マルドゥック・スクランブル The Second Combustion――燃焼
冲方丁
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)端末《プール》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|鳥籠の中の顔《フェイスマン・イン・ザ・ケイジ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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contents
Chapter.1 活塞 Piston
Chapter.2 噴出 Injection
Chapter.3 回転 Rotor
Chapter.4 爆発 Explosion
解説 鏡 明
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Mardock City【マルドゥック市《シティ》】
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港湾型重工業都市。政令中枢に設置された“天国への階段≠ニ呼ばれる螺旋階段状のモニュメントを都市名称の由来とする。
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Mardock Scramble【マルドゥック・スクランブル】
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マルドゥック市における裁判所命令の一種。人命保護を目的とした緊急法令の総称。
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Mardock Scramble-09【マルドゥック・スクランブル―|09《オー・ナイン》】
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緊急法令の一つ。非常事態において、法的に禁止された科学技術の使用が許されることをいう。
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characters
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ルーン=バロット
Rune-Balot……少女娼婦
ウフコック=ペンティーノ
OEufcoque-Penteano……事件屋
ドクター・イースター
Dr.Easter……事件屋
シェル=セプティノス
Shell-Septinos……賭博師
ディムズデイル=ボイルド
Dimsdale-Boiled……事件屋
ミディアム・ザ・フィンガーネイル
Medium the Fingernail……畜産業者
トゥイードルディ
Tweedledee……完全個体
トゥイードルディム
Tweedledum……イルカ
プロフェッサー・フェイスマン
Professor Faceman……三博士
ベル・ウィング
Bell Wing……スピナー
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Chapter.1 活塞 Piston
1
――死にたくない。
その思いが血まみれの銃に伝わり、弾丸となって[#「弾丸となって」に傍点]撃ち放たれるたびに、悲しい気持ちが、どうしようもなくこみ上げてきていた。
――ごめんなさい、ウフコック。ごめんなさい。
今なら濫用[#「濫用」に傍点]という言葉の意味がバロットにもわかった。自分はウフコックを濫用[#「濫用」に傍点]した。自分がウフコックを、危険な道具[#「危険な道具」に傍点]にしてしまったのだ。
その結果が、この、血を流す銃だった。体を吹き飛ばされてもなお銃に変身《ターン》してくれたウフコックに、血と苦痛で報いることしかバロットにはできない。
弾丸と弾丸が宙で激突し、鋼《はがね》が粉々に飛び散り、バロットとボイルドに降りかかった。
ボイルドの放った弾丸が、バロットのすぐ脇の鉄柵の柱を紙細工のようにへし折った。
バロットは、そちらを見もせず、立て続けに撃った。弾倉から瞬く間に弾丸が消え、熱とともにマガジンを排出するや、大量の血が蒸発しながら銃底からしたたった。
銃も手も、真っ赤だった。鋼の内部[#「内部」に傍点]から弾倉が装填され、瞬時に、弾丸がぎっしりと詰まる。まるでウフコックの血肉を撃ち出して身を防いでいるようなものだった。
バロットは正確に、自分の体に飛来してくる弾丸だけに集中し、撃ち弾いた。
そして圧倒的な弾数で必死に牽制するが、ボイルドの体には一発として届かない。
疑似重力《フロート》=\―それがボイルドの身に備わった技術の力だった。肉体の周囲に重力を発生させ、弾丸の軌道を逸らしてしまうのだ。その不可視の盾の向こう側で、
「なぜだ……ウフコック」
ボイルドが、昏《くら》い顔で呟きながら、巨大なリボルバーの銃口から、殺意の塊を噴き放ってくる。その呟きの意味はバロットにはわからなかった。だが徐々に、ボイルドに対する意識が、バロットの中で変化を見せ始めた。
仕留めよう。そう思った。自分の身を守るということが念頭から消え、ただ目の前の男の動きを止めることだけを考えた。それしか、ウフコックにしてやれることがなかった。
だがバロットの撃った弾丸は全て軌道を逸らされ、あらぬほうへと飛んでいった。
ボイルドの銃の弾丸が尽き、弾倉を開いて空の薬莢を床に棄てた。
太い指が、無限の殺意と攻撃の意志を込めて、弾丸を装填してゆく。
目は、じっと、血まみれの銃を構えるバロットを、向いたままだ。
「その娘と、俺と、何が違う……」
声に、ひどく無機質な殺意が、重油のように滴っていた。
装填された銃が、再びバロットに向けられた。
バロットは、瞬きもせず、ボイルドを見つめた。引き金にかけられた指が、ぴたりと、何かを狙うように、止まっている。
ある一瞬に、バロットは、全てを賭ける気でいた。ボイルドが銃を撃ち放つ瞬間――その疑似重力《フロート》の壁が、そのとき、自分の弾丸が通過する一点だけ、開かれるのだ。
その瞬間の、その一点だけが、ボイルドを覆う不可視の盾の、隙間なのだ。
何十発と撃ちながら、バロットが死に物狂いで見つけた、敵の唯一の急所だった。
バロットが、その急所を狙っていることを、ボイルドもすぐに察したらしい。
かすかな、笑みに似た、ひどく凄惨な陰が、ボイルドののっぺりとした顔に浮かんだ。
互いに銃を突きつけたまま、二人の間に、鼻の奥がきな臭くなるような緊張が満ちた。
バロットの額から流れる血が、汗と涙と一緒になって、顎先に滴っていった。
「……それが、お前の有用性[#「有用性」に傍点]か、ウフコック」
ボイルドが、重々しい音を立てて撃鉄を起こした瞬間、
「新しい怪物がこの世に生まれたに過ぎない……」
その声を一挙にかき消す轟音が、天空から響き渡った。
同時に、猛烈な突風が吹きつけてきた。
ヘリコプターや飛行機とは違う、飛行する巨大な物体の吹き放つ風であった。
「ウフコック! バロット! 到着したぞ!」
拡声器を通した怒鳴り声が響き渡り、バロットとボイルドは、ともに天を見上げた。
呆然となったのは、バロットのほうだった。
それは、巨大な銀色の卵だった。縦十メートル以上はありそうな卵形の物体が、まるで月の一部が剥がれて落ちてきたかのように、屋上へと降りてくるのだ。
「ハンプティか……。法務局《プロイラーハウス》も、対応が早くなった」
ボイルドが、ぼそりと、頭上を見上げながら呟いた。
「退《ひ》くんだ、ボイルド!」
声とともに卵の一部が音を立てて亀裂を走らせ、幾つもの六角形に分かれて開いた。
次の瞬間、さらに大きな音を立てて屋上に卵が突き刺さった。まるきりコロンブスの卵である。だがこの場合、砕けたのは卵ではなく屋上のコンクリートのほうだ。
「バロット、こっちに!」
開いた空間からドクターが現れ、ライフルを構えながら、叫んだ。
「本日午後六時をもって、今事件は最高ランクに承認された! 事件委任者には、浮遊住居での一時居住が許可され、以後、この住居への侵入および居住者への一切の暴力的行為は、重要参考人への危害と見なされ、重大な連邦法違反となる!」
みなまで言わせず、すぐさまボイルドの銃が、ドクターに向けられた。
その瞬間――バロットは、血が沸騰して頭に逆流するような感覚を味わった。
ボイルドの体を覆う不可視の盾が、その一瞬、その一点、開く[#「開く」に傍点]のがわかったからだ。
バロットは撃った。もし喉が無事なら、大声で叫んでいたかもしれなかった。
ボイルドの右手の甲を、バロットの放った弾丸が穿《うが》った。
ボイルドの撃った弾丸が、大きく逸れて、銀色の卵の表面で盛大な火花を散らし、
――届いた。
その思いが、猛然とバロットの中で沸き起こるのと同時に、
「早く……ドクターのもとへ!」
手の中で、ウフコックが叫んだ。
バロットは弾かれたように立ち上がった。ボイルドに向かってさらに攻撃しようという気は一瞬で消え去り、ただひたすらウフコックの言うことを聞くことしか頭になくなった。
体中の痛みに耐えながら、巨大な銀色の卵に向かって走るバロットを、ボイルドが、昏く光る目で追った。撃たれて硬直した右手から、銃を引き剥がし、グリップが無事であることを確かめると、それを左手で握りしめた。
「なぜだ……ウフコック」
その言葉を繰り返しつぶやきながら、バロットに向かって撃ち放った。
バロットもその動きを読んで、同時に撃ち込んでいる。ドクターがボイルドに向けてライフルをぶっ放した。弾丸はどれ一つとしてその場にいる者に当たらなかった。
ボイルドがわずかに後退した。バロットが銀色の卵へと走り込んだ。またライフルの銃声がしたかと思うと、バロットはドクターに引っ張り上げられて卵の中へ放り込まれた。
「下がって! 奥に入ってるんだ!」
ドクターの叫びとともに、ライフルの発射音が、立て続けに鳴り響いた。
ふいに、卵が浮いた。何の音もせず、体を持ち上げられるという感覚さえない。ただ、地面がみるみる遠のいてゆくのだという感覚があった。
よほど上等な重力素子を績んでいるらしく、あっという間に上昇していった。
「奥に入って! 開いた殻壁の近くにいると、体内の血液が移動するから! 目がくらんだら横になって! 今、殻壁を閉じ……」
ドクターの叫びが消えた。同時に、卵の底のほうで、どすん、という音がしていた。
壁の外を、こつこつと、足音が移動してゆく。
ドクターが、血相を変えて、入り口に向かって、ライフルを構えた。
やがて、そこに、ボイルドが現れた。銃を手に、ドクターを見下ろした[#「見下ろした」に傍点]。ちょうど縦と横に交わる線のように、直角に外壁に立って銃口を向けたのだ。その足下では、殻壁が、破れた殻を修復するように閉じてゆく。
「ボイルド、諦めろ。あと数秒で、お前の能力で耐えられる高度を超えるぞ」
ドクターが、緊張した顔で、言い聞かせるように告げた。
「お前とは、あんまり、どんぱちやりたくないんだ」
ボイルドが、問答無用で、撃鉄を上げた。
「ウフコックは、なぜ、俺の手を離れた」
途端に、ライフルを構えるドクターが訝《いぶか》しげな顔になった。
「離れていったのは、君のほうだ」
刹那、ボイルドが銃をふりかざし、頭から飛び込んできた。
「よせ! 連邦法違反者になりたいのか!」
ドクターの叫びがライフルの銃声でかき消えた。銃弾はボイルドの体をかすりもせず、ドクターの細っこい体はボイルドの腕のひと振りで殴り飛ばされた。
ボイルドが、卵の中に躍り込みざま、立つ方向[#「立つ方向」に傍点]を変えた。
その瞬間だった。奥に入るどころか、入り口のすぐそばの床に座り込んだままのバロットが、ぴたりとボイルドに狙いを定めていた。
赤い銃だった。銃身から、ぺったりと血が溢れ出ているのだ。
その銃身が震えた。赤いものが激しく飛び散った。銃口が立て続けに火を噴き、咄嗟《とっさ》に急所を庇《かば》ったボイルドの両腕と体に全弾命中した。
言葉にならぬ痛烈な叫びが、ボイルドの口からほとばしった。弾丸を逸らす[#「逸らす」に傍点]間もなかった。さすがのボイルドもまっすぐ後ろへふっとばされた。卵の中に足を付くことさえできなかった。入り口の縁を右手でつかみ、体を引きとどめようとしたが、バロットに撃たれた傷から零《こぼ》れ出る血ですべり、そのまま宙に投げ出された。
ボイルドの叫び声が尾を引き、その声を、入り口の外壁が、ぴったりと閉じて遮《さえぎ》った。
何もかもが静かだった。高級エアカーの中にいるみたいに、しんとしていた。
バロットは閉ざされた殻壁に向けて銃を構えつづけた。その姿勢から、指一本動かせなくなっていた。目はじっと何かを見ている。ボイルドが残していった血の跡――入り口の縁をつかんだときの、血の手形が残っているのだ。
同じ色をした雫が、銃の先から、ぽつりぽつりと零れ、絨毯に染みをつくっている。
赤い雫は、グリップを握った手首をつたわり、肘からもしたたった。
ドクターがライフルを置き、緊張した顔で、バロットの傍らで膝をついた。
「ウフコックが負傷したのか?」
バロットは、殻壁から、ドクターへと目を移し、ぼうっとうなずいた。
手は、まだ銃を構えたままだった。
「君は? 額を切ってるな。他に、どこか怪我は?」
バロットは、ぼんやり首を振った。辺りの光景が、急に明確に目の中に入ってきた。
まるで避暑地の別荘かなにかのような部屋だった。天井は高く、階段があって、その先の二階部屋の窓が一階のロビーに向けて開いている。ロビーではシックなテーブルの周りに椅子が並んでおり、様々な調度品が壁の中に収納されているようだった。
ドクターが、そっと、銃を握ったバロットの手に触れた。
「浮遊移動式住居《フライング・ハウス》ハンプティ=ダンプティさ。スクランブル―|09《オー・ナイン》の一つ――もとは、空中移動する要塞として開発された、軍事技術だよ。法務局《プロイラーハウス》に、特定の空域での使用を期限付きで認めさせた。君は今からVIP待遇だ。ただの事件委任者ではなく、第二次事件の重要参考人として、君の生命の安全を保証する」
ドクターの手が、バロットの銃を、静かに降ろさせた。
「もう安全だよ」
バロットは、体中の力が抜けるのを感じ、ドクターに促されるままに、右手を銃から離した。途端に、どっと血が溢れた。銃のあちこちから、赤い血が零れだした。
ドクターが銃を取り上げようとしたが、残った左手を離そうとしても離せなかった。
涙のようにとめどなく血を流す銃を握りしめたまま、バロットは、暗い虚無が四方から落ちかかってくるのを感じた。バロットは宙にいた。闇の中で光る銀の卵の中にいて、月の下にいた。そのことが、夢とも現実ともつかぬ感覚で理解されていた。
硬直したバロットの指を、ドクターが一本ずつグリップから引き剥がしていった。
「卵のまま、空を飛んでる」
ふいに、声がした。ドクターが、怪訝そうな顔になった。
「今のは、どっち[#「どっち」に傍点]が言ったんだ……?」
手が、すっと銃から離れた。その瞬間、バロットの脳裏に、歌が聞こえ始めた。
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、磨く《ブラッシュ》、流す《フラッシュ》……
意識が遠のき、耳の奥で、韻を踏む言葉が数珠《じゅず》繋ぎになって紡ぎ出されていった。
――|ぶん殴る《バッシュ》、鞭打ち《ラッシュ》、|クズ《トラッシュ》、灰《アッシュ》……
ドクターが何かを言っていた。バロットは自分が空っぽになったような気がした。ぐらりと体がかしぎ、後ろに倒れ込んでいった。
――光《フラッシュ》、新鮮《フレッシュ》、希望《ウィッシュ》、終わり《フィニッシュ》……
そんな言葉とともに、意識がぶっつりと途絶えた。
近所の家から人々が現れ、消防車が急行する様子を見て騒ぎ立てている。パトカーが何台も現れては一帯を封鎖し、警官の状況把握が、消火済動と入り乱れて行われていた。
その騒ぎの中を、ボイルドは、堂々と横切っていった。不審がった警官が立ち止まらせようとしたが、ボイルドは委任事件担当官のライセンスを掲げ、事件の重要参考人を追っていることと、事情聴取は法務局《プロイラーハウス》を通してしか受け付けないことを短く告げた。警官はボイルドの背に向かって罵言雑言を吐いたが、ボイルドは黙ってその場を通り過ぎた。
間もなくボイルドは、ガソリン車のバンを見つけた。スモークガラスに、車体には航空会社のロゴがでかでかとプリントされている。ドアに鍵はかかっていない。
ボイルドがドアを開くと、撃鉄を上げる音が、同時に響いていた。
助手席で銃を構える男に、ボイルドは、うっそりとした目を向けた。
「誰かが来ると思っていた。メンバーの誰かが……」
男が、呻《うめ》くように、言った。
「俺が、誰だか、わかるか?」
ボイルドは、男の不揃いな指を一瞥して、静かにうなずいた。
「ミディアム・ザ・フィンガーネイル……それが、俺のコードネームだ。最強の猟犬の、群の一匹だ。そのはずだった」
ミディアムが、歯を食いしばって言った。もう一方の手は、真っ赤に染まった布きれをぐるぐる巻きにしている。指が全て付け根から吹き飛んでいるのだ。
全身の皮膚が火膨れを起こし、顔の左半面が特にひどかった。左目は白濁し、両方の耳から血が流れている。足に力が入りきらないらしく、膝がしきりに痙攣していた。
ボイルドは、黙って運転席に乗り込んだ。銃口を向けられたまま、ドアを閉め、差しっぱなしのキーを回した。エンジン音に、ボイルドの、ぼそりとした呟きが重なった。
「お前以外は、全員、死亡した」
ミディアムは荒い息を吐き、撃鉄を元に戻すと、銃の重みに耐えかねたように、手を膝の上に投げ出した。
車が走り出した。ミディアムは、ボイルドの右手の甲を穿つ銃創をじっと見つめた。
「ウフコックって事件屋は、依頼主そっくりに、姿を変えるのか?」
嗚咽《おえつ》をこらえるような声だった。ボイルドは首を振った。
「じゃあ、あれ[#「あれ」に傍点]は、標的そのものだったのか? あんな女の子が、銃を撃って、何が何だかわからないうちに、俺をこんなふうにしちまったのか?」
「特殊な技術を用いて、依頼主を強化し、戦術を与えている。法務局《プロイラーハウス》が認定する、緊急時における生命保全プログラムの一つ――スクランブル―|09《オー・ナイン》だ」
ミディアムはそれを聞いて、おいおいと泣き出した。
「俺たちは完璧な群だった。それを、たった一匹の雌犬がみんなぶち壊しちまった」
ふいにその手から銃が落ちた。銃は足の間を滑り、座席の下に落ちた。そのことに気づいて、ミディアムは情けなさそうに自分の手を見つめた。指を閉じたり開いたりしながら、銃を握る力が出ないことを嘆いた。
「俺たちは取り戻さなければいけない。そうだろう?」
ミディアムが、ボイルドにすがるような目を向けた。
「かつて俺たち男[#「俺たち男」に傍点]は、美を規定した。社会を規定し、戦いを規定し、女らしさまで規定した。世界を支配しているのは男だった。一部の、優れた戦士である男だった。それなのに、女が――ちっぽけな雌犬が俺をこんなふうにしやがった。俺たちは、誇りを取り戻さなければいけないんだ。なあ、そうだろう。そうなんだろう?」
ボイルドは、目を車道に向けたまま、ふと、小さく、うなずいていた。
「そうだ……取り戻さねばならない」
低い、ボイルドの呟きだった。
ミディアムは、大粒の涙を浮かべ、ぞっとするような声でわめいた。
「殺してやる! ばらばらにして、みんな[#「みんな」に傍点]に振る舞ってやる! みんな[#「みんな」に傍点]が望んでいたように! ずたずたに引き裂いて、全てのパーツを支配してやる!」
2
バロットは暗がりにいた。辺りには誰もいない。バロットは手探りして[#「手探りして」に傍点]恐る恐るその場から逃れようとした。そこにいる限り自分はいつまでも嫌な感情にさらされなければならないような気がしていた。
もがくように進むうちに、バロットは、別の人影を見つけた。
ドクターだった。ドクターはこちらを見ながら、後ずさっていった。
「待って!」
手足がもどかしく動き、ドクターのつぎはぎだらけの白衣をつかんだ。
「ウフコックはどこ?」
バロットが言った[#「言った」に傍点]。ドクターは不審そうな顔で、バロットを、それまでいた場所に押し戻そうとした。まるでドクターの後についてゆく権利などないとでもいうように。
そのとき、ドクターの背後で苦悶の声が上がった。胸がつまった。ウフコックが向こうの闇で苦しんでいるのがわかった。
「お願い、ウフコックに会わせて」
ドクターの表情が、非難の色を帯びた。バロットは悲しくなって言い募った。
「謝りたいの。ごめんなさいが言いたいだけ。お願い」
ドクターは訝しげに首を傾《かし》げた。なぜ? とでもいうように。ただの一匹のネズミに、なぜそうも執着しなければならないのか、まるでわからない、という顔だった。
「あの人は、私に、殻から出てこい[#「殻から出てこい」に傍点]とは言わなかった。ただ、暖かいところへ連れていこうとしてくれた。あの人は、とっくに腐った卵でも、大事に暖めてくれる人だから」
ドクターがまた、バロットの体を押し返そうとした。バロットは懸命になってその手から逃れようとした。
「ごめんなさい。謝ります。ごめんなさい。あの人の言葉が聞きたいの。あの人を手に乗せて。今度こそ約束を守るから。あの人を傷つけたりしない。約束する」
肩を押す力に抗《あらが》い、もがいた。ウフコックの苦悶の声とともに、なぜ、という言葉がどこからともなく聞こえてきた。
「もうここにはいたくない! あの人のいる所に行きたい!」
ドクターの手がふいに離れた。バロットの行手に立ちふさがり、告解を聞く神父のようにバロットを見守った。まるでバロットを試すように。
なぜ自分が、そこから出ようとするのか。なぜ、そうするのが自分でなければいけないのか。無限の問いの詰まった、嫌な臭いのする、一つの問い――なぜ自分なのか。
その問いとともに、あの爆煙の味が、口の中で、痛烈に蘇った。
「死にたくない!」
バロットは闇に立って、あらん限りの願いを込めて叫んだ。
「私は[#「私は」に傍点]、生きたい[#「生きたい」に傍点]!」
そしてまさしくその瞬間、バロットは目覚めた。
目に痛いほど白く輝く天井灯が、バロットの目に映った。消毒液の匂いが鼻をつき、ふいに誰かの存在を感じて、痛みに耐えて身をよじった。
そこでバロットの目が見たのは、一人の、青年であった。
理知的な風貌のくせに、どこかあどけないような微笑を浮かべている。白い額に、青く細い血管が透けている。柔らかな巻き毛の下で、水色の目がバロットを見つめていた。
ふと、青年が、手を握っていることに気づいた。反射的にふりほどこうとし、その前に、青年がぱっと手を離した。バロットの気持ちを素早く察したように。
青年は、ベッドのそばに置かれた椅子から立ち上がり、何か探し物でもあるような素振りでバロットから遠ざかった。探し物などあるはずはなかった。何もない部屋だった。
バロットの横たわるベッドと、青年の座っていた椅子の他に、何もなかった。
全て壁の中に収納されているらしく、金のかかった病院の一室のようだった。
バロットはちらっとドアを見た。電子式の錠だったが、鍵は解除されている。ドアの前に立ってパネルに触れれば、自動的に開くはずだ。青年さえ何もしようとしなければ。
バロットの警戒心を感じたのか、青年は両手を上げてかぶりを振った。子供っぽくはしゃぐように。その素振りからは、バロットに対する興味ばかりが伝わってきた。
まるで子供が、旅行から帰ってきた他の子供に、旅先の話を聞きたがるように。
バロットは注意深く青年の挙動を把握しながら自分の着ているものに触れた。絶縁体で出来た患者服――ドクターと初めて会ったときと同じ服だ。そのサイズから用途まで。
青年もバロットと同じものを着ていた。ふと、青年が、ズボンから何かを取り出し、ひょいと放った。バロットの膝元にそれが転がった。青年は自分の耳を示してみせた。
バロットは、放られたイヤホンを手に取り、青年を見つめながら右の耳にはめこんだ。
〈こんにちは〉
イヤホンが喋った。バロットは、びっくりして青年を見た。
青年は、にっこり微笑んで、さらにイヤホンに干渉した[#「干渉した」に傍点]。
〈君の電子攪拌《スナーク》≠ノおける干渉能力は、識閾《しきいき》値の八〇%を超えてるって聞いたよ。すごいね。だから、喋るよりも、こっちのほうが良いだろうと思って〉
青年が、前髪をかきわけた。なんとその額に、幼い鹿の角のようなものが盛り上がっている。その角を指先で叩いてみせ、
〈僕は、ここで喋る。ここで話を聞くんだ。だからイヤホンは要らない〉
それから、同じ指を、袖をまくり上げた自分の二の腕にあて、肌をなぞってみせた。
〈君は、ここで喋る。でも、干渉値が高い分、受信機能はあまり発達していないね。せいぜい、低容量の電子情報を、視聴覚に還元する程度じゃない?〉
青年が、にこにこしながら首を傾げる。バロットは、ぼんやりうなずいた。
〈僕は、喋れなくはないけど、喋ることを忘れてしまったんだ。息を吐くということを。喋ると、疲れてしまう。君も、喋れないんでしょう?〉
バロットはまたうなずきかけ、ふと、青年の口元をじっと見つめた。
青年の鼓動を感覚し、そこから呼吸の[#「呼吸の」に傍点]タイミングを計ろうとした。
〈ここは楽園=r
青年はぐるっと手を回し、辺りを指さした。
〈もともと宇宙戦略実験施設だったんだ。今では、みんながここを楽園≠チて呼んでる。僕もその意味はわかるな。平和な場所って意味だもの〉
バロットの目が、大きく見開かれた。青年の言葉に驚いたのではなかった。青年は、全く呼吸をしていなかったのだ。
〈僕の名前は、トゥイードルディ〉
青年が、告げた。
〈ようこそ、全ての禁じられた科学技術の誕生の地――楽園≠ヨ。ルーン=バロット。僕と君とは、兄妹ってわけだ〉
〈何かお望みのものは?〉
トゥイードルディが親しげに訊いてきた。壁の一部を開き、カップ棚に手を入れる。
〈コーヒーでもどう? 僕の口は、純粋に味わうことだけが目的なんだ〉
バロットは何も答えられないでいる。このトゥイードルディを信用して良いものかわからなかったし、今いる場所が、どういうところなのか、まるで判断がつかなかった。
そして、判断がつかなければ、その判断ができる人物に会うべきだった。
〈ドクターはどこ?〉
バロットは、トゥイードルディに訊いた。電子的に干渉して操作《スナーク》するというよりも、もはや相手に向かって言葉を念じるような感覚に近い。
トゥイードルディが、カップを選ぶ手を止めた。
〈……ドクター? ああ、イースター博士のこと? 今、忙しいみたい〉
〈会わせて〉
立ち上がろうとして、体中にずきりと痛みが走った。全身の筋がしくしくした。
両手首には湿布《しっぷ》が巻かれており、体のあちこちにも同じものが施されている。
バロットはぎくしゃくしながらベッドから両足を出した。ベッドのそばにスリッパが置かれていた。それに向かって、苦労しながら手を伸ばした。
〈打ち身だね。骨に異常はないよ〉
トゥイードルディがバロットの様子をどこか面白がるように告げた。
〈じっとしていたほうが良いのに。コーヒーが嫌なら、なんでもあるから言ってよ〉
〈ドクターに会わせて〉
〈何か用事が?〉
〈話が聞きたいの。あなたや、この場所を、信用して良いかどうか〉
トゥイードルディは、バロットの言葉の意味を受け取り損ねたように考え込んだ。
〈話なら、僕がするけど?〉
だが、バロットがそれでは納得しないことに、ようやく理解がいったようだった。
〈イースター博士は、今、ウフコックのメンテナンスをしているはずだよ。でも、部外者を研究室《ラボ》に入れて、他の博士たちにうるさがられないかな〉
〈私は、あなたと兄妹だって言ったでしょう?〉
トゥイードルディは、また考え込んだ。バロットがスリッパを履くのを見つめ、
〈なるほど〉
そう言いながら、にっこり笑った。
部屋を出ると、鮮やかな緑が目を打った。オープンテラスだった。
廊下の一方の壁と天井とが、鉄骨とガラスで出来ているのだ。ガラスの外では木が生い茂り、木々の間から、なだらかに丘が下っているのが見える。
分厚い硬質ガラスの内側は、暖かくて気持ちよかった。日差しがバロットとトゥイードルディの影を廊下に色濃く浮かばせていた。
〈外の人たち[#「外の人たち」に傍点]って、みんな君みたいなのかな〉
〈どういうこと?〉
〈なんていうんだろう〉
トゥイードルディが面白そうに呟く。スリッパがぺたぺた床を叩く音さえ楽しげだ。
〈何でも知ってるイヴみたい〉
〈イヴ?〉
〈アダムがイヴに知恵の実を渡されたとき、僕のように思ったんじゃないかな。これは逆らえないって。彼女が正しいかどうかは別として〉
バロットは首を傾げた。
〈あなたは、何者なの? なんで、ここにいるの?〉
〈僕は重度の身体不随意症児だったんだ。どうせ普通に育てても死んでしまうからっていうんで、軍の実験のために、両親が、この楽園≠ノ献体したんだってさ〉
〈親が――?〉
〈顔も見たことない親さ〉
まるで屈託なく、トゥイードルディは言う。
〈実験っていうのは、身体機能の回復実験のことだよ。僕が、体を動かせるようになったのは、ここに来てからさ。その後、ずっとここに住んでる。三年に一度、博士たちと一緒にデータを取るために外出が許可されるけど、ここのほうが落ち着くよ〉
バロットはうなずいた。確かにここは落ち着く場所だった。人の姿はほとんど見えず、ガラス張りの鳥籠みたいに密閉されていた。全自動の掃除機が壁の下部に設置され、エアコンが温度と湿度を常に一定に保っていた。埃もないし、清潔で、ぴかぴかしていた。
裸足にスリッパ、素肌に直接患者服という格好なのに、肌寒くもなければ何の不安もなかった。この事件が始まってまだ間もない頃、元死体安置所で目覚めたときのように。
全ての禁じられた科学技術の誕生の地――トゥイードルディはそう告げた。つまり、ウフコックやドクターが、スクランブル―|09《オー・ナイン》の委任事件担当官となる前にいた、研究所ということだ。なぜ、そんな場所に自分がいるのか、バロットには見当もつかず、
〈ドクターが、あなたにその角を付けたの?〉
何を訊いたものかわからぬまま、そんなことを質問していた。
するとトゥイードルディは目をぱちぱち瞬かせながら、首を振って、
〈違うよ。僕のこれ[#「これ」に傍点]は勝手に膨らんだんだ、身体感覚の加速技術の影響でね〉
〈ドクターはここで働いていたんでしょう?〉
〈イースター博士は、最年少のメンバーだよ。みんなから、黒い羊って呼ばれてる〉
〈黒い羊?〉
〈誰かが代表して罪を被らなければいけないとき、すすんで罪を被るんだって。何人かがそうして罪を被ったんだけど、イースター博士はちょっと特殊みたい〉
〈どう特殊なの?〉
〈メンバーの中では、科学技術を民間で活用することを一番主張してたらしいよ。だから、三博士≠フ一人がスクランブル―|09《オー・ナイン》を発案したとき、最初に志願したんだってさ。失敗すれば、刑務所行きなのにね。黒い羊らしいな〉
〈三博士=c…?〉
〈この楽園≠フ創造者である、三人のトップメンバーのこと。二人は楽園≠ゥら出ていっちゃったから、残ってるのは一人だけだけどね〉
〈二人の人が、スクランブル―|09《オー・ナイン》を作ったの?〉
妙な話になってきたと思いながら、バロットは訊いた。自分が命を救われた遥か過去の話をいきなり聞かされても、ぴんと来なかった。するとトゥイードルディは、
〈違うよ。一人がスクランブル―|09《オー・ナイン》を創案したけど、もう一人は、違う方法を思いついて、研究所の廃止に対抗したんだってさ〉
〈違う方法?〉
〈オクトーバー社って会社を作ったんだ〉
ぴたりとバロットの足が止まった。
〈どうしたの?〉
トゥイードルディが不思議そうな顔になる。バロットは呆然とかぶりを振った。自分が救われた理由と、殺された理由を、いっぺんに告げられた気分だった。
ふと、ドクターが最初に言っていたことを思い出していた。オクトーバー社は、ドクターやウフコックの宿敵であり、快楽という名の有用性をこの都市にもたらしたのだと。
だがバロットには、それらをどう受け止めて良いものか、まだわからなかった。
〈……ウフコックも、黒い羊って呼ばれてるの?〉
そう訊きながら、再び歩き出すバロットへ、
〈あいつは、金の卵。楽園≠フ他の博士たちみんなが、あいつを欲しがったのさ〉
トゥイードルディはくすくす笑って告げた。
〈でも、あいつは外に出たくてしようがなかったんだ。それに、スクランブル―|09《オー・ナイン》を創案した博士は、ウフコックの生みの親でもあるからね。ウフコックが楽園≠出ていくのを、誰も止められなかった。でも、まさか黒い羊や錆びた銃と一緒になるとは思わなかったって、みんな言ってる〉
それからふとバロットを見つめ、思い出したように付け加えた。
〈錆びた銃ってのは、君も知ってるでかい男のことだよ。ディムズデイル=ボイルド〉
名前を言われて、ようやくわかった。
〈あなたのほうが、なんでも知ってるみたい〉
痛みに耐えながら、バロットは少し、肩をすくめてみせた。
だいぶ、この利発だがあどけない青年に安心していた。トゥイードルディは、争いとはまるで無縁の存在らしかった。感情の起伏に悩まされずに育った鷹揚な感じがしたが、それほど、べたべたと甘ったれた感じはしなかった。
バロットは壁に手をあてながら、身体全体を引きずるようにして歩いた。あちこちの筋肉が炎症を起こしており、特に両手首がひどい。だがトゥイードルディは手を貸そうともせず、歩調も合わせなかった。好きなように話し、好きなように歩いた。自分勝手というのとは違い、時折、足を止めてバロットを待った。別に苛々《いらいら》した様子もなく。
きっと、見慣れているのだろう、とバロットは思った。トゥイードルディは、もっと身体の不自由な人間と、日常的に接しているのだ。そういう感じがした。
そんなことを考えていると、廊下の曲がり角から、ふいに三人の男女が現れた。
みな老人だった。黒い帽子をかぶった男と、電動の車椅子に乗った男、そしてサングラスをした老女が、楽しげに話しながらこちらへ歩いてきた。
黒帽子の男が、一番最初に二人に気づき、立ち止まった。
「おや、トゥイードルディ、そちらのお嬢さんと散歩かね?」
〈うん、案内してあげてるんだ〉
トゥイードルディが告げた。老人たち全員が、耳の内側に補聴器を埋め込んでいた。その機器に干渉して、言葉を告げたのだ。
男はバロットに目を向けながら、帽子をとって会釈した。頭部に無数の接続端子が埋め込まれており、ほとんど頭皮が見えないくらいで、第二の髪という感じだった。
「彼女は、新規の被験志望者かね……? トゥイードルディ?」
〈ううん。彼女、イースター博士の依頼人なんです〉
「依頼人……? 外部のかね……?」
男は、不思議そうな顔で返した。
「イースター博士のラボに電気が通っているが、帰ってきているのか? 彼が単独で被験者を担当しているのかね? コードネームも公開せずに?」
〈彼女の名前は、バロットだよ。ルーン=バロット〉
「そんなコードネームは、登録されていないはずだ」
そう言い返す男の隣で、老女がサングラスの奥で青白い光をまたたかせた。
「代謝性の金属繊維の具合も、良好のようね。素敵な肌だわ。識閾値は計測したの?」
〈彼女、八〇%を超えてるんです〉
「それは素敵」
老女は目も耳も機械化されており、声も本物そっくりの電子音声によるものだった。
車椅子の男が車輪を操作して、バロットの横手に回り、
「まっすぐ歩けないのは、人工皮膚《ライタイト》の移植の後遺症かね?」
と言った。バロットは首を振った。どう答えれば良いのかわからなかった。
「確か、第三番ポッドが空いていたな。羊液槽で泳いでもらおう。データの共有はまだなんだな? 筋肉のパルスが、感覚の加速に浸積されているのかもしれない」
〈彼女、イースター博士に用事があるんです〉
トゥイードルディが告げると、途端に、車椅子の男は渋い顔になった。
「データを独占するのには何か理由が?」
〈彼女は民間の人間だからって、イースター博士が言ってました〉
民間という言葉が、何かの呪文ででもあるかのように、みなバロットから身を引き、
「……我々が即応できるだけのデータは、回収できるのだろうね?」
トゥイードルディに向かって、念を押すような口調で言った。
バロットは困惑と同時に、どこからともなく不快感がわき起こるのを感じた。
〈僕たち、急がないと。難しいことは、僕たちわからないから〉
トゥイードルディが、素早くバロットの気持ちを察したように告げた。
「データ共有を申請しよう。それまでバイオリズムを激変させないように気をつけて」
背の高い男が、帽子をかぶり直して言った。老女が、バロットに向かって会釈し、
「ごきげんよう、お嬢さん。適性の高い人と、お茶を飲みたいわ。トゥイードルディ、あなたは飲んでくれるわね?」
〈考えておくよ〉
老女が笑った。それから、三人はまた話を再開しながら去っていった。
〈彼らのお茶会に参加すると、長くなるからね。検査のための薬品を沢山入れてくるんだ。あとはお決まりの、バイオリズム指標登録と検査さ〉
バロットは、廊下を遠ざかる三人の背を見ながら、彼らとドクターとの違いを考えた。
彼らは悪い人間には見えなかった。だが友好的な関係になれるとも思えなかった。
〈ドクターは、私の声を元に戻そうとしてくれた。私が何も言わなくても〉
〈――え?〉
〈あの人たちは、きっと、そうはしてくれないと思う〉
トゥイードルディは、それがどうかしたのか、というように肩をすくめた。
だがそれは、大きな違いだった。なぜドクターとウフコックが、この施設から出ていったのか、妙に、わかる気がした。
ぴったり閉ざされたドアの前で、トゥイードルディが振り返った。
〈本当にイースター博士に会う必要があるの?〉
〈ウフコックもいるんでしょう?〉
途端にトゥイードルディが、訳知り顔になった。
〈ウフコックに会いたかったんだ〉
トゥイードルディは、ドアのインターフォンを見つめ、
〈でもメンテナンス中だよ。身体が半分なくなってたから、話せるかな〉
その言葉に、バロットは胸をぐさっとやられたような気持ちになった。
トゥイードルディの干渉で、インターフォンの表示灯が点滅した。
〈なんだい。トゥイードルディか。どうしたんだ?〉
〈ルーン=バロットが目を覚ましたよ〉
〈バロットが?〉
インターフォンの向こうで、ばたばたと物音がしたかと思うと、ドアが横滑りに開き、
「バロットの意識が戻ったら、僕を呼ぶようにって言っただろう、トゥイードルディ」
ドクターが現れ、呆れたように言った。
〈彼女をつれてきたほうが早いと思ったんだ〉
トゥイードルディが、インターフォンに干渉して告げるのへ、
「彼女は民間の人間なんだぞ。廊下を歩くだけでも、本来なら許可が必要なんだよ」
ドクターは溜め息をついて眼鏡を指で押し上げた。|眼鏡の裏《グラスモニター》に映し出されていたグラフや数値がふっと消え、その青い目が、まっすぐバロットを見つめた。
「なぜ僕らがここにいるかは、後で説明するよ。今は体を休めておいて欲しいんだ」
バロットもまた、ドクターにじっと目を向け、訊いた。
〈ウフコックは、どこ?〉
「……あいつは今、僕の治療を受けている。心配しなくて良い」
ドクターが、バロットの前に立ちふさがるようにして言う。
「君が裸を見られたくないのと同じで、あいつも、君に今の姿を見られたくないと思っているはずだ。それに、ショックを受けているようなんでね、あいつ。理由はわからないが……今は少しそっとしておいてやってくれないか」
バロットはそれを聞いて目の前が暗くなるほど悲しくなった。しかしその悲しさを放っておくべきではないと教えてくれたのは、他ならぬウフコックではなかったか。
〈ウフコックは、私のこと、相棒だって言ってくれたの〉
「まぁ、そりゃ……」
〈謝りたいの。ごめんなさいが言いたいだけ〉
ドクターが困ったように目を逸らし、その隙に、
〈お願い〉
バロットはするりと脇を通り抜けた。完全にドクターの動きを読んでの動作だった。
「おい、バロット」
ドクターが面食らったように手を伸ばしたが、その手を触れさせもせず、すっと身をかわした。それを見たトゥイードルディが、感心したような顔になった。
〈歩くのもあんなに辛そうだったのに〉
すごいダンスでも見せられたように感嘆しながら、ドクターの腕を引っ張った。
〈良いじゃない。挨拶がしたいだけだよ〉
ドクターは何か言いたげだったが、結局、黙り込んでしまった。
バロットはそのまま部屋の奥へと歩いていった。
機械が並ぶ部屋の真ん中に、円筒形の水槽が立っているのだ。バロットの肩幅くらいはあるその円柱の中の液体に、今までに見たことのないものが浮かんでいた。
一見してそれがウフコックとはわからなかった。ただそれが彼だという感覚はあった。
水槽の中で、肉と鋼が混ざり合いながら螺旋を描き、その中央に、人間の胎児にも似た、色鮮やかな淡《うす》赤いものが浮かんでおり、肉と鋼はそこから伸びていた。
ふと、その複雑なかたちが、ウフコックの肉体が裏返った[#「裏返った」に傍点]姿であることが理解された。
穏やかに鼓動し、透明な液体の中で、赤く血の熱を帯びて生きていた。
バロットは水槽に手を触れた。そして額を押しつけ、何か念じるように目を閉じた。
肉と鋼の塊が身じろぎした。バロットの存在に気づいたようだった。ところどころがぐにゃりと変化し、バロットの前で収縮した。
バロットが、水槽に額をあてたまま、かぶりを振った。
その様子を眺めていたドクターが、トゥイードルディを振り返った。
「会話をしているのか?」
トゥイードルディは、肩をすくめた。
〈俺が不甲斐ないせいで、君を危険な目に合わせた。すまないってさ〉
ドクターは、それで? というようにうなずいた。
〈愛してるって〉
「ウフコックが言ったのか?」
〈彼女だよ〉
呆れたように訂正した。
つと、バロットが水槽に唇《くち》づけた。そっと、慎《つつ》ましやかに。それから、水槽を離れ、ドクターたちのところに戻ってきた。
〈少し眠るって〉
バロットは眉根を寄せ、
〈あの人は、大丈夫?〉
しかめっつらで訊いた。そうでもしないと涙が溢れそうだった。
「それが、僕の仕事さ」
真面目な顔で眼鏡を押し上げるドクターの腕を、トゥイードルディが叩いた。
〈ねえ、僕が彼女をプールに連れていっても良い? その予定なんでしょう?〉
ドクターはそこで少し難しい顔をした。
「あれ[#「あれ」に傍点]を使うのは、バロットに色々と説明してからだ。彼女はすぐに、ここを出る人間なんだ。僕らと一緒に」
〈イヴに、うっかり知恵の実を食べさせるなってことでしょ。わかってるよ。イヴは、そそのかされない限り、自分から知恵の実を食べたりしないさ〉
3
〈僕は呼吸しないんだ〉
トゥイードルディが告げた。学校の生徒が自分の家のことを自慢げに話すみたいに。
〈博士たちが言うには、完全な個体であることが、僕のテーマなんだってさ〉
〈完全な個体?〉
〈環境に依存しないでいられるってこと。殻よりも中身が固い、完全な|固ゆで卵《ハードボイルド》さ〉
バロットは、スリッパをぺたぺた鳴らしながら、その言葉の意味を考えた。
この建物のどこもかしこも、ガラス板で区切られていた。まるで巨大な箱のように、丘全体を、コンクリートと鉄とガラスで覆い尽くしているのだ。
トゥイードルディは、にこにこしながら建物を説明し、自分について語った。バロットはまるで転校生にでもなったような気分だった。ここがこれからいるべき所で、しかも本来ここにいるべきだったとでもいうように。
〈僕は息もしない。滅多に食事もしない。僕が食べるのは、光くらいなものさ。その光だって、別に必要ってわけじゃない〉
〈食べないの?〉
それにもまた驚いた。トゥイードルディはバロットの反応を楽しむように、
〈定期的に、全身の体液を交換するんだ。交換をシンプルにするのが、課題だってさ〉
〈味はわかるの?〉
〈わかるよ。空腹感も、感じようと思えば感じられるんだ。自分の内部に干渉してね[#「内部に干渉してね」に傍点]。でも、たいていは何も感じない。さっき久しぶりにコーヒーを味わおうとして、喉が渇いた感じ[#「感じ」に傍点]を思い出そうとしたんだけど、君は気のりしなかったみたいだし〉
〈ごめんなさい〉
本気で謝ったわけではない。ただ、それ以外にどう反応していいかわからなかった。
〈良いんだ。本当は飲む必要もないんだもの。僕の頭の中には小さなハードが沢山埋め込まれていて、いつでも、色々な味や匂いの感じ[#「感じ」に傍点]を読み出すことができるから〉
〈頭の中に図書館があるの?〉
トゥイードルディはちょっと変な顔をした。
それから、急に合点したような顔になった。バロットは、その一瞬でトゥイードルディが、自分の頭の中にある辞典で調べた[#「自分の頭の中にある辞典で調べた」に傍点]のだとわかった。図書館という言葉の意味を。
〈そうだね。沢山の本や辞典があるよ。映像や音声も再現できる。人間の五感に処理できる刺激だったら、なんでも。でも、僕はあんまり多くは入れて[#「入れて」に傍点]ないんだ。干渉能力のほうが僕には適性があるみたい。中には、自分の脳よりも移植した記憶媒体のほうが重くなるほど入れようとするのもいるけど。――君は、入れてみる気、ある?〉
〈図書館に用があるときは、図書館に行くから、いい〉
〈君も、僕らみたいにならないのかな〉
〈わからない。あなたたちみたいなのが、どういうのかわからない〉
〈完全な個体さ〉
トゥイードルディは、繰り返しその言葉を告げた。
やがてガラス張りの通路が行き止まりになった。厳重な電子ロックがかけられており、開くためにはトゥイードルディの網膜と指紋を見せなければならなかった。
そして、分厚いドアが左右に開くや、
〈ようこそ、楽園≠フ中庭へ〉
バロットは、部屋中に熱帯樹林が広がっているのを見た。
色とりどりの花や実が視界一杯に溢れている。天井を見上げると、背の高い木々のさらに上の天井に、照明器具が並んでいるのが感じられた。日差し[#「日差し」に傍点]は本物そっくりで、空気の匂いも芳醇《ほうじゅん》だった。潤いのある風が流れ、頬や衣服を心地よく撫でていった。
〈すごい〉
バロットが告げた。素直な気持ちだった。感動さえしそうになった。
〈良い所だよ〉
トゥイードルディが誇らしげに告げ、ドアに干渉してまたぴったりと閉ざした。
草を分けるようにプラスチックの道が通っており、トゥイードルディはその上を歩いて木々の間へと入っていった。バロットもその後を追った。
あちこちに広場のようなものがあった。雑誌やテレビで見た、保護指定されたジャングルの風景そっくりだった。違ったのは、広場にビーチパラソルみたいな傘が置かれ、その下に、椅子やテーブル、あるいは複雑な機器が設置されていることだった。
先ほどの三人の老人たちの姿があった。帽子をかぶった男とサングラスの老女はゆったりとしたデッキチェアのようなものに座ってくつろぎ、車椅子の男と一緒に、傘の下で何やら熱心に議論しているようだった。
すぐに彼らの姿も見えなくなり、バロットはトゥイードルディに従ってどんどん奥へ入っていった。実に広大な空間だった。完全に密閉されているくせに、そのことを感じるのにずいぶんと苦労するほどだ。
バロットはふと、道を下っているのに気づいた。どうやら地下に向かっているらしい。だが地下特有の陰湿なイメージはなく、豊かで美しい公園といった感じばかりがあった。
あちこちで、バロットやトゥイードルディと同じような服装の人間たちが、木陰で身を横たえているのを見た。みな異様に肌が白く、中には車椅子に乗った者もおり、広場のそこらでばらばらに位置しながら、静かな目を空中にあてている。
彼らの間に行き交うものを感じて、バロットは彼らが会話[#「会話」に傍点]をしていることに気づいた。
それは不思議な光景だった。みな目を半眼にして、ほとんどぴくりともせぬまま、それでいて、盛んに互いを認識し、語り合っているのだ。
〈動かなくなった人たちさ〉
というのが、トゥイードルディの解説だった。
〈僕が、呼吸を忘れたように、みんな、動くことを忘れてしまったんだ。それでも動くことが必要だと思う人たちは、ああして車椅子に乗って、車輪で移動してるんだ〉
〈歩かないの?〉
〈歩こうと思えば歩けるだろうけどね。その必要[#「必要」に傍点]はないのさ〉
〈じゃあ、どうして、あなたは歩いてるの?〉
〈動機の違いだろうって博士たちは言ってた。僕は、生まれたときに動けなかったから、動けることが嬉しいんだ。でも、そのうち僕も、歩くことを忘れるかもしれないね〉
〈他には歩く人たちはいないの?〉
〈いるよ。紹介しようか?〉
〈あなただけで十分〉
あまり良い意味で告げたわけではなかったが、トゥイードルディは喜んだらしかった。
〈じゃあ、一人だけ紹介するよ。僕の恋人なんだ〉
バロットはびっくりした。
〈恋人……?〉
〈うん。僕は、そう呼んでる。向こうもね。そう呼ぶのがぴったりだから。一緒にいると、とても|優しい気持ち《スイートハート》になれるんだ〉
トゥイードルディが心持ち足を早めた。バロットもなるべくそれに追いつこうとした。
不思議と汗はかかなかった。風が優しく体を拭っているような気がした。人を、優しい気持ちにさせるための空気だ。それこそ、二度と動きたくなくなるくらいに。
〈君は泳げる?〉
トゥイードルディが訊いた。バロットがうなずくと、
〈一緒に泳ごう。体の筋肉を正常に戻すのにも良いはずだよ〉
その言葉の意味がいきなり理解された。
木々が開けたそこに、大きなプールがあったのだ。緑が見事なまでの長方形に切り取られ、対岸がにわかには見えないくらいの広さで、かなりの深さのようだった。
プールの周りに人はおらず、代わりに、猿や、バロットには何だかわからないネズミに似た動物たちが、泳いだり、水をかぶったりして遊んでいる。
バロットは膝を折って、水に手を入れてみた。細かい波が起こっているのがわかった。水を循環させ、常にクリーンな状態に保っているのだ。
突然、その波が変化した。次の瞬間、水面からざあっと青く滑らかなフォルムが光を飛び散らして宙を跳ねた。かと思うと、盛大に水しぶきを上げて再び水に飛び込んだ。
バロットはずぶ濡れになって、たった今跳ねたものが、鼻っつらを突き出すのを見た。
〈なんだこいつ、トゥイードルディ。俺の知らないやつだ。お前が連れてきたのか?〉
それ[#「それ」に傍点]の声が、イヤホンから響いてくる。バロットは呆気《あっけ》に取られた。
〈そうだよ。ルーン=バロットっていうのさ〉
トゥイードルディが、ひょいとプールに飛び込んだ。いつの間にか衣服を脱ぎ、裸になっている。また盛大に水が飛び散り、ぽかんとするバロットをさらに水びたしにした。
トゥイードルディはするすると泳ぐと、それに抱きついて、頭部にキスした。
〈彼女、ウフコックの恋人なんだ。君を紹介したくって連れてきたんだ〉
トゥイードルディが告げた。そういう紹介の仕方をされるとは思わなかった。
〈よろしく、お嬢ちゃん。俺はトゥイードルディムだ〉
それ[#「それ」に傍点]が告げた。ざっくばらんな調子だった。
〈こいつと似たような名前だが、俺のほうがオリジナルだ。なにせ俺の脳細胞の一部が、こいつの脳に移植されているんだからな〉
水から身を乗り出し、尖った口でバロットの膝をつついた。
〈あんたも俺の背中に乗るかい、お嬢ちゃん? ひいひい言わせてやるぜ[#「ひいひい言わせてやるぜ」に傍点]〉
バロットは面食らった。イルカからセクシャル・ハラスメントを受けたのは、さすがに初めてだった。
〈僕のほうがオリジナルだよ。君にも僕の脳の一部が移植されているんだ。その上、僕の言語意識を基本に学習したのは君のほうだろう?〉
トゥイードルディが抗議するのへ、トゥイードルディムが、
〈何を言ってやがる。話にならねえ。俺の行動意識を基本に、よちよち歩いてるくせに。俺ぁお前を動けるようにしてやったんだぜ〉
〈僕は、君を喋れるようにしてやったんだ〉
それから、二人してバロットのほうを見た。どう思う? とでもいうようだった。
バロットは頭がおかしくなったような気がしたが、それほど悪い気分ではなかった。
何より、自分をウフコックの恋人だと紹介してくれるのは、おそらく世界でトゥイードルディただ一人だろう。
〈トゥイードルディムは女の子なの?〉
バロットが訊いた。トゥイードルディムが、ぶはっと頭頂部の鼻孔からしぶきを吐き、
〈人間のくせに、そんな狭い概念に囚われてちゃ駄目だぜ。俺は雄だが、こいつとは兄弟であり、恋人であり、ホモセクシュアルのパートナーだ。ちゃんとやることもやる[#「やることもやる」に傍点]〉
さも誇らしげな口調だが、いったいどこからどこまでが本当なのかわからなかった。
〈その目は?〉
代わりに別のことを訊いた。トゥイードルディムの額から頬にかけて金属が埋め込まれているのだ。まるでイルカが大きな銀色のサングラスをかけているような具合だった。
〈良いだろう? あんたもつけてみるかい?〉
トゥイードルディムが返す。トゥイードルディが肩をすくめて、バロットに答えた。
〈アクセスするための補助機能だよ。視覚器官の代替機能でもあるけど、もともと視覚はそれほど必要ないしね〉
〈アクセス?〉
〈このプール全体が端末なんだ〉
〈どういうこと?〉
〈君も泳ごうよ。そうすればわかる〉
完全に二人[#「二人」に傍点]のペースだった。バロットは少し考え、それからそっとプールの縁に腰を下ろした。両足を水の中に入れ、溺れないという確信が起こるのを感じた。
バロットは、二人に誘われるまま、水の中に全身を落とした。清澄な水だった。透明で、柔らかかった。少し冷たかったが、体の炎症を鎮めてくれるような気がした。
いったん頭のてっぺんまで水に潜ってから、ゆっくりと体をほぐすようにして水上に顔を出した。ふっと息をつぐバロットを、トゥイードルディが不思議そうに見ていた。
〈服を濡らすと博士たちがうるさいから、脱いだほうが良いよ〉
〈このままで良い。脱ぎたくなったら、脱ぐ〉
その下から、ぬっとトゥイードルディムが現れ、バロットの体を持ち上げた。イルカの背に乗ったのは初めてだった。ふわっと体が浮き、水面を走るように滑り抜けてゆく。
思わず頬がゆるんだ。声が出るなら、思わず大声で笑っていたに違いなかった。
〈しっかりつかまってな。このプールの正体を教えてやるよ〉
トゥイードルディムが、溌剌《はつらつ》として告げた。
〈ようこそ、もう一つの海へ[#「もう一つの海へ」に傍点]〉
それが間もなく、バロットの事件を新たな段階に運ぶことになるとはまだ想像もつかなかった。バロットはただ慌てて口を閉じた。トゥイードルディムが勢いよく水中に潜ったのだ。その傍らをトゥイードルディが魚みたいに泳いだ。
バロットは水中でそれを目の当たりにした。目で見たのは一部で、体全体でプールの構造を感じ取っていた。それは確かに端末だった。プールの床や壁一面に、無線通信の機器が生えているのだ。ここから先[#「ここから先」に傍点]に広がるものは、巨大で奥深かった。バロットはまさしく、広大な、電子情報の海への入り口に直面していることを知った。
〈上げて〉
息が続かなくなり、ちょっと慌てて告げた。
〈懇切丁寧な運転でお届け〉
トゥイードルディムが、調子めかして浮上した。いきなり上がるのではなく、バロットの体に配慮したような、確かに丁寧な泳ぎ方だった。
水面に出るなり、大きく息をついた。濡れた髪をかきあげながら、
〈怖いくらいに広い〉
そんなふうに、プールの感想を告げた。トゥイードルディムがまた鼻孔を鳴らし、
〈内部が液体で満たされた宇宙船[#「内部が液体で満たされた宇宙船」に傍点]を想定して作られたプールさ。ほとんど世界中のコンピュータにつなげられる通信基幹だ。許可さえあれば、どこへだって泳いでいける[#「泳いでいける」に傍点]〉
すると、トゥイードルディが仰向けになって水面に浮かび、
〈でも、許可なんて十年以上も、下りてないけどね〉
〈なぁに、楽園≠フデータベースに潜り込むのは自由さ。けっこう面白いものがあるぜ。また潜るかい?〉
〈今はもういい。息がつづかない〉
バロットは、トゥイードルディムの背を押すようにして、後ろ向きに離れた。
自分で泳ごうとすると、濡れた衣服が体にまとわりついてきた。水中で脱ごうとしてぐるっと身をひっくり返した。途端に、口から息が漏れ、イヤホンが耳から外れそうになって慌てて留め金を押さえた。そこを、さっとトゥイードルディムが体を水上に押し上げ、助けてくれた。バロットは衣服を身体から剥ぎ取り、トゥイードルディがそれを拾ってプールの縁に綺麗に広げて置いてくれた。
下着は身につけていなかった。バロットは裸になって水に身を委ねた。体の痛みが水に溶けてゆくのを感じた。不安も気恥ずかしさもなかった。二人とも、無用にバロットに触れようとはしなかった。バロットの体に興味を抱いたふうでもなかった。
トゥイードルディムが頻繁にデータベースにアクセスし、何かしらの情報を得ては、トゥイードルディといちゃいちゃして笑い合った。
トゥイードルディも、トゥイードルディムも、身体のあちこちに、切ったり穴をあけたりした傷跡があった。なんだかわからないプラスチックや金属の断片が、脇腹や胸元からのぞいている。それこそ全身を切り刻まれているといって良かった。それでいて二人とも、そのことを恥じたり、辛そうにしている様子は全くなかった。
二人のたわむれを見つめながら、バロットはトゥイードルディの言ったことを考えた。
電子の海を泳ぐ、完全な個体について。卵のように完結した世界。この完全に密閉されたジャングルは何かを切り離そうとしていたが、それが何か、わからなかった。
トゥイードルディたちの笑い声がジャングルに響いている。外からの脅威を感じることなく、内側からの腐敗も知らずに育った鷹揚な笑い声が。
|矛盾のない人生《サニー・サイド・アツプ》に充実し、やがて自ら動くこともなくなっていく安らぎを、羨《うらや》めば良いのか、それとも憎めば良いのか、バロットにはわからなかった。
急に、ドクターやウフコックと話をしたくなった。自分のすべきことを教えてほしかった。だがそれができない今、バロットは、それが何か自分で考えるしかなかった。
バロットは泳ぎながら、ドクターやウフコックの考えるだろうことを考えようとした。
ドクターもウフコックも、次の手を打つことについて、幾つものアイディアを撚《よ》り合わせている。そのアイディアのロープが何を引き寄せようとしているのか、じっと考えた。これは競争であり、勝負だった。ロープの一端には、シェルという男がいる。シェルは何かを守ろうとして、ボイルドや殺し屋たちに、ロープを引っ張り返させていた。
ふいに、バロットは、探し物があることに気づいた。
さっと泳いで、トゥイードルディムの背に手を触れ、
〈ねぇ、私にこのプールを使わせてくれるよう、頼める?〉
トゥイードルディがちょっと驚いたような顔になった。
〈イヴが自分から知恵の実を食べようとするなんて〉
その途端、バロットは先ほどのドクターの言葉を思い出していた。あれ[#「あれ」に傍点]を使うのは、色々と説明してからだと。ドクターの言うあれ[#「あれ」に傍点]とは、この巨大な端末であるプールのことだろうと思った。そして何のためにそれを使うかも、やけにすんなり理解できた。
〈何を探すんだい?〉
トゥイードルディムが、わくわくしたように訊いてくる。
〈ある男の過去が、どこかに隠されてるんだけど、それを知りたいの〉
〈過去だって? 誰の過去?〉
〈シェル=セプティノスという男。オクトーバー社の人間〉
トゥイードルディとトゥイードルディムが、顔を見合わせた。
〈どうする?〉
〈お前が教授《プロフェッサー》を呼んでくるしかねぇよ、トゥイードルディ。俺ぁ、勝手に外部に回線を開いたりして、廃棄処分にされたかないからな〉
〈そうだね》
言うや、トゥイードルディが、プールの縁に手をかけ、勢いよく飛び出した。
体から水をさっと振り払うと、ズボンを拾って穿《は》きながら、
〈ここで待ってて。楽園の神様を、紹介してあげる〉
そう告げると、バロットを置いて、森を出ていってしまった。
トゥイードルディを待つ間、バロットはトゥイードルディムと泳いだ。
水に身を任せるうちに、体に貼り付けられていた薬布が剥がれ、手首の包帯もほどけてしまった。剥がれた布きれたちは、しばらく水に浮かんでいたが、そのうちプールの縁に設置された小型のダストシュートのような機械に吸い込まれて消えた。
実によく出来たプールだった。水は一定の温度に保たれ、常にクリーンだった。
〈ねぇ、楽園の神様って、どういうこと?〉
〈神様みたいに怒りっぽいのさ〉
つづけて笑い声が聞こえてきた。イヤホンからもそれは聞こえてきたし、バロットの干渉能力を通じて直接、脳裏に響くような感覚でもあった。ほとんどテレパシーのようなものだった。水上であろうと水中であろうと、何の関係もなかった。
〈楽園≠フ全ての被造物[#「被造物」に傍点]の最高管理者さ。三博士≠フ一人って言えばわかるか?〉
〈その三博士≠ェ、ここを作ったって聞いたけど……詳しいことはわからない〉
〈じゃあ、すぐにわかるようになるさ〉
トゥイードルディムはあっさり返し、バロットの下に潜り込んだ。体が持ち上げられ、トゥイードルディムの頭部がバロットの目の前に現れ、息孔からふうっと息を吐く。
〈ここには、あなた一人なの?〉
〈他にもいるが、俺が一番ノリが良い。みんな呼ぼうか? 中には死にかけもいるぜ〉
〈私のせいで死なれたら困る〉
トゥイードルディムがまた笑った。
〈俺のように喋れるのはあまりいない。きっと会ってもあまり面白くないだろうなぁ〉
〈それって、みんなイルカなの?〉
〈メジャーだが、みんなってわけじゃない。クジラもいるが、あいつらは大きすぎてこっちには来られない。マイノリティとしてシャチやサメもいるが、こっちとは遮断されてるから安心しな。俺も、やつらとは、あまり気が合わない。トゥイードルディは上手く扱う[#「上手く扱う」に傍点]けどな〉
トゥイードルディムの背にしがみつきながら、その銀色のサングラスに干渉した。
〈ウフコックのことは知ってるんでしょう?〉
〈知ってる。六年前まで、ここにいたよ。俺と同じ、軍の依頼で作られた被造物《クリーチャー》さ〉
〈気は合った?〉
〈嫌いじゃないね、ああいうタイプ。根は良いやつだよ。一緒にいると便利[#「便利」に傍点]だしな。指摘できる欠点は色々あるけど、恋人にするには悪くない相手だと思うぜ〉
〈そういうふうに言ってくれるの、あなたたちだけ〉
〈どういうことだい?〉
〈あの人は、そう思ってないみたいなの〉
〈――片思いってやつか〉
バロットが答えずにいると、トゥイードルディムが、明るい笑い声を放った。
〈煮え切らねえ奴だからな。自分はちっぽけなネズミだが、考えるネズミなんだって吠えてたぜ。もうちょっと気楽にやれば良いのに〉
〈嘘をつくのが下手みたい〉
〈感情を体臭で理解する種族だからな〉
トゥイードルディムは、さもありなん、というように首を振ってみせた。
〈嘘をつくってこと自体、ちゃんと理解できてないんだ。不器用で、いつまでも煮え切らない奴さ。あんたも難儀な相手に惚れたね。ま、じっくり煮込むさ。辛抱だな〉
バロットは思わず笑ってしまった。ネズミとの恋愛を、イルカにアドバイスされるとは思ってもみなかった。何もかもが狂っていたが、悪い気はしなかった。もともと狂った世界に住んでいたのだ。いっそここまで狂ったほうが清々《せいせい》すると思った。
自分が知る現実など、たかが知れたものだ。そう思うと、途端に気持ちが広がった。それまでは、感覚ばかり広がっていたが、ようやく心が追いついた感じだった。
〈私、ウフコックに、とても悪いことをした〉
〈なんだい、いきなり〉
トゥイードルディムがびっくりしたように泳ぐ速度を緩めた。
〈私はあの人を、無理矢理使おうとした。それでもあの人は、私を守ってくれた〉
〈ははあ……。あいつが、ここへメンテナンスに戻ってきたのは……〉
〈私のせい。私がウフコックをあんな目に合わせたの〉
〈あいつは半不死さ。心配要らねえ〉
〈不死? 死なないの?〉
バロットは驚いた。トゥイードルディムは笑ってプールの縁に戻り、
〈あいつの肉体は、多次元構造だ。一つの次元で肉体を損傷しても、別の次元からの修復が可能なんだ。生体ユニット[#「生体ユニット」に傍点]の最大の利点だな。あらゆる次元から粉々に吹き飛ばして灰にするか、生命の核を潰さないと死なない。ただし、寿命はあるぜ〉
〈寿命……?〉
〈生体ユニットの最大の欠点さ。生物はいつか死ぬんだ。当然のごとく。そもそものコンセプトがそういうふうに出来上がってる。ウフコックの場合は、それが顕著ってわけ〉
〈どういうこと?〉
バロットは、どきっとしながらプールの縁につかまった。なんだか怖いことを訊いている気がして、じっとトゥイードルディムを見つめた。
〈肥大だ〉
トゥイードルディムが、ちょっと神妙な感じで告げた。
〈ネズミは、生きてる限り、体重が増える。大きくなり続けるんだ。延命措置をほどこしたって、そいつが克服できない限り、いつか自分自身の体重に押しつぶされて死ぬ。どれだけ多次元に肉体を分割したって、ダメなもんはダメ〉
〈病気なの? 治らないの?〉
〈病気とは達うんじゃねえかな。生命の必然ってやつだ。ウフコックが言うには、いつか来る自分の死を自覚したとき、この楽園を出る必然が、自分の中で生まれたってさ〉
〈どういうこと?〉
トゥイードルディムはそこで少し黙った。
〈……さあな。俺はここを出ることはないだろうからな。あいつに訊いてみてくれよ〉
バロットはちょっと気まずい感じを受けながらうなずいた。
〈あなたは、外に出たいと思ったことは?〉
途端に、質問したことを後悔した。トゥイードルディムはふと宙に顔を向けた。
〈どうやって生きていく?〉
バロットには答えようがなかった。質問の形をとってはいたが、それがトゥイードルディムの返答だった。痛切だった。だが、トゥイードルディムは、優しく言い添えた。
〈俺にはこの海がある。平和があるし、刺激もある。ここでは何もかもが実験的だが、存在そのものが最先端だっていうプライドもある。なにより、トゥイードルディがいる。俺はここから出ていかねえ。あんたこそ、ここに住んだら? ウフコックと一緒に〉
〈私も――?〉
〈外は、危険なことばかりなんだろう? 閉鎖は、生命の力の一つでもあるんだぜ〉
バロットは、そっと首を振った。
〈私、選択したの。殻の外で生きる――生き残るって〉
それだけを、囁くように返していた。
〈なるほど……〉
トゥイードルディムが、そこで初めて声を出した。きゅっと胸を締め付けられるような、細い綺麗な鳴き声だった。
〈本当の海って、どんなだろうな〉
そんな言葉が、鳴き声とともに聞こえた。
〈戻ってきたぜ〉
トゥイードルディムに言われて、バロットは、プールの縁に上半身をもたれさせて、森の向こうからやってくるトゥイードルディを感覚した。
誰かを紹介してくれるのかと思ったが、トゥイードルディは一人で、箱のようなものを抱えているだけだった。大きな荷物だった。遠目に、どこか鳥籠に似ていた。
〈やあ、お待たせ〉
やがてトゥイードルディがすぐ近くまで来て、にっこり笑った。
バロットは両腕で体を持ち上げようとして、急に体を強張《こわば》らせた。
事実、トゥイードルディが抱えているのは鳥籠だった。少なくとも、そっくりだった。
そしてその中に、人間の首が入っていた。
トゥイードルディが立ち止まった。顔は笑ったままだった。驚くバロットを面白がるような表情だった。それは、鳥籠の中の顔も同じだった。
「こんにちは、ルーン=バロット。私が、この楽園の最高管理者《ビッグ・プロフェッサー》だ」
鳥籠の中で、顔が言った。初老の男だった。真っ白い髪が綺麗にカットされ、髭も剃られていた。細身の顔には深い年輪のような鮫が厳しく刻まれていたが、上品で優しそうな表情をしていた。ただし、それ以外の体のパーツは、何一つとして存在しなかった。
「みな、教授《プロフェッサー》と呼んでいる。プロフェッサー・フェイスマンとね。今の私にぴったりな名前だ。中には、フェイスマン・イン・ザ・ケイジと呼ぶ者もいる。これもなかなか当を得ているではないかね」
バロットは自分が裸であることさえ忘れて、その、|鳥籠の中の顔《フェイスマン・イン・ザ・ケイジ》を見つめている。
「テーブルを」
フェイスマンが命じた。トゥイードルディが言われた通り、プールのそばの地面に干渉すると、そこから板状のものがせり上がり、白い円卓がゆっくり組み上がっていった。
トゥイードルディは、そのテーブルの上に、鳥籠を置いた。それから、またさっさと衣服を脱ぐと、自分の役目は終わったとばかりに、プールに飛び込んでしまった。
その様子をにこやかに眺めながらフェイスマンは鳥籠の中でゆっくり回転し、バロットのほうを向いた。
バロットは思わずプールの中に体を落としてしまった。
「私の鳥籠《ケイジ》に干渉したまえ。会話できるはずだ」
〈はい〉
反射的に応じていた。フェイスマンがにっこり笑った。
トゥイードルディが早速後ろでばしゃばしゃやり始めるのを感じながら、バロットはまじまじとフェイスマンを見つめ続けた。
「君のデータは拝見させてもらった。素晴らしい適性だ。ただこのままでは君の心の成熟に、技術が影響を与えることになる。君はそのことにストレスを感じているかね?」
バロットは、ぼんやり首を振った。無意識に、自分の喉の辺りを触っていた。
そこから上しかないということが、にわかには想像できなかった。
「気を悪くしたかもしれないね。ウフコック=ペンティーノに記録された君の戦闘デー夕を、私に提供することが、この施設を使う条件だったのだから」
〈条件?〉
訊き返しつつ、バロットはすんなりと合点した。
〈私のことを教える代わりに、ウフコックの怪我を治させてもらってるんですか?〉
「その通り。イースター博士からは何も訊いていないのか?」
〈ウフコックの治療で、忙しそうだから……〉
だが、そのことで気を悪くするつもりはなかった。ウフコックの負傷も何もかも、全て自分のせいなのだ。ウフコックの治療に役立つなら、何をしてもらっても構わなかった。
「繊維移植の様子を、拝見させてもらえるかね?」
フェイスマンがそう訊いたときも、バロットは素直にプールから出て、体を見せた。
仕事[#「仕事」に傍点]でそうしていたときとは違って、医者に自分の体を診てもらうような感じだった。
「まだ成長期だね。繊維自体もこれから成長することを見越して、部分的に不安定な状態にしている。素晴らしい。適切な処置だ。どうやら、何の心配も要らないようだね」
バロットは、否定も肯定もせず、ぽつんと立っている。
「君のデータを解析し、君の強靭さに感動した。我々は一時期、軍事開発に重きをおいていたこともあってね。あまり良い時代ではなかったが、それでも目標があり、努力があった。君の存在は、私にとっては芸術品[#「芸術品」に傍点]だ。精巧で――強靭だ。全てがベストのタイミングで形成された、オンリーワンの逸物といえるだろう。――こういう言い方は嫌いかね?」
正直に言えば、嫌いだった。これまで、物のように扱われてきたことで、ずいぶんと嫌な思いをしてきたからだ。だがフェイスマンは穏やかな微笑を崩さず、
「私ばかりがデータを揃えるのは不平等だ。私のことで何か知りたいことはあるかね?」
そう訊いてきた。バロットはちょっと戸惑った。いまだかつて、誰かに、なぜ首だけなのですかと訊いたことがなかったからだ。つい、遠回しな口のきき方になった。
〈フェイスマンというのは、本名ですか?〉
「研究用のコードネームだよ。本名はチャールズ・ルートヴィッヒ。だがその名で呼ぶ者はもういないな――自分自身も含めてね。私にとって、自分自身もまた、研究材料なのだよ。とはいえ、それにかこつけた延命措置に過ぎないともいえるが」
〈延命――?〉
「体中、何種類もの癌に蝕まれてね。切り離すしかなかった」
フェイスマンは、あっさりと告げた。
「私たちがここで開発した技術を用いれば、体を存続させることもできたが――むしろこの姿こそが、私の適性[#「適性」に傍点]だったのだ。私はこの施設全体を管理し、同時に幾多の研究を行っている。体が幾つあっても足りないほどの激務で、どうせ足りないならばいっそのこと体を棄て、真実、ヘッドクォーターとしての役割に徹したかったのだ」
〈不便じゃないんですか?〉
思わず訊いてしまったが、フェイスマンは、誇らしげに微笑んだ。
「何のための鳥籠《ケイジ》だと思うかね? この針金細工は、ただの工芸品ではない。最先端の技術によって快適な空間を造り出す装置だ。針金の一本一本が排塵処理を行い、内部の空気を清浄に保ち、湿度と温度を一定にする。今も、触れてもわからぬほどの微細な空気振動で垢《あか》を落とし、皮膚を清潔にし、新陳代謝を促進させ、健康に保つのだ。手と水と石鹸で顔を洗うより、よほど快適だよ。また、厚さ二インチの鳥籠の底には、電子的干渉装置、生命維持装置、重力素子、全データベースを収めたハード、通信機器、衝撃吸収装置――さらには自衛装置など、考えられる限りの設備を収めているのだ」
流れるような説明だった。まるで首の下で胸を張っている姿が目に浮かぶようで、バロットは奇妙な可笑《おか》しさがわき上がってくるのを感じた。
フェイスマンは、いたずらっぽい眼差しになりながら、テーブルを一瞥した。干渉し、操作《スナーク》したのだと知れた。テーブルの下から銀色の物体が現れ、パイプチェアになった。
「お掛けなさい」
バロットは言う通りにした。命じられている感じはしなかった。むしろ、ずいぶんと歓迎してくれているような気がした。
「君を見ていると、イースター博士の優秀さがよくわかる。だが……あるとき、彼も我我も、全てが否定された。イースター博士から聞いていると思うが……」
〈全てがひっくり返った[#「ひっくり返った」に傍点]……?〉
バロットが言った。それがドクターがバロットに告げた言葉だった。
〈何があったんですか……?〉
「我々が、科学技術を発達させることに対し、連邦政府が制約[#「制約」に傍点]を課したのだ。我々の生んだ技術の多くが、海を越えた大陸国家との戦争で使用され、甚大な被害を及ぼしたことも、その決定に影響を与えた。我々の科学技術を民間に応用することは、深刻な社会不安を招く可能性があるとされ、あらゆる研究の成果と続行が、危険視されたのだ」
〈誰が決めたんですか……?〉
「人だよ。この都市に住む人々の多くがそう思ったのだ。研究所は存続を賭けて様々な手を講じた。そして私をふくむ三人の最高管理者が、それぞれ別の対策をはかった」
〈三博士=c…?〉
バロットの呟きに、フェイスマンは、静かに微笑みながら、うなずき返した。
「その一人は、禁じられた科学技術の社会的有用性[#「有用性」に傍点]を訴え、スクランブル―|09《オー・ナイン》の法案を作り出し、法務局《プロイラーハウス》に認めさせた。今の君を存在させている法案によって、イースター博士もウフコックも、かろうじて存在を認められている」
〈その人は……?〉
「法案の成立後……間もなく、他界した。殺されたのだ」
バロットは目をみはった。
「三博士≠フ別の一人が雇った殺し屋によって。スクランブル―|09《オー・ナイン》とはまた別の社会的有用性を訴えたその人物は、禁じられた科学技術を、都市の要求《二ーズ》に最も添ったかたちで提供しようとした。合法・非合法を問わぬ、娯楽や快楽の形で」
〈オクトーバー社――〉
フェイスマンがうなずいた。それで、バロットは、ドクターがあの企業を宿敵だと言った理由がわかった気がした。ドクターやウフコックにとって自分たちの存在理由を作り出した人物をオクトーバー社に殺されたのだ。
〈なんで、そんなことになったんですか?〉
「社会的有用性に対する考え方の違いが原因で、争い合ったのだ。研究室での議論ではなく、それぞれが、お互いの存在を賭けて。あくまで合法性を主張するスクランブル―|09《オー・ナイン》と、非合法性を認めるオクトーバー社とは、互いに敵とならざるを得なかった。窮地に陥った者たちが、生き残るために互いの存在を奪い合った。三博士≠フ影響力がなくなった後でも、その申し子たちは、いまだに争い続けている」
〈オクトーバー社を作った人は、まだ生きてるんですか?〉
「生きているよ。オクトーバー社の理事としてな。ただし私と、そう変わらぬ状態だ。全身不随で、脳の一部だけが活動しているそうだ」
〈最後の一人[#「最後の一人」に傍点]は、どうしたんですか――?〉
そっと、バロットが、訊いた。フェイスマンは、穏やかな微笑みのまま、
「三博士≠フ最後の一人は、社会が……マルドゥック市《シティ》が、最も望むように、事を運んだ。すなわち、全研究の、永遠の閉鎖だ」
〈閉鎖……?〉
「そうだ。研究の成果も続行も、全てがこの施設の中で完結している。我々のデータが外部に漏れることはない。市政も、様々な条件付さで我々を認め、予算も出している」
〈ずっと、ここに……?〉
「そう。ここは永遠の箱庭だ。我々は、自ら檻に入る道を選択することで生存を勝ち取った、科学者という名の猛獣なのだよ」
そう、フェイスマンは、鳥籠の中から、微笑んで告げたものだった。
「楽園≠ヘ、外部からの来訪は、基本的に拒まない。だが来訪者が楽園≠去るとき、様々な制約が課せられることになる。その制約を守れぬ場合、連邦法違反で、刑を科せられる。中でも最大の制約は……連邦政府の許可なしに、ここにある設備を用いて、外部と接触しないことだ。それを破れば、重罪となる」
バロットはゆっくりとその言葉の意味を噛み締めた。
フェイスマンの灰色の瞳が、じっとバロットを見つめていた。まさしくバロットの頼み事への――ここの端末《プール》を使うことへの、それがフェイスマンの返答だった。
だが、その返答にはまだ先があるはずだった。バロットはそう確信していた。
〈ドクターは、私にここの機械を使わせたがっているんだと思います〉
「その提案は、すでに受けている。ルーン=バロット。君が、ここの多元型通信基幹を、どれだけ使いこなせるか……正直、興味はある」
そう言って、フェイスマンは、ちらりとプールを見やり、
「スクランブル―|09《オー・ナイン》だ」
囁くように告げた。それこそが、全てに通じる答えであるかのように。
「ここの通信基幹を使用した瞬間、君は、連邦法により、計画的な犯罪行為の容疑者[#「容疑者」に傍点]とみなされる。だが、君のその行為が、決して犯罪ではなく、自らの生命を保全し、社会的に有用性[#「有用性」に傍点]のあることが証明されれば、君の容疑[#「容疑」に傍点]は晴れるだろう」
〈はい〉
「ただし君が危険を冒す理由はない。今の君が当事者となっている事件の解決を、イースター博士とウフコックに完全に任せてしまえばいいのだ」
〈でも、そうしないと、私は殺されると思います〉
「ここにいれば、殺されない」
フェイスマンは、ひどく穏やかな声で言った。
「ここは刑務所よりも遥かに安全で快適な、閉鎖環境だ」
バロットは、再三、うなずいた。それがフェイスマンの思想だった。だが、それは、バロットが、ウフコックやドクターに感じ、願ったものとは違った。
〈ウフコックは、私に、一緒に生きる意味を考えてくれると言いました〉
「生きる意味とは、社会への適応のことかね。スクランブル―|09《オー・ナイン》にしろ、オクトーバー社にしろ、結局は、社会の病理的争乱に、身を投じる手段でしかない。所詮、部分的な技術を民間に適応させたところで、社会も人も、変わりはしない」
〈ウフコックとドクターは、私を助けてくれました〉
バロットは、きっぱりと返した。
〈私は、変われる気がします。あの人たちのお陰で〉
「それは部分的な――個人的な変化に過ぎない。人には、もっと全体的な革新が必要なのだ。人という種の革新がね。この楽園≠ヘ、今は閉ざされているが、いつか必ず、人類の新たな社会のモデルになると私は信じている。世界がここと同じになることで、外部と楽園≠ェ地続きになるのだ。ここは、総合的な技術と思想の一体的な成果だ」
バロットは黙った。今まで、そんなレベルで世の中について考えたことはなかった。
「いつかウフコックが、私に言った。自分はいつか死ぬ。そして、死を理解したとき、初めて自我というものを手に入れた気がすると。だからこそ今、何かをしなければいけないのだと。彼の中で芽生えた自己実現の欲求を、誰も止めることはできなかった」
フェイスマンが言った。呟くような口調だった。
「だが我々は……いわば役を仕込まれていない役者のようなものだ。君も私も、生を即興で演じなければならないという厳しい現実の中にいる。シナリオもなければ、何をすべきかを耳打ちしてくれる演出家も存在しない。気がつけば舞台に投げ出され――そしてこう言われる。生きろと。死ぬまで。それは野生だ。ただの、社会的な野生動物だ。我々は、いつまでもそのような即興の社会に生きるべきではない。即興から人々を救う世界が必要なのだ。この楽園≠フように。それこそが、文明の意義なのだよ」
そして、優しいとさえ言える眼差しで、バロットを見つめた。
「君は、いずれその能力への適性によって成熟過程の精神に多大なる影響を被《こうむ》るだろう。君を狂わせる可能性が十分にある。そのとき、今の社会は君を助けてくれるかね?」
バロットはわずかに思案した。答えは思ったよりもずっとすんなり返されていた。
〈事件の当事者になるのは凄く怖かった。でも今は、そうして良かったと思います。社会が私を助けてくれることはないです。でも、助かる道があることを教えてくれました〉
「事件の被害者《ヴィクティム》として? 生存の権利を社会に主張するために戦う?」
バロットはうなずき、そして、そのすぐ後でかぶりを振った。どちらも、本心だった。
〈私は、物《ヴィクティム》でした。いつも支配されていた。誰かに――何かに。そして結局は、殺されました。でも、運良く生き残って、事件の生存者になりました。これから、事件の解決者になれるチャンスがあるのなら、私は、そうしてみたい〉
フェイスマンはまるで、神父が信者の告解でも聞いたみたいに、優しく微笑した。
「君は、ウフコックやドクターと同じ立場になるというのだね。事件の解決が果たせなければ、社会にとって危険な存在とみなされる立場に」
〈はい〉
「良いだろう。君の貴重なデータを提供してくれるのなら、そのプールで君がどのように泳ごうとも自由だ。我々はただ君の犯罪行為を、傍観する」
〈はい〉
「通信基幹の使い方について、トゥイードルディムに、サポートしてもらうといい」
〈ありがとうございます〉
バロットは素直に感謝した。自分の人生と引き替えに、ずいぶん大きな取引をしたと思った。だが不思議と、怖さも興奮もない。ただ当然のことをしたとしか思わなかった。
ふと、新たな人間がプールのほうへやってくるのが感覚された。
バロットとフェイスマンは、そろって、やってきた人間を見やる。
白衣を着たドクターが、まだらに染めて固めた髪を掻き上げている。
バロットとドクターの会話がひと段落するのを、ずっと待っていたような顔だった。
「やあ、イースター博士。今、君の依頼主《クライアント》から、貴重な意見を頂いていたところだよ」
「プロフェッサー……ご協力、感謝します」
「しばらくここに滞在するかね」
「いえ、仕事がありますので……」
「有意義な仕事かね」
「はい」
それから、ドクターはバロットを見やって、
「ウフコックのメンテナンスは終了したよ」
バロットが、感謝の言葉を告げようとして干渉できるものを探していると、
「プロフェッサーから、詳しいこと[#「詳しいこと」に傍点]を聞いたみたいだね」
ドクターが言った。バロットは、はっきりとうなずいた。フェイスマンが微笑み、
「彼女は、知恵の実を食べる気でいるよ、イースター博士」
ドクターは、ややためらうようにバロットを見やり、
「君を、連邦法違反者にするつもりはないんだ。ここの通信基幹の使用を、僕の名で申告するから。君はただ、シェルの急所をつかむことだけを考えれば……」
〈大丈夫。あなたたちの戦い方を、教えて欲しいの〉
バロットはそう答えた。フェイスマンが鳥籠に干渉することを許してくれていた。
そこで初めて、バロットは自分が全裸であることに気がついた。
慌てて衣服を探そうとするのへ、ドクターが自分の白衣を脱いで肩にかけてくれた。
「イヴは、己が裸であることを、急に悟った」
フェイスマンが、呟くように言った。
4
ノースサイドの丘のふもとに広がる夜景は、戦後の好景気に輝くマルドゥック市《シティ》の、エデンでありソドムだった。
戦後派と呼ばれる平和団体やメディアや商業主義者たちによって輝く楽園であり、息子が海兵隊に入ることを何よりの誇りとする戦中派にとっては悪徳の都そのものだ。
他の州や、七十マイル北にある連邦の首長都市からも、貧富の差を問わず大勢の人間が、この丘の一帯を目当てに流れ込み、享楽か仕事のどちらかを求めた。
丘の中腹に建つ高層ホテルは、戦後の繁栄を象徴すると同時に、あからさまに下界を脾睨《へいげい》するような容貌をしている。
その一室に、ボイルドがいた。旅客機でいうエコノミー席のような部屋である。四十階より下にシングルの部屋が沢山あり、上階で寝泊まりする者の世話をする人間が大勢泊まっているのである。
ボイルドはそこで、頭からシャワーを浴び、血が排水孔へ流れる様を見つめていた。
右手の甲と、腕のあちこちに、穴があいて血を零している。銃創だった。手の甲の穴は貫通していたが、腕の穴は途中で止まっていた。ボイルドは腕のほうの穴に口をつけた。傷口の周辺の皮膚に歯を立て、血を吸った。血と一緒に、固いものが吸い出された。
それを、バスタブに吐き捨てた。弾丸である。血でいっぱいになった口を、シャワーの湯ですすいだ。バスタブの底に、ひしゃげた弾丸や鉄の破片が転がっていた。
バスタブ脇にあるトイレの貯水タンクの上には、部屋の備品であるバターナイフとフォークがあり、両方とも血で濡れ、白い陶器の側面に、赤い線を走らせている。
それらの道具で、ボイルドは、肉体に食い込んだ金属片を、ほじり出したらしい。
ボイルドは目を閉じ、身体の違和感を探るようにあちこちの筋肉を収縮させた。
やがて、うっそりと目を開くと、摘出したものを一つ一つつまみ上げ、シャワーを止め、バスタブから出て洗面台に立った。生きて動く鋼のような身体が、曇り止めの効いた鏡に映し出されている。腹や胸に、幾つもの傷があった。
ボイルドは手にした鋼の破片を一つ残らずゴミ箱に捨て、タオルで傷口を拭き、化膿止めを塗り、皮膚の成長促進剤を飲んだ。傷口にガーゼを張り付け、その上から包帯を巻いた。もはや一滴たりと血は零れなかった。傷はただの傷だった。
浴室を出て体を拭い、服を身にまとった。脇の下にホルスターを吊り下げ、銃を手に取った。右手と左手で何度か持ち香え、弾丸の装填を確かめてからホルスターに収めた。
腕時計をはめ、特注の巨大なジャケットを手にしたところで、電話が鳴った。
受話器を取り上げると、
〈ボイルドか?〉
シェルの声がした。
「そうだ」
〈俺の部屋に来てくれ。見せたいもの[#「もの」に傍点]があるんだ〉
やけに愉快そうな声だ。その背後から笑いが聞こえてくる。女の嬌声らしかった。
「すぐに行く」
電話を切り、部屋を出て、エレベーターに乗った。四十階から上の表示にはボタンがなく、ボイルドはポケットからカードを出すと、パネルの下部に差し込んだ。
自動的に六十六階の表示灯が点灯し、エレベーターが動き出した。
エレベーターから出ると、今までとはまるで違う光景が現れた。
廊下は広く、青を基調にしていた。絨毯を踏む音は、無音に近い。
シャンデリアの細かな光が、清潔な空気にとけ込むようにしてきらめいている。
ところどころで壁に絵が飾ってあり、額縁だけでも欲しがる人間は大勢いそうだった。
ボイルドは目的のドアの前に立った。アナログな呼び出し用の把手をつかんでノックすると、すぐにドアが開き、スーツを着込んだシェルが現れた。
「入ってくれ、ボイルド」
鋭い笑みを浮かべながら、シェルは招き入れた。
続き部屋の向こうからは、ひっきりなしに嬌声が聞こえてきている。
「こっちだ。こいつを見てやってくれ」
寝室に入ると、ダブルベッドの上で、女が一人、痴《し》れた笑いを振りこぼしながら跳びはねていた。年は二十歳そこそこに見えた。もとは綺麗に結い上げられていたのだろうブロンドの髪が、ぐしゃぐしゃに乱れて顔に垂れかかっている。
二人が入ってくると、女はぴたりと笑いを止めた。ベッドに突っ立ったまま、あーと大きな声で何かを伝えようとした。それを見て、シェルが、低く笑いをこぼし、
「天然[#「天然」に傍点]さ」
そう言って、ソファに座った。
「紹介しよう、オクタヴィアお嬢様だ。別名を、|名家の恥部《ミズ・アイズ・ワイド・シャット》……オクトーバー社の重役の娘にして……要するに、買い手のつかない、不良品だ。その一家の極秘事項となっていたところを、俺が存在を暴いて、こうして貰ってやった[#「貰ってやった」に傍点]ってわけだ」
女は笑いながら何かを叫んだ。テレビ番組のタイトルや菓子の名前や、あるいは人名だったが、何を求めているのかシェルにもボイルドにもわからなかった。
「こいつが俺の取引の具体的な形さ。お前にも顔を覚えてもらうために、三十分ほど借りてきたんだ[#「借りてきたんだ」に傍点]。我が、栄光の細君というわけだ」
「婚姻届け[#「婚姻届け」に傍点]は?」
「今月末には契約[#「契約」に傍点]が決まる。忌々しい裁判さえなければ、とっくに決まってたがな」
それからふと口調を変えた。コメディアンが、急に真面目な口調になるのに似ていた。
「ところで、ボイルド――別件で、頼んでおいた仕事があったと思うんだが」
ボイルドは、女に目を向けたまま、うっそりと答えた。
「想像以上だった」
「想像以上? 何が?」
「全力で阻止にかかっている。依頼主を強化し、戦力としている。依頼主ではなく、相手側のメンバーの一人と考えたほうが良い」
「つまり、なんだ?」
「充分に戦術的な存在だ」
「お前は戦争をしているのか?」
「ここまで来ると、似たようなものだ」
ボイルドは、女からシェルに目を向けた。シェルの形相は一変していた。
「じゃあ、戦場のミスター・ボイルドの報告を、聞こうじゃないか」
そう言うシェルの目が、凄まじい光を帯びている。
「相手方の事件屋の一人に、傷を負わせた。どこで治療を受けているかも目星がついている。これから、そこへ向かう」
「素晴らしい。お前が核弾頭となって敵を粉砕してくれるというわけだ。その後の黒い雨ときのこ雲の処理も、お前がやってくれるんだろう?」
「だが、一つ奇妙なことがある」
「奇妙? よしてくれ」
シェルが手を振った。怒りの表情の裏に、ちらりと別の感情が浮かんでいた。
「どうせ何もかもが奇妙だ。夢で死んだはずの女が生きて俺を糾弾しようとしている。大事な取引を行おうとしているこの俺の足を、引っ張っている。で? 今度はその女が俺を差し置いて連邦政府の大統領選にでも立候補するのか?」
「法務局《プロイラーハウス》に、奇妙な申請があった」
「あそこはいつでも|不思議な世界《アメージング・ワールド》さ。奇妙な申請のほうが多いくらいだ」
「次回の裁判での罪状項目が、幾つか白紙のまま提出されている」
「……どうせまた、ぎりぎりまで罪状公開せず、こちらを焦らそうって腹だろう」
「ただの騙し《ブラフ》なら良い。だが、相手側が新たな調査を続行中である可能性もある」
シェルの動作が止まり、表情が消えた。
「経路はわからないが、相手側が、あんたの取引の鍵[#「取引の鍵」に傍点]を探っているのかもしれん」
ボイルドが呟くように告げた。シェルの目が、いっそう、ぎらぎらとした光を強めた。
「あんたの取引の鍵はどこにある?」
「お前が知る必要はない」
形相は凄惨だが、シェルの声は震えていた。
そこへ、けたたましい嬌声が上がった。女が、怯えるシェルを見て喜んでいた。
「黙れっ!」
シェルが叫んだ。だが女はけたけた笑いをやめない。
「俺は……俺は、いつでも別の人間になれる。これが俺の取引だ。過去なぞ……」
シェルは、女を睨みながら、押し殺した低い声をもらし、
「もう、顔も忘れた女だ……」
ゆっくりとボイルドを振り返った。その目が血走り、異常な光を放ち始めている。
「そんな女の首を絞めて、ついでにへし折る程度のことが、なぜできない? 金が足りないのか? 俺の取引を横取りしようって腹か?」
「ナンセンスだ、ミスター・シェル。落ち着け」
「殺せっ!」
いきなり、女に負けぬほどの金切り声が、シェルの口からほとばしった。
「俺を追いかけてくるあの女を殺せえっ[#「俺を追いかけてくるあの女を殺せえっ」に傍点]!」
ほとんど悲鳴だった。かぶりを振ってソファに座り、必死で落ち着こうとしている。
「……やるべきことは、シンプルで明確だ。そうだろう? お前のその懐に入れているものを、あの女の中に突っ込んでぶっ放せば良いんだ」
ボイルドは、黙ってうなずいた。
「なぜ、俺は、あんな女の子を……。女……いつもそれだ……。なぜ……俺は、なぜ怖がっているんだ? 何が怖いんだ? 女の何が怖い?」
シェルの口から、ぶつぶつと、譫言《うわごと》のような自問の声が零れだした。
ボイルドにもわからなかった。それを知るための記憶は、シェルの頭から綺麗に吸い出され、どことも知れぬ場所にしまい込まれていた。
ボイルドが再び女を見た。お前にも見せたくて、とシェルは言った。つまりシェルは、心底、怯えているのだ。他ならぬ、女という存在に。
「また、女か――」
シェルにも聞こえぬ声で、ボイルドは低く呟いた。シェルの取引の陰には常に女が存在した。そして今、まるで目の前にいるこの女だけが、シェルが何から逃げようとし、そのせいで、どこへ落ち込もうとしているのか、知っているようでもあった。
女は、嬉しそうに笑い続けた。
ボイルドはシェルの部屋から出ると、まっすぐホテルの地下駐車場に降りていった。
青いガソリン車だった。窓はスモークで中は見えない。運転席のドアを開けるや、かちりと音がした。撃鉄を上げる音だ。だが、ほとんど愛嬌のようなものだった。
ボイルドは、助手席のほうを見もせず、運転席に座り、ドアを閉めた。
「調子はどうだい、ボス」
ミディアムが、ゆっくりと懐の中で撃鉄を元に戻しながら、嗄れた声で言った。
「問題ない」
うっそりと答えながら、ボイルドはキーを差し込んだ。
ミディアムの顔の皮膚に皺が寄った。笑っているらしかった。
「お前のコンディションは?」
「ばっちりさ」
サングラスの奥で、ミディアムの目が二つの赤い光をともした。
顔のところどころに、うっすらとつぎはぎが見える。髪は綺麗に剃り上げ、つるりとした頭皮のあちこちが、明らかに異なる色をしている。その側頭部に、抜糸も終わっていない傷があり、半透明の抗菌テープが何重にも張り付けられていた。
「負傷した指はどうした?」
「これさ」
黒い手袋をした左手を掲げて見せた。指を折り曲げると、きりきりと軋んだ音がした。
「間に合わせの電化製品だが、十分に戦闘に耐えられる。新しく指を移植してるヒマはないんだろう? さぁ早く俺をけしかけてくれよ」
ミディアムが歯を剥き出した。息が荒く、膝をせわしげに揺すっている。よだれをしたたらせて餌を欲しがる犬さながらだった。
「ドラッグをやっているのか」
「気付け[#「気付け」に傍点]さ。しらふのまんまじゃ電撃の後遺症で手足が使い物にならねえんだ。心配ない、扱いには慣れてる。ブッとんだりはしねえさ。それより、ほら、これを見てくれ」
懐から手帳型のディスプレイを取り出し、ボイルドに渡した。
ディスプレイには、都市を中心とした地図の上に、赤い線で航跡が表示されている。
「フレッシュの遺産だ。やつのハッキングルートから、あんたの言う通り、航空管理局と法務局《プロイラーハウス》に侵入した。だがハッキングが不十分で、あの空飛ぶ卵の着陸地点は特定できなかった」
「十分だ」
ボイルドは手帳を畳み、ミディアムに返した。
「一部の特定地域に、航跡が重なっている。法務局《プロイラーハウス》が用意するルートだ」
「居場所がわかるのか?」
「都市の郊外だ。時間がかかる。寝ておけ。ハイになっているとスタミナが保たない」
「大丈夫さ。もう一度あの子猫ちゃんに会えるんなら、どこにでも走り込んでやるさ。教えてくれよ。俺はどこに向かって走り込めば良いんだ?」
ボイルドはキーを回した。
「楽園だ」
エンジン音が鳴り響き、ミディアムは嬉々とした歓声を上げた。
マルドゥック市《シティ》の北西から幹線に入ったところでミディアムがカプセルを飲むのへ、
「多幸剤《ヒロイック・ピル》か」
ふと、ボイルドが無感動に呟いた。
「タイムズスクェアの横流し品じゃないぜ。混じりっけなしさ。あんたも飲《や》るか?」
ボイルドはかぶりを振ろうとして、途中でその動作を止めた。
「一つ貰おう」
そう言って手のひらを差し出した。ミディアムがにたりと笑みをもらし、分厚い手にカプセルを一つ落とした。ボイルドがそれを飲み下すのへ、
「どうだい?」
「あまり変わらない」
「そのうち、幸せな感じになってくるさ」
「頭の裏側が痒い感じだ」
ミディアムが呆れ顔になった。
「あんた……なんで飲んでみる気になったんだ?」
「クライアントが中毒で、効果を把握しておきたかったが、俺には効かないようだ」
「あんたは確かにウェルの言ってた通り、本物の猟犬さ。必要なことをするのにまるでためらいってものがない。だが願わくば、もう少しユーモアが欲しいところさ」
ボイルドは取り合わず、
「これから法務局《プロイラーハウス》の夜間窓口で幾つか確認を取り、出発する。深夜には目的地に着く」
「了解。車の運転を交代しようか?」
「必要ない。お前は体を休めておけ」
「ドラッグもやらずに、よく体が保つな。いったい、いつ寝てるんだ?」
「俺は寝ることを忘れた[#「俺は寝ることを忘れた」に傍点]」
ミディアムが、にたっと笑った。
「今のは良いユーモアだ」
「もう九年、寝ていない」
「その調子だぜ、ミスター・アイアンマン。表情がちょっと無愛想なのが難だがな」
ボイルドは無言で、通りがかりのモーテルに車を止め、ミディアムのいないところで、専用窓口から法務局《プロイラーハウス》に連絡を取った。
再び車に乗り込み、キーを回すとき、ふと、ボイルドは手を止めて考えた。
最後に眠ったとき、自分は夢を見たかどうかを。
答えはノーだった。
ボイルドは、車を発進させた。
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Chapter.2 噴出 Injection
1
〈ヒットだ。シェルって名前は、マルドゥック市《シティ》に、百人くらいいるが。……そいつだ。オクトーバー社の系列カジノに『エッグノッグ・ブルー』って名前の店がある。そこの代表取締役だ〉
トゥイードルディムが告げた。バロットはうなずき、情報を検索していった。
バロットの口元から、泡が溢れて、頭上へと舞い上がってゆく。
簡易呼吸器をくわえた状態で、巨大な端末であるプールの底を泳いでいた。
呼吸器は、楽園≠フ備品だ。プールの縁では、ドクターとフェイスマン、そしてトゥイードルディが、バロットたちの作業を見守っている。
〈今みたいな要領で、アクセスしてみな。もっと深い所へ……余計な情報に足を引っ張られないよう、コンピュータと、以心伝心《セマンティック》に、探ってみるんだ〉
バロットは水中で目を閉じたまま、一糸まとわぬ姿で、大きく手足を広げ、この巨大な端末と、全身で会話[#「会話」に傍点]した。無数の情報経路が開かれ、関係した意味合い[#「関係した意味合い」に傍点]から、さらに発展的な意味合い[#「発展的な意味合い」に傍点]へと意味論的《セマンティック》に情報の検索を移行させ、都市のあらゆる情報管理システムを検索してゆく。シェルが、いつどこでどのような行動をしたか。シェルが何に触れ、何を買い、誰といて、どのようなことをしてきたかが凄まじい速度で検出されてゆくのだ。
〈凄い機械……〉
バロットは、情報の中を全身で泳ぎながら感嘆していた。かつてウフコックとともに、自分の市民登録をチェックしたときとは比較にならぬ速度と広大さだった。
マルドゥック市《シティ》におけるシェルという人間の足跡が、化石のように掘り起こされ、余計な情報がそぎ落とされるにつれ、巨大な恐竜の骨格が組み立てられていくようだった。
その骨格の組み合わせによって、情報の意味合いが千変万化《せんぺんばんか》し、それらの意味合いが、最も意味をなす[#「最も意味をなす」に傍点]可能性を、巨大なコンピュータが瞬時に計測してゆくのだ。
〈矛盾した情報が幾つもあるぜ。ずいぶん更新……というより、改竄《かいざん》したんだろうな。中途半端なバージョンアップで金を稼ぐソフトハウスみてえだ〉
トゥイードルディムが毒づく。アドバイスはするが、手を貸しはしない。
バロットもトゥイードルディムに何かをやらせようとはしなかった。連邦法違反者は、あくまでバロットただ一人だからだ。
〈記憶障害っていう点《ログ》で、沢山、共通してる……大学病院の、脳科学……研究治療棟のデータベースのシェルのデータに、外側からいじられた跡があるみたい〉
〈きっと何か隠そうとして、消したんだろうさ。たとえ記録は消しても、消えた穴は残るもんだ。どこまでその穴が伸びているか、探ってみな〉
〈うん〉
まるで無数の情報が、頭上の水面から降り注ぐ日差しの粒の一つ一つに重なるようだった。バロットは水中で手足を泳がせ、顔を上に向け、次々にその光を撫でていった。
「素晴らしい……この情報基幹の全てを、こうまで、意のままに操るとは」
フェイスマンの声には、掛け値なしの賞賛の響きがあった。
〈踊ってる。楽しそうだな〉
トゥイードルディが、プールサイドで膝を抱えながら、つまらなさそうに呟く。
ドクターは、緊張した顔で、じっとプールを見つめている。
そのとき、ふいにフェイスマンが表情を変えた。
ほう……と、宙を見つめたまま、珍しがるような声を上げた。
「どうしたんですか、プロフェッサー」
「ふむ。どうやら楽園≠訪れようとする者がいるようだ。丘のふもとにあるチェックシステムが、ここに接近する車輌を確認した。搭乗人員は二名……。事件担当官が、正式に、法務局《プロイラーハウス》を通して、この楽園≠ヨの来訪を希望している」
それだけで、ドクターの顔が、さっと青ざめている。
「まさか、ボイルドが……?」
フェイスマンが、面白がるように、ドクターを見やった。
「どうやら、錆びた銃が、火を噴きに来たらしい。どうするね……?」
「ルーン=バロットの所在が、現在、ここにあることを明らかにするのは、楽園≠ノとっても好ましくないことだと思います」
ドクターの必死な口調に、フェイスマンが、声を上げて笑った。
「社会の争いに、すっかり慣れた論調だな、イースター博士。確かにその通りだ。ルーン=バロットのデータが、まだ採取されきらないうちに中断することもない。楽園≠訪れる者は、私たちが責任をもって、応接しよう。トゥイードルディ」
いきなり呼ばれたトゥイードルディが、きょとんとした顔でフェイスマンを振り返る。
「少々、荒っぽいお客さんが来るようだ。一緒に出迎えてくれるかね」
〈外部の人間と接触して良いってこと?〉
「そう。滅多にない機会だ」
「プロフェッサー……トゥイードルディにやらせるんですか?」
慌てたようになるドクターを、当のトゥイードルディが遮《さえぎ》った。
〈心配ないよ。外部の人間との接触の仕方は、ちゃんと学習してるから。楽しみだな〉
「イースター博士。君は今のうちに、次の行動の準備をしておくといい。ルーン=バロットの作業は今しばらく、かかりそうだ」
ドクターは緊迫した顔で頭を下げ、急いできびすを返し、ジャングルを出ていった。
〈イースター博士は、どうするつもりなの?〉
「屋上に待機させてあるハンプティ=ダンプティに、ウフコックを搬入するのだよ。それから、彼女の作業が終わり次第、ここを出ていくつもりなのだ」
〈行っちゃうんだ〉
トゥイードルディが、ちょっと唇を尖らせた。
〈また、来てくれるかな〉
「彼女や社会が、この楽園≠希望的に理解してくれることを、私も願っているよ」
フェイスマンは深沈とした口調で言って、ふわりとその鳥籠を宙に浮かばせた。
「さて……接客に向かうとするかね」
ボイルドのうっそりとした目が、車窓を流れる夜の風景を、無感動に見つめている。
〈契約[#「契約」に傍点]が決まった〉
かすかなノイズを交えて、シェルの声が告げた。
〈まだ婚約[#「婚約」に傍点]届を提出した段階だが、取引の後で、すぐに婚姻[#「婚姻」に傍点]届にサインをする〉
ボイルドは別段、何の表情も浮かべることなく、依頼主の言葉を聞き取っている。
運転席では、時折、ミディアムが笑いをこらえるように肩を震わせていた。
〈流れは万全だ。法務局《プロイラーハウス》が何と言おうと、後の祭りってやつだ〉
「契約の具体的な日時は?」
〈あと一時間以内には終わるさ。姻戚関係を証明する正式な書類が、肉厚のステーキみたいにテーブルに並べられてるんだ。カモのステーキってやつだ。俺はこれからそいつをつまみに行くんだ。その後で、娘の父親を俺のカジノのホテルに泊まらせることになってる。せいぜい無利子の借用チップを握らせて、ただで遊ばせるさ〉
「彼個人による取引か?」
〈オクトーバー社の取締役の一人だからな。どうせリムジンの中には一ダースの顧問弁護士がワインと一緒に並べられてるだろうが関係ないさ。娘の父親の名前が、最高についてる[#「ついてる」に傍点]感じなんだ。知っているだろう? クリーンウィル・ジョン・オクトーバー〉
ひとことひとこと区切るように、その名を告げていた。
〈清廉潔白《クリーンウィル》な|カモ《ジョン》てわけだ。それとも娼婦の客《ジョン》かな。どちらにしたって、綺麗な|あれ《ジョン》に変わりはないさ〉
「娘のほうは?」
〈あの女はしばらくホテルに滞在する。そのうち正式に所有権[#「所有権」に傍点]が俺のほうに回るから、あれ[#「あれ」に傍点]の置き場所もそろそろ考える頃合いだ。せいぜい綺麗な宝箱にしまっておくさ〉
「では、こちらは予定通りに行動する。報告は今日の夜半から明け方にかけて送る」
〈|夜の手紙《ナイト・メール》ってわけだ。そいつで、俺の|悪い夢《ナイトメーア》を吹き飛ばしてくれるんだな? 期待している。とっくにいなくなったはずの女を、今度こそ始末してくれ〉
「了解した」
ボイルドが電話を切った。その隣で、ミディアムが、くっくっと笑いを洩らした。
「今の会話だけじゃ何が何だかわからないが、一つだけ確かなことがある」
サングラスを指で押し上げ、にたにた笑いながらボイルドの顔を一瞥した。
「だいぶイカレてるぜ、あんたのクライアント」
「お前には関係ない」
「悪い意味で言ったんじゃねえさ。俺たちと同じくらいイカレてるって言いたいんだ。良いクライアントだぜ。フェティッシュな依頼だ。そいつが俺には嬉しいのさ」
ボイルドは何も言わず、携帯電話を懐にしまった。
「今日の午前中に、担当事件における協力者の証人を申請した。お前のことだ」
「ほう……俺が事件屋ってわけだ」
「その補助だ。標的の少女も、同じように申請されている」
その言葉で、ミディアムの表情が醜く歪んだ。
「なるほど。合法的に殺せるわけだ。すげえや。殺してやるさ。ただ殺すんじゃねえ。全てのパーツを使い尽くしてやる。俺が満足いくまで。そういう契約なんだろう?」
ボイルドはうっそりとうなずいた。
「待ち遠しいな」
途端にうきうきした顔になって、ミディアムは車窓の向こうに蛇行する路面を眺めた。
周囲は緑で覆われ、コンクリートを分解する酵素を混入した還元土壌《プラント・ファーム》が広がっている。木々の間に、腐りかけた建物が見え、さながら都市の墓場といった感じだった。
「戦争で爆撃された跡に、植林《バンドエイド》をしてやがる。マシンガンで撃たれた傷に、絆創膏《バンドエイド》を貼ってるってわけだ」
ミディアムが、サングラスの奥で赤く目を光らせ、歪んだ笑みを浮かべた。
「確かこの辺りは、無人戦闘機が何機も撃墜された場所だ。戦争の終わり頃に、大陸の軍需資本主義者どもが飛ばした、自動操縦で海を渡ってくるヤツだ。噂じゃ、ここに軍の施設があったって話だぜ。本当にこんな場所に、あの子猫ちゃんがいるのか?」
「すでに、敷地に隣接した車道に乗っている」
「敷地? 何のだ?」
「実験施設だ。一時、軍と政府が、資金面での多額なバックアップを行っていた」
そのときだった。暗い夜の森の間に、廃棄された建物とは違う、明るい金属とガラスの構造物が見えていた。あまりに巨大すぎて、それがどういう構造なのかはっきりしなかった。どこまでも続く壁のように、白い大きな何かが広がっているのだ。
「山全部が――」
ミディアムが呆気《あっけ》に取られ、そして子供がテレビの前で笑い転げるように膝を叩いた。
「こいつは驚きの箱船だ! ここにいるってわけだ。子猫ちゃんが尻尾を丸めて喉をごろごろ鳴らして寝てるんだな? ごろごろ鳴らしてやる。鳴らしてやるんだ」
ボイルドは昏《くら》く眠るような目を、前方に広がる丘全体に、向けている。
マルドゥック市《シティ》は、もともと貿易港と技術工《エンジニア》たちの都市である。
都市がハイテク化され、戦争を経て、工場地帯と研究施設と港の三角形が出来たのだ。
そして今はその内部に、市議会と歓楽街とメディアセンターの逆三角形があった。
それら二つの三角形のあらゆる角度の内部に、富や名声や栄光、貧困や堕落などが、ルーレット式ダーツの標的《まと》に細かく記された賞品のように区分けされているのだった。
丘を登りきったところで、ボイルドが車を停めさせた。ミディアムがドアを開き、
「なあ、けしかけてくれよ」
もう一方のドアから出てきたボイルドに向かって、顔に血を上らせて言った。
ボイルドは丘の一方を指さした。
「西側から行け。警備会社の人間が駐留している。そこで施設の情報を手に入れろ」
「位置は報《しら》せるのか?」
「可能ならばそうしろ。俺は、正面から正式な手続きをふまえた上で入る」
「どうせ相手が隠すってことか? ここにはいませんよって?」
「そうだ」
「それは、つまり……」
ミディアムは、喜びに胸を膨らませるようにして両手を開いた。
「俺の好きにして良い[#「好きにして良い」に傍点]ってことなんだな?」
「あらゆる行動を許可する。行け」
ミディアムが、さっときびすを返した。
凶悪な笑みが、香りのように空気に残った。
ざっと音を立て、木々の間へ、解き放たれた猟犬さながらに走り込んでゆく。
その姿がすぐに見えなくなり、ボイルドは、運転席に移った。
「箱船……」
ハンドルを握りながら、静かにその言葉を呟いた。
「永遠に来ることのない洪水を待つ、箱船だ」
低く、呟きながら、車を発進させた。
2
ロータリー式のゲートの中央にある、警備塔のモニターに警備員が映るのへ、ボイルドは委任事件担当官のライセンスを示してみせた。
警備員は機械の一部ででもあるかのように無表情にボイルドを観察し、告げた。
〈今、管理者につなぎますのでお待ち下さい。音声と映像は記録されます〉
ボイルドはうなずいた。モニターの画像が切り替わった。
〈錆びた銃が、自分自身の出す毒錆びに耐えられず、メンテナンスに戻ってきたか?〉
初老の男の画像だった。首から上の姿である。その下は画面の外にあって見えなかったが、そこ[#「そこ」に傍点]がどうなっているのか、ボイルドは知っている。
「ウフコックがここにいるはずだ、プロフェッサー」
初老の男――プロフェッサー・フェイスマンが、静かに笑った。
〈受理した申請とは、だいぶ文脈が違うな。他に言うことはあるかね?〉
親身な教師が、生徒に訂正を求めるような口調だった。
「事件の重要参考人が当施設に逃げ込んだ可能性がある。ゲートを開けてもらおう」
〈銃を使って押し入る必要はない。|十一月の森《ノーヴェンバー・フォレスト》に来たまえ〉
フェイスマンは、親しみを声にこめ、モニターがフェードアウトした。
ボイルドは車を停め、白亜の門に向かって進み、壁の一部の小さなドアに手をあてた。
ドアが電子音を立て、ゆっくりと向こう側へと開いてゆく。
鮮やかな白さに満ちた長大な廊下へ踏み込むと、背後でドアが閉まった。
何もかもが白く冴えわたり、空港のロビーのような穏やかさに包まれている。
ボイルドはまっすぐ歩いた。冷徹な歩調でありながら、どこか慣れ親しんだ足取りで。かすかな抵抗と嫌悪さえありながらも、そうした感情が沸くことをむしろ求めるように。
ボイルドは廊下を進み、そして誰ともすれ違うことなく、再び巨大な壁の前に来た。
壁に設置された電子機器に、手を触れた。照合が行われ、分厚い壁が左右に開き、まるでそこが外の丘ででもあるかのような、草と木々が目に映った。
ボイルドは、森に入った。
小高い白樺の木の間に、白いプラスチックのテーブルと椅子が置かれていた。
テーブルの隣に青年がいて、やってきたボイルドに、にこっと微笑んだ。かと思うと、不審そうな顔になってボイルドを見つめた。
「俺の頭部の通信機器はすでに摘出している。干渉しても無駄だ、トゥイードルディ」
ボイルドが言った。トゥイードルディは、つまらなさそうな顔で、テーブルのほうへ顎をしゃくった。
テーブルの上にはカップが置かれ、コーヒーが湯気と香りを漂わせている。
ボイルドのために用意したのだと、目で言っていた。だがボイルドはそれを無視し、
「プロフェッサー・フェイスマン」
と、テーブルの前に立ち、呼んだ。
するとコーヒーカップの向こうに置かれた|老人の首《フェイスマン》が、鳥籠の中で静かに目を上げた。
「この森は、かつて多くの負傷した兵士たちが体を休め、そして永眠した場所だ。お前も、ここを帰るべき場所にすれば良い」
ボイルドはゆっくりと首を振った。
「十年前に俺がここに来たのは、軍の命令だった。戦争が終わった後で、ここの材料《ヴィクティム》になる気はない」
「それがお前の戦後というわけかね。多くの兵士が、いまだに被害者《ヴィクティム》意識を引きずっているが、お前はどうかな?」
「俺は、被害者でも加害者でもない」
トゥイードルディは、きょとんとした顔をしている。
フェイスマンとボイルドの会話の意味が、よくわからないようだった。
フェイスマンが、トゥイードルディに目を向けて微笑んだ。
「ここは、もう良いよ、トゥイードルディ。西の森に行きなさい」
トゥイードルディは肩をすくめてボイルドに近づき、その逞しい腕を叩いた。遊んでくれるよう、頼むように。それから、さっと森の奥へ走り去っていった。
「同じ年頃の、動性[#「動性」に傍点]の被験者がいないのが、彼の唯一の困りごとなのだよ」
フェイスマンが、トゥイードルディの背から目を離し、ボイルドを見上げた。
「ここに来た少女と仲良くなれそうだと、喜んで話してくれた」
ボイルドは表情を変えずに、無造作に手を懐に入れ、言った。
「質問が三つある。一つは、ウフコックとその依頼者およびドクター・イースターの所在だ。ここにいるのならば、どこに匿《かくま》っているかを教えてもらう」
「我々は誰も匿ったりはしない。受け入れるだけだ」
「ここにいるのか?」
「回答の拒否権はあるはずだな?」
「権利があっても、行使できるわけではない」
「ふむ。どうするのかね?」
「虚構にひたった施設に、あんたの死という現実を教えることになる」
フェイスマンはまた穏やかに微笑した。
「死が唯一の現実か。お前らしいな。人間は、そう多くのものに対してリアリティを感じられるわけではないが――私を殺したところで何も変わりはしない。私の命がお前の助けになるとも思われない。それとも、それで良い[#「それで良い」に傍点]のかな? 今のお前にとっては?」
ボイルドはゆっくりと懐から手を出した。
銃は握られていなかった。だらりと手を垂らし、ぼそっと告げた。
「事件の参考人が、もう一名、ここに侵入した」
「西区の物資搬入路から、油まみれになって入り込もうとしている男のことか? なるほど、お前の質問に答えない限り、彼が破壊行動に移るというわけかね。お前にとっては、それが社会における活躍の手段かね?」
フェイスマンは落ち着き払って言った。ボイルドが、ぼそっと言い加えた。
「俺だけが、その人間を、事件の重要参考人として、逮捕する権限を有している。法務局《プロイラーハウス》に対しての書類は、承認済みだ」
フェイスマンは、困ったように眉をひそめてみせた。
「今、懸命になってここへ侵入しようとしているお前の相棒は、それを知っているのか? いや、お前のことだ。全く反対のことを告げているのだろう」
「効率的に利用価値を高めるためだ。この施設や、軍では、よくある手だ」
「方便が許される場合と、そうでない場合がある」
「あんたの方便を聞いている時間的余裕は、ない」
フェイスマンは溜め息をつき、言い聞かせるような口調で静かに告げた。
「我々は常に技術の更新と検討を行っている。我々は、イースター博士が民間で磨いた技術のデータ提供を条件に、彼にとっての最適な施設を貸与しただけだ」
「ここに重要参考人が来訪したことを認めるのか」
「私の今の言葉を自由に解釈したまえ」
ボイルドは無造作にうなずき、
「二つ目の質問だ」
有無を言わせぬ冷淡さで、フェイスマンを見つめた。
「待ちたまえ。回答の条件として席に着きたまえ。位置が悪くて視界に入りきらないし、せっかくのコーヒーが冷めてしまう」
ボイルドはしばらく黙ったまま立っていたが、やがて席に座った。
「荒《すさ》んでいるな。お前は充実した人生を送っているか?」
ボイルドは顎を左右に振った。質問への答えではなく、相手の言葉を遮るためだった。
「質問に答えてもらう」
「ふむ?」
「ドクター・イースターから提供されたデータはこちらで預からせてもらう」
「それは質問とは言えんよ。だいたいあの少女[#「あの少女」に傍点]のデータをお前がなぜ欲しがる」
「重要な法廷資料になる可能性がある」
「なるわけがなかろう。やれやれ……お前もトゥイードルディと同じかね」
フェイスマンの言葉に、ボイルドの眉が、かすかに寄った。
「あの少女のデータを、トゥイードルディが欲しがっているのだよ。むろん、重要なデータは、私と一部の研究者の共有申請にもとづいてアクセスを不可能にしているがね」
「何が言いたい?」
「トゥイードルディのように、お前もまた、同類[#「同類」に傍点]を求めているのではないのかね?」
ボイルドが、眼光鋭く、フェイスマンを見つめた。
「楽園の技術は、怪物しか生まない。その事実がまた一つ増えただけだ」
「今の社会では、そう解釈される可能性が高いだけだ。いつか一般的な技術になる」
フェイスマンは平然とそう返し、
「彼女のデータを見たところで、お前の役には立たん」
「あの少女がマルドゥック・スクランブル―|09《オー・ナイン》を濫用[#「濫用」に傍点]している証拠になる」
「無駄だ。彼女のデータからは何が濫用か、もはや法的にも判断が難しいだろう」
「なに――?」
「彼女は、成長する。現在のデータなど、比較検討の材料に過ぎん。彼女は天才だ」
「天才? 戦闘のか?」
「自己を空間に溶かす技術[#「自己を空間に溶かす技術」に傍点]だ。自己意識の希薄化、と私は仮に命名している」
「希薄化?」
「彼女の識閾《しきいき》テストには、変性意識状態における脳波に酷似した波形が、現れている。おそらく彼女がその人生において、精神を正常に保つために自ら編み出した、セルフガードのための感覚の拡散と消失[#「感覚の拡散と消失」に傍点]なのだろう」
「どういうことだ」
「知っての通り、代謝性の金属繊維を移植した人間は、まずなにより、それまでのものとはあまりに異質な感覚に戸惑い、精神のバランスを崩してしまう。これは、人間が蝙蝠《こうもり》の耳を持ったところで、脳がそれを使い切れずに戸惑うのと同じだ」
「技術を使いこなしているということか」
「彼女の識閾値は、八〇%を超えている」
ボイルドは沈黙した。この男にしては珍しく、相手の言葉に驚愕したようだった。
「彼女の皮膚組織の全域に、繊維が広がっている。彼女の無意識下の刺激を受けて、繊維が自律的に成長しているのだ。お前の掌に移植した繊維[#「掌に移植した繊維」に傍点]は、ついに手の甲にまで成長することはなかった。そのことを考えれば、彼女がどれだけ特異かがわかるだろう」
「皮膚組織を覆っているのか」
「完全同化だ。いずれ口腔内部や目蓋の裏、一部の臓器にも広がる可能性がある」
「馬鹿な」
ボイルドの声が、かすかに上ずった。そのことに、ボイルド自身が驚いたようだった。
「私にも信じがたかったが、事実だ。イースター博士の技術の更新、ウフコックの存在、そして彼女の生い立ち――この三つが重なって生まれた、驚くべき事実だ。だからこそ、そのデータを我々は欲し、代わりに、彼にラボを貸し与えたのだ」
「脳の空間認識に、電子的な干渉能力を与えることは、ごく単純な補助機能のはずだ」
「だが同じ絵筆を持った人間の中には、芸術的な絵を描く者もいれば、全く絵の感性が湧かない者もいる。それと同じことだ。彼女の電子攪拌《スナーク》≠ノ特異なのは、その駕異的な集中力と意識の狭窄《きょうさく》、そして感覚の拡散だ。理論的に人間の脳は、自分自身への暗示によって、自在に感覚を操作することができる。熱いと感じたいときに熱いと感じ、寒いと感じたいときに寒いと感じ、何も感じたくないときには何も感じないようにし[#「何も感じたくないときには何も感じないようにし」に傍点]、肉体内部にまで実際の影響を及ぼすことが可能だ。潜在意識下の訓練によっては環境のあらゆる変化を瞬時に読みとり、それを意識化して把握することができる」
「理論と実際は違う。感覚を操作できる一般人など、いるわけがない」
そこでフェイスマンが笑った。
「疑似重力《フロート》を発生させる技術は、当初は単に高所での移動の補助に過ぎなかった。それを、壁だろうが天井だろうが自由に歩き回れるようにしたのは、お前自身ではないか。私が無意味なデータと言ったのは、汎用性がなく、今後の成長も推測不可能という点だ」
「だが――器質的なデータは有効なはずだ」
「それさえ未知数なのだ」
「FESは使用しているのか」
フェイスマンが、当然とばかりにうなずいた。
「機能的電気刺激治療法《FES》は、全身に応用されている。本来は四肢の麻痺に対し、神経信号を電子的にプログラムして、手足の運動を回復させるためのものだったが……」
「なぜ、それが未知数なのだ」
「彼女の皮膚組織の系は、すでに小脳の器質に同化しつつある。むしろ皮膚組織のほうが、影響面から脳を操作している[#「脳を操作している」に傍点]といって良い」
「皮膚が脳を操作する[#「皮膚が脳を操作する」に傍点]――? そんなことが可能なのか?」
「人間は、肉体の全てが一つの系となった存在だ。十分に可能だよ。ルーン=バロットはもはや、金属繊維と人体の合成生物と言っていい。繊維は自律的に系を発展させ、小脳における空間感覚に従い、数億種類の電位パターンを自動生成し、筋肉およびあらゆる内臓器官への最適刺激を行う。すなわち皮膚が脳を操り[#「皮膚が脳を操り」に傍点]、身体を動かしているのだ[#「身体を動かしているのだ」に傍点]。まさしく、人体を動かす、ということの、かつてない形だ」
「なぜ、俺の繊維はそうならなかった?」
「彼女の特異性としか答えられない。イースター博士は事前に、ある程度の戦闘行動のパターンを金属繊維の系にプログラムしていたが、もはや初期のパターンなど何の役にも立たないほどの発展だ。彼女以外のどんな人間にも、そんなことはできはしない。たとえばお前にしか、疑似重力《フロート》の発生をそこまで発展させられなかったのと、全く同じことだ」
「どう対処すれば良い」
「対処――?」
フェイスマンは、さもあらん、というようにうなずいてみせた。
「我々は、楽園≠フ住人なのだよ。戦後、武器とそれに関わる技術は全て悪だという道徳観念をもたらした世論と違い、我々は彼女を脅威とは考えない。それとも、お前は彼女のような存在と敵対することに、生き甲斐を感じるとでもいうのかね?」
ボイルドは、むしろその答えを自分自身が欲するかのような顔でいる。
「お前にとって、闘争と殺害は、何かね? 目的か、手段か? ボイルド……?」
フェイスマンが、ここに来て初めて、その名を呼んだ。だが、ボイルドは答えない。
「殺意が目的になっているのか? 軍人だったお前は、宇宙空間に適応するための、強靭な精神と肉体を持つためにその身を楽園≠ノ委ねたのではなかったのかね。その結果が、際限のない殺害とは、あまりに惨めではないか?」
「殺意は俺にとって手段でも目的でもない。ただの本能だ。俺がこの施設に関わった理由は、今も昔もあんたに関係はない。そして今、質問をする義務と権利は、あんたではなく、俺にある」
ボイルドが有無を言わさぬ口調でフェイスマンを遮り、
「三つ目の質問だ。ウフコックたちは、シェルの、何を調べようとしている?」
「どういうことかねフ」
「法務局《プロイラーハウス》への申請は照覧済みだ。ウフコックとドクターが、シェルについて、独自の調査を行っている可能性がある」
「残念だが――殺害行為にしか自己のあり方を見いだせない者には、教えられんよ」
「どういうことだ?」
「お前に情報を与えることが、殺人の幇助《ほうじょ》になると言っているのだよ。お前の中で縮小の一途を辿る命の価値を、常識的なレベルにまで回復させた上で、訊きたまえ」
すうっとボイルドの顔から表情が消えた。ただでさえ無機的な顔が、さらに表情を失ったことで、恐ろしいほどの圧迫感を放つようだった。
「密室で、多くの命を切り刻んできた人間が、俺に命の価値を説明するのか?」
「命の価値ではない。お前自身の価値だ」
フェイスマンが静かに受け流す。ボイルドが身を乗り出した。
「俺は、楽園が殺してきた多くの命を知っている。俺以外の軍人が、どのようにこの施設に関わり、どのように死んでいったかも」
「我々の目的が、殺害だというのかね。強制収容所のように? 馬鹿な解釈だ。確かに研究者の中には被験者を物体のように論じる者もいる。だが彼らも人間であり、自己を含めた命の価値を持つ者たちだ。そうでなければ、ここでの研究の忍耐は持てぬよ」
「虚構の価値だ」
「価値が虚構なのは当然だ。価値という名の物体が、どこかに存在しているとでも?」
「俺の心は、この楽園で死んだ。俺にはもう、どんな命にも価値を感じられない」
「死への恐怖を取り除いたからだ。軍とお前が望んで捨てたものだ。兵士に不死の観念を与えるための、数十パターンの処置を、お前一人に講じた」
「悲しみも怒りも忘れてしまった」
「当時はまだ識閾検査が万全ではなかった」
「眠ることさえ奪われた」
「無睡眠活動は、兵員強化のための最優先の研究項目だった。それ以前は、軍の激務に耐えさせるため、定期的に覚醒剤《アンフェタミン》がお前たちに処方されていたのだ。この施設に来たときのお前は、完全な覚醒剤中毒だった。我々はお前や多くの兵士を救おうとした」
「俺を救うだと――?」
「そうだ。今でも同じ気持ちだ。人間として業を背負う者を、私は好んで受け入れる」
「プロフェッサーは、俺に再び、命に価値があるかどうか、教えられるというのか」
ボイルドの声が、低く重々しい響きを帯びて、その口から零《こぼ》れだした。
「命に、価値があるのか――?」
だが、フェイスマンは、かぶりを振り、穏やかな微笑とともに告げた。
「それは、真理を逆転させた、愚かな問いだ。価値は、あるのではない。観念であり、創り出すものだ。命の価値を創り出す努力を怠《おこた》れば、人間は動物に戻る。社会とは、価値を創り出し、価値を巡って機能する、人間独自のシステムだ」
ボイルドが、昏い目で、じっと押し黙った。フェイスマンは静かに言った。
「多くの観察が証明することは、同族同士の殺し合いは、人間固有の行為ではなく、むしろ動物全般に共通するということだ。動物は、殺すために殺す衝動を、常に備えている。それが彼らの永存[#「永存」に傍点]システムだからだ。彼らのシステムは純粋であり、人間の社会そのものだ」
「俺が動物だと言いたいのか?」
「むろん人間は誰しもが動物だ。だが、お前は価値観念を失い、特定の本能でそれを補おうとしている動物だ。動物同士の、共食い[#「共食い」に傍点]、迫害[#「迫害」に傍点]、脱落者づくり[#「脱落者づくり」に傍点]、自殺[#「自殺」に傍点]、親殺し[#「親殺し」に傍点]、子殺し[#「子殺し」に傍点]、兄弟殺し[#「兄弟殺し」に傍点]といった異常行動は、よくよく考えれば本能というシステムの帰結に過ぎない。動物たちは環境を学習し、親から子へと受け継いでゆく。学習が正当に受け継がれても、環境の変化が学習に対して矛盾すれば、動物は生存のシステムにのっとって異常行動をとる。同族の殺害も、そうした要因によって発生する行動だ」
「俺が銃を撃つことが、異常行動だというのか」
するとふいに、フェイスマンは、優しいとさえいえるような顔で目を細め、
「異常と言われて、銃を連想したかね?」
と逆に訊き返した。ボイルドは答えない。フェイスマンは微笑み、言った。
「異常行動というのは、たとえば、同族への虐待だ。動物の一部は、様々な要因により、自分よりも弱い存在――すなわち己の子を嬲《なぶ》り殺すといった行動に出る。中には、子供への性行為を繰り返したり、子供を食べてしまったりする例もある。他にも、動物同士の集団自殺、共食い、親殺しなどは枚挙にいとまがない」
フェイスマンの声音《こわね》はあくまで淡々としている。ボイルドはじっとそれを聞き、いっそう表情を失っていった。
「また、たとえば保護指定下のサバンナなどでは、増えすぎた草食動物の群は、ときおり、挑発としか思えない行動をする。すなわち群全体で、わざわざ肉食動物の前を通りかかり、肉食動物に追いかけさせる[#「追いかけさせる」に傍点]のだ。やがて仲間の一頭が脱落し、犠牲になると、群の残りが、仲間がバラバラに引き裂かれるところを、みなで眺めるのだよ。そのときの草食動物の脳からは、明らかに興奮と快感を示す脳波が検出されている」
フェイスマンは、自分の頭の中に詰め込んでいるデータを次々と検索しては、最適な情報を選び、話しているようだった。
「低次の社会を構成するといわれる一部の昆虫ではどうか。たとえば蜂などの群の中には必ず、一定の割合で、何もさせてもらえない[#「させてもらえない」に傍点]個体が出るのだ。彼らは何もすることがなく、ただ無視され、そして死んでゆく。これは、いざというときのゆらぎ[#「ゆらぎ」に傍点]と言われているが、要するに脱落者をつくる[#「脱落者をつくる」に傍点]ことでストレスを解消する、一種の娯楽なのだよ。また、人間に特異と言われている行動――たとえば戦争はどうかね。君のかつての職業だ」
ボイルドは何も言わなかった。目に昏い光を溜めてフェイスマンを見つめていた。
「戦争をするのが人間だけだと思うかね。答えは否だ。群を作る動物は、全て戦争するといっていい。昆虫から草食動物まで、全ての動物は、戦争する。たとえば蟻の中には、違う種族の蟻の巣を攻撃し、相手の食料を奪うものがいる。彼らは相手の領土を占領し、生き残った蟻を捕獲して奴隷として働かせるのだ。こういった行為は、実は、ごく動物的な衝動なのだよ。どうだね? 人間もまた、動物の本能のシステムから逃れていないということが、よくわかるだろう? では、動物と人間では、何が違うか?」
そこでフェイスマンは言葉を区切り、
「価値の創造だ」
そう、言った。
「動物が様々に捕食以外の殺害行為に走る一方、人間は、生命と死に対して、価値という観念を、長い時間かけて創り出してきた。命に価値があるのではない。人間は価値という観念を創り出し、それを様々なかたちで命に当てはめたのだ。そうすることによって初めて、人間は本能の完全な支配に対して拮抗し、圧倒的な強さと複雑さとを持った社会を生み出し、他の生物を凌駕《りょうが》して、地球上の全領土に進出することができたのだ」
フェイスマンはそこで、目を見開き、頸《くび》をかしげてみせた。
「人間の定義とは何か? 価値という観念を理解するかしないかだ。幼児は、まだ価値という観念を理解しきれない非常に動物的な存在だが、価値を学び、自己の価値を創り上げる方法や、物事の価値、他者の価値をみとめ、高める方法を覚えることによって、初めて人間として社会へと参加するようになる。まあ、一方では、価値観念が発達しきらぬうちに、社会のシステムに組み込まれた、ごく動物的な人間も、存在するがね」
そこで、いたずらっぽく笑ってみせたが、ボイルドは応じなかった。
「ウフコックは、価値を知っている」
フェイスマンは優しく目を細め、ボイルドを刺激するような口調で告げた。
「最初はただ単に、生体ユニットとして、ネズミの新陳代謝のシステムが非常に適しているという理由で、たまたま、あのネズミ[#「あのネズミ」に傍点]が選ばれたに過ぎなかった。だが、やがてネズミは知能の増大によって、人格を手に入れた。価値という観念を理解し、一匹の動物から、ウフコックという名の存在になった。ウフコックは、自分自身の価値を築こうとし、他者の価値をみとめようとした。それが、人間がここまで拡大した社会をもつことができた最大の理由であることを理解したからだ。無数の危機を乗り越えながら――人間の意志は、つねに社会を新たに創り上げ、高度に発展させようとする。ウフコックが、自ら進んで人間の社会病理に関わろうとするのも、その意志によるものだ」
プロフェッサーは、真摯な眼差しをボイルドに向けながら、言った。
「逆にお前は、自分自身の価値を自ら摩耗させることで動物に戻ろうとしていながら、いつまでも人間の社会にしがみつこうとしている愚かな男だ。純粋な殺害を求めるならば、保護指定区域のジャングルに行って、あらゆる動植物、魚類から昆虫、細菌まで、なんでも殺してくればよかろう。なにもわざわざ人間と一緒にいる必要はない」
ボイルドが初めて応えた。ほとんど反射的でさえあった。
「俺は軍人だった。一方の命を守り、もう一方の命と戦うために戦術を学んできた、高度な防衛と攻撃のための存在だ。俺は、今でも命を守っている」
「それがお前の最後のプライドかね? 人間は矛盾を包含した存在だ。ときには軍隊という殺害のためのシステムを作り、自分たちが殺害されないようにする。あるいは、生産活動の一環として、略奪行為を行う。私にはむしろ、お前が、守るべき対象よりも、攻撃すべき対象を求めているように思われるが? それがお前の価値かね?」
「社会から隔絶された場所に楽園を築いた人間に、社会の何がわかる」
「わかったからこそ、この楽園を発展させたのだ。これが私の価値への挑戦なのだ」
「俺は、俺の価値に常に挑戦している」
フェイスマンが、感心したように目を見開いた。
「ほう。では、お前は何だ?」
「人間は一方の価値を守るために、もう一方の価値を虚無に還す。俺は、より多くの虚無を創り出すために造られた存在だ。価値を創り出すのが人間ならば、その価値を虚無に還すのもまた、人間だ」
フェイスマンは、小さく溜め息をついた。
「究極的で、底のない思考だ。それが、お前の無力感の代償かね? 感情の起伏が失われたせいで、あらゆるものにむしろ虚無感を求めるのか?」
「この楽園こそ、人間の価値を破壊しながら発展してきた場所だ。虚無感をもてあそぶのは、あんたたちのほうが得意だろう」
「価値は流転《るてん》する。破壊は確かに行われてきたし今後も行われるだろう。だが建設を目的としている限り、破壊の中からでも価値は生み出される。決して虚無ではない」
「人間を物体として扱った施設が評価されるのか」
「それは、我々の観測技術が、いまだ物質レベル・心理現象レベルでしか用いられていないからだ。未熟なのだよ、我々もまた籠の中の卵に過ぎないように。だからこそ、我々はウフコックを惜しむのだ。魂の匂い[#「魂の匂い」に傍点]を嗅ぎ分ける、あの金の卵を」
言葉を切り、じっとボイルドを見つめ、
「お前もまた、そうではないのか――錆びた銃よ。お前が類い希なる精神力で、むき出しとなった殺意をコントロールしていることは認めよう。だがそれでは、お前は人間の形をした、ただの兵器だ。お前はお前の魂を、どう取り戻す気でいるのだ?」
ボイルドが静かに席を立った。
「俺は、俺の依頼者の諸権利を守るために殺す。そうでなければ殺さない」
「人間は神になろうとして挫折する生き物だ。お前は殺意をもって神の全能感と失われた感情を取り戻そうとしているが、お前がそれで得るどんなものも、所詮は絶望への階段でしかない。歴史上のどんな戦士も狩人も、お前とは比べものにならぬほど謙虚だ」
ボイルドの手が懐に入った。今度こそジャケットの下で、重い金属の気配が起こった。
「最前線では、兵士は常に自分の価値を否定される。あんたが俺を無価値と言ったところで、俺は何とも思わない。俺の価値を認めるのは、俺の敵だけだ」
「それは、お前に価値を見出す者も、自らの価値を切り崩しているということだ」
「人間は、どんなものにも本当は価値などないことを心の底では知っている[#「どんなものにも本当は価値などないことを心の底では知っている」に傍点]」
ボイルドが銃を抜いた。巨大な銃口を何のためらいもなく、眼前の人間に[#「人間に」に傍点]向けた。
「質問に答えてもらう。ウフコックは、シェルの何を調べようとしている」
「毒錆びが広がりすぎたお前に、私の答えなど要らぬだろう。今のお前は、無感動と生存本能と殺意だけで回転するモーターだ。ウフコックが自分の手にあれば、それが自分の魂の代わりになるとでもいうのかね」
ボイルドが引き金を引いた。立て続けだった。凄まじい炸裂音とともに、白いテーブルがばらばらになって四方に飛び散り、土塊《つちくれ》が盛大に宙を舞った。
立ちこめるような火薬の匂いを、ふいに風が吹き払った。宙に浮いた鳥籠から目に見えぬ壁が展開し、その中で、プロフェッサーが真摯な目をボイルドに向け続けている。
「お前の、銃弾の軌道を逸らせる技術は、ここで開発されたものだ」
ボイルドが撃った。弾丸は軌道を逸らされ、背後の樹の幹を木っ端微塵にした。とてつもない破壊力だったが、事態を変える力は持たなかった。
ボイルドが呻《うめ》いた。プロフェッサーが目を細めた。途端にまた引き金が引かれた。
今度は鳥籠をかすめ、火花を散らせた。
重力場の形成が拮抗し、かすめられる程度には狭められているのだ。
が――そこが限界だった。ボイルドは、しかしなお、銃を構え続けている。
「なぜ、お前が自分からクライアントに訊かない?」
プロフェッサーが静かに問うた。
「ウフコックやイースター博士やルーン=バロットが、何を求めているかなど、私たちの関知するところではない。これは、お前たちの事件なのだ。なぜ、お前のクライアントは、お前に情報を公開しないのだ?」
ボイルドは銃口を向けたまま、プロフェッサーを見つめた。
だがそれ以上、引き金を引くことはなかった。
「信頼の感情さえ棄てたお前のもとに、ウフコックが戻ってくると思うのか」
プロフェッサーは言った。ひどく悲しい声音だった。
3
〈こいつは……なんて言うんだ?〉
トゥイードルディムが、水中で、呆気に取られたように、
〈そう……嵐だ。俺は見たことないが、まるっきり嵐ってやつだ〉
今やバロットの周囲に飛び交う、情報の渦のことを、驚愕をこめて、そう呼ぶのだった。
〈プログラムの痕跡がわかったの……〉
バロットが、傍目には、その四肢をゆっくりと水中で泳がせながら、告げた。
その途端、バロットの言葉が意味する情報が、まるで乱流のように水中で――電子情報を意味論的《セマンティック》に構成するための、液体回路[#「液体回路」に傍点]の中で、猛然と飛び交った。
脳――という言葉の意味が、さらに多くの意味合いを伴って情報の根拠となり、シェルという人物像に集約され、ありとあらゆる関連した情報が取捨選択される。
バロットは、今や、ほとんどただ心に念じるだけの状態だった。自分が求めるもののイメージを。それがバロットの全身を覆う人工皮膚《ライタイト》から電子信号となって、情報の渦を、猛烈な勢いで|掻き回《スナーク》してゆくのだ。
〈コピーがある……確かに……痕跡……〉
口にくわえた呼吸器から、静かな吐息の泡が浮かび上がってゆく。目は半眼で、
〈十八年分の記憶が、記録化されてる……〉
水中から、頭上の光を、半ば眠るような眼差しで仰いでいる。その目がさらに細くなり、
〈繋がっていく……〉
バロットの呟きに、トゥイードルディムが、驚いたように、細く鳴き声を上げた。
〈すげぇ……〉
刹那、全ての情報が一瞬のうちに整理され、確実な事実だけが成立していった。
〈シェルの脳内の識閾記憶を、記録媒体に移すときに使われる、専用のプログラムを解析したの。そのプログラムが実行された形跡があった。シェル=セプティノスの五感にもとづく事実経路の記憶形質だけを選択して、想像や願望による記憶の惑乱を避け、全てが記録化されると同時に、脳内の記憶形質はゲシュタルトを崩して消失している〉
もはや、バロットの囁きとも、情報がひとりでに喋っている[#「ひとりでに喋っている」に傍点]ともつかぬ状態だった。
〈時系列に沿って、十八年分の、主に視聴覚の記憶を保存するために、専用の記録媒体が制作されている……。その制作に用いられる特殊な金属加工技術が、特定の場所で使用されている。その金属加工技術の使用の痕跡によってルートが特定されている〉
〈ははぁ――それが、十八年物の脳味噌を保存してるボトル[#「ボトル」に傍点]ってわけか〉
トゥイードルディムが、まるで夢遊病のような状態のバロットに呟きかけた。
〈そのボトルの場所は――〉
〈資金洗浄による経費明細の改竄形跡はパターン化が可能だから、シェル個人の資産と、隠し資産に適合させられる。女の子が死ぬたびに、お金が渦を巻いていく……〉
そう囁くバロットの胸の内側で、ひやりとしたものが生じていた。まるで冷たいナイフを飲み込んだように。脈拍は穏やかで、そのくせ心が鋭く尖ってゆく。
〈なぜ、私なの――?〉
そう問うた途端、目まぐるしく渦を巻く情報が、にわかに変化した。
〈そう――〉
バロットは、静かに光の渦を見つめている。胸に芽生えた殺意を研ぎ澄まそうとする心の働きとは別のところで、深く息を吸った。心の刃を研ぐ手を止め、ゆっくりと吐き、
〈シェルの記憶の中に、答えが全部……〉
それが、バロットの得た、結論だった。
〈記憶代替……設備もお金もかかる。お金の流れ、プログラムの使用痕跡、シェルの行動、特殊な記録媒体の制作、一部の人間への報酬、そのときの女の子たち……〉
やがて、バロットはそれら全ての情報が、結論を出してゆくのを肌で感じた[#「肌で感じた」に傍点]。
あらゆる角度から解析し、そして、全てが同じ結論へと到達してゆくのを悟った。
バロットは、半眼の目を静かに見開き、揺らめく水面を見つめた。
夢から覚めて、新たな夢に足を踏み入れた感じだった。
その夢の中で、バロットは、歯車が時計の針を合わせる瞬間をはっきりと感じた。
〈見つけたのか?〉
トゥイードルディムが、ちょっと気圧《けお》されたようになりながら、訊いた。
〈うん――見つけた〉
バロットは、ゆっくりと、トゥイードルディムのほうを見やり、そして、告げた。
〈腐った卵の中身を〉
〈ボイルドのだんな? ボス? ミスター・アイアンマン? ちくしょう、なんでつながらねえんだ? くそったれ〉
地声[#「地声」に傍点]ではなく、頭部に内蔵された通信機器を介しての声が、むなしく宙に発散するようにして消えていった。
ミディアムは、自分がこの巨大な建築物に入り込んでからどれくらいの時間が縫ったかを確認した。一時間強である。その間、建築物の裏手の警備室に易々と侵入し、通称「二十万ドルのバターナイフ」と呼ばれる高磁圧の刃で、三人の警備員を殺害している。
三人分の肉体をばらばらに切断してロッカーに押し込め、そのうち、一番自分に背格好が合いそうな者が着ていた制服をひっぺがし、身にまとった。
次にミディアムは、その部屋で得られるだけの情報を手に入れている。この建物の図面、配管、電子系統等である。そうした大まかな構造を、警備室の情報回路から直接脳内のハードウェアに写し取り、把握するのに数分かかった。
その作業が終わると、警備員というよりも患者の一人といった感じでつるりと禿げ上がった頭を制服の帽子で隠し、部屋を出たのだった。
警備の巡回経路をきちんと辿り、自分をここに放った新たなボスに連絡を取ろうとするが、一向につながらない。どうやら、建造物の壁全体が、電波を遮断するたぐいの構造になっているらしかった。その中でも唯一スムーズにつながる波長のあることが、警備室で得た図面でわかっていたが、その波長も、今は何かに遮蔽されている感じだった。
ミディアムは、右手で無造作にナイフを握ったまま、ぶらぶらと散歩でもするように廊下を歩いていった。左右には幾つものドアが並び、ときおり広々としたロビーや、ガラスで密閉されたテラスに出たが、ほとんど人がいなかった。たまにいたとしても、全身を機械につながれた老人たちや、研究員らしい人間が固まって論議しているだけで、目当ての少女に関わりのある人間がいるようには見えなかった。
やがて、脳内のハードで色々と検索しているうちに、該当項目が見つかった。
「ルーン=バロット」
ミディアムが呟いた。ちゃちなパスワードでしか防御されていない来訪記録を破ったのだ。にたっと笑った。その口の両端が、異様なほど高く吊り上がっている。サングラスの奥で赤い光をまたたかせ、ミディアムは、その該当項目が示す区画へと移動した。
すぐにそこへ到達した。入り口は、分厚い扉が閉められている。ミディアムはロックバスター・カードを取り出すと、無造作に放り込んだ。それから網膜の識別パターンに対して、赤い機械の目を向け、偽装射影を施した。さらには、ポケットから人間の指を取り出すと、遺伝子パターンを識別する機械の上でそれを左手に乗せ、握りしめた。つい先日吹き飛ばされた左手は、今は電子義指に代わっている。その鋼鉄の指が、先ほど殺害した警備員の手から切り取ってきた指を砕いた。まるで果物でも潰すみたいだった。
血を絞り出し、生体パターンによる識別を難なく突破した。
「子猫ちゃん! 来たよ!」
ミディアムが甲高い声で笑った。重々しい音とともに扉が開いた。一歩そこに入り、
「ほほう!」
はしゃぐように内部を見渡した。
青々とした木々が生い茂り、燦々《さんさん》と降りそそぐ日差しと艶やかな風が吹くそこで、ミディアムは凶暴なナイフを片手に、まるでワルツでも踊るようにぐるぐる回って笑い声を上げた。
「強烈《ハードコア》だ! こりゃあ、確かに楽園だ! 最高のビーチだ! この素敵な場所で俺は子猫ちゃんと遊べるってわけだ!」
そのまま、右へ左へと揺れながら、片っ端からナイフを振るった。草花が一瞬で灼き切られ、木々の枝がばさばさと音を立てて落ちた。銀光がきらめき、目蓋が切れんばかりに丸く見開かれた目がらんらんと赤く輝いた。
ふいに、その狂乱が止まった。人の姿が見えたのである。ミディアムは、すうっと姿勢を低くすると、木々を迂回しながら、音もなく人影のほうへと向かっていった。
「なんだ、あいつら」
ふんふんと鼻を鳴らしながら一人ごちた。
誰も、一向に動こうとしないのである。ある者は車椅子に乗り、ある者は草々の間に身を横たえていた。いずれも、穏やかな目を中空に向けつづけている。まるで幾つもの動かぬ人形を、森の中のあちこちに置いて飾っている感じだった。
ミディアムはしばらくじっと彼らを観察していたが、やがてぬっと草のしげみから姿を現し、彼らから見えるように、荒っぽい足取りでまっすぐ歩いていった。
だが、赤く光るその目にも、その手に握られた刃にも、誰も目を向けようとはしない。
やがて、車椅子に乗った、異様に肌の白い女性の横に立った。じろっと睨み、かがみ込んで、くんくんと臭いを嗅いだ。その耳に、ふっと息を吹きかけた。女性は微動だにしない。その女性の頭を、ナイフを握った手で撫でた。髪の感触を楽しむようにかき分け、それから、女性の頭部のところどころに手術痕があるのをみとめた。
ナイフを握った手を顎先にあて、考え込むように女性を眺めた。
それから、一歩下がって距離を取ると、勢いをつけて車椅子を蹴り飛ばした。
「ヘイ、くそダッチワイフ! どうした! こっちを見ろ!」
叫びながら、何度も蹴った。
車椅子はがくがく揺れながらも衝撃を吸収し、女性の身体が落ちそうになるのを、クッション付きのアームが伸びてきて支えた。ミディアムがくすくす笑った。
「こいつはフェティッシュだ。生きたダッチワイフがこんなにいやがる」
獰猛《どうもう》な笑みを浮かべながら辺りを見渡した。どれだけ騒ごうとも、みな、青白い患者服に風を受けるだけで、指一本動かそうとしない。
ミディアムは、蹴り飛ばした女性の顔にかかった髪を丁寧に元に戻してやった。車椅子の脇に置かれた手を取り、しげしげと眺めた。その指をくわえ、舐めた。それから、女性の左手を車椅子の肘掛けに乗せて固定すると、その手首をナイフで切断した。
一瞬、女性の身体が、ぴんと硬直した。
傷口が焼ける臭いがつんと鼻を刺した。血は出ない。ミディアムは切り落とした手首を手に取り、満足そうに微笑むと、丁寧な仕草で、女性の膝の上にその手首を置いた。
それから女性のもう一方の手を肘掛けに固定した。小指にナイフをあてた。
小指は野菜を刻むみたいに地面に落ちた。それから中指、親指と、不均等に指が残った手の形を楽しむように丁寧に切り落としていった。指が一つまた一つと車椅子の脇に落ちていった。そうするうちに動かぬ女性の両目に、ふっくらと涙が浮かび、やがて頬をつたった。それに気づいたミディアムは口を寄せ、舌を出して尖らせ、涙を舐めた。
同時に、最後の一本を丁寧に切り落とし、ミディアムは笑った。
「こいつは良い! 俺の指をここで見つくろうってのも悪くない。それから、子猫ちゃんだ。そうだ。ここにゃ宝物がいっぱいある。全く素晴らしい。素晴らしいぞ!」
そのときだった。
〈何をしているの?〉
突然、ミディアムの頭の中[#「頭の中」に傍点]で、声が響いた。
「うおっ!?」
ミディアムが跳ねた。驚きのあまり宙に跳び上がっていた。着地するなり、茂みのほうへ走り込んでいる。逃げ惑うように動き、木陰に背をつけた。それから周囲をぎらぎらした目で睨んだ。息が荒い。一瞬で恐怖の顔になっていた。
そのミディアムに、続けて干渉波が襲った。
〈あなたがさっき、バロットのデータにアクセスした人? でも残念。ルーン=バロットの主要データは、プロフェッサーの許可がないと――〉
「誰だ、どこにいやがる! このくそハッキング野郎! くそハッキング野郎! くそったれ、仲間を殺しやがって! 俺の仲間を殺しやがって!」
ミディアムが絶叫した。ナイフを手に、木陰から飛びだして左右を見渡した。
〈ここにいるよ。よく喋るんだね。そんなに大きな声で喋る人は初めて見た〉
ぴたりとミディアムの声がやんだ。
一人の青年が、穏やかな足取りで木々の間から出てきた。
ミディアムが自分の姿をみとめたのを確かめても、何の警戒もなく近づいてくる。
〈僕はトゥイードルディ。あなたは誰?〉
わずかに距離をとって立ち止まった。
「俺か? 俺が誰だって? そうか、そうなんだな?」
ミディアムはサングラスを取り、じっと青年を見つめた。その赤く光る目が、ほとんど丸の形に見開かれている。
「てめえがやりやがったんだ。俺の仲間を。俺の群を。てめえがやったんだ」
トゥイードルディは首を傾《かし》げ、相手の様子に興味深げな眼差しを向けている。
〈あなたも頭の中にハードを――〉
「俺の頭の中で喋るな!」
トゥイードルディが、呆気に取られたようになった。ミディアムの左手がサングラスを粉々に砕くのを見て、眉をひそめる。怯えた様子はまるでなく、首を傾げて、ミディアムの凶暴そのものの笑みを見つめている。
〈僕は、ただ――〉
「どうしてくれるんだ。俺の心は傷ついてる。俺が傷ついてるんだ。てめえがくそハッキング野郎だってわけだ。俺の傷ついた心をどうしてくれるんだ」
言いつのりながら一歩近づくミディアムに、トゥイードルディは、わずかに後退した。
〈会話にならないや。つまんない。外部の人間が、錯乱傾向の被験体と同じだなんて〉
「俺の頭の中から出ていけっ!」
ミディアムが喚《わめ》き、その右手の刃が光を反射してトゥイードルディの目を刺激した。
一瞬、トゥイードルディが驚いたように目を閉じた。
その瞬間だった。ミディアムが走り寄り、左手がトゥイードルディの腕を握った。
その金属の手の感触に、トゥイードルディはぞくっと鳥肌を立てた。
慌てて腕を引こうとしたが、もう離れられなかった。
「可愛がってやる。たっぷりと。こっちに来い。こっちにだ」
〈乱暴な来訪者に対しては、幾つかの対処が許可されるんだよ〉
トゥイードルディが、丁寧に言い含めるように告げた。
ミディアムの顔から表情が消えた。猛烈な圧迫感が、その全身から噴き出した。
次の瞬間、その圧迫感が物理的な衝撃に代わった。
ナイフを握った拳が、トゥイードルディの顔面に叩き込まれていたのだった。
ぐしゅっと湿った音がした。トゥイードルディの鼻が潰れ、大量の血が零れだした。
トゥイードルディは声もなく顔を伏せている。自由なほうの手で顔を庇《かば》おうともしない。
ミディアムは何も言わず、さらに殴った。トゥイードルディの唇が、瞼が、耳が裂けた。
トゥイードルディの顔半分がみるみる腫れ上がり、血まみれになった。
「可愛がってやる、このガキ。可愛がってやるぞ」
ミディアムが、手の甲についたトゥイードルディの血を、長い舌で舐め取った。と、
〈セキュリティが機能するレベルまでは、我慢してあげる〉
トゥイードルディが、殴られた顔を上げ、告げた。
まるで痛みというものを感じていないような、平然とした表情である。
ミディアムは、驚きと怒りに、凝然となった。
〈久しぶりに痛みを味わおうと思ったけど、やっぱり嫌な感覚だよね。すぐに自分の体に干渉して、痛みを消しちゃった〉
ミディアムが金切り声を上げた。さらに殴った。握られているトゥイードルディの腕の皮膚が裂けて、血がにじんでいた。
「可愛い指だ。綺麗な指だ。良い味だ。とっておきの血の味だ」
ミディアムが、凄惨な顔で笑った。さらに殴りつけると、ナイフを閃かせた。
一瞬、トゥイードルディに自由が訪れた。なぜ急に自分の身体が目の前の男から離れたのか、その目が不思議そうに理由を探し、そして見つけた。
ミディアムにつかまれていた右腕の、肘から先が切断されて、なくなっていた。
代わりに、それまであった自分の腕が、ミディアムの手につかまれているのを見た。
傷口は灼き切られ、血も出ない。ふいに、トゥイードルディの喉が、大きく上下し、
「あ……」
と、その口が、声を放った。
トゥイードルディ自身が、そのことに驚いたように目を見開いた。
ミディアムがさらに歩み寄った。くすくす笑いながら切断した腕にキスし、投げ棄てた。
いきなり、その刃を振るった。トゥイードルディが反射的に庇った左手首が、蝋でも切るように切断され、宙を舞った。
トゥイードルディが、ひゅうひゅうと大きく息を吸いながら後ずさるのへ、
「俺好みの身体になったじゃないか」
ミディアムが、歯を剥き出して笑った。
「あ、あ……」
と、トゥイードルディは、大きくあえぎ、
「声……呼吸……久しぶり……」
ばくばくと口を開いたり閉じたりしながら、ミディアムを見やり、なんと、にこりと笑った。殴打されて腫れ上がり、血を流した顔で、さらに両腕を切断された状態である。
その状態で、あどけない顔で笑ったのだ。ミディアムのほうが、咄嗟《とっさ》に笑みを失い、
「何だ、お前……」
恐怖を感じたように、思わず、立ちすくんでいる。
〈セキュリティが機能したからね。もう知らないよ〉
また脳裏で声が響き、ミディアムはぎょっとなった。
ふいに、何かの影が、幾つもミディアムの周囲を走った。慌ててナイフを構えながら、それらの大きな影を認識した途端、ミディアムの目が、吊り上がった。
巨大な魚影が[#「巨大な魚影が」に傍点]、幾つも周囲を旋回していた[#「幾つも周囲を旋回していた」に傍点]。
ミディアムは、血走った目を、上空に向けた。途端に、ひゅっと息が詰まるような声が零れた。その目が、宙を泳ぎ回る何匹もの巨大な鮫の姿[#「宙を泳ぎ回る何匹もの巨大な鮫の姿」に傍点]に釘付けになった。
〈みんな、おいで〉
トゥイードルディが、切断された両腕を天に向かって掲げながら、呼んだ。
〈セキュリティが許可を出したから、この人を、食べても良いよ〉
トゥイードルディの目が、殴られて腫れ上がった瞼の下で無邪気にミディアムを見た。
「何を……」
ミディアムが呆然と言いさした。その途端だった。宙を舞っていた鮫の一匹が、下を向いた。信じられない速度で、いきなり降下してきた。反応する間もなかった。
ぽっかりと開いた顎の中の、生々しい赤さに満ちた口腔に、細かな牙がびっしりと何重にも連なって生えているのが、一瞬でミディアムの視界一杯に迫った。
ミディアムの口から絶叫が迸《ほとばし》った。体中を絞り上げて出したような悲鳴だった。
反射的に頭部を庇ったミディアムの左腕に、鮫が、食らいついた。
次の瞬間、ミディアムの体が、軽々と宙に持ち上げられている。
「あきゃぁっ!」
ミディアムは、甲高い悲鳴を放った。牙を突き立てられた左腕の筋肉が、体重のせいで、音を立てて引きちぎられてゆくのだ。たまらなかった。訳がわからぬまま、必死にナイフを振るうや、ばしっと激しい音がして火花が散った。
高磁圧の刃先は、鮫の体に届かず、宙で、火花とともに弾き返されている。
「きいっ……痛いっ、ひっ、ひっ……」
半狂乱になってナイフを振るう腕に、もう一匹が食らいついた。ミディアムの身体が大の字になり、大きく弧を描いて宙に振り回された。まるで人形だった。
じたばたと空を蹴るミディアムの両足に、左右から別のサメが食いついた。ちょうど×の字になって四肢が引き裂かれる格好になった。肉をミシンで縫ったような傷が走り、ついで音を立てて裂け、血が噴き出し、白い骨が剥き出しになった。
ミディアムが金切り声を上げた。四肢を噛み砕かれる痛みに、肺と喉が勝手に声を上げていた。失禁し、股間から生暖かい液体が零れ落ちていった。
そのミディアムの声が、いきなり、やんだ。凄まじい恐怖のせいだった。
何匹かが、両足の間を鼻面でつつき回していた。尿の臭いに興味を持ったらしい。
間もなく、一匹が、ミディアムの股間にかぶりついた。ミディアムが、ぐうっと、やけにこもった、湿ったような声を上げた。まるでそれが合図であったかのように、何匹ものサメが、むさぼるように前後から一斉に股間に牙を突き立てた。
ミディアムの、言葉にならぬ絶叫が、辺り一面にこだました。
「おお、可哀想に。何とも乱暴な来訪者だったね、トゥイードルディ」
フェイスマンが、虚空に目をあてるようにして、言った。
「すぐに救護室に行って処置をしてもらいなさい。腕は二、三日もすれば回復するだろう。そう、良い子だ。他に被害者がいないか、すぐに確認しよう。こちらは問題ないよ」
それから、その目は再びこちら側[#「こちら側」に傍点]へ焦点を結び、目の前にいるボイルドの姿を見た。
一方、ボイルドは、フェイスマンの虚空にあてた言葉から、何が起こったのかを察する間も、銃口をじっとフェイスマンに向け、暗い眼差しのままだった。その表情はますます無機的にのっぺりとしている。まるで、銃口と、その眼差しと、どちらがより虚《うつ》ろであるか、互いに競ってでもいるようだった。
その様子をフェイスマンがじっと見定め、やがて深々と溜め息をついた。
「暴力の形にも、実に色々ある……」
そのときだった。彼らのいる白樺の森の静けさを、けたたましい絶叫がうち破った。
まず訪れたのは悲鳴であった。その次に、鋭い銀光が降ってきた。くるくると弧を描いて落ちてきたかと思うと、それはフェイスマンとボイルドの間に圧迫する疑似重力《フロート》の波に弾かれ、近くの樹の幹に突き刺さった。
ボイルドが、ちらりとそちらを見た。ひと振りのナイフだった。ミディアムの使用していたものである。今や刃身がぎざぎざにひび割れ、高磁圧の火花を吹いていた。
悲鳴がどんどんと近づき、突如訪れた嵐のように吹き荒んだ。
同時に、再びフェイスマンに顔を向けたボイルドの頭上で、ぽつりと何かが散った。
赤い雫であった。
それが、一つまた一つと草を濡らしていった。かと思うと急にその量がどっと増えた。
二人の周囲を、朱色の驟雨《しゅうう》が襲うようだった。天から血と肉の雨が降り注いでいた。
悲鳴が近くなった。もうほとんど彼らの頭上にあった。白樺の木々が、その白い樹肌に、幾筋もの赤い線を走らせてゆく。形も定かならぬ肉、ばらばらに噛み砕かれた破片が、無数の赤い雫とともにばらまかれては木々の枝にぶら下がり、したたった。
辺りは鮮やかな白と赤の色に彩られ、息も詰まるような血臭がたちこめた。
ボイルドとフェイスマンの周囲だけが、その赤い雨からぽっかりと逃れている。
まるで透明なドーム状の壁でもあるかのように血と肉が弾かれる向こう側で、さらにその赤と白の景色を引き裂くような、巨大な魚影たちが幾つも走った。
「この楽園を守る、智天使《ケルビム》たちだ。トゥイードルディの命令に非常によく従う」
フェイスマンが目を細めて、宙を舞い飛ぶ鮫の群流を見やった。
「彼らは、お前とはまた違う形で、疑似重力《フロート》発生装置を活用しておる。彼らが泳ぐのは、磁界の海だ。そしてその海は、お前のもつ全ての武力を、無力化する」
きっぱりとしたフェイスマンの口調だった。
「彼らが、我々を襲うことはない。彼らの感覚野には、対象を制限するプログラムを施しておる。彼らが把握可能な対象[#「把握可能な対象」に傍点]とは、すなわち我々が外敵と判断した者たちだけだ」
そして今、その外敵と判断された者の悲鳴が、これ以上ないほどの恐怖と脅威を告げていた。かと思うと、ふいにその悲鳴が細く甲高くなり、それがときおりボイルドの名を呼ぶ声になった。哀れっぽい声音だった。無惨な死に襲われた者が、聞く者の耳に一生残る傷をつけるかのような凄絶な呼び声であった。
だがボイルドは頭上を仰ぎ見ることもしない。ただひたすらフェイスマンの表情を見据え、そこに隙が生じるのを待ち構えているようだった。
フェイスマンが、また溜め息をつきながら首を振り、
「ところで、鮫が人を襲うのは、なぜかと思うかね?」
ボイルドの揺るがぬ攻撃姿勢を、やんわりとたしなめるように、訊いていた。
「たとえば平和な海水浴場で? あるいは手頃な波で有名な海際で? なぜ彼らは突如として、人々に牙を剥くのだ?」
ボイルドは答えない。
「長年の謎だったのだ。彼らは腹が空《す》いているのでもなく、縄張りを荒らされて怒る習性もない。もちろん、たまたま空腹だったり、攻撃的だったりする場合もあるだろう。だが、そんなものは全体の数パーセントに満たない。空腹や怒りで未知のものに食いつくようなシステムでは彼らは生きていけないのだよ。ではなぜ? 人間はそんなにも鮫にとっては捕獲しやすい餌なのか? 他の餌となる魚の数倍の体積をもった人間が?」
頭上では悲鳴がどんどんか細くなっていった。赤い雨音が弱まり、フェイスマンはまるで何かの種明かしをするかのように告げた。
「長い間、鮫が人を襲う必然性のないことが疑問だった――だが、答えは簡単だった。簡単すぎてわからなかったのだよ」
唐突に、頭上の悲鳴がやんだ。ミディアムが絶命したらしかった。フェイスマンは、もはや人間の形状をしていない骨と肉の塊にむさぼりつく鮫たちを見上げながら、
「彼らが人を襲うのは、好奇心からなのだ」
そう、告げた。
「彼らが牙を剥くのは、人間にしてみれば、対象を覗き込んだり、手で触れたりするのと同じことだ。彼らに与えられた優れた器官が、たまたま牙や味覚や嗅覚であったに過ぎない。彼らはただ、海辺を漂うものが何であるか知りたい[#「知りたい」に傍点]だけだ。そして、味わいたい[#「味わいたい」に傍点]だけだ。数キロ先の、ほんの一滴の血の匂いを嗅ぎつけて現れる鮫は、何より、たった今嗅いだものを味わいたいという欲求[#「味わいたいという欲求」に傍点]によって突き動かされるのだよ」
それから、厳粛とさえいえる眼差しを、ボイルドに向け、
「暴力の本質とは何かを教えてやろう、ボイルドよ。それは好奇心だ。それこそが、ほとんど全ての暴力的行為の背景にあるものだ。対象を知り尽くし、自己の力を行使し、自己が味わえる全てのものを味わいたい。たとえそれが勝利感や義務感、無力感の代償、自己実現の手段、はたまた病的気質によるものだったとしても、その本質は変わらない」
まるでボイルドが銃口をかざす理由を、本人に代わって告げるように、言った。
「この世で好奇心ほど暴力的なものはあるまい。そして他ならぬ好奇心によって、人も動物も生きておる。そのことを知り、そのことに耐えられる者こそ人間と呼ぶべきだ」
そう告げるフェイスマンの眼差しが、ひたとボイルドを見据えた。
「ボイルドよ、お前の人生において、お前の好奇心が――お前自身の力の興味が、どこへ向かっているか、本当にわかっているのか?」
「俺はもう、俺が生み出す虚無にしか、興味がない」
ボイルドは、重々しい声音で、そう言葉を絞り出していた。
かと思うと、手にした銃が、ゆっくりと下がってゆく。ボイルドの肉体の周囲に張り巡らされていた高磁圧の壁も、同時に少しずつ消え去っていった。
「誰かが、この施設内で、高度な電子的干渉を行っているのを感じた――」
そう言いながら、銃を握っていないほうの掌を、宙にかざしてみせた。
その掌に移植された、代謝性の金属繊維が、ぴりぴりと、別の場所で行使されている、電子攪拌《スナーク》≠フ影響を受けているのが、フェイスマンにも察せられた。
「電子的干渉を行っている者の捜査を行う。妨害は、法的に罰則の対象となる」
「罪と罰は、必ずしも、等価値ではないよ」
フェイスマンが、ボイルドを茶化すように言った。
「今この場を動けば、智天使《ケルビム》たちが、お前に楽園≠フ罰を与えるだろう」
「やってみればいい」
ボイルドが、きびすを返した。
歩みゆこうとするボイルドに、すぐさま、宙を舞う鮫が一匹、反応した。
かっと牙を剥き、頭上から躍りかかってくる鮫を、ボイルドは見もしない。
刹那、激しい火花が散った。ボイルドの体を覆う、疑似的な重力《フロート》の壁が、食らいつく鮫を、完全に防いでいた。それでも鮫が、同じく疑似的な重力《フロート》の壁を展開して、ボイルドの頭上へと、じりじり近づいてゆく。
「磁界の発生装置に対する俺の識閾値は、九五%を超えている」
ボイルドが、フェイスマンを見やった。フェイスマンは、目を見開き、
「この楽園≠ノいた頃は、六〇%にも満たなかったお前が、社会の病理的争乱に生きたことで、体内の機構を、そこまで肉体化できたというのかね……」
「俺はもう、あんたの被造物《クリーチャー》ではない。楽園から放たれた、|化け物《クリーチャー》だ」
言いざま、手にした銃を、ぬっと、頭上の鮫に向かって突きつけた。
鮫の牙が、きりきりと音を立てて、ボイルドの周囲の壁に食いついている。
いや――ボイルドの展開する壁が、むしろ、鮫に、口を閉じることを許さないのだ。
ボイルドの、銃を握った腕が、無造作に、鮫の口の中に突っ込まれた。
鮫の展開する重力《フロート》の壁が、一挙に突き破られ、銃口が火と轟音を放った。
爆発した。たった一発の銃弾の威力と、疑似的な重力《フロート》の突風が、鮫の体を、内側から引き裂き、巨大な風船が割れるように、四方に破片をまき散らしたのであった。
もはや、小型の戦車砲というべき銃の破壊力であり、弾丸の火薬量だった。
バロットなどが撃てば、弾丸が発射される衝撃で、手首が引きちぎられかねない。
ボイルドは腕の筋力だけでなく、その重力《フロート》によって銃身を支え、破壊の極みのような拳銃の使用を可能にしているのであった。
宙を舞う鮫どもが、ボイルドを警戒するように、頭上を素早く泳ぎ回った。
貪欲な殺意と怒りが、ぎざぎざの牙を剥いて、大気に充満していった。
「鮫が、いつ、あんたに空を飛べるようにして欲しいと言った」
ボイルドが、昏い目を、鮫の群に向けたまま、言った。
「鮫にとって、水中も空中も、三次元的に移動できれば、大した差はないよ。お前が、どんな場所も、もはや戦場としかみなさないのと同じように」
頭上からは、柔らかな雨が降ってきている。赤い雨ではない。血を洗い流すための、洗浄装置が働いているのだった。
その雨の中を、巨大な魚影が幾つも迅《はし》った。恐るべき速度で、ボイルドの頭上から、背後から、横合いから、真正面から、牙と重力《フロート》を叩き込んできた。
ボイルドが動いた。まっすぐ、前方に向かって銃を構え、踏み込んだのである。
銃声というより、もはや爆音だった。真正面から迫った鮫が、頭部を木っ端微塵にされて、ボイルドの背後の白樺の木に激突し、アンモニア臭のする内臓を飛び散らせた。
鮫は、次々に、ボイルドの銃弾に打ち砕かれ、あるいはその腕から放たれる重力《フロート》の鉄槌に叩きのめされ、その巨体が地面にもんどり打って動かなくなった。
目にしみるような鮫の血とアンモニア臭が立ちこめ、辺りの木々も草も、たちまち先ほどにも増して赤く、鮮やかな死の色に塗り重ねられてゆく。
ボイルドは、右左へと素早くかわし、一つまた一つと、確実に、牙を剥いて襲いかかるものから順に、鮫を撃ち滅ぼしていった。
やがて、十体近い鮫が、吹き飛ばされて地面に落下し、折り重なった。残りの、それでもまだ十体以上いる群は、戸惑うように、ボイルドの頭上を舞うばかりだった。
ボイルドは、ただ無言で鮫の血の海に立ち、フェイスマンを見つめている。
その体には、一滴たりとて、返り血を浴びてはいない。
もはやフェイスマンと会話する気もない目をしていた。
フェイスマンの鳥籠を覆う重力《フロート》の壁は、鮫のものよりも一段と分厚く、どうすればそれを破壊できるか、ただそれだけを、ボイルドは、淡々と思考しているのだった。
「あくまで闘争を選ぶか。オクトーバー社との争いばかりか、スクランブル―|09《オー・ナイン》の担当官同士が、それぞれの有用性[#「有用性」に傍点]を求めて闘争に明け暮れるとは……科学技術を禁じる法令に、新たな根拠を与えるようなものだ」
フェイスマンが、ボイルドの手に握られた銃に向かって、顎をしゃくった。
「それは、かつてウフコックが変身《ターン》した銃だね? 実に、破壊という点でのみ有用[#「有用」に傍点]な銃だ。そしてそれはウフコックの抜け殻だ。それだけが今のお前の、魂の代替品であり、ウフコックの代わり[#「代わり」に傍点]というわけかね」
ボイルドはわずかに口を開きかけたが、何も口にはしなかった。言葉もまたボイルドが生み出す虚無の一つのようにして消え去り、後には何も残らなかった。
「お前は、血の臭いを嗅いだ鮫だ。高度な殺害の手段を求める、好奇心旺盛な鮫だ」
何も言わぬボイルドへ、フェイスマンが、静かに最後の言葉をかけた。
「行くがいい――エデンの東へ。もはやお前の足は荒れ野以外を踏むことはあるまい」
ボイルドはその通りにした。
4
〈なるほど、十八年ものの脳味噌のワイン倉にしちゃ、洒落《しゃれ》てるな〉
トゥイードルディムが、ひとりごちた。
巨大な端末であるプールの水辺に立つバロットを仰ぎ見て、
〈行くのかい〉
少し寂しそうに、銀色のサングラスをした顔を傾げてみせる。
〈うん……〉
患者服を着込み、バロットがそっと膝を折って、トゥイードルディムの頬に触れた。
〈いつかまた、ここで泳げたらいいなって思う〉
〈いつか、外の世界が、ここの世界と同じになれば、自由に泳げるようになるさ〉
バロットは、小さくうなずいた。
〈いつか本当に優しい世界が出来たら、ここに来る〉
〈そのために外の世界に行くんだろう? せめてあんたの周りだけでも良くなるように。だが、ここから外に出れば、あんたは連邦法違反容疑者だ。後悔はしてないかい〉
〈後悔はしてない。やって良かったと思う〉
〈幸運を祈ってるぜ》
バロットはそっと、トゥイードルディムの額にキスをした。
〈一緒に泳いでくれて、ありがとう〉
トゥイードルディムは、細い、綺麗な声で鳴きながら、
〈急ぎな。荒っぽい客が来て、あんたを出せって騒いでやがる〉
〈ありがとう〉
バロットはさっと立ち上がり、トゥイードルディムが
〈ウフコックと、仲良くな〉
そう告げるのへ、微笑を返したのを最後に、裸足のまま駈け出した。
バロットが森を出たのちも、トゥイードルディムは、じっと黙ってそこにいた。
やがて、森の一角から、冷たい殺意の塊のような男が現れるのへ、
〈天使は行っちまったぜ〉
飄然《ひょうぜん》と、トゥイードルディムが告げた。
プール脇に設置された、アナウンス用のスピーカーに干渉しての操作だった。
「トゥイードルディムか……」
呟きざま、ボイルドが、銃口を突きつけるのへ、
〈俺ぁ、生体ユニットとして、この通信基幹の端末の一部として扱われてるんだ。俺を殺せば、このシステムへの重大な損害行為とみなされる。連邦政府が、馬鹿げた予算を出して作らせたシステムだ。あんたも連邦法違反者になるかい〉
「ここで、何を調べていた」
音を立てて撃鉄を上げる。トゥイードルディムは、笑うように細い声で鳴いた。
〈あんたの依頼主に訊けよ。それとも、あんたに何も教えない依頼主なのかい〉
銃口が火を噴き、スピーカーが粉々に吹っ飛んだ。
〈おいおい、喋れなくしてどうするってんだ〉
また別のスピーカーから、呆れたような声が響いた。
〈じきに、あんたの会いたい相手は、この施設からいなくなるぜ。容疑者が不在になりゃあ、あんたの権限は一般人と同じだ。ここにいるだけで法律違反になる〉
「口が達者になったな、トゥイードルディム」
ボイルドが銃口を下げた。
「いずれ正式に、ルーン=バロットがこの場所で行ったことについて情報開示を求める」
〈その前に、あの子が事件を解決するさ。ウフコックと一緒に〉
「ウフコックは、俺が手に入れる」
〈へぇ……三角関係かい〉
トゥイードルディムが、呆気に取られたように返した。
ボイルドは、もはやトゥイードルディムには目もくれず、周囲を目で探ると、やがてバロットが駈けていった方角を正確に嗅ぎあて、無造作に歩んでいった。
〈あんたが、あの鮫をぶっ殺した情報が入ったときは、さすがに驚いたぜ。錆びた銃のあんたも、自分の有用性[#「有用性」に傍点]を証明するために、必死なんだなって思ったよ〉
ボイルドは一瞬だけ立ち止まり、トゥイードルディムを見やった。だが何も言わず、すぐに、森から姿を消してしまった。その様子に、トゥイードルディムは、
〈おっかねぇ。あまり、時間稼ぎにもならなかったかな〉
溜め息をつくように、ぽつんと呟いた。
銀色の卵は、施設の屋上に浮遊していた。
ドクターの声紋とキーカードで、殻が割れてタラップのようになった。大きなカプセルを台車で搬入するドクターが、バロットが息を切らして走ってくるのへ、
「裸足か」
驚いたように目を丸くした。バロットは、浮遊移動式住居《ハンプティ・ダンプティ》のステレオに干渉し、
〈急いで来たから〉
「大丈夫かい。足の裏を怪我して、破傷風にでもなったら……」
〈大丈夫。ドクターに治してもらうから〉
「ふむ……」
ドクターは神妙にうなずき、ちょっとためらうように、訊いた。
「首尾は……?」
〈見つけた。あの男の、過去の隠し場所〉
「そうか……」
ドクターは、ほっとし、うなずきつつも、バロットを気遣うように言った。
「やっぱり君を連邦法違反者にはできない。ウフコックに怒られてしまうよ」
〈あなたたちと、立場が同じになっただけ。ウフコックと同じ立場に〉
バロットは、きっぱりと返して、やけに嬉しげに笑ったものだった。
そのバロットに、ふいに呼びかける者があった。
〈行っちゃうんだ〉
ステレオが、バロットとは違う者の操作で、声を放っていた。
振り返れば、屋上に、ぽつねんとトゥイードルディが立っている。その腫れ上がった顔と、切断された両腕の包帯に、バロットとドクターが愕然となるのへ、
〈心配しないで。たまには痛覚を味わおうと思って、調子に乗っただけ。それに、セキュリティが機能するには、これくらいやられないとね。すぐに治してもらうよ〉
〈ごめんなさい、私のせいで――〉
〈別に良いんだ。これで、君と友達になれるなら〉
バロットは、少し驚き、それから、そっとうなずいた。
〈ありがとう――私も、友達ができて嬉しい〉
トゥイードルディが、にっこりと笑った。
〈じゃあね、バロット。手紙もメールも禁止されてるけど、また会えたら嬉しいな〉
やがてハンプティ=ダンプティが浮上し、その入り口の殻壁が閉ざされていった。
ぼんやりと、銀色の卵が虚空を浮かんでゆく様を見つめるトゥイードルディの背後で、ふいに、大きな男が、屋上に現れた。
バロットは、はっとなった。ドクターもすぐにそれに気づいてぎょっとなる。
ボイルドはその銃をハンプティ=ダンプティに向けて構えていた。
「やめろ、連邦法違反者になりたいのか――」
ドクターの声が、けたたましい銃撃にかき消された。ボイルドの放った弾丸は、バロットのすぐそばで、閉じゆく殻壁に弾かれ、盛大な火花を散らして消えた。
ミサイルの直撃にも耐えられる殻壁だった。それに遮られて弾丸が届かぬことが、バロットにはわかっていたし、ボイルドにもわかっている。
「撃った……」
ドクターが、呆然と呟いた。それが、ボイルドの新たな宣戦布告だった。
これで、バロットと同じように、ボイルドも、事件の解決の行方によっては、連邦法に遠反した容疑者として特定されることになるのだ。
ボイルドはそれ以上、撃ってこなかった。ただ、銃口を、ぴたりと向け続けている。
バロットの命を消すことが、唯一の事件の解決であると無言で告げるように。
そのボイルドに向かって、バロットが、すっと、左手の指を突き出した。
人差し指を伸ばして、親指を立て――銃で撃ち返す真似を、してみせたのである。
もう二度と、何の抵抗もできぬまま殺されるつもりはない。
そう、無言で返したつもりだった。
そのバロットの姿を、殻壁が、ぴたりと閉ざして、障し去った。
ハンプティ=ダンプティが、速度を上げて、上空へ舞い上がってゆく。
ボイルドは、冷たく昏い目で、遥か高みに浮かぶ銀色の卵を見上げていた。
〈笑ってるの[#「笑ってるの」に傍点]、ボイルド……?〉
トゥイードルディが、屋上のスピーカーに干渉して訊いた。
「なに……?」
〈笑ってる。まるで、友達ができたみたいな笑い方〉
トゥイードルディが、にっこり笑って告げた。
ボイルドは、無言で銃を懐に収め、きびすを返した。トゥイードルディに背を向けたときには、もう、何の表情も浮かべてはいなかった。
〈じゃあね、ボイルド。また、いつでも来なよ〉
トゥイードルディが、ちょっと寂しげにそれを見送った。
5
ドクターが搬入したカプセルの中には、青い液体が満たされている。
その中で、コードでがんじがらめのウフコックが、折り畳まれた姿[#「折り畳まれた姿」に傍点]で眠っていた。
カプセルは一階の寝室に置かれた。その金属の筒のガラス窓に触れながら、バロットは、ウフコックの死について考えていた。トゥイードルディムに教えられたことを。鋼と肉体とが複雑に絡み合ったこの姿が膨らんで、自分の体重で死ぬということについて。
ウフコックがその死をどんなふうに理解したのかを考え、同じように理解しようと努力した。いつかウフコックが告げた言葉が思い出された。自分もまた焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]、それを、この都市に投影しているのだと。
ドクターが、開けっ放しにしていた寝室のドアを叩いた。
「コーヒーを淹《い》れたんだけど」
バロットはカプセルから身を離し、ドクターと一緒にダイニングに向かった。
「高度一万八千フィートだ。都市の沖合いの辺りさ。寒くはない?」
バロットはかぶりを振って、カップを受け取った。
カフェオレだった。ひと口すすって、すぐそばの衛星受信専用のテレビに干渉した。
〈美味《おい》しい〉
「それは良かった」
〈コーヒーなんて、あんまり美味しいと思ったことなかった〉
「調合[#「調合」に傍点]と煮沸にコツがあるんだ。試験管を振るのと同じようなものだからね」
ドクターが、薬品を調合する真似をしてみせる。バロットが、じろっと睨んだ。
〈急に、美味しくなくなった〉
「ひどいな」
ドクターがぼやいた。バロットは笑ってコーヒーを飲んだ。そこでふと、ドクターが何かを言おうとしているのを察した。
次の行動について、説明しにくいことを説明しようとしているようだった。
〈また裁判をするの?〉
バロットが訊いた。ドクターは肩をすくめ、いつもの癖で、眼鏡を押し上げた。
「このままだと、あまり裁判に意味はない。相手の行動を読んだ上で、確実にチェックメイトをかけない限り、向こうは無限に逃げ続ける」
〈相手の行動? どんな?〉
ドクターは、バロットのほうから話を振ってくれて助かった、というような顔をした。
「婚姻だ」
〈……え?〉
「つまり、上流階層の人間と婚姻関係を結ぶんだ。その動きは少し前からつかんでたんだけど……とうとう、実行に移したらしい」
〈シェルが誰かと結婚するの?〉
「まあ、そういうこと」
ドクターが渋いものでも口にしたように顔をしかめてみせた。バロットは別にどうでもよかったが、ドクターが気を遣っているのを察して、嫌にむず揮い感じがした。
〈聞かせて〉
「うん。まあ――嫌な話なんだがね。シェルが、オクトーバー社の重役のご息女との婚姻を、自分から提案してるらしいんだ。例の、不正取引についての記録をたて[#「たて」に傍点]にしてね」
〈変なの。そんなので結婚するなんて〉
「まったくだ。その重役にも、断れない理由があってね。あるいは――断る必要のない理由とでもいうのかな」
〈よくわからない。どういうこと?〉
「どうやら、知的障害者らしいんだ。その娘さんは」
ドクターが苦々しげに言った。バロットの目が丸くなった。
「そこの家族は、その娘さん以外は優秀らしくてね。彼女一人、監禁状態らしい。体面ってやつだ。実に古くさい――というか情けない。生まれる前から障害があるのはわかっていて、じゃあなんで生んだかと言えば、単に信仰の都合[#「都合」に傍点]で堕胎しなかったらしい。信仰というのも、結局は体面でね。政府団体とのつながりを考慮してのことさ。で、シェルはどこから嗅ぎ付けたんだか、その女性の存在を知り、自分が片づけてやるから[#「片づけてやるから」に傍点]一族の地位を寄越せと言ってるわけだ。そうでなきゃ、その女性の存在ともども、色々とばらすぞ[#「ばらすぞ」に傍点]、と、こういうわけさ」
バロットは、静かにカップをテーブルに置いた。
〈殺してやりたい〉
誰を、とは言わなかった。誰もかれもだった。
ドクターは、同感だ、というように肩をすくめた。それから、ふいに口調が変わった。
「僕が妻と別れた話はしたよね」
〈――うん〉
「娘がいるんだ。君よりは下かな」
バロットは素直に驚いた。ドクターが苦笑した。
「そのせいかどうかわからないんだが、君を娘のように感じ始めている自分がいてね。シェルには、個人的な怒りさえ感じてるよ。あまり、良いことではないと思うんだが……」
〈よくわからない。それは、悪いことなの?〉
「君は不愉快じゃないのかい? そういうふうに思われて?」
〈全然、お父さんって感じしない〉
「まあ……そうだろう。ただ、君をこちらの都合の良いように誘導している面があるんでね。その上、勝手な保護欲を押しつけられても、不愉快だろうから」
〈すごく嫌〉
真顔でバロットが告げた。
うっ……と困りきった顔で呻くドクターに、バロットは、少しだけ笑ってみせた。
〈感謝もしてる。協力したいと思ってる。自分のためにも〉
ドクターがうなずいた。それこそバロットに感謝するように。
「君は、どうしたい? 事件の後、君の望むようにしたいと思ってるんだが……」
〈なかなか答えが見つからない。事件が解決するってことを、まだよく理解できないから〉
正直に言った。それから、ぽつっと訊いた。
〈ウフコックは、いつ死ぬの?〉
ドクターが、ぽかんとなった。
「僕はウフコックをメンテナンスしたのであって、安楽死させたわけじゃないんだが」
〈トゥイードルディムが言ってた。プロフェッサー・フェイスマンも。ウフコックは、自分が死ぬことを知ったから、生きることについて考え始めたって〉
「ああ……なるほど」
途端にドクターはむつかしげな顔になって宙に眼をさまよわせ、
「短くて、五年」
ずいぶんあっさりとした口調で告げた。
「ただし、どうしようもないくらい悪性の腫瘍《しゅよう》なり何なりが発見された場合だけどね。実際は――わからない。その倍か、三倍か。もしかすると半世紀くらい生きるかもしれない。その可能性はある。ただ――辛いかもしれないね」
〈辛い?〉
「全身が肥大するんだ。脂肪が増えて太るとかいう問題じゃない。何もかもが大きくなっていく。骨も筋肉も内臓も――眼球でさえ大きくなる。今だって、生体ユニットを幾つかの次元に分割[#「分割」に傍点]しているから良いが、体組織だけで、もうすでに君が使ってる枕くらいの体積があるんだ。いつかこのハンプティにも収まらないくらいの大きさにもなる」
ドクターはそこで言葉を区切った。思案するように手を口にあてていたが、やがて、
「問題は、どう生きるかってことさ。あいつは自分の有用性[#「有用性」に傍点]を証明することを望んだ。僕もね。あいつも僕も、そして君も、いつ死ぬかはわからない。どんなふうに死ぬのかもわからない。ただ、いつか死ぬ[#「いつか死ぬ」に傍点]ことは知ってる」
バロットはうなずいた。ドクターの言ってることはわかるつもりだった。
〈あの人[#「あの人」に傍点]のそばにいたい。――駄目?〉
「良いと思うけど……この事件が終わった後も?」
〈あなたたちの仕事は、有意義?〉
バロットは、わざとフェイスマンと同じ質問をした。だがドクターは即答しなかった。
間を空け、バロットの表情を正確に観察するように見つめながら、
「僕は、充実してる。これ以外に、自分のすべきことはないと思うくらいに」
〈私にもできると思う?〉
「君の適性や、これまでのデータを考えれば、十分に可能だろうけど……」
〈アンダーグラウンドのショーで、私より年下の男の子や女の子が、働いてるのを見たことがある。お料理や給仕がメインだったけど。ときどき舞台で踊ったりしてた〉
「委任事件はショーとは違うよ。様々な人間が、焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]ながら争っているのを解決しなきやいけない。ハードな仕事さ。僕らも結局、自分たちの焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]を、誰かに投影しながら解決しようとしてるだけなのかもしれないけど」
〈私もそうしたい。ウフコックがやろうとしているみたいに。私もトライしたい〉
「困ったな……」
ドクターはちょっと口ごもり、ごまかすように笑った。
「僕は、すべきこと[#「すべきこと」に傍点]をデータにもとづいてアドバイスできるけど、君が成長する舞台として良いもの[#「良いもの」に傍点]を用意できるかわからない。学校にだって行ったほうが良いだろうし……」
〈勉強をしろって言うならする。勉強しながら手伝う〉
ドクターはとうとう両手を上げて降参のポーズを取った。
「まずは、現在進行している事件の解決に全力を注ごう。このまま何もしなければ、みんなで仲良く、社会から廃棄される運命さ。事件が解決した上で――ウフコックにも相談してみたらどうだい。僕の意見ばかりじゃ偏《かたよ》るよ、きっと」
バロットはうなずいて再びカップを手に取った。
〈コーヒーの淹れ方も覚える〉
真面目な顔でそう告げた。
コーヒーの味を覚えようとするバロットを、ドクターは呆れたように見つめた。
二杯目のコーヒーは、バロットが淹れた。
キッチンには、しばらくここに閉じこもっていられるだけの食材があった。
それらを料理するのは、ドクターとバロットの分担ということになった。
「ボイルドのやつ、ハンプティに撃ち込むなんて。いくらなんだって、わざわざ連邦法違反の危険を冒してまで、僕らの敵になることはないのに」
ドクターが、ハンバーガーに食いつきながら、ぼやくように呟くのへ、
〈あの男の人は、ウフコックの前のパートナーだったんでしょう?〉
「そうだね。君に勝るとも劣らぬ使い手[#「使い手」に傍点]だったよ」
〈どうして別れたの?〉
ドクターは言葉に詰まった。
〈言えないこと? 恋人だったの? トゥイードルディたちみたいに?〉
「いやいや、そうじゃないよ」
ドクターは慌ててかぶりを振った。
「二人は戦闘のためのタッグだったんだ。強かったよ。向かうところ敵なしってやつだ。でも、あるとき、ボイルドのほうが暴走した」
〈訊いて良いの?〉
そこでドクターは考え込むような顔になったが、やがて手にした食べ物を平らげると、
「ボイルドって男を少しは理解しておいたほうが良いだろうから、話すよ」
そう前置きして、ドクターは、口をきった。
「一年ほど前、ある委任事件でね……大学生の青年が、昏睡状態になるほどの暴行を受けたっていうんだ。依頼主は父親で、青年は家族の長男だった。母と弟と妹の五人家族さ。父親は工場を経営してたけど、借金まみれだった。長男である青年だけが頼りだったんだ。青年はいわゆる勤労青年で、奨学金の他に、色々と働いて[#「色々と働いて」に傍点]収入を得ていた」
〈誰が乱暴したの?〉
「初めはドラッグのディーラーだという話だった。青年のガールフレンドがドラッグにはまったせいで、青年がディーラーと揉めて、喧嘩になり、昏睡するぐらい痛めつけられたっていうんだ。僕とウフコックとボイルドは、ディーラーの背後で、オクトーバー社が造る麻薬の売買を叩き潰すことを最終的な目標として、検察と協力しながら戦った」
〈それで?〉
「僕らはまず青年に暴行を加えた人間を特定しようとした。犯人は大学内をテリトリーにするドラッグのグループで、すぐに尻尾をつかんだ。だがそこでおかしなことが起きた」
〈おかしなこと?〉
「グループの首謀者らしい別の学生が、いきなり自殺したんだ。彼自身もドラッグに冒されていた。ラリったせいだと言われたが、あからさま過ぎて、何か裏があるんだと思った。前後して、青年のガールフレンドが行方不明になった。グループの裏には、オクトーバー社が非合法の薬品を売りさばくための、大がかりな組織があって、警察ともつながっていた。錯綜したよ。影で動いているのが何か、すぐにはわからなかった」
〈組織が、何かを隠そうとした?〉
「誰もがそう思った。僕らが締め上げた組織の人間でさえそう思っていた。だが敵はドラッグに関わっている人間全体だった。その中心には、青年がいた」
〈どういうこと?〉
「勘違いだったんだよ。青年が犯人だった」
バロットが、ぽかんとなった。
ドクターは、眉根を寄せて、苦々しげに言った。
「青年の主な収入源だったんだよ[#「主な収入源だったんだよ」に傍点]、ドラッグは。グループの首謀者は、表向きは、自殺した学生だったけど、その裏では、全部、昏睡した青年が仕切ってたんだ。それだけじゃない。そもそもガールフレンドをドラッグ漬けにして、ものにした[#「ものにした」に傍点]のも青年だった。ドラッグを使って何人ものガールフレンドを作ることを、彼らは釣り《フィッシング》と呼んでいた」
〈じゃあ、誰が青年を痛めつけたの?〉
「例の自殺した学生が、金の取り合いか、あるいは単にラリった勢いで、青年を殴り倒したんだ。殴られた勢いで青年は階段を二十ステップほど踊って、壁に頭を打ち付けた。殴った学生はそのことにショックを受け、さらにドラッグに逃げ、とうとうハイになりすぎて、歩道橋から車道に向かってダイブした。その事故があまりに凄惨だったし、手足に幾つもの切り傷があったことから、見せしめ[#「見せしめ」に傍点]だと誰もが思った。だが事実は、単に自傷癖のある中毒者が酔った勢いで死んだだけだった」
〈わけがわからない。被害者が犯人だったなんて〉
「事件を担当した僕らもわけがわからなくなった。警察は警察で、同じ時期にドラッグ汚職の警官が起訴されて大騒ぎだった。押収したブツを横流しして稼いでたんだが、その一部が、大学のグループに流れていて、そこに自殺した学生も絡んでいた。とはいえ、緊密なつながりはなかった。誰もが、ある[#「ある」に傍点]と思っただけで」
〈勘違いばかりってこと?〉
「青年の家族の主張が物凄くてね。工場の借金を返すためにも、法務局《プロイラーハウス》から多額の児童福祉法賠償金をせしめなければならなかった。だが実際は、青年も犯人の一人で、まるで自業自得だった。さらに青年の家族も暴走して、青年の弟がディーラーの一人を見つけ出して暴行を加えた。しっちゃかめっちゃか[#「しっちゃかめっちゃか」に傍点]だった。そのうち行方不明のガールフレンドが、実はドラッグでラリったまま、車の中で三日間ほど眠り続けていたことが判明した。僕らが彼女を発見して、そこでようやくこの事件は違うってことがわかった」
〈そんな事件、どうやって解決したの?〉
「最悪だった」
ドクターが額に手をあてた。当時の惨状を、目の前にしているような顔だった。
「事態が明らかになれば、全てが損害を被《こうむ》る。特に依頼主の家族は、工場を失い、青年の弟は暴行罪で逮捕、加えて児童福祉法賠償をするのは彼らだ。家族みんな、一生、借金生活さ。警察や法務局《プロイラーハウス》も、メンツは丸潰れだし、舞台となった大学はドラッグ学校とまで言われた。ドラッグの組織も、騒ぎに乗じて幾つかに分裂して、そのうちの一つが、警察内部のコネクションをばらして大騒ぎ。僕らは僕らで、窮地に陥っていた。このままだと、法務局《プロイラーハウス》で叩かれ、有用性[#「有用性」に傍点]を否定されるのは僕らだ。誰が敵だか不明になるなか、ボイルドは、考えうる限り最悪の方法で解決をはかった。僕らにさえ何も言わずに」
〈どうしたの?〉
「皆殺しにした」
ドクターが苦いものでも吐くように言った。
「まず第一に、昏睡した青年を射殺した」
バロットの目が、まん丸になるのを見て、ドクターが、力ない様子で肩をすくめた。
「我々の依頼主の、そもそもの守るべき、くそ野郎でもある青年をだ。次に、ラリっていたガールフレンドを発見した車まで連れ戻し、射殺した。その後で、大学内部のグループ全員を一人ずつ殺していった。そこからさらに、バックの組織の幹部筋を引っぱり出して、一人残らず殺した。正確に、迅速に。その過程で、汚職警官を何人か殺してる」
〈何人殺したの?〉
「その時点で、十一人だ」
〈ウフコックが、武器になって?〉
「ウフコックは完全にボイルドを信用していた。自分の指示通り動いていると思った」
〈ウフコックの指示?〉
「青年がグループの中心にいたことが判明したとき、ウフコックは、青年の父親に事実を伝えるべきだと言った。その上で、福祉賠償を取り下げるかどうか決めさせると。ウフコックはあくまで、正当な解決をはかろうとしたのさ。あのとき、ボイルドはそうするためにウフコックと出かけたんだが、途中で、自分の解決の仕方のほうが正しいと思ったんだ。その後の四十数時間、やつは、ウフコックに、グループの逆恨みから青年の家族を守ると言って、二十人近く殺して回った。実際、青年の家族を狙う者もいたしね」
〈どうしてウフコックはわからなかったの?〉
「ボイルドは両手に、君と同じ、電子的な干渉のための金属繊維を移植しているんだ」
ドクターはそう言って、バロットをさらに驚かせた。
「君ほど凄い力じゃないけどね。当時のウフコックには、変身《ターン》時に周囲の状況をそんなに把握することはできなかったし、そんな必要もなかった。だから主な情報は全てボイルドの手を通してしか伝わらなかった。そのほうが、より精密で迅速な変身《ターン》が可能になるからね。けれども今じゃ、全方位型の受信機能によって、視覚や聴覚、特に嗅覚は完全にフォローされてる。全身にカメラをクリスマスツリーみたいに飾ってるのさ。昆虫の複眼みたいに。それが、その事件が終わった後でウフコックが僕に頼んだことだった。そして僕が、そのノイローゼじみたあいつの願いをきいてやったってわけ」
バロットはうなずいた。ウフコックのその気持ちが痛いほどわかった。
意図しないところで、自分が良いようにされる[#「良いようにされる」に傍点]気持ちが。
それは一つの絶望だった。他人と、そして自分に対しての。胸が痛んだ。自分もまたそれに関わっているという痛みだった。被害者として――また、加害者[#「加害者」に傍点]として。
〈ウフコックは、いつ、それを知ったの?〉
「結局、工場が売却されて、家族には当初予定されていた額の十八分の一の賠償金が支払われた後だ。事実を知ったウフコックは、茫然自失となり、自閉気味になった。その間にボイルドは、ウフコックなしでさらに二人殺した。ウフコックは二度とボイルドの手に身を委ねることはなくなったし、ボイルドもまた、二人殺したあと、姿を消した。噂じゃ、オクトーバー社に、そのまま、スカウトされたらしい」
ドクターは当時を思い出すように溜め息をついた。
「一時は、ウフコックとボイルドが、互いに殺し合うかもしれない状態だった。スクランブル―|09《オー・ナイン》を選択したことが間違いなんじゃないかとさえ思ったよ。ただ……あのまま終わりたくはなかった。僕もウフコックも事件担当官としての巻き返しをはかるために、その後も色々と事件を担当した。ボイルドはボイルドで自分の解決の仕方が間違っていないことを証明するために、あちこちで僕らと対立するようになった。その結果、こうして銃を向けあう間柄になったってわけ」
ドクターは、口にした出来事の苦さを洗い流すように、コーヒーをすすった。
〈話してくれて、ありがとう〉
「いやいや」
〈ボイルドという人は、どうして人を殺すの?〉
「……軍人として訓練してきた月日が、あいつの最後の拠《よ》り所《どころ》なのかもしれない。虚無感に抗《あらが》うためのね。虚無感は……人間にとって並大抵のストレス[#「ストレス」に傍点]じゃないから……」
〈あの人、ウフコックを欲しがってた〉
「だろうな。ウフコックは世界で唯一の、生体ユニットを持つ、最強の白兵戦兵器だ」
〈私、ボイルドの気持ちが少しわかる〉
コーヒーを口にしていたドクターが、ごほっとむせた。
「君は、殺人マシーンになりたくて事件屋をやろうってわけじゃないんだろう?」
〈違う……でもわかる。私もそうなった[#「なった」に傍点]から。私、ウフコックをレイプした。私の焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]の犠牲にした。ボイルドもそうだったんだと思う。自分一人じゃ、やめられない〉
「君は、あいつとは違うさ」
ドクターが言い聞かせるように言う。その実、ドクターは誰もがボイルドのようになる可能性があることを知っているようだった。自分を怪物扱いすることでしか、焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]をあらわせなくなる可能性について。
〈ウフコックは、私のこと許してくれる?〉
「許すもなにも……」
ドクターは、じっと見つめるバロットと目を合わせ、きちんとうなずいた。
「大丈夫だ。君は学び、反省し、成長する。あいつもよくわかってる」
バロットもうなずいた。ウフコックもドクターも優しかった。
その優しさに甘えたくなる気持ちを必死で抑えた。もうそんな恥ずかしさは嫌だった。
自分のすべきことを考え、そして行動しなければいけなかった。
「ところで……僕のほうからも、一つ、訊いて良いかな」
〈なに?〉
「シェルの、隠された記憶についてなんだが……」
ドクターが妙に遠慮がちに言った。バロットは、口に手をあて、
〈ごめんなさい。忘れてた〉
本気でそう告げた。それから、ぽつっと、
〈チップ〉
「チップ――?」
〈シェルが持ってるお店の一つに『エッグノッグ・ブルー』というカジノがあるの。そこにある百万ドルチップの中に、特殊な記録媒体を隠してるのがわかったの〉
「百万ドルチップとは、こりゃまた……お宝を隠すにはお宝の中というわけか」
ドクターが、感心した顔でバロットを見つめた。
「よく突き止めたな。大したもんだよ」
〈トゥイードルディムに助けてもらったから。一人じゃわからなかった。持ち出し厳禁のチップで、ショー以外で、お客が手にすることなんてほとんどないチップなの〉
「おそらくカジノを協賛してる、他の投資会社やアミューズメント・カンパニーの、隠れ蓑《みの》的な資産運営の一つだ。百万ドル分の頭金をカジノに預けて資金洗浄してるのさ。同時に、カジノにとっては、それだけの資産背景があるぞっていう看板になるんだ」
〈うん。ドクターの言う通りのことをしてるみたい〉
「そんなものの中に、わざわざ隠すとはね……」
〈チップの製造記録を調べたら、特別な注文があった形跡が残ってて、記録は丁寧に消されてたけど、データの断片を再構築してみたの〉
「凄いな。楽園≠フ施設と、トゥイードルディムのサポートがあったとはいえ、たった数時間で、よくもそこまで……」
〈また、やってみたいな〉
バロットが、笑って言う。ドクターが目を剥いた。
「連邦法違反と、重ハッキング罪で、二十年以下の刑だよ。下手をすれば半世紀近くコンピュータに触れることも禁止されるぞ。必要でなければ絶対にしちゃ駄目だからね」
〈ごめんなさい〉
バロットが肩をすぼめた。それはウフコックにも以前、言われたことだった。力を使う上での心構えについて。力の濫用[#「濫用」に傍点]はもう懲《こ》り懲《ご》りだった。バロットは本気で恥じた。
「いやいや……実際、君は、それだけのリスクを背負ったわけだ。それで……百万ドルチップについてだけど、幾つあるんだい」
〈カジノには、全部で十二個ある〉
「大した額だな……。その全部に、シェルの記憶が?」
〈そのうちの四つ。オクトーバー社の社章がついたチップだけ、特別に製造されてる〉
「なるほど……」
〈どうするの。強盗するの〉
半分、冗談のつもりで訊いたが、
「カジノ強盗は、銀行強盗並みに、厄介だからね。それは最後の手段さ」
その可能性について真顔で返すドクターに、ちょっとびっくりした。
「検察に捜索させるにしても、事前に動きを読まれれば、すぐに隠し場所を変えられてしまうだろうし……。シェルとオクトーバー社を警戒させて、より大きな魚を逃すことになるかもしれない。うかつに動けないな。事件担当官の捜査特権――いやいや……」
ドクターは、低い声で、しきりにぶつぶつ呟いている。かと思うと、
「ふむ……まずは、単に、客の振りをしていくのが、最善だ」
にやっとバロットを見た。ちょっと気味が悪いくらい、やる気満々な様子だった。
「バロット……、ウフコックも同じ判断をすると思うから訊くんだが――」
〈うん。なに?〉
「カジノで遊んだ経験は?」
〈ない。男と一緒に立ってただけ〉
「ポーカーやルーレットのルールは知ってる? ブラックジャックやバカラは?」
〈神経衰弱とトランプ占いなら知ってる〉
「レッスン2だ」
ドクターが言った。
「ここは、事件屋見習いのルーン=バロット氏に、コーヒーの淹れ方に続いて、さらなるレッスンをすべきだと思うんだが、どうだろう」
〈訊いて良い?〉
「なんだい」
〈ドクターは賭け事が好きなの?〉
ドクターは指を立て、左右に振ってみせた。しかつめらしい表情だったが、ほころんだ笑みまでは止められないようだった。
「そうだな、あれは実にスリリングな――知的ゲームであり、人生の美学だ」
バロットは呆れた。
[#改ページ]
Chapter.3 回転 Rotor
1
バロットは泣きそうだった。
そのせいで、ウフコックが目覚めてカプセルが開かれたのにも、全く気づかなかった。
それほど、ドクターが怒涛のように教えてきていたのだ。賭け事について。
合法的なネット・カジノで、その仕組みを教えられ、様々なゲームを紹介された。
ネット・カジノのページには実際の店でのルールとの差異も明記されており、ドクターを相手にプレイしてみるとさらによくわかった。ブラックジャック、バカラ、ポーカー、ハイボールにローボール、そしてハイロースプリット。他にも、ホィール・オブ・フォーチュンやルーレット、スロットの仕組みと遊び方も、一通り知った。
そこまでは良かった。だがドクターの講義は、むしろ、そこから始まった。
「良いかい」
ドクターが、レポート用紙に、小気味よい音を立てて数式と表を書き込んだ。
「さっきも述べたように、有限ゲームは全て標準系[#「系」に傍点]で表すことができるんだ。そこで、ゼロ和となるゲームを標準系でとらえて、各プレーヤーがどういう戦略を選ぶのが合理的といえるか、合理性の基準を考え、ゲームの均衡解を探ってみることにしよう」
バロットは眉間《みけん》に奴を寄せて、うなずいた。ドクターは何かを教えてくれていた。ゲームに勝つ方法を。だがそれが何なのか到底理解できない。それでも一生懸命に聞いた。
「この標準系を利得表で表してみよう。1からnまでの数字を君の戦略記号とし、もう一方を僕の戦略記号としよう。ここで利得額が互いにどう影響を与えるかを明確にしてみるね。どのプレーヤーも確実に取得できる利得額を最大にしようとする。あれこれ考えたって、結局は最適戦略に落ち着くのさ。この組を、ゲームの均衡解と呼ぶんだ」
そう言いながら、沢山のアルファベットを書いた。数字のついたアルファベットを。
プラスやマイナスの記号はまだよかった。そのうち色々な記号が登場しだして、アルファベットなのかそれとも他の何かを意味する記号なのかさえわからなくなってきた。
「ただしプレーヤー間が協力できるとしたらどうなるか。次に協力ゲームについて見ていこう。簡単な理屈だよ。プレーヤーが有限個の純粋戦略の中から一つ選び、ルールの適用の中で、他のプレーヤーとの混合戦略にまで拡大することの合理性を考えるんだ」
バロットにはそれらが実におどろおどろしく思われた。けれども頑張って聞いた。
「こういった結託構成における手続きを経て、任意の部分集合に対して、それが結託したと仮定すると、こうして実数値を求めることができるんだ。いわゆる特性関数ってやつでね、協力者nが与えられれば、その特性関数は一意的に定まるってわけ」
バロットは、ドクターの手によってさらさらと書き出される記号の群を見つめながら、自分が覚えられるのはどの辺りだろうと考えた。せめて最後の結論くらいは覚えたかったが、いったいどこが結論なのかさえわからなかった。
同じ頃、ウフコックはカプセルの中の液体が気化するのを待ってから、いつもの金色の体毛をしたネズミの姿に戻ると、難儀そうにカプセルから外に出た。
ベッドの上で、体毛の一部をひっくり返し[#「ひっくり返し」に傍点]、ぐにゃりと変身《ターン》させて切り離し、お気に入りのズボンを造り出す。それから話し声のするほうへ、てくてく歩いていった。
床に数式の書かれた紙が点々と落ちており、ウフコックは、しげしげとそれらを眺め、その紙の上を歩き、バロットとドクターが額をつき合わせている現場に出くわした。
きな臭いものでも嗅ぐように、ふんふんと鼻を鳴らし、ふうっと溜め息をついた。熱心に喋るドクターのすぐ下を通っていき、空《あ》いている椅子に飛び乗って、さらにテーブルに乗った。
「十五歳の女の子に、経済理論を叩き込んで何をしようっていうんだ、ドクター?」
ウフコックが言った。バロットとドクターが、同時にはっと顔を上げた。
「得意分野をかさにきて相手に劣等感を与えるのは良いことじゃないな。バロットも、何をそんなに我慢してるんだ? 囚人のジレンマを身体で覚えようとしているのか?」
そう毒づきながら、テーブルに散乱したレポート用紙の上に座り込んだ。
「やあ、ウフコック。だいぶ早く目覚めたな。楽園≠フ技術も更新したもんだ」
ウフコックは肩をすくめた。
「現状を説明してくれないかな」
説明したのはドクターだった。
楽園≠ナバロットが獲得した情報と、そこから導き出された結論についてドクターが朗々と説明している間、バロットはじっと目を伏せていた。ひどく緊張していた。手を伸ばせば届くところにウフコックがいたが、とてもそちらに顔を向けられなかった。
「バロットが連邦法違反の容疑者になる点は再検討するとして……カジノの必勝法を数学的に教える以外に、もっとわかりやすい方法があるだろうに。なあ、バロット?」
バロットが、びくっと身をすくませた。
ウフコックもドクターも、ちょっと驚いたようにバロットを見つめた。
バロットは何かを返そうとした。他愛ない言葉を。だがその言葉に詰まった。
目をテーブルの上に落としたまま、閉じこもるようにして身をすぼめていた。
ウフコックもドクターも、バロットを責めなかった。意志を表示しろ、とか、言いたいことがあるなら言え、といった乱暴な言い方はしなかった。
「すまなかった」
ふいにウフコックが言った。
「君が、大変な決意をしていた間に、寝ていたなんて」
バロットは慌ててかぶりを振った。ドクターが、バロットを安心させるように訊いた。
「調子はどうだい、ウフコック?」
「あまり衝撃を伴う変身《ターン》は無理だが、ゲームに勝つための手伝いくらいはできるさ」
それからウフコックは、バロットの目の前まで歩いてくると、両手を広げて言った。
「よければ、君の肩に乗っても良いかな」
バロットはじっとウフコックを見つめた。みるみる視界が歪んだ。うなずいた拍子に涙がぽろぽろ零《こぼ》れた。両手で顔を覆うバロットの腕に、ウフコックが触れた。
「コーヒーでも淹《い》れよう」
ドクターが席を外した。バロットは恐る恐る手を開き、ウフコックに伸ばした。
――触って良い?
「ああ」
ウフコックがバロットの手のひらに乗った。バロットはウフコックを持ち上げ、頬を寄せるようにして肩の上に乗せた。
――今だけでいいから、そばにいてくれる?
「ああ」
――ごめんなさい、ウフコック。
「俺は大丈夫だ」
後は言葉にならなかった。混沌とした感情に押されて、むやみにウフコックに干渉しないよう、必死に抑えた。
ドクターが戻ってきて、コーヒーの入ったカップを並べた。ウフコック用の、小さなカップまであった。ドクターもウフコックも、バロットが落ち着くまで待ってくれた。
それから、作戦を練った。三人で。それぞれの役割を決め、どう動くべきかを決めた。
考えつくあらゆる事態を想定し、ドクターが一つのプランにまとめると言った。
その後で、バロットが食事を作った。テーブルを囲みながら、他愛ないことを話した。これから、どうするのかを。この事件が解決した後のことを。
誰も、決定的なことは言わなかった。具体的ではなく、漠然とし、冗談めかした言葉で語った。みなの気持ちが一つに溶け合うには、それで十分だった。
食事が終わり、ドクターが食器を手に、立ち上がりながら言った。
「態勢は、整ったね」
ウフコックが、渋い笑みを見せた。
「勝つぞ、この事件」
バロットは何か言いたかったが、言葉にならず、ただ、うなずいた。
二階の個室を振り当てられ、バロットがベッドに潜り込んだとき、
「寝付くまで、そばにいようか?」
ウフコックがナイトスタンドのスイッチのひもにぶらさがりながら言った。
――大丈夫。
バロットはウフコックに触れ、
――ありがとう。
切々と告げた。そこで初めて、それが言いたかったことであるのに気づいた。
ウフコックは、ひもを引っ張って明かりを消し、部屋を出て、きちんとドアを閉めた。
バロットは闇の中で少しだけ泣いた。
泣きながら考えた。前進することについて。ウフコックもドクターも前を見ていた。前進し、漠然とした価値や目標に向かって、具体的な成果を上げようとしているのだ。
だが、シェルやボイルドは違った。彼らはきっと、振り返ってしまったのだと思った。
自分を振り返り、もうとっくに死んだはずの過去と、目と目を合わせてしまったのだ。
過去は、自分の思い通りにすることのできる屍《しかばね》だった。
ただしそれが、きちんと埋葬されている限りは。バロットはそんなふうに思った。
墓の下から、過去はつねにこちらを見つめている。隙があれば腐った手を伸ばし、それに足を取られた者を、どこへ行こうとしていたのかさえわからなくさせてしまうのだ。
じっとこちらの背をうかがう過去の目のプレッシャーに耐えられなくなったとき、シェルもボイルドも振り返り、そして闇に飲まれた。
それは、バロット自身がいつでも飲まれそうになっているのと同じ闇だ。
バロットは自分に何ができるのかを考えた。
この銀色の卵から外に出たとき、自分に何ができるのかを。
やがて涙は引き、バロットは眠った。
「これで良いのだろうか」
ウフコックが、椅子からテーブルの上に跳び乗って言った。
「なんだい、やぶからぼうに」
嬉々としてプランをまとめていたドクターが、呆れたような顔で手を止めた。
「我々が施したこと……それが、彼女に重大な選択を突きつけてしまった」
「彼女が選択したプランのこと? 彼女自身の識閾《しきいき》にもとづいた選択だぞ」
「彼女の潜在的な復讐心が、選択に影響を与えなかったとは言えない」
「そうかもしれないけど、今は別に復讐に燃えているわけじゃないんだろう?」
「ふむ……。謙虚に、事件の解決とは何かを考えているように思う」
「じゃあ、良いじゃない。それにもしバロットがスクランブル―|09《オー・ナイン》を選択せずに、警備機構《ハムエッグ》に頼っていたら、今頃、八つ裂きにされて市場で売られていたに違いないよ」
「市場?」
「警察からの情報だ。ボイルドが雇った殺し屋たちについて。人体改造マニアたちの間では、ちょっとした顔だったらしい。良質なパーツを売るってことで」
「ふむ……」
「それこそ、八つ裂きにしてやりたい相手さ。僕もそう思うし、彼女もきっとそう思う。でも彼女は、そういう奴らを八つ裂きにすることが僕らの仕事だとは思っていない。良いことじゃないか。確かに隠れ家が崩壊したことは痛いけど。でもそれだって、僕らの望むかたちで事件が解決すれば、法務局《プロイラーハウス》に補償金を払わせることだってできる」
「まあ、そうなんだが」
「彼女を強化しておいて良かったと思ってるよ。案の定、警備機構《ハムエッグ》で意図的な回線の操作が発見されたってさ。多分、内部の人間が金をもらって回線をいじくったんだ。金をもらうほうは、相手が殺人狂だろうが人体改造マニアだろうが、関係ないよ」
「内部の幇助《ほうじょ》者は?」
「警察が押さえにかかってるから、僕らの仕事じゃないね。公共機関でのハッキング幇助は保釈金が高い。警察はボーナスを期待して逮捕するよ」
それでもウフコックは、釈然としない様子でテーブルに座り込んでいる。
「本当に煮え切らない奴だなぁ。お前はどう思ってるのさ、ウフコック?」
「なにが?」
「彼女のこと」
ウフコックは、ちっちゃな手で頭を掻きながら、
「彼女のマイナスの意識が、理性と向上心によって克服されることを願う。それこそが彼女の事件[#「事件」に傍点]だ。そして我々は、彼女の成長を助けるためにこそ、彼女を保護し、法的に彼女の諸権利を取り戻す。俺のやりたかった仕事は、これかもしれないとさえ思う」
「ソーシャルワーカー気分? どんぱちが嫌なら、職種を変えるか?」
「穏健な社会福祉に頼りきっていたら、一瞬で消される命もある。法務局《プロイラーハウス》はいつでも錯綜し、委任事件制度に解決を求めている。絶え間ない暴力から命を守るために、俺は、抑止力として、俺を使ってもらいたい[#「使ってもらいたい」に傍点]。そのためのスクランブル―|09《オー・ナイン》だ」
「じゃあ、いったい、何が問題なんだ?」
「脅威を理由にして、彼女に俺を武器として使用させることが、俺には……」
「だから、僕らはこれから、相手の隙を突いて、最も穏健な方法で事件を解決しようとしているんじゃないか。何が問題なんだ?」
「ドクターには、道具存在である俺の気持ちはわからない」
「うん?」
「俺は常に使い手を求める。俺は、彼女のような人間に、俺を使ってもらいたい。もう二度と誰かの手に、自分を完全に委ねることはないだろうと思っていた」
「だから?」
「彼女が事件解決後、委任事件担当官になることを望んでいると知って困惑している」
「そいつは良かった」
ドクターはいったんウフコックから目を離し、しみじみとコーヒーをすすった。
「何が良いんだ、ドクター?」
「マリッジブルーって知ってるか、ウフコック」
「なんだ、それ」
「一度決めたことに対して、ぐだぐだぬかすことさ。個人的な感情がどう[#「どう」に傍点]とか、自分は大丈夫なのかとか、何が必然で何が偶然なのかとか、そういったことをだらだら考えるんだ」
「俺がそれだと?」
「我ながら上手いたとえ[#「たとえ」に傍点]だと思ってるんだけど」
「解決方法は?」
「そのときが来るまで、ただ待ってることさ」
ウフコックはあらぬほうを見て、深々と溜め息をついた。
「難しい」
「人類始まって以来の難問だからなあ。ま、がんばれよ」
ドクターは、特に励ます気もなさそうにウフコックの肩をつついた。
2
夜が明ける間際、銀色の巨大な物体が法務局《プロイラーハウス》のビルの屋上に降りていった。
移動浮遊式住居《ハンプティ・ダンプティ》は、屋上からぴったり一メートルのところで静止し、朝焼けの深い紫色を帯びた表面の殻に無数の亀裂を走らせた。亀裂が規則正しく幾つもの六角形を形作り、殻の一部がタラップを形成して屋上へ降りる。
そのタラップを、ドクターとバロットが踏んだ。
風が強く、屋上の周囲で三重の金網のフェンスが音を立てて揺れている。
バロットが建物の中に入ってエレベーターを呼んだ。操作《スナーク》ではなくボタンを押した。
ドクターはハンプティを再び空へ戻し、大きく伸びをしてやってきた。
「さ、行こう」
そう言って、躍るようにしてエレベーターに乗り込んだ。
なんとも溌剌《はつらつ》とした様子だった。これまで見たドクターの表情の中では一番に晴れやかだ。その手には大きなトランクが提げられ、バロットも肩にバッグを吊している。
「はしゃいでるな、ドクター」
チョーカー姿のウフコックが気怠《けだる》げに言った。珍しくぼうっとした声音《こわね》だった。
「勝負どころってやつさ。文字通りね。賭け事が嫌いなお前がせっかくその気になったんだ。カジノの一つや二つ、潰す気でいくさ」
「別に、シェルの店を潰しに行くわけじゃない」
ウフコックの声とともに、ぐにゃぐにゃとチョーカーの縁が歪んだ。どうやら欠伸《あくび》をしているようだった。バロットが首筋のくすぐったさに思わず肩をすくめた。
「朝は苦手だ。俺の本来の習性が出る」
ウフコックがそうぼやいたところで、エレベーターが地上に着いた。
一階のロビーには早くもちらほらと法務関係者の姿が見えていた。ビルに泊まり込む者も多く、カフェでは大勢の人間が目覚ましのコーヒーをすすっていた。バロットたちはエントランスホールを出て、タクシーを拾った。
タクシーはビルを離れ、アップタウンへと走った。その間、ドクターはしきりに手帳型のディスプレイを覗きながら鼻歌を歌っていた。ディスプレイには数字がたくさん並んでおり、まるでそれが預金残高ででもあるかのように、ドクターはにこにこしていた。
やがてタクシーはモーテルの前で停まった。空港近くのモーテルだった。
ロビーに行くと、すでに部屋の用意がしてあった。ドクターが昨晩、ハンプティからネットサービスで予約を入れておいた部屋だった。バロットとドクターは隣り合った部屋にそれぞれ入った。まるでたった今、飛行機から降りてこの都市にやってきたとでもいうような素振りで。確かに、空を飛んでいたことには変わりなかった。
バッグには、ほとんど衣類しか入っていない。バロットは部屋に入ると、バッグからドレスを出した。ネットショップのカタログを参考にしてウフコックに作ってもらったものだ。それを綺麗に揃えてハンガーにかけ、靴やアクセサリーを出してデスクに並べた。
準備をしているうちに、するりとチョーカーがほどけた。宙で裏返って[#「裏返って」に傍点]黄色い体毛のウフコック本体に変身《ターン》し、デスクに降り立つと、今度こそ大きな欠伸をした。
「まだだいぶ時間がある。俺はもうひと眠りしたい」
そう言ってバロットの返事も待たずにデスクから降りた。そのままベッドまで歩いていくと、枕元に飛び乗って、ひっくり返ってしまった。
バロットはウフコックを追ってベッドに行き、腹をつついた。
――あなたのそんなだらしのないところ、初めて見た。
そう干渉して笑った。
ウフコックが肩をすくめた。どうとでも言ってくれというように。人間みたいに仰向《あおむ》けになって両手を腹の上で組み、悠々と脚を伸ばして寝息を立て始めた。
ちらりと、まだ傷が癒えないのだろうかと思った。バロットはそれ以上邪魔せず、シャワーを浴びた。それからドクターから渡されたゲームのルール表を眺め返すうちに自分も眠くなってきた。時刻は六時半を回ったところだ。バロットはベッドに潜り込み、行儀悪く腹を掻くウフコックの様子を耳元で感じながら、すぐに眠ってしまった。
ドクターからの電話で目が覚めたのは昼近くになってからだった。ウフコックはすでに目覚めてテレビを観ていた。音もなく、映像だけ。それで内容がわかるのかと訊くと、
「読唇術の訓練だ」
との返事。変な趣味だと思ったが別に遊びでやっているわけではなかった。
「これからやる仕事のウォーミングアップにちょうど良い」
そう言って、テレビのリモコンを、ちっちゃな足で踏み、映像を消した。
モーテルのレストランに行くと、すでにドクターが来ていた。そこで食事を摂《と》り、最後の打ち合わせをした。どういうふうに動くのかを。それからテストをした。バロットが、主要なゲームのルールを理解しているかどうか。ルール自体は簡単だった。それほど複雑なゲームは、そもそも対象にしていない。問題は、そのルールにのっとったとき、必ず、負ける者と勝つ者とに分けられる、ということだった。
〈幾ら勝てば良いの?〉
バロットが、チョーカー姿のウフコックに干渉して訊いた。
するとドクターはにやっと唇を吊り上げ、眼鏡を指で押し上げながら、言った。
「二千ドルを、四百万ドルにする」
なんとも夢のような話だった。だがドクターは肩をすくめ、
「まあ、実際にプレイしてみればわかるよ。肝心なのは、間違いなく勝つ方法を見つけることだ。それが見つけられなければ、この作戦は諦める」
〈本当にできるの?〉
「まあ、不可能ではないさ。金を稼ぐわけじゃないんだから。カジノ全体のシステムに従って、チップに手を触れさえすれば、こちらの勝ちさ。普通の客は、金を稼いだり、スリルを楽しんだりするために、チップに手を触れる。我々は、チップの中に隠されている、卵の黄身に手を触れる。卵の殻にも自身にも、手をつけずに」
〈四百万ドルって、どれくらいのお金なの?〉
ドクターはちょっと考えた。
「そうだなあ……」
「お金ではない」
ウフコックが遮《さえぎ》った。バロットとドクターの二人にだけ聞こえる程度の小声だった。
「どういうこと?〉
「四百万ドルという名前のチップに過ぎないということだ。我々は金を奪いに行くわけではない。だからこそ突破口が見えるし、俺も協力する気になれる。万が一失敗した場合でも、目的のチップの位置さえ把握できれば、あとは盗み出すという手もある――だが、シェルにそのことを感づかれたら最後、裁判期間中に見つけだすことは困難になる。それこそ、博打みたいなものだ。今が、最後で、そして最善のタイミングなんだ」
バロットはドクターの顔を見ながら、
〈わかった。あなたたちができると言うなら、できると思う〉
そう、本心から言った。
ドクターは優しく微笑し、手帳型のディスプレイを開いた。
「では、作戦決行だな」
そう告げながら、なんと手帳の内容を全て消去してしまった。その中には、これから行くカジノのあらゆるデータが入っているはずだった。誰がどんなふうに働いてどれだけのお金が入ってきているか、といったことまでが全て網羅されたデータだ。それらが全て消され、真っ白になった画面を見て、バロットのほうがびっくりしていた。
「カジノ側から注意を受けたときに、こんなものを持ってたら、その場で叩き出されるよ。そしてすぐに街中のカジノに連絡が行くだろう。僕らの顔写真と一緒に。そうなると、二度とどこのカジノでも遊べなくなってしまう」
ドクターは、心の底からそれだけはあって欲しくなさそうな顔をした。
〈大丈夫なの?〉
「いざというときにはウフコックの中にデータは入ってるからね。心配は要らない」
それから、ドクターはふいに眉間に皺を寄せ、
「僕の呼び方は決まった?」
と訊いてきた。バロットはちょっと困ってかぶりを振った。
「試してみてよ」
〈|お兄さん《ブラザー》〉
途端に、ぷっと吹き出してしまった。
「駄目か……」
ドクターはいたって真面目な顔で言った。
「じゃあ、|お父さん《ダディ》は?」
今度はバロットが眉をしかめた。
〈変な感じ。駄目〉
「ふむ……」
〈叔父さん《アンクル》〉
「それは……?」
〈大丈夫。多分、間違えないと思う〉
「よし。じゃあ、僕は今から、イースター叔父さんだ」
バロットがまた吹き出した。我慢できず、肩を震わせて笑った。ドクターが憮然とした顔になるのを見て、声もなく笑いながらうなずき、
〈アンクル・イースター〉
そう繰り返した。ドクターもうなずいた。
「決まったね」
バロットはまた笑った。だが実際はそれほど違和感があるわけではなかった。ドクターに向かって、自分の髪を撫でつける様子を見せた。きちんとしろ、というように。
〈髪の色はせめて一色にして〉
ドクターは、肩をすくめ、承知したようだった。
〈ずっと訊きたかったんだけど、何で、そんなふうに髪を染めるの?〉
「スクランブル―|09《オー・ナイン》を創案した三博士≠フ一人が、こういう髪型を好んだんだ」
と解説したのは、ウフコックだった。
「複雑系の色彩的な表現さ。カオス理論にもとづいて正確に頭髪を色分けするんだ」
ドクターは髪をかき上げて言ったものだった。
〈その博士のこと、尊敬してたの?〉
「僕の唯一無二の師匠《マスター》であり、ウフコックの設計主任さ。君にも会わせたかったよ」
バロットは小さくうなずいた。二人にとってのその大事な人物が、オクトーバー社によって殺されたらしいことについては訊かなかった。何となく、二人の心に図々しく踏み込んでしまうような気がしたのだ。ただ、ふと別のことに思い当たり、訊いてみた。
〈その人も、賭け事が好きだったの?〉
「無敵だったね」
ドクターの答えは間断なかった。さもあらん、という感じでバロットはうなずいた。
部屋に戻った後、念入りにシャワーを浴び、着飾った。
チョーカーは、メイド・バイ・ウフコックだが、ウフコック自身ではなく、ただの音声器だ。バロットは最後にウフコックを手に取り、イメージした。両手を覆う柔らかい手袋を。ウフコックの姿がぐにゃりと歪み、瞬く間に両手を覆った。そのまま腕に伸びてゆき、肩の後ろでつながった。
両手が合わさった部分に切れ目が走り、バロットはゆっくり両手を離した。切れ目が完全に離れ、同時にウフコックなりのデザインが浮かび上がった。ネットショップのカタログで研究したのか、二、三修正を加えただけで、そこそこ気に入るものになっていた。
ロビーで待っていると、いかにも娯楽に長《た》けたような風体《ふうてい》のドクターがやってきた。
カウボーイが看るようなロングコートに、マフィアみたいなマフラーを首から下げている。髪は光沢のある銀に染めあげ、オールバックにしていた。靴をかつかつ鳴らせながら、本当に心から遊びに行くのだというような素振りでキーをフロントに渡した。
二人でモーテルの前に立った。しばらくすると、時間通りにリムジンが来た。
リムジンは初めてではなかったが、バロットはふいに緊張を覚えた。
「さ、行こう。バロット」
ドクターがバロットの肩を軽く叩いた。演技をしろというふうに。
〈うん〉
バロットは音声器に手を触れながらうなずいた。リムジンの運転手が小さなつばのついた帽子の下で穏やかに微笑し、後ろのドアを開けてくれた。バロットは車に乗り込み、
〈叔父さんも〉
とドクターを呼んだ。腹の辺りがむずがゆくなったが、我慢した。
ドクターが乗り、運転手がドアを閉めた。それから運転手は席に着き、車を出した。
カジノに着くまでドクターの声が車内に響き続けた。自分がどんなプレーヤーか見せてやる、というように。バロットは言葉少なにうなずいた。自分は都市に遊びに来た姪《めい》で、叔父に面倒をみてもらっている、というように。丘のふもとの高級住宅地《セニョリータ》には、たくさんの親戚がいるのだ、という感じで。
やがてリムジンはカジノの入り口で停まった。すぐ隣が大きなホテルだった。その向こうに巨大なビルが林立し、公務会議室や様々な協会の事務所があった。テレビやラジオ局もあり、その周囲には歓楽街が広がっている。
ドクターが運転手に百ドル札を渡し、帰りは配車事務所に連絡する、と告げた。
だが実際は違った。ドクターは、いたずらげな素振りで、カジノの駐車場のほうを指さしてみせた。そこに、見慣れた赤いオープンカーが、停まっているのだ。
「昨晩のうちに、法務局《プロイラーハウス》の人間に頼んで運んでおいてもらったんだ」
バロットは素直に感心した。ドクターは計画を立てることに関しては実にそつがない。
「さあ、楽しもう」
ドクターがバロットと連れ立って歩き始めた。
それで、リムジンに乗るときに感じた緊張が、すっと抜けてゆく感じがした。
大通《ストリップ》りに面した入り口の左右は『エッグノッグ・ブルー』と記された巨大な卵の殻だ。
卵は二つに割れて、中からチップが沢山出てくる3Dアニメーションになっている。
そこをくぐったとき、妙な感覚を覚えた。それが何であるかすぐにわかった。
一瞬で荷物をチェックされたのだ。赤外線、監視カメラ、X線映像――もしそこで引っかかるものを所持していたら、フロントで構えている係の人間がすぐにやってくる。
実に隙のない感じがするなかを、ドクターは慣れた足取りで悠々と入っていく。
大きなカジノだった。ホテルへの廊下も広く、子供向けのテーマパークに向かう通路も長大だ。屋内ショッピング・センターの間の壁には幾つものテレビ画面が設置され、ボクシングやマジックショーの様子を映している。
バロットも何度か来たことのあるカジノだったが、シェルのショーの付き添いをしていたときにはまるで気づかなかったことが、ドクターの指摘で、目に飛び込んできた。
カジノは明らかにファミリーサービスを意識した入り口で、少数の金持ちや、日陰に生きる人間が大手を振って歩くイメージではない。合法的なカジノでは、「百万ドルを落としていく一人の客」よりも、「百ドルを落とす一万人の客」へのサービスをうたったものほど、生き残るのだという。そしてそれは、確かに間違いないようだった。
旅行者が子供連れで遊び回るような場所を尻目に、ドクターはすたすたと場内を歩いていった。ドクターのことだから、地図はくまなく覚えているのだろう。
ふいにざわめきが大きくなった。まだ昼過ぎだから客は少ないだろうと思っていたら、その予想がいきなり喧騒に吹き飛ばされた。
視界を埋め尽くすほどの無数のスロットマシンの群だった。
五セントコイン用のものから、百ドルコインを放り込む|大口の客《ハイローラー》向けのものまで、縦横にびっしりと立ち並んでいる。
〈すごい〉
バロットが言った。わざわざ演技をする理由がわからなくなるほどの騒ぎである。
「遊んでみるかい?」
ドクターが訊いた。バロットは素直にうなずいた。
バロットはドクターと一緒に、アンモナイトの種属みたいに多種多様の形と色彩をしたスロットマシンの間を通り抜けていった。電子音が鳴り響き、消防車のサイレンみたいなけたたましい音とともに、そこかしこで大当たりの叫びを上げる老若男女がいた。
ジャックポットが出たマシンの上ではパトカーの赤灯のような照明灯が回転し、周囲に人だかりが出来て友人同士で肩を抱き合ったりしていた。受け皿に吐き出されるコインの金属音とともに盛り上がる刺激と興奮の波に、頭痛さえしてきそうだった。
ドクターはフロントで数種類のコインを手に入れ、その一部をバロットに渡した。
それから、二十ドル札を束にしてくれた。
「まずは雰囲気に慣れることだね。波を感じるんだ。サーフィンみたいに」
ドクターはそう言って、今にも波に溺れそうな足取りでスロットの品定めをして回った。
店の奥には実物のエアカーや高級車輌が置かれ、ジャックポットが当たればただちにキーはお客様に、という看板がかけられている。
ドクターは車の近くのスロットに座った。バロットに操作を教えながら、コインを放り込んでいった。するすると絵柄が回転し始め、固唾《かたず》を飲む瞬間へと走り出した。音を立てて絵柄が一つ止まり、さらに止まり、そしてドクターの運勢をはじき出した。四点に賭けたうちかろうじて一点が当たり、二十セントコインが五枚、受け皿に転がった。
「悪くない運試しだ」
ドクターが言った。じっくりとコインを入れてゆき、プッシュボタンを押した。
一瞬、バロットは機械に干渉しようと思った。
だが手袋姿のウフコックが、バロットの左手をひょいと持ち上げ、マシンから手を遠ざけさせた。それから手のひらが耳元に来て、ウフコックの声が聞こえた。
「ここのセキュリティを甘く見るな」
どきっとした。
マシンはドクターのコインを全部飲み込んでしまった。ドクターは気にもせず、マシンのリズムを探るようにコインをちゃらちゃらいわせながら一枚一枚、放り込んでいる。
バロットはマシンの内部[#「内部」に傍点]を感覚した。外から操作すれば、すぐさまマシンが停止する仕組みだった。複雑な構造ではなかったが、その分、セキュリティは万全といえた。
バロットはふいに、視線を感じて天井を見上げた。高い天井のあちこちで色とりどりの照明が輝いている。その輝きの隙間に、信じられない数のカメラが、びっしりと設置されているのに気づいたのだった。思わず、ごくっと喉が鳴った。
「|天空の目《アイ・イン・ザ・スカイ》だ」
ウフコックが、バロットの様子を察したように告げた。
「もともと軍事用に開発されたカメラだ。高度二万メートルの上空から、草原に残った人間の足跡を正確に見分ける。カメラの向こう側で、監視係が、客のほとんどの動きをチェックしてるんだ。スロットマシンを操作した瞬間、監視係に警報が伝えられ、自動的にあらゆる角度からカメラが君を追いかけ始める」
バロットはぎゅっと手を握り、ウフコックに了解したことを告げた。
「バロットもやってみるかい?」
ふいにドクターが言った。どうやらコインは増えたり減ったりを繰り返しているらしかった。バロットはうなずき、チョーカーのクリスタルに干渉して訊いた。
〈マシンを自分で選んで良い?〉
「良いさ。三十分くらい別行動にしよう。ここで兵站《へいたん》を築き、先に進む。幸運を」
バロットはドクターの席から離れ、マシンの間を歩き回った。
マシン一つ一つを眺めながら、波を感じようとした。ドクターが言った波を。
マシンへの干渉を封じられたとはいえ、その変化を探るだけなら何の問題もなかった。
マシンは一つ一つが複雑なリズムで動いていた。全てが平均的に設定されているわけではなかったが、全体として平均なのはわかった。一つ一つが水の雫《しずく》で、全部が集まって波が出来ているのだ。だが波によって水面が移動するわけではない。ただ水が上下に動いているだけなのだ。その様子がだんだん細かく感じられるようになってきた。
バロットはマシンの一つに座った。一ドルコインのスロットだった。マシンはウイスキーの瓶をかたどっていた。そこに座ったのは、リズムが沈むのを感じたからだった。
周囲では時折、大げさな音が聞こえていた。無数のマシンが複雑なリズムで浮き沈みを繰り返すなか、ここだけがぽっかりと静寂に返ろうとしているように感じられた。
バロットはコインを入れ、プッシュボタンを押し、絵柄がくるくる回るのを見た。
その動きを感覚しながら、絵柄を止めていった。見事なまでにバラバラである。
バロットはまたコインを入れた。今度は一つだけ。そして回した。
外れた。さらに入れ、外れた。それを何度か繰り返すうち、ふいに当たった。
その瞬間の感覚を、バロットは十分に把握した。ウフコックが何か言ったようにも思ったが、何も聞こえなかった。周囲の喧騒さえ聞こえなくなっていた。
バロットは続けて外した。周囲のマシンと一緒に浮いたり沈んだりする感覚があった。
ふいに体ごと持ち上がるような気がした。自然と手が上がった。コインを立て続けに放り込み、一瞬の間を置いて、波が頂点に達したところで、間髪入れずにボタンを押した。
「完璧だ」
ふいにウフコックの声が聞こえた。バロットは我に返った。喧騒が戻ってきた。
けたたましいサイレン音に、ぎょっと身をすくませた。何か悪いことをしたような気になった。どっと声が押し寄せてきた。気がつくと周囲に人だかりが出来ていた。
バロットはびっくりして彼らを見回した。みな口々に驚きの声を上げている。
一瞬、警察がきて引っ張られるのかと思ったが、そうではなかった。
ものすごい金属音が手元で跳ねたのは、そのときだった。
これほど大量のコインを目の前で見たのは初めてで、どうやってポケットに入れようか、という考えは、みるみる吹き飛んだ。それほどの量だった。
周囲で羨望の声が上がった。人だかりをかきわけて、カジノの係員がやってきた。
バロットがびっくりした顔のままそちらを向くと、相手はにっこり笑って籠を見せた。
「お入れしますか?」
コインをみんな持っていかれるのかと思いながら、うなずいて席を立った。
どうせ自分のものではないという気持ちのほうが強かった。
相手が籠にコインを移しているとき、また、ひょいと手が耳元に上がった。
「チップを用意しておけ。一ドルで良い」
ウフコックの言葉に、慌てて一ドル札をポケットから出した。
相手が籠一杯のコインを手に、こちらを向いた。示された札を見て、うやうやしく受け取った。それから、バロットを連れてカウンターまで行き、ボーリングのボールみたいな重さの籠の中身を、それよりはだいぶ軽い、百ドルコインの束に換えてくれた。
バロットは籠ごと、百ドルコインを受け取った。数えてみたら、ちょうど六十枚だった。一瞬、それがどれほどの金額になるのかわからなかった。
籠を手に、バロットはまたスロットのほうへ歩いていった。先ほどのように波を感じながら。それから、また波が静まろうとしているマシンに座った。今度は五ドルコインのマシンだ。ポケットには三枚しかない。最初の一枚を入れる前に、じっくり待った。
それからおもむろに入れた。あっさりと外れ、次の一枚を出した。
波が上がる感じがしたところで入れた。それもまた外れた。だが、外れたことで波がさらに高く上がろうとしているのを感じた。バロットはすうっと息を吸い、吐いた。
波がするすると昇っていくのを追いかけ、コインを握ったまま待った。
ふいに、その手が動いた。勝手にコインを放り込み、ボタンを押していた。
――なに?
バロットはびっくりしてウフコックに干渉した。
「この段階で勝ちすぎるのは良くない。マークされるぞ」
というのがウフコックの答えだった。マシンの中の模様がくるくると回り、止まった。
サイレンは鳴らなかった。代わりに、五ドルコインが二十枚ほど、じゃらじゃらと音を立てて出てきた。タイミングさえ合えば、その十倍は手に入れる自信があった。
「目的のチップは、このカジノ全体で、たった四枚だ。その過程で何百枚手に入れても関係ない。今は、下手にカジノ側の注意を引かないほうが良い」
――遊ばせてくれるって言ったのに。
バロットが、ちょっと残念そうに返す。
「君にとっては遊びでも、周囲で見ている人間はそうは取らない。カジノにとって、勝ちすぎる人間は天敵だ」
その言葉で、また頭上のカメラの存在を思い出した。
バロットは素直にコインを籠に入れ、ドクターとの待ち合わせ場所に行った。
3
「コツがつかめてきたのかな?」
ドクターが言った。その手に何も握っておらず、てっきり負けたのかと思ったら、
「合わせて一万ドルちょいか」
千ドルチップの束をポケットから取り出してみせ、バロットをびっくりさせた。
〈あの機械を使って、チップを手に入れるんじゃないの?〉
「スロット全体に収まってる金をかき集めたって、二百万ドルもないんだ。無理だよ。それに、最初からカジノを相手にしていると思われないほうが良い」
〈どうするの?〉
「カジノに来ている人間から頂くのさ」
バロットはきょとんとした。打ち合わせは何度もしたが、要点だけで、どういうときにどう動くか、ということだけを叩き込まれ、全体のプランはドクターのものだった。
「さ、兵站は築いたんだ。あとは戦線へと躍り出るだけさ」
ドクターは言って、スロットマシンの向こう側へと歩き出している。マシンの迷路を抜けると、見通しの良い空間に出た。テニスコートが幾つも並んだような空間だった。
ギャンブルテーブルが整然と並び、両サイドには観葉植物とともにカクテルバーが設けられている。背後の音に比べ、喧騒というほどではなくなっていた。
より大人向けの雰囲気、という感じのシックな空間だ。
礼儀正しいディーラーたちが、それぞれの舞台を持つ役者みたいにテーブルの向こう側に立っている。無料の飲み物を乗せたお盆を手に足早に歩き回るカクテル・ウエイトレスは、古典的なバニースタイルの者もいれば、カードの絵柄やアルコールの銘柄を摸した服装の者もいた。
「メカニックのことは、わかってるよね?」
ドクターが小声で訊いてくるのへ、バロットがうなずき返す。
|いかさま師《メカニック》のことはドクターから色々と教えられている。その手口から、どうしてそのような行為をするのかまで。スリルを求める人間もいたし、あるいはそれ[#「それ」に傍点]が富と名誉への近道だと思う人間もいた。あるいはカジノが非合法であることが当然の場所で育ったディーラーにとっては、当然、いかさまは日常茶飯事なのだという。
「彼らを、釣ってしまおう」
とドクターは言った。
「真正面からカジノを相手にしていたんでは、すぐにマークされて叩き出されてしまうからね。まずは、カジノにとっても、我々にとっても、最も得をし、最も損害のないところに、土塁を築き、塹壕を掘るんだ」
〈私たちがいかさま[#「いかさま」に傍点]をしてなくても、叩き出されるの?〉
「そりゃあね。わずか一時間で、十ドルを百万ドルにしたら、叩き出されるさ。千ドルを十万ドルにしても、もちろんカジノ側の妨害にあってそれ以上稼げなくなる。百ドルを千ドルにし、千ドルを一万ドルにする。そして勝負は、それからってわけ」
ドクターの言うことはわかった。バロットは、問題点をついた。
〈誰がメカニックなの?〉
「さっき、君がスロットと遊んでる間に、目星を付けておいたよ」
〈どうしてわかるの?〉
「言ったろう? カジノにとっても、我々にとっても、最も得をするんだって」
ドクターは、得意満面な顔で、天井に向かって、ちらりと親指を上げてみせた。そこにひしめくカジノのまなざし[#「まなざし」に傍点]については、今ではバロットにもよくわかっていた。
「カジノにとってメカニックは厄介者だ。それらしい人物はすぐにチェックされて、プロのディーラーたちが、あっという間に手口を暴き出す。あるいは店のディーラーがメカニックとぐる[#「ぐる」に傍点]になってる可能性だってある。だから、ディーラー同士の申告が三十分ごとに行われるし、直接客と接触する可能性のある全てのディーラーの背後には、ピットボスやフロアマネージャーがいて、記録してるんだ[#「記録してるんだ」に傍点]。|カジノ《ママ》は全てお見通しってわけ」
それで、ドクターが、手帳をにやにや眺めていた理由が、ようやくわかった。怪しい人物がどのテーブルに何人いたかという記録を盗み見ていたのだ。
「さて、僕の可愛い姪に、僕の腕がどれほどのものか見せてあげよう」
ドクターは急に大声でそう言い出すと、ふんふん鼻を鳴らしながら、テーブルを品定めするようにうろつき回った。どこから見ても博打狂いの若旦べえという感じで、正直なところ、一緒にいて恥ずかしかった。
その間ずっと、バロットは、ゲーム自体に興味はないがカジノの雰囲気自体に刺激を感じている、という顔でいた。そういう指示だったし、実際そうだった。やがて、
「そうだな、ここにしよう。なかなか良さそうな火かき棒が転がっていそうだ」
そう喚《わめ》きながら、勝負がひと段落したテーブルに着いた。
〈|火かき棒《ポーカー》?〉
バロットもドクターに指示された席に座りながら訊いた。ドクターはしたり顔で、
「お互いに、憎しみを|突っつき合う《ポーク》ってわけさ」
そう言いながらチップをテーブルに置いた。ディーラーがバロットに目をやり、
「付き添いですか?」
と訊いてきた。まだ若く、ブロンドに涼しげな青い目がよく似合っていた。
「まあね。席に着いたら、ライバルさ」
ドクターがすかさずうなずき、
「君もやりたまえよ。いつも君の家のポーカールームで遊んでるんだろう? どうせ服で消える小遣いなんだ、たまにはスリルに使ってしまっても良いさ」
〈じゃあ、これくらいで良い? 叔父さん?〉
そう声を出し、バロットは籠から百ドルコインをつかみ出した。そのチップの山に、ディーラーと他の客たちが、目を見開いた。服で消えるとはよく言ったものだ。実際、自分が身を削って稼いで買った服など、全てこのひとつかみで消えてしまいそうだった。
〈良いですか?〉
バロットが訊いた。ディーラーはちょっと眉を寄せて、口も開かずに喉の機械で喋るバロットを見つめ、うなずいた。
ディーラーはコインをチップに替えて渡し、ドクターが差し出した札《チップ》を受け取った。
それから、自分は正当な札《チップ》を受け取ったのだというジェスチャーをフロアマネージャーに示し、しかもテーブルの上の専用のスペースに、誰の目にも見えるように置いた。ポケットに入れるのかと思っていたら、なんと服のポケットは全て口が縫いつけられている。実に徹底した管理だった。自分が清廉潔白であることをいちいち示したディーラーは、それが自慢だというように、背筋をきりっと伸ばし、客を見渡した。
バロットとドクターの他に、テーブルには四人の客がいた。一人はカウボーイハットをかぶってシガーをくわえ、その右隣はビジネススーツに身を包んだ大人しそうな男だ。
この二人が右側で、左側には、髭を綺麗にカットした老紳士と、その左に太鼓腹の男がいる。ドクターとの会話を思い出せば、この四人の誰かがメカニックのはずだった。
「ああ、ちなみに、手話はできるかね」
ドクターがディーラーに訊いた。ディーラーは少し困ったような顔で首を振った。
「彼女は喉が不自由なんだ。見てわかるだろう? だからといって発音が不明瞭なのを許してくれとは言わないが、その代わり、彼女の機械の調子がおかしくなった場合、僕が言葉を代弁してあげても良いかな?」
ディーラーは、耳元のイヤホンに触れ、マネージャーの了承を得てから、
「構いません」
と言った。本来ならば許されないが、あなたたちが楽しもうとするこの時間に免じて許してあげよう、とでも言いたげな顔だった。実際、ドクターの口調や身振りが役に立つとしたら、こういうときだ。ディーラーにしてみたら、場違いだがその分、|容易い客《カモ》が二人、というふうにしか見えなかったに違いない。それは、他の客にしても同じだった。
「紳士の方々も、よろしいですか?」
ドクターが、他の客にも訊いた。
カウボーイハットが無言で肩をすくめ、ビジネススーツの男は慇懃《いんぎん》に了解を告げた。
老紳士も太鼓腹もあまり気にしなかった。むしろ若いレディがゲームに参加してくれるのが嬉しいとかいったことを話していた。そのときふいにカウボーイハットが、身障者用のチップでも作れば良い、というようなことをぼそっと洩らした。誰も聞かないふりをした。バロットは咄嗟《とっさ》に、このカウボーイハットがメカニックであれば良いと思った。
ふと左手が上がり、耳たぶのイヤリングに指が触れた。
「気にするな」
イヤリングをいじるふりをしながら、ウフコックのそんな声を聞いた。
バロットは心の中でうなずいた。ウフコックに気持ちを伝えるにはそれで十分だった。
「これ以後のやり取りは、文字で行う。左の手だ。読み違えるなよ」
ウフコックが言った。途端に、バロットの顔が引き締まった。
――大丈夫。絶対、間違えない。
間もなく、最初の賭け《ベット》が始まった。
ゲームはホールデムと呼ばれるポーカーの一種だった。
プレーヤーには二枚の伏せ札が配られ、ディーラーが場に出す五枚の共有《コミュニティ》のカードとの最適な組み合わせを考えて、一ゲームにつき四ラウンドの賭け《ベット》を行う。
このテーブルでは、最低賭金《ミニマム》が三十ドルから、最高賭金《マキシマム》が六十ドルまで。
|変動上限の賭け《スプレッド・リミット》の勝負で、上賭け《レイズ》は三回までと、ずいぶん高額なレートである。
ディーラーがゲームの開始を告げ、それ以上の参加者をうち切った。
滑らかな手付さでカードをカッティングマシーンに入れ、何度かボタンを押す。
カードが公正に切られたことを示した上でカードシューに収め、ラウンドを開始した。
まずビジネススーツに一枚配られ、ついでカウボーイ、ドクター、バロット、そして老紳士、太鼓腹の順で、左回りに、さらに一枚ずつ、計二枚のカードが配られた。
ディーラーズボタンは、ビジネススーツの前にあった。
その左隣のカウボーイが、第一ラウンドの最初の強制《ブラインド》ベットを行う。一般のポーカーにおける参加料《アンティ》のようなもので、この時点ではまだ手札二枚分しか判断材料はない。
最初のブラインドベットは、スモールブラインドと呼ばれ、ミニマムの半分か、それ以下の額のチップを場に置く。カウボーイが出したのは十ドルだった。
ついでドクターが、ビッグブラインドと呼ばれる賭け金を置いた。
これは十ドルに対する同賭け《コール》だけではなく、レイズが強制されるベットだった。
ドクターがレイズした額は二十ドル。
これ以後のプレーヤーは、十ドルと二十ドルの計三十ドルでのコール、さらにレイズするのであれば三十ドル単位でレイズ、そうでなければ、降伏《フォールド》するという選択になる。
バロットの手札は、クラブの10とスペードの7。この時点で、カードは五十二枚のうち十二枚がプレーヤーに配られている。ディーラーズボタンからは、三番目の位置。
まずフォールドすべき手だった。それくらいはバロットにもわかる。昨晩、ハンプティでさんざんドクターに叩き込まれたゲームの一つが、このホールデムだった。
だが、ウフコックの指示は違った。
『コール』
左手に文字が浮かび上がるのを感覚し、バロットは三十ドルのチップをつかみ、
〈三十ドル、コールです〉
そう告げながら、テーブルに置いた。
老紳士もコール、太鼓腹は早々にフォールドした。
最後にディーラーズボタンを前にしたビジネスマンがコールして三十ドルのレイズ。
カウボーイとドクターがそれをコール。
バロットもウフコックの指示に従ってコールし、老紳士もコールした。
それ以上のレイズはなし。場には合計二百八十ドルの賭け金が置かれることになった。
第一ラウンドの賭け金の合わせが終わり、ディーラーがカードシューの一番上のカードを廃棄《ディスカード》して、場に伏せた。いかさま防止である。カードにマークするという一般的ないかさまの手を排除するための、慣習といえた。
それから、三枚のカードを、伏せたままテーブル中央に並べた。フロップ[#「フロップ」に傍点]と呼ばれるコミュニティカードである。ここからが第二ラウンドの始まりだった。
ディーラーが三枚のフロップカードを端から表向きにオープンしていった。
カードは、クラブのK、スペードの8、ハートの2。
バロットのカードは、この時点でノーペア。フラッシュの可能性もない。
あるとすれば、10、8、7、を用いたストレートだが、その可能性がどれだけあるのかバロットにはわからなかった。
第二ラウンドもブラインドベッターからの賭けで、カウボーイが三十ドルチップを出した。ドクターも三十ドルのコール、バロットもウフコックの指示で三十ドルのコール。
ここで、老紳士がフォールドし、カードを場に伏せた。
一方、ビジネススーツがコールに加えて、三十ドルのレイズ。誰も降りずに三十ドルずつ出して一巡し、コールの合わせが済んだ時点で、場には二百八十ドルのチップも加えて、五百二十ドルが集められていた。バロットは思わず、以前の自分の仕事[#「以前の自分の仕事」に傍点]で、それだけの金額をもらえるときがどういうときかを思い出して嫌になった。
いかにも退《ひ》くに退けない感じである。ウフコックがどうする気なのか訊きたくなった。
ウフコックはじっと考えているようだった。誰がメカニックなのかを。もしかすると、この勝負自体は、どうでもいいのかもしれない。
第三ラウンドが始まった。
ディーラーが再びディスカードし、四枚目のコミュニティカードをオープンした。
ターン[#「ターン」に傍点]と呼ばれる共有カードである。印《スーツ》はクラブのJ。思わずどきりとした。
これで、J、10、8、7が揃い、9が来ればストレートである。
次に来るカードを、ウフコックは人間にはわからない何かで読んでいるのかと思った。
そうでなくただ強引にコールし続けているなら、いかにも素人くさい。
それとも、そう演じようとしているのだろうか。
ブラインドベッターのカウボーイが三十ドルのベットをし、ドクターがコール。
『レイズ、六十ドル』
と手のひらに文字が浮かび、バロットは思わず何度も確認してしまった。
〈三十ドルのコールに、レイズ六十ドルです〉
そう告げ、チップを置いた。これで二百十ドルがバロットの手元から消えたことになる。
スロットで稼いだ分が、あっという間に消えていく気がして、怖いような気分だった。
ビジネススーツが六十ドルをコールし、六十ドルをリレイズした。カウボーイがレイズ分の六十ドルをコール、ドクターもまた同じくコール。再びバロットの番になった。
『レイズ、六十ドル』
と指示が来た。もう破れかぶれという感じだった。いきなりの緒戦で、こうまで強気に出る理由などわかるはずもない。バロットは、ビジネススーツにレイズされた六十ドルにコール。さらに、これで三百三十ドル分の賭け金になるレイズをした。
ビジネススーツは躊躇《ちゅうちょ》しなかった。それどころかリレイズしてきた。
カウボーイがコールし、なんとまたレイズした。
そこで、ドクターがチェックした。第三ラウンドから許される行為で、賭け金を払わずに、ゲームを継続する選択だった。バロットは、取り残されたような不安を感じながらも、ウフコックの『コール』という指示に、むしろほっとした。さらにレイズさせられるのかと思っていたのだ。カウボーイとビジネススーツのレイズ分の百二十ドルを払い、これで四百五十ドルの支出である。
ビジネススーツがコールし、賭け金の合わせが終わったかと思ったところに、
「レイズ」
という声が上がった。ビジネススーツだった。徹底的な応戦の構えである。
『コール』
というのがウフコックの指示だ。カウボーイとバロットはコールした。これで五百十ドル。
なんとドクターがフォールドしてカードを伏せた。あーあ、とぼやきながら。溜め息をつきたいのはバロットのほうだった。
ビジネススーツのコール後、カウボーイがコールし、あまつさえ、
「レイズ、六十ドル」
と言った。ウフコックは『コール』と告げている。従って、バロットはコールした。
これで五百七十ドルだった。
ビジネススーツがコールし、ようやく合わせが終わった。場には二千ドル近くあった。
馬鹿みたいな金額が、紙飛行機みたいに飛んでゆく感じがした。
ゲームを降りた老紳士も太鼓腹も、興味津々でゲームの行方を見守っている。
ディーラーが再三ディスカードし、リバー[#「リバー」に傍点]と呼ばれる五枚目のカードをオープンした。
これが最後のラウンドである。
思わずバロットも注目したが、がっくりした顔をせずにいるのが精一杯だった。
カードはハートの7。ここまで戦って、結局、手にしたのは7のワンペアだ。それとも、それで勝てるような手で、カウボーイもビジネススーツも騙し《ブラフ》をかけているのだろうか。
ウフコックにとっては、相手のブラフなど、ごまかしにもならないはずだった。
だがブラインドベッターであるカウボーイは悠々とさらに六十ドルを出してきている。
『コール』
ウフコックの指示に従い、バロットは他人事のような気分で六十ドルのコールをした。
「六十ドルにコール。レイズ、六十ドル」
ビジネススーツがそう告げ、カウボーイがコールし、そしてリレイズした。
『コール』
バロットは百二十ドルを出した。その手に、
『レイズ、六十ドル』
という指示が現れ、ぎょっとした。とはいえ素直に従わなければ、周囲の不審を買うばかりだ。バロットは無意識に眉をしかめながらレイズした。八百十ドルの支出だ。
ビジネススーツが、ちらりとバロットを見た。それから、
「コール、そしてレイズ、六十ドル」
と穏やかな顔でチップをテーブルに置いた。
カウボーイが歯を剥《む》きながらコールし、リレイズをかけた。
ウフコックの指示は唐突だった。
『フォールド』
チップをつかみかけたバロットの手が止まった。でたらめだった。これでは、やることなすこと、ちぐはぐだった。せめてチェックをして様子を見るなりすれば、まだ格好はつくのに、と思いながらも、バロットは渋々と手札をテーブルに伏せた。
〈フォールド〉
途端に、カウボーイがにたりと笑みを浮かべた。人を威圧するような、嫌な笑みだ。
ぎろっとビジネススーツを見つめ、肩をいからせた。
一方、ビジネススーツは涼しい顔でコールし、さらにレイズ。カウボーイは唸り声を上げながらコールし、そこで合わせが終わって、ショウダウンとなった。
最後のレイズを行ったビジネススーツが、カードを開示した。
スペードのKとダイヤの2。Kと2のツーペアである。ブラフどころの手札《ハンド》ではない。もう一枚、どちらかのカードが来ていればフルハウスの手である。
そのとき、うおっとカウボーイが唸った。自分のカードを叩きつけ、ハンドを見せた。
ハートのKとスペードの8。同じくツーペアだが、こちらのほうが高かった。カウボーイの手が伸び、がっと音を立ててチップをかきこんだ。いかにも犬が餌に食いつくみたいだった。
ディーラーがカードを回収し始めたところで、ドクターがバロットの肩を叩いた。
「どんな手だったんだい?」
普通、考えられない質問をしてきた。テーブルでカードの狙いをあらわにすることほど不利なことはないと教えたのはドクターなのだ。だがドクターは、バロットがカードを隠そうとするのを遮って誰の目にも見えるようにカードを表向きにしてしまった。
「ははあ、ストレート狙いか。ちょっと無理だね。最初にフォールドする手だよ」
言わないでも良いことを大声で言われて、思わず身をすくめた。
テーブルの向こう側で、カウボーイが吹き出した。いかにも機嫌が良さそうだった。
他の客も、遠慮のない様子でバロットの手札を見ている。これで、バロットがどれだけ無謀な素人かが誰の目にも明らかになった。
「僕も君のように果敢にやっていれば良かったかな」
ドクターが、ディーラーが回収する寸前、自分のカードをひょいと表向きにした。
クラブの2とスペードの2。なんとスリーカードである。カウボーイが目を丸くし、他の客が、ほうと感心するような顔になった。
高い手札でも慎重に賭けを行う者のことを堅物《ザ・ロック》というが、この場合のドクターがまさしくそれだ。だが賭けを行うということからすれば、冒険心のなさもまた敗因になると教えたのはドクターではないか。他の客も、バロットとは別の意味で与《くみ》し易い相手と思ったに違いない。思わず文句を言いたかったが、ふとドクターがウインクした。素早く、他の人間に悟られないように。それで、全く意図のない行為でもないことがわかった。
バロットはちょっとふくれっ面をしてみせ、それで次のゲームに移ることにした。
半分演技だったし、半分は本当にふくれていた。ウフコックもドクターも、まだバロットにはわからないところで、このゲームを狙っているのだった。
新しい組《デッキ》のカードが収められたカードシューが出され、第二ゲームが始められた。
バロットのカードはクラブのQとクラブの8。
ディーラーズボタンが移動し、ブラインドベッターはドクターになった。
最初のベットは十ドル。バロットが素早くレイズし、ぐるりとコールが続く。
先の勝利で味をしめたか、カウボーイだけがレイズし、太鼓腹がまた真っ先にフォールドした。コールが終わり、三枚のフロップカードが、場に公開《オープン》された。
クラブの5、ダイヤの8、ハートのQである。コールとレイズが繰り返され、先ほど最終戦にもつれこんだビジネススーツが、フォールドした。
続いて第三ラウンドに入り、四枚目のターンカードがオープンされた。
クラブのKのカードだった。バロットはどきりとした。たいてい、この第三ラウンドで、あらぬ希望を抱かせられるとはいえ、クラブのフラッシュが俄然、身近に感じられた。
それでなくてもQと8のツーペアである。先ほど、八百ドル以上負けたことを考えると、ここは勝負だろうかと思った。
『フォールド』
という指示が来たのは、カウボーイのレイズに対して一度コールし、続けて老紳士がレイズした後のことだった。バロットは、がっかりしてカードを置いた。手のひらに浮かんだ文字が消え、|生き残った《アクティブ》プレーヤーのコールが終わり、最終ラウンドに入った。
五枚目のリバーカードは、クラブのA。何がなんだかわからなかった。
これでフラッシュの完成である。フォールドする前に賭けた金額と合わせると千数百ドルの負けだ。わざと滅茶苦茶なことをしているとしか思えなかった。
そして事実、そうだった。
最終ラウンドでは、ドクターがフォールドし、老紳士とカウボーイの勝負になった。
老紳士がレイズし、カウボーイがそれを受けてリレイズするという繰り返しだった。
カウボーイは誰の目から見てものっていた[#「のっていた」に傍点]し、熱く見えた。
一方、老紳士は整然とチップを並べて置くほど泰然としている。
コールの合わせが終わった。ショウダウンは、まず老紳士がスペードのKとハートのK。スリーカードである。ホールデムの中では一般的な強ハンドといえた。
いきなり、ばしっ、と大きな音を立ててカウボーイがテーブルに手を叩きつけた。
てっきり悔しがっているのかと思ったが、違った。
カウボーイは歯を剥き出しにして、下品な笑い声を上げ、自分のハンドを告げた。
ハートのAとダイヤのA、というのがカウボーイの手だった。Aのスリーカード。カウボーイの勝ちである。これでカウボーイの勝利金は四千ドル近くにのぼることになった。
バロットの目には、もはやカウボーイはメカニック以外の何者にも映らなくなった。
ドクターとウフコックはいったいどうやってこいつを叩くのだろうか。
次のゲームが開始された。今度こそと思った。
クラブの6とクラブの3がバロットの手に来た。ディーラーズボタンが今度はドクターの前にある。
すかさずバロットがブラインドベットを行った。第一ラウンドでは、またもや太鼓腹が真っ先にフォールド。カウボーイがレイズし、全員のコールの合わせが終わった。
フロップカードが場の中央に出され、一枚ずつオープンされていった。
スペードの10、次がクラブの5、そしてハートの4。
さすがに、ぐっときた。6、5、4、3で、7か2のストレート狙い、もしくはクラブの5で再びクラブのフラッシュ狙いである。
『フォールド』
ベットを出そうとした途端だった。信じられなかった。ウフコックの指示は、全くバロットの思考からかけ離れていた。バロットは目を閉じてカードを伏せた。
――どうして?
この段階でゲームを降りてしまったら、後は他の客の勝負を見ている他ないのだ。
『仕掛けがわかった』
というのが、ウフコックの応答だった。
――メカニックがわかったの?
『全部、わかった』
バロットは眉をひそめた。
――あの勝ってる人が、メカニックってこと?
それくらいだったら自分にもわかる、というふうに訊いた。
だが、ウフコックの返答はまるで違っていた。
『右端の席の男と、一番左端の席の男が、ぐる[#「ぐる」に傍点]だ』
バロットはびっくりした。ビジネススーツと、太鼓腹のことである。
そうこうするうちに、第三ラウンドになった。
ターンカードはクラブのJ。バロットと太鼓腹以外の四人の勝負だった。
『君は、クラブのスーツに縁があるようだな』
ウフコックがどうでも良いようなことを言った。二度のフラッシュの可能性を勝手に潰したのはウフコックなのである。
――そんなことより、教えて。どうしてあの人たちがメカニックなの?
『匂いと行動でわかる』
あっさりと答えが浮かび上がった。
――負けてるのに?
『いきなり勝ってもしょうがない。一番良いのは、誰か一人に勝たせて、あとはそいつを利用して儲けることだ。少なくとも、この三人はそう思っているようだ」
――三人?
『ディーラーもぐる[#「ぐる」に傍点]だ』
バロットは思わずディーラーを見た。ちょうどラストラウンドのリバーカードを引いたところだった。カードはダイヤのA。幸いというべきか、残念というべきか、バロットにとっては、ストレートにもフラッシュにもならないカードである。
――カウボーイハットの人はメカニックじゃないの?
『ただのカモだ。次から大負けする』
身も蓋もない言い方だった。何となく気が晴れつつ、バロットは訊いた。
――どうして、いかさまがわかるの?
『教えるから、さりげなく見るんだ。今度は右端の男が勝つ』
バロットはビジネススーツを見た。実にポーカーフェイスな顔つきだった。
老紳士がレイズし、それを受けてビジネススーツがリレイズ。カウボーイが顔を赤く膨らませてコール。ドクターがちらっとこちらを見ながら、コールした。
「コツが飲み込めてきたかな? 大事なのは、雰囲気に慣れることさ」
ドクターが、バロットに通ぶったことを言った。みながそれを聞いていた。
だがその言外の意味を、バロットだけが理解し、
〈うん。なんとなくわかってきた。叔父さんも、頑張って〉
きちんと演技してみせながら、告げた。
『積んだチップを、テーブルのベットラインに対し、数字が縦になるよう置いている』
ウフコックが告げた。ビジネススーツの、一番最初のコールのチップのことだ。確かに一番上のチップの数字が、テーブルに引かれた白いラインに沿って縦になっている。
『左端の男が、チップを右手の中指と薬指の間に握っている』
太鼓腹が、全くその通りにしていた。
『右端の、勝負役の男がAのスリーカード。ドクターは5と4のツーペア。ドクターの隣のカウボーイはJのスリーカード。君の左隣の老人は10と4のツーペアだ』
――なんでわかるの?
さすがに不思議だった。体臭で感情がわかるとはいえ、具体的な数字を読むことはできないはずである。
『左端に座っている男が、ディーラーと、勝負役の男との間で情報を中継している。それを読んだ。あとは、観察していれば、その人間がどういう手のときに、どういう匂いになる[#「匂いになる」に傍点]か、すぐにわかる』
ウフコックの告げる文字が手のひらに浮かぶのを感覚し、ただただ感心した。
『コミュニティカードに対して、誰がどのカードのペアを持っているかを、左端の男が教えている。右手のチップの位置で、カモの中で一番強い手を。左手の形と姿勢で、他の人間の役と、ディーラーがそれより強い手を提供可能かどうかを示している。勝負役の男がチップを縦に置いたのは、Aのカードをリバーに持ってこさせる合図だ』
――カードをいじれるの?
『特定のカードを、カードシューに忍ばせている。仕掛け《マーキング》付きのカードだ。大きさや角の形など、感触でどのカードかわかるタイプのものだ。全部のカードに仕掛けをする必要はない。AやKなどのハイカードと、スーツの種類さえわかれば圧倒的に有利だ」
確かに、ディーラーの指が、そうと気づかぬほどの自然さで、ときおりカードシューの上端に軽く触れていた。
――ずるい。
『そろそろ、メカニックが勝つぞ』
老紳士がフォールドし、ドクターもフォールドした。
カウボーイは自分の歯を噛み潰しそうなくらいぎりぎり軋《きし》らせながらレイズを繰り返した。見ていて思わず可哀想になるほど、メカニックにとっては確かに容易《やさし》いカモだった。
コールの合わせが終了し、カウボーイが勢い良くカードを見せた。
Jのスリーカード。ウフコックの言った通りの手役《ハンド》だった。
きわどい勝負だが、十分に勝算はあるという感じである。
だが恐らく、客をそういう気持ちにさせるということも含めていかさまなのだ。
ビジネススーツがハンドを開示した。途端にカウボーイが、ぎょっとなった。
Aのスリーカードである。先ほどの自分のハンドでそっくり仕返しされた形だ。
チップがごっそりとビジネススーツに移るのを見て、ようやくバロットにも仕組みがわかってきた。まず、カモにするためのカモがいるのだ。カウボーイにわざと勝たせて、調子に乗ってきたところを、やる気をなくさせない程度に奪うという具合なのだ。
次の勝負も、ビジネススーツの勝ちだった。その次が老紳士の勝ちで、その勝ちがカウボーイに移り、そしてビジネススーツに移った。
バロットとドクターの金は、出ていく一方だった。それでも、ドクターもバロットもカードに触れているだけで楽しい、というふうを装っている。
メカニックたちもその点ではぬかりなかった。つまり、ある程度、期待の持てるカードをこちらに渡し、すんでのところで勝ちを奪うという算段なのだ。
第二ラウンドが始まったばかりのとき、ふいに、ウフコックが訊いてきた。
『カメラに干渉できるか?』
――できると思う。
『こちらの手の動きを映しているカメラをどけておいてくれ』
バロットはその通りにした。天井に並んだカメラを、そちらも見ずに感覚した。
このテーブルを映しているカメラは三つあった。このテーブルに注目しているというのではなく、全体を把握するときに、三つの視点が重なっているということだ。
バロットはそれらのカメラをほんの数ミリだけずらした[#「ずらした」に傍点]。カメラ自体のセキュリティは甘く、すんなり干渉できた。一瞬で、バロットの手元を映すカメラは皆無になった。
このとき、バロットのカードは、クラブのK、スペードの8。
フロップカードは、クラブの10、スペードの6、クラブのJである。
『みなの呼吸を読んで』
という指示が来た。バロットはその通りにした。ディーラーも含めて、テーブルにいる人間の全員の呼吸のリズムを感覚した。息を吸い、そして吐く。また吸い、吐く。
この場にいる人間の誰もが、呼吸なしで生きていられるわけがなかった。
カウボーイの息が一番荒かった。胸から肩の辺りでの呼吸だった。老紳士が腹の下。ディーラーやメカニック、そしてドクターは、ほとんど胸と腹の間で息をしている。
呼吸はゲームの進行と微妙に重なり、コールするときにみな強く息を吐いた。
『みなが息を吐ききった瞬間を狙ってコールするようにしろ』
ウフコックの指示に従って、大人しくコールを繰り返していた合間の出来事だった。
『力を抜いて』
と告げられた途端、バロットの右手が、ひょいと動いた。テーブルについた全員の息が重なり、吐ききられた刹那だった。第一ラウンドですでにフォールドしていたドクターのカードと、バロットのカードとが、あっと思う間もなく交換されていた。
『息を吐いて吸うときが、人間にとって最も無防備な瞬間だ』
バロットのカードがクラブのKとクラブのQになっていた。誰もそれに気づかなかった。
『クラブのスーツにあやかろう』
というのがウフコックの意見であり、そして予言だった。
第三ラウンドが始まった。ここまでにフォールドしているのは太鼓腹とドクターで、残り四人の勝負だった。ターンカードはスペードのJ。コミュニティカードですでにJのワンペアが出来たから、スリーカードになる手だったら自動的にフルハウスが完成する。その完成が間近か、あるいはすでに完成しているのか、それともブラフか、という読み合いの勝負でもあった。
老紳士がレイズし、ビジネススーツがコール。カウボーイもコールし、さらにレイズ。
『限度一杯にレイズだ』
バロットはコールの金額に合わせて百二十ドルのレイズ。コールが巡り、カウボーイがレイズ、バロットがリレイズした。その時点で場の金額は、二千ドルを超えている。
コールが終わり、第三ラウンドが終わった。
さすがに胸が高鳴った。ディーラーがカードシューに手をかけた。
その目が、ちらっと左端の男の手の形に向けられたのを、バロットも見逃さなかった。
五枚目の《リバー》カードがオープンされた。
クラブのAだった。
一瞬、信じられなかった。
『四分の一の確率だったが、勝算はあった』
バロットがこのラウンドをレイズし続けている合間、ウフコックがひっそりと告げた。
『目にしたスーツや数によって匂いが偏《かたよ》るのは、人間の一種の癖だ。スペードのスーツが来たとき、右端の男からは安心と自信の匂いがする。他のそれぞれのスーツを目にしたときも、微妙に匂いが違う。他の人間も、目にするスーツによって、独特の匂いがする。どうやらクラブは、あまり人気のないスーツらしい』
――それが私のところに来てる理由? 余り物ってこと?
『必然的な余剰とでもいうのかな。運や縁というのはそういうことかもしれないな』
ウフコックが、わかったようなわからないようなことを告げた。
老紳士がフォールドした。勝負に残ったのは、ビジネススーツとカウボーイだ。
レイズが繰り返され、バロットを含めた三人が、最後まで残った。
最初に開示したのは、カウボーイだった。
スペードの6とハートのJ。フルハウスの完成である。カウボーイの満面の笑みと、酷薄とさえいえるビジネススーツの微笑が対照的だった。
ビジネススーツが手を開き、ハンドを告げた。
スペードのAとダイヤのA。AとJのフルハウスで、圧倒的な勝利だった。この手を破るには、AとKもしくはQのフルハウスか、フォーカード、ストレートフラッシュ、あるいはロイヤルストレートフラッシュだけだ。フォーカードはJのスリーカードが出た時点で、コミュニティカードとの組み合わせ上、絶対に出ることはない。あるのは、極端に低い確率のストレートフラッシュとロイヤルストレートフラッシュのいずれかのみ。
この時点で、誰もがビジネススーツの勝ちを確信した。
カウボーイが歯を噛み、目を剥いて、ビジネススーツの手がチップに伸びるのを見た。
〈勝ちました〉
バロットが告げた。咄嗟に誰もその声の意味を理解していなかった。一瞬遅れて、おおっ、と隣の老紳士が大声を上げた。全員がバロットの手に注目し、そして沈黙した。
クラブのKとクラブのQ。
ビジネススーツと太鼓腹、そしてディープーが、一様に愕然とした顔になっていた。
クラブのKとQ、そしてJ、10、A。
約六十五万分の一という、およそ出ることのない確率で出る、ロイヤルストレートフラッシュの完成だった。
〈勝ちですよね?〉
バロットが、みんなの視線に不安になって訊いた。何か間違いをしたのではないかと不安だったが、ディーラーが青い顔でうなずくのを見て、ほっとした。
途端に、わっと座が沸いた。周囲を通りがかった他の客も、はっと足を止め、バロットの手役を覗くために集まってくるほどだった。
三千ドル以上ある山のようなチップを、手元にかき集めたバロットに、ディーラーが、さらに千ドルチップ数枚と、何かの交換紙を渡してくれた。カジノがハウスルールとして設定している、ロイヤルストレートフラッシュに対する褒賞金らしい。交換紙は、カジノが提携しているホテルのスイートの宿泊券と、フロントで色々と提示される商品の交換券、各テーブルごとの『名誉賞』のための写真撮影についての説明書だった。
ディーラーは冷静な顔をしていたが、
『怒りと恐怖の匂いだ』
というのがウフコックの評だった。
そもそも、ドクターがカジノ側の記録を読んだ上で、目を付けたテーブルなのである。アベレージに偏りがあるのだ。そしてそれ以上、極端なチップ移動のアベレージが出たりすれば、カジノの管理者の目に留まるのは明白だった。
アベレージの偏りは、何も、勝った側のせいばかりではない。
仕掛けた人間が失敗したときこそ、極端な手札が個人に集まりやすいのである。
『そろそろ相手も必死になる。そこが狙い目だ。合法カジノは、非合法のカジノに比べて、いかさまには別の意味で非常に厳しい』
ウフコックの説明が、手袋の内側に浮かび上がるのを感じた。
「家族連れのファミリー指向によって成り立つ合法カジノにとって、いかさまは最悪の経営妨害だ。もし露見すれば、関与した人間はどのカジノでも出入りを禁止され、カジノビジネスに従事することさえ不可能になる。カジノハウスやカードルームの株主や後見人になることさえ封じられ、徹底的にカジノ業界から追放されてしまう』
だから、このテーブルのディーラーと、メカニックのすべきことは、テーブルのアベレージを元に戻すことだった。それこそ命がけである。叩けば埃が出るのだ。間違いなく。
『恐らく、メカニックのグループが入れ替わりでこのテーブルに着き、同じ手口で勝つのだろう。一つ間違えれば、芋づる式にグループのメンバーが露見する』
ウフコックの言葉の通り、ディーラーは目つきも鋭くカードを配っている。バロットはカードを手にしながら、先ほど干渉したカメラに加えて、さらに幾つもの頭上の視線がこのテーブルに集まるのを感じた。驚くべき対応の早さだった。カメラの視線が、特にバロット以外の人間に集まってきていた。カジノ側も、これまでのバロットの負け額を把握しているはずである。バロットがいかさまをしたというよりも、他のメカニックが何らかの理由で失敗した、と見る管理者のほうが多いのだ。そのことを、メカニックたちも承知しているはずだった。それでいながらアベレージを戻すためには、さらにいかさまを仕掛けるしかないのだ。
バロットのカードはクラブの2とスペードの4。
『おそらく二度と高手札《ハイハンド》をこちらに回さない気だろう。AやKは彼らの独占だ』
――どうするの?
『レイズする』
バロットはその通りにした。第一ラウンドでは積極的にレイズを受け、リレイズし、第二ラウンドに強引にくっついていった。
途端にディーラーやメカニックたちがほっとするのが感じられた。どうやら、バロットが調子に乗って弱いハンドでも見境なく賭け金を吊り上げてきていると思ったらしい。
そのほうが、彼らにとってアベレージを元に戻しやすい。この勝負で一気にアベレージを戻すと言わんばかりに、太鼓腹までもが突然レイズを始めるようになっていた。
誰もフォールドせず、第二ラウンドに入った。
フロップカードはクラブの5、スペードのK、ハートのK。
何度かのレイズが繰り返されるうちに、老紳士がフォールドした。
『カメラを』
指示が来た。バロットは頭上のカメラに干渉した。ほんの数ミリ、カメラの向きを変えるだけでよかった。その瞬間、手袋がぐにゃりと歪み、カードを一枚飲み込んだ。ついで、新たにカードが現れ、バロットの手札はクラブの2、クラブの3になっている。
第三ラウンドに入った。
ターンカードがオープンされた途端、カウボーイがあからさまにやる気をなくしてフォールドした。カードはクラブの4だった。それから、太鼓腹が執拗にレイズし、それにドクターが応えるという形で、ビジネススーツとバロットは淡々とコールを繰り返した。
何度かのレイズ・リレイズの攻防ののち、第四ラウンドに入った。
リバーカードは、クラブのA。
先ほどと同じカードだった。バロットはちょっとやり過ぎなのではないかと思ったが、
『クラブの3が誰の手にもないことはわかっている。大丈夫だ』
と言うウフコックに黙って従い、コールを続けた。いかさまにいかさまで対抗するとき、自分の手にウフコックがいるという時点で、勝敗は決しているようなものだった。
やがてドクターがフォールドし、太鼓腹も自分の役目は終わったとばかりにフォールドした。ビジネススーツがレイズし、これをバロットがあっさりコール。ビジネススーツが、ちょっと嫌な顔をした。だが後には退けなかった。退けるわけがなかった。
ビジネススーツがハンドを告げ、手を開いた。カードはなんとスペードのA、ダイヤのK。
AとKのフルハウスである。間違いなく、最強といえる手だった。
〈勝ちました〉
とバロットが告げたとき、ビジネススーツの手はすでにチップの山にかかっていた。
その手が、カウボーイのけたたましい驚愕の声とともに、ぴたりと止まった。
ビジネススーツが、チップから手を離し、ディーラーと一緒に、バロットの手を見た。
〈クラブのA、2、3、4、5――です〉
ロイヤルではないものの、文句なしのストレートフラッシュである。
Kが相手の手にある限り、フルハウスを破る唯一の手役だった。
メカニックたちが蒼白となり、カウボーイも老紳士もあんぐりと口を開けたまま呆然としている。ドクターはドクターで、喜びはしゃいだ様子を見せるために大忙しだった。
バロットはチップを手元にかき集めた。手の中で素早くウフコックがカードを元に戻してディーラーに返す。ディーラーはさすがに落ち着いてカードをカッティングマシーンに入れて新しいデッキを出したが、目がせわしげに他のメカニックのほうを向いている。
『仲間同士の疑心暗鬼だ』
ウフコックが告げた。ディーラーにしてみれば、仲間のメカニックがバロットを使って自分を陥れようとしているのではないかと思えてくるのだろう。一方、メカニックたちにしてみれば、ディーラーが、わざとカードを操作して、自分たちを痛めつけ、カジノから追い出そうとしているように思われてくるという状態だった。
『次は、ドクターを勝たせるぞ』
ウフコックの指示に従って、
〈叔父さんも、頑張って沢山賭けないと[#「沢山賭けないと」に傍点]勝てないよ〉
と、精一杯、姪っ子らしい仕草を交えて、指示を送った。
「よし、一つここは君の幸運にあやかるか」
ドクターはすかさず理解したようだった。
メカニックたちの渦巻くような疑心暗鬼と焦りの中で、ゲームが始まった。
バロットのカードはクラブの8、スペードの7。
フロップはクラブのK、ハートの8、スペードのAで、ブラインドベッターはビジネススーツである。
レイズとコールが繰り返され、カウボーイは二度続けてのストレートフラッシュの出現に驚いたせいで冷静になったのか、あっさりフォールドした。
一方、太鼓腹は、ぎょろっとした目で一生懸命にディーラーに意志を伝えている。
『ディーラーも、仲間がいかさまを要求し続けるせいで、なかなか後には退けない』
というウフコックの言葉通りに、ディーラーが、カードシューの底で素早くカードを差し替える動作が、バロットにも、はっきりと感覚されていた。
四枚目《ターン》のカードはダイヤの8。
攻防の中で太鼓腹がフォールドし、つづいて老紳士がフォールドした。
最終ラウンドに入り、リバーカードがめくられた。その瞬間、バロットがカメラに干渉し、ウフコックが動いた。目にも留まらぬ速さでドクターのカードと一枚すり替え、
『フォールドだ』
そういう指示を出してきた。
五枚目《リバー》はハートのA。
ビジネススーツがレイズし、ドクターがさらにレイズしたところで、バロットがフォールドした。途端に、ディーラーも二人のメカニックも、ほっとしたようになった。
コールがうち切られ、カードが開示された。
ビジネススーツの男は、クラブのA、スペードのK。またもやフルハウスだった。二度連続、最高位のフルハウスである。さすがに、隣のカウボーイがきな臭そうな顔になった。そこへ、
「勝ったかな」
ドクターが、わざとワンテンポ置いてから言った。
ビジネススーツの男が、つかみかけたチップから、脱力したように手を離し、ドクターのカードに目を向けた。途端に、卒倒せんばかりに顔を引きつらせた。
クラブの8とスペードの8。
最高位のフルハウスを目指した隙を、正確に刺す手役――フォーカードだった。
『彼らのいかさまのシステムは、基本的にハイクラスのフルハウスを狙ったものだ。低位のフォーカードや、ストレートフラッシュに対する方策はほとんど用意していない』
ウフコックの判断は正確だった。以後、ビジネススーツと太鼓腹の間で、高位のフルハウスが交互に出現した。もはやアベレージも何もない。無茶苦茶だった。
カウボーイがふくれっ面になり、なげやりにチップを積み重ねた。ある勝負を境に、老紳士が静かに席を立って去っていった。
ディーラーも、メカニックたちも、どうしてこんなことになったのかまるで理解できない様子で、焦慮《しょうりょ》と怒りに満たされて、ウフコックに良いように踊らされ続けた。
そもそも、どれだけポーカーフェイスを作ろうとも、体臭をコントロールできる人間などいるはずもない。微細な感情を正確にウフコックに読まれ、あまつさえ人間性まで暴露されてゆくメカニックたちに、バロットは同情したくなった。
途中でカウボーイのチップが足りなくなり、タップアウトのルールに従って、別のポットに分けて賭けを行ったが、結局、全部使うことになってしまった。
メカニックたちは、唾を吐いて去ってゆくカウボーイを、ぼんやりと見送った。
周囲の客は寄りつかず、そもそもハイレートのテーブルであることと、何か変だという微妙な雰囲気から、相手はバロットたちしかいなくなっている。
やがて、とうとうディーラーがメカニックの言うことを聞かなくなった。そのうち二人のメカニック同士も、サインのやり取りを間違えたことがきっかけで、焦慮がお互いに対する不信感となってみな逆上寸前になっていった。その動きをウフコックが正確にとらえ、相手の心身を食い千切るようにして、容赦なくチップを奪い取ってゆく。
間もなく、太鼓腹がチップを使い尽くした。無言で立ち上がると、テーブルを去った。
ビジネススーツもそれを見て立ち上がり、わずかに残ったチップを握りしめると、ディーラーを殺しかねない目つきで睨み、太鼓腹とは反対のほうへと去っていってしまった。
「いやあ、良いゲームだった」
ドクターが大声で言った。ディーラーは、ほとんど最後の自制心で微笑んだ。そしてドクターが立ち上がって背を向けたとき、その表情が一変した。
バロットは、噛みつきそうな顔、というのを、初めて見たと思った。
そのときのディーラーの顔が、それだった。
4
「実に素晴らしい」
ドクターが吠えた。バカラ・テーブルにいた。|大口の客《ハイローラー》ばかり集まる一角で、葉巻《シガー》をくゆらす男たち、宝石やローネックドレスで着飾った女たちが、高額のチップを山のように積み上げて熱狂していた。
〈どうして勝ったの? 足した数は向こうのほうが多いのに〉
「いやいや、数の多さが問題じゃないんだ」
バロットの質問に、ドクターが勝ち分のチップをかき集めながら答える。
「合計して9に近いほうが勝ちなのさ。今のはプレーヤー側が4の数字で次のカードを引く義務があったんだが、引いたのは6の数字だったんだ」
〈10のほうが、9に近いのに?〉
「10は、合計ゼロ《バカラ》で、最悪の手だ」
バロットはぼんやりうなずいた。バカラはバロットの担当ではなく、ルールもうろ覚えだった。ドクターの席のすぐ後ろに立ち、その肩に左手を置いている。実は、その左手がくせものだった。ウフコックがほとんど全てのゲームを読みとり、バロットの左手を通して、ドクターに指示を出す、という具合だった。
ゲームの参加者は、交互にカードを引くプレーヤーかバンカーの、どちらが合計で9に近い数字を出すのかを予測して賭けるわけで、本来、完璧に運に支配されたゲームのはずだった。それが、ウフコックが参加した途端に、まるで意味が違っていた。
プレーヤー側とバンカー側とに分かれてカードを引く人間たちの匂いを嗅ぎ取り、彼らが目にしたであろう、だいたいの数字から、彼らがどう戦略を立てるかまで、ウフコックが正確に予言してしまうのである。
やがて両サイドの人間の細かな癖を完璧に把握したドクターが、
「そら、勝った分だよ。君も遊んできたまえ」
そう言って、バロットに、籠ごとチップを渡してくれた。
これは、ウフコックの助けが要らなくなったという合図だった。それはそれでドクターの記憶力と観察眼も凄いのだが、バロットにはどうしても、このゲームの面白さがわからないうちにテーブルを離れてしまう感じがした。それでちょっと残念がりながら、
〈教えられた場所[#「教えられた場所」に傍点]にいるから、負けたら呼んで〉
とドクターの肩を叩きながら告げた。ウフコックの助けが必要な場合のことを言っていたが、ドクターは不敵な笑みを返すばかりだった。
『所定の額に達した。段階的に、カジノ全体のアベレージにのっとって行動する必要がある。ゲームを楽しむのはまた別の機会にしよう』
バロットの気持ちを察したウフコックの言葉が、左の手袋の内側に記されるのが感覚された。それで渋々ながらテーブルを離れた。ハイレートのテーブルではよくある光景だった。熱狂した客が、連れの女性にチップを渡して、時間を潰すよう告げるのである。
バロットはしばらく後ろで見守り、大人の享楽の背後で置き去りにされた子供みたいな顔で、つまらなさそうに席を離れ、ぶらぶら歩き始めた。演技でもあったし、正直な気持ちでもあった。テーブルに集まった人々のあれほどの熱狂にもかかわらず、ついに何が面白いのかよくわからなかった。そのことが、なんとも残念な気にさせられる。
あるいは、全くの初心者であるバロットさえも、そういう心理状態にさせてしまうことこそ、カジノ経営の重要な戦略なのかもしれなかった。
バロットはテーブルの間を通り過ぎ、また別の空間へと入っていった。いつの間にか、周囲はハイレートを示す札ばかりだった。調度品もディーラーの格好も、ずいぶんと洒脱《しゃだつ》で金のかかったものになり、だんだんとカジノの心臓へと入り込んでゆく感じがした。
目的の場所はルーレット台《テーブル》の並ぶ区画である。老若男女が入り乱れて、回転する数字とボールとを追うその区画が、バロットにとって、真の初陣《ういじん》といってよかった。
バロットとウフコックの能力を足し合わせ、直接カジノから高額チップを奪うには、この|運命の輪《ホイール・オブ・フォーチュン》こそ最適だ、というのがドクターの判断なのだ。バロットが、ルールを確認しつつテーブルを選ぶうち、ふと左の手袋の内側に文字が浮かび上がった。
「七番テーブルに着くんだ」
ウフコックが、何かを察知したらしかった。バロットは指示されたテーブルにゆき、ディーラーに近い席に座った。ルーレットでは、回転盤に近ければ近いほど、バロットの能力が発揮されるというのがドクターのアドバイスだったからだ。
『勝たせてくれるぞ』
先ほどの文字が消え、そんな言葉が浮かんだ。
バロットはチップをディーラーに渡し、このテーブル専用のチップに換えてもらった。
赤い百ドルチップが、バロットの賭けを示していた。
ディーラーは三人。一人が代表して回転盤を回し、残りの二人が、チップの交換や配当を行うのである。周囲は客もまばらで、しかもこのテーブルにはバロットしかいない。
チップを配るディーラーが、バロット一人のためだけに動いていた。
おそらく大きな勝負が終わった後、客がぞろっと移動してしまったのだ。あるいは団体客が占領していたのが、いっぺんに引けたのかもしれない。いずれにせよ、ウフコックはそこに、有利な状況を敏感に嗅ぎつけたようだった。
――どこに賭けるの?
『どこでも良い』
というのがウフコックの答えだった。
バロットは、ちらっとディーラーを見た。ボールを投げるディーラーである。
なんと老婦人だった。美しい婦人である。年は六十を越えていそうだったが、背筋が伸び、凛《りん》とした立ち姿だった。グレーブロンドの髪を結い上げ、青い目はぱっちりして涼やかで、強く冷静な眼差しをしていた。カジノで女性のディーラーは珍しくなかったが、ここまで年上なのは、ここに来て初めてだった。
――格好良い女《ひと》。
|賭け枠《レイアウト》に目を向けながら、こっそり感想を洩らした。
『データによれば、名はベル・ウィング。カジノ界屈指のスピナーだ』
――スピナー?
『ルーレットの回転盤に、ボールを入れるディーラーのことだ」
バロットは、ますます格好良いと思いながら、|賭け枠《レイアウト》を眺め渡した。
通称を|緑色の絨毯《タピベ−ル》と呼ぶそのテーブルには、0と00、そして赤と黒に塗り分けられた1から36の数字の他、様々な賭け方が記されている。
また、一方で、回転盤の脇に細長い縦の電光掲示板が設けられ、過去二十回分の出目を示している。賭けの参考のためである。ルーレット台には、そのときの状況やディーラーによって、個々の癖[#「癖」に傍点]が出るという発想から、ボールが落ちる場所のある種の偏り[#「偏り」に傍点]を見つけ出すことが、ルーレットの楽しみ方の一つになっているのだ。
バロットは、電光掲示板を一瞥した。過去五回の出目は、14の赤、0の赤、17の黒、30の赤、23の赤である。それらにさっと目をやりながら、レイアウトの上端、2の黒に、チップを一枚置いた。それから、なんとなく14の赤にも一枚置いた。
スピナーである老婦人の目が、ちらっとバロットのチップを見やった。
いきなり高額の一目賭け《ストレート》に出るとは思っていなかったらしく、少し待ってから、おもむろにルーレット盤に手を触れた。
「開始《スタート》」
老婦人が、低い静かな声で告げた。
左手で数字盤《タブロー》の取っ手に触れ、すっ、と回した。ほとんど力を入れたとも思えぬ動作だ。それと同時に、右手で滑らかにボールを投げ込んでいる。タブローは右へ回転し、その周囲の周椀部《ボウル》で、ボールが左回りに回転した。数字がめまぐるしく流れ、ボールが滑るように動き、二つの相反する回転が美しい軌跡を描いていった。
バロットは、さらにチップを置こうとしたが、ふと手を止め、回転を見守った。
「|ここまで《ノーモア・ベット》」
老婦人がゲームの終了を宣言し、それ以上の賭け金を置くことを禁じた。
バロットはチップを握ったまま、ボールの行方を追った。
二つの回転の間が徐々に狭まっていった。かと思うと、ふいに外周部に埋め込まれた八本の金属のピンにボールが触れ、予期せぬ方向へ跳んだ。そのまま、回転が弱まったタブローに触れ、あっと思う間もなく、するりとポケットに落ち込んでいる。
するすると回転がやんだ。数字の流れが弱まり、ボールの落下地点がはっきり見えた。
「|2の黒《トゥー・ブラック》」
老婦人が告げた。それから、先ほど滑らかにボールを回転させた手が、分銅型のクリスタルを、レイアウトの的中番号の上に置いた。
他のディーフーがチップの配当で素早く動くのを見ながら、さすがに驚いていた。
ウフコックの言った通り、勝たせてくれたのだ。
スピナーの老婦人が数字を見て、正確にそこ[#「そこ」に傍点]にボールを入れた[#「入れた」に傍点]のである。話には聞いていたが、実際見るまで信じられなかった。それほど精密な業《わざ》だった。
あるいは偶然、そうなったのかもしれなかった。電光掲示板の数字の偏り[#「偏り」に傍点]は、微妙にそれを示している。ルーレットの数字は、1から順に36まで並んでいるわけではない。14、2、0、28、9、26、30という順に、ほぼランダムに並んでいるのである。先ほど見た、過去五回の的中数字を見れば、ずいぶんと位置的に偏っていることがわかる。
台の癖なのか、スピナーの癖なのかはわからなかったが、本来、三十六分の一の確率であることを考えれば、十分に予測できると思わせる的中率である。
それとも、そういった状況さえ、この老婦人はあえて演出してみせたのだろうか。いかにも涼しげな相貌を見ていると、そうとしか思えない。なんとも手練《てだ》れな印象だった。
「おめでとうございます」
ディーラーがチップの山を渡してきた。なんと三十五倍の配当である。バロットは慌てて賭けたチップを代わりにディーラーに渡した。賭け金とは違う、|お礼《チップ》のためである。
――びっくりした。
バロットがこっそり洩らした。
『誰かに勝たせようという感じだった。多分、客引きのためだろう』
ウフコックが、バロットの思ったことを裏付けるように告げた。
気づけば、テーブルの周りに人が集まってきていた。三十五倍の配当は、ルーレットでは最高の配当である。しかも電光掲示板を見れば、ルーレットの数字の並びについて知識のある人間ならば、異様に偏っていることに気づく。
さらに数字が偏るか、それとも次でボールが散り始めるか――単純な読みが、そこには示されていた。そして、それこそが、賭けを熱くさせるポイントでもあった。
一人また二人と客がテーブルに集まり、中には立ったままルーレット台を眺め下ろすようにして賭ける者もいた。自分でチップを置く者、あるいはディーラーに数字を告げて代わりにチップを置いてもらう者、みなそれぞれ自分の色のチップをばらまき、我こそはという熱気が燃え盛るようだった。
『体臭がごちゃついてる』
ウフコックが悲鳴を上げるように文字を浮かばせた。
『また別のテーブルに行こう。このスピナーの目的も、我々の目的も、済んだ』
――待って。
バロットが咄嗟に引き止めた。
――もう一度だけ。
そう干渉しながら、すでにチップを握っていた。
『また当ててくれるとは限らない。移り気で微妙な匂いだ』
――この女《ひと》を、もっと見たい。
『スピナーに興味が?』
ウフコックが戸惑うように文字を浮かばせるのを感覚しながら、バロットはチップをレイアウトに置いた。
再度、一目賭けへ。
ナンバーは14の赤。
老婦人が、ちらりとそれに目をやる気配がした。
見れば見るほど、高潔な感じのする美しい婦人だった。やわ[#「やわ」に傍点]な上品さで取り繕《つくろ》っているのではない。芯から発する気配のようなものだ。
バロットは自分を名付けた女支配人を思い出し、そして逮捕された女王《クイーン》を思い出した。
彼女たちを強く尊敬しているというわけではなかったし、老婦人に似ているというのでもなかった。ただ連想した。それがさらに連想を呼び、バロットはふと、以前観たテレビのインタビューで、ある映画女優が語った言葉を思い出していた。
その女優は、「多くの女優が行っているが、あなたは顔の皺を除去する整形手術をしないのか」という記者の質問に、「この皺は、苦労して手に入れたのよ」と笑って答えていた。バロットにはその言葉がひどく印象的だった。
かつてのポルノ女優から映画女優へ、さらには大スターになった女性だった。その女優を自分の身の上に重ね合わせたり、尊敬したりする気持ちがないわけではなかった。だがそれだけではなく、女性が手に入れ、誇るべきものがあるとしたら、まさしく、それ[#「それ」に傍点]であるのだと納得させられるような雰囲気が、その女優にはあった。
今、同じような雰囲気を持つ女性が、目の前にいた。ベル・ウィング。その名をもう一度心の中で呟いた。何となく、このテーブルに座ったこと自体が運のような気がしていた。勝つ見込みがある、というのではなく、たとえばシェル・セプティノスに殺されかけたところを助けてくれたのが、他ならぬウフコックとドクターだった、というのと同じように。
そんなことを考えているうちに、この名スピナーである老婦人は、先ほどとは反対の方向へタブローとボールを回転させている。
するすると周回する二つの運命の輪を見定めるように、やがて賭けの終了を告げた。
ボールが落ちる寸前、そこに宿る意志が、香りのように匂い立つのを感じた気がした。
タブローがゆっくりと停止し、的中数字を示した。
「14の赤」
ベル・ウィングが、穏やかに告げた。
どっとテーブルが沸いた。二度連続の|一目賭け的中《ストレート・アツプ》である。小山のようなチップが動き、バロットの前に、バラの花でも乱れ咲くかのように赤いチップが溢れ返った。
百ドルチップの三十五倍が二回。そのうち、賭けたチップと、約五パーセントの控除分がカジノの収入として引かれるから、六千六百ドル以上の金額が集められていた。
次こそ我が手に、と勇み沸く客たちを後目《しりめ》に、バロットはぼんやりチップを眺めた。
あまりに額が凄すぎて、なんとなく自分の金ではないような気がしていた。
そもそも、目的は金ではないのである。金は階段に過ぎず、目的のものまで、その分近づいたという意味しか持たなかった。だから、冷静でいられたし、
『次は難しい。離れたほうが良い』
というウフコックの言葉にも、納得がいった。
だが、バロットはまだこのテーブルにいたかった。階段を上るのであれば、なるべく一歩一歩が価値あるものであって欲しいという気持ちが湧いていた。
――もう少し、ここにいたい。
バロットが告げた。
――勝った分を全部使ってしまったりしないから。お願い。
ウフコックは考え込むようにわずかに間をあけ、
『今、獲得したチップでさえ、目標アベレージには程遠いことを忘れるな』
というだけで、強《し》いてバロットを追い立てようとはしなかった。
バロットは感謝して次のチップを握った。
ひょいとレイアウトに置いた。ナンバーは14の赤、2の黒。その様子を見ていた何人かの客が、バロットにあやかって、同じ数字にチップを置いた。さすがに三度目はないだろうという客もいたし、テーブルのアベレージがどうこうと講釈する者もいた。
やがてボールが投げ入れられた。回転は、タブローが左へ、ボールが右へ。白いボールが、赤と黒の運命の輪へ。数字が溶け合うように流れ、ボールがピンに当たり、三十八個のポケットから目に見えぬ手が伸びて、タブローがボールを迎えようとしていた。
ボールが内椀部《ドーム》に当たり、落ちた。
がっしりと手をつなぐように、ボールとタブローとが重なった。
途端に、場に溜め息が満ちた。タブローが停まり、的中数字を明らかにした。
ベル・ウィングがクリスタルを手に取った。
「15の黒」
レイアウトの的中数字に、クリスタルが置かれた。配当のチップが配られ、バロットの賭けたチップはディーラーに持っていかれてしまった。
「惜しかったね」
ふいにそう言われた。自分に向けての言葉だと気づくまでに間があった。
バロットは顔を上げ、ベル・ウィングを見た。ベル・ウィングもまた、バロットを見ていた。だがそれ以上は何も言わず、すぐにテーブル全体に目を戻してしまった。
『惜しいわけはない』
ウフコックが文字を浮かばせ、口を挟んだ。バロットにもわかっていた。
15は、数字盤《タブロー》の配列からいって、ほとんど14と正反対の位置にあるのだ。
だが、ベル・ウィングが声をかけてきた理由が、わからなかった。
客引きに使った客が、調子に乗って、最初の稼ぎを費やすタイプかどうかを見定めようとしたのだろうか。あるいは、自分がボールを上下左右に振り分けられるスピナーであることを、バロットに認識させようとしたのかもしれなかった。
『まだやるのか?』
――最初は勝たせてくれたから、今度は勝ちに行きたい。
というのがバロットの強気な返答だった。その自信もあった。ドクターが教えてくれた攻略法もあった。そして何より、ほとんど初めて、自分が手に入れた能力を駆使して、何かを獲得したいという欲求が湧き上がるのを感じていた。
――それができると思うから。
『最大限のバックアップをする』
バロットの気持ちを察したような返答が来た。バロットは感謝をこめて、チップを握りしめ、テーブルの上の|緑色の絨毯《タピベール》に置いていった。
[#改ページ]
Chapter.4 爆発 Explosion
1
一転して、バロットは一倍から二倍の低い配当を狙って、賭けを行った。
|緑色の絨毯《タピベール》に記された、数字賭けの脇にある、|二者択一の賭け《イーブン・マネー》である。
賭け方は三通り。|低位か高位か《ハイ・ロー》――1〜18、19〜36のいずれかを当てる――の他に、|奇数か偶数か《オッド・イーブン》という賭け方と、|赤か黒か《レッド・ブラック》という賭け方があった。
いずれも、一倍の配当である。バロットは主に、|低位か高位か《ハイ・ロー》に賭けながら、じっと数字盤《タブロー》とボール、そしてベル・ウィングの指先を感覚していった。
ポイントが幾つかあり、それをバロットが告げるごとに、ウフコックが左の手袋の内側に記していった。まず、台《テーブル》全体の水平さ、周椀部《ボウル》の傾斜角の浅さ、ビンの形状と数、そしてタブローの内椀部《ドーム》の傾斜。さらにはポケットの深さとクッションの有無である。
台の傾きはボールの位置の偏りを生む。周椀部《ボウル》が浅ければボールの落下の跳ねが少なくなる。ピンの形状が棒状に近く、数が少ないほど、ボールの跳ね方が予測可能なものになる。内椀部《ドーム》の傾斜が急であればボールはそのまま下に落ち、ポケットが深くクッションがあれば、いったん入った場所からボールが跳び出すことが少ない。
バロットのいる台は、そのどれもが及第点といえた。台は水平で、周椀部《ボウル》は深すぎない。ピンは棒状が四つ、菱形が四つ。内椀部《ドーム》の傾斜は四十度前後。ポケットは五ミリ強。
攻めにくい台であれば、すぐに諦めるつもりだったが、俄然、やる気が湧いた。
それらが把握されるとともに、手袋から文字が消え、続けて、回転の数を数えた。
ボールの周回数と、タブローの回転数である。
その頃には、バロットの賭け方は、一倍から二倍の賭けへと重心が置かれている。
一列賭け《コラム》――0と00以外の数字の、三者択一の賭けで、二倍の配当。
|ダース賭け《ドゥーザー》――1〜12か13〜24か25〜36かの三者択一の賭けで、同配当。
これらの賭け方を織り交ぜながら、スピナーがどのようにボールとタブローを回転させるかを、右回りと左回りで数え上げるのである。
ボールの周回数は、ほぼ十八回から二十回。特にスピナーが意図してボールを放つときほど、十八回に近くなった。ウフコックが、ボールを放ってから落ちるまでの時間を計測し、ピンに当たる割合とタブローとの接触角度を割り出していった。
また、タブローを見極めるポイントは三つ。数字が読める、目で追いかければ読める、全く読めない、というこの三つの状態が、何回転でどのようなリズムのときになるか。
この回転の読みが難しかったが、スピナーの癖を見極めるためにも必要だった。
一方、右手袋の内側には、数字の配列が、ずらりと浮かび上がっている。
ウフコックによるカンニング・ナンバーだ。
ピンの位置に合わせた、八分割した数字の配列だった。それぞれに名称を付け、ウイールのどの位置からどの位置へとボールが跳ぶのかを、正確に判断するためのものである。
まず最初に、北側《ノースサイド》の25―29―12―8。
そして次が、北東《ノースイースト》の19―31―18―6―21。
つづいて、東側《イーストサイド》の33―16―4―23―35、
南東《サウスイースト》の14―2―0―28―9、
南側《サウスサイド》の26―30―11―7、
南西《サウスウエスト》の20―32―17―5―22、
西側《ウエストサイド》の34―15―3―24―36、
北西《ノースウエスト》の13―1―00―27―10。
これら三十八個の数字の並びを瞬時に把握できるのとできないのとでは、ルーレットにおける勝率に、雲泥の差がある。その点でのウフコックのフォローは完璧だった。
ボールが落ちるたびに、ほとんど一瞬で、どの数字のどのエリアに落ちたかが、文字を太く強調することで表されていたからである。
もっとも、数字の配列を手元で見ることはそれほど反則的な行為ではなく、むしろ、ゲームに慣れた者だったら、誰でもやっているといって良かった。
カジノの売店やホテルのロビーなどで、他のカードゲームのハンドの確率表などと一緒に、数表が記されたカードが公然と売られているのである。
問題は、その数字の並びを、どれだけ素早く的確に把握できるかだった。
それによって、さらには、タブローが、回転を始める瞬間と、ボールの落下時とで、どれだけの角度を移動するかを、大まかに把握することができるようになる。
テーブルを四ブロックに分け、たとえばスタート時にAブロックにあった00が、ボール落下時にBにあれば、タブローの回転はほぼ九十度、すなわち四分の一回転である。
これにより、途中の周回を抜かし、ボールとタブローの接触角度だけを抽出する。
ベル・ウィングが意志をもって回転させたときには、角度はほぼ一回転、すなわち三百六十度だった。それ以外は、ほとんど九十度に収まっている。
むろん、それ以外の角度も多々あったが、それらはむしろ、ベル・ウィングが意図的にずらしているせいだ。そういうときに限って、ボールにはまた別の意志が見られるからだ。すなわち、アベレージを分散させようとする意志が。
腕の良いスピナーであればあるほど、アベレージが一定化しやすい。そのため、カジノハウス側がスピナーに、回転数や周回数、タブローとボールの接触角度を、ばらけさせることを命じるのである。
大勢の客との勝負の中で、それを冷静に行えるスピナーはほとんどいない。にもかかわらず、ベル・ウィングは実に的確だった。また、的確ゆえに、ウフコックによって事前に意志を察知されてしまうのも、何とない皮肉のようにバロットには感じられた。
通常、それらの事項は、ルーレットのプロフェッショナルが、何時間も何万ドルもかけて把握するものである。
バロットにとっては、ウフコックがその手におり、また事前にドクターの講習を受けていたからこそ、できたことだった。わずかに一時間弱。金額は一万ドル未満である。
たったそれだけの時間と投資で、バロットは、台の特徴、スピナーの癖、そしてアベレージをばらけさせようとするカジノハウスの命令などを、ほとんど肌で感覚していた[#「ほとんど肌で感覚していた」に傍点]。
いつしかステップを踏むように――賭け方も、低倍率から、徐々に高倍率の賭けへと発展していった。
六目賭け《ライン》――|賭け枠《レイアウト》の線の上に置く、1〜6全てへの賭けで、五倍の配当。
五目賭け《ファイブナンバー》――0と00、そして1〜3への賭けで、六倍の配当。
四目賭け《コーナー》――四つの数字への賭けで、八倍の配当。
三目賭け《ストリート》――十一倍の配当。
そしてまた、当たることはなかったが、
二目賭け《スプリット》――十七倍の配当。
一目賭け《ストレート》――三十五倍の配当。
といった、ほとんど運頼みの賭けも、半ばスピナーや他の客への牽制をこめて行った。
その他、大陸方式の特別ルールが一部取り入れられており、それは他のテーブルには見られない賭け方だった。おそらくベル・ウィングが特別にカジノハウスに認めさせたのであろう、特殊な方法だった。
その特別ルールは三種類。一つが末尾数字《フィナール》――たとえば「3の末尾数字《フィナール》」と配当係のディーラーに告げれば、3、13、23、33に百ドルずつ賭けるといった具合で、当たったチップに対し、八倍から十一倍の配当が与えられる。
|ゼロ周辺《ジュー・デュ・ゼロ》は、文字通り0に隣接した六つの数字に賭けるもので、35―14―2―0―28―9―26へ、百ドルずつ置くことになる。26が当たれば三十枚、それ以外なら十五枚のチップが返ってくる。だがこれは本来、数字の並び自体が違う大陸方式のルーレットの賭け方で、ディーラーの総取りである0への用心という以外、あまり意味はなかった。
監獄《プリゾン》は、0の目が出たとき、全てのチップが没収されるが、一倍賭けに置かれたチップだけが凍結されるルールだった。客はそこで、賭け金の半分だけ返してもらって勝負を諦めるか、チップを置いたまま次回の結果を待つかを選ぶことができる。
バロットはこれを利用して、0の周辺を狙うときは必ず一倍賭けを同時に狙った。
賭けの推移を考えたとき、損失を抑えやすくするのと、スピナーの意図をつかむ端緒とするためである。
『すごいな』
ふいに、ウフコックが、アドバイス以外の言葉を文字で表した。
――なにが?
『君が』
――私?
『我々の目標アベレージに近づきつつある』
――そのつもりで、やってる。いけないこと?
バロットは急に不安になったが、
『そのままやってみてくれ。俺にできることは少ない』
というのがウフコックの指示だった。
バロットはちょっと嬉しくなってさらに干渉した。
――どこにボールが落ちるか、わかる気がする。
『予測できるのか?』
――予感がするの。
そのときだった。
「お嬢ちゃん、ルーレットは初めてかい?」
唐突に声がかけられていた。
ディーラーが、配当のチップを配っている合間を見計らっての、声だった。
バロットは、再び、声の主を見上げた。
ベル・ウィングは、今度こそ、じっとバロットを見つめていた。
〈はい〉
と素直に音声に出して答えた。ベル・ウィングは、その電子音声にちらっとチョーカーを見たが、それについては何も言わなかった。
代わりに、こんなことを言った。
「目がきらきらしてるよ。慣れた目じゃないね。ボールが動くのが楽しいって感じだ」
バロットはうなずいた。正直な気持ちだった。そうでなければ、ここまで熱心になれなかった。だが、もう一つ重要な点があった。
〈あなたがスピナーだから、楽しめてるんだと思います〉
とバロットは付け加えた。
ベル・ウィングは、特に何かを感じたふうでもなく、小さくうなずき返した。ありがとう、というように。いかにも鷹揚《おうよう》で、涼しげな所作だった。
「だが、あんた、大きなことをしようとしているね」
ベル・ウィングが言った。
「このカジノに恨みでもあるのかい」
〈どうして?〉
「あんたのチップがそう言ってるからさ」
バロットは反射的に自分のチップを見た。それから、再びベル・ウィングを見上げ、思わず背筋に鳥肌が立つのを覚えた。自分がベル・ウィングとこのテーブルを読んでいたのと同じくらい、ベル・ウィングもひそかにバロットのことを読んでいたのだ。
いったいどこまで読まれているのか。おそらく深いところまで読まれているのだろう。その賭け癖から、攻略法、性格まで。そう思って、頬がそそけ立つようだった。
怖さやプレッシャーと同時に、奇妙な感動のようなものさえ感じていた。
「スピナーってのは、ほんのちょっとした賭け方から、客の心を読むもんさ」
〈あなたに迷惑をかけるつもりは、ありません〉
咄嗟《とっさ》にそう返すと、ベル・ウィングはそこで初めて唇に笑みを浮かべた。
「あたしのテーブルに着いた理由は?」
〈あなたが素敵だったから〉
即答した。ベル・ウィングはそれ以上何も言わず、再び台に手を触れた。
そのとき、ちらりとベル・ウィングの目が動いた。
目だけではなく、全身が、一つの数字へと集中するのを感じた。集中した先は、レイアウトの中の一つの数字であり、これから回転させようとするタブローの数字である。
2の黒。最初にバロットが当てさせてもらった数字だ。
ベル・ウィングがボールを手にした。反射的にバロットの手も伸びていた。チップをその数に賭けるのと、ベル・ウィングがタブローを回転させるのとが、同時だった。
ボールが放たれ、周椀部《ボウル》を強く滑らかに疾走した。タブローの数字が溶けて重なり、バロットの予想を上回る接触角度を見せようとしていた。
バロットは慌てて新たなチップを握り、ボールの行方を追ったが、すでに遅かった。
「|それまで《ノーモア・ベット》」
凛《りん》とした声が、バロットの動きを完全に封じた。
やがてタブローがボールを飲み込み、援やかに回転し、そして停まった。
「3の赤」
ベル・ウィングが涼やかに告げた。
クリスタルが、レイアウトの的中数字の上に置かれ、ざわめきとともにチップが配られ、あるいは回収されていった。
バロットが賭けた五百ドルは、藻屑といって良かった。
ふいにまた、ベル・ウィングがこちらを見るともなく見ているのに気づいた。
バロットはちょっと唇の端を下げ、悔しそうな顔をしてみせた。演技のような、正直な気持ちのような、どちらともつかぬ表情だった。
先ほどの動きはフェイントだったのだ。バロットの気持ちを受け流し、無造作に外れさせる[#「させる」に傍点]という、きわめて高度な技術だった。
ベル・ウィングは、その穏やかな立ち姿でもって、バロットに問いかけていた。
こういうことをする人間が、素敵なのか、と。バロットは思わず微笑を返した。その笑みに、ベル・ウィングの冷ややかな目が向けられた。
「あたしには、スピナーとしての仕事がある」
〈はい〉
「その仕事にプライドがある。義務がある。あんたの邪魔もする。最初のは好意でもなんでもない。あたしの仕事だ。それでも、他のテーブルに行く気はないのかい?」
意外なくらいだった。ベル・ウィングは、はっきりと、完全にバロットをマークしたと告げていた。このテーブルでこれ以上勝たせるつもりはないと。明らかな牽制だった。
バロットはチョーカーに触れ、声を放った。
〈もう少し、遊ばせてもらいます〉
「あたしが、あんたの手助けをすると?」
〈ゲームはゲームです。私が勝手にあなたから学びます〉
「学ぶ?」
バロットはうなずいた。こんな賢《さか》しい会話をする自分を不思議に思いながら、
〈それが何かはわかりません。でも何かを学べると思ってます〉
と告げた。
ベル・ウィングは、また小さくうなずいた。
「良いさ。そこまで言うなら止めないよ。ただし、あんたの運が左回りになり始めたら、あたしは容赦しない。どこまでも左に回す」
〈左回り?〉
だがベル・ウィングは答えなかった。
静かにルーレット台と向き合い、タブローに触れた。
この女性も、この台も、このゲームも、何もかもが面白い――ふいにそんな気持ちが湧き起こった。止められない感じがした。どこまでも突き進んでいきたくなった。
『バロット、気をつけろ』
ウフコックが警告してきた。一瞬、制止する気かと思って、強く干渉し返した。
――この台で勝負する。そうしたい。
『相手は君の攻撃意欲を敏感に察している。万全の態勢で来るぞ』
――攻撃?
そう指摘されて、初めてその気持ち[#「その気持ち」に傍点]に気づいていた。
すっとその強い気持ちが空気に逃げてゆくようにした。攻撃する意志を、このベル・ウィングは、すぐさま読み取って逆手に取ってしまうだろう。さっきの3の赤のように。
肝心なのは、確信だった。攻撃ではなく、ボールがどうなるか、という確信だ。
――このゲームで勝ちたい。あなたに迷惑はかけないから。お願い。私にやらせて。
『相手の感情が読みにくい。確信した匂いがする。何を確信しているかがわからない』
――私、わかる気がする。
『なに?』
――ボールが回ってるってこと。
ウフコックが、困惑したように、
『俺も、ボールの回転は確認しているが?』
そういう文字を浮かび上がらせるのを感じた。バロットは微笑した。
ベル・ウィングが運命の輪を回転させ、ボールを矢のように解き放った。
バロットは自分が拳銃か何かになった気がした。チップで狙う運命の数字は、射撃の着弾修正と同じだった。狙いがずれていれば、ずれた方向に移し、照準を調整して、中央に数字が来るようにし、的中へ向かって、徐々に左右のあそび[#「あそび」に傍点]を減らしてゆく。
バロットが賭けた数字は、北西《ノースウエスト》の13―1―00―27―10に五百ドルずつ。
さらに、一倍賭けの赤か黒か《レッド・ブラック》で、黒に五百ドル。
タブローが、ボールを飲み込んだ数字は、29の黒。
位置としては、二つずれていた。
五百ドルの等倍のチップをもらい、それをそのまま次の賭けに費やした。
次の勝負では、北側《ノースサイド》の25―29―12―8に五百ドルずつ。加えて、25―26、29―30、11―12の三点に、二目賭け《スプリット》で五百ドル。さらに|赤か黒か《レッド・ブラック》で、赤に五百ドル。
「30の赤」
ベル・ウィングが告げた。
二目賭け《スプリット》の的中で十七倍、赤で等倍、合わせて九千ドルが返ってきた。二千二百ドル以上の勝ち越しである。ボールを反対側へ散らす[#「散らす」に傍点]ことを読んだ上での賭けだった。
バロットはタブローの回転を見た。前回のと今のとで角度と速度の違いを肌で感じた。
チップを握り、ベル・ウィングの挙動を見守った。
先ほどとは逆の手でタブローが回され、反対の周回でボールが放たれた。
バロットの手が動いた。
南側《サウスサイド》の26―30―11―7に素早く五百ドルずつ。
さらに、28、9、20、32に、五百ドル。
この時点で、ボールの周回は五周目。賭けを打ち切るまでに、まだ一分以上あった。
ボールはさらに十回以上回り、回転をゆるめたタブローへと落ちていった。
一瞬、ベル・ウィングが目を細めた。
「17の黒」
四千ドルのチップが、丸ごと、バロットの手から、テーブルへと飲み込まれた。
その様子に、周囲の客が沸いた。高額の賭けを次々と行うことで場が熱狂するのは、どこのテーブルでも同じだった。
だがその熱狂のさなかにあって、ベル・ウィングは冷たく冴えるようにバロットが賭けた数字を見つめ、そしてまたルーレット台と向かい合った。
17の黒は、バロットが最後に賭けた32の赤の、すぐ隣[#「すぐ隣」に傍点]だった。
バロットは、今度は、先ほどとは違う、ベル・ウィングの指先の仕事[#「指先の仕事」に傍点]を感覚していた。テーブルの癖や、アベレージといったことに加えて、ベル・ウィングはわずかな力加減の差で、バロットが狙うであろう数字をぎりぎり外したのだ。
そんな証拠はなかったが、確かな感覚があった。今はなにより頼りになる感覚だった。
ボールが放たれた。台の形状、構造、角度、ベル・ウィングの指のしなやかさ、ボールの回転、数字が変転するタブローの様子、そのどれもが美しかった。
バロットはチップを指でつまむようにして、そっと並べた。
14―2―0に、五百ドルずつ。
それ以上、置く気はなかった。
ボールはするすると激しく回転している。
ベル・ウィングの眼差しが、射るようにバロットを見つめていた。
ボールがピンに跳ね、そして落ちた。
タブローが巡り、運命の数字を表した。
「|0の赤《ゼロ・レッド》」
テーブルが激しく沸いた。0に賭けていたのはバロットただ一人である。それ以外は全て没収か、監獄《プリゾン》に入れられることになった。
バロットの前に、三十五倍の配当が集められた。一万五千ドル以上のチップが。
「チップが木《こ》っ端《ぱ》のようだね」
ベル・ウィングが静かに言った。
バロットは、ベル・ウィングが怒っているのだろうかと思い、ちょっと不安になったが、そういうわけでもなさそうなのを見て、微笑を返した。
「台の癖はもうわかったのかい」
バロットはうなずいた。
〈平らな台です〉
「そうだね。平らすぎる台だ。運が偏る」
〈運?〉
「確率的なことを言えば、毎回、同じ確率でボールが散る[#「散る」に傍点]ことのほうが、よほどありえないことさ。苦労させられるよ。誰のためでもなく、運の偏りを切り崩すのはね」
ベル・ウィングはそこで少し顎を左右に振った。
「ディーラーなんてのは、多かれ少なかれ、客の破滅を見るのがひどく楽しみな人種なのさ。人間の支配欲ってのは、老若男女を問わず色々なかたちで表れるものだけど、ディーラーの支配欲は、中でもいっとう、狡賢《ずるがしこ》いものの一つさ」
ベル・ウィングが、淡々と、しかし深く胸に泌《し》みるように、告げた。
そんな声を出せるのに、と思った。そんな声で告げるには、言葉に失望が濃すぎた。
〈どうして、このカジノで働いているんですか〉
つい、そう声にして訊いていた。
「あんたは、このカジノの何を知ってるんだい?」
バロットはちょっと黙った。ここで自分たちの目的を告げて良いわけがなかったし、また、シェルやオクトーバー社のことを口にすることもできない。
「そうかい……ここのボスに恨みでもあるんだね」
ベル・ウィングが、ふいに、目尻に静かな皺を溜めた。バロットが目を見開いた。
「どんな経営者[#「経営者」に傍点]のカジノだろうと、あたしには関係ない。金が必要だったのさ。夫が病気でね。あたしとは違って真っ当なかたぎ[#「かたぎ」に傍点]だったけど、性根はあたしと似たところがあった。狡賢くて、欲が深いのさ。それでも子供たちには、金ではなく教えと兄弟[#「教えと兄弟」に傍点]を残した。その一点だけが偉くてね。金はあたしが稼ぐことになったのさ」
そこでかすかに言葉を切ろうとする素振りをみせた。だが気が変わったのか、ディーラーがチップの配当を行っているのを見て、さらにつづけた。
「夫が死んでからも、左に回り続けているような気がしてね。そこから右に回るすべを探して、ここでボールを放り続けていたんだ」
〈左回り?〉
バロットが訊いた。先ほどと同じ質問だった。
だがベル・ウィングは、そこでバロットから目を離した。
また答えを拒《こば》まれたのかと思ったら、
「運命の輪は二重だ」
ベル・ウィングは、ルーレット台を見ながら、そう告げていた。
「左へ回れば悲しみを運んでくる。右に回れば喜びを運んでくる。右回りの運命を呼び込むことが、あたしの人生とのつき合い方なんだ」
まるで、タブローに話しかけるような声音《こわね》だった。
やがてベル・ウィングがタブローに手を触れた。新たな勝負のために数字を回し、ボールを放った。タブローは左回りに、ボールは右回りに回っていった。
バロットは正確にその動きを読み、チップをつかんだ。千ドルのチップを置くとき、これは自分で決めたことなのだと思った。ウフコックは席を移ろうと言い、ベル・ウィングも去れと言った。それでもここに座り続けることが、そのときのバロットの気持ちであり価値だった。
楽園≠ナ、シェルの記憶の在処《ありか》を調べるために、あのプールに飛び込んだのと全く同じことを、自分は今、しているのだ。そう強く思った。
バロットがチップを置いた数字は、北西《ノースウエスト》の13―1。
一目賭け《ストレート》を、千ドルずつ。
ベル・ウィングが、周回を続けるボールを見て、目を閉じた。
「また、左へ回った」
そんな、淡々とした呟きが聞こえ、
「|それまで《ノーモア・ベット》」
凛と告げる声は、あくまで穏やかに澄んでいる。
ボールがピンに触れ、右回りに落ちていった。
左回りのタブローに当たり、ドームの上を滑って、するりと飲み込まれた。
テーブルが沸きに沸いた。他のディーラーたちが愕然としてそれを見ていた。まるで町中に暴動が起こり、良いように市民に略奪されるマーケットの店主たちのように。
ベル・ウィングは、クリスタルを手に取り、
「|1の赤《ワン・レッド》」
と告げた。
テーブルのチップが乱舞するかのようだった。どっと一カ所へ集められ、バロットの前に、控除分を引いた額、三万四千ドルが積み上げられていった。
ベル・ウィングは、静かな目で、チップの様子を見つめている。
〈次は、右に回して下さい〉
バロットが、声をかけた。
ベル・ウィングの目が、チップの山から、バロットの顔に向けられた。
〈当ててみせます〉
何の衒《てら》いもなく告げていた。それを耳にしたディーラーの一人が、ぎょっとベル・ウィングを振り返った。ベル・ウィングは背筋を伸ばし、
「名前は?」
〈ルーン=バロットです〉
「覚えておくさ。あたしは、ベル・ウィングだ」
バロットはうなずいた。
「あんたみたいな孫娘が欲しいと思っていたところだよ。あたしの孫はみんな男でね」
ちょっと驚いた。脇で話を聞いていたディーラーも、同様に目を見開いていた。
「あんた、自分で玉を放ってみたくなったら、あたしに会いに来な。どこのカジノでもいいから、その店で一番腕の良いスピナーに、ベル・ウィングの弟子になりに来たと言えばいい。運が良ければ、あたしの技を教えてあげられる」
恐らく、一緒に仕事をしているディーラーでさえ聞いたことのない言葉だったのだろう。ディーラーはぽかんと口を開けて、バロットとベル・ウィングの顔を見比べていた。
〈はい〉
とバロットが答えた。ベル・ウィングは目を細め、
「さあ、右に回すよ」
チップの配当が終わったのを見計らって、先ほどとは逆の手で、タブローに触れた。
それによって座が再び静まっていった。ベル・ウィングの指先が、柔らかくシリンダーを回した。右回りへ。それに重ねるようにして、ボールを左回りに放ち、周回させた。
完璧な動作だった。バロットは余さずそれを見た。
ベル・ウィングの仕事と、そして誇りを。まるで舞台に登る役者だと思った。
事実、これが、このカジノでの、ベル・ウィングの最後の舞台だった。
「大陸生まれのスピナーさ。故郷の町は、誰もがカジノとゴルフ場とウイスキー作りで暮らしているような、小さな町だった」
ベル・ウィングが呟くように言った。
「もうしばらく、この稼業を続けていようという気になったよ。もうちょっと気分良く投げられるカジノで」
その言葉を聞きながら、バロットは、静かにチップを置いた。たった一つの数字に。
それ以外の場所や、それ以上のチップを置く気はなかった。バロットが積み重ねた一万ドルのチップに、ざわっと周囲の客が反応した。とともに、さらにその数字の上に、菓子にたかる蟻の群のごとく、色とりどりのチップが後から後から置かれていった。
「ルーン=バロット」
ベル・ウィングが呼んだ。
〈はい〉
「運を右回りにする努力を怠《おこた》ってはいけないよ」
〈はい〉
「なに、難しいことじゃない。女らしさを磨くのと一緒さ」
〈どうすればいいんですか?〉
「いるべき場所、いるべき時間に、そこにいるようにしな。着るべき服、言うべき言葉、整えるべき髪型、身につけるべき指輪と一緒に。女らしさは運と同じさ。運の使い方を知ってる女が、一番の女らしい女なんだ。そういう女に限って運は右に回るのさ」
バロットはうなずいた。ベル・ウィングは、うずたかく積まれたチップと、その下にすっかり隠れてしまった数字を見やった。
「あんたが当てる数字が、あたしにとって右回りであれば、それで良い」
穏やかにそう言ったとき、ボールの周回がゆるやかになっていった。
「|そこまで《ノーモア・ベット》」
ベル・ウィングの声が澄みやかに響いた。
左回りのボールが、ピンに当たった。
旋回するタブローの数字が、目で追って読めるほどの速さになり、溶け合っていた数字がそれぞれのポケットを表し始めている。
帰る場所を見つけたように、ボールがタブローに飛び込んだ。目指すべき数字へと。
左回りから、右回りへ乗り移るように。そんな気がした。
うわっと場が沸騰し、誰もが驚喜の声を上げている。
その中で、ベル・ウィングの手が、静かにクリスタルを持ち上げた。
「|2の黒《トゥー・ブラック》」
そう告げ、積み重ねられたチップで隙間もないレイアウトの数字枠の横に、クリスタルを置いた。途端、テーブルに集まった客が爆発的な歓声を上げた。まるでスロットで高級車でも当てたみたいに。チップがやかましく鳴り響き、客たちが小躍りして手を叩き足を踏み鳴らすなか、ベル・ウィングの声は、最後までよく通った。
「あたしにはよく見えなかった」
そう言ってバロットを見つめ、
「どうだったね?」
と訊いた。バロットは、配当される三十数万ドルのチップには目もくれず、答えた。
〈右へ回っていたと思います〉
ベル・ウィングは、静かにうなずいた。
「さ、もう行きな。これで、あんたにとってもあたしにとっても、このテーブルは終いだよ。この店でのベル・ウィングのテーブルは、これ限りさ」
そう言いながらバロットを見つめた。どこまでも穏やかで強く、しなやかな姿だった。
ベル・ウィングの背後に、配当をしていた別のディーラーが立った。先ほどバロットとベル・ウィングの会話に耳を傾けていたディーラーである。他の台で配当を行っていたディーラーも集まり、ベル・ウィングの後を引き継いで、ルーレット台を担当した。
ベル・ウィングは背を伸ばし、凛としてテーブルを去っていった。
2
「彼女は、立て続けに君の一目狙い《ストレート》に振り込んでしまったんだ。待っているのは、ピットボスの叱責と、マネージャー査問だろう」
両腕いっぱいのチップとともにテーブルを離れた途端、ウフコックが言った。
――あの女《ひと》は、仕事をなくしたの? 私たちのせいで?
「そうかもしれない。だが彼女にとっては、大したことではなさそうだった。むしろ、何かが吹っ切れたような匂いがした。こういった事態に、慣れているのかもしれない」
――慣れ?
その言葉を聞いて、思わずベル・ウィングの姿を探した。バロットが知る限り、それはあまり良い言葉ではなかった。それどころか、悲しさばかりがつのる言葉だった。
そのバロットの気持ちを察したのか、ウフコックが言い添えた。
「業界屈指の技術者だ。我々が心配したところで、彼女の助けにはならないし、彼女のほうも我々の心配など必要としていないだろう――」
そう、バロットを安心させるような口振りで告げたかと思うと、
「それに、彼女が回した数字は、右回りだったんだろう?」
自分にはよくその意味がわからないが、と注釈を入れるような口調で、訊いてきた。
――そうだと思う。
「我々は、我々の仕事をしよう。彼女は彼女の仕事を果たした」
それでようやく、バロットはうなずいた。
そのとき、背後から誰かが近づいてくる気配があった。振り返ると、ドクターが、にこにこしながらこちらを見ていた。
「恐ろしく、目立っていたね」
というのが、ドクターが笑いながら告げた感想だった。
〈ごめんなさい〉
「いやいや」
ドクターが首を振った。とても丁寧な仕草で。ドクターは、バロットが得たチップの重みを、ちゃんとわかっているようだった。
「どのみち、勝負に出る頃合いさ。僕らのアベレージが届くには、ぴったりのタイミングだよ。とはいえ――」
そこで、ちょっと周囲に顎をしゃくって見せた。
「客の中には、君に声をかけてみたくなったヤツが大勢いるだろうからね。早いところ、この辺りから離れるに越したことはないってことさ」
そう言われて初めて周囲の視線に気がついた。バロットたちを警戒し始めたディーラーやピットボスたちの視線の他に、一般の客がちらちらとこちらを伺っているのが感覚されていた。警戒というのではなく、とはいえ、単純な興味以上の視線だった。
「中にはろくなのがいないからね」
ドクターはそう言いつつ、さっさとフロントに向かって歩き出していた。
「今のゲームを見て、君をスカウトしたくなってるプロの連中や、金儲けの匂いに敏《さと》いヤツらが、うじゃうじゃいるんだ。気をつけないとね」
バロットは黙ってドクターに付いて歩いた。その胸で、チップがかちゃかちゃ音を立てていた。そういう視線は、バロットを見ていたし、バロットが抱えたチップを見ていた。そしてまた、バロットとチップをセットで見つめ、欲しがっていた。
〈私、ルーレットだったら、絶対に勝てると思う〉
何となく、周囲の視線に対する腹立ちまぎれに、かえってそんなことを告げていた。
〈何百万ドル賭けたって、外さない〉
「我々の目標アベレージとは関係のない勝率だ」
と返したのはウフコックだった。この相棒は、何よりバロットの感情にこそ敏かった。
「ルーレット台を担当しているディーラーたちだって馬鹿じゃない。台をより難度の高いものにするか、あるいは特殊な機器を使用することだってあり得る」
〈でも――〉
「だいたい、目的のチップはルーレット台では手に入らない。チップの山を幾つ手に入れても、我々にとっては徒労だ。カジノに食べに来ているような連中《プロ》とはわけが違う。俺がここにいる理由は、あくまでスクランブル―|09《オー・ナイン》における正当な行動のためだ」
〈うん〉
ふいに、不快感がすっと体から抜けていく感じがして、素直に納得した。
誰かが自分を便利な物[#「便利な物」に傍点]として見るときの視線には、いつまで経っても慣れそうになかった。今まではなるべくそれを感じないように、こちらの目を塞いでいただけで。
そういう意味では、ドクターもウフコックも、ぎりぎりの所に立っていた。
いつ、バロットを物[#「物」に傍点]として扱うようになるか。その瞬間を思うと、その恐ろしさに、思わず二人と離れたくなるほどだった。
急にこんな気持ちになったのは、ベル・ウィングのような女性にふれたからだろうか。そんなふうに思った。バロットにはまだ、自分の放ったボールを撃ち抜かれてなお、凛としていられるような自信は、なかった。
あるいはまた、自分を酷く濫用[#「濫用」に傍点]されてなお、バロットの腕にこうしてやどってくれているウフコックのような優しさも、持っていないのだ。
フロントで、大量のチップを交換している間、そんなことを考えていると、ふとドクターがこんなことを言った。
「君でも、あんな顔をするんだね」
バロットは、咄嗟に何のことだかわからず、ドクターの顔を見上げた。
「あのスピナーと戦っていたときの、君の顔さ」
〈どういうこと?〉
つい、きな臭い匂いでも嗅いだような顔で訊いていた。
「鋭くて、怖い顔さ。僕らなんて、要らないんじゃないかと思えるくらいに。やっぱり、ここに連れてきて、正解だったかな」
両替してもらった一万ドルチップの塊を籠ごとバロットに渡しながら、言った。
バロットはドクターの言わんとすることが掴めなかったが、ドクターはさっさとフロントから離れ、ボックスバーへ向かって歩き出している。あっちのゲームを覗き、こっちのゲームに口笛を吹き、演技なんだか地なんだかわからない享楽的な様子だ。
バロットは一歩遅れて、黒塗りの遮蔽に仕切られたボックスの席に座った。客の行き交う空間と隣り合った、ほとんど唯一ゲームとは関係なく座れるテーブルである。
「飲み物は?」
ドクターが訊いた。バロットがメニューを指差す。ドクターがまとめて注文用のマイクに向かって頼んだ。それが終わると同時に、今度はバロットが訊いた。
〈怖い顔って?〉
「……うん?」
〈私の顔――ルーレットをしていたときの〉
「ああ」
〈どういう顔?〉
「いやいや。何て言ったら良いんだろう……」
「君は、君にしか見えないものを見ていた」
と、ウフコックが口を挟んできた。
〈よくわからない〉
「君が自力で事件を解決する能力に目覚めることで、我々が用なしになることを恐れているんだろう――ドクターは」
ドクターは、冗談っぼく肩をすくめた。むしろ、そのほうが良い、とでも言うように。
そこへグラスを二つトレイに乗せたウエイトレスがやってきた。ドクターがチップと一緒にウインクを渡した。さも遊び慣れている風情で。ウエイトレスはチップを胸の谷間に入れ、少しお尻を振ってみせながら去っていった。
その後ろ姿をなんとなく睨みつつ、
〈あなたたちが今、いなくなったら、私はすごく困ると思う〉
正直に思っていることを言った。別に、それで相手に甘えるつもりもなかった。
ドクターはグラスを手に取りながら、にこっと笑ってみせた。
「まあ、そうでなきゃ、僕らはスクランブル―|09《オー・ナイン》の事件担当官としては能なしってわけだ。明日にも廃棄処分および刑務所行きが待っている」
〈だったら、要らなくなるって、どういうこと?〉
「君には、いつだってその権利があるんだ。僕らをクビにして、別の事件屋を雇う権利がね。法務局《プロイラーハウス》の担当官に、ひとこと、そう言えば良い。そのための軍資金も、君は今、自分の力で手に入れたんだしね」
〈そんなふうに考えなきゃいけないの?〉
「君に、そういう考えはないの?」
バロットは眉をしかめた。なぜ、ドクターもウフコックも、急にこれまでとは全く逆のことを言い出したのか。それがわからなかった。あるとき突然、別れを告げられそうになったときの感じに似ていた。
〈なぜ?〉
「まあ、僕の方針では、君がそんなことに考えも及ばないよう、僕らの優秀さを常にアピールすべきなんだけどね」
バロットはうなずいた。事実、ドクターもウフコックも、そうしていた。
「君は、事件当事者だ」
バロットはまたうなずいた。
「僕らを雇い、不当な被害に対し、訴えを起こし、戦っている」
三度《みたび》うなずいた。
「そして今、君は、自ら事件を解決する側に回った」
今度は、咄嗟にうなずけなかった。これは、ルーレットであんな勝ち方をしたせいだろうかと思った。自分でも気づかなかったどこかで、ドクターや、ウフコックを怒らせてしまったのだろうか。そんなふうに思って、途端に気寂しくなった。顔からは表情が失せ、ただじっと、無感動の殻に覆われた眼差しでドクターを見つめ続けた。
「君は、力を自覚した。ドクターが言いたいのは、そういうことだ」
ウフコックが言った。思わずどきりとして、両手の手袋をぎゅっと握りしめていた。
「ドクターは、隠れ処で、銃撃戦を戦い抜いた君を、間近で見ていないからな。君の能力に対して、初めて、技術者としての責任を感じているんだろう」
〈責任?〉
「もし君が、君の個人的な悪意で力を振るうなら、ドクターは君の能力を凍結して、君を事件解決のための要協力者の項から外さなければならなくなる」
それを聞いて、バロットは首筋に、ひやっとしたものを感じた。とても冷たいものを。今初めて、ウフコックの口から、かつてバロットが、自分の力と、そしてウフコックとを濫用[#「濫用」に傍点]したことで、叱りつけられているような感じだった。バロットは、じっと自分の手を――そこに宿るウフコックを見つめた。だが、
「君は、成長する」
バロットの内のやましさ[#「やましさ」に傍点]を、やんわりと引き受けるように、ウフコックが言った。
「俺やドクターとは比べものにならないスピードで能力を自覚し、その使用法を見つけ出してゆくだろう。ときには、我々に不可能なことも、君になら可能な場合だって出てくるはずだ。そして結局、我々が気にしているのは、君自身の焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]に他ならない」
〈焦げ付き――?〉
「当カジノにおける我々のプランは、これで最後の段階に入った」
ウフコックが告げた。厳《おごそ》かに、とさえ言えるような口調で。
「俺とドクターは、最大限、できることをするしかない。そして君は、できなかったことができるようにならなければいけない」
「なあに、君になら、できるさ」
ドクターが言った。バロットは、自分の手を見つめていた目を上げた。
「問題は、できなかったことが、できるようになった瞬間、君の踏み出した足のつま先が、どの方向を向いているかってことでね」
〈それが、焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]? 私の?〉
「人間の心理は、そういうふうに出来てるってことさ。シェルを逮捕するための物証を手に入れたところで、そこから先、君自身が焦げ付きの中で足を取られたまま、事件に関わり続けていくんじゃあ、しょうがない」
バロットは、また眉をひそめた。といって、決して悪い気はしていない。なんとなく、二人に対して申し訳なさを感じていた。自分が物扱いされることを恐れて、二人から離れたくなった気がしたことで。それは結局、自分自身のやましさがそう思わせただけではないのか。
〈どうして急に、そんなふうに優しくなるの? 私のことなのに〉
「そりゃ、まあ……」
ドクターは下唇を突き出し、口ごもりながら肩をすくめた。
〈私、きっと、どこもかしこも、焦げ付いてる〉
我知らず、きつい表情になって告げた。
〈だから、走り出したら、止まらないと思う。あなたたちに迷惑をかけたくないと思ってるのは本当。ここで止めたほうが良いの?〉
「君の目的は?」
ドクターが逆に訊き返した。
バロットは考え込んだ。グラスのシナモンエードを見つめながら。目的は単純だった。だが、それがどんな意味を持つのか、正しく答えられるだろうかと思った。
〈私、トゥイードルディたちに言った〉
やがて、グラスから目を離し、そう告げた。
〈プロフェッサー・フェイスマンにも言った。楽園≠出るときに。私は、私の事件を解決しなくちゃならないって。そんな気がするの。そうしなければ、どこにもいられなくなってしまうから。だから、そのために[#「そのために」に傍点]、私はシェルの過去を手に入れて――〉
そこでまたふいに、ひやっとした。首筋どころか、腹の底から冷えてくる感じだった。その心は、殺意に似ていた。そのことに、改めて、気づいていた。あるいは、ドクターとウフコックの二人によって、気づかされていた。
「君が能力を駆使し、目的を果たすとき、同時に誰かが、破滅するかもしれない」
ウフコックが、静かに言い添えた。
「基本的人権も財産も凍結され、多大なる時間を、閉鎖された環境によって奪われる。我々によって刑務所に送られた人間が、そこで自ら命を絶つ行為に及んだことも、一度や二度ではなかった。むろん、何度となく出てきては同じようなことを繰り返す、しぶとい[#「しぶとい」に傍点]のもいたが――彼らが、俺たちによって、命以外の何か重要なものを失ったことは確かだ。それが、彼らの焦げ付きの結果だとは、簡単には言えない。そこには、俺やドクターの焦げ付きもあるからだ。我々は、そういう方法を敢えて選んだ。だからこそできるようになったことも多いが、できなくなってしまったことも多かった」
〈残酷になれってこと? このまま目的を果たすなら?〉
「そうだ。自分自身の残酷さを認識しなければ駄目だ。あのベル・ウィングが、自分のことを、狡賢いと言ったように。そうできなければ、連邦法違反者となったほうが、まだましかもしれない」
「おいおい、ウフコック。僕はそこまで彼女に背負わせるつもりは……」
「彼女くらいの年齢であれば、俺の種属[#「俺の種属」に傍点]など、七世代は交代する。十分な年齢だ」
ドクターが呆れたように大口を開けた。
「お前な、人間は哺乳類の中で最も成長が遅いんだぞ。お前みたいに、生まれたときから大人だったわけじゃないんだ。何も彼女にそこまで……」
〈でも、それが、シェルの選んだゲームなんだと思う〉
バロットが、ドクターを遮《さえぎ》って、告げた。
〈だから、私も、そういうゲームを選ぶかどうかってことなんだと思う。それに、それ以外のゲームなんて、もうないと思う。もし誰かに、ここで私が、ゲームを諦めたら、みんな幸せになるって言われたとしても、私には、それは許せないから〉
そう告げた途端だった。バロットは、急に自分がちっぽけな存在に思われた。微力しか持たない、ただの個人としての自覚といって良かった。
なんだ、というのが、心の中の正直な呟きだった。今こうして自分が手に入れた力など、全能からは、実にほど遠いものだった。ただ単に、そこへ近づくための杖のようなものでしかなかった。そのことがひどく淡々とした気持ちとして納得されていた。実に当然なことに、改めて気づいたようなものだった。だから、
〈せめて、今あるチップを全部使って届くところまでは行きたい〉
そんな言葉を、何の衒《てら》いもなく、二人に対して告げることができていた。
「大したもんだ」
ドクターが言った。目が、バロットの手を見ていた。そこに宿るウフコックを。
「僕らの仕事にしては、ずいぶんと大したもんじゃないか、ウフコック? バロットは自分で自分の価値に挑戦しようってんだから」
それから、
「もう少し、素直になったほうが良いぞ。僕の経験上」
と、バロットにはわからないようなことを言った。
「十分、そうしているつもりだ」
ウフコックが言った。ちょっと、ぶすっとした感じだった。
「ここから先は、ノンストップだ」
そう言って、ドクターが顔を上げ、バロットを見た。
「絶対に勝たなければ駄目だ」
バロットはうなずいた。二人に対する感謝が胸いっぱいに溢れそうになった。
その気持ちのままいられることを切に願った。それこそが何よりの勝利だった。
3
モーテルの支配人は、その男が現れた瞬間、逆らう気力を完全に失っていた。
もちろんボディガードもいたし、カウンターの下のショットガンには大口径の散弾が詰まっている。だがそのどれもが男に対して無力であるだろうことを悟り、そしてまた、公的な場での、裁判や審理や書類を通した力でも、到底勝てそうにないことを悟った。
「ディムズデイル=ボイルド――委任事件担当官だ」
支配人は、証明章を見せられる前に、完全に降伏しきっている。それだけの圧力が、今や、ただ立っているだけのボイルドの全身から噴き出さんばかりだった。
「タクシー会社に照会済みだ。これらの人物がここに来たはずだ」
そう言って、ボイルドの分厚い手が、男と少女の写真をカウンターに置いた。
もちろん、支配人は覚えていたし隠すつもりなど毛ほどもなかった。ただ、この写真の男と少女が、いったいいつ部屋を出たのか、まるでわからなかった。まさか空港から来るガソリン車のタクシーで現れた男と少女が、すっかり装いを変えてリムジンに乗って出ていくとは思わなかったからだ。てっきりまだ部屋にいるとばかり思っていたし、実際、男の部屋も少女の部屋も、ドアに清掃無用の札がかけっぱなしになっているのだ。
「部屋を見せてもらう」
ボイルドが言った。
支配人は、それがどの部屋だろうと責任を持ってドアを開くことを全身で誓ってみせた。
ボイルドはまず、ドクターが予約した部屋に入った。全くの無人だった。ボイルドが家捜ししている間、支配人はひたすら廊下でびくびくしていた。
置きっぱなしのトランクを問答無用で開き、中の衣類をかき出した。
ドクターが用意したのだろう、街の地図や、バスのチケットを見やった。
地図には、これ見よがしに、赤インクで幾つかの×印がついている。
シェルの住んでいるマンションや、滞在しているホテルにも×印があった。
ボイルドは、無感動にそれらの地図を放り棄てた。
それから、バロットがいるはずの部屋に入った。そこも無人だった。
荷物は少なく、わずかな衣類が申し訳程度に残されているばかり。同じように、地図が置かれ、あちこち印がつけられているが、ボイルドはそれらを一瞥しただけだ。
そこでふいに、携帯電話が鳴った。出ると、シェルの声が響いた。
〈夜のメールを見た。何とも薄気味の悪い報告だな。上空一万五千フィートに逃げ去っただと? 何をふざけてるんだ、お前は〉
「軍事用の、移動浮遊式住居だ。超高密度の軽金属と、連邦法に守られた存在だ」
と、ボイルドは、ゆっくりと告げた。
「現在は、地上に降りている可能性が高いため、捜索中だ。法務局《プロイラーハウス》のビルを経由して、あるモーテルに宿泊している。今、そのモーテルにいる」
〈で? そこにはいないってことか? 戻ってくるんじゃないのか?〉
「確かに不在だ。衣類と、地図が置きっぱなしになっている」
〈地図……?〉
「あんたの住所や、今、取引先の女を泊めているホテルに、印がついていた」
〈なんだとっ!?〉
電話の向こうで、今すぐ襲撃に備えて武装しかねないシェルを、ボイルドが止めた。
「単純な騙し《ブラフ》だ。本当にあんたの住居が狙いなら、わざわざ地図を放置しない」
〈……悪夢だ、ボイルド。たとえ話なんかじゃない。本当に悪夢なんだ。あの女の影が、日に日に、俺の夢の中に出てくるんだ。もう記憶のかけらもない女に、俺は襲われてるんだ。脅され続けてるんだ〉
「じきに奴らの目的を探り出す」
ボイルドの、まるで変わらぬ口調に、シェルが笑った。安堵の笑いだった。
〈今日、この後、娘の父親をカジノで遊ばせる手はずになっていることは知っているな〉
「ああ」
〈死んだはずの女や事件屋を気にする[#「気にする」に傍点]素振りなんか、あの連中の前では少しも見せられない。実に隙のない相手だからな。だからいわば、俺は今、完全に無防備なんだ。奴らが攻めてきても、何の対処もしちゃいけないんだ。そんな事件は何でもないってところを、連中に見せなけりゃならないんだから。そうだろう〉
「ああ――」
ボイルドは、そこでふと、視界の隅に何かをとらえていた。
それは、小さな四角いカードであった。携帯電話を耳にあてたまま、ボイルドは、ベッドサイドに落ちているそれをつまみ上げた。
〈お前に完全に任せると言ってるんだ。女も事件屋も、どんなことをしてでも潰せと〉
「わかっている。そのためには、奴らの目的を確定しなければならない。万が一のことを考えて、あんたの取引の鍵についても知っておく必要が――」
〈やめろ、ボイルド。俺が今、間違ってもそれを口にできないことがわからないのか。もしオクトーバー社が、お前の立場を、俺の専属から、会社の顧問に仕立てあげたらどうなると思う。俺の取引の中身は、お前の口から全部すっかり、会社のものになるんだ。あの連中は、それほど隙がないんだ〉
「俺も、守秘義務は――」
〈くそくらえだ、ボイルド。そんな義務は何の助けにもならない。これは俺の取引だ。俺一人でやるから勝てるんだ。お前は脳の中身を、自分でいじれるか? 自分の脳に入ってたものをバラバラにして、それを取引の材料にできるか?〉
ボイルドはそれ以上、何も言わず、黙って、今しがた拾ったものを眺めている。
長方形のカード。裏には細密画のようなマーク。そして表《おもて》には――幾つもの数字の羅列と、何かの表《ひょう》が、細かくプリントされている。
〈とにかく、お前はお前のすべきことを、今すぐするんだ。わかったな〉
「了解した」
電話が切れた。
ボイルドは携帯電話を懐に収め、もはや部屋には何の興味もなく、廊下に出た。
支配人は、その様子から、事は済んだようだと、ほっと胸をなで下ろしたが、
「これは何だ」
いきなり訊かれて、慌てて、ボイルドの手からカードを受け取った。
「さ、さぁ……」
首を傾《かし》げながら、ボイルドの冷ややかな眼差しを受け、
「ほ、他の従業員にも訊いてみましょう」
ほとんど恐慌寸前になりながら、カウンターへ戻っていった。その間、ボイルドは街の主要な配車センターに電話し、このモーテルに来た車輌の全ての情報を収集している。
「わかりました。チーティングカードです。従業員に、その手の店が好きなのがいて」
やがて、そう告げる支配人の手から、先ほどのカードを取り上げ、
「チーティングカード――?」
「カードゲームでの、勝率だそうです。私にはさっぱり……」
「カードの数字……」
ぼそっと呟き、
「ご苦労だった」
きわめて無造作に支配人をねぎらうと、そのままモーテルを出て、車に乗り込んだ。
「……ゲーム」
重々しい声だった。そのカードをひとしきり眺め、ポケットに入れた。
車を出し、素早くハンドルを回しざま、ボイルドの無機質な灰色の目の奥で、ささいな予感がよぎったとき、車は、マルドゥック市《シティ》のアップタウンへ向かっていった。
猛スピードで車を走らせるボイルドの脳裏では、楽園≠ナフェイスマンと交わした会話が思い返されていた。暴力と好奇心と、そして命の価値についての言葉が、こだまのように耳の奥で響いては消えてゆく。
命にまつわる感情を失ったのはいつだったか。軍に入隊してからか。
それとも軍の中でエリートとみなされ、戦闘航空団に配属されてからか。
感情がどうあれ、少なくともボイルドの人生にとって決定的な出来事の始まりは、航空団から選《え》りすぐりの空挺師団が編制された直後のことだ。
大陸の敵対国へ、決定的な打撃を与えるために実施された空爆で、ボイルドは、逆に自分の人生に恐るべき打撃を受けることになる過ちを犯した。
その瞬間を、ボイルドは思い出そうとした。そのときの感情を。
味方の真上に、五百キロの高性能爆薬を落下させた瞬間のことを。
明らかな誤爆だった。味方であり友であった者たちの肉体は、ほとんど一瞬で蒸発した。その後、誤爆に対するマスコミの攻撃からボイルドは完全に守られたが、当時、優秀な航空団員の多くが深刻な中毒者[#「中毒者」に傍点]だったことが露呈し、ちょっとした騒ぎになったものだ。
それは、しかしある意味で周知の事実だった。特に軍の上層部では常識であり、五十年以上もの「伝統」に裏打ちされた、正当な「処方」でさえあった。
そして事実、ボイルドはその誤爆のとき、「処方」された錠剤を服用していたのだ。
デキストロ・アンフェタミン――アンフェタミンあるいは、デキセドリン。
中枢神経に興奮作用をもたらし、疲労を忘れさせ、注意力や反射能力の他、さまざまな能力を著しく向上させ、確かに、薬物治療として使用されるケースもある薬品だった。
だがマスコミは、その薬をアンフェタミンともデキセドリンとも呼ばず、もっと一般的な名称を使用した。すなわち、スピード、シャブ、あるいは覚醒剤と。
それが、夜間の空爆など緊張を強いられる戦闘では、ごく当たり前に処方された。
脳を加速し、代謝を促進し、痛みも恐れも消し飛ばし、
(休養だ――)
そしてボイルドに、味方を殺させた薬だった。
(十二時間の休養――いや、六時間でいい。それだけくれれば――)
当時、ボイルドは指揮官に疲労を訴え、任務と任務の間の、ごく常識的な休養を求めたのだ。それに対する指拝官の命令は、軍医に頼んで「任務につきたくなる薬」をもらってこいというものだった。ボイルドはその通りにした。そしてあの五百キロの爆薬を一万フィートもの高みから正確に落としたのだ。味方を表す光点を、敵と思い込んで。いや、全ての光点は、そのときのボイルドにとっては敵としか思えなかったのだ。
死亡八名、負傷十四名――生き残った者はみな、戦闘どころか日常生活にも支障をきたす状態となった。彼らは友軍であり、文字通りの友人――仲間だった。中にはエリート部隊に抜擢されたボイルドを、自分のことのように祝ってくれた友人たちもいた。彼らを有利な戦況に導く任務についたボイルドは、逆の扉を彼らのために開いたのだ。
その事故の直後、ボイルドは、各部隊から「優秀だがこのままだと悪い可能性のある者たち」が集められる場所に行き、そこで選択肢が与えられた。
ボイルドに与えられたのは、宇宙戦略想定科学部隊、通称P7、高度十万フィート以上での戦闘を想定するという、馬鹿げた部隊への参加であった。
一時は除隊さえ覚悟した。だが、軍を離れてまともな生活ができるとも思えず、除隊したところで、あるのは孤独と、誤爆で友人を吹き飛ばしたという心の傷だけだった。
何より、当時、覚醒剤《アンフェタミン》は恐ろしい勢いでボイルドの肉体を冒していた。
そういう兵士がどのような状態になるか、ボイルドはいやというほど知っていた。
適切な処置から逸脱した中毒者たちの、異常な暴力衝動や不眠や幻聴を。
偏執的で攻撃的な妄想と、その果てにある、何の意味もない死を。
ボイルドは、新たな配属に対し、自ら志願したことを示す書類にサインし、楽園≠訪れた。誤爆という失点を消し、正常で真っ当な兵士に戻るために。
そしてそこで、確かにボイルドは、アンフェタミン中毒から脱却したのだ。
ボイルドは、車を走らせながら、その頃のことを思い出そうとした。
最後に、眠ったときのことを。最後に、自分が吹き飛ばしてしまった友人たちの冥福を祈ったときのことを。最後に、命に価値があると思えたときのことを――
思い出そうとするボイルドの、ハンドルを握る右手に、ふと、幻の感触が起こり、
(まだ、実験段階だ)
それ[#「それ」に傍点]を、手に持たされたときのことが、急に思い出されていた。
まだ、楽園≠ノ来て間もない頃、ボイルドは、たまたま目にしたそれ[#「それ」に傍点]を紹介され、以後、そこでの唯一の親しい友人であるかのように、それと接するようになったのだ。
それ[#「それ」に傍点]は、暖かかった。
自分の掌《てのひら》の上に、温もりを持った柔らかいものが、震えながら乗っていた。そして、
(さ……む……い)
その金色のネズミは、そう、たどたどしい声音で、喋ったのだ。
ボイルドは、驚き、慌てて、両手で、そのネズミを包んでやった。
ネズミが、その小さな体を、ボイルドの手に押しつけてくるのがわかった。
手の熱と、ネズミのほのかな熱とが、手の中の小さな空間で溶け合っていた。
かつて感じたことのない――あるいは二度と感じることがないと思っていたもの。
(あた……たかい)
やがて、指の間から、ネズミが顔を出し、しげしげとボイルドを見た。
(あり……が……とう)
小動物が喋るなど子供向けのテレビ番組そのものだった。そして事実、ボイルドは心が子供に戻った気さえした。苛烈な戦場の光景が遠のき、ほのかな温もりが、掌を通して、胸の奥に湧き起ころうとしていた。
(だ……れ……? あな……た、だ……れ?)
あのとき、ネズミは澄んだ声音で訊いた。今では想像もつかないほど幼い喋り方だ。
ディムズデイル=ボイルドだ、と答えた。それが、裕福で誇り高い典型的な戦中派の両親に育てられた、優秀な兵士の名だった。
両親が他界した後、軍の上層部が親代わりになった。スパルタと触れ合いがモットーの指揮官が、そこにいるあらゆる子供たちの、愛情と憎しみの的であった。いずれ自分も、そういう指揮官になるのだろうと漠然と思っていた。
そして何もかもを失い、廃棄寸前の兵員として、楽園≠ノ放り込まれたのだ。
そこで、ボイルドは、その小さな存在を手に、呆然と立ちつくしたのだった。
ほのかな温もりに、未だかつて感じたことのない尊さがあった。今にも握り潰せそうな、弱々しく震える存在が、戦場で見たどんなものより鮮烈にボイルドの心を打った。
失点を取り戻すための配属であり、志願だった。だが本当に失っていたものは何だったのか。その答えが、そのとき、ボイルドの手に間違いなくあった。
(な……ぜ? いたぁ……い、の?)
そう、ネズミは、澄んだ声で訊いてきた。最初は何を言っているのかわからなかった。
(いたぁ……い、の?)
やっと、痛いの、と訊いているのがわかった。
なぜ、ネズミがそう訊いたのかもわかっていた。
「何も……痛くはない」
ボイルドはそう返したが、内心では驚嘆していた。
ネズミは、人が泣くのがどういうときか、ちゃんと理解していたのだ。
ボイルドは泣いていた。暖かい命を掌に感じて、心の中で自分が殺した友に謝罪しながら泣いた。自分の犯した罪の許しを請い、深い泥沼に一片の救いを求めて泣いた。
覚醒剤中毒を克服しようという決意が起こったのはそのときだった。
失点を帳消しにするのだ。人生の失点を。それこそが自分の本当の責務だった。
楽園≠ナ、ボイルドは与えられた任務をこなした。
もっと言えば、ボイルドは楽園≠ナ生き延びた。多くの志願者が、廃人と化すなか、あらゆるものに耐えきり、己の力としたのだ。
それもウフコックの存在があったからだ。ウフコックの知能は、ボイルドが″楽園≠ノいる間に、恐ろしい勢いで成長し、いつの間にか対等に喋れるまでになった。
やがて楽園≠ナ数年が過ぎ、生き延びた過程で、ボイルドの体内から、覚醒剤の後遺症とともに、多くのものが消えていった。
それらが何であったか、わかるものもあるし、誰にもわからないものもあった。
休養はその一つだ。兵員であったとき、あれほど欲し、そして与えられなかった休養も、もはやボイルドには必要なかった。
脳の一部と代謝系統が改造され、一定の栄養摂取のみで無睡眠の活動が可能な兵士が誕生し、軍人の新たな概念が作り出されたと、当時は大いにもてはやされたものだ。
だが猿や爬虫類では成功例が多く出たものの、ボイルド以外の人体実験は全て失敗し、廃人と化す者さえいた。そして、眠らずに活動し続ける猿や爬虫類たちは、揃って、ある種の傾向を見せるようになった。
ある猿は、他の猿が眠っている隙に、いきなり首を絞めて殺した。殺意があったわけではない。ただ自分が活動しやすいよう、空間を広げるために、仲間が邪魔だったのだ。
眠っているところを襲ったのは、そのほうが効率が良いと、猿にもわかったのだろう。
本来の猿の行動からは、かけ離れた、殺害行為である。
その猿は、仲間の猿を威嚇して、自分の領土を広げようとはしなかった。
ただ、ゴミでもどかすみたいに片付けたのだ。
無睡眠とそうした行動との関連は、ついに明らかにならなかった。
実験体の猿は数匹いたが、どれも普通に見えた。ただし、群を作るという行為を一切しなくなった。世界から切り離された個体として存在しようとしているようだった。
そのことを悲しみも嘆きもしない猿と同じように、ボイルドの心にも、次第に、茫漠としたものが広がっていった。外見上は何の変化も見られず、むしろ健康そのものだった。
実験体である猿もボイルドも、病気にならない限り、いつでも好調でいられた。
心と体が好調であり続けること。それが感情の起伏を著しく失わせたのだ。
(あた……たかい)
ふいに、ネズミが自分の掌にうずくまる感触が蘇った。
「ウフコック……」
車を走らせながら、ボイルドは、右手をハンドルから離し、その掌を見やった。
一匹の金色のネズミが、その掌にいたという記憶が、まざまざと甦る――が、いつでも感じ続けていたはずの温もりが、まるで思い出せない。
最初にネズミを手にしたときに、確かに感じたはずの暖かさ――胸の奥から湧き上がってくるような温もりの感覚が、今や、昆虫の抜け殻のように虚《うつ》ろで手応えがなかった。
ただその輪郭が思い返される分、いっそうその中身が失われたことを強調していた。
「お前を手に入れることに、理由などない……」
ぼそりと呟き、ハンドルを握り直した。
「俺は、お前をこの手に取り戻さなければならない……」
失点を取り消すのだ。人生の失点――ボイルド自身のあらゆるフラッシュバック[#「フラッシュバック」に傍点]を消し去る。全力をかけて過去を無に帰し、全てを新しく塗り替えなければならなかった。
「取り戻せないなら、お前を消すだけだ……最初からいなかったものとして」
ボイルドの車が、速度を上げて、疾走した。
進むほどに、向かう先に獲物がいる予感が、はっきりとした確信に変わってゆく。
まるで、そこに忘れたものを、急いで取りに行くような気持ちだった。
好奇心《キュリオス》――ふいにその言葉が思い浮かんだ。楽園≠ナフェイスマンが告げた言葉だ。
それが、空っぽの感情の代わりに、急激にボイルドの内部で膨れあがっていた。
血の臭いを嗅いだ鮫が、全身を躍動させて凄まじいスピードで海中を泳ぐように――
ボイルドは、まっすぐにアップタウンを目指した。シェルの経営するカジノに向かって。
4
「戦術と戦略、その違いがわかっているかどうかが、勝率を大きく左右する」
ドクターが言った。その足は、まっすぐ、カジノのある区画へと向かっていた。一見して、慣れきった風情で。そこ[#「そこ」に傍点]へ行くことなど、いつものことだとでも言うように。
「戦術は、その時点での、個々の選択だ」
ドクターが、人差し指を立て、言った。
「第一の選択が、|このまま《ステイ》。それ以上のカードを、引かないという選択[#「引かないという選択」に傍点]」
続けて、中指を立て、
「次が、追加《ヒット》。手札からさらに一枚のカードを引くという選択」
バロットがうなずくのを見やってから、さらに薬指を立ててみせた。
「三番目、倍賭け《ダブルダウン》。次の一枚を最後にして、賭け金を倍にする」
バロットはまたうなずいた。ルールについては、すでに十分なほど叩き込まれている。シンプルなルールだった。そしてその分、複雑な計算が要求されるゲームだった。
ドクターが小指を立てた。
「四番目が、分割《スプリット》。同じ数字が来たとき、カードを二つに分け、それぞれ違う賭けとして、最初のと同額のチップを出す」
〈大丈夫。よくわかる〉
「あと、もう一つ」
ドクターが親指を開いた。
「降伏《サレンダー》だ。カジノによっては取り入れてないルールだけど、このカジノのハウスルールでは認められている。賭け金の半分を支払い、ゲームから降りる」
〈再分割《リ・スプリット》は?〉
「無制限だ。いくらでもスプリットできる」
〈スプリットの後のダブルダウンは?〉
「このカジノの正式なルールで、認められている。なんだ、完璧じゃないか」
バロットはちょっといたずらっぽい顔で眉をしかめてみせた。
〈それくらい、わかる。馬鹿にしないで〉
「なあに、基礎戦術が完璧であることのほうが、基礎戦略を応用するよりも大切だってことさ。では、これら五つの戦術の判断材料の第一は?」
〈|10の引力《テン・ファクター》〉
バロットが、決まり切った謎々《リドウル》の答えでも返すように告げた。
〈10が一番、偉い[#「偉い」に傍点]〉
「バカラとは逆ってわけだ。では、第二の戦術的判断は――」
〈好手《パット・ハンド》と悪手《スティッフ・ハンド》〉
うむ、とドクターがうなずいた。まるで教師が生徒の知識の正確さでも試すように。
「では、特定のカードの有無における戦術的判断は――」
〈|Aがある手《ソフト・ハンド》と、|Aがない手《ハード・ハンド》〉
「プレーヤーとディーラー相互の有利さを計る、全ての手に通じる戦術的法則は――」
〈|7以上《セブン・アップ》の法則〉
ドクターは満足そうにうなずいてみせた。手を顎にあて、ちょっと肩をすくませて、こつこつと軽快な足音を立てながら廊下を歩く姿などは、実に学者っぽかった。
かと思うと、自分のその姿勢に気づいたのか、おもむろに背筋を伸ばし、遊び慣れた感じで胸を張った。ポケットに両手を突っ込み、さも意気揚々とした顔になって、バロットとともにVIPルームへの道を進んでいった。
「戦略は、目的に沿った戦術の積み重ねだ。タイミングとチームワークさえ合えば、絶対に勝てる。僕らはゲームを楽しむ前に、勝たなければならない」
時折、すれ違う客やディーラーに愛想を振りまきながらも、厳しい目をして告げた。
バロットも神妙な顔をしてみせたが、
「でも、まあ、やっぱり少しは楽しまないとね。こんな機会、他にないんだし」
ドクターがそんなことを洩らしたところで、VIPルームへの入り口に辿り着いた。
「いざ、我らが、|あこがれの世界《ホール・ニュー・ワールド》へ」
一歩入った途端だった。バロットは明らかにそれまでと違う空気に触れたのを知った。
そこは実に、豪奢さに慣れた[#「慣れた」に傍点]人々のための空間であった。
深紅に染め上げられた絨毯に、鮮やかな緑のゲーム台が映え、純白と漆黒に身を包んだ彫像のようなディーラーたちがカードを配っている。台の間のそこかしこには、まるでそれ[#「それ」に傍点]こそが最も高価な家具だとでもいうように、どっしりと落ち着いたフロアマネージャーの姿が見え、これまで見てきた華麗なウエイトレスたちがいかにも俗臭い素人として思い出されるような、シャープな身のこなしのハウスレディたちの姿があった。
きらびやかさ、華やかさを味わうのではなく、むしろそれが生活の中で当たり前となった人々を、ゆったりとくつろがせ[#「ゆったりとくつろがせ」に傍点]、心を開かせるための社交場といえた。
早速、案内に付こうとするフロアワーカーを、さっと手を振って退け、ドクターは揉み手をしながら、さも享楽になじんだふうで、広々とした空間を歩いていった。
プレーヤーたちは、それこそ重鎮揃いといった風情で、中には有閑の唯一の刺激といった感じの老夫婦の姿や、案外に若い男性が年輩の女性に連れられて歩く姿も見られた。
「|的中者に配当《ペイ・ザ・ライン》!」
という声もどこか厳かに、また当たった者も、左右を見回して本当にそれが自分の分け前なのか、といった顔は決してせず、さも当然のごとくチップを受け取り、そしてまた無造作に賭けるのだった。
ドクターに連れられて歩くうち、ふと、通りがかったテーブルの一角が沸いた。
ディーラーがにこやかに祝福の言葉を述べている目の前で、二組のカードを引き入れた男が得意満面の笑みを浮かべている。他の客たちも男女を問わず、宝石は、光をきらめかせても決して摩耗しない、という格言のごとく、惜しみない微笑に包まれている。
ドクターが、ひょろりと高い位置から、渦中の男が引いたカードを眺めやって言った。
「Aと10点札の組み合わせには普通、一・五倍の配当がつくんだけどね――」
同時に、カードを引いた男に向かって、どっとチップが渡されている。
「このカジノでは特別に、両方ともスペードの場合に限り、十一倍の配当をつけてる」
バロットが場を見やると、ドクターの言葉通りのカードが重なっていた。
スペードのエースに、黒い片目のジャック《ワン・アイド・ジャック》――絵が横を向いていることからそう呼ばれる、スペードのジャックである。
「ブラックジャックだ」
ドクターが、宣言するように言った。
実に、それこそが、バロットたちが戦うべき、最後のゲームの名だった。
別名を21――二枚のカードからスタートし、合計が21になることを目指しつつ、ディーラーとカードの合計数を競うゲームである。合計数が21を超えた時点で、敗退する。全ての絵札は10と数えられ、Aは1と11いずれかの数をプレーヤーが選ぶ。シンプルなルールの中に、複雑な戦いをぎっしりとつめこんだゲームだった。
そのゲームを最後の勝負に選んだ理由は、明確だ。
第一に、百万ドルチップを手にする機会があるゲームであること。即ち、VIPルームで行われているゲームの種目の一つであることが、絶対条件なのである。
第二に、バカラやポーカーなどでは、主に客同士の勝負となることから、ハウスエッジを削られるだけで、直接カジノから奪うことは難しい。カジノ側の看板に等しい百万ドルチップには、いかにも手が届きにくい。プロのギャンブラーであれば積極的に選んでゆくであろうゲームも、バロットたちにとっては意味が違った。その点、ブラックジャックでは、他の客との勝敗は関係ない。純粋に、カジノとの勝負となる。
また、ブラックジャックの一つの特色は、ハウスエッジが極端に低いことだった。
ハウスエッジとは、プレーヤーが的中する可能性[#「可能性」に傍点]と、現実の配当[#「現実の配当」に傍点]との間に開かれた差額[#「差額」に傍点]のことであり、カジノ側が必ず手に入れるパーセンテージ[#「カジノ側が必ず手に入れるパーセンテージ」に傍点]をいう。
たとえば、ルーレットでは、三十八個の目から一つの数字を的中させるのだから、オッズは三十七対一である。だが、現実には、配当は最大で三十五倍。実際のオッズ通りに配当が払われるわけではない。この場合、カジノ側が必ず手に入れるパーセンテージは、正確には五・二六%となる。千ドル賭ければ、必ず、五十二ドル以上が、ハウスエッジとして天引きされる計算になる。
一方、ブラックジャックでは、プレーヤーがただ漫然とカードを引き続ける限り、ルール上、ハウスエッジはしばしば五%を超える計算になる。
だが、様々な戦略を正確に駆使するとき、そのハウスエッジを〇・五%以下にまで下げることが可能となるところに、このゲームの特徴があった。ブラックジャックが、戦略のゲームと言われるゆえんである。
「最低賭金《ミニマム》も最高賭金《マキシマム》も決まっていない、正真正銘の、青天井だ」
ドクターが、目的のテーブルへとゆるやかに足を運びながら言った。
「過去、このカジノで百万ドルチップがプレーヤーの手に握られた確率が最も高かったゲームが、ブラックジャックさ。特に、ここでカードの大会が開催されるときには、決まって一ダースの百万ドルチップがフロアに飾られることになってる。波に乗って百万ドルチップがテニスのボールみたいにカジノとプレーヤーの間を行ったり来たりしたこともあるくらいだ。とはいえ、最終的にはいつでもカジノが勝ってきたけどね。それだけ、優秀で、抜け目のないディーラーを揃えてるってことだよ」
まるで実際に観てきたかのような言い方だった。ドクターの調査はそれこそ実に抜け目がなかった。バロットにはハウスエッジの計算など全くできなかったが、ドクターの言う戦略の大まかなところは理解しているつもりだった。ウフコックがその手にあって協力してくれる限り、確かに勝てるといえるだけの根拠があるのだと思った。
あとはバロット自身が、このフロアの雰囲気に飲まれないことが大事だった。勝負の境目を感じ取り、正しく動けるかどうかにかかっていた。
ふいにドクターが身を屈め、バロットの顔を覗き込んだ。
「戦術と戦略――それらからつむぎ出される、最も有効な戦法とは?」
まるで、戦場に出る兵士が、合い言葉でも求めるような口振りだった。
バロットは、ドクターの青い目を、まっすぐ見つめ返しながら、
〈|撃ったら退く《ヒット・エンド・ラン》〉
きっぱりと答えた。ドクターが微笑した。
〈プレーヤーは、いつも不利な条件だから。自分よりも強い相手と戦うための方法〉
ぎゅっと両の拳を握りしめた。同時にウフコックにも告げている気だった。
手袋姿のウフコックが、握った拳を柔らかく包んでくれたのを感じた。ドクターもウフコックも、きちんとバロットの気持ちを汲《く》んでくれているようだった。
「勝ちに行こう。そして、勝ったらすぐに、逃げ出してしまおう」
ドクターが言った。不敵な笑みを浮かべ、目的のテーブルへと歩み寄った。
「さあ、ここが僕らの戦場だ」
周囲の人間にも、十分聞こえるような声で告げた。文字通り、戦闘開始の合図といってよかった。
テーブルでは、ちょうどゲームがひと段落したところだった。シャッフルに入ったディーラーが、ちらりとドクターに目をあてた。その顔に微笑が浮かんでいる。澄みやかなシルバーブロンドの髪と蒼い瞳。静かな壮健さを長身にたたえ、手元も見ずにシャッフルし続けている。無言のままドクターに目配せして席を促す仕草も、丁寧で滑らかだ。
ドクターはにこやかに、七つある椅子《シューズ》のうちのちょうど真ん中の席に手をかけ、
「よろしいですかな?」
と他の客たちへまず声をかけた。
「どうぞ、お掛けになって。ちょうど、変化が欲しかったところなの」
そう答えたのは、年のいった大柄な婦人だった。太い指に、太い指輪が何本も食い込んでいる。頬も太く、金銀で飾った首も太い。椅子に乗せている尻も、バロットの四倍くらいあった。銀縁の眼鏡の奥で、大きな目をばっちりまばたかせ、ディーラーとともにドクターに着席を促した。
だがドクターはまだ椅子の背もたれに軽く手を掛けたまま、
「僕たちのせいで、あなた方のカードの引き[#「引き」に傍点]に迷惑をかけなければ良いのですがね」
などといってゲームの新参者らしい愛敬をみせ、婦人以外の客へも目配せしている。
「それはお互い様というものよ、ねえ?」
婦人がにっこり笑って、隣にいる老紳士に太い腕をあてた。その動作の中に慣れ親しんだ媚びが見えた。婦人と老紳士は同伴者らしく、老紳士がドクターに向かって小さく会釈してみせた。まるで太いソーセージの隣に、細いパセリを添えたような感じだった。
その老紳士の隣にいる男も、シャッフルされるカードをにらんでいた目をゆるめ、ドクターとバロットに目礼を寄越した。男は、婦人と老紳士のカップルとは特に関係ないらしい。黒々とした立派な髭をたくわえ、伊達っぽい片眼鏡を鼻の上に掛け、ドクターとバロットの登場でどうカードが変化するか、値踏みするようにこちらを眺めている。
客はその三人で、みなドクターの選んだ席の右側にいた。特に片眼鏡の男の席は、半円形のテーブルの右端、通称、一塁席《ファーストベース》と呼ばれ、一番最初にカードが配られる席である。そこでカードを待ち構えている様子から、勝負に熱中するタイプであるのは容易に想像がついた。勝負――自分だけの世界といっても良かった。
ブラックジャックでは、席の選び方によってその人間の性分が明確に表れるというのがドクターの言だが、実際こうして客を目にすると、さもあらんという感じだった。
そうこうするうちドクターは愛想を欠かさず席に着き、バロットもそれに倣《なら》った。
「可愛いお嬢さんね」
婦人が溌剌《はつらつ》とした好奇心に満ちた笑顔で言う。
バロットは軽く頭を下げ、ドクターがすかさず応じた。
「今日は可愛い姪《めい》っ子の案内役を父君から仰せつかったというわけでしてね」
「カードでおもてなし?」
「こういうことは、早めに慣れ親しんでおくのがよろしい、というのが僕と父君の同意であるのですよ。母君はやや不賛成のようでしたが、僕はこう彼女に進言して差し上げたのです。ゲームを知るということは、すなわち忍耐を知るということなのだとね」
そこでドクターが意味ありげに微笑んでみせた。
「忍耐」
その言葉を呟きながら、婦人の笑みが親しげになった。まるで誰かにそれを言って欲しかったのだとでもいうように。
「まさにその通りですわ」
大きな体を震わせながら、脇の老紳士の肩を撫でた。老紳士も肩をすくめ、
「それに、冷静さも」
と微笑をこめてドクターに指を立ててみせた。
かと思うとその隣の片眼鏡の男も会話に参加し、
「智恵と勇気と」
渋い口調で、にやりと笑ってみせた。
歯が浮く、というのがバロットの正直な感想だった。ドクターには詐欺の天分があるのではないかと思われるほど、場の空気に素直に溶け込んでいた。あるいは、場の雰囲気を、自分の思うように引っ張ろうとしていた。もしかすると、研究者としての栄誉に包まれていた頃のドクターは、事実、こんな感じだったのかもしれない。つづけざまに自分たちが他の客たちと同種の人間であることをアピールするような会話を繰り広げ、さしずめ社交界デビューといった趣でバロットの存在をこの場になじませながら、その代わりに、とでもいうように、率先してシャッフルの間の退屈しのぎを引き受けていた。
シャッフルが完了するまでには、意外に長い退屈な時間がかかる。その間、冷静さを取り戻したい者がゲームから抜け、代わりに新参者が現れ、飲み物を頼み、客同士で親瞳を深め合う。またプレーヤーがディーラーにあれこれとカジノやゲームについての物語を求め、夢のような実話や、怪しい噂、大損の話などに皆で耳を傾けることも多い。ドクターはそうした時間の利用の仕方を十分に知っている顔で、
「我々の着席は、十分に許されているようだ」
と言ってふいにディーラーを向いた。
「では、よろしく頼むよ、マーロウ」
その途端、ディーラーの目がはっきりとドクターを見た。席全体を見渡していた眼差しがぴたりと当てられ、意図を探ろうとしていた。
「どこかでお会いしたことが?」
ディーラーが穏やかに尋ねた。手はシャッフルを続けている。その表情の裏に、ちょっとした警戒があった。ディーラーの弱みを握り、買収を狙うプロは大勢いるのだ。
だがドクターは、特に相手の警戒をなだめるようでもなく、
「マーロウ・ジョン・フィーバー」
と確信した口調で、フルネームを口にした。
ディーラーがうなずいた。他の客たちも、今初めてこの男にも名前があることを思い出したように、ディーラーを見つめている。
「直接面識はないはずさ、マーロウ。それだけ、君が我々の間で噂の男だということだよ。なにより、僕のポーカー仲間でもある、彼女の父君からのご推薦でもあってね」
それからドクターはどこかの遺伝子治療の特許会社の名を挙げた。さもそこの責任者の一人であるかのように述べ、
「君がいるテーブルが、一番安心して楽しめるともっぱらの評判でね。かくいう僕自身も、その評判を確かめたいのさ。なんでも、話は上手いし、カウンティングを見逃さない鋭い目も持っているらしいじゃないか」
そこで、片眼鏡の男が髭に手をあて、ほう、と感心した。カウンティングという言葉に反応したのだ。だがドクターはそのことにはそれ以上触れず、
「特に今日は、大事な姪っ子を預かっているんだ。できるだけクリーンなゲームを経験させてあげたいのさ。それに、やはりハンサムさでもピカイチじゃないか?」
半ばバロットに顔を向けながら、同時に他の客も煽ってディーラーを囃《はや》すように言う。
このマーロウという名のディーラー、その程度では微動だにせず、
「ルールでわからないことがあれば、遠慮なく聞いて下さい」
涼しげにバロットに声をかけた。
〈ありがとう。お願いします〉
バロットが告げた。途端に、テーブルの面々が驚いたような顔になった。だがディーラーは相変わらず涼しげに、
「喉が?」
と訊いた。
「交通事故[#「交通事故」に傍点]でね。なあに、発音で君を困らせるようなことはないはずさ」
ドクターが言った。ディーラーはうなずき、そこで初めてシャッフルの手を止めた。
「指でのサインはご存じですか?」
バロットは答える代わりに、左手を少し上げた。
〈|そのまま《ステイ》〉
と言いながら、掌を下に向けて左右に振った。
〈追加《ヒット》〉
今度は、テーブルの上を、人差し指でとんとんと叩いた。
〈分割《スプリット》〉
両方の手の人差し指で、さっと二つに分ける仕草をし、
〈倍賭け《ダブルダウン》〉
最後にグリーンのクロスに印刷された四角い区画に、チップを置く真似をしてみせた。
ディーラーは優しく微笑した。他の客をも安心させるような微笑だった。いざというときには、手真似でゲームの用は足りた。障害を無用に意識させない素振りがありがたかった。カジノの人間としては当然のフォローなのだが、バロットは思わず、相手に対してドクターの言葉通りの感想を持ちそうになった。
ディーラーがその涼やかな風情で再びシャッフルに入ったそのとき、
『カウンティングについて訊け。シャッフルが終わる前に』
突然、ウフコックの指示が左手の手袋の内側に浮かび上がった。
バロットは内心慌ててディーラーから目を逸らした。攻略すべきディーラーに安心させられるなどというのは、場に気圧《けお》されている証拠である。気を引き締め、ドクターの衣服の袖を、周りからなるべく親しげに見えるような仕草で引っ張った。
〈ねえ、叔父さん〉
ようやく慣れた呼び方とともに、
〈カウンティングって何?〉
無邪気な素振りで訊いた。途端に、ドクターが目を丸くし、驚いたような[#「ような」に傍点]顔になった。
「いったい、どこでそんな無粋な言葉を覚えたんだ?」
〈叔父さんが、さっき言ってたから〉
ドクターは、大きな過ちを犯したとでもいうように天を仰いだ。
「くれぐれも、僕の口から聞いたなんで、父君《パパ》に言ってはいけないよ」
〈うん。何のルールなの?〉
「ルールじゃないんだ」
ドクターは、説明するための言葉を探すように目をさまよわせた。
「カウンティングというのは、要するに、出たカードを記憶《カウント》することなんだよ。どんなカードが何枚出たかを知っていれば、次に来るカードの予想がしやすいだろう?」
〈すごい、やってみせて〉
「いや、いや……」
ドクターが口ごもった。その様子に、隣の婦人がくすくす笑った。老紳士と片眼鏡も、面白がるように微笑んでいる。みな、カウンティングについて、十分に知っているのだ。それがただの攻略法ではなく、文字通りカジノを脅かす必勝法だということまで。だが、
「カウンティングなんてのは、カジノで稼ごうなんていう無粋な連中《プロ》の手口だよ。ゲームは、運と度胸を試すための場所さ。自分の運を見切れない人間の、最後の手段であって、君が覚えるべきものではないよ」
ドクターが熱心に、バロットを説得するように言い募った。
〈ふうん〉
だが敢えてそこでつまらなさそうな顔をする。ドクターが指を立て、左右に振った。
「カジノでは五分五分の勝負[#「五分五分の勝負」に傍点]を楽しむものさ。勝ち負けがわからないから面白いんだ」
念を押すような口調だった。五分五分。そんなわけがあるはずなかった。ここではあらゆるゲームのルールが、微妙な確率統計のもと、カジノ側に有利に設定されているのだ。しかしバロットはそこで納得したようなふうでうなずいてみせた。
〈でも、どうしてカウンティングが悪いことなの?〉
「プロは他の客の迷惑になるんだ。ゲームは楽しむためのものさ。だいたい六組のカードを全て暗記するなんて、できるわけないじゃないか。何人もが組んでやるものだよ」
〈でも叔父さん、数学は得意だって〉
「計算機が使える限りね」
そこでまた他の客たちが笑った。まるでテレビのハウス・コメディの調子だった。家庭《ハウス》ならぬ、|カジノ《ハウス》・コメディというわけだ。
その一連のコメディによって、ディーラーや他の客に対する予防線を張り巡らすのが第一の仕事だった。大勝するのでもなければ、他の客のチップを奪うためでもない。一定の確率で勝ち続けるための予防線である。それこそ、カジノが最も怖れることだ。客が同じゲームで同じ勝率を延々と築き上げること。いっそ地震で崩壊するほうがましなくらいのダメージをカジノに与える行為だった。
そもそも、あらかじめ狙いを定めていた席であり、ディーラーなのだ。無意味な会話など、何一つないはずだった。
やがて、ディーラーがシャッフルを終え、コメディによる退屈しのぎを終わらせた。
「カードの山に差して下さい」
そう言って透明な赤いカードを、バロットに渡した。シャッフルの仕上げである。バロットを選んだのは、客たちが最も納得しそうだったからだろう。バロットは渡されたカードを、指示通り、積まれたカードの中程に差し込んだ。
さらにディーラーがその赤い標《しる》しを、全部で三百十二枚あるカードの最後の三十枚辺りにくるようカットし直した。ゲーム進行中、その赤いカードが出てきたら、ゲームはその一巡を終えて完了となる。シャッフルの公平感を出すためだが、実はこれこそカウンティング対策の最たるものだった。最後の三十枚前後を使わなければ、たとえ出たカードを記憶し続けたとしても残りのカードを読み切ることができなくなる。
カードは全部で三百十二枚。その全てがカードシューに収められ、蓋が閉められた。
ディーラーの手がカードの最初の一枚に置かれ、目が客を見渡した。
客たちはすでに会話をやめている。沈黙のなか、チップの置かれる音が立て続けに鳴り響いた。場が静けさと熱気とを同時に帯び、バロットもチップを握りしめ、思い切ってその場に踏み込むように、小気味良い音を立ててテーブルに置いた。
いよいよの、ゲーム開始であった。
[#地付き]To be continued――
[#改ページ]
Beauty and the Weapon
[#地付き]SF評論家
[#地付き]鏡 明
[#地付き]「ぼくたちの武器の美しさが、ぼくたちを導いてくれた」
[#地付き]――レナード・コーエン
「解説なんて、信用しない」
もしかすると、あなたが、そうかもしれないが、解説のページを、最初に読む人たちがいる。
そうした読者にかぎって、そこで語られていることを信じちゃいないという傾向があるように思う。
いい傾向とは思わないが、まちがっているとも思わない。そりゃそうだ、通常、そこには誉め言葉しか並んでいない。この本はつまらないぞ、などと言っている解説には、私も、出会ったことはない。
それをわかった上で、私は言いたいね。
この物語は面白いぞ。とても、いい。
話半分と、とってくれてもいい。私の気分は、それでも充分に伝わるくらいに、本気である。
面白いって言われても、色々あるし、という気がするかもしれない。ここではとても単純な基準だ。次のページを、読まずにはいられないということだ。この何年かの間に、私が読んだ物語の中で、最も面白いと思えたものの一つだ。
なにが、そんなに面白いのか? そいつをこれから語るつもりなのだが、その前に、もう一つ。
「ファンの言うことは、信用できない」
公平を期すために言っておくけれども、私は冲方丁のファンである。で、ファンの言葉というのは、しばしば、ファン以外の人には通用しなかったりする。そういうことがないように努力するつもりではいる。
いつ頃からのファンかというと、デビュー作からです、などという気はない。『ばいばい、アース』という読者を拒否しているとしか思えないタイトルとボリュウム、そして価格の物語を読んでからのファンである。けっこうレアなパターンかもしれない。あのタイトルと重量で、本当に売れると思う人がいたら、異常なんじゃないか。別のやり方があったように思う。
そして、私は、そのことを非常に残念に思う。
少女と意志を持つ巨大な剣を主人公にした、ま、ヒロイック・ファンタシィ仕立ての物語であったわけだが、その年、数多く出版された物語の中で、ベスト3に入るべきものであった。ベストというものについて、議論はあるだろうが、あの物語と作者の力量には、最低限、そのような敬意が払われるべきである。そして私は、そのように、敬意を払ったつもりだ。
ベスト1ではなく、なぜ、ベスト3なのか?
もちろん、理由がある。読者のためというよりも、作者が自分のために書いているという気がした。習作めいたところを感じたのだ。
あの物語の中の様々な事物に付けられた名前に、それは端的に現われていた。異なった世界を形造るのは、名前である。名詞である。あの物語における事物の名前は、イメージをふくらませるよりも、とまどわせてしまったと思っている。そして、読者が、その名前を共有できなければ、その世界は孤立したままで終わる。
「SFもまた、名前の世界である」
冲方丁が、SFの長篇を書き終えたという話を聞かされたときの私の反応は、単純であった。読みたい、読みたい、読みたいぞお! 冲方丁のSFとしては『微睡みのセフィロト』があるが、あれは中篇である。冲方丁は、長い物語、とても長い物語を書ける才能の持ち主だ。何があっても、読みたいではないか。
その長篇が、この、『マルドゥック・スクランブル』であり、私は、この文章を書くことになったわけだが、読みはじめる前に、一つだけ、気になることがあった。SFもまた、名前によって成立する世界である。どういうことになっているか?
安心したまえ。この物語は、予想を越えていた。何よりも、名前と、そしてディテールに満ちた物語である。
SFはアイディアの物語と言われる。そして、そこには二つの傾向がある。一つは、グレッグ・イーガンに代表されるビッグ・アイディア一発勝負のものであり、もう一つは、ニール・スティーヴンスンのように、とにかく、大量のアイディアで圧倒してくるものの二つだ。そして、『マルドゥック・スクランブル』は、後者に属する。
新しいとか、古い、とかいうことについては、どうでもいいという気がするが、ビッグ・アイディア勝負という考え方そのものは、どちらかといえば、古典派である。だから、イーガンの衝撃は大きかったわけだが、冲方丁は、欧米の新しいSFのスタイルに属する。SFについて学んだ結果、そうなったわけではなく、書かれたものが、新しいスタイルに近いということだ。それは、とても重要なことだ。現在という感覚を、自然に持っているということを示しているからだ。グローバル・スタンダードは、すでに死語と化しつつあるけれども、冲方丁のようなあり方は、正当な意味でのグローバルというあり方である。
「戦争反対に、反対する者はいない」
『マルドゥック・スクランブル』は、戦うことについての物語である。
主人公の一人である十五歳の少女バロットは、戦うことを放棄した存在だった。そして、彼女が、自己を取り戻すことが、戦うことを取り戻すことになる。
もう一人の主人公、ウフコックは、武器である。意識を持ち、ネズミの姿を持つこの万能武器は、当然のことながら、戦うこと以外に存在する価値がない。そして、バロットと共に戦うことによって、新たな自分を発見していくことになる。
仇役のシェルは、自己を消去することで、存在証明をするというキャラクターである。自分で戦うよりも、他人に戦うことをゆだねていく。
彼の依頼を受けて、バロットとウフコックと戦うボイルドは、戦闘機械のような男である。戦うことの中で、感情を失い、そのことが、自己表現となっている。
こうしてみると、主要な登場人物たちは、戦うことと、自己の存在が、どこかでリンクしていることがわかる。となると『マルドゥック・スクランブル』は、戦いの物語、もしかすると無限に連鎖していく戦いの物語になりかねない。
たしかに、この物語の面白さの一つは、そうした戦いの場面、様々なアクション・シーンのヴァリエーションにあるとも言えるのだが、それがすべてではない。戦うことに、ルールがつくられている。それは、主人公の側に規定されるルールであり、主人公のバロットは、そのルールに従うことを要求されている。興味深いのは、バロットが、そのルールを破ってしまうという体験をすることだ。そして、その結果、ルールに従うことの意味を知る。
つまり、ルールは、言葉で存在するのではなく、ウフコックという武器の形で、主人公の外部に存在している。そして、体験することによって、バロットの内部に、肉体化されていくのだ。それは、実践知と呼ばれる種類の知識だ。私たちが、日常の中で、繰り返し体験することによって、学んでいくような種類の知識ということだが、要するに、言葉で語られても意味がなく、体験することのみが理解に通じるということになる。
そして、この物語の場合、それは倫理と言ってもいいのではないかと、思う。
「で、何のために戦うのか?」
バロットは、戦うことで、外在する倫理を肉体化していく、あるいは戦いは、その過程であるというようなことを、語ったつもりだが、もはや、ほとんどの人が忘れているであろう「倫理」という言葉を持ち出したのには、もちろん、意味がある。
戦うということが、この物語の中では、目的ではないということを、語りたかった。いや、戦うことが目的、戦うために戦うというようなことは、現実的には、まず、ない。
先日のイラク戦争でも、そうだったが、どちらの側にも大義名分がある。正義のための戦いなのだ、どちらの側も。最終的には、勝った側の正義になるのだが、正しかったから勝ったのではない。逆である。もっとも、イラク戦争というのは、戦争ではなかったかもしれない。ゴジラが、突然、東京にやってきて、東京タワーを倒してしまったようなもので、怪物の一方的な破壊の方が、近い。で、ゴジラに、なぜ、東京タワーを? と尋ねても解答はないが、今回の場合は、正義という答が用意されているというに過ぎない。
バロットの戦いは、非常に倫理的に、私には思える。戦いのための戦い、勝つための戦いではない。
「これは、救われるための物語である」
戦うことの結果は、勝つか、負けるか、である。引き分けというのもあるけれども、それでも、たとえば、両方が敗者であるという結果になっていたりする。
この物語の結末に、少し関わってしまうが、『マルドゥック・スクランブル』は、戦うことを扱ってはいるが、勝ったり、負けたりする物語ではない。戦うことと自己の存在がリンクしていると、言ったけれども、『マルドゥック・スクランブル』がすぐれているのは、戦うことが、勝負ではなく、その次を示していることだ。
二巻に登場してくるカジノの女性ディーラー、ベル・ウィングは、その最もわかりやすい例だろう。このキャラクターは、とても魅力的で、私としては、中心のキャラクターたちよりも、好感を持っているのだけれども、ま、それはおいといて、彼女はバロットと戦うことの中で、自由を得る。それは、勝ち負けとは、次元を異にしている。
私は、戦いというよりも、戦うことという言い方をしているけれども、それはこの物語の中の戦いは、戦闘という形を、必ずしも取ってはいないからだ。この物語における戦いの最大のものは、カジノにおけるギャンブルである。SFで、アクションもので、カジノのバクチがメインで、どういう話だと、思うかもしれないが、これが、実にいい。そして、この物語における戦うことが、殺すことでも、破壊することでもなく、それ以上のものであることを、象徴的に示している。
ルーレットで、感動させることができるか? ブラックジャックを描くことで、感動させることなんてできるだろうか?
これが、驚くべきことに、感動させられてしまうのだね。そして、それは、SF的な世界の中でしか可能ではないやり方で、語られているのである。ルーレットがどういうもので、ブラックジャックが、どういうものか知らない読者でも、たぶん、同じように感じることができるだろう。
戦うことの中で、主人公が何を得てきたのか、そして、それは極めて倫理に近いあり方で、私たちの前に示されていくことが、感動というのも俗っぽくていやだけれども、心を動かしてくれるのだ。人としてのあり方を示してくれている。
「理念というのは、大事である」
理想的であること、あるいは、即物的であることは、否定すべきではない。そして、同じように、夢とか理想とか、そういうことも否定すべきではない。
私は、欧米的な考え方を支持するつもりもないし、それを真似すべきだという気もない。けれども、日本の物語に、大きく欠けているものがあるとしたら、理念というようなものではないかと、思っている。
理想と現実は、ちがうものだ。それは、そうかもしれないけれども、それで済ましてしまうというのは、どうも、妙だと思っている。どこかしら、不幸な気がする。
『マルドゥック・スクランブル』が、私たちに与えてくれるのは、同種の日本の物語が与えてくれないもの、理念に近いものであるように思う。
ギャンブルで勝つことは、金を手に入れることを、意味する。そして、この物語におけるカジノの戦いは、金を手に入れることを意味していない。それよりも大きなものを手に入れるのだし、それに関わった登場人物たちも、同じように、もっと大きなものを手に入れたり、あるいは失っていく。
そして、冲方丁のような、最も若いジェネレーションの書き手が、このように考え、物語を紡ぎ出していることに、驚きと心地良さを感じる。この物語を読み終えて、良かったな、そう思えるのだ。
この物語にあって、戦うことは、救われることである。
「この書き手と、物語を信用しなさい」
そして、何よりも、読み手としてのあなた自身の感覚を信用した方がいい。この物語は、それにふさわしいものを与えてくれる。
[#地付き]「ぼくは美を求めて、こんなに遠くまで来た」
[#地付き]――レナード・コーエン
[#改ページ]
底本
ハヤカワ文庫
マルドゥック・スクランブル The Second Combustion――燃焼
二〇〇三年六月二十日 印刷
二〇〇三年六月三十日 発行
著者――冲方《うぶかた》丁《とう》