阿Q正伝
目次

狂人日記
孔乙己(コンイーチー)
小さな出来事
故郷
阿Q正伝
宮芝居
藤野先生
眉間尺(みけんじゃく)(鋳剣)
解説
あとがき
狂人日記

某君兄弟……今その名は伏せておくが、ふたりとも私の中学校時代の級友である。久しく別れているうち、消息も次第にとだえてしまった。先日偶然そのうちの一人が大病にかかっていると聞いたので、帰郷したついでに、回り道してたずねてみたら、一人にしか会えなかったが、病気になったのは弟の方だということであった。わざわざ遠いところを見舞いに来てくれて済まなかった、しかしもうとうに全快して、某地に行って任官を待っているよ、というわけで大笑いしながら、日記を二冊出して見せ、あのころの病状がよくわかるから、これを旧友の君に差し上げよう、と言った。持ち帰って一読し、その病気が「迫害妄想狂」の類であることを知った。書いてあることは支離滅裂で、順序も何もない。それに途方もない話ばかりである。日付もない。ただ墨つきや字体が色々だから、一度に書いたものでないことがわかる。間々多少連絡のつくところもあるので、いま書き抜いて医学者の研究に供することにした。記事中、言葉の誤りは一字も訂正しなかった。ただ人名はみな村の人で、世間に知られているわけでもなく、さしさわりがあるわけでもないが、すっかり書きかえた。書名は、本人が全快後自分でつけたものであるから、そのままにしておいた。 七年〔民国七年、一九一八年〕四月二日識




今夜は、いい月だ。
おれは三十何年も、あれを見なかった。きょう見たので、気がすーっとした。これまで三十何年もの間、なんておれは馬鹿(ばか)だったんだろうと思った。だがあくまで用心せんといかん。でなければ、あの趙(チャオ)家の犬が、なぜおれをじろじろ見るんだろう?
おれがこわがるのも当然だ。



きょうは全然月がなかった。こいつはまずいと思った。それでけさは用心しいしい外出した。と、案の定、趙貴翁(チャオクイオン)の目つきがおかしい。おれをこわがっているようでもあり、おれをやっつけようと思っているようでもある。そのほかにも七、八人、耳こすりしておれのことを何やらいっていた。そのくせ、おれに見られるのをこわがっていた。中でも特におそろしい顔つきの男は、大口あけて、おれの方を向いて笑いやがった。おれは頭のてっぺんから足のカカトまでひやっとした。奴らの手はずはすっかりととのったんだな、とさとった。
だがおれは平気だ。そのまま歩きつづけた。前方に子どもの一団がいて、やっぱりおれのことを何やらいっていた。目つきも趙貴翁(チャオクイオン)と同じだった。顔色もみなどす黒かった。おれに何の恨みがあって、子どもたちまであんな様子をするんだろう。おれはがまんできなくなって、大きな声で、「何だって言うんだ!」と叫んだ。すると彼らは逃げてしまった。
おれは考えた。趙貴翁はおれに何の恨みがあるんだろう、道で会った連中はおれになんの恨みがあるんだろう。そういえば、二十年前に、古久(クーチウ)先生の古い出納簿をちょっと踏んづけて、古久先生にひどくいやな顔をされたことがあった。趙貴翁は先生に面識はないはずだが、さてはその話を聞いて憤慨し、往来の人にもおれを敵視するようにたきつけたんだな。だが子どもは? あの時分、彼らはまだ生まれていなかった。なんできょうは彼らまで、おれをこわがっているような、おれをやっつけようとしているような、へんな目でにらんだんだろう。これは実際おそろしいことだ。何とも不思議で、悲しいことだ。
わかった。これは彼らの両親が教えたのだ!



夜はどうしてもねむれない。何事も研究しなければわからぬ。
彼ら……県知事に枷(かせ)をはめられたのもいる。有力者に頬(ほほ)を張られたのもいる。下役人に女房を横取りされたのもいる。金貸しに両親をいびり殺されたのもいる。しかし彼らはそんな時でも、きのうのようにあんなにおびえた、物すごい顔は決してしなかった。
ことにおかしいのはきのう往来であったあの女だ。自分の息子(むすこ)をなぐりつけ、「おやじめ!お前に食らいついてやらなきゃ、腹の虫がおさまらない!」と言いながら、目はおれの方に向けて見ていた。おれはぎょっとして、その驚きを隠しきれなかった。すると色の青い、歯をむき出した連中が、どっと笑い出した。陳老五(チェンラオウー)(下男の名)が走り寄り、むりにおれを引きずって家に連れかえった。
引きずられて家に帰った。家の者はみな、おれを見ず知らずの人間ででもあるかのような顔をしていた。彼らの目つきもほかの奴らとまったく同じだった。書斎にはいったら、外からドアに鍵(かぎ)をかけやがった。まるで鶏(にわとり)があひるでも閉じこめるように。なぜこんなことをするのか、おれにはいよいよもって見当がつかぬ。
何日か前に、狼子(ランツ)村の小作人が不作を訴えに来て、おれの兄に向かって話していた。彼らの村の大悪党がみんなになぐり殺され、何人かの者はそいつの臓腑(はらわた)をえぐり出して、油でいためて食ったんだそうだ。それを食うと肝っ玉が大きくなるというのだ。おれがわきから一言口をはさんだら、小作人も兄もおれをじろじろ見た。彼らの目つきが町の連中のそれとそっくり同じであることを、きょうになって気がついた。
思い出すと、おれは頭のてっぺんから足のカカトまで、ぞうっとする。
彼らは人間を食うことができるんだから、おれを食うことができないとはいえない。
そうだ、あの女の「お前に食らいついてやる」と言った言葉も、色の青い、歯をむき出した連中の笑いも、せんだっての小作人の話も、てっきりあれは暗号だったのだ。おれは見抜いた。彼の話の中は毒でいっぱいだ。笑いの中には刀が隠されているのだ。彼らの歯は、全部真白くとぎすまされてならんでいる。あれはてっきり人間を食う道具なのだ。
おれは悪人じゃないつもりだ。だが古(クー)家の帳面を踏んづけて以来、何とも言えなくなった。彼らには何か考えがあるらしいが、おれには全然見当がつかぬ。それに彼らは仲たがいをしたが最後、すぐと相手を悪党呼ばわりするんだから。おれはまだおぼえているが、兄がおれに論文〔官吏登用試験には「策論」といって、学術論文と政治論文(歴史上の人物評を含む)が課せられた〕の書き方を教えてくれた時、どんな善人でも、ちょっとその人間を反駁(はんぱく)するような文句を入れると、兄はすぐそれに圏点(まる)を打った。また悪人を弁護した文句を書くと、兄は「奇想天外、筆鋒(ひっぽう)非凡」などといってほめたものだ。彼らがいったい何を考えているのか、おれに見当がつくわけはない。何しろ彼らは人間を食おうとしている時なんだから、なおさらのことだろう。
何事も研究しなければわからん。昔からよく人間を食ってきた。それは確かな事実だと思う。ただもうひとつはっきりせぬ。そこでおれは歴史を繙(ひもと)いて調べてみた。この歴史には年代がない。斜めにゆがんで、どのページにも「仁義道徳」という字が書いてある。おれはどうせねむれないから、夜中までかかって念入りに見た。すると、やっと字と字のすきまから字が見えて来た。本のどこにもここにも「人を食う」と書いてあるではないか!
本にはこんなたくさん字が書いてある。小作人はあんなことをいろいろ言った。しかもみんながにたにた笑いながら、おかしな目つきでおれをにらみつける。
おれも人間だ。さては、彼らはおれを食おうと思っているんだな!



朝のうち、しばらくおれはじっと落ちついていた。陳老五(チェンラオウー)が飯を運んで来た。野菜が一皿(さら)、蒸し魚が一皿だ。その魚の目が、コチコチして白く、大きな口をあけてる様子は、人間を食いたがっているあの連中とそっくりだ。ちょっと箸(はし)をつけてみたが、ヌルヌルして、魚だか人間だかわからないので、腹の中のものを洗いざらい吐き出してしまった。
おれが「老五(ラオウー)、兄さんにそう言ってくれ。おれは退屈でたまらんから、庭を歩いてみたいんだ」と言うと、老五は返事をしないで、出て行ったが、まもなくまたやって来て、戸をあけてくれた。
おれは動こうともせず、彼らがおれをどういうふうにしてかたづけるのか、研究することにした。彼らは絶対におれを自由にする気はない。それはわかっていた。果たせるかな! 兄貴が年寄りの男を案内して、ゆっくりやって来た。彼の目は兇悪な光りに満ちていた。それをおれにけどられると困るもんだから、下うつ向いて、めがねのふちの上からそっとおれを見てやがった。兄は言った。「きょうはだいぶんいいようだね」おれが「ええ」と言うと、「きょうは何(ホー)先生に診察をお願いしたよ」おれは「それはどうも」と言った。だが実は、このおやじが首斬り人の変装したのだぐらいは、百も承知だ。脈をみるというふれこみで、肉づきのぐあいをしらべようとしているのに間違いない。その手柄によって、自分も一きれの肉の分け前にあずかろうというのだろう。だがおれは平気だ。人間こそ食わないが、肝っ玉は奴らより大きいのだ。二つの拳固(げんこ)を突きつけて、奴がどう出るか見た。おやじは腰かけて、目をつぶり、だいぶん長いことおれの身体をなでまわし、だいぶん長いことぼんやりしていた。それから陰険な目を見開いて言った。「あまりくよくよなさらんで、静かに御養生なさるんですな。そしたらすぐ好くなります」
くよくよしないで、静かに養生しろだと! 養生して肥えたら、奴らはむろんそれだけよけいに食えるわけだ。だがおれには何のいいことがあるのだ。「好くなる」もクソもあるか。あの連中は、人間を食いたがっているくせに、へんにこそこそと人目をはばかって、体(てい)よく隠そうという気があるものだから、思いきって手を下しきれない。いやはや笑止千万。おれはこらえきれなくなって、大きな声で笑ったら、すっかりいい気持になった。この笑い声の中には、無限の正義心と勇気がこもっていることを、おれは知っている。おやじも兄貴も、顔色をかえ、おれのこの勇気と正義心とに気(け)おされてしまった。
だがおれに勇気があればあるで、彼らはいよいよおれを食いたがる。おれのこの勇気にあやかりたいのだろうか。おやじは部屋を出て、いくらも行かぬうちに、兄に向かって小声で、「すぐ召し上がるんですな〔医者は薬を飲むようにといった。それを主人公は殺して食う意味にとった。中国語「喫(チー)」は「食う」意だが、薬を「飲む」意にも使われる〕」と言うと、兄はうなずいた。へえ、あなたも仲間だったんですか。この一大発見は、意外のようだが、まんざら意外でもなかった。仲間を集めておれを食う人間が、おれの兄貴なのだ!
人間を食うのがおれの兄貴だ!
おれは人間を食う人間の弟なのだ!
おれ自身は人間に食われる。しかし人間を食う人間の弟たるに変わりはないのだ!



この二三日、一歩退いて考えてみた。かりにあのおやじが首斬(き)り人の変装したのでなくて、本物の医者であったとしても、人間を食う人間たるに変わりはない。彼らの祖師である李時珍(りじちん)〔一五一八〜九三。明代の学者。その著『本草綱目』五十二巻は三十年にわたる苦心の結晶で、漢方薬研究の書として最も権威あるものとされている〕の書いた『本草(ほんぞう)何とか』という本に、人肉は煮て食えると、はっきり書いてある。自分は人間を食わないと、それでも言えるだろうか。
うちの兄と来ては、まったくそう言われても仕方があるまい。兄はおれに書物の講釈をしてくれた時に、自分の口から、「子を易(か)えて食う〔『左伝』哀公八年(前四八七年)の条に、楚国の軍隊が宋の国都を包囲したとき、極度の食糧難におちいった宋人は子どもを食ったが、自分の子どもは食うに忍びないので、他人の子ととりかえて食ったという記事が出ている」ことができる、と言ったことがある。またいつだったか兄は、ある好からぬ人物について議論したとき、そやつは殺すべきであるばかりでなく、「肉を食らい皮に寝て〔これも『左伝』襄公二十一年(前五五三年)の条に見える。晋の州綽(しゅうしゃく)が斉の荘公に向かっていった語で、相手を極度に憎み、侮辱する時に用いる〕」やるべきだ、と言った。おれは当時まだ小さかったので、胸が小半日どきどきしたものだ。先日狼子(ランツ)村の小作人が来て肝を食った話をした時も、兄はちっとも不思議と思わず、しきりにうなずいていた。それによっても、昔と同じ残忍な考えを持っていることがわかる。「子を易えて食う」ことができるのだから、何でも易えることができ、どんな人間でも食うことができるわけだ。おれは以前はただ兄からむずかしいお談義をきかされるだけでも、頭がぼうとなったものだが、今にして思えば、兄がそんなお談義をする時には、口のはたに人間の油をなすりついていたばかりでなく、心には人間を食おうという考えがいっぱい詰まっていたのだ。



まっくらで、昼だか夜だかわからん。趙(チャオ)家の犬がまた吠(ほ)え出した。
獅子(しし)のような兇暴な心、兎(うさぎ)の臆病、狐(きつね)の狡猾(こうかつ)……



彼らのやり口がわかった。直接手を下して殺すことは、したくないし、またそんな勇気もありはしないのだ。あとのたたりがこわいからだ。だから彼らは互いに連絡を取り、網を張りめぐらして、否(いや)が応でもおれが自殺せねばならぬように仕向けているのだ。早い話が、せんだっての往来での男女の様子や、この往来での男女の様子や、このごろの兄の挙動を見れば、八九分通り察しがつくはずだ。一番いいのは腰帯を解いて、梁(はり)に掛け、自分でしっかり首を締めて死ぬことだ。彼らは人殺しという罪名を負わされることなしに、念願を遂(と)げるわけだから、もちろん大喜びして、エーンエーンとむせび泣くような笑い声を立てることだろう。この自殺でなければ、驚怖と心配のために死ぬことだ。それだと幾分肉は落ちるだろうが、まあまあ行けると御満足いただけるだろう。
彼らは死肉しか食えないのだ!……何かの本で見た記憶があるが、「ハイエナ」というのは、目つきも様子もすごく醜悪な動物で、いつも死肉を食い、どんな大きな骨でも、こなごなにかみくだき、呑(の)みこんでしまうそうだ。思っただけでも恐ろしい。「ハイエナ」は狼(おおかみ)の親戚で、狼は犬の一族だ。このあいだ趙家の犬が、おれをじろじろ見たが、さては奴もぐるになって、前もって話合いをつけていたんだな。おやじは下ばかり見ていたが、ごまかされるおれじゃないぞ。
一番あわれをとどめるのはおれの兄貴さ。彼も人間なのに、どうして少しもこわくないんだろう。しかも仲間を集めておれを食おうとは? やはりこれまで慣れっこになっているので、悪いことと思わないんだろうか。それとも良心がなくなって、悪いと知りながらやっているんだろうか。
おれは人間を食う人間を呪(のろ)うことを、まず兄貴からはじめよう。人間を食う人間を改心させる仕事も、まず兄貴からはじめることにしよう。



だが、こんな理屈は、今日となっては、彼らにもとっくにわかっていいはずだ……
突然、一人の男がやって来た。年はせいぜい二十(はたち)前後、容貌はあまりはっきりしなかったが、にこにこ笑いながら、おれに向かってうなずいた。そいつの笑いも本当の笑いとは思われぬ。でおれがきいた。「人間を食うことだね、そうだろう?」彼はやはり笑いながら言った。「飢饉年(ききんどし)じゃあるまいし、なんで人間を食うもんですか」おれはすぐに悟った。こいつも一味だ。人間を食うのが好きなんだ。そこで思わず勇気百倍、くい下がってたずねた。「そうだろう?」
「そんなことをきいてどうするんです。あなたはほんとうに……冗談がお上手だ。……きょうはいいお天気ですね」
いい天気だった。月も大変明るかった。だがおれはきかねばならん。「そうだろう?」
彼は反対した。あいまいな返事で、「そうじゃ……」
「そうじゃない? じゃ、奴らはなぜいつも食うんかね?」
「まさかそんなことが……」
「まさかって? 狼子(ランツ)村では現に食ってるんだ。それに本にも書いてある。真赤(まっか)で新しい、と!」
彼は顔色を変え、鉄のように青黒くなった。目をみはりながら言った。「あるにはあるかもしれませんね。それは昔からそんなもので……」
「昔からそんなものだって? じゃ、やっぱりそうだろう?」
「あなたとそんな議論をわたしはしたくない。とにかく、あなたは話をなさったらいけません。おっしゃることはみんな間違いです」
おれは飛び上がって、目をあけたら、その男の姿はもう見えなかった。全身に大汗をかいていた。奴はおれの兄よりずっと年下だが、やっぱり、仲間の一人だったのだ。これはきっと奴のお袋やおやじが前から教えておいたんだな。ひょっとしたら、もう奴の伜(せがれ)にも教えているかも知れん。だから子どもまでが、にくにくしげにおれを見たのだ。



自分は人間を食おうと思い、一方また人間から食われはせぬかと思って、ひどく疑い深い目つきで、お互いに相手の顔をうかがっているのだ……
こんな考えを捨てて、安心して仕事をし、道を歩き、食事をし、ねむるのだったら、どんなにのびのびするだろう。それはほんの一つの敷居、一つの峠にすぎない。ところが彼らは、親子、兄弟、夫婦、朋友、師弟、仇敵(きゅうてき)、その他よく知りもしない人とまでいっしょにぐるになって、互いにはげまし合い、互いに牽制し合って、死んでもこの一歩をふみ越えようとしないのだ。



朝早く兄貴に会いに行った。彼は母屋(おもや)の入口の外に立って、空を眺めていた。おれは兄の背後に近寄って、入口のところに立ちふさがり、この上もなく落ち着き、この上もなく物おだやかに、兄に向かって言った。
「兄さん、僕、兄さんに話があるんですが」
「そうか、じゃ話してごらん」彼はすぐこちらを向いて、うなずいて見せた。
「僕、少しお話したいことがあるんですが、どうもうまく話せないんです。兄さん、最初野蛮であった時代には、多分みな少しは人間を食っていたんでしょうね。その後、考えが分かれたため、ある者は人間を食わなくなり、ひたすら仲良くしようとつとめたので、人間になりました、本当の人間になりました。ところがある者は相変わらず人間を食った。……これは虫の場合でも同様で、虫の中の一部は魚、鳥、猿(さる)と変わってゆき、とうとう人間にまで変わっていったのですが、一部は仲好くしようとしないために、今でもまだ虫のままでいるわけです。この人間を食う人間は、人間を食わない人間に比べて、どんなにはずかしいことでしょう。きっと、虫が猿に対してはずかしいと思うよりも、もっともっとはずかしいだろうと思いますね。
易牙(えきが)〔春秋時代の斉国の人。料理の名人で、伝説によると、斉の桓公が嬰児の蒸したのを食ったことがないといったので、彼は自分の子どもを蒸して桓公に献上したという〕が自分の子どもを蒸して、桀紂(けっちゅう)〔夏の桀王と殷の紂王。いずれも古代の暴君。易牙が子どもを献じたのは前注にあるように、桀・紂でなくて、斉の桓公である。時代もまったくちがう上に、ここではわざと桀と紂を一人の人物にしてある〕に食わせたのは、あれはもうずっと昔の事です。ところがいずくんぞ知らんです、盤古(ばんこ)〔中国古代神話に見える世界最初の人間で、天地の創造者〕が天地を開闢(かいびゃく)して以来、易牙の息子まで、ずっと食いつづけて来てるんですよ。易牙の息子から徐錫林(シュイシーリン)〔清末の革命家徐錫麟を指す。彼は魯迅の同郷の先輩で、一九〇七年、安徽(あんき)巡撫恩銘(オンミン)(満州人)を刺し殺したが、その場で逮捕され、恩銘の部下に殺された上、心臓をえぐり取られ、煮て食われた〕まで、ずっと食いつづけて来てるんですよ。徐錫林からまた、狼子(ランツ)村でつかまった人間まで、ずっと食いつづけて来てるんですよ。去年、城内で犯人が死刑になった時には、ある肺病やみの男が、その血を饅頭(マントー)につけてなめました〔人の生血を飲むと肺病がなおるという迷信から来ている〕。
奴らは僕を食おうとしているんです。兄さん一人でも、僕はどうしようもなく困っていたのに。だが何も兄さんまで奴らの仲間入りをすることはないじゃありませんか。人間を食う人間は、どんなことだってしかねないんです。奴らは僕を食うことができるように、あなたを食うこともできるんです。仲間同士で食い合うこともできるんです。ほんの一歩だけ向きを変えさえすれば、今すぐ改めさえすれば、みんなの人が太平になるんです。昔からそうだったとはいえ、われわれはきょうからでも打って変わったように仲好くなって、そんなことはできないと言ってことわればいいんです。兄さん、あなたにはそれが言える、と僕は信じています。だって、このあいだ小作人が小作料をへらしてくれと言ったとき、兄さんはできないとおっしゃっていましたからね」
最初のうち、彼はただ冷笑しているだけであったが、やがて目つきがけわしくなり、おれが彼らの内情をすっぱ抜くと、とたんに真青(まっさお)な顔になった。表門の外に立っていた大勢の者が、その中には趙貴翁(チャオクイオン)とその犬もいたが、恐る恐るあたりをうかがいながら、門の中に入り込んで来た。顔のよく見えないのもいた。布をかぶっているようだった。例の色の青い、歯をむき出した奴もいたが、口をすぼめて笑っていた。見覚えがあった。彼らは同じ穴のむじなで、みな人間を食う奴らだった。もっとも彼らの考えがそれぞれひじょうにちがっていることも知っている。一派は、昔からそうして来たんだから、食うのが当然だと思っている。もう一派は、食うのはいけないと知っていながら、やっぱり食いたいと思っており、そのくせ、人からすっぱ抜かれるのを恐れている。だからおれの話を聞くと、いよいよ腹がたってたまらぬのに、ただ口をすぼめて冷笑したのだ。
その時、兄貴も突然こわい顔をして、声を荒げてどなりつけた。
「みな出て行け! 気違いを見て何がおもしろい!」
その時、おれはまたしても彼らの巧妙なやり口を悟った。彼らは改心する気がないばかりか、すっかり手はずをととのえ、気違いという名まえを考えておいて、おれにおっかぶせたのだ。こうしておけば、あとで食っても、太平無事であるばかりでなく、無理もないと察してくれる人だってあろうというものだ。小作人の話にあった、一人の悪党をみんなで食ったというのも、てっきりこのやり口だったのだ。これは奴らの常套(じょうとう)手段なのだ!
陳老五(チェンラオウー)もプリプリしながらはいって来た。だがおれの口がふさげるものか。おれはあくまでその連中に言ってやった。
「お前たち、改心したがいい。心底から改心するんだ。いいか、いまに人間を食う人間はこの世に容(い)れられなくなるんだ。生きてゆけなくなるんだ。
お前たち、改心しなきゃ、自分も食われてしまうぞ。いくらたくさん生んでも、必ず本当の人間に滅ぼされてしまうんだ。猟師が狼を狩り尽(つく)してしまうようにな……虫けら同様にな!」
大勢の奴らは、みな陳老五(チェンラオウー)に追っ払われた。兄貴もどっかへ行ってしまった。陳老五はおれをなだめて部屋へ帰らせた。部屋の中はまっくらだった。梁(はり)や椽木(たるき)が頭の上でふるえ出した。しばらくふるえていると見る間に、大きくなり出し、おれのからだの上にのしかかって来た。
重いの重くないのって、身動きもできやしない。おれに死ねというつもりなんだな。その重みがまやかしものだと気がついたので、おれはもがいて脱け出したが、びっしょり汗をかいた。しかしあくまで言ってやった。
「お前たち、たった今改心するんだ。心底から改めるんだぞ! いいか、いまに人間を食う人間は、この世に容(い)られなくなるんだ……」

十一

太陽も出ない。戸もあかない。毎日毎日二度の食事。
おれは箸(はし)を取り上げると、すぐ兄貴を思い出す。妹が死んだ原因は、まったく兄貴のせいだと悟った。当時おれの妹はやっと五つだった。かわいい、いじらしい様子が、今なお目の前にちらついている。母はいつまでも泣きやめなかった。そしたら兄貴は母をなだめて泣かぬようにと言っている。多分、自分が食ったもんだから、泣かれるとさすがに少し気がとがめたのだろう。もし今でも気がとがめるようだったら……
妹は兄貴に食われたのだ。母がそれを知ってたかどうか、おれにはわからん。
母も多分知っていたんだと思う。しかし泣く時には、何も言わなかった。きっと、あたり前の事だと思ってたんだろう。たしかあれはおれが四つか五つの時だったと思うが、母屋(おもや)の前で涼んでいると、兄貴がこんなことを言った。親が病気になった時には、子たる者は一片(いっぺん)の肉を切り取り、それをよく煮て親に食べさせなければならぬ、それでこそりっぱな人間と言えるのだと〔以前、中国では、親が病気になったとき、子どもが自分の股の肉を切って食べさせると、病気がなおると信じられていた。昔の孝子伝にはよくその記事が載っている〕。母もそれはいけないとは言わなかった。一片が食えるんだったら、丸ごとだってむろん食えるわけだ。だが、あの日の母の泣き方は、今思い出しても、本当に胸がいたい。まったくこれは、奇怪千万な事だ!

十二

考えることができなくなった。
四千年来しょっちゅう人を食って来た場所に、きょうやっとわかったんだが、おれもその中で長年くらして来たのだ。兄が家のきりもりをやっていた時に、妹は死んだ。兄が飯や料理の中にまぜ、そっとおれたちに食わせなかったとは保証できない。
おれが知らぬ間に、妹の肉の幾片かを食わなかったとは保証できん。今や、おれ自身の番になったのだ……
四千年来、人間を食って来た経歴をもつおれは、最初知らなかったが、今わかった。真の人間はめったに見られるものでないということが。

十三

人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?
子どもを救え……
(一九一八年四月)
孔乙己(コンイーチー)

魯鎮(ルーチェン)〔鎮は行政単位の一つで、町。魯鎮は作者が小説の中でしばしば用いている仮空の町の名〕の居酒屋の構造は、ほかの土地とはちがっていた。みな往来に面して曲尺形(かねざしがた)〔直角に曲がった金属性のものさし〕の大きなスタンドになっていて、スタンドの内側には、いつでも燗(かん)がつけられるように、湯を用意してあった。働く人たちは、午(ひる)や夕方、仕事が終わると、よく四文の銅銭を出して、一杯の茶碗(ちゃわん)酒を買い、……これは二十何年も前のことだ。今では一杯が十文くらいにも値上がりしているだろう、……スタンドの外に寄りかかって立ったまま、あついやつをひっかけながら休む。もしもう一文はずめば、塩筍(しおたけのこ)か茴香豆(ういきょうまめ)を一皿(さら)注文して酒のさかなにすることができた。十何文も出そうものなら、肉料理が一品買えた。しかし大部分のお客は、短い上衣(うわぎ)〔下層階級の服装〕の連中だったから、そうしたぜいたくなまねはまず望めなかった。長い上衣を着た人だけが、店先を通り抜けて奥にはいり、酒よ料理よと注文して、ゆっくり腰をおちつけて飲むのであった。
私は十二歳のときから、この町のはずれにある咸亨(シェンホン)酒店に小僧奉公をした。主人は、お前は気がきかぬようだから、長衣のお客さまの給仕はつとまるまい、表の仕事でもするんだな、といった。表の短い上衣のお客は、心安く相手はできるが、ただ口の中でもごもごいって一向はっきりしないのも少なくなかった。彼らはよく、黄酒(ホアンチウ)〔キビやモチアワから醸造した酒で、白色の焼酎に対して黄色だから。また長く年数をおいたのがよいとされるところから老酒(ラオチウ)ともいう。紹興を本場とする紹興酒(シアオシンチウ)はその代表的なものである〕が甕(かめ)から汲(く)み出されるところを自分の目で見てたしかめようとした。銚子(ちょうし)の底に水が残っていはしないかを見、また銚子を湯の中に入れるのを自分の目でみとどけないと安心しないふうであった。そのように厳重に監督されながら水を割るのは、なかなかむずかしかった。そこで何日かたつと、主人はまた私のことを、とてもこの仕事には向かないといった。幸い紹介者の顔がきいていたため、くびにはならず、けっきょく、酒の燗番(かんばん)というひどく退屈な仕事をあてがわれた。
私はそれ以後、一日中スタンドの内側に立って、もっぱら自分の仕事をした。幸い失業こそしなかったが、かなり単調で、かなり退屈だった。主人は仏頂面(ぶっちょうづら)の男で、客も愛想(あいそう)がわるく、気がめいった。ただ孔乙己(コンイーチー)が店にきたときだけ、少し笑うことができた。それで今でもよくおぼえている。
孔乙己は立ちながら酒を飲む、長衣を着た唯一の人であった。彼はひじょうにせいが高かった。青白い顔色をして、しわのあいだによく傷があった。モジャモジャのごま塩のあごひげ。長衣を着ているとはいうものの、それが垢(あか)じみて破れていて、十何年つくろったこともなければ、せんたくしたこともないようであった。彼が人に向かっていう言葉は、みな文章語で、半分以上はチンプンカンプンであった。彼の姓が孔(コン)というところから、人々は習字手本にある「上大人孔乙己」〔昔、塾で用いられた手習草紙の文句。「上大人孔乙己化三千七十士爾小生八九子佳作仁可知礼也」と楷書で書いて赤色に印刷したもの。子どもはその上を墨筆で一字一字なぞってゆくのである。この文句は三字ずつで一句を成しているようであるが、全体を通しての意味はよくわからない〕というわかったようなわからぬような文句から取って、彼に孔乙己(コンイーチー)というあだ名をつけた。孔乙己が店に姿を見せると、酒を飲んでいる人々はみな彼を見て笑い、あるものは「孔乙己、お前の顔にまた生(なま)傷がふえたな!」と叫んだ。彼は返事もせず、スタンドの中に向かって、「酒を二本燗(かん)つけてくれ、茴香豆(ういきょうまめ)も一皿(さら)な」といって、大きな一文銭を九枚並べた。彼らはまたわざと大きな声でわめいた。「お前きっとまた、よその物を盗んだんだな!」孔乙己は目を大きく見はって、「お前はなんで根も葉もないことをいって人の清浄潔白をけがすのか……」「何が清浄潔白なものか。おれは二、三日前、たしかにこの目で、お前が何(ホー)家の書物を盗んで、釣り下げられて打たれているところを見たんだぞ」孔乙己はぱっと顔を赤くして、額(ひたい)に何本も青筋を立てて、弁解する。「書物を盗むのは盗みの中にははいらぬのだ。……書物を盗む……読書人のすることだ、盗みとはいえんよ」あとはつづけてわかりにくい言葉で、「君子固(もとよ)り窮す〔『論語』に見える孔子の言葉。りっぱな人間はどんなに困った境遇におちいっても、決して自分の節操を曲げたり、品性をおとすようなことはしないという意〕」とか、「なりけり」「あらんや」のたぐいの文章語で、人々はどっと笑いだし、店の内外に愉快な空気がみなぎるのだった。
人々がかげでうわさしているのを聞けば、孔乙己ももともとは学問をしたことがあるのだという。しかし結局秀才〔清朝時代の官吏登用試験(いわゆる科挙)では、まず県試・府試・院試と三段階十数回の試験を経て、これに合格した者は、府県学に入学を許可され(入学といっても、毎日通学するわけではない)、「生員」または「秀才」と呼ばれる。これだけではまだ官吏にはなれないが、社会的には十分名誉ある有力な資格である。秀才はさらに三年毎に省で行なわれる郷試に合格すれば「挙人」の資格を与えられ、挙人は首都で行なわれる会試および天子自ら行なう殿試に合格すれば、はじめて「進士」という最高の称号を与えられる〕になれなかった。それに商売もできないものだから、ますます貧乏になり、乞食(こじき)しなければならぬところまで落ちた。幸い字がじょうずだったから、人に頼まれて書物を写して、飯の種にありついた。惜しいことに、彼にはまた酒好きの仕事ぎらいという悪い癖があった。まじめに何日も働かぬうちに、人も書物も紙も筆も、いっせいにゆくえふめいになってしまう。そんなことが何度か重なると、本の写しを頼む人もいなくなった。孔乙己は仕方がないので、つい出来心からちょっとした盗みを働くこともあった。だが彼はわれわれの店では、品行はほかのひとよりずっとよかった。つまり一度も掛けを引きのばしたことがなかった。時たま現金の持ち合わせがなくて、しばらく黒板に書かれることはあっても、一と月もたたぬうちに、必ずきれいに支払って、黒板の上から孔乙己の名前を拭(ふ)きさるのだった。
孔乙己は酒を茶碗(ちゃわん)半分ほど飲んで、赤くなった顔が少しずつもとにもどると、そばのものがまたきくのだった。「孔乙己、お前ほんとに字が読めるのかい?」
孔乙己はそうきいた男を見やりながら、相手になることさえいさぎよしとしない様子をあらわした。彼らはつづけてまたいった。「お前どうして半分の秀才〔院試の合格者を「生員」または「秀才」というが、合格点に達しなくても、相当の学力があると認められた場合は「いっせい」という資格を与えられ、次回には県試・府試を免除して、直ちに院試に応ずることを許される。俗にこれを「半個秀才」という〕さえつかみ取れなかったんだい?」すると孔乙己は急にがっくりとなり、そわそわした様子をあらわして、顔がさっと灰色になり、口の中で何やらいうのだが、こんどはすっかり「なりけり」「あらんや」といった文章語で、少しもわからない。そういう時には、人々もどっと笑いだし、店の内外に愉快な空気が充満するのだった。そういう時には、私もあとについて笑うことができ、主人も決して叱らなかった。それどころか、主人も孔乙己の顔を見ると、いつもそんなふうに彼にきき、人々の笑いを引きだすのだった。孔乙己は自分が彼らと話相手になれぬことを知ると、子どもに向かって話しかけるほかはなかった。ある時、私に向かっていった。「お前本を読んだことがあるかい?」私はちょっとうなずいてみせた。「読んだことがあるのか……じゃわしが試験してみよう。茴香豆(ういきょうまめ)の茴の字は、どう書く?」乞食(こじき)同然の男が、私を試験する資格があろうか、私はそう考えたので、そっぽを向いて、相手にならなかった。孔乙己は長いこと待ってから、ひどく懇切にいった。「書けないのかい?……わしが教えてやろう。おぼえておきな。これくらいはおぼえていなくちゃな。いつか主人になった時、帳面をつけるのに必要だからな」私はひそかに考えた。私の身分は主人とずいぶんかけ離れている、それにうちの主人はこれまで茴香豆を帳面につけたこともなかった。私はこっけいでもあればめんどうでもあったので、うるさげに答えた。「お前なんかにだれが教えてもらうもんか。草かんむりに一回二回の回じゃないか」孔乙己はひどく上きげんな様子で、二本の指の長い爪でスタンドをたたきながら、うなずいていった。「そうだ、そうだ……回の字に四通りの書き方〔三通りしか実はないが、孔乙己が自分の学問のあるところを見せようと思って四通りあるといったのであろうか〕があるが、お前知ってるかい?」私はいよいようるさくなり、口をとがらせて彼から遠くにはなれて行った。孔乙己は爪を酒にひたして、スタンドの上に字を書こうとしていたが、私の少しも熱心でないのを見ると、ほっとため息をついて、いかにも惜しいといった様子をあらわした。
時々、近所の子どもも、笑い声を聞いて集まり、孔乙己をとりかこむことがあった。すると彼は子どもたちに茴香豆を一人に一粒ずつ分けてやる。子どもたちは豆を食ってしまってもいっこう帰って行こうとせず、みんな皿(さら)の中を見つめる。孔乙己はあわてて、五本の指をひろげて皿を蓋(ふた)し、腰を曲げていう。「もうないよ、もういくらもないよ」身体をまっすぐ起こすと、また豆を見て、自分で頭をふりながら、「いくらもないんだ! 多からんや、多からざるなり〔『論語』の中に孔子の言葉として、「われ少(わか)くして賤(いや)し、故に多く鄙事を能くす。君子は多からんや、多からざるなり」とある。自分は若いとき身分が賤しかったので、自然、つまらぬ仕事までおぼえたのだ。しかし君子は多才多芸でなければならないだろうか、決してそうではない、という意味。しかしここではそんな深い意味で使っているのではなく、ただ『論語』の言葉を使って自分の学問のあるところを示しているだけである〕」そこで子どもの群れはワァッと笑い声をあげて散って行くのだ。
孔乙己はこのように人々をおもしろがらせた。しかし彼がいなくても、人々は別にどうということなしに過ごした。
ある日、たしか中秋節〔旧暦八月十五日の節句〕の二、三日前のことであった。主人はゆっくり帳面をしめていたが、黒板をとりおろして、ふといった。「孔乙己が久しく姿を見せないな。まだ十九文掛けが残っている!」私もそういわれて彼がたしかに長いこと姿を見せないことに気がついた。酒を飲んでいた一人がいった。「あいつこれるわけがないさ……奴(やっこ)さん、足をへし折られたんだから」主人はいった。「へぇッ!」「あいつ相変わらず盗みをしたんだ。こんどは、よほど耄碌(もうろく)したとみえて、盗むに事欠いて、丁挙人(テインきょじん)さまの家のを盗んだんだからな。あすこの邸のものが盗めるとでも思ってるのかね?」「それからどうなった?」「どうなったって? まず詫(わ)び証文を書かされ、それから打たれ、夜半すぎまで打たれて、それから足をへし折られたのさ」「それから?」「それから足をへし折られたのさ」「へし折られてどうなった?」「どうなったって?……わかるものかい! 死んだかも知れない」主人もその上聞かず、そのままゆっくり勘定をつづけた。
中秋節がすぎて、秋風は日ましに寒くなり、やがて初冬に近かった。私は一日中、火のそばにいたが、それでも綿入れを着なければならなかった。ある日の午後、一人の客もいなかったので、私は目をつむったまま腰掛けていた。と、ふとだれかの声が聞こえた。「酒を一本つけてくれ」その声はひじょうに低かったが、どうも耳になじんだ声であった。その方を見やったがだれもいない。立ちあがって外を見ると、あの孔乙己がスタンドの下の、入口の敷居に向かってすわっていた。彼の顔は黒くてやせ細り、見るかげもなかった。一枚の破れた袷(あわせ)を着、両足をあぐらに組んで、尻(しり)の下に蒲(がま)を敷いて、それを縄で肩から釣っていた。私を見ると、またいった。「酒を一本つけてくれ」主人は頭を出して、「孔乙己かい? お前まだ十九文借りが残ってるぞ」孔乙己はしょぼんとした様子で顔をあおむけにして、「そ、それは……この次払うよ。きょうは現金だ。酒は上(じょう)にしてくれ」主人はいつものように、笑いながら彼にいった。「孔乙己、お前また盗みをやったな!」だが彼はこんどはあまり言いわけせずに、ただひとこといった。「冗談はよしてくれ」「冗談だって? 盗みをしないで、どうして足を折られるんだ?」孔乙己は低い声でいった。「こ、こ、ころんで折ったんだ……」彼の目つきは、主人に、そのことはもういってくれるなと、いっしょうけんめいに頼んでいるような様子であった。その時までには何人かのものが集まって来て、主人といっしょになって笑っていた。私は燗(かん)がつくと、持って行って、入口の敷居の上においた。彼は破れたポケットの中から一文銭を四枚取りだして、私の手の中においた。見れば彼の手は泥まみれであった。なんと彼はこの手を使っていざって来たのだ。まもなく、彼は酒を飲み終わると、また人々の笑いさざめく中を、その手をつかっていざりながら、そろそろと行ってしまった。
それからのち、また長いこと孔乙己の姿を見かけなかった。年の瀬になって、主人は黒板をとりおろしていった。「孔乙己はまだ十九文掛けが残っている」翌年の五月の節句になって、またいった。「孔乙己はまだ十九文掛けが残っている」しかし中秋節にはもう何もいわなかった。さらに年の瀬が来ても彼の姿は見られなかった。
私は今にまだついに見かけない……多分、孔乙己はもう死んだにちがいない。
(一九一九年三月)
小さな出来事

私が田舎(いなか)から北京(ペキン)に出てきて、またたく間にもう六年になる。その間、耳に聞き目に見た、いわゆる国家の大事件も、数え上げればずいぶんたくさんあったわけだが、それらは私の心になんの痕跡(こんせき)もとどめていない。もしも、それらの事件の私に与えた影響をさがしだして言ってみろといわれたとすれば、それはせいぜい私の悪い癖を増長させただけだ……平たくいえば、つまり、日ましに人を見下げる人間に私を変えてしまった。
だが、ここに一つ、はなはだ小さな出来事であるにもかかわらず、私にとってずっと意義があり、私を悪い癖から引きはなし、私に今もって忘れられなくさせている事件がある。
それは民国六年〔一九一七年、わが大正六年〕の冬のことであった。ひどい北風が吹き猛(たけ)っていたが、私は生活の関係で、朝早く外出しなければならなかった。途中ほとんど人一人にも出会わず、やっと一台の人力車を雇って、S門までひっぱって行くように命じた。北風が弱くなって、路上のほこりはすでに吹き清められ、一筋の真白い大道だけが残されていた。車夫もいよいよ速く走った。やがてS門に近づいたとき、突然、車の梶棒(かじぼう)に一人の人間がひっかかって、ゆっくりと倒れた。
倒れたのは女だった。頭に白髪がまじっていて、着物はすっかりぼろぼろだった。彼女は大通りの横合いから、不意に車の前へ横切ってきた。車夫はすでに道をあけていたが、彼女の破れた木棉(もめん)の袖(そで)無しはボタンが掛けてなく、微風に吹かれて外にひろがり、そのためとうとう梶棒に覆いかぶさった。幸い車夫が早く足をとめたからよかったが、そうでなかったら彼女はきっとひっくり返って、頭を割り血を出したろう。
彼女は地面に突っ伏した。車夫もすぐに立ちどまった。その老婆にけがはなかったはずだと私は見たし、ほかに見ている人もなかったから、車夫がよけいなことをして、自分からいざこざを起こし、私の道を手間どらせるのかと思うと、腹が立った。
そこで私は彼に向かっていった。「なんでもないんだ。かまわずやってくれ!」
車夫はてんで取り合おうとせず……あるいは全然聞こえなかったのかも知れぬが……梶棒をおろすと、その老婆を静かに助け起こし、腕を支えて立たせ、彼女にきいた。
「どうなさいました?」
「ころんでけがしたんだよ」
私は考えた。私はお前がゆっくりと地面に倒れるのをこの目で見たのだ。ころんでけがしたなんてうそをつけ。そんな狂言をしているだけだろう。実ににくい奴だ。車夫も車夫だ。おせっかいにもほどがある。自分から求めて迷惑をしょいこもうとしている。もうどうなりとお前の勝手にするがいい。
しかし車夫はこの老婆のいうことを聞くと、少しもちゅうちょせずに、やはり彼女の腕を支えながら、そろそろ歩きだした。私は少しおかしいと思って、ふと前方を見ると、それは巡査派出所だった。大風の後で、表に人の姿も見えなかった。この車夫はその老婆に肩をかして、その正門の方へ行くところだった。
私はそのとき突然、一種異様な感じに打たれた。車夫のほこりにまみれた後ろ姿が、一瞬大きくなり、しかも行くにつれていよいよ大きく、仰ぎ見なければ見えぬくらいになった。しかも彼は私に対して、しだいにまたほとんど一種の威圧に変じ、ついには毛皮の着物の下に隠している「小ささ」を押し出さんばかりになった。
私の気力はそのとき多分凝結して動かなくなったのだろう。乗ったまま動かず、考える力さえなく、派出所から巡査が出てくるのを見てから、やっと車を下りた。
巡査は私に近寄ってきて、いった。「あなたは自分で車をお雇いなさい。この車夫はもう引けないんです」
私は深い考えもなく、外套(がいとう)のポケットから一握りの銅貨を取りだすと、巡査に渡して、いった。
「車夫にやってください……」
風はすっかりやんでいたが、通りはまだひっそりしていた。私は歩きながら考えた。しかし私自身の上にあえて考えを向けるのがほとんどこわいくらいだった。その前のことはしばらく擱(お)くとして、あの一握りの銅貨はいったいどんな意味だろう? 彼への褒美(ほうび)だろうか? 私に車夫を裁(さば)く力があるというのか? 私は自分に返答ができなかった。
このことを、今でも折りにふれてはよく思いだす。そこで私も、いつも苦痛を忍んで、私自身の上に考えを向けようと努力してきた。この幾年来の文治も武力〔この文の冒頭にある「いわゆる国家の大事件」を指す。辛亥革命の成功と失敗、袁世凱の帝政、日本の山東出兵、張勳の復辟、等々の大事件が、この六年間に相次いでおこった〕も私にとっては幼少のころ読まされた「子曰詩に云う〔『論語』や『詩経』などの儒教の経典を指す。昔は幼少の時、塾にはいると四書(論語、大学、中庸、孟子)五経(詩経、書経、易経、礼記)を暗誦させられた〕」と同様、きれいに忘れてしまっている。ところがこの小さな出来事のみは、たえず私の眼前に浮かび、時にはかえって一層はっきりとなってきて、私を恥じ入らせ、私を奮い立たせ、かつ私の勇気と希望とを増してくれるのだ。
(一九二〇年七月)
故郷

きびしい寒さのなかを、二千余里はなれた故郷へ、二十余年ぶりに、私はかえっていった。
もう冬のさなかであった。そのうえ、故郷に近づくにつれて空もようがあやしくなり、つめたい風がヒューヒュー音をたてて、船室の中までふきこんできた。苫(とま)〔茅(かや)などで編んで、船の上にかぶせたもの〕のすきまから外をのぞいてみると、どんよりした空の下に、わびしい村々が、いささかの活気もなく、ひっそり遠近(おちこち)によこたわっていた。私の胸に思わずさびしさがこみあげてきた。
ああ、これが二十年来、かたときも忘れることのなかった故郷なのだろうか。
私の記憶している故郷は、けっしてこんなふうではなかった。私の故郷は、もっとずっとよかった。ところが、その美しさを胸にえがき、そのよさをことばに現わしてみようとすると、その姿はたちまちかき消され、ことばは失われてしまう。そして、やはりこんなふうだったのかもしれないと思えてくる。そこで私は自分をなぐさめてこういうのだった。故郷はもとからこんなふうだったのだ。……進歩もないかわりに、私の感じたようなさびしさもなかった。私自身の心境がかわっただけなのだろう。というのが、私のこんどの帰郷は、けっして心たのしいものではなかったのだから。
こんどの私の帰郷は、じつは故郷とわかれるためにきたのであった。私たちが長年一族で同居してきたふるい家は、すでに人手にわたすことに話し合いがすんで、明けわたす期限は今年いっぱいとなっていた。だからどうしても正月一日以前に、住みなれたふるい家にわかれを告げて、私がくらしをたてている他郷へひっこさねばならないのであった。
つぎの日の朝早く、私はわが家の門口(かどぐち)についた。屋根がわらにいちめんに生(は)えているかれ草の、折れた茎(くき)が風にふかれてふるえていた。それは、このふるい家が持ち主をかえねばならなくなった原因を、いかにもよく物語っていた。いっしょに住んでいた親戚たちは、ほとんどみなひっこしをすませたらしく、ひっそりかんとしていた。私が自宅の一角まできたときには、私の母はもう迎えに出ていた。つづいて八歳になる甥(おい)の宏児(ホンル)もとびだしてきた。
私の母はきげんがよかった。とはいえ、一沫(まつ)のわびしさはさすがに隠しきれなかった。私に椅子(いす)をすすめ、茶をついでくれたが、すぐにはひっこしの話にふれなかった。宏児(ホンル)は私とは初対面であったので、少しはなれたところに立って、じっと私の方を見つめていた。
だが、私たちはとうとうひっこしの話をはじめた。私は、向こうの住居はすでに借りてあること、家具類もだいたい買ったこと、それからまた、この家にある家具類はぜんぶ処分して、あとは少し買い足せばよいことなどを話した。母も賛成した。そして、荷造りもだいたいすんでいること、かさばった家具類は売りはらったけれど、いくらも金にはならなかったことなどを話した。
「一、二日休んでから、親戚まわりをして、そのうえでたつことにしよう」
と、母はいった。
「はい」
「それから閏土(ルントウ)だがね、あれがうちにくるたびにお前のうわさをして、たいそう会いたがっていたよ。お前の着くだいたいの日どりは知らせておいたから、いまにやってくるかもしれない」
そのとき、ぱっと私の脳裏に、ふしぎな画面があらわれた。紺碧(こんぺき)の空に、金色(こんじき)のまるい月がかかっている。その下は河岸の砂地で、見わたすかぎりはてもない緑の西瓜(すいか)畑だ。そのなかに十一、二歳の少年が、首に銀の首輪をはめ、手に鉄のさすまたをかいこみ、一匹のチャー〔マミ(あなぐまのこと)やタヌキの類であろう〕にむかってえいっとつく。すると、そのチャーはするりと身をかわして、あべこべに彼の股(また)の下からにげていく。
その少年こそ閏土(ルントウ)であった。彼と知り合ったとき、私もまだ十何歳であった。もう三十年近いむかしのことである。そのころ、私の父はまだ生きていて、家のくらしもよかったし、私はいわばお坊っちゃんというわけだった。その年は、私の家が大祭の当番にあたっていた。その祭りの当番は、三十何年に一度まわってくるとかで、ひじょうに丁重(ていちょう)にすることになっていた。正月に祖先の像をそなえるのだが、おそなえの品もたいそう多く、祭器もりっぱだったし、礼拝する人もひじょうに多かったから、祭器をぬすまれないように用心する必要があった。ところが、私の家には忙月(マンユエ)がひとりしかいなかった。(私の郷里では、他家にやとわれて働く人に三種あった。一年通して一定の家で働くものを「長年(チャンネン)」、日割り計算で働くものを「短工(トアンコン)」といい、自分でも耕作をするかたわら、正月とか節季とか、刈り入れどきなどに、一定の家にやとわれて働くものを「忙月(マンユエ)」といった)せわしくて手がまわらなくなり、彼は父に向かっていった。うちのせがれの閏土(ルントウ)をよんできて、祭器の番をさせましょう。
父はそれを承知した。私も大喜びだった。閏土(ルントウ)という名は早くから聞いていたし、彼が私とだいたい同じ年ごろであること、閏月(うるうづき)の生まれで、五行(ごぎょう)の中の土(ど)が足りないところから、彼の父親が彼に閏土とつけたということも知っていた。彼は、わなをかけて小鳥をとらえることがじょうずだとも聞いていた。
そこで私は、まいにち新年のくるのを待ちわびた。新年がくれば、閏土(ルントウ)もくるのだ。やっと年末になって、ある日、母が私に教えてくれた。「閏土(ルントウ)がきたよ」私はとんで見に行った。彼は台所にいた。赤銅色(しゃくどういろ)のまるい顔、小さな毛織りの帽子をかぶり、首にキラキラ光る銀の首輪をはめていた。それは彼の父が心から彼をかわいがり、彼が死なないように、神仏に願(がん)をかけて、首輪で彼をつなぎとめるようにしていることを示していた。彼は人前ではとてもおどおどしたが、私にだけはそうでなく、そばに人がいないときには、私にむかっていろいろ話しかけた。そこで半日もたたないうちに、私たちは仲よしになった。
私たちがそのときどんなことを話したか知らない。ただおぼえているのは、閏土(ルントウ)が、城内にきて、いままで見たことのなかったものをたくさん見た、と、ひどくうれしそうに話していたことだ。
あくる日、私が彼に、鳥をつかまえてくれとたのむと、彼はいった。
「そりゃだめだ。大雪がふらないことにはだめだよ。おいらの方の砂地では、雪がふったら、雪をかきだしてあき地をつくり、大きなかごをもってきて、短い棒でつっかい、くずもみをまいておくんだ。すると小鳥がそれを食いにくる。そこを見はからって、おいらは遠くから、棒にゆわえておいた縄(なわ)をぐいと引っぱるんだ。すると、小鳥はそのかごの下にはいってにげられないって寸法さ。なんだっているぜ。イナドリ、ツノドリ、ハト、アオセ……」
私はそれで、こんどは雪のふるのが待ち遠しかった。
閏土(ルントウ)はまた私にこうもいった。
「いまは寒いから、夏になったらおいらの村にこいよ。おいらは昼間は河岸へ貝がらひろいにいくんだ。赤いのや緑色のや、なんでもあるぜ。『おばけおどし』もあるし、『観音(かんのん)の手』もあるぜ。夜になるとおいらはお父(とう)といっしょに西瓜(すいか)の番をしにいくんだ。お前もこいよ」
「どろぼうの番をするの?」
「なんのなんの。道をいく人が、のどがかわいて西瓜一つちぎって食うくらい、おいらの方ではぬすみのうちにゃはいらないんだ。番をしなきゃならないのは、マミ、ハリネズミ、チャーさね。月の光の下で、ほら、ガシガシと音がする。チャーが西瓜をかじっているんだ。それで、こっちはさすまたをとり、そっと足をしのばせて……」
私はそのときチャーというのがどんなものなのかぜんぜん知らなかった……いまでも知らない……ただなんとなしに、小犬みたいな様子をして、もっと獰猛(どうもう)なもののような気がする。
「そいつ、かみつきはしないかね」
「さすまたがあらあな。近よって、チャーを見つけたら、さすんだ。やっこさん、とてもりこうでな、あべこべに人間の方ににげ、またの下からくぐりぬけていくんだ。やっこさんの毛は油みたいにつるつるしててね……」
世の中にこんなにもたくさんめずらしいことがあろうとは、私はそれまで夢にも知らなかった。海岸にはそんな五色(しき)の貝がらがある。西瓜にそのような危険な経歴があるなんて。私はそれまで、それが果物店の店先に売られていることしか知らなかった。
「おいらの方の砂地ではね、高潮がやってくる時分には、トビウオがぴょんぴょんとんでいるんだ。みんなアオガエルみたいに二本の足があってね……」
ああ、閏土(ルントウ)の心にはめずらしいことが無尽蔵にある。それはみな、私の友だちのこれまで知らないことばかりだ。彼らはなにひとつ知らない。閏土が海岸にいるとき、彼らは、私もふくめて、みんな中庭の高いへいの上の四角な空を見ているだけなのだ。
おしいことに正月がすぎ去ると、閏土は家にかえっていかねばならなかった。私はいやだといってわんわん泣くし、彼も台所ににげこんだきり、泣きじゃくって出てこようとしなかった。が、とうとう彼の父につれていかれた。彼はその後、父親にことづけて一包みの貝がらと何本かのきれいな鳥の羽をとどけてくれた。私の方からも一、二度なにか送った。だがそれ以後一度も会わなかった。
いまわたしの母が彼の話をしたので、この子ども時代の記憶がたちまちぜんぶ電光のようによみがえってきた。私の美しい故郷を見つけたような気がした。私はすぐいった。
「それはいい。あれは……どんなふうです?」
「あれかい。……くらしも思わしくないらしい……」
母はそういいながら、へやの外を見た。
「あの連中がまたきてる。家具類を買うというのだがね、ついでにそこらにあるものを勝手にかっぱらっていくんだよ。ちょっと見てこなくては」
母は立ちあがって出ていった。外で何人かの女の声がしたので、私は宏児(ホンル)をそばによんで、とりとめもない話をした。字は書けるかい、よそへいきたいかなどと聞いた。
「汽車に乗っていくんだよ」
「お船は?」
「最初、お船に乗って……」
「まあ、こんなにりっぱになって。ひげをこんなに生(は)やして!」とつぜん、するどくとがったおかしな声がひびきわたった。
びっくりして、はっと頭をもたげてみると、ほおぼねのつき出た、くちびるのうすい、五十前後の女が、私の前に立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかずに、両足をひろげて立っているところは、製図に使う、あのほそい足のコンパスそっくり〔中国の婦人は纏足(てんそく)をして、さきのとがった靴をはいていたから、この形容はいかにもぴったりである〕であった。
私はどきんとした。
「忘れちゃったの。あたしはあんたをだっこしてあげたこともあるのよ」
私はますますどきんとした。さいわい母も出てきて、そばからいった。
「ながいことよそへ出ていたので、見忘れてしまったんですよ。お前もおぼえているはずだろ」と、私の方にむかっていった。「こちらは、すじむかいの楊(ヤン)おばさんだよ、ほら豆腐屋(とうふや)さんの」
そうそう、それで思いだした。子どものころ、たしかに、すじむかいの豆腐屋の店に楊(ヤン)おばさんというのが一日じゅうすわっていた。人々は彼女のことを「豆腐屋小町」とよんでいたっけ。だが、おしろいをつけていて、ほおぼねはこんなに高くはなく、くちびるもこんなにうすくはなかった。それに一日じゅうすわっていたので、こんなコンパスみたいな姿勢は見たことがなかった。
あのころ、人のうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋はとても商売が繁盛しているということであった。だがこれはたぶん年齢の関係であろうが、私はなんの感化もうけなかった。そのためすっかり見忘れてしまったのであろう。ところが、コンパスはそれが癇(かん)にさわったらしく、軽蔑(けいべつ)したような表情をあらわにだした。まるでフランス人なのにナポレオンを知らず、アメリカ人なのにワシントンを知らぬといってあざ笑うかのように、せせら笑って、
「忘れた? まったくね、えらい人はお目が高い……」
「とんでもない……ぼくは……」
私は恐縮して、立ちあがっていった。
「じゃね、いうわ。迅(シュン)ちゃん。あなたはお金持ちだし、こんな重くてかさばったものを運ぶのもたいへんでしょう。こんながらくた道具なんかいりはしませんやね。あたし、もらっていっていいわね。あたしたち貧乏人には、けっこう役にたちますからね」
「ぼくは金持ちでもなんでもありませんよ。ぼくはこれを売って、その金で……」
「おやおや、あなたは知事さまになっても、お金持ちじゃないとおっしゃるの。いまじゃおめかけさんの三人ぐらいはおありなんでしょう。外に出るには八人かきのかごに乗ってさ。それでもお金持ちじゃないというの。へっ、あたしはだまされはしませんよ」
私は、なにをいってもむだだとさとったので、口をつぐんで、だまって立っていた。
「おやおや、まったくね、お金持ちになれば財布のひもをしめる。財布のひもをしめるから、ますますお金持ちになる……」
コンパスはむっとした様子で、背を向けると、ぶつぶついいながら、ゆっくり表の方に歩いていった。そしていきしなに、そこにあった母の手袋をズボンのポケットにねじこむと、そのままいってしまった。
そのあと、また近所にいる親戚(しんせき)のものが私をたずねてきた。その応対をしながら、私はひまを見ては荷物をまとめ、こうして三、四日すぎた。
ある日、とても寒い午後のことであった。私は昼飯をすませたあと、茶を飲んでいた。表にだれかきたようなけはいがしたので、ふりかえってみた。そして思わずあっと驚き、あわてて立ちあがって迎えに出た。
やってきたのは閏土(ルントウ)なのであった。一見して閏土だとわかりはしたが、それは私の記憶のなかにある閏土とは似ても似つかなかった。せいは倍ほどになっていたし、むかしの赤銅色(しゃくどういろ)のまる顔はもう灰色にかわり、そのうえ、深いしわがよっていた。目も、彼の父親がそうであったように、まわりが真赤(まっか)にはれていた。海岸で耕作している人は、一日じゅう潮風にふきさらされているため、たいていこうなるということを、私は知っていた。顔に毛織りの帽子をかぶり、ひどくうす手の綿入れを一枚着たきりで、ぶるぶるふるえていた。手には紙の包みと長い煙管(きせる)を下げていたが、その手だって、私のおぼえているあの赤いむっちりした手ではなくて、太い、ふしくれだった、しかもひびわれて、まるで松の木の皮のような手であった。
私はそのとき、ひじょうに興奮していた。しかし、なんと言いだしたらいいかわからず、ただひとこと、
「おお、閏(ルン)ちゃん……よくきたね……」
私はつづいていいたいことが山ほどあった。珠数(じゅず)をつらねたように、いまにも湧(わ)きだしてきそうだった。ツノドリ、トビウオ、貝がら、チャー……だが、それらはなにものかにせきとめられたかのように、頭の中をぐるぐるまわるばかりで、どうしても口の外に出てこないのであった。
彼は立ちどまって、顔に喜びとさびしさの気持をあらわした。くちびるを動かしていたが、声にはならなかった。しまいに、彼はきゅうにうやうやしい態度になって、はっきりとこういった。
「だんなさま……」
私はぶるっと身ぶるいしたような気がした。私たちのあいだには、すでに悲しむべき厚い壁がきずかれていたことを知った。私としても、なにもいえなかった。
彼はうしろをふりむき、「水生(シュイション)や、だんなさまにごあいさつをしろや」といって、うしろに隠れていた子どもを前におしだした。それこそまさしく二十年前の閏土(ルントウ)であった。ただ顔色がわるく、やせていた。銀の首輪もはめてはいなかった。「こいつが五番目の子どもでございます。世間知らずだもので、おどおど人のうしろに隠れてばかりいやがって……」
母と宏児(ホンル)が二階からおりてきた。たぶん、物音を聞きつけたのであろう。
「ご隠居さま。お手紙は早くにいただきました。ほんとにうれしくてたまりませんでした。だんなさまがお帰りになると知って……」と、閏土(ルントウ)はいった。
「おや、どうしてそんな他人行儀なまねをするんだね。お前たちは以前は、お前おれで呼びあっていたんじゃないか。やっぱりむかしのように、迅(シュン)ちゃんとおいいよ」と、母はうれしげにいった。
「めっそうな、ご隠居さま……そんなわけには……あのころはまだ子どもで、なにもわかりませんでしたから……」そういって、閏土(ルントウ)は、また水生(シュイション)におじぎをするようにいったが、子どもははずかしがって、ぴったり彼の背中にくっついていた。
「それが水生(シュイション)かい? 五番目だね。知らない人ばかりだからね。やはり、人見知りをするのもむりはない。宏児(ホンル)や、あちらへ連れていって遊んでおやり」と、母はいった。
そういわれて、宏児(ホンル)が、水生(シュイション)を手まねきすると、水生はいそいそといっしょに出ていった。母は、閏土(ルントウ)に椅子(いす)をすすめた。彼はしばらく遠慮してから、ようやく腰をおろした。そして、煙管(きせる)をテーブルのわきに立てかけ、紙包みをさしだした。
「冬場はろくなものはございません。これは青豆をかわかしたもので、ほんの少しですが、うちでほしたものでございます。どうかだんなさまに……」
私は、彼に暮らしむきを聞いてみた。彼は頭をふるばかりであった。
「とてもお話にもなりません。六番目のせがれまで手つだいができるようになりましたが、とても食べていけません……それに世の中がぶっそうで……どこもかしこも金をとり、きまりもなにもなくて……それに作柄(さくがら)もわるいものですから。作物をかついで売りにいきますが、何回も税金をとられ、元(もと)をすってしまいます。といって売りにいかなければ、くさっちまうばかりですし……」
彼は頭をふるばかりであった。顔にはたくさんのしわがきざみこまれていたが、まるで石像のように、ぜんぜん動かなかった。彼はたぶん苦しさを感ずるばかりで、それを口でうまくいうことができないのだろう。しばらくだまりこんでいたが、やがて、煙管(きせる)をとりあげてたばこをすいだした。
母が彼にきいてわかったのだが、彼は家の用事が忙しいため、明日は帰っていかねばならなかった。それに、昼飯も食っていないというので、自分で台所へいって、飯をいためて食べるようにすすめた。
彼は出ていった。母は私にむかってため息をつきながら、彼のくらしを話した。子だくさん、不作、重税、兵隊、匪賊(ひぞく)、役人、紳士〔士人階級、読書人ともいう。学問をして官吏になって財産を作り、郷里に隠栖して地主となり、悠々自適している人々およびその子孫。土地の豪族や退職官吏などの中には過酷な小作料をしぼりとり、下層民をいじめるものが多く、そういうのは「土豪劣紳」といった〕、それらがよってたかって彼を苦しめ、彼をでくの棒みたいにしてしまったのだ。母は私に、
「持っていかないでいい品物は、みんなあれにくれてやろうよ、あれに自分でえらばせたらよい」といった。
午後、彼は、いくつかの品物をえらびだした。長テーブル二つ、椅子(いす)四つ、香炉(こうろ)と燭台(しょくだい)、それに大秤(ばかり)一つ。彼はそれから、わら灰をみんないただきたいといった。私の郷里では飯をたくのにわらをやく。その灰は、砂地の肥料になる……私たちが出発したあとで、船で運ぶつもりだとのことであった。
夜、私たちはまた雑談をかわしたが、とりとめもない話ばかりであった。つぎの日の朝早く、彼は水生(シュイション)を連れて帰っていった。
それからまた九日たって、私たちの出発の日がきた。閏土(ルントウ)は朝のうちからきていた。水生(シュイション)は連れず、そのかわりに五歳になる女の子を連れてきて、船の番をさせた。私たちはひじょうにせわしかったので、もう雑談するひまはなかった。来客も多かった。見送りにくるもの、品物をとりにくるもの、また見送りがてら品物をとりにくるものもいた。夕方、私たちが船に乗りこむころまでに、この古家にあった大小のがらくた道具は、もう一つのこらずきれいにかたづいてしまった。
私たちの船は前へ前へと進んだ。両岸の青い山々は、たそがれの中で、濃い墨(すみ)色にかわり、どんどん船尾の方へしざっていった。
宏児(ホンル)は、私といっしょに船窓によりかかって、外のぼうっとかすんだ風景を見ていたが、彼はふと、こうたずねた。
「おじさん、ぼくたちはいつ帰ってくるの」
「帰ってくる? お前はなんだって、まだいきもしないうちから帰ってくることを考えているんだね」
「だって、水生(シュイション)がぼくに、家に遊びにこいといったんだもの……」
彼は大きな黒い眼(まなこ)をみはって、じっとなにか考えこんでいた。
私も母も、これにはいささかあっけにとられた。そこでまた閏土(ルントウ)の話になった。母はいった。例の豆腐屋小町の楊(ヤン)おばさんは、私の家で荷物をまとめはじめてから、毎日やってきていたのだが、おととい彼女は灰の中からお碗(わん)やら皿(さら)を十いくつか見つけだした。あれこれ議論した結果、それは閏土(ルントウ)がうめておいたもので、彼はこの灰を運ぶときに、それもそっくり持って帰るつもりだったろうということにおちついた。楊(ヤン)おばさんはこの発見を、たいへんな手柄でもたてたかのように自慢して、「犬じらし」(これは私の郷里でニワトリを飼うのに使う道具である。木の皿の上に柵(さく)がとりつけてあって、その中に餌(えさ)を入れる。ニワトリは首をつっこんでついばむことができるが、犬にはそれができず、見ていてじれるだけだ、というわけである)をつかむと、とぶようににげていった。あんな底の高い纏足(てんそく)のくつで、よくあんなに走れたと思うほど早かった。
ふるい家はしだいに私から遠ざかった。故郷の山や川もしだいに私から遠ざかった。しかし私はとくに名残りおしいとも思わなかった。ただ、私のまわりに、目に見えない高いへいがあって、その中に私がただひとり、とりのこされているような気がして、ひどく気がめいってくるのだった。あの西瓜(すいか)畑の銀の首輪をはめた小英雄のイメージは、それまでひじょうにはっきりしていたのだが、いまやきゅうにぼやけてしまい、それが私を悲しませた。
母も宏児(ホンル)も寝いった。
私は横になって、船底にジャブジャブいう水の音を聞きながら、私は私の道をあるいているのをさとった。私は考えた。私はけっきょく閏土(ルントウ)とこれほどまでに隔たってしまったのだ。しかし、私たちより若いものはやはり同じ気持ちをいだいている。げんに宏児(ホンル)は水生(シュイション)のことを思いつづけているではないか。願わくは彼らが、私と閏土(ルントウ)とのあいだにできたような隔たりを、たがいに持つことのないように。
……だが私はまた、同じ気持ちをいだいていたいばかりに、私のように、苦しい転々とした生活を彼らにくりかえさせたくない。また閏土(ルントウ)のように、苦しい麻痺(まひ)した生活をくりかえさせたくない。またほかの人のように、苦しいすさんだ生活をくりかえさせたくない。彼らは新しい生活をもつべきである。私たちのまだ経験したことのない新しい生活を。
希望ということに思いいたったとき、私はきゅうにどきっとした。閏土(ルントウ)が香炉と燭台をくださいといったとき、私は、彼の偶像崇拝ぶりをこっけいに思い、いつになったら忘れられるんだろうかと、私はひそかに笑ったのだった。だが、いまの私のいわゆる希望にしても、けっきょく私自身の手製の偶像ではないだろうか、彼の願望が手近であり、私の願望は漠然(ばくぜん)として遠いだけのちがいではないか。
ぼんやりした私の目の前に、海岸の緑の畑がくりひろげられた。その上の紺碧(こんぺき)の空には一輪の金色(こんじき)のまるい月がかかっている。
私は思った。希望というものは、本来あるともいえないし、ないともいえない、それは、ちょうど地上の道のようなものだ。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
(一九二一年一月)
阿Q正伝

第一章 序

私が阿Qのために正伝を書こうと思ったのは、もう一年や二年のことではない。だが書こうとするかたはしから、あれこれ考えこんでしまうのだった。これによっても私が「立言〔不朽の言葉を後世に残すという意〕」の人でないことがわかる。というのが、従来、不朽の筆はすべからく不朽の人を伝うべきであり、だからこそ人は文によって伝わり、文は人によって伝わるというわけだが……結局、だれがだれによって伝わるのか、だんだんとうむやむになって来て、とうとうおしまいに阿Qの伝記を書くことになった。どうも私の頭のなかに彼の亡霊が巣くっていたのではないかという気がする。
ところでこの不朽どころかすぐにも朽ちてしまう文章を書く段になって、筆をとったとたんに、はたと一大困難を感じた。第一に文章の題名である。孔子さまも「名正しからざれば言順(したが)わず〔『論語』に出る。政治をなすのに第一番に着手すべきは名を正すこと、すなわち正しい命名法の確立である。そうしないと、言葉が通じ合わなくなり、結局、道徳は混乱し、法律は有名無実となり、社会は成り立たなくなる、というのが孔子の主張である〕」と仰せられている。これは極めて注意せねばならぬことである。伝の名はやたらと多い。列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝……ところが残念ながらどれも合わぬ。「列伝」としようか、しかしこの一篇は決してたくさんのお偉方といっしょに「正史」の中に列(なら)べられているわけではない。「自伝」としようか、私は決して阿Qその人ではない。「外伝〔「正史」の中にすでに伝がある人に、さらに外の資料を用いて伝記を書けば、それを「外伝」という。実際には小説に近い〕」といえば、「内伝」はどこにあるのだ? もしも「内伝」とすれば、阿Qは決して神仙ではない。「別伝」はどうか、阿Qは実際まだ一度も大総統〔中華民国が成立して、元首を大総統といった。大統領にあたる〕から国史館〔国立の歴史編纂所〕にあてて、「本伝」を立てるようにとの上論が下されたことはないのだ……イギリスの正史に「博徒列伝」といったものはないにもかかわらず、文豪ディッケンズは『博徒別伝〔イギリスの小説家コナン・ドイルの原作、魯迅はまちがえてディケンズ作としたのである〕』という書物を書いている。だがそれは文豪なればこそ許されることであって、われわれふぜいは許されぬことなのだ。その次に「家伝」はどうか、私は阿Qと同族かどうか知らない上に、彼の子孫から依頼を受けたわけでもない。あるいは「小伝」とすれば、阿Qには別に「大伝」があるわけでもないのである。要するに、この一篇は「本伝」といってもよさそうだが、私の文章はどう考えても文体が下卑(げび)ている。「車引き漿(のみもの)売りのやから」が用いるところの言葉である。だからして、そのような僭越な題名をつけるわけにはゆかない。そこで三教九流〔三教は儒教・道教・仏教。九流は儒家流・道家流・陰陽家流・法家流・名家流・墨家流・兵家流・縦横家流・雑家流・農家流を指す。これは当時の学問思想の流派別である。ところが実はもう一つ小説家流というのがあるのだが、『漢書』の著書班固は「観るべき者は九家のみ」といって、小説家をこの中から除外した。中国人が小説を伝統的に軽視し、これを文学の中に加えることをいさぎよしとせず、君子たるものの口にすべきことではないとして来たことに対する魯迅の不満をあらわしている〕の仲間に入れてもらえぬ小説家のよくいう「閑話(あだしごと)は休題(さてお)きまして、言を正伝に帰しますれば」という決まり文句の中から、「正伝」の二字を取り出して題名とすることにした。かりに古人の書いた『書法正伝〔清の馮武(ふうぶ)の著、十巻。書法に関する書物で、ここの正伝というのは、正確な伝受というほどの意味である〕』の「正伝」と字面(じづら)の上で大いに混同するとしても、仕方のないことである。
第二に、伝を立てる通例として、冒頭でたいていは、「某は、字(あざな)は某、某地の人なり」とやらねばならない。ところが私は阿Qの姓が何といったか全然知らないのである。あるとき、彼の姓は趙(チャオ)というらしく思われた。ところがその翌日にはもうあやしくなった。それは趙旦那(だんな)の息子(むすこ)が秀才の試験に及第したときのことであった。ドラをジャンジャン打ち鳴らして村に知らせに来た。阿Qはちょうど黄酒を二三杯ひっかけていたが、いきなり手を振り足を踏みならしながら、これは自分としても鼻が高い。なぜなら自分は趙旦那とは同族で、くわしく系譜をたどって行くと、自分は秀才より三代上である、といった。そのときそばでそれを聞いていた何人かの人々は、思わず襟(えり)を正して、阿Qに対しいささか尊敬の念をおこしたものであった。ところがなんとその翌日、地保〔清朝の保甲制度で百戸の長。しかし実際は土着の巡査のようなもので、地方の有力者の犬のような存在であったことは、ここの例でもわかろう〕が阿Qを趙旦那の邸へ連れて行った。旦那は阿Qの顔を見るなり、満面に朱(しゅ)をそそいで、どなりつけた。
「阿Q、この馬鹿(ばか)野郎! お前、わしのことをお前の一族といったそうだな?」
阿Qは口をきかなかった。
趙旦那はいよいよ腹を立て、さっと二、三歩つめより、「よくもデタラメぬかしよった! わしがなんできさまみたいな奴の一族なぞであるものか! きさま姓が趙なのか?」
阿Qは口をきかず、うしろへしざろうと思った。趙旦那はとびかかって行って、彼のビンタを一つとった。
「きさまが趙なもんか!……趙姓を名乗る資格があるものか!」
阿Qは自分がたしかに趙姓であると抗弁はしなかった。ただ左の頬(ほお)をさすりながら、地保といっしょに出て行った。表へ出てから地保からもまたさんざん油をしぼられ、地保に礼のしるしとして二百文の酒手を献上した。このことを知った人々はみないった。阿Qは途方もないことをいいちらして、自分からぶたれるはめになったのだ。奴は多分趙というのではあるまい、かりにほんとに趙だったにせよ、趙旦那がここにいらっしゃるのに、めったなことを口走るべきではなかった、と。それ以後、もうだれも彼の氏族のことをもちだす人はなかった。だから私も阿Qの姓が何というのか、結局知らずじまいである。
第三に、私はまた阿Qの名はどう書くのかも知らぬ。彼が生きていた時分、人は彼のことを阿Queiと呼んでいた。死んでからは、もうだれも阿 Quei と呼ぶ人はいない。だから 「これを竹帛(ちくはく)に著(しる)す〔『呂氏春秋』に「竹帛に著し、後世に伝う」と見えている。紙が発明される以前の古代中国においては、竹の札や絹帛(きれ)に文字を書いた〕」なんて、とんでもない話である。もし「これを竹帛に著す」ということにすると、この文章が最初というわけで、だから、まずこの第一の難関に出会ったのである。私はいろいろ頭をひねって考えたことがある。阿Queiは、阿桂(アークエイ)だろうか。それとも阿貴(アークエイ)だろうか?  と。 もし彼が月亭(ユエテイン)と号しているか、それとも八月に誕生祝いをしたことがあったとすれば、阿桂だったにちがいない。ところが彼には号がなく……号があったかも知れぬが、だれもそれを知っている人はいない……また誕生祝いの文章を募るチラシをくばったこともないから、阿桂と書くのは、武断である。またもし彼に阿富(アーフー)という兄さんなり弟さんがいたとすれば、きっと阿貴にちがいない。ところが彼はたったの一人ぼっちである。阿貴と書くのも、証拠はないわけである。そのほかQueiという音の変わった字〔たとえば匱、檜、瑰、跪など〕は、いよいよ似つかわしくない。以前、私は趙旦那の息子の茂才(もさい)〔秀才と同じ〕先生に伺ってみたことがある。ところがあの博識高雅なお方さえ、結局見当がつかず、ただ結論として仰せられるには、陳独秀(チェントーシウ)〔一八七九〜一九四二。安徽省の人。思想家、文学評論家として知られる。民国の初年、北京大学文科科長として、また『新青年雑誌』の主幹として、新思想・新文学運動の指導者的役割を果たした〕が『新青年』を出して、外国の文字を奨励したために、国粋は亡びてしまい、考証のしようもなくなった、と。私の最後の手段は、ある同郷人にたのんで阿Qの犯罪の裁判記録を調べてもらうことであった。ところが八か月もたってから返事がきて、公文書のなかに阿Queiという音に近い人間は全くなかったとあった。ほんとになかったのか、調べなかったのか知らないが、もうほかに方法はなかった。多分、注音字母〔三九(後に四〇)個の表音文字のこと。民国二年(一九一三)教育部読音統一会により決定、民国七年十一月教育部から公布されて全国に実施され、国語運動、識字運動に大きな役割を果たした。「注音符号」「国音字母」とも呼ばれる〕はまだ普及していないから、西洋の文字を使うほかはない。イギリスで流行している綴り方によって、阿Queiと書き、略して阿Qとした。これは『新青年』に盲従したきらいがあって、自分としても残念であるが、茂才先生でさえご存じないのであってみれば、私としてもほかによい方法はないのである。
第四に、阿Qの原籍である。もし彼の姓が趙であるとすれば、今日、地方の名家と称せられているものがよくするように、『郡名百家姓〔昔の塾の教科書に『百家姓』というのがあった。最も多く見られる四三八の姓を連綴して、「趙銭孫李、周呉鄭王」という風に四字の韻語として、児童にも暗誦し易いようにしたもの。『郡名百家姓』は『百家姓』の一種で、それぞれの姓の上に郡名(郡望ともいう)を付注して、その姓の源が古代のどの地方から出ているかということを表示したもの〕』にある注解によって、『隴西(ろうせい)天水の人なり』ということができる。しかし残念ながら、この姓があまりあてにならないのだから、原籍地もしかと決めるわけにはゆかないのである。彼は大体未荘に住んでいることが多かったけれども、よくほかのところにも行って泊まっていたから、未荘の人ともいえない。かりに「未荘の人なり」といえば、やはり史法〔伝記を書く伝統的な基準〕にそむくことになる。
私がいささかもって自ら慰めることができるのは、「阿」の字で、これは非常に正確で、絶対にコジツケとか借りものといった欠点はなく、十分識者にお示しできると信じている。しかしそのほかのことは、浅学の能く穿鑿(せんさく)できることではない。どうか「歴史癖と考証癖」のある胡適之(ツーシーチー)先生〔胡適、字は適之(1891〜1962)、安徽省の人。文学理論家、哲学者、教育者。アメリカ留学中、『新青年』に『文学改良蒭議(すうぎ)』という一文を投書し、それが文学革命運動の発火点となった〕の門人がたが、将来いろいろな新しい手がかりを発見してくださるにちがいないと期待している。ただその時には私のこの『阿Q正伝』はとっくに消えてなくなっているであろう。
以上は序ということにしてよかろう。

第二章 優勝の記録

阿Qは姓名や原籍がはっきりしないばかりでなく、以前の「行状(ぎょうじょう)〔人の死後、名のある文人に頼んでその人の一生の経歴を記述してもらい、これを印刷して知人にくばるもの〕」もはっきりしない。というのが、未荘の人々は阿Qを手伝いにやとうだけで、そして彼をからかうだけで、一度も彼の「行状」に関心をもったことはなかったからである。阿Q自身にしても、それを口にしたことはなく、ただ他人とけんかをしたときに、たまに目をむいて、こういった。
「おいらは昔は……お前なんかよりずっと偉かったんだぞ! お前がなんだってんだ!」
阿Qには家がなく、未荘の土地廟(とちびょう)〔鎮守の氏神様〕に住んでいた。きまった職業もなく、人の家に日雇いになって行き、麦刈りといえば麦刈り、米つきといえば米つき、船こぎといえば船こぎをやった。仕事が少し長期にわたると、臨時の主人の家に寝泊まりするが、仕事が一段落すると出て行く。だから人々は、忙しい時には阿Qのことを思いだすけれども、その思いだすのも仕事のことであって、決して「行状」ではなかった。ひまになると、阿Qのことさえまったく忘れてしまうくらいだから、「行状」どころの話ではなかった。ただ一度だけ、ある老人が「阿Qはなかなかの働き者だ!」といって賞(ほ)めたことがある。そのとき阿Qは双肌(もろはだ)ぬいで、のっそりとその老人の前に立っていた。その老人のことばが本気でいったのか、皮肉(ひにく)っていったのか、ほかの人にはわからなかった。しかし阿Qはひどくうれしかった。
阿Qはまた非常に自尊心が強く、未荘の住民どもは全く彼の眼中になかった。二人の「文童(ぶんどう)〔科挙時代、まだ府県学に入学できない学生をいう〕」に対してさえ、洟汁(はな)も引っかけないといった風であった。そもそも文童とは、将来おそらく秀才(しゅうさい)になり変わるはずのものである。趙(チャオ)旦那や銭(チェン)旦那が村人の尊敬をかち得ているのは、金持ちということのほかに、いずれも文童の父親ということから来ている。ところが阿Qは精神的に格別の敬意をはらわないばかりか、おいらの伜(せがれ)ならもっともっとえらくなるさ! と考えていた。それに、何度か城内に行ったことがあるので、阿Qの自尊心はいよいよ強くなっていった。そのくせ彼は、城内の人をひどく軽蔑(けいべつ)してもいた。たとえば長さ三尺、幅(はば)三寸の板で作った腰掛を、未荘では「チャントン」といい、彼も「チャントン」といっているが、城内の人々は「ティアオトン」という。あれはまちがってる、馬鹿(ばか)げたことだ、と彼は思う。鯛(たい)のからあげに、未荘では五分ほどの長さに切った葱(ねぎ)を添えるのだが、城内ではミジン切りにしたのを添える。これもまちがいだ、馬鹿げたことだ、と彼は思う。しかし未荘のやつらはまったく世間知らずの馬鹿げた田舎者だ。やつらは城内の鯛のからあげを見たことがないのだ!
阿Qは「昔は偉かった」し、見識は高いし、そのうえ「なかなかの働き者」だし、ほとんど「完人〔ホモ・トーツス(homo totus)の訳語。身体的にも精神的にも完全に調和した円満な人格者をいう。教育学上の術語で、日本では「全人」と訳されている〕」といってよかった。ただ惜しいことに、彼の体質にいささか欠点があった。とくにいまいましいのは、彼の頭に何か所も、いつできたのか、つる禿(はげ)があることだった。これは彼の身体にあるとはいえ、阿Qにしてみれば、ありがたいことではないらしかった。というのが、彼は「禿」ということば、およびいっさいの「禿」に近い発音を忌(い)みきらい、のちにはこれを推し広めて、「光る」も禁物、「明るい」も禁物、さらにのちには「ランプ」や「蝋燭(ろうそく)」まで禁物とするようになったからである。ちょっとでもこの禁を犯すものがあると、それが故意であろうが故意でなかろうが、阿Qは禿という禿を全部真赤(まっか)にして怒りだし、相手が口べたな奴と見れば罵倒(ばとう)するし、弱い奴と見れば殴(なぐ)りかかった。ところがどうしたわけか、阿Qの負けるときが多かった。そこで彼はしだいに方針をかえ、たいていは目を怒らせてにらみつけることにした。
ところが、阿Qがにらみつけ主義を採用するようになると、未荘の閑人(ひまじん)たちはいよいよかさにかかって彼をからかい、顔さえ見ると、彼らはわざとびっくりしたようにいうのだった。
「おや、明るくなったぞ!」
阿Qは例によってむかっとして、目を怒らしてにらむ。
「あっ、これはこれは、ランプがあったんだな!」と彼らはちっともこわがらない。
阿Qはなんとか、ほかに仕返しの言葉を考えだすほか仕方がない。
「お前なんざあ、たかが……」そのとき彼の頭にあるのはいとも高尚にして光栄あるつる禿げであり、しかも決して平凡でないつる禿げであるかのようであった。だが前にもいったように、阿Qは見識があるから、「禁忌」といささか抵触することにすぐ気がついて、そのあとはいわなかった。
閑人はなおもやめず、彼にからんできて、とうとう打ち合いになった。阿Qは形式の上では敗北し、黄色い弁髪(べんぱつ)をつかまれ、壁に四つか五つゴツンゴツンぶつけられ、閑人はそこでようやく満足し、勝利を得て帰って行った。阿Qはしばらく棒立ちになっていたが、心の中で考えた。「とにかくおれは忰(せがれ)に打たれたわけだ。今の世界はまったくなっちゃいない……」かくて彼もすっかり満足し、勝利を得て帰って行った。
阿Qは心の中で考えたことを、あとでよく口に出していった。そこで阿Qをからかう人々は、ほとんどみな彼にそうした精神的な勝利法といったもののあることを知り、その後彼の黄色い弁髪をつかんだ時には、いつも人々はまず最初に彼に向かってこういうのだった。
「阿Q、これは忰がおやじを殴ってるんじゃないんだぞ。人間さまが畜生を殴ってるんだ。さあ、自分でいってみろ、『人間さまが畜生を殴っていなさる』と!」
阿Qは両手で自分の弁髪の根元を握りしめ、首をねじ曲げながら、いった。
「虫けらを殴ってる、これでいいだろ? おれは虫けらだ……さあ、そこ放してくれよ!」
だが虫けらだといっても、閑人のほうでは一向に放そうとせず、やっぱり近くのどこかで彼の頭を五、六回打ちつけ、そこでやっと満足し勝利を得て帰って行き、阿Qの奴、こんどこそ降参したろうと思うのである。ところが、十分間もたたぬうちに、阿Qの方でも満足しきって、勝利を得て帰って行く。彼は自分こそ最もよく自分を軽蔑(けいべつ)することのできる第一人者であり、「自分を軽蔑する」ということを除けば、あとは「第一人者」だ。状元(じょうげん)〔科挙の最高の進士の試験に首席で及第した人をいう。全国何百万の中から三年毎にただ一人選ばれる、最高の名誉であり、エリート中のエリート〕だって「第一人者」ではないか? 「お前なんか何だってんだ」だ。
阿Qは如是等々(にょぜとうとう)の妙法〔このような種々のよい方法。漢訳の仏典でよく使われる言葉を、わざと使って、ユーモア味を出そうとした。「怨敵を克服」も仏典常用の語〕でもって怨敵(おんてき)を克服した後、さも楽しげに居酒屋に駆けつけて酒を何杯か飲み、またほかの者と一くさり冗談をいいあい、一くさり口論をし、そこでもまた勝利を得て、楽しげに土地廟に帰ってくると、大の字になって寝てしまう。かりに銭があると、その足で押牌宝(ヤーパイパオ)〔一種の賭博〕をやりに出かける。一団の人々が地面にしゃがんでいる。阿Qは顔じゅう汗を垂らしながらその中にまじっている。声は彼のが一番高い。
青竜(チンロン)へ四百!」
「ホーレ……開(あ)ける……ぞウ!」胴元(どうもと)が壷の蓋(ふた)をあける。これも顔じゅう汗を垂らしながら唄(うた)っている。「天門(テンメン)だぁ……角(チアオ)は戻しだぁ……! 人(レン)と穿堂(チュアンタン)はペケだぁよ……! 阿Qの銭はこっちいよこせ……!」
「穿堂へ百……百五十!」
阿Qの銭(ぜに)は、こうした歌声の中で、顔じゅう汗をたらしているほかの男の胴巻の中に次第に運びこまれて行く。そのあげく、彼はとうとう人垣の外にはじき出され、うしろに立って、ほかの人のためにはらはらしながら、しまいまで見物する。それからなおも未練を残しつつ土地廟に帰って来るのだが、翌日は、目を腫(は)らして仕事に出るのである。
だがそれこそまったく「人間万事塞翁(さいおう)が馬〔禍福はあざなえる縄のごとくで、何が幸いか、何が不幸か、神ならぬ身の知る由もない意。これは『淮南子(えなんじ)』という古典に見える有名な故事による〕」というやつであろうか、阿Qは不幸にして一回だけ勝ったことがあり、彼はすんでに失敗するところであった。
それは未荘の縁日の晩のことだった。その晩、例によって舞台がかかり、舞台の近くに、やはり例によっていくつも賭場(とば)がひらかれた。芝居の銅鑼(どら)や太鼓は、阿Qの耳には十里も向こうにあるようで、胴元の歌声しか聞こえなかった。彼は勝ちに勝ち、銅銭は十銭銅貨に変わり、十銭銅貨は一円銀貨に変わり、一円銀貨はさらに山と積みかさねられた。彼の張りきり方は大変なものだった。
天門(テンメン)に二円張ったぁ!」
彼はだれとだれとがどういうことで喧嘩(けんか)をはじめたのかわからなかった。どなる声、殴(なぐ)る音、足音。頭がグラグラッとした。やっと起きあがった時には、あたりに賭場(とば)もなければ、人々の姿も見えなかった。身体のあちこちがひどく痛い。どうやらいくつも殴られたり蹴られたりしたらしい。何人かのものが不思議そうに彼を見ていた。彼は落し物でもしたような気持ちで土地廟に逃げ帰った。じっと気を鎮めて、あの一山の銀貨が失われたことを知った。縁日に開かれる賭場はたいていはこの村の地つきの者ではない。犯人をつきとめようにもてんで手がかりはない。
あの白いピカピカした銀貨の山! それも彼のものだった……それが今や姿を消したのだ! 忰(せがれ)に持って行かれたんだということにしても、どうもやはりおもしろくなかった。自分は虫けらだということにしても、やはりおもしろくなかった。彼は今にしてはじめて失敗の苦痛を味わったのである。
だが彼は直ちに敗北を勝利に転化させた。彼は右手をふりあげて、自分の顔をつづけさまに二つ、力をこめて打った。ヒリヒリして少し痛かった。だが打ち終わると、すっかり気持ちがおさまった。打ったのは自分であり、打たれたのは別の自分である。しかしまもなく、自分がほかの者を打ったのと同じような気がしてきて、……まだ少しヒリヒリしていたが、……すっかり満足し勝利を得て寝たのであった。

第三章 続勝利の記録

しかしながら阿Qは常勝をつづけたとはいえ、趙(チャオ)旦那に頬を殴られたことがあって、はじめて有名になったのであった。
彼は地保に酒手二百文の支払いをすませ、ぷんぷんしながら横になったが、そのあとで考えた。「今の世界はまったくお話にならぬ、伜がおやじを打つなんて……」と、こんどは急に趙旦那の威風堂堂たる姿が目に浮かんだ。そいつが今ではおれの伜なんだ、そう思うと、何だかだんだんとよい気分になって来た。それでむっくり起きあがり、『若後家の墓詣(まい)り』を歌いながら居酒屋へ行った。その時、彼にはまたもや趙旦那が人より一段とりっぱに思えて来たのである。
いうもおかしな話だが、そのことがあって以来、果然人々は彼を特別尊敬するようになったようである。阿Qにしてみれば、自分が趙旦那の父親であるからだと取っていたかもしれぬが、実はそうでもなかった。未荘のしきたりとして、もしも阿七(アーチー)が阿八(アーパー)〔わが国の熊公、八公というがごときもの。あとの「張三」「李四」も同様〕を殴るか、李四(リースー)が張三(チャンサン)を殴るかしても、これまで一つの事件とはされなかった。趙旦那のような有名人が一枚加わらないことには、絶対に彼らの口碑(こうひ)〔うわさ〕に載せられることはなかったのである。一たび口碑に載せられたならば、殴った人が有名だから、殴られたものもそのお蔭を蒙って有名になるのである。過(あやま)ちが阿Qにあることは、むろんいうまでもない。所以(ゆえ)は何(いかん)〔その理由は何か、という意〕? 趙旦那は決して過ちを犯すはずのない人だからである。だが阿Qが過ちを犯したというのに、なぜ人々はまた特別に彼を尊敬するようになったのだろう? どうもこれは解(げ)しがたい。穿鑿(せんさく)していうならば、多分阿Qが趙旦那の親戚だといったために、殴られはしたが、ひょっとしたら少しは本当かも知れぬから、いささか尊敬の意を表しておいた方が安全だと人々が思ったのかも知れない。そうでないとすれば、てっきり孔子廟に供えられる太牢(たいろう)〔祭祀に用いる牛〕のようなものだろう。あれは豚や羊と同じ畜生なのだが、聖人〔孔子のこと〕がお箸をつけ給うたからには、先儒〔先輩の儒者たち、孔子の崇拝者で、むろん嘲笑的にいったもの〕たちもむやみな真似はできないのである。
阿Qはその後は何年もの間、得意であった。
ある年の春、彼は一杯機嫌で町を歩いていた。と塀(へい)のわきの日向(ひなた)で、ヒゲの王(ワン)が肌ぬぎになって虱(しらみ)をとっていた。それを見ると、阿Qも急に身体がむずがゆくなって来た。このヒゲの王は禿がある上にヒゲが濃いので、ほかの人々はみな彼を「ヒゲの禿の王(ワン)」と呼んでいたのだが、阿Qだけは「禿」を抜かして呼び、しかも非常に軽蔑(けいべつ)していた。阿Qの意見では、禿は何ら異とするに足りないことだが、あの顎(あご)ヒゲと来ては、全く奇妙キテレツで、感心できない、というわけだった。そこで阿Qは彼と並んで腰をおろした。もしこれがほかの閑人どもだったら、阿Qはうかうか腰をおろすようなことはしなかったろう。だがこのヒゲの王(ワン)のそばなら、何を遠慮することがいるものか? 実をいうと、阿Qが進んで腰をおろしてやったのは、大いに彼の顔を立ててやった次第である。
阿Qもボロの袷(あわせ)をぬぐと、ひっくり返して調べてみた。ところが洗い立てのせいか、それともそそっかしいせいか知らぬが、大分かかって、やっと三、四匹つかまえたきりだった。ところがヒゲの王を見ると、一匹また一匹、二匹また三匹と、口の中に放りこんではプチッ、プチッと音をさせている。
阿Qは最初のうちはがっかりした。そのあと腹がむかついて来た。感心できないヒゲの王にさえあんなたくさんいるのに、自分にはこんなに少ないとは、これじゃまったく面目(めんぼく)丸つぶれじゃないか! 一匹でも二匹でもでっかい奴を見つけてやろう、と考えた。ところがてんでいないのだ。やっと中ぐらいのを一匹つかまえ、いまいましそうに厚い口唇の中に押しこんで、懸命に咬(か)んだら、ピシュッといって、これもヒゲの王の立てる音には及びもつかなかった。
彼のつる禿の一つ一つが全部真赤になった。着物を地面に叩きつけ、ペッと唾を吐くと、彼はいった。
「この毛虫め!」
「禿犬。そりゃだれにいってるだい?」ヒゲの王は軽蔑(けいべつ)したように目をあげていった。
阿Qは最近割合人から尊敬されていたし、自分ではなおのことお高くとまっていた。喧嘩(けんか)好きな閑人どもの前に出ると、さすがにいささか気おくれがしたが、こんどだけはひどく勇敢だった。こんなヒゲもじゃの野郎が、よくもぬけぬけと横柄な口をききやがった!
「きくだけヤボだわ!」彼は立ちあがると、両手を腰にあてていった。
「うぬ、頭(あたま)が痒(かゆ)いんか〔打たれたいのか、という意〕?」ヒゲの王も立ちあがり、上衣を着ながらいった。
阿Qは相手が逃げようとしてるかと思い、パッと飛びこんで一発みまった。しかしその拳(こぶし)がヒゲの王(ワン)の身体にとどく前に、早くも相手につかまった。ぐいと引っぱられた拍子に、阿Qはひょろひょろと前にのめり、たちまちヒゲの王に弁髪を握られ、塀(へい)のところへ引っぱって行かれ、例によって頭をぶつけられた。
「『君子は口を動かし手を動かさず〔腕力沙汰は紳士たるもののなすべきことではない、の意〕』だ!」阿Qは首をねじまげながらいった。
ヒゲの王は君子じゃなかったと見えて、てんで意に介せず、つづけざまに彼を五度まで打ちつけ、さらにぐいと一押しして、阿Qを六尺あまりも先まで突んのめらせてから、やっと満足して立ち去った。
阿Qの記憶の上で、多分これこそ生涯における第一の屈辱であったろう。というのが、ヒゲの王は顎(あご)ヒゲという欠点があるため、これまで阿Qに馬鹿(ばか)にされたことこそあれ、阿Qを馬鹿にしたことはなかったのである。ましていわんや手を動かすなんて、しかるに、現に奴が手を動かすに至ったとは、まことに意外なことであった。これはてっきり、街でうわさしている通り、皇帝が試験を廃止なされ、秀才も挙人もいらぬとされたために、趙家の威光がガタ落ちとなり、だから奴らまでが自分を軽蔑(けいべつ)するようになったのだろうか?
阿Qは途方にくれて立っていた。
遠くから一人の男がやって来た。またもや彼の敵手が現われたのだ。この男も阿Qが最も嫌(きら)っている一人で、すなわち銭(チェン)旦那の総領息子である。彼は以前城内へ行って洋式の学校にはいり、どうしたことかさらに東洋(トンヤン)〔日本〕へ行った。半年たって帰国した時には、足もまっ直ぐになり、弁髪もなくなっていた。彼の母親は十幾度も泣きわめき、彼の細君は三度も井戸に飛びこんだ。その後、彼の母親は行く先々で、「あの弁髪は悪い奴にへべれけに酔わされた上で切り取られたんだって。本当なら偉いお役人になれるんだけど、今のところ髪が伸びるのを待つほかないの」といっていた。しかし阿Qは信用せず、あくまで彼のことを「ニセ毛唐(けとう)」と呼び、また「外国の手先」と呼んで、彼を見ると、必ず腹の中でそっと罵倒(ばとう)するのだった。
阿Qが特に「しんの底から憎んでやまなかった」のは、彼のかつらの弁髪〔弁髪がないと清朝の役人になれない。それでかつらの弁髪のついた帽子をかぶった〕だった。そもそも弁髪が事もあろうにかつらだとは、人間たる資格ゼロじゃないか、四度目の飛び込みをしない彼の細君も、りっぱな女ではない。
その「ニセ毛唐」が近づいて来た。
「禿。驢馬(ろば)……」これまで阿Qは腹の中で罵倒(ばとう)するだけで、声に出したことはなかった。こんどはちょうどむしゃくしゃして、八ツ当たりしたいと思っていた矢先だったので、思わず小声でいってしまった。
ところが、なんとこの禿は、黄色い漆(うるし)塗りのステッキ……阿Qのいわゆる喪式棒〔父母が死ぬと、喪主の息子は葬式の時にはこの棒を持つことになっている〕……を持って、大股でやって来た。阿Qはこの刹那(せつな)、ありゃ打つ気だなと思い、いそいで筋肉を引きしめ、肩を張って身構えた。果たして、ピシッと、たしかに自分の頭上を打ったようである。
「おれはあれのことをいったんだ!」阿Qはそばにいた子供を指差して、弁解した。
ピシッ! ピシッピシッ!
阿Qの記憶の上で、これが多分生涯における第二の屈辱であった。幸いにしてピシッピシッとやられたあと、彼としては一つの事件の結末がついたように思われ、逆にさばさばした気持ちになった。それに「忘却」という祖先伝来の宝物〔中国の民族性の欠点を突いたもの〕も効力を発生して、それからのろのろと歩いて、居酒屋の入口の近くまで来た時には、もうかなり上機嫌になっていた。
だが向こうから静修庵の小尼がやって来た。阿Qはふだん彼女の顔さえ見ると、かならず唾(つば)をはきかけ悪口をいうのだった。まして屈辱を受けたあとと来ている。記憶がよみがえり、敵愾心(てきがいしん)が燃えあがった。
「今日はなんでこんなにむしゃくしゃするのかと 思ったら、なるほど お前の面(つら)を見たせいだな!」と彼は思った。
彼は行く手に立ちはだかり、大きな音を立てて唾を吐いた。
「カッ、ペッ!」
小尼はふり向きもせず、下うつむいて歩いた。阿Qはそのそばに近よりざま、いきなり手を伸ばして彼女の剃(そ)り立ての頭を撫(な)でると、げらげら笑いながら、いった。
「禿! はやく行くがいい、和尚(おしょう)さんがお待ちかねだ……」
「なんて無体(むたい)なことを……」尼は真赤になってそういいながら、急いで逃げて行こうとした。
居酒屋の中の人々はどっと笑った。阿Qは自分の手柄が賞讃されたのを見ると、ますます上機嫌になり、
「和尚さんならかまわんが、おれじゃいけないのか?」といって、彼女の頬をつねった。
居酒屋の客たちはどっと笑った。阿Qはいっそう得意になり、さらにそれら賞讃者がたを満足させるために、もう一度ぎゅっとつねってから、手を放した。
彼はこの一戦で、早くもヒゲの王(ワン)を忘れ、ニセ毛唐を忘れ、今日のいっさいの「むしゃくしゃ」に対して仇討本懐(ほんかい)を遂げたような気がした。ところが何と不思議なことに、身体全体がピシッピシッとやられた直後よりも一そうさばさばした気持ちになり、飄々然(ひょうひょうぜん)として飛んで行きそうな気持ちだった。
「孫も子もない阿Qめ!」遠くから小尼が泣きじゃくりながらいう声が聞こえた。
「ははは!」阿Qは十分得意になって笑った。
「ははは!」居酒屋の客たちも九分通り得意になって笑った。

第四章 恋愛の悲劇

ある人はいう、ある勝利者は、敵が虎のように、鷹(たか)のようにあってこそ、はじめて勝利の喜びを感ずる。かりに相手が羊のように、ひよこのようであったとしたら、彼は逆に勝利の空(むな)しさを感ずる。またある勝利者は、すべてを征服し尽くしてしまった後、死ぬものは死に、降服するものは降服し、「臣(しん)誠に誠に恐懼(きょうく)す、死罪死罪〔臣下が皇帝にたてまつる上秦文の中に常に用いられる言葉〕」ということに相成り、かくて彼には敵も、競争相手も、友達もいなくなって、自分だけがただひとり雲の上に、ひとりぼっちで、寂しく、わびしく残ったとなると、あべこべに勝利の悲哀を感ずる、と。ところがわが阿Qはそのような弱虫ではなかった。彼は永遠に得意だった。これまたあるいは中国の精神文明〔清朝末期に、列強は軍艦大砲をもって清朝を脅迫し、領土を奪い、賠償金を要求し、幾多の屈辱的条約を締結せしめた。ところが当時の有識者の中には、なおも強弁して、中国は物質文明においてはそれら強国にいささか劣るかも知れないが、中国の精神文明は世界第一であるといった。それを魯迅は皮肉っている〕が全世界に冠たる一証ではあるまいか。
見よ、彼は飄々然と飛ぶようにして行ったのである!
しかしこのたびの勝利は、彼をいささか変なものにしてしまったのだ。彼は飄々然と半日以上も飛びまわってから、ふらりと土地廟に帰り、いつものように横になると同時にイビキをかいて眠るはずであった。ところが豈計(あにはか)らんや、彼はどうしても目がつむれないのだった。親指と人指し指が少しおかしい、どうも少しふだんよりすべすべする、と思った。小尼の顔にある何かつるつるするものが彼の指にくっいたのかしらん。それとも彼の指先が小尼の顔をさすったためにつるつるになったのかな?……
「孫も子もない阿Qめ!」
阿Qの耳にまたしてもこの言葉が聞こえてきた。彼は思った。そうだ、女房を持たねばいけない。子も孫もいなければ、死んでから一杯の飯も供養(くよう)してくれるものがないわけだ、……女房を持たねばいけない。そもそも「不孝に三あり、後(あと)なきを大となす〔『孟子』の語。親不孝の中に重要なものが三つあり、その中でも後嗣のないのが最大の不孝である、の意。後嗣がないと、祖先を祭るものがいなくなるからである〕」だ。而して「若敖(じゃくごう)の鬼餒(う)ゆ〔『左伝』に「鬼すらなお食を求む、若敖氏の鬼それ餒えずや」とある。楚国の令尹(総理大臣)子文(しぶん)(若敖氏)はその弟の子良(しりょう)に命じて越椒(えつしょう)(子良の子)を殺させた。越椒が兇悪な相貌をしているところから、もしもこの子が大きくなればきっと禍をひきおこし、一家全部殺されるにちがいない。そうすれば若敖氏の祖先は祭りの供物を供えてくれる子孫が絶えたために、飢えてしまうだろう、というのである。人が死ねばみな「鬼」になる。鬼とは亡者の意。日本のオニとはちがう〕」であり、これこそ人生最大の哀しみである。だから彼のそうした考えは、たしかに一つ一つ聖賢の経典に合致しているのである。ただ惜しいことにそのあとがいささか「その放心を収むること能わず〔放縦な心をひきしめることができない、の意〕」であったが。
「女、女!……」と彼は考えた。
われわれはその晩阿Qがいつイビキをかいて眠ったか知らぬ。ただ多分彼はそれ以来、どうも指先が少しつるつるするのを感じ、そのため彼はそれ以来どうも少し飄々然となったようである。
「女……」と彼は考えた。
この一端から見ても、われわれは女というものが人を害するものであることを知ることができる。
中国の男性は、もともと大部分は聖賢になれるはずであるが、惜しいかなみな女性のために駄目(だめ)にされてしまう。商(しょう)は妲己(だっき)のために滅んだ〔商(殷)の最後の天子紂(ちゅう)王は、妲己という妃を寵愛して暴虐な政治を行なったため国を滅ぼしたといわれている〕。周(しゅう)は褒※(ほうじ)のおかげで滅んだ〔西周の最後の天子幽(ゆう)王は、妃の褒※を寵愛したため、諸侯の信用を失いとうとう夷狄の侵入を受けて殺されてしまった。※は、おんな扁に、以の旁〕。秦(しん)は……歴史に明文はないけれども、われわれはこれも女のために滅びたと仮定しても、多分そうまちがっていないだろう。また薫卓(とうたく)〔漢末の将軍。帝位を奪おうと謀って、部下の呂布に刺し殺された。『三国志演義』によると、王允(おうゆう)という漢の大臣が、貂蝉(ちょうぜん)という美姫を、最初呂布に与える約束をしてから、薫卓に与えた。そしてこれは薫卓がむりやり奪ったのだといって呂布をたきつけた。そこで呂布は薫卓を怨んでこれを刺し殺そうと企てる。これは多分に小説化された話であるが、封建道徳の擁護者はしばしばこれを盾にとって、女は人を害するものだという証拠にする。魯迅はそれを諷刺している〕は確かに貂蝉(ちょうぜん)に殺害されているのだ。
阿Qも本来は正しい人間である。われわれは彼がどういうりっぱな先生の教えを受けたか知らないけれども、彼は「男女の大防〔「男女三歳にして席を同じくせず」で、男と女はかってに接触することを許されず、直接話をかわしても、礼法にそむくこととされていた。そうした厳しい色々のきまりを「男女の大防」という〕」については、それまで非常に厳しかった。異端……小尼とかニセ毛唐(けとう)といったたぐい……を排斥(はいせき)する正しい気風を強くもっていた。彼の学説はこうだった。およそ尼は必ず坊主と密通している。女がひとりで表を歩いているのは、必ず男を誘惑しようと思っているからである。男と女が一対一で話をしているのは、必ず関係しようとしているのである。彼らを懲(こら)しめる目的で、彼はよく目を怒らしてにらみつけるか、大きな声で何か「心を誅(せ)める〔相手の内心の動機に立ち入って、その罪を責めること〕」言葉を投げつけるか、あるいは人のいない場所だったら、後から小石を投げつけるかした。
ところが豈計(あにはか)らんや、彼は「而立(じりつ)〔『論語』に孔子の言葉から、三十歳を「而立」という〕」に近い年になって、小尼のおかげで飄々然となってしまったのである。この飄々然の精神は、礼教の上であってならぬものである。……だからこそ女はまことに憎むべきなのだ。かりに小尼の顔がつるつるしていなかったら、阿Qだって惑わされずにすんだろう。またかりに小尼の顔が一枚の布で蓋(おお)われていたら、阿Qは惑わされずにすんだろう、……彼は五、六年前、舞台下の人ごみのなかで一人の女の太股をつねったことがある。しかしズボン越しであったから、あとで飄々然となるようなことはなかった。……しかし小尼の場合はそうでなかった。これから見ても異端の憎むべきことがわかる。
「女……」と阿Qは考えた。
彼は「必ず男を誘惑しようと思っている」女に対して、いつも注意してみるのだが、一向に笑いかけては来なかった。彼は自分と話している女の言葉を、いつも注意して聞くのだが、何か関係するようなことは何もいわなかった。ああ、これまた女の憎むべき点である。彼女たちはみな心にもない「まじめさ」を装っているにすぎないのだ。
その日、阿Qは趙(チャオ)旦那の家で一日米をついた。晩飯を食って、料理部屋に腰をおろしてタバコを吸っていた。これがよその家だったら、晩飯がすむと帰ってよかった。しかし趙旦那の邸(やしき)では晩飯が早く、灯(ひ)をともすことは許されぬしきたりで、飯がすんだらすぐ寝ることになっていた。もっとも偶然例外もあった。その一つは、趙の若旦那が秀才に及第する前までは、灯をともして文章を読むことが許されていた。その二は、阿Qが短工となってきたときで、灯をともして米をつくことが許されていた。この一つの例外のために、阿Qは米つきにかかる前に、料理部屋で一服したわけである。
呉媽(ウーマー)〔女中の名。既婚の女中を呼ぶときのいい方で、呉ねえや、の意〕は、趙旦那の家での唯一の女中で、皿(さら)や茶碗(ちゃわん)を洗ってしまうと、長腰掛に掛けた。そして阿Qに話しかけた。
「奥様はこの二、三日ご飯を召し上がらないんだよ。旦那さまがお妾(めかけ)さんを買うといいだしなすったもんでね……」
「女……呉媽……この若後家(わかごけ)……」と阿Qは考えた。
「うちの若奥さまはこの八月に赤ちゃんがおできになるんだよ……」
「女……」と阿Qは考えた。
阿Qはキセルをおいて、立ちあがった。
「うちの若奥さんが……」と呉媽はまだくどくどといっていた。
「おれと寝よう。おれと寝よう!」阿Qが突然詰めよって、彼女の前にひざまずいた。
一瞬間、シーンとなった。
「あれッ!」呉媽はしばらくポカーンとし、突然ふるえだした。そして大声でわめきながら表に駆けだし、走りながらわめいた。あとでは泣き声のようだった。
阿Qも塀に向かってひざまずいたままポカーンとなっていた。それから空(から)になった腰掛につかまって、やおら立ちあがった。どうやらまずいことになったようだ。さすがの彼も少し胸がさわいだ。そそくさとキセルをズボンの帯に挿すと、米をつきに行こうと思った。ピシリッと、頭に非常に大きな一撃を受けた彼は、急いで身をひるがえして逃げようとした。すると、かの秀才が大きな竹の天秤棒(てんびんぼう)をもって彼の面前に立ちはだかっていた。
「けしからん、……この野郎め……」
大きな竹の天秤棒がふたたび真向(まっこ)うからふり下ろされた。阿Qは頭を両手でかかえた。ピシッと指の関節にあたり、これは非常に痛かった。彼は料理部屋の戸口をとびだした。背中にもまた一撃くらったらしかった。
忘八蛋(ワンパタン)!」秀才は背後から官話〔明清時代、官界および上流社会で用いられた、公用語、標準語をいう〕を使ってそう罵(ののし)った。
阿Qは米つき場に逃げこみ、のっそりと立っていた。指はまだ痛かった。「忘八蛋」という言葉はまだおぼえていた。この言葉は未荘の田舎者の間ではこれまで使われたことがなく、もっぱらお役人とつきあうお偉方の使う言葉であったから、特別こわく、印象もまた特別深かったのである。だがそのとき、彼の例の「女……」という考えもふっ飛んでいた。その上、打(ぶ)たれ罵(ののし)られた後は、この事件の結着がすっかりついたものと思い、もはや何一つ気にかかることはなかった。それで米をつきにかかった。しばらくつくと、体がかっかとほてってきたので、また手を休めて服を脱いだ。
服を脱いだとき、外でがやがや騒いでいる声がした。お祭り騒ぎが飯より好きな阿Qは、さっそく声のする方へ出て行った。声のする方へと近づいて行くと、自然に趙旦那のいる奥の院の中へはいった。夕方の薄暗がりの中にも、たくさんの人の顔が見わけられた。趙邸一家の人々が、この一、二日食事もとらぬ奥さんまで含めて、出揃っているほかに、隣の鄒七嫂(ツオウチーサオ)〔鄒家の七番目の息子を指していう。嫂は同輩の細君に対する敬称〕や、正真正銘の一族である趙白眼(チアオパイエン)や趙司晨(チャオスーチェン)もいた。
そのとき若奥さんが呉媽(ウーマー)の手を引いて女中部屋から出てきながら、いった……
「表へ出ようよ、……だめよ、自分の部屋にひっこんでくよくよと……」
「あんたがまじめな女だってことはだれだって知ってるんだから、……早まったことはしちゃいけない」と鄒七嫂もそばからいった。
呉媽は泣くばかりだった。何かいったが、あまりよく聞こえなかった。
阿Qは考えた。「ふん、面白(おもしれ)えや。あの若後家、いったいどんな芸当をやらかしたんだろう?」彼は仔細(しさい)を聞こうと思って、趙司晨のそばに近よった。そのとき彼は突然、趙旦那が自分の方へ走ってくるのを見た。しかも大きな竹の天秤棒を手に持っている。その大きな竹の天秤棒を見て、突然、自分がそれで打たれたこと、そしてこのお祭り騒ぎと少し関係があるらしいことを、咄嗟(とっさ)に悟った。彼はさっと身をひるがえし逃げようとした。米つき場へ逃げようと思ったのだ。しかしその竹の天秤棒が彼の行く手をふさいでいた。そこで彼はまたくるりと向きを変えて逃げだし、おのずと裏門を抜けだし、またたくまに、もう土地廟のなかにいた。
阿Qはしばらくぼんやりしているうち、皮膚に鳥肌(とりはだ)が立ち、寒さを感じた。春とはいえ、夜になるとまだかなり冷えて、裸ではぐあいがよくなかった。布の上衣を趙家においてきたことに気がついたが、取りに行けば、秀才の竹の天秤棒がこわかった。ところが地保がはいってきた。
「阿Q、この馬鹿野郎め! きさま、趙家の使用人にまでちょっかいを出しおって、まるで謀反(むほん)じゃないか。おかげでおれは夜も寝られなかったんだぞ。この馬鹿野郎めが!……」
なんのかんのと小言を並べた。阿Qはむろん何もいえなかった。あげくのはてに、夕方の時間外だったというので、地保に普通の倍の酒手四百文を包まねばならなかった。阿Qは現金の持ち合わせがなかったから、毛織りの帽子をカタにおいた。そして五つの条件をとりきめた……
一、明日赤蝋燭(ろうそく)……重さ一斤(きん)のもの……一対(つい)、香(こう)一封(ぷう)をもって、趙邸へ謝罪に行くこと。
二、趙邸では道士〔道教の坊さん〕を呼んで首吊(くびつ)り幽霊〔幽霊の中には首吊り幽霊(吊死鬼(テイアオスークイ))というのがある。人が首をつるのは、この幽霊が自分の身替りを求めてそうさせるからだという迷信がある。そのため、首をつろうとしたものがあると、お祓いの法事をせねばならないことになっている〕のお祓(はら)いをする。その費用は阿Qの負担とすること。
三、阿Qは今後趙邸の敷居をまたがぬこと。
四、呉媽にもし今後万一のことが起こった場合は、いっさいの責任はすべて阿Qにあるとしてこれを追求すること。
五、阿Qは賃銀と布の上衣を取りに行ってはならぬこと。
阿Qはむろん承知した。しかし残念ながら金がなかった。幸いもう春だったから、綿入れの掛け蒲団(ふとん)はなくてもすむので、それを二千文で質に入れて、契約を履行した。半裸体になって頭を地に叩(たた)いてお詫(わ)びをした後、何文かの銭が残ったが、彼は毛織りの帽子を受け戻しには行かずに、全部はたいて酒を飲んでしまった。ところで趙家の方でも香(こう)もたかず蝋燭(ろうそく)もともさなかった。奥さんが仏さまを拝むときに使えるというので、しまっておいたからである。あの破れた布の上衣の大部分は若奥さんが八月に生んだ赤ちゃんのおむつになり、小部分のボロボロに破れたところは全部呉媽の靴底になった。

第五章 生活問題

阿Qは謝罪をすませると、また例によって土地廟に帰ってきた。日が沈むとともに、世の中がどうも少しおかしいと感じはじめた。よくよく考えた末、はっと悟った。原因は自分が半裸体であることだった。で、破れた袷(あわせ)がまだあったことを思いだし、それを上にひっかけて、横になった。目をあけてみると、日はもう西の塀(へい)の上を照らしていた。彼は上半身をおこしながら、いった。「くそッ……」
彼は起きあがると、また例によって街をほっつき歩いた。半裸体の時の身を切るような痛さとは比較にならないとしても、世間の風向きがどうも少しへんだぞ、という気がして来た。なんだかその日から、未荘中の女という女がみなにわかに羞(はずか)しがり屋になったようだ。阿Qが近づいてくるのを見ると、彼女たちはみな家の中に逃げこんだ。ひどいのは五十に手のとどきそうな鄒七嫂までが、いっしょにあたふたと逃げこみ、しかもやがて十一になる女の子まで中に呼びこむのだった。阿Qは不思議でならず、そして考えた。「やつらは急にお嬢さんの真似をおっぱじめやがったのかな。あの娼婦(すべた)どもが……」
だが、世間の風向きがどうも少し変だという感じをいよいよ強めたのは、それからだいぶ日がたってからであった。第一に、居酒屋でツケがきかなくなった。第二に、土地廟を管理しているじじいが何かと文句をつけ、出て行けがしな物言いをする。第三に、あれから何日たったかよくもおぼえていないが、たしかにもう相当たったのに、だれも彼に日雇いの仕事の口をかけて来なくなった。居酒屋のツケがきかないのは、がまんできる。じじいに出て行けといわれても、ぶつくさいわしておけばすむ。だが、日雇いの口がかかって来ないとなると、阿Qの口が干あがってしまう。これではまったく、「くそッ」といいたくなるのも無理からぬ次第であった。
阿Qはとうとう辛抱できなくなって、やむなくもとのお主雇(とくい)の家へ伺(うかが)いに行った、……趙邸の敷居だけはまたぐことを許されていなかったが……ところが様子がおかしかった。必ず一人の男が出て来て、さもいまいましげな顔つきをして、まるで乞食でも追っぱらうみたいに手をふっていうのだった……
「ないよないよ! 出て行け!」
阿Qはいよいよへんだと思った。彼は考えた。みんなこれまで手伝い人なしにはすまない家だったのに、急にどこも仕事がないなんていうはずはない。きっと何かわけがあるにちがいない。彼は気をつけて様子を覗(うかが)った。その結果、どこの家でも仕事があると、みな小Don〔魯迅があとで説明したところによると、Don は「同(トン)」で小Dは「小同」である〕を雇っていることがわかった。この小Dというのは、やせてひょろひょろしている、貧相な小僧で、阿Qの目からは、ヒゲの王(ワン)よりもう一段下の地位におかれていた。その小僧がこともあろうに、こっちの飯櫃(めしびつ)を横取りしたのだ。だから阿Qの逆上ぶりは、ふだんとちがっていた。かんかんに怒って歩きながら、彼は突然手をあげて、歌った……
「われ手に鉄の鞭をとりて汝(なんじ)を打たん〔紹興地方で盛んに演ぜられる『竜虎の闘い』という芝居の中の歌詞〕……」
何日か後、彼はついに銭(チェン)邸の照壁(めかくし)〔大門のすぐ外に立てられた目かくしの塀〕の前で小Dに出会った。「仇敵相見(まみ)ゆれば特別目敏(さと)し」というわけだ。阿Qが進みよると、小Dも立ちどまった。
「畜生!」と阿Qは目を怒らしてにらみつけながらいった。口から唾(つばき)がとび出した。
「おいらは虫けらだからさ、いいだろ?……」と小Dはいった。
このへり下った言い方がかえって阿Qを一層逆上させた。だが彼は手に鉄の鞭を持っていなかった。仕方なしに彼は素手で飛びかかって行き、猿臂(えんび)をのばして小Dの弁髪をつかんで引っぱった。小Dは片手で自分の弁髪の根元をかばい、もう一方の手で彼も阿Qの弁髪をつかんだ。阿Qの方でも空(あ)いている方の手で自分の弁髪の根元をかばった。これまでの阿Qから見れば、小Dは歯牙(しが)にかけるがほどもない奴だった。しかし最近はずっと腹をすかしていたから、やせてひょろひょろしている点では小Dにもおさおさ劣らなかった。そのため勢力は全く均衡の現象を呈し、四本の手が二つの頭を引っぱり合い、双方腰を曲げて、銭家の白塀の上に藍(あい)色の虹(にじ)〔二人とも下層階級の者の着る藍色の上衣を着ていたから〕の形を映し出すこと、およそ半時間の久しきに及んだ。
「もういい、もういい!」と見物人はいった。多分仲裁しているのだった。
「いいぞ、いいぞ!」と見物人はいった。仲裁しているのか、賞めているのか、それとも煽動しているのかわからなかった。
しかし彼らはどちらも聞かなかった。阿Qが三歩出ると、小Dは三歩さがり、双方とまった。小Dが三歩出ると、阿Qは三歩さがり、また双方とまった。多分半時間、……未荘には時計が少なかったので、たしかなことはいえない。ひょっとしたら二十分ぐらいかも……二人の頭髪から湯気が立ち、額(ひたい)から汗が流れた。阿Qの手がゆるんで離れた。と同じ瞬間に、小Dの手もゆるんで離れ、同時に直立し、同時にうしろにしざり、人ごみをわけて去った。
「おぼえてやがれ、馬鹿(ばか)野郎……」と阿Qはふりかえっていった。
「馬鹿野郎、おぼえてやがれ……」と小Dもふりかえっていった。
この『竜虎の闘い』の一幕はどうやら無勝負に終わった。見物人が果たして満足したかどうか、だれもそれについてはふれなかった。しかし阿Qは依然としてどこからも日雇いの口がかかって来なかった。
微風がそよいで、大分夏らしくなった、暖かいある日のことであった。それなのに阿Qは肌寒かった。それは何とかがまんできるとして、何よりも腹がぺこぺこだった。綿入れの掛け蒲団も、毛織りの帽子も、布の上衣もとうの昔になくなっていた。その次には綿入れの上衣を売った。いまズボンはあるが、何が何でもこいつは脱ぐわけにゆかない。ボロボロの袷(あわせ)があるにはあるが、人にやって靴底にするならともかく、絶対に売って金になるような代物(しろもの)ではない。もしや路に金が落ちてやしないかと、前から気をつけているのだが、今もって見つからぬ。自分の破れ小屋のなかからひょっと金が出てきはしまいかと思って、あわててあたりを見回したが、部屋のなかはがらんどうで一目瞭然だ。そこで彼は食物を求めて外に出て行くことにきめた。
彼は「食を求め」て歩いたが、おなじみの居酒屋を見ても、おなじみの饅頭(マントウ)〔あずきあん・野菜・肉あんなどを入れたまんじゅう。北方では包子(パオツ)という〕を見ても、そのまま通りすぎた。立ちどまらないばかりでなく、欲しいとも思わなかった。彼の求めているのはそんなものではなかった。彼の求めているのは何か、彼自身にもわからなかった。
大体、未荘は大きな村ではない。あっという間に村はずれまで来た。村の外はほとんど水田で、見渡すかぎり新苗の若緑である。そのなかに点々と動いているいくつかの円い黒点は、田を耕している農夫である。阿Qはそうした田家(でんか)の楽しみを〔農家の楽しみ〕賞(め)でる気はなく、ただひたすらに歩いた。それが自分の「食を求める」道からは非常に遠いものであることを直覚的に知っていたからである。だが彼はついに静修庵の塀の外まで来た。
庵の周囲も水田であった。白塀が新緑のなかに突き出ており、裏手の低い土塀のなかは野菜畑だった。阿Qは一瞬ためらった。あたりを見渡したが、だれもいない。そこで彼はこの低い土塀に這(は)いのぼり、何首鳥(かしゅう)〔タデ科に属する多年生の蔓草〕のつるにつかまった。しかし泥はばらばら落ち、阿Qの足もがたがた震えた。やっと桑の木の枝にすがって、内側にとび下りた。なかは欝蒼(うっそう)と茂ったいたが、黄酒や饅頭はおろか、食えそうなものは何もないようであった。西側の塀に沿って竹林があり、その下に筍(たけのこ)がたくさん立っていたが、残念ながらどれもまだ煮込んでなかった。油菜もあったが、もう実が成っていた。芥子菜(からしな)は花が咲きそうになっていたし、小松菜(こまつな)もすっかり薹(とう)が立っていた。
阿Qは文童が落第した時のようなやるせない気持ちで、とぼとぼ畑の入口にさしかかった。とたんに、はっと驚喜した。まぎれもなくそれは大根の畦(あぜ)であった。彼はさっそくしゃがんで抜いた。と、入口から、まん丸い顔が出たかと思うと、すぐまた引っこんだ。明らかに小尼であった。小尼なんてものを、阿Qは大体塵か芥くらいにしか思っていない。だが世間の事は「一歩退いて考え」ねばならぬ。だから彼はいそいで大根を四本引っこ抜き、青葉をもぎとって、服の上前(うわまえ)に包んだ。ところが年寄りの尼がすでに出て来ていた。
阿弥陀仏(あみだぶつ)、阿Q、なんで畑にはいって大根を盗んだえ!……何てまあ、罰あたりな、ほんにまあ、阿弥陀仏!……」
「おれがいつお前さんとこの畑にはいって大根を盗んだんだ?」阿Qは彼女の方を見い見い逃げながらいった。
「現に……それがそうじゃないかえ?」と年寄りの尼は彼のまくりあげた上前を指差した。
「これがお前のだって? たしかにそうだという返事を大根から取れるのかい? お前……」阿Qはみなまでいわずに、さっと逃げだした。追って来たのはむっくり肥えた大きな黒犬だった。こいつは本来なら門前にいるのだが、どうした都合か裏の畑に来ていた。黒犬はワンワン吠えながら追って来て、すんでに阿Qの太股(ふともも)に食いつくところであったが、運よく上前の中から大根が一本落ちたので、その犬はびっくりして、ちょっとたじろいだ。そのすきに阿Qはすでに桑の木によじ登り、土塀をまたいで、人も大根もいっしょに塀(へい)の外側にころがり出た。あとに残った黒犬はなおも桑の木に向かって吠え、年寄りの尼は念仏を唱えていた。
阿Qは尼がさらに黒犬をけしかけはしまいかと思い、大根を拾ってすぐ逃げだし、路々、石ころをいくつか拾った。だが黒犬はもう出てくる様子はなかった。そこで阿Qは石ころを捨て、歩きながら食い、かつ考えた。ここにはどこさがしても食い物はない。いっそ城内へ行った方がよい……
三本の大根を食い終わった時までに、彼はすでに城内へ行こうと決心をかためていた。

第六章 中興から末路まで

未荘にふたたび阿Qの姿を見かけたのは、その年の中秋節が過ぎたばかりの頃であった。人々は珍しがって、阿Qの帰って来たことを話題にのぼせ、そこでさらに前にさかのぼって、阿Qはそれまでどこへ行っていたのだろうかと考えてみた。阿Qは前にも何度か城内に行ったが、その時はたいてい、前もって得々と吹聴したものである。ところがこんどはそれをしなかったから、だれひとり気に留めたものもなかったのである。ことによれば土地廟の番人のじいさんには話したかも知れない。しかし未荘の昔からのしきたりとして、趙(チャオ)旦那、銭(チェン)旦那、および秀才旦那が城内におでかけというのでないと一つの事件とはいえない。ニセ毛唐ですら数のなかにはいっていないくらいだから、阿Qなぞは論外である。だからじいさんも彼のために宣伝しなかったのだろうし、未荘の社会が知るわけもなかったのである。
ところが阿Qのこのたびの帰村は、前とは大ちがいで、たしかに驚異に値いする出来事であった。そろそろ暗くなりかけた時分に、彼は酔眼ならぬ睡眼朦朧(すいがんもうろう)として居酒屋の門前に現われた。スタンドに近づくと、胴巻から銀貨や銅貨を鷲掴(わしづか)みにして、スタンドの上にザラザラッと投げ出し、「現金だ! 酒をくれ!」といった。着ているのは新調の袷(あわせ)で、見れば腰のところになお大きな財布をさげており、そのずしりとした重さのためにズボンの帯が大きな大きな弧線を描いてずり下がっていた。未荘の昔からのしきたりで、少しでも目覚ましい人物に対しては、軽蔑(けいべつ)するよりも尊敬することになっている。この場合、明らかに相手は阿Qとわかっているが、ボロの袷の阿Qとはいささかちがっている。古人も「士は別るること三日なれば刮目(かつもく)して待つべし〔読書人は三日別れていたら、全くちがった見方で見なければならぬ。読書人の変化の速いことをたとえて言ったもの〕」といっている。かるが故に、小僧も主人も客も通行人も、疑いつつもなおかつ尊敬した様子を現わした次第であった。主人がまっさきにうなずいて挨拶し、ついで話しかけた……
「おや、阿Q、帰って来たんだね!」
「帰って来たよ」
「おめでとう。お前は……どこ……」
「城内へ行ってた!」
このニュースは、翌日には全未荘に知れわたった。だれもが現金と新調の袷の阿Qの中興史を知りたがり、そこで居酒屋で、茶館で、土地廟の軒下で、だんだんに話を聞きだした。その結果、阿Qは新しい畏敬をかち得た。
阿Qの話によると、彼は挙人(きょじん)旦那のお邸で働いていたのだという。このことは、聞いていたすべての人々を粛然(しゅくぜん)と襟(えり)を正さしめた。そもそもこの旦那は白(パイ)という姓であるが、城内で挙人はこの人ひとりしかいないために、別に姓を冠(かぶ)せなくても、挙人といえば、つまりこの人のことであった。これは未荘でそうであったばかりでなく、百里方円の内ではみなそうであって、人々はほとんど彼の姓名を挙人旦那というのだと思いこんでいるくらいであった。この人のお邸で働いたというのだから、尊敬されるのは当然であった。ところが阿Qがさらに話したところによると、彼はもうあすこで働く気はしない、何しろあの挙人旦那は、実際があまりにも「馬鹿野郎」だから、というのであった。これを聞いて、人々はみな溜息をつくと共に気味よがった。というのが、阿Qは挙人旦那のお邸で働くような柄ではない、といって働かないのももったいない話だと思ったからである。
阿Qの話によると、彼が帰って来たのは、城内の人々に対する不満も原因となっているらしかった。それは彼らがチャントンをティアオトンといい、また魚の揚げ料理に葱(ねぎ)の微塵(みじん)切りを添えるためでもあるが、そのうえ最近観察して得た欠点は、女が路を歩くのにシャナリシャナリとして、あまり格好がよくないからであった。しかしたまには大いに感心なところもあった。それはたとえば未荘の田舎者は三十二枚の竹牌〔賭博具の一種〕を打つだけで、麻醤(マージャン)〔麻雀牌(マージャンパイ)のことをよく知らない阿Qは、音が同じところから間違えて麻醤(ゴマ味噌の意)といったのである。いかにも田舎者にありそうな間違いである。麻雀は前出の押牌宝(ヤーパイパオ)などよりもずっと複雑で高級な遊戯で、この当時はまだ都会か上流社会で行なわれているだけであった〕のやれるのはニセ毛唐一人きりである。ところが城内では小僧っ子でさえそれはそれは手に入ったものだ。ニセ毛唐なんか、城内の十四、五歳の小僧っ子の手にかかれば、それこそ「閻魔(えんま)様の前の小鬼」みたいなものだろう。この一くさりを聞いていた人々は、みなぱっと顔を赤らめたのであった。
「お前たち首をちょん斬るところを見たことがあるかい?」と阿Qはいった。「そりゃ、見物(みもの)だぜ。革命党を殺すんだ。うん、まったくそりゃ大した見物だぜ、……」彼はかぶりをふって、唾(つば)を真正面にいた趙司晨(チャオスーチェン)の顔に飛ばした。この一くさりに、聞いていた人々はみな凛然(りんぜん)となった。だが阿Qはまたあたりを見回し、突然右手をふりあげたかと思うと、首をのばしてうっとりと聞き入っていたヒゲの王(ワン)のボンノクボめがけて、いきなり打ちおろし、
「サッ!」
といった。ヒゲの王はびっくりしてとびあがり、同時に電光石火のように急いで首をひっこめた。一方、聞いていた人々もみな怖気(おじけ)をふるうとともに、喜んだ。以後、ヒゲの王は何日ものあいだガックリきたらしく、二度と阿Qのそばに近よろうとしなかった。ほかの人々も同じことだった。
当時、未荘の人々の目に映った阿Qの地位は、趙旦那を追い越したとは敢えていわぬまでも、まずはおっつかつだといっても、大して語弊はなかったろう。
ところがまもなく、この阿Qの雷名はたちまち未荘の閨(けい)〔婦人の居室〕中にまで響(ひび)きわたった。未荘で大きな邸といえば銭家と趙家の二軒だけで、そのほかの十の九まではみな浅閨(せんけい)〔特に上流階級では男女の区別が厳しく、婦人は家庭の奥まった居室、つまり「深閨」に住み、家人以外の男子はかってに中に入ることを許されない。ところが中流以下の家では、婦人も労働しなければならないし、家も広くないために、そんなに厳重に区別できるものではない。だから「浅閨」といったわけだが、これは魯迅の新造語であって、いわゆる「新閨」を諷刺している〕だが、閨中は何といっても閨中だ。だからこれはまことに不可思議といってよい。婦人たちは顔さえ合わせると噂(うわさ)話でもちきりだった。鄒七嫂(ツオウチイサオ)が阿Qから紺の綢子(しゅす)の裙(スカート)を買ったそうだ、むろん古物は古物だが、それがたったの九十銭だとさ。それから趙白眼(チャオパイエン)の母親……一説では趙司晨(チャオスーチェン)の母親だともいう、再考を待つ〔少しも重要でもなく、考証の必要もないところを、わざと考証学者めかした書きぶりをして、胡適一派の「考証癖」を諷刺したもの〕……も子供に着せる赤い金巾(かなきん)の上衣を買ったそうだ、七分通りの新品で、それがたったの九十二枚一貫(さし)〔当時用いられていた孔あきの銅銭は、百枚ごとに紐で通して一串(さし)(一貫と同じ)とした〕で三貫文だとさ。そこで彼女たちは熱心に阿Qに会いたがった。綢子(しゅす)のスカートのないものは彼から綢子のスカートを買いたいと思ったし、金巾(かなきん)の上衣を欲しがっているものは彼から金巾の上衣を買おうと思った。彼の姿を見て逃げださないばかりか、時には阿Qが通り過ぎたあとから、追いかけて行って彼を呼びとめ、たずねるのだった……
「阿Q、お前さん、綢子のスカートはまだあるかえ? ない? 金巾の上衣もほしいんだけどね、ある?」
後にはこれがつい浅閨から深閨まで伝わって行った。というのが、鄒七嫂(ツオウチーサオ)が有頂天になったあまり、彼女の綢子のスカートを趙(チャオ)奥さんに御覧に入れ、趙奥さんはそれをまた趙旦那に話し、しかも大々的に誉めちぎったからである。趙旦那はさっそく晩飯のテーブルで、秀才旦那と話し合った。阿Qはどうもうろん臭いところがある、戸閉まりを用心せんといけないぞ。しかしあいつ、まだ買えるような品物を持っているかしらん、よい品物を持っているかも知れんぞ。それに趙奥さんも値段が安くて品のよい毛皮の背心(そでなし)をぜひ買いたいと思っていた。そこで、さっそく鄒七嫂に頼んで阿Qを今すぐ呼んでこさせること、なおそのために新たに第三種の例外を設けて、その晩は特別に石油ランプを点(とも)すことを許可する、と家族会議は決議した。
石油ランプの石油はすでに相当量を費消したのに、阿Qは一向に姿を見せなかった。趙邸の全家族はじりじりして、欠伸(あくび)をし、阿Qの風来坊ぶりをうらんだり、鄒七嫂ののろまぶりをぼやいたりした。趙奥さんは趙奥さんで、阿Qが春にとりきめた例の条件のために来ないのではないかといって気をもんだ。しかし趙旦那は、その心配はいらない、なぜなら「おれ」が呼びにやったのだから、といった。さすがに、趙旦那は見識があった。阿Qはついに鄒七嫂のあとからはいって来た。
「阿Qったら、もうないないというんですよ。私はお前さんの口からじかにそう申し上げろといいましたんですが、阿Qはそれでもそういいはりますので、わたしが……」と鄒七嫂ははあはあ息を切らして歩きながらいった。
「旦那さま!」と阿Qは笑うような笑わぬような顔をしてそう呼びかけると、軒下に立ちどまった。
「阿Q、お前は金儲けをして帰ったそうだな」と趙旦那はつかつかと歩み寄り、阿Qの全身を観察しながらいった。「結構なことだ。結構なことだ。その、……お前は古物をいろいろ持っておるそうだな、……持って来て見せてくれんか、……それもほかじゃないんだ、わしの欲しいのは……」
「鄒七嫂にもいいました通りで、もうおしまいになりましたんで」
「おしまいになった?」と趙旦那は思わず叫んだ。「どうしてそんなに早くおしまいになったんだ?」
「あれは友達のものでして、たくさんはなかったんで、みなさんが買ってくださったもので……」
「まだ少しはあるだろう」
「あと、門幕(のれん)が一枚残っているきりで」
「じゃ、いますぐその門幕を持って来て見せておくれ」と趙奥さんがいそいでいった。
「そんなら、明日持ってくればよい」趙旦那はあまり熱心でなくなっていた。「阿Q、これから何か手にはいったら、まっさきにうちに持って来て見せろよ……」
「値段は決してよそより少なく出すようなことはしないからな」と秀才はいった。秀才の奥さんはいそいで阿Qの顔を一瞥(べつ)し、彼が感動したかどうかを見た。
「わたしは毛皮の背心(そでなし)が欲しいのだよ」と趙奥さんはいった。
阿Qは口でははいはいといったが、そのままのっそりと出て行ってしまった。だから果たして彼が心にとめたかどうかわからなかった。これには趙旦那は大いに失望し、腹が立つ上に気がかりで、欠伸がとまったほどであった。秀才も阿Qの態度には大いに憤慨した。そこで、あの忘八蛋(ワンパタン)には用心せんといかん、いっそ地保にいいつけて、奴を未荘から所払(どころばら)いにした方がよいかも知れん、といった。しかし趙旦那はそれには反対だった。怨(うら)みをかうことになるかも知れぬし、それにあの道の商売をするものはたいてい「鷹(たか)は巣のなかのものは食わぬ」とされているから、この村ではその心配はあるまい、せいぜい自分で夜の警戒を怠らなければ大丈夫だろうといった。秀才はこの「庭訓(ていきん)〔父の教訓の意〕」を聞くと、なるほどそれはごもっともといって、さっそく阿Q追放の提議を引っこめ、かつ鄒七嫂に向かって、今のことは絶対に人にいわないようにと口止めした。
だがその翌日、鄒七嫂はその紺のスカートを黒に染めかえ、また阿Qの怪しい点をいいふらしに出て行った。ただし秀才の阿Q追放案については確かに口外しなかった。しかしこれはすでに阿Qにとって甚だ不利であった。まず最初に、地保がたずねて来て、門幕(のれん)を取りあげて行った。阿Qがそれは趙奥さんが見たいといっていたからといっても、地保は返してくれぬばかりか、毎月のつけとどけの金額をきめようと要求した。その次に、村人の彼に対する畏敬が急に変化した。乱暴を働くようなことこそなかったが、遠く避けようとするそぶりが見られ、そのそぶりは以前阿Qの「サッ」とやるのを防いだ時とはちがって、もっと「敬してこれを遠ざく〔敬遠すること〕」といった分子が混じっていた。
一方、閑人(ひまじん)たちは阿Qの内情を徹底的につきとめようとした。阿Qも別に包み隠すようなことはせず、むしろ大威張りで自分の経験を話した。そこで彼らは知ったのだが、阿Qはほんの端役(はやく)にすぎず、塀を乗りこえられぬどころか、孔からもぐりこむこともできず、ただ外に立っていて盗品を受け取っただけであった。ある晩、彼が包みを一つ受けとったあと、本職の男はふたたび忍びこんで行ったが、まもなく、内側で騒ぎ立てるのがきこえた。それで彼は急いで逃げだし、夜のうちに城壁を乗りこえて、未荘に逃げ帰ったということで、もうあの仕事をしに行く気はないといった。ところがこの話は阿Qにとって一層不利であった。そもそも村人が阿Qに対して、「敬してこれを遠ざけ」たのは、怨みを買うのを恐れたればこそであった。それなのに彼は二度と盗みをする勇気のないコソ泥にすぎなかったのか? これは実際、「こらまた畏(おそ)るるに足(た)らざるなり」であった。

第七章 革命

宣統(せんとう)三年九月十四日〔宣統は満朝の最後の年号。これは旧暦でいったもので、新暦に直せば一九一一年十一月四日。つまり十月十日、武昌に辛亥革命が起こってから二十五日後で、この日、紹興ではこれに呼応して革命に立ちあがったのである〕……つまり阿Qが財布を趙白眼(チャオパンエン)に売った日……の夜中の一時に、大きな墨塗りの苫(とま)船が趙邸の船着場に着いた。この船は真暗闇(まっくらやみ)の中を漕いで来たもので、村の人々はみなぐっすり眠りこんでいて、だれも知らなかった。しかし出て行ったのは夜明け方に近かったから、何人かの目撃者があった。こっそりあちこち当たって調べた結果、それはなんと挙人旦那の船であったことがわかった!
その船は大きな不安を未荘にもたらした。正午にもならぬうちに、全村の人心はひどく動揺した。船の使命を、趙家ではあくまで秘密にしていたが、茶館でも居酒屋でも、革命党が城内にはいって来ようとしているので、挙人旦那はわれわれの村へ避難したのだと、噂(うわさ)していた。しかし鄒七嫂だけはそれはちがうといった。あれはいくつかのボロボロの衣裳箱にすぎず、挙旦那は預かってもらうつもりで運んだのだが、趙旦那にことわられてまた持ち帰ったのだといった。実際、挙人旦那は前から趙秀才とうまが合わなかったから、筋からいっても「患難を共にする」義理はあり得なかったし、それに鄒七嫂は趙家の隣に住んでいて、真近に見聞したわけだから、多分彼女のいうことが正しいにちがいない。
だがデマは盛んに飛びかった。挙人旦那は自分では来なかったらしいが、長文の手紙をよこして、趙家と「親戚の親戚」ということになった。趙旦那は腹の中で計算して、決して損にはならぬと思ったので、衣裳箱をあずかることにし、現に奥さんの寝床の下に押しこんであるんだそうだとか、また革命党については、その夜のうちに城内にはいり、一人一人が白い兜(かぶと)に白い鎧(よろい)、つまり崇正(すうせい)皇帝〔明朝の最後の天子で、明朝滅亡の際、自ら首を縊って死んだ崇禎(すうてい)帝のこと。「禎」の字は清の雍正(ようせい)帝の名胤※(いんしん)の「※」(ころも扁に、眞の旁)の字と音が近いため、清朝時代はこれを避けて「崇正」と書いた。民国の時代になってからまで、清朝の天子の諱(いみな)を避ける必要はないのであるが、清朝の遺老を気取ってなおそのようなことをする習慣が一部に残っているのを、魯迅は暗に諷刺しているのである。明朝が滅びて満洲人の清朝の天下となるや、革命の志士は常に「反清復明」をスローガンとした。清末の辛亥革命の際も、民衆の中には、これは明朝を復興し、崇禎帝のために仇を報ずるのだと考え、また革命党はみな崇禎帝のために喪服を着ているのだという風に考えていた。中国の喪服は白い〕のための喪服を着けていたんだそうだとか。
革命党という言葉は、阿Qの耳には、とうの昔からはいっていたし、それに今年革命党が殺されるところを目撃していた。ただ彼は、どこから来たとも知れぬ一つの意見を持っていた。すなわち革命党とは謀反(むほん)であり、謀叛は自分にとって迷惑だ。だから彼はこれまで「深く憎(にく)み、断じてこれと絶っ」て来たのである。しかるになんとその革命党が、百里四方に名の聞こえた挙人旦那をそれほどまでに怖(こわ)がらせていようとは! そこで阿Qはいささか「恍惚」となった。ましてや未荘のろくでなしどものあわてふためく様子は、阿Qにとって、一層小気味がよかった。
「革命も悪くないな」と阿Qは考えた。「あの馬鹿野郎どもをカクメイしてやるか。あの面憎(つらにく)い、糞(くそ)いまいましい野郎どもを!……よし、おれも一ちょう革命にはいりたい」
阿Qはこのところ手元が不如意で、心中いささか穏やかならぬものがあったせいもあろう。その上、昼間すきっ腹に二、三杯ひっかけたものだから、酔いのまわりが一層早く、歩きながら考えるうち、またしても飄々然となったのである。どうしたことか、突然、革命党は自分で、未荘の人間は全部自分の俘虜(ふりょ)だという気がした。彼は得意のあまり、思わず大声でわめいた……
「謀反だ! 謀反だ!」
未荘の人々はみな恐怖の目つきで彼を見た。その憐れむべき目つきは、阿Qがこれまで見たことのないものであった。それを見ただけで、彼は夏のさかりに氷水を飲んだような溜飲(りゅういん)のさがる思いだった。彼はますますいい気になって、歩きながら叫んだ……

よし、……ほしいものはみんなおれのもの、すきな女はみんなおれのものだ。
ドンドン、ジャンジャン!
悔ゆるも及ばず、酔ったまぎれに誤ってわが義弟鄭(てい)〔この歌は前出『竜虎の闘い』の一節。鄭というのは鄭子明で、趙匡胤の部下の猛将〕を斬った。
悔ゆるも及ばず、あああ……
ドンドン、ジャンジャン、ドン、ジャンリンジャン!
われ手に鉄の鞭(むち)をとりて汝(なんじ)を打たん……

趙邸の二人の旦那が二人の本当の同族と、正面のところに立ってやはり革命を論じていた。阿Qは気がつかずに、頭をあげて唄(うた)いながら通り過ぎた。
「ドンドン、……」
「Qさん」趙旦那はおずおずと迎えながらそっと呼んだ。
「ジャンジャン」阿Qは自分の名前が「さん」づけで呼ばれようとは思いもよらず、自分とは関係のない、ほかの言葉だと思ったから、そのまま唄いつづけた。「ドン、ジャン、ジャンリンジャン、ジャン!」
「Qさん」
「悔ゆるも及ばず……」
「阿Q!」秀才は仕方なしに彼の名を呼びすてにした。
阿Qはそこではじめて立ちどまり、首をねじ向けてきいた、「何だね?」
「Qさん、……このごろ……」趙旦那はそう言いかけたが、さて言うことがなかった。「このごろ……もうかるかね?」
「もうかる? むろんさ。ほしいのは何でもおれのものだぁな……」
「阿……Q兄貴、われわれみたいな貧乏人は大丈夫だよな……」と趙白眼はおどおどしていった。革命党の口裏を探ろうとするかのように。
「貧乏人だと? お前はおれより金持ちじゃないか」阿Qはそう言い捨てて行ってしまった。
みなガックリときて、言葉もなかった。趙旦那父子は家に帰ると、灯点(ひとも)し頃まで相談した。趙白眼は家に帰ると、腰から財布をはずして妻に渡し、衣裳箱の底に隠させた。
阿Qは飄々然として飛びまわり、土地廟に帰って来た。酒はもうすっかり醒(さ)めていた。この晩は廟(びょう)番のおやじも、意外にもにこにこして、阿Qに茶をすすめた。阿Qは彼に餅(ピン)〔小麦粉をこねて、平たい円盤状にして焼くか蒸すかしたもの〕を二つねだり、それを食ってしまうと、さらに燃えさしの四十匁蝋燭(もんめろうそく)と蝋燭立てとをもらって、それを点(とも)すと、ひとり自分の小さな部屋に横になった。何もかもいうにいわれぬほど新鮮で愉快だった。蝋燭の火は元宵節〔旧暦正月十五日を元宵節といって、この前後は家々みな提灯をかかげ、大へんにぎわう〕の夜のようにパチパチとはねるし、彼の思想も盛んに飛びはねた……
「謀反だ? おもしろい……白鎧(よろい)白兜(かぶと)の革命党がやって来る。手に手に青竜刀、鉄の鞭、爆弾、鉄砲、三尖両刃(みつまたもろは)の剣、鈎鎌槍(かぎかまやり)を持って、土地廟まで来ると、呼ぶだろう、『阿Q! さあ行こうぜ行こうぜ!』そこでいっしょに行く。……
そのときの未荘のろくでなしどもこそ滑稽(こっけい)だろう。みんな土下座して、『阿Q、命だけは!』というだろう。だれが聞いてやるものか! 第一に血祭りにあげねばならぬのは小Dと趙旦那だ。それに秀才もだ。それにニセ毛唐もだ。……許してやってもいいのは? ヒゲの王(ワン)はまあ許してやるとするか。いや、やっぱり駄目だ。……
品物は、……ずんずん奥へはいって行って、衣裳箱をこじあける。馬蹄銀(ばていぎん)〔馬蹄の形に鋳造した銀〕、西洋銀貨、金巾(かなきん)の上衣……秀才の奥さんの南京(ナンキン)式の寝台をまず土地廟に運んで来る。そのほかには銭家の椅子(いす)テーブルを並べよう、……いや、趙家のでもいいかな。自分で手を出すことはいらないやな。小Dに運ばせよう。さっさと運ぶんだ! さっさとしないと、ビンタだぞ。……
趙司晨(チャオスーチェン)の妹はお多福だ。鄒七嫂の娘はもう三、四年してからの話だ。ニセ毛唐の女房は弁髪のない男と寝た奴だ。ふん、ろくな女じゃない!秀才の女房は眼蓋(まぶた)の上にできものの跡がある。……呉媽(ウーマー)は、久しく会わぬが、どこにいるか知らん、……残念ながら足が太すぎる」
阿Qは考えが十分まとまらぬうちに、もういびきをかいていた。四十目蝋燭(ろうそく)はまだほんの五分(ぶ)ほど減っただけで、赤く燃えたつ光が彼の大きくあけた口を照らしていた。
「ホーホー!」と阿Qは、突然大きな声をあげ、頭をもたげて、きょときょとあたりを見回したが、四十目蝋燭を見ると、またごろんと倒れて眠った。
あくる日、彼はすっかり朝寝をして、街へ出てみたら、何もかも今まで通りであった。腹ぺこぺこなのも相変わらずだ。彼は考えてみたが、何も思い浮かばなかった。だが急に考えがきまったかのように、ゆっくりと歩きだし、いつしか静修庵まで来ていた。
庵は春の頃と同様に静まり返り、白い塀と黒い門だった。ちょっと考えてから、門を叩くと、犬が中から吠えた。彼は急いで煉瓦(れんが)のかけらをいくつか拾い、もっと力を入れて叩いた。黒い門にいくつも点々のあばた(・・・)がつくまで叩いた時、ようやく音を聞きつけて誰かが門を開けに来た様子。
阿Qは急いで煉瓦のかけらを握りしめ、足をひらいて身構えし、黒犬との開戦にそなえた。ところが庵の扉はほんのちょっぴり開いただけで、中から黒犬が躍り出て来る模様もない。中をのぞいてみると、年寄りの尼が一人いるきりであった。
「また何しに来た?」と彼女はひどくびっくりしていった。
「カクメイだ……知ってるかい?……」阿Qは口ごもっていった。
「革命革命って、一度はもうやったじゃないか、……お前さんたち、わたしたちをどうカクメイしようというのさ?」尼は目をまっ赤にしていった。
「何だと?……」阿Qはいぶかった。
「お前知らないの、あの人たちがもうカクメイしに来ちゃったんだよ!」
「だれが?……」阿Qはいよいよいぶかった。
「あの秀才と毛唐がだよ!」
まったく思いもよらなかったので、阿Qは腰を抜かさんばかりに驚いた。尼は彼の鋭気がくじけたのを見てとるや、さっと門を閉(し)め、阿Qがもう一度押した時には、貧乏ゆるぎもせず、もう一度叩いた時には、返事もなかった。
それはまだ午前中の事であった。趙秀才は早耳だ。革命党がすでに夜中に城内にはいったことを知ると、さっそく弁髪を頭のてっぺんにぐるぐる巻きにし、早朝からこれまで折り合いの悪かった銭毛唐を訪問した。いまや「咸与(みなとも)に維(これ)新たなり〔『書経』に出る語で、いっさいは革新せねばならぬ、との意。「維新」という語の語源〕」の秋(とき)だとあって、二人はたちまち話のうまが合い、意気投合した同志となって、たがいに革命を誓いあった。彼らは考慮に考慮を重ねた末、静修庵に「皇帝万歳万々歳」の竜牌〔民国以前に、官署・学校・寺廟などに備えられた木製の牌位〕があったことを思いだし、まずもってあれを革命の血祭りにすべきであるとあって、すぐさまいっしょに庵に革命しに行った。尼が邪魔だてして、何かちょっといったので、彼らは尼を満洲政府と見なして、その頭にステッキと拳骨(げんこつ)をしたたかお見舞いした。尼は彼らが帰って行ったあと、気をとりなおして調べてみると、竜牌はさんざんに砕かれて捨ててあり、その上、観音さまに供えてあった宣徳(せんとく)の香炉(こうろ)〔明朝宣徳年間(一四二六〜三五)に鋳造された小さな銅の香炉。極めて精巧で骨董品として価値がある〕も姿を消していた。
そのことを、阿Qはあとになって知ったのだった。彼は自分の寝過ごしたことを悔やんだ。それにしてもあの二人が自分を呼びに来てくれなかったことがくやしくてならなかった。しかし彼は一歩退いてこう考えた。
「奴らはおれが革命党になったことをまだ知らないのかな?」

第八章 革命を許さず

未荘の人心は日ましに安定した。伝わって来た消息によると、革命党は入城したが、別にたいして変わったことはなかった。県知事閣下はこれまで通りのお方で、ただ官名が何とかいうのに変わっただけだそうだし、挙人旦那も何とかいう役人……それらの名称は未荘の人間には言って聞かせてもわかるまい……になった。兵隊を指揮しているのもやはり以前の把総(はそう)〔清朝時代の緑営軍最下級の将校。ほぼ今の准尉に当たる。当時は革命成功直後のことであるから、新旧の制度が重複している〕だそうな。ただ一つ恐ろしい事があった。それは別に性(たち)のよくない革命党が何人か中にまじっていて乱暴を働き、次の日からは弁髪をちょん斬ることをおっぱじめたことである。なんでも隣り村の航船七斤(ハンチョアンチーチン)〔船頭の名〕がまんまと網にかかって、ふた目と見られぬザマにされたそうだ。だがこれはまだたいして怖(こわ)いというほどのことではなかった。なぜなら未荘の人はめったに城内に行かなかったし、たまたま行こうと思った人も、すぐ計画を変更すれば、その危険に会わずにすんだからである。阿Qも実は昔の友達をたずねて城内に行くつもりであったが、この消息を聞くと、やむなく取りやめにした。
だが未荘にも改革がなかったとはいえない。何日か後に、弁髪を頭の上にぐるぐる巻きにした連中がだんだんと増えて来た。先に述べたように、先頭を切ったのはむろん茂才(もさい)閣下であり、その次は趙司晨(チャオスーチェン)と趙白眼(チャオパイエン)、その後が阿Qであった。これが夏だったら、だれでも弁髪を頭にぐるぐる巻きにするか、たばねるかして、それで別に変わったことでもないのだが、今は秋の末なのだ。だからこの「秋に夏令を行なう〔時節はずれのことをする意〕」状態は、ぐるぐる巻き派にしてみれば、思い切った大英断といわざるを得ないし、未荘にとっても改革と無関係だとはいえなかった。
趙司晨が後頭部をがらあきにした姿でやってくると、それを見た人々は大きな声でわめいた。
「わあい、革命党が来たぞ!」
阿Qはそれを聞いて羨望にたえなかった。秀才が弁髪をぐるぐる巻きにしているという一大ニュースは早くから知っていたが、まさか自分がその真似をしようとは思ってもみなかった。今、趙司晨(チャオスーチェン)すらそうしているのを見るに及んで、一ちょう自分もという気になり、実行の決心を堅めた。彼は一本の竹箸で弁髪を頭上に巻き上げ、大分ためらった末に、やっと思い切って外に出た。
彼が街を歩くと、人々も彼を見た。ところが別に何もいう様子がない。阿Qは最初おもしろくなかった。そのあとひどくむかっ腹が立って来た。彼はこのごろ非常に怒りっぽくなっていた。実のところ、彼の暮らしは、謀反の前と比べて決して悪い方ではなかった。人々は彼に一歩譲ってくれたし、店屋も現金を要求しなかった。にもかかわらず阿Qは、どうしても気持ちが浮いて来ないのだった。革命をやった以上、こんな風であってはならないはずだ。ことに小Dの姿を見た時に、彼の癇癪(かんしゃく)玉は破裂したのであった。
小Dも弁髪を頭の上にぐるぐる巻きにし、しかも何と竹箸を使っているではないか。阿Qはまさか彼までがそんなまねをしようとは夢にも思っていなかった。奴にそんな真似をさせて黙って見ている手はないと思った。小Dはそもそも何者だ? たった今、奴をひっつかまえ、奴の竹箸をへし折り、奴の弁髪を解いてしまい、ビンタの五つ六つも食らわして、奴が自分の素性(すじょう)を忘れて革命党になろうとした罪を懲(こ)らしめてやろうと本気で思った。しかし彼は結局許してやり、ただ目を怒らせてにらみ、「ペッ!」と唾(つば)を吐くにとどめた。
この幾日かの間に、城内に行ったのはニセ毛唐ひとりだった。趙秀才も衣裳箱をあずかった縁故をたよって、親しく挙人旦那を訪問するつもりであったが、弁髪を斬られる危険があったので、中止した。彼は「黄傘格(おうさんかく)〔昔行なわれた最も鄭重な格式ばった手紙の形式〕」の手紙を書いて、ニセ毛唐に持って行ってもらい、かつ自由党に入党できるよう紹介方をたのんだ。ニセ毛唐は帰ってくると、秀才に立て替えた四円を請求した。かくて秀才は銀の桃〔桃の形をした銀製の徽章。農民の眼にはそう見えたのである〕を胸につけることになった。未荘の連中はみな息をのんで、あれは柿油党(しゆうとう)〔自由党と音が同じ。自由党といっても田舎者は何のことかわからない。自分たちにわかる柿油党としたのである。これも諷刺。柿油とは柿渋のことで、酒の産地の紹興地方では、酒を入れる器などは、大抵竹を甕(かめ)の形に編んでその上に紙を幾重にも張り、その上から柿渋をぬったものを用いる。陶器や土器にくらべて、軽い上にこわれない〕の勲章で、翰林(かんりん)〔進士に及第した者のうち、成績優秀で特に筆蹟の巧みなものを選抜して翰林とする。中央官吏のエリートコースである〕に相当するものだといいはやした。趙旦那はにわかに威張りだして、その鼻息は息子がはじめて秀才に及第した時以上に荒かったから、その眼中には何物もなく、阿Qを見ても、たいして眼中に入れる様子もなかった。
阿Qは不平満々のところへ、さらに時々刻々落ち目になってくるのを感じた。この銀の桃の噂を聞いたとたんに、自分の落ち目になった原因を悟った。革命するには、ただ口先で参加するといっただけでは駄目だ。弁髪をぐるぐる巻きにしたのでも駄目だ。まず第一にやはり革命党と懇意にならなければいけない。ところで彼が知っている革命党は二人しかいない。城内の一人はとっくに「バッサリ」殺されてしまったから、今ではニセ毛唐一人しか残っていない。彼はさっそくニセ毛唐に相談する外に道はなかった。
銭(チェン)邸の表門がおりよく開いていたので、阿Qは恐る恐るにじり寄った。中にはいってみてびっくりした。ニセ毛唐が中庭のまん中に立っていて、真黒な、あれは多分洋服というものだろう。それを着て、銀の桃を胸にぶら下げ、阿Qがかってお見舞いを受けたことのある、例のステッキを手に持ち、すでに一尺余りに伸びた弁髪を解いて肩の上まで垂らし、まるで劉海仙〔正しくは劉海※。この人は唐末五代の人で、終南山で道を学び、神仙になったと伝えられている。民間で行なわれている画像によると長い髪をうしろに垂らし、前髪を短く額の前に切りそろえている。今でも女子のそのような形の髪を「劉海(リウハイ)」という。※は、むし扁に、譫の旁を書く〕そっくりのさんばら髪になっていた。それに向かって気をつけの姿勢で立っているのが趙白眼(チャオパイエン)と三人の閑人(ひまじん)だった。彼らはうやうやしくかしこまってニセ毛唐のご講話を拝聴しているところであった。
阿Qはそっとはいって行き、趙白眼の背後に立ち、挨拶しようと思ったが、さてどういって呼びかけたらよいか。ニセ毛唐といってはむろんいけないだろう。異人さんもまずい。革命党もまずい。では洋先生と呼ぶべきかな。
ところが洋先生は彼に気がつかなかった。眼を白くして話に夢中になっていたからである。
「僕は気が短いものだからね、顔さえ見るといつもこういったもんだ。洪(ホン)〔黎元洪(リーユアンホン)を指しているかと思われる。清末民初の軍人で、武昌蜂起のさい、部下にかつがれて湖北都督となり、民国成立後、副総統、ついで大総統になった人〕君、おっぱじめようぜ、とね。ところが彼はそのたびにNo!というんだ……これは外国語だ。君らにはわかるまい……そうでなければ、とっくに成功していただろうよ。しかしそこが彼の用心深い点なんだ。彼は再三再四僕に湖北(フーペイ)〔辛亥革命の発祥地、武昌方面である〕へ行ってくれと頼んだが、僕はまだうんといっていない。もっとも、だれだってこんなちっぽけな県城で仕事をする気にはなるまいがね……」
「ええ……あの……」阿Qは彼がちょっと一息ついた時に、十二分の勇気をふるって口を開いた。ただどうしてか、彼を洋先生とは呼ばなかった。
ご講話を拝聴していた四人はびっくりして彼の方をふりかえった。洋先生もやっと彼を見た。
「何だ?」
「わし……」
「出て行け!」
「わしも入れて……」
「出てうせろ!」洋先生は喪式棒をふりあげた。
趙白銀と閑人どもはどなりつけた。「先生が出てうせろとおっしゃってるんだ。聞こえないのか!」
阿Qは手で頭をかばい、思わず門外に逃げ出した。洋先生も追いかけては来なかった。ぱあっと六十歩以上も走ってから、やっと歩調をゆるめると、憂愁の思いが湧きおこってきた。洋先生は彼に革命を許さなかった。もうほかに道はない。今後白鎧(よろい)白兜(かぶと)の人々が彼を呼びに来る望みは絶対にないだろう。今まで抱いていた抱負、意図、希望、前途は残らず帳消しになった。閑人どもが言いふらし、小D、ヒゲの王(ワン)のやからにまでバカにされるだろうが、そんなことは、まだ二の次である。
彼はこれまでこれほどやりきれぬ思いを経験したことがなかった。自分の弁髪をぐるぐる巻きにしているのが何だか無意味で、バカげていると思われた。意趣(いしゅ)ばらしに、今すぐ元のようにうしろに垂らそうかとも思ったが、それはしなかった。夜中までほっつき歩いて、酒を二碗つけ(・・)で買った。酒が腹にはいると、少しずつ機嫌がなおり、白鎧(よろい)白兜(かぶと)の破片がふたたび頭の中に現われた。
ある日、彼は例によって夜更(ふ)けまで何となくぶらぶらして、居酒屋が看板になってから、やっと土地廟に帰って来た。
バーン、パッ!……
突然、彼は一種異様な物音を聞いた。爆竹ではなかった。おっちょこちょいで野次馬気質(かたぎ)の阿Qは、さっそく暗闇の中を音のした方へ急いだ。どうやら前方で足音がする。耳をすましていると、にわかに向こうから逃げて来るものがある。それを見ると、阿Qはいそいで跡をつけた。その男が角を曲がると、阿Qも曲がった。曲がると、その男は立ちどまったので、阿Qも立ちどまった。うしろを見たが何もなかった。見るとその男は小Dだった。
「何だ?」阿Qは面白くなかった。
趙(チャオ)……趙家がやられたんだ!」小Dは息せき切りながらいった。
阿Qの胸はどきどきと動悸(どうき)打った。小Dはそういうと行ってしまったが、阿Qは逃げる途中、二度も三度も立ちどまった。何といっても彼は「この商売」に経験があるだけに、胆がすわっていた。で、曲がり角まで忍び足でにじり寄り、じっと聞き耳を立てると、どうやらがやがや音がしている。さらに目をこらして見ると、大勢の白鎧白兜の者が、あとからあとから衣裳箱をかつぎ出し、家具類をかつぎ出し、秀才の細君の南京式寝台までかつぎ出しているようだ。ただはっきり見えないので、もっと前に出ようと思ったが、二本の足がいうことをきかぬ。
その夜は月がなかった。未荘は暗黒の中に静まりかえっていた。静まりかえって伏羲(ふっき)〔古代伝説中の聖天子。この時代は天下が最も太平であったとされている〕の時代みたいに太平であった。阿Qは立って見ていたが、見ているうちにいらいらして来た。やはり前のように、向こうでは行ったり来たりして運び、衣裳箱をかつぎ出し、家具をかつぎ出し、秀才の細君の南京式寝台までかつぎ出し……あんまりかつぎ出すので、自分の眼が少し信じられなくなった。だが彼はもう出て行かないことにきめて、自分の土地廟に帰って行った。
土地廟の中はもっと暗かった。彼は表門を閉め、手さぐりで自分の部屋にはいった。しばらく横になっていると、ようやく気持ちが鎮まり、自分のことが考えられるようになった。白鎧白兜の人々はたしかにやって来た。だのに自分を呼びにも来ず、分捕り物をたくさん運び出し、おれの取り分はない……全くニセ毛唐は憎い奴だ、おれに謀反を許さなかった、でなければ、こんどおれの取り分がないなんてはずはない。阿Qは考えれば考えるほど腹が立った。はらわたが煮えくりかえるような怒りに、とうとうたまらなくなって、いまいましげにうなずくと、「おれに謀反を許さず、自分だけ謀反していいというのか? ニセ毛唐の畜生め、……よし、謀反しおったな! 謀反の罪は打首だぞ。おれが訴えてやるからな。今にお前は県庁に引かれて行って打ち首だ……一家みな殺しだ……バサリ、バサリ!」

第九章 大団円

趙家が掠奪されたあと、未荘のたいていの人々は、小気味がよいと思いながらも怖(こわ)かった。阿Qも小気味がよいと思いながらも怖かった。ところが四日たって、阿Qは夜中に突然つかまり、城内に運ばれて行ったのである。その時はちょうど暗夜だった。一隊の兵士、一隊の自警団、一隊の警官、五人の刑事は、こっそり未荘にやって来ると、闇に乗じて土地廟を取り囲み、入口に向けて機関銃を据えつけた。ところが一向に阿Qがとび出して来る様子がない。いくらたってもコトリともしないので、把総(はそう)はじれて、二十貫文の賞金を懸けた。そこで二人の自警団員が危険を冒して塀を乗り越えて中にはいり、内外呼応して、どっと突入し、阿Qを逮捕した。廟の外の機関銃のそばまで引き出された時、阿Qはようやく目をさました。
城内にはいったのは、もう正午であった。阿Qは自分が壊れた役所の門の中に連れこまれ、五つ六つ角を曲がって、小さな部屋に押し入れられたのを知った。押されてよろめいた途端に、丸太作りの扉が彼のかかとのところで閉まった。あとの三面はみな壁だった。よくみると、部屋の隅になお二人の男がいた。
阿Qは多少不安ではあったが、たいして苦しくはなかった。あの土地廟の寝室はこの部屋ほど立派ではなかったからである。その二人も田舎者らしく、ぽつぽつと彼と口を利くようになった。一人は彼の祖父の代に滞納した小作料のことで挙人旦那から訴えられたということだったし、一人は何でつかまったかわからないそうであった。彼らにきかれて、阿Qはテキパキと答えた。「おれが謀反しようとしたからだよ」
彼は午後また丸太作りの扉から引き出された。大広間に行くと、頭をテラテラに剃(そ)り立てた老人が正面に坐っていた。阿Qは坊さんじゃあるまいかと思ったが、しかし下手(しもて)に兵隊が立っているし、両側にも長衣の人物が十数人立っていて、それがまたその老人のように頭をテラテラに剃り上げていた。一尺ほどの長い髪を後ろに垂らしたニセ毛唐みたいなのもいた。それがみな憎々しい顔つきで、彼をにらみつけていた。こりゃきっといわくのある人にちがいないと思うと、自然に膝関節がガクンとなって、ひざまずいてしまった。
「立ったままいえ! ひざまずかないで!」と長衣の連中が一斉にどなった。
阿Qは意味がわかったような気がしたが、どうにも立っていられず、われにもなくしゃがみこみ、そのままとうとうはいつくばった格好になってしまった。
「奴隷根性!……」長衣の人物はさも見下げたようにいった。しかし立ちあがれとは言わなかった。
「ありていに白状するんだ、そしたら痛い目に合わせはせぬ。もうみんなわかっているんだから。白状すれば放免してやる」そのテラテラ頭の老人は阿Qを見すえながら、落ちついた、はっきりした口調でいった。
「白状するんだ!」長衣の人物も大きな声でいった。
「おらあ本当は……自分から……」阿Qはやみくもにしばらく考えてから、とぎれとぎれにいった。
「じゃ、なぜ来なかった?」老人はおだやかに聞いた。
「ニセ毛唐が駄目だといったもんで」
「ばか! 今頃そんなことをいっても遅いぞ。いまお前の仲間はどこにいる?」
「何?……」
「あの晩、趙家を襲った一味だよ」
「奴らはおれを呼びに来なかった。勝手に運んで行ったんで」阿Qはそういうだけでも腹が立った。
「どこへ行ったんかね? いえば許してやるぞ」老人はいよいよやさしい口調になった。
「知らない……奴ら、おれを呼びに来てくれなかった……」
しかし老人が目くばせすると、阿Qはまた丸太作りの扉の中に押しこまれた。彼が二度目に丸太の扉から引き出されたのは翌日の午前であった。
広間の様子は前と同じだった。やはり正面にテラテラ頭の老人が坐っていた。阿Qもやはりひざまずいた。
老人はおだやかに聞いた。「お前、まだ何かいうことがあるか?」
阿Qは考えてみた。いうことはなかった。それで、「ありません」と答えた。
すると長衣の一人が紙と筆を阿Qの前に持って来て、筆を彼の手の中に押しこんだ。これには阿Q、びっくり仰天した。あわや「魂も消し飛ば」んばかりであった。それというのが、彼の手が筆と関係を持ったのは、これが生まれて初めてであったからである。持ち方がわからなかった。ところがその人は一か所を指差して花押(かきはん)をするようにといった。
「お……おれ……字を知らない」阿Qは筆をつかんだまま、恐縮しかつ愧(は)じ入りながらいった。
「じゃ、いいから、マルをかけ!」
阿Qはマルをかこうとしたが、筆を持った手がぶるぶる震えた。するとその人は彼のために紙を地面に敷いてくれた。阿Qはうつ伏しになり、渾身(こんしん)の力をこめてマルをかいた。人の笑いものにならないように、まんまるくかいてみせるつもりだった。ところがその憎らしい筆はばかに重い上に、言うことをきかず、震えながらもどうやらつながりそうになった途端に、ピンと外側にはねて、まるで西瓜(すいか)の種のような格好になってしまった。
阿Qはマルの上手にかけなかったことが羞(はず)かしかった。ところがその人は別に文句もいわずに、さっさと紙と筆をかたづけた。大勢の人がまた彼をふたたび丸太の扉に引ぱって行った。
ふたたび丸太の扉にはいった彼は、それほど悩んではいなかった。彼の考えによると、人間この世に生まれた以上、抓(つま)み入れたり抓み出したりされる時も随分あるだろうし、紙にマルをかかされたりする時もあるだろう。ただそのマルの上手にかけなかったことは、彼の「行状」の上で一つの汚点というべきであった。だがまもなくそれも気にならなくなった。マルの上手にかける奴こそばか野郎なんだ、そう思うと、すやすや眠れた。
ところがその夜、挙人旦那は、一睡もできなかったのだ。彼は把総(はそう)に対してむかっ腹を立てていた。挙人旦那は盗品の詮議が第一だと主張したのに、把総は犯人を見せしめにするのが第一だと主張した。把総は最近、挙人旦那をてんで眼中に入れておらず、机や腰掛を叩いて、「一人を懲(こ)らすは百人の警(いま)しめです! いいですか、わたしが革命党になってまだ二十日も立たぬのに、強盗事件が十何件、しかも一つも解決ついていないんですぜ、わたしの顔は丸つぶれですよ。せっかく犯人(ほし)があがったのに、イチャモンつけられちゃ困りますな。駄目です! これはわたしの管轄です!」挙人旦那は返事につまったが、それでもなおがんばって、盗品の詮議をしなければ、たった今民政担当の職を辞するといった。ところが把総に「どうぞご自由に!」とつっぱねられ、そのため挙人旦那はとうとうその夜はまんじりともしなかったのだ。しかし幸いにして翌日も辞職はしなかった。
阿Qが三度目に丸太の扉から引き出されたのは、挙人旦那が一睡もしなかった夜が明けたその日の昼前であった。彼が大広間に来ると、正面には例によってテラテラ頭の老人が坐っており、阿Qも例によってひざまずいた。
老人はおだやかに聞いた、「まだいうことがあるか?」
阿Qは考えてみたが、いうことがないので、答えた、「ありません」
大勢の長衣や短衣の人々が、突然彼に金巾(かなきん)の白い背心(そでなし)を着せた。何やら黒い文字がはいっていた。阿Qはひどくそれを気に病んだ。喪服(もふく)にそっくりで、喪服を着るなんて縁起でもないと思ったからである。だが同時に彼はうしろ手に縛られ、同時にそのまま役所の外に引き出された。
阿Qは幌(ほろ)のない車に乗せられた。数名の短衣の男がいっしょに乗りこんだ。車はすぐ動き出した。前方には洋式の鉄砲を背中に背負った兵士と自警団の一隊、両側には口をぽかんとあけた大勢の見物人がいた。うしろの方はどうだったか、阿Qはふりむいて見なかった。だが彼は急にはっと気がついた、こいつは打首にされに行くんじゃなかろうか。しまったと思った途端に、眼の前が真暗くなり、耳の中がウォーンといって、気が遠くなったようだ。しかし完全に気が遠くなったのではなく、時にはしまったという気もしたが、時には、クソ度胸がすわっているようでもいた。彼の意識のどこかに、人間この世に生まれた以上、時には打首になるのを免れぬ時もあるという気がしたからである。
彼は道を知っていたから、どうも少しおかしいと思った。どうして刑場(しおきば)へ行かないんだろう? これが見せしめに街を引き回されていると知らなかったのだ。かりに知っていたとしても同じことだっただろう。どうせ彼は、人間この世に生まれた以上、時には見せしめに引き回されることも免れないと思っただろうから。
彼はさとった。これは遠回りして刑場へ行く道だ。「バサッ」と首をちょん斬られるにきまった彼は茫然(ぼうぜん)と左右を見た。蟻(あり)のようにぞろぞろついて来る人ばかりだ。ところが思いがけなくも路傍の人垣の中に呉媽(ウーマー)の姿を発見した。実に久しぶりだった。してみると、彼女は城内に働きに来ているのだな。阿Qは、芝居の文句一つ歌わなかった自分の意気地(いくじ)なさが急に羞かしくなった。彼の考えは旋風のように頭の中を一めぐりした。『若後家の墓詣り』は重味(おもみ)がないし、『竜虎の闘い』の「悔ゆとも及ばず……」も弱々しい。やはり「手に鉄の鞭をとりて汝を打たん」にしようか。同時に彼は手をふりあげようとしたのだが、その両手が縛られていることに気がつき、結局「手に鉄の鞭をとり」も歌わぬことにした。
「二十年たったらまた生まれかわって〔二十年たったら、また泥棒に生まれかわって来るぞ、といおうとしたもの。これは死刑囚が殺される時に強がっていうきまり文句〕……」阿Qはいろいろ思いまどった末、今まで一度も口にしたこともなかった文句を、「師匠なしに知って」いて、いってのけた。
「いいぞ!」人垣の中から、狼(おおかみ)の吠えるような声が起こった。
車は止まらずに進んだ。阿Qは喝采の声を浴びながら、目をきょろきょろさせて呉媽(ウーマー)を見た。しかし呉媽は全然彼の方を見ないで、兵士たちの背中の洋式鉄砲をぼおっと見とれているようであった。
この刹那、彼の考えはまたしても旋風のように頭の中を一めぐりしたようであった。四年前、彼は山の麓で、一匹の餓えた狼に出会ったことがある。狼は、近づくでもなく遠ざかるでもなく、いつまでもあとをつけて来て、彼の肉を食おうとした。あの時の恐ろしさは、まったく生きた空もなかった。幸い鉈(なた)を一丁持っていたから、それを力に度胸をすえて、どうやら未荘までたどりついたが、あの時の狼の眼がいつまでも忘れられなかった。残忍で、しかもおずおずしていた。鬼火のようにギラギラと光り、遠くから彼の肉の中まで突き刺しているような気がしたっけ。ところが彼は、今まで見たことのない、一層こわい眼をこんどまた見たのだった。その眼は鈍くてしかも鋭く、彼の言葉をすでに嚼(か)みくだいたばかりでなく、さらに彼の肉体以上のものまで嚼みくだこうとして、遠ざかるでもなく近づくでもなく、いつまでもついて来ているのだ。
それらの眼玉たちは、まるで一つにつながっているかのように、すでに彼の霊魂に咬みついていた。
「助けて……」
しかし阿Qは声には出さなかった。眼の前は早くも真暗になり、耳の中はウォーンと鳴って、全身が粉微塵(みじん)に飛び散ったような気がしていた。

ところで当時最も大きな影響を受けたのは、むしろ挙人旦那であったろう。結局盗品は戻って来ず、一家全部わんわん泣いたからである。その次は趙邸であった。秀才は城内の役所に報告に行ったために、性(たち)のよくない革命党に弁髪をちょん切られたばかりか、二十貫文の賞金まで支払わせられたため、一家全部わんわん泣いたのである。その日以来、彼らの間に次第に遺老(いろう)〔朝廷交替の際、滅びた朝廷への節義を守って、あくまで新しい朝廷に仕えない人をいう。この場合、中国人でありながら、満州人の清朝に忠節を守るのもおかしな話である。ここにも諷刺の意味がこめられている〕的な気分が起こった。

ところで世論であるが、未荘では異議はなかった。むろんみな阿Qが悪いということに一致した。銃殺に処せられたのは、彼が悪い証拠である。悪くもないのに銃殺にされるはずがないではないか。しかし城内の世論はよくなかった。彼らの大部分は、不平たらたらだった。銃殺には打首ほどのおもしろみがない。それにありゃなんという死刑囚だったろう、あんなに長いこと街を引き回されながら、とうとう芝居の文句一つ歌わなかった。ついて回って、とんだバカを見た、というのだった。
(一九二一年十二月)
宮芝居

私は逆に数えて二十年の間に、二回しか中国劇を見たことがない。前の十年は全然見なかった。見る気もなく、機会もなかったからだ。この二回というのはみな後の十年間のことで、しかも二回ともうんざりして途中から出てしまった。
一回目は民国元年〔一九一二年〕、私が初めて北京(ペキン)に出て来た時のことである。その時一人の友達が私に向かって、北京の芝居はすばらしいぞ、社会勉強に行ってみたらどうかね、と言った。芝居はおもしろいものだ、ことに北京では、と私は考えた。そこで胸をわくわくさせて何とか園という芝居小屋に駆けつけた。芝居はもうはじまっていて、ドンジャンという音が外からもきこえた。私たちが人波をわけて、木戸口をはいると、幾つかの紅いのや緑(あお)いのがが私の目の前にきらめき、それからまた舞台の下にたくさんの頭がぎっしりと詰まっているのが見られた。さらに気を鎮(しず)めてあたりを見ると、中にまだいくつか客席がある様子なので、押し分けて行って掛けようとした。と、だれかが私に向かって文句を言った。私は耳がもうガンガンいっていたので、よく気をつけてきいてみたら、その男は「いるんです、だめです」と言っているのだとわかった。
私たちがうしろに引返したところが、弁髪をテカテカ光らせている男〔小屋の出方(でかた)をさす〕が、私たちを側面に連れて行き、一つの座席を指差した。その座席というのが、何と長い腰掛で、しかもその板の幅の狭いことといえば、私の上腿の四分の三くらいで、その足の長いことといえば、私の下腿より三分の二も長いくらいである。私はもう見ただけで這いあがる勇気がなく、つづいて私刑(リンチ)のタタキに使う拷問(ごうもん)の道具を連想して思わずゾッと身の毛がよだち、そのままとび出してしまった。
大分歩いた時、ふと私の友達の声がきこえた。「一体どうしたんだい」私はふり返って見た。何と彼も私のおかげでいっしょに出て来たのであった。彼は不思議そうに言った。「どうしてどんどん行っちゃうんだい。返事もしないでさ」私は言った。「やあ、どうも、すまなかった。僕は耳がドンジャン、ガンジャンいうもんだから、君の言うことがちっともきこえなかったんだよ」
あとでこの事を思い出すたびに、あれは実にへんだったと思う。あの芝居はどうもひどく悪かったようだ……でなければ、この頃になって私は舞台の下の生存に適しなくなったのだろうか。
二回目はいつだったか忘れたが、とにかく湖北省の水災義損金(ぎえんきん)を募(つの)った時で、譚叫天(タンチアオテン)〔清末以来、不世出の名優といわれた京劇の役者、タンチンペイのこと〕はまだ死んでいなかった。義損の方法は、二円で切符を買えば、第一舞台(テイイーウータイ)〔当時北京にあった劇場〕で芝居が見られた。出演するのはたいてい名優で、その一人がその小叫天(シアオチアオテン)であった。私が切符を買ったのは、実は勧誘者への義理からであったが、好事家(こうずか)がいい機会とばかりに、叫天は必ず見ざるべからず大法会(ほうえ)だなどと私に言ってきかせたからでもあったようだ。そこで私は、何年か前にドンジャン、ガンジャンでひどい目に会った事を忘れて、ついに第一舞台へ行った。恐らく半分は、せっかく大枚の金を出して買った貴重な切符であるため、どうしても使わぬと損のような気がしたのだろう。私は、叫天の出る幕は遅く、また第一舞台は新式の構造で、座席の取り合いはしなくてすむときいていたから、安心して、夜の九時すぎてから出掛けた。ところがやっぱり、人がいっぱいで、足を入れることさえむずかしい。仕方がないので遠く離れた人ごみの中に割りこんで、老旦(ラオタン)〔女主人公の役割。中国の旧劇はみな男優のみによって演ぜられ、生(主人公)・旦(女主人公)・浄(悪役)・丑(道化役)など役割が初めからきまっている。老旦は正おやまの役である〕が舞台でうたっているのを見た。その老旦は火のついたコヨリを二つ口に挿(はさ)んでおり、そばにうさぎが一匹いた。私は首をひねって考えた末、やっと、それは目連(もくれん)〔お釈迦さまの弟子の目連尊者。目連の母は悪い人だったために死んでから地獄におちる。目連はそのことを大そう悲しんで、お釈迦さまにお願いして地獄めぐりをして母を救いだす。有名な仏教伝説であって、中国では各種の地方劇の中にたいていこの「目連救母」の劇がある〕の母親かもしれぬと思った。あとからまた坊さんが一人現われたからである。だがその名優が誰なのか私は知らなかったので、私の左側に小さくなって押しつけられていた太っちょの紳士に、きいてみた。するとその男はいかにも見下げたように、チラと私を横目で見 て、「※雲甫(コンユンフー)〔これも当時有名な京劇の俳優。※は、龍の字の下に共と書く〕!」と言った。私は、自分の浅学で物にうといことが心からはずかしく、顔がほてった。と同時に頭の中で、決してもう人にきくまいという定款(ていかん)〔会社などの目的・組織・業務に関する基本の規則。わざと法律用語を使った〕を作った。かくて小旦(シャオタン)〔節婦や烈女などに扮する立女形(たておやま)〕の歌うのを見、花旦(カオタン)〔淫婦や毒婦に扮する女形〕の歌うのを見、老生(ラオション)〔賢相、学者などに扮する立役〕の歌うのを見、何の役かわからぬのが歌うのを見、大勢入り乱れて立ち回りするのを見、二、三人で互いに立ち回りするのを見た。九時すぎから十時すぐまで、十時から十一時まで、十一時から十一時半まで、十一時半から十二時まで……それでもまだ叫天は一向に現われない。
私はそれまで、こんなにがまんして何かを待ったことはなかった。しかも私のすぐそばでは、太っちょの紳士がハーハー息をはずませている。舞台の上では、ドンジャン、ガンジャン打ち鳴らし、紅や緑がギラギラしている、かてて加えてもう十二時であるということは、突然、私がここでは生存に適しないことを悟らせた。そう思うと同時に、私は機械的に身をねじ、力を入れてぐっと外に押した。と背後がもうすっかり詰まったと感じた。多分、例の弾力性に富んだ太っちょの紳士が、早くも私の抜けたあとの空間に、彼の半身をせり出したのであろう。私はもう後に戻ろうにも戻れないので、自然、押しわけ押しわけして、とうとう木戸口に出た。通りには観客を待っている車のほかには、ほとんど通行人もいなかった。ただ木戸口にはまだ十何人、仰向けになって芝居の番付を眺めていた。その外に一かたまりの人が立っていたが、これは何も見ていなかった。彼らは多分、芝居がはねてから出て来る女達を見るつもりなんだろう、と私は考えた。ところが叫天はまだやって来ない……。
しかし夜の空気は実にすがすがしく、それこそ「人の心臓に沁(し)みわたる」というやつで、私は北京(ペキン)でこんなによい空気に出会ったのは、これが初めてだという気がした。
この夜にこそ、私が中国の芝居と訣別(けつべつ)した夜であった。これ以後、私は二度とそれを考えたことがない。たとい偶然芝居小屋の前を通り合わせることがあっても、われわれはたがいに全然関係がなく、精神的にはもはや、向こうが天の南にあるとすれば、こちらは地の北にある、といったぐあいになってしまった。
ところでついに何日か前に、私は何気なく、たまたまある日本の書物を読んだ。残念ながら書名も著者も忘れてしまったが、とにかくそれは中国の芝居に関するものだった。その中に、だいたいこんな意味の一節があった。支那の芝居はむやみに叩(たた)き、むやみに叫び、むやみに踊り、観客の顔を無茶苦茶に混乱させてしまうから、劇場には向かぬ。しかし野外の広い場所でやっているのを、遠くから見ると、あれでまた独特の味が出て来る云々(うんぬん)。私はその時、これは私の意識の中にありながらつい思いつかなかったことを、ピッタリ道破してくれたものだと思った。というのは、私は確かに、野外で非常にいい、それこそすばらしい芝居を見たことがあり、北京に来てからつづけて二回芝居小屋にはいった時も、まだあの時の影響を受けていたのかも知れなかったからだ。惜しいことに、どうしたわけだか、私はつい本の名前を忘れてしまった。
私がそのすばらしい芝居を見た時というのは、実はもはや「遠いかな遥々(ようよう)たる」昔のことで、その時おそらく私はまだほんの十一、二ぐらいだったろう。私どもの村、魯鎮(ルーチェン)の習慣として、嫁(よめ)に行った娘(むすめ)で、まだ家のきりもりをしていないうちは、夏になるとたいてい、実家に帰って一夏暮らすことになっている。当時私の祖母はまだたっしゃであったが、母はもう家事の一部を受け持たされていたので、夏になってもそう長い里帰りは出来なくなり、墓参りがすんでから、暇をみて幾日か泊りがけで帰った。そういう時には私は毎年母について母方の祖母さんの家に泊りに行った。そこは平橋村(ピンチャオ)〔実際の名は安橋頭(アンチアオトウ)といって、魯迅の母の生家のある村〕村といって、海岸から遠くない、大変辺鄙(へんぴ)な、川に臨んだ小さな村だった。戸数は三十軒にも満たず、田を作り、魚を取っていた。ごく小さい雑貨店が一軒あるきりだった。だが私にとっては天国だった。というのは、私はここで非常な優遇を受けたばかりでなく、「秩々(ちつちつ)たる斯(こ)の干(たに)、幽々(ゆうゆう)たる南山〔『詩経』の句〕」を暗誦しなくて済んだから。
私といっしょに遊ぶのはたくさんの小さな友人たちであった。遠方からお客さんが見えたというわけで、彼らも父母から仕事を減らしていいという許可を得て、私の遊び相手になってくれた。小さな村では、どこかの家の客は、ほとんど村全体の公共のものだった。私たちの年は大体おっつかっつであったが、世代の順序からいうと、少なくとも叔父であり、曽祖父に当たる者さえ幾人かいた。彼らは全村同姓で、一族だったからである。しかし私たちは友達だったから、時に喧嘩(けんか)が起こって、曽祖父をぶったりしても、全村の老いも若きも「上を犯した〔後輩が先輩を、下僚が上官を、奴隷が主人を、臣下が皇帝を犯すこと、無礼を働くこと〕」なんという言葉を思いつくような者は一人もいなかった。もっともそれは、彼らが百人の九十九人まで字を知らなかったからでもあった。
私たちが毎日やる仕事は、たいていみみず掘りだった。みみずを掘って来て、針金で作った小さな釣針(つりばり)につけ、川のふちに腹這(ば)いになってエビを釣るのだ。エビは水の世界の阿呆である。遠慮会釈もなく、自分の二つのハサミで釣針の尖(さき)を捧げもち、口の中に入れるのだ。だから半日もせずにどんぶり一杯(ぱい)釣れた。このエビはいつも私が食べることになるのだった。その次にはいっしょに牛飼いに行った。だが高等動物のせいだろうか、飴牛(あめうし)でも水牛でも、慣れぬ人間とみるとなめてかかり、よく私を馬鹿(ばか)にした。それで私も決して近寄らぬことにして、ただ遠くから付いて行き、離れて立っていた。そんなとき、小さな友人たちは、私が「秩々(ちつちつ)たる斯(こ)の干(たに)」が読めることなどには一向頓着せずに、みんなで寄ってたかってはやし立てるのだった。
ところで私がここで何よりも楽しみにしていたのは、趙荘(チャオチョワン)へ芝居見物に行くことだった。趙荘は平橋村から五里ほどある、やや大きな村である。平橋村はあまり小さくて、独力では芝居が打てないので、毎年趙荘にいくらか金を出して、共同でやるというわけだ。当時私は、彼らがなぜ毎年芝居をやるかということについて全然考えたことがなかった。今思うと、あれは多分、春祭りであり、宮芝居だったのであろう。
それは私が十一、二歳の年のこと、待ちに待ったその日もいよいよやって来た。ところがその年は、まことに惜しい事に、朝のうちに船が雇(やと)えなかった。平橋村で大型の船といえば、朝出て夕方帰る乗合船が一隻あるきりで決して流用するわけには行かないし、そのほかのは全部小型で、役に立たなかった。人に頼んで、隣村に聞きに行ってもらったがだめ、みんなとうに他への約束済になっていた。祖母は大変腹を立て、なぜ早く話をつけておかなかったかと言って、家の人をやかましく叱った。そこで母は、私どもの魯鎮の芝居は小さい村のそれよりずっと好く、一年に何度も見ているのだから、今日はいいんですと言って、祖母をなだめた。私がすねて泣き出さんばかりにしていると、母は、もうもうそんなお行儀の悪いことをするんじゃない、もしや祖母さんがそれでまた腹を立てるといけないからと、口をすっぱくして私に言ってきかせ、また、祖母さんが心配なさるからと言って、他の者といっしょに行くことも許してくれなかった。
とにかく、もうおしまいだ。午後になると、私の友達は一人残らず行ってしまった。芝居はもう始まっているだろう。私はドラや太鼓の音がきこえて来るような気がした。それに彼らが舞台の下で豆乳(とうにゅう)を買って飲むことも、私は知っていた。
この日は一日、私はエビ釣りにも行かず、物もろくろく食べなかった。母は大変困ったが、いい考えもなかった。夕飯の時になって、祖母もとうとう気がついて、この子がすねるのも無理はない、お前たちも随分失礼なことをする、お客さんに対してこんなもてなし方ってあるものじゃないと言った。食事が済んだ頃、芝居を見に行った子供たちが全部集まって来て、愉快そうに芝居の話をした。私ひとりだけ口をきかないでいるのを見て、彼らはみな嘆息して同情を表した。突然、一番利口(りこう)な雙喜(シヨワンシー)という子供が、はっと悟ったように提議した。彼は言った。「大型の船? 八叔(パーシュー)の乗合船は帰って来ているんじゃないか?」十幾人のほかの子供たちもはっと悟って、さっそく、そうだ、あの乗合船に乗っていっしょに行こう、と私にすすめた。私はすっかりうれしくなった。ところが祖母は、みんな子供ばかりでは、安心が出来ないと心配した。母も、もしおとながついて行けばだけれど、昼間はみな仕事があるから、夜ふかしをさせるのは、気の毒だし、と言った。どうしたものかと迷っているとき、雙喜がまたもその空気を察して、大きな声で言った。「おれが証文を書きます。船は大きいし、迅(シュン)ちゃんは走りまわったりなんかしない方だし、おれたちはみな水には慣れています」
全くだった。この十何人の子供たちは、たしかに一人として泳げぬものはなかった。中の二、三人は潮乗り〔小舟に乗って高潮を乗り切る遊び〕の名人でさえあった。
祖母も母も信用して、そのうえ反対せず、微笑した。私たちはさっそく、わっとばかりに門を出た。
私の重く沈んでいた心はたちまち軽くなり、身体までが口に言えぬほどの大きさにまでひろがったような気がした。門を出ると、月の下なる平橋の内側に、一艘(そう)の白苫(とま)の乗合船の停泊しているのが見えた。私たちは船に飛び乗り、雙喜(シヨワンシー)は前の棹(さお)を抜き、阿発(アーツア)は後の棹を抜いた。年の少ない者はみな私に付いて船室にはいりこみ、やや大きい者は船尾に集まった。母が送って来て「用心するんだよ」と言いつけている時分には、私たちはもう船に竿(さお)さし、橋の石桁(げた)をポンと突くと、四、五尺あとにしざり、すぐまた前にすすみ、橋を出た。そこで二丁の櫓(ろ)をつけ、一丁に二人ずつ、一里ごとに交替しつつ、笑うものもあれば、わめくものもあり、それにザーッザーッと船首に激する水の音をまじえて、左右はいずれも緑色の豆畑や麦畑である川の流れの中を、飛ぶがごとくまっしぐらに趙荘へと前進した。
両岸の豆や麦と、川底の藻草から発散する清々(すがすが)しい香りが、水蒸気の中に入りまじって、真向(まっこう)から吹いて来る。月かげはこの水蒸気の中に、おぼろに霞んでいる。薄黒く起伏している連山が、躍りあがる鉄の獣の背中のように、遠く彼方(かなた)を船尾に向かってどんどん走って行く。それでもまだ私は船がのろいと思った。彼らが四回漕(こ)ぎ方を交替した時、ようやく趙荘がかすかに見え、しかも歌や鳴物さえきこえるような気がした。それに点々と見える火は、きっと舞台なんだろうと思った。もっとも漁(いさ)り火かも知れないが。
その音は多分、横笛だろう。宛転悠揚(えんてんゆうよう)として、私の心を落ちつかせた。しかしまた茫然(ぼうぜん)とわれを忘れさせ、その音につれて自分が豆や麦や藻草の香を含んだ夜気の中にちりぢりになって吸い込まれて行くような気がした。
その火が近づいてみると、やはり漁り火であった。さっき見えたのも趙荘ではなかったことにやっと気がついた。それは船首とまむかいの松柏の林で、私も去年遊びに行ったことがあり、こわれた石の馬が地面に倒れているのや、石の羊が草の中にうずくまっているのも見たのであった。その林を過ぎると、船は曲って支流に入り、かくて趙荘がいよいよ眼前にあった。
何より目をひいたのは、村はずれの川に臨んだ空地(あきち)にそびえ立っている舞台だった。遠い彼方(かなた)の月夜の中に模糊(もこ)として、ほとんど空との間の見境がつかなかった。私は、絵でみた仙境がここに出現したのではないかと思った。このとき船足は一層速くなって、まもなく、舞台の人物がはっきりして、紅や緑がちらちら動いていた。舞台に近い川の中に、見渡す限り真黒いのは、芝居を見る人々の船の苫(とま)であった。「舞台の近くには空いた場所がない、おれたちは遠くから見ようや」と阿発(アーツア)が言った。
この時船は速力をゆるめ、やがて着いたが、なるほど舞台のそばには近づけなかった。私たちがやっと棹(さお)を下ろしたのは、舞台の真正面に向かい合っている拝殿よりもずっと遠い所だった。だが実をいえば、私たちのような白苫の乗合船が、黒苫の船といっしょになるなんて、いやなこった。まして入りこむ隙(すき)もないのだ……
船を停(と)めるドサクサの間にも、舞台の方を見ると、黒い長ひげの者が背中に旗を四本挿し、長槍をしごいて、大勢の半裸の人々と打ち合いをしていた。雙喜(ショワンシー)が言った。あれが有名な鉄頭(テイトウ)の老生(ラオション)で、トンボ返りがつづけざまに八十四へんも打てるんだよ。おれは昼間自分で数えてみたんだ。
私たちは船首にひしめき合って立回りをながめた。ところがその鉄頭の老生はいっこうトンボ返りをしなかった。幾人かの半裸の人々がトンボ返りを打っただけで、一しきり打つと、みな引っ込んでしまい、つづいて小旦(シャオタン)(女形)があらわれ、キーキー歌った。雙喜は言った。「夜は見物が少ないもんだから、鉄頭の老生も力を抜いているんだよ。見物もいないのにだれが十八番(おはこ)を見せる気になるものか」まったくその通りだと私は思った。そのときにはもう舞台の下にはいくらも人がいなかったからだ。田舎の人は明日の仕事のために、夜ふかしはできないで、みな早く帰って寝るから、ちらほら立っているのはこの村と隣村の閑人(ひまじん)が、せいぜい三、四十人くらいのものだった。黒苫船に乗った村の物持ちの家族連が、むろんいるにはいるが、彼らは芝居を見るのはどうでもいいので、大部分はもっぱら舞台のしたに来て菓子や果物や西瓜の種を食べているのだ。だからたしかに見物がいないと言ってしまってもよかった。
だが私の興味は決してトンボ返りを見ることではなかった。私が一番見たかったのは、白いきれをかぶり、両手で頭の上に棒のような蛇(へび)の頭を捧げ持っている蛇の精であった。その次には、黄色い着物をかぶって跳(は)ねる虎だった。しかし随分待ったがどちらも現われなかった。小旦は引込んだけれども、すぐまた大変年取った小生(シャオション)(男の脇役)が出て来た。私は少しあきて来たので、桂生(コイション)に豆乳を買いに行ってくれるよう頼んだ。彼は行ってしばらくすると、帰って来て言った。「なかったよ。豆乳売りのツンボも帰っていたよ。昼間はいた。おれは二杯も飲んだんだがね。いま水をくんで来て飲ませてあげるよ」
私は水は飲みたくなかった。がまんしてなおも見物したが、何を見ているのやら自分でもわからなくなり、ただ役者の顔がみなだんだんと何だか変てこなものになって行き、目や鼻や口も次第にぼやけて来て一つにくっついて、高低も何もない、のっぺらぼうになってしまったような気がして来た。年下の何人かはたいていあくびをし、年上の連中も芝居はそっちのけにして話をしていた。突然、紅い長衣の小丑(シャオチョウ)(道化役)が舞台の柱に縛りつけられ、胡麻(ごま)塩ひげに鞭(むち)でひっぱたかれ始めたので、私たちはやっとまた元気を取り返して笑いながら見た。この一晩じゅうで、これが実際、一番いい幕だった、と私は思った。
だが老旦(ラオタン)(老女の役)がとうとう舞台に現われた。だいたい、老旦は私の一番きらいなものだ。特にそれが腰を下ろして歌うのが大嫌いだ。そのとき、ほかの連中もうんざりしているのを見て、彼らの意見も私と同じだと知った。その老旦は、最初のうちはただ行ったり来たりして歌うだけであったが、後にはとうとうまん中の椅子(いす)に坐りこんでしまった。私は気が気でなかった。雙喜(ショワンシー)たちは盛んにわいわい言ってこきおろした。私はじっとがまんして待っていた。だいぶんたって、その老旦が手を上げたから、さてはもう立ち上がるのかと思った。ところが彼はまたも悠々と元のところへ腰をおちつけて、前のように歌った。船じゅうの者は、しきりと溜息をつくものもあれば、あくびをするものもあった。雙喜(ショワンシー)はついにしびれを切らして、あいつはきっと明日まで歌いやめないつもりだろう、やっぱりおれたちは帰ったがましだろうぜ、と言った。私たちは直ちに賛成して、出発のときと同様に勇み立ち、三、四人は船尾にとんで行って、棹(さお)を抜き、何十尺か棹をついて後に退り、船首をぐるりと向けかえて、櫓(ろ)をつけ、老旦の悪口を言いながら、またもかの松柏の林に向かって前進した。
月はまだ落ちていなかった。芝居を見たのはそう長い時間でもなかったようであった。そして趙荘を離れるや、月の光はまたひときわ冴(さ)えて美しかった。振り返ってみると舞台は灯火の光の中に、最初行き着く前がそうであったが、またしても仙山楼閣のように漂渺(ひょうびょう)として、すっかり紅い霞におおわれていた。耳元に吹き寄せて来るのはまたしても横笛で、まことに悠揚たるものであった。老旦はもう引っ込んだのではなかろうかと私は思った。しかしもう一度引っ返して見物しようと言い出すのもぐあいがわるかった。
まもなく、松柏の林は船の後になり、船足も決してのろくはなかった。だが周囲の闇はあくまで濃く、すでに深更になっていることがわかった。彼らは役者の批評をして、悪口を言ったり、笑ったり、いよいよ力をこめて船を漕いだ。船首に激する水の音は来る時よりも一層高かった。その乗合船は、さながら、大勢の子供を背中に乗せて浪を蹴立てて進む白い大魚のようであった。夜通し魚を取っている幾人かの年とった猟師たちも、小舟を漕ぐ手をとめて眺めながら喝采した。
平橋村まであと一里というあたりで、船足がのろくなった。漕ぎ手がみな、つかれたと言った。あまり力を入れすぎた上に、長いこと何も食わないからだった。こんどいいことを思いついたのは桂生(コイション)で、そら豆がいまちょうど盛りだ、薪(たきぎ)もあり合わせがあるし、少し偸(ぬす)んで来て煮て食べたらと言った。一同は賛成して、さっそく岸に近づいて船を止めた。岸辺の畑に、テラテラ黒光りのしているのは、みな実ったそら豆であった。
「おい、阿発(アーフア)。こっちはお前の家のだぜ。こっちは六一(リウイー)じいさんの家のだ。どっちのを偸(と)ろうな?」雙喜(ショワンシー)がまっ先にとび下りて、陸(おか)の上で言った。
私たちもみんな陸にとび上がった。阿発はとびながら言った。「ちょっと待て、おれが見て来るからな」彼はそこで行ったりきたりしてさぐっていたが、身をおこして言った。「おれの家のを偸(と)ろうや。うちのがずっと大きいよ」よし来たとばかりに、みんなは阿発の家の豆畑に散開して、それぞれ両手にいっぱい取って来て、船室に投げ入れた。雙喜は、これ以上とって、もしも阿発のお袋に知れたら、泣きわめかれるぞと言ったので、こんどは六一じいさんの畑へ行って、またそれぞれ両手にいっぱいずつ偸った。
私たちのうちの年上の何人かがまたゆっくりゆっくり船を漕ぎ、幾人かは船尾の室へ行って、火を起こした。年下の者と私は豆をむいた。まもなく豆が煮えたので、船は水面に浮かぶままにして、みんなで車座になって、手づかみで食べた。豆を食ってしまうと、また出発だ。一方、道具を洗い、豆の莢(さや)や殻は全部川の中に投げすてて、何の痕跡も残さぬようにした。雙喜(ショワンシー)が心配したのは、八(パー)じいさんの船の中の塩と薪を使ったことだった。あのじいさんはこまかいから、きっと嗅(か)ぎつけて、小言を言うにちがいない。だが私たちは話合いの末、結局、平気だ、ということになった。じいさんがもし何か言ったら、こっちは、じゃあお前が去年岸で拾って行った柏(ひば)の木の枯枝を返せと言ってやるさ。そのうえ面と向かって、「八のはげ」と言ってやるまでだ。
「帰って来たよ。みんな元気で帰って来ましたよ。だから証文を書くと言ったでしょう!」雙喜が船首で突然大きな声を出して言った。
私が船首の方を見ると、前方はもう平橋だった。橋のたもとに立っている人は、私の母で、雙喜は彼女に向かって話しているのだった。私が船首の室に行くと、船も平橋にはいり、船が止まって、私たちはどやどや陸(おか)にあがった。母はかなり怒っていて、もう十二時すぎだよ、どうしてこんなに帰りが遅くなったの、と言った。しかしさすがに喜んでいて、笑いながら、炒米(いりごめ)を御馳走するからみんなおいでと言った。
みんなは、もうおやつも食べたし、それにすごくねむいから、早く寝た方がいい、と言って、それぞれ帰って行った。
翌日、私はお昼頃にやっと起きたが、八じいさんの塩と薪の事について何かイザコザがあったともきかなかった。午後はやっぱりエビ釣りに行った。
「雙喜、お前たちガキども、昨日おれの豆を偸(と)ったろう。それもちゃんと摘まずに、ひどく踏み荒しよったな」私が頭を上げてみると、六一じいさんが小船に棹(さお)さしていた。豆を売っての帰りであろう、船の中には売れ残りの豆がまだ一山あった。
「そうだよ、おれたちはお客さんに御馳走したんだ。初めはお前のはもらわぬつもりだったんだよ。ほら見ろ、お前のおかげでおれのエビが逃げてしまったじゃないか」と雙喜は言った。
六一じいさんは私を見ると、棹さす手をとめて、笑いながら言った。「お客さんに?……そりゃ御馳走するのがあたり前だよ」それから私に向かって言った。「迅の坊ちゃん。昨日の芝居はよござんしたか」
私はうなずいて、言った。「よかったよ」
「豆はうもうござんしたか」
私はまたうなずいて、言った。「とてもうまかったよ」
意外にも、六一じいさんは、非常に感激して、親指をおこし〔たいしたものだという意味を示す時の動作〕、得意になって言った。「さすがは大きな都会に生まれて、学問をしたお方じゃ、お目が高いわ。わしの豆の種はみんな粒選(よ)りのものでな、田舎の者は物のよしあしもわからぬくせに、わしのところの豆は、よそよりまずいなんて言いやがるんです。わし、今日、少し奥さまに持って行って召し上がっていただきますよ……」そう言って、彼は棹さしながら行ってしまった。
母に呼ばれて私が晩飯に帰った時、卓の上にドンブリ一杯のそら豆があった。それは六一じいさんが母と私に食べるようにと届けてくれたものであった。何でも彼は母に向かって、私のことをさんざんほめたて、「小さいお年でたいした見識じゃ。いまにきっと状元〔科挙の最高の進士の試験に首席で及第した人〕に及第なさりますぞ。奥様前様の福分は請け合います。証文書いてもよろしゅうございますわい」しかし私は豆を食べたが、昨日の豆ほどうまくはなかった。
まったく、あれから今日まで、私は本当にあの夜のようなうまい豆を食べたことはなかった……またあの夜のようないい芝居を見たこともない。
(一九二二年十月)
藤野先生

東京もたいして変わりばえはしなかった〔「藤野先生」の一編は魯迅の自叙伝『朝花夕拾』十章中の第九章で、この冒頭の一句は直接前章に連接している。魯迅は郷里の紹興の不愉快な空気に耐えられなくなり、母の許しを受けてついに南京に出たが、そこもあまりかんばしい環境ではなかった。どうやらその地の鉱山鉄道の学校を卒業したのだが、将来の目鼻もつかぬので、日本留学試験にパスして東京に来たのだが……〕。上野の桜が満開のころは、たしかに、あかいうす雲のようなながめであった。しかしその花の下にはきまって隊を組んだ「清国留学生」〔当時の中国は満洲人の清朝の支配下にあったから、日本政府の公式の文書では、常に中国人のことを「清国人」といった。しかし、これは当時の中国人(漢族)にとって、ひじょうに不愉快なことばであった。カッコがついているのはその気持ちを含めたもの〕」の速成班〔当時東京には中国留学生(三万人くらいいた)向けの各種の速成教育の学校があって、三か月か半年、ひどいのは数日間の通訳つきの授業を行なっただけで卒業免状をくれるのもあった。魯迅はそうした速成班の人々をひじょうに軽蔑していた〕がいた。頭のてっぺんに弁髪(べんぱつ)をぐるぐる巻きにしているため、学生帽が高くそびえ立って、富士山そっくりのかっこうだった。なかには弁髪をといて平たく巻いたものもいたが、帽子をぬぐと、油でてかてか光って、若い娘さんの髪にそっくりだった。あれでちょっと首でもひねってみせようものなら、それこそ色気満点だ。
中国留学生会館の玄関わきのへやには、ちょっとした本を売っていて、たまに立ちよってみるだけの値うちはあった。午前中だと、奥にあるいくつかの洋室で一服するくらいのことはできた。ところが夕方になると、きまってその一間(ひとま)の床(ゆか)板がドシンドシンと、それこそ家鳴(やな)り震動して、へやじゅうもうもうとほこりがたちこめる。事情通に聞いてみたら、
「あれはダンスのけいこをしてるのだ」
という答えであった。
ほかの土地へいってみたら、どうだろうか。
そこで私は仙台の医学専門学校〔今の東北大学医学部〕へいくことにした。東京を出発すると、やがて一つの駅についた。「日暮里(にっぽり)」と書いてあった。なぜだか、私はいまだにこの名まえをおぼえている。そのつぎには「水戸(みと)」をおぼえているだけだ。これは明(みん)の遺民、朱舜水(しゅしゅんすい)先生〔一六〇〇〜八二。名は之瑜(しゆ)といって、魯迅の郷里に近い浙江省余姚(よよう)の人。明末の学者で、明朝がほろびて満州人の清朝の天下になったので、異民族の朝廷に仕えることをきらって日本に亡命し、水戸の藩主徳川光圀の優遇を受けた。湊川の楠公の碑文を書いたことで有名。「舜水全集」がある〕が客死された地である。仙台は市でこそあれ、そう大きくはなかった。冬はひどく寒かった。まだ中国人の学生はいなかった。
たぶん、「物は稀(ま)れなるをもって尊しとす」というわけだろうか。北京(ペキン)の白菜(はくさい)が浙江(せつこう)省に運ばれてくると、赤いひもで根元をゆわえつけ、青物屋の店先につりさげて膠菜(こうさい)〔山東省膠州産の白菜〕という尊称でよばれる。福建省に野生する蘆薈(ろえ)〔アロエのこと。アロエと竜舌蘭はじっさいはちがう。ここは魯迅の思いちがいであろう〕が、北京にくると、温室に招(しょう)じ入れられて、その名も美しい竜舌蘭(りゅうぜつらん)とよばれる。私も仙台にきて、まずそのような優遇をうけた。学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、職員のなかには私のために食事や下宿の世話までしてくれるものがいた。私は最初、監獄のそばの下宿屋〔仙台市片平丁の佐藤屋〕にいたが、初冬になって、もうかなり寒いのに蚊(か)が多かった。のちにはふとんを全身にかぶり、着物で頭と顔をつつんで、二つの鼻の孔(あな)だけ出して息をついた。こうして息をつめているあいだは、蚊も食いつきようがないわけで、それで安心して眠ることができたのだった。食事もわるくはなかった。ところがある先生が、この下宿屋では囚人(しゅうじん)のまかないも請(う)け負(お)っているから、そんなところに下宿するのはよくないと、いくどとなく、私に忠告した。下宿屋で囚人の食事を請け負っているからといって、私とは関係ないことだと私は思ったけれども、せっかくの好意を無にするわけにはいかず、仕方なしにほかのよい下宿をさがした。こうしてほかの下宿屋〔仙台市土樋の松本という家〕にひっこした。そこは監獄からは非常に遠かったが、残念なことに、毎日のどを通りかねる、芋がらの汁を吸わなければならなかった。
それからたくさんの見知らぬ先生を見、たくさんの新鮮な講義をきいた。解剖学はふたりの先生の分担だった。最初は骨学(こつがく)だった。そのとき教室にはいってきたのは、色の黒いやせた先生だった。八字ひげで、めがねをかけ、大小一抱えの書物を抱えていた。その書物を教壇の上におくと、ゆっくりした調子で、しかも、なんどもつかえつかえしながら、学生にむかって自己紹介をした……
「私は藤野厳九郎というもので……」
うしろの方にいた何人かの学生がどっと笑った。彼はつづけて解剖学の日本における発達の歴史を話した。それら大小さまざまの書物は、最初から今日(こんにち)にいたるまでのこの学問に関する著作なのであった。最初の何冊かは糸とじの唐本仕立てであった。また中国で訳されたものの翻刻(ほんこく)本もあった。新しい医学についての彼らの翻訳や研究は、けっして中国より早くはなかった。
うしろの方で笑った連中は、前学年に落第して原級にとどまった学生たちで、入学して一年になるので、いろんな事情にくわしかった。彼らは新入生のためにひとりひとりの教授の歴史を説明してくれた。この藤野先生は、彼らによると、服の着かたがひじょうにぞんざいで、ときどきネクタイをしめてくるのを忘れることさえある。冬は一枚の外套(がいとう)きりで、ぶるぶるふるえている。あるとき汽車に乗ったら、車掌に、掬摸(すり)ではないかと疑われ、乗客にむかって、みなさん用心してくださいと注意したそうだ。彼らの話はたぶん本当であったろう。私もじっさい、彼が一度教室にネクタイをせずにきたのを見たことがある。
一週間たって、たしか土曜日だったが、彼は助手をよこして私をよんだ。研究室にいくと、彼は人骨とたくさんの単独の頭骨の中にかこまれていた……彼はそのころ、頭骨を研究していて、その後、本校の雑誌に一編の論文を発表した。
「僕の講義を、きみは書きとれますか」
と、彼はきいた。
「だいたい書きとれます」
「もってきて見せてごらん」
私のさしだしたノートを彼はうけとって、二、三日たって私に返した。そして、これからも一週間ごとにもってきて見せるようにといった。私はもって帰り、あけてみてびっくりした。それと同時に一種の不安と感激とをおぼえた。なんと私のノートは最初から最後まで、ぜんぶ赤を入れてあるではないか。たくさんのぬけたところを書き加えてあるばかりでなく、文法のまちがいまでいちいち訂正してあった。こうしてそれは、彼の担任している授業が終わるまでずっとつづけられた。骨学、血管学、神経学と。
惜しいことに、私はそのころあまりにも不勉強で、ときにはひどくわがままでもあった。いまでもおぼえているが、あるとき藤野先生は私を研究室によぶと、私のノートの中の図をあけて、それは下臂(かひ)の血管の図であったが、先生はそれを指さしながら、私にむかってやさしくいった……
「ごらん、きみはこの血管の位置を少しずらしているね……むろん、こうずらして描けば、たしかに見た目にはきれいだ。しかし解剖図は美術じゃない。実物はあんなふうで、われわれはそれを勝手にかえるわけにはいかないのだ。ぼくがすっかり訂正してあげたからね。これからはみんな、黒板にかいてある通りに描くようにしなければいけないね」
だが私は不服だった。口では、はいはいと答えながら、心の中ではこう考えていた……
「図は私の方がうまくかけています。じっさいの様子は、胸の中にちゃんとおぼえています」
学年試験が終わって後、私は東京にいって一夏遊び、秋のはじめにまた学校に帰った。成績はもう発表されていて、同級百余人のうち、私はまん中ほどで、落第しないというだけのことであった。こんど藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学であった。
解剖実習がはじまって、たしか一週間ほどしてからであった。先生はまた私をよび、ひじょうにきげんよく、例によって、ひじょうに抑揚(よくよう)のはげしい調子で私にむかっていった……
「中国の人は、ひじょうに霊魂を尊重すると聞いていたものだから、ぼくはとても心配していた。きみが死体の解剖をいやがりはしないかと思ってね。これでほんとに安心したよ。そんなことがなくて」
だが彼のおかげでひどく当惑を感じさせることもたまにはあった。彼は、中国の女性は纏足(てんそく)をしているという話を聞いていた。だがくわしいことがわからないので、どんなぐあいに足をつつむのか、足の骨はどんなふうな奇形になっているか、と私にたずねた。そして、ため息をついていうのだった。
「ともかく一度見なければわからない。いったいどんなぐあいだろうなあ……」
ある日のこと、クラス会の幹事が私の下宿にやってきて、ノートを貸してくれといった。私がとりだして彼らに渡すと、ぱらぱらめくって見ただけで、もってはいかなかった。だが彼らが帰ったあと、郵便配達が一通の厚い手紙をとどけた。封を切ってみると、冒頭の一句はこうだった……
汝悔(なんじく)い改めよ」
これは『新約聖書』の中の句であろう。だがトルストイが最近引用したものであった。当時はちょうど日露戦争のさなかで、杜翁〔トルストイのこと〕はロシアと日本の皇帝にあてて手紙を書き、その書き出しがこの一句なのであった。日本の新聞は大いに彼の傲慢無礼(ごうまんぶれい)を責め、愛国的な青年たちもいきり立っていた。しかし、いつか知らず知らずのうちに、彼の影響をうけていたのだ。
そのつぎには、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートにしるしをつけてやり、きみは前もって知っていたから、こんな成績がとれたのだ、と、大体そんなことが書いてあった。最後は匿名(とくめい)であった。
私はそこではじめて、何日か前のことを思いだした。クラス会をひらくために、幹事は黒板に通知を書いたのだが、その最後の一句が、「全員漏(も)れなく出席してください」というので、しかもその「漏」の字のわきにマルがつけてあった。私はそのとき、そのマルのつけかたがおもしろいと思ったが、べつに気にもとめなかった。いまにしてその字が私をあてこすっていたのだと気がついた。つまり私が教員から試験問題を漏らしてもらったというのだ。
私はこのことを藤野先生に知らせた。私と仲のよかった何人かの同級生も、ひじょうに憤慨(ふんがい)して、いっしょにいって幹事をつかまえ、口実をもうけてノートを検査した無礼をなじったうえ、その検査の結果を発表せよと要求した。かくてついにこのデマは消えさり、また幹事はその匿名の手紙をとりかえすために、極力運動した。けっきょく、私はこのトルストイの手紙を彼に返した。
中国は弱国である。だから中国人はとうぜん低能児であって、六十点以上の点数をとったのは、自分の能力ではあるまい。彼らがそういう疑いをいだいたのも無理はなかった。だが私はつづいて中国人の銃殺される場面を参観する運命をもった。二年生になると黴菌(ばいきん)学の授業がくわわり、細菌の形態はぜんぶ幻灯を使ってしめされる。講義が一段落ついても、まだ時間があまったときには、ニュースの写真をうつしたが、むろんみんな日本がロシアに勝っている光景だった。ところがよりによって、そのなかに中国人があらわれたのである。それはロシア軍の探偵となって日本軍にとらえられ、銃殺される光景で、それをとりかこんで見ているのも一群の中国人であった。教室の中にはこの私がいた。
「ばんざい!」と、彼らはみな拍手喝采(かっさい)した。
そのような喝采が一枚ごとに起こった。だが、私にとって、その声はとくべつ耳を刺してひびいた。その後中国に帰ってから、私は犯人を銃殺〔昔は民国の初年まで、犯人を銃殺するのはたいてい目ぬき通りのような公開の場所で行なわれた〕するのをぼんやり見物している人々を見たが、彼らも酒に酔ったように喝采しないことはなかった……ああ、どうにもしようのないことだ! だが、その時その場所において、私の意見はかわったのだった。〔魯迅は、衰亡に瀕している中国を救うには、まず中国人の病弱な身体を作りかえてやることが第一だと考えて、医者になろうと決心した。しかし、この幻灯を見て、身体がどんなに強健でも、なかみの精神が愚鈍だったら、銃殺されるか、銃殺の見物人になるくらいが関の山である。だから、中国人にとって、肉体よりも精神の改造こそ、さらに急務であり、そして精神改造の手段として、文学にまさるものはないと考えた結果、彼は医学をやめて、文学に志したのである〕
第二学年の終わりになって、私は藤野先生を訪問し、私が医学の学習を断念しようと思っていること、およびこの仙台を去ろうとしていることを告げた。彼の顔に心なしか少し悲哀の色が浮かんだようで、なにかいいたそうな様子であったが、ついにいわなかった。
「私は生物学を学ぼうと思います。先生が教えたくださった学問も、じゅうぶん役に立つと思います」
じつをいうと、私はけっして生物学を学ぼうと決意していたわけではなかった。先生がいかにもさびしげな様子をしているのを見て、先生をなぐさめるために、その場かぎりのうそをついたのであった。
「医学のために教えた解剖学の類は、たぶん生物学にはたいした助けにもなるまい」と、先生は嘆息していった。
出発の何日か前に、先生は私を自宅によび、一枚の写真の裏に、二字「惜別」と書いて、私にくれた。そして私にも一枚くれるように希望した。だが私はそのときたまたま写真のとったのがなかった。すると先生は、将来とって送るようにと私にたのみ、そして、ときどき手紙で今後の様子を知らせてほしいといった。
私は仙台を去った後、長年写真をとったことがなかった。それに様子も思わしくなく、書いても先生を失望させるばかりだと思うと、手紙を書く気になれなかった。だんだん年月がたつと、どこからどう書きようもない。だから、ときどき手紙を出そうと思うこともないではなかったが、書きようがなくて、こうしてずっと今日(こんにち)まで、ついに一本の手紙も、一枚の写真も送らなかった。先生の側からみれば、いったきり、梨(なし)のつぶてというわけである。
だがどうしたわけか、私は今でもよく先生のことを思いだす。私がわが師と認めている人々の中で、彼こそはもっとも私を感激させ、私を激励してくれたひとりである。ときどき私はこう考える。先生の私に対する熱烈な希望と倦(う)まざる教訓とは、小にしてこれをいえば、中国のため、つまり中国に新しい医学の起こることを希望されたのであり、大にしてこれをいえば、学術のため、つまり新しい医学が中国に伝わることを希望されたのである。先生の性格は、私の目の中と心の中ではきわめて偉大である。たとえ先生の姓名はけっして多くの人々に知られているわけではないとしても。
先生に直してもらったノートを、私は三冊の厚い本に装丁し、永久に記念にするつもりで保存しておいた。ところが不幸にして七年前、ひっこしをするときに、途中で書籍をつめた箱が一つこわれ、その半分の書籍が紛失した。そしてこのノートもちょうどその紛失したなかにはいっていた。至急さがすようにと運送店に督促したが、なんの返事もなかった〔このノートはその後発見されて、現存している〕。ただ先生の写真だけは、今でも私の北京(ぺきん)の家の東壁に、書卓にむかってかかげてある。夜中になってなまけ心が起こったとき、顔をあげて灯火(ほかげ)の中に色の黒いやせた先生の顔をちらと見ると、いまにもあの抑揚のはげしい調子でつかえつかえ話しだそうとするかのように思われてくる。すると私はたちまち良心をふるい起こし、勇気づけられる。かくて一本のたばこに火をつけ、「正人君子(せいじんくんし)」のやから〔正人であって、聖人ではない。これはみずから正義派と称し、君子然とかまえて、ひたすら他人のあらさがしをするやからをいう〕に深くにくまれる文章をさらに書きつづけるのである。
(一九二六年十二月十二日)
眉間尺(みけんじゃく)(鋳剣)



眉間尺(みけんじゃく)〔目と目の間が一尺もあるからついた名〕が母親といっしょに寝るやいなや、鼠(ねずみ)が出て来て鍋(なべ)の蓋をかじり、それが耳についてうるさかった。彼はそっと何度も叱った。最初はそれでも少しはききめがあったが、後にはまるで彼を無視して、ガリガリとかじりつづけた。彼としても大きな声で追うことはできなかった。昼間の仕事で疲れて、晩になって横になるとすぐ寝入ってしまう母親が、目をさましてはいけないと思ったからである。
多くの時間がたって、静かになった。彼も眠ろうと思った。突然、ポトンと音がしたので、彼はびっくりして目をあけた。同時にザワザワと音がした。爪(つめ)で土器をひっかく音だ。「しめた。いい気味だ」と彼は思って、うれしさにわくわくしながら、そっと身を起こした。
彼は寝床から下りて、月の光をたよりに門の裏側へ行き、手さぐりに火打ちの道具を取って松明(たいまつ)に火をつけ、水甕(みずがめ)の中を照らしてみた。案の定、非常に大きな鼠がその中に落ちこんでいた。だが、水がもう少ししかはいっていなかったので、這(は)い出ることができずに、水甕の内側に沿って、ひっかきながら、ぐるぐる回っていた。
「ざまァみろ」彼は夜ごとに家具をかじって彼を安眠させなかったのが彼らであったことを思うと、非常に愉快だった。彼は松明(たいまつ)を土塀(どべい)の小さな孔(あな)に挿(さ)して、とっくりと見物した。しかしそのつぶらな小さい目は、またも彼に憎しみを覚えさせ、手を伸ばして燃料にする枯蘆(あし)を一本抜きとって、そいつを水の底まで押えつけた。しばらくしてから手を放すと、その鼠もいっしょに飛び上がって、また甕(かめ)の内側をひっかきながらぐるぐる回った。だがひっかく力はすでにさきほどのように強くはなく、目も水の中にひたって、ただ尖(とが)った真赤(まっか)な小鼻を少しばかり水面に出して、チュウチュウとせわしげに喘(あえ)いでいるばかりであった。
彼は赤い鼻〔魯迅は同僚の某教授の行為の陋劣さをひどくきらって、これに「鼻」というあだなをつけたことがあった。なお、この小説の原典の一つである魏の曹丕(文帝)の『列異伝』では、眉間尺の名は赤鼻といった、とある〕の人間がどうもあまり気に喰(く)わなかった。だが今この尖(とが)った小さい赤鼻を見ると、急になんだかかわいそうになったので、またその蘆を鼠の腹の下に伸ばしてやった。鼠はそれにつかまり、しばらく力を休めてから、蘆の幹を伝って這(は)い上がった。彼は鼠の全身……びしょ濡れの黒い毛、大きな腹、みみずのような尻尾(しっぽ)……を見るやいなや、またしてもむらむらと憎さがこみ上げて来たので、急いで蘆を一振りすると、ポトンと、鼠はまた水甕(みずがめ)の中に落ちた。彼はつづいて蘆で鼠の頭を何度も突いて、鼠をすぐに沈めてやった。
六回松明を換えた後、その鼠はもう動けなくなって、ただ水の中を浮き沈みするだけであったが、時々まだ水面へ向かってちょっと跳(と)び上がろうとした。眉間尺はまたもひどくかわいそうになり、すぐ蘆を二つに折って、やっとのことで鼠を挟(はさ)み上げて、地面に置いた。鼠は最初はピクリともしなかったが、その後少し息をついた。それからまただいぶたって、四つの足が動きだし、くるりと起き直ると、立ち上がって逃げ出そうとした。これは眉間尺をびっくりさせた。思わず左足を持ちあげ、ぎゅっと踏みつけた。と、チュッという音がしたので、しゃがみこんでよく見ると、口から少し赤い血を出していた。どうやら死んでしまったらしい。
彼はまたひどくかわいそうになった。何だか自分が大変な悪事を働いたような気がして、非常に堪えがたかった。彼はしゃがんだまま、ぼんやり見ていて、立てなかった。
尺児(しゃくじ)や、お前何をぼんやりしているんだね」彼の母親はもう目をさまして、寝床の上からきいた。
「鼠が……」彼はあわてて立ち上がり、ふり返って、ただそれだけ答えた。
「そうさ、鼠はわかっている。でもお前は何をしているんだね。それを殺したのかい。それとも助けてやっているのかい」
彼は答えなかった。松明は燃えつきた。彼は黙りこくって暗闇(くらやみ)の中に立っていた。ようやく月光の冴(さ)えかがやくのが見られた。
「ああ」と彼の母親は歎息して言った。「子(ね)の刻になれば、お前は十六歳になるというのに、性質は相変わらずその通り、熱くもなければ冷たくもなく、ちっとも変わらない。その模様では、お前のお父さんの仇(かたき)を討つものはいないのだろうか」
彼は母親が灰白色の月影の中に坐って身体まで顫(ふる)わせているらしいのを見た。低いかすかな声の中に、無限の悲哀がこもっていて、彼は思わずぞっとして鳥肌(とりはだ)が立ったが、また一瞬にして、こんどは熱血が全身にたちまち沸騰するのを感じた。
「お父さんの仇? お父さんにどんな仇があるんです?」彼は二、三歩前に進んで、驚いてたずねた。
「あるんだよ。しかもお前にそれを討ってもらわねばならぬ。わたしは早くからお前に話そうと思っていた。だけどお前があんまり小さかったので、話さなかった。今お前はもうおとなになったのに、まだそんな性質だとすると、わたしはどうしたらよいだろう。お前のそのような性質で、大事をなしとげることができるだろうか」
「できます。話してください。お母さん。僕は改めます……」
「無論、わたしも話すほかはない。お前はぜひとも改めなければ……それじゃ、こっちへおいで」
彼は寄って行った。母親は寝床の上にきちんと坐っていた。ほの白い月影の中に、両眼からキラキラ光が発していた。
「お聞き」と彼女は厳粛に言った。「お前のお父さんは刀作りの名工で、天下第一といわれたお方でした。その仕事道具は、もうとっくに、貧乏を凌(しの)ぐために売り払ってしまったから、お前はもう何のあとかたも見ることができないけれど、あの方は世に二人とない刀作りの名工でした。二十年前、王妃が鉄の塊を生み落とされた。何でもあるとき鉄の柱を抱いてからお孕(はら)みなされたということで、それは純青透明な鉄の塊だった。王様はさてこそ異宝だとさとられ、それでもって一ふりの剣を鋳(い)て、それでもって国を安んじ、敵を殺し、身を防ごうとお考えになったのだね。不幸にもお前のお父さんがその時あいにく選ばれて、鉄を捧げ持って家に帰られ、毎日毎夜鍛えに鍛え、まる三年精神を打ち込んで、二ふりの剣を作り上げなされたのだ。
最後に炉(ろ)を開いたその日は、どんなに驚くべき有様だったろう。ガラガラッと、一筋の白煙が立ったとき、地面も揺らぐかと思われた。その白煙は中天でたちまち白雲に変わり、そこら一面を立ちこめ、だんだん桃色になって来て、すべてのものがそれに映じて桃の花のようになった。わが家の真黒い炉の中には真赤(まっか)な二ふりの剣が横たわっていた。お前のお父さんが井華水(せいかすい)を静かにかけなさると、その剣はシュッシュッと吼(ほ)えながら、次第に青色に変わっていった。こうして七日七夜して、剣が見えなくなった。よくよく見ると、やはり炉(ろ)の底にあった。純青で、透明な、まるで二本の氷の棒のようなのが。
大歓喜の光彩が、お前のお父さんの目から四方に射出された。お父さんは剣を取り上げて拭(ぬぐ)い、そしてまた拭いなさった。だけどいたましい皺(しわ)も、お父さんの眉と口元に現われました。お父さんはその二ふりの剣を二つの小箱に別々に入れなさった。
『この幾日かの有様を見さえすれば、だれにだって、剣がすでにできあがったことはわかるはずだ』とお父さんはわたしにそっとおっしゃった。『明日になれば、わしは必ず王様のところへ献上に行かねばならぬ。だが剣を献上する日こそ、わしの命の尽きる日でもある。多分お前とはこれが永(なが)の別れとなるだろう』
『あなたは……』とわたしはほんとうにびっくりして、お父さんの言葉を計りかね、どう言ってよいかわからなかった。わたしはただこう言いました。『あなたはこんどこんなに大きな功労をお立てなされたのに……』
『ああ、お前にはわかるまい』とお父さんはおっしゃった。『王様は昔から疑い深く、そして極めて残忍なお方だ。こんどわしが王様のために世に二つとない剣を作って上げたら、王様はきっとわしを殺してしまわれるだろう。つまり、わしがまたほかの人のために、王様の剣に匹敵する、あるいは王様の剣にまさる剣を作ることがないようにするためだ』
わたしは涙を流しました。
『泣かなくてもいい。これは逃れようのないことだ。涙は決して運命を洗い流してはくれぬ。しかしわしはちゃんと前からここに用意しておいた』お父さんの目から突然稲妻(いなづま)のような光芒(こうぼう)が発し、一つの剣箱をわたしの膝(ひざ)の上に置きなさった。『これは雄剣だ』とお父さんはおっしゃった。
『しまっておいてくれ。明日、わしはこちらの雌剣だけを王様のところへ献上しに行く。もしもわしが行ったきりで帰って来なかったら、わしはもはやこの世にいないものと思ってくれ。お前は懐胎してすでに五、六か月になるではないか。泣かんでもいい。子どもが生まれたら、大事に育てるのだ。その子が成人した暁には、この雄剣をその子に授けて、王の首を斬って、わしの仇を討つように言ってくれ』」
「その日お父さんは帰って来たの?」眉間尺は急いでたずねた。
「お帰りにならなかった」と母親は冷静に言った。「わたしは方々きいてまわったけれど、何の消息も得られなかった。その後、人にきいたところによると、お前のお父さん自身が作った剣を最初に血でもって飼った人は、ほかならぬ彼自身……お前のお父さんであった。さらにまた、もしやお父さんの亡霊がたたって出やしないかというので、お父さんの胴と首とを前門と後苑とに別々に分けて埋めたのだそうだよ」
眉間尺はたちまち全身が猛火に焼かれているかのようだった。自分でも髪毛の一本一本から火花が閃(ひらめ)き出ているような気がした。彼の二つの拳(こぶし)は、暗闇(くらやみ)の中に握り固められてガクガクと鳴った。
彼の母親は立ち上がって、枕元の板を剥(は)がし、寝台からおりて松明(たいまつ)をつけ、扉(とびら)の内側から鍬(くわ)を取って来て、眉間尺に渡して言った。
「掘ってごらん」
眉間尺の胸は跳(おど)った。しかし落着いて一鍬(くわ)一鍬、そっと掘って行った。掘り出したものはみな黄色い土だった。およそ五尺ほどの深さまで来ると、土の色が少し変わった。朽ち果てた材木らしかった。「よく見て。気をつけるんだよ」と彼の母親は言った。
眉間尺は掘りあけた穴のそばに突っ伏して、手を伸ばし、慎重に用心深く、腐った木を取りのけた。そして指先にヒヤッとして冷たい雪に触れたかと思った時に、かの純青透明な剣が現われた。彼は剣の柄(つか)を見きわめると、それを握って、引き出した。
窓外の星や月も、屋内の松明も、みな俄(にわ)かに光輝を失い、ただ青い光が天下を充塞(じゅうそく)したかのようであった。その剣はその青い光の中に溶けた。眉間尺は息をつめてじっと見た。するとはじめて長さ五尺余りの剣がぼんやり見えてきた。別段それほど切れそうにも見えず、刃はそって少し丸みを帯び、ちょうど韮(にら)の葉のようであった。
「お前はこれからお前の柔弱な性質を改め、この剣を持って仇を討ちに行かねばならない」と彼の母親は言った。
「僕はもう僕の柔弱な性質を改めました。この剣をもって仇を討ちに行きます」
「どうかそうしておくれ、お前は青い着物を着て、この剣を背負いなさい。着物と剣と一つ色だから、だれにもはっきり見えないだろう。着物はわたしがもうちゃんとあそこにこしらえています。明日お前は出立するがいい。わたしのことは気にかけなさるな」彼女は寝床のうしろのボロボロの衣裳箱を指差して、言った。
眉間尺は新しい着物を取り出して、試しに着てみた。身丈がぴったり合っていた。で彼はふたたびたたみなおし、剣を包んで、枕元に置き、静かに横になった。彼は自分の柔弱な性質がすでに変わったような気がした。彼は、何の物思いもないかのように、頭を枕につけてすぐ眠り、朝目をさましたら、普段と少しも変わらぬさまで、従容(しょうよう)として彼の不倶戴天(ふぐたいてん)の仇を討ちに行こう、とそう決心した。
しかし彼は目がさえて眠れなかった。寝返りばかり打って、いっそ起きて坐ろうかと思った。彼は母親の失望したかすかな長い歎息をきいた。彼は最初の鶏鳴(けいめい)をきいた。すでに子(ね)の時になって自分が十六歳になったことを、彼は知った。



眉間尺が目のふちをはらしながら、うしろもふり向かずに門外に出て、青い着物を着、青い剣を背負って、大股でのっしのっしと城内へ馳(は)せ向かった時、東方にまだ陽(ひ)の光は現われていなかった。杉林の一つ一つの葉末がみな露の珠(たま)を掛け、その中には夜気が隠れひそんでいた。しかし杉林のきれるところまで来た頃には、露の珠はとりどりの光を閃かせて、次第に暁の色に変わった。遠く前方を眺めると、かすかに灰黒色の城壁とひめがき(・・・・)〔城壁の上に作った丈の低い垣〕が見えた。
野菜売りといっしょに城内にまぎれ込むと、街はもう非常ににぎわっていた。男たちはあちこちに列を作ってぼんやり立っていた。女たちも門の内側からちらちらと頭を覗(のぞ)かせた。彼女たちもほとんどみな目のふちを腫(は)らし、髪はぼうぼうに乱れ、蒼(あお)い顔をしていた。化粧をする暇もなかったのであろう。
眉間尺は大変革の到来を予覚した。つまり彼らはみなじりじりしながら、じっとがまんして、その大変革を待っているのだ。
彼はどんどん先へ歩いた。一人の子どもが突然駆けてきて、すんでに彼の背中の剣先にぶつかろうとしたので、彼はドキンとしてびっしょり汗をかいた。北へ曲って、王宮から遠からぬところへ来ると、人々がぎっしり、押し合いへし合いしながら、みな首を伸ばしていた。群集の中には女や子どもの泣き騒ぐ声もきかれた。彼はかの目に見えぬ雄剣が人を傷つけはしまいかと思って、あえて中に分け入ろうとはしなかった。しかし人々はうしろからどんどん押し寄せて来た。彼はやむなくその中をすり抜けて後にさがった。目の前にはただ人々の背中と長く伸ばした首筋だけが見えた。
突然、前方の人々がみなばたばたと土下座した。遠くから馬が二匹並んで走ってきた。そのうしろから棍棒、戈(ほこ)、刀、弩(いしゆみ)、旗を持った武士が、道いっぱい蒙々(もうもう)たる黄塵(こうじん)を立ててやって来た。それからまた四匹の馬に引かせた一台の大車が来た。その上には一隊の人が乗っており、あるものは鐘や太鼓を打ちならし、あるものは何というのか名を知らぬ楽器を口にあてて吹いていた。その後のもまた車で、中の人々はみな画衣〔錦糸や銀糸で竜の模様などを刺繍したきらびやかな衣裳〕を着ており、老人でなければ、背のひくい太っちょで、だれもみな顔じゅう油汗を垂らしていた。つづいてまた、刀槍剣戟(けんげき)を持った一隊の騎士。と、ひざまずいていた人々はみなひれ伏した。その時眉間尺は、黄色い蓋(かさ)のある車の馳せ来るのを見た。まんなかに画衣を着けた太っちょが乗っていた。ごま塩の鬚(ひげ)、小さな顔、そしてその腰に、眉間尺の背中にあるのと同様な青い剣を下げているのが、かすかに認められた。
彼は全身に冷水(れいすい)を浴びせられたかと思った。だがたちまちまた灼熱(しゃくねつ)して来て、猛火に焼かれているかのようだった。彼は手を肩先に伸ばして剣の柄(つか)を握りしめると同時に、足をあげると、ひれ伏している人々の頸(くび)と頸の隙間から飛び出した。
だが彼はほんの五、六歩のところで、逆とんぼを打って倒れた。それはだれかがいきなり彼の片足をつかんだからである。しかも倒れた拍子に、どさりと、干(ひ)からびた顔の若者の体に圧しかぶさった。彼は剣先が若者を傷つけはせぬかと、何よりもそれが心配だったので、びっくりして起き上がって見た時には、すでに肋(あばら)の下にポカポカ拳(こぶし)を見舞われていた。彼はそれを相手にする暇(いとま)もなく、ふたたび路上を見やると、黄色い蓋(かさ)の車はもう通り過ぎていたばかりか、警護の騎士さえほとんど大部分は過ぎ去っていた。
路傍の人々もみな起き上がっていた。ところが干からびた顔の若者はなおも眉間尺の襟(えり)をひっつかんで放そうとせず、彼のお蔭で大事な大事な丹田(たんでん)〔へその下三寸の下腹部にあたるところ。道家ではこれを丹田といって重要視する。男なら精嚢、女なら子宮のあるところで、修練によってここを堅くし、またここに力を入れると健康と勇気を得るとされている〕を圧しつぶされてしまったから、ぜひとも生命保険に入れてもらわねばならぬ、もし八十にならぬうちに死んでしまったら、代わりの命を申し受ける、てなことを言いつのった。野次馬どもがまたすぐさま二人を取り囲み、ぽかんとして見物していたが、だれも口をきくものはなかった。後にはわきから野次り出したが、それは全部干からびた顔の若者に味方するものであった。眉間尺はこのような敵に出会って、実際怒るに怒れず、笑うにも笑えず、ただうんざりした気持ちになったが、といってその場をのがれることもできなかった。こうして鍋(なべ)の粟(あわ)が煮えあがるほどの時間がたって、眉間尺は全身から火が吹き出さんばかりにいらいらしたが、見物人は一向に減る様子もなく、なおもおもしろくてたまらぬ風であった。
前方の人垣が動揺し、それを押し分けて黒い男がはいって来た。黒い鬚(ひげ)、黒い目、やせて鉄のような男だった。彼は何も言わずに、ただ眉間尺に向かってにやりと笑い、同時に手をあげて干からびた顔の若者の下あごを軽くつついて、さらに彼の顔をじっと見つめた。その若者も彼の方を向いてしばらく見ていたが、思わずそろそろと手を放して、逃げて行った。黒い男もそのまま逃げて行った。見物人たちもつまらなくなってみんな散ってしまった。ただ何人かのものが、なおも眉間尺をつかまえて、年や、住所や、家に姉さんはいるかなどとたずねた。眉間尺は取り合わなかった。

彼は南の方へ歩いた。城内はこんなに雑踏しているから、間違って人を傷つけやすい、それより南門外で王の帰りを待ち、父の仇を報いた方がいい、あそこならば広くて人通りも少ないから、存分あばれるのに都合がよい、とそう考えた。そのとき城内の人々は、国王の遊山(ゆさん)について、儀杖(ぎじょう)や、威厳や、自分が国王を拝むことのできた光栄や、さてはひれ伏した方がいかに低く、国民の模範としてそれは採用されて然るべきである等々といったことについての話で持ちきっており、まるで蜜蜂の大名行列とそっくりであった。だが南門の近くまで来ると、さすがにだんだん静かになった。
彼は城外に出て、大きな桑の木の下に腰をおろし、饅頭(まんとう)を二つ取り出して空腹を満たした。食べている時に、ふと母親のことを思い出して、思わず口と鼻がジーンとなった。しかしその後はもう何ともなかった。周囲は一歩ごとに暗くなって行き、彼はついに自分の呼吸の音を非常にはっきりとききとることができた。
あたりが暗くなるとともに、彼もいよいよ落ちつかなかった。懸命に目を見張って前方を見たが、国王の帰って来る影さえも見えない。城内に野菜売りに来た村人は、一人一人空籠(からかご)をかついで、城門を出て帰って行く。
人通りが絶えてからだいぶたった後、突然、城内から例の黒い男がさっと出て来た。
「逃げろ、眉間尺。国王がお前を捉(とら)えようとしているぞ」とその男は言った。声はふくろうのようだった。
眉間尺は全身がブルッとふるえ、魔物に取りつかれたように、すぐさまその男について行った。後には飛ぶように走った。彼が立ちどまり、だいぶかかって喘(あえ)ぎが静まった時、やっと自分がもう杉林のところまで来ていたことに気がついた。うしろの遠くに銀白色の縞(しま)模様が見えるのは、月がもう彼方(かなた)に出たのである。しかし前方にはただ二つの燐火のような例の黒い男の眼光があるだけだ。
「あなたはどうして僕を知っているのですか」と彼はおどおどしながら聞いた。
「ははは、わしは前からお前を知っておる」とその男の声は言った。「わしはお前が雄剣を背負って、父親の仇を討とうとしていることを知っている。わしはお前には仇が討てないことも知っておる。仇を討てぬばかりではない。今日も密告する者があって、お前の仇はとっくに東門から王宮に帰り、お前を逮捕するよう命令を出した」
眉間尺は思わず悲しくなった。
「ああ、お母さんが歎息したのも無理はなかった」と彼は小声で言った。
「だがお前の母親は半分しか知っておらぬ。わしがお前のために仇を討ってやるということは知っておらぬ」
「あなたが! あなたが僕のために仇を討ってくださるのですか、義士よ」
「いや、お前はそんな呼び方をしてわしを買いかぶってはいけない」
「では、あなたはわれわれ孤児と寡婦とに同情してくださるのですか……」
「ああ、子どもよ、お前はそんな汚辱を受けた呼び名をもう口にしてはいけない」と彼は厳しく冷ややかに言った。「義侠とか同情とか、そういうものは、とうの昔に洗い流して、今ではみな亡者(もうじゃ)に貸し出す資本になってしまった。わしの心にはお前のいうようなそんなものは全然ない。わしはただお前のために仇を討ってやるだけなのだ」
「なるほど。しかしあなたはどうして僕のために仇を討ってくださるのですか」
「お前がわしに二つの物をくれさえすればいい」二粒の燐火の下の声は言った。「二つとは何か? よく聞けよ。一つにはお前の剣、二つにはお前の首だ」
眉間尺は不思議に思って、ちょっとためらったけれども、決して驚きはしなかった。彼はすぐには口がきけなかった。
「お前はわしがお前の命と宝物とをかたり取るのではないかと疑ってはいけない」と闇(やみ)の中の声はまた厳しく冷ややかに言った。「この事はまったくお前の自由だ。お前がわしを信ずれば、わしはやる。信じなければ、わしはやめる」
「でもあなたはなぜ僕のために仇を討ってくださるのですか。あなたは僕の父を御存じなんですか」
「わしは前からお前の父を知っている。前からお前を知っているのと同じにな。だが、わしが仇を討ってやろうというのは、決してそのためではない。利口な子どもよ。話してあげよう。お前はまだ知るまい、わしがいかに仇討ちの名人であるかということを。お前の仇はつまりわしの仇だ。その仇は、つまりこのわしでもあるのだ。わしの魂には、そんなにもたくさん、自分や他人に負わせられた傷がある。わしはすでにわし自身を憎んでいるのだ」
暗闇(くらやみ)の中の声がやんだ途端に、眉間尺はいきなり手をあげて肩先から青い剣を抜きとり、そのまま頸窩(ぼんのくぼ)に当てて前に一削(そ)ぎすると、首は地面の青苔(こけ)の上に落ち、同時に剣を黒い男に渡した。
「ははは」男は片手に剣を受け取り、片手に髪毛を握って、眉間尺の首をひっ下げ、その熱い、死んでしまった唇(くちびる)に、二度接吻(せっぷん)し、そして冷ややかに鋭く笑った。
笑い声が直ちに杉林の中にひろがると同時に、奥の方で一群の燐火のような眼光が閃めき、たちまち近寄ってフーフーいう餓(う)えた狼(おおかみ)の喘(あえ)ぎがきこえた。一口目に眉間尺の青い着物を引き裂いてしまった。二口目には身体が全部見えなくなり、血痕(けっこん)も一瞬にしてなめつくし、ただ骨を咬(か)みくだく音がかすかにきこえるだけであった。
最先頭の大きな狼(おおかみ)がさっと黒い男に飛びかかって来た。彼が青い剣を一振りすると、狼の頭はたちまち地面の青苔(こけ)の上に落ちた。ほかの狼どもは、一口目でその皮を引裂いてしまった。二口目には身体が全部見えなくなり、血痕(けっこん)も一瞬にしてなめつくし、ただ首を咬(か)みくだく音がかすかにきこえるだけであった。
彼はすでに地上の青い着物を取り上げて、眉間尺の首を包むと、青い剣といっしょに背中に背負い、身を返して、闇(やみ)の中を王城に向かって悠々と去った。
狼たちは立ちどまり、肩をそびやかし、舌を出して、フーフー喘(あえ)ぎながら、緑色の眼光を放って、男がのっしのっしと去るのを見ていた。
彼は闇の中を王城に向かってのっしのっしと歩きながら、鋭い声を出して歌をうたった……

ハハ愛や、愛よ愛よ!
青剣を愛し、一人の仇自ら屠る。
おびただしいかな引きもきらず、無数の暴君。
暴君は青剣を愛す、ああ孤ならず。
首と首と取り換えて、二人の仇自ら屠る。
暴君はここに無し、愛よああ!
愛よああ、ああ、ああ、
やあ、ああ、ああ、ああ!



遊山(ゆさん)は少しも国王を楽しませなかった。その上、刺客(しきゃく)がいるとの密報がはいったので、いよいよ彼は興をさまして帰った。その夜、国王はご機嫌すこぶる斜めで、第九の妃の髪毛さえ、昨日ほど黒くて美しくはないと言った。幸い彼女が国王のお膝(ひざ)に坐ってあまったれ、特別に七十何回もつねったので、やっと御眉の間の皺(しわ)が少しずつのびていった。
午後、国王は起きると、また少し不機嫌だった。午膳(ひるぜん)をすました頃には、すっかり怒りが顔に出ていた。
「ああ、つまらん」彼は大きなあくびを一つしてから、高い声で言った。
上は王后から、下はお太鼓持ちの家来に至るまで、この有様を見て、いずれも手足のおくところを知らなかった。白ひげの老臣のお説教も、ちんちくりんの侏儒(しゅじゅ)〔こびと、一寸法師。古代の中国の宮廷には、滑稽なしぐさや、おどけた話をして王侯を楽しませる小人が仕えていた。身分は俳優と同等で、演劇の中の道化役にあたる〕のおどけ話も、王はとっくにききあきていた。この頃は、綱渡り、竿(さお)登り、弾(たま)投げ、逆(さか)立ち、刀呑(の)み、火焔(かえん)吐き等々の奇妙な手品を見ても、ちっともおもしろくなかった。彼はひどく怒りっぽくなった。そして怒ったが最後、すぐと青い剣の柄(つか)に手をかけ、何かちょっとしたことにケチをつけては、幾人も手打ちにするのであった。
こっそり王宮の外へ遊びに出ていた二人の若い宦官(かんがん)は、帰ってくるなり、宮中の人の愁(うれ)わしげな顔つきを見ると、ああまた例の禍が降って来たのだと知り、一人は仰天して顔を土色にした。しかしもう一人は大いに確信があると見えて、あわてず騒がず、国王の面前に走り寄って、ひれ伏しながら、言った。
「わたくしめは先程、不思議な人物に会いました。まことに不思議な術を心得ておりまして、大王をお慰めまいらすことができるでございましょう。それで特にまかり出てお耳に入れました次第でございます」
「何?」と王は言った。王の言葉はいつもはなはだ簡単だった。
「それは黒い、痩(や)せた、乞食(こじき)のような男でございます。青い着物をまとい、円い青い包みを背負って、出鱈目(でたらめ)な歌をうたっております。人がその男に聞いたら、その男が申しますには、手品にかけては空前絶後、天下無双の名人で、人々のこれまで見たことのないことをやる。それを見たら、たちまちいっさいの憂いが散じて、天下太平となりますそうで。それで人々が一つやって見せろと申しましたところが、そやつどうしてもやると申しません。そして第一に金(きん)の竜がいる。第二に金の鼎(かなえ)がいると申します……」
「金の竜? 朕(ちん)がそれじゃ。金の鼎? 朕が持っておる」
「わたくしめもそのように考えておりました……」
「連れてまいれ」
その声がまだ消えないうちに、四人の武士がその若い宦官(かんがん)について走り出た。上は王后より、下は太鼓持ちの家来まで、一人一人の顔に喜びの色が現われた。彼らはみなその手品によっていっさいの憂いが消え去り、天下太平となるように願った。たとい手品がまずかったとしても、こんど禍(わざわい)を受けるのは、その乞食のような、黒いやせた男なのだし、彼らとしてはただその男が連れられてくるまで待てばよかったから。
さほど長い時間はかからずに、六人の者が金の階(きざはし)に向かって小走りにはいってくるのが見られた。先頭には宦官、後には四人の武士、そしてその間に黒い男がはさまれていた。近づいたのを見ると、その男の着物は青く、鬚(ひげ)も眉も髪毛もみな黒かった。やせて、顴骨(かんこつ)も、眼圏骨も、眉稜骨(びりょうこつ)も、みな高く突き出ていた。彼がうやうやしくひざまずいてひれ伏したとき、なるほど背中に円い小さな包みがあるのが見えた。青いきれで、それには何やら暗紅色の模様が描かれていた。
「申せ」と王はあらあらしく言った。男の道具が簡単なのを見て、別におもしろい手品ができそうにも思われなかったからである。
「わたくしは宴之敖者(えんしごうしゃ)と申すもの、※※郷(もんもんきょう)の生まれでございます(※はさんずいに、文の旁)。若い時から職業はなかったのでございますが、晩年にりっぱな師匠に出合いまして、手品を教わりました。子どもの首でございます。この手品は一人ではやれませぬ。必ず金の竜の前に、金の鼎を置いて、水を張り、獣炭(じゅうたん)〔いろいろな獣の形に作った炭団(たどん)〕をもって煮なければなりませぬ。それから子どもの首を投げ入れます。湯が沸きますると、その首は波と共に上下して、種々様々のダンスをやり、かつ妙(たえ)なる音を発し、歓喜して歌を歌いまする。その歌舞は、一人で見れば、いっさいの憂いを消し去り、万民が見れば、天下太平となるのでござりまする」
「やってみろ」と王は大声で命令した。
さほど長い時間はかからずに、牛を煮る大きな金の鼎が本殿の外に置かれ、水を満々と張って、下に獣炭を積み上げ、火が点ぜられた。黒い男はそのそばに立って、炭火が赤くなるのを見ると、包みを解いて、開き、両手で子どもの首を取り出して、高々と持ち上げた。その首は、眉は秀(ひい)で、目はきれが長く、歯は皓(しろ)く、唇(くちびる)は紅かった。頬(ほお)には笑みを浮かべていた。髪はぼうぼうとして、青い煙のようだった。黒い男はそれを捧げ持って、四方をぐるりと一回りすると、その手を鼎の上に突き出し、唇を動かして何やらぶつぶつ言った。と思うと、同時にさっと手を放した。と、ポトンと音がして、首は湯の中に落ちこんだ。水煙が同時に立って、たっぷり五尺以上の高さに飛び散ったが、そのあといっさいが静かになった。
長い時間が立ったが、何の気配(けはい)もなかった。国王がまず最初に怒り出し、つづいて王后や妃、大臣、宦官たちもじりじりして来た。ずんぐりむっくりした侏儒たちは、はやくも冷笑しはじめた。王は彼らの冷笑を見ると、自分が馬鹿(ばか)にされたと感じ、武士を顧みて、その君を欺(あざむ)いた不逞(ふてい)の民を牛の鼎にぶちこんで煮殺せと彼らに命令しようとした。
だが同時に、湯の沸(た)ぎる音がきこえた。炭火もかっかと燃えさかり、その光に照らされてかの黒い男は紅黒く、まるで鉄が焼けてかすかに紅みを帯びたかのような色になった。王がまたこちらへ顔を向けるや、男もすでに両手を天に差し伸べ、目を虚空(こくう)に向けて、舞踏しながら、不意に鋭い声を出して歌いだした。

ハハ愛や、愛よ愛よ!
愛よ血よ、だれか独(ひと)り無からん。
民草は闇路のまどい、暴君の瓢(ふくべ)。
彼は百の頭、千の頭を用い、万の頭を用う!
われは一の頭を用う。而して万夫なし。
一の頭を愛す、血よ、ああ!
血よ、ああ、ああ、やあ、
やあ、ああ、ああ、ああ!

歌声につれて、湯も鼎(かなえ)の口から湧(わ)き上がった。上は尖って下は広く、小山のような形だった。だが水の尖端から鼎の底まで、たえず旋回運動をした。その首は水と共に上がったり下がったり、輪を描いてまわると同時に、また自分でもくるくるトンボ返りを打った。人々はその首が一人でおもしろがっている笑顔を、ちらちら見ることもできた。しばらくすると突然、こんどは水には逆らう泳ぎに変わり、旋回運動に、梭(おさ)のように交互に頭を突っ込む運動がまじって、激した水煙は四方に飛び散り、庭一面にバラバラと熱い雨が降りそそいだ。一人の侏儒は突然あっと叫んで、自分の鼻をさすった。彼は不幸にして熱湯のため火傷(やけど)をし、また痛みに耐えかね、とうとう悲鳴を上げざるを得なかったのだ。
黒い男の歌声がやむと、その首も水の中央にとまった。面を王のいる殿の方へ向け、厳粛な表情に変わった。こうして十余回呼吸をするぐらいの時間がたってから、ゆっくりゆっくり上下の顫動(せんどう)をはじめ、顫動からやがて速度を加えて起伏の游泳になった。しかしそう速くはなく、悠々迫らぬ態度であった。水のふちに沿って高く低く三周すると、突然、かっと目をむいた。漆黒の眼球は特別に精彩を放った。同時に口をあけて歌い出した。

王沢は流れてひろびろ、
怨敵(おんてき)を克服したり、
怨敵は克服されたり、赫(かく)として強し!
宇宙は窮まりあれど、万寿は彊(かぎ)りなし。
幸い我は来れり、その光青し!
その光青し、永く忘れじ。
首と胴と別々になりたり、堂々たるかな!
堂々たるかな、アイアイヨー、
やよ来れ、帰り来れ、
やれ来れ、来って償(つぐな)えよ、その光青し!

首は突然、水の尖端まで昇ってとまった。いくつもトンボ返りを打ってから、上下に昇降しはじめ、眼珠は左右へ流し目をくれて、あくまで媚(なまめ)かしかった。そして口ではなおも歌をうたった。

やあ、ああ、ああ、ああ、
愛よ、ああ、ああ、ああ!
一つの頭を血ぬりたり、愛よ、ああ。
我は一つの頭を用い、而(しか)して万夫なし!
彼は百の頭、千の頭を用い……

そこまで歌ったのは、沈んで行く時だった。しかしもう浮かび上がって来なかった。歌詞もききとれなかった。湧き上がる水も、歌声が弱まり、だんだん低くなると共に、潮がひくように、とうとう鼎の口より下に下がって、遠くの方からは何も見えなくなった。
「どうしたのだ」しばらく待ってから、王はじれったそうにたずねた。
「大王よ」とその黒い男は片膝(ひざ)をついて言った。「やつはいま鼎の底で、最も奇妙不可思議なる団円舞をやっておるところでございます。もそっと近くへ寄らぬと見えませぬ。やつを上にあがらせる術はわたくしも存じませぬ。なぜならこの団円舞はどうしても鼎の底でしかやれないのでございますから」
王は立ち上がって、金の階(きざはし)を下りると、炎熱を冒して鼎のそばに立ち、中をのぞいてみた。と水は鏡のように平かで、その首は仰向けに水の中に横たわり、両眼はひたと王の顔を見入った。王の視線が首の顔を射たとき、首はにっこり笑った。この笑いで、王は何だか前に見たことのあるような顔だと思ったが、さてすぐにはだれだったか思い出せなかった。驚き疑っているとき、黒い男はすでに背負っていた青い剣を引き抜いて、ただの一振り、稲妻のようにさっと頸窩(ぼんのくぼ)から斬り下ろすと、ポトンと一声、王の首は鼎の中に落ちた。
仇同士が出合うと、特別目敏(ざと)いものだ。ましてこれは狭い道での行き合いなのだ。王の首が水面に届くか届かぬに、眉間尺の首は早くもこれを迎えて、がぶりと王の耳たぶに咬(か)みついた。鼎の水はたちまち湧きたぎり、澎湃(ほうはい)として音をたてた。二つの首はそのまま水中で死闘をつづけた。およそ二十合の後、王の首は五か所の傷を受け、眉間尺の首は七か所の傷を受けた。それに王はずるくて、いつも巧みに敵の背後に回った。そして眉間尺は、ちょっと油断をした隙に、とうとう王に頸窩を咬みつかれ、どうしても向き直ることができなくなった。こんどこそ王の首は食いついて放さず、じわじわと蚕食(さんしょく)していった。鼎の外にまで、子どもの痛い痛いといって叫ぶ声がきこえるように思われた。
上は王后より、下は太鼓持ちの家来に至るまで、驚きのあまり凝結していた表情も、その声に応じて動きはじめ、天日さえないような暗い悲哀を感じたらしく、肌に粒々の粟を生じた。しかしまた秘かな歓喜をもまじえて、目を見張っていた。何かを心待ちしているように。
黒い男もさすがにいささかあわてた様子であったが、顔色は変えなかった。彼は落ちつき払って、かの目に見えぬ青い剣を握っている腕を、枯枝のように差し伸べ、頸を伸ばして、じっと鼎の底を見入っているようであった。腕が突然、曲がったかと思うと、青い剣がさっと彼の後から斬りおろされ、剣が触れると首は鼎の中に落ち、ポトンと一声、真白い水煙が空中に向かって、同時に四方に散った。
彼の首は、水にはいるやいなや、直ちに王の首に向かって突進し、パクリと王の鼻に咬(か)みつき、ほとんど咬みちぎらんばかりだった。王はこらえかねて「あっ」と声をあげた拍子に、口をあけたので、眉間尺の首はその隙に振りきって脱れ、向き直るや、逆に王の顎の下をがっぷりと咬みついた。二人とも放さぬばかりか、全力をもって上下に引張ったので、王の首はもはや口を合わせることができなかった。そこで二人は餓(う)えた鶏が米粒をついばむように、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に咬みついたので、王の首は、目はゆがみ、鼻はひしゃげ、顔じゅう鱗(うろこ)のように傷だらけになった。初めのうちはそれでも鼎の中を方々めったやたらに転げ回ることもできたが、後には横になってうめくばかりで、はいる息はなくなった。
黒い男と眉間尺の首も、やがて少しずつ口を閉じて、王の首から離れ、鼎の内壁に沿ってぐるっと一回泳ぎ、王の首が死んだふりをしているのか、それともほんとうに死んだのか、確かめた。王の首が確かにもう息が切れたことを見てとると、四つの目を見合って、にっこりと微笑した。それからすぐ目を閉じ、仰向けに天に向かいながら、水の底へと沈んでいった。



煙が消え、火が消えて、鼎の水も波立たなくなった。特別な静けさが、本殿の上下の人々をかえって呼びさました。彼らの中の一人がまず最初に叫び声を上げると、人々もすぐ引続いて驚きの叫びを上げた。一人がずかずかと金の鼎に向かって歩いて行くと、外の者もみな先を争って、わっと押し寄せた。後の方にはじき出された者は、人の首と首との隙間から中を覗(のぞ)きこむほか仕方がなかった。
熱気はまだ人の顔を蒸(む)してほてらせた。しかし鼎の中の水は鏡のように平かで、上に油が浮いて、たくさんの人々……王后や、王妃や、武士や、老臣や、侏儒や、宦官や……の顔を映し出していた。
「ああ、天よ。われらの大王の首はまだこの中にあるんですよ、エーン、エーン、エーン」と第六の妃が突然発狂したように泣きだした。
上は王后より、下は太鼓持ちの家来に至るまで、はっと悟って、あわててばらばらと鼎から離れ、手足のおく所を知らずといった困りようで、てんでに四、五回ぐるぐる回った。こんどは最も智謀にたけた老臣がひとり前に進み出て、手を差し伸べて鼎のふちにさわってみた。しかし全身をぶるっとふるわせて、さっと引っ込め、二本の指を口のはたへ持っていって、いつまでもフーフー吹いた。
人々は気を落ちつけて、本殿の門の外で撈(すく)い上げる方法を相談した。およそ三鍋の粟(あわ)が煮えあがるほどの時間を費やして、ともかく一つの結論に達した。つまり、料理場から針金の網(あみ)杓子(しゃくし)をかり集めて来て、武士に命じ協力して撈い上げさせようということになった。
道具はまもなくそろった。針金の網杓子、底に孔のある柄杓(ひしゃく)、金の盤、雑巾(ぞうきん)などが、鼎のそばに置かれた。武士たちは袖(そで)をまくり上げて、あるものは針金の網杓子で、あるものは底に孔のある柄杓で、いっせいにうやうやしく撈い上げ作業を行なった。杓子と杓子と触れ合う音がし、杓子が金の鼎をかする音がした。水は杓子をかきまわすのにつれて、ぐるぐる回った。かなりたって、一人の武士の顔つきが厳粛になり、この上もなく用心しながら、両手でそろそろ杓子を持ち上げた。水の滴が杓子の孔から真珠のようにしたたり落ちると、杓子の中に真白い頭蓋骨が現われた。人々はあっと驚きの叫びをあげた。その武士はやがて頭蓋骨を金の盤の中にあけた。
「ああ、わが大王よ」と王后、妃、老臣以下宦官に至るまで、みな声を放って泣き出した。しかしまもなく相ついで泣きやめた。というのは武士がまたも同じような頭蓋骨を撈い上げたからである。
彼らが涙で曇った目であたりを見回すと、武士たちは顔じゅう油汗を垂らして、まだ撈っていた。その後に撈い上げられたのは、いっしょくたになって固まった白い髪毛と黒い髪毛だった。また非常に短い毛が何度か杓子にすくわれたが、それは白い鬚(ひげ)と黒い鬚(ひげ)らしかった。その後また頭蓋骨一つ。その後は三本の簪(かんざし)〔昔は男子も髪を結い、その上に冠をかぶっていたから、冠がおちないように、一尺以上もある長いかんざし(むしろヘヤピンといった方がよい)と真横に水平に冠の上からさしていた〕だった。
鼎の中がすまし汁だけになって作業ははじめて中止された。撈い上げられたものは三つの金の盤に分けて盛られた。一つの盤に頭蓋骨、一つの盤に鬚と髪、一つの盤に簪。「われらの大王の首は一つきりなはずよ。どれがわれらの大王のものでしょう」と第九の妃がいらいらしてたずねた。
「そうじゃて……」と老臣たちは互いに顔と顔を見合わせた。
「もしも肉や皮がぐたぐたに煮えてませんでしたら、容易に見分けがつくのでございますが」と一人の侏儒がひざまずいて言った。
人々はじっと気をおちつけて、その頭蓋骨を仔細に見るほかなかった。しかし色も大きさもみな似たり寄ったりで、その子どもの首さえ、見分けがつかなかった。王様の右の額に傷跡があったわ、それは太子の時分に転んで怪我をなすったもので、多分、骨にもそのあとかたがついているはずよ、と王后が言った。果たして、侏儒が一つの頭蓋骨の上にそれを発見した。しかしみんなが大いに喜んでいるときに、もう一人の侏儒が、少し黄色い頭蓋骨の右の額にも似たような傷跡を見つけた。
「いい方法があります」と第三の王妃が得意そうに言った。「われらの大王のお鼻はとても高かったわ」
宦官たちはさっそく、鼻骨の研究に着手した。一つは確かに比較的高いようだったが、結局いくらもちがわなかった。何よりも惜しいことには、右の額に転んでできた怪我(けが)のあとがなかった。
「それに」と老臣たちは宦官に向かって言った。「大王の後頭骨はこんなに尖っていたか」
「わたくしめらはこれまで大王の後頭骨を注意して見たことがございませんので……」
王妃たちもそれぞれ思い出をたどりはじめ、あるものは尖っていたと言い、あるものは平たかったと言った。理髪師の宦官を呼んできいてみたが、一言もいわなかった。
その夜、王公大臣会議が開かれ、どれが王の首であるかを決定しようとしたが、結果はやはり昼間と同様だった。その上、鬚や髪についても問題がでてきた。白いものはむろん王のものだ。しかしごま塩だったから、黒い分の処置もはなはだむずかしかった。夜中近くまで検討して、やっと何本かの赤いあごひげを選び出した。しかし、ついで第九の王妃が抗議して、自分は確かに王に真黄色いあごひげが何本かあったのを見たことがある。だから決して赤いのが一本もなかったとは断言できない、と言い出したため、せっかく選び出したのをまたもとのところに戻して、これは懸案ということにするほかなかった。
夜半すぎても、何の結論も出なかった。一同はそれでも依然としてあくびしながら討議を続け、二度目の鶏鳴になって、ようやく最も慎重にして妥当な方法を決定した。それは、頭蓋骨は三つとも王の胴体といっしょに金の棺に入れて埋葬するほかない、ということであった。
七日の後が埋葬の日で、王城内を挙げて大騒ぎだった。城内の人民も、遠方の人民も、みな国王の「御大葬」を拝観に駆けつけた。夜が明けると、道路にはもう老若男女がいっぱいひしめきあっていた。その合間合間にはたくさんの祭卓〔人民が王を祭って焼香礼拝ができるように、路傍に設けられたテーブル〕が設けられていた。正午ちかくなってやっと、道払いの騎士が静々と馬を歩ませながらやって来た。それからまただいぶたってから、はじめて儀杖(ぎじょう)が見えた。旗だの、棍棒だの、戈戟(ほこ)だの、弓弩(いしゆみ)、黄鉞(まさかり)だのといったものだ。その後が四台の楽隊車だった。またその後が黄蓋の車で、道のデコボコにつれて起伏しながら、しかもだんだん近づいて来た。そしていよいよ霊柩車が現われた。その上には金の棺をのせ、棺の中には三つの首と一つの胴体とが納められていた。
人民がみなひざまずくと、祭卓は一列一列になって人垣の中から出てきた。何人かの忠義の念にあつい義民は、涙にむせびながら、あの二人の大逆無道の逆賊の霊魂も、いま王といっしょに祭礼を受けることになりはしないだろうか、と言って憤慨したけれども、どうにも仕様がなかった。
その後は王后とたくさんの王妃たちの車だった。人民は彼女たちを見た。彼女たちも人民を見た。しかし泣いていた。その後は大臣、宦官、侏儒といった連中で、いずれも悲しげな顔つきを装っていた。だが人民はもう彼らを見ようとはしなかった。行列さえ押しまくられて滅茶苦茶になり、てんで見られたざまではなかった。
(一九二六年十月)
解説

魯迅の人と文学

中国近代文学の父と仰がれている魯迅(ルーシュン)(彼自身はLu Sinと綴っていた)は、本名周樹人(チョウシューレン)、字(あざな)は豫才(ユイツァイ)という。魯迅というのは彼の百に近い筆名の中で最も有名な一つにすぎない。
魯迅は一八八一年に生まれ、一九三六年に五十六歳で死んだ。
一八八一年といえば、わが国では明治十四年、新国家の体制ようやくととのい、輝かしい未来への希望に胸をふくらませながら驀進(ばくしん)をつづけていた時代である。ところが中国では、アヘン戦争、太平天国の乱などによる痛手はなお癒(い)えず、さらに大事件は次々に起こっていた。それまで「東洋の眠れる獅子(しし)」として西欧人に恐れられていた老大帝国も、すでにその正体を暴露して、列強の侵略の触手は中国の内地深く伸びてきていた。のみならず国内政治はいよいよ泥沼におち入って収拾がつかず、断末魔の病状に近かった。
一部の目ざめた人々はむろん革命を唱え、革新を叫んだ。しかしそれらの人々をも含めて、暗黒の雲が彼らの頭の上に重くのしかかっていた。一点の明るさも見出しがたい、絶望に満ちた時代であった。
清朝が滅びたとき魯迅は三十歳。
辛亥(しんがい)革命が成功して民国の時代になったが、そうした暗雲が一掃されたわけではなかった。軍閥同士の内戦は際限もなくつづいていたし、政治も経済も文化も相変わらずの混迷状態で、封建社会の古い殻を脱ぎすてることは一朝一夕でできるわけがなかった。魯迅が死んだのは日中両国が全面的戦争に突入する直前であった。結局、魯迅の一生は暗黒の時代に終始したといってよい。魯迅が生涯夢みたであろう光明の時代は、彼の死後十三年目の一九四九年に至ってはじめて実現したのである。
魯迅の暗さをしばしば人はいうが、それは間違いである。暗黒こそは魯迅の終生の敵であった。ドン・キホーテといわれながらも、彼は敢然としてこれと戦い、一歩も譲らなかった不撓(ふとう)不屈の勇士であった。あれだけ暗黒の中にいて、光明の未来を信じつづけた人も珍しいといわねばならぬ。
魯迅の文学は「論争の文学」であったといわれる。随筆や社会批評がそうであったばかりでなく、小説や自叙伝や学術論文でさえも、しばしば論争の形を採っている。全力を傾けて時代の暗黒と格闘した跡なのである。

〔生いたち〕
魯迅の生まれた家は、浙江省紹興府(せっこうしょうしょうこうふ)城内の東昌坊口、「覆盆橋(ふくぼんきょう)の周家」と呼ばれる相当大きな邸であった。彼が生まれたとき、祖父は高級官僚として北京におり、父は秀才で、読書三昧の生活を送っていた。母は魯姓で、紹興郊外の農漁村の、やはり読書人の家柄に生まれ、彼女自身、自修によって本を読む学力をそなえていた。七十すぎた老後も好んで新聞を読み政治を語ったという。
魯迅は長男で、四つ下の弟に周作人(チョウツオレン)、さらに四つ下に周建人(チョウケンジン)があり、三人とも後に有名な人物になった。周作人は長く北京大学教授として令名があり、北京文壇の大御所的存在として、魯迅と南北に名声を分かった時代もあった。日本文学に造詣が深く、武者小路実篤その他の人々と親交があったことは人の知るところである。周建人は生物学を専攻した科学者であったが、現に北京政府の中央委員として健在である。
周家はもともとかなりの水田も持ち、生活も豊かで、魯迅は楽しい少年時代を送った。しかし十二歳のとき一家は突然不幸に襲われた。その年の二月に曽祖父が死んだので、三月祖父が北京から帰って来た。普通の読書人の家庭では小説を子供に読ませることを禁じていた。ところがこの祖父は小説は読書作文の助けになるといってむしろ奨励した。そのようなよい面もあったが、いかにも紹興人らしく頑固一徹、大へんな皮肉屋で、一家の人々を恐れさせもし悩ませもした人であった。しかもその秋、科挙の試験の不正事件に関係したというかどで杭州の獄につながれた。それにつづいて、父がえたいの知れぬ大病にかかり、およそ三年ばかり苦んだ末、三十七の若さで死んだ。乳のみ児を抱えた母を助けて、生活苦の矢面に立ち、毎日質屋と薬屋の間を往復したという魯迅少年の苦衷はおよそ察せられる。この時までに家の財産はすっかりなくなっていた。一時弟といっしょに母の親戚の家にあずけられたこともあり、ある人に乞食といわれたという。若い魯迅はすでに世人の心の裏の裏まで見た。
紹興の没落した読書人の家庭の子弟が常にたどる二つの道があった。それは幕友(県知事以上の官吏の私的政治顧問)になるか、商人になるかであった。しかし魯迅はそのどれをもえらびたくなかった。学問がしたかった。郷里に居たたまれなかった。
十七歳になった魯迅は、母の工面してくれた八円の金を持って郷里をとびだし、南京へ行った。そして水師学堂という海軍士官養成の学校の機関科にはいった。学費のいらぬ学校であったからである。半年ほどで陸師学堂(陸軍士官養成の学校)附設の礦務鉄路学堂(鉄道砿山の学校)に転校し、採礦科に籍をおいた。厳復の訳したハツクスレーの進化論の本を読んで非常な衝撃を受け、決定的な影響を与えられたのはその頃のことである。三年たって卒業したものの、就職のあてもなかったので、日本留学生試験を受けてパスし、東京に来たのが二十一歳の春。ただちに嘉納治五郎を校長とする中国人向けの予備校、弘文書院にはいり、日本語を学ぶこと二年、その間に彼は医学を勉強しようと決意していた。その原因は、父の病気を治し得なかった中国古来の漢方医および漢方薬に対する反感もあったし、また新しい医学が日本の維新にはなはだ大きな推進力となったことを知ったからでもあった。

〔医学から文学へ〕
かくて彼は二十三歳の秋、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学し、そこで二年間勉強した。当時はあたかも日露戦争のさなかであったが、彼はたまたま幻灯でひとりの中国人がロシア軍の探偵となって銃殺される場面を見た。ここで彼はさとった。どんなに体格がよくても、頭が愚鈍では仕方がない。せいぜい銃殺されるか、自国人が銃殺されるのを見物するかしかない。中国にとって最も必要なのは医学よりも精神の改造だ。そして、精神改造の最も有力な武器は文学以外にはない。かくて魯迅は医学の勉強をやめて、東京に舞いもどった。(その間のことは「藤野先生」の項参照)
母の要請によって帰国し、母の親戚筋の朱氏と結婚させられた。しかし彼はその数日後、弟作人を伴ってふたたび日本に渡った。その間の事情はよくわからぬが、この妻とはまったくの形式的な結婚で、母の手もとにあずけたまま、とうとう一度も同棲しなかった。そしてその後二十年、四十六歳の秋まで、ずっと独身生活をつづけたのである。
東京でさらに三年近く暮らし、弟作人と協力して文学の研究に従事した。ドイツ語を学習するかたわら、広く近代文学をあさり、とくに東欧スラヴ系の弱小民族の文学(たとえばハンガリーのペテーフィの詩など)を愛好し、またニイチェに心酔した。日本文学では夏目漱石一人を愛読し、花袋の「蒲団」などの自然主義文学には一顧もはらわなかった。彼はまず何人かの友人と語らって文学雑誌の刊行を企て、誌名も「新生」ときまったが、みごと流産におわった。次に海外文学の紹介を計画し、兄弟で苦労して翻訳したものを「域外(いきがい)小説集」と題して第一冊千部、第二冊五百部刷ったが、第一冊は二十一部、第二冊は二十部売れたきりであった。当時の留学生間の空気は実用偏重で、文学などにふり向く人も少なかったのだ。
彼はそこでドイツに行こうと思ったが、これも失敗した。折から郷里の母たちが生活に困っていて(弟作人も日本女性と結婚していた)、魯迅に経済的な援助をつよく希望したため、ついに中国に帰った。魯迅はもう二十八歳になっていた。
彼は帰国すると、ただちに浙江省杭州の師範学校に就職し、化学と生理学を教えた。二年目に郷里の紹興中学の教務長となり、余暇には植物学などを研究していたが、三年目にはまたそこを出て、行くところがなく、ある書店の編訳員になろうと思ったが、結局ことわられた。
おりから辛亥革命がおこり、やがて紹興も解放されて、彼は紹興師範学校の校長になった。しかし山賊あがりの都督から校費を引き出すのは容易のわざではなかった。
あたかもよし、その翌年、革命政府が南京に成立し、その教育総長(文部大臣)となった同郷の先輩蔡元培(ツァイユアンペイ)から招かれてそこの部員になった。そして政府が北京に移転すると共に、魯迅も北京に行き、教育部社会教育司第一科科長となり、僉事(参事の下で公文書を検閲する役)を兼任した。
しかし当時の北京は袁世凱(ユアンシーカイ)軍閥の統治下にあった。文化人は彼らの厳しい監視を受けて、常に生命の危険にさらされていた。魯迅はそのころ、仏典を研究したり、古書を校合したり、古い碑文を集めてこつこつ写したりして、世間の事を見ざる聞かざる言わざる主義で通した。ことさらに馬鹿づくりして韜晦(とうかい)したのである。
一九一七年、張勲(チャンシユン)将軍の復辟(ふくへき)運動なるものがおこり、清朝の皇帝の復位を企てた。乱はほどなく鎮定されたが、魯迅はこれに憤慨して、その間、一時辞職した。陳独秀(チェントーシウ)、胡適(フーシー)らが雑誌「新青年」に拠って文学革命ののろしを上げたのはこの年のことである。
文学革命は近代における新文化運動の先声であり発端である。とくに白話文(口語文)を提唱して、この従来「召使の言葉」としてさげすまれていたものを、古文(文語文)に代わって文学の首座においた功績は没すべくもない。ただ文学革命も当初においては、名こそ仰々しく、かかげたスローガンも勇ましくはあったが、実質はこれに伴わなかった。
魯迅自身もほとんど無関心であったらしい。彼が東京時代の友人銭玄同(チェンシュアントン)の求めに応じて、はじめて小説「狂人日記」を書き、魯迅という筆名で「新青年」に寄せたのはその翌一九一八年四月(発表は五月)のことである。これこそは魯迅の処女作であると共に、中国近代文学の処女作ともいえるものであった。

〔多彩な文筆活動〕
以後彼は、堰(せき)を切ったように、間断なく文筆活動をつづけることとなり、小説に随筆に詩に翻訳にぞくぞく作品を発表して、文名とみにあがった。そのかたわら北京大学、師範大学、女子高等師範(その後女子師範大学に昇格)の国文科講師となつて中国小説史を講じ、その講義案は後に「中国小説史略」という名著となって出版された。
一九二一年末から翌年初めにかけて「阿Q正伝」を「晨報(しんぽう)」副刊に連載した。彼としては唯一の中編小説である。これは魯迅の代表作であるばかりでなく、中国近代文学の代表作であって、今では世界的な古典となった。いち早く英・仏・独などの翻訳が出て、ロマン・ロランはこれを読んで哀れな阿Qのために涙を流したと伝えられている。
亡命先の日本を追われたロシアの盲詩人でエスペランティストのエロシェンコを上海から北京に招いて同居したのはこのころのことである。当時魯迅もエスペラント運動に熱心であった。
一九二四年、弟作人らと「語絲(ごし)社」をおこし、文芸週刊誌「語絲」を創刊、翌二五年には自ら文芸雑誌「莽原(ほうげん)」を編集発行しまた「未名社(みめいしゃ)」を組織して、若い外国文学研究者の指導に努力した。この年の八月、北京女子師範大学に校長排斥運動がおこり、教育総長章士※(チャンシーチャオ)が不法にも同校を解散した(※は、かね扁に、りっとうの旁)。講師の一人であった魯迅はこれに抗議して最も果敢に冷嘲熱罵の論陣をくりひろげたため、教育部僉事(せんじ)の職を免ぜられた。
二六年、一月に僉事の職に復したものの、つづいて三月、満州の軍閥張作霖(チャンツオリン)が北京に入城して、文化人や学生を弾圧し、ついに有名な「三・一八」の流血の惨事をおこすに至った。魯迅は身の危険を感じて、山本医院、徳国(ドイツ)医院、法国(フランス)医院などに逃げまわった。そして八月ついに北京を脱出して、上海を経て厦門(アモイ)に行き、厦門大学の教授になった。しかし三か月足らずで辞職、二七年一月、学生の希望を容れて広州の中山大学の文学系主任教授に転じた。だが結局、この革命策源地でも反動派の勢力が強くて、結局魯迅を安住させず、任にあることわずか半年、彼はとうとう広東を脱出して、同年八月上海に行った。そして、もと北京女子高等師範学校講師時代の教え子、許広平(シュイコアンピン)(号は景宋(チンスン))と同棲して、その後死ぬまで十年間、上海の租界に定住して、もつぱら文筆によって生活するのである。
魯迅の作家としての声望はすでに大きかったし、許広平との間に一子海嬰(ハイイン)も生まれて、生活は一応安定したかに見えた。しかし、魯迅の戦いは一刻も停止しなかった。彼が上海に来ると、若い革命文学者の群から包囲攻撃をかけられた。当時の上海文壇は革命文学、プロレタリア文学の全盛期にあった。魯迅は自分より十も二十も年下の自称マルクス主義的文学青年たちを相手に情容赦もない戦いを展開した。彼らをやっつけるために、ソ連の芸術論や小説をいくつも翻訳した。そうすることによって自己を再教育し、自分を真のマルクス主義者に作り直すのに役立てようとしたのである。やがて反動の波が高まると、彼を攻撃した自称革命文学者の群はあるいは転向しあるいは没落して、逆に魯迅が反動防衛、自由擁護の中心人物に押し上げられた。三〇年の「自由大同盟」および「左翼作家連盟」も、三三年の「民権保障同盟」も、みな魯迅の参加によってはじめて千鈞(せんきん)の重みを加えたのだった。彼が生命を賭してこれに当たったことは、民権保障同盟の副会長楊杏仏(ヤンシンフオ)が暗殺されたとき、その葬儀に、死を覚悟して参列した一事からも察せられる。
従って蒋介石(チャンチエシー)政府の魯迅の執筆活動に対する圧迫はひどかった。魯迅の名前で書かれたものはほとんど発表が不可能だった。そこで無数のペンネームを使って、しかもいわゆる「奴隷の言葉」で書かなければならなかった。出版を禁止されると、匿名で自費出版した。
魯迅は北京を脱出して以後、ほとんど小説に手を染めなかった。彼にいわせると、「手で書くよりも足で逃げるのに急がしかった」からである。自叙伝「朝花夕拾」と歴史小説集「故事新編」の二冊のほかに創作はいくらもない。その代わりに尨大な数の随筆評論(魯迅の用語では「雑感文」という)と社会時局短評がある。それらはみな前述の自称マルクス主義的革命文学者や、国家主義者、芸術至上主義者、セクト主義者等々と激しく渡り合った論争の記録である。魯迅の文体はしばしば一本の匕首(あいくち)に比せられ、「寸鉄よく人を殺し、一刀血を見る」と評されている。よけいなことは一言も言わぬ。単刀直入、敵の心臓部をえぐり取ってサッと引き上げる。その水際だった手法はまったく目を見張るばかりである。しかも表面いかにも冷酷無残に見えながら、一皮むけばその下にふつふつと煮えたぎる熱血がある。中国民族への終生かわらぬ愛情が潜んでいるのだ。魯迅の評論が創作以上に創作的であるといわれる所以である。
晩年の魯迅は中国のゴーリキーと称せられ、青年作家から師父と慕われ、多数の有望な作家が彼の傘下に集まった。彼はいろいろな雑誌を作って恵まれぬ作家や外国文学研究者に発表の機会を与え、彼らの原稿の出版校閲から校正までも見てやるなど、親身も及ばぬ世話をした。

〔言語文字改革と木版画運動〕
彼は文学のほかに、なお特に力を注いだ仕事が二つあった。それは言語文字改革と木版画運動である。
魯迅は長い間の思索と瞿秋白(チュイチウパイ)らとの討論の結果、言語は「大衆語」(言文一致)に、文字は「拉丁(ラデン)化」(漢字のローマ字化)にという結論に達し、積極的にこの運動に参加した。郭沫若(クオモーロー)のごときは、魯迅のラテン化運動に尽した功績を「阿Q正伝」の創作と併称しているほどである。
魯迅が木版画というこの人民的な美術に寄せた熱意はすさまじかった。彼は諸外国や中国古来の版画を収集紹介し、若い版画作家の養成に努力した。すぐれた版画家が続々出て今日の隆盛を見たのは、一に魯迅の指導奨励の賜物であるといってよい。
晩年は病気がちだったが、読書と執筆活動は一日も休まなかった。精励そのものだった。
一九三六年十月十九日の朝、魯迅は死んだ。あたかも文芸工作者の抗日統一戦線の組織問題をめぐって文壇は真二つに割れ、激しい論争が巻き起こっていたさなかであった。文化人、学生はもとより、一般市民や労働者などまで一万人からの人々がその葬式に参列し、中国最初の民衆葬といわれた。「民族魂」と大書した白布が霊柩にかけられていた。しかも彼の死がきっかけとなって抗日戦線は期せずして統一され、魯迅に続け、「魯迅精神」を学べという叫びが合言葉となって全民族をふるい立たせた。彼が今日なお中国民族の精神的支柱となっていることは、人の知るところである。
作品解説と鑑賞

狂人日記(一九一八)
魯迅は紹興師範学校校長時代に「懐旧」と題する文語体の小説を書いているが、それは文字通りの試作である。「狂人日記」こそ彼の処女作であり、また中国近代文学の処女作でもあった。「魯迅」という筆名をはじめて使ったのもこの作からである。この作品が発表された時の興奮をある青年は後に告白している。「私は街にとびだして行って、そこを通るだれかれに向かって叫びたかった。おうい、みんな知ってるか、中国に新しい文学がおこったぞ! と」
これは被害妄想狂の手記という形式に託して、中国の古い社会、古い家庭の封建遺制をはげしく攻撃し呪咀(じゅそ)した作品である。礼教、つまり儒教的イデオロギーを「人食い」の道徳と断じ、そういう自分も知らぬ間に人を食ったのではないか、そしてまたいつ人に食われるかも知れないと恐れ、まだ人を食わない子供にしか救いはないといって、「子供を救え」の一語で結んでいる。魯迅自身後にこう書いている。
「当時はこれを『表現の深刻さと形式の特異さ』として認めたところから、一部の青年読者の心に相当の衝撃を与えた。しかしこの衝撃は、それまでヨーロッパの大陸文学の紹介を怠っていたためであった。一八三四年ごろ、ロシアのゴーゴリはすでに『狂人日記』を書いている。一八八三年ころには、ニーチェも、つとにツァラトゥストラの口を借りて『汝らは蛆虫(うじむし)より人間への路を経来たった。しかも汝らの中の多くはなお蛆虫である。かつて汝らは猿であった。しかも人間は今なお依然として、いかなる猿よりも猿である』といっている。……だが後から出た『狂人日記』は、家族制度と礼教の弊害を暴露することを意図して、ゴーゴリの憂憤よりは深く広くなったけれども、ニーチェの超人の渺茫(びょうぼう)たるには及ばなかった」

孔乙巳(一九一九)
『狂人日記』につづいてその翌年発表された第二作。小品ながら魯迅の作品の中でも屈指の名作とされている。
郷里の生家の近所にいた実在の人物をモデルにして、居酒屋の小僧である「私」の眼を通して描写している。官吏登用試験に連年落第をつづけて、そのまま年をとり、ついに盗みまで働くようになった哀れな「読書人」、気位ばかり高く、しかも子供にまで馬鹿にされる孔乙巳の運命を、周囲の沈滞した空気の中に浮き彫りにして見せた魯迅の手腕はみごとである。この哀愁を帯びたユーモアはたしかにゴーゴリ的で、『外套』のアカーキー・アカキエヴィッチの面影を髣髴(ほうふつ)させるところがある。

小さな出来事(一九二〇)
これはある意味で小説といえぬかも知れない。ある冬の朝の出来事をそのまま淡々と記述したものにすぎないからである。しかし魯迅の最も魯迅的な一面を正面に打ち出している点で珍重すべき作品である。
魯迅の車に当たって倒れた老婆は、たしかにいわゆる「あたり屋」であったろう。ところが車夫は魯迅の言葉に耳もかさず、老婆を介抱して駐在所に連れて行く。その見すぼらしい後姿が一歩ごとに大きくなるのに圧倒されて、魯迅は自分の毛皮の上衣の下に隠されている「小ささ」を搾(しぼ)り出されるような気がしたというのである。そしてこの幾年来の国家的大事件はきれいさっぱり忘れてしまったにもかかわらず、この小さな出来事が、三年後の今日も忘れられず、それを思いだすたびに「勇気と希望」を与えられるような気がするというのである。ここに魯迅思想の基盤がある。

故郷(一九二一)
これまた渾然(こんぜん)とした作品で、魯迅の名作の一つというにふさわしい。
郷里の家族を引きとるために久しぶりに帰郷した「私」が、そこで幼な友達に会う。今は老いて、生活に打ちひしがれた小作農閨土(ルントウ)である。「私」はなつかしい思い出に胸をおどらせるのだが、閨土に「旦那様」と呼びかけられて、冷水を浴せられたような幻滅を感ずる。しかし閏土の子供と「私」の甥との間に、昔の閏土と「私」との間にあったような友好関係が出来ていたのを知って、次代の人々にかすかな希望を寄せるのである。「希望というものは、本来あるともいえないし、ないともいえない。それは、ちょうど地上の道のようなものだ。もともと地上には道はない。あるく人が多くなれば、それが道になるのだ」という最後の一句は、魯迅の名言として知られている。

阿Q正伝(一九二一)
いうまでもなく魯迅の代表作であり、世界文学の中にすでに高い地位を占めている。外国語訳は二十種に近いだろう。日本語訳者として私は多分八人目か九人目ではないかと思う。
この中編小説は、はじめ「北京晨報」という新聞の「副刊」(日曜付録のようなもの)に毎週一回づつ、九回にわたって連載された。署名は「巴人」。これは「下里巴人」の略で、田舎(いなか)の野卑な歌という意味である。「副刊」の編集者は孫伏園(スンフーユアン)という同郷の後輩で、伏園のにこにこ顔で責めるのにことわりきれなくなって書きだした。魯迅は途中で書き苦しみ、早く阿Qを死なせてしまいたかったが、伏園がどうしても許してくれない。そこで伏園の旅行中をねらって、「大団円」を書いて強引にケリをつけたという。最初は「副刊」の「開心話」という欄に載った。「おだをあげる」というほどの意味である。だから魯迅は「開心話」にふさわしいように、第一章はわざとふざけた書き方をして、胡適一派の「歴史癖と考証癖」をからかった。しかし書き進めるうちに、「だんだんまじめになった」と自らいっている。阿Qが一種の生きものになって動きはじめたからである。周作人によれば、阿Qもやはり郷里の生家の近所にいた実在の人物をモデルにしたもので、魯迅の腹の中に長い間暖められていたのだ。
阿Qは孔乙巳とちがって、麦刈りや米つきなどの賃仕事をしてどうやら生活しているルンペン農民だが、愚かなくせに気位の高いことは孔乙巳と同じである。地主の趙旦那や銭旦那さえも彼の眼中にない。喧嘩(けんか)をして人になぐられても、「せがれに負けたようなものだ、世の中はさかさまだ」と考えることによって、自分が相手より一段上の人間であるかのように感じ、実際には負けたくせに、勝った気分になっている。あるいは、自分で自分の頬をなぐると、なぐったのは自分で、なぐられたのは別の自分のような気がし、やがて、他人をなぐったのと同じ気持ちになる。それでも気分が晴れないときには、「忘れる」という祖先伝来の秘法をつかう。忘れてしまえば、人になぐられた事実はなかったことになるからだ。このような「精神的勝利法」によって、彼はいつも勝利者だった。
ところが、若い尼さんの頬をつねって、「後継ぎなしの阿Qめ!」と罵(ののし)られてから、急に女の魅力にとりつかれ、地主の家の女中にいたずらをしかけて、さんざんになぐられた上に、罰金をとられる。そのあげく、村にいられなくなって、どこかへ行ってしまう。
一夏すぎると、町からたくさんの珍しい衣類などを仕入れて、得意になって帰って来たので、地主の奥さんたちからまでちやほやされる。しかし、その品物がみな盗品だとわかると、とたんに、阿Qは元のように馬鹿にされる。
そこへ革命党がやってくるというデマがひろがり、村の人々があわてふためく中で、阿Qは、町で見て来た革命党の話をし、「革命だ革命だ」と騒ぎまわって、ふたたび村の人気者になる。しかし、ずるがしこい地主たちは、いつの間にか自分たちは革命党だと名乗っていて、阿Qが頼みに行っても仲間に入れてくれない。
そのうちに、地主の家が賊におそわれ、阿Qはその賊の仲間だと疑われて捕えられ、わけがわからぬままに書類に名前を書かされる。字の書けない阿Qは、名前のかわりに、いっしょうけんめいにマルを書き、翌日町を引きまわされたすえに、銃殺の刑を受けて死ぬ。
作者は阿Qという人物を造型することによって、中国民族の病弊……奴隷根性を忌憚(きたん)なくえぐり出した。この小説が発表された当時、人々はみな自分のことを中傷しているのではないかと疑って、があがあ騒ぎ立てたといわれている。事実は、阿Qのような人間は農村のみでなしに、当時の社会のどこにもいたのである。時代が正に「阿Q時代」であったのである。「阿Q時代」「阿Q相」といった言葉が以後盛んに使われるようになった。周作人は「ここには、一点の光も空気もなく、至るところ愚と悪のみであり、それが笑うべきまで極端だ。悲憤と絶望をユーモアに託したのである」として。「手法はゴーゴリ、シェンキヴィッチ、夏目漱石の影響が著しい」といっている。

宮芝居(一九二ニ)
子供時代に母家の農漁村に遊びに行き、子供ばかりで船に乗って村芝居を見に行った時の楽しい思い出を綴ったもの。牧歌的抒情詩的で、魯迅にはめずらしく一点の暗さもない。

藤野先生(一九二六)
自叙伝「朝花夕拾」の第九章。魯迅が医学に志して仙台医学専門学校に入学したこと、また医学を断念して文学に転じた機縁をそこで持った顛末(てんまつ)は、前にも述べたからここにくりかえさぬが、彼が暗い環境の中で藤野先生に出会ったことは、我々日本人にとっても救いであった。たとえ思想的には別世界の人であったとしても、その誠実さには打たれぬわけにゆかなかったのである。魯迅はこの一文が日本文に訳されて、それがきっかけとなり藤野先生の消息を知ることができるかも知れぬと期待していたらしいが、とうとうその事なくして死んだ。その後、藤野先生は福井県に健在であったことがわかり、藤野先生から魯迅と同期生であった小林茂雄氏に宛てられた手紙の一部が、改造社の「大魯迅全集」の月報にのった。
「私は少年の頃、酒井藩校を出て来た野坂という先生に漢文を教えて貰(もら)いましたので、支那の聖賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大事にしなければならぬという気持がありました。周さん(魯迅のこと)が泥棒であろうと、はた又君子であろうと、そんな事には頓著なく、後にも先にも異邦人の留学生は周さん唯独りでした。それで下宿の周旋、邦語の話し方まで、およばずながら便宜を計ってあげた事は事実です。君に忠、親に孝と申す事は皇国本来の特産品であるか知らねども、隣邦儒教の刺戟感化を受けし事、不尠様(すくなからざるよう)に思われますので、道徳的先進国として敬意を表したまでで、何も周さんだけ可愛がったというわけではありません。」
なお藤野厳九郎先生は昭和二十年八月十一日死去、亨年七十二歳。

鋳剣(一九二六)
原題は「眉間尺」、『故事新編』の第五編。魏の文帝(曹丕(そうひ))の『列異伝』、後漢の趙曄が作と伝えられる『楚国鋳剣記』および晋の干宝(かんぽう)の『捜神記』、あるいは『法苑珠林(ほうおんしゅりん)』などに見える干将莫邪(かんしょうばくや)の名剣にまつわる復讐伝説を材料にとって魯迅流に再構成した作品。この話はわが国でもつとに『今昔物語』に紹介され、『大平記』巻十三や『曽我物語』巻四、『宝物集』巻五などにも引用されている。
眉間の広さが一尺もあるので「眉間尺」と呼ばれている少年が、楚王を父の仇とつけねらう。「宴之敖者(えんしごうしゃ)」と名乗る黒い男が少年のために復讐を受け負い、少年の首と宝剣を持って王に近づく、鼎の熱湯の中で少年の首と王の首が格闘して勝負がつかぬのを見ると、黒い男は自ら自分の首をはねて鼎の中に落ち、少年の首を助けて王の首を噛(か)み切り、三者ともに滅びる。
この小説の主人公は、眉間尺でなくて黒い男であろう。彼は眉間尺に同情して仇を討ってやったのではない。義侠とか同情は、彼にいわせればけがらわしい言葉である。復讐のための復讐、そのためにこそ彼は無償の自己犠牲を払うのである。魯迅の主題はその一点にあったと思われる。壮絶無比な小説というべきである。
あとがき

魯迅の小説は、わが国では早くから紹介され、ことに佐藤春夫のような人の翻訳も出たりして、割合よく読まれてきた。魯迅が死ぬとすぐに、中国で「魯迅全集」が出るよりも先に、改造社から「大魯迅全集」七巻が翻訳出版されたほどである。
しかし魯迅がわが国の若い人たちの間で真剣に読まれだしたのは戦後のことである。私たちは敗戦国民になってはじめて魯迅の苦渋にみちた文章が、いくらかでも理解できるようになったといえよう。
ところで魯迅の文章は決してやさしくはない。同時代の中国作家の文章とくらべてみても、魯迅のそれは最も難解な部類に属する。いかにも含みの多い、屈折に富んだ文体である。
それは魯迅の高い古典の教養からも来ているが、初期の作品についていえば、まだ口語体運動がはじまったばかりの時期であったし、また特に後期の作品は、今日では想像もできないような官憲の言論圧迫下で、厳しい監視の眼をくぐって書かれたものだけに、わかる人にしかわからぬように、わざとわかりにくく、いわゆる「奴隷の言葉」で書かれている。時代が変わった今日では、魯迅が縦横に駆使している諷刺や逆説の真意を理解するのは容易のわざではない。本国人にとってさえ注釈を要するくらいであるから、まして異国人の私達にとってむずかしいのは当然である。
それで私はかねてから魯迅作品のできるだけくわしい注釈を書きたいと念願していた。この訳書でそれを果たそうと思ったが、力及ばずこの程度のものしかできなかった。しかしこの程度の注釈でもまったくないよりはましではなかろうか。
解説にも書いたが、念のためもう一度くり返しておきたい。魯迅にとって小説家は最初期の姿の一面にすぎない。むろん彼は小説家として偉大であったが、彼の本領は小説よりも評論にある。彼の評論は創作以上に創作的であった。魯迅は小説家である以上に、社会批判者として、人生の教育者として更に更に偉大であった。読者諸氏が魯迅文学の入口でとまらずに、更に一歩踏みこんで評論を読まれることを私は切に希望したい。
一九七〇年二月 訳者

〔訳者紹介〕
松枝茂夫(まつえだしげお)中国文学者。一九〇五年(明治三八年)佐賀県生まれ。東大文学部卒。早大教授。東京都立大学名誉教授。著書「中国の小説」、訳書、曹雪芹「紅楼夢」、沈復「浮生六記」、「魯迅選集」「周作人随筆集」、沈従文「辺城」等。
◆阿Q正伝◆
魯迅/松枝茂夫 訳

二〇〇三年十二月十日 Ver1