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クレギオン ベクフットの虜
[#地から2字上げ]野尻抱介
[#地から2字上げ]口絵・本文イラスト 弘  司
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)「俺と結婚《けっこん》してくれ!」
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海賊|稼業《かぎょう》
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目 次
  第一章 お仕事はとっても安全
  第二章 海の花園《はなぞの》
  第三章 ライトセール
  第四章 扉《とびら》を開けて
  第五章 神々の世界
  あとがき
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   第一章 お仕事はとっても安全
ACT・1
あんなところで働くなんて……。
メイ・カートミルは地表で働く、命知らずたちのことを思わずにいられなかった。
ガス惑星《わくせい》のむこうから第一衛星が姿をあらわしたとき、それは煮《に》えたぎる溶岩《ようがん》のしずくのように見えた。シャトルが接近するにつれて、その眺《なが》めは凄味《すごみ》を増してくる。
火山の衛星、アルマンディン。
メイは船外カメラを操作して、衛星の昼側の縁《ふち》を照準した。噴煙《ふんえん》のひとつをとらえ、クローズアップする。
それは噴煙《ふんえん》というより噴水だった。真空の空にぽっかりとうかぶ黄色いマッシュルーム。透明感《とうめいかん》はない。
画面のスケールゲージによれば、噴煙の頂きは高度三百キロに達していた。
アルマンディンにはそんな火山がいたるところにあった。たえまなく降り注ぐ噴出物で、地表は黄と真紅《しんく》に彩《いろど》られている。まるで溶岩の海のようだが、色彩《しきさい》は硫黄《いおう》によるものだ。ほとんどの場所で、表面温度はドライアイスよりも低いはずだった。
それでも、見た目は地獄《じごく》そのものだった。
あそこに着陸するのでなくてよかった。
メイはひそかに胸をなでおろしたが、すぐに自分を戒《いまし》めて、航法計器をチェックした。
おや?
「さっきはどんぴしゃだったのに……」
メイは航法コンソールのスクリーンを見つめながら、小さく首を傾《かし》げた。ヘアスプレーをかけたポニーテールの金髪《きんぱつ》が、ゼロGの機内でふわりと揺《ゆ》れる。
さきほどの減速噴射で、シャトルはぴったり衛星の周回|軌道《きどう》に乗ったはずなのだが――計器はそれが目標値からそれはじめていることを示していた。
メイは無意識に窓の外を見た。そこは星系でも指折りの危険地帯で、かつての地球の船乗りなら、まよわず「吼《ほ》える四十度線」にたとえたにちがいなかった。
窓の外はふたつの天体が支配している。見かけ上、下方にひろがるのは衛星アルマンディンのサイケデリックな地表。それと向き合う形で天を圧しているのは、際限なく嵐《あらし》の吹《ふ》き荒《あ》れるガス惑星《わくせい》、オールドマンの弧《こ》だった。
ふたつの天体はわずか十八万キロしか離《はな》れていない。あと少し低い軌道にあったら、アルマンディンはガス惑星の巨大《きょだい》な潮汐力《ちょうせきりょく》で粉々に砕《くだ》けていただろう。いいかえれば、母惑星の重力場で生き延びた最初の物体――それが第一衛星の地位を得ることになる。
だが、この危険な重力場については充分《じゅうぶん》な情報がある。いったいなにが間違《まちが》っていたのだろう。
「あ、そうか」
メイは合点して、航法チャートに磁気情報を重ねてみた。
画面はたちまち赤く染まった。オールドマンの強烈《きょうれつ》な磁場が第一衛星と干渉《かんしょう》して、空間に濃厚《のうこう》な磁束帯を作っていたのだ。
シャトルは放射線から身をまもるために電磁シールドを展開している。それが磁場と干渉したとしたら――。
「わかった?」
前方の機長席から、マージ・ニコルズが聞いた。メイがいつ気づくか、見計らっていたらしい。メイは顔を赤らめた。
「ええ。……その、誤差のことなら」
きれいな円軌道《えんきどう》に乗っていないことは、操縦席の電波高度計を見ているだけでもわかる。
「すみません、いま軌道修正します」
「いいさ。ここは許容誤差に甘《あま》えとけ」
マージの隣《となり》で、ロイド・ミリガンが言った。
初老の男は、いつもどおりシートをめいっぱいリクライニングさせてふんぞりかえっている。ロイドに社長らしいところがあるとすれば、これしかない。メイの席からは、左の耳と無精髭《ぶしょうひげ》の生えた頬《ほお》の一部だけが見えた。
「嵐《あらし》のどまんなかできれいに飛ばそうなんて思わないことだ。修正するだけ燃料の無駄《むだ》になる」
「でも」
「ここはロイドに一票かな。こだわることないわ」
「……はい」
十六|歳《さい》の見習い航法士は、いささかプライドを傷つけられながら、そう答えた。
磁束帯のことを見越《みこ》して飛行計画をたてていれば、もっとエレガントな軌道|遷移《せんい》ができたのに。
このごろでは、メイが作った飛行プログラムを、マージはほとんどチェックしようとしない。背後からうかがっていると、マージはそれを手元のスクリーンに表示するが、一瞥《いちべつ》するだけで実行キーを押《お》す。それはメイにとって、無形の勲章《くんしょう》だった。しかし、いまのようなミスをくり返せば、たちまち剥奪《はくだつ》されるだろう。
メイは気合いを入れなおして、航法コンソールに向かった。これから何が起きるか、何に注意すべきか、もう一度頭の中でおさらいする。
メイは告げた。
「コンテナ投射まで二分です」
「了解《りょうかい》」マージは短く答えた。
地殻《ちかく》変動の激しいアルマンディンは、鉱物資源の宝庫でもあった。地表には命知らずの男女が働く採鉱|施設《しせつ》があり、さまざまな金属を日夜、インゴットに加工している。
コンテナに収納されたインゴットは、全長四キロのリニアカタパルトを使って宇宙空間に射出される。その初速は秒速二千八百メートル。これを回収して、首都の惑星《わくせい》まで運ぶのが今回の仕事だった。
この仕事が決まったとき、マージはしぶい顔をした。自分の船を硫黄《いおう》で黄色く汚《よご》すのが嫌《いや》だったのだ。
文字どおりの汚れ仕事だった。噴煙《ふんえん》の粒子《りゅうし》は大半が地上に舞《ま》い戻《もど》るが、一部は宇宙空間に漂《ただよ》い出る。リニアカタパルトのおかげで直接地上と行き来することはないにせよ、その粒子をまったく浴びないわけにはいかない。
しかし、ミリガン運送の経済状態は彼女もよくわかっていたから、強くは反対しなかった。一|隻《せき》の貨物船とたった三人で切り盛りする零細企業《れいさいきぎょう》に、選べる仕事は限られている。
『ミリガン運送アルフェッカ・シャトル、こちらベスビオ採掘《さいくつ》基地。コンテナ448号の射出を定刻に開始する』
「アルフェッカ・シャトル了解」マージはペイロード操作パネルに手を伸《の》ばした。
「ペイロードベイ・ドア開放」
背後でモーターの駆動音《くどうおん》がして、胴体《どうたい》の大部分を占める大きな扉《とびら》が開いた。
メイは席を離《はな》れ、キャビンの後部観測窓からそれを確認《かくにん》した。
「ペイロードベイ、クリア」
「了解《りょうかい》」
メイは急いでコクピットに戻る。
ほどなく、レーダーにコンテナ448号の光点が現れた。
その軌跡《きせき》を見たとたん、メイははっとした。
遅《おそ》い。こんな速度では、コンテナはすぐ地上に逆戻りしてしまう。
「あの――」
言いかけた途端《とたん》、通報が入った。
『アルフェッカ・シャトル、コンテナ448号の射出に失敗した。またカタパルトのやつがつむじを曲げたらしい』
マージが舌打ちする。
「了〜解、ベスビオ基地。それでは――」
「あきらめるな」ロイドが鋭《するど》く言った。
メイは驚《おどろ》いて、ロイドを見た。
マージもロイドをにらんだ。しかし、ベスビオ基地にはこう告げた。
「――回収手段を検討する」
『アルフェッカ、回収は危険だ。コンテナは十五分でカリムスキ火山の噴煙《ふんえん》に突入《とつにゅう》する』
「やるだけやってみるわ」
『噴煙に突《つ》っ込んだらただじゃすまないぞ』
「知ってるさ」
ロイドが通話に割り込んだ。
「だが君らが体張ってかき集めたレアメタルだ。まかせろ、ひろってやる。こっちも空荷で帰っちゃ大損だからな」
通話を終えるとマージは手動で減速噴射を始めた。
「メイ、コンテナの弾道《だんどう》をフォローするわ。メインに予想弾道と地形情報を表示」
「はい」
それからメイは光学望遠鏡でコンテナの捕捉《ほそく》にかかった。レーダーの位置情報をもとに望遠鏡を照準する。
最初は低倍率で――見えた!
両端《りょうはし》に平らなタブのついたコンテナが、まだらの地表をバックに、ゆっくり回転している。ズームアップ。自動|追尾《ついび》。ロックオン。
「望遠映像入りました。コンテナは回転しています」
「サブに表示」
「はい」
「外に出なきゃいかんな」
映像を見たロイドが言った。
「あれでも二十トンある。まず回転をとめなきゃいかん」
コンテナには姿勢|制御《せいぎょ》装置がないが、リニアカタパルトはそれをダーツのようにきれいに打ち出してくれるはずだった。それなら、ランデヴーして機械の腕《うで》で収容できる。
だが、コンテナは風車のように回転していた。シャトル側も同期して回転すれば見かけ上の動きを相殺《そうさい》できるが、それには時間がかかりすぎる。
「じゃあ、外に出て――どうしますか?」
「コンテナの端にとりつく。機動ユニットを噴射《ふんしゃ》して回転を止めるんだ」
ロイドは立ち上がった。
「メイも来てくれ」
「メイも?」マージが聞いた。
「無理はさせない。だが二人で両側からやらないと間に合わん。できるな?」
「はい」
「気をつけるのよ、メイ」
「わかってます」
ロイドとメイはコクピットからキャビンに移動した。
デリカシーを要求する暇《ひま》などなかった。二人は同時に作業服を脱《ぬ》ぎ、宇宙服に着替《きが》えた。バックパックを背負い、ヘルメットをかぶる。
通信機を通して、ヘルメット内にロイドの声がひびいた。
「内圧チェック」
「九八〇」
「空気残量」
「フル」
「電力」
「フル」
「機動ユニット」
「オールグリーン」
「よし」
ロイドがエアロックの内扉《うちとびら》を開けた。二人はいっしょに狭《せま》いエアロックに入った。内扉の閉鎖《へいさ》を確認《かくにん》して、エアを抜《ぬ》く。メイは宇宙服ごしに、男の筋張った腕《うで》を感じた。自分の父親より、まだ年上の男だった。
その無精髭《ぶしょうひげ》を見上げていると、ロイドは言った。
「こういう時の合言葉は」
「あわてず急げ」
「よし」
『減速終了。背面飛行に入る』
マージが伝えてくる。床《ゆか》を下方とするなら、衛星の地表は上に見えるはずだ。出る前に心構えしておかないと、上下感覚が混乱する。
エアロックの気圧計がゼロをさした。
ロイドが外扉を開いた。
外へ出ると、頭上一面に真紅《しんく》の地表が見えた。
天井《てんじょう》すれすれを飛ぶ蝿《はえ》になった気分だが――メイはいそいで上下感覚を修正した。自分たちはいま、逆立ちしているのだ。
コンテナはすぐそばに浮かんで、ゆっくりと回転していた。距離感《きょりかん》はとぼしいが、貨車ほどの大きさだから、百メートルほど下方だろうか。
『現在、高度五百三十キロ。もう放物線のピークをすぎたわ』
「わかった」
ロイドは身をのりだして外のハンドルをつかんだ。それから、エアロックのメイを見た。
「準備いいか」
「はい」
「行くぞ」
ロイドは床を蹴《け》って宙に漂《ただよ》い出し、それから手首のコントローラーを操作して機動ユニットを噴射《ふんしゃ》した。
すぐあとに、メイも続く。
二人はコンテナの回転面上に来たところでいったん停止した。
「わしから行く」
ロイドは短い噴射で前進し、コンテナの一端《いったん》にとりついた。
コンテナが一回転し、もう半回転待ったところで、メイも前進した。
コンテナ末端のタブをつかむ。メイの細い体は容赦《ようしゃ》なく引きずられ、遠心力で下半身が外側に振《ふ》り出された。身をまるめて引き寄せ、靴《くつ》をコンテナに吸着させる。
「とりつきました」
「よし、噴射はじめろ」
二人はコンテナの両端《りょうはし》で、背中を回転方向にむけて機動ユニットを噴射した。
出力全開。四肢にずしりと重みを感じる。メイは膝《ひざ》をついて、その荷重に耐《た》えた。
一分……二分……
「そろそろだ。出力を半分に落とせ」
「はい」
「もうすぐだ……まだだぞ……停止!」
噴射を切る。
眼下で回転していた衛星の地表が、一方向に流れはじめた。
シャトルのほうを振りかえる。
カモメのような翼《つばさ》をもつ白い機体は、ガス惑星《わくせい》を背景に、ピンでとめたように静止していた。
『お見事。これから接近する』
シャトルの前後でバーニア噴射《ふんしゃ》が閃《ひらめ》いた。
直後、メイは異常に気づいた。まっすぐ接近してくるはずのシャトルが、その場でローリングを始めたのだ。
『姿勢|制御系《せいぎょけい》に異常――バックアップに切り替《か》え――これもだめ』
マージはすぐに、そう伝えてきた。
ロイドは黙《だま》って、次の言葉を待っている。
『二人とも、コンテナはあきらめて戻《もど》ってちょうだい。もうじき噴煙に突入《とつにゅう》するわ」
「だめなのか」
『生きてるノズルと、メインエンジンのベクター制御でやれそうだけど、時間がかかりすぎるわ』
「よし、メイはシャトルに戻れ」
「ロイドさんは」
「このコンテナは丈夫《じょうぶ》だからな。前をむけたままなら噴煙を通過できると思うんだ」
「え……?」
意味がわかるのに、少しかかった。
ロイドはコンテナの姿勢を保ちながら、ともに噴煙につっこむ気でいるのだ。
メイが口を開く前に、マージが言った。
『ロイド。そこまでする価値はないわ』
「わしもそう思う」ロイドは言った。「だが下の連中に見栄を切っちまったからな」
マイクごしに、マージのため息が聞こえた。
『プロは危険をおかさないものよ』
「危険を見極《みきわ》めるのもプロの仕事さ」
ロイドはそう言った。
「見かけほど危なくはない。噴煙《ふんえん》さえ抜《ぬ》ければ、地上に落ちるまで二十分はあるだろう。それだけあれば、なんとかなる」
「でもロイドさん、秒速二キロで噴煙に突《つ》っ込むなんて!」
「裏側にいりゃ平気さ。ボートの船尾《せんび》にしがみつく格好だ」
「それじゃ――それじゃ――」
メイはやや感情的になって言った。
「それじゃ、私もいます! コンテナが暴れはじめるかもしれません。一人より二人のほうがいいです!」
『メイ、あなたは戻《もど》りなさい』
「マージさんはシャトルのこと考えててください。こっちは二人でやります!」
『ロイド、メイをこっちへ蹴飛《けと》ばして』
「自分の責任でやるって言ってるんです!」
『あのね、メイ――』
「よしわかった」
ロイドが割って入る。
「緊急時《きんきゅうじ》の議論は命取りだ。メイも手伝わせる。マージはシャトルを待避《たいひ》させろ」
マージの返答には、一瞬《いっしゅん》の間があった。
『――了解《りょうかい》』
シャトルは自転したままメインエンジンに点火して、弧《こ》を描《えが》きながら上空に去った。
ロイドがこちら側に移ってきた。
「噴煙《ふんえん》の位置をつかんでおけ。あれにぴったり正対させるんだ」
「はい」
メイはコンテナの後縁《こうえん》から身を乗り出して、進行方向を見た。
噴煙はいまや、巨大《きょだい》な黄褐色《おうかっしょく》のドームとなって前方に立ちはだかっていた。
その中へ、銃弾《じゅうだん》を上回る速度で飛び込むのだ。もしコンテナが回転して、噴煙をまともに受けたら、無事ではすまない。
「顔をひっこめろ。ヘルメットがまっ黄になるぞ」
「はい」
「ロープをコンテナのハンドルに通しておけ。放《ほう》り出されたらアウトだ」
「はい」
「だが、放り出されたほうがましな場合もある。ナイフは持ってるな」
「持ってます」
メイは腰のシースをあらためた。ケプラー繊維《せんい》も扱《あつか》える、船員用のナイフだった。
やがて、コンテナをつかんだ手から、かすかな振動《しんどう》が伝わってきた。
メイは身を硬《かた》くした。いよいよだ。
『シャトルのほうはなんとかなるわ。むこう岸で会いましょう』
マージが伝えてきた。
「こっちも静かなもんだ」
風切り音はまったく聞こえない。だが、コンテナの振動は確実に増大していた。
「姿勢、これでいいでしょうか」
「これでいい。下手にいじらんほうがいい」
そして、突入《とつにゅう》は最高潮をむかえた。
二人がしがみついたコンテナは、巨大な噴煙《ふんえん》に真空のトンネルを穿《うが》ってゆく。
コンテナの前面に黄色い半球形のドームが生まれた。
このドーム――衝撃波面《しょうげきはめん》の内側は無風状態だが、外側は高密度のガスと粉塵《ふんじん》が流れている。生死を分かつ境界まで、ほんの数メートルしかない。
地表はまだ見えた。高度は、たぶん二百キロくらい。
地平線が、少し傾《かたむ》いたような気がした。すぐにロイドが命じた。
「下へ押《お》す。ハーフパワー」
「はい」
ロイドの合図で、メイは短時間の噴射をした。
さっきに比べると、コンテナの挙動に粘《ねば》りを感じる。流体中の弾道《だんどう》。このまま速度を失って、噴煙を出ずに墜落《ついらく》しないだろうか。
大丈夫《だいじょうぶ》なはずだ。噴煙は見かけよりずっと希薄《きはく》なのだ。
「もう一度下だ。フルパワー」
「はい」
こんどの噴射は長かった。少し長すぎた。
「止めろ。上へ戻《もど》す」
「はい――あっ!」
コントローラーのために片手を留守にしたまま、メイは急いで噴射した。
そのとき、体を保持していた手が滑《すペ》った。
機動ユニットに押されて、メイの体は宙に舞った。
落ち着け、命綱《いのちづな》がある。とっさに言い聞かせたが、ロープはゆるんだままだった。
いつの間にか、結び目がほどけていた。メイは動転した。
「つかまれ!」
ロイドが叫《さけ》んだが、体が回転していて、つかむものが見つからなかった。
メイはコンテナの陰《かげ》から漂《ただよ》い出た。視野は黄色一色になった。
「膝を見ろ! つかめ!」
ロイドがまた叫んだ。メイは膝のあたりを見た。ロイドの投げたロープが触《ふ》れていた。
メイがつかむと、ロープはすぐに引かれた。
体が反転した。
その瞬間《しゅんかん》、外側にまわった左足を、見えない鞭《むち》が打った。
激痛は一瞬だった。メイはすぐ引き戻された。
「足を見せろ。衝撃波面《しょうげきはめん》に触れたようだが」
左の靴《くつ》から膝にかけて、黄色いものがびっしり付着していた。靴の片面がぼろぼろになっている。
「気密は」
「えと、ええと、正常です」
メイは懸命《けんめい》に呼吸を整えながら答えた。
宇宙服の生地《きじ》も傷《いた》んでいたが、微細《びさい》な孔《あな》は内面の保護|樹脂《じゅし》が硬化《こうか》してふさいでくれたらしい。
「痛みはあるか」
「ちょっとちくっとしましたけど、大丈夫《だいじょうぶ》です」メイはひかえめに表現した。
「まだやれるか」
「できます」
声がよろめいた。メイは繰り返した。
「大丈夫、できます」
「よし」
どのみち、いまからやめるわけにはいかない。
二人はふたたび、四肢《しし》をふんばるようにしてコンテナを立て直した。
五分ほどで、コンテナは噴煙《ふんえん》のドームを貫通《かんつう》した。
メイは汗《あせ》びっしょりだった。宇宙服の温度設定を操作する。
『後方より接近中。下にもぐりこむわ』
マージの声がした。ふりかえると、ペイロードベイを開いたシャトルが接近中だった。
「バーニアの具合はどうだ?」
『ありあわせのノズルで二軸制御《にじくせいぎょ》してる。真下まで持ってくから、あとはそっちでお願い』
「まかせろ」
高度は三十キロを切っている。見かけの地表の動きが、歴然と速くなってきた。
下方にシャトルがすべりこんできて、相対的に停止した。
「メイはここにいろ」
ロイドはコンテナの前縁《ぜんえん》にまわりこんで、噴射の指図をした。
シャトルが自由に動けないので、コンテナを動かすしかない。
二人はタイミングをはかりながら、コンテナを押《お》した。
目の端《はし》で、地表がどんどんせりあがってくる。
「あわてるな。時間はある」
「はい」
最後の三十センチで、二人は両側から同時にコンテナを押し下げた。コンテナのタブがシャトルのプラットホームにきっちりと噛み合った。
二人は急いで船に戻《もど》った。
高度二千メートル。
エアロックの外扉が閉じたのを知ると、マージはただちにエンジンを全開にした。
メイはロイドに支えられながら、四肢をふんばり、ヘルメットを小窓にあてた。まだらの地表が、ぶれて後方に飛び去ってゆく。カーブした地平線が見え、まもなく視野から外れた。ロイドは厳しい顔で、メイの宇宙服の脚《あし》を見ていた。
加速が終わるまで、二人はエアロックの中で固まっていた。
二分後、周回|軌道《きどう》に戻ったところで、キャビンに入る。
二人は背中合わせになって宇宙服を脱《ぬ》いだ。
「脚を見せてみろ」
メイは床《ゆか》を蹴《け》り、天井《てんじょう》の手すりをつかんだ。脚がロイドの鼻先に来る。ロイドはメイのボディ・スーツの生地《きじ》をたくしあげて、足首から膝《ひざ》まで調べた。
「よさそうだな。しかし念のためだ。港に戻ったら医者に見てもらえ」
「すみません」
「だがよくやった。コンテナのやつ、思ったより暴れたからな。一人じゃ危なかった」
ロイドはメイを床に引きおろすと、そう言って肩《かた》を叩《たた》いた。
それからコクピットに入った。
「採掘《さいくつ》基地に連絡《れんちく》したか」
「あなたにとっといたわ」
ロイドはよしよし、という顔でヘッドセットをはめた。
「ベスビオ採掘基地。こちらミリガン運送アルフェッカ・シャトル。コンテナを収容した」
『やってくれたな! レーダーで見てたんだ。こんな離《はな》れ業《わざ》は見たことがない。通信社に一報しとくよ』
「報告書にも書いとけよ――」
ロイドは会心の笑《え》みをうかべて言った。
「ミリガン運送はやると言ったら必ずやるのさ」
マージが肩をすくめる。
その一言に命を賭けるか、男は……。
メイが入ってくると、マージは鼻をひくつかせて言った。
「ご苦労様、メイ。船長より見習い航法士|兼《けん》荷役スペシャリストに、シャワーの最優先使用権を与《あた》えるわ」
「あ、臭《にお》いますか。汗《あせ》」
「硫黄《いおう》よ。全身ぷんぷん」
「あ……」
あのとき、宇宙服の内部にも侵入《しんにゅう》していたのだろう。興奮して気づかなかったが、嗅覚《きゅうかく》がすっかり馴化《じゅんか》していたらしい。
メイはいまになって、動悸《どうき》をおぼえた。
自分にまかせろ、と言い張れる内容ではなかった。
一瞬《いつしゅん》の気のゆるみがあった。それが致命傷《ちめいしょう》になるだけの、危険な作業だった。
宇宙服は持ちこたえてくれたが、もう少しで片足を失うところだったのだ。
ACT・2
パーキング軌道《きどう》に待機していた恒星船《こうせいせん》にシャトルをドッキングさせると、船は内|惑星《わくせい》帯に向けて発進した。
夕食のあと、ロイドとマージはブリッジに戻《もど》り、船を自動|巡航《じゅんこう》モードに入れるための短い作業をした。そのあいだにメイは食堂を片付け、明日の食事の下ごしらえをする。これが日課だった。
忙《いそが》しい一日だった。一Gの人工重力下で、メイの体は鉛《なまり》のように重かった。しかし、こうして日常に戻れたのはうれしい。
シチューの材料を調理器に入れ、煮込《にこ》みにかかる。メイはその間に手紙を書くことにした。自分のスレートを持ってきて、ダイニングテーブルの上で開く。
「えーと……」
ひな型の文書ファイルを開き、本文にとりかかったところで、メイの手は止まった。
[#ここから1字下げ]
前略。父さん、母さん。お元気ですか。メイはいま、コニストン星系で、とても明朗かつ元気に働いています。
ロイドさんもマージさんもすごく優《やさ》しくしてくれるし、お仕事も安全かつ健全なものばかり。早く一人前の船乗りになって、成長したメイの姿をお目にかけたいと思います。 {本文}
[#地付き]心をこめて メイ
[#ここで字下げ終わり]
「うーんんん……」
メイはしばらく呻吟《しんぎん》していた。
かすかに香水《こうすい》が匂《にお》ったかと思うと、耳元で声がした。
「また嘘《うそ》の手紙?」
メイはびくりとして振り返った。いつのまにか、背後にマージが立っていた。
マージは冷蔵庫からオレンジピールの瓶《びん》をとりだし、ついでに調理器のふたを取って、メイが下ごしらえしているシチューをのぞいた。船はもう自動航行に入っていて、いまは寝酒《ねざけ》を一杯《いっぱい》やる頃合《ころあ》いだった。
「嘘じゃないです。嘘つかないように、考えてるんです。――あっ、まだだめ!」
マージは無造作にシチューに指をつっこみ、その指をしゃぶって、うんうまい、とうなずいた。
「嘘とおんなじよ。こないだは巨大結晶生物《きょだいけっしょうせいぶつ》に踏《ふ》みつぶされかけたし、今日は今日で火山|噴火《ふんか》の中を横切った。だのにあんたったら毎度毎度『お仕事はとっても安全です』なんて手紙書いてるんだから」
「でも、嘘じゃないんです。軌道《きどう》港でおいしそうな牛肉とオニオンを仕入れたので、シチューを作ることにしたって書こうと……」
「そんな身近な話題にふれながら、一生の思い出になりそうな事件に言及《げんきゅう》しない不自然に悩《なや》んでいたと」
「…………」
マージは吸着式のダイニング・チェアに腰《こし》を下ろした。
「そろそろさ、一人前ですって主張してもいいんじゃない?」
十二歳年上のマージは、そう言った。
「でも……」
「こんなあぶない目にもあったけど知恵《ちえ》と勇気で乗り切った、って報告したほうが、お互《たが》いすっきりすると思うけどな」
「でも、やっぱり心配するんじゃ」
「ばれてると思うのよね。とっくに」
「…………」
「こんなちっぽけな運送会社でほうぼう渡《わた》り歩くんだから、危険がないと考えるほうがおかしいわよ。そもそもうちがあんたの一家と出会ったのだって、ロイドがあの機雷原《きらいげん》を通って商売しようとしたのがきっかけでしょ? まっとうな大人なら、その後は安全かつ健全な仕事ばかりやるとは考えないと思うけどな」
「そうかもしれないですけど」
メイは少し考えていった。
「父さんは話せる感じなんですけど、母さんがちょっと……」
「ナーバスなんだっけ?」
「ていうか、こう、信じこむタイプなんです。私が安全だって手紙に書けば、それをひたすら信じようとする」
「逆に疑いだすときりがない?」
メイはこっくりとうなずいた。
「だから、そっとしときたいんです」
「ふーん。逆らうにしてもやりにくい相手ね」
「なんです」
「じゃあま、せいぜい頑張《がんば》って」
マージは立ち上がり、さっさと食堂を出ていった。
「明日は入港だから、夜更《よふ》かししちゃだめよ」声だけが、廊下《ろうか》から届いた。
ひとりになると、メイはふたたびスレートに向かいあった。
焦点《しょうてん》は画面に結ばなかった。
そのかわり、最後に見た母の顔が浮かんだ。
メイが家出をくわだてた日のこと。あの痛ましい、慈愛《じあい》にみちたまなざし。
母はすべてを悟《さと》っていたのだ。
自分はそれに気づかないふりをして、背中を向け、アルフェッカ号にもぐりこんだ。
メイは首を振《ふ》った。
――やっぱりだめだ。
これ以上、母さんを心配させるなんて、絶対できない。
そしてもし、母さんに家に戻《もど》れと言われたら、絶対逆らえない。
ACT・3
翌日、アルフェッカ号は第四|惑星《わくせい》を周回するハイトップス軌道《きどう》港に入った。
ふたたび恒星船《こうせいせん》からシャトルを分離《ぶんり》して、積荷をコンテナデッキにおろす。その足でアルフェッカ・シャトルは整備ドックに向かった。タグボートを頼《たの》むと秒刻みで法外な料金を請求《せいきゅう》されるので、マージは故障のことを隠したまま、見事な操縦技術で入港したのだった。
ドックに空気が満ち、エアロックを出ると、ここにも硫黄《いおう》の臭《にお》いがした。
ラッタルを降り、シャトルを振り返る。
マージは船殻《せんこく》を指でこすり、その臭いをかいだ。
「もーたくさんだわ。強烈《きょうれつ》な磁場にイオンに硫黄の粉塵《ふんじん》――あのフラックスチューブを出入りしてたら、どんなに整備してもたちまちオシャカになる」
この一週間の稼《かせ》ぎが、修理で帳消しになることは明らかだった。
「言っとくが、あのコンテナを拾わなかったら修理費も作れなかったぞ」
ロイドの言葉を、マージは手を振ってさえぎった。
あの状況《じょうきょう》でコンテナを回収してのけたのは、彼女としても悪い気分ではない。
問題は収支だった。
「稼ぎを修理屋にみつぐ毎日にどんな意味がある?」
「ふむ……」
奥《おく》のエアロックが開き、整備士たちがこちらに歩いてくる。
「よしわかった。修理には明日までかかるだろう。それまでに別の仕事を探してこよう」
「百個よ」
マージが言った。
「一立方メートルにダスト粒子《りゅうし》百個までなら許す。それ以上|汚《よご》れた空を飛ぶのはごめんよ」
「了解《りょうかい》した」
「あの、できれば、健全かつ安全な仕事をお願いしますね」
メイが言い添《そ》えた。見習いの立場で言えることではなかったのだが。
「もちろんだ。まかせろ」
ロイドはくるりと背を向け、整備士たちに二言三言告げると、ドックを出ていった。
仕事を探すのは、たいていロイドの仕事だった。
港内ネットワークや斡旋所《あっせんじょ》を巡回《じゅんかい》するのはもちろんだが、ロイドが得意とするのは業者たちがたむろする酒場に入り、そこで交《か》わされる儲《もう》け話に首を突《つ》っ込むことだった。船乗りたちの気を引くために、変装めいたことまでする。
そうやってみつけた仕事が安全かつ健全かどうかは、大いに疑問だった。だがロイドは、よほど差し迫《せま》った状況でない限り、そうしようとする。
要領がいいのか悪いのか。好んで回り道をしたがる男だった。
「……ロイドさん、今度はどんな仕事を取ってくるんでしょうね」
「気になる?」
「いえ、まあ」
「サイトロプス行きなら、少しは期待していいと思うわよ。隣《とな》りだしね」
「そんなこと!」
「たくましく成長した姿を、親に見せたいところじゃない? そろそろ」
「たくましくなんかなってません」
「自分じゃわかんないものよ」
「自分でわかります!」
メイは思わず、強い口調になった。
「ぜんぜん危なっかしいんです。いま親に会ったら、家に帰れって言われるに決まってます!」
「そうかなあ?」
「そうです。そうなんです」
マージは肩《かた》をすくめ、話はそれで途切《とぎ》れた。
彼女は他人の悩《なや》みに立ち入らない。会社の経営さえ維持《いじ》されるなら、昨日をふりかえることも、明日を夢見ることもしない――少なくとも、そう見えた。
「お腹すいてきたな。ねえ?」
「……ええ。なにか買ってきましょうか」
「そうしてくれる?」
メイは整備ドックを出た。
軌道《きどう》港は、それ自体がひとつの生活|圏《けん》、宇宙コロニーだった。少し歩けば商店街がある。
最初にみつけた食堂でサンドイッチと飲み物を包んでもらう。
「しめて七十三ポンドだよ」
「うわ……予算オーバーなんです。七十にまかりませんか?」
「やれやれ。包んじまったもんはしょうがないね」
「ありがとうございます」
メイは包みをかかえてドックに引きかえした。
そのとき、ふと公衆|端末《たんまつ》に目を止めた。
誰《だれ》も使っていない端末は、コマーシャルまじりのニュースを流していた。たった今、目の端《はし》でとらえた映像に、メイは言い知れぬ胸騒《むなさわ》ぎを覚えたのだった。
端末に向かい、[後退]キーを押《お》す。流れていたニュースが、すこし巻き戻《もど》された。
メイは息をのんだ。
アナウンスを聞くまでもなく、それがどこかわかった。
故郷の家から一キロも離《はな》れていない場所だ。
『続いてサイトロプス星系・惑星《わくせい》ヴェイスから。市民公会堂の改修工事が終了《しゅうりょう》しました。内装にはアルテミナから取り寄せた海泡石《かいほうせき》が使われ、いちだんと豪華《ごうか》になりました。リニューアル後の初公演はベイカリー・ポップス・オーケストラによるもので――』
超《ちょう》光速通信|網《もう》。
辺境世界では、ひとつの星系の総人口がかつての地球での市や州に相当する。視聴者《しちょうしゃ》にに飢《う》えたマスコミは、隣接《りんせつ》した星系まで恒星《こうせい》間ネットワークを張るのだった。
こことヴェイスはもうリンクができている。何か騒ぎを起こせば、ローカルニュースで筒抜《つつぬ》けなのだ。
調べるべきはこちら側のニュースだ……。
本日分をスキャンし、さらに昨日の放送も呼び出してみる。
インデックス――地域別ソート――オールドマン
画面に現れたものを見て、メイは硬直《こうちょく》した。
『火山の衛星、アルマンディンからはこんなニュースが届いています。リニアカタパルトの射出に失敗し、あわや地表に墜落《ついらく》しようとしていた貨物コンテナを見事空中でキャッチ、体ひとつで噴煙《ふんえん》を貫通《かんつう》して回収を成功に導いたのは、ミリガン運送の十六歳の航法士、メイ・カートミルさんでした』
アナウンスとともに画面に現れたのは、メイの航法|免許証《めんきょしょう》に登録されている顔写真。
「ちがう! ちがう! ちがーう!」
メイは手足をばたつかせ、端末《たんまつ》にむかって叫《さけ》んだ。
ちがうというよりも、していたことと名前が出たことが問題なのだが――。
ああ、神様。
どうか両親があのニュースを見ていませんように……。
ACT・4
「どうかね? 悪くない味だと思うが」
ジェフ・カートミルはそう言って、助手にグラスを差し出した。
助手は部内でも評判の美人だった。グラスの液体をひとくち含《ふく》むと、まるで美酒を味わったかのように、頬《ほお》をそめた。
「こんなおいしい水は初めてですわ」
にっこりと微笑《ほほえ》んで言う。
「さすが、水の魔術師《まじゅつし》といわれるだけのことはありますね、部長」
「魔術師はやめてほしいな。三十年の地道な研究の成果だよ」
ジェフは苦笑《くしょう》して言った。
「でもイオン交換《こうかん》の一次処理だけでこんな味が出るなんて」
「正確には一次じゃない。透過《とうか》させたいミネラル分に、選択《せんたく》的な前処理をしてあるからね」
そう言ってジェフは、小魚の水槽《すいそう》を見やった。
その水槽にも同じ水が通してある。今も昔も、浄水場《じょうすいじょう》には魚の水槽が欠かせない。
上水道に供給する水の一部は、あらゆる化学検査をへたうえで、最後は魚に味見してもらうのだ。魚は静かに鰓《えら》を上下させていた。
「しかし、味にうるさい君がそう言ってくれるなら、安心して休暇《きゅうか》がとれそうだよ」
「休暇のご予定は?」
「ちょっと外を見てこようと思ってね」
「ご旅行ですか。お一人で?」
「いや。家内とね」
「……そうですか」
助手はかすかに肩《かた》を落した。
「家内は出不精《でぶしょう》でね。いまだに宇宙船は恐《こわ》いなんて言う」
「まあ。娘《むすめ》さんは船乗りなのに」
「そのせいで娘の心配ばかりしてる。だから無理矢理連れていくんだよ」
「どちらへ行かれるんですか?」
助手はもう、あまり面白《おもしろ》くなさそうな口調だった。
「そうだな……。フラードルとか、水のどっさりあるところがいいね」
浄水|施設《しせつ》の開発部長は言った。
「地下五百メートルの岩から絞《しぼ》りとらなくてもいい、海のある星を見てみたいものだよ」
ジェフは報告書を仕上げると、残業を切り上げて家路についた。
車をガレージに入れて玄関《げんかん》に向かう途中《とちゅう》、庭先をのぞくと、ポーチに妻がいた。
細い体をデッキチェアにおろして、テーブルに置いたスレートに目を落としている。
ジェフは立ち止まって、しばらく見ていた。
この惑星《わくせい》ヴェイスに星間交易が再開してからも、妻は肥満に悩《なや》んだことがない。すべてにおいて節制につとめてきた都市ドームの美徳を、いまも守っている。
「手紙かい、ベス」
「あら、気づかなくて」
「いいんだ」
立ち上がろうとする妻を別して、ジェフは庭からポーチに上がった。
「元気そうかい、メイは」
「そのようですけどね……」
ベスはそう言って、スレートの画面を夫のほうに向けた。
ジェフはまず、発信元のノード名を読んだ。
「コニストン。隣《となり》まで来てるのか」
それから、一人|娘《むすめ》の書いた本文を読んだ。
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前略。父さん、母さん。お元気ですか。メイはいま、コニストン星系で、とても明朗かつ元気に働いています。
ロイドさんもマージさんもすごく優《やさ》しくしてくれるし、お仕事も安全かつ健全なものばかり。早く一人前の船乗りになって、成長したメイの姿をお目にかけたいと思います。
昨日は港で、とてもいい牛肉を仕入れました。さいきんは軌道《きどう》都市でも放牧をやるんです。半分をローストにして夕食に出したら、ロイドさんもマージさんもすごくよろこんでくれました。明日の夕食はシチューです。いまから煮込《にこ》みにかかっています。
昨日は外惑星帯で積荷をうけとって、これからハイトップス軌道港に運びます。仕事はまったく順調かつ安全でしたが、シャトルの予備の装置にちいさな不具合があったので、いちにちドックにいれて整備する予定です。
もうひとっとびしたら、ヴェイスに寄れるんですけど。でも、そううまくはいきません。船はいつも、積荷にひっぱられるようにして、行き先を決めるんです。
[#地付き]心をこめて メイ
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「あいかわらず、変な文章だな」
ジェフは苦笑《くしょう》しながら言った。
「十六なら、もうすこしうまく書けそうなもんだが」
「仕方ないですよ。普通《ふつう》の子が詩の暗記をしてるあいだ、ずっと特航科にいたんだから」
「そうだな」
「でも――」
ベスはふと顔を曇《くも》らせた。
「外|惑星《わくせい》帯って危ないんじゃないかしら。ガス惑星のそばに、地獄《じごく》みたいな鉱山の星があるって聞いたわ」
「そんな汚《よご》れ仕事はしないさ」
ジェフは手紙に付随《ふずい》したノード名から、それがまさにガス惑星・オールドマンの軌道中継局《きどうちゅうけいきょく》から差し出されたことに気づいていたが、妻には黙《だま》っていた。
「でも、汚れ仕事しかありつけないんじゃないかしら。あんな小さな会社だし……」
「心配のしすぎだよ」
ジェフはあまり確信のないまま、そう答えた。
「ロイドは目端《めはし》のきく男だ。安全で割のいい仕事を見つけるさ」
「でも、ここに来たんですよ? 機雷原《きらいげん》を通って」
「あのときは、使命感にかられたようだった」
「いまはちがうのかしら。ねえ」
ベスは返事をまたずに続けた。
「正義のためとか、ロマンチックなことを言ってメイを巻き込んでるんじゃないかしら。男って、いくつになっても子供みたいなものよ?」
ジェフは妻の表情に危険な兆候をみとめて、なだめにかかった。
「だとしても、マージがいるだろう。ちょっとがさつなところはあるが、金銭感覚はしっかりしている。君に負けないくらいね」
「そうかしら」
「金銭といえば、わが大蔵《おおくら》大臣にいい知らせがあるんだ」
「なに?」
「賞与《しょうよ》と休暇《きゅうか》だよ。通商回復のおかげでずいぶん景気のいい話がでてるんだ。使いみちを相談しようと思ってね」
「そう……」
あたりが暗くなってきたので、夫妻は居間に移った。
ジェフは上着を脱《ぬ》いでハンガーにかけると、ソファに身を沈《しす》めた。
ベスはティーセットを持ってきて、静かにテーブルに置き、夫の横に腰《こし》をおろした。
ジェフはソファの前のスクリーン端末《たんまつ》に向かって、起動サインを送った。
そしていつも通り、ニュース番組を選んだ。
ACT・5
「ベクフットぉ?」
「ウィンダミア星系の、ベクフットですか……?」
翌朝、安ホテルの食堂で、メイとマージはそろって声を上げた。
「そのとおりだ、おふたりさん」
ロイドは得意げに宣言したのだった。
「積荷は特注品の精密機械だ。メーカーのグラヴィテックからご指名があった。あの武勇伝のおかげさ。善行は積んどくもんだな」
「積荷はいいけど、よりにもよって物騒《ぶっそう》な星を選んだもんね」
「物騒? ベクフットって物騒なんですか?」
「軍が軌道封鎖《きどうふうさ》してる、戒厳令《かいげんれい》の惑星《わくせい》よ。民間人は立ち入り禁止。軍だってめったに降りないわ」
「戒厳令!? そこへ降りるんですか!?」
メイの顔はテニスの観客のように、マージからロイドへ回った。
「あの私、安全で堅実《けんじつ》な仕事を希望したんですけど――」
「いやなに、納入先はベクフットの衛星のダリエン基地だ。別にあの惑星へ降りるわけじゃない」
「なら、それはいいですけど――」
ベクフットがそんなことになっていたとは。
惑星が発見されたのはメイが小学生の頃だから、ほんの数年前だ。
タルガ艦隊《かんたい》の調査船、辺境に至宝発見≠ニいわれ、当時は大いに話題になった。
海があり、植物が自生して呼吸可能な大気まである、夢の新天地。てっきり順調に開拓《かいたく》が進んでいるとばかり思っていたのだが。
「戒厳令が出てるって、どういうことですか。開拓は中止になったんですか?」
「今は中断してる。といってもダリエンにタルガ艦隊が常駐《じょうちゅう》して、軌道上から調査は続けてるらしい」
「惑星上にいられない理由があるんですか。危険生物がいるとか?」
「タルガ第四艦隊の消滅《しょうめつ》事件よ」マージが言った。「広くは知られてないけど、業界じゃ周知の事実ね」
「艦隊が消滅!? どうして――」
「詳《くわ》しいことは知らないけど」
「巡洋艦《じゅんようかん》一、駆逐艦《くちくかん》三、補給艦二、揚陸艦《ようりくかん》四|隻《せき》が一度に消滅したんだ。星系にジャンプ・インした時にな」
「ジャンプ・ドライブの故障ですか」
「十隻がいっせいにか?」
「じゃあ、未知の重力場があったとか?」
「ジャンプ・ミスならせいぜい数百AUとばされるだけだ。通常航法で戻《もど》ってこれるだろう。ああしかし――」
ロイドは急いでつけ足した。
「その後、そんな事件は起きてないんだ。いまは民間業者の船だって普通《ふつう》に往来している。何も心配することはないんだぞ」
「でも、原因は不明なんですよね?」
「はっきり言っておこう。軍はこれを、未知の敵との交戦だと仮定した」
「未知の――」
メイは息をのんだ。
「宇宙|戦闘《せんとう》ってやつは、いつ始まっていつ終わったのか、わかりにくい。ときには戦闘の有無《うむ》さえわからんことがある。確証は得られてないが、艦隊消滅となれば事は重大だ。軍は開拓《かいたく》公社に事業計画の一時停止を命じた」
「…………」
「なにかをしていて殴《なぐ》られたら、そのなにかをやめるのが分別ってもんだろ?」
「それは、そうですけど」
どんな存在が、どこで見ているかわからない。
開拓者たちは知的生命とは遭遇《そうぐう》しなかったが、知らないうちに他人の畑を荒《あ》らしていた可能性がある。
以来、ベクフットは禁断の土地になった。誰であれ、惑星《わくせい》上に足跡《そくせき》を残してはならないことになったのだ。
「それも四年前のことだ。艦隊消滅《かんたいしょうめつ》のことは、どうやら空間構造の特異性によるらしい。相応の安全|距離《きょり》をとってジャンプすれば大丈夫《だいじょうぶ》だ。タルガ本国からも、早く開拓を再開しろとうるさく催促《さいそく》してる。軍が結論を出すのは近いだろう」
「でも四年もたつとね、いろいろほころびも出てくるのよ」
マージが言った。
「ベクフットは無人じゃないわ。ロイドの大好きな密輸業者が、いまも往復してる」
「え……?」
「おいおい、わしが密輸をしたがってるような口ぶりだが――」
「そうは言わないけどね」
「わしの生涯《しょうがい》の夢は宝探しだ。密輸なんてせこいもんじゃない」
「密輸こそ男のロマンって言ってたじゃない」
「言うもんか」
「少なくとも六回は聞いたわ」
「あっ、あの、密輸って何の話ですか?」メイが焦《あせ》って割り込んだ。
「花をね」
「花? ベクフット産の花を密輸するんですか? わざわざ?」
「生花コレクターの世界を知ってる? 珍《めずら》しい花なら宇宙船が買えるくらいの金を積むわ。そして産地ごとに造った栽培《さいばい》ドームに入れて大事に育てる。広大な荘園《しょうえん》にドーム並べて博物標本を競《きそ》うのが、貴族や金持ちのステータスなんだから」
「でも、軌道封鎖《きどうふうさ》されてるのに」
「なにごとにも抜《ぬ》け道はあるものよ。そうでしょ?」
「まあな。第一次の調査|開拓《かいたく》で八千人が惑星《わくせい》上に降りたんだが、撤収《てっしゅう》命令に応じなかった連中がいた。つまり反乱者だな。その連中が花を採集して密輸業者に渡《わた》す」
「でも軍の軌道封鎖|網《もう》があるんじゃ」
「軍内部にも協力者がいるんだろう。金はなんでも動かすからな」
「…………」
メイは眉《まゆ》をひそめた。
(1)反乱。(2)密輸。(3)軍の腐敗《ふはい》。
危険なキーワードが続出する。
そのリストは脳裏《のうり》をどうどうめぐりし、メイの思考を停止させた。
「反乱……密輸……腐敗……」
「しかし、しかしだな、こうした往来があること自体、航行において物理的な障害がないことを証明しているわけだぞ?」
「……腐敗……反乱……密輸……」
「メイ起きろ」
「あ、はい」
「なあメイ、どんな星系でも密輸はある。密輸業者の通う星系に行くのをやめたら、わしらの仕事は成立しない。そうだろ?」
「それは、そうですけど」
「今回は手堅《てがた》くいこうじゃないか。まず一往復するんだ。一度でもウィンダミア星系と往復しておけば、業務実績として記録される。将来、開拓が解禁されたときに、これが響《ひび》くんだ」
「私はいつだって手堅《てがた》くやりたいのよ」
マージはメイを見た。
「あんたはどうしたい?」
「ええと……その」
見習いとはいえ、メイにも発言権がある。いつのまにか、そうなっていた。
「ウィンダミア星系って、ニュース用の超《ちょう》光速回線はどうなってるんでしょう?」
「そんなものは撤去《てっきょ》されてるな。公衆用のネットワークすらない。なんせ軍事基地しかないんだからな」
ロイドはけげんな顔をした。
「こっちのニュースが読めないと困るのか」
「いえ、そうじゃなくて……」
「ははん。昨日のあれね?」マージがにんまりした。
「なんだ?」
「メイはね、危ない仕事をしてるところを親に知られたくないのよ」
「ほう?」
「つまりですね……」
メイが事情を話すと、ロイドは鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「ふむふむ。だったら好都合じゃないか。あっちに行けば、どんなに騒《さわ》がれたってばれる心配はない」
「ばっ、ばれなきゃいいってわけじゃないんです!」
つい、声が高くなった。
「いえその、だからって、安全な仕事じゃなきゃだめなんて言いませんけど。私、経験積みたいですから――」
「よしよし、わかってる」
「親を心配させたくないっていうか」
「そうだよな」
「たいして危険じゃないのに、誇張《こちょう》されたり、はたからはすごく危険に見えたりしますよね。だから、親にはその、ニュースとかじゃなくて、自分の言葉で報告したいわけで!」
「報告する。自分の言葉でね」マージが皮肉な笑《え》みをたたえて復唱する。メイは聞こえないふりをした。
「あの、わかってもらえましたでしょうか、ロイドさん」
ロイドは大きくうなずいた。
「うむ! しっかりわかったぞ、メイ。だが心配するな。今度はただ荷物を港から港へ運ぶだけの、まったくもって安全かつ健全な仕事だ。そして万一トラブルが起きてもご両親には絶対ばれない。もう圧倒的《あっとうてき》に安心していいぞ!」
「…………」
メイは湿《しめ》ったまなざしを向けた。ロイドがこのように太鼓判《たいこばん》を押《お》すと、いつもろくなことにならない。だが、そんなジンクスを理由に仕事を拒否《きょひ》するわけにもいかないのだった。
その日は出発の準備に走りまわって暮れた。整備と補給、書類の準備。メイは次々と仕事を片付けていったが、あるプライベートな課題が頭から離《はな》れなかった。
公衆ネットワークが通じてないのなら、ウィンダミアから手紙を出すことはできない。
星系を出入りする船に手紙のデータを運んでもらうことはできるが、それほどの往来があるとも思えない。
両親にはこのところ、毎日のように手紙を書いてきた。二週間かそこら音信不通になる理由を、親にどう説明しようか。
ウィンダミアは誰でも行ける場所ではない。メイの故郷、サイトロプスは辺境アレイダの最果てにある。ここから既知《きち》宙域の外側に向かって一歩進むと現在いるコニストン、もう一歩進むとウィンダミアに届く。
ウィンダミアは、三次元空間としてはむしろ故郷に近いのだが、超《ちょう》空間を縫《ぬ》って進む航路はひとつしか発見されていない。それはコニストンから始まっているので、実質的には遠ざかることになる。そして未開の地だ。
両親はどう思うだろうか。
もしウィンダミア行きを黙《だま》っているなら、なにか別の理由を考えなければならない。
どうしたものか……。
夜、スレートを開いてみると、手紙着信のマークが点滅《てんめつ》していた。
メイはどきりとした。個人メイルボックスに届く手紙は、両親からに決まっている。
隣《となり》の星系だと、返信が届くのも早い。
まさかあの、決死のコンテナ回収が伝わったのでは。
メイはおそるおそる、開封《かいふう》ボタンを押《お》した。
差出人は母親だった。
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愛《いと》しいメイ
ニュースであなたを見ました。
あなたは手紙に書かないのですね。
あなたはまだ若いのだから、親として、あんな危険な仕事をさせておくわけにはいきません。
すぐ家に帰りなさい。サイトロプスまで毎日船があります。お金がなければうちのクレジットを使いなさい。
[#地付き]母より、最愛の娘《むすめ》に
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メイは硬直した。
世界が終わる日というのは、こんな感じなのだろうか。
怒《いか》りや悲しみはない。ただ呆然《ぼうぜん》としていた。
どれくらいそうしていただろうか。
あらためて画面の周縁《しゅうえん》に目をやると、未開封の手紙がもう一通あった。
こんどは父親からだった。
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可愛《かわい》いメイ。
母さんからの手紙は読んだね? あのあと、遅《おそ》くまで話し合ったんだ。
これはメイにとっても私たちにとっても重大なことだからね。
母さんはメイがなんといおうと、家に帰らせるという。しかしニュースは誇張《こちょう》されることもある。まず事実を確かめるべきじゃないか、と父さんは思うんだ。
急に辞《や》めるんじゃロイドさんたちにも悪いからね。なんといっても、彼らはヴェイスの恩人なのだし。
それで、相談した結果、こちらから二人で出向いていって、お前の仕事ぶりを見ようということになった。
ちょうど休暇《きゅうか》が一か月とれたものでね。いつでも出発できるから、場所を連絡《れんらく》しなさい。アルフェッカ号に同乗することになるだろう。ロイドさんに相談してみてほしい。もちろん、乗客として相応の料金は払《はら》うからね。
うまく取り繕《つくろ》おうなどと考えないこと。親の目はごまかせるものじゃないからね。
[#地付き]父から、ただひとりの娘《むすめ》へ
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ACT・6
「すごい顔だな。どうした」
メイは一睡《いっすい》もできないまま、朝を迎《むか》えたのだった。
停泊《ていはく》中の船である。いつもならメイは真っ先に起きて朝食のしたくをする。それが今朝は、インカムで呼ばれて出てきた。そのくせあわてる様子もなく、ぼんやりとしている。
「どぉ」
変な声になったので、メイは咳払《せきばら》いして言い直した。
「私もう、どうしたらいいか、わかんなくて」
マージが立ち上がり、冷蔵庫から缶《かん》入りのクールエイドを出して渡《わた》した。
「飲めば」
「あの私」
「いいから飲んで。目さまして」
メイは栓《せん》を外して大きくあおった。
「座《すわ》って」
マージは次のコマンドを与《あた》える。メイはダイニング・チェアに腰《こし》を下ろした。
「で、どしたの」
「失恋《しつれん》か?」
「あの」
「男はいくらでもいるぞ。世界の半分は男だ」
「そうじゃなくて」
ロイドは、ぽん、と手を打った。
「今回は重いのか」
「ロイドは黙《だま》ってて。――メイ、友達として相談に乗るわよ。女だけのほうがいい?」
二人の年長者は口をつぐみ、メイの言葉を待った。メイはやがて、とつとつと話しはじめた。
チェスなら瞬時《しゅんじ》に七手先まで読むメイが、一晩|悩《なや》んだのだ。長くなる、と二人は覚悟《かくご》したが、メイの話はすぐにおわった。
「なるほど。両親が査察にくると。これはゆゆしき事態だな」
ロイドは煙草《たばこ》をくゆらし、
「親の目はごまかせない=\―まあそうだわなあ」
「でも、なんとかごまかさないと!」
メイはたちまち目をうるませた。
「私、連れ戻《もど》されてもいいんですか? いなくてもいいんですか? だったら私――」
「まてまてまて、そんなことは断じてない。だから考えてるんじゃないか。なあマージ」
「ロイドとメイ、どっちか残せと言われたら、メイを選ぶわよ。あたしは」
「マージもこう言ってる」
「で、仕事の様子を見るってことは、この船に同乗するわけね?」
「だと思います。料金も払《はら》うと」
「金なんかいらんが……それより、というかだな……」
ロイドは少し考えて言った。
「あらためて聞くが、これはそんなに絶望的な事態なのか? 親に仕事を見られることが」
「そうだと思います」
「ふむ」
ロイドは片眉《かたまゆ》を上げる。
「普通《ふつう》に働いているところを見られても、まずいのか?」
「どういう普通かにも、よりますけど……」
「宇宙服一丁で火山|噴火《ふんか》に飛び込むなんてのは、まあ例外中の例外だな? たしかに豪華《ごうか》客船みたいな花形航路をいくわけじゃないが、港から港へ、決まった航路でまっとうな荷物を運ぶのがわしらの普通だ。その様子を見られちゃいかんのか? 宇宙運送といえば、誰でもそれくらいの想像をするはずだが」
「それは、そうなんですけど……そもそも宇宙運送の仕事していいって許されてるわけじゃないんです。私、家出したわけですから」
「そういえばそうだな」
「ミリガン運送はヴェイスの宇宙|機雷《きらい》を一掃《いっそう》したから、故郷では英雄《えいゆう》なんです。だからその――運送の仕事っていうより、ミリガン運送についていくのは黙認《もくにん》しよう、みたいな」
「ふむふむ」
「かといって、ミリガン運送でただ居候《いそうろう》しているというのも、親としては許せないわけで、それなりに役に立っててほしい、と」
ロイドは戸惑《とまど》いをうかぺながらも、話を進めた。
「そういうことなら、社主として御両親の信頼《しんらい》に応《こた》えたいもんだが――」
「問題は母親なんでしょ? お母さんはどのへんをチェックすると思うわけ?」
「そうですね。まず……身だしなみがきちんとしてて」
「作業服なら清潔だし、きっちり肌《はだ》を覆《おお》ってるわよね」
「それから、身の回りが整理|整頓《せいとん》されているか」
「いかにもだな」
「それも善戦してるんじゃない? あんたがまめにやってるから。ほかには」
「まわりに柄《がら》の悪い人がいないか、とか」
「わしか?」
「いえ、ロイドさんとマージさんは英雄ですから。つまり、港によくいる――」
「連中の柄が悪く見えるのはアフター・ファイヴだろ。昼間はみんな役割をわきまえてる。でなきゃ港が機能するはずがない」
「でもメイの母さんて上品そうだったもんねえ。ハイソっていうんじゃないけど、こう、線が細くて――」
マージが言った。
「汚《よご》れた作業服着た、髭《ひげ》もじゃの野郎どもが銅鑼声《どらごえ》出してたら、こんなとこで娘《むすめ》を働かせるのか、なんて思うかもね」
「母さんは、そういう偏見《へんけん》は持たないと思うんですけど……女とみれば口笛|吹《ふ》いたりデートに誘ったりする人いますよね。コミュニケーションの一部なんでしょうけど、ああいうのは、ちょっと」
「じゃあ港ではロイドについて動くといいわ。女だけでいるから寄ってくるのよ」
「ああ、それはそうですね」
「いいだろう。他に問題はあるか?」
「アルフェッカ号が故障する」
「うっ」
「これはすごくマイナスだと思います。母さん、宇宙船が恐《こわ》いみたいだし」
「うーむ……昨日の今日だからな」
「まいったな。小さいトラブルはしょっちゅうよ。大きいのもね」
「この機会にしっかり整備するか。パーツも新しくして」
「賛成」
「あの、私のためにそんな出費するなんて」
「どうせしなきゃいけないのよ。船検も近いし」
「すみません」
「いいんだってば。それから?」
「やっぱり、場所ですよね。アルマンディンとか、今度のベクフットみたいな未開のところは……」
「となると、まず両親がいつ到着《とうちゃく》するか、その時こっちがどこにいるかを考えないとね」
マージは言った。
「ベクフットには行くんでしょ。もう契約《けいやく》しちゃったし、じきペイロード搬入《はんにゅう》するし」
「御両親はヴェイスにいるんだな。仮にここで待ち合わせるとしよう――」
ロイドがスクリーンに航路情報を表示する。
「……ん、これはなんだ? 二週間後から当分の間、ウィンダミア星系への出入りは全面禁止?」
「そうそう。理由はわかんないけど、でも私たちがとんぼ返りするならセーフよ」
「ジャンプインまで三日。ジャンプに三日。ジャンプアウトして三日……片道だけで九日か。ご両親の日程はどれくらい幅《はば》がある?」
「父の休暇《きゅうか》が一か月ですから……あまり待てないです」
「あたしたちがベクフットからとんぼ返りして……」
マージは指折り数えた。
「十八日か。なんとか間に合うんじゃない?」
「いまいち余裕《よゆう》がないですね……」
メイは言った。
「向こうに着いたら、補給と整備で最低半日かかりますよね。翌日帰途につくとして、ぎりぎりですか」
「道草しなきゃいいのよ。もちろんそうでしょ、ロイド?」
マージはにんまり笑って言った。
「ああ……もちろんだ」
ため息をつくロイドの顔を、メイは見逃《みのが》さなかった。
「あの、ロイドさん。ほんとに、ベクフットでなにかやろうって考えてるんじゃないでしょうね」
「うむ? なにかってなんだ?」
「だから密輸とか、宝探しとか、男のロマンみたいな」
「するわけないだろ。すぐに戻《もど》らなきゃ星系が封鎖《ふうさ》されちまうんだから」
「でもなんか、そうしたそうな顔でしたよね、いま」
「心外だな。社長の言葉が信用できないのか?」
「そうは言いませんけど、これまでのパターンからすると、どういうわけかロイドさんの望む方向に進むんですよね。道草っていうか、本来の業務を逸脱《いつだつ》するっていうか」
「それは天命ってやつじゃないかなぁ」
「今回は、運まかせじゃ困るんです。父も母も、時間にうるさいです。約束の時間に現れなかったら、もう大減点なんです!」
詰め寄るメイを、ロイドは両手で押《お》しとどめた。
「よしよしわかった。そうまで言うならだな――」
ロイドは言った。
「今回は君がMDをやれ」
「え……MD?」
「予算もスケジュールもいっさい君にまかせようじゃないか。君が責任をもって、思ったとおりにすればいい。こんどの仕事をきちんと成し遂《と》げれば、君だって胸を張って御両親と対面できるだろ?」
MD――ミッション・ディレクターは輸送業務の最高責任者である。いつもはロイドかマージが受け持つが、手続き上書類に記入する程度なので、大袈裟《おおげさ》に任命したりはしない。
メイは過去に一度だけMDを引き受けたことがあるが、かなり悲惨《ひさん》な結果になった。
しかし……あの時はさまざまな悪条件が重なったのだ。積荷も普通《ふつう》ではなかった。
今回はコンテナに収まった普通の貨物だし、納入先もまずまず堅《かた》いところだ。未開の星系だというのが不確定要因だが、航路はあるわけだし。
MDになることでロイドを牽制《けんせい》できるなら、いいかもしれない――。
「あの……じゃあ私、MDやります。やらせてください!」
「決まりだ。とんぼ返りで十八日だな。十九日後には、ここでメイの親御《おやご》さんを迎《むか》える。それまでにメイの指揮のもと、ベクフットの仕事を遅滞《ちたい》なくすませ、万全の備えをして対面にいどむとしよう。いいな、マージ?」
「異議なし」
「まかせたぞ、メイ」
「はい!」
メイは大急ぎで両親に手紙を書いた。よけいな釈明《しゃくめい》はせず、待ち合わせの場所と日時だけを知らせる。ただ――それまでの間は安全かつ堅実《けんじつ》な仕事をしているのでどうか心配しないでほしい、とだけは書き添えた。
ACT・7
その日の午後、アルフェッカ号は出港した。
コニストンからウィンダミアまでわずか五・三光年。ジャンプドライブを使えば二日で行ける距離《きょり》だった。
ジャンプドライブは空間に穿《うが》った微小《びしょう》な穴、ワームホールを通って近道をする。
もちろんワームホールは非常に小さいので、どんな粒子《りゅうし》も通れない。一個の水素原子を銀河系いっぱいに拡大しても、同縮尺のワームホールはゾウリムシほどしかないのだ。
ジャンプドライブに入った船は、自分の周囲を超《ちょう》空間で包み、その一端《いったん》をワームホールに連結する。そしてワームホールを解消しながら自分の空間を向こう側に転移させる。
この針穴に糸を通す<vロセスが、反発する物理法則をなだめるらしい。
一回のジャンプではごく短距離しか移動できないので、これを無数に繰《く》り返して光年単位の距離を渡《わた》る。このルートを航路と呼ぶ。
メイはジャンプドライブの原理をそのように理解していたが、本当のところはよくわからなかった。アルフェッカ号は大都市の電力|需要《じゅよう》をすべてまかなえるほどのエネルギーを持っているが、正攻法《せいこうほう》で空間を操《あやつ》るにはまるで足りないはずだった。
とりあえず、航法士として理解しておかなければならないのは、ワームホールの両側の重力場が充分《じゅうぶん》に平坦《へいたん》でなければならないことだった。
重力は空間を規定する。天体の重力|圏《けん》に出現しようとすると、空間|制御《せいぎょ》が収束せず、ジャンプは失敗する。失敗すると半径数百AUのランダムな空間に出現する。やりなおすには何週間もかけて通常航法で戻《もど》るしかない。
標準的なG型の星系では、中心の太陽から少なくとも十AU――約十五億キロ離《はな》れた位置にしか出現できない。そこからは通常航法でカタツムリのように進むしかなかった。
軍艦《ぐんかん》は高性能の機関を持つので三割ほど恒星《こうせい》寄りに出現できるが、失敗のリスクもそれなりにある。民間船にはなかなか真似《まね》のできないことだった。
航海の大部分の時間はこの通常航行で消費される。不便なことだが、現在の技術ではこれが限界だった。
ジャンプ航法に入った頃には、メイの心もだいぶ鎮《しず》まっていた。
というより、まぎれていた。
船がコンピュータまかせで飛んでいるあいだも、仕事はいくらでもあった。来たるべき査察にそなえるとなれば、なおさらだった。
整理と整頓《せいとん》はちがう。船内は整理されていたが、整項されているとはいえなかった。
だが、メイの母親はその両方を満たさないと納得《なっとく》しない。
アルフェッカ号は全長四十メートルの小型貨物船で、その半分は恐竜《きょうりゅう》の首のように延びたキールがしめている。キールにはシャトルが懸下《けんか》されており、積荷はシャトルの中にある。大きなコンテナを運ぶときはシャトルを係船場に預け、恒星船《こうゼいせん》だけで飛ぶこともある。
メーカーの異なるシャトルと恒星船を間に合わせのアダプターで結合しているから、外見はひどく不格好だった。
それは仕方がない、とメイは思う。どうせシャトルと恒星船では運用形態が全然ちがうのだ。しかし船内は、やろうと思えば母の審美眼《しんびがん》にたえられるものになるはずだ。
質素で、機能的で、心を和《なご》ませる美が調和する――
この二日ほど、メイはダイニング・ルームの整頓を組織的に実行していたが、ジャンプ・アウトの時間が近づいてきたのでブリッジに戻《もど》った。
航法|卓《たく》を一瞥《いちべつ》し、進行状況《しんこうじょうきょう》をチェックする。すべて予定どおりに進んでいる。
「ウィンダミアってジャンプ・ポイント遠いですね。太陽は普通《ふつう》の大きさなのに」
「直接探査が遅《おく》れた理由もそれよ」
マージは言った。
「測量船がなかなか航路を発見できなかったの。ブラックホールでもあるんじゃないかって言われたんだけど」
「でも、そんなのがあれば太陽の摂動《せつどう》でわかりますよね?」
「まあね。原因は不明。そうとしか言えない」
「…………」
「ともかく慎重《しんちょう》に、余裕《よゆう》をとってアプローチするしかないってこと。第四|艦隊《かんたい》の二の舞《まい》はごめんだわ」
そう言って、マージはため息をついた。
「我らが社長の行きたがるところは、たいていこんな風よ」
「ですねえ……」
ロイドはマージの隣《とな》りで、緩衝席《かんしょうせき》をめいっぱいリクライニングさせて昼寝《ひるね》している。
あんぐり開いた口から、安酒の匂《にお》いが漂《ただよ》う。
本当に眠《ねむ》っているわけでもないらしい――とメイは思い始めていたが、少々|揺《ゆ》すっても起きないことはよくある。いずれにせよ、眠っているとして扱《あつか》えば問題は起きない。
最後のジャンプを終え、船首を太陽に向けたとき、ロイドはいつのまにか目覚めていた。
「ジャンプシーケンス終了《しゅうりょう》。スター・トラッカー走査中」
メイが計器を見守る。
「走査完了。ウィンダミア星系|外縁《がいえん》です」
マージのコンソールに空間座標が表示される。マージは二日ぶりに使う通常航行の推進系を簡単にチェックした。
「反動|制御《せいぎょ》系グリーン……ローテーション」
マージは操縦桿《そうじゆうかん》に手をあてがった。バーニア噴射《ふんしゃ》がかすかに瞬《またた》いて、船体が回転する。
窓外の星が流れて、視野の中央にひときわ明るい星が現れた。
「おお……白きたおやかなる光よ。そは我を導く灯台なり……」
「起きてたの」
「昔の船乗りなら『陸が見えるぞう!』と叫《さけ》ぶ場面だ。見逃《みのが》すもんか。――メイ、捕捉《ほそく》したか」
「惑星《わくせい》のほうなら、いま……」
 スター・トラッカーはまず恒星《こうせい》の位置を調べて、自分のいる星系を割り出す。それだけでは誤差が大きいので、星系内の惑星を探し出して位置を精測し、天体暦《てんたいれき》と照合する。
装置が惑星をとらえたので、メイは船外カメラをベクフットに向けてみた。
「形までわかるかどうか。まだ十八AUも離《はな》れてますから」
「かまわん。メインに出してみろ」
最大望遠にして、さらに画像処理で拡大する。いびつな光点が現れた。
「おおう、これだな。まちがいない。青い三日月だ」
「青いわね。確かに」
マージが散文的な感想を述べる。
少し離れて、小さな白い光点がある。衛星ダリエンだろう。ほどよい距離《きょり》に大型の衛星がひとつ。たしかに人類|発祥《はっしょうち》の惑星、地球にそっくりな構成だった。
三時間後、アルフェッカ号はウィンダミア星系の通信ネットワークに組み入れられた。
軍・民をとわず、星系内に存在する宇宙船はネットワークの結節点として働き、あらゆる通信を自動|中継《ちゅうけい》する。なにげなく使う音声通話も装置の中でデジタル化され、無数の情報パケットの流れとして送信される。それらは他の宇宙船や地上局を中継して目的地に届くのだった。
さらに三時間たつと、アルフェッカ号あての最初の通信が届いた。この遅《おく》れは光速度の限界による。通信内容は星系内の最新航路情報だった。これはネットワークが自動的に送信する。
宇宙船がいるのは惑星《わくせい》ベクフットの周辺だけだった。メイはその状況《じょうきょう》をメインスクリーンに表示した。
「なんだなんだ、この配置は」
ロイドが身を乗り出す。
「駆逐艦《くちくかん》に工兵部隊の輸送艦、揚陸艦《ようりくかん》とは……」
ダリエンの周回|軌道《きどう》に三|隻《せき》、ダリエン―ベクフット系の各ラグランジュ点に一隻ずつ。
ベクフットから五千キロほど離《はな》れた軌道にも二隻。
各船が発信している識別信号はすべて【臨戦態勢の軍艦】を示していた。
緩衝《かんしょう》領域はダリエンの公転軌道から千キロ内側に設定されている。ここに入ったら、警告と威嚇射撃《いかくしゃげき》を受ける。もう一万キロ、ベクフットに近づくと封鎖《ふうさ》領域に入る。フルパワーで砲撃《ほうげき》されても文句は言えないのだ。
「ちょっとものものしすぎない?」マージが言った。
「確かにな。いつもこうだとは思えん」
「ラグランジュ1に天文台までありますね。どうしてでしょう?」
「最果ての地だからな。この先の未知の宙域を値踏《ねぶ》みするにはいい場所だが……しかし小国のタルガにしちゃ、ずいぶん奮発したもんだ」
その時、第二の通信が届いた。
『タルガ艦隊ダリエン基地よりミリガン運送アルフェッカ号へ。納品地点の変更《へんこう》を指示したい。新しい納品地点は惑星ベクフット海上。ラグランジュ4に恒星船《こうせいせん》をパークし、シャトルで直接降下して海上に待機する要員に納品してほしい」
通信文を読むなりメイは叫《さけ》んだ。
「話が違《ちが》うじゃないですか! これじゃ十時間は余分にかかっちゃいますよ。星系に入ってから目的地変更するなんて――」
「あんたの得意|技《わざ》だわさ」
マージがにやにやする。
「肉屋で切り身を作らせて、包んだあとから値切りにかかる」
「そっ、それとこれとは! それに惑星《わくせい》上には密猟者《みつりょうしゃ》がいるって」
「密猟者になんか出くわすまい。軍にはふっかけてやりゃあいい。追加料金をな」
ロイドは落ち着き払《はら》って言った。
「シャトルのやりくりがつかなかったんだろう。これが向こうの弱みだ。そこにつけ込めとは言わんが、わかった以上は抜《ぬ》け目なく稼《かせ》ごうじゃないか」
「必要以上に稼ぐ必要はないと思います」
「まあ変更をつっばねるのもひとつの考え方だな。MDは君だ。君が判断すればいい」
「…………」
考え込むメイの横で、ロイドはつぶやく。
「まあ拒否《きょひ》しても経費くらいは出るさ。顧客《こきゃく》である軍の心証を害し、二度と仕事をもらえないだろうがなあ。それとも即応力《そくおうりょく》を発揮して困難に挑《いど》み、相応のボーナスを稼ぐか……」
メイはちらりとマージの顔をうかがったが、なにも応答はなかった。
ロイドのヒントに耳を貸すなら、選択《せんたく》は明らかだった。
「……受けて立つしかありませんよね」
メイはそれからスレートを開いて、返信文を入力しはじめた。
『ミリガン運送アルフェッカ号よりダリエン基地へ。納品地点|変更《へんこう》の件|了承《りょうしょう》しました。ミリガン運送はどのような変更にも柔軟《じゅうなん》かつ迅速《じんそく》に対応できます。つきましては経費見積もりに相応の変更を加えましたのでご確認《かくにん》ください。(別表1の4)』
三日後、アルフェッカ号はベクフットの引力|圏《けん》に入った。
この二日間は船尾《せんび》を進行方向に向けて減速|噴射《ふんしゃ》を続けてきた。人工|施設《しせつ》のそばでは、もちろんそんなことは許されない。わずかな推進|剤《ざい》で三Gもの加速を生むメインエンジンの噴射をあびたら、たいていの物質は粉砕《ふんさい》されてしまう。
メインエンジンを停止し、船体を反転させると、二つの天体が肖像画《しょうぞうが》のように窓の外に現れた。どちらもそろって半月状に欠けている。
小さな銀色の衛星、ダリエン。
磨《みが》きあげたラピス・ラズリのようなベクフット。
陸地は目立たない。青い海と白い雲の星。海面の一部が太陽光を照り返して白く輝《かがや》いている。
レーダーには十数|隻《せき》の艦船《かんせん》が映っていた。
ダリエンの周回|軌道《きどう》に十二隻、ベクフットの周回軌道、高度五千キロの軌道にも三隻。
各船が発信している識別信号はすべて【臨戦態勢の軍艦】を示していた。
「ずいぶんものものしいですね。いつもこうなんでしょうか?」
「まさかな。年中こんな艦列を組めるほど、タルガは大国じゃない」
「やっぱり、星系|封鎖《ふうさ》の関係でしょうか」
「だろうな。何をするつもりか知らんが……」
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   第二章 海の花園《はなぞの》
ACT・1
あの頃《ころ》、ヴェイスはまだ機雷封鎖《きらいふうさ》されていたから、新婚《しんこん》旅行もできなかった。
やるかどうか、いまでも迷っていたが、ジェフはやることに決めた。
船室の前でスーツケースを置き、ドアを開くと、彼はいきなり妻の体を抱《だ》き上げたのだった。
「あっ、あなた! まあ――」
ジェフは中に入り、船室のベッドに妻を軟着陸《なんちゃくりく》させた。
「一度やってみたかったんだ」
ジェフは自分もベッドに腰をおろし、呼吸を整えると、静かにキスした。出会った頃はむさぼるようにしたものだが、もう二十年も前のことだ。
妻の顔が驚《おどろ》きから喜びに変わるのを見て、ジェフは満足した。
「ああ、もう、驚いたわ」
「通商回復以来、新婚旅行のやりなおしツアーが増えているそうだ。銀婚式や金婚式の夫婦《ふうふ》がね。ぼくらだってそうして悪い理由はあるまい?」
「ええ、そうね、それはそうね」
「それとも、こんな旅行で代用しちゃいけなかったかね?」
「ううん」
ベスは頬《ほお》を染め、にっこりと笑う。二人はもう一度キスした。
それからベスは、上着を脱《ぬ》いでたたみ、クローゼットを開いた。ベスはたちまち調度類に興味を示した。
「……このハンガー変わってるわ。首から通せばいいのね」
「アルテミナの船だからね。見慣れないものをどっさり積んでいるよ」
一流の豪華《ごうか》客船とはいえないが、ロティー・ブラッサム号の一等船室にはひととおりの調度が揃《そろ》っていた。ジェフは壁《かべ》に埋《う》めこまれた開閉式のバーに気づくと、飲み物の調合にとりかかった。
「あら、私がやりますのに」
「男の仕事だよ」
ダイキリをふたつ、なんとかこしらえて窓際《まどぎわ》のテーブルに運んだ。
シェードをあげると、軌道《きどう》港の埠頭《ふとう》が一直線に視野を横切っている。一段高い位置に送迎《そうげい》デッキが張り出し、窓ごしに豆粒《まめつぶ》のような見送り客が見えた。
さっき通ってきたボーディング・チューブがゆっくりと引き込まれてゆく。
『ロティー・ブラッサム号はまもなくヴェイス軌道港を出港します』
アナウンスのあと、ふいに埠頭が後退しはじめた。
「あら、こちらが動いているのね」
「静かなもんだね」
埠頭の後退速度はみるまに増加し、最後にはぶれて見えるほどだった。
それは突如《とつじょ》、宇宙の深淵《しんえん》にとってかわった。窓に顔をよせて後方を見ると、軌道港の末端《まったん》にあたる巨大《きょだい》な円盤状《えんばんじょう》の断崖《だんがい》が遠ざかってゆくところだった。
『左舷《さげん》側に惑星《わくせい》ヴェイスが見えています。右舷側のお客様は展望デッキもしくはスクリーン・チャンネル1でご覧になれます』
ジェフは小さく舌打ちした。
「そうと知っていれば部屋を変えたんだが。デッキに行くかい?」
「ここでいいわ。素敵《すてき》な眺《なが》めよ」
ベスは数個の明るい星と、港外につどう船の眺めに見とれていた。
彼女は惑星上のドームから一歩も出ずに育った。機雷原《きらいげん》が解除されてから一度だけ軌道港へ上がったが、あの時はこんな眺めを堪能《たんのう》する機会がなかった。
ジェフは照明を落とすサインを出したが、この部屋には手ぶりを検出するカメラはついていないようだった。プライバシー侵害《しんがい》の不安を除くためだろう。結局、コントローラーは目の前のテーブルに作り込まれていた。
照明を落とし、視覚が暗順応すると、船外の眺めは一変した。
窓いちめんに色とりどりの星々が姿を見せた。
その背後に輝《かがや》く銀砂をたたえた大河が横たわっている。
「まあ……」
ベスは目を見張った。
「ほんとにいっぱい。あれが銀河なの?」
「そうだね」
これがメイの目指した世界だよ――。
ジェフはそう言おうとして、思いとどまった。
妻がこんなに陽気な表情を見せたのは久しぶりだ。
いましばらく、娘《むすめ》のことは忘れて楽しませよう。
ロティー・ブラッサム号が巡航《じゅんこう》加速に入ると、カートミル夫妻はかわるがわるシャワーを浴び、礼服に着替《きが》えた。
小さな客船だが、港を出た最初の夜にはフェアウェル・パーティがある。
よその星から来た人々は、ヴェイスから乗船してきた夫妻に好奇の目をむけることなく、ごくフランクな態度で接してくれた。
気後《きおく》れしていたベスもうちとけ、まもなく部屋どうしの交流が始まったのだった。
ACT・2
減速行程が終わり、機首が前方に向くと、そこは青の世界だった。
大陸さえも青みがかっていて、海に溶けこんでいる。雲はいちめんに散らばっており、南半球にはハリケーンのような渦《うず》も横たわっていた。
「赤道直下。この先が多島海か……」
ロイドがスクリーンを見て言った。目標地点の地図は、衛星写真をもとにした正確なものがロードされている。ただし地名は充分《じゅうぶん》に与《あた》えられていない。
「『島206』の西岸|沖《おき》、一キロってとこか」
「水深は浅そうね」
「だが二百メートルはある。充分だ」
「大気|圏《けん》進入シーケンスを設定しました。送ります」
「オーケイ」
マージはスクリーンを一瞥《いちべつ》して、実行キーを押《お》す。
減速|噴射《ふんしゃ》のあと、シャトルは機首を上げ、大気制動の態勢に入った。メイはシートを前方に向けてGに備える。
船殻《せんこく》を大気が打ちはじめた。
体がシートに沈《しず》みこむ。窓の外がオレンジ色に染まった。減速がピークにさしかかる頃、それは白っぽいピンクに変わった。
ふいにGがおさまり、シャトルを包んでいたプラズマが消えた。
太陽で白く照らされた窓枠《まどわく》のむこうに、濃紺《のうこん》の空がひろがっていた。
機首が下がり、滑空《かっくう》態勢になる。マージはシーケンサーによる自動操縦をさっさと打ち切って、操縦桿《そうじゅうかん》を操っていた。
「ふーん。さっぱり辛口《からくち》、キレもよし、ってとこか」
マージは気まぐれにシャトルをS字ターンさせて、惑星《わくせい》大気の感触《かんしょく》を味わっている。
メイは気が気でならず、3D表示されたグライドスロープを見守った。滑空だけで目標地点まで行けるだろうか?
「あの、マージさん、もちろん燃料には余裕《よゆう》がありますけど――」
「あたしの腕《うで》が信じられないわけね、メイ?」
「いえその、これはあくまで参考情報として」
「あたしがそんなへマをしたら、この機長席をあんたにゆずってもいいわ」
「信じてますから、それはもう」
メイはひたすら耐《た》え忍《しの》んだ。
MDなど引き受けるんじゃなかった。
年齢《ねんれい》も実力も上の人に命令するなど、できるわけがないのだ。それでいて責任だけは背負いこむ。MDになるのも命じられたようなものだから、すべてはロイドとマージの思うつぼだったような気がしてくる。
窓の外を高層雲の層が横切った。
もう対流圏《たいりゅうけん》だ。高度五千メートル。ここからのシャトルの滑空比は六対一。
「目標まで三十八キロ」
マージはヘッドアップ・ディスプレイを使っているが、メイは距離《きょり》を読み上げた。散乱計で海面の状態を把握《はあく》する。
「波高――約三十センチ、静穏《せいおん》です。風向はほぼ真東」
綿雲の層を通過する。同じ模様が海面にも落ちて、まだら模様をつくっていた。
この経度での地方時は……午前十時くらいか。
「目標まで十キロ」
高度千七百メートル。
降下するにつれて、青一色に見えていた世界の、本当の色が見えてくる。
どうも海の色が変だ。緑味をおびている。
ロイドも気づいたらしい。
「海藻《かいそう》か?」
「そのようね。陸地はどこも砂漠《さばく》みたいだったから、ここで植物っていったら海藻しかないのかも」
「じゃあ花っていうのも海藻なんですか」
「そのへん、詳《くわ》しく調べとくべきだったわね」
「ですね」
航路情報に添付《てんぷ》されていた博物誌はあまりに膨大《ぼつだい》で、じっくり読むひまがなかった。
「そういえば、植物しかないのに花って役に立つんでしょうか」
「花がつくから売れるんでしょ、密輸してまで」
「そうじゃなくて、花って虫をおびき寄せて受粉するためにあるじゃないですか。虫がいないのに咲《さ》く花なんて――」
「そういう珍《めずら》しい花だから、高く売れるわけよ」
「……いいです、もう」
高度九百メートル。
もう明らかだった。ここは藻《も》の海だ。見渡《みわた》す限り、海は藻に覆《おお》われている。
「海の草原ですね。航路情報に海藻が多いってありましたけど、こんなとは」
やがて、藻の中になにか黒い物体が浮いているのが見えてきた。
「あれか。ずいぶん小さいな。メイ、望遠映像」
「はい……ボートですね。二人乗ってます」
「ボート? そんなものに納品するの? あのコンテナを?」
「母船らしさものは見当たらんが……」
マージは近距離《きんきょり》無線のスイッチを入れた。
「こちらミリガン運送アルフェッカ・シャトル。海上のボート応答ねがいます」
「あ、だめみたいです」
メイが言った。望遠映像の中で、一人が携帯《けいたい》通信機を示し、腕《うで》で×印を作っている。
「故障してるんです。受信はできてるみたいですが」
「シャトルよりボートへ。納品のためそちらに着水してよいか」
画面の男は、両腕で○印を作った。
「オーケイ、これより着水する」
上空を一度|旋回《せんかい》すると、マージは海面へのアプローチにかかった。
アルフェッカ・シャトルの胴体《どうたい》下面は舟型をしていて、突起《とっき》はない。たいていの液体なら着水できるし、雪上でも使用できる。藻が浮いているくらいなら問題ないだろう。
いつでもゴー・アラウンドできるよう、マージはスロットルに手をかけている。
海面が迫《せま》ってきた。青緑の輝《かがや》きが、ぶれて矢のように飛び去ってゆく。
マージは機首をわずかに上げて速度を殺し、最後の瞬間《しゅんかん》、水平に戻《もど》した。
ざーん、と水音が響《ひび》き、体がハーネスに食い込んだ。
二百メートルほど滑走《かっそう》――停止。
「到着《とうちゃく》……標準時〇六二二」
静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れた。
降下中、通奏低音のように響いていた風切り音も消え、いまはファンとインバーターのうなりだけが聞こえる。
「えと、まず気圧調整お願いします、ロイドさん」
「うむ」
副操縦士席のロイドがスイッチを入れる。機内|環境《かんきょう》と外気圧の差はわずかだが、完全に等しくしないとハッチが開かない。
「じゃあ、エアロック開いてきます」
メイはキャビンに行って、まず内扉、それから厚い外扉を開いた。
風がさっと吹《ふ》き込んだ。有機的な臭《にお》い。腐臭《ふしゅう》ではない。
後ろからロイドが言った。
「潮の香《かお》りだ。ひと泳ぎしたい気分だな」
「まず納品です」
「もちろんだ」
すぐ下の海面を見ると、シャトルが押《お》しのけた海藻《かいそう》が広がっていくところだった。
海藻は紙のように水面に張り付き、波の起伏《きふく》にまったく逆らわなかった。タンポポのような放射状の葉をひろげ、降り注ぐ陽射《ひざ》しを真っ向から受けている。
花らしきものは見当たらない。
右舷《うげん》側、すぐ先に島が見えた。あれが島206。
なめらかに侵食《しんしょく》された、赤い岩山だった。海との境目は切り立った断崖《だんがい》で、赤褐色《せきかっしょく》の地層が水平に走っている。
まだ植物は陸に上がっていないのだろうか。生物史としては、黎明期《れいめいき》にあたるのかもしれない。あの赤い地層が酸化鉄だとすれば、植物が酸素をつくりはじめて悠久《ゆうきゅう》の歳月《さいげつ》が流れているはずだが……。
船尾《せんび》側からボートがまわりこんできた。膨張式《ぼうちょうしき》のゴムボートだった。噴流《ふんりゅう》推進器でもついているのだろうか、滑《すべ》るように進んで、エアロックの下で止まった。
軍のカバーオールを腕《うで》まくりした、たくましい男が二人。髪《かみ》は長く、髭《ひげ》の剃《そ》り跡《あと》が生々しい。肌《はだ》は赤銅色《しゃくどういろ》に焼けている。
メイはもやい綱《づな》を受け取り、近くのハンドルにかけた。
「すまんね。バージを出す予定が、ちょっとトラブってな。ボートで迎《むか》えに出て先導しようってことになったんで」
「島へですか?」
「そうだ。それで、まあ、なんだ――」
男は弁解するような顔になった。
「あれでも秘密基地なんで、ここで受領手続きをすませたい」
「あ、はい」
メイは床《ゆか》にかがんで、船殻《せんこく》からラッタルを引き出し、海面近くまで降ろした。
男はシャトルに乗り込み、ボートに残ったほうからアタッシェケースを受け取った。
ケースを開くと、サブマシンガンが出てきた。
男は何気ない動作でそれを構えた。
「あの……それは」
「手続きにもいろいろあってな」
「…………」
メイはロイドを振《ふ》り返った。
「コクピットに戻《もど》ってろ」
「指図はこっちでやるぜ、おっさん」
「ロイド・ミリガンというが」
「指図はこっちでやる。ロイド・ミリガン」
「わかった。指示をくれ」
男はメイに指示した。
「コクピットに戻ってろ」
「でもあの」
「ねー、どーかしたの?」
マージがコクピットから尋《たず》ねた。ロイドが答えた。
「なんだかハイジャックされたようだぞ」
「ハイジャック? 誰《だれ》が」
「わしらが」
「なんで」
「さあな」
「いいからコクピットに行け。おまえもだ、ロイド・ミリガン」
メイは人形のように固まったまま、コクピットに押《お》し戻された。男はキャビンの仕切りから顔を出して、マージに目をとめた。
「無線の女だな。いい女だなあ。こりゃあいい」
下品な笑《え》みをうかべる。
母さんの嫌いなタイプだ。混乱した意識の片隅《かたすみ》で、メイはそれだけ思った。
「よし美人キャプテン、こいつをタキシーさせて島の北側にまわりこめ」
「何があるの」
「行きゃわかる。ぐずぐずするな」
マージはメインエンジンをごく弱く噴射《ふんしゃ》して、シャトルを前進させた。
「あの」
メイが口を開いた。
「これってハイジャックなんですか」
ほかの二人が答えないので、ハイジャッカーが答えた。
「見りゃわかろうが」
メイは男をまっすぐ見て言った。
「あなたは何なんですか」
「ハイジャッカーだ」
「そうじゃなくて、所属は何なんですか」
「うるせえ娘《むすめ》だな、行きゃわかるって言ってるだろーが」
「いま知りたいんです。所属は何なんですか」
「軍の連中は海賊《かいぞく》って呼んでる」
「海賊」
メイは蒼白《そうはく》な顔でつぶやいた。顔はコンソールに戻《もど》ったが、目がすわっていた。
「海賊が、仕事の邪魔《じゃま》を」
「おい」
「会うはずないのに。海賊が邪魔した」
「何言ってる」
「海賊が。こんなときに海賊が」
「海賊海賊言うな!」
「海賊が」
「黙《だま》れ!」
メイは静かになったが、唇《くちびる》はまだ「海賊」と繰り返していた。
まもなく、目的地が見えてきた。断崖《だんがい》の根元に、大きな海蝕洞《かいしょくどう》がある。
「あそこだ。あの洞窟《どうくつ》に入れろ」
「ぞっとしないわね。暗礁《あんしょう》はないの?」
「水深はある。空から見えないところへ隠《かく》すんだ。うまくやれ」
海上でのシャトルの動きは鈍重《どんじゅう》だった。さんざん波にもてあそばれながら、どうにか洞窟に入る。
前照灯をつけると、広い空間がひらけていた。奥《おく》に砂浜が見える。浜には梱包材《こんぽうざい》かなにかが転がっており、ロープや杭《くい》、照明器具もあった。そして数人の人影《ひとかげ》。
「浜の前まで行け。大丈夫《だいじょうぶ》、底は砂だ――よし止めろ。止めたらアンカー・ラインをリリースしろ」
マージはこまめに口答えするたちだが、いまは黙って従った。
浜から男が二人出てきて、アンカー・ラインの引き出しにかかった。端《はし》を持って戻《もど》り、もやい結びを作って杭にかける。
「満潮線はどこ?」
「今の一メートルくらい上だ。ゆるめにテンションをかけろ」
マージはウィンチを操作して、ラインを少し巻き取る。
「よし。パワーを全部切れ。待機電力もオフだ。外から全スペクトラムで監視《かんし》する。機体から電波が出てたら、ただじゃすまんぞ」
三人の乗組員は、分担してあらゆる電源を切った。
男はキャビンまで後退して、メイを呼び寄せた。
下にボートが待っていた。
「ボートに乗れ」銃口《じゅうこう》でメイを示す。
「ボートで、どこへ行くんですか?」
「行きゃわかるって言ってるだろ」
従うしかなかった。
ボートの男が手を差し伸《の》べる。
メイはぐらぐら揺《ゆ》れるボートに飛び乗った。洞窟《どうくつ》の外がまぶしく見えている。
その海面に、棒のようなものが突《つ》き出ていた。
あれは――
棒は徐々《じょじょ》に高く伸び、その下から丸みを帯びた、黒い壁《かべ》が現れた。
泡《あわ》も渦巻《うずまき》もない。壁は静かにせりあがってゆく。
メイは記憶《きおく》をたぐつた。海という特殊環境《とくしゅかんきょう》で使う乗物。
宇宙船の一種だが、独特の呼び名があった。あれはそう――潜水艦《せんすいかん》。
あの壁は司令塔《しれいとう》か? きっとその下に、葉巻型の胴体《どうたい》があるはず。
浮上《ふじょう》はさらに続いた。もうまちがいない。根元の甲板《かんぱん》まで露出《ろしゅつ》した。
表面のあちこちに海藻《かいそう》がまとわりついている。
司令塔よりずっと離《はな》れた海面に、垂直|尾翼《びよく》のようなものが二枚突き出していた。
大きい。尾翼と司令塔の間隔《かんかく》だけでも百メートルはある。
司令塔の上に、人の上半身が現れた。双眼鏡《そうがんきょう》かなにかで、こちらを見ている。
それから司令塔の根元、船尾側の甲板でハッチが開いた。男が二人出てきた。
二人の男は上半身むき出しで、破れほうだいの半ズボンを履《は》いていた。
たぶん半ズボンだろう。ただの腰布《こしぬの》のようにも見える。腰に大きなベルトポーチをさげており、これは原形をとどめていた。
メイのあとからロイドとマージもボートに乗った。シャトルの翼《つばさ》の上に、マシンガンを構えた男が見張っている。浜にも一人。この二人を残して、ボートは潜水艦に向けて出発した。
「隙《すき》がないな。君らは」
ロイドが言った。
「いつも距離《きょり》をおいて誰かが見張ってる。これじゃ逆らえん」
「機嫌《きげん》とろうってか」最初の男が言った。
「わしに油断するなと言ってるのさ」
「そうかい」
男はへらへら笑っただけだった。
ボートは洞窟内《どうくつない》を進み、潜水艦《せんすいかん》に接舷《せつげん》した。
「艦に乗れ」
メイは甲板《かんぱん》に飛び移った。それからマンホールのような穴を降りる。むっとする熱気と臭気《しゅうき》がたちのぼってくる。換気《かんき》フィルターを倹約《けんやく》してるな、とメイは思った。側壁《そくへき》も、梯子《はしご》の手の触《ふ》れない部分も、掃除《そうじ》が行き届いていない。
梯子を降りながら、メイは体が重くなるのを感じた。
この艦は重力|制御《せいぎょ》をしている。自然のままでもほぼ1Gなのに、わざわざ重力を高くしている。運動不足を補うためだろうか。
甲板の直下は直径二メートルほどの円筒《えんとう》空間だった。壁《かべ》に「脱出筒操作《だっしゅつとうそうさ》」というパネルがあって、ごついスイッチ類と圧力計がついている。床《ゆか》にもハッチがあるが、これはすでに開いていた。小空間と二つのハッチ。脱出筒と呼ぶらしいが、構造は宇宙船のエアロックそのものだった。
下に向かう梯子を降り、メイは人の気配のする空間に入った。
「――――!」
床まで一・五メートルのところで、メイは蝉《せみ》のように硬直《こうちょく》した。
待ち構えていたのは上半身|裸《はだか》の男たちと、胸と腰《こし》をぼろ布で覆《おお》った女たちだった。
蛮人《ばんじん》の巣窟《そうくつ》。槍《やり》と石斧《いしおの》でハイテク施設《しせつ》を乗っ取った野蛮人――メイにはそう見えた。
「どうした、とっとと降りてきな」
「お〜、かわいい女の子だぜ!」
「いいね、いいねえ」
「手え出すんじゃないよ」
蛮人たちは、一応標準語を話した。
「どうしたの」梯子の上からマージが聞いた。
「なんか……すごくて」
「とにかく降りちゃいなさい」
「でも」
「一生そこにいる気?」
仕方がない。メイは床まで降りた。
蛮人――海賊《かいぞく》たちと目を合わさないようにつとめながら、周囲を見回す。
左右に重厚《じゅうこう》なコンソールの列。前後に分厚い耐圧隔壁《たいあつかくへき》。
前方のやや高い位置に大きなスクリーンが二つあり、ひとつは海面の様子、もうひとつはソナー映像らしい海底地形が立体表示されていた。
ここは発令所だろうか。
マージとロイドが降りてきた。
「おう、いい女が来たぜ!」
「すげえいい女だ」
「手え出すんじゃないよ」
「こりゃ大収穫《だいしゅうかく》だぜ」
「お次はおっさんか」
「こき使ってやりゃあいいさ」
海賊たちは口々に言った。何が珍《めずら》しいのか、メイを穴のあきそうな目で見つめる者もいる。
そこへ胴間声《どうまごえ》が響《ひび》き渡《わた》って、まわりは静かになった。
「なごんでるんじゃねえ! 最後まで気ぃ張ってろ!」
姿は見えない。声だけが朗々と響いた。
ACT・3
外に出ていた男たちが艦《かん》に戻《もど》ると、胴間声は潜航《せんこう》を指示した。
人々が配置に戻る。やっと声の主が見えた。
枯《か》れた金髪《きんぱつ》に、白っぽい酷薄《こくはく》な瞳《ひとみ》。濃《こ》い顎髭《あごひげ》。褐色《かっしょく》の肌《はだ》。太い首。
たくましい肩《かた》にミリタリー・ベストを吊《つ》るしている。みるからに海賊の首領だった。
胴間声はさらに指示を出す。
「パミラおばさん、先にこいつらを着替《きが》えさせてくれ。エマージェンシー・スーツにゃ通信機がついてるからな」
「いい生地が入ったね」サリーのようなものをまとった、でっぷり太った女が上機嫌《じょうきげん》で言った。「これだけありゃ、十人ぶんの着替えができるよ」
それからメイを指して言った。
「その子、もらっていいかい、艦長」
「おまえら、シャトルの分担はどうなってる」首領が尋《たず》ねる。
「機長はあたし。コ・パイはロイド、メイは航法士」
「若いのはパミラおばさんにまかせるか。ロイドと――ああ」
「マージ・ニコルズ」
「二人はシャトル運用の引き継《つ》ぎだな」
「あれを自分らで飛ばそうっての?」
「そうだ。部品取りにでも使うと思ったか」
「そんなことしたら、ただじゃすませないわ」
「愛機ってわけかい。まあ大事にするさ。この星に一機しかないシャトルだからな」
「シャトルが欲しくて危険を犯《おか》したのか」ロイドが聞いた。
「危険ってほどでもないがな。いざって時に速い足が欲しいからな」
「いざ、ってのはなんだね?」
首領は一瞬《いっしゅん》、目を光らせた。
「いざはいざさ、おっさん」
「ロイド・ミリガンともいうが。君のほうは名前があるのか」
「シェパード艦長《かんちょう》だ。艦長と呼んでもらおう」
「通信を傍受《ぼうじゅ》して先回りしたのか。軍の目前に出るとは、かなり危険な作戦だが」
「傍受? そんなせこいことはしねえ。シャトルを抱《かか》えた貨物船が来るって情報があったんで、ちょいとネットに細工したのさ。この星系に入った瞬間から、あんたらは俺《おれ》たちと交信してたんだ」
「ほほう。そんな事が使えるか」
ロイドが合点する横で、メイはあんぐりと口をあけた。
「まさか、タルガ艦隊の系内ネットワークに介入《かいにゅう》したんですか!?」
「そうさ」
「じゃ、軍は私たちがベクフットに降りたことに気づいてないんですか!?」
「もちろん。レーダーシステムがアルフェッカ号を探知すると、ネットに潜《ひそ》んだデーモンがそれを除去する。肉眼や手動装置で見つからない限り、船はいないも同然だ」
「そっ、そんなザルなシステムで敵と戦えるんですかっ!」
「まったくな。タルガの派遣《はけん》艦隊は腐敗《ふはい》してる」
「……腐敗」
「でなきゃ包囲された惑星《わくせい》から密輸なんかできっこあるまい」
「……密輸」
「この潜水艦《せんすいかん》ラカンドラ号が反乱に成功し、外との連絡《れんらく》を保ちながら逃《に》げのびてるのも、ダリエン基地にいるお友達のおかげってわけだ」
「……反乱」
腐敗。密輸。反乱。
ああ、やはり――やはりそうなるのか。
ずっと気にかけていた三つのキーワードが、早々とミリガン運送を襲《おそ》った。知らないうちにアルフェッカ号は密輸船と同じレールを走っていたのだ。
メイはあらゆる気力が萎《な》え、がっくりとうなだれた。
「あー、メイ。わしは何もたくらんでなかったぞ。本当だ」ロイドが弁解するように言う。「思ったとおりだとさえ思ってないんだ。わしも充分《じゅうぶん》驚《おどろ》いてる」
メイは反応しない。かわりにマージが言った。
「シャトルの運用ならあたしとロイドでやれるわ。メイは解放してちょうだい」
「解放してどうする? 島に置き去りにでもするか? まあ急ぐな。しばらく泊《と》まってもらおう」
しばらく、という言葉にメイは反応した。
「しばらくって、私たち、明日中に帰らないと――」
「月単位の話をしてるんだぜ、嬢《じょう》ちゃん。今夜は監禁《かんきん》するが、明日からは誰かの目の届くところで働いてもらう。タダ飯を食わせる余裕《よゆう》はねえからな」
「タダ飯食わせたくないなら、逃がしてくれればいいじゃないですか!」
「だから逃げりゃいいってもんじゃないだろ。次の運び屋に便乗できるかもしれんが、連中は人を積みたがらんからな。おめえらに恨みはねえが、人生いろいろある。悪く思うな」
三人は二人の男に押《お》されるようにして、発令所を出た。船尾《せんび》側に向かって、短い階段を降りる。通路はそこで二手にわかれ、一行は左舷《さげん》側に入った。狭《せま》い廊下《ろうか》がずっと先まで続いている。
数メートルおきに隔壁《かくへき》があり、開いた扉《とびら》が壁《かべ》のフックに固定されていた。隔壁を三つ越えるごとに、右舷側に向かう交差点があった。どうやら船殻《せんこく》は、円筒《えんとう》を二本並べたダブルシリンダー構造らしい。
天井《てんじょう》には何本もの配管が走り、中央に面発光のプレートがある。いくつかの配管には、ぼろ布が掛かっていた。汚《よご》れが落ちたようには見えないが、もしかすると洗濯物《せんたくもの》だろうか。ドアの脇《わき》に箱やなにかを積んで、ロープで固定しているところもある。下町の路地裏のようだった。
「さきに着替《きが》えをやるよ」
後ろからパミラおばさんの声がした。
一行は洗濯室のドアの前で立ち止まった。まずロイドとパミラおばさんが入った。
数分後、ロイドは情けない姿になって出てきた。ぼろぼろの腰布《こしぬの》一枚だった。
次はマージとメイの番だった。部屋の片側はロッカーと棚《たな》、反対側には大型洗濯機が三台並んでいる。中央にパミラおばさんがどっしりと立っていた。
「全部|脱《ぬ》いでこの箱に入れな」
二人は黙《だま》って従った。それから、ぼろ布の塊《かたまり》を渡《わた》された。
この規模の艦《かん》なら電力にものをいわせて水や空気、食料を再生できる。だが、衣類ばかりはそうもいかないらしい。
調べてみると、布は二つに分かれた、アールミック繊維《せんい》のなれの果てだった。かすかに残る縫《ぬ》い目の感じは、テントかなにかのようだった。
「……どっちが下ですか」
「穴のふたつあるやつさ。トポロジーってやつだよ」
女は得意気に言った。
「きつく結んじゃだめだよ。破れるからね」
もちろん、そうだろう。二人は黙って着用した。
やがてマージが、ぽつりと言った。
「こんな格好の女が、槍《やり》で恐竜《きょうりゅう》と戦う映画があったわね」
メイも、黙っているのはやりきれない気分だった。
「女だけの部族で、馬に乗って弓を使うのもありましたね」
「あれはさ、ブラが鉄だったわよ」
「そうでしたね」
「二人ともお似合いだよ。こりゃ男どもがほっとかないね。さあ行った行った」
パミラおばさんは嬉《うれ》しそうに言い、二人を外に追い出した。
廊下《ろうか》に出ると、はたして二人の海賊《かいぞく》は喜色満面ではやし立てた。
先に立って歩くと、「いいケツだぜ」「たまんねえな」という声がついてくる。
メイの脳裏《のうり》に、眉《まゆ》をひそめる母親の顔が浮かんだ。
やがて一行は、【B15】というドアの前に来た。
「入りな」
薄汚《うすよご》れた、せまい部屋だった。二段の寝台《しんだい》が両側にあり、つきあたりにクローゼットがある。
「ここで暮らせっての?」
「いい部屋だろ。トイレつきなんてここと艦長室《かんちょうしつ》ぐらいだぜ」
奥《おく》のクローゼットがそれだった。最低のプライバシーがあるのは救いだった。
「なあに、一日中いるわけじゃねえ。どこだって寝《ね》ちまえば同じさ」
海賊の一人が言った。
「しばらく休んでな。じゃあな」
ドアが閉じ、鍵《かぎ》のかかる音がした。
マージとメイは下のベッドに並んで腰をおろした。
ロイドも向い側に腰をおろした。
「……まあ、なんだな」
ロイドが沈黙《ちんもく》を破った。
「こうしてみると、メイもだいぶ女になったじゃないか。ヴェイスの軌道《きどう》港で出会った頃にゃ、まだ――」
「じろじろ見ないでください!」
「すまんすまん。狭《せま》いんで、つい目に入ってな」
ロイドはおざなりに横を向いたが、姿勢が苦しいのでそのままごろりと横になった。
三人は沈黙した。
耳をすませると、タービンか何かのかすかな駆動音《くどうおん》が聞こえた。
「速度、どれくらいでしょう」
「動いてるの? わかんないな」
「潜水艦《せんすいかん》ってのは静かにできてるもんだ」
ロイドが言った。
「動いてるんだろう。どこかへ行けと言ってたからな」
メイは絶望的な気分になった。
この星から脱出《だっしゅつ》するには、シャトルに戻《もど》るしかない。
だが潜水艦は、刻々と島から離《はな》れてゆく。
ちょうど今日が、両親の出発する日だった。こちらも明日中に出発しないと、コニストンで落ち合えない。
軌道港で待ちぼうける両親の顔がちらつく。いまから脱出してシャトルを奪回《だっかい》するなんて、とても無理だ。
メイは運動方程式を恨めしく思った。無理して加速度を上げても、時間短縮の効果はその平方根になってしまう。有り金はたいて推進剤《すいしんざい》を余分につみ、最大加速を続けたとしても、明後日には出発しないと間に合わないのだ。
「元気出しなさいよ」
マージが言った。
「あんたの責任じゃないわ。不可抗力《ふかこうりょく》よ。それにあの野蛮人《やばんじん》みたいな連中、下品だけど見かけほど野蛮じゃないわよ。そうでしょ? ロイド」
「ああ。聡明《そうめい》なリーダーの下でのびのびやってる感じだ。女も対等だしな。君らがひどい目にあうことはないだろ」
それから、ロイドは付け足した。
「ま、メイの心配事はそれじゃないみたいだが」
マージは合点した。メイは時として、最重要課題を無視してひとつの事を思い詰《つ》めることがあるのだ。
「親だって話せばわかってくれるわさ」
「そうでしょうか」
メイはもう泣き顔になっていた。
「私、この仕事、危険だって思いました。危険を承知でやってきて、むざむざその通りになったんです。星系に入った瞬間《しゅんかん》から騙《だま》されてたなんて」
「なあメイ――」
ロイドが寝《ね》そべったまま、切り出した。
「成功する人間の法則ってのがあるんだが、知ってるか?」
メイは答えなかった。いくつか思い当たる言葉はあるが、ロイドが言おうとするものではないだろう。
「どんな時でも、今が人生で最高の時だと考えることだ」
「…………」
「君が家出したのは何のためだ。星々の中で働きたかったからじゃないのか」
「それは」
「そして願いどおり、新しい星に来た。このとおり裸《はだか》で生きられる、素晴《すば》らしい星じゃないか」
「ロイドさんには、願いどおりでしょうけど」
「君の話をしている」
ロイドは起き上がって、メイを見据《みす》えた。
「目を開き、耳をすませろ。匂《にお》いをかげ。出会いを楽しめ。親なんか心配させとけばいい」
「心配させるなんて!」
メイは頬《ほお》を紅潮させた。
「そんなこと、できません!」
「親は子供に心配されることなんか望んじゃいない。親が見たいのは子供の輝《かがや》く顔だ」
「わかるんですか。ロイドさん子供いないのに、わかるんですか!」
「わかるさ。君の三倍も生きてるからな」
「…………」
にらみ合っていると、足音が近づいてきて、ドアの前で止まった。
さっきの男の一人が顔を出した。
「反省会か?」
「作戦会議よ」マージが言った。
「そうかい。まあゆっくりやってくれや」
男はジュラルミンのケースを部屋に運び入れた。
「食いもんだ。二食ぶんある」
「いつまで監禁《かんきん》する気?」
「仕事が決まるまでさ。明日には決まるんじゃねえかな」
男は部屋を出ながら言った。
「悪く思うなよな。捕虜《ほりょ》って扱《あつか》いだからよ」
ドアが閉まる。カチリ、と錠《じょう》の下りる音がした。
ACT・4
翌朝、まずロイドとマージがどこかに連れ出された。
それから、パミラおばさんがやってきてメイを調理場に連れ込んだ。
七十人の食事をまかなう調理場は、狭《せま》いながら強力なものだった。調理台は二列、コンクリート・ミキサーのような大鍋《おおなべ》も二基あり、オーブンやミキサー、スライサーのたぐいも大型が揃《そろ》っている。今は昼食の用意をしているところだった。
「マーブル・ミートを作ったことあるかい」
パミラおばさんは冷蔵庫から大きな缶《かん》を二つかついできて、調理台に乗せた。
「こっちが赤身、そっちが脂身《あぶらみ》。わかるだろ?」
缶には赤と白のペーストが詰《つ》まっていた。焼く前のパイ皮くらいのやわらかさで、引き延ばすと繊維状《せんいじょう》になる。
この原料がどこから来るのかはわかっていた。
海にどれほど植物やプランクトンが満ちていようと、地球産の生物が利用できるアミノ酸は二十種類しかない。当地の素材を加工するより、人間の排出《はいしゅつ》したものを使ったほうが早いのだ。居住区にある原子の量は変わらない。核融合炉《かくゆうごうろ》の膨大《ぼうだい》な電力を注《つ》ぎこんで、その原子を人間が消化できる分子に並べかえるだけだ。
このクラスの大型|艦《かん》になると、排泄物《はいせつぶつ》、生ゴミ、清掃《そうじ》や洗濯《せんたく》で生じる下水まで、あらゆる物質がリサイクルされる。空気と水だけを再生するアルフェッカ号とは規模が違《ちが》う。
合成装置はかきあつめた物質を選別・結合し、ゾル状もしくはゲル状の物質に仕立てる。調理場でやるのは、それを食品にするための最後工程だった。
「臭《にお》い消しに大量のスパイスを使うんだろうね」という古いジョークもあるが、事実はその逆で、無味無臭《むみむしゅう》に食材らしい味や香《かお》りを与《あた》える工夫《くかう》をする。
メイは言われたとおり、黙々《もくもく》と作業した。
まな板の上に、赤身のペーストを厚さ三センチほどの板状に延ばす。調味料をふりかけ、その上に脂身の白いペーストを厚くぬりつける。さらに調味料をふりかけてから、全体をロール状にまるめる。断面は赤身と脂身が渦巻《うずまき》になる。これをスライスすれば、サーロイン・ステーキの一枚になる。
「だけど渦巻じゃうまくないだろ。見てな」
どしん!
パミラおばさんはロールをまな板に叩《たた》きつけ、ねじまげ、しわを寄せては丸め、断面の模様に混沌《こんとん》を与えた。
「やりすぎちゃだめだよ。ただのピンクのペーストになっちまう。ほどほどの変化をつけるんだ」
確かに渦巻よりは食欲をそそる模様になっている。
メイは二つめの肉塊《にくかい》に取りかかった。
どしん、ばたん。
すぐに汗《あせ》が出てきた。二割増しの重力下では結構な力仕事になる。
どしん、ぱたん。
「うまいじゃないか。料理はできるのかい」
メイがうなずくと、パミラおばさんはため息をついた。
「しゃべらない子だね。黙《だま》ってちゃ時間がたたないよ」
「…………」
「しょげるなったって無理だろうけど、できることなら相談に乗るよ。なんでも言ってごっん」
「あの」メイは口を開いた。
「うん?」
「服はどうしましたか。私たちの」
「ああ、悪いけどバラバラにしちゃったよ。生地がないんだよ。運び屋に服なんか注文してごらん、とんでもない値をふっかけられるからね」
「それ、襟《えり》のところ、残ってますか」
「どこも捨てたりなんかしないさ」
「その……襟のところに、記念のフォログラムが縫《ぬ》い込んであるんです」
「記念の? 大事なものかい?」
「ええその、ある人のスナップなんですけど、とても大事にしてるんです。それだけ返してもらうわけには」
パミラおばさんは黙って調理器のスイッチをいくつか押《お》した。それから、
「おいで」
メイが連れて行かれたのは、昨日|着替《きが》えをした部屋だった。
大きなプラスチックの箱の中に、ミリガン運送の作業服の残骸《ざんがい》が投げ込んであった。
メイはかがみこんで、中を調べはじめた。
あった。襟の切れ端《はし》。
作業服はセミ・エマージェンシー・スーツという、緊急時《きんきゅうじ》には宇宙服にもなるものだった。左の襟には小型の通信機が埋めこんである。出力は小さいが、相手が高利得の装置を持っていれば軌道《きどう》上とも通信できるはずだ。軍に位置を通報すれば、救助が望める。いくらなんでも、軍のすべてが腐敗《ふはい》しているわけではないだろう。
「大事な人って誰だい」
肩越《かたご》しに聞かれて、メイはびくりとした。
「そっ、その……いわゆる大事な人なんです」
「どんな男だい。見せとくれよ」
「いやっ!」
メイはとっさに襟《えり》を抱《だ》き寄せた。
「あ、いえ、ちょっとその――プライベートな問題として」
「隠《かく》すことないだろうに」
「それより、鋏《はさみ》かなにかありますか。先のほうだけあればいいので」
工作用の鋏を借りて、メイは襟の先を切り離《はな》した。およそ五センチ四方の生地についた通信機を、手の中に握《にぎ》りしめる。
困ったことに、このビキニスタイルではしまう場所がない。メイはそれを尻《しり》に押《お》し込んだ。なんとか隠し通して、潜水艦《せんすいかん》が海面に浮上《ふじょう》したとき、外に出るチャンスをつかまなくては……。
ところが、そのチャンスはこの直後に訪《おとず》れたのだった。
廊下《ろうか》に面したドアが開いて、若い男が顔を出した。
「やっぱりこっちか」
男というよりは少年だった。小柄《こがら》だが、精悍《せいかん》な体つき。黒い髪《かみ》を短く刈りそろえ、髭《ひげ》もきれいに剃《そ》っている。裸《はだか》の胸元《むなもと》にはふぞろいな白い玉をつないだネックレスが揺《ゆ》れていた。
「二ヴスか。なんの用だい」
「これから花摘《はなつ》みなんだけど、そのう――ジムの奴《やつ》が具合が悪いらしいんだ」
「代わりの男はいくらでもいるだろ」
ニヴスは決まり悪そうな顔になったが、すぐに、きっぱりと言った。
「その子と行きたいんだ」
「一目惚《ひとめぼ》れかい?」
「ああ、そうだよ」
少年はぶっきらぼうに言った。
「告白の手間をはぶいてやったことに感謝しな。けど残念だね。この子にゃ大事な人がいるんだよ」
「えっ」
「あ、大事っていうかその――それより花摘みって?」メイはとっさに質問した。
「海面に出て、花をつけそうな海藻《かいそう》を採るのさ。あたしら海賊《かいぞく》の飯の種だよ」
「海面」
なんてラッキー。メイは思わず声を弾《はず》ませた。
「すてき! やってみたいな!」
「急になんだい。変な子だね」
パミラおばさんはいぶかしげな顔でメイを見たが、こう言った。
「まあいいさ。気晴らしに外の空気吸っといで」
「ありがとうございます!」
メイがニヴスのほうを向くと、青年はパッと白い歯を見せた。
「こいよ。外は気持ちいいぜ!」
「その獣《けもの》に襲《おそ》われたらボートの底を三回|叩《たた》くんだよ、メイ。ばん、ばん、ばん、とね。ずっとソナーで聞いてるから」
ニヴスは長居無用とばかりにメイの手をつかみ、廊下に引きずり出した。
どんどん歩いて、発令所まで来た。海賊の首領――艦長《かんちょう》はいなかった。
「あのー、ジムの奴《やつ》が具合が悪いそうなんで――」
「さっそく手ェ出したか」
副長らしい男が言った。
「危ないと思ったらボートの底を三回叩くんだぜ、嬢《じょう》ちゃん。ばん、ばん、ばん、とな」
考えることは同じらしい。そんなに危ない状況《じょうきょう》なのだろうか。
しかし、このチャンスを逃《のが》すわけにはいかない。
「うまくやれ。ペリスコープで見ててやるからよ」
男たちがどっと笑う。
その画像がスクリーンに出ていた。おだやかな海面が映っている。
いつのまにか海面直下まで来ていたのだ。
「行こう」
ニヴスはそう言って、脱出筒《だっしゅつとう》に通じる梯子《はしご》を登り始めた。
メイも後ろについて登った。
「空に気をつけてろよ、ニヴス。最近様子が変だからな。女をしっかり守れ」
「わかってる」
メイの上と下で、そんなやりとりがあった。
最初のハッチまで登ると、ニヴスが手をさしのべた。
脱出筒の中でしばらく待機する。艦の浮上《ふじょう》を待っているのだろうか。
そうだ、脱出筒。このことを、知っておかぬば。
「あの――ここってなんかエアロックみたいだけど」
「エアロックそのものだよ。宇宙にいるときはエアロックがわりにしてる。こいつを進水させたときはすごかったぜ」
「進水?」
「これってフラードル海軍から借りてるんだ。はるばるタグボートで曳《ひ》いてきて、中に人が乗ったままパラシュートつけて軌道《きどう》から落とすんだ。頭から海につっこむところ、俺、波止場から見てたんだぜ」
「へえ……」
水圧に耐《た》えるために、おそろしく頑丈《がんじょう》にできているのだろう。
「でもなんで脱出筒っていうの?」
「潜水艦《せんすいかん》は出入り口が少ないんだ。ここが前部脱出筒、船尾《せんび》のほうにもう一個ある。だからこれがエアロック兼《けん》乗員出入り口兼|物資搬入口《ぶっしはんにゅうぐち》兼非常口なんだ。緊急《きんきゅう》脱出手順は聞いたかい?」
「いいえ、まだ何も」
「もし事故で浮上できなくなったときは、別の艦がやってきて、船底からドッキング・チューブを出して脱出筒《だっしゅつとう》の外側に連結する。そうやってお互《たが》いに救助できるようになってるんだ」
「潜水艦って、ほかにもいるの?」
「ベクフットにはこれ一|隻《せき》しかないけどな。だけど深度がそう深くない時は、ここからじかに出るんだ。下のハッチを閉めて、頭に脱出用具かぶって、ゆっくり水を入れる。操作はここでやる」
ニヴスは壁《かべ》の操作パネルを示した。
なにげなく目にしていたパネルだが、ここが水圧にさらされる場であることを考えると、円熟《えんじゅく》した技術の産物にちがいない。スイッチひとつとっても、内部に液体を満たした耐圧《たいあつ》設計のはずだ。
そのパネルで、グリーンのランプが灯《とも》った。
「浮上《ふじょう》した。続きはあとでな」
潜水艦は浮上時間をできるだけ切り詰めるんだ、とニヴスは言った。
油圧|駆動《くどう》のハッチが開くと、陽光がばっとさし込んだ。
ニヴスに続いて、メイは甲板《かんぱん》に出た。
「うわあ……」
メイは一瞬《いっしゅん》、立場を忘れた。
もう島影《しまかげ》もない。見渡《みわた》すかぎり海藻《かいそう》の漂《ただよ》う海だった。
笛のような音に振り返ると、司令塔《しれいとう》がそびえていた。
風の音だった。おそらく何千キロもさえぎられずに吹《ふ》いてきた風は、忽然《こつぜん》と現われた黒い壁にぶつかり、収束し、そしてメイの全身にからみついた。
熱気をおぴた、湿《しめ》った風だった。生命の匂《にお》いがした。
甲板に出たらすぐ始めようとしていたことを、メイはすっかり忘れていた。
かわりにロイドの言葉を思い出していた。
目を開き、耳をすませろ。匂いをかげ。出会いを楽しめ。
そうだ。この星に降りてから、自分はまだ何も見ていなかった。
見えてはいたが、見つめなかった。
ニヴスが甲板の貨物ハッチを開いて、畳《たた》んだボートを引き出していた。ボートは重そうだった。メイは駆け寄って、反対側を持った。
「このまま?」
「そう、このまま」
力をあわせてボートを海面に押《お》し出す。水に触《ふ》れると、ボートは自動的に膨張《ぼうちょう》した。それはU字型の気重と船底板、船尾板《せんびばん》からできていた。船尾には推進器らしきものがある。
「先に乗って」
「はい」
メイが乗り込むと、ニヴスはハッチの奥《おく》から円筒形《えんとうけい》の容器を二つかかえてきて、メイに手渡した。それからもやいを解き、タモ網《あみ》を持ってボートに飛び移った。
「これは?」
「海藻《かいそう》を入れるんだ」
ニヴスは容器の蓋《ふた》を取り、船縁《ふなべり》から身を乗り出して海水をすくった。
それから船尾板のハンド・コントローラーを外して手首にはめた。指であやつると、ボートはするすると動き始めた。
メイは船首側に座《すわ》っていた。船底に膝《ひざ》をつき、両手で船縁のロープをつかんで前を見た。
少しうねりがある。うねりに乗り上げるたびに、ボートは、がふ、がふ、と音をたてた。
全身にしぶきを浴びたが、水着同然の格好なので気にならない。
「気持ちいいだろ」
「うん」
メイは笑顔《えがお》を見せた。
どこを見ても、壁《かべ》も天井《てんじょう》もない。
大型コロニーでも味わえない、無類の解放感があった。
空。青く光る大気のむこうに、そのまま宇宙が続いている。太陽でさえ、大気を通してみるとやさしい光になる。なんてのびのびした空間だろう。
やがて行く手の海面に、芝生《しばふ》のようなものが見えてきた。
「あれは――」
「花畑っていうんだ。潮の境目にかたまるんだ」
ボートは徐々《じょじょ》に速度を落としながら、緑一色の海面に接近した。これまでも海藻は至るところにあったが、これほど密生してはいなかった。
「でも花って、白いんじゃ」
「花は普通《ふつう》咲《さ》かない。だけど咲くやつもある。クローバーって草、知ってるか」
「ええ」
「たまに四つ葉が混じるだろ。あんなふうさ。たまに咲く花がある。そいつを探すんだ。つぼみのうちにな」
「へえ……」
すでに咲いた花を探すのだと思い込んでいたが、それでは売り物にならないらしい。
しかし、どうやって見分けるのだろう?
ボートは花畑に分け入って止まった。メイは船底に膝《ひざ》をつき、船縁《ふなべり》から身を乗り出して目の前の海藻《かいそう》を観察した。タンポポのように五枚の葉を海面にひろげている。その中心に、小さな球体がある。これほどの個体も同じだ。
「これって――」
ふりかえると、ニヴスとまともに目があった。視線の向きから、彼がメイの下半身に見入っていたことが想像できた。
「あっ、いやその――メイがバランスを崩《くず》さないかって思ってさ」
「…………」
「ほんとだって。落ちると結構あぶないんだ。海藻がからんだりしてさ」
こん。
メイは拳《こぶし》で船底板を叩《たた》いた。
「あと二回叩けば潜水艦《せんすいかん》が来るよね」
「ああ、そう、そうだな。だけど海に落ちたらそれもできないだろ。な?」
「…………」
「で、なんだよ。なにか聞こうとしてたろ? なんでも聞いてくれよ」
メイはひとまず追及《ついきゅう》を打ち切ることにした。
「この真ん中の丸いのがつぼみ?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、どの草も花を咲かせる用意ができてるの?」
「そうそう。だけどほとんどは咲かないんだ」
「咲く花は、どんな条件で咲くの?」
「日照が減ると咲くらしい」
「でも、なんのために? 地球の花は虫を呼ぶために咲くでしょ? でもここには虫がいないよね」
「それは、わかってないんだ。教授がいろいろ研究してるけど、わからない」
「教授?」
「ウィルフォート教授。あとで花を届けるときに会えるよ。まだ開拓《かいたく》やってた頃から乗ってたんだ。海洋生物学者さ」
「ふうん……」
それから、ニヴスはタモ網《あみ》をのばして海藻《かいそう》を一株すくった。
 手元でつぼみを見て、「ああ、これだ」と言った。
「咲く花?」
「そう。つぼみが――ほら、なんとなく楕円《だえん》になってるだろ」
「そう……かな?」
「まちがいない。こういうのを探すんだ」
「見せて」
メイはじっくり観察した。放射状に開いた葉の中心に、直径二センチほどの球体がある。
いわれてみれば、わずかに縦長の楕円体のような気もする。
「見終ったら、ジャーに入れて。売り物だから、傷《いた》めないようにな」
「うん」
メイは海藻を円筒《えんとう》容器に移した。
それから、まわりの海藻に目をこらした。
一時間ほど続けたが、メイは一つも見つけられなかった。いくつかすくい上げてはみたのだが、ニヴスは違《ちが》うと言った。彼はもう二つ見つけていた。
メイはめげてきた。海藻を見るのをやめて、ニヴスのほうに向かって座《すわ》り込んだ。
「喉《のど》、渇《かわ》いちゃったな」
「ああごめんよ、気がつかなかった。これ、飲んでくれ」
ニヴスは腰《こし》にさげた袋《ふくろ》から、茶色い液体の入った小瓶《こびん》を取り出した。
「なに?」
「大丈夫《だいじょうぶ》、おいしいよ」
アップル・ジュースの味がした。悪くない。
メイは自覚しないうちに態度が大きくなっていた。欲求不満がたまっているところへ現れた男は、自分に一目惚《ひとめぼ》れしたという。精神的に優位に立つと、わがままのひとつも言えてしまう。
「ニヴスは、親はどうしてるの?」
「もう五年会ってないな」
「手紙とかは」
「ここじゃ出せないだろ」
「あ、そうね。でもそれで平気?」
「平気さ」
「ふうん……」
メイの釈然《しゃくぜん》としない顔を見て、ニヴスは言った。
「ベクフットの開拓《かいたく》が始まった時、俺は十四だった。これだって思ったね。家にも学校にもあきあきしてたから、開拓団にもぐりこんだ。開拓、中止になるまでは、ちょくちょく手紙も書いたさ」
「そう」
「自慢《じまん》したかったんだな。一人でここまで来たぜって、親にな。それで手紙書いた」
「親に誉《ほ》められたい気持ち、あったんだ」
「そうかな」
ニヴスは苦笑《くしょう》し、頭を掻《か》いた。
「出入りする船に預ける、遅《おそ》い手紙だけど、一月半ぐらいで返事が届いた。体に気をつけろとか、つまんないことが山ほど書いてあった。それからは、ときどき手紙は出してたけどな」
「開拓が中止になったとき、どうして帰らなかったの?」
「それは――」
少し言いよどむ。思い出したようにまわりの海藻《かいそう》に目をやり、間をもたせようとした。
「ここが気に入ってた。セーリング・シップを作ってそこで暮らすつもりだったんだ」
「でも、どうして海賊《かいぞく》に?」
「艦長《かんちょう》についてったんだ……」
彼が開拓者の拠点《きょてん》、ポート・ホバートの食堂で働いていた頃のこと。
第四艦隊の艦隊|消滅事件《しょうめつじけん》が起きたばかりで、誰もが不安になっていた。何かすごい存在が、空から自分たちを見下ろしているような感じだった。撤収《てっしゅう》命令の噂《うわさ》もあった。
ある晩、店で口論が始まった。
「故郷に帰るだと? このタマなし野郎《やろう》めが!」
そう怒鳴《どな》った男がいた。寄港のたびに店に来る、潜水艦《せんすいかん》ラカンドラ号の艦長だった。
いつもは海で出会ったものを面白《おもしろ》おかしく話す、陽気な人物だった。
「なにがあるかわからんから俺達が来たんだろうが。俺はこの海を全部見るまで帰らん。一人になってもラカンドラ号を乗り回してやる!」
相手がなにか口答えして、喧嘩《けんか》になった。
ニヴスは食器を置くと二人の間に割って入り、相手の男に言った。
「ここはフロンティアが飯を食うところだぜ」
ニヴスはそう言って店から追い出した。
撤収命令が出る前日、艦長が店に来て「いまから船出する。いっしょに来るか、坊主《ぼうず》」と言った。ニヴスはすぐに荷物をまとめた……。
「ふうん……」
「俺はフロンティアだ。艦長がそう認めてくれた。だから仲間に入った。すごすご家に帰って、親に『それごらん』なんて言われるつもりはなかったんだ」
自分と似ている。メイは思った。意地だ。
「親には悪いと思うよ。だけどこれだけは決めてる。俺が親になったら、子供がどこへ行こうが文句は言わないってな」
「そう」
「教授の受け売りだけど、人ってのは遺伝子をまきちらすために生きてるんだそうだ。住めるとこを探して、どこへでもいく性分《しょうぶん》なんだ。わかる気がする。そうやって俺はここまで来たし、ここに住む気でいる。だから……なあメイ、俺と」
ニヴスは急に身を乗り出し、大声で言った。
「俺と結婚《けっこん》してくれ!」
「え!?」
「女がいなきゃだめなんだ。家を建てて子供をつくるんだ!」
「ち、ちょっと――」
メイは船底板をいざって後退した。
「子供って、それよりなにより、私、今日中に帰らないとっ!」
「昨日メイを見たとたん、わかったんだ。ずっとなにか足りなかった。いつまでも潜水艦《せんすいかん》で暮らすわけじゃない。俺は女をみつけなきゃだめだってわかったんだ」
ニヴスはさらに詰《つ》め寄ってきた。メイは船首まで後退し、もう後がなかった。
「待ってニヴス、落ち着いて、ゆっくり考えて!」
「ゆうべから考えてる!」
「あわわ――」
異常接近。進路交差。
脳全体に鳴り響《ひび》くニアミス警報で、メイは冷静な思考ができなくなった。
そして無我夢中《むがむちゅう》で、拳《こぶし》を固めたのだった。
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   第三章 ライトセール
ACT・1
「あーっ、ばか! やめろ!」
ニヴスがそう叫《さけ》んだ時には、メイは拳《こぶし》で船底板を三回ノックしていた。
「おい〜〜」
ニヴスは眉《まゆ》をハの字にして、情けない声で言った。
「俺《おれ》がなにをしたよ〜〜」
「なにをって、だって――」
「まだ指一本触れてねーだろーが。みんなにそう証言してくれよ、頼《たの》むから」
「ご、ごめんなさい。でも『まだ』って……」
話しているうちに、さわさわと水音がして、目の前に潜水艦《せんすいかん》が浮上《ふじょう》した。
司令塔《しれいとう》の上に副長が顔を出す。両手でメガホンを作り、
「おーい、嬢《じょう》ちゃん無事かあ?」と叫んだ。
「無事だよ! 指一本触れてないんだ!!」
ニヴスが怒鳴《どな》り返す。
「じゃーなんで非常呼び出ししたー?」
「すみませーん、私が早まったみたいなんです!」
メイが答える。副長が肩《かた》をすくめるのが見えた。それから、
「まーいい、せっかく浮上したんだ。艦《かん》に戻《もど》れー」と腕《うで》を振《ふ》った。
「アイアイ……」
ニヴスはため息をつくと、ボートを甲板《かんぱん》の下に接舷《せつげん》させた。
飛び移ったニヴスに、メイがロープを投げる。
「三分以内に片付けるんだ。長いこと浮かせるなって叱《しか》られる」
「あ、はい」
ニヴスは不機嫌《ふきげん》そうだった。
「あの、ごめんなさい。なんだか私――」
「いいんだ」
メイはボートの荷物を手渡《てわた》した。ボートが空になると、ニヴスの差し出した手をつかんで甲板に飛び移った。
二人でボートを引き上げ、空気を抜《ぬ》き、折り畳《たた》んで格納する。
メイは花の容器を抱《かか》え、脱出筒《だっしゅつとう》のほうに歩きかけた。
その時、空の一点に、なにかが光ったような気がした。
容器を甲板に置き、もういちどその方角を見る。
「どうした?」
「ええと……あれ、何かな」
南の低い空、澄《す》んだ青空に溶けこむように、白い点が浮かんでいる。
「駆逐艦《くちくかん》か?」
「そうかな?」
大きい船になると、昼間でも地上から見えることがある。
しかし、どうも見え方が変だった。点は点だが、鋭《するど》さがない。雲のようににじんでいる。
副長はもう中に戻《もど》っていた。
ニヴスは司令塔《しれいとう》の根元のパネルを開き、ハンドセットを取って、発令所に通報した。
「こちら甲板、南西低空に飛行物体が見えます」
それからニヴスは数歩さがり、司令塔の上を見上げた。
ペリスコープ先端《せんたん》のカメラが首を振《ふ》る。
「もうちょい上……ええ、そのへんです」
「ね、どんどん薄《うす》くなるみたい」
水にミルクを一滴《いってき》落としたようだった。白い点は面積をひろげるとともに、急速に淡化《たんか》してゆく。
「どんどん淡《あわ》くなってます。見えますか?……広角なら……」
それから、
「こっちもほとんど見えないです……はい……戻ります」
ニヴスはハンドセットを戻し、
「先に降りて。急速|潜航《せんこう》だ」
「はい」
周囲の海面がざわめきはじめた。バラスト・タンクへの注水が始まるとともに、艦が前進し始めている。
二人は容器を脇《わき》に抱《かか》え、大急ぎで脱出筒《だっしゅつとう》に入った。
発令所に入ると、副長が振りかえって言った。
「流星|痕《こん》かなにかじゃないのか、あれは?」
「でも、最初ははっきりした光点に見えたんです」メイが答えた。
「俺も見たよ。もっとくっきりしてた」と、ニヴス。
「それから、なんとなく平らな円盤状《えんばんじょう》に広がった感じでした」
「どうもわからんなあ。レーダーを当てりゃいいんだが」
よほどの必要がない限り、潜水艦《せんすいかん》が自分から電波や音波を出すことはない。敵に位置を知られる恐《おそ》れがあるからだ。
「深度二百」操舵手《そうだしゅ》が言った。
「ま、ここまで潜《もぐ》りゃ大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
副長が言った。
「まさかとは思うが、アブレーターかもしれんからな」
ああそうか、とメイは合点した。
ミサイルが大気|圏《けん》に突入《とつにゅう》する時、弾頭《だんとう》を覆《おお》う融除材《アブレーター》が燃えてガスが拡散する。
弾頭らしきものは見当らないが、兵器のことだから一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない。大事をとって回避《かいひ》行動を取ったのだろう。浮上《ふじょう》して観測を続けていればもっと詳《くわ》しいデータが得られたかもしれないが、海賊《かいぞく》はそんな悠長《ゆうちょう》なことはしないのだ。
警戒《けいかい》するところをみると、やはり軍とは実質的な敵対関係にあるらしい。海賊に手を貸しているのは、軍のごく一部なのだろう。
あるいは、最近になって軍が態度を硬化《こうか》させているのかもしれない。そんなふしもある。
「もういいっすか、副長。花を教授に届けないと」
ニヴスが言った。
「そうしろ。デートの顛末《てんまつ》はあとでゆっくり聞かせてもらうからな」
思い出したように、どやどやと笑い声が上がる。
「叩《たた》き方ですぐわかったぜ。ありゃ女の子のエマージェンシーだってな」
ソナーマンが言った。ハッカーみたいな風貌《ふうぼう》の若者だった。
「今後のために、音源ライブラリに登録しといた。へへへ」
「笑ってろ」
ニヴスは両手に容器を下げ、憮然《ぶぜん》とした顔で出ていった。
メイはちょっとためらったが、ニヴスの後を追った。
ACT・2
二人は発令所を出ると、右舷《うげん》側の通路に入った。
メイはニヴスの背中に話しかけた。
「あの、ごめんなさい。笑われるようなことしちゃって」
「いいんだ。あの変な物のせいで、なんか切り抜《ぬ》けたみたいだしな」
ニヴスは立ち止まって、こちらを向いた。
「話、終わってないからな」
「あ……」
「俺、お前と結婚《けっこん》する気だ。おまえが要《い》るんだ。言ったからな」
ニヴスはくるりと背を向け、先に立って歩きはじめた。
メイはどう反応していいかわからず、黙《だま》ってあとをついていった。
ニヴスは【生化学|分析《ぶんせき》】というプレートのかかったドアをノックし、返事を待たずに開いた。
「採れたか」
奥《おく》からしゃがれ声がした。
「三つ。南方種だと思うけど」
ごみごみした部屋の奥で、長身の男が立ち上がった。伸び放題の髭《ひげ》と、袖《そで》や裾《すそ》がすっかりすりきれたアンダーシャツの組み合わせは、無人島に漂着《ひょうちゃく》した水夫を思わせる。
ウィルフォート教授は六十|歳《さい》代に見え、やせて、気難しそうだった。筋張った手や首、顔はよく陽《ひ》に焼けている。フィールドワークもするのだろう。
容器の蓋《ふた》をとって中を覗《のぞ》きこみ、そうだな、とつぶやく。教授は壁際《かべぎわ》の大きな水槽《すいそう》に、中身をそっとあけた。
それから、ガラス越《ご》しに収穫《しゅうかく》を観察しなおす。
「三つとも当たりだ」
「俺、腕《うで》を上げたろ?」
教授は答えず、装置の前に戻《もど》って、小さなスクリーンの観察に没頭《ぼっとう》していた。
ニヴスも返事を期待してはいない様子で帰りかけたが、メイがなにか聞きたそうな様子なので立ち止まった。
メイはこの仕事についてから、いろんな科学者に出会ってきた。運送業とはいえ辺境は若い開拓地《かいたくち》だから、科学者はどこにでもいる。メイは、無愛想な科学者に限って手に負えないほど饒舌《じょうぜつ》になることを知っていた。
「あの、質問していいですか?」
返事がない。メイは続けた。
「花がなんのために咲《さ》くのか、知りたいんです」
こんども返事がない――と思った頃《ころ》、教授は口を開いた。
「わからん。それを調べとる」
「繁殖《はんしょく》に関係があるんですか」
教授はため息をつき、こちらを向いた。
「そうに決まっとるだろ。それが生物の存在理由だ。おまえらが好きあうのと同じだ」
「あ、いえそれは――」
「花が生殖器官かということなら、ちがう。こいつらは雄株《おかぶ》の根粒《こんりゅう》から精子にあたるものをとばして生殖する。花などつける必要はない。この花には雌《め》しべも雄しべもない。花弁があるだけだ」
「花って、どんなふうに咲くんですか」
「見たことないのか。おまえも見ない顔だな。いつのまに乗った。いやいい。来なさい」
教授は立ち上がり、メイたちの前をすり抜《ぬ》けて廊下《ろうか》に出た。せかせか歩いて、すぐ隣《となり》の部屋に入る。
「壁《かべ》をぶちぬいてくれと言っとるんだが、船殻《せんこく》構造だっていう。潜水艦《せんすいかん》は不便でかなわん」
部屋には、水槽《すいそう》を固定したラックが何列も並んでいた。
水槽にはさっき採集したのと同じような海藻《かいそう》が浮《う》かんでいた。
どの水槽もぴったりと蓋《ふた》がされ、艦の動揺《どうよう》にそなえている。端末《たんまつ》装置が一台あり、水温かなにかを集中表示していた。
「ここは研究するところじゃない。商売だ。こいつらは売り物だ。開花すると売り物にならん」
教授は吐《は》き棄《す》てるように言った。
「だが抜き取り調査はする。本当に咲くか、どんな花をつけるか、調べなきゃいかん」
教授はつきあたりのラックまで早足で歩き、カーテンを開いて中の水槽を示した。
これが、花か……。
カトレヤに似ている。五枚の葉の中央から噴水《ふんすい》のように五枚の花弁がたちあがり、弧《こ》を描《えが》いて垂れ下がる。末端は水面すれすれまで達していた。
茎《くき》にあたるものはほとんどない。花弁は薄《うす》く、縁《ふち》はわずかにフリルする。色はただ乳白色で、模様や濃淡《のうたん》はない。
真上から見ると、五枚の葉の間に、新たに白い葉が生えたようだった。
そうだ――この印象は、花というより葉に近い。
「すごくきれい、というわけでもないですね……」
「つまらん感想だな。これが高値で売れるのは、ほかで手に入らんからだ。美しいからじゃない」
「そうですか」
「いや、つまらなくはないな」
教授はふいに訂正《ていせい》した。
「その直観は当たりだ。この花には色気がない。本来、花ってのは性器だ。セックスアピールをする。ニヴスを誘引《ゆういん》したおまえの胸や尻《しり》と同じだ」
「あの……」
「教授〜」
「異性にじかにアピールするわけじゃない。だが目的は同じだ。花は自分の遺伝子の運び手を引き寄せる。色や形や蜜《みつ》の匂《にお》いでだ。花は虫とセックスする」
教授は話し続けた。
「だがこの花には色気がない。品種は海域や海流ごとに違《ちが》う。だがどの品種も、花は真っ白で、ほかより目立とうとしていない。なぜだ?」
メイは首を傾《かし》げる。
「白にどんな意味がある?」
「ええと……」
「可視光のスペクトル領域を等しく反射する。それが白だ」
なるほど、とメイは思った。教授の考え方がわかってきた。
花とは何か。白とは何か。より根源的な要素に還元《かんげん》することから始めるのだ。
「じゃあ、咲かない花と咲く花はどこが違うんですか」
「二種類の花があるのではない。違うのは開花条件だ」
「開花条件……ええと、日照が減ると咲くんでしたよね。咲く――咲きやすい花は」
「そうだ。ここにある花は日照が五分の一になると九十パーセントが開花する」
「咲きにくい花も、もっと日照を減らしたら咲くんですか」
「変化は線形ではない。普通《ふつう》の花は暗黒にしても咲かない。そして暗黒が続けば、どの海藻《かいそう》も死ぬ」
「でも、どの海藻もつぼみはついてますよね。花を咲かせる用意があるのに――」
「そうだ。ベクフットでこれほど繁栄《はんえい》している生物はないから、つぼみで終わる無駄《むだ》な器官であるはずがない。このことから普通な海藻には日照以外の開花条件があるとわかる」
「普通の海藻が、開花したことはなかったんですか」
「あるよ」
ニヴスが言った。
「四年前、北レーネルト洋の沿岸でいっせいに開花したんだ」
「ほんと?」
「この目で見たんだ」
レーネルト洋はベクフット四大洋のひとつで、ニヴスが住んでいたポート・ホバートもその海に面している。
ニヴスは密航同然にもぐりこんだので、仮設住居の割り当てもなかった。そのため、当時は海岸の食堂に住み込みで働いていた。
毎朝、一番に起きて外回りを掃除《そうじ》する。その日もニヴスはモップを持ってテラスに出た。
海が見えるテラスだった。
流氷……か?
海が水平線まで白くなる理由を、ニヴスは他に思いつかなかった。
自分の目で見たことがなかったが、極地方の景観はニュース映像で親しんでいる。
ニヴスは波止場まで駆《か》けおりた。すでに人だかりができていた。
氷と見えたものは、波とともに上下し、波打ち際《ぎわ》で揉《も》まれていた。
「花が咲《さ》いたのは、ホバートのあたりが最初だった。それが一か月くらいで北レーネルト洋の沿岸全域にひろがった。毎年咲くかって思ったらそうじゃなかった。もっと長い周期で咲くっていうんだ。そうだろ、教授」
「そう考える者もいる」
教授はニヴスの表現を訂正《ていせい》した。
「だが、開花の原因はわかっていない。開花の前、日照に大きな変化はなかった。開拓団《かいたくだん》の到来《とうらい》によって、ごく微量《びりょう》の物質が環境《かんきょう》ホルモンとして作用したとする説もある。わしもその線で調べとる」
環境ホルモンとは、生物の生殖《せいしょく》行動に外部から働きかける物質|全般《ぜんぱん》をさす。環境ホルモン物質は、いわゆる環境|汚染《おせん》物質にくらべて、はるかに微量でも作用する。
「なにかの前触《まえぶ》れじゃないかって噂《うわさ》もあるよ。あのあと太陽活動が活発になったし、第四|艦隊《かんたい》の消滅事件《しょうめつじけん》があったし」
「えっ……」
動物が地震《じしん》を予知する話は聞いたことがある。
だが太陽活動に艦隊消滅とは。宇宙空間で起きることを、惑星《わくせい》上の生物が予知するなんてことがあるだろうか。
「あのあとって、正確にはいつごろ?」
「えっと……」
ニヴスが言いよどむと、教授がかわりに答えた。
「太陽活動が変化したのはホバートの開花から二十五日めだ。それから一週間あまり、日照が〇・〇二パーセント増えた。艦隊が消滅したのは開花から二十八日めだ」
「花とどんな関係があるんでしょう? もし前触れだとしたら、花はどんな情報をもらって咲《さ》いたんでしょう」
「わからん」
教授は簡単に答えた。
「太陽の光は中心部の核融合《かくゆうごう》で生まれる。生まれた光が太陽の外に出るまでどれくらいかかるか知っているか」
「ええと……」
メイは暗算した。太陽の半径を七十万キロとすれば――
「二秒ちょっとですか」
「百万年のオーダーだ」
「え!」
「高密度の物質中では、光もまわりみちをする。出発点が数百万年前にある以上、太陽内部を調べる手段があれば、活動変化を予知することは不可能ではないだろう。だが、今の我々にはできないし、海藻《かいそう》にできるとも思えん」
「じゃあ、艦隊消滅《かんたいしょうめつ》はどうなんですか」
「わしに聞けばなんでもわかると思うのか。情報は軍が握《にぎ》ったまま、ちっとも明かそうとせんのだ」
「でも噂《うわさ》はあるぜ」
ニヴスが言った。また噂か、と教授がつぶやく。
「ダリエン基地から筒抜《つつぬ》けだもんな。あれはイレギュラー・ジャンプなんだって。超《ちょう》空間で迷子になったんだ。戦闘《せんとう》とかじゃなくて」
「根拠《こんきょ》はあるの?」
「エイリアンと交戦したりしたら、なにか残るはずなんだ。事件のあと、偵察艦《ていさつかん》がいろんな場所にジャンプして、情報収集したらしい。だいたいいつごろ消えたか見当つけて、そのときの光や電波が届くあたりに出向いたんだ」
「でも、なにも受信できなかった?」
ニヴスはうなずいた。
「だから、艦隊はどこかものすごく遠い場所か、別の宇宙にとばされたって思われてる」
「それは噂だ」
教授が言った。
「ダリエンから洩《も》れる情報など、兵卒の噂話にすぎん」
ACT・3
「……そうか、よし、それでいい。だが隠れてばかりじゃいかん。三時間おきにペリスコープを出して様子を見ろ。……大丈夫《だいじょうぶ》だ、核《かく》なんか使うもんか」
シェパード艦長が受話器を置くと、ロイドは言った。
「なんだか物騒《ぶっそう》な話をしてるな」
「軍に包囲されながら密猟《みつりょう》でかせいでるんだ。抜《ぬ》け目なくやらなきゃな」
「花の密猟か」
「そうさ。四年前、撤収《てっしゅう》命令に背《そむ》いた奴《やつ》は四百人もいた。それがいまじゃ俺たちだけさ。いくら宇宙艦が集まったって、潜水艦《せんすいかん》には手出しできん。そのラカンドラ号を維持《いじ》するためにゃ、商売ってことを考えないとな」
「で、潜水艦の次はシャトルか」
士官食堂はごく狭《せま》いが、落ち着いた調度類を揃えていた。木製ニス塗《ぬ》りのテーブルと椅子《いす》、壁《かべ》には小さなバーや視聴覚《ちょうかく》機器、書棚《しょだな》も作り込まれている。
ラカンドラ号が軍艦として機能していた頃は、制服を着た人物が利用していたのだろう。視察に訪《おとず》れた政府要人を迎《むか》えるにも、この部屋が使われたはずだった。
いま部屋にいるのは半裸《はんら》の男女だった。シェパード艦長、その向い側にロイドとマージ。
艦長はシャトルを運用するにあたってのノウハウを聞き出しているところだった。
最初、マージは協力的ではなかった。手塩にかけた愛機を奪《うば》われ、その扱《あつか》い方まで教えろというのだ。ところが、ロイドのほうは饒舌《じょうぜつ》だった。
「いいかね、艦長。似たようなもんだと思ってるようだが、シャトルは潜水艦とは違《ちが》う。速度は一万倍も速い。一回の任務期間は比較《ひかく》にならんくらい短い。重量制限もまるでちがう。シャトルみたいな乗物は質量との戦いだから、ぎりぎりまで軽く作ってある。これがどういうことかわかるかね」
「部品点数じゃラカンドラ号のほうがずっと多いだろう」
「たしかに潜水艦も宇宙船並みの複雑なシステムを持つ。違うのは耐久性《たいきゅうせい》だ。ぎりぎりまでダイエットした二十トンの機体が百トンの貨物をしょって三Gで加速する。丈夫《じょうぶ》で長持ち≠ネんて設計思想じゃこの性能は出ない。たいていのミッションは半日仕事だし、長くて一週間だ」
「…………」
「シャトルは短距離《たんきょり》選手なんだ。ある瞬間《しゅんかん》に全力を使い果たしてボロボロになる。そいつを人間が寄ってたかって整備して次の飛行に備えるわけだ。わかるかね?」
艦長《かんちょう》は腕組《うでぐ》みした。
「たゆまぬ整備がいるということか」
「あれは旧式だからパーツを揃《そろ》えるのも大変よ」
マージもロイドの意図に気づいて加勢した。別に嘘《うそ》をつくわけでもない。
「パーツリストを渡《わた》せば揃うってもんじゃない。ジャンク屋をまわったりもするしね」
「そういうことだ。航空戦力ってのは昔から金食い虫と相場が決まってる。ここでやるとなると――まず何から始めるかな」
「交換頻度《こうかんひんど》の高いパーツをリストアップして、ボルト一本から揃えないとね」
「あんな洞窟《どうくつ》じゃない、ちゃんとした格納庫もいるな。湿気《しっけ》も塩分も御法度《ごはっと》だ。気密のクリーンルームがいる。大型のガントリー・クレーン、検査ロボット、複合材料を扱《あつか》う化学ワークショップに――」
「千気圧級のチャンバーと非|破壊《はかい》検査機器も一式いるわね。シャトル十機ぶんくらいの出費になるけど」
「おいおい――」
海賊《かいぞく》の首領は両手をかざして押《お》しとどめた。
「そりゃあんまりだ。この格好を見りゃわかるだろ。服だってバカ高くて我慢《がまん》してるんだ。何を買うにも非合法の運び屋を通すんだからな」
ロイドとマージは目配せをかわした。
「どーやら、お役に立てなかったようね?」
「疑うなら自分で納得《なっとく》いくまでいじってみてもいいぞ。空中分解を覚悟《かくご》するならな」
「まてまて。まだ放免《ほうめん》はしないぞ」
シェパードは踏《ふ》みとどまった。
「俺は気のすむまでこの海に潜《もぐ》っていたいくちだが、一生海賊やる気はない。他の連中もそうだ。開拓《かいたく》が解禁になりゃ花の価値は暴落する。それまでにしっかり稼《かせ》いで、第二の人生を送ろうって気でいる」
「シャトルも短期リースですませようってか?」
「そうだ。長いに越《こ》したこたぁないが、今の話じゃ無理らしい」
「それじゃ聞くが――いつまで海賊|稼業《かぎょう》ができると踏んでる?」
ロイドが尋《たず》ねた。
「わしらだって、そう長くないことは見当がつく。今日明日が勝負じゃないのか」
「なぜそう思う」
「航路情報さ。軍はもうじき星系全体を封鎖《ふうさ》する。いっぽうあんたはいざって時にそなえて<Vャトルを確保した。もうひとつ、うちの積荷はグラヴィテックの精密機器だ。たぶん重力波の観測装置だろう。軍用というよりは研究用の機材だ。これだけ揃《そろ》えば何かあるってことぐらいわかるさ」
「なるほどな」
「軍はなにをする気だ? そいつは軍が起こすんだろう」
「たぶん」
「教えてくれ。でなきゃ手伝えん」
「手伝う?」
「そりゃそうだ。宇宙運送をなんだと思ってる。こっちが手伝う気にならなきゃ、なにもできんぞ」
「わかった。しかし、わからんのだ」
艦長《かんちょう》はそう答えた。
「本当だ。軍が何かやるのは間違《まちが》いない。だが中身はさっぱり伝わらん。ダリエン基地の駐留軍《ちゅうりゅうぐん》と完全に切れた、新手の部隊が来てる。どうやら惑星《わくせい》規模の異変を起こすつもりらしいが」
「艦隊|消滅事件《しょうめつじけん》と関係があるのか?」
「だろうな。あれはエイリアンの攻撃《こうげき》だったのか――」
「その異変に備えて、シャトルを分捕《ぶんど》った」
「そんなとこだ」
「シャトルで何をする。自分だけ逃《に》げる気か」
「そんなクズ野郎《やろう》に海賊《かいぞく》のボスがつとまると思うか」
シェパードは凄味《すごみ》のある目でロイドをにらんだ。ロイドはすぐに認めた。
「ごもっとも」
「異変が始まったら、シャトルで偵察《ていさつ》に出る。就寝《しゅうしん》中だろうが叩《たた》き起こすからな」
艦長はそう言ってから、つけ足した。
「どうやら、ぼちぼち始まってるらしい」
ということは、わしらはシャトルのそばにいるわけだな。
脱走《だっそう》のチャンスだが――メイに教えてやるべきか>
ロイドはそっと、かぶりを振《ふ》った。
やめとこう。こんな面白《おもしろ》いものを見逃《みのが》してたまるか。
ACT・4
その夜から、ミリガン運送の三人は居住区内での自由行動が許されることになった。
三人とも無分別な人間ではないらしいし、実際問題として監視《かんし》や監禁は手間がかかる。どうせ逃《に》げられっこないのだから放してしまえ、という判断だった。
それに先立って艦内《かんない》放送で、三人を居住区以外――機関区など――で見かけたらただちに通報すべし、と告知されている。ラカンドラ号は二交代制で動いているから、二十四時間、艦内のいたるところに人がいる。監視の目はどこにでもあった。
三人は下士官用の船室に移された。広さは前の部屋と変わらない。二段ベッドが向かい合わせにあり、トイレはなかった。トイレについてはむしろ不便だが、メイとマージは喜んだ。たとえロイドであっても、異性のいる部屋で仕切り一枚へだてて事をなすのは精神的苦痛をともなうのだった。
夕食後、することもないので三人はベッドに寝転《ねころ》んで、その日の出来事を話し合った。
調理のこと、花のこと、シャトル運用のこと。
メイはある重要な事件を最後まで話さなかったが、結局、話さずにはいられなくなった。
ロイドは早々といびきをかいている。メイは小声で言った。
「……マージさん、もてました?」
「まあ、いつも並にはね」
「そうですか」
メイはそこでロをつぐんだ。
「なんで?」
「まあその――」
「あんたももてたの?」
「ていうか……プロポーズされたんです」
「ええっ!」
ばっ、と音をたてて、マージが身を乗り出した。メイもベッドの端《はし》から顔を出した。
「誰《だれ》に? どんなふうに? いつ? どこで?」
「つまり――」
メイが一通り説明すると、マージは、ううむ、と唸《うな》った。
「それって、一目惚《ひとめぼ》れっていうかあ?」
「……やっぱり、変ですか?」
「恋の告白ってのはさあ、基本的に『好きだ』で始まるもんよねえ?」
「それはだから、パミラおばさんが手間を省いてくれちゃったわけで」
「そうだけど、それですませるかなぁ? 男として。そもそも告白の前段階として食事にさそったり、あれこれ好意を示すわけだけど、それは相手に心の準備をさせるためよね。そのへんが全部すっとばされてるってのは――」
「…………」
「まあそれは百歩ゆずるとしてもよ、プロポーズがなってないわよねえ」
「そうですか?」
「まるでメイを見て結婚《けっこん》の必要を思いついたみたいじゃない。『あっ女の子がやってきた。そういや俺も結婚しなきゃな』みたいなさ」
「たしかに」
「その子、あんたのこと知ろうとした? 出身地とか趣味《しゅみ》とか、聞かれた?」
「いいえ」
「だめだわそりゃ。もう女なら誰でもいいって感じじゃない」
「ですねえ……」
メイは同意した。あの話からすると、ニヴスは十九歳のはず。たぶん、艦内《かんない》で誰よりも若いだろう。そこへ自分が来た。となれば……。
「ふっちゃいなって」
マージはさばさばと言った。
「どっちみち、ふるしかないでしょ。一生ここで暮らすんなら別だけど――にしたって、そんな山出しの男といっしょになることないわよね」
そうしめくくる。すぐに寝息《ねいき》が聞こえてきた。
メイも目を閉じた。
今日は異星の海を堪能《たんのう》したし、花にも興味をそそられた。出会いがあり、プロポーズまでされた。だが目蓋《まぶた》を閉じると、思うのは両親のことだった。
二人の乗った客船は……もう、サイトロプスの重力|圏《けん》を出て、ジャンプドライブに入った頃だろう。
いよいよ眠《ねむ》りに落ちる頃になって、メイはカッと目を見開いた。
なんてことだ。絶好のチャンスだったのに、通信機を使い損《そこ》ねた!
あの騒《さわ》ぎのせいだ。ニヴスの馬鹿《ばか》。
ACT・5
昼食のあと、カートミル夫妻は部屋に戻《もど》ったところだった。
ロティー・ブラッサム号はジャンプドライブを続けている。
かすかに響《ひび》いていた機関の音が変わったが、それを除けばこれという変化はなかった。
窓の外は漆黒《しっこく》の闇《やみ》になるので、シェードが降りたままになっている。
ベスは船会社が用意した星図を開いて、「もうこのあたりまで来たかしら?」と聞いた。
「なんともいえないね。ジャンプ中は時間と空間が普通《ふつう》じゃないんだ。その地図の中のどこにもいないと考えたほうがいいかな」
「不思議なものね」
「まったくだ」
それからジェフは、昨日ティー・ラウンジで船長に声をかけられたことを思い出した。
「どうだい、せっかくだからブリッジに行ってみないか」
「ブリッジ? 昼間でも入れるの?」
「昼も夜もないさ。スローカム船長がいつでも訪《たず》ねてくれって言ってたろ」
「そうだったわね……」
「このさい宇宙旅行通になろうじゃないか。メイに負けないためにも」
「そうね。そうしなきゃね」
ベスは決心したようだった。
彼女の宇宙船に対する漠然《ばくせん》とした恐怖感《きょうふかん》・嫌悪感《けんおかん》はまだ払拭《ふっしょく》されていない。
ヴェイスを宇宙|機雷《きらい》がとりまいていた頃、メイはその才能を買われて、機雷原専門のナビゲーターをしていた。消耗率《しょうもうりつ》は高かったが、宇宙交易は惑星《わくせい》ヴェイスの生命線だった。
我《わ》が子の殉職《じゅんしょく》におびえた日々は、宇宙船そのものへの嫌悪となって、いまもベスの心に影《かけ》を落としている。
レストランとラウンジとゲームホールと、知り合った客の部屋。妻はたまたま既知《きち》となった空間だけで居心地《いごこち》のよい生活|圏《けん》を構築しようとしている。
船旅が始まってから数日で、ジェフはそんな観察をしていた。
パーサーに電話してブリッジ見学を申し込んでみると、簡単にOKが出た。
まもなく、応対したパーサーが迎《むか》えに来た。夫妻は一等デッキから、普段《ふだん》乗客の通らないセントラル・シャフトに入った。シャフトはロティー・ブラッサム号の全長を貫《つらぬ》く円柱で、車が通れるほどの通路があり、周囲には大小の配管が走っていた。所々にある気密|隔壁《かくへき》すべて開いており、彼方《かなた》まで見通せる。
「飾《かざ》り気はありませんが、頑丈《がんじょう》な造りでしょう。ここが船の背骨です。昔の水上|船舶《せんぱく》なら竜骨《りゅうこつ》といいますか」パーサーはそう説明した。
しばらく船首側に歩き、エレベーターに乗る。三階上のシグナル・デッキで降りると、廊下《ろうか》のつきあたりがブリッジだった。
耐圧《たいあつ》ドアが開くと、ガラス張りの控《ひか》え室があり、その先に大型のスクリーンと三列のコンソールが見えた。オペレーターは船長を含《ふく》めて六人。ブリッジ要員は地球時代の水上船舶よりむしろ多いくらいだが、これは高度な集中管理と遠隔制御《えんかくせいぎょ》の結果だった。エンジンは百二十メートル後方にあるが、機関手さえブリッジにいる。
パーサーが合図すると、スローカム船長が立ち上がって控え室のドアを開け、夫妻を中に招き入れた。
「やあ、お待ちしてましたよ。殺風景な場所ですが、どうぞお入りください」
「殺風景だなんて。子供の頃はあこがれたものです」
三人は船長席のある壇《だん》に立って、中を見回した。
ジェフは正面の格子をさした。
「あれは窓ですか。素通《すどお》しになる?」
「そうです。いまはジャンプドライブ中なのでシャッターを降ろしてますが」
「星系内では、さぞ壮観《そうかん》でしょうね」
「それはもう。宇宙船に窓などいらないという意見もありますが、それは乗り手の心を知らない者の言うことでしてね。スペースマン協会はあらゆる船のブリッジに窓をつけるよう、もう二世紀にわたって船主と戦い続けていますよ」
「素晴らしい」ジェフは笑《え》みをうかべ、妻に言った。「君だって目隠《めかく》しされてカートを運転したくはないだろ?」
「そうね……でも隕石《いんせき》がとびこんできたりしないかしら」
スローカム船長は古典的な不安に微笑《ほほえ》んだ。
「まったく心配いりませんよ、ミセス・カートミル。窓はきわめて強靭《きょうじん》ですし、小さな隕石はぶつかる前にイオン化して磁場でそらします。大きいものは船のほうで避《さ》けますし」
「そうですか……ええと」
ベスは前方にあるいくつかのコンソールを見回した。
「あの、航法士の方はどなたですの?」
「こちらです」
船長は手前右側のコンソールに夫妻を案内した。
「シェリダン君、こちらはカートミル夫妻。ミセス・カートミルに君の仕事を説明してくれたまえ」
「喜んで」
シェリダン航法士は起立して一礼すると、コンソールを示した。
「ここだけの話ですが、宇宙船にとって最も重要な人間は航法士です」
ここだけではすまない声量だったので、おだやかなブーイングと笑いの波紋《はもん》がひろがった。
「宇宙に道路はありませんが、航路は直線ではありません。たとえば恒星《こうせい》や惑星《わくせい》などの重力場は道路の窪《くぼ》みに相当します。窪みに近づくだけでも針路が曲がりますし、ジャンプドライブの最中には障害物として避けなければなりません。わかりますか」
「ええ」
「宇宙船は決してまっすぐに飛ぶわけではないのです。宇宙は常に変化していますから、あらかじめ航路を熟知《じゅくち》し、変化を予測し、飛行計画を立てます。飛行のあらゆる段階は連続した曲線で結ばれるので、出港の時点ですべてが決まっていると言ってもいいでしょう。いい航海士は一秒の時間も、一滴《いってき》の燃料も無駄《むだ》にしません。操舵手《そうだしゅ》がヘマをすれば別ですがね」
「マダム!」
前方のコンソールから、口髭《くちひげ》をたくわえた男が割り込んだ。
「彼の話を真に受けないことです。操舵手こそは、航法士の尻拭《しりぬぐ》いをしながらスケジュールと戦っているのですぞ」
「機関手を忘れてもらっちゃ困るね。宇宙船とはすなわち機関と燃料をおさめた容器であって――」
「その容器に穴が開かないように見張るのは誰かしら。もちろん水測員よ」
「紳士淑女諸君《しんししゅくじょしょくん》、職務を忘れないでくれたまえ!」
船長が号令し、ベスに向き直った。
「失礼しました。かように、航海にはさまざまな分担があるのでしてね。大雑把《おおざっぱ》に申せば、航法士は前途《ぜんと》の航海にひとつの理想を描《えが》き、他のメンバーはそれを現実とするために働くのです。もちろん、誰が欠けても成立しません」
「みなさん、それぞれに誇《ほこ》りをお持ちですのね」ベスは微笑《ほほえ》みをうかべた。
「もちろんです。ああして張り合っていますが、ともに航海を成し遂《と》げる連帯感は素晴《すば》らしいものですよ」
「そう……」
「私は最初の航海でそれを味わい、以来三十年になります」
ベスは静かにうなずく。
ここに連れてきて正解だったかな、とジェフは思った。
次は、彼が質問する番だった。
「あのグラフみたいなものはなんでしょう」
最大のスクリーンに表示されているので、なにか重要な意味があるらしい。
スクリーンには一本の水平な直線が描かれ、それにまとわりつくように折れ線グラフが走っていた。全体はゆっくり左へスクロールしており、グラフは刻々と追加されてゆく。
「おお、いいところに気づかれましたな」
船長が説明した。
「あれはジャンプドライブの経過をモニターするものです。直線は超《ちょう》空間での道筋を示しています。道筋といっても、地理的なものではありません。図示できるようなものではないので、いくつかの要素を集約してあのように単純化しています。そしてグラフの線はその道筋に近いほど、良好な精度ということになります」
「ずいぶん起伏《きふく》がありますね」
「いえ、あれだとまるで酔歩《すいほ》しているようですが、わずかな誤差を拡大したものですから」
「なるほど、すると――」
ジェフはそこまで言って、口をつぐんだ。
プロットされているグラフが、急に大きく逸脱《いつだつ》しはじめたのだ。
グラフは上下に暴れ、ついに表示領域の外に出た。スクロールは続いており、画面はすぐに直線だけになった。
「これは……?」
「ブローガン、状況報告《じょうきょうほうこく》」
「ええ……歪曲関数《わいきょくかんすう》が発散しています」
「イレギュラー・マスか」
「いえ、そうでもないようですが」
「調査を続けろ」
船長はカートミル夫妻に向き直って言った。
「失礼しました。あのグラフはこういうときのためにあるんでしてね」
そうだろうか?
ジェフはいぶかった。
彼は浄水施設《じょうすいしせつ》の技術者として、長年計器を見守ってきた。
計器は役に立つものだが、あのグラフは完全にスケールアウトしており、参考になる情報を何ももたらしていない。これは、よほど異例の事態ではないだろうか……。
ACT・6
翌朝、ミリガン運送の三人は第二下士官食堂で朝食をとった。
食堂は船体|左舷《さげん》の中央、船室のあるデッキより一階下にあった。壁《かべ》の向こうになにか大型装置が居座《いすわ》っているらしく、通路は入り組んでいる。
三十人が同時に食事できるというが、部屋は狭《せま》かった。長いダイニング・テーブルが三列あったが、着席すると互《たが》いの肘《ひじ》や背中がぶつかりあうほどだった。
ニヴスはいなかった。メイはほっとして、マージのあとに着席した。
食堂はしんとしていた。ここで朝食を取るのは初めてだが、いつもこうだとは思えない。
誰もが声をひそめ、耳をそばだてているように見える。
「鏡みたいなんだとさ」
「電波はどうなんだ」
そんな声が聞こえた。
「いつまで続くんだ」
「わかるもんか」
「ダリエンのお仲間はなんて言ってる」
「なにも知らせてこねえ。基地のビーコンすら入らねえっていうぞ」
それから、マージがロイドにささやいた。
「さっそく出番?」
「そんな気配だな」
向い側の男が身を乗り出した。
「偵察《ていさつ》飛行か? あのシャトルで」
「そんなとこだ」
「艦長《かんちょう》はあれが何か知ってるのか?」
「知ってりゃ偵察なんかするまい」
「ちげえねえ」
メイがフォークを持ったまま固まっているのを見ると、ロイドは言った。
「とにかく食っとけ。次にいつ食えるかわからん」
「はい」
そうだそうだ、という声があがり、ひとしきり食器のふれあう音がした。
パン、マーブルミート、ポタージュスープのような液体、ポテトサラダのような何か。
昨日、調理場でまのあたりにした、ゾルとゲルの魔法《まほう》の産品を腹につめこむ。
食事が終わりかけた時、艦内放送が始まった。
『艦長より状況報告《じょうきょうほうこく》する。現在、空全体を膜《まく》のようなものが覆《おお》っている。膜は高度三百キロの宇宙空間にある。たぶんタルガ艦隊の仕業《しわざ》だろう』
その場にいた全員が、動きを止めた。
『膜は可視光線を二パーセントしか通さない。電波もシャットアウトだ。だが詳《くわ》しいことはわからん。目的もわからんが、むやみに恐《おそ》れることはない。膜があるうちは探知される心配も少ないだろう。本艦はこれより浮上《ふじょう》する。手の空いている者は甲板《かんぱん》に出ることを許可する。俺はこれからシャトルで偵察に出る。飛行要員は発令所に集合しろ』
膜ってなんだ? 日除《ひよ》けか? ずっと夜なのか?
静まり返っていた食堂は、一転、喧騒《けんそう》に包まれた。
「噂《うわさ》をすればってやつだ。マージ、行くぞ」
ロイドは残りをたいらげると、席を立った。
「うぎゅ」頬張《ほおば》っていたポテトをのみこんで、マージも立ち上がった。「こういう時だけ張り切るんだから」
メイも急いで朝食をたいらげ、立ち上がった。
「島のそばに戻《もど》ってたんですね。シャトル、海水で傷《いた》んでないといいですけど」
「ああメイ、君は飛行要員じゃないんだ」
「えっ」
「人質ってことだな。わしらが飛行中、言うことを聞くように」
「そんな、でも――」
脱出《だっしゅつ》のチャンスなのに。
ロイドも察したようだった。
「だがな、メイ。いまはここに残ったほうが安全だ。あの膜はなんだか得体が知れん。こういう偵察《ていさつ》は戦闘《せんとう》と同じくらい危険だ。逃《に》げることを考えるのは事情がつかめてからにしたほうがいい」
「それは、そうかもしれませんけど――」
「君に万一のことがあったら、御両親にどう言えばいい。待ち合わせに遅《おく》れるどころの話じゃないぞ?」
「それは……」
「チャンスはまだいくらでもあるさ。今回はおとなしくしてろ」
「……そうですね」
メイはうなずいた。
「気をつけて、無理しないでくださいね、ロイドさん、マージさん」
メイは食堂の入り口までついていって、二人を見送った。
いれかわりに、ニヴスがやってきた。
「メイ、甲板《かんぱん》に行こう」
「え、でも私、調理場に行かないと」
「いま食べてるってことはBシフトだろ。仕事は九時からだよ」
「おうおう、この非常時にデートか、ニヴス」
「やれるときにやるんだ」
ひやかしをものともせず、ニヴスはメイを連れ出した。メイも逆らわなかった。
電波を遮断《しゃだん》する膜があるなら、もう通信機は使えないだろう。しかしどんな膜なのか、この目で見ておきたい。チャンスをつかむためには、まず周囲の状況《じょうきょう》を把握《はあく》しないと。
「ここからなら、後部|脱出筒《だっしゅつとう》のほうが近いよ」
「もう浮上《ふじょう》してるの?」
「さっきな。慣れるとわかるよ。かすかに揺《ゆ》れるんだ」
右舷《うげん》側の通路をしばらく歩くと、開けた場所に出た。
天井《てんじょう》に丸い穴が開き、それをふさいでいた扉《とびら》は横にスライドしていた。穴に通じる梯子《はしご》のまわりに、人だかりができていた。
海賊《かいぞく》たちは次々に梯子を登ってゆく。二人もそれに加わった。
脱出筒を通過し、外側のハッチをくぐる。
空が見えてきた。いや――あれは空か?
メイは甲板に出た。
思ったより明るい。薄暮《はくぼ》の明るさがある。
五十メートルほど先に司令塔《しれいとう》が見え、その先に見覚えのある地形のシルエットがあった。
島206だ。シャトルを隠《かく》した洞窟《どうくつ》が、暗い口を開いている。
そびえたつ断崖《だんがい》。その少し上の空に、小さな白い円盤《えんばん》が浮《う》かんでいた。
あれが太陽? そうにちがいない。沈《しず》む間際《まぎわ》の夕陽のように、長く見つめていられるほど光輝が落ちている。
五十分の一に減衰《げんすい》した太陽光に照らされて、横雲がゆっくりと流れていた。
どうも奇妙《きみょう》な眺《なが》めだった。
三種類の雲がある。
大きな灰色の雲。羊雪のような白く小さな雲。そして、ほんのりと赤みをおびた、小さいが輪郭《りんかく》の明瞭《めいりょう》な雲。
赤い雲と白い雲は動かない。
メイはずっと、その動かない雲を見つめていた。どこか見覚えのある眺めなのだ。
まさか――手を握《にぎ》る者がいた。ニヴスだった。
「メイ、あれって、もしかして――」
「――――!」
その正体に気づいた時、メイは寒気をおぼえた。
あれは島だ――あの赤い雲は。
そして白い雲は、宇宙空間から見た雲だ。
さっき耳にした言葉がよみがえる。
高度三百キロの膜。鏡。
空全体が、惑星《わくせい》の球面にそった、巨大《きょだい》な凹面鏡《おうめんきょう》になっているのだ。
海の青は本来の空に溶《と》けこみ、違和感《いわかん》がない。そして、逆光になっている灰色の雲だけが本物だ。
ということは――天頂には自分たちが映っている? メイは真上を見上げた。
赤い、小さくいびつな三角形。あれが島206の全景だろうか。
メイは目をこらしたが、浮上《ふじょう》した潜水艦《せんすいかん》まではわからなかった。凹面鏡の拡大効果はほとんど認められない。あれは往復六百キロの距離をへだてた像なのだ。島はもちろん、白い雲が止まって見えるのも理にかなっている。
メイは水平線を見た。空の鏡は水平線に接するまで続いている。
この高さだと水平線までの距離はせいぜい五、六キロだ。しかし、鏡に映った地表は遥《はる》か彼方《かなた》まで映し出している。
高度三百キロで折り返して、水平線の向こう側まで見えるとして……
計算式が簡単なのに気づいて、メイは暗算してみた。
惑星半径×三百×二。そのルート。その二倍。約四千キロ。
まちがいない。頭上の鏡は自分を中心にした、直径八千キロの世界を映しているのだ。
その時、誰かが声を上げた。
「見ろ! なんだあれは!」
男のさす方向を見る。
北の低い空が揺《ゆ》れていた。
波打つ鏡像。その波動が、風の吹《ふ》き渡《わた》る草原のように、こちらに向かってくる。
メイは身を固くした。かなりの速度だ。
軌道《きどう》をめぐる宇宙船より、はるかに速い。秒速千キロは出ている。
空のさざ波はたちまち天頂を通過し、南の水平線に消えた。
もとの方角に振《ふ》り向くと、第二、第三の波動がこちらに向かってくるところだった。
波は次々に頭上を通過してゆく。
頭の片隅《かたすみ》で何かがひらめき、メイは現象の正体に思い当たった。
ある惑星《わくせい》で、類似《るいじ》する光景を見たことがある。映像としてはまったく異なるが、パターンがとてもよく似ているのだ。
「オーロラ……」
「オーロラ?」ニヴスが聞き返した。
「たぶん――鏡の膜《まく》が、太陽風で揺れてるの。ほんのわずかだと思うけど、鏡の歪《ゆが》みだから目立つんだと思う」
「あれが、太陽風で……?」
「太陽風が地磁気で曲げられて――オーロラはそうだから。あの動き、速く見えるけど、太陽風の速度じゃない。太陽風の密度のムラが見えているだけで」
「ああ……」
二ヴスはさっぱり理解できない様子だった。宇宙で働くメイには、一般《いっぱん》常識に等しいのだが。
ここは磁気的にも赤道に近いはずだ。オーロラが顕著《けんちょ》になるのは磁極の周辺だが、太陽風は結局どこにでもふりそそぐ。
そのとき、断崖《だんがい》のほうから梵鐘《ぼんしょう》を打ち鳴らすような音が響《ひび》いてきた。
メイははっとして、その方を見た。
洞窟《どうくつ》からアルフェッカ・シャトルが姿を見せた。メインエンジンをごろごろと鳴らし、機首で波を砕《くだ》きながら、艦《かん》の右舷《うげん》を通り抜《ぬ》けてゆく。
メイは急に胸が熱くなった。コクピットの様子は見えないが、メイは懸命《けんめい》に手を振《ふ》った。
シャトルは速度を上げながら海面をタキシーし、半キロほど離《はな》れたところで滑走《かっそう》を開始した。ぱっと水煙《すいえん》が上がり、直後、ひときわ高い爆音《ばくおん》が届いた。
海面を離《はな》れたシャトルは緩上昇《かんじょうしょう》で速度をかせいでから急激に引き起こし、ほとんど垂直に上昇していった。操縦桿《そうじゅうかん》を握《にぎ》るマージの心の昂《たか》ぶりが、手に取るようにわかった。
メイはシャトルが鏡の空に消えるまで見送った。
どうか、無事に帰ってきて。
それからメイは、ふいに身震《みぶる》いした。
それは畏怖《いふ》の念によるものではなかった。
風が、冷たいのだ。
ACT・7
「水平線が見えるように飛んでくれ。斜《なな》めに上昇するんだ」
シェパードが、航法席から指図する。ラカンドラ号の指揮を副長にまかせて、艦長みずからシャトルに乗り込んだのだった。
マージは上昇角をゆるめた。
「こんなもんで?」
「そんなもんだ」
「緩上昇してると見つかりやすいわよ」
「その手には乗らんぞ。万一我々が見つかれば、艦隊はまず真下の海を捜索《そうさく》するだろう」
「しまった。その手があったわね」
「無線|連絡《れんらく》しようなんて思うなよ。送信機のヒューズは全部|抜《ぬ》いといたからな」
高度二百キロ。シャトルはすでに大気|圏《けん》を離脱《りだつ》している。
驚《おどろ》くべき光景だった。
頭上の視野を占領《せんりょう》するのは、青い惑星《わくせい》の反射像だった。日照は大きく減衰《げんすい》しているはずだが、視覚も暗順応するのでさほど暗く感じない。反射像は天頂を中心とした円形で、魚眼レンズで撮《と》った衛星写真とそっくりだった。
「ん、なんだ、あっちは?」
水平線のあたりを見たロイドが首を傾《かし》げた。
「あの縞模様《しまもよう》はどうなってるんだ? 隙間《すきま》じゃなさそうだが」
おなじみの青く澄《す》んだ大気の断面が見える。これは実体だ。だがそのむこう――普通《ふつう》なら宇宙のあるべきところ――はかすかな濃淡《のうたん》の縞がしだいに狭《せば》まりながら反復し、モアレ模様を描《えが》いてゆらめいていた。
「ははあ、合わせ鏡だな」
シェパードが言った。
球の内面が鏡になっている。シャトルはその鏡面に近いところにいる。
このとき接線方向の光は、球に内接する多角形を描いて、際限なく反射をくりかえす。
合わせ鏡と同じ現象だ。
「じゃあ、あの縞模様は何だ?」
「夜側と昼側の違《ちが》いだろう。昼側は光と太陽風に圧されて鏡が低くなる。ゆらめきも太陽風のせいだ。その違いが縞模様をつくるってわけだ。まてよ、圧力は百メートル四方で数十グラムにすぎん。それで揺《ゆ》れるからには、あの膜《まく》は相当|薄《うす》くて軽い物質にちがいない」
ロイドはすっかり感心してシェパードを振《ふ》り返った。
「さすが海賊《かいぞく》のボスだけのことはある。切れるな」
「フラードルじゃ潜水艦《せんすいかん》乗りはエリートと相場が決まってる」
「で、エリート海賊さんはどこまで行く気?」
マージが聞いた。
「もう一、二分で膜にぶつかるわよ」
「すれすれまで寄ってくれ」
「ホバリングしろってこと?」
「そうだ。継《つ》ぎ目の有無《うむ》が知りたい」
あの膜が、一体となって軌道《きどう》運動しているとは考えられなかった。軌道は母天体の大円上にしか存在できない。もし安定した軌道運動をさせるなら、細切れにした短冊状《たんざくじょう》の膜を無数に作り、高度を変えて重ねあわせるしかないはずだ。
シャトルは上昇《じょうしょう》を続けた。
「あと十キロ」
継ぎ目らしきものは見当たらない。
「望遠カメラはないのか」
「あるけどね」
「あるけどね?」
「あなたの目の前のパネルの、モードセレクターのどれかよ。メイが勝手にカスタマイズしちゃってるからわかんないわ」
海賊はあきれ顔になった。
「おいおい、機長がそんなことでいいのか」
「だからメイも連れてけって言ったのよ」
「二人でやれると言ったろうが。メイは人質だ。全員乗せたら、お前ら膜《まく》を突《つ》いてダリエンに帰っちまうだろ」
「だったら銃《じゅう》で脅《おど》すなりすりゃいいでしょ」
「シャトルの中でか? 撃《う》てるもんか」
海賊《かいぞく》にしてはまっとうなことを言う。
「だがメイはただの見習いだからな」
ロイドがにやにや笑いながら言った。
「あんな小娘《こむすめ》一人、置き去りにしてもかまわんのだがな」
「それもそうね。このまま基地に帰っちゃおうかしら」マージも調子を合わせる。
「そいつは見損《みそこ》なったな」
海賊は、余裕《よゆう》の表情で言った。
「それにだ。メイにしかできないことは、望遠カメラ以外にもあるんじゃないのかい」
「ちがいない」
ロイドは肩《かた》をすくめた。
「だけどな、名|艦長《かんちょう》さんよ」
「うむ?」
「あの娘を艦に残したのは得策とはいえんぞ」
「どういうことだ」
「副長以下、その他大勢にさばけるかどうか」
「だからなにがだ」
「君はメイを人質にすると言ったが、ラカンドラ号をメイが乗っ取る展開は考えたか?」
「ばかな」
「小娘には小娘の武器がある。あれは、土壇場《どたんば》になると何をするかわからんぞ」
「何ができるってんだ」
「一目惚《ひとめぽ》れした男がいるそうだ。男はメイの言いなりだろうな」
「ほう……」
「コンピューターを触《さわ》らせたら、ハッカー顔負けだ」
「そうかい。そりゃ心配だな」
艦長は鷹揚《おうよう》な態度を崩《くず》さなかったが、声にかすかな不安が混じった。
ロイドとマージには長時間の面談をして、人物をつかんでいる。だがメイについては、パミラおばさんにまかせっきりだったのだ……。
「そろそろよ。膜まで三キロ」
マージが言った。
「漸近線《ぜんきんせん》でアプローチしてるけど、あれがふわふわ動いてるっていうなら、いつぶち当たるかわかんないわ」
「膜のすぐ下でホバリングしてみろ」
「ほんとにやるの? できなかないけど――」
「潜水艦《せんすいかん》の発想だな」
ロイドがひやかした。
「潜望鏡深度をとれ! ってか」
「さっきから気に障《さわ》ることばかり言うな」
「揺《ゆ》さぶってるんだ。怒《おこ》ったほうが負けだぞ」
「ふん」
海賊《かいぞく》は面白《おもしろ》くなさそうに言った。
「いいからホバリングしてぎりぎりまで接近しろ。あの膜は軌道《きどう》運動していないはずだ。こちらも速度をゼロにすりゃ、ぶつかってもどうってことはあるまい」
「もし軌道運動してたら? アルミ箔《はく》だって秒速八キロで当たりゃただじゃすまないわよ」
「やってみるさ。偵察《ていさつ》は度胸だ」
この高度では、地表にいるのとほぼ同じ引力がある。
マージは機体を地表に対して垂直に立て、メインエンジンの推力を一・〇五Gに設定した。シャトルは気球のようにゆっくりと上昇《じょうしょう》してゆく。
それからドッキングレーダーを作動させ、膜との距離を精測した。
あと七百メートル。いつもなら、メイが気を利かせて読み上げてくれる数字だ。
前照灯、点灯。
視野はすべて地表の反射像がしめている。その中心に鋭《するど》い光点が灯った。
「あの光が俺たちか」
「そう」
「やっと距離感《きょりかん》がわいてきたな」
さらに接近を続けると、前照灯の光芒《こうぼう》のまわりに、シャトルのシルエットが見えてきた。
「あと二百メートル」
「もっと寄れ。ゆっくり」
「どう見ても一枚板だなあ」
「なにか受信できるか」
「なにも」
「送信機のヒューズは全部|抜《ぬ》いてあるからな。艦隊《かんたい》に位置を知らせようなんて思うなよ」
「どっちみち、電波はあの膜が反射しちゃうでしょ」
距離三十メートル。海賊《かいぞく》はハーネスを解いてシートの背に立ち、顔を窓に近づけた。
「ライトを消せ」
鏡に映ったシャトルの像が見やすくなった。キャノピーごしに、赤い室内燈に照らされた人影《ひとかげ》まで見える。
「鏡としては上出来だな」ロイドがつぶやく。
反射像は実に鮮明《せんめい》で、ゆらめきもない。水銀の海に向かって宙吊《ちゅうづ》りになったようだ。
「どうやら一枚板とみて間違《まちが》いないな」
シェパードが言った。
「ライトセールの一種だろう。小|惑星《わくせい》の溶融《ようゆう》なんかに使うやつだ」
「一夜にしてこんなでかく展開できるのか?」
「知らないのか。グレイバールあたりじゃナノテクの復興はすごいんだぞ」
「年中海に潜《もぐ》ってるわりには、情報通なんだな」
「情報なくして海賊がやれるか」
小惑星の採鉱や惑星の環境《かんきょう》改造に使う宇宙反射鏡――ライトセールは、遠目にはアルミ箔《はく》のように見える。
だがその実体は、夢のように薄《うす》くて軽い。分子の鎖で、光の波長の十分の一くらいの網目《あみめ》を作るのだ。そのサイズの網目は、鏡と同等の光学特性を持つ。あれがいくらか光を通すのは、もっとマクロな規模の隙間《すきま》――ピンホールかなにかがあるせいだろう。
昨日メイが見たミルクの滴《しずく》のようなものは、おそらく、自己組織化の手法でセールが成長する、最初の段階だったのだろう。もしかすると、高層大気の酸素原子を材料に利用しているのかもしれない。
「一枚板ってことは、軌道《きどう》運動はできない。落下するのは時間の問題だな」
「どれくらいかかるんだ。落下するまで」
「せいぜい数日だろう。これだけのものを数日で捨てるとは豪勢《ごうせい》なもんだ」
人工衛星のように軌道運動をしていなくても、これほど薄くて軽いものは、すぐには落下しない。希薄《きはく》な高層大気に押《お》されて、しばらくは浮《う》かんでいるはずだ。だが濃い大気に触《ふ》れればたちまち分解し、文字どおり雲散霧消《うんさんむしょう》する。
「数日間、ベクフットに日陰《ひかげ》をつくることにどんな意味がある?」
ロイドが尋《たず》ねた。
「日陰?……いや、日陰が目的じゃないな」
「そうか?」
「それならラグランジュ3に鏡をおけばいい。そのほうが小さくてすむし、必要がなくなったら遠方から噴射《ふんしゃ》を浴びせてやればいいんだ」
「そりゃそうだな」
この場合のラグランジュ3地点はベクフットと太陽の間にある。そこに鏡を置けば日蝕《にっしょく》のようにベクフットを影《かげ》で覆《おお》い続けるだろう。わざわざ惑星《わくせい》を包まなくても、惑星の断面に等しい円形の平面鏡で事足りる。
「それに日除《ひよ》けなら、鏡でなくても、不透明《ふとうめい》な物質があればいい」
「鏡でないと、熱で壊《こわ》れるのかもしれんぞ」
「それはそうだがな」
「ねえ、これって外側も鏡なの?」
「ライトセールなら、裏も表も鏡だろう」
「ちょいと外側に出てみない? たぶんバー二アを噴《ふ》かせば穴が開くわよ」
「おおそうだ。潜望鏡《せんぼうきょう》を出すってやつだな」
「やめろ。その手に乗るか」
だがその直後、機会は訪《おとず》れたのだった。
メイが海上から見たのと同じもの――鏡面のさざなみが、音もなく忍《しの》び寄っていた。
その伝播《でんぱ》速度は秒速千キロ。
目の端《はし》で何かが光ったと思った瞬間《しゅんかん》、鏡の膜《まく》が消滅《しょうめつ》した。
直後、シャトルは黒々とした宇宙空間に浮かんでいた。
「な――なにをした!」
「なにもしてないわよ。ぴったしホバリングしたままで――ほんとだってば!」
窓の外に、無数の銀箔《ぎんぱく》が乱舞《らんぶ》していた。その動きに固体らしさはなかった。あまりにも薄《うす》くて脆弱《ぜいじゃく》なので、水に落としたインクのように分解しながら散ってゆく。
破片《はへん》が拡散したあとには、凪《な》いだ夜の海を思わせる光景があった。
外側も鏡だった。星が反射し、鏡の動きにしたがって波打っている。
その光景も次の瞬間に終わる。波動の正負が入れ代わり、膜は再びシャトルの上側にまわった。
海賊《かいぞく》は我に返って怒鳴《どな》った。
「降下しろ! 急げ! えらく目立っちまった」
「了解《りょうかい》」
マージは機首を下方に向けると、エンジンを全開にした。
どおん!
その音を聞いた途端《とたん》、海賊は真っ青になった。
後部モニターを見る。鏡にさらに巨大《きょだい》な穴があいていた。
「ばっ、馬鹿野郎《ばかやろう》! エンジン噴《ふ》かすやつがあるかっ!」
「急げって言ったじゃない、だから動力降下したのよ!」
「そんな言い訳が通るかっ!」
「だからあたしは何も考えてないんだってば!」
と、けたたましい警報音が鳴り響《ひび》いた。
「船殻《せんこく》――過熱警報?」
「威嚇射撃《いかくしゃげき》だ」ロイドが鋭《するど》く告げる。「もうロックオンしてるぞ」
「自由落下してるのよ。抵抗《ていこう》してないわ」
『タルガ艦隊《かんたい》より所属不明機へ。ただちに高度をとって挨舷《せつげん》準備に入れ』
「こちらミリガン運送アルフェッカ・シャトル!」
「ヒューズが抜《ぬ》いてある」
「ああっ! ここで応答しなかったら撃《う》たれるわよ!」
「態度で示せ。降着装置を出して翼《つばさ》を振《ふ》るんだ」
「だめだ、逃《に》げろ。鏡の裏にまわればビームはしのげる!」
「もうロックオンしてるのよ!?」
「そうだ、無茶はできん」
「いいから噴かせ! 腕《うで》を見せてみろ!」
「もうっ!」
マージはスロットルを全開した。
海賊《かいぞく》はなかば墜落《ついらく》しながら航法席に戻《もど》り、ハーネスで体を固定した。
「おいマージ、艦隊と張合う気か」
「やってやるわよ、こうなったら! メイだけ残して帰れないわ」
「鏡にそって飛べ。撃ってきたら鏡の裏にまわるんだ」
「そううまく行くか?」
ロイドがレーダーを見ながら言った。
「なにか突入《とつにゅう》してきたぞ。揚陸艦《ようりくかん》だな――おっと、戦闘機《せんとうき》も来たぞ」
スクリーンには五つの光点が映っていた。ステルス機がいるなら、もっと多いはずだ。
『所属不明機に告ぐ。ただちに投降せよ。さもなくば発砲《はっぽう》する』
過熱警報は鳴りつづけている。出力を絞《しぼ》ったビーム兵器を、すでに被弾《ひだん》しているのだ。
「こなくそっ!」
マージはシャトルを急上昇させ、鏡を突《つ》き破った。
ロイドはとっさに考えた。合わせ鏡の中でビームを発射したらどうなるか――いや、だめだ。星を一周して自分に戻《もど》ってくる頃には、ビームはすっかり拡散しているだろう。
過熱警報は一瞬《いっしゅん》途切《とぎ》れたが、すぐに再開した。
「だめだな、あっちも外に出た。ぴったりついてくるぞ」
ロイドが言った。
シャトルと追撃《ついげき》部隊は、砕氷船《さいひょうせん》のように銀箔《ぎんぱく》のシャワーを撒《ま》き散らしながら突き進む。
「マージ、あきらめろ。向こうは戦闘のプロだ。数でも負けてる」
「くっ……」
マージは唇《くちびる》を噛《か》んだ。わずかにためらったのち、スロットルを戻す。
降着装置を出して機体を左右に振《ふ》ると、たちまち戦闘機が追いつき、周囲を囲んだ。
先導されて百キロほど上昇《じょうしょう》し、周回|軌道《きどう》に乗ったところでエンジンを切る。
揚陸艦がランデヴーしてアームで機体をつかんだ。ボーディング・チューブが伸展して、エアロックに結合する。
外側で数個のラッチが、がちりと鳴った。シャトルはもう、身動きもできない。
まもなく武装した兵士が移乗してくるだろう。
悪あがきのすえの完全な敗北だった。なにが正義であれ、負けるのはくやしい。
マージは海賊《かいぞく》の首領をじんわりと見つめ、決まり悪そうに言った。
「わざとじゃないのよ」
シェパードはすでに観念した顔で、深々とため息をついた。
「ああわかってる。子供みたいなこと言うな」
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   第四章 扉《とびら》を開けて
ACT・1
あれから三日。
アルフェッカ・シャトルの行方《ゆくえ》はわからなかった。
シャトルが飛び立って間もなく、軌道《きどう》上で小規模な戦闘《せんとう》が起きたことは、たぶん間違《まちが》いない。強い赤外線と燃焼《ねんしょう》ガス、そして一直線に切り裂《さ》かれた膜《まく》のありさまは、海上からでも観測できた。
膜の破口は宇宙空間に静止しており、ベクフットの自転に取り残されていった。
二十四時間後の観測では、破れ目は補修されたのか、跡形《あとかた》もなくなっていた。
その後、動きがない。
幸い、戦闘の痕跡《こんせき》はどうみてもシャトルが破壊《はかい》されたものではなかった。
いくら首領の指図でも、艦隊《かんたい》と最後まで戦うような無茶をするわけがない。
シャトルはタルガ艦隊に拿捕《だほ》されたのだろう。
最初、ロイドとマージの安否を気遣《きづか》っていたメイだが、この三日間のうちに、しだいに問題点がシフトしてきた。
シャトルも恒星船《こうせいせん》も、ロイドもマージも、すべて「上」の世界にいる。
自分だけ、取り残された。
家出して転がりこんできた見習い従業員だけが、海賊《かいぞく》につかまったままなのだ。
ロイドとマージに、いつまでも待っている理由があるだろうか?
そう考えるたび、メイは胸を絞《し》めつけられた。
役に立ってきた、とは思う。だが、失敗もたびたびあった。
賃金。食事。水、空気――自分にかかるコストを差し引くと、どれほどの利益が残るだろうか。
両親に無事をアピールするどころか、ここに置いてきぼりをくっては話にならない。
早く――一刻も早くここを脱出《だっしゅつ》して、星の世界に戻《もど》らなくては。
どさっ……。
「もっと力を入れな。そんなんじゃ焼いてるうちにバラバラになっちまうよ」
「すみません」
メイはマーブルミートをまな板からはがし、練りこみをやり直した。
「シャトルのことなら、心配いらないよ。あの艦長は無茶な真似《まね》はしないからね」
「ええ、それはたぶん」
「それより心配なのは――」
「そうなんです」
「だろ? この寒さじゃ、ほんとに絶滅《ぜつめつ》しちまうんじゃないかねえ」
「え?」
「もう七度だそうだよ。二十八度がたった三日で七度さ」
「あ……そうですよね」
メイはパミラおばさんの話題に同調しなおした。
そうなのだ。海賊《かいぞく》たちの一番の心配事は、海藻《かいそう》だった。
空に膜ができてから、表面水温がどんどん低下している。もし海藻が死滅したら、海賊の経営は破綻《はたん》する。
あの膜を作ったのが軍だとして――意図は、そこにあるのだろうか?
開拓《かいたく》が再開されたとき、ベクフットの植物相は貴重な資源になるはずだ。
あの膜を作るだけでも莫大《ばくだい》な費用がかかるだろう。海賊退治のために、わざわざそんなことをするとは思えない。
たとえそうだとしても、海賊が交易手段を失えば、ただちに投降するだろうか。
しかしラカンドラ号はよく整備されていて、アルフェッカ号のような危なっかしさはない。冗長系《じょうちょうけい》まで使えば、一年や二年は無補給でいけそうだ。
ロイドやマージが、それまで待っていてくれるとは思えない。
どさっ……。
「力を入れなって言ってるだろ」
「あ、すみません」
メイはやり直しにかかったが、はっと手を止めた。洗い場のボウルにたまった水に、かすかなさざ波が立っている。
「……揺《ゆ》れてる」
「集中しない子だね」
「あの、浮上してるんですか、いま?」
「みたいだね」
「そうか……浮上《ふじょう》してるのか……」
「なんだい、外が見たいのかい」
「ええ、その――はい」
パミラおばさんはため息をついた。
「どうせこのままじゃ役に立たないね。発令所に行っといで。すぐ戻《もど》るんだよ」
「すみません」
メイは手を洗うと、そそくさと調理場を出た。
シャトルが行方《ゆくえ》不明になってから、メイは何度も発令所に出入りしていた。副長に呼び出されてシャトルについて説明したのがきっかけだった。宇宙船や宇宙空間での現象に関して、メイはたいていの質問に答えられたので、重宝がられている。
メイは発令所のドアを開けた。
「あの、いいですか。浮上してるみたいなので、ちょっと見に来たんですけど――」
「メイか。寒いがいっしょに来るか」
副長が言った。
前部|脱出筒《だっしゅつとう》のハッチが開いていて、誰《だれ》かが登っているところだった。
「外に出るんですか?」
「ニヴスと教授が採集に出てる。俺《おれ》もこの目で見ないと気がすまん」
「採集? 海藻《かいしう》に何かあったんですか」
「見りゃわかる。四年前の再現だ」
メイは胸騒《むなさわ》ぎを覚えながら、梯子《はしご》を登った。
甲板《かんぱん》に出たとたん、全身に寒風をあびた。メイはとっさに胸を抱《だ》き、身を屈めた。
それから顔をあげて、周囲を見回した。
メイは息をのんだ。
すべての海藻が、開花していた。
白い海。ニヴスの言ったとおりだ。海全体が流氷のように白く輝《かがや》いて見える。
メイは空を見上げた。空も白一色だ。海藻は少なくとも直径八千キロの範囲《はんい》で、いっせいに開花したのだ。
あのオーロラのような波動は、いっそう頻繁《ひんぱん》に天空をよこぎっている。
太陽は、膜《まく》を透《す》かして中天に輝いていた。メイは目を細めた。依然《いぜん》として減衰《げんすい》した光だが、前ほど長く見つめていられない。
太陽が明るくなった? それとも、膜が変質したのだろうか?
花のせいかもしれない。海一面に白い花が咲《さ》き、それが空にも反射している。
強い直射日光こそないものの、世界中に光が満ちている感じだった。
「メイ!」
海のほうでニヴスが呼んだ。教授と二人で、防寒服を着てボートに乗っていた。
採集を終えたところらしい。メイはそばに駆け寄り、もやい綱《づな》を受け取った。
二人とも、こわばった顔をしていた。
「ニヴス、どうしてこんな――なにかわかった?」
「わかんないよ。重いぜ」
標本容器を受け取る。副長が駆け寄って、メイを手伝った。
「教授、どうでしたか」
「わからん。すべてこれからだ!」
副長の問いに、教授もそう答える。
「低水温も日照の低下も、実験室でいろいろ試《ため》したが、こうはならなかった。なにが境界条件なのか、皆目《かいもく》分からん!」
怒《おこ》ったように言う。
「とにかく海水の分析《ぶんせき》だ。しばらく邪魔《じゃま》せんでくれ。おい、そこの!」
教授は、ぽかんと空を見上げていた男にボートの収容を手伝わせた。自分は容器をかかえて、そそくさと艦内《かんない》に入る。
「着ろよ。寒いだろ」
半裸《はんら》で震《ふる》えているメイに、ニヴスが防寒服の上着を脱《ぬ》いでかぶせた。
「ありがとう」
「非常装備だって。パミラおばさんにつぶされないように隠してあったんだ」
「そんなに暗くないのに、どんどん寒くなるのね」
「ただの曇り空とはちがうからな」
「そう?」
「地上が曇ってたって、上は陽《ひ》がさしてるわけだろ。いまは日照そのものが少ないんだ。極みたいなもんさ」
惑星《わくせい》上の気象になると、ニヴスのほうが詳《くわ》しいようだった。
「じゃあ、ほんとに海に氷が張る?」
「二週間やそこらじゃ凍《こお》らないだろ」
「でも、この温度低下じゃ」
「この海はそんなにヤワじゃないよ」ニヴスは言った。「海にはでっかい熱の貯金があるだ。冷えた水は沈《しず》んで、中と入れかわるだろ」
「あ、そうか」
「ここまでは急に下がったけど、大丈夫《だいじょうぶ》さ。だから――ふぁ!」
だから結婚《けっこん》してここで一緒《いっしょ》に暮らそう、という遠大な文脈だったが、ニヴスはそこでくしゃみをしてしまった。とにかく寒い。
「中に入りましょう」メイが言った。
「そうだな」
二人は艦内に戻《もど》りかけた。
爆音《ばくおん》が轟《とどろ》いたのは、その時だった。
ACT・2
爆音と同時に、空気の塊《かたまり》のようなものが二人を打った。
メイは甲板《かんぱん》に倒れた。鼓膜《こまく》が破れたと思った。
だが、すぐにニヴスの声が聞こえた。
ニヴスは甲板に尻餅《しりもち》をつき、そのせいで頭上の存在に気づいたのだった。
「なんだ、あれは!」
巨大《きょだい》な球体が浮《う》かんでいた。
傷ひとつない、完全な鏡面をもつ球。
直径は――よくわからない。細部がないせいか、距離感《きょりかん》がわかないのだ。飛び立ったばかりの熱気球ぐらい? それとも一万メートル上空の、同じくらいの直径の物体か?
だがメイは、その球面に自分たちの姿を認めた。直径の半分ほどの円形に、白っぽい海が反射している。その中心に――とても小さいが――潜水艦《ゼんすいかん》の甲板が映っていた。
この感じからすると、球体は自分たちの直上、せいぜい百から二百メートルの高さにある。
また鏡だ。これもライトセールと同類か?
しかし、忽然《こつぜん》と出現して空中に浮かぶとは、いったい――
司令塔《しれいとう》のラウドスピーカーから、副長の声が響《ひび》いた。
『急速潜航。甲板にいるものはすぐ戻《もど》れ!』
二人は急いで脱出筒《だっしゅつとう》に駆《か》け込んだ。ハッチが閉まる直前、球体が後方に離《はな》れてゆくのが見えた。
「追ってこないのかな」
「さあな」
発令所に降りる。副長の険しい声がした。
「見たか」
「見ました」メイとニヴスは同時に答えた。
「あんなものがこの宇宙にあるのか」
副長がメイに訊《き》く。
「見たことありません。気球かなにかなら、わかりますけど――」
「ダウントリム十度。二キロ先でペリスコープを出せ」
副長は指示を出してから、話に戻った。
「空中に突然《とつぜん》現われた。ジャンプドライブじゃあるまいし。こっちの位置を正確につかんでる。なんなんだ、あれは。軍の新兵器か?」
メイは首を振《ふ》るしかなかった。
「確率は低いが軍なら位置はわかる。こっちは浮上《ふじょう》中だった。膜を破ってセンサーを向ければ見えるはずだ。だが意図はなんだ? 攻撃《こうげき》とメッセージ、どちらもないはずはない」
副長は話しながら考えを整理していた。
「潜望鏡深度《せんぼうきょうしんど》です」
操舵手《そうだしゅ》が言った。
副長はコンソールから潜望鏡を操作した。海面に出たセンサー複合体の情報がスクリーンに集中表示される。
全員の目が可視光画像に注がれた。
球体は最初の位置にとどまっていた。二キロ離《はな》れた海面上で、直径と同じくらいの高さをもって浮《う》かんでいる。海面にその影《かげ》が落ちていた。
「アクティブ・センサー、使いますか」
副長はためらった。潜水艦は隠密性《おんみつせい》の兵器であり、自分の所在を明かす音波や電磁波を放射することは極力|避《さ》けるものだ。フラードルの士官学校で潜水艦隊《せんすいかんたい》を志望したときから、彼はそのことを叩《たた》き込まれてきた。
しかし、突如《とつじょ》頭上に出現した相手とあっては、隠《かく》れるよりもその素性《すじょう》を探《さぐ》ることが先決ではないか?
「やってみろ」
二十秒後、オペレーターの一人がデータの解析《かいせき》結果を読み上げた。
その声には戸惑《とまど》いがあった。
「物体は直径八十二メートルの真球。ええ……あらゆる領域で反射率はほぼ百パーセント――途中《とちゅう》の大気を考慮《こうりょ》すると、なにもかも全反射するようです。自分自身からは音響《おんきょう》、熱、電磁波の放射はいっさいありません」
「降伏勧告《こうふくかんこく》もしてないわけだな」
「はい」
その時、ソナーマンが緊張《きんちょう》した声を発した。
「上空より衝撃波《しょうげきは》音。たぶん宇宙船の大気|圏《けん》突入《とつにゅう》」
「光学走査」
「南南東高空より熱源二……四……六点、本艦に接近中」
レーダー・オペレーターが赤外線スキャナーのデータを読み取る。
「偵察機《ていさつき》一、揚陸艦《ようりくかん》一、戦闘機《せんとうき》四と思われます。まっすぐ接近してきます」
「先行機、距離《きょり》四百三十キロ、プラマイ三十」これはソナーマン。音源の方位変化やドップラーシフトから距離を推定したらしい。
「潜航、針路二二〇へ二キロ進んで潜望鏡深度《せんぼうきょうしんど》をとれ」
「アイアイ」
操舵手《そうだしゅ》が応答した。操舵、浮沈《ふちん》、機関の操作はすべて操舵手が一人で行なっている。隣《となり》には副操縦士らしい要員がおり、複式の操縦装置についたディスプレイを見守っている。
正面のスクリーンが潜望鏡の画像からチャートに切り替《か》わり、潜航の始まりを告げた。
「プローブにデコイを積んで放出、本艦|右舷《うげん》五百メートルに併行《へいこう》」
「アイアイ」
「艦長代理より全乗組員へ。戦闘配置をとれ。降下部隊が接近している」
宇宙船がくる……。
不可解な出来事に圧倒《あっとう》されていたメイは、ようやくその意味するところに気づいた。
今度こそ、チャンスなのだ。
ACT・3
揚陸艦ハマーヘッド。
アルフェッカ・シャトルは翼《つばさ》を折畳《おりたた》んでハンガー・デッキに収容され、三人の乗組員は船室のひとつに軟禁《なんきん》されていた。
すぐにダリエン基地に引き渡《わた》されるかと思ったが、そうではなかった。
ロイドとマージに罪はないが、いつまでたっても扱《あつか》いは海賊《かいぞく》と変わらない。どうもダリエン基地と密接なコミュニケーションがとれていないようだった。
部屋はラカンドラ号に負けず劣《おと》らずの狭《せま》さだが、食事はずいぶんましになった。コーヒーはポットで支給され、好きなだけ飲める。清潔な衣類も支給され、三人は久しぶりにカバーオールで全身の肌《はだ》を覆《おお》った。
そのせいか――野心家の二人と同室しているにもかかわらず、マージはベッドの最上段で居眠《いねむ》りしていた。愛機とともに宇宙に戻《もど》ってきたことで、彼女の心は平静だった。残る課題はメイを取り戻すことだが、マージはなんとかなりそうな気がしていた。メイの両親との待ち合わせには完全に遅刻《ちこく》するが、そんなことは今から悩《なや》んでもしかたがない。
下段のベッドでは、ロイドとシェパードがコーヒー片手に話し込んでいた。
「プランクトンしかいないだと? はん、そりゃ公式報告ってやつだな」
艦長は唇《くちびる》をゆがめて笑った。
「この海は地球でいうなら先カンブリア紀の終わり頃《ごろ》にあたる。最大のプランクトンで体長五ミリ。だが年中海に潜《もぐ》ってりゃいろんなものに出会う。いつぞやの――あいつは、艦《かん》の真上を時速二十キロで追い越《こ》していきやがった」
「あいつ?」
「四十メートルはあった。ヘビみたいにうねるんだが、平べったくて上下に波打つんだ。みつけたのはソナーマンだ。すぐに撮影《さつえい》にかかったが、光に驚《おどろ》いたらしい。あっという間に岩陰《いわかげ》に潜り込んじまった。プローブを発射してさんざん探したが行方《ゆくえ》知れずさ」
「ほう……」
「水と酸素とプランクトン。これがありゃ、鯨《くじら》がいたっておかしくない。海ってのはそういうところだ。それもまだ若い、時の試練を受けてない海だ」
「なんでもありの海か……」
「俺は、ベクフットの海は進化の実験場のような気がしてる」
「あの意味もなく花をつける海藻《かいそう》もそうか」
「意味はあるのさ。教授はそう言ってる。それから、こんなのはどうだ――大陸棚《たいりくだな》の海底に光のドームを見たと言ったら信じるか」
「この目で見ないことにはな」
「俺たちはポセイドンの神殿《しんでん》≠ニ呼んでる。水深二百メートルの海底から海面まで、ギリシャの神殿みたいな柱がまっすぐのびてるんだ。柱は細いが、何本もあって、きれいな円柱を描《えが》くように並んでる」
「ドームはどうなってる」
「その円柱の根元を中心に、半球状にできるんだ。外側で直径百メートルはあった。半透明《はんとうめい》の光のドームだ。大中小のドームが入れ子になってる。それが現われては消える。蛍《ほたる》の光みたいにな」
「誰か住んでたのか」
「俺たちもそう考えたさ。種明かしか? しないほうがいいだろう」
「してくれ。エイリアンの遺跡《いせき》だとしたら重要な問題じゃないか」
「柱は海藻さ。それくらいの長さの海藻は地球にもあった。中心の海底には熱水|噴出口《ふんしゅつぐち》があった。これが一種の間欠泉《かんけつせん》になってて、周期的に音波が出る。この音波が干渉《かんしょう》して、ある半径で発光性のプランクトンを刺激《しげき》したってわけだ。どうってことないだろ」
「どうってことなくはない。素晴《すば》らしいじゃないか!」
「そうか?」
「もういちどラカンドラ号に戻《もど》れたら、案内してくれ。本気だぞ」
ロイドの少年のような目の輝《かがや》きを見て、シェパードは表情をやわらげた。
「そうだな……戻れたら案内しよう」
「約束だ」
不意にドアが開き、衛兵が顔を出した。
「作戦|参謀《さんぼう》がCICにお呼びだ」
「全員か?」
「そうだ」
「マージ起きろ。参謀が呼んでるそうだ」
上のベッドで、マージがごそごそ動いた。
「ふあ……参謀? そんら人がなんれ……」
「揚陸艦《ようりくかん》がいるってこと自体、普通《ふつう》じゃないからな。急いでるみたいだぞ」
「ふうん……」
マージはあくびしながら降りてきた。
三人は衛兵に前後左右を囲まれて、CIC(中央情報管制室)まで歩いた。
潜水艦《せんすいかん》ラカンドラ号では発令所がCICを兼ねていたが、この揚陸艦では独立している。
宇宙空間から数分で地上に移動し、多数の兵員・兵器を同時に扱《あつか》う揚陸艦では、扱う情報量がちがう。もちろん高度なコンピューター支援《しえん》システムを持つが、情報流路の結節点には何人もの人間が配置され、秒刻みの情報|分析《ぶんせき》を分担していた。
そこに、三人の部外者が呼ばれた。
CICの情報処理能力をもってしても、対処できない現象に直面しているのだろうか?
フェアバイト作戦参謀はタルガ艦隊の制服をきっちりと着込んだ、小柄な男だった。
見下ろす者をはねかえすように張った胸に、胸章がずらりと並んでいる。
「あれを見てもらいたい。偵察機《ていさつき》がライトセールの下から撮影《さつえい》した映像だ」
参謀《さんぼう》は壁面《へきめん》の大型スクリーンを示した。
遠距離《えんきょり》から撮影した、巨大《きょだい》な銀の球体だった。一瞬《いっしゅん》、現在のベクフットを宇宙空間から撮影したのかと思ったが、周囲には海があり、淡《あわ》い円形の影《かげ》が落ちている。
視点は刻々と移動してゆくが、映像は球体を捕らえつづけていた。
影の位置から、海面を離《はな》れた低い空中に浮かんでいるとわかる。
やがて像がぼやけ始め、雲に隠れて見えなくなった。
「サイズは?」マージが聞いた。
「現在、直径百十五メートル」
「現在?」
「二十分前は九十八メートルだった。こいつは膨張《ぼうちょう》している」
「位置は?」
「やはりそれが気になるかね、シェパード元|艦長《かんちょう》」
海賊《かいぞく》は答えなかった。
「右のウィンドウに出てる数字だな。マイナス四四の〇八。ノーフォーク湾《わん》か。浅い海だ」
「心当たりがあるかね、あの場所に」
「さあな」
「昨日、あそこから百キロ南で潜水艦《せんすいかん》の残存熱らしい反応を捉えた。昨日の今日だ。我々はあの球体が、ラカンドラ号に関係するとみている」
「そういや、あんな観測気球を積んでたっけな……」
「とぼけるな」
参謀《さんぼう》は鋭《するど》くさえぎった。
「我々があの位置に注目したのは、それが見えたからではない。あの地点から重力波が放射されたからだ」
「重力波? 潜水艦は重力波なんか出さないぞ。人工重力場はあるが、あんなものは検出できまい」
「それができれば、ラカンドラ号はとうの昔に拿捕《だほ》されている」
参謀も認めた。宇宙船や潜水艦に装備されている人工重力は、二枚のグリッドに挟《はさ》まれた局所空間でしか作用しないのだ。
「観測された重力波は、それとは全く異質だ。……ほんとうに、心当たりがないのか?」
「ないな。正直言って相当|驚《おどろ》いてる」シェパードは真顔で言った。
「君たちはどうかね。この男に口裏を合わせる必要はない。囚われのお仲間は、我々の手で必ず救出してみせよう」
参謀がロイドとマージに言う。だが二人も肩《かた》をすくめた。
「遺憾《いかん》ながら」「てんで見当つかないわ」
「あえて言うなら、超《ちょう》空間からジャンプアウトした瞬間《しゅんかん》の宇宙船に似てる……か?」
「そうね。ジャンプドライブのときに周囲を包むフィールドは、あんな感じかな。超空間の境界面はなにもかも反射するっていうし。でも――」
マージは首を傾《かし》げる。
「それが惑星《わくせい》上に現われるなんて、ありえないわね」
「ふむ……」
参謀《さんぼう》はあいまいにうなずいた。
「我々も、あれが一種の超空間だと仮定している。だが、人類はあんな重力場の真《ま》っ只中《ただなか》に超空間を生成する技術を持っていない。シェパード元艦長《かんちょう》――」
「おう?」
「端的《たんてき》に訊《き》こう。君はベクフットの海底で、そうした未知のテクノロジーを拾ったのじゃないのかね?」
海賊《かいぞく》は一瞬目を丸くし、それから急に、にんまり笑った。
「取り引きといこうや。あのライトセールはあんたらが作ったんだろう。いったいなんのためだ?」
「…………」
参謀はひととき沈黙《ちんもく》した。
「しかるべき時が来るまで、決して口外しないと誓《ちか》えるかね」
「誓おう」
「文字どおりだよ」
参謀は言った。
「ライトセールは太陽光を反射する。そのぶん、ベクフットは日照が減る。我々はベクフットがその状態におかれたら、何が起こるかを実験したのだ」
「ラグランジュ3の遮光板《しょこうばん》ではだめなのか」
「それでは実験として、再現性が低いと考えられた」
「何を再現する」
「ベクフットの寒冷化だ」
「海を氷結させる気か。海藻《かいそう》が全滅《ぜんめつ》するぞ」
「ライトセールはそうなるまえに分解させる」
「その実験で何がわかる」
参謀《さんぼう》は首を振《ふ》った。
「私の一存で話せるのはここまでだ」
「おさらいするぞ。君らはベクフットを一時的に寒冷化する実験をした。たぷんその影響《えいきょう》で海藻が一斉《いっせい》開花した。そしてあの球体が現われた。君らはそれを、異星文明によるもと考えている」
「そう考えることもできる」
「しかし球体の出現は予想外だった。でなきゃ我々を呼ぶはずがない」
「そう考えるのは自然だな」
「四年前の艦隊《かんたい》消滅事件と関係があるのか」
海賊《かいぞく》は詰《つ》め寄った。参謀は答えない。
「話せることは話した。今度はそちらの話を聞こう」
「ロイドにも話したところだが、海の中にはいろいろ面白《おもしろ》いものがあった。未報告の事象ある」
「うむ」
「だが、誓《ちか》って言おう。異星文明の産物といえるものには出会ってない」
「本当か」
「本当だ。ここは芽生えたばかりの生命の星だ。そして最も繁栄《はんえい》し、高度なメカニズムを持つのはあの海藻群《かいそうぐん》だ」
参謀《さんぼう》は弛緩《しかん》した。それからインカムのスイッチを入れ、誰かに話しかけた。
「球体の正体は依然《いぜん》不明です……はい……わかりました」
次に参謀は、CICの全員に告げた。
「本艦はこれより降下してコンタクト・フェーズに入る。太陽観測は駆逐艦《くちくかん》コーラルシーが引き継《つ》ぐ。中継《ちゅうけい》回線を正副二系統確保しろ」
太陽観測?
ロイドは興味をおぼえて、室内を見回した。コンソールのひとつに、それらしい画像があった。太陽は著《いちじる》しい紅炎《こうえん》を噴《ふ》き上げていた。
ACT・4
ラカンドラ号は短距離《たんきょり》の移動後、ふたたび潜望鏡深度《せんぼうきょうしんど》まで浮上《ふじょう》していた。
目立つセンサー群は引き込み、親指ほどの光学カメラだけを海面すれすれに出している。
降下してきた揚陸艦《ようりくかん》と護衛機は、しだいに旋回《せんかい》半径をせばめながら球体に接近し、最後にはほんの八百メートル横を低空で通過していった。
彼らの関心がこちらにないのは明らかだった。
「揚陸艦、球体より一キロの地点で停止。ホバリング高度――いえ、着水します」
揚陸艦はリフトエンジンを噴射《ふんしゃ》してしばらく空中に停止していたが、ゆっくりと高度を落としはじめ、そのまま海面に接した。護衛機は球体を中心に高度をとって旋回を続けている。
「どうもお仲間という感じじゃないな」
副長が言った。
「距離をおいて向かい合う。まるで異星人とのファースト・コンタクトじゃないか」
「そんな感じですね」
「通信は傍受《ぼうじゅ》できるか」
「カメラマストのアンテナではゲインが出ませんが、通常交信くらいなら」
「ワッチしとけ。どうせ暗号化してるだろうがな」
「……いえ、そうでもないです……なんだこれは」
通信士が首を傾《かし》げた。この時代、音声を含《ふく》むほとんどの通信はデジタル化され、画面を通しても読めるのだが――通信士はヘッドセットを耳に押《お》し当て、聴覚《ちょうかく》に集中している。
「千四百チャンネルで同時送信してます。単純なデジタル信号です」
「単純なデジタル?」
「というか、原始的なモールス変調みたいな……ああわかった、これはSCPだ!」
「ビンゴ!」
副長は叫《さけ》んだ。
「連中、あの球体をエイリアンの乗物だと思ってるんだ!」
メイは息をのんだ。SCPのことは知っている。
スタンダード・コンタクト・プロセデェア――標準|遭遇《そうぐう》手順。
それは人類が未知の知的生命と遭遇した場合に提供する必要最小限の情報で、どんな宇宙船のライブラリにも収録されている。
SCPは1と0を現す単純なデジタル符号《ふごう》で表記され、数字と四則演算を教えることから始まる。情報はしだいにステップアップし、やがて画像を提供する。画像によって種々の物理法則を教え、水素原子の半径など、宇宙共通の物質を尺度にして、距離《きょり》や時間、力の単位を伝える。このあと画像は動画と音声になり、人類の外見や文化、生活習慣を示し、同時に数百語からなる標準語を教える。
相手に相応の知性があれば、このSCPを解読して、人類と会話できるようになるはずだった。
「だけど、無駄《むだ》じゃないですかね」
通信士は言った。
「あらゆる電磁波を全反射するんだから」
「聞く耳もたん、か……」
副長は思案した。
「いま直径はどれだけだ」
「そろそろ三百メートルです。どこまで膨張《ぼうちょう》するんですかね」
「千を越《こ》えたら後退するぞ。なんだかしらんが、あれに呑《の》み込まれるのはぞっとしない」
後退。
その言葉を聞いて、メイは我に返った。
チャンスは、いましかない。
いま行動しないと、もう二度と脱出《だっしゅつ》できないかもしれない。
メイはそっと発令所を出た。
階段を降り、艦尾《かんび》に向かう。
平静をよそおい、脇目《わきめ》もふらずに歩いた。
後部|脱出筒《だっしゅつとう》の下に来た。
まわりを見回す。誰もいない。
メイは傍《かたわ》らのロッカーから、救命ラフトのカプセルをひきずりだした。
脱出筒のハッチを開いたら、発令所に知れるだろうか。外に出るには、二つのハッチを通らないといけない。
いちかばちかだ。メイは覚悟《かくご》を決めた。こうした非常装置は独立して作動するものだ。
発令所が最優先でコントロールできるとは限らない。
メイは壁《かべ》のスイッチを押《お》した。
重々しい音がして、天井《てんじょう》のハッチが開いた。カプセルを抱《かか》えて梯子《はしご》を登り、脱出筒の内部に入る。
ハッチの閉鎖《へいさ》スイッチを入れようとした、その時。
「メイ!」
「ニヴス!――だめ、来ないで」
ニヴスは真下からこちらを見上げていた。
「なに考えてるんだ。海面まで三十メートルあるぞ」
「私、行かないと。あの揚陸艦《ようりくかん》に――」
「行っちゃだめだ!」
「だめ、私、ずっとここにいるわけにいかないもの! 宇宙に帰らないと!」
メイは閉鎖スイッチを倒《たお》した。ハッチがスライドしはじめる。
「よせ! とにかく今はここにいろ! 俺が――俺が悪いようにはしないから」
ニヴスは梯子を登りはじめた。
「来ないでっ!」
ニヴスの手が、閉まりかけたハッチにかかった。
安全装置が働いて、ハッチの動きが止まった。
「ニヴスやめて、お願いだから!」
ニヴスは片腕《かたうで》で体を持ち上げ、胸から上をこちら側に入れ美。汗《あせ》の浮《う》いた顔が、目の前に来た。その瞬間《しゅんかん》、メイは嫌悪《けんお》に近いものを感じた。
「なあメイ、頼《たの》むよ、俺といっしょに――」
「しつこいっ!」
げしっ!
生まれて初めて行う動作にもかかわらず、それは反射的に実行された。
メイはニヴスの顔面に蹴《け》りを入れたのだった。
 ニヴスは悲鳴とともに墜落《ついらく》した。
ハッチの動きが再開し、端《はし》までスライドした。さらに内側に押し込まれて完全|閉鎖《へいさ》する。
「か……勝った」
母さんが見たらどう思うだろう――メイはそう思ったが、同時に勝利の快感もあった。
男を振《ふ》るとは、なんと痛快な行為《こうい》なのだろう。
メイは動悸《どうき》をおさえながら操作パネルに向かい、脱出筒《だっしゅつとう》の駆動《くどう》電源を【独立】に切り替《か》えた。潜水艦《せんすいかん》が大破したときでも、内蔵したバッテリーで電力を供給するモードだ。
パネルから床下《ゆかした》に、ケーブルをまとめたコンジット管が這《は》っている。
メイは壁《かべ》からサバイバル・アックスを外して、コンジット管を力任せに叩《たた》き切った。
小さな火花が飛んで、ケーブルはすべて断線した。
これで、外部からはハッチを操作できなくなるはず。
棚《たな》から脱出用具を出して腕を通し、空気供給用のマウスピースをくわえる。
深度三十メートル。大丈夫《だいじょうぶ》、短時間ならケーソン病にはかからないはず。
メイは【注水】スイッチを倒《たお》した。
足元から、海水が這いあがってくる。気圧も上がりはじめた。
唾《つば》をのんで、耳|抜《ぬ》きする。
脱出筒に海水が満ちた。肺がしめつけられるようだった。
水中で【外扉開放】スイッチを倒す。
外側のハッチが、じれったいほどゆっくりと開きはじめた。完全に開ききる前に、メイは外に出た。
高い! 海面は八階建てのビルに匹敵《ひってき》する高みにあった。長い根を垂らしている海藻《かいそう》の間から、青白い光が洩《も》れている。
すぐ横を、救命ラフトのカプセルが昇《のぼ》っていった。メイは手を伸《の》ばしたが、つかみそこねた。両足で水をかいて、海面に向かって泳ぐ。
何分もかかったような気がした。白い光のなかに顔を出すと、数メートル先のカプセルに向かって泳いだ。カプセルは自動的に開いて、救命ラフトの膨張《ぼうちょう》が始まっていた。
花をつけた海藻が手足にからみつく。わずかな距離《きょり》だったが、メイは息を切らせながらラフトをつかんだ。脱出用具を脱《ぬ》ぎ捨て、ラフトに這《は》いあがる。寒さは感じなかった。
揚陸艦《ようりくかん》は約四キロ先に見えた。右舷《うげん》艦首をこちらに向けている。その右手、ずっと近い位置に球体がそびえていた。気球のように浮かんでいるが、微動《びどう》だにせず、途方《とほう》もない重量感があった。
揚陸艦はこちらに気づくだろうか。
立ち上がって手を振《ふ》ってみたが、反応がない。
そうだ、無線無線。
救命ラフトは円形をしていて、中央に付属品をおさめた袋《ふくろ》がある。
メイは袋を開いた。中には必ず……ない? 非常用の通信機がない!?
部品取りにでも使ったのだろうか。
シグナルミラーも信号ピストルもない。
なんてことだ。
メイは焦燥《しょうそう》をおぼえた。
いまにも目の前の海面が盛り上がり、潜水艦《せんすいかん》が現われそうな気がした。
すぐそばに潜望鏡が出ているはずだ。気づかれるのは時間の問題だろう。
いや、そうでもないか。
海賊《かいぞく》たちは――ニヴスを除けば――特にメイを必要としていない。彼らにとって困るのは、救命ラフトによってラカンドラ号の位置を知られることだ。
メイの脱出《だっしゅつ》を知れば、むしろ別の位置に移動するのではないだろうか。
あわてることはない。とにかく揚陸艦のそばへ行こう。
ラフトに推進器はついてなかった。
メイは袋の中から、卓球《たっきゅう》のラケットのようなものを取り出した。
「オールって、これだよね……? オールって書いてあるもの」
腕《うで》をのばして水を掻《か》いてみる。
期待に反して、ラフトはくるりと回転しただけだった。
ええと……そうか。
メイは船縁《ふなべり》にひざまずくようにして、前方の海水を引き寄せるようにパドルを操った。
数メートル進んだところで、ラフトは前進を止めた。なぜ?
あらためてラフトを調べると、ちょうど反対側にシー・アンカーが延びていた。波浪《はろう》のなかで姿勢を安定させる装備だ。船内に引き上げる。
メイは再び漕《こ》ぎ始めた。
はかどらないが、こうするしかなかった。救命ラフトは海藻《かいそう》をかき分けながら、じりじりと進んだ。
途中《とちゅう》、球体にかなり近づくことになる。潜水艦《せんすいかん》も揚陸艦《ようりくかん》も、球体に近づこうとはしない。
自分も迂回《うかい》していきたいが、この速度ではそんな余裕《よゆう》はなかった。
冷えた空気のなかで、メイは汗《あせ》だくになって漕ぎつづけた。
やがて、コースの設定を誤ったかな、とメイは思いはじめた。
球体の膨張《ぼうちょう》は続いている。このままでは、その直下を通るかもしれない。
しかし迂回すると、時間も余計にかかる。時間とともに球体も大きくなり、迂回した意味がなくなるかもしれない。
メイは最初のコースを保つことにした。
ACT・5
揚陸艦ハマーヘッドは情報収集用に改装されており、もちろん最初から捕捉《ほそく》していたのだった。
オレンジ色のカプセルが海面に出現し、膨張して救命ラフトになった。
そこへビキニ・スタイルの少女が這《は》いあがり、こちらに手を振《ふ》り、試行錯誤《しこうさくご》をへて漕ぎはじめる――海面をとらえた望遠映像は像のゆらぎを補正しきれていなかったが、少女が漕ぐたびに金髪《きんぱつ》のポニーテールが揺《ゆ》れるのがわかった。
「やってくれるなあ。どう見たってありゃメイだ」
「あの子にはときどき感心するわ。一人で潜水艦から脱出《だっしゅつ》するとはね!」
ロイドとマージが声を弾《はず》ませる横で、シェパードは苦り切っていた。
「……へマしやがって。ポジションがばればれじゃねえか」
三人はまだCICにおり、一部始終をサブスクリーンで見守っていたのだった。
ロイドが海賊《かいぞく》に言った。
「言ったろ。メイを甘《あま》くみちゃいかんてな」
「ありゃ副長のヘマだ。脱出筒《だっしゅつとう》のインターロックにゃ抜《ぬ》け道があると言ったんだが」
「何者かね、あの少女は」参謀《さんぼう》が尋《たず》ねた。
「メイ・カートミル。わしらの仲間ですよ。ラカンドラ号につかまってたんだが、チャンスと見て脱出したんですな。早く収容してやってください」
「しかし、誰よりも球体に近い位置にいるな」
参謀はブリッジの艦長《かんちょう》に通報した。
「救命ラフトの少女はミリガン運送の乗員です。ラカンドラを脱出してこちらに救助を求めているようです……しばらく静観したほうが……はい、そちらは位置を掌握《しょうあく》していますが、本艦の対潜《たいせん》装備でどこまで追えるか……もちろん」
「ちょっと!」
マージが割り込んだ。
「ボートかなにか出して、早くメイを拾ってよ」
「ファースト・コンタクトの最中だ。不自然なことはしたくない」
「メイの存在自体が不自然よ。あのまま球体が膨張《ぼうちょう》し続けたら、メイを巻き込むわよ」
「それはそうだが……救難活動については私には判断できない。設定した警戒《けいかい》領域の内側に隊員を差し向けるとなると――」
「うちの社員だ。わしらで行くさ」
ロイドが言った。
「シャトルをウェル・デッキに移してくれ。あとは自分でやる」
「そうそう。軍が人命救助を妨害《ぼうがい》したって事実がばれたら、国民はどう思うでしょうね」
参謀は艦長との対話を再開した。
協議のあと、ミリガン運送の提案が採用されることになった。
衛兵に先導されて、ロイドとマージはCICを出た。
「おっと、元艦長は残ってもらおう」
さりげなく同行しようとするシェパードだった。
揚陸艦《ようりくかん》の任務は兵員や物資、舟艇などを惑星《わくせい》表面に運ぶことにある。その船体は貨物を運び、戦火の中を迅速《じんそく》に積み下ろしできるように設計されている。
箱型の艦首には幅《はば》十四メートルのドアがあり、上方に開く。内部はウェル・デッキと呼ばれ、喫水線《きっすいせん》まで海水が入っている。そこはもう、海の一部だった。
ハンガー・デッキに収容されていたアルフェッカ・シャトルは、自動化されたソーターに乗って艦首に運ばれた。
ロイドとマージは懐《なつ》かしい匂《にお》いのするコクピットに入ると、すぐにシステムを立ち上げ、エンジンのウォームアップにかかった。
「チェックリストは省略するわ」
マージが言った。
「海面をタキシーするだけだし」
「異議なしだ」
機体の背後にブラスト・リフレクターが立ち上がる。ブリッジから発進許可が出た。
マージはエンジンの調子を見守りながら、じわじわと推力を上げた。
シャトルは海面に進み出た。
「なんだか、前より明るくなってない? 気のせいかな」
「気のせいじゃないかもしれんぞ。連中、太陽観測にこだわってたからな」
「太陽って……まあいいわ」
話が難しくなりそうなので、マージは操縦に集中することにした。
水平線上にオレンジ色の点が見えた。メイの姿まではわからない。
左前方には、いまも膨張《ぼうちょう》を続ける球体があった。直径はもう四百メートルを越《こ》えており、行く手にのしかかるように浮《う》かんでいる。
「待ってなよメイ、すぐ拾ったげるからね……」
マージは推力をさらに強めた。シャトルは滑走《かっそう》状態になり、水煙《すいえん》が翼端《よくたん》で渦《うず》を巻きはじめる。
「……あんたは勇敢《ゆうかん》だわ。その強さがわかれば、親だってきっと――えっ?」
目の前の空間が一変した。
突如《とつじょ》、球体が消滅《しようめつ》し、白い霧に包まれた。
煙《けむり》を詰《つ》めた銀色の風船を割った――そんな風に見えた。
直後、爆音《ばくおん》がコクピットの内部にまで響《ひび》き、機体が急減速した。体が前にのめり、ハーネスが食い込む。突風がシャトルを横向きに海面に押《お》し付けたのだった。
マージは必死に機体を立て直し、スロットルを押し込んだ。暴れる機体を制御《せいぎょ》するのに、速度が必要だった。
その時、第二の衝撃《しょうげき》が襲《おそ》った。
空中の白い霧の中から、何か巨大《きょだい》な物体が現われた。
全長二百メートルはあるだろうか。紡錘形《ぼうすいけい》をしており、突起や継《つ》ぎ目も見える。
明らかに、人工物だった。
物体はほぼ水平な姿勢で、ゆっくりと降下してゆく。
いや、それは自由落下だった。遅《おそ》く見えたのは、距離《きょり》と尺度の問題だった。
物体は海面に触《ふ》れるや、白い瀑布《ばくふ》に包まれた。無数の破片《はへん》が飛び散る。
マージはとっさの判断で、シャトルを離水《りすい》させた。
速度が不充分なためにすぐに上昇《じょうしょう》できない。シャトルは左前方から押し寄せる津波《つなみ》をきわどくかわし、激しく動揺《どうよう》しながら空に舞《ま》い上がった。
高度三百メートルで旋回《せんかい》飛行に入る。
二人は声もなく、海上に浮かぶ物体を見守っていた。
その喫水線《きっすいせん》は激しく沸騰《ふっとう》しているかに見え、あちこちで水柱があがっていた。
まずロイドが我に返った。
「……ありゃあ、宇宙船か?」
「そう……みたいだけど」
それからマージは、自分たちがやりかけていたことを思い出した。
「メイは。メイはどこ?」
ACT・6
銀色の球体――あらゆる物質とエネルギーを遮断《しゃだん》していた場が消滅《しょうめつ》した。
中にあったのは、はるか遠方で切り取られた宇宙空間だった。
その中心には宇宙船があり、周囲は真空だった。
流れ込んだ四万トンの大気は、断熱|膨張《ぼうちょう》によって白い霧を生んだ。
中心に殺到《さっとう》した大気はそこで行き場を失い、全方位に衝撃波《しょうげきは》を投げ返した。
すべてが一秒以内に起きた。そのときメイは至近距離《しきんきょり》にいた。
メイはまず空中に巻き上げられ、直後、全身を衝撃波に打ちのめされて気を失った。
意識が戻《もど》ったとき、彼女は海中にいた。それは落下した宇宙船が引き起こした大波だった。波が崩《くず》れると、メイは海面に出た。
救命ラフトは見当たらない。無我夢中《むがむちゅう》でそばに浮いていたハニカム材の破片《はへん》につかまる。
それから何度も波をかぶったが、メイはどうにか浮かんでいた。
波がややおさまると、目の前に白い壁《かべ》が見えた。
一瞬《いっしゅん》、揚陸艦《ようりくかん》かと思ったが、あちらはグレー一色だった。
壁は円筒面《えんとうめん》をなしており、遠くで直径が狭《せば》まっていた。全体は紡錘形《ぼうすいけい》らしい。
表面には各種の装置が付着している。どれもメイには見覚えのあるものだった。
アンテナ。センサー。ハッチ。
宇宙船だ。宇宙船が海に浮かんでいる。
波と風のざわめきにかぶさって、ごーん、と鉄扉を閉じたような重低音が響《ひび》いた。
金属のきしむ、女の悲鳴のような音もした。
船殻《せんこく》のあちこちが壊《こわ》れているのだ。
近くの喫水《きっすい》のあたりで何かが破裂《はれつ》して、大きな水柱が立った。
メイは自分が宇宙船に引き寄せられているのに気づいた。
船が沈《しず》みかけている! 離《はな》れないと!
メイは破片を抱《かか》えたまま、ばた足で反対側に泳ぎはじめた。
ごうごうと不気味な昔がして、まわりの水が渦巻《うずま》きはじめた。
破片を放し、クロールで泳ぐ。
全身の痛みと疲労《ひろう》をものともせず、メイは力泳した。
どれくらい離れただろうか? 振り向いたメイは、悲鳴を上げた。目の前に船殻がそびえていた。周囲の海水は、恐《おそ》ろしい速さで流れていた。
巻き込まれる!
逆巻く海水がメイをつかまえた。どうすることもできなかった。メイはもみくちゃになって海中に引き込まれた。
今度は気絶しなかった。海藻《かいそう》と泡《あわ》が渦巻く中で、手が何か堅《かた》いものに触《ふ》れた。
メイは夢中でそれをつかんだ。船殻表面のハンドレールだった。足もなにかを探《さぐ》り当てた。メイはそこにふんばった。
目の前の船殻に、赤いラインで囲まれた四角形が見えた。
エアロックの操作パネルだった。左手で急流と戦いながら、メイは右手でパネルを開き、中のハンドルを回した。円形の外扉がじりじりと開きはじめた。三十センチほど開いたところで、メイは体を中に入れた。
もう全身の細胞《さいぼう》が酸素を渇望《かつぼう》していた。いま通ったドアを閉鎖《へいさ》し、手探りで内扉を開く。
メイは水とともに廊下《ろうか》に吐《は》き出され、ボロ布のように横たわった。
朦朧《もうろう》とした頭で、ただ深呼吸をくりかえす。
そのまま眠《ねむ》ってしまいたかったが、メイは気力をふりしぼって身を起こそうとした。
「くうっ……」
激痛に体を折る。
全身、打ち身と擦《す》り傷だらけだった。ラカンドラ号の制服――パンツとブラジャーは奇跡的《きせきてき》にまつわりついていたが、もともと風化していた繊維《せんい》は、もう分解寸前だった。
メイはそっと体をさぐってみた。
どうやら、骨折だけはしていない。
左|腕《うで》に裂傷《れっしょう》があったが、出血はそれほどでもない。
ゆっくりと上半身を起こし、あたりを見まわす。
床《ゆか》は大きく傾斜《けいしゃ》していた。いや、床じゃない。これは側壁《そくへき》だ。
宇宙船は中心|軸《じく》に重心をおいている。水中でどう倒《たお》れてもおかしくない。
前後軸の回転とともに、船は上下方向にも傾斜していた。
船首か船尾《せんび》のどちらかが先に沈《しず》んでいるのだ。
それを裏付けるように、下のほうからメリメリと不吉《ふきつ》な音が響《ひび》いてきた。
船体が沈み、圧潰《あっかい》しかけている。あるいは想定外の応力に耐《た》えかねているのか。
そう遠くない場所で何かが爆発《ばくはつ》し、水のほとばしる音がした。
急に耳が痛くなった。気圧が上昇《じょうしょう》している。
動かないと。ここはもうだめだ。
メイは苦痛をこらえながら立ち上がり、坂道を登った。
通路はゆるやかにカーブしており、どうやら船体の外周にそっている。壁《かべ》はもうあちこちが歪《ゆが》んで、通路全体が歪みかけていた。
真横の壁から、まるで固体のような圧力で水が噴《ふ》き出した。メイは一方の壁に叩《たた》きつけられた。水流の圧力で動けない。渾身《こんしん》の力を振《ふ》り絞《しぼ》って這《は》い進み、その場を逃《のが》れる。
早く、もっと内側に行かないと。
待望の分岐点《ぶんきてん》が現われ、メイは船体の中心方向に向かった。
しばらく進むと、床――ではなく側壁に、船内の案内図を見つけた。
ロティー・ブラッサム号。
そうか、これは客船だったのか。
現在位置は……船首側、最下層の貨物デッキだ。すぐそばにエレベーター・シャフトがあって、真上に行けばブリッジのそばに出る。
人は乗っているだろうか。とにかくブリッジに行ってみよう。
通路の角を曲がると、エレベーターホールに出た。ボタンを押《お》してみたが、反応しない。
エレベーター・シャフトと並行して非常階段があったはずだ。階段に通じるドアに手をかけるが、ひっかかって開かない。
メイは途中《とちゅう》に消火器具の箱があったのを思い出して引き返した。
赤い箱には、伝統的な非常用具、斧《おの》があった。
斧の一撃《いちげき》で、ドアは簡単た壊《こわ》れた。
階段は、途中の踊《おど》り場まではそのまま使えたが、その先は裏返しになる。メイは手すりを梯子《はしご》のように使って先に進んだ。
斧は重かったが、持っていくことにした。どうも船体のあちこちが歪んでいるらしい。この先、開かないドアに何度もぶつかりそうだ。
非常階段を三階ぶん進んだとき、前方でまた爆発《ばくはつ》が起きた。直後、白濁《はくだく》した海水が押し寄せてきた。水は足元にたまり、みるみるうちに水位をあげてゆく。
メイはいちばん近いドアを通って外に出た。
そこはエレベーターホールだった。下から三階というと……セントラル・シャフトか。
ブリッジへの道は、もう完全に浸水《しんすい》しているらしい。ここから船首側に行くのも無理だろう。いま通ったドアは水を防げないし、このホールにも浸水が始まっている。
となると、このシャフトを通って船尾側《せんびがわ》に向かうしかない。
通路を少し進むと、閉じた隔壁《かくへき》につきあたった。手動操作では開かないタイプだ。
向こうはどうなっているのだろう。浸水しているのだろうか。
耳を当ててみるが、船殻《せんこく》のきしみ以外、何も聞こえない。
斧の頭で叩《たた》いてみる。
どん!
ひとときの間をおいて、応答があった。
どん! どん!
メイは顔を輝《かがや》かせた。この船にもぐりこんで以来、はじめての人間の反応だった。
ACT・7
トラブルの原因が気になったが、妻を不安にさせるのはよくない。
ジェフはブリッジを退出することにした。
「忙《いそが》しくなってきたようだ。そろそろおいとましないか」
「そうね」
スローカム船長に別れを告げて、カートミル夫妻はブリッジを出た。
エレベーターを降りてセントラル・シャフトに出たところで、ごう、と地鳴りのような揺《ゆ》れが走った。
「なんだ!?」
直後にきた最大の衝撃《しょうげき》は、大半を人工重力グリッドが吸収してくれた。
だが次の瞬間《しゅんかん》、廊下《ろうか》は闇《やみ》に包まれ、床《ゆか》が傾《かたむ》きはじめた。
どこかでガラスの割れる音がした。
「なに? あなた、どこ!?」
「こっちだ!」
ジェフは手探《てさぐ》りで妻の体をつかみ、引き寄せた。
すぐに非常灯が点灯したが、床の傾斜《けいしゃ》は続いた。
「しゃがんで。尻餅《しりもち》をつくんだ」
「傾いてるわ! どうして!」
「滑《すべ》っていこう。大丈夫《だいじょうぶ》だ」
二人は左舷側《さげんがわ》の側壁《そくへき》まで滑り降りた。
床の傾斜は、世界が約九十度回転したところで止まった。
ベスは呆然《ぼうぜん》とした面持《おもも》ちで、側壁の上に立った。
「なんてこと……船が、難破したの?」
「わからない。とにかく船室に戻《もど》ろう」
夫妻は側壁の上を進んだ。
だが、前方には堅固《けんご》な隔壁《かくへき》が降りていた。手動の開閉機構は見当たらない。
「しかたがない。ブリッジに戻ろう」
二人は再び船首側に向かった。
行く手は――こちらも隔壁が閉じていた。
「あなた……私たち、閉じこめられたの?」
ベスが血の気の引いた顔で言う。
「なに、すぐに助けが来るさ」
ジェフはインターホンを探したが、見当たらなかった。
「しばらくここで待とう。下手に動かないほうがいい」
「そ、そうね……」
四方から、近く、遠く、金属の破断する不気味な音が響《ひび》いている。水音のようなものも聞こえるが、作動油かなにかだろうか。
十分ほどしただろうか。急に背後の隔壁が、どん! と鳴った。
「そらきた」
ジェフは拳《こぶし》を固めて、隔壁を叩《たた》いた。
どん! どん!
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   第五章 神々の世界
ACT・1
「よおし……」
同種の扉《とびら》はアルフェッカ号にもあったから、急所は知っていた。
この隔壁《かくへき》は天井《てんじょう》から九十度回転して降りてくるタイプだ。床《ゆか》との結合部分にはずらりとラッチが並んでいて、堅固《けんご》に噛《か》み合っている。
しかしそのラッチを動かすのは、一本の細いプッシュロッドでしかない。ロッドをずらせば、すべてのラッチが一度に外れるのだ。
いま船体は横倒《よこだお》しだから、ラッチが外れれば横開きのドアのように開くだろう。
メイは斧《おの》を振《ふ》り上げ、力まかせに隔壁の隅《すみ》を叩《たた》いた。
複合材のカバーが破れ、内部の金属に当たった。
数回の打撃《だけき》で、プッシュロッドが露出《ろしゅつ》した。斧の頭を差し込んで、ロッドを押《お》す。
がちり、と音がして、ラッチが全部外れた。
メイは隔壁の縁《ふち》に指をかけ、力任せに引いた。
隔壁はわずかに動いた。
「開きそうかね!?」
向こうから、くぐもった男の声がした。
「なんとか!」
メイは斧を隙間《すきま》に差し込んで挺子《てこ》にした。壁《かべ》を右足で踏《ふ》み、全身をバネにして斧の柄《え》を引く。壁と隔壁の間に、数センチの隙間ができた。
「開きます。手伝ってください!」
「わかった!」
こんな格好の少女を見たら、相手はどう思うだろう。
しかしこの非常時だ。身だしなみにかまってはいられない。
男が加勢すると、隔壁は一気に開いた。
そこに、二人の大人がいた。
「ありがとう、おかげで助か――」
「いえこちらこそ――」
メイは絶句した。
相手も絶句した。
三人は、あんぐりと口を開けたまま、三十秒ほど向かい合った。
「メ……」
「メイ……なの?」
「と、父さん。それに、母さん……なんで……」
「メイ、あなた……まあ、なんて格好で……」
ベスはメイの正面に動き、その実在を確かめるかのように、肩《かた》をつかんでがくがくと揺《ゆ》すった。そして力強く抱《だ》きしめた。
「痛っ――母さん、そこ、痛い」
「あっ、あらあら、ごめんなさい。でっ、でもどうして。その格好は、いったい――」
ベスはまるで自分の苦痛であるかのように顔をゆがめて、娘《むすめ》の体を見回した。
「あっ……あの、これはつまり、いろいろあって、でも命に別状はないし、きわめて健康かつ健全で――」
もうだめだ、とメイは思った。体裁《ていさい》をつくろうもなにも、この再会は最悪だ。
裸《はだか》で、全身傷だらけになって、斧《おの》をふりまわす娘。
「ベス、待ちなさい」
父親が割り込み、事態の収拾にかかった。
「メイ、体は大丈夫《だいじょうぶ》なのか」
「大丈夫、ぴんぴんしてるから、ほら!」
メイは両腕《りょううで》をふりあげてポーズをとってみた。痛みで全身が分解しそうだったが、どうにか笑顔《えがお》を保った。
「よし、じゃそれはいいとして、この船はどうなってる」
「わからないの。海でラフトに乗ってたら、急に船が現われたっていうか」
「さっきまで私たちはブリッジにいたんだ。コニストンに向かってジャンプ航行してたんだが、なにか不具合があったようだ」
「じゃあ……イレギュラー・ジャンプかな? でも、だからってベクフットの地表に跳《と》ばされるなんて」
「ベクフット? ここはウィンダミア星系のベクフットか?」
「うん」
「なんてこった……」
「メイ、それであなた、ベクフットの海で何をしていたの? そんな格好で――」
「あ。えと。それはその」
メイはたちまち硬直《こうちょく》した。知るべきことは他にいろいろあるのだが、母はひたすら身だしなみにこだわっている。
「ベス、それは後だ。いま船は海に浮いてるんだな?」
「ううん、沈《しず》んでるの。もうあちこち潰《つぶ》れてて、船首側は全部|浸水《しんすい》してて」
「じゃあブリッジには行けないのか」
「だめ。だって、ほら」
もう足元に水が来ている。
「この隔壁《かくへき》は閉められるか」
「元通りに閉めれば、そのままラッチアップするよ」
「船尾側《せんびがわ》に向かうしかなさそうだが、あっちも隔壁が降りてるんだ」
「大丈夫《だいじょうぶ》、こつがあるの」
ジェフは目の前の隔壁を閉めた。がちり、とラッチの噛《か》み合う音がした。
三人は船尾側の隔壁に移動した。
「よし、父さんにまかせろ」ジェフは斧《おの》を構えた。
「その下の、隅《すみ》のふくらみを狙《ねら》って」
「ここか」
手順を教えると、メイの三倍の能率でジェフは隔壁の閉鎖《へいさ》機構を解除した。
扉《とびら》を押《お》し開くと、そこには大勢の人がいた。
隔壁が水圧で破れたと思ったのだろう、脅《おび》えた視線がこちらを見つめていた。
「……カートミルさん、無事でしたか!」
最前列にいた白い制服のパーサーが言った。
「ああ、なんとかね」
パーサーは、それから半裸《はんら》の少女に目を見張った。見覚えのない客だが――
「そちらは……プールから?」
「海からです」
「海……?」
「船首寄りの最下層のエアロックから入りました。ここは惑星《わくセい》ベクフットの海です」
パーサーは――彼もまた、あんぐりと口をあけ――そして合点した。
「そうか……あちこち浸水《しんすい》してるのは、そういうことだったのか!」
「状況《じょうきょう》をブリッジから知らされてないんですか」ジェフが尋《たす》ねた。
「連絡《れんらく》が取れないんです。船首と船尾《せんび》の機関部はまったく通じません。乗客はキャビン・クルーの判断で、全員このシャフト内に避難《ひなん》させましたが」
「全部で何人います?」
「二百九十人です」
「そうですか。この先の、エレベーター・ホールまで浸水しています。もうブリッジと行き来するのは無理でしょう」
「となると、我々だけで対処しないとだめですね……しかし、どうしたら……」
その時、乗客の一人が言った。
「おい、君らは隔壁《かくへき》を壊《こわ》しながらここに来たのか? 大勢を巻き添《ぞ》えにするとは考えなかったのかね?」
「いや、それは……」
ジェフとベスは顔を見合わせた。
メイが進み出て、それに答えた。
「隔壁は元通り閉鎖《へいさ》できますし、強度も落ちません。それから、こんな時に人を非難して時間を浪費《ろうひ》するのは自殺|行為《こうい》です」
男が沈黙《ちんもく》すると、自分でも驚《おどろ》くほど堂々と話すことができた。メイはさらに、他の乗客に聞こえるように言った。
「みなさん、すぐそばにタルガの揚陸艦《ようりくかん》がいます。それから、シャトルや戦闘機《せんとうき》もいます。なにより潜水艦《せんすいかん》がいます。すでに救助活動を始めているはずです!」
おお、と安堵《あんど》の声が広がった。
「それから、このセントラル・シャフトは五Gくらいの加速から船体構造を支える、すごく丈夫《じょうぶ》な部材です。少々の水圧ではびくともしないです。安心して待っていればいいです」
乗客たちは歓声《かんせい》をあげ、早々と救助された気分になっていた。さきほどの抗議《こうぎ》の主は、そばの客をつかまえて「コニストンについたら船会社から慰謝料《いしゃりょう》をふんだくってやる」と話し始めた。
だが、メイのほうは、言ってから急に不安になってきた。
ここは海中だ。無線通信ができない。
シャフトは確かに丈夫だが、それは圧縮荷重に対してだ。そもそもこの海域の深度はどれくらいあるのだろう?
揚陸艦に水中救難の装備があるだろうか。
頼《たの》みの綱《つな》はラカンドラ号だが……軍に位置を知られて、今頃《いまごろ》は大急ぎで逃走しているのではないだろうか? そのきっかけを作ったのは、他ならぬ自分なのだ……。
ACT・2
「揚陸艦ハマーヘッド、こちらアルフェッカ・シャトル。救命ラフトは発見しましたが、メイ・カートミルは行方《ゆくえ》不明。捜索を続ける」
『ハマーヘッド了解《りょうかい》。協力に感謝する』
アルフェッカ・シャトルは、現場上空で旋回《せんかい》を続けていた。
発見された救命ラフトは、切り裂かれたオレンジの布切れとなって波間に浮いていた。
だが、メイの姿はなかった。
「メイ……宇宙一タフなあんたが、溺《おぼ》れるわけないわよね」
マージは開ききった捜索半径を狭《せば》めにかかった。ずっとこの繰《く》り返しだった。
そうすることしかできなかった。
球体とのファースト・コンタクトがとんだ見当|違《ちが》いだとわかると、ハマーヘッドは小型舟艇を数|隻《せき》出して、沈没《ちんぼつ》現場の捜索にあたらせた。だが、メイや沈没した宇宙船の搭乗者《とうじょうしゃ》は一人も発見できていない。
球体|消滅《しょうめつ》直後の映像|解析《かいせき》から、沈《しず》んだ物体は中型の宇宙客船だと推定された。さらに海上で発見された船殻《せんこく》の破片《はへん》に『ロティー・ブラッサム』という名前があり、これに間違いないと考えられている。
だが、ハマーヘッドも軌道《きどう》上の艦隊《かんたい》も、沈没船の救助手段を持っていなかった。現場の水深は百五十メートルと浅いが、サルベージするには特殊《とくしゅ》装備を持ったテクニカル・ダイバーや潜水艇《せんすいてい》が要《い》る。
「ラカンドラ号ならやれるんじゃないかね、元艦長」
参謀《さんぼう》が言った。
「潜水艦|相互《そうご》で救助できる機構があったはずだ。同じ方法が宇宙船に対しても使えないか」
「その気になればできるだろうな。宇宙船のエアロックと脱出筒《だっしゅつとう》は共通規格だ」
シェパードは冷淡《れいたん》に言った。
「だが潜水艦ってやつは、自分で判断して動くものだ。まして海賊《かいぞく》だからな。副長の奴《やつ》がその気にならない限り、動くまい」
「ソナーに音声を載《の》せて呼び掛けてはどうだ。救助さえしてくれれば、手は出さないと約束できる。特赦《とくしゃ》を考えてもいい」
「軍の呼び掛けを信じると思うか?」
「君が話してもだめかぬ」
「やってみてもいいが、強要されてると思うだろうな」
「……そうだな」
参謀はため息をついた。
「逃《に》げるなら今がチャンスですぜ、副長」
ソナーマンが言った。
「海じゅう、すごいノイズです。揚陸艦《ようりくかん》のソナーはまったく役に立たないでしょう」
「どうやら命拾いしたな。……よし、離脱《りだつ》しよう。針路二三〇で微速《びそく》前進」
副長はそう指令した。
いささか後ろ髪《がみ》を引かれる思いではある。
メイの救助には、揚陸艦が適任だろう。
しかし、球体の中から出てきたあの細長い物体は――あれは宇宙船のように見えた。人は乗っていないのか。
海難事故に際しては、最寄りの船が救助に向かう。それが船乗りのルールだ。
俺たちは海賊《かいぞく》だから、ルールには縛《しば》られない。しかし……。
副長はソナーマンに告げた。
「物体のモニターは続けろ。沈下《ちんか》は止まったか」
「着底したようです。深度は百五十メートルで一定。圧波音《あっかいおん》が断続しています」
「宇宙船ってやつは、たった十六気圧で潰《つぶ》れるもんなのか?」
「よく知りませんが――私が設計するなら、そんな無駄《むだ》な強度は与《あた》えませんね。マイナス一気圧に耐《た》えればすむわけですから」
「そりゃそうだよな」
あれに人が乗っていたとしても、まず絶望だ。そんな救助に手を貸したあげく揚陸艦に拿捕《だほ》されたら、シェパード艦長はなんと言うだろうか。
お人好《ひとよ》しもほどほどにしろ。――そんなとこだろう。
副長はスクリーンに映った海図を見た。
ラカンドラ号は刻々と現場を離《はな》れてゆく。
これでいいんだ、たぶん……。
「なんで、行っちゃうんだよ!」
若い、焦燥《しょうそう》にみちた声がした。副長はびくりとして振《ふ》り返った。
ニヴスが来ていた。ひどい顔だった。殴《なぐ》られたのか、泣いたのか、喧嘩《けんか》のあとのようなめちゃくちゃな顔をしていた。
「メイが逃《に》げたの、知ってんだろ。連れ戻《もど》してくれよ、頼《たの》むよ!」
なんだ、娘《むすめ》のことか。
「未練がましいことを言うな。そんなことで艦《かん》を危険にさらすわけにはいかん」
副長はつれない声で言った。
「その顔はどうした」
「メイに蹴《け》られた」
「……おまえ、最低にダサイな。だったらなおさらあきらめろ」
「だけどよう」
「一度目は非常呼び出し、二度目は蹴りか。そりゃ圧倒的《あっとうてき》に脈なしだ。ほかの女を探せ」
ACT・3
みしり、と嫌《いや》な音がした。
今度のは近かった。
ずっと周囲の船室が圧潰《あっかい》する音を聞いてきたが、いよいよセントラル・シャフトそのものに負荷がかかりはじめたらしい。
紡錘形《ぼうすいけい》の船殻《せんこく》が潰《つぷ》れ、芯《しん》を食べ残したリンゴのようになった様子が目にうかぶ。
船尾《せんび》のほうでバーン、と派手な音がして、悲鳴があがった。
「水だ!」
「もうだめだ、どんどん入ってくる!」
漏水箇所《ろうすいかしょ》から逃《のが》れようとする乗客の波が、こちらに押《お》し寄せてきた。
「みなさん、どうか落ち着いて! すぐには水没《すいぼつ》しません」
パーサーが懸命《けんめい》になだめようとする。
「潜水艦《せんすいかん》はどうしたんだ!」殺気立った声がする。
「こちらに向かっているはずです」
「はずとはなんだ。連絡《れんらく》できないのか」
「水中ですから、電波は通じないのです。しかし、そばにいれば必ずわかるはずです」
そばにいれば――必ずわかる。
そうだ、ソナーにはこの船のたてる音が、うるさいくらい聞こえているはず。
水中の音波は空気中よりずっと遠くまで届く。潜水艦のソナーは恐《おそ》ろしく高性能で、かすかな音源パターンをノイズのなかから見つけだすのだ。
メイは立ち上がってパーサーのところへ行った。
「あの、船内見取り図みたいなもの、ありますか」
「ああ」
パーサーは制服の内ポケットから、小型のスレートを取り出した。
縦割りの断面図を見る。セントラル・シャフトから二箇所、細いトンネルのような通路が船殻の表面まで延びていた。
「これ、作業用のエアロックですか」
「そうだ。入港中、整備や補給を船客の目障《めざわ》りにならないようにやるための通路だよ」
「いま、ここに出入りできるでしょうか」
「隔壁《かくへき》が降りてるからね。浸水《しんすい》してたら開くわけにはいかないよ」
「浸水してなかったら、エアロックまで行けますか?」
「たぶん」
メイはもとの場所に戻《もど》り、斧《おの》をつかんだ。
「父さん、ちょっと来て」
「どうした」
「ちょっと。あ、母さんはここにいて。すぐ戻るから」
「いいえ、私も行きますよ」
「危ないから母さんはここにいたほうが――」
「危ない!?」
「あ、そうじゃなくて、その、なんていうか」
「危なくないならいっしょに行きます」
ベスは断固として譲《ゆず》らなかった。メイがひそかに『ロックオン』と呼ぶ状態だった。
一家三人は船尾側《せんびがわ》に向かった。シャフトは船尾寄りが低くなっていて、足元には水がたまっていた。進むほどに、水位が高くなってくる。
メイが先頭に立ち、ジェフは妻の手を取って後に続いた。
腰《こし》まで水につかりながら、三人は直径二メートルほどのトンネルの入り口にさしかかった。ほぼ水平に延びているが、本来なら船底に向かう竪穴《たてあな》だ。
トンネルの数メートル先には、隔壁が降りていた。
隔壁まで来て、メイは両親に計画を説明した。
「……母さん、これを何に使ったかは、今は訊《き》かないで。とにかく、やるならエアロックの外扉まで行かないと」
娘《むすめ》に対する疑惑《ぎわく》で胸が破裂《はれつ》しそうになりながらも、ベスはかろうじて追及《ついきゅう》をひかえた。
三百人近い人命が、この計画にかかっているのだ。
「よし、やってみようじゃないか」ジェフが言った。
「でも、この隔壁《かくへき》を開けていいかどうか……」
もしトンネルの先が浸水《しんすい》していたら。ラッチを外した途端《とたん》、恐《おそ》ろしい勢いで水が流入するだろう。
「貸しなさい」
ジェフは斧《点の》の頭を片手に持ち、隔壁に耳を当てながらそれを叩《たた》いてみた。
コン……
聴診器《ちょうしんき》をあてがう医者のような表情だった。
コン……
ジェフは壁《かべ》から耳を離《はな》した。
「いいぞ、むこうは空気だ」
「ほんと!?」
「父さんは浄水場《じょうすいじょう》で働いてるんだよ。水のつまった配管とは長いつきあいなんだ」
「父さん、最高!」
それからジェフは、隔壁の根元に斧を振《ふ》り下ろした。
ラッチを外し、隔壁を引き離す。
トンネルは十メートルほど先のエアロックまで続いていた。
メイがハンドルをまわして内扉を開けると、ジェフは斧を持って中に入った。
「あ、それは私がやらないと」
「そうか」
メイはエアロックに入ると、斧を槍《やり》のように持って、力|一杯《いっぱい》外扉を叩《たた》いた。
どん! どん! どん!
メイはあの言葉を反芻《はんすう》していた。
『襲《おそ》われたらボートの底を三回叩きな。ばん、ばん、ばん、とね』
あのあと、ソナーマンはこう言ったのだ。
『音源ライブラリに登録しとこう』
あれは冗談《じょうだん》だったのか。でも、もし本当なら――きっと。
ACT・4
「なんだ、こりゃあ」
ソナーマンは、バーコードのようなディスプレイに顔を寄せた。
それは音源のパターンと方位を図示したもので、ライブラリとマッチした部分が赤く示
されていた。
「どうした」
「音響《おんきょう》コンタクトですが……ん、まただ」
「何の音だ」
「あの子ですよ。メイの非常呼び出しです」
「ほんとかっ!」
ニヴスが駆《か》け寄った。ソナーマンはノイズの中から抽出《ちゅうしゅつ》した音を、スピーカーに流した。
……どん! どん! どん!……
「どこにいるんだ!」
「あの沈《しず》んだ宇宙船の中だ。水深百五十メートルから鳴ってる」
「し……沈んだ宇宙船?」
「どうします、副長」
「なにかの偶然《ぐうぜn》じゃないのか」
「いやあ、これはメイでしょう。間隔《かんかく》といい、繰り返しの間合いといい、ニヴスに襲《おそ》われた時とそっくり同じです」
「俺《おれ》は襲ってなんか――」
「身の危険を感じて、焦《あせ》ってる。そういう音だ。聞いてみろ」
ソナーマンはスピーカーを示した。三拍子《さんびょうし》の打撃音《だけきおん》は今も反復している。
「重い道具を使ってる。ハンマーかなにかだ。メイは疲《つか》れてきてる……ちょっと休憩《きゅうけい》だ。額の汗《あせ》をふく。深呼吸して……またやるぞ……ほら!」
……どん! どん! どん!……
熟練《じゅくれん》した技能と高性能の装置によって、ソナーマンは十キロ離《はな》れた海底の出来事を正確に読みとってみせた。
「ううむ……なんであそこにメイがいる……いや、それはともかく……」
副長は唸《うな》った。
この腕利《うそき》きのソナーマンは、音響解析《おんきょうかいせき》を間違《まちが》えたことがない。
「なに迷ってんだよ、副長!」
ニヴスが怒鳴《どな》った。
「女の子が助けを呼んでるんだ。ほっとけるかよ!」
「真上に艦隊《かんたい》がいるんだぞ。増援《ぞうえん》も呼んでる。こんな浅い海で囲まれてみろ――」
「そこを切り抜《ぬ》けるのが腕ってもんだろうが!」
「くっ……」
見回すと、発令所にいた全員が、こちらを見ていた。
ソナーマンの描写《びょうしゃ》が効いたのだろう。メイのけなげな活動に、すっかり感情移入しているようだった。
ここで情に流されないのが指揮官のつとめなのだが。
副長は右手の拳《こぶし》をかため、宙にむかってパンチを繰《く》り出した。
「くそったれ! 操舵手《モうだしゅ》、音源に針路を取れ!」
「アイアイ、サー!」
「そうこなくっちゃあ!」
それから副長は、インターホンで下士官室を呼び出した。
「救護班を編成しろ。今すぐだ。たぶんドッキング・チューブを使う」
「曳航《えいこう》アレーを出せ。水中|音響画像《おんきょうがぞう》を表示」
ラカンドラ号は目標に向かいながら、全長六百メートルの水中マイクの集合体を展開した。これは人間が位相の揃《そろ》わない光で視覚を得るのと同様に、水中に散乱しているノイズから立体画像を構築するシステムだった。アクティブソナーと異なり、自分からはいっさいの音波を出さずに周囲の状態を知ることができる。
準備が整うと、スクリーンに前方の海中が立体表示された。
平坦《へいたん》な大陸棚《たいりくだな》の海底に、魚の骨のようなものが横たわっている。
船首と船尾《せんび》にはボリュームがあるが、中央はげっそりと陥没《かんぼつ》していた。あれのどこに、人がいるのか。
「音源位置を重ねろ」
陥没した腹部から飛び出した小骨の先端《せんたん》に、赤いマークが点滅《てんめつ》した。
「エアロックか……? 標準規格のやつなら、ドッキング・チューブと合うはずだが」
「あの先っぽにドッキングですか?」操舵手が聞いた。
「できるか?」
「長時間は厳しいですぜ。ドッキング後に流されたら、あの細いとこをへし折っちまうかもしれません」
「当然だ。うまくやれ」
「アイアイ」
艦底《かんてい》からドッキング・チューブを展開する。それは途中《とちゅう》に関節の入った、全長八メートルの管だった。先端には脱出筒《だっしゅつとう》やエアロックと結合するカラーがついている。これを目標に接し、内部を排水《はいすい》すれば、水圧だけで強固に結合する。
ラカンドラ号は目標を前にして一旦《いったん》停止した。
ここからはセンチ単位の操船になる。
操舵手《モうだしゅ》は慣性スタビライザーを作動させ、ヘッドマウント・ディスプレイをかぶった。
「よおし……かわいこちゃん、おとなしくしてな……俺のイチモツをくれてやらあ……」
卑猥《ひわい》な言葉を垂れ流しながら、操舵手は艦を寄せてゆく。
「そのまま……そのまま……おっと!」
水中|爆発《ばくはつ》の音は、船殻を通しても響《ひび》いてきた。サイドスラスターを使ってきわどく難を、逃《のが》れる。
「船尾《せんび》の機関部だ。まだあちこち圧潰《あっかい》してるから気ぃつけろな」ソナーマンが言った。
「そういうことは先に言え」
操舵手はアプローチをやりなおした。
「……よおし、いくぞ……どんぴしゃだ。接合! チューブを排水する」
ACT・5
「すこし間をおきなさい。そんなに叩《たた》くと、ドアが壊《こわ》れてしまうぞ」
「……うん」
信号を送りはじめて、すでに三十分が経過している。
メイは息を切らせて、斧《おの》を床《ゆか》に立てた。
応答がすぐあるはずもないのに、つい力が入ってしまう。
ベスがハンカチを出して、メイの汗《あせ》をぬぐった。
「ありがとう、母さん」
ベスは傷だらけになった娘《むすめ》の顔を、いとおしげに見つめた。メイが幼い頃、よくそうしたように、てのひらで頬《ほお》に包むようにする。
「あなたはよくやったわ。もし助けがこなくても、自分のせいじゃないのよ」
「うん……」
三人はしばらく、話すのをやめて、見つめあっていた。
見つめあい、肌《はだ》をふれあえば、ほかに何をする必要もなかった。
返事が届いたのは、そのあとだった。
どん!
トンネル全体がゆらり、と揺《ゆ》れた。
いよいよここも潰《つぶ》れるのか、と思った時――十六気圧をものともしない、力強いポンプの音が響《ひび》いてきた。
「排水《はいすい》してる! ほんとに来た
「ラカンドラ号が来てくれた!」
メイはとびあがって叫《さけ》んだ。
ポンプが止まると、すぐに外扉が開きはじめた。
まず、褐色《かっしょく》に日焼けした足が見えた。ボロボロの半ズボン。贅肉《ぜいにく》のない腹。
そして現われたのは――
「メイ!」
「にっ……ニヴス……」
抵抗《ていこう》する時間も空間もなかった。
とびこんできた若い野蛮人《やばんじん》は、両親の目の前でメイを力一杯《ちからいっぱい》抱《だ》きしめ、その唇《くちびる》を奪《うば》ったのだった。
ACT・6
「にっ、二百九十人だとお!?」
副長は声をあげ、見通しの甘《あま》さを暴露《ばくろ》してしまった。
てっきり、メイ一人を救助するつもりだったのだ。
副長はただちに艦内《かんない》放送で全員に通達した。
「これより本艦は難破船より二百九十名を収容する。全員、持ち場を片付けて人員の受け入れに備えよ。通路は可能な限り空けておけ。通行を妨害《ぼうがい》してはいかん。医療班《いりょうはん》はファーストエイドの準備にかかれ。海上にはタルガ艦隊がいる。静粛《せいしゅく》を維持《いじ》することを忘れるな」
三十秒後、パミラおばさんが発令所に駆け込んできた。
「何を始めたんだい! まさかずっと、ってんじゃないだろうね!?」
「おばさん、どうか静粛に――」
「どんなにがんばったって一回百食が限度だよ! いくら全員がトイレで出すもん出したって、処理がおいつきっこないんだからね!」
「まま、落ち着いてくれ。もちろん、すぐに降ろすさ。怪我人《けがにん》はしばらくかかるが、元気な奴《やつ》はどこかの島にでも降ろして、軍の連中に拾わせる。これでいいだろ」
「怪我人が多くなきゃいいけどね」
「あのー、副長」操舵手《そうだしゅ》が言った。
「なんだ」
「思いつきなんですが、二百九十人といやあ、結構な売りになるんじゃないですかね」
「売り?」
「軍と取り引きするんですよ。艦長の身柄《みがら》と交換《こうかん》するんです」
「ほう……」
「その話、乗ったあ!」
パミラおばさんが満面に欲望をたたえて吠《ほ》えた。
「お願いですから、どうか静粛に」
「艦長の買い戻《もど》しにまず一人さ。いいかい、あと二百八十九人だ」
「…………」
ソナーマンが、ぽむ、と手を打った。
「まず服だね。それとシーツにタオル。裁縫機《さいほうき》と調理器の新しいやつ。調味料と生鮮《せいせん》食料もありったけ運ばせるよ」
「オカムラ重工が曳航《えいこう》ハイドロフォンの新型を出してるんですがね」
「推進ダクトの駆動《くどう》シャフトもそろそろ……」
「サーチライトのバルブが足りないし」
「コンピューターとメモリーキューブ。超《ちょう》並列のすごいやつを」
「レーザーレーダーも新調しましょう」
「いっそ島に整備プラントを作らせて、そこだけ治外法権にしませんか」
「独立国にするってのはどうです」
「待て待て待て」
副長は制止にかかった。
「欲を出しちゃいかん。無理な要求で交渉《こうしょう》が長引いてみろ、特殊《とくしゅ》部隊に乗っ取られるぞ」
「相手がすぐ出せるもんを要求するのさ」
パミラおばさんが言った。
「だけどあたしのぶんは譲《ゆず》らないよ!」
セントラル・シャフトの全員を収容すると、ラカンドラ号はブリッジの天井部分《てんじょうぶぶん》のエアロックにまわり、船長以下十四名の乗組員を収容した。
客船ロティー・ブラッサム号の出現から四時間後――揚陸艦《ようりくかん》から五百メートル離《はな》れた海面に、ラカンドラ号は堂々と浮上《ふじょう》した。
まず十人の旅客がボートで運ばれた。
「あと二百九十四人いるが、それに先立って、いささかの手数料を要求したい」
副長はこう切り出し、シェパード艦長の身柄《みがら》と補給物資を要求したのだった。
ACT・7
「でも命の恩人《おんじん》を殴《なぐ》るなんて……お母さん、そんな子に育てたおぼえはありませんよ!」
「もう母さん、何度言ったらわかるかな〜」
「あの子がどんな気持ちでいたか、考えればわかるでしょう? 真っ先に駆《か》けつけてくれたんですよ。それをいきなり殴るなんて」
「でも、キスしたんだよ? 母さんそういうの平気? 許せる?」
「蹴《け》られたって言ってたじゃありませんか。蹴りのあとはパンチかよって。殴るの蹴るのされたらキスのひとつやふたつは当然でしょう」
「だって!」
「あー、二人とも、それくらいにしないか」
ジェフがたしなめた。
「着いたよ。口を閉ざして、指示に従うんだ」
カートミル一家と三十人あまりの船客を乗せたボートは、揚陸艦ハマーヘッドのウェル・デッキに滑《すべ》り込んだ。隊員が渡板《わたりいた》をかけ、手を取って甲板《かんぱん》に導く。
「やあ、ロイドさんたちがいるぞ」
軍のカバーオールを着たロイドとマージがリフトの手すりから身を乗り出して、こちらに手を振《ふ》っていた。
メイはボートを降りると、二人の前に駆けてゆき、マージと抱《だ》き合って喜んだ。
「今回は出番なしだったわ」マージが言う。「あたしたちが上をぐるぐる回ってるあいだに、あんたは一人で三百人を救ったわけね」
「一人じゃないです。父さんや、ラカンドラ号のみんなが動いてくれて」
「絆創膏《ばんそうこう》だらけじゃないか。ずいぶん暴れたな」ロイドが目を細める。
「どうも、娘《むすめ》がお世話になっています」
ジェフが握手《あくしゅ》を求めた。
「いやあ、わしらこそメイの世話になってるんですよ。ああ――」
ロイドはベスを見ると、急に姿勢を正し、言葉を選んだ。
「ああ……どうも、このたびはとんだ御旅行になったようで……」
「メイがお世話になっています」
「いえ、そんなことは」
「見ないうちに、すっかりじゃじゃ馬になってしまって。あんなふうにしつけたつもりはないんですけれど」
「いえいえ、メイさんはほんとに良くやってくれていますよ」
「虫も殺せない、おとなしい子でしたのに」
「虫も殺せない、おとなしいお子様ですよ、今も」
「裸《はだか》で斧《おの》をふりまわしてるのを見た時は、我《わ》が目を疑いましたわ」
「ああ――それはまあ」
ロイドが脂汗《あぶらあせ》をうかべて応対していると、メイの弾《はず》んだ声がした。
「教授! どうしてここに。ラカンドラ号を降りるんですか?」
救助された旅客に混じって飄々《ひょうひょう》と歩いていたウィルフォート教授は、メイの声に足を止めた。
「わしが? まさか。話しに来たんだ。軍の連中と」
「話?」
「お互《たが》い秘密の見せっこをしようってわけだ。来るかね」
「あ、行きたいですけど――いいんですか?」
「かまうもんか。ただの事前協議だ。民間人を三百人も巻き込んじゃ隠《かく》し事はできまい」
ベスがやってきて、浮浪者《ふろうしゃ》のようないでたちの男を上から下までスキャンした。
「メイ、このかたは?」
「ラカンドラ号で海藻《かいそう》の研究をしている、ウィルフォート教授。こちら、母のベス・カートミルです。これから軍の人と学術的な話をするんだけど、ついてってもいいって」
「それなら、私も行きます」
ベスはきっぱり言った。有無《うむ》を言わせぬロックオン・モードだった。
「わしらも行きたいな。被害者《ひがいしゃ》の一人として説明を受ける権利はあるだろ」
「そうよね」
結局、ウィルフォート教授、カートミル一家、ミリガン運送の六人が参加することになった。艦内《かんない》のブリーフィング・ルームに通されてみると、フェアバイト参謀《さんぼう》、客船ロティー・ブラッサム号のスローカム船長、そして潜水艦《せんすいかん》ラカンドラ号のシェパード艦長が着席していた。
「では始めましょう。人数が増えましたが、それぞれに理由をお持ちなので」
参謀はそう切り出し、簡単にメンバーを紹介《しょうかい》した。
紹介が一巡《いちじゅん》すると、待ちかねていたスローカム船長が発言した。
「こんどこそ説明していただけるんでしょうな。なぜ私の船がここに跳《と》ばされたのか――奇跡的《きせきてさ》に死者は出なかったものの、事と次第《しだい》によってはタルガ海軍を告訴《こくそ》することになりますぞ」
「あれは――人災とはいえないのです」
参謀は慎重《しんちょう》に答えた。
「理論的な説明は難しい。人知を越えた現象であることはおわかりでしょう。ひとついえることは、この星系からどこか遠方の宇宙に、質量をともなわない、なにかトンネルのようなものが延びていることです。そのトンネルは存在しているようでも、いないようでもある。存在の度合は状況《じょうきょう》によって変化するのです」
「……潮の干満で見え隠れする、暗礁《あんしょう》のようなものと考えていいのですかな」
「うまいたとえです。ロティー・ブラッサム号はそれに巻き込まれたと考えられます」
「ふん、気取ったことを言う。そこまでわかるなら、なぜ事前に警告しない」
シェパードが鼻を鳴らす。
「事件の引き金を引いたのは君らの実験だろう」
「実験スケジュールにあわせて星系へのジャンプ航法は禁止した。航路情報に流してる」
「ですが私の船はサイトロプス―コニストン航路で巻き込まれたのですぞ。もちろん警告もなかった」
「警戒範囲《けいかいはんい》が狭《せよ》すぎたことは認めます。しかし、まさか星系外の航路にまで影響《えいきょう》が及《およ》ぶとは考えられなかった。なにしろ我々のしたことは、この惑星《わくせい》をライトセールで包んだだけですから」
「そこですよ、詳《くわ》しく教えていただきたいのは」
参謀《さんぼう》はうなずき、この五年間に軍のしていたことを、順を追って説明した。
調査|開拓《かいたく》が始まって一年あまりして海藻《かいそう》の一斉《いっせい》開花があり、そのあとタルガ第四|艦隊《かんたい》の消滅事件《しょうめつじけん》が起きたこと。
その原因が不明なので、異星種族との交戦を想定したこと。
はたしてベクフットは他人の畑≠ネのか?――徹底的《てっていてき》な調査をしたが、異星種族の痕跡《こんせき》は発見できなかったこと。
「そのかわり、星系の空間構造の特異性と、不自然な太陽活動が浮《う》かび上がってきたのです。前者については、これという重力場もないのに、ジャンプドライブが行ないにくいことで知られています。後者の疑問は、太陽活動が安定しすぎている点にあります」
「太陽活動が安定すぎる?」
「太陽――すなわち恒星《こうせい》は、多かれ少なかれ周期的・年齢的《ねんれいてき》な活動変化を見せます。五年の観測期間があればそれらはすべて割り出せるのですが、この太陽に関してはきわめて特殊《とくしゅ》な解を得ました」
「特殊とは」
「無限、です」
「無限……」
「まるでサーモスタットでもついているように、太陽は一定不変の光度でベクフットを照らしつづけていました」
「四年前のあの時を除けば、だな」
ウィルフォート教授が言った。
「そうです。あの一斉開花の始まりから二十五日目に、太陽は初めてゆらいだ。なぜなのか――軍はある仮説を立てましたが、未知の部分が多すぎる。そしてあの時、なぜ花は咲いたのか。これは教授のほうがより多くの知識をお持ちでしょう」
教授はしかし、答えなかった。かわりにシェパードが言った。
「わかってきたぞ。寒冷化の実験なんて言ってたが、君らは太陽を見ていた。軍はこう仮定したんだ。ベクフットの環境《かんきょう》を保つために、何者かによって太陽が制御《せいぎょ》されているのではないか。そしてその制御機構は、宇宙から見たベクフット全体の反射率をもとに太陽の光度を決めている、とな」
シェパードは挑《いど》むような目で参謀《さんぼう》をにらんだ。
「そこで故意にベクフットを鏡の膜《まく》ですっぽり包んで、大半の日照を宇宙空間に跳《は》ね返してみた。もし太陽の挙動が変われば、その仮説は当たりだ。そうだろ?」
参謀はおもむろにうなずいた。
「現在、太陽の光度は通常より四パーセント強くなっている」
「ちょっと待って。太陽にスロットルをつけるなんて、できっこないわ」
マージが言った。
「内部の核《かく》反応は何百万年もかけて表面に届くんでしょ。数日でころころ変わるなんて」
「あの太陽が、ほんとうにすべてそこに存在するなら、その通りでしょう」
「……へ?」
「もし太陽が、超《ちょう》空間を介《かい》して二か所に同時に存在しているとしたら」
「んな、馬鹿《ばか》な――」
「ジャンプドライブはそれに近いことを実現しているのですよ。このウィンダミア星系の中心に八十パーセント、どこか遠くの宇宙に二十パーセントが存在している。この比率を変えれば、明るさも調節できる」
「重力も変わるわ。惑星《わくせい》の軌道《きどう》がめちゃめちゃになるでしょ」
「太陽質量を一定にしたまま、光度だけを変える。そういう振《ふ》り分けもあり得るのです」
参謀は言った。
「もちろん、太陽をコントロールするのは途方《とほう》もないテクノロジーです。我々のジャンプドライブは、太陽のそばで使うことすらできない。しかし、いくつかの状況証拠《じょうきょうしょうこ》から、その仮定を笑うわけにいかないと考えるようになったのです。もしそれが本当なら、途方もない軍事的脅威《きょうい》になる。開拓《かいたく》の中止を含《ふく》めて検討しなければならない」
「ついでに、そのテクノロジーを自分のものにしようとした」
「好きに想像したまえ、元|艦長《かんちょう》」
「第四艦隊は、その――超空間を使った太陽|制御《せいぎょ》機構に巻き込まれたのですか。そして私の船も」
「そう考えるとつじつまが合います。軍艦は民間船よりも太陽に近い位置でジャンプドライブを使う。当たりどころが悪かったのでしょう。ロティー・ブラッサム号はまるで違《ちが》う場所にいたが、超空間においては近かったのかもしれない。あの宙域の航路が、太陽制御によって書き換《か》えられていたとすれば」
「しかしなぜベクフットの、しかもラカンドラ号の真上に出現したのです?」
「ちょっとしたきっかけだろ」
シェパードが言った。
「ラカンドラ号はベクフットでただひとつ、人工重力場を使っていた。それが干渉《かんしょう》したのかもしれん。第四艦隊のほうは、太陽の中――どっちのだか知らないが――にでも出現して蒸発したんだろう。想像にすぎんがね」
「あの、いいですか」メイが挙手した。
「どうぞ」
「花はなぜ咲《さ》いたんでしょう。これも太陽と関係があるんですか」
「私も教授に聞きたい。どうかね?」と、参謀《さんぼう》。
「時間が要《い》る。まだ結論は出せん」
「思いつきでかまわない」
教授はなおも口をつぐんでいたが、やがて言った。
「仮定に仮定を重ねるのは気が進まんが……たぶん……太陽の制御《せいぎょ》が事実なら、軍のした実験がその答えだろう」
「あの実験が? わからんな。どういうことかね」
膜《まく》が日照の大半を反射し、地上を寒冷化する。そうなったら……雪が降り、海が凍《こお》る。
メイの脳裏《のうり》に、あの光景がよみがえった。
まるで流氷のような[#「まるで流氷のような」に傍点]。
啓示《けいじ》は電光のように訪《おとず》れた。言葉にするのは時間を要したが、メイはゆっくりと、それを声に出した。
「海藻《かいそう》が……海が凍ったふりをする……」
教授はメイを見て、静かにうなずいた。
「海が氷結すれば惑星《わくせい》全体の反射率が上がる。太陽をコントロールする機構は、本来その現象に反応する」
「――――!」
声にならない驚《おどろ》きが、全員を襲《おそ》った。
「海藻の開花条件は日照の不足だ。もっともそれは間接的な条件であって、それで開花するのは一部の変異種でしかない。普通《ふつう》の花が咲くには、直接の条件が整わないとだめだ」
「直接の条件?」
「環境《かんきょう》ホルモン物質だ。海藻はなんらかの理由で日照を求めると、微量《びりょう》の物質を海中に放出する。それは血液型のように、五つのタイプがある。ある個体はそのうちひとつのタイプのホルモンだけを分泌《ぶんぴつ》する。ところが開花には、全タイプのホルモンが揃《そろ》わないとだめだ。これが直接の開花条件だ」
「つまり満場|一致《いっち》をもって開花するわけだな?」
ロイドが言った。
「その通り。合議制をとるのは、惑星じゅうが一斉《いっせい》に開花しないと効果がないからだ。実験室の水槽《すいそう》で開花が再現しなかったのもそのせいだろう。あの花は生殖《せいしょく》とは関係がない。ただ日照をコントロールするためにある――そう考えることもできる」
「待ってくれ、太陽をコントロールする主が、あの海藻だというのかね! 海藻がそんなテクノロジーを持つなんてことが――」
参謀《さんぼう》が興奮をあらわにする。教授は一言のもとに否定した。
「ちがう。海藻《かいそう》が――たとえ群体として考えても――何の知性も持ち得ないことは、解剖《かいぼう》すればわかる。あの海藻は、何者かが造った太陽|制御《せいぎょ》機構に適応しているにすぎん。それが進化というものだ」
「しかし一斉開花で日照が変化しては、天候が激変して、かえって生存に不利じゃないのか。そもそもここは、一定の気候を保つべく制御されているのだから」
「だが、それが海藻にとって有利に働いてきたことは間違《まちが》いない。海藻が今も繁栄《はんえい》していることがその証拠《しょうこ》だ」
「まだわからんな。開花の必要性はほんとうにあるのか……?」
「ないはずはない。海藻は蕾《つぼみ》を持つために、相当なコストを支払《しはら》っている」
教授は結果から原因にさかのぼる、進化生物学の思考法で説明したが、参謀はまだ納得《なっとく》できない様子だった。
「俺はピンときたぜ」
シェパードが皮肉な笑《え》みをうかべた。
「言ってみたまえ、元|艦長《かんちょう》」
「元軍人としちゃあ、こう考えるわけだ。国家予算でもっとも金を食うのは、軍備だってな」
「軍備?」
「そうさ。奴等《やつら》は日照が不足しなくても、あるタイミングで開花する。自分が優位に立つためにだ」
「なぜ優位に立てる」
「天候が激変すりゃ、他の生物に打撃《だけき》を与《あた》える。時には絶滅《ぜつめつ》させたかもしれん。いま奴らが海じゅうに繁栄しているのは、そのせいじゃないのか」
「だとしたら……なんて攻撃的《こうげきてき》な植物なんだろう」
メイは思わずそうもらした。
地球産の植物なら、日照がほしいときは陽《ひ》当りのいい場所に葉をのばす。それが植物らしさだと思っていた。
メイの言葉に教授が反応した。
「攻撃的か。面白《おもしろ》い。ベクフットの海藻《かいそう》は――ライオンや狼《おおかみ》がそうであるように、盲目的《もうもくてき》な進化によってその性格を与えられた。地表から太陽を制御《せいぎょ》できるという環境《かんきょう》が、攻撃的な性格を与えたことになる」
「しかし、四年前の開花はどう説明する? 限られた海域だけで開花したわけだが」
「開拓団《かいたくだん》が海に持ち込んだ物質が、環境ホルモンとして作用したのだろう。開花が海流にそって起きているのはそれで説明がつく。五種類すべてが揃うのは不自然だが、ひとつで五種類を兼ねる、マスター・キーのような物質の候補がいくつか見つかっている」
「結局、第四|艦隊《かんたい》の消滅《しょうめつ》は人為的《じんいてき》なものだったと……」
参謀が押《お》し殺した声でつぶやく。
「生態調査もろくにせんうちに開拓を始めるからだ。環境ホルモンは微量《びりょう》でも作用する。小さな湖なら立ち小便ひとつでひっくり返るだろう」
「あー、ひとつ前の疑問に戻《もど》りたいんだが――」
ロイドが発言した。
「その太陽を制御している何者かは何を考えてるんだ? 日照を安定させるなら、それこそ宇宙に鏡を配置するとか、もっと楽な方法があるだろう。わざわざ太陽を制御するとは」
「彼らにとっては、そのほうが簡単なのかもしれん。鏡などの機械的な装置を数十億年にわたって維持《いじ》するよりも」
「だが、そんなものすごいテクノロジーが、たかが海藻に騙《だま》されるのも変な話じゃないか」
「騙されてやってるのかもしれんな」
教授が言った。
「わざと騙される? なぜですかな」
「いや……ふと思っただけだよ」
メイは驚《おどろ》いた。教授が初めて笑《え》みをうかべたのだ。
「あの、素人《しろうと》考えですが、少しよろしいですか」
ジェフが発言を求めた。参謀《さんぼう》がうなずく。
「私は都市ドームの浄水施設《じょうすいしせつ》の技術者です。長年、水とつきあってきました。水という物質は、こと浄水に関しては実に手に負えない。溶解度《ようかいど》が高すぎるのです」
「溶解度とは」
「物質を溶かし込む能力です。砂糖は油に溶けにくいでしょう。水はなんでも溶かします。しかしおかげで、生命を構築するには最適の物質になりました。我々地球人も、水を溶媒《ようばい》に採用しています。
水には、ほかにも際立《きわだ》った特徴《とくちょう》があります。潜熱《せんねつ》の大きさは、活発な気象現象をもたらします。沸点《ふってん》の高さは、有機物質の溶媒にちょうどいい温度です。これらはすべて、水の分子が高い双極子《そうきょくし》能率をもつことに由来するのですが」
「水のことはわかりましたが、それがいったい――」
「すみません。いかに水が特別な物質かを言いたくて。続けていいですか」
「どうぞ」
「水を知る者として、いま教授がおっしゃったことに感じるところがあったのです。つまり、もし自分が神のごとき存在で、星系を自由に改造することができたら、何をするかと」
「ふむ?」
「私だったら、水のある惑星《わくせい》を作って、ただ眺《なが》めて楽しむでしょう」
言ってから、ジェフは照れたように微笑《ほほえ》んだ。
「いや、冗談《じょうだん》ではないのです。欲しいものはなんでも揃《そろ》っているが、退屈《たいくつ》している。そんなとき、庭に水槽《すいそう》を置いてみるんです。ただ水を入れておくだけです。ところがいつのまにか水草が生え、水棲昆虫《すいせいこんちゅう》や魚まで現れます。飲み水を求めてきた鳥や昆虫が、おかえしに種子や卵を残してゆくからです。地球の生態系をうまく移植した都市ドームなら、そんなことが起きます。それを惑星規模で、億単位の年月をかけてやったらどうでしょう?」
一同は、はっとした様子で、互《たが》いの顔を見比べた。
「そんな惑星があれば、生命が現れ、進化して、知性や文明すら持つかもしれない。水を、求めて入植してきた人類は、さしずめ鳥や昆虫のようなものです。私なら、少々|糞《ふん》で汚《よご》しこからといって、目くじらはたてない。なにしろ太陽をコントロールするほどの存在です。反射鏡なんて無粋《ぶすい》なものは置かない。水の利権をめぐって争うようなこともしない。ただ眺めて、遊んでいる」
ジェフはふと口をつぐみ、
「ほんとうに高度な文明というのは、案外そういうものじゃないかと――いや、馬鹿《ばか》げた思いつきで、つまらない長話をしてしまいました。お許しください」
そんなことないよ、父さん――戸惑《とまど》う一同をよそに、メイはじっと、父のはにかむ顔を見つめていた。
そんなことない。
ACT・8
ロティー・ブラッサム号の船客たちはダリエン基地に移り、船会社の特別便を待つことになった。艦隊《かんたい》のシャトルが次々と降りてきては、船客を運んでゆく。
ウィルフォート教授は突然《とつぜん》翻意《ほんい》し、船客とともにダリエン基地に向かった。
シェパードはラカンドラ号に戻《もど》り、軍がよこした物資にブービートラップが仕掛《しか》けられていないことを確かめると、最後の船客を海上に残して、いずこへともなく消えた。
海賊《かいぞく》たちの今後。それはベクフットの開拓《かいたく》再開にかかっている。
太陽|制御《せいぎょ》が事実だとすれば、開拓再開には慎重《しんちょう》さが求められる。ここは他人の畑かもしれないのだ。
少なくとも入植者は、天界から自分達を見下ろす超越的《ちょうえつてき》な存在に、畏怖《いふ》の念を抱《いだ》きつづけねばならないだろう。
だがそれは、決して耐《た》えられないことではない。
文明が未熟《みじゅく》だった頃の人類は、いつもそうしていたのだから。
アルフェッカ・シャトルは揚陸艦《ようりくかん》のハンガー・デッキに引き上げられていたが、いつでも出発していいと言われていた。
シャトルの点検が終わると、五人はデッキの片隅《かたすみ》で向かい合った。
ロイドが言った。
「さてと……ご両親はどうされますかな。いまさらコニストンで待ち合わせでもありますまい。我々といっしょに、ここから乗っていかれますね」
ジェフはうなずいた。
「そうさせていただきましょう」
「いいえ」
ベスが言った。
「その必要はありませんわ」
「しかしベス、せっかく――」
「皆《みな》さんとはここでお別れします。メイの仕事ぶりは充分《じゅうぶん》に見せていただきました」
「これは仕事……といいますか」
「この一年近く、メイを預かっていただいて本当にありがとうございました。娘《むすめ》にはいい経験になったでしょう」
「母さん……?」
「娘は連れて帰ります」
メイは顔色を変えた。
不意打ちだった。ロティー・ブラッサム号で両親と鉢合《はちあ》わせしてから、このことはもう充分に覚悟《かくご》していたはずなのに――いまはどうしてか、とても理不尽《りふじん》なことに思えた。
「母さん、ちょっと待って――」
「言うとおりになさい。口答えは許しません」
「でも、仕事してるところなんか、全然見せてないし」
「その仕事が、あなたをここに連れてきたのですよ!」
ベスは声を高くした。
「こんなことはもうたくさん。こんな世界に娘を置いておくことはできません」
「…………」
メイは他の四人の顔を次々に見た。みな、呆然《ぼうぜん》と事の成り行きを見守っている。
ジェフが諭《さと》すように言った。
「ベス。落ち着いて考えてみないか。メイが選んだ道を、そんなに簡単に変えていいのか。もう少し時間をかけて考えてみないか」
ベスは首を横に振《ふ》った。
「この半日で、メイは何度も死にかけたんですよ」
「君や私の命を救ったのは誰だい? メイはもう子供じゃないんだ。君が連れ戻《もど》して、ヴェイスで何ができる?」
「母さん、おねがい、聞いて」
メイが懇願《こんがん》した。
「さっきの話、聞いたでしょう。あの海藻《かいそう》、植物なのにすごく攻撃的《こうげきてき》だって。太陽が普通《ふつう》じゃないから、あんな性格になったの。それはそこにいてもわからなくて、世界の外から見ないとだめで、だから――だからっていうか――うまく言えないけど、私、同じ太陽の下に居続けるんじゃなくて、もっとこんな、いろんな世界を見て、驚《おどろ》いたり、理解したりしたいから――」
「屁理屈《へりくつ》はおよしなさい!」
ベスは一喝《いっかつ》した。
「よその太陽を見るのは、大人になってからでも遅《 おそ》くありません」
「母さん……」
「宇宙で働いて、見聞を広めるのがいけないとは言いません。十六歳のあなたには早すぎるんです」
「…………」
メイは、長いことうなだれていた。
ロイドもマージも、何も言おうとしない。
「聞き分けなさい。わかるわね」
従うしかない気がした。
メイはやがて、こくりとうなずいた。
「しかし、急に辞《や》めるのではロイドさんたちに迷惑《めいわく》じゃないかね」
「あー、いえ、わしらはもともと二人でやってましたからな」
ジェフの言うとおりだったが、ロイドはつとめて何気ない口調で言った。
「お母様の気持ちはよくわかります。確かにこういう仕事は、ときどき危ない目にあいますからな」
それからロイドは身を屈めて、メイに言った。
「君と働けてほんとによかった。この仕事はもう十年してから始めても遅くない。そのとき、まだミリガン運送で働きたかったら手紙をくれ。喜んで迎《むか》えに行くから」
「ロイドさん……」
「あんたが私の歳になったら、どんな風だろって考えたもんよ、メイ」
マージが静かに言った。
「その才能でなにがやれるか、じっくり考えてみるのもいいかもね。あんたがうらやましいわ。ほんとよ」
これで最後かもしれないのに、メイは何も言えなかった。
何か言うと泣き崩《くず》れてしまいそうだった。
だが、どのみち、涙《なみだ》はあとからあとからこぼれた。
長い抱擁《ほうよう》のあと、ロイドとマージはシャトルに向かって歩み去った。
シャトルを乗せたソーターが動き始めると、並行する通路を、メイも早足で追った。
シャトルはウェル・デッキまで運ばれた。
窓|越《ご》しに、ロイドとマージがチェックリストを読み上げているのが見えた。
メイは甲板《かんぱん》で、両親に肩《かた》を抱《だ》かれるようにして、様子を見守っていた。
そろそろリストの四ページめだ、とメイは思った。
いつも通り、エンジンがウォームアップを始める。
それから――エンジンが暖まるまでに、航法機器をチェックするはず。
ほら、マージさんが席を離《はな》れた。航法席に移ったんだ。
モードセレクターの四をオンして……
一じゃなくて四だ。
マージさんにわかるだろうか。自分でカスタマイズしたきり、知らせてなかったけど。
一列に並んだキーで、多用する機能は四から七に集めてあるんだ。
メイは無意識に襟《えり》に手をまわしたが、そこに通信機はなかった。今は軍に支給されたカバーオールを着ている。
マージが操縦席に戻《もど》った。
え、もう戻った?
チェックを省略したんだ! わかんないまま、ほうっておいた。そうにちがいない!
エンジンの音が高まってきた。
メイはそわそわしはじめた。振り返って両親の顔を見上げる。二人とも、シャトルのほうを見ている。
アンカー・ラインが外れた。シャトルがゆっくりと動きだした。
――その瞬間《しゅんかん》、メイの頭は空白になった。
「母さん、ごめんっ!」
メイは両親の手を振りはらって、全速力で駆《か》け出した。
なにか叫《さけ》び声がしたが、振り向かない。傾斜路《けいしゃろ》をくだり、水際《みすぎわ》でジャンプしてシャトルの翼《つばさ》に飛び乗った。ペイロードベイの屋根によじ登り、機首まで走る。そこに恒星船《こうせいせん》との連結用のハッチがある。
手動操作でハッチを開くと、メイは足から飛び込んだ。
どさどさどさ。
したたかに尻餅《しりもち》をついたが、すぐに身を起こしてハッチを内側から閉め、コクピットの航法席に滑《すべ》り込む。
ロイドとマージが、目を真円にしてこちらを見ていた。
「な……なんだ、この生き物は」
「メイ、あんた――」
「止めないで! 航法装置は私がチェックしますから!」
メイは叫んだ。
「逃げるんです! 私、逃げたんです! 止まらないで。離昇《りしょう》してください!」
そしてマージは――このときに限って――黙《だま》ってメイの求めに応じたのだった。
シャトルは高まりつつある波浪《はろう》の中に乗り出し、速度を上げ、もうもうと水煙《すいえん》を上げながら離水した。
シャトルが空の彼方《かなた》に溶けるのを、二人は呆然《ぼうぜん》と見送った。
核融合《かくゆうごう》エンジンの轟《とどろ》きは長いこと空全体から響《ひび》いていたが、それもやがて潮風にかき消された。
妻の肩《かた》を抱《だ》いたまま、ジェフは言った。
「巣立ちの時なんだよ。あの子の」
ベスは黙っていた。
「たしかに、少々早いがね」
それからジェフの声は、ふいに笑いを含んだ。
「だけどあの走りっぷりを見たかい。まったく明朗かつ元気だったじゃないか」
「……そうね」
ベスはそう答えた。
「ほんとに……明朗かつ元気だったわね」
その顔に、静かな微笑《ほほえ》みがひろがってゆく。
澄《す》んだ青空が濃紺《のうこん》に変わり、やがて漆黒《しっこく》の宇宙になった。
下界は群青《ぐんじょう》の輝《かがや》きをとりもどし、宇宙との境目には不思議な銀箔《ぎんぱく》が、雲のようにちりばめられていた。
惑星《わくせい》をひととき覆《おお》ったライトセールは分解をはじめており、羽衣《はごろも》のように舞《ま》いながら、太陽風に吹《ふ》き流されてゆく。
シャトルは刻々と速度を上げながら、ベクフットの重力場を引き離《はな》していった。
その青い地平線から銀色のダリエンが姿を見せた時、メイはようやく人心地がついた。
宇宙だ。
また、ここに戻《もど》ってきた。
ロイドもマージも、話しかけようとはしなかった。
機器の音だけが響《ひび》くコクピットで、メイは会議で聞いたことを反芻《はんすう》していた。
あのあと――父が語ったあとに、参謀《さんぼう》はこう言った。
「その趣味《しゅみ》が高じれば、水槽《すいそう》はいくつも並べてみたくなるだろうね」
「我々はダリエンの裏側、ラグランジュ1に天文台を設置し、ここから始まる未踏《みとう》の世界に目を向けてきた」
「数百光年へだてた光を通しても、その太陽活動をうかがい知ることはできる」
「ここと同じ不自然な挙動を示す星が、この銀河渦状腕にそって、すでに六百個以上発見されている。確かなことは言えないが、おそらく――」
「我々はようやく、その末端《まったん》に達したのだ」
「ここから、神々の世界が始まる」
自分を動かしたのは、そんな言葉だった。
前途《ぜんと》に横たわる、この途方もない未知。
行けるところまで行ってみたい。だから――とても十年は待てない。
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   あとがき
またまた長らくお待たせしてしまいましたが、クレギオン・シリーズの7作目です。
このところ、新刊のたびに強調するのですが――これだけ間があく以上、著者も配慮《はいりょ》しており――私の本はどれも一話完結ですので、この最新刊から読んでいただいてさしつかえありません。
登場人物は刊行順の時系列で成長していますが、誰だって最初に知るのは出会った時の姿であって、生い立ちは後からわかるものですからね。
今回の中心人物は十六歳の見習い航法士、メイ・カートミル。家出して宇宙運送業界にとびこんだ彼女が、ある日、両親からきつ〜いお達しをもらうという、悪夢の授業参観日%I物語です。
お母さんたちの香水の匂いたちこめる、あの授業参観日。
誰しも平穏無事《へいおんぶじ》にすませたいものですが、メイは今回も天に見放されたようです。
SF的プロットとしては、進化生物学のごく基礎的なところを取り入れてみました。
一読してガイア仮説を連想した方もおりましょうが、私はその信者ではありませんので、念のため。
もしも――著者の期待したとおりに――ラスト一ページに感じるところがあったなら、続いてアーサー・C・クラークや堀晃の諸作品を読んでみることをおすすめします。それらの作品はとても私に真似《まね》できるものではありませんが、強く影響を受けていることは確かです。
いきなりクラークや堀晃を読むのが大変なら、創元SF文庫から出ているハインラインのジュヴナイルはいかがでしょうか。『レッド・プラネット』『宇宙の呼び声』『ラモックス』などなど、どれをとっても傑作《けっさく》です。多くは五十年代に書かれた作品ですので、天文学やテクノロジーの描写《びょうしゃ》に時代を感じてしまいますが、人物の魅力《みりょく》と科学的リアリティは今も色褪せていません。
本書の執筆《しっぴつ》は、そのほとんどをノートパソコンでおこないました。メモリー不足と表示部の一部破損に不自由していたところ、読者の一人である日笠薫氏からパーツの提供を受けたことをここに記しておきます。どうもありがとうございました。
[#地付き]野 尻 抱 介
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底本
富士見ファンタジア文庫
クレギオン ベクフットの虜《とりこ》
平成10年7月25日 初版発行
著者――野尻《のじり》抱介《ほうすけ》