによってさらに一枚引いた。10点札だった。カードは|Aを1と数え13《ソフト・サーティーン》に。
そしてディーラーが四枚目のカードを引いたとき、勝敗が決した。
――黒い片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》だ。ディーラーの手をバストさせたそのジャックの横顔を見つめながら、バロットは大きく息をついた。流れの中での唯一の選択だった。ほんの一枚、カードが前後にずれただけで、完全に手も足も出なくなる状況だったのだ。
バロットは、勝った。
「これは参ったな! いったい、どういう魔法を使ったっていうんだ?」
ドクターが煙幕を張るために、わめきにわめいた。バロットはちょっと首を傾げて、
〈勝てる波を感じたの。でも、怖かった〉
婦人の言葉を真似して告げた。それが、結果的にディーラーに対する最高の煙幕になった。婦人をその気[#「その気」に傍点]にさせたからだ。バロットに渡された二つの六千ドルの束がさらに婦人を煽った。婦人が勢い込んでチップを置いた。千ドル単位である。チャンスと見ればどこまで額が増えるかわからない。ディーラーにとっては、労せずして、やりやすい状況になったというわけだ。ディーラーの狙いは、完全に婦人に絞られた。ことあるごとに婦人の選択に口を出し、慰め、誉め、アドバイスを与えるようになった。いわく――
「今夜の波は移り気が激しい。カードを一番大事にしている人が最後に勝つでしょう」
いわく、
「勝つ波には、誰もがどうにかして乗りたがるものです。急がなければ乗り遅れます」
いわく、
「どこまでが本当の勝ちかは、誰にもわからないものです。だから誰もが、その人にとって一番の勝ち方を目指すのでしょう」
ときには婦人のほうからディーラーに質問を投げた。
「私、勝ちの波が、遠のいてしまうようなことを、しているのかしら?」
「波に乗っているとき波と自分の差はわかりません。恋人と一緒にいるときのように」
「別れた後で、自分の気持ちに気づくみたいにね」
「その通り。あなたはその点では、もう十分に経験を積んでいるようだ」
などとディーラーが囁くや、婦人はもう新たなチップを握りしめている。
『上手いな』
ウフコックが評した。プロのスポーツ選手が、小学生の駆けっこを誉めるみたいに。
『あのディーラー、天分がある。人は操作できて当たり前だという臭いがする』
――呼吸法とか、ダブルバインドってやつをやっているの?
『そうだが、違う手法も幾つか組み合わせている。なかなか巧みだ』
――違うやつって?
『今夜の[#「今夜の」に傍点]とか、最後には[#「最後には」に傍点]という言い方をすることで、バンクロールから意識を逸らせてしまっている。分離法というやつだ。どうにかして[#「どうにかして」に傍点]、などというのは要するにもっとチップを出せと言ってるんだ。恋人がどう[#「恋人がどう」に傍点]という喩《たと》えは上手いな。あの女性の思考パターンでは、チップを積むことでしか自分のもとに留まってくれないというわけだ』
――きっとあの女《ひと》がそうなんだと思う。
『あるいはその逆も経験したことがあるのだろう。あのディーラーは、客の現状を肯定してやる[#「客の現状を肯定してやる」に傍点]ことで、上手くチップを吐き出させている。基本的な誘導だが、効果的だ』
――あのディーラーの言葉が上手ってこと?
『誘導の本質は、言葉ではない。空想[#「空想」に傍点]だ。頭の中で思ったことが、その人間の現実の行動に影響を与えるんだ。誘導とは、いかにして相手に架空の物事[#「架空の物事」に傍点]を想像させるかだ』
間もなく、婦人が一度だけ大勝した。想像通りの自分[#「想像通りの自分」に傍点]になったのだ。それもブラックジャックで。七千五百ドルの勝ちに、恍惚となった。貧しい時分に別れた恋人が、あるとき億万長者になって自分のもとに帰ってきたというように。
ゲームが終盤に入った頃、ふいに老紳士がテーブルに戻ってきて婦人の後ろに立った。
まるで負ける姿が見たくてそこに婦人を座らせているとでもいうように。自分がいなければこの婦人は駄目なのだという一点において、老紳士のプライドは盤石だった。
その結果、女性は肥え太ってゆくし、老人は痩せてゆく。そういう二人だった。
ゲームが一巡し、ディーラーがシャッフルに入ると、婦人が重たそうに席の背もたれに手をかけた。満足そうな顔だ。もはや蕩尽《とうじん》といって良い。
「長い晩を、みなさん」
婦人が言った。ドクターもにっこり応じた。
「良い晩を。私どもはもう少し、ここでカードに触れているでしょうがね」
婦人はかすかに上気した顔で微笑んだ。
「私は、もう十分。でも、すぐにまた、カードが恋しくなるでしょうね」
カード以外にも恋しくなる対象は山のようにあるだろう女性だった。
バロットは、婦人に挨拶を返しながら、左腕の戦績表を確かめた。
婦人の負け額は十万ドルを超えている。それが婦人のここでの唯一の成果だった。
バロットは婦人の戦績表を消し、もっと有意義な情報を表示するスペースを空《あ》けた。
「僕らだけになってしまったが、まだ君との[#「君との」に傍点]ゲームは楽しめるのだろう、マーロウ?」
ドクターがにこやかに言う。親しい同僚に話しかけるような口調だった。
「もちろんですとも」
ディーラーも親しげに答えながら、シャッフルの途中、ちらりと腕時計に目をやった。料理の煮込み[#「煮込み」に傍点]具合でも見るように。そしてバロットとドクターを見やった。ウフコックなら見逃さないものを、バロットもまた男の眼差しに感じていた。この男の貪欲さを。
バロットは、じっとディーラーのシャッフルを感覚した。ディーラーの指先は、丹念に何かを作り出そうとしていた。カードの模様を。そこにひそむディーラーの意図と、積み上げられた確率論とルールが作り出す編み目のような細密画を。この席に着いてからずっと感じ続けているものがあるとすれば、それであるような気がしていた。
――ウフコック、私、感じる。
『何をだ?』
――このディーラーの人、ただ[#「ただ」に傍点]カードをかき混ぜてるんじゃないって。
『つまり、このディーラーがカードの順番を自由に操作していると?』
――お客さんに合わせて、カードの切り方を変えてる。
『しかし、カードの全配置を覚えておくことはできないだろう』
――でも、どんな模様を作ろうとしているか[#「どんな模様を作ろうとしているか」に傍点]くらいは、考えてると思う。
『そのディーラーの意図が、わかるのか?』
――わかる気がする。
『本当か?』
ウフコックが手袋の内側[#「内側」に傍点]で仰天したように返してきた。バロットはちょっと首を振った。心の中でではなく、実際に振ってしまってから、慌てて顎を引いた。
――あなたみたいに計算ずくってわけじゃないけど。
『戦術に応用できそうか?』
――さっきやってみた。半分は当たった。少し練習すれば、ちゃんとできると思う。
『よし、了解した。俺は、数値と臭いで読む。君は君自身の感覚[#「感覚」に傍点]で読むんだ。相手の意図と、カードの順番を。プランの進行と同時にやるぞ。良いか?』
一瞬、ウフコックの渋い笑みを感じた気がした。
何かを企んだような、ちょっと意地の悪い、しかし頼りになる笑みを。
バロットは、今度は、しっかりと心の中でうなずいた。
ディーラーがシャッフルを終え、カードの山を整えた。それからバロットのほうを向き、何かと思ったら、丁寧な仕草で、赤いカードを差し出してきた。
バロットはこの席に着いてから二度目の、赤い透明なカードを手に取った。
カードの山に意識を向けた途端、何か[#「何か」に傍点]を感じた。ある一点への影響が、全体に作用するような何かを。バロットはその一点に向けて、赤いカードをするりと差し込んだ。
ディーラーの指が滑らかにカードの山をカットし直し、カードシューに入れた。バロットはその動きを鋭く感覚した。自分が与えた影響が、全体の模様[#「模様」に傍点]に波紋のように広がったのを。そしてディーラーが、確かにその影響に対してカードを切り返してきた[#「切り返してきた」に傍点]のを。
『現在のシステムを継続しつつ、最終段階に入る。ドクターにも教えておくんだ』
バロットは了解の合図として、その言葉を握りしめた。
〈ねえ叔父さん――私、今度こそ[#「今度こそ」に傍点]勝てそうな気がする。勝つ波を感じるの〉
「おやおや、まだゲームが始まってもいないっていうのに――」
ドクターが呆れたように手を振った。降参のポーズのようにも見えた。
そしてその目が、ちらりとバロットの眼差しを受け止め、そして隠れ蓑に包まれた。
「じゃあ、一つ、勝負といこうじゃないか。僕と君とで」
それから、お互い真剣な顔で、手持ちのチップを場に出した。
ディーラーが微笑んでチップを確認し、滑るような手つきでカードを抜き放った。
ゲームが開始された。勝つためのゲーム、バロットのゲームが。
5
『トゥルーカウントを表示する」
途端に、左腕の表示がまたもや変貌した。これまでの戦績表に加えて、より高度な戦術表とポイント数の増減が現れた。他の客の戦績表が消えた分、かえってシンプルになった感じがしたが、その内容たるや人間の計算能力を遥かに超えるものだった。
ポイント数の増減も、もはや単純なプラス一点、マイナス一点という方式ではない。
9はマイナス一点、10はマイナス三点、エースはマイナス四点、その他、プラス四点からマイナス四点までを各カードに配分する。そしてその点数を、すでに出たカードと、残りのカードの組み合わせによって割り算し、確率を弾き出す。そしてそこからさらに、その確率にもとづいた最適な賭け額と戦術とが算出されるのである。
何よりこれまでと違うのは、既出《ディス》カードの一覧があることだ。
この席に座ったときにドクターが言っていた確実な必勝法こそ、これだった。
出たカードを全て暗記し[#「全て暗記し」に傍点]、正確な勝率[#「正確な勝率」に傍点]を割り出す。すなわち、最上級《トゥルー》カウントである。
カードは六つの組《デッキ》を使用しているから、全カードの合計は三百十二枚。そのうち、ゲームには使われない部分が三十枚前後生じるため、残りの二百八十枚の既出を全て記憶することで、確実に勝てる瞬間を見極めることが、トゥルーカウントの目的である。
バロットは、ドクターが初戦から長考[#「長考」に傍点]して時間を稼いでくれている隙に、そうして表示されたものを感覚しつくした。
『全額を賭けて良い瞬間が必ずある。それまでバンクロールを絶対に維持するんだ』
バロットはさらに了解の合図として手を握り、ドクターのほうを向いた。
〈叔父さん、早く〉
「うむ、わかってる」
〈他のお客さんがいなくなったからって、ずるい〉
今のは上手くいったと思いながらドクターの腕を叩いた。カウンティングによって勝つためには、本来、とにかく勝負を急ぎ、短時間でできる限りの数のゲームをこなさねばならない。そういう意味で、ドクターの遅延は、二重に煙幕となってくれた。
ドクターが顔を上げ、ヒットした。15から3のカードを引き、合計18。
ドクターはステイを告げ、さも苦労したかのように、ふうっと息を吐いた。
バロットは16からヒット。ディーラーが、するりとカードを放った。8である。
ディーラーのフェイスカードは9だ。基礎戦術に限ってもヒットの手だが、結果は見事にバストだった。没収されたチップとカードから目を離そうとすると、
『負けたカードを目で追え』
ウフコックからそんな指示が来た。バロットは咄嗟に、廃棄されたカードを睨んだ。
それから、ディーラーがカードを開いた。9と8で17――ドクターの勝ちだった。
『自分が勝ってると主張しろ』
――負けてるのに?
『負けることが我慢ならない感じで』
バロットは思案した。その様子に気づいたか、ドクターが上手く話を振ってくれた。
「どうだい。時にはじっくり考えることも必要なのさ。見事だったろう?」
〈良いの。カードの数では勝ってたから〉
「何を言ってるんだ?」
〈24だった。叔父さんのカードは、18〉
我ながら意味不明だったが、ドクターやディーラーにとっても不可解だったらしい。
「それは……君、ルールがわかって言ってるのかい?」
ドクターがきな臭いものでも嗅いだような顔になるのへ、
〈気持ちの問題。次は勝つから〉
努めて辻襟《つじつま》の合うような言い方をした。ドクターは、ちょっと見透かしたような表情を浮かべて、ディーラーが配るカードを向いた。子供の言い分だ、とでもいうように。
ディーラーは真面目な顔をしてカードを配っている。
バロットは、やけに恥ずかしくなり、思わずウフコックを問いただした。
――何か意味があったの?
『もちろん、ある』
――どんな?
『ディーラーを操作する』
――どうやって?
『女性が不可思議で神秘的であるところを見せてやろう』
それこそ、どうやって、と訊きたかったが、そこでバロットの番になった。
バロットは13からヒットして10点札を引き、バストした。どうやら守りどころに足を突っ込んだらしい。プレーヤーに有利なはずのカードが、流れの中で逆にプレーヤーを阻害するのだ。守りどころで大事なのは、ひとえに期待しないことだった。負けて当然と考えなければ、カードに振り回されるだけである――そんなふうに、学んだことを頭の中で反芻《はんすう》しているうち、ふとバロットは、ウフコックの意図を察した。
――混乱させれば良いの? あのディーラーの人を?
『そうだ。タイミングと内容はこちらで指示する。無邪気なところを見せてやれ』
まるで、手に持った銃で一発脅しつけてやれ、とでもいうようだった。
バロットはちょっと目を丸くした。
カードが来た。Qと6で合計16。ディーラーのフェイスカードも10点札。勝率は低く、出したチップの額と、出すべきだった[#「だった」に傍点]チップの額との差額が、早くも損失として計上された。厳しい流れだが、一方では別の可能性[#「別の可能性」に傍点]を示唆する数値が示されている。
そのせいかどうか、ウフコックはカードの流れ自体はまるで気にせず、
『どんなカードが来た?』
などと訊いてきている。ウフコックにもわかっているはずだったが、バロットは、見たままのイメージ[#「イメージ」に傍点]を電子的に再現して、ウフコックに干渉して伝えた。
『いや。君の素直な印象のことだ。ほら、君がオリジナルの辞書を作っているように』
そう言われて、裁判に出る前、ウフコックとカフェに行ったときのことを思い出した。
――絵が綺麗。黒いクイーンが好き。6のダイヤは、クイーンのアクセサリーみたい。
『では、自分の番になったら、それをドクターにも教えてやれ』
――他にも何か言うの?
『思いついたら何でも言っていい』
ドクターが果敢なヒットで生き残り、バロットの番になった。
バロットは、ドクターの腕をつつき、こう訊いた。
〈ねえ、叔父さん。このカードの絵、可愛いと思わない?〉
ドクターが覗き込んだ。まるでその絵を描いたのがバロットだとでもいうように。
「ふむ。わかるよ、君好みのカードだ」
〈もう一枚のカードと、よく似合ってる。あんまり崩したくない感じがする〉
「なるほど。そうだね」
〈やっぱり?〉
そこで、ウフコックの指示が来た。
『だから』
〈だから[#「だから」に傍点]、ヒット[#「ヒット」に傍点]〉
ディーラーが虚を突かれた。
だがそれでも、長年の訓練のたまもので滑らかにカードを抜き放っている。
5だった。合計21。もう一方の確率[#「もう一方の確率」に傍点]が、ぴたりと来ていた。守りどころでの逆転現象[#「守りどころでの逆転現象」に傍点]である。本来カジノに有利に働くはずのカードが、プレーヤーを助けるのだ。
その典型が、これだった。だが、バロットが会心の表情を浮かべる間もなく、
『絵にこだわれ。否定的意見を混ぜろ』
ウフコックが、厳命だといわんばかりに指示を出してきた。
バロットは眉をひそめて、カードを指さした。
〈残念。ほら。こうなるとは思わなかった。絵が似合わない〉
「うーん。崩したくなかったという理由がよくわかるよ。君には絵の感性があるな」
〈自分でもそう思う〉
そんなふうに二人でうなずき合うが、まるで意味はない。意味を求めるディーラーの目が、バロットとドクターの表情を、騙し絵でも見るみたいに見比べるばかりである。
バロットがひょいと顔を上げてディーラーを見やった。
〈ステイ〉
当たり前の選択である。だのにディーラーは意表を突かれたようにうなずき、フェイスカードを開示した。絵札――合計20である。勝利者はバロット一人だった。
ディーラーが一・五倍の配当を与えたが、バロットはチップなど脇に放っている。むろん内心では勝負に勝ったのと相手を惑わしたという二重に会心の気持ちを抱いていた。
バロットは以後、カードが配られるたびに思いつく限りあらゆることを口にした。
いわく、
〈鳥が飛んでるみたい。もっと飛ばしてあげたい〉
いわく、
〈ちょっと尖りすぎてる気がするから、丸くしたい〉
いわく、
〈柔らかすぎるけど、これくらいがちょうど良いかも〉
そして――しかし[#「しかし」に傍点]、ヒット。そして――だから[#「だから」に傍点]、ステイ。そこで――でも[#「でも」に傍点]、ヒット。
自分でも口にしていて一体何がしたいのかわからなくなるほどだ。
フォローを入れるドクターも、時には訳のわからない顔をしてディーラーに共感するかと思えば、一転してバロットに同感を示してディーラーを煙に巻いた。
『さすがに冷静だが、そろそろ、ほころびが見えてきたかな』
完全無比のトゥルーカウントを示しながら、ウフコックがいたずらっぼく告げた。
『彼は、君を勝ち気の強い人間だと思っている。しかも欲しいものは全てねだる前に[#「ねだる前に」に傍点]与えられてきた人間だと。だから彼は、君が何かを欲しがる前に、あらかじめ用意することで頭がいっぱいになっているんだ』
バロットは心の中で肩をすくめた。見当違いも良いところだった。
要するにこのディーラーは、相手の内面が読めるという点にプライドがあるのだ。
相手がどんな意味不明なことをしでかしても、その理由くらいはもちろんわかっているというように。だがディーラーにわかるのは、バロットがいきなりお喋りになったことくらいだった。そのうち、ウフコックの指示がなくとも、ディーラーのリズムを感覚していれば、どのタイミングで仕掛ければ[#「仕掛ければ」に傍点]良いのか、自然とわかってきた。
〈クラブの印《スーツ》に縁があるみたい。助けてくれるから〉
ドクターは、さもわかったようにうなずいている。
「自分の得意な印《スーツ》を見つけるというのは大事なことさ。自分を映す鏡になるからね」
だがバロットの手にクラブはない。ディーラーのフェイスカードだけがクラブだ。
ではディーラーのバスト待ちか。そうではなかった。ドクターがステイを告げた直後、
〈ヒット〉
間髪を入れずに告げた。ディーラーの反応がまた遅れた。かろうじて、どんな選択をしたのか、聞き返さずに済んでいるという様子だった。
カードが来た。13から6のカードが来た。だが印《スーツ》はダイヤだ。
ディーラーはバロットの顔色を窺うようにしてこちらを見ている。当のバロットは、
〈やっぱり〉
などと言っている。ドクターは、バロットのカードなど見もせず、自分のゲームに熱中[#「熱中」に傍点]している。そのせいでディーラーの判断材料が確実に減っていた。
バロットが、たっぷり時間をかけてステイすると、ディーラーは、ようやく自分にできることを与えられたように、伏せカードを開示した。フェイスカード、伏せカードともに絵札で、ディーラーの一人勝ちである。しかも、両方ともクラブのカードだった。
「残念でしたね、|お嬢さん《レディ》」
〈別に良いの。私の印《スーツ》があなたのところに行っただけ。すぐに帰ってくるから〉
次のゲームで、さっそくその言葉通りになった。むろん何の確信もなかったが、クラブの2とスペードのAを前にして、微笑してみせた。ディーラーもやや驚いたようにうなずいた。表情に、それなら自分にも理解できるという安堵が現れていた。バロットは即座にそれを叩き壊すことに決めた。ウフコックの指示を得るまでもなかった。
〈でもこのままだと、やっぱりスペードのほうが縁があるみたい〉
ドクターが選択している間、そんなことをわざわざ告げた。そして自分の番になるや、
〈クラブには悪いけど、ヒット〉
そこでまたクラブの絵札が来た。
〈やっぱり助けてくれた〉
などと呟きつつ、さらにヒットした。来たのは5である。ハートだった。
〈やっと来てくれた。良かった〉
そう一人ごち、ステイした。
〈私、ずっとハートに賭けてきたけど、このハートなら賭けてみる価値がありそう〉
「そいつは僥倖《ぎょうこう》だ」
ドクターはドクターで、真剣な顔でディーラーの開示カードを見つめている。
ディーラーは5と7から、絵札を引いて、バストになった。
「君はカードを読む天才かもしれないな。僕には予想もつかなかったよ」
〈スペードは邪魔するけど[#「けど」に傍点]、クラブと仲が良いから[#「から」に傍点]ハートに賭けるべき[#「べき」に傍点]だと思ったの〉
「ふむ。なるほどね。君はカードと会話をしているわけだ」
ディーラーは、人間と会話をしてくれといわんばかりに配当を与えている。
その調子で何ゲームか過ぎたところで、バロットの目の前でクラブのJと10が並んだ。
バロットは得意満面で自分のカードに指をさしてみせ
〈このカードを待ってた。クラブがそのうち戻ってくるって。でも、今さら戻ってさても仕方ないと思わない? もう必要ないのに〉
ドクターはぞんざいにうなずいただけだった。勝ったのはバロット一人である。
だがバロットは配当を受け取り、脇へやっている。さもつまらなさそうに。
ディーラーの混乱が音を立てて加速するのが聞こえてきそうだった。
そこで諦めて相手ごと自分の思考を放り出せば良いものを、ディーラーは執念深くバロットの意図を読み取ろうとし続け、その微笑みが、どんどん強張《こわば》っていった。
――この人、まだ私をどうにかしようと思ってるの?
「そのようだ。むしろますます気負い込んだ臭い[#「臭い」に傍点]がする』
――なんで、そこまでこだわるの?
『そういう性格なんだろう。本来、ディーラーには場を操作することなどできないはずなのだがな。ルールが有利に設定されていることを除けば、ただの傍観者だ』
――うん。
『だがその有利さを盾にして、平等な場所から踏み出す者がいるのも確かだ。このディーラーは、その中でも抜きん出て優秀だし、冷静だ。そしてその分、支配欲の強いタイプというわけだ。我々のつけいる隙は、いくらでもある』
そのうちドクターも惑乱戦法にのってくるようになり、バロットと意味不明の根拠を並べ立ててはうなずき合い、かと思うと反発し合った。
「君がこれだけこのゲームに合っているとは思わなかったよ。これはずいぶんとまた強敵を連れてきてしまったもんだ」
などとドクターが誉め上げるものだから、ディーラーもそれに合わせなければならない。だが、いったい何を誉めているのかわからない。だから、さすがです、とか、素晴らしい、とかいった抽象的な言葉しか吐けなくなっていた。
ゲームが中盤を過ぎる辺りで、ウフコックからまた別の指示が来た。
『仕草にも変化をつけよう。次のカードが来たら、足を組んでみてくれ』
バロットは言われた通り、自分のカードが二枚重なるのを確認してから足を組んだ。テーブルの下の動作などわからないはずだが、ディーラーがバロットの動きに注意深く意識を向けているのがわかった。
『カードを視界の左右に持ってくる感じで、常に、顔や身体の向きをずらすんだ』
ドクターがヒットし、カードが配られた。ドクターは合計17のカードを睨み、それからステイした。その間、バロットは身体の向きを変え、ドクターに半ば背を向けた。
バロットの番になり、14からヒットして18にした。
すぐには反応せず、足を組み直してカードが視界の左側に来てから、ステイを告げた。
ディーラーはじっとそのバロットの動作を見つめながら、伏せカードを開示する。
9の二枚組で18。バロットは引き分け、ドクターは敗退した。
カードが片づけられる間に、素早くウフコックに訊いた。
――どういう意味があるの?
『人間は空間をイメージで位置づける。視覚的な情報に対し、内面的統一をするんだ』
――それって、どういうこと?
『たとえば、好きなものを考えているときは目が体の左側を向き、苦手なものは右上、憧れているものは遠い位置の左というように、無意識に目が動くんだ。個人差によってそうした動きは異なるが、統計的には一定のパターンが生じる。熟練すれば、相手が黙っていても、目と体の動きだけで、思考や感情がだいたいわかるようになる』
――このディーラーもそれをやってるの?
『心理誘導の初歩だ。目の動きの他にも、手や足の位置、顔の向き、肩の角度などから、どういう心理状態で何を考えているのかを、地図のように把握する[#「地図のように把握する」に傍点]手法だ』
バロットはカードを見ながら眉をひそめた。これまでずっと、そんなふうに目の前のディーラーにのぞかれていた[#「のぞかれていた」に傍点]のかと思うと、かなり嫌な感じがした。
ディーラーが丹念に描いてきた地図を崩し去るべく、バロットは意図して視点をずらし、身体の位置を変えた。ときにはまるで反応せず、同じ姿勢を保った。そんなちょっとした仕草で、場を支配し続けてきたディーラーは面白いように惑乱された。
こちらが意味もなく笑えばディーラーも急いで笑顔を作るし、嫌な顔をすれば真剣な顔で不機嫌さの理由を探そうとする。そのうち両手を上げろと言えば素直に上げるのではないかと思われるほど、こちらの意図にはまってゆくのだ。
『そろそろ、ドクターを援護しても良い頃だ』
ウフコックが告げた。同時に、左腕にドクターの分の最適戦略が加わっている。
バロットは、ドクターがバストするのを見計らって告げた。
〈私のほうが、カードを読むのが得意みたい。どうすれば勝てるか教えてあげる[#「教えてあげる」に傍点]〉
ドクターはいかにもプライドが許さない、というように指を立て、左右に振った。
「けっこう。今は負けているようでも、この後はわからないよ」
バロットは微笑しながら、爪先でそっとドクターの靴に触れた。ドクターがそれに合わせて、かすかな力を足先にこめる。それが確認だった。いかに無数の視線が頭上から降り注がれていようとも、テーブルの下までそれが届くわけではない。
バロットは次のゲームで、さっそくウフコックの指示をドクターに伝えた。
ドクターの靴を一度だけ横から押した。ヒットの合図だ。ドクターが、うーんと唸る。
その瞬間――ディーラーがイヤホンに触れ、小声でマイクに向かって指示した。
バロットは反射的にその通信を盗み聞いた。電波を受信し、聴覚情報に変えたのだ。
ディーラーから管理室への指示だった。その内容にバロットは愕然となった。カメラをチェックしてくれ、というのである。バロットが指示らしき行動をとったかどうか。
ディーラーの視線が、まっすぐバロットを射るように向けられているのが感覚された。
一瞬、ディーラーの表情を窺おうとしたが、
『ディーラーを見るな』
ウフコックが、すんでのところでそれを止めていた。
『やましい[#「やましい」に傍点]ところがある人間を、いぶり出すための仕掛け[#「仕掛け」に傍点]だ。じっとしているんだ』
さすがに優秀なディーラーだった。ほとんど勘だけで、ドクターへのサインを案したのだ。だがウフコックの言う通り、こちらが尻尾を出さなければ、疑わしいというだけで何もできない。それがこのディーラーの限界だった。二人が本当にカモなのか、それとも時限爆弾入りの納税請求書《ぺイ・タックス》なのか、確かめるすべはなかった。
バロットは要所でドクターにサインを出した。ステイの場合は二度、ヒットで一度、足を押す。ダブルダウンは三度。スプリットは、急かすようにドクターの腕を二度叩く。
ディーラーもその大半に反応したが、かと思うと、全て勘違いだったとでもいうように、反応するのをやめた。それまでさんざん惑乱させたのが功を奏したのだ。
バロットはそこでふと、ちょっとした寸劇を思いついた。ハウス・コメディを再び開幕する気分で、ドクターの腕をつつく。
〈必ず勝つ方法を考えついたの〉
ドクターが驚いたように目を丸くした。ディーラーもつられて同じような顔になった。
「どんな方法だい?」
〈その前に、両替したいんだけど〉
「それは相手が違ってるな。こちらのミスター・ハンサムに頼みなさい」
バロットはうなずき、ディーラーに向かって、千ドルチップを一枚、掲げてみせた。
〈全部一ドルに替えたいの〉
ディーラーもドクターも、時間が止まったようにバロットを見つめた。
〈そうすれば、このチップだけで、千回賭けられる〉
ディーラーよりも先に、ドクターのほうが先に大きく息を吐いて蘇生し、わめいた。
「それじゃ、勝負にならないよ」
バロットはむっと頬を膨らませてみせた。自分でもなかなか上手いと思った。多分、ウフコックと出会ってからできるようになったことの一つだった。
「リスクを背負ってこその賭けなんだから。それはカジノの趣旨じゃないよ。頼むから、幾ら残っているか[#「幾ら残っているか」に傍点]というんじゃなくて、幾ら勝ったか[#「幾ら勝ったか」に傍点]という勝負にしてくれないか」
〈わかった。じゃあ、沢山勝つ〉
ドクターはあからさまにほっとした顔になった。それから、ちらっとディーラーを向いて、困ったもんだ、というような表情を浮かべた。相手の同情を買うように。
ディーラーはかろうじて微笑んでみせたが、それで混乱が消えたわけではなかった。
これまで際どいところでは必ず大賭けを仕掛けてくるくせに、いきなり一ドル賭けを敢行するような相手が何者なのか、まるで意図がつかめないような顔でいる。
守りどころでぼんやりするかと思えば、耐えどころで躍起になる。勝とうと負けようと感情的になるくせに、いったい何に対して感情的になっているのかまるで不明。会話もちぐはぐで、そのくせディーラーには理解のつかないルールを二人だけで作ってゆく。
そして何より――不気味なほど着実に[#「不気味なほど着実に」に傍点]勝っている。こんな不可解な客は他にいない。
やがてウフコックの示す勝率が、大幅な勝ちを示すようになったところで赤いカードが現れた。勝負どころを前にしてゲームが終了したのだ。
バロットは息をつき、勝率を確かめた。ドクターと合わせて、六割強。単純計算で、十ドルが、十ゲーム後には七十ドルになる計算だった。圧倒的な勝率である。
『次の一巡が勝負だ。今のうちにチップを替えてもらうんだ。全部一万ドルで』
バロットはウフコックの指示に従った。たちまち一万ドルチップが恐ろしい高さで積み上げられていった。ディーラーがまたそっとイヤホンに手をあてた。奪われた分のチップの補給を頼んだのだ。応答する係の者が何か言うのへ、ディーラーが、すぐに取り戻してやる、と低い声で言い放つのが、バロットにだけ聞こえていた。
バロットは鷹揚に肩をすくめた。
6
シャッフルに入り、バロットはディーラーの指先の動きを精密に感覚した。
その指先に込められた意図が、今までになく明確になったのだ。もはやなりふり構っていられなくなった感じである。そのお陰で、上下左右に振り分けられる複雑なカードの動きが、やがてエレベーターの表示灯でも見るように、確実に感覚されていった。
――この人、10のカードを最後のほうに入れようとしてる。
ウフコックも、即座にその意味を悟ったようだった。
『何枚入れるかわかるか?』
――きっと入れられるだけ入れると思う。ゲームで使わない部分に。
『では、その分を既出《ディス》カードとして計測する。できるだけ正確に枚数を教えてくれ』
――わかった。
ディーラーの指先は滑らかで正確だった。そしてその分、感覚しやすかった。
ドクターが赤いカードを与えられ、適当に山に差し込んだ。ディーラーが素早くそれをカットし直した。目にも止まらない速さで。実際、バロットの目にそれが映っていたわけではない。全身に移植された人工皮膚《ライタイト》を通し、精密に、電子的に感覚したのだ。
――三十二枚。全部、10のカード。
『カード二組分の10点札を、丸ごと取り除いたというわけか。やってくれたな』
ウフコックが呆れたように返す。ポイント数が変化し、いきなりマイナス八十点を下回った。出すべきチップの額も激減している。お陰で、極端な守りどころとなった。
カードが来た。6と3。小さなカードだ。バロットは頭の中で、ディーラーが最後にカットしたときの感覚を思い出した。10点札の塊と上下していたカードの行方を。
ドクターのほうを見ると、2と5だ。そこから二度ヒットし、ようやく17になってステイした。バロットも二度ヒットし、合計で19になった。
フェイスカードは6。開示されたカードは2。そこから三回引いて19になり、ドクターは負け、バロットは引き分けてチップを取り返した。
次のゲームで、バロットが12からヒットした。5のカードが来た。いったいいつその流れが変わるか。その寸前のタイミングが感覚されるか[#「タイミングが感覚されるか」に傍点]どうかだった。
バロットは17のカードを見ながら一心に感覚し、やがて選択を決めた。
ウフコックの戦術ではステイ。だが――バロットはそこで、ヒットを告げた。
6のカードが来た。バストである。しかし戦術が問題ではなかった。
ディーラーが手早くバロットのカードを廃棄した。その瞬間だった。バロットはディスカードの厚み[#「厚み」に傍点]と、そしてタイミング[#「タイミング」に傍点]を感覚した。すぐさまバンクロールを確認し、山と積まれたチップの一角をもぎ取るようにして手に取った。そして、待った。
ディーラーがカードを開示した。11になり、そこから7を引いて合計18になった。
ドクターはそれで敗退し、ディーラーがすぐさまドクターのカードも廃棄した。
その間に、バロットがチップを置いた。その音で、ディーラーが廃棄したカードから目を離し、そしてたちまち呆然とした顔になった。
バロットはそのディーラーをよそ目に、ドクターを向いて告げた。
〈沢山使わないと、チップが可哀想〉
ドクターは、唸るような声をもらして考え込んだ挙げ句、
「よし、ここが勝負どころだ」
無茶苦茶なことを吠え、一万ドルチップを束で置いた。
これまでバロットもドクターも、序盤では極力チップを小さく賭けてきている。
カウンティングの精度がゼロに等しい序盤で、大きく賭けるわけにはいかず、それを今までドクターもバロットも何とか誤魔化しつつやってきたのだ。ディーラーも、カウンティングが理由だと確信できないまでも、そのことを十分に見越していたはずだった。
だが、最後の最後で見越したのは自分のほうだ――バロットはそう思った。
ディーラーは気を取り直したようにカードシューに手を触れた。
まずはディーラーのフェイスカードが場に開かれた。8のカードだった。
それからドクターに一枚目が配られた。10点札だ。バロットにも一枚目が配られた。同じく10点札だった。それからディーラーの伏せカードが置かれた。ドクターの二枚目のカードが来た。10点札だった。バロットの二枚目のカードが来た。10点札だった。
四枚の10点札が、場に出されていた。バロットが、ドクターの腕を二度叩いた[#「二度叩いた」に傍点]。
〈チップを沢山使わないと、私に勝てないわ〉
ドクターは難しい顔になると、やがて、ヒットとステイ以外の、第三の選択[#「第三の選択」に傍点]を告げた。
「分割《スプリット》」
ドクターが両手の人差し指で、カードを二つに分けた。
それから、先ほど賭けたのと同額のチップを、分割したほうのカードのもとに置いた。
ディーラーが、一方のカードに三枚目を乗せた。なんと、今度も10点札である。
「ステイ」
それからまた、カードが配られた。今度も10点札である。
〈ほら、まだ使える〉
バロットがドクターの腕を叩いた。
「なるほど」
ディーラーがぎょっとした顔で、ドクターがチップをつかむのを見つめた。
「分割《スプリット》」
さらに10点札が来た。
ドクターが、ディーラーのフェイスカードを見やって唸った。
「これは、ステイかな」
ディーラーがもう一方のカードに二枚目を配った。10点札だった。
「分割《スプリット》」
再びそう告げるや、どっとチップを積み上げた。ディーラーが苦しげに喘ぎながら、カードを引き抜き、ドクターの前に開示した。またもや10点札だった。ドクターはステイ。さらにまた10点札が来た。
「ステイだなあ」
ドクターがぼんやりと言った。それから、バロットに向かって鷹揚に笑いかけた。
「僕は、もうこれだけ使った[#「使った」に傍点]ぞ。君はどうかな?」
〈私も、分割《スプリット》〉
ディーラーはもはや表情を失ってバロットが積み上げるチップの額を眺めている。
カードが来た。10点札だった。ディーラーが封じ込めようとして入りきらなかった余剰分[#「余剰分」に傍点]である。ポーカーで、誰にも好まれなかったクラブの印《スーツ》が来たように。慌てて閉めたトランクから溢れる札束みたいなものだった。
〈ステイ〉
一瞬、ディーラーがほっとした顔になった。ところがもう一方にも10点札が重なった。
バロットは再分割《リ・スプリット》を告げ、10点札を得て、ステイ。他方のカードにまた10点札が重なり、再分割《リ・スプリット》。それを延々と続け、六度目の分割でようやく10点札に7のカードが重なってやめた。
ディーラーは今や、警官隊に包囲された銀行強盗のごとき有様だった。しかも、事前に押し入るのが通報されていた強盗だ。そしてディーラーが震える手で開く伏せカードは、手の中で爆発するのがわかっている手榴弾のピンと同じだった。
伏せカードは10点札。なんと場には二十枚もの10点札が出ていた。
ディーラーのカードは、合計18。バロットがドクターとともに放った十発の弾丸は、うち一発が外れ、九発が命中した。ディーラーはほとんど即死だった。
『これで、手が届く』
ウフコックが祝福するように文字を浮かび上がらせた。バロットは、ウフコックがこのゲームの間、ずっと自分の行動を黙って見守っていてくれたことに、感謝した。
『チャンスはあと数回あれば十分だ。確実に狙って行けるだろう』
このカジノに来たそもそもの狙いのことだった。四枚の百万ドルチップ――その殻にも自身にも手をつけず、黄身だけを頂くのだというドクターの言葉が思い出された。
配当が来た。全部で五十万ドルを超える勝ちだ。先ほど肥った婦人からこのディーラ――が搾り取った額の、約五倍の額を、この一撃で丸ごと奪い去ったのである。
〈ほら、沢山使えばその分返ってくる〉
バロットがいたずらっぽく微笑んだ。いかにも浪費が当たり前だというように。
〈でも、こんなに沢山あると、使いにくい〉
「では、もう少し増えたら、もっと大きな額のチップに両替してもらおう」
〈じゃあ、もっと沢山、勝たないと〉
「そうだな。この倍ぐらいあれば十分かな」
支離滅裂な会話とともに、バロットはさも勢い込んだようにカードを待ち構えた。
手に入れたチップなど脇にやって見てもいない。ドクターも同様だ。
そんな二人の様子をディーラーが呆然と眺めている。まるで、背中に翼の生えた奇妙な人間を目の当たりにして、それを何と呼ぶべきか迷っているようだった。
『ディーラーをここに釘付けにさせろ』
ウフコックが素早く指示を出してきた。
『我々が相手にとって扱いやすい客であることをアピールしろ。そうでないと、ディーラーを交代させられるだけでなく、我々のほうも席を立たなければいけなくなるぞ』
そこで初めて、バロットは、ディーラーがイヤホンからの指示を聞いているのに気づいた。チップの補給を頼まれた係の人間が、フロアマネージャーに事態を報告したらしい。明らかな命令口調の声が、ディーラーの耳元で早口にまくしたてられている。
リストにもない予期しない|大口の客《ハイ・ローラー》だというのがフロアマネージャーの見解だった。相手が何者なのか確認するまで、他のプレゼントで誤魔化しながら、できるだけマキシマムを下げろというのである。ホテルの無料宿泊券や飛行機のファーストクラスのチケットなどで。そんなもので誤魔化されては、たまったものではない。バロットは対策を考えた。相手が最も欲しているものを考え、そしてそれを与えるような言動を考えた。
〈ねえ、叔父さん。ここからは、どれだけ使い切ったかで勝負しない?〉
ちょっと甘えたような口調を表現するのに苦労しながら、バロットが訊いた。
「なんだって?」
〈チップを先に使い終わったほうの勝ちってこと〉
ドクターがぽかんとした顔になった。ディーラーも同じような顔になっていた。
「そりゃ、このゲームの趣旨から外れてるぞ。というか、カジノのゲームじゃないよ」
〈ポーカーだって、ロー・ボールがあるんだから。何の役もないのが一番強い手〉
「あれだってチップを手に入れるのが目的なんだぞ?」
〈だって、このままじゃつまらない〉
「では、ハイ・ロー・スプリットといこうじゃないか。勝った分での勝負と、使い切った分での勝負。どちらかにでも勝ったら、帰りに好きな物を買ってあげる」
〈うん。それで良い。頑張って勝つ〉
ディーラーにとっては不可解極まる会話だったが、一つだけ確かなことがあった。
「この客はカモです。上玉の」
ディーラーが掠《かす》れ声でイヤホンに告げた。背中に翼のある人間は天使で、自分の願い事をなんでも聞いてくれるのだと。その通信をバロットだけが聞き取った。自分の獲物[#「自分の獲物」に傍点]だといわんばかりの言動に、バロットの中で、容赦という言葉の綴り《スぺル》がねじれて消えた。
『よくやった』
手のひらに浮かぶウフコックの言葉を握りしめながら、チップを置いた。ドクターもチップを置く。ついにディーラーはマキシマムを下げず、泥沼にはまっていった。
『このディーラーは、すでに片方の足をカジノの枠組みから踏み出している』
というのがウフコックの評だった。
『重心がかかっているのは、踏み出したほうの足だ。このディーラーは、もはやディーラー役に就いた、ただの個人だ。カジノにおける責任も義務も忘れている』
もはやマーロウ・ジョン・フィーバーという名のこの男は、カジノにある全てのチップをかき集めてでもバロットたちに対抗しようという意欲に満ち溢れていた。
『戦略を、三つに分けるぞ』
ウフコックが、ディーラーの態度を見極めたように告げた。同時に、バンクロールが三分割された。それから左腕の戦術表が三段階に分かれ、それぞれ別個の指標を持った。
『一ゲームごとに戦略を移動する』
手持ちのチップを三つに分け、あたかも三人のプレーヤーであるかのように振る舞うのである。一人はタイミングを計るための負け役[#「負け役」に傍点]、一人は細かくチップを稼ぐための補助役[#「補助役」に傍点]、そして最後の一人が、必勝の局面で、全額を賭けて戦う役[#「全額を賭けて戦う役」に傍点]だった。ドクターへのサインをふくめると、四つの戦略ラインを同時に走らせることになる。バロットも急に忙しくなった。バンクロールが豊富にあるからこそできる芸当とはいえ、もはや尋常の人間にできる戦略ではない。ウフコックだからこそ瞬時に計算可能なのであり、ディーラーがその戦略を見抜くことなど完全に不可能だった。
ゲームが高い勝率で消化され、終盤にさしかかった頃、ウフコックの指示が来た。
『そろそろまた、ディーラーを刺激したほうが良いな』
ゲームが平板に続くうちにディーラーも徐々に冷静になりつつあるらしい。
――どうすれば良い?
バロットが訊いた。そこで得たウフコックの指示は、正直、きつい[#「きつい」に傍点]ものだった。
――本当に、そんなことを言って大丈夫なの?
『それくらいでちょうど良い』
そう言われるまま、タイミングを見計らって、バロットはドクターの腕を叩いた。
「どうした?」
バロットは、わずかに間を置き、それから、そろりと刃物のような言葉を放った。
〈私[#「私」に傍点]、他の席に行きたいな[#「他の席に行きたいな」に傍点]〉
ドクターが、あんぐり口を開けた。ディーラーは、もっと驚いていた。驚天動地といって良い。この何もわかっていないような少女が、いきなり自分のテーブルを全否定[#「全否定」に傍点]したのだ。しかも――馬鹿みたいに勝っているこのときに。
ドクターが、そのディーラーの気持ちを代弁するように、異議を申し立てた。
「そりゃないよ。せっかく勝ちの波が来てるんだ。ここで忍耐を持たないと。だいたい、もっと使い切らないと勝てないと言ったのは君だろう?」
ドクターは十分にバロットの意図を汲《く》んでいるようだった。ドクターが言葉通り席を立ってしまったらどうしようかと思っていたが、むしろ梃子でも動きそうにない。
〈じゃあ、もう少しだけ、ここで勝とうかな[#「ここで勝とうかな」に傍点]〉
バロットのなんとも業腹な言い草に、ディーラーがぐっと息を詰まらせた。
そのゲームで、赤いカードが現れた。ディーラーがバストして、一巡が終わった。
ディーラーは素早くカードをかき集めた。滑らかな手捌《てさば》きというよりも、勢い込んで銃に弾丸を装填するようだった。どうやって撃ち殺してやろうかという気配が、その指先からぴりぴり伝わってくる。バロットは、その指先の動きに神経を集中した。
その間、ドクターだけが、暇をもてあますようにディーラーに声をかけ続けている。「君」とか「マーロウ」とか、とにかくディーラーを同僚か友人のように扱うのだ。
思えばこのテーブルに座った当初からそういう態度だった。
今では、その理由がバロットにもわかる気がした。ディーラーを個人として扱うことによって、カジノにおける義務や責任から引き剥がす[#「カジノにおける義務や責任から引き剥がす」に傍点]のが目的なのだ。
やがてシャッフルが終わり、ディーラーが赤いカードをバロットに手渡した。
バロットは、カードの山に対し、最も死角[#「死角」に傍点]となる部分を感覚した。
ディーラーが全く意図せず、プレーヤーにとって最も有利な流れとなるだろう場所を。
バロットは赤いカードを、ぽんと、山の上に乗せた[#「乗せた」に傍点]。差し込んだのではない。ただ単
に乗せた。馬鹿にしているともとれる態度だったが、事態はいっそう深刻だった。
一瞬、ディーラーの手が戸惑うように宙をさまよった。それから、かろうじて滑らかさを失わない手付さで、カットし直した。だがその狙いは大きく外れている。念入りに弾丸を装填した銃が、どういうわけか、相手の手に渡っているようなものだった。
『今のは、君の判断かい?』
――うん。
『ディーラーがカードの順番を操作していると言ってたが、それと関係が?』
――あそこに置くのが一番良かったと思う。小さなカードが、塊になって、最後のところに入ったから。
『枚数は?』
――三十枚。全部、7より小さいカード。
手袋の内側でウフコックがにやりと笑った気がした。
『よし。では、さっきみたいにこのディーラーを刺激するぞ』
――今度は、なんて言うの?
何となく訊くのが怖いような気持ちだった。そして実際、とどめ[#「とどめ」に傍点]ともいえる指示が来た。ウフコックの狙いはどこまでも的確だった。それこそ無慈悲なくらいに。
――あなたの名前を忘れそうになる。
『俺の名前?』
――|煮え切らない人《ウフコック》って、いったい誰のことだろうって。
『やりすぎかな。しかし必要なことではあるんだ』
ちょっと言い訳がましいウフコックの言葉だった。
バロットはくすっと笑って手袋を握りしめ、そのウフコックの出した指示に従った。
〈ねえ、叔父さん〉
と、ディーラーの呼吸を読み、相手の抵抗が一番弱い瞬間を狙って、告げた。
〈ここはもういいから、もっと素敵な男《ひと》がいるところに連れてって〉
先ほどのような場の否定[#「場の否定」に傍点]ではない。個人の否定[#「個人の否定」に傍点]だった。ディーラーの表情に変化はなかった。代わりに呼吸が止まった。まるで息の根を止められたみたいに。実際この瞬間、マーロウという名のディーラーは、場を支配するという意味では死人同然となった。
ドクターは気まずそうな顔で、バロットをあやすように説得した。
「ゲームを楽しもうじゃないか。ほら、せっかく勝ってるんだし。ここでやめてしまったら、せっかくの勝利感を味わい損ねるよ」
それから、ディーラーに向かって、肩をすくめてみせた。
「至らないことをお詫び申し上げます、レディ」
ディーラーは、ほとんど奇跡的な自制心で微笑を崩さず言った。
それから耳にかけていたイヤホンを取り、テーブルの下で握りつぶした。通信が断絶された。バロットはその様子を精密に感覚した。このディーラーの耳元で喚《わめ》いていたフロアマネージャーの最後の通信内容は、さっさと他のディーラーと交代しろ、だった。
表面的な冷静さとは裏腹に、その内部は蓋恥と憤怒の溶岩のようになったディーラーは、理由もわからず負けつくした。
『下手に有能なディーラーであるだけに、カジノ側も対応が後手に回ったらしいな』
ウフコックも、ディーラーがイヤホンを握りつぶしたことは察しているのだ。
それなのに、カジノ側がまだこのディーラーを放置していることが驚きだった。
『このディーラーは駄目になったのか、それとも勝算があるのか、マネージャーにも判断がつきにくいのだろう。もうすでに我々の姿は管理室でも確認されているはずだ』
――まだ、私たちがカモ[#「カモ」に傍点]だと思ってるの?
『そうだ。君たちの正体を正確に判断できる人間は、ここでは唯一、シェル=セプティノスしかいない。彼こそ、ここのオーナーのはずなんだが』
バロットは心の中で肩をすくめた。
――私たちのこと、忘れてるんじゃない? 例の、頭の中を空っぽにするって技術で。
『空っぽにするわけではないんだがな』
ウフコックが、苦笑するように返してきた。
『情報ではシェルは取引[#「取引」に傍点]の真っ最中だ。今なら我々のつけこめる隙はいくらでもある」
――結婚するってやつ?
『そうだ。婚姻契約にもとづいた、上部組織との親睦だ。我々が、彼の野望の階段を砕くことができれば、上部組織の人間も一緒になって我々の手に落ちる寸法だ」
地獄に落ちればいい、という言葉をかろうじてウフコックに伝えずに済んだ。
憎悪で相手を叩き落とすのは簡単だった。その手段がもう目前にあった。それに手が届く瞬間を思うと、得体の知れない喜悦が込み上げてきて、思わず身震いしそうになる。
だがその焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]の表出には、条件があった。知る[#「知る」に傍点]という条件が。ウフコックもドクタ1も、容易にことの善悪を語らず、むしろ、どれだけ多くのことが目に映っているかを問いただすタイプだ。その焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]から何が学べるかを。それにバロットが正しく応じていなければ、ウフコックも、ここまで動いてはくれなかった。
バロットは静かに、その瞬間を待った。ポイント数は着実に上昇していった。勝率は六割を超えたまま下がらず、9のカードが出尽くし、7以下のカードが大幅に減った。
10点札と他のカードの比率が激変し、Aが塊になって金鉱のように現れ、そして使い尽くされた。
場は激しい均衡[#「激しい均衡」に傍点]へと向かい、バロットの心は、穏やかな呼吸とは裏腹に波立った。
やがて嵐の来る前兆のように小さなカードが連続し――その瞬間が来た。
『次だ。全額勝負[#「全額勝負」に傍点]で行け』
ウフコックの指示に応えて、バロットはそれまで伏せ続けてきたバンクロールに手を触れた。三つに分けたうちの一つ。必ず勝つとわかっている瞬間に賭けるための[#「必ず勝つとわかっている瞬間に賭けるための」に傍点]、温存されていた伏兵が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
チップ一枚の額の大きさから、それほどの山にはならない。だがその桁[#「桁」に傍点]を見て取ったディーラーが、電気でも走ったかのように、びくっとカードシューから手を離した。
〈沢山使わないと〉
ディーラーの様子を十分に感覚しながら、バロットは、ドクターに告げた。
「よろしい、受けようじゃないか」
ドクターもまるでポーカーのレイズに応えるように、チップを場に出している。
やがてバロットの前には五十万ドル、ドクターの前には三十万ドルが積み上げられた。
周囲の客たちも思わず足を止め、ひそひそと囁きを交わしている。ディーラーはどうにかカードシューへと手を戻し、最後の微笑を浮かべてバロットとドクターの二人を見た。
テーブルの周囲は、一転して奇妙なざわめきに包まれていた。
カードが来た。8だった。誰のカードが、というのでもない。大半がそうだった。
ドクターは8と8で、16。バロットは8と7で、15。
そしてディーラーのフェイスカードも8。
「ステイ」
ドクターが言った。
〈ステイ〉
バロットが告げた。
ディーラーが、息をのみ、わななく手で、伏せカードを開示した。
7である。さらに一枚引いた。8のカードだった。そこで赤いカードが現れた。
一枚の過不足もなく、バロットとドクターに完璧な勝利をもたらす配札だった。
ディーラーが凍りつく一方、周囲が沸騰するような熱気を帯びた。
客の中には、今の一連のカードの意味を知る者もいるらしく、7と8の魔法[#「7と8の魔法」に傍点]という言葉が盛んに交わされた。残るカードが、二枚の7と、四枚以上の8の場合、どんな引き方をしようとも、ディーラーはそのルール上[#「ディーラーはそのルール上」に傍点]、必ず負ける魔法の瞬間だった[#「必ず負ける魔法の瞬間だった」に傍点]。
プレーヤーはただステイするだけでいい。ディーラーが14であれ、15であれ、16であれ、どんな組み合わせでも、次の一枚によってバストするのだから。
これが一〇〇%という勝率の強さだった。カジノ側に有利に設定されているはずのルールが、ディーラーに必敗をもたらす瞬間である。超ショートレンジで引く引き金だった。
〈使い切らずに増えちゃった〉
バロットが無邪気な顔で告げた。ドクターはにっこり微笑みながら、
「では、こいつを一つにまとめられるような、大きな器[#「大きな器」に傍点]を、用意してもらおう」
秘蔵のワインでも要求するような口ぶりに、他の客がおおっと声を上げた。静穏と落ち着きが身上のこのフロアが、一瞬、ざわめきと歓声に包まれた。
その騒ぎのなか、ディーラーは握りつぶしたものとは別の回線を通じ、係の者にドクターの要求を伝えた。このカジノにおける、最高の宝を持ってくるように。
やがて係の者が、フロアの向こうから、朱色の箱を抱えてやってきた。
係の者が、うやうやしく箱を開くや、たちまち輝きが零《こぼ》れ出した。十二枚の金色のチップが放つ、黄金色の輝きが。
「さあ、どれでも好きなのを一枚選んでごらん」
ドクターが、ここぞとばかりに声を上げてバロットを促した。
バロットにとっては間違えようのない選択だった。オクトーバー社の社章が刻まれたチップを、そっと、つまんだ。その途端、フロアの客が沸きに沸いた。
「残りも、そこに置いてくれないか。まだ幾つか[#「まだ幾つか」に傍点]必要になるかもしれないからね」
ドクターの言葉に、どよめきが起こった。百万ドルチップを賭けた勝負など、それこそ特別なショーでしか見られない見せ物である。
ディーラーは、この前代未聞の失態を嘆くどころか、むしろますます怒りを溜めているようだった。また奪い返してやるとばかりにディーラーが丹念にシャッフルしている隙に、ウフコックは密かに、チップの中身を摘出している。
手袋の一部を変身《ターン》させてチップをパッキングし、バロットの右手を拳の形に固定した。
極小のレーザーカッターが現れて数ミリの隙間を移動し、チップの内部をスキャンしつつ、目的のものを取り出してゆくのだ。
『あったぞ。シェルの記憶が記録された媒体だ』
中の記録媒体を傷つけぬよう抜き出すと、手袋に小さなポケットが作られてその中に入れられた。ポケットが塞がり、チップの中の記録媒体《チップ》は、手袋の裏側に収められた。
チップに空いた穴は同じ素材によって埋められ、加工の痕跡が音もなく消されてゆく。
殻にも白身にも手をつけず、黄身だけ頂く。その一連の作業を終えるのに要した時間は五分弱。右手が解放され、バロットはチップを握った右手をゆっくりと開いた。
『まずは、一つ目だ』
ウフコックが告げた。バロットは、その言葉が浮かび上がった左手を握りしめた。
その瞬間――突如として、バロットをこれまでにない感覚が襲っていた。
ウフコックからの文字は、常に、手袋の裏側に表示されている。文字は表裏が逆だし、手を握り込んでいるから二重三重にわからないはずだ。にもかかわらず――そのときバロットは、誰かにウフコックとの会話をのぞき[#「のぞき」に傍点]見られた気がしたのだった。
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Chapter.2 分岐 Manifold
1
「誰がカモだかわからんなぁ、こりゃあ」
一人の男が、画面を見ながら、のんびりとした口調で言った。それから、フェイクレザーを張った椅子に、深々と座り込んだ。壁中に設置された無数の画面が光をともす、管理室だった。大勢の人間が詰めている部屋ではなく、この男個人の部屋のようだった。
男の後ろでは、フロアマネージャーが焦りと不安におどおどしながら立っている。
「見ろ、良いように遊ばれてるって感じだ。今にもローストされそうな顔はどっちだと思う? フロアマネージャー?」
「は……はい、チーフ。私には、マーロウのほうかと……」
「うん。俺にも、そうだと思われるよ。ポーカールームといい、ルーレットといい、なんで今日はこんなに解雇者が多いんだろうな? フロアマネージャー?」
解雇者という言葉に、フロアマネージャーがぎくりとなった。ディーラーの管理はフロアマネージャーの責任なのだ。ディーラーの暴走ほど、きも[#「きも」に傍点]が冷えることはない。
「仕方ない。この客が映っている画像を、グラフィックス検索にかけて収集しておけ」
さもやる気がなさそうに、黒く艶めく口ひげをいじりながら、男が言う。
「で、ではチーフは、この男と娘が、クロ[#「クロ」に傍点]だとおっしゃるんですか?」
「いやぁ、これだけの映像じゃ何もわからんよ。いざというときのオーナーへの言い訳さ。仮に、放っておいた後で、あの客がクロ[#「クロ」に傍点]だと判明してみたまえ。俺と君まで、マーロウと一緒に、仲良く就職斡旋所《ダック・パッカー》行きのバスに乗らなきゃならんだろう?」
「は……で、では、チェックに入るスタッフは何名ほど……」
「君だけで十分だろう。画像ファイルを二十個ほど作って俺のほうに転送して、あとは寝てりゃ良い。一応、何十人もでチェックしたってふうにしておいてくれ」
「は……あ、あの、寝ていれば良いというのは……」
「そうしてくれれば、いざというときに俺のほうの言い訳が立つさ。君はこれだけど」
男がいたずらっぼく、指で自分の首をかき切る真似をしてみせた。
フロアマネージャーは慌てて頭を下げて、きびすを返した。その目の前に、ぬっと人影が現れた。フロアマネージャーがたたらを踏み、凍りついたように硬直した。
「俺が大事な取引をしている最中に、お前らに呼ばれるとはどういうことだ!?」
ヒステリックな声が管理室に響き渡った。声の主の浅黒い顔を飾る変光《カメレオン》サングラスが、今はコマドリの卵の殻のような碧色《みどりいろ》をしている。
「どういうことなんだ? ハウスリーダー? チーフ? 特別顧問どの?」
全てが男の肩書きであり、他にもっと呼んで欲しい名はあるかと問うようだった。
男は、まくし立てる声にもすぐには応えず、突然現れたシェル=セプティノスに向かって、ぼんやりと両手を上げてみせながら、フロアマネージャーのほうを向き、訊いた。
「呼んだの?」
「は、はい……そ、そういう規則でしたので」
「そうだね。そういう規則だったね」
男が、小学生に向かって誉めるような口調で言った。フロアマネージャーは、男とオーナーの間で板挟みになって、一回り小さくなったように肩をすぼめている。
シェルは、その間にもずかずかと管理室に入ってくると、男とフロアマネージャーを睥睨《へいげい》するような視線を叩きつけて吠えた。
「どこの金持ちが馬鹿勝ちしているせいで、お前らの背骨がのけぞってるんだ?」
「女の子連れの、キザ野郎ですよ。別に女の子を連れてるからキザ野郎だってわけじゃなくて。要するにキザ野郎です。叔父と姪《めい》らしいというのが、現場からの報告です」
「勝率は?」
シェルの質問に、男が、さも大したことはないというように肩をすくめて答えた。
「六割強」
シェルが、サングラスを外した。その皇帝緑《エンベラーズ・グリーン》の瞳が、怒りでぎらぎらしていた。
「六割だとフ・ゲーム数は?」
「最後に確認した時点で、二百十六ゲームですな」
「どんな賭け方をしてるんだ?」
「セオリーも何も。意味不明です。ときどき、基礎戦術《ベーシック》を使いますがね。それ以外は、ただ単に素人が好き勝手にチップをばらまいているようにしか見えませんな」
「なるほど。好き勝手にチップをばらまいた結果、手持ちの百ドルが十ゲーム後に七百ドル以上になってるってわけか」
「まあ、そういうこともありますね」
「そうかもしれん。確かに俺にも経験がある。だが無作為にチップをばらまいて勝率が六割を超える確率が、どれくらいあると思ってる?」
男は、面倒くさそうに、右手の人差し指と親指で、円を描いてみせた。その円に意味はなく、指と指の隙間に、男の言わんとするところがあった。シェルがうなずいた。
「そうだ。数千分の一の確率だ」
「ゼロじゃないですな」
「ふざけて言ってるのか、アシュレイ?」
シェルが獰猛な声音《こわね》を放った。フロアマネージャーは震え上がったが、アシュレイと呼ばれた男は、叱られても反省のない子供のように、頬を掻いている。
「そいつらを、明確な意図を持ったプロとして処理しろ。命令だ」
「プロ、ねえ……私には、あんまりプロのようには見えないんですが」
「それを判断するのは俺だ。見せてみろ。そのキザ野郎を」
シェルが乗り出して、男の肩越しに画面を見た。途端に、呆れたような顔になって、
「なるほど、キザ野郎だ。どこかのボンボンが勘違いしてボン引きの格好をしたみたいだ。確かに、プロだったらこんな馬鹿げた格好は……」
その声が尻すぼみになり、やがて消えた。
いっとき、電子機器が響かせる低い耳鳴りのような音だけが部屋にこだました。
「オーナー……?」
フロアマネージャーが沈黙に耐えきれなくなって呼んだ途端、シェルが爆発した。
「なんだこれは!?」
フロアマネージャーが跳び上がった。男もさすがに眉をひそめてシェルを見やる。
シェルは度肝を抜かれたような顔で画面を見つめている。顔が蒼白だった。
「なんだ、こいつらは! なんだってここにいるんだ!」
「お知り合いで?」
男がとぼけた顔で訊いた。シェルは、これから自分の頭に向かって引き金を引くとでもいうような引きつった形相で男を見つめ、言った。
「アシュレイ、こいつらを殺せ[#「殺せ」に傍点]。カードで切り刻め。お前がいつもやるように」
「は……? それは、非合法的に?」
男が、指を銃の形に象《かたど》った。それから、銃身をあらわす人差し指を画面に向け、引き金を引く真似をした。シェルは、尊大に首を横に振ってみせた。
「それはお前の仕事じゃない[#「それはお前の仕事じゃない」に傍点]。合法的にだ。ここで命を奪う必要はない」
それから、自分を落ち着かせるように、背筋を伸ばし、大きく息をついた。
「こいつらは、俺の時間[#「時間」に傍点]を真っ黒に塗りつぶしに来たに違いない。時間は重要だ。過ぎてゆくとか、もったいないとか、そういう問題じゃない。時間は恐ろしい。なぜなら、過去の時間が、そいつの人生の残りの時間全てに影響を与えるからだ」
シェルが囁くように告げた。男は、のんびりと首を傾《かし》げている。
「わかるか? 俺はその時間の呪縛から逃れている。だからここまで登り詰めることができた。だが完全じゃない。こういう状況になることだってある。忘れたはずのものがフラッシュバック[#「フラッシュバック」に傍点]することが。フラッシュバック[#「フラッシュバック」――この世で最悪の呪詛だ。それを吹き消すために、お前のような男を雇っているんだ。カードの殺し屋を。わかるな?」
「はい、まぁ……わかったような、わからないような」
男がぼそぼそと呟き、ふと、思いついたように、別のことを言った。
「ところでオーナー、今日の解雇者のことなんですが」
「なんだ? ポーカールームの|いかさま野郎《メカニック》のことか?」
「いやいや、あんなじゃり垂れ[#「じゃり垂れ」に傍点]どもは、どうだって良いんです。それより今夜、ルーレットのほうで、一人の解雇者が出たんですがね」
途端に、シェルはわかったような顔になって、ぞんざいにうなずいている。
「ああ。あの女がどうした?」
「ベル・ウィングをクビにするようなカジノは、この辺りの業界ではあまりない」
「はっきり言え」
「解雇を取りやめてもらえませんかね。従業員を代表して、お願いします」
シェルはせせら笑って男を見た。
「どんな従業員の代表なんだ」
「もちろん、オーナーに忠実な従業員の代表ですな」
「良いだろう。考えておいてやる。ただし、お前がお前の仕事を果たしたらだ。いいか、俺はこれから大事な取引相手を接待しなきゃならん。わかったな。その間に、お前はお前の仕事をするんだ。全力でだ。そのための高い金を、貴様には払ってるんだ」
「了解です、ボス」
男がうやうやしく頭を下げた。とはいえ椅子に座ったままだったが。
「命令だ。奴らをこれ以上、俺の懐に潜り込ませるな」
シェルは再びサングラスをかけ、ドアを蹴り破りかねない勢いで管理室を出ていった。
「フラッシュバック[#「フラッシュバック」に傍点]、ね。実際に引き金を引かされる仕事には就きたくないもんだ」
男は呟きながら、おどおどしたままでいるフロアマネージャーのほうを向いた。
「ああ、君。さっきのチェックの話だが、予定を変更しよう」
「は……ど、どのように?」
「ファイルを二千個にし、待機中の全ディーラーを総動員したまえ。あの二人がカジノに入った瞬間から今までの行動を全て追い、判明したことは全て俺の耳[#「耳」に傍点]に報告しろ」
そう言って、男は自分専用のイヤホンを叩いてみせた。
「俺が相手をする。生かして返すな[#「生かして返すな」に傍点]」
フロアマネージャーの顔がさっと引き締まった。まるで突撃を命じられた兵士さながらの表情だった。それも必ず勝つとわかっている戦争で。
「了解しました」
それから素早くきびすを返すと、もはや男をかえりみることなく一目散に出ていった。
「どいつもこいつも……犬が尻尾を振ってるか[#「犬が尻尾を振ってるか」に傍点]、尻尾が犬を振ってるか[#「尻尾が犬を振ってるか」に傍点]の違いだなぁ。面白くないねえ」
男はぶつぶつ呟きながら、ふんぞり返って画面を見た。そしてふと、何かに気づいたように画面に指を触れた。コンソールビューが指に反応して画面を止め、男の指がディスプレイを右へとなぞるのに合わせて、画面が時間を逆行させてゆく。
「行きすぎた」
ちょっといたずらっぼく呟き、今度は左へなぞると画面がコマ送りで時間を進めた。
男はじっと画面を見つめた。それから、それ以外の時間の映像をランダムで他のディスプレイに映した。幾つかの画面を見渡しながら、ふんふんと犬のように鼻を鳴らした。
「左利きか」
だが画面の中の少女は、右手でチップを受け取っている。このカジノどころか、マルドゥック市《シティ》に存在する全てのチップの中でも、最高額を誇るチップを。
「ふうん……そうか」
欠伸《あくび》でもするように呟いた。その目はぴたりと少女の左手にあてられている。
「何の仕掛け[#「仕掛け」に傍点]か知らないが……良く出来た手袋だな[#「良く出来た手袋だな」に傍点]」
淡々と呟きながら、男――アシュレイ・ハーヴェストは、面倒くさそうに立ち上がり、ぶらぶらとした足取りで、管理室を出たのだった。
シェルは自分のオフィスに飛び込み、まるでホラー映画で追い詰められたヒロインが部屋に閉じこもるみたいに、もの凄い音を立ててドアを閉めた。
部屋に並んだマイクの一つをひっつかみ、自分がホスト役をしている客をスタッフに任せる指示を投げ与えつつ、もう一方の手で携帯電話のリダイヤルボタンを押し続ける。
やがて回線がつながり、低い声が響いた。シェルが自分のフラッシュバック[#「フラッシュバック」に傍点]を消すために雇っている、もう一人の男の頼もしい声が。
〈俺だ。取引の最中ではなかったのか、ミスター・シェル〉
「ボイルド! 大変なんだ! お前はいったい今どこにいるんだ!」
〈奴らを捜査中だ。どうした〉
「捜査中? 捜査だと? 何を言ってる! あいつらは今ここにいるんだぞ!」
ボイルドは沈黙した。
「あいつらがここにいるんだ、綺麗に着飾って、パーティに出るみたいに!」
〈やはり、そうか〉
ぼそっとボイルドが告げた。今度はシェルが、意表をつかれて沈黙した。
〈あんたの経営しているカジノ店を捜査しているところだった。四店のうち、二店の捜査を終えたところだ。『エッグノッグ・ブルー』だな? 至急、そちらに向かう〉
「わ……わかっていたのか? 俺のカジノのどれかに、奴らが来ることが?」
〈奴らが宿泊していた部屋に、カードゲームの、戦術表《チーティング・カード》が落ちていた〉
シェルは、ゆっくりと震える手で、サングラスを取った。その目が、この今の状況が意味することを少しずつ察して、恐怖に見開かれていった。
〈……あるのか?〉
ボイルドが訊いた。シェルが、びくっとなった。
〈答えてくれ。あんたの取引の中身が、そこにあるかないかだけでいい〉
シェルは、ばくばくと口を開いたり閉じたりしていたが、やがて、大きく息をつき、
「ここは、俺が最初にショーに立った店だ。最初の階段……いつもどんなときも全てはここから始まるんだ[#「ここから始まるんだ」に傍点]」
呻《うめ》くように、そう告げていた。ボイルドはわずかに沈黙し、そして言った。
〈一時間以内に、そちらに着く。俺が奴らを仕留める。あんたが最善の選択をしたことを証明するのが、俺の有用性[#「有用性」に傍点]だ〉
それを最後に、通信が切れた。シェルは、しばらくじっとそこに佇《たたず》んでいたが、
「……有用性[#「有用性」に傍点]」
ぽつっと呟いた。その頬に、不敵な笑みが浮かんでいる。
「そう……なくてはならない存在だ。俺の汚い過去《ジョッシュ》を粉砕してくれる、神の鉄槌だ」
そう、囁くように言って、再び、変光《カメレオン》サングラスをかけた。
サングラスの色は、いつの間にか、シャープな赤い色に変貌していた。
「ここを立ち去るのは、少し早いんじゃないか?」
今まさに控室で手荷物をまとめ終えようとしていたベル・ウィングを、そんなふうに男が呼び止めた。いかつい男だった。肩幅が広く、分厚い体格をしていた。だが同時に厳《いか》めしいひげ面が、どこかほっとするような、妙に愛婿のある表情を浮かべている。
その男を、ベル・ウィングは涼しげに見返した。
「アシュレイ・ハーヴェストは、解雇者に余計な気を使うような男だったのかい?」
「なあに、本当なら俺以外の高給取りには全員辞めてもらうに越したことはないさ」
男――アシュレイは、恐れ入ったように肩をすくめてみせ、
「だが、あんたは業界に名だたるスピナーだ。大事な客寄せでもあるし、第一この業界での責任ってものがあるだろう? 後継者も育てずに去るのか?」
「あんたがいつから経営者気取りになったかなんて興味がないけどさ。あたしは別にこの解雇を不服だとは思っちゃいないんだよ」
「おや、それは初耳だ」
「そうさ。これは、あたしの意志なんだからね。誰にも文句を言われる筋合いはないんだよ。だいたい、あたしがこれで引退するだなんて、誰が言ったのさ」
「別にそうは言っていない。ただ、あんたが自分の後継者の目当てを付けちまったっていうんで、ルーレット台のヒヨコどもが泣いてたんだがね」
「ああ。確かにね。あの子は、そうさね……」
ベル・ウィングは、しみじみとした様子で、うなずいてみせた。
「一流と呼ばれるスピナーのヒヨコどもが、みんなまとめてかすんじまう逸材さ。別にヒヨコどもが悪いってんじゃない。あたしの目にそう映ったってだけさ」
「あんたの目に映りたがってる人間にとっちゃ、十分、残酷な話だよ。それで? その子を育てるつもりで、ここを出るのか?」
「まさか。あの子は別に、それを望んじゃいないだろうよ。あたしはただボールを投げ続けるだけさ。たまには右回りになることもあるだろうからね。もしかすると、あの子が来るかもしれない……そう思いながらね」
「だったら、もうしばらく、ここ[#「ここ」に傍点]でそうしていても良いんじゃないか?」
アシュレイがまた言い返すのへ、ベル・ウィングは、凛としてかぶりを振った。
「従業員を代表して、俺とオーナーの間にオッズが成立しても?」
「あたしに恩を売る理由がわからないんだよ。あんたが正式な経営者になれるよう、カジノ協会で推薦する人間の頭数に入って欲しいのかい?」
「いやいや……まったく、あんたは根っからのギャンブラーだ。というよりも、高利貸しみたいだ。いちいち俺の言葉の担保価値を調べちまう。大した博打屋の鑑《かがみ》だ」
アシュレイは両手を上げた。それから人差し指を立て、囁くように告げた。
「相手の正体が不明なんだ。今までに見たこともないパターンだ。何らかの仕掛けをしてて、だいたいの目星もついている。解析にあたらせているが、スタッフがグラフィックス検索のフルマラソンを走り終える前に、相手はゴールインしてる可能性もある」
「そんな強敵が?」
「ブラックジャックで百万ドルチップを要求してきた」
ベル・ウィングが、聞き損なったとでもいうように、眉をひそめてアシュレイを見た。
「しかも残り十一枚の金貨を、テーブルに置いておけと言ってきているそうだ」
「あんた以外に、そんなことができるやつがいるとはね」
ベル・ウィングが呆れたように言った。それから、その目が、少し興味を引かれたように、控室からカジノフロアへと続く廊下を向いた。アシュレイがにやっと笑った。
「見ておきたいだろう?」
ベル・ウィングは横目でじろっとアシュレイをにらみつけ、
「相手を見てから決めるさ。つまらなさそうな相手だったら、さっさと帰るよ」
あまり期待していなさそうに言うと、さっさとフロアに向かって歩き出している。
アシュレイも鷹揚に肩をすくめ、ベル・ウィングに続いた。
「相手が強敵で、次にそいつらが来るときのための[#「次にそいつらが来るときのための」に傍点]チェッカーが必要ってわけかい」
「まあ、そういうことだな。百万ドルチップに手が届いた仕掛けとなれば、他のカジノでも真似をするやつらが出てくるだろう」
「仕掛けに対する封じ手[#「封じ手」に傍点]を考えたとして、どこに提出する? まさか、うちのオーナーかい?」
「馬鹿言っちゃいけない、ベル・ウィング」
アシュレイは、蝿でも追い払うみたいに手を振った。
「協会の上層部で、俺がつて[#「つて」に傍点]にしている人間がいるのさ。封じ手[#「封じ手」に傍点]が、協会に参加している全店で使われることになれば、まとまった金になる。そうすりゃ、あんな馬鹿なオーナーのために仕事をしてやる必要もなくなるってこった」
「あんた、ここが気に入ってたんじゃないのかい?」
「大したトラブルもない上に、高給が入ってくるってんで目をつぶってたのさ。しかし、さすがにもうやってられんよ。十五の少女を養育権の確保もなく同居させた上に、車のエンジントラブルで焼き殺そうとするような狂犬みたいな[#「車のエンジントラブルで焼き殺そうとするような狂犬みたいな」に傍点]オーナーだぞ。なんで協会がまだあの男に仕事をさせているのか不思議でしょうがない」
「確かに大いなる不思議さね。オーナーの本当の仕事[#「オーナーの本当の仕事」に傍点]なんざ、知りたくもないよ。そんなことに首をつっこんで、老い先短い命を縮めさせないで欲しいね」
ベル・ウィングが冷ややかに突っぱねた。
「とにかく、相手がつまらないようだったら、あたしはさっさと帰る。あたしの子供たちは、特にもう養ってやる必要もないんでね。あたしがまだここにいるのは、老いさらばえた者の最後の生き甲斐みたいなもんなんだよ」
アシュレイは、その生き甲斐を与えてやるとばかりに、ベル・ウィングとともにVIPルームへ乗り込み、
「あのテーブルだ」
指さした途端、ベル・ウィングの動きがぴたりと止まった。
「あの子かい……」
「あの子[#「あの子」に傍点]?」
アシュレイが首を傾げた。それから、ベル・ウィングの表情を見やって、
「あの子?」
と語気を強めて繰り返した。ベル・ウィングがうなずいた。じっとその少女を見つめている。VIPテーブルで、ディーラーのシャッフルに一心に注意を向けている少女に。
「あれが? ベル・ウィングの後継者とみなされた? こいつは参ったな」
アシュレイは言葉とは裏腹に、はりきったように自分の指を鳴らしている。
一方、ベル・ウィングは、厳粛とさえいえる姿を崩さず、じっと何かを見据え、
「さあ、どうする? ベル・ウィング? さっさとバスに乗って帰るか?」
挑発するようなアシュレイの言葉にも答えず、低く呟いていた。
「十五歳の……。車のエンジントラブルで焼き殺された……そうかい。大きなことをしようってのはそういうことか。あの子の前に、あんたが立ち塞がるってことは、あの子にとって、聖霊がお与えになった試練だ。そしてあたしはここに導かれたってわけだ」
アシュレイはちょっとびっくりしたようにベル・ウィングの顔をのぞきこんだ。
「啓示でも受けたのか? スピナーをやめて次は預言者にでもなるつもりか?」
「願わくば、あんたにもう少し信心があって欲しいね、アシュレイ。だがここは、あんたに感謝すべきだね。ここに呼んでくれたことにはね。ただし、あたしはただのチェッカーだよ。何も手を出さない。手伝うとしたって、ことが済んだ後さ」
「それで十分だ。あんたが証人になってくれりゃ協会だって納得する。しかし……ベル・ウィング、あんた、あの二人のことをどれだけ知ってるんだ?」
「何も知らないさ。そう……何もね。せいぜい、あの子の名前くらいだよ」
アシュレイが、それだけでも良いから教えてくれ、というように肩をすくめた。
「ルーン=バロット――それが、あの子の名前さ。哀しい名前、切実な名前だよ」
ベル・ウィングは、厳粛な面持ちでそう告げていた。
2
「マーロウ・ジョン・フィーバー」
たしなめるように名を呼ばれ、ディーラーは手を止めると、ぞっとしたような顔で振り返った。散々に翻弄された挙げ句、バロットに最初の収穫をもたらしてくれたディーラーは、その厳めしい呼び声によってシャッフルの途中で全ての動作を止められていた。
「雇用推薦状だ」
振り返りざま、その言葉とともに一通の封筒が胸に押しつけられた。ディーラーにとって、銃で脅されるのと同じくらい屈辱的で、そして否応《いやおう》がなかった。
「宛名は書いていない。代わりに俺のサインがしてある。何通でも好きなだけコピーしていい。それを持って、オーナーに見つからないうちにさっさとバスに乗りに行け。お前は、ここでスターになることには失敗したが、次の職場で再起すれば良い」
それでマーロウという名のディーラーは完全にうなだれた。躍起になってカードをシャッフルしていた顔が、嘘みたいに意気消沈し、がっくりと何か大きなものでも背負ったように肩を丸めて去っていった。敗退という言葉がこれほど似合う退場はなかった。
「私に言ったのとは、だいぶ違うね。本当にあんたのサインかどうかも怪しいもんさ」
ディーラーに封筒を渡した男に、その傍らの老婦人が言った。ベル・ウィングである。
バロットの視線は、新たに現れたディーラーらしき男にでも、去っていった敗者にでもなく、もっぱら、この老婦人の凛としたたたずまいに向けられていた。
「こんばんは、紳士と淑女の方々」
男が、テーブルの向こう側に立ち、丁寧にお辞儀をした。
「うちの小僧っこが駄々をこねましてね。いつまでもあなた方と遊びたがってたらしいが、規則ってものがありますので。今からカードを替えますが、よろしいですかな?」
そんなふうにディーラーの交代を告げた。ドクターも負けずに鷹揚な素振りで問題はないというようなことを返した。男は一つうなずくと、全カードを、テーブルの下の使用済みカード入れに放り込んでしまった。それから新しい組《デッキ》を六つ取り出し、封印紙を丁寧に破き、新たなカードをあらわにした。ドクターが、良いだろう、というようにうなずくのを確認してから、丁寧な仕草でシャッフルに入った。
そこで、ベル・ウィングがバロットを見た。目が合った。じっと見つめていたのだから当然である。ベル・ウィングはにこりともせず、しかし十分に親しみを込めて言った。
「こんばんは、ルーン=バロット。また会ったね」
〈はい、ベル・ウィング。また会いました〉
思わず笑顔になって応えていた。なぜベル・ウィングがここに来たかという疑問よりも、また会えたという嬉しさのほうが強かった。
奇妙な安心感があった。ベル・ウィングの格好がカジノの制服ではないのを見てとった上での安心だ。その姿が、ベル・ウィングの解雇を明白に物語っているのはわかっている。だが不思議と申し訳なさは感じなかった。このカジノでのベル・ウィングとの勝負は、すでに決着がついているのだという確信があった。
「やっぱり、あんた、ここで何か大きなものを狙ってたってわけだね」
自分の目に曇りはなかった、というようなベル・ウィングの口調が、敵意や痛悔とはほど遠い、清々とした気持ちを告げていた。
〈遊ばせてもらってるだけです。何か学べる気がして〉
バロットはまた嬉しくなって、つい賢《さか》しげに応えてみせた。
「あんたは何だって学んじまうだろうさ。そういう顔をしてるよ」
そう言って、ベル・ウィングがシャッフルの様子に目を向けた。バロットにもよく見ておけ、と忠告するように。むろん、バロットはそちらを見ずとも、この新たなディーラーのシャッフルの動作をほとんどくまなく感覚している。丁寧で、無駄のない動作だ。滑らかというより、ずいぶん無造作な感じだった。先ほどのディーラーが滑らかに見せていた[#「滑らかに見せていた」に傍点]のとは違って、淡々と自分の仕事をこなしているようだった。
〈あなたも、ブラックジャックを?〉
バロットが訊くと、ベル・ウィングはシャッフルを見つめたまま小さく顎を振った。
「いいや、私はこの男にそそのかされて、あんたたちの勝負を見物するところさ」
〈その人は、あなたのお知り合いですか?〉
「アシュレイ・ハーヴェスト――この業界の、いわば用心棒だよ。この男が出てくるってことは、並大抵のこっちゃないんだ。あたしは、この男の腕前にあんたがどれだけ頑張れるか見てみたくて、こうして突っ立っているんだ」
ベル・ウィングの言葉に応じて、アシュレイがちらりとバロットを見た。
「彼女はフェアな勝負のための立会人です。まぁ、お気になさらずに」
先ほど去っていったディーエフtのように気負い込んでもいなければ、これまで見てきたどのディーラーよりも不敵な感じがした。それこそ、ベル・ウィングよりも。
「この男の運勢は、あたしみたいに左に回ったりしないからね。この男には弱みってものがないのさ。それを覚えておきな」
〈はい〉
「あたしは後ろで見守るさ。勝負の全てをね。それで良いんだろう、アシュレイ?」
ベル・ウィングが言った。まるでそれが勝負の合図であるかのようにアシュレイが大きくうなずき、ゆったりとカードの山を作って場に績み、低いが、よく通る声で告げた。
「さて、今からここはあんた方の貸し切りテーブルだ。ポーカールームでの|いかさま野郎《メカニック》どもや、こちらのベル・ウィングならびに、このテーブルにいた優秀なディーラーを、みんなまとめて円満退職させてくれたことへの、ささやかなお礼だと思ってくれ」
足取りはつかめている、といわんばかりだった。宣戦布告に等しいその口振りに、
『予想された反応だ。君は相手にするな。ドクターに任せておけばいい』
ウフコックがそんな注釈を入れた。ドクターはといえば、これも不敵に両手を広げ、
「貸し切りとは、豪勢じゃないか」
どこからみても旦ベエという感じで喜んでみせている。するとアシュレイが指を立て、
「そのほうが勝ちやすいでしょう?」
にやりと笑ってみせた。まるで共犯者のように。カウンティングには勝負数が必要であることを、こんなふうにずばりと口にするのが驚きだった。そのアシュレイが言った。
「ミニマムは十万ドルくらいで、よろしいでしょうか?」
「それが、このテーブルでのルールかね?」
ドクターも負けじと腕を組み、まるで野菜の値下げ交渉のように首を振ってみせる。
「ちょっと高いな。他のテーブルに移りたくなってきたよ」
「では、ミニマムは十ドルということにしよう」
あっさりとまた訂正した。
「そうすれば、あんたのそのチップだけで、十万回は賭けられるじゃないか?」
バロットの手にした百万ドルチップを指さして言った。
「では、十ドルで商談成立かな」
ドクターが素早く言った。アシュレイもうなずきながら、赤い透明なカードを場に置いた。バロットとドクター、どちらが差し込んでも良い、というように。
「ずいぶんとまた破天荒なディーラーだが――」
ドクターが赤いカードに手を伸ばした。
「見かけ倒しでないことを期待するよ」
相手をいなすように、無造作に赤いカードを山に差し込んだ。
アシュレイが肩をすくめて、ひょいひょいとカードの山をカットし直した。
カードシューに新たなカードが収められた。アシュレイの、無骨だが余計な動きが皆無の手が、ぴたりとカードシューにあてられた。
ドクターとバロットが静かにチップを置いた。アシュレイが、さっと最初の一枚を抜き放つ。ゲームが、開始された。生き残るべき、最後のゲームが。
「|引き分け《ドロウ》ですな」
アシュレイが言った。さっとカードが消えた。アシュレイが手をひと振りしただけで、あっという間に、場の全てのカードがディスカード置き場に積み重ねられている。
それ以外、何も動いてはいなかった。チップも、意志も、戦略も。
過ぎていったのは時間と、そしてカードだけだった。
ドクターが、ゆっくりと二度まばたきしてから、チップを場に績んだ。
バロットは、呆然となりながら置かれたままのチップを見つめている。
カードが配られた。アシュレイのフェイスカードは、7。
ドクターは9とJで19――ステイ。
バロットは7と3――ヒット。9のカードが来た。合計19でステイ。まずまずの手のはずである。だがドクターもバロットも、にわかには判断のつかない状態にあった。
伏せカードが開示された。9のカードだった。合計16。ルールにより、さらに一枚引かれた。現れたのは3のカード。それから、アシュレイが場を見渡した。
「|引き分け《ドロウ》ですな」
周囲の客が、感嘆したとも呆れたともつかぬ、形容しがたい溜め息を零《こぼ》すのが聞こえた。
アシュレイが最初のカードを配ってから、十六度目のゲームであった。
勝率はゼロ。マイナス金額もゼロ。バロットもドクターも、何も失ってはいない。
ポイント数だけが変化するなかでの、十六回目の引き分けだったのである。
ドクターが、チップを置きながら、ぐっと喉を鳴らし、言葉を絞り出した。
「珍しいこともあるもんだ。全く微動だにしないなんて……」
「あなた方の運が、このカジノに匹敵している証拠ですな」
アシュレイが真面目な顔で言った。
「実に素晴らしい。あなた方は強敵だ。私も気が抜けません」
ほとんど愛想のような口調だった。何を考えているのか全くつかめない。
――この人、どういう人なの?
『読めない[#「読めない」に傍点]』
というウフコックの信じがたい返答に、バロットは愕然となった。
『わからない。何を意図しているんだ? 楽しんでいるのか? 怒り? 君がカードを引くことを悲しんでいる? 訳がわからない。ごたまぜだ。何の臭いなんだ、これは』
悲鳴のような言葉がつづき、それがバロットを不安にさせると察したか、慌てたように全ての言葉を消した。それから、
『とにかく分析する。最適戦略でしのげ。カウンティングが封じられたわけではない』
バロットは、かろうじて、了解の合図として、膝の上で軽く左手を握りしめた。
それは異様な緊張だった。十七回目のゲームもまた、引き分けで終わった。
疲労があった。なんともいえない疲れだった。
ブラックジャックは、長い道のりを延々と歩き続けることを要求されるゲームである。
その道のりには通常、起伏があり、決して平坦ではない。だがこれは、何の目印もない砂漠を歩いているようなものだ。道のりは見えず、風景は刻々と変化するが、しかし結局は何も変わらない。ただ茫漠としたゼロの地平が見えているだけで。
二十二回目のゲームで、明らかな勝負どころが来た。ドクターはAとQを得た。バロットは5と6からヒットしてKを引いた。|21《ブラックジャック》が、二つ並んだのだ。
フェイスカードは、2。このときアシュレイが初めて、ゲーム中に呟きをもらした。
「楽なもんだ。何もしないで良いというのは。あんた方を楽しませる必要も、だまくらかす必要もないんだから。あんた方の取る戦略は、至って正確だ。その分、こちらは余計なことを考えなくて済む。まったく、俺もずいぶんと楽な仕事に当たったもんだ」
そうして伏せカードに手を触れた。バロットの背を、嫌な予感が走った。
4だった。2と4で6。そこから一枚引いた。4だった。さらに引いた。5だった。
呆然とするバロットの目の前で、アシュレイは淡々と無駄のない手捌《てさば》さでさらなるカードを開示した。6だった。2と4と4と5と6――。|21《ブラックジャック》だった。
バロットの胸の奥で何かが悲鳴を上げた。完全に翻弄されていた。微動だにしないカードに。それは負け続けることよりもよほど重苦しい疲労が蓄積される事態だった。
彼らの背後では、ベル・ウィングが透徹した顔でテーブルを見つめている。
二十七回目の引き分けのあと、アシュレイが料理を運び終えたウェイターのように、両手を重ねて身を屈めた。
「これで、ひと段落というわけですな」
ぴたりと一枚も余さずに、ゲームの終了を告げる赤いカードが現れていた。
バロットは呆然となった。それを差し込んだドクターも、初対面の占い師にいきなり自分の生年月日を言い当てられたような顔でカードシューを見つめている。
アシュレイの、分厚く、間断のない手が、シャッフルに入った。
「あんた方は、素晴らしい運を持っている。いったい、どちらの運かな。そちらの紳士? それともお嬢さん? あるいは運をもたらしてくれる、もう一人の誰か[#「もう一人の誰か」に傍点]がいる?」
そう呟くアシュレイに、イヤホンを通して続々と情報がもたらされているのをバロットは感覚した。バロットとドクターが、何のゲームでどれだけ勝ったか。どういう賭け方が顕著か。どういった場面で勝負をつけるか。そしてそれらの情報から、アシュレイは、第三者の存在[#「第三者の存在」に傍点]を敏感に察知しているようだった。
『相手の言動に呑まれるな。ただのいぶり出しだ』
当の第三者[#「第三者」に傍点]であるウフコックが言う。バロットは両手を強く握りしめている。
アシュレイが、カードをシャッフルし終えた。カードの山に、今度はバロットが赤いカードを差し込んだ。そしてアシュレイの無造作なカットが、バロットがカードの山に与えた影響を、ものの見事に飲み込んだ感覚があった。
ベル・ウィングと、多くの客が見守るなか、二巡目のゲームが始まった。
最初のフェイスカードは2。ドクターは、8と10を引き――ステイ。
バロットは、3と5。一瞬、このままステイしたらどうなるかと考えたが、結局、ヒットを告げていた。来たカードはJ。合計で18である。ドクターと同じ数字だった。
伏せカードが開示された。カードは6。合計で8――そこからQを引き、合計18。
たとえ無謀なステイを敢行していたとしても、バロットだけが負ける配札だった。
ドクターがチップを上乗せした。バロットもチップの額を上げた。三千ドルから六千ドルへ。ウフコックの指示だったし、バロットの気持ちでもあった。
気の滅入るような停滞感を振り払うために、自分にも操作可能なものが欲しかったのだ。そしてここでは積み上げるチップの額だけが、唯一自由に操作できるものだった。
「厳しい運勢だ。あなた方の勢いに、私も押されている」
アシュレイが言った。実際、バロットたちはどんどんチップの額を上げているのだ。
ディーラーにとっても正念場のはずだった。それでいて、アシュレイのカード捌きには動揺も隙もない。手を出したら即座に引き込まれてずたずたにされそうな印象さえあった。
「これまで、私の運と拮抗するプレーヤーはいなかった。だから私はあらゆるカジノで金庫の扉のように救われていた。だが今、金庫の鍵を持つ者が現れたのかもしれない」
アシュレイがたびたび口にするのは運という言葉だが、バロットもドクターも、これが運や偶然であるなどとは微塵も考えていない。
あるのは、計算しつくされたカードの並びと、それを実現できるこの男だけだった。
三百枚以上のカードの並びを操るシャッフル――それは明白な意図であり、技術だ。
カードシューの底に予備のいかさまカードを仕込んでいる気配さえない。
新しいカードを使った理由もわかる。封も破られていないカードの並びはどれも一律であるから、最初の並びさえわかっていれば特定の配札になるようシャッフルすることは、事実上、可能である。ただそれが、信じがたい技術であるというだけで。
だが真に問題なのは、その技術が何を誘っているかだった。このまま疲労を重ねさせ、単にプレーヤーを追い返そうというのか。だがプレーヤーが手にしたチップを、カジノ側に戻させることがこの男の使命ならば、それはできないはずだった。
そもそもなぜ、プレーヤーが連敗するよう仕向けないのか。ここで引き返すのなら見逃すと言いたいのか。わからない――ウフコックがそう告げるのもわかる気がした。このアシュレイという男は、バロットたちが何か仕掛けない限り、特に何もしようとしないのではないか[#「特に何もしようとしないのではないか」に傍点]。それこそ、鉄壁ではあるが、それ以上の存在ではないとでもいうように。
だが、ここまで来て引き下がれるわけがなかった。四つある狙いのチップのうち、一つは手に入れたのだから、これでいい、というものではなかった。
記憶は、多体情報であるとドクターは言った。時間軸にそって成長するが、同時に、ある時期の記憶が別の時期の記憶と密接に結びついている。チップが四つに分かれているということは、四つの時間軸が存在して初めて一つの記憶が再現されるということなのだ。それが再現されなければ、ただの神経系の成長過程を示すアルバムでしかない。
目的はそんな脳研究じみた情報ではなく、あくまでシェルの悪事《ビジネス》の中身であり、それが手に入らなければ、これまでの戦いは――バロットのゲームは、全て無意味だ。
「これは、戦略を変えるべきかもしれないな」
ドクターが、ぽつりと呟いた。それから、ゲームが始まって以来、初めて場に積み上げたチップを手元に戻し、それを半分にして、場に置いた。
カードが、来た。フェイスカードはQ。
ドクターは5と7で、12。バロットはKと4で、14。
ドクターがヒットを告げ、追加されたカードは、8。合計、20。
「ヒット」
間断なく、ドクターが言った。よくあるギャング映画で、銃をつきつけられた三下が、撃ってみろと叫ぶのに似ていた。アシュレイが、追加されたカードはそれだ、というように8のカードに向かって小さく顎をしゃくってみせる。
「ヒットだ」
ドクターが、指でテーブルを叩き、強引にカードを招いた。
その、無謀を通り越した自滅の選択に対し、アシュレイが、さっとカードを放った。
ドクターの目の前に示されたカードは、6。
「バストですな」
淡々とアシュレイが宣告する。ドクターは肩をすくめた。事態は単純だった。誰でも思いつくことなのだ。このアシュレイという男でも。
問題は、踏み込んだ[#「踏み込んだ」に傍点]ということだった。完璧な配札にあや[#「あや」に傍点]をつけたのだ。これで相手がどう動くか。全てはそれ次第だった。
バロットがヒットした。来たカードは、6。合計で20。
――ヒットする?
『君は最適戦略を守れ。強行突破はドクターに任せろ』
ウフコックの指示に従い、バロットはステイを告げた。
アシュレイが伏せカードを開示した。4である。Qとの合計で14。
そこからカードを引いた。2だった。さらに引いた。4が来た。合計で20。
「|引き分け《ドロウ》ですな」
今度は、バロットにだけ言って、カードをさっと廃棄した。
「一枚くらいじゃ駄目かな」
ドクターが淡々と呟いた。ヒットしようが、ステイしようがまるで変わらなかったのである。びくともしない、という言い方が相応《ふさわ》しいカード並びだった。
ドクターがチップを置いた。先ほどのさらに半分の額である。
一方、バロットは同額を置いている。ベル・ウィングが静かにこの場の変化を見定めるなか、アシュレイがカードシューに触れ、遅滞なくカードを抜き放った。
フェイスカードは7。ドクターは、8と5で13。バロットは、Kと3で13。
ドクターがヒットした。その要求によって招かれたカードは、4。
さらにドクターがヒット。2のカードが来た。これで合計19。
そこからドクターは当然のごとくヒットを告げた。
アシュレイが何の表情もなくカードを放つ。Aだ。合計で20――
ドクターはなお、ヒットした。一瞬、バロットにはアシュレイが怒り出すのではないかと思ったが、違った。アシュレイは変わらず淡々とカードを抜き放ち、言った。
「おめでとうございます」
カードはAだった。8と5と4と2とAとA――合計21。
ドクターが、咄嗟《とっさ》にバロットのほうを見た。
アシュレイが不審な動きをしたか、と無言で訊いていた。バロットは、小さくかぶりを振った。アシュレイがいかさま[#「いかさま」に傍点]をした気配など、まるでなかったのだ。
「ステイで、よろしいですかな?」
21からカードを引くことはできない。ドクターはぞんざいにうなずいた。
〈ヒット〉
バロットが告げる。来たカードは、8。合計で21。
ドクターが呻いた。本当に、アシュレイが不審な動きをしていないのかと目でバロットに問いかけてくる。だがバロットも愕然としていた。いったいこれは何なのか。
「どうしますか?」
アシュレイが訊いてきた。バロットは、ほとんど初めてそのダークブラウンの瞳に見据えられていた。微笑んだまま、生きた人間を解剖しているような目だった。
バロットは歯を食いしばって、ステイした。
「大した封じ手じゃないか」
そこで口を出したのは、静かに観戦していたはずのベル・ウィングだった。
「いったい、あんた以外の誰に、そんな真似ができるってんだい」
「練習次第さ」
アシュレイが、さらりと言ってのけ、自分の伏せカードを開示した。9だった。7との合計で、16。そこからさらにカードを引き、ぴたりと5の数字を叩き出した。
「|引き分け《ドロウ》ですな」
バロットはめまいに襲われそうになった。そのとき、ベル・ウィングが言った。
「やれやれ、退屈な勝負になってきたね」
バロットが目を向けると、じろっと睨まれた。
「ルーン=バロット。あんた、誰かの言うことをきいて生きてるような子なのかい」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「チップなんて、あんたにとって木っ端くらいのもんだろう。あんたが、いったい誰に遠慮してる[#「誰に遠慮してる」に傍点]かなんて、あたしは知らないよ。けれどもあたしが投げたポールを、片っ端から撃ち抜いてくれたあんたにしちゃ、ずいぶんつまらないものを見せてくれるね」
引き込まれるようなベル・ウィングの言葉を、バロットの手袋の裏側に浮かび上がったウフコックの言葉が妨げた。
『勝負に集中するんだ。彼女もカジノ側の人間だということを忘れるな』
カードが配られた。
「あんたはあんただ」
ベル・ウィングの言葉が、バロットの心隙を背後から貫いた。
「誰にも遠慮する必要なんてないんだよ。特にこういう大きな勝負ではね。遠慮なんて、勝負の上ではクソみたいなもんさ。ひどく臭くって気が散るもんだよ」
その言葉を最後に、ベル・ウィングがまた沈黙するのがわかった。
ドクターはまたもや無謀なヒットにより、ようやくバストを得た[#「バストを得た」に傍点]。
そのドクターの背後に隠れるようにして、バロットがヒットを告げた。
2とQから、7を得て、19。ステイし、アシュレイが伏せカードを開示した。
4とJからカードを引き、5を出して19。
引き分けを告げるアシュレイの声が、どこか遠くで聞こえていた。
バロットは無意識に唇を噛んだ。次の勝負でまたドクターが率先してバストした。
バロットは2と9から、倍賭け《ダブルダウン》を敢行して8を引き、19。
フェイスカードは9。伏せカードはJだった。呆気《あっけ》ない引き分けである。
また唇を強く噛んだ。次のゲームで、ドクターがバストしてアシュレイが伏せカードを開示し、バロットと引き分けたところで、乾いた歯が唇に食い込む痛みで我に返った。
ゆっくりと歯を唇から離し、唇を湿らせながら、自分はこのゲームを選んだのだという気持ちが湧き起こるのを感じた。そう。このゲームを。自分が[#「自分が」に傍点]死ぬか生きるかというゲーム。そしてそれが、なぜ自分なのか[#「なぜ自分なのか」に傍点]という問いの、一つの答えのはずだった。
そういう考えに意識を取られたせいで、カードに変化が起こったことに一瞬遅れて気づいていた。変化は、ドクターが最適戦略に立ち戻ったそのときに起こった。
バロットの目が、ふいに、アシュレイが伏せカードを開示する様子に焦点を合わせた。
フェイスカードは5。開示されたカードは9。そこから3を引き、17。
「負けと――引き分けですな」
アシュレイが場を見渡し、言った。
バロットは慌ててドクターのカードを確認した。Jと3と3で、16。
バロットのカードは、5と7と5で、17。ドクターだけが負けていた。
ドクターが無言でチップを置いた。バロットはまた唇を噛んだ。
アシュレイがカードを配った。その指先に対する感覚はバロットに何も明らかにしなかった。指先に対する感覚は[#「指先に対する感覚は」に傍点]。バロットの中で痛烈な疑問が生じたのはそのときだった。
自分はいったい何と戦っているのか。アシュレイという男の指先と戦っているのか。
この男が手にしたものがカードではなく銃であったら、自分はどうしていたか。
その指先が引き金を引くのを[#「その指先が引き金を引くのを」に傍点]、ただじっと見つめているだけか[#「ただじっと見つめているだけか」に傍点]。
バロットはこのゲームが始まって以来、初めてカードを感覚した[#「カードを感覚した」に傍点]。カードの山と、その並びを。それがいかなるパターンによって成立しているかについて考えを巡らせた。
ドクターがステイを告げる声が、バロットの耳を打った。
ドクターのカードは、7と6から6を引いて19。
フェイスカードは、8。
バロットのカードは、Jと3。すぐさまヒットし、現れたカードは、7。
そのカードを前にして、バロットはじっと沈黙した。
まるで自分がテーブルの一部にでもなったような気分だった。テーブル全体に自分の神経が行き渡り、カード一枚一枚の重さに、全身の肌が、敏感に反応していた。
「もう一枚引くかね? もしそうしたらどうなるか、隣の男に聞いてみるといい」
アシェレイが、やんわりと訊いてきた。何かを誘っているような雰囲気だった。
バロットはゆっくりと顔を上げ、男の存在を感覚した。これまでその指先にだけ気持ちをとらわれていたことも、この男の戦術の一つなのではないかとさえ思われてきた。
〈ステイ〉
静かに告げた。アシュレイが、淡々と自分の伏せカードを開示した。
4のカードだった。8との合計で12。そこからAを引き、そして7を引いた。
「負けと――」
〈|引き分け《ドロウ》〉
バロットが言葉を続けた。そのことに意味はなかったが、アシュレイの反応が見たかった。その動作や、雰囲気、全てを感覚したかった。アシュレイは肩をすくめた。
「その通り」
にこっと笑った。バロットが、である。アシュレイは、おや、という顔になり、それから微笑みを返してきた。同時に、その手がカードとドクターのチップを廃棄している。
カードが来た。フェイスカードは、J。
ドクターのカードは、5と9。ヒットして8を引き、バスト。
その間、バロットはアシュレイを感覚し続け、それがウフコックに伝わるようにした。
バロットの左腕には、にわかに、トゥルーカウントと戦術の他に、アシュレイについての情報が記されるようになっていった。
バロットのカードは、8とJ。何かをアシュレイの脈動に感じた。
〈ヒット〉
アシュレイの反応は遅れなかった。その淡々とした行動こそ、鉄壁だった。
バロットが引きつけたカードは、2。
〈ステイ〉
バロットの選択に従って、アシュレイが伏せカードを開示した。
JとJ――合計20。
何かが匹敵した。そういう感覚があった。続くゲームで、ドクターはバストこそしなかったものの、Jと8のままステイし、バロットとアシュレイ両者の20の前に敗退した。
「運に振り分けられた者が出始めたようだ。運は、ささいな道の違いですぐに離れる。それをつかみ取ることは至難だ。誰も、運に見放された者を嗤《わら》うことはできない」
アシュレイが、カードを廃棄しながら呟く。ドクターが勝てなくなったことさえ、自分の意図だとでもいうように。少なくとも、このアシュレイという男の範疇[#「範疇」に傍点]なのだ。
だがドクターは自分の役割をよく知っていた。何をすべきか[#「すべきか」に傍点]ということを。
ドクターはチップの額を引き下げ、果敢にバストを求めた。
バロットは、延々と同じ額のチップを置き続けている。ゲームは終わらない。
フェイスカードが示された。6のカードである。ドクターには、3と9が来た。
「倍賭け《ダブルダウン》」
ドクターが、冷静に告げ、チップを重ねた。そしてアシュレイが、そのドクターに対して、問答無用で引き金を引くようにカードを放った。カードはQ。バストである。いかにも無惨だったが、ドクターはもう何を失ったかなど、考えてもいないようだった。
バロットは4と7から、6を引き、合計で17。アシュレイが伏せカードを開示した。
6と5。そこからAを引いた。そしてさらに5を引き――引き分けとなった。
3
ドクターがゆっくりと席を立った。それから、バロットの肩を叩いて言った。
「僕の運を、彼女に譲ろう」
同時に、自分の手元に積み上げられたチップの山を、そっとバロットのほうに押した。
「そして僕の負け運を、そちらに差し上げるさ」
アシュレイに向かって、笑いかけるように言った。
このドクターの行動が、勝負の分岐点だった。カードの並びが、それを告げていた。
ドクターがヒットせねばバロットの勝利だった。あるいはドクターがいなければ、アシュレイのブラックジャックだった。そのバランスを見極めた上での退席だった。
「今から僕は、ただの野次馬だ。とはいえ場に影響を与える野次馬だがね。遠くにある事象が、より巨大な結果を引き起こす――僕の敗北は、バタフライ効果のその蝶だ」
「蝶――?」
「大陸の左側で蝶が飛べば、右側で台風が起きることを証明した理論だ。その多体問題への、これまでにない解明の方法が、証明されることになるだろう」
アシュレイは、気がなさそうに肩をすくめた。
「いつでもまた参戦をどうぞ」
ドクターはうなずき、またバロットの肩を叩いた。もう盾はない。そのことをはっきり告げていた。バロットはじっとドクターを見つめ、一番気になることを素直に訊いた。
〈私、勝てると思う?〉
「すぐには勝てないかもしれない。けれども、彼は一人で、こちらは二人[#「二人」に傍点]だ。二人分[#「二人分」に傍点]の勝運をもってすれば、必ず勝てるさ」
バロットはうなずいた。ドクターはバロットとウフコックの二人[#「二人」に傍点]のことを言っていた。
ドクターは椅子を戻すと、ベル・ウィングと並んで立ち、バロットの背後から、ゲームを見守るかたちとなった。
アシュレイとバロットだけが、真正面から向かい合っている。
周囲では、面白い見せ物を見るように、足を止める者が一人また一人と増えていた。
ベル・ウィングは、もう何も言わない。
カードが、配られた。フェイスカードは6。バロットのカードは、Qと4。
こうまで変わるのか、というのがバロットの正直な気持ちだった。これまで、まるで選択に迷わない配札だったのに、ドクターが席を立つや、難解な並びになったのだ。
とはいえ、ウフコックが示す戦術は揺るぎない。自分は正面から歩くだけだった。
ヒットした。カードが来た。2のカードである。合計16。しかしまだ足りない。
さらにヒットした。アシュレイの手がさっと動き、カードを明らかにした。4である。
〈ステイ〉
アシュレイは遅滞なくゲームを進めた。
開示された伏せカードは3。さらにカードを引き、Aを当てた。合計20。
「|引き分け《ドロウ》ですな」
バロットは、静かに呼吸を整え、次のゲームを待った。
続くゲームでのフェイスカードは、A。
バロットのカードは8と3。倍賭け《ダブルダウン》を敢行しようとしたが、すんでのところでとどまった。
ウフコックの戦術は倍賭け《ダブルダウン》を示しているが、それ以上、カードが引けなくなるというのはまずい気がした。ただ引けなくなるのならいい。自分から、それ以上引けなくすることで、自分が楽をしようとしている[#「自分が楽をしようとしている」に傍点]ような気になったからだ。
バロットは、いつか裁判所で世界全部を睨んだときのような目で、カードを見据えた。
あのとき、恐怖で身動きできなくなっていた自分を乗り越えたのと同じ覚悟で、ヒットを告げた。5のカードが来た。それが正解であるような気がした。
そしてさらに、ヒットした。そこで来たカードが、5。合計で21。
どっと安堵が吹き出してくるのをこらえ、ステイを告げた。
アシュレイが伏せカードを開示した。Jである。ブラックジャックだった。
うっとバロットの喉が鳴った。声をなくしたはずの喉が、何かを叫ぼうとするように筋肉を緊張させていた。
アシュレイが引き分けを宣告し、新たなゲームの準備をまたたく間に整えた。
フェイスカードは、J。バロットのもとに来たカードは、QとK。
左腕の戦略は、チップの勝率をすぐに算出している。そして負ける確率と、その場合のチップの額の変動を計算している。何より、アシュレイの脈拍は微動だにしていない。
先ほど自分が乗り越えたところを、すかさずアシュレイが埋めた[#「埋めた」に傍点]のではないか。
そんな思いがよぎった。つまり、これ以上、動けなくなった[#「動けなくなった」に傍点]のだ。
バロットはステイした。アシュレイがカードを開示した。Aが鋭い角をバロットのほうに向けていた。またもやのブラックジャックだった。
初めての負けだった。チップを奪われた。そのことはまだ良かった。出すべきチップの額が、がくっと減った。それもまた許されることだった。
だが、さらなるゲームでアシュレイが示したフェイスカードだけは許せなかった。
Aである。バロットの胸中で何かがぎゅっと縮こまり、軋《きし》んだ。
バロットのカードは、Kと4。前々回のゲームでヒットをしなければ21だった。
いったい、どこで間違えたのか。バロットの中の制止できないところで声が上がった。
決して選択を間違えたわけではない。だが間違えたとしか言えないのではないか。
少なくとも、このアシュレイという男が立っているテーブルにおいては間違いだったのではないか。わずかに一枚のカードの差が、決定的な敗北へと自分を追いやっている。
バロットは気持ちを振り絞ってヒットした。示されたカードは、2。合計で16。
その数字がやけに重い。戦術はステイ。トゥルーカウントをもとにした戦術表である。
それに従わずに、いったい何に従うというのか。だが重かった。喉が微かに震えた。
バロットはステイし、アシュレイは鷹揚な仕草で伏せカードを開示した。
2である。Aとの合計で13。さらにカードを引いた。またもや許されないことが起こった。5である。それをバロットが引いていれば21だった。
「|ご愁傷様《ソーリー》」
アシュレイが言った。16と18で、このゲームが始まって以来の、バロットの二連敗だった。バロットは、かすかに震える手で、チップを置いた。そのときだった。
「どんな人間も、未来を予測することはできない。だが近似は出せる」
ふいに、ドクターが声を上げた。
「それが動物と違う点だ。人間と他の動物を区別する方法の一つに、双頭であるという考え方がある。古臭い、そして常に新しい考え方――すなわち、左脳と右脳さ」
何を言っているのかわからない、野次馬の気楽さのような、朗々とした声音だった。
「人間に左右の大脳が出来たのは、第一に、脳の発達が急激で、左右の融合が間に合わなかった[#「間に合わなかった」に傍点]からだ。そのため脳幹と脊髄の融合部にしまわれていた神経細胞が、外部にせり出し、脳の皮質になった。そしてそのお陰で、我々の脳は巨大化が可能になった」
アシュレイは、もはやドクターのことなど、見向きもしない。
ベル・ウィングだけが、勝負の邪魔をする人間を煙たがるような目で見据え――そしてドクターの隠された真剣さを見抜き、すっと表情を消した。
カードが、来た。
「だが、左右の大脳が奇形的に巨大になったため、その発達がアンバランスとなった。左大脳では流動型知能であるデジタル化がすすみ、右大脳では結晶型知能であるアナログ化がすすんだ。その原因をたどれば神経細胞の発達にある」
フェイスカードは、Q。バロットのカードは、4と6。
ウフコックが示す戦術はヒット。バロットはヒットを告げた。
「無脊椎動物の時代からあった裸電線、即ち無髄神経では、シナプスのアナログ型のホルモン作用が主体だったが、被覆電線、即ち有髄神経では、デジタル型の神経電流を流す神経回路が主体となった。人間の脳は本来、アナログ脳であるにもかかわらず、その中にデジタル型が発生し、両者が相互作用をもって働くことになった」
来たのは9。合計で19。ウフコックが示す戦術はステイ。バロットはステイした。
「人間は未来を判断できない。なぜなら複数の出来事を、同時に多体問題として解き明かすことは、いかなる数学的手段によっても原理的に不可能だからだ。残りカードが一枚[#「一枚」に傍点]なら既出《ディス》カードからそのカードが何であるかは判明する。しかし残りカードが二枚以上[#「二枚以上」に傍点]なら、もう次に来るカードが何であるか判断不可能になる」
伏せカードが開示された。Kである。合計で20。バロットの三連敗だった。
「しかし二つの頭を一つの頭蓋骨の中に持つことになった人間は、流動型知能、即ちデジタル型の神経回路で一つの出来事を厳密に解き明かし――他方では、結晶型知能、即ちアナログ型の意識によってその他全ての出来事の、総合的な影響をイメージする。それによって人間は単体近似を出し、現実には多体問題を解いたことになる。人間は、無限に真実へと近づくための道のりを、生まれたときにすでに選んでいるんだ」
バロットがチップを置いた。アシュレイがカードを配った。
フェイスカードは、6。バロットのカードはJと3で、合計13。
ウフコックの指示はヒット。バロットの気持ちもヒット。来たカードは6。合計19。
アシュレイが伏せカードを開示した。4だ。さらに引いてAが現れた。合計21。
「もしその人間が、双頭からさらに四頭になることができたら、単体近似に甘んずることなく多体問題が解け、この世の全ての事象が確定するかもしれない――そんな夢想によって作り出された存在[#「存在」に傍点]がある。それ[#「それ」に傍点]は未来を解き明かすことはなかったが、いかなる外部=内部形成に対しても、一瞬にしてその形成体を算出する、万能の道具となった[#「万能の道具となった」に傍点]」
フェイスカードは6。バロットのカードはQと2。
ヒットした。ウフコックがそう告げていた。バロットもそう思っていた。
アシュレイは何の変化も見せない。そのカードも何の変化も見せなかった。
来たカードは、6。合計18。そこでステイ。一瞬のためらいがあった。
だがバロットはステイを告げた。そしてためらいの理由を自問した。
アシュレイが伏せカードを開示した。5である。そこからKを引いた。21である。
バロットの五連敗――敗北の泥沼に、息が詰まりそうだった。
だが、これは長い道のりを歩き続けるゲームだと、誰かが言っていた。
そしてその誰かは、今、バロットの背後で必死に声を上げているところだった。
「人間の脳構造では、多体問題も、計算による単体近似の連続にすぎない。ではそこで、人間が双頭になった理由であるところの、融合が間に合わなかった脳の発達を、そのまま外部へと発展させることができたらどうか[#「そのまま外部へと発展させることができたらどうか」に傍点]。即ち、人間の頭部から[#「人間の頭部から」に傍点]、脳が形を変えて発達を続け[#「脳が形を変えて発達を続け」に傍点]、全身へと広がり[#「全身へと広がり」に傍点]、体全体を覆いつくしたとしたら[#「体全体を覆いつくしたとしたら」に傍点]」
フェイスカードは4。バロットのカードは3と5。ヒット。2が来た。ヒット。4が来た。ヒット。3が来た。合計17。示された戦術はステイ。
ウフコックがバロットを勝たせるための選択だった。バロットはステイを告げた。
「そんな、全く別コンセプトの二つの存在が[#「全く別コンセプトの二つの存在が」に傍点]、互いに協力したにもかかわらず、このカードの流れを読めない、なんてことはありえない[#「ありえない」に傍点]のさ」
ドクターはそう締めくくって、じっと押し黙った。ドクターは目覚めさせようとしていた。バロットとウフコックの二人組を。その互いの力の、さらなる発揮を。
アシュレイが伏せカードを開示した。6である。さらに引いた。Aだった。合計21。
六連敗だった。バロットは左手をぎゅっと握った。もどかしさがあった。だがそれもまた兆候ではないのか。ふいにそう思った。まだ可能性があるのだ。もどかしいと感じるだけの、何かの可能性が。ウフコックは柔らかくバロットの両腕を覆っている。
フェイスカードは、Q。バロットのカードは、4と8。
即座にヒットを告げた。アシュレイが差し出したカードは、K。
「バストですな」
アシュレイが言った。同時に、バロットの左腕の数値が変化した。そしてバロットは、それがこのゲームが始まってから初めてのバロットのバスト[#「このゲームが始まってから初めてのバロットのバスト」に傍点]であることに気づいた。
何かが変わった。状況は悪化の一途を辿っているが、それでも変化があった。
次のフェイスカードは、A。バロットのカードは、Jと3。
ヒットし、来たカードは、10。バストだった。さっとカードが廃棄された。一瞬だけ表向きにされたアシュレイの伏せカードは、8。それをバロットは左腕のトゥルーカウントに加えた。自分が引かなければ[#「自分が引かなければ」に傍点]、アシュレイのバストだった[#「アシュレイのバストだった」に傍点]ということもふくめて。
次のフェイスカードは、3。バロットのカードは、Aと9。
久々にAが有益なかたちでバロットの手元に来ていた。
バロットはステイ。その選択に従って、伏せカードが開示された。
6だった。そこからさらに引いた。
6だった。合計で15。ルールにより、さらに引いた。
6だった。まさかの状況で、まさかのカードを引いてくる。人智を尽くした配札にあるのは、紛《まご》うことないアシュレイの強運ではないのか。そんな気にさせるカードだった。
3と6と6と6で、21。バロットの九連敗となった。
だが何かがそこで感覚された。兆候が。平坦な砂漠の闇に、一筋の光明が見えていた。
前回のゲームでは、連続して同じ数字が出ることはなかった。カードの並びを調整するには、ばらばらであるよりも、ある程度同じ数字が連続したほうがやりやすい。
だが今までそれをしなかったのは、ある程度の余裕を持たせるためなのではないか。
まず間違いなくアシュレイはカードを抜いている[#「まず間違いなくアシュレイはカードを抜いている」に傍点]。
その確信があった。多い数ではない。せいぜい一巡で三枚程度だろう。わずかにバランスを取れば、自在に並びを調整することができるようシャッフルしているのだ。
その完璧なカード捌きが、徐々に追い詰められていると考えるのは、安易だろうか。
バロットは素早くこれまでのカウントを見計らった。絵札とAが極端に減っていたが、一方でディーラー側に優位となるカードも減少していた。ウフコックの内部であらゆる組み合わせが瞬時に計算され、賭け額と勝率が上昇の気配を見せていた。
勝負どころの予感に、バロットは疲労感を振り切ってゲームに集中した。そのときだった。バロットが息を吐き切った瞬間[#「息を吐き切った瞬間」に傍点]、何気ない一言が刃のように振るわれた。
「ところで、その左手に――」
バロットは、深く息を吸いながら[#「息を吸いながら」に傍点]、その言葉を聞いてしまった。
「私の脈拍を計る機械でも、仕込んでいるのかね?」
心臓が跳ねた。あまりに唐突だった。心の隙を突かれた自覚さえないまま顔を上げ、
〈どうして――〉
つい、訊いた。訊いてから、しまったと思った。だがもう遅かった。
アシュレイが、にっこりと笑みを浮かべた。ふと、その口が動いた。声もなく、
「ビンゴ」
とその唇が言っていた。バロットの両腕が、手袋の下で、ぞっと鳥肌を立てた。
突然の暴露に対する、それは戦慄だった。
「君は、カードと会話するというよりも、自分の左手と[#「自分の左手と」に傍点]会話するようだったんでね」
アシュレイが親しみのこもった口調で言った。
バロットの根深いところで、恐怖が溢れた。自分の些細な失敗で、何もかもが無に帰すのではないかという恐怖だった。もう少しで手が震え出すところだった。
『気にするな。いぶり出しにそれ以上乗る必要はない』
バロットの様子を敏感に察したウフコックが、すかさず宥《なだ》めた。
『確信があっても、牽制する以上のことはできないはずだ。証拠もなく客の衣服に手をかけるような真似はしない。俺たち二人組[#「俺たち二人組」に傍点]を引き離す手段は、彼らにはないんだ』
だがバロットは、ウフコックの言葉に、安心とともに奇妙なもどかしさを抱いた。
それこそ奇妙な話だ。ウフコックなしで自分に生き残るすべなどないというのに。
ベル・ウィングの視線が重くのしかかってくる感じがした。ドクターが今どんな顔をしているかが気になった。バロットはきつく眉をしかめ、じっとカードを睨んだ。
フェイスカードは、4。バロットのカードは、7と6。
そろりと息を吐きながら、戦術を確かめた。ヒットである。当然の選択だ。しかしバロットはにわかには動かなかった。静かに自分を整え、それから、ヒットを告げた。
来たカードは7。わずかに呼吸を置いて、ステイした。
アシュレイが伏せカードを開示した。
9である。そこから7を引いた。互いに20。唐突といっていい引き分けだった。
ふとバロットは、アシュレイが何故いきなりあんな引っ掛けをしてきたか、合点した気になった。つまりそれだけカードの並びが逼迫《ひっぱく》しているのではないか。そうでなくとも、ようやくの勝負どころへと入り込んだという気持ちに間違いはなかったのではないか。
つづくゲームで、フェイスカードは、3。バロットはJと9を得て、ステイ。
アシュレイが開示した伏せカードは、5。そこからAを引いて、合計19。
またもやの引き分けだ。バロットは自分がまさに瀬戸際にいることを忽然と悟った。
ここで退《ひ》いては、何にもならなかった。思い切ってチップを重ねた。
ウフコックが示す額よりも、わずかに多かった。それで良かった。負けても良かった。
気持ちを前に出すことさえできれば良かった。
カードが来た。アシュレイのフェイスカードは、10。バロットのカードは、Jと2。
自分が得たJの印《スーツ》が目についた。黒いジャック――スペードの、片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》。
目が自然と、アシュレイの伏せカードにいった。それからまた、カードシューに赤いカードがあるのに気づいた。じっとそれらを見つめながら、ヒットを告げた。
アシュレイが、赤いカードをどけ、次の一枚を抜き放った。来たカードは、9。
バロットはステイした。目は、カードシューの横に置かれた赤いカードを追った。
これまで一枚も余さず完結していたカード並びに、微かなほころびが生まれていた。
アシュレイが伏せカードを開示した。一瞬遅れて、バロットはそれを見た。A――スペードの、剣のようなカードが、振りかざしたまま相手を失ったように置かれていた。
〈|引き分け《ドロウ》ですね〉
バロットが、率先して言った。スペードのAとJが――ブラックジャックが、綺麗に二人のもとに分かれた[#「二人のもとに分かれた」に傍点]ことが、何かの証拠[#「証拠」に傍点]だという気がしていた。
アシュレイは無言で肩をすくめた。バロットはゆっくりと深呼吸をし、自分の感覚を、ぴたりとこのテーブルに凝縮させた。テーブルの外で起こっていることは何一つとして感覚する気はなかった。たとえベル・ウィングの視線でさえも。
アシュレイがカードシューを開き、中身のカードを抜いた。
それから既出《ディス》カードの山とともに、無造作な手付さでシャッフルし始めた。
バロットは、その様子をじっと感覚した。カードを、アシュレイの指を、肩を、鼓動を、呼吸を。テーブルに積もる埃一つ余さず感覚する精密さでそれらの動きを追った。
場には静かに緊張が満ち、沈黙がその様子をいっそうあらわにした。耳を打つのは、フロアに流れるゆったりとした音楽と、カードを切る鋭い音、そして人々のざわめき。
バロットは、このまま眠ってしまいそうなほど、自分の鼓動も呼吸も平静へと向かってゆくのを感覚した。かと思うと、ふいに、アシュレイが声をかけてきた。
「君に質問があるのだが、良いかね?」
少しは他のディーラーと同じような仕事もさせてくれ、というような素振りだった。
〈……なんですか〉
バロットは突然のことに目を見開き、注意深く応じた。無視しても良かったが、この男を理解し、読むため[#「読むため」に傍点]には必要なことのような気がしていた。
「なに、質問といっても、気楽な謎々みたいなものさ。こう気重な空気が漂っていると、ゲームも楽しくなくなるじゃないか?」
バロットが首を傾げると、アシュレイはそれを了解の合図ととったようにうなずき、
「まず、君が長い長い道のりを車で走っているところを想像してもらえるかな」
〈はい〉
「そしてその道のりの途中で、車が完全にエンジンストップしてしまった。全く不運な状況だ。周囲に民家はない。どこまでも砂漠が広がっている。さて、どうする?」
まるで意図がわからぬまま、カードの動きを精密に追いつつバロットが答えた。
〈助けが来るのを待ちます〉
当然のような回答だった。場を賑わそうというような気もなかった。
「ヒッチハイク?」
〈はい〉
「では、その発想で、逆に助けを求める人間を見かけたら?」
〈信用できそうかどうか見て助けます〉
「なるほど」
口笛でも吹きそうな顔でうなずいた。
「両方とも五〇%の答えだ。君はおおむね正常と言えるだろう」
その言いざまが、やけに勘に障《さわ》った。バロットは眉間に皺を寄せ、訊き返した。
〈他にも答えが?〉
するとアシュレイは、急に意味深な笑みを浮かべてみせ、
「ヒッチハイクを装ったハイジャッカーのことは、考えないのかな?」
これがこの謎々の趣旨だ、というように訊き返してきた。バロットは無意識にまた唇を噛んだ。明らかにアシュレイは何かを示そうとしていた。剣呑《けんのん》な何かを。
〈もし、相手がハイジャッカーだったら、ということですか?〉
「いや、それは少し違う。相手がハイジャッカーだなんて、いったい誰にわかる? 相手が本当にそうだったら、なおさらわかりにくいようにするだろう?」
〈助けるなということですか?〉
アシュレイは、ゆったりとシャッフルしながら笑った。
「五〇%の答えだと言ったのは、つまりどちらの立場に立つかによって、態度が変わるということさ。そうだな……たとえば、もう一つの五〇%の答えは、誰も助けない代わりに、自分もまた、決して誰にも助けを求めない覚悟を持つことだ。そしてまた、助けるのであれば、助けた相手に殺される覚悟をして、助けることだ」
バロットは両手を握りしめ、目の前の男が放つ圧迫を振り払うように踏み込んだ。
ドクターがカードの上で踏み込んだように。そうして訊いた。
〈一〇〇%の答えはなんですか?〉
アシュレイは肩をすくめた。
「自分に助けを求める者がいたら、即座に殺すことだ。それは獲物だ」
あっさりとした口調だった。その分、当然だとでもいわんばかりの響きがあった。
「自分が助けを求めて応じる者がいたら、それも獲物だ。助け、助けられる振りをして、奪うのだよ。金や、それ以上のものを。ギャンブルの世界では、それが常識だ」
シャッフルの仕上げに入りながら、優しいとさえいえる眼差しでバロットを見た。
「ここ[#「ここ」に傍点]では誰も信用できない。自分だって信用できやしない。わかるだろう? その証拠に、誰が君のことを助けてくれる?」
その瞬間、バロットの中で得体の知れない敵意が芽生えた。その気持ちが行き先を得ないまま、微動だにしないバロットの目の前で、着々とカードの山が積まれていった。
「ここ[#「ここ」に傍点]は、合法的に他人から強奪することを許された場所だ。そんなところに、君のようなお嬢さんが、のこのことやってきたのは、何のためだろう」
アシュレイが呟くように言った。シャッフルを終えてカードの山を綺麗に整え、両手を重ね、客の注文を待つウェイターのような格好でバロットの前に立った。
そびえ立つようだった。厳めしい顔から一切の笑みが消えていた。見下ろすようなその顔の真ん中で、いかつい口が言葉を放った。決定的な言葉を。
「その喉は生まれつきかね? それとも、誰か[#「誰か」に傍点]のせいで声をなくしたのかな? ヒッチハイクをしたときにでも[#「ヒッチハイクをしたときにでも」に傍点]?」
その言葉が耳に突き刺さった瞬間、バロットの全身が敵意の塊となった。
この男は何もかもを知ってここに立っているのではないかと思った。自分がどうやって殺された[#「どうやって殺された」に傍点]かを。どういう理屈で殺されたのかを。なぜ自分だったのかを。自分がそのとき、どのような意志も幸福も持つことを許されない一個の物[#「物」に傍点]として処理されたのを。
総毛立った。全身が燃え上がった。髪の毛一本に至るまで、敵意が毒のようにしたたった。止めようのない何かが身体の奥からせり上がってきた。
『冷静になれ、バロット。この男の意図が読み切れない。うかつなことをするな』
慌てたようなウフコックの静止が来た。ウフコックは、バロットがこのとき何をしでかそうとしているか、すでに察しているようだった。
『俺を信じてくれ』
――信じてる。
バロットは両手の拳を握った。あからさまにアシュレイに見せるように。強く。ウフコックがそれを感じてくれるように。
――だから[#「だから」に傍点]、私のことも信じて[#「私のことも信じて」に傍点]。
そう、ありったけの気持ちを伝えた。一瞬、ウフコックが手袋の内側で沈黙した。
――この人、私のことを試してる。
アシュレイを真っ向から睨みながら告げた。その途端、何もかもが明らかになった気がした。アシュレイの質問の意味も、自分がこのゲームを選んだということも、先ほどから感じ続けている、もどかしさのわけも。
『試す?』
――そう。試してる。私のことを。私がゲームをするのかどうかを。
そのとき、アシュレイがにやっと笑ってたたみかけてきた。
「辛いかね? 他のテーブルに移りたくなったかね? それとも店を出てゆっくりモーテルのベッド[#「モーテルのベッド」に傍点]にもぐりこみたい? 来たときと同じように[#「来たときと同じように」に傍点]リムジンに乗って? 駄目だなあ。君はここまで来てしまったんだ。今さら、後戻りは許されない。わかるかね?」
バロットはゆっくりと手のひらを開き、
〈わかります〉
答えざま、一瞬にして、ウフコックを右の手袋に押し込んだ[#「押し込んだ」に傍点]。
ウフコックがそれ以上何かを告げる間さえなかった。さっと首の後ろに手を回し、両手袋が背中でつながっていた接合部《ホック》を外した。首の付け根で、はらりと布がはだけた。
右手で左の二の腕をつかみ、ゆっくりと、腕を撫でるようにして下ろした。
いつか客の要望[#「客の要望」に傍点]でそうしたときのように。見せつけるようにして。
剥《む》き出しになったゆで卵みたいな肌が、つるりとあらわになった。それから右の手袋も外すと、綺麗に重ねてテーブルに敷き、その上に、素肌の腕を組んで乗せた。
素肌の腕が、場を鋭く感覚した。ひやりとした感じだった。
バロットはそれを、自分の心が冷たく鋭くなる感覚なのだと思った。
生きるか死ぬかという凄惨な覚悟に、自分の心が冷たく浸されてゆく感覚だった。
それから、凍るような眼差しで、目の前の男を、まっすぐに見据えた。
〈私は、そんなに殺しやすく見えますか?〉
アシュレイ・ハーヴェストは答えなかった。ただ、ゆっくりと、大きくうなずいた。
質問の答えではなく。むしろ、ようやくバロットの顔が見えた、とでもいうように。
4
「これは強敵だな」
アシュレイは、バロットの素肌の手がチップを積み重ねる様子をじっと見つめている。
バロットの右手を。左腕は、テーブルクロスみたいに敷かれた手袋の上に横たえられ、その指が、手袋を宥めるように撫でていた。
「君の全身を身体検査したところで何も見つからないだろう。あるいは、もともと何もないのかもしれない。それはそれで良い。手袋を脱いだのは君自身の意志なんだから。俺やカジノが強要したわけじゃない。その点は良いかな?」
バロットはうなずいた。相手の顔をじっと見ながら。よく、ペーパーバックの西部劇で、決闘の相手からルールを確かめられたときにするように。
「俺が強敵だと言ったのは、君が、逃げも隠れもしないってことだ」
アシュレイの手がカードシューにかかり――翻《ひるがえ》った。
カードが、来た。フェイスカードはA。バロットのカードは、7と6。
バロット自身の選択もヒットなら、手袋が示す数値[#「手袋が示す数値」に傍点]もヒットだった。
来たカードは、2。さらなるヒットの指示があり、バロットもそれに異存はなかった。
バロットはヒット。さらに2が来て、そこでステイ。アシュレイの伏せカードは6で、17。両者ともに引き分け。カードが廃棄され、トゥルーカウントが表示された。バロットの左腕の下でだった。ウフコックは、たとえ放り出されたとしても自分の職務を全《まっと》うするタイプだ。その職務が、ウフコック自身の意志とともにある限り。
カードが来た。フェイスカードは、Q。バロットのカードは、Jと3。
バロットはヒット。4のカードが並んだ。勝負どころにいた。厳しい流れの中、バロットは自分の感覚が、背表紙のようにぴたりとカードに張り付いているのを感じた。
さらにヒットした。Sのカードが来た。合計で20。そこで、ぴたりとステイ。
アシュレイが伏せカードを開示した。4である。Qとの合計で14。
そこから2を引き、そしてさらに5を引いた。21である。
アシュレイの無骨な手が、カードとチップを場からどける様子を、バロットの感覚が猟犬の鼻のように探った。無謀ともいえるヒットにもかかわらず僅差で負けた。だがそこで何かが動いた。アシュレイという鉄の扉が、微かに動いた気配があった。
バロットは右手でチップを積みながら、もう一方の手でウフコックに干渉した。
――ウフコック、通じてる?
『君[#「君」に傍点]からのメッセージは、どうやらまだ[#「まだ」に傍点]受信可能なようだ』
ウフコックにしては珍しい、皮肉っぽい文章が返ってきた。それだけ、バロットの手から滑り落とされた衝撃が強かったらしい。カードが来たと同時に、バロットの口元に、可笑《おか》しそうな笑みがよぎっていた。宥めるように手袋を撫でながら、
――お願いがあるの。良い?
と干渉していた。右腕にしていた手袋――ウフコックを押し込めた[#「押し込めた」に傍点]手袋に、である。それが、ちょうど、バロットの左腕の影のように、ぴたりと重なっている状態だった。
『俺にできることなら』
――あなたにしかできない。
お世辞ではなく本心から告げた。右手でヒットを指示し、カードを招いた。
『どうすれば良い?』
ウフコックが真摯に訊いてきた。バロットは招いたカードを見つめながら思案した。
何をどうすれば良いか。ただ、漠然としたイメージがあった。
――数字の表を、私の感覚に合わせたい[#「私の感覚に合わせたい」に傍点]の。
フェイスカードがKであるのに対して、バロットのカードは、8、5、2。ウフコックの示す統計と確率によれば[#「統計と確率によれば」に傍点]ステイ。だがバロットの感覚では何かが引っかかっていた。
――数字とは別に、気になるところがあるの。それを合わせたい[#「合わせたい」に傍点]。
「トゥルーカウントでなく? 特定のカードを天引きして計算するんじゃないのか?』
――それだと、狭い[#「狭い」に傍点]感じがする。
バロットが、ヒットした。来たカードは5。そこでステイ。アシュレイが伏せカードを開示した。6である。Kとの合計で16。そこからさらに引き、4を叩き出した。両者ともに、合計20。
「|引き分け《ドロウ》ですな」
アシュレイが宣告した。ディスカードするとき、ちらりとその表情が動いた気がした。
バロットの最後のヒットによって、ディーラーの|21《ブラックジャック》から引き分けに落とされた[#「引き分けに落とされた」に傍点]という以上の、敏感な警戒の念がよぎるような感じだ。
一方、ウフコックの解決策は、いつものように明確だった。
『君のイメージを、できる限りこちらで反映させるようにする。君の好きなように表を変換してくれ。データは全て保存してある』
――ありがとう、紳士さん《ジェントルマン》。
『御意に《マイ・プレジャー》』
バロットはまた手袋を撫でた。感謝のキスの代わりに。それから、より鮮明にイメージするために、場に集中させた感覚を、細かく意識の上で追っていった。
カードは小さな数字が連続する波に入っている。一方ではアシュレイに大きなカードが入り、そのほとんどがフェイスカードだ。カード捌きが一枚ずれれば、10点札がディーラーの伏せカードになるのである。勝負どころへの読みが、極めて難しい流れだ。
その流れの根本にはアシュレイのシャッフルの技術があったが、他方ではバロットのカード捌きが場に影響し始めていた。同じ数字が連続したり、一ゲームで何枚も同じカードが出たりするのがその証拠だ。
その影響を一つ一つ確かめつつ、バロットの腕の下でウフコックの示す数値表が徐々に、だが着実に変化を繰り返した。数値自体は、ウフコックの確率統計によるものだが、それが意味するものが何であるか[#「意味するものが何であるか」に傍点]はバロットの感覚によった。同じ数字が連続することや、小さなカードの連続などは、確率統計による判断においてはただ既出《ディス》カードによる勝率の計算にすぎない。それが後のカードの流れに影響を与える[#「影響を与える」に傍点]という観点がなかった。あるのは組み合わせによる勝算と、それに基づいた精密無比な資金管理だけだ。
アシュレイに勝つには、それだけでは不足だった。戦略が正当であればあるほど、アシュレイはすかさず流れを操作し、プレーヤーを泥沼にはめるだろう。
場は小康状態から、やがてバロットの負けへと傾きつつあった。僅差の負けか、引き分けである。その中で、バロットの感覚は精密さを増し、やがて感覚すべきものと、そうでないものとが区別されていった。たとえばアシュレイの指だ。両手とも、小指と人差し指は問題ではない。ただカードを正確に運搬しているだけだ。中指と親指の動きが、カードを操る上では重要であり、全体のバランスを取るのが薬指の役目だった。
また、カードの並びの中でも特に重要な柱となっているのが、JからKの絵札で、Jは主に奇数のカード、Kは偶数の上位、Qは偶数の下位と並び合っており、互いの結びつきが、流れの中で微妙に変化していた。なぜ変化するのか。このゲームのルールでは、そもそもAが中心だからだ。本来のルールと、アシュレイのシャッフルの法則とが、ペアで踊るダンサーのように、場によって重なったり、離れたりしていた。
その結果、アシュレイが最も有利とするカードは、Aと5、そしてそれらと緊密な関係を持つ、Jだった。これはスペードのAとJによるブラックジャックが、プレーヤーにとって最大の利益をもたらすことから、それを防ぐための必然といえた。
そうしたことが、一方ではウフコックのような精密な分析にかけられ、他方ではバロットの感覚によって明らかにされるつど、数値表が自在に変化した。その形も、バロットが読み取れる限り複雑に歪曲化されている。目で見る限りは何を意味するのかわからない、数字とアルファベットのごたまぜ[#「ごたまぜ」に傍点]としか思えないようなものになっていった。
バロットは出てゆく一方のチップを積み重ねながら、ウフコックとの、これまでにない一体感を感じた。守り守られるという関係ではなく。互いのリードとフォローとが織りなす一体感だった。二人組、と心の中で呟いた。その言葉が自分をより良い方向へと導いてくれるように。自分のゲームを。また自分たちのゲームを。
十五ゲーム目を終えた辺りで、もうウフコックの示す表は、見た目にはぐつぐつに煮込んだ数値のシチューだった。大小のアルファベットに無数の数字が重なり、放射状に渦を巻いていた。それがウフコックとバロットのコンビネーションの手口であり、アシェレイという鉄壁への、唯一といっていい突破口だった。
その目まぐるしい数字の編み目模様を織るのに夢中で、バロットはしばらく自分の変化に気づかなかった。バロット自身の変化に。
最初に、その変化に気づいたのは、鉄壁であるアシュレイのほうだった。
「化粧直しが必要かね?」
咄嗟に、バロットは相手の言葉をつかみ損ねた。
また何かの引っ掛けかと思ったが、違った。バロットの額や手のひらに、冷や汗がじわっとにじんでいた。その汗を無意識に手で拭っていたらしい。気がついたら、右手の指が銀色に光る粉にまみれていた。一瞬、それが何であるかわからなかった。
アシェレイが、ぱちりと指を鳴らした。通りがかった係の者がすっと寄ってきた。
アシュレイがタオルを注文した。誰のためにか、疑問に思っていると、アシュレイが仕方がないな、というように、ベル・ウィングに向かって肩をすくめてみせた。勝負は勝負として、女性への気遣いは必要だ、とでもいうように。ベル・ウィングも、バロットの様子を一瞥して、軽くうなずいた。それでわかった。バロットのためにである。
そのときになって、バロットは、ようやく自分の状態に気がいった。
手や腕や、頬や額の一面に、きらきらと光るものが付着していたのである。
銀の粉だった。肌が、銀に光る粉を吹いていた。そうという他なかった。手で頬を撫でると、細かな繊維のようなものが剥がれ、ばらばらと砕けた。ヘア・マニキュアが、汗で流れ落ちてきた感じだったが、これほど大量につけた覚えはない。
気づけば全身に、かすかな痒みがあった。陽に焼けた皮膚が、代謝して薄く剥けてゆく感じに似ていた。
「成長だ……必要かつ十分な条件づけによって[#「必要かつ十分な条件づけによって」に傍点]、繊維が自律的に系を成長させて……」
背後で、ドクターの声が、尻すぼみに消えた。
かと思うと、やってきたボーイが濡れタオルを渡してくれた。バロットは、ウフコックが数値を消すのを待ってから、腕を離し、ひんやりとしたタオルに顔を伏せた。
良い香りのするタオルだった。腕を拭い、頬を拭うと、汗とともにびっしりと銀の粒がとれた。手や頬の痒みが消えてゆき、自分が解放される感じがした。
磨くという言い方が見事に似合った仕草で、バロットは顔と腕を拭っていった。
「異常を感じたらすぐに僕に言うんだよ」
係の者の代わりに、率先してタオルを受け取ったドクターが、緊張した顔で言った。
「無理をしないで。確実にできることをやっていくんだ」
まるで次のラウンドを迎えたボクサーのような扱いだった。
バロットは軽くうなずいた。異常はなかった。静かにウフコックの上に左腕を乗せた。
途端に、数値の渦がびっしりとバロットの腕を刺激した。一瞬でまた勝負の世界に飛び込んだ感じだった。呼吸のリズムを整え、右手を伸ばした。
〈ご親切、ありがとう〉
そう告げながら、チップを場に積んだ。
「|どういたしまして《ユア・ウェルカム》」
アシュレイが、歓迎するようにカードシューに触れた。ゲームが再開された。
次の十ゲームで、ウフコックの示す数値が、さらにめまぐるしく変化した。
数値表が渦を巻いて幾重ものトゥルーカウントが確定され、多くが流動し、そしてまた結晶した。それこそバロットの能力の成長であり、ウフコックの新たな使用法だった。
流動とは論理的な計測と予断の展開[#「展開」に傍点]であり、結晶とは感覚的で全体的な文脈[#「文脈」に傍点]である。
たとえば波であり、時間感覚であり、振幅であるものが流動だった。最初と最後があり、新たに新しいものが出現することの認識である。それまでのパターンを受け継いだ上で展開し、常に因果をもって成り立つものへの、予測と確定。円であり、螺旋であり、振動であるもの。最も新しい今の認識を成り立たせるもの――それが流動だった。
一方では、編み目模様がより立体的に影響を受け、一点から一点へと結びついてゆくものが結晶だった。それは光景であり、空間感覚であり、総合的な認識だった。
過ぎたことがらが、時間の流れとは関係なく、幾重にも結びつきを強め、やがて塊になるとともに、それを核としてまた大きく別個の存在へと発展してゆく。そしてそれゆえ、自己の居場所や方向がおのずから定まってゆく――それが結晶だった。
その両者が相互に成り立ってこその人間の知能であった。一片が欠ければ、おのずから他方は意味を失う。無意識の相の渦中に、意識をぽつんと落としたとき、自然と得られるのが知能本来の力だ。それは誰しもが持っている。そして使われるのを待っている。
その力の感覚こそ、今バロットが貪欲に味わっているものに他ならなかった。また、ウフコックとバロットが、ぴたりと触れ合い、交感し合っている感覚の正体だった。
二十七ゲーム目で、その感覚がふいに鮮明なイメージとなって思い浮かんだ。
フェイスカードは、A。バロットのカードは、5とJ。全てのカードが、アシュレイが突きつける銃口に等しかった。そのカードを前にして、バロットが呟きを零した。
〈尖っているから丸くしたい〉
誰に対してでもない言葉――ほとんど無意識の呟きだった。
アシュレイが、何のことだというような顔をするのへ、そっとヒットを告げた。
アシュレイが、カードシューからカードを放った。来たカードは、2。
〈まだ軽い〉
小さな音声にもかかわらず、緊張ではりつめたテーブルを鋭く震わせた。
バロットはヒットした。来たカードは、A。
〈どんどん尖っていく〉
ともすれば悲嘆にも聞こえる言葉だったが、バロットの表情はにわかにつかみどころのない茫洋さに包まれている。いったいその目が何を見て、何を考えているのか、まるでわからない表情だった。しかし何かを見ていた。そして狙っていた。
ドクターが固唾《かたず》を呑んだ。ベル・ウィングが、大きく目を見開いた。そのときだった。
〈ヒット〉
バロットが告げた。アシュレイの手は間断なかった。たとえそれが自分を破滅させるカードであっても、何の躊躇もなく引き抜くよう訓練され尽くした手際だった。
カードが現れた。またAのカードである。バロットは止まらなかった。全身が鋭い剃刀となって、何の抵抗もなく相手の喉笛に食い込んでいくような感覚があった。
〈ヒット〉
またAが来た。
〈ヒット〉
またAが来た。バロットが大きく息をついた。5とJと2とAとAとAとA――
〈ステイ〉
アシュレイが伏せカードを開示した。Jのカードだった。さすがのアシュレイも無言で場を見つめている。代わりに、ドクターが、ぽつっと呟いていた。
「引き分け……」
本当にそうなのか、目に見えているものがにわかには信じがたいような口調だった。
「……どうやら、その通りですな」
アシュレイが言う。さっとその手がカードを一カ所にまとめた。左から右へのひと撫でで、カードが綺麗に積み重なる様子を、バロットの感覚が精密に追っていた。
ディスカードの済んだアシュレイの目が、バロットの手を見やった。
その素肌の右手がチップを四角い枠内《ポット》に積み重ねる様子を、射抜くように見据え、
「次のカードを、私が楽しみにしている理由がわかるかね?」
アシュレイは、すぐにはゲームを始めず、ぼそっとこんなことを訊いてきていた。
バロットがアシュレイを見上げた。ぼんやりしたような顔で、こくんとうなずいた。
ゲームに集中するあまり、相手が敵であることを本気で忘れているような顔だった。
〈キングが来たら負ける。特にスペードが。せっかく叩き折ったのが無駄になるから〉
そう告げながらも、なぜそうなのか、考えるような顔のままだった。
「わかったのかね?」
バロットは、首を傾げた。
「俺の封じ手[#「封じ手」に傍点]をしのいだのが、ただの偶然だなんて思いたくないのだがね」
相手の言葉の意味に、ようやく気がついたように、バロットがうなずいた。
〈わかったと思います〉
「私のシャッフルを見切った?」
いたずらっぽい顔で訊いた。その顔が、かすかに恫喝《どうかつ》にも似た怖さをにじませている。
だがそのアシュレイに向かって、バロットはゆっくりと首を横に振ってみせた。
「では、何がわかった?」
〈さっきまで、絵札は全部、あなたの味方だった〉
バロットは茫々とした眼差しで、カードシューを眺めやった。
〈でも今は、私にも味方がいる〉
アシュレイが、カードシューに手を置いたまま、肩をすくめた。
「確かにね。ただし、そんなに多くはなさそうだ」
〈数が少なくても十分。味方がいるだけで。そのことがわかってるだけで〉
「間に合うかな[#「間に合うかな」に傍点]?」
アシュレイが、鋭く微笑んだ。バロットは少し考え、こう答えた。
〈沢山勝つ必要はないから[#「沢山勝つ必要はないから」に傍点]〉
アシュレイの笑みが強張《こわば》った。一瞬、はじめてその目が完全に表情を消した。アシュレイの奥深いところで、バロットへの警戒が、じわりと敵意に変わった感じだった。
バロットがテーブルを叩いた。アシュレイの手が、鋭くカードを放った。
フェイスカードは、5。バロットに来たカードは、JとJ。
〈喧嘩してるみたい。せっかく助けてくれてるのに〉
残念そうに、二つのジャックを見つめた。赤と黒の、片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》を。
〈でも[#「でも」に傍点]――ステイ〉
アシュレイは、間断なく伏せカードを開示している。カードはK。スペードだった。
同時に、バロットの左腕の下で、ウフコックが数値の渦を変化させている。
幾つかの印《スーツ》が、その緊密さを増し、強固な鉄壁を築こうとしていた。
バロットは、アシュレイがさらにカードを引くのを、甘んじて見つめた。
引いたカードは、6だった。合計21。圧倒的な鉄壁だった。
アシュレイの分厚い手が、無造作にチップを没収した。それからカードが消えた。
5とKと6、そしてlとl。それらのカードが目の前から消えた後の残像を見るように、バロットの目がしばらく場をじっと見つめつづけた。
「もう諦めたのかね?」
アシュレイがからかうように訊いた。だがその言葉の裏にある響きを、バロットは敏感に感覚した。一瞬の防御のために生じた、一瞬の無防備を隠そうとする響きを。
それは、このゲームで、強固な鉄壁を築くということの、本当の意味に通じていた。
――クラブの印《スーツ》に賭けてみたい。私の味方になってくれるように。
そう、ウフコックに干渉した。
『了解した』
というのが、ウフコックの端的な返答だった。なぜと訊きもしない。勝算があるかとも訊かない。盲目的にバロットに従うというのでもない。バロットが考えていることを鋭く察した上での、ウフコック自身の判断だった。
ウフコックもまた戦っていた。このコンビネーションの新たな形として。
バロットが、滑らかな手つきで、チップを置いた。いつの間にか綺麗にもどかしさが消えていた。闇が晴れぬまま、むしろその澄明《ちょうめい》さを増していくことで、逆に予測不可能な暗闇の向こう側に、自分の感覚が鋭く切り込んでゆくようだった。
バロットはどんどん自分の心が場と緊密に結びついてゆくのを感じた。カードの一枚一枚が、これまでの自分であり、新たな自分だった。
それは自分への圧力であり、敵意であり、また祝福だった。
アシュレイのカード捌きが少しずつ偏ってゆき、それがバロットが追うべきカードを定めた。バロットの目の前で、10のクラブが9のクラブと重なった。それがスペードのAとハートのKに邪魔された。つづけてクラブの4と5が、同じくクラブのKを呼んだ。それをハートのJが追い、ダイヤの3と7が援護に回って潰していった。
アシュレイのカード捌きが完璧であるがゆえに生じつつある隙間に、バロットの意識が少しずつ手を伸ばしていった。暗闇の中を探っていた手が、何かにぶつかるように。
暗闇の中で本当に怖いことは――とバロットは思った。それは、怖さのあまり、一歩も動けなくなることだ。指一本動かせなくなって、好きなように操作されることだ。
そうされないための意志を持ちたかった。これまではずっと感じることを捨ててきたのだと思った。ウフコックと出会うまで、ずっと。そして今、薄い殻を通してだが、貪欲に感じている自分がいた。そのとき、ふいに鋭い臭いが鼻をついた。幻の臭気が。死神が身にまとう香水のようにそれが自分に抱きつき、全身を覆っていった。バロットはいつしか自分が車の中に閉じ込められている場面を思い出していた。ガスの臭いが充満する場所で。それでも、自分には、閉じこもることしか生き残るすべがなかった。
あのとき自分は、このまま死ぬのだと思った。みじめで、悲しいまま。
そして――ぎりぎりで間に合ったのだ。
フェイスカードは、8。
バロットのカードは、3と6。
全てのカードがクラブだった。バロットの指が、テーブルを叩いた。
〈ヒット〉
6のカードが来た。指をいったん上げてから、またテーブルを叩いた。
〈ヒット〉
アシュレイの手が翻り、6のカードを現した。
3と6と6と6――かつてあった光景が、ぐるりと逆転してバロットの前に現れた。
二枚目の6もクラブなら、三枚目も同じ印《スーツ》だった。
同じカードが一方へと偏ることこそ、鉄壁がこじ開けられて上げる悲鳴だった。
バロットがステイした。アシュレイが、とてつもない重みを持ち上げるようにして、カードを開示した。現れたのは、スペードのA。アシュレイの守り神のようなカードの出現だった。だがもう遅かった。8との合計で、19。バロットの勝ちだった。
「|おめでとう《コングラチュレーション》」
アシュレイが、にこやかに告げた。カードを片づける前に、配当が差し出された。
その笑みにも配当にも、バロットは印象づけられる[#「印象づけられる」に傍点]ことはなかった。
鋭く研ぎ澄まされた意識が、渦巻く数値の一点へと集中していた。
ここしかなかった。バロットもそう思ったし、ウフコックもそう思った。
〈次のゲームを《ネクスト・ゲーム・プリーズ》〉
バロットが告げた。同時に、それまで伏せ続けていた左手が持ち上がっている。
右手がそれ[#「それ」に傍点]をつまみあげ、静かにポットに置いた。
再びその両手がテーブルに置かれるまで、アシュレイは微動だにしなかった。
場に賭けられた金色の百万ドルチップに、周囲の客が、どっと歓声を上げた。
「バロット……」
ドクターが言った。呼んだわけではなかった。驚きと期待のこもった呟きだった。
ベル・ウィングはじっとバロットを見つめている。
バロットがテーブルを叩いた。アシュレイが、ちらっと金色のチップを見据え、その手が無造作にカードシューからカードを抜き放った。
フェイスカードは、J。バロットのカードは、Aと4。全ての印《スーツ》がスペードだった。
アシュレイの振りかざした剣の群に、バロットは、真っ向から飛び込んでいった。
〈ヒット〉
カードが来た。クラブの7だった。カードは、|Aが11の手《ハード・ハンド》から、|Aが1の手《ソフト・ハンド》へ。
〈ヒット〉
バロットの指が間断なくテーブルを叩いた。確かなリズムを刻むように。アシュレイもその手際を緩めることはなかった。カードが来た。クラブの7だった。合計、19。
バロットがそっと息をつき、ゆっくりと、ステイを告げた。
アシュレイが、伏せカードを開示した。
2だった。カードシューには、赤いカードが現れている。それをアシュレイが無言でどけた。アシュレイがじっとバロットを見た。バロットはただカードだけを見ていた。
カードが抜き放たれた。現れたカードは、K。クラブの印《スーツ》だった。
「バロット、やったぞ……」
ドクターが思わず声を上げ、慌てて口をつぐんだ。まだゲームはこれからだった。
バロットはドクターを見もせず、小さくうなずき、自分のリズムを乱さぬよう細心の注意を払いながら、静かにアシュレイを見やった。
アシュレイは口をへの字に曲げ、さっとカードを廃棄しながら、バロットにおどけたような目を向けた。それから何かを言おうとしたが、別の人間に先を越された。
「見たかい。女は、男よりもずっと強く耐えることができるのさ。あんたが何を言おうと、この子は耐えるってことを知ってるんだ。あんたにも想像のつかないところでね」
ベル・ウィングが、凛として言った。その口元が、実に涼やかな笑みを浮かべている。
「ベル・ウィング……俺はてっきり、あんたは俺と同じ側《サイド》だと思ってたがね」
テーブルの脇に置かれた箱に手を伸ばしながら、アシュレイが呆れ顔になる。
ベル・ウィングは、煙草の煙でも払うみたいに、あっさりと手を振った。
「そう簡単に勝負がついちゃ、面白くないよ」
アシュレイは肩をすくめ、金色のチップがつまった箱を手に持ち、
「まだこんなに残ってる」
チップの重さで腕が下がりそうだというように、好きなチップを取るよう促した。
バロットは咄嗟に、その全てを狙っているわけではないことを告げようとしたが、黙って手を箱に伸ばした。狙いはチップそのものではないのだ。卵の殻にも白身にも手をつけない。黙って黄身を頂くというドクターの言葉が、再三にわたって思い出されていた。
バロットの素肌の指先が、そっと目的のチップをつまんだ。オクトーバー社の社章が刻み込まれたチップ――ある男の腐った卵の中身がぎっしりと詰まったチップだ。
それを左手で握り、手袋の上に横たえた。それから、アシュレイが、うやうやしいような、馬鹿にしたような仕草で金色のチップの詰まった箱をどけ、シャッフルを開始するのを眺めるふりをしながら、素早くチップを手袋と手袋の間に置いた。
さっそくウフコックが作業を開始するのと、アシュレイのシャッフルの様子とを同時に感覚していると、ふいにベル・ウィングが、バロットの肩に手を置いた。
「ちょっと呟きたい独り言があるだけさ。あんたの邪魔をするつもりはないんだ」
バロットを振り向かせないための、ベル・ウィングらしい言い方だった。
「なに、一つだけ思い出して欲しいことがあってね。あんたに一つだけ教えたことを。もしかすると余計なことかもしれなかったんだけどね。ついそうしちまったことをさ」
バロットは、シャッフルに顔を向けたまま、うなずいた。
〈女らしくすること?〉
「そうだよ。そう。ことは簡単だよ。ただ、あんたが女らしくしてりゃ良いのさ。あるべき自分であれば良いんだよ。いるべき自分でいれば良いんだよ。そうでなけりゃカードと会話するなんてできやしないさ。そして、カードと会話しなけりゃ、この男には勝てないんだよ。こんな男に負けてられないだろう?」
〈はい〉
「良いね。ずっと良い顔になってるよ」
〈ありがとう、ベル・ウィング〉
バロットの手が、肩に置かれたベル・ウィングの手に触れた。優しい手だった。そしてまた厳しい手だった。その手が、バロットからそっと離れた。かと思うと、バロットの座る椅子の背もたれに、軽く手を乗せた。ドクターとベル・ウィングの二人ともが、バロットの椅子に手をかけ、その背後を見守るようなかたちになった。
まるで三対一のようなこの状況に、アシュレイが、口をへの字にして唸った。
「別の人間に証人を頼めばよかった」
カードを切る音とともに、そんな呟きが聞こえた。
5
「実に信じがたいことだが――君は、どうやら、運を理解しようとしているらしい」
アシュレイが、無造作なシャッフルを繰り返しながら言った。
「実に、まったくもって信じがたいが、もしかすると、もう理解しているのかもしれない。俺が人生を賭けて理解したものを。このテーブルについて一時間もしないうちに」
〈学ばせてもらっています〉
バロットがさらりと告げた。目の前の男に対する感謝さえ心のどこかで感じていた。
〈このテーブルで沢山のことを学んでる気がします。感謝しています〉
その言葉で、アシュレイの面相は大いにしかめられた。およそ十五の女の子に言われる言葉ではない、と憤慨しているように。そしてそんな顔にさえ愛嬌をにじませて、
「私のシャッフルの秘密について学習しようとしている? それが君の目的かね?」
バロットは、もしかするとそうかもしれない、というような曖昧な顔でいる。
「まあ、無理だね。なにせ俺自身、どう教えて良いのかわからないんだから。そのせいで、後継者が育たない。困ったものだ」
本当に難問を抱えている、といった顔で、アシュレイはかぶりを振った。
〈わかると思います〉
「そうかね?」
〈シャッフルではなくて。それが他の人にはわからないということが〉
「なるほど。うん。……君は、運について考えたことがあるかね?」
〈悪いなって。よく思ってました〉
「まあ、人生、そういう時期もある」
アシュレイはあっさり言った。
「しかし運というものが我々を支配していることについて、考えたことは?」
〈自分が悪いんだと思ってました〉
「まあ、そう思ってしまうこともある」
〈自分が悪くないときのことは、考えたことがないから〉
「そうだな。君は謙虚だ。まあ、周りの大人にろくな人間がいなければ子供はそう考えるものだが――実際のところ、もっと深く運について考えてみたことは?」
〈あなたに勝てるかどうか?〉
「そうだ」
〈あなたのシャッフルの秘密?〉
「|その通り《エグザクトリィ》」
まるで小学生に九九を覚えさせようとしている気さくな教師みたいな言い方だった。
これまで足し算と引き算しか知らなかった者に、新たな概念を与えようというように。
「たとえば君は、言葉を喋っているだろう?」
バロットは首を傾げた。あまりに自明だったからだ。
「では、言葉とはどうやって出来上がっている?」
〈口と――鉛筆?〉
「そう。他にもタイプライターやボイスレコーダーや手話なんてものもある。しかし言葉そのものをどうやって作り出した? 言葉が生まれた原因は?」
〈神様〉
「当たらずとも遠からず」
アシュレイが、またシャッフルを中断してバロットを誉めた。
これがディーラー本来の仕事だ、とでもいうような会話の妙だった。バロットは、一方で百万ドルチップからウフコックが卵の黄身を取り出しているのを感覚している。そうすることでアシュレイとの会話に応じつつ、勝負の緊張とリズムが崩されぬよう気をつけていた。
「こういう話がある。あるときコンピュータに、人間が喋る言葉を理解させようとして様々な研究が行われた。人間の言語がいかなる法則で出来上がっているかをプログラムし、人間が話しかけたら即座にコンピュータなりの回答を出すというものだ。だが、これがまるでうまくいかなかった。かける言葉がちょっと違うだけで、たちまちバグが発生する。せっかく人間がコンピュータに言葉を覚えさせようとしているのに、他ならぬ人間のほうをバグ扱いしてしまうわけだ。その間題を解決するために、コンピュータ用に新言語法則なんてものまで作ったが、全てが無駄だった」
〈どうして覚えさせようとしたんですか?〉
「君が、今の生活で、コンピュータの言語認識の恩恵にあずかっていないなんてことがあるかい? ちょっとしたメールを打ったびにコンピュータが混乱したら、どうなる? 君のその声だって、コンピュータの恩恵だろう?」
〈じゃあ、どうやって覚えさせたんですか?〉
「シャッフルしたのさ。言葉をね」
〈シャッフル?〉
「二十年分の新聞を集め、そこに記されている文章を全てコンピュータに打ち込んだ。何百万語という言葉を、文章の形で放り込んだのだよ。それから、ある言葉の次にどの言葉が来る確率が最も高いか[#「ある言葉の次にどの言葉が来る確率が最も高いか」に傍点]、ということをコンピュータ自身に調べさせたのさ。|やあ《ハイ》、という言葉の次に来る確率が最も高い言葉は、|どうしてる《ハウー・アー・ユー・ドゥーイング》、というようにね」
〈確率?〉
「そう。言葉の確率[#「言葉の確率」に傍点]さ。それがコンピュータによる言葉の理解だった。バグは生まれない。どんな言葉だって、たちまち応用で覚えてゆく。それでようやく、言語を扱うコンピュータプログラムが、商品として耐えられるくらいのものになったってわけだ」
〈私たちは[#「私たちは」に傍点]、偶然[#「偶然」に傍点]、喋ってる[#「喋ってる」に傍点]?〉
アシュレイが、にやりと笑った。すでに山を登り尽くした者が、ようやく頂上に辿り着いた者を迎えるように。
「我々が生きていること自体が偶然なんだ。そんなこと、ちっとも不思議じゃないじゃないか? 偶然とは、神が人間に与えたものの中で最も本質的なものだ。そして我々は、その偶然の中から、自分の根拠を見つける変な生き物だ。必然というやつを」
〈必然?〉
「たとえばこのカードの枚数は決められているだろう?」
〈はい〉
「ときどき減ったり増えたりすることもあるがね」
〈はい〉
と答えて、初めてそれがいかさま[#「いかさま」に傍点]を示唆しているのだとわかった。
バロットはなんとなく呆れたようにアシュレイを見た。
「ただし、カードはカードだ。全然見たこともない絵柄が現れることもないし、|A《エース》の次がBなんてこともない。決まったカードの並びだからこそゲームはゲームなのさ。我々の言葉がそうであるように、カードの並びも偶然出来上がった。だがそれが一つのかたちとなるとき、それは必然を生み出す。偶然がなければ何も生み出されない[#「偶然がなければ何も生み出されない」に傍点]」
バロットは静かにうなずいた。アシュレイの芸術のようなシャッフルが終演に差し掛かつていることに気づいていた。そしてまた、その言葉も。
「河の流れをせき止めれば水は溢れる、支流に分かれれば水かさは減る、雨が降らなければ河は干上がる――必然的に[#「必然的に」に傍点]。運はその河の流れのようなものだ。河の流れが、本当にあるかないか[#「本当にあるかないか」に傍点]なんてことは意味がない。問題は、河は流れ続けてるってことだ。誰もがその河の流れの中で生きてる。河に逆らって溺れる者もいれば、泳いでいる者を後ろから沈めて自分だけ浮き上がろうとする者もいる。だが河が教えることは、その流れと一体となったとき、そいつは河自身になれる[#「そいつは河自身になれる」に傍点]ってことだ」
アシュレイが、最後の言葉とともにぴたりと山を整えた。それから、赤いカードを山の前に置き、バロットを見た。その眼差しに、親しみの光をたたえながら。
バロットは赤いカードを手に取り、芸術のようなカードの山を整えたアシュレイに敬意を表するようにして、正確にその心臓に差し込んだ。カードにはすでにバロットの影響がたっぷりと与えられている。親しい人間同士が交わす言葉が、自然と、周囲で交わされる言葉とは違う、別種のものになっていくように。
アシュレイが山をカットし直した。ほとんど一瞬だった。そしてその一瞬で、すでにバロットの腕の下では数値がめまぐるしく応答している。カードの並びと確率が、ほとんど、そうすべき一点[#「そうすべき一点」に傍点]へと絞られていった。ベル・ウィングがそう告げたように。自分自身の正しいあり方を心がけることだけが、唯一の正攻法だった。
バロットがチップを積んだ。勝利の瞬間を狙い尽くすための、必然のチップだった。
カードが、来た。フェイスカードはQ。バロットのカードはAと5。
バロットはヒット。来たカードは、7。
さらにヒット。来たカードは、6。|Aを1と数え19《ソフト・ナインティーン》に。そこで、静かにステイ。
アシュレイもまた、無造作で、一切リズムを崩さなかった。流暢に会話を交わす者たちのように。互いの影響を知り尽くした上での間断ない反応があった。
アシュレイが開示したカードは、6。Qとの合計で、16。
さらに1枚を引き、2を得た。だがそこまでだった。ぴたりとバロットが勝った。
アシュレイが配当を数え、バロットのポットの脇に績んだ。
〈次のゲームを〉
積まれたチップの半分を、それまでの賭け金に加え、告げた。
次のゲームで、バロットはJと9を得てステイ。
アシュレイはフェイスカードがKで、伏せカードが8。バロットの勝ちだった。
さらなるゲームでも、バロットの9と4が、8を引き寄せた。そしてアシュレイのフェイスカードである10が、伏せカードであるKと並んだ。バロットが勝った。
バロットもアシュレイも、急にバロットが勝ち出したことに何の言葉も挟まなかった。
バロットの腕の下で、ウフコックが数値を弾きだし、展開させた。その計算能力さえもはやバロットの一部だった。またバロットの感覚能力さえ、ウフコックの存在に通じていた。ヒットかステイか。スプリットか、あるいはダブルダウンか。全てが同時に判断され、そのつど、ある一定のレベルで答えが出ていた。そのレベルで勝てるだけの波を、これまでのゲームで作り出してきたのだ。無我夢中だったが、それはどんな人生でもそうであるように、振り返らねばわからないことだった。バロットはすべきことをした。これがその答えだった。そしてまた、それだけでは十分ではなかった。
五回目のゲームが終わった。全てバロットの勝ちである。
ポットに積まれたチップが、だんだんと大きな塊に育っていった。
それがバロットのゲームの進行を後押ししたし、また時によって重荷と化した。
バロットがウフコックとともに見出す答えは、常に一定で均等だった。
アシュレイが、カージャックの話で切り出した五〇%の答えのように。
七回目のゲームがバロットの勝利に終わったとき、ふいにアシュレイが口を挟んだ。
「先ほどのヒッチハイクの話を覚えているかね?」
バロットはちらりと顔を上げてうなずいた。
「あの話には、続きがあるんだが、喋っても良いかね?」
配当をポットの脇に置いてきた。ゲームを阻害する気はないという意思表示だった。
バロットはうなずき、勝った分のチップの三分の一を、ポットに重ねている。
〈はい。ぜひ聞かせて下さい〉
「普通、人に、これを話すことはないんだがね」
カードが配られた。
「自分には兄がいたんだ。自分と兄の、二人兄弟でね。かけがえのない兄だった」
フェイスカードはK。バロットのカードは、Aと8。
「彼はあるとき、道でヒッチハイカーを見かけて車を停め、相手を迎え入れた」
〈はい〉
ステイを指で示した。アシュレイが伏せカードを開示した。
「そして殺された。犯人は、いまだに見つかっていない」
伏せカードは、8。バロットは勝った。アシュレイはカードを片づけながら言った。
「車のトランクに押し込められて。炎天下に放置された。兄は脱水症状と呼吸困難で十数時間も苦しみ、そして死んだ。暗闇の中で、たった一人」
配当が積まれた。それが丸ごと賭け金に加えられた。カードが来た。
「俺は、兄の葬儀の後、父とともに兄が遺体で発見された現場に行った。そこで兄が死んだ車のトランクの中に入り、父に蓋を閉めてもらった。兄の気持ちが知りたくて」
フェイスカードは5。
「中は苦しかった。恐ろしかった」
バロットのカードはJと2。
「俺は闇の中で必死に腕を伸ばした。そのとき、父の声が聞こえた。フックを引け、そこにフックがある。その声を頼りに、フックを探し出し、そしてトランクを開けた」
バロットが指でヒットを示した。
「俺は、兄の代わりに、死の箱から脱出した」
来たカードは、9。ステイを示した。伏せカードが開示された。カードは、9。
さらに引かれたカードは、6。21と20――僅差の勝ちだった。
「もしあのとき、兄にそうした車の知識[#「知識」に傍点]があったら……」
カードが片づけられ、配当のチップが積まれた。
「あるいは、フックがあることを教えてくれる誰か[#「誰か」に傍点]がいたら」
積まれたチップが、ポットに重なった。カードが、来た。
「そしてまた、フックを自力で見つけられる運[#「自力で見つけられる運」に傍点]があったら……それら三つのうち、どれかがあのときの兄にあったならば、兄は死ななかったろう」
フェイスカードは、8。
「それら三つのうち、どれかを持っているかどうか……それが人生の分かれ目だ。なかった人間から順番に敗北してゆく」
バロットのカードは、5とQ。
「君がそれら三つのうちどれを持っているのかは知らないが、それがあるからこそ、生かされている。そのことを忘れてはいけない」
〈はい〉
バロットがうなずいた。その指が、テーブルを叩き、ヒットを告げた。
来たカードは6。バロットは、自分の心を語ってくれたアシュレイに敬意を表するように、勝負の緊張を保ったまま相手の言葉を黙って飲み込み、そして、ステイを告げた。
アシュレイが伏せカードを開示した。カードは、9。8との合計で17。
バロットの、九度目の勝ちだった。配当のチップは、もはやポットから溢れんばかりになっている。だが、まだ確実ではなかった。まだ一〇〇%の答えではない。この男に匹敵するだけの、自分だけの一〇〇%の答え[#「自分だけの一〇〇%の答え」に傍点]を出さねばならなかった。
勝つことは、負けることよりも遥かに緊張を強いた。勝ち続けるということは、どんどん狭まってゆく足場を、同じ速度で――あるいはもっと速く駆け抜けるようなものだ。
一瞬のバランスが欠ければ、あとは転落だった。
|天国への階段《マルドゥック》≠ヘ、転落する以上に、栄光へと登るときこそ、人に苦難を与えることを、バロットは初めて知った。
積まれたチップの四分の一をポットに置いた。重い苦しみに耐えて、階段を少しずつ上がってゆくように。カードが来たとき、その緊張に耐え難くなり、ふいに目を逸らしたくなった。何よりそれこそが誘惑だった。一瞬だけ目を逸らすのだ。そうすれば自分が一気に楽になるのがわかっていた。バロットは歯を噛んでその誘惑に耐えた。これまでの人生で、何か有意義なことに耐えたことがあるとすれば、今がそのときだと思った。
フェイスカードは、3。バロットのカードは、Kと6。
バロットはヒットした。来たカードは3。
〈ステイ〉
アシュレイが伏せカードを開示した。2である。合計で5。さらに一枚引いた。8が来た。さらに引いた。6が来た。19と19。ぴたりと現れた、アシュレイの運だった。
「引き分けだ」
アシュレイが呟くように告げた。
ポットに置かれたチップはそのままに、バロットが次のゲームを要求した。
フェイスカードは、K。バロットのカードは、8と9。
〈ステイ〉
開示された伏せカードは、2。合計で12であり、さらに一枚引かれて5が来た。
また引き分けだった。さらに一枚バロットが引いていれば即座にバストしていた。
正念場の駆け引きだった。さらに次のゲームも引き分けた。ポットに積まれたチップは微動だにしない。二つの力で引っ張られた中心点が、拮抗して動かなくなるように。
もはやアシュレイも何も言わなかった。バロットも何も告げなかった。ゲームだけが進行していった。ドクターもベル・ウィングも、ただ見守った。ギャラリーが一人また一人と増えていった。音楽が流れ、カードのリズムとすれ違って消えてゆく。
引き分けがさらに続いた。一度や二度の引き分けではない。延々と歩き続ける砂漠の闇だった。だが今はそこに暁星が輝いている。星が見える。凍えるような緊張と不安さえ、傍らを歩く道連れだった。焦慮も疲労も、足並みを揃えて一つの方向を向いている。バロットが歩くべき方向を。その目を逸らすことほど、愚かでたやすいことはなかった。
やがて二十ゲーム目が引き分けのまま過ぎ去り、二十一ゲーム目の引き分けでカードがばらけ始め、やがて二十二ゲーム目の引き分けで、波が頂点に達したまま岸壁にぶつかつて粉々に砕けるように、一つの必然が生まれ出ようとしていた。
二十三ゲーム目のフェイスカードが置かれた。Kである。
バロットのもとに来たカードは、3と5。
バロットはヒットした。来たカードは、2。そこからさらにヒットして、4が重なった。バロットは、これから起こることが何であるにせよ、それに心がきちんと応えられるよう、静かに息を整え、告げた。
〈ヒット〉
5が来た。合計で19。バロットは、逸らしかけた目を意志の力でとどめ、カードを見定めた。そしてステイした。
アシュレイが伏せカードを開示した。Aだった。
ぴたりとアシュレイが勝った。チップがごっそりとポットから奪い尽くされた。
バロットはじっとそれを見据えた。チップが消えた後の虚空が、囁いているような気がした。今がそのときだと。失われたチップは高台だった。それを越えたということは、今、自分は跳躍しているのだ。今まで積み上げてきた高台からの跳躍だった。
着地点を見誤ることは、自分が積み上げた高さで自分を殺すことに他ならない。
バロットは自分が勇気を持てるよう祈った。それは難しいことではなかった。手にしたものが全てであり、それが試されているのであれば、手を開いて見せるだけだった。
バロットが左手を開いた。最初に手に入れた金色のチップをつまみ上げ、綺麗に空っぽになった場に、そっと置いた。たちまちギャラリーが、異様な熱気に沸いた。
〈次のゲームを〉
アシュレイが、うなずいた。
カードが来た。フェイスカードはA。バロットのカードは、7と7。
そこで、赤いカードが、カードシューに現れた。
アシュレイが、赤いカードをどけた。バロットは、すうっと息を吸った。二枚目の金色のチップに手を触れた。すでにその中身が抜かれているのが、指先の感覚でわかった。
バロットは静かに、すでにポットに置かれたチップに、二枚目のそれを積み重ねた。
〈倍賭け《ダブルダウン》〉
その瞬間、まるでフロア中の音が消えたようになった。
たった二枚のチップが、カジノを凍りつかせていた。二枚の百万ドルのチップが。
ひりつくような沈黙のなか、アシュレイが、厳粛に、カードシューに手を触れた。
鮮やかにカードが放たれた。燃えるような赤い印《スーツ》がバロットの目を打った。
7だった。
赤い7だ。
それが、バロットとアシュレイの攻防が、最後の最後で現したものだった。
二枚の7と偶数枚の8が残ることで、プレーヤーに必勝をもたらす魔法の瞬間を避けた結果のカード並びだった。ディーラーの腕もプレーヤーの判断も、どちらも極めて優れているからこそ現れる、三枚目の7。通称を栄誉の7《グローリー・セブンズ》と呼ばれるカードが今、バロットの眼前にあった。左右二つのダイヤと、その真ん中で脈打つようなハートの7が。
まるで血のように赤い印《スーツ》だ。事実、その三枚のカードこそ血だった。これまで流してきた無惨で希望のない血ではない。今はじめて戦うことで流された精神の血だ。
だからこそ、それに応えきることが――一〇〇%の答え[#「一〇〇%の答え」に傍点]を出すことが、バロット自身の目的であり、価値だった。
〈イーブンマネー〉
バロットが告げた。さしものアシュレイが、うっと息を呑んだ。バロットがステイを告げ次第、伏せカードをめくるはずだったアシュレイの手が、宙で戦慄に震えた。
それは|21《ブラックジャック》の配当を捨てる選択だ。そして最低限の勝ちのみを拾う道であった。
「六百万ドルの配当を捨てる気か……? 四百万ドルの差だぞ……?」
アシュレイが呻くようにそう口にした。バロットは、微動だにしない。
バロットの座る椅子の背もたれで、ドクターの手が、ぶるっと震えた。
その隣でベル・ウィングが目を閉じ、そして再び開くまで、沈黙が過ぎていった。
「……君が、六百万ドルを手に入れるチャンスを、自分から捨てることができるとは思わなかった。俺の誤算だ。完全な、俺の失敗だ」
アシュレイが、呑んだ息を、そろそろと吐くように、言った。
「俺は今、勇気を見た。謙虚を見た。俺の目の前で誰かが完全につのを初めて見た[#「俺の目の前で誰かが完全につのを初めて見た」に傍点]」
アシュレイが、さまよっていた手を、ゆっくりとテーブルの上に置いた。
その途端だった。あっという間にバロットの視界が曇り、何も見えなくなった。
こみ上げてきた。止まらなかった。頬が暖かいもので濡れ、うっすら浮かび上がった銀の粉とともに流れ落ちてゆく。何もかも熱く溢れ返るなか、意識にあったのは、自分にこれができたのだ[#「自分にこれができたのだ」に傍点]ということだった。|天国への階段《マルドゥック》≠フ最後の一段を踏み越え、宙に躍り出たのだ。そしてそこで、それまで存在しなかった自分だけの階段を踏んだのだ。
本当に怖かった。体中が震えていた。一歩を進む勇気を絞り出せた。
そうして自分が泣いていることを後から感覚していた。まさしく滂沱《ぼうだ》の涙だった。
〈閉じ込められていた車から、助け出してくれた人たちがいました。私は、あなたのお兄さんのように、一度死にました〉
夢中で、この強敵に告げていた。自分が勝ったわけを。勝てた理由を。
〈一度死んだとき、声をなくしました。その代わりに、手に入れたものがありました〉
アシュレイがゆっくりと溜め息を吐いた。
「まるで人魚だ」
感嘆するような呟きとともに肩をすくめた。どこか照れたような仕草だった。
「声と引き換えに地上を歩く足を手に入れた人魚の物語を思い出した。海に泡と消えたとしても、彼女は勇気の人だったんだろう。彼女の足は、一歩進むたびに剣で突き刺されるような痛みを受けたが、彼女は真実を知るために地上を歩いた」
そう言って、伏せカードを開いた。バロットの涙で曇る目には、何も見えなかった。
「……このカードが敗れるとは思わなかった」
〈カードが、見えません〉
「このカードは、もはや関係ない。君の勝ちだ。完璧な勝ちだ」
その言葉とともに、二枚のカードの絵姿がバロットの視界に浮かび上がった。
スペードの、Aと黒い片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》。
まるでこの男を象徴するかのような最強のブラックジャックが、バロットの目に鮮やかに映っていた。
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Chapter.3 合軸 Connecting Rod
1
バロットが、先ほど手にしたタオルで顔をすっかり拭って気持ちが落ち着くまで、みな待ってくれていた。アシュレイも、次のゲームはどうするとも訊かない。カードを集めてシャッフルに入る用意さえしなかった。ただ、待ってくれた。
バロットがようやく止まった涙を拭って顔を上げると、アシュレイがうやうやしく箱を差し出してきた。金のチップがつまった箱を。
その箱に手を伸ばすバロットの様子を、フロアの他の客が呆然と見ていた。さらにもう一枚、とアシュレイが告げると、客の全員が卒倒しそうになった。どちらのチップも間違いなく目的のものであることを確かめながら、静かに手を戻した。
「もし良かったら……このチップに、何を求めているか、教えてくれないかな?」
アシュレイが、虫食いみたいに黄金の光の三分の一を失った箱を置きながら言った。
バロットは、チップの一つを、何気なく手袋の間に滑り込ませながら、こう告げた。
〈私は取引をしたんだと思います。人魚と同じで、魔法使いと。歩けるように〉
「つまり……それが目的なのかね? 歩けるようになることが?」
〈そうだと思います〉
アシュレイが、感じ入ったように静かにうなずいた。かと思うと、急に顔をしかめた。
バロットのせいではなかった。アシュレイの耳に、ありったけの罵誉雑言が叩き込まれているのだ。その声というよりも、言葉から、それが誰であるかを察した。
コンピュータも人間も、その本質では確率論で言葉を喋っているのだとしたら、アシュレイのイヤホンに言葉を流し込んでいる男の人生のビンゴゲームは、呪詛で穴だらけになっているに違いなかった。
バロットは、アシュレイが辟易《へきえき》したようにイヤホンを叩いて了解を告げる様子を、どこか面白がるようにして眺めた。
〈このお店の、オーナーですか?〉
「ご明察の通り。地雷を踏んだようだ。もう少し格好つけたかったんだが、すまんな」
最後の言葉で、アシュレイの目が、ちらりとベル・ウィングを向いた。
「今さら、何を言ってるんだい。途中から、すっかりこの子に夢中だったじゃないか」
ベル・ウィングが呆れたように返す。アシュレイが、にやっと微笑んだ。どこかで見たことのあるような、渋い笑みだった。その顔のままバロットに目を戻し、言った。
「あともう一巡以内に、君を仕留めなければ、火炎放射器が出てくるそうだ」
〈火炎放射器?〉
「解雇通知《ファイアー・ペイパー》のことさ」
ベル・ウィングが訂正した。アシュレイが、その通り、というようにお辞儀した。
「結論を言えば、次の一巡で君を倒すのは無理だ。あと十セットも繰り返せばわからないがね。それにしたって君を勝たせてしまいたくなるだろうし。どうしたものかな」
〈あなたのオーナーを呼んで下さい。このチップを返したいんです〉
バロットは、三枚目のチップが手袋の狭間で中身を抜き取られるのを感覚しながら、そう告げた。アシュレイが、ぽかんとなってベル・ウィングと顔を見合わせている。
ベル・ウィングも、これには薫いたらしい。二人とも、しばらく無言のまま、これがどういうことか、目で議論し合っているようだった。
それからやがて、アシュレイの口から、喚《わめ》くような笑い声がほとばしった。
「やられたな! 君はこのカジノに損害を与えることが目的ではなかったんだな?」
その立派なひげ面が、コメディ役者の十八番を立て続けに食らったように、くしゃくしゃに笑っていた。バロットがうなずくと、アシュレイは天を仰いだ。
「君はすでに目的は果たしたってわけだ。しかも俺にはわからない目的を。まったく……俺はカジノの[#「カジノの」に傍点]用心棒であって、誰かの[#「誰かの」に傍点]用心棒ではないんだ。こりゃあ、こんなお嬢さんに目を付けられたってことは、うちのオーナーも先がないな」
ベル・ウィングは、ようやくわかったか、というようにうなずいている。
アシュレイはバロットを見やって、その分厚い胸に分厚い手をあててみせ、
「君の魔法が、長く続くことを祈っている」
先ほどまでの笑いが嘘のような、やけに丁寧な口調で告げていた。
〈ありがとう〉
アシュレイは、また、にやっと渋い笑みをくれてテーブルを離れていった。
バロットは、アシュレイが去っていったほうを見ながら、そっとウフコックに干渉した。
――さっきのディーラーの人、あなたに似てる。
『そうか? どこらへんが?』
――なんとなく。厳しいけど、優しいところとか。それに、すごくユニークだし。
『つまり、君の好みだということかな?』
――そうみたい。妬ける?
ウフコックはすぐには答えなかった。百万ドルチップを加工する作業に時間をとられている、というように、間を空《あ》けてから返答が来た。
『そういう自覚症状はないんだが』
――少しは妬いてくれても良いのに。
『それはすまない』
しゃあしゃあとした言垂が返ってきた。バロットはちょっと唇を尖らせた。すると、
『君の手から外されたとき、捨てられるのかと思って怖かった』
そういう文字が浮かび上がるのへ、ぶっと吹き出してしまった。
――私はあなたを使いたい。あなたが望んでいるような仕方で。
それだけは間違いのない真実であるというように、手袋を優しく撫でた。それは赤ん坊の頬を撫でながら、あなたは望まれて生まれた子だと告げるのに似ていた。
ふと、ベル・ウィングが、バロットの様子に気づいた。
「誰かと話をしてるのかい?」
さすがに鋭い質問だった。だがバロットは素直にうなずいた。
〈はい。私のことを助けてくれる人と〉
すると、ベル・ウィングはいたって真面目な顔で、こう言った。
「それはきっと、あんたの聖霊だね」
バロットは微笑した。それから、テーブルに目を向けた。誰もいないテーブルに。
その空白に、もうすぐ立つことになる男への態勢を整える必要があった。
アシュレイが、兄が死んだ車のトランクに、自分も入ったのと同じように。
何もかも新しくやり直すための戦いだった。
「来たよ」
ベル・ウィングが囁いた。アシュレイが、大きな足取りでフロアに戻ってくる。背後に、二人の人間を従えて。一人はバロットの予期した通りの男だったが、もう一方には見覚えがなかった。アシュレイは、彼らをエスコートするというよりも、死刑台に向かう救いようのない重犯罪者を引き連れた獄吏のように、淡々とした顔でいる。
『クリーンウィル・ジョン・オクトーバーだ』
ウフコックが、シェルの傍らにいる男について説明をよこした。
『オクトーバー社の重鎮だ。シェルの直属の上司であると同時に、婚姻相手の親族だ』
端的に言って、その男は巨体だった。丸々と太っているというのではない。文字通り肉の塊が、熟れすぎた果物のように人間の体にぶら下がっているのだ。太った人間というのは優しい朗《ほが》らかな顔をしている場合が多いのだが、この男はまるで違う。極めて非人間的な無表情さで、フロアにいる人間全てを馬鹿にしていた。その目が、不機嫌そうにバロットを見た。反射的にその男を射殺してしまわない理由を探すのに苦労するような、なんとも言えない嫌な目つきをしていた。
その二人がテーブルにやってくると、アシュレイは、もう自分はそこの観葉植物と同じですといった感じで両手を重ねて佇《たたず》んでいる。
オクトーバー社の肉男は、バロットをじろじろ眺めていた。
バロットは、咄嗟《とっさ》に、百万ドルチップを手にすると、指で弾いてテーブルの上で回してみせた。オクトーバー社の社章の入ったコインを。一ドルコインでも扱うみたいに。銃で撃つ代わりとしては、そう悪くはない行為らしかった。
シェルとジョンが同時に、さっと青ざめた。二人とも、液体燃料のような恐怖と憤怒が口元まで出かかっているといった顔だ。全身の毛穴から引火性の高いガスが出ていて、ちょっとした静電気で火だるまになるのがわかっているというように。
クリーンウィル・ジョン・オクトーバーは、ぎろっと目を尖らせ、言った。
「取り戻したまえ」
できなければ、お前をあのコインみたいに回してやるとでもいうようだった。
シェルは、自爆を命じられたヒットマンのように無表情になり、テーブルに立った。
その変光《カメレオン》サングラスが、今、沈むような青さで光っていた。
テーブルに着くや、すっとシェルの背筋が伸びた。まるで全身が機械と化したように。
この男も、必然があって今の地位についたのだ。勝負への集中は十分のようだった。
シェルが、指輪を外した。七つの、ブルーダイヤをあしらった指輪を。母親と、六人の少女の遺灰から作った、おぞましい宝石だった。その八つ目の指輪として飾られるはずだったバロットは、無表情に、指輪がテーブル脇に置かれるのを見つめている。
シェルの傍らにいた頃、指輪をショーの間中、預かっているのが、バロットの役目の一つだった。その指輪のダイヤたちが、凍りついた涙のようにテーブルの上で光っていた。
シェルは、それまで使用していたカードを片づけ、新たなカードを取り出した。
そのシャッフルを、バロットは久々に見た。以前は、何と美しい動きかと思ったものだ。わずか数カ月前のことが遥か遠い昔のことに思えた。シェルの動きは、客受けの良さそうな滑らかで優雅な手付きだったが、その技量はアシュレイに遠く及ばなかった。
バロットの左腕の下で数値の渦が巡るとともに、カードの山が整えられた。シェルが差し出す前に、バロットのほうで、率先して赤い透明なカードに手を伸ばしていた。
車に閉じ込められた晩以来、初めてバロットとシェルの目が合った。
そのサングラスの奥で、シェルの目が見開かれるのが感覚された。
その目の奥には強い怒りが溜まりに溜まっている。得体の知れない恐怖が根本にあるせいだ。いつかバロットに向かって、自分にはどんな愛があるかを悠々と語ったときの眼差しの幻が、バロットの脳裏に、残滓のように浮かび上がり、そして消えた。
〈あなたを綺麗に飾ってあげる。どんな相手も気に入るように。他のみんなが羨《うらや》むくらいに。愛も金も、私には沢山あるから〉
バロットが、静かに、カードの山に赤いカードを差し込んだ。
〈私の言う通りにすれば間違いないから。安心して〉
微かな嘲笑を浮かべて、カードの山に向かって、小さく顎をしゃくった。
シェルの顔が、微妙な羞恥に引きつった。
バロットが告げた言葉が、かつて自分がバロットに告げた言葉であることを、察しているような顔だった。決して思い出しているというのではなく。自分がとっくに忘れてしまったことを、いちいちほじくり返す女に対して、男がそういう顔をするように。
シェルが言葉を詰まらせたまま、カードの山をカットし直した。
その一瞬で、この男がどこまでカードを支配しきれるか、バロットは精密に感覚した。
シェルがカードシューにカードを収めるのを待ってから、これがお前の心臓だ、というように、四枚の百万ドルチップを手の中でもてあそんでみせながら、
〈私は、焦るのは好きじゃないから〉
ぱちりと音を立ててチップをポットに置いていた。
金色のチップではない。十万ドルチップ一枚である。金色のチップを想像したらしいシェルが、ぎょっとなり、それから、そろそろと息を吐いた。
〈一枚ずつ脱がしてあげる〉
バロットが笑って告げた。それもまた、シェルがバロットに言ったことなのだと、テーブルの周りにいる誰もが理解しているようだった。
「ごみ溜めに生まれた、淫売め……」
カードシューに手を触れながら、シェルが忌々しげに呟いた。
ドクターとアシュレイが、ちょっとひやっとしたように眉をひそめた。微動だにしなかったのは、バロットとベル・ウィングだけである。
シェルがカードを抜き放った。喧嘩で劣勢になったティーンエイジャーが、慌てて飛び出しナイフを突き出すような乱暴な動作で。
そしてバロットは、あっさりとその刃をかわし、相手の抵抗を完全に押さえつけた。
〈何も恥ずかしがることなんかないんだから〉
シェルは、淡々とカードを配っている。
〈ちょっと怖がっているような顔が、とても可愛い〉
自分で自分の奥歯を噛み砕きそうなほど顎を強張《こわば》らせるシェルに向かって、バロットがにっこり微笑んでみせた。その眼差しに、したたるような敵意を込めて。
そのバロットの目がシェルから離れ、カードを見やった。どう料理するか考えつくまでの間だけ、緊張から解放してやろうといった感じで。多くの客が、これまでバロットにそうしてきたように。それからすぐにまた目を上げ、選択を告げた。
〈足を大きく開いて、大事なところを見せて〉
何を言われたのかわからないシェルに、静かに言い聞かせるようにして言い換えた。
〈ステイ〉
シェルのこめかみに太い血管が浮いた。煮えたぎるような怒りとともに、手が伏せカードにかかった。ゆっくりと。相手をじらすというのではなく。純粋に気分の悪さから。
ゲームが開始された。このカジノに別れを告げるゲーム、バロットだけのゲームが。
アシュレイとベル・ウィングだけが、それに気づいていた。
ドクターは最初から知っていた。プランを作ったのは他ならぬドクターだからだ。
最後まで気づくことがなかったのが、オクトーバー社の男であり、シェルだった。
シェルは敢えてその可能性を頭の中で叩き伏せていた。この男が人生をそうして過ごしてきたように。今、自分が連戦連勝している[#「自分が連戦連勝している」に傍点]ことだけが、苦悶と羞恥にまみれたシェルにとっての、唯一の真実だった。
シェルは勝っていた。初戦のカードの開示から、十ゲーム目を過ぎた今に至るまで。
ドクターのプランは一貫していた。殻にも白身にも手をつけない――つけた場合は、すぐにそれを返す。ドクターは、すべきことに関して決して迷わない。バロットはそれを十分に学んでいた。あとはタイミングの問題だった。より効果的に見せるための。
十二ゲーム目のことだった。フェイスカードが9、バロットのカードが3と8。
左腕の下で、数値の乱舞がすべきことを教えている。バロットはヒットを告げた。
来たカードは6。そこからさらにヒットし、2を引いた。合計で19。一見、無謀さが幸いしたといったところだ。特にシェルのすぐ後ろで、カードとシェルを脾睨《へいげい》しているオクトーバー社の男にとっては。
その男をちらりと見やってから、バロットは、ステイした。
オクトーバー社の男ジョンが、凄まじい形相になった。シェルが一回でも負けることを許さないというように。ブラックジャックでそんなことができるわけがない。オートマチックのピストルで、ロシアンルーレットをやれと言っているようなものだ。
シェルがカードを開示した。カードはA。僅差でシェルが勝った。
ほほっとジョンが歓声を上げた。シェルは頬を強張らせてカードを見ている。
一枚ずれたらどうなっていたか――シェルの命運は相変わらず細く、バロットは勝つための波をぎりぎり維持していた。それでいてバロットは最後の最後で道を開けている。
意図[#「意図」に傍点]がぷんぷん臭う。シェルもシェルで、そうした危機に対しては敏感に察するほうだ。
だがもう遅い。直線距離での速度だけを競うドラゴンレースの最中に、実はそれが、ゴールが奈落の崖であるチキンランだと悟ったところで、ブレーキをかければ負けるだけだった。そして今ここで負けることは、シェルにとって奈落に落ちることに等しい。
やがてバロットの十万ドルチップが尽きた。ついで五万ドルチップがなくなり、一万ドルチップが束になって、ヘビースモーカーの吸う煙草みたいに消えていった。
その様子を、カジノの他の客やディーラーが見たら、なんと思うか。
自分にやらせろと思うだろう。ゲームをするという意味では決してない。手にしたチップを持って、できる限りの迅速さでカジノを出てゆくのだ。
それが、一般常識的な、運というものの法則である。つまり、長続きしない。
この少女とのっぽの男の二人組は、今やそのタイミングを永遠に失った愚者だった。
無謀な挑戦の末に、とうとうカジノ側を本気にさせて、せっかく手に入れたチップを削岩機にかけられたアスファルトみたいに剥ぎ取られてゆくのだ。もう誰にも止められないし、止める気もない。フロアの客の誰もが、そういう様子だった。
そしてそれこそ、この終演における要点なのだ。夢のような大金を手にした人間を、こういう場に足繁く通う者がどう見るか。アシュレイの言う通り、殺して奪うべき獲物と見る人間もいるだろうし、一緒に組んで一花咲かせようとする人間もいるだろう。そういう人間は客の中にもディーラーの中にもいた。いずれにせよバロットたちの目的を阻害し、歪ませる、悪意をたっぷりと針から出すスズメバチみたいな連中だ。
スズメバチの群をおとなしく眠らせるための煙が必要で、それには派手にみっともなく負けるのが一番だった。転んでドブに大金を失うような人間を、スズメバチはストリートに垂れた犬の小便くらいにしか思わないし、ジンクスを大事にする彼らにとっては犬の小便ほど験《げん》の悪いものはない。
だがそれでも、勝たねばならない瞬間というのがあった。
演技にリアリティを与えるために。そしてまた、バロットの焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]のためにも。
フェイスカードは、5。バロットのカードは、Qと2。
〈ステイ〉
完全な、ディーラー側のバスト持ちだった。
シェルの顔は、カードを開示する前から絶望していた。恐らく、ある程度のカードの並びを、そのイヤホンや腕時計といった道具によって知らされているのだ。
それでも運を頼りにカードをめくった。およそディーラーらしからぬ、ブラックジャックで全勝するという奇跡を願う顔で。
開示されたカードはK。そこからさらにQを引いた。合計で25。バストだった。
ジョンが、怒りの原子炉に火をともした。シェルが無言でバロットに配当を与えるのを見て、その顔が、冷却パイプを吹き飛ばすように、どす黒く変貌していった。
バロットは、十分にそのタイミングを感覚した。
そして、金色のチップを、ぱちりと音を立ててポットに置いた。それが裁定を下す判事の木槌の音であるかのように、シェルもジョンも表情を消した。
冷たい緊張が場に漂った。バロットは何も言わずに、次のカードを待った。
本来、言葉一つかけたくない相手を真正面から見据えるには、悪くない状況だ。
シェルは、蝋のように血の通わぬ手でカードを配り――その指先が、素早くカードを抜いて[#「抜いて」に傍点]いた。本来出すべきカードより一枚下のものを配り、順番を入れ替えたのだ。
アシュレイもベル・ウィングもそれを見たし、バロットも完璧にそれを感覚していた。
フェイスカードは、A。バロットのカードは、KとJ。
〈ステイ〉
間髪を入れずに告げた。シェルが、わずかに血の通いかけた手でカードを開示した。
カードは、4。合計で15。そこから7を引いた。カードは|Aを1と数えて12《ソフト・トゥエルブ》に。
さらに9を引き、合計で21を叩き出した。シェルは、勝った。
2
〈何か疑問が?〉
はっとシェルがバロットを見た。
〈私があなたに与えたものに[#「私があなたに与えたものに」に傍点]、何か疑問が[#「何か疑問が」に傍点]?〉
シェルのすぐ後ろでは、ジョンがほくほく笑っている。
シェルは、金色のチップをかすかに震える手で没収し、カードを廃棄した。
シェルにもわかっていた。先ほどのカードの並びは、A、K、4、J、7、9。
ということはシェルがカードをずらす前は、K、A、4、J、7、9になる。
何もしなければ、バロットが、スペードのAとJのブラックジャックを得る配札[#「AとJのブラックジャックを得る配札」に傍点]だったはずなのだ。百万ドルの十一倍の配当――このカジノを破片も残らず吹き飛ばす、核爆弾に等しい一撃だった。
さらにシェルは察していた。ゲームの開始時、バロットが赤いカードを差し込んだのが[#「赤いカードを差し込んだのが」に傍点]、そのAのすぐ下だった[#「そのAのすぐ下だった」に傍点]ことを。それがカットを経て、中心にきたのだ。
シェルは全てを支配されていた。どう勝つかも。それがシェルの根深いところで、絶叫寸前の違和感に火をともし、この男のプライドを煮崩れさせていた。
金色のチップが再び箱に戻ると、ジョンは誘拐された子供が、無事に保護されたかのような喜びを表した。自分の闇金がたっぷり詰まったチップなのだから無理もない。
額が間魅なのではなく、この勝負がきっかけで万が一金の動きが露呈したら、ジョンもシェルも、恐るべき打撃をこうむるからだ。
バロットの狙いは、あくまで残り三枚の金色のチップを置くタイミングだけだった。
一万ドルチップを束にしてばらまき、やがて二つ目の百万ドルチップを返上すべくポットに置いたとき、ふとバロットの脳裏に、過去に見たものの記憶が忽然と甦っていた。
いつかテレビで見た、政府保護下の原住民《アボリジニー》の姿だ。それも彼らの祝祭のような葬儀の様子である。彼らは大自然への畏敬を込めて、葬儀の場で、家財である牛を屠《ほふ》るのだという。なぜそんな番組を見たのかといえば、そのときテレビのレポーターが堕胎《アボーション》と言っているように聞こえたからだった。
失敗《アボート》、堕胎医《アボティスト》、あるいは奇形児《アボーティヴ》――そんな言葉の連想がテレビ画面にバロットの目を向けさせ、そして番組の内容がそれとは全然違うことに安心していた。
目はそのまま画面を見続けた。連想したものを頭から消すために。それで原住民《アボリジニー》について知ることになった。どこでそんな番組を見たのか。すぐに思い出した。最後の店で働く前にいた、デートクラブの待合室でのことだ。
そこには何人もの女の子たちがいた。客がチラシを見て電話をかけ、それを受けた事務所の男が、客の要望に従って女の子を選択するまでの間の、伸びきったまま戻らなくなったゴムのような退屈な時間を潰すために、みな、テレビや本や、あるいは自分の手や、化粧鏡に目を向けていた。そうすれば他のものが見えなくなるからだ。
しかしたまに、その目にも何か別のものが映ることがあった。バロットがそのとき、最初に連想したものから逃げるために見た原住民《アボリジニー》の姿に、結局、それを見たように。
彼らは、死を恐れ、敬《うやま》っている。それがジャングルへの畏敬と溶け合っているのだとテレビのレポーターは言った。そしてバロットはそれを知った。豚や牛が犠牲にささげられるということの意味を。それがどこにでもある光景だということを。
都会では人間は人間を恐れている。力のない人間と、ある人間とに分けられ、その恐怖の念が溶け合うのも人間同士ならば、犠牲にささげられるのも人間だった。バロットは仕事仲間や客から、そういう話を嫌になるほど聞かされたものだ。
拷問趣味のサディストや、教会のように独自のルールにこだわる変態や、衣裳とシチュエーションの重要なパーツとして女の子を――あるいは男の子を選択する、自作自演の舞台監督のような男の話を。彼らは、牛の首に山刀を叩きつけることはなかったが、十三歳の女の子の心に対しては似たようなことをしていた。
バロットがいたクラブはまだ安全なほうだった。そのクラブは税金を払っていた。少なくとも事務所の男はそう言った。うちは最も公共に近いクラブだと。
未成年保護法違反に対する手は、十分に打ってあるということだ。
そういう余計な出費を好まない人間や店は危ない、というのが決まり文句だった。
ポン引きは他人とは限らない。そのデートクラブで働く前は、父親がポン引きだった子もいた。その子は十六歳ですでに百人近い男の相手をし、そのほとんどが父親の友人やその辺の通りや酒場で引っ張ってきた客だった。あるときその父親が客と深刻なトラブルを起こし、この世から消えた。しかしその後も、彼女は父親がしつけた通りに生き続けた。その生き方が、親の愛を証明しているのだというように。
その店で、街角に立つ女の子にとって最も救われないバッドエンドはどんなものかを、ホラー小説のあらすじでも話すみたいにバロットに教えてくれた女がいた。これは友達のことだけど、と彼女は言った。その友達は、病院のベッドでゼリーみたいになって死んでいった。男の暴力でずたずたになった体が、まだましに見えるほどの醜さで。
その友達は、ときどき自分のことを爆弾と呼ぶ癖があった。時限爆弾と。その意味がわかったのは、病院の診療台のプレートを見たときだったという。その友達は自分がエイズであることを何年もの間、誰にも言わずに仕事を続けていたのだ。死の間際、その友達はどうしてそんな病気になったかを彼女に語った。学校帰りのレイプが原因だった。
その友達にとって仕事は最後の生き甲斐だったのだろう。復讐こそが。その子は自分がばらまいた爆弾が、男の体内で炎を上げるのを夢見ながら死んでいった。
一方では女の子同士でグループを組み、高給取りの男を引っ掛けているのもいた。
ただ引っ掛けるのではない。ほとんど恐喝まがいのことをし、ギャングとくっついたりしているうちに、より大きな組織に吸収されてしまった。望んでそうした子もいたし、しっぺ返しを食らってそうさせられた子もいた。クラブでバロットに当時のことを話してくれた子は望んでそうしたほうだったが、すぐに後悔して逃げ出したと言った。男は、女も痛みを感じることは知っているが、それが男が感じる痛みと同じ価値と衝撃があることまでは知らないのだと。痛みは重力に逆らうことはない。いつでも立場の低いほうへと流れるのだ。
この店ではそんなことはないから、というのが大抵のひどい話の後に続く決まり文句だ。事務所の男もそう言ったし、仕事がすっかり板に付いた女もそう言った。まるでそう口にしていれば災いを遠ざけられるとでもいうように。だが災いは一つとは限らない。未来から来る災いもあれば、過去から来るものもあった。反復し、増殖していた。
通りで行き詰まったティーンエイジャーたちが、中学生の女の子をさらって慰みものにしているかと思えば、子供たちが遊ぶ公園に毎日決まった時間に散歩に来る高給取りの官僚は、年をとるにつれて幼児への愛好を深めた。盗撮マニアの男はあるとき一人の女性を徹底的にターゲットにし、そのことに感謝しなかった女性に逆上してレイプした後、女性との婚姻届を役所に提出しようとしているところを警官に見つかって逮捕された。
十七歳の女の子はハイスクールに通う傍ら、ベビーシッターのバイトをして、十人以上の子供たちに暴虐の限りを尽くし、逮捕された後で、地方検事に向かって、それが愛のかたちだと公然と言い放った。それが彼女が両親から得た、唯一の真実なのだと。
自分たちのことをサディストとかフェティシストとか呼ぶ人間は、みなネットワークを持って活動しており、中にはメディアにも登場して違う国の住人として認知される人間もいたが、一方では、世間から認知されることなく、違う世界のエイリアンとして活動し続ける人間もいた。
そういうエイリアンはわざわざ自分をサディストなどとは呼ばない。普通だと思っているからだ。彼らは相手が肉親だろうが見知らぬ他人だろうが、スイッチさえ入ればどんな人生をもずたずたに引き裂く大型シュレッダーみたいなものだった。
彼らが何を目的としているかは単純だった。その過程があまりに複雑なだけで。
|充実した人生《サニー・サイド・アップ》――それは何の矛盾も、不安も退屈もない、幸せな人生だ。
金のある人間も、そうでない人間も、それを求めて生きていた。施設から逃げ出す子供も、虐待やレイプを繰り返す人間も、なぜそうしたのかと訊かれて答えられることがあるとすれば、ハッピーになりたかったから、というのが唯一の答えだろう。
バロットが見た番組では、実際に牛を殺すところは映らなかった。
テレビがいつでもそうであるように、山刀が牛に向かって振りかぶられるシーンまでだ。その直後のシーンで牛はすでに火に包まれ、刃が命を引き裂くところは消滅していた。
いつも見ているのだから、今さら見せる必要はない、というように。
自分たちが今していることが――されていることが、まさにそれなのだから。
なぜアシュレイが、兄が殺された車のトランクに自分も入らなければならなかったか。
山刀を振り下ろす手を知るためだ。テレビでカットされたシーンの本当の意味を知るためだ。それがどんな意味を持っているかを。あるいは、どんな意味を失っているかを。
何より知らねばならないのは、山刀を振り下ろされてなお自分に生きる力があるかどうかだ。
この世にいる人間が全て互いに山刀を握ることになったとして、それに耐えられるか。
どんな人間も心の底で漠然と理解している常識や平穏な日常といったものが、あるとき粉々に砕けてしまった者にとって、自分の心を取り戻すために確かめ直さねばならないことが、それだった。
バロットは今、自分の心が山刀を握っているのを悟った。それがどんな心であるかを。
その山刀の切っ先の行方を。もし人間が運によって生きているとすれば、心が握った山刀の方向の正しさを見つけ出すことこそ、運命への挑戦だった。
「なぜだ……なぜこんなことをする」
シェルが呻《うめ》いた。もうたまらないといった感じだった。その目が、ポットに置かれた
三枚目の百万ドルチップ[#「三枚目の百万ドルチップ」に傍点]とバロットの顔とを交互に行き来している。
〈何か疑問が?〉
バロットは囁き、軽く右手を振った。ばいばい、と。それからドアを閉めるような動作をした。かつてシェルがそうしたように。それが何を意味するのか、シェルにはわからないようだった。ただ、シェルは自分がどんなことをしたのかを漠然と理解していた。
「俺がお前を利用したっていうのか? 何のために? 馬鹿げてる。俺は、もうお前の顔さえ忘れたっていうのに……」
バロットは、カードはまだか、というようにテーブルを指で叩いた。
シェルが今言ったことが真実であるのはわかっていた。そのことには何の異論もない。シェルがそう思いたければ思っていればいい。自分の記憶を代償に泥山を積み重ねる男に対し、バロットは自分がすべきことをするだけだった。
フェイスカードはK。バロットのカードは、5と6。
バロットはヒットして8を得て、そこでステイしている。
シェルは、それでもかぶりを振り続けながら、カードをめくった。
カードは、A。シェルの、華々しい勝利だった。
「俺は……お前を助けようとしたんだ。お前に欲しいものを与えてやった。ちゃんとした身分証まで作ってやった。俺はお前を助けてやった……」
それがシェルの持っている精一杯の論理だった。プランを作ったのはシェルの弁護士だ。バロットのプランをドクターが作ったように。シェルはそのストーリーにすっかり満足していた。バロットの生存は、ロマンチックなメロドラマを上映中の静まり返った映画館で、誰かが突然笑い出したようなものだ。そんな相手をどうすれば良いか。
答えは一つ。黙らせるだけだ。だからシェルは沢山の殺し屋を常に雇っている。
シェルは失った記憶の代わりになるドラマに飢えていた。自分の記憶の死を慰め、美化してくれる存在を。そして、バロットを選んだ。
ウフコックもまた、バロットを選んだ。自分が戦うために。誰かが戦うとき、その手に握られているのが他ならぬ自分であることの正当な意味を欲して。
バロットは、この小さいが注文のうるさい金色の競走馬《ギャロップ》が選んだ小柄な騎乗手《ジョッキー》だった。走る馬を、道具以上のものとして見ることのできる、真の騎手だ。
だがシェルにとって、バロットのような存在は単に自分の焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]の歌を歌うために必要な犠牲の牛にすぎない。バロットは、二度とそちら側へ行くつもりはなかった。
やがて四枚目の百万ドルチップが、テーブルの向こう側へと放り出されていった。
背を向けたまま肩越しにコインを放り込むと願い事がかなうという池や噴水に、それを投げ入れるように。箱の中の金の輝きが、ぴたりと最後のピースのようにはまると同時に、赤い透明なカードが現れ、ゲームの終了を告げていた。
バロットは席を立ち、ただ一枚残った一万ドルチップを、傍らのドクターに手渡した。
ドクターは、自分たちがギャンブルの常套パターン――「あそこでやめておけば良かった」にきちんとはまったことを確かめるようにしてチップを掌の上で転がしてみせた。
一万ドルチップが一つ。それが、一時は二千ドルが二千倍にまで膨れ上がったこのゲームの、最終的な勝率となった。そしてドクターは、こういうとき、ちょっとロマンのある男ならどうするか、よく知っているというような顔で、アシュレイを振り返った。
「このチップを、頂いても良いかな?」
アシュレイが、にっこりと微笑んだ。
「これだけの戦いをしたのですから」
シェルの顔をちらりと見やって、カジノ側の了解を取った。シェルは、メルトダウンの代わりに、喜びの電流を放射し始めたジョンの相手をするので精一杯だった。
「どうぞ。今日の記念に、お持ち帰り下さい」
アシュレイがうやうやしく告げ、ドクターはフロア中の人間に見せつけるようにしてチップを握りしめた。ドクターの演技もまた、そうして終幕を迎えた。最高潮の中で。
「送らせてもらえるかな? カジノの出口まで?」
アシュレイが言った。その隣でベル・ウィングも無言で同じ質問をしていた。
バロットは素直に、その申し出を受け入れた。ドクターもそれを黙認した。
四人が揃ってVIPルームから出るのを、大勢の客やディーラーたちが見送った。
「帰り道の心配は、いらないのかね?」
アシュレイが言った。帰り道を案内してやろうか、というように。逃げ道を。
「ここに来る前に、何度も確かめたからね」
リムジンの配車係にはちゃんと説明してあるという素振りのドクターに、アシュレイは感心したような呆れたような様子で肩をすくめた。
「まったく、あんたたちは、まるでプロの銀行強盗みたいに用意周到だな」
やがて、カジノと、その一部であるホテルとの微妙な境界線上で、四人が足を止めた。
バロットは、ベル・ウィングの顔をまっすぐ見た。また会えるのかと目で訊いた。
「私はスピナーとしてタブローを回し続けているさ。ここでないどこかのカジノでね。別にあんたが気にすることじゃないよ。けれども、気が向いたら会いに来ておくれ」
〈ありがとう〉
バロットが告げた。
〈さようなら〉
「ああ、さようなら」
アシュレイが言った。
「さようなら」
ベル・ウィングが言った。
3
〈待ってくれ〉
シェルが慌てて言った。携帯電話の向こうから聞こえてくるシェルの声は、サメの背びれを目前にした漂流者の叫びみたいに上ずっていた。
ボイルドはアクセル・ペダルを車体にめり込ませるように踏み切り続け、ハイウェイを驀進《ばくしん》しながらハンドルを握る一方、シェルの声に耳をあてている。
「取引のもとは戻ったのではないのか?」
〈そうじゃない。何かが変なんだ。なんていうか、俺の気が晴れないんだ〉
「晴れない?」
〈奴ら、まるで、わざと俺に返したような――〉
「位置を知りたい。誰かに尾《つ》けさせてくれれば、あとは、俺がやる」
淡々とボイルドが遮《さえぎ》った。知りたいことは、それだけだと言うように。
〈頼む。ボイルド。消してくれ。何もかもを消してくれ。俺のフラッシュバックを〉
「わかっている。それが、俺の有用性[#「有用性」に傍点]だ」
ボイルドは、無造作に通信を切った。その手で、車の前窓に取り付けられたフロントビューに触れた。本来、制限速度以内でないと表示されないビューが、半透明の光を浮かべ、問題のカジノ周辺の道路地図と、ボイルドの現在地点とを明らかにした。
「逃走経路は読めている――ウフコック」
その言葉に従うようにして、カジノから一本の赤い線が伸びて進路を示した。ボイルドの現在地点を表す光点からも青い線が伸びてゆき、やがて二つの線が進行を重ねた。
そのとき、地図を映すビューの向こう側で、水滴が跳ねた。ボイルドの目が、一瞬、外の道路でもビューでもなく、水滴の舞い飛ぶ空中に向けられた。
まばらだった雨はすぐに勢いを増し、透明な線が幾重にも走った。
ボイルドの目が、またハイウェイを向いた。そのときだった。全く無意識の状態で、ボイルドの口を言葉がついて出ていた。
「好奇心《キュリオス》――そうだ、俺は、お前を使いたかった[#「お前を使いたかった」に傍点]」
さらに信じ難いものが胸中からせり上がってきた。思わずその手を己の胸にあてた。
一瞬、それが何であるのか、ボイルド自身が、困惑するような顔になった。
止めようもなく膨らんでゆくそれは、やがてボイルドの喉で弾け、恐るべき奔流となって溢れ返った。笑った。笑顔など微塵も浮かべてはいない。だが、いっぱいに目を見開き、大きく口を開け、そこから雷でも発するかのように笑い声を上げていた。
窓が震えた。とてつもない笑い声だった。激しさを増した雨の向こうで稲妻が走り、雷鳴が轟いた。ボイルドはさらに笑った。けたたましい笑い声がとめどなく迸《ほとばし》っていた。
「ウフコツク! 俺はお前を使いたかった! ただ使いたかった[#「ただ使いたかった」に傍点]!」
爆発だった。雷鳴もかくやという叫びだった。もう止まらなかった。
「俺の有用性[#「俺の有用性」に傍点]! そうだ、それが俺の有用性だ[#「それが俺の有用性だ」に傍点]! 俺が、俺の人生の失点を取り戻すための有用性[#「有用性」に傍点]だ! 帰ってこいウフコック! お前に俺だけの有用性[#「有用性」に傍点]を与えてやる!」
「さあ、帰ろう」
バロットが再び両手に手袋をしたとき、右手でウフコックが言った。
そこへ、ぱらぱらと雨が降ってきた。バロットは手袋越しに、雨を感覚した。勝利感はそれほど強くなかゥた。むしろ、ゆらゆら揺れるような安堵感だけがあった。
赤いオープンカーは雨を感知し、バロットが駐車場に着いたとき、車の座席はリアサイドからせり出してきた屋根に覆われていた。
「忘れ物はないかな?」
笑って訊くドクターに向かって、バロットは、右手を掲げてみせた。
その手袋の生地の間には、パッキングされた四つのチップが納まっているのだ。
「殻にも白身にも手をつけない」
ドクターが、車にキーを入れながら言った。バロットはシートベルトを締めた。
車が発進した。その周囲の状況を、バロットは目を閉じたまま感覚した。
追っ手は来ない。全て撒いている。そのことを確認していた。
主な煙幕は全部で三つあった。一つがモーテルであり、もう一つがリムジンである。
そして最後が、ホテルのスイートの無料宿泊券だった。ポーカーで、ロイヤルストレートフラッシュの褒賞として手に入れたものだ。その部屋にチェックインし、バロットとドクターは別々のエレベーターに乗った。バロットはすぐに部屋に行くが、ドクターはもうしばらく地下のアミューズメントにまみれてくる、というように。バロットが乗ったエレベーターの表示灯は上階へと瞬き、ドクターが乗ったほうは下階に向かった。
だがどちらの箱も、実は全く動いていなかった。バロットがエレベーターの表示灯を操作《スナーク》したのだ。表示が目的の階に達したとき、微動だにしていない箱の扉が開いてバロットとドクターが現れ、そのまま並んで駐車場へと歩いていってしまった。
シェルが雇う荒ごと専門の追っ手が、バロットたちを探したところで、シェルの頭の中身のように、つかみどころがなかっただろう。
二重三重の煙幕に守られながら、赤い車はドクターとバロットを乗せて、ハンプティの降下許可が出された場所までの最短の道のりを疾走した。
バロットは、茫漠とした意識の中を漂っていた。体のあちこちがむずがゆく、触ると銀色の粉がこぼれ落ちた。自分の体を覆っている皮膚が脱皮した抜け殻だ。それはまだまだ皮を脱ぎ足りないと言っているようだった。
「大丈夫かい。シートを倒して横になったほうが良いよ」
ドクターが気遣わしげに言う。バロットは返事もせずに、素直に従った。横になって目を閉じていると、ドクターが入れてくれた暖房の暖かい風を感じた。
「殺意の臭いだ!」
ウフコックが叫んだ。突然だった。バロットは反射的にシートベルトを外した。
シートは倒したままだった。素早く起きあがり、車の周囲を感覚した。
「そんな馬鹿な! どこだ、ウフコック!」
ドクターが喚いた。外は雨が降りしきっている。その中を、赤い車が時速百キロ以上のスピードで駆け抜けていった。すでにハイウェイに入り、前後の車線もまばらだった。
そして雷雨の彼方から、一台の車が、横殴りに車線に入ってきた。
ハイウェイによくあるモーテルの駐車場からだ。それまで建物の死角になっていたところから、見計らったように飛び出し、ぴたりと赤いオープンカーの後背を追ってきた。
ドクターは罵りながらアクセルペダルを踏んだ。後部座席に這っていったバロットの背を、速度がどんと押した。後部座席に投げ出されながら、リアウインドウを覗いた。
十メートルほど離れた位置に、相手の車が見えた。その殺意も目に見えるようだった。
「ボイルドか!?」
ドクターが声を上げた。バロットもウフコックも答えない。その沈黙こそ答えだった。ドクターが躍起になってアクセルを踏んだ。速度が猛然と距離をむさぼってゆく。だが、獲物に食いつこうとするもう一方の速度を振り切ることはできなかった。
「撃退するしかなさそうだ。バロット――」
ウフコックは冷静に告げた。ドクターが目を剥《む》いた。
「限界だ!」
バロットが思わずドクターを振り向いた。ドクターはバックミラー越しに、肝臓癌の患者がアルコールに手を出すのを止めようとする医者みたいな眼差しを寄越してきた。
「主治医として言うぞ! 君はもう限界だ――」
そのとき、衝撃が来た。後部座席のドアを思い切り外から蹴られたようだった。サイドミラーが吹き飛び、スピードから放り出されたかと思うと、道路で粉々に砕け散った。
「窓もタイヤも完全防弾だ。ちょっとやそっとの銃なら、しばらくは防げる」
その瞬間、魂も凍る衝撃とともに、リアウインドウが真っ白になった。
ボイルドの銃は、ちょっとやそっとという代物ではなかった。携帯用の戦車砲みたいな銃口が立て続けに火を噴いた。後部トランクがひしゃげ、タイヤのホイールが火花を散らしたかと思うと、車体がぐらぐら揺れたところで、いったん銃撃がやんだ。
バロットはその間も相手を感覚し続けている。車間は五メートル弱。ボイルドの他には誰も乗っていない。ふいに、ボイルドの車が、右へ寄り、速度を上げた。
弾丸を装填し終わったのだ。車が並び、ボイルドの右手が、狙いを定めるのが感覚された。次の瞬間、巨大な拳銃の轟音が、スピードの牙さえ打ち砕くように響いた。
同時に、オープンカーが、相手の狙いを避けて、大きく車体を左にかわしている。
ボイルドの放った弾丸は、テールランプをかすめ、虚空に消えた。
「バロット!」
運転席のドクターが、事態を悟って叫んだ。バロットの運転[#「運転」に傍点]だったのだ。
〈任せて。大丈夫だから。体を低くして〉
カーステレオに干渉して告げるや、車が、バロットの操作《スナーク》に忠実に従った。
ドクターの目の前で、ハンドルがひとりでに右へ左へと動いた。かと思うとハンドル全体が、がくんとひっこみ、パネルの一部になった。オートドライブ機能が働いたのだ。
固定されたハンドルにドクターが愕然となるのをよそに、バロットは三発の弾丸を避け、一発を屋根の縁すれすれに受け、最後の一発をテールランプにわざと当てさせた。
破片が飛び散り、ボイルドの車のフロントを叩く。それで、タイミングを計った。ボクサーがジャブを打って、相手との距離を測るようなものだ。
ボイルドが再び弾丸の装填に入るや、バロットは車のエンジンの能力を解き放った。
タイヤもギヤもシャフトも、何もかもがただ一つの目的のもとで唸りを上げた。
速度がはね上がった。郊外へと直進するハイウェイを、二台の車が時速二百キロで駆け抜けた。バロットは自分の感覚がどんどん広がるのと、精密になるのとを、同時に感じた。車とともに、自分自身[#「自分自身」に傍点]も激しい唸りを上げて加速するようだった。
ふいにまた衝撃が来た。弾丸ではなく、背後からボイルドの車が接触してきたのだ。
がくんと車が前後に揺れた。サスペンションがぎしぎし悲鳴を上げた。とてつもないプレッシャーがあった。そしてそのプレッシャーに耐えられなくなったところを狙い撃ちにするつもりなのだ。ドクターにもそれがわかった。そしてまた、ウフコックにも。
「バロット、俺を使え」
ウフコックが言った。右手に、ほのかな温もりを感じた。
バロットは躊躇《ためら》った。自分の手――ウフコックを濫用[#「濫用」に傍点]した手だ。その手で再び、ウフコックを武器として使うのか。そういう痛切な気持ちがあった。
ウフコックの赤い渋みのある目と、バロットの目が、合った。
バロットは目を閉じた。ウフコックの暖かい体温を感じながら、自分の身を守るための道具を念じた。初めてウフコックを手にしたときのように。バロットの手の中でウフコックがぐにゃりと姿を変えた。ずしりとした重さが生じた。指先に引き金を感じた。
「よせ、バロット! 君はもう――」
鋭い風の音がドクターの声をかき消した。開いてゆく車の尾根に、ドクターが愕然と言葉を失った。雨が、剃刀の刃みたいな鋭さでそこら中を叩きまくる。
バロットは、雨と時速三百キロに到達せんとするスピードの中、かつてない精密さで感覚した。二台の車を。それぞれの急所と防御を。吹き荒《すさ》ぶ風と、舞い散る鋭い雨滴を。駆け抜ける二台の車の行方を。自分と、相手の男の動作を。全てが一点に集中するタイミングに向けて、全身の感覚を振り絞った。その途端、世界が真っ白に染まった。
目が充血し、皮膚が内臓を締め付けるのを覚えた。こめかみの辺りできーんと音がし、それ以外、何も聞こえなくなった。心臓の鼓動だけが、自分のすべきことを教えていた。
一瞬だった。二台の車が並走した。バロットが跳ね起き、目を見開き、引き金に指をかけた。雨の中で、声を失ったはずの自分の喉が、叫びを上げた気がした。
撃った。流れるような射撃だった。二種類の弾丸が、空中でぶつかり合った。
一発目が、ボイルドの放った弾丸と衝突し、粉々に吹き飛んだ。その直後に、二発目が同じように衝突し、三発目でその軌道を変えた。四発目がボイルドの顔面を襲ったが、五発目と同じようにボイルドが張り巡らす疑似重力の壁に軌道を逸らされた。
そして最後の六発目が、相手の車内への侵入に成功した。
ボイルドの目の前で、軽い破裂音がした。バロットの狙い澄ました一発が、ハンドルに当たり、正確にエアバッグのロックを外したのだ。ボイルドの腕も体も顔も、突然空気圧でばんばんに膨らんだバッグに、一瞬にして、否応《いやおう》なく押し潰された。
ボイルドが唸り声を上げて、疑似重力の壁でエアバッグを押し返し、ついで銃口を押しつけた。撃ち破った。エアバッグがフロントガラスごと粉々に吹っ飛んだ。
風や雨やガラスの破片が車内に乱舞し、その全てが疑似重力の壁に跳ね返された。
そして、その、ぽっかりと空いた空間の向こう側に、バロットがいた。
バロットの乗る車が、ボイルドの車の正面につき、轟然と走っているのだ。
ボイルドの口から、言葉にならぬ叫びが迸り、その銃が弾丸を撃ち放った。
だがその一瞬前に、バロットが立て続けに撃っていた。ボイルドの周囲で疑似重力が生じ、弾丸の軌道を全て逸らされたが――ボイルドが撃った弾丸も例外ではなかった。
バロットの頭上高くを、大砲の弾のような弾丸が吹き飛んでいった。
そしてバロットの放った最後の数発が、ボイルドの車のフロントを襲った。
その車も完全防弾だったが、バロットにとって一点に何発も撃ち込めるかということは、まっすぐ歩けるかということに等しい。同じ箇所に一瞬にして撃ち込まれたフロントカバーは、弾丸一つ分の穴を穿《うが》たれ、最後の一発が、エンジンベルトを引き裂いた。
ボイルドの車は、エネルギーを前進のために使う能力を一瞬で失った。
車間が離れた。バロットとボイルドが互いにチャンスを窺う間にも、遠く距離が生まれていった。一方の車が速度で距離をむさぼり、他方がそれについていけなくなった。
バロットもボイルドも微動だにせずチャンスと防御の一瞬を保ち続け――やがてそのデュエットにも終わりが訪れた。
ボイルドが、最後の運転でハンドルを右に切り、車を道路脇に寄せた。
その途端、バロットのほうでも、その意識のヒューズが切れた。
〈ハンドルを――〉
最後にそう告げ、運転をドクターに渡したことを確認した途端、後部座席でくずおれ、
「バロット!?」
ウフコックが呼んだ。バロットに聞こえたのは、耳鳴りの音だけだった。目蓋が勝手にぱちぱち瞬き、はっはっと肺が短い息を繰り返し、全身が痙攣していた。
「くそっ、この子は本当に頑張ってしまう! そうしなきゃ生き残れないみたいに!」
雨で濡れた顔を歪ませて、ドクターが叫んだ。
「そして、まったくもって、そうしないと生き残れないんだ!」
遠い彼方で、雨越しに空から舞い降りてくるハンプティが見えた。
月が地上に降りてくるようなその銀色の卵に向かって、ドクターは叫び続けた。
祈りを捧げるというよりも、その代価を天に求めるように。
砕けたウインドウの向こうを、ボイルドは昏い目で見つめ続けた。空回りするエンジンを停止させると、雨の音が周囲を押し包み、携帯電話の呼び出し音が重なった。
〈ボイルドか? やったのか?〉
相手はシェルだ。電話はカーチェイスの間もひっきりなしに鳴り続けていた。
「逃げられた。これ以上の追跡は不可能だ」
〈やったんじゃないのか[#「やったんじゃないのか」に傍点]?〉
「強敵だ。弁護士との相談に入ったほうがいい」
〈なんだと? 強敵だと? お前はなぜそんなに楽しそうに言うんだ[#「楽しそうに言うんだ」に傍点]?〉
「楽しそう――?」
ボイルドが眉をひそめた。シェルはさらにひとしきり罵り、ボイルドは黙って聞いた。
「何を奪われた?」
やがて、ぼそっと、ボイルドが訊いた。シェルは沈黙し、それからぶつぶつ呟くと、
〈それが何か[#「何か」に傍点]なんて、俺に説明できるわけがない……俺はもう全てを忘れたんだ〉
それを最後に、連絡が途絶えた。ボイルドはそのまま手にした電話でレッカーと代走業者を頼むと、車から外に出て、鈍く光る目で空を見上げた。
「……ルーン=バロット」
まるで、今初めてその名を覚えたというように重々しく呟いていた。
4
「ひどい熱だ。繊維の急激な発達で、彼女自身の代謝機能が刺激されてるんだ」
ドクターの行動は間断なかった。ハンプティ=ダンプティに乗り込むなり、バロットをテーブルの上に横たえ、ダイニングで手を消毒し、道具を揃えた。医療器具、タオルの束、コンピュータ、眼鏡型モニター、バイオリズム指標器――そしてウフコック。
「拮抗処置をとるぞ。彼女を包め、ウフコック。彼女を最初に助けたときみたいに」
「了解した」
ドクターが急いで椅子を片づけ、テーブル脇にスペースを空けた。
そのスペースに飛び降りながら、ウフコックがぐにゃりと変身《ターン》した。
ドクターは素早くハサミを手に取り、
「彼女、気に入ってたか?」
「何をだ?」
「この服だよ」
「多分」
「じゃあ、もう一度、お前が作ってやれ」
そのときにはもうドレスは裾から胸元まで切り裂かれている。
両肩口を慎重に切り、下着の帯を切った。バロットの胸が大きく膨らみ、ふうっと唇から吐息がこぼれる。その唇が、手足と同じように震え――銀色の繊維に包まれている。
ドクターは手にとったタオルに消毒液をぶちまけ、全身に火傷を負った患者にそうするように、タオルをあてながら、バロットの体から衣服を、ゆっくりとどけていった。
「良かった。皮膚が衣服に張り付いてない。剥離も、鬱血もない。すごい成長だ。血液中に、繊維分派が存在して、鉄分を吸収しているのか?」
バロットの体を拭うと、たちまちタオルが微細な銀の粉にまみれた。きらきら光るタオルを放り捨て、次のタオルでまた拭った。そしてバロットの額や首筋や脇、主要な関節を拭ううちに、川底で砂金の塊でも見つけたような笑顔を浮かべ、わめいた。
「発汗してる! このまま金属の塊[#「金属の塊」に傍点]になったらどうしようかと思った!」
そうする間にもウフコックが変身を終えている。精密機器と人間工学の結晶のような医療ポッドだ。銃器など、これに比べれば鈍器に等しい。ドクターが火事場の馬鹿力といった感じでひょいとバロットを持ち上げ、軽々とポッドに収めてしまった。
「今彼女に必要な拮抗処置とは、余計なものを感覚させないよう、缶詰[#「缶詰」に傍点]にすることだ」
ドクターの指示を受け、ポッドの中では早くも白い泡がバロットを包もうとしている。
ドクターは大急ぎで呼吸器を引っ張ってきてバロットの気道を確保し、耳孔と目蓋に保護用のジェルを塗り、泡まみれになりながらバロットの体をポッドに固定した。
「繊維の異常発達か、ドクター?」
「いや……これが彼女の要請[#「彼女の要請」に傍点]に対する正常な発達なんだ。僕らが把握してるデータからすれば異常[#「異常」に傍点]発達だけど、彼女が置かれた立場からすればこれが正常[#「正常」に傍点]なんだ」
ドクターは、バロットの右腕を拭い、素早く点滴を用意しながら、
「拮抗処置で、彼女を日常に戻す[#「日常に戻す」に傍点]。走り続けるランナーに、ゴールを教えてやるんだ。お前が付きっきりで看病してやれ」
「付きっきりで?」
「その箱から出ずに入っていろ[#「入っていろ」に傍点]ってことさ。彼女を密閉しているのがただの機械じゃなくて、お前であるほうが彼女も落ち着くだろう。僕もそのほうが安心だし」
ドクターが点滴をポッドに備え付けながら言った。そうして全てがただ待つだけの状態へと向かっていったとき、ふいに、ウフコックが痛切な悲鳴を上げた。
「バロットの反応が弱まっている! どうしたら良いんだ! ドクター!」
「反応させるなってば[#「反応させるなってば」に傍点]」
ドクターが呆れたように返した。ウフコックが口ごもる。
「そのまま寝かせてあげよう。彼女は生き残ったんだ。自分の力で」
ドクターが、バロットではなく、ウフコックを慰めるように、ポッドを軽く叩いた。
「僕は、手に入れたチップを別のハードに移す準備をしてから寝るよ。これから、またひと苦労しなきゃ。なにせ一人の人間の主要な過去を読むんだ。それも殺人魔のね」
ちらりと、ドクターが、ポッドの中で眠るバロットを見やった。
「それが彼女にとって最善の勝利であることを祈ろう」
それから二十時間近く、白い防護泡と呼吸器の向こうでバロットは眠り続けた。
夢も見なかった。時間というものがどこかへ消えてしまったようだった。
最後に銃の引き金を引いたと思ったら、いきなりポッドの中にいる自分を見つけたようなものだ。
目覚めてのち、体に異常はなく、むしろ以前よりも世界がクリアになった感じがした。
ハンプティの中は平穏で、ドクターが膨大なデータを前にしながら、検事とがりがり音を立てそうなくらいメールでやり合っているのを除けば、平和そのものだった。
その穏やかな空気の中で、バロットは、一つの答えを覗くことになった。
一人の男の、腐った卵の中身を。
バロットは、安楽椅子に身を置いたまま、ぼんやりと天井を見ていた。
隠れ処《が》で初めて目覚めたときと同じような穏やかさと、乾いた心で。
その全身を、ぴったりと黒いスーツが覆っている。メイド・パイ・ウフコックのスーツ――初めて射撃訓練をしたときと、ほぼ同じものだ。違うのは、全身にコードを接続する端子があることで、コードは、バロットを中心に四方に広がり、ハンプティのダイニングルームに所狭しと並べられた機材に繋がっている。
「シェルの記憶を解析し、どこで何をしていたかを判明させるだけでは不十分なんだ」
ドクターが、機材と食器とで散らかったテーブルの向こうで言った。
「シェルの明確な動機を、証拠として提出するためには、感情や思考を再現[#「再現」に傍点]して、奴が犯罪に至った過程を明らかにする必要がある。本当なら半年はかかる作業だけど、君とウフコックが二人がかりでやれば、一日も要らないだろうね」
ドクターはそこでモニターから目を離して、バロットを見やった。
「本当に、大丈夫?」
バロットは、ゆっくりと安楽椅子の上から、ドクターのほうへ顔を向けた。
〈知りたいの。なぜ自分なのか[#「なぜ自分なのか」に傍点]。その答えが少しでも見つけられたら、それでいい〉
スーツの喉元にある音声器に干渉して告げた。ドクターの視線がスーツに移った。
「不適切な記憶情報[#「不適切な記憶情報」に傍点]に関しては、お前がきちんと遮断しておけよ。あんまり過激なものをバロットに見せると、僕らが未成年者保護法違反で、告訴されるぞ」
「バロットは、十分に理性的で、落ち着いている。チップを手に入れたのはバロットだ。その中身を彼女が見たいのなら隠す必要はない」
スーツ姿のウフコックが、きっぱりと返す。ドクターが囲ったように頭を掻いた。
「検事から文句が来てね。婦人団体や教育機関の反応も考慮しろってさ」
バロットは寝そべったまま肩をすくめた。いったいどこの団体が、バロットに、銃やセックスに代わる手段を与えてくれたというのか。話さえ聞いてもらえなかったのに。
「未成年者を保護する力が、彼女に届かなかったからこそ、我々がここにいる」
ウフコックは、バロットの気持ちを正確に察するように、淡々と返している。
「これはスクランブル―|09《オー・ナイン》の範疇だ。彼女は自分が殺された理由を知ろうとしている。彼女が生きるためにした行動を批判する人間には、この領域での判断は無理だ」
ドクターも肩をすくめた。本気で検事からの文句を気にしているわけではないのだ。
〈大丈夫。ウフコックが一緒だから〉
バロットは微笑して告げた。ドクターも、にやっと笑った。
「いつもは煮え切らないウフコックも、バロットのことでは瞬間的に沸騰するらしい」
「俺は、彼女の能力と感情を、正当な判断に基づいて……」
「照れるなよ」
あっさりとウフコックを遮って、ドクターが、モニターを操作した。
「それじゃあ、卵をかき混ぜるとするか。準備は良いね?」
途端に、ダイニングに置かれた大型冷蔵庫のような機材が唸りを上げた。
シェルの記憶が収められた四つのチップを読み取るために、ドクターとウフコックが共同で作り上げた機材だ。そこから伸びるコードがウフコックに接続され、バロットが、その情報を体感[#「体感」に傍点]し、その内容が機材に記録されるというわけだった。
バロットは安楽椅子に深く身を沈め、ゆっくりと目を閉じた。
それは、いつかウフコックとカフェで偽造IDを暴いた仕事とも、楽園≠ナ情報の海を泳いだときとも違った。
一人の人間の体験をできる限り再現し、その中から必要な情報を選別してゆくのだ。
最初に聞こえたのは声だった。低い、ぼそぼそと喋るような声。それがやがて無数の不協和音となって鳴り響き、耳の奥で破裂したようになるや、一転して沈黙が降りた。
はっとバロットが目を開いたとき――そこは見たこともない場所だった。
一瞬遅れて、自分が立っていることを認識した。
自分はどこかを歩いていた。マルドゥック市《シティ》の繁華街らしい。傍らには見たこともない女の子がいた。十四、五歳くらいの、ブロンドの子が。
その子が何かを言っていた。そして自分も何かをその子に告げていた。
一瞬、ブルーダイヤの輝きがその子の胸の中[#「胸の中」に傍点]できらめいた。右手の映像がそこに浮かんだ。その右手の人差し指が急激に膨らみ、ゲームのカードや車や飲み物が連想された。
この子は何番目[#「何番目」に傍点]なのか。複数の記憶が参照され、やがてバロットの前に、シェルが買った女の子であることがわかった途端、女の子の声が聞こえた。だが言葉は認識できない。他の記憶が寄り集まり、やがて幾つかの言葉が再現された。
「父親の元には戻りたくないの」
女の子が言った。ひどく切迫した声で。深い共感の念がどこからともなく去来した。
「お願い、父親の所には戻さないで」
良いとも。俺が守ってやろう。お前を安全な場所に連れていってやる。お前は美しい。これからもっと美しくなる。衝動が湧いた[#「衝動が湧いた」に傍点]。それを何度か抑える。結晶だ。ブルーダイヤの輝き。そして大いなる喪失が訪れ、全てが灰になって加工されるのだ。
記憶は消え、宝石がそれに取って代わる。記憶の死とともに行われる儀式が必要だ。
衝動は、一定の行動によって実現される。自殺に見せかけた女の子の死。なぜ自分なのか。その答えは、深く沈んでゆく。永遠に戻ることのないフラッシュバック。
〈バロット[#「バロット」に傍点]、意識を保て[#「意識を保て」に傍点]。これは全て仮想現実だ[#「これは全て仮想現実だ」に傍点]〉
バロットは心の中でうなずき、最初の連想から余計な情報をとりのぞきながら、さらに無数の情報が浴びせかけられるのを感じた。それは音であり、光であり、痛みであった。怒りであり、快楽であり、会話であった。光景が横切り、その瞬間の感情が再現され、それがどのような動機によるものかが明確になっていった。
「良いぞ。シェルの精神的根拠が立証されていく――」
どこからかドクターの声が聞こえ、それを最後に、バロットは現実の音を全く聞かなくなった。代わりに、暗い海の底から無数のあぶくが浮かんでくるように、ばらばらになった情報が、凄まじい速度でバロットの全身の皮膚を通り抜けてゆく。
〈系統づけろ。意味をなしていない。最初の入り口に戻れ――〉
ふいにマルドゥック市《シティ》の光景が眼前に広がった。それは昼のオフィス街であり、暗いスラムの建物であり、カジノの売店であり、見知らぬ人々とのビジネスの場だった。
初めてエアカーに乗ったときの感触が、強い出世欲と絡んで思い出された[#「思い出された」に傍点]。何人かの女の子たちが、ばらばらの記憶の中から引っ張り出され、一斉に目の前に出現した。
女の子たちは黙って目を閉じ、橋の上に立っている。海からの風。影が足下を物凄い速さで動き、夜が訪れた。やがてそれぞれの記憶が系列をなし、女の子たちが目を開いた。
全ての女の子の眼球がブルーダイヤだった。バロットは低く悲鳴を上げた。
すぐに、女の子の一人が、逆回しのビデオのように後ろ向きに橋を渡ってゆく。
それを追ってゆくと橋の向こうに街の光景が見えた。カジノが光り輝き、林立するビルも家もガレージも、全てにオクトーバー社の社章が刻まれている。
脳手術の映像が浮かんだ。手術台の上の少年。その周囲を女の子がぐるぐる歩いている。頭蓋骨を削る音が、ぽっかり開いた女の子の口から響き出し、切除された何かと移植された何かが入れ替わる。もちろん脳の中に入っているチップにもオクトーバー社の社章が刻まれているのさ。俺がこのカジノをショーの舞台に選んだのは、放流された稚魚が、故郷の川に帰ってくるのと同じかもしれない。
「帰りたい所なんかどこにもない」
女の子が、頭蓋骨を削る音とともに言った。
「帰りたいと思う場所が欲しい」
俺が用意してやる。俺のもとに帰ればいい。そして女の子は麻薬におぼれて死んだ。
それは嘘だと世界が叫んだ。致死量の麻薬を用意する金が勿体《もったい》ない。麻薬におぼれたのは見せかけであって、単に眠っている間に絞め殺しただけだ。直接絞め殺すのはこれきりにすべきだ。後片付け[#「後片付け」に傍点]が大変すぎる。頭痛がひどくなりすぎる。
ストレスだ。完璧な幸福感をもたらしてくれるものが必要なんだ。多幸剤《ヒロイック・ピル》は完璧だ。
あんたは不幸の使い道を知っている。そうだとも。大きな男の映像。近いうちにあんたの周囲でトラブルが起こる。その男は言った。スクランブル―|09《オー・ナイン》が発令された場合、俺に許可される権限は、治安機構を遥かに上回る。それは最高のボディガードだ。
〈俺とドクターが、シェルを狙っていることを、ボイルドは把握していた。だから事前にシェルのボディガードとして潜行していたんだ。これはその時の記憶――〉
|記憶の洗浄《サイコロンダリング》だ。俺のビジネスを理解するには、俺を理解する必要がある。このブルーダイヤを見ろ。俺のビジネスの階段だ。全部で七つ。これまで六人の命が、犠牲になったらしい。俺は彼女たちを助けようとしたんだ。怖がっている理由を知りたい。
「俺はなぜこんなにも怖がってるんだ?」
〈バロット、意識を保て。君自身がそれを感覚しているわけではない――〉
銃で殺したが、あまりすっきりしない。嫌な感情が残る。銃は駄目だ。他の方法を探そう。失われたくせに影響を与えるのが記憶ってやつだ。なるべく距離を取った状態で、相手の死を確認すべきだ。回収の方法も考えなければいけない。爆殺させよう[#「爆殺させよう」に傍点]。
エアカーの保険を利用して[#「エアカーの保険を利用して」に傍点]。その子が悪いということにすればいい[#「その子が悪いということにすればいい」に傍点]。
「俺が与えたものに何か疑問が?」
〈それは君自身の記憶だ、バロット。時系列を整えてから、もう一度――〉
三人目の女の子は事故だ。車のブレーキを細工して。
「走る車は駄目だ。俺の記憶を混乱させる。失われたくせに影響を与えるのが――」
車のブレーキを細工したんだが、お陰で滅茶苦茶にねじ曲がった女の子の死体を見るはめになった。時速百二十キロだ。綺麗に灰になってくれたら良かったんだが。
記憶は消えるが、火葬の許可を取るのが面倒だ。この都市は土葬が一般的だからな。
「俺は金を綺麗にする方法を幾つも考えついた」
知っていたのさ。二人目の女の子の声がする。深い共感の念[#「深い共感の念」に傍点]が湧いた。
「あたしを父さんに会わせないで。何でもするから父さんにだけは会わせないで」
大丈夫だ。俺が守ってやる。俺は知っているんだ。その苦しみを。ストレスを。
それが俺の記憶を破壊するんだ。徹底的にやればいい。その方法は知ってるんだ。記憶を破壊するストレスをお前で帳消しにしてやる。真っ赤だ。ナイフでめった刺しにするなんて我ながら極めつけの馬鹿だ。そこら中、血まみれだ。後片付け――ブルーダイヤの輝きが欲しい、綺麗にするんだ。きっと動転していたんだろう。慌てて殺したのさ。
その直後に記憶の消失が始まった。ちょうどその当時、金を綺麗にする方法で失敗したが、ストレスで記憶が消えたお陰で助かったんだ。俺のビジネスの出発点ってわけだ。
とはいえ、その時のことを、全て思い出せるわけじゃないんだがな。
「俺のビジネスを理解するには、俺を理解する必要がある」
〈その記憶が現実のものであるかどうかの確証が必要だ。シェルが映画などを見ていた可能性もある。本当にそれがシェルの体験であるかどうか――〉
最初に殺した女の子なのか。いつでも最初に殺した女の子さ。記憶が消えるんだ。
誰も知らないし、知ることもない。記憶が丸ごと消えるんだ。俺は自分を綺麗にする方法を知ってるってことだ。汚い金を任せられることになるかもしれない。
深い共感の念[#「深い共感の念」に傍点]が湧いた。錯綜する記憶の粒子がカードの並びのように渦を巻いた。
〈君の時間感覚が、影響を受けている。作業を開始してからすでに七時間――〉
最初に殺した女の子なのか。面影がこれまでと全然違う。原点だからかもしれない。
いったいいつ。カジノに入ってから、それが爆発した。カードを捌《さば》く才能に目覚めたのさ。君にショーを見てもらいたいんだ。歳は離れてるけど立派な恋人だよ。もし記憶がなくなっても君のことだけは覚えていたい。他のことは全て忘れても君の顔だけは絶対に。
最初に殺した女の子だけ感情が違う。本気だったんだと思う。
〈君の体力も限界だ。すでに十時間以上が経っている。バロット、これ以上は――〉
「あなたに聞いて欲しいことがあるの」
その子は言った。深い共感の念[#「深い共感の念」に傍点]が湧いた。君のことだけは忘れない。汚いものを綺麗にするのが俺の仕事だ。記憶がなくなるんだ。汚い金を任せられるかもしれない。
「あなたに嘘をつきたくないから。本当のことを知って欲しいから」
汚い金を任せられるということは、それだけ信用されてるってことだ。任せろ。
俺の|天国への階段《マルドゥック》≠ヘここから始まる。俺は綺麗にする。汚いものを綺麗にする。ブルーダイヤみたいに。
「父親に犯されたの」
〈バロット、冷静になれ〉
深い共感の念[#「深い共感の念」に傍点]が湧いた。衝撃があった。それでその子に対する愛情が変わるわけではなかった。彼女を愛していた。ただ、ストレスがあった。フラッシュバック。
「そこに戻るくらいなら刑務所に入ったほうがましな場所。フラッシュバック」
〈それは君の意識だ。混乱がひどい。ドクター、止めさせるんだ。ドクター。しまった。バロットの干渉能力が予想以上に強い――〉
フラッシュバック。それは音であり、光であり、痛みであった。怒りであり、快楽であり、会話であった。光景が横切り、その瞬間の感情が再現され、それがどのような動機によるものかが明確になっていった。
「俺は綺麗にする。汚いものを全部、綺麗にしてやる」
違う[#「違う」に傍点]。最初の子は殺していない[#「殺していない」に傍点]。死んでいた。なぜだ。綺麗にしてやる。お前を綺麗にしてやる。世界がごうごうと働哭の声を上げた。
バロットの目に涙が溢れた。
「ブルーダイヤだ」
シェルの愛情にもかかわらず、その子は絶望に殺された。その子はシェルに救いを求め、正しい愛を求めたが、最後には発狂に等しい状態で死んでしまった。完全な衰弱死だった。シェルは絶望した。その子の死に絶望した。その子の死の理由に絶望した。
シェルが最初に殺したのはその子ではない[#「シェルが最初に殺したのはその子ではない」に傍点]。その子に心の傷を負わせた[#「その子に心の傷を負わせた」に傍点]、父親だ[#「父親だ」に傍点]。
「最初に殺したのは――」
〈こうなったらバロットを最後まで辿り着かせるしかない――〉
その子は、シェルが忘れてしまった絶望を、敏感に嗅ぎ取ったのだ。シェルの中に、
「大丈夫だ。俺が守ってやる。俺は知っているんだ。その苦しみを」
深い共感の念[#「深い共感の念」に傍点]が湧いた。ストレスを。それが俺の記憶を破壊するんだ。
いや、違う。シェルが生まれて初めて殺したのはその子の父親でもない[#「その子の父親でもない」に傍点]。
刹那、フラッシュバックが襲いかかった。シェルの失われた記憶の虚空に、それがあった。暗闇の中で今なお声を上げ続けているものが。
「なぜ私なの[#「なぜ私なの」に傍点]」
シェルが忘れてしまったはずの絶望によって、ブルーダイヤがにわかに燦然と輝いた。
ざわめきがあった。バロットがふと気づくと、スポットライトを浴びながらゲームのショーを行っているシェルの姿があった。
咄嗟に、記憶の最初のほうに戻ってきてしまったのかと思った。だがふと、両手に指輪を持っていることに気づいた。全てプラチナにブルーダイヤだ。それらをショーの間は全て外し、賭けを行う間、預かっているのが、その時のバロットの仕事の一つだった。
中でも、ひときわ大きく光彩を放つダイヤを、男は太母《グレートマザー》≠ニ呼び――
「死んだ母親の遺灰を、加工業者に頼んで、ダイヤにしてもらったのさ」
〈来たぞ。シェルのトラウマに辿り着いた――〉
そう。シェルが最初に殺した相手。それはシェルの、実の母親だったのだ。
深い共感の念[#「深い共感の念」に傍点]が湧いた。
シェルが愛したその子の絶望が世界中に吹き荒れた。シェルが自分の苦しみに共感してくれる理由を、その子は悟ったのだ。シェルがなぜ自分を受け入れたかを悟ったのだ。
シェルもまた、その子が悟ったことを、悟ったのだ。恐ろしい循環[#「循環」に傍点]だった。共感が共感を呼んだのだ。その子はそれに耐えられなかった。逃げ出したものから――
「フラッシュバック――」
結局は、自分から、二度と戻りたくない場所に戻っていたのだということを悟って。
――なぜ[#「なぜ」に傍点]、私なの[#「私なの」に傍点]。
バロットは、愕然となって、その答え[#「その答え」に傍点]の前に立ちすくんでいた。
不適切な記憶情報[#「不適切な記憶情報」に傍点]。おぞましい映像[#「おぞましい映像」に傍点]が後から後から爆発的に襲いかかった。
〈バロット、それ[#「それ」に傍点]を意識するな。それは君の過去とは何の関係もない[#「それは君の過去とは何の関係もない」に傍点]――〉
それはシェルの記憶の中でも最悪の場所だった。嫌な臭いのする腐った卵の中身の、最も嫌な味のする真っ黒い時間のまっただ中で、シェルは、自分の実の母親に、性行為を強制させられていた。それはシェルが十代になるや否や始まり、十代の終わり頃、シェルが母親の車に細工して事故に見せかけて殺すまで続いた。
それが、シェルの、これまで殺した全ての女の子に対する深い共感の念の理由だった[#「深い共感の念の理由だった」に傍点]。
シェルが初めて心から愛した女の子の絶望だった。そしてまた、殺されるのがなぜバロットでなければならなかったかということへの、一つの、明確で、単純な回答だった。
バロットは自分が絶叫したのだと思った。
だが実際は、固く口を結びながら、かっと目を見開き、反射的に跳ね起きただけだ。
気づけば、疲れ切った顔をしたドクターが、呆然とこちらを見ていた。
「二十三時間だ……。君がそこに横になってから、経過した時間だよ……」
ドクターが、力のない声で言った。その目の下に隈《くま》が出来ている。同じような隈が、自分の顔にも浮かんでいるのだろうと、ぼんやりバロットは思った。バロットはそれが確かに今、自分が[#「自分が」に傍点]聞いている声であり、考えていることであるのを確かめるように、じっとドクターを見つめた。ふいに、たとえようもない悪寒に襲われた。汚濁にまみれた記憶の奔流に、再び引き込まれそうになった。
「バロット、呼吸を整えろ。少しずつ、浅く、息を吸うんだ。ゆっくりと――」
ウフコックが言う。だがバロットの固く閉ざされた口は、なかなか開こうとしない。顎が硬直し、一種のショック症状を呈していた。
バロットは身をよじった。安楽椅子から身を乗り出すや、いきなりその口が開いた。かと思うと、そうと意識する間もなく、胃の中のものを床にぶちまけていた。
喋る力を失った喉が、こんな時に限って、世にも不愉快な音を断続的に放った。
酸っぱいものが口にも鼻にも溢れ、あまりの不快感と苦しさに、涙が溢れた。
ドクターが大急ぎで駆け寄って背中に触れ、タオルを差し出してくれた。
〈ごめんなさい――〉
かろうじてそう告げ、タオルを受け取り、それに顔を伏せた。いつしか声もなく泣いていた。何もかもが不愉快で、苛立たしく、そして悲しかった。
〈私、床を汚しちゃった――〉
そう告げた途端、汚れる[#「汚れる」に傍点]という言葉が、記憶の奔流を思い出させた。綺麗にするのが仕事だ[#「綺麗にするのが仕事だ」に傍点]。ブルーダイヤに[#「ブルーダイヤに」に傍点]。それが答えなんだ[#「それが答えなんだ」に傍点]。綺麗にしてやる[#「綺麗にしてやる」に傍点]。俺が綺麗にしてやる[#「俺が綺麗にしてやる」に傍点]。
「大丈夫、すぐに落ち着くよ。今は疲労で、波乱しているだけだ」
ドクターの声がすぐ近くでした。ふと気づくと、腕に何かを注射されていた。
「安定剤と睡眠導入剤だ。すぐに眠くなるよ。君はよく頑張った。ゆっくり休むんだ。決して悪い夢は見ない。ウフコックがそばにいるからね。そうだろうウフコック――」
スーツの姿で自分をぴったり覆ってくれているウフコックが、何かを言った。
その通りだとか、そういったことを。バロットは朦朧とする意識の中で、絶望に殺された少女の面影を見た気がした。その子はシェルに何を求めていたのだろうと思った。
きっと同じなのだ。自分が求めていた答えと。ただ単純な答え。愛されているということが、答えになるのだと思っていた。その結果、何もかもが焦げ付いただけで。
バロットはゆっくりと目を閉じた。悲しみが空気に溶けてゆく気がした。誰か別の人間の記憶が静かに消え去り、今ここにいるのは自分なのだという実感が湧いた。
バロットは自分を覆う存在の暖かさを求めるようにうずくまり、そして眠った。
再び目覚めたとき、バロットは、パジャマ姿でベッドに寝ている自分にちょっと驚いた。パジャマのズボンとシャツが、腰の所でつながっているのを感覚し、それがウフコックであることに気づいた。腕には点滴が施されており、チューブが絡まないよう気をつけながら、バロットは、自分が着ているパジャマを逆に抱きしめるようにして膝を抱え、そして少しの間、何も考えずに泣いた。
ウフコックは何も言わずにいてくれた。
目覚めてダイニングに降りると、機材は綺麗に片付けられていた。
ちょうど検事にメールを送ったドクターは、バロットを振り返り、こう言った。
「裁判の日取りが決まったよ」
そうしてチップを手に入れてから一週間後、バロットは再び、法務局《プロイラーハウス》の前に立った。
この街の象徴である|天国への階段《マルドゥック》≠フ、最後のステップを踏むために。
[#改ページ]
Chapter.4 導き Navigation
1
「なぜ俺は、ここにいるんだ?」
シェルは譫言《うわごと》のようにその言葉を繰り返した。頭を抱えてベンチに座り込むシェルの様子を、ボイルドが鈍く光る目で、じっと見ていた。法務局《プロイラーハウス》のビルの控室には、シェルとボイルドの二人しかいなかった。シェルが、ふと、変光《カメレオン》サングラスをとった。深いすみれ色に光るサングラスを手にしながら、諦念の塊のような声を放った。
「お前にもっと大事なことを教えておけば、こんなことにはならなかった……そう簡単にあの女[#「あの女」に傍点]が殺せると思った俺が馬鹿だったんだ」
ボイルドは表情を変えず、うなずきも首を振りもしなかった。
「俺は変われるんだ。どんな人間にだってなれる。どんな汚いものだって綺麗にできるんだ。こんな状況だってすぐに改善できる。だからここから連れ出してくれ」
ボイルドは、ゆっくりと膝を折り、シェルと目線を合わせた。
「怖いんだ、ボイルド……何が怖いのかまるでわからない。それが一番怖いんだ」
シェルが、内臓を絞り上げられるような声を零《こぼ》すのへ、
「俺が全てを消す」
うっそりとボイルドが応じた。シェルの苦渋に満ちた目が、微かに見開かれた。
「弁護士との打ち合わせの時間だ」
そう言って立ち上がろうとするボイルドの腕を、シェルが握りしめた。
「頼む……。俺を……もう一度、違う人間にするのを手伝ってくれ」
ボイルドは、静かにうなずいた。
「やっぱり、母親殺しだな……」
ドクターが言った。神妙な顔つきだった。
「それがシェルの異常行動の大もとにある。記憶が失われていても……いや、失われているからこそ、感情や衝動に対する抑制の手段がなくなったのかもしれない」
〈どうして?〉
バロットが首のチョーカーに干渉して訊いた。チョーカーはウフコックだった。
「自分が恐怖や怒りを感じているにもかかわらず、何にその感情をぶつけたらいいのかわからない状況を想像してみればわかるさ。とにかく何にでもぶつけたくなるだろう? それが健全に、出世欲や競争心や自己満足によって昇華されているうちはいいけど、昇華が不可能な事態に陥ったら、もう歯止めは利かなくなるさ」
「シェルは、その状態を何度か繰り返すうちに、それを自己一貫性とみなしたようだ」
クリスタルの中の、幾何学模様姿のウフコックが言った。
「記憶の喪失に対する防衛の結果かもしれない。母親の亡霊を恐れる以上に、自分が自分の意志で[#「自分が自分の意志で」に傍点]、少女たちを犠牲にしているのだという意識が、非常に強かった」
〈恋人が死んだからだと思う〉
ぽつっとバロットが口を挟んだ。
〈シェルが本当に好きだった子。自分と同じような過去を持ってることが、シェルにもショックだったんだと思う。自分たちが、お互い、そういう人間[#「そういう人間」に傍点]を選んだってことが〉
バロットは、悲しみが胸に湧くのを感じていた。不快感や苛立ちもあったが、それでも悲しい気持ちが一番強かった。まさかシェルにも、自分と同じような経験[#「自分と同じような経験」に傍点]があるとは思ってもいなかった。それどころかシェルはひたすら、そういう少女[#「そういう少女」に傍点]を見つけ出しては、シェルのいう綺麗なもの――ブルーダイヤや金や、出世への階段に変えてきたのだ。
綺麗にしてやる[#「綺麗にしてやる」に傍点]。俺が綺麗にしてやる[#「俺が綺麗にしてやる」に傍点]。最初にシェルがそう叫んだとき、きっとその声には、切々とした精神の血がみなぎっていたのだろう。それが焦げ付くまでは。
「共感《シンパシー》か……。人は、確かに、自分と共通したものを求めるものだけど……」
ドクターが、ぼそっと言った。それから場を取り繕うように空咳《からぜき》すると、
「チップからコピーした記憶は、法務局《プロイラーハウス》に提出済みさ。後は、検察の立ち合いのもと、シェルの脳と、チップの記録を、時系列に沿ってシミュレートしていくだけだ。指紋の照合と同じさ。今日の裁判は、その照合を行うことを法的に認めさせるのが目的だ」
〈私の役目は?〉
「シェル側のごねり[#「ごねり」に傍点]に対する一種の口伽《ギャグ》さ。前回のようなことは、ないよ。シェルにしてみれば冗談《ギャグ》にもならないだろうね。むしろ辛いのはシェルだ。自分でも忘れちまった過去を、あれこれ審議されるんだから」
〈お母さんを殺した記憶も?〉
「……当時十八歳のシェルが、母親の保険金を考慮に入れた上で、殺害を計画したのは確かだからね。車のブレーキホースに細工して。行動倫理に大きな影響を与えたことは間違いない。母親との性的な関係も……」
そこでちょっとドクターが口ごもり、別の話題を探した。
「うん、まあ……このシェルの母親ってのが曲者でね。検事局の記録を検索したら、保険金詐欺で何度か逮捕されてた。夫は死んでるけど、保険金目当てに彼女が殺した疑いまであるくらいだ。シェルがそれを知って真似をした可能性は高い。母親は随分、シェルに暴力を振るったみたいだから、児童虐待《ミスハンドル》が巡り巡っての交通事故《ミスハンドル》ってところさ」
ドクターが強引に笑ったが、バロットはじっとうつむいたままだった。
「あまり愉快な洒落《しゃれ》ではないな、ドクター」
ウフコックが、バロットを代弁して言った。ドクターは首をすくめながら、
「シェルの過去については証左として有力というよりも……陪審員の好奇心の問題さ。検事は喜んでるよ。これで間違いなく、うまくことが運ぶ[#「うまくことが運ぶ」に傍点]ってね」
どこか皮肉そうな口調だった。実際これ以上の皮肉はなかった。前回の裁判で、バロットは徹底的に、その過去を攻撃されたのだ。それでむしろ自分の過去を吹っ切ったのだし、そうせねばあの時点で心が死んでいた。
それが今度は、シェルがまるきり逆の立場になったのだ。それも、シェル自身、とっくに頭の中から消失し、ただ形のないトラウマだけが残っている状態で。
「これは復讐ではない。余計なこと[#「余計なこと」に傍点]を喋って時間を無駄にするなと検事に言っておけ」
ウフコックが言った。それこそ、バロットの代弁であるというように。
「二次事件の申請はすでに済んでるんだ。本命を釣り忘れるな」
「まあ、ゴシップをぶら下げて陪審員とマスコミを煽るのが僕らの仕事じゃないさ」
〈ありがとう〉
バロットが告げた。ドクターはちょっと意外そうな顔で、
「確信はないけどね。向こうの弁護士だって、相当のやり手なんだ。薮をつつくのは、多分、シェルのほうさ。その場合、僕が検事の発言を遮《さえぎ》ることは難しい」
それから、ふと口調を変えて、真摯な顔でバロットを見つめながら、言った。
「ただ――僕の見識なんだけど。記憶ってのは、一部分を削り取ったって、むしろ、削り取った形[#「削り取った形」に傍点]で残るんだ。失われた記憶の輪郭を強調するだけで、その後の倫理観に悪影響を与える場合が多い。オクトーバー社の技術が、どれだけいい加減で、その場しのぎにすぎないかってことが証明されたようなものさ」
〈記憶が戻れば、シェルは誰も殺さなくなると思う?〉
バロットが、真顔で訊いた。これに、ウフコックが答えて言った。
「記憶がないことがシェルの衝動を助長しているのは確かだ。記憶が戻ることで殺意や強迫観念が大幅に解消される可能性はある。だがシェル自身がそれを望まないだろう」
〈私も、そんな過去は要らない〉
バロットはそう告げて、じっとうつむいた。やがて、ウフコックが静かに言った。
「過去は化石だ。それまでの時間が、その後の時間に影響を与えるという考え自体、化石にとらわれている。シェルは選択を間違えた」
〈……間違えた?〉
「少なくとも、君のように耐えたり、戦ったりはしなかった。ただ犠牲を求めた」
バロットは少し考えてから、ウフコックに触れ、告げた。
〈あなたたちが助けてくれた。ありがとう〉
ドクターが大げさに両手を振り、ちょっといたずらっぼく微笑みながら、
「今の録音しといたか、ウフコック。法務局《プロイラーハウス》にスクランブル―|09《オー・ナイン》の有用性を訴えるには、最高の言葉だったぞ」
「バロットの許可もなく、俺がそんなことをするわけないだろう」
「なんだ、勿体《もったい》ない」
それで、バロットもちょっとだけ笑った。
人生の報いが絡まり合ったような嫌な気分が、少しだけ解《ほど》けたような気がした。
法廷は、それから三十分後に開かれた。
行われた裁判はいつものように長く、緩慢だったが、シェルの弁護側は無用に抵抗せず、撤退しながら活路を見出そうとしていた。そのお陰で、シェルの過去が裁判で取り沙汰されることはあまりなかったが、シェルがそのことで感謝する気はなさそうだった。
始まってから四時間後の午後十六時五十分をもって、裁判は終わった。
シェルは拘置所に連れていかれた。
2
ふいに、メッセージの着信を報《しら》せる音がした。
ドクターが不審そうな顔で、手帳型のディスプレイを上着のポケットから取り出した。
少し早めの夕食――法務局《プロイラーハウス》のすぐ近くの高級レストランでのことだった。
弁護士たちが勝訴を祝ったり、被害者の一族が賠償金を獲得した喜びを食事という形で表す場所だ。そこでバロットも、結審を目前にした前祝いをしていた。贅沢な食事を楽しむというより、そうすることで区切りを付けるために。これまでの自分を乗り越え、新たに踏み出すためのディナー。それがウフコックとドクターの気遣いだった。
「検事からだよ。示談交渉の即日申請が来てるってさ」
ドクターが、ディスプレイから目を離し、チョーカー姿のウフコックを見た。
「現行の事件に対する関係者じゃないと、わざわざ断りを付けて申請してるって」
「名義は?」
「例のオクトーバー社の取締役員だ。シェルの上司筋であり……婚姻筋さ」
〈どういうこと?〉
バロットが割り込む。するとドクターが安心させるような笑みを浮かべた。だが眼鏡の向こうの目は全く笑っていない。むしろ鋭く研ぎ澄まされた感じがした。
「カジノで、シェルの隣に男がいただろう。クリーンウィル・ジョン・オクトーバー――そいつが、僕らに、事前に交渉しようと申し込んできたんだ」
〈何を交渉するの?〉
「いわゆる二次事件ってやつだ。そもそもシェルに悪事《ビジネス》を命じたであろう、オクトーバー社の関係者全員が対象だ。僕らはより大規模な悪事《ビジネス》を暴くために、母事件である君の事件を最大限活用[#「活用」に傍点]する。奴らは、それを恐れて事前に情報公開を求めて……」
〈活用[#「活用」に傍点]……?〉
バロットがちょっと眉をひそめたので、ドクターは慌てて手を振ってみせた。
「まあ、君が今回の裁判で手に入れたチップ[#「チップ」に傍点]には、それだけの力があるってことさ」
〈犯罪者を追加《ヒット》するってこと?〉
「結局はシェルも、オクトーバー社の犠牲者みたいなものだ。シェルの記憶を覗いた君が、そのことを一番よく知ってると思うんだけど……」
バロットはうなずいた。ウフコックは黙っている。ドクターが言った。
「シェルが子供の頃に受けた脳手術――|A10《エーテン》手術からしてオクトーバー社の技術だ。それがシェルの、オクトーバー社への従属意識に影響を与えている可能性がある」
〈頭をいじられて、オクトーバー社の奴隷にされてたってこと?〉
「思考を支配してるわけじゃないけど、人工的に快楽中枢を刺激する上で、オクトーバー社を盲目的に肯定するように設定されていた可能性は大だ」
〈……どうやって?〉
「たとえばオクトーバー社の名前や社章を目にしただけで、ほんの少し気分が良くなるように設定する。その気分の良さが何十回、何百回と繰り返されれば、シェルにとってオクトーバー社は絶対的なものになる」
〈シェルはただ、逃げたかっただけだと思う。自分の人生から〉
バロットがぽつっと告げた。そこで初めてウフコックが声を出した。
「逃げ道を用意したのがオクトーバー社だ。それは極めて強引な誘導[#「誘導」に傍点]だ」
バロットは小さくうなずいた。シェルの記憶を覗いたときの感覚が蘇っていた。
〈シェルは、オクトーバー社の下で働くのは、魚が生まれた場所に帰ってくるのと同じだって、自分で思ってたみたい。自分は放流された魚みたいなものだって〉
それから、まっすぐにドクターを見つめ、訊いた。
〈それは、私の事件[#「私の事件」に傍点]?〉
ドクターがうなずきかけたところへ、ウフコックが口を挟んだ。
「君は、すでに自分の事件を解決している。これ以上、危険な目に合う必要はない」
「おい、ちょっと待てウフコック。母事件は彼女の事件[#「彼女の事件」に傍点]だぞ。シェルはまだ自由を制限されたにすぎず、オクトーバー社は依然として安泰だ。それに彼女は民間協力者として、正式な承認と評価を得ているんだぞ。お前の使い手として、彼女は絶対に必要だよ」
だがウフコックは賛同せず、珍しく声を高くして、言い放った。
「我々が率先して、バロットの焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]を増やすつもりか」
ドクターはわずかにたじろぎ、それから慌ててかぶりを振った。
「今回の裁判で、バロットの生命保全プログラムは無期限に延長された。要するに、いまだに危険だってことさ。ボイルドがどう動くかわからないし、交渉次第ではオクトーバー社が、シェルとバロットの両方の命を消そうとする可能性だってあるんだよ……」
〈煮え切らない人〉
バロットが、そっと告げた。ドクターが言葉を呑んだ。ウフコックも黙った。
〈私が、これ以上、焦げ付くことを心配してくれて、ありがとう〉
ウフコックがバロットの心を敏感に嗅ぎ取るように、バロットもまたウフコックの気持ちを、鋭く感覚していた。ウフコックは、シェルの記憶を読んだとき、バロットをあの悪夢のような光景から引き剥がせなかったことに対し、忸怩《じくじ》たる思いでいるのだ。
〈私が選んだことだから。私はあなたを有意義に使う。だから私を導いて〉
「この先にあるものが、君にとって、必ずしも気分の良いものではないとしても?」
〈ベル・ウィングは、あなたは私の聖霊だって言ってた。聖霊は、厳しくて優しい。気分が悪いものから逃げてたら、シェルが頭をいじられたことと一緒だと思う〉
なぜ自分なのか――それを、まだまだ知りたかった。自分が関わったこの事件に、この先、どんな意義があるのかを。
シェルや自分が落ち込んだ焦げ付きの向こう側にあるものを、見定めたかった。
自分たちの人生にも、少しくらい有意義な意味があるのだと思えるようになるために。
そういう気持ちが伝わるよう、チョーカー姿のウフコックに触れ、祈るように告げた。
〈これは、私たちの事件[#「私たちの事件」に傍点]。あなたたちの解決の仕方を、教えて〉
ウフコックは黙っていた。それから、無言で、バロットを連れ出すことを受け入れた。安全な場所から、嫌なものでいっぱいの、事件の渦中へ。
「二次事件の解決者として、バロットに、俺を使用してもらう」
ドクターが、あからさまに安堵の溜め息をついた。
「僕自身には全く適性[#「適性」に傍点]がないからね。どんばちは大の苦手だ。事件のメンテナンスは僕の仕事だけど、いざというときは、バロットに守ってもらわないと」
バロットはうなずいた。ウフコックを使ってということなら、自信は十分にあった。
「ようやく本命が食いついてきた。さあ、行こう。僕らの事件[#「僕らの事件」に傍点]を解決しに」
ドクターが会計を済ませている間、バロットはトイレで身支度[#「身支度」に傍点]を整えた。
裁判用の丈の長いスカートをまくりあげ、下着を脱いでトイレの上に放った。
靴を脱ぎ、ソックスを下着と一緒に置いた。それから背中に手を回して服の上からプラのホックを外し、服の上下のベルトをゆるめ、チャックを開く。
バロットは自分が身につけるべき殻《スーツ》を明確にイメージした。
――準備できた。
チョーカー姿のウフコックに触れ、そのイメージを伝えた。
ウフコックの変身《ターン》は素早く、完璧だった。チョーカーから白地のボディスーツが広がり、衣服とバロットの肉体の間に滑り込んでゆく。瞬く間にバロットを包み、足の爪先から手の指に至るまで完全に覆い尽くした。たとえようもない力強さとともに。
バロットは衣服を整え、靴を履き、トイレを出た。洗面台の鏡をちらっと覗き、軽くスーツをいじって、上に着ている服に合うよう、デザインと色を整えた。
レストランに戻り、ドクターとともに駐車場へ向かった。
赤いオープンカーは、この一週間ですでにリカバリーされている。
ほとんど開店休業中のような法人名でメーカー登録された車だった。その修理を請け負った会社は、その法人と、幾つかの部品の仕様に関して共同契約を結んでいた。
メイド・バイ・ウフコックの部品の仕様。ウフコックの存在はまだ架空の人間としてしか認められていなかったが、ウフコックが作り出したものの一部は、そうして存在が認められているのだ。その車に乗り込み、ドクターがキーを差し込みながら、運転をフルオートに設定した。ハンドルがフロント部分にはまり込み、音を立てて固定される。
「飲酒運転だからね。少し時間はかかるけど自動運転で行こう」
バロットがシートベルトを締めるとともに、車が走り始めた。
目的地は、ノースサイドにある高級パブで、所用時間は十分ほどだった。
「ちょっと失礼」
ドクターが助手席のほうに身を乗り出し、指紋照合の電子鍵に指を触れ、ダッシュボードを開いた。中には地図や財布の他に、小型の拳銃や、瓶詰めの錠剤が入っている。
ドクターは拳銃を上着の内ポケットに収め、瓶を手に取った。
錠剤は、アルコール分解促進剤と、カフェインだ。ドクターはキャンディのように錠剤を口の中に放った。瓶を元に戻し、ダッシュボードを閉めた。
「さあ、どう出てくるかな……?」
「一見して正当な手続きを踏んできている」
ウフコックの声が、バロットの左手の辺りでした。ドクターがうなずいた。それだけの会話で、注意すべきことは全て確認したとでもいうように。
バロットはまっすぐ進路を見つめた。自分にはまだ学ぶべきことが沢山あると思った。
「嫌な臭いだ。いかにも待ち構えている。一人や二人ではない。最低五人はいる」
パブから二ブロック離れたところで車を停めた途端、ウフコックが言った。
ドクターは手帳型のディスプレイをのぞきながら肩をすくめ、
「なるほどね。あのパブはチェーン店だけど、店舗の名義はオクトーバー社の飲食店系列のものだよ。重役なんか滅多に来そうもないけど」
「いつでも店ごと消せるというわけだ」
「企業帝国の、荒ごと専門の来賓室さ。僕らが入る代わりに、ここからあの店に向かってロケット弾でも撃ち込もう。どうせダミー店舗なんだし」
バロットは一瞬、本当にそうするのかと思って身構えたが、
「我々はテロリストか?」
ウフコックの呆れたような声で我に返った。
「向こう側が正当な手続きを踏んでいる間は、こちらもそれに応じるべきだ」
「気乗りしないけどね。形式としては、何かしらの情報提供をたてに、示談交渉を進める構えだろう。こちらが金で動かないことは、向こうも察しているはずだけど……」
「では、金以外のものはひと通り用意しているとみて良いだろう」
〈銃を使うの?〉
「うーん……戦闘的行動は、ウフコックと君に任せるよ。僕は交渉ごと専門で、いざとなったら一番に逃げるね。そういうことで良いかな?」
ドクターが真顔で言うのへ、バロットは思わずうなずいていた。
「よし、それで行こう」
ドクターはそう決めるなり車を降りて、落ち着いた通りにある、落ち着いたパブに向かつて歩いていった。バロットもそれにならい、やがてパブのドアをくぐった。
ドアは二重で、一つ目のドアをくぐった際、バロットは違和感を感じた。
誰かに見られているような感じだ。ドクターも、何かに気づいているようだった。
二つ目のドアを開き、おもむろに店に入った。客はみな紳士然としており、葉巻をくわえ、ブランデーを片手に新聞を読み、小難しい言葉で株や商取引の話をしたりしている。
嫌煙権の行使を逃れたレジスタンスたちの、解放地区といったところだ。
バロットはドクターとともにカウンターの真ん中に座った。法廷帰りの格好でなければ恐ろしく浮いているところだ。カウンターには誰も座っておらず、周囲には革張りのソファとテーブル、そして緋色のカーテンのかかったボックス席があった。
ドクターがカウンターからボトルの一つを指さし、色々と注文をつけて頼んだ。
頭の禿げ上がった初老のバーテンがうなずき、バロットを見た。バロットは何も欲しくなかったが、小さい頃に見た西部劇で主人公が酒場で頼んでいたものを思い出した。
〈ミルクをください〉
チョーカーのクリスタルに干渉し、告げた。バーテンはちょっと変な顔をした。
頼んだものが悪かったのか、電子音声に驚いたのかはわからない。そもそもバロットのような存在がこんな店にいること自体変だったが、バーテンは何も言及せず、
「氷は、お入れしますか」
と訊いてきた。それは西部劇にはないセリフだった。
バロットはやや考えてから、神妙にうなずいてみせた。
バーテンは手慣れた動作で二つの飲み物を用意した。ドクターの飲み物を出す際、ボトルの銘柄がわかるよう、カウンターに置いた。バロットはてっきり自分も同じようにミルクのパックをカウンターに置かれるのかと思ったが、そうではなかった。
バーテンはグラスを置くと、そのままカウンターの端っこのほうへ行ってしまった。
「僕もそれにしておけば良かったかな」
ドクターが笑いを含んだような声で囁いた。バロットは首を傾《かし》げた。
「交渉相手が来るまでの気付けだ。もうすでにどこかにいるのかもしれないけど」
そう言ってドクターがグラスを手にした。そのときだった。バロットの左手がひょいと勝手に上がり、ドクターの肩に置かれた。
「即効性の睡眠薬だ。バロットのほうには入っていない」
ウフコックが、ぼそっと告げた。ドクターが、呆れ顔になった。
「狙いはバロットか。いまだに事件当事者の失踪を狙ってるんだ。しつこいなぁ」
「バーテンもふくめて、店内の七人全員が軽武装している」
それを最後に手が離れた。ドクターは肩をすくめつつ、グラスを握り、
「こうなったら、僕の出番はないな。後は任せるよ」
バロットのグラスに軽く打ち付けるや、一気にグラスの中身をあおった。
「ううっ、さっき拮抗剤を飲んだばかりなのに。胃が悪くなる」
苦い顔をするドクターに、バロットの目が丸くなる。
その直後、店のドアが開き、恰幅の良い男がにこにこしながら入ってきた。
「ミスター・イースター? 私が、ご連絡したライズビルです」
「オクトーバー社の顧問弁護士――?」
ドクターは、さっそくとろんとした目を男に向けている。演技なのかどうか、バロットにもわからなかった。ライズビルが微笑んだ。
「その一人ですよ。主に刑事事件、損害賠償事件を扱っております。お待たせしまして本当に申し訳ない。さ、あちらの席にお移り下さい」
「ああ、どうも、ご丁寧に」
ドクターは、雲の上でも歩くかのようにボックス席へ向かった。バロットも後を追う。
最後にライズビルと名乗る男が、幅広い体を押し込めるようにして席に着いた。
「この方と同じものを」
ライズビルが、バロットたちのグラスを運んできたバーテンに告げた。
「何かお飲み物は?」
「いえ、けっこう」
ドクターのろれつが怪しくなり始めた。実にあからさまだったが、本当に眠そうではあった。確かにドクターは働きづめだった。バロットはドクターの肩をそっと叩いた。
起こそうというのではなく、むしろ安心して眠るよう促したつもりだったが、ライズビルには少女が不安がっているように見えたらしかった。
「どうやらお疲れのご様子。手短にお話ししたほうがよさそうだ。大丈夫ですよお嬢さん、帰りは私どものご用意したハイヤーでお帰り頂こうと思っておりますので」
「事前交渉の申請は、今日の午後付けでしたね?」
ドクターが大きな欠伸《あくび》をしながら確認した。
「書類自体は、あなた方が法定手続きを取ったときにすでに用意しておりました」
「そいつはご丁寧に」
「はあ、いや、それで、我々は立場こそ違えど、ともに前途ある市民を保護し、企業の健全な発展を促すことを仕事としておりますわけで」
「そうなのかな。まあ、そうなんだろうね」
「ええ、で、私どもとしましては、今、あなた方が裁判で争っているシェル=セプティノス――彼の前途を非常に憂いておりまして」
「そりゃ、何から何まで知ってるもんなあ、やつは。で?」
ドクターが馬鹿馬鹿しげに言ったが、ライズビルのほくほくした笑顔は、鉄扉のように分厚かった。さも困ったように肩をすくめながら、バロットに笑みを送ってきた。
そういう笑みを浮かべる男が次にどんな表情をするか、バロットはよく知っていた。
「彼が犯した罪、これは仕方がありません。ですが彼の更生する機会までも奪っては、法の意義がなくなってしまいます。私どもとしては、彼に反省と更生を促しながら、彼を支援してゆきたいと思っている次第なのです。もちろん、彼が支払いきれない分の補償金は、私どもでご用意しますよ、ミズ・ルーン=バロット」
ライズビルがにたっと笑ってバロットを見た。これだけ払うのだから、と男がいうときの、独特の非難めいた色合いが、顔のそこかしこに浮かんでいた。
「そうしてシェルは、オクトーバー社の奴隷として生涯を終えました、とさ……。やつの裁判で余計なことにさえ言及しなければ、金一封ってところかな」
「おやおや、ミスター・イースター。あなたは裁判でもそのような話し方を?」
「心の中ではね。応答責任にもとづいた返答は、正式な電子書類で後日送らせてもらうよ。ただし、パスワードのデコードよりも短い文章だけど」
「それはどのような?」
「くそ食らえ。親愛なる風船野郎へ」
ライズビルの分厚い唇が、きゅっと吊り上がった。
頬に赤みがさし、目が血走った。それでもまだ微笑んでいる。実に気持ちが悪かった。
「僕らの仕事は事件解決であって法廷劇はその一部にすぎないんだ。あんたは頑張って判事を騙して疑問の余地ある裁定を出させ、それを根拠に上訴に持ち込めば良い」
ドクターはにっこり笑うと、そのままテーブルに向かって前のめりに倒れた。
ごつん、と大きな音を立ててドクターの額がテーブルにぶつかった。
バロットはちょっと慌てた。ドクターが怪我をしなかったか心配したのだが、ライズビルは別の解釈をしたらしかった。
「ミルクは美味しかったかい、お嬢ちゃん」
ライズビルがこもったような声で言った。
「恨むんなら、あんたが依頼したこの馬鹿を恨むんだね」
今や赤黒くさえある頬を膨らませて、ライズビルが身を乗り出した。形相が一変して、怒りと喜びとでぐちゃぐちゃになったような顔だ。今にもよだれをしたたらせんばかりになって分厚い手を伸ばすのを、バロットは眉をひそめてひょいと避けた。
「武器がないのは、X線で確かめてあるんだ。その男のポケットにしかないんだろう?」
ライズビルがにたにた笑って言った。それが入り口での違和感の正体だった。いつの間にか、あちこちのテーブルから人が集まりつつあるのがわかった。
――ウフコック、この人たちは敵でしょう?
バロットは、行動に出る前に、きちんと確認した。
「そうだ。君の身柄と引き替えに、我々にチップを棄てるよう強引に要求する気だ」
ウフコックがきっぱりとした声を上げた。途端に、ライズビルが妙な顔になった。
「誰が喋ってるんだ……」
――撃って良い?
「最低限度だ。相手に合わせてこちらの品位まで下げる必要はない」
テーブルの下で、バロットの左の手袋に、鋼鉄の重みが生じ、それを構えた。
炸裂音が轟き、ライズビルがけたたましい叫び声を上げてのけぞった。本当は股間を狙いたかったが、ウフコックが賛成せず、相手の足の甲を撃ち抜くにとどめた。
バロットは素早くテーブルを持ち上げ、ウフコックがそれを助けてくれた。スーツの一部が変化して骨格を形成し、テーブルはまるで紙細工のようにひっくり返った。
ドクターをソファのほうに放り出し、グラスが床にばらまかれた。氷がガラスと一緒に盛大に砕け散る。どこかで見た光景だと思ったら、やっぱり西部劇だった。
「殺傷力を極力、抑える。いいな」
――わかった。
バロットは緋色のカーテン越しに、立て続けに撃った。叫びが上がった。テーブル席のほうで、銃や電撃弾を取り出した順に、三人の男が両肩を撃ち抜かれて悶絶したのだ。
他の男たちが慌てて撃ちまくった。ひっくり返したテーブルが銃撃で震えた。その陰からひょいと手を伸ばし、バロットは撃った。一発たりとも無駄弾を作らず、二人の男の手の中で、銃がいきなり炸裂した。弾倉を撃たれたのだと知るすべもなく、男たちの指が砕け散り、ついで二人とも膝のすぐ上を撃たれて倒れた。
バロットはテーブルの足を小脇に抱え、ボックス席から跳び出した。
自分の体重くらいはある木の塊を抱えて盾にするバロットに、男たちは愕然となり、慌てて撃ちまくった。その一人一人の鎖骨を、バロットは正確無比に撃った。
そのときカウンターの向こうからバーテンがショットガンを手にして現れた。
バロットは、そちらを見もせず、ひょいと真横に銃を突き出している。バーテンは両肩を撃たれ、信じられないという顔で、立ち並ぶボトルと一緒にもんどり打って倒れた。
最後の一人は呆然と銃を構えている。手にしたテーブルからバロットがちらっと顔を出すなり、男はぎょっとして撃った。弾丸はこの至近距離でかすりもせず、逆に跳弾が男の腕をかすめた。男は悲鳴を上げ、跳ね飛んだ弾丸はそのままカウンター脇の鏡に当たって亀裂を走らせた。てっきり粉々になるかと思ったら、案外丈夫な鏡だった。
バロットは、手にしたテーブルを振りかぶると、男に向かって投げつけた。
男は甲高い叫び声を上げ、テーブルごとボックス席にすっとび、動かなくなった。
優秀なエアコンが、硝煙で白く濁った空気を清浄にしてゆく。誰も死んでいなかったが、満足に動ける者はいない。バロットは銃の弾倉を放り出し、新たにフルセットの弾丸とともに内部から装填させ、元いたボックス席に戻った。
そこでは、うんうん呻《うめ》くライズビルにのしかかるようにしてドクターが幸せそうにいびきをかいている。バロットが肩を叩くと、ライズビルは悲鳴を上げて壁に巨体を押しつけた。そうしていればそのまま壁をすり抜けられるとでもいうようだ。
「俺は雇われただけだ、勘弁してくれ」
これが都市で人気ナンバーワンの職業に就いた男の言葉かと思うと情けなくなった。
――どうするの? 帰る?
「雇い主を確認しよう」
バロットの右手で、ぐにゃりと手袋が歪み、携帯電話を形づくる。
バロットは、それをライズビルの膝元に放った。
「お前の雇い主にかけるんだ。直接、話がしたい」
携帯電話からウフコックの声が響き、ライズビルは恐怖の顔で慌ててそれに従った。
何回目かのコールののち、回線がつながり、ライズビルが、ごくりと唾を飲んで、
「……ラ……ライズビルです。交渉相手が、その、直接話がしたいと……ええ、はい」
おそるおそる電話を返してきた。バロットは電話を耳にあてもしない。スーツの中のウフコックと電話の相手とをつなげれば[#「つなげれば」に傍点]良いだけだった。
「ミスター・クリーンウィル? こオクトーバー社エンターテイメント・グループ常務取締役の? こちらは委任事件担当官のウフコック=ペンティーノだ」
ウフコックはライズビルにも聞こえる声で告げた。バロットは、ライズビルの怯えた顔を見るのが嫌になって、カウンターのほうに歩いてゆき、ミルクのパックを探した。
電話からは、クリーンウィル・ジョン・オクトーバーの笑い声が響いている。
〈カジノでは随分と面白いゲームを見せてくれたな。最後の一万ドルの使い道は何かね? 日頃食べられないものを食べる? 気晴らしの旅行?〉
「ゲームは終わりだ。そちらを、恐喝罪で逮捕する」
〈私が指示をしたという何の証拠もない。証人もいない。誰も取り上げんよ〉
バロットは肩をすくめた。こんな人間と会話をするのが自分でなくて良かったと本気で思いながら、銃をカウンターに置くと、その下の冷蔵庫からミルクのパックを出し、割れていないコップに注いだ。これでは完全に強盗だったが、他にすることがなかった。
氷を入れ、カウンター席に座ってミルクを飲んだ。ウフコックたちが会話をしている間、所在なげに、カウンター脇に設けられた大きな鏡を見つめていた。
〈それよりも示談交渉を進めたらどうかね? 裁判は白紙に戻るのだから〉
「白紙――? 対抗事件を設定して、こちらの事件を潰すことは、もう不可能だ」
〈我々はすでに事件申請をし、君たちと同じ人間を告訴する用意がある〉
「同じ人間を告訴[#「同じ人間を告訴」に傍点]だと?」
〈シェル=セプティノスは、我々が所有するカジノに不当な損害を与えた。イメージを汚し、不正融資を受け、遺産の割譲まで主張してきた〉
「都合の良い言い分だ。それに遺産分配は、婚姻関係にある上では当然だろう」
〈婚姻?……ああ、そうだったね》
そこでジョンは妙な笑い方をした。
〈一枚岩の親族経営が、我が社の最大の強みでね。あの娘[#「あの娘」に傍点]にしては、悪くない男に譲渡できて喜ばしいと思っていたのだがね〉
バロットのグラスを握る手に力がこもった。そしてふと、この建物に違和感を感じた。
〈シェルという男、私はそれほど嫌いではなかったよ。頭も切れるし、我々にはない執着心がある。その前途を非常に憂いているという点でも、決して嘘ではない〉
バロットの中で、ふいに違和感が形を伴った。ジョンの言葉の、何かが引っかかっていた。それが何であるか、バロットは注意深く考えた。
〈我が社もまた被害者[#「被害者」に傍点]なのだよ。シェルを共同で訴えるか、それとも、君たちと取り合うかだ。十分に交渉の余地があるとは思えないかね?〉
「投獄した後で、死刑制度のある州に送り込んで、合法的に殺すつもりか」
ジョンが笑った。バロットにはその笑い声が、電話を通してではなく、直接響いてくるもののように聞こえた。ジョンは先ほど、前途を憂いているというのは嘘ではないとシェルのことを言った。憂いているというのは、誰が告げた言葉か。ライズビルだ。
〈投獄の後の判断は、今教える必要はない。今のところ、現行の事件に基づき、婚姻関係[#「婚姻関係」に傍点]にある者が被害を受けた件で、事件担当官の引き継ぎを行うだけだ〉
「引き継ぎだと……?」
〈シェルは、じきに、事件委任の権利を失う。彼が雇っている優秀な事件担当官を、我我が再雇用する。ディムズデイル=ボイルド――すでに契約の事前交渉は済んでいる〉
ウフコックが、珍しく呻くような声を上げた。
「ボイルドに、シェルを殺させる気か。貴様……」
〈せいぜいスクランブル―|09《オー・ナイン》の申し子同士で戦いたまえ。三博士≠フ理念を正しく受け継ぎ、この都市に歓迎されるのは、我々一族が経営するオクトーバー社だ〉
「三博士≠フ理念だと? では、お前たちの創業者を、この会話に出せるのか」
〈彼女[#「彼女」に傍点]は目覚めることのない眠り姫だ。脳死状態であることは知っているだろう〉
「オクトーバー社は、創業者が意識不明であることを利用し、三博士≠フ理念を曲解して、技術を濫用[#「濫用」に傍点]している。三博士≠フ誰もがそんなことは望んでいない」
〈そうかね? だがこの都市の大勢の人間が、それを望んでいる。我々一族は三博士≠フ申し子として、また彼女の子孫として、オクトーバー社を発展させる義務がある〉
「欺瞞だ。発展などという言葉で、犠牲者が出ることを正当化するのか」
〈知っているかね。|天国への階段《マルドゥック》≠フ由来を》
「なに――?」
〈マルドゥックとは、もともと女神の息子の名なのだよ。息子は、女神を殺して天地創造の業を奪い、神になった。我々は、三博士≠ェこの世に生み出した技術を有意義に使う。そのために古いモラルを廃棄し、社会の発展に尽くすのだ〉
「それは、お前たちが用意した勝手な幻想だ。モラルに新しいも古いもあるものか」
〈緊急時《スクランブル》という名の檻に自ら入ることで廃棄を避けた獣が言いそうなことだな。君たちスクランブル―|09《オー・ナイン》は、社会から危険視されている自分たちをどうにかしようとしているにすぎない。オクトーバー社はいまだかつて社会から危険視されたことなどないのだ[#「オクトーバー社はいまだかつて社会から危険視されたことなどないのだ」に傍点]〉
ジョンが高らかに告げた。その声が聞こえた方角[#「その声が聞こえた方角」に傍点]を、バロットは正確に察知した。
「自分が危険な存在でないと思う者に、モラルを語る資格はない!」
ウフコックが敢然と言い放つ。同時に、バロットが素早く動いた。
手にしたグラスを、カウンター脇の鏡に向かって、思い切り叩きつけたのだ。
先ほど、最後に残った男の放った弾丸が跳弾して当たり、亀裂を走らせた鏡である。
鋭い音がしてグラスが砕け、真っ白い液体が、鏡一面に飛び散った。
電話の向こうから、息を飲む気配が伝わった。それが確信となってバロットをさらに動かした。カウンターの銃を手に取り、ほとんど一挙動で内部の弾丸を撃ち尽くした。
ずいぶんと頑丈な鏡だった。十発以上撃ってようやく全体がひしゃげた。
ところどころで鏡壁が剥がれ、マジックミラーの向こう側の光景をあらわにした。
バロットは銃を投げ捨てた。さらにスーツの左手に干渉し、新たな銃を握った。
それから、銃口をぴたりと突き出し、ひしゃげた鏡の前に立った。
途端に、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。思わず銃の引き金に力をこめた。
そしてそれを、ウフコックがしっかりと内部から押しとどめてくれていた。
「ははあ……うっかりしていました。そんな所におられたとは」
ウフコックが、珍しく皮肉めいた口調で言った。ウフコックもウフコックで、よほど頭にきているらしい。
「あまり良いご趣味ではないようですな。一見して幾つかの法に違反している」
鏡の向こうに、衣服の乱れた五、六人の男女がいた。ジョン以外、みんな若かった。
というより、幼かった。真ん中で、ライズビルに遥かに勝る巨体が、電話を手に、ナイトガウン姿でソファに寝そべったまま唖然としてこちらを見ていた。
「こ……ここは私有地だ」
カジノで見た巨体――クリーンウィル・ジョン・オクトーバーは、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしながら、やっとそう言った。
「なら、踏み込むのはよしておきましょう。ただし警察が来るまで、ここであなたを拘束させてもらいますがね。クリーンウィル・ジョン・オクトーバー、委任事件担当官の権限でもって、あなたを恐喝と――まあ、その他もろもろの現行犯で、逮捕します」
ウフコックは理性的だった。銃の安全装置も、最後まで解除してくれなかった。
「バロット、警察の応援を」
バロットはかぶりを振った。目の前にいる男とともに少年少女たちさえ、有無を言わさず撃ち殺したかった。ライズビルのにたにた笑いを思い出し、それが何を意味していたかを察して、血が心臓から逆流しそうな感覚に襲われた。
「バロット[#「バロット」に傍点]」
ウフコックが、語調を強めた。そのときだった。
「うわあーっ!」
いきなり絶叫が上がった。バロットもウフコックも、十分にそれを察知していた。
ボックス席で震えていたライズビルが、這い出してきて銃を構えたのだ。
バロットは振り返りもせず、左手の銃だけを、ひょいと肩越しに後ろに向け、撃った。
両肩と両膝を一瞬で打ち抜かれたライズビルが、金切り声を上げてのたうった。
バロットの目は、じっと、鏡の向こうの巨体を見据えている。クリーンウィル・ジョン・オクトーバーは、バロットの一瞬の銃撃に、完全に抵抗する気力を失った様子で、
「平和的に《イン・ピース》……平和的に《インピース》」
と両手を上げて、ぶるぶる震えている。
バロットは、その男を粉々《イン・ピーシズ》にしてやりたい気持ちを抑えながら、ゆっくりと壊れた鏡から後ずさり、携帯電話に干渉して警察につなげた。
あとは完全にウフコックに任せた。そうする以外に、何もできなかった。
バロットは立ちつくした。学ばねばならないことは、沢山あった。うんざりするほど。
パトカーのサイレンがパブの周辺に鳴り響いた。毛布をかけられ、当局に保護される少年少女たちを、バロットは赤いオープンカーの助手席から、ぼんやり見つめていた。
ジョン・オクトーバーは、銃を所持していた他の男たちとともにすでに連行されている。
「オクトーバー社の重鎮の一人が、こうもあっさり落とせるとはねえ」
ドクターが、気の抜けたような声を発した。まだちょっと眠そうだったが、ここに来る前よりも活気づいていた。これで、二次事件がさらに具体的に進行するのだ。
ウフコックがジョンとの会話の内容を伝えると、ドクターは顔をしかめた。
「ボイルドの奴、それじゃ、すっかりオクトーバー社の手先じゃないか」
「ボイルドは、今度はシェルを人質にする気かもしれない。オクトーバー社との示談交渉に応じる振りをして時間を稼ごう」
「奴らはお前が思うよりも焼けついてるさ。やるかやられるかだよ。シェルとその記憶は、僕らにとって唯一の材料なんだ。そのシェルを――」
そこでふとウフコックとドクターが押し黙った。
「シェルは今どこだ?」
ウフコックが、鋭い口調になって言う。ドクターが慌てて手帳を確認した。
「結審前の保釈が認められて、ホテルから半径二キロ以内の移動が許可されてる。検察局の専門家がマークしてるはずだけど……」
「このパブで起こったことがボイルドに伝わるまでに、どのくらいかかると思う?」
「もう伝わってるよ、きっと」
「急げ」
ドクターが素早く車を発進させた。ぼんやりしていたバロットは、いきなり動き出した車にびっくりしてシートベルトを締めた。
〈どうしたの?〉
カーステレオに干渉して訊く。ドクターがかぶりを振った。
「ボイルドだ。オクトーバー社からの命令がないまま、シェルを消すかもしれない。そうなったら、せっかくオクトーバー社の重鎮を捕まえたのに交渉材料がなくなる」
〈どうするの?〉
その質問に、ドクターではなくウフコックが答えた。
「ドクターは法務局《プロイラーハウス》のビルへ。我々はシェルが宿泊しているホテルへ向かい、シェルの身柄を委任特権で確保する」
――私がシェルの命を助けるの?
カーステレオではなく、直接、ウフコックにだけ干渉して訊いた。
「そうだ」
――変なの。
バロットは、ふてくされたように返した。
法務局《プロイラーハウス》に到着するや、ドクターは振り返りもせず跳び降りた。
バロットはそのまま、ディスプレイに入力し、車をシェルのいるホテルへ向かわせる。
ホテルの地下駐車場に着いたところで、ウフコックが告げた。
「ドクターから、情報が入った。663号室だ」
バロットは車のキーを抜いてポケットに入れ、大股でホテルのロビーを突っ切っていった。エレベーターに乗り、ふとパネルに四十階から上のボタンがないことに気づいた。
「非常事態だ。シェルの身柄の確保を最優先する」
バロットが尋ねる前に、ウフコックが告げた。バロットは、エレベーターを操作《スナーク》し、六十六階に向かった。エレベーターにも、そこから出たホールにも、誰もいなかった。
ふいに、左手の手袋が操作《スナーク》もなしに、ぐにゃりと歪み、鋼鉄の重みをあらわした。
「気をつけろ」
それで、バロットの気がいっぺんに引き締まった。ほとんど足音を立てずに廊下を渡り、目的の部屋のドアの前で立ち止まる。ドアの向こうを感覚したが、動く者はいない。
バロットはドアの電子ロックを操作《スナーク》し、ウフコックの助けを借りて、開錠《デコード》した。
ドアが開くなり、なま暖かい空気がどっと押し寄せてきた。
エアコンは動いていない。入り口脇の、大きな鏡台の表面が、湯気で曇っている。
水が流れる音がし、バロットはゆっくりとバスルームに向かった。オレンジ色に光るそこから、もうもうと湯気がたちこめ、部屋に広がっているのだ。
バロットは銃を構え、バスルームに入っていった。周囲の空間で誰も動いていないことを理解する一方で、たとえようもない嫌な予感がしていた。大きな鏡の前を横切り、磨き抜かれた大理石の上を歩いて、湯が溢れだしているほうへと向かっていった。
バロットの靴が、流れる湯を踏んだ。
バスルームのカーテンに手をかけ、一気に開いた。
目に飛び込んできたものに、バロットの心臓がどくっと大きな音を立てて震えた。
女が一人、湯の中で揺れながら、大きく0の字に開いた口を虚空に向け、声なき絶叫を上げている。顔が湯面に浮かんだまま、口の中で水がちゃぶちゃぶ音を立て、今にもこちらを向きそうな目が、熱湯に近い湯のせいで白く濁り始めていた。
服は着ておらず、長いブロンドの髪が、出しっぱなしの湯の中で白い体を覆っている。
その体のあちこちに、青黒い痣《あざ》が見えた。抵抗したせいでついた痣だろうし、抵抗することもできないでついた痣もあるのだろう。
バロットはそろそろと息を吐いた。蒸し暑い空気の中で、どっと冷たい汗が湧いた。
「シェルの婚約相手か……」
ウフコックが、ぽつりと呟いた。
その瞬間、バロットの全身を衝動が貫いた。すぐさまバスルームを出て、リビングに行き、テレビを睨み据えた。その機構を一瞬で読み取り、ネットにアクセスした。
「どうする気だ、バロット」
慌てたように声をかけるウフコックをよそに、テレビのスイッチがオンになり、瞬く間に街の地図が浮かび上がった。バロットはかっと目を見開いたまま、複数のセンターにログインし、片っ端からパスワードをデコードしていった。
「やめろっ。シェルを探す気か? 公共機関へのハッキング罪になるぞ。正当な手続きを踏むんだ。君まで暴走するな!」
テレビを睨み据えていたバロットの目に、涙が溢れた。顔をくしゃくしゃにして、その場に座り込んでしまった。声もなく泣きながら、手にした銃を捧げ持ち、
――シェルを殺させて。
悲しい顔で、ウフコックに干渉し、告げていた。
――さっきのあのクリーンウィルって男も殺させて。
「バロット、駄目だ……」
――お願い。そうさせて。その後で死んでも良いから。
「バロット……怒っているのか? それとも悲しんでいるのか……?」
バロットはかぶりを振った。その両方だった。因縁が渦を巻いている気がした。恐ろしい因縁だった。シェルが殺したのがなぜあの子なのか[#「なぜあの子なのか」に傍点]。あのバスタブで浮いている女の子。綺麗にしてやる[#「綺麗にしてやる」に傍点]。俺が綺麗にしてやる[#「俺が綺麗にしてやる」に傍点]。そういう声が脳裏に響いた。
――あの子もきっと、私と同じ[#「私と同じ」に傍点]なんだと思う。
バロットが告げた。血を吐く思いで、それをウフコックに言いつのっていた。
「同じ……? それは、つまり……」
ウフコックが言いさした。十分に理解が伝わったというように。バスタブにいる子が父親から何をされていたか。あるいは父親以外の男や女から何をさせられていたか。
――お願い、皆殺しにさせて。私なんか死んでも良いから。死んでも良いから。
「落ち着け。巻き込まれるな。落ち着いて呼吸を整えるんだ」
バロットは銃を握りしめ、体を震わせて泣いた。声もなく、息を荒らげて。
ありとあらゆるおぞましい因縁が、この部屋で結実していた。怒りではなく、悲しみが殺意になるのを、バロットはほとんど初めて体験した。シェルを殺すべきだった。オクトーバー社の人間全員を殺すべきだった。この事件にかかわる、ボイルドやドクターでさえ殺したかった。そして最後に、自分を撃ち抜きたかった。
――耐えられない。助けて。私を助けて。
ふと柔らかな体温が左手に生じた。ウフコックが現れようとしているのがわかった。
バロットは、請い願うようにして、上半身だけあらわにしたウフコックを両手に持った。あるいはそのまま握りしめ、一切を支配してしまおうとするように。
ウフコックの渋みのある赤い目が、バロットをまっすぐ見つめている。
その小さな頭の上には、バロットの涙がとめどなく降り注ぎ、その暖かな雨を浴びながら、ウフコックがぽつんと言った。
「良い匂いだ」
バロットは、目を細めて、自分が手にした、最大の武器であり、そして最後のモラルである一匹のネズミを見つめた。
「君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものがあるとすれば、これだという確信をくれる。俺に君を信じさせて欲しい。シェルもボイルドも何も信じられず、鏡の向こう側[#「鏡の向こう側」に傍点]にいる。クリーンウィルがそこにいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、同時に何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない」
それから、二人が初めて顔を合わせたときのように、両手を大きく広げた。
「俺は俺を、君に託す」
バロットの目にひときわ大粒の涙が浮かんだ。ウフコックが本気なのはわかった。
このまま全てをバロットに委ねる気でいるのだ。バロットがその気になれば、一瞬でウフコックの全てを操作《スナーク》しつくせるだろう。どんな濫用[#「濫用」に傍点]だって可能だろう。だがそれこそ、最後の制止だった。ウフコックは身を挺してバロットを止めてくれていた。
バロットはやがて小さくうなずいた。バスタブで湯が溢れる音がしきりに響いている。
バロットは大きく洟《はな》をすすってバスルームを振り返った。
するとそこで、ウフコックは何も言わずにまた銃の裏側へとぐにゃりと消えた。
何も約束しなかった。それなのに、ウフコックは再び手のひらへと消えてしまった。
バロットは、大きく息を吸った。自分の身を覆うメイド・バイ・ウフコックのスーツを全身で感じられるように。胸を膨らませ、ゆっくりと吐いた。それから静かに立ち上がると、バスルームに行き、バスタブの湯を止めてやった。
湯の中でゆらめく女の死体に背を向け、バロットは地下の駐車場に向かった。
車に乗り込み、ハンドル脇のディスプレイに干渉し、車を発進させた。
外に出るともう日が暮れ、冷たい夜が降りてきていた。
バロットは涙を拭い、前を見た。学ぶべきことは、沢山あった。本当に沢山あった。
「検察にはまだ報《しら》せるな。オクトーバー社の人間に先手を打たれたいのか」
ウフコックが、バロットの手に握られた携帯電話の中で、言った。
「……そうだ、シェルの名義を調べるんだ。今すぐに」
わずかに間を置いて、ドクターの驚いたような声が響いた。
〈女の生命保険金が振り込まれることを前提に、シェルは多額の借金をしてる。事実上、また[#「また」に傍点]女が金になってる。死亡証明は二時間前だ。どこの医者がこんな証明をするんだ?〉
オープンカーはまっすぐにドクターのいる法務局《プロイラーハウス》に向かっているが、途中で新たな情報が入ればすぐにでも進路を変える用意があった。新たな情報――シェルの居場所が。
バロットはぼんやりと前を見ながら、女の死に顔を思い浮かべていた。
「クリーンウィルは恐らく、シェルがあの女性を殺害することを予期していたんだ。シェルの事件委任の権利が失われると言ったのは、このことだ。これが公表されれば、ボイルドは正式にオクトーバー社の事件担当官になってシェルを確保するぞ」
〈信じられないよ……いくら何でも、実の娘を犠牲にするなんて〉
「相手の倫理観を問題にしている場合か。オクトーバー社がシェルの告訴を実行するのは時間の問題だ。シェルの居場所をなんとしてでも探り当てろ。隠密に、速攻で」
〈ボイルドの所在も不明なんだ。もしかするとシェルと一緒にいるのかもしれない〉
「情報開示責任をたてにして両者の居所を突き止めろ。警察は駄目だ。二次事件は、まだ事前交渉[#「まだ事前交渉」に傍点]の段階にあることが、こちらの唯一の突破口だ」
〈バロットにシュルを確保させる気かい〉
そこでバロットが、すっと目を細めた。シェルの確保――その言葉が、何かをバロットの中で思い起こさせた。今日の裁判が始まる前に、ドクターは何と言ったか。
「シェルを確保し次第、警官だろうが特殊部隊だろうが一帯を包囲させれば良い」
〈記憶が戻れば、シェルは誰も殺さなくなる〉
〈了解した。――何? 何だって? シェルの記憶? バロットが喋ってるのか?〉
〈ドクターが裁判の前に言った。シェルは記憶がないから自分を抑えられないって〉
〈ああ……。記憶喪失が、シェルの衝動を助長しているっていう、あれかい……?〉
〈私に預けて欲しいものがあるの。ちゃんと返すから〉
〈何だい? 預ける? まさか……〉
ドクターが息を呑んだ。そこへ素早くウフコックが後押しした。
「ドクター、バロットが必要と判断したものは、ためらいなく全て渡すんだ」
ドクターはわずかに口ごもったが、やがて吹っ切ったように、
〈シェルの確保に関しては、君たち二人組に任せるよ。法務局《プロイラーハウス》まで取りに――〉
それから急に、その声が切迫した口調に変わった。
〈来たぞ! ボイルドからの一次情報公開が入った。イーストリバー沿いの公衆電話から、シェルがボイルドに宛てて電話してる。今日の十七時頃だ。こちらも、さっきのパブでオクトーバー社の人間と交渉した[#「交渉した」に傍点]ことを公開するよ?〉
「やれ、ドクター。徹底的に、相手側に、情報を公開させろ」
〈その公衆電話の近くに隠れてる可能性を示唆してきた。銃撃の可能性をたてにして、具体的な居場所を開示させよう。検事には黙秘義務を押しつけた上で情報を集めさせる。それじゃ……バロット、欲しいものは用意しておくから、法務局《プロイラーハウス》まで取りに来てくれ〉
〈ありがとう〉
電話が切れた。車は法務局《プロイラーハウス》へと疾走し、ディスプレイには早くもシェルのいる可能性のある一帯の地図が表示されていた。
3
シェルが、ボイルドに指示されたホテルの部屋に辿り着き、ベッドに腰を落ち着けてまず最初に思ったことは、これでまた違う人間になれる、ということだった。
準備も整っている。完璧に、水も漏らさず。少なくともシェルがそう思える程度には。
大きなボストンバッグを膝の上に抱えたまま、ジャケットから多幸剤《ヒロイック・ピル》の詰まった瓶を取り出し、スコッチをあおりながら、カプセルを一つまた一つと、鳥が餌でもついばむように飲み込んでいった。その両手には七つのブルーダイヤが輝いている。
顔にかけた変光《カメレオン》サングラスは、今、若々しい子鹿色《フォーン》に光っていた。
やがて手から錠剤の入った瓶が落ち、スコッチの瓶が転がって絨毯に染みを広げた。
湧き上がる幸福感の中、どうして自分はここにいるのかという疑問がシェルの脳裏に浮かんだ。ここにいるということが、良いことなのか悪いことなのか。もしこの数カ月の大勝負に勝っていたら、と思うと、これは悪いことだ。だが勝負に負けても、自分は無事にこうしてここにいるのは、とても良いことだった。
自分は逃げ切ったのだ。恐ろしいものから駆け出し、安全な場所に辿り着いたのだ。
全てはまた白紙に戻り、嫌な過去は綺麗に消え去る。殻《シェル》である自分には少しも亀裂は生じず、ただ中身だけが捨て去られる。
新たな人生に向けての意欲が湧き、シェルはボストンバッグを抱きしめた。
自分は良い友人を持ったものだ。これ[#「これ」に傍点]を手に入れるには、あの逞しい友人が不可欠だった。あの狂った女をこれ[#「これ」に傍点]に変えるために。自分が湯船にあの女[#「あの女」に傍点]を沈めている間に、逞しい友人が必要な手続きを全てやってくれた。誇らしかった。いつでもあの女[#「あの女」に傍点]は追いかけてくるが、こうして自分はいつでも撃退し、打ち砕き、沈めているのだ。
シェルはバッグの端を開き、一方の手を突っ込んでかき回した。
中は新札でいっぱいだった。ぴちぴちの札束たちを手で弾きながら、どうだ[#「どうだ」に傍点]、良いだろう[#「良いだろう」に傍点]、もっとしてやろうか[#「もっとしてやろうか」に傍点]、とぶつぶつ呟いた。ふとその手が止まった。シェルは慌てて手を引っぱり出した。紙幣の角で、指先を何カ所か切ったらしく、血がにじんでいた。
シェルは血の付いた指を吸った。血の味が口の中に広がった。それはかすかに嫌な記憶を思い出させた。消されたはずなのに、わずかに記憶の空洞にこびりついていた過去。
無力な少年を叩きのめす巨大な存在の影がよぎった。ありとあらゆる嫌らしいことをさせられたという思いが湧いた。だがいつでも自分はあの女を沈めてきた。撃退し、皆殺しにし、汚いものを綺麗なものに変えてきた。誇らしかった。それが自分の人生だった。
うふっと笑いがこぼれた。肺が痙攣しているみたいに、うふ、うふ、と何度も繰り返し笑った。スコッチの瓶を探し、足下に転がっているのを見つけて、
「ほら、こうして俺は見つけてるんだ。俺が見落とすはずがない。そう。いつでも」
嬉々として残った液体を胃に流し込んだ。仰向けに倒れ、幸福感の中で眠った。
シェルの夢の中で、様々な女の顔が浮かんでは消えていった。
シェルは一人一人の名を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
そのうち女の顔がモンタージュのようにないまぜになり、目が三つあったり、鼻の真ん中から乳房が生えたりした。その混沌とした女のパーツがふいに寄り集まり、一つの顔になった。シェルは夢の中でその少女の名を呼んだ気がした。
胸を突き上げるような恋しい気持ちが湧いた。かつてシェルが母親を沈めた後、生まれて初めて、ちゃんと愛せた女性だった。女ともいえぬ少女だ。だがそれはシェルの記憶から消え去り、その夢の残り香だけが漂っていた。悲しい香りがした。綺麗にしてやりたかった。だが二人を結びつけたのはいったい何だったのか。おぞましい過去か。
それとも単純に互いに愛情を抱いただけなのか。悲しい香りは全てを否定している。
衰弱し、ひかちびて死んでゆく少女の影がよぎった。シェルの怒りは少女の父親に向けられた。何年もかかって探し出し、やっと殺したのだ。だが当時、少女の父親は麻薬ですっかり耄碌《もうろく》し、自分がかつて実の娘にどんなことをしたか思い出せもしなかった。
今のシェルと同じように。シェルは少女の父親をぶちのめし、その首の骨を折った。
同時に自分の記憶が消えてゆくのを感じた。そのこともまた、もうすでにシェルの記憶にはなかった。綺麗にしてやる。俺が綺麗にしてやる。幾つも考えついた。金を綺麗にする方法を考えついた。ブルーダイヤにしてしまう方法を。少女を綺麗にする方法を。
精神が生きることをやめ、ひからびて死んだ少女をダイヤに変えて、母親のダイヤと並べて指にはめた。記憶が混乱しながらも、上手く人を使っての作業だった。
ダイヤが出来上がる頃には全てが落ち着き、シェルの記憶は空っぽになっている。
虚空に燦然と輝くダイヤが、シェルの最後の希望だった。
ふいに、シェルの夢の中で、そのダイヤの輝きが急激に変転した。
それは、ダイヤになるはずだった者の亡霊だ。もう名前も忘れてしまった少女の幽霊。無表情に閉ざされた顔が、むしろ美しく冴えている。いつでも暗い目で自分自身の膝を見つめ、どこかに閉じこもろうとしていた。シェルのすべきことは簡単だった。閉じこもるべき先を指定してやれば良いだけ。それだけで完全に導くことができた。
世にも美しいものにすることが。だがそう簡単にはいかなかった。
火に包まれながら少女は生き返った。まるで綺麗になることを拒むように。
夢の中で、少女は火だるまになりながら、一歩一歩シェルに向かって近づき、やがてシェルに抱きついた。シェルがわめくのをよそに、少女を中心に火炎が燃え盛り、行き場のなくなったシェルの喉めがけて、黒くただれた指が絡みつき、絞め上げてきた。
シェルは叫んだ。少女は、ごうっと火を吐き、甘やかとさえいえる力を込めて、シェルの喉を絞り上げてきた。
シェルはバネ仕掛けのように飛び起き、自分の首を絞めているものに気づいて、慌てて振り払おうとして、余計に喉を圧迫した。
一瞬の混乱ののち、シェルは、自分で自分の首を絞めていることに気づいた。
引きつったように苦笑を浮かべた。全身がぬるぬるとした汗に包まれている。
月光のように青ざめた変光《カメレオン》サングラスを外し、ボストンバッグを床に置いた。
異様な喉の渇きを覚えてバスルームに行き、顔を洗いながら水を飲んだ。
部屋に戻ると、コール音がした。部屋の電話ではなかった。シェルはジャケットに飛びつき、もどかしげに携帯電話を取り出し、慌てて耳にあてた。
「ボイルドか?」
〈そうだ〉
頼もしい声が返ってきた。シェルはにやっと笑ってサングラスをかけた。
「嫌な夢を見た。バッドトリップかもしれない。火の中で女が俺の首を絞めてるんだ」
あまりの安堵感から、シェルはそんなことを言った。
「頼んでいた準備はできたか? 河を遡って、他の州に行くんだ。州境を越えれば、俺はもう違う人間になったも同然だ。今度はつつましくやるさ。この金を元手に、実業家になるんだ。もう博打には手を出さない。これっきりだ」
〈オクトーバー社から依頼があった。それを正確に説明しておきたい。その上で――〉
「何を言ってるんだ? ボイルド? オクトーバー社なんて、もうどうでも良いんだ。後はここから出て、この都市からおさらばするだけだ。故郷に帰るんだ」
ボイルドは沈黙した。そして、ぼそっと、訊いた。
〈あんたの生まれはこの都市のイーストサイドだったと聞いている〉
「おいおい、そんなことはどうでも良いんだよ。俺が成功すれば、そこが俺の故郷だ。俺はこれからどこかに帰る[#「どこかに帰る」に傍点]んだ。感謝してるよ、ボイルド。お前がいなければ、俺は潰されてた。あの女の手で絞め殺されてた。本当に感謝してるんだ。お前は俺の親友だ」
〈――そうか〉
「そうさ。俺の唯一の友達だ。お前ほど頼りになるやつはいない。実際、お前にはずいぶんと助けられた。これからも、連絡を取り合おう。な、ボイルド?」
〈対抗事件の担当者が、あんたを見つけるかもしれない。情報開示によって、すでにあんたの周辺にいるだろう。なるべく目立たずにいるべきだ。船の手配はじきに済むが、明け方を待ったほうが良い。もしやつらが見つけた場合――立場は逆転する〉
シェルは眉をひそめた。相手が何を言っているのかわからない、とでもいうように。
「まさかこちらの情報を渡したりはしていないだろうな?」
〈情報開示責任だ。最低限の情報開示がなければ、対抗事件は成立しない。俺もあんたのために働くことができなくなる〉
シェルは顔をしかめ、もう一方の手で額をもんだ。
「ちょっと頭痛がして、お前の言ってることがよくわからないんだ。お前は俺を裏切らない、大事な親友だと言ってるんだが……」
ふいにまたボイルドが沈黙した。今回の沈黙は長かった。受話器の向こうでかすかなノイズが聞こえた。何かぼそぼそと喋っているような声が聞こえ、かと思うと、唐突に切れた。シェルは、不審そうな顔で携帯電話を見つめた。
ふいに、再びコール音が鳴った。シェルは、驚いて顔をのけぞらせ、
「ボイルド? いったい何をやってるんだ?」
〈死にたくない〉
女の声だった。シェルの息がつまった。全身の血管が凍りついたような気がした。
〈だけどあなたが殺した〉
シェルは、ぱくぱくと口を閉じたり開いたりした。猛烈な勢いで心臓が鳴り響いた。
炎に包まれた少女の姿がまざまざと蘇った。自分の大事なチップをもぎ取っていった少女――炎に包まれた顔。その名が急に脳裏に甦ってきた。
ふいにまた、ノイズが鳴り響いた。シェルは顔をしかめた。
耳障りなノイズが、やがて寄り集まるようにして、男の声音《こわね》になった。
〈ミスター・シェル――〉
ボイルドだった。シェルは思わず涙目になった。腰が抜けそうなほど安心していた。
「さっきの声はなんだ? 俺を驚かそうとしたのか?」
〈この回線を通じて聞いているな、ウフコック? シェルの周辺にいるな?〉
「……なに? なんだって? 聞いているぞ、ボイルド」
〈片を付けるぞ、ウフコック。餌[#「餌」に傍点]を取りに行け。それから俺が出る。それが順当だ〉
シェルは首を振った。首筋から後頭部に、じんじんと痺れるような痛みを覚えていた。
〈では、シェルはこちらのサイドで確保する〉
聞いたこともない声が響き、シェルは絶叫した。全身がぬるぬるした汗に濡れていた。
〈そのホテルの宿泊客の退避が終わった。我々は、正当な手続きにもとづいて事件を解決する。そのためにシェルを確保する。お前と戦う気はない、ボイルド〉
〈俺たちは、より多くの虚無を生み出すために造り出された道具だ。お前は意志を持った道具であり、俺は一個の銃になることを望む人間だ。今のお前の使い手も心の底では合法的な殺人を望んでいるはずだ。俺にはそれが感じられる〉
〈馬鹿なことを言うな。シェルを殺してどうする? 皆殺しにして何が生まれるんだ〉
シェルの顔が大きく歪んだ。
〈何かを生み出すのは俺の仕事ではない、ウフコック〉
〈オクトーバー社の眷属《けんぞく》になる気か。それがお前の選択か、ボイルド〉
「ボイルドっ! 俺を殺す気かっ、殺す気なんだなっ!」
〈……ミスター・シェル。あんたとは、依頼主という以上にうまくやれた気がする〉
シェルの顔が引きつった。ボイルドが、ぼそっと告げた。
〈情勢が変化して残念だ〉
そこでまたノイズが入った。幾つもの声音がねじれてかき消え、連絡が完全に切れた。
変光《カメレオン》サングラスの色が、薄い青から、嵐の夜のような濃い色になるまでの間、シェルはじっと立ちつくしていた。何もかもが夢のような非現実感に陥るなか、やがてシェルは、弾かれたように巨大なボストンバッグを拾い上げ、慌ててサイドポケットから硬く確かなものを取り出した。
オートマチックの銃を握りしめ、バッグを肩にかけ、弾倉も確認せず、ぴたりと足に押しつける。それでさらに自分がしっかりと立っている感覚が起こった。
突然、携帯電話が鳴り響いた。シェルは歯を食いしばって、電話に出た。
〈こちらは委任事件担当官のウフコック=ペンティーノだ。お前を保護する。安全な逃走経路を確保するまで、そこを動くな。我々が到着し次第、武装解除に応じてもらう〉
「ふざけるなっ!」
シェルは叫び、携帯電話を床に叩きつけ、踏みにじった。電話が壊れ、音が切れた。
肩で息をしながら、辺りを見回し、急いで部屋の明かりを消した。
部屋は二階にあった。シェルはカーテンの陰に隠れ、外の様子を窺った。
いきなり部屋の明かりが点いた。ひとりでに。シェルは呆然とその様子を見つめた。ナイトスタンドが点き、バスルームの明かりが点き、換気扇がけたたましい音を立てて回り始めた。シェルにはもう、頬を濡らすのが汗か涙なのかもわからなかった。
そこへ、音がした。シェルの目の前にある、旧型のテレビだ。ざーっと濁った音がし、やがて、女の姿が画面に映った。口をOの字にぽっかりと開け、見開いた目と硬直した指が、シェルの喉に向かって今にも伸びてきそうだった。
〈死にたくなかった〉
女の声が、シェルに言った。シェルは血走った目でテレビを見据えた。
〈だけどあなたに殺された〉
銃を向け、何度も撃った。モニターが破裂し、火花を噴いた。女の声も姿も、それで綺麗に消えていた。綺麗にしたのだ。綺麗に――その途端、胃がねじれるような感覚に襲われ、口の中が酸味でいっぱいになった。反射的に身を折り、勢いよく嘔吐した。
そのまま何度も身を震わせ、口からねばねばした黄色い液体をしたたらせた。
それから天井灯を撃ち、バスルームにも撃ち込んだ。ドアのノブに触れ、握りしめた。
恐怖で髪の毛が逆立つようだった。ドアの向こうに恐ろしい影がいるのだ。いつでも撃退し、消し去ってきたもの[#「もの」に傍点]が蘇ってそこに立っているのだ。
渾身の勇気を振り絞ってドアを開き、銃を構えた。がらんとした廊下が目に映った。
かろうじて残った理性が、頭の片隅で異常を告げていた。
あれだけ銃声が響いたのに、周因の部屋では騒ぎ一つ起きていないのだ。
咄嗟《とっさ》に、このまま何処へ行こうとも、辿り着くべき場所は同じような気がした。
それは本当に嫌な場所だった。フラッシュバック――自分は一歩もそこから動いてはいなかったのではないかという思いに、全身が痙攣したように貰えだした。
〈言う通りにしてもらわないと困るな〉
背後で声が起こり、シェルはまるでピンボールの玉みたいに跳びはねた。体中が悲鳴をあげ、今にも悶死しそうになりながら、シェルは声の主を探した。
〈そこから奥の――202号室の窓から、隣のビルに跳び移れるそうだ〉
声は、先ほどまでいた部屋のインターフォンから発されていた。
ほとんど本能的に撃った。ドア越しに何発か撃ち、それからインターフォン目掛けて撃ちまくっている。すぐに弾丸が尽きた。シェルはまた慌ててバッグをかき回した。
札束が幾つかこぼれ落ち、紙幣がひらひらと舞った。シェルは予備の弾倉を取り出すと、震える手で何とか交換しながら、慌ててエレベーターへ向かった。
何をどうすれば良いのかまるでわからなかった。動く者が現れれば、即座に発砲する気だった。とにかく殺すこと以外、考えられなかった。
ボタンを押すと、すぐにエレベーターが来た。嘔吐感を我慢してエレベーターに乗った。パネルを押そうする指が震えて定まらない。シェルはなんとか一階を押した。だがドアはいつまでも閉じなかった。開いたドアの向こうに、左右に部屋が並ぶ廊下が、がらんと伸びている。その光景に、恐ろしいほどの閉塞感が襲いかかったとき、
〈世話の焼けるやつだ。ホテルの二階は閉鎖されている。非常階段ならまだしも、まさかエレベーターに乗るとは思わなかった〉
今度はエレベーターの内部で声がした。シェルはぐっと息をつまらせ、拍子にまた酸っぱいものがこみ上げてきた。それをこらえて銃を構えた。
「何なんだ! どこから話してるんだ!」
すぐに、どこから声が出ているのかわかった。エレベーターの非常用回線だった。
〈このホテルの裏手にあるビルの中だ。そこに逃げ込めば、複数の退路が選択できる〉
「お前は、いったい何なんだ」
〈委任事件担当官だ。お前の得意な取引の相手だと思えば良い〉
「事件屋か――」
大きく息をついた。こめかみがずきずき脈打っている。銃を握りしめ、訊いた。
「俺を殺すつもりなのか」
〈逆だ。現在、この周囲数キロ以内に存在する唯一の味方だと思って欲しい〉
「取引ってのは何だ。俺をどうしようっていうんだ」
〈逃走経路に従って、我々のもとに来てからだ。――ふむ、202号室はもう駄目だ。ボイルドが狙っている気配がする。ともかくお前の生命を保全する。その代わりにこちらの有力な証人になってもらう。罪はむろん、償ってもらうが〉
「何を言ってるんだ? 俺をどこに逃がしてくれるんだ?」
〈冷静になれ。207号室のバスルームの窓から、隣のビルの窓に乗り移れるそうだ〉
それを最後に、声が途切れた。
シェルは荒い息を吐き、やがて、ぎらぎらした目つきで、エレベーターから出た。
まっすぐ207号室に向かった。ドアのノブに触れる寸前、かちりと音がした。電子ロックが外れたのだ。シェルが銃口で押すと、ドアがすうっと部屋に向かって開かれた。
部屋の中には、何の気配もない。シェルは部屋に入った。電子ロックを外した人物は影も形もない。シェルは言われた通りにバスルームに入った。
確かに窓がある。外を覗くと、向こう側のビルへ乗り移れそうだ。シェルは窓枠を撃ち、窓全体を建物の外に蹴り飛ばした。たちまち、かび臭い風が吹き込んでくる。
四角い虚空みたいな窓枠から頭を出し、ボストンバッグを抱えたままの格好で、苦労して向かいのビルの窓へ足をのばした。向かいの窓はすでに開いていた。
枠に足をかけ、ついで銃を握った手をかけ、一気に乗り移った。
窓から中に入ると、思ったよりも高い位置にあった。どすんと足に衝撃がきた。
ボストンバッグがずりおち、そのままへたりこみそうになるのに耐えた。
明かりはなく、窓からの光でかろうじて部屋の様子がわかった。空っぽのまま廃棄されたテナントのような部屋だ。剥《む》き出しのコンクリートがところどころで亀裂を走らせている。一方の壁に大きな窓が並んでおり、×の字にテープが張ってあった。
シェルは、ふと何か柔らかいものを踏んだのに気づいた。コンクリートの床に、何かが点々と落ちているのだ。その一つを、銃の先に引っかけ、持ち上げた。
地味な色地の布きれだった。しげしげと眺め、スカートだとわかった。
その向こうに、ブラウスが落ちていた。そこからさらに目を運んで、ぎょっとした。
闇の中で、白いコートのようなものが、揺れていた。
慌てて突きつけた銃口から、スカートが滑り落ちた。
銃口の先に、少女がいた。
白い拘束具にがんじがらめにされたような格好で、じっとこちらを見ていた。
「……ルーン=バロット」
シェルは、夢の中で死んだはずの、その少女の名を呼んだ。
変光《カメレオン》サングラスの色が、青から徐々に赤へと変わってゆく。
「なぜ、ここに……? お前が、なぜこんな場所にいるんだ……?」
シェルは、依然として銃を構えたまま、サングラスの内側で目を血走らせている。
バロットは、無言で、相手の目に留まるように、手を挙げた。
手には、携帯電話が握られている。それを、ひょいと放った。
電話は、ちょうどバッグの上で跳ね、シェルの手が反射的にそれを握った。ディスプレイは通話時間を一秒刻みで進行させている。明らかに通信しているのだ。シェルは眉をひそめ、ゆっくりと電話を耳にあてた。
〈委任事件担当官、ウフコックだ。全ての武器を目の前にいる女性に渡したまえ。それで君に、二次事件の有力な証言者として生命保全プログラムが適用されることになる〉
「どこにいるんだ? どうして姿を現さない?」
〈君のすぐ近くにいる[#「すぐ近くにいる」に傍点]。大人しくしたまえ。それとも契約が切れた元の事件担当官を頼るか? 彼はオクトーバー社との契約にもとづき、速やかに君の命を奪うだろう〉
「俺のすぐ近くにいると言ったな? じゃあ、今、俺が何をしているかわかるのか?」
シェルのぎらぎらした白が、バロットを見た。引きつった笑みが浮かんだかと思うと、その手をバロットに向けて伸ばし、ぴたりと銃口を構えた。
バロットは醒めた顔で、銃とシェルを眺めている。
〈今さらそれ[#「それ」に傍点]をして何になる? 死にたいのか? これは君にとって最後のチャンスだ〉
「そうだ、最後のチャンスだ! 博打屋《ピジョン》のジンクスは、そばにいる女次第だ!」
シェルは叫んだ。溺れる者が、水面ぎりぎりで顔を出して助けを呼ぶのに似ていた。
「ウフコックだ。思い出した。ボイルドがお喋りネズミと言っていた奴だ。なぜ姿を現さないかなんてどうでも良い。こんな女を差し出す馬鹿に、取引の仕方を教えてやる」
〈取引は成立しない。こちらと君とでは、武力に圧倒的な差がある〉
シェルの顔が歪んだ。笑顔のまま踏みつぶされたみたいだった。
「ふざけるなっ! |一対一の賭け《ショウダウン》だ! 余計な真似をすればこの女を撃つぞ!」
〈ウフコック、私、命を脅かされてる〉
突然、携帯電話が、女の声を放った。ひどく冷たい、淡々とした声音だった。
バロットの左手がシェルに向かって掲げられた。真っ白い手袋が、ぐにゃりと歪んで何かを現した。一瞬だった。バロットの手に魔法のように銃が握られていた。
シェルは愕然と凍りついた。バロットの銃の撃鉄が、かちりと音を立てて、ひとりでに起きた。それがきっかけだった。たまらず撃った。シェルのほうが撃っていた。
バロットは微動だにしない。静かに引き金を絞っただけだ。
空中で火花が散った。シェルにとっては何が何だかわからない、弾丸同士の空中でのぶつかり合いによって、鉄が粉々に飛び散り、きな臭い空気がまき散らされた。
立て続けだった。バロットが撃った。シェルも慌てて一発だけ撃ち返せたが、大した効果はない。バロットはそれをわざと肩口で受け、火花を飛び散らせた。白い拘束具みたいなコート。それが今のバロットを守る堅固な殻であることを見せつけるように。
そうしてバロットはただ淡々と、シェルに向かって引き金を絞り続けた。
シェルはのけぞり、奇妙な踊りをみせた。ボストンバッグが破れ、分厚い札束がシェルの命を守っていた。それだけは確かに最後までシェルを守り続けた。
バロットは、紙幣の束が重なっているところを確認しながら撃ち続けたのだ。
シェルはサンドバッグさながらに、倒れることも許されず弾丸のラッシュを食らった。
弾丸はほぼ無尽蔵にあったが、紙幣はそれほど沢山なかった。
やがて銃声がやんだ。シェルがもんどりうって倒れた。紙屑と化した紙幣が宙を舞い、見る影もなくずたずたになったボストンバッグとともに、周囲に散乱した。
すすり泣くような呼吸を繰り返すシェルに、バロットは、ゆっくりと近づいていった。
ふいにシェルが顔を上げ、歯を食いしばって銃を突きつけてきた。その顔にも手にも、紙幣の破片が汗でべたべたとへばりついている。そして震える指で引き金を引き絞るその動作が、バロットにはスローモーションのように感じられた。
放たれた弾丸を、バロットは目の前に浮かんだ風船を針で突くような感覚で撃った。
弾丸と弾丸が衝突し、赤と黄色の灼熱の輝きが辺りをばっと照らした。
そしてその輝きが消える前に、バロットが続けて放った三発の弾丸が、正確にシェルの右手の人差し指と中指と薬指ごと、銃のグリップを貫通していた。
弾倉《マガジン》に残っていた弾丸が炸裂し、部屋をかっと白く明るく染めた。その光の中、千切れ飛んだ指を飾るブルーダイヤたちが、涙のようなきらめきを零し、床に転がった。
シェルが、どっと倒れた。
変光《カメレオン》サングラスが深紅の色のまま砕け散り、血のように散らばった。わななく右手には、指が一本も残っていない。プロの博打屋《ピジョン》としては死んだも同然だった。その顔の右半分が、飛び散った鉄の破片でずたずたになっていた。
バロットは、じっとそんなシェルを見つめている。
シェルは満足に息もつけない様子だった。顔の右側が黒い色に染まり、光がきらきら反射していた。もしかすると泣いているのかもしれなかった。
バロットは、シェルの傍らに膝をつき、銃を握る左手を、そっと伸ばした。
シェルが弱々しく身をよじる。するとバロットの手に握られた銃は、ぐにゃりと歪んで消え去り、代わってそこに、違うものが現れていた。
シェルの目が、おずおずと、それを見た。
バロットが、法務局《プロイラーハウス》にいるドクターから預かってきたものだった。四つの記憶媒体――シェルの記憶保存《クラップ》≠ノ用いられたチップだ。たちまちシェルの目が大きく見開かれた。
〈あなたに、返してあげる〉
バロットが告げた。シェルが、チップからバロットへと、のろのろと目を移した。
そのシェルのこめかみに、バロットの右手が触れた。そこに端子があった。シェルの脳へと続く、電子的な回路の一端が。バロットはそこに干渉し――操作《スナーク》した。
びくん、とシェルの身がのけぞり、そのまま硬直したようになった。目蓋が引き千切れそうなほど見開かれ、眼球がぶるぶると震え出した。
四つのチップを持ったバロットの左手は、いつの間にか固く握りしめられている。
やがてバロットは、右手を通して、シェルの脳へと続く回路を感覚し尽くした。
〈あなたが失くしてきたものを……元に戻してあげる〉
バロットは、左手に握った大容量の情報を、少しずつシェルの脳に移植された回路へ流し込んでいった。脳に負担をかけないよう注意しながら。シェルは最初、何が起こっているのかわからないようだったが、間もなく顔を引きつらせ、裏返った声を漏らした。
「やめろ……」
ぐるりと眼球が動き、白目を剥いた。凄まじい悲鳴がシェルの口から迸《ほとばし》った。絶叫だった。口の端から大量の泡が零れ、両方の鼻の穴から血が流れ出した。
バロットは、ただ静かに、シェルの記憶を、その頭の中に戻していった。崩されていたゲシュタルトが再構築され、麻痺させられた神経回路が電子的に再現されてゆく。
神経細胞を操作するのは不可能だが、それでも大まかな出来事の因果関係や、多くの視聴覚情報を、シェルの頭の中に流し込むことができたようだった。
シェルの悲鳴は長いこと続いた。自分は殻《シェル》で十分だと言いきった男。延々と否定し続けてきたその卵の腐った中身を、バロットは、何の容赦もなく注ぎ込んでいった。
シェルの悲鳴が途絶えた後も作業は続き、三十分ほどで全てが終わった。バロットの能力があってこそ可能な速度だった。
手袋がぐにゃりと歪み、再びチップを飲み込んで保存した。
バロットは最後に、気絶したシェルの頭に触れ、脳内の回路に干渉して告げた。
〈腐った卵の中身でも、大事に暖めれば、いつか生き返るかもしれないから〉
シェルは眠っていた。最初から最後までバロットのことなど見てもいなかった。かつて車の中に閉じ込められたバロットに、シェルが目を向けたときのように。あるのは鏡映しの自分自身だけだった。ふいに何もかもが――自分もふくめて――自業自得のような気がした。バロットもまたシェルを愛する気などなかったのだ。ただ愛されたかっただけで。
ひどく虚しい悲しみが、身も心もどこかに沈み込ませてゆくような気持ちを覚えた。
そして次の瞬間、建物に近づく者を感覚し、はっと息を呑んだ。
それは脅威そのものだった。冷徹な殺意が、大きな男の形をして近づいてくるのだ。
「ボイルドが来た……」
ウフコックもまた、危機を敏感に嗅ぎ取り、呟いている。
バロットはうなずいた。巨大な圧迫を感じ、ぞくりとした。一瞬、シェルのことも、自分のことも、死んだ女の子たちの人生の呪いのことも、頭から綺麗に消えかけた。
そのことに、バロットは思わず、感謝さえしそうになった。
4
〈航空経路が遮断されてるんだ。ボイルドの仕業だ。航空調査機関に山のような依頼をしてるんだ〉
バロットが手にした携帯電話から、ドクターのわめき声が響く。
「調査――? 今さら、なんの調査だ」
〈調査自体に意味はないんだ。航空カメラマンとか、天気予報の調査ヘリとかで、その一帯の空域を埋め尽くしてハンプティを入れさせないようにしてるんだ。今、事件担当官の捜査特権でどかせてるけど、時間がかかる。罠にはまった。どうする?〉
「防衛と撤退だ。それ以外にない。警官隊がここに突入して我々を保護したとしても、シェルをこちらのサイドで拘束できるわけではない。オクトーバー社の意思が働けば、その場でシェルを抹殺されてしまう。我々が独自に保護するしかない」
ウフコックは淡々と返した。そしてその分、焦慮と沈痛を抱いているのが察せられた。
バロットは手の中の会話を聞きながら、じっと感覚を研ぎ澄ませていた。
ボイルドが建物の周辺を移動しているのが感覚された。ところどころで建物に手をあてる様子が、まるで自分の体を触られるみたいに感じられた。こちらの動きを把握しながら、チェックメイトをしかけるチェスプレーヤーのように機会を窺っているのだ。
ウフコックとドクターは早口で話し合っていた。ウフコックは容易には煮詰まらない。決して事態を投げ出そうとはしない。それがバロットにとっては救いであったし、自分がどうしたら良いのかということへの、一つの答えだった。
建物の外ではボイルドが微妙な動きをみせ、確実に退路を断ってきている。
相手は一人だった。逃げ場は沢山あるはずなのに、まるで逃げ道がない。百人の軍隊に包囲されたみたいに。そしてそれもまた一つの答えだった。
〈守ってみる〉
バロットが携帯電話に干渉した。ウフコックとドクターがぴたりと黙った。
〈ここに来るまで、時間はどれくらいかかるの? ドクター?〉
〈二時間は――いや、一時間にしてみせる。信じてくれ〉
〈大丈夫。信じてる。逃げたりしない〉
〈いやいや、危なかったら逃げてくれ。頼むから〉
〈うん〉
〈信じてるぞ――バロット、ウフコック。すぐに迎えに行くからな〉
会話が途切れ、携帯電話のディスプレイが暗転した。バロットはそれを床に置いた。
「どうするつもりなんだ」
――手伝って。
バロットがスーツに干渉して告げ、シェルの傍らに立った。
シェルは一通り治療され、拘束された上で、コンクリートの床に転がされている。
ぐるぐる巻きの状態だった。メイド・バイ・ウフコックの包帯、ガーゼ、手錠、ロープ――シェルに手をあてるだけで、全部ウフコックがやってくれた。
記憶が戻った衝撃のせいか、シェルは意識を失ったまま、ぐったりとして動かない。
夢の中で腐った過去に溺れているのかと思ったが、寝顔は穏やかだ。記憶が戻ればシェルの殺人衝動は消えるということが、確かなように思えて、少しほっとした。
丸められたカーペットみたいなシェルを持ち上げようとするバロットを、すかさずウフコックが手伝った。スーツのあちこちが鉄の骨格に変身《ターン》し、シェルの体重を支える。
バロットは、眠れるシェルをひょいと肩に乗せると、部屋の隅へ行き、ダストシュートの蓋を開いた。底に粉砕器やシュレッダーのような危険なものがないのを確認してから、ダストシュートの入り口にシェルを押し込め、襟をつかんで支える。
「捨てないのか?」
――まだ。
バロットが告げた。その言葉の意味を悟って、ウフコックは内心で舌を巻いた。
タイミングを探っているのだ。ボイルドがシェルの確保に回ろうとしたら、すぐさまこちらがボイルドの背後に回れるように。チェックメイト間際の、鋭い駆け引きだった。
ボイルドが建物の表口側へと近づくのがわかった。その瞬間だった。
――ばいばい、シェル。
バロットがシェルの脳裏に干渉して告げ、そのこめかみに、軽くキスした。
同時に、ぱっと手を離している。シェルの体が滑り落ちてゆく音が狭いダストシュートの中に響き、やがて、どすん、と鈍い音が響いた。
表口で、ボイルドがぴたりと動きを止めた。建物の壁に手をあてて状況を把握し、思案している様子が、手に取るようにわかった。すぐにボイルドにも、バロットの意図が察せられたようだ。その覚悟も。ボイルドは、ゆっくりと表口へ歩み始めた。
急に、バロットの膝が震え出した。自分で逃げ場を棄てた恐怖に襲われ、声を失った口を大きく開いて深呼吸し、パニック状態になりかける自分を必死で宥《なだ》めた。
「バロット……」
ウフコックが呼んだ。バロットは、ぎゅっとスーツの肩を抱いた。
――愛されたいと思った人は沢山いた。でも愛したいと思った人はあなただけ。
全身でウフコックの存在を感覚しながら、告げた。自分の意志と勇気を。
――これから戦うのは、あなたの昔の友達だから。動けなくさせるよう頑張ってみる。
ウフコックは、じっとバロットの真意を嗅いでいるようだった。相手の命を狙わず、ただその行動を封じる――ボイルドという強敵を相手に、そんなことを試みること自体、自殺行為に等しかった。ボイルドは容赦なくこちらの隙を突いて仕留めに来るだろう。
バロットはさらにスーツを強く抱いた。自分の身を覆う武器を。タイトに、きつく。
――殺さない。殺されたりしない。殺させもしない。何とかやってみる。
それがウフコックから学んだことだったし、バロットが今出せる答えだった。
「……我々は殺さない。我々は殺されない。我々は殺させない」
ウフコックは、合言葉のようにそれを繰り返した。
「とても難しいことだ……。だが……挑戦する価値はある」
バロットは、ゆっくりと自分の肩を抱いていた手を離し、体の両側に垂らした。
「俺は、良い相棒《バディ》に巡り会えた……」
それを最後に、ウフコックが完全に身を委ねるのがわかった。バロットを包み、守り、武器となるべく、あらゆるバロットの操作《スナーク》に、瞬時に応じる態勢になったのだ。
バロットは左の手袋に干渉した。ぐにゃりと鋼鉄の塊が現れた。軽く握りしめ、銃の重さが手の一部となるのを感じた。バロットとウフコックは、完全に一体だった。
バロットは、自分がどういうふうに生きてきたかを思い出していた。
嫌な客のときと、良い客のときと。どちらも、ただじっと息を殺して堪えてきた。
いつかそのうち慣れるのを待ちながら。自分自身を宙に放って。心がどこにも止まらないように。それはそれで困難極まりなかった。我ながら、よく堪えたものだと思う。
だが今は遮った。同時に、同じだった。自分から何かをしなければならなかった。息を殺せば、命も死ぬのがわかっていた。といって相手に意識を奪われれば同じように殺されるのもわかっていた。自分が今ここにいることから逃げてはどうしようもなかったし、心をどこかに止めれば身動きができなくなった。心を止めてはいけなかった。
バロットは、自分を生かす[#「生かす」に傍点]呼吸を繰り返した。
リズムを保ち、戦いに勝つ道を探りながら、感覚を広げ、解き放っていった。
静かに息を吸った。そして吐いた。ボイルドが階段を上りきったのを感じた。部屋の温度が、急激に冷えた気がした。そういう存在が、ドア一枚隔てた所に立っていた。
「失望した……」
ドアの向こうから声が届いてきた。太く重い、どこにいても聞こえるような声音が。
「お前が、シェルを殺してくれることを、期待していた」
ふと、その口調に、バロットは奇妙な感じを受けた。
「俺のやり方は、聞いているな」
その言葉が、ずしりとのしかかってくる。わずかに呼吸が乱れ、慌ててリズムを整えながら、バロットは、たった今感じた奇妙さのわけを悟った。
「トウイードルディは、お前という同類を得て、喜んでいた」
ボイルドは言った。今やただ一人バロットを相手にして喋っていた。これまではずっとウフコックに対して言葉をかけてきていたのに。
「俺も、同じように喜んでいる」
途端に、部屋の空気が凍りついたようになった。その空気の圧迫が、バロットからあらゆる動作を奪おうとした。バロットはそれに堪えた。リズムの中の一瞬を感じた。ボイルドもそれを感じるのがわかった。その熾烈な一瞬に全存在を賭けて、銃を構えた。
バロットはその一瞬を敢えてボイルドに与えた。ゲームはボイルドのジャックポットから始めるべきだった。何千発撃とうともどうせ弾丸の軌道を逸らされるのだ。
重力《フロート》の発生不可能な瞬間――ボイルド自身が銃を撃つ瞬間を狙うしかなかった。
そしてにわかにバロットは撃った。立て続けに。相手の利き腕を狙って。
相手の弾丸を撃ち跳ばしてまっすぐ飛んでゆくはずの、必至の弾丸だった。
そして違和感がきた。空気ばかりか、自分の心臓までもが凍りつくような感覚だった。
ボイルドは撃っていない。完全に、フェイントに引っかかったのだ。ドアに大きな円を描くようにして穴が空《あ》いた。本来ならば一点に集極されるはずの弾丸の穴が。
バロットは咄嗟に腕を十字に交差させ、頭部をカバーした。その直後、衝撃がきた。
腕を重ねたその中心に、ボイルドの放った弾丸が叩き込まれた。
バロットの体が真後ろに吹っ飛んだ。
肉体への打撃よりも何よりも、意識を撃ち抜かれたような衝撃があった。
ドアが吹き飛び、ボイルドが跳び込んできた。
その巨体が迫る感覚が、先手を打たれて呆然とするバロットの意識を呼び覚ました。
背から床に倒れ込むと同時に、柔らかく後方に転がって衝撃を受け流し、身を起こす。トップダンサーさながらの身のこなしだった。ほとんど体に――その全身を覆う皮膚のもたらす感覚に任せた、本能的な動作だ。もはや頭で何かを考えるのはやめていた。
腕が二つともまだ無事なのを、身を起こしてから悟った。距離に助けられたのだ。
ウフコックのスーツが咄嗟にバロットの体を守れる、ぎりぎりの距離だった。
そしてその距離をボイルドが縮めてきた。視界一杯に、殺意に満ちた巨体が追った。
その恐怖に堪え、バロットが睨んだ。まるで牙を剥くように、ボイルドの体内の装置に向かって電子攪乱《スナーク》″の力を放ったのだ。それを、ボイルドがすんでのところで察した。
ボイルドの体がラグビーボールみたいに跳び、上に向かって落下した[#「上に向かって落下した」に傍点]。身をひねってバロットの干渉がぎりぎり届かない所に降り立つ。天井に。わずか数メートルの距離だ。
それでも、ボイルドのガードを貫いて、その体内の機械を操作《スナーク》するには遠すぎた。
同時に、ボイルドの銃がバロットのスーツを破るのにも遠すぎる。互いに一瞬でも早く、一センチでも遠くから、相手の命に手が届くかどうかの駆け引きだった。
今度もバロットは立て続けに撃った。ボイルドが天井を走り、柱の陰に隠れた。
反射的に柱の反対側を撃った。その途端、それが二度目のフェイントであることを悟った。柱を走り下りていた[#「走り下りていた」に傍点]ボイルドが、鋭く腕を伸ばし、轟音が鳴り響いたのだ。
ボイルドの位置[#「位置」に傍点]を感覚しているにもかかわらず、ボイルドの三次元的な動き[#「動き」に傍点]を読むことができなかった。
バロットは、頭が真っ白になるのを覚えながら、全身をバネにして、脇に跳んだ。
戦車の砲弾みたいな銃弾が肩口をかすめた。引きちぎられたスーツの一部が、弾の熱で燃え上がり、小さな黄色い炎が舞った。だがバロットの肉体にはまだ届いていない。
バロットが安全圏に転がり込むとともに、ボイルドは柱を蹴り、跳躍し、その体が横手に跳んだ――というよりも、一方の壁に向かって落下していた[#「落下していた」に傍点]。
バロットはその動きが読めず、自分の感覚能力に対して不信感が湧くのを必死に押さえ込んだ。すぐさま自分の力への自信を取り戻すべく、部屋全体を感覚した。
相手がどう動くにせよ、自分がどこにいるか[#「自分がどこにいるか」に傍点]が大事だった。
バロットは、自分にとって最も有利な位置を次々と探り出し、ほとんど一秒とかからずにある一点に絞り込むと、そこに向かって走り出していた。
命の奪い合いは意識の奪い合いだ。意識を奪われれば身動きがとれなくなる。それこそ哀しいくらいに指一本動かせなくなるのだ。それだけは二度と御免だった。
バロットは走りながら、ボイルドの動きの先読みをやめた。敗北《バスト》した手札《カード》が廃棄され、
新たなゲームが始まるように。そしてその代わりに、ボイルドの位置[#「位置」に傍点]をとらえ続け、そしてまた自分にとって最も有利な位置[#「位置」に傍点]を感覚し続けた。あとは、ひたすら位置を求めて走り、位置を感覚し続け、位置を求めるために銃を撃って牽制した。
そうしてバロットは、ただ一瞬のチャンスを求めた。最良の距離とタイミングが訪れる瞬間に向けて、バロットの精神力という弓に、意識という矢が猛然と引き絞られた。
一方でボイルドは、バロットの動き[#「動き」に傍点]を読み、退路を断ち、隙を狙ってくる。
そしてバロットが柱の陰に隠れようとする動きを、一瞬先にボイルドが読んだ。ボイルドは壁を走り、跳躍した。逃走する鹿の動きを読んで正確に追いすがり、跳びかかる大型のジャガーのように。バロットと、死と闘争のダンスを踊るべく。天井に着地するや、定められたステップを踏むかのように三歩走る。そして最後のステップで上半身を翻して、ダンサーがフィニッシュを決めるごとく、ぴたりとその銃口を定めた。
完全に無防備な背をさらすバロットの、背骨の真ん中を狙って、引き金を絞る。
刹那――暗闇がいきなり白熱し、輝きがボイルドの目をしたたかに打った。
バロットが、最良のタイミングと距離で、部屋の灯りを一斉に操作《スナーク》したのだ。
ボイルドの眉間に深く皺が寄り、その目がすがめられた。走り込んだ地点の真下から白光が放たれ、白いスーツをまとうバロットの姿を完全に消し去った。
ボイルドは思わず、引き金を絞り込む寸前の状態のまま、バロットを探して霞む目を左右にやった。その途端、頭上のどこかで――部屋の床で、けたたましい音が鳴った。
銃口が、正確無比にその音のほうを向き、弾丸を放った。その瞬間、ボイルドは呻くような声を漏らしていた。完全に反射的で、何の思考も確信もない動作だった。
そしてボイルドの銃弾は、先ほどバロットが床に置いたままにしておいた携帯電話を粉々に消し飛ばした。その携帯電話が、バロットの操作《スナーク》によってコール音を鳴り響かせたにすぎない。むろん、バロットの姿はどこにも見られなかった。
罠にかかったことを悟り、すかさず跳びのこうとしたボイルドの全身が、暗闇に飲み込まれた。バロットが再三|操作《スナーク》し、部屋の灯りを消したのだ。
視界を暗闇に遮られ、ボイルドは咄嗟に、跳躍すべき方向を見失った。
と同時に――ボイルドは、バロットの行動[#「行動」に傍点]を悟った。
真下に、バロットがいた。両手で頭上に構えた銃で、ぴたりとボイルドを狙い据えた姿で。相手の行動の先読みをやめ、ひたすら有利な位置[#「位置」に傍点]のみを求めたバロットの、完全なダブルダウンだった。だがそのときボイルドもまた、光と闇の両方によって視界を失った状態で、長年の戦闘の経験則から、正確にバロットの行動[#「行動」に傍点]を読んでいた。
バロットの手で銃火が踊るように爆《は》ぜた。ほぼ同時に、ボイルドはしゃがみこみ、全身をすっぽりと重力《フロート》の盾で覆っている。
最初の数発が、かろうじて不可視の盾の展開よりも先にボイルドの右腕と右脚を穿《うが》ち、ジャケットの生地の破片を飛び散らせた。だがそれだけだった。後続の弾丸は全て軌道を逸らされ、うずくまったボイルドの周囲で、円を描いて天井に弾痕を穿つばかりだ。
そしてボイルドは銃弾を受けながらも、右脇下から突き出した左手の銃を、ぴたりと構えた。もはやそちらを見もしない。にもかかわらず、銃口は正確にバロットの胸を狙っている。そのボイルドの姿を暗闇で感覚したバロットを、戦慄が襲った。
不可視の盾に先んじた最初の数発が、腕や脚ではなく、頭や心臓を狙ったものであれば、また違った結果になったかもしれない。あるいは銃弾がもっと大きな口径で、ボイルドの手足を吹き飛ばすほどのものであれば……だがそんなことは、何の|言い訳《エクスキューズ》にもならなかった。ボイルドが、バロットの行動[#「行動」に傍点]からその位置[#「位置」に傍点]を割り出した時点で、バロットのダブルダウンは、見事に敗北《バスト》したのだ。
バロットは慌てて跳びすさり、距離を稼いだ。その際、無意識に、手の銃を操作《スナーク》して口径をより大きなものに変えている。それが、ボイルドに対する戦慄のあらわれだった。
そのバロットに殺意に満ちた轟音が襲いかかった。弾を左胸に食らって、後方にすっとんだ。まるで音そのものに弾き飛ばされたようだ。そしてそこで、位置[#「位置」に傍点]がバロットを救った。×の字にテープを貼られたガラス窓に、背から突っ込んだのだ。
ガラスが粉々に砕かれ、光がぱっと舞い散った。これが壁だったら、弾丸の衝撃をどこにも逃すことができず、肋骨を砕かれていたかもしれない。空中に放り出された時点で、バロットを襲う弾丸の衝撃は、滅殺《げんさい》されていた。
瞬時に硬化していたスーツの胸元が、砕け散ってばらばらと破片を零す一方、裾が翻り、素早く宙で膝を抱えたバロットを、卵形に包み込んだ。
真っ白い大きな卵が、ゴムボールのように、ぽんと街路で跳ねた。
二、三度跳ねたところで向かいのビルの壁に当たり、そこで卵が割れた。白い防弾幕が翻ってバロットが現れ、裾が元に戻り、ぱらぱらと衝撃吸収材の破片が零れ落ちる。
窓の向こうでボイルドが銃口を向けるのを感覚した。バロットはほとんど反射的に撃った。ボイルドも撃ち込んできた。弾丸と弾丸が衝突し、弾かれたボイルドの弾丸が、街灯の柱を撃ち砕いた。青白いランプが街路に倒れてガラス片をぶちまける。
その間に、バロットは盾を呼び寄せている[#「呼び寄せている」に傍点]。車がヘッドライトを輝かせて走り込み、バロットの身を隠したのだ。たちまち銃撃を受けてドアが大きくへこみ、フロントを貫かれた。バロットが素早く車から飛び退《の》くや、フロントタンクが炎を噴き上げた。
立ち上る炎の向こうで、ボイルドが、部屋から跳び降りるのを感覚した。
その寸前、バロットは新たな車を呼び寄せている。今度は盾ではない。着地したボイルドに向かって、ヘッドライトが獰猛な輝きを放って切迫したのだ。
ボイルドが着地しざま、車に向けて発砲した。一発でタイヤが吹っ飛び、車が横滑りにひっくり返って電話ボックスを殴り倒し、まっすぐ雑居ビルの玄関口に突っ込んだ。
バロットは炎を隠れ蓑《みの》にしながら、ボイルドのダメージを感覚した。
ボイルドの右上腕に二発、右腿に一発。撃たれた傷から血が零れ、手足に滴っている。
それでも、ボイルドという名の脅威は、依然として健在だった。
ふいに街のあちこちで声が飛び交った。かと思うと老人が一人、何ごとか喚《わめ》きながら、ショットガンを手に、車が突っ込んでいった雑居ビルから出てきた。
バロットが愕然とするのをよそに、ボイルドの左手が、無造作にそちらを向いた。
慌てて撃ってボイルドを牽制した。展開された重力《フロート》がボイルド自身の弾丸の軌道を逸らし、老人のすぐそばのビルの壁を穿った。老人は、へたりこんだ拍子に、でたらめな方向にショットガンをぶっぱなし、別のビルの窓を打ち砕いている。腰を抜かした老人を、飛び出してきた若い男たちが、ひきずるようにしてビルの陰に連れていった。
「怪物同士の戦闘に……一般人は邪魔なだけだ」
ボイルドは呟きざま雑居ビルに突っ込んだ車を撃った。一発で、リバーサイドで一般的な水素エンジンが吹き飛んだ。凄まじい爆発音とともに雑居ビルが震え上がる。
それで周囲の人間は完全に引きこもった。もはやこのブロックは二人のものだった。
空になった薬莢を捨てる細かい金属音が響いた。ボイルドは血まみれの右手でポケットからクイックローダーを取り出し、無造作に装填しながら、告げた。
「銃声が続いている間は、ここら辺の警察は来ない」
どこまでも淡々とした口調だった。
「続けよう」
左手の銃を、横ざまに振った。リボルバーが鋭く元の位置に戻った。
その姿が、一瞬、バロットの目には、人間以外の何かに見えた。のっぺりとした顔に、銃口よりも虚《うつ》ろで無慈悲な目が炎の色を呑んで輝き、その逞しい四肢は鋼鉄のように痛みを知らず、その心臓は殺意をガソリンにして虚無の炎を爆発させるエンジンだった。
バロットはきつく唇を噛み、怪物同士という言葉に引き込まれる自分を振り払った。
確かにバロットもボイルドも、機械と人間の合成生物みたいなものだ。だがボイルドは心まで機械のように冷静で、命の奪い合いに何の感情も抱いていない。むしろ何かの感情が起こることを期待して命を奪い合っていた。それこそ怪物の所行だった。
バロットは懸命にリズムを整え、呼吸を整えた。体が熱く、心臓が燃え上がるようだ。
銃から捨てた弾倉《マガジン》も、赤く灼けているのではないかと思えるほど熱い。
銃から右手を離し、右手袋を変身《ターン》させ、銃を現した。
両手に銃を握りしめ、改めて、自分とボイルドの位置[#「位置」に傍点]を感覚しつくした。
ボイルドが駆け出すのが、一瞬前に、すでにわかっていた。今度はボイルドにとって有利な位置と、自分にとって有利な位置とを同時に把握するようにしたのだ。二人にとっての有利な位置が、刻々と変化するところに、二人の行動の全てがあった。
銃声はほとんど一つに聞こえた。ボイルドは一発、バロットは数発を一瞬で撃った。
右手の銃だ。左手の銃はいざというときの大事なバンクロールだった。
苗で弾丸が衝突し、ひしゃげ、弾かれた。それ以外は弾道を逸らされた。
互いに右に回り込むようにして走り寄せ、瞬く間に接近した。
バロットが電子攪乱《スナーク》≠フ牙を剥くや、ボイルドが地面を蹴った。その巨体が信じがたい高さにまで浮かび上がり、バロットの背後の建物の壁に落下[#「落下」に傍点]し――飛び乗った[#「飛び乗った」に傍点]。
その動きもまた、バロットが読んだ位置によってすでに明らかだ。先ほどの室内での戦闘に比べて数段速く、バロットは壁上のボイルドに向かって銃口を構え、撃っていた。
ボイルドは撃ち返してこない。ふと、その右手が、ポケットから何かを取り出した。
「フェイスマンの言う通り……お前の能力は、戦闘を経るたび、未知数に発達する」
ボイルドが呟いた。バロットの能力が戦闘中にも発達していることを見抜き、牽制するように。いや――あるいはボイルドにとってただ単に、誰かと親しく会話できる唯一の瞬間であるだけかもしれなかった。互いに命を奪い合う、この決定的な瞬間だけが。
「その力を封じさせてもらう」
ひょいと、手のそれを落とした。一瞬、装填すべき弾丸を取り落としたのかと思った。
思わずそんなミスを期待してしまうほど、ボイルドの戦闘行動は、正確無比で、無駄がない。つまりボイルドの行動は、バロットにとって常に最悪のものでしかないのだ。
バロットは反射的に、それ[#「それ」に傍点]を――掌ほどの大きさの黒い球を撃っていた。
手榴弾のような爆発物であれば、ウフコックのスーツで十分に防げる。
だがそれ[#「それ」に傍点]は、爆風も金属片も飛ばさず、ただ澄んだ音を立てて街路に落ち、バロットからわずか数メートル先に転がった。その瞬間――それ[#「それ」に傍点]が、目に見えぬ何かを放射した。
バロットは、ふいに全身の皮膚に強い痒み[#「痒み」に傍点]を感じた。かと思うと突然、その痒みが、背や腹や手足や顔の皮膚を剥がされるような激痛[#「皮膚を剥がされるような激痛」に傍点]に変貌した。
バロットはのけぞった。あまりの痛みに意識が遠のいた。精密な感覚が消し飛び、周囲の様子がわからなくなり、たちまち恐怖が襲いかかった。
「活動抑止兵器《ADW》――」
黒い球が放ったのは爆風ではない。バロットにとって、それ以上の恐怖だった。
「電磁波を放って人間の皮膚に痛みを誘発する、非殺傷兵器だ――」
ウフコックの声がする。だがバロットは返答さえできず、ただかぶりを振っている。
「来るぞ! 君の真上だ!」
自分の両腕が、さっとひとりでに上がった。ウフコックのフォローだった。その腕を、ボイルドの放った弾丸が直撃した。バロットを、目もくらむ痛みが襲った。全身をナイフで切られ、その切れ目に釣針をさし込まれて一斉に皮を剥がされるような痛みだ。
「体感覚を操作《スナーク》しろ、バロット――!」
ウフコックが叫ぶ。同時に、バロットの全身を、再び防護壁が覆っている。
さらなる銃撃を浴び、防護壁を砕かれながら、バロットは意識を振り絞って自分の体を操作《スナーク》した。いつか誰かが言っていた――痛みを味わおうとして調子に乗ったと。
自分の感覚に干渉し、消すのだ[#「消すのだ」に傍点]。心を宙にとばして[#「心を宙にとばして」に傍点]。いつでもそうしてきたように[#「いつでもそうしてきたように」に傍点]。
最初はまだ完全ではなかった。父のときは。父の髭面が脳裏をよぎり、物凄い嘔吐感がこみ上げてくる。指が半分なくなった手で学校帰りのバロットの制服を脱がしてゆく。
消せ消せ――綺麗にしてやる[#「綺麗にしてやる」に傍点]。俺が綺麗にしてやる[#「俺が綺麗にしてやる」に傍点]。死んだほうがいい。街のきらめきから生まれるノイズ。痛みを消せ――スイッチが入れば肉親だろうが他人だろうがばらばらに引き裂く大型シュレッダーみたいなものだ。人間とは――痛い。ただ愛されたかっただけ。それは獲物だ。それは獲物だ。犯してやる《ファック・ユー》――痛い痛い痛い!
襲いかかる絶望と、それに必死に抵抗する心があった。胃が痙攣した。喉が上下し、口中に酸っぱい味が広がり、顎に吐潟物が滴った。泣いた。吐きながら泣いた。死にたくなかった。それは無条件に愛されたことのない者が必死に叫ぶ声だ。死にたくない。
――灰《アッシュ》、金《キャッシュ》、|クズ《トラッシュ》、壊す《クラッシュ》……
こんなに悲しいまま死にたくない。爆煙の味がまざまざと口の中に蘇った。
――|ふん殴《バッシュ》る、鞭打《ラッシュ》ち、|めちゃくちゃ《ハッシュ》、ちくしょう《ガーッシュ》!……
耳の奥から、韻を踏む歌が聞こえてくる。バロットの目が眠るように閉ざされた。
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、磨く《ブラッシュ》、流す《フラッシュ》……
強力な電磁波がウフコックをすりぬけて、皮膚の痛覚をめちゃくちゃに刺激しているのがわかった。それが痛みとしてではなく、現象として感覚された。
――光《フラッシュ》、新鮮《フレッシュ》……
痛みが遠のき、理性が戻る。腐った過去が胸の底に沈み、そして生きる意志が甦る。
――希望《ウィッシュ》……
バロットは、吃然《きつぜん》と目を開いた。
自分が倒れているのをはっきりと認識した。白い防護壁が、ボイルドの弾丸に砕かれてはバロットの体を卵のように覆っていた。倒れてから、まだ五秒と経っていない。
痛覚が消えた分、周囲の状況が恐ろしくクリアに感覚された。壁の上から撃ってくるボイルドの、髪の毛一本一本の動きさえ、はっきりとわかる気がした。
両手の銃を振りしめた。どちらの銃をどのタイミングで使うべきか一瞬で思い出した。
どちらがカードを呼び寄せるためのチップで、どちらが確実に勝つためのチップかを。左手の銃の口径が、さらに巨大なものになった。
バロットは立ち上がった。その瞬間、全身を覆う殻が粉々に砕けている。ウフコックが防御を解いたせいであり、ボイルドが撃ったせいでもあった。
ボイルドは、ほとんど手を伸ばせば届きそうな位置で、壁上に立っている。
その銃弾が、立ち上がったバロットの右の脇腹をかすめ、凝然と走り抜けていった。
真っ白い衝撃吸収材の破片が飛び散り、バロットの右腕が、殻を破った雛のくちばしさながらに、震えながら、しかし確かな意志を込めて突き出された。
一瞬、ボイルドの目が、驚きと喜びに大きく見開かれた。
バロットの右手の銃に詰め込まれた十数発の弾丸が、三秒半で撃ち尽くされた。
一方で電子攪乱《スナーク》≠フ牙がボイルドの左脚に食らいつき、思う存分、引き裂いている。
ボイルドの体を覆う重力《フロート》の壁が統一を失って乱れ、何発かの弾丸がボイルドの腕や肩を貫き――その左脚の大腿部から、血と火花が噴出した。
ボイルドの体が、ふわっと宙に浮かんだ。かと思うと、壁に立ち続ける力を失い、その巨体がバロットに向かって落下してきた。
バロットは、この一瞬で、左手の銃を使うタイミングを探った。
スーツの左袖がぐにゃりと変身《ターン》し、大口径の銃を撃つ衝撃に耐えるための鉄細工となって、腕を支えた。
だがボイルドの恐ろしさは、その瞬間さえもが、フェイントに他ならないことだった。
いきなりボイルドの両足が壁を踏んだ。壁上に立った。転瞬、ものすごい空気の唸りを起こしながら、銃底をバロットの頭部目掛けてなぎ払ってきた。
バロットは咄嗟に頭を振って、それを避けた。鉄槌のような一撃が、わずかにこめかみをかすめ、皮膚が裂け、頭髪が削《そ》げた。灼熱のような痛みが走ったはずだった。
だがバロットは、もはや一切の痛みを感じるのをやめている。それどころか、たとえ頭蓋骨を砕かれても、決めた通りの動作をし続ける自信があった。
攻勢に出たボイルドの一瞬の隙をついて、バロットは冷徹に、一連の攻撃を行った。
目に見えぬ電子攪乱《スナーク》≠フ牙が、ボイルドの重力の壁に突き立てられ、穴を開けた。
ほんのわずかな隙間だが、それで十分だった。たった一枚のカードの差が、必勝の配札を作り出すように。バロットの左手が、その隙間に向かって銃火を噴いた。
衝撃で、左腕を覆っていた鉄細工がたわみ、弾け飛んだ。それほどの口径だった。そしてそれだけの打撃をもって初めて、ボイルドの肉体を完全に貫けたのだ。
弾丸は、ボイルドの左の大腿部を穿ち、ボイルドの四肢と脳に移植された、重力《フロート》を作り出す装置の核の一つを正確に貫いた。
ボイルドの左脚が、一瞬、内側から風船のように膨らみ――破裂した。脚が、肉と骨と血の断片と化し、バロットの頭上で、鮮やかな赤と白の雨となって飛び散ったのだ。
そして次の瞬間――ボイルドは、膝上から消失した左足を、振るっていた[#「振るっていた」に傍点]。
バロットの胸元を、目に見えない何かが、猛烈な勢いで蹴り飛ばした[#「蹴り飛ばした」に傍点]。
歩道からすっ飛び、背から車道に叩き付けられながら、バロットは慌てて跳ね起きた。
体のどこにも痛みは感じていない。感覚はクリアで、心が冷たく透き通るようだった。
だがそこで目にしたものに、さすがに愕然となった。
ボイルドが、壁から歩道へと歩いてきていた[#「歩いてきていた」に傍点]。左足は膝のすぐ上から消失している。にもかかわらず、目に見えない左足[#「目に見えない左足」に傍点]を動かして歩き、車道に降り立ったのだ。
ボイルドは、残りの装置の働きを最大限に活かし、重力《フロート》を左足の形にして[#「左足の形にして」に傍点]体を支えていた。血はほとんど出ていない。重力によって重要な血管を圧迫し、止血しているのがバロットに感覚された。
「手足を吹き飛ばされたくらいでは、俺は止まらない」
ボイルドが低く囁いた。そして突如、駆け込んできた。
バロットを戦慄が襲い、慌てて撃った。右手の銃だ。声を出すことができていたら、果たして悲鳴と雄叫びのどちらを上げていたか判然とせぬまま必死の思いで立て続けに撃ち込んだ。ボイルドの重力《フロート》が弾丸の軌道を逸らすが、完全ではない。重力《フロート》にわずかな隙間が出来ていた。その隙間を縫って、数発の弾丸がボイルドの体をかすめた。
だがボイルドは止まらない。まっすぐ走り寄せ、血まみれの右手を振りかぶった。
空間が歪むような感覚とともに、重力《フロート》の塊がバロットに叩き込まれた。
左右と前方から、同時に、息も詰まる衝撃が襲いかかってきたのだ。
ボイルドが腕を振るうや、バロットの体が真後ろに跳ね飛ばされ、そのまま車道を越えて、反対側のビルのショーウインドウに突っ込んでいた。咄嗟にウフコックが体を覆ったが、バロットの操作《スナーク》で、敢えて全身を覆いきらず、体の主要な箇所のみの防御にとどめている。ボイルドが半ば盾を棄ててかかってきているのだ。こちらも攻撃の態勢をとらねば、流れ[#「流れ」に傍点]を押し切られるのが全身の肌で感覚されていた。
立ち上がった直後、バロットの周囲で、ショーウインドウのガラスが砕け散り、中に並んでいたラジカセや大人向け玩具が転がった。
ボイルドが、重力《フロート》の壁を展開し、バロットの周囲の空間を圧迫してきていた。
ボイルドが走り寄せ、その銃を構えた瞬間、今度はバロットが操作《スナーク》した。背後のビルの全ての灯りを一斉に点灯させ、その輝さでボイルドの目を再び灼いたのだ。
さながら光の殿堂を背に負うかのようなバロットを、ボイルドが狙いを定めず撃った。
轟音が迅《はし》った。すぐ脇でラジカセが粉々に消し飛ぶと同時に、バロットはショーウインドウから飛び出し、歩道で仰向けになって、右手の銃を立て続けに撃ち放った。
目で見ず、ただ相手の位置[#「位置」に傍点]を――存在[#「存在」に傍点]を感覚した。己の存在[#「存在」に傍点]を感覚した。二人の存在[#「存在」に傍点]が作り出す、生と死の流れ[#「流れ」に傍点]を感覚した。
相手の存在がいきなり宙を跳び、ショーウインドウのすぐ上の壁面に着地した。
バロットはそれを正確に追って撃ち続けながら、素早く跳ね起きた。
その肩口を、ボイルドの撃った弾丸が、轟然とかすめた。メイド・バイ・ウフコックのスーツが引き裂かれ、衝撃吸収材の破片が、弾丸の熱で火を上げながら音を舞った。
そして、互いの存在と流れを感覚しながら、そのとき最もすべきことを躊躇せずした。
まっすぐ相手に向かって歩きながら撃ったのだ。ボイルドもまっすぐ壁を歩き、
「――好奇心《キュリオス》」
呟きざま、轟音を放ってきた。
「俺はただ、お前と――お前たちと、こうしていたかった」
その顔が、不敵というには、あまりに暴虐に満ちた笑みを浮かべた。
バロットが、かっと目を見開いた。スーツの右袖が、ぐにゃりと歪み、それまでにない武器に変身《ターン》した。右手首から幾つもの光のラインが弧を描いて、ボイルドに飛びかかった。いつかバロットを襲った殺し屋の一人が使っていた武器――それがワイヤーカッターという名の武器であることを、使用した後で思い出していた。
そのワイヤーの束を、ボイルドの重力《フロート》の盾が、激しい火花を散らして弾き返した。
と同時に、一本のワイヤーだけが、バロットの操作《スナーク》によってまっすぐ上空へと伸び、先ほど老人が撃った窓のアルミサッシに絡んでいる。
火花が散り、サッシが中途半端に切断され、折れ曲がった。
ワイヤーが物凄い勢いで巻き戻され、バロットの腕が引っ張られ、体が宙に浮いた。
バロットの足が、思い切りビルの壁を蹴った。舞い上がった。さながら飛翔だった。
スーツを翻して飛びながら、バロットは、この殺伐とした世界に鋼鉄の咆吼を上げて睨み合う二人の存在[#「存在」に傍点]を感覚し、二人が生み出す流れ[#「流れ」に傍点]を感覚した。
そしてそれを最後に――ぴたりと感覚が拡散した。まるで自分の存在が空気に溶け込み、完全に消えてしまったかのように。それでいて互いの存在は在《あ》り続けている。
今やバロットの感覚こそが、流れ[#「流れ」に傍点]だった。バロットは、流れそのもの[#「流れそのもの」に傍点]になった。
ボイルドの放った弾丸が、バロットのすぐそばを猛然と迅《はし》り抜けた。
次の瞬間、バロットの体が、壁に立つボイルドよりも、高い位置に躍り出ている。
ボイルドが身をひねって、こちらに銃口を向けるのが感覚され、その太い指が引き金を絞り込むようにして引く様子が微細に把握された――ボイルドがそうする一瞬前[#「一瞬前」に傍点]に。
撃針が、弾丸の尻を叩くコンマ数秒前。バロットの足が、再び壁を蹴った。
灼熱の弾丸が、バロットの脇腹をかすめ、スーツを抉《えぐ》った。衝撃吸収材が、火の粉となって飛び散り、肌が灼かれ、弾道の跡に沿って黒くなった。
ワイヤーが、バロットの操作《スナーク》で、全て切断された。
バロットの体が一瞬、宙で静止した。その永遠とも感じられる一瞬のうちに、右手の銃が、ぐにゃりと変身《ターン》し、また違う武器になった。
ボイルドは、あくまでバロットの動き[#「動き」に傍点]を読んで、銃口を狙い定めている。
バロットは、頭から、速度を増して落下した。そのまま壁に左肩をこすりつけるようにしてボイルドの足元へと滑り込んだ瞬間、バロットの左手の銃が火を噴いた。
大口径の銃弾が、ボイルドの放った弾丸と真正面から衝突し、鮮やかな火花を飛び散らせた。その輝きの中でバロットは、ボイルドの重力《フロート》の隙間を正確に感覚した――いや、もはや知っていた[#「知っていた」に傍点]。そのとき、そこに必ず隙間が生じるということがわかっていた[#「わかっていた」に傍点]。
バロットは落下しながら、その隙間目掛けて、右手の武器[#「右手の武器」に傍点]を、存分になぎ払った。
ボイルドが、銃を握る腕を庇うため、他方の腕を犠牲にすることもわかっていた。
そして次の瞬間、高磁圧《ハチスン》ナイフの刃が、ボイルドの右肘のすぐ上を、水でも切るように、何の抵抗もなく斬り飛ばしたのだった。
バロットが地面に落下する寸前、裾が、ぐにゃりとクッションに変身《ターン》した。
ぽん、と歩道で一度跳ねてから、クッションが切り離され、バロットは元に戻った裾を翻しながら、歩道に降り立った。
どさっと音を立てて目の前にそれ[#「それ」に傍点]が落ちてきた。二の腕から切断されたボイルドの腕だ。切断面から重力を生み出す装置の一部が覗き、血と火花を噴き出している。
かと思うと、頭上から、ボイルド本人の体が、重力《フロート》を失い、落下してきた。
今度こそ、フェイントでも何でもない、ボイルド自身の最後の手段《ヒット》だった。
装置の五分の二を失ったため、体を垂直に支えると、体を守る盾に致命的な穴が空いてしまう状態だった。そしてそれゆえに、自ら優位な位置を棄て、飛び込んできたのだ。
それはまるで熟した果実が、重みで枝から離れるのに似ていた。甘く腐った果肉を地面に叩きつけて破裂させ、殺意の種子をばらまくための落下だった。
バロットがスーツを操作《スナーク》した。ぐにゃりと変身《ターン》したウフコックがバロットを覆いつくし、ボイルドが、全ての盾を攻撃に転じて重力《フロート》の鉄槌を叩き込んできた。
猛烈な力の奔流を真っ向から食らって、バロットは倒れ、その背が歩道を打った。
その背の下で、コンクリートが砕け、歩道に亀裂が走った。もはや爆撃だった。バロットの肉体の周囲で、重力《フロート》の爆圧が荒れ狂った。亀裂が歩道のアスファルトにまで及び、衝撃で周囲のビルの窓ガラスが一斉に砕け、火花と土煙が高く舞い上がった。
濛々《もうもう》たる砂塵がゆっくりと晴れ、やがて彼らの最後のカードの並びを現していった。
ボイルドは、右腕と左脚を失った姿で、真っ白い殻に覆われたバロットにのしかかり、じっと挙動を見守っている。
バロットは、動かない。その顔も体も繭のように覆われ、呼吸さえ定かではない。
(いたぁ……い、の?)
ふいに、ボイルドの脳裏で、やけに澄んだ声が響いていた。
(な……ぜ?)
かつて、初めてそれを――金色の小さな生き物を手に取ったときの温もりが甦った。
ボイルドは、自分が泣いているのかと思った。
「何も……痛くはない」
だが涙など一滴たりとも出てはいない。右腕と左脚の傷から血がしたたり、バロットの白いスーツを赤く染めてゆく。
(あた……たかい)
優しい声。そこにボイルドの魂の、最後のかけらがあった。
ボイルドは、ゆっくりと左手の銃をバロットの頭のある辺りに当て、撃鉄を起こした。
「俺という虚無を……止めてみせろ」
ボイルドは、引き金にかけた指に静かに力を込めた。
刹那――殻が弾け飛んだ。そして、狙い定めたがゆえに、咄嗟に銃を動かすことのできないその一瞬を突き、舞い散る白いかけらの中、猛然とバロットの右手のナイフが迅《はし》り、リボルバーの銃身を真っ二つに切断していたのだった。弾丸の火薬が炸裂し、これまで圧倒的な殺意のプレッシャーを生み出し続けてきた銃が粉々に消し飛んでいた。
殻を内側から突き破って起き上がったバロットが、ボイルドを睨み据えた。
同時に、左手の銃口を、ボイルドの喉元に、ぴたりとあてている。
〈これが、あなたの|充実した人生《サニー・サイド・アップ》……?〉
バロットが、銃口を押し付けながら、悲しみに彩られた顔で告げた。その顔が、びっしりと銀の粉を吹いている。全身の皮膚が成長し、今やバロットの黒い髪さえ、銀の粉にきらきら光っていた。
ボイルドは答えない。ただ、バロットの顔を見つめたまま、破壊された銃を棄てた。
「彼女は、よくやった」
ごとっ、と重苦しい音を立てて、巨大な銃の、砕けたグリップが路面に落ちた。
「最後はお前がやるべきだ、ウフコック」
ボイルドが、囁くように告げた。お互いの呼吸が感じられる距離だった。
バロットが目を見開いた。思わず叫んだ。もうやめて、と。声は出なかった。出るはずがなかった。掠《かす》れた息が必死に零れただけだった。
「二十年間、戦場に居続けてきた……俺は今、充実している」
ボイルドが言い放った。その目が、いつの間にかバロットを見ていた。
「よせ、ボイルド――」
ふいに、ウフコックの声がした。その瞬間、ボイルドの目がその声のほうを向き――何かを見据えるや、銃を棄てた左手が、いきなりバロットの左手の銃をつかんでいた。
ボイルドが立ち上がった。物凄い力で、バロットの左手が引っ張られ、無理やり起こされたかと思うと、重力《フロート》の圧迫に突き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられていた。
背の衝撃で息が詰まった。手袋が裂けていた。何か決定的なものが奪われた感覚があった。かちりと音がし――一瞬、バロットにはそれが何であるかわからなかった。
自分の命が軋《きし》む音を、バロットは、聞いた気がした。
気づけば、ボイルドが、バロットから奪った銃を握りしめて、こちらを見ていた。
大口径に変身《ターン》させた銃だ。弾丸がまだぎっしりと詰まった銃だ。そして先ほどの音は、撃鉄を起こす音だ。だがそれ以上に――それは、完全なるボイルドのダブルダウンだった。
――ウフコック!
バロットは、ひゅうひゅうと掠れた息を零し、声にならぬ声で呼んだ。
それこそが奪われたものの名だった。正真正銘の絶望がバロットを襲った。今や流れの中に溺れたバロットに、真っ黒い虚空のような銃口が囁いていた。呪われた人生を綺麗にする[#「綺麗にする」に傍点]方法など、これ以外にあるのかと。痛みを棄てた後は、命を棄てるだけだと。
大きく見開いたバロットの目に、涙がにじんだ。
――死にたくない。
全身で、死の囁きに抗《あらが》った。心の底からの叫びだった。無我夢中で、右手の武器を突き出した。それが何にもならないとわかっていても。それでもせめて自分の命の価値を創り直すチャンスを求めた。何度でも求めたかった。
そしてそのとき――
(あた……たかい)
あの優しい声が、ボイルドの脳裏に響いていた。今、取り戻したのだと思った。
初めて、金色のネズミを手に取ったときの温もりを。魂の最後の破片を。
だが思い出したのは、ネズミがそこにいた感触だけで、その温もりは、最後までボイルドの手に戻ってくることはなかった。
ボイルドは、冷たい引き金にかけた指に、静かに力をこめ――そして銃声が轟いた。
悲鳴のような音だった。何かを大声で祈るのに似ていた。
バロットの目が、大きく見開かれた。
ボイルドが撃った弾は大きく逸れて、バロットが背にする壁の遥か頭上を穿った。
外したのか――あのボイルドが。バロットは一瞬、本気でそう思った。そしてすぐに、事態を悟った。自分の右手が握る武器を、呆然と認識した。
恐ろしく口径の大きな銃だ。一瞬前まで高磁圧のナイフであったもの――バロットの思いに応えて変身《ターン》したものが、それだった。
バロットは自分が手にしたものを見た。最後まで自分の手に残ったものを。
「ウフコック……」
ぽつっとボイルドが呼んだ。温もりの名を。銃を構えた手が、ゆっくりと下がった。太く逞しい腕が、銃一つの重みに耐えかねるとでもいうように。そして腕が下がりきる前に、手から銃が離れ、ごとっと音を立てて歩道に転がった。
バロットは目を見開き、右手の銃を突き出したまま、ボイルドの崩落を見守った。
ボイルドの手が、自分の胸を押さえる素振りを見せた。その動作で、ボイルドの胸に大きな穴が空いているのがわかった。その穴から零れ出すものがあった。
命だ、とバロットの心のどこかが囁いた。
ボイルドの左脚の代わりになっていた重力《フロート》が消失した。恐ろしいプレッシャーを放ち続けてきたその巨体が、ひどく呆気《あっけ》なくその場にひざまずき、たちまち腕と脚の傷からホースで水でも撒くみたいに血が噴き出した。胸と背からも、どくっどくっと鮮血が溢れ出している。バロットは、命が零れて排水孔へ流れ込む音を聞いた。下水へと。これまでバロットが耳にしてきたあらゆる音の中でも、最も悲惨で、最も恐ろしい音だった。
その音を止めようとして慌ててボイルドに歩み寄った。
ボイルドが、ゆっくりとバロットを見上げた。一瞬、助けを求めているのかと思った。
だがそうではなかった。ボイルドはバロットを見つめ、何かを言った。声もなく。
唇の動きとかすかな吐息で、何を言おうとしたかがわかった。
バロットは咄嗟にうなずいてみせた。その言葉がきちんと伝わったことを示すために。
それ以外に、どうしたら良いかわからなかった。
ボイルドの目が動き、体から零れ出す黒いしみを、見た。
また少し、唇が動いた。それから目を閉じ――ボイルドは動かなくなった。
バロットは息を呑んだ。右手から、ふいに手袋ごと銃がほどけて歩道に落ちた。その、ごとっという音を再三耳にして、バロットは泣きそうになるほど悲しい気持ちに襲われた。それは戦う意志が失われる音だった。
――ウフコック?
スーツに干渉するが応答はない。そこは今度こそ本当に、もぬけの殻だった。
バロットは慌てて落ちた銃を拾い上げた。銃口が灼けるように熱かった。
――ウフコック?
繰り返し呼んだ。どうすれば良いのか教えて欲しかった。そしてふと何かに気づき、思わず手にした銃をまじまじと見つめた。そこにあらわれたウフコックの意志と行動に、バロットは、胸の真ん中を突き飛ばされたような衝撃に――悲しみに、襲われていた。
その銃には、引き金がなかった。
バロットの全身に、少しずつ、忘れていた痛みが戻ってきていた。
5
こめかみの傷がずきずきした。体中の筋肉が悲鳴を上げるようだった。
救急隊員に傷を治療され、ボイルドの用意した活動抑止兵器《ADW》が撤去されたのちも、痛みだけが残った。バロットは敢えてその痛みを感じ続けた。それが今の自分にできる唯一のことであるような気がしていた。
ウフコックは銃の姿のまま一切応答せずにいる。
バロットは赤いオープンカーの助手席に座り、その銃を抱きしめ、じっと体中の痛みに耐えるうち、いつしか脳裏で、あの韻を踏む歌が聞こえ始めていた。
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、磨く《ブラッシュ》、流す《フラッシュ》……
真っ赤な消防隊員たちが、それ自体燃えているかのような色の車輌を街路に運び入れ、消火剤をまき散らしている。付近の住民は住宅の損害保険の額を叫び、市の行政官が、慣れた顔で彼らの住居登録を確かめている。
――洗う《ウォッシュ》、壊す《クラッシュ》、磨く《ブラッシュ》、|めちゃくちゃ《ハッシュ》……
警察が一帯を封鎖し、シェルをゴミ箱から発見して担架で運んだ。その様子をカメラで撮ろうとするマスコミが、警官たちと押し合っている。
――|ぶん殴る《バッシュ》、鞭打ち《ラッシュ》、|クズ《トラッシュ》、灰《アッシュ》……
白い制服の人間たちが、血痕を調べたり、ちぎれたシェルの指や、ボイルドの手足をビニールに包んでは持って帰った。その後で遺体が袋に入れられた。死者は一人だけ。
その大きな体のフォルムが、重々しく運ばれていった
――光《フラッシュ》、新鮮《フレッシュ》、潰す《マッシュ》、|かなり良い《グディッシュ》……
ドクターは警官たちと話をしていた。裁判で顔を合わせた検察官もそこにいた。検察官は会心の笑みを見せて、ドクターの胸元に拳を当てたりしている。とても楽しげに。
――|吹き出物《ラッシュ》、|腐った卵《ジョッシュ》、希望《ウィッシュ》、|向こう見ず《ラッシュ》……
ドクターが検察官から離れ、バロットのいるところまでやってきた。
――終わり《フィニッシュ》、|しーっ《ハーッシュ》ー
それを最後に歌が消え、代わりに、ドクターの声が、バロットの耳を打った。
「これで、君の事件[#「君の事件」に傍点]は完結するな。二次事件が、事前交渉から本格的な審議に入る」
ドクターは穏やかに笑った。バロットを励ますように。むしろこれからが大変だぞ、というような顔で。実際、ドクターにはこれからやることが山ほどあるはずだった。
「君をずいぶん危険な目に合わせてしまったね。報酬はその分、割高になると思って良いよ。恨みは、全部、僕とウフコックに――と言いたいところだけど……」
ドクターはオープンカーのドアに両手をつき、バロットが抱く銃を見つめた。
「よかったら、ウフコックのそばにいて、慰めてやってくれないかな。この決着は……僕やウフコックにとって……少々、こたえるものだから……」
〈あの人[#「あの人」に傍点]も、最期に、同じことを言ってた〉
バロットは、死体が運ばれていったほうを見ながら、カーステレオに干渉して告げた。
〈ウフコックのそばに、いてやってくれって〉
ドクターが意外そうな顔になった。
「……ボイルドが?」
バロットは小さくうなずいた。それから、こう訊いた。
〈少しドライブして良い? 車の運転をオートにして。ここに来たときみたいに〉
「疲れてない? ハンプティの使用期限までまだあるから、そっちで寝てても……」
〈大丈夫。それに、ウフコックに伝えることがあるから。あの人が言ったことで〉
「ボイルドが、他にも何か?」
バロットはまた一つうなずき、告げた。
〈これでようやく、眠れるって〉
ドクターはうなずかなかった。首を振りもしない。ただじっと黙って、その言葉を胸に落とし込んだようだった。
「僕も開発に携わった……。あいつを、一生、眠らずに過ごす体にしたんだ」
バロットは目を細めた。ドクターはそこで初めて、かぶりを振った。
「沢山あるんだ。まだ今は、やることが沢山……」
〈うん〉
「悲しむのは、後にしなくちゃいけないんだ」
バロットは、はっきりとうなずいてみせた。ドクターは誰かにそうして欲しがっていた。ドクターは少しだけ笑い、現場へ去っていった。
バロットは体を覆う分厚い防弾服を、下地のスーツから音を立てて引き剥がした。
それから手袋を脱ぎ、汗に濡れた素肌を風にさらした。
赤いオープンカーは夜明け前のラッシュを控えたメインストリートを避けて、沿岸へと抜けていった。暗い海にかかる巨大な橋を越え、コンクリートのプラットフォームに埋め尽くされた一帯に出た。清潔な臨海地区の向こうには、重油にまみれた工業地帯が広がり、その先の団地と公共住宅の群が、行き場のないティーンエイジャーたちの落書きと一緒に、紫色の空の下で眠っている。
都市の岸辺を眺め、銃を胸に押しあてながら、バロットは泣いた。
泣きながら、死ななかった自分を実感していた。こうして痛みを感じている自分を。
命は奪われず、体も失わず、心もなくさなかった。ただ傷と痛みを負った。
ウフコックが全てを守ってくれたのだ。最後の最後まで。生存のために、相手を殺害せねばならないその瞬間からさえも――ウフコックはバロットを守ってくれた。
シェルは逃げ続けてきた過去を頭の中に押し戻され、ボイルドは望み続けてきた殺戮の最期を迎えた。それが彼らが辿り着いた|天国への階段《マルドゥック》≠フ最後の階段だった。
そしてウフコックもまた、そのステップを踏んだ。バロットの死にたくないという叫びを聞き入れ、かつての自分自身の使い手を否定し――道具である自分を半ば跳び越え、殺傷に及んだのだ。バロットが殺されないために、ボイルドに殺させないために。
そして、バロットに殺させないために。
波の音がした。バロットは潮の匂いをかいだ。空気は重く、様々なものにまみれていた。工業プラントの巨大な機械がよどんだ風に揺られて、軋んだ音を立てている。
赤いオープンカーは何かに押し込められることから逃れるようにして、都市が海に向かつて牙を剥くような防波堤のシーストリートを走り続けた。
俺は道具だ、というウフコックの言葉が蘇った。使い手を守ってくれる道具、多くのことを学ばせてくれる優しい道具だ。そのウフコックを呼び戻すための様々な言葉が、バロットの中で浮かんでは消えていった。ウフコックを慰めてやってくれとドクターは言ったが、バロットにはただこうして胸に抱くことしかできなかった。
涙は流れ、乾き、そしてまた流れた。自分のために流れ、そして誰かのために流れた。
ふいに胸に抱いた鋼鉄が、温度を上げるのを感じた。ウフコックの気配がした。だがいつまでたってもウフコックは姿を現さなかった。まるで本当に卵になってしまったみたいに。鋼鉄の殻の中に閉じこもったまま、しかし気配だけは確かにそこにあった。
――ウフコック?
静かに呼んだ。返事はなかった。腕を開き、銃を持ち上げようとした途端だった。
「そのまま、抱いていてくれ」
ウフコックは悲しい声でそう言った。
「あと少しだけ、君に」
途端に、バロットは暖かいものが胸に広がるのを感じた。
自分がウフコックを抱くとき、ウフコックもまた自分を感じてくれている――そのことが急に心に迫った。ウフコックはいつでも自分を感じてくれていた。自分の体温とか気配とか、そういったものを。今だけではなく、これまでも。出会ったときから、ずっと。鏡の向こうから互いに自分の姿を見るだけでは、決してなかった。
誰かが自分に触れて自分を感じているのだ[#「自分に触れて自分を感じているのだ」に傍点]ということは、バロットの人生において呪いであり、あらゆる恐怖の根源だった。奪われ、良いようにされるだけだった。それを防ぐには、ひたすら殻に閉じこもり、鏡の向こう側に逃げるしかなかった。
それが今、綺麗に晴れた。いつの間にか綺麗に消えていたのだ。長い間失われていたパズルのピースが、知らないうちに心の穴にぴったりはまり込んでいたように。
綺麗にしてやる[#「綺麗にしてやる」に傍点]。俺が綺麗にしてやる[#「俺が綺麗にしてやる」に傍点]――そう囁く声が、徐々に脳裏から離れ、やがて、何の意味もない言葉となって消え去った。
たちまち、バロットの目に、それまでとは違う涙が溢れ出した。
――一緒に泣きましょう、ウフコック。悲しい気持ちが少しでも消えるように。
バロットは引き金のない銃を抱きしめ、そっと囁きかけた。
そして都市の上に広がる、かすかに明け始めた空に目を向けながら、自分に何ができるかを考えた。どうすべきかを考えた。いつでも煮え切らないこの卵を、ずっと抱いていたい――この引き金のない銃をこそ。そんな思いが強く湧いた。たとえどんな焦げ付きの中でも、そうすることができる自分でいたい。それが今の自分の望みであり、自分にできることであり、そして一番すべきことであるような気がした。
車は海岸線を巡り、いつしか都市へ戻り始めていた。
巨大などルの群とともに、幾つもの道が互いにすれ違い続ける都市が近づいてくる。
そこで挫折は繰り返され、暗い墓場から伸ばされる手は増え続けるだろう。
亡霊は繰り返し立ち上がり、多くの沈黙を引き裂くための銃声を響かせるだろう。
バロットは都市の遠景を眺めながら、死んだ男の言葉を思い出し、そっとうなずいた。
そばにいるということ――それができる相手と共にいることこそ、この都市に残る、最後の希望だった。
バロットがウフコックを抱くように、マルドゥック市《シティ》もまた、明けゆく空の下で、幾重にもつらなる|交錯する空白《スポット・オブ・スポット》を抱いている。
バロットは、そこに帰っていった。
自分が一度死んだ場所へ。
そこで生きるために。
[#地付き]fin――
[#改ページ]
精神の血を捧げて
我々は無数の価値観を作り上げることで、かつて地球上のどのような生命もなしえなかったほどの規模で社会発展を果たした、人類という名の種である。
価値観とは、偶然の出来事から必然へと赴く、人類独自の生存様式をいう。
たまたま起こった事柄の意味を探り、その事柄の反復をもくろみ、そしてさらに新たな、より「価値のある」事柄を起こそうとする。それが必然へと赴くということである。
もちろん人類だけが独自の生存様式を有しているわけではない。昆虫には昆虫の、肉食獣には肉食獣の生存様式があり、子々孫々に伝えてゆく独自の方法を持っている。
だが、そうした多種多様の生命の中でも、人類は、その価値観をひときわ複雑化させ、爆発的にかつ継続的に発展させてきた。
人類は、価値観を言語化し、映像化し、音声化した。
記録し、検討し、再発見し、封印と独占と喪失を交響楽の休止符のように行い、かと思うと一挙に解放し、「高み」「深み」「広さ」「鋭さ」「重さ」「軽さ」などの諸形態をダンサーのまとう華やかな衣装のように翻らせ、その正当性を問うてきた。
人類は価値観のもとで努力し、挫折し続ける。挫折さえも一つの価値として記録する。たとえその記録が失われてもなお、漠然とした記憶に抱き続ける。
それが人類の尊厳であり、我々は、たとえどれほど、みじめでちっぽけな個人であったとしても、常に価値の栄光の中にあって、不滅であり続ける。
「ダークヒーローの少女と、その相棒」という、ごく単純な動機で発想されたこの物語は、気づけば、人間について、そこまで考えないといけないものになってしまった。
なぜかといえば、それがそのときの僕自身の価値だったからだ。
もちろん、どの編集者も、デビュー間もない新人小説家に――もっといえば、小説家として本当にやっていけるのかどうかわからない若者に――そんな期待はない。
早く本を出さないと、お金が入ってこないよ。読者に存在を忘れられちゃうよ。
それどころか、下手をすると自分が、小説家としての自分を忘れちゃうよ。
そんなことを沢山言われたが、それらもまた僕が抱くべき価値観の一部として受け入れ、この物語を書き続けた。最後の一行に向かって、とにかく長い旅を続けた。
執筆中、自分に才能があるなどとは一瞬たりとも思わなかった。そんなことは関係がないのだ。才能があろうがなかろうがこれを書く。全力で書き上げる。
そしてあるシーンに差し掛かり、あまりに心が弱まったため、自分からビジネスホテルに閉じこもり、五日ほどの間、誰とも連絡を取らずに書くことにした。
バロットとアシュレイの、ブラックジャック勝負のシーンである。
彼らの勝負熱に、執筆している本人が煽られ、突然、胃に酸っぱいものが込み上げてきた。慌てて横を向いた途端、思いっきり吐いた。ビジネスホテルのベッドと床にぶちまけられた反吐を前にして、声を上げて笑った。このときばかりはさすがに自分が異常なのではないかと思った。吐いたことが問題なのではない。
「今、自分が書いているこの物語は、本当に面白いぞ」と、唯一、確信を抱くことができた瞬間が、そのとき――自分の反吐の匂いを嗅いだときだったからだ。
そんな地獄のような日々にも、ご褒美を手にする瞬間というのは必ずある。
今でも鮮明に覚えている。そのシーンを書き上げた直後のことだ。完全に放心状態で、一服しながらビジネスホテルのテレビをつけると、知っている顔が現れた。
少林寺拳法で有名な、ジェット・リーことリー・リンチェイが、何かの深夜番組でインタビューを受けている場面に、出くわしたのだ。
「陰きわまれば陽に転ずる。陽きわまれば陰に転ずる。何かを失うことも、手に入れることも、実は同じことなのかもしれない。映画に出演することで得たものも失ったものも、僕は同じように愛している」
リー・リンチェイは、テレビの向こうでそう言っていた。
僕も全く同感だった。人間は、自分の反吐の匂いにだって、価値を見出す存在だ。
一つのシーン、一つの作品を書き終えることで得られるものがあるとすれば、それは、次のものを書く自信と、それ以外のもの全てへの愛情に他ならない。
翌朝、僕は妙に満ち足りた気分でホテルをチェックアウトし、続きを書いた。
今、わかるのは、これが「少女と敵と武器」についての物語であるということだ。
我々は、同じ人間に対して、様々な概念を当てはめることで社会を形成する。
その一つが「少女」であり、これは発明されてから僅か数百年という、とても新しい概念だ。成長過程の一時期に注目し、社会的に何かの(まだはっきりしていない)役割を与えようとするものである。「少女時代」とは何かという問いに対し、我々の社会は、まだセーラー服を着せて学校に行かせる程度の答えしか持っていない。(余談だが最初にバロットという人物を見出したとき、「援助交際」はあまり顕在化しておらず、少女の売春などリアリティがないと言われたこともあった)
また一方で、「敵」という概念がある。人類が社会を作る以前からあり、もしかすると社会を作るきっかけにさえなったかもしれない概念だ。
人類はありとあらゆる「敵」を作りだし、その定義を千差万別に変化させてきた。
ある者を敵とみなすときに発揮される人類の発想の豊かさ、柔軟さ、強烈さ、普遍性などは目をみはるものがあり、たまにそんな人類に絶望したくなるほどだ。
その「敵」に対する人類の知恵の結晶が「武器」である。それは人の力そのものというよりも、むしろ力をどこに向けるべきかという羅針盤の針の役を担っている。
「矛先を向ける」という言葉があるように、武器は、それまで敵でなかった者さえも、敵として定義してしまう。それは文字通り「矢印」のようなものなのだ。
そんな「少女と敵と武器」を、「セックスと嘘とビデオテープ」のように羅列的文脈で書く。「少女」というきわめて近代的な概念を、人類の文明のルーツともいえる「敵」と「武器」に、本気で叩き込むのだ。全ては、そこから始まった。
そして、ある過程で、どうしてもカジノのギャンブルという要素が外せなくなった。
価値というものが偶然から生じた必然であることを書く以上、避けようがなかったのだ。だが何をどう書いて良いかわからず、とりあえずすべきこととして、腹をくくった。
ポーカーも、ルーレットも、ブラックジャックも、執筆中は悪夢の代名詞だった。
一日中、トランプのカードと睨み合うという異常な日々が続き、その苦しみが頂点に達したとき、先述のような嘔吐に至った。だが歓喜は、そこからやってくる。カジノのシーンを全て終えたとき、ようやく自分にSFが書けたと思った。
多くの人々のお陰で、最後まで心を強く保てた。そして、書き終えることができた。
そこから第二の旅が始まった。出版先を見つけ出すという、困難に満ちた長旅である。
自分が書き上げたものに価値があるかどうか――それを問う気持ちが強かった。
しかし出版を打診し続けること数年、物語の長さや、テーマや、主要なシーンなどが問題となり、なかなか機会は訪れなかった。
それでも、アスキー出版のSさん、中央公論新社のNさん、徳間書店のIさんを始め、どの編集者も、立場はあるものの、みな親身になって下さった。富士見書房のSさんなどは、どうにかしてライトノベルで出そうという過激なことまで考えて下さった。
最終的に、角川書店のHさんから早川書房のSFマガジン編集長をご紹介頂き、出版の検討が始まるに至り、ようやく厳しい旅を終えることができた。
そのときの夏の日射し、強い緊張、幸福感、期待する気持ちと、期待しすぎないようにする気持ちとのせめぎ合いを、今でもまざまざと思い出すことができる。
たった一本の電話によって、全てが報われた、あのときの気持ちを。
そして第三の旅が始まった。
千八百枚の原稿のブラッシュアップ。
出版に携わる方々であれば、そのとてつもない作業量に面食らうのではないか。
早川書房の一階の喫茶店で打ち合わせをしたとき、原稿の束でテーブルがいっぱいになり、コーヒーを置くスペースを作らねばならないほどだった。
そんな量の文章を前にして、責任を持とうという人自体、あまりいない。
何とか出版したいと言ってもらうだけでも、感謝が胸に溢れる思いなのに、
「JA文庫で、三ヶ月連続で刊行というのはどうでしょう」
と編集長から言われたときは、さすがに、驚愕に目を剥いた。
僕は自分が地獄のような思いをすることには、けっこう慣れきったところがあるが、それに匹敵する地獄を平然と口にする人を目の当たりにして、正直びっくりした。
第三の旅は、はっきりいって僕個人は楽だった。推敲は体力的にはきついものの、出版のめどがついた上での作業ほど、精神的に楽なものはない。目隠しの状態で杖を頼りに歩いていたのが、晴れた空のもとを真っ直ぐ歩いていけば良いだけになったのである。
だが編集と校正の苦労は並大抵ではなかったはずだ。特にカジノのシーンは一つ間違うと全てが混乱するドミノ倒しのごとき構成になっており、それを三ヶ月連続刊行というタイトなスケジュールの中、何度もチェックするという、気が遠くなるような作業をして頂いたのである。しかもその上、
「カバーの絵は、寺田克也さんで、どうでしょう」
と驚喜してしまうような提案を頂き、さらには、
「第二巻の解説は、鏡明さんに依頼しました」
とびっくりしてしまうようなことを言われ、感謝と同時に、怖いような恥ずかしいような、第一巻でバロットが「今ここにいる《ナウ・ヒア》」と壁に書いたときのような気持ちになり、その後のバロットのように暴力的な陶酔に突っ走らぬよう気を引き締めたものだ。
かくして、執筆の旅、出版社探しの旅、出版への旅という三つの長い旅が完結した。
その成果が、本書である。
僕自身、無事に出版後の新たな旅に入ることができた今だからこそ言えるのだが――
果たして、少女がのたうち回って苦しんだり、馬鹿げた大金を博打につぎこんだりするような物語を、読者は望むだろうかと、疑問にも思っているのだ。
そして恐らく、答えはノーなのである。いったいどこの誰が、そんな物語を要求するだろう。どこの出版社の編集者も、そんなものを求めてはいなかった。
第一巻から第三巻にかけて、不愉快なシーンも多々あり、金を払って、なんでこんなものを読まなければならないんだと思われた方もいるかもしれない。
それらの不愉快なシーンについて、現実はもっとひどいのだから良いじゃないかと開き直るつもりはない。逆に、現実に負けぬよう、遥かに残酷に描写する工夫をすべきだとも思っていない。心に見えたものをその通り書く努力だけが、あるべきなのだ。
ならばなぜ、そもそも、そんなものを書いたのか。
僕はただ、反吐にまみれながら見つけた、精神の血の一滴を、他の誰かにも見せたかっただけなのだ。そしてその切々とした輝きが、どんなときも、あらゆる人々の中にもあることを、大声で告げたかっただけなのだ。
最善であれ最悪であれ、人は精神の血の輝きによって生きている。
エンターテイメントは、その輝きを明らかにするためのものに他ならない。
そして僕は、そのために泥の中を這い回る、最前線の兵士の一人でありたい。
旅は続く。現代が、新たな概念を次々に咲き乱れさせる一方で、小説がそれに巻き込まれるばかりではなく、リードしてゆける媒体であることを信じて、今後ともエンターテイメント業としてのこの職業に、身も心も捧げてゆきたい。
最後に、SFマガジン編集長、寺田克也さん、鏡明さん、家族と友人たち、そして、読者の皆様へ――本当にありがとうございました。
二〇〇三年六月
[#地付き]冲方 丁
[#改ページ]
参考文献
『ユートピア』トマス・モア 平井正穂訳 岩波文庫
『死に至る病』キルケゴール 斎藤信治訳 岩波文庫
『社会契約論 人間不平等起源論』ルソー 作田啓一・原好男訳 白水社
『倒錯(ビザール)』グループソドマニア編 光文社文庫
『カジノ』黒野十一 新潮社
『賭博・暴力・社交遊びからみる中世ヨーロッパ』池上俊一 講談社
『無敗の手順 雀鬼・桜井章一の究極奥義』桜井章一 竹書房
『武術の視点 古人の身体操法をいまに』甲野善紀 合気ニュース
<WIRED NEWS> www.hotwired.co.jp/news/
[#改ページ]
底本
ハヤカワ文庫
マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust――排気
二〇〇三年七月 二十 日 印刷
二〇〇三年七月三十一日 発行
著者――冲方《うぶかた》丁《とう》