マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮
冲方丁
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)半熟卵《ウフコック》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|天国への階段《マルドゥック》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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contents
Chapter.1 吸気 Intake
Chapter.2 混合気 Mixture
Chapter.3 発動 Crank-up
Chapter.4 導火 Spark
後書き
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Mardock City【マルドゥック市《シティ》】
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港湾型重工業都市。政令中枢に設置された“天国への階段≠ニ呼ばれる螺旋階段状のモニュメントを都市名称の由来とする。
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Mardock Scramble【マルドゥック・スクランブル】
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マルドゥック市における裁判所命令の一種。人命保護を目的とした緊急法令の総称。
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Mardock Scramble-09【マルドゥック・スクランブル―|09《オー・ナイン》】
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緊急法令の一つ。非常事態において、法的に禁止された科学技術の使用が許されることをいう。
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characters
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ルーン=バロット
Rune-Balot……少女娼婦
ウフコック=ペンティーノ
OEufcoque-Penteano……事件屋
ドクター・イースター
Dr.Easter……事件屋
シェル=セプティノス
Shell-Septinos……賭博師
ディムズデイル=ボイルド
Dimsdale-Boiled……事件屋
ミンチ・ザ・ウィンク
Mincemeat the Wink……畜産業者
フレッシュ・ザ・パイク
Flesh the Pike……畜産業者
レア・ザ・ヘア
Rare the Hair……畜産業者
ミディアム・ザ・フィンガーネイル
Medium the Fingernail……畜産業者
ウェルダン・ザ・プッシーハンド
Welldone the Pussyhand……畜産業者
[#ここで字下げ終わり]
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Chapter.1 吸気 Intake
「死んだほうがいい」
少女は、ほとんど声にもならない声で、そう囁いた。
隣にいる男に聞かせる気もない、本音でも何でもない言葉のノイズだった。
車のドアウィンドウの外を流れるマルドゥック市《シティ》の歓楽街のきらめきから、何となく聞こえてくる気がするノイズ。
それを囁くと少しばかり気が晴れる、ジャズが歌う呪文《モージョー》のようなものだ。
今、少女が乗っているのは、宙を飛ぶ重量四トンの黒い宝石――重力素子式《グラビティ・デバイス》のエンジンが車体を音もなく宙に浮かばせる超高級エアカーであった。ドアウィンドウは全て、外から中が見えないマジックミラー式で、警官《ハンター》殺しと言われるそのウィンドウの使用には市の許可が必要だった。もちろん、この都市で相応の地位がなければ、許可は下りない。
いつもは専属の運転手がいたが、今は完全な自動操縦で、滑らかに街を流れてゆく。
あるいは、その車のほうが宝石箱で、中に乗る少女こそが宝石であるかもしれない――そう思わせる姿態をもった少女だった。街の輝きが、白い頬に硬質な輝きを与え、小さな、あどけない面立ちを、ひどく蠱惑的なものにしている。細やかな肢体、切れ長の目に艶めいた漆黒の瞳、肩まであるストレートの黒髪は、エキゾチックな人形を前にした悦びを相手に与えるだろう。そしてまさしく、それが少女の立場だった。インターネット上の黴臭い広告――早熟な幼女《ニンフ》の誘惑∞ミルク色のロリポップ=\―の類に比べれば、だいぶ高価で厚遇されているとはいえ、要求《二ーズ》はどこまでも不変である。
未発達なふくらはぎや太腿のラインを、明るい縞模様のタイツがさらに細く見せ、やせ気味のお尻には白いホットパンツ、カラフルな制服じみた衣装は、それこそ黴臭い広告――幼い色気≠サのものだ。
そのうえ、ミセス層が好むような、くるぶしまである上品なマキシコートを、前を開いたまま羽織り、両手をポケットに突っ込んでいる。||大人の世界《ワンダーランド》に連れてこられた、とびきり可憐で蠱惑的な少女というわけだった。
そんな自分の姿が、街のきらめきに呼応して生まれるノイズ、
「死んだほうがいい――」
その呪文を囁くとき、唇に塗りたくられたルージュの重さが、少し軽くなる気がする。
「なんだ、バロット? 何か言ったか?」
後部座席で隣に座る男が訊いた。滑らかな浅黒い肌に、黒い長髪を頭の後ろで束ね、白いコートを羽織った伊達男。時間とともに表面の色が変わる変光《カメレオン》サングラスが、今はシャープな赤い色を帯びて、少女を向いている。
「何でもない、シェル。今日のショーのときの貴方を思いだしていただけ」
少女が答えると、男は、形の長い唇を、にやっと吊り上げ、手を伸ばしてきた。
「今日のショーの賭け《ディール》は、上手くいった。これからも上手くいくだろう」
そう言いながら、男は、少女の頬のラインを愉しむように撫でている。
賭博師の手――幾つものダイヤの指輪をはめた手だった。全てプラチナにブルーダイヤだ。それらをショーの間は全て外し、賭けを行う間、預かっているのが、少女の仕事の一つだった。中でも、ひときわ大きく光彩を放つダイヤを、男は太母《グレートマザー》≠ニ呼び、
「死んだ母親の遺灰を、加工業者に頼んで、ダイヤにしてもらったのさ」
そう言ったものだ。ツキをもたらし続ける、母なる愛の永遠の形というわけだった。
同じような指輪を、男は幾つも持っていたが、それらのダイヤが、母親以外の遺灰から作られたものかどうか、少女にはわからない。
「冷蔵庫を開けて、いつものやつを作ってくれ」
男が鷹揚に頼むのへ、少女は小さくうなずき返し、車内の冷蔵庫を開いて、ジン・カクテルを作った。エアカーの滑らかな走行のお陰で全く揺れないグラスの水面に、ライムの果汁を絞って垂らし、差し出すまで、男の手は少女の顎を撫で続けている。
「いい子だ」
男はグラスを受け取り、それに口をつける前に、少女の顎を上げさせてキスした。
街のスラムから成り上がり、今やマルドゥック市《シティ》でも有数のショー・ギャンブラーとして名を馳せる一方、合法カジノ店を幾つも抱える経営者――それがこの男だった。
少女は、その男に買われた未成年娼婦《ティーン・ハロット》だが、今のところ相手は彼だけで、他の客を取らされたりはしていない。つまりそれだけ大事にされているのだ。それどころか、家を捨てた少女に、新たな身分――すなわち市民登録証を偽造して与えてくれた。
「君が失ったものを、俺が全て与え直そう」
かつて少女が働いていた店が摘発され、行き場を失っていたとき、男は、そう言った。
よく、市当局に重大な情報を提供する者――犯罪組織の活動の重要証言とか、特定の人間を即座に起訴できる証拠を持っている者には、当局が新しい身元を保証し、住所から名前から全てを変えてくれることがあるという話を、少女は聞いていた。
だが、少女が求めたのは、そういったことではなかった。
「それは、私を愛してるってこと?」
少女が訊くと、男は、目を細めて微笑した。皇帝緑《エンペラーズ・グリーン》の色に加工したという男の瞳が、きらきら光って少女を見つめていた。そして男は、こう言った。
「完璧な質問を、君はした。その通りだ。愛の定義は、与えることだ。そしてそれにはルールがある。与えられる者が守らねばならないルール。それさえ守り続けることができれば、君は、愛され続ける」
少女は素直に、男を優しいと思った。ルールを守ることは何でもなかった。それまでどんなルールでも、少女は耐えてきたのだ。ただ一つ、施設での性的な悪戯に耐えられずに逃げ出したことを除いては。だがそれ以降、少女は生きるために|大人の世界《ワンダーランド》のルールに完全に従って生きてきた。どんなこともしてきたし、どんな格好にもなってきた。
ただ、少女の中では常に、一つの謎が存在した。
「――なんで私なの?」
少女は何度となくそう問うてきた。男に向かっても訊いたし、誰もいないところでも呟いた。無限の問いをふくんだ問い。なぜ自分なのか。なぜ多くの客は、自分を求めるのか。なぜ、この男は自分に色々なものを与えようとするのか。なぜ多くの同じ年齢の少女たちがいる中で、自分はこのような人生を生きているのか。
少女はただ単純な答えが欲しかった。親が子に言うように。愛してるからだと。男でも神でも運命でもいい。愛されればそれが、最後の最後で、なぜ自分なのかということへの全ての答えになるのだと思っていた。そしてその答えを、少女は、男に欲した。だが、
「疑うな。君のその質問は、幸せからも栄光からもかけ離れたものだ」
男は言った。男のルールは、これまでと違って、別の忍耐を要求されるものだった。
「与えられたものに、疑いを持たないこと。それがルールだ。なぜ自分なのか、などと考える必要はない。君は、君でいることに疑いを持ってはならない」
特に、与えられた市民登録証の内容については絶対に触れてはならないのだという。
その結果、男に買われてから今まで、少女は、自分が何者として市に登録されているのかさえ知らなかった。男に買われてから半年間――昨日までは。
最高級の黒いエアカーが、少女と男を乗せて、マルドゥック市《シティ》の歓楽街を抜けてゆくその後方では、一台の赤いオープンカーが、走っていた。
一見して市の沿岸部から来たと知れるのは、タイヤが付いているからだ。
半永久的に使える重力素子式《グラビティ・デバイス》のエアカーよりも、一生分のガソリン代のほうが安くつく――が、少なくとも一生ガソリン代を払い続けることはできる。そういう身分の車だった。
「じきに、中央公園《セントラルパーク》だ。それ以上先は、車を変える必要があるなぁ」
運転席で、のんびりした声が上がった。ひょろりと背の高い、痩せた男だった。愛嬌のある鳶色の目に、研究者が好むような電子眼鏡《テク・グラス》をかけ、髪をまだら[#「まだら」に傍点]に染めている。
「中央公園《セントラルパーク》に入るまで、様子を見よう。そこで何もなければ、撤退すればいい」
太い渋みのある声が返す――が、車には運転している男以外、誰も乗ってはいない。
「何もないわけないさ。あの男の分析《プロファイル》を担当したのは僕だぜ、ウフコック」
男が、言った。なんとハンドル脇に設置されたカーナビゲーターに向かってだった。
「あの男はこれまで家出娘を六人もとっかえひっかえ保護[#「保護」に傍点]してるんだ。しかも自殺した子が四名。行方知れずが二名。未成年者保護センターの統計から見ても異常な数字さ」
男が得意げに説明すると、カーナビゲーターのランプが点滅し、こう返してきた。
「しかも、全員、自分の市民登録を確認した直後に、死亡または失踪――か、ドクター? 市民登録サイトにあの少女からのアクセス[#「あの少女からのアクセス」に傍点]があった可能性は俺の計算では二%以下だ。彼女に何事も起きなければ、それはそれでいい」
そのカーナビゲーターの画面には、前方を行く、黒いエアカーの位置と、進行方向、そして速度が、律儀なくらい正確に表示されている。
「煮え切らないことを言うなよ。この仕事には、僕とお前の人生がかかってるんだ。廃棄物扱いになりたくないだろう、ウフコック? あの男の背後にいるヤツらを叩かなければ、いずれお前は、無用の存在として廃棄される運命なんだぞ」
「だからといって、未成年者が危険にさらされることを望むのも筋が違う」
「そりゃそうだ。まあ……この状況下での本当の問題は、あの子が、お前を受け入れてくれるかってことさ。お前というスクランブル―|09《オー・ナイン》を」
途端に、カーナビゲーターの画面にノイズが走り、暗い声が響いた。
「人間は……必ずしも、道具的存在が、意志を持つことを望むとは限らない」
「なぁに、きっと彼女も、お前の良さを理解してくれるさ。彼女が命の危機にさらされる。そこを僕らが助ける。そして彼女が僕らの有用性[#「有用性」に傍点]の証人になる、だろう?」
「たとえ命を助けられたとしても、俺の存在を拒否する場合のほうが多い……」
画面がますますぼやけた。
「馬鹿、いじけるなって。|なるようになる《ケ・セラ・セラ》、だよ。こら、閉じこもるなってば」
男が慌ててカーナビゲーターを叩くと、ようやく画面が回復した。
「……標的が進路を外れた。思ったよりも早い」
画面の中では、黒いエアカーが幹道を外れ、中央公園《セントラルパーク》に直進していた。
「来た。自動操縦のコースを変えたんだ。過去四十七日間で初めてのパターンだ」
「まっすぐ追うな、ドクター。迂回して、相手の予想進路を併走する。距離を保て」
嬉々としてハンドルを切ろうとする男を、カーナビゲーターの声が制止した。
すぐさま画面の中で、幾つかの進路が候補に挙がり、やがて道筋が決まった。
「この進路の基準はなんだ、ウフコック」
改めてハンドルを切りながら、男が訊く。
「何事もなければ、互いにすれ違わずに家に帰れる進路だ」
そう告げるカーナビゲーターに、男は呆れて溜め息をついた。
「何事も……ね。煮え切らない半熟卵《ウフコック》、世の中はお前が思う以上に焼けついてるさ」
「――そうだ、それで、ちょうど湖のそばに停車する」
男が、少女の体の上で、両手を滑らせながら、言った。
「停車時間の設定も忘れないように。パスワードは、さっきと同じだ」
少女が男の言う通りに、コントローラーでエアカーの進路を設定し直している間、男の手は、少女の体をしきりに這い回っていた。十万ドルを賭けても冷や汗一つかかず、冷徹に多額の勝負《ディール》に勝ち、ショーを沸かせる賭博師の手――その長く滑らかな指が、少女の下着の中へ伸び、脚を聞かせ、奥へ奥へと潜り込んだかと思うと、もう一方の掌が、胸の膨らみを弄《もてあそ》び、叩き、そっとつねった。
男が体をまさぐる間も、少女はそれとは違うことをし、逆らわずにただ黙って要求《二ーズ》に応えている。コートはすでに脱がされ、ホットパンツの奥で動き回る男の指を少しずつ濡らし、シャツの下ではブラの隙間から手が差し入れられ、少女の呼吸の変化を伝えている。
それでも少女は黙々と、エアカーの進路設定を入力し続け、ときおり意図せず小さく呻き声をもらす様を、男は愉しんでいる。やがてエアカーの進路設定が終了したが、
「コントローラーは持ったままで」
背後に回った男の声が命じ、少女は目を閉じ、ルールに従った。
目を閉じて意識を飛ばすうちに、少女の中で、徐々に男の手の感触が遠のき、感覚が遮断され、世の中の全てが薄い膜の向こう側で起きているような状態になっていった。
それが少女の才能であり、常に磨き続けてきた技術でもあった。今では、自分の肉体の反応や変化でさえ、安全な場所から、淡々とした心の目で見つめることができた。
殻の中に閉じこもってないで――と誰かが言う。
出てきなさい、と。今まで大勢の人間、ソーシャルワーカーや、施設の人間や、一時的な友人たち、仕事仲間や、雇い主や、客たちに言われ続けてきたことだった。
だが少女のその特技に対して、この街には別の要求《二ーズ》があった。
人形みたいな女が好きな客は、案外に多かったのだ。
心を閉ざし、眠っているか、死んだみたいになっている少女を、ひどく喜ぶ客が。
「バロット――」
男が耳元で少女を呼んだ。多くの客が、これまで少女を、そう呼んできたように。
「雛料理《バロット》」
卵の殻の中にいる雛を、そのまま煮殺して食べる、料理の名だった。
初めは、店の女主人が冗談半分でつけたニックネームだったが、すぐに少女のブランドになった。珍しい料理の美味さが伝わるように、少女目当ての客が増え、人気者になったのだ。もう誰も、殻の中に閉じこもってないで、などとは言わなくなった。むしろ、それが少女の仕事になった。自分を、薄い穀の中に閉じこめ続けることが。
男の熱で、殻の中の少女が煮殺されるとき、それは芳潤な甘みを持つ料理と化した。
「いい子だ。綺麗な人形、絵の中の登場人物みたいな子だ。さ、目を開くんだ」
男が熱っぽい声で囁く。少女は素直に従った。目蓋を開いて見た光景は、水の底から見上げた世界のように、遠くでたゆたっている気がした。
「ルールを覚えているか、バロット? 愛されるために忘れてはいけないルールを?」
ふいに男が訊いてきたときも、少女は、ただ、ぼんやりとうなずいただけだった。
「ルールを忘れた子が、どんな目に合うか、お前は知っているか?」
男の声が、唐突に、少女の心に冷たく響いてきた。はっとなった。気づけば、窓の外の街のきらめきが消え、一面、薄暗い公園の景色だった。
男が、少女の背後で、ゆっくりとサングラスを外した。
「シェル――」
少女が息をのむように男を呼んだ。その途端、男の大きな体がかぶさってきた。
男の、緑の目の奥に、何かこれまでと違う光がともっているようだった。
「大人しくするんだ、バロット」
男の、鋭い声音《こわね》に、少女はわずかに身を強張《こわば》らせたが、結局、男の言う通りにした。
少女が従順に要求《二ーズ》に応えるとともに、やがてエアカーは、公園の大きな湖のそばで停まり、宙に静止した。
都市を横断する中央公園《セントラルパーク》は、たとえばそこにやってくる車がどんな車種かで、どこから来てどこへ行くのかがわかる、決してつながることのない回線の|交錯する空白《スポット・オブ・スポット》だった。
沿岸にそびえる摩天楼は、大量に移住してきた中流階級者《チープ・ブランチ》のための高層アパートメントで、そこから歓楽街へ向かう車は、決して東の高級住宅地《セニョリータ》へは行かず、南の重工業地帯へはなおさらだった。南にはスラムが広がり、清潔なストリートとは隔絶されていた。
だから、黒いエアカーが、公園の湖のそばに停車したからといって、赤いオープンカーが同じように湖に近い位置に停まるわけにはいかなかった。そんなことをすればすぐに、相手から不審に思われるからだ。エアカーが向かう高級住宅地《セニョリータ》への道筋から数百メートル離れた、リバーサイドに近い位置に、オープンカーは、停車した。
夜は濃く、月もない。オープンカーがエンジンを止めると、木の葉を揺らす風の音さえ耳を打つようだった。早春の冷たい夜風がハーフコートにあたるのも気にせず、
「いたいた、あの男の車だ」
オープンカーの運転手の男が、指で電子眼鏡《テク・グラス》を押し上げながら、
「ウフコック、変身《ターン》だ」
もう一方の手で、カーナビゲーターをつかんだ。
「了解した」
カーナビゲーターが言った。そこで不思議なことが起こった。カーナビゲーターが形を失ったのである。ぐにゃりと歪み、それが瞬く間に、双眼鏡へと変貌した[#「双眼鏡へと変貌した」に傍点]のだった。
「暗くて何にも見えないぞ、ウフコック」
男が、眼鏡越しに双眼鏡をのぞき、不平をもらす。すると男の手の中で、双眼鏡が形を失った。ぐにゃりと液体のように形を変え、あっという間に、暗視スコープになった。
「これでどうだ、ドクター?」
暗視スコープが、喋った。カーナビゲーターが発したのと、同じ声であった。
暗視スコープを覗く男――ドクターの眼に、黒いエアカーの重々しい姿が映り、
「やれやれ、高価《たか》そうな重力素子式《グラビティ・デバイス》だな。車内で銃撃戦が起こっても、優秀な衝撃吸収材が、外からの感知をまるで不可能にする類の車さ。で、肝心の乗り手は……窓が全部ミラー式なんだ。やっぱり見えない」
「注文はまとめて言ってくれ。ちょっと待ってろ、温度式表示に変えよう」
再び暗視スコープが歪んだ。今回はレンズの部分だけである。途端に、ドクターの眼前に、赤から青へと、人の体温の変化が極彩色をなす世界が広がった。
「さすがウフコック、どんなにうるさい注文にも、即時対応の万能道具存在《ユニバーサル・アイテム》」
ドクターが満足そうに、暗視スコープを覗き込む。
「やけにもつれ合っている。格闘中の可能性があるぞ、ドクター」
真面目な声で、暗視スコープが言うのへ、ドクターが肩をすくめた。
「まぁ……ある意味で格闘中さ。要するに、真っ最中ってやつだ。男と――女。他には乗っていない。録音・録画、開始しよう」
「すでに録画している。だが、この画像では、男が本人か、断定できないだろう」
「シェル=セプティノス――間違いないよ。現代版の青ヒゲ野郎だ。今までに六人の少女を密かに殺した罪の色が、ヤツの体細胞温度に表れてるんだ。僕にはそう見える」
「ドクターが主張したところで、法務局《プロイラーハウス》では通用しないだろう。特に最近では、偽画像の可能性があるせいで、録画はあまり証拠にはならない」
「わかってるよ。ヤツの身体的特徴は記録してるだろう? 体に特定の疾患や治療の痕跡が示せれば、体細胞温度の画像でも、有利な証拠になるよ」
「疾患痕跡法にもとづいた俺の計算では、七二%の確率で本人と断定できる」
「ヤツの脳は[#「ヤツの脳は」に傍点]? ヤツには特殊な治療が施されているはずだ。それをつかめば……」
「脳内は難しい……四八%だ」
「法務局《プロイラーハウス》は、九〇%以上じゃないと見向きもしないよ。彼女は――?」
「ルーン=バロット」
今度は、暗視スコープのほうが、即答した。
「これは九六%の確率で本人と断定可能だ。キディ・ポルノのスター女優をしていたところを、シェル=セプティノスにスカウトされた、未成年娼婦《ティーン・ハロット》だ」
「参ったな。いっそ彼女が[#「彼女が」に傍点]シェルを殺すところを助けたほうが、証拠としては有効だよ」
「いや……何か変だ」
暗視スコープの声が、ふいに低くなる。途端にドクターの顔に緊張が走った。
「変? 何が変なんだ、ウフコック?」
「臭いだ[#「臭いだ」に傍点]。あの車の空調から流れてくる臭いに、快楽兆候とは違うものが混じってる」
「お前の鼻[#「鼻」に傍点]は、特別製なんだ、僕にわかるように説明してくれよ」
「恐怖……憐れみを乞う感情だ。二人とも[#「二人とも」に傍点]、怖がっている[#「怖がっている」に傍点]」
「――なに? アレの真っ最中で? 女の子だけじゃなくて男のほうも? なんで?」
「いや、緊張……ストレスだ。二人とも微妙に違うが……似ている」
「男のほう――シェルに特化して分析するんだ。ヤツのこれまでの犯罪行為の、精神的な根拠を示せるかもしれないぞ、ウフコック」
「自殺願望に近い」
暗視スコープの言葉に、一瞬、ドクターが、ぽかんとした顔になった。
「まさか!? 彼女と心中するつもりなのか? シェルは?」
「ある意味で……そうなのかもしれない」
「素晴らしいイカレ野郎だよ。高度な精神分析が必要な時点で、事件不成立だ。よし、こうなったら誰かに金を握らせて、そいつに、この画像を法務局《プロイラーハウス》に提出させよう。罪状は、未成年保護法違反でも、強制的な心中未遂でも、何でもいい。そこで僕らが、委任事件の担当になって、彼女を保護して……」
「無駄だ。法務調査で時間を取られている間に、男は彼女との関係を洗浄し、事件不成立だ。彼女の偽造IDは、一瞬で関係の洗浄を可能にするためのものでもあるだろう」
「じゃあ、どうするのさ。このまま覗きの真似事を続けろってのかい」
「待て……奇妙なことが起きている」
暗視スコープが、ふいに鋭い声を上げた。
「男の臭いが変化した。吹っ切れた感じだ。もはや自殺願望ではない。明確な快楽だ」
同じとき、公園の向こうから、もう一台、別のエアカーが音もなく近づいてきていた。
「お前は、与えられた身分《もの》に、疑問を持った」
少女を抱きながら、男はそう囁いた。薄く、鋭い笑みを浮かべながら。目の奥に何か決定的な行為を秘めて、じっと少女を見つめていた。
少女はただ黙って男に抱かれた。外の世界と薄皮一枚を隔てた内側で、自分の身分を確認するのがそんなに悪いことなのだろうかと考えた。きっと、とても悪いことなのだろう。そう思って哀しくなる自分を、少女の中の別の心が、淡々と見つめていた。
「いい子は、ルールを破らない。素敵な人形は、大人しく飾られているものだ」
男が言って、少女の体を両腕で抱きしめた。
男は少女を抱いている最中に、よく、ぎゅっとしがみついてきた。優しく抱きしめてくれるのとは違う。しがみつくのに似ていた。まるで自分がどこかへ引きずり込まれそうになっているところに、ちょうど身を引き止められるものがあったとでもいうように。
「だが、いいんだ、バロット。いいんだ。俺も辛いが、お前も辛い。わかってる。辛い。死にたいくらいに。いや、実際に死ぬんだ。記憶の一部が死んでしまう。だが死んでも、形として残すことはできる。遺灰で作ったブルーダイヤみたいに」
男が、訳のわからぬことをわめきながら激しく動いた。まるで熱に浮かされた譫言《うわごと》だった。そういうとき、少女はただじっと大人しくしている。それが仕事だし才能だった。
やがて男が動きを止め、ゆっくりと離れ、少女の中から出ていった。
少女が起き上がろうとすると、男は自分だけ身繕いをしながら、
「そのままでいるんだ、バロット」
ふいに優しい声になって命じた。だから少女はそのまま乱れた格好で寝そべり、男の薄い笑みを、ぼんやりと見つめ返すしかなかった。
「いい眺めだ。美しい眺めだ。お前は、これから、もっと美しいものになるんだ」
男は囁きながら、さらに少女から離れ、反対側のドアに背を預けながら、
「美しいブルーダイヤだ」
薄く微笑んで、その右手を掲げ、指輪たちの輝きを見せた。
「それが、ルールを破った子たちがどうなるかということの、答えなんだ、バロット」
言うや、男は、いきなりドアを開いて、外に出ていた。
「シェル……?」
慌てて起き上がる少女の目の前で、ドアが、大きな音を立てて閉められた。
反射的にドアを開こうとして呆然とした。ドアの電子式インナーハンドルをいくら操作しても開かないのだ。ウィンドウの向こう側で、男がこちらを見た。と思うと、サングラスをかけ、ミラー式のウィンドウを見ながら髪型や衣服を整え始めている。男は少女を見ていたのではなかった。インナーハンドルを操作しようとする少女の手から力が抜けた。声さえ出なかった。世界が遠のき、ひどく嫌な予感に打ちのめされそうになった。
やがて、別のエアカーのヘッドライトの光芒が見えたとき、少女は、全てが男の計画であったことを、卒然と悟った。
「殺意の臭いだ! 死ぬぞ、あの子!」
暗視スコープが鋭い声を放った。
「待て、もう一台来た! 人数を確かめるんだ!」
ドクターが、暗視スコープをもう一台のエアカーへと向けた。途端にレンズの部分がぐにゃりと歪んで、体温式表示が、通常の光学式に戻った。
「なんてこった……ボイルドだ」
ドクターが、愕然とした声を漏らす。
「見ろよ、運転席にいる男……ボイルドだ。あいつがシェルの下で働いてるなんて。まずいぞ、ウフコック。もしヤツらが彼女を殺すつもりなら、僕らが助けに出ても逆効果だ。ボイルドだったら、まず最初に[#「まず最初に」に傍点]彼女を撃つぞ」
やがて少女が閉じ込められたエアカーのそばで、もう一台のエアカーが停止した。
そちらのエアカーの窓は通常のガラスで、運転席にいる巨躯の男がよく見えた。短い灰色の髪に、のっぺりと白い顔。窓を開き、男と何か喋っている。その灰色の目が動き、
「うわっ、こっちを見たっ」
慌てて、ドクターが身を伏せた。
「安心しろ、ドクター。ボイルドからは何の敵意も臭わない[#「臭わない」に傍点]。それよりもシェルから明確な殺意の臭いがする。確信的な臭いだ」
「殺害手段は何だ、銃か、絞殺か、薬か? 女の子は、もう死んでるのか?」
「手段は不明だが、まだ行使された感じはない。俺を彼らに向けろ。録画する」
ドクターが身を起こし、再び暗視スコープで、湖畔に停まる二台のエアカーを覗いた。
エアカーから出た男――シェルが、少女のいるエアカーに、手を振っている。
「ばいばい、って感じで手を振ってやがる」
「殺意を示す画像としては、不十分な感じだな……」
「もちろん不十分さ。何とでも言い訳できる。何をしてるんだ、ヤツは!?」
「車内に閉じ込めてるんだ。まずい、殺意が安堵に変わろうとしているぞ。もはや一刻の猶予もない。俺の嗅覚情報[#「嗅覚情報」に傍点]を根拠に、緊急事態と判断しろ」
「どうしろって!?」
「動け! 彼女を助けろ!」
暗視スコープが怒鳴った。ドクターが、慌ててオープンカーを発進させた。
遠くで、後からやってきたほうのエアカーが、シェルを乗せて動き出している。
少女の乗ったエアカーは、停止したままだ。
オープンカーがタイヤを激しく回転させ、金切り声のような音を立てて驀進した。
刹那、停止していたエアカーのフロント部分が、木っ端微塵に爆発していた。
ドクターが、あまりのことに、愕然と目を剥《む》いた。
立て続けに凄まじい爆裂音が轟き渡った。コールタールを塗ったようだった闇が、一瞬で引き剥《は》がされ、辺りはあっという間に、真っ赤な炎の輝きに塗り替えられた。
爆煙とともに轟然と火柱が立ち、吹き飛ばされた車の破片が炎の塊となって降り注ぎ、湖畔を灼熱の色に染め上げ、鉄が灼ける異様な臭いがたちまち辺りに漂った。
「まさか車ごと爆破するなんて! くそっ、ボイルドに気を取られた! 即死か!?」
ドクターが驚愕の声でわめく。そのボンネットにもフロントガラスにも、灼けた破片がばらばらと降り注いでいた。わめきながらもアクセルペダルを踏みきるドクターの手の中で、暗視スコープがぐにゃりと形を変え、
「フロント部のエンジン爆発だ。最初の爆圧で、車体の後ろ半分は折れ飛んでいる」
そう声を放ったときには、なんと、その姿が、大きな消火器械に変身《ターン》していた。
「爆圧が分散される構造だ。後部座席にいた者が、爆死を避けた可能性は高い」
「運が良くて丸焼けってわけだ! そらみろ、言った通りだろ。世の中は、お前が思うよりも焼けついてるんだ。お前も少しはあの火に焼かれてみろよ、半熟卵さん《ウフコック》!」
「世の中に焼かれる前に、火を消すさ」
消火器が、真面目な声で、言った。
「それが、俺の有用性[#「有用性」に傍点]だ」
爆発が起こるまでの間、少女の脳裏を、幾つもの思念が駆け抜けていった。
(お前は、与えられた身分《もの》に、疑問を持った)
ただ確認したかっただけなのに。与えられたものの素晴らしさを感謝したかっただけなのに。だから、たった一度だけと決めて、内緒で市の登録簿にアクセスし、自分が何者かを知った。それがそんなに悪いことだとは思わなかった。
――なぜ自分なのか? その謎を解きたかっただけ、答えが欲しかっただけ。
もう一台の車がやってきたとき、そんなに悪いことなのだろうかと、また考えた。
むろん、それはとてつもなく悪いことだったのだ。危険な男の、危険な部分に、知らないうちに入り込んでいたのだ。それはこの世の中で、最悪のことだった。
ぼんやりと窓の外を見つめる少女を、ふいに、男が見た。窓の鏡の部分を見たのではなく、その向こう側の少女に向かって、はっきりと手を掲げ、
(ブルーダイヤだ。それが答えなんだ)
その手が振られ、指輪がきらきら光るのが見えた。
混乱とともに、戦慄がぞくりと少女の背を走り抜けた。遺灰を加工した人造ダイヤモンド。今までショーのたびに預けられていた指輪たち。その数は七つ――男の母親と、そして名も知らぬどこかの不幸な少女たちの遺灰。男はこれまで何人もの少女を買っては死なせているという噂を聞いたことがあった。その噂は本当だったのだ。そして自分も――そう思うと吐き気が込み上げてきた。胸の奥で、何かがひどく焦げついた感じだった。
「なんで……? なんで、私なの……?」
呆然と、その間いが口をついて出た。
今や、まるきり愛とは無縁の、不吉で忌々しい言葉となった問いだった。
同時に、鼻が、きな臭いものを察知していた。嫌な臭いだ。車内に硫黄のような臭いが立ちこめ、運転席でエンジン・トラブルを警告するビープ音が鳴り始めた。
男は微笑みながら、窓の向こうでひとしきり手を振ると、さっと背を向け、もう一台のエアカーに乗り込んでいった。その途端、ギャングは焼き殺すことを好む、と娼婦仲間が言っていたのを思い出した。死体の身分を操作しやすいように、そうするのだと。
出ておいで、と誰かが言った。
心の殻に閉じこもってないで。福祉施設の社会奉仕者《ソーシャルワーカー》のボランティアに言われた言葉。
殻に《シェル》。それが自分を守ってくれる。でも今はこうして閉じ込められている。シェル=セプティノスという男――失われたものを全て与え直してくれるという男に。
気づけば、手が、ドアのインナーハンドルを滅茶苦茶に操作している。
一瞬、何をしているのか自分でわからなかった。もちろん、助かろうとしているのだ。
手があがく様子を、心のどこか奥のほうで、醒めたもう一人の自分が見つめていた。
「そう……」
少女が呟いた。こういうことだったのだ。殻に閉じこもるということは。扉は開かない。手はあがき続けた。自分がしたことは、そんなに悪いことなのだろうかと考えた。
雛料理《バロット》、と誰かが呼んだ。皮肉っぽく。卵の中の生まれる前の雛を煮殺す。実に美味な名だと、客たちは言った。人形みたいな女が好みの客たち。雛料理《バロット》はメインディッシュになり、殻に閉じこもっていないで、などということは、もう誰も言わない。
間もなく、もう一台のエアカーが動き出した。男は最後に、助手席から、こちらに向かって、軽くまた手を振った。まるで、また会おうとでもいうように。
再び吐き気が込み上げてきた。また会おう――死体となって。焼け焦げた残骸、つまり灰になった後で、自分の体は、賭博師の指を飾る人工の宝石に変えられるのだろうか。
その様子を想像して、恐ろしく胸がむかついた。今まで要求《ニーズ》に応え続けることで生き延びてきたこの体の、それが末路か。最後まで、物扱い[#「物扱い」に傍点]されるのか。
「死ね、ばーか。死ね」
反射的に、そんなことを叫んでいた。エアカーが走り去り、窓に張り付くようにしてその行方を追ったが、すぐに見失い、窓に映る、透けた自分の姿しか見えなくなった。
「クズだ。お前なんかクズだ。死ねっ、クズっ」
窓の外のどこかにいる男に向かってなじりつづけた――|ばーか《フーリッシュ》、|クズ《トラッシュ》、歌うように。きな臭い空気を吸い込んでむせた。涙が出た。頭がぼうっとした。手はドアを開こうと懸命になっている。男の余韻が、まだ体の奥深いところで熱を持ってわだかまっていた。
――|ばーか《フーリッシュ》、|クズ《トラッシュ》、灰《アッシュ》、金《キャッシュ》……
言葉が頭の中で親を踏んでぐるぐる回った。こんなものなのだ――自分は。そう思える自分がどこかにいないか、咄嗟《とっさ》に目で捜したが、窓ガラスに映った哀しい自分が見つめ返してきただけだった。手は、なおもインナーハンドルを操作し続けている。
――|腐った卵《ジョッシュ》、生理《フィッシュ》、|めちゃくちゃ《ハッシュ》、|ちくしょう《ガッシュ》……
ふいに絶望の波が襲いかかり、それまで薄皮一枚隔てた内側にいた自分が顔を出した。
「嫌だ、助けてよ……」
刹那、車内の気圧が下がり、キーンと耳鳴りがした。どこかで火が点いた。
――光《フラッシュ》。
痛みは一瞬だった。凄まじい轟音とともに、爆圧が襲いかかり、視界が白熱に染まり、
「死にたくない」
それが、少女がこの世で発した、最後の自分の声となった。
次の瞬間、少女の肉体は、爆圧で引きちぎられた運転席の椅子の背もたれと、後部座席の間に挟まれ、噴き上がる火によって一つの炎の塊となって燃え上がったのだった。
「痛むのか? ミスター・シェル?」
エアカーの運転席に座る男が、助手席でぐったりとなる男に、訊いた。
「ストレスだ」
男――シェルは、そう答えながら、額にあてた手を懐にやった。スーツの内ポケットからスコッチの瓶と、錠剤の入った瓶とを取り出した。まずスコッチを飲んだ。そして錠剤を二つ、口に入れた。それからまた、苦いものでも飲むように、スコッチをあおった。
「多幸剤《ヒロイック・ピル》か」
運転手が呟くように言った。シェルはうなずき、深く溜息をついた。その変光《カメレオン》サングラスは、今は鉛色にも似た、深い青色に光っている。
「子供のとき、脳に|A10《エーテン》手術を受けた」
シェルが、言った。
「一定以上のストレスを感じると[#「一定以上のストレスを感じると」に傍点]、脳が自動的に幸福感を覚えるんだ[#「脳が自動的に幸福感を覚えるんだ」に傍点]。福祉局が、スラムに施した犯罪防止策の一つだよ。だが、俺が十代の頃、欠陥がわかって中止された」
シェルは運転手を見た。運転手は、聞いている、というようにうなずいた。
「脳に障害を生む可能性があるのさ。子供《ガキ》の頃、友達が、ストレスを感じた瞬間、目が見えなくなった。脳の視覚を司る部分が、幸福を感じるための化学物質で破壊されたんだ。俺の場合、重度の記憶障害が起こる。……その代替品が、多幸剤《ヒロイック・ピル》だ。これは完全無欠だ。これを飲めば、ストレスを感じることはないし、副作用もない。だろう?」
「あんたは少なくとも、不幸の使い道を知っている。だから俺を雇うこともできた」
運転席の男が、言った。決して慰めたのではない。感情が欠け落ちたような口調だった。がっしりとした体躯に似合わぬほど、のっぺりと滑らかな白い肌をしていた。短く刈り上げた髪が、ほとんど白髪に近い。まるでリボルバー式の拳銃だとシェルは思った。
「その通りだ、ボイルド。おかげで俺は、この儀式[#「この儀式」に傍点]を乗り越えられる。このマルドゥック市《シティ》の栄光の階段を、一つずつ上っていくことができるってわけだ」
シェルが笑った。隣にいる男に対するシンプルな信頼があった。何より薬が効いてきていた。隣の男と対照的な自分の顔を、サイドミラーで確認した。浅黒い肌、黒い長髪。自分は、こんな腕利き《プロフェッショナル》の男を雇い、運転させているのだという満足感が込み上げてくる。それは自分のこれからの人生の計画への確信にもなった。
「美しいブルーダイヤが、また一つ増える……階段を一つ越えるたびに」
込み上げてくる幸せな感情とともに、シェルは指輪のきらめきに見入った。
「気になることがある」
ボイルドが、シェルの幸福感を遮った。シェルは肩をすくめ、
「なんだ?」
「さっきの公園で、妙な車を見た」
「妙?」
「今日は七時からベースボールの試合が、ドームである。タイヤの付いた車が、この公園にいるというのはおかしい」
「タイヤとベースボールと、何の関係があるんだ、ボイルド?」
「この公園では、騒音防止のため、中継の電波は入ってこないことになっている。彼らにとっての最大の娯楽があるときに、ボートハウスの陰で、何をしていたと思う?」
シェルは薄笑いを浮かべながら、かぶりを振った。
「何でもいい。どうせ俺が今日したことに関しては、何の証拠も、記憶さえも残らないんだ。それに、トラブルがあれば、お前が俺に代わって処理してくれるさ、ボイルド。トラブルこそ、お前の商売《ビズ》なんだから」
自分の肉体が炎に包まれる前に、少女は、爆圧の衝撃で意識を失っていた。
だから、爆煙をまともに吸って、呼吸器系の細胞が重度の火傷を負うことを――つまり致命傷を、かろうじて免れていた。だがそれでも、少女が朦朧とした意識で、ふと目覚めたとき、口内の細胞は焼けただれ、気道を呼吸器械のチューブが潜り込み、肺が一定のリズムで自動的に呼吸させられることで、かろうじて生きている状態だった。
その少女の、おぼろげな意識に、ふいに、声が飛び込んできた。
「まだ生きてるぞ、ドクター! 彼女――ルーン=バロットは、まだ生きてる!」
心の底から喜ぶような声。そして、やけにのんびりしたような声。
「ひとまず全身を防護泡で包んだから大丈夫だよ、ウフコック。それにしてもひどいな。真っ黒焦げだ。これじゃ皮膚はもう駄目だ。味覚も嗅覚も使いものにならないかも」
「可哀想に。助けたことを怨まれるかな、ドクター?」
「人間は――特に女性は、自分の価値に損害が起きると、生存を放棄したり憎悪したりする、不条理な生き物だからね。まぁ、そこは合理的に話を進めよう」
「彼女は、スクランブル―|09《オー・ナイン》を選ぶだろうか。それとも生存放棄を――」
「後者の選択肢があることを教えないほうが良さそうだね」
そのとき、何も感じない世界の中で、少女――バロットは、奇妙なものを見た。
ドクターと呼ばれたのは、ひょろりとした長身の男だった。まだらの髪に、電子眼鏡《テク・グラス》、赤茶色のハーフコートの下には、極彩色の生地でつぎはぎされた白衣に、腰や胸に簡易注射器やら携帯顕微鏡やらをぶら下げている。まるでサイケデリックなバンド歌手が、私は医者ですと主張しているような格好だ。そして――
さらに奇妙なのは、その男の肩に、金色のネズミ[#「金色のネズミ」に傍点]が、ちょこんと立っていることだった。
「新しい相棒《バディ》になるかもしれないんだ、大切に扱ってくれ」
金色のネズミが言うと、ドクターが肩をすくめた。
「新しい死体《バディ》って感じだけどね」
金色のネズミは、ドクターの言葉を完全に無視して、バロットを見た。
潤んだような赤い目が、どこか中年の男の渋みを感じさせた。太った腹を支えるようにして、小さなサスペンダーで小さなパンツを肩で吊しているのが、ひどくおかしい。
ぴんと張った金のヒゲ。そのしかつめらしい表情《かお》に、見たこともない優しさがあった。
ふいに、目が合った。金色のネズミの顔に、明らかな動揺が走った。
「意識があるぞ。俺を見た」
「たっぷりモルヒネを打ったんだし、この火傷じゃ、まともに思考できる状態じゃないよ。それに、相棒にするんだろ? 姿を見られることくらい覚悟の上じゃないの?」
「女性は総じて、ネズミが嫌いだから……」
金色のネズミが、ちょっとうつむいた。ドクターが、よしよしとその背を撫でてやる。
バロットは彼らの様子を見ようとしてかすかに身動きし――ほとんど指一本動かせず、ゆらゆらと揺れた。自分が大きなカプセルに収められていることが、漠然とわかった。卵形をした、移動式の集中治療ポッド――溶液に満たされたそこで泡に包まれて浮かんでいると、不思議な安心感があった。全身が焼け焦げ、ほとんど指一本動かせないバロットは、両手で膝を抱えた姿で、その分厚い卵の中に浮かんでいたのだった。
(殻に《シェル》――)
その言葉が、ふとそれまでとは違う気持ちとともにバロットの脳裏をよぎり――
目を閉じた途端、再び、微睡《まどろ》むようにして、気を失っていた。
バロットは半ば夢の中にいた。そこで、ネズミとドクターが奇妙な会話をしていた。
「記憶障害?」
ネズミの訝《いぶか》しそうな声が聞こえた。ドクターの声が、それに答えた。バロットはうっすらと瞼を開け、溶液の中から、ドクターのやたらと髪を染めた後頭部を見た。
「お前が察知した、ヤツのストレスと快楽に対する、僕の推測だけどね。ヤツの脳手術――|A10《エーテン》手術の後遺症なんだろう。ストレスを感じると、脳の一部が選択的にゲシュタルトを崩すんだ。いわば記憶の自殺だよ。それが|ヤツ《シェル》の悪事《ビジネス》の秘密ってわけ」
「記憶の自殺……」
「その引き金は、少女の殺害と密接な関わりがあるようだね。ヤツは少女を殺すたびに、自分が殺したことを忘れてるんだろうけど、必ず似たような少女を見つけてきては、また殺すんだ。一種の儀式だよ。なんというか、ひと昔前の東洋の宗教では、未亡人の存在を認めなかったのと同じさ」
「なに?」
「夫が死んだら、一緒に死んで火葬にされなきゃならないんだよ。嫌がった女性に、無理矢理ガソリンをかけて焼き殺したこともあったらしい。それに似てると思うよ」
ドクターはどうやら運転しているらしかった。その肩先で、ネズミが、ふうんと相づちを打っているのが、後部座席に設置されたバロットの目に映った。
「つまり俺があの男から嗅いだ自殺願望の臭いというのは、記憶の自殺だったわけか。少女はその道連れ――ストレスを和らげるための儀式の一部なんだな、ドクター?」
「そう考えると、辻褄が合うってことさ。シェルを直接、精神分析したわけじゃないから詳しいことはわからない。ただ、自分がこれから記憶を失うことがわかる[#「自分がこれから記憶を失うことがわかる」に傍点]ってのは、凄いストレスだろうね。自分の精神の一部が消失するわけだから。誰かを無理心中に巻き込みたくなっても不思議じゃないかもね。自分の記憶と一緒に、少女を殺す[#「殺す」に傍点]ことは、ヤツの中では、一種のロマンスなんだろうさ」
(あの男《ひと》も死ぬ……)
呆然《ぼんやり》としたバロットの意識の中で、それだけは確かなこととして認識された。|私の殻《シェル》。自分のようなスラム出身の未成年娼婦《ティーン・ハロット》に、いっときとはいえ身分まで与えてくれた男。この街で高みへ登ろうとする男の、なんとちっぽけな死だろう。かすかな哀れみが、ふいに陶酔へと変わった。一緒に死んでやろう。そう思った。それは同情に似ていた。
もし人に同情することで自分が救われる瞬間があるとすれば、今がそのときだった。
「ロマンを言い訳にすると、ろくなことがない」
ネズミの言葉が、バロットの気持ちを一瞬で遮った。
「死は孤独だ。他人の死が、自分の死の価値を高めてくれるわけじゃないし、自分の人生を慰めてくれるわけでもない」
バロットは無意識に、口にあてられた酸素マスクを外そうとした。
ネズミに向かって何か言ってやりたかった。しかし指一本動かせなかった。
混濁した意識の中で、ネズミに対する憤りと感謝とが溶け合っていた。
「まぁね。何にしても、ヤツのロマンスの後片付けのせいで、出費がかさむな。メンテナンス代が、ウフコックとその女の子とで、二人分だ」
また意識がとぎれる間際に、そんなドクターのぼやきが聞こえた。
それから何度となく、バロットの意識は現実の世界に浮かび上がり、そしてまた一瞬で眠りの底に落ち込んだ。意識が失われるときの不安はとてつもないものだったが、そのたびに不思議な安心がバロットを救った。それはネズミの声だったし、ドクターの声だった。死は確実に遠く離れていった。現実が近づき、生きなければならなかった。
(選択をするんだ――)
夢の中で、誰かが言った。命令ではなかった。むしろ質問に近かった。
(その道を選ぶという選択――生存のための選択。その権利は君にある)
バロットは夢を見ていた。自分が闇の中に浮かび、そしてゆっくりと、頭上のほうから、もう一人の自分が舞い降りてくるのを。そのもう一人の自分が、
(選択を――それとも死んだほうがいい?)
そう訊きながら、ゆっくりと、闇に浮かぶ自分と重なり合い、交錯した。
街のきらめきに感じ続けてきたノイズが思い出された。
死んだほうがいい――心が軽くなる呪文。それが今、ひどく身近に迫っていた。ノイズの向こう側には哀しい出来事ばかりの人生があった。一緒に死んで欲しい――火葬のときに一緒に焼かれる人形。それが最後の要求《二ーズ》だったのだ。自分はそれに従った。だが、
(なぜ私なの――?)
その問いが、交錯する意識の中で、ふいに小さな泡のように浮かび上がった。
答えはなかった。なぜ自分なのか――答えがないことが人生なのだと悟れば、残されているのは死だけだった。そう。それが選択だった。生きるかどうか。なぜ自分なのか。なぜ自分が生きるのか。こんな自分が。選択――二つに一つの。
無条件に愛されたことのない人間が、やがて必ず辿り着く、究極の選択だった。
(私は生きていていいの――?)
誰もイエスと言ってはくれない気がする。それが、無条件に愛された経験がない人間が抱える欠落だった。その欠落に従うか、それとも――イエスという答えを探すために、生きるのか。なぜ自分なのか――その答えを探すために。
バロットの心は拡散し、ばらばらになって沈み、そしてやがて、それまで殻の中に閉じ込め、大事に守り続けていた何かが、ゆっくりと心の残骸から浮かび上がっていった。
(死にたくない――)
閉ざされた殻の中で最後まで煮殺されなかった心が、弱々しく、そう囁いたとき――
それが、バロットの選択となった。
――|腐った卵《ジョッシュ》、壊す《クラッシュ》……
頭の中で、バロットは言葉が韻を踏み続けていることに、ふいに気づいた。
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、磨く《ブラッシュ》、潰す《マッシュ》……
覚醒は一瞬でやってきた。それまでの夢道の状態が嘘のようだった。
――|おやおや《ゴーッシュ》……
奇妙な穏やかさの中で、バロットは目を開いた。
紫外線の清浄灯が天井の一角でちかちか音を立てていた。反射鏡が、頭上で固定され、ベッドからアームが伸びている。まるで手術台だった。
背中で動くものを感じた。ベッドのマットが、床ずれを防ぐために、ゆっくりと左右にうねっているのだ。バロットが身を起こそうとすると、ベッドが自動的にせり上がり、バロットの上半身をゆっくり持ち上げた。
同時に、ベッドの下半分が下がってゆき、足を曲げられる形になった。
ベッドがゆっくりと安楽椅子になった。まるで揺りかごだった。
視界が天井から室内へと移り、パーティルームみたいな広い部屋に所狭しと並べられた器械が目に入った。器械の一つがバロットの心拍に合わせてパルスを打ち、全てのコードやチューブはベッドへと伸びており、そのうちの幾つかがバロットの腕や頭に張り付いている。器械は全てバロットのために動いているらしく、穏やかな、子守歌にも似たそのリズムに聞き入りながら、バロットは目だけ動かし、部屋を眺めていった。
窓がなく、殺菌用のタイルが床と壁一面に貼られてあった。
乾いた空気が、穏やかな狂気に満ちているような感じがした。
そしてふと、唐突に――自分は生きているのだ、ということを、認識していた。
そっと、自分の体に触れた。自分の生存を確認する動作だった。
裸ではなく、薄い、絶縁体でできた患者服を着せられていた。そこから伸びる手足には、一片のくすみさえなかった。気持ち悪いくらい、のっぺりと滑らかな肌だった。
髪は生えたばかりのように、さらさらしている。肩より少し上くらいで切り揃えられており、髪全体が、かなり短くなっているようだった。
左腕を伸ばし、肘から手首まで、右手でゆっくりと撫でてみた。
ゆで卵の自身みたいな感触に、かすかな、刺激のようなものがあった。
(電気……?)
そうという他なかった。微弱な電流が、肌の表面を無数にかけめぐっているのだ。
しかもそれは、複雑な回路を形成していた。精妙に織り込まれた繊維のように。
その繊維を構成する糸の一本一本が、空気へと、蜘蛛の巣のように広がっているのが感じられた瞬間――バロットは、なぜ自分がこんなにも穏やかなのかを、理解していた。
この部屋に対して、全く不安がないのだ。
それはつまり、今いるこの部屋を、くまなく認識しているということだった。
普通、死角があることによって、そこに不安を感じるものだが、今、バロットは、皮膚に触れる空気を知り、空気が触れている全ての物体を感じ取っているのだった。
そちらを見なくても[#「そちらを見なくても」に傍点]、そこにどんな形状のものが置かれているかが[#「そこにどんな形状のものが置かれているかが」に傍点]、正確にわかるのだ[#「正確にわかるのだ」に傍点]。
それは、自分の体から広がる、目に見えない糸の一つ一つのせいだった。そしてその糸は全て、部屋の器械につながっていた。いや、絡みついているといってよかった。ベッドにも、部屋の照明や、サーモスタットや、血圧計にも絡み、潜り込んでいた。
バロットは、伸ばしたままの左手を、照明に向かってかざした。
細い、決して切れない糸を感じた。
自然と、その糸を指でつまみ、弾くようなイメージが思い浮かんだ。
その瞬間、なんと、世界が暗転した。全ての照明が、切られたのだ。
電源を切断されたのではない。一瞬にして、スイッチをオフにされたのだった。
暗闇の中で、バロットは、大きく目を見開き、微動だにせずにいた。
全身から広がる糸が、闇の中で、より鮮明に浮かび上がるかのようだった。
糸をまた弾いた。ぱっと目のくらむような光が満ちた。全ての照明が点灯していた。
糸を離し、今度は無数に広がるそれを、片っ端から撫でてみた。
まるで、万華鏡だった。目にしたものが、ちょっとした手の動きで千変万化するのだ。
エアコンが温度を変えた。計器が目を回し、手足に固定されていたチューブがひとりでに外れた。そのうち、糸として認識することさえ必要なくなった。手を動かすことさえせず、意識するだけで、全ての電子機器を触れずして操作できることがわかった[#「全ての電子機器を触れずして操作できることがわかった」に傍点]。
狂ってる。そう思った。何か奇妙な夢を見ているようだった。だが、自分自身こそが、この狂った現象の原因なのだ。逃れようのない悪夢とはこのことだった。
自分が今、存在していること自体、気狂いじみていた。目が覚めてみたら、別の生き物になっていた。厳密にいえば、薄皮一枚が、全く違う存在になっているのだ。しかもそれは力を持っていた。未知の、しかし確かな力を。吸血鬼に噛まれた者が、渇きとともに目覚めて、己が授かった力を知るように。
ふと――
バロットは、部屋の片隅に、旧式のポータブルラジオを見つけた。
まるでそれだけがバロットの意志から外れた所にいるように、ぽつんと置かれている。
ラジオに向けて手をかざすと、かすかに、ラジオが抵抗を見せた気がした。バロットがちょっと眉をひそめたとき、ラジオが、バロットの手の中で[#「手の中で」に傍点]音を鳴らし始めた。
耳障りなノイズが部屋に満ちた。大勢の人間が何かをひっかくような雑音だ。
バロットは音楽を宙に探した[#「音楽を宙に探した」に傍点]。部屋の外にまで意識が広がってゆくのがわかった。
そこでは無数の電波が、それ自体複雑な不協和音のように満ちあふれている。
電波の一つをとらえ、自分の体を――肌[#「肌」に傍点]を通して、音楽をラジオへとつなげた。
ラジオがびっくりしたみたいに表示灯を瞬かせ、間もなく、ミッドナイト・ブロードウェーを受信し始めた。バロットは音量を絞り、ちょうど良い大きさに調整した。
安楽イスに頭を持たせかけ、賑やかな音楽に耳を傾けながら、ふいに、泣きたいような気持ちになった。だが涙は出なかった。自分の胸の内側に、ぽっかり穴が空《あ》いていて、そこでは何もかもが乾いていた。
ラジオで黒人の女歌手が独特の発音とハスキーな声で歌い終えたとき、部屋の外で気配が起こった。誰かが部屋へやってくるのだ。部屋の外の様子さえ手に取るようにわかった。男が、一人。空気に流れる電子的な反応が、体格から容貌まで伝えてきていた。
ドアが開いた。
「お目覚めのようだね――」
その瞬間、バロットは反射的に部屋の灯りを全て消していた。ラジオの音も止めた。
男が、部屋の入り口でたたらを踏んだ。バロットの乗った安楽イスの車輪が、ゆっくりと部屋の奥へと移動した。闇の中で、バロットは男の手の届かない所にじっとうずくまった。
「あー……」
男が、咳払いをして、言った。
「うん、まずは自己紹介といこう。僕はドクター・イースター。君の修理担当……もとい主治医だ。ドクターでも、ドクでも、|やぶ《ダック》でも、好きなふうに呼んでくれ。要するに、君の生命保全と、人生改善に尽くすことで、市当局から報酬をもらう立場にあるってわけ」
バロットは息をひそめて、男がそれ以上、部屋に入ってこないのを見守った。
ドクターはまた一つ空咳をして、眼鏡を指で押し上げた。電子眼鏡《テク・グラス》のレンズに浮かんでいた幾つかの表示や数字の羅列が消え、一見してただの眼鏡にしか見えなくなった。
「まぁ……安心してよ。ここは僕らの|隠れ処《シェル》の一つでね。もとは死体安置所《モルグ》だったけど、近隣の反対運動に合って廃棄されたんだ。ちょうどこの部屋が検屍室で、手術にはもってこいの場所さ。この部屋の廊下を突き当たりまで行くと安置室があって、八百体の遺体を保管できる大施設だったんだよ。すごいだろ。八百体も自由にいじれるなんて夢みたいだ。でもこの一帯に地震があって、電力回路に故障が起きて、四十時間ほど電力が停止してしまったんだ。そのときの悪臭[#「悪臭」に傍点]に対して市民が猛反発したのさ。そこを、我々が事務所兼工場[#「工場」に傍点]として買い取り、アパートメントにしたってわけ」
ドクターは、そこで一息ついた。ちょっと疲れたようだった。
「で……灯りを点けてもらえると嬉しいんだけど」
これだけ説明すれば大丈夫だろう、というようだった。
結局、バロットが耳に留めたのは、|隠れ処《シェル》という言葉だけだった。
それはバロットを納得させた。それ以外の説明が無用なくらいに。自分が危険な目に合ったこと、そして今は安全な場所にいるということ。結局、その二つが重要だった。
バロットはゆっくりと部屋を明るくしていった。同時にラジオも低く鳴り始めている。
ドクターはラジオへ妙な視線を投げると、安楽イスの傍らにイスを引っ張ってきて座り、
「勝手に服を着替えさせてもらった。気を悪くしないでね。なにせ、君のドレスはマッチの消し炭みたいになっていたものだから」
その通りだとバロットは思った。あれはあっさり燃え上がった。煙草の箱を包んでいるセロファンみたいに。溶けて形がなくなり、あとは醜く黒い塊がこびりついて残っているだけのはずだった。自分と一緒に。
「はい、あーん」
ドクターが胸元にぶら下げたペンライトを手に取り、口を開くよう促した。バロットは素直に従った。喉をのぞき込むドクターの電子眼鏡《テク・グラス》が、ちかちかと光り、また数字や記号の羅列を表示した。やがて、ドクターが、ちょっと眉をしかめ、言った。
「あー……やっぱりダメだ。組織が剥がれてしまってる」
バロットが喉に違和感を覚えたのはそのときだった。今まで、自分の新しい感覚[#「新しい感覚」に傍点]のほうにばかり気を取られており、自分が失ったもの[#「失ったもの」に傍点]については全く気づいていなかった。
「声は出る?」
ドクターが言った。ペンライトをオフにして胸元に戻すまでの間、バロットは馬鹿みたいに、ぽかんと口を開いたままだった。
「嗅覚や鼓膜の再生なんかは、けっこう上手くいったんだよ。でも声帯のような組織は揺れが激しい分、安定が難しいんだ。まあ、そのうち治す方法を考えつくよ」
替えのパーツのない、電化製品のような言われ方だった。
バロットは息を吐いてみた。ひゅうひゅうと息が漏れたが、声は出なかった。
喉全体が、まるで干からびた木の虚《うろ》のようになっているのだった。
「肌の具合は? 痛みや痒みはある?」
ぼんやりとドクターを見つめ、ゆっくりと首を振った。自分が得たものと失ったもの。その両方を結びつけて考えようとしてみたが、駄目だった。
「さすがに女性は、自分の体を知るのが早い。術後、まだ二週間足らずだってのに」
ドクターが感心した。さきほどの照明のことだった。ポータブルラジオから流れる音楽についても。ドクターはバロットがそれらに手も触れていないことを知っているのだ。
「電子攪拌《スナーク》=\―それが、君が選択した生存のための力だ」
ドクターが、告げた。
「現在、君の体表面の九八%は、人工皮膚《ライタイト》で覆われている。他人から提供された皮膚組織を使用してないものを、そう言うんだ。本来の人間の皮膚ではない、何か[#「何か」に傍点]――」
ドクターが言葉を区切った。バロットが小首を傾げると、ドクターは、ここが大事なポイントだとでもいうように指を立て、言った。
「代謝性の金属繊維――それが、今の君の体表面を構成している物質だ。もとは宇宙空間を体感的に把握するために開発されたものを、人体に直接移植する技術さ。この金属繊維には、三つの力がある。一つは、皮膚感覚の加速装置《アクセラレーター》だ。体感覚を何倍にも鋭くできる。二つ目は、指向性の電子的探知能力。周囲にある全ての物体を、一瞬にして立体的に体感できるんだ。今の君なら、目をつぶったまま生活することだってできる」
バロットは、自分が先ほど体験したことを改めて説明され、素直にうなずいた。ドクターはさらに、丁寧に、その体験の先にあるものを、バロットの知らない言葉で告げた。
「そして三つ目が――電子操作だ。君の皮膚は電子的な干渉を行う出力系《アウトプット》を形成している。君は今や、あらゆる電子機器に対する、生きた遠隔操作機械《リモートコントローラー》というわけ」
ドクターはそこで眼鏡をちょっと指で押し上げ、レンズに映る数列を消した。
「なぜ、そんな体になったか、不思議に思うかい?」
極めて率直な質問だった。バロットは、また素直にうなずいた。
「君が昏睡している間、君の識閾野《しきいきや》に対して、市当局が決めた規定の質疑応答≠させてもらった。要するに君の無意識に、質問したわけだ。生きたいか、とか。こういう権利があるが、行使しますか、といったことをね」
バロットは、ふいに自分が見ていた夢のことを思い出した。選択についての夢を。自分はそこで何かを選択したのだ。だがいったい何を選択したというのか――
「マルドゥック・スクランブル―|09《オー・ナイン》」
ドクターが言った。まるでそれが、全ての答えだというように。
「マルドゥック市《シティ》が定める、人命保護を目的とした緊急法令だ。中でも|09《オー・ナイン》では、法的に使用が禁止されている科学技術の使用が、特別に許可される。救急車が、緊急時には、特別に信号無視[#「信号無視」に傍点]を許されているのと同じさ。それが僕の専門分野ってわけ」
バロットは、うなずきもせず、ただじっとドクターの言葉を聞いていた。選択――許可。その二つの言葉が、時計の針のように回転し、ぴたりと同じ時刻を指し示すのを感じた。それは魔法の時刻だった。バロットを違う場所につれていく魔法。選択と許可の内側では、複雑な歯車が幾つも回転し合っている。ドクターはその歯車の一つだった。
「君の識閾野は、|09《オー・ナイン》を選択した。そしてその選択に基づき、君の無意識が最も求めている技術[#「君の無意識が最も求めている技術」に傍点]を、君に対して用いたわけだ」
ただじっとしているバロットに向かって、ドクターが、やや緊張したように微笑し、
「で……今度は、覚醒した君の意識[#「覚醒した君の意識」に傍点]が、果たして|09《オー・ナイン》を選択するかどうか、ということなんだ。ただ、まあ、その前に、その技術の由来を、少しだけ話そうか」
そう言いながら、ドクターは意味もなく電子眼鏡《テク・グラス》のモニターをつけたり消したりした。
妙に落ち着きのない動作だった。そのわけは、それまでバロットの体験を説明していたのとは違って、今度はドクター自身のことを話すからだと知れた。
「僕は昔、宇宙開発の現場にいてね。やろうと思えばどんな狂ったことも許された。政府は予算を惜しまなかった。宇宙開発は、海の向こうの大陸にある敵国に対する、資源と戦略的優位とを確保するためのものだったからだ。要するに僕は、戦中派の最後の世代であると同時に、あるとき全てがひっくり返った[#「ひっくり返った」に傍点]、最初の戦後派ってわけ」
バロットは同意的なものは何も示さない。そもそも戦争話など縁遠かったし、軍人を客に取ったこともなかった。またそれは、仕事をするうちに覚えたことでもあった。何もしないということを。相手がこちらに必要なことを言い出すまで、喋らせておくべきだった。
「時代の流れってやつかな。戦争が終わってから七年後に、僕は博士号を剥奪された。それどころか人体実験の責任を問われて、刑務所に放り込まれかけたんだ。当時、戦争責任を誰彼かまわず唱えるのがブームだったからね。僕もそのブームに巻き込まれたんだな。その僕を救ったのが、スクランブル―|09《オー・ナイン》ってわけ。僕らは|09《オー・ナイン》専門の事件担当官として、有用性[#「有用性」に傍点]を証明しなければならない。たとえば[#「たとえば」に傍点]君を助けたりしてね。そうしなければ、世間から廃棄[#「廃棄」に傍点]される運命にある……という次第さ」
そこで、ドクターは、にこりと笑って、バロットを指さした。
「たとえば君のその皮膚も、僕らが開発し……そして戦後、禁じられた技術の一つさ。で……ここで、君が承諾しさえすれば、僕らは、君の生命保全プログラムを、法務局《プロイラーハウス》に提出することができる」
バロットは首を傾げた。自分がこうして生きているのに、なぜ生命保全――つまり命を守られねばならないのか。
「君が生きていることがわかれば、殺そうとする人間がいる。君にその技術[#「技術」に傍点]を与えたのは、瀕死の君を治療するためだけじゃない。その後で、君が十分に、君自身の生命を守れるだけの力を与えるため[#「君自身の生命を守れるだけの力を与えるため」に傍点]なんだ」
つまりバロットにとっての危機[#「危機」に傍点]こそ、ドクターにとっての救済[#「救済」に傍点]というわけだった。
ドクターは物事を結びつけて考えるのが得意なタイプらしかった。ときどき、客の中にそういう男がいた。たとえば男がこなさなければならない仕事と、バロットのような存在を買うこととを、うまく結びつけて考えるのだ。これは必要なことなのだと、バロットを抱きながら客は言う。卵を割らねば、|片面焼き卵《サニー・サイド・アップ》は作れないとでもいうように。
けれども、|矛盾のない人生《サニー・サイド・アップ》の裏側ではいつでも暗がりが焦げ付いている。割られて良い卵は、この世にごまんとあった。この街は、あまりに多くの卵を割りすぎる。
「生き延びた理由は、君自身がなんとでも解釈していい。復讐を望むのなら復讐を。人生のやり直しを求めるなら、思う通りにすればいい。金もたっぷりあるし……というか、これから作るんだ。ただ、それは僕らに協力してくれた後の話だ。わかるかな」
ドクターの言っていることはよくわかった。うなずくのはこういうときだ。それで、相手は自分に何を求めているのか言ってくれる。
バロットは、目を伏せながら、小さくうなずいた。
ドクターは、あからさまに安堵の息をつきながら、
「僕らは、スクランブル―|09《オー・ナイン》専門の、委任事件担当官だ。民間から申請された事件の解決報酬として、法務局《プロイラーハウス》から金と、僕らの有用性の保証をもらう。君に与えたその技術[#「その技術」に傍点]が、今回の事件[#「事件」に傍点]で、合法的なものになる可能性だってある」
バロットは、目を伏せたまま考えた。ドクターはいったいどこで、僕ら[#「僕ら」に傍点]という言葉を使い始めたのだろうか。それまで僕と言っていたのに。
そしてまた――事件[#「事件」に傍点]という言葉。それが、選択と許可の裏側で回転する、ひどく尖った歯車だった。自分はただ選択しただけ。だがいったい何を選択したというのか。ドクターは、バロットが体験した未知の力を説明してくれた。だがその力の目的は――?
いったい自分は、この先、何をすればいいのか――? そう思っていると、
「君にしてもらいたいことは、まず法務局《プロイラーハウス》に今回の事件委任を要請すること。次に、今回の事件の担当として我々を指名することさ」
〈――事件?〉
突然の声だった。ドクターがはっとなった。
バロットも意表を突かれた。全くの無意識[#「全くの無意識」に傍点]だったのだ。
〈誰の事件?〉
ノイズそのもののような声。ポータブルラジオだった。正確には、バロットが音声出力に干渉して操作《スナーク》し、音を言葉に変えていたのだ[#「音を言葉に変えていたのだ」に傍点]。
だが――奇妙なことは、ラジオのほうから働きかけてきたような感じがしたことだった。
バロットの言いたいことを察して、代わりに言ってやろうとでもいうように。
ドクターが、ラジオからゆっくりとバロットに目を戻し、言った。
「シェル=セプティノス」
その名を聞いた途端、バロットの心臓がふいに強く脈打った。自分の心情からくる肉体の変化が、まるで時計のネジの巻き加減のように、正確に把握できた。
「我々が追っている男だ。事件はヤツが起こした。我々はそれを料理する。とはいえ、あの男も利用されているだけの小悪党に過ぎないんだけど」
〈――どういうこと?〉
「シェルは、ある大企業の下で働いている。オクトーバー社――君も知ってるだろう」
もちろん知っていた。シェルが経営するカジノ店は、必ずどこかでその企業とつながっていた。娯楽産業を根本とし、マルドゥック市《シティ》の様々なメディアの背景にいる、巨大な連合企業が、オクトーバー社だった。
「その企業は、いわば、僕らの宿敵なのさ」
〈――敵?〉
「スクランブル―|09《オー・ナイン》とはまた別の、禁じられた科学技術の使用が許される場合がある。オクトーバー社は、もともと僕と同じ研究所にいた人物が創業したものでね……」
ドクターはそこで、ちょっと口ごもったようになった。
「娯楽だよ。快楽や安楽といってもいい。それが、オクトーバー社の有用性[#「有用性」に傍点]なのさ。様様な技術を用いて、マルドゥック市民に娯楽を提供する裏で、合法・非合法を問わず、快楽をもたらしてるんだ。麻薬、快楽器械、非合法なショー、なんでもござれだ」
中には、福祉のためと称して、スラム街の住民に、特殊な技術を施すこともあるという。
ストレスを感じたら、脳が自動的に快楽を感じさせる化学物質を分泌する|A10《エーテン》手術なども、もとはオクトーバー社がもたらしたものだと、ドクターは言った。
「オクトーバー社の、腕利きの不正金洗浄《マネーロンダリング》係が、シェルなのさ。あらゆる手を使って、資金洗浄を行う。君が今回、命の危険にさらされたのも、シェルの商売《ビズ》の一部である可能性が、極めて高い。君と僕らは、共通の敵を持っているといえるだろう」
つまり、ドクターは、バロットは殺されるべくして殺されたのだと言っていた。
それはバロットが求める問い――なぜ自分なのか、ということの一部を示している。
なぜ自分が殺されなければならないのか。
きっと、明確な理由があるのだ。愛とはかけ離れた理由が。心臓はすでにゆっくりと打っている。心の温度が恐ろしく冷えていた。まるで昆虫か何かになったように。
昆虫なら本能が生かしてくれるだろう。だが今、この生には何もなかった。
バロットは、ドクターの言葉の一番大事な部分を待った。
「僕らは、君の命を守り、そしてシェルを逮捕する。事件の解決報酬が市当局から支払われ、僕らと君とで山分けする。相手はオクトーバー社という馬鹿でかい企業だから、報酬も数十万ドルを下らないだろう。君の人生を十分に変えられる金額だ」
ドクターは熱心にバロットを説得しようとしていた。欲しいなら金は全てくれてやるというように。要求《二ーズ》に応えるなら、なんでも与えようと。
「君は新たな人生を得る。僕らは今回の事件をもとに、社会的有用性を証明し、そして――さらなるオクトーバー社の不正と悪事を、暴いてゆくのさ」
ドクターは言った。それ以上のことを言う気配はなかった。
肝心なところで、呆気《あっけ》なく放り出されたような気分だった。
バロットはうなずきもしなかった。目は何も見ていなかった。口の中で炎の味がした。
焼き殺されたときに吸い込んだ爆煙の味が、古傷の痛みのようにまざまざと甦った。
ラジオは古い曲を流している。ピアノに合わせて女歌手がさめざめと歌っている。
曲が終わり、ドクターが何かを口にしようとしたとき、バロットはラジオに干渉した。
〈――ネズミ〉
ラジオのノイズが、そういう言葉を作り出した。
「なに?」
〈|可愛くて、喋る《キュート・アンド・トークス》〉
ドクターの眉がよった。驚いているようだった。バロットは、さらに、
〈卵の黄身みたいな、金色の〉
と付け加えた。
「ヒョウ!」
突然だった。ドクターがのけぞって笑い出した。
「君はあの状態で意識を保っていたのか! 素晴らしい適性だぞ、君は! 専門に訓練された宇宙飛行士だって、なかなかそうはいかないもんだ!」
ひとしきりがなりたてると、そこで初めて、ポータブルラジオを振り返った。
「さあ、ウフコック! 彼女がお前を呼んでるぞ!」
だが、応える者はいない。
「全く、シャイなヤツだよ」
ドクターは、はしゃぐように席を立つと、意地の悪い顔でラジオを手に取った。
そして何を思ったか、いきなり、ラジオを振りかぶり――床に叩き付けたではないか。
ラジオが破壊される音に、バロットはびくっとなった。ラジオのアンテナが取っ手ごと弾け跳び、スピーカーが外れ、音量調節用のつまみ[#「つまみ」に傍点]が床に転がった。
呆気に取られるバロットの足下につまみ[#「つまみ」に傍点]が転がってきて、ころん、と横倒しになった。
「あまり女性を驚かせるものじゃないぞ、ドクタ!」
つまみ[#「つまみ」に傍点]が、やけに渋い声を放った。どこか、困ったような口調だった。
「反転変身《ターンオーバー》=\―こいつは、どんな破片からでも、元に戻れるんだ」
ドクターが、つまみの声を無視して、説明した。
「こいつも、もともとは宇宙開発用でね。体内の亜空間に貯蔵している物質を、こちら側の空間に向かって、ひっくり返す[#「ひっくり返す」に傍点]ことで、どんな物体にでも変身《ターン》可能なのさ」
バロットは、ラジオのつまみを、拾った。そっと、手の中で転がしてみた。
そして、さきほどから、このラジオと交わした、奇妙な交流を、思い出した。
「ウフコック」
ドクターが、その名を告げた。
「いざとなると、煮え切らないヤツでね」
と思うと、確かにそれはひっくり返った[#「ひっくり返った」に傍点]。つまみである物質は内側へ。そして、一匹の金色の毛並みを持つネズミが、こちら側へと現れた。夢に現れたあのネズミだった。
「こんばんは、お嬢さん」
バロットの手の中で、ていねいにお辞儀した。なんと、二本足で立っていた。
「ネズミは、お嫌いじゃないですか?」
訴えかけるように両手を開くネズミへ、バロットは首を傾げてみせた。
「当方は、普通のネズミとは、微妙に違いますので、そう気持ち悪がらずにお話しして……いやいや、喋れないんだった。ええ、ご入り用ならもう一度ラジオになりますよ。いつでもおっしゃって下さい、ラジオだろうとテレビだろうと」
バロットはまた首を傾げた。悪い気はしていなかった。夢の中で、ネズミが重要なことを言っていたのを思い出した。死について。そしてその価値について。それをもう一度言って欲しかった。なぜ自分なのか――別の答えを教えてくれる気がして。
「何を言ってるんだ? 仕事の話を――」
ドクターが呆れたように口を挟むのへ、
「段取りというものがあるだろう」
ウフコックは、ドクターに向かって指を突きだし、
「彼女にとってはショックな出来事だったんだ。まずはメンタルなケアが必要だ」
「抗鬱剤でも処方しろって? それとも仕事に支障がない程度にラリってもらう?」
「そういうものが必要ない状況を作るべきだと言ってるんだ、俺は」
〈……どうすればいいの?〉
ふいに、床に転がったラジオのスピーカーが、言葉を発した。
ドクターとウフコックが、同時にバロットを振り向いた。
〈あなたたちに協力するには……うなずけばいいの? それとも、契約書にサインを?〉
「話が早い」
ドクターが喜色満面で言った。
「よし、じゃあ、そいつ――ウフコックを握ったまま、シェル=セプティノスのことでも思い浮かべてもらおう」
ドクターの言葉が何を意味するのかわからなかったが、バロットは、黙って、その通りにした。そっと、ウフコックの体に指を絡ませ、シェルのことを思った。
ウフコックの赤い目が、バロットを見つめていた。
バロットの漆黒の目もまた、ウフコックを見つめた。そして、シェルが最後に見せた微笑を思い浮かべた。車のドアの向こうで、手を振っている姿を。指輪のブルーダイヤがきらきら光っていた。その光を思い出すだけで心臓がゆっくりと毒を吐くようだった。
唇が震えた。屈辱と哀しみが、ふいに手のひらを通してウフコックに伝わった。
そして、バロットの深い思いが、一つの形を伴って現れた。
それが、バロットの新しく得た力だったし、ウフコックの能力だった。
ぐにゃりとウフコックが変身《ターン》した。ウフコックの困ったような表情が、一瞬で消え、代わりに、バロットの手に、ずしりとした重みが、生じていた。
銀色の、リボルバー式の拳銃が、バロットの手の中に出現していたのであった。
バロットは、じっと拳銃を見つめた。これが答えなのかと思った。その途端、ひとりでに撃鉄が起き上がった。かちり。弾丸が、鋼の内部から[#「内部から」に傍点]装填されるのを感じた。それは間違いなくバロットの操作《スナーク》だった。この拳銃はバロットの絶望を知っていた。
「こうまではっきり、銃の形になるとは思わなかったな」
ドクターが、しげしげと拳銃を見つめながら、
「これで、ウフコックの中に、君の精神紋《サイコプリント》が記録された。君の心の、物的証拠というわけだ。僕らは、君のその心をもとに、君を守り、そして目的を果たす。すなわち、シェル=セプティノスという男を打倒し、オクトーバー社を叩き――」
「違うぞ、ドクター」
ウフコックが、拳銃の姿のまま、遮った。
「彼女は、自分を撃つぞ」
ドクターが目を剥いた。
「まだ、男に未練が?」
「そうじゃない」
ウフコックが言った。バロットはそのとき初めて、銃に引き金が付いていない[#「引き金が付いていない」に傍点]ことに気づいた。それが、ウフコックの意志だった。そして、バロットがこの奇妙なネズミから与えられた、最初の優しさだった。
手のひらに体温が生じた。ぐにゃりと銃が形を失い、金色のネズミに変身《ターン》して、手の中でバロットを見上げた。
「心の殻を、割れずにいるだけだ。周囲に、あまりに自分を傷つけるものが多すぎて」
バロットが息をのんだ。その目を大きく見開いて、ウフコックを見つめた。
「何の話だ?」
ドクターが怪訝《けげん》そうな顔になった。
「彼女は全てを失った。彼女を助けたのは我々だ。彼女が今生きている意味を、一緒に探す責任がある。彼女に、生存放棄を選択させないことが、今の俺の有用性[#「有用性」に傍点]だ」
そう言って、ウフコックはバロットの目をまっすぐに見た。愛嬌と威厳とがまざったような、渋みのある目だった。結局のところ、ドクターでさえ、ウフコックの言葉には逆らえないのだ。バロットはすぐにそれを理解した。その理由も理解した。
どうしてかわからないが、ウフコックは一瞬で相手の心を察知し、見極める力を持っていた。その心の価値を判断する力も。それは、バロットや、ドクターや、この街で生きる人間が、どこかに忘れてきてしまった力であるような気がした。
ネズミと少女はじっとお互いを見つめ合った。まるで離れていたピースが、ようやく当てはまったかのように。ずいぶんと長いこと、そうしていた。
やがて、一人だけ取り残されたドクターが、憮然として、
「スポットライトでも当ててやろうか? お二人さん?」
そう声をかけたものだった。
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Chapter.2 混合気 Mixture
店内に流れている音楽はスローで、ストリングスの音がその輪郭をかたどっている。
カウンターの端で、男が一人、スコッチを舐めていた。
マルドゥック市《シティ》の東側にあるホテルの、地下のバーだった。戦後の街の繁栄を表現したようなホテルで、見た目の輝き通りに、繁盛していた。
深夜を前にしてバーに入る客は増え、そこかしこで商売の話が行われた。街の南や西では決して聞かれることのない大きな取り引きが、新種の麻薬みたいに話し合われた。
男は、目の前にいるバーテンと同じくらい無表情に、店の雑音を聞き流している。
男の名はディムズデイル=ボイルドといった。
現在、シェルのもとで働いていた。大きな体をしていたが、体温は低そうだった。
やがてシェル=セプティノスが店に現れ、ボイルドの隣に座った。
シェルは、鉛色に光る変光《カメレオン》サングラスを外すと、ジンを頼んだ。ライムを二つに切って落としてくれ、とシェルは頼み、パウダーを忘れないでくれ、とつけ加えた。
バーテンは黙ってライムを切ると、カプセルを一つ手に取り、その中身をライムの果肉にかけた。ライムをジンの上で絞り、そのままグラスに落とした。
粉末は多幸剤《ヒロイック・ピル》だった。オクトーバー社の目玉商品の一つだ。
最近では東の金持ちにも人気があり、ここではかえって値がはった。西から流出した薬が、街の東で十倍近いレートで売られる場合もあった。福祉局はより安全な薬を市販したが、誰の気にも召さなかった。効き目が違うのだ。このバーの仕入れ先は中央公園《セントラルパーク》のガーデンプラザで、そこでショッピングする者たちの大半は、この薬を買って帰った。夜泣きする赤ん坊にこれを飲ませる者もいた。禁煙や禁酒にも効果があった。だが街の東西を問わず、この薬を飲む者の中で幸福感がどういうものかを知る人間は少なかった。
「生まれ変わった気分はどんなものだ?」
ボイルドが訊いてきた。
「長い夢を見ていたような気分だよ」
シェルは薄く笑って、
「記憶保存《クラップ》=\―そいつが俺の得意技ってわけだ」
右の眉のすぐ上を指で示した。そこに小さな端子が埋め込まれていた。
「ここにコードを接続する。光学繊維がここから前頭葉に届いているんだ。そこから記憶を抽出して記録化するのさ。同時に、俺の頭の中からは、綺麗に消去しちまう。定期的にこれをやらないと、俺の脳は記憶に耐えられずに腐敗する可能性があるらしい。もとは|A10《エーテン》手術の後遺症を治療する技術だったんだが、今でも色々と役に立っている」
「使いようだな」
「そうさ」
シェルが、掠れたような笑いをこぼした。
「頭をいじらせてやるといえば、どんな病院だってフリーパスだ。ヤツらにとっては大事な臨床データだからな。まるでお姫様扱いさ」
「データはどうしている? 臨床のほうではなくて、あんたの頭の中身は?」
「患者の虫歯を欲しがる歯医者がいるか?」
「データをコピーされている可能性は?」
「ゼロとはいえないが、限りなく低い。限度一杯に賭けたポーカーで、相手がブタなのにジャック・ポットを宣言してくるくらいに」
「そういう事態は、あんたの人生の中でどれだけあった?」
「さあ。なにせ、夢の中のことなのでね」
にこりとシェルが笑った。手にしたグラスと同じくらい冷ややかな笑みだった。そしてそれと同じくらい、割れたときの鋭さを思わせる表情だった。
「今覚えている最も新しい記憶は、これでようやく取り引きの準備が整ったってことだ。これまでみたいに上からおろされてくる取り引きじゃない。こちらから提案する取り引きだ。チップは俺の記憶。場に伏せられたカードには、お前という切り札がいる」
ボイルドは黙ってうなずいた。
「代償は過去だ。多くの人間にとって、かけがえのないものだ。だが俺は、そんなものは要らない。どうせ嫌な臭いのする、思い出したくもない過去《ジョッシュ》だ」
シェルが、低い笑い声を漏らした。ボイルドは何も言わなかった。
「オクトーバー社のケチな博打屋《ピジョン》が、俺の人生の始まりだった。そしてすぐに花形ギャンブラーという肩書きを手に入れた。カジノを任され、金を右から左へ動かすようになった。そしてそこで金を綺麗にする仕事を手に入れたんだ。俺はヤツらが思いもしなかったような方法で、金を綺麗にしながら増やす方法を幾つも考えた。連邦政府に入る予定の政治家の卵どもを、格安でカジノで遊ばせたりもした。そいつらが親の使いで企業に流す金を、ウチの換金所でプールさせたりもした。どんな汚い取り引きもやった」
シェルは歌うように言った。恐ろしく上機嫌な声だった。スラムから、この街の|天国への階段《マルドゥック》を、高みへと駆け登っていった男――それがシェルという男だった。
「だがそれだけで終わってたまるか? それだけだったら、金持ちどもの便所を掃除している高級メイドと何が違う? メイドどもは便所の汚れとベッドの面倒をみる。俺は金の汚れと賭事《ベット》の面倒をみる。大した違いはない。だから俺は取り引きをした。俺を、ヤツらの一人にするように、と。俺は全てを捨てられる。綺麗に捨て去って、新しい人間になれる。ヤツらはそれを知ってるはずだ。俺はそれを何度も、何度も、ヤツらに見せてきたんだからな。そして俺が綺麗にしてきた全ての汚れを思い出したとき、ヤツらは初めて取り引きに応じた。俺がこれまでただ無駄に記憶を捨ててきたと思うか? 冗談じゃない。ちゃんと記録化して、俺にしかわからないところに隠してあるのさ。これが俺のストレート・フラッシュだ。ヤツらはこのゲームから降りられない。これは俺のゲームだ。そして、お前のゲームでもある。そうだろう、ボイルド?」
ボイルドはゆっくりとうなずいた。
「俺は、殻《シェル》だけでいい。中身はこれから入れる。栄光を入れる器――それが、俺だ」
そこでシェルは、ようやく落ち着いたようだった。それがシェルの狂気だった。自分の過去の記憶を切り売りする男の心情など、誰が理解できるだろう。
「俺は、あんたとは、雇い主として以上にうまくやれると思っている」
ボイルドが、ぼそっと、言った。そして、静かに、新聞の切り抜きを、上着の内ポケットから取り出し、カウンターの上に置いた。
「マルドゥック・スクランブル―|09《オー・ナイン》が発令された」
シェルは、その記事を、無言で読んだ。二杯目のジンを頼み、それから改めて記事を見た。読んだのではなく、見つめた。
「誰だ、この女の子は?」
「ルーン=バロット。あんたの夢の中で、死んだはずの女だ」
「夢……? ああ、つまり――金を握らせた警官《ハンター》どもに回収させるはずだったブルーダイヤの原料[#「原料」に傍点]が、まだ生きて動き回ってるってことだな」
シェルは、全く感情のない声で呟き、ジンを飲んだ。たっぷりかけたライムの果汁と多幸剤《ヒロイック・ピル》とを一緒に、ありうべき過去を飲み尽くした。シェルの反応は素早かった。
「委任事件として成立したのはいつだ?」
「先日、すでに、第一次法廷取り引きがあった。そこで女が、何らかの情報を法務局《プロイラーハウス》に流し、身分操作および殺人未遂の事件を、法務局《プロイラーハウス》に委任している」
「生命保全プログラムが実施されている。委任事件担当官が――薄汚い事件屋どもが、バックにいる証拠だ。調べたか?」
「問い合わせてみた」
シェルは笑みを浮かべてうなずいた。目の前にいる男のすることに、手抜かりなどあるはずもなかった。ボイルドはシェルがこれまで雇ってきたどんなボディガードよりもタフで頭が良く、その実績と有効権限の広さから、雇用金額も桁違いだった。
ボイルドは戦時中、優秀な空挺師団の一員として、また連邦国の最前線兵士として、海を越えて大陸の敵国に侵攻した経験があった。一方、シェルは戦争を経験したことがなく、脳障害から徴兵を免れていた。だから余計にシェルは、ボイルドの、元軍人という経歴が気に入っていた。ボイルドは、シェルにとって、戦争に参加できなかったコンプレックスを払拭してくれるという意味でも、優秀な人材だった。
だがそこでボイルドは奇妙な表情を見せた。シェルがまだ見たことのない表情だった。しいていえば困ったような顔だ。その顔のまま、事件屋の名を口にした。
「ウフコック=ペンティーノ」
「奇妙な名だな。大陸系か? 戦中にこっちに亡命してきたとか?」
「いや――恐らくは命名した人間がそうなんだろう。本人は、どこの出ともいえない」
「知っているのか? その事件屋を?」
「以前[#「以前」に傍点]、組んでいたことがある[#「組んでいたことがある」に傍点]」
シェルが驚きの顔になった。だが、ボイルドはそれ以上の説明を省いた。
「ヤツが全地区において法規的優先権を得るのに、一日も要らない。事件屋としての権限をフルに活用して、こちらの情報をかき集めているんだろう。あんたが抱えている取り引きの内容も、すでに嗅ぎ取っているのかもしれん」
「あるいは――俺を狙うために、わざわざ女に目をつけたのかもしれないな」
「十分に可能性がある。あのお喋りネズミの沈黙が、気になる」
「元相棒を、ネズミ呼ばわりか。よほど仲|違《たが》いしたらしいな」
シェルがちょっと面白そうにいった。ボイルドは、ゆっくりと首を振り、
「腕利き《プロフェッショナル》のネズミだ」
真顔で、言った。シェルは肩をすくめ、
「なるほど」
三杯目のジンを頼み、それを飲む前に、ジャック・ポットだ、と低く呟いた。
「これは俺のゲームだ。誰にも邪魔させない。生命保全プログラムといったな? それさえ適用されなくなれば、事件屋が干渉する権限もなくなるはずだな?」
「そうだ。当事者の死亡または失踪で[#「当事者の死亡または失踪で」に傍点]、事件不成立[#「事件不成立」に傍点]にしてしまうのが、一番早い」
うっそりと告げるボイルドに、シェルは満足げに微笑み、ジンを飲み干した。
「頼んだぞ。それと例の医者たちだが……確かに、これ以上、俺以外の人間にジャック・ポットの可能性があるのは、好ましくない。言っている意味がわかるな?」
「ああ」
「お前こそ俺の切り札だ、ボイルド」
薄く笑み、シェルは席を立った。すぐ背後にまで事件屋の手が伸びている人間とは思えないほどの悠然とした仕草だった。その目は決定的な行為を秘めて宙を見据えていた。
そのシェルに、念を押すように、ボイルドが言った。
「人を使う。金が必要だ」
「一人では無理か? どうせ、丸焦げになって、集中治療室かどこかで、棺桶に首まで入っているような女なんだろう?」
意外そうなシェルに向かって、ボイルドは首を振った。ゆっくりと、宥《なだ》めるように。
「使い捨てだ。あんたの過去と同じように。あんたは、過去を捨てるたびに、剃刀《かみそり》のように鋭くなっていく。それと同じだ。より確実にしておきたい」
シェルは、鷹揚にうなずいた。
「|隠し預金《エッグ・イン・ネスト》の一つを使え。キーナンバーを後で教えておく。良い報せを待っている」
それから、ふと、
「不思議だな」
シェルは、真顔になって、自分の手を見た。
「記事を見たとき、その女のことを思い出せないまま、疼《うず》いた指があるんだ。きっと、その指に、彼女を[#「彼女を」に傍点]嵌《は》めるつもりだったんだろう。新しいブルーダイヤを。だが――」
自分の、左手の薬指を撫でながら、
「この指に嵌めるということは、それだけ特別な女だったのか? エンゲージリングにしてしまいたいほどの? それとも大して理由のない、ただの気分なのか?」
低い声で、自問していた。ボイルドは答えない。誰に答えられるものでもなかった。
「女の記憶……それが必ず最初に消えるんだ。それが必ず俺の中でストレスになってるらしい。女が、俺の脳を破壊しようとするんだ。なぜだ? たかが女なのに、なあ?」
シェルが笑って言った。その笑みがひどく自嘲めいている。
「たかが二十グラムの弾丸でも、人は死ぬ」
ボイルドが、低い声で囁いた。シェルは、うなずき、鋭く笑むと、変光《カメレオン》サングラスをかけた。時間とともに色を変えるサングラスは、濃い紫色に光っている。それがシェルの苦痛の色のようでもあった。取り返しのつかない忘却。そういう苦痛だった。
「俺に指輪[#「指輪」に傍点]を届けてくれ。頼んだぞ」
シェルは言って、去っていった。
ボイルドは、カウンターに置かれたままの新聞の切り抜きを、静かに見つめ、
「これでまた、お前に会える。……ウフコック」
シェルには聞こえないところで、ぼそりと、呟いていた。
ウフコックを肩に乗せたバロットが、オフィス・ルームに入ってきたとき、ちょうどドクターがディスプレイに向かって最後の動作を終えたところだった。
「事件当事者《バロット》の、出廷についての態度を、保留できるか?」
ウフコックが、やけにきっぱりとした口調で訊いた。ドクターは、ぽかんとなって、
「何の冗談だ、ウフコック? 僕がたった今、何をやったかわかってるのか? そう、もちろん、検事との全通話の記録を、申請ファイルに添えて法廷の事務局に送信したところだ。第一次法廷弁論の調整をモニター上で終わらせちまったんだ。卵を割った後で、中身を殻の中に戻せといってるようなもんだ」
「まだ卵は焼いていない」
ドクターが、首を絞められたように唸った。
「じゃあ、たった今、役所に向かって全力疾走し終わったところの電子情報《なまたまご》に向かって、実はまだ料理の仕方を決めていないんです、と言ってみろよ。今さら……」
そこで、はっとドクターの動きが止まった。まじまじと、バロットの顔を見つめた。
「この一瞬で……」
とても信じられない、というように、ディスプレイに向かって身を屈め、たった今送信したばかりのデータを確認した。ファイルの中身は完全に空っぽになっていた。真っ白に。宛先もなかった。すぐ横に指定された新規の別ファイルがあった。それを開くと、送ったはずのデータがそのままコピーされて保存されていた。まるで魔法だった。
「君の電子攪拌《スナーク》≠ノおける適性は、実に素晴らしい」
ドクターが中腰の姿勢から背を伸ばし、まっすぐバロットだけを見た。
「電子的干渉をこのレベルで行えた者は、僕の知る限りではいない。というか生存していない。干渉の速度に精神のほうが参ってしまうからだ。君はほぼ全身をそのレベルにまで加速させているにもかかわらず完全に順応している。それは素晴らしい。でも――」
バロットは決して目を上げなかった。無表情にうつむいていた。
「君が、術後三百時間足らずで、識閾《しきいき》レベルの限界に挑戦することと、出廷を拒否することとの関係を教えてくれないか? この|隠れ家《シェル》に永遠に閉じこもっていたいの?」
バロットは首を横に振った。小さく、何度も。それが応答の全てだった。
その肩先で、ウフコックが、どこか困ったような顔でドクターを見ている。
「まるでマスコットだな、ウフコック?」
ドクターが、きつい口調で言った。バロットがはっと目を上げた。だがバロットの視界の隅で、ウフコックは泰然として肩をすくめている。まるでそれが自分の仕事だとでも言わんばかりに、バロットの肩で、ぬいぐるみ然とした愛嬌を見せるばかりだった。
ドクターが疲れたように溜め息をついた。
「彼女は、事件解決のために、我々を委任事件担当官として指定したんだ。まずは、法廷での説明義務《アカウント》と応答責任《レスポンス》に応じなければいけない。そのことをちゃんと彼女に説明したか? そうしなきゃ、我々はこの先一歩も進めず、敵が殺し屋を放つのをただ待つしかなくなるってことを?」
そのとき、ポーン、と音がした。ドアベルにも似た、データの着信を報せる音だった。
先ほど真っ白にされたメーリングデータが、宛先不明で送り返されてきていた。
ドクターが、怪訝《けげん》そうな顔でディスプレイを覗き込んだ。そして、もう一方の手で、驚いたように眼鏡を押し上げた。
――|味方は一人もいない《ノーバディ・ノーウェア》。
そういうメッセージが、ぽつんと、メーリングデータのテキストとして浮かんでいた。
これがバロットの応答責任《レスポンス》だった。まるでそれが、彼女の知るたった一つの真実だとでもいうように。
「……つまり、我々が信用できないと?」
ドクターが、先ほどよりずっと穏やかな声音になって言った。猫なで声というのではなく、やっとわけがわかってきた、というふうだった。
バロットは首を振った。
ポーン、とまた音がした。
同じメーリングデータが、文面を変えて現れていた。
――怖い。
ドクターが何かを言おうとした。つづけて、ポーン、と音がした。
――裏切られたくない。
宛先のないメールに、一言ずつ、そう書かれていた。
「僕らは決して君を裏切らない。全力で事件解決に向けて努力する。そうだろう、ウフコック? どんな危険があったって――」
だがウフコックは応えない。つくづく困ったような顔でいるばかりだった。
「なんとか言えったら」
また、ポーンと鳴った。
――あなたたちは、ずっと私をのぞいてた[#「のぞいてた」に傍点]。
ドクターがぽかんと口を開けた。さらに着信のチャイムが鳴った。
――あなたたちは、私を生き返らせてレイプした。
ドクターは愕然とした表情でそれを読み、力の抜けた様子で、椅子に座り直した。
「レイプ……?」
まるで信じがたい言葉ででもあるかのように、それを繰り返した。
バロットはうつむいている。強気でメッセージを伝えたというより、心の底に隠し秘めていた言葉を、うっかり覗かれたとでもいうようだった。
決して目を上げず、怒鳴られ――そしてもっと酷いことをされる覚悟で、自分の足に履かれたスリッパを見つめていた。
「……僕は、政府の研究チームに迎えられた際、二百通りのカウンセリングを受けて、人権の尊重と、深い倫理理解と、道徳観念を叩き込まれた上で、研究に携わった」
ドクターが、声を絞り出すようにして、言った。
「そのカウンセリングの海に溺れて、僕はすっかりインポテンツになってしまった。それが原因で妻とも別れた。今では僕も自分の性的不能を誇りにしてるくらいなんだ。ときどき自分が聖職者か何かになったみたいに感じることだってあるし――」
「あー、ドクター……」
ウフコックが言葉を差し挟もうとしたが、ドクターは聞かなかった。
「良いだろう、完璧な説明義務《アカウント》を証明しよう」
声がかすかに怒気をあらわし、バロットがびくっと肩をすくませた。だがドクターは最後まで丁寧だった。冷静ではなかったが、言葉以外の手段を用いようとはしなかった。
「第一に、我々は最優先で君の生命を保全した。だがその場で君を救急病院に運ぶ手はなかった。すぐに敵に連絡がいって、他ならぬ病院で君はとどめ[#「とどめ」に傍点]を刺されていたろう。で、|やぶ医者《ダック》である僕の出番だ。僕の診たところ、君の命を救うには単なる皮膚移植じゃダメだった。スキンを安定させる前に君は神に召される。そこで今度は僕の技術の[#「僕の技術の」に傍点]出番だ。その点では、君と合意していると思ってるんだけど、そうでしょ?」
バロットは、小さくうなずいた。ドクターはただ言葉だけを――淫売とか上玉のお嬢ちゃんとかいった言葉を使わず、純粋に説明に必要な言葉だけをバロットにぶつけた。
バロットにはそれで十分だった。それが即ちバロットの哀しさであることにドクターは気づかなかったが、ドクターはドクターで、それどころではなかった。
「第二に、今後、事件を解決に向かわせるためには、君自身にも抵抗力を持たせる必要があったんだ。それに関してはウフコック君から証言してもらいましょうか」
自分だけ悪者になるのはたまらない、というようにウフコックを指さした。
ウフコックは両手を上げ、渋々といった感じでドクターのあとを続けた。
「オーライ、俺の応答責任《レスポンス》だ。まず、公共の警備機構に君の身柄を預けるのも手だったが、警備員の中に暗殺者が潜り込んでいた場合、我々ではチェックできない。警備機構の中には、そういう仕事[#「そういう仕事」に傍点]を第二の本業だと思っているヤツもいるからだ。そこで、我々がガードしつつ、君に抵抗力を持ってもらうのが妥当だった」
ポーン、と一つ、音が鳴った。
――抵抗力?
ウフコックは、バロットの肩から身を乗り出してその文字を読み、
「うん……まぁ、いわば、戦闘力だ。たとえば護身術とか、銃の使い方とか――」
ポーン、とまた一つ、音が鳴った。
――無理。兵隊になんかなりたくない。
ウフコックは、小さく肩をすくめた。それが応答の最後になった。
ディスプレイは今やバロットの言葉で埋め尽くされている。
ドクターがディスプレイに向かい、一つ一つのファイルを手早く操作し、全てのテキストデータを同一のファイルにまとめて保存した。バロットの目がちらっとドクターの動作を追った。てっきり全ての言葉を消去されるのかと思っていたが、ドクターはじっとそれらを読み続けていた。
「君が意識を失っている間、君の脳から識閾野の記憶に触れた――」
ドクターが、ディスプレイに顔を向けたまま、言った。
「具体的な記憶ではなく、いってみれば君の潜在意識に対し、我々が持っている全ての技術とプランをぶつけ、コンピュータ上で議論させたんだ。よく、植物状態の患者に安楽死を与えるかどうかの判断基準に使われるものだよ。で、規定時間である六時間を超えたところでその議論の結論を見て、君が眠っている間、さらに六時間、議論させた。両方とも結論は変わらなかった」
ドクターはわめかなかった。静かに、語るように告げた。
「今の、君の体と、そしてこの状況は、君が選択した結論なんだ」
わずかに間があり、やがて、ポーンとドクターの目の前で、答えが鳴った。
――その|言い訳《エクスキューズ》は知ってる。あなたたち[#「あなたたち」に傍点]男はいつも、お前も[#「お前も」に傍点]それを望んでたんだって、私に言うから。
バロットは緊張した顔で、その文章を読むドクターの横顔を見つめた。切実に。裏切られたくない、と告げたときの顔で。その肩先で、ウフコックが小さな手をバロットの首元にあてている。まるで相手の勇気を誉めるように。
「あのカウンセリング……津波のような……」
ふとドクターが呟いた。自分が何を得て何を失ったのか、改めて思い出そうとしているようだった。バロットに告げた、全てがひっくり返った[#「全てがひっくり返った」に傍点]、ということの意味を。
どこか遠慮がちな音が、ドクターの目の前で、ポーンと鳴った。
――あなたたちが、嘘をついていないことも知ってる。
ドクターはそれを、前の言葉もふくめて先ほどまとめたファイルに、同じように張り付けた。まるですくい取るかのように。それからウフコックに向き直り、
「さて……ここは、お前の心臓に任せるよ、ウフコック。長年お前の内臓《はらわた》をメンテナンスしてきたからね。その鼓動をバロメーターにするさ」
穏やかな、しかしどこか拗《す》ねたような表情を見せた。
「僕は、何をすべきか[#「何をすべきか」に傍点]はわかるけど、どうしたら良いか[#「どうしたら良いか」に傍点]はわからない。特に、十五歳の女の子に肉体改造を施して法廷に立たせることについては」
ポーンと音が鳴り、
――ルーン=バロット。
斜体の文字が現れた。強く望むように。バロットとドクターの目が合った。
「ふむ。それが君の名前だ。スクランブル―|09《オー・ナイン》の事件当事者を、まともに名前で呼ぶのも久しぶりだ。ルーン=バロット。医者に対するインフォームド・コンセントの促進についても、君は適性があるよ。で、君は今、どうしたいんだい?」
するとまたバロットは目を伏せ、うつむいてしまった。
ドクターは特に苛々した様子もなく、椅子に深く座ってウフコックを見やった。
「さっき、バロットが通信販売で注文しておいた衣服が、届いた」
神妙な顔のウフコックが、代わりにそう答えた。
ドクターは、それが? というように両手を上げてみせる。バロットが、もじもじしながら、今着ている絶縁体で出来た患者服の裾をつまんだりしてみせた。
「――で、届いた服を着て、少し外出したいそうだ。ランチに。ついでに彼女の操作された身分の解除申請もしてくる」
ドクターが口をへの字に曲げた。
「別に閉じこもっていたいわけじゃなかったんだな? だったらそう言ってよ」
バロットは身をすくませたが、ドクターは、ただウフコックに確認しただけだった。
「どうせお前も一緒なんだろう、僕があなたの防弾チョッキですって感じでさ。でも気をつけろよ、すでに事件の初期報道は済んでるんだ。敵が仕掛けてくる可能性は高いぞ」
「彼女が自分の力を確認するには、ちょうどいい相手だろう。それに、スクランブル―|09《オー・ナイン》に関して、彼女はまだ俺の有用性[#「有用性」に傍点]を体験していない」
ドクターは肩をすくめて立ち上がり、尻ポケットからカード入れを取り出した。
一枚、キャッシュカードを選び出すと、バロットに差し出した。
バロットは咄嗟《とっさ》にどうしたら良いかわからなかった。
じっとドクターの顔を見て、それから、そっとカードを受け取った。
「法務局《プロイラーハウス》の福祉補償課への申請は済んでるけど、承認には時間がかかるから。とりあえずこれが当面の君の財産だ。ナンバーはウフコックから聞いてね。僕も知らないから」
今までどんな男も、そういうふうに金を渡してきたことはなかった。バロットは、まじまじとドクターの顔を見つめた。ドクターが、ふと真顔になった。
「なるほど……これが君の最初の能力テストになるわけか。確かに法廷に出る前にやるべきことだな。君がウフコックを濫用[#「濫用」に傍点]せずに使いこなせることを、心から祈っているよ」
バロットには、まだドクターの言葉の意味は理解できなかった。ただ、肩に乗ったウフコックを見た。このネズミは、これまで誰も聞いてくれたこともない自分の心を、信じられないくらい、きちんと聞いてくれた。どんなカウンセラーでも適《かな》わないくらいの的確さで。まだまだ話したいことが沢山あったし、理解して欲しいことが、無数にあった。
今のバロットには、それが全てだった。
バロットはこの元死体置き場だった建物で割り当てられた自分の部屋に戻り、一つまた一つと包みを開け、中身をベッドの上に並べた。黒い革を掲げ、自分の体にあてて見せた。ずいぶんとタイトな上下だった。スカートではなく、ショートパンツだった。
デスクの上で、ウフコックがぼんやりそれを眺め、
「あー……」
と、気の抜けた声を放っている。
バロットは肩をすくめ、次の上下を見せた。今度のはロングパンツだったが、上は袖がなく、アームウォーマーを付けるのだということを身振りで示した。
「うん、あー、バロット、俺はドクターの部屋にいるよ。終わったら来てくれ」
ウフコックはそう言ってデスクから飛び降りると、二本足でドアまで歩いていった。
ノブの下までくると、ネズミにしてはかなりの跳躍力でぴょんとノブに取り付き、ドアを開く。着地して、そのまま出ていこうとするウフコックの、ズボンのサスペンダーを、ひょいと、バロットが、つまんで持ち上げた。
「俺に、女性の審美眼を求めないでくれ。それに、のぞき[#「のぞき」に傍点]呼ばわりはもう嫌なんだ」
ウフコックが情けない顔で言った。
バロットはちょっと唇を尖らせ、ドアを閉めると、ウフコックをベッドの上に置いた。
それから衣服を手に、バスルームに駆け込んだ。しばらく待ってからウフコックが立ち上がり、ベッドから降りると、たちまちバスルームのドアが開いた。下着姿《テディー》のまま、ウフコックに、手振りでそこにいるよう示した。怒っているというよりも、不安そうな顔だった。怖い、とドクターのデスクのディスプレイに示したときのように。
「わかった。待ってるよ――いや、見守ってる[#「見守ってる」に傍点]から。大丈夫だ」
バロットはまだ少し不安そうだったが、そのままバスルームのドアを閉めた。
「ドアのこちら側の動きは正確に読むのに……不安が強いのは、力をまだ使いこなしていないせいか……いや、だからこそむしろ、誰もいないこと[#「誰もいないこと」に傍点]に、不安を抱くわけか」
ウフコックがぶつぶつと呟き、ごろりと横になった。しばらく天井を眺めていると、出てきたバロットが真上から見下ろした。
バロットは黒の上下を着ていた。首とそのすぐ下はむきだしで、髪をストレートに落としている。髪は、ドクターがバロットの毛髪の残骸をもとに再現したもので、移植したばかりで、結うと抜け毛が多かった。袖は指先まであり、中指をひっかける穴があって、手の甲を三角形に覆っていた。ショートパンツの下でストッキングがぴったり脚を覆っており、膝下まであるブーツをこつこつ鳴らして、むっくり起きあがったウフコックに向かって左右に体をひねってみせた。ウフコックは、しばらく言葉を探していたが、
「良いと思うよ」
やっと、そう言った。それから、ちょっと首を傾げ、
「きつくないか?」
そう訊くと、バロットはぎゅっと両腕を抱いてみせた。タイトなほうが好きだと素振りで告げた。まるで誰かに暖かく抱かれてるみたいな格好だった。包みからファッションベルトを取り出して腹から腰にかけてきっちりと締め、脚にも締めた。その上に革の上着を羽織った。がんじがらめだった。そうでもしないと奪われるとでもいうように。
建物を出る前に、いったんドクターの部屋に寄った。
「ふぅむ……僕の白衣も斬新だと自負しているけど、君の衣装も甲乙付けがたいね」
ドクターが真面目な口調で言うと、バロットはちょっと眉をひそめた。
「今日の夜からまた冷え込むそうだよ。春先とはいえ油断しないようにね。ちゃんと薬は持っていくんだよ。何カ所か、皮質の安定がまだ不十分だからね」
バロットは上着の前を合わせる身振りをした。十分に暖かい、というように。それからポケットを叩いてみせた。口うるさい親に、子供が言葉もなく応じるように。
「さて、行こうか」
ウフコックが、バロットの肩先で、ぐにゃりと姿を変えた。ベルベットのチョーカーに変身してバロットの首に巻きつき、金属片が形作られた。
ペンダントというよりも、軍票《ドッグタッグ》みたいだった。
バロットがそれに触れ、少し思案するように指を絡ませた。指を離したときには、金属片が卵形のクリスタルになり、その内側で、黄色いネズミの絵がウインクしていた。
ドクターが、ちょっと複雑な顔で、そのペンダントを見つめた。
「今回の依頼者は、ずいぶんと僕らに物事のあり方を教えてくれるな」
「様々なサービスへの適応が求められているんだ」
あくまで真剣な、ウフコックの声だった。
「必要書類の再チェックを頼む、ドクター。出廷保留についても検事と打ち合わせておいてくれ。欠席の可能性もあるが、法務局《プロイラーハウス》がそれで動くかどうかを」
「法廷は個人の感情では動かないよ。ルールにのっとったパワー&マネーゲームだ」
「だからといって、事件当事者の感情の解決を目指さないゲームをする気はない」
「まあね……建設的な作業を見つけだして、やっておくよ」
「さっきはごめんなさい」
「いや、なに……?」
「あなたを傷つけた。でもありがとう。お金はちゃんと返します」
「まあ……それより君が[#「君が」に傍点]喋るときはウフコックの声はよしてくれ。気味が悪いよ」
バロットはクリスタルに手をあて、
「どんな声が自分の声だったか、思い出せない」
ウフコックの声より、だいぶ高い声を作ってみせた。口を開いてみた。ひゅうひゅうと呼吸した。ビルの隙間風みたいだった。
「一歩ずつ取り戻していくさ。一つ一つ」
今度こそ本当のウフコックの声が言った。
玄関を一歩出て、バロットは立ち止まった。立ちすくんでいるようでもあった。
目を閉じて日光を感じ、周囲の状況を体感した。閑静で、荒《すさ》んだ空気はなかった。
曲がり角で女にからんでくるような男が待ち伏せしている気配もない。
ガソリン車の走る音が、碁盤の目のようになった建物の群の向こうから聞こえてきた。
何もかもが、これまでバロットが生きてきた場所とは違っていた。
生まれ育った港町の工業地帯にいた頃とも違ったし、その町から百七十マイル北に離れたマルドゥック市に来てからとも違った。金をもらっていいようにさせてやっているときとも、金ももらえずにいいようにされてきたときとも。
「大通りをまっすぐ行こう。電動のレンタカーが借りられる」
ウフコックが首もとから声をかけてくる。
バロットは目を開いた。うつむいて歩き始めたが、やがて顔を上げた。歩道は清潔で、両脇に芝生が植えられてあった。とても死体安置所《モルグ》があるような場所には見えなかった。
しばらく歩くと、小さなショッピング・モールがあった。家具を売る店、コンピュータショップ、仕立て屋、カフェ、野菜売場――どれも清潔だった。
大きな交差点に出ると、軽いめまいに襲われた。これまで建物の中ばかり認識していたせいで、広い場所に出ると意識がついていかなかった。歩道でしばらく立ち止まり、どうすれば良いか考えた。すぐにわかった。自分で範囲を設定した。認識する範囲を。
直径ほぼ十五メートルの円。それがバロットのエリアだった。
「あれだ。目の前にあるスタンドで車を借りられる」
交差点の向こうに、カースタンドがあった。バロットは緑《ウオーク》になっているほうの歩道を渡り、赤《ストップ》の信号の下で立ち止まった。そちらを見ずとも、信号の精密さが感じられた。それが一秒も狂わずに時計のように機能していることも理解できた。
バロットはそっと信号機の柱に触れた。ゆっくりと干渉し――信号を操作《スナーク》した。
信号機のシグナルが早まった。点滅し始めた信号に、歩行者が慌てて駆け出す。ガソリン車が音を立てて停まり、運転手が、ちょっと意表を突かれた顔で信号を見ていた。
バロットは道を渡った。ウフコックは何も言わなかった。
電動《EE》カー・レンタル・サービスの看板があった。そのすぐ下に十四歳以上、と書かれてあった。バロットはその文句を見つめた。十四歳以上。自分がまさにその年齢であることに、少し驚いていた。いつの間にか十五歳だった。そして、いまだに十五歳だった。
「どうした?」
ウフコックが訊いてきたが、なんと答えてよいのかわからず、ただ首を振った。
分厚い防弾ガラスの向こう側で、店主が雑誌を読んでいる。
バロットがブザーを押すと、こちらを向いた。そのまま何も言わずにいると、
「何の用だい」
変な顔をされた。バロットはレンタルの看板を指さし、首のクリスタルに触れた。
〈赤い車を。十五歳です〉
唇も開かず、機械みたいな声を放つバロットを、店主はぼんやり見つめ、言った。
「障害者用のカーもあるけど、どうするね。そのほうが、駐車場代も無料だし」
バロットは小さくかぶりを振り、キャッシュカードを窓口に差し出した。
「サインを」
渡された用紙に、ルーン=バロットと書いた。住所は、ウフコックがそっとバロットに教えた。明らかに隠れ家の住所ではなかった。ダミーだとウフコックは言った。
「何かあったら、エマージェンシー・ボタンを押して。……電話は、使える?」
〈大丈夫です〉
今度はやけに高い声になった。店主はちょっと不安そうな顔になった。
「壊れないと良いな、それ。何かトラブルがあったとき、うちのせいにされると……」
〈大丈夫です〉
なるべく穏やかな声に聞こえるよう、調整した。店主は車のキーを寄越しながら、シートベルトを締めるように、と義務的な口調で言った。
二人乗りカーで、後部に荷物を置くスペースがあった。キーを回すと、ナビゲートシステムが起動し、ショッピング・モールなど幾つかの道筋の候補が示された。
画面に触れて行き先を設定するタイプだったが、バロットはどこにも触れなかった。
カーの構造を感覚し、機械に意志を与えた。ハンドルもミラーもなく、操作できるのは行き先と速度だけで、最高速度も電動《EE》カーの規定に見合ったものだ。ステレオとテレビがあり、勝手にテレビが観光ガイドを始めた。それをオフにして、ステレオをつけた。
賑やかな音楽を引き連れ、カーが交差点に出た。暖かい日差しが車内を満たし、道路に設置されたナビゲートシステムにのっとってしばらく走り、やがて赤信号で停まった。
バロットがフロントガラス越しに信号機を見上げた。十分に操作《スナーク》できる距離だった。
「駄目だ、バロット」
突然のウフコックの制止に、バロットはぎくりと身を強張《こわば》らせた。
「君は今、信号機に脅かされているか? 命の危険を感じるくらいに?」
厳しい声だった。バロットはちょっと唇を噛んだ。音楽は陽気に鳴り続けている。
〈どうして、さっきは止めなかったの?〉
ウフコック自身を介さず、カーステレオに干渉して訊いた。なんとなく悔しかった。
「君の自制心を見ていた。君の能力は、純粋な抵抗力であるべきだ。俺が外出を許可したのは、そのことを君に学ばせたかったからでもある」
バロットは、むっとした。信号が変わり、カーが自動的に動き出した。その脇を、他の車がどんどん追い越していった。バロットは速度を上げた。規定のぎりぎりまで。
やろうと思えば、カーの電子的なロックを外して、上げたいだけ上げることができた。
「シートベルトはどうした。君は車をぶっとばして喜びたいのか? だったら進路をテーマパークに変えよう。マッハ2で飛ぶ戦闘機の体感ゲームがあるぞ」
〈どうして急に、そんなに優しくなくなるの?〉
「ルールを守り、守るべきルールを自分で選択して欲しいと思うからだ」
守るべきルール――またその言葉だった。バロットはかぶりを振った。ウフコックにだけはそれを言って欲しくなかった。
〈嘘の住所を教えたくせに。嘘をつくのは良いの?〉
「あれは、合法的な、転送用アドレスだ。アパートメントの部屋も郵便ポストも実在する。ただし持ち主が誰であるかはわからないようになっている」
〈怒ってるの? 信号機をいじったから?〉
「怒ってはいない。信号機を少しいじったくらいでは怒らない。信号機をいじったせいで誰かが車にはねられたりしても、傷つくのは君であって、俺じゃない。もしその事故で誰かが死んだとしても、きっと誰も事故の原因はわからないだろうし、俺も君を告発しようとしたりはしない。その後で同じような事故が発生したら、俺は君を問いつめるだろう。それでも俺は怒らない。悲しいだけで」
〈調子に乗っただけ。そんなに怒らないで。せっかく楽しいショッピングなのに……〉
「約束して欲しいんだ。他人に損害を与えたりする可能性のある力の使い方について。君は自分からスクランブル―|09《オー・ナイン》を行使する権利を捨てたいわけじゃないだろう?」
〈もうしない。そうする前に、考えるから。怒らないで〉
「怒っちゃいない。君は高い適性を持ってるんだ。信号機への干渉には驚いた。あれは、そう簡単に遠隔操作できない構造になってるのに。君には驚かされっぱなしで……」
〈そんな言い方しないで〉
「……ああ、悪かった」
〈約束するから〉
「ああ。一方的にルールを押しつけるつもりはないんだ」
ウフコックは、穏やかな声で、そう言った。
「つまり俺がノーと言うのは、力を使う上でのごく基本的な心構えのことなんだ。それは君を守るものでもある。同じように、君がノーと言えば、俺もそれをしない。決して。君と接する上での基本的な心構えとして。それが君と俺との約束ってことで、いいかな」
ふいにドクターの言葉が思い出された。今のこの体と状況は、バロットが望んだことなのだと。それはなぜ自分なのかという答えの一部であり、確かな事実である気がした。
バロットはクリスタルを握った。操作《スナーグ》するためではなく。ただ、そっと握りしめた。
それから、シートベルトを締め、カーの速度を落とした。
カーは観光客用の店が密集した地区に入り、そびえ立つトランプ・タワーのふもとで停まる気配を見せた。バロットはカーを操作《スナーク》し、行き先をイーストサイドに設定した。
港が近づき、歩道も車道も混雑してきた。周りはガソリン車ばかりで、中流階級者《チープ・ブランチ》のショッピング・モールのそこかしこでフリー・マーケットが見えた。
たまに、一人でカーに乗るバロットを見かけて歩道から口笛を吹いてくる男たちがいたが、彼らが銃を手に、にやにや笑いながら近づいてくるようなことはなかった。
バロットは窓を開け、微かに潮の匂いのまじる風を嗅いだ。
やがてカーは、レンタル・サービス専用の駐車場で停まった。
カーから降りて歩くと、明らかに五体が満足そうな青年たち《ティーンズ》の男女が、身障者用の無料サービスエリアに自分たちのガソリン車を停めてたむろっていた。
バロットは通りすがりに、駐車場のフェンスを操作《スナーク》した。青年たちが、がしゃんと閉まったフェンスに、ぽかんとした顔になった。その顔が一斉に、緊急呼び出しボタンを向いた。身障者用サービスの無断使用に対する罰金を頭の中で計算している顔だった。
――ルールは守らなくちゃいけないんでしょう?
バロットがクリスタルに干渉して訊いた。声にはならない電子信号として。
「……その通りだ」
ウフコックはちょっと何か言いたげだったが、結局、それしか言わなかった。
モールは賑やかで、澄んだ風が、色とりどりの看板をくぐり抜けていった。
行き交う人々はみな目的のある足取りで、たまに二人組の警官《ハンター》が巡回していたが、弱い獲物を見つけて殴り倒そうとしているふうではなかった。彼らにも目的があり、それ以外のことをして歪んだ喜びを得ようとする独特な匂いが、このストリートにはなかった。
バロットも周りに合わせて、目的のあるような顔で歩いた。ブーツの履き心地を試すようにかかとを鳴らしていると、ウフコックが声をかけてきた。
「紙幣《パイ》をそろえよう。カードだと、使った額が目に見えないから」
まるで父親のようだった。自分は何も買わない。相手の買い物を見守るだけ。
手近なキャッシュディスペンサーで、カードを使って紙幣を引っぱり出した。
二十ドル札を二十枚。ウフコックが言った額だ。多いと怖いから十枚以下にしたかったが、多少の緊張感はあったほうが良いとウフコックが言うので、その通りにした。
カード入れに新札の紙幣をたたんでぎっしりと詰めた。上着のポケットの中で一枚だけ抜き出し、わざとくしゃくしゃに握りつぶした。それしか持ってない、というように。
その紙幣を使って、モールの露店で、バッグを買った。店の男は、くしゃくしゃの紙幣を見るなり、サービスだと言って、お釣りと一緒に安っぽい革の財布を付けてくれた。
バロットは、素直にこの街角のルールに従った。
ビルの陰で新札をカード入れから財布に入れかえ、バッグにしまうと、紙幣を握りつぶす代わりに、半径十五メートル以内の人の動きをしっかりと把握した。
バッグは引ったくりに合わないよう、肩から斜めにかけ、その上から上着を着た。
あとは、そのバッグに何を入れるかを考えればよかった。
ドラッグストアで化粧品を買い、生理用品を買った。ハンカチや髪留めを買い、モールをうろうろした。洋胞や靴、宝石類、電化製品、エスニック・グッズ。工芸品やみやげ物を品定めしながら、ウフコックと他愛ない会話を交わした。あの絵にあの額縁は合わない、とか、あれなら俺の体を使って造り出せばいい、といったことを。
「そろそろ、腹が減ってきたんじゃないのか?」
ウフコックが訊いた。バロットのバイオリズムを正確に把握しているのだ。常にバロットの脈拍を計り、同時に周囲に危険がないか、チェックしていた。
――私の好みで良い?
「もちろん。君のための食事だ。俺はあまり必要ないから」
公衆電話で街のサービスマップを覗き、飲食店の項目を探すと、屋台が並んでいるオープンレストランの一画があった。バロットはそこに向かった。
それほど歩くこともなく、コリニーズ・フードの屋台が軒を連ねているのが見えた。
白いプラスチックのテーブルと椅子が広場に置かれ、バロットは食器置き場のスペースで使い捨てのトレイを一つ手に取り、幾つか屋台を巡った。そこは雑多な人種のるつぼで、店の誰もが複数の言語に長《た》けていた。客と接するうちに自然と覚えるらしく、また誰もが、一言も喋らない相手に対する接し方も心得ていた。
バロットは、紙の器に盛られた料理をトレイいっぱいに乗せて席についた。
赤いチャーリー・ソースをたっぷりかけてもらったティック・ヌードルがメインディッシュだった。ゆでたイカや野菜の分厚い切り身が入っていた。他に魚のすり身を油で揚げたものと、骨付きの魚を唐辛子と一緒に丸ごと焼いたものを買った。
「器用なんだな」
ウフコックが、苦もなく箸《はし》を使ってみせるバロットに感心した。
「どうしてわざわざ一つの食器を|二つの棒《チョップ・スティックス》に分けるのか、不思議でしょうがない」
バロットは魚を箸で選り分けてみせた。小骨と身とを綺麗に分割していった。
――私が一番、使い方がうまかった。他の女の子たちも、私のこと、器用だって言った。
食べながら電子信号でウフコックに言葉を伝えた。これはこれで便利だった。物を食べている間も会話できるというのは。
――化石の発掘とか、私、うまいんじゃないかなと思う。
「それは、将来やりたいこととして?」
――そう。できると思う?
「君が自分でしたいことを理解しているなら、それは素晴らしいことだ」
――やってみたいとは思うけど、それしか思いつかないだけかもしれない。
バロットは遠い昔に死んだものについて考えてみた。地面に埋もれて長い年月をかけて石になってしまったものたち。もうとっくに忘れ去られているもの。それなのに掘り返さなければいけない理由がなんなのか。
――よくわからない。
正直に告げた。ウフコックは別のことを訊いた。
「そろそろ薬の時間じゃないのか?」
バロットはトレイを片づけ、セルフサービスのウォータータンクのところに行き、ドクターから渡された薬を飲んだ。皮質安定剤や、頭髪の成長剤、まつげを安定させる薬、ビタミンやカルシウム。飲まなければならない沢山のものを飲んだ。
薬を飲み下すとき、化石のことを考えた。特定の化石のことを。渦を巻いた殻。その殻に閉じこもったまま、モップみたいな手足で海底を這うものたちを、なんと言ったか。
「アンモナイトとか……そういったものじゃないのか?」
ウフコックに訊くと、律儀に答えてくれた。
モールを進むうち、しばらくして、まさしくその螺旋の群を目の当たりにした。
ビルの壁面に映し出されたCGだった。バロットはその露店の前で立ち止まった。
イジェクト・ポスターを売る店だった。小さな四角い箱を壁に設置することで、真下の壁に映像を投影してくれるタイプのポスターである。幾つかの絵柄が並び、化石《フォッスル》の絵が百種類以上入っているメモリーカードが置いてあった。
「少し、趣味のものを買っていくといい。気が紛れるし、あの部屋は少し殺風景だしね」
ウフコックが言う。バロットはその好意に素直に従った。イジェクト・ポスターに、化石のカードを付けて買い、カードの説明書に目をやりながら歩いた。アンモナイト、オウム貝、三葉虫――生きている姿を再現したCGや、化石化した姿を映した写真、他の鉱物と混じり合って結晶化し、金や銀やクリスタルに変化した螺旋の殻たち。
やがてそれらをバッグにしまった。なんだかどきどきしていた。
――少しだけ、好きなものを買って良い?
「良いとも」
バロットはデパートの文具店に行き、そこで子供が使うような電子手帳を貰い、六色のマーキングペンを買った。それから、たまたま通りがかった化粧品店で目に付いた口紅を買った。ポピーレッドの明るい色と、ケースのデザインが気に入ったからだった。
デパートを廻《まわ》るうち、どんどん自分がウフコックと一体になっていく感じがした。
どこへ行くにも必ず一緒だった。ブルースでよく歌われる|お守り《モージョー》みたいに。
そのウフコックが、あるとき突然、抵抗した。
「ストップ、バロット。俺は外で待ってるから」
チョーカーがぐにゃりと変身《ターン》して黄色いネズミの姿に戻ると、バロットの肩先を蹴ってそのまま飛び降りた。バロットがその跳躍の軌道を正確に読んで、宙で、ウフコックのサスペンダーをひょいとつまんだ。
「言っただろう。のぞき[#「のぞき」に傍点]呼ばわりは勘弁して欲しいんだ」
心底情けなさそうにそう言うので、操作《スナーク》して、その姿を非常用ベルに変身《ターン》させた。ポピーレッドの非常用ベルだ。誰も見ていないのを確かめ、何気ない動作で壁に貼った。
「見張ってるから。行っておいで」
夜、一人で行けない子供に向かって言うみたいに念を押した。
バロットは女性用トイレに入っていった。
トイレは清潔で、誰もいなかった。一番奥の個室に入り、ファッションベルトをゆるめ、ショートパンツとストッキングと下着を一つ一つ膝の下まで降ろしていった。
締め付けられていた下腹が解放され、安堵と不安が同時に襲った。
便座に座り、上着から塗り薬を取り出した。真っ白い乾燥防止クリームみたいなそれを、腹や股《もも》の外側に塗った。そこだけまだ皮膚が荒れ、かさついていた。
薬を塗ると、荒れていた皮が、ゆで卵の薄皮みたいに剥《む》けた。それらをはらい落とし、余った薬を肩や肘にも塗った。
そのままトイレに座って、おしっこが出るのを待った。ぼんやりとトイレのドアを見つめていた。落書き一つないリノリウムの壁を。
ふと、違和感があった。用を足しながら、その感覚の理由を考えた。
おしっこは薬の匂いがした。日に十八錠もの薬を飲まねばならないせいだった。
その中に一つとして向精神作用の薬がないことに、ドクターのほうが驚いていた。
君の精神は素晴らしく強靭だとドクターは感心したものだ。しかし薬で心が強靭になれるのならそのほうが良い、というのがバロットの正直な思いだった。
用を足し終え、ビデを使って洗い流し、全てを|水に流《フラッシュ》した後も、薬の匂いが少し残っていた。衣服を整え、脱ぐ前よりもきつくファッションベルトを締めた。
それから改めて、先ほどの違和感の原因へと手を伸ばした。
正体は、便器と排水ボタンをつなぐ管に設置されたバルブだった。バルブはひねるとすぐに外れ、振ると、中心から、指先ほどの超小型カメラが出てきた。
盗撮用の降しカメラ――よくその手の雑誌やネットサービスで、極秘協力者のもと入手などとうたわれ、清掃員やデパートの店員がアルバイト代わりに手を出す商売だった。
バロットは意識を広げ、カメラの磁性体に干渉し――操作《スナーク》した。
二百時間の連続撮影が可能なメモリーチップいっぱいに、延々と、このデパートのマスコット人形がカメラに向かって手を振り続ける映像を焼き付けてやった。着ぐるみを着た誰かが、カメラに向かって延々と手を振り続けているのだ。
それからバロットはカメラを元に戻し、ついでにバッグから口紅を取り出して、
――ちょっとしたホラー
とバルブのすぐ脇の壁に書いてやった。それからこう付け加えた。
――警告
バロットは個室を出た。手を洗いながら、純粋な抵抗力、と心の中で呟いてみた。
デパートの人間にカメラの存在を教えたところで、あの手の犯罪がなくなることはなかった。バロットはそのことをよく知っていた。清掃員や警備員に渡される金のことを。
さくら[#「さくら」に傍点]の女性に支払われる金のことも、正確に知っていた。
その額まで。
バロットが出てくると、非常ベルがぐにゃりと黄色いネズミになってバロットの肩に飛び乗った。そのままするりと首もとへ走り、クリスタル付きのチョーカーになった。
「ずいぶん時間がかかっていたな」
――のぞき[#「のぞき」に傍点]のせい。
「俺は……」
――違う。トイレにカメラがあったから。少し細工してきただけ。
「カメラ……?」
ウフコックはしばらく考え込んで、ああ、とぼんやり返した。
「つまり女性の肉体を視覚的に把握するために、非合法に設置されたカメラのことか」
――本当にわかって言ってるの?
「君の今の感情は理解しているつもりだ。君は今、怒っている。とてもね。苛立っているし、恥ずかしがっている。口惜しさもある。君からはそういう匂い[#「匂い」に傍点]がする」
――匂い?
「体臭だ。俺みたいなネズミは、相手の感情を体臭で理解する[#「体臭で理解する」に傍点]。知らなかったかい?」
バロットはクリスタルを握りしめ、こつこつ指先で叩いた。激しく。悲しみを込めて。
そして確かにウフコックは、すぐにバロットの気持ちを察してくれた。
「ああ……すまない。正直に言えば、君が今、どういう気持ちでいるか[#「どういう気持ちでいるか」に傍点]は、完全にはわからない。俺には、いまいち想像力が足らないんだろう。俺は、女ではないし……人間でもないから」
ウフコックのその言葉で、ようやくバロットは自分の気持ちが多少なごむのを感じた。
――あなたは人間よりも優しいし謙虚だと思う。
バロットの心の変化を、ウフコックは敏感に嗅ぎ取っているようだった。
バロットの皮膚が発する様々な化学物質や、脈拍の変化、そして何より雰囲気で。
「この上にカフェがある。そこで、仕事ができるはずだ」
ウフコックが指示したネットカフェは、デパートの最上階にあった。
眼下に港町のごみごみした風景が広がり、彼方に海原の細いラインが見えた。
座席同士は十分に離れており、仕事を片づける上でも快適だった。
バロットは注文を取りに来たウェイターに、メニューを指さしてカプチーノを頼むと、テーブルに設置されたノート型のディスプレイを開いた。
すぐにネットサービスに接続しようとして、ふとその手を止めた。
――少しだけ、趣味の話をして良い?
のぞき[#「のぞき」に傍点]のせいですっかり忘れていた。ウフコックは快く承諾してくれた。
バロットはバッグから電子手帳を取り出し、化石のCGの説明書と六色のマーキングペンをテーブルに並べた。黄色を選んで説明書の見出しの文字の一つをマークした。
それから電子手帳に触れもせずに操作《スナーク》して、マークした言葉を入力した。大きな螺旋形の貝の名を。説明書を読みながら、大雑把な解説を手帳に入力し、個人的な感想も付け加えた。瑪瑙《めのう》色をしているとか、生きていたらペットにしたいとかいったことを。
――辞書を作るの。私のオリジナル。
「すごいな。将来は言語学者か、詩人になるのかな」
――本当はちゃんと学校に行って、みんなと同じ辞書が欲しかった。私ぐらいの子がみんな行ってるような学校で。これは、その代わり。私の自習教室。
「行けるさ。事件の解決と同時に、再入学を申請しよう」
――無理。両親のサインが必要だから。
バロットはそっけなく返した。
――それがない子は、福祉施設に入れられるから。あそこには戻りたくない。
「君の両親は、確かまだ健在だと……」
――私のこと、子供だと思ってないから。自分の子供だとは。
マーカーを走らせる手を止めもせず、そう告げた。声もなく。電子信号として。
若いウェイターが飲み物を持ってきたとき、はじめてバロットの手が止まった。
「レポートですか? 学校の?」
ウェイターが尋ねてきた。バロットは曖昧にうなずいた。ウェイターは白い歯を見せて笑った。そして、テーブルのディスプレイを指さして言った。
「そいつで、たいがいのことは調べられますよ。このカフェには、図書館にもアクセスする権利がありますからね。ただし二時間が時間制限ですけど。……でも、延長したかったら、僕に言って下さい。こっそりつなげられるかもしれない」
バロットはチョーカーに手を触れた。この若いウェイターにも、それがわかるように。
〈ありがとう。延長したいときは、こちらから頼みます〉
そう告げる濁った電子音にウェイターの表情がかすかに強張った。
ウェイターは少なくとも健全な青年だった。この女は喉の機械さえ剥《は》ぎ取ってしまえば声が出ないのだ、というような理解の仕方をするタイプではなかった。
その代わり、別の理解の仕方をすることも確かだった。肩をすくめ、何かバロットに対して失礼なことでもしたように、少し恥ずかしそうにしていた。
バロットはテーブルの上のものを片づけ、バッグにしまった。ウェイターはそれを見つめ、やがて他の客が呼ぶ声に応じてその場を立ち去った。悪い青年ではなかった。プライドの問題だった。青年とバロット、両方のプライドの。
――仕事をしましょう。
バロットが告げた。ウフコックがぐにゃりと変身《ターン》し、ネズミの姿になってテーブルの上に飛び乗った。ウェイターがこちらを見ていないのを確かめ、さらに接続機器に変身した。
「試してみてくれ」
先ほどからデパートの案内画面を放映し続けているディスプレイの脇からコードを引き出してウフコックに接続すると、たちまち、めまぐるしく画面が変わった。
ウフコック自身の操作によって、デパートが確保しているネットナビゲーションから、やがて比較にならないくらい多岐に渡るユーザーサービスへとつながっていった。
「シェル=セプティノスが偽造した君の個人情報は、我々が法務局《プロイラーハウス》を通して押さえた。特に、君の住民IDへの全ルートからのアクセスは、重ハッキング罪になる。アクセス権は、十三種類のパスワードの他に、その接続機種[#「接続機種」に傍点]で照合――つまり俺[#「俺」に傍点]を通してしか、君の個人情報にはアクセスできないようになってる」
バロットは、次々とデコードされてゆく画面を見つめながら、ふと、あの隠れ家で割り当てられた部屋のことを思い出していた。夜、内側から鍵をかけられる部屋のことを。
鍵は二つあった。一つはドアノブの電子式ロックで、これは外側からドクターも解除できた。もう一つがチェーンで、これは純粋にバロットのものだった。もちろんこの都市でドアのチェーンがどれくらい役に立たないか、バロットもドクターも知っていた。
チェーンは特殊な繊維と合金で出来ている、とドクターは言った。そう簡単には切れない。絶対に。なぜならウフコックが作ったからだと。バロットはそれで安心した。メイド・バイ・ウフコックのチェーン。ドアの隙間をしっかり閉じていてくれる鎖だった。
「よし、開いた。これから一つ一つの項目をチェックしていくが……良いかな?」
バロットは接続機器に手を重ねた。掌にウフコックの鼓動を感じるような気がした。
――良いわ。
十分に間をおいてから、ウフコックに直接干渉してそう告げた。
実際それはひどかった。こうも自分の人生に落書きされているとは思わなかった。
その出生地から誕生年月日、両親の名前、家族構成、経歴や住所や電話番号、キャッシュカードの使用記録、ネットサービスへのアクセス履歴、デパートやネットショップによるアンケートへの回答、メーリングデータ、友人への手紙の内容。
全てが嘘だった。これだけ綿密に、他人の存在を自分の好きなように操作しようとするシェル=セプティノスの異常さを見た気がした。
しかもそれらは、ただの落書きではなく、美しかった。
もともとの絵がどれだけ醜いものであるかを知らしめるための、残酷な上塗りだった。
様々なページのあらゆる項目をウフコックがディスプレイ上で指摘し、そのつどバロットがウフコックに干渉して別個の参照用ファイルに自分本来の姿を記していった。
美しい虚飾の下から、化石たちを掘り起こすように。
初めて――そして最後にこのデータにアクセスしたときのことをバロットは思い出そうとした。そのせいでシェルに焼き殺されることになったアクセスの瞬間を。そのとき自分はこの虚飾を与えてくれた男に感謝したろうか。もしそうだとしたなら、なんと愚かなことだろう。完璧な殻《シェル》――自分の心に、やすりをかけるようなものだった。
このデータでは、バロットの年齢は現在十九歳だった。家族は中流階級の出で、ひとことで言って健全だった。兄が父親を障害が残るほど痛めつけた後で、刑務所に入れられるようなことはなかった。母が|アルコール・麻薬中毒者救済協会《ADSOM》から妊娠について制限を設けられたせいで子供を体外受精で手に入れる[#「手に入れる」に傍点]しかなくなることもなかったし、そのことにコンプレックスを抱きつづけた母がバロットをクズ扱いしたりもしなかった。
そこでは父親は健全なサラリーマンだった。過酷な労働で末端神経症にかかったりせず、職を失った絶望感から娘を一人の女として見てすがりついてバージンを奪ったりすることもなかった。バロットは普通の学校にもちゃんと行けたし、福祉施設で性的な悪戯を受けることもなかった。何人かで施設を脱走した後で、それよりもさらに辛い、体と心を切り売りしなければならなくなるようなことなんてまるでなかった。
夢のような家庭――人生。涙も出ず、ただ深い失望と憎しみを抱くだけの人生ではなく。
「なるほど……シェルが君に対してした悪事《ビジネス》の仕組みが、わかってきたぞ」
ウフコックが言った。バロットの個人データを確認している間も、バロットとウフコックはともに、広大なネットワークを走り、関連した情報を収集していた。
「やはり、あの男が切り回している、違法金融の一つだ。この個人データでは、過去六力月間で、君は十七万件近い買い物をしていることになっている。このデータは架空のもので、実際の売買は行われていない。問題は金の動きだ」
ウフコックの言葉に、バロットは自分の心臓が少しずつまた毒を吐くのを感じた。
「まず偽造した身分を君に与え、君が使い込みをしたみたいに体裁を整える。君は、とある銀行の女性社員ということになっている。この銀行は、シェルが囲われているオクトーバー社とベッタリくっついてて、政府の人間も絡んでいる。まず、コンピュータに架空の預金データを打ち込み、偽物の預金証書を作成する。偽造された、君の名義で。ただし本人から一度もアクセスのない名義は、手続きの対象にならない。ここがポイントだ。君がアクセスした瞬間、ほとんどの手続きが自動的に行われるんだ」
自動的な手続き。その中には、バロットの死もふくまれていた。
なぜ殺されたのか――なぜ自分なのか。その答えの一部が、にわかに目の前に現れ、バロットは、かつて体験したことのない憎悪に全身が染まるのを感じた。
「偽造された君の書類に、架空の賃金設定書を付けて、ノンバンクから金を流すんだ。何百万ドルという金額を。ただし、ノンバンク側の資金調査に時間がかかる。あと一週間以内に、事件成立が認められれば、我々や検事局にも、攻め入る権利が与えられるが……なるほど、ここでシェルの脳が問題になるんだ。恐らくすでに一連の記憶は、彼の中から消えているだろう。|不正金の洗浄《マネーロンダリング》ならぬ、|精神の洗浄《サイコロンダリング》というわけだ。彼の記憶について法務手続きが行われている間に、資金調査は完結する……」
バロットはゆっくりと息を吐いた。心臓の鼓動が収まる代わりに、体中で憎悪が血肉の一部になって、静かに脈打つのを感じた。
「決済が終わり、シェルの脳からも今回の記憶が全て消えてしまえば、我々には何も手が出せない。だが逆に――シェルの記憶が、どこかで記録されていれば……」
バロットは、シェルが施した仕組みの全てを理解していたわけではなかったが、それでも、自分の命を奪うその歯車を、自分が回し始めたことは理解していた。
いや、バロット自身がそれを回すことを、シェルは知っていたのだ。
自分が何者として扱われているか、知らないでいられる者など、いるはずもなかった。
最終的にまとめられた法務局《プロイラーハウス》への申請は、主に、二百八十カ所にも及ぶ身分操作に対するものとなった。
その間、バロットはカプチーノをもう一杯頼んだ。先ほどの青年は、自分を呼ぶバロットにほっとしたような顔でウインクしながら、サービスでクッキーを付けていった。
作業の間、ときおりバロットの手が止まり、そんなときは決まって奇妙な歌が頭の中を駆けめぐっていた。
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、壊す《クラッシュ》、潰す《マッシュ》……
いつか聞いた韻だった。口にふくんだカプチーノがはっきりとした爆煙の味になった。
――|めちゃくちゃ《ハッシュ》、|ちくしょう《ガッシュ》、|腐った卵《ジョッシュ》、|ぶん殴る《バッシュ》……
やがて地獄の沼に顔を突っ込むような作業も終わり、バロットはまばたきもせず、じっとその画面を見つめた。打ち砕かれた殻の、腐りきった中身を。涙も出なかった。不思議なくらい頭が冴えていた。心臓は毒を吐き出しながらも、ゆっくり鼓動していた。
その鼓動と鼓動の合間に、化石と化した真実が生々しく蘇ってきていた。
「これだけ精密な書類を、この短時間で揃えられるとは思わなかった」
――これ以上は耐えられない。
「よくやった。あとは、これを法務局《プロイラーハウス》に送るだけで良い」
――送る?
バロットは愕然となった。まるでそのことを今初めて知ったとでもいうように。
――人に見せるの? これを? 私の過去が本当はどんなものかってことを?
「……ああ」
ふいに、書類が圧縮されてメーリングデータに変換された。ウフコックの操作だった。
バロットは全身を強張らせた。ディスプレイから目が離せなくなった。目の前に鋭いナイフを突きつけられたとき、それから目が離せなくなるように。
だが、メーリングデータはいつまでたっても送信されなかった。ウフコックは、黙ってバロットを待っていた。バロットはまだ、イエスともノーとも言っていなかった。
「バロット……」
――少し待って。お願い。私を理解して。
ぎゅっと胸元を押さえた。もっとタイトに自分を締め付けるものが欲しかった。そうでなければ粉々に吹き飛んでしまいそうだった。
「……バロット。こういう考え方はどうだろう」
ウフコックが遠慮がちに言った。
「つまりこれは、化石の発掘なんだ。こわもての動物たちが、あとからあとから地面の中から現れる。だが、ご存じの通りみなすでに死んでいる。どんなにそれが凶暴な種族であったとしても、今は石と化して安らかに眠っている」
――そんなに私を傷つけたいの?
バロットが目を伏せ、歯を食いしばった。ウフコックはさらに丁寧に言い添えた。
「君が生きているのは現代であって、恐竜たちが生きていた原始の時代じゃない。かつて存在した者たちは、確かにそこにいたという事実の中でのみ生きている。だが今ここで本当に生きているのは君のほうだ」
――待って。あと少しだけ。
「もちろん、この書類を消してしまっても良い。それが君にとって、化石を処理する一番の方法なのだとすれば」
ウフコックが本気なのはわかった。その行為が深刻な事態を引き起こすということも。
だが最後までウフコックはバロットの感情を優先してくれていた。
この人は[#「この人は」に傍点]、相手がノーと言えば[#「相手がノーと言えば」に傍点]、決してそれをしない[#「決してそれをしない」に傍点]。素直にそう信じることができた。
信じられることが何よりの支えだった。裏切られないという確信――それが世界に満ちてさえいれば、麻薬も銃も要らなくなるのに。
バロットはそろそろと息を吐いた。背筋を伸ばし、自分は今から死ぬのだという気持ちでディスプレイを見つめた。バロットの意識から、徐々に周囲のものが消えていった。やがて何もなくなり、在るのはただ自分と、目の前のディスプレイに浮かび出された在《あ》りうべき自分の過去《ジョッシュ》だけになった。そのせいで、すぐそばを通りがかったウェイターの存在にも気づかなかった。
ウェイターの青年は先ほどからバロットの周囲に近づいては遠ざかっていた。まるでチップをもらい損ねた荷物運びのボーイみたいに。その青年の目の前で、バロットは指一つ動かさずにディスプレイの内容を操作《スナーク》した。
そして、ふいにウェイターの視線に気づき、はっと顔を上げた。
ウェイターは、バロットに驚いていた。プライバシーに関わるものを覗いてしまったらしい、ということよりも、純粋にバロットの能力に。そしてすぐに、きっと何かの新製品でも使っているのだろう、というように、小さくうなずきながら立ち去った。
バロットは、そのウェイターから目を背けた。冷たく突き放すように。じっと画面を確認した。書類が無事に送信されたことを示すマークが現れるのを見た。
やおらウフコックから手を離し、バッグから口紅を取り出した。
キャストをひねり、ポピーレッドのそれで画面に落書きしてやった。
――唖《スイッチ》、淫売《ビッチ》、魔法使い《ウィッチ》
特に考えてした行為ではなかった。ただ、そうでもしなければ気が済まなかった。
――|それが、私《ウィッチ・アイエム》
そう付け加え、口紅をしまった。
接続機器からウフコックがぬっと首だけ出してバロットの落書きを見た。
ウフコックは何も言わず、そのままネズミの姿に戻ると、バロットを見上げた。
バロットはそっぽを向いて飲みかけのカプチーノに口をつけている。
カップにこびりついたミルクを唇に感じた。それを舌で舐め取った。じっくりと。丁寧に、いやらしく。それから、ウフコックの視線に耐えかねたように、カップを置いた。
無造作にディスプレイに手を伸ばし、指先に意識を集中させた。ぴりぴりと電気を感じた。ディスプレイに塗りつけた口紅がばらばらと剥がれ、落ちていった。
ウフコックはちょっと驚いているようだった。バロットは能力の使い方に対して柔軟で、適切な応用を知っていた。全てを綺麗に払い落とすまでに五秒とかからなかった。
ディスプレイの縁に降り積もった口紅の屑を、バロットが指でつまんだ。
垢と混じり合って黒ずむまで挟み、それをウフコックの目の前に持ってきた。
『これが、私』
ディスプレイに干渉して、そう文字を浮かび上がらせた。
「綺麗な赤い色だ。状態さえ整えれば十分に映える色だ」
だがウフコックは、真面目に議論するような顔で言い、
「まさしく今の君だ。そういう意味なんだろう?」
ネズミのくせにやけに渋い笑みを見せた。
バロットは溜め息をついた。長々と。タイトな服が少しゆるむくらい。
――子供の言い合いみたい。
そう電子的に干渉して告げたのを最後に、ディスプレイの電源を切った。ナプキンで丁寧に指の赤い染みを取り、それからウフコックをチョーカーに変形させて身につけた。
クリスタルの中で、黄色いネズミが派手な赤い口紅をつけてウインクしていた。
――いつからのぞいて[#「のぞいて」に傍点]いたの?
モールを歩きながら、バロットがウフコックに干渉し、訊いた。
「君がシェル=セプティノスのマンションに住む以前からだ」
――私が、シェルといるところを、ずっと?
「主に、そうだな。そのときはまだ君に注目していなかったが……」
――あなたたちは、私のこと、どこまで調べたの?
「今日、君が整えた書類以上のことは知らない」
――あそこには、全部あるけど、でも、私のことは、なんにもない。
「どういうことだい?」
――あなたも、私のこと、狂ってると思う?
「狂う? なぜ?」
――たとえば、お金を貰って体を触らせてあげたりとか。そういう子のことを。
「俺が知っているのは、そうした行為が社会的なシステムとして成り立っているということだ。多くの男性的観念が、そうしたシステムを支えにしている。もし君が狂っているとしたら、ずいぶんと大きなものが狂っていることにならないか?」
バロットは日が暮れかけたモールを見回した。そろそろみな、吹き込んでくる風の冷たさに背を丸めて歩くようになっていた。透明な日差しが、硬いガラス越しに見るような影を浮かばせ、茜色のサニー・サイドを歩く誰もが狂ってはいないように見えた。
――私のこと、少し話して良い?
「聞かせてくれないか」
――私が前に働いていたお店が暫察に潰されたとき、私にこう訊いてきた警官《ハンター》がいたの。『なんで売春を』って。
私は『バージンじゃなかったから』って答えた。
そうしたら警官《ハンター》は口笛を吹いた。ぴゅーって。私が何かすごいことをしたみたいに。『私は、何かおかしい?』って訊いた。
警官《ハンター》は私に『しっかりしてるね、最近の娘は』って答えた。そしてこう訊いてきた。『君はいつ頃、そのラッキーな男にバージンを与えたんだい』って。
ラッキーな男[#「ラッキーな男」に傍点]――そういうふうに考えるものだって知らなかった。
それで私はこう答えた。
『父です。十二のとき』
また口笛を吹かれるかと思ったけど、その警官《ハンター》は何も言わなかった。
その警官《ハンター》は、私に最初に会ったとき、自分には娘がいるって言った。二人。大きいほうはもうハイスクールで、小さいほうが君と同じ年だって。だから、安心して俺に話してくれって感じで。だから、私はこう訊いてみた。
『あなたも自分の娘の体を触りたいと思ったことは? 抱きたいと思ったことは?』
誰でもそういうふう[#「そういうふう」に傍点]なのかってことを。でもその警官《ハンター》は言ったの。
『狂ってる。馬鹿げたことだ。そんなことは』
どうしてこれが「そんなこと」なのかわからなかったし、「狂ってる」と言われて悲しくなった。その警官《ハンター》は気の狂った女を見るみたいな顔をしてた。私には何もわからなかった。ただ、この警官《ハンター》も私の味方じゃないってことがわかっただけ。
そのすぐ後で、シェルに会った。向こうから会いにきて、私のファンだって言ったの。一度お客として来たことがあったから。私に、全部をくれるって言った。私を造り出してあげるって。私は『それは、私を愛してくれるってこと?』って訊いた。そうしたらシェルは『その通り』って言った。それで私はシェルの車に乗った。
――ウフコックは、このことを、ドクターに話す?
「いや……君が伝えた情報は、俺の中でロックする。デコードは君にしかできない」
――どう思う? 私のこと、狂ってると思う?
「さあ……。俺にはわからない。俺は所詮、ある研究のために、人間並に知能を増大させられたネズミだから……もうネズミでさえない、ネズミの姿をした何か[#「何か」に傍点]なんだ。そんな俺のことを、狂った存在だと言うヤツもいる」
――あなたが? どうして?
「さあ。そいつの観念からすれば、狂ってるってことになるんだろう。俺は自分が誕生した後、自分が何者なのか、ずいぶんと探し回ったが、結局はわからなかった。自分が元は雄のネズミだということを根拠に、人間の男性的観念を学び、人間の男のように振る舞っているが、それが正解なのかどうかもわかっていない」
――あなたは、何者なの? なぜ生まれたの?
「ある人々が、この世で最も優秀な道具を作ることを、研究者たちに依頼した」
そう、ウフコックは、言った。
「依頼したのは、軍だ。幾つかの試作品が作られ、その一つが、俺だった。だが、研究自体が破棄され、俺は、そもそも存在しなかったものとして[#「そもそも存在しなかったものとして」に傍点]処分されそうになった」
――捨てられそうになったの? なぜ?
「戦後の政治的理由だ。人が悪か、武器が悪か……。連邦国と大陸との間で平和条約が結ばれ、戦争が終結して間もなく、そういう議論があった」
――人が悪か、武器が悪か……?
「銃を使った犯罪が起こったとする。そのとき、銃を使った人間が悪いのか。そもそも、銃が存在すること自体が悪いのか。戦後の政治は、銃の存在を否定し、人間を肯定した。そもそも戦争の道具があること自体、悪だとね。それによって、兵器やそれに関するあらゆる技術が、規制対象として議論されたんだ。人間を守るために」
――あなたも、否定されたの?
「そうだ。政治的、軍事的な理由で誕生し、そして同じ理由で抹消されそうになった。スクランブル―|09《オー・ナイン》の法案が成立しなければ、確実に処分されていた。俺は、社会的に有用であることを証明し続けることで、ようやく存在が許されている」
――だから、私を助けるの?
ウフコックが答えようとして、ふいに沈黙した。
――どうしたの?
「妙な臭い[#「臭い」に傍点]がする。複数だ。強い義務感……計画的な行動。敵意……」
反射的に立ち止まろうとするバロットへ、ウフコックが鋭く命じた。
「歩き続けるんだ。止まらないで」
バロットは言う通りにした。思わず歩調が早くなっていた。
「デパートの中を横切るんだ。君を追ってくる人間がいるかどうか確かめる」
ウフコックが細かく道を指示し、バロットはそれに従いながら、周囲の人間の動きを、立体的に体感していった。緊張で全身の皮膚がささくれ立つようだった。やがて雑踏の四方から、六人の人間が、バロットの動きを追っているのがわかった。
「さっきのネットカフェだ。シェルの情報にアクセスしたうちのどれかが、相手側にも察知されたんだ。位置を逆探知して、すぐに追っ手を寄越したな」
――どうするの?
「撃退してから、家に帰る」
まるで雨が降ったから傘を買おうとでもいうような平然とした口振りだった。
――どうやって?
バロットはすでに怯えている。ひどいことが起こる予感に、泣き出したいくらいだった。
「俺を手に取ってくれ」
バロットがチョーカーを外して握ると、ぐにゃりと変身《ターン》し、右手をすっぽり覆う、黒い革手袋になった。その手袋が、きっぱりとした口調で、こう告げていた。
「安心して欲しい。俺は、最強の白兵戦用兵器として開発された、万能道具存在《ユニバーサル・アイテム》だ」
バロットがモールから外れ、人通りの少ないビルの裏通りへ入っていくと、律儀なくらい正確に周囲の逃げ道を塞ぐようにして、六人の男が近づいてきた。
互いに携帯電話か何かで連絡を取っているのが、バロットの感知能力で察せられた。
「二人一組の、三組構成か。まず二人が君を捕らえる気だ。明確な行動に移るときの臭いがする。後の四人は車か何かで、捕まえた君を連れ去る準備をしているんだろう」
ウフコックの言う通り、残りの四人が一カ所に集まり、停めていた車に乗り込むのがバロットの立体感覚に感知された。近づいてくる二人が、分かれて動き、一方がバロットの行く手に回り込み、他方が後ろから挟み込んできた。
――どんどん近づいてくる。
「相手が来たら、俺を握ったほうの手を突き出すだけでいい」
薄暗い道には誰もいなかった。いっそ立ち止まりたかった。だが不思議な勢いがバロットの足を前へ前へと進ませた。手袋に――ウフコックに包まれた右手を握りしめ、やがて、男が待ち伏せる曲がり角へと差し掛かった。
バロットが咄嗟に立ち止まるのと、男が飛び出すのとが同時だった。
慌ててバロットが突き出した右の拳から、次の瞬間、いきなり銀色の棒が凄まじい勢いで生え伸びた。棒の尖端が、男の喉を直撃し、げぇっ、という呻き声が上がった。
呆気《あっけ》に取られるバロットの目の前で、男がもんどり打って倒れた。
男は痙攣し、白目を剥いて、口から泡を噴き出し始めている。
「ついでに電撃を送っておいた。しばらくは目を覚まさないだろう」
気づけばバロットは、手袋をした右手に警棒を握っている。変身《ターン》したウフコックだ。
すぐに、後方から、もう一人の男がやってきた。
その男は、仲間が倒れているのを目にして、物凄い勢いで走り込んできた。
バロットが夢中で右手に握った警棒を突き出すと、男は、難なくそれをかわした。
いや、かわしたかに見えたが、かわさせ[#「させ」に傍点]なかった。右手が――ウフコックが勝手に動き、ひょいと警棒の尖端を男の顎の下に突き込んだのだ。
男が膝をついた。だが今回は衝撃が浅かった。男は意識を保ち、こちらを向いた。
そのとき、突き出した警棒がぐにゃりと変身《ターン》し、なんと、拳銃になった。
男が、愕然と、銃口を見つめた。バロットも、驚きに身がすくんでいる。
ぱーん、と乾いた音がして、男の顔面を撃った。ただし実弾ではない。細いワイヤーの網だった。それが男の頭部に絡まり、電撃を放った。
たまったものではなかった。男は声もなく意識を失い、そのまま昏倒した。
「さて……。では急いで、駐車場に戻ろう」
拳銃がぐにゃりと消え、ただの手袋に戻ったウフコックが、言った。
バロットは、まだ呆気に取られたまま、倒れた二人の男を見つめていた。
駐車場まで大急ぎで走り、バロットが電動《EE》カーに乗り込んだ途端、
「素早いな。残りの追っ手がすでに異変に気づいて、動き出している」
相変わらず手袋姿のウフコックが、淡々として、言った。
――どうしたらいい? またやっつけるの?
「戦う必要がなければ、それに越したことはない。大急ぎでここを出よう。ショッピング・モールの出口を固められている可能性もあるが、何事もなければそのまま帰ろう」
――本当に、何にもないと思う?
電動《EE》カーを急発進させながら、バロットが心細そうに訊く。
「何事もなければ良いな、と思うよ」
やけに気の抜けるような、ウフコックの言葉だった。
――あなた、頼りになるのかどうなのか、よくわからない。
少し怒ってバロットが告げた。
「それは困る。君はこの事件で俺の有用性の証人になるんだから」
ウフコックが本気で慌てたように言ったとき、カーが駐車場からモールの出口へと滑り出した。そこで、大きなバンが、横合いからいきなり現れ、
「敵だ! カーを操作《スナーク》して避けろ!」
――やっぱり何かあったじゃない。
バロットが今度は本当に怒りながら、反射的に、カーを操作《スナーク》していた。規定速度を遥かに上回る速さで、車道ぎりぎりを走り、バンの鼻っ面を通り抜けていったのである。
もう少しで、バンに道を塞がれるところだった。後ろを見ると、すぐさま、追いかけてきている。周囲で、けたたましい抗議のクラクションが鳴り響くのを聞きながら、
――どうすればいい?
「君の力で、そのまま逃げ切ろう。進路は俺が指示する」
ぐにゃりと、カーナビゲーターに変身《ターン》したウフコックに、
――車をとばせば[#「とばせば」に傍点]いいの?
「シートベルトをして、歩行者に気をつけて」
――本当に、あなたを頼りにしていいの?
「もちろん」
バロットは唇を尖らせ、シートベルトをしめた。手にしたカーナビゲーターの画面を見つめたまま、カーの内部機構に意識を集中し、その電子信号を思い切り|掻き回《スナーク》した。
周囲の車、歩行者の位置、障害物を、一瞬にして把握し、そのぎりぎりの隙間を、スケート選手がコーナーを走り抜くように、カーを躍らせ、突っ走ってゆく。
――私、車なんて運転したことない。
今さらのように、バロットが告げるのへ、
「何事も、最初の一歩は、あるものだ」
ウフコックは、平然と返したものだった。
イーストサイドを抜け、幹線に入ったとき、背後に、二組のヘッドライトが、凄まじい加速を見せて、迫ってきた。完全に、逃げ道を読まれていたのだ。ぐんぐん近づいてくる二台のバンを、バロットは、そちらも見ずに、正確に把握していた。
片方のバンが、助手席の窓を開き、その隙間から、細長いものがぬっと突き出された。
「撃ってくるぞ、よけるんだ。君の能力なら、十分に可能なはずだ」
ウフコックにそう言われると可能な気がしてくるから、不思議だった。
バロットには、バンの中の人間の動きさえ、はっきりとわかった。時速百キロ近い速度の世界の中、バンの人間が銃の引き金に指をかける動きが、完璧に把握された。
バロットはカー全体に干渉し、あらゆる機構を同時に操作《スナーク》した。
銃声を、カーの激しいブレーキ音がかき消した。弾丸が、カーのリアフレームをかすめたとき、すでに逆方向へ向かって、フロント部が大きく弧を描いている。
二台のバンが、カーの両脇を追い抜き、急いで停止しようとするのがわかった。
カーが、四つのタイヤから煙を立てながら、ぐるりと半回転し、来た道を逆走した。
眼前で、後続車たちが、慌ててハンドルを切った。その動きを、バロットは全て把握しながら、カーにかすり傷一つつけぬまま、後続車をよけ、かわし、何百メートルか、そのまま疾走した。後ろのほうで、バンが一台、後続車に衝突して停止するのがわかった。
カーの反転も疾走も全て、ウフコックの指示だった。バロットは、ウフコックが示す道順に従い、再びイーストサイドのごみごみした町並みの中へと入り込んでいった。
――ウフコック、あなた、平和主義者? 過激派? どっち?
「もちろん平和主義だ」
――道を反対向きに走らせる人が、平和主義者?
「先ほどの緊急事態に対する処置としては、最も無難な手段だった。まさかロケット弾に変身《ターン》して、敵を吹き飛ばすわけにもいかない」
――そんなものに変身《ターン》できるの?
「連邦法違反だ。変身《ターン》した翌日、俺の廃棄処分は決定されているだろう」
――緊急時なのに。
「手段を選べということさ」
バロットは呆れ顔のまま、追ってくるもう一台のバンをまく[#「まく」に傍点]ために、ウフコックの指示に従って、複雑な街の道を自在に走り回った。やがて地下トンネルへ入り、幾つかの分岐点を越え、マルドゥック市《シティ》の中央区の辺りで、再び地上に出たとき、バンの姿はどこにも見えず――空には、新品の黒インクを流し込んだような早春の夜が広がっていた。
「当初把握していたヤツらは、完全に、まいた[#「まいた」に傍点]ようだが……」
ウフコックが、まだカーナビゲーターの姿のまま、道筋を示しつつ、思案げに呟いた。
――まだ、他にいるってこと?
バロットが、不安に眉をひそめて、カーナビゲーターを握りしめる。
「あちこちで妙な臭いがした。無感動な目的意識……ただ単に、観察してるような」
ふいに、バロットの感覚に、一台の車が迫るのが察知された。一ブロック離れた車線についたかと思うと、じっとこちらの走りに合わせて、併走しているのだ。
――ずっとついてくる車がいるけど、敵?
「いや……この臭い……」
そのとき、唐突に、併走する車が、こちらの車線に入ってきた。
ぴたりと、数台分、後ろについたまま、後をつけてきている。
――ウフコック?
「あいつだ……間違いない」
ぼそりと、それまで聞いたことのないような重々しい声で、ウフコックが言った。
気づけば、後をつけている車が、すうっと距離を縮めてきていた。
やがて、バロットも、振り返って、その車の運転手を目にし、はっと息をのんだ。
あの夜――車に閉じ込められて焼き殺されたとき、シェルを乗せて走り去ったもう一台のエアカーを運転していた男、シェルのボディガードだった。
「ディムズデイル=ボイルド……オクトーバー社側の[#「オクトーバー社側の」に傍点]、スクランブル―|09《オー・ナイン》だ」
ウフコックが低く呟いたとき、その男が車のライトを点滅させた。
――なに? 止まれって言ってるの?
バロットが目を丸くした。カーの通信機器が点滅したのは、そのときだった。
〈委任事件における担当官同士の、事前の情報開示だ〉
バロットがぎょっとなった。ウフコックは沈黙している。明らかに、後方の車から呼びかけられている声だった。
〈すでにそのレンタカーについては問い合わせ済みだ。情報開示を拒否すれば、公共のレンタカー・サービス機関が、お前の態度に対する保証人になる〉
――どういうこと? 何で声がするの? この人、何を言ってるの?
「委任事件を担当する者同士が、平和的解決のために、交渉をしたり、一定の情報を聞示したりするんだ。それを拒めば、法廷では大きなマイナスになる」
――どうするの?
「この先で、車を停めよう。少しだけ話をする」
言って、ウフコックがカーナビゲーターの姿から、再び手袋に変身《ターン》してバロットの右手を覆った。バロットは凝然とし、やがて、恐る恐る、カーを道路沿いに停車させた。
車二台分ほどの間隔を空《あ》けて、ボイルドの重が停まった。
バロットがカーから出ると、同じタイミングでボイルドが出て、ドアの陰に立った。
一般車がすぐそばを走り抜けてゆく間、しばらく互いに無言だった。
巨躯の男が、無機質な顔立ちにまるで表情をあらわさずに、じっと自分を見つめる様子に、バロットは、膝が震えるような恐怖に襲われた。単純に、殺されるかもしれないという恐怖ではなかった。それは、何の抵抗もできずに殺されるのではないか[#「何の抵抗もできずに殺されるのではないか」に傍点]という恐怖だ。その恐ろしさが、むしろ、全身から抵抗する気力を奪い去ってゆくのだった。
「安心しろ、バロット。俺がいる限り、あいつもすぐには手を出さない」
手袋姿のウフコックが、バロットの内心を敏感に察したように言った。
そこで初めて、ボイルドの目が動いた。まっすぐに、バロットの右手を見つめた。
「そこにいたか、ウフコック」
ボイルドが、うっそりと声を放った。それだけで銃口を向けられたような気がする、無感情で、ひどく圧迫感のある声音《こわね》だった。
「いつ対抗委任の手続きを済ませた?」
ウフコックが訊いた。ボイルドは青い目に、冷え冷えとした硬質の光を溜めて、
「今日の午後だ。……それ[#「それ」に傍点]が、今のお前の使い手か」
つまらなさそうに、バロットのほうへ、小さく顎をしゃくってみせた。
「彼女は事件当事者だ。開示を要求する情報とは何だ、ボイルド」
「生命保全プログラムを、撤回してもらう」
「それは恫喝だ。要求ではないぞ。相変わらずそれが事件の解決だと思ってるのか」
「俺は事件を解決するわけではない。制圧[#「制圧」に傍点]するだけだ。シェル=セプティノスに対し、いかなる訴えを行うか、情報を聞かせてもらう」
「それは検事局から正式に発表される。手続きを待て」
「事件当事者が、死亡または失踪した場合の対応を、あらかじめ聞かせてもらう」
「未解決と判断される事件の、解決への行動全ての続行[#「続行」に傍点]だ」
ウフコックが言い放つや、ボイルドの目の光が、冷たく輝きを増したようだった。
「怖いか……」
言いながら、そのボイルドの目が、ふいにまたバロットを向いた。
バロットの両脚がさらに激しく震えだした。必死に口を引き結んでボイルドを見返した。
「死にたくなければ、委任事件を撤回し、事件当事者としての権利行使を諦めろ」
ボイルドが言った。バロットの弱々しい勇気を、根こそぎ破壊する言葉だった。
「聞くな、バロット。君が権利行使を諦めた瞬間、誰も君を守れなくなる」
バロットは、息が詰まりそうなほどの緊張の中で、かろうじてうなずき、強く、右手のウフコックを握りしめた。恐怖と屈辱の涙が目ににじむのを、必死に耐えながら、
――死にたくない。
心の奥からせり上がる気持ちを、ウフコックに丸ごとぶつけていた。
右手を包む手袋の温度が、少し上がった気がした。
そこへ、ボイルドの声が飛んだ。
「簡易法廷の予定日と、事件当事者の出席について、聞こう」
「……予定日は、三日後。その他の決定については、手続きを待て。それまで、今回のような手段は二度と用いるな。法廷で正式に訴えさせてもらう」
「何のことか、こちらには意味不明だ……」
ボイルドの頬が、かすかに歪んだ。不敵な笑みというには、あまりに酷薄な顔だった。
「お前を、再び俺の手に握ることを、楽しみにしている――ウフコック」
そう言って、ボイルドが、車に乗り込んだ。ドアを閉め、無造作に発進し、バロットたちのカーのすぐそばを通り抜けていった。
バロットはその車をじっと見送りながら、
――知り合いなの、あの人と?
「昔、一緒に仕事をしていたことがある。今は敵同士だ」
それ以上は訊かず、急に力が抜けたようになって、バロットもまた車内に戻った。
ドアを閉め、座席で膝を抱えたまま、しばらく身動きすることもできなかった。
何も喋りたくなかった。ただ殻に閉じこもっていたかった。
「俺を信じてくれ。俺が、君を信じるように」
ウフコックが、言った。
「俺は君を守ることで、俺自身の有用性を証明する」
――なんで、私なの?
痛切に訊いた。ウフコックにも咄嗟に答えられなかった。
バロットの目にみるみる涙が溜まり、抱えた膝にこぼれ落ちていった。
バロットは、ただ恐ろしさと口惜しさに震えながら泣き続けた。
ゆっくりとカーが走っていた。バロットの電子操作《スナーク》ではなく、自動操縦だった。
ラジオからは、陽気な音楽が流されている。涙はすでに引き、腫れぼったい目で、ぼんやりと夜の街を眺め、窓に映る透けた自分を見つめていた。
耐えるべきルールはまだ沢山あった。だがどうにもならない恐怖が、抵抗する気力も、希望を持つ気持ちも、自分の中から削り取ってゆくようだった。
手袋姿のままのウフコックは、何事かをしきりに考えているようだったが、
「君は、狂ってなんかない」
ふいに、そんなことを言った。
バロットは、半ば心を閉ざした、茫々とした目を、右手の手袋に向けた。
「君の理性も感情も、きわめて正常だ。君は何も間違っていない。だからこそ俺は、君という使い手に尽くし、この事件を解決したい」
――この事伴って?
「君が殺されなければいけない理由は何一つなかった。なのに君は車内に監禁され、全身に重度の火傷を負わされた。その殺害の意図と理由を暴き、不法を糾《ただ》す」
――私の事件?
「そうだ。君は事件当事者としてスクランブル―|09《オー・ナイン》を選択し、技術を手に入れ、俺という存在を手にした」
バロットはそのことについて考えてみようとしたが、うまくいかなかった。自分に何かができるとは思えなかった。できるとしたら新しく得た力がその答えのはずだった。
だが、自分が、何のためにそれをするのかが、わからなくなっていた。
道路は混雑していた。ナビゲーションシステムは、バロットの乗った車を、先ほどのカーチェイスのようには進ませなかった。同じレンタル・サービスの車に乗った子供連れやカップルを眺めながら、バロットはラジオに耳を傾け、やがてそれに干渉した。
〈私が、裁判に出る理由を、教えてくれる?〉
「正確にはまだ裁判にはならない。今回のは、シェルを明確な容疑者として特定するための作業だ。そこに君が出席することで、正式に事件として容疑者を告訴し、同時に、事件が継続的に進行していることが承認される」
〈どういうこと?〉
「君が殺されかけた背景には、より計画的で大規模な不正行為が発生している、ということが法的に証明される。俺たちはその事件を解決することで法務局《プロイラーハウス》から報酬を得る」
〈私がいないと、それができなくなる?〉
「そうだ。事件当事者がいなくなったりすれば、何もできない。あとは法務局《プロイラーハウス》の連中と警官《ハンター》たちが、良いように[#「良いように」に傍点]事を処理するだろう」
〈そのために私を守る? 私自身に私を守らせる? それで、私は何かもらえるの?〉
「君の命、尊厳、正当な主張の権利、生活費……といったものかな」
〈ウフコック〉
「――うん?」
〈少し、ドライブして良い?〉
「ああ。好きにして良い。ただし、あまり遅くなる前には戻ろう」
バロットの乗った車はイーストサイドからサウスストリートを目指した。窓の向こうでは手をかざせば引き千切られそうなほど澄んだ大気が、街の輝きに光っている。
バロットはカーの暖房を入れ、上着の裾を合わせた。まるで締め付けるように。
「あまりタイトにすると、皮質の安定に障《さわ》るかもしれない。内臓にも負担がかかる」
〈安心するから。このほうが……〉
そう言って、ぼんやりと手袋を見た。先ほどよりも、目の焦点が定まり、はっきりとウフコックの存在を認識していた。
〈私のこと、狂ってるって思わないの?〉
「俺は思わない」
〈ねえ、ウフコック?〉
「うん?」
〈ビデオを観たことある? 私たちみたいな子[#「私たちみたいな子」に傍点]が出ているようなものを?〉
「何度かある。俺の性欲を調べるための実験で。結局、俺にはよくわからなかった」
〈SMは知ってる? フェティシズムとか、そういうやつ〉
「詳しくはないが……それが?」
〈私のいた店の売れっ子で、女王《クイーン》って呼ばれてる人がいた。私はその人にSMは向かないって言われた。そういう客は女の子が泣いたりわめいたりするのが良くて、私は、死んでるみたいなのが売り[#「売り」に傍点]だったから。その人のこと、けっこう好きだった。私が最後にいたお店が潰れたのも、その人が原因だったけど誰も女王《クイーン》を悪く言ったりしなかった〉
「ふむ……?」
〈一度だけ、女王が主役をやったショーを観た。Mの子を何人か連れて。縛ったり叩いたり。みんな綺麗だった。Mの子で、一人、針が好きなのがいて、縛られながら乳首に十字に針を刺してもらってた。女王《クイーン》は、『これは使い捨ての注射針だ』って言ってた。絶対に他の人には使わないって。病気にならないように。それに、普通の針は、実は表面がぎざぎざだから、無意味に痛い[#「無意味に痛い」に傍点]って。だから使い捨ての注射針が一番良いって〉
「なるほど。それで?」
ウフコックは、とめどもないバロットの言葉に、真面目に返答している。
〈針を抜かれたあと、乳首から血を流しながら、もっときつく縛られた。肌の白い子だったから、血が泣いてるみたいですごく綺麗で。女王《クイーン》がそうした[#「そうした」に傍点]から綺麗に思えたんだと思う。Mの子もそう言ってた。で、きつく縛られながら、『愛する人に抱きしめられてるみたい』って言うの。誰でもそうじゃなくて、女王《クイーン》にはそう感じさせるものがあるって。ロープやチェーンが父親や母親の手みたいに感じられるって。男に乱暴に縛られるのは好きじゃないって、ショーの後で言ってた。わかってないって〉
「それで、君も、服をタイトに?」
〈そうかもしれない。あのときのショーで言ってたことを思い出したの。抱きしめられてる感じ……でもその子、女王《クイーン》が逮《つか》まった後、クスリをやりながら男に縛らせてお金をもらってるときに死んじゃったけど。縛ってる男がアップになりすぎて首を絞めて殺したって。そのときも裁判があったけど、男は悪くないってことになった〉
「君はそのときの裁判を見たのか?」
〈うん。私に名前を付けてくれた女の支配人が起訴したけど、結局負けた。そんなことが続いて、法務局《プロイラーハウス》にマークされて、警官《ハンター》に客の名簿《リスト》を押さえられたんだって、支配人が言ってた。その人も、その店も、そんなに嫌いじゃなかった。もっとひどい所は沢山あったから……。特にビデオの仕事は、綺麗に撮れてるやつがあって、みんな清潔で、優しかった。中には私が知ってるようなひどい[#「ひどい」に傍点]所もあるって聞いたけど、支配人が紹介してくれたのは、みんな悪くなかった。私も、笑い顔さえ覚えれば、女優になれるって言ってくれた。そのビデオ会社も潰れたけど。……あなたは私の出てるビデオを観た?〉
「いや」
〈観たいと思う?〉
「どうなんだろうな……わからない。それより、なんでその女王《クイーン》は逮捕されたんだ?」
〈フラッシュバック〉
バロットはそう言って、少し考えた。その言葉の重さをどうやって伝えればいいのか。
〈ひと晩で千も二千も稼いでた人。とても綺麗で――顔も体も。なんでもできたし、平気でさせてあげてた。安売りしなかったけど、そうしなきゃいけないときは悩まずにした。普通はものすごく悩むのに。する前でも、した後でも。わかる? そんな人が、お客を殺しちゃったの。隠してた銃で。計画的に。客を縛った後、三十発以上撃ったって。専用のホテル[#「専用のホテル」に傍点]によくある、防音室[#「防音室」に傍点]で。相手が死んでもずっと、撃ち続けたの〉
「なぜ……?」
〈フラッシュバック。女王《クイーン》が拘置所で支配人にそう言ったって。裁判では何も言わなかった。私、女王《クイーン》の裁判を見た。みんなで。その後で、例の死んだ子の裁判も見た。両方ともあんまり長くなかった。あそこには何もない。男たちが、プライドとお金のために動いてるだけ。本当に下らない、最低のショーだって。お店の女の子たちみんなで言ってた。私もそう思う。誰も女王《クイーン》がどうして殺したのか知らなかった。男たちはみんな言い合いばかりしてた。女王《クイーン》はずっとにこにこ笑ってた。フラッシュバック。男たちは、女王《クイーン》が子供の頃に何があったか、いっしようけんめい聞こうとしてたけど、女王《クイーン》は話さなかった。支配人は最後に女王《クイーン》にキスして、『ごめんね』って言った。女王《クイーン》は『いいのよ、愛してる』って言った。『さようなら』って〉
「第一級殺人……計画的な殺人による、終身刑か。彼女らは、愛人同士だったのか?」
〈女王《クイーン》と支配人はできてた[#「できてた」に傍点]んじゃないの。女同士でっていうのじゃなくて。家族みたいに愛し合ってた。私も、お店で知り合った女の子たちにときどき会いたくなる。家族みたいに。みんな、色々な州から流れて、結局このマルドゥック市《シティ》に来てた。一番、稼げる街だから。でも一番、ひどい街。私と一緒に施設を脱《ぬ》け出した子も……今どうしてるかわからないけど、会いたい〉
「会えるさ。事件が解決すれば、いくらでも会いに行ける」
〈でも会いに行っても、羨ましくなったり、嫉妬したりされたりすると思う。自分たちが、どれだけ愛されてるか競い合うから。だから会わないほうが良いのかも〉
「愛されてるか……?」
〈パートナーや、男や、同性愛でも何でも良い。神様でも、運命でも良い。愛されてるかどうか。それがないまま死んでしまうのが、一番、嫌だから。でも結局、それがないせいで、みんな死んでいってしまう気がする……〉
カーはやがてサウスストリートを目指す進路からそれて、都市の中央へと向かっていった。多くの矛盾した街並みが等しくそこですれ違う、広大な空間へ。
ウフコックはバロットの言ったことを真摯に考えているようだった。
〈ねえ、ウフコック〉
「うん……?」
〈裁判では、私とお父さんのこと、訊いてくる? 私のフラッシュバック[#「私のフラッシュバック」に傍点]について〉
「わからない……。向こうの弁護士が、そのことをつかんでいて、君を精神的に動揺させれば、弁論を有利に進められると判断すれば、そうするだろう」
〈私が狂ってることが証明されれば、事件が成り立たないってこと?〉
「まぁ……そうだ」
〈タイトルは何? 私が裁判に立つときの、罪のタイトル〉
「未成年保護法違反および、公文書偽造、身分操作、強姦殺人未遂……」
〈私がアレをしてるときに感じてたり、男にしたりさせたりしたことや、私がどんな服を着ていたかってことも問題にされる? こういう生活をさせてもらっていたから[#「させてもらっていたから」に傍点]、とか、女が感じていたから[#「感じていたから」に傍点]、男は悪くないんだって。裁判では、いつもそう言うから〉
「そういった論理は、今回の事件で許すつもりはない」
〈支配人も似たようなことを言ってた。ナンセンスだって。でも誰も聞かない。私の場合も、誰かが聞いてくれたことなんてない。そういう女の子たちは沢山いるのに〉
「今回は、そうはさせない」
〈私、あなたたちに協力したい。そう思ってるのは本当。信じてくれる?〉
「ああ」
〈私にも|言い訳《エクスキューズ》が欲しい。自分が傷ついていても、これは傷ついてるんじゃないっていう言い訳。目的のための手段とか、そんな感じの。何かのために、誰かのためにそうしてるっていう感覚が欲しい。私の中で、このまま死んでも良いって思ってる自分がいる。でも死にたくない。このまま死にたくない〉
「バロット、君は……」
〈寝ると怖い夢ばかり見る。いつもそう。特に、あんなことがあってからずっと。あなたは夢を見る、ウフコック?〉
「いや、俺はあまり見ない。だが、君がうなされていることは知っている。君が眠っているとき、君からはそういう匂いがするから……」
〈こんな気分のまま死にたくない。それはわかる。でも、怖い。動けなくなるくらい。本当に……。化石の発掘も、詩人も、学者も、なんの言い訳にもなってくれない。人生の目標とか夢とか、そんなものが言い訳になるなんて……。私はただ、今欲しいものが欲しい[#「今欲しいものが欲しい」に傍点]。私には何かを欲しがってそれを手に入れたことなんてないから〉
「バロット……君はこれまで、とてもよく戦ってきた。それは偉大なことだ」
〈……どういうこと?〉
「君は耐えてきた。自分の生命を守るために、強いストレス下で、自己防衛のための服従を強《し》いられつづけてきた。それは勇敢さと忍耐の要る、とても大変な戦いだった。これからは、俺が君と一緒に戦う。君が望めば、どんな武器にだってなる。それは君が知っている戦い方ではないかもしれない。どちらが良いとも言えない。ただ、我々の戦い方も知って欲しい。我々は、君が昏睡中に示したプランに、覚醒中の今の君の感情をもとに修正を加えて、君が殺されかけねばならなかった理由を全て暴き、糾すつもりだ」
〈それがあなたの|言い訳《エクスキューズ》? 私の愚痴を聞いて、沢山のお金を手に入れて、それであなたは、生きる価値があると思えるから?〉
「俺も、君と同じように、自分が何者かという実感を得ようとしている。自分がそれを手に入れたのだ[#「自分がそれを手に入れたのだ」に傍点]、という実感を。俺は――この都市に、自分自身の姿を投影している。都市の裏側で焦げ付いているトラブルに、俺自身の焦げ付き[#「焦げ付き」に傍点]を」
カーは間もなく中央公園《セントラルパーク》へと入っていった。
歓楽街に近いボートハウスを通りすぎ、黒こげになった芝生の周囲を、警察の現場封鎖のマークがプリントされたロープが張り巡らされている場所にやってきた。
自分が死んだ場所――殻の中に閉じ込められたまま、焼き殺されかけた現場だった。
バロットは、そこでカーを停めた。わずかに間をおいて、思い切って表に出た。
冷たい夜がせまり、閑散としたそこに警官《ハンター》は一人もいなかった。
現場封鎖を越え、焦げ付いた臭いの残る地面に立った。空を見上げ、思い切りわめきたい気持ちに駆られたが、掠れた隙間風みたいな息がひゅうひゅう漏れただけだった。
――したいことなんて何もない。みんな……私の知ってる女の子たちみんな、それが手に入らずにクスリや男でぐちゃぐちゃになって生きてる。そんな目に合ってまで生きてる言い訳が欲しいだけなのに。
バロットは、目を閉じ、やがて、意を決すると、まっすぐに、ウフコックに干渉した。
――私を愛して[#「私を愛して」に傍点]。
「いや……なに?」
――私に|言い訳《エクスキューズ》を与えて。あなたのためにそれ[#「それ」に傍点]をしたいの。法廷にも立つし、やれ[#「やれ」に傍点]と言われれば何でもする。だから、私を愛して。
「それは……家族みたいに? さっき車の中で君が話した、女王《クイーン》と支配人みたいな?」
――シェルは私を愛してると言った。だからあの人の車に乗った。私、あなたみたいな人に[#「あなたみたいな人に」に傍点]愛されたい。
「待ってくれ。それは……解決になるのか? 君にとって?」
――私はあなたにとっていったい何なの[#「私はあなたにとっていったい何なの」に傍点]?
そのとき。ぐにゃりと、バロットの手の中でウフコックが元のネズミの姿に戻った。
完全にバロットの強制的な操作《スナーク》だった。ウフコックは目をまん丸に見開き、怖《お》じ気《け》たようにバロットの手の上であとずさった。
「お……俺の初期プロテクトを破れるのか? そんな、一瞬で……」
――答えて[#「答えて」に傍点]。
「う、うむ、待て……つまり、君は俺の依頼人であり、守るべき事件当事者だ。俺の行動について不満があるときはいつでも法務局《プロイラーハウス》に申請できる……」
――知らない。そんなことは。あなたに訊いているのは、そういうことじゃない。
「待てって。俺は見ての通り、世界で一匹しかいない、喋って踊れるただのネズミだ。君は何か勘違いしている。君が望めば俺が一人前の人間の男に変身《ターン》するとでも? 不可能だ。俺には他の生物に変身《ターン》できるような機能はない」
――知ってる。あなたはネズミ。可愛くて喋って優しいネズミ。あなたも私を狂ってるって思うの? あの警官《ハンター》みたいに?
ウフコックは深々と疲れたように溜め息をついた。サスペンダーが緩んだようになるまで。
「君は俺を、愛玩動物の類だと思ってるのかい? 檻に入って、売られてるような?」
バロットが悲しい顔になった。これまでになく。ほとんどウフコックが初めて見る、バロットの表情[#「表情」に傍点]といえる顔だった。
――そんなつもりはないの。ただ……
「君にとって俺の存在が何であれ[#「君にとって俺の存在が何であれ」に傍点]、俺は君を護り、君の武器となって君を危険から遠ざける。君は君のために君自身を生き延びさせ、生存を勝ち取らなければならない」
――新しい相棒《バディ》。
「なに……?」
――ここであなたは言った。黒こげの私に。新しい相棒だって。私の目を見ながら。
ウフコックの赤い目が、またもや、まん丸に見開かれた。
「君は記憶してるのか? あんな状態で? 周囲の出来事を?」
――クスリはあんまり効かないの。体質的に。アップでもダウンでも。気分が悪くなって眠くなるだけで。だから母親みたいな中毒患者にならずにすんだ。
「それにしても、尋常じゃない。君はほぼ全身に重度三の火傷を負っていたんだ。君は……それで意識を保ってた。第三者の言葉を正確に記憶しているくらいに」
バロットはひどく哀しげに唇を噛んだ。心まで凍りそうなほどの寂しさの中で、必死に立っていた。ウフコックがそれに気づき、バロットの手のひらですとんと腰を下ろした。
「俺は道具存在として、自分を使用する[#「自分を使用する」に傍点]人間には多くのことを要求する。そのせいで、以前、組んでいた相棒とは決定的に対立してしまったくらいだ。それでも、君が依頼人の立場を取りつつ、俺の相棒として働く気があるんだったら……」
――良いわ。なんでも言うことを聞く。法廷にも出る。
「ふむ……。どことなく君と俺とで、趣旨の食い違いを感じなくもないが……まぁ、良いだろう。色々と覚えてもらわなけりゃならないが、それもオーケーらしい」
バロットはじっとウフコックを見つめた。それこそ、どれだけ傷ついても構わない、というように。ウフコックは完全に負けたようになって、その小さな手を差し出した。
「では、まぁ一応、仮にそういうことにしようか……よろしく頼むよ、パートナー」
バロットが指先で握手を返し、干渉した。
――バロット。名前で呼んで。
「うん、しかし、君の本当の名前は……」
――名前を付けてくれた支配人が言ってた。それが私の一番リアルな名前だって。私もそう思う。あなたが、|煮え切らない奴《ウフコック》と呼ばれてるのと同じ。
「……そうか。うん。わかった。よろしく頼むよ、バロット。俺はウフコックだ。性格はその名の通りだが、スクランブル―|09《オー・ナイン》専門の事件担当官として、法務局《プロイラーハウス》からライセンスを取得している。もちろん、向こうは俺のことを人間だと思っているけど」
――私もそう思ってる。
バロットは有無を言わさずウフコックの小さな頭にキスをした。
ウフコックの渋い赤い目が、再三、びっくりして丸くなった。
バロットは、改めてウフコックをチョーカー姿に変身《ターン》させて身につけると、足下に広がる黒こげの地面に向かって、ばいばいと手を振った。小さく、そっと。
隠れ家に戻ると、ドクターのデスクの上でディスプレイが緊急呼び出しのマークを幾つも重ねて表示させていた。どれも検事からの呼び出しである。
肝心のドクターは、奥の研究室にいた。水槽のような箱の内側に直接手袋が付いており、ドクターはそれに両手を突っ込み、顕微鏡と格闘していた。
「ドクター、検事はどうやら回線をバンクさせる気だぞ」
ウフコックが冗談めかして言った。ドクターは振り返りもせず、肩をすくめた。
「別に良いさ。僕はやるだけやったんでね。あとは僕なりの建設的な作業をするさ」
お互いを見もせず親しく言葉を交わす二人の間で、バロットはぽつねんと立っていた。
ちょっと面白くなかった。ドクターの背に、手にした箱を、どんとぶつけた。
「危ないなぁ」
ドクターが、呆れたように顕微鏡から離れ、バロットを向いた。
「ずいぶんと大きな荷物だね。なんだいそりゃ」
「スーツだよ、ドクター。それが、バロットが法定に出る条件だ」
チョーカーからネズミの姿に戻ってバロットの肩に立ち、ウフコックが説明した。
「君の見立てかい? ルーン=バロット?」
バロットがこくんとうなずいた。それが、ショッピングの最後の品だった。
「僕も、一応は、公的な場所に立つための衣服くらい持っているんだが……」
「ドクターのセンスは、こちらの依頼主の希望には合わないらしい」
バロットがドクターの髪を指さした。ほとんどまだら色に染まったような髪を。
それから自分の髪を、かきあげる仕草をしてみせた。きちんとしてくれ、と。
「それならそうと、早く言ってくれれば良いのに。僕のスタイルが理由だなんて。検事のやつ、簡易法廷弁論に間に合わせようとして、今頃しゃかりきになってるんだぞ」
バロットは、むっとした顔になって、ドクターに箱を押しつけた。
「わかってないな、ドクター。ナイーブで、とても気が変わりやすい依頼主《クライアント》なんだ。ちゃんとその瞬間の気持ちを汲み取らないと、担当者の変更を申請されるぞ」
バロットの肩先で、ウフコックが真顔で言った。ドクターは皮肉まじりに口を歪ませ、
「君はどうやら、よくわかってるようじゃないか。ウフコック?」
それから箱に書かれたサイズを見て、感心したようにうなずいた。
「ぴったりだ」
バロットの能力をもってすればたやすいことだった。だがバロットは不満げに、緊急呼び出しマークだらけになっているディスプレイを指さした。
ドクターはあまり気のなさそうな素振りだった。それよりも、しきりに水槽の中身を気にしていた。先ほどからいじくっていた、沢山のガラス管と皿の中身を。
「大丈夫だよ。君がその気になってくれたんなら、話は早いんだから」
そう言って、スーツの箱を無造作に小脇に抱えたまま、水槽に手を触れた。
「まだ色々と検証してみないとわからないからね。こいつは。考えてみれば、どうにも厄介だな。成長途中のものを、完全に再現するというのは。代用品では嫌だろうし」
バロットは眉を寄せた。ドクターの言っていることがわからなかった。
その気持ちを察したように、ウフコックが訊いた。
「何をしてるんだ、ドクター?」
「何って……バロットの声を元に戻す方法を、色々と試してるんじゃないか」
今度は、バロットがぽかんとした顔になった。途端にドクターの言葉を思い出した。
建設的な作業――確かにドクターはそう言ったのだ。一瞬、その意味を受け取りそこねた。途端に、気持ちの隙間をぬって何かが込み上げてきた。ようやく出会えたのだという思い。このネズミと男の二人組に対して。それまでは裏切られるのを恐れて、敢えてそう思わないようにしていた自分の心に、突然自分で気づいていた。
「ああ、ところで。ありがとう、バロット。スーツは、ありがたく頂いておくよ。法務局《プロイラーハウス》への報告には書けないけどね。事件当事者からの贈与になるから。でも、たまには、こういうのも良いな。僕がまだかたぎ[#「かたぎ」に傍点]だった頃を思い出すよ」
バロットはかぶりを振った。ウフコックとドクターに、ありがとうと告げたかった。
だが声は出ず、代わりにドクターが手にした箱をひったくり、唇を押しつけた。
その拍子にウフコックがバロットの肩から放り出され、器用にデスクの上に着地した。
再び突っ返された箱を抱えたドクターは、回れ右をして逃げ出すバロットの背を呆然と見つめている。ばたん、と大きな音を立ててドアが閉まった。
ドクターはドアを見つめ、それからデスクの上のウフコックに目を向けた。
「いったい、どうしたんだ?」
「わからない……喜んだと思ったら、羞恥心と否定的感情と、恐怖に襲われたらしい。困った。俺たちの有用性[#「有用性」に傍点]に対して、懐疑的な念を抱いたのかもしれない」
「いや……そうとは言い切れないぞ、見ろ」
ドクターが、箱を掲げてみせた。そこに付けられたポピーレッドのキスマークに、
「それは、人間の習性で、感謝の表現と受け取って良いんだな、ドクター?」
「その通りだ、ウフコック。僕ら、ずい分と気に入られたんじゃないのか?」
たちまち、ウフコックとドクターは、子供のように、はしゃいだ。
バロットは割り当てられた自室に戻ると、しっかりと鍵をかけた。
電子ロックとチェーンと、両方を。それから、デスクの上に今日買ったものを並べた。
イジェクト・ポスターを手に取り、壁に取り付けた。
ベッドに腰掛け、膝を抱えたまま、投影装置に干渉し、化石の写真を選んだ。
沢山の螺旋の殻たちが次から次へと壁一面に現れては消えるのを見ながら、意識を宙に飛ばそうと思った。これまで、いつもそうしてきたように。
だが、成功しなかった。涙が止まらなかった。
今日あったこと全てが、ここにきて突然爆発した感じだった。だんだんと降り積もってゆき、やがて山になって崩れ落ちていったようだった。
声が出ないみじめさから慌てて逃げ出してきたくせに、そのうち、そうする必要さえなかったのではないかと思えてきた。そのせいで、余計に涙が流れ落ちた。
長いことその姿勢のままでいたが、やがて、ひゅうひゅうと木枯らしみたいな息を吐きながら立ち上がった。上着のポケットから口紅を取り出し、無数の殻たちがめまぐるしく現れては消える壁に、ポピーレッドの文字を大きく書き付けた。
――今ここにいる《ナウ・ヒア》。
つづけて、すぐ下にこう書いた。
――|味方は一人もいない《ノーバディ・ノーウェア》。
それから、また書き付けた。
――今ここにいる《ナウ・ヒア》。
声も出ないのに泣くということは想像以上に辛かった。ほとんど全身の息吹が、虚空のような口から全て出ていってしまいそうだった。体中が鉄のようにこわばっていた。
バロットはそれに耐えた。これまでずっと耐えてきたように。壁に全身を押しつけて。
ただこれまでと違って、自分を殺す必要はなかった。それだけは確かだった。
化石たちが、渦を巻くように自分の体と壁とに浮かび上がっては消えていった。
なぜ自分なのか。その問いが、また別の答えを見せようとしている気がした。
「だが、一つ、問題がある」
ウフコックが言った。
「愛の定義とは何だ、ドクター」
ドクターは水槽に向かいかけた身を引き戻し、びっくりした顔で振り向いた。
「それは……お前の、新しい自我の芽生えか? ウフコック?」
「いや、単純な要求《ニーズ》だ。ただ、それに柔軟に応答する必要に迫られている気がする」
「愛とひとくくりに言ったって難しいぞ。家族愛とか隣人愛とか、|神の愛《アガペー》とか」
「煩雑だな。ただ、愛が欲しいんだ」
「お前と同タイプの雌型を造れってのか? お前は研究所でもオンリーワンの、奇跡的な完成品なんだぞ。昔みたいに、軍が無茶苦茶な要求をしても、雌を作るのは……」
「俺じゃない。彼女だ。バロットだ」
「ああ、そう」
ドクターは、納得したようにうなずいた。と思うと、怪訝そうに指で眼鏡を押し上げ、
「お前に? 彼女がお前に、何を求めてるって?」
「精神的な安定の根拠だ……恐らく、そう解釈できるだろう。俺の鼻《カン》では、彼女には様々な素質がある。今まで磨ける環境にいなかっただけで。その環境の根本に必要なのが、何らかの根拠[#「根拠」に傍点]なんだ。彼女はそれを愛と呼んでいる」
「お前の鼻《カン》の鋭さは知ってるさ。お前を担当していたチームの大半の研究者が、心の底ではお前を恐れてたんだ。お前に能力の限界を指摘されるのをね。お前はまるで、人間を化学成分のブレンドのように語っていたから」
「それこそ、ひと昔前の俺の話だ。今は必ずしもそうではないことを知っている」
「そうだろうさ。で、お前は、要するに何を言ってるんだ、ウフコック?」
「俺は、彼女を守りたい。だが……それ以上のことは、どうしたら良いと思う?」
「僕には、すべきこと[#「すべきこと」に傍点]はわかるけど、どうしたら良いか[#「どうしたら良いか」に傍点]は、わからないよ」
「彼女は、まるで俺を人間のように扱おうとしているんだ」
「お前がそれを望んでいないとは知らなかったよ、ウフコック? 僕や、お前の元相棒だって、お前を人間のように扱ってるだろう。自然とそうなっちまうもんさ」
「違うんだ。何かが、これまでとは違う。俺の中で何かが変化している。彼女は法廷に出る決意をした。だがそれに対して、俺はひどく申し訳ない気持ちでいるんだ」
「ふうん……」
ドクターが、珍しいものでも見るように、ウフコックをしげしげと見つめた。
「もっと、ドライになるべきだと思うんだが……」
「ああ」
途端に、ドクターが、わかったような呟きをもらし、
「お前には無理だよ」
真面目な顔で言った。ウフコックはごろりとデスクの上に横になり、大きく溜め息をついた。その小さな身が、さらに小さくしぼんでしまうくらいに。
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Chapter.3 発動 Crank-up
眩い朝の光の中、その階段は、美しく輝いていた。
マルドゥック市《シティ》の象徴でもある、螺旋階段のモニュメントは、未完成の姿をそのまま完成としたかのように、大きく三つの円を描いたところで、綺麗に途切れている。
外縁には、神の星である木星の記号が刻まれ、手すりや柱の一つ一つに神話的な装飾が施されている。かつて移民たちが、希望と信仰をこめて建てたモニュメント――
|天国への階段《マルドゥック》≠ニ呼ばれるこの階段は、今や、都市に流入する多くの人々の、夢と野心の象徴となっていた。それは都市生活の規範となり、階段を上りゆき、高みへと到達することこそ美徳だった。
都市の政令中枢たる、法務局《プロイラーハウス》の巨大なビルの前にそびえるその階段の前に――バロットは、チョーカー姿のウフコックと、スーツに身を包んだドクターとともに立った。
――あの階段を見るたびに、一番上から落っこちてくる人の幻が見えるみたい。
バロットが、ウフコックに電子的に干渉して告げると、
「人間が大昔から作り上げてきた、膵者と敗者を生み出すシステムだ。だが、必ずしもそれが人間の全てではない。あくまでシステムの一部だ。気にするな」
――あの階段から私が落ちるってことは、私が死ぬってことでしょう。
「俺がどんな道具にでもなって、それを阻止する」
ウフコックが小声でそう返してくれることが、本当に心強かった。
バロットは、意を決して、ドクターとともに法務局《プロイラーハウス》のビルへと入っていった。
法廷は午前九時三十分きっかりに始まり、途中三十分間のランチタイムを入れた。
みなが着席した後、さらに二分間、トイレに入っていた裁判官が戻ってくるのを待った。
それから二十分後にはバロットが完全に黙秘《だんまり》を決め込み、やがてきたる十五時三十二分をもって裁判官が木槌《ハンマー》を振り下ろし、法廷弁論の終了を告げた。
その六時間に及ぶ討論の結果は、傍らにいたドクターと、チョーカー姿のウフコック、および検事にとって、十分に目的を果たすものだったが、バロットにとっては屈辱の一語に尽きた。
「声が出ないのは、かえって好都合かもしれない。印象の問題でね」
と検事は弁論の直前になって言ったものだ。
「仮陪審とはいえ、君が被害を受けたことをアピールできるにこしたことはない」
この三十代前半の上級地方|検事補《ADA》は、センターストリートの法務局《プロイラーハウス》のビルの十一階で、法廷の人ごみにもまれながらやってきたドクターとバロットを、とびきりのアイドルででもあるかのように出迎えた。彼ばかりではなく、審議で忙しいはずの検事たちも、一目バロットを見ようと、控え室に顔をのぞかせる有様だった。
おい、あれが例の強者かい[#「例の強者かい」に傍点]。なんだ、ずいぶんとさっぱりしている[#「さっぱりしている」に傍点]じゃないか、あれで何か訴えられるのか? というふうな言葉が、ドアの内外で聞こえた。
「年輩のベテラン検事ほど、この事の事件を茶化したがる」
検事は、控え室から部外者を閉め出しながら、詫びるようにそう言った。
「彼らはいまだに、売春斡旋やレイプのどこが罪なんだ、というような調子でね」
この検事は違うらしかった。検事自身がそう言ったし、ドクターもそう紹介していた。地位の低い人間や、女性のように暴力に対して無力な被害者に、理解のある男だと。
「向こうの弁護人も、その点を突いてくるだろう。覚悟は良いね? できるだけ落ち着いて。弁護人なんてものは、依頼人が有罪かどうかは、どうでも良いものなんだ」
バロットに言い聞かせながら、検事は明るく笑っていた。それがバロットを落ち着かせるための手段だと考えているかのように。
「やつらにとっては真実が何かは関係ない。どんな悪党が依頼人であってもベストを尽くして依頼人を法的にカバーし、見返りとして年間六万ドルやそこら貰ってるわけだ」
そこで検事はさも困ったように肩をすくめ、かぶりを振った。
「我々は、そんな人間を相手にしつつ、重要参考人を容疑者として特定せねばならない。特に今回の弁護人は、少々やり手でね。こうして訴訟手続きが整っているというのに、被告であるシェル=セプティノスは留置所にもいないし、容疑に問われてもいない。罪状否認もせず、弁護人の陰に隠れて供述拒否ときた。代わりに我々も、訴訟手続きをぎりぎりまで向こうに見せなかったけど」
検事はそこでくすくす笑いをこぼした。面白いジョークでも言うように。
「向こうは作戦立案で、ちょっと揉めたろうね。いったい何を根拠に訴えてくるのか、てんでわからないんだから」
バロットはただそこに座っていた。
控え室の席でも。そしてその後で、原告側のテーブルに着いた後でも。ただじっと座り、さっぱりした子だね[#「さっぱりした子だね」に傍点]、さもありなん[#「さもありなん」に傍点]、というような目と言葉とに耐えていた。
「だから余計に弁護人は、君のことを――まぁ、色々と言ってくるだろう。法廷全体の性差別意識に訴えて依頼人を無罪にできるんだったら、間違いなくそうしてくるから。君はとにかく落ち着いて――今回は特に、君の障害のこともあるから、イエスかノーか、あるいは黙秘かのボタンを押してくれれば良い」
そこで初めてバロットはうなずいた。それで、たいがいの男は、どうすれば良いかを指示してくる。検事もそうだった。
「さぁ、行こうか」
そう言って、事件委任申請者であるバロットと、委任事件担当官であるドクターとを連れて、法廷へと出向くことになった。
エレベーターの中で、検事がドクターにこんなことを言った。
「良い格好だね、ミスタ・イースター。いつもそうあってくれると、私も気が楽だよ」
ドクターは髪を黒く染め直し、ぴたりとなでつけていた。
スーツもさまになっていたし、紳士然として、しかも腕利きに見えた。ドクターは肩をすくめ、少し微笑んだ。検事は気を良くし、ドクターにこっそり耳打ちした。
「次からは、あの子の格好ももう少し検討しよう。街の西側に住んでいた少女が、東側の男の犠牲になったというには、少し――綺麗すぎるんでね。彼女は」
バロットにもそれは聞こえていた。はっきりとした言葉ではなかったが、雰囲気で何を言っているのかわかった。バロットは無意識に腕を組み、自分をタイトに縛り付けるものを欲した。ワンピースのスカートの色は暗く、膝下まであるものを着ていた。検事の指定通りの服装を。まるでコスチュームにこだわる客の要望に応えるみたいに。
チョーカー姿のウフコックは何も言わなかった。
他の人間に対してその存在は秘密だったし、実際、今このときウフコックには何も言って欲しくなかった。チョーカーの飾りは卵形のクリスタルだったが、黄色いネズミの絵ではなく、質素な幾何学模様が描かれているだけだった。
九時二十五分。原告側のテーブルに、バロットたちが座った。
被告側には、弁護人と、被告と、そして被告の事件担当官がいた。
バロットは自分の能力を強く意識した。そちらを見ずとも、誰がどこにいてどんな状態かわかった。被告の男は冷静だった。かすかに怯えているようでもあったが、実際に戦うのはその男ではなかった。傷つくのもその男ではなかった。それは弁護人と事件担当者の仕事だった。そしてバロットの仕事だった。男はバロットを見向きもしなかった。
傍聴人席の最前列では、首にタグをぶらさげた記者たちが陣取ってバロットに注目していた。彼らの意識は、バロットやドクターが目指すものとはかけ離れていた。
彼らは、この事件をスキャンダラスに書き立てたくて仕方なかった。
現代のロリータとしてバロットのことを書きたがっていた。子供のくせに自分の魅力を知り尽くし、アミューズメントカンパニーの重役である男をたらし込み、破滅的なまでに追い込もうとしているという構図に、刺激を感じていた。
いったいどうやって彼女は事件担当者とつながりを待ったのだろう。そもそもどうやって重役である男の愛人になったのだろう。つまり彼女は自分をよく知っていた[#「自分をよく知っていた」に傍点]のだ。
この重役――シェルも愚かな男だった。こんな少女にたぶらかされた挙げ句、忙しいビジネスの時間を割いてまで、こんな所に来なければならなくなるなんて。
そう。たぶらかされた。一人の少女に。誰もが。実際はどうであれ――経緯はともかく[#「経緯はともかく」に傍点]そういう結論になれば、しめたものだ。|わかりやすい宣伝文句《キャッチコピー》としては抜群だった。
法廷が始まり、まず検事が、バロットがいかに損害を受けたかをとうとうと述べた。そしてシェルがどれだけ意図的にそれをしたか。その意図の背後には何があるのか。
弁護人はそのつど「めくらまし」とか「論拠が薄い」と言って異議を唱えた。そして挙げ句にはこの事件をでっち上げてシェルの財産を不当に奪おうとしていると言った。
続いて弁護人が喋りだし、バロットがいかに無軌道でふしだらな生活を送ってきたかを微に入り細を穿《うが》って説明し、シェルがそんなバロットをどれだけ苦労して救い出そうとしたかを丹念に言い添えた。そもそもバロットは無理矢理シェルのもとにいたのではなく、好き好んで――もっと言えば、自分から押し入るようにしていたのだ。
検事はそれに対して「焦点を意図的にずらそうとしている」とか「事実ではなく印象で判断しようとしている」などという言葉で抵抗した。
バロットはときおり証言を求められ、そのつどイエスかノーか、あるいは黙秘《サイレント》かを選んでボタンを押した。具体的な言葉が必要なときは、専用の紙に書いて廷吏に手渡した。
法廷は、口を利けない者に、あまり親切ではなかった。むしろぎくしゃくしていた。まるで、言葉が発せない者が法廷にいるなんて、と不快感さえ抱くかのように。
そんなバロットを、弁護人は「自業自得」とか「被告の責任として問うのは無謀」などと言い、検事は検事で、バロットのこうむった被害の甚大さをアピールした。
その言葉の一つ一つに、仮陪審たちが、まるで左右に飛ぶボールに従って首をひねるように表情を変えた。善か悪か。有罪か無罪か。テニスのラリーみたいに。階段を上りながら、有罪、無罪と呟き、最後の段でどうなるかを見るゲームだった。
「そもそも、なぜ抵抗しなかったのでしょうか」
弁護人はそう言った。シェルが身分を操作したり、無理矢理レイプしたり、車に閉じ込めたりしたというのであれば、どこかで抵抗していたはずだ、と。
検事が反論している間、バロットは自分が施設にいた頃を思い出していた。
年がら年中、ソーシャルワーカーに「お前は悪い子だ」と言われて過ごした頃を。
ワーカーのボランティアの中には、そうでない者[#「そうでない者」に傍点]もいたが、そうである者[#「そうである者」に傍点]のほうが、格段に施設の子供たちに対して影響力を持っていた。
夜、二段ベッドの下の段で寝ている子供を、ワーカーの男がレイプしても、上の段で寝ている子供は恐怖に震えながら寝たふりをするしかなかった。金もなく捨てられる恐怖を、みなそこで覚え込まされた。そして金ももらえず良いようにされる屈辱と恐怖を。
あるとき、施設の子の一人が、料理当番のときに包丁を自分の足に落としたことがあった。バロットの目の前で、刃はスリッパと足を串刺しにした。足の裏から刃の切っ先が見えていた。その子は、そうしなければ、その夜、何があるかわかっていた。
その子は施設の医院に連れていかれたが、二日後には戻ってこなければならなかった。松葉杖を突きながら。そして戻ってきたその晩、三人のワーカーがその子をレイプした。
「どうして抵抗しなかったのですか?」
弁護人が言った。もし意図的にシェルがバロットに危害を加えようとしたならば、そこには何らかの抵抗があってしかるべきだと。
検事が何か反論していた。早口で、大きな声で。
どうして抵抗しなかったのか。誰もが逃げ出そうとした。中には施設に順応する子もいた。権力というものを知る子が。だが大半は逃げたくて逃げたくてしょうがなかった。
日常的に四方からナイフを突き付けられているような状況で、衣食住とあらゆる娯楽と友人間係を良いように[#「良いように」に傍点]操作されつづけて、挙げ句には「どうして抵抗しなかったのですか?」と訊いてきていた。少しも抵抗の道を示してくれなかった大人が。
その質問に対する返答は、沈黙《サイレンス》だった。
やがてランチタイムに入り、検事はドクターと失点について話し合った。
仮陪審から起訴へとどうやって持っていくかの入念な打ち合わせの間、バロットはウフコックと一緒に食事をした。ほとんど口に入らず、ウフコックも言葉少なだった。
――あなたのために、こうしているんだと思いたい。
バロットは、そうウフコックに干渉した。ウフコックはしばらくの沈黙の後、
「これは手続きだ。俺のためでも君のためでもない。俺の戦いは、この手続きの後だ」
はっきりと言った。どこか申し訳なさそうだったが、その気持ちをしっかりと抑えているようだった。すまないとか、申し訳ないといった言葉を、うかつに吐かないように。
バロットはチョーカーのクリスタルを握りしめた。
「ここで少々、ショッキングな事実をお話ししなければなりません」
弁護人が言った。朗々と。まるでそうしなければいけないことを喜んでいるみたいに――事実、喜んでいたのだが。
「彼女がまだ今よりもわずかに幼い頃、彼女は、なんと実の父親と、性的な交渉を持っていたのです。そうですね、ルーン=バロット?」
法廷がざわめいた。低く、はばかられるように。
これに対して検事が「関係のない、無意味な質問」としてがなり立てた。だが法廷の興味は一気にその質問に向かっていた。あるのは好奇心であり、陪審員の好奇心を阻害することほど、法廷を不利に運ぶ事態はなかった。検事は歯ぎしりして着席した。
バロットはまっすぐその弁護人を見返した。冷静に。心臓の吐き出す毒が凍りつくくらいに。そっと、冷ややかにボタンを押した。
――イエス
法廷が大きくざわめいた。裁判官が木槌を叩いた。弁護人がさらに質問してきた。無音味で下らない質問を。
父親のほうから求めてきたのですか?
――イエス
あなたはそのとき、抵抗しましたか?
――ノー
法廷はひっそりと、固唾を飲んでいる。
なぜ、抵抗しなかったのですか?
バロットは紙を渡され、それに短く書いて廷吏に手渡した。
その紙をさらに廷吏が裁判官に手渡し、裁判官が読み上げた。
『私は父を愛していました』
法廷が、わっと沸きに沸いた。裁判官が、激しく何度も木槌を叩きまくった。
それは男という意味で?
――ノー
父親として愛していた?
――イエス
関係は一度だけではなかった?
――イエス
何度となく関係した?
――ノー
正確に数を数えられる程度? 何回ですか?
バロットは手を挙げ、指を三つ立てた。
三回?
――イエス
あなたの兄は、父親とあなたの関係に気づき、父親に暴力を振るいましたね?
――イエス
兄が怒りを覚えた理由は、わかりますか?
――イエス
なぜ?
また紙を渡された。さらに短く書いて廷吏に手渡し、裁判官が読み上げるのを待った。
『私を愛していたから』
また法廷が沸いた。マスコミの何人かがさっそく傍聴席から立ち上がり、ニュースを伝えに走り去っていった。
女としてあなたを見ていた?
――ノー
それは、妹として?
――イエス
あなたの父親は、それがきっかけで都の病院に、重度身障者として指定されましたね?
――イエス
その後、父親には会いましたか?
――イエス
どう思いましたか?
バロットはうつむいたまま答えない。検事が立ち上がってわめいた。無意味な質問、下らない質問。裁判官が木槌を叩いた。弁護人はつづけて質問した。
父親のことをまだ愛していますか?……父親として?
――沈黙《サイレンス》
なぜ答えられないのですか?
――沈黙《サイレンス》
あなたは父親を男として愛している?
バロットはかぶりを振った。検事が大声でわめいた。それを半ば遮るようにして、バロット自ら手を上げ、廷吏に紙を寄越すよう手招いた。それに端的に書いた。
『家族をどう愛していいかわからなくなった』
父親だけでなく?
――沈黙《サイレンス》
あなたの兄はいまだに服役中ですね?
――沈黙《サイレンス》
あなたの母親はその後、ADSOM――つまりアルコール・麻薬中毒者救済協会の主催する施設に入りましたね? いまだにその施設で生活している?
――沈黙《サイレンス》
母親は、あなたと父親の関係を知っていましたか?
――沈黙《サイレンス》
家族がこうなってしまったのは、自分のせいだという気持ちがありますか?
反射的だった。バロットはボタンを押さなかった。だが干渉し、操作《スナーク》していた。
――イエス
誰もバロットがボタンを押すところを見ていなかったが、誰がそんなことを気に留めるだろう。ドクター以外は。弁護人が立て続けに質問してきていた。バロットは、たった一つのボタンを見つめ、それに干渉し、自分の意識がそこから外れないようにした。
これ以後、バロットに対する全ての質問の答えは沈黙《サイレンス》になった。
バロットの父は柔和だった。ひげ面だったが、怖いという印象を与えなかった。体格も良く、健全な労働者だった。無骨で逞しく、優しい指をしていた。末端神経症が悪化し、右手の指が三本しかなくなっても、優しい印象は変わらなかった。左手は親指しかなかった。合わせて四本の指が、学校から帰ってきたバロットの制服を脱がした。
意識を宙に飛ばすことをこのとき覚えた。父の指と舌が、壊れやすいものでも扱うように丁寧にバロットの体を撫で、見知らぬ震《ふる》えが湧きつつあった。それを必死で抑え込み、宙に解放した。たまらない罪悪感があり、冷え切った意識があった。半眼にした目で部屋を見つめ、家具を見つめ、別の何かへと意識を飛ばそうとした。
だがこのときはまだ、意識を飛ばす技術は、完全ではなかった。
ときおり声が漏れた。自然と。よく映画で、恋人に抱かれる女がそうするように。喘ぐように。それに抗《あらが》った。唇を噛み、必死に目をそらした。父の顔を見ないように。
どれだけの間そうしていたのか。突然、生温い快感のうねりを吹き消すものがあった。痛烈な灼熱感があった。侵入してきていた。父の謝罪の声が聞こえた。自分の口から、やめてという声が出た。しかし痛みは尖りきり、父は体を動かし始めた。
両腕で父の体を押し返そうとした。父は泣いていた。三本しかない指で、バロットの腕を握りしめた。バロットの腕や胸に涙がぽたぽたしたたっていた。まるで血を吐くみたいに。やがて痛みの波が穏やかに静まり、涙とは違う生温いものが股《もも》にしたたった。
警官《ハンター》が言ったラッキーな男とは、こういうことだった。弁護人が、なぜ抵抗しなかったのかと訊いて、答えられるものではなかった。
父の悲しい顔がいつでも思い出された。それ以外の顔が思い出せないくらい。
その悲しさをどうにかしたかった。父が本気で十二の実の娘を女として愛したのかはわからなかったが、少なくとも当時のバロットにそれを拒むことはできなかった。
最後に関係を持ったあと、ぼんやりシャワーを浴びているバロットの耳に、罵声と悲鳴が聞こえてきた。つづけて――銃声が。
バロットは体にバスタオルを巻いた姿で出てきてそれを見た。兄が狂った犬のようにわめき散らしているのを。兄の足下で、父が、撃たれた体をのたうたせているのを。
兄は、体中から湯気を立ちのぼらせている妹を見て、声を上げて泣いた。
兄はアルコール・麻薬中毒者救済協会でボランティアをやっていた。子供の頃、母親に、右腕を縛るチューブの端をきちんと持っているように、と怒鳴られたことが理由で。
兄は母親に似て神経質だった。母親を救おうとして、逆に、苛立ちと憎悪をつのらせていった。家族の中でほとんどただ一人、まともに金を稼いでこれるのも兄だった。
兄は効率よく金を稼ぐ手段についていつでも頭を振り絞っていた。
そのうち悪い仲間に金の話で引き寄せられ、銃の運び屋にも手を出した。そうしたことが、父親への暴力事件のときに暴き立てられ、兄は刑務所に入ることになった。
最後の面会のとき、兄は『全部無駄だった』と言った。
あのときバロットは、何も言えず、ただ兄の背を黙って見送った。そして刑務所と同じくらいひどい施設に入れられることになった。長い間、それを罰だと考えていた。家族を壊したのが自分で、自分は罰を受けなければいけないのだと。悪い子だ[#「悪い子だ」に傍点]、お前は悪い子だ[#「お前は悪い子だ」に傍点]、という施設で聞かされ続けた言葉は、今でも耳の底で響き続けている。
弁護人は、あれは完全な事故であり、シェルに殺害を意図したところなど全くなかったと言ってやまなかった。むしろ助けを呼びに行くシェルを信じられず、変に騒ぎ立てたせいで事態が悪化したのだと。その証拠として、エアカーのドアの内側にひっかき傷が幾つもついていることを指し示した。爆発したエアカーのドアの内側に傷がついていることを[#「爆発したエアカーのドアの内側に傷がついていることを」に傍点]。それが全てバロットのしわざででもあるかのように。
そのことを陪審員に信じさせるために、弁護人はあらゆる努力を惜しまなかった。
今やバロットは、実の父親さえ誘惑してはばからず、自ら家族を破壊し、奔放にドロップアウトの人生に飛び込み、好き勝手に生きてきた前代未聞の未成年娼婦《ティーン・ハロット》だった。
弁護人は言う。そんな少女に振り回されて、シェル=セプティノスのような健全な野心を持ち、苦労に苦労を重ねて[#「苦労に苦労を重ねて」に傍点]今の地位に立った男の不幸を見逃して良いのか――バロットのような少女にも優しさを分け与えようとした男をこそ、支援すべきではないのか。
今、シェル=セプティノスは、自分が殺人を犯したのではないかと怯えている。なぜならその記憶障害のため、事件当日のことを覚えていないからだ[#「事件当日のことを覚えていないからだ」に傍点]。もちろん、この少女はそのことを知っている。だからこそ、そこにつけ込もうとしているのだ――と。
それに対して検事が総力を挙げて反撃し、事件を調査した警察官や、事件屋であるドクターを証人として立たせ、いかにして少女が男の野心の犠牲になったかを暴き立てた。
あとになって、検事はこう言ったものだった。
「あの弁護人、やりすぎたんだね。どうみてもこの子は冷静だったし、そして傷ついていた。そのことが陪審員に対して良い印象[#「良い印象」に傍点]になったんだよ。陪審員の中には大学出の人間が一人もいなかった。そのことも幸いしたな。シェルは自分の身分を操作して、自分が大学出のエリートのように見せかけていたから。最初は少し心配したけど――なにせこの子は綺麗だし、さっぱりしているから。陪審貞の中には、実際にずたずたにされて虫の息の被害者でも見ない限り、全ての被告は無罪だと信じるヤツもいるんだ」
だが最終的にこの答弁でバロットが得たものは、野心というただその一語に尽きた。
どこにでもいる、健全な野心を持った男――
社会の階層をのぼりつめるための手段を見つけ、そしてその手段のために、他の何かを切り捨てていったという、ただそれだけのことを、自分がまるでヒーローになったかのように女や他の男たちに見せつけたがっている、つまらない男だ。
はっきり、そう思うことができた。自分が馬鹿だったと思うと同時に、お前は悪い子だ[#「悪い子だ」に傍点]と呪縛する声が、ふいに、すとんと綺麗に消えた感じだった。
屈辱の雨あられの中で、それだけはただ一つ、晴れやかに覗いた晴天の顔だった。
ここで退いては後がなかった。もはや死ぬか生きるかだった。
そのことがわかった。だからこそ冷静でいられた。
なぜ、自分なのか――また一つ、違う答えが見えた気がした。
そしてその答えの向こう側に、バロットの上るべき階段があった。
バロットは、ドクターとともに法廷を後にした。
検事は、喜んでいた。次の法廷は、間違いなく正式な裁判の形式になるだろうと言って、バロットにエールでも送りかねない様子だった。その検事とも別れ、法務局《プロイラーハウス》ビルのエントランスから出てゆこうとする二人に、音もなく近づく男がいた。そばに来るだけで、その影に飲み込まれそうなくらい、がっしりとした体躯の持ち主だった。
「ボイルド――」
ドクターがはっとなって男の名を呼んだ。法廷で、被告側のテーブルに座っていた男。バロットを脅した男だ。ディムズデイル=ボイルド――シェルの委任事件担当者だった。
バロットは、初めて、互いに手を伸ばせば触れ合う距離で、その男と向き合った。
今まで目にしてきたどのような男よりもユーモアや微笑みと無縁な感じがした。ひいでた額の下で、やけに昏《くら》く澄んだ青い瞳が、じっとバロットを見つめた。バロットが身につけている、チョーカーを。
「次回から訴訟手続き記録は、被告側に公開される。俺が動くことになる」
うっそりと、以前、ウフコックが組んでいたというこの男――ボイルドは、言った。何かの事件をきっかけにして、真っ二つに仲間割れしたという男。
バロットは、その男を、真っ向から見返した。
「この俺がすぐに見つける。手を引け」
隠れ家のことに違いなかった。淡々とした声音《こわね》なのに、落雷のような衝撃があった。
バロットの膝が震えた。胃の底から酸っぱいものが込み上げてきた。
男が、バロットの目を見た。まるで今初めてバロットの存在に気づいたというように。
「俺の事件の解決の仕方を、ウフコックからよく聞いておくことだ」
そう言って、背を向けた。滑らかに、ほとんど足音を立てずに歩き去っていった。やがて向こうのほうで、シェル=セプティノスが現れ、男とともに車に乗るのが見えた。
バロットはビルのエントランスに立ち、じっと睨んだ。
二人の男が消えていったほうを。そしてこのビルと、そこにいる全ての人間を。
いまだかつて感じたことのない激しい感情が、恐怖を押しのけようとしていた。
こんなことは初めてだった。気づけば膝の震えが止まっていた。
静かに息を吐いた。まるで青い炎が唇から零《こぼ》れているようだった。
生きるか死ぬかだった。そして全身が、今や一つの道筋を選択していた。
バロットは世界をにらみつけたまま、そっとチョーカーのクリスタルに触れた。
――あなたたちの戦い方を、教えて。
「不思議な光景だった。そして不思議な感情だった……」
シェルが、呟くように言った。変光《カメレオン》サングラスが、鈍い亜鉛の色に輝いている。
「俺には、怖がったり怯えたりした記憶は一つもない。そんなものは全て記憶保存《クラップ》のときに、俺の脳からは消滅している。だが……不思議なんだ」
そこで、運転席のボイルドに顔を向け、
「俺は怖がっている[#「俺は怖がっている」に傍点]」
唇を笑みの形に無理やり吊り上げながら、ぞっとする声で告げた。
ボイルドは応えない。ただ小さくうなずき、黙って運転している。
「これが怖いという感情であることを、俺は理解できる。この状況が、俺を怖がらせていることも、理解可能だ。だが[#「だが」に傍点]、なんで[#「なんで」に傍点]、あの娘なんだ[#「あの娘なんだ」に傍点]……?」
シェルは、フロントガラスの向こうの空に、答えがあるかのように、首を伸ばし、
「今の俺にとっては、見たことも聞いたこともない娘だ。ちっぽけで力のない、小さな女の子……それが、俺は怖い[#「俺は怖い」に傍点]。あの子が生きていると考えるだけで、息がつまるんだ」
本当に苦しそうにネクタイをゆるめ、スコッチの瓶をポケットから取り出した。
「ビジネスはビジネスだ。誰かが犠牲になる必要がある。尊い犠牲は、俺の指で最上級の宝石になって輝き続ける……だが、今度ばかりは驚かされた。俺は心底から怖がってる。この指にあの子が、まだいないことに。なぜだ……? なぜ……?」
呻くように言いながら、震える指で瓶の蓋を開け、激しくあおるや、
「俺は、いったい、なぜ[#「なぜ」に傍点]、あんな子供を殺したんだ[#「あんな子供を殺したんだ」に傍点]……?」
喘ぐように、自問していた。サングラスの奥で、目が血走っていた。スコッチとともに、オクトーバー社が格安で社内販売する多幸剤《ヒロイック・ピル》を大量に飲み込んでいった。
真っ赤に充血した目が、鋭く、傍らのボイルドを見据えた。
「いつ、あの娘が、本当にこの世から消えていなくなるのか、聞かせてもらおう」
「じきに……」
ボイルドは静かに、それだけを言った。微塵も不安を感じさせない動作でハンドルを操り、東の高級住宅地街《セニョリータ》のふもとに向けて、エアカーを滑らせていた。
シェルは、ふと唇を歪ませ、ぞっとするような笑みを浮かべ、
「今日の法廷に来ていた男、お前の元相棒にしては、ずいぶんと、頼りないな」
「あれは、メンテナンスだ」
「なに?」
「つまり……色々と素早く動くが、実際に問題なのは、あいつではないということだ」
「違うのか? ウフコック……なんとかいうのとは?」
シェルがまた唇を歪めた。恐怖の中で、必死に憎悪と殺意を絞り出していた。
「奴は決して自分自身を表には出さない。必ず誰かと組んで動く」
ボイルドは、低く、機械のように冷静に喋った。シェルは、鉛色に光るサングラスの向こうで、まばたきもせずにじっとボイルドを見つめた。
「……しかし、お前は向こうのお手並みは知ってるんだろう? 手口や特技を?」
「それは向こうも同じだ。俺のことは、良く知っている」
「つまり……」
シェルが言い差した。沈黙が流れ、やっと後に続く言葉を吐いた。
「手強い?」
ボイルドは黙ってうなずいた。
「だが、誰と組んでるっていうんだ? 今日見た、あのひょろひょろした男か? あんな男を表に立たせて、自分は裏で何をやってるっていうんだ?」
「もしかすると、あの男ではないかもしれない」
「どういうことだ?」
「それを確かめる。そのために人を使う。今夜から――あんたの知らないところで」
「隠し金庫の金は、自由に使って良い。自由にやってくれ。徹底的に、容赦なく」
「ああ」
「俺は……恐ろしい。ショーでは何十万ドル賭けても、まるで怖いと思ったことはないんだ。どんな仕事にも恐怖を感じたことなんかないはずだ。それなのに……」
ふいに、かたかたとシェルの手足が震えだし、凍えるかのように歯が鳴っていた。
シェルは真実、怯《ふる》えていた。本人さえ、にわかにはそうと気づかない、奥深いところで。そこで、様々なものに、怯えきっていた。
「フラッシュバック――」
ぼそっと、シェルがその言葉を吐いた。その直後で、強く、かぶりを振っていた。
「馬鹿な。俺にそんなものがあるはずがない。過去など、俺には……」
語尾が消え、くぐもった呻き声のようになり、そして、常に自分の脳を部分的に白紙に戻してきたこの男は、運転席に身を乗り出すようにして、
「で――どうなんだ? お前は、たとえば、どんな人間を使うんだ?」
狂犬病の犬が、よだれを垂れ流し、牙を剥《む》くようにして訊いていた。
「金で動くと同時に、ターゲットに対して、嗜好を求めるタイプの人間を使う」
ボイルドの声は、あくまで低く、冷静だった。
「人間を物体として切り刻んで、そのまま部屋に飾るのが好きなタイプのことだ」
シェルは、その言葉の意味をゆっくりと理解したようだった。
サングラスの奥でまばたきもせずに目を細め、そしてだんだんと見開いていった。
「そりゃあ、良い」
そう言って笑みを浮かべた。目を剥き、顔中を歪ませた、凄惨な笑みだった。
「そいつは最高だ。その間に、俺は取り引きを進めよう。俺の、俺のための、でかい取り引きを。そいつで階段を駆け上がるんだ。|天国への階段《マルドゥック》を。過去など届かないくらいに、高みへ、高い場所へ、駆け上ってやる……過去なんて消えるくらいにな」
シェルは、まるで魘《うな》されるように、呟き続けていた。
シェルをマンションまで送った後、ボイルドはハンドルを転じた。
リバーサイドへ向かい、その途中、ショッピング・モールの駐車場で、車を換えた。
エアカーからガソリン車へ。あらかじめそこに置きっぱなしにしていた車だった。
車を走らせる前に、トランクを開いた。アタッシェケースが二つ入っていた。
一つ一つ開けて中身を確認した。それから車に乗り込んで、まっすぐ港に向かった。
港湾のチェック・ゲートを通ったときには、夕日を受けて海が緋色に染まっていた。
ゲートハウスで、ボイルドは事件担当官のライセンス・カードを渡した。
警備の若い男がカードを機械に入れ、事件担当期間中における諸権利の発生を確かめ、口笛でも吹くように言った。
「港で事件が?」
ボイルドは、返されたカードを受け取りながら、静かに首を振った。
「大きな事件ではない」
若い警備員は、わくわくしたような素振りでゲートを開いた。
「何かあったら呼んで下さい。毎日、射撃場でトレーニングしてるんです」
「銃は必要ない」
あっさりボイルドが断ると、若い警備員はかえって感じ入ったようにうなずいた。
「イメージぴったり」
車を港湾に入れると、巨大なプラントが四方に並んでいた。色とりどりのコンボイが、蟹の化け物みたいなクレーンに荷を剥《は》ぎ取られ、骨だけのような姿で陸路を帰ってゆく。
ボイルドは、トレーラーが並んでいる駐車場に車を停め、トランクからアタッシェケースを出し、両手に持って船場へ歩いていった。すぐに目的のクレーンを見つけた。
『バンダースナッチ畜産輸出入』
そういう看板が、クレーンのコントロールハウスに大きくかけられていた。
ボイルドはクレーンを見上げ、操縦室の人間に目をあてた。それから、おもむろに業務用TVフォンに近寄り、アタッシェケースを手に持ったまま呼び出しボタンを押した。
〈あんだい?〉
朴訥《ぼくとつ》そうな声が返ってきた。それから映像がきた。作業着姿の男だった。
ドレッドにした髪の下に、分厚い顔があった。肌は、蠍《さそり》のように褐色だった。
「カンパニーはどこだ?」
〈どこのカンパニーだか言ってくんな〉
男は、操縦室の中で窮屈そうに身をよじってフォンに耳を寄せている。
「報酬だ。畜産業の輸出入をやっているという、カンパニーに」
ボイルドが告げると、フォンの向こうからけたたましい笑い声が返ってきた。
〈あんた、名前は?〉
「ディムズデイル=ボイルド」
〈ボスから聞いてるよ。ウチがそうさ。畜産の輸出業者[#「畜産の輸出業者」に傍点]だ。ちょっと待ってな、今すぐ用意してやるよ。その柵に入ってな。そう、その白線の内側に入って〉
ボイルドは言う通りにした。間もなく頭上から巨大なコンテナが降りてきた。一軒家が丸ごと入りそうな長方形の箱だ。大雑把なようで、見事な操作だった。
コンテナの側面のドアが、ちょうどボイルドの前にあった。
電子ロックがひとりでに解除され、ドアが横滑りに開いた。
ボイルドはコンテナの中に入ると、その背で、ドアがまた自動的に閉じられた。
中は暗かったが、すぐに明かりがついた。青白い蛍光灯の明るみの中で、空間が幾つかの仕切り板に区切られ、書類棚があり、ソファが置かれ、デスクの上でディスプレイがまたたいている。まるでどこかのオフィスのようだった。
ふと、仕切り板の向こうから、やけに甲高い、くすくす笑いが聞こえた。
「トレーラーの中身がこんなで驚いた? ようこそ、あたしたち[#「あたしたち」に傍点]のオフィスへ」
声だけ聞くと、少女のものだった。だが仕切り板の向こうから現れたのは、明らかに三十代後半の小男だ。声帯を改造しているらしい。背が低く、髪は長い。髪は部分的にブロンドだったり赤毛だったりと、でたらめな色で、ワンレングスで垂らしていた。
ボイルドはその小男を一瞥し、また辺りに目を走らせた。
「動いているな」
ゆっくりと上昇する感覚があった。コンテナ全体が、再び持ち上げられていた。
「心配しないで。ミンティー坊やはコンテナ運びのベテランよ」
「操縦室にいた男の操作か」
「そう。ミンチ・ザ・ウィンク。もともと爆撃ヘリのパイロットなの。連邦軍の名パイロットとして大陸に火の雨を降らせた、筋肉隆々の死の天使よ」
「どこへ連れていく気だ」
「あたしたちの船に乗せるだけよ。そこがホームベースってわけ」
ボイルドは、それ以上は何も訊かなかった。手にしたアタッシェケースを降ろそうともせず、ただ黙って小男と向かい合っていた。
「|良い男《ナイス・ガイ》だわ、ボイルドさん。ミンティー坊やもタフだけど、あなたも相当みたい」
小男が、うっとりしたように言った。
「あたし、レア・ザ・ヘア。それがカンパニーでの、あたしの登録商標よ」
見せつけるように、髪をかきあげた。色とりどりの髪が、さらさらと水のように指の隙間から流れ落ちていくのが見えた。
「すてきな髪《ヘア》でしょ」
そう言って小首を傾げてみせるレアの三十過ぎの男の顔は、異様にすべらかな肌をしていた。白く、つるつるしていて、よく見ると、あちこちで肌の質が違った。
つぎはぎ[#「つぎはぎ」に傍点]こそ見えないが、最新技術で製造されたフランケンシュタインの怪物だった。
ボイルドはなんの感慨もわかない顔で、レアの奇矯な様子を眺め続けた。
「もうすぐ着くわ。それまで、あなたの可愛いポーカーフェイスでも眺めてようっと」
レアが、澄んだ少女の声で言った。巨大な箱が、ゆっくりと下降していた。ほとんど揺れもなく、すぐにより大きなものの上に載せられたのがわかった。
「あら、着いちゃった。残念。もっと見ていたかったのに」
ドアが開き、また別の男が入ってきた。金髪碧眼の、いかにも実業家風の男だった。
「すみませんね。手の込んだことをさせてしまって。どうぞ、掛けて下さい」
「あたし、この人の隣に座ろうかな。良いでしょ、ミディ?」
男が、犬でも追い払うように、レアに向かって手を振って退かせた。
レアはけたけた笑って、ソファの周囲で子供みたいにはしゃぎ回っている。
「ようこそ、ミスター・ボイルド。お互いの稼業柄、握手はよしておきましょうか」
ボイルドと向かい合ってソファに座りながら、その手をひらひらさせてみせた。やけに整った指だった。一本一本が整っており、爪やすりで磨き抜かれた、ぴかぴかな爪に、薄いブルーのマニキュアをしていた。だが全体的にみると、やけにちぐはぐな指だった。
「ミディアム・ザ・フィンガーネイルというのが、この稼業での私の通り名です。愛称ですよ。大学生が、インターネットで遊び相手を探すときのようなね」
「報酬の前に、結果を確認する」
ボイルドが言った。両手はアタッシェケースにさりげなく置かれている。
ミディアムは冗談めかした物言いをぴたりとやめ、するりとそのネクタイを解き、ワイシャツのボタンを一つ一つ外していった。
きゃっ、とレアが、ボイルドの斜め後ろで、照れたように両手で顔を覆った。
もじもじした仕草で指の間から目をのぞかせ、逞しいミディアムの胸元を見た。
ボイルドも無表情にそれを見た。ミディアムの胸を飾るペンダントを。ミディアムはそれを外し、テーブルの上に置いた。一つ一つ、飾り[#「飾り」に傍点]が重ならないように。
「まだ、生きていますよ」
ミディアムが言った。
「根本の金属筒が、体液の交換装置になっていて、ちゃんと代謝もします。そのまま飾りにしても良い。ちゃんと爪も伸びるし[#「爪も伸びるし」に傍点]、垢も出る[#「垢も出る」に傍点]」
「何人分だ?」
「五人分の、|右手の親指《アンクル・トム》ですよ。指紋照合してもらえば、ぴったり合うはずです。脳外科医五名――男性三名、女性二名のね。注文通りでしょう?」
ミディアムが愛想良く笑った。商談の公平さを自慢する、不正貿易業者みたいに。
「医師の指というのは希少価値が高くてね。私も、一本、いただきました。ほら、この左手の小指がそうです。二人いた女性医師の、一方のね。実に美しい」
「指だけか?」
ボイルドがうっそりと尋ねた。ミディアムは笑って首を振った。
そのとき、クレーンを操縦していた男が、コンテナの中に入ってきた。
「ミディ、荷造り終わったよ。向かいの馬鹿船舶が、またコンテナにぶつけて傷をつけやがったんで、ついでに損害賠償請求書を送っておいた」
ぬっとソファの脇に立った。上背も横幅も、ボイルドよりひと回りは大きかった。
「ご苦労、ミンチ。こちらがミスター・ボイルドだ」
「さっき会ったよね。俺の運転[#「運転」に傍点]、悪くなかっただろ?」
「ミンチ、レア、お前らの分け前を、彼に見せて差し上げろ」
「あら、あたしのも?」
「あんた、俺たちの趣味《コレクション》に、興味あるの?」
ボイルドは、静かに彼らを眺めやり、言った。
「確認のためだ」
「あの医師たちのよね。ちょっと待ってて、すぐ持ってくるわ」
レアが飛び跳ねるようにミンチの脇をすり抜けていった。
ミンチはぼんやり立ったまま、作業着のジッパーを下ろした。
「ケイリーと、リンダだよ。女の子は、やっぱり心臓《ハート》の近くが良いよね。右腕のこいつが、ダニエル。あと、左腕のこいつらが、レイクとスティーブ。こいつら仲が良さそうだったから、並べて植えてやったんだ。ほら、見つめ合ってるでしょ[#「見つめ合ってるでしょ」に傍点]」
言葉通り、左腕の二対の眼[#「左腕の二対の眼」に傍点]は、瞬きしながら、互いに目を向け合っているようだった。
「医者の目って冷たいと思ってたけど、案外、ロマンチックだよね。特にリンダのやつ、この腹のところの、リュックっていう大物弁護士のことが気になるらしいんだ」
「筋肉繊維の移植の具合で、そうなってるだけさ、ミンチィー坊や」
「ミディは夢がないんだよ。ほら、みんな、ミスター・ボイルドを紹介するよ」
ミンチが全身の筋肉にぎゅっと力を入れた。腹や胸のそこら中でまばたきする目たちが、驚いたように大きく目蓋を見開き、一斉にボイルドを向いた。
ボイルドは冷厳といっていいほどの無表情さでそれらの目を眺めやった。きちんと対に揃えられた二つずつの目には、ちゃんと目蓋があり、睡毛があり、そして涙腺がある。
幾つかの目が赤く腫れて、まるでここから出してくれと泣いているようにも見えた。
「お待たせ。あら、やだ! ミンチィー坊やったら、はしたないわ!」
レアが戻ってきて、ミンチの半裸姿に顔を赤らめた。
「はい、あたしのよ。五人分」
そう言って、ガラス板の間で綺麗に折り畳まれて溶液に漬けられた皮膚と髪を見せた。
「あんまり気に入ったのはなかったわ。やっぱり生活が不規則なのがいけないのよね」
ボイルドはそれにとりあわず、ミディアムを向いた。
「パーツの中で、遺棄したものは?」
「大陸では、捕った鯨のパーツは全て使い尽くすんですよ。それこそ、皮から骨から、何にも残らない。もし捨てるとしたら、鯨がいなくなった後の、虚無《プージジャム》だけです」
「用途は?」
「肉類は、移植用か、研究用か、観賞用か――食用」
ミディアムが言うと、レアが、くすくす笑った。
「人間の肉だと思って食べると、感じちゃう[#「感じちゃう」に傍点]人たちに売るのよ」
ミディアムが、レアに黙ってるよう、指さした。誰のものとも知れぬ人差し指で。
「骨は、骨髄移植や学究目的に高く売れます。内臓は全て予約済み。盲腸なんかもね」
「お前たちが、個人目的で入手したのは?」
「彼らのパーツも、報酬のうちに入っている約束でしょう?」
「確認のためだ」
「大丈夫。要するに、彼ら[#「彼ら」に傍点]は失踪したんです。いなくなったんですよ。血の一滴だって残しちゃいない。戦争のお陰で、移植技術は飛躍的に進歩してるんです。使い残しなんてまるでありゃしない。|めでたし、めでたし《ビバビバ》ってわけです」
「医師が管理していたデータは?」
「滞りなく。我々の情報部へご案内します。どうぞ、こちらへ」
ボイルドはミディアムに従って立ち上がった。手にアタッシェケースを持ち、ミディアムに連れられ、コンテナの奥へと入っていった。
「あの背中、あんたとはまた違う逞しさだわ。しかも男のくせに、素敵な肌」
ボイルドについて、レアがそんなふうにひそひそミンチに向かって囁いていた。
巨大なコンテナだった。主に船舶用のもので、陸路では大きすぎるので複数のコンテナに分けるためのつなぎ目があった。そのつなぎ目の一つに設置されたドアの電子ロックをミディアムが解除し、壁の向こうへと入っていった。
「どうぞ。我らがカンパニーの、情報中枢です。メンバーの一人がデータ管理専門でしてね。戦争では、優秀な通信兵でした。――おい、フレッシュ! お客さんだぞ!」
中にはいると、所狭しと情報機器が置かれてあった。その機材と機材の隙間を縫うようにして歩くと、やがて機械に囲まれた場所でぶよぶよ動くものがこちらを向いた。
「やあ」
優しげな目と声音だった。目は黒く、大きくて濡れていた。
髪はなく、真っ白い肉の塊の真ん中に、少年の顔があるような感じだった。
「あんたのこと、港に入ったときから見てたよ。港湾のカメラで。ああ、きっとこの人だろうなって思った。そういう人だな、これはって」
少しかすれたような声で肉の塊が言った。知的な少年といった感じの口調だった。
「そうさ、フレッシュ。この方がミスター・アイアンマンこと、ボイルド氏だ。俺たちの大事なクライアント様に、粗相のないようにな」
「よろしく。僕は、フレッシュ・ザ・パイク。ここの情報担当です」
自分で自分を指さしながらそう言った。生白い、赤ん坊の手に空気を入れて膨らませたような右手だった。ボイルドは黙ってその手を見つめ、そしてフレッシュを見た。
フレッシュはガウンのようなものを着ていたが、およそ服には見えなかった。巨大な肉塊を覆うシーツだった。恐ろしいほどの脂肪量だったが、肥満というのでもない。
ガウンが異様な形状に膨らんでいた。椅子に座っているのかそのまま床に尻をつけているのかさえ外見からはわからない。もしかすると立っているのかもしれなかった。
ボイルドはアタッシェケースを置いて、一歩だけフレッシュに近づいた。幾つものディスプレイの、全てに目が届く位置に立ち、言った。
「データを見せてくれ。五人の医師が共同で行っていた、脳治療のレポートだ」
「待っててね」
ぷるぷると全身がガウンの下で震えた。その分厚い手で、器用に、首の脊椎に埋め込まれた端子を抜き差しし、モニターを見つめた。電子信号を、直接、脳の神経組織の形成に影響させるタイプではなく、あくまで、脳からの出力系らしかった。
「ちょっと時間がかかるよ。大学病院のデータを改竄しながら、こちらに送ってるから。その間、ヒマつぶしが欲しい?」
ボイルドは、イエスともノーとも言わない。
だが、フレッシュはとろんとした眠たげな目でボイルドを見つめ、言った。
「彼なら触らせてあげても良いな。この人は僕らの趣味を知ってるんでしょ、ミディ」
「俺と――レア、そしてミンチはみな見せたが、ミスター・アイアンマンは俺たちを嫌ったりはしなかったよ」
「きっとそうだろうね」
フレッシュはにっこりとした。それから分厚い指でいじくって、ガウンをはだけてみせた。ゆっくりと、さりげなく。
「少しぐらいなら、良いよ。僕のコレクションに触らせてあげる」
かすれた声でそう育って、全身の脂肪を震わせてみせた。真っ白い肉の山が対になってゆさゆさ揺れた。明らかに女性の乳房だった。それも無数にあった。
全身――特に胸から腹にかけて、葡萄の房のように乳房が折り重なって密集していた。
ガウンの下は何も着ていなかった。だが肉の塊のせいで、本来の体がどうなっているのか、まるでわからない。かろうじて足首が宙でぶらぶら垂れているのが見え、どうやら安楽イスに乗っているらしい。乳房は脚の外側にも内側にもついていた。
「興味がない。データを渡してくれ」
ボイルドは静かに言った。フレッシュは、くすりと笑ってガウンを元に戻し、うんうんと訳知り顔でうなずいてみせ、ミディをちらりと見た。
「僕、はっきり自分の趣味を言う入って、好きだな。僕らみんな、趣旨が違うからね」
「フレッシー、こちらはミスター・アイアンマンなんだ。お前みたいなマザーコンプレックスとは、縁がないんだよ。俺みたいに、よりフェティッシュなのさ」
「そうだね」
かちかちと音を立てて、フレッシュの脊椎に差し込まれていた端子が光った。
フレッシュの目が、周囲のディスプレイをざっと見渡した。フレッシュの乳房のように、ディスプレイもまた無数にあって、乱数表に震えていた。
「オーケー。完了したよ」
ディスプレイの一つにフレッシュが手を伸ばした。書き込み専用の機材から、音を立ててディスクが飛び出し、フレッシュの分厚い指につかまれた。
「はい、どうぞ。このデータは、この世で、もうこのディスクにしか入ってません」
ボイルドはディスクを受け取り、それを眺めるようにしてかざし、握りしめた。ディスクが粉々に砕けて、プラスチックと磁気の断片になるまで握りつづけた。
シェルの、脳の中にあったもののデータ――それが今、全て虚無と化したのだった。
その握り拳をダストボックスの上で開いた。ばらばらと破片が落ち込んでいった。
「あとには、虚無を残すだけ」
ミディアムが言った。ボイルドはちらりとミディアムを見た。それから、この港に入ってから初めて、うなずいていた。
フレッシュの部屋を出ると、ミディアムが気の利いたジョークを告げるような顔で、
「そろそろ、その鞄を持っているのにも疲れたんじゃないですか? なんなら私が、その仕事を受け継ぎますが……」
「メンバーは五人だと聞いている。直接、お前たちのボスに渡させてもらう。コンテナの外見を見た限り、まだ幾つも部屋があるはずだ。どこだ?」
「ボスは今、席を外して……」
「あと一人、このコンテナ内にいるはずだ。さっきの情報機器の一つに、このコンテナの重量変化記録があった。コンテナ内部で、誰か俺の見ていない人間が動いていた」
「ボスは……別に、隠すことはないんですがね。コレクションの品定め中なんですよ」
ミディアムは観念したように肩をすくめ、もう一方の壁へと歩いていった。
「通信機器を頭部に埋め込んでいるのか」
ボイルドが訊くと、ミディアムはぎょっとしたようにボイルドを振り返った。
「その目も、機械化しているな。五人の間で、常に情報をやり取りしているのか」
「……それが、我々のビジネスのやり方でしてね」
そう返しながら、壁のインターフォンの呼び出しボタンを押した。
〈入ってもらえ〉
すぐに返答が来た。ふくんだような笑いがあった。明らかにボイルドとミディアムのやり取りを知った笑いだった。
壁の一部が横滑りに動き、部屋への入り口をあらわにした。
部屋の中で、男が、背を向けたまま、ゆったりと革椅子に座っている。
「群の能力を見抜く男は、本物の猟犬だ」
そう言いながら、立ち上がって、にっと微笑んだ。白い歯が浅黒い肌によく似合った。シェルと同じ人種だったが、非人間的なほどの生気を放っていた。ぴんと背筋を伸ばし、髪は短く、こめかみに刺青があった。この人種独特の、甘ささえ感じさせるマスクに、そこだけ異様に鋭い目が、ボイルドを見つめていた。
「群のボスをいち早く確認したがるのも、猟犬としての素質にかなっている。バンダースナッチ・カンパニーも、良い仕事相手を見つけた」
そう言いながら、壁や床に向かって左手を振った。その手にだけ、黒い革の手袋をしていた。金の鎖が手の甲の部分についており、手の動きにつれてちゃらちゃらと鳴った。
どこか革下着《ボンデージ》を思わせる手袋だった。小指と薬指は手袋に覆われていたが、残りの指はむき出しだった。どうやら自前の指らしい。その指を、ぱちり、ぱちりと鳴らした。
その動作に応じて、テーブルがせり上がり、ソファが現れ、カクテルバーが開かれた。
それまでは何もなかった部屋が、貿易商そのものの応接室に様変わりしていた。
「座りたまえ」
ボイルドはそれに従った。男が向かい合って座り、ミディアムはカクテルバーのほうへ歩いていって、グラスを揃え始めた。
「俺は、ウェルダン。仲間からはウェルと呼ばれている。もちろん異名だ。みんな異名が好きでね。地下世界《アンダーグラウンド》で楽しくやるコツもそこにある。自分に異名をつけることで、気の合う仲間を招きやすくなる」
ウェルダンは手袋をしている手と、していない手を合わせ、にこりと微笑んでみせた。
「俺の異名は、ウェルダン・ザ・プッシーハンド」
「確認していないパーツが一カ所だけあった。お前たちの中では、どうしている?」
ボイルドが呟くように訊いた。ウェルダンは微笑したまま、ぱちりと指を鳴らし、
「ミディ、辛み《キック》の効いたマティーニを二つだ」
それから、ボイルドに、手袋をしたほうの手のひらを向けてみせた。
「俺が全て、個人目的で収集している。男のも、女のもだ。ただし売ることもある。俺は滅多に自分の体にコレクションを移植しない。なぜなら、俺は常に、オンリー・ワンの逸品しか求めていないからだ」
手袋には銀色のジッパーがついており、それをゆっくりと引き下ろしていった。
ボイルドは、変わらぬ無表情さでそれを見た。
ジッパーの奥で、手のひらを縦に裂くようにして、陰裂《ヴァギナ》がかすかに開いていた。ピンク色で、毛は移植していないようだった。つるつるしたひだを、右手の指でつつくようにして開いていった。ジッパーのように。包皮越しに陰核《クリトリス》の形が見えた。赤いひだをさらに指でくすぐるようにすると、ぬめりでてらてら光っていた。
「腕の筋肉の隙間に、ちゃんと膣腔も移植してある。尿腺は残念ながらただの飾りだ。持ち主は秘密だが何もかも最高級の逸品だ。俺は彼女のために世界中を駆けめぐってチャンスを手に入れ、移植の技術を手に入れ、そしてこうしてオンリーワンを手に入れた」
にっと笑んだ。獣の生臭い息がしそうな、鋭く、獰猛な笑みだった。
「狭さと敏感さが自慢の、俺の|可愛い子猫《プッシーキャット》さ」
ウェルダンは再びジッパーを閉ざすと、ミディからカクテルグラスを受け取り、ボイルドにもすすめた。ボイルドも手に取り、ウェルダンを見やった。
「俺たちのような稼業は、握手をしない。ただ、グラスを合わせ、相手の毒を飲む」
言葉通りボイルドとグラスを打ち合わせ、一息で呑み、グラスをテーブルに置いた。
「あんたとは、これを機会に、優先的に仕事を請け負おう」
ボイルドも静かに飲み干した。それから、一方のケースをテーブルの上に置いた。
「報酬だ」
ミディアムが素早くそれを手に取り、テーブルから一歩下がった。
ケースの中身を確認したミディアムが、ちらりとウェルダンの背に目を向けた。
ウェルダンは、背後を振り返りもせず、うなずいた。ミディアムやウェルダンだけでなく、他のメンバー同士で、頭部に埋め込まれた通信機器を通して無言の会話が交わされていた。そのことを、ウェルダンがこんなふうに言った。
「俺たちは、互いに互いの目であり、耳であり、武器である。それが俺たちの強みだ」
ボイルドはもう一方のケースをテーブルに置き、自分で開いた。
「次の標的の、資料と前金だ」
ウェルダンは、まるで犬が匂いを嗅ぐように身を乗り出し、ケースの中身を見た。
「人数は?」
「一人――ただし、委任事件担当官二名と、民間の警備機構が邪魔に入る」
「それで、これっぽっちの額というのは?」
「お前たちの格好の標的だからだ。標的の肉体は好きにしろ」
ウェルダンは、きな臭いものでも嗅いだように、ケースからディスクをつまみ上げた。
「……これは?」
「標的が出演しているビデオだ」
ウェルダンがじっとボイルドを見た。ミディアムが脇に立ってディスクを受け取った。
「この場で、標的を確認する。メンバー全員で」
ぱちりと指を鳴らした。今度はまた別の壁が開き、テレビモニターが現れた。
ミディアムがディスクをセットしている間に、レアとミンチが部屋に入ってきて、ソファに座った。フレッシュはどうやら自室のモニター上で、同じ画像を見るらしい。
みな、何も言わなかった。新たな標的に対する期待が、表情に現れていた。
やがてビデオが始まった。あら[#「あら」に傍点]の目立つ安っぽい画像だった。内容もとても見れたものではなかったが、少女が出てきた途端に、みな釘付けになった。
じっと画像の中の少女が死んだように弄《もてあそ》ばれる様子を見つめ、たちまち、むっとするような、異様な気配が部屋に充満した。
「良いぞ。あの指だ」
ビデオの最初のからみ[#「からみ」に傍点]が終わった後で、ミディアムが声に出して言った。
「初々しい。それでいてしなやかだ。右の小指にもっと長いのが欲しかったんだ」
レアが甲高い嬌声を上げた。
「素敵な髪よ。肌もすごくよさそう。欲しいわ。すごく欲しいわ」
「腕に、あの目が欲しいな。切れ上がった澄んだ瞳だ。天使みたいだ」
ミンチが言った。息が荒かった。
「毎朝、目が覚めたら、あの目におはようを言うんだ。それから目蓋にキスするのさ」
〈可愛いよね〉
ふいにどこかのスピーカーから、フレッシュの声がした。
〈素敵なバストをしてる。股《もも》の両側に、あれがあると良いだろうなあ。毎日少しずつ、ホルモンを注射してあげるんだ。僕のを挟めるぐらいに〉
「ふむ……」
ウェルダンが、メンバーを見渡しながら、二度目のからみが始まると、自分もまた画面に食い入るように見入った。
「これは……もっとアップで見せてくれ。そう、その位置で。良いぞ。あとは中身だ。それ次第で、右手にふさわしい|可愛い子猫《プッシーキャット》かもしれない。なにせ左手の|レズ相手《シスター》が長いこと見つからないでいるのが俺の悩みだったんだ。これは……なるほど、なるほど」
そんなふうに、みなで口々に評し合った。標的を褒め称え、具体的にどうしたいのかを言い合った。みなとても興奮していた。と、ウェルダンが、ボイルドのほうを向いた。
「このビデオが撮られたのは?」
「半年ほど前だ」
「現在の彼女の資料は?」
「法廷でのビデオと、写真がある」
ウェルダンはプリントされた写真の束をケースから取り出し、みなに配った。
「素晴らしい! それで――? あんたは、何が欲しいんだ?」
ボイルドは答えず、ウェルダンを静かに見返した。
「この標的が本命だったんだろう? 五人の医者どもで俺たちを試し、これが本番ってわけだ。それで、あんたは彼女の何を欲しがってるんだ?」
「何も。その標的は、完全に消滅させる。命が消えたあとの、虚無をくれれば良い」
それを聞いたウェルダンの顔が、みるみる笑みで一杯になっていった。
「究極のフェティシストだ。俺たちは、最高の仕事相手と巡り会ったようだ」
「期限は三日だ。それ以上は待てない。期限を過ぎるようなら、その場で契約を切る」
「心配ない。俺たち誘拐犬《バンダースナッチ》は、選りすぐりの猟犬の群《カンパニー》だ」
ウェルダンは意欲の塊のようなまなざしでボイルドを見つめた。
ボイルドは立ち上がった。
船を降りると、ボイルドは振り返りもせずに駐車場へ歩いていった。
ゲートを出ると、剃刀《かみそり》のように尖った三日月がゲートハウスの上で青く光っていた。
「おつかれさまです」
入ってきたときと同じ若い警備員が、再びボイルドのカードをチェックし、言った。
「事件解決に向けて、頑張って下さい」
ボイルドは、うっそりとうなずいた。そして車をイーストサイドへと向かわせた。
「実に不愉快だ」
ウフコックが指を突き出し、珍しく激しい口調で喚《わめ》いた。
「こればかりはノーだ。わかった? バロット?」
――怒らないで。ごめんなさい。もう二度と尻尾をつまんで持ち上げたりしないから。
「言葉にされることさえ嫌なんだ! なんというか、俺の人格を否定されたような気になる。今後、俺の尻尾についてはあらゆる面でほうっておいてくれ」
――ごめんなさい。そうする。だからそんなに怒らないで。
ウフコックはバロットに向けていた指を降ろし、どっかと腰を下ろした。バロットの手のひらの上だった。バロットのもう一方の手は、胸元でバスタオルを押さえている。
「わかればよろしい」
――そんなに怒ると思わなかった。
「俺も、なぜ自分がこうまで怒るのか、わからない」
――まだ怒ってる。
「大丈夫だ。これ以上、君に怒りをぶつけたりはしないから」
――ズボンの中に隠せば良いのに。どうして、わざわざ穴を空けて尻尾を出してるの?
「ほうっておいてくれって、言ったじゃないか」
――怒りをぶつけないって、言ったじゃない。
「説明義務《アカウント》ってわけか? 良いだろう。俺がなぜ、インプットされている八万種類のズボンの形状《デザイン》の中から最高に気に入っているズボンに穴を空《あ》けているかといえば――」
ウフコックはいったん言葉を切り、我慢ならないというように両手を広げて、
「ドクターのヤツが、ズボンのお尻が膨らんでるぞ[#「ズボンのお尻が膨らんでるぞ」に傍点]、大きいほうでも漏らしたのかい[#「大きいほうでも漏らしたのかい」に傍点]、などとぬかしたからだ! 俺の自慢の尻尾を、なんて言いぐさだ!」
さすがのバロットも、ぷっと吹き出した。
「笑わないでくれ、頼むから」
ウフコックが情けない顔で言った。それで余計に笑いが込み上げてきた。片方の手で腹を抱えながら、笑いすぎてバスルームの床に膝をついてしまった。
「俺のズボンのことなんかよりも君は自分の衣服の心配をすべきだ。俺と違って、大した体毛も持ってないくせに。いつまでもバスタオル一枚だと、風邪をひくぞ」
バロットは、込み上げてくる笑いに、細やかな肩を震わせながらうなずいている。
「それに、ドクターが待ってるぞ」
――私のほうも、ちょっと待って。苦しい。お腹痛い。
「まだ笑ってるのか? いいさ、君のメンタルケアに一役立てて光栄だ」
――拗《す》ねないで。
「拗ねちゃいない」
――ごめんなさい。
バロットは目尻にたまった涙を拭うと、手に乗せたままのウフコックの尾にキスした。
「それが和解の指示かい? いいさ、示談といこう。君の健康の危機に留意して、今すぐ共同で君の衣服を整える行為に移ろう」
――ありがとう。
バロットは立ち上がって、体からバスタオルを落とした。
両手で捧げ持ったウフコックに念じるように、干渉し――操作《スナーク》した。
ウフコックがぐにゃりと変身《ターン》し、溶けるように、バロットの手から全身へと広がった。
瞬く間だった。一糸まとわぬバロットの首から下を、寸分余さずウフコックが覆った。
手の指から、脚のつま先まで、黒いボディスーツにぴったり包まれた。
両方の手のひらがくっついているのは、一度に二つのものには変形できないせいだった。バロットが軽く力を込めて手のひらをひっぺがした。それから、ボディスーツの心地よいタイトさとしなやかさとを楽しみながら、バスルームの鏡をのぞき込んだ。
ちょっと、がっかりした。
――あんまり、可愛くない。
「耐熱耐寒、耐圧耐衝撃――加えて、君の電子的な干渉能力を増強する。ちなみに、背中にジッパーがあるから、俺が外に出たとき[#「俺が外に出たとき」に傍点]は、それで脱いでくれ」
――もっと他にデザインは?
「君の意志で自由に変えられるが――衣装に凝《こ》るのは、後にしよう」
――自分のズボンにはこだわるくせに。
バロットはそう返しながらも、ブーツを履いた。
自分の部屋を出て、エレベーターに向かった。もともと死体置き場だったこの大きな建物は、実際ほとんどが死体安置室で、人間が居住するのはわずかな部分に過ぎなかった。
バロットは搬入用[#「搬入用」に傍点]のエレベーターから地下に向かい、地下駐車場で降りると、数台のガソリン車が置いてあるのが見えた。赤いオープンカーもそこにあった。
――あれって、メイド・バイ・ウフコックの車?
「ナンバープレートとガソリン、それから幾つかの登録パーツ以外はね。一台作るのに一カ月ほどかかった。どれもこだわりのデザインだ」
――|凝り性《アーティスト》なら、私の服にもこだわってくれても良いのに。
「うむ……まあ、今は訓練を優先させよう」
左右に車が並んでいる広い空間に出ると、一方の壁際で、ドクターが複雑な機器を積み上げていた。バロットがやってくると、にこやかに振り返って機器を叩いてみせた。
「すごいだろう。君の生命保全プログラムで申請した費用を使って、一級の検査器具を揃えて僕が調整したんだ。大リーグのトレーニング・マシンだって目じゃないね」
バロットはスーツの喉元に干渉して、クリスタル型の音声器を作り出しながら、
〈|凝り性《アーティスト》ばっかり》
ちょっと呆れたように機器を見回した。
「芸術的気質《アーティスティック》は人生を楽しむために不可欠さ。自閉癖《アルティスティック》の危険さえ回避できればね」
ドクターはよほど機械がいじれたのが嬉しいようだった。
「その服はウフコックかい?」
「そうだ、ドクター。バロットに、芸術性が足りないと怒られた」
ドクターは、さもあらんというようにうなずいてみせた。
「彼女に勉強させてもらえよ。さ、バロット、こいつを付けるが良いかい?」
ドクターが見せたのは、丸いシールだった。バロットがうなずくと、ドクターがスーツの上からバロットの肘や膝、背中などにぺたぺたと貼り付けていった。
〈それはなに?〉
「君のバイオリズムをマシンに叩き込むためのものさ。〇・一ミリ以下で君の動作が把握される。そいつを付けたまま、適当に体をほぐしてくれ。ストレッチを」
自分はパイプ・チェアに座り込んで、膝にノート型のディスプレイとキーボードを開いている。ディスプレイの後ろには色とりどりのコードが伸びて、ごちゃごちゃ積み上がった機械につながっていた。
バロットは言われた通りに体を動かした。準備運動を。体をしなわせながら、スーツのあちこちに干渉した。幾つか模様が入り、デザインを整え、色を入れた。満足はいかなかったが、それなりに格好が付いたように思えた。
「ずいぶん柔らかいんだな」
ウフコックが誉めた。バロットが脚を左右に開いていって、ぺたりと床にお尻をつけたことを言っていた。バロットはにこっと笑って、その姿勢を保ったまま上半身を倒し、胸を床につけてみせた。そこからさらに両腕を開き、左右のつま先に手をあてた。
「俺にはできない芸当だ。何かスポーツを?」
――体を動かすのが好きなの。これ[#「これ」に傍点]は自分のものなんだって気持ちになれるから。
音声器に干渉せず、直接、ウフコックに告げた。
「俺は二十メートル走で一分が切れなくてドクターに運動不足だと言われてしまった」
バロットはくすくす笑って立ち上がった。
〈もっと動かしたほうが良い?〉
ドクターはせわしげにキーを叩きながら、首を振った。
「オーケーだ。じゃ、そのボードの上に立って。そう、その機材の前にあるやつ」
バロットは言われた通りに、銀色の板の上に乗った。それにもコードが幾つもつながっている。何かと思ったら、体重計だった。ボードの一端に設置されたディスプレイが数字をはじき出し、コンマ以下の数字がぱっぱっと明滅した。
その他にも、幾つもの数字が並んで明滅しているのが見えた。
バロットはちょっと渋い顔で、ドクターに向かって眉をひそめてみせた。
「空港の荷物検査に使われる重量計を、バイオリズム指標用に改造したんだ。ミリグラム単位で計測できるし、君の血流状態から体脂肪率まで把握される」
〈乗る前に言って〉
「――うん?」
〈いやらしい〉
ドクターが情けない顔になった。ウフコックの笑い声が、バロットの左手でした。
「そう言わないでやってくれ。計測者の存在は、訓練には不可欠なんだ」
〈じゃあ、ドクターのことは機械の一部だって思うことにする〉
「ひどいなあ」
ドクターがぼやいた。
〈優しい機械〉
からかうようにバロットが付け加えた。
〈言いたいことを、言わせてくれるから〉
ドクターは、仰々しく肩をすくめた。バロットはくすくす笑って計測器の数字を見た。
足にかける体重の変化で、コンマ以下の数字がくるくる変わった。体を安定させると、数字の変化が弱まったが、数字が変わることまでは止められなかった。
ごほん、とドクターが咳払いした。
「君の皮膚は本来、真空の無重力状態で、立体感を失わずに行動するための技術だ」
バロットは数字を見つめながら、うなずいた。
「主に、電子的な干渉能力によって、君の小脳ほか幾つかの無意識野に感覚が送られ、処理されている。情報の経路は、通常の感覚神経だが、君の能力によって情報が加速される。つまり君は、理論的に、肉体の外部と内部の両方に対する干渉[#「肉体の外部と内部の両方に対する干渉」に傍点]が可能なんだ」
バロットはまたうなずいた。自分が得た力の、未知の部分を、今、知ろうとしていた。
「君の適性から考えれば、造作もないはずだ」
〈なにが?〉
「バランスだ。肉体の外部と内部を、等しく、精密に把握することだ。この場合、訓練によって身体能力を伸ばすということは、すなわち、筋力を鍛えるというよりも、肉体のバランス感覚を養うこと、という定義が妥当だ」
〈どうすれば良いの?〉
「その体重値を、一定の数字に固定するんだ」
バロットはまた数字を見た。くるくる変化する数字を。それを操作《スナーク》して、自分の望む数字にしてしまうことは簡単だった。だが、ドクターの言っていることは違った。
「力を抜いて[#「力を抜いて」に傍点]、力を出すんだ[#「力を出すんだ」に傍点]」
ふいに、ウフコックが口を挟んだ。
「肉体が環境の中に存在しているそのあり方[#「あり方」に傍点]を、君なりに把握するんだ。今の君の肉体を、環境に対して最大限に活用する仕方が、感じられてくるはずだ」
〈あなたが変身《ターン》するときも、そうしているの?〉
「そうだ。俺と君とでは仕組みが違うが――基本的には同じはずだ」
〈私のあり方――?〉
「考える必要はない。感覚すれば良い」
バロットは数字から目を離し、空間を見つめた。はじめてこの建物にいる自分を自覚したときのことを思い出していた。今いる場所に対し、全く不安なく眠っていられたときのことを。それこそバロットが心の底から望んでいたことだった。
バロットは目を閉じた。今まで外部に対してばかり指向していた意識を、内部にも向けていった。自分の鼓動を――全身の脈動を感じた。これが自分なのだという、根本的な自覚があった。そしてそれは、誰のものでもない、自分のものだった。
意識の中で、外部と内部が、ゆるやかにつながっていった。自分の体の変化と、体重計の変化とが等しく感じられた。ウフコックを通して空気の流れがわかり、駐車場全体の様子が把握できた。停められた車の形から、柱の太さ、壁の厚さ、空間を飛び交う電波が自分の肉体を通り抜ける様子さえ、感じられた。
自分の一挙手一投足が、一ミリ以下の単位で把握することができた。
ドクターが、バロットの背後でじっとディスプレイを見つめ、興奮している様子が感覚された。ドクターは驚いていたし、喜んでいた。
「すごいぞ――自分の作った道具が、天才的な使い手に命を吹き込まれる喜びだ」
だがそう告げるわりには、声に、どこか後ろめたい響きがあった。
バロットはふいに、自分を覆うこれ[#「これ」に傍点]が、もともと何の目的で作られたかを察した。
〈ドクターは、戦争が嫌い?〉
バロットが目を閉じたまま言った。背後で、ドクターが、顔を上げた。
「まあ、ね――分厚い宇宙服を着たまま、いかにして迅速な白兵戦を可能にするか、という軍の提示したコンセプトによる技術だから……」
〈なぜ、作ったの?〉
「僕は、本気で人類の平和と進歩に貢献しているつもりだったんだ。妻や親戚からは、人体改造マニア呼ばわりされたけどね」
〈あなたは、私を助けてくれてる〉
バロットは目を閉じたまま告げた。ドクターが穏やかな声で笑った。
「そう願いたいね。さ、次のステップだ」
バロットは目を開いた。数字は微動だにしていなかった。
いかにしてその数字が動くか、自分の身体の動きも合わせて、精密に感知していた。
バロットは左右に足を開いた。それでも数字は動かない。もし、このボードが五十メートル先まで伸びていて、その上を素早く走れと言われたとしても、ほとんど数字を動かさずに走れる自信があった。
「君は右利きか?」
ウフコックが訊いた。
〈もともと左利きなの〉
答えてから、ウフコックにだけ干渉して告げた。
――左利きの女の子を嫌がる客がいるって言われて、直させられたの。
「では、武器の使用は、両方の手でできるかな?」
〈少しやれば、すぐに慣れると思う〉
「まずは左手から行こう。銃を手に取ってくれ[#「手に取ってくれ」に傍点]」
バロットは左手を通してウフコックに干渉し――操作《スナーク》した。
銃などこれまで一度も扱ったことがなかったが、ウフコックの中にインプットされているさまざまな銃の形状から、自動的に最も手触りの良いもの[#「手触りの良いもの」に傍点]が選ばれるのがわかった。
ぐにゃりと手のひらの部分が変身《ターン》し、ずしりとした鋼鉄の重みが現れ――握った。
思ったよりも重かったが、すぐにその重さに手が慣れた。ウフコックが注釈を入れた。
「部分的に、硬化プラスチックと電子機器を使用しているが、基本はただのオートマチックの拳銃だ。引き金を引いて、火薬を爆発させ、弾丸を高回転で射出する」
バロットはうなずいて銃を構えてみせた。グリップが、掌のスーツと同化していた。
指を離して振り回しても落ちなかった。ほとんど手の一部のような感覚だった。
「標的は、向こうの壁に用意している」
ドクターが指さした。そこに百七十センチの人型の黒い的が壁に立てかけられている。
「標的の周囲に感圧器をつなげてるから、壁のどこに当たったかはすぐにわかる。銃の撃ち方のビデオは観たね? じゃあ、撃ってみてくれ」
銃に弾丸は込められていなかった。バロットは銃を操作《スナーク》した。かちりと音を立てて、鋼の内部から[#「鋼の内部から」に傍点]弾丸が装填されるのがわかった。その分の重量の増加が、ミリグラム単位で把握できた。かちり、かちりと、次々と弾丸が装填されていった。十一発と、遊底に一発。左手で銃を押し出し、右手を添えて、銃を引いた。力が拮抗し、首をかがめ、射撃訓練用のビデオで学んだ通りの、最も撃ちやすく狙いやすい姿勢になった。
ゆっくりと引き金に指を添えた。引き金は、引くというよりも握り込む感じで、ギミックの一部に電子機器が使用されており、指の力はそれほど必要ではなかった。
たーん、と乾いた音が爆《は》ぜた。銃口からは弾丸が、排莢口からは薬莢が横ざまに飛んでいった。向こうの壁で、鋭い音がした。薬莢が、金属音を立てて床で跳ねた。
続けて撃った。一発、二発、三発。銃声はウフコックの中に押し込め[#「押し込め」に傍点]、完全な消音にもできたが、そうすると感覚が鈍った。射撃のための、最適な衝撃と音響が必要だった。
調整のために、六発撃った。次の六発は、完全に目を閉じて撃った。
銃声が駐車場に響き渡り、薬莢がどこか陽気なリズムで床に跳ねた。
銃身の中を射出されてゆく弾丸の様子さえ感じられた。ねじれたような切り込みの溝とその間の山を弾丸が通り抜け、凄まじい勢いで回転して飛び出してゆくのだ。
体重計の数字はわずかに変化し、やがて、ほとんど動かなくなった。
バロットは、最初の全弾を撃ち尽くした。遊底が後方にスライドして止まり、
「そのまま装填せず、弾倉《マガジン》を捨てて、熱を放出させよう」
ウフコックの言う通りに、バロットはグリップに干渉して弾倉を落とした。
弾倉が体重計に落ちた瞬間、すっと体の力を抜いた。
弾倉が銀色のボードの上で転がった。体重計の数値は、びくとも変化しなかった。
バロットは銃をさらに操作《スナーク》した。鋼の内部から弾倉が現れ、ぴたりと収まった。弾丸を装填し、構えると同時に遊底がひとりでにスライドし、鋭い音を立てて定位置に戻った。
肩の力を抜き、撃った。一定のリズムで。最初から最後まで同じ脈拍で撃ちつづけた。
空間を穿《うが》つ弾丸の灼熱を感じた。全弾撃ち尽くすと、同じように弾倉を捨て、ドクターを振り返った。ドクターはまばたきもせずにディスプレイをにらみつけていた。考え込むように口元を指で押さえていたかと思うと、突然、のんでいた息を大きく吐いた。
「完璧だ。真面目にビデオを観てくれたんだね?」
〈立ち止まって撃つのと、動いて撃つの、両方。あと、的が動かないのと、動くの〉
「よし、次は、動く的だ。バラバラのリズムで、柱の向こうからボールが飛び出す。要するに子供向けのピッチングマシーンだが、そのボールを撃つんだ。距離は同じだ」
〈わかった〉
バロットは素早く弾倉と弾丸とを準備し、構えた。
ドクターはキーボードを叩いた。柱の向こうの器械がそれに反応するのがわかった。
ぽん、と音を立ててゴムボールが飛び出た。
バロットはそれを撃った。
四秒弱で、ボール一つに全弾十二発を叩き込んでいた[#「ボール一つに全弾十二発を叩き込んでいた」に傍点]。
ポールが宙を乱舞し、バラバラになった破片が、舞い散った。
体重計はほとんど動かず、薬莢が金色の光をきらめかせて、床に散らばった。
バロットは銃の弾倉を落とし、ドクターを振り返った。
ドクターは目を皿のように丸くして、遠くで砕け散ったボールの破片を見つめていた。
「――ボール一つにつき、一発のつもりだったんだが」
呆然として言った。同時に、向こうのほうで、また、ぽんと音がしてボールが飛んだ。
バロットは半ばドクターに目を向けたまま、ひょいと手をかざした。
左手だけで、右手は離していた。一瞬でウフコックを操作《スナーク》し、弾倉と弾丸を装填した。
言われた通り、一発だけ撃った。ボールは壁に跳ね返り、勢いよくこちらに向かって、二十メートルほどの距離を転がり、ドクターの靴に当たった。
ボールは、先ほどのものをふくめ、全部で八つあった。間もなく、ドクターの足下に、銃で穿たれたゴムボールが、七つ、転がった。正確に、中心から中心へと貫かれたボールたちが。
ドクターがその一つを手に取り、驚きに頬を震わせながら、見つめた。
「球形の的だぞ。この距離で、百パーセント跳弾せずに中心を侵徹するなんて……」
白旗でも揚げそうだった口調が、いきなり、高い笑い声になった。
「ぞくぞくするな」
言って、はっと口をつぐんだ。バロットは眉をひそめて、
〈戦争は嫌いなんでしょう?〉
「――それとこれとは、違うさ」
ウフコックがフォローした。ドクターはうなずき、
「僕は前線にいたことがないからね。こんな気分で戦争はしないと信じているのさ」
バロットは唇を吊り上げた。共感と咎《とが》めるような表情とを半々に混ぜたような笑みだ。
「次は、君も動いてみよう。ここから的まで、歩いていくんだ。柱の陰に、同じようなピッチングマシーンが置いてある。君の動きに反応して、ボールを放つから、それを撃つんだ。ボールは、君への攻撃だと思ってくれ」
〈わかった〉
バロットが銀色のボードから降りた。そのまま向こうの壁まで歩いてゆく。
左右で沢山の器械が作動しているのがわかった。集中力がどんどん上がってきていた。
気持ちが昂《たかぶ》って脈拍が乱れないよう、自分の内部も[#「自分の内部も」に傍点]調整しながら、周囲を認識した。
柱の陰で、器械の動く気配がした刹那、バロットはそちらも見ずに、銃口を向けた。
ボールが発射されたときには、すでに撃っていた。ボールがちょうど弾丸の軌道に入ってきて、吸い込まれるようにして、貫かれた。
バロットは歩みを止めず、さらに他の器械が作動するのを感じた。
左右にボールが乱れ飛んだ。その全てを事前に狙いを付けて撃ち貫いた。ドクターは器械の動作をどんどん速めてゆく。バロットはそれでも、一定の歩調で歩み続けた。
バロットは右手を銃から離し、そちらの手でも干渉し――操作《スナーク》した。
瞬く間に、左手と同じ銃が現れた。それを使って撃った。右と左と。より早く的確に狙えるほうで撃った。壁に辿りつき、また戻ってくる。銃声はやむことなく響き、ボールと薬莢が床に散らばり、硝煙の匂いと煙で視界がかすんでゆく。
バロットは目を閉じた。恍惚とした表情が静かに浮かび始めていた。
踊り、はしゃぐように撃った。バロットは目を閉じながら、一発たりと外さなかった。
逆に、それを見つめるドクターの顔からは、だんだんと笑みが消えていった。
「僕は、何をすべきかはわかる――でも、どうしたら良いのかは[#「どうしたら良いのかは」に傍点]……こんなふうに、銃が、彼女に施した技術と適合するなんて[#「彼女に施した技術と適合するなんて」に傍点]……」
ぞっとしたように呟く声を、銃声の轟きがかき消した。
ドクターが、ごくっと唾を飲んだとき、ポーンと、着信音が一つ、鳴った。
「検事から連絡が入った。シェルに関するあらゆる項目を、常にネット・ニュースや、警察の連絡事項の中で検索にかけていたんだが――」
ドクターが言った。バロットは椅子に座りながらそれを聞いた。両手の銃はすでに手元から分離して、ドクターに渡していた。バロットが銃を手放したとき、ドクターの顔には、あからさまに、ほっとした表情が浮かんだものだった。
「なにかヒットしたのか?」
ウフコックが、バロットの手のひらの上で、ぬっと上半身だけ出して訊く。
「シェルの担当だった脳外科医五名が同時に消えたんだ。一人残らず。医師の一人なんて、自宅に夕飯の用意までしていたらしい。争った形跡もなし。目撃者も皆無……」
ドクターの目がちらっとバロットを見た。バロットはすぐにその視線の意味を察した。
〈大丈夫、怖がったりしないから。話して〉
「うん……変なんだ。五人全員の一部口座に不明の収入がみつかっている。でも彼らが国からもらう額を考えたら、その程度の不正収入の露呈を苦に、逃げ出すわけがない」
「口座への振り込み手続きは、見え透いたおとり[#「おとり」に傍点]だ、ドクター。ボイルドは生真面目だ。最善と思えば、きっちりそれをやる。恐らくプロを使ったんだろう。何か手がかりらしいものが見つかったら、全て、騙し《ブラフ》か|おとり《デコイ》だ」
「だろうね。医師の失踪を根拠にして、生命保全プログラムを最重要レベルにまで押し上げるよ。法廷でワンパンチ食らわせた後は、向こうが攻勢に出る番だ。逃走経路の確保と――新しい隠れ家の手配が必要かもしれない。僕が行って直接交渉しなきゃ」
そう口にする間も、ドクターはせわしげにキーを叩き続けた。どうやら検事と連絡を取り合っているらしい。ふとまた、ポーンと昔がして、ドクターの表情が明るくなった。
「よし、法務局《プロイラーハウス》の窓口が交渉の許可を出した。これから行ってくるけど……留守を襲われないかな。まあ、僕がいても、あまり戦力にはならないかもしれないけど」
「出廷後、この周辺を護衛してくれている警備機構の人間は、全てこちらのチェックを通している。過去二十年の経歴を洗って何も浮かんでこなかった人間が八名いるんだ。生命保全の交渉をする間くらい、守ってくれるだろう」
「そう信じたいね。でもこのタイミングを狙ってくる可能性もある。気をつけてよ」
ドクターはマシンを操作して、コードを外すと、大股で赤いオープンカーに向かった。
「じゃあ、行ってくる。戸締まりに気をつけて。ウフコックの言うことを聞くんだよ」
バロットに声をかけ、オープンカーが駐車場を出ていったとき、シャッターの向こうで赤い夕日が見えた。バロットはシャッターに干渉して閉めると、遠間から器械を操作し、自分で調整した。訓練を再開するつもりだった。
「あまり気を張らないほうが良い」
――もう少しやらせて。気分が良くなるから。
「では、激しい動きはよそう」
――立ったままでボールを撃つだけ。
バロットは再び銀色のボードに乗り、銃を両手に握った。ボールが飛び出すのに合わせて銃を撃った。右で撃ち、左で撃った。その合間に、ウフコックに干渉して尋ねた。
――誰が襲ってくるの? あなたの前のパートナー?
「わからない。襲ってくるとは限らない」
――シェルが医者を消したの? なぜ?
「シェルの取り引きに関わっているからだろう。シェルの記憶が記録化されて保存されているということが窺えるな。こちらに有益な情報を流してくれたようなものだ」
――医者を消したのは誰?
「恐らく複数のプロだ。チームで動き、報酬と引き替えに人間を拉致するたぐいの」
――その人たちが襲ってくる?
「可能性は高い」
――もし襲ってきたら?
「警備についている人間に撃退させる」
――もし警備の人たちも消えてしまったら?
「そのときは、我々自身で撃退する」
――殺すの?
引き金を引きながら、バロットが訊いた。
――襲ってきた人たちを、こうやって撃てば良いの? あのボールみたいに?
「その必要がある限り、防衛し、撃退する。だが、殺すためにやるわけじゃない」
ウフコックが厳しい口調で言った。
――うん。
「少し休もう」
――大丈夫。もう少しだけ。
バロットは無心に撃ち続けた。その脳裏に弁護人の問いが起っていた。なぜ抵抗しなかったのか。弁護人はそう訊いてきた。かつて、あらゆる男がそう訊いてきたように。
その答えは沈黙だった。いつでも沈黙以外の答えはなかった。どんなときも。
だが今、その沈黙を引き裂く、銃声があった。
バロットは撃ち続けた。
平べったいフロントに航空会社のロゴがプリントされたガソリン車のバンは、「送迎・ご案内」の文字をでかでかと窓に張り、居住区一帯をゆっくりと巡回していた。
やがて目的の住宅を見つけたらしく、停車すると、長身の男が二人出てきた。
両方ともサングラスをしており、分厚いコートを羽織っていた。
「五分だ、ミディアム。縄張りを確保するぞ」
一方が言った。もう一方はうなずきながら、
「了解、ウェルダン。これよりマーキングに入る」
そう言いながら、住宅の玄関口へとまっすぐ歩いていった。右手で玄関の呼び鈴を鳴らし、左手をコートの内側に入れ、ぼそぼそと呟くように言った。
「ウェルがレーダーを仕込む間に俺が片づける。電話回線のハックは完了してるな?」
片手でこめかみの辺りを押さえながら、他者には聞こえない声を聞くように、ミディアムはかすかに顎先をうなずかせる。ボイルドが放った|人さらいの猟犬たち《バンダースナッチ・カンパニー》の一匹は、やがてドアの内側で物音がするのを聞きつけて、にたっと微笑んだ。
インターフォンが声を放った。
〈なんの用だ――〉
「航空会社の送迎バスです。お待たせしました」
〈そんなもの――〉
素早くコートの内側に入れていた手を出した。手にはカード状の器械が握られている。
そのカードを、ドアの電子ロックに差し込んだ。もう一方の手には、袖口から荷電磁《ハチソン》ナイフが魔法のように現れ、振られた。ほとんど一瞬だった。
ドアがかちりと音を立てて開いた。チェーンが垂れ下がり、バターナイフのような刃から放たれる切断用の高磁圧が、鎖の一部を内部から熔解させ、斬り飛ばした。
ドアが開き、ミディアムは中に入った。
玄関先で、インターフォンに向かっていた男が、愕然とした顔になった。
お……と声を上げかけた、男の口の中へ、ミディアムの投げ放った刃が、吸い込まれるようにして飛び込んだ。高磁圧の刃が後頭部を貫き、口内の水分を蒸発させた。
倒れる前に、ミディアムが、即死した男の襟をつかんで支えた。ナイフを抜き取り、男の死体をゆっくりと床に置く。血は一滴も零《こぼ》れず、肉の焦げる猛烈な異臭がした。
ちりっ、と鈴のような音がして、サングラスの奥で、その両目が、赤い光を灯した。
「どうした。あの車は何だ。この臭い――」
もう一人が壁の向こうで移動する様子が、赤紫色のまなざしに正確に把握されていた。
ミディアムは左手にナイフを握ったまま、右手を腰の後ろにやり、
「……どちらが早撃ちかな?」
にたりと笑んで、廊下の真ん中に立った。もう一人の男が、ドアの向こうから現れ、ミディのサングラスの奥で、赤く光る二つの目に、ぞっとしたような顔になった。
男が、慌てて手を腰の銃にやったが、遅かった。
ミディアムが抜き放った拳銃は、ほとんど音もなく、弾丸を発射した。
男の胸に、穴が空いた。男は、弾丸の発した荷電粒子に肺と傷口とを灼かれ、声もなく、どっと倒れ込んだ。血は一滴として零れず、辺りに肉を焼いた匂いが漂った。
「俺のほうが、早かったみたいだな」
ミディアムはおどけた様子で人差し指を振り、男の死体のそばに屈み込んだ。
銃をしまい、男の手首を持ち上げ、しげしげと見つめ、
「タフでプロフェッショナルな指だ」
そう呟きながら、ナイフを握った手で、サングラスを外した。
「しかし色気がないな。売っちまおう、ウェル」
廊下の向こうからやってきたウェルダンに、そう声をかけた。
ウェルダンもまた、死体となった別の男の襟首を引きずりながらやってきた。
サングラスを取って、赤く光る、機械化された瞳を、あらわにしながら、
「ちょうど三人だ。こちらのマーキングは完了した。そちらは? レア、ミンチ?」
ウェルダンが、こめかみに手をあて、声に出して言うと、
〈終わったわ。とっても簡単。今、キッチンでコーヒーを入れてるわ〉
ウェルダンとミディアムの耳の奥で、声だけは少女のように澄むレアの返答が来た。
〈つまらないわ。警備機構《ハムエッグ》にハッキングした通りの配置よ〉
「よし――待機しろ」
〈こっちも終わったよ。マーキングが働いてるのも確認した。いつ、この豚を運ぶ?〉
ミンチの声が届き、ウェルダンが応答して、
「闇を待て。この一帯の警備機構《ハムエッグ》の回線と、標的のいる建物の全通信を攪乱させる」
〈少し汚しても良いかな〉
「うん? どうしたミンティー坊や」
とミディアムが面白そうに返した。
〈女がいたんだ。夫婦を装ってたんだけど、どっちも警備機構《ハムエッグ》の人間だよ。もしかすると、本当の夫婦かもしれない〉
「まだ生きているのか、ミンチ?」
ウェルダンが訊いた。玄関から外に出て、幸へと向かっていた。
〈生かしておいたほうが良かった?〉
「いや。好きにしろ。後片付けの時間も、計算に入れておけ」
「日没まで二十分だぜ、ミンティー坊や。じきに日が暮れる。ディナーの時間だ」
ミディアムが玄関先に立ちながら、口を挟んだ。ミンチの笑い声が耳の奥でした。
〈おやつさ。前のほうのパーツは、ウェルのためにとっておくよ。あんたのお気に召すとは思えないけど。俺はこれから、夫婦並べて、後ろのパーツをやってやるんだ〉
さも楽しげなミンチの言葉に、ミディアムが吹き出した。
「レアがやきもち焼くぞ」
〈あたしは声が大きいのよ。今したら、標的にばれちゃうわ。あたし、とても大きな声で喜ぶのじゃなきゃ、嫌だから〉
「豚を積み込む時間を忘れるな」
ウェルダンが、車から両手にトランクを持って戻ってきて言った。
「俺たちは血の一滴も残さず獲物を食い尽くす。それが生き残る秘訣だ」
「そうさ。お仕事だぜ、レア、ミンティー坊や。豚を腐らせるなよ」
ミディアムはトランクを受け取ると、死体の横に膝をついた。
ウェルダンが玄関のドアからロック破り《バスター》カードを引き抜いて、元通りロックをかけ、
「レア、ミンチ、戦場に立っていることを忘れるな」
〈だから余計に感じちゃうのよ。ねえ、ミンティー坊や?〉
〈ああ、良い。すごく良いよ〉
ミディアムが、笑いながらかぶりを握って、ミンチとの通信を切った。
「スリルが快感を高めてくれるってわけだ。ウェル、手伝ってくれ。二十万ドルのバターナイフで、早いところこの豚を刻んじまおう」
ウェルダンは死体のそばに膝をつき、荷電磁《ハチソン》ナイフを取り出し、死体の腕の付け根に刃をあてた。皮膚も筋肉も骨も一緒くたに切断されたが、血は零れなかった。
「楽なもんだ。さっき赤いオープンカーとすれ違ったが、事件屋の一人かな?」
ミディアムがにこにこして言うのへ、ウェルダンも微笑して返した。
「そうだ。フレッシュに確認させた。俺たちがしなけりゃならないことは、残り二人の事件屋をバターナイフで刻んだあと、彼女を眠らせて連れ帰るだけだ」
「胸が高鳴るよ。久しぶりだ。まるで初めての夜のように、どきどきしてる」
ウェルダンが笑った。二人とも、嬉々として死体を解体し、トランクへ詰め込んだ。
「作戦開始時刻は、今から二十分後だってさ」
トレーラーのコンテナの中で、フレッシュがぶるぶるとゼリーのような体を震わせて、ボイルドを振り返った。
「最適の時間だ」
ボイルドが、うっそりとうなずき返す。機材だらけのコンテナだった。トレーラーの運素手はミンチで、今、住宅地から離れたところに停められていた。
「警備機構《ハムエッグ》の回線操作はあと数分で終了するよ。三カ所ある建物のうち、四十五分ごとに相互の通信がない所が一つでもあると、自動的にエマージェンシーがかかるようになってる。だから十五分ごとに、一つずつ一方向の発信をするよう、セットしたんだ」
ボイルドはうなずいた。目は、辺りの詳細な地図が表示されたディスプレイを向いている。幾つかの光点は、ウェルダンたちの位置を示していたゥその隣のディスプレイには、建物の構造図が三次元画像で表示されている。マーキング――三方向に設置されたレーダーによって建物の内部が正確にスキャンされていた。
「設計図面通りの構造だね。あなたも、あそこにいたことがあるの?」
ボイルドが、ちらりとフレッシュを見た。
「あなたのこと、こちらでも少し調べたんだ。すごいよね。ウフコックって事件屋と一緒に解決した事件、どれもオフィシャル・ライセンスに指定されてるよ。この業界じゃ、すごい有名人なんじゃない? 検事局にも顔が利くなんてさ」
「あれは、俺とのコンビネーションを解消した後で、ウフコックが手に入れた施設だ」
「ふうん。……あなたは、人の過去を気にするタイプじゃないでしょ? だったら、人が過去を話すことも、気にしないと思うんだけど」
ボイルドはディスプレイを見つめながら、かすかにうなずいて見せた。
「僕らはみな、軍にいたんだ。僕とウェルとミディは海兵隊の機械化実験部隊《ギニー・ピッグ》にいて、レアとミンチは、後から大陸南部の前線で隊に入れられて出会ったのさ。僕は、後方部隊性の妄想症にかかって除隊できるはずだったんだけど、敵が沢山来ちゃったんだ。撤退のためにヘリが派遣されるまで、九十日以上もの間、僕らは森に立てこもってた。オークの木を見るといまだにあのときを思い出すんだ」
ボイルドは黙ってフレッシュの言葉を聞き流している。
「みんな通信兵の僕を大事にしてくれた。大勢の兵隊が退行障害で、心が子供に戻っちゃってた。妄想症や異常攻撃性に陥る人もいた。そういう兵隊を一カ所に集めた部隊があって、僕らはそこにいた。そういう部隊は最初は少なかったけど、いつの聞にか前線ではそういう部隊のほうが多くなってたな。攻撃が激しすぎて、それが普通になっちゃったんだ。そういう人間しか、前線には適応できないよ。すごく活躍して、勲章ももらった。沢山殺した。敵を沢山、味方も沢山。銃もガスも爆弾も電撃も、なんでも使った。一日中、抗精神剤をスコッチで割って飲みながら、装甲車の中で撃ち続けた。食べるのも出すのむ座って撃ちながら。ちょうど、こういう車の中で三カ月間、日の当たらない地下鉄のトイレみたいな場所で。そのせいで僕は、足が白※[#「虫+(臘−月)」、第3水準1-91-71]症になっちゃった」
フレッシュはそこで言葉を区切り、ボイルドをにこにこと見つめた。
「あなたは? 実験部隊は経験ある?」
「P7実験部隊にいた」
「P7……ああ、空挺部隊かぁ。P6までは知ってるよ。高度二万メートルから六万メートルが担当でしょう? その上があるの?」
「宇宙戦略想定科学部隊だ。空挺師団から志願し、俺を入れて三人が入隊した」
フレッシュが、ぴしゃぴしゃと分厚い指を叩いた。
「すごい。サイエンス・フィクションみたいだ」
ボイルドの目が、またちらりとフレッシュを見た。わずかな間を置いてから、表情を変えることなく、静かにうなずいた。リボルバーのシリンダーが、音を立てて回転するような動作だった。それから、ぼそっと、呟くように、
「虚構の部隊だ。目的も実績も、虚構に過ぎない。ただ、無意味な技術だけがあった」
そしてまた、感情のない目を、ディスプレイに向けた。
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Chapter.4 導火 Spark
時刻は午後四時を過ぎたところだった。
シチューの鍋をかき回すバロットの手が、ふと止まった。
調理台で、ウフコックが、しきりに換気扇に向かって鼻を伸ばし、匂いを嗅いでいる。
バロットは、空《あ》いているほうの手で、ウフコックをつついた。
「くすぐったいな」
ウフコックがびっくりしたように脇腹を押さえる。鼻は換気扇を向いたままだ。
ウフコックが、かすかに緊張を漂わせ、言った。
「妙な臭いがする」
バロットが、シチューを指さした。ワインのボトルを手に取り、首を傾げる。
「いや、香り付けのことを言ってるんじゃないんだ」
バロットはボトルを置き、また小さく首を傾げた。
「人間が集団で騒ぎ出そうとするときに特徴的な、歓喜の臭いだ。祭りや、ダンスパーティとか……あるいは、戦争を始めようとするときのような」
そう言ってウフコックはさらに、くんくんと匂いを嗅いだ。
「ほんの少し、恐怖の苦い匂いがする。誰かが殺されたときのような……」
ふとウフコックがバロットを気遣うように見た。だがバロットは、もう、そんなことで怖がったりはしなかった。シチューを煮る火を止め、そっとウフコックに指を絡めた。
――敵?
「可能性は高い。通信機器をチェックしてくれ」
バロットはウフコックを右手に乗せ、言われた通り、左手で壁のフォンに触れてみた。
受話器を外さないまま、試しに、近辺で張り込んでいる警備機構の人間に連絡するよう、操作《スナーク》してみた。
――かかってるけど、誰も取らない。
「警備地点の三つともか? 本部は? ドクターのところにもかけてみてくれ」
――駄目みたい。
バロットが、こつこつと受話器を指で叩いた。
――変な感じ。話し中みたいだけど、変。全然違うところにかかってる気がする。
奇妙に閉塞的な切迫感が、急激に、周囲から押し寄せてくるようだった。バロットは受話器から手を離し、レンジの火を全て止めると、エプロンを脱いで、椅子にかけた。
それから、ウフコックを手に乗せたまま、自分の部屋へ向かった。
――来るんでしょう? 警備の人たちを消してしまった人たちが。私たちも消しに。
「その可能性は高い」
――準備したい。五分だけちょうだい。
「どうするんだ?」
――シャワーを浴びる。
まるで銃の手入れでもするような言い方だった。ウフコックがうなずいた。
「急げ」
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、磨く《ブラッシュ》……
湯を浴びながら、脳裏で、韻を踏んで言葉が巡るのを感じた。
――突進《ダッシュ》、壊す《クラッシュ》、|向こう見ず《ラッシュ》、流す《フラッシュ》……
肌に雑物や垢が付着すると、能力が弱まることを知っていた。
ぴったりとウフコックを着る[#「ぴったりとウフコックを着る」に傍点]ときには、なおさら丹念に磨く必要があった。
ぴかぴかのステンレス製のナイフみたいに、磨き上げるのだ。
そのうち、頭上から落ちかかってくる湯の一滴二滴の動きまで把握できそうになった。
実際、できるだろうと思った。それらが流れ込んでゆく先も。世界の全てが、自分の素肌を通して流れてゆくようだった。自分の、コントロールのもとで。
この体は自分のものだ。そういう決然とした意識が芽生え、脳裏を占めた。もう誰にも渡せなかった。戦い、守るべきものだった。
なぜ自分なのか。その永遠の謎々が、予想もしなかった答えを見せようとしていた。
いや、正確には、それは答えではない。謎々の裏返し《ターン》、問いが変身《ターン》したものだった。
相手がどういう気であれ[#「相手がどういう気であれ」に傍点]、この自分を狙った償いをさせてやる[#「この自分を狙った償いをさせてやる」に傍点]のだ。
それは、なぜ自分がこんな目に合うのか――という問いを、そのままひっくり返した答えだ。なぜ自分なのか、という悲鳴を、そのまま、相手に、叩き返すのだ。
――皿《ディッシュ》、洗う《ウォッシュ》、壊す《クラッシュ》、潰す《マッシュ》……
シャワーを止めた。ジェット・タオルを触れもせずに操作し、左右から強く暖かい風が吹き、濡れた体を素早く乾かしてゆく。
温風を受けながら、体にオイルを塗った。自分が完璧な刃物になった気がした。
鞘《ドレス》さえ切り裂くほどの鋭い刃。自分を包むものを、自ら選択する権利を持つ業物《わざもの》だ。
すでに選択は済んでいる。オンリーワンの鞘《ドレス》、そして武器《ブレス》。
――|かなり良い《グディッシュ》、新鮮《フレッシュ》、希望《ウィリッシュ》……
バロットはバスルームを出た。一糸まとわぬ姿で、デスクの前に立った。
デスクの上で、尖った鼻をしきりに宙に伸ばして気配をうかがっている一匹のネズミに向かって、手を差し伸べた。ウフコックが、その手に、ぴょんと跳び乗った。
「準備は良いかい?」
バロットはうなずき、ウフコックに指を絡ませ、
――良いわ。
自分をぴったり包む、鉄壁のドレスをイメージした。漠然としたイメージが、ウフコックの中にある無数のプログラムに干渉し、次々と適合していった。
――抱いて。タイトに。
ぐにゃりとウフコックが変身《ターン》した。オンリーワンの、選び抜かれたドレスへ。
夜の闇がチョコレートのように溶けて街にしみ込んでいった。
誘拐犬《バンダースナッチ》の群は一斉に行動を開始した。三方から、元は死体安置所《モルグ》だった建物に向かって、静かに、そして迅速に迫った。
ウェルダンが先行し、素早くミディアムが追う。ウェルダンが周囲をチェックする間、ミディアムが錠前破りの《ロックバスター》カードを裏口のドアに差し込み、
〈開いた。三重のロックだ。ぎりぎりで破れた〉
ミディアムが告げ、素早くドアの中に潜り込む。つづけてミディアムと背を合わせるようにしてウェルダンが侵入し、慎重にドアを閉めた。
通路は暗く、狭かった。ミディアムが注意深く通路を進み、ウェルダンが指示した。
〈ロックバスターのカードを差し込んだままにして、ハッキングの中継に使う。建物のセキュリティシステムを支配するまで何分かかる、フレッシュ?〉
〈一分で済むよ、ウェル〉
〈セキュリティの支配が完了し次第、レアは南面から侵入開始。ミンチは支援火器《ボストンバッグ》を持って玄関からだ。セキュリティを支配するまで、三メートル以上離れて通信《いぬぶえ》を使うな〉
〈通達済み。建物内部での位置確保。一階のキッチンと北面のバスルームで熱源探知〉
〈ミディ、行け。窓から標的が脱出しないよう注意しろ。俺は地下に行く〉
ミディアムは振り返りもせずに右手を挙げた。素早く、足音を立てずに、するすると通路を進み、右に曲がって、ウェルダンと別れた。腰の銃を抜き、その両目がサングラスの奥で赤く光る。機械化された目が、暗闇の中でも正確に障害物を把握した。
〈セキュリティ確保。建物内部の平面図を送信するよ〉
フレッシュの声が耳の奥で響いた。ちりっ、と目の奥が鳴った。
ミディアムの網膜に直接、半透明の図面が浮かび上がった。自分と他のメンバーの位置が表示され、標的が存在する可能性の高い順に、部屋が色づけされている。
〈レア、侵入開始。ミンチ、玄関から五メートルの位置で待機中〉
フレッシュが告げた。
「いよいよ、本番だ」
ミディアムがにたりと笑って呟いた。通信には乗せていない、地声[#「地声」に傍点]だった。
網膜に映る図面と、自分が視覚しているものとを常に見比べ[#「見比べ」に傍点]、進むべき方向を定めた。
望めば、他のメンバーが視覚しているものを視界に投影することもできたが、ミディアムはそのまま平面図だけにとどめ、通路を進んだ。ずいぶんと長い通路だった。特殊な施設だからだろう、とミディアムは思った。本当に、でかいな[#「でかいな」に傍点]。二十平方メートルもあるバスルームなんて[#「二十平方メートルもあるバスルームなんて」に傍点]。きっと沢山の死体を洗うためのものなんだろう[#「っと沢山の死体を洗うためのものなんだろう」に傍点]。
明かりはほとんど灯っておらず、途中、幾つもの部屋へのドアを見たが、ほとんど一顧だにしなかった。そこに標的が存在しないことは、網膜の裏で確認済み[#「網膜の裏で確認済み」に傍点]だった。
だから、さらに通路を曲がり、小部屋[#「小部屋」に傍点]へと入っていったとき、背後で他の部屋のドアから白い人影が現れて、無造作な足取りでミディアムの後を追うように歩き始めたのにも、全く気づかなかった[#「全く気づかなかった」に傍点]。
小部屋の中に一歩踏み込んだ途端、ミディアムは凝然と立ちすくんだ。
なんという広さか。吸い込まれそうな巨大な暗闇が眼前に広がっていた。
〈フレッシー? いったいどうなってるんだ? 俺は今、どこにいるんだ?〉
〈大丈夫。大丈夫。目の前にドアがあるよ〉
〈ドア? 何を言って――〉
だがミディアムは、まさに自分が一枚のドアを見ていることに気づいた。
〈あったぞ、ドアだ。こいつの向こうはどうなってる?〉
〈待っているよ〉
〈待つ?〉
〈銃を構えて待っているよ〉
ミディアムはにたりと笑んだ。
〈オーケー、フレッシー。事件屋か、標的か、確かめよう。ドアの向こうにいるやつの身体特徴と位置を送ってくれ〉
ミディアムは目の奥に、ドア越しに光るオレンジ色の人間の姿を見た。
〈でかい男だな[#「でかい男だな」に傍点]。二メートルはあるぞ[#「二メートルはあるぞ」に傍点]。こいつが事件屋だな[#「こいつが事件屋だな」に傍点]?〉
〈そうだよ。撃てば当たるよ〉
ミディアムは慎重に銃を構え、ドアの向こうの敵に照準を定めた。
〈どちらが早いか勝負だぜ、タフガイ〉
撃った。きっかり三秒で十四発を撃ち尽くした。
即座に弾倉《マガジン》を交換し、穴だらけになったドアを蹴り破った。
途端に、ものすごい勢いで、何かが降りかかってきた。
「うおっ!?」
冷たい水だった。何がなんだかわからず、咄嗟《とっさ》に銃を構えようとした。その拍子に、したたかに肩やら腰やらを何かにぶつけた。
もんどりうった。一瞬、敵が爆弾を使ったのかと思った。だがそうではなかった。
ぼんやりと視覚が戻ってきた[#「戻ってきた」に傍点]。闇の中から、それまでと違うものが、くっきりと浮かび上がってきていた。白い塊が見えた。ミディアムは反射的にそれに銃口を向けた。
水に濡れたトイレットペーパーの束だった。
ずぶ濡れになりながら、ミディアムは、サングラスを外し、目を見開いた。
個室トイレだった。それが、ドアを蹴り破って突入した場所だった。
便器が荷電粒子によって粉々にされ、勢いよく水を噴き出している。
「なんだ……これは」
思わず地声[#「地声」に傍点]で呟きながら個室から出た。右手の壁に、四つの小便器が並んでいる。反対の壁には、鏡と手洗い。広大な空間が一瞬で消えていた。
ミディアムは個室を振り返った。個室のトイレはそれ一つで、ふと、粉々に破壊した便器の上の壁が、目についた。
明るいポピーレッドの色で、こういう文句が、殺菌タイルに記されているのだ。
|混ぜ込ぜにしてやる《スナーク・ユー》!!
〈フレッシー、いったい今、俺は、何を見てるんだ……〉
〈今行くよ〉
〈なに?〉
〈どちちが早いか勝負だぜ[#「どちちが早いか勝負だぜ」に傍点]、タフガイ[#「タフガイ」に傍点]〉
そのとき、トイレの入り口のドアが開いた。
ミディアムは、あまりのことに、その場で呆然と突っ立ったままだ。
真っ白い少女がそこにいた。指先から、ブーツのつま先まで、白一色だった。
服は革下着《ボンデージ》にも見え、まるで、純白の拘束具に、がんじがらめにされたような格好だ。
ともするとそれが、ウエディングドレスかパーティドレスに見えた。
そのいかれた姿の少女こそ、紛れもなくビデオで見たあの未成年娼婦《ティーン・ハロット》であった。
ルーン=バロット。実に美味な名だった。彼女を守っている事件屋は、依頼者《クライアント》をこんな格好にぐるぐる巻きにする趣味でもあるのかと、本気で疑った。
「武器を捨てろ」
いきなり男の声がした。ミディアムはびくっとなって銃を持ち上げた。
目の前にいる、まるで無防備なバロットが、その声を放ったのかと思った。
バロットの、真っ白いシルクのような手袋をした左手が上がり、ぐにゃりと変身《ターン》して、何かを現した。銃だ。銀色の銃身が、きらきらと光を零した。
ミディアムが息をのんだ。ほとんど反射的にミディアムの指が引き金を引いていた。
刹那、ミディアムとバロットの間で、物凄い火花が散り、かっと部屋が輝いた。
宙で、何かが粉々に吹き飛び、破片が飛び散った。焦げた臭いがたちまち充満した。
ミディアムがさらに撃った。同じ火花が散った。
ミディアムは、目蓋が千切れそうなくらい大きく目を見開いた。
目の前の少女が、弾丸で弾丸を弾いている[#「弾丸で弾丸を弾いている」に傍点]のだと知って、気が狂いそうになった。
犬が唸るようなくぐもった叫びを放ちながら、撃った。
また火花が散った。鋼の細かい破片が、辺りに飛び散る鋭い音がした。
今度はそれだけではなかった。銃を持つ手に灼熱感が起こった。指の付け根を、五本とも全て、銃のグリップごと弾丸に穿《うが》たれたのだ。正確無比とはこのことだった。
「あ……?」
ミディアムが、ぽかんとした顔になった。
自分の左手がばらばらになって、グリップを撃ち抜かれた銃と一緒に、タイルの床に落ちてゆく。背後では、いまだに水が勢いよく降り注ぎ続けている。
ミディアムが、咄嗟に飛び退こうとしたとき、荷電粒子を放つ弾丸が、ぎっしり収まったマガジンを、バロットが、撃ち抜いていた。
水浸しのタイルの上で、マガジンの中の全ての弾丸が、一挙に炸裂した。
青白い火花がミディアムを足下から包み込んだ。もはや声も出なかった。閃光の中でミディアムは奇妙な踊りを見せた。全身の筋肉が突っ張り、張り裂けた。肉と頭髪を焼く、ひどい臭いが充満した。青白い火花はバロットの身にも襲いかかったが、全て、白い拘束具めいた衣服の表面で弾かれ、消えた。
どっと鈍い音を立ててミディアムが倒れた。側頭部から火花が吹いている。幾つかの機器がショートして、目と耳から、真っ黒い血を流していた。死んではいなかったが、ひどい状態であることに変わりはなかった。
バロットは、噴き出す水を見つめ、ビルの配水システムに干渉し――操作《スナーク》した。
水が引いてゆき、止まった。ミディアムに近づき、そっとこめかみに触れた。
弱々しい電波が感じられ、それが声となって直接認識された。
〈どうしたんだ、ミディ。連絡が全然通じないぞ。標的はいたの? ウェル、ミディの応答がないんだ。ミディ――〉
〈大丈夫だ〉
ミディアムの音声で、バロットが応答した。
〈なんでもない。標的はいなかった。引き続き、標的を探す〉
それから、通信への干渉をやめ、男子トイレを出ると、きちんとドアを閉めた。
〈おかしいぞ。おかしいんだ〉
フレッシュの声が、ミンチの耳の奥で響いた。
「あんだい、フレッシー。何がおかしいのか説明してくれよ」
ミンチはボストンバッグを片手に、のんびりとした顔で、建物の玄関口を眺めている。
〈ミディの聴覚から、複数の銃の音紋が検出されてるんだ。そのうちの一つは、僕のデータベースにもヒットしない、明らかに異質な装備なんだ〉
「俺たちとは違う装備の存在? 事件屋の一人か?」
〈ミディは大丈夫だって言ってるんだけど……〉
「ふうん……」
〈ミディから一番近いのは、あんたなんだよ、ミンチ〉
「わかったよ」
ミンチはボストンバッグを握りしめ、まっすぐ、玄関ロビーへ向かった。
「建物の外へ標的が逃げたときは、レアかウェルに追わせろよ。俺はミディとその周囲の敵を確認するから。玄関のロックを開けてくんな」
〈了解〉
ミンチが無造作にロビーの扉を押すと、それはすんなりと開いた。
まっすぐ玄関を進んだ。受付の窓の向こうに誰もいないことを確かめながら、ボストンバッグに手を突っ込んだ。
中からアタッシェケースに似た支援火器を取り出し、大股で廊下を進んだ。
ボストンバッグを捨て、少し進むと、廊下でエレベーターが音を立てて開いた。
さっと柱の陰に隠れ、手にしたケースのロックを解除した。一瞬で箱が上下にスライドし、中に両手持ち《ダブルハンド》のグリップが現れ、それをしっかりと握った。グリップを二つ縦に並べたような形状で、スライドした箱の上端と下端の両方に銃口があった。
辺りの気配をうかがいながら、通信を開いた。
〈このエレベーターはお前のしわざかい? フレッシー?〉
〈そうだよ〉
〈これに乗れってのかよ?〉
〈そうだよ〉
〈ミディは一階じゃなかったのか? 移動してるんだな? 敵を見つけたのかな?〉
〈そうだよ〉
〈図面を送ってくれ。よし、ミディの位置を確認した。移動を開始するぞ〉
〈そうだよ〉
〈うん?〉
通信が切れた。だが図面は正確に進むべき方向を示している。ミンチは肩をすくめた。
「せっかちなやつだ」
慎重に辺りの気配を窺いながら、素早くエレベーターに乗った。
パネルを見ると、地下から屋上まで五つのボタンがあり、二階を示すパネルがすでに黄色い表示灯をつけている。ドアが閉まり、ミンチは大きな体をできるだけ低く構えた。
ぐん、と体に重圧がきた。凄まじい勢いでエレベーターが上昇した。ミンチは慌てて前のめりに倒れそうになるのをこらえた。ワイヤーが猛烈に回転する音が頭上で響いた。
かと思うと、大きな音を立ててエレベーターが止まった。
拍子に、ミンチの大柄な体重が宙に浮いている。
どん、と膝が床を叩いた。ミンチの顔が怒りに歪んだ。
〈クソ野郎、フレッシュ! ジェットコースターじゃないんだぞ!〉
〈そうだよ〉
〈あん? お前、さっきっから――〉
〈そうだよ〉
ミンチの褐色の肌に、嫌な汗がどっとわいた。ぶるぶると唇を震わせるミンチへ、
〈そうだよ[#「そうだよ」に傍点]〉
耳の奥で――自分の頭の中で、誰のものとも知れない声が、告げた。
〈てめえ、誰だ!〉
たまらず喚《わめ》いた。その途端だった。エレベーターがまた上へ動いた。ミンチの体が床に叩きつけられるほどの勢いだった。三階でまた急停止し、間髪入れずに下降した。
「くそ野郎!」
怒りにまかせて吠えた。手にした火器をパネルに向け、上下の銃口でめちゃくちゃに破壊した。エレベーターが止まった。ミンチの汗みどろに顔に、ようやく笑みが戻った。
「俺は元パイロットだぜ、これぐらい……」
明かりが消えたが、それは恐怖にはならなかった。ちりっと目の奥で音がして、瞳が赤く光った。闇の中だろうと関係なかった。改めて網膜に映る図面を確認した。
エレベーターの扉は、下部の三分の一が、二階にかかっていた。
ミンチは左手に二十万ドルのバターナイフを取り出し、パネルを焼き切って、配線を引っぱり出した。もう一方の手は、火器を握ったまま、ドアのほうに向けている。
配線を目でさっと追い、ドアのコードを見つけた、そのとき――
ぷつっ、と何かが足の下で跳ね、たまらない熱さが走った。
悲鳴を上げて飛び上がった。そこへさらに何かが真下から跳ね、銃を握る腕を穿った。
袖をまくってそれを見た。移植した目と目の間に、ぽっかり丸い穴が空いている。
移植した目が、びっくりしたように丸く目蓋を見開いていた。
ミンチの全身に、どっと冷たい汗がわいた。
続けざまだった。真下から跳んできた弾丸に、銃を握ったほうの親指を撃たれた。
ミンチの口から絶叫がほとばしった。さらに手を、足を、尻を撃たれた。
誰にも聞こえない箱の中で、ミンチは奇妙なダンスを踊りながら叫び続けた。
ナイフを落とすと、そのナイフを撃たれた。ばちっと激しい火花が飛び散り、ミンチの右足を焼いた。その隙に、右手で銃のグリップを握った。
銃を真下に向けた。その左目に、まっすぐ、十ミリ弱の弾丸が、飛び込んできた。
機械の目が眼窩の中でひしゃげ、血と火花が噴き出した。
「めちゃめちゃに犯してやる、くそ野郎!」
数十発の弾丸を下に向けて放った。その異名通り、床をぐずぐずに撃ち崩した。
床に、ぽっかりと黒い穴が空いた。そこをのぞき込んだが、誰もいなかった。
ミンチはドアを振り返り、同じように弾丸を放った。上の銃を撃ち尽くすと、ひょいと宙に放って、逆さに持ち替えた。ドアは瞬く間に虫食いだらけになって粉砕された。
「殺してやる!」
肩からドアに突進した。ドアがたわんだ。親指を失った左手でドアを押し開き、息を荒らげながら廊下に転がり出た。血が汗と一緒にしたたった。全身がぬるぬるした。
這いつくばって廊下を匍匐し、柱の陰に隠れた。
〈フレッシー! 応答しろ、このくそったれ! ウェル! フレッシーがハッキングされてるぞ! ウェル! ミディ! レア! くそったれ、誰か応答しろ!〉
ふいに、誰のものともしれぬ、けたたましい笑い声が響き渡った。
ミンチは慌てて通路の左右に目を配った。誰もいなかった。笑い声は、ミンチの頭の中でしていた。回線を切ろうとしても駄目だった。無事なほうの目に涙が浮かんだ。
退行障害――と誰かが言った。戦場の爆音が、過去の記憶から、嫌らしい黒煙の匂いとともに蘇ってきた。ヘリが撃墜された二日後に捕虜にされ、その一年後に解放されたとき、ミンチは、戦場で捕虜になって虐待の限りを尽くされている真っ最中の自分に、離婚届を送りつけてきた女房の両目を、腕に移植することを思いついたのだ。
以来、元女房は、右の前腕二頭筋の中で、永遠に謝罪の眼差しを向け続けている。
ミンチは髪をかきむしり、血塗れの手で衣服を引き裂き、全身に移植した目をあらわにした。そして、言葉にならない叫びを上げて立ち上がった。銃口を振りかざし、脚をひきずって通路を進んだ。
笑い声はやまず、甲高い耳障りな響さでミンチの脳を掻き回した。
突然、ミンチの前後で、シャッターが閉まった。
防火シャッターであり、この施設に特有の、防臭[#「防臭」に傍点]シャッターでもあった。
ミンチは、またもや自分が四方を壁に囲まれた空間に閉じ込められたのを悟った。
「ぶちこんでやるぞ! 目玉を刳《く》りぬいた穴の中に、俺のを突っ込んでやる!」
ありったけの銃弾を四方に撃ちまくった。薬莢が周囲に跳ね、無数の弾痕がまたたく間にのっぺりとした空間を模様替えした。
そのとき、背に灼熱感が走った。ミンチは振り返った。シャッターが目の前にあった。
そのシャッター越しに、弾丸が飛んできた。両膝をほとんど同時に撃ち抜かれ、歯を食いしばって膝をついた。途端に、両肘に衝撃がきた。だらんと腕がたれた。
全てが正確極まりない一撃だった。そして文字通り、瞬く間[#「瞬く間」に傍点]だった。
体に移植された十八対の目が、飛来する弾丸に、立て続けに吹き飛ばされた。
眼漿が飛び散り、水晶体が血と涙と一緒に流れ出し、どろどろのスープとなって垂れ流された。密閉された空間に絶叫が響き渡った。ミンチは全身から血と眼漿を振り零しながら立ち上がると、闘牛さながらの勢いでシャッターに向かって跳び込んでいった。
激しい衝撃音とともにミンチの肩でシャッターがひしゃげた。ジュラルミンの壁にぺったりと血がつき、体を離すと糸を引いた。それからまた突進してぶつかった。
銃撃はいつの間にかやんでいたが、それももう関係なかった。
ふいに、シャッターが開いてゆき、天井に折り畳まれていった。
開かれた壁の向こうに小柄な人影が現れるのを、朦朧とした視界に認識した。
ミンチは、絶叫を上げて、人影に向かって突進していった。
色とりどりの髪をワンレングスに垂らした頭部が、視界一杯に映った。
その髪の下に、見知った顔があるのを、ふいに悟ったとき、小柄な人影の振るったバターナイフが、深々とミンチの胸に潜り込んでいた。
レアは呆然となって、ぐったりと寄りかかってくるミンチの体を押し返した。
目を自分のナイフに向け、それから通信機器に向かって、少女の声でわめきちらした。
〈どうなってんのよ! 事件屋をここに閉じ込めたんじゃなかったの? どうして坊やなのよ! ぶち殺されたいわけ? 説明しなさいよ、フレッシュ、このくそ豚野郎!〉
〈心配ないよ〉
〈なに?〉
〈そいつが事件屋だよ〉
レアの顔が、白い肌の下で、みるみるどす黒い血をのぼらせていった。
〈くそハッキング野郎! 生きたまま豚に犯させてやる、くそったれ!〉
レアはひとしきりがなると、急にさめざめと泣きだしながら、倒れたミンチの胸から高電磁《ハチソン》ナイフを引き抜いた。
「ああ、ミンティー坊や、可哀想に。くそったれフレッシュがハッキングに気づかないせいで……ああ、可哀想に」
ふいに、ちりっ、と耳の奥で音を立てて回線が開いた。
〈応答しろ、レア〉
〈ウェル? くそったれな事件屋じゃなくて? 本当に?〉
〈ああ、俺だ。フレッシュが今、全力で回線の復旧を急いでいる。状況は?〉
〈ミンティー坊やが……》
〈やられたのか?〉
レアは答える代わりに、わあわあと声を上げて泣いた。
〈――そうか。ミディとの連絡によれば[#「ミディとの連絡によれば」に傍点]、標的は事件屋と一緒に、地下に逃げたらしい。頑丈なシャッターが閉まっていて、フレッシュに開かせている。お前もそこに来い〉
〈わかったわ。坊やの体も売るの?〉
〈俺たちは完璧な兄弟《ブロー》だ。兄弟を売ったりはしない。俺たちの中でミンチのパーツを身につけたい者だけが、その権利を持つ。だろう〉
〈そうよ。そうですとも〉
レアはナイフを握りしめ、ふらふらと通路を歩き始めた。
〈地下で会いましょう。図面を送ってちょうだい〉
レアの目が赤く光った。涙が零れ、赤い光が反射して血のような色になった。だらりと両腕を下げた姿で体を左右にふらつかせながら歩き、図面通り地下への階段を下った。
〈左にある部屋に入れ。近道がある〉
ウェルダンの声に従い、階段を下りたところで左手に見えたドアを開き、中に入った。
〈鍵を閉めろ〉
その通りに鍵を閉めそうになって、はっと気づいた。
「なんですって[#「なんですって」に傍点]?」
ぎりぎりと歯を噛んで周囲を見回した。無数のロッカーのようなものが部屋の壁一面に並んでいる。明らかに死体安置室の一角で、近道などどこにも存在しなかった。
レアがナイフを握りしめて、歯を剥《む》き出しにして辺りを睨んだ。
その背後で、ドアの電子ロックが勝手に閉まった。慌ててレアが目をやると、電子ロックのディスプレイが、あざ笑うようにでたらめな解除コードを点滅させていた。
幾つかナンバーを押したが、全く反応しない。甲高い声を上げてドアを蹴った。
「なめるな、くそったれっ! どこだっ、ここは! フレッシュ! フレーッシュ!」
地声[#「地声」に傍点]で叫んでいることにも気づかぬ様子で、さらにドアを蹴り続けた。
〈始生代の海の中〉
ふいに耳の奥でウェルダンそっくりな声がした。
〈原生代、古生代、カンブリア期、中生代、洪積世〉
レアが部屋を振り返り、呆気《あっけ》にとられた。
〈化石の海の中〉
眼前に、無数の螺旋が浮かび上がっていた。石と化して久しい螺旋の群が、ロッカーで埋まった死体安置室のそこら中に現れ、まるで深海の墓場に沈んだような光景を見せている。
レアはすぐさま手近な壁に向かって、右手のナイフを振るった。
刃の軌跡の通りに金属が熔解し、ごとりと音を立ててロッカーの一部が落ちた。
螺旋の群は崩れなかった。投影装置がどこかにある証拠だった。
「下らない真似しやぁあって! 出てこい、豚野郎! ばらばらにして犯してやる!」
叫びざま、左手を振り拳にして掲げた。その手首で異様に太いブレスレットがちゃらちゃら音を立てて揺れた。と思うと、そのブレスレットが四方に金属片を発射した。
空《くう》を裂く音とともに、辺りで青白い火花が走った。細い糸のようなものがブレスレットの中へと巻き戻され、金属片がかちりと音を立てて収まった。わずかな間を置いて、レアの周囲のロッカーが、幾つもの断片と化して、がらがらと崩れ落ちた。
「ワイヤーカッターだ」
ロッカーの陰から、声がした。
「荷電粒子をワイヤーから放射している。残虐な武器だ」
レアは正確にそちらに向けてブレスレットを掲げ、間髪入れず同じ武器を発射した。
激しい音とともに、青白い閃光が、幾重にも、化石の風景を、引き裂いた。
一瞬、ワイヤーに絡め取られた白い人影が見え、闇に消えた。手応えはあった。
だが途端に、レアの表情が固くなった。ワイヤーを巻き戻す動作が途中で止まったのである。ブレスレットの表示がでたらめに点滅し、操作を受け付けなくなった。
「強力な電磁波か? くそったれ……」
舌打ちしてブレスレットを捨てようとしたとき、いきなり、それが動き出した。
「遠隔操作――」
愕然となるレアの左腕で、ワイヤーが複雑な動きを見せて、絡まり合った。
レアの顔がぞっと青ざめた。次の瞬間、ワイヤーが物凄い勢いで巻き戻され、レアの左腕の、肘から先が、サイコロステーキ並みの大きさに寸断され、宙に飛び散った。
男のものとも少女のものともつかぬ絶叫が、レアの口から迸《ほとばし》った。
レアが転がって、ワイヤーの竜巻から逃れた一方、レアの左腕はワイヤーの動きとともに宙を跳ね、ついにはブレスレットごと火花を散らして微塵に吹き飛んだ。
レアの、灼き切られた腕の切断面から、うっすらと血がにじんでいた。
「殺してやる……」
どす[#「どす」に傍点]の効いた声が、銃声にかき消された。銃弾は、正確にレアの左肩を撃ち抜いた。
もんどりうって倒れながら、レアは手近な引き出し型のロッカーを引っぱり出し、それを盾にした。その間にも、左足を撃たれた。
半狂乱の声を上げながらも、レアの行動は素早く、的確だった。ロッカーを踏み台にして跳び、先ほど手応えのあった辺りで人影が動くのを目の端で捕らえた。
弾丸が宙を迅《はし》り、レアの右肘と右膝にことごとく命中した。だがレアの動きは止まらなかった。そのままナイフを振るった。闇に激しく火花が散った。
刃は、十字に構えられた二つの拳銃の銃身に、きっちりと受け止められていた。
鋼を熔解する激しい火花に照らされて、ようやく互いの顔を認識した。
「全身の筋骨を強化しているのか。多少の銃撃は効果がなさそうだ」
声がした。ウフコックの声だ。だが、レアの目の前にいるのは、チャイルド・ポルノで見た、あの、あどけない少女である。レアは、銃身を、刃で押し切りながら、
「ルーン=バロット……?」
歯を噛んで、その名を口にしていた。その途端――
バロットが、するりと力をそらした。バロットには、どこをどうすれば相手がぐらつくか、手に取るようにわかった。十字に構えた銃が右下へと流され、レアがバランスを崩した。そのまま撃つべきだったが、銃身が半ばまで灼き斬られていて無理だった。
レアは倒れ込みながらも体をひねった。素晴らしい足腰の強靭さだった。
刃の切っ先がバロットの脇腹の辺りへ迅《はし》った。鋭い音とともに激しい火花が散った。
バロットの、左手の銃身が、刃を受け止めていた。
灼熱する刃が、左手の銃身にも、ぎちぎちと音を立てて、潜り込んでゆく。
レアは、訳がわからない、といった表情のまま、バロットの顔を見つめ、
「依頼者そっくりに整形した、事件屋か……?」
どうにか、そう、結論したらしかった。
バロットは応えず、すっと、力を抜いて力を出した[#「力を抜いて力を出した」に傍点]。
レアの刃にこもる力を、柔らかくいなし、闘牛士のように、身をかわしたのである。
レアが、バロットの脇で、たたらを踏み、刃が宙に灼熱の弧を描いた。
その刃が、再び突き込まれるまでの、わずかな一瞬だった。
バロットは、両手の銃に干渉し――操作《スナーク》した。使い物にならなくなった二つの銃が、ぐにゃりと溶け合い、レアが握るのと同じ高電磁《ハチソン》ナイフに、変身《ターン》した。
レアが、刃を振るいながら、呆気に取られた顔になった。
バロットが、刃の機能を発揮させ、レアのナイフを受け止めた。
二つの、高磁圧の刃が衝突し、爆発にも似た火花が、レアとバロットの間で起こった。
その衝撃で、二人の体が、弾き飛ばされた。レアが踏ん張って、刃を逆さに握り直す一方、バロットは、逆に、自分から倒れ込んだ。
レアがすぐさまナイフを振り下ろすのへ、バロットが、ひょいと切っ先を突き上げた。
なんと、二つの刃の尖端[#「刃の尖端」に傍点]が、真っ向から衝突し、火花を散らせて、弾き合った。
バロットが一ミリの狂いもなく、刃の切っ先を、相手の切っ先に、突き込んだのだ。
予想外の衝撃に、レアの手の中から、ナイフが弾き飛ばされた。
刃は、宙を激しく回転し、レアの胸へと、吸い込まれていった。
げっ、とレアが呻き声を上げて後ずさり、ロッカーの並ぶ壁に、背を打ち付けた。
レアの胸に、ナイフが、深く、潜り込んでいる。その柄を握り、慌てて抜こうとするが、高磁圧の衝撃で、指が、宙を泳ぐばかりだった。
そのまま、ずるずるとくずおれた。肉を灼く異臭が、全身から沸き出している。
ひどい臭いに、バロットが顔をしかめた。もう少しで吐きそうになった。
やがて、ごぼごぼと、血が、レアの口元に溢れた。血が蒸発していないのは、ナイフの高磁圧が消えた証拠だった。レアは、瀕死だったが、まだかすかに意識を保っていた。
「建物に侵入したのは、お前を入れて四人だな」
ウフコックが訊くと、レアは、泣くような怒るような顔でバロットを見た。
ふと、その顎を奇妙な具合に歪ませた。ばくばくと口を動かし、かろうじて声が出た。
「豚に犯させてやる……お嬢ちゃん」
低いざらついた、男の声だった。その蒼白のレアの顔に、凄惨な笑みが浮かんだ。
「死の臭いだ。退《ひ》け、バロット!」
突然、ウフコックが切迫した声を上げた。バロットは咄嗟にその意味を悟った。
レアが体内に仕込んでいたのは、通信機器や強化筋肉だけではなかった。
バロットは、大急ぎで跳びしさりながら、全身でウフコックを操作《スナーク》した。ウフコックのほうでも迅速に対応した。刹那、光が爆ぜた。轟音があり、そして爆圧があった。
バロットにとっては、すでに一度、経験した、最悪の光景である。
レアの体が、爆発を起こしたのだ。ロッカーがひしゃげ、天井がたわみ、火炎が燃えさかって化石の映像を消し去り、通路の壁が吹き飛んで廊下が黒こげになった。
その瓦礫の中を、巨大な楕円形の物体が、ぽん、と跳ねて転がった。
真っ白い、ゴムボールみたいな、大きな物体である。それが、宙で、亀裂を浮かばせたかと思うと、中から、膝を抱えたバロットが現れ、床に降り立った。
純白のコートを翻すと、ゴムボールだった物体がするすると回収され、元通り、革下着《ボンデージ》のように、バロットの身を縛り付けた。タイトに。抱くように。
衝撃吸収材がスーツから剥《は》がれ落ち、割れた卵の殻のように、ばらばらと床に落ちた。
「大丈夫か、バロット」
バロットは辺りを見回し、眉をしかめて、ちろちろと燃える火を見つめた。
――もう二度と、火だるまになるのは嫌。
それから、白いシルクみたいな手袋に唇《くち》づけ、自分を完璧に守るこの殻に感謝した。
――最後の一匹は、地下?
「そういう言い方はよせ。楽しんでいるつもりか?」
バロットはかすかに笑った。
――わからない。あなたたちが教えてくれた通りにやってるだけ。
「俺は……」
――もっと、うまく[#「うまく」に傍点]なりたい。さっきみたいに、近づいて。
「接近戦が怖くないのか?」
――今はそうすべき[#「そうすべき」に傍点]なんでしょう?
「そうだが……」
――|煮え切らないひと《ウフコック》。
バロットは、いたずらっぽくその名を呼びながら、もう一方の手袋にも唇づけ、
――大丈夫。心配しないで。うまくやるから[#「うまくやるから」に傍点]。
微笑を浮かべて、そう告げていた。
ウェルダンが地下への階段を降りきり、駐車場への扉の前まで来たとき、ふいに建物全体がぴりぴりと小さく震えた。
〈なんだ、今の振動は?〉
ウェルダンが銃を構えながら訊いたが、フレッシュの返答は困惑していた。
〈変だ。爆弾に似た熱量が検知されたけど、それまで熱探知に全くヒットしていない空間だったんだ。誰もそこにいるはずないのに。相手が仕掛けたトラップが、何かの拍子で作動したのかもしれない〉
〈胸をえぐるような振動だ。誰かが自爆したのかもしれない〉
ウェルダンが囁くように告げた。フレッシュが愕然とした声を返す。
〈そんな――だって、みんなウェルの向かっているところに移動してるんだよ?〉
〈みんな[#「みんな」に傍点]……?〉
〈ミディ、レア、ミンチ……〉
フレッシュが口ごもった。
〈レアの報告では、ミンチはやられたはずだな?〉
〈そうだけど……あらゆる回線からのハッキングは監視しているよ〉
〈ミンチの頭部から発信器を取り出したのかもしれん。そいつが敵だ〉
〈うん……〉
〈あるいは――みんな同じ状態になったのかもしれん〉
〈え?〉
〈まだ開かないのか〉
〈待って、ロックが外れた。すごいセキュリティだよ。こんなにがんじがらめじゃ、日常的に使用するのに、ものすごく不便なはずなのに……〉
ウェルダンはフレッシュの声を無視して、左右に開かれてゆく隔壁を見つめた。
ものすごい壁だった。探知した限りでは核シェルターに匹敵する強度と耐震性だった。
ウェルダンは扉をくぐり、駐車場に立った。何の変哲もない駐車場で、十台くらいは止められそうなスペースが、分厚い柱と鉄骨で区切られている。
搬入用のエレベーターが二つ並んでおり、一方のドアは開け放たれたままだ。
駐車場への出入り口のシャッターは閉じられていたが、先ほど開いた扉に比べたらなんということもなかった。
そのシャッターに気づいた瞬間、ウェルダンはメンバーの集まろうとしている位置を確認するのをやめ、はっと、今入ってきたばかりの扉に目を向けた。
なんということのないドアだった。二十四時間営業のコンビニエンスストアのシャッターのほうがまだ頑丈なくらいの、覗き窓さえついた自動ドアに過ぎなかった。
〈視覚経路にハッキングされているぞ!〉
ウェルダンが脳裏で怒鳴り声を上げた。ほとんど怒り任せにドアを蹴った。
ドアの一方が、大きな音を立ててへこみ、蝶番が弾け飛んで、廊下に転がった。
〈ただの自動ドアだ! 押せば開くようなドアの前で、馬鹿みたいに立ちすくんでいたってわけだ! フレッシュ、メンバーの位置は!〉
ちりっと音を立てて、三方からウェルダンに向かって近づく、青い光点が浮かんだ。
〈フレッシュ!?〉
返事はなかった。
ウェルダンは両手に拳銃を構え、腰をかがめ、壁に肩を押しつけた。
今、来たばかりの階段から、レアを示す光点が、降りてきた。
エレベーターからは、ミディアムを示す光点が、こちらに向かってきている。
奥の非常階段のほうからは、ミンチを示す光点が、ゆらゆら揺れながらやってくる。
「みんなの亡霊《ダミー》か……」
ウェルダンが、憤怒の塊のような声で呟いた。
「屈辱だ! レア! ミディ! いるなら返事をしろ!」
怒鳴りながら跳ね起き、階段を一段一段、降りてくる亡霊に向かって、両手の銃を構え、立て続けに撃った。弾丸が闇の中を迅り、壁を穿って漆喰を剥ぎ取った。
身を転じて階段際から飛び出し、エレベーターと非常階段のほうへ同時に撃った。
銃声がこだまを響かせ、薬莢の跳ねる澄んだ音が余計に虚ろだった。
すぐに弾丸を撃ち尽くした。壁に背をあて、じわじわと壁沿いに進みながら、銃の弾倉《マガジン》を放り出した。素早くコートを左右に開き、脇に吊した予備のマガジンの先に銃底を引っかけ、腹に押しつけるようにして装填する。そのまま引っ張ると、手榴弾のピンでも抜くような音を立ててマガジンが吊し輪から抜けた。
グリップのスイッチを押し上げると、自動的に遊底がスライドして弾丸を装填した。
「こいつでものにしてやるぞ[#「ものにしてやるぞ」に傍点]! どこからでも尻を向けて見せろ!」
叫びながら、両目を眼帯から押し出さんばかりに剥き出し、闇をにらみつけた。
耳障りな音が、それに応えた。ラジオのノイズだった。駐車場の一角で、一台の車のカーステレオが、間延びした音を放ち、そしてその車のライトがともった。
同時に、激しいエンジン音が鳴り響いている。
ラジオのノイズが、猛烈なドラムのビートに変じ、ワイルド・ロックを奏で上げた。
タイヤがコンクリートを擦るけたたましい音がウェルダンに向かって突進してきた。
ウェルダンは壁から跳びすさった。ガソリン車が猛然と突っ込んできた。
ウェルダンの逃げる方向に合わせてハンドルが切られ、サスペンションを軋ませながら、ヘッドライトを禍々しく輝かせて迫った。
「犯してやる《ファック・ユー》!」
ウェルダンが立て続けに撃った。突っ込んでくる車に向かって跳び、異常な跳躍力を見せてフロントガラスから屋根にかけて蜂の巣にし、地面に転がった。
車が壁にぶつかり、フロント部分をめちゃめちゃにして止まった。
ウェルダンは素早く起きあがり、運転席に向かって銃を構えた。
誰も乗っていない。また別の方向でカーステレオが鳴り響き、ヘッドライトが輝いた。
今度の曲は、ヘヴィ・メタルだった。
爆音が轟き、ガソリン車が柱の向こうから走り込んできた。異様な加速だった。
咄嗟に運転席に向かって撃ち込んだが、その車にも、誰も乗ってはいなかった。
ウェルダンは迅速に柱の陰へ駆け込んだ。車は右側のヘッドライトを柱の角にぶつけて粉々にしながら、柱を削り取るようにしてウェルダンを追った。
ウェルダンはそのまま助走をつけて、次の柱に向かって跳ぶと、宙で柱を蹴った。
車はそのまま柱に向かって突っ込んだ。コンクリートが榴弾のようになって飛び散り、鉄筋がフロントと一緒くたになって絡み合うほど歪んだ。ヘヴィ・メタルが鳴り止んだ。
そしてトランス・テクノが響き出した。ウェルダンが着地したとき、また別の車がステレオを鳴らしながら走り込んでいたのだ。ウェルダンが言葉にならない叫びを上げた。
運転席に向かって銃を撃ちながら跳んだウェルダンの右脚を、車体が殴り飛ばした。
ウェルダンの体が宙を舞って地面に叩きつけられた。
柱にぶつかった車と、突っ込んできた車が衝突し、折り重なった。
ウェルダンは顔をしかめて立ち上がり、唾と一緒に折れた歯と血を吐いた。
銃のマガジンを放り出して新たに装填し、赤く光る目で騒然とする闇を睨む。
その眼の端で、白い人影が動くのをとらえた瞬間、ウェルダンは即座にそちらに二つの銃口を向けている。そして、引き金を引くと同時に、向こうからも撃ち込まれていた。
右脚の膝に衝撃が来た。車に撥《は》ねられたほうの脚だった。
がくっとウェルダンの体が傾いだ。そのまま倒れ込むようにして撃ちまくった。
手応えはなかった。代わりにまた弾丸が跳んできて、同じ右膝に当たった。
防弾パッドが砕け、強化された筋骨に穴が空いた。ウェルダンが呻き、柱の陰に這っていった。マガジンを補填する間にも激しく撃ち込まれたが、体には当たらなかった。
ウェルダンが怪訝《けげん》な顔になった。弾丸は、大破した車の一方を狙っていた。
唐突にウェルダンは相手の意図を察した。歯を剥いた。全身をばねのように弾かせ、柱の陰から逃げ出そうとした。
同じ瞬間、弾丸がガソリン車のタンクを穿ち、ウェルダンの後ろで、車が爆炎を上げ、もう一台にも誘爆した。炎と爆風が襲いかかり、防弾コートがずたずたに引き裂かれ、ウェルダンの体は、子供が飽きた人形を放り出すみたいに、壁に叩きつけられた。
それでも両手の銃は離さなかった。全身を何だかわからない破片で細かく切り込まれた姿で立ち上がった。息を荒らげて燃えさかる炎をにらみ、銃を構えた。
途端に炎の向こうから弾丸が跳んできた。
ことごとく防弾コートの裂け目を狙って撃ってきていた。腕を撃たれ、肩を撃たれた。
必死で移動しながら撃ち返したが、相手の銃撃は止まらない。
ふいに、銃弾が変化した。コートの表面で激しい火花が炸裂した。荷電粒子がコートの表面を走り、剥き出しの皮膚を灼いた。
次はライフル弾だった。左の肩胛骨を貫通して壁に穴を空けた。
つづけて、幾つも口径を変えているらしい弾丸がウェルダンの体中で跳ねた。
ウェルダンは雄叫びを上げて、壁から身を離し、渦を巻く炎へ向かって、疾走した。
赤黒い爆腰の向こうで、バロットはまさに欣喜として銃撃し続けていた。
「やめろ、バロット!」
魔法の手袋からは無尽蔵に武器《ブレス》が現れ、まるで吐息《ブレス》のように使い尽くされてゆく。
爆音が轟くたびに、この全ては自分が起こしているのだという快感が込み上げてきた。
それは圧倒的な支配力だった。物事を思い通りに動かし、感情を持つ人間さえも良いように操作する[#「良いように操作する」に傍点]力。これか[#「これか」に傍点]、と思った。男たちはこんな感じ[#「こんな感じ」に傍点]をいつも味わっていたのか[#「味わっていたのか」に傍点]。
この胸の焼けるような甘い思いを、どうして自分も味わってはいけないのか。
なぜ自分なのか――という嘆きに満ちた問いの、裏返った答え[#「裏返った答え」に傍点]こそ、これ[#「これ」に傍点]だったのだ。
かつて虐げられていた自分が、今、最高の快楽を手にしているのだ。
痛烈な、傷みにも似た快感の衝撃とともに、バロットは、そう理解した。
「やめるんだ! バロット、やめろ!」
ウフコックの叫びが、ふいにバロットの耳に届いた。ウフコックはずっと叫び続けていたが、バロットは今初めてそれに気づいていた。銃を撃つたびに衝撃を洩らすようになったせいだった。そのせいで狙いがぶれた。いったいどうしたのかと思った。
ウフコックは震えていた[#「震えていた」に傍点]。今のバロットには理解のできない感情に、おののいていた。
「バロット、頼むから俺を濫用[#「濫用」に傍点]するな。基礎戦術を守るんだ――」
――大丈夫。
バロットは、片方の銃を撃つのをやめ、淡く唇《くち》づけ、
――優しく使ってあげるから。私に任せて。
そして、全身の血が酸っぱくなるような支配の感覚を込めて、ウフコックを操作《スナーク》し、
「やめ――」
ウフコックの声を、今度こそ本当に消し去っていた。
改めて両手の銃を操作《スナーク》し、一番撃ちやすいものに変えた。
そのとき、爆煙の向こうから、両腕を交差させたウェルダンが飛び出してきた。
瓦礫を飛び越えて転がり込み、バロットの姿を確かめ、歯を剥いて立ち上がった。
怒りとも笑みともつかない形相だった。赤く光る目をまたたかせ、バロットを見た。
一瞬、沈黙のまま、お互いを見つめ合った。
それから、二人、同時に、両手の銃を、相手に向けた。
バロットは、微笑《わら》っていた。
「駄目だ、通じないよ!」
フレッシュが悲鳴を上げた。トレーラーのコンテナの中だった。
「ウェルの反応がまるで脳死状態みたいになってる! しかもウェルの聴覚から、十種類以上の武器の音紋が検出されてるんだ」
ボイルドはじっとディスプレイを見つめたままだった。フレッシュがわめき、
「敵はたった一人なの? とても信じられない! ウフコックって事件屋は異常人格者だ! サディストだ! ウェルを脳死させて、山のような数の銃で撃ってるんだ!」
「フェティシズムは、本質的に、無力感の代償だ」
ボイルドが唐突に、フレッシュの声を遮った。
フレッシュが、ぴたりとわめくのをやめ、ボイルドの横顔を怪訝そうに見つめた。
ボイルドは言った。
「自己の無力感を埋め合わせる者の戦術パターンでは、ウフコックの術中にたやすくはまる。やはりウフコックがその使い手に戦術を指導しているが、使い手はその戦術の意図を理解していない。これは、特定の保護プランを逸脱した、濫用[#「濫用」に傍点]だ」
「何を言ってるの? 敵は一人じゃないの?」
「敵はウフコックを濫用[#「濫用」に傍点]している。ウフコックはじきに、使い手に対して自己防衛に走るだろう。敵は、最強の武器を失うことになる……」
淡々とした声音《こわね》の底に恐ろしく剣呑《けんのん》な響きがあるのを察して、フレッシュはぶるぶる体を震わせながら、身をのけぞらせた。
「敵は、ドクターの技術によって強化されている。楽園≠フ技術が……スクランブル―|09《オー・ナイン》が、また新しい怪物を、この世に造り出した」
「楽園=c…? 何のこと……?」
ふいにボイルドが懐から長大な拳銃を取り出し、フレッシュはぎょっと言葉をのんだ。
装甲車の鉄板でも撃ち抜けそうなほど巨大な、銀色のリボルバーだった。ゴリラ並みの筋力がなければとても扱えなさそうなほどの凄まじい拳銃である。
ボイルドは銃の弾倉を開き、フル装填であることを確認すると、元に戻した。
「あ、あなたが、行くの――?」
ボイルドが、ふと、フレッシュを見た。それから、静かにうなずいた。
「じゃあ、早く――ウェルがひどいことになってると思うんだ……」
ボイルドは立ち上がり、壁の鍵掛けから、トレーラーの予備のキーを取り外した。
フレッシュが、怪訝そうな顔でその様子を見つめた。
「このトレーラーで……?」
「お前たちの役目は終わった。ウフコックの使い手が、危機に対して、どう行動するかが、知りたかった。間もなく、ウフコックと使い手は、乖離[#「乖離」に傍点]する。もう、十分だ」
重々しい音を立てて撃鉄を起こすと、フレッシュに向けて無造作に銃口を構えた。
フレッシュは、ぽかんとしたまま、ぶるぶる震えていた。
ボイルドが、引き金を引いた。轟音とともに、フレッシュの肩と肩の間に、ぽっかりと空洞が生まれ、その背後のコンテナの壁が外側にめくれかえっていた。
トレーラー全体がぎしぎし揺れ、目にしみるような火薬の匂いが充満した。
ずるずるとフレッシュの体がくずれおちた。その胸から上が、背後の機材ごと、木っ端微塵に吹き飛んでいる。服がはだけ、沢山の乳房の間から分厚い手首がのぞいていた。
ボイルドは弾丸を一つ装填し直し、コンテナから出た。
長大なコンテナに沿って歩き、トレーラーの運転席に座り、キーを差し込んだ。
「俺が行く。俺がお前を手に入れる――ウフコック。お前は道具なのだから」
キーをひねり、エンジンが震え、ボイルドは静かにアクセルを踏んだ。
「犯してやる《ファック・ユー》!」
ウェルダンが叫んだ。まるで号令だった。両手の引き金を引いた。バロットもほとんど同時だった。立て続けで、そして止まらなかった。弾丸同士が宙で衝突して粉々になり、あるいは跳弾となって駐車場のそこら中を迅《はし》った。
ウェルダンが歯を剥き、撃ちながらバロットに近づいていった。バロットが右に動いた。それに合わせてウェルダンも右に走る。互いに間断なく撃ち続け、そしてあるとき一方にだけ休止符が置かれた。ウェルダンの銃が両方とも空になったのである。
そのままお互い柱の陰に潜り込んだが、弾丸を補填したのはウェルダンだけだった。
バロットは柱の陰に入った隙に、両手の銃を操作《スナーク》し――溶け合わせた[#「溶け合わせた」に傍点]。
ぐにゃりと二つの銃身が歪んで、一回り大きな銃に変身《ターン》した。両手の手袋とグリップがぴったり一体化し、左手で撃って右手で支える、完璧な手の形になった。
そのまま柱の陰から走り出て、ウェルダンの側面に回り込み、ぴたりと銃口を向けた。
ウェルダンが声にならぬ叫びを上げた。ふりかざそうとした右手に弾丸がヒットした。
手の甲に一発、銃身に一発、撃鉄《ハンマー》に一発、肘に一発。流れるように撃たれた。
補填されたばかりの弾薬が、穿たれたグリップの中で炸裂した。銃が吹き飛び、右手の指が消えてなくなった。銃の破片が、ウェルダンの顔半分を赤黒い色に塗り替えた。
ウェルダンが左手の銃を突き出し、一瞬で、補填した半分を撃ち尽くした。
だがバロットは避けようともしなかった。顔面に飛来した弾丸にだけ、弾丸を当てて弾いた。それ以外は純白の完璧なドレスが防ぐに任せた。胸元に二発、腰に一発。衝撃のほとんどが殺され、弾丸はその素肌にさえ触れなかった。
こんなものなのだ[#「こんなものなのだ」に傍点]。お前は[#「お前は」に傍点]。大声でそう叫んでやりたかった。
徹底的に相手を罵倒し、うち倒したかった。相手の一切の精神を否定し、その気位《きぐらい》も幸福感も全て、どろどろの暴力で真っ黒に塗りつぶしてやりたかった。そうすべきだったし、そうすること以外に何も思いつかなかった。バロットはまっすぐウェルダンに向かって歩み、ありったけの情念をもって弾丸を撃ち込んだ。
弾丸は一発として外れなかった。ウェルダンの脚を撃ち、肩を撃ち、腹を撃った。
――犯してやる《ファック・ユー》!
バロットが、声にならぬ声で叫んだ。
――犯してやる《ファック・ユー》!
その思いは、そのままウフコックに流れ込み、銃弾となって吐き散らされた。
――犯してやる《ファック・ユー》!
ウェルダンは柱を背に負ったまま、されるがままになって手足を突っぱねている。
それでもなお左手の銃を懸命に構えようとした瞬間、バロットがその股間をずたずたに撃ち裂いた。ウェルダンが泡を吹き、あらぬ方角に向けて撃った。
硝煙が換気扇のないプールバーの煙草の煙みたいに立ち込めていた。
薬莢が地面に跳ねて陽気で楽しげなリズムを奏で続けた。ウェルダンは背後の柱を赤い染みで濡らしながら、ずるずる倒れていった。その間も立て続けに撃ち込んだ。バロットは正確無比に弾丸を操作し、ウェルダンを操作し、ウフコックを操作した。
ふと、汗だくになって、バロットは手を止めた。
手首の筋が、じんじん痺れていた。
銃の衝撃がほとんどそのまま手に返ってきていたのだ。ウフコックの声が聞こえないことに気づき、自分がそれを力ずくで押さえつけていることに、今さらのように気づいた。
バロットは、全身の力をゆっくり抜いていった。目が煙でちかちかしてよく見えない。
駐車場の電灯や、エアコンを操作《スナーク》しようとして、ほとんど機能しないのを悟った。
あちこちで何かが燃えていた。バロットはその場から後ずさり、瓦礫の光景を見た。
駐車場が廃墟と化し、柱を失った辺りの天井が崩れ、一階の部屋の中身がぶちまけられている。ドクターの研究室もそれに巻き込まれていた。ふとバロットは見知った水槽を発見した。バロットの声を元に戻すのだというドクターの言葉が脳裏でよみがえった。
水槽は粉砕され、コンクリートの破片と一緒に焦げついていた。
ふいに硝煙が晴れた。バロットは、ほとんど初めて相手の姿をまともに認識した。
全身穴だらけの男が身じろぎしている。標的[#「標的」に傍点]としてしか認識してなかった男――命を持っている相手であることさえ忘れていた。赤黒く灼けた無数の傷口がそれを思い出させた。
途端に、ものすごい虚無感が背後からひたひたと押し寄せてきた。
その足音は恐ろしかった。空間認識も、電子的な干渉も、何の役にも立たなかった。
――ウフコック。
バロットは手にした銃に干渉した。それまでとは違い、必死で呼び戻していた。
――返事をして。ウフコック。助けて。
焦燥があった。我を忘れて握りつぶしてしまったものを元に戻そうとするようだった。
バロットは、砕いた卵の中身をかき集めるようにウフコックを呼んだ。
ぐにゃりと両手で握った銃がゆがんだ。ぴったり一つになっていた手袋が二つに分かれ、その間から、ふわふわの黄金色の体毛が現れた。
――ウフコック。
げえっとくぐもったうめき声がした。ウフコックが四肢を痙攣させ、バロットの手の上で苦しげに身をよじった。自分が撃った男みたいに。その途端、ウフコックが吐いた。
その小さな体で、と思うほどの大量の吐瀉物がバロットの手袋の間からしたたった。
――ウフコック? ウフコック? どうしたの?
バロットの目に涙がにじんだ。ウフコックがまた吐いた。それから荒い呼吸を繰り返すと、絞り出すような声で言った。
「放してくれ」
バロットはその言葉の意味を受け止め損ねた。逆にウフコックを胸に抱こうとした。
するとウフコックは首をよじってそれを拒み、
「触らないでくれ……頼む。降ろしてくれ……」
また、げえっと吐いた。
バロットは馬鹿みたいに呆然と突っ立っていた。どうすれば良いかわからなかったし、それを教えてくれるはずのウフコックは必死にバロットの手から逃げようとしていた。
バロットは懸命になってウフコックを押さえつけ、四肢を指の間にとどめようとした。
「やめろ[#「やめろ」に傍点]。俺に構うな[#「俺に構うな」に傍点]」
バロットは必死でかぶりをふった。みるみる両目に涙が溢れ、こぼれ落ちた。
自分が突き飛ばされて暗いところへ放り出されるような感覚から、必死で逃げ道を探し、手の中でのたうちまわるウフコックにすがった。
ウフコックがひときわ大量に吐き、死んだようにぐったりとなった。
バロットは、じっと黙ってウフコックの言葉を待った。
もの凄い恐怖があった。自分が否定され、拒まれる言葉を投げつけられるのだと思った。涙が溢れた。それでもウフコックの言葉を待つしかすべがなかった。
だが、ウフコックは、それとはまた違うことを告げようとしていた。
「やつ[#「やつ」に傍点]が来る……」
ウフコックが、か細い声で、言った。
「屋上に行くんだ。ドクターが……早く」
バロットは混乱した頭でその言葉の意味を考えた。どうやってウフコックに謝るべきかを。まるでちぐはぐな思考が次から次へと駆けめぐっていった。
そしてふと、大きなものが近づいてこようとしているのが、察知された。
はっと顔を上げた。いつの間にか涙が止まっていた。とてつもない質量を持ったものが、一直線に駐車場のシャッターに向かって突っ込んできていた。
明らかに脅威だった。バロットは反射的にウフコックに干渉し――操作《スナーク》しかけた。
ウフコックが苦悶の声を上げた。その声を、けたたましい破砕音がかき消した。
シャッターが爆発したように吹き飛び、巨大なトレーラーが駐車場に躍り込んできた。
柱を粉々に打ち砕いて火花を散らせながら走り込み、トレーラーはジグザグに揺れながら壁を削り取り、瓦礫に乗り上げた。接続部分の金属がへし折れ、コンテナが振り回されてウェルダンの倒れ込んだ柱に突っ込んだ。ウェルダンの肉体は、銀色のコンテナとコンクリートの間で風船のように弾けて消えた。
バロットはウフコックを抱え、壁に背をつけながら、燃えさかる炎の中に突如として出現した怪物のようなトレーラーを見つめた。
ちりちりと空気が緊張していた。その運転席で、大きな男が席を離れるのが見えた。
ドアが開く音がし、ちろちろと火がゆれる瓦礫の上を歩いて、男はやってきた。
「逃げろ……」
ウフコックがかすれた声を出した。
だがバロットは、食い入るように男を見つめたまま、そこを動こうとしない。
恐怖のせいではなかった。先ほどのウフコックとの間に起こりかけたことに比べれば、なんの恐怖もない。それどころか、どこからともなく沸き上がる昂揚さえ感じていた。
男の頬を、火の明かりが照らした。のっぺりとした大男だった。
道路で、法廷で、バロットを脅した[#「脅した」に傍点]男だ。名はディムズデイル=ボイルド――先ほど蜂の巣にした男を踏み越え、さらなる脅威として自分を襲おうとする[#「襲おうとする」に傍点]相手だった。
「お前は、武器を知らない者の手に握られるべきではない、ウフコック」
ボイルドが、言った。ウフコックが、バロットの手の上で、身を起こし、
「この殺し屋たちの次は、お前が直接、手を下す気か。お前も、殺し屋たちも同じだ、ボイルド。いつまでも、自分たちの中だけで戦争を続けている」
「俺の手に帰れ、ウフコック。お前は、もっと有効に使われるべきだ」
バロットがボイルドを睨んだ。ボイルドはバロットを見てもいなかった。
「有効だと! お前が俺を使って何をしたか[#「お前が俺を使って何をしたか」に傍点]、忘れたのか!」
ウフコックが怒鳴った。バロットが聞いたことのない、怒りに満ちた声音だった。
「同じことだ、ウフコック。その娘の手も、俺の手も、求めるものは何も違わない」
ボイルドが眠るような昏《くら》い目で、うっそりと言った。ウフコックが、呻いた。
「彼女は、違う」
それを聞いて、バロットはなぜかとても悲しくなった。
そのバロットに、ウフコックが囁いた。
「逃げるんだ、バロット。ここは撤退を優先して……」
バロットは、まっすぐボイルドを見たまま、かぶりを振った。
――いや。戦う。逃げたくない。
「駄目だ、こいつは……」
――この人は、私を脅かした。戦わなきゃいけない。
ボイルドが、すっと手を懐に入れた。
「ボイルド、待て――」
バロットが、反射的に、ウフコックに指をからめ――操作《スナーク》した。
「バロット!」
――お願い。わかって。
目の前のボイルドという男は、バロットに、生きる希望さえ失わせるほどの恐怖を与えた男だった。その男を前にして、しかもウフコックとのことまで言われて、後に退けるものではなかった。ここで逃げては、二度と立ち直れない気さえしていた。
だが必ずしも、それが、正しい答えとは限らなかった。
ウフコックが、バロットの意志に押さえられるようにして、変身《ターン》した。
同時にボイルドも銃を抜いた。六発入りのリボルバー――手のひらサイズの戦車砲みたいな銃だった。それが、猛然と火を噴いた。全く同じ弾道でバロットも撃った。
宙で壮烈な火花が散り、バロットの撃った弾丸は粉々になって、かろうじて相手の弾丸をはじき、弾道をそらした。一瞬後、壁を穿つ、重く、たまらない音が響き渡った。
壁を貫通しかねないほどの銃弾であった。
ボイルドが、さらに撃った。事前に銃の角度を読んで横っ飛びにそれをかわした。
すぐ背後で、壁に大きな亀裂が走り、空気が弾丸の焦熱に渦を巻いていた。
バロットは慌てて撃ち返しながら走った。ボイルドは、一歩としてその場を動かず、無造作に撃ってきた。これまでの相手とは違い、一発一発に、異様な重圧《プレッシャー》があった。
うっかりすると、たった一発で丸ごと自分の存在を消されてしまいそうだった。
バロットはその圧迫感から逃れるように、相手から最も撃ちにくいほうへと走り、何発も撃ち返したが、ボイルドの淡々としたリズムに変化はなかった。
何かが変だった。バロットは慎重に相手を牽制しながら、柱の陰に入った。
銃弾が撃ち込まれ、思わずその場を飛び出したくなるほどの震動が、柱全体に走った。
そしてそこで、ボイルドの弾丸が尽きた。
バロットは即座に柱を出て、男めがけて可能な限り連続で撃ち込んだ。
衝撃がウフコックの内部で吸収しきれず、両手が痛んだ。
ボイルドはその場を動かず、冷ややかな手付きで薬莢を捨て、弾丸を装填している。
動いたのはバロットが放った弾丸のほうだった。
ことごとく軌道がそれ、ボイルドの背後の瓦礫に火花を散らせた。
バロットが、呆然となって、撃つ手を止めた。ボイルドが、バロットの顔を眺め、
「俺について、何も聞かされていないのか?」
銃を横ざまに振りながら、言った。力強い音を立てて、弾倉が、銃身に戻った。
「俺も、お前と同じ、禁じられた技術によって造られた、怪物だ」
ボイルドの頬が、奇妙に歪んだ。闇の底からこちらを覗き込むような笑みだった。
バロットの全身に、どっと、冷たい汗が浮かんだ。膝が震え、銃口がぶれた。
ボイルドの手が上がった。極めて無造作に、巨大な銃口を、バロットに向けていた。
心底、ぞっとした。バロットは無我夢中で柱の陰に飛び込んだ。
その柱が、根本から揺れるほどの銃撃が、叩き込まれた。
バロットは、自分の力を発揮した。ほとんどそれにすがっていた。
駐車場の一角で、エンジン音が鳴り響いた。けたたましくタイヤを擦りながら、バロットに操作《スナーク》されたガソリン車が、ボイルドに向かって、疾走した。
それでも、ボイルドは動こうともしない。
バロットの心に、初めて戦いの恐怖が押し寄せてきていた。バロットは柱の陰にうずくまったまま必死に喘ぎながら、ガソリン車をボイルドに突っ込ませた。
ふいに、ボイルドの姿が、バロットの空間認識の中から、消失した。
車は猛スピードで瓦礫に乗り上げ、宙を舞ってトレーラーのコンテナに突き刺さった。
バロットは、反射的に柱の陰から出て、その光景を見た。
ボイルドの位置を、全身で感じた。すぐにわかった。だが、到底、信じられなかった。
ボイルドは、天井にいた。
バロットが愕然として見上げると、ボイルドは、そこに立って[#「立って」に傍点]、こちらを見ていた。
そのコートの裾さえ逆さま[#「逆さま」に傍点]になって、かすかな風になびいている。ボイルドが、静かに天井を歩き出した。パイプや電線を避け、そして、バロットに向けて銃口を構えた。
「逃げろ……」
苦しげなウフコックの声が聞こえた。バロットははっと我に返り、慌てて身をよじった。と思うと、いきなり真後ろから衝撃が来た。一瞬、息がつまった。バロットはつんのめるようにして転がり、つづけて、弾丸が自分の胸元に当たるのを感じた。衝撃が吸収し切れず、骨が軋み、内臓が圧《お》されて縮む音さえはっきりと聞こえた気がした。
バロットの身が、数メートルの距離をすっとんでいって、壁にぶつかって止まった。
バロットの唇から、大量の唾液が零れ、腿の上でしたたった。
かろうじて、手にした銃を落とさずにいられた。
肩で息を切らせて立ち上がり、ボイルドの姿を視認した。
ボイルドは、天井から柱へと[#「天井から柱へと」に傍点]歩いてくるところだった。まるで地続きの地面を歩くように。そして右脚を柱の側面につけたまま、地面に足を伸ばした。
ボイルドが、両脚とも地面に降り立ち、静かに、バロットを見た。
恐怖がバロットを動かした。手にした銃を滅茶苦茶に撃ちまくった。だがボイルドは微動だにしない。狙った弾丸は、全て軌道を外れ、地面や壁に跳弾するばかりだ。
ふいに――バロットの手の中の銃が、弾丸を放つのを止めた。引き金の奥で何かが絡まったようだった。軋むような音が、銃――ウフコックの内部で、響いた。
引き金がびくとも動かなくなり、手にした銃から、ウフコックのうめき声が聞こえた。
「乖離[#「乖離」に傍点]したか……」
ボイルドの冷ややかな声に、バロットが、凝然と身をすくませた。
「道具を濫用[#「濫用」に傍点]する者への、自己防衛だ……ウフコックは、お前を拒否した[#「お前を拒否した」に傍点]」
その言葉は稲妻のようにバロットを打った。これまでの人生で聞いてきた数々の汚い罵りの中でも、最も酷かった。最も恐ろしく、屈辱的で、そして救いようがなかった。
ボイルドが、静かにこちらに銃を向けた。機械的な殺意のこもった銃口の闇の向こうから、これは全てお前のせい[#「お前のせい」に傍点]だという声が聞こえてきた。悪い子だ[#「悪い子だ」に傍点]。お前は悪い子だ[#「お前は悪い子だ」に傍点]。腐った場所へ再び放り出される絶望がバロットを襲った。|天国への階段《マルドゥック》を必死に上ろうとして、自分から足を踏み外した。それはそういう絶望だった。
――死にたくない。
涙が溢れた。こんな心のまま、こんな自分のまま死にたくなかった。
ボイルドの指が、冷ややかな動作で、引き金を絞りかけた、その瞬間、
「違うぞ、ボイルド――」
ウフコックが、言った。
ボイルドの表情が、かすかに強張《こわば》った。
同時に、ウフコックの――銃の内部で、幾つもの澄んだ音がした。
軋み合っていたものが正しく噛み合い、構造のずれが正しく修正される音だった。
ボイルドが、目を見開き、引き金を絞った。
轟音が迫る一瞬前、バロットは、反射的に、正しくウフコックを操作《スナーク》した。
立て続けに撃ち放ったバロットの弾丸が、正確にボイルドの弾丸の軌道を逸らした。
逸らされた弾丸が、バロットの頭上で、壁に突き刺さった。壁全体がひしゃげるような衝撃が爆ぜ、ばらばらとコンクリートの破片が降り注いだ。
続けて、バロットが、ボイルドに、狙いをつけたとき――
「やめろ。無駄だ、バロット」
ひょいと、銃が、勝手に他に狙いをつけ――素早く撃ち込んでいた。
弾丸はみな、ボイルドの体を避けるようにして逸れた。だがそれが、銃の狙い[#「銃の狙い」に傍点]だった。
ボイルドのすぐ背後で、弾丸が、先ほど壁に突っ込んだガソリン車の燃料タンクを貫いた。一瞬後、タンクが内側から膨れ上がり――爆発した。
無数の金属の破片が飛び散る爆風と炎が、ボイルドの体をあっという間に飲み込んだ。
と思うと、爆煙の中に、ぽっかりと綺麗な空間が生まれ、ボイルドが現れている。
全くの無傷のまま、炎と爆風が吹き荒れる中、ボイルドは、静かに立っていた。
そして、いつの間にか、誰もいなくなった壁を、うっそりとした眼差しで見つめた。
爆発に紛れて、バロットの姿が消えていた。
ボイルドが、エレベーターを見やった。
二つ並んだエレベーターのうち、一方が上へと昇っていくのが表示灯で確認できた。
「なぜ、使い手の濫用[#「濫用」に傍点]を許す……」
低く、押し殺したような声で、点滅する表示灯に向かって、ボイルドが呟いた。
「ウフコック……」
エレベーターの表示灯が、屋上で止まると、ボイルドは、まっすぐ、非常階段のほうへと歩んだ。その双眸が、凄烈な怒りに、光っていた。
――ごめんなさい、ウフコック。行かないで。私の手にいて。
狭いエレベーターの箱の中で、ひっきりなしにウフコックの苦悶の声が上がっていた。
先ほど見せた苦悶よりも、層倍の苦しみに襲われているようだった。
バロットを助け、逃げ道を――このエレベーターに行くよう指示したあと、ウフコックは、息もつけないほどの痙攣に襲われるばかりだった。ウフコックは四肢を露わせ、バロットの手から逃れようとするように、しきりに痙攣し、吐いた。
――ごめんなさい、ウフコック。ごめんなさい。
バロットが、エレベーターの中で、力なく、くたっと両膝を折った。
ウフコックを壊れ物でも持つように両手で包み、肩を震わせて泣いた。
――行かないでウフコック。置いていかないで。お願い。
今こそバロットはウフコックの気持ちを理解していた。それは恐ろしいことだった。
ノーと言えばそれはしないという約束が、最もひどい形で破られたのだ。
まさか自分がそれ[#「それ」に傍点]をするとは思わなかった。なぜ自分が――と思いたかった。いつでも約束を破られてきたのは自分のほうだった。自分はいつでも約束を破られ、なぜそうなのか、自分のどこが悪かったのかと嫌になるほど悩んできた。
想像さえしていなかったのだ。自分から約束を破り、相手を傷つけるなど。
まして自分の信頼する相手をこうも傷つけることなど、あるはずがなかった。
「一種の、拒絶反応だ。使用者の、濫用[#「濫用」に傍点]に対する……」
ウフコックが、ぐったりとなって、荒い呼吸を繰り返しながら、言った。
「廃棄されることへの恐怖が……。心配ない……すぐに治るから」
ふいに、エレベーターが止まった。
虚ろな音を立てて扉が開き、茫漠とした、四角い闇をあらわした。
オレンジ色の明かりが満ちる箱の中から、風が吹きすさぶコンクリートの屋上と、その向こうに広がる街の夜景が見えた。バロットは膝をついたまま、ぼんやりとそれを見た。
何をすべきなのか、まるでわからなかった。どうしたら良いのかもわからなかった。
ひゅうひゅうと声を上げた。声にならない吐息が、ビルの隙間風みたいな荒《すさ》んだ音を立てて吐き出されるのを聞いた。
「……すまない。もう大丈夫だ」
ウフコックが言った。ゆっくりと身を起こし、バロットを見上げた。
バロットの目に、また大粒の涙が溢れた。何かを言いたかった。あらゆる気持ちを伝えたかった。だが、ひどく混乱して何も告げられず、むしろ混乱がウフコックに伝わらないようにするだけで精一杯だった。もうこれ以上、ウフコックを傷つけたくなかった。
「立つんだ……ここにいても、何にもならない。この箱から出よう」
バロットは大きく息を吸った。何度もうなずき、立ち上がって、エレベーターの外に出た。一方の手で涙を拭い、もう一方の手でウフコックを大事に大事に持ち運んだ。
屋上には、何もなかった。これ以上、逃げる場所も、何も。
冷たい夜の風が、いっそうバロットの孤立を強く意識させた。
「……あと少しだけ、ここで、時間を稼ぐんだ。非常階段のシャッターを閉め、エレベーターの動きを止めよう」
ウフコックの言う通り、バロットは、建物のセキュリティに干渉し――操作《スナーク》した。
だが、それで、あの男を止められるとは、とても思えなかった。どんな罠も、あの男を仕留められそうになかった。
「……いざとなれば、やつは、この建物の壁を歩いて[#「壁を歩いて」に傍点]くる。気をつけろ」
――さっきも歩いてた。天井や、壁を。
その光景を思い出して、思わず、ぞっとなった。
――何なの、あれ? 銃も効かなかった。
「疑似重力《アロート》=\―宇宙空間で、単独行動をするための技術だ」
そう、ウフコックは告げた。
「高磁発生装置を脳と四肢に備え、任意の方向に、疑似的な重力を形成する。全方位に、自在に発生させられる重力《フロート》によって、どこでも歩けるし、弾丸の軌道を逸らすこともできる。あの巨大な銃を扱えるのも、重力《フロート》で銃身を支えているからだ。それが、スクランブル―|09《オー・ナイン》の法案が成立する以前、ボイルドが被験体になった技術だった……」
ウフコックが、目を伏せ、呻くような声を零した。
「事前に伝えておくべきだった……俺のミスだ」
――そうしなかったのは、友達だから?
「あいつが動くと決めたときには、独特の匂いがする。プロの兵士が戦いに出るときの、冷静で残酷な匂いが。それを察知したら、あいつの能力を教えるつもりだった」
そして、顔を上げ、バロットを見つめ返し、言った。
「なるべくなら、あいつが、どんな体であるかを、あいつのいないところで話したくなかった。俺が、君の過去や、体のことを、他の誰かに話したくないのと同じで」
バロットは、目を細めた。
――あなたは優しい。
それだけを返した。それしか言葉が思いつかなかった。
そして、その優しさを忘れた自分が思い返され、また涙が溢れそうになった。
ふいに、階下で銃声が聞こえた。時間稼ぎのシャッターが撃ち破られる音だった。
――どこに行けば良いの? もう、どこにも行けない。
バロットは屋上の端まで来て、鉄柵に手をあてた。
「ドクターが来ているはずだ。近くまで。感じないか?」
バロットはふと、夜空を見上げた。雲がゆっくりと動き、鋭い三日月が現れていた。
その夜空の、何処とも知れない彼方で、何かがこちらへと発信していることに気づいた。
「ドクターが、直接、俺の緊急回線に向けて連絡してきている。あと数分だ」
バロットは、じっと空に目を向けた。
天空から降りてくる使者のイメージが思い浮かんだ。いつか施設でひどい目に合っている時期に、そんな夢想をしたことがあるのを思い出していた。どこからともなく舞い降り、自分を救い出してくれる天使の来訪を。それを思うと、なおさら、自分がウフコックを使ってしたことが痛烈に思い返された。それは恥ずかしく、みじめなことだった。
「バロット――」
ウフコックが、緊張した声で呼んだ。
バロットは、はっと非常階段を振り向いた。銃声がすぐ近くで聞こえた。
「やってくれ。俺を使って身を守るんだ」
バロットの手に乗せられたウフコックの小さな体が、かすかに乗えていた。
――あなたを、これ以上、傷つけたくない。
「大丈夫だ。俺は傷つかない」
バロットは眉をしかめた。今すぐ神様か何かに懺悔《ざんげ》したくなった。誰かに、お前は許されると、そう言って欲しかった。
「来るぞ。思ったよりも早い」
ウフコックが厳しい声で告げた。
ぴたりと閉ざされた非常階段のドアの向こう側で、男が歩みきたるのがわかった。
バロットの頬を涙が零れた。そして、ウフコックに干渉し――操作《スナーク》した。
ぐにゃりとウフコックが変身《ターン》した。力強い重みがその手に生えた。しかもそれは、これまで扱ってきたものより、遥かに大きな銃身をしていた。ボイルドの武器に対抗するためだ。それがウフコックの意志であり、バロットの危機感の具体的な形だった。
そして、それだけのものを扱うための処置が、講じられた。グリップの表面がぐにゃりと変身《ターン》し、バロットの左手と銃を拘束するベルトとなった。タイトに縛り付けるベルトに。そして、手首を固定し、衝撃を逃がすための鉄細工が、バロットの手首を覆った。
弾丸が鋼の内部から装填され、音を立てて、ひとりでに撃鉄が引かれた。
同時に、ドアの向こうに、相手の男が立つのがわかった。
ドアの向こうでも、こちらが銃を構えていることがわかっているのだろう。
それが、気配としてわかった。
空気が緊張し、心のささくれ立つような、この世で最も味わいたくない沈黙が流れた。
その沈黙が、にわかに破られた。
最初の銃声は、ほとんど一つに聞こえた。
それから圧倒的な弾数の差が生じた。バロットは一瞬のうちに撃てるだけを撃った。
銃声とともに、空中でけたたましい鋼の衝突音が鳴り響いた。幾つもの弾丸で、相手の、大砲の弾みたいな弾丸を撃ち弾いたのだ。鉄がぶつかりあってひしゃげる、たまらない焦熱の臭いが広がり、硝煙がもうもうと立ち込めてゆく。
相手からの銃撃がやむとともに、手を灼くような熱を、弾倉ごと捨てた。
そこからさらに撃ち続けるうちに、衝撃が、バロットの両手に響き始めた。
弾丸を内部から装填するために操作《スナーク》し――ウフコックが懸命になって、激しい拒絶の気持ちを飲み込み、バロットを守ろうとしてくれているのがわかった。
バロットもまた、ウフコックにそうさせるために、絶えず干渉し――操作《スナーク》し続けた。
引き金を引き、電子反応で弾丸を発射させる間も。ウフコックの心をねじ曲げ、抑圧した。バロットの目に涙が溢れた。視界がぼやけ、ただ感覚だけで撃った。
あまりの悲しさに、急に足に力が入らなくなり、ふいにかくんと膝が曲がった。そのまま腰が落ち、尻をぺたりと屋上につけてしまった。それは愚かなことだった。膝を折って座り込んだままの姿勢で、バロットは両手で銃を突き出すようにして撃ち続けた。
ずたずたに引き裂かれたドアの向こうからは、ボイルドの銃撃が、重苦しいほどに容赦なく襲いかかってくる。バロットは、ウフコックを握りしめ、一層、操作《スナーク》の力を強め、くしゃくしゃの顔で泣きながら撃った。そうしなければ自分の命がなかった。そうまでして我が身を守ろうとする自分が悲しく哀れだった。
ふいに、自分のすぐ横の屋根が、爆発したように砕けた。
バロットは自分が狙いを外し始めているのに気がついた。それはどうしようもないことだった。焦りとは裏腹に息が切れ、体のリズムが狂っていった。重圧に耐えられなくなり、気持ちが乱れた。悲しさで胸がつまり、ボイルドの優勢を導いた。
完全に狙いが逸れた。相手の男の位置がどんどんぼやけた。相手の狙いがわからなくなり、思わず、恐ろしくなって、相手の死角へ逃げようと、中途半端に腰を浮かした。
それが致命的な過ちとなった。
バロットは、自分が狙い撃ちにされたことを、悟った。
弾丸がまっすぐバロットの顔面を襲った。一瞬だった。手の銃が、ひとりでに跳ねあがった。顔面を防ぎ、銃身の腹がぐにゃりと変身して、分厚い衝撃吸収材になった。
それが、ウフコックの意志だった。
弾丸が、ウフコックに命中し、バロットの手の中で、衝撃が爆ぜた。手を固定していたベルトが弾け飛び、銃が指から離れて、バロットの額をしたたかに打った。皮膚が裂け、血がにじんだ。頭がくらくらして、そのまま後ろに投げ出されるようにして倒れた。
銃はバロットをかろうじて守ったが、衝撃で、ばらばらに砕け散った。
破片の一つが、ぐにゃりとウフコックの姿に戻り、苦悶の声を上げた。
バロットは視界の隅に黄金色の体毛をとらえた。懸命に起きあがって手を伸ばした。
ウフコックもまた、必死に苦しみをこらえ、バロットの手に飛び込もうとしていた。
そこへ、痛烈な弾丸が飛んできた。まっすぐ、冷たい殺意を込めて。
あまりの恐怖に、バロットは、一瞬、動くこともできず、石のようにすくみ上がった。
だが狙いはバロットではなかった。バロットの目の前で、弾丸が炸裂した。
屋根のコンクリートごと、それが、吹き飛ばされていた。コンクリートの破片が飛び散り、何か柔らかい塊が飛んできて、バロットの胸元にぶつかって、跳ねた。
バロットの白いコートの上を、ウフコックの赤い血肉が、まだらに飛び散っていた。
「バロット……」
ウフコックの声がした。バロットは、呆然と、声の主を探した。
「俺を変形させろ、早く」
弱々しく、切迫した口調だった。バロットはようやく、ウフコックを見つけた。
たった今、胸元にぶつかって跳ねたのが、それ[#「それ」に傍点]だった。
バロットはその姿に頭を殴られたような衝撃を受けた。腰から下がずたずたになったウフコックが、ずるずると這い、バロットに向かって手を伸ばしているのだ。
バロットが、悲鳴を上げた。だが実際は、ひゅうひゅうと掠れた息が漏れただけだった。泣きながら、慌てて、ウフコックをすくい取った。
刹那、弾丸が飛来した。右の二の腕に、ずんと衝撃が来た。
一瞬、腕がもげたのかと思った。それほどの衝撃だった。
ついで、脇腹に同じ衝撃がきた。全身が宙に浮いた。息がつまり、上下の感覚が消えた。意識が遠のいたが、メイド・バイ・ウフコックの殻は最後までバロットを守った。
屋上の鉄柵に肩からぶつかって止まった。屋根に投げ出され、コンクリートにこめかみを打ちつけたところで意識が元に戻った。
先ほど切った顔の傷から血が流れ、右目の視界が、真っ赤に染まった。
格好の的だったが、それ以上の銃弾は飛んでこなかった。
代わりに、大きな男が、銃撃でずたずたになったドアの陰からゆっくりと姿を現した。
ボイルドは、なめらかに、まるで急ぐふうもなくこちらへと歩み寄った。
「この銃はお前だ」
ボイルドが、離れたところで立ち止まり、言った。
「あのときの[#「あのときの」に傍点]お前だ。お前は、この世により多くの虚無を生み出すために造られた。俺とともに。それが結局、俺たちが何であるかという議論の、結論だ」
十分な距離だった。言葉を放つのにも、弾丸を放つのにも、適度な位置だった。
ボイルドが、銃の弾倉を空けた。灼けた薬莢が屋根に散らばった。銃に弾丸を込め直す指も、銃身を握る指も、どこもかしこも、火傷で火膨れになっていた。
弾倉が、音を立てて元に戻された。灼熱の銃を握りしめ、銃口をバロットに向けた。
バロットの左手が、柔らかなものに触れていた。そちらを見ずともそれが何であるかわかった。それが、どうしようとしているのかもわかった。血のぬめりを指の間に感じた。その暖かさをもっと感じたくて目を閉じた。
ボイルドが、撃鉄を起こす音が聞こえた。
刹那、バロットが、手にしたウフコックを――変身《ターン》した銃を、振りかざした。
二つの銃声が同時に響き渡り、暗闇に、かっと火花が走った。
バロットとボイルドの間で、二つの弾丸が真っ向から衝突し合い、粉々に砕け散った。
バロットの手に、暖かい感触があった。握った銃の、あちこちから血が流れ、バロットの左手を濡らし、雫《しずく》となって滴《したた》っていた。
バロットは、赤い血を流す銃を、泣きながら握りしめ、引き金を引き続けた。
死なないために――生き残るために。
[#地付き]To be continued――
[#改ページ]
後書き
初めましての方も、大変お世話になっておりますの方も、こんにちは、冲方《うぶかた》です。
このたびこうして早川書房から、待ちに待った当作品の刊行と相成りました。
まず最初に、SFマガジン編集長と、ここに辿り着くまでにお世話になった、多数の編集諸氏[#「多数の編集諸氏」に傍点]に、厚く御礼申し上げます。
と言うのも――今作の最初の一行を書いたのが、忘れもしない『レオン/完全版』を新宿で観た日のことで、そのときは確か原稿用紙五十枚ほどの短篇を考えておりました。
それが、どう書式を間違えたものか、いつの間にか千八百枚を超えていたのです。
なぜ――? 編集・友人・作家仲間、みなさんそう言いたげでした。もちろん書いている本人は、書いている最中はもう書くしかないと思いながら書いているので、なぜと考えもせず、疑問さえ浮かばず、書き終わってから、はたと出版に困るという塩梅《あんばい》です。
その後、実に七社十三名の編集氏に出版を打診しては、時が過ぎてゆきました。
やがて『ファントム・メナス』で成長したナタリー・ポートマンに再会し、『あなたのために』ではついに出産し、『クローンの攻撃』ではダースベイダーと草原で語らうなど、思わず巻き戻したくなるような時の経過を感ずるにつれ、つくづく、出版とはたやすいものではない――特に枚数が桁違いの場合は、などと思ったものです。
本気で焦ったのは、『マトリックス』のガンアクションを観たときと、マイケル・J・フォックスの声で例の小動物が喋ったときです。その小動物がキュートに車を運転し、飛行機にまで乗って大活躍するなど、観ているほうはスリル満点です。その小動物の体毛が金色ではなく、相手の子役が十五歳の少女でないことを、神に感謝しました。
一方、その間に多くの編集諸氏からご指導頂けたことは、幸福以外のなにものでもありません。全てのご助言を総括しつつ、SFマガジン編集長のもとで、作品をブラッシュアップすることができたというのは、僕にとっては、実に贅沢な書き方であり、実に豪勢な出版過程であり、本当にもう、寿命の続く限り何度でもやってみたいと思います。
そして今――それがそのまま読者の喜びとなるよう、願ってやみません。
では、殻に閉ざされた少女と、煮え切らないネズミの物語を、どうぞお楽しみ下さい。
なお、この第一巻における主な参考文献を、次に明記致します。
『レイプ・男からの発言』ティモシー・ベイネケ ちくま文庫
『東京夜の駆け込み寺』酒井あゆみ 幻冬舎アウトロー文庫
二〇〇三年四月
[#地付き]冲方 丁
[#改ページ]
底本
ハヤカワ文庫
マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮
二〇〇三年 五 月三十一日 発行
二〇〇三年十二月三十一日 二刷
著者――冲方《うぶかた》丁《とう》