懐しき文士たち 昭和篇
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年七月二十五日刊
(C) Daishi Iwaya 2001
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目 次
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懐しき文士たち 昭和篇
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大正十五年春三月(その年の暮昭和と改元された)、咲きかけた桜の花が無惨に舞うほど風の強い日であった。
野上弥生子が台所で昼の煮ものの加減を見ていると、勝手口の戸が開いた。御用聞きでも来たのかと思って|覗《のぞ》くと、黒い書生マントに黒いソフト帽の男が立っていた。よこなぐりの風が長身のマントの|裾《すそ》をあおった。やせた、|蒼白《あおじろ》い手で、飛ばないように帽子をおさえた。それは|憔悴《しようすい》しきった姿の芥川龍之介であった。龍之介が勝手口から訪れるのは珍しいことであった。
その日は弥生子の夫の豊一郎もいたので三人で長話になった。龍之介は終始自分の心身の衰えを嘆いた。「どうもこの頃は頭が悪くて」と何度も繰り返した。家に関する内輪話をしきりにした。そんなことも初めてであった。「年寄を幾人も抱えて大抵ではない」という|愚痴《ぐち》も出た。
弥生子は、彼のような文人なら貧乏するのは当り前だし、それが|厭《いや》なら、菊池寛のように勇敢にやればいいのにと思った。そこで冗談のように言った。
「芥川さん、そんなにお金が欲しければ、大いに|儲《もうか》る方法を教えてあげましょうか」
「何です?」
「あなたがお亡くなりになるのよ。自殺ならなお結構ですわ。そして全集の印税がどっさり入った頃を見はからって生き返るのよ。|旨《うま》い方法でしょう」
龍之介は|凄《すご》く|冴《さ》えた眼で、にやにやした。それは自分でも考えたことであった。
「しかし全集を出すにしたって、僕のは短いものばかりですからね。書簡集を入れても四巻とはならないらしいから悲観しているんです」
いくら四巻でも死にさえすれば、その四巻が彼を金持にするに相違ないと弥生子は主張した。
「うちでも、その時には予約に入ってあげますわ、ねえ?」
弥生子が笑いながら夫に同意を求めると、
「そうだな、芥川君のなら買ってもいい」
と豊一郎が言った。
龍之介は前と同じようににやにやして、額にたれた長髪をかきあげ、
「それじゃ、ひとつ思いきって死ぬんですな」と言った。
四月に入って龍之介は、妻文子と|乳呑児《ちのみご》の三男也寸志と一緒に、|鵠沼《くげぬま》海岸の東屋旅館に転地療養した。鵠沼には文子の実家の人達が住んでいた。夏になると、東屋の近くの、玄関とも|三間《みま》の借家に移った。養父母や伯母やうるさい家族のいない借家ずまいは、幾分彼を慰めるものがあったが、腸カタル、|痔《じ》、胸等あらゆる病気を背負って痛ましいほどにやせ細った龍之介は、相変らず死を願い、それを口ばしった。仕事にも|憑《つ》かれたように熱中したが、それは次第に鬼気せまるような作品になっていった。
龍之介は文子に付き添われて、海岸を時々散策した。鵠沼の海岸には松林があって、いろいろな枝ぶりの松があった。
「あの松は枝ぶりがいいね」と龍之介が言った。すると文子はわざと先手を打つように、
「ちょうどいい枝ぶりではありませんか」
と言った。龍之介はぐっと押しだまった。
文子は、夫が死にたがっていることをよく知っていた。
夏休みには上の比呂志、多加志も来て、狭い家で親子五人の水入らずの生活だった。
ある夕方、海岸へ家族一緒に散歩に出かけ、沖を走る遠い稲妻を眺めていた。文子は也寸志を抱いていた。
「あすこに船が一つ見えるね」と龍之介が言った。
「ええ」
「帆柱が二つに折れた船が」
文子にはそんな船は見えなかった。龍之介の眼には、帆柱が二つに折れ、いまにも沈みそうな船がいるように見えた。
一人で散歩に出ると、龍之介は町へ出て、薬屋を一軒一軒訪ねた。
「青酸加里を売ってくれませんか」
「青酸加里はお売りするわけにはいきません」
一軒だけ、売っても差し支えないが、今は品切れだと言われた。
龍之介は、以前から友人達と、たわむれに自殺の方法について語り合うことがあった。青酸加里で死ぬと|躰《からだ》が硬直するから厭だとか、ゴム管で|縊死《いし》すれば一番楽だが、死にながら必ず夢精するというのは困るとかいった話であった。
ある日、龍之介は、五、六十匹の|蝿《はえ》を一度に呑み下した。しかしそれは猛烈な|下痢《げり》をしただけで死にはしなかった。
*
小穴隆一が、蒲原春夫という田舎出の青年と一緒に見舞いにやって来た。
その頃、藤沢の劇場で「奇術降霊術オペラコミック」という不思議な興行があった。龍之介は、小穴と蒲原を誘って見物に行った。
それは浅草の少女オペラに奇術を絡ませたようなものであった。途中で猛獣のような顔をした座長が登場して、霊魂の不滅を説き、観客の幾人かを舞台に上げて降霊術をやると言った。
龍之介は霊魂の不滅など信じないし、降霊術もまやかしだと思った。しかし実演になると、蒲原に、
「おい君、舞台へ上れよ」と言った。
「厭です、|極《きま》り悪いです」
「そんなこと言わず、勇気を出して上りたまえ。|他《ほか》の|奴《やつ》はきっとサクラだからね。その代りに帰りに遊廓をおごってやるよ」
蒲原はしぶしぶ舞台に上った。座長が一人一人に催眠術をかけた。そして観客の注文に応じて誰の霊魂でも呼び出すという仕組であった。他の連中はうまくいったが、果して蒲原だけは催眠術にかからなかった。
帰りに約束通り、藤沢の遊廓の一軒に上った。三人の客だから三人の相手が来た。龍之介の|相方《あいかた》は、醜い顔だが、丸々と|肥《ふと》った健康そうな女だった。生れは新潟だと言った。すぐ横になると、龍之介は猛烈な性欲を感じた。女は龍之介が何者だとも知らないし、痛々しくやせた躰も気にとめなかった。彼女たちは、もう幾月も生きていられそうもない肺病患者の客をとることだってあるからだ。
〈人生における唯一の享楽は性欲行動である。恋愛は絵にかいたやうに飾りものであり、又迷信である。娼婦との性欲行動も、恋人との性欲行動も、その味においてなんら変りはない〉
龍之介は一大発見でもしたように、丸っこい肉体をおさえながらそんなことを考えた。
*
昭和二年一月、龍之介は田端の家に帰ったが、間もなく厭な事件が起った。義兄西川豊(実姉の夫)の家が焼けたのである。その義兄はある刑事上の罪を負って執行猶予中の身であった。ところが火事の時義兄は不在で、しかもその家には実価の二倍もの火災保険がかかっていた。そのために、前科のある義兄は放火の嫌疑をかけられた。義兄は鉄道自殺をとげた。
龍之介は、実姉を引き取り、同時に鉄道自殺した義兄の跡始末をしなければならなかった。しかも事件の性質上、世間に知れることを極度におそれた。こういうことが新聞に出て、自分が引き合いに出されたら大変なことになると思った。龍之介の苦慮はひと通りではなかった。
おまけに義兄は莫大な借金を背負っていた。その中には龍之介が保証人の判をついているものもかなりあった。債権者が押しかけて来た。金銭に対して特別気の弱い龍之介は縮み上った。
芥川は、ふと野上弥生子に言われたことを思い出した。自分が死んだら、どの位の巻数の全集が出て、どの位の部数が出るだろうか考えた。
龍之介は新潮社を訪れた。そして、|勿論《もちろん》死の問題はかくして、|若《も》し現在全集を出すとすればどれくらい売れるか確かめて見た。新潮社では研究の結果、三千部は固く保証すると言った。(実際には初版一万部刷った)
龍之介はすっかり喜んで、その帰りに小穴隆一を訪れ、
「|俺《おれ》はやっと安心したよ。俺が死んでも全集が最低三千部出る確信がついた」と言った。
昭和二年五月のある日、文子のところに、幼な友達の平松ます子から手紙が来た。その手紙には、龍之介と帝国ホテルで、薬を呑んで一緒に死ぬ約束をしたが、自分にはどうしても、それは出来ない、というようなことがめんめんと書かれていた。
ます子は文子の子供の頃近所に住んでいた友達で、女学校は別になったが、ます子は国文学を専攻し、俳句や短歌などもたしなむ文学少女であった。
龍之介が「秋」という短篇を書く時、文子に、女の人は普通どんな手紙を書くのかとか、髪型はどんなのがあるのかと聞いた。文子はそういうことにあまり自信がなかったので、文学好きのます子なら何でも知っているだろうし、龍之介とも話が合うのではないかと思い、紹介した。それが機縁になって龍之介とます子の交友がはじまった。いくつかの作品に登場する。「|或《あ》る|阿呆《あほう》の一生」や「或る旧友へ送る手記」の中で「死」について話す相手の女である。
手紙を見て文子は急いで帝国ホテルヘかけつけた。帝国ホテルはます子の父親の関係で、龍之介が一室を借りて仕事場にしていたのである。
龍之介は既に薬を呑んでいた。しかし、文子のかけつけるのが早かったので、応急手当をして、一命はとりとめた。
文子はその時、初めて、烈しい怒りを感じ、龍之介にそれをぶちまけた。
龍之介は涙を流して謝った。重くるしい、いやな思いが文子の胸をしめつけた。文子がそんな怒りを発したのは、あとにもさきにも、その時だけのことであった。
同じ頃、宮崎子(柳原白)のところにも、平松ます子から手紙が来た。ます子は子の文学の上での弟子であった。その手紙にも「芥川さんが、私に心中を迫っています。帝国ホテルヘすぐ来て下さい」と書いてあった。子はとるものもとりあえずかけつけた。
龍之介と子との間に議論がはじまった。龍之介は、どうしても死ぬと言った。子は死ぬ事は悪い事だと力説した。しまいに子は、これ程言ってもわかってもらえないのなら勝手に死ぬがいい、と言った。ただし、ます子は自分にとって大切な人だから一緒に死んでは困る、死ぬなら一人で死んでくれ、と言って泣きわめいた。
すると、その時まで深刻な顔をしていた龍之介が、突然人が変ったように上機嫌な顔をして、「あなたのように正直な人は見たことがない」と言い、これから一緒に御飯をたべに行こうと言いだした。
三人は星ケ岡茶寮へ出掛けた。
食事のあとまた議論になった。子は、死ぬことはよくないということをまた言いはじめ、たとえどのような状態であっても、|何処《どこ》であっても生きている事は死んでしまったよりいいから、二人が本当に愛し合っているのなら、一緒に支那へ行きなさい。お金は自分が持って来たから、これを持って、あなたの気に入っている支那へ行きなさいと言った。
すると龍之介は、お金なら自分も持っていると言って押し戻し、二人切りで少し話がしたいからと言った。子は、少し心配でもあったが、何だか馬鹿馬鹿しくなって、その場から引き上げた。
このことと、文子のこととどちらが先か後か、|詳《つまびら》かでない。
*
昭和二年五月二十日、北海道小樽市の公園|脇《わき》にある花園小学校で、前年暮から鳴物入りで売り出されはじめていた改造社の「現代日本文学全集」の宣伝のための文芸講演会が開かれた。講師は芥川龍之介と里見であった。
その模様を『小樽新聞』(二十二日夕刊)は「聴衆の度胆を抜く芥川里見両氏の文芸講演会」という見出しで、次のように書いた。
「改造社主催芥川龍之介里見氏文芸講演会は二十日午後五時から花園小学校で開催、役者の素顔と文士は見るべからず、というに集まる文学ファンの老若男女、無慮千五百人男半分女半分本社米山記者の開会の辞と改造社比嘉氏の挨拶に次いで痩身鶴の如き芥川氏『描けてること』と題して薄暗い演壇に起って先ず、現代文学全集の宣伝ポスターである所以を自ら紹介する。
『文字で書かれてることが皆文学です。無用の者入るべからずも文学です。対頂角は相等しも文学です』と、初っ鼻から度胆を抜く。『芸術は内容には関しない。鼠が描かれてるから馬を描いたものより偉大ではないという事はない。人間を書いているから|カッパ《ヽヽヽ》の絵より立派だなんて事もない』という調子で氏独特の文学論がシニークとユーモアの中に三十分で終了。
演壇をあちこちと歩き乍らまごころをこめて語るのは『多情仏心』『大道無門』『善魔』の作者里見氏である。演題は『永遠の偶像』北海道に就ての古い追憶を語った落語のマクラの如きおかしみある話を音吐朗々たる語り口で聴衆を喜ばす結局女ってものが偉いのか偉くないのか判らないものにして仕舞ったところに氏の渾然たる芸術境が窺われるのであろう。講演が終って久米正雄監督の『作家の生活』や『酒中日記』の映画があった」
この講演会を、その頃小樽で中学の教師をしていた伊藤整が見に行った。
伊藤整は、芥川の講演を聴いた時は興味を感じたが、そのあとに上映された映画の中の芥川の姿を見てやりきれない嫌悪感を持った。
それは芥川の家庭生活の場景を写したもので、芥川が着物をだらしなく着たまま、庭の樹によじのぼって、木の枝に腰かける所が映されていた。伊藤は、何のために、芥川ともあろうものが、そんなバカらしいことをしたのか、どうしてもわからなかった。運動としていつも樹に登る習慣があったのか、あるいは、絶えず動いているカメラの圧迫に駆られて|苛立《いらだ》ったためなのか、観客を|愚弄《ぐろう》するためにした戯技なのか、とにかくどんな風に考えても、そのざまは格好のいいものではないと思った。|股引《ももひ》きをだらしなく着物からはみ出させて樹に登る芥川のやりきれない格好に吐気を催すほどだった。
伊藤をなやませたのは、講演であれだけいい話をした芥川と映画に現われた芥川とのつながりがいくら考えても|判《わか》らないことであった。結局それを伊藤整は、芥川龍之介における芸術と生活との循環的な中毒症状の一つの現われだと思うことにした。芸術の本質はそこに描かれた内容にあるのではなくて描き方、表現にあるのだという純芸術的な考えを述べた芥川が、実際には芸術家としての生活にたえず足を引っぱられ、その苦悩を描くことを自己の制作の中心に据えた作家なのだと思った。
*
五月八日、文藝春秋社の主催で、徳富蘇峰を囲んでの座談会が神田万世橋の「瓢亭」で催された。芥川龍之介もこれに出席した。
その帰り、菊池寛が自動車に乗ろうとすると、龍之介がちらりと菊池の顔を見た。その眼に異様な光があった。「ああ、芥川は僕と何か話がしたいんだな」と菊池は直感したが、もう車が走り出していた。
菊池は、この一年余、龍之介が憔悴しきっていながら、異常なまでに作品を書き、友人などにもひんぱんに手紙を書いているのを知っていて心配になっていた。一度は、しばらく休んだらどうか、その間の生活は、文藝春秋社で持つから、と言ったこともあった。その時、龍之介はだまって返事をしなかった。菊池は、龍之介の眼の光から、その話ではないかと思った。しかし車が走り出してしまった。
七月初旬に、龍之介は二度ほど文藝春秋社を訪れた。二度とも菊池は留守だった。一度は、ぼんやり応接間にしばらく腰かけていたという。
しかも、この二度の来訪を、どうしたわけか社員が菊池に知らせなかった。
菊池は、龍之介が自分の不在中に訪ねて来た時には、必ずその翌日に、自分の方から訪ねることにしていた。しかしこの時は社員が知らせなかったので全く知らなかった。その後も忙しさにとりまぎれ、到頭龍之介を訪ねる機会がなかった。
瓢亭の前での、チラリと自分を見た龍之介の眼の光が、菊池の一生の悔恨の種となった。
七月二十一日、龍之介は、上野の清凌亭に働いていた頃知り合った佐多稲子を家に呼んだ。龍之介は稲子が以前に自殺未遂の経験のあることを堀辰雄から聞いて、会いたいと思ったのである。ひとしきり昔話の後、龍之介は、稲子に、自殺未遂のときのことばかり、くわしく尋ねた。それは|執拗《しつよう》なくらいであった。
昭和二年七月二十二日の夕方、芥川龍之介は、桜木町の宇野浩二の留守宅を訪ねた。宇野浩二はその頃、強度の神経衰弱のため奇行が多く、一カ月前から斎藤茂吉のすすめで小峯病院に入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、持参した岡埜の菓子折と浴衣地を出して、
「宇野君は甘いものが好きだからこの菓子を病院へとどけて下さい。それからこの浴衣は宇野君に病室で着せて下さい」と言い、それから、宇野から龍之介宛に来た手紙をふところからとり出し、それを宇野夫人に読んで聞かせ、しばらく泣いていた。ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、
「ではお大事に」と言って、去って行った。
翌二十三日の朝九時、龍之介は目を覚ました。上機嫌であった。朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を二合呑んだ。
夕方近く、二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にした。日本酒の徳利が二、三本並べられ、龍之介も|猪口《ちよこ》に二、三杯呑んだ。珍しく元気で話がはずみ、客は十時頃帰って行った。
それから二階の書斎に入った龍之介は、書きものをしたあとで、短冊を一枚とり出してそれに、
自嘲 |水洟《みずばな》や鼻の先だけ暮れのこる 龍之介
と書いた。それを紙に包んで、書斎から降りて来ると、もう寝ていた伯母のふきの|枕元《まくらもと》へやって来て、小声で、
「これを明日の朝、下島先生に渡して下さい」と言って、また書斎に戻り、聖書をひろげた。
真夜中の二時頃、龍之介は二階から降りて来て、文子の寝ている|蚊帳《かや》の中に入って来た。文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」と言うと、
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を呑んで、また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、はッとした。〈夫は既に二階で睡眠薬を呑んで来たのではないだろうか。それを、私に、いつものように「お薬は?」と言われたので、反射的に、また呑みに行ったのではないだろうか〉。胸さわぎがしたが、それをどうしても尋ねることが出来なかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。
*
前日まで焼けつくような暑さが数日続いたのに、二十四日は早朝から雨だった。
午前六時頃、芥川家の主治医で、近くに住む下島勲の家の玄関を|叩《たた》く音がした。下島ははね起きて玄関の戸を開けた。龍之介の伯母ふきが立っていて「すぐ来て下さい」と言った。
道の途中にある新昌閣という下宿から、小穴隆一が飛び出して来た。知らせにかけつけた龍之介の|甥《おい》の巻義敏と、雨の中で立ち話をしている声が聞えた。
「ほんとにやったのか?」
「どうもそうらしいです」
小穴が義足をつけなおして芥川家へかけつけると、下島が注射をすませ、あとかたづけをしているところだった。
「とうとうやってしまいましたなあ」と下島が小穴に言った。もう、こと切れていた。
小穴は、この際、自分のすることは、まだ人が集まって来ないうちに、デスマスクをとることだと思った。すぐに画架を立てかけた。
小穴が精魂をこめて、龍之介の最後の面影を写していると、八歳になった長男の比呂志が、うしろからカンバスを覗き込んで、
「小父さん、絵の具をつけるの、つけないの」と、あどけなく|訊《き》いた。
「あとで」と小穴が答えると、比呂志は、急いで部屋を出て行って、すぐに帳面とクレオンを持って戻って来た。しかし、帳面とクレオンを持ったまま、比呂志は、静かに眠っている父の枕元に、ぼんやり立ちつくしていた。
八時頃から、もう新聞記者が来はじめ、昼頃には動坂のあたりに七十台余の新聞社の車がならんだ。しかし、その日は日曜日だったので、夕刊がなく、龍之介の死が大々的に報じられたのは翌日の朝であった。唯、ラジオだけが、その夜の七時のニュースで報道した。
久米正雄が佐佐木茂索、久保田万太郎らとかけつけたのは午後四時頃であった。
龍之介の遺書は、妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟)宛の四通であったが、その他に「或る旧友に送る手記」という久米正雄宛の手紙と「或る阿呆の一生」の原稿があった。久米宛の手紙には次のようなことが書いてあった。
「僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも|意識的《ヽヽヽ》には自己弁護をしなかつたつもりだ。最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君は恐らく誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ」
日付は六月二十日になっていた。久米は二階の座敷でそれを読んで、もう少し早くこれをわたしてくれたらと惜しんだ。
やがて、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、弥生子、香取秀真、犬養健らが、ぞくぞくとつめかけて来た。
菊池寛がかけつけたのは、長い夏の日が暮れかけて、もう暗くなる頃だった。菊池はその日『婦女界』主催の講演旅行で宇都宮へ行っていたのだが、急を知って、旅行を中断してかけつけたのであった。
菊池は、遺骸の前に長い間、だまって、うつむいて、坐っていたが、急に立ち上ると、小走りに歩き出し、二階に上ると、皆には目もくれず、むせび泣きながら廊下の隅の|籐椅子《とういす》の方にすすみ、倒れるように坐り込んだ。
同じ頃、馬込の広津和郎の書斎には、いつものように、近所に住む尾崎士郎、宇野千代、国木田虎雄(独歩の長男)らが遊びに来ていて、にぎやかに談合していた。
そこへ突然、窓を叩く音がした。それは、当時、『時事新報』記者の山潤であった。
玄関を入って来た蒼い顔の山潤が、
「芥川さんの自殺したのをご存じですか」
と言うと、みんなは同時に、
「えッ」と叫んだ。
山は、芥川の自殺が睡眠薬ヴェロナールであること、その前の晩まで、雑誌の原稿を書き続け、それを書き上げて速達にして翌朝出して|貰《もら》うように封をしたのを机の上に置き、それから薬を呑んで、静かに寝床に仰向けに寝、しばらく聖書を読んでいたらしく、その読みさしの聖書を胸の上に伏せたまま永遠の眠りについた(註=私の前記と少し違うがそのままにしておく)と、新聞記者らしく語ってから、
「ところで、遺書があって、その中に|解《わか》らない名があるんですよ。恒藤恭氏だの、お友達の大学の先生たちも集まって考えたけれども解らないんです。マインレンデルというんですがね」と言った。
すると広津が、
「ああ、それはショウペンハウエルの弟子の自殺した哲学者だよ」と言った。
広津はそれをメチェニコフの「人生論」を読んで偶然知っていた。
――ショウペンハウエルの|厭世《えんせい》哲学の影響で、その頃|独逸《ドイツ》の青年に厭世自殺が流行した。その風潮に驚いたショウペンハウエルが「自殺は道徳的に罪悪である」という説を立てた。ところが弟子の若きマインレンデルは師に反対して自殺してしまった。メチェニコフの「人生論」にそんなことが書いてあった――というようなことを広津が話した。
広津は少年時代にメチェニコフの「人生論」を読み、妙にマインレンデルの自殺のことが印象に残っていた。
そして龍之介も、少年時代に「人生論」かあるいはマインレンデルその人の著書を読んでおり、その名があまり有名でないことが、龍之介の「衒学趣味」にぴったり来て、わざと、|遺《のこ》った仲間をまどわすために、そんな無名の哲人の名前を遺書に書き込んだのであろうと思った。
そういう龍之介の心根を、広津は一層悲しいと思った。
その「遺書」が、その夜久米正雄によって発表された時、ちょっとしたハプニングがあった。記者団にとりまかれて、ポンポンとマグネシウムをたかれて、目もくらむような騒ぎの中で、久米がその原稿を読みはじめると、どうしたことか、十八枚の原稿の中の二枚が欠落していた。
久米は真蒼になった。さっきまでたしかにあったのである。
ただの原稿と違い、これは遺書である。いつどこでそれが欠落したのだろう。生原稿を写させてくれと言われて、何度も記者たちに見せた。その時になくなったのだろうか。久米は逆上した。あわてふためいてあちこちさがしたがみつからなかった。
やむなく久米は涙をながして記者たちに訴えた。
「どうか、出来心で盗んだのでしたら、決してとがめはいたしませんから、送り返して下さい。お願いします」
その訴えが効を奏したのか、不思議なことに、二十七日の葬儀の朝「芥川方久米正雄宛」の無名の封書(女の名前が書いてあったという説もある)で紛失した二枚の原稿が返送されて来たのである。
二十六日夜が通夜であった。大阪から上京した谷崎潤一郎をはじめ、里見、泉鏡花、水上瀧太郎、中戸川吉二、久保田万太郎、菊池寛、久米正雄、江口渙、豊島与志雄、佐佐木茂索、小島政二郎、滝井孝作、高田保、三宅周太郎、宮地嘉六、室生犀星、長田秀雄、広津和郎、伊藤貴麿、横光利一、藤沢清造、嶋中雄作、高野敬録、山本実彦、中根駒十郎、和田利彦、斎藤龍太郎、菅忠雄、高橋邦太郎、鈴木氏亨ら、文壇関係者が多数参集し、とても芥川家だけでは入りきれず、隣りの香取秀真の家を借りて、そこにも客が入り、故人の追懐にふけりながら夏の一夜をあかした。
田端のこのあたりはとくに蚊の多いところで、室という室に蚊取線香がたかれた。
久保田万太郎が、隣りに住む香取秀真に用事が出来て行くと、玄関のところに、斎藤龍太郎がいたので、
「香取先生はいませんか?」とたずねた。すると斎藤が、
「あります」と妙な答えをして、奥へ入っていった。久保田がへんだと思っていると、斎藤が戻って来て、
「はい、蚊取線香!」と、四角な箱を出した。久保田はふき出しそうになったが、ぐっとがまんして、すごすご帰って来た。
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芥川龍之介の葬儀は、七月二十七日午後三時から|谷中《やなか》斎場で執行された。
しっとりと水をうった斎場入口の左右には改造社社長山本実彦、中央公論主筆嶋中雄作が両社の社員数名と共に受付をした。葬儀係は久米正雄、佐佐木茂索、接待係は山本有三、南部修太郎、久保田万太郎であった。
二十五日朝から降りつづいた雨は、この日朝から晴れ上り、じりじりと照りつけるような暑い日であった。
「芥川龍之介之霊位」と、俗名のままの|位牌《いはい》が正面の|霊柩《れいきゆう》の上に置かれ、その背後に南無妙法蓮華経と書いた|物古《ものふ》りた一軸が下げられ、仏壇の周囲には、文芸家協会、三田文学会、新潮社、春陽堂、改造社、中央公論社等から贈られた花環が飾られた。
喪主である長男の比呂志が、|白無垢《しろむく》の文子未亡人に手をひかれて右側の遺族席に着いた。
自宅から斎場まで棺について来た泉鏡花、菊池寛、小島政二郎らが左側の友人席に着いた。場内は|立錐《りつすい》の余地のない盛儀であった。
慈眼寺の住職篠原智光師の|誦経《じゆきよう》が終ると、弔辞に移った。友人席の泉鏡花が、黒紋付に仙台平の|袴《はかま》をはいた小さな姿を霊前にはこんだ。|甲《かん》高い、よく通る声で弔辞を読んだ。
「冷澄、明哲、その文、その質、名玉、文界に輝ける君よ、辰暑蒸濁の夏を|背《そむ》きて冷々然として独り涼しく逝きたまひぬ、巨星天にあり異彩を密林に敷きて光としてつひに消えず、然りとはいへども、生前手をとりて親しかりし時だにその容をみるにあかず、その声をきくにたらずとせしわれら、君なき今を|奈何《いかん》せむ、おもひ、秋悲しく露は涙の如し、月を見て、その面影に代ふべくばたれがまた哀別離苦をいふものぞ、高き雲よ、|須叟《しゆゆ》の間も|還《かえ》れ地に、君にあこがるるもの愛らしき賢き遺児どちと温良貞淑なる令夫人とのみにはあらざるなり、辞つたなきをはぢつ、謹んで微衷をのぶ」
正に鏡花ばりとも言うべき弔辞が終ると、次に菊池寛が立った。弔文をひろげる丸く太った手が細かくふるえた。
「芥川龍之介君よ、
君が自ら選み自ら決したる死について我等何をかいはんや、ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂へるを見て甚だ安心したり、友よ、安らかに眠れ! 君が夫人|賢《けん》なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して君が眠りのいやが上に安らかならんことに努むべし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみに|蕭条《しようじよう》たるを|如何《いかん》せん」
これまた菊池寛流の簡潔さであったが、それも涙でとぎれがちで、満場のすすり泣きをさそった。
ついで里見が文芸家協会代表として、小島政二郎が後輩代表として弔辞を読み、二時間にわたる葬儀を終った。参列者は七百五十名にのぼった。遺骨は翌二十八日、染井の墓地に埋葬され、龍之介は一塊の土に帰した。
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その頃(大正末期)本郷|白山上《はくさんうえ》に南天堂書房という本屋があった。経営者は松岡虎王麿という人である。その二階が喫茶室になっていて、いわゆるアナーキスト詩人のグループがいつもたむろしていた。萩原恭次郎、小野十三郎、壺井繁治、野村吉哉、相川俊孝、高橋新吉、岡本潤、辻潤、平林たい子、林芙美子、友谷静栄といった連中が毎日のように集り、卓上の角砂糖をコップに入れて砂糖水にして|呑《の》み(砂糖と水だけならただであった)、議論し合い、歌をうたい、あぶく銭を手に入れた|奴《やつ》に買わせた酒を呑んで派手にあばれ、|什器《じゆうき》やガラスをこわしたりしていた。
林芙美子はそこで知り合った野村吉哉と同棲した。野村は神経質でかんしゃく持ちのくせに|甲斐性《かいしよう》なしであった。
野村はその頃、金持の友人の玉川の大きな邸宅の留守番をしていた。二人はその家の庭の池の|鯉《こい》を毎日すくいあげて、食いつないでいたが、たちまち生活に窮した。
芙美子はまた、新宿の「鶴や」という小料理店に働きに出た。彼女はそこでは“弓ちゃん”という名で住み込みの女中になった。実は乱暴する野村から逃げたい気持もあった。
そこへある日野村が押しかけて来た。野村は|椅子《いす》を振り上げて芙美子に襲いかかった。|怖《おそ》ろしくなった芙美子は、命からがら逃げ出した。
逃げて逃げて本郷まで来た。彼女はそこで、かねて本郷に住んでいた頃知り合った手塚緑敏という貧乏画家が大和館という下宿にいることを思い出し、そこへ飛び込んだ。
信州出身の画家手塚は温厚な性格で、おびえきった小鳥のような芙美子の姿に、いたわりとなぐさめの手をさしのべてくれた。
そうして二人は結ばれた。
昭和二年の春、二人は手塚の郷里の信州を振り出しに、芙美子の思い出の地、尾道、因ノ島、高松と、三カ月蜜月旅行をした。
その翌年から、長谷川時雨の創刊した『女人芸術』に「放浪記」を連載しはじめた。それが改造社に認められ、『改造』に「九州炭坑街放浪記」を書き、また「放浪記」が改造社から出版されて異常な反響を呼んだ。
この時から芙美子は、「放浪記」の女主人公ではなくなった。生活も心も、余裕が出来て二十六歳の春を迎えた。
昭和二年の夏、宮川曼魚の「江戸売笑記」という本の出版記念会があった。その席上で、ダダイストの辻潤が、得意の尺八で土手節を吹いて満場の|喝采《かつさい》を浴びた。
その頃辻潤は、「到底他人の|窺《うかが》い知ることの出来ぬ程」の貧乏生活を送っていた。豆腐屋に二円六十五銭の払いがたまっているという有様だった。当時の豆腐は今の三倍の大きさの半丁で五銭というのだから、五十三個ということになる。
辻潤はその頃大岡山に住んでいたが、そこへ移る一年半位の間に四度引越している。それは全部家賃滞納のため追い出されたのであった。むしろ貧窮を楽しんでいるみたいな赤貧ぶりであった。
ところがその頃、春秋社というところから「世界大思想全集」が出ていたが、その中の二冊分に、辻潤の訳によるスティルネルの作品が入ることになり、ざっと二万円がとこ金が入ることになった。
それを知った友人たちが、酒に目のない辻がそれを|忽《たちま》ちつかい尽くしてしまうことを心配して、春秋社へ行き、辻が来ても前払いしないようにと申し入れた。
ところが辻の方が役者が上で、友人に会うごとに「今度がっぷり印税が入る。入ったらその一割を君にやるよ」と言って廻った。やはりひとつの穴のむじな達とも言うべき貧乏な連中だから、みんな金はのどから手の出るほどほしかった。
結局、その友人たちをおとりに使って。春秋社を口説いて廻り、まんまと前払金をせしめ、連日連夜、友人たちと豪遊し、忽ちつかいはたしてしまった。
友人たちは、ご馳走になりっぱなしでは気がひけるので、相談し合って、辻のかくし芸を放送局に売り込むことを思いつき、代表が放送局へ出かけていって、うまく話をつけて来た。
一夜、辻澗は得意の尺八を放送して金三十円也を貰った。またまたみんなで銀座へ呑みにくり出してつかいはたした。
その辻潤が、どういう風の吹きまわしか、『読売新聞』の第一回海外文学特置員として、パリへ旅立つことになった。何しろ貧乏男で有名な辻潤がパリヘ行くというので、大騒ぎになり、通称オーカン山の自宅にはぞくぞくと客がつめかけた。義弟の津田光造夫妻が世話役になり、アナーキスト塩長五郎、禅僧大津澗山、プロ作家吉田金重などが次々に現われた。それは昭和二年の暮から翌年の正月にかけてのことであったが、一月十日には、例のアナーキスト詩人の仲間たちによって、銀座のカフェー「ライオン」で、盛大な歓送会が催された。
昭和三年一月二十日、辻潤は神戸港から船出した。船が動き出すと辻は一等甲板から|埠頭《ふとう》をめがけ、大声で「バカヤロー」と叫んだ。
春秋社の「世界大思想全集」は、翻訳の出来るアナーキストたちに思わぬ金を儲けさせたが、辻潤と共に金が入って悦に入っていたのが加藤一夫である。
それと知って、内心面白くなかったのが、文壇切っての腕の|猛者《もさ》として定評のある宮島資夫で、昭和三年の新春早々、二、三人のその道の猛者を従え、それに紅一点、辻潤夫人の清女も引き連れて、吉祥寺の加藤の家へ押しかけた。
久し振りに旧知の珍客を迎えた加藤は、大いに歓迎するそぶりで、みんなを二階の書斎に招き入れた。
やがて酒宴となったが、酔うほどに加藤は小便に行きたくなり、すっくと立ち上ったのはよかったが、前がはだけていたために、ふところから、|短刀《どす》が、抜身で|足許《あしもと》に落ちた。あわてて加藤は、それを、まるで歌舞伎の世話物の役者よろしく、さっとふところにかくしたが、目ざとい宮島はそれを見のがさなかった。
〈あいつ、俺の腕の程を知ってるもんだから、要心して、あんなものを呑んでやがった。こりゃあ、うっかり、手も出せねえや〉
実は宮島は、加藤にゲンコの一つもくらわして、うさばらしをしようと押しかけたのだが、相手が|短刀《どす》を呑んでいることを知って、あきらめたのである。
外へ出てから、宮島は、つばをはきすてながら、
「加藤の奴、つまらねえ芝居をしやがって……」と、にがりきっていた。
改造社の「現代日本文学全集」が、昭和二年の春から鳴りもの入りで刊行され、大反響をまき起したが、その成功を祝しての出版祝賀会が、年の暮に盛大に催された。
ところがその席上、酒がまわるにつれて、青野季吉と尾崎士郎が、口角泡をとばして(どちらも多少吃音者である)議論をはじめた。すると青野の隣に坐っていた大男が、青野の肩をもって、横からちょいちょい口を出してけしかけた。
これに腹をたてた尾崎は、
「貴様は横から何だ。無礼じゃないか、黙ってろ!」と威丈高に怒鳴った。するとかんはつを入れず、大男が、
「生意気なッ、おもてへ出ろ!」と叫び、忽ち猛烈なとっくみ合いがはじまった。
その時、尾崎のそばにいた竹馬の友の鈴木厚が、親友の危急存亡この時と思って、いきなり立ち上り、物も言わず、ガーンとばかり、大男の横面に|鉄拳《てつけん》をくらわした。大男はあおむけざまにひっくりかえった。
大勢の列席者が、まあ、まあといって、なおも意気込む尾崎をなだめて、どうやらおさまったが、尾崎はいつまでも不満そうで、「そりゃあ、俺は小兵だから、あのままやってたら負けたかも知れない。しかし鈴木の奴、あんな助太刀をしやがって、迷惑千万、俺の男がすたった……」と、ぶつぶつ言っていた。
その大男というのは、プロ派の売り出し作家葉山嘉樹であった。
平林たい子は、大正十一年三月末、故郷の諏訪から上京し、社会主義運動家堺利彦を訪ね、よく出入りするようになった。やがて堺の世話で、高津正道の売文社に出入りし、加藤一夫、岩佐作太郎らアナーキストのグループと接触した。そしてクリスチャンのアナーキスト山本虎三と知り合い同棲した。
大正十二年五月一日、第四回のメーデーの日に、アジ・ビラを|撒《ま》き、初めて検挙された。釈放されると、またすぐ山本と一緒に神田の街頭で、クロポトキンの「青年に訴う」という小冊子を売ったりして警察に|睨《にら》まれ、関東大震災の時に予防検束されて、十月末までに市ヶ谷刑務所に留置された。
東京を離れるということを条件に釈放され、下関などを放浪した末、翌年一月大連に渡った。そこで山本の子を生んだが、赤坊はすぐ死亡した。
満洲、朝鮮を放浪した末、その年の秋、山本と別れて帰国し、芦屋にいた加藤一夫を頼って一時寄寓した。しかし、間もなく上京し、友人の世話で、深川八幡境内の診療所に住み込んだ。そこで第一作「潮が玄関にわく」を書いて、『文芸戦線』に投稿したが没になった。
たい子は、生活していくために、探偵小説を『新青年』に書き、童話を『譚海』や『読売新聞』の婦人欄に寄せた。しかしそれではたべることがやっとという有様だった。
相変らずアナーキスト芸術家たちのグループに入っていて、目黒、落合などを転々として性的にもアナーキーで、多くの詩人たちとも関係が出来たが、大正十四年、アナーキスト飯田徳太郎と同棲した。
しかし、彼女は、アナーキスト運動家やアナーキスト詩人とそんな関係をかさねているうちに、「空想をたべて生きているような」アナーキストの無力さをいやおうなく知らされ、それから脱却しようと思い、飯田ともすぐ別れた。
昭和二年一月、二十二歳になったたい子は『文芸戦線』の編集をしていた山田清三郎の仲介で、小堀甚二と正式に結婚した。それが一応彼女の放浪生活にピリオドを打つことになった。彼女は安定の場を得て、この時から小説家として出発することが出来たのである。
*
この頃、“|似《え》而|非《せ》アナーキスト”なるものが横行し、文士専門に|強請《ゆす》ってまわるという事件が頻発した。警視庁が「もしそういう連中が押しかけたら、玄関でぐずぐずしている間に、裏口から至急交番に知らせるように」という通達を出した。
芥川龍之介が死んで間もない頃、田端に近い神明通りのある菓子店に、菊池寛代理という名刺を持った男が現われ、二十円の菓子切手(その頃そういうものがあった)を三十枚、別々に贈答用として丁寧な箱入りを注文した。芥川家に持って行くのだと言った。菊池寛の名刺があるから菓子店の主人も疑わなかった。
男はその包みを持って、故芥川龍之介家を訪れ、
「あとですぐ菊池さんがお見えになりますから」と言って、それを家人に渡し、悠々と故人の仏前に焼香をすませて引き上げた。
その日菊池寛は姿を見せなかった。
翌日、菓子店の主人が菊池家に代金請求に行くと、そんなものを頼んだ覚えはないと言われた。不思議に思って芥川家を訪れ、そして調べると、菓子切手の入っている|筈《はず》の箱は全部空っぽであった。
この事件は、やがてドジな犯人が質屋に菓子切手を持っていったことから足がついて捕ったが、犯人は「俺はアナーキスト詩人だ」と、大みえを切った。
また同じ頃、詩人三木露風の家に、二人組の泥棒が押し入って「近松全集」をさらって行こうとしたが、いく子夫人に発見され「俺は泥棒ではない、アナーキスト詩人だ。泥棒は詩そのものだ」と、わけのわからないことを口走り、開きなおって、得意になってふところから、大福帳のようなものを取り出して見せた。そこには“お得意先”と称する文士の名前と住所が列記され、地図まで書いてあった。山本有三、徳田秋声、豊島与志雄、久保田万太郎といった名前があった。
“|似而非《えせ》アナーキスト”は、新聞に出る出版物の広告を見て、印税の実入りのありそうな文士をねらっていたのであった。
*
昭和二年九月十八日午後十時五十分、徳冨蘆花が、伊香保の千明仁泉亭の一室で、永遠の眠りについた。
蘆花はその年の七月六日から伊香保のなじみの旅館千明仁泉亭に療養に来ていたが、八月に入って、血圧が異常に下り、心臓が肥大し、下痢が止らず、衰弱してゆくばかりであった。九月になると、病状はますます悪化し、ただ精神力だけで持っているようなものであった。ただ意識だけは割合にはっきりしていた。
九月も半ば近くなると、伊香保はめっきり寒くなった。主治医の佐々廉平が、前々から暖かい所へ転地をするようにすすめていた。九月十一日に往診に来た佐々博士は、またしきりに転地をすすめ、家人が、
「熱海はどうでしょうか」と言うと、
「熱海もいいが、逗子はどうです」と言った。すると聞き耳をたてていた蘆花が、
「逗子には兄の家がありますから」と言って、いやな顔をした。その頃蘆花は兄蘇峰と絶交状態だった。
妻の愛子までが、しきりに逗子行きをすすめると、
「私もいろいろと栄養をとったが、骨肉を食べねばなりません」と、はじめて、意味深長なことを言って、佐々博士の手を取ってはらはら涙を流した。大分気が弱くなっていた。
愛子は、今こそ夫を兄蘇峰と仲直りさせる絶好のチャンスだと思い、蘇峰の方から折れて、見舞いに来たがっているという蘇峰の妻静子からの手紙のことを告げた。蘆花はようやく顔をやわらげて、うなずいた。
「アイタイ スグ オイデ マツ ケンジ ロウ」という電報が打たれた。
翌十八日午前十一時、蘇峰一家――夫妻、長女三宅逸子、三女阿部久子、六女矢野鶴子、三男武雄、それに秘書某――が、かけつけて来た。
蘆花は、兄を迎えるのに|病臥《びようが》のままでは非礼だと言って、周囲の止めるのを押し切って、|床《とこ》の上に起き上って待ちうけた。
蘇峰が入って行くと、
「ああ、間に合った。間に合ってよかった」と、手を|拍《う》って喜んだ。お互いに手を握り合って、涙を流した。静子が、
「みんな来ました。鶴子も来ましたよ」と言った。鶴子は一時蘆花の養女になっていたことがあったが、兄との不和で連れ戻されたのであった。
|姪《めい》、|甥《おい》たちで、八畳の|間《ま》が一杯になった。蘆花は、一人一人の顔をじっと見詰め、
「みんなきれいな眼をしている。いい顔をしている。……お鶴さんも|別嬪《べつぴん》になったな。……お鶴さんにはすまなかった。すまなかった」と繰り返した。それから兄蘇峰に向って、
「みんな親の罰です。私が悪かったんです」
と言って泣いた。
「もう俺たちが来たから千人力さ」と蘇峰が力づけると、
「|水滸伝《すいこでん》水滸伝、敗北敗北、ドイツドイツ」
と、意味のわからないことを繰り返し口走った。
しかしそのあと急に態度を変えて、愛子に向かって、
「あなたは、医者と仲良くしすぎる」と、突然|嫉妬《しつと》の炎を燃やしはじめた。
「まあまあ」と、蘇峰が間をとりなした。
その夜十時頃、容態が急変した。愛子が夢中でとりすがって、
「あなた! しっかり! しっかりして下さい!」と叫んだ。
それに対して、
「うん」と応えたのが最後であった。
愛子は最後の奇蹟を|希 《こいねが》って、狂気のようにとりすがり、胸をはだけて、身をもって蘆花の全身を温めつづけた。「もうおよしなさい、仕方がない」と、みんなに言われても止めなかった。
蘆花の遺骸は九月二十日に、伊香保の野の花を霊柩にのせて、粕谷(現在の蘆花公園)に帰り、二十三日、青山斎場で葬儀が行われ、その日、粕谷の|檪林《くぬぎばやし》の中に埋葬された。
その墓を訪れるものはあとを断たず、|流石《さすが》に「不如帰」の作家だけに、わけても女性ファンの参拝が多かった。ぬけめのない商人が、粕谷村の目抜きの場所に露店を出して、「蘆花せんべい」を売り出した。
*
昭和三年一月二十一日、政友会・田中義一の内閣が民政党の内閣不信任案上程可決で解散を断行し、二月二十日に総選挙が行われた。最初の普選であった。
この総選挙に、文壇から二人の著名な作家が初めて立候補した。一人は文藝春秋社社長で、当代随一の人気作家菊池寛、も一人は、前年の一月『改造』に「何が彼女をそうさせたか」を発表して一躍注目を浴びていたプロレタリア作家藤森成吉である。
菊池寛は、東京第一区(麹町・牛込・四谷・芝・麻布・赤坂)で、社会民衆党公認候補であった。
菊池寛は、安部磯雄を党首とする当時の無産政党であった社会民衆党から再三立候補の勧誘があったのを拒んで来たが、今度が大正十四年に議会を通過した普通選挙法による最初の総選挙であるということで腰を上げたのであった。菊池は『文藝春秋』三月号に次のように書いた。
「僕の立候補について意外にも思つてゐる方もあるかも知れない。僕は、代議士にならうといふやうな野心は、ちつともなかつた。もし、あれば、故郷へ帰つて立候補したであらう。さうすれば、必ず当選しただらうと思ふ。ただ、社会民衆党からも、極力すゝめられた。私は、二度まで断つたが、三度熱心に勧められたので、到頭やつてみる気になつたのである。(中略)僕自身の利害から云へば、僕は世間に思はれてゐるやうに、余分の金は持つてゐないし、選挙費用は相当身に|堪《こた》へる金だし、その上落選したら馬鹿々々しいし、また当選したところで、将来貧乏政党の代議士として、いやでも相当貧乏するに定まつてゐるし、今までのやうに楽でないのは分つてゐるのであるが、既成作家的生活に安住してゐるよりも、たとひ当選しても、落選しても今までとは別な生活を体験することだし、もし当選したら将来、牛に惹かれて善光寺参りの格で無産政党の代議士として、奮闘してもいゝと思ふ覚悟もあるし、|旁々《かたがた》、立候補したわけである。(後略)」
選挙参謀は、山本有三を筆頭に、久米正雄、小島政二郎らであった。
二月七日、芝区内でやった政見発表演説を皮切りに、連日連夜、各地区で奮闘した。応援弁士は、山本有三、久米正雄、小島政二郎、武者小路実篤、岡本一平、正宗白鳥の他に、片岡鉄兵、横光利一、高田保といった若手も加わった。
何しろ、文壇人の政談演説などは今まであまりなかったことなので、聴衆は大変な入りで、連日満員で、入口で警官が整理するほどの人気であった。
そのまた演説というのが、これまでの政談演説のような、わめき立てる“弁論風”の殺気だったものがまったくなく、まことにおだやかな口調なので、聴く方も、のんびりして、和気|靄々《あいあい》の雰囲気で進行していった。
とくに、これまで講演など一度もしたことのない正宗白鳥が応援側の最後に登壇し、これが意外に雄弁で、適当にユーモアをまじえて、聴衆を大いに喜ばせ、喝采を浴びた。
しかし、聴衆にこれほど人気をはくしたにも|拘《かかわ》らず、政界はやはり別の世界らしく、菊池寛は惜しくも六千票たらずの次点で敗北した。
菊池寛はその「敗戦記」を『文藝春秋』四月号に次のように書いた。
「諸君も既に御存じの通り落選した。(中略)だが、しかし落選の原因の一つは、立ち遅れであることは争はれない。言論で、掻き蒐めて行つた票であるだけに、今十日も早く立てば、優に当選圏内に入ることが出来たゞらうと思ふ。もう一つ自分にとつての打撃は、新聞紙の政治面の自分に対する|揶揄《やゆ》、及びそれにつゞいた黙殺である。自分が立候補したとき、東京朝日、国民、及び読売なぞの断片的評論に於て、自分を冷嘲し揶揄した。東京朝日は『自他共にブルジョア作家を以て許した男、無産階級の代表として乗り出す』と云ひ、国民は『当人は大変真面目だらうが、世間が真面目にとるかどうか、だがとにかく小説に書けば損はなからう』と云ひ、読売は『局面転換としては自殺より人間味がある』と云つた。これらの冷嘲揶揄は、自分が立候補する野心があり、うまく社会民衆党に取り入つて、公認せしめたといふ魂胆でもあれば、自分は甘受しなければならなかつただらうが、自分の立候補があくまで受動的である以上、これらの揶揄冷嘲は悉く不当である。殊に国民の如きは、自分が落選したとき『菊池寛氏五千票を得、とにかく五千部の印税裏書を得たわけ、損はなからう』と云つてゐる。自分の立候補を全然揶揄するのもいゝが、こんな落選の始末が小説にでも書けると思つてゐるならば、愚昧も亦甚しい。匿名で何等の責任がないのをいゝことにして、勝手な放言をして、をさまつてゐるが如き、夜郎自大の極点である。(後略)」
一方、労働農民党から立候補した藤森成吉は、長野県(南信三区)で強敵小川平吉を向うに廻しての闘いであった。
こちらの応援弁士は、長谷川如是閑、林房雄、村山知義、小山内薫、青野季吉、小牧近江、平林初之輔、前田河広一郎、江馬修、佐々木孝丸、金子洋文、蔵原惟人、山田清三郎、葉山嘉樹、吉江喬松、片上伸といった面々であった。
「藤森成吉後援会」を結成しての積極的な応援であったが、これも敗北に終った。
彼の場合は菊池寛とその立候補の動機がすこし違っていた。そしてその「敗戦の弁」を、『サンデー毎日』(昭和3・3・11)に次のように語った。
「今度の総選挙戦で、最初の立候補とはいへ、私は必勝を期して戦つた。決して文芸家として起つたのではない。全然政治的闘士として、労農党党員として、他の同志諸君と共に全力を挙げて起つたのだ。従つてこの政戦中、私は財政経済|乃至《ないし》政治以外の事は、一言も口にしなかつた。私は長いこと身体が悪かつた。最初あくまで辞退したのも、一つはその為だつた。然し、党員および応援者諸君のすばらしい熱心を受けて、最後まで、自分ながらおどろくほど闘ひ抜いた。あの信州のおそるべき寒さ、又何十年ぶりといはれる大雪の中に、殆ど遺憾なき戦ひを終へた事は非常なよろこびだ。この経験によつて、私は、もし芸術への熱愛さへなかつたら今後十分直接政治行動の闘士として立ち得る自信を獲た。この同志諸君の奮戦、又あの四方の熱烈極まる応援にも係はらず敗れた事は、実に申しわけない。その敗因については、すでに出来る限りの批判を加へた。幾つかの原因を大約すれば、また実に残念な民衆の無自覚――主として既成政党の欺瞞政策および狡猾悪辣な手段の中に眠らされてゐるところの――と、官憲の圧迫だ。|就中《なかんづく》、地方における買収のおそるべき威力よ!……(中略)もし男女二十歳以上にでさへ選挙権が与へられてゐたら、もう決定的勝利だつたらう。(中略)すくなくとも南信第三区において、無産党の地盤が確立した。恐らく近き将来において、わが党の勢力はすばらしい展開を見るであらう。尊き七千票よ! 曙の声はすでに響いてゐるのだ」
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大正十五年十月十九日、昭和改元の二カ月余前に、改造社が「現代日本文学全集」(全38巻)を大々的に発表した。三カ月遅れて新潮社が「世界文学全集」(全38巻)を、これまた大々的に発表した。どちらも定価一円ということで、円本合戦、円本時代という言葉が生れた。
予約出版法による予約募集方式で、申込金一円(最終回配本充当)、その他細かい規約があった。(今日と違って、予約読者以外の一冊売りは原則としてしなかった。だから奥付に定価の記入がない)
当時は関東大震災にともなう震災恐慌――不景気のどん底であった。出版界も御多分にもれなかった。その不景気を、大量生産方式による出版で、いちかばちか乗り切ろうと、大きな|賭博《とばく》を打ったのが、改造社社長山本実彦であった。このばくちは見事に当った。最初の予約募集は一カ月で二十三万部にのぼった。のちには四、五十万部に達したというが、申込金が出版資金として大いに役に立ったわけだ。この有様を見て、すぐあとに続いたのが、新潮社である。
宣伝も大がかりであった。新聞の全面広告はもとより、全国で文芸講演会を催し、宣伝映画まで作った。(昭和五十二年それが「幻のフイルム」として久米正雄の家で発見され、評判になった)一般大衆を相手にこうした知名作家の講演会が全国的に催され、映画にまで製作されたのはこれが最初である。
この二つの全集が口火となって、続々と全集が出はじめた。創業五十年記念と銘うった春陽堂の「明治大正文学全集」(全50巻)、新潮社が「世界文学全集」に次いで打ち出した「現代長篇小説全集」(全24巻)、当時新興出版社であった平凡社の「現代大衆文学全集」(全40巻)をはじめ、「日本探偵小説全集」(全20巻・改造社)、「日本戯曲全集」(全50巻・春陽堂)、「講談全集」(全12巻・講談社)、「修養全集」(全12巻・講談社)、「日本随筆大成」(全43巻・吉川弘文館)、「日本名著全集」(全30巻・興文社)、「社会思想全集」(全50巻・平凡社)、「日本児童文庫」(アルス社)、「小学生全集」(興文社・文藝春秋社)、「経済学全集」(全50巻・改造社)、「現代経済学全集」(全26巻・日本評論社)等といった具合に、次から次へと、全集が刊行され、漱石、蘆花、独歩、木等の個人全集も続々刊行されて、まさに“円本全集黄金時代”を現出した。
“円本時代”のもたらした印税の札束は、文壇に“洋行熱”を捲起した。昭和二年の末頃から、文士連が次々と|憧《あこが》れのソヴェート、ヨーロッパ、アメリカ、中国へ旅立って行った。
*
昭和二年十月十三日の朝十一時、秋田雨雀は一週間以上もかかったシベリア鉄道の旅を終って、夢にまで憧れたモスクワの駅に降り立った。うっすらと雪が積っていた。その日、モスクワは初雪であった。
文化連絡協会(VOKS)の代表たち、ピリニャーク夫妻、黒田乙吉らが温く手をさしのべて出迎えてくれた。自動車で赤の広場に近い、ボリシャーマ・モスコフスカヤ(グランド・ホテル)に入った。その夜、ホテルの食堂で歓迎会が開かれた。
バルコニーに出ると、クレムリンの沢山の|尖塔《せんとう》が、煙っているように霞んでみえた。小柄な雨雀の身体に血潮がたぎり、初めての土地へ来た満足感があらわれた。
「私にとって、ソヴェートの第一印象は、烈しく回転している大きな球体に接するような感じがした。一つの組織体が、そのまま動いているような感じである。統制されたもの、統制されようとする、統制されないものがごっちゃになっているが、その中に一つの運動だけが強力に一つの方向をとって動き出している。もし、少しでも怠けていると、その運動を知ることが出来ない。教育、文学、演劇について見ても、それは静止した状態としては少しも知ることは出来ない。それを学ぶためには自分も急テンポで動いて行かなければならない。私はその意味でソヴェートの旅行を自分にとって有益なものであったと考えている」(「雨雀日記」)
十一月六日には、大劇場で「モスクワ・ソヴェート大会」が開かれた。翌七日は革命記念日であった。“赤の広場”で盛大な記念祭が催された。十一月十日には、職業組合会館で、「ソヴェート友の会」が催された。その会で雨雀は初めてフランスの作家アンリ・バルビュスに会った。|痩《や》せた長身で、その顔はちょっと野口米次郎に似ていると思った。女のようにやさしい声の人だと思った。しかしバルビュスは実に精力的にウクライナ地方の実地視察を行った。雨雀はそのバルビュスの勤勉さに強い刺激をうけた。なるほどこれは、戦争放棄、人類融和の「クラルテ」運動を展開した人らしい内面的な強さをもった人だと思った。
雨雀もウクライナ地方を小まめに見てまわった。ハリコフからバクーヘ行く汽車の中でオーストリアのクラインという老作家に会った。クラインは、雨雀が、震災直後に書いた「骸骨の舞踏」のエスペラント訳の本を持っていた。
「君が、この本の著者と同一人だということを知らなかった。私はこの中の小さな戯曲『スダラの泉』をギリシャの詩人カザン・ザッキに翻訳してやったところだ。今新たに君と握手しよう」と言って雨雀の手を握った。雨雀は自分の作品がこんなに遠い国の人に読まれていることを知って、深く感動した。
雨雀より二カ月遅れて、最初の夫と離別して心に傷を抱いていた中条百合子は、昭和二年十一月三十日東京を|発《た》ち、京都で湯浅芳子と落ち合って、十二月二日、朝鮮─ハルビン経由でモスクワヘ旅立った。
百合子と湯浅芳子を乗せたシベリア鉄道は、ハルビンからバイカル湖畔をすぎ、はてしなく雪の降りしきるシベリアの|曠野《こうや》を七日間走りつづけて、十二月十五日の夕方、モスクワの北停車場に着いた。
「厳寒のモスクワに着いた百合子は、一目でソヴェートが気に入った。少女時代からトルストイやチェホフ、ゴーリキーなどの作品を通してロシアに親近感をいだいていた百合子は、モスクワの第一印象でいっそうソヴェートヘの『興味と愛』をふかめた。当時かいた『モスクワ印象記』(『改造』昭3・8)に百合子はつぎのように記している。
『私が初めて“コサック”を読んだ頃から、“二十六人と一人”を読んだ時分から、私の心に生じていたロシアに対する興味と愛とは、十二月のある夜、つららの下った列車から出て、照明の暗い、橇と馬との影が自動車のガラスをかすめるモスクワの街に入った最初の三分間に、私の方向を決めた。……徐々に――私はわが愛するものの生活の本体まで接近しよう』
百合子たちが着いたパッサージ・ホテルには、革命十周年記念祭に日本から文化国賓として招かれた無産派の芸術家・秋田雨雀、ロシア文学者・米川正夫、東京外国語学校露語科を卒業した鳴海完造が滞在していた。彼らは『道標』第一部に、秋山宇一、瀬川雅夫、内海厚として登場し、百合子からかなり辛辣な人物批評をうけている。演劇の小山内薫(『道標』では佐内満)もきていたが、百合子たちが到着する十日ほど前にモスクワからベルリンヘ発ったあとだった。文化国賓はボリシヤアヤ・モスコウスカヤ・ホテルに泊っていたが、革命十周年記念の祭典の行事が終ってから、秋田や鳴海はさらに数カ月、米川は年末まで滞在する予定で、質素な小ホテルのパッサージに移っていたのである」(中村智子「宮本百合子」)
百合子がモスクワに到着した頃のことを、秋田雨雀は「日記」に次のように書いている。
「十二月十四日(註=十五日の誤りではないかと思う)午後四時五十分の列車で中条百合子、湯浅芳子の二人がモスクワに着いた。二人は長い旅行に余り疲労もせずに、元気で列車からとび出して来た。中条は髪を断髪のように後頭部に行方不明に結って、丸々と肥った身体に弾力性のある態度で、旅行中の物語などをしていた。支那青年のような感じを与える湯浅芳子はこの時代では唯一のロシア語通で、当時ソヴェートを批判的に見ようというような意気込みを示していた。この日からパッサージ・ホテルは、この二人の女性を加えて一種の色彩を添えることになった。二人の室には大きなソヴェートの地図が掲げられ、二つの電気スタンドが明るく輝いていた。このようにして二人の日本の女性は、ソヴェートの社会施設および文学研究のスタートを切ったのであった」
昭和三年正月の年始状にまざって、高田保から、友人知己に宛てて次のような「口上」がくばられた。
「 口 上 高田 保
長らく皆さんに御心配をかけてゐましたパス・ポートが、やつと先日下りました。ウソではありません。わたくしは毎日それをポケットに忍ばせておいて、会ふ人には誰彼の差別なく見せてやつてをります。ウソだと思ふ人があつたら、どなたにも見せて上げます。それはフランス、イギリス、スペイン、イタリー、スイス、ドイツ、チェコスロバキヤ、デンマーク、スエーデン、ソヴェート連邦、エジプト、等は申すにおよばず、北アメリカ合衆国までも、通過国が記入されてあるものです。査証を取るには一ケ国平均五円として、みんなで六十円はかかります。今までわたくしも行くの行かぬのと、痛くもない腹をさぐられてゐましたが、これでほんとに行くのだといふことがおわかりでせう。今度は本気になつて盛んに送別会をやつて下さい。近々にはいよいよ発つのですから。
ところで、皆さん。わたくし金がないのですが、どなたか旅費を出してくれる人はありませんか。ほんとに行くんですから――」
これにひっかかった友人たちは、「盛んに送別会をやって」くれたが、彼は結局どこにも行かずじまいであった。
吉屋信子は、新潮社の「長篇小説全集」で思わぬ印税がたんまり入ったので、かねてから憧れていたフランスヘ、親友門馬千代と一緒に旅立つことになった。
その歓送会が、昭和三年九月二十日、上野の精養軒で盛大に催された。世話役は長谷川時雨主宰の『女人芸術』の同人たちで、単なる歓送のスピーチだけでは芸がないということで、趣向をこらして、木曾生れの同人八木秋子の指導する木曾踊りというのが余興として催され、長谷川時雨と吉屋信子自ら歌を唄い、美しい(?)同人連中が一斉に手拍子を打って踊りだすという、華やかな光景を展開した。また与謝野晶子が和歌十首を朗詠した。
出発は同月二十五日で、その頃満洲で羽振りをきかしていた満鉄の招待があったので、信子たちは|満洲里《まんちゆり》を通ってシベリア鉄道を利用してフランスヘ向った。
途中モスクワで二十四時間以内なら止まることを許されていたので、二人は市内見学をすることにした。
モスクワ駅を降りると日本語の話せる朝鮮人の老ガイドがいた。老ガイドは、その頃モスクワに滞在していた中条百合子の居所を知っていた。
信子は前年の春、三宅やす子の出版記念会で、百合子と初めて会った。その時百合子は、開口一番「わたし、あなたに好意持ってるのよ」と言った。信子はそれを「だから怖がらなくてもいいのよ」という風に受けとった。信子はその後百合子が湯浅芳子と一緒にソヴェートに旅立ちモスクワにいることを知っていたので、訪れてみようと思った。
パッサージ・ホテルの一室で、信子たちは百合子たちに会った。百合子は湯浅芳子を紹介し、信子は門馬千代を紹介した。
百合子と芳子は、信子たちに見物する場所をいくつか教えてくれた。信子が朝鮮人の老ガイドの話をすると「ありゃあ専門家だから大丈夫よ」と言って笑った。そこへやはりモスクワヘ演劇の研究に来ていた河原崎長十郎が、百合子を訪れて来たので、信子たちは別れを告げた。
信子たちは、クレムリン宮殿、聖ワシリィ教会堂、レーニン|廟《びよう》など、恐らくモスクワを訪れたら誰でも見てまわりそうな所をひととおり見物したが、中でも一番強烈な印象を受けたのは、革命博物館であった。モスクワの近郊から遠足に来たらしい小学生の一団が来ていて、その一団を引率した女の先生が、帝政時代の革命運動者が捕えられて足に鎖で結びつけられたというフットボールの大きさの鉄の玉が沢山ならんでいる処の前で、悲憤|慷慨《こうがい》した口調で、小さな生徒たちにしきりに説明している光景が妙に頭にこびりついた。
サヴォイ・ホテルの食堂で昼食をとった。そこには日本と同じ菊の花が飾ってあって、二人はふと日本の秋を思い浮べた。
その夜のベルリン行きの急行列車で、パリヘ向った。
その頃パリには、正宗白鳥夫妻、久米正雄夫妻、画家の益田義信、宮田重雄、舞踊家の藤間静枝等がいた。
久米正雄夫妻とはイタリアヘ楽しい旅行をした。益田、宮田両画伯にはニースへ案内してもらった。藤間静枝とはイギリスへ旅した。毎日が楽しい日であった。
翌年の夏、中条百合子と湯浅芳子がパリヘやってきた。到着三日目の夜、信子たちは二人に会った。その時百合子はとうとうとフランス論、パリ観を|打《ぶ》ち|捲《まく》った。それは要するに「ヨーロッパブルジョア文化の過去の堆積と現在の老朽は実に驚くべきものである」という結論であった。信子たちはいささか|辟易《へきえき》した。「この人は私とは別世界の人だ」と思った。
それからまた一年たって、東京で、信子はある会合でばったり百合子に会った。その時信子は、パリで藤間静枝と一緒におそろいで買った|銀狐《ぎんぎつね》の襟巻をしていた。百合子はそれを見るといきなり、
「吉屋さんも堕落したわねえ!」と、大きな声で言って、むっちりした白い手で、その銀狐のしっぽを、ぐっとひっぱった。
昭和三年十一月六日夜、丸ノ内東京会館で、フランスヘ向けて出発する久米夫妻の歓送会が盛大に行われた。発起人は山本久三郎、大谷竹次郎、小林一三、市川猿之助といった財界、演劇界をはじめ、文壇からは菊池寛、里見、山本有三、中村武羅夫、徳田秋声らが名をつらね、当夜の出席者は、以上の発起人の他に、上司小剣、豊島与志雄、近松秋江、新居格、佐佐木信綱、斎藤茂吉、土屋文明、広津和郎、吉植庄亮、三上於菟吉、吉井勇、久保田万太郎、沖野岩三郎、与謝野寛・晶子、長谷川時雨、北村かね子、横光利一、国木田虎雄、間宮茂輔ら、文壇の長老から新進まで九十余名という盛況であった。
七時に宴がはじまった。料理の献立は、チキンブロース、|鱒《ます》マヨネーズソース、鶏肉ソテー、ビーフブレゼー・野菜付、クリーム冷菓、果実、コーヒー。
デザートに入って、発起人を代表して里見が挨拶、つづいて数人の人が指名されてテーブルスピーチをしたが、近松秋江と菊池寛のスピーチの一部を紹介する。
近松秋江「久米君は夫人同伴で行かれるが、外遊は一人で行くのが面白いのではないか。昔、金子筑水氏がドイツから島村抱月氏へ手紙をよこして、大西祝博士がその前にドイツでひとり者の自由さを生活した話が、金子氏の泊った下宿に残っていたことを報じてよこした。大西博士といえば偉大なる倫理学者で、そんなことをしようとは誰も思わなかった。久米君は元より倫理学者ではない。夫人も一と月に十日位は久米君を解放してやって頂きたい」
菊池寛「久米は洋行するために生れて来たような男だ。学生時代から物事にアダプトすることは人に越えていた。久米程あらゆることに興味を持つ男はない。今度外遊するについて競馬の馬のスタートを研究することをある人に頼まれた。政治にも、社会状勢にも、スポーツにも、飛行機にも、久米は興味を持っている。あらゆる女性に対しても興味を持っているが、それは夫人同伴ではむつかしかろう。私の心配しているのは久米も夫人も可なり|贅沢《ぜいたく》だから旅費をすぐ使い果しはしないかということだ。一年近い旅の予算らしいが多分四カ月もしたら電話が来るだろうと思う。友人たちはそれを覚悟しているが、特に私の前に坐っていられる三人の方(大谷・小林・山本久三郎)に今から御覚悟を願いたい」
これに対して久米正雄は次のような謝辞をのべた。
「私は昔から賑やか好きな派手な印象を与え、積極的な花やかな人間のように思われているが、私はむしろ消極的な性格である。今度の外遊も進んで外国へ踏み出すというより、日本を夜逃げするというのが私の実感である。年来のズボラから目に見える積悪のむくいとでもいうようなものを感ずる。このままでいたらどこまでグウタラになるか分らない。それに年をとったせいか、消極的な性格からか、だんだんに物に興味をもてなくなりそうなので、今のうちに若い時の素質を清算したいのと、一つは夫婦生活の|倦怠《けんたい》を救うために――、それには洋行よりも別居する方がいいかも知れないが、もう一つの方法として、一時日本をのがれて、出来るものなら新しい気持ちを得て来たいと思って外遊を思い立ったのであるが、いろいろな機会が自分達にそれを決行させることになった。――こんな拙いテーブルスピーチをしたことは今までにないように思うが、こう正座に夫婦並んで坐らせられたためかも知れない。今から次に帰って来た時の歓迎会をして頂くのを予期するのは|僭越《せんえつ》ですが、その時にはもっと上手なお話をいたしましょう」
こうして久米正雄は艶子夫人を同伴して十一月二十日東京駅から列車で神戸に向い、二十二日神戸港出帆の北野丸で渡欧の途に立ったが、その東京駅の見送りがケンランをきわめた。文壇は言うにおよばず、政界の人、実業界の人、劇壇の人、音楽界の人、映画界の人、さては芸妓連中まで駅頭に立ちならんで、流石に顔の広さを証明した。
昭和三年四月、横光利一は、旧友の今鷹瓊太郎を頼って長崎丸で上海に渡った。(変名で乗船したが、すぐ見破られた)その頃横光はプロレタリア文学の陣営に対して孤軍奮闘していた。すでに志賀直哉、佐藤春夫、谷崎潤一郎らが一服の状態で第一線を退き、芥川が自殺したことで、彼が文壇の中心的な存在にあったことを意識していた。それだけに彼に対するプロ陣営の風当りは強かった。
「私に上海を見て来いと云つた人は芥川龍之介氏である。氏が亡くなられた年、君は上海を見ておかねばいけない。と云はれたので、その翌年上海へ渡つてみた」(「静安寺の碑文」)
ということもあったが、本音は、プロ陣営からの逃避だったようだ。横光利一は、上海で今鷹と会った時、まっさきに、
「共産党って君、無茶だよ。君らのんびりしているようだが東京じゃ大変だよ。鉄兵(片岡鉄兵)までとうとう行ってしまいよった。それにねえ、俺の家内が寝ている枕元で君も知っているあの小島()さ、何と言ったと思う。共産に入らなきゃ妹を連れて帰ると言い張るんだ。死にかかっている妹までダシに使いよる。これはもう人間じゃない。化物の集りだよ。こんな奴らに取り囲まれてはとても我慢し切れるものじゃないぜ。まあ君の所へ逃げて来た訳さ」(今鷹瓊太郎「横光さんの思い出」――井上謙「評伝横光利一」)と言っている。
横光は上海に着くと今鷹の宿に世話になった。今鷹はその頃、西原借款に関係のある東亜興業株式会社に勤め、専務の秘書をしていた。今鷹の宿は、施高塔路千愛里四五号の二階であった。
横光は上海がすっかり気に入った。毎日のように一人で街を歩き、|黄車《ワンボウツオ》(人力車)を一日中乗りまわして「一|弗《ドル》やったら喜んでいたよ」と面白がっていた。
横光と今鷹は、四馬路にある大きな盆湯(風呂屋)や四川路のトルコ風呂へよく出かけた。盆湯には女性は一人もいなかったが、中国独特のキメの細かいサービスぶりが横光はすっかり気に入った。
「トルコ風呂は、蒸風呂がまだ珍らしいころで密室に蒸気を吹き込む式のものであった。経営者は今鷹氏の同僚の未亡人で『上海』では〈お柳〉として登場している。また、そこで働き今鷹氏に好意をもっていた二十歳前後の女は、薄幸な〈お柳〉として描かれている。ダンスホールにも数度行ったらしい。『横光さんの思い出』によると、日本人経営の余り豪華でないホールで、そこには東京から流れてきた踊子や得体の知れない合の子、スパイ容疑の女などが交っていたという。二人は一度も踊ったことはなかったけれど『ダンサー達の間に後でよく横光さんの噂が出たところをみると、思ったよりよく出かけたのかも知れない』と今鷹氏は回想している。気が強く官能的な〈宮子〉や山口の女〈オルガ〉の個性的な体臭もこんなところから生まれたのであろう」(井上謙「評伝横光利一」)
横光が好んだ散歩道は、仏|租界《そかい》の端にあるゼスフィールド公園か、近くの静安寺であった。静安寺には外人墓地があって、墓標の白い大理石に刻みつけられたいろいろな文句が彼を楽しませた。
今鷹の友人の兄が上海の紡績会社の労務課にいた。横光は今鷹の紹介でその人と一緒に食事をした時、紡績会社のことやストライキの話を聴いた。
また横光が一番興味を持ったのは、銭荘と世界の縮図とも言うべき共同租界であった。「上海の共同租界を無視して、今までの支那もなければ、今後の支那もあり得ない」と思った。
横光は上海に一カ月ほど滞在して帰国したが、その年の十一月、世田谷区北沢一丁目一四五番地に家を建てて移った。犬養健がその新居を「雨過山房」と名づけた。その山房で早速、この時の見聞をもとに「上海」を書きはじめた。今鷹は「上海」の「|参木《さんき》」のモデルである。
正宗白鳥が久米正雄より一日遅れて、十一月二十三日、これも夫人同伴で、横浜からアメリカヘ旅立った。
つむじまがりの正宗白鳥は、誰にも知らせず、こっそり旅立とうとしたが、事前にことがもれ、しぶしぶ白状したので、その日は横浜埠頭に、徳田秋声、上司小剣、近松秋江、菊池寛、山本有三、中村吉蔵、細田源吉、小島政二郎、岡田三郎ら三十名余が見送った。
白鳥はいつもの袴に白|足袋《たび》といういでたちで、新聞社のマグネシウムをいやな顔をして、ぶつぶつ言っていたが、いざ出帆となると、下から投げられる赤、白、青、黄、さまざまのテープを迷惑そうにつかんでは、にこりともしなかった。
船が出はじめると夫人の方は、流石に心ぼそくなったのか、べそをかきはじめ、顔をくちゃくちゃにして涙を流しっぱなしで、夢中で手を振ったが、白鳥は、一層しかめつらをして、ぶっとしたまま、それでも気がとがめたのか、大分はなれてから、やっと二度ほど手を振っただけだった。
洋行中は着物で押し通すと言っていたが、実はカバンの中にちゃんと洋服もしのばせてあったというところも、白鳥らしい。
久米正雄は、改造社特派員という名目、正宗白鳥は、『読売新聞』特派員という名目で、西から、東から|殆《ほとん》ど同時に、共に夫人同伴で、日本を旅立ったのである。
なおこの年は、その他、林不忘夫妻、三上於菟吉、長谷川時雨夫妻、与謝野寛・晶子夫妻、佐藤春夫、中村星湖、本間久雄、木村毅らが、それぞれ、西欧、中国へ、世界漫遊へとにぎやかに旅立って行った。
昭和三年七月二十三日深更、西善蔵が死んだ。養生という養生を拒絶して、死のその日まで酒を飲みつづけ、四十二歳の波乱に富んだ生涯を終った。危篤になって酸素吸入を当てられると、こんなものはいやだ、酒を飲ませてくれと言ったので、枕元の友人たちが吸い呑みに酒を入れて呑ませたが、もう味がわかるまいと思ったのに、ごくりと一口飲んで「|かん《ヽヽ》がぬるい!」と言ったので、皆びっくりした。
死の直前にも、西はしっかりしていて、「いよいよ臨終だ。死の床を飾るんだ」と言って、最後の思い出に酒を所望した。
夕方からちびりちびりと飲みながら、いつものように、苦しい息ながら、しきりにしゃべりまくった。それは深更におよび、丁度三本のとくりを傾けつくした頃、まるでその酒のひとしずくが彼の生命であるが如く、最後の一滴がなくなると、静かに死んでいった。
西善蔵は死ぬ数年前から、ドイツヘ行きたいと言っていた。しかし四方八方借金だらけの彼は、ドイツヘ行く金などありはしなかった。
ある日西は、広津和郎を訪れて、ドイツヘ行きたいから、俺の著作権を買ってくれと言った。
何のつもりで西がドイツヘ行きたいなどと言いだしたのか、それも特に何故ドイツを選んだのか広津は不思議に思ったが、本当に行く気なら、それもいいだろうと思って、「それは君がすっかり準備が出来て、ほんとうに行けるようになったら、金を出してもいいよ」と言った。
「うん、それにしてもドイツヘ行くとなれば、まさかこれでは(と、きたない着物の|襟《えり》をつまみながら)行かれまい。洋服をまず作らなければな」と西は言った。
そこで広津は洋服をつくれるだけの金を渡し、
「後はすっかり準備が出来てからだ。それまでは絶対に金は渡せないよ。でないと、君はみんな呑んじまうからな」と言った。
ところが西は、広津の留守の間に、広津の会社(その頃広津は芸術社という出版社を経営していた)へやってきて、広津が承諾したからと言って、全部の金を持っていってしまった。
勿論、ドイツヘ行きもしなかったし、洋服さえも作らなかった。彼は全部呑みしろにしてしまったのである。ドイツヘ行くというのは、文士の洋行ばやりにひっかけての芝居らしかった。
七月二十五日の通夜には、大勢の友人たちが集まって、酒が出て賑わった。酒の呑めない広津は壁によりかかって皆の呑んで騒いでいるのを、ただ眺めていたが、そこへ、やっぱり酒の呑めない嘉村礒多がやって来て、
「僕、こうして、お通夜だと言って、大勢集まって、騒いでいるの解らんです」と、ぼそりと|呟《つぶや》いた。
告別式は、二十六日午後一時から、谷中の天王寺で行われた。西の小説の師である徳田秋声が文壇代表で、谷崎精二が友人代表で、心のこもった弔辞を読んだ。
遺骸は幡ケ谷火葬場で|荼《だび》に付されたのだが、遺児亮三と舟木重雄と佐々木千之がこれを送って行った。“おせい”のお花も、その二人の子供も、北海道から来た西の姉も火葬場には行かなかった。
香典は七百円ほど集まった。西がしこたま借金していた酒屋信州屋のおやじは、これを聞き知って、日頃西のことをあまり好く言わない近所の人達に、「それ見ろ、いざとなると七百円も香典が集まるようなえらい人なんだ」と言って触れてまわった。
信州屋は、西に酒代の貸しが丁度その香典の額とひとしい七百円ほどあったが、それを払ってくれとは一言も言わなかった。
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昭和三年五月二十八日、東大仏文研究室にいた中島健蔵のところへ、今日出海と佐藤正彰が辰野隆を連れて飛びこんで来た。
「小林秀雄が|失踪《しつそう》しちまった」
三人が一緒に言った。辰野がそれに加えて、
「昨日の読売の夕刊に、粕壁で|轢死《れきし》した男のことが出ていたが、ひょっとすると小林じゃないかと思ってね」と、|眉《まゆ》をしかめた。
今と佐藤と中島は、あわてて読売新聞に電話したが要領を得ないので、社へ行って、たしかめてもらうことにした。
「問い合わせた結果、その疑いがないでもないということになって、すぐに辰野さんを訪ねて相談する。第三者であるわれわれは、複雑な事情は別として、とにかく小林の安否さえ確かめればいいということになり、なお相談中、中原中也と、S子(注・長谷川泰子という本名なのに、S子と書いているのは、はじめからお佐規さん、と教えられたからであろう)が来た。その話の結果、粕壁の方は全くちがうらしい。中原は、しきりに小林の方の無責任を憤っているが、一ばん大せつなのは、彼の安否だから、もう一度、心あたりを探すことにして帰る。中原は、小林が死んでいないとは断言できぬという。前にも自殺未遂をやったことがある。S子と喧嘩して飛び出したというのはほんの表面のできごとだという。中原、小林、S子の間には、第三者には想像のつかぬような葛藤があるらしい」(中島健蔵「回想の文学」第一巻)
小林秀雄が、中野の三|間《ま》の家に長谷川泰子と同棲している中原中也を訪れたのは、大正十四年の夏のことだった。中原はその家に数日前に越したばかりで、小林が初めての訪問客だった。
その日、夕方、急に雨が降り出した。泰子が一人ぼんやり六畳の部屋から雨に濡れた庭を眺めていると、傘を持たない一人の男が濡れながら飛びこんできた。そして泰子を見ると、
「奥さん、|雑巾《ぞうきん》を貸して下さい」と言った。
泰子と小林とはそれが初対面であった。雨に濡れた小林の姿が泰子には妙に新鮮に見えた。
中原は奥の四畳半の部屋で本を読んでいた。小林は泰子の差し出した雑巾で足をぬぐい、ずかずかと中原のいる部屋へ入っていって、しばらく話をしてからさっさと帰って行った。
小林はその年に一高を卒業して東大の仏文に入っていた。中原は京都にいた頃から富永太郎を通して小林の存在を知っていたが、東京へ出て来ると、自分の方から訪ねて親しくなっていた。|淋《さび》しがりやの中原は、高円寺に小林が住んでいるというので、早稲田鶴巻町から中野へ越して来たのである。中原は小林より五つ歳下だったが、対等につき合っていた。中原は京都にいたころは富永と親しくしていたが、東京へ出て来ると小林とつき合った。中原には、これはと思うと、そばへそばへと近寄って、根つめてつき合うところがあった。小林と中原とは、思想がかみ合ったらしく、お互いに相手にとって不足はないという感じで、文学論に火ばなをちらした。
そんなつき合いが数年つづいた。泰子もだんだん小林に好意を持つようになった。
そうしてある日、泰子は言った。
「私、小林さんとこへ行くわ」
もうその時、外に運送屋のリヤカーが待っていた。中原は奥の六畳で何か書きものをしていたが、泰子の方を見向きもしないで、ただ「フーン」と言っただけだった。
小林はその頃母親と一緒に馬橋に住んでいたが、泰子と一緒に住むために天沼へ引越した。
しばらくして、中原が天沼の家にやって来た。
「荷物をおきわすれていたよ」と言って、風呂敷包を持って来たのだが、それだけでなく、どうしているか様子を見たかったのだった。
「私はほんとに馬鹿だったのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くという日、実は私もその日家を変えたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまうと、女の荷物の片付けを手助けしてやり、おまけに車にのせがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待っている家まで届けてやったりした。尤も、その男が私の親しい友であったことと、私がその夕行かなければならなかった停車場までの途中に、女の行く新しい男の家があったこととは、何かのために付けたして言って置こう。
私は恰度、その女に退屈していた時ではあったし、というよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑していた時なので、私は女が去って行くのを内心喜びもしたのだったが、いよいよ去ると決った日以来、もう猛烈に悲しくなった。
もう十一月も終り頃だったが、私が女の新しい家の玄関に例のワレ物の包みを置いた時、新しき男は茶色のドテラを着て、極端に俯いて次の間で新聞を読んでいた。私が直ぐに引き返そうとすると、女が少し遊んでゆけというし、それに続いて新しい男が、一寸上れよと云うから、私は上ったのであった。
それから私は何を云ったかよくは覚えていないが、兎も角新しき男に皮肉めいたことを喋舌ったことを覚えている。すると女が私に目配せするのであった。まるでまだ私の女であるかのように。すると私はムラムラするのだった。何故といって、――それではどうして、私を棄てる必要があったのだ?」(中原中也「わが生活」)
泰子はもともと中原が好きで一緒に住んでいたのではなかった。家出をして来たら置いてやると言ったので、何となく同居人として住まわせてもらっていたのであった。だから中原と別れて行くときも、身につまされるものは何もなかった。しかし中原の方には、いささか未練があるらしかった。
それからも何度かやって来て、皮肉やいや味を言い、あるときは酔ってあばれて乱暴をしたこともあった。
小林は中原と違って、泰子をやさしくいたわり、すべてについてやさしく親切だった。泰子はそういう小林に甘えきって、わがままにしていた。
しかし泰子には、その数年前から、潔癖症という、一種のノイローゼ的症状があったが、小林と一緒になって、甘い生活に入ると、それが極端に進行しはじめた。
手に触れるものすべてが不潔に思えて、何度も手を洗い、自分の食器、持ち物すべてを別にし、しまいには、部屋の一郭を自分の城のようにきめ、そこに虎の皮のような人絹の|膝《ひざ》かけを敷いて、それを敷いたところが自分の領域ときめ、そこには誰も入ってはいけないというようなことにまでなった。強度のヒステリーであった。
小林は、初めのうち、そういう泰子の態度を「シベリア流刑だ」と、冗談めかして言っていたが、だんだんその度が過ぎるとやりきれなくなった。
昭和三年五月二十五日、泰子が友人の家から夜遅く帰って来ると、小林は勉強をしていた。夜遅かったので、友人に送ってもらって来た。泰子は窓ぎわにいた小林に、「私送ってきてもらったから、お礼言ってちょうだい」と言った。
小林は窓をガラリと開け「どうもありがとうございました」と言うなり、ピシャリと窓を閉めてしまった。入り口にもカギがしまっていた。泰子はだんだん神経が高ぶって来た。やっとカギを開けてもらって中に入ったが、もうその時は泰子は逆上していた。普段でも、外から帰って来た時は、そのホコリを紙で|拭《ふ》きとるのが一仕事であったが、その上小林が自分の思い通りに礼も言ってくれず、カギもなかなか開けてくれなかったので、すっかり自制心を失っていた。さんざん|悪罵《あくば》を小林に浴せた末に、「出て行け!」と叫んだ。
小林はその瞬間、すっくと立って、下駄をはいて、そのまま出て行ってしまった。それっきり、二度と小林は泰子のところへ帰って来なかった。小林は奈良へ行ってしまったのであった。
*
昭和三年八月二十一日、身体が衰弱しきっていた若山牧水は、下部温泉へ湯治に出掛けた。しかし折から、下部温泉は夏蚕を終った甲州信州辺の百姓達の、骨休みの湯治客でごった返していた。牧水は、わずか二泊しただけで、ほうほうの態で沼津市新道の家に引き返した。それが放浪詩人の最後の旅となった。
しきりに脚の痛みを訴えた。食欲がまったくなくなった。衰弱がはげしかった。それでも牧水は、時間に追われる選歌や、雑誌『創作』の編集の仕事をやめなかった。
八月末頃から口内炎がひどくなった。九月に入ると手足にも炎症が出た。足の裏の炎症は日光浴による|火傷《やけど》だと思い、手の方は以前にかかった漆かぶれの再発だと思っていた。足の自由が奪われて、牧水は寝たきりになった。下痢がはじまり、衰弱は一層ひどくなった。
九月九日、かかりつけの稲玉医師の往診を受けた。医師は絶対安静を命じた。
九月十三日の昼前、突然三十九度四分の高熱を発した。稲玉医師が駿東病院の立柄博士を連れてかけつけ立会診療をおこなった。重体、危篤が告げられ、遠方の親戚には通知するようにと言われた。持田淳子という手なれた看護婦がつけられた。
その日の午後、電話工事夫が二、三人やって来て、茶の間の柱についていた手まわしのハンドルのついた電話機が取りはずされ、家の西の端の事務室に移された。それは電話の応答が牧水の耳に入ることを気づかっての家人の措置であった。
九月十五日の朝、弟子の大悟法利雄の妻が重要な親戚に手紙を書き、創作社社友の高久耿太と吉川慰に電報を打った。
牧水は朝から熱が高かった。大悟法に向って、
「どうも今日はすっかり参ってしまった。昨日まではなんだかんだと戚張っていましたがね」と、弱音をはいた。
正午頃から沼津の人々の見舞が多くなった。「牧水重態」ということがJOAKのラジオで放送されたからであった。
牧水は玄関の方のその見舞客たちの物音や声を不審がった。妻の喜志子がラジオで放送されたことを告げると、
「何のことだ、ひとがすこし位病気で寝ているとすぐ重態だなんて怪しからん。どうも田舎の新聞記者なんて暇なものだから」と苦笑した。
その夜牧水は、長男で、十六歳の|旅人《たびと》と長女で十四歳のみさきを枕元に呼んだ。丁度その時、看護婦も喜志子も誰もいなかった。
牧水はまず旅人に言った。
「お前も知ってのとおり、九州にはおばアさんがいる。おばアさんはもう年だから何時どういうことがあるかわからない。もししらせがあっても、お父さんはこのとおり病気だから行けない。その時には、たアちゃん、お前は長男なのだから、お父さんに代わって九州へ行き、おばアさんのお葬式へ出てくれなければいけない。お前は一ペん九州の家へは行っているから少しは様子もわかっていよう。このことをよく心得ていなさい」
口内炎のためやや不明瞭ではあったが落着いた普段の口調でゆっくりそう言った。
旅人は「うん、うん」と小さくうなずいた。旅人はそれで出て行くように言われた。牧水は、旅人がいなくなると、
「みいちゃん」と呼んだ。
「みいちゃんは、やらなければならないことをやらずにいるから、自分に苦しいんだよ」
と言った。
十四歳の少女みさきが、「やらなければならないこと」と言ったら、学校の宿題とか借りた本を返すとか、せいぜいそんなことであった。しかし病弱で繊細な神経のみさきは、そんなことにひどく悩み苦しむところがあった。それを父牧水はちゃんと見抜いていた。
みさきは、胸が一杯になって、父から眼をそらし、しゃくりあげるように泣き出した。
それを見て牧水は、
「もういい、あちらへ行きなさい」とやさしく言った。
看護婦の持田淳子の「病床記録」によると、九月十三日から十六日までの牧水の容態は次の通りである。
体温 三十八度〜三十九度。
脈搏 一二〇〜一五〇。
注射 リンゲル、ブドー糖、カロナヂン、ヂカーレン、アンナカ。
食餌 ラクトーゲン二○○、肉汁三〇、野菜スープ一○○、卵黄一コ、重湯二〇〇、トマト汁五〇。
朝一〇〇、昼二〇〇、晩三〇〇、午後三時及び夜三〇〇、計一二〇〇ccの酒。
これによると最後まで酒をはなさなかったということである。それも死の前々日までは吸呑みからでは酒の味がしないからと言って、身体を起し、コップで飲んだ。
十六日からさらに容態は悪化した。睡眠状態だったが時々眼を覚すと酒によって元気をつけ、他の飲食物は殆ど欲しがらなかった。医者ももう強いて酒を止めようとはしなかった。しかしこの日からもう起き上って呑むことは出来なくなった。
午後二時頃、土岐善麿と郡山幸男が東京からかけつけた。その日までは見舞客を|逢《あ》わせなかったが、もう今となっては逢ってもらった方がいいということになって、喜志子が病室に案内した。牧水は非常に喜んで、いつまでも二人をそばから放そうとしなかった。
夕方になると、脳をおかされはじめた。うわごとを言いはじめた。
「渓間に小さな川が……さらさら流れている……」「野原に、広い野原に……きれいな花が……」そんな、きれぎれの、いかにも放浪の詩人牧水らしいうわごとであった。
危険状態が迫ったので稲玉医師が酸素吸入を当てようとしたが、それを拒絶した。
ところが夜更に改造社社長山本実彦が見舞にかけつけた時は、実に意識がはっきりしていた。
「いつぞやの集のこと(歌集「黒松」出版のこと)すっかりなまけてしまって失礼しました。すこしでも快くなりましたら大悟法にも手伝わして出来るだけ早く|纏《まと》めますから」とか、「あれは一体何部位刷るのでしょうか」とか、出版の話をしたり、また、喜志子に酒を出すように命じたりした。
その夜は見舞客たちも殆ど一睡もしなかった。十七日午前四時頃になって、一時気分がやや回復し、牧水は、|枕許《まくらもと》に坐っている稲玉医師に、
「いつおいで下さいましたか」と|訊《たず》ね、
「昨夜は|晩《おそ》くなりましたから、御当家で一泊させて頂きました」と答えると、
「それはそれは」と恐縮して丁寧に謝辞をのべたりした。
夜が明けても、気分は割合によく、意識も明瞭で、見舞いの人たちと話をしたりした。
朝食には酒一〇〇cc、卵黄一個、玄米重湯一〇〇ccを摂った。
しかし、午前七時二十分頃になって、また急に容態が変り、冷汗がしきりに流れ、脈搏が多くなり、呼吸が浅くなり、やがて昏睡状態に入った。強心剤の注射をしたが何の反応もなく、家族、親戚、友人、門下などが次々に、末期の水代りに酒で唇を湿していくうちに、静かに息を引きとった。死の間際は何の苦痛もなかったようであった。九月十七日午前七時五十八分であった。病名は急性胃腸炎兼肝臓硬変症であった。享年四十四歳。
臨終の時、枕辺にいた白鳥省吾は、次のような詩を心に浮べた。
暁
闇は深く
庭園に泉は鳴つてゐる
玉のやうに鳴つてゐる
室内は灯のやうに明るいが
人々は一人の死をみつめてゐる
愁は重く
泉はいつも鳴つてゐる
私は窓に|倚《よ》り
しらじらと夜の明けるのを見た
鶏は遠くに鳴き
星は薄れ
海ちかい老松の姿が朧ろに見えてくる
こんなにも平和な団欒に
――おとうさんの臨終も記憶しないであらう坊ちやんよ、眠たい眼をこすつて起されてくる
こんなにも美しい友愛の中に
――優れた友の霊が苦悩の肉体を離れてゆく悲哀にすすり泣き――
しかも死の魔は音もなく
平気で一人の人間の最後の頁をひるがえす
牧水の告別式は九月十九日午後二時から、沼津市の自邸でとり行われた。新聞社、雑誌社、各界の知己の花環が、門から玄関までかさなるように立ちならんだ。
未亡人喜志子、長男旅人、長女みさき、次女真木子(十歳)、次男富士人(七歳)が涙に眼を泣きはらしてならぶ中を、河井酔茗、北原白秋、尾上柴舟、尾山篤二郎、白鳥省吾、福永挽歌、斎藤茂吉、山本実彦ら、生前親交の深かった文壇の人々をはじめ、愛読者、門弟等多数が参列焼香して長い列がつづいた。
斎藤茂吉は、『東京日日新聞』に次のような「思い出」の談話を寄せた。
「全く惜しい歌人を失ひました。若山さんは学校を出た時など歌が金にならぬ四百字一枚五十銭の赤貧時代から自然を友に歌ひ続けてきたが、酒は大好物で毎晩一升酒をやつた、最近は量も減じてゐたやうだ。五六年前、塵埃の都を逃れて沼津に永住の地を求めて去つたのも自然の愛情からで、富士や伊豆半島がよく歌に出た。気の合ふ友と酒をくみ、興ずるや自作の歌を歌ひ出す、その声が澄んだ余韻を曳く。実に好い。人の心の底に醸しつづけてゐる豊醇なものを呼びさます声だから、牧水さんが歌ひ出すと、体裁も礼儀も忘れて子供のやうに躍り出す程だつた。余り芸術的な声なので酒の歌を蓄音器のレコードにも吹き込んだ筈です。最近は歌も大分変つて来て平明になつてゐた。『幾山川越え去り行かば寂しさのはてなん国ぞけふも旅行く』の一首が寂しく思はれます」
*
本郷菊富士ホテルで仕事をしていた広津和郎のところへ、妻のはまから、
「お父さまが大変あなたに会いたいと言っていらっしゃいます」という電話がかかって来たのは、昭和三年十月十日であった。和郎はタクシーを急がして、大森の父柳浪の家へ行った。
大正三年、和郎の入営中に肺を患った柳浪は、その後、名古屋の長男俊夫のところへ行ったり、知多半島師崎町の海浜病院で療養したりした後、大正六年秋、鎌倉に移り、静養して、次第に元気を回復していた。
大正十二年九月一日の関東大震災で、家が倒壊して家屋の下敷きとなったが、奇跡的に助かった。それ以来、生来神経質でカン性の柳浪は、それが一層はげしくなり、風邪を引くのを恐れて、震災後丸五年というもの、外へ出ず、おまけに一度も風呂に入らなかった。そして身体は次第に衰えを見せはじめ、顔にむくみが出るようになった。
かかりつけの医者は、
「お風呂に入り、少し庭でも歩いて頂かないと、新陳代謝が行われませんから、もう療治のしようがありませんよ」とこぼした。
柳浪は毎日のように医者を呼んだ。医者が来ないとすぐ迎えにやった。そのくせ医者の言うことを少しも聞かなかった。
昭和三年の秋に入った頃から、顔にむくみが見えるようになった。
「若い頃|脚気《かつけ》をしたことがあるので、そのせいではないか」と柳浪は言った。そして、少しでも|動悸《どうき》がすると、すぐ「駄目だ」と言って神経質に騒ぎ、医者を呼んだ。
親孝行の和郎は、そういう父の様子が気になってはいたが、追われた仕事のために、菊富士へ行っていたのだった。
和郎が部屋へ入って行くと、柳浪は、かさね着の上からどてらを羽織って、机の前で|脇息《きようそく》にもたれて坐っていた。一寸工合が悪いとすぐ疲れてしまう父が起きているのを、和郎は意外に思った。
「起きていらっしゃったんですか」と和郎は火鉢をはさんで父の前に坐った。柳浪は、そんな姿でうつらうつらしていたらしかったが、和郎の声に、顔を上げて、
「来たね」と、優しい声で言った。「すこし早まりすぎたかも知れないが、頭のはっきりしているうちに、お前に会って置きたいと思ってね。いよいよ今度は駄目らしいからね」
和郎はそれには答えず柳浪の顔を見た。|瞼《まぶた》と|頬《ほお》と|頸《くび》とがむくみでたるみ、人の好い顔になっていた。「今度は駄目だ」という言葉を今迄に何度か聞いていたが、今日はどうもただごとではないような気がした。
「お|寝《やす》みになったら|如何《いかが》です? 無理して起きていらっしゃったら、苦しいでしょうに」
礼儀正しい和郎の言葉はいつも丁寧だった。
「いや、今度寝たら、もう私は起きられない。だから、私は寝ないつもりだ」
「でも、そうやっていらっしゃったら、大儀でしょう」
「それはなかなか大儀だよ。でも、起きられるだけは起きていてみる」
柳浪は一所懸命病気に抵抗しようと決心しているようであったが、言葉に力がなく、悲痛な感じより、むしろ子供がヤンチャを言っているように和郎には思えた。
「そうそう、明日赤坂に行って倉富の叔母さんをつれて来て下さい。のぶにもなるたけ会っておきたい。もっともまだ大丈夫だとは思うがね」
のぶという叔母は柳浪の妹で、四人兄弟でその二人だけが残っていた。
「きっとお連れします」と和郎が言うと、柳浪は静かにうなずいた。それからすぐうつむいて、居眠りをしはじめたが、また、はっと顔を上げて、
「うん、そうそう」と言うと、|顎《あご》で和郎を「近く近く」と招くようなしぐさをして、和郎の耳に口を寄せ、小声で、
「いいか、頼むよ、母さんをな」と言った。
和郎にとって第二の母であることを柳浪は気にしていたのであった。
「ええ、解っています」
「よし、よし、お前にはいろいろ面倒をかけたな」
「そんなことありませんよ」
「よし、よし、それでよし」
柳浪はまた首をたれて、すぐにいびきをかきはじめた。
十二日には大分容態が悪化した。和郎はかかりつけの医者に相談して、当時付近で評判になっていたW博士を呼ぶことにした。誰が診ても同じだと思ったが、家族としてはやはり何とかならないかという気持がするのであった。
その日は本門寺のお会式の日で、池上通りは車が通らなかったが、W博士は歩いて来てくれた。
W博士が診察している間中、柳浪は眠っていたが、博士が帰ると、ふと眼をさまし、
「違う医者が来たようだったな」と言った。
「W博士ですよ」と和郎が言うと、
「ああ、そうか、有名な|薮《やぶ》だ」と言ったので、和郎は、思わずふき出した。
翌十三日に、硯友社以来の友人巖谷小波と江見水蔭が見舞に来た。
柳浪が、脚気だと言うと、
「脚気なら僕のところに好い薬がある。ボケの実をヌカミソに漬けたのだが、それをワサビ下ろしで下ろして飲めば、どんな脚気でも癒る」と江見水蔭が言った。
江見はそれをすぐその日にとどけてくれた。
柳浪は果物類がきらいで殆どたべたことがないのに、そのボケのヌカミソ漬を下ろしたのは、我慢して呑んだ。
十四日の夜おそく、和郎が柳浪に呼ばれて枕許へ行くと、
「俺は癒るよ。今一休和尚の言った言葉を考えていたのだが、あの位はっきり考えられたのだから、俺の頭は確かにはっきりしている。これなら死にっこない。一休が……何だっけな。――一休が、今はっきりしていたのに……」
少し眉をひそめて、そのまま眠ってしまった。二度目に和郎が呼ばれたのは明け方であった。
「母さんどうしている?」
「今眠っていらっしゃいます」
「江見の薬が呑みたいんだが……」
「それなら僕が持ってきます」
すると母潔子が聞きつけて起きて来た。
「江見の薬をくれ」と、柳浪は怒ったような声で言った。
潔子は台所へ行って、ワサビ下ろしでボケの実をおろした。和郎はそばへ行って、余り濃いのを呑ませても無理だと思い、水で割るようにと言った。潔子はその通りにした。
柳浪はそれを呑むと、急に眼をむいて言った。
「薄いじゃないか。何故カスを|除《と》ってしまったんだ。……江見はカスごと飲めと言ったぞ。もう一度作り直して来てくれ」
潔子はだまって台所へ立って行った。
「薄めることがあるものか。何故濃いまま飲ませないのか。――解らんな。解らんな」と言いつづけた。
しかし、潔子が再び作り直して来た時は、柳浪はまた眠っていた。そしてそれきりもう眼をさまさなかった。
十五日の午後四時八分、柳浪は静かに息を引きとった。六十八歳であった。
広津柳浪の告別式は、十月十七日午後二時から、谷中斎場で、真宗によってとり行われた。しめやかな読経のあと、硯友社を代表して江見水蔭が、文芸家協会を代表して中村吉蔵が、弔辞を読んだ。
江見水蔭の弔辞は大要次のようなものであった。
「……硯友社の盟友多く世を辞し、今柳浪氏を失って、残るは小波、桂舟(武内)と自分のみとなった。……これまで友人が死ぬと、いつもその弔詞に朱筆を加えたのが柳浪氏であった。自分は昨夜弔詞を書きながらそれを思って暗然たるものがあった。在天の柳浪氏よ、この弔詞にどうぞ朱筆を加えよ」
|正信偈《しようしんげ》の間に、先ず和郎がその長男賢樹の手をひいて焼香し、次いで潔子未亡人が頭を深くたれて焼香した。
徳田秋声、近松秋江、正宗白鳥、長谷川天渓ら同時代の作家をはじめ、里見、宇野浩二、加能作次郎、宮地嘉六、尾崎士郎、宇野千代、佐佐木茂索、岡田三郎ら、多数が参列して盛儀であった。
冠婚葬祭にはめったに姿を見せたことのない永井荷風も、人々が殆ど帰った頃、一人遅れて最後の焼香をした。柳浪は荷風の最初の師である。
なお油絵をたしなむ和郎は、柳浪のデスマスクを書き、それに「父上逝去の翌朝和郎謹写す」と書き入れた。
*
昭和三年七月、永井荷風と小山内薫との間にちょっとした確執が起った。事のおこりは……。
昭和二年の初めから、改造社の「現代日本文学全集」が出はじめ、次いで春陽堂から、「明治大正文学全集」が出はじめたが、荷風は、はじめそのどちらにも収録されることを拒否した。巖谷小波と小山内薫とが仲介に入って説得したが、やはり拒んで、おまけに、その前年の暮、予約募集の新聞全面広告に自分の名前を無断で載せたということで厳重に抗議さえした。
にもかかわらず、その七月に、春陽堂版「明治大正文学全集」の第三十一巻として「永井荷風篇」が出、九月には改造社版「現代日本文学全集」の第二十二巻「永井荷風集」が出た。
しかも、改造社版「永井荷風集」の巻末に次のような文章が載った。
「今回改造社と日本文学全集の出版契約成るや、荷風先生本集に必要なる編輯、年譜、略伝の執筆等一切を挙げて余に一任せらる。余不敏にしてその任に適せざるを知ると雖、師恩の深きを思へば、又徒らに辞すべきものあらず。|乃 《すなはち》先生の作品中より小説随筆合計十三篇を選み、|輯《あつ》めて本書を成す。学素より能く為す無し。読者の譴責を買はずんば幸たり。邦枝完二」
顔をつぶされて腹を立てたのは小山内薫である。小山内は昭和三年七月六日の『読売新聞』に「夜の断想」と題して次のような詰問的な文章を書いた。
「……春陽堂の円本をも改造社の円本をも拒否した人に唯一人真山青果君がある。『おれは金儲けは嫌ひだ』さう言つて断つたさうである。この詞には多少の芝居気があるかも知れないが、書物といふものを無制限に安く売る必要はないと思つてゐる私にとつては同感の出来る詞である。……たとひそれが真山君一流のひねくれであるとしても、円本の内でも最も分の好い種類のものを二つまで断ち切つた真山君の気概にはちよいと動かされる。……そこへ来ると気骨がありさうに見えて永井荷風君の態度などはちと軟弱である。この一件には私自身も多少関係を持つてゐるし、『顔をつぶされた』一人であるから、あまり詳しいことは言ひたくないが、兎に角、一度はつきり拒絶して、その上、その本屋の非をあばいた公開状まで発表しながら、いつの間にか、平気で、その同じ本屋から円本を出してゐるのは奇怪である。公開状で始まつた事件だからいづれ公開状で片づけて貰へるのだらうと、私はしきりに待つてゐるのだが、いまだに何の断りもないところを見ると、この儘世間をごまかしてしまふつもりではないのかしらとつい疑惑の念も起つて来ようといふものである。永井君は新聞を読まない人だが、誰かからこんなことを書いたと聞いて、不快に思ふかも知れない。併し私は病人になつてから何事も腹のなかにあることを抑へつけて置くことが出来なくなつた。病人がうは言を言つてゐるのだと思へば腹も立つまい。だが、同時に私がこんなことを書くのも、少年時代から畏敬してゐる先輩の名をいつまでも汚して置きたくないからである。……」
これに対して荷風は反論を書きつけたが、それを「日録」にだけ書きとめて、手紙で郵送することをしなかった。
その手紙というのは次の通りである。
「拝呈陳者筆研益々御健勝の段欣慶の至に奉存候、扨此度読売新聞紙上に御掲載相成候御文章篤と拝誦致候処右者重に小生一円本全集に加入致候事に関し居候のみならず、暗に小生の答弁も御催促なされ候やに相見え申候に付、ここに寸楮を以て御返事致候、猶又小生に於ては貴下新聞紙上の文に対しては別に弁解の文はつくり不申、従而之を公表致す考は無御座候、何故かと申候に小生にして若し貴下の文に対する弁解の文を公表するに当りては、まづ貴下の人物につきて小生の今日迄凡二十年間見聞致候実例を挙げ、審に之を記述致さねばならぬ次第に立到可申候、これは貴下に対してあまりに御気の毒に存ぜられ候につき弁解の文は作不申候、乍併いづれ何かの機会にて御目に掛候はば其節直接の御詰問に対しては立派に御返答可致考に有之候、右私信を以て御挨拶に及候、以上」
その手紙につづいて「日録」に次のように書いた。
「小山内は少しく精神に異状を呈するにはあらざるか、彼多年の醜行を省ず突然奇骨徳義の如き言を発するは娼女の貞操を論ずるに似たり、小山内は予が生涯恒産あるが上に偶然春陽堂改造社の両書肆より巨額の印税金を獲たるを見て、羨望嫉妬のあまり常識を失いたるものなるべし、尤も予の境遇を羨むものは小山内のみにはあらず文壇を挙げて悉く然りとなすも可なるべし、小山内は改造社よりコンミッションを貰いそこねたるにより深く予を怨み居るなり、いずれにしても此度彼の文世に出でたるを機会として交際を断つことを得たるは予に取りて最喜ぶべきことなり」
その年の十二月二十五日夜、小山内薫は、日本橋亀島町の偕楽園で、円地文子の「晩春騒夜」の千秋楽打上げの慰労会の席上、胸の苦痛を訴え、一時間ほど苦しんだ末、円地文子、北村喜八、友田恭助、村瀬幸子、山本安英、滝子らに見まもられて息を引きとった。四十八歳であった。
告別式は二十八日午後一時から築地小劇場で盛大にとり行われたが、勿論荷風は姿を見せなかった。
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昭和四年頃、川端康成はどん底のような貧乏生活をしていた。インクも新しいものを買えない有様だった。自分の文章の載っている雑誌が来ると、早速古本屋へ売って、敷島を一個買ったりしていた。しばらく煙草が切れていたので、一本吸うとくらくらした。
大宅壮一がその頃隣に住んでいて、同郷で中学も同窓だったから親しく交際していたが、その大宅の家に前年結婚したばかりの川端の妻秀子が、始終、醤油とか塩とかを借りに来た。家具も|殆《ほとん》どなかった。
|勿論《もちろん》家賃など払えないからたまる一方だった。稿料は殆ど前借りであった。あまり前借りがはげしいので、それを差し止めにした雑誌社もあった。
新聞小説の切り抜きを持って高利貸しに金を借りようとしたこともあったが、これには高利貸しの方があきれて断わった。
そのくせ川端は、そんなことにはとんちゃくせず、小説を書くために、逗子や鎌倉のホテルに泊り込んだりした。そういう度胸はずばぬけていた。
家も馬橋から大森馬込、馬込から上野桜木町へと転々とした。
上野桜木町に移ったのは昭和四年九月であった。二階が一部屋、下が三部屋というボロ家であった。
この家に引越す時、川端は腹を悪くして熱があった。にもかかわらず、新しい家に荷物(と言っても殆どなかったが)を運び込むと、すぐ近所へ散歩に出かけた。
かなり遠くまで出掛けた。先ず母校の東京帝大へ行って、関東大震災の時くずれ落ちた建物が新しく建ち直っているのを興味深げにながめた。図書館にあかあかと灯がついていた。学生時代のことを回想した。
そこから上野公園まで歩いた。そして夜ふけに|一旦《いつたん》家まで戻ったが、中に入らず、また歩き出した。そして浅草観音まで行き、そこからバスでようやく帰宅した。
川端がここへ引越したのは理由があった。その年の暮から『朝日新聞』に新聞小説の連載を頼まれていた。それを、浅草を舞台にしたいと思っていた。
川端は一高受験の時、浅草蔵前に住む叔母の家に世話になったことがあった。レンガ建ての「十二階」のそそり立つ浅草は大阪府下の農村から上京してきた川端の心を強くとらえた。そこは雑踏の町で、古びた伝統と新奇なものとが同居していた。観音参拝の善男善女、おのぼりさんがいるかと思うと、不良少年、不良少女、浮浪者たちがいた。見せもの小屋ではバタくさいオペラをやっているかと思うと、隣りは浪花節の小屋であった。大阪弁の曾我廼家五九郎一座があった。木馬館があった。カジノ・フォーリーがあった。その雑然とした魅力が忘れられなかった。そうした浅草の生態を書きたいと思った。
こうしてその年の暮十二月から「浅草紅団」の連載がはじまった。
その頃「カジノ・フォーリー」はまったく不況だった。三百人の小屋に三、四人しか客が入っていなかった。
そんな不況時代に川端は「カジノ・フォーリー」をたずね、文芸部員の島村龍三に会って取材した。何度も楽屋を訪ね、踊子たちとも親しくなった。
その年の暮、「カジノ・フォーリー」の入口に珍しく人だかりが出来た。島村はこれを見て何かもめごとが起きたのかと思った。そうではなかった。それはみなレビューを見に来た客であった。
それは「浅草紅団」のおかげだった。
*
「昭和四年に入ると、ニューヨークのウォール街の株式市場が大暴落し、世界恐慌が始まり、すでに金融恐慌で不況を極めているわが国にも波及し、いっそうその深刻度を増して、いわゆる昭和恐慌をもたらすに到った。即ち、アメリカの小麦のダンピングで、米価が暴落に暴落を重ねて農村は窮乏の極に達し、中小商工業者は庶民の購買力が衰えたので続々と潰れ、産業界も亦極度の操業短縮をやり、その結果、失業者が街頭に溢れた。従って就職難も激しく、昭和四年の大学卒業者の就職率が、東大で僅か三〇パーセントに過ぎなかったのを見ても、その一端が窺える。また、昭和六年には、同盟罷業八六四件、小作争議三四一九件という、戦前の最高を占めているのを見ても、いかに不況が激しかったかが想像される。その結果、やはり昭和六年に、政府は一割の官吏減俸令を発令するまでに到っている。もちろん、左翼運動も昭和三年から満洲事変が勃発した昭和六年まで猛烈を極め、当時は共産主義は国禁になっていたので、その最高頂の昭和六年には、学生で当局に処分されたものが三九五件、学校処分が九九一件の多きに昇っている」(浅見淵「史伝・早稲田文学」)
なかでも、東北農民の困窮が特にひどかった。昭和恐慌の上に、冷害と凶作が二年続いた。今日のように出稼ぎに行くところもなかった。その揚句、なにも食べるものがなくなったので、飢えをしのぐために仕方なく、因果をふくめて娘を東京の場末の売春|窟《くつ》に売りとばした。こうして東京の場末の売春窟には哀れな娘たちが溢れた。
こうした世相をリアルになまなましく描いたのが下村千秋の「ある私娼との結婚」(『文藝春秋』昭和5)、「街のルンペン」(『朝日新聞』昭和5)、「天国の記録」(『中央公論』昭和6)であった。
中でも「街のルンペン」は『朝日新聞』に連載が始まると大変な評判になった。第一次世界大戦直後に敗戦国ドイツではじめて使われだしたという、ルンペンというドイツ語が、この小説によって日本に流行することになった。
*
昭和四年二月号の『婦女界』に「りつ子・東京都」という|匿名《とくめい》で「プ口文士の妻の日記」という生活記録が載った。それは前年の暮、貧困のどん底にあった壺井栄が募集広告を見て匿名で応募したものであった。それで栄は賞金二十円を得た。初めて活字になったものであった。
栄は大正十四年二月二十日に壺井繁治と結婚し、世田谷太子堂の二軒長屋に仮住いした。隣りには林芙美子が住んでいて、近くの床屋の二階には平林たい子が住んでいた。いずれも貧しく生計をわきまえないアナーキスト詩人を夫に持っていた。
そういう中にあって次第に文学的雰囲気にふれるようになったが、もともと故郷小豆島の村役場に勤めていた|垢《あか》ぬけしない娘であった栄は、こうした人たちに親しみを感じながらも、どこかに違和感があった。
「あんたの友だちは社全主義運動とかなんとかえらそうなことを言っておっても、何にもやってないじゃないの」と、夫の繁治に言ったりした。アナーキストたちのぐうたらな生活ぶりは栄の好むところではなかった。
母が心配して、三十円の為替を送ってくれたので、とりあえず急場はしのげたが、たちまち生活に窮した。
繁治が東京で知り合った川合仁が日本電報通信社に勤めていて、川合は壺井夫婦の窮乏ぶりに同情して、筆耕の仕事を持って来てくれた。その仕事というのは、方々で催される講演会を聞きに行って要領筆記し、原稿にまとめる仕事とか、徳田秋声、白石実三、須藤鐘一らの小説を複写する仕事であった。そんな窮乏の中で、栄は三歳になる姪真澄(|産褥熱《さんじよくねつ》で死んだ妹スエの児)を引きとった。こういうところが栄の父親に似たおおらかなところであった。
繁治もこの頃からアナーキズムに疑問を抱きはじめ、マルキシズムの正統な理論展開方向に移行しはじめていたが、そのために、黒色青年同盟一派のテロに遭い、左手を骨折し、内職の仕事も出来なくなり、栄が一人で奮闘した。
昭和三年二月、繁治が三好十郎らと左翼芸術同盟を結成、機関誌『左翼芸術』を創刊したが、それは創刊号きりでナップ(全日本無産者芸術連盟)の雑誌『ナップ』に統合された。
この年、栄ははじめて芝公園のメーデーに、セルの着物の断髪姿で参加した。その写真が『アサヒグラフ』に載り、“帯留で鉢巻をした女性”と書かれた。
その七月に、夫繁治が検挙され、二十九日間、市ヶ谷刑務所に勾留された。初めてのことだったので栄は大きな衝撃をうけたが必死に堪えた。
その年の暮『婦女界』の生活記録募集広告を見て応募し、入選したのである。
*
昭和五年四月、吉田秀和は北海道小樽から東京に出て来て成城高校へ入学した。秀和は東京の生れだったが、父の仕事の関係で、小学校の終りに小樽に移り、そこで中学を四年やって東京へ出て来たのである。
秀和は入学して一学期は寮にいたが、秋からドイツ語の教師の阿部六郎の家に下宿した。阿部は成城町の南側の市河三喜の借家に住んでいた。秀和は同級生と一緒に阿部の家を訪れ、すっかりこのドイツ語の先生が気に入って、強引にその家に下宿させてもらったのであった。
その家は、上下同じ広さの木造二階建てで、二間ある二階の広い方の部屋が阿部の書斎で、隣りの四畳半が秀和の部屋ということになった。
秀和が移って来た次の日曜日、阿部のところに訪問客があった。それは中原中也であった。中原は一人でしゃべりまくっていた。その声は少し|嗄《しやが》れて低かった。ひとしきりしゃべったあとで、二人は出て行った。次の日曜日にまたやって来た。
「……夕食ですよと呼ばれて、私が下の茶の間におりてゆくと、この規則正しい訪問者(中原は、人を訪ねるのを日課みたいにしてる男だったが、このころは日曜日というと、阿部さんのところに、まるで学校にでも出るように、きちんとやってくるのだった)もすでに坐っていて、いっしょに食事をした。背が低く、角ばった顔。ことに顎が小さいのが目についた。色白の皮膚には、ニキビの跡の凸凹がたくさんあったが、そのくせ脂っこいどころか、妙にカサカサして艶がわるかった。ぎょろっとした目は黒くて、よく光った。私はそれをみんな一目でみたわけではない。これは、その後の印象のいくつかを足したものだ。初対面では、むしろ、低いが優しい口のきき方と、私のいうことを、そのまま正直に、まっすぐうけとろうという態度が印象的だった。もう一度断わっておくが、私は十七歳の高校一年生。生意気で、自分のいうことを、そのままきいてる相手なんて、かえって気づまりに感じてしまう年頃だった。年齢でみると、彼は当時二十二歳。当時の私は、もちろん、他人の年齢の重さを計るはかりを全然もたない年だったが、それにしても、中原は、こんな若さで人生の遍歴をあらかたすごしてしまったみたいな口のきき方をした」(「吉田秀和全集」第10巻「中原中也のこと」)
その晩食事のあと、中原は阿部に酒を|呑《の》みに行こうと誘ったが、阿部は都合があって出られないと言った。中原は、「そんなら」と、秀和を誘った。
二人は小田急で新宿へ出た。
電車の中で、中原は秀和にいくら持っているかと聞いた。秀和は二円くらいもってると言った。二人は新宿の裏通りの薄暗いバーヘ入り、うすぎたない女の給仕で酒を呑んだ。というより、秀和はまだそういうところへ入ったのは初めてだし、酒も呑めなかったので、中原がひとりで呑み、ひとりでしゃべったのであった。二本ほど呑み終ると、約束で秀和は中原に金を渡した。
ところが、秀和が、初めに断わった通りの額しか金を持っていないのを知って、中原は怒り出した。
「馬鹿だな、お前は。本当に二円しか金がないのなら、一円五十銭というもんだ。俺はそのつもりで呑んだんだ。これじゃ、女給にチップも渡せないじゃないか!」
秀和は有金全部をはたいてしまい、成城に帰る電車賃もなかった。中原が、自分の下宿に泊れと言った。秀和は気軽にのこのこついていった。
代々木山谷の小田急の線路に接したところに中原の下宿はあった。一階の一番奥の広い部屋だった。ベッドが不相応に大きかった。中原は、そのベッドに秀和を寝かし、自分は畳の上に寝た。
ベッドの上で、秀和は、黒鼠色の箱に入った本をみつけた。白水社から出たばかりのランボーの「地獄の季節」であった。秀和はページを開いた。そして、その「鋼鉄のように強靭な文章にショックをうけた」(同前)。そんな秀和を見て、中原は、
「それを訳した小林って男は、金が入ったもんだから、酒を呑んだついでに、さっそく女を買いにいって病気になったんで、アルチュール・ランボーじゃなくて、アルコール・リンビョウじゃないかって笑われたんだ」と言った。
*
亀井勝一郎は昭和五年秋、「奇妙な転向上申書、即ち政治活動はやめるがプロレタリア文学は続けるといふ上申書」を書いて、二年ぶりに釈放され、市ヶ谷刑務所を出た。
亀井は大正十五年、東京帝国大学に入学した。函館から上京した十九歳の亀井は、当然のことのように、マルクス主義芸術研究会(略称マル芸)に出席し、やがて「新人会」に加わった。
ブルジョアジーに生れた彼は、自らの学問も才能も思想も言葉も――たとえそれがどんなに立派なものであっても、結局ブルジョアジーの|匂《にお》いの染みこんだものであると考えるようになっていた。そして、与えられた理論に極力反抗しようとした。あらゆる点に於てマルキシズムは正しいと思い込んでいた。
森川町の「新人会」合宿は理論と実践の修練道場で、教室へ出る暇もなかった。彼の場合は、特に|几帳面《きちようめん》で真面目な性格だったから、指導事項に忠実だった。酒と女の話も出ないストイックな雰囲気の中で、政治活動が重視され、文学への|憧憬《しようけい》は胸に秘めた。
中野重治、林房雄、鹿地亘、久板栄二郎、武田麟太郎、水野成夫、宇都宮徳馬といった連中が「新人会」の中心だった。
その中野重治に初めて会った時、
「ゲエテだって偉くはないさ」と言われ、びっくりした。つまり「雨が降る日はラファエルの名画よりも一足の靴を」という考えを肯定せざるを得ない時代だった。
ある日、亀井が東大の三四郎池のほとりで武田麟太郎と腰をおろして無産者新聞を読んでいると、池の向う側を、おしゃれな学生が通った。ロイド眼鏡をかけ、カラーを高くし、セロをかかえていた。武田がひげだらけのあごをしゃくってその方を見ながら、
「なあ、亀ちゃんよ。革命が起ったら、あんなブルジョワ学生なんか、ニワトリの首をひねるようにぶらさげて|叩《たた》き殺すんだ!」と言った。そのセロを持っていた学生というのは今日出海だった。
亀井はその頃、もう二、三年のうちに革命が起るものと信じていた。
昭和三年、思想犯専門の特高警察が設置され、共産党の大量検挙がはじまった。亀井は、まさか自分のような弱輩がと思っていたが、その年の四月、帰省かたがた札幌まで密書を托されて、指定の家へ行くと、既に警官が待ちかまえていてつかまった。その手紙は三田村四郎から托されたものであった。
以来二年六ケ月、ブタ箱に入れられた。
刑務所を出るとひとまず函館の実家へ帰ったが、やはりいたたまれずに、再び上京した。上京してからも「一つの牢獄から他の牢獄に移ったに過ぎない」ように、重苦しい毎日であった。
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昭和五年十一月、中条百合子と湯浅芳子が三年ぶりにソ連から帰国した。二人はとりあえず本郷の菊富士ホテルに住んだ。そこは百合子の父中条精一郎の住む駒込林町に近い上に、|崖《がけ》の上の洋館で、部屋に|鍵《かぎ》がかかるし、食事も地下の食堂でたべられるようになっていたので、外国生活になれた二人は気に入った。
新館三階の二十三番と二十四番の部屋をとった。八畳のベッドつきの洋間(二十三番)に百合子が入り、六畳の日本間(二十四番)に芳子が入った。その隣りに広津和郎がいた。
その頃は、こんなところにも左翼の風がふきこんでいて、水夫上りの玄関番も、風呂番も『労働新聞』を読んでいた。そういった連中はたちまち百合子、芳子のファンになった。二人とも|颯爽《さつそう》としていて、空を仰いで胸をはって歩くという感じであった。
百合子は菊富士の廊下を、洋服の上に黒ちりめんの紋付の羽織を着て歩いていた。それはカトリックの尼僧のような感じであった。しかしその表情は、尼僧の持っている淋しさやつつましさはみじんもなく、意欲にあふれた晴れやかさ、明るさだった。
ひとにあだ名をつけることの巧い広津が、百合子に早速「重ねだんご」というあだ名をつけた。それから男のように断髪した芳子には「スカートの|兄《あん》ちゃん」というあだ名をつけた。
彼女たちも負けずに、広津のことを、人をほめ出すとのめり込む傾向を冷やかして「広津の勲章」と言った。
食堂で百合子と広津が出会うと、いつも階級闘争の問題で議論になった。百合子の声はよく響いて、まるで演説でもしているように聞えた。広津がにやにやして、柳に風のようにうけながすと、
「あんたは脈がないね。まあせいぜいいい文芸評論でもお書きなさい」と、|軽蔑《けいべつ》したような顔をして去っていった。
翌年の早春、百合子と芳子は菊富士ホテルを出て、牛込中町の道路を下って行く何となく陰気な家を借りて住んだが、秋近く百合子だけがまた菊富士の三階に部屋を借りて住んだ。
「家じゃ仕事が出来ないから」というのが百合子の弁であったが、実は彼女はその頃、宮本顕治と恋愛しており、芳子の目をごまかすために部屋を借りたのであった。この頃百合子は共産党に入党した。
そして十月、宮本顕治との婚約を発表し、翌年の秋正式に結婚し、動坂の新居に移った。それらの事を百合子は芳子にひたかくしにし、ひと言も相談しなかった。芳子は大きな衝撃を受けた。
今度は芳子が一人でまた菊富士に移って来た。三階の広津と一間おいた隣の和室だった。広津と芳子との間の部屋には間宮茂輔が住んでいた。
間宮はその頃文芸戦線からナップ(全日本無産者芸術連盟)に移り、非合法運動に入っていた。
ある日、
「郊外の友だちの家で野犬が多くて困っているんだよ。|威《おど》しに君のピストルを貸してくれないか」と言って、間宮は同宿人で大谷喜久蔵大将の息子の正夫から父の遺愛のピストルを借り出した。
間もなく、川崎第百銀行大森支店に、共産党員の三人組ギャングが押入ったという事件があった。大谷正夫はドキリとした。
間もなく人づてに、間宮が、
「あいつを処分するのにとても困った。大森でボートを借りて出来るだけ遠くへ行って捨てて来たよ」と言ったということを聞いた。
それっきり、間宮は地下にもぐってしまった。
*
昭和四年八月の『改造』に、二つの異色の懸賞入選論文が発表されて注目された。第一席は宮本顕治の「『敗北』の文学」、第二席は小林秀雄の「様々なる意匠」であった。
「生活上の必要から、はじめて文壇に出たいと本気に思つた。丁度『改造』で文芸評論の懸賞募集をしてゐるので……、ひと月ほど田舎へ行つて書き、当時『改造』の編集部にゐた深田久弥に渡した。一等当選については、書く前から一度も疑つてさへみなかつた。発表されたら二等だつたのでびつくりした」(「文藝春秋と私」昭和30・「小林秀雄全集」第九巻所収)
小林は既に鬼才として注目されつつあった時だったので、論壇ではまったく無名の宮本に第一位を奪われたのが、よほど|口惜《くや》しかったのであった。
宮本は当時東大経済学部の学生であった。宮本はその年の三月八日右翼のために刺殺された山本宣治の告別式が、本郷三丁目の「帝大仏教青年会館」で催された時、警官が二重、三重に包囲する中を参列した。しかしまだその頃は、共産党に入党してはいなかった。まだその頃の宮本には文学への憧憬があった。そして芥川の自殺について探究し、その文学を批判した「『敗北』の文学」を『改造』に応募した。
「『改造』が懸賞小説と文芸評論を募集しており、芥川の自殺については、『白亜紀』(註=木原通雄が編集発行した松山高校生の同人雑誌)の終刊号に短いエッセイを書いたが、それを本格的にまとめようと思った。遠縁の人の配慮は有難いことだったが、なるべく早く自力で下宿したかったので、三百円の賞金があればというのが、いま一つの動機だった。当時の一カ月の生活費は三、四十円だった。しかし、芥川全集を買う金もないので『白亜紀』の同人の一人だった小桜秀謙という、名古屋のお寺の息子で、早稲田に通っていた友人に借り、春休みを利用して、愛知県幡豆郡吉田町(現在・吉良町吉田)の海岸の彼の家の小さな別荘で共同自炊しながら“『敗北』の文学”と題した芥川龍之介論を書き上げた」(「私の五十年史」)
こうして三百円の賞金を得た宮本は、その金で松山高校時代からの本屋の借金を全部返済し、遠縁の人の家を出て、菊坂の下宿に入って自立した。
「我々は、如何なる時も芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たなければならない。我々は、我々をたくましくするために、氏の文学の『敗北』的行程を究明して来たのではなかったか。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を、我々は踏み越えて往かなければならない」というのが「『敗北』の文学」の結びであるが、ここには一つの決意がひそんでいた。革命運動への「重大決意」であった。
昭和六年四月、宮本は東大経済学部を卒業し、一カ月後に日本共産党に入党した。母親が、郷里光市光井(当時山口県熊毛郡光井村)の貴族院多額納税議員の娘と結婚させようとしたが、「世間並の立身出世」を拒否した。
当時の共産党は、殆ど壊滅状態にあった。昭和三年の「三・一五事件」、四年の「四・一六事件」で党指導部が大量に検挙された。(両事件で検挙された党員の数は二百八十余名)そういう中で敢然と入党した。
「私の場合は、さして劇的ではないが、時代の流れの中での一つの機縁はありました。“『敗北』の文学”を書いた以後も、ときどき文芸評論を書いていましたが、もっとナマの実践的な運動に入らないと良心に忠実でないような気が絶えずしていました。そこへ郷里の中学の同窓で二年ばかり上だった人(手塚英孝)から入党を勧められたのです。……その人は医者の息子で、とくに友人という関係ではなかったですが、家庭的に貧乏でない彼が党に入ったことに私は驚きました。その彼も一カ月前に入党したばかりだったこともあとで聞きました。
日本共産党は、その少し前、極左冒険主義で打撃を受けて再建過程にありましたが、新聞に相次いで共産党員の逮捕事件が報道されていました。親兄弟のことを考え、果して自分が将来の苦難に耐えられるだろうか、という不安も消すことはできませんでしたが、理性の声としてはこの道しかないと考えていたので決断しました」(「池田大作との対談」昭和50・7・16『毎日新聞』)
苦難の道を選んだのであった。
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昭和五年五月から『婦人公論』に広津和郎の長篇連載小説「女給」がはじまったが、これがちょっとした“事件”をまき起した。
その連載開始にあたって『婦人公論』は、「文壇の大御所、モデルとして登場!」と、でかでかと新聞広告した。「文壇の大御所」と言えば、当時は菊池寛ということになっていた。事実その作中人物吉水薫は菊池寛のことで、なじみの女給小夜子(本名杉田キクエ)とのいきさつを書いたものであった。
これを見て菊池寛は腹を立てた。「自分も作家だから、モデルにされることには苦情はないが、扱い方があまりに露骨で、そのうえ歪曲されている。広告文なども実に大げさで、読者の好奇心をあおり立てるものだ」ということで、中央公論社社長嶋中雄作にあてて、「僕の見た彼女」という題で、「小説を書くなら女の話ばかりを一方的に聞かずに、自分の話をも聞いて書くべきだ」という意味の、広津に対する抗議文を送った。
『婦人公論』は早速その文章を次号に載せたが、その題名を「僕と小夜子との関係」と、勝手に変えた。それが発火点となった。
カンカンに腹を立てた菊池寛は、中央公論社にどなり込んだ。
応対に出た『婦人公論』編集長福山秀賢に向って菊池寛は、かん高い声で、
「あの題名は一体だれの許しを受けて直したんだ」と叫んだ。
「いえ、べつに誰の許しをうけたというわけではありませんが、あのほうが社としては効果的だと思いましたので」
「効果的? 何が効果的だ。キミの方は効果的かも知れんが、ボクにとっては迷惑この上もないことだ。大体無礼じゃないか。執筆者に一言の相談もなく無断で直すなんて著作権侵害だぞ」
「まあまあ、そういきり立たなくてもよろしいでしょう。別に内容を変えたわけではなし、題名が二字や三字違ったって意味に変りはないんですから」
「馬鹿野郎! 意味に変りがない? “僕の見た彼女”と“僕と小夜子との関係”とが変りがないというのか。これほどの違いがわからんようなやつは低能児だ」
「低能児か知らんが、こんなことをそれほどいきり立つ人間もどうかと思うね」
いままで|下手《したて》に出ていた福山も、菊池の低能よばわりに腹をすえかねて、反抗的に出た。それがいけなかった。
「なにッ!」というが早いか、菊池はいきなり福山をポカポカとなぐった。ときならぬ活劇となった。そこへ社長の嶋中がとび込んで来た。菊池は嶋中にも飛び掛ろうとしたが、さわぎにかけつけた編集部員たちに押えられた。その場はそれで一応おさまったが、あとが大騒動になった。
その騒ぎが新聞にデカデカと報道された。「菊池寛が中央公論社に乗り込んで、嶋中社長と対談中、激昂して横にかけていた『婦人公論』の編集長の頭をいきなり撲りつけて引揚げた」という記事である。そして、中央公論社社長はじめ社員一同は菊池寛を暴行罪として告訴することを準備している。一方菊池寛は、中央公論社社長並びに『婦人公論』編集長を名誉|毀損《きそん》で訴えるというのである。
これを見て一番驚いたのは広津和郎であった。広津はそれまで何も知らなかった。そして菊池が怒るのも無理はないと思った。困ったことになったと思った。それにしても「なぐり合い」の直接の原因ではないにしても、|因《もと》は自分の作品から起ったことだから、自分が調停に立つのも変なものだし、第一、菊池は自分に憤慨しているに違いないのだから、調停すると言っても耳を傾けないだろうと思った。
それにこの事件が新聞を賑わしているのに『婦人公論』から広津に対して何の|音沙汰《おとさた》もなかった。広津は一人、思いあぐねた。
ある日の午後、広津は水泳競技を見に行くために神宮外苑を歩いていた。すると向うから偶然、菊池寛がやって来た。悪いところでぶつかったと思ったが、逃げるのもおかしいので、そのまま進んだ。菊池がにやりと笑った、そして、
「君、君は何故調停に出てくれないんだ」と言った。
「君は僕に怒ってるんじゃないのか?」と広津が言うと、
「君にゃ怒りゃしないよ。君は友達じゃないか。僕の怒っているのは中央公論社だよ」
と言った。
「そうか。僕は君が僕に怒っていると思ったので、困ったことになってしまったと思っていたんだが、僕に怒っているんでないのなら、僕は調停に出て行くよ」
「そうしてくれよ。僕も困っているんだ。久米が中央公論社に行ったら、文壇全体を相手にしても争うからお引取り下さい、といわれて帰って来てしまったんだよ。君が出てくれなければ駄目だよ」
翌日、早速、広津は丸ビルの中央公論社へ出かけて行って、嶋中社長と会い、神宮外苑で菊池に会ったことや、菊池の方では早くこのいざこざの片付くことを望んでいることなどを話した。
嶋中はなかなか強硬だった。
「そうですか。しかしこれは執筆者対雑誌編集者の問題なんですよ。雑誌編集者というものが、執筆者に対して、長い間どんなに屈辱的立場にあったかということで、ここの編集局中がいきりたっているんですよ。その点僕も同感なんです。僕は中央公論社の一雇人でしたが、今は社長ですから、『中央公論』『婦人公論』を|潰《つぶ》してでも、執筆者の横暴と闘ってもいいと思っているんです」と言った。
結局、この問題は広津が執拗に調停をつづけ、どうしても中央公論社が引き下らないのなら、『婦人公論』の連載を中止するとまで言ったので、嶋中側もさすがに折れて、菊池と嶋中と双方で、一筆詫状を提出することでようやくケリがついた。
この事件のため、一層人気をあおり、『婦人公論』の追加注文が殺到し、「女給」の連載は好評裡に翌年十月まで続いた。
*
昭和五年四月、太宰治は弘前高校から東大仏文科に入学した。しかしそれまで彼はフランス語のフの字も知らなかったので、とても皆についていけなかった。仏文学者辰野隆の講義にあこがれて入ったのだが、辰野の講義はそのシャレた随筆とは違って、相当な語学力を前提として述べられるものだったから、まったくのチンプンカンプンで、結局、その頃あらゆる大学にごろごろしていた作家志望の文科学生と同じように、講義をあきらめ、いわゆる「不在学生」になった。
ところでその秋、青森の花街の料亭兼|芸妓《げいぎ》置屋玉屋の抱えの紅子が、突然東京に出て来て、太宰治の下宿諏訪町の常盤館にころがり込んで来た。
紅子は本名を小山初代と言って、実家は浅虫温泉で相当の料亭だった。しかし、浅虫より青森の花街の方が数段格が上だったので、彼女は青森の玉屋の芸妓になっていた。
太宰は青森で遊んだ頃、紅子と知り合ったが、とくに好きというほどでもなかった。むしろ紅子の方が積極的だった。太宰の家が津軽でも有数の金持であることを充分意識に入れていた。
太宰は金持の息子だったから、人にたよられるといやな顔ができない性質で、ころがり込んで来た紅子を、そのまま居させ、結局ずるずると内縁の妻のようになった。
太宰はその頃、一番左翼運動に熱中していた頃で、彼のところには、仲間がごろごろしていた。彼が金持の息子であることを知っていたからで、そうなると彼もいやな顔ができず、あり金をはたいて彼等に貢いでいた。そんなところへ紅子がころがり込んで来た。太宰は金がなくなると、紅子の着物を質に入れて金にした。紅子が青森から持ち込んだ晴着類は、たちまち全部質屋の蔵に入った。
太宰はまた、紅子を立派な共産主義者に教育しようとして、読書会に参加させたり、資本論入門とか、唯物史観のABCとかいった本をあてがって読ませようとした。
太宰のよき妻になろうと念願していた紅子は、断髪、洋装のモダンガール姿(それはついこの間まで田舎芸者であった彼女にとって、新鮮で楽しいことだった)で読書会に通い、夜は夜で机に向って本を読もうと努力したが、元来、そういうことに|馴《な》れていない彼女には、どだい無理な話であった。
そこへ、北芳四郎という、太宰の父源右衛門の代から津島家に出入りしていた洋服屋の主人と、中畑慶吉という、やはり津島家出入りの呉服屋の主人が、紅子を引き取りに来た。この二人は長兄文治の指示を受けて、太宰の行状を監視していたのであった。
中畑と北は、文治の意を体して、津軽からかけつけると、太宰が質入れしていた紅子の着物を全部受け出し、身辺を綺麗にした。
太宰はその時、紅子(小山初代)とあとで必ず正式の夫婦にしてもらうという条件で、一旦別れることを承諾し、別れる前夜、はじめて紅子を抱いて寝た。
紅子が去って間もなく、太宰は杉並署に検挙され、手厳しい取調べを受けた。彼はふるえ上った。警察の怖ろしさが骨身にこたえた。かと言って左翼運動の方を清算する勇気もなかった。大学へ入って半年で、精も根もつきはて、打ちのめされ、立ち上る気力さえなくなった。
そんな悩みを忘れようとして酒にひたり、女に|溺《おぼ》れた。
銀座のカフェー・ホリウッドに、淳子という、断髪で目の覚めるような美貌の女給がいた。太宰は淳子に心情を訴えた。貧しい境遇のため|厭世《えんせい》的になっていた淳子は、左翼運動に|挫折《ざせつ》して絶望的になっていた太宰に同情した。
二人は鎌倉の海に投身して情死をはかった。女が死んで、太宰は助かった。
それが太宰の第一回情死行であった。
*
昭和五年五月二十日払暁、詩人生田春月が、瀬戸内海で投身自殺した。
春月が死への旅に東京を出たのは五月十四日であった。丁度その頃出ていた新潮社の「世界文学全集」のために、ズーデルマンの「猫橋」と「静かなる水車」の翻訳を終えた春月は、極度に疲労していたので、家人に、「ちょっと二、三日修善寺温泉にでも行ってくる」と言って出かけた。
実は修善寺へは行かず、その夜は名古屋へ行き、中区富沢町大松旅館に泊り、翌日の午後九時頃、三重県湯の山菰野温泉の旅館松仙閣に女と二人連れで泊った。宿帳には「東京市牛込区岩戸町三三、雑誌記者池田清(三〇)妻とし子(二八)」と記帳した。
女の本当の名前は伴かず子と言って、名古屋市広小路の寿司屋の娘であった。かず子は中京の詩人の集りである『しのびね』の同人で、春月を慕っていて、既に関係があった。
二人は松仙閣へ着くと、酒を三本呑み、床につき、翌朝、散歩しただけで、終日、宿にこもっていた。
十七日にかず子と別れたあと、春月は大阪に出て、堂島ビルホテルにこもり、詩集「象徴の烏賊」に収める最後の詩を書いた。それは「破滅」という題の次のような詩であった。
おれは堕ちる天使である。
白皙の神通力を失つて
翼破れて、喜んでゐる。
もうおれは絶対自由である。
黒く波に身をのまれつつ。
十九日には大阪築港天保山にある花屋旅館に泊ったが、ここにも一人の女性が現われた。それは神戸に住む恵美子という女性で、既に結婚して子供があったが、恵美子はかつて文学少女で、春月の家に弟子として寝泊りしていたことがあった。その頃、春月と恋愛関係に陥り、花世夫人が、|嫉妬《しつと》に狂って、床下まで|這《は》い込んだというひとこまもあった|噂《うわさ》の女であった。
恵美子と会ったあと、春月は、大阪にいた旧友田中幸太郎に会うために、十九日午後六時、今橋の鶴屋へ行った。そこで二人は会食しながら歓談した。その時春月は、酔余、
「春月という色気のある号は四十歳までのものだ」と、|謎《なぞ》のようなことを言った。
別府行の大阪商船菫丸の出帆は午後九時であった。春月がそれに乗ろうというので、田中は港まで見送った。
春月は乗船すると、まず田中幸太郎に次のような遺書を書いた。
「すさまじく流れ去る波を見てゐると、不思議な力強さを感ずる。今の僕の恐怖は、誰かに発見されて、止められることだけである。さらば君よ、永遠の別れだ」
十一時に神戸に着いた時、妻花世あての遺書を書き、その中に使い残りの百円を同封した。花世には十五日名古屋から葉書を出し、十九日、大阪の花屋からも、「時代は変つた。今切り上げるのが、まだしも賢いだらう。この行詰りは、人間業では打開できぬことだ。一日生きのびれば、一日だけ敗北を大きくするばかりだ」という手紙を出していた。また、第一書房社長長谷川巳之吉、新潮社の中根駒十郎、加藤武雄、著書の校正を依頼した石原健生、アナーキストの石川三四郎にもそれぞれ遺書を書いた。
これらの遺書を書き終えると、春月は、深夜の、真暗闇の海に身を投じたのであった。
海中に投身したため、遺体はすぐには見つからなかった。五月二十五日、牛込多聞院で告別式が行われたが、その時は遺体なしであった。この日第一書房から、霊前にささぐる書として「象徴の烏賊」が刊行された。
半月たった六月十一日、遺体が発見された。|荼《だび》にふされて十四日帰京した。そして七月二十六日、郷里米子の法城寺に埋骨された。
*
昭和六年一月十五日、麻布|狸穴《まみあな》の坂の上に、近代的な明るいソヴェート大使館が出来上り、その新築落成式が催された。その日は雲一つない快晴であった。
秋田雨雀が招かれて行くと、門の前で、「ある自由主義の学者」に肩を叩かれた。その学者は「ここにも『五カ年計画』の成果が立派に示されているのではないか」と誇らしげに言った。
その日は、多くの進歩的な大学教授や自由主義思想の持主と言われる人たち、左翼の文学者や社会主義者が集まった。堺枯川、青野季吉、金子洋文、中条百合子、長谷川如是閑、安田徳太郎、湯浅芳子、柳瀬正夢らの顔が見えた。
みんな酒杯をあげ、寄せ書きなどをした。秋田は色紙に、
春の町にソヴエートの船浮びけり
という俳句を書いた。これを契機に「ソヴェート友の会」を作ろうという話が出た。秋田はその設立準備委員の一人に加わった。
その年の六月二十七日、本郷の明治製菓の三階で「ソヴェート友の会」の発会式が盛大に行われた。老政治家蔵原惟郭(惟人の父)、長谷川如是閑、安田徳太郎、山下徳治、茂森泗水、山之内一郎ら八十余名が出席した。
ついで七月七日、「友の会」による大使招待会が行われた。ソヴェート側からの賓客として、トロヤノフスキー大使、タス通信のナギ、代理大使メリニコフ、通商代表代理フレーマン、ガリコウィッチ、ジューコフ、スパルヴィン博士らが招かれた。
スパルヴィン博士の申出で、一切の儀礼的な|挨拶《あいさつ》の交換が廃止されて、みな思い思いに歓談した。
蔵原惟郭とトロヤノフスキー大使とが、英語で次のような会話をかわした。
「四十年前にアメリカでマルクスの文献を読んで人に笑われたことがあった」と蔵原が言うと、
「ロシアでマルクスがはじめて読まれたのも同じ頃でしょう」と、トロヤノフスキー大使が答えた。
秋田はそれを感慨深く聴いていた。
*
宮沢賢治が、かの有名な「雨ニモマケズ」の詩を手帳に書きとめたのは昭和六年十一月のことであった。
賢治は大正十五年八月十六日に「羅須地人協会」を設立し、自宅を開放して農民を集め、農業に必要な科学の基礎や土壌学、肥料学を教え、時にはトルストイやゲーテの話をし、農民芸術や農民詩のことを語って聴かせて来たが、もともと病弱な賢治は、そうした日頃の過労がたたって、昭和三年八月|肋膜《ろくまく》炎を患い、父母の家で|病臥《びようが》の身となった。
しかし賢治は病床にあっても、読書、詩の|推敲《すいこう》、創作、肥料の相談などを休まなかった。昭和六年、ようやく健康をとりもどしたので、東北砕石工場の鈴木東蔵のすすめで、その工場の技師となり、炭酸石灰の製法の改良と販売に従事した。岩手県内は勿論のこと、東北各地を廻って販路拡張に尽し、その年の九月には、東京の問屋筋まで売り込みに出かけた。
しかし、その車中での風邪がもとで宿につくと発熱し床についた。死を覚悟し、
「|今生《こんじよう》で万分の一もつひにお返しできませんでしたご恩はきつと次の生、又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします」と、父母宛に手紙を書いたりした。
九月二十八日、故郷に帰り、そのまま再び病床の人となった。その年の十一月に「雨ニモマケズ」を手帳に書きとめた。
病床で高等数学の勉強をはじめたり、童話「グスコーブドリの伝記」を書いたりした。
病勢は一進一退であったが、昭和八年に入って、すこし身体が動かせるようになったので、詩作をしたり、習字の練習をしたり、また肥料の相談をうけたり、口語詩稿や文語詩稿の浄書をしたりして暮した。
その年の九月十七、十八、十九の三日間は花巻町の三社祭であった。
賢治は祭りが好きだった。|山車《だし》や|鹿《しし》踊りを見るのが好きだった。彼が祭りを好きというのは、何よりも、一年間きまった休みもなくいつも働きつづけている大勢の村の人々が老若男女を問わず祭りの喜びにひたりながら、町の中をぞろぞろ歩いているのを見るのが嬉しいのであって、|敬虔《けいけん》な気持であった。
賢治は十九日の夕、|御神輿《おみこし》を拝むために門口に立った。そこへ一人の村人がやって来て、肥料の相談をしたいと言った。賢治は快くその村人を家に迎え入れた。
賢治は、玄関の板じきのところにきちんと坐って、夜の更けるまで村人と肥料の話をした。
その無理がたたって賢治は翌日急性肺炎を起し、容態が急変した。
二十一日の朝十時半頃であった。二階から透きとおった声で、
「|南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経」という題目が、繰り返し聞えて来た。家族がびっくりして二階に上って行った。
賢治は、|蒼白《そうはく》な顔で、胸の上に手を合わせていた。厳粛そのもののような姿であった。
「何か言っておくことはないか」と、父政次郎が尋ねると、賢治は澄んだ声で、
「国訳の妙法蓮華経を一千部お作り下さい。表紙を朱色にして、お経のうしろには『私の一生は、このお経を、あなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまのお心にふれて無上道にはいるように』と書いて下さい。それから校正は兆向さんにお願いし、法華経は知己に差上げたいのです」と言った。
午後一時半、賢治は自分で自分の身体をオキシフルの綿でふきおわると、ぽたっとその綿を落して息絶えた。三十八歳であった。
万十里稗貫のみかも稲熟れて
み祭三日そらはれわたる
|病 《いたつき》のゆゑにもくちんいのちなり
みのりに棄てばうれしからまし
という歌が絶筆となった。
*
昭和七年一月の『読売新聞』に、直木三十五が「フアシスト宣言」というのを発表した。
「僕は光輝ある読売新聞を通じて、僕が一九三二年より一九三三年まで、フアシストであることを、万国に対して宣言する。『中央公論』新年号〈現代一百人〉の中で『反省しなけりや、お前も駄目だ』と、書いてあつたので、毎日、女のことと金使ひの事とで、反省ばかりしてゐる僕は反省位何でも無い、と、その新聞(この名を書くと、無料広告になるから、書いてやらない)を見ると馬鹿野郎が『階級闘争をかいてない』とか『斉彬を神様扱ひ』にしてゐるとか、そして、僕の『戦争と花』とを、フアシズムだとか――君らが、さういふつもりなら、フアシスト位には、いつでもなつてやる。それで、一二三ん、僕は、一九三二年中の有効期間を以て、左翼に対し、ここに闘争を開始する。さあ出て来い、寄らば斬るぞ。何うだ、怖いだらう、と――万国へ宣言する」
昭和七年一月と言えば、第一次上海事変の起った時である。三月には偽国家満洲国が誕生し、秋には日満議定書が調印され、翌年一月にはヒトラー内閣が成立した。国内的には、三月事件、十月事件などが発生し、浜口首相、井上準之助、団磨が襲われ、五・一五事件が起った。
直木は売り言葉に買い言葉で、冗談めかしてこれを書いたのであろうが、読者側はそうはとらなかった。予想外の大きな波紋をひきおこした。
上海事変が起ると、直木は現地へ飛んで戦禍のあとを視察し、「上海と戦争」のルポを書いたり、荒木陸相と面会して時局を語ったり、松崎少佐らが主となって組織した第三クラブの懇談会に出席して、参謀本部の根本中佐、武藤少佐、調査部の石井少佐らと会合し、それが母体となって生れた作家と軍人の親睦機関「五日会」のメンバーになったり、行動の上でもそれを示した。
「今、人々が求めてゐる物は一つの力、一人の英雄である。それが××(革命?)によつてでもよし、合法的でもいいし、とにかく、現状を打破して、この息づまるやうな曇りから救つてほしいのだ。政治を民衆の手に入れたら、どんないい社会になるかと考へてゐたら、さう宣伝されてゐたら、今の議会政治といふ呆れたものになつてしまつた。誰が、普選になつてから、政治家および政治がよくなつたといふか? それで、人々は、心の隅に、独裁政治でもいいえらい人が出るなら、と考へてゐる。フアシズム発生の一原因はここにある。理論的に完全でなくても、現状打破の力だけでいいのだ」とも書いた。
直木のこのような言動に対して、案の定、きびしい批判がよせられた。その中で、古くからの友人である左翼の青野季吉だけが理解を示した。
「(直木は)性格的にはフアツシヨ的だつたと言へるが、決して意識的にはフアツシヨではなかつた。……直木の内部にはじつに多くの人間がゐて、そのどれかが時とすると、ひどく頭を|擡《もた》げるので、直木を知らぬ人は、それを直木と思つてしまふが、直木は決してそんな単純な人間ではなかつた」(「直本三十五の友情」)
青野の訳したロープシンの「蒼ざめたる馬」を出版したのも直木だった。青野がサラリーマン生活を清算して社会主義運動に飛び込む決心をした時、「君としてはそれが本当だろう」と認めたのも直木だった。非合法に青野が山川均を訪ねなければならなかった時、青野をかくまい、身なりをととのえてやったのも直木であった。そして青野が『文芸戦線』を固守して戦っていた時、直木だけは青野を見捨てなかった。それらのことを思いめぐらしながら、青野は直木の行動を一面的にとらえる誤りを指摘したのであった。
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昭和五年の秋、自ら「乞食坊主」と称する放浪の俳人種田山頭火は、九州で漂泊の旅をつづけていた。
九月十四日、球磨川沿いの|淋《さび》しい山路を歩いていた。だんだん日が暮れてきた。頭の上の梢で|蜩 《ひぐらし》がないた。
かなかなないてひとりである
という俳句が浮んだ。
その淋しい路のほとりに一軒家があった。川から水を分けて、小さい一筋の水がその一軒家の方へ流れていた。「ここにも人間の生活があるな」と思った。
一すじの水ひき一つの家の秋
という句が浮んだ。
その川原で、山頭火は、これまで(昭和五年九月まで)の日記を焼きすてた。理由はただ旅の荷物になるということだけらしかった。
焼き捨てて日記の灰のこれだけか
相当な冊数の日記を焼いて、その灰がたったこれだけか、という感慨であった。
その後の日記は、一冊のノートが一杯になると、友人の木村緑平に送って保管を頼んだ。
九月十七日、宮崎県の京町に入った。ここには熱い温泉があった。|藷焼酎《いもじようちゆう》があった。どちらも山頭火の大好物であった。その上に豆腐があった。豆腐屋が木賃宿を兼ねていたのだ。温泉に入って、豆腐で焼酎というわけだった。旅の心を温められた。
山頭火は大きな|編笠《あみがさ》をかぶった禅僧姿をしていた。その姿が珍しいので野良の子供が沢山うしろからついて来た。山頭火は、そんなことはおかまいなしに、一軒一軒、お経を読んで|托鉢《たくはつ》した。一軒の家からしわだらけの老婆が出て来て、報謝してくれた。
「今日は|行乞《ぎようこつ》中悲しかつた。ある家で老婆がよちよち出て来て、報謝して下さつたが、その婆さんを見て、思はず私の祖母を思ひ出し、泣きたくなつた。
不幸だつたといふよりも、不幸そのものだつた。――彼女の高恩に対して、私は何を報ひたか、何も報ひなかつた。ただ彼女を苦しめ、悩ましただけではなかつたか、九十一歳の長命は、不幸が長びいたにすぎなかつたのだ」と、その日の日記に書いた。
行乞の旅をしていると、路上でいろいろなことが起った。一番多いのは犬にほえられることであった。しかし腹の出来た山頭火は、犬にほえられても、そしらぬ顔で読経をつづけ、悠然と托鉢した。犬の方がひょうしぬけして、しまいには|尻尾《しつぽ》をたれて行ってしまうことが多かった。
次の日山頭火は、町の中のカフェーの前で托鉢をした。女給が二、三人ふざけていて、てんでとり合ってくれなかった。いつもならばすぐあきらめて立ち去るのだが、その日は何となく茶目っ気を出して、根気くらべでもする気で、ユーモラスな調子で観音経を読みつづけた。長いお経の半分ばかりを読んだ時、女給の中の一人が出て来て、托鉢に一銭銅貨を投げ入れようとした。山頭火は、「ありがとう」と言って、しかしそれは受けないで、「もういただいたも同じであるから、それを君にチップとしてあげよう」と言った。すると女は笑った。山頭火も笑った。
「少々嫌味だけれど、ナンセンスの一シーンとしては、どうであらう」と、日記に書き入れた。
またしばらく歩いて行くと、お寺|詣《まい》りのお婆さんが、行きずりに二銭くれた。よく見るとその一つは黒くすすけた五銭白銅であった。六銭もらっては多すぎると思い、老婆を呼びとめて、五銭返した。すると老婆は非常に喜んで、それと引きかえに|更《あらた》めて一銭銅貨を出した。
宮崎から海岸に沿って、行乞しながら、三十日には青島を見物した。|びろう《ヽヽヽ》樹や浜|おもと《ヽヽヽ》など、熱帯植物を見て、水の好きな山頭火は、青島神社境内の「島の井戸」の水を汲んで味わった。それは塩気らしいものが感じられずとてもいい水だった。
道で、|草鞋《わらじ》を買った。
「今日求めた草鞋はよかつた。草鞋がしつくりと足についた気分は、私のやうに旅人のみが知るうれしさである。芭蕉は旅のねがひとして、よい宿と、よい草鞋をあげた。それは今も昔も変らない」と日記に書いた。
そして、
波音のたえずしてふるさと遠し
波音遠くなり近くなり余命いくばくぞ
の二句を書きそえた。
やはり淋しい旅であった。
歩きつかれて、伊比井という村へつき、やっと小さな宿に入ったが、その宿には風呂がなかった。疲れて宿にたどりついて、風呂がないのは淋しいことであった。山頭火のような孤独な男には、風呂が一番のなぐさみであった。何となく気がめいって、いつものように藷焼酎を三杯ひっかけ、ぐっすりと眠った。
翌朝、宿で出してくれた漬菜の新漬はうまかった。初秋の味で心身にふれた。
「日本人として漬物と味噌汁と、そして、豆腐のうまさを味はひ得ないものは、何といふ不幸であらう」と日記に書いた。
十月二日、鵜戸神社に参拝した。しんとした老杉や|楠《くす》の木の間を通って、|浄《きよ》らかな砂をふんで参道を降り、海岸の|岩窟《がんくつ》内にある社殿には、海原から、太古のままに大波が寄せていた
拝礼をすませてから、浜田屋という木賃宿に泊った。静かなよい宿だったので、俳句の友人に絵葉書を出した。
次の日は|飫肥《おび》の町、次の日は油津、そして志布志、岸川、末吉町と山頭火の九州行乞の旅は、昭和七年までつづいた。
*
昭和七年三月二十四日、梶井基次郎が、簡素な作品集「|檸檬《れもん》」を残して三十一歳の若さで死んでいった。
「僕は最近健康を害してゐます。先月二十三、四日福知山へ中谷孝雄を訪ねてゆき、あちらは雪が降つたくらひの寒さで、ひどく肺をやられて帰つて来ました。(中略)福知山を立つとき汽車の時間が少し切迫してゐたので切符を買ふのもせかせかと挙動しました。しかしそのときにもう呼吸困難の予感がありました。――改札口ヘ出る。すると切符切りが『多分乗れるだらう、汽車はもう来てゐる』と云ひました。僕は四分程時間を間違つてゐたのです。しかしのろのろ歩いて間に合へば合つてやらうといふ考へで実にのろのろ歩きました。そしてやはりのろのろとブリツヂの階段をのぼつたのですが、二度程息をついだにもかかわらず、たうとう上へ上がつたところで猛烈な呼吸困難に襲はれました。僕は持つてゐる本も投げ棄てる積りでした。汽車に間に合ふことは勿論放棄しました。そして一生懸命魚のやうにあへぎました。向ふから人がやつて来る。飛びつき度い。それを耐へる。一思ひに打倒れてしまひ度い。それを耐へる。そして一生懸命ハアハアハアです。するとだいぶをさまつて来ました。これは助かつたと思ひかけてゐると、ブリツヂの下を機関車が通りました。パツと硫黄の匂ひのする煤煙をぶつかけられたときの当惑、しかしたうとうそれにも耐へました。……」
これは昭和四年十二月十八日、梶井が友人近藤直人に宛てた手紙のひとこまである。福知山連隊に幹部候補生として入隊していた中谷孝雄を訪ねた時のことである。
この頃から梶井は、大分身体に衰弱をきたしはじめていた。
にも|拘《かか》わらず、それから十日たった十二月二日には、神戸に宇野千代を訪ねた。
十二月十三日には、淀野隆三が、伏見に住む画家清水蓼作を連れて、大阪の梶井のところへやって来た。話がつきず、結局梶井を連れ出して、淀野は伏見の自分の家へ行った。
風呂に入り、深夜三時頃まで話し込んだ。翌日午後、淀野と一緒に清水の家に行こうということになり、自動車を呼んでもらって乗ったが、道が悪いのでひどく揺れ、そのためにまた呼吸困難に陥った。自動車をゆっくり走らせてもらい、薬屋でアダリンを買って清水の家へ行ったが、もう話をする元気もなかった。その夜アダリンを呑んでやすみ、翌日|午《ひる》過ぎまで眠って大分よくなったので、ゆっくり歩いて、帰途についた。
そんなことがかさなったのがいけなかった。
それ以来、梶井は、寝たり起きたりであった。三十七度五分台の熱がつづいた。
以来梶井は、|憑《つ》かれたように、作品を書きはじめた。「愛撫」「闇の絵巻」「交尾」「のんきな患者」等をあえぎあえぎ書きつづけた。
はじめての作品集「檸檬」が刊行されたのは、昭和六年五月であったが、この頃から、痔をやみ、腎臓をやみ、一層衰弱がはげしくなった。
そして、昭和七年三月中旬から、危篤状態に陥り、二十四日午前二時永眠したのであった。
翌二十五日、大阪の自宅で告別式が行われた。
それから一カ月程たって、東京麻布永坂の「更科蕎麦」で、淀野隆三の肝いりで、東京の友人たちの追悼式が催された。
その時の模様を、浅見淵は、「昭和文壇側面史」に、次のように書いている。
「古風な大座敷に集った参会者は、今日のこの種類のパーティと比較すると、お話にならぬほど少数なものだった。が、その中に、河上徹太郎や伊藤整が混っていて、ぼくはこの時はじめてこの二人に接したのだが、やがて両君のテーブル・スピーチに接すると、新時代来たるという、新鮮な感じがしみじみとしたものだった。河上徹太郎は、羽織と対になった上等の久留米絣を書生っぽらしく着込んでいたが、梶井文学の微妙な点を短い言葉で理知的に突いて剰すところがなかった。そして、いかにも悠然としていた。いっぽう、伊藤整は、針金のような髪の毛をさか立てていて、まず野性的な風貌に驚かされたが、発言もなかなか戦闘的で、梶井文学を一応肯定しながら、伊藤君自身が不満と思うところを、ズカズカ遠慮なく放言していた。なるほど北海道出身だけあると思い、何か圧倒されるようなものを感じた」
昭和九年には、永井龍男の兄が経営していた六峰書房から、上下二巻の「梶井基次郎全集」が刊行され、三回忌を兼ねた出版記念会が催された。その時初めて小林秀雄が出席し含蓄と機智に富んだスピーチをするのを聞いて、浅見はますます純文学の前途の洋々たるものを感じた。
*
昭和六年の秋のある日、その頃十七歳で、府立三中から第一高等学校理科甲類(天文学)に入ったばかりの立原道造は、初めて、向島小梅町の堀辰雄の家を訪れた。
道造は六歳の時に父を失ってから母の|庇護《ひご》のもとに育ったが、小学校の頃から『子供の科学』を愛読し、中学に入ると天文学に夢中になり、天体望遠鏡を買ってもらって物干台に置いて宇宙観測にふけった。
また中学時代から|夥 《おびただ》しいパステル画を描き、感受性にとんだ美しい風景画を主に描いた。やはり“夢みる少年”だったのである。
そして高校へ入るとすぐに中学の先輩の堀辰雄を訪ねた。堀辰雄と道造との間には丁度十歳のへだたりがあったが、何か心にかようものがあり、以来、生涯(それは二十五年の短い生涯であったが)を通じての最良の師であり良き兄でもあった。
中学時代から、石川木、木下杢太郎、北原白秋の短歌を愛読し、その|模倣《もほう》のような短歌をつくっていたが、高校に入り、堀辰雄と知り合ってから、詩にかわっていった。
十九歳の時、十篇の詩を収めた手づくりの詩集「日曜日」をつくった。(それは今も立原家に保存されている)もう一つ、その年の暮に手製の詩集「散歩詩集」を編んでいる。
昭和九年、東京帝大建築科に入った。天文学志望を捨てて建築科に学ぶ決心をしたのは、病弱のため、先輩たちが天文学にはむかないと言ったからである、と言われているが、彼自身は「詩ではくらせないから建築をやる。建築なら詩と両立する」と言ったという。父が早く死んでいるので、家計のことを考えていたようだ。天文学では、すぐには生活のたしにならない時代だった。
この年の八月、堀辰雄のすすめで、はじめて信濃追分、軽井沢を旅し、その不思議な魅力にとりつかれた。
「なかでも古い宿場追分の廃滅に近い宿場風景やら、辺り一帯の不毛の高原、歩んでも歩んでも尽きない落葉松の林や、どこまでもつづく草原の小径を辿っていった果てが何処ともなく消えてしまっていて帰るよりほかないといった、そんな荒寥の自然世界は、乾涸びた都邑の生活のなかから旅した詩人を、烈しく魅惑する。一切の生成と氓びの姿があらわで、無縫の起伏にみちた風景こそ、線と面との織りなすとげとげしい立体感によって築かれた都会風景のなかに日常をくらす詩人を、強く誘ったのだ」(田中清光「立原道造の生涯と作品」)
初めて信濃追分を訪れた時、道造はひとりの少女とめぐりあった。
「鮎子とよばれるその少女は、追分のさる旧家のひとで、東京へいっていてたまたま帰郷していたのだといわれ、彼の作品のなかにやがて『ゆふすげびと』と名づけられたり、さまざまな姿をとって出現してくる。ついでにふれておくとエリーザベトや十字架の少女は、現実ではこのひとと別人であったが、道造の内部で夢見られつくられた存在として作品に映るときは、実はともにひとつの姿を追う影にほかならないのだ。そして『ゆふすげびと』のよび名には、それらの影が重なりあったイマアジュも含まれている。道でふとすれちがった少女にでもみずからの夢想を仮託する道造、むしろこのような心理操作のうえに立って、彼の青春物語は築かれたことを知るべきであろう。とまれその夏の日日を道造は、『昔、僕が夢を美しいと信じた頃、夢より美しいものは世になかった。しかし夢よりも美しいものが今僕をかこんでいるといったら』と手帖に記している」(同前)
しかし、道造の場合、少女との出会いは、いつもメルヘンのようなものであった。追分の少女の場合も、淡く、道造の心の中に育まれていっただけで、二年後に別れている。
その後に会ったもうひとりの少女の場合も、愛というよりは、メルヘンとして終っている。
「僕にメルヘンを贈つてくれた少女が、この月ずゑに Heiraten する。追分に来るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を軽井沢ですごした。別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を贈つてくれた。そして、一生涯もうお会ひすることも出来ないだらうと言つた。これが夏の出来事のプレリユードだつた」(昭11・7・11猪野謙二宛書簡)
*
昭和八年の初夏、東京帝国大学経済学部の学生で二十二歳の一雄は、坪井興、内田辰次、水田三郎という三人の「悪い仲間」と、上落合の宏壮な家を借りて住んだ。土地三百坪、建物は四十坪で|瀟洒《しようしや》な赤瓦の文化住宅であった。家賃は四十五円であった。
の学資仕送りが三十円、内田が七十円、他の二人は郷里から一銭の仕送りもなかった。そのくせ四十五円の家賃の家に入ったのである。無茶苦茶であった。
彼等の共同生活はワリ勘ではなく、あるものが出すというやり方だった。しかし彼等は平然たるものであった。コウノトリが、何かを口にくわえて運んで来るように、どこからか金が来るものと心得ていた。
坪井は『婦人と美容』とかいうあやしげな雑誌のアルバイトをやっていた。水田だけがのんびりと居候であった。
誰かのところに金が入ると、全員そろって買出しに行き、魚、野菜、肉などをしこたま買い込み、勿論酒も買い、盛大な|夕餉《ゆうげ》の酒宴となる。
宴たけなわになると、きまって、「どん底」の「夜でも昼でも、|牢屋《ろうや》は暗い/夜昼鬼|奴《め》があああああ/窓から|覗《のぞ》く――」という唄をうたうのがきまりであった。
大学は籍を置いているだけ、殆ど出席するものはなかった。
ある日水田のところへ、郷里から珍しく小荷物が届いた。それは、郷里名産のスッポンであった。
「おまえ、スッポンの料理出来るか?」
と、皆が言うと、水田は、
「出来ん」と答えた。水田が出来なければ誰も出来ない。途方にくれた。
結局、スッポンは、三百坪の庭にある池にはなたれた。
「もう少し、大きくなってから、くらうべい」と、みんなほくそえんだ。(しかしそれはいつのまにか逃げてしまった)
たちまち金に窮した。何とか金をつくらなければならなかった。そうそうコウノトリはやって来はしない。
と水田は、慶応の学生たちの教科書を翻訳して虎の巻を作り、三田のプリント屋に売るという仕事をはじめた。そのプリントのご|厄介《やつかい》になったのが、南川潤や丸岡明であった。
しかし、そんなものの収入はたかが知れていた。
ある日、菅野大信という、やはり九州産の豪傑があらわれた。彼はたちに輪をかけた大ものであった。いっさい物に動じない男であった。
ある日、その男が、
「さん、雑誌ば始めまっしょうや」と言った。
「何の雑誌?」
「小説ですやなあ、文学ですやなあ」
はそれまで小説本は読んでいたが、自分で小説を書く気などみじんもなかった。
「誰が書くの」
「あんたや、なあに、あんた。小説チ云う|恰好《かつこう》が初めからきまっとりますもんか。生きとるごと、書けばよござっしょう。自分の命で、原稿紙ばヌタクルとですたい」
はこの菅野の言葉に、催眠術にかけられたように、ふらふらとその気になった。
は十日間ばかり郷里の柳川に帰って、一気|呵成《かせい》に「此家の性格」という短篇を書き上げた。それが菅野の編集する『新人』という同人雑誌に載った。
それは、深刻な性格の家系を取り扱った、なかなかコクのある作品で、評判になった。一雄の方がむしろ驚いた。それこそ正真正銘“筆下ろし”の処女作であった。
しかし、それは金にはならなかった。
とどのつまり、四人は、わずか半年で、家賃が払えなくなり、“大邸宅”をおん出た。
そして次に入ったのは、五、六丁先の、家賃が一軒でも十五円、二軒でも十五円という、|摩訶《まか》不思議な二階建の二軒長屋であった。その家は、一年ほど前に心中があってから、誰も住みつく者がないというのであった。しかし彼等には、心中など|屁《へ》でもなかった。前の三分の一の家賃で二軒借りられるのだから、オンの字であった。
心中邸の新生活は、前の広すぎる文化住宅の生活よりはるかに快適であった。は二階の心中の部屋に陣取り、ドッカと机をすえて、大いに勇猛心をふるいたたせた。
ある日、は仲間と近くの「ワゴン」という喫茶店へ呑みに行った。喫茶店などというと上等に聞えるが、実は物置を改造して、周囲と|硝子《ガラス》|戸《ど》のふちをペンキで塗り立てただけの、掘立小屋のようなものであった。そこではウイスキーを呑ませたが、一杯十銭のあやしげなウイスキーであった。手廻しのボロ蓄音機があって、ラケル・メレーか何かの甘いシャンソンを繰り返し繰り返しかけていた。そこの喫茶店のマダムは、萩原朔太郎の別れた夫人、つまり、萩原葉子の母親いね子であった。
ある夜、相変らずが、内田や水田らと十銭のウイスキーを呑んでいると、眼鏡をかけた和服姿の男が入って来て、
「失礼ですが、ここにさんと言う人居ますか」と言った。
「僕がです」
「そう? あんたが一雄?」
男はの顔を穴があくほど見つめていたが、やがてウイスキーを手にしながら、猛烈な勢いで、例のの小説をほめはじめた。はあっけにとられたが、だんだん身体がほてって来た。ほめられるのは悪くないものだ。
その男は古谷綱武であった。古谷は立て板に水を流すようにしゃべりまくり、あげくのはては、自分の家に是非来るようにと、を抱きかかえるように連れ出した。
家でも古谷はを大歓迎し、(古谷の家は大金持だった)次から次へと酒を出し、二人は夜明けまで語り合った。
古谷の口からは、佐藤春夫とか、滝井孝作とか、川端康成とか、横光利一とか、堀辰雄とか、小林秀雄とか、河上徹太郎とか――そういう人たちの名が、まるで隣りに住んでいる人のように、気易く、口をついて出て来た。文壇のことをまだあまり知らなかった一雄は、ただ驚歎して聞いていた。
そして、つづいて、尾崎一雄、中谷孝雄、外村繁、中村地平、木山捷平、浅見淵、太宰治等の名と作品を上げ、
「一度は、この人達に会って見なさいよ」
と言った。
その夜、は古谷家に泊ったが、翌日になると、古谷は、
「さあ、これから尾崎のところへ行きましょう」と言った。いやもおうもなかった。
尾崎一雄の家は穴八幡の下あたりにあった。おそろしくみすぼらしい家だった。
「尾崎さん、尾崎さん」と、古谷が大声で外から呼ぶと、
「だれ? あ、古谷君?」
と、しゃがれ声がかえって来た。そして、ガラスの破れた格子戸をすこしあけて首だけ出した尾崎が、
「あ、連れがあるんだね? じゃ、応接間の方で待っててくれない?」と言った。
このちっぽけな家の、どこに応接間があるのかと思っていると、古谷はつかつか歩き出した。そして穴八幡の境内に入って行った。
尾崎家の応接間とは、穴八幡の境内の石で出来た腰掛けのあるところであった。
やがて尾崎が来ると、せきこむように古谷が、雑誌『新人』を出して、の小説をその場で読めと言った。
尾崎はバットを横っちょにくわえて読みはじめたが、やがて読み終ると、古谷がまちかねたように、
「どう? 素晴らしいだろう?」と言った。
「うん、いい」と尾崎は言ってから、の方を向いて、
「滝井さんのもの、読んだことある?」と聞いた。
「読みました。尊敬しています」
「何だか、そんな気がしたもんだから。じゃ滝井さんに、雑誌送って読んでもらおうか――」と言った。
どことなく、作風に滝井孝作の影響があったからであった。
こうして一雄は、文学の世界に、半ば迷い込んでいった。
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昭和八年二月二十日は薄曇りの寒い日であった。午前中に渋谷区羽沢のかくれ家を出た小林多喜二は、共産青年同盟の文化団体内のフラクションである今村恒夫と街頭連絡するために、市電の赤坂山王下で下車し、福吉町の方へぶらぶら歩いて行った。例によって|絣《かすり》の着物と羽織を着て黒のトンビをひっかけ、グレイのソフト帽に、変装用のロイド眼鏡をかけていた。このあたりは赤坂花柳街の裏通りで、|小粋《こいき》な芸者屋が軒を並べており、昼間はひっそりとして、街頭連絡には恰好の場所であった。現に多喜二は前々日にも作家同盟の佐多稲子(当時窪川稲子)とここで会っていた。
多喜二は今村と会ってから、共産青年同盟の責任者である三船留吉と会うことになっていた。三船は前から多喜二と会って三人でゆっくりと話し合いたいと今村に申し込んでいた。
約束の時間に、多喜二は今村に案内されて三船の待っている近くの飲食店に入った。ところがそこに待っていたのは三船ではなく、築地署の特高刑事たちであった。実は、三船留吉というのは、当時共産党内に潜入していた秘密警察のスパイだったのである。
二人は懸命に逃げた。細い抜け道を通って電車通りの方へ突っ走った。走りながら多喜二はトンビをぬぎ捨てた。
「泥棒! 泥棒!」と叫びながら、特高たちが追跡した。
その声を聞いて、その辺にあったガレッジから二、三人の若い男がとび出して来た。|溜池《ためいけ》の電車通りまで逃げのびた多喜二は、そこでとうとう彼らに捕り押えられてしまった。
多喜二より三つ程若い元気な今村は相当遠くまで逃げたが、自転車で追いかけて来た特高に体当りされて、倒れたすきに逮捕された。二人はすぐに手錠をかけられ、自動車に押しこまれて築地署にはこばれた。
多喜二は初めのうちは頑強に自分の名前を言わなかったが、顔見知りの水谷特高主任に写真と人相書をつきつけられて、止むを得ず名前だけ白状した。やがて警視庁から特高警部の中川成夫、|拷問《ごうもん》係の須田巡査部長、山口巡査がかけつけて来た。この三人は前々から左翼的文化運動弾圧のエキスパートだった。とくに須田と山口は筋骨たくましい巨漢で、ブルドッグのような|獰猛《どうもう》な面がまえをしていた。
「おい小林、長いこと手こずらせやがったな。今日は思いきってやってやるぞ!」二人は手ぐすねひいて多喜二をにらみつけた。
こうして多喜二は、拷問室に入れられた。
その拷問は、酸鼻をきわめたものであった。残虐の暴力は、多喜二を何度も|悶絶《もんぜつ》させ、生き返らせ、窒息させ、また生き返らせた。そのたびに、肉のきしむひびき、骨の折れる音、うめき声、拷問具の音、悪鬼共の叫び声、荒い息づかいが、地獄からの物音のようにひびきわたった。それは三時間余もつづいた。それでも多喜二は口を割らなかった。
やがて多喜二は、二、三人の特高に手とり足とりかつがれて、第三房へ「豚の臓物のように」ほうりこまれた。
そこには十二、三人の男がいたが、みんなその無惨な多喜二の姿を見てハッと息をのんだ。
多喜二は虫の息で身もだえしながら、「苦しい……ああ苦しい……息が出来ない」と、かすかに|呻《うめ》いた。同房者の一人である岩郷は、やはりスパイ三船の手引きで捕えられた左翼の同志だったが、この虫の息の男が有名な小林多喜二とは知らなかった。ただ細くしなやかな指にペンダコがあるのを見て文章を書く人だと察しながら、胸をひろげてやったり、手を握ってやったりして懸命に介抱した。
やがて多喜二は腹痛に堪えかね、便所へ行きたいと言った。岩郷は看守にそう言って、仲間と二人でかついで行った。多喜二が便所へ入ったとたん、ギャーと腹からしぼり出すような叫び声が起った。岩郷がとび込んでみると、便器の中は血だらけで、外にも点々と血しぶきがあった。ひどい腸出血であった。
岩郷たちは看守をうながして、多喜二を保護室にかつぎ込み、毛布の上に寝かせて、着物のすそをはだけて見て、あッ! と叫んだ。のぞき込んだ看守も「おう……」と呻いた。それはもう「人の体」ではなかった。丁度パンツにかくれる部分の下腹部から|大腿《だいたい》部にかけて、ベッタリと塗りつぶしたように、なんとも言えない陰惨な渋色に変色していた。まるで渋色のパンツをはいているように見えたが、実際は何もはいていなかった。陰茎も|睾丸《こうがん》も同じ色にふくれあがり、皮がむけて黒い血がこびりついていた。しかもその渋色の皮膚のあちこちに、鋭利なキリを突きたてた傷あとが二十カ所もあって、噴き出した血が点々と青黒くへばりついていた。
岩郷たちは眼をおおった。
警察は容態の急変にあわてて、築地署の裏の前田病院にかつぎ込んだ。しかし多喜二は間もなく絶命した。午後七時四十五分であった。
翌日の午後三時頃であった。突然隣りの主婦が縁側から、
「小林さん、大変ですよ! 多喜二さんが警察で死んだんですって!」と叫んだ。多喜二の母親のセキは|吃驚《びつくり》して家をとび出し、隣りへ行って聞いてみると、今、ラジオの放送で、小林多喜二が築地署で心臓マヒのために急死したと言ったというのである。
セキは|生憎《あいにく》、家に誰も頼りになるものがいないので、丁度田舎から遊びに来ていた二歳の孫をねんねこでおぶって、雨戸を閉め、築地署へかけつけた。
しかし警察ではセキを二階の特高室へ入れたきり、近くの前田病院にあるという多喜二の|遺骸《いがい》になかなか会わしてくれず、まるでセキを罪人のようにいろいろ取調べたり、「さっき死体引取りの照会状を本籍地の小樽の方へ出しておいた」などと冷酷に言った。
その頃にはもう各新聞の夕刊に多喜二の死が大きく報じられていた。それを見て驚いた同志や知人たちが次々に前田病院にかけつけたが、病院は厳重に守られていて、一歩も中へ入れなかった。
セキが特高室に来ているということを知って、皆そこへ押しかけたが、そこもドアに鍵がかけられ入れなかった。江口渙、大宅壮一、佐々木孝丸、貴司山治、中野重治夫人の原泉子、その他左翼のシンパである医師の安田徳太郎や弁護士が廊下にひしめき、各社の記者や写真班も集まって来た。
九時頃になって、ようやくセキが特高たちにかこまれて部屋から出て来た。そのあとについて皆は裏門から前田病院へ行ったが、ここでも母親のセキしか入ることを許されなかった。
三、四十分ほどして寝台自動車が来ると、白布に包まれた多喜二の遺体が担架ではこび出され、セキと一緒に寝台車に乗せられた。江口たちはタクシーをひろって後を追った。
その頃、阿佐ケ谷の家にも、壺井栄、山田清三郎、立野信之、千田是也、鹿地亘、上野壮夫、窪川稲子、宮本百合子ら、作家、美術家、演劇同盟などの同志友人たちが数十人もかけつけ、納棺その他の準備をしながら遺体を待っていた。
十時すぎ、|屍 《しかばね》となった多喜二が、一年ぶりでわが家へ帰って来た。遺体は多喜二がかつて使っていた夜具の上に静かに横たえられた。あたりはシーンと静まり返り、歯をかみしぼるような|啜《すす》り泣きの声があちこちから起った。
拷問による虐殺――誰もそれを疑うものはなかったが、いまその確証が横たえられた!
既に硬直して土色に|蒼《あお》ざめた顔は、極度の苦痛に堪えたため、筋肉がよじれひきつって、まるで別人のようなすさまじい形相をしていた。その左の|こめかみ《ヽヽヽヽ》が直径五センチ位皮が丸くはぎとられ、肉の露出した傷口にドス黒い|血痕《けつこん》がこびりついていた。|頬《ほお》には鋭いキリを突きさしたような傷あとがいくつもあり、|顎《あご》の下側は|釘《くぎ》ぬきでえぐられたようにささくれだって黒い血が干からびてついていた。
「あ、あ、あ、いたましい、いたましい……この傷が命とりだったんじゃなかろうか……」
年老いた母セキは、骨ばった手でわが子のこめかみの傷をなでながら、その顔に白髪の顔をおし当てた。
「顔ばかりではないでしょう。ともかく全身を調べて見ましょう」
医師の安田がそう言って、セキと二人で多喜二の着物を脱がせた。
着物を脱がせると、ラクダ色のシャツとズボン下をつけていた。買ったばかりの真新しいメリヤスで、それは拷問のあとを隠すために血だらけの下着にかえて警察で着せたものであった。首と両手首、足首には、歯型のように肉にくいこんだ縄目のあとが暗紫色にくっきり刻まれていた。それは天井の|梁《はり》につりさげられて拷問を受けたあとに違いなかった。
シャツからズボン下を脱がされた瞬間、セキは「うわーッ」と悲痛な叫び声を上げた。まわりの人たちも思わず、あッと息を呑んだ。
それは全く正視するに堪えない残忍極まる|傷痕《きずあと》であった。満座の人々は怒りに五体をふるわせた。
「この変色は弓の折れか|棍棒《こんぼう》でめった打ちになぐりつけた内出血のあとです。この突き傷は畳屋の使う針のようなものを突きさして|抉《えぐ》ったものでしょう」と安田医師が沈痛な面持で言うと、セキは喪心したように多喜二の死体にとりすがって、
「ああっ、いたましい、いたましい……よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しに出来たもんだ……おおっ、兄ちゃ、どこがせつなかった? どこが、どこが、せつなかった?」と、体中の傷痕をなでさすりながら声を上げて|慟哭《どうこく》した。部屋中に|嗚咽《おえつ》の声が満ちた。
やがて、後日の証拠にと、あらゆる角度から写真がとられ、千田是也や二、三人がデスマスクを取った。
深い悲しみと憤りの中に、通夜の夜はしらじらと明けていった。小林家のささやかな前庭には雪もよいの|暗澹《あんたん》たる空を背景に、梅の花がちらほらとほころびかけていた。
見ると、その梅の木のかげにも、生垣のうしろにも、帽子の顎ひもをおろし、|外套《がいとう》の|襟《えり》を立てた警官や私服の刑事たちが何人も立っていて、朝早くからつめかけて来た弔問客の動静を冷酷に見つめていた。
夜を明かした同志たちは、前日からの相談通り、遺体を解剖に附して死因をはっきりと確かめ、下手人を告発する方針で、早速、安田医師と佐々木孝丸が電話で各大学の病院へ交渉することになった。
やがて、佐々木孝丸がブリブリ怒って帰って来た。
「畜生! 警視庁の|奴《やつ》、もうすっかり手を廻しやがった。帝大病院も慶応も順天堂もみんな駄目で、やっと慈恵大病院が引き受けてくれた。勿論名前は言わずにだ」
やがて遺体は寝台自動車で慈恵大病院へはこばれた。丁度その日は日曜日で、病院はひっそりとしていた。遺体は担架のまま解剖室にはこびこまれた。
ところが、いざ医務室へ行ってかけ合うと、当直の若い医師が当惑しきった顔をして、
「申しわけないが、死体解剖は引き受けることが出来なくなりました」と言った。
「なぜです。午前中電話で頼んだ時は、はっきり承諾したじゃないですか」と、安田医師が気色ばんで言った。
「はあ、申し訳ありません。……実は、そのあとで急にいけないことになったものですから……」
「誰がいけないと言うんです。どういうわけでいけないのか、それをはっきり言って下さい」
「それは申し上げられません」
「警察からの指図なんだろう、君」。そばから江口渙が|尖《とが》った眼をつりあげて言った。
おびえきった若い医師は口もきけなかった。そこで一同は、とにかく死体を見るだけ見てくれと言って無理矢理、医師を解剖室へ連れて行った。
「こ、これを見て下さい、これを」と、江口が死体の着物をはだけて下腹部を指し示し、どもるように言った。
「こ、これを警察では|死斑《しはん》だというんだがね、実際に死斑かね。こんな死斑があるかね」
「………」
「どうです、現代の日本の医学は、これを死斑だと確証出来ますか」
「いえ……」。若い医師は消え入るように答えた。「死斑ではないと思います」
「そうでしょうとも、それは君、内出血ですよ。われわれ素人の目でもこれが打撲その他の原因による内出血だということくらいわかりますよ。確かに君は死斑ではないと言えますね」
「は?」と医師はぎくりとしたように、ちょっと|間《ま》をおいてから言った。「原因がどういうところにあるかは分りかねますが、とにかく死斑ではないように思われます」
巧みな言いのがれである。
さんざんねばったが、相手が当直の若僧でらちがあかず、結局あきらめて引返すよりなかった。
こうして小林多喜二の死因究明は、下手人である国家権力の陰謀で阻止されてしまった。
そして、家に帰りついて見ると、あんなに大勢いた弔問客たちの姿は一人も見えず、その代りに路地の入口にある空家に十数人の制服私服の警官が、折から降り出した雪にまみれてものものしくたむろしていた。家の人の話によると、弔問客は犯罪者葬儀取締法によって片っぱしから杉並署に検束されたのであった。病院から帰った連中も全部ひっぱられそうになったが、折衝の結果ようやく葬儀委員長の江口渙と佐々木孝丸だけが葬儀の立会いを許された。
ひっそりとした家の中では、多喜二の遺体が家族とわずかな友人の手で赤旗に包んで納棺され、小机に白布をかけたささやかな祭壇に|真紅《まつか》な花とデスマスクが飾られ、前夜とはうって変って寂しい通夜であった。
志賀直哉は、小林多喜二の悶死を知って、二月二十四日母セキに宛てて次のような追悼の手紙を出した。
「拝呈 御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会ひした事は一度でありますが人間として親しい感じを持つて居ります。不自然なる御死去の様子を考ヘアンタンたる気持になりました。
御面会の折にも同君帰られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話しあり、その事など憶ひ出し一層御心中御察し申し上げて居ります。同封のものにて御花お供へ頂きます」
また、二月二十五日の「日記」のあとに〈MEMO〉として次のように書いた。
〈MEMO 小林多喜二二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる。不図彼等の意図ものになるべしといふ気する〉
*
その頃、松本清張は、小倉市で印刷屋の版下工をしていて、八幡製鉄所の労働者たちと付合いがあった。その頃の労働者は非合法の出版物をよく購読していた。彼等は雑誌『戦旗』をこっそり読んでいて、いかにも人目にふれるのを恐れるように、雑誌を松本に見せる時も、用心深く窓の外に眼を配ったりした。
ある日松本が、その仲間の一人の家に遊びに行くと、その仲間が、
「小林多喜二が拷問で殺されたらしい」
と、暗い顔をして、小声でささやいた。そして、「あんな立派な作品を書く作家を拷問で殺すとはひどい」と、長い髪をかきあげながら、やはり小声で|呟《つぶや》いた。
松本も、胸にずしんと痛みを受けた。その頃、北九州の労働者の間でも小林多喜二は偶像視されていた。
それから間もなく、その労働者たちは左翼運動の嫌疑で逮捕され、松本も|側杖《そばずえ》を喰って検挙された。
小林多喜二の死は、その同志だった人たちばかりでなく、広く強く、多くの人々に衝撃をあたえた。
宮島新三郎は『報知新聞』の文芸時評で、多喜二の死を深く悼みつつ、その活動を文学的活動の範囲に止めておかなかったことを遺憾とし、板垣直子は『文学新聞』の小林多喜二追悼号に、プロレタリア作家同盟もこれを機に、その政治主義的偏向について考えるところがあっていい、というような意味のことを書いた。
すると、これらの局外者のいわば親切な忠告に対して宮本百合子が、
「彼らは、ボルシェヴィク作家としての同志小林の発展の必然の道を理解し得ない。即ち、プロレタリアートの道を見出し得ず、かえって同志小林を虐殺した|不倶戴天《ふぐたいてん》の敵の姿を大衆から覆うことによって、反動の役割を演じているのである」(同志小林の業蹟の評価に寄せる)と|反駁《はんばく》した。
その頃二十六歳の高見順は、日本プロレタリア作家同盟の城南支部のキャップをしていて、日本金属労働組合の活動に関係し、非合法革命運動に積極的に近づいていたが、昭和八年一月、治安維持法違反の疑いで、大森の自宅で検挙され、留置所の中で、多喜二の死を知った。恐怖に近い衝撃を受けた。そして、革命運動からの離脱を誓い、三月起訴留保処分で釈放された。
そして、宮島、板垣、宮本の文章を読み、宮本の言うように「発展の必然の道」であったことはたしかだが、その「発展」に政治主義的偏向がなかったか、多喜二の死は白色テロの犠牲であったと共に、政治主義的偏向の犠牲でもあったのではないか、と思った。
そして、後に高見順は「昭和文学盛衰史」の中に次のように書いた。
「……プロレタリア文学に於て、理論は常に小説よりも優位を占めており、特に小林多喜二がプロレタリア文学運動に参加した時は、理論の優位性が確立されていたときであった。高い理論に導かれて高い小説を小林多喜二が書きえたということもあろうが、作家に独得の才能をいわば勝手に自由に生かすことによって、すぐれた小説を書くといった事情は、理論が優位を占めていた当時の環境では、ありえないことであったから、理論の前進命令にこたえつつ、自分の個性的な才能をのばして行くというふうにしなければならず、そしてそれは極めて苦しく難しいことであった。それを小林多喜二はなし遂げたのである。私が偉大な才能というのはそれである。
偉大なる才能が、その才能をより大きく伸ばそうとした努力によって、かえって虐殺されねばならなかったのは、思えば痛恨に堪えないことである。
――私が小林多喜二に初めて会ったのは、すでに彼が『蟹工船』で声名を馳せていた頃だが、作家同盟の何かの集まりで会ったのである。
『これが、小林多喜二か』
と私は見たのだが、鼻の大きいのが、ひどく印象的だった。文字通り鼻柱が強そうであった。その顔色は、黄色いのに近い蒼さだったが、しかし文学青年的な|脆弱《ぜいじやく》さを感じさせないその顔は、てらてらと脂で光っていて、粘り強い意志的な人柄を思わせた」
プロレタリア文学は、昭和の初めに、異常なエネルギーをもって起り、文壇を|震憾《しんかん》させ、やがて、昭和六年の満洲事変|勃発《ぼつぱつ》から、烈しい弾圧を受け、遂に小林多喜二虐殺という、むごたらしい悲劇を生んだ。
多喜二虐殺は、戦前に於ける、日本のプロレタリア文学運動の|終焉《しゆうえん》であった。
大正末年の「種蒔く人」から多喜二の死までわずか十年たらずであるが、これほど強烈な文学運動の展開された時代はなかった。
*
昭和九年の春、二十歳の文学青年船山馨は、再び上京して明大予科に入った。
船山はその前年の秋、早稲田第一高等学院を学費滞納で中退して、故郷札幌に帰っていた。そしてしばらくの間、知り合いの病院長の家で家庭教師をしたり、好きな絵や小説のようなものを書いたり、左翼の素人劇団に首を突っ込んだり、出身中学の道場へ剣道の練習に通ったり、いろいろなことに手を出しながら、結局自分でも何をやっているのかわからない状態でいらいらしていた。
素人劇団に加わって、街の映画館で芝居を公演したのは昭和二年二月のことで、出し物は、高橋文雄という人の、雑誌『改造』の当選戯曲「死なす」とオニールの「鯨」であったが、この「死なす」が開幕すると間もなく札幌署の刑事が踏みこんで来た。指導者の中に、劇団新築地の演出助手をしていた左翼青年がいて、それが警察に|狙《ねら》われていたのである。
船山はあわてふためいて、夢中で二階の窓から表へ飛び降りて逃げた。しかし実際には警察は、彼など眼中になかったのであった。そんなこととは知らぬ彼は、|凍《い》てついた雪の夜道を必死で逃げ、すぐには家に帰る勇気もなかった。恐怖と寒さで胸が悪くなり、|慄《ふる》えがとまらないくせに、意識のどこかにいっぱしの“主義者”になったような、昂奮した気分になっていた。あとでそれがわかって彼はがっかりした。
もう一度やり直そうと思って、船山は再び上京したのであった。
明大の予科へ入って間もない頃、国文学の教室に待っていると、小柄のきかん気そうな若い講師が入って来た。その講師は国文学の時間(「平家物語」を教えていた)だというのに、開口一番、当時話題になっていたフランスの行動主義文学について、静かだがひどく熱っぽくしゃべりはじめた。
生徒はぽかんとして、マルローとかサン・テグジュペリーとか耳なれない固有名詞がやたらに出てくる話を、無反応に聞いていた。
しばらくして、若い講師は急にしゃべるのをやめて、生徒たちをにらみ据えた。現在もっとも注目の的になっている文学上の話題に、みんなが魚みたいに無関心で、あっけらかんとしているのに腹を立てたのである。
「君らの中で『中央公論』か『改造』を毎月読んでる者は手をあげろ」
誰も手を上げなかった。
「じゃ、せめて『新潮』くらいは読んでるだろう」
今度は、二、三人の手が上った。その中に船山もいた。
「君らはそれでも学生か!」
若い講師は、突然、色白の顔を真赤にさせて怒鳴った。腹にすえかねたのであった。
その若い講師とは、舟橋聖一のことであった。
*
昭和九年三月二十九日の夕方、広津和郎は日本橋偕楽園で催された、内務省警保局長松本学主催の作家招待の宴に出かけて行った。
広津はその主催者が内務省警保局長で、日頃作家が発売禁止を受けること以外には何の関係もない役所からの招待ということが多少気になったが、一応白紙の気持で出るだけ出てみようと思って、出掛けて行ったのであった。
その会は、その年の正月頃、直木三十五が内務省役人達と会って、日本精神の興隆ということで諮問を受け、「思想の善導などといふことも、インテリの間に読者を持つてゐる作家たちを除外したら不可能だ」という意味のことを役人たちに提唱したことに警保局長が賛成し、それが警保局長の名で作家を招くという段取りになったのであった。
偕楽園に集まったのは、島崎藤村、徳田秋声、上司小剣、近松秋江、広津和郎、佐藤春夫、宇野浩二、菊池寛、久米正雄、山本有三、吉川英治、白井喬二、中村武羅夫、加藤武雄(ただこれは広津の記憶で、正確ではないと言っている)といった人たちであった。
松本警保局長が、こうした種類の人間にはめずらしく、やわらかい調子で、次のような意味の挨拶をした。
「今夜皆さんにお集まりを願いましたのは、ほんの私の個人的な気持からですが、由来日本の文学というものに対して、日本の政府は冷淡に過ぎたと思うのであります。政府はもっと文学を大切にしなければならないと思うのであります。美術の方は、前から美術院が出来、文部省が展覧会を開いたりしまして、いろいろやって居りましたが、文学に対しましても、政府は当然文芸院を作り、それを大切にしなければならないのが当然であると思うのであります。それでそれを促進するために、私はこれから始終皆さんと会合しまして、お話を伺うような会を作りたいと思いまして、今夜こうしてお集まりを願った次第であります。それでこの会合を機に政府が文芸院を作るまでの準備として、私設文芸院と名づけたいのでありますが、皆さんの御意見は如何でしょうか」
と、そこまで話して、一息つくと、真正面に坐っていた徳田秋声が、かすれたような渋い声で、いきなり言った。
「日本の文学は庶民の間から生れ、今まで政府の保護など受けずに育って来ましたので、今更政府から保護されるなんていわれても、われわれには一寸信用できませんね。それに今の多事多端で忙しい政府として、文学など保護する暇があろうとは思われませんよ。われわれとしては、このままほって置いて|貰《もら》いたいと思いますね」
この秋声の痛烈な一言で、松本警保局長は機先を制せられ、「文芸院」はうやむやになり、とりあえず「文芸懇話会」というあたりさわりのない名称で、それから毎月一回開かれることになった。
実は松本警保局長は、先の教育統制、宗教統制に次いで文芸統制をもくろんでいたのであった。
何回目かの会合で、広津がにんまり笑って、「どうです、文学の統制は無理でしょう」と言うと、「ようやく判りました。もう文学の統制はしようとは思いません」と苦笑して答えた。
この「文芸懇話会」は、昭和十二年七月まで続き、「日本文化の会」に再編成された。その間に「文芸懇話会賞」という文学賞を三回ほど出した。第一回が横光利一の「紋章」、第二回が徳田秋声の「勲章」、第三回が川端康成の「雪国」と尾崎士郎の「人生劇場」である。
なお、松本警保局長は「文学の統制はしようとは思いません」と言っているが、やはりこれは、やがて来る「文学統制」の前ぶれであった。
*
昭和九年十二月十七日、社団法人文芸家協会が発足した。
「小説家協会」と「劇作家協会」とが合併して「文芸家協会」が出来たのは大正十五年一月のことだが、それはいわゆる文士たちの懇親機関であり職業組合的な意味の任意団体で、ややもすれば、事務的能力にとぼしい文士の集合体であったために、経理面でずさんなことが多かった。そこで幹事の一人であり、文士の中ではずばぬけて経営的才能の持主であった佐佐木茂索が昭和八年十二月八日の幹事、評議員の会で、法人組織にすることを提案し、それが議決された。
この時の幹事は、阿部知二、大下宇陀児、沖野岩三郎、岸田国士、佐佐木茂索の五名で、評議員は秋田雨雀、石川欣一、金子洋文、菊池寛、北村喜八、木村毅、甲賀三郎、里見、高田保、武野藤介、谷崎精二、士岐善麿、徳田秋声、徳永直、額田六福、長谷川時雨、浜尾四郎、林房雄、福田正夫、舟橋聖一、三宅周太郎、宮島新三郎、山本有三、横光利一、米川正夫の二十五名であった。
翌九年早々、幹事の佐佐木茂索が、協会内の事務整理に力を注ぎ、特に会計の乱脈ぶりにメスを入れた。法人組織に移行するために粛正が必要であったわけだが、そのにくまれ役を買って出たのが佐佐木であった。協会財産の四千円ほどの会員に対する貸出金(そういう制度があった)が回収不能のままになっていた。これは最後まで未解決のまま持ち越されたが、その責任を取って書記長の林田英雄が辞任し、辻友吉が新しく就任した。そして友人の幹事の連名の申請で、主務官庁である文部省から社団法人の認可が下りたのが十二月十七日のことであった。
ここで新たに社団法人文芸家協会の定款が決められ、細則が出来た。元幹事は暫定的に理事となった。この時の会員数二百四十八名、準会員十四名であった。
昭和十年一月、暫定理事は任期満了を理由に辞任し、新しく沖野岩三郎(重任)、甲賀三郎、榛村専一、杉山平助、芹沢光治良の五名が就任した。互選で法律顧問だった榛村専一が常任理事になったのは、協会が社団法人になったばかりで、法律的知識が要求されたためであった。榛村は理事になったので法律顧問を辞任し、従来の仁井田益太郎の他、榛村の代りに浜野英一が加わった。ここに初めて名実ともにそなわった社団法人文芸家協会が誕生したのである。
昭和十年三月二十八日、外務省天羽英二情報部長のところに、ロンドンの日本大使館から一通の書面が届いた。それは一等書記官宮崎勝太郎から発信されたもので、文面は、ロンドンのペンクラブで講演した徳川家正駐英大使を通じて、同地のセンターから、日本にも文筆家の国際的な友誼連絡団体を設立してほしいということであった。
天羽部長はこのことを文化事業部第三課長の柳沢健に伝えて善処するように指示した。柳沢は朝日新聞記者から外務省に入った男で、フランス大使館書記長、ポルトガル代理公使を務めたことがあり、外交官である一方、学生時代から島崎藤村、三木露風に師事した詩人で、詩集や訳詩集も出しているような人物だったから、進んで世話役の任に当った。
柳沢はまず国際文化振興会(昭和九年創立)の常務理事黒田清伯爵と相談して、このような企てに関心を持っていると思われるメンバーの人選にあたった。その結果、六月十九日、日本橋の偕楽園で第一回の打合せ会が催された。
当日の出席者は、長谷川時雨、岡本かの子、与謝野晶子、長谷川如是閑、堀口大学、木村毅、清沢洌、新居格、柴田勝衛、杉村楚人冠、吉江喬松の十一名で、国際文化振興会からは黒田清、外務省からは柳沢健、井上勇ほか一名が列席した。欠席者は、菊池寛、岸田国士、久米正雄、正宗白鳥、西条八十、島崎藤村の六名であった。
この日一番積極的に国際的な友誼連合団体としての「日本ペンクラブ」の設立を主張したのは岡本かの子であった。かの子は、昭和五年から二年間ヨーロッパに渡っていたが、その折、ロンドンのペン・センターに招かれて、日本人としてはただ一人のイギリス・ペンクラブ会員になっていた。しかもイギリスのセンターは、国際ペンの本部である。天衣無縫とでもいうべき無邪気な性格の持主であったかの子は、それが自慢のたねで、折あるごとに手ばなしで誇っていた。それだけに第一回の打合せ会の席でも、周囲に気がねすることなく、率先して日本ペンクラブの創設を主張した。
その二年前、日本は国際連盟を脱退して、国際的に孤立していた。諸外国の評判が悪く在外公館は困りはてていた。その一緩和策として、日本にもペンクラブを設立してほしいと、外務大臣(当時は広田弘毅)にしきりに具申していた。それほどペンクラブは国際的に信頼があった。
ただし、前年の一月に文芸懇話会というのが発足していたが、それが、内務省による一種の文化統制的な色の濃い団体だということで不評であった。今度の「日本ペンクラブ」設立についても、外務省という公的機関からの要請ということで、首をひねる作家も多かったが、結局岡本かの子の熱心な主張に押し切られたかたちで、「まあやってみようではないか」ということで発足したのである。
七月十九日に、第二回打合せ会が催され、規約草案の多少の修正が行われて承認され、創立委員に、有島生馬、阿部知二、勝本清一郎、本村毅、芹沢光治良、岡本かの子、井上勇の七名が選ばれて、準備がすすめられ、十一月二十六日、丸ノ内の東洋軒で総会をかねた発会式が開催され、「日本ペンクラブ」は誕生したのである。
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昭和十年一月、「芥川・直木賞」が制定され、『文藝春秋』新年号に大々的に発表された。それは前年の二月、直木三十五が死んだ時から菊池寛が思い立ったことであった。
「いつか『話の屑籠』に書いて置いた『芥川』『直木』賞を、いよいよ実行することにした。主旨は亡友を記念する|傍々《かたがた》無名若しくは無名に近き新進作家を世に出したい為である。だから、芥川賞の方は、同人雑誌の方を主として|詮衡《せんこう》するつもりである。また広く文壇の諸家にも、候補者を推薦して貰ふつもりである。賞金は少いが、しかしあまり多く出すと、社が苦しくなつた場合など負担になつて、中絶する危険がある。五百円位なら、先づ当分は大丈夫である。賞金は…少いが相当、表彰的効果はあると思つてゐる。現代ではあまりに、無名的作家が多いので、何等かのチヤンスを作らないと、玉石共に埋もれるやうになる。この賞金なども多少その憂を絶つだらうと思つてゐる。当選者は、規定以外も、社で責任を持つて、その人の進展を援助する筈である。審査は絶対に公平にして、二つの賞金によつて、有為なる作家が、世に出ることを期待してゐる」
これは菊池寛が書いたその「主旨」である。
さて、その年の『文藝春秋』九月号に第一回の受賞者(芥川賞・石川達三「蒼氓」、直木賞・川口松太郎「鶴八鶴次郎」)が発表され、十月二十八日に、日比谷公会堂で文藝春秋社が主催した「東京愛読者大会」の席上で、初めての授賞式が催されたのだが、その時、各新聞社を招待したにもかかわらず、ほんのお付き合い程度にしか報道しなかったばかりか、新聞によってはまったく無視した。
これに憤慨した菊池寛は、次の号の『文藝春秋』の「話の屑籠」につぎのように書いた。
「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いてくれない新聞社があつたのには憤慨した。そのくせ二科の初入選などは写真付で発表してゐる。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者と、たつた一人しかない芥川賞、直木賞と、どちらが、社会的に言つても、新聞価値があるか。あまりに|没分暁漢《わからずや》だと思つた。そのくせ文芸懇話会賞(横光利一、室生犀星)の場合は、ちやんと発表してゐるのである。
|尤《もつと》も、新聞社のつもりでは、広告関係のある雑誌社の催しなどはお|提灯《ちようちん》記事になる怖れがあるといふので出さないのだらうか。(中略)むろん、芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやつてゐるのだ。その事は最初から声明してゐる。しかし半分は芥川、直木といふ相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の抬頭を助けようといふ公正な気持からやつてゐるのである。この半分の気持から言つても、新聞などは、もつと大きく扱つてくれてもいいと思ふ」
*
昭和十年十一月下旬のある午後であった。その頃、山崎剛平の経営する砂子屋書房の編集部に勤めていた浅見淵のところへ、一雄が訪ねて来て、「これから、太宰治のところへ行きませんか」と言った。の案内で、浅見は山崎と連れ立って出かけた。
その頃太宰治は、千葉県船橋に小山初代と住んでいたが、パピナール中毒ですさみきっていた。その年の春、急性盲腸炎で手術後、痛みどめに医師が打ったパピナールの注射がきっかけになって、その陶酔感が忘れられず、退院後も打ちつづけ、中毒になっていた。
その日、太宰治は一層|蒼《あお》ざめてやせこけていた。久し振りに会った浅見はびっくりした。もともと顔色はよくなかったが、それにしてもひどすぎた。
山崎の生家が造り酒屋だったので、一本ぶらさげて行ったのだが、酒には目のないはずの太宰が|呑《の》もうとせず、かわりにサイダーを呑んだ。
それでも初めのうちはにぎやかにしゃべり合っていたが、急に太宰が真蒼になってだまり込んだと思うと、急いで|襖《ふすま》をあけて部屋を出て行った。
「太宰はパピナールを注射に行ったのですよ」とが言った。「一時間ももたないのですよ」
間もなく太宰は戻ってきた。蒼白かった頬が、ポッと薄桃色に上気していた。また元気に|喋《しやべ》り出した。しかしまた一時間もすると、ロウソクの火が消えていくようにだんだん顔色が悪くなり、言葉が出なくなり、部屋を出て行った。そんなことを何度もくりかえした。
その頃、太宰は一流雑誌社にしきりに原稿を持ち込み、それがあまりしつっこかったので、しまいに玄関払いを食うようになった。「芥川賞」の候補になりながら落選したのに腹を立て、選考委員に詰問状を出したのもこの頃であった。
翌年の秋、砂子屋書房から、太宰の「晩年」が|上梓《じようし》され、上野精養軒で出版記念会が催されたが、最後に挨拶に立った太宰は、ひと言何か言ったと思うと、つまってしまった。注射が切れたのだった。
佐藤春夫、井伏二の説得で、太宰はそのすぐ後、江古田の精神病院である武蔵野病院にひと月入院して、ようやく正常に戻った。
*
昭和十一年一月から四月にかけて尾崎士郎は『朝日新聞』に「空想部落」を連載した。これは尾崎の住む大森馬込村のことである。
昭和初年から十年代にかけて、大森馬込村には、いろいろの作家や詩人が集まり住んでちょっとした“馬込文士村”を形成した。それを尾崎は“空想部落”と名付けたのである。
“空想部落”の住人は、昭和二、三年頃の第一期グループと、昭和五、六年頃の第二期グループとに分けられる。第一期グループは尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎、北原白秋、衣巻省三、保高徳蔵、山潤、室生犀星、吉田甲子太郎、広津和郎、国木田虎雄、川端康成、間宮茂輔、秋田忠義。第二期グループは、鈴木彦次郎、牧野信一、藤浦洸、今井達夫、真船豊、日吉早苗、添田知道、村岡花子、北園克衛、山本周五郎で、両方にまたがっているのは、尾崎士郎、室生犀星、吉田甲子太郎くらいのものである。
前期グループの雰囲気にはややデスペレートなものがあり、デカダンスの色が濃かった。尾崎士郎が宇野千代との関係を清算してから、“空想部落”も事実上解散の形になったが、それが復活したのは、尾崎が大森新井宿の源蔵ヶ原に居を構えてからで、そのために前期を「馬込文士村時代」、後期を「空想部落時代」とよんで区別する人もいる。
馬込文士村時代はマージャンや花札が流行し、ダンスに熱中するものもあり、彼らをとりまく女性も断髪が多かった。しかし空想部落時代になると、その傾向は急速に薄れ、尾崎趣味の浪花節的雰囲気が加わって来た。モガ・モボ・ナンセンス時代の退廃が影をひそめ、いわゆる満洲事変前後の国策的緊張が別種の文士気質を助長しはじめた。
「昭和初年の混沌たる時代的環境の中にあって青年的情熱の大半はほとんど右翼運動に吸収され、国民生活は動揺して帰趨するところを失っていた。資本主義の爛熟期でもあったし、軍閥の抬頭期でもあった。このような時代にあって、文学にも安住しきれなければ、そうかといって政治にも移行することのできない青年たちは、はちきれるばかりの情熱をもてあましながら片隅に追いやられた。当時の馬込村には偶然にもそういう人たちがあつまっていた。彼等はいずれも多少絶望的であり、多少自嘲的であり、虚無的であり、生活行動は自由気儘ではあったが、何とかしてこの混沌を切抜けようという内省的な感情においては誰も彼も一致していた」(尾崎士郎「空想部落」跋)
大森在住の文士たちが貧しかった点では、第一期も第二期も変らないが、尾崎が「人生劇場」を『都新聞』に連載して、人気作家になるのは昭和八年以後のことであり、それまでは、いずれも貧しく、徹宵して酒を呑み、怪|気焔《きえん》を上げ、青春のうさをはらしていた。尾崎の家がサロンの中心になっていた。
*
昭和十年の初秋のある日、高見順と武田麟太郎が、銀座の「千代梅」という小料理屋で酒を呑んでいた。
武田が突然言った。
「俺は『文學界』をよす」
高見が「なぜだ?」と訊くと、
「面白くないんだ」と言った。林房雄との間が面白くないらしいということを高見もかねてから知っていた。
「お銚子、お代り」と、おどけたような声で小女に言うと、武田はまた突然言った。
「俺を君の雑誌に入れないか」
「何だって?」
「俺を『日暦』に入れてくれよ」
「冗談じゃない」
「俺は冗談言ってるんじゃないんだ。一緒に勉強しようじゃないか。仲よくやってる君たちが、俺は|羨《うらや》ましい」
「『文學界』をやめて『日暦』に入る?」
「俺は『文學界』を断じてやめるぞ」
「それはいけないな。どんな事情があるか僕は知らないが、自分から身をひくなんて、それは敗北主義だ」
高見は、口ぐせになってまだ残っているそんな左翼用語を使って、たとえ『文學界』の傾向が不満でも、それならよけい、それにとどまって自分の考えを主張すべきだと言った。すると武田は、『文學界』で主張したってはじまらないから、自分の主張の出せる雑誌がほしいと言った。
「『日暦』をその舞台にしようと言うのか? それは困る」と高見は首を振った。『日暦』の同人たちが、承知しないと思ったからであった。
武田にはとかく、何につけてもヘゲモニーをとりたがる癖があった。武田は林房雄に『文學界』のヘゲモニーを奪われたことが不満であった。
こうして『日暦』に入ることを断わられた武田は、自分で、本庄陸男や平林彪吾ら若い者をあつめて、『人民文庫』を創刊した。高見や、『日暦』の同人の全員は、個人の形で、『人民文庫』の執筆グループに加わった。
『人民文庫』三月号は昭和十一年二月十六日に出来上った。
それから十日後に「二・二六事件」が勃発した。
*
昭和十一年二月二十五日の朝、石川県立二中卒業をひかえた堀田善衛は、慶応大学予科の入学試験を受けるために上京して上野駅に降り立った。
実は試験は三月半ばだったのだが、この二月二十五日の夜に、九段の軍人会館で、交響楽団の演奏会が、その頃ドイツから帰って来た新進指揮者のタクトによって行われることを、この田舎の音楽少年は知っていた。
彼は靖国神社裏の富士見町にあった兄の下宿に落着いた。それは軍人会館に程近いところであった。
その夜の演奏会のプログラムは、ラヴェルの「ボレロ」と、ベートーヴェンの「第五交響曲」であった。|生《なま》の交響楽団の演奏を聴くのはそれが生れて初めてであった。彼は全身がしびれるほど感動した。彼は射精した。
外へ出ると雪が降っていた。その雪を踏んで、昂奮に熱くなった頬を冷しながら、富士見町へ帰った。しかし夜おそくまで昂奮はさめず、眠れなかった。
その夜、そして翌朝も兄は帰らなかった。いや、実は帰れなかったのであった。兄は友人宅で麻雀をしているうちに翌朝になり、そこに二・二六事件が起っていたのである。
大学生の兄は二十七日の午後になって、ひどく青白く緊張した顔をして帰って来た。
「おい、避難命令が出たんだ。夕方までに、布団と身のまわりの品をもって市ヶ谷の小学校へ集合しろっていう命令が出たんや」
弟の善衛は、一日中勉強をしていて、何も知らなかった。新聞もラジオもないから何もわからなかった。
「へえ……。誰がそんなもんを?」
「そんなもんって、戒厳司令官だぞ。大変なんだぞ。お前はなにも知らんのか?」
「知らんことはない。だけど新聞もラジオもありゃせんから」
実は、前の夜、あのボレロと第五を聴いた九段の軍人会館が、一夜明けると戒厳司令部になっていたのであった。
「布団をかついで市ヶ谷の小学校へ避難しろって命令が出てるんや」と兄はまた繰り返した。しかし善衛は、
「ふうん……じゃ、|兄《あん》ちゃん行き、わしはいやや、勉強せんならん」と強情を張った。
結局、兄と二人で下宿屋の留守をまもることになった。
その夜、兄はさっさと寝てしまった。善衛は遅くまで机に向って勉強をつづけた。「不気味なほど物音のない、あたり一帯の空屋の群れのどまん中にいてのこの深夜が、少年に深い印象を与えた。他人には恥ずかしくて言えないほどの、生理的なまで溺れ込むことの出来た音楽が奏でられたその同じ場所が、一夜あけてみれば戒厳司令部という、怖ろしげなものにかわっている。その二つを、少年はつなげて考えることが出来なかった」(「若き日の詩人たちの肖像」)
*
その頃、牛込馬場下町に住んでいた尾崎一雄のところに、その朝九時、谷崎精二がただならぬ顔で玄関に入って来るなり言った。
「君! 日本に革命が起りましたぞ!」
「えッ、革命?」
「重臣、首相、大臣など七、八人が殺された上に、重要官庁はすべて陸軍|蹶起《けつき》部隊に占領されたらしい。日本はどうなるか判りません」
「しかし……本当ですか」
「今朝学校(早大)から連絡があったので、何ごとかと駈けつけたら、重立った人々が集っていて、応急措置の相談なんです。しかし君、これは絶対秘密ですよ。いずれ当局から発表があるでしょうが、それまでは必ず他言無用、いいですね。……じゃ、気をつけて」と言うと、谷崎は雪の中へ出て行った。
尾崎は何が何だか|狐《きつね》につままれたようであった。それに雪に埋もれたこのあたりは、しーんとしずまりかえって、平穏なのだ。
翌二十七日になって、|漸《ようや》く、戒厳令が|布《し》かれたことが、ラジオや新聞で報道され、ラジオは「万一銃声が起ったら、その反対側の物かげに退避して下さい。その際は混乱を起さぬよう注意して下さい」などと放送した。
尾崎はどうも釈然としないので、近所の交番へ出かけて行って、顔なじみの巡査に、
「いったいどういうことになってるんですか」と訊いた。すると巡査は、
「それが、まるで判らないんですよ。うち(早稲田警察署)の署長は、昨日、本庁へ駈けつけたんですが、それっきり帰らないし、連絡もありません。学校や雑誌の関係であなたの方に何か判ったら教えて下さいよ」と、逆に言った。
二十八日の午後、再び谷崎がやって来て、「折り入って頼みたいことがある」と言った。
尾崎が「何ですか」と言うと、
「実は、日比谷の近くの学芸通信社に、一カ月分の稿料を取りに行かなくてはならないのだが、こういう非常事態だから約束の日を外して取りそこなっては困るんですが、どうも一人では心細いので……」と言うのであった。谷崎は案外臆病で細心な人であった。尾崎は一つの条件をつけて承知した。
二人はタクシーに乗って出かけたが、皇居前広場へは車が入れず、大手町から東京駅前へ出ると、そこから先も交通止めだった。運転手が「どうしましょうか」と言ってるところへ中央郵便局の裏手から赤い郵便車が出て来て、有楽町駅の方へ走り出したので、それにくっついて走った。
無事学芸通信社で稿料を受けとり、虎ノ門の方へ行くと、そこは佐倉の部隊で固められ、二、三百人の野次馬がせきとめられて、わいわい騒いでいた。
「これじゃ駄目です。帰りましょう」と臆病な谷崎が言った。
尾崎は、山王ホテルか幸楽の方で、青年将校が演説をしているということを、早耳で聞いていて、それが是非聴いてみたいと思っていた。実はそれを条件に谷崎と同行したのであった。
いやがる谷崎を強引にタクシーに押し込み、市ヶ谷見附へ廻った。
市ヶ谷見附の方からは入ることが出来た。
幸楽の門前で、積雪の中に立って待つこと二時間、ようやく少尉の肩章をつけた将校が出て来て、演説をはじめた。それはただいたずらに激越な叫びで、何を言っているのか殆どわからなかった。
幸楽の門前には、左右に機関銃がすえてあった。大勢の兵隊が剣付銃でかまえていた。二人はそれをうしろにして四谷見附の方へ歩き出したが、途中赤坂見附のところで三方へ行く道がみなバリケードでふさがれていた。そのそばに立っている兵の|襟章《えりしよう》を見ると49と読めたので、とっさに尾崎が、
「甲府連隊の方ですか」と言うと、
「そうであります」と|応《こた》えた。
「ご苦労さまです」と尾崎は言うと、バリケードの外れをすばやく通った。谷崎もあとにつづいた。こういう要領は、尾崎は抜群であった。
こうして見事に関門を突破した二人は、人っ子ひとりいない坂道を四谷見附の方へ足早に歩いた。内心気が気ではなかったが、四谷見附までたどりついてほっとした。
そこから新宿方面への市電が動いていたので二人は飛び乗った。もう大丈夫と思うと共に二人は一ペんに気がゆるんでしゃべり出した。
「君、あのバリケードを固めていた兵隊が甲府連隊とは、どうして判りましたか」と谷崎が言った。
「それはあなた、こう見えても僕は、第一師団四十九連隊の在郷軍人ですからね。彼らから見れば大先輩ですよ」
「お見それ致しやした。予備少尉ですか」
「いいえ、未教育補充兵というのです」
「なんだ、エバるない」
そんな冗談が出るようになっていた。
*
奇しくも“二・二六事件”の日は、寺崎浩と、徳田秋声の長女清子との結婚式の日であった。飯田橋大神宮で式を挙げ、文藝春秋社のあった内幸町大阪商船ビル地階のレインボー・グリルで披露宴が行われることになっていた。
この結婚の橋わたしをしたのは、雑誌『改造』の編集者水島治男であった。菊池寛に仲人を依頼したのも水島だった。
その朝水島は九時前に家を出て寺崎の家を訪れたが、寺崎は既に今日の準備のため家を出ていた。留守の母親の話によると、「今日は、水島君は忙しいだろうな」と言って出かけたという。
だが水島はまだ、事件のことを正確には知らなかった。この日、朝どういうわけか株式市場が休場だというラジオの放送があったが、株式に関心のない水島はさして気にもとめず出かけ、寺崎家を訪れた後、原稿をもらう約束になっていた大内兵衛を東大研究室へ訪ねることにした。
東大の正門を入ると、|銀杏《いちよう》並木のすぐ右手に建っている掲示板が目についた。「大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎殺害さる」と、墨黒々と大書されていた。
「これは大変だ!」
水島はびっくり仰天した。急いで家にとって返し、「寺崎の結婚式には出られそうもないから一人で行ってくれ」と妻に言いおいて、円タクで社へ向った。改造社は日比谷公園の近くにあった。そのあたりで車を降りると、お|濠《ほり》を前に日比谷公園側に、六、七メートルおきに兵隊が警備していた。ただごとではなかった。
水島はそんな状況をながめてから、緊張した面持で社へ入っていった。編集部には既に執筆者の一人である東京日日新聞の阿部真之助からニュースが入っていて、相当の部隊が早朝に蹶起し、警視庁を占領し、首相官邸を襲撃し、朝日新聞社にも乱入、活字箱をひっくりかえし、輪転機に砂をぶっかけ、ピストルを乱射して引揚げたということであった。
水島は持ち前の事件記者的興味から、早速外へとび出した。虎ノ門あたりまで歩いたが、そのあたりは大したことはなかった。霞ヶ関に出て左に上り国会議事堂の前へ出た。丁度その頃、新議事堂が工事中で(その年の十月落成)その板囲いの中から盛んに煙が上っていた。普請の囲いが一カ所取りはずしてあったのでそこから中をのぞくと、兵隊たちが数カ所で、どんどん|焚火《たきび》をしていて、大きな輪をつくってあたっていた。
そこへ一台のトラックがやって来た。荷台の中には四斗|樽《だる》がぎっしり並んでいて、樽の中には|炊《た》きたての飯が山のように盛り上って、寒空に白い湯気を立てていた。
それを運んで来たトラックは、軍隊のトラックのようではなかった。運んで来た人間が兵隊ではなかった。不思議に思って、水島は運んで来た男に「どこから運んで来たの」と聞いた。「本隊からたのまれて運んで来ました」と、その男はあたりまえのようにこたえた。
それから水島は、首相官邸の方へふらふら歩いて行こうとしたが、二十五メートルぐらい手前で、機関銃を門前に構えた蹶起部隊のものものしい警戒の様子が見えたので、恐れをなして、そこからまた歩いて社に帰った。
その夜、水島は、二十分遅れたが、予定通り、レインボー・グリルの寺崎浩の披露宴に出席した。仲人の菊池寛は、身の危険を感じて、結婚式にも披露宴にも出席せず、佐佐木茂索夫婦が代行した。
それでも、そのように非常事態発生の下にしては、思ったより沢山友人が参加した。その夜、寺崎浩、清子は、予定通り熱海へ新婚旅行に旅立った。そしてそれは二人にとって生涯忘れ得ぬ記念の日となった。
*
二・二六事件の後、一、二カ月たったある春の夜であった。広津和郎は早稲田大学生の息子賢樹と一緒に新宿を散歩していて、伊勢丹の横の交叉点を四谷の方へ横切った。午後十時を過ぎていたが、まだあたりは人通りが賑かだった。
交叉点を渡って、靴屋の前まで来た時、角の派出所の中から、「おいこら」と怒鳴って巡査がとび出して来た。
巡査は息子の賢樹の側に近より、
「おい、ちょっと用がある」と言った。
「僕ですか」
「そうだ。こっちへ来い」
巡査は賢樹を派出所の中へ引っぱって行った。
すこしうしろから歩いていた父親の和郎は、|咄嗟《とつさ》に「ゴー・ストップを間違えたのかな」と思ったが「いや、そんなことはない、たしかに青になってから渡った」と考えなおした。それにしても「おいこら」とは無礼きわまる呼び方だと腹を立てた。
和郎は派出所の前に立って、
「どうしたのですか」と言った。すると黒縁の眼鏡をかけた若い巡査が、
「そこに立っちゃいかん、向うに行ってろ!」と怒鳴った。
「何の用なのです。私はこれの父親だが」
「父親? ふん、父親か。父親でもかまわん。この男を調べることがあるんだ。向うに行ってろ」
「何かの間違いで調べるにしても、浮浪人ではないのだから、もう少し丁寧にしたらどうだ」
「なに、浮浪人ではない。ふん、地位や名誉があればなお面白い。君は警察というものを知るまい。訊問、検束、みんな自由なのだぞ。いいか。この帳面を見せるわけにはいかないが、署から達しが来ているんだ。いいか、このオーバーの色と年齢と背恰好とが符合するんだ。君は何ものだか知らんが、警察というものを知るまい」
和郎はあきれかえり、猛然と腹が立って来た。
「訊問、検束が警察の自由だなどと、無法なことを言うな。そんな自由なんか警察にはないんだぞ」
すると派出所の中の賢樹が、
「まあ、およしなさい、お父さん、僕が訊かれることに答えればいいんですから――みっともないですよ。人が立って……」
たしかに、いつの間にか人だかりがしていた。
自分より息子の方が冷静なのに、和郎も恥しくなって、口をつぐみ、少し派出所から遠ざかった。
賢樹は間もなく派出所から出て来た。「学生証を見せろと巡査が言ったので、見せたら、それ以上何も言わなかった」ということであった。巡査は、和郎との問答で、もう賢樹が怪しいものでないことがわかっていながら、意地になって、やったのであった。
それにしても「訊問、検束は警察の自由なのだぞ」という巡査の暴言には、我慢がならなかった。
広津和郎は、半年後十一月号の『文藝春秋』に「心臓の問題」という随想を書いた。それは、
「その当時は非常に興奮して、どうしてもこの事を警視総監に報告しなければならないと思ひ、原稿用紙に十枚も書きかけたものであつたが、併し疲れてしまつてたうとうそのままにしたが……」という文章ではじまる、二・二六事件を自分がどう感じたかということを率直に書いたものであった。
この頃から軍部の圧迫が一層強くなり、内務官僚がわがもの顔にのさばり、警察官の人権無視が当然のことのようになり、国民を無抵抗に骨抜きにし、無理に、強圧的に、戦争の方へ引っぱって行きはじめたのであった。
*
昭和十一年三月二十五日朝の新聞に、牧野信一が小田原の実家で|縊死《いし》をとげたことが大きく報道された。
牧野は昭和七年頃から、完全なアルコール中毒となり、それにともなう極度の神経衰弱の徴候が表われはじめていた。そのため酒の気が消えると憂鬱な気持になり、いら立って短気になった。そのためにまた酒を呑み、呑むと酒乱になった。
昭和十年の暮に破局が起った。その頃牧野は妻節子と一人息子の英雄と三人で五反田の霞荘というアパートに住んでいたが、そのアパートの|女将《おかみ》と牧野とが深い関係になっていたと節子が思い、痴話喧嘩がたえなかった。あげくのはてに、二人の仲裁に入った小川和夫と節子とが失踪するという事件が起り、やがて牧野は家をとび出した。
家をとび出した牧野は、本郷浅嘉町に住む同郷の友人で当時歌舞伎座の支配人をしていた鈴木十郎のところへころがりこんだ。
牧野は肉体的にも精神的にも|憔悴《しようすい》しきっていた。小説が思うように書けないと悩みを訴えた。鈴木は牧野を勇気づけようと思い、少し肩のはらない気楽な通俗小説でも書いてみないかとすすめ、知人の『朝日』や『読売』の記者に頼みにいった。しかし牧野の憔悴ぶりは極度に達していて、そういう作品すらおいそれと書けず、|煩悶《はんもん》するばかりだった。
翌年の一月、牧野は静養のつもりで、故郷小田原の母の住む家に帰った。しかしそこでも牧野の気持はしずまらず、いつも何か恐怖におそれおののいて、床に伏していた。
「……三月二十四日のタ方五時頃――いつも瀬戸(中学時代の同窓生)の来る頃――五分すぎても、十分たっても、時間の正確な瀬戸が姿を見せなかった。それは、牧野が、こんど小田原の生家に帰ってから、なぜかひどく|恐《こわ》がった『たそがれ時』であった。……午後五時十分ごろ、その時この家に来ていた、これも牧野の嫌いな叔父が、牧野があまり寂しがるので、同じ部屋にいたが『ちょっと鴨宮に行ってくる』と云って、座を立った。すると、牧野が、この叔父にまで、病床の上から細い手を上げて『叔父さん、今日は瀬戸君が来ないようですから、内にいてくれませんか』と云うと『工場へ行くのだから、止める訳にいかん』と云って、叔父はそそくさと出て行った。叔父が出ていくと、牧野は、そっと起きて、甥のために置いてあるピンポン台の据えてある部屋まで、ゆっくりと歩いて行って、そのピンポン台の網にしきりに首をのせる真似をした。と、たまたま側を通りかかった牧野の母は、それをちらと見ながら、知らぬ振りをしていた。が、甥は、牧野のそばに行って『伯父さん、何してんの』と云った。すると、牧野は、腰をかがめて、甥の耳の側に口を持っていって、ささやくような声で、『ク、ビ、ツ、リ』と云った。その時、一たん部屋を出た牧野の母が、戻って来て『海岸まで散歩に行って来よう』と云った。それを聞くと牧野は、ピンポン台の側から大儀そうに歩きながら母のそばへ行って、『お母さん、どうか出かけないでください。僕を一人、――《|置而行堀《おいてけぼり》》にしないでください』と母の袖にすがりついて、云った。が、母は、それに答えないで、孫の手を取って『さあ、行きましょう』と云って、さっさと出かけて行った。それが午後五時四十分ごろであった。そのとき、|内《うち》には、牧野のほかに、女中が一人いた。そうして、その女中は台所で夕食の支度をしていた。さて、母と甥が帰って来たのは午後六時十分頃であった。はじめに『伯父さんがいない』と云ったのは甥であった。甥が、帰ると直ぐ伯父の寝ている部屋に駈けて行くと、いつも伯父の寝ている寝床の上に、肝心の人間がいなかったからである。そこでびっくりして、一ばん熱心に家の中じゅうを探したのは女中で、その次は甥であった。
納戸で梁から|兵児《へこ》帯(|後《あと》で息子の英雄の物とわかった)をぶらさげて縊死している牧野を見つけたのは女中であった。女中について行った甥は駆け足でそれを祖母に告げた。それが午後六時十二分頃であった。三人のうちで人口呼吸を知っているのは母ひとりであった。が、母は、梁からぶらさがっている痩せ細った子の|体《からだ》を、ちょっと引っ張るようにさわり、|後《あと》は、じっと見上げているだけで、手をつかねていた。そこで、女中が、たまりかねて、兵児帯の|罠《わな》から首をはずして、牧野の体を下におろした。母が、人口呼吸をしかけた時に、女中が駈け足ですぐ近くの医者を呼びに行った。その間、甥は廊下をあちこちしていたので、納戸には母が一人しかいなかった。医者が来たのは午後六時十七分頃であった。医者は、死者を診察しながら、|頸《くび》をひねり、不審そうな顔をして『惜しいことをしましたね』と云った」(宇野浩二「牧野信一の一生」より)
牧野信一が死んだ夜、尾崎士郎は深更一時過ぎまで武田麟太郎と酒を呑んでいた。二人は、その数日前武田が『都新聞』に書いた「死神について」という文章について語り合っていたのだが、尾崎が酔って帰って来ると、玄関に出迎えた妻が、牧野の自殺を告げた。尾崎はその三十分前まで武田と「死」について語り合っていたので、何となくうすら寒い感じが背すじを走った。
鈴木十郎は、二十四日の夜、歌舞伎座にいたとき、電話で牧野の死を知らされた。すぐに小田原へかけつけた。翌日、『朝日』の新延修三がやって来て、鈴木が頼んだ牧野の小説を連載する話が、昨日の学芸部の編集会議で決ったばかりだと言った。もし、この決定が、もう少し早かったら、牧野は死ななかったかも知れない――と鈴木は残念に思った。牧野の机の上には「桜の花びら」と題する書きかけの原稿が残っていた。
宇野浩二は、二十五日の朝、電報で牧野の死を知らされた。そして新聞を開いて事件の詳細を知って|茫然《ぼうぜん》とした。牧野の死は芥川や直木の死よりも身にこたえた。
宇野はその日、午後一時四十分東京発の列車で小田原へ行き、八年ぶりで牧野の実家を訪れた。宇野がかつて牧野と文学談をたたかわせた部屋に入ると、そこには牧野の棺があり、その上に、牧野の横向きの顔を描いた六号くらいの油絵が額縁なしで置かれ、花と線香が上げられていた。まだ焼香の準備が出来ていなかったので、宇野は線香だけ上げて別室に退いた。そこには中戸川吉二がいた。
その日午後七時半頃、宇野は中戸川と一緒に牧野の家から引揚げた。二人は新橋で降りて、銀座の裏で夕食でもたべようと歩いて行くと、久保田万太郎に会った。三人は一緒になって「はせ川」へ行った。
久保田と中戸川は酒を呑んだ。宇野は呑めないので、さしみや焼魚をとって食べていた。三人の話は自然、牧野の思い出話になった。そして、宇野が、額に右手の人差指をあてがいながら、低い声でぽつりぽつりと、
「もし、僕たち三人が一週間前にこうして集まっているところへ、牧野が入って来ていたら、牧野は死ななかったかも知れないなあ」と言うと、二人も「そりゃあ、死ななかったかも知れないなあ」と吐息まじりに応えた。
牧野信一の告別式は、二十六日午後一時から小田原在の清光寺でとり行われた。
河上徹太郎は、新聞に寄せた追悼文の中に、次のように書いた。
「……二十四日の夜九時頃、書斎にいると女中が電話を報じてきた。遅いのに又誰かの酒席から御座敷か、弱ったな、と思いながら出て見ると、某新聞の社会部からで、牧野さんの変死の知らせだ。ハッと思ったが、取り直す暇もなく、『――何か家庭的な事情で思いあたることはありませんか?』ときた。『――……。』『――では生活苦に悩んで、何か愚痴でも?』『――……』『最近仕事の行きづまりというようなことは?』『――……』詰問にしどろもどろになりながらも、一方では既に私自身の感慨が頭の中で氾濫しはじめていた。それにしても、どうしてまあ死ぬなんて、とか、気になりながらもついあんなに御無沙汰してしまって、とかである。それから一時間ばかりというものは、立て続けにその種の電話で悩まされた。死んだものをどうしてせめて静かに眠らせないのだろう! しまいには私は先方の質問を待たないで、べらべら返事がしゃべれるようになった。その間に久保田万太郎氏からもかかったとき、久保田さんは簡単に一言いった。『――やはり牧野は死ななければならなかったのでしょうね』『そうなんですね』久保田さんのいいたい意味はよくわかった。そして此の一言で私の感想は漸く安定を得た。私はこれ以上の応対が煩しくなったので、ブラッと外へ出た」
[#改ページ]
昭和十二年七月二十一日の朝、尾崎一雄は風邪気味で寝ていた。
午前十一時頃、妻の松枝が、
「お客さんですよ」と言って名刺を持って来た。名刺には文藝春秋社編集部鈴本|敏氏《としうじ》と書いてあった。小説か随筆を頼みに来たのかと思った。
「風邪で寝ていると言ったんです。どうします? ここ、片づける?」
「いいよ、玄関ですます。また寝るかも知れないからこのままにしておけ」
手早く着替えて降りて行くと、降りた鼻先の玄関に、若い男が立っていた。
「風邪で寝てたもんで……」
「あのウ、芥川賞になったんで、短い感想と写真を頂きたいんです」
「芥川賞? 誰が?」
「尾崎さんがです」
「僕が――」と、ちょっと詰まり、
「僕が芥川賞を|貰《もら》うのですね」
「そうです。短い感想を」
「|判《わか》りました。ちょっと待って下さい」
それから茶の間へ行き、
「|俺《おれ》が芥川賞だとさ」と言うと、
「聞きましたよ」と、松枝は、にやりと笑った。尾崎も笑ったが、同時に顔がぽーっとほてった。
「賞なら、何かくれるんでしょ」
「外国製の良い時計をくれる」
「時計かア」
「そのほかに、五百円くれる」
「えっ五百円! お金を五百円! うわア」と松枝が言うのを「しッ」と抑えて、また玄関に出て行き、
「感想は書きますが、二階は病室でちらばっているので、すみませんがここで待ってて下さい」と言って、二階へ上った。
――思いがけず賞を貰って|嬉《うれ》しい。これまで少し怠けすぎたから、これをバネとして発奮したいと思うが、果してそういくかどうか――というような意味のことを書いて降りて行くと、松枝が手っとり早く写真を二、三枚アルバムからはがして来た。
実は松枝は夫をすでに芥川賞作家以上の人間と信じていたので、「芥川賞」と聞いて初めは「今さら」と、変な顔をした。ところが、五百円のひと声で|忽《たちま》ち|豹変《ひようへん》した。貧乏のどん底にいた松枝はまことに現金で正直であった。
その日の夕方、丹羽文雄と浅見淵が尾崎のところへやって来た。
「なんか少し変だけど、貰って、まア、よかったよ、な、うん」と浅見が言った。
「芥川賞」はずぶの新人にくれる賞なのだが、尾崎は一応もうその時、文壇の片隅には出ていたからである。
丹羽の方は手ばなしに、
「よかったなア」と言い、松枝にお祝いのビールを買って来るように頼んだ。
ビールを飲みながら歓談しているうちに、尾崎は、実は今度受賞した「|暢気《のんき》眼鏡」という作品は、四年前に『文藝春秋』に持って行って拒否されたもので、今になって、それに賞をくれるなんて妙な話だ、と言った。
「それは皮肉ななりゆきだな。しかしまァええわ」と、丹羽が言った。
そこへ一雄が威勢よくやって来た。は自分の本が出たのが嬉しくて、一時も早く尾崎に見せたくて来たのであった。『|花筐《はながたみ》』というフールス判の立派な作品集であった。(発行所は赤塚書房)
「君は二十五だよ。二十五でこれだけ実のある作品集を出すんだから」と尾崎が、浅見や丹羽に言うと、
「いや、だめですよ」とははにかんだ。
「太宰治はいくつだっけ?」
「僕より三つ上だから――八です」
「『晩年』は、すると二十七で出したわけか。『暢気眼鏡』でいいのなら、あれだって去年上半期のにひっかかっていいわけだ。そういうことになるだろう?」と浅見にむけて尾崎が言うと、
「そうだな。――『花筐』は七月発行だから、今年下半期のにひっかかるか。今年両一雄が揃って貰ったら面白いな」と、浅見が笑った。
そこで初めて気がついたように、がまじめな顔をして、
「『暢気眼鏡』が、どうかしましたか?」と|訊《き》いた。
「うん、芥川賞やわ」と丹羽が言うと、が目を丸くして、
「ほおッ!」とうめき、「ちっとも知りませんでした。なんだ、そうか。それで浅見さんや丹羽さんが見えてたんですね。そうか、なアんだ」とは上を向いてケラケラ笑った。
*
昭和十三年一月二十一日、第六回芥川賞(昭和十二年下半期)の|選衡《せんこう》委員会が開かれた。委員の誰かが、「今回はあまりいいのがないから、ナシにするか」と言うと、宇野浩二が、
「『|糞尿譚《ふんにようたん》』という変った小説があるよ」と言った。すると久米正雄が、
「うん、面白いけど、お座敷には出せないな」と、鼻の下のひげをなでながら笑って言った。
佐藤春夫が、
「僕も面白いと思うが、岩野泡鳴賞というところだね」と言った。
菊池寛が、
「僕はまだ読んでないんだが」と言うと、久米が、善良素朴な糞尿汲み取り人を主人公とするその内容を説明し、最後の一節を朗読してから、
「そのクソの雨に夕陽が|燦然《さんぜん》と射すんだよ」と言うと、皆、どっと笑った。
「そりゃア、面白そうだ」と菊池が言うと、
「わしはそんなキタナイ小説は嫌いだ」と室生犀星が言った。すると、宇野が、
「君の小説だってキタナイじゃないか」とまぜかえした。
結局、それから菊池が読んで、「これはいい」と言うことで受賞がきまった。
火野葦平の「糞尿譚」は、このようにして受賞がきまったが、その頃火野は兵隊で、中国の戦場にいた。
そこで、小林秀雄が、「芥川賞」伝達のため、『文藝春秋』から特派されて、その頃火野のいた杭州戦線へ出かけて行った。
小林が、先ず火野の上官に主旨をのべると、
「芥川賞とは何かね」と訊かれた。小林は|咄嗟《とつさ》に、
「軍人の|金鵄《きんし》勲章みたいなものです」と言った。
上官はそれにすっかり感動して、部隊で盛大な授賞式を開くことにすると言明した。
「S部隊長、M部隊長らがわざわざ列席し、部隊全部が本部の中庭に整列した。
『気を付け、注目』と号令をかけられた時はドキンとしたが、思ひきつて号令をかけるやうな挨拶をする。つづいて火野伍長、S部隊長の挨拶があり、式は終つた。……」
と、その時の模様を小林は『文藝春秋』(昭和13・3)に書いている。
なお、火野は、生れて初めての賞金を、戦場では金はいらないので、郷里の母へ送った。時計だけ持って歴戦、三十回余もガラスや針をつけかえたが、機械はずっと故障せず、戦後死ぬまで愛用していた。
*
昭和十二年の暮、その二年前第一回「芥川賞」を受けた新人作家石川達三の所に中央公論社から編集者が来て、中国戦線へ特派員として従軍させるから戦争小説を書いてくれないか、と言った。既に尾崎士郎、林房雄、吉屋信子、山潤らが、それぞれ雑誌社の特派員として戦地に出かけていた。石川も飛びつくように承諾した。石川は本当に自分の眼で見た戦争を書きたいと思っていた。
暮も押しつまった十二月二十九日、石川は東京を立ち、神戸から軍用貨物船で出発した。
上海を経由して、戦火のあとも生々しい南京(十二月十二日陥落)に着いたのは一月五日であった。
南京で八日、上海で四日間の取材を終えて帰国したのは一月の下旬であった。
『中央公論』と約束した作品の構想は帰りの船中で大体出来上っていた。中国北部の戦場から中国東北部(旧満洲)を経由して上海に上陸したある部隊が、南京攻略戦に参加し、やがてまた新しい戦場に向けて出発して行くまでの戦歴を書こうと思った。手帖には、南京や上海で兵隊たちから取材した戦闘とそれにまつわる|凄惨《せいさん》なエピソードがぎっしり書きこまれていた。
筆の早い石川は、一日三十枚、三百三十枚の原稿を二月十一日に脱稿した。
それが「生きてゐる兵隊」であった。二月十七日に発売になった『中央公論』三月号は、翌十八日の夜、発売禁止の通報をうけた。
「中央公論三月号は二月十七日に配本された。ひやひやしたが、翌十八日、当局からは何の話もなかったので、まあよかったと、担当の佐藤観次郎と松下英麿は、石川達三とともに銀座へ祝盃をあげに行った。と、八時ごろ電話で、内務省から発売禁止の通達があり、問題が大きくなった」(「中央公論の八十年」)
「私が一番知りたかったのは戦略、戦術などということではなく、戦場に於ける個人の姿だった。戦争という極限状態のなかで、人間というものがどうなっているか。平時に於ける人間の道徳や智恵や正義感、エゴイズムや愛や恐怖が、戦場ではどんな姿になって生きているか。……それを知らなくては戦争と戦場も解るまい。殺人という極限の非行が公然と行われ、それが奨励される世界とはどんなものであるか。その中で個人はどんな姿をして、どんな心になってそれに耐えているか……」(石川達三「経験的小説論」)
それが石川の「生きてゐる兵隊」を書く意図だったのだから、当時の官憲ににらまれない|筈《はず》がない。
勿論、作者も編集者も、検閲に対してかなり配慮はした。この作品には兵隊がやたらに人を(それも非戦闘員を)殺す場面が出てくるが、それも単なる虐殺ではなく、それなりの事情があり、必然性があっての行為として書かれていた。「執筆に当っては、検閲のスレスレの一線をねらう配慮をした」と作者は言っている。
編集部員は一層神経をつかい、危い個所をゲラ刷りで伏字にした上、輪転機を二度まで止めて手を加え、三百三十枚の原稿の八十枚分くらいを伏字・削除にした。それでも発売禁止処分を受けた。それだけではなかった。
二月下旬、石川は杉並区馬橋の自宅から警視庁に連行された。取り調べは一日だけですみ、帰宅を許されたが、八月四日、「新聞紙法違反」として起訴され、三十一日に、第一回公判が開かれた。判事は八田卯一郎、検事は岡本吾市、弁護人は弟の石川忠と福田耕太郎、『中央公論』側の弁護人として片山哲、そして後のゾルゲ事件の被告として刑死した尾崎秀実が在廷証人として出廷した。
石川はこの公判で、堂々と判事の質問に次のように答えている。
「新聞等テサヘモ都合ノ良イ事件ハ書キ真実ヲ報道シテ居ナイノテ国民カ暢気ナ気分テ居ル事カ自分ハ不満テシタ/国民ハ出征兵士ヲ神様ノ様ニ思ヒ我軍カ占領シタ土地ニハ忽チニシテ楽土カ建設サレ支那民衆モ之ニ協力シテ居ルカ如ク考ヘテ居ルカ戦争トハ左様ナ|長閑《のどか》ナモノテハ無ク戦争ト|謂《い》フモノノ真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ国民ヲシテ非常時ヲ認識セシメル此ノ時局ニ対シテ|確乎《かくこ》タル態度ヲ採ラシムル為ニ本当ニ必要タト信シテ居リマシタ」(「第一審公判調書」――浜野健三郎「評伝石川達三の世界」)
「私ハ将校ニ接スルヨリ兵士ノ間ニ交ハリ其ノ話ヲ聞ク方カヨリ本当ノ戦争ノ姿カ|掴《つか》ミ得ルト考ヘテ居マシタノテ彼地テモ将校トハ殆ント接セス兵士ノ話ニ多ク耳ヲ傾ケマシタ」(同)
「生きてゐる兵隊」は『中央公論』の即日発禁処分(実際には翌日だったが)によって国内ではあまり反響がなかったが、どのようなルートで海外に流れたのか、上海の『大美晩報』に「未死的兵」という題で部分的に翻訳掲載され、またアメリカにも伝わって、大きな反響を呼んだ。
そのことが当局を一層いら立たせ、九月五日の第二回公判で、禁錮四カ月(執行猶予三年)の判決が下された。
「皇軍兵士ノ非戦闘員|殺戮《さつりく》、掠奪、軍紀|弛緩《しかん》ノ状況ヲ記述シ、安寧秩序ヲ|紊乱《びんらん》シタ」というのが判決理由で、共同被告の『中央公論』編集名義人雨宮庸蔵も同じ判決、出版部長牧野武夫は、罰金百円に処された。
*
三年前に妻に先立たれた中山義秀は、二人の子を福島の郷里に預け、世田谷下北沢の静仙閣というアパートの四畳半の部屋で、たった一人で住んでいたが、その生活はすさみきっていた。
毎日したたかに酒をくらい、酔ったあげくに、真夜中、一尺八寸の新刀“横山上野大椽祐定”をひっさげて、近くの公園へ行き、野良犬を|叩《たた》き|斬《き》ったりした。また麻雀屋の二階から発作的に飛び降りて足をくじいたこともあった。その時、親友の横光利一が、「中山、お前は|天狗《てんぐ》になったのか」と言って笑った。すべては酔余の行為にすぎなかったが、中山は自分の不幸に腹を立て、何事にも反抗したいようなひねくれた気持になっていた。
そんな時、その年(昭和十三年)の三月号の『文學界』に発表した「厚物咲」が芥川賞候補になった。しかしそれを素直に喜ぶ気持にもなれなかった。
「厚物咲」と田畑修一郎の「鳥羽家の子供」が最後に残って当落を争った。真夏の暑い盛り、十人の委員が二つに割れ、三度委員会を開きなおした。
そのたびに委員の横光は、中山にその話をすると、いつも酒に酔っていた中山は、
「芥川賞などいらん」と、豪語した。すると、横光が、
「我々の苦労を知らんのか」と怒った。
やりきれない気持で、その年の七月二十日、中山は、清水崑、横井福次郎、村山滋ら「新漫画集団」の連中と志賀高原へ旅に出た。世間で芥川賞候補とさわがれているもだもだしたわずらわしさから脱出するためであった。
実は「厚物咲」が芥川賞候補になったというので目をつけて小山書店が出版を申し入れて来た。得たりとばかり前借を申込み、その金で旅に出たのであったが、毎晩のように芸者をあげ酒を呑み、どんちゃんさわぎをしたので、たちまち金はなくなって、宿料も払えなくなり、皆を先に帰して中山だけが人質として残った。
そこへ『文藝春秋』の永井龍男から電話が掛って、「芥川賞に当選したよ、おめでとう」と言って来た。そして永井が、
「嬉しいか」と訊いたが、
「べつに」と答えた。そのくせ、すぐに賞金の前借を申し込んだ。
前借が出来るとなると気が大きくなって、その晩、一人で座敷に若い芸妓を呼んだ。
十八、九の芸者は、|卓袱《ちやぶ》|台《だい》の向う側に坐って、ビールを取り上げ、
「いかが」と、酌をした。
「君は飲むか」と訊くと、
「いいえ」と、首をふった。
「それなら私一人で祝盃を上げよう」と言って、中山は、ふと亡妻の面影を|偲《しの》び、だまってビールをあおりつづけた。
*
その頃、二十五歳の田村泰次郎は、新宿太宗寺裏のアパートに住んでいて、毎日遊び歩いていた。付近には、夜の新宿に働く連中、女給や、ダンサーや、そのひもたち、やくざ者、芸人、二丁目の遊廓に働く|妓夫《ぎゆう》|太郎《たろう》といった人たちが、かたまって住んでいた。
その頃早大時代からの友人井上友一郎が『都新聞』(現在の東京新聞)にいたので、金に困ると井上のところへ「大波小波」の匿名原稿を持っていって、二回分(一回が二枚で三円)金六円也をもらって遊びにつかった。
田村のアパートの近所に「現代旅館」という安下宿があって、そこに奥村五十嵐(後の捕物作家納言恭平)が住んでいた。奥村はそれまで勤めていた新潮社の『日の出』編集部をやめ、『実話雑誌』などの一枚三十銭の原稿をせっせと書いていた。田村はよくこの奥村からネタをもらって、時代小説なども書き、小づかいかせぎをした。
奥村は、自分のいちもつが自慢であった。ある日、田村が一緒に銭湯に入っていると、「おい、君、ちょっとさわって見ろよ」と言って、いきなり田村の手をつかんで、自分の|股間《こかん》に誘導した。人一倍りゅうりゅうとしたそのものに、田村は驚歎した。
その頃はまだ街中に温泉マークというものがなく、奥村の住んでいた安アパートが、そのようにつかわれていた。田村は何度かそこを利用した。そういう時は、奥村の部屋の前の廊下を素通りして、女と共に部屋に入り、また女と共に部屋を出た。四十がらみの|女将《おかみ》は、いかにもそういう宿の女将らしく、田村の行動を、絶対に奥村にしゃべったりしなかった。
そのあたりには、安アパートがいくつかあって、あるアパートの一室で、コント作家の中村進治郎がムーラン・ルージュの踊り子高輪芳子と服毒心中をして大さわぎになった。女は死んだが中村は生き返ったので、偽装心中のうたがいで、しばらく警察にひっぱられた。
中村はまもなく警察の留置場から出て来て、ムーラン・ルージュで企画した高輪芳子の追悼公演の舞台に出演したりしたが、世間の目はつめたく、ジャーナリズムも中村を見捨てた。
そんな薄情な世の中がいやになったのか、中村はやがて睡眠薬を多量に呑んで後追心中のように死んでいった。
昭和十四年の早春、田村の参加していた「大陸開拓文芸懇談会」の一行が、水戸の内原訓練所へ見学に行った。その帰途、田村は、会長の岸田国士や、会員の伊藤整や福田清人たちと一緒に、笠間で途中下車して川畔の料亭に立寄った。座敷の前に、芦が立ち枯れ、|渺々《びようびよう》とした水のひろがった|瀟洒《しようしや》な料亭であった。
その席に出て来た女中の一人と田村は仲よくなり、自分の住所を教えた。一週間もたたないうちに、女から、明日上京すると言って来た。上野駅まで女を迎えに行き、そこから車でまっすぐ新宿の、例の「現代旅館」に入った。女は無抵抗に田村に体を許した。
ひと眠りすると、日が暮れかけていた。田村は女と一緒に外へ出て、安食堂で晩飯をくい、映画を見て、それから女と別れた。それっきりであった。
その頃、武蔵野館だけが深夜興行というのをやっていて、土曜の夜だけ、名画の再上映をし、その前に作家の三分間スピーチというのをやった。丹羽文雄、石川達三、井上友一郎、十返肇、田村泰次郎が、或る夜出演したが、田村が壇上に立つと、前の席にいた男が、
「あれ、あいつは、新宿の地まわりじゃないか」と言った。
また伊藤整は随筆に、
「一匹の餓えた狼が、新宿の街をうろついていた」と、田村のことを書いた。
*
その頃、徳田秋声を中心にして、舟橋聖一、岡田三郎、山潤、豊田三郎、野口冨士男らの集まる「あらくれ」という会があった。大抵、秋声の自宅に集まっての文学談義の会であったが、或る日、秋声が長患いのあと、一応健康が回復したのを祝って、銀座の千疋屋へ出かけた。病後の秋声はまだ顔色が悪く、足もともおぼつかなく、女婿の寺崎浩と長男の一穂が両脇からささえるようにして歩いた。
千疋屋の前で、ちょっと皆が立ち止っていると、目の前に、一台のぴかぴかに光った外国製の車が止り、ドアが開くと、中からすらりと背の高い、白いドレスの美しい女性が、|颯爽《さつそう》と降りて来て、わき目もふらずに、千疋屋の中へ入っていった。
すると秋声はみなをうながすように中に入り、女がハイヒールのかかとをかつかつとならしながら二階への階段を上って行くのを、じっと見上げた。そして、女の姿が消えると、秋声は、にこりともせずに、
「あんな女と、遊んでみたいな」とつぶやいた。
みんなは、七十に近い老大家の、飽くことのない|貪慾《どんよく》さにびっくりした。
その女は、宝塚歌劇の若き日の春日野八千代であった。
*
日中戦争がはじまって間もない頃、『人民戦線』派の検挙が毎日のようにつづいた。
その頃、共産党分裂の影響をうけて夫婦仲のあやしくなっていた小堀甚二と平林たい子は別居し、小堀はアパートに、たい子は中野駅前の坂の上の旅館「|生稲《いくいね》」に泊っていたが、警察が小堀を逮捕しようとしているという報を受けたたい子は、|急遽《きゆうきよ》小堀のアパートを訪ね、寝込みを襲った刑事たちに向かって、ガミガミと文句をつけた。
その間に、「ちょっと」と言って、トイレに立った小堀は、そのまま刑事の目をかすめて逐電してしまった。そのかわりにたい子がひっぱられてしまった。
たい子が警察に連れて行かれたことを知った円地文子は、たい子と親しくしていた河崎なつに連絡すると、自分は今行かれないから、かわりに差し入れに行ってくれと言われた。留置場は寒いから、女ものの毛糸のもも引きを忘れずに持って行くようにと言った。
円地は新宿に出て、毛糸のもも引きとシャツを買い、たい子がつかまっているという中野署へ行く前に「生稲」へ寄って様子を聞こうと思って、中野駅前の坂を上って行った。
玄関へ行くと、年をとった女将が出て来て、
「部屋には刑事が来て張り込んでるから、上がらない方がいい」と|囁《ささや》いたので、円地は包みをかかえてまた外へ出た。
坂を降りかけると、うしろから「ちょっと」と声をかけられた。背広を着た小柄な男であった。
「ここへ、何しに来たのか」と、その男は言った。刑事であった。
円地は、自分は平林たい子の友だちで、これから中野署へ差し入れに行くのだと正直に言った。
「ともかく、ちょっと来てくれ。一緒に行こう」と男は言って、駅前の交番へ円地をひっぱっていった。
それからあと、一緒に中野署へ行くことになった。円地は刑事と一緒に歩くのは生れて初めてだったので、内心びくびくしていたが、虚勢をはって、何くわぬ顔でついていった。
中野署では、特高にさんざん毒づかれた。
「女のくせに生意気な」と何度も言った。鼻っぱしらの強い円地は意地になって、切り口上に物を言ってやり返した。
結局、たい子に会うことは許されず、仕方がないので、毛糸のもも引きとシャツの入った包みをあずけて引揚げた。自分もブタ箱に入れられるかと思っていたので、そのままどうやら帰されて、やれやれと思った。
だんだん暗い時代に、それも急テンポに入っていった。
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昭和十四年二月二十四日の夜、モンパルナスのカフェで友人たちと酒をくみかわし、深夜にアトリエに帰って来た岡本太郎が、ドアをあけると、足もとに門番が差し入れておいた電報があった。
取りあげてみると、日本からの電報だった。一瞬いやな予感がした。ひらくと、
「カノコビ ヨウキ カイフクノミコミ」イッペイ
と書いてあった。
太郎はへたへたとベッドの上に坐りこんでしまった。「カイフクノミコミ」と書いてあるが、それは父一平の心やりで、本当はきっと重体なのだと察した。
案の定、それから二日後に第二の電報が来た。
「カノコキトク キボ ウヲステズ 」
ここにも父の必死の思いが感じられた。しかし、それはもはや「死」につながるものだと直感した。かと言って当時は今のように一足飛びに帰ることも出来ない。
太郎は、隣りのハンガリー人の友達の家にかけこんで、声を上げて泣いた。
また二日おいて、最後の電報が来た。
「カノコヤスラカニネムル キヲオトスナ アトフミ」
太郎はカッとなってその電報をにぎりしめ、アトリエをとび出した。パリの街を無我夢中でかけずりまわった。歯をくいしばった。なみだが眼からふき出た。
〈自分が死んで、母が生きないものか!〉
太郎は心の中で叫んだ。
うつけたようになって家に帰ると、また電報が来ていた。
「ボ クハキミノタメニイキル スコヤカニアレ クルシケレバ デ ンウテ」
太郎は感動した。|芯《しん》のぬけたような身体をひきずって、電報局へ行き、しばらく考えてから、次のような電報を打ちかえした。
「ハハハワガ ウチニイキツツアレバ カナシカラズ チチハボ クニワヅ ラワサレズ シゴ トニイキヨ」
太郎のところに最初の電報がついたのが二月二十四日で、それから二日おきに三つの電報が来て、母かの子の死を知らされたのだが、実際にはかの子は、二月十八日に既に死んでいた。
もともと肥満体のかの子は心臓に持病があって、脳|溢血《いつけつ》を三度も起したことがあった。昭和十三年の暮、『朝日新聞』の新年版に勅題にちなんで短歌を寄せることになり、三浦三崎に出かけた。ところがバスにゆられるうちにはげしい頭痛におそわれた。脳充血の発作だった。
医者は、しばらく静養すれば回復すると言っていたが、やがて一月もなかばすぎて酷寒を迎えようとする頃から病状は悪化し、過労から来る神経のいらだちもあって、脳膜炎の危険を生じていた。
しかし意識は明瞭で、苦しくなると一平に、
「もういいや、なんでもパパに任せらあ」などと、無理に笑ってみせたりした。
また、しきりに太郎の身の上を心配した。何となく、ひところと違って気弱になっていた。
病気のことを一平が太郎に知らせなかったのは、もし返電が来た場合、敏感なかの子が、自分が危篤なのだと思い込み、容態が悪化するにきまってる、と思ったからであった。
しかしそんな心くばりにもかかわらず、かの子の容態は二月十七日朝、急変した。「その時はじめて、本当に容態の危惧を感じた」と一平は後に述懐している。
直ちにかの子は東大病院に移され、手厚い看護をうけたが、時すでに遅く、意識不明に陥り、そのまま翌十八日午後、眠るように静かに息をひきとった。
十八日は偶然、観音の日であった。その頃レインボー・グリルで、三宅やす子の七回忌が行われていたが、親しくしていた岡本かの子が姿を見せないのを、出席者は不審に思っていた。
岡本かの子の死が新聞に報じられたのも、かの子が死んでから六日後の二月二十四日であった。
「あたしがもし死んだら、お通夜もお葬式も絶対にウチの者だけでやってくださいね」とかの子が言っていた。一平はその遺志にしたがって、誰にも知らせず、すべてが終えてから新聞に知らせた。
そのために、かの子の死因について、若いツバメとの情死とか、自殺とか、狂死とか、あらぬうわさが立てられた。
かの子はまた、
「火葬はきらい、死体を焼くなんておかしい」と言っていた。一平はその言葉に従って、土葬の習慣はどの寺にも|殆《ほとん》どないのだが、無理に頼んで土葬にしてもらった。
土葬の日は二月二十一日であった。前夜から冷たい雨がふりしきっていた。多磨墓地にはこばれた|柩《ひつぎ》の上に、覆いかぶさる二本の松の|雫《しずく》が時折さっとふりかかった。
付添うのは夫一平と身内の十人あまりに過ぎなかった。本来なら岡本家の墓地に葬るべきなのだが、一平はかの子の気持を思いやった。ふるさと武蔵野の大地に、その土壌に和して、肉体を|毀《やぶ》らぬようにと、遺体は土葬の形式をとったのだった。
あらかじめ深く掘りおこされた穴に、一平たちは花々を一面に|撒《ま》いた。牡丹、薔薇、カーネイションなど生前に好んでいた花々が、厚いやわらかいしとねのように敷きつめられた。白木の柩が静かに降ろされ、その上にまた花々が撒かれた。一平はシャベルを手にとった。湿った土が、かの子の柩の上を覆っていった。
「雪華女史 岡本かの子之墓」
一平によって書かれた墓標がその上にたてられた。その墓前に、一平はそっと、八柳五兵衛作の観音像を据えた。
文壇中心の「岡本かの子追悼会」が、四十九日に当る四月七日、丸ノ内の東洋軒で行われた。七十人余が集った。
一平の感謝の言葉につづいて、川端康成が、
「このように大きく豊かで深い女人は、今後いつまた文学の世界に生れてくるであろうか」と、その死を悼んだ。
「旅愁」の旅から帰った横光利一は、パリでの太郎との交遊を語り、太郎からかの子に口止めされたことを、帰ってからかの子に会い、太郎の行状を熱心に追及され、うっかりしゃべりそうになって困った、という話をした。
宇野千代は、その夜「異常な感動をうけた」として、次のようなことを後に語った。
「……この感動は人の死を悼むという哀悼の気持とは|凡《およ》そ別な、何かもっと強い、不思議な気持であった。
来会者は思いのほか多かった。会の始まる前まで、私はその人達がざわざわ賑やかにしている中に奇妙な|愉《たの》しいような気持で立混っていたのだが、やがて席につくと、思いがけなく直ぐ前に岡本一平氏が坐ってられるのを見て、思わずどきっとなった。あとで聴くと、一平氏はかの子さんの死以来『女の人に会うのが一番つらい』と言っておられるよし。私は、生きて、何か愉しげにさえしている同じ女である自分が一平氏の眼の前に坐ったことを申訳ないような、差し迫った気持にふいに襲われて、いいようのない辛い気持になった。
一平氏は泣いておられた。私はまだ一度も、人の顔にこんなに涙が流れているのを見たことはない。来会者たちがそれぞれかの子さんについて語っている間、一平氏は顔をあげたまま、涙の流れるに任せておられた。(中略)
『お袋と娘とが同時に|亡《なくな》ったようで』というその思い方の中に、一平氏の悲嘆の一切があるように思う。この場合の娘という言葉は、私にはある抽象的な形でしかうけとれない。そして私は、ふいに、岡本さんに対する一平氏のこの世のものでないような愛情が分ると同時に、この境地にまで到達できる人間同士の愛情を、尊く思わずにはいられなかった。――会が終っても誰も席を立つものはなかった。(中略)
あれは何という人の原作か、ずっと前に『化石の森』という不思議な映画を観たが、それはある男が自分の生命を絶つことによって愛する女の未来を幸福にしようとした物語で、自分の生命を絶つが、絶つことによって女の未来の幸福の中で我も実を結ばんという。言葉は違うかも知れないが『汝の中にわが種を|蒔《ま》かん』とかいうフランソア・ビヨンの詩が主題の映画だった。私は不思議な気持で、あの映画の男の気持を思い出していた。
一平氏はわが種を蒔いた。そしてその種が成長して花開き殆ど実を結ぼうというところで、その種の土壌になっているかの子さんに死なれた、その二重の悲嘆の中にいられるのだということを私ははっきり感じたのであった。だが、物語の世界ではなく、現在眼のあたり、人の世の人情にこういう美しいものがあることを知ったのは、私にとって実にいいようのない愉しいことであった」
その年の夏、一平は|香奠《こうでん》返しとして、妙法蓮華経観世音菩薩|普門品《ふもんぼん》第二十五の写経を複製にして配った。
*
昭和十四年三月二十九日、詩人立原道造が二十四歳の若さで死んだ。
立原道造は大正三年七月三十日、東京日本橋の生れで、水戸の儒学者立原翠軒、その子で画家の杏所の|末裔《まつえい》である。東大建築科の卒業で、卒業制作は「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」と題する設計で、卒業と同時に石本建築事務所に勤めていた。
府立三中時代から石川木、北原白秋の短歌を好み、白秋に詩を見せたことがある。一高入学後、前田夕暮の「詩歌」に自由律短歌を発表して注目された。一高在学中から中学の先輩だった堀辰雄に師事し、その紹介で室生犀星の家に親しく出入りした。軽井沢の風物に親しんだのもそのためである。
しかし生来病弱で、建築事務所も、しばしば休み、旅に出ることが好きで、東に西に放浪の旅に出た。
昭和十三年十二月十四日、十日ほどの長崎の旅から帰って来た時、彼の身体はかなり弱っていた。|肋膜《ろくまく》を患っていたのである。彼の身体を気づかって、家族や友人が東京駅へ出迎え、待たせてあった自動車に乗せて、そのまま家まで連れて行こうとすると、彼はいかにも不満そうに、
「銀座へ寄ってコーヒーでも|喫《の》もうと思っていたのに」と言った。
そんな風に、自分ではそれほどと思っていなかったのだが、彼の身体は既に相当悪い方に進んでいた。家に帰って明くる日、東大病院で診察を受けると、直ちに絶対安静を命じられ、十日ほどして、十二月の末、中野区江古田の療養所に入らなければならなかった。
その病床に、第一回中原中也賞が彼の詩に贈られたという|報《しら》せが入った。その賞金百円で、|恢復《かいふく》祝を盛大にやろうと楽しみにしていたが、病菌はもう彼の|咽喉《のど》から腸まで冒していて、肉体は衰えるばかり、恢復は至難の状態になっていた。
それほどになるまで治療らしい治療もせず旅をつづけていた彼は無謀であった。医師たちは見舞の人々の問いに、ただかぶりを横にふった。
彼の方は相変らず割合に元気で、ずっと再起の日の訪れることを固く信じて、気分のいい日には窓外の風景を鏡に映してたのしんだり、「五月の風をゼリーにして持って来て下さい」と言って付添いを困らせたりしていた。前々から|痩身《そうしん》ではあったが、その顔や手はすっかり肉が落ちて見るかげもなくなっていた。三月も半ばすぎた頃、衰弱はさらにはげしくなり、遂に二十九日午前二時二十分、永遠の眠りについた。ちょうど付添婦が「容態がいくらか良い」と言ったので、家族のものたちは、その夜に限って家に帰った。そのあとで患者は、咽喉に|痰《たん》がからみ、それをどうすることも出来ず、誰ひとり息を引きとるのを見とるものもなく死んでいった。
告別式は四月六日、日本橋の自宅で行われ、十六日、|谷中《やなか》多宝院に埋骨された。墓碑には「温恭院紫雲道範清居士」と刻まれた。
一カ月目の二十九日、中原中也賞発表の会が悲しくも追悼の会となり、本郷赤門前の「鉢の木」で、室生犀星、堀辰雄、津村信夫、三好達治、丸山薫ら、多くの詩人たちによって催された。
*
昭和十四年九月七日午後二時四十五分、泉鏡花が六十七歳の生涯をとじた。病気は肺|腫瘍《しゆよう》であった。
鏡花はその年の四月二十四日、佐藤春夫の|甥《おい》の竹田龍児と谷崎潤一郎の長女鮎子との結婚の媒酌人をつとめた頃はまだ元気だったが、六月頃から|躰《からだ》に変調を覚えるようになり、七月、病苦を押して『中央公論』のための小説「縷紅新草」を書き上げたが、八月に入って病勢がつのり、九月七日に他界した。
|枕頭《ちんとう》の手帳に鉛筆で、
露草や赤のまんまもなつかしき
と走り書きしたのが絶筆となった。
九月八日、宮内省から天皇|幣帛《へいはく》御下賜の沙汰があり、九日、弟子の木清方が遺族にかわって出頭し、これを受けた。
十日、芝青松寺で、葬儀が行われた。
鏡花は笹川臨風と非常に親しかった。弥次、喜多とお互いに呼び合うほどの仲であった。手紙も、弥次から喜多へというふうに書いたりしていた。
鏡花は昼寝のときにも「膝栗毛」を枕元に置いて眠り、薬の代りにしていた。
そのような親しい仲の臨風が、次のような名文の弔辞を読んだ。
「伏して惟みれば、幽幻院鏡花日彩居士は本天上の仙にして、恐らくは人間の種にあらざるべきやに思はれる。才、馬卿を凌いで、気は長吉を軼ぎ、英華煥発、尋常の徒の企て及ぶべき所ではない。羅浮、夢は絶えんとして仙骨縹渺に、窈冥忽、容易に捕捉し難い。其の一たび想を構ふるや、奇思横生し、或は佳嬪美媛紛として花の如く、或は一転して魑魅魍魎、百鬼白日行き、神出鬼没、変化窮りなく、其の文章の鎔冶洗煉せる、一字一句に的鑠たる春星を点じて、一辞の軽なく、隻句の俗なく、尽く是れ神斧鬼削、まことに超世絶代の奇文と称すべきである。居士以前に居士の想居士の文なく、居士以後に居士の想居士の文なきのみでなく、居士の如き人は今後求めて決して求め得られない。居士狷介にして潔癖、然も其の交遊中には居士の為めに一意労めて已まない諸君子の少くなく、鏡花宗徒には強烈なる信奉者の多く存するを見れば、居士の士ならざれども高く、広からざれども深きを知るべきである。秋風未だ吹き到らざるに、帝忽ち召して白玉楼の記を作らしめ給ひ、永く人界と絶つ、傷しいかな。落月依微として、晟星又滅、空しく天の一方を仰いで、旧夢の尋ね難きを嘆くあるのみ」
法号は幽幻院鏡花日彩居士。雑司ヶ谷墓地に埋葬された。
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昭和十三年六月に政府(第一次近衛内閣)が帝国芸術院の構想を発表した。ところが六月二十日付の新聞に、正宗白鳥と谷崎潤一郎が芸術院入りを辞退したという記事が出た。それから三日後には三段見出しで、島崎藤村が推薦を辞退したと報じた。このとき藤村は次のように語った。
「文芸は民間に発達したものです。これに対して政府が総合的に機関を作るといふことは意味のあるものだとは思ひますが、自分一個としては会員になることは、もつと考へてからにしたいと思ふのです。芸術院そのものに対する意見からでなしに、全く自分個人の心境からお答へしたのです」
文芸は民間に発達したもの、という言葉の裏には、国家権力と結びつくことへの警戒の気持があった。
帝国芸術院の前身は、明治四十年に牧野伸顕文相の時代に美術審査委員会が発足して、文部省美術展覧会(文展)が開かれたのがはじまりで、大正八年の中橋徳五郎文相時代に帝国美術院となり、初代院長に森外が選任された。帝国美術院の仕事は、「文部大臣ノ管理ニ属シ美術ノ発達ヲ裨補スルヲ以テ目的トシ、文部大臣ノ諮詢ニ応シ美術ニ関スル意見ヲ開申シ、其ノ他美術ニ関スル重要事項ヲ建議シ得ルモノ」であった。美術オンリーだったのである。
帝国美術院はその後規約が改正されたが、画壇から反対の声が起り、十数人の脱退者が出て二年あまりもめていた。そこで美術偏重をあらため、文芸、音楽その他の分野にもわくをひろげることになり、美術部四十六人の他、文芸、詩歌、書道、建築、音楽、能楽から二十六人が新会員になった。文芸部門では、さきに辞退の意向を示していた谷崎潤一郎をはじめ幸田露伴、泉鏡花、徳田秋声、岡本綺堂、武者小路実篤、菊池寛といった顔ぶれであった。
藤村と共に辞退した正宗白鳥は、
「文部省が、芸術院を造ることは不思議だ。稀有なことだ。チヤンチヤラおかしいといふのが、文壇の輿論みたやうだつたと、私は記憶してゐる。新聞にも雑誌にも、芸術院に対する文壇人の批判がしきりに出てゐたが、島崎藤村の感想がその代表的のもので、要を得てゐたやうであつた」と、後に回想しているが、当時はこういう野党精神を尊重する文士意識がまだあった。
それから三年後、昭和十五年に徳田秋声と菊池寛が、熱心に正宗白鳥を説得して芸術院入りを納得させた。白鳥が同意したので力を得た二人は、今度は島崎藤村を勧誘に出向いた。
秋声と寛を前にして、炉ばたでしばしば黙然と敷島をふかし、|瞑想《めいそう》していた藤村は遂に芸術院入りを承諾した。
藤村が芸術院入りを承諾したのは、もう一つ、藤村が会長をしていた日本ペン倶楽部の人たちからの|推《すす》めもあった。
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昭和十三年十二月三十日、JOAKから、「探偵作家総出演による探偵劇『赤馬旅館』」が、歳末余興週間として放送された。
原作・小栗虫太郎、演出・久生十蘭、解説・甲賀三郎、音楽指揮・久岡幸一郎、配役、ホームズ・江戸川乱歩、ワトソン・水谷準、赤馬旅館の亭主・大下宇陀児、その女房・海野十三、その|伜《せがれ》・蘭郁二郎、富豪・渡辺啓助、その従僕・延原謙、その女秘書・勝伸枝(延原夫人)、馭者・城昌幸、村の牧師・木々高太郎。
その頃の『都新聞』がこれを解説して、次のように書いた。
「シヤーロツク・ホームズを主人公としてその明智と才能を傾けて難問を解決するといふ面白い作品で、小栗虫太郎氏の創作書きおろしである。出演はおなじみ『新青年』に拠る探偵小説の大家新人仲よく並んで、ペンを舌にかへて大熱演、如何なる展開を見るか聞きものといふわけ」
江戸川乱歩の「日記」によると、当夜の出演よりも、その前に一同が放送局に集まって、久生十蘭の指導のもとにせりふのけいこをうけたのだが、久生十蘭は、演劇の専門家で、演出もわきまえていて、なかなかきびしい指導ぶりで、みんな、長い時間、せりふのやりなおしをさせられて、ねをあげたという話である。昔も今も、文士劇は楽しいものらしい。
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昭和十五年の夏、高木卓は汗をぬぐいながら、東京内幸町の歩道を歩いていた。文藝春秋社から来社してほしいという連絡を受けたからである。高木は雑誌『作家精神』の同人だった。同人なら誰でもいい、という連絡だった。高木はその時三十三歳で、水戸高と一高のドイツ語講師をしていた。文藝春秋社はその頃内幸町の大阪ビルの中にあった。
文藝春秋社の応接間に通されると、日本文学振興会の担当者が、
「あなたの『歌と門の盾』が第十一回芥川賞に決まったのですが、お受けになりますか」と言った。
高木は意外に思った。同人仲間でも力量のある桜田常久への授賞の連絡かも知れないと考えていたからであった。
「考慮させて下さい」と答えて、高木は文藝春秋社を出た。
結局、高木はこれを辞退した。その理由は、それより前に書いた「遣唐船」という作品の方が自信があって気に入っていたので、芥川賞をもらうなら、その方でほしかった。それで即答しないで引きさがり、考えた末に辞退したのであった。
これは、見方によっては、審査員に対する不信とも言えた。
菊池寛は腹を立てた。『文藝春秋』(昭和15・9)の「話の屑籠」に、次のように書いた。
「芥川賞は別項に発表した通り、受賞者に擬せられた高木卓氏が受賞を辞退したので、中止することにした……審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負ふべきものではない。辞退しても、授賞が内定した以上はその受ける名誉は同じで、本人は授賞の成果はちやんと心得てゐる。夏目漱石が文学博士を辞退したつもりでも、世間的には辞退したのでいつそうハクがついたのと同じやうなものだ」
川端康成は選評で次のように書いた。
「賞を受けるか受けないかは、もとよりその人の自由であるといふものの、今回高木卓氏が辞退されたことは、事情の如何にかかはらず、残念だつた。辞退の理由は知らないがもし自作についての謙遜とすれば、それはお互ひにきりのないことであつて、私等も他人の作品の銓衡など出来たものではない」
しかし、佐藤春夫は、
「この作者は人として学者として優れた人らしいのに、文学的――尠くとも作家的天分にはあまり恵まれた人ではないらしいとまで考へてゐた」と言い、
「かういふ立場になつて(受賞に)賛成した自分としては高木氏が省みて受賞を辞退されたといふ報を見て、氏の自らを知る明に敬服し氏の自負に対して当選者以上に尊敬したくなつた」と、なかなかトゲのある讚辞を呈した。
それにしても、文壇の登竜門として、多くの作家志願者がほしがっている芥川賞を辞退したというのは、文壇の大きな話題になった。
受賞内定のニュースを聞いたある出版社の社長が、高木のところへ「出版させてくれ」と丁重に頼みに来た。ところが受賞を辞退したとたんに、手のひらを返すようにがらりと態度をかえ、出版を断わって来た。
高木は出版社の冷酷さにあきれると共に、自分の辞退によって、今後『作家精神』同人の作品が選考からはずされるようになっては困ると思った。高木は再び、文藝春秋社を訪れ、菊池寛に会った。そして、
「自分は勝手に賞を辞退したのですが、わたしのために他の同人が迷惑をこうむっては困ります。いいものがあったら選考に加えて下さい」と頼んだ。菊池も高木のそのわるびれない態度に好感を持ち、
「選考には私情をまじえないようにしましょう」と、確約した。
そして、次の第十二回受賞作は、やはり『作家精神』同人の桜田常久の「平賀源内」であった。
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昭和十四年九月七日の泉鏡花の死は、幼少時代から鏡花を崇敬していた水上瀧太郎に大きな衝撃を与えた。
瀧太郎はその年の七月二十二日に招かれて大阪毎日新聞社の取締役に就任していたが、その頃から既に高血圧の症状があり、九月十日の、泉鏡花の葬儀まで万事をとりしきったが、その心労もあってか、十一日夕方、常務取締役を務めている会社明治生命で多量の鼻出血をした。しかしそれをおさえてタクシーで帰宅した彼はいつもの通り入浴した。日頃健康に自信を持っていた彼は、あまり気にとめなかった。
翌日も出血があったのに出社し、会社で検査したところ、高血圧症状と診断された。しかし、十三日に鏡花の初七日に出席し、午後には東京日日新聞社(現・毎日新聞社)の重役会にも出席した。二十三日には死去した岡田三郎助画伯を弔問し、十月二十四日には「鏡花全集」編纂委員会に出席、二十五日には鏡花の埋葬式に列席、さらに十一月十一日の東日重役会に出席、そのあと岡田三郎助の埋葬式に列席し、その他、泉家の親族会議、その百カ日に墓参後法事に列席したばかりでなく、十二月二十日の大阪毎日本社の重役会出席のために大阪へ出かけた。それは慶応病院でのレントゲン治療によって、血圧がいくらか下っていたこともあったが、やはり自分の健康への過信であった。
瀧太郎は独身時代から、はじめは京都、次は蒲郡へ、殆ど毎年歳末から新年にかけて旅に出た。新年の客をさけるためであった。彼は客は嫌いではなく普段は喜んで客と応対したが、儀礼的な年賀の客の応接は嫌っていた。
この年の末は家族と共にめずらしく安房鴨川へ出かけた。「暖かい海岸」を選んだ。
帰ってからはいつものように明治生命株式会社へ出かけ、一月十五日には東京日日の重役会に出席、二月十日には岡山へ出張した。岡山から四国高松を廻って大阪に一泊、大阪毎日本社の重役会に出席、十四日に帰京したが、その時の日記は次の通りである。
「二月十日、午後九時東京発。昨年九月鼻出血以来はじめての出張だ。多少の懸念なくもなし。しかし、当時二百近かつた血圧も、年末には百五十程度に下り、正月支店長会議の頃一寸逆戻りの態だつたが、その後は百四十台となり、出立前二日には百三十八といふ好成績で、レントゲン治療を暫時休んだ方がよからうといふ処まで来た。再三繰返した身体検査の結果、何処も悪くないので、結局一時的過労によるものと診断されたが、いつたん悪い癖がつくと、なかなか旧態には復さないものらしいので、私も長期抗戦の覚悟を定めてゐる。酒を飲まず、獣肉を口にせず、食物の量を減じ、深夜の読書執筆を廃し、過激の運動を避け――いはば、まずい物を食つて怠けてゐるのだ。今度の出張も、出来る丈怠ける事を専一にしなければならないと思ふ。
十一日、皇紀二千六百年の紀元節、関西は雨だつた。十一時一分岡山着。午後二時より支店で社員大会があり、私は会社の近状と、本年度の改革その他につき、原稿迄用意して臨んだが、登壇挨拶の最中気分が悪くなり、かすかながら身体の中心を失ひさうな予感がしはじめたので、無理をしずに中絶の止むなき旨を申述べて謝つた。或は室内の極端に高い人工熱度の為めに不快を覚えたのかもしれないが、去年の鼻出血直後、会社の往復に、時々眩暈を感じ、たつた一度ではあるが、会社の廊下で眼がくらんで何も見えなくなつた事もあるので、我慢せずに引下つてしまつた。緊張した大会の空気をみだし、甚だ醜態だつた。(中略)夕刻、料亭新松の江に行く。(中略)医師の命令で、盃を手にしない事になつたので、手持ぶさたで困り、徳利を持つてお酌に廻つた。(中略)
十二日、午前十時五分岡山発。今日も亦小雨だ。昨日の社員会席上の眩暈は、矢張温気の為めだつたらしく、其後何の不快感も起らない。此の線はいつも混雑するのだが、珍しく客が少なく、宇野高松の連絡船も、雨天の為めか、時節の為めか、話声さへしない寂しさだつた。(下略)
十三日、雨、午前七時四十五分高松発、午後一時十七分大阪着。(中略)今日は大阪毎日新聞社の方に用事があり、会社の方には一日休暇を貰つたに等しいので(中略)直に新聞社へ行く。
十四日、晴。午前九時大阪発。午後五時二十分東京着」
そして翌年の三月二十三日午後二時十五分、瀧太郎は、明治生命講堂における会社「銃後娘の会」で脳溢血の発作を起した。彼は、岡山でのことを思い、大したことではないと判断して、夫人の兄でやはり重役の俣野景彦たちに介抱されながら、
「騒がせて申しわけないと、来賓の方々にお詫びして来てくれ」と気づかい、「自動車を呼んでくれ、すぐ帰るから」と言った。
かけつけた平井博士が、
「頭が痛みませんか」と問いかけると、「いいえ、痛みません」と答えた。「|嘔気《はきけ》はありませんか」というと、「いいえ、ありません」と答えた。「舌を出してごらんなさい」と言われると、幾分不自由そうに舌を出して見せた。しっかりしていた。
医師は、「軽い発作だから、二、三日静養したらいいでしょう」と言った。しかし、車で家に帰ることは禁じられ、そのまま六階の一室に横たえられた。
夕方近く、小泉信三、小島政二郎、水木京太、勝本清一郎、和木清三郎、泉鏡花未亡人、岡田八千代(三郎助未亡人)らが急を知ってかけつけた。
初め、軽い発作と思われたが、容態は時々刻々悪化した。夜になって、平井博士は、「左右の脳室を血液が冒しています。最早、御憂慮すべき御病状だと申上げる他ございません」と皆の前で言った。
和木清三郎が、新聞社に、先生の「急篤」を報ずべきではないかと、先輩たちと相談し、『三田文学』として、先生の重態を知らせる事に決り、和木が部屋を出て、階下の部屋の、一カ所だけスタンドのついたテーブルの卓上電話の受話器を手にとり、各新聞社に掛けようとすると、勝本清一郎が息せき切ってかけ込んで来て「和木さん! ご臨終だから……」と言った。和木は|咄嗟《とつさ》に立ち上ると、受話器に向って夢中で「ご臨終です!」と叫び、急いで、かけ上った。水上瀧太郎は既に静かな永遠の眠りについていた。和木は涙をかみころし、まだ暖かみのほのかに残る「先生」の手をにぎりしめた。間もなくまわりのもの皆がハンケチを眼に当てはじめた。死去の時間は午後十一時十分であった。五十三歳であった。
遺体は深夜、青山南町の自宅にはこばれた。
葬儀並に告別式は三月二十六日午後一時から、築地本願寺で社葬によってとり行われた。その模様を『三田文学』編集員の一人平松幹夫は次のように書いた。
「……今日はいよいよ最後の日。前夜の予報は雨天とのことだつたが、薄暗い曇り日だつた。葬儀一時、告別式二時より三時といふ予定に、昨夜三田文学関係者は十二時半祭場の築地本願寺集合を決し、会社側の係員にお手伝ひする接待員も丸岡、南川、塩川等の若い諸君に振当てられ、この人々は既に十時から詰めかけてゐた。早昼を済ませ妻帯同、途中今井を誘つて赴く。(中略)御遺族、文壇関係、会社一般等の三つの控へ室は既に喪服の人の群で埋まつてゐた。(中略)定刻一時。いよいよ最後のお別れの挙式だ。式場の豪華さに比して、なんと清楚な祭壇だらう。|樒《しきみ》一対、壇上壇下各一対の造花だけが棺側に飾られ、花輪一つない簡素さ。(中略)やがて鈴の音とともに三十名ばかりの僧侶が入場し、読経がはじまつた。(中略)明治生命会長川原林順治郎氏の弔詞の後で、進行係の呼声で三田文学代表の小島さんが立たれた。
『天、突如として水上瀧太郎を奪ふ……』と朗々とした小島さんの声は、私たちの深い悲しみとそれ故にまた見えざる運命に対する憤りをこめて、満堂の|歔欷《きよき》をそそらずにはゐなかつた。(中略〉優蔵さん、富士子さんの手を引いて、奥さんが御焼香に立たれた。(中略)式が終り、奉拝者を迎へる私たちの堵列が整ふか整はぬうちにもう待ち兼ねた告別式の列がどつと雪崩れ込んでゐた」(『三田文学――水上瀧太郎追悼号』昭和15・5)
この日の参会者は一万三千名という盛儀であった。
同じ『三田文学』追悼号の中に石坂洋次郎は次のように書いた。
「……晩年は会社の出張が多く、小説も随筆もほとんど書かれなかつたやうであるが、それに就て木清方氏が芸術新聞の追悼文の中で『もう一度文壇で花を咲かせたかつたといふ人もあつたが、これはなかなか難かしいことだらうと思ふ。寧ろ私は実業界により期待してゐたのだが――』と述べて居る。私も同感である。水上さんは泉鏡花先生を崇拝して居つたことでも頷かれるやうに、どつちかと云へば芸術至上の好みをもつて居られたやうであるが、実際の水上さんの人柄に接し、その生活ぶりを傍から眺めてゐると、私はあの二葉亭の警句『芸術は男子一生の事業とするに足らず――』を妙に切実なものに思ひ出させられるのであつた。水上さんがその気骨と健康とで実業界に活躍し、やがてはその向の大臣にでもなつて国政をあづかるやうになつてくれればと念つて居たのも、私一人のみではあるまい。……」
*
その頃織田作之助は、京都四条河原町の「ハイデルベルク」というバーの女宮田一枝とはげしい恋愛をしていた。それは三年越しのものであった。織田は女性誘惑術にかけては稀に見る手腕の持主で、これまでにも何人かの女を手ごめにしていたが、この宮田一枝の場合は、これまでのような遊び心ではなかった。青春を|賭《か》け、全身全霊を賭けた大恋愛であった。
そもそも織田が「ハイデルベルク」へ行ったのは三年前のことだったが、それから二週間余通いつめて、一枝を一泊の旅につれ出すことに成功した。
二人は大阪の上町線の松蟲花壇に泊った。一つ夜具に寝たが、しばらくしゃべったあと、織田はスースー寝息をたてた。それは彼の手練のわざで、実は眠ったふりをして、相手をじらせたのであった。背中を向けて、本当に眠ったように装った。するとしばらくして、一枝がうしろから抱きついて来た。彼は|愕《おどろ》いて眠りをさましたようにしてふりほどくと、いきなり彼女を夜具の外へ突きとばした。女はしくしく泣き出した。
それからおもむろに織田は一枝をなだめすかし、やんわりと抱き、得意の秘術をつくしはじめた。ところが相手も相当なものであった。彼はこれほど自分の「秘術」に実際に値するほどの肉体に出会ったことがなかった。もちろん女が処女だなどとは思っていなかったが、これほど訓練をへた女体の持主とは思っていなかった。
すると、むらむらと|嫉妬心《しつとしん》が|湧《わ》き起った。彼は執拗に彼女の過去を知りたくなり、逐一告白させようと迫った。彼の強引さに圧倒されて、彼女は自分の過去を告白した。家計の犠牲となって二十歳の時中年の金持の世話になったこと、俳優あがりのヨタ者に暴力的に犯されたが現在は切れていることなどを告白した。そして、「だけど、あんたのような人ははじめて……」とはずかしそうに言った。そんな話を聞くと、一層彼の嫉妬心は燃えさかった。嫉妬の火にさらに油がそそがれたように彼はいよいよ深く彼女と結びつこうとしていた。
やがて、「ハイデルベルク」に住み込んでいた一枝は織田の下宿へ来て同棲するようになった。
織田は一枝と正式に結婚しようと思っていた。しかし一枝の父親が頑強に反対した。やがて一枝は父親に連れもどされた。
一枝の家は一枝の収入と、女学校教員をしている彼女の姉の俸給とでささえられていた。それなのに、退役軍人の父親は|断乎《だんこ》反対した。が、一枝は父親の厳しい監視の眼をのがれ、月に一度か二度、織田に|逢《あ》いに来た。逢えば二人は、前途と結婚のことを話し合った。共に寝、共に食事をし、街を歩き、お茶を呑み、休息し、和やかに別れた。
そんな生活が三年続いて、昭和十四年七月、織田は一枝と|漸《ようや》く正式に結婚した。大阪郊外の南河内郡野田村に新家庭を持った。それには織田の姉と一枝の姉との大きな尽力があった。一枝は十銭、二十銭の出費を家計簿に記入し、織田の身の廻りをかいがいしく世話するういういしい新妻であった。
織田はその頃『日本工業新聞』の記者として働くかたわら、「夫婦善哉」の構想を練っていた。
それが、昭和十五年七月、改造社の雑誌『文芸』の「文芸推薦」作品となった。
*
織田作之助の「夫婦善哉」より二カ月後の『文學界』に掲載された田中英光の「オリンポスの果実」が、第一回池谷信三郎賞を獲得した。
田中英光は大正二年一月十日、東京赤坂榎町五番地に生れた。大正九年に父の病気療養のため鎌倉に移った。湘南中学から早稲田第二高等学院を経て昭和十年早稲田大学政経学部を卒業した。
昭和七年、二十歳の時、ロサンゼルスの第十回オリンピックに日本代表のエイト・クルー選手として参加した。
その頃から文学青年だった彼は、太宰治にあこがれ、太宰に次のような手紙を出した。
「……第十回オリムピツク選手としてアメリカに行きました。当時二十歳、六尺、十九貫五百、紅顔の少年であります。ボートは大変下手でした。先輩ばかりでちひさくなつてゐました。往復船中の恋愛、帰つてきたぼくは歓迎会づくめの有頂天さのあまり、多少神経衰弱だつたのです。ぼくが帰国したとき、前年義姉を失つた兄は、家に帰り、コンムニユスト、党資金局の一員でした。あにを熱愛してゐたぼくは、マルキシズムの理論的影響失せなかつたぼくは、直に共鳴して、鎌倉の別荘を売つたぼくの学資を盗みだして兄に渡し、自分も学内にR・Sを作りました。関タツチイはそのメンバーであり、彼の下宿はアヂトでした。その頃自殺を企て、実行もした元気のない塩田カジヨーと知り合つたのです。タツチイがへまをしてつかまりました。タツチイは頑張つてくれたのでしたが、ぼくは、その前から家を飛びだしもぐつてゐた兄にならつて、殆ど狂気しかかつてゐるヒステリイの母をみすてて、ぼくも一週間、逃げ歩きました。家の様子をみにきたぼくは姉に掴まりました。学資がなく学校も止めさせられ、ぼくは義兄の世話で月給十八円で或る写真工場につとめに出ました。母と共に二間の長屋に住んで。――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キヤツプとなり、仕事を終へると、街で上の線と逢ひ、きつ茶店で、顔をこはばらせて、秘密書類を交換しました。その内、僅か四五ケ月。間もなく、プロパカートル事件が起り、逃げてきて転向し、再び経済記者に返つた兄の働きで、僕も学校に戻れました。転向後だつたので、兄は二ケ月、ぼくは大した事もなかつたので半日、豚箱に置かれました。職場にゐた頃、機関雑誌に僕はミユーレンの焼き直し童話や、片岡鉄兵氏ばりのプロレタリア小説を書いてゐました。十銭で買つた『カラマゾーフの兄弟』の惑激もありましたらう。貧乏大学生の話、殊に嫁を貰つてからの兄への遠慮は、ぼくにまた幼年期からの理想、小説家を希望させたのです」
こうして出来上ったのが「オリンポスの果実」であるが、この作品を小林秀雄は「活字のひとつひとつをピンセットでつまんでたべたくなるような清純な小説」と評した。
*
昭和十五年七月、第二次近衛内閣が成立、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会が組織され、七・七禁令の発表と、世は新体制一色に塗りつぶされ、幾分残存していた自由主義的なものも、この頃から全く影をひそめ、最も商業的であった雑誌なども、何らかの新体制色のある読み物でなければ掲載しないという風潮になっていった。
江戸川乱歩はこの頃「隠栖を決意」した。その一年余前、江戸川乱歩の「悪夢」という作品が全面削除になった。
「警視庁検閲課では、三十一日、江戸川乱歩氏作短篇集『鏡地獄』(註=文庫本)のうち『悪夢』の一篇全部の削除を命じた。この『悪夢』は昭和四年『芋虫』の題で発表され、当時の文壇に新境地を拓いた探偵小説で、全篇の抹殺といふことは左翼小説以外稀有のことである」(昭和14・3・31『東京日日新聞』)
乱歩はこれによって「隠栖を決意」したのだが、昭和十五年末に次のような文章を書いた。
「昭和十二年七月開戦のシナ事変、今日にして満三年半、戦うごとに勝利を得、シナの重要部分を殆ど占拠、日本の手によって汪精衛を主班とする新シナ政府も組織されたが、戦争の終局はいまだ容易に見通しがつかず、昭和十五年に至り、物資の欠乏いちじるしく、同年日独伊三国同盟なるや、米国の日本向け輸出制限はほとんど挑戦的となり、国内物資の不足は日常生活にも現われきたり、米、炭、その他のインフレーション防止のための価格統制、ついで切符制度はじまり、店頭行列による買物は、今や日常のことだった。第二次近衛内閣により提唱せられた『新体制』の標語は街頭に溢れ、大は経済界の利潤統制より、小は年賀郵便の廃止に至るまで、新体制ならざるはなく、文学美術の方面も全体主義一色となり、新体制遂行の全国民組織として生れたる大政翼賛会文化部には岸田国士氏部長に聘せられ、文学美術諸団体の統一運動起こり、文士の政治的動きも活溌となる。文学はひたすら忠君愛国、正義人道の宣伝機関たるべく、遊戯の分子は全く排除せらるるに至り、世の読み物すべて新体制一色、ほとんど面白味を失うに至る。探偵小説は犯罪を取扱う遊戯小説なるため、最も旧体制なれば、防諜のためのスパイ小説のほかは諸雑誌よりその影をひそめ、探偵作家はそれぞれ得意とするところに従い、別の小説分野、例えば科学小説、戦争小説、スパイ小説、冒険小説などに転ずるものが大部分であった。(中略)私は元来大衆作家風な器用な腕があるわけでなく、心理の底を探ろうとする精神分析的な気質、論理好き、怪奇幻想の嗜好など、身についたものによって、探偵小説、怪奇小説をこころざしたのであるから、他の探偵作家の如く早急に他の分野に転ずることは、性格としてできないのである。この種の身についたものがいけないとすると、沈黙しているほかないのである……」
*
その頃、永田町の首相官邸の崖の下にあった「文芸会館」は、毎日のように、文芸団体の会合で賑わった。
佐藤春夫の主宰する「経国文芸の会」、福田清人の主宰する「大陸開拓文芸懇話会」、加藤武雄の主宰する「農民文学懇話会」、戸川貞雄の主宰する「国防文芸聯盟」、海音寺潮五郎の主宰する「文学建設の会」、辰野九紫の主宰する「ユーモア作家倶楽部」といった文芸団体の会合がひんぱんに開かれた。そして、これらの団体を、団体単位で統合して、一つの連絡機関を結成しようということになった。
これはそもそも、社団法人文芸家協会が、昭和十五年九月二十五日に「文壇に於ける新体制の問題」に関し、「最も多数の会員を有する会」として、その態度を決定するため、大阪ビルのレインボー・グリルで、全会員の懇談会を開いたのがきっかけであった。出席者は七十名余で、いろいろな意見が出たが、結局、政府から新しい文芸国策が立てられることは必至と見て、それならば早手廻しに、こちらが先に結成して進言した方が、幾らかましなものになるだろうということで、全文壇を網羅する機関を設置するために、準備委員を銓衡することになり、その銓衡を、会長、理事、監事に一任した。そこでただちに理事会に入り、選ばれた委員が以下十八名である。石川達三、尾崎士郎、海音寺潮五郎、岸田国士、小林秀雄、今日出海、富沢有為男、戸川貞雄、中島健蔵、林房雄、福田清人、間宮茂輔、片岡鉄兵、清沢洌、木々高太郎、深田久弥、上司小剣、大下宇陀児。
二日おいて二十七日に、第一回会合が「文芸会館」で開かれ、石川達三他十四名が出席した(岸田国士、富沢有為男、林房雄、清沢洌欠席)。この時に、全文壇の連絡機関である「聯絡協議会」というのが設置された。
その後、各団体が、幾度か参集して、結局、「経国文芸の会」「国防文芸聯盟」「大陸開拓文芸懇話会」「日本ペン・クラブ」「農民文学懇話会」「文学建設の会」「文芸家協会」「ユーモア作家倶楽部」の八団体の主宰者(または幹部)松沢太平、戸川貞雄、福田清人、中島健蔵、間宮茂輔、海音寺潮五郎、木々高太郎、辰野九紫の八名が団体代表委員となり、他に準備委員となった人々を委員に加えて、「日本文芸中央会」が誕生したのである。
丁度時を同じゅうして、大政翼賛会が生れ、その文化部長に岸田国士、副部長に上泉秀信が就任した。
何もかもが統合時代であった。詩壇の中堅村野四郎、神保光太郎、北園克衛、蔵原伸二郎、岩佐東一郎、丸山薫、田中克巳、菱山修三、山本和夫、城左門等が集まって「日本詩人協会」が誕生した(十月二十一日)。長谷川時雨、吉屋信子、林芙美子、今井邦子、与謝野晶子、野上弥生子等三十八名が集まって「女流文学者会」が生れた(十一月)。高浜虚子を盟主とする伝統派、荻原井泉水、中塚一碧楼等の自由律派が大同団結して「日本俳句作家協会」が誕生した(十二月)。島崎藤村、山本有三、百田宗治、坪田譲治、小川未明、岡本一平、岸辺福雄等、児童文学に深い関心を持つ作家、画家等が集まって「大日本児童文化協会」が設立された(十二月二十四日)。
もっとも、二、三の団体を除いては、どの団体も、実際には仕事らしい仕事はしていなかった。いわば統合のカクレミノのようなものであった。
昭和十六年に入ると、二月十八日には、久保田万太郎、高田保らの音頭とりで、劇作、演出、舞台美術を打って一丸とする「日本演劇協会」が設立された。六月には「大日本歌人会」が生れ、「大日本詩人協会」が生れ、「日本編輯者会」が生れた。
七月には、「全日本女詩人協会」「文化奉公会」、八月には「くろがね会」、十一月には「日本青年文学者会」が生れた。何となくみな寄りそわないと心細いみたいに、あちこちに会が生れた。
ところが、これだけではまだあきたらないとでもいうように、今度は、小説家、劇作家、評論家、詩人、歌人、俳人、翻訳家等を一括した文学者の団体を結成しようという動きがはじまった。
それが、次の年に設立された「日本文学報国会」である。
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昭和十五年五月六日から「文芸銃後運動講演会」というのがはじまった。名目上の主催は文芸家協会であったが、実務はすべて文藝春秋社が行っていた。
これは、「不拡大」の筈の日中戦争が四年目に入ったため、当時文芸家協会の会長の菊池寛が、「物資などが欠乏するにつれ、それを精神的勇気を以て、克服することが必要だ。(中略)我々文筆の士も国民大衆の元気を鼓舞するため、出来るだけのことをしたいと思ふ。之は、僕だけの私案だが、文筆の有志を糾合して、全国を遊説して歩きたいと思ふ。枝葉末節にこだはらない、主義や主張のない真の愛国運動を、やつてみたいと思つてゐる」(「話の屑籠」昭和15・2『文藝春秋』)と提唱したものであった。
その第一回が「東海近畿地方班」で、五月六日から浜松市を皮切りに行われた。この講演会は、この年、「関東地方」「中国地方」「四国地方」「北海道地方」、それに「朝鮮・満洲」「沖縄・台湾」まで広く行われた。
この「運動」に積極的に参加した横光利一は、『文學界』(昭和15・7)の「文芸銃後運動を如何に見るか」という「アンケート」に答えて、「私にはこれに加はつたことが人間の平和に役立つことと思つてゐる。人間は絶えず恐らく永久に戦争をするだらう。そして、いつも勝つものが世界を平和にする実権を握るといふことも変らなからう。負けたものはいつも戦争を起してゆくのである。してみれば、勝つことに努力すべきが常識だと思ふ」と書いた。
*
昭和十六年六月八日、「文芸銃後運動講演会」の「中部地方A班」というのが、新宿駅を出発した。一行は、講師が井伏二、亀井勝一郎、中村武羅夫、新居格、日比野士朗。随員が、文藝春秋社の下島連、東京日日新聞社事業部の山本猛夫(戦後代議士になった)、情報局の黒住情報官、文芸家協会書記巖谷大四であった。
「手弁当脚絆ばき」というふれこみであったが、実際には国鉄の無料パスがその期間だけ支給され、特別弁当やお茶の差し入れなどもあって、ゼイタクな旅行であった。
甲府をふり出しに、岡谷、上田、高田、長岡と廻って、最後に伊香保温泉で骨休みをした。
どこでも、夕方からの講演が終って、十時頃宿へ帰ると、それから夜食の宴があった。全員そろって酒をくみ|肴《さかな》をつまみながら、なごやかに話がはずんだ。
甲府の夜の宴で新居格が「人間卵説」という珍説を開陳した。「なぜ人間は卵で生れるようにしなかったか、それが悲劇のもとである」というのである。「卵なら、生れても、番号か何かつけて引出しにしまっておき、都合のいい時に|孵化《ふか》すればいい」というのである。「人口難は一挙に解決する」というわけだ。
五百羅漢の中にでもありそうな、|容貌魁偉《ようぼうかいい》の新居格は、大きな鼻をクンクンいわせ、口を獅子のようにあけて、そういう珍妙な話をするのが得意だった。
話はなお|下《しも》がかっていった。新居格は、「人間の生殖器がお互いにおでこについていたら面白いだろうな」と言いだした。
すると井伏二が、とぼけたような顔をして、目をパチパチさせながら、
「すると、頭へ|猿股《さるまた》をはくんですナ」と言った。
日比野士朗が、
「うっかり、横丁ではちあわせでもしたら大変でしょうな」と言った。
そしてみんな、「それは何ともおかしなもんでしょうな」と言って、大笑いになった。
上田では、講演を終ると、戸倉温泉に宿をとった。例によって、少し広い部屋に夜食がはこばれ、一行はコの字型にならべられた膳をかこんだ。
やがて女中が、正面の中村武羅夫の前に坐って、酌をしようとしたとたん、突然たもとを口にあてて、笑いながら真赤になって逃げ出そうとした。中村は泰然としていた。斜めの席からそれを見ていた井伏が、
「中村さん、それはいけませんよ。まる見えですよ」と言った。
中村は浴衣がけで、どっかとあぐらをかいていたのだが、下に何も付けていなかったので、一物がまる見えなのであった。
「は、は、は、僕は、あのウ、いつでも、あのウ、これなんですよ。何もはかん主義なんですよ」
と、右手の人差指で、前をちょっと指差して、「気持がいいですよ、これは、あのウ、皆さん」と、大きな身体に似合わぬ、カン高い声で、相変らずそのままの姿勢で、言いながら、|呵々《かか》大笑した。
その夜、あいにく宿がこんでいて、講師は二人ずつ相部屋ということになった。すると、中村が、食事の終った時に、
「まことにあのう、すみませんですが、僕はあのう、寝つきが悪いので、イビキをかかない方とご一緒にねがいたいのですが」と言った。
結局、真面目な日比野士朗が一緒の部屋ということになったが、翌朝、日比野がねむそうに眼をはらして起きて来たので、皆が、
「どうかしましたか」ときくと、
「いやア、驚きましたよ。中村さんは寝つきが悪いなんて、とんでもない。横になったと思うと、雷のようなイビキですよ。おかげでこっちは、殆ど眠れませんでした」と言った。
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同じ年の八月二日から五日間、神奈川県足柄郡の日本精神道場において、大政翼賛会主催の、第一回「みそぎ」が行われた。滝井孝作、中村武羅夫、横光利一の三人がこれに参加した。はじめ菊池寛が参加する筈だったが、「文芸銃後運動講演会」で樺太へ行くため、「元来、横光君や滝井君は、文壇でも、|みそぎ《ヽヽヽ》的人物である。横光君はある意味での精神家であるし、滝井君は、その生活そのものが、質素で自然に近い方なのだ」(「話の屑籠」昭和16・11『文藝春秋』)ということで、滝井、横光に代った。
この「みそぎ」の目的は、宗教的なことよりも、国民の錬成を名目に戦時下における民衆の士気を鼓舞するためのものであった。参加者は陸軍大将小磯国昭、海軍大将山本英輔など軍人をはじめ、官吏、代議士、実業家、学者ら指導階級の人々であった。吉田茂も二日目から加わっていた。
「五日間の『みそぎ』行が終った後、横光はしばらく箱根の強羅ホテルに滞在した。『みそぎ』のことは東京日日新聞に『みそぎ祭』(昭和16・8・13、14)と題して感想を寄せているが横光は、そこで『みそぎ』は一種の〈幸福祭〉で『厳格の極を肉体と精神に与へてみて後、立ちのぼつて来る平安と歓喜がある』そして、この〈行〉により『絶えず心身の訓練を怠らなかつた人たちの爽やかさ、強烈さ、その剛健な意志と健康無類な、しかも、この上もない高級な精神の雄健と、その秩序の純粋さとを私は想ひ、現代といふものを考へざるを得なかつた』『人間は今も昔も変りがないと思ふなら、昔の人間の鍛練の仕方も一度は味はうべき義務がある。一度この義務を果してみたいと思ひ、私はみそぎに随つてみたまでであつた』と説明している。また『よく今までこのやうな義務も忘れて筆を持つてゐられたものだと思つた』『六月以来の風邪がみそぎの二日目に癒り、出血のひどかつた痔が同じ二日目から停つた』とも書いた。そのため、横光は時勢に迎合したとみられあちこちから非難された。未知の人からも『拝啓。先生がみそぎにこるとは何といふ御脱線ぶりでせう。もちろん政府を助ける御動機だと判ります。しかし、現代の国難はみそぎでは救はれるものでせうか』(「日記から」)という投書もきた」(井上謙「評伝横光利一」)
同じ頃、中山義秀がやはり強羅の別の宿で仕事をしていたが、尊敬する友人である横光利一が「みそぎ」に参加したことをにがにがしく思っていた。
中山は早速、強羅ホテルに横光を訪ね、「あんな愚劣なことに参加したからといって、戦力に何の関係があるのですか、あれは翼賛会訓練部の宣伝に利用されたにすぎないですよ」となじった。
横光はひどく|憂鬱《ゆううつ》な表情をしながら、つぶやくように、
「君と僕とは二十余年のつきあいだが、君が僕を知らぬように、僕も君を知らない。しかし、それでよいのだ」と言った。
「これは一体、どうした意味なのであらう。横光がべつに私を怒つたわけではなく、また私をつめたく突き放したものでもないことは、彼の平静な態度や、その憂鬱といつてもよい顔の表情からもうかがはれた。(中略)
横光はかねがね、
『人の弱点を、つくものではない』
と自誡のような言葉を洩らしてゐたが、慎しみない野人の私は、酒に酔ふとその礼節を忘れさつてしまふ。もつとも私は故意に意識して云つてゐるわけではなく、それが相手の弱点だと気づいてさへゐなかつた。ゐれば私にしろ、傍若無人の言動はつつしんだであらう。(中略)
横光は私のいふことなど、百も承知してゐるはずなのだ。知つてゐながら、あまんじて宣伝に利用されてゐるのは、どうした理由があつてのことであらう。じつは宣伝されることが、彼のみそぎに参加した目標であつて、そこを私に突かれたため、彼はかつてなかつたよそよそしい言葉を、私に投げたのではあるまいか。
しかし、酔つぱらつた私は、その夜彼の心情などには一切とんぢやくなく、ホテルから提灯をかりると、よい気持で夜道を宿にかへつてきた」(中山義秀「台上の月」)
この後、十月末、第二回の「みそぎ」の会が、鵠沼海岸で行われた。中山は菊池寛に誘われて、吉川英治とともに参加した。
横光を非難した中山が、前言をひるがえしたように参加したのは奇妙だが、実は中山はその頃、「山師」という小説を書いていて、その中に「みそぎ」のことが出てくるので、この機会に自ら体験しておこうと思ったのだ。
「しかし、この体験は、予想外につらいものであつた。日課は朝五時起床、朝拝、みそぎ、拝神、九時朝食、講義、拝神、午後二時みそぎ、拝神、五時夕食、講義、夕拝、九時就寝となつているが、その内容はなみたいていの苦業ではなかつた。
朝夕二度の食事は、一日八勺、のきめで、一椀四勺宛のうす粥、汁や副食物は何もない。布団二枚は賃貸しの垢づいたせんべい布団、寝所は道場の板の間。勤行といふのがまた苦痛きはまるもので、道場の正面にかざられた神にむかつて、かしは手をうち、のりとをあげお|祓《はらひ》をおこなひ、それから掌を膝の上に握りあはせ、はらへ戸の大神をとなへながら、二時間余も上下にふりつづけるふり魂や、秋のつめたい海でのみそぎ行、勅語斉唱、宮城遙拝、すべてがばかばかしいかぎりであるだけに、それに耐える苦しみが大きい。
二日目、菊池寛と吉川英治とはたがひにしめしあはせ、しかるべき口実をかまへて遁げだしてしまつた。
私一人後にとりのこされ、憲兵司令官あがりや北支派遣軍部隊長といつた老将軍達、ならびに青年団代表、各県有志といつた連中と、五日間を必死の思ひでたへぬいた」(中山義秀「台上の月」)
「みそぎ」が終るなり中山は、江ノ島へとんでいって、夢中で|饅頭《まんじゆう》にかぶりつき、ビールをがぶのみしたあと、鎌倉の清水崑の家を訪ねて|鰻丼《うなどん》をたいらげた。
東京へ帰って、横光に会い、
「あんなつらいことなら、なぜ一言教えてくれなかったのですか」とうらめしげに言うと、横光はしばらくだまっていたが、やがておごそかに言った。
「君一人でも残っていてくれれば、文壇人の面目がたつ」……。
*
昭和十六年の十一月初め頃から年末にかけて、作家の徴用というのがはじまった。主として本郷区役所に集合を命じられたようだが、日はまちまちであった。当時の言葉でそれを、兵隊の「赤紙」に対して「白紙」と言った。その「白紙」を受け取った作家たちの名をあげると次のとおりである。
秋永芳郎、会田毅、井伏二、小栗虫太郎、大林清、海音寺潮五郎、北川象三(冬彦)、小出英男、堺誠一郎、里村欣三、神保光太郎、寺崎浩、中島健蔵、中村地平(以上やがてマレー方面へ)
岩崎栄、小田嶽夫、北林透馬、倉島竹二郎、山潤、清水幾太郎、高見順、豊田三郎、山本和夫(以上ビルマ方面へ)
阿部知二、浅野晃、大江賢次、大木惇夫、大宅壮一、北原武夫、寒川光太郎、武田麟太郎、富沢有為男(以上ジャワ・ボルネオ方面へ)
石坂洋次郎、上田広、尾崎士郎、今日出海、沢村勉、柴田賢次郎、寺下辰夫、火野葦平、三木清(以上フィリピン方面へ)
井上康文、石川達三、海野十三、北村小松、桜田常久、角田喜久雄、戸川幸夫、丹羽文雄、浜本浩、間宮茂輔、湊邦三、村上元三、山岡荘八、横光利一(以上海軍関係――この方は、昭和十七、八年になってから)
この顔ぶれを見ると、小説家あり、詩人あり、評論家あり、哲学者あり、シナリオライターありで、まことに巧妙に配分されていた。
真珠湾攻撃の報を知ったあとで徴用された作家は、中島健蔵のように「背すじに寒さを覚えた」人も多かったろうが、一応覚悟がきまったらしい。しかし、開戦前に徴用された作家たちは、何が何だか判らず、何とも異様な気持がしたらしい。
阿部知二などは、旅先の宿でその知らせをうけ、ある予感がして、不安と|焦燥《しようそう》のあげくやけくそになり、宿で芸者を総あげして、大酒を|呑《の》んだ。
井伏二が区役所に出頭すると、そこに今日出海がいた。とたんに井伏は目をパチパチさせながら、
「今日はフランス文学の会かね」と言った。
今日出海の方が驚いて、けげんな顔をすると、井伏は胸をそらせて、
「僕は早大仏文科の卒業だよ」と言った。
これらの作家は、海軍関係以外は、徴用の日は違っていたが、一部は大阪港、一部は宇品港あたりから、輸送船の船底におしこめられて、同じ頃行先知れぬ出帆をしたらしい。
高見順は、「日記」に次のように書いている。
「――十一月二十二日
前夜、井伏二君(註=マレー組)と一緒に中央ホテルに泊る。
七時起床、井上光君(註=通称ピカちゃん。浅草の軽演劇作者。当時は大阪の吉本興業に所属)夫婦来訪。一緒に食堂で朝食を取る。
八時半、ホテルを出発、電車で行く。司令部の前に見送人が深刻な顔をして集っている。
やがてZ班、T班(註=Z班はビルマ組、T班はマレー組。しかし当時はまだ、どこへ行くか、何をするのか、筆者たちは全然不明)にわかれ、それぞれトランクを持って出て、○○聯隊に入隊。僕のトランクが班のなかで一番大きく重たいようだ、流汗シキリ。
兵舎に入る。Z班は宣伝班、宗教班、通訳班にわかれる。自分は宣伝班。昼食は立食(肉の野菜煮、麦メシ、それぞれアルミ容器に盛ってある。メシの量の多いのに驚く)。
床に|筵《むしろ》をしき、毛布を置き、それが寝床。一人毛布五枚ずつ支給さる。
書類提出。われわれ宣伝班の班長は中村少尉(註=召集将校)、インテリらしくキビキビした気持のいい人、種々の訓示あり。
身体検査、受けたい人だけというので、やめにする。寺田隊長より訓示あり、特殊技能による奉公というより、戦う部隊であるといわれる。一同粛然、厳粛な覚悟をきめさせられる。
寝床は大体、新聞記者、文士などのグループが集って取ったが、やがて、新聞記者、文芸家、画家、撮影技術者、放送無電の各班の順序でならんで取ることになり、文芸家は、岩崎栄、北林透馬、倉島竹二郎、自分、豊田三郎、山本和夫の順序。
入浴は兵隊さんのあとなので、だいぶ、よごれているのでやめにした。その時間にT班を訪ねて見る。宿舎は酒保の二階、T班全部集っているので大変な混みよう。T班の文芸家は、井伏、中村地平、里村欣三、寺崎浩。
夜食がおくれ、腹が減る。空腹感はなつかしい。健康になることだろうと思う。(下略)
十一月二十七日
起床とともに舎前に整列して、体操をする。気分爽快。
出発日未定、焦燥感あり。
朝食後ただちに準備して引率外出、安田少尉の引率。
生玉神社へ赴く。途中寺院街を通り、井原西鶴の墓と刻んだ石が眼につく。生玉神社参拝ののち愛染堂へ赴く。途中、二代目菊五郎の墓というのがあり、豊田君が二代目はそういえば大阪で死んだはずだといえば、山本君、――初代菊五郎から聞いたのか? どっと哄笑。愛染堂で十分休憩。大阪の夏まつりは愛染まつりではじまり住吉まつりで終るという、その愛染堂である。(下略)
十二月二日
四時半起床、まっくらな洗面所で顔を洗う。水がつめたく手がしびれる。(中略)
五時朝食。飯ゴウに昼食を詰める。巻昆布のおかず。
六時、トラック来る。梱とトランクを全員で積みこむ。
七時、完了。
大毎朝刊に『蘭印、全軍を動員』とある。
乗船。
一路サイゴンヘ向う」
マレー、ビルマ組は大阪の聯隊に待機し、大阪港から乗船したようだ。
そして、香港の沖合を航行中、日米開戦を知らされた。
昭和十六年十二月八日未明、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲して、太平洋戦争が勃発した。
その日の「日記」に、横光利一は次のように書いた。
「戦はつひに始まつた。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝つたのだ、自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもつとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、つひに顕れてしまつたのである。夜になつて約束の大宮へ銃後文芸講演に出かけて行く。帰途、自分はこの日の記念のため、欲しかつた宋の梅瓶を買つた」
中山義秀はその日朝から『文學界』の原稿「破れ傘」を書いていた。
するとラジオが昼近く、奇襲の大成功をつたえた。情報局次長の奥村喜和男が、特別放送して、泣き叫ばんばかりに感激して、「戦勝」をつたえた。
「この|阿呆《あほう》!」中山は、その情報局次長の軽薄さに腹を立てた。
「中国との戦ひで泥沼におちいつた軍部は、万一の僥倖をあてにして、またしても新しい賭博に手をだした。解決のつかない長期戦と物資の欠乏に、いい加減うんざりしてゐる国民の意嚮やその生活など、さらにかへりみようとしない。
まるで目先だけの勝負に目がくらんで、破滅するまで賭けつづける素人のばくち打ちみたいに、反省も思慮もうしなつてゐる。この狂人のために、犠牲を強ひられる国民こそ不幸のいたりで、軍部に追随し阿諛する政治家、官僚、右翼の群を考へると、これが日本民族の正体かと、絶望したくなつてくる」(中山義秀「台上の月」)と思った。
*
昭和十六年十二月二十四日、「文学者愛国大会」というのが、大政翼賛会の大会議室で開かれた。
まず「国民儀礼」からはじまり、高浜虚子の「大詔奉読」、翼賛会安藤正純副総裁、情報局谷正之総裁の挨拶があり、菊池寛が座長となり、徳田秋声、佐佐木信綱、水原秋桜子、武者小路実篤、辰野隆、久保田万太朗、白井喬二、吉屋信子、久米正雄、横光利一、戸川貞雄、日比野士朗、高田保らがそれぞれ発言し、土岐善麿、尾崎喜八、前田鉄之助、富安風生、高村光太郎らの詩、短歌、俳句の朗読があり、宣言及び決議文を中村武羅夫が朗読、皇軍に対する感謝文を吉川英治が朗読して盛会裡に閉会した。
それから半年後、翌年五月二十六日午後二時から、丸ノ内産業会館で、文字通り、文学者の大同団結である「日本文学報国会」の創立総会が開かれた。出席者は、三百余名で、日比野士朗の司会の下に、菊池寛が議長となり、久米正雄の経過報告、富安風生の定款説明があり、奥村喜和男情報局次長から役員の指名(指名であった!)、安藤正純翼賛会副総裁、佐佐木信綱の挨拶があって、四時半に散会した。この時決定した(いや指名された)役員は次の通りである。▽常務理事 久米正雄、中村武羅夫 ▽理事 長与善郎、柳田国男、吉川英治、松本潤一郎、関正雄、菊池寛、山本有三、白柳秀湖、佐藤春夫、窪田空穂、水原秋桜子、下村宏(海南)、折口信夫、山田孝雄、辰野隆 ▽監事 高島米峰 ▽部会長・幹事長 小説─徳田秋声、白井喬二。劇─武者小路実篤、久保田万太郎。評論─高島米峰、河上徹太郎。詩─高村光太郎、西条八十。短歌─佐佐木信綱、土屋文明。俳句─高浜虚子、富安風生。国文学─橋本進吉、久松潜一。外国文学─茅野蕭々、中野好夫(部会は以上八部会だが、一年後新たに漢詩漢文学部会が出来、部会長に塩谷温、幹事長に市村讚次郎が就任した)。この他、評議員、常任理事、幹事をもってこの大世帯の団体は構成された。
そしてこの日から二十日後の六月十八日、全会員が日比谷公会堂に参集して、ここに「日本文学報国会」は華々しく発足した。
何しろ三千名近く収容出来る日比谷公会堂が殆ど満員となる盛況で、甲賀三郎(総務部長)の司会で、下村海南が議長となり、久米正雄(事務局長)が経過報告、会長に徳富蘇峰を推挙し、つづいて八部会の宣誓が各部代表によって行われ、東条英機翼賛会総裁、谷正之情報局総裁、橋田邦彦文部大臣の祝辞があって、最後に吉川英治が、「文学者報道班員に対する感謝決議」を提唱して、これを朗読した。それは次のようなものである。
「遙かに告ぐ
前線陸海軍の諸陣地に筆を載せて文化徴用の命を奉じ、夙に文学報国の実を揚げ北天南荒の下、なほ其の任にある我等の同僚、筆硯の塹壕を共にする日本文学者諸兄。
諸兄の任たるや日本文学史上前古例なくその克己辛苦たるや第一線の将士にも比すべきものあるを、われ等同僚常に深く思ふ。
諸兄亦多感、大戦実核のうちより母国文運の上に想ひあらん。
安んぜよ諸君、光栄と唯奮励あれ。銃後われ等同僚、同田同耕の士もまた今日無為なるに非ず。
文芸文化政策の使命の大、いまや極まる。国家もその全機能を求め、必勝完遂の大業もその扶与をわれ等に命ず。歴史ある我が文苑の光輝、生々の新発芽、また今を措いて他日なからん。
日本文学報国会、この秋に結成を見る。ねがはくば歓乎を共にせられよ。併せて本日当発会式の会場より全員、遠く諸君の労苦に感謝し、更に層一層の奮励と勉学を祈る」
当時はこれが、いかにも荘厳にひびいたのである。
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昭和十六年十二月八日、中村光夫は午前七時半に鎌倉の家を出て相模にゴルフをしに出かけた。家にラジオがなかったので、まだ開戦を知らなかった。バッグをかついで鎌倉駅のプラットホームに立っていると、顔見知りの近所の奥さんが、「まあ、ゴルフですか。趣味|高尚《こうしよう》でらっしゃいますわね」と変な皮肉を言って、バッグを見ながら、
「戦争が始まったそうでございますよ。西太平洋で」と言った。
「どこです」
「米英両国、と言ってましたわ」
これはいけない、ひっかえそうかと一瞬思ったが、べつにあたりの様子は変ったことはなし、ことによるとこれが最後になるかも知れないと思ってやはり行くことにした。ゴルフをはじめたばかりで面白くて仕方のない時だった。
中村は、ひと月ほど前の十一月の初め、筑摩書房で深刻な顔をした阿部知二に会った。どうしたのかと思って|訊《き》くと、
「白紙が来てね」と、|眉《まゆ》をしかめて言った。徴用令状であった。阿部はその時、石坂洋次郎や高見順や島木健作や武田麟太郎らの名も挙げた。そして、
「どうしてもアメリカとやるらしい」と言った。
またその後、島木健作にも会ったが、島木は「身体検査ではねられた」と言った。普通なら喜びそうなのに島木はその時、ちょっとも嬉しそうな顔をせず、むしろ苦りきっていた。島木にしてみれば、“左翼”とにらまれていて、国内にいる方が、かえって危険だと神経質に考えていたのである。
島木までが召集されたと聞いて、中村はこれはただ事ではない、何か起ると予感がしていたので、“開戦”のことを聞いた時、とくに意外とは思わなかった。しかし気持はやはり落着かず緊張していた。
ゴルフ場には河上徹太郎や、式場俊三たちが来ていた。
いつもの通りアウトを廻って、クラブハウスにもどると、食堂のラジオが宣戦の詔勅を放送していた。つづけてニュースが日本空軍によるシンガポール爆撃を伝えた。
すると河上が、
「こんなことがほんとになったね」と、ぽつりとひと言いった。
「今夜はきっと燈火管制だから、暗くならないうちに帰った方がよさそうだね」
と、誰ともなく言い、午後のゴルフは半分で切り上げた。
〈もうこんな|呑気《のんき》な遊びは出来ないし、ことによるとお互いに会うのも、これが最後になるかも知れない〉とみんな心の中で思っていた。
中村はゴルフ場へ行くといつも、帰りに中央林間駅の近くの、安売りしている八百屋で野菜を買うことにしていた。その日も、もう当分来られないだろうと思って、|馬鈴薯《ばれいしよ》などまで一杯買い込み、大きな風呂敷包とバッグを持って電車に乗った。
夕方のラッシュに近い電車は、ふだんと変りない勤め人で一杯だった。天井をみると車内燈は、真下だけ弱い光をなげかける防空電球になっていた。今夜から街も村も真っ暗になるのか、日本に近い飛行場はみんな|叩《たた》いてしまったから空襲をうける危険もなさそうなのに、と、そんなことを思った。
*
〈木山捷平の日記〉十二月八日、月、日本晴。
昼一時頃目をさましたら、近所のラジオがシンガポールとか、ホンコン爆撃とか言つてゐる。それで戦争が始まつたのを知つた。じつとしてゐられず平島君の所へ行く。皆ラジオをきいてゐる。十一時とか十一時半とかに、最初のラジオをやつたさうだ。原稿書きかけたが進まず、赤い太陽没す。銀杏やポプラの葉を少々のこしてゐる。宮下湯の煙は北へなびく。軒ではブヨがしきりにまつてゐる。
帝国米英に宣戦を布告す。西太平洋に戦闘開始。宣戦の大詔渙発さる。(情報局十一時四十五分発表)臨時議会を召集詔書公布。
我海鷲、ハワイ爆撃、ホノルル沖で海戦展開。比島、グアム島空襲。シンガポールも攻撃。香港攻撃を開始せり。枢府本会議を開く。外相米英大使に通牒手交。(以上朝日新聞夕刊見出)
燈火管制。フミヤでのんでいたら野村君来り、千代でのみ、家に帰つて二人で将棋をした。
十二月九日、火、曇後雨。
ハワイ、比島に赫々の大戦果。米海軍に致命的大鉄槌。戦艦六隻を轟沈大破す。空母一、大巡四を撃破。
|畏《かしこ》し陸海将兵に勅語。
戦艦ウエストヴアージニア撃沈。(ホノルル沖)比島で敵機百を撃墜。泰に友好進駐。皇軍シヤム湾に上陸。(以上朝刊)
我奇襲作戦の大戦果確認。白堊館当局も甚だしく驚愕。死傷三千、損害予想以上。泰首都バンコツクに進駐完了。(以上夕刊)
『月刊文章』稿料着十九円。伊勢元で酒四升買う。(一円四銭)夜フミヤヘ行く。一昨日、昨日、今日と合計四円四十五銭支払う。
「ヰナカの話」十枚書き上げ三時となる。
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〈太宰治の「十二月八日」(妻の日記の形式で書かれている)〉
十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生れの女児)に乳をやつてゐると、どこかのラジオが、はつきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
しめ切つた雨戸のすきまから、まつくらな私の部屋に、光のさし込むやうに強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じつと聞いてゐるうちに、私の人間は変つてしまつた。強い光線を受けて、からだが透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したやうな気持。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ。
隣室の主人にお知らせしようと思ひ、あなた、と言ひかけるとすぐに、
「知つてるよ。知つてるよ」
と答へた。語気がけはしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限つて、こんなに早くからお目覚めになつてゐるとは、不思議である。芸術家といふものは、勘の強いものださうだから、何か虫の知らせとでもいふものがあつたのかも知れない。すこし感心する。けれども、それからたいへんまづい事をおつしやつたので、マイナスになつた。
「西太平洋つて、どの辺だね? サンフランシスコかね?」
私はがつかりした。主人は、どういふものだか地理の知識は皆無なのである。〈中略〉
主人の変な呟きの相手にはならず、さつさと起きて雨戸をあける。いいお天気。けれども寒さは、とてもきびしく感ぜられる。昨夜、軒端に干して置いたおむつも凍り、庭には霜が降りてゐる。山茶花が凛と咲いてゐる。静かだ。太平洋でいま戦争がはじまつてゐるのに、と不思議な気がした。日本の国の有難さが身にしみた。〈中略〉
主人も今朝は、七時ごろに起きて、朝ごはんも早くすませて、それから直ぐにお仕事。今月は、こまかいお仕事が、たくさんあるらしい。朝ごはんの時、
「日本は、本当に大丈夫でせうか」
と私が思はず言つたら、
「大丈夫だから、やつたんぢやないか。かならず勝ちます」
と、よそゆきの言葉でお答へになつた。主人の言ふ事は、いつも嘘ばつかりで、ちつともあてにならないけれど、でも此のあらたまつた言葉一つは、固く信じようと思つた。〈中略〉
ラジオは、けさから軍歌の連続だ。一生懸命だ。つぎからつぎと、いろんな軍歌を放送して、たうとう種切れになつたのか、敵は幾万ありとても、などといふ古い古い軍歌まで飛び出して来る始末なので、ひとりで噴き出した。放送局の無邪気さに好感を持つた。〈中略〉
夕刊が来る。珍らしく四ペエヂだつた。「帝国・米英に宣戦を布告す」といふ活字の大きいこと。だいたい、けふ聞いたラジオニユウスのとほりの事が書かれてゐた。でも、また、隅々まで読んで感激をあらたにした。
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〈永井荷風の「日記」〉
十二月八日。褥中小説浮沈第一回起草。|哺下《ほか》(註=ななつさがり、午後四時すぎのこと)土州橋に至る。日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の燈は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり。
十二月十一日。晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後に往きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談亦平日の如く、不平もなく感激もなく無事平安なり。余が如き不平家の眼より見れば浅草の人達は堯舜の民の如し。仲店にて食料品をあがなひ昏暮に帰る。
十二月十二日。開戦布告と共に街上電車其他到処に掲示せられた広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもぢりむかし英米我等の師困る億兆火の車とかきて路傍の共同便所内に貼りしと云ふ。現代人のつくる広告文には鉄だ力だ国力だ何だかだとダの字にて調子を取るくせあり、寔に是駄句駄字と謂ふ可し。哺下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。金兵衛に|《はん》して初更に帰る。
十二月廿二日。雨後の空晴れて片目を見る。浅草にて食料品を購ひ新橋の金兵衛に飯す。川尻清潭氏に逢ふ。世上の風聞によれば曾て左傾思想を抱きし文士三四十人徴用令にて戦地に送られ苦役に服しつつありと云ふ。其家族東京に居残れるものこの事を口外することを禁じられ居る由。また戦地の何処に在りて如何なる苦役に服せるや、一切秘して知ることを得ざる由。また徴用令にて引致せられし者は二年後ならでは放免せられずと云。この危難に遭遇せし文士の誰なるやは聞漏したり。察するに村山知義武田麟(|一派《ママ》)の者なるべし。
十二月一日。晴。厳寒昨日の如し。夜浅草に至り物買ひて後金兵衛に夕餉を喫す。電車終夜運転の筈なりしに今日に至り俄に中止の由。貼札あり。何の故なるを知らず、朝令暮改の世の中笑ふべき事のみなり。過日は唱歌螢の光は英国の民謡なれば以後禁止の由言伝へられしがこれも忽改められ従前通りとなれり。帰宅後執筆。寒月窓を照す。寝に就かむとする時机の上の時計を見るに十二時五分を過ぎたばかりなれど除夜の鐘の鳴るをきかず。是亦戦乱の為なるか。恐るべし恐るべし。
*
その日の午前中、寝床の中で、海軍軍楽隊の「軍艦マーチ」で報道されるラジオの次々の戦果を聞きながら広津和郎は、満洲事変以来の長い戦争につくづく|厭気《いやけ》がさしていたので、「一体こんなことをやっていいのだろうか」という、不安とショックで、いたたまれない気持になっていた。そして何となくじっとしていられなくなり、午後から銀座へ出かけた。
資生堂の喫茶部へ入って行くと、一つのテーブルを囲んで、徳田秋声、一穂親子と、正宗白鳥が腰かけていた。広津和郎もそのテーブルに合流した。
徳田親子も正宗白鳥も、やはり何となく落ちつかず、町へ出てみたくなったというのであった。
秋声も白鳥も、別に興奮している様子はなかったが、二人共、異口同音に、
「一体こんなことを始めて、どんなことになるのかね」と、小さな声で言った。そしてあまり多くを語ろうとはしなかった。
広津はその年の五月頃から十数日間、間宮茂輔と、台湾、朝鮮、満洲を旅行した。そして日本がそれらの国で、何をしていたかということをつぶさに見て、不信感を抱き、憂鬱になっていた。とくに、日本人の、これらの国に対する理由のないカラ威張りが不愉快だった。帝国軍人、天皇直属という考えが、わけの解らない思い上りを彼らに与えているようで、何ともやりきれなかった。
そんな有様を見て来ただけに、十二月八日の、真珠湾奇襲攻撃の報道は、一層、不安の気持で聞いたのであった。これは、国の上層部のとんでもない思い上りではないか、と。
秋声や白鳥と別れてから、広津は銀座通りを一人で歩いてみたが、ところどころに何処かの新聞社が貼り出した戦果の速報板が出ているのを見ても、ちっとも心が浮き立たなかった。
道行く人たちも、その速報板に足をとめて、しばらく見つめているのだが、戦果を喜んで肩を叩き合うでもなく、言葉をかけ合うでもなく、ただ黙々として又去って行くのを見ると、一層、わけがわからなくなり、不安になるばかりだった。
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長与善郎は、広津よりもなお遅く、その年の秋も深まった頃、中国を旅行し、北京、上海などを見て来て、広津と同じように、日本人の、思い上った傍若無人の振舞いに腹を立て、開戦の半月前に帰って来た。
そして十二月八日の正午頃、
「パパ、大変! アメリカと戦争始まっちゃったのよ! 今又ラジオで放送してる」
という長女恵美子の声で起された。
「ほんとか!」と叫んではね起き、寝間着のままラジオのある部屋へ小走りに行った。情報局という特設最高機関によって統制された報道陣の放送演出が、実に効果的に誇らしげに戦果を発表していた。一瞬、沈痛な面持ちになった。日本はとうとう「ルビコンを渡って」しまったのだ、日本に生れたものは、生か死か、祖国の運命の行く所まで共に行くよりなくなったのだ、と思った。そう思うと、どういうわけか、来るべきものが遂に来たのだと、かえって武者ぶるいする緊張の中に、妙に|肚《はら》が坐って来た。
翌日、武者小路実篤が、例のせかせかとした足取りでやって来て、長与の顔を見るなり、
「戦争やったね。敗けないね」と、いきなり言った。武者小路のいかにも「お目出たい」単純な言い方に、長与はただ苦笑するだけだった。
その年の暮、ある会で辰野隆に会った。辰野が例のべらんめえで、いかにも愉快そうに、
「ザマア見やがれとはこのことで……」と言った。いかにも辰野らしい素朴な愛国者の偽りのない気持の発露であった。
長与は心の中で「一度いやという程たたきのめされる必要があるぞ、この馬鹿国民」と思いながら辰野の気持をすぐには|反撥《はんぱつ》出来ない自分の矛盾した気持にいらいらした。
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開戦二日後の十二月十日の夜、八王子市第一国民学校の講堂で、この年最後の「文芸銃後運動講演会」が開かれた。講師は菊池寛、林芙美子、滝井孝作の三人だった。
その日午後四時、菊池寛は大阪ビル地階のレインボー・グリルで、随行員の文芸家協会書記巖谷大四とはやめの夕食をとった。十二月八日の真珠湾攻撃以来、つづく戦果に、菊池寛は幾分興奮気味だった。
「キミ、飛行機が軍艦を襲撃する時、どっちの方向から攻めるか知ってるかい?」と菊池が言った。巖谷がきょとんとして、
「さあ」と答えると、
「キミ、何も知らんね。こういうふうに(とエクボのようなへこみの出来る丸っこい手で、手まねをしながら)軍艦の進んで来る前方から真向にサーと突入して、爆弾を落すんだよ」と、例のかん高い声で、子供に説明するように言った。いかにも嬉しそうだった。
食事がすむと、二人は外へ出た。外は燈火管制で薄暗かった。巖谷が足早に前へ出てタクシーを止めようとしたが、次々に知らん顔で通りすぎた。乗車拒否である。
「キミじゃだめだよ、ボクが止めるよ」と菊池が後から巖谷を押しのけて、丸い手を上げた。車はすぐ止った。カオが知られていたからであった。
その車で新宿まで行って、新宿から中央線に乗った。せっかちの菊池は、電車が来るとすぐ乗った。
「先生! 吉祥寺止りですよ」と巖谷が言っても、耳をかさなかった。
吉祥寺で降りると、菊池は売店で夕刊を買った。また電車が来るとすぐ乗った。それは立川止りであった。立川で降りるとまた別の夕刊を買った。やっと浅川行が来て、三度目に八王子にたどりついた。
会場は聴衆が一杯だった。暗幕のかけられた電燈の下の会場は薄暗く、不気味に静まりかえっていた。
菊池の演題は「武士道と時局精神」、林は「銃後女性の問題」、滝井は「航空雑談」であった。三人とも心なしか熱がこもっていた。
最後に登壇した菊池は、「|葉隠《はがくれ》」の話を中心にしたもので、たたみこむようなスピードのあるしゃべり方で聴衆をぐんぐんひきつけた。
講演がすむと、教員室でおむすびが出た。菊池はまっさきにそれを|頬《ほお》ばった。エネルギッシュなたべ方であった。菊池は乗物に乗ると腹をへらす男だった。長距離列車に乗ると、停車するたびに弁当を買ってたべることで有名だった。
六十近いはげ頭の、小柄な小使がお茶をはこんで来た。その茶碗を、菊池は|鷲《わし》づかみにしてごくごく呑んだ。そして洋服のチョッキのポケットに手をつっこむと一円札をとり出し、巖谷を呼んで「キミ、これ、さっきの小使さんにやってくれよ」と言った。菊池は洋服のどのポケットにも小銭を入れていた。
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明けて昭和十七年の春三月、広津和郎のところに、「今度、文芸家協会が解散され、日本文学報国会というものが作られるについて、ご意見を拝聴したい」といって案内状が来た。場所は永田町の文芸会館であった。
広津がすこし遅れて、会場に入って行くと、大政翼賛会文化部長の岸田国士が、定款の試案を読み上げているところだった。
その定款の箇条書は、どれもが「われわれ」という主格で始まっていた。
「われわれの団体を日本文学報国会と名づける」
「われわれは日本、大東亜、世界文化の発展のために努力する」
ところが、こんな風に「われわれ」という主格ではじまる箇条が五つ六つつづいた後に、一つだけ「われわれ」という主格ではない「会長は」ではじまる箇条が出て来た。
「会長は大政翼賛会と監督官庁の手によつて、詮衡委員を選び、その委員によつて推挙させる」というのであった。
「これは文章が少しおかしくないか」と広津が言った。
「うん、少し文章がおかしい」と菊池寛が言った。
「文章が少しおかしいだけならいいが、今まで主格だった『われわれ』がどこかへ行ってしまったじゃないか」と広津がつけ加えた。
「その『われわれ』は、大政翼賛会が代表していると考えて|貰《もら》いたいのだ」と岸田が弁明した。
「なに? われわれ文学者を大政翼賛会が代表する? そんなことは考えられないじゃないか。なるほど、そういえば大政翼賛会には岸田君がいるがね。それではこの大政翼賛会という字を『きしだくにお』と読めというのか」
「………」
「しかし、岸田君がいつまで大政翼賛会にいるんだね。君が辞めたらどうなるんだ?」
「僕がいてもいなくても、大政翼賛会が文学者を代表していると見て貰いたいんだ」
「そんなことは見られるわけがないじゃないか。実は、ここの箇条は文章がおかしいというばかりじゃないんだ。問題はその意味なんだ」と広津は気色ばんで言いつづけた。「『会長は……』というところへ来て、急にわれわれ文学者が抜けてしまっているのは、文学者でないどこかの役所の次官の古手か何かを持って来て、会長としてわれわれの頭におっかぶせそうだから困るというんだよ」
「しかし政治力のあるものを引っぱって来なければ、監督官庁から金が貰えないんだ」
と久米正雄が苦笑いしながら言った。
「金の問題となると、僕などは全然解らないから困るが、しかしやっぱり文芸家協会と同じに菊池君に会長になって貰うのが当然じゃないか」と広津はねばった。
その時里見が立ち上って、
「やせても枯れても、文学者の会長はやっぱり文学者がなるべきだ」と言った。
そこでしばらく座が白けたが、間を置いてから岸田が静かに言った。
「実はわれわれ文学者の報国会は、下から盛り上って貰いたいという意向を監督官庁が持っているのです。音楽の方などは上からの天下りですでに出来てしまっているのですが、文学の方は下からの盛り上りで作って欲しいというのです。その監督官庁というのは情報局のことですが、今日は情報局からお二人わざわざここに見えているのです」
なるほど、|見馴《みな》れない若い男が二人、|傍《かたわ》らの椅子に腰かけていた。
広津は、岸田が「どこかの役所の次官の古手か何かをつれて来て……」などと自分が言ったのを、けんせいするつもりで言ったのだなと思った。ばかばかしくなった。
それから、数日たって、情報局から「日本文学報国会会長詮衡委員を依嘱する」という通知が来たが、広津はそれをそのままにして奈良へ旅立ってしまった。
広津は奈良ホテルに泊っていた。そこへ、はま夫人から妙な電報が来た。
「コトバ ヲツツシンデ クダ サイ ハマ」
何のことかわけがわからなかった。
そこへつづいて速達が来た。それによると、はまの弟の松沢太平が、歌人で陸軍中将の斎藤瀏が会長をしている浪曲報国会の理事長をしていたが、それが情報局で聞いて来た話をはまにしたのであった。
というのは、何でも情報局で、日本文学報国会の小説部会長を誰にしたらいいかという話が出た時、情報局第五部第三課嘱託の平野謙が広津の名前を出すと、岸田国士が、
「あんな危険なことをいう人物は困る」と役人たちの前で言ったというのであった。そこで松沢が、
「|義兄《にい》さんも少し言葉を慎んだ方がいいと思う」とはまに言ったのが、電報と速達になったのであった。
広津はますますばからしくなって、もう、日本文学報国会にはあまり接近するのはよそうと思った。
[#改ページ]
昭和十七年四月十八日午後十二時十五分、日本は建国以来初めて、空襲の洗礼を受けた。それはB25中型爆撃機十三機による空襲で、このB25は、日本本土をはなれること一三一七キロの海上の空母ホーネット号から十六機が飛び立ち、東京に飛来したのは十三機で、東京六カ所、川崎、横須賀、名古屋、神戸などが爆撃されたというから、残りの三機が東京以外の地方を襲ったものと思われる。このB25爆撃機の隊長がドゥリットル中佐であったことから、この初空襲は「ドゥリットル空襲」とも呼ばれた。
東京では、荒川、王子、葛飾、牛込、小石川、品川などが爆撃された。
その日の午後一時五十七分、東部軍管区司令部は、次のような戦果をラジオで報道した。
「午後零時分頃敵機数方向より京浜地方に来襲せるもわが空、地防空部隊の反撃を受け逐次退散中なり、現在までに判明せる撃墜機数九機にして我が方の損害は軽微なる模様なり、皇室は御安泰にわたらせられる」
「九機撃墜」という発表には、都民は小首をかしげた。東京上空に飛来したのは十二、三機だが、日本晴の視界のきく好天気なのに、墜落した敵機を見たものは一人もいなかった。「撃墜したのは九機ではなく、クウキ(空気)じゃないのか」
とささやくものもいた。
そこで司令部も、多少気にしたのか、四月二十日になって、次のような異例の「大本営発表」をしなおした。
「一、四月十八日未明航空母艦三隻を基幹とする敵部隊本州東方海上遠距離に出現せるもわが反撃を恐れて敢て帝国本土に近接することなく退却せり
二、同日帝都その他に来襲せるは米国ノースアメリカンB25型爆撃機十機内外にして各地に一乃至三機宛分散飛来しその残存機は支那大陸方面に遁走せるものあるが如し
三、各地の損害はいずれも極めて軽微なり」
この大本営発表は、結局「九機撃墜」を取り消したようなものである。
とにかく、この「初空襲」は、あまりにも突然の思いもかけぬことであり、日本人の多くはむしろあっけにとられたという有様で、恐怖感というものが実感として来なかったようであった。
*
徳川夢声はその日のことを、「日記」に次のように書いている。
「十八日(土曜 晴 温)空襲警報を聴く。――ははア愈々お出なすったな! と思ったが、少しもピンと来ない。
静枝も俊子も、姐やもモンペ姿となり、それぞれの配置についたが、どうも本当のような気がしない。私は寝衣の上に、どてらという例の恰好で、なんとなくモソモソしていた。静枝が池の水を汲んでは、門の前の樽に運んでいる。私は昨日来、朦朧となったままの頭脳で、キールで買った大双眼鏡を出し、時々、空に爆音が聴えると、レンズを向ける。機は仲々レンズに捕まらない。空は晴れ、白い雲が点々として、庭の八重桜は満開少し過ぎて絢爛を極めている。
八重山吹の花も今が盛りである。高射砲の音が、時々響いてくるが、いかにも間のぬけた感じだ。尾久の方がやられたという噂がある。
私は二階の西の窓から、物干台で空を見上げながら洗濯物を干している俊子に、
『一体、本当なのかねえ』
と大声で訊ねた。そんな暢気な声を、近所に聴かれては困る、と妻に叱られる。本来なら私も直ちに防空活動をしなければならないのだが、さしせまった原稿があるのと、防空演習は女たちばかりで今までやっていたので、表へ飛び出して麻胡ついてもいけない、と引込んでいる訳だ。
講談社から電話があり、
『只今、本社の上空をスレスレに通り、早稲田方面に爆弾を落しているのが、よく見えましたよ。如何でしょう。明晩の座談会は? 斯んな場合ですから中止にしましょうか?』
と問い合せて来た。斯んな場合こそ、悠々と座談会をやる必要があるでしょう、と私は答えた。
――やっぱり本当だったのか!
と、ようやく承知出来たものの、空襲というものが、斯んなに穏やかなものだとは、今日まで予想しなかったことだ。女たちも皆、一同平気、子供たちは街路で暢気に遊んでいる。
やがて警報解除のサイレンが鳴り、なんのこったという感じであった。」
その日夢声が「さしせまった原稿」というのは『オール讀物』の原稿であった。夢声は、空襲の最中に、急に想いついて、その光景をとり入れ、「本邦最初の被空襲文学」を書いたつもりで得意になった。
すると、数日して、「今回の空襲について触れた文字は、一切誌上に載せることはまかりならぬ」という命令が出た。夢声の小説は、ゲラ刷りまで廻ってから没になった。
*
永井荷風はこの頃の「日記」に、次のように書いている。
「四月十八日。日頃書きつゞきしものを整理し表紙をつけて冊子となす。これが為に半日を費したり、哺下芝口の金兵衛に至りて初めてこの日午後敵国の飛行機来り弾丸を投下せし事を知りぬ。火災の起りしところ早稲田下目黒三河嶋浅草田中町辺なりと云。歌舞伎座昼間より休業。浅草興行物は夕方六時頃にて打出し夜は休業したりと云。新聞号外は出ず。
四月十九日。日曜日 晴。やゝ暖なり。今日も世間物騒がしき様子なり。午睡半日。哺下金兵衛に至り人の語るところを聞くに、大井町鉄道沿線の工場爆弾にて焼亡、男女職工二三百人死たる由。浅草今戸辺の人家に高射砲の弾丸の破片落来り怪我せし者あり、小松川辺の工場にも敵弾命中して火災にかゝりし所ありと云。新聞紙は例の如く沈黙せるを以て風説徒に紛たるのみ。
四月廿六日。日曜日 晴、庭の|杜鵑花胡蝶花《つゝじしやが》満開、木苺の白き花郁子の花と共に散りそめたり。
巷の噂
昭和十一年二月廿六日朝麻布聯隊叛軍の士官に引率せられ政府の重臣を殺したる兵卒は其後戦地に送られ大半は戦死せしやの噂ありしが事実は然らず、戦地にても優遇せられ今は皆家に在りと云。余の知りたる人はもと慶応義塾の卒業生にて叛軍士官に従ひたる者。過日偶然銀座街上にて邂逅し重臣虐殺の顛未及び出征中のはなしを聞きたり。南京攻撃の軍に従ひ二年半彼地に在りと云。南京は一度に落ちしにはあらず。二回敵軍に奪回せられ三度目に至りて初て占領するを得たりと云ふ。この人は高橋是清の機関銃に打たれて斃るゝさまを目のあたりに見、また中華人の数知れず殺さるゝを目撃しながら今日に及びては戦争の何たるかについて一向に考ふるところ無きが如し。戦争の話も競馬のはなしも更に差別をなさぬらしく見ゆ。今日の世には此くの如き無神経の帰還兵士甚多し。過去の時代にはトルストイなど云ふ理想家の在りしこと夢にも知らぬなるべし」
*
その日、慶応大学仏文科の学生の堀田善衛は、美しい女の子を連れて、両国の倉庫街を歩いていた。堀田はそういうところを歩くのが好きだった。倉庫に物が運び込まれて、それがまた運び出されてゆくのを見るのが、好きだった。
その倉庫と倉庫の間を二人歩き、隅田川の川沿いに出た時、突然川向うの、玉の井かあるいはもっと先の荒川あたりと思われるところの上空に、真黒いものと真白いものとのかたまりが花火のようにあがり、まるで中空に幅広い幕を張ったようなものが見え、つづいて地にひびく砲声か爆裂音のようなものがとどろいた。
「何だろう」と、思った瞬間空気を切り裂くような甲高い音がして、倉庫の屋根に金属音をたて落ちて来たものがあった。それはいくつも屋根の上をとびはねて、やがて路上に落ちて来た。さまざまな形に裂けた鉄片であった。なかには水溜りに落ちて金属音と共に、ジュッと湯気を上げるものもあった。
二人は咄嵯に倉庫の屋根下の壁にへばりついた。ひとしきり鉄片が降り続いた。
川向うの、黒い幕のようなものの中から、かなり低空で一機の真っ黒な飛行機が突き抜けるように出て来て川を渡り、倉庫街の上空で急上昇して行った。プロペラが二つついていた。
どこにいたのか、|鉄兜《てつかぶと》をかぶった兵隊たちが数人、銃を持って駈け出して来た。兵隊たちは、口々に、
「クウシュウ! クウシュウ! 演習じゃないぞ!」と怒鳴りながら駈けまわった。一人、将校らしいのがいて刀をぬいて、
「クウシュウ! タイヒ」と叫びながら二人の前へ来てにらみつけ、
「バカッ! そんなところで何しとる! 危ないじゃないか! 高射砲の破片が落ちて来るぞ。倉庫の中へ入れッ」と怒鳴りつけた。いつの間にか堀田は女におおいかぶさるようにしゃがみ込んでいた。奇妙なことに堀田の手は女の乳房のところをさわっていた。
と、その時になって、長く尾を引く空襲警報のサイレンがごく近くで鳴り始めた。あまり近くで鳴り出したので、二人は思わず手で耳をおさえた。その拍子に顔を見合わせた。きわめて自然に、ほんのしばらくの間、二人はお互いの唇を合わせた。
やがて空襲警報が解除になった。二人はほっとしたように立ち上り、両国から浅草の方へ歩きはじめた。
殆ど町には|人気《ひとけ》がなかった。二人は公園へ行って、木馬館に入った。驚いたことに木馬館は景気よく「天然の美」のすり切れたレコードをかけて木馬をまわしていた。木馬には子供づれのお|爺《じい》さんが一組だけ乗っていた。
彼は彼女と一緒に木馬に乗った。静まりかえって人影のない公園に「天然の美」のワルツが|凄愴《せいそう》なほど高い音をひびかせていた。それは泣きたいほど異様な光景であった。
外へ出ると、もう花の春がすぎ、若葉の季節になりかかっていた。
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その頃、前年の暮に徴用された井伏二は、中島健蔵や神保光太郎らと共にシンガポール(昭南)にいた。シンガポールはその年の二月十五日に陥落して日本軍が占領していた。井伏たちは宣伝班として十六日に“入城”した。
シンガポールの目抜通りの、コンクリート三階建のストレイト・タイムスという新聞社を占拠して、そこを「昭南タイムス社」としてただちに新聞を発行した。編集兼発行人はプラカスという名前だが、それは井伏二の変名であった。しかしそこを三カ月ほどで辞めたので、初夏の頃井伏は暇で退屈していた。
六月十七日、日本の雑誌『新女苑』の編集部の清水立夫から手紙が来た。それはマライヘ来てこのかた、内地から受けとった初めての手紙であった。その頃井伏は、もう手紙を待つことを諦めようかと思っていたので嬉しくなり、「今度は誰から来るだろう」と思ったりした。
すると、チョンという未知の現地人と、チンナイアというやはり未知の現地人から手紙が来た。チョンの方は、戦争このかた生活に困っているので就職の世話をしてくれというのであった。井伏は、その要求には応じかねるという意味の返事を書いた。チンナイアの手紙には、「うるはしき日本」という長篇の詩が同封してあり、自分は独学で日本の俳句を習っている、と書いてあった。そして片仮名で「フルイケヤ、カハヅトビコム、ミヅノオト」と書き、願わくば芭蕉の俳句を他にすこし教えてほしいと書いてあった。井伏は隣の事務室から岩波版の「猿蓑」を借りて来て、芭蕉の句を抜き書きして返事の手紙に同封した。
昼すぎに井伏は街に出た。「軍政部管理」という貼紙をした書店の前に見なれた車が止っていた。店の中をのぞいて見ると、中島健蔵が一人の兵隊と一人のマライ人の手を借りて本を|選《よ》りわけていた。ほの暗いので、蚊が沢山いるらしく、中島は半ズボン半袖の腕や|臑《すね》をしきりに手で叩いていた。
外から井伏が、
「何か面白い本があるか」と|訊《たず》ねると、中島は、
「なんにもねえぞ、抗日の本がどっさりあって、あぶなくていけねえ」と言った。
「セザンヌの画集なんかないかね」と井伏が言うと、
「そんなものはねえ」とぶっきらぼうに答えた。中島は公用で、書物の分類をしに出張していたのであった。
この頃は雨の降る日が多かったので、井伏二は、二、三日たった午後、ハイ・ストリートへレインコートを注文に行った。そのあたりは呉服屋が多かった。どの店でもレインコートの布地は売っていたが、井伏がほしいと思ったのは、普通洋服の上に着るオーバー型ではなく、明治大正の頃中学生の着た|吊鐘《つりがね》マントの型であった。
四軒ほどまわったが四軒とも、見本を持って来てくれなくては出来ないと言った。四軒目の店で井伏は、吊鐘マントを絵に描いて見せた。すると、そういう仕立てなら、仕立賃を五十円もらいたいと言った。布地は一ヤール二円五十銭で六ヤール内外入用だったが、仕立賃はそのまた三倍である。井伏はこれは足もとをみられたな、と思い、注文するのをやめた。四軒ともインド人の店であった。
帰りにスンゲイ・ロードの中国人街の泥棒市に寄った。灰皿にするつもりで|真鍮《しんちゆう》の皿を一つ見せてもらった。それは灰皿ではなく中国製の仏具であった。表に刻んだ龍の模様が原始的で|間《ま》がぬけていて面白いので、見ているうちに買いたくなった。値段は二十銭であった。二十銭出して品物を受け取ると、相手はアンペラの上に並べたがらくたの中から、バリィ島の木彫細工をとり出して、「五十銭、五十銭」と日本語で言った。
気がついて見ると、井伏のまわりに沢山の|苦力《クーリー》たちが集まって、じろじろ見ていた。しかしそれは不隠の形勢ではなく、ただ物見高く集まっていたようであった。それでもあんまり気持はよくないので、井伏はそっとぬけ出した。
それから宿舎の近くの青物市場に寄り、パパイヤのよく熟したのを一つ買った。一個十五銭であった。念のため市場のなかを見てまわると、|蔬菜《そさい》が沢山あった。その中から新鮮な感じの竹の子を見つけ、売子に値段を聞いた。小さいのが五銭、太いのが二十銭であった。それは日本の|淡竹《はちく》の竹の子に似ていて、太いのは淡竹の竹の子の七、八倍もの太さであった。
|胡瓜《きゆうり》の新しいものがあった。二本四銭だと言った。|韮《にら》によく似たものがあった。何かと聞くと「クウツァイ」である、と言った。大きい束が十五銭だった。トマトは五個十銭であった。「トマトはいつもこんな値段か」と聞くと「品不足のときは大きい出来のいいのが一個十銭する」と言った。|蕪《かぶ》の葉があった。売子が「ナッパ」と日本語で言った。一束三銭と言った。
さんざん値段ばかり聞いたので、そのままでは帰りにくくなり、井伏は青唐辛子を買った。十二個十銭であった。
宿舎に帰ってマンデー(水浴)して、真鍮の皿を洗い、青唐辛子を洗った。その青唐辛子を真鍮の皿に入れて見ると、いかにも含蓄ありげな置物に見えた。台所のマライ人タムリンが部屋の掃除に来て、その唐辛子をバタで焼いて持って来ようかと言った。井伏は、
「いや、食べるのではない。当分ここに置いて、色が赤くなるまで待つのである」と言った。
その頃のシンガポールは、まだ、そんな風にのんびりしていた。
*
昭和十七年一月十四日の夕方、清水幾太郎が読売新聞社から自宅へ帰ったばかりのところへ速達が来た。それは「徴用」の通知であった。
一月十六日午後、正式の徴用令書を受取りに丸ノ内の日本赤十字社東京支社へ行くと、大きな待合室に大勢人がいて、その中に、三木清と中島健蔵の姿が見えた。
三木清はフィリピン、中島健蔵はマレー、清水幾太郎はビルマヘ行くことになった。マレー組とビルマ組とは一月二十日午前八時に、大阪城内にある中部軍司令部に出頭することを命ぜられた。
十八日夜、親しい友人たちが、赤坂の料亭「浅野」で送別会を開いてくれた。その中に田恆存と宮城音弥がいた。会の途中で、誰かが色紙を持ち出し、各人が一枚ずつ何かを書いて清水に贈ろうということになった。書道の心得のある田恆存は、立派な筆蹟で漢詩のようなものを書いたが、書き終って「ああ、これは縁起が悪い」と|呟《つぶや》いて、あわててその色紙を破り捨てた。
しかし宮城音弥は、進んで縁起が悪いと思われるようなことを書いた。それは「別れることは、少し死ぬことである」という意味のフランス語であった。みんなは顔を見合せた。宮城は平気な顔をしていた。しかも宮城は、清水を慰めるつもりで「官費の留学じゃないか。|羨《うらや》ましい話だ」と何度も繰り返した。
清水の方は、家族や仕事と離れる辛さ、生きて帰れないであろうという心細さ、そういう気持で一杯だったので、「官費の留学」という言葉は何とも軽薄な冗談のように聞え、陰気な気分を持てあました。
二月十七日午前九時、ビルマ組とマレー組とは、ブラインドを下ろした汽車で大阪駅を出発した。午後六時に広島駅に着き、一時間ばかり歩いて、木賃宿のような家に泊った。翌日の正午頃、宇品港に|碇泊《ていはく》している緑丸という輸送船に乗せられた。ビルマ組は四十名位であった。三月五日、ビルマ組だけがサイゴンに上陸させられた。そこから一カ月余も二台のトラックに乗せられ、ビルマのラングーンに着いたのが四月七日であった。
清水が入った宿舎は、シグナル・パゴダ・ロードに沿ったところにあって、そこには第一陣の徴用組、高見順、豊田三郎、小田嶽夫、北林透馬、倉島竹二郎、山本和夫といった作家たちが既に住んでいた。清水はそれらの作家とみな初対面であった。
豊田三郎が、清水の顔を見るといきなり、「清水さんは身体の弱い人、と田恆存から聞かされていたけれど、会って見ると、まるで野武士ですね」と言った。清水は身も心も弱りはてている自分がどうして野武士に見えたのだろうと不思議に思った。
豊田は田と同じ浦和高校出身で、学校時代から交際があった。それで清水のことを聞いていたのだ。
高見順は英文科、豊田三郎はドイツ文学科、清水幾太郎は社会学科で、所属学科は違って面識はなかったが、三人共ほぼ同じ時期に東大の文学部の学生だったので、日がたつにつれてこの三人の間に、奇妙な「三角関係」が出来上って行った。
高見と豊田は同じ部屋に起居していた。清水はラングーンに着いた翌日に彼等の部屋に招かれ、ブランデーのご馳走になった。
その部屋は二階の隅の、パゴダヘ通じる道がよく見える裏側にあった。立派なデスクが二つ並んで、どこで集めたのか、一方には英語の本の山があり、片方にはドイツ語の本の山があった。左右の隅にベッドがあった。清水は、書物の山も羨ましかったが、それよりもベッドが羨ましかった。緑丸に乗って以来、ずっと、本の板、大地、トラックの鉄板の上でばかり寝て来たからである。それに清水の部屋にはまだベッドがなく、第一夜も堅い板の間に寝たのであった。
二、三日たった夕方、清水が部屋でぼんやりしていると、そこへ高見が現われ、「これは便利な本ですよ」と言って、ブラウンの「私の見たビルマ」という本を渡した。そして、しばらく話しこんでいったのだが、その話の中で、高見は、
「いやあ、豊田君には、ホトホト閉口しているのです。あんな無神経な男はいない、あんな図々しい男はいない」と、ぼやいた。
それからしばらくして、今度は豊田が清水を訪ねて来て、問わず語りのように、「高見君をどう思います。とにかく、あんな神経質な人間は初めてです。何時でも、何だかピリピリしていて、全く周りのものには迷惑千万です」と言った。
清水はそのどちらにも理解を示した。
二人は、積り積った同居生活の不満を清水に打ち明けるために、清水の到着を待ちかまえていたようなものであった。
清水は少しつき合っているうちに、高見がひどく神経質であり、それを隠そうとしないことも判り、また豊田が、どこか無神経で鈍重のようなところがあることも判った。性格の正反対の二人が一つ部屋に住んでいるのであった。清水はその双方に対して、「理解者」であるような顔をする以外に方法はなかった。どちらの味方になるのも危険だと思ったのである。
この頃の「日記」に、高見順は次のように書いた。
「……清水君が、南京楼のメシを食いに行こうという。賛成して支局(東京日日新聞社ラングーン支局)を出ると、折から外の道にサイ・カー(サイド・カーの|訛《なま》ったもの)がさしかかったので、『ヘイ、サイ・カー』と呼ぶ。豊田君が|傍《そば》へ行って交渉する。すると清水君が、当然おれの乗るサイ・カーだといった顔で、自分をのこして、豊田君の方へ行く。自分はむかっとした。いつもこうなのだ。三人で外へ出ると、二人はサッサとサイ・カーにのりこみ、はみ出た自分は、あとからサイ・カーをさがしてノコノコついて行く。自分はいつも遠慮して、どうぞおさきに――などというのが常だったのも、いけないのだ。いつか習慣になったのだろう。だが一応、清水君にしても、乗りませんかと自分にいうのが当り前だ。自分はその場合、どうぞおさきにというにきまっている。そしてあとからサイ・カーをさがして行くのなら、こっちも腹は立たないが、はじめから、自分を無視して行かれたのでは、やりきれない。
自分は、そのことを二人に話して、行くのをよすといった。すると二人も、よすという。これは悪かったなとおもうが、騎虎の勢い、『では行きます』とはいえないし、行っても気分が悪いだろう。
トラックで宿舎に帰る。
三人のつきあいというのはむずかしいとおもう」
まだこの頃は戦雲急をつげていなかったから、何もすることのない作家連は、いたずらにいらいらし、こんな馬鹿げた、子供のケンカのようなことにも、火花をちらす、奇妙な「三角関係」がつづいたのであった。
つまり、清水が「理解」を両方に示すことが二人には面白くなくなりはじめた。三人の間で、ある問題が起ると、清水は、Aという|抽斗《ひきだし》を開けて、「それはこうだろう」と答えを出した。別の問題が起ると、Bという抽斗を開けて「それは、こういうことだろう」と答えを出した。それが清水の「帰納的」流儀だと、高見と豊田は言った。そして二人は、清水のことを「おい、抽斗」と呼んだりした。
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昭和十七年六月十八日、華々しく発足した日本文学報国会の事務局機構は次のようであった。事務局長(最高責任者)久米正雄、総務部長甲賀三郎、事業部長戸川貞雄、審査部長河上徹太郎、総務部庶務課長武川重太郎、会計課長大阪圭吉、事業部企画課長福田清人、事業課長北林透馬、審査部調査課長宮崎嶺雄。
文芸会館がそのまま事務局になった。階下の、元文芸家協会事務室が総務部、二階の三部屋のうち二部屋が事業部と審査部、階下の広い部屋と二階の広い部屋が会議室、離れの数寄屋造りの日本間にじゅうたんが敷かれ、そこが事務局長の部屋となった。
事業部が会の推進力であった。毎日のように会議であった。事務局の会議の他に、各部会の会議が毎週のように開かれた。各部会の会議には必ず麹町署の特高が出席した。情報局第五部〈文化部〉第三課〈文芸課〉の人も交互に出席した。その中に判任官待遇の嘱託平野謙がいた。
各部会には事務局員が記録係として出席した。小説部会、評論部会担当が巖谷大四、詩部会、短歌部会担当が鯨岡秀嗣、劇文学部会、国文学部会担当が田草川季雄、俳句部会、外国文学部会担当が宮崎嶺雄であった。
その年の主な事業は「文芸報国運動講演会」と、久米正雄が発足以来胸に抱いていた大企画「大東亜文学者大会」であった。
*
昭和十七年八月一日夜十一時、久米正雄、戸川貞雄、石川達三、棟田博、真杉静枝の五人が東京駅に集合した。日本文学報国会主催の「文芸報国運動講演会」近畿班の一行である。これは前年まで文芸家協会が主催していた「文芸銃後運動講演会」を受けついだもので名称だけ改められたのである。情報局から井上司朗第五部第三課長、黒田嘱託が随行した。
夜行で宇治山田駅に朝着くと、すぐに大安旅館に入った。そこへ神宮皇学館大学長の山田孝雄博士が見えた。山田博士の案内で一行は、神宮皇学館大学へ連れて行かれた。そこで「|禊《みそぎ》」をさせられた。
禊と言っても、何のことはない、眼をつむって、手を合わせて、冷水に打たれるだけである。
「こりゃあ、盛夏のみぎり、なかなか気持がいいね」と久米正雄が誰にともなく言った。戸川貞雄と情報局の井上司朗が一番神妙な顔をして長い間水を浴びていた。
それがすむと山田博士の招待で、五十鈴川のほとりの料亭に連れて行かれた。この国粋主義の学者は、なかなかの粋人であった。
「『禊』などは形式的なもので、どうでもいいんです」と言ってから「しかし、今日みたいに暑い日は気持がいいでしょう」と笑顔で言った。「いや、まことに結構ですなあ」と久米が応えた。
その夜、神都会館で、第一回の講演会が開かれた。戸川貞雄が「文学者の心がまえ」、棟田博が「台児荘の回想」という従軍談、真杉静枝が「女性の見た前線勇士」と題して中支従軍の見聞談、石川達三が「勝敗を決するもの」という題で、海軍報道班員として南方へ従軍して帰って来たばかりの体験談、井上司朗が「大東亜戦争と文学者」(この人は「開会の辞」を述べるために参加したのであるが、どういうわけか、五番目に登場し、五十分にわたる大演説をぶった)、山田孝雄が「世界と日本」(小さな身体のどこからこんな声が出るのかと思うような、ふりしぼるような声の熱弁をふるった)、最後に久米正雄が「予想の日米戦」と題して、得意の軽妙|洒脱《しやだつ》な話をして、満員の聴衆を魅了した。
次の講演会場は京都であった。ここでは在住の歌人川田順が参加した。
京都では講演がすむと、一旦京都ホテルヘ引き上げたが、その途中の車の中で、久米が石川にささやいた。
「今晩はひとつ、木屋町の『|床《ゆか》』などはどうかね」
「いいですな」
石川が応じると、
「いや、やっぱり、よしとこう。うるさいの(情報局のこと)が、付いて来てるからな」と、久米はまた言った。
しかし、遊び好きの久米は、我慢が出来なくなり、
「ちょっと息抜きしましょうや」と言って、全員を誘い、木屋町の或るなじみの家へ案内した。
京都風の奥深い家で、その突っ先の部屋から、河原に「床」が張り出していた。
二、三人芸者が来た。その中に時千代というすごい美人芸者がいた。
「君は綺麗だね。ちょっとすごい美人だね」と、久米は感に入ったように、鼻の下のひげをなでおろした。そして、井上司朗に、
「どうです。こういうのもいいでしょう」
と言った。
「いや、たのしいですな。川原の涼風をうけながらの美人のお酌のビールはまた格別ですよ」と、顔中くちゃくちゃにして御満悦であった。
「案ずるより生むは易し、か」
久米が、石川の方に目くばせして、そうつぶやいた。
次の日が和歌山市で、ここでは大阪在住の藤沢桓夫が参加した。
最終日が新宮市であった。これが最後の打ち上げということで、全員、長講熱弁をふるった。
さて翌朝のこと、世話係の部屋に、宿の女中が、変な顔をしてとんで来て言った。
「『養老』の間のお客様、どうかなさったのではないでしょうか」
「養老」の間と言えば、井上司朗の部屋であった。
「どうかって、身体の具合でも悪いの?」
と係が聞くと、
「いいえ、そうじゃないんですけど……」
と女中は口ごもった。
そこへ当の井上が入って来た。見るとパンツ一つで、汗びっしょりかいている。その汗をタオルでふきながら、
「やあ、諸君。朝の町は本当にすがすがしいぜ。僕は毎朝、天気なら早く起きて、|褌 《ふんどし》一つで、|裸足《はだし》でマラソンをやるんですよ。諸君もやりたまえ」と言った。
すべての謎は解けた。つまり、井上が褌一つ(パンツだが)で、裸足で、町へとび出していったから、女中が、びっくり仰天したのであった。
女中はいつの間にか姿を消していた。
新宮からの帰途、講師慰労という名目で、一行は紀州白浜温泉に寄った。雁風荘という和風の豪華な宿であった。
その夜、石川達三と棟田博が、こっそり宿をぬけ出して、近くの待合へ出かけた。
芸者を三人呼んだが、どれもやぼったい田舎芸者だった。それでも一人だけ多少ましなのがいた。
石川がそれを口説きはじめた。相手も上手にバツを合わせていたが、さて、泊りということになって、各々の部屋に別れると、その妓が棟田のところへこっそりやって来て、
「あの人、どうしてもいやなの」と言った。棟田はこれには参ったが、どうしてもいやなものは仕方がない。すると棟田のところへ来た妓が、
「いいわ、じゃ、私がかわったげる」とあっさり言った。棟田は、あんまりあっさりしているのにあきれたが、さて、石川がそれでおさまるかどうかと心配だった。しかし、しばらく待っても、女は帰って来なかった。
やがて女は、「どうも有難う」と言って、長じゅばんで入って来た。
しかし、その女は、丸太棒のような、味もそっけもない女であった。
案外、石川の方が得をしたのではないかと、棟田は床の中で苦笑した。
*
同じ年の八月二十日、上野発の夜行で、「文芸報国運動講演会」第二班東北班が出発した。講師は新居格、尾崎一雄、白鳥省吾、山口青、岩倉政治の五人である。
この講演会の趣旨書に「手弁当、わらじがけで……」と書いてあったので、生真面目な岩倉政治は、国民服にゲートルを巻き、振分け荷物で現われた。
振り出しは横手町で、次いで秋田、弘前、青森、盛岡、釜石と六カ所を廻った。
横手の宿は雄物川の川ベリの平源旅館で、二階の部屋から見おろすと、水の流れは少なく、ごろごろした石の川辺にこわれたブリキの煙突がころがっていて、そのそばで、浴衣の|尻《しり》をはしょり桃色の腰巻を見せた宿の女中らしい女が、洗濯をしていた。川原の向う側の堤には茶色の牛がねそべっていた。のどかな光景であった。尾崎がそれを見ていて、
「井伏二が随筆に書きそうな光景だな」と言った。
弘前では放浪の詩人福士幸次郎と、石坂洋次郎夫人がひょっこり会場に現われた。石坂洋次郎は報道班員に徴用されてフィリピンに行っていたので、夫人は故郷の弘前に帰っていたのである。石坂夫人は知る人ぞ知る女傑で、東北弁的べらんめえで、ずばずばと男のような物の言い方をする。一人一人みんな石坂夫人の能弁にまくしたてられ、下手にうけこたえすると頭からやりこめられ、岩倉などははじめから終りまで頭をかきっぱなしでおそれ入っていた。
青森を終ると、浅虫温泉で一日休息したが、あいにく込んでいたので、一行は南部屋と東奥館に分宿した。しかし夜食は南部屋にみな集まった。南部屋は、鏡ばりの部屋があったり、天井に|蛇《じや》の|目傘《めがさ》の模様のついた部屋があったり、いわゆる東北の遊び場で、えげつなくなまめかしい家で、みんなの話もだんだん|下《しも》がかって来た。
アナーキスト新居格は、人を喰ったような、おとぼけの|猥談《わいだん》をした。白鳥省吾が目尻をほそめて、上海の|のぞき《ヽヽヽ》の話をゼスチャーまじりにはじめた。それはまことにリアルで真に迫ったものであった。
「こんな話をしていると太平楽だね。講演|いや《ヽヽ》の如し(光陰矢の如し)だよ」と尾崎がしゃれのめした。
真面目な岩倉政治と山ロ青は|辟易《へきえき》していた。
講師たちは宿へ入ると大抵、色紙の|揮毫《きごう》を頼まれた。そのたびに尾崎と岩倉は本当に困り切った顔をして、「俺も字をならっとくんだったなあ」と嘆息した。
新居格は年の功で、めんどくさがりもせず、ただしいつも同じ文句を書いた。それは、
道といふ道はローマに通ずれば
ドンキホーテよたゆまずに行け
というのであった。
山口は俳人だから、色紙はお手のもので、
月を待つ情は人を待つ情
みちのくの槿の花の白かりし
といった心にしみる句をすらすらと書いた。
旅は、鉄の町釜石で打ち止めで、最後に花巻温泉で休息して解散となった。その帰り、この一行に随行した巖谷は尾崎と二人で仙台で降りて松島を見物した。
松島の宿で、二人で湯にひたっていると、団体客の老婆たちが数人、どやどやと入って来た。二人はだんだん隅の方へおしこめられ、やがてはみ出るように、逃げ出した。
翌日は、美しく晴れた日であった。二人は小舟を仕立てて、酒とさざえの|壺焼《つぼやき》を持ちこみ、島めぐりとしゃれこんだ。
尾崎の父親は明治二十八年に仙台の第二高等学校を卒業したということで、尾崎は、舟の上で壺焼をつつきながら、
「おやじも、こんなことをやっただろうな」とつぶやいた。そして、
「いや、しかしおやじは酒が一滴も呑めなかったから、こんな風流なことはしなかったかな」と言いなおした。
舟の上の酒宴は、うらうらとのどかで、二人は一とき、浮世のうさを忘れる思いであった。
昭和十七年は、まだ人々は戦勝に酔っていた。
*
「全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想トヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス」という日本文学報国会が、その目的達成のための事業として、大きく打ち出したのが「大東亜文学者大会」であった。
それは、日本が破竹の勢いで席捲したいわゆる大東亜共栄圏の代表的文学者を日本に招いて「日本の真の姿を認識せしめ、共栄圏文化の交流を図って、新しき東洋文化の建設に資せんとするものである」という、誠に大向う受けのするもので、情報局も翼賛会も両手を上げて賛成した。(事前に久米正雄と密約が出来ていたと見られるふしもある)
「第一回大東亜文学者大会」は、わずか五カ月の準備期間で、その年の十一月三日から華々しく開催された。“共栄圏”からの出席者は次の通りである。
満洲国――古丁、爵青、バイコフ、小松、呉瑛(女性)、山田清三郎(当時『満洲新聞』論説委員、満洲文芸家協会委員長)
中華民国――銭稲孫、沈啓旡、尤炳、張我軍、周化人、許錫慶、丁西林、潘序租、柳雨生、周毓英、襲持平、草野心平(中華民国中央政府宣伝部員)
蒙古――和正華、恭布札布、小池秋羊
朝鮮・台湾――李光洙(香山光郎)、芳村香道、兪鎮午、寺田瑛(以上朝鮮)、辛島暁、西川満、浜田隼雄、張文環、竜瑛宗(以上台湾)
以上、海を渡って来たのは丁度三十名である。海を渡って来たと言っても、戦争たけなわの最中であったから、全員朝鮮を通り、玄界灘を渡って下関に着いた。
この中で日本に知られていた作家は、山田、草野は別として、「虎」の作者バイコフ、古丁、銭稲孫、李光洙、兪鎮午ぐらいのものであったが、とにかくこれだけの作家が、日本に参集したことは、画期的なことであった。
何しろ情報局後援だから、列車は貸切の車輌がつき、全員に無料パスが出た。
十一月一日(日曜日)の十六時四十分に一行は東京駅に着いた。(バイコフだけは一日早く、デーラー夫人、愛嬢ナタリを連れて、通訳でハルピン特務機関の香川重信にともなわれて三十日に東京へ来ていた)
一行は到着すると、直ちに、宮城遥拝、明治神宮参拝をさせられた。
朝鮮の作家たちが目立ってうやうやしく手を合せて拝礼した。
一行の中で、中華民国の張我軍だけが、そっぽを向いていた。日本語の上手な男であった。
十一月三日午後一時から、帝国劇場で発会式が行われた。短歌部会幹事長土屋文明の司会で、国民儀礼、宮城遥拝、忠霊感謝の|黙祷《もくとう》があり、統いて久米正雄事務局長の開会の辞、下村海南理事の挨拶があり、次に情報局次長奥村喜和男の祝辞となったが、これが一時間になんなんとして「大東亜共栄圏の確立、世界維新の樹立といふ大いなる使命」を強調する大演説であった。これを二階の一番うしろの席に坐って聴いていた徳田秋声は、小声で「ふん、つまらんことを言ってやがる」とつぶやくと、すっと立って出て行ってしまった。
次いで青木一男大東亜大臣(代読)、陸軍省谷萩那華雄報道部長、海軍省平出英夫報道部課長、大政翼賛会後藤文夫事務総長(代読)の祝辞、川路柳虹、佐佐木信綱、高浜虚子の詩歌朗読、菊池寛、古丁、周化人、銭稲孫、恭布札布の順で挨拶があり、辰野隆が、仏印、フィリピン、ジャワ、ビルマ等、今回参加出来なかった国々からのメッセージを読み上げ、斎藤瀏が宣誓朗読、最後に島崎藤村の音頭で、聖寿万歳を三唱し、会の幕をとじた。しかし藤村の“バンザイ”の音頭は、なにやら田舎の老婆が、はずかしそうに手を上げたような、まことに意気の上らないたよりないものであった。
いよいよ四日から、文学者会議が開かれた。場所は大東亜会館(現東京会館)で午前十時からであった。日本側の会議員の名を発言順に上げると次の通りである。
戸川貞雄(司会)、久米正雄(大会委員長)、菊池寛(議長)、武者小路実篤、斎藤瀏、亀井勝一郎、長与善郎、藤田徳太郎、横光利一、吉屋信子、吉植庄亮(以上第一日)。富安風生、白井喬二、細田民樹、加藤武雄、尾崎喜八、木村毅、川路柳虹、舟橋聖一、林房雄、高田保、片岡鉄兵、吉川英治、中河与一、村岡花子、豊島与志雄、春山行夫、一戸務、高橋健二、中村武羅夫(以上第二日)。
会議は二日とも午前、午後と続き、二日目(十一月五日)の横光利一の宣言文朗読で終了した。会議の議題は、第一日、一、大東亜精神の樹立、一、大東亜精神の強化普及、第二日、一、文学を通じての思想文化の融合方法、一、文学を通じての大東亜戦争完遂についての方策、というのであった。
横光利一が代表して朗読した「大会宣言」(起草委員・戸川貞雄、亀井勝一郎、横光利一、林房雄、斎藤瀏、白井喬二、河上徹太郎)は次の通りである。
「大東亜精神の樹立並にその強化徹底を期してわれ等茲に根本を論じ、緊急の議題を議し、不動の信念を確立し得たるは、真に欣快に堪へざる所なり。|惟《おも》ふに大東亜戦争の勃発はわれ等東洋の全文学者に根源より奮起を促し、東洋再建の牢固たる決意を齎したり。これ実に日本の乾坤一擲ともいふべき勇猛心の然らしめし所なり。われ等光輝ある東洋の伝統に心を開き祖先が霊魂の叫びを継ぎ、久しきに亘る忍従の境地より誓つて再生せんことを期す。東洋新生のための礎石は置かれたり。われ等が心魂固く一致せり。今や大無畏の精神をもって邁進する事を一切の敵国に告げん。凡そ文学と思想の問題は強烈なる信念と永きに亘る刻苦とによつて処理さるべきものなり。われ等永久に本大会の感銘を心にとどめ温かき信愛の下に東洋の大生命を世界に顕揚すべく鋭意実行を期す。しかしこれが成否はひとへに大東亜戦争の勝利にかかれり。全東洋の運命もまたこの大戦の完遂にかかれり。われ等アジヤの全文学者、日本を先陣とし、生死を一にして偉大なる日の東洋に来らんがため力を尽さむ。右宣言す。
昭和十七年十一月五日」
一同起立して、この朗読に耳を傾けていた。
一行は、九日午前九時東京駅発特急「つばめ」で関西へ向った。東京駅頭で、見送りの女流詩人深尾須磨子が、江間章子と共同作詩した次のような「歓送歌」を朗読した。
詩神の使者よ、大東亜の同胞よ
遥々とよくぞ来ませし
卿等が重き使命に謝し
永遠無易の跫音に聴き
我等詩に生きる大和の女
沈黙の花を捧げて卿等を送る
希くは我等の調べを酌み給へ
希くは我等の感を|家苞《いへづと》になし給へ
あはれ、卿等と隔つる幾山河
|遮 莫《さもあればあれ》、心に通ふ空と海
我等いとせめて悠久の彼方に
卿等と歌ひ交さむかな
さらば、一路平安――
|恙《つつが》なく来ませしがごと
恙なく還らせ給へ
まず名古屋乗り換えで宇治山田へ向った。
宇治山田に着くと、一行は形どおりすぐに伊勢神宮の|外宮《げくう》に参拝した後、古市の大安旅館に入った。初めての日本宿、それに大広間での会食が、一行の心を大分なごやかにした。
翌朝は早朝六時の出発で、|内宮《ないくう》に参拝、それから宿へ帰って朝食、九時の列車で大阪へ向うという強行軍であった。
大阪に昼着くと休む間もなく、一時から中之島公会堂で大阪朝日新聞社と共催の講演会であった。
情報局五部三課長井上司朗の挨拶につづいて、同行した吉川英治、周化人、張我軍、呉瑛、恭布札布の講演があり、最後に、神戸岡本に住んでいた谷崎潤一郎が、「所感」を述べて四時半に閉会となった。
それから関西急行で直ちに奈良に向い、奈良ホテルに入った。
翌十一日は朝から奈良市内見学、お定りの鹿寄せ、東大寺、法隆寺の見学で一日中ひきまわされた。
翌朝は午前九時発の関西急行で京都へ向った。最後の日程であった。
都ホテルに荷物を置くと、すぐバスに分乗しての市内見学であった。御所、修学院、清水寺、金閣寺等の見学、知事、市長招待の午餐会、晩餐会の連続で、一行はへとへとにさせられた。
そして翌日はもう帰国するのである。午前九時五十五分京都発の列車で一行は下関へ向った。鯨岡と巖谷が随行した。一行が船に乗り込むのを見とどける役であった。
東京から西下する時もそうであったが、何よりも厄介なのは一行の荷物の取扱いであった。荷物は列車のデッキに一杯積み上げられた。ところが途中で誰かが必ず、自分の荷物をちょっと持って来てほしいと言った。山ほど積んだ荷物の中からその人の荷物をやっと見つけ出して持って行くと、別に何かを出し入れする様子もなかった。要するに荷物の有無をたしかめるのである。つまり、旅の不安と、やはり本当には許せない心のあらわれであった。
下関へ着くと、船の出帆まであまり時間の余裕がないので、随行の二人は、手ぎわよく赤帽に荷物を託して、一行をせきたて、桟橋へ急いだ。日はとっぷりと暮れて、あたりは真の|闇《やみ》であった。燈下管制がしかれているのである。
どうやら全員が船に乗ったのを見とどけると、二人はくたくたになって、真暗な下関の街へ出て、一番手近な、薄ぎたない宿に入った。部屋に入るなり、二人は、「酒、酒」と、どなった。
不愛想な女中が、ちゃちな清水焼のトックリと|佃煮《つくだに》を盛った皿を盆のまま置いていった。二人はそのトックリの酒を、湯呑茶碗にぐっとあけて、あおるように呑んだ。
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昭和十七年七月のある日、仏文学者で評論家の小松清は、元『改造』編集長の水島治男と銀座七丁目のビアホールでビールを呑んでいた。
ビールのジョッキを半分ほど豪快に呑むと、小松は手に持っていた、出たばかりの『改造』八月号を開いて、
「この論文をどう思う、読んでみてくれ、これでいいのかね」と言った。
それは細川嘉六の「世界史の動向と日本」というかなり長い論文であった。
水島はそれをビールをちびりちびり呑みながら一時間ほどかかって読み|愕然《がくぜん》とした。それは、レーニンの「資本主義の最後の段階としての帝国主義」の講義をしたもので、抽象的な学究論文の形で、間接的な書き方ではあるが、「未開国を侵略して植民地にすることは、近隣国に侵入して領土となすことと共に帝国主義である。今日、日本が隣邦支那に軍をすすめているのは特に帝国主義と言わねばならぬ」という趣旨のものであった。
「これはあぶないですね。レーニンの帝国主義論のおさらいですよ、私はレーニンの帝国主義論は素読しただけで本格的に勉強したわけではないから、見当違いをしているかもしれないが、そんな気がしてしようがない。何者かが邪魔を入れると大変ですね」と水島は答えた。
それでも八月号の『改造』は無事に過ぎたが、九月号に細川論文の続篇が載った。
すると、待っていましたとばかりに怪文書が散布された。それは十ページほどのパンフレットで、「レーニン新帝国主義の抬頭」「改造に巣喰う共産主義者」という意味の二冊であった。怪文書の発行名義人は田所広泰という男で、雑誌『新指導者』の主宰者であった。『新指導者』は転向した超国家主義者がグループをつくって発行した理論派右翼の戦闘的な機関誌であった。
このパンフレットが引金となって、『改造』九月号は発売禁止となり、執筆者の細川嘉六をはじめ編集部員、そして細川グループと見られた人々が、|芋《いも》づる式に捕えられていった。
九月十四日、細川嘉六が検挙された。その三日前に、世界経済調査会主筆川田寿と妻定子があげられた。そして翌十八年の一月、高橋善雄、五月、益田直彦、満鉄東京支社調査部の平館利雄、西沢富夫、『中央公論』の木村亨、『改造』の相川博、小野康人、東洋経済新報社の加藤政治らが次々に検挙された。この五月に拘引された人たちがいわゆる細川事件――泊事件と言われるもので、後に起った「横浜事件」の発端となるものであった。
「泊事件」というのは細川嘉六が家宅捜索された時に出て来た一葉の写真から起ったものであった。
泊というのは、富山県の日本海に面した北陸線の一駅になっている小さな町である。
細川は日頃世話になっている満鉄の調査部員や雑誌編集者を、印税や原稿料の入った時、一夕この日本海岸の新鮮な魚のとれる静かな町に招いてお礼のしるしに歓待したのであった。その時一行は記念写真を撮った。その一葉の写真が特高刑事の手に入ってしまった。刑事はその写真にうつっている人物を全部捕えたのであった。これこそ日本共産党の再建準備の打合せ会に違いないと、鬼の首でもとったように刑事側はほくそえみ、しばらくは写真の関係者たちをおよがせておいて、仕事で関連あるものを中心に次々に連鎖反応的にあげていったのである。
暗雲が次第にジャーナリズムの世界を覆いはじめた。
あたかもその年の四月、連合艦隊司令長官山本五十六元帥が戦死し、五月にはアッツ島守備隊が全滅した。
*
昭和十七年は、岩波書店創業三十周年であった。その秋、次のような招待状が学界、芸術界、芸能界、政界等に広く発送された。
「粛啓、天高く気清く涼冷の候と相成候処益御清穆の段奉慶賀候 平素は御無沙汰がちにて寔に申訳無之候
扨小生半生を顧みて碌々として為す事なかりしは甚だ慚入る儀に候へ共幸に健康に恵まれ今日まで大過なく職域に献芹微衷を捧ぐるを得たるは一に御高庇に依る事と常に感佩罷在る次第に御座候
恰も今年創業三十年に際会するを機として小生が少年時代より今日に至るまで知遇を辱うしたる諸先生並に特別の高誼を賜はりたる知友各位に感謝の微意を表し度存候 時局多端の折柄御迷惑の段恐縮の至りに候へ共御都合御繰合せの上来る十一月三日午後五時大東亜会館へ御光来の栄を賜り度伏して御願ひ申上候
[#地付き]敬具
昭和十七年十月十日
[#地付き]岩波 茂雄」
この会を催すことを、岩波茂雄は春頃から考えていた。小林勇をはじめ多くの書店員は、時世が悪いから見合せた方がいいと進言したが、岩波は「祝賀会をやるのではない。自分のような人間が、とも角三十年も商売をつづけることの出来たのは、多くの人のおかげだ。その人達に感謝するのが目的だ」と言って、頑固に自説を通した。大勢の人を|招《よ》ぶのに御馳走もないような時代であったが、岩波は自分でかけずりまわって集めた。
その会は祝賀会とは言わず「岩波書店回顧三十年感謝晩餐会」と名づけられた。
当夜の来賓の数は五百名を越えた。会は安倍能成の司会によってすすめられた。まず岩波茂雄が食前に、長い、心のこもった感謝の辞をのべ、デザートコースに入って、三宅雪嶺の祝辞にはじまり、牧野伸顕伯の乾杯、小泉信三、幸田露伴、明石照男、天野貞祐、安井てつ、藤原咲平の祝辞があり、最後に高村光太郎が、自作の短い詩「三十年」を朗読し、その詩とは別に、高村光太郎が岩波のために作った「店歌」が、男女十六名から成る合唱団によって歌われた。それは次のような詩であった。
あめのした |宇《いへ》と為す
かのいにしへの みことのり
われら文化を つちかふともがら
はしきやし世に たけく生きむ
おほきみかど のりましし
かの五箇条の ちかひぶみ
われらの文化を つちかふともがら
思ひはるかに 今日もゆかむ
ひんがしに 日はありて
世界のうしほ いろふかし
われら文化を つちかふともがら
こころさやけく 明日もゆかむ
この会を指して、岩波やそれを支持する勢力を憎んでいる連中が、「自由主義者最後の晩餐会」と呼んだ。
一年後の十一月三日に、岩波は、「回顧三十年」の会に来会した人々に、富本憲吉作の湯呑茶碗を贈ったが、それには次のような手紙が添えてあった。
「……其後戦局は日々急迫を告げ、昨秋の催しの如きも、最早今日に於ては到底望み得ざる事柄と相成候。顧みて去歳又なき機会を恵まれたる好運を喜ぶと共に、邦家の前途寔に容易ならざるを改めて痛感仕り候次第に御座候」
*
昭和十八年三月、出版統制団体である日本出版文化協会が改組されて日本出版会となり、久富達夫が会長に就任した。この団体は言論統制と出版界の整理統合をよりきびしく断行する目的をもっていて、姉妹団体としてさらにその実践部隊とも言うべき大日本出版報国会を組織した。久富達夫が会長を兼務し、本部部長に赤尾好夫、挺身隊長に野間省一、挺身隊副隊長に林二郎と水島治男が就任した。日本出版会の総務部長に元『中央公論』編集長の小森田一記がなっていたので、報国会には、元『改造』編集長の水島治男が挺身隊副隊長として配置された|恰好《かつこう》になった。
「……私の場合は科学振興社を創立するにあたり七誌を統合して|国策《ヽヽ》に|協力《ヽヽ》した経験を評価したからであろうと漠然と考えていた。五年前にやめた改造社がこの場合考慮されたとはどうしても思われないのである。私は創立大会においては、こけおどしの挺身隊長の役目をして、業界粛正のため注意をうながす国策協力の演説をすることになった。用紙の逼迫状態から押しても業者の整理、脱落は万やむをえないときだから、もっぱら思想統制、言論問題にはまったく触れず、用紙事業に主眼点をおいて、いましばらくの辛棒であるから協力を願いたいと、どうやらお茶をにごして、同業諸氏に訴えることができた。いやな言葉だが、放っておいても業界は自然淘汰されるものなのである。情報局のお好みの報国会とか報国団ばやりのこの際、出版界もこれに便乗しておつきあいする、事なかれ主義のような気分もあったのである」(水島治男「改造社の時代─戦中篇」)
こんな|按配《あんばい》でとても“挺身隊”などと言えたものではなかった。そしてここでもまた“みそぎ”が行われている。
それは十一月二十三日(新嘗祭)の日から一週間、神奈川県鵠沼の稲荷道場で行われた。一行は稲荷道場にこもって、はちまきに白地の着物(浴衣であった)に|袴《はかま》姿で研修会をやった。朝夕の食事の前には、褌一つになって六百メートルほどある海岸まで駆足で行った。海岸の砂地には、四方に|笹竹《ささだけ》を立て、それにしめ縄が張ってあって、それが“ひもろぎ”という神域になっていた。そのまわりを|祝詞《のりと》を唱えながら何回かぐるぐる廻り、それがすむと海にとびこんで、両手の指を組み合せて上下にふりながら、「スサノオ大神、ハライドノ大神」とくりかえし唱えながら、背の立つ深さまで入って行って全身を海水にひたすのであった。十一月もなかばをすぎていたから水はかなり冷たく、なかなかの難行苦行であった。
それから帰って来るとすぐゴマ塩の熱い湯を呑み、食事になる前“とりふね”というお神楽式の踊りを祝詞を唱えながら舟を|漕《こ》ぐ手つきで踊るのであった。水島は踊りながら、古代の岩戸のはだか踊りを想像して、苦笑しそうになるのを|堪《こら》えた。
「米英撃滅と文学者の実践」という議題のもとに「文学報国大会」というのが、昭和十八年四月八日午前十時から、九段の軍人会館で華々しく開催された。
これはいわば「日本文学報国会総会」のようなものであったが、前年の「発会式」の時からくらべると、その趣旨において「大東亜精神の樹立」が「日本精神の昂揚」に変り、「大東亜戦争の完遂」が「米英撃滅」と激化していた。
この年、日本文学報国会の八部会に、新たに漢詩漢文学部会が加わって九部会となった。その部会長の市村次郎の挨拶のあと、前年同様吉川英治の「陸軍報道班作家への感謝の辞」があったのに対し、既に帰還していた報道班作家の代表として、陸軍報道班員の尾崎士郎、海軍報道班員の山岡荘八の答辞があり、それから、諸種の文学賞の合併授賞式が行われた。
新潮賞――第六回、森山啓「海の扇」、添田知道「教育者」。芥川賞――第十六回、倉光俊夫「連絡員」。直木賞――第十六回、田岡典夫「強情いちご」、神崎武雄「寛容」。朝鮮芸術賞文学賞――第四回、李無影「青瓦の家」。有馬賞――第五回、沙和宋一「民謡ごよみ」。
以上である。
午後から「文学会議」となり、「米英撃滅と文学者の実践」という議題の下に、菊池寛が議長となり、中島健蔵が副議長となって、まことに活発に「米英撃滅文学の創作」について論議され、「米英撃滅のための文学者の国民日常生活への呼びかけの方法」について発言があり、「米英撃滅のための庶民としての文学者の実践」についての意見が交換された。
この日の発言については、あらかじめ前もって発言希望者に通告を求めたところ、七十八名にのぼる発言希望の申し入れがあったが、時間の関係でこの中から二十三名が選ばれた。その発言者と題名は次の通りである。
「大文学誕生のため基礎文学観の確立」石川達三。「古典の精神による皇国文学理念の確立」田善明。「必勝信念の昂揚」木下立安。「屯田兵精神顕彰の文学」坂東三百。「翼賛文化運動に策応する文学」石原文雄。「勤皇文学運動の提唱」細田源吉。「歴史文学の振興」村雨退二郎。「生産文学の育成」小池藤五郎。「生産文学の推進」山岡荘八。「国民文学の基本確立」大橋松平。「南方向け出版に関して」神保光太郎。「敵性文学並に枢軸文学の本質闡明」原田譲次。「古事記精神の民衆化」栗田正蔵。「国民士気昂揚としての大みたから精神の自覚と昂揚」小山竜之助。「国民士気昂揚としての俳句」山口青。「日常生活語への反省と喚起」内藤濯。「健全なる川柳」村田周魚。「映画報国の提言」吉植庄亮。「米機盲爆学童掃射記念日の設定」久米正雄。「一庶民としての文学者の呼びかけ」英美子。「著書の献納」森本治吉。「軍隊精神と文学者の日常生活」火野葦平。「女性の防空服装について」真杉静枝。以上二十三名。なお、真杉静枝の発言に|因《ちな》んで、この日、女流作家は全員モンペ姿の防空服に身をかためて登場した。
*
昭和十八年八月二十一日の朝九時頃、大磯の家の書斎で島崎藤村は、いつものように、その頃書きつづけていた「東方の門」の原稿を妻の静子に読ませ、それに聴き入っていた。と、急に強いショックを受けて頭痛を訴え、薬を取ろうとして倒れた。そのまま身体の自由がきかなくなった。
静子が薬を口ヘ入れ、水を呑ませた。水を呑むと、
「もう大丈夫だから……」と言った。意識ははっきりしていた。「そう、五十枚あるし、あそこで第三章の骨は出ているしね」と作品の内容のことも言った。それから静かに庭の方へ眼をやって、「涼しい風だね」と言い、またしばらくたってもう一度「涼しい風だね」と言うと、そのまま深い眠りに入った。そのまま眠りからさめず、翌二十二日午前零時三十五分、息をひきとった。七十二歳であった。
二男の鶏二が二十一日夜十時頃、長男楠雄や親戚たちは二十二日の昼頃かけつけた。遺骸は生前に愛していた大磯南本町地福寺境内の梅の樹の下に土葬で埋められることになった。その日の夕方には納棺を終り、静子の心づくしで、日頃愛用したタバコやパイプ、筆、原稿用紙などが棺におさめられた。その晩、近親のものだけで通夜が行われた。
本葬は八月二十六日、東京の青山斎場で行われた。
その日は折から「大東亜文学者決戦大会」の開催第一日であった。開会式の席上、久保田万太郎が緊急動議を出し、大会の名による弔辞をおくることが満場一致で可決され、議長菊池寛の指名で、佐藤春夫、久保田万太郎、古丁(満州)、張我軍(中国)が代表となり、日本文学報国会事務局長久米正雄も同道して葬儀に参列した。弔辞は次のようなものであった。
「本会名誉会員島崎藤村先生逝かる。
先生が、明治、大正、昭和三代に亘って簡素なる境地に徹せられつつ文藻を傾け、筆を息めず、文学報国の実を挙げ来られしはに|蕪辞《ぶじ》を要せざるところなり。
今や挙国昿世の大業に就けるに当り、益々先生の重厚深遠なる伝統顕現の文学に|俟《ま》つところ多大なりしに、俄かに逝き給ふ。
新涼むなしく|痛哭《つうこく》せざるを得んや。
我等今第二次大東亜文学者大会開催中なり。願はくば先生の霊しばらく留まられて我等が盟邦同信の友と決戦下文学の振起を図るを見守り給はんことを。謹みて哀悼のまことを捧ぐ。
昭和十八年八月二十六日
財団法人日本文学報国会
[#地付き]会長 徳富猪一郎」
遺髪と遺爪は十月九日、郷里の馬籠に持ち帰られ、永昌寺境内の墓地に葬られた。
木曾路の山の中に生れ、生涯|故里《ふるさと》を恋いつつ、海をも愛した藤村は、このように大磯と馬籠に分葬された。
戒名は、文樹院静屋藤村居士である。
*
その頃中山義秀は臨時海軍報道班員として文藝春秋社から南方へ特派(徴用による正規の報道班員ではない)され、七月初旬羽田を立ち琉球、台湾を経て、フィリピンのマニラに降り立った。
マニラは日本陸軍の軍政下で、軍人が大きな顔をして|跋扈《ばつこ》していた。酒くせのあまりよくない義秀は、東京にいた時のように酒に酔い、相手の見境もなく争ったりしたらとんだことになると思って、もっぱら軍人は敬遠して、新聞記者やその他の民間人とばかりつき合っていた。
ここではじめて義秀は猛烈な空襲に遭ってびっくり仰天した。敵は港の水路をふさぐため、夜半に水雷を投下したのであったがそれが陸地に落下したのであった。義秀は熟睡してたのだが、猛烈な爆発音と震動で、寝台からとび上り、あわてふためいて、闇の中を手さぐりで部屋をようやくぬけ出した。
こんな怖ろしい所には一刻もいたたまれないと思って、義秀はボルネオの中部東岸の石油の街バリックパパンに飛んだ。しかしここでもまた夜間、敵機の来襲に見舞われた。
どうにでもなれと度胸をすえた義秀は宿舎をとび出して爆撃された現場へ行ってみた。奥深い港湾の岸壁に林立している石油タンクが炎々と燃えあがって、暗い海面を照らしていた。
ここでも軍の規律が乱れていた。軍司令官や幕僚達は土曜の夜から日曜にかけて、特設の慰安所の大門をとざして、若い|芸妓《げいぎ》や女給等を買いきり、紀文もどきの豪遊をしていた。〈実戦に参加する第一部隊はべつとして、単調な南方生活に飽きていた彼等は、何もすることがないまま、そんなことにうつつをぬかして、憂さをはらしているのだろう〉と思った。
大密林におおわれた、赤道直下のボルネオの生活は、息苦しいものだった。人々は単調と孤独になやみ、みな不機嫌でいらいらしていた。
義秀はこの地で新聞記者から、島崎藤村の|訃報《ふほう》を聴いた。藤村は田舎教師をやめた後、「破戒」を書いて文壇に登場するまでに、三児と妻を失いいたましい犠牲をはらった作家であるが、義秀も同じような|轍《てつ》をふんでいるので、その生涯に同情していた。その訃報に大きな衝撃をうけ、その夜はなかなか眠れなかった。
中山義秀はボルネオから次にジャワのスラバヤに飛んだ。ここは別天地であった。重苦しく沈鬱なボルネオから解放されてほっと一息ついた。
ここで義秀は坪田譲治に会った。坪田は海軍報道班員に徴用されて七月末からこの地へ来ていた。
坪田は義秀に、自分がこちらに来る直前、田畑修一郎が急死したという話をした。一人旅の好きな田畑は、東北地方を旅していて、盛岡で急性盲腸炎で七月二十三日に、病院でひとり寂しく死んだということであった。
田畑と義秀は同じ頃田舎から東京へ出て来て、苦労を共にした仲であった。芥川賞の候補にのぼったのも同じ時であった。(義秀がその時受賞した)
義秀はここでも深い悲しみに打ちのめされる思いだった。
数月後義秀は、ジャワ島を汽車で横断してジャカルタヘ行った。
ジャカルタには武田麟太郎がいた。武田は戦争初めに徴用された大勢の作家報道班員が殆ど帰国したのに、一人だけとり残されていた。何か軍部の|忌諱《きい》にふれるようなことがあったのかも知れないが、武田は愚痴めいたことは言わず、毎夜街の酒場を呑みあるき、現地生活を享楽しながら、|無聊《ぶりよう》をかこっていた。
義秀の滞在中に、武田は帰国することになり、シンガポールへ飛んだが、どういうわけかそこでまたおろされてしまった。義秀があとからシンガポールへ行くと、そこに武田がいて、相変らず飄々として、その地の生活を楽しんでいた。
シンガポールへその頃、佐藤春夫と林房雄がやって来た。二人とも臨時の報道班員で、朝日新聞社から特派されたのであった。義秀は海軍付だったがこの二人は陸軍だった。
義秀の宿舎は山の手公園内のホテル、二人は下町の繁華街のホテルだった。陸軍のホテルでは夕方五時からしか酒を出されなかったが、義秀のホテルは朝からビールが呑めた。林と武田はよく義秀のホテルへ来て、朝から酒を呑んでいた。
シンガポールからサイゴン、海南島、台湾を経て、その年の暮、中山義秀は鎌倉の新居へ帰りついた。
坪田譲治はスラバヤの『朝日新聞』の支局に起居していた。
その頃、佐藤春夫がジャカルタにいて、一人で不自由しているということを聞いた坪田は、朝日の富永正信支局長に頼んで、スラバヤヘ呼んでもらった。
佐藤は二日後に喜んでやって来た。佐藤は白い半袖、白い半ズボン、白い靴下に、白いヘルメットといういでたちだった。
佐藤はスラバヤのホテルに入った。少し落ちつくと、佐藤は「朝日新聞」に頼まれた小説を書きはじめた。
坪田は佐藤より二つ年上だったが、文壇的には佐藤の方がはるかに先輩だったので「先生」と呼んで尊敬していた。佐藤は「その“先生”はやめてくれないか」と何度も言ったが、坪田はどうしてもやめなかった。
その年の暮近く、坪田は佐藤を案内してバリ島へ行くことになった。ところが約束の日に坪田が佐藤のホテルへ行くと、佐藤はまだベッドの上に寝ていて、
「坪田君、昨夜下痢しましてね」と言った。
そういう佐藤を見ると、むき出した臑や足の方まで汚物でよごれていた。坪田は見るに見かねて、部屋にあったタオルをぬらして、|腿《もも》から足の先まできれいに拭いてやった。
佐藤は以前に軽い脳溢血をやったことがあり、家では子供のようにシャツ、ズボン下、足袋、すべて夫人に着せてもらっていたので、自分では手ひとつ動かしたことがないのであった。
「や、有難う。そんなにひどくよごれてるとは知らなかった」と、佐藤は子供のように笑いながら言った。
バリ島行は延期になった。そのあと坪田は小スンダ列島の方へ旅をしたので、佐藤のバリ島案内は『朝日』の富永支局長がやった。
翌年三月坪田は帰国したが、帰国すると間もなく佐藤夫妻が訪れ、坪田に、全面金製のパーカー61万年筆を贈った。
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昭和十八年十一月十八日、文豪徳田秋声が逝去した。島崎藤村を失って三カ月後のことであった。
秋声はその年の七月から病床にあった。藤村の死を病の床で聞いたのであった。
川端康成が、藤村の葬儀に参列するため、軽井沢から上京した時、秋声の病床を見舞った。秋声は難病で苦しんでいた。藤村の死は既に知らされていた。新聞記者が談話を求めたが一言もしゃべらなかった。川端に対しても殆ど口をきかず、ただ「小説はむずかしい」と、文学者らしい言葉を吐いたのが川端の胸をついた。
それから二、三日後に、野口冨士男が見舞に行った。野口は青い蚊帳の外から秋声と話をかわした。その日はいく分元気で、野口が「暑いですね」というと、「藤村君はうまいことをしたね」と言った。
秋声は、九月十五日に帝大の坂口内科に入院したが、|肋膜《ろくまく》のガンという診断で、既に手おくれであった。十月の二十二日に退院した。
秋声は、帰宅した日は久し振りに自分の書斎に落着いたせいか機嫌がよく食事も進んだ。しかし、十一月十日頃から再び悪化し、意識が混濁するようになった。十三日主治医の大堀泰一郎が往診すると「久米正雄らしい人物が夢に現われ、急ぎ足で歩いて行くので後を追って行くと、突然背後から|袈裟《けさ》掛けに切りつけられた」というような話をした。光のない目を時々あけたり、半眼のまま眠っているような状態で、|噛《か》む力も尽きはてたように、流動物を少しなめるくらいに呑むだけであった。
十七日から容態が急変、十八日の未明、静かに世を去った。
葬儀は二十一日正午から、日本文学報国会小説部会葬で行われた。秋声が小説部会長だったからである。菊池寛、中村武羅夫が葬儀委員長となり、仏式で行われた。
谷中臨江寺住職導師の読経、引導にはじまり、岡部文相(近藤教学局長代読)、天羽情報局総裁(井上文芸課長代読)、徳富蘇峰文学報国会長(上司小剣代読)らの弔辞があって後、友交団体である美術報国会会長横山大観、少国民文化協会会長小野俊一、小説部会幹事長白井喬二、友人代表正宗白鳥、女流作家代表吉屋信子、秋声会代表岡田三郎の弔辞がつづき、中村星湖の追悼歌、久保田万太郎による遺作の一節の朗読があり、遺族焼香、一般焼香、午後二時半に式は終った。
形式的には盛儀であったが、あまりにも形式的にすぎ、“自由人”秋声の葬儀としてはふさわしいものではなかった。それに腹を立てた船山馨は、次のように「葬儀日記」を書いた。
「坊主たちの支那の楽隊じみた騒々しい鳴物や、『喝!』などといふ蛮声を先生の棺に向つて放つのも滑稽には違ひないが、『T・S名は末雄。明治四年金沢に生まれ――』といふ出だしで『黴、爛、あらくれ等幾多の名作を著はして以て我邦学芸の発展に多大の功績を遺し――』などと続く下手な履歴書のやうな文部大臣の弔辞にくらべたならばまだしも調子外れとも云へなかつた。つい最近先生最後の長篇小説を中途で筆を折るように仕向けてその望みを達したばかりなのに、死後形式のための形式のやうな弔辞を代読するために、先生の小説を読んだこともない事務官が官庁の自動車を乗りつける頓狂さは日本の役人なればこそである」
*
昭和十九年一月二十九日午前七時、元『改造』編集長で科学振興社社長の水島治男の家に、五、六名の特高刑事がどやどやと入りこんで来た。刑事のうちの一人は警視庁のもので、他は神奈川県警のもので、いわば管轄外であった。刑事たちは寒い寒いと言って白い息を手にふきかけながら、書棚の本や押入れの中のものを片っぱしから引っぱり出した。
「おい、こんなものがあったぞ。はじめてお目にかかるやつだ」と言いながら、押入れから『文芸戦線』『赤旗(ナップ)』のバック・ナンバーをほうり出した。『レーニン研究』『インタナショナル』などを積み上げた。書籍では「ブハーリン・スターリン全集」「岩波・資本主義発達史講座」、向坂逸郎著「日本資本主義の諸問題」、河上肇著「第二貧乏物語」、横光利一著「紋章」、改造社版「マルクス・エンゲルス全集」等、五、六百冊の本を床に積み上げた。
そのうち手に持てるだけのものを刑事たちが小わきにかかえ、水島にも持たせて(あとは翌日トラックでとりに来た)刑事たちは水島を連行して上野から省線(国電)に乗り、桜木町まで行った。桜木町から二台の円タクに分乗し、寿署に連れて行かれた。
デカ部屋で一人の刑事が、
「お前を治安維持法違反容疑で逮捕する。この用紙に|拇印《ぼいん》を押せ!」と怒鳴った。
「私は、そういう罪状には思いあたることはありません」と水島が言うと、いきなり往復ビンタで、はりとばされた。問答無用であった。水島はやむなく拇印を押した。その紙には、書籍を県警に証拠品として没収する、返還はしないという意味のことが刷ってあった。何の調べもなく、そのまま留置場に放りこまれた。
同じ日、『改造』関係で、若槻繁、小林英三郎、青山鉞治、『中央公論』関係で、小森田一記、畑中繁雄、青木滋(青地晨)、藤田親昌、沢赳が検挙され留置された。“泊事件”(前述)から尾を引く、“横浜事件”の登場である。
このあと『改造』関係で、満洲に行っていた大森直道が三月十二日に検挙され、『日本評論』関係で美作太郎、松本正雄、彦坂竹男が十一月二十七日、鈴木三男吉、渡辺潔が昭和二十年四月十日、「岩波書店」関係で藤川覚が十九年十一月二十七日、小林勇が二十年五月九日に検挙された。
「よく拷問といわれるが、留置場の中に、ありとあらゆる種類の雑多な犯罪者とコミで放りこまれて何カ月も放置されていることの方が、われわれのようなものにとっては、心理的にもっともひどい拷問である。なぐられるだけが拷問でないと私には感じられた。特高の調べ室に引っぱり出されて、剣道の竹刀でコツンコツンと一時間以上も頭をたたかれたり、首をしめられたり、柔道の術でからだを板張りの床に何度も投げつけたりする拷問をされている方が、受け身の自分にとって危害を加える人間との間にいろんな動きがあって、一歩でも、一分でも早く結論に到達するので|たのしみ《ヽヽヽヽ》であった。ここへくれば、こうやられる。まあ修業の一種と思えばいいのである。ああこれで今日の日程が終ったのだというわけである」(水島治男「改造社の時代・戦中篇」)とあるように、精神的にも肉体的にも拷問はすさまじいものであった。
留置されて一年近い、その年の暮十二月のなかば、水島は講堂のように広い部屋に引っぱり出された。そこには十人余の特高刑事がいた。威力誇示、脅迫であった。その中の、水島を調べつづけている柄沢という刑事が、居丈高になって、「そこへ坐れ」と怒鳴った。
「お前はまだ初志を翻さないが、しぶとい奴だ。天皇陛下のことをどう思っているかもう一ペん言って見ろ」
水島はそれに答えて、
「われわれは天皇の問題そのものに触れたことはありません。国体や制度のことは別として、天皇を利用する幕府的存在を問題にしているのです。かかる非常時の際は万民こぞって帰一し奉り、国民の財産のごときも、すべて奉還すべきだと思います。あたかも明治御一新にあたって、徳川幕府や大名が大政奉還をしたのと同じであります。あの例にならえ、ということです」と言うと、
「ほらみろ、こいつはまだこんなことを言っている。ズウズウしい奴だ」と、柄沢が目くばせをしたとたん、十人余の刑事が|蝗《いなご》のように一斉にとびかかり、なぐるけるの暴行であった。
*
昭和十九年七月一日、郷里の栃木市に疎開していた山本有三のところに元首相近衛文麿公爵から、急ぎ上京してくれという電報が届いた。
山本は早速、娘を駅にやって切符を求めようとしたが、当時は民間のものがおいそれと切符を手に入れることが困難な時で、やっと二日後の三日の切符を手に入れることが出来た。
三日の早朝、山本は栃木を|発《た》って、九時少しすぎに、荻窪の近衛の邸である「|荻外荘《てきがいそう》」に入った
この朝着くことは、電報で知らせてあったので、近衛は既に首を長くして待っていて、すぐに応接間に通された。もちろん、他に誰も居らず、二人だけの相対であった。
電報で呼び出したくらいだから近衛の方から、「君に来てもらったのは、実は、これこれしかじかの用件で」と普通の人なら言うところなのだが、近衛はそんなことはひとことも言わず、いきなり、
「君、最近の情勢を、どう見ますか」と言った。
山本はちょっと面くらった。こっちは田舎に引っこんでいるのだから、新しい情勢など持っている|筈《はず》がないのに、妙なことを言うと思った。この年の初めから、南方方面で、激戦があったようだが、いずれも、はっきりしない報道ばかりだから、信用できないと思っていた。
とにかく、政治や軍事については、自分はまったく素人だから、近衛の前で、つまらない意見など言ってみてもはじまらないと思って、
「なんだか、近頃は、サイパンの方でガタガタやってるようですね」と、新聞で目についたことを、そんな風に答えると、
「いや『なんだか』ぐらいのことじゃない。もう、島の一角に、敵が上陸しているんですからね」と、近衛は目をぎょろりと光らせて深刻な顔で言った。
それから話はだんだん核心に入り、近衛は、東条内閣の打倒、いやそれどころか、「それは、暗殺をも辞せずということです」と打ちあけたので山本はぎょっとした。
それから話は、歴史上の出来事に発展し、平安朝の藤原家の先祖は暗殺の開山のようなものだという話になり、近衛はからだを乗り出すようにして、こう言った。
「高松宮さまを|戴《いただ》いて、大転換を行うつもりなんです」
それからまた話は、歴史にもどり、維新の時の徳川方の負けっぷりの話や、勝海舟の大ばくちの話などになった。
とにかく形勢はなはだ不利となって来た戦争末期の異常な状態の中で、元首相で公爵という最高の地位にある人物から、政界の裏面の驚くべき告白を聴いて山本は愕然とした。沈痛な思いで荻外荘を出て、山本は三鷹の家に帰って行った。
*
昭和二十年五月九日の早朝、岩波書店の小林勇の鎌倉の自宅に、神奈川県特高の者だと称する人相の悪い男が六人やってきた。山根という検事の逮捕状を持っていた。治安維持法違反の嫌疑であった。刑事たちはどんどん上って来た。
前の晩から、絵の友達である北大教授の中谷宇吉郎が泊り込んでいた。中谷は驚いて布団の上へあぐらをかいていた。一人の刑事が小林に「これは誰だ」と言った。「中谷先生だ」と答えると、その辺に絵のかきちらかしがちらかっていたので「何だ、絵の先生か」と言った。
刑事たちは家捜しをはじめた。小林と中谷は茶の間で朝食を食った。傍に刑事が一人ついていた。別の刑事がその部屋の戸棚をあけた。ウイスキーの瓶が数本ならんでいた。
「あるところにはあるもんだなあ」と刑事が憎々しげに言った。
「少し飲んだらどうです」と小林が落着いて言うと、
「馬鹿野郎! 被疑者の家で酒をのめるか」と怒鳴った。
家宅捜索で何か少し証拠物件を持った。小林はかねてからこんな日のことを予想していたので危いものは別のところへ疎開しておいたのだった。「ざまあ見ろ」と思っていた。
小林は登山服を着、身の周りの品をリュックに入れて背負った。一旦鎌倉署に寄り、それから電車で横浜へ行き、更に市電で東神奈川署に連れて行かれた。そこは小林が大正十二年九月の大震災の時、鎌倉へ帰る途中一泊したところであった。
一服する間もなく小林は道場に連れ込まれ、いきなり竹刀でぶんなぐられた。
「この野郎、いやに落着き払いやがって」とか、「貴様、ここの玄関でにやりとしやあがった」とか言った。そう言いながらなぐった。その日はなぐるだけであった。「共産主義者、反戦野郎」とも言った。
夕方、ぼろきれのようになって留置場に投げ込まれた。房には先客が十人以上いた。小林は以前に銀座で喧嘩をして留置場に入れられたことがあった。また「新興科学の旗の下に」という講演会の主催者として、また発禁本をかくしていたということで留置場の世話になったことがあった。初めてではないので気分は落着いていたが、こんなになぐられたのは初めてで、|躰《からだ》が痛く、苦しくて起きあがれなかった。|凄《すご》い顔をした先輩がいた。その男が、小林のことを治安維持法違反の被疑者だと知ると、|忽《たちま》ち周りの連中を|叱咤《しつた》して小林を寝かせ、躰を静かにさすらせた。そしてその男は「いいわいいわ。そのうちにアメリカさんがかたきを打ってくれるわ」と言った。
翌日から毎日引出されて、責められた。刑事は二人であった。小林は責められながら、彼らが何を根拠に自分を検挙したのかを知ろうと思った。
四、五日目に、その日は刑事が一人で来た。また三階の道場の片隅に連れて行かれた。その時、別の刑事が入って来て、電話だと言った。小林を責めていた刑事は舌打して二階へ下りていった。その間に小林は刑事の置いて行ったカバンの中から書類を出して大急ぎでめくった。終りの方に、「小林勇を検挙して、岩波書店の内にある左翼組織を|掴《つか》むべきだ」というようなことが書いてあった。口述者は、前に岩波書店にいた藤川という男だった。小林は自分を指した人間がわかったので、一種の安心感を覚えた。警察は藤川に無理にもこう言わせて、中央公論社や改造社のように、岩波書店をつぶす理由をデッチ上げようとしたのであった。
五月一杯苦しい日々がつづいた。
小林は、警察に連れられて来た日に、三つの誓いをたてていた。早く帰りたいと思わない、自分をいやしくしない、健康に気をつける、この三つであった。早く帰りたいという気を起せば必ず奴らに屈服してしまうことになる。そうは言っても家のこと、店のことを思うと心がくじける。小林は「どこにいても同じだ」ということを改めて自分に言いきかせた。戦争はいやだがそれでもまだ少しは自由がある。こうしていてもいつ召集されるかわからない。大分たってからの或る日、小林は特高に、赤紙が来たら釈放してくれるのかと訊いた。特高は「お前のような奴、出られるものか」と言った。やれやれ戦争には行かないですむ、と小林は思った。
留置場は狭くて汚かった。食い物は、長くいれば到底人間の生命を維持することの出来ないほど粗悪で少量だった。小林はドフトエフスキーの「死の家の記録」を思い出していた。
五月二十九日に、B29百機が横浜を空襲した。東神奈川署は、鉄筋コンクリート建で、がっしりしていた。空襲がはじまって間もなく周囲は火の海となった。留置人を逃がしても、もう外に出られない状態だった。そのうちに窓から火が入るといって騒ぎだし、管理人たちもかり出されて火消しに従事した。しかし小林と、同室の重犯罪者たちは手を縛られて、廊下の隅におかれた。煙で苦しく困った。しかし生命だけは助かった。
七月になって特高は小林のところへ殆ど来なくなった。反省しろということらしかった。
しかし、七月一杯休んでいた取調べが八月になってまたはじまった。今度も拷問がつづいた。小林がへとへとになって、よろめきながら留置場に戻ってくると、看守たちが、不思議そうな顔をして、
「来た早々やられたんだから、もうヤキは入らぬ筈なのになあ」と言った。小林は特高等が望むように泥を吐かなかったので、しつっこくやられたのであった。
八月三日、四日頃、小林が相変らずヤキを入れられている時、検事が会いに来たという報せがあった。特高はあわてて取調べをやめて、小林を留置場に返して逃げた。
改めて小林は呼び出された。階段を上る時刑事に便所へ行かせてくれと言い、洗面所に入った。ゆっくり小用をたしてから洗面所の鏡を見て驚いた。顔がひょっとこのようにはれ上がり、血だらけになっていた。
そばについて来た刑事が、顔を洗えと言った。しかし小林は、「ぼくは一日に一度しか顔を洗わんよ」と言って断わった。
検事の前に腰をかけると、検事はびっくりしたような顔で小林を見た。そして「その顔はどうしたんだ」と言った。小林が黙っていると、「誰がやった?」と言った。
小林は、腹の底から憤りがこみあげ、「あなたの命令ではないか」と、にらみつけた。検事は気色ばんで、
「何を言うか、私はそんなこと命令なぞしない」と言った。
検事は簡単な|訊問《じんもん》をしたあと、|鞄《かばん》の中から一通の封書を取り出して、
「君は露伴先生とどういう関係があるのかね」と訊いた。小林は本屋としての関係だと答えた。するとなおけげんな顔をしながら、「これを見給え」と言ってその封書を渡した。幸田露伴が小林に宛てた手紙であった。それは次のような文面であった。
「その後如何。足下が拘禁せられし由をきゝて後、日夕憂慮に堪へず、然れども病衰の老身、これを何ともする能はず、ただ誠にわが無力のこれを助くるなきを愧づるのみ。ただ、今の時に当りては足下が厄に堪へ、天を信じて道に拠り、自ら屈し、みづから傷むことなきをねがふのみ。おもふに我が知る限り足下が為す処、邦家の忌避にふるゝことなきを信ず。まさに遠からずして疑惑おのづから消え、釈放の運に至るべきを思ふ。浮雲一旦天半を去れば水色山光旧によつて明かなる如くなるべし。なまじひに散宜生の援護の手を動かして人を救ふが如きをせず、孔子が縲紲の士その罪にあらざるの信を寄する挙を敢へてするの念をいだくのみ。足下また将に人知らずして恚るの念を懐くことなかるべし。人非運に際して発生するところは、心平らかならずして鬱屈危に至るにあり、冀くは泰然として君子の平常を失はざらむことを欲す、即ち遠からずして青天白日足下の身をつゝまむ、この心をいたしていささか足下をなぐさむるのみ。
[#地付き]露
小林勇様
[#地付き]」
小林は二回読んで大意を理解したが、むつかしい言葉でわからないところもあった。|溢《あふ》れる涙をこらえながら手紙をいつまでも見入っていた。
検事が「早くし給え」といい、次に「露伴先生がこんなに愛している君については考えねばならぬ」とつぶやき、更に「その手紙はわたしがあずかっておく」と言って持去った。
翌日、小林は、特高に、「検事に告げ口などしやあがって太え野郎だ。そんなことで手をゆるめはしないぞ」と言われ、また、こっぴどくなぐられた。
次の日、原爆が広島に投下された。
「新型爆弾で三十万人やられた」と刑事たちが話しているのを小林は聞いた。そして、ロシアが参戦したという報せも聞いた。それを聞いた時、小林は、「いよいよ俺も助かるか殺されるかの岐路に立った」と思った。「死んではならない、刑事の一人や二人殺しても逃げてやる」と決心した。
しかし、殺されもせず、八月十五日を迎えた。小林は、正午に重大放送があるということを聞いて、それでは敗戦が決ったのだろうと思った。その二、三日前、県の特高部長という男から、「ポツダム宣言」を見せられ、それについて感想を求められた。小林ははじめいいかげんの事を言ってごまかした。部長が怒り出したので、逆に「日本は敗けると思うのか」と反問した。部長は返事に窮した。小林は「日本は敗けないだろう。だからこれについて考える必要はあるまい。しかし万々一にも敗けるとしたら、この件は|苛酷《かこく》ではあるまい」と言って逃げたのであった。
その日の正午前、留置人は皆引出されて、講堂に署員と一緒に集められた。小林は一人だけ残って、森閑とした留置場の中で、遠くから聞える天皇の声を聞いた。
それがすむと、小林だけを残して留置人たちは全部釈放された。その時初めて小林は孤独を感じた。看守たちも、どうして小林だけが残されたのかといぶかしんだ。
その午後特高室に呼ばれた。特高課長が、今までと態度を一変して、自分でお茶を出して言った。
「先生、わたし達はどうなるでしょう」
小林は笑って、
「心配しなくてもいい。あなたのような小者までどうってことないだろう」と言った。
二週間たった八月二十九日、小林は釈放された。
その間に、警察官が、窓の下の空地で書類をしきりに焼いているのを見た。それは横浜事件の書類に違いないと、小林は思った。
*
昭和十九年四月、日本文学報国会に機構改革があった。事務局長の久米正雄と審査部長の河上徹太郎が「自由主義的だ」ということで退陣させられた。総務部長の甲賀三郎は日本少国民文化協会の事務局長となり、戸川貞雄も事業部長をやめた。
新しく中村武羅夫が事務局長となり、総務部長に北条秀司、事業部長に今日出海、調査部長(審査部長の改称)に芳賀檀が就任した。
この年の二月二十五日「決戦非常措置要綱」というのが発表され、日本文学報国会は、これに対応する企画を立てることになった。
小説部会幹事長の横光利一は、五月二十七日に、川端康成に宛てた次のような手紙を書いた。
「(前略)小説部会はますます難しくなりさうだ、といふよりややこしくなつて来た。とにかく、ぜひこれは君の力をお借りしたい、さうでないと出来ん。いろんなことをして、文士を困らせても不愉快だし、さうかと云つてせずにゐるわけにもゆかず、委員会が三十幾つもあつて、ここから出て来るものを受けてばかりゐるか、それとも、この委員会を動かして行くか、また、何かこちらから案を出すと、お金の袋の口を締めやうとしてゐる事務局、何とかかとかと口を締めるだらうし、情報局は眼を光らせてゐるし、幹事諸氏、大衆(註=大衆作家のこと)の方はあの通りだし、また戦法も定めてない。
戦時緊急態勢とか云ふのが出来る。これは寝耳に水だが、思想班、科学班、軍事班、農業班、何々班、およそ十幾つに分けてプールを作る、さういふ会が間もなく出来る案が、理事会を一昨日通つてしまつた。これが出来ると私はどの班へも出なければならなくなつて眼が廻る。不平をいふつもりはないが、君にだけは不平ばかり言ふつもりだ。
センスイ艦は四月、五月は、日本の方が黒字になつて来たといふ情報課長の報告があつた。秋になると、飛行機がこつちが『非常に』上るとも云つた。
文壇と云つても約五千の人間が渦巻いてゐるのだと知つた。三十幾つも委員会のあるのは無理でない。三十日は『文芸者総動員準備委員会』がある。班を作る委員会はまた別らしい。班のわけ方は、これが問題、このときには案をねり直すらしいが、是非出てくれ給へ。芸能班、かういふのもあつたやうだから。一番有用なのが、一番無用にさせられるのは定つたことだ」
これは、六月十八日の「決戦態勢即応文学者総蹶起大会」のことを言っているのだが、その趣旨は、「決戦態勢に即応して国内戦線各戦闘部署(各班のこと)に挺身せんとする本会員の新方途を樹立し、その総蹶起を促して決意を中外に表明、大いに戦意を昂揚せんとす」という、まことに壮烈なものであった。
しかし、この大会は幸か不幸かその日空襲警報が発令されたので中止となってしまった。
その後も戦況はますます険悪となり、大人数の集会は危険な状態となったので、結局、七月十日、この大会で授賞されるはずだった今年度の種々の文学賞の授与式だけを催してお茶をにごした。因みにその時の文学賞受賞者は次の通りである。
文学報国会小説賞─『行軍』豊田三郎。同国文学賞─『古典の批判的処置に関する研究』池田亀鑑。大陸開拓文学賞─『解永期』大滝重直。有馬(頼寧)賞─『東方の種族』橋本英吉。(樋口)一葉賞─『馬追原野』辻村もと子。興亜文学賞─『東方の曙』呉君璧。芳賀(矢一)賞─『国語学史』時枝誠記、『続日本紀宣命講』金子武雄。菊池寛賞─『故国』川端康成。芥川賞─『和紙』東野辺薫。直木賞─『蛾と笹舟』『山畠』森荘已池。新潮賞─『里恋の記』寺門秀雄、『和泉式部』森三千代、『突撃中隊の記録』牧野英一。朝鮮芸術賞文学賞─『手に手を』松村紘一。歴史文学賞─『阿波山嶽党』中沢夫。詩人懇話会賞─『戦闘機』蔵原伸二郎。
*
昭和二十年五月一日、鎌倉市八幡通りのおもちゃ屋「鈴や」の店先を借りうけて、鎌倉在住の作家たちが、「鎌倉文庫」という貸本屋を開店した。
しだいに雑誌社、出版社が思想統制と用紙難のため閉鎖または開店休業となり、執筆の場所を失った作家たちは、生活にも苦しむ状態となった。その切り抜け策として考え出されたのが、「貸本屋」であった。鎌倉在住の作家達が、蔵書の一部を持ち寄って、一冊いくらで貸し出しをはじめたのである。
開店の日は、久米正雄夫妻、川端康成夫人(康成はこの頃海軍報道部の依嘱で、鹿児島県鹿屋に行っていた)、中山義秀夫妻、大仏次郎、林房雄、高見順らが店につめかけていたが、開店前から二十数人の客が戸口の前に立ちならんで待っていた。初日の入会会員は百余名で、予想以上の反響で、みな大喜びであった。
高見順の「日記」によると、その貸本によって得た配当金は次の通りである。
久米 正雄 九一一円四四銭
大仏 次郎 六五九円二〇銭
高見 順 四七二円三三銭
林 房雄 三二四円四五銭
小島政二郎 二九九円九四銭
横山 隆一 二四二円八〇銭
島木 健作 一九四円五八銭
中山 義秀 一九四円三八銭
清水 崑 一八〇円四〇銭
福永 恭助 一六四円四九銭
川端 康成 一二九円四六銭
片岡 鉄兵 八九円三〇銭
新田 潤 八五円○○銭
吉屋 信子 五六円三八銭
永井 龍男 五二円八四銭
長田 秀雄 五〇円○六銭
岡田 真吉 三三円一八銭
中村 光夫 二六円四〇銭
里見 一七円三六銭
小林 秀雄 二円八〇銭
以上は六月四日の配当だから、わずか一カ月で、供出した本の量によって差があるわけだが、それにしても、これによってかなり、作家たちは助かったわけだ。
貸出料平均二十銭(ものによってかなり差があった)で、出品者に六分の配当であった。
*
昭和二十年六月のある日、その頃信州飯田に疎開していた岸田国士、日夏耿之介を誘って、元『中央公論』の編集者松下英麿が、車で天竜川に沿ってドライブした。松下の姉が伊那谷にいて、そこで名物の「五平餅」をご馳走しようというのであった。
二里ほどの道のりであった。天竜川を右に見て、段丘の上の道からは、さんさんと太陽の光を浴びた赤石山系の雪の残る山並が見えた。車の中で、岸田が、思い出したように、自分のたった一つの俳句だと言って、
向ひ立つ城門高し樟若葉
というのを披露した。岸田の故郷は和歌山で、その城の六月のスナップをよんだものであった。岸田の祖父は紀州徳川藩の槍術師範で、三百五十石位の武士だったから、岸田にとって、城門は心の奥底にきざみつけられていたものだった。赤石山系の雪嶺から、故郷の樟若葉の輝きを連想したのであった。
その夜は酒宴となった。いつもはあまり酒を呑まない岸田が、酒仙の日夏につられて、この夜はかなり呑んだ。たくわえたひげのまわりがほんのりと赤くなった。特徴のあるあごのほくろが一層浮き立って見えた。
話があれこれとはずんだが、結局のところは、今後の日本には絶望感しか持てないということになった。
松下の甥が差し出した短冊に、まず日夏が、
剣を売つて|犢《こうし》を買はむ犢行かば
小萩そよがむ秋の山路に
と墨跡あざやかに書いた。
岸田は、「どうも私は日夏君のようにはいかぬが」と照れながら、
|細戈千足《くわしほこちたる》の国に秋たちて
また来む春にわれあふべしや
と、特徴のある鋭角的な書体で書いた。
[#改ページ]
昭和二十年八月十三日、岡山市三門町に仮住いしていた永井荷風は、勝山市に住む谷崎潤一郎の家を訪れた。カバンと風呂敷包みを振り分けにしてかつぎ、背広にカラーなしのワイシャツを着て、赤皮の短靴をはき、首には醤油色に薄よごれた手拭いを巻いていた。
荷風は東京で二度の戦争に遭い、知人菅原明朗の世話でまず兵庫県明石に逃れたが、そこでも空襲に遭い、|罹災《りさい》はしなかったが恐れをなして岡山にたどりついた。しかしその岡山も、広島の原爆投下後市民が|戦々兢々《せんせんきようきよう》とするありさまで、荷風は身の危険を感じ、潤一郎を頼って勝山に家をさがしてもらうために赴いたのであった。
潤一郎は、あいにく家が客でたてこんでいたので荷風を赤岩旅館に案内した。荷風は旅館で夕食をとってから再び潤一郎の家を訪れた。
荷風はその時のことを次のように「日記」に書いた。
「……離れ屋の二階二間を書斎となし階下には親戚の家族も多く頗雑の様子なり、初めて細君に紹介せらる、年の頃三十四五歟、痩立の美人なり、佃煮むすびを馳走せらる、一浴して後谷崎君に導かれ三軒先なる赤岩といふ旅舎に至る。(中略)やがて夕飯を喫す、白米は谷崎君方より届けしものと云ふ、膳に豆腐汁、町の川にて取りしと云ふ小魚三尾、胡瓜もみあり、目下容易には口にしがたき珍味なり、食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る。帰り来つて寝に就く。岡山の如く蛙声を聞かず、蚊も蚤も少し」
この時荷風は、戦時下にもたゆまず書いていた小説「ひとりごと」(一巻)と「踊子」(上下二巻)、「来訪者」(上下二巻)の原稿を潤一郎に預けた。
翌日の朝、荷風と潤一郎は街を散歩した。その時荷風は、できれば勝山へ移りたいと言った。しかしその頃岡山は三日に一度くらいは食料の配給があったが、勝山はその点では条件が悪かった。潤一郎は、部屋と燃料は確保できるが、食料の点では不安だと言った。結局食料買入れの、めどが立ったら荷風に来てもらうということになった。
この日、さいわい谷崎家に、津山の知人から牛肉一貫目がとどいた。早速昼飯に|強飯《こわめし》をたき豆腐の吸物で荷風を歓迎し、夜は酒が二升入ったので、再び荷風を招き、スキ焼きをつつきながら二人で酒盃を上げた。歓談は九時半頃までつづいた。
翌八月十五日、荷風は旅館で朝食をすますとすぐに潤一郎の家に行った。潤一郎は既に岡山までの切符を買っておいてくれた。午前十一時二十分勝山発の列車であった。列車には谷崎夫人の心づくしの弁当が運ばれた。
新見駅で乗り替えてから荷風はその弁当を開いた。白米のむすびに|昆布佃煮《こんぶつくだに》と牛肉の煮たのがそえてあった。荷風は|欣喜《きんき》してこれをたべた。
食後うとうとと居眠りするうちに、午後二時に岡山に着いた。焼跡の町の水道で顔を洗って汗をぬぐい、休み休み三門町の|仮寓《かぐう》に帰った。
菅原夫婦が、今日正午ラジオで天皇の放送があり、日米戦争が突然中止になったということを告げた。
「恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」(「日記」)
*
その頃世田谷新町に住んでいた志賀直哉は終戦の三日後の八月十八日、静岡県田方郡大見村筏場新田に疎開していた梅原龍三郎に宛てて、次のような手紙を書き送った。
「大変御無沙汰して了つた。手紙書きたいと思ひながら気持妙に落ちつかず書けなかつた 実際此間中のいやな気持は何とも云へなかった。殊に最近十一日から十四日までは今日大変いい話をきき喜んでゐると翌日は極端に悪い話に変り又よくなると又悪くなるといふ風に実に不安だった。十二日谷川(徹三)来てもう大丈夫だといひ、その午後後藤隆之助来て同じ事をいふので安心してゐると翌朝早々と頭の上を艦載機がセン廻してゐる始末、それも此辺は落さなかつたが、川崎の見当にバクダンの音がして硝子戸が震へたりするので後藤のところへ文句をいふつもりで出掛けると昨日と打つて変り大変な悲観説なので驚いた。その夕方今度は若山(為三)君来て奥村喜和男(奥村君の細君の妹が隣にゐるので)が一日馳けずり廻はりやせこけて帰つて来たといふ情報を知らしてくれたがこれ又後藤隆の話に輪かけたやうな話なのですつかり不愉快になつて了つた。原子バクダンの犠牲はどう考へても馬鹿気てゐるので場合によつては思ひ切つて女子供だけ高遠にやらうかと考へ、十四日早朝児島(善三郎)のところへ出掛け近衛関係の何か話でもあるかとききに行つたら近衛関係ではなく宮内省の方からの話で大体決まつてゐて、五六日すればはつきり決まるといふ情報を伝へてくれた。然しかういふ話一日一日でぐらつくので信じ切るわけには行かず一緒に田中耕太郎君を訪ね、田中君は松本烝治さんのところにいるのでその方に何か話あるかと思ひ行くとその朝情報局の井口といふ人が来て児島がきいてゐるのと同じやうな事いつてゐたとの話で大分安心したが、これもハツキリ決るのはもう少し先きらしいので、その間にどうなるかといふ不安は矢張り残つてゐた。帰つて暫くすると後藤真太郎来て、これも大体いい話、そして三時頃だつたか後藤隆の子供が使に来て十一時御前会議で天子様がハツキリ云はれ多分今晩御自身放送されるといふ事を知らしてくれた。放送その晩ではなかつたが重要放送があると予告をしたといふので今度は間違ひなくやつと安心した次第だ。ところが、放送済んでからも、海軍の飛行機が徹底抗戦のビラを撒いたり、鈴木、平沼の私宅を焼いたり中々ごたごたしてゐる事時々知らしてくれる人あり、昨晩来た人などは横須賀と横浜の兵隊甚だ不穏で横浜の住民は強制立退きを云はれたなどといふ話をしてゐた。
それから駐屯兵の掠奪暴行におびえてゐる人非常に多い。僕はそれ程には思はないが町では此事大分評判になってゐる。僕はそんな事も戦争しつゝ入つて来るのではないから潮の如く入つてくるわけではなし、其時の形勢で用心すればいいと考へてゐる。東京にゐると色々な事分つていい事もあるが、心配する事も多い。然し兎に角泥沼から這上つた感じはする。前門の狼後門の虎の何れかは兎に角片づいた感じで気持が明るくなつた。今度の内閣も今までのとは違ひ後門の虎だが狼だかのゐないだけでも結構だといへる。これからも色々厄介な事不愉快な事あると思ふが泥沼に段々沈む感じとは別だらうと思ふ。お互に遂に焼残り怪我人も出ずよかつた。成四さんが早く帰つて来らると君のところも本当に御安心だ。正浩熊本へ行つたがこれも近々帰つて来ると思ふ。老人夫婦歩けないので、いざの場合歩いて高遠に行く事にしてゐたので、これをどうして連れて行くかと思案つかず此事でもすつかり憂うつになつた。
筏場の生活如何。噂によると東京でもこれから食料は矢張り一番問題といふ事だ。その辺でも出来るだけ用意はされる方がいいかも知れぬ。
艶子さん島田さん御一家皆無事の事と思ふ よろしく」
*
その頃熱海市天神町に住んでいた広津和郎は八月十三日、東京に出て世田谷の志賀直哉邸を訪れた。すると志賀直哉が挨拶もそこそこに、笑みをたたえて、
「もう明日か明後日、陛下の放送があるという話だよ」と言った。志賀直哉のところには、近衛公に近い後藤隆之助から、いろいろな情報が入っていたのだ。
熱海へ帰った翌日の十四日夜遅く、案の定、翌十五日正午、天皇の放送があるという、ラジオの報道があった。
しかし、その夜の深更、突然空襲警報が鳴ったので、空を仰いで見ると、B29が二、三機熱海の上空にやって来た。もう戦争が終るというのに、又B29が入って来たところを見ると、まだ終戦の話がうまくつかないのだろうかと思ったりした。
いつも熱海の南寄りの空を、富士山に向けて飛んで行くB29が、その夜に限って、山の方には行かずに、海辺に近いあたりを東北へ向って飛んで行った。その姿が見えなくなると、しばらくして、ちょうど真鶴半島の左手の山の向うの空が真赤に燃えはじめた。
広津和郎は妻のはまと一緒に家を出て、上天神の坂の上の見晴しのいいところへ登った。そこから彼方の赤く染った空をながめた。
「あの見当は小田原あたりかな。それにしてもおかしいな。明日陛下の放送があるというのに、今夜もまた爆撃があるなんて……」
それは実際に小田原が爆撃されたのであった。大規模なものではなく、町の小部分に焼夷弾が落されたのであった。
「とにかく、もう戦争が終るということがわかっているのに……行きがけの駄賃というわけか……」
と、彼はつぶやいた。
翌日、正午が近づくと、彼の部屋のラジオは音が悪くなっていたので、階下の家主の茶の間のラジオの前に、妻とならんで端座した。
天皇の静かな、妙に抑揚のある、しかし感慨のこもった声が聞えてきた。
それはやはり終戦の詔勅であった。とにかく長い、苦しい戦争がこれで終ったのだと思った。
〈天皇をカサに着て国民を威圧し、この無計算な戦争にこの国をかり立てた軍が、最初から戦争に反対された天皇を、最後のどたん場に又利用しようとしたのだ。天皇機関説を排撃した軍こそが最も悪い意味での機関説の実行者ではないか〉
広津和郎はそういう憤りが胸にわき上って来た。それからいろいろなことが一時に胸に迫ってきて、複雑な思いにかられながら、とめどなく涙が流れるのをおさえることができなかった。
*
斎藤茂吉は郷里の山形県金瓶村で八月十五日を迎えた。
その日は朝から晴れわたり、家の中にじっとしていても、汗がにじむほどの暑さであった。庭の上も白茶けていた。
茂吉はこの日朝から落着かず、妻の輝子と三度もいさかいをした。この日の正午に天皇陛下の御放送があることを前日から知っていたからである。
十一時になると茂吉は口をすすぎ、手を洗った。それから紋付羽織袴に威儀を正してラジオの前に端座した。
正午の時報が鳴った。アナウンサーの声が言った。
「これより|畏《かしこ》くも天皇陛下の御放送であります。謹しんで拝しますよう」。そして「御起立願います」という声がかかった。居ならぶもの一同、ラジオの前で直立不動の姿勢をとった。
君が代の奏楽が流れ出した。……
茂吉はその日のことを次のように「日記」に書いた。
「○正午、天皇陛下ノ聖勅御放送、ハジメニ一億玉砕ノ決心ヲ心ニ据ヱ、羽織ヲ着テ拝聴シ奉リタルニ、大東亜戦争終結ノ御聖勅デアツタ。噫、シカレドモ吾等臣民ハ七生奉公トシテコノ怨ミ、コノ辱シメヲ挽回セムコトヲ誓ヒタテマツツタノデアツタ……(欄外に)御聖勅御放送|八月十四日《ヽヽヽヽヽ》ヲ忘ルヽナカレ、悲痛ノ日」
十五日を|十四日《ヽヽヽ》と間違えるほど|狼狽《ろうばい》していた。
『山形新聞』の求めに応じて、十七日「詔書拝誦」という歌を寄せた。
聖断はくだりたまひてかしこくも
畏くもあるか涙しながる
|万世《バンセイ》ノタメニ太平ヲヒラカムと
宣らせたまふ天皇陛下わが大君
大君のみこゑのまへに臣の道
ひたれるにて誓ひたてまつる
まかがよふすめら御国の|肇国《はつくに》を
あらたにせむと誓ひたてまつる
この八月十五日から、茂吉は人間が変ったように言葉も少なく、食事もあまりすすまず、不機嫌な日がますます多くなった。
*
高見順の「日記」――。
「八月十五日
警報。情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
『何事だろう』
明日、戦争終結について発表があるといったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜るのだろうか。それとも――或はその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに……。
『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』と妻がいった。私もその気持だった。
ドタン場になってお言葉を賜る位なら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。
佐藤正彰氏が来た。リアカーに本を積んで来た。鎌倉文庫へ出す本である。
上って貰って話をした。点呼のあとで佐藤君は頭髪が延びかけだ。――敵が上陸してきたら、坊主刈は危い、そんな笑い話があったのが思い出される。点呼の話になって、
『海軍燃料廠から来た者はみんな殴られた。見ていて実にいやだった』と佐藤君がいう。海軍と陸軍の感情的対立だ。
『誰が一体殴るのかね』
『点呼に来ている下士官だ』
私はその場にいなかったのだが、想像しただけで、胸に憤りがこみあげた。なんという野蛮!
『外国でも、軍隊というのは、こう理不尽に殴るものかね』
『いや、殴るのは外国では禁止されているはずだ』
日本では理不尽な暴行が兵隊を結局強くさせるといわれている。
『あれを見てからいよいよ、兵隊に入るのがいやになった』と佐藤君はいった。私は従軍で、軍隊の内部を知っているから、いやというよりむしろこわい。兵隊に取られるのがこわかった。
十二時近くなった。ラジオの前に行った。中村さんが来た。大野家へ新田を呼びにやると向うで聞くという。
十二時。時報。君ケ代奏楽。詔書の朗読。やはり戦争終結であった。君ケ代奏楽。つづいて内閣告諭。経過発表。――遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。
蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
『さよなら』佐藤君は帰って行った。明日、奥さんの疎開先へ行くという。当分帰ってこないという。
『おい』
新田が来た。
『よし。俺も出よう』
仕度をした。
駅は、いつもと少しも変らない。どこかのおかみさんが中学生に向って、
『お昼に何か大変な放送があるって話だったが、何だったの』と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて、小声で何かいった。
『え? え?』とおかみさんは大きな声で聞き返している。
電車の中も平日と変らなかった。平日よりいくらか空いている。
大船で席が空いた。腰かけようとすると、前の男が汚ないドタ靴をこっちの席の上にかけている。黙ってその上に尻を向けた。男は靴をひっこめて、私を睨んだ。新田を呼んで、横に腰かけさせた。三人掛けにした。前は二人で頑張っている。ドタ靴の男は軍曹だった。――佐藤君の言葉が思い出された。
軍曹は隣りの男と、しきりに話している。
『何かある、きっと何かある』と軍曹は拳を固める。
『休戦のような顔をして、敵を水際までひきつけておいて、そうしてガンと叩くかも知れない。きっとそうだ』
私はひそかに溜息をついた。このまま矛をおさめ、これでもう敗けるということは、兵隊にとっては、気持のおさまらないことには違いない。このまま武装解除されるということは、たまらないことに違いない。その気持はわかるが、敵を欺して……という考え方はなんということだろう。さらにここで冷静を失って事を構えたら、日本はもうほんとうに滅亡する。植民地にされてしまう。そこのところがわからないのだろうか。
敵を欺して……こういう考え方は、しかし、思えば日本の作戦に共通のことだった。この一人の下士官の無知陋劣という問題ではない。こういう無知な下士官にまで浸透しているひとつの考え方、そういうことが考えられる。すべて欺し合いだ。政府は国民を欺し、国民はまた政府を欺す。軍は政府を欺し、政府はまた軍を欺す、等々。
『司令官はこういった。戦いに敗けたのではない。戦いが終ったのだ。いずれわしが命令を下すまで、しばらく待っておれ。こういった。――何かある。きっと何かやるんだ』と軍曹はいった。一面頼もしいとも思った。戦争終結で、やれやれと喜んでいるのではない。無智から来るものかもしれないが、この精神力は頼もしい。また一方、日本人のある層は、たしかに好戦争的だとも感じた。
アメリカが日本国民を好戦的だといったとき、決して好戦的ではない、強制されているのだ、そして好戦的に見えるのは勇気があるからだ、勇気と好戦的とを一緒にしては困る。そう考えたものだが……。
新橋の歩廊に憲兵が出ていた。改札口に立っている。しかし民衆の雰囲気は極めて穏やかなものだった。平静である。昂奮しているものは一人も見かけない。
新田は報道部へ行き私は文報へ行った。電車内の空気も常と変らない。文報の事務所ではみなが下の部屋に集っていた。今日は常務理事会のある日なので理事長の高島米峰氏が来た。他の人は誰もこない。
高島さんの話も、民衆は平静という結論だった。文報の存否について高島さんは存続論だった。情報局からは離れ、性格は一変するが、思想統一上やはり必要だろうという。――その席では黙っていたが、私と今君とは解散説だった。
敵機は十二時まで執拗に飛んでいたが、十二時後はピタリと来なくなった。
今君と事務所を出る。田村町で東京新聞を買った。今日は大型である。初めてみる今日の新聞である。
戦争終結の聖断・大詔渙発さる。
新聞売場ではどこもえんえんたる行列だ。その行列自体は何か昂奮を示していたが、昂奮した言動を示すものは一人もない。黙々としている。兵隊や将校も、黙々として新聞を買っている。――気のせいか、軍人は悄気て見え、やはり気の毒だった。あんなに反感を唆られた軍人なのに、今日はさすがにいたましく思えた。
鎌倉へ出た。駅前に新入団らしい水兵の群がいる。よれよれの汚ない軍服で、何だか捕虜のようで、正視し難かった。駅前の街の人々がまたかたまって、その水兵の群を見ている。今日という日の新入隊なので、皆もそうして見ているのだろうが、今までとは違った人々の表情だった。第一、今まではそう物珍らしそうに遠巻にして眺めているということはなかった。そんなせいで、余計捕虜のように見えた。汚ない、うらぶれたその姿が胸を衝いた。
文庫は休みだった。裏の部屋に、新刊本同様の綺麗な世界文学全集と世界大衆文学全集とが積んである。新しい出品だ。世界文学全集はいままでは保証金二十円であったが、ほとんど皆持ち逃げをされてしまった。戯曲集だけが残っている。今までどの位出たかわからぬが、みんな持って行かれた。一円だった本を、二十円の保証金ではと気のひけるおもいだったが、二十円では平気で持って行かれる。値上げをするようにと置手紙した。世界大衆文学全集は初め五円の保証金だった。林房雄の出品が最初で、彼が獄中で読んだらしい汚れた本だったので、五円でいいだろうと思った。そこへ大仏さんが新しい綺麗なのを持って来た。これは五円では……と思ったが、何しろ五十銭の本だったのだからという話がその場で出て、そのままにした。大仏さん自身、五円と書き入れて来ていて、五円でいいさといった。ところが、その日のうちにほとんど出て、もう戻らない。次から七円にした。これまた戻らない。
今君が大仏家へ行って、佐藤君へ電話するというので一緒について行った。事の次第では、私が佐藤君の家へ寄ってあげようと思ったのだ。途中、人だかりがしている。中老の酔払いが、背の高い男にからんでいる。『さァ、警察へ行こう、警察へ』と背の高い男がいう。言葉に癖があった。朝鮮人である。通りがかりの者がわけをたずねた。酔払いが理由なくこの朝鮮の若者に喧嘩を売ったものらしい。朝鮮人は『警察へ行こう』と威丈高だ。――今日の発表によると朝鮮は日本から解放されるのである。酔払いのいいがかりも、相手の威丈高も、何かいやなものだった。こういう不快は日ごと多くなるだろう。
家へ帰って新聞を見た。今日の新聞は保存しておくことにした。
嗚呼、八月十五日」
*
その年の六月、妻千代の実家である山形県鶴岡市鳥居町の日向豊雄方に疎開していた横光利一は、八月十二日、西田川郡上郷村の佐藤松蔵宅の一間に移った。農家の六畳一間で、電燈もないランプの家であった。
そこへ移って、まだ荷物の片づけも終っていない八月十五日に終戦となった。正午、天皇自らの放送がそれをつたえた。開戦のとき、その昂奮のあまり「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ」と「日記」に書きつけた横光利一はみじめにたたきのめされた。その衝撃は大きかった。
「八月――日
駈けて来る下駄の音が庭石に躓いて一度よろけた。すると、柿の木の下へ顕れた義弟が真赤な顔で『休戦、休戦』という。借り物らしい足駄で、またそこで躓いた。躓きながら、『ポツダム宣言全部承認』という。
『ほんとかな』
『ほんと。今ラジオがそう云った』
私はどうと倒れたように片手を畳につき、庭の斜面を見ていた。なだれ下った夏菊の懸崖が焔の色で燃えている。その背後の山が無言のどよめきを上げ、今にも崩れかかって来そうな西日の庭で、幾つもの火の丸が狂めき返っている。
『とにかく、こんなときは山へでも行きましょうよ』
『いや、今日はもう……』
義弟の足駄の音が去っていってから、私は柱に背を凭せかけ膝を組んで庭を見つづけた。敗けた。――いや、見なければ分らない、しかし、何処を見るのだ。この村はむかしの古戦場の跡でそれだけだ。野山に汎濫した西日の総勢が、右往左往によじれあい流れの末を知らぬようだ」(「夜の靴」)
横光利一にとって八月十五日は、斎藤茂吉と同じように「悲痛の日」であった。東京の家が焼け残っていたにもかかわらず、横光は、その年の暮までここにとどまり、不自由な農村生活にあえて身を投じ、自省をも含めて、毎日毎日を凝視し、考えつづけた。
*
八月十日、川端康成は、久米正雄夫人と「鎌倉文庫」で貸本の代金の計算をしていた。そこへ、浴衣姿の中年の男が入って来て、
「いよいよ御前会議で、休戦の申し入れを決めたそうですよ」と言った。言葉やからだつきから見て、軍人のような印象だった。近くに横須賀軍港などもあり、そういう情報はわりに早く伝わるのだった。
川端はその情報を早速、病気で寝ている島木健作に知らせに行った。島木はその頃胸の病気が悪化して鎌倉養生院に入院していた。
川端は少しでも元気づけようと思って、終戦の知らせを島木に告げに行ったのだが、島木はもう死期が迫っていて、息使いも苦しそうだった。その苦しい息の下で、
「川端さん、お元気そうですね」と低い声でぽつりと言った。その痛々しい響きが、川端の心にこびりついたようであった。
川端は、燈下管制下の暗い寝床や、用事に出かける電車の往き還りに、その頃、和とじの「源氏物語湖月抄」を読みつづけていた。それが二十二、三帖まできたところで八月十五日を迎えた。
〈「源氏物語」は藤原氏をほろぼしたが、また平氏をも、北条氏をも、徳川氏をもほろぼした。少くともそれらの諸氏がほろびるのにこの物語は無縁ではなかった〉とふと思った。
その二日後に島木健作が死んだ。「赤蛙」という遺稿が残っていた。敗戦わずか二日後に親友島木健作を失った川端の哀しみは痛烈だった。
川端は、島木の生前「出発まで」という創作集の題字をたのまれていた。
「島木健作追悼」の中で、川端は、亡友の創作集の題名にふれて、戦後の活躍が出来ずにしまった不運を悲しみながら、自分の心情を次のように吐露した。
「私の生涯は『出発まで』もなく、そうしてすでに終ったと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還ってゆくだけである。私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない」
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昭和五十年の秋、吉行淳之介氏から電話がかかって来て、「また順番が廻って来て『風景』の編集をやることになったのだが、ついては貴兄に、エピソード風の昭和文壇史を連載で書いてもらえないだろうか」と言って来た。私は快くそれを引き受けた。それがこの「瓦板 昭和文壇史」である。
ところが、その雑誌『風景』は、昭和五十一年の四月号で終刊になってしまった。
『風景』という雑誌は、紀伊國屋社長田辺茂一氏が昭和三十五年十月に創刊したもので、田辺氏が主宰する「悠々会」という東京都内五十三軒の書店を結ぶ団体が発行所で、いわば書店のPR雑誌であったが、編集は田辺氏の中学時代からの親友の舟橋聖一氏が主宰する「キアラの会」の会員が交替で担当するというユニークな方法をとっていた。吉行氏もその会員であった。
昭和五十一年一月、舟橋氏が急逝した。舟橋氏の死によって、『風景』の役割は終った、ということで、四月号を「舟橋聖一・追悼号」として終刊となった。
私の連載は、吉行氏の橋わたしで、『小説サンデー毎日』に、最初からやり直しのかたちで、昭和五十一年四月号から連載されることになった。
ところがその『小説サンデー毎日』が、またまた昭和五十二年九月号をもって休刊になってしまった。
私の連載は、一応「戦前篇」は終っていたが、「戦中篇」の途中で中断されてしまった。それも寝耳に水のようなことだったので、私はなんとなく拍子ぬけしてしまい、しばらくは|呆然《ぼうぜん》とした。今となっては、あとを引きうけてくれるところもなかったからである。
しかし、今度、時事通信社の藤田昌司氏の橋わたしで、同社で出版してくれるという話になった。私はほっとした。
私は半年ほどかけて、「戦中篇」の後を五十枚ほど書きたし、なお「戦前篇」も其の後、新しい資料が手に入ったので、三、四十枚ほど書きたして、一応、昭和二十年の終戦の日までを一本にまとめあげることが出来た。
これに力を得たので、今後「戦後篇」を雑誌に連載し、いずれ続篇として刊行してもらうつもりである。
終りに、この本の出版にご協力下さった、時事通信社出版局の舞田一夫書籍部長、杉浦幸俊氏のご好意に深く感謝する次第である。
昭和五十三年四月
[#地付き]巖 谷 大 四
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野上弥生子「鬼女山房記」(岩波書店)
広津和郎「年月のあしおと」(講談社)
芥川文述「追悼芥川龍之介」(筑摩書房)
進藤純孝「芥川龍之介」(河出書房)
村松梢風「芥川と菊池」(文藝春秋)
高見順「昭和文学盛衰史・全二冊」(文藝春秋)
玉井信明「評伝辻潤」(三一書房)
平林たい子「林芙美子」(新潮社)
平林たい子「自伝的交友録」(文藝春秋)
宇野浩二「独断的作家論」(文藝春秋)
中野好夫「蘆花徳冨健次郎」(筑摩書房)
永井龍男「菊池寛」(時事通信社)
瀬沼茂樹「本の百年史」(出版ニュース社)
秋田雨雀「雨雀日記」(新評論社)
中村智子「宮本百合子」(筑摩書房)
吉屋信子「自伝的女流文壇史」(中央公論社)
兵藤正之助「正宗白鳥論」(勁草書房)
井上謙「評伝横光利一」(桜楓社)
石井みさき「父・若山牧水」(五月書房)
秋庭太郎「考証永井荷風」(岩波書店)
薬師寺章明「評説牧野信一」(明治書院)
秋庭太郎「永井荷風伝」(春陽堂)
浅見淵「史伝・早稲田文学」(新潮社)
浅見淵「昭和文壇側面史」(講談社)
壺井繁治編「回想の壺井栄」(青磁社)
板垣直子「明治大正昭和の女流文学」(桜楓社)
吉田秀和「吉田秀和全集・第十巻」(白水社)
亀井綾子「回想のひと亀井勝一郎」(講談社)
平林たい子「宮本百合子」(文藝春秋)
近藤富枝「文壇資料本郷菊富士ホテル」(講談社)
飯塚繁太郎「評伝宮本顕治」(国際商業出版)
宮本吉次「文壇情艶史」(アジア出版)
杉森久英「苦悩の旗手太宰治」(文藝春秋)
相馬正一「若き日の太宰治」(筑摩書房)
植田康夫「病める昭和文壇史」(エルム)
小田邦雄「宮沢賢治」(新文化社)
尾崎秀樹「文壇史うちそと」(筑摩書房)
尾崎秀樹「山本周五郎」(白川書院)
大山澄太「俳人山頭火の生涯」(弥生書房)
中谷孝雄「梶井基次郎」(筑摩書房)
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志賀直哉「志賀直哉全集11・12」(岩波書店)
堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」(新潮社)
尾崎一雄「あの日この日」(講談社)
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浜野健三郎「評伝石川達三の世界」(文藝春秋)
田村泰次郎「わが文壇青春記」(新潮社)
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木山捷平「酔いざめ日記」(講談社)
長与善郎「わが心の遍歴」(筑摩書房)
中島健蔵「回想の文学・全五巻」(平凡社)
東京空襲を記録する会編「東京大空襲・戦災記」(同刊行会)
徳川夢声「夢声戦争日記・全五巻」(中央公論社)
井伏二「井伏二全集・第十巻」(筑摩書房)
清水幾太郎「わが人生の断片・上下」(文藝春秋)
小林勇「一本の道」(岩波書店)
船山馨「みみずく散歩」(構想社)
曾根博義「伝記伊藤整」(六興出版)
野口冨士男「日本ペンクラブ三十年史」
松下英麿「去年の人」(中央公論社)
山下次郎「斎藤茂吉の生涯」(文藝春秋)
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単行本
昭和五十三年五月時事通信社刊
「瓦板 昭和文壇史」を改題
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文春ウェブ文庫版
懐しき文士たち 昭和篇
二〇〇一年六月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第二版
著 者 巖谷大四
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
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