懐しき文士たち 戦後篇
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年九月二十五日刊
(C) Daishi Iwaya 2001
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
〈ご注意〉
本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。
目  次
戦争が終った
二十一歳の三島由紀夫
空前の豪華文士講演旅行
露伴、利一の死
織田作、太宰の死
老いらくの恋
芥川賞・直木賞の復活
田中英光、原民喜の自殺
チャタレイ裁判
銀座酒場文士録・昭和二十一年〜三十年
新宿酒場文士録・昭和二十一年〜三十年
茂吉、道夫、國士の死
慎太郎、七郎の登場
「週刊誌」の氾濫
国際ペン大会、日本で開催
「警職法」改正と文芸家協会
「近代文学館」の設立と高見順
有吉佐和子の離婚
川端康成のノーベル賞受賞
三島由紀夫の自殺
瀬戸内晴美の得度
川端康成の自殺
あ と が き
引用・参考文献
タイトルをクリックするとその文章が表示されます。[#改ページ]
懐しき文士たち 戦後篇

戦争が終った
戦争が終った。
その二日後の、昭和二十年八月十七日午後九時四十二分、島木健作が、鎌倉養生院で息を引き取った。
その日の夕方、鎌倉二階堂の川端康成の家に久米正雄、中山義秀、高見順が集まっていた。貸本屋鎌倉文庫をこれからも続けていくかどうかということの相談であった。
そこへ電話がかかって来た。川端が電話から座敷へ戻って来て、
「島木君が危篤だそうです」と言った。
四人は大急ぎで夕食をたべて鎌倉養生院へ|駈《か》けつけた。|骸骨《がいこつ》のように|痩《や》せ、|鬚《ひげ》をぼうぼうと生やして寝台に横たわった島木は既に意識がなかった。眼を開いて、規則正しい息だけをしていた。「哲人のような立派な顔だ」と高見は思った。
病室には夫人と三浦徳治(島木に|私淑《ししゆく》していた青年)しかいなかった。医者も看護婦もいなかった。院長は応召していて女医が代理をやっているということだったが、その女医が足がむくんだとか言って帰ってしまっていた。
島木はずっと肺を|患《わずら》っていてこの病院に入っていたのだが、その夕方、急に|容態《ようだい》が悪化した。
「正岡子規もこんな経過で死んだのだから自分も駄目かもしれない、覚悟はしておいてくれ」と言ったと夫人が語った。そして、「一週間ほど前、川端さんが、近く終戦になるらしいということを知らせに来て下さった時も、あとで、これからやり直しだと申しておりましたのですが……」と、声をつまらせた。
島木の母が杖にすがって、家人にささえられながら病室に入って来た。そして息子の顔に顔を寄せて、
「わかるかい、わかるかい」と言った。
高見と中山はつらくなってそっと病室の外へ出た。そこへ小林秀雄が来た。川上喜久子が来た。川端夫人が来た。
病室では、島木の母が、しきりに息子の胸をさすっていた。
中山義秀が高見に、
「母親はいいものだ。ああして島木の苦しみを少しでもやわらげようと一生懸命だ」と重々しく言った。
やがて臨終の時が来た。|枕元《まくらもと》の時計が九時四十二分を指していた。
夜のうちに遺体を自宅まで運ぶことになった。
担架に|蒲団《ふとん》ごとのせた。前を若い三浦が持ち、小林がそれを助けた。後を中山が持った。久米と高見がそれを補助した。川端は|提灯《ちようちん》で前を照らした。
「何か君、ひとつの時代というか、その死といったものだね」と、久米が言った。
高見順はその夜おそく家に帰って、「日記」に次のように|認《したた》めた。
「……これからやり直しだという島木君の言葉は、私にとって私自身の心奥の叫びでもある。――島木君は、そのやり直しを果すことができないで死んで行くのだ。私はそれを考えると、胸が裂けるように苦しい。……」
終戦の日、宮本百合子は、福島県下の、開成山のふもとの、その昔祖母の住んでいた家で、弟の家族の疎開先に立ち寄っていた。その年六月、夫の顕治が無期徒刑囚として網走刑務所に移されたので百合子も網走に住もうと決意して七月に出かけたのだが、既に津軽海峡の連絡船が航行不能になっていることを知って、止むを得ず弟家族のところへ行ったのである。
八月十五日正午、弟の国男がラジオのスイッチを入れた。やがて天皇の声が伝えられて来た。田舎町なのでそれは一層聞きとりにくかった。やがて、
「ポツダム宣言を受諾せざるを得ず」という意味の文句がかすかに聞えた。百合子は思わず、縁側よりにいた場所からラジオのそばまでにじりよった。
天皇の声が絶えるとすぐ、百合子は、
「わかった?」と、弟夫婦をかえりみた。
「無条件降伏よ」
八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、|森閑《しんかん》として声をのんでいる間に、歴史は、その巨大な頁を音なくめくったのであった。
十五日はそのまま昼から夕方になり、やがて夜になっても、村じゅうの|麻痺《まひ》した静けさは変らなかった。
翌日、百合子は「あまり久し振りで、却って身に添いかねる平和な明るさの中で」(「播州平野」)もんぺをぬぎ、網走の刑務所にいる夫の顕治に手紙を書きはじめた。百合子が小娘で、まだ祖母が生きていた頃、祖父の遺愛の机として、赤銅の水滴だの支那焼の|硯屏《けんびよう》だのがきちんと飾られたままの机の上でそれを書いた。
百合子は、少し書いては手を止めて考えこんだ。網走の高い小さい窓の中で、顕治は、きっともう戦争の終ったことを知っているだろう。十二年間、獄中に暮しつづけて来た顕治。六月に、東京からそこへ行く前、面会所の切り窓から「まあ半年か、長くて十カ月の疎開だね」と言って笑った顕治。その顕治こそ、どんな心で、このニュースを聞いただろう。
百合子はこみあげてくる声なきかちどきで息苦しいばかりだった。
百合子はすぐにでも網走へ行きたいと思った。そんな百合子のところへ、顕治の母から速達が来て、顕治の上の弟で応召中の達治が、広島で原爆に遭い生死不明ということであった。
百合子は、九月六日、混雑した汽車に乗って山口県下の顕治の郷里へ向った。そこで「治安維持法」撤廃のニュースを知った。
しかし顕治には「治安維持法」のほかに「赤色リンチ事件」の有罪も加えられていた。百合子は不安にかられた。「無慚、という言葉がある。そして、無慚な事実、というものもある。もし今度、治安維持法撤廃によって思想犯が解放されるとき、重吉(顕治)やその同志が、ほかに罪名をつけられているのを理由に出獄させられないとしたら、それは、無慚である。無慚すぎる。……」(「播州平野」)
十月六日、夫を気づかう不安な百合子の上に「吉報」の祝砲がとどろいた。占領軍の命令によって十月十日までに解放される思想犯の氏名の中に宮本顕治の名があった。
百合子は、叫びたいような喜びに胸をたぎらせながら汽車に乗った。途中、山陽線が水害で不通となり、何度も徒歩連絡をした。「トラックや荷車で美しい播州平野を横切ったりの困難な旅」(同前)をつづけ、五日がかりで帰京した。
十月十六日、宮本顕治は網走から一人で風呂敷包をさげ、|草履《ぞうり》ばきで、新聞紙にじかにつつんだ御飯をたべながら汽車に乗り続け、汽車が大幅に延着したために上野駅まで出迎えた百合子に会えず、焼野原の道に迷いながら、ようやく百合子のところにたどりついた。
顕治の帰宅した直後の頃、百合子を訪問した人たちは、喜びにかがやく百合子の笑顔の美しさにびっくりした。
八月三十日夕、鎌倉の料亭香風園に次のような面々が集まって、議論沸騰していた。
久米正雄、川端康成、中山義秀、高見順、里見、小林秀雄、林房雄、大仏次郎、小島政二郎、吉屋信子。
事のおこりはこうであった。数日前久米正雄のところへ、大同製紙会社の荒川常務なる男が訪れ、久米、川端らのやっている貸本屋鎌倉文庫と提携して、出版会社を始めたいという申込みをした。久米が一人ではきめかねて、早速、鎌倉在住の作家を招集したのである。
「提携を決意する以上は、従来の出版を革新するつもりでやらねばならぬ」「われわれが従来のような出版屋になって従来のように文士を搾取するのであっては、なんにもならぬ、それではやらぬ方がいい」「革新の覚悟ではじめなくちゃならない、ところがだね、そういう革新というのは、他の方を例にとると、|角力《すもう》の天竜、芝居の春秋座、みんな成功したことがない」「資本家に反抗して正しい道を開こうとしてやっても、みんな失敗している」「我々の仕事も難しい、難しいが、やり出す以上は難しい仕事をやろう」等々。
やがて具体的な話になって、林が進行係を自ら買って出た。そして、新しい会社には、文士側から、里見、久米、大仏、川端の四名を送り出すこと、革新的な方針を向う側に認識させることで、一応落着した。
九月一日に再び香風園で、双方の最初の顔合せ会が開かれた。業界側は大同製紙の橋本社長、荒川常務、岡沢、川北、帝都印刷長谷川社長。文士側は、久米、川端、中山、高見、里見、林、吉屋、小島、大仏(小林秀雄欠席)と書記係として秋山寵三。
話はスムーズに進んで、会社成立ということになった。資本金百万円。会社名は株式会社鎌倉文庫。株及び純益は折半。業界側の橋本が会長。社長は、はじめ里見が引き受けたが、翌日、急に辞退したので久米正雄が就任することになった。取締役は川端康成、中山義秀、高見順、大仏次郎、里見ということになった。
大同製紙とその子会社の帝都印刷は、戦争中、中島製作所や軍関係に紙を納めたり印刷の仕事をしたりしていたのだが、敗戦とともにそれがストップということになった。そこで白い紙をただ売るより、出版物にして売ろうということを考えて、「鎌倉文庫」に提携を申し込んで来たのであった。正しく、敗戦のもたらした「鎌倉文庫」の発足であった。
九月二十六日午後三時に三木清が豊多摩拘置所で死んだという知らせが、中島健蔵のところに入った。死因は急性腎臓炎ということであったが、中島は|咄嗟《とつさ》に「これは暗殺だ」と思った。
三木が捕えられたのは、脱獄した高倉テルが三木の家に寄り、外から帰って来た三木は、止むを得ず、逃走のための鉄道の切符を買ってやった。そして、自分の|外套《がいとう》を貸してやった。その外套についていた名前から、三木のことが発覚し、三木は検挙された。だから「暗殺の間接の下手人は、つまり高倉テルという老人だ。そしてその責任は、高倉テルを拘束した権力濫用者だ」(「回想の文学」)と中島は思った。
十月一日午前九時から、東大の開講式があった。中島は、新宿|十二社《じゆうにそう》の家を空襲で焼失し、仮寓していた|大曲《おおまがり》の江戸川アパートから|伝通院《でんづういん》まで坂を上り、そこから電車に乗って本郷の東大まで行った。事務所をのぞくと中野好夫等が雑談していた。そこをやりすごして、三十二番教室へ行くと、教室は学生があふれていた。そのほとんどは軍隊から復員した者たちだった。教授たちの痩せてやつれた顔も見えた。教壇の机の正面の板の|艶《つや》と模様とを、しみじみ眺めた。
十一時頃、開講式が終ったので、研究室で雑談の後、帰りに岩波書店に寄った。吉野源三郎と布川角左衛門から、三木の死のことを聞いた。研究室で中野好夫が、三木の死のことを「おそらく皮膚病の悪化から来た急性腎臓炎だろう」と言ったが、二人の話も、|疥癬《かいせん》からの発病、急死ということだった。それは、終戦の直前、八月九日に、不潔きわまる長野刑務所で獄死した戸坂潤の場合と同じであった。
その日の夕方、中島は高円寺の三木の家へ行った。
玄関の次の間に、祭壇が出来ていた。白木の台の上に白布に包まれた遺骨があり、古い写真が飾ってあった。
その前で谷川徹三が一人でしきりに原稿の読みなおしをしていた。そのうちに岸本誠二郎、三枝博音らだんだん人が集まって来た。
義兄に当る東畑精一、豊島与志雄、清水幾太郎等と、中島は別室で相談した。
偶然、警視庁以来七月下旬まで、すぐ近くの監房にいて、くわしく様子を見ていたという青年が来て、報告した。それは、まことに想像を絶するもので、きびしい獄則、リンチ、疥癬患者の使っていた毛布を、消毒しないで使わせたための発病。直接に暴行を加えたかどうかは別として、虐殺にひとしく、死に際して、誰一人つきそっておらず、|悶死《もんし》したということであった。中島は|烈《はげ》しい憤りに胸が燃えた。
通夜の席で、中島は、豊島、清水、布川らと相談し、三木賞、その設立委員会、記念講演会などの計画を立て、翌朝五時まで語りあかし、白みかかった中を一人家路についた。
三木清の死が一般に報道されたのは、十月一日のことであった。『毎日新聞』は次のように報道している。
「三木哲学の提唱者として多年若きインテリや学生群から親しまれ、尊敬されてきた三木清氏(四九)は、廿六日午後三時三十分豊多摩刑務所の拘置所で急性腎臓炎という病名の下に急死した。検視のすんだ同氏の遺骸は友人豊島与志雄、大内兵衛、東畑精一、林達夫等の諸氏により廿九日杉並区高円寺四の五三九の自宅に引きとられたが、この獄死をめぐって友人たちは死因に釈然たらざるものがあるとして不満を漏らしている。
三木氏は今年三月廿八日他の多くの自由主義者と共に警視庁に検挙されたが六月初旬には豊多摩拘置所に移された。この間同氏は警視庁拘置中に疥癬を患ったがこの疥癬が悪化し腎臓を冒して死に至ったというのが刑務所側の説明であった。十七日の朝三木氏の訃報に接し義兄東畑精一氏と友人二名が豊多摩拘置所に行き死因の事情を説明されたが、その時東畑氏は同所の小俣衛生課長に『拘置所としては三木の病気に万全を尽されたであろうか』と訊したところ『万全を尽した』と衛生課長は答えたという。
『果して万全を尽されたであろうか、三木の疥癬は警視庁で拘置されている頃からであり、衛生設備の整っている拘置所へ移ってからなお疥癬が悪化し、それが腎臓を冒すに至ったということを釈然として受取れない』
と豊島与志雄氏は不満を漏らし、
『豊多摩に移ってからは友人や家族の面会は一度も許されていないし三木が病室に入ったのは死の直前の廿四日であった、それに三木は豊多摩拘置所に移る頃は極度の栄養失調症であったということであるが、頑健な彼がぽっくり死ぬとは考えられない、悲しい残念さである』
と林達夫氏も語っている。なお同氏の告別式は十月三日午前十時より十一時まで自宅で簡単な式を執り行うが、改めて前記豊島与志雄、大内兵衛氏ら三木氏生前の親しい友人達によって盛大な三木清文化葬を行う計画が進められている」
その頃平野謙は九州飯塚の麻生鉱業に勤めていた。麻生財閥の|親戚《しんせき》筋に当る大井広介の世話であった。そこで平野は敗戦を知って衝撃を受け、八月十八日、埴谷雄高宛の葉書に次のように書いた。
「八月十五日には呆然自失、今後俺のようなものでもまた東京へ出かけてタツキの途が立つものかどうか、見透しを知らせてほしい」
同じ頃、本多秋五は、召集を受けたが戦争末期だったので内地で敗戦を迎え、八月二十二日には郷里岐阜に帰り、九月四日に上京した。本多はその時既に同人雑誌の発行を考えていたが、それには平野の協力が先ず必要だと考えた。本多は自分と同じ郷里岐阜の平野に上京をうながす電報を打った。返事がなかった。二度目の電報でようやく返事があって、平野は九月二十七日に上京した。平野はその頃飯塚にいたので連絡がおくれたのである。
二十九日に平野が荒正人と佐々木基一を連れて本多を訪れた。本多の雑誌の話を聞いて平野は興奮し、是非やろうと応じた。
その夜、平野は吉祥寺の埴谷の家を訪れ、本多の話など、文学について夜を徹して語りあかした。
その翌日、再び平野は本多と二人で埴谷を訪れ、だんだん話は具体化していった。しかし、何よりも必要な資金の問題があった。そこで一|頓挫《とんざ》して、二人は埴谷の家を出て|憂鬱《ゆううつ》な思いで吉祥寺の方へ歩きだした。すると前方から荒正人と佐々木基一がやって来た。四人はもう一度埴谷の家へ集まって相談した。「こんどはどういう風の吹きまわしか、見通しはみるみる明るくなった。機嫌のいいときの荒正人を見舞う、湧くがごとき連想にあおられて、われわれは研究会をひらき、○○氏にものを訊く会といった体の討論会を催し、文芸大講演会を開催し、果てはわれわれの将来には、階下に喫茶室、一階に貸本店をもち、二階三階に事務室と小ホールをもつ鉄筋の会館までぶっ建てられることになってしまった! やれる、やろう、やることが嬉しい、という一同の気がはじめて完全にそろった。それまでフワフワと空中に浮遊していた『近代文学』グループなるものが、一瞬の間にさっと凝結した瞬間があったとすれば、それはまさにこのときであったと思う」(本多秋五「物語戦後文学史」)
こうして、十月三日松戸の佐々木基一の家で、在京五人の、いわゆる「松戸会議」なるものが開かれ、山室静、小田切秀雄をさらに同人に加えることにして『近代文学』は発足した。
十二月初旬、次のような|挨拶《あいさつ》状が発送された。
「拝啓、菊薫る候となりました。筆硯ますます御多祥のことと存じます。
日本は再建されねばならず、再建日本は文化日本でなければなりません。東京の廃墟の上には爆音高く飛行機が飛び、それらは数ケ月前まで我々が恐怖と戦慄をもって見上げたもの、或いは紙上で名称や性能のみを知っていたもの、或いは全然知るところのなかったものばかりです。一つの象徴とも考えられる光景です。日本は果して真の自主的文化を独創しうるかどうかは必ずしも懐疑なき問題ではないでしょう。しかし我々は生きねばならず、生きんがための努力は嘉せられるでしょう。
私どもはこの度日本文化推進のために、文学を通じて一滴の寄与もと、雑誌『近代文学』(正月創刊予定)を発刊することになりました。雨後の筍の一本に過ぎないかも知れません。ただ叡知とエネルギーのために渾身の努力を尽す覚悟だけしております。とはいえ、世の識者具眼者の隠顕それぞれの同情と指導なしでは到底やって行けません。何とぞ小誌の名を記憶にとどめさせられ、今後よろしくご支援と御鞭撻とを賜わりますよう、伏してお願いいたす次第でございます。
昭和二十年十二月
[#地付き]『近代文学』同人  
[#地付き]荒  正人 
[#地付き]小田切秀雄 
[#地付き]佐々木基一 
[#地付き]埴谷 雄高 
[#地付き]平野  謙 
[#地付き]本多 秋五 
[#地付き]山室  静」
『近代文学』創刊号は、十二月下旬に売り出された。あたかも十二月三十日、教育会館で、秋田雨雀、江ロ渙、蔵原惟人、窪川鶴次郎、壺井繁治、徳永直、中野重治、藤森成吉、宮本百合子の九人即ち「帝国主義戦争に協力せずこれに抵抗した文学者のみ」が発起人となって、「新日本文学会」の創立総会が開かれた。その会場の廊下に『近代文学』は並べられた。平野が「こういうことをやって怒られやしないかと思うんですけど」とはにかみながら言うと、窪川が「そんなばかなことがあるもんか、かまわんよ」と言った。
[#改ページ]

二十一歳の三島由紀夫
昭和二十一年の正月、東大の学生服を着た二十一歳の三島由紀夫が初めて鎌倉の川端康成の家を訪れた。
三島はその時、紫色のちりめんの風呂敷に「中世」と「煙草」という二つの小説の原稿を持って行った。
三島はその三カ月前、昭和二十年十月二十三日、最愛の妹美津子を亡くしていた。美津子は聖心女子学院に通っていたが、十月のなかば頃、学校の焼跡のあとかたづけがあり、そのあと、校庭の井戸水を|呑《の》んだのが悪かったらしく、数日後高熱を発した。チフスであった。大久保の病院に隔離された。
三島は丁度試験勉強の最中だったが、ノートを抱えながら病院に通い、美津子の顔近く、ベッドの床にじかにあぐらをかき、ベッドによりかかるようにして、妹の顔とノートとを交互に見、勉強しながら看病した。
窓枠の|隙間《すきま》や戸口から秋の虫が無数に入って来た。それを追い払うのがひと苦労だった。吸い呑みを妹の口にふくませてやると、美津子は、なかば意識がもうろうとしていながら、
「お兄様ありがとう」と力なく言った。
そんな看病の|甲斐《かい》もなく美津子は死んでいった。それは三島にとって大きな衝撃であった。
三島は父が大蔵省の役人になることを強く|希《のぞ》んでいたので法科に入って勉強していたのだが、かたわら小説をひそかに書いていた。それを両立させようと思っていた。その気持は、妹の死によって一層堅固になったものと思われる。
川端康成を訪れる決心をしたのは、自分の、昭和十九年秋に出した処女短篇集「花ざかりの森」(七丈書院)や、『文芸世紀』に第一部を載せた「中世」を川端が読んで、賞讚しているということをひとづてに聴いていたからである。三島は勇気をふるいおこして、一人で訪れることにした。
その頃川端康成は鎌倉大塔宮の裏手の、蒲原有明の家の|一廓《いつかく》に、家主と同居の形で住んでいた。
座敷に通されると、そこには数人、先客がいた。川崎長太郎、石塚友二らであった。川崎が先に座を立って、ゴム長をはいてひょこひょこ帰って行くのを見て、三島は魚屋かと思った。
川端は三島がおそるおそる差し出した原稿を、「面白くも可笑しくもないような顔」(三島由紀夫「私の遍歴時代」)で受けとった。
しかし、それから二カ月ほどして「煙草」が鎌倉文庫の雑誌『人間』の六月号に掲載されるという知らせが入った。三島は胸をおどらせて喜び、早速、鎌倉へ飛んで行って川端にお礼を述べた。
それは三島にとって生涯忘れられない感動の日であった。
その日、川端の家にたまたま久米正雄も来ていた。川端が「中世」もそのうち載せてあげようと言うので、ますます感激し、すこし手を入れたいからと言って返してもらい、それを|膝《ひざ》の上でめくっていると、そばにいた久米が、
「ちょっと見せてくれたまえ」と言って、とりあげ、パラパラとめくった。そして、「帰思|方《まさ》に悠なる哉、か。ホホウ、学があるんだね」と言った。
三島の戦後文壇への門出の日であった。
昭和二十一年四月二十日午後二時、銀座二丁目の実業之日本社の二階から、時ならぬベートーヴェンの「葬送行進曲」が鳴りひびいた。それは「火の会」の発会式のファンファーレであり、「過去」を葬送する日であった。
次いで終戦直後(昭和二十年九月二十六日)獄死した三木清、メチルアルコール入りの|焼 酎《しようちゆう》を呑んで死んだ(昭和二十一年三月三十一日)武田麟太郎を名誉会員に|推戴《すいたい》し、野上彰作詞、宅孝二作曲の次のような歌が全員で合唱された。
吾等はアヴァンギャルドなり
人間にして自由なり
歴史の|泡沫《あぶく》を吹きとばし
あらゆるフォルムを抹消す
しかれども、無限宇宙の太陽は
われらと共にめぐるなり
西か、否、東か、否
吾等は縦横自在なり
吾等はアヴァンギャルドなり
…………
歌が終ると、中島健蔵が、次のような「宣言文」を朗読した。
「吾等は純粋無垢の赤児である。――新たな生誕を意識する吾等は如何なる意匠をもまとはず、如何なる汚濁にも染まず、常に尊貴な自己を観る。既に赤児なれば、一切を否定し、一切を建設しよう。既に尊貴な自己なれば、悲哀憂愁を知らず。ただ声高らかに叫ばう。ここに、今、時間は始まる。吾等は過去を持たず永遠に未来を持つ。
吾等は、自立の自由に生きる。――一瞬の静止もない流動のうちに、変通|無碍《むげ》な自在のうちに、吾等は自己を自立する。この自立の自由を以て、呼吸し、飲食し、手足を伸ばさう。この自立の自由のために、生を拘束し、窒息させる一切のものを、勇敢に峻拒しよう。ここに、今、吾等は自己の統一体を確保する。
吾等は知慧の火に燃ゆる。――火は知慧であり、知慧は火である。この火、天上にも在らず、地下にも在らず、実に吾等のうちに在つて、赤熱し、光耀する。赤熱し光耀する火は、燃焼を意欲する。この意欲を満たさう。あらゆるものを燃焼させよう。ここに、今、最初にして且つ最後の清掃が行はれる。吾等のアヴァンギャルドは前衛にしてまた後衛、本体をも兼ねる。他に期待すべき何ものをも持たざることを、吾等の歓ばしき光栄とする。
吾等は世界の公民である。高邁な精神技能を以て、新たな人類を構想する吾等は、世界を故郷となす。万人悉くこれ同胞、一人の異邦人をも観ない。されば、吾等の理念と表現とをして、特殊を貫ぬける普遍的真理に到達せしめよう。あらゆる翻訳を不要ならしめよう。分析と綜合とを合致せしめよう。ここに、今、新たな時代が開け、新たな人類が出現する」
この日参集したのは、豊島与志雄、中島健蔵、青野季吉、平野謙、荒正人、小田切秀雄、古在由重、松本慎一、村山知義、井上勇、野上彰、東畑精一、近藤忠義、荻須高徳、脇田和、猪熊弦一郎、野口弥太郎、長沢節、千田是也、三橋蓮子、貝谷八百子、宅孝二、大森直道、海老原光義等で、作家、画家、舞踊家、音楽家、ジャーナリストの他に、東畑、古在、近藤らのような学者も入っていた。
「火の会」の第二回は、六月八日、駿河台の文化学院の三階の広い教室で開かれたが、これが大荒れの会となった。
教壇の前に、四列に長く机が並び、その机に向い合って、縁台のようなほそながい木の|椅子《いす》がつながっていた。机の上には一升びんが林立し(中身はカストリ焼酎)、センベイやピーナッツが盆に盛ってあり、それをつまみながら|茶碗《ちやわん》で酒を呑むという|按配《あんばい》で、みんなたちまち酔っぱらった。
演壇で中島健蔵が何かしゃべり出した時には、もう会場はガヤガヤと|罵声《ばせい》、叫声がみだれとんで、収拾がつかなくなっていた。
突然、国木田虎雄(独歩の息子)が、のっしのっしと前に出て来て、中島につかみかかった。ところが中島は身体に似合わず腕っ節が強い。手も大きく指が太くふしくれだって頑丈だ。その手が虎雄の腕をむんずとつかむと、あっという間にねじ上げてしまい、虎雄はたちまち悲鳴をあげた。
これがきっかけとなって、あちこちでもめごとが起った。フランス文学者の斎藤正直が、へべれけに酔って、あちこちにからんでまわり、そのたびに投げとばされた。
石川淳が、矢庭に机の上の茶碗や一升びんを両手でサッとなぎたおしたので、反対側にいた連中に酒がもろにひっかかった。|喧嘩《けんか》早い新聞記者の小野田政が怒り出し、「おもてへ出ろ!」と叫ぶと、飛鳥の如く机をとび越えておどりかかり、身体の小さな石川をひっかかえて部屋の外へ出て行った。
とにかくめちゃくちゃな会で、何が何だかわからないうちにお開きとなった。まことに「人間にして自由」な会であった。
同じ年の七月二十七日、戦後再建された「日本文芸家協会」が、主務官庁である文部省から、社団法人設立許可を受けた。
そこにいたるいきさつは次のとおりである。
昭和二十年十月二日、菊池寛、河上徹太郎、舟橋聖一の連名で、次のような謄写版刷りの文書が、主な作家に宛てて発送された。
拝啓
時局一転、平和日本の黎明に際して益御清祥の段お慶び申上げます。
顧みまするに、ここ数年間文芸の活動は殆ど封鎖拘束せられ自ら批判を失ひ、従つて作家生活も頗る不振の状態にありましたが、戦争の終結と共に文芸の再興は新日本建設途上に欠くことの出来ない重要条件となつて来たのであります。
ついては、こゝに戦争によつて解散させられました文芸家協会を再建し、その目的たる文芸の向上発揚を図り、作家の利益を擁護し且つは親睦を増大し、闊達なる意見を議し、以て自由なる文学者の基礎的団体を結成いたし度存じます。
貴意は如何でありませうか。
幸ひ御賛同を得ますならば是非発起人として貴下の御協力を煩したく存じます。尚来る十月十八日(木)午後二時文藝春秋社(大阪ビル二号館六階)の一室で発起人会をひらきますが何卒万障おくり合はせの上御参集下さるやうおねがひ致します。
右略儀乍ら寸楮を以て御厚配を仰ぐ次第でござゐます。
二伸、追而当日の御都合承度、止むを得ず御欠席の場合、発起人諾否の件其の他御高見お洩し下さい。
又念の為発起人をおねがひする方々は左記の通りであります。(順不同)
中島健蔵、|新居格《にいいたる》、窪川稲子、中野重治、青野季吉、正宗白鳥、豊島与志雄、関口次郎、大仏次郎、里見、徳永直、宮本百合子、川端康成、広津和郎、丹羽文雄、志賀直哉、|上司《かみつかさ》小剣、宇野浩二、谷崎潤一郎、山本有三、武田麟太郎、永井龍男、横光利一、今日出海(最下段にペンで中山義秀、真杉静枝、佐佐木茂索の名が加えられている)。
そして、予定通り十月十八日、文芸家協会再建発起人会が文藝春秋社の社長室で開かれ、菊池寛、河上徹太郎、舟橋聖一、広津和郎、中野重治、上司小剣、新居格、永井龍男、佐佐木茂索、宮本百合子、窪川稲子が出席した。
この日の議題の一つは会名の件であり、それは、戦後日本の国際性を予期して|日本《ヽヽ》文芸家協会と決った。
軍政の圧力によって、昭和十七年五月二十六日、日本文学報国会が創立され、六月十八日の発会式と同時に戦前の社団法人文芸家協会は解散させられたが、終戦後二カ月余で、敗戦の焦土の中から、このように再建され、八カ月後に社団法人の認可がおりたのである。
日本文芸家協会とほとんど同時に発足し、結成されたのが、戦前の「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)の残党が中心になって創立した「新日本文学会」である。
終戦直後、中野重治は兵隊に行っていたが九月末に帰還して故郷の福井にいた。宮本百合子も福島県安積郡桑野村に疎開していた。中西伊之助が新聞に広告を出して中野を呼び出した。蔵原惟人も、当時身体の調子が悪く、寝たり起きたりの状態だったが、それでも何とかして、中野や宮本と連絡を取ろうと努力した。
こうしてどうやら戦前の仲間が顔を|揃《そろ》えたのは十月半ばであった。
十一月十五日に、創立準備委員会が開かれた。岩上順一の「『新日本文学会創立大会』の報告」(『新日本文学』昭和二十一年三月)によるとその経過は次の通りである。
「侵略戦争は民主主義的文学者の結集を弾圧した。戦争に動員され、戦災に罹り、外国へ亡命させ、刑務所へ監禁された。しかし敗戦による民主主義革命の開始に際会し、若干の同志が新しく民主主義的文学者の結集体を組織しようとして行動を開始した。九月に入って若干のものが発起人になることとし、十一月十五日創立準備委員会を結成し、新文学団体の名称構成、活動方針、綱領規約の草案を作成した。
発起人としては帝国主義戦争に協力せずこれに抵抗した文学者のみがその資格を有するという結論となった。秋田雨雀、江口渙、蔵原惟人、窪川鶴次郎、壺井繁治、徳永直、中野重治、藤森成吉、宮本百合子が決定した。
準備委員会はただちに新日本文学会へ参加の招請状を発する仕事に着手した。招請した文学者は阿部知二以下三二二名であった。居所不明郵便物の手遅れ等により、参加申込の来た会員は一七三名である。
なお日本文学の民主主義的発展に従来貢献した作家として、志賀直哉、広津和郎、野上弥生子、正宗白鳥、上司小剣、室生犀星、谷崎精二、宇野浩二、豊島与志雄を賛助会員とすることに承諾を得て決定した」
谷崎潤一郎と永井荷風を賛助会員に入れるかどうかで大論争があり、窪川鶴次郎が強力に反対して、削除された。
このようにして、「新日本文学会創立大会」が十二月三十日、一ツ橋教育会館で開かれた。十一文化団体代表(東京芸術劇場=薄田研二、自由懇話会=新島繁、日本ジャーナリスト連盟準備会=岡本正、在日朝鮮人連盟中央本部文化部、民衆新聞社、全日本教員組合中央執行委員会、人民文化同盟、新日本医師連盟準備会=安田徳太郎、民主主義美術協会準備会、民主主義科学者協会準備会、日本文化人連盟=秋沢修二)の他会員約百名が出席した。
司会者として、創立準備委員会より壺井繁治が登壇して開会の辞を述べた後、江口渙が議長に選ばれた。大会書記として、岩上順一、松本正雄、小林政夫、他三名が指名された。
議長江口渙が登壇して、プロレタリア作家同盟の一九三一年五月六日築地小劇場における結成大会以来今日までに十四年が経過した、この間民主主義的文学運動は|悉 《ことごと》く弾圧をうけた、小林多喜二その他数多くの同志がたおされた、集会はすべて解散させられた、今日、新日本文学会が大会を持ち得るにいたった意義は深い、会はプロレタリア団体の単なる復活ではない、新たな民主主義革命の進展に応じて、一切の民主主義文学者の結集を図り、民主主義文学の前進のために闘うものでなければならぬ、というようなことを強調して着席した。
次いで、中央委員の選出が行われ、準備委員会の推薦により、秋田雨雀、江口渙、蔵原惟人、西沢隆二、窪川鶴次郎、中野重治、壺井繁治、徳永直、宮本百合子、久保栄、村山知義、除村吉太郎、川口浩、近藤忠義、小田切秀雄、渡辺順三、平野謙、平林たい子、半田義之、岩上順一、金子光晴の二十一名が満場一致で中央委員に決定した。
こうして午後五時散会し、「新日本文学会」は誕生した。雑誌『新日本文学』が創刊されたのは昭和二十一年三月一日である。
その翌年(昭和二十二年)の二月二十二日、「日本ペンクラブ」が再建された。
昭和二十年九月の末、戦前の『改造』編集長水島治男が、電通の上田碩三社長に呼ばれて面会した。上田は、戦後日本の再建のため、程度の高い綜合雑誌を出したい、雑誌の名前は『世界文化』というのを考えている、ついては君にやってもらえないか、と言った。失職していた水島は渡りに船とすぐに引き受けた。
『世界文化』は二十一年二月に創刊された。上田社長はこの雑誌にきわめて野心的で、雑誌刊行と並行して「世界文化研究会」というクラブを作ることを計画した。それは『世界文化』の執筆者を中心に広く学者や言論人に呼びかけて、一種の懇談会的グループに発展させたいというのであった。
電通ビルは戦災もまぬがれていたし、場所も銀座の数寄屋橋通りで会合に便利であった。ことに当時はコーヒーもろくに|呑《の》めないような時代だったから、そこへ行けばそれが呑めるというので、立ち寄る人が多くなった。芹沢光治良もその一人で、|或《あ》る日芹沢が行くと、そこに豊島与志雄がいて、一人でコーヒーを呑んでいた。
芹沢が、その席に会釈しながら行って、
「君、ペンクラブはその後どうなってるのかね」と言った。
それがきっかけになって、豊島は辰野|隆《ゆたか》のところへ、ペンクラブ再建について瀬踏みに行った。
やがて上田碩三がパージになったので、電通ビルに集まっていた文化人の一部は、有楽町の毎日新聞社の待合室に集合場所を一時移した。そこには、豊島与志雄、新居格、辰野隆、青野季吉、小松清、小牧|近江《おうみ》、松尾邦之助、向坂逸郎、田中耕太郎、林健太郎らがよく集まった。
或る日松尾邦之助が、
「日本は、国連に参加するのはまだ先のことだが、日本ペンクラブを再建して、ペンの関係で、ユネスコへの仲間入りができるかも知れない」と言った。
それ以来、青野季吉、豊島与志雄、芹沢光治良らがひんぱんに会合を開いた。
「最初の集まりのあったのは神田のどこか小さな本屋かレストランの二階で、新居、豊島、わたしのほかに、戦前のペンクラブの役員だった中島健蔵、芹沢光治良が参加したように思う。ほかに戦前ペンの事務をあずかっていた夏目三郎も席に加わったが、このひとは戦災でヒドイ目に会いながらもペンのささやかな貯金の通帳をはだ身離さず持ち回ったという感心なひとで、新しい建前でのペンの再興を一日も早くと願っていた。その後、月に一度くらい会合をもち、川端、小松清、小牧近江、立野信之、新田潤など、参加者も次第にふえ、会場も水島治男の主宰していた雑誌『世界文化』の編集室のあった電通ビルの一室に移された。(中略)いよいよ再建大会をあげることにきまって、豊島とわたしが世田谷弦巻町(註=桜新町の誤り)の志賀直哉を訪ねて、再興最初の会長になって欲しいと頼んだのは翌二十二(一九四七)年の一月半であった」(青野季吉「文学五十年」)
こうして二月二十二日、有楽町糖業会館地下室の「リッツ」で日本ペンクラブ再建発会式が行われた。会長志賀直哉、副会長辰野隆、幹事長豊島与志雄と決った。
[#改ページ]

空前の豪華文士講演旅行
昭和二十二年一月号の『人間』に「昭和二十二年に望むこと」というアンケートが掲載された。作家の回答を到着順に上げる。
石川達三
昭和二十二年に望むことは、愛国心を喚起すべきことです。敗北の後に愛国心が喪失してゐる現状が、即ち日本がみづから植民地に陥ることの原因です。私の言ふ愛国心とは、国を愛することであつて、国を守ることではない。外国を敵とすることではなくて、自国を輝かしきものとすることです。昭和二十二年は、このまゝで行けば本当に亡国の年になるかも知れない。私はそれを憂へるのです。
河盛好蔵
一日も早く戦争裁判が終了して、媾和会議が開かれ、賠償額が決定し、海外との交通が再び開かれることを切望します。日本人が敗戦国としての真の現実を知ることによつて、祖国再建の勇猛心を起してくれるやうな、掛値のない、ありの儘の姿の日本が、われわれの眼の前につきつけられることを願ひます。一切のはかない夢を破ること、これが新しい年に私の最も希望するところです。
クボカワ・ツルジロー
a、人民共和政府の樹立されること。
b、この政府を通じて、人民自身の力で、一日も早く人民全体がインフレ難と、食糧難と、交通難と、それから出版難から解放されること。
もしさうなつたら、……ほんたうのコーヒーくらゐのめるやうになるだらうか。
小田切秀雄
体内を流れてゐる血を変へるといふことはむつかしい。だが、時代のこんにちのやうな激動はその激動を前提としてをり、人間内容の激動は人間の体内の血を何ほどかづつ変化させないではやまぬだらう。体内をめぐつてゐる臣民の血、奴隷の血を、一滴づつしぼり出して行くいとなみもそれに伴はないではゐないだらう。――新文学の中心課題としての人間探求は、こんにちの人間の右のやうないとなみに対して向けられる必要がある。その追求は新しい人間の形成を文学の側から支へるに違ひない。そして作家自身をも着実に変化させるだらう。
尾崎一雄
誰も彼も受身の状態にあるやうで、早くこれから脱けたいと思ひます。ここまで押されて来たことですから、立直るのには骨が折れますが、せめて来年中にはみんなが受身な気持ちから脱出したいものです。さうすればいろんなことがうまくいくだらうと思ひます。
石坂洋次郎
日本の小説が少しづつでも世界の人達に分るやうな方向に近づいて欲しいと思ふ。そのためには、支那の新生活運動とかのやうに、単に政治組織の革新だけでなく、日常生活の習俗にも、強力な、思ひきつた変革が|齎《もた》らされて欲しい。
佐藤春夫
偏へに五風十雨日あたたかに風静かならん事を願ふのみに御座候
太宰 治
何を望んだつて、何も出来やしねえ。
青野季吉
行くところのない子、家のない人、仕事のない人、めしのくへない人、病気で働けない人、老いて救ひのない人、精神のよりどころのない人、さういふ「ない」人達が、「何かある」やうになつて欲しい。
織田作之助
明治以後百年にも満たないのに、既に厳として犯すべからざる多くの古典的権威が定説化してゐる現状は、果して日本文学の幸福か不幸かといふ点を、来年こそは明確にして、過去現在の日本文学の権威を一応疑つてみたい。そして、過去の日本文学から何らの権威的影響を受けない鬼子的作品の出現に、われ人ともに努力したい。よしんばそれが月足らずであらうと、猫や杓子よりは有意義であらう。
宇野浩二
一日も早くもとのやうになつてほしい。
空前の豪華な文士一行十数名を乗せて、氷川丸が横浜港を出航し、一路北海道へ向ったのは昭和二十二年五月二十九日の正午であった。
一行は、講師が長谷川如是閑、柳田国男、久米正雄、川端康成、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎、中村光夫、清水幾太郎、中谷宇吉郎、田中美知太郎、嘉治隆一の十二名、随行員が小林茂(創元社社長)、秋山修道(同社員)、米岡来福(青磁社社長)、片山修三(同専務)、那須国男(同社員)、三浦徳治(鎌倉文庫・創元社北海道支社長)、巖谷大四(鎌倉文庫出版部長)である。
戦後急激に出版社が乱立したために、紙の需要が間に合わず、次第に|闇《やみ》取引、物々交換が行われるようになり、二月には物交禁止令が出て、雑誌を休刊するものも多く、ページが制限されていた時代で、|仙花《せんか》紙という、落し紙のような薄ぎたない灰色の再生紙がはんらんした頃で、紙の生産地である北海道は出版社の命綱であったから、いち早く北海道に支社を設ける社が多かった。
ここに三浦徳治という、北海道生れの、不思議な旋風男がいた。三浦は戦争中、島木健作の家に居候をしていた男だが、妙な人なつっこさと、にくめない無鉄砲さで、小林秀雄や川端康成のところにも出入りして重宝がられていた。小林は創元社の重役をしていたし、川端は鎌倉文庫の副社長だったので、この二人にうまく話をつけて、両社の北海道支社長を兼ねていたのである。
この豪華メンバーによる北海道講演旅行の企画を立てたのも三浦である。三浦は、青磁社の那須、鎌倉文庫の巖谷を|叱咤《しつた》激励して、毎日のように関係官庁、交通公社を訪れて、一行のために良い船室を確保すること、物資不足の折から、特別食料の補給、酒類の持込みに八方手をつくした。
長谷川如是閑、柳田国男両長老をはじめ、当代一流の作家評論家が乗り込むということで、氷川丸の事務長も大歓迎で、特別に、広間のような一室を提供してくれて、そこが一行全員の食堂兼談話室となり、ボーイが特別の料理を朝昼晩はこんでくれるというサービスぶりであった。
船の出帆と同時に昼食になった。門出を祝して持込みの酒が|酌《く》み交わされた。事務長の好意でビールも出た。
次第に酔いが廻って、部屋が騒々しくなって来た。小林、河上、中村、亀井らが独特の問答をはじめた。要するにやっつけあいのようなものであった。あまり酒を呑まない川端までとばっちりをうけて、「伊豆の踊子」以後見るべき作品がない、などとからまれた。
老大家と、田中、清水、中谷、川端、嘉治は酒を呑まないので、難をさけるように一人立ち二人立ち各々の部屋へ引き上げた。
河上と中村が見事に酔っぱらい、二人は肩を組んだまま部屋を出て、デッキを千鳥足で歩きはじめ、船べりで取組合い(けんかではない)をはじめた。大きな船(一万九千トン――戦後日本に残された最大の唯一の客船)だったし、天候もうららかだったので揺れはしなかったが、二人の方が大揺れに揺れているから、うっかりすると、船べりから落ちかねない。随行員がようやく二人をなだめて、部屋に軟禁した。
こんなことが二日続いて、五月三十一日の朝、船は函館港に着いた。
一行は函館郊外の|湯川《ゆのかわ》温泉に一泊した。その夜は大宴会で、北海道名産の海の幸がならび、|芸妓《げいぎ》たちの三味線でソーラン節などが歌われ、遂には久米の得意の芸である「枯れすすき」が披露された。
翌朝一行は函館から列車で札幌に向った。函館まで筑摩書房北海道支社長の竹之内静雄が迎えに来ていた。
函館からの車中で、長谷川一夫と一緒になった。黒い|眼鏡《めがね》をかけてカモフラージュしていたが、駅から駅へと情報がつたわるらしく、止るごとに窓に人だかりがした。久米が旧知だったので、
「なかなか大変ですね」と言うと、
「みんなごひいきさんですから……」と、いかにも芸道の人らしく、女のような声で、如才なく言った。映画館の「|挨拶《あいさつ》まわり」ということであった。
六月二日午後一時から、札幌の北海道大学の講堂で講演会が開かれた。長谷川如是閑、柳田国男、小林秀雄、田中美知太郎が講演し、そのあとで、パネル・ディスカッションという、新形式の文学討論会が開かれた。議題は「私小説について」というので、|馬蹄《ばてい》型になったテーブルのまわりに作家が席につき、そのまわりに聴衆(大部分は北大の学生)が席をとって、討論の後、質疑応答もやった。放送討論会の真似をしたようなものだが、こうした形式の文学討論会ははじめての試みだったので大好評であった。久米正雄一人だけが私小説擁護派で、得意の話術でいいくるめようとするのだが、何しろ相手は小林、河上、中村、亀井という四人の論客だから、そう一筋縄ではいかず、やっきとなって応戦するのがかえって面白く、聴衆は沸きに沸いた。川端康成は終始無言であった。この会は満員の盛況で、講堂の外にも拡声器をつけて、入場出来なかった人たちに聴いてもらうほどであった。
札幌に五日まで滞在した。折から札幌は、公園は花見でにぎわい、その間、一夜、定山渓ですごしたが、定山渓への往復にはリラの花がところどころに見られる好季節であった。
札幌滞在中、川端康成と田中美知太郎が二人で散歩に出た。道々、田中は川端に、「あなたの小説を読んでみたいが、何を読んだらいいか」と言った。すると一緒に随行したものが「浅草紅団」の名をあげ、このへんの本屋にもあるはずだから、買って来ましょう、と言った。しかし川端は不機嫌な顔をしてそれを止めた(あとから川端は、京都の田中の家へ「名人」を署名して送った)。
長谷川、柳田、清水の三人は、この間に小樽へ講演に行った。その講演会場で、主催者側に清水は、「財団法人二十世紀研究所長」という肩書のついた名刺を出した。すると相手は「ああ、|梨《なし》のご研究ですか」と真面目な顔をして言った。清水はがっかりした。
長谷川と柳田はそのあと嘉治隆一の案内で阿寒の方へ行った。そして、五日の夕方、登別で一行とまた一緒になった。
登別の街で、一行は、東京で不足していたバターと|椎茸《しいたけ》とを土産にどっさり買い込んだ。
七日には|洞爺湖《とうやこ》に廻り、湖畔のホテルで|鱒《ます》のさしみと、いわしの|燻製《くんせい》に舌鼓をうった。昭和新山が眼の前に赤くそびえていた。
船は八日の朝、室蘭港から出帆することになっていた(氷川丸が室蘭に廻航して待っていた)。港につくと、ひどいどしゃぶりで、一行の荷物をハシケにはこぶうちに、随行員はずぶ濡れになった。
しかし帰りの船旅も平穏であった。船に残しておいた酒類を、また二日間、左党の連中は呑みつづけた。
十日の正午頃、船は横浜港に入港した。するとMPが荷物の検査に来るということであった。久米は洋モクやその他アチラのものを色々持っていたので、「よわったな、海へ捨てちゃうか」と言った。随行員の一人が、「何とかなりますよ」と言った。そして事務長に頼みこんだ。事務長は心得ていて、上がって来たMPに何かペラペラと英語でしゃべった。するとMPは「OK」と言ってうなずいた。一行は簡単な検問で、無事通過し、上陸することが出来た。
[#改ページ]

露伴、利一の死
昭和二十二年七月三十日、幸田露伴が、千葉県市川市菅野で八十一年の生涯を閉じた。
露伴が、戦争中小石川の家を焼かれ、一時伊東の宿に身をおき、市川市菅野の|仮寓《かぐう》に移ったのは昭和二十一年一月のことであった。八畳、四畳半、二畳の三間しかない小さな家であった。そこに露伴と娘の文と、その娘の玉子が一緒に住んだ。
もうその一年前から露伴は|臥《ふ》したきりであった。身の廻りの世話は文が見た。十七歳の玉子がそれを助けた。
床に臥してはいたが、その年の夏までは、まだ元気で、手洗いには必ず起きるし、土橋利彦(塩谷賛)に口述筆記をさせて仕事もしていた。
昭和二十二年の正月には、横山大観から灘の酒がとどいた。最上等の|樽酒《たるざけ》であった。それを毎日のように|呑《の》んだ。その樽が空になった時から酒を断った。いや、酒を断ったのではなく、市販のまずい酒を断ったのであった。その年の三月二日に「芭蕉七部集」の最後の「続猿蓑発句の部」が完成した時、小林勇が祝いにいい酒を持参した。それをうまそうに呑んだ。
煙草ものんでいた。「みのり」という、まずいキザミ煙草をキセルで吸っていた。その話を野田宇太郎から聞いた漫画家の横山隆一が、専売局長が友人だったので倉庫を洗いざらい調べさせて、二つだけ残っていた「白梅」を贈った。横山は露伴に会ったことはなかったが、露伴の方は隆一の「フクチャン」を毎日『毎日新聞』で見て楽しんでいた。それを知って横山は贈ったのである。
しかしその「白梅」をほんの一袋の五分の一ほど吸っただけだった。あとは棺におさめられた。
またある日、山本有三が娘を一人連れて訪れた。二人は初対面であった。山本はその頃国語問題と熱心にとり組んでいて、
「国語をもっとやさしくしようという運動を起したいのですが、それには幸田さんの御賛成をいただきたいと存じまして」と用件を言った。しかし露伴はあっさりと答えた。
「それは結構ですねえ。しかし私は年を取っておりますので、私の書くものはいままで通りにさせていただいて」
その頃、創元社から、小林秀雄の|編輯《へんしゆう》で、『創元』という百円の、当時としてはまことにデラックスな雑誌が企画された。その第二号に、露伴の原稿を依頼して来た。一枚千円という高い稿料であった。露伴は土橋に、
「おれは創元社の雑誌には書こうかとも思っているのだ。恥かしいが千円という原稿料をいままでに取ったことがない」と言った。しかし、結局それは書けなかった。
昭和二十二年七月十一日の朝、玉子が露伴の部屋の雨戸を開けに行き、露伴の寝姿を見てびっくりした。
「おじいちゃまが血だらけ」と、部屋を飛び出して、台所にいた文にそっとつげた。文が行くと、露伴は顔、|髯《ひげ》、手、|枕《まくら》、シーツを血に染めて寝ていた。そして自分はまったくそれに気付いていない様子であった。
文は一瞬はっとしたが、ここであわてふためいてはいけないと、ぐっと息を吸い込んだ。その時露伴が眼をあけて、文の顔をいぶかしげに見あげ、
「どうかしたのかい」と、静かに言った。父の声がおだやかに落着いているので、文は思いきって言った。
「血が出ましたね」
すると露伴は、
「ははあ、ゆうべ|痰《たん》がつまって苦しいと思ったのは、あれは血なのかい。ハテネ」と考え込むようにした。
文は、父の手をとって脈を見た。正常だった。額に手を当てた。熱もなかった。
血はもうかわいていて、痰吐きの中のだけどろどろしていた。
露伴は起き上ろうとした。
「こんなに血が出ているのに、胃からにしろ肺からにしろ、お起きになるのはよした方がよくはないかしら」と文が言うと、
「また始まった。おまえの素人医者は、置いてくれ置いてくれ。つべこべ云う間に素直にやれ、猿は血を見ると騒ぐと云うが人間のサルも始末が悪い」と言った。
そこへ玉子が清水を入れたコップと手拭を持って来た。文はそれを受けとると、近くに住む弟子の土橋利彦に連絡するように、目顔で知らせた。六尺豊かの童顔の土橋が、息をはずませてやって来た。
その日の午後二時、二度目の出血があった。文も玉子も土橋も、これはただごとではないと思った。
文は、前に歯をいじくって血が出たことがあるので、それではないかと思った。土橋が東京の歯科と内科の医者に連絡に行った。玉子は近辺へ必要品を買いに行った。その留守に三度目の出血があった。文はあわてふためいて、外へとび出し、近処の子供に氷を買いに行くようにたのんだ。
それから毎日、きまって午前一時に出血した。武見太郎が、いい薬を持ってきたのだが、長年の糖尿病がわざわいして止血の効果を妨げた。
十九日、ほとんど食欲がなくなった。
二十日、朝の手水にも起きられなくなった。
二十三日は、露伴の八十一歳の誕生日であった。この日はめずらしく元気で、みんなが|揃《そろ》ってお祝いを言いに行くと、
「やあ、ありがとう」と、機嫌よく|応《こた》えた。「長く生きたもんさねえ、幸田のなかじゃあ一番長生きをしたかもしれない」とも言った。
お祝いのしるしに、六寸ぐらいの小ものではあったが、いきのいい|鯛《たい》が|膳《ぜん》につけられた。しかしほとんどたべられなかった。
二十七日の明け方、露伴は文と、めずらしく長めに話をし、最後に、
「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と言った。その翌日から|昏睡《こんすい》状態に陥った。
夕方、武見太郎、小林勇、松下英麿が来た。
二十九日には|親戚《しんせき》や知人たちも集まったが、家がせまいので、その日はみんな引上げていった。
三十日の朝、柳田泉が来た。武見太郎が来た。もうまったく意識がなかった。文は、武見医師の見ているところで父の口の中を掃除してあげたいと思った。
「おとうさん、先生が見ていらしてくださるうちに文子がお口を洗ってあげましょう。それでないと心配ですからね。さ、|綺麗《きれい》なお水をあがって下さい」と言いながら、|割箸《わりばし》のさきに脱脂綿をつけ氷の水を含ませた。ごくりとのど仏が動いた。
武見太郎が診察をすませ、部屋を出て、文と小林勇と玄関で話をしていると、
「色が変った!」と言って柳田泉が部屋からとんで来た。
武見が引き返し、胸に聴診器をあてたが、ややしばらくして、
「そう、心臓がとまりました」と言った。
文が、
「おとうさん、お鎮まりなさいませ」と静かに拝礼した。
午前九時十五分であった。
年もおしつまった昭和二十二年十二月三十日、横光利一が死んだ。
その年の一年前の六月、横光は血を吐いて倒れた。横光はそれを、疎開中の無理がたたって肺をやられたのだと思い、千代夫人にも秘していたが、それはのどの血管が破れて出たものであった。たまたま来ていた中山義秀の紹介の出版社員が、医術の心得があって、倒れた横光を診断し、軽い脳|溢血《いつけつ》にかかっていると言った。そして脳溢血にかかると、胃に|鬱血《うつけつ》をきたして消化不良になるから、ビタミン剤を注射して胃を強壮にし、徐々に回復をはかるほかはないと言った。また半年くらい転地静養した方がいいとも言った。
しかし横光はそのどちらも実行しなかった。横光には医者嫌いなところがあった。生来、神秘的なものを好み、縁起をかついだり、姓名判断に凝ったりするところがあった。文学ではやたらに科学的なものをとり入れるところがあったが、実生活はまことに迷信的であった。漢方薬やラジューム入りの売薬を信用してやたらに呑んだり、脳溢血に効用があると言って、|茶碗《ちやわん》に生きた|蜜蜂《みつばち》を入れ、肩のあたりにふせて血を吸わせたりした。
横光は、肺病と脳溢血が同時に襲って来たと信じこみ、肺病を治すには滋養をとるにかぎると思って、精出して|鰻《うなぎ》や鶏をたべ、相変らず|専《もつぱ》ら|揉《も》み療治や|灸《きゆう》をすえたりしていた。それはますます胃の負担を重くするばかりであった。
甘いものをやたらに欲した。編集者がたずねてくると、それをよいことにして、一緒に家を出て、下北沢の駅の近くの喫茶店に入り、|饅頭《まんじゆう》を三つも四つもたべた。当時はそんなものが喫茶店にもあって、それが上等の菓子だった。横光はそれをいかにもうまそうに、むさぼるようにたべた。
「家人に隠して蔵書をもちだし、それを金にかえてマアケットの粗悪な大福餅や饅頭のたぐいを、ひそかにむさぼり食べ」(中山義秀「台上の月」)たりしていた。
一年余寝たり起きたりの日が続いた。
昭和二十二年九月、川端康成や水野成夫が心配して、東大佐々内科の柴豪雄博士に診察を依頼した。柴博士が横光の家を訪れたのは九月半ば過ぎの暴風の日の午後で、その時の印象と診断について次のように書いている。
「……樹木の多い庭のよく見える応接間に入つて来た横光さんはひどく痩型で、その上かなり憔悴してゐるやうだつた。それでも病人らしくない元気な声だつた。
血圧が高くて脳溢血の不安がこびりついてゐること、食餌の消化が不十分で、栄養が摂れないから、終日寝床についてゐて陰鬱で仕事をする気になれないこと等の訴へがあつた。
私の診た容体は顔色稍々蒼白、皮下脂肪消退し、脈搏は整調、数七〇、緊張普通、肺臓には異常なかつた。血圧一六〇耗で稍々高い位。腹部触診で格別な異状を認めないが、消化器系統のレントゲン検査の必要を感じて大学病院に来る様にと約束した。脳溢血の懸念のある血圧でなく、心臓の変化がないから元気を出して仕事に取りかかつた方がよいと意見した。それから暫く雑談で時を過してゐたが思ひなしか元気になつた様に思つた。神経質なだけ、神経の変動も急激なのが窺はれる」(「横光さんの臨終」別冊『文藝春秋』昭和二十三年四月)
横光はこの診断で元気をとりもどし、ぼつぼつ仕事にとりかかった。そして柴博士と約束したレントゲン検査にも行かずにしまった。相変らず甘いものをたべ続けた。
十二月十四日、絶筆となった「洋燈」(『新潮』昭和二十三年二月)を執筆中、突然目まいにおそわれ、その翌日夕食後胃に激痛が起こって一時意識不明になった。医師の診断は胃|潰瘍《かいよう》であった。
以後、横光は客との面接を一切断り、自宅の二階座敷を病室にして|臥床《がしよう》した。
十二月二十二日、横光は重態に陥り、川端の連絡で再び柴博士が往診した。
「六日前に上腹部の激痛を感じ黒赤色の便通を診てから急激な貧血に陥り、遂に意識不明、脈摶消失の危篤状態となつたが徐々に回復して来たと云ふ容態であつた。床中の彼は顔色蒼白、脈摶数九〇、微弱、緊張不良。心音かなり稀弱。然し腹部の自然痛は最早消退し、圧痛は上腹部に僅か存在する位で、危篤の域を脱して来てゐた。出血がひどく続いて止血徴候のない場合は、危険を冒して摘出手術のことも考へられるが、何分軽々に動かしも出来ない容態であるし、又この分では慎重な食餌療法で徐々に回復するものと見当がつけられた」(前出「横光さんの臨終」)
この時、横光は、天馬の飛んでいる|石摺《いしず》りの墨絵の|枕 屏風《まくらびようぶ》を眼で示しながら、「この絵が眼に入るせいか迷想に悩まされて……」と柴博士に、言った。また「学問の学という字は風格のある字ですね」と人差指で空に「学」の字を書いたりした。そして、博士の帰りぎわに、
「何か起死回生の方法はないですか」と言った。柴博士は、絶対安静にして様子を見て床を離れられるようになったら、レントゲン検査の上で手術をすれば再発の心配はない、と言った。横光は満足そうにうなずいた。
しかし、病勢はつのり、二十九日の夜中には「ヒコーキに乗りたい」とか、「今日はね、おんりょうがたくさん出て来よった」と言って千代夫人を驚かせた。
その明け方三時半頃、横光は、突然激しい腹痛に苦しみはじめた。柴博士がかけつけた時は、既にこと切れていた。潰瘍が腹膜に|孔《あな》をあけ、急性腹膜炎を併発していたのであった。
鎌倉の家で病床にあった中山義秀は、横光の|訃報《ふほう》を知ると、「三十年間の別れを告げに行くのだ。今行かなければ、もう永久に横光に会えない」と言って、家人の止めるのも聞かず、杖にすがりながら、その日にかけつけた。
「横光の北沢の家にはすでにかなりの人々が詰めかけて、横光のなきがらを見まもっていた。
横光は顔をしかめ、苦しげな表情で死んでいた。それほど病気の苦痛がひどかったのか、それとも招かざる死神に、最後まで抵抗して闘ったのか、尽きぬ|憾《うら》みと執念とを、まざまざとこの世にとどめているような、いたましい死顔であった。
『まだ死にたくはない。今死んでは犬死にだ。くそっ』
歯がみをしながら何ものかにむかって、必死にそう叫んでいるかのように思われる。
『そのとおり、死にたくはなかったでしょう、横光さん。中山がただ今、別れを申上げにまいりました』
私は別室にしりぞくと、あたりかまわず身をもんで哭いた」(前出「台上の月」)
また、古くから横光に兄事していた作家で俳人の石塚友二は、その死を|悼《いた》んで、次のような句を捧げた。
人生五十年|一日《ひとひ》余まししかなしさよ
葬儀は、翌二十三年一月三日、午前十時から自宅で行なわれた。葬儀委員長は、川端康成であった。川端は次のような哀切きわまりない、長い弔辞を読んだ。
「横光君
ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭つた。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生せよと言ふ。これも君が情愛の声と僕の骨に沁みる。国破れてこのかた|一入《ひとしほ》木枯にさらされる僕の骨は、君といふ支へさへ奪はれて、寒天に砕けるやうである。
君の骨もまた国破れて砕けたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心力を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新な同情を通はせ合ひ、再び行路を見まもり合つてゐたが、君は東方の象徴の星のやうに遽に光焔を発して落ちた。君は日本人として剛直であり、素樸であり、誠実であつたからだ。君は正立し、予言し、信仰しようとしたからだ。
君の名に傍へて僕の名の呼ばれる習はしも、かへりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であつたばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であつた。恩人としての顔を君は見せたためしは無かつたが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を霑すのをひそかに僕は感じた。その恩頼は君の死によつて絶えるものではない。僕は君を愛戴する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝へてくれるとは最早疑ひなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きてゐる僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随つて僕の亡びぬ時もやがて来るであらうか。
君の業績閲歴を今君に対つて言ふには僕はさびし過ぎる。ただ僕の安佚の歩みが、あるひは君に嶮難を攀ぢさせる一つの無形の鞭とはならなかつたかと、君が孤高に仆れた今、遙かな愛と悔いとへ僕を誘ふ。君と僕との文学は著しく異つて現れたけれども、君の生来は僕とさほど離れた人ではなく、君の生れつかぬものが僕に恵まれてゐるわけではなかつた。君は時に僕を羨んでゐた。僕が君の古里に安居して、君を他郷に追放した匂もないではなかつた。開発者として遍歴者としての君の便りのないのに、僕は君の懐郷の調べも聞いてゐた。なつかしい、あたたかい、うひうひしい人の、高い雅びの歌も聞いてゐた。感覚、心理、思索、そのやうな触手を閃めかせて霊智の切線を描きながら、しかし君は東方の自然の慈悲に足を濡らしてゐた。君の目差しは痛ましく清いばかりでなく、大らかに和んでもゐて、東方の無をも望み、東方の死をも窺つてゐた。
君は日輪の出現に初めから問題の人、毀誉褒貶の嵐に立ち、検討と解剖とを八方より受けつゝ、流派を興し、時代を画し、歴史を成したが、却てさういふ人が宿命の誤解と訛伝とは君もまぬがれず、君の孤影をいよいよ深めて、君を魂の秘密の底に沈めていつた。西方と戦つた新しい東方の受難者、東方の伝統の新しい悲劇の先駆者、君はそのやうな宿命を負ひ、天に微笑を浮べて去つた。君は終始頭を上げて正面に立ち、鋭角を進んだが、野望も覇図も君が本性ではなく、君は維純敦厚の性、謹廉温慈の人、生涯土の落ちぬ|璞 《あらたま》であつた。君が仁沢が多く後進を育み、君の高風が広く世人に亘り、君が文学者として稀に浄潔和暖の生を貫いたのは、また君の作品中の精神の試案であり設計であるやうな若干にも、清冽の泉に稲妻立ち、高韻の詩に天の産声あつたのは、君の人の美しさであつた。これは君のなき後も僕の生の限り僕を導く。
君に遺された僕のさびしさは君が知つてくれるであらう。君と、最後に会つた時、生死の境にたゆたふやうな君の目差しの無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。さびしさの分る齢を迎へたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。年来の友人の次々と去りゆくにつれて僕の生も消えてゆくのをどうとも出来ないとは、なんといふ事なのであらうか。また今日、文学の真中の柱ともいふべき君を、この国の天寒く年暮るゝ波濤の中に仆す我等の傷手は大きいが、ただもう知友の愛の集まりを柩とした君の霊に、雨過ぎて洗へる如き山の姿を祈つて、僕の弔辞とするほかはないであらうか。
横光君
僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。幸ひ君の遺族に後の憂へはない。
昭和廿三年一月三日」
後日、横光を悼んだ作家たちの言葉を|抜萃《ばつすい》する。
小林秀雄
「横光さんがなくなつたと聞いた時、何とも言へぬ不幸を感じた。胃潰瘍が死病であつた由だが、僕は心の悩みが真の原因であつたとしか思へない」
阿部知二
「善きにつけ悪しきにつけ、揺ぎつづけた昭和の文学の象徴が、彼にあるのかも分らない。(中略)横光利一を批判することは容易だとしても、真にその資格のあるものが、昭和の文学の中にいく人あるのか、といふことは疑はざるを得ない」
河上徹太郎
「横光さんは常に眼醒めた作家だつた」
井伏二
「故人の存在は私に堕落を防ぐブレーキであつた」
稲垣足穂
「横光君! あなたはよく戦つてくれた」
林 房雄
「一つの美しい魂が昇天して、美しい天上の星となつた。横光利一は地上に於ても、少くとも二十年間、文学の若き世代の希望の星であつた。今彼は天上の文学星の一つとして輝きつづけるであらう」
[#改ページ]

織田作、太宰の死
昭和二十二年一月十日午後七時十分、織田作之助は、港区西新橋三丁目の東京病院(現在の東京慈恵会医大附属病院)で息を引きとった。
第三高等学校時代から胸を|患《わずら》っていた織田作は、昭和二十一年十二月五日午前二時、銀座裏の佐々木旅館の二階で、何度目かの激しい|喀血《かつけつ》をした。
「ニクロム線が真赤に焼けた電熱器に当りながら、またしても雑談である。きゃっきゃっと、掛合い漫才だった。その夜は妙に人なつっこく、海老原(光義、岩波書店編集員)や西田(義郎、改造社社員)や青山(光二、作家、三高時代からの親友)を帰さない。海老原らも何か離れ難い。眠気を催した西田はヒロポンを打たれた。『土曜夫人』は一日分余計に出来てあるさかいと、その夜は書かなかった。時どき、作之助は|咳《せ》き入って、電熱器の上に屈み込んだ。ふと、ふらふらと立ったかと思うと、口を手で抑えながら、よろめくように廊下へ出て行った。おい、塩水、と昭子へ短い叫び声。次の六畳へころげ込んだ。血が噴き上げた。血糊の海の中に、うつ伏せに倒れた。ふすまに、血しぶきが上がる。もう十二月五日の午前二時になっていた」(大谷晃一著「生きた愛した書いた――織田作之助伝」)
明け方、織田作が「土曜夫人」を連載していた『読売新聞』文化部次長藤沢逸哉が東京病院の医師猿田春彦を連れて駆けつけた。血だらけの上半身を見た瞬間、猿田はこれは助からないと思った。
「うわ言が続く。アルセーヌ、京吉、木文字章三、唖の娘が通った!(註=「土曜夫人」の登場人物)……」(同前)
菊池寛が見舞いに来た。「作之助の真っ青な顔に、さあっと血がのぼる」(同前)。菊池はつかつかと座敷に入り、|枕許《まくらもと》に坐った。
「君、無理しちゃいかんよ、無理しちゃ」
ハンチングをかぶったまま、叱るように言った。「大事にしたまえよ、若いんだから」と言って帰って行った。
しばらくして林芙美子が見舞いに来たが、この時は織田作は静かに眠っていた。芙美子は見舞いに持って来た大きな|伊予柑《いよかん》をむいて、きれいに筋を取って、織田作の口にふくませた。
十二月十日の朝、織田作は乗用車を改造した寝台車で、東京病院に移された。
「東京病院はいやや、と作之助はごてた。東京という名が気に入らない。(中略)旧兵舎を移築した、ぼろぼろの建物だった。まるで施療病院やないか、こんなところへ押し込められたら気分だけで参ってしまう、佐々木旅館へ帰ろ、と作之助は駄々をこねた。看護婦が持って来た体温計もはさまさず、脈も取らせない。昭子が猿田に頼み、その日のうちに木造モルタルの本館二階に移る。担架をかついだ見習看護婦たちが手荒だと、作之助は担架の上でどなった。死んでまうぜ。この二畳の控え室付きの一等室が、これまた殺風景で汚ない。やっぱり東京はあかん、と作之助は悪態をついた。三日ほどして林芙美子が見舞いに来た。この部屋を見回して、パリの留置場みたいね。元気になってよ、と芙美子が声をかける。作之助はふとんに埋もれて、大阪へ帰りたいがもうあきらめた、とほほえんで見せる。その初々しい笑顔に、芙美子の胸が詰った。一カ月しか持つまいと、彼女は玄関まで送って出た西田にささやいた」(同前)
病状はその後もはかばかしくなかった。
年を越すと、ビタカンフルの注射や酸素吸入が続いた。薬も十分にない頃で、林芙美子の夫の|緑敏《りよくびん》と、『読売新聞』文化部長の原四郎が、ビタカンフルや酸素を探し回って病院にとどけた。
「十日の朝、口から回虫が出た。午後から烈しい喀血が再び始まった。暗くなった。手がばたんとふとんに落ちた。付添い看護婦が作之助の顔をのぞき、ああと声を上げて廊下へ走った。猿田医員がすぐ来た。織田さんしっかり、と言いながら、ビタカンフルを何本も胸に打った。ぱっと目を見開いた。意識ははっきりしていた。かすれた聞き取り難いつぶやきを、昭子は聞いた。思いが残る。猿田は脈を取り続けていた。だんだん呼吸困難になった。作之助は左向きになって、胸をかきむしろうとする。小さい気管支に血が詰る。目のくぼみが一きわ濃くなった。心音が止まった。猿田は懐中電灯を瞳孔に当てた。反射がない。ご臨終です、と拝んだ。昭子はベッドの端にしがみついていた。部屋には猿田と昭子がいたきりである。薄暗い電灯の下の病室は、灰色だった。まくらもふとんも、血で汚れている。血だらけの中の作之助の顔は、ねずみ色に変って行った。肺結核による大量出血のための窒息死である。昭和二十二年一月十日午後七時十分」(同前)
東京病院に近い、西久保巴町の浄土宗の寺天徳寺に、遺体がはこばれ、十一日の夜通夜が行われた。
流行作家の通夜にしては寂しい集りだった。『読売新聞』をはじめ各社の記者、西田、徳田雅彦(文藝春秋)、巖谷大四(鎌倉文庫)、熊井戸立雄(婦人画報)、海老原ら編集者が多く、作家は、太宰治、林芙美子、十返肇、青山光二くらいであった。編集者たちが八方手をつくして集めた|焼 酎《しようちゆう》を、十数人の通夜の客が夜通し|呑《の》んだ。
太宰治が「坂口さんはえらい人だが、今日は来なければいけない」と青山光二に言った。その坂口安吾は、新橋裏の酒場で一人で呑んでいた。「織田作が死んだ」とつぶやきながら。
十二日、西大崎の桐ヶ谷火葬場で|荼《だび》に付され、遺骨は昭子に抱かれて大阪に運ばれた。
一月二十三日午後二時から、|菩提寺楞厳寺《ぼだいじりようごんじ》で葬儀が行われた。葬儀委員長は藤沢桓夫であった。
「多くの|樒《しきみ》が立ちならび、生花が供えられた。盛大であった。本堂の外の人波の中に立つ吉井勇を、長沖一が見つけた。藤沢はあわてて迎えに行った。鼓膜が痛くなるほど寒い日であった」(同前)
昭和二十三年三月六日の夜、菊池寛が狭心症で急死した。
菊池寛は、その一週間前に腹痛を起し、珍しく|病臥《びようが》した。心臓に|宿痾《しゆくあ》を持ってはいたが、元来身体は丈夫な人でめったに病臥することはなかった。とくに腹をこわすというようなことは珍しいことであった。それだけにその|平癒《へいゆ》をことのほか喜んで、一週間目の六日の夜、主治医をはじめ親しい人たちを集めて全快祝いをやった。
好物の寿司などをたべ、皆と談笑しているうちに気分が悪くなり、一人で二階へ上って行った。そして「おい、おい」と夫人を呼んだ。夫人が上って行くと、その手をかたく握りしめ、そのままこと切れた。狭心症を起したのである。発作から死まで十分とかからなかった。
菊池寛は、自分でも心臓の持病をよくわきまえていて、いつその発作で死ぬかもわからないと思っていたらしく、死んだあと、次のような遺書が|文箱《ふばこ》にしまわれているのが発見された。
「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に厚く御礼申します。ただ皇国の隆昌を祈るのみ。
吉月吉日
[#地付き]菊池 寛」
菊池寛らしい簡潔な文章である。最後の一節から見て戦時中に書かれたものと思われる。
十一日が通夜であった。文藝春秋幹部社員をはじめ、久米正雄、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、今日出海、永井龍男、佐多稲子、林芙美子らが、雑司ヶ谷の菊池邸の二階で、夜通し呑みあかした。|流石《さすが》に午前三時頃になると、睡魔におそわれて、こそこそ隣の部屋にごろ寝に行ったものもあったが、小林、河上、今、林(房雄)らは朝まで呑み続けていた。
朝八時頃、黒いトックリセーターを着た林芙美子が、目をこすりながらふらふら現われた。林房雄が「お芙美さんの寝起き姿は可愛いね」と言った。本当に子供のようなあどけなさであった。
十二日午後一時から、音羽の護国寺で葬儀が行われた。
小雨の降る寒い日であったが、参列者はひきもきらず、文壇はもとより、政界、財界等の名士千数百名が参列し、|稀《まれ》に見る盛儀であった。
太宰治と山崎富栄が玉川上水に|入水《じゆすい》、情死をとげたのは、六月十三日の夜半であった。
「六月十三日夜半、太宰治は、伊馬春部氏宛の色紙や出版社宛の遺書等を机上に残し、仏壇の中にはワラビかゼンマイの芽のようでもあり、また両手を下げて水中に立った男女の姿を思わせるような不気味な画をまつって、富栄と共にそっと野川家を抜け出したと想像される。翌十四日正午、不審に思った野川家の主婦が富栄の部屋に入ってみると、本箱の上に二人の写真を並べて飾り、線香一束と馬鈴薯一箇、それにコップに水を入れて供え、他のガラスのコップには白い撫子に似た花がさしてあった」(長篠康一郎著「山崎富栄の生涯――太宰治・その死と真実」以下、引用は同書による)
野川夫人は驚いて飛び出し、三鷹駅前の太宰が行きつけの小料理屋「千草」の|女将《おかみ》を訪ねたがあいにく留守なので、再び家へ戻った。そこへ太宰が「グッド・バイ」を連載していた朝日新聞の末常記者と挿画の吉岡堅二画伯がやって来て大騒ぎとなった。
夕刻、所轄警察署に捜索願いが出された。そして、六日目の六月十九日、井の頭公園の近くの明星学園前の新橋ぎわに二人の死体が浮び上った。太宰は、上下黒サージの背広に白いワイシャツ、富栄は、黒い|錦紗《きんしや》のワンピースを着ていた。太宰の身体は富栄の左胸にきつく抱かれていた。
遺体は検視の後、即日荼に付された。
葬儀は二十一日午後一時から下連雀の自宅で、豊島与志雄が委員長となって行われた。
「太宰治の葬儀は、どうした|理由《わけ》か最初千草で行われることであったらしい。それ故、千草の鶴巻夫妻が急遽準備を整えたところ、また自宅で行うことに変更され、葬儀委員長の豊島氏が鶴巻夫妻に恐縮して謝まるという事態もあったようである。太宰の遺骨は三鷹禅林寺に埋葬されることになり、次の案内状が知人宛に送られた。
前略、先般不幸の際は多大の御配慮を蒙り有難く厚く御礼を申し上げます。就きましては左記の通り埋骨式を営み度く存じますから暑中恐れ入りますが、何卒御くり合せ御列席たまわり度、おしらせ申し上げます。
七月十六日
[#地付き]津島美知子 
一、七月十八日午後二時から
一、三鷹禅林寺に於て」
〈美知子夫人宛と思われる遺書〉
――簡単に解決可――信じ居候 永居するだけ、皆をくるしめ こちらもくるしく かんにんして被下度 子供は凡人にても お叱りなさるまじく
筑摩、新潮 八雲 以上三社にウナ電
(註――線箇所の字句不明)
皆、子供はあまり出来ないようですけど、陽気に育てて下さい あなたを きらいになったから 死ぬのでは無いのです 小説を書くのが いやになったからです みんな いやしい 欲張りばかり 井伏さんは悪人です
〈鶴巻夫妻宛太宰と富栄連名の遺書〉
永いあいだ、いろいろと身近く親切にして下さいました。忘れません。おやじにも世話になった。おまえたち夫婦は、商売をはなれて僕たちにつくして下さった。お金の事は石井に
[#地付き]太宰 治 
泣いたり笑ったり、みんな御存知のこと、末までおふたりとも御身大切に、あとのこと御ねがいいたします。誰もおねがい申し上げるかたがございません。あちらこちらから、いろいろなおひとが、みえると思いますが、いつものように、おとりなし下さいまし。このあいだ、拝借しました着物、まだ水洗いもしてございませんの、おゆるし下さいまし。着物と共にありますお薬りは、胸の病いによいもので、石井さんから太宰さんがお求めになりましたもの、御使用下さいませ。田舎から父母が上京いたしましたら、どうぞ、よろしくおはなし下さいませ。勝手な願いごと、おゆるし下さいませ。
昭和二十三年六月十三日
[#地付き]富 栄 
追伸
お部やに重要なもの、置いてございます。おじさま、奥様、お開けになって、野川さんと御相談下さいまして、暫くのあいだおあずかり下さいまし。それから、父と、姉に、それから、お友達に(ウナ電)お知らせ下さいまし
父 滋賀県神崎郡八日市町二四四 山崎晴弘
姉 神奈川県鎌倉市長谷通り二五六 マ・ソアール美容院 山崎つた
友達
本郷区森川町九〇 加藤郁子
淀橋区戸塚町一ノ四〇四 宮崎晴子
情死の一カ月余前、大宰のところに、太田静子から一通の手紙が届いた。それには太田の住む下曾我の家の庭で写した二枚の写真が入っていた。一枚は池の岩の上に治子を抱いて腰を掛けている写真で、もう一枚は芝生に立って治子を抱いている写真であった。
ところが、あとの一枚の方の静子の顔がハサミで切りとられていた。(それは静子が自分で気に入らないで切ったものであった)
それから二、三日して「太宰治代理」という差出し人で、次のような手紙が静子のところに届いた。
前略 このたび御送付を受けました御写真のうち一枚の、貴女の顔が、切断されていましたことに就きまして、わたしの仕業として太宰さんから、ひどいお叱りを受けました。今後、自分の顔を切断したような写真は、一切お送り下さいませんように、お願いいたします。では、お願いいたします。かしこ、
太田様
[#地付き]太宰治代理 
それから一カ月余後、つまり“太宰|失踪《しつそう》”が新聞に一斉に報道された十四日の夕方、静子は、今度は本名の、次のような手紙を受け取った。
前略 わたし、太田様と修治さんのこと、ずいぶんお尽し致しました。太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。太田様のことは、太宰さんも、お書きになりましたけど、あとのことは、お友達のおかたが、下曾我へおいでになることと存じます。
六月十三日
[#地付き]山崎 富栄 
太田静子様
この「斜陽」のモデル太田静子は、大正二年、滋賀県愛知川町の生れで、太宰の四つ年下である。太田家は代々九州中津藩の御典医をつとめた家柄で、祖父の代に滋賀県に移り、愛知川町に|宏壮《こうそう》な邸宅を構えて医業を続けていた。
静子は愛知高女から東京渋谷の実践女子校専門部に進んだが、この頃から文学に|憧《あこが》れを持ちはじめ、短歌の道にいそしむようになった。昭和九年には短歌芸術社から「衣裳の冬」という歌集を出した。
昭和十三年五月、父が死去したので、一家は東京の大岡山に移った。そのころ静子は、日本郵船で機関長をしていた叔父から、Mという画家との交際をすすめられた。Mはパリ、アントワープ、リヨンなどを転々としながら画業に打ち込んでいた二科系の洋画家で、静子よりは一まわり年上であった。帰日したMと交際がはじまった。Mのゴーギャンを思わせるような野性味と|逞《たくま》しさに静子は|惹《ひ》かれ、Mも、静子の童女のようなナイーヴさが気に入ったが、しかし静子の家族はこの結婚に反対した。生活の面でも、また性情的にも、Mはいかにも不安定に見えたからである。
その時たまたま、弟の武の同僚の、京大出で一流の電機会社の社員との間に縁談がもちあがり、母や兄弟たちはその方に乗り気になった。おとなしい静子は家族の強い希望に負けた。
昭和十三年十二月、静子は結婚して大森馬込に新居を構えたが、この結婚生活は長くは続かなかった。静子は妊娠したが、Mへの思慕が残っており、正直な静子がそのことをふと夫に|洩《もら》したことから、夫婦の仲は急速に冷え、暗い毎日が続いた。
女の子が生れ、満里子と名付けたが一月足らずで死んだ。「私がいけなかったから、この子は死んだんだ、この子は私が死なせてしまったのだ、静子さんは罪の意識にふるえた。もう夫との生活を続けていることはできなかった。静子さんは大岡山の母のもとに帰り、やがて協議離婚した」(野原一夫「回想太宰治」・昭和五十五年三月『新潮』)
離婚した翌年十六年四月、静子は婦人画報社の経営する文学塾に入った。その頃『婦人画報』に太宰治の「ろまん燈籠」が連載されていた。静子はそれを読んで面白いと思った。下の弟の|通《とおる》が太宰治の愛読者で、その弟に|推《すす》められて、その以前にもいくつか読んでいたが、あまり感覚がわかなかった。この作品ではじめて興味をおぼえ、続いて、「道化の華」を読んで胸打たれた。
そして静子は、太宰に、自分の書いた「心の告白」(子供を死なせたこと)という文章をそえて手紙を出した。
それから二人の交際がはじまったのである。清い交際が昭和十八年まで続いたが、それから戦争がはげしくなり、静子は下曾我に、太宰は郷里の津軽に疎開したので、交際は一時絶えた。
昭和二十年十二月六日、静子の母が小田原の病院で死んだ。南方に出征した弟の通もまた帰って来なかった。孤独の|淋《さび》しさに堪えかねた静子は、津軽の生家に疎開していた太宰に葉書を書いた。返事が来た。
「拝復 いつも思つてゐます。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思つてゐました。正直に言はうと思ひます。
お母さんが亡くなつたさうで、お苦しい事と存じます。
いま日本で、仕合せな人は、誰もありませんが、でも、もう少し、何かなつかしい事が無いものかしら。私は二度罹災といふものを経験しました。三鷹はバクダンで、私は首までうまりました。それから甲府へ行つたら、こんどは焼けました。
青森は寒くて、それに、何だかイヤに窮屈で、困つてゐます。恋愛でも仕様かと思つて、或る人を、ひそかに思つてゐたら、十日ばかり経つうちに、ちつとも恋ひしくなくなつて困りました。
旅行の出来ないのは、いちばん困ります。
僕はタバコを一万円ちかく買つて、一文無しになりました。一ばんおいしいタバコを十個だけ、けふ、押入れの棚にかくしました。
一ばんいいひととして、ひつそり命がけで生きてゐて下さい」
こうして再び交際がはじまった。そして太宰は、昭和二十一年十一月十六日、三鷹の旧居に帰り、二十二年二月二十一日、伊豆へ向う途中、下曾我を訪れ、その夜、二人は結ばれた。
その年の十一月十一日、太田治子が生れた。
前にも引用したが、昭和五十五年三月号の『新潮』に一挙三百枚掲載された、野原一夫の「回想太宰治」は、太宰治の死の前後のことを実に鮮やかに描いているので、もう少し借用させてもらう。
山崎富栄は大正八年、東京本郷の生れである。父は山崎晴弘と言って、お茶の水に日本で最初の美容学校を設立した人である。富栄は将来その学校を継ぐことになっていた。少女の頃から徹底的な技術教育を受け、女学校を卒業した後Y・W・C・Aで英会話を修得し、銀座に新設された美容院の経営に当らせられた。
昭和十九年の暮、富栄は、三井物産社員奥名修一と結婚したが、新婚生活十日で夫はマニラに赴任し、現地召集を受け、マニラ東方の戦闘で行方不明になった。
昭和二十年三月の大空襲で、お茶の水の学校も銀座の美容院も焼失した。富栄は両親と共に滋賀県八日市町に疎開した。戦後二十一年の春、義姉と共に鎌倉の長谷で美容院をひらいたが、その年の十一月、三鷹に移り、お茶の水美容学校の卒業生が経営するミタカ美容院に勤め、夜は進駐軍専用のキャバレー内の美容室に働くようになった。
太宰と知り合ったのは、昭和二十二年三月二十七日の夜のことである。同じ職場に働いていた今野貞子という友人から紹介された。
三鷹の町を飲み歩いていた太宰が、屋台か何かで今野と知り合い、そのあと二十七日の夜、屋台のうどん屋で飲んでいたとき、来合せた二人の女性のひとりが今野で、富栄を紹介したのである。今野は太宰のものを愛読していて、弘前高校を出たことも知っていた。今野の兄も太宰と同年の弘前高校卒業生だったのだ。
以来、太宰と富栄の仲は急速に深くなって行った。
ところで三月二十七日と言えば、太田静子が太宰に、懐妊したことを打明けて間もない頃である。
その年の六月頃から、太宰は、三鷹禅林寺の近くの、雑木林にかこまれた閑静なところにある、西山という、富栄の知人の家の一間で、富栄と|同棲《どうせい》をはじめていた。
十一月十五日、太田静子の弟の通が、その部屋を訪れた。姉の静子が女の子を|分娩《ぶんべん》したので、その「認知状」を書いてもらうために来たのであった。
そこに丁度、野原一夫が来合せた。
「十五日の夕刻ちかく富栄さんの部屋に行くと、先客があった。五月の下旬に静子さんと一緒に三鷹に来た男性、弟の通さんだった。
その前後の記憶は不確かなのだが、薄暗い部屋のなかで、小机の前に端座して認知状を書いていたときの太宰さんの横顔だけは、はっきり記憶に残っている。おだやかな、微笑さえ含んでいるような横顔だった。
『   証
[#地付き]太田 治子 
この子は、私の、可愛いい子で、
いつでも父を誇って、
すこやかに育つことを、念じて
いる
昭和二十二年十一月十二日
[#地付き]太宰 治』
十二日とあるのは、その日に治子さんは誕生したのである。
半紙に筆太の字で書かれたそのお墨付きを、太宰さんはさりげなく私に手渡した。私にも証人になれということだったのか。その一字一句は強く私の目を打ち、脳裏に刻み込まれた。お墨付きは富栄さんにも手渡された。富栄さんは、一瞥しただけで、固い表情をしていた。
太田静子さんが太宰さんの子をみごもったということを、富栄さんは知らなかったのだと思う。いや『伊豆の女のひと』は小説『斜陽』の主人公にすぎず、たんにそのひとの日記を借覧しただけのことで、太宰さんとのあいだに愛情関係があろうなどとは、考えてもいなかったにちがいないのだ。ましてそのひとが太宰さんの子どもを生んだとは。青天の霹靂だったろう。
その日の富栄さんの日記には、
『苦しくて、悲しくて、五体の一つ一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられてゆくみたいでした。』
と書かれている。
治子さんの治の字は、津島修治の治をとったのだが、通さんの来訪を受けて咄嗟に思いついたわけではあるまい。生れてくる子に自分の名前の一字を分ち与えようと、はっきり心に決めていたのだろう。その治子という命名も、富栄さんを興奮させたようである。
そのあと、会ったとき、太宰さんは言った。
『いや、ひどかったね。一晩じゅう泣かれてね。なぜ黙っていたんだって。しかしそう言われてもねえ、甚だ陳弁に困るね、それから、治子っていう名前が気に入らない、あなたの大事な名前をあげたのが口惜しいって、目を吊り上げるんだよ。だから、お前にはまだ修の字が残っているじゃないか、修子、修一郎、修介、いや、修介なんて、なかなか悪くない名前だ、男らしくて、品があって、俺も修介っていう名前だったらよかった。そしたらすこし機嫌が直ってね、私もどうしてもあなたの子どもを生むっていうんだよ。ぎょっとしたね。このうえ、できたら、首括りだ。』
そう言って、太宰さんは唇をまげた」
昭和二十三年六月十四日、太宰治と山崎富栄が行方不明となり、十九日に玉川上水で二人の遺体が発見されるまでの状況を、野原一夫は実に鮮明に描いているが、その後半を、要点だけ引用させてもらう。
「捜索本部のようなものが千草におかれた。中心になっていたのは、豊島与志雄氏、井伏二氏、亀井勝一郎氏、伊馬春部氏ら先輩友人の人たち、筑摩書房の古田晁氏、竹之内静雄氏、新潮社の斎藤十一氏、八雲書店の中村梧一郎氏ら出版関係の人たち、それと、三鷹警察署と東京都水道局からも人が来ていたはずである。
玉川上水は東京都民のための水道用水であり、東京都水道局が管轄していた。水道局としてはさぞ迷惑なことだったろう。
ある新聞は、都民の飲む水道の用水に、青酸加里をのんで飛び込むとはなんたる非常識であるかという記事をのせた。
雨が本降りになったのは、十五日の昼すぎからではなかったか。梅雨時で増水していた上水の流れはみるみる膨らみ、水勢も強さを増した。ただでさえ困難とされていた死体捜索は、絶望的と思われた。捜索本部では、筑摩書房の竹之内静雄氏がその折衝に当ったかと思うが、上流の武蔵境浄水場の内扉を加減して減水をしてくれるよう水道局に頼み込んだ。水道局がこの異例の処置をとってくれたのは、太宰治の“心中”がトップ記事として新聞に大きく報道され、社会問題となっていたためかもしれない。都民が毎日飲む水道の水である。よほど特別なことがなければ減水はできなかったにちがいない。だから、この減水処置も、十六日早朝から四日間だったか、十七日早朝から三日間だったか、期限がきられていた。(中略)
太宰さんと富栄さんの遺体は、その十九日の早朝、六時五十分に、通行人によって発見された。万助橋の下流約六百メートルのあたりに、新橋という小さな橋がかかっている。橋を渡りかかった通行人が、下流十メートルほどの水面に、揺れている二人の遺体を発見した。その人は万助橋交番に急報し、交番の巡査は千草にそれを知らせた。千草のおじさんとおばさんは巡査と一緒に現場に走った。おじさんは、用意してあったシートを小脇にかかえて走った。(中略)
私たちは土堤の道を走った。道はひどくぬかるんでいて、はねが膝まであがった。辷ってころびそうになりながら、私たちは走った。
井の頭公園の裏手を抜けると、川は次第に低く深くなってきた。小さな橋の横を過ぎると、雨にけぶった前方の土堤の上に、人影がいくつか見えた。通りすがりの人たちのようだった。その真下、五、六メートルのところの水際に何人かの人が働いており、そして、はげしい勢いで流れているその中流に、杭にでもひっかかっているのか、太宰さんと富栄さんが折り重なって揺れていた。川幅三メートルもあったろうか。
私たちはそこに走り寄った。目の下の、水が打ち寄せるあたりに、わずかばかりの平らな赤さの地面があり、そこに、千草のおじさんと、人夫らしい人が何人かいて、死体を岸に引き寄せようとしていた。私たちは土堤の雑草を辷りおりて、その地面に立った。すぐ目の前に太宰さんと富栄さんがいて、流れのまにまに浮きつ沈みつしていた。太宰さんが上におおいかぶさるようになってワイシャツの背中を見せ、その下に富栄さんがいた。(中略)
水際の、わずかばかりの地面に、抱きかかえるようにして遺体を引揚げるとき、噎せるほどの異様な臭いが鼻をついた。それは、形容出来ないような、異様な臭いだった。膨れあがって白くふやけた遺体は、指先がめりこむほどで、こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。私たちは遺体をおじさんが用意したシートの上にねかせ、蓆をかけた。その遺体は――いや、遺体についてこれ以上記述することは遠慮しよう。ただ、ふたりのからだが、腰のところで、赤い紐でしっかりと結ばれていたことだけを言っておこう。(中略)
太宰さんと富栄さんの検視は、千草の土間で行われた。豊島与志雄氏、井伏二氏、亀井勝一郎氏、今官一氏、山岸外史氏らが、土間から一段高くなった座敷のへりに一列に並んだ。私は土間の隅にいたのだが、葬儀委員長をお引き受けになったばかりの豊島先生から呼ばれた。
『野原くん、きみが立ち合いなさい。』
豊島先生は、きびしい顔付きでそう言った。(中略)
私は息をつめてその顔に見入った。その死顔は、じつにおだやかだった。おどろくほど、おだやかだった。深い静かな眠りに入っているように瞼をとじ、口をこころもちあけ、その口もとには、そう、たしかに、ほのかな微笑がうかんでいた。あるかなきかのかすかな微笑が、うかんでいた。
生前にも、こんなおだやかな、安心しきったような太宰さんの顔を、私は見たことがなかった」
そして、「附記」として、太宰治が、富栄によって首を細紐でしめられ、そのあとで、玉川上水に引き入れられたという風説を強く否定し、次のように結んでいる。
「断じて、そのような痕跡はなかった。私はすぐ間近かで、検視医と同じくらいの間近かさで、太宰さんに見入っていたが、その首筋には、締められた痕跡など、断じてなかったのである」
[#改ページ]

老いらくの恋
昭和二十三年十一月三十日、川田順が、新村出、吉井勇、谷崎潤一郎、富田砕花ら旧友たちに、歌稿や遺書を送って、京都北白川小倉町の自宅から|失踪《しつそう》した。
川田は家を出ると左京区の岡崎真如堂に身を寄せ、そこで自殺を企てようとしたが、養嗣子周雄(京大医専英語教授)らに発見され、自宅へ連れもどされた。
川田順が死を決意したのは、三年程前から続いていて、歌の弟子で、京大教授中川与之助の妻俊子との恋愛事件で、道ならぬ恋に、自責の念にかられたためである。
川田はそれより十年前、妻に死別しており、孤独な日々を送っていたが、かつて、「吉野朝の悲歌」「幕末愛国歌」などを著わして、純情、愛国の歌人とうたわれた川田は、終戦後筆を擲って、苦しい生活を守り続けていた。そんな時、ふと心にふれたのが、歌の弟子俊子である。二人の間に恋の炎が急激にもえ上った。
若き日の恋は、はにかみて
おもてを赤らめ、壮子時の
四十歳の恋は、世の中に
かれこれ心|配《くば》れども
墓場に近き、老いらくの
恋は怖るゝ何ものもなし
〈中略〉
蚊帳を吊つて寝た頃は
冬の夜よりもなまめかしい
あの時に鳴いたこほろぎ
聴きたまへ、まだ鳴いてゐる
さは見給ふな恥しと
袖もてかくすその顔を
眼のあるかぎりわれは見ん
手のあるかぎり脈に触れん
脚あるかぎり通ひ来ん
いのちあるかぎり君を恋せん
これは六十五歳の川田が、四十歳の俊子におくった、壮者をしのぐような、青春の息吹きただよう恋歌「恋の重荷」の序章と、終りの二章である。
俊子もまた、
命こめて作らむものを歌に寄せし
この吾心君によりゆく
という歌を送っている。
中川与之助と俊子との間はうまくいっていなかった。学者肌で知的な夫に対して、どちらかと言えば情熱的で肉感的な俊子は、あきたらなかった。二人の間には長く関係が絶たれていた。女盛りの、小づくりながら豊満な肉体の、輝く|明眸《めいぼう》の持主である俊子は、師のはげしい恋情に、人妻故のなげきをかこちもだえながら、強く|惹《ひ》かれていった。
人目をしのんで、二人は時々街で会った。
「映画を見ましょう」と俊子が言うと、
「人目につくよ」と川田があたりを気づかった。
「今さらそんなこと、かまいません」と、俊子の方がきっぱり言った。
二人は朝日会館へ入っていった。映画は「ヘンリー五世」をやっていた。
そんな日が続いた。
一度は死を決した川田順が、遺稿として吉井勇に送った恋の歌は、百二十首もあった。
三人の子の母である俊子は、やがて夫と別れ、川田と二人で長年すみなれた京都の地を去って、|国府津《こうず》の近くの|仮寓《かぐう》に愛の巣をかまえた。その後、辻堂駅から海岸へ七、八丁、松林の緑にかこまれた中の、潮の香をふくんだ風の|匂《にお》うようなところに家を持ち、「沙上亭」と名づけて、平和な日を送るようになった。中川との了解もついて、長男と次女を引きとった。
「私はこの二人の子を立派に育てるのが、中川氏へのお|詫《わ》びだと思っている」
と、川田は|訪《おとな》う人に語った。
まるで連鎖反応のように、もう一人“老いらくの恋”でジャーナリズムを賑わした人がいる。それは漢学者塩谷温である。
「漢和大辞典」の編者として知られる文学博士塩谷温はその時七十二歳、恋人の長谷川菊乃は三十六歳である。
二人の恋はそれより十七年前にさかのぼる。
長谷川菊乃は、新潟県長岡市の芸者であった。昭和七、八年頃、塩谷温が講演旅行で長岡を訪れた時知合った。当時五十五歳と十九歳であった。その時塩谷は即興の漢詩を色紙に書いて菊乃におくった。
その後菊乃はある男と結婚したが、折合いが悪く、二十九歳の時、七年間の結婚生活を清算して、着のみ着のままで東京に出て来た。その時、塩谷のくれた色紙だけは肌身はなさず持っていた。
やがて菊乃は東京駅前の料理屋の女中になった。その料理屋に、ある日塩谷の知人が訪れた。菊乃が係の女中だった。その店には塩谷の書が飾ってあった。ふとしたことから塩谷の話になり、
「わたくし、塩谷先生の色紙を持っております」と、菊乃が言った。事情を聴いたその人は、早速塩谷にそのことを告げた。
十七年ぶりの再会となった。
塩谷は、菊乃が胸をはずませながら差出したなつかしい色紙の裏に、「十有七春秋云々」と、「|長恨歌《ちようごんか》」の一節をしたためた。
昭和二十四年一月、七十二歳と三十六歳の二人は結婚した。
ところがそれから二年目の夏に悲しい出来事がおこった。それが新聞の社会面に大きく報じられた。
昭和二十六年七月三十日のことである。
塩谷温と菊乃は結婚後小田原に新居をかまえていたが、その日も、いつものように|夕凪《ゆうなぎ》の荒久海岸を二人で散歩した。
あとになり、さきになり、歩いていたが、その日の二人は、どちらかと言えばふさぎがちであった。そこに何があったかは、塩谷温以外は知らないことであった。
最後に、菊乃の方があとになった。塩谷は杖に身をたくしながら、いくらか早足に歩いていた。
ふと、不吉な予感がしたように、塩谷温は立止って振りかえった。しかし、そこには菊乃の姿はなかった。
もうあたりはたそがれていて、視界はあまりきかなかった。
「菊乃!」
塩谷は大声で叫んだ。返事はなかった。塩谷はこころもとない足どりで、|渚《なぎさ》をかけもどった。しかし、どこにも菊乃の姿は見えなかった。
漁師たちも一緒にさがした。そして、やがて、遠くはなれた波打際に、菊乃の下駄がそろって置いてあった。
菊乃は、塩谷をやりすごして、逆もどりをし、|夕闇《ゆうやみ》の海に身を投じたのである。
塩谷は、菊乃の霊に次のような一文を捧げた。
「ああ、菊乃、どうしてお前はこんな姿になつたのだ。いまお前の棺の前に立つても、再びあの美しい顔を見ることは出来ない。声もきけない。しかし一度眼をつむれば、やさしいお前の面影が浮んで来る。私は永久にお前を愛するだらう。二人が小田原で送つた、たのしい一年半の生活。愛し合ひ、信じ合ひ、天国のやうな生活だつた。
私はお前が入水したなどとは、どうしても考へられない。世間から投身自殺などと言はれては、お前も浮ばれないだらう。生前の知己がかうして集つてお前を送つてくれてゐる。お前は幸福だ。私もやがて後から行く。待つてくれ。それではさやうなら」
あやまって波にさらわれたのか、夕闇のために海の深みに落ち込んだのか、それにしては、波は静かだったし、第一下駄がそろっていたというのがおかしい。
近所の人の話によると、この頃はよく口争いをしていたという。
「あなたは、日本一の学者かも知れないけど、世間学はゼロだわ、こんなところにいるものですか。海で死んでやる」と菊乃が口ぎたなく叫んでいたのを聞いた人もいる。また、ごはんのこげるのも気づかず、ふぬけのようにぼんやりしていたこともあったという。
「七十二歳の老人では肉体的に無理だろう。一方は三十六歳の女盛り。初めから不自然。やるのは勝手だが、古風な知性だけではむずかしい」
これはこの事件に対する丹羽文雄の感想である。
永井荷風の新作戯曲「停電の夜の出来事」が、浅草大都劇場で上演されはじめたのは、昭和二十四年四月二十五日である。戦後初めて荷風の作品が舞台の脚光を浴びることになったもので、大劇場をしりめに、まず浅草に、しかも書き下ろし戯曲を上演させたところが荷風の荷風たる|所以《ゆえん》だが、これにはちょっとばかりわけがある。
終戦後、荷風はもっぱら浅草通いをつづけていた。そしてこの頃は、浅草の軽演劇や、ストリップを見てまわり、大都劇場やロック座の楽屋にも訪れるようになっていた。
そこには桜むつ子や高杉由美といったスターがいた。そして荷風と桜むつ子との間にとかくの|噂《うわさ》が流れた。
この荷風とむつ子との「老いらくの恋」(?)については、大都劇場の、俳優森八郎が言っている。
「全然デマですよ。先生は女優や踊り子たちの生態をじっと観察しているだけで、第一性的能力がなくなっていますよ」
荷風自身も、中央公論の嶋中鵬二との対談で、
「もう、その方はおしまいですよ」と言っている。
同じ頃荷風は夜の銀座にもよく出て来ていた。西銀座の「マンハッタン」というバーによく姿を現わした。そこには塩沢くるみという、眼のぱっちりした|艶《つや》っぽい女の子がいた。荷風はその|女《こ》がひいきで、スタンドでいつもならんで|呑《の》んでいた。荷風は軽いジンフィズのようなものを呑み、くるみはハイボールを呑んでいた。
或る日、荷風は、やおらポケットから四ツ折りのアート紙の印刷物を出してひろげて見せた。見せながら、二、三本のこったきたない前歯をむき出しにして、にやにや笑った。
それは、当時アメリカから渡来した電気|張形《はりかた》の模型を書いた宣伝パンフレットであった。
七十を越えた荷風が、二十そこそこの小娘に、電気張形の説明をしている図というものは、見方によっては、女の欲情を|煽《あお》っているようにも思われ、また「ボクはもうだめだから、これで我慢しろ」と言っているようにも見え、何とも奇妙な光景であった。
女はべつにいやらしい顔もせず、荷風と一緒に大声で笑って、|頬《ほお》をすりよせたりしていた。
森八郎の説が正しいか、それとも、荷風一流の「自己|隠蔽《いんぺい》」作戦か。
桜むつ子との噂の時にも、荷風は、新聞記者のインタビューに、
「愛人? ハハハハ……ま、……ご想像におまかせしましょう。利口な娘とは言えますね」と答えている。またむつ子は、
「恋人と違うの?」という問いに、ただ、「ウッフン」と笑っている。
荷風は生来用心深く生きて来た人であり、およそ自分の重荷になること、後にわずらわしさの残るようなことには、臆病なほど細心の注意をはらう人で、対女性との関係でも、昔から世俗的にはまことに薄情で、わりきったところがあった。
昭和二十八年のことだが、荷風の「春情鳩の街」が映画になる話があった。荷風はこの自作の主人公に、マンハッタンの塩沢くるみを|抜擢《ばつてき》してやろうとした。くるみは|有頂天《うちようてん》になって喜んだ。
そしてある日、お礼の気持もあって、くるみは靴下を手土産に持って市川の荷風の家を訪れた。
例によって、荷風の家は、雨戸が一、二枚開いているだけで、裸電球のついた薄暗い部屋には、|蒲団《ふとん》が敷きっぱなしになっていた。
くるみはシャキシャキした娘だから、「あら先生、きたならしいわね、お掃除してあげるわ」と言って、どんどん雨戸を開けはじめた。そのとたんに、
「きみ! 帰りたまえ!」と荷風が怒鳴った。くるみはちぢみあがった。イタリア映画の名作「道」のジェルソミーナのような顔をしてくるみはすごすごと帰って行った。
「男は一回すむと、三十分はつかいものにならないのに、女はそのままつかえる。こんな不合理なことはないよ」
ある日、呑み屋で酒がまわって来た時、鋭角的でニヒルな顔をした豊島与志雄が、鼻にかかった不気味な笑いをまじえて、ぽつりと言った。まわりにいた呑み仲間が一瞬びっくりしたような顔をした。
ちょうどその頃、豊島与志雄と、|或《あ》る軍人の未亡人(|巫女《みこ》さんと呼ばれていた)との仲が、友人達の間で噂になっていた。
豊島は昭和五年に愛妻芳子を亡くしてからずっとやもめだった。荷風や川田順より七つ八つ下だが六十はもう越していた。残りの火が燃えはじめたというわけだ。だから豊島がふともらしたせりふに、仲間は、老いてなおさかんの豊島の情熱をのぞき見た思いでびっくりしたのだ。
豊島はこの未亡人と、はじめのうちは家の近所の呑み屋で待ち合わせ、例によって酔っぱらってろれつがまわらなくなった頃、
「もうおよしなさい」と、たしなめられ、その女の肩にもたれるようにして、家路についていた。
豊島が眼底出血したのは、死ぬ二、三年前だった。それでも彼は酒をやめなかった。
しかしこの頃、彼女を正式に迎えた。そして相変らずその酌で、たしなめられながらも呑んでいた。
酒ばかり呑んで、印税をみんなつかってしまう豊島を心配して、親友の辰野|隆《ゆたか》や鈴木信太郎が、
「あれに金を持たせておいたら、みんな呑んでしまうから、俺たちで管理しよう」と言って、準禁治産者のようにした。
ところが、昭和三十年六月十八日、豊島与志雄が死んだ時、ちゃんと遺族に分配するだけの貯金通帳が出て来た。辰野も鈴木も|唖然《あぜん》とした。
豊島与志雄は、晩年、消えかけていた残んの|焔《ほのお》が一時に燃えさかって、楽しい時を送って死んでいったのである。六十五歳であった。
[#改ページ]

芥川賞・直木賞の復活
昭和二十四年六月二十五日、戦後復活第一回(通算二十一回)の芥川賞・直木賞の選考委員会が、開かれた。
選考委員は、芥川賞が、宇野浩二、川端康成、岸田國士、佐藤春夫、滝井孝作(以上戦前からの委員)、石川達三、坂口安吾、丹羽文雄、舟橋聖一(以上新委員)。直木賞が、井伏二、大仏次郎、久米正雄、小島政二郎、獅子文六(以上戦前からの委員)、川口松太郎、木々高太郎(以上新委員)。
芥川賞の方は、ちょっとした波乱があった。新旧委員の間に選考基準についてまず意見の相違があった。
新委員の坂口安吾は、「三島由紀夫までは、既に既成作家と認めて授賞の対象としない」と主張し、丹羽文雄は「芥川賞のわくを半分でもこわして新しい方向に進めたい」と言った。
旧委員たちが、芸術性を尊んで、通俗性を排することで芥川賞の面目を保とうとするのに対して、新委員は、戦後文学の現状に出発して、芸術味に通俗性を加味して、芸術性の解釈を拡大しようとした。
そして最終的には、由起しげ子「本の話」、小谷剛「確証」の二作が選ばれたが、実は委員の意見はまちまちであった。
最も厳しい意見は、宇野浩二の「芥川賞に値しない」というのと石川達三の「受賞作なし、次点二人」である。宇野は「あんまりひどい……一篇も、芥川賞に値するものがない」と言い、石川は「今回は当選作なしという事に一度はきまったのであるが、事務局の方は是非授賞をしたいという話で、ついに投票できめることにした」と「選評」に書いている。宇野も「選考委員たちの意見を左右して(は言いすぎとして)『文藝春秋』の係りのほうで、きめるようにする傾向(『傾向』である)がある」と皮肉っている。
結局、投票の結果、「本の話」が十五点、「雪明り」(光永鉄夫)が七点、その他五、六点以下となった。
選考委員が九名なのに「本の話」が十五点という最高点を獲得したのは、第一候補三点、第二候補二点、第三候補一点という評点方法による投票であったからだ。
「雪明り」を強く推したのは佐藤と滝井であった。舟橋は滝井に対抗して「確証」を推した。佐藤は、「本の話」と「雪明り」の二篇がきまる場合には「あまりに時代感覚がずれている」ということで、最も支持した「雪明り」を撤回した。
こうして「本の話」が選ばれたのだが、その選評を見ると、ほとんどがほめてはいない。
「可もなく不可もない作風……私はまだ、由起しげ子の取り澄ましたような気品は、信用しない」(舟橋)
「『本の話』は、技術的な苦しみを経ていない。小説としては非常に脆いところのあるものだが、女性として豊かに成長した精神の一記録としてみれば、なによりも清潔な文章」(岸田國士)
「前半が実に良い。しかし後半になってまるで退屈」(石川達三)
「とりたてて良い作品とは言えない……無難であることが唯一の長所のような扱いをうける……期待はかけていない」(丹羽文雄)
「出て来る人物たちが、みな、概念的で、あやふやであり、それに、『私』という主人公のやさしい気もちも(ところどころ、気どった書き方で、述べられてあるのは、ちょっとは、おもしろいが、いやみでもあり)『ひとりよがり』のところがある」(宇野浩二)
積極的に推したのは次の三人だけである。
「私は由起しげ子氏の『本の話』を推した。由起氏一人を賞にしていいという意見であった」(川端康成)
「底に光りかがやくものがある。……若手ながら『天才』が感じられたのは、この作家一人であった」(坂口安吾)
「善良な人柄の美しさが、ゆったりした明るい上品さで出ていた。教養と人柄との持ち味で出来た作品」(滝井孝作)
これに対して、受賞者の由起しげ子は、腹の虫がおさまらなかったらしく、
「由来『審査員』というものはセザンヌを終生落選させたという光栄ある歴史をもっているものであるから、『本の話』に間違って授賞したなどということは、とるにたらぬことであろうが、折角、権威ありといわれる芥川賞のためにも、今後はもうすこし確信のある審査をし、賞をほしがったり頼みこんだわけでもない|むこ《ヽヽ》の人を無用に追ったり辱かしめたりしない方がよかろう、と思うがどうであろうか」と、痛烈に皮肉った。
これに対して不満の舟橋、石川、丹羽らが「確証」を推し、宇野、佐藤がしぶしぶ同調し、坂口も、対照的な「悪達者な才筆」として同調し、川端、岸田、滝井の反対を押し切って、評点とは別に浮びあがって授賞されたのであった。
直木賞の方は、必ずしも新人発掘ということにこだわらず、「押しも押されもしない作家で、日本の大衆文芸の野に新生面を拓き、もしくは拓こうとしているもの」にまで間口を拡げ、「職業作家として大成する作風が前提条件」という第一回以来の原則が再確認され、すんなりと、既に「姿三四郎」で世に認められていた富田常雄が「面」「刺青」の二作によって受賞した。
[#改ページ]

田中英光、原民喜の自殺
昭和二十四年十一月三日、田中英光が、三鷹禅林寺の太宰治の墓の前で、アドルムを多量に飲み、左手首の動脈を安全カミソリの刃で切って自殺をとげた。
戦前「オリンポスの果実」という美しい青春小説を書いて「池谷信三郎賞」を受けた田中英光の戦後の生き方は、正に捨て身であった。彼は太宰治に|私淑《ししゆく》傾倒していた。
英光は、戦争中、伊豆の三津浜に疎開していたが、終戦と共に、おさえつけられていた何ものかが爆発するように、奔放な、デタラメな生活に入っていった。文学的な行きづまりに悩み、思想的にも|煩悶《はんもん》していた。一時、共産党に入党したが、一年たらずで脱党した。これはしかし太宰治によると、当時静岡県に住んでいた英光は、静岡県共産党の本部に、故若山牧水の娘が働いていて、その娘が美しかったので、毎週一回、娘が顔を出す日だけいそいそと党本部へ出かけて行ったので、「英光が共産党に入ったのはひとえに女性に会うためさ」と言っていた。
英光と言う男は酔っぱらうと、まったく手がつけられなくなった。
亀井勝一郎がその酔態ぶりを次のように書いている。
「或る日、やはり太宰の家で、山岸外史と、私と、そこへ英光が来て、四人で飲んで大いに酔って、夜ふけの道を帰ることになった。太宰も送って来たが、ちょうど玉川上水のほとりを歩いているとき、偶然山本有三氏の邸宅の前を通った。『これが山本有三の家だよ』と、誰かが言うと、英光は『よし、生意気な奴だ』と言って、いきなり山本邸の門柱を片腕で抜き、それを玉川上水の中にどぶんと放りこんだ。
あきれていると、今度は街道へ出て、バスの停留所の標識を、両手でもちあげるなり、三十メートルも先においてくる始末で、太宰と山岸と私の三人がそれをもとの位置にもどすために、汗だくになったこともあった。とにかく大へんな力もちである。酔ったら最後、何を仕出すかわからないのである」(『オール讀物』昭和三十八年七月)
このバスの標識を持ち上げるのは英光のくせであった。英光は六尺豊かの大男で二十貫以上あった。
大男の英光は、ふだんはひどく気が小さく、虫も殺せないような男だった。それだからこそ、大酒を飲み、ヒロポンを打ち、アドルムを飲み、やけくその生活をしていたのであった。それは太宰が死んでから一層ひどくなった。
英光は妻と四人の子を捨てて、自堕落な生活に入っていった。ひどいアドルム中毒になって新宿の花街を|彷徨《ほうこう》した。ある夜、新宿でめぐり合った夜の女山崎啓子(太宰の情人と同姓なのも因縁か)と夜も昼もないただれた生活をしていた。
酒乱のはて、アドルム、ヒロポンの発作もあって、英光は、真夜中、突然、山崎啓子の下腹部を短刀で突刺した。半狂乱の状態で精神病院に入れられた。
しかし啓子は、傷もようやく|癒《い》えた頃、ある新聞記者にこう語った。
「私は刺されて本当のあの人の愛情がわかった。今こそ私は生きかえった。そして可哀そうなあの人を私の手で抱きしめて、もう誰にも渡さない」
そのとおり、英光は二カ月後に退院して、啓子の胸に戻った。それから英光は、再び啓子の火のような情熱に|溺《おぼ》れながら、一方、何かに|憑《つ》かれたようにうつろな顔をしていることが多かった。がむしゃらに仕事に没入することもあった。この間に書いたのが、「愛と憎しみの傷に」(別冊『人間』昭和二十三年)で、これは啓子を刺した時の心境を描いたものであった。
次に書いたのが、太宰の「グッド・バイ」を日本語にしたような「さようなら」であった。
「『再会』とか『また逢う日まで』とか、外国語の別れの言葉は、どれも明るく健康だが、日本語の『さようなら』だけは、なぜか敗北的な無常感に貫かれた、いかにもあっさり死の世界を選ぶ、諦念にみちた別れの言葉だ。彼はこうした思想のもとに、要するに自分の生活における別れの自叙伝を書いた。それが『さようなら』である。父母と別れた少年期から現在までの、様々の別れを描き、最後に、自分の復活、再生を希望しながら、その日まで『さようなら』と言って作品は終っている」(亀井勝一郎・同前)
そうして、英光は、太宰の墓前で、この世に「さようなら」をした。
「彼の告別式に参列した人は思い出すだろうが、仏壇の上に骨壺が二つ並んでいた。最初は誰かと心中したのかと思ったが、実は身体が大きかったため、遺骨は一つの壺ではまにあわなかったためである」(亀井・同前)
昭和二十六年一月二十一日午前零時五十五分、宮本百合子がまったく突然に死んだ。
「十九日発病の日は、午後ある民主団体の婦人と二、三時間熱心に話し、夜はこたつで十二時まで『道標』の手入れを頑張って遂に終了している。仕事を終えたとき、『悪感』がして着物を頭からかぶって寒がり、あまいココアを飲み、床にはいったが、翌朝、七時頃よく眠れなかったといってユタンポを二つ入れてもらって十時頃まで眠り、おきたときは九度八分の発熱となっていた。午後三時頃から脇腹の苦痛、四時頃からだのところどころに紫斑を発見、八時頃からの意識不明――午前一時ごろ呼吸がとまる、……」(宮本顕治「百合子追想」)
発病から死までわずか一日というあわただしさであった。
遺体は伝染病研究所の病理解剖教室で、草野信男教授によって解剖された。動脈硬化も|殆《ほとん》どなく、肺も健康で、ただ熱射病で卒倒したあとを示す痕跡が脳の中に残っていた。心臓は肥大していたが病変はなく、|胆嚢《たんのう》に多数の小さい結石があったが致命的なものではなく、敗血症を起さなければ、今後なお長く仕事が出来るような状態だった。
一月二十五日午後一時から、葬儀は、小石川林町の自宅で盛大に行われた。
その日は大寒に続く晴れた寒気のきびしい日であった。定刻前から会葬者がぞくぞくと集まり、広い中庭に入りきれず、道路にまであふれた。千名を越える会葬者であった。
赤旗に包まれた百合子の|柩《ひつぎ》は、百合子が好きだった色とりどりの、沢山の花々に囲まれていた。
「同志は|斃《たお》れぬ」の奏楽で、告別式は始められた。葬儀執行総務・中野重治、司会・田フキ、副司会・松本正雄で、江口渙の|挨拶《あいさつ》、佐藤俊次の死に至るまでの経過並に解剖所見報告、蔵原惟人の「故人の生涯と業績」、原泉の「播州平野」の一節の朗読、野上弥生子、佐多稲子、中野重治の「故人の思い出」があり、最後に宮本顕治が挨拶したが、
「……わたくし共は、結婚後二カ月で同じ家に住めなくなり、わたくしが獄にはいりましてからは十二年間はなれておりました。その間のひどい不自由とたびたびの重い病気の中で、わたくしが辛うじて生きてきたのは実に百合子の骨折のためでありました……」というところまで来ると声をつまらせ、ハンカチであふれ出る涙をぬぐった。参列者の間からこらえきれぬ|嗚咽《おえつ》の声が次第にひろがっていった。
遺骨は、都下小平霊園、東京青山の中条家墓地、山口県島田の宮本家墓地に分骨埋葬された。(この項、中村智子「宮本百合子」によるところが多い)
その年の三月十三日午後十一時三十一分、原民喜が、中央線西荻窪と吉祥寺との間の線路に身を横たえて、自らその生命を絶った。
「島(註=原民喜)が線路に俯伏せに倒れてゐるのを発見して、電車は警笛を鳴らしたが、間に合はず、そのまゝ五十メートル程ひきずつて、急停車をした。後頭部を砕かれ、腰を|轢《ひ》かれ、片方の脚を切断されて、即死した。翌朝九時に検屍が来て、線路の脇に置かれてあつた屍体を検べた時、まだアルコールの臭ひがしたさうである」(丸岡明「贋きりすと」)
原民喜は徹底した無口であった。中学校から大学にかけて、ほとんどまったくと言っていい程同級生と口をきいたことがなかった。
その原民喜は、八月六日、郷里広島で原爆に遭遇した。以来、一層何かものに|怯《おび》え、人に怯えるようになった。
「……以来、島の体には死臭がしみ、島の眼には凍つた焔がひらめいた。
人と会話することが極端に嫌ひで、動作の総べてが、極度に不器用で、何時も顔を体より前に突き出して、両手をぶらぶらさせながら、靴をひきずつて歩く島が、そのやうな使命を背負はされたとなると、それは普通人の二倍三倍の苦しみであつた」(同前)
丸岡明の所に原民喜が訪れたのは終戦の翌年、昭和二十一年の五月であった。丸岡はその頃弟大二らと「能楽社」(後に能楽書林)という出版社をやっていて、その事務所が、神田神保町のビル(現在は有精堂)の三階にあった。そこは『三田文学』の編集室でもあった。
原は灰色の鳥打帽をかぶり、国民服を染めおしたこげ茶色の|詰襟《つめえり》の服を着て、肩からズックの兵隊用|雑嚢《ざつのう》をさげ、兵隊靴をはいていた。
丸岡と原とは、慶応大学で同じ頃学んでいて顔見知りではあったが、別に親しくしていたわけではなかった。
原は妻に死なれ(原爆の九カ月前に結核で死んだ)、兄弟と折合いが悪く、単身上京して、中野の「|懶《なま》け者の無能な闇屋や、根性のけちなかつぱらひなどが、巣喰つてゐた」(同前)ぼろぼろのアパートに住んでいた。しかも原の入った部屋にはまだゆき先のきまらない先住者の老婆が一緒に住んでいた。
丸岡は、明日からもう生活に困る原を、『三田文学』の編集員という形にして、手当を出し、来てもらうことにしたが、原は電話が嫌い、ひとと口をきくのが駄目というわけで、挨拶するでもなく、スーッと部屋に入って来ると、ほんの二、三分机に向っているかと思うと、いつの間にか姿を消してしまうというありさまだった。
それでも人のいい丸岡は、よく原のめんどうを見た。翌年の冬に丸岡は、九段下に事務所を移し、自分たち夫婦はその二階に住み、原を階下の奥の六畳に住まわせた。
二年間原はそこに住んでいたが、丸岡とはともかく、丸岡の妻の美耶子とは一言も口をきいたことがなかった。
朝起きると、原は台所のドアを半分ほど開けて、そこから細い白い手をぬーっと出した。美耶子は、はじめぞっとしたが、それは顔を洗う湯をくれということであった。美耶子は|辟易《へきえき》して、食事の世話だけはかんべんしてくれと言い、原は外食券食堂に通った。
原は大変な|癇性《かんしよう》で、きたないものにふれることが嫌いで、シャツでもパンツでも、よごれるとそのまま丸めて廊下の隅にほっぽっておいた。ところがそんなよごれものをちゃんと洗ってくれる女性がいた。それは当時『三田文学』の編集部にいたSという女性で、Sは原にひどく同情して、何くれとなく身のまわりの世話を焼いた。
原は容姿端麗だったので、不思議に女性にはもてた。ただそれは、あくまで「あわれまれる」のであって、|惚《ほ》れられるのとはちょっと違っていた。原はそれをちょっと誤解するむきもあった。
もう一人Y子という少女がいた。この少女は貿易会社のタイピストで、原の住む事務所の近所に家があった。ある日少女が近所の道ばたで鶏にえさをやっていた。それを見た原が何か話しかけた。いつの間にか少女は原の部屋の窓ガラスをこつこつと|叩《たた》いて、訪ねて来るようになった。本を借りに来たり、また、原をなぐさめるために|僅《わず》かな夜食を運んで来たりした。美しい交際が長く続いた。
原は大変な酒豪であった。|呑《の》んでもけろっとしていた。原がよく行った店は、一誠堂の裏の喫茶兼酒場「ランボオ」、東洋キネマの近くの小料理屋「竜宮」、小川町の「セレーネ」等であったが、とくに「竜宮」の主人に可愛がられ、その頃まだ女学生の可憐な娘がいて、その家庭教師をたのまれた。英語を教えたのである。もっともこうした酒場へ最初に連れていったのは丸岡であった。酒でも呑めばすこしは口をきくようになるだろうと思ったのである。
原には奇妙なくせがあった。酒を呑むと、やたらに英語をしゃべり出すのである。不断は絶対に電話などかけたことがないのに、酔うと、デタラメのダイヤルを回し、相手かまわず英語をベラベラしゃべるのであった。
ある晩おそく、めずらしく原の部屋から話声が聞えるので、びっくりして丸岡がそっと様子をうかがうと、それは原が、英語の会話を一人で二人分、愉快そうにうけこたえしているのであった……。
そのうちに、丸岡の九段の事務所も、だんだん人の出入りがはげしくなって来た。原民喜も「夏の花」が第一回水上瀧太郎賞となって以来、ぼつぼつ原稿の依頼などあったが、|勿論《もちろん》、本人は口をきかず、丸岡が代りに応対した。原は丸岡のうしろにだまって坐っており、丸岡がいちいちとりつぐと、うしろで原が、よければ首を縦にふり、いやなら横にふるといった|按配《あんばい》だった。
原は、自分が口をきかなくても、こうして人前に出ることがだんだんやりきれなくなりはじめた。丸岡の方も、いちいち、通訳のような取りつぎをさせられるのは正直のところ迷惑な話であった。
そのうちに、吉祥寺の方に、食事の世話まで見てくれる八畳の部屋が見つかり、一方『三田文学』も休刊になったので、原はその家に引っ越して行った。
それから二年目、昭和二十六年三月十三日の夜更けに自殺したのである。
十七通の遺書があった。その殆どは友人にあてた、あと始末の依頼であり、感情をまったく殺した別れの挨拶のようなものばかりであったが、一つだけ別のものがあった。
「自分はつひに|雲雀《ひばり》になつて、空高く舞ひ上つてゆくことになつた。自分の荒涼とした人生の晩年に、あなたのやうな清らかな人と出逢へたのは、奇蹟のやうなものだ。元気で、美しく、立派に生きてくれるやうに」
これは、少女Y子に|遺《のこ》されたものである。
[#改ページ]

チャタレイ裁判
昭和二十五年六月二十六日、D・H・ロレンス原作「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳本が、猥褻文書として警視庁に押収され、訳者の伊藤整と出版元である|小山《おやま》書店社長小山久二郎が、猥褻文書頒布罪で東京地検に送検され、九月十三日、二人とも刑法第一七五条に該当するものとして起訴された。
この年の二月二十三日、G・H・Qが、好色出版物の|氾濫《はんらん》に対して警告を発するということがあった。戦後「解放された自由」によって低俗な好色本が氾濫したことは事実であるが、警視庁のこれに対する摘発は見当はずれのことが多かった。「チャタレイ夫人の恋人」を摘発したことなどはその最たるものであった。
これに対処するために日本文芸家協会は、七月六日、緊急理事会を開き、伊藤整、小山久二郎を招いて事情を聴き、協議の結果、
一、この小説は真面目な意図のもとに書かれたものであって、日本において出版されることには意義がある。
二、この小説の訳者と出版社は、悪意ある意図をもたぬとみとめられる故、両者を有罪として取扱うことには反対である。
三、この小説はある条件を付して、出版する必要があるかもしれない。
四、今後かかることが|惹起《じやつき》された場合、検察当局は、作家の所属する団体たる本協会に懇談を申し入れることが望ましい。
という申し合せをし、十二日、広津和郎会長と中島健蔵理事が東京地検に中込検事を訪ね、広津会長は、訳者の人格、チャタレイ訳出の良心的意図について述べ、中島理事は、同書の欧米における取扱いについて説明し、起訴するようなことのないよう充分に申し入れた。にもかかわらず、中込検事は、一応二人の申し入れを了としながら、岡本検事と連絡し、手を返したように、「チャタレイ夫人の恋人」を、文芸作品として認めず、|箸《はし》にも棒にもかからぬ猥褻文書として強硬に起訴することに決定したのである。
日本文芸家協会は、この東京地検の無謀とも言うべき起訴に対して全面的に抗議することになり、日本ペンクラブとも提携して、九月二十日、毎日セントポールクラブで、理事、評議員全員及び正宗白鳥、金子洋文、中野重治、中村光夫、田恆存、小松清、山本健吉ら評論家、関係識者四十名を招集、舟橋聖一理事長を議長として、|活溌《かつぱつ》な討議を行なった。
その結果、「チャタレイ問題対策委員会」を結成することとなり、委員長・中島健蔵、委員・青野季吉、石川達三、亀井勝一郎、河盛好蔵、金子洋文、小松清、高見順、中野重治、中村光夫、西村孝次、田恆存、舟橋聖一が選ばれた。
昭和二十六年三月二十八日、日本文芸家協会の第五回定期総会が開かれたが、この総会で最も活溌に論議されたのは、「言論並に表現の自由」の問題で、理事井上友一郎が、次のような主旨説明を行なった。
「さきにチャタレイ問題が起り、最近では、歌舞伎座上演の『源氏物語』に関し、観客に向って輿論調査がおこなわれる等、文芸における言論と表現の自由に対して、弾圧を加えようとする兆候が、既にあらわれている。我々文筆家にとって、文筆の自由を束縛され、或は弾圧されることは、誰一人として致命的としない者はいない筈だ。単に猥雑を目的とする非文学的なものに対しては、風紀取締の現行法規を適用すれば、事足りる。それに飽き足らず、文芸の文芸たるゆえんのものを聊も理解せず、権力の手段に訴えて圧迫するのは不当である。これは明らかに、検閲制度の復活を企図しているものと見る。協会は、次年度の最も大きな課題として、対策委員会を組織し、強く反対を表明すると共に、具体的に対策を樹てたい。又、各界の識者にアンケートを発して、意見をまとめ、発表する案も考えたい」
ここにのべられている「検閲制度復活の兆候」というのは、一週間前、新聞に報道された「風紀出版物の検閲を考慮」という見出しの記事についてであった。
こうして日本文芸家協会は、四月十三日の理事会の議決で次のような声明書を発表した。
「本年三月二十一日付朝日新聞の記事によれば、三月二十日、最高検察庁で開かれた法務府、東京高検、同地検、国警、警視庁の風紀取締り関係の首脳部合同の際『特定の風紀出版物に対しては検閲制度を設けるという立法措置も進めよう』との結論が出たことを知り、日本文芸家協会は、『特定の風紀出版物』の範囲について疑いを感じたので、種々調査協議の結果、三月二十八日の第五回総会の決議にもとづき憲法による言論表現の自由の保障を危うくするような出版物検閲制度復活の企図に対しては絶対に反対であり、その具体的措置に就ては理事会に於て研究し、逐次実行に移すものである。
右声明する。
昭和二十六年四月二十日
[#地付き]社団法人 日本文芸家協会」 
昭和二十六年五月八日午前十時から「チャタレイ事件」の第一回公判が、東京地方裁判所第十一号法廷で開かれた。
この日朝、伊藤整は、豊田の自宅を出て、飯田橋駅で下車し、駅の近くの小山書店に寄り、小山久二郎を誘い、応援にかけつけた岩波書店重役堤常良と自動車で市谷の正木家に寄り、正木弁護士と同乗して十時少し前に裁判所に着いた。
裁判所には、折からの雨をついて大勢の傍聴人がつめかけた。学生服が目立つなかで、若い女性の姿も見られたが、傍聴席の一角に陣取った青野季吉、舟橋聖一、坂口安吾、豊島与志雄、小松清、高見順、西村孝次、中村光夫、吉田健一、臼井吉見ら作家評論家の一群にまじって、戒能通孝、磯田進ら法学者の顔も見えた。またそれらの傍聴人にまじって、伊藤夫人、小山夫人の姿もあった。
開廷前、伊藤、小山が被告席につくと、各社のカメラのフラッシュがさかんにたかれ、一瞬緊張した雰囲気になった。
二人とも|鼠色《ねずみいろ》のダブルの背広に地味なネクタイをしていた。伊藤整は右手に白いほうたいを巻いていた。
「私は室へ入るときから、すっかり『見られる自分』になり切っていたので、自分の形が、後についている自分に操られる人形のような感じがした。私は右手に腫物が出来て繃帯をしていたが、その繃帯をした手に風呂敷包みと鳥打帽を持った鼠色のダブルの洋服を着た自分の痩せた姿まで、自分自身の目にありありと見えるような気がした。(中略)
私と小山氏とが並んでそこに坐ると、それを待つように、私たちの左方と右方に、即ち判事席の壇の左方の検事側と、右方の弁護人席の辺に、およそ二十人ぐらいの写真機を持って待っていた新聞社の写真班が、バルブをパッパッと照らし、忙がしくそのバルブを取り更えながら、写真をとりはじめた。いまこの法廷の中を最も自由に動きまわれるのは、彼等写真師たちであった。殆んど、写されていながら、何の必要があるんだ、とか、気ちがい沙汰だ、とか言って笑いたくなるぐらい彼等は私たちを写すことに熱中し、その態度は真剣であった。中には、『こっちを向いて下さい、こっちを』と声をかけるものもあった。写されている間に、私は、元気らしい形を作るべきか、と考えたり、当り前でいいと考えたり、笑ってやろうかと考えたりしたが、そのどれも本気でする気持になれず、ただ心をそんなことに労するのが煩しいように感じた」(伊藤整著「裁判」)
結局この裁判は、五月八日の第一回公判をふくめて総計三十六回の公判が開かれ、昭和二十七年一月十八日、「猥褻文書ではない」という判決が下され、伊藤整は無罪となったが、小山久二郎に対しては、販売方法に問題があったとして二十五万円の罰金が言いわたされた。小山はこれを不服として控訴した。
ところが控訴審は、一度の事実審理も行なわないまま一審判決をくつがえし、「訳書は春本と異なるとは言え、猥褻文書であることは否定出来ない」として伊藤整にも罰金十万円を宣告した。|勿論《もちろん》二人はこれを不服として再び上告したが、三十二年三月十三日、最高裁大法廷の判決は「春本ならざる猥褻文書」という二審判決を支持して上告を棄却、両被告の有罪が確定する結果となった。
日本文芸家協会はこれを不当として、長文の声明書を発表した。
昭和二十五年五月十一日、十二時三十分東京駅発特急「はと」が、戦後はじめて復活、運転を開始した。
“列車”の大好きな孤高の文人内田百は、大阪に特別に用事はないのだが、だんだん乗りたくなってうずうずしはじめた。復活した東海道線の特急列車の、それも一等車に乗って大阪まで行きたいと思った。しかし、金がない。
特急「はと」で晩の八時半に大阪に着き、着いても大阪には別に用事はないから、三十分後九時に大阪を出る上り「銀河号」の一等寝台で帰って来れば、無駄遣いする心配がないから、安上りだ。それで旅費がどのくらいかかるか、一番弟子の元雑誌『国鉄』編集員・平山三郎に調べさせた。ところが、往きの一等料金は覚悟の前だが、帰りの夜行寝台が非常に高い。一等寝台はやめるにしても、それなら中途半端な二等には乗りたくない。三等寝台はまだ復活していないから、三等の夜行だと「夜通し座席につつぱらかつてゐなければならない」。そこでやはり一晩宿屋に泊ることを考えた。
「……元来私は動悸持ちで結滞屋で、だから長い間一人でゐると|胸先《むなさき》が苦しくなり、手の平に一ぱい冷汗が出て来る。気の所為なのだが、原因が気の所為だとしても、現実に不安感を起こし、苦しくなるのだから、遠い所へ行く一人旅なぞ思ひも寄らない。もし今度の思ひつきを実行し、一人で出掛けたら沼津辺りまで行つた頃、已に重態に陥つた様な気がするであらう。だれかを連れて行かなければならぬと云ふ事を、初めから考へてゐた。
国有鉄道にヒマラヤ山系と呼ぶ職員がゐて年来の|入魂《じつこん》である。年は若いし邪魔にもならぬから、と云つては山系先生に失礼であるが、彼に同行を願はうかと思ふ。まだあやふやの話であるけれど、もし行くとしたらと云ふ事で内意をきいて見ると、行くと云ふので、一人旅の心配はなくなつた」(「特別阿房列車」)
この「ヒマラヤ山系」と言うのが平山三郎のことである。
かくして、|漸《ようや》く、秋十月下旬の土曜日、百は「ヒマラヤ山系」を供に従え、特急一等車に乗って勇躍大阪へ旅立った。
帰りの車中で百は考えた。「この旅行のために施した錬金術のお金は、むろんそつくり持つて来たのだが、みんな無くなつて、足りなくて、山系が用心のために持つて来たお金をずゐぶん遣ひ込んだ。予算したお金を使へば脚が出るにきまつたものだが、その脚が長過ぎる」(同前)
帰って来て、二十日間で五十六枚の原稿を書き上げた。それが『小説新潮』(昭和二十六年一月)に載って大好評を得た「特別阿房列車」である。(この項平山三郎著「詩琴酒の人」〈小沢書店〉によるところが多い)
昭和二十六年、二十歳の聖心女子大二年生曾野綾子は、臼井吉見の紹介で、第十五次『新思潮』の同人になった。三浦朱門、村上兵衛、阪田寛夫らが同人だった(あとから梶山季之、有吉佐和子らが入った)。
その年の冬の|或《あ》る日、綾子は三浦ら同人と国電に乗った。綾子は空いている座席の一つに坐った。そのうしろの窓ガラスがわれていた(その頃はまだそういう電車が多かった)。
三浦が意地悪な口調で言った。
「あなたは、いやな人だな」
綾子はびっくりして相手の顔を見た。
「わざわざ一番寒い風の吹く所へ坐ったら、他の男たちが、居心地が悪い思いをするだろってこと位わからないかな」
綾子は幼稚園から修道院の経営する学校で尼さんたちの教育を受け、常に他人の喜び、他人の幸せを祈る「犠牲」的精神を植えつけられて来ていた|筈《はず》であった。三浦はそれを、エセ・ヒューマニズムと解釈したのだ。
それから数日後、三浦と綾子は二人だけで帰ることになった。三浦が手を上げてタクシーを止めたが、どういうわけかそれに乗らずにやりすごした。運転手はぶりぶり怒って走り去った。
「どうして乗らなかったのですか」
「あの車は汚いからです」
「でも、そんなことで断ったらかわいそうだわ」
「僕は運転手の人格をとやかく言った訳じゃありません。あの車は純粋にただ汚かったから乗らなかったまでです」
綾子は、三浦を残酷だと思った。
しかし家に帰って考えて見ると、綾子は、自分が好きな“誠実”というものを三浦は自分以上に持っていると思った。綾子は自分の“誠実”を多分にムード的だと思った。しかし三浦の“誠実”はもっと複雑で厳しいものがあると思った。そして「この人の誠実さは信頼するに足るものだ」と思った。
それから一年余りたったある日、三浦が、「将来、三浦朱門クンが食えるようになったら、結婚するかい?」と、まことに“誠実”なプロポーズをした。やがて二人は結婚した。昭和二十八年十月である。
その二人の結婚披露宴で友人たちが、こもごも立ってテーブル・スピーチをした。それを要約すると、大体次のような論旨であった。
「世に小説をかく女房などというものは最大の|厄介《やつかい》ものである」
「小説を書きたいと女房に言われて、ずるずるとそれを認めるとは、三浦という男も甘い|奴《やつ》である。今に見ろ、きっと手を焼くから……」
「小説家(ゲイジュツ家と多くの人は言う)などという商売は、夫として適格ではない。彼はきっと将来浮気をするに違いない」
「結婚前は小説を書かしてやるとか何とかうまいことを言っても、それは皆、男のテで、一朝嫁にもらってしまえば、亭主関白になるに決っている。だからどうしても小説を書きたいなら、早々に結婚をやめた方がいい」
そんな、いわばなかば|羨望《せんぼう》と|嫉妬《しつと》の心もないではないところの、イヤガラセ的祝辞に対し、二人は終始にこやかに笑みを浮かべ続けていた。
[#改ページ]

銀座酒場文士録・昭和二十一年〜三十年
銀座三丁目、松屋の真裏にある小料理店「はち巻岡田」は、大正五年創業という|老舗《しにせ》で、戦前は、銀座の表通りの、汁粉屋「若松」の隣りにあったが、昔から文壇に縁が深かった。泉鏡花、水上瀧太郎、里見、久保田万太郎、|小山内《おさない》薫、川口松太郎、久米正雄、小島政二郎、小泉信三等々といった人たちがよく来ていた。その店は戦争中、昭和十九年まで続いたが、遂に店を閉めなければならなくなり、おやじの岡田庄次は、一時、麻布の王子製紙の寮に雇われ、そこで料理を作らされることになった。ところがおやじは|いっこく《ヽヽヽヽ》もので、“闇料理”を作るのはごめんだとばかり、すぐに飛び出して、川崎に|隠棲《いんせい》した。
終戦直後、昭和二十年十月から二カ月、尾上菊五郎劇団によって、水上瀧太郎原作「銀座復興」(昭和六年の作)が久保田万太郎脚色・演出、伊藤|熹朔《きさく》装置で、帝劇で上演された。
「……まだ東京中がほとんど焼野原だったときに、帝国劇場で、『銀座復興』が上演された。水上瀧太郎原作、久保田万太郎脚色である。この脚本が発表されたのは昭和十九年のことであって、どうして久保田さんが、戦争さなかの、それもすでに敗色の日一日と濃くなっていくときに、しかし、まだ銀座は空襲によって破壊されていなかったときに、脚色を試みたのかは、知るよしもない。それにもかかわらず、それから一年の後、その間に銀座は大半が焼亡し、そして終戦となって、すぐその十月に上演されたのだから、作品の『復興』は、大正十二年の震災からの復興であったのだが、その時における上演というのは、まさに脚本が待ちかまえていたようなものであった。
もう一つおもしろいことは、久保田脚本の幕切れは、主役その他が全部、銀座の復興大売出しで賑わう街へ出ていってしまって、たった一人、酔客が店に残っていて、それで幕がおりるのだが、これは、チェホフの『桜の園』が、たった一人あとに残った老僕フィルスだけで幕切れになる運び、そのままなのだ。そして『銀座復興』の上演の翌々月、有楽座で新劇合同によって、その『桜の園』が上演されている。『銀座復興』は『桜の園』を、みる人に思い出させ、そして同時に、銀座の街の復興の先取りでもあった。
主役の『野口文吉。小料理店はち巻の主人(三十五、六)』とある人物は六代目尾上菊五郎であった。(中略)この『はち巻』が、今も、銀座松坂屋(註=松屋の誤り)の裏、三丁目の横丁にある、はち巻岡田であり、野口文吉は、現在の主人岡田千代造さんの実父、岡田庄次氏である」(池田弥三郎「わが町銀座」)
ところでこの上演に当って、久保田と伊藤は、わざわざ川崎に岡田庄次を訪ね、これを機会に、また銀座に出て来て店をはじめることをすすめた。岡田庄次は感動した。やがて出来たのが、今の店である(はじめは、松屋裏の今の駐車場のところにあったが、その後五十メートルほど北に移った)。
この店の|藍色《あいいろ》ののれんには、まんなかに里見の「舌上美」という書、その右に川口松太郎の「雑炊を煮込むその夜のあられかな」、久保田万太郎の「春の夜の牡蠣小さくはしら大きくいみじ」の句、左に久米正雄の「春の夜の浅き香に立て岡田椀」、小島政二郎の「うつくしき鰯の肌の濃き薄き」という句が染めぬかれている。
しかし、主人の岡田庄次は、店が出来て二年たらず、昭和二十三年十一月二十日に|急逝《きゆうせい》した。
「久保田さんは庄次氏没後、後を継いで庖丁を握った慶応出の若い千代造さんと、その母親のこうさんとが、店を守っている姿を、
秋しぐれ いつもの親子 しぐれかな
と詠んだ。この色紙は、今も、岡田にある」(同前)
その頃の常連は、久保田、久米、川口らの他に、河上徹太郎、石川淳、吉田健一、池田弥三郎、戸板康二、利倉幸一、小林勇らである。
酒場「ルパン」が戦後再開したのは昭和二十一年二月だから随分早い。「ルパン」は、銀座四丁日、文藝春秋別館の横の狭い路地を入ったところで、何となくエキゾティックなその横丁を入って行くと、|軒燈《けんとう》に、シルクハットに片|眼鏡《めがね》をかけた怪盗ルパンの絵が描いてあるのが見える。
ここの店の名前の由来はちょっと面白い。丁度その頃(昭和三年)、イギリスのウインザー公が来日したので、それに|因《ちな》んで、ウインザーとつけようとしたのだが、バーに王子様の名をつけるのは不敬だという声があり、とたんに一転して、怪盗ルパンに変ったという。
ここのマダムは、高崎雪。昭和三年の創業(昭和五十三年五十周年記念パーティを開いた)。「大盗アルセーヌルパンをその店の名とする酒場の主はどんな人かと思ふと、小さな、眼の大きな美しい女である。名はお夏さん。人も知るタイガアの夏ちやんの後身である。……夏ちやんタイガアに在りしころは、大変な人気だつた。……この人の美貌は、ひぐらしの音に聞くやうな響きをもつた美しさである。……里見など熱心な夏ちやん党だ」(安藤更生著「銀座細見」)とあるように昔から文士に人気のあった人だから、「ルパン」の常連も文士が多かった。
戦後、太宰治、坂口安吾、織田作之助という“無頼派三羽烏”がよくあらわれた。はじめのうちは、コーヒー、紅茶だけを出していたそうで、酒をあまり|呑《の》まない織田作は、コーヒーを呑みに来ていた。また織田作はここへ来ると、まずカウンターのところでいきなり注射器をとりだし、ヒロポンを注射した。左腕のワイシャツの|袖《そで》をまくりあげ、独得のやり方で、注射針を深くささず、皮膚のほんの表面にちょっとさす。静かに挿入すると、やけどの水ぶくれのように皮膚がぷっくりふくらむ。それを上手に、つぶさないようにもみほぐす。「こうすると長持ちするんや」とうそぶいていた。
ここの、カウンターの一番隅の席で、足の長い腰掛けの上に、|尻《しり》のポケットから雑誌をのぞかせて、|軍靴《ぐんか》をはいたまま、上手にあぐらをかいてのっかっている太宰治の写真(林忠彦撮影)は傑作だ。
この店は地下室で、石の階段だが、それが二十年の年輪ですりへっている(今は敷きかえられた)。ひところ降り口に、「すべりますから、御注意下さい」という|貼《は》り紙がしてあった。その石段を見事にすべり落ちたのが丸岡明で、胸を打ち、|肋骨《ろつこつ》にひびが入ってしまった。
その頃の、ここの常連は、その他に河上徹太郎、中島健蔵、高見順(昭和四十年没)、今日出海、石川淳、吉田健一(昭和五十三年没)、林芙美子(昭和二十六年没)等々。
「この店の常連のうち、その日の調子で飲みかたががらりと変つて来る客がある。しよつちゆう顔を合はすからそれに気がつくわけである。たとへば一昨日ここに来てゐた大岡昇平はふさいでゐたかと思ふと、昨日ここに来てゐたときには活溌であつたりするといふやうなことがある。それは一昨日の夜、月給を費ひはたしたといふ理由ばかりではないだらう。先日の大岡は悄気こんで、新聞社の勤めを止さうかと思ふと云つてゐた。すると小林(秀雄)が、お前はまだ書けるかもしれないから書くなら今だと云つた。ひどいことを云やあがると大岡は驚いたが、その日の大岡昇平は気勢があがらなかつた。
いつも変らないのは河上徹太郎である。但、莨をすひ酒をのむばかりで、この河上といふ男はどうしてこんなに不器用なのだらうと呆れるよりほかはない。さうするとその場へ中島健蔵や佐藤正彰がやつて来れば、われわれは救はれるだらう。『おやケンチが来た。セイバンもいつしよか』といふ工合に席をゆづるのだが、中島は酔つて来るとおしやべりになるといふ作用によつてよくしやべる。先づチョッキのボタンをはづして文学談を一席のべるのである。佐藤正彰は誰も知らないやうな化学界また数学界のことについてよく珍談を持ちあはし、それを見ぶり手ぶりで決河の勢ひでしやべりだす。おやセイバン、またはじめたと思つてゐても、どうしてもたうとう笑はなくてはならないことになつてしまふ」
これは井伏二の「はせ川」(昭和十年)という随筆のひとこまである。銀座東七丁目、その昔の出雲橋ぎわの小料理店「はせ川」は、残念ながら店を閉じて、画廊「はせ川」に転身してしまったが、ここも昔から文士の巣であった。
店の一方の壁には菊池寛の漢詩の色紙(奥野信太郎によると、この漢詩はとても漢詩などと言えたしろものではないそうだ)、その隣りに横光利一のフランス語のアフォリズムらしきものを書いた色紙(このフランス語のスペルも間違っているそうだ)、その隣りに久保田万太郎の、そばへ行って虫眼鏡で見なければわからないような小さな字で書いた俳句の色紙が飾ってあった。
対面の壁には、永井龍男の俳句、河上徹太郎の「言葉」、今日出海の「言葉」、河盛好蔵の「言葉」の色紙が飾ってあった。
入口の看板には、横山隆一のフクちゃんと、|猪口《ちよこ》ととっくりを描いた絵があった。入って左側には清水|崑《こん》の、こまごまと沢山の文士の似顔絵を描いた横長の額があった。
昭和二十七年三月、文藝春秋の三十周年記念の文士劇が、歌舞伎座で催された(出しものは、菊池寛原作「父帰る」と「白浪五人男」、出演は、小林秀雄、井上友一郎、小島政二郎、小山いと子、中野実、久生十蘭、今日出海、川口松太郎、久保田万太郎)。この時の折詰めの弁当は「はせ川」が作った。その包装紙には久保田万太郎の「いづもばし いまはむかしのはせ川に 霜夜の酒を一人くむかな」という、俳句ならぬ短歌が印刷されていた。
ここの|女将《おかみ》は長谷川湖代。俳人である。戦前に亡くなった夫も春草と号する俳人だった。二人とも久保田万太郎の弟子だった。そんな関係で文士の客が多くなった。創業は昭和六年。戦争末期に強制間引き疎開で取り壊され、戦後間もなく六丁目で店を開いたが、昔の場所がなつかしくてたまらず、|瓦礫《がれき》の山と積まれた元の場所に、法外な金を取られてその瓦礫をはこんでもらい、店を建てた。その年月ははっきりしないが、高見順の「日記」によると、
「昭和二十一年五月二十一日、大森君(註=大森直道、当時鎌倉文庫編集局長)と銀座へ出『ブーケ』で飲む。『はせ川』に廻る。いづれも復活(「はせ川」は場所がかはつた)」とある。
長髪にこげ茶のソフトをちょこんとのせて、トンビを着た横光利一がよく飲みに来ていた。顔色が悪く、しきりに胃が痛いと言いながら、それでも飲んでいた。飲むと|蒼白《そうはく》の顔の|頬《ほお》だけがほんのり赤くなった。一層病的に見えた。
阿部知二もよく来ていた。酔うと両手を妙にしなをつけてひろげるのが癖で、口をひんまげて「もう、俺は、だめだよ」とつぶやいては飲んでいた。そんな時今日出海があらわれると、とたんににぎやかになった。
林芙美子も、疎開先(志賀高原)から帰って来ると真先にこの店へやって来た。
奥野信太郎は「東京うまい店二〇〇店」(柴田書店)という本の中で、「いづもばし はせ川」のことを次のように書いている。
「三田文学関係の小さな会合は、たいていこの店を使う。やはり久保田万太郎氏その他の関係から、自然、そういうことになった。この店の取りえは、なんといっても内儀の謙譲な態度であろう。あれは通り一遍の辞令とはわけがちがい、ほんとうに誠意のこもった謙譲であるから、人を感動させることは大きい」
戦後銀座に創立した|酒場《バー》の中で、おそらく一番早かったのは「エスポワール」であろう。銀座七丁目の東京銀行銀座支店の二筋裏の横丁を入ったところで、創業は昭和二十一年十二月、今は一階と、別の階段を上った二階とあるが、はじめは一階だけしかなかった(昭和五十年、五階建のビルに改築した)創業の頃はまだ一種の闇商売であった。
「『エスポワール』の初期には、ぼくはMPのアメリカ兵から拳銃をつきつけられたことがある。ぼくはマダムをかばうつもりで、下手な英語で『マイワイフ!! レッツカムバックマイホーム』などと言ったので、見破られ、胸元につきつけられたときは、蒼くなった」(田辺茂一著「浪費の顔」)
たしかにそういう時代であった。
マダムは川辺るみ子。大柄だが、秋田生れだけあって色が白く、目が大きく、鼻が高く、顔立ちは例の樺太国境からソ連へ逃避した女優岡田嘉子によく似た|美貌《びぼう》である。
三島由紀夫が、その頃の『週刊朝日』に次のように書いている。
「川辺るみ子さんの美は動的な美だと喝破したカメラマン真継不二夫の言葉をさきに取次いでおこう。このポートレートもダイナミックな雰囲気に仕立てられるだろう。
日本には逸楽的な顔の女性はめずらしい。清純でなければ頽廃的、影がまるっきりないかありすぎるかだ。るみ子さんの顔には、疲れを知らない健康な逸楽がかがやいていて、その微笑は驟雨のあとの若葉の微笑のようで、顔全体のいささか重々しい果実の重量は、葡萄の芳醇と朱欒の甘滑を併せ含んでいる。この顔は、快楽というものは、清潔なものだ、と教えているように思われ、まぎらわしい余韻や余情で装飾されない、何かしら跳込台の突端が区切る青空のような、明快な判断に似た輪郭をそなえている。実に明晰なエロティシズムだ」
ここには、里見、広津和郎、豊島与志雄といった老大家をはじめ、石川淳、川口松太郎、小林秀雄、河上徹太郎、永井龍男、丹羽文雄、石川達三、井上友一郎、高見順、伊藤整から三島のような新鋭にいたるまで、その頃よく姿をあらわした。
井上友一郎はこの頃盛んに銀座風俗を描いていたが、「女給夕子の一生」という長篇小説に出てくるバー「シャルマン」のマダム「増井さん」(名前はルミ)は、川辺るみ子に言葉つきがそっくりである。
[#改ページ]

新宿酒場文士録・昭和二十一年〜三十年
昭和二十一年頃から、新宿の、今の歌舞伎町、その頃の三光町の焼野原に、フランス文学の谷丹三がいち早くはじめた「チトセ」という酒場があった。酒場というよりは、西部劇に出て来る居酒屋という感じで、うす暗く、何となく陰気な、新劇の舞台装置のような、にわか造りの家であった。
ここで坂口安吾は、三千代にはじめて会った。谷丹三は坂口のアテネ・フランセの頃の友人で、女主人(谷夫人)は三千代と古い友人だった。三千代は「チトセ」の女主人に、どうせ遊んでるのなら手つだってくれと言われて、店に出ていた。店に出て三日目に坂口安吾があらわれた。
「坂口安吾氏はキラッとした目を向け、『ああ貴女がみちよさんか』と云ったきりだ。彼は黒いビロードが襟にちょっとついている黒いオーバーを着ていた。巨きな感じ。白いふけとほこりが肩にたまっていた。手入れが悪くてという感じではない。着物を一切ぬがなくていつもいつもそのまま坐っているものだから、だんだんほこりが積って行ったという感じを受けた。
これが見合のような結果になるとはさらさら思い及ばなかった。二度目は二十二年の三月十日。この日のことは不思議によく覚えている。二科展だったか上野へ絵を見に行く約束をして別れた。三度目は単独で夜私の家の玄関を開けて、『坂口安吾です』と云う声が聞えた。全く何の約束もなかったから私はすっかりおどろいて飛び出して行ったけれど、人力車であったような気がする。お酒も相当入っているようであった。随分探したそうで、『君の家は分りにくいね、君の書いた番地は間違いではないかと思ったよ』と云っていた」(坂口三千代「クラクラ日記」)
こうと思うと|忽《たちま》ち実行するのがその頃の坂口安吾の特徴で、この時も三千代の住所を聞いて幾日もたたないうちに、訪ねたのだ。ラブレターをくれることになっていたのが、御本人が直接あらわれたのだ。
この日から三千代は安吾の秘書ということになり、週に一ペん水曜日に、池上の坂口家に出勤した。水曜日は面会日であった。「それで私は水曜日に出掛けて行った。地図をたよりに割合簡単に探しあてた。坂口氏はすぐに、まるで耳をすまして足おとでも聞いていたように、素早く|どあ《ヽヽ》をあけると、カンハツを入れず、そこに立っていて迎えてくれた。けれども私はまたまた、そのいでたちにびっくりした。丹前とか、どてらとか、いうようなものではない。夜具だ。大きな体に綿の一ぱい入ったものをきて上からひもをしめていた。
『巨きいなあ』と私は思った」(同前)
こうして安吾と三千代は急激に親しくなっていった。安吾は毎夜のように、新宿の「ハモニカ横丁」に三千代を連れてあらわれた。安吾は店で|呑《の》んでいる知り合いに、いちいち三千代を紹介した。その紹介の仕方がふるっていた。
「『この子はねえバカなんですよ』といったり、『この人は私の愛人です』と云ったり、『この人はパンパンです』と云ったりした。バカですと云われてもパンパンですと云われても、余りおどろきもしなかったけれど、時々『僕の女房です』とつけ加えることがあってびっくりした。私はまだどんな約束もとりかわしてなかったし、私達がお互いにとって何ものであるか見当がつかない。お互いに何も知りはしないのだから」(同前)
しかし、そのうちある夜、安吾はしたたかに酔い、深夜、二人は四谷荒木町の待合に泊った。
部屋が三つしかない小さな待合で、古ぼけた玄関の戸がガタピシするような家であった。そしてその家の便所には、一冊の黒い皮表紙のバイブルが置いてあり、その数ページが引きちぎられていた。つまりそれが“落し紙”につかわれていたのである。
これには|流石《さすが》の安吾も「いくら紙がないにしても、クリスチャンでなくても」驚いたらしい。
ともあれ、二人は、便所のバイブルに「祝福」されて、「最初の夜」を持った。
「見合」をしてから、一カ月足らずのことであった。
その頃、新宿東口駅前の空地に、有名な「ハモニカ横丁」というのがあった。そこには「みち草」「ナルシス」「お竜」「よし田」「魔子」等々といった、屋台に毛のはえたような“インスタント酒場”が、正にハモニカの穴のように並んでいた。
「みち草」「よし田」「お竜」には、「阿佐ヶ谷会」のメンバーがよく顔を出した。「阿佐ヶ谷会」と言うのは、中央線沿線に住む作家たちが、酒のない頃、いろいろと|くめん《ヽヽヽ》して、酒をかきあつめ、阿佐ヶ谷在住の詩人青柳瑞穂の家に集って月一回ぐらい呑む会で、その時のホステスが「みち草」のお梅、「お竜」のお竜、「よし田」のお千代であった。「小倉酒」という、あやしげな自家製のウイスキーを作る家が青柳の家の近所にあって、それを一升瓶に二、三本詰めてもらって呑んだ時代もあった。
はじめはそういう会だったが、次第に酒が出廻りはじめてからは、|所謂《いわゆる》親睦会にかわり、新春、花見頃、仲秋名月、忘年会というように年四回位になって、十数年続いた。その頃のメンバーは次の通りである。
青柳瑞穂、浅見淵、伊藤整、井伏二、巖谷大四、印南寛(文藝春秋社員)、臼井吉見、小田嶽夫、亀井勝一郎、河上徹太郎、河盛好蔵、上林暁、木山捷平、島村利正、新庄嘉章、田川博一(文藝春秋社員)、滝井孝作、太宰治、中島健蔵、中野好夫、原二郎、伴俊彦(朝日新聞記者)、火野葦平、平島秀隆、古谷綱武、三好達治、村上菊一郎=以上五十音順。
この阿佐ヶ谷会が終ると、まだ呑み足りない連中がわざわざ新宿の「ハモニカ横丁」まで出かけ、夜の更けるまで飲むのが戦後しばらくの間のしきたりであった。そんな時、井伏二は「みち草」「お竜」「よし田」と一軒ずつまわることを忘れなかった。「等分にまわらないと、ひがむからな」と、にこにこ目をしばたたきながら言った。
大体がどの店も、七、八人入れば満員という有様だったから、二、三人が、とっかえひきかえ、その三軒の店をわたり歩いたのである。
その他、青野季吉、保高徳蔵、立野信之、丸岡明、堀田善衛、梅崎春生、武田泰淳、池島信平などがよく顔を出した。
「魔子」という店はすこし離れたところにあった。ここには武田泰淳、埴谷雄高、野間宏、梅崎春生、藤原審爾、堀田善衛ら、いわゆる第一次戦後派が多かった。
「新宿のマーケットが寒風に吹きさらされていた頃、魔子の店につづいている板敷きの道を彼は首を曲げ顔を傾けたまま、毎夜歩いていた」(埴谷雄高「酒と戦後派」)
この「彼」というのは梅崎春生のことである。
「日常の会話を交わしながら対坐しているときでも、あたりが乱れてきた酒席でも、伏目になったまま相手を見ないのは武田泰淳の特質であるが、同じようにこの世界に対して伏目になっている飲み手としてなお梅崎春生をあげることができる。このような伏目族は、一見、この世界のなかに置かれてしまった自身について照れているように見える。また、自分でも、照れている、はずかしいんだ、という尤もらしい理由を述べることがないでもない。けれども、それらはつねに表面にすぎないのである。彼等が伏目の姿勢を何時如何なるところでも保持しつづけている真の理由は、眼前の事物、眼前の人物に馴れることができないのが彼等の本性であり、そしてまた馴れたくないからである。なにかに寄りそってのむということは彼等の本性が排除するところのものであり、また、実際、彼等は伏目をつづけることによって何ものにもよりそわれないのである。爛酔したときの武田泰淳の傍らを眺めても梅崎春生の背後を見ても、透明ななにかのぼんやりした輪郭が寄りそっていることはない。つねに伏目になっている彼等は酒を飲むときでも自存している不思議な強者である」(同前)
まことにうまい“|風貌《ふうぼう》姿勢”描写である。たしかにこの二人は、もくもくとしてよく飲む“伏目族”の強者であった。
藤原審爾も「魔子」の常連だった。藤原は昭和二十二年、鎌倉文庫から出ていた雑誌『人間』に「秋津温泉」を発表して新進作家として世に出た。その頃藤原はまだ岡山にいたが、これを機会に上京し、井伏二の世話で荻窪の「おかめ」という魚屋の二階に下宿していた。その頃、誰もがそうであったように、戦後の|鬱屈《うつくつ》した気持をまぎらわすために、「魔子」で酒をあおっていたのである。
そのうちに魔子の方が藤原に|惚《ほ》れた。そのいきさつをテーマに藤原は昭和二十三年に「魔子」という小説を書いている。
「私はおされている、おされている、うしろから、誰かに、なにかに、魔子に。私にはなにもありはしないのに、小さい孤独と絶望のほかは、本当になにもありはしないのに、私を仕事にはげまさないで、私を追いたてる、もっと私を苦しめる孤独と絶望の座へ。私は追いたてられて、また次の日も、その次の日も魔子の店に出かけて行く、まるでわが身を焼く小虫が灯を慕うように」
といった|按配《あんばい》に、藤原の方も思いを寄せていたようである。
しかし藤原には、田舎に妻子がいた。邪恋の、罪の意識に悩んだ。魔子は幾度か荻窪の藤原の下宿を訪ね、|甲斐々々《かいがい》しく身の廻りの世話をし、一夜を明すこともあったが、それは藤原の徹夜の仕事を見まもるだけで、肉体の結びつきは、最後まで一線をまもろうとした。少なくとも小説ではそうなっている。やがて藤原は、田舎へ帰り、妻子と別れて再び上京し、魔子と初夜を持つことでこの小説は終わっている。
その後藤原は魔子と二年程|同棲《どうせい》した後別れた。
新宿は空襲の被害が大きかったので、本格的(?)な酒場が出来たのは昭和二十二、三年頃からである。
東口駅前の呑み屋「五十鈴」が「チトセ」に次いで早かったのではないか。掘立小屋のような店だったが、それでも「ハモニカ」よりはましだった。
ここの|女将《おかみ》は劇作家中江良夫の夫人で、その昔、丸善の店員時代、佐多稲子と同僚だった。でんぽう肌のあねごである。
「終戦後の十年ばかりは殆んど毎夜のごとく、武蔵野館裏の飲み屋『五十鈴』にたむろしていた。その『五十鈴』に人気が出て、客層も増え、同時に客層も変わり、こちらの精力も減退し、深夜営業までものおつきあいはできなくなり、最近はとんとご無沙汰がちである。その代わり、といってもおかしいが、歌舞伎町の、サッポロビール裏の路地にある『利佳』には、時々立寄っている。
知っている仲間ばかりの集まる場所は、なんといっても安定感がある」(田辺茂一「あの人この人五十年」)
その頃はたしかに、文士仲間、演劇仲間の集まるところだった。
中村屋の地下室の「ととや」というスタンド・バーも割合に早かった。ここも「終戦後の十年ばかり」は、文士とジャーナリストの巣であった。今、銀座で「アリババ」というバーをやっている織田昭子がここのマダムをしていたことがある。そんな関係もあって、作家や編集者が多く集まった。
二幸の裏にバー「どれすでん」が出来たのは二十六年、二幸の横にバー「プロイセン」が出来たのが二十七年、「どれすでん」の五十メートル程先にバー「きゅぴどん」が出来たのが二十七年。その先を右に曲ったところにバー「バッカス」が出来たのが二十九年。これらがよく文壇人のたむろしたところだ。「どれすでん」にはひところ、富田常雄(昭和四十二年没)が毎晩のように来ていた。バーの女の子が休んでも富田常雄が来ていないことはないという程だった。三年位続いた。富田は人見知りをする男で、バーなどあちこちまわることをしない。一軒の店が気に入ると、そこばかり通う|性分《しようぶん》だった。
「プロイセン」は、林芙美子によく似たマダムの店で、地下室だが中二階のある|一寸《ちよつと》しゃれたバーである。ここには伊藤整、瀬沼茂樹、福田清人らがよく顔を見せた。十返肇、吉行淳之介、池島信平、なども常連だった。
「バッカス」には、吉行淳之介、安岡章太郎、有吉佐和子、柴田錬三郎らがよく来ていた。
この店に香代子という、決して美人ではないが気立てのいい二十七、八の女がいた。香代子はその頃売り出しのある流行作家にぞっこん惚れていた。どんないきさつがあったのかわからないが、心から惚れぬいていた。
|或《あ》る夜、巖谷が帰りがけ、香代子が追いかけて来て、どうしても聞いてもらいたいことがあるという。ところが巖谷はその日約束の時間があって急いでいたので、「また近いうちに来るから」と言って別れた。
それから二日目の朝、香代子の友人という女性から、巖谷に電話があって、
「香代ちゃんが|昨夕《ゆうべ》、薬呑んで自殺したんです」と言った。巖谷はびっくり仰天した。
その夜、巖谷は香代子のアパートへ行った。そこには吉行淳之介が来ていた。吉行も香代子を知っていて、「或る作家」の仲立ちとして来たのである。
香代子は両足をしばり、静かに眠るが如く死んだという。話によると、香代子の家族は、香代子の「日記」を見て腹を立て、「或る作家」を訴えると言っていきまいたらしいが、吉行の説得によってどうやらおさまったということであった。
吉行は、十返肇が女の事件を起した時も、調停の役を買って出て、まるくおさめた。どうやらこの人には、そうした面にも不思議な才能があるようだ。
[#改ページ]

茂吉、道夫、國士の死
昭和二十八年二月二十五日午前十一時二十分、歌壇の巨星斎藤茂吉が死んだ。
茂吉は昭和二十二年十一月三日夜、汽車がその町はずれにさしかかった時、「大石田よ、左様なら」とつぶやいて、眼を閉じ、翌朝、代田一丁目の家に帰って来た。
帰ってしばらくは身体の調子もよく、孫茂一(長男茂太の息子)の手を引いて、近くの八幡様の境内や根津山という小高い丘を歩くことを楽しんでいたが、二十三年三月四日に突然鼻血を出し、それがなかなか止らなかった。血圧が二二〇─一二〇であった。
もともと動脈硬化症、高血圧、腎臓疾患は持病であったが、この頃から、背中がひきつるということをさかんに言った。大石田で患った肋膜炎のあとが|癒着《ゆちやく》したのだと言って、茂太に何回も聴診器をあてさせた。「『一日何回も』というのは、今から考えれば、やはり老人現象の一つの現われと解釈してよいと思う」(斎藤茂太「茂吉の体臭」)
昭和二十五年の十月に左半身が|麻痺《まひ》を起し、二十六年には、|躰《からだ》の衰えが目に見えるようであった。この年の十月、文化勲章授与の知らせがあった時も、十一月三日の授与式にはとても宮中に|参内《さんだい》出来る状態ではなかったが、妻の輝子と茂太と、犬丸秀雄医学博士に付きそわれてやっと参内した。帰宅すると血圧が二四〇に上っていた。
二十七年に入ると、一時元気を|恢復《かいふく》したようで、しきりに浅草の観音様にお参りしたいと言った。
「浅草は父が十五歳の時から、人生で最も多感な時代の何年かを過したところであり、人生の終りに臨んで、もう一度、一生愛し続けた浅草をみたいと父が云い出したのも無理はなかった」(同前)
三月三十日、浅草行は実行された。輝子、茂太、宗吉(北杜夫)、山形県東京事務所長鈴木啓蔵がつきそった。
それから数日後に呼吸困難の発作におそわれた。心臓ぜんそくであった。一時は危篤状態に陥ったが、よくそれを乗りきった。
五月十七日には、親類知己が集って、茂吉の病床をかこんで、|古稀《こき》の祝い(本当の誕生日は十四日)が催された。
しかしその年の十一月には、足の甲に|浮腫《ふしゆ》が出て、立ち上る力が衰えて来た。
「昭和二十八年が来た。正月には、毎年、縁側にならんで、父を中心にして家族一同の写真をとるのがならわしであったが、この年には遂にそれが出来なかった」(同前)
二月二十五日の朝、茂吉はいつものように、|餅《もち》、半熟卵、おすまし、すりおろした|林檎《りんご》を少量たべた。
茂太は、講師をしていた昭和医大へ出かけて行った。
十一時に茂太のところに電話が掛った。茂吉の|容態《ようだい》の急変という知らせであった。
「すぐにタクシーを拾って家へ帰った。車の中で、とても父の死には間に合わないような気がした。
靴を脱ぐとまっすぐ病室に通った。
果して父は死んでいた。安らかな死顔であった。既に手は組まれていた。髪とひげはきれいに刈られて、美しい顔をしていた。父は二日前に風呂に入り、看護婦が髪とひげの手入れをしたのであった」(同前)
十一時頃、茂吉は突然顔色が蒼白になって、脂汗が流れ出し、呼吸が浅くなり、脈搏が微弱になった。副院長が強心剤を二本続けて打った。しかし効果はなかった。十一時二十分に心臓がとまった。何の苦悶もなく、何時のまにか、呼吸が絶えたという感じの死であった。
茂吉の遺体は、翌二十六日午前十一時から、東大病理学教室で、三宅仁教授執刀のもとに解剖に付された。助手は平福一郎助教授(画家平福百穂の子)であった。
「父の屍はおどろくほど痩せ、肋弓や恥骨が判然と浮きでて見えた。医学部を卒業する間際であった私は、教授方の説明をきいて、父の身体がどのようになっていたかを半ば理解することができた。全身の動脈は硬化が甚しく『ばりばりしている』と形容できるほどであった。心臓はかなり肥大し、右肺には結節が集り鶏卵に近いくらいの硬化巣を形成していた。腎臓は萎縮しきって半分ほどにも小さく、髄質がずっと喰いこみ、皮膚は狭まって細い線でしかなかった。そして寒天をかぶせたような灰白色の父の脳髄も、むしろ普通より小さくちぢこまっているように見受けられたのである」(北杜夫「人間とマンボウ」)
遺体は二十八日に幡ヶ谷火葬場で火葬され、遺骨は、足、胸、手、頭の順に拾われて二個の|壺《つぼ》に分骨された。
三月二日午後一時から、築地本願寺で告別式が行われた。葬儀委員長は安部能成であった。
文部大臣(代理次官)、日本芸術院長(代理久保田万太郎)、友人総代佐々廉平に続いて『アララギ』の土屋文明が次のような弔辞を読んだ。
「私どもアララギ会員一同は先生と同じ時代に生きて居るといふことをこの上もない喜びと感じて参りました。この目で先生を見この耳で先生に聞き得ることを私どもの生ける験と常日頃感じて居りました。
これは私どものことだけではなく広く心ある同時代者の共共に感じたところでありませう。ただ中について、私どもは歌を作ることにつながりアララギ会員であるといふ為にこの喜びを一きは身に染みて感じ得た様に思ひます。それだけに今日この日に会ふことは私どもとしては耐へようとして耐へ切れない悲しみであります。
先生の御姿はその一つ一つの作品に永久に消ゆることなく日と共にその輝きを増してゆくに違ひありません。長い間導かれた私どもとしては私どものこれまでの仕事もこれからの仕事も先生の永遠の御影を荘厳する中に加はるには、真に貧しく乏しく、数ならないものであることをかへりみて恥ぢないわけにまゐりません。しかしながら、なほ共々に力を合はせて開かれた先生の道を守り新しい時代が来つて此の白道を踏む日を待ちたいと存念いたします」
葬儀参列者二百二十名、一般告別式会葬者六百四十五名であった。
茂吉の遺骨は、東京の青山墓地と、山形県金瓶の宝泉寺に納められた。
戒名は、「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」というので、これは茂吉が生前自らつけたものである。
同じ年の暮、十二月二十二日、戦後デビューした劇作家の中で、木下順二と共に最も嘱望されていた加藤道夫が世田谷の自宅で首つり自殺をとげて人々を驚かせた。
加藤は、竹取物語のかぐや姫と石上文麻呂との、この世では全うし得ない恋をやわらかな幻想の中にとけこませた名作「なよたけ」(昭和十八年)で、昭和二十三年第一回水上瀧太郎賞を受けている。
加藤道夫は、東大理学部長だった故加藤武夫の三男で、慶応英文科在学中から演劇に情熱を注ぎ、昭和十八年、いつ召集が来るかわからないような状態の中で「なよたけ」を書き上げ、陸軍の通訳となって南方へ赴任した。
マニラ、ハルマヘラ島から、東部ニューギニアのソロンまで行き、そこで言語に絶する辛酸をなめた。飢えと栄養失調とマラリアで死に|瀕《ひん》したこともあった。
そうした状況の下での、人間の醜さ、欲望、抗争、裏切りなど、あらゆる本能的な背徳が、「なよたけ」の作者の心を|癒《いや》し難いまでに傷つけた。
戦後加藤は「挿話」(昭和二十三年)、「思い出を売る男」(昭和二十六年)、「|襤褸《ぼろ》と宝石」(昭和二十七年)等の作品を書いているが、いずれも記憶喪失症の人間が出てくる。忘れがたいいまわしい過去に悩まされ続けていたようだ。自筆の|年譜《ねんぷ》に、ただ一言「人間喪失」と書かれていたという。
加藤は役者としても異色の存在であった。横光利一の「旅愁」の久慈の役をラジオ・ドラマでやっているし、黒沢明の名作「生きる」の冒頭、人間の内臓が出るシーンの説明役をつとめたことがあり、「七人の侍」の五郎兵衛の役にも出るはずであった。
その加藤が突然自殺した。二十二日夜八時頃、自宅の玄関横の書斎で、治子夫人(女優)が文学座のアトリエ公演を見て、十一時過ぎに帰って来ると、キチンと整理された書斎に花を飾り、柱にひもをかけて、静かに腰掛けた姿勢でくびれ死んでいた。
遺書は、治子夫人に、「健康で生きてほしい」、文学座宛に、「お世話になりました。しっかりやって下さい。文学的に行き詰まったが、これまでの行き方は間違っていないと思う」というような意味のことが書かれてあったが、はっきりした原因は書かれていなかった。
葬儀は十二月二十五日、自宅で、芥川比呂志が葬儀委員長となって、行われた。内藤濯、中村真一郎、堀田善衛、千田是也、滝沢修、山本安英ら、文壇、劇壇の知名の師弟、友人たちが次々に弔問に訪れたが、それらの人たちは、次のようなことをささやき合っていた。
「何も死ななくてよかったのに。三十五歳で死なれては、部厚い本をやっと半分ぐらいまで読んだところを取り上げられたようなものだ」
「友だちとして思っていることをあからさまにいえば、しようのないやつだという感じだね」
「前の日には年賀状の用意をしたり、数日前に撮ったレントゲン写真を明日あたり見に行くといってたというが……」
昭和二十九年三月四日の午後二時十分頃、岸田國士が、神田一ツ橋講堂で、「どん底」の最初の舞台|稽古《げいこ》の最中に倒れた。脳|溢血《いつけつ》の再発であった。
丁度二年前の三月、岸田國士は『日本経済新聞』に依頼されていた連載小説「戦ひの娘」を執筆中、脳動脈硬化症状となり、東大病院冲中内科に入院した。それは比較的軽度のものだったので、五月に退院して北軽井沢の別荘へ行き、十一月まで静養した。
十一月から、静岡県三津浜に移った。冬の寒さを避けるためである。
翌年の三月には三津浜から、湯河原の吉浜、そして小田原市十字町に移った。そして五月に再び北軽井沢に移る頃は、病気はほとんど快癒し、しばらく遠ざかっていた執筆の仕事を少しずつはじめた。
その頃、古山高麗雄は、雑誌『文藝』の編集部にいたが、編集部は締切りの頃以外はさして忙しくもなかったので、しきりに岸田國士の療養先を訪れていた。古山は以前から、ひそかに岸田に傾倒していた(後に進藤純孝は、古山高麗雄が芥川賞を受賞した時の対談で、「しかし、面白いね、君が岸田國士に傾倒していたというのは」と言っている)。
「私は、北軽井沢にも三津浜にも小田原にも、かなり頻繁に岸田國士を訪ねた。二十八年の早春頃には、もう病気はほぼ全快したように見えた。しかし、岸田國士は、まだ完全には直っていないと言い、まったくペンを執ろうとはしなかった。小田原では『やはり病気の前とは違う。言葉を選ぶのに時間がかかるのだ』と言っていたが、女子高校に頼まれた講演に応じるほどになっていたし、私はその講演に付添ったり、あるいは、映画館への伴をしたりしての感じから、少しはものをお書きになってはいかがですか、と勧めた。少しは書かれた方がいいかどうかは、本当は医師に訊くべきことであったかもしれないのだが、医師に訊くまでもないぐらい岸田國士は快癒しているように見えたし、神西清さんや田恆存さんも同じ意見だったので、私は力を得て、まず口述で私が草稿を起こして、それに朱を入れられてみてはと提案し、じゃ、やってみよう、と承諾を得た」(古山高麗雄「岸田國士と私」)
そのようにして、短いものだが、幾つか発表された。最後の原稿は、三月「文学座パンフレット」に寄せた「稽古場にて」というのであった。
その「稽古場」というのは、「文学座アトリエ」のことで、岸田國士は二十九年一月末から、小田原を引きはらって、文学座の近くの旅館「森や」に泊り込み、「どん底」の稽古に入った。それは二月に入ると、一日平均八時間という猛稽古であった。
三月四日は、一ツ橋講堂での最初の本格的な舞台稽古の日であった。
古山はその前日、「森や」で岸田國士に会って「明日は舞台稽古だから、必ず見に来たまえ」と言われたので、その日の午後二時十分頃、一ツ橋講堂へ行った。入口で、
「岸田先生は、どこにいらっしゃいますか」と|訊《き》くと、
「それがね、大変なことになったのです。たった今、先生が倒れられて」
岸田國士は、午後二時十分頃、昼食にサンドイッチとコーヒーをとり、コーヒーを飲んでムセて、気分が悪いと言って横になったということであった。
古山が中に入ると、岸田國士は、舞台稽古の指揮をとっていた客席のその場所で横になっていて、眼をつぶったまま、それでも時々短い言葉を発していた。
「間もなく、冲中内科の桃井医師が到着して、桃井医師は、先生が初日の挨拶用に新調したツイードの背広の袖を鋏で開いて、血圧を計った。
桃井医師が、『頭が痛いですか』と言ったのが聞こえなかったようなので、今日子さんがもう一度訊くと、先生は軽い調子で、『死ぬ前にはかうなるものさ。ルカのせりふにあるぢやないか。死ぬ前にはかうなるものさ』と言ったと今日子さんが書いている。
担架が用意され、文学座の人たちが、かつらをかぶり、衣装をつけ、ドーランを塗ったまま、担架をかついで先生を救急車に移した。私も先生に付添って一緒に救急車に乗り込んだ。先生は、車の中で、
『君はだれ?』
と言った。私が先生の手を握って、
『古山です』
と答えると、
『古山君か、そうか』
などと言っていたが、そのうちに何も言わなくなり、嘔吐しはじめた。私はそれを両手で受け止めながら、先生の病気が軽症でありますようにと祈っていた。だが、私にも、軽症ではないと感じられた」(同前)
その夜、大雪になった。古山は夜中の十二時過ぎ、東大病院を引き上げ、翌朝七時に再び病院へ行った。しかしわずか三十分前に岸田國士は亡くなっていた。古山はその場で号泣した。
[#改ページ]

慎太郎、七郎の登場
昭和二十八年から三十二、三年にかけて、やたらに「文学賞」が誕生した。
従来の「芥川・直木賞」(昭和十年創設、十九年以降一時中止、二十四年、第二十一回から復活)、「菊池寛賞」(昭和十三年創設、十八年一時中止、二十八年復活)、「野間文芸賞」(昭和十六年創設、二十一年一時中止、二十八年復活)、「女流文学者賞」(昭和二十二年創設、はじめ女流文学者会主催だったが、三十六年から雑誌『婦人公論』主宰となり、「女流文学賞」となった)、「毎日出版文化賞」(昭和二十二年創設)、「読売文学賞」(昭和二十四年創設)、「H氏賞」(昭和二十六年創設)、「日本推理作家協会賞」(昭和二十二年創設)に加えて、新たに「オール讀物新人賞」(昭和二十八年)、「新潮社文学賞」(昭和二十九年)、「小説新潮賞」(昭和二十九年)、「同人雑誌賞」(昭和二十九年)、「岸田演劇賞」(昭和二十九年)、「文學界新人賞」(昭和三十年)、「農民文学賞」(昭和三十年)、「中央公論新人賞」(昭和三十一年)、「高村光太郎賞」(昭和三十二年)、「婦人公論女流新人賞」(昭和三十三年)等が次々に創設された。
この中の「文學界新人賞」の第一回が石原慎太郎の「太陽の季節」であり、「中央公論新人賞」の第一回が深沢七郎の「楢山節考」である。しかも石原の「太陽の季節」は次いで第三十四回(昭和三十年下半期)芥川賞も受賞した。
このあまりにも対照的な二人の作家の、異色の作品による文壇登場は、大いに世評を|賑《にぎ》わした。
「作家として、石原慎太郎ぐらい劇的な登場を遂げた者はいない。『太陽の季節』をひっさげて、文学の世界におどりこんで来た姿はまことに|新人《ヽヽ》という名が彼のためにあるような颯爽たるものであった。いや単に颯爽としていたためというより、既成文壇から甘やかされ讚辞を受けて登場したのではなく、彼らから文学を汚すものとかつてないほどの悪罵と嘲笑の集中攻撃を浴びて登場したところに、ぼくは|新人《ヽヽ》という名に|適《ふさ》わしい栄光を見るのだ」(奥野健男「角川版昭和文学全集『石原慎太郎』解説」)
正に|颯爽《さつそう》たる登場であった。しかも、いわば万雷の拍手をもって迎えられたというのではなく、むしろ、多くの既成作家のヒンシュクを買いながらも、多くの読者には新鮮な果実のように迎えられ、時ならぬ“慎太郎ブーム”を|捲《ま》き起した。
芥川賞|選考《せんこう》委員の間にもはげしい論争が展開された。選後評の対照的なものを上げる。
「僕は『太陽の季節』の反倫理的なのは必ずしも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している」(佐藤春夫)
「私は若い石原が、世間を恐れず、素直に生き生きと、『快楽』に対決し、その実感を用捨なく描き上げた肯定的積極感が好きだ。また彼の描く『快楽』は、戦後の『無頼』とは、異質のものだ」(舟橋聖一)
とにかく、「太陽族」という新語が流行し、頭の刈り方まで「慎太郎刈り」がはやりだした。石原は作家としては珍しく堂々たる|体躯《たいく》のハンサム・ボーイであったから、ちょっとしたニュー・フェイスの登場という感もあった。よきにつけ悪しきにつけ、「太陽の季節」は、当時の文壇をパッと明るくした。
「文学賞を受けるとたちまちマスコミからスター扱いされ、追いまくられるため、次作を書くに十分な余裕がなくなり、したがってデビューすると同時に器用な“芸能人”的作家になるという非難も、それが事実としても、文学賞の罪ではない。つまり、作家の心構えという問題であるばかりでなく、現代のようなジャーナリズムの状態では、ある程度はマスコミに追われないような作家は、なにか作家としての素質に弱点があるのではないかとさえ私は思っている」(十返肇「文壇白書」)
そういう状態になったのも石原の登場以来のことである。小説家は、戦前のように、肺病やみのような蒼白きインテリでは立ちゆかなくなった。作家が作家として食っていくためには、まず健康でなくてはならないといういちじるしい現象を呈して来た。石原は学生時代、サッカーの選手であり、柔道もやっていた。
石原の人気は沸騰した。石原が受賞した年の二月から創刊された、出版社による「週刊雑誌」のナンバー・ワン『週刊新潮』の第五号から登場しているし、原稿も引張り|凧《だこ》なら、講演会でも大変な人気で、聴衆が壇上にかけ上り、握手やサインを求めるというありさまで、正に“芸能人”的作家のナンバー・ワンであった。
こんな話がある。文藝春秋主催の文化講演会で、石原は北海道へ行った。円地文子と十返肇が一緒だった。講演のあいまに、網走のアイヌ民芸館を訪れた。そこで彼は、昔からアイヌに伝わるチャンチャンキ(貞操帯)なるものを発見した。
このチャンチャンキというのは、もともと|呪術《じゆじゆつ》的な意味のもので、前かけを小さくしたようなものである。たまたまそこの土産店で、それのミニチュアを売っていた。石原は、女友達に土産にくばりたいと思って十ばかり買おうとしたら、円地と十返が一つずつしか買わないのを見て、やむなく三つで我慢して買って帰った。
また石原は、釧路の町で、とある床屋に入った。するとそこへ、兄ちゃん風の若い男が入って来て、台に腰をかけるなり、おやじに向って、
「オウ、“慎太郎刈り”にしてくんな」と言った。“慎太郎刈り”を知らないおやじは、|咄嗟《とつさ》に、隣りに腰かけて調髪中の石原を指さして、
「あんなのでいいかね」と言った。兄ちゃんは、そっちを見て、はっと気がついて、顔を真赤にし、猫のようにおとなしくなってしまったそうだ。
どこへ行っても、女学生にとりかこまれて大モテの石原にひきかえ、十返は、付添いの|親爺《おやじ》とまちがえられる始末に、大いにくさった。しかし十返は、
「なに、作家としてこんなにモテるんなら、評論家としてヤケても来るが、裕次郎の兄貴としてモテるんだから、かえって気の毒のようなものさ」と、うそぶいていた。
石原が芥川賞を受賞した翌年、新しく創設された「中央公論新人賞」の第一回を深沢七郎の「楢山節考」が受賞した。これはまた、作品の上でも、人間的にも、あまりにも対照的な新人の登場ぶりであった。
石原が「太陽」なら、深沢は「月」とでも言おうか。
「『楢山節考』で第一回中央公論新人賞を受けて文壇に登場。近代以前ともいうべき発想から作り出されたこの作品は、多くの批評家や作家から驚異をもってむかえられた」(「日本現代文芸事典」――『群像』二百号記念号巻末付録)
たしかにこの「近代以前ともいうべき発想」の作品は、何とも不気味な、それでいて不思議に清新な、神秘性をひめた「月」のような作品であった。
作品も特異なら、人間も特異であった。放浪画家山下清ほど外見的には異常ではなかったが、することなすこと、話すこと、たしかにエクセントリックであった。
深沢が受賞した直後、『文藝』が、井伏二との対談をやった。深沢の故郷が山梨県甲府の在で、井伏もそこが第二の故郷と言われるほど甲府に因縁の深い人だからである。
ところがこの対談たるや、まことに奇妙なものが出来上った。
何しろ、深沢がすっとんきょうなことばかり言い出すので、井伏は、初めからめんくらった。深沢は何かひと言言うたびに「ぼく、井伏先生に会えてよかったなア、井伏先生いいなア、よかったなア」とつけくわえる。井伏が何か言うと、「ウア、先生、何でもよく知ってるなア、驚いたなア、すごいこと聞くんだなア」と言った調子で、心底からたまげたような顔をして、大声でしゃべりまくるので、井伏は目をぱちくりぱちくりさせて「やんなっちゃうなあ」と笑うばかりであった。
その場で聞いてる分にはとてつもなく面白い対談であったが、活字になると、何が何だかわけのわからないものになった。
対談が終ってから、編集者が、謝礼をわたそうとすると、まるできたないものでも受取らされるように、
「とんでもない、そんなもの、ぼく、いらないです。そんなもの|貰《もら》ったら、丸尾先生に叱られます」と言って、頑として受取らない。
仕方がないので、翌日、深沢が働いている日劇ミュージック・ホールへ行って、支配人の丸尾長顕に立会ってもらって、編集者が謝礼をわたそうとすると、
「だめですよねえ、先生」と言う。
「いや、これは君がしゃべったお礼なんだから、貰っておきたまえ」と丸尾が言うと、
「へえ、しゃべると、お金くれるんですか、へえ。だけどぼく、何だかへんだなあ」と考えこみ、編集者が、
「まあ、取っておいて下さい」と押しつけると、
「じゃ、これで女の子にごちそうしちまおう。すばらしいなア、それがいいや」と、大げさにわめきながら、楽屋の方へ、とんで行ってしまった。
ある日、深沢は、故郷の笛吹川の月見草を持って、石坂洋次郎の家を訪れた。しかし、玄関の前に立つと、急に気おくれがした。月見草なんて、何でこんなものを持って来たのかと思った。一層はずかしくなった。
横にまわって、塀の外から中を|覗《のぞ》こうとしたが、塀が高くてだめだった。
うまい具合に道路のすみに大きな松の木があった。彼はその木によじ登った。建物の様子までは見えなかったが、広い庭がよく見えた。とたんに犬が|吠《ほ》えだした。女中が出て来た。キョロキョロあたりを見廻したが、木の上までは気がつかず、けげんな顔をして引上げて行った。彼は木から降りかけた。
すると今度は石坂洋次郎が出て来た。彼はあわてて、なお一層高い所まで登ってしまった。そこで彼は化石のようにじっとしていると、下から声がした。
「そこにいる方は、何をしているのですか?」
深沢は、顔を下に向けることが出来ず、はるかかなたの方を見やった。
五月晴れの空が青く、あちこちに|鯉《こい》のぼりが風に泳いでいるのが見えた。とたんに彼は、下からの声に返事をしなければいけないと思った。彼は咄嗟に言った。
「あの……、鯉のぼりが……」
すると石坂は、何も言わずに、すたすたと歩き出して、家に入ってしまった。
昭和三十二年二月五日二十五時(と言うことは真夜中の一時と言うことで、これも空前のことである)から、日劇ミュージック・ホールで、深沢七郎の「楢山節考」の出版記念会が催された。司会は丸尾長顕、|挨拶《あいさつ》は中央公論新人賞の審査員伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫の三人。それに|来賓《らいひん》として正宗白鳥が祝辞をのべた。それから深沢が、自分で作曲した「楢山節考」の曲をギターで独奏し、続いて、友情出演で、華麗なストリップ・ショーが催された。
この日、谷崎潤一郎をはじめ、文壇人、ジャーナリストの多くが出席した。谷崎、村松梢風、舟橋聖一等は既にこの劇場の常連であったが、あとは意外に、まだその頃は、「ストリップ」を見たことがないという人たちだった。
深沢七郎の「言わなければよかったのに日記」という、とてつもなく面白い本の中に、彼が伊藤整を訪問した時の、こんな対話がある。
「『ヌードの踊りをまだ見たことがないですよ』
『なぜですか?』
『どうも、ああいう劇場へ入って行く勇気がないですよ』
とおっしゃるので、また驚いた。(貝原益軒のような人だ)と思った。それから、(『チャタレイ夫人の恋人』は、まだ読んでいないけどワイセツじゃない)と思った。(こんな人がワイセツなことを書くはずがない)と思った」
とにかく、出席者全員、まことにおごそかな顔をしてストリップの舞台をじっと見つめていた。中でも正宗白鳥は、一番前のかぶりつきで、|椅子《いす》にうずくまるようにして、無表情に舞台をにらみつけていた。
正宗と深沢とは妙に気が合ったらしく、深沢はよく正宗の家を訪れている。軽井沢別荘を訪れた時のことが、例の「日記」に次のように書いてある。
「軽井沢のお宅では別棟で、ごはんをいただいたのだが、奥さんがここまで運んでくれたのである。(あとかたづけのものは、運ぶだけは)と思ってお勝手まで運んで行った。
『いいよいいよ』
と正宗先生は言いながら、ボクの持ちきれなかったものを先生も運びだしたので困ってしまった。先生に運ばれないようにボクは先生の下駄をはいてしまった。ボクの靴は下駄箱の中にあるので履物は一ソクだけしかなかった。運びながら振りかえると、先生がこっちへ運んで来るのである。足を見ると、ハダシなのでびっくりした。途端、ボクは、ふーっとイエス様がガリラヤ湖の上を歩いている姿が目に浮んだ。(ハハア、イエス様は、こんなふうに波の上を歩いたのだな)と思った」
とにかくこの深沢七郎なる人物は、ギターを弾きながら、不気味な小説を書き、すっとんきょうなことを言って、はぐらかしているが、貝原益軒も知っているし、イエスの話も知っているなかなかのしたたかものである。
「天才と狂人は紙ひとえ」と言うが、その間の「紙」のような人物である。
[#改ページ]

「週刊誌」の氾濫
昭和三十年代に入って、出版界にちょっとした新しい現象が起こった。それは、出版社による「週刊雑誌」の刊行が続々とはじまったことである。
これまで「週刊誌」というものは、機能的な意味から、新聞社の独占刊行物となっていた。
しかし、昭和三十一年二月、『週刊新潮』(二月十九日)が創刊されたのを皮切りに、『週刊女性』(昭和三十二年八月十八日)、『週刊大衆』(昭和三十三年四月二十一日)、『週刊明星』(昭和三十三年七月二十七日)、『週刊実話』(昭和三十三年九月二十一日)、『週刊女性自身』(昭和三十三年十二月十二日、『週刊現代』(昭和三十四年四月十二日)、『週刊文春』(昭和三十四年四月二十日)、『週刊平凡』(昭和三十四年五月十四日)、『週刊コウロン』(昭和三十四年十一月三日)といった具合に、新潮社、集英社、光文社、講談社、文藝春秋新社、中央公論社等といった出版界の大どころが次々と週刊誌を創刊しはじめた。
しかし、これを見てもわかるように、最初に『週刊新潮』が創刊されてから、他の週刊誌が続々と誕生するまでの間に、一年半ほどの間隔がある。これは“出版社”の週刊誌がはたして成功するかどうか、多分に危ぶまれていたからで、他社はしばらく傍観していたのだが、『週刊新潮』が意外に成功したのを見て、猛然とのり出したという感じである。
出版社が週刊誌を出す上で、一番難関となったのはニュース・ソースの問題であった。その点、何と言っても新聞社は通信網が発達しているから、ニュースの取材が容易だが、出版社はその点で不利であった。新潮社は、極秘|裡《り》に新聞社の一部に交渉を持ちかけたが、ボイコットされたという。
そこで『週刊新潮』は、文芸出版社の“武器”を生かして、創作、読物に重点を置いた。
その創刊号を見ると、五つの創作が載っている。
「鴨東綺譚」谷崎潤一郎(連載)、「柳生武芸帳」五味康祐(連載)、「目白三平」中村武志(連載)、「おかしな奴」大仏次郎(連載)、「青い芽」石坂洋次郎(読切)。
このうち「鴨東綺譚」は、モデル問題が起って、作者の方が嫌気がさし、三月二十五日号で打切った(それがかえって雑誌の人気をあおった)。そして、これと前後して、柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」が始まり、五味の「武芸帳」とともに評判となり、いわゆる“剣豪ブーム”を|捲《ま》き起した。
この頃から、五味と柴田が、一躍流行作家になった。
十返肇が、柴田のことを、
「あいつこの頃、忙しすぎて、ひとに会っても、ボーとしてやがる。あいつ、|居《ヽ》眠狂四郎だよ」と言った。
出版社のニュース・ソースとして、新しく“トップ屋”という職業が誕生した。
ある日、梶山季之が、パリッとした背広を着て、新宿の飲み屋で飲んでいた。そこへ、朝日新聞学芸部長の扇谷正造が入って来た。扇谷は梶山を見るなり、
「よオ、トップ屋」と言った。
梶山は、とっさで何のことかわからず、自分がその時トップ・モードの背広を着ていたので、それをほめられたのかと思って、「ありがとうございます」と、丁寧に頭を下げた。実は、その頃、週刊誌のトップ記事ばかり書いている彼のことを、扇谷は「トップ屋」と言ったのである。
梶山の説によると、「トップ屋」の先輩は草柳大蔵だそうだが、最初に「トップ屋」と言われたのは梶山だそうで、つまり「トップ屋」という言葉をつくったのは扇谷ということである。
その後に生れた他の出版社の「週刊誌」も、それぞれに、新聞社の「週刊誌」にこれまで見られなかった内容的特徴を示した。
『週刊女性』『週刊女性自身』は、女性のモードを中心にしながら、他方、|執拗《しつよう》に「皇室」の記事を追いかけた。毎号のように「美智子さま」の写真を載せた。それから、芸能人、有名人の、|惚《ほ》れたはれた、くっついたはなれた、等々、|噂話《うわさばなし》の好きな日本人のアキレス|腱《けん》をついた。
『週刊文春』の創刊号には次のような連載がはじまっている。
「骨肉の倫理」石川達三、「キャンパス一一〇番」曾野綾子、「反町大膳秘伝書『女無用』」五味康祐。
『週刊コウロン』の創刊号には、「アスファルト・ジャングル」五味川純平、「黒い福音」松本清張、「トイレッタ」三宅艶子、とやはり三つの連載がはじまっている。
これを見てもわかるように、現代小説と大衆小説と推理小説、の三本立または、エッセイ風のお色気読みものをつけている。
そしてこのあたりから“剣豪ブーム”に続いて“推理小説ブーム”がだんだんと起りはじめた。そして、新聞社の「週刊誌」もこれに|刺戟《しげき》されて、推理小説、産業スパイ小説などを載せはじめた。
このように、やたらに「週刊誌」が誕生して、世の中のテンポも週単位に動きはじめた。文藝春秋新社は週給制を実施し、他にもこれを実施するところが出て来た。
作家も、これまでに増して忙しくなった。ふところ具合もよくなったに違いないが、忙しい作家はやたらに忙しく、遊ぶひまもなくなった。
こうなると、昔のように、夜中に書いたり、輪転機の音を聞きながらでなければ書けないというような「思考型」「遅筆型」の作家は敬して遠ざけられるようになった。
「|蒼白《あおじろ》きインテリ」などと言われた、昔のような、|頬《ほお》のこけた“文学青年”ではとても追いつけなくなった。流行作家になるには、まず身体強健でなくてはならないという、画期的な現象を呈して来た。
|慧眼《けいがん》なる三島由紀夫は、ボディービルをやり、|拳闘《けんとう》をやり、剣道をやり、大いに強健なる肉体の保持に留意しはじめた(それがエスカレートして、壮絶なる|自刃《じじん》となった)。
功成り名とげた作家は、それほどあわてふためきもしなかったが、戦後、芥川賞、直木賞を受けた作家の中には、しゃにむに書きまくる人も出はじめた。
松本清張などは、「週刊誌」七つか八つに連載を書き、その他新聞、月刊誌にも連載を書くという超人的な活躍ぶりであった。もはや自分の手で書くのでは間に合わないというので、速記を雇って口述筆記までした。
平林たい子が、その松本清張の仕事ぶりを|揶揄《やゆ》して、
「あの人は、人間ではなくて、タイプライターですわ」と言ったことから、両者のケンカがはじまったこともあった。
推理作家の笹沢左保は、坐って仕事をすると居眠りが出るので、立って原稿を書くということをゴシップに書かれた。
梶山季之は、サラリーマン精神にのっとり、午前八時に起きて飯を食い、仕事にかかり、正午には|休憩《きゆうけい》し、余程のことがないかぎり午後五時か六時には仕事を切り上げ、ネオンの|巷《ちまた》に出かけて行った(それもだんだん守れなくなっていったけれど)。
野坂昭如はその頃、銀座三丁目並木通りのビルの中の芸能事務所に勤めていた。机を三つならべると人の出入りがやっとというような小さな事務所で、三木鶏郎のマネージャーとして、月一万円|貰《もら》っていた。名義だけの社長は永六輔であった。
「住いは新宿柏木、都電、バスを利用し、気候のいい時は自転車で通う。半蔵門から桜田門にかけて、詩人ポール・クローデルがこよなく愛したという濠端の下り坂を、勢いにまかせて自転車を走らせれば、どうも仕事をしに行く実感がうすく、また芸能マネージャーとはいえ、ボスの付人的仕事がほとんどで、いかに他に能がなきゃ仕方ないじゃないかと、当時庄助の座右銘をつぶやいたところで、釈然としない。三歳年下の永は、売れっ子のラジオ・TVライター、月給の他に収入が二十万あった」(野坂昭如「新宿海溝」)
三木の主宰する冗談工房は、ラジオ番組三本の制作を請負っていたが、番組開始の前後こそ、役者の手配、スポンサーとの打合せなどいろいろあわただしかったが、軌道に乗ってしまえば、何もすることがない。野坂より古顔の女性ディレクターが現場に立合い、もう一人いる音楽関係の助手が、CMソングの録音準備はやってくれるので、野坂は大抵、一人留守番役であった。
「ビルの一階は貸しデスクで、映画監督山本夫の連絡事務所があった。まともなのはこれくらい、何をやってるのか正体不明の、服装だけは妙にまともで、まともだからなお御面相の、一筋なわでいかない印象の強調される紳士たちがごろごろしていた。上海の特務機関にいたという選挙ゴロ、防衛庁出入りの商人、ビルの窓ふき会社、PR映画屋などで、客があれば、近くのレストラン『ロートンヌ』へ連れ立ち、いちばん安いミルクを注文して商談だが、借金のいいわけだかに額を寄せ合う」(同前)
野坂もよくこのレストランに出かけた。番組制作費の中に、交際費も入っていたので、領収書さえもらえば飲み食いもかなり自由だった。野坂は昼間からビールをあおり、「正体不明」の紳士たちにもはでに振舞った。いっこうに活気のない小さな事務所の留守番が、どうしてそんなに景気よく振舞うのか、みんな不思議がった。そこで野坂は得意の早口の弁舌で、彼等にグラスを|推《すす》めながら、いかにCMソングは|儲《もう》かるか、女役者がいかに好色であるか、といった、「正体不明」の紳士たちが|羨望《せんぼう》するような話を、べらべらとまくしたてた。
それでもまだ、その頃の野坂は、そんな安レストランか、ジャズ喫茶「テネシー」、シャンソニエ「銀巴里」へ行くぐらいが関の山で、はじめて、電通のラジオ・テレビ局係の町田仁に、泰明小学校|脇《わき》の「マントゥール」というバーに連れていってもらった時には、竜宮城へ足を踏み入れた浦島太郎の心境であった。
「女のいるバァ、当時は社交喫茶といったが、これに入ったのも、二度しかない、酒と女を峻別していて、行きつけは流行しはじめたトリスバァがほとんど。芸能マネージャー時代、この他に暮れれば即ち足を向けたのが、有楽町のガードを日比谷公園方向にくぐり抜け、すぐを左に折れた右側の寿司屋『国定』であった。
ここのお上はすでに三十近くだったが、江戸前の美人、独身の頃は、長靴をはき、女ながら|河岸《かし》へ買出しにでかけ、市場の花とうたわれたらしい。店にラジオ東京のディレクターが年中あらわれた。庄助も交際費でまかなえたのだが、なんとなくディレクター連中のツケにまぎれこんでしまい、ついぞ一度も払った覚えがない。国定のならび、帝国ホテルに近いあたりに、『東京茶房』があり、その地下は午後六時から『バァ東京』として店を開く、浅利慶太、安倍寧をはじめ、劇団四季、宝塚、電通関係者が顔をそろえ、ポーカーやらチンチロリンに興ずる。いずれも|轡《くつわ》をならべ世に打って出た直後、いい意味での奢りとうぬぼれに充ち、その昂ぶりは、ととまじりの雑魚である庄助にも伝わった」(同前)
それから間もなく、三木工房事務所は赤坂に移ったが、野坂はそこで、月十数万の交際費を使ったことがにらまれて|馘《くび》になった。
以来、コント作家、CM作詞家として、何とか食いつないでいたが、その彼を救い上げたのが、『週刊コウロン』であった。彼は「日本風コラムニスト」となって、見開き二頁の雑文を連載しはじめた。『週刊コウロン』は、その八カ月後に間もなく廃刊になったが、彼の雑文は見所があったので、以後、別の週刊三誌、月刊二誌に連載をはじめることになった。
「週刊誌」の|氾濫《はんらん》は、戦後の文壇に一つの転機をもたらした。
昭和三十四年四月三十日の未明、永井荷風が、「独棲の自宅に在つて、二千数百万円の銀行通帳を枕辺に放置したまゝ人間の世話にも金銭の世話にもならず」(秋庭太郎著「永井荷風伝」)独り息を引きとった。
死の前年の暮、荷風はいつものように浅草に散歩に出かけたが、八十の高齢で、足もとがおぼつかなく、道で何かにつまずいてころんだ。幸い、顔見知りの店の人に助けおこされて、家まで送ってもらった。しばらく寝込んだ。
ようやく足の痛みがとれて、再び浅草通いをはじめたが、それはこれまでと少し変った行程であった。非常に規則正しく、午前十時十分に市川の家を出て、京成電車に乗って浅草へ出かける。浅草は松屋の横を入ったレストラン「アリゾナ」か「|汝惣里《ナポリ》」へ行った。そこで朝と昼を兼ねた食事をたらふくたべた。そのあと「梅園」でしる粉をたべることもあった。
一時半頃帰宅して、それから堅く門を閉し、日記をしたため、それがすむと床に入り、読書するか眠るかという毎日であった。
ある朝、某社の編集者が、印税を持って訪れた。相当な札束を入れた紙袋であった(荷風は絶対に小切手は受取らない)。紙袋を受取ると領収書に墨で「永井壮吉」(本名)と書き、|捺印《なついん》して返し、紙袋の方は無造作に万年床の|枕元《まくらもと》になげやると、
「食事に行きましょう」と言った。編集者はあっけにとられたような顔をして、一緒に家を出た。カギをかける気配もない。
レストラン「汝惣里」はまだ開いてなかったが、荷風の姿を見てすぐ中に入れた。荷風は肉類を二皿平らげ、それから外へ出ると、
「おしる粉をたべましょう」と言った。「梅園」へ連れて行かれた。酒好きの編集者はお付合いでおしる粉を|頂戴《ちようだい》した。
その編集者の頭には、妙に枕元にぽんとほうり投げられた紙袋のことがこびりついてはなれなかった。荷風はやがて立上ると、
「この頃は、もうつまりませんね。これから帰って日記をつけて、寝るだけですよ」と、歯のぬけた口をあけてうつろに笑った。
それからまもなく、四月三十日未明、荷風はたった一人で死んでいた。
「もう、いつ死ぬかわからないから、君これから、毎朝八時に必ず部屋をのぞいてみてくれよ。死ぬと死体が腐るからね。腐るのはいやだからね」
週に一、二度、掃除をしに来ていた近所の婆さんに荷風はそう言っていた。その婆さんが、うつぶせに倒れて死んでいる荷風を最初に発見した。
「週刊誌」がその、明治生れの最後の文人の死を大きく、克明に報道した。
[#改ページ]

国際ペン大会、日本で開催
昭和三十二年九月二日から一週間、東京・京都で、第二十九回国際ペン大会が開催された。
国際ペン大会を日本で開催したいという機運はその二、三年前から、うつぼつと起りはじめていた。
昭和三十年六月十二日から十九日までオーストリアのウィーンで、第二十七回国際ペン大会が開かれ、日本から北村喜八と|芳賀檀《はがまゆみ》が代表として出席したが、その時の模様を六月十五日付の『読売新聞』は次のように報道している。
「オーストリアのウィーンで目下開催中の国際ペンクラブ大会で一九五七年度の大会はぜひ東京で開きたいとの案が出され、賛成多数でほぼ決まりそうだといわれる。
十四日オーストリア駐在の大野公使から外務省に入った公電によると、イタリアが候補地としてヴェニスをあげているほかはほとんど大部分の代表が東京案を支援する方向に傾いているため日本側さえ承諾すれば実現はまずまちがいないとのこと。戦前戦後を通じ日本で大会が開かれたことはまだ一度もないので、外務省でも“文化交流の絶好の機会”とばかり大いに関心を示しているが、ただ問題は大会を招致する場合、地元ペンクラブが参加者の滞在費一切を負担しなければならないことで、この点日本ペンクラブとしても政府の大幅な援助がなければまかないきれない状態にある。大体人数は百五十名、経費は三千万円程度と予想される。大野公使は『十七日までに諾否の返事をしらせてほしい』といってきているため、日本ペンクラブでは十六日午後五時から緊急幹事会を開き政府とも協議のうえ至急態度をきめることになった。
外務省情報文化局の話『各国と文化交流をはかる上に、これほど有意義な催しはめったにないのだから、ペンクラブとも協力してぜひ実現したい。旅費は参加者の自弁で滞在費だけを主催者側で持つことになっている。まだ期間もあるし、いまから準備をはじめれば十分間に合うだろう』
日本ペンクラブ会長川端康成氏の話『まだ大会に出席している代表から何も聞いていないが、必要の場合はこちらと電報で連絡して東京開催を受けることもできるわけだ。ただ問題は経費の点で、この点慎重に考えなければならない』
日本ペンクラブ副会長芹沢光治良氏の話『日本にとり大きなプラスになることだ。というのは各国のペンマンがきて現実の日本を知って帰って行くと、かれらは必ず筆の力で世界に向かい日本を知らせる。とくにペンクラブの代表には文学者が多いから政治的な見方をしないで人間の心をつかんで帰る。つまり本当の日本を見て帰ってくれるはずだ。問題は費用だが、いままでの例だと外国では政府や会合の開かれた自治団体、たとえばエジンバラでもローザンヌでも非常な協力をしてくれている。日本でも会合の意義を認めて政府あるいは東京都などが出してくれてもいいのではないか』」
この報道では、誰が東京大会を提案したのかはっきりしないが、事実は日本代表の芳賀檀が独断で誘致を提案したのであった。このため日本ペン会員はあわてふためいた。緊急評議員会を開いて応急の対策を検討しなければならなかった。
評議員会は数回開かれ、賛否両論でなかなか決がとれず、とくに時期尚早論をとなえる人が多かった。結局川端康成会長の断によってきまることになったが、川端は昭和三十一年三月十日の評議員会で、最後に静かに立ち上り、
「どうせやるなら早くやっても遅くやっても同じでしょう。来年やりましょう」と言った。その“鶴の一声”できまったのである。
その年の七月十七日付『毎日新聞』のコラムにこんな記事が出た。
「昨年の七月、ウィーン大会に出席した北村、芳賀両代表が日本ペンクラブには事前の打合せなしに“昭和三十二年の世界ペン大会東京開催有望、至急態度をきめよ”とウィーンから電報を打ってきたので書記局はあわてた。早速緊急評議員会を開き、賛否両論あったが、外務省が積極的に援助するというのでとりあえず“開催の意志あり”と返答した。そして昨年九月以来毎月、月初めに開かれる例会で東京開催をめぐってもみ合った。賛成論は『日本文化の海外紹介に絶好のチャンスだ』『国際文化交流こそ平和に役立つ』『再建日本の復興ぶりを海外に示して日本国民の自信を高める』など。慎重論は『開くことは結構だが、大会の運営では言葉の問題、また資金をどうして集めるか、準備不足ではないか』『現状ではこうしたことに金を使うより、差し迫ってしなければならないことがある』というのがおもなものであった。結局先立つものの資金をめぐり(約三千万円と書記局ではいっている)にしぼられたが、国会、政府に働きかけるとか、財界に寄附を頼むとか人だのみの意見が多く、例会ではついにまとまらなかった。あげくのはてには賛成、慎重両派が飲屋で殴りあいを演ずるという一幕もあった」
昭和三十二年に入ってから、川端康成は、すべての執筆をことわって、全精力を「ペン大会」に注ぎはじめた。
三月二十二日朝、川端は、当時日本ペンクラブ事務局長の松岡洋子を伴って、羽田を飛び立った。表向きは、ロンドンで開かれる世界ペンクラブの国際執行委員会に出席するためということであったが、実際は、少しでも多く著名な作家を勧誘しようという“客引き”旅行であった。ヨーロッパの主な国々を訪れて、著名な作家と|膝《ひざ》づめ談判をした。
フランスではモーリアックを訪れた。丁度パリに滞在していた小松清を通訳にし、長時間に|亘《わた》り熱心に来訪をすすめた。モーリアック夫妻もかなり心を動かされたが、結局、何分老体で、身体が弱っていたので、医師の勧告の方が強く、来日は実現しなかった。
ロンドンではT・S・エリオットにも会った。これも長時間話合ったらしい。やはり老体で来日は実現しなかったが、「一番印象的だった」と川端は帰国後語っていた。
イタリアではシローネに会い、シローネは川端の熱意に感動して来日を受諾した。しかし、これも会の前、急病となり、かわりにモラビアが来日した。
しかし、五十日間にわたる滞欧旅行で、多くの作家に会った川端の努力は、大きく報われた。はじめは百名位と予想された参加者が、一七一名にふくれ上ったのである。
参加者が一七一名にふくれ上って、すっかり予算が狂った。寄附募集の範囲を大幅に|拡《ひろ》げなければならなくなった。
金集めは容易なことではなかった。政府の補助金、外務省の報奨金などにも何度か足をはこんだ。日頃朝寝の川端が、遠い鎌倉から毎日、午前十時には出勤して、松岡洋子と、外務省、大蔵省、首相官邸といった具合に日参した。
東京都には一番手を焼いた。前年の暮から足をはこんで、やっと知事に会えたのは五月であった。しかも、
「今では、今年の予算に組みこめないから、現金は出せないが、都内観光と、レセプションを持ちましょう」ということであった。それを見越してこの年五月まで会見をさけていたのに違いない。ここで五百万の目算がはずれた。一回のレセプションと都内観光はせいぜい百万というところであった。
募金の一助として、「作家美術家色紙即売展」というのを、七月二日から一週間、三越で催した。美術家連盟の協力を得て四百枚近い色紙が集まった。梅原龍三郎、林武、向井潤吉、小磯良平、鈴木信太郎等の絵もあった。
川端の色紙が一枚二千円だから飛ぶように売れた。川端は惜しげもなく、あとからあとから書いた。
これより少し前、六月十一日、朝日、毎日、読売三社の後援で「国際ペン大会東京開催記念文芸講演会」が催された。これは川端の帰国土産話が看板であった。講演嫌いで知られる川端を、立野信之専務理事と、松岡事務局長が口説きおとした。川端はいやいや承知した。
川端は話の冒頭に言った。
「今年は私の最大の|厄年《やくどし》で、今日は一番の厄日です。今日は私の誕生日ですが、誕生日が厄日になろうとは思いませんでした」
役所、放送局、雑誌社、出版社、財界等々、あらゆるところを、いやな顔もせず足をはこび、大きらいな講演会にも出た川端が、どうしても言うことを聞かなかったことが一つあった。
それは、今度の国際ペン大会の、日本のシンポジウム代表、文学会議代表になることであった。理事が全員で推したが頑として承諾しなかった。
そのために、また代表の選考が難航した。結局、シンポジウム代表に青野季吉、文学会議代表に、高見順と桑原武夫が決定した。
八月のはじめに川端は関西へ出向いた。関西での閉会式場、宴会場、旅館等の設備の視察と、関西財界への寄附その他の協力依頼のためである。
大阪商工会議所会頭の杉道助が川端の熱意に打たれて立上り、野村証券の平山副社長に命じて、関西の財界に|檄《げき》を飛ばさせた。平山自らも関西財界を飛び廻ってくれた。
これが、資金面での最後の追い込みに拍車をかける結果となった。これによってどうやらぎりぎりの線までめどがついたのであった。
|勿論《もちろん》、作家も大口小口の寄附をした。川端康成百万円、吉川英治、大仏次郎、丹羽文雄が五十万円、田村泰次郎が三十万円、立野信之、石川達三、舟橋聖一、川口松太郎が二十万円、中野実、山本有三、石坂洋次郎、芹沢光治良、東郷青児が十万円で、その他に小口で、五百二十名の会員のうち半数の二百六十名が寄附したが、総額は六百万円であった。
このようにして、日本ではじめての「国際ペン大会」(第二十九回)は、昭和三十二年九月二日午前十時から、大手町の産経ホールにおいて、幕を開けた。
日本ペンクラブ専務理事立野信之司会のもとに行われ、国際ペンクラブ会長のアンドレ・シャンソン(仏)、国際本部書記長のデヴィッド・カーバー(英)をはじめ、ジャン・ゲーノ(仏)、イヴ・ガンドン(仏)、エドメ・ド・ラ・ロシュフーコー(仏)、ジョン・スタインベック(米)、ジョン・ドス・パソス(米)、二度目の来日をしたエルマー・ライス(米)、アルベルト・モラビア(伊)、スティーブン・スペンダー(英)、アンガース・ウィルソン(英)、ヘルムート・クラウゼナップ(独)、アドルフ・ホフマイスター(チェコ)など世界的に著名な作家をまじえた二十六カ国(日本を含む)三十センターの外国代表百七十一名、日本側ペン会員百八十五名、有料傍聴者など計一千名が会場をうずめた。
日本ペン会長川端康成、外務大臣藤山愛一郎(英語で|挨拶《あいさつ》した)、国際ペン会長アンドレ・シャンソン、インド代表ソフィア・ワディア、アメリカ代表ジョン・スタインベックが壇上で挨拶したが、川端会長の挨拶の一節を紹介する。
「これほど多くの国、多くの民族のすぐれた文学者を、一どきに迎えまして一堂に会しますのは、日本、いや東洋諸国でも、何千年の歴史に見ないことでありまして、|颱風《たいふう》までが、その歓迎に加わろうとしますのか、ただ今東京に近づきつつあるということであります。颱風のために大会の日程が妨げられはしないかと、主催国の一人の私は心を痛めております。しかし、颱風も日本の名物にはちがいありませんから、みなさんを颱風にあわせるのも日本を知っていただくことになるのかもしれませんが、颱風におなれにならなくて、お怪我をなさいませんように。あるいは颱風も遠来の最上のお客さま方に敬意を払って、東京は襲わないでしょうか。とにかく九月の今ごろから、毎年颱風の被害を受けます日本にも、世界最古の木造の建物が弱いような姿でいながら、千年の上失われないでありまして、やさしい細い五重塔が強い風雨に倒れないで立っているのも日本の知恵でありましょう。これらの塔は宗教と理想の一つの象徴であります。政治と人種と国籍などを超えたはずの国際ペンにも、今や政治の颱風が吹き荒れようとしています。しかし、その理想の塔は倒れないことを私たちは信じたいのですし、颱風の通ったあとの晴れた空にその塔が美しくそびえているのを望みたいと思います」
三日、四日、五日、六日と、シンポジウム、文学会議、招宴、見学などがあり、七日の朝八時半東京駅発「さくら」で一行は京都へ向った。
到着の夜、裏千家の招待宴があったが、ここでちょっとしたトラブルが起った。「颱風」がわざわいをもたらしたのである。
一行は京都に夕方到着したが、その日は朝からあいにくの荒模様で、丁度、その夜の「裏千家招待宴」の時刻に大豪雨になった。
裏千家は京都特有の建物で入口がせまい。そのために、バスを玄関に横づけにすることが出来ず、かなり離れた門のところで一行は降ろされた。外は|篠《しの》つく雨である。こうもり傘がしぶくほどの強い雨の上に、玄関への道は流れるほどに水があふれている。皆ずぶ濡れになってしまった。おまけに、茶の|点前《てまえ》を見せる場所と、宴会場とが|別棟《べつむね》になっていて、雨の中をまた歩いて行かなければならない。玄関がせまいので、脱いだ靴が外まではみ出し、それが雨にうたれてずぶ濡れである。なれない下足番がただおろおろするばかりであった。
ここでまず怒り出したのが青野季吉であった。
「おい、君、ク、ク、クツが濡れるじゃないか、何とかしたまえ」と、玄関で怒鳴りはじめた。それに火をつけられたように、高見順が怒り出した。
「外国のお客様に申し訳ないじゃないか。何をやってるんだ君たちは。せっかくのいい印象が、これで台なしじゃないか!」
下足番も、案内掛もちぢみあがり、
「へえ、へえ、どうも申しわけございません」と言うばかりで、どうしていいやら手がつけられず、おどおどしている。
高見はいよいよ逆上して、
「裏千家は何をしてるんだ。雨の時の用意ぐらいちゃんとしとくべきじゃないか」と、ものすごいけんまくで怒鳴り出した。
これは一大事と思った事務局の巖谷大四が、高見を横抱えにするようにして外へ連れ出し、自動車に押し込んで、宿舎の京都ホテルへ無理矢理連れ帰った。
颱風のシーズンでもあり、雨を予想して、テントくらい用意しておかなかったのは裏千家の手落ちだが、裏千家は川端と深い親交があり、勿論、茶道を宣伝する下心はあったにせよ、川端の頼みでこのレセプションをしてくれたのだから、変なもめごとを起されてはまずいと巖谷は咄嗟に思ったから、高見を連れ帰ったのである。
あとで高見は、「川端さんに悪いことしちゃったなあ」と、頭をかいていた。
翌日はからりと晴れた。
午前十時半から天竜寺で閉会式が行われた。
アンドレ・シャンソン会長が次のような挨拶をした。
「ここでひとこと、天候に関して申しのべたいと思います。というのは、天候というものが、神のしるしであるからです。昨日私たちは、颱風のただなかに、当地へ着きました。颱風というものは、日本のペンクラブの方々が、いくら気をもんでも何ともならないものであります。しかしながら、今日は青空が見えるようになりました。この天候の移り変りを、何かの象徴ととりたいのです」
これに対して、川端会長は次のように答礼した。
「大会は成功のうちに終了しましたが、容易に進行したわけではなかったのであります。三十に近い国々の代表が集ったのですから、国際政治上の微妙なものはあったでありましょうが、善意と友愛に立って努力し、会議とは意志を通わせるために開かれるのだという成果を示されました。シャンソン氏が、さきほどの挨拶で『雨のち晴』を象徴的だといわれましたが、それは、昨夜の雨をふくんだこの天竜寺の庭をのぞむ私たち一人一人の胸に通う言葉であります。
閉会式のない文学の交流を通して、今後この大会の成果をなお確かにし、続かせ、ひろげていきたいものだと念じます。ありがとうございました」
一行は、その後、京都、奈良を見物し、十日朝、羽田を|発《た》ち帰国の途についた。
[#改ページ]

「警職法」改正と文芸家協会
昭和三十三年十一月四日、午後一時から、六本木の俳優座劇場で、日本文芸家協会の緊急臨時総会が開かれた。
この頃、第二次岸内閣は、安保条約改定に対する反対闘争に備えて、警職法(警察官職務執行法)改正案を発表、野党の反対を押し切って国会に提出、議長職権によって衆議院地方行政委員会に付託。最初から国会審議の正常化を無視するやり方で強引に通そうとしていた。これは治安維持を強化する目的に出たもので、警官の臨検制度を復活し、また「制止」の名で大衆行動を予防的に制圧するなど、憲法で認められている集会、結社の自由や団体行動を抑圧するおそれがあり、戦前の警察国家に逆戻りする可能性をはらんでいた。
この事態を重く見た日本文芸家協会の言論表現問題委員会は、十月十八日会合を開き、国会上程中の警職法改正案について、慎重に討議したうえで、「言論表現問題委員会」の名で、「反対声明」を発表した。
次いで二十四日、緊急理事会が開かれ、この問題を討議した結果、この法案は、言論表現、集会の自由を根底からゆるがす危険性があり、現在及び将来の日本文学及びそれにたずさわる者のすべてにとって死活にかかわる重大問題であるという結論に達し、なお全会員の意志を聴くために、臨時総会を開くことになったのである。出席者九十六名、委任状三百五通、計四百一名で総会は成立した。
まず丹羽文雄理事長が、臨時総会を開くに至った経過を説明したあと、議長丹羽文雄、副議長大下|宇陀児《うだる》が選出され、討議が進められた。まず青野季吉会長が、
「今議会に上程されている警職法改正案は文芸家にとっても非常に影響の多いものであるから、さきに言論表現問題委員会で慎重に検討した結果、反対の声明書を出し、去る十月二十四日の緊急理事会でこの反対声明を確認した。本日は昭和二十四年八月の平和擁護以来の場合としての臨時総会であるが、この問題は緊急に臨時総会を開くほどの重要なものであると思う。いつもの総会に比較して出席者も多いし、充分に御討議いただきたい」と|挨拶《あいさつ》した。
続いて中島健蔵理事から警職法改正案についての具体的説明があり、さらに高見順理事から、十一月三日に行なわれた衆議院公聴会に出席した時の報告が行なわれた。
高見は、国会での論議はこの改正案の濫用の恐れがあるかないかということに終始しているが、この法案自身の中に危険がある、これからの若い人たちのためにもこの法案を通してはならないことを公聴会で強調した、と述べ、平林たい子、淀野隆三から、戦前の弾圧の経験、そして現在の情勢が昭和初年の状態とよく似ていることが指摘された。
大下宇陀児は、この改正案に全面的に賛成は出来ないが、善良な家庭に押し売り的に獅子舞が押し込んで来たり、街の暴力団のいやがらせ等の取締りに現行の法律では不便ではないかと思う、と言った。
次いで丹羽議長が、欠席会員の中、手紙を寄せた、杉山平助〈条件つき改正賛成〉、武者小路実篤〈政治には一切関係したくない〉、滝川駿〈改正に必ずしも反対しない〉、林房雄〈総会の反対決議には参加しません〉の意見の披露を行なった。
そのあと、中島健蔵、専門的な立場から法政大学助教授吉川経夫が、大下宇陀児の述べた心配に対して説明があり、続いて、打木村治、熱田五郎がそれぞれ農民文学会々員及び労働者作家として改正案反対の意見をのべた。
ここでさらに丹羽議長が、欠席会員で書面を寄せた石川淳ほか二十一名の改正案反対の意向を発表した。
また桜井増雄、徳田戯二、川内康範、金子洋文からそれぞれ改正案反対の発言があり、出席会員の絶対多数によって、改正案反対の決議が可決され、次のような声明書が発表された。
「日本文芸家協会は職能団体たる性格上、いかなる政治的立場にも立つものではないが、今議会に上程中の警察官職務執行法改正案について、臨時総会をひらき、慎重に討議の結果、これが言論、集会ならびに市民生活の自由をおびやかす危険性の多い法案であることを確認せざるをえなかった。
たとえば犯罪予防の名のもとに、警察官の一方的な判断によって、市民の身体検査を行いうる可能性のあるごとき、基本的人権の上から看過しえない点である。また『公共の安全と秩序』『公開の施設又は場所』といったどのようにでも解しうるあいまいな規定によって、警察官の取締りが不当に強化されることも予想される。当局はかかる濫用の絶対にありえないことを言明しているが、我々は過去におけるいくたの経験からして、遺憾ながら当局の言明に全幅の信頼をおくことは出来ない。
今日の日本は終戦後わずか十三年にすぎず、民主主義社会の建設は漸くその緒についたばかりである。大衆運動における様々の行きすぎ、或は市井の暴力行為等は、我々もこれを容認するものではない。しかし何よりもまず国民の自発的な批判と判断を通して是正さるべきであって、直ちに法律によって取締ろうとするがごときは、民主主義社会の成長をはばむ極めて危険な態度である。
日本文芸家協会会員は国民のひとりとして、また著作者として、かかる深い危惧の念を与えるような法案の提出については、つよく当局の反省を促し、撤回を求めるものである」
午後三時、総会閉会後、丹羽理事長、舟橋聖一理事がこの声明書を持参して国会に赴き、衆参両院議長、赤城宗徳官房長官及び各政党に手渡した。
また高見理事の提案により、会員有志約七十名が、演劇、映画、放送人懇談会、国民文化会議、文化人懇談会の人々と共に六本木を出発、溜池、虎ノ門から新橋まで“静かなる街頭行進”によるデモンストレイションを行った。
なお、この「警職法」反対の時、会員で唯一人協会の行動に反対した三角寛は、
「これらの行動が、日本の作家の全部の意志と見られることは迷惑千万だ」という談話を新聞に発表した。
[#改ページ]

「近代文学館」の設立と高見順
昭和三十六年十一月、立教大学で、当時文学部助教授の小田切進らが中心になって企画された「日本文芸雑誌展」というのが開催された。この展覧会には、高見順の蔵書をはじめ、かなりの珍しい文芸雑誌が出品されて識者の間で評判になったが、この展覧会を見に来た高見順は、異常な感慨を覚えると共に、これを機会に、日本の近代文学専門の図書館を設立すべきではないかという気持が|勃然《ぼつぜん》と|湧《わ》いてくるのを感じた。
高見は、伊藤整、稲垣達郎、中村光夫ら、近代文学に関心の深い人々と語らい、やがてその機運が熟して、設立されたのが「日本近代文学館」であった。
その設立準備総会が開かれたのは昭和三十七年五月三十一日であった。文芸家協会会議室で開かれたこの会には、作家、学者二十八名が集まった。その結果、高見順、伊藤整ら百十三名が設立発起人となり、次のような設立趣意書を作成した。
「日本にはまだ近代文学の関係資料を保存する専門図書館がありません。近代、現代文学の関係資料を、包括的に集めているところが、これまでどこにもありませんでした。
ひとくちに近代文学と言っても、今日までほぼ百年、現代文学でさえ約四十年の歴史をもち、何度もの戦争をはさんで激しい移りかわりを経てきました。その間に日本の現代文化の発展に寄与する幾多の名作がのこされ、さまざまな努力が払われてきております。それらが、今日までに学問的な対象とされていることも、御承知のとおりです。
ところが、その資料の保存は、不十分というより、実際は惨たんというほかない状態におかれています。それでも明治文学は、早くから熱心な学者たちと、数ヶ所の図書館・文庫などに不十分とはいえ、大切に保存されてまいりました。
しかしこと大正期以降になりますと、ほとんど整備されないうちに、関東大震災にあい、その後の発売禁止や押収、あるいは更に疎開とか戦災などにあううちに次第に散逸し、しっかりした資料保管の準備のないことも一つの大きな原因になって、今日なお貴重なコレクションや資料が、日日失われているありさまです。これではたいへん残念ですし、十年、二十年のちを考えただけでも、まことに憂慮すべき事態にあると申さねばなりません。前々から関係者のあいだに早急な対策が熱望されておりましたところ、このたび文壇、学界が協力し、なんとかして近代文学関係(現代におよぶ散文、韻文をふくめての純文学、大衆文学、児童文学)の諸資料(手稿、文献、図書、定期不定期刊行物)、関係諸物件(遺品、建造物)などを広く蒐集し、保存できる『日本近代文学館』を設立し、日本文学・日本文化の研究に資し、その発展に寄与したい、と一致してこの企ての実現に努力してゆくことになりました。多くの方の御支持を得て、はじめてわたくしどもの計画が、名実ともに意義あるものになると存じますので、御賛同と御支持を得たくお願い申し上げます。
昭和三十七年七月
[#地付き]設立発起人」  
これが関係方面に配布されると、その反響は意外に大きく、まず大どころの出版十二社が、図書四万冊の寄付を申し出た。主要新聞社、放送局、マスコミ関係諸会社、諸団体も協力を約束した。
十一月には、文化人一般に寄付を呼びかけ、三十七年末には寄付申込額一千万円に達した。
一方、東京都がこの企てを積極的に支持し、都内に敷地、設備を作り、提供するという話になった。東京タワー社長の前田久吉(元サンケイ新聞社長)からは千葉県にある二千坪の土地を提供するという申し出があった。すべり出しは誠に好調で、翌三十八年の三月十五日には、財団法人の認可が下りた。
その時の役員は次の通りである。
理事長 高見順。常務理事 伊藤整、稲垣達郎、太田三郎、小田切進、木俣修、塩田良平、中村光夫、舟橋聖一、吉田精一。理事 池島信平、大久保利謙、亀井勝一郎、河盛好蔵、小島吉雄、今日出海、瀬沼茂樹、中村真一郎、成瀬正勝、丹羽文雄、平野謙、福田清人、松本清張、村上元三。監事 大仏次郎、川端康成、久松潜一。
そしてまず、日本近代文学館創立記念文芸講演会が、四月八日朝日講堂で、六月二十七日読売ホールで相次いで催された。
八月二日から十一日まで、西武デパートで、日本近代文学館主催、読売新聞社後援の「現代文芸家色紙展」が催された。これは、洋画家五十名の賛助出品をふくめて作家四百名の出品一千点を越える大規模なもので、売上げが図書館建設基金に当てられた。
次いで十月一日から十三日迄、伊勢丹で毎日新聞社後援による「近代文学史展」が開催された。百年間の文学史の流れを一望におさめ、出品総数四千点を越える前例のない大展覧会であった。
だが、この展覧会の最中に、高見順が倒れたのである。
展覧会開催四日目、十月四日の朝、皇太子御夫妻が来会され、理事長の高見順が案内役を承った。二時間ほど熱心に見て、皇太子御夫妻は帰られたが、そのあと高見は、腹がへったと言って、伊勢丹の食堂でそばをたべた。ところがどうもそれがうまく|咽喉《のど》を通らなかった。結局吐いてしまった。
翌日、千葉医大の中山恒明の診察を受けた。
その帰り、高見は、銀座にある大学時代からの友人の橋爪克己の事務所を訪れ、「死刑の宣告を受けたよ」と笑いながら言った。食道ガンであった。中山のカルテに書いた文字を読んでしまったのである。ドイツ語が解ったのだ。
「入院する前に、みんなに会っておきたいな」と言った。
橋爪は早速、池島信平に連絡し、すぐその翌日の夕、銀座のクラブ・エスポワールで、ごく親しい連中だけが集って、「壮行会」が開かれた。
その時集った顔ぶれは次の通りである。
川端康成、伊藤整、立野信之、今日出海、石原慎太郎、田辺茂一、池島信平、吉村公三郎、團伊玖磨、那須良輔、小田切進、秘田余四郎、安部寧、沢村三木雄、上村健太郎、稲葉秀三、福良俊之、佐野繁次郎、西島芳二、本郷新、橋爪克己、矢口純、徳田雅彦、巖谷大四。
この日皆で「祝高見順入院」という、妙な「歓送帳」を作り、池島信平はその第一頁に、
「大場鎮未だ陥ちず、未教育兵高見順に赤紙来たる! 祈、武運長久、生還を期して待つ!」
と書き、今日出海は、
「虎の如く、帰り給え」と書くなど、いさましい「歓送会」であった。
その時、高見順は、とてもガンの宣告を受けた人とは思えないほど明るく元気な顔をして、大いに|呑《の》み、かつ食った。
「不思議だな、今日はいくらでもたべられる。明日入院したらあまりたべられなくなるから、今のうちたべておこう」
そんな冗談を言いながら、特別に用意した焼鳥やおでんの皿をいくつか平らげた。
その時の二、三の作家の感想が『週刊文春』に載った。
「パーティのときの高見君には感心したな、まるで他人事みたいにさっぱりしているんだ。帰りも彼と一緒だったんだが、彼は、他人のことをしきりに心配しているんだ。“あの人も、自分がガンじゃないだろうかと心配しているようだけど、みてもらった方がいいんじゃないか。みてもらって何でもなければ、それでいいんだし、もしガンがあれば早いにこしたことはないんだから”というような調子で話してるんだ。ぼくも会場にいくまでは、ちょっと気が重かったが、会が始まってみると、誰ひとりゆううつそうな奴がいないんだよ。第一本人が、一番朗らかそうなんだから」(今日出海談)
「誰か言ってましたけど、赤紙がきて応召を受けたようなものです。生還必ずしも期しがたいが、数年して無事帰ってきてほしい、そういう会でした」(伊藤整談)
そして高見順自身の談話は、
「全く思いがけない出来ごとでね。親父もおふくろもガンじゃないし、まるで丙種の男のところに召集令状が舞い込んだようなものだ。だから、この辺でひとつ、パアッと盛大にやれば“即日帰還”ってことだってありますからね」
高見順のガンによる入院は、創立途上の日本近代文学館にとって大きな痛手であったが、それはまた|却《かえ》って、一般の大きな同情と関心を呼ぶ結果となり、建設|邁進《まいしん》に拍車をかけることにもなった。
この年、高見順の近代文学館建設の熱意が認められて、菊池寛賞が送られた。その受賞式は、昭和三十九年三月六日(菊池寛の命日)、赤坂のヒルトン・ホテルで催されたが、その日高見順は、食道ガンの手術を受けた後の、咽喉から管を出したままの痛々しい姿で、杖をついて壇上に立ち、喜びの|挨拶《あいさつ》のあと、感情こめて、建設資金募集への協力を訴えた。すると、授賞者側の日本文学振興会理事長の佐佐木茂索も、珍しく再び壇上に立って文学館への協力を約束すると共に、来会者にも支援を呼びかけた。佐佐木茂索が自ら立ってこういう約束をするということはまったく異例のことで、このことが来会者に大きな感銘を与え、募金運動は大きく拡大された。
新聞社、出版社等報道機関が全面的に賛同して、政府を動かし、補助金を獲得しようということになり、五月二十日の「近代文学館を励ます会」にまで発展した。この会は、新聞、出版社の大どころ十社が世話役となり、政財界の一流どころを招き、事情を率直に訴えようという会で、当時の池田首相をはじめ関係閣僚、植村甲午郎をはじめとする財界の知名士が三百名余集まり、非常な成功をおさめた。
これによって政府から、昭和四十年度国庫補助一億円を獲得することが出来るようになった。一方、佐佐木茂索、水野成夫を中心とする基金募集委員会が出来、文学館建設基金七億円募集のスタートが切られた。
建設敷地は東京都の好意によって、目黒区駒場の駒場公園(旧前田公邸)の一部がゆずられ、近代文学館の新築が決定し、旧前田邸を改装して近代文学博物館に当てることとなった。
烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる
これは高見順の詩集「死の淵より」の中の「ぼくの笛」という詩である。「死の淵より」は高見順が、文字どおり「死の淵」にあって書き続けた詩集で、昭和三十九年八月の『群像』に発表され、十月に単行本となって刊行され、その年の野間文芸賞を受けた。
「ぼくの笛」は、中でもあまりにもいたましい詩である。食道ガンのため、食道を「吹きちぎられ」てしまった実感をうたったものだが、涙なしには読めない。
高見は一時小康を得たかに見えたが、四十年に入って再び入院した。「死の淵」でのあえぎがまたはじまった。
「昭和四十年五月三十日 死は|私の死《ヽヽヽ》である。死は私にとって一般的な事柄ではない……。ところが、いま私の眼は私の死に向けられ、私に|だけ《ヽヽ》向けられている。私の死はこの私の死なのだ。私だけの死なのだ。だれの死でもない。だれそれの死、ひとの死、一般的な死など、どうでもいい、問題はこの私自身の死、今の私はそうなっている。
五月三十一日 今朝はこんなことを考えた。死とは、ひとつの事実である。単なるひとつの事実と言ってもいい。それ自身、悲しいとか残酷だとか言うこととは本来無関係の事実だということを考える。悲しいとか残酷だということを考える。悲しいとか残酷だとか言うのは、死という事実に人間感情がまつわってくるからである。
六月一日 死をおもうことは、生をおもうことである。死は生の終りだからである。しかし生と死とを別々の事柄と考えることはできぬか。死は生の|結論《ヽヽ》ではないからである。たしかに、別々の事柄だ。死はたとえ生の終りであっても、|完結《ヽヽ》ではない。|結論《ヽヽ》ではない。生の途中、死は突然、やってくる。生の完結、結論としてやってくるのではない。すくなくとも、死と生とを別々の事柄と考えることで、死という事実を、諦念をもって受けいれることはできる。
六月二日 しかし、人によってはその人の死がその人の生の完結である場合もあるだろう。至福。しかし、その人は、自分では自分の死を自分の生の完結とはおもわないかも知れぬ。死とは人にとってそういうものかもしれぬ。
六月三日 病苦、死の恐怖などが、気ばらしのかわりに私の心を悩ます。いわば心に執するものがあって、|まったき《ヽヽヽヽ》休息ではないとも言える。仕事もできず、専念すべき営みもなく、営むことは不可能で、気ばらしのかわりに苦しみがある……」
このように「日記」は“死”の連続である。高見順のこのような「日記」は死の日まで書き続けられた。|勿論《もちろん》、自分では書けないから、口述で、秋子夫人が筆記したのだ。胸をえぐられる思いで筆記したのだろう。
こうして死をみつめ、自分自身の肉体をたべて生き、だんだん針のようにやせほそっていった。
昭和四十年八月十六日の朝、駒場公園の一隅にテントが張られ、赤い|幔幕《まんまく》が張りめぐらされ、日本近代文学館建設現場で地鎮祭が行なわれた。
この日、緑の木立にかこまれた式場には、大仏次郎、伊藤整、今日出海、中村光夫、久松潜一ら関係者の他に、鈴木俊一東京都副知事(現知事)、上田常隆日本新聞協会会長ら数十名が参列して、古式にのっとった地鎮祭がとり行なわれた。久松潜一が長老として最初に、ついで大仏次郎、伊藤整がくわを入れた。
また、千葉医大病院に入院中で重体を伝えられた理事長高見順のメッセージが、専務理事小田切進によって読み上げられた。
「みなさま、本当にありがとうございました。はじめに私の申し上げたいことはこれでございます。と申しますより、はじめも終りもこれだけしか申し上げることばを知りません。この建設は私の一世一代の大ぶろしきでしたが、病に倒れた私はふろしきを広げっ放しで何ひとつ力をつくすことができませんでした。にもかかわらずきょうこの記念すべき日を迎えることができたのでございます。かくもりっぱな形で第一歩をふみ出すことになりましたことを一種の感動とともに深い感謝の念でいま私は思い返しているのでございます。そして文字どおり緒についたばかりのこの仕事を、どうかすえ長く見守り、育て上げていただけますよう、千葉の病院から重ねてみなさまにお願いする次第でございます」
これは、三日前、高見順が意識を回復したとき、秋子夫人に口述筆記させたもので、以来、死線をさまよっていた。
この朝、地鎮祭の前に、小田切は高見の病床を見舞いに行った。去る三月十五日、四度目の手術を行なってから|容態《ようだい》は重く、ほとんど面会謝絶が続き、病室には秋子夫人と、手伝いの女性が付きそっているだけだった。
八月に入ってから、|昏睡《こんすい》状態を続けていた高見順は、この日珍しく意識があり、小田切の説明にうなずいて「起工式に出席したいが出来ない、みなさんによろしく」と、小さな声でとぎれとぎれに言った。そして小田切は秋子夫人からメッセージを受け取って辞去したが、そのあと高見は、「早く出かけなければ、遅れるじゃないか」と、うわ言のようにくり返し、手を空に泳がせていたという。「わたくしが一文士として、この運動に心身を傾けているのは、近代日本を再評価し、民族の自信を取戻したいからだ」と、かつて語っていた高見順の心は、幻覚の中で、この式典に参列していたのかも知れない。
その翌日、昭和四十年八月十七日午後五時、高見順は息を引きとった。
それから二年目の、昭和四十二年六月四日、高見順の郷里である福井県三国町の、名勝東尋坊と高見の遺骨が納められている円蔵寺との丁度中間に、壮大な日本海を見下ろして建てられた文学碑の除幕式が行なわれた。
高見の一高時代の同級生である熊谷太三郎(参議院議員・前福井市長)が建設委員長となり、同窓生、作家、ジャーナリスト、出版社等の寄付によって出来上ったのだが、中心は熊谷ら郷里の人たちであった。
|断崖《だんがい》絶壁の上の斜面の松林の中に建てられた碑は、横二メートル、縦一・三メートル、厚さ三十センチの、無造作に荒けずりに四角くけずられた白御影石の、淡い小麦色の肌がいかにもすがすがしい。
おれは荒磯の生れなのだ
おれが生れた冬の朝
黒い日本海ははげしく荒れていたのだ
怒濤に雪が横なぐりに吹きつけていたのだ
おれが死ぬときもきっと
どどんどどんととどろく波音が
おれの誕生のときと同じように
おれの枕もとを訪れてくれるのだ
という「荒磯」という題の詩が刻まれている。しかもそれは高見順のペン字をそのまま拡大して刻んだものである。
東京から川端康成、伊藤整、今日出海、中村真一郎、中野重治、高田博厚らが秋子夫人をかこんで参列した。地元の人たちも百名近く、斜面に、碑を中心にまるくかこんだ。
「僕も、かなり沢山の文学碑を見たんですけどね、こんなに、石も、文句もぴったり場に合った、気持のいい碑ははじめてですね」と、川端康成が感慨深げに語った。
詩の文句ははげしいが、それがかえって高見順のいぶきを生き生きとつたえるようであった。
[#改ページ]

有吉佐和子の離婚
昭和三十七年三月、有吉佐和子が、アート・フレンド・アソシエイション理事長|神《じん》彰と結婚した。アート・フレンド・アソシエイションというのは、諸外国の芸術家や芸能人や団体を日本に招いて上演等を|斡旋《あつせん》する、いわゆる“呼び屋”で、神彰はその道での敏腕家として知られていた人だけに、この結婚は大きな話題となった。
彼女はその少し前、昭和三十六年十一月五日、裏千家の千宗興夫人登三子の兄で、裏千家と関係の深い、美術、茶道関係の出版社淡交新社の常務で東京支社長の塚本史郎との婚約を発表し、二カ月たらずでその婚約の解消を発表して話題をまいた。それからまた二カ月余で、突然神彰との結婚を発表したものだから、一層話題を呼び、あらぬ誤解までうけた。
そのいきさつは、当時の彼女自身のインタビューに|応《こた》えた言葉や、その他の報道によると、大体こういうことになる。
そもそも彼女が神彰と知り合ったのは六年前のことであった。神彰はその頃画家を志していたが、一向にうだつがあがらず、いわば売れない絵を|描《か》きなぐっては天井の節穴を数えているような失業者であった。そういう彼のアパートへ、ある日満洲帰りの友人が尋ねて来て、あちらでのよもやま話の末に、ドン・コサックの歌をうたった。それを聞いて彼は、霊感を受けたように叫んだ。
「その歌だ! 呼ぼう! ドン・コサックを!」
つまり「ドン・コサック合唱団」を日本に|招聘《しようへい》しようという、突飛な考えがひらめいたのである。興行師神彰のアート・フレンド・アソシエイションの誕生であった。しかしその頃の彼はまったくの素人で、外国人を呼ぶこと、契約のことなど|皆目《かいもく》知らなかった。彼はそこでそのことを、佐和子の兄有吉善に相談した。善は、
「そういうことなら、アズマカブキのアシスタントをやってる妹の佐和子の方がいい、紹介しよう」と言った。
こうして神彰と有吉佐和子の初対面となった。
男まさりの佐和子は、神彰に対し、頭ごなしに、あれこれと指示し、神の持って来た不完全な契約書をぼろくそにやっつけた。根っから男気の強い神彰は、むかっとした。何と生意気な女だろうと思った。それっきり、六年間、二人は会うこともなかった。そのうちに神彰は|忽《たちま》ち一流の“呼び屋”としてその敏腕を知られるようになった。
昭和三十六年一月三十一日『中央公論』が、才女作家と敏腕の“呼び屋”との対談を企画して、二人は六年目に再会した。この時はじめて、お互いが相手を見直し、急激に心が通い合ったのである。
対談から十五日目、二月十四日のバレンタインデーに、単刀直入型の神彰は、佐和子を呼び出して道を歩きながら、突然プロポーズした。彼女は突然のプロポーズにとまどった。しかし悪い気はしなかった。神彰の“男気”に少なからず心を|惹《ひ》かれていた。それから|秘《ひそ》かに交際が続き、六月には、彼女はアート・フレンド・アソシエイションの理事という役職にもついた。しかし彼女はまだ迷っていた。神彰の強烈な個性に|蠱惑《こわく》されて、あらゆる意味で、自分を失ってしまうのではないかと|怖《おそ》れたのである。
「私の婚約解消から結婚まで」という伊藤整との対談(『婦人公論』昭和三十七年五月)で佐和子は次のように言っている。
「〈伊藤〉神さんからのプロポーズは?
〈有吉〉猛攻撃でした。電話がかかって来たり、旅先へあらわれたり、私は、初めのうちは、ちょっと面白がったんです。神彰が変だわなんて、友達にも言ったりして。それに変な贈物が届くんです。でもひと月もしましたら私も彼の放射能を浴びて、あやしくなってきて、それからあわて出したんです。
〈伊藤〉抵抗したわけですか。
〈有吉〉抵抗というよりも、どうなるかしらと心配になって来たんです。母や知人にいろいろと相談をしてみたりしましたが、だれも賛成しませんし……。
〈伊藤〉お宅のほうでも……。
〈有吉〉はあ、私は静かな、充実した生活をしたいという理想をもっていたんです。それなのに彼の仕事が仕事でしたから、私自身、お恥ずかしい話ですが、世間|体《てい》ばかり気にしていました」
もう一つ彼女の気に染まないことがあった。神彰が彼女に「君、小説やめられんか」と言ったことである。それは、小説を書くのをやめろということではなく、もし自分と一緒になったら、小説が書けなくなるような状態になるという意味であった。彼女は丁度一番脂が乗りきっていて、小説が書けなくなるような状態ということは考えられなかった。それは彼女に一番堪えられないことであった。
丁度同じ頃、彼女は塚本史郎と知り合った。昭和三十六年の早春のことであった。裏千家の茶事で、東京麹町の「今日庵」へ招かれた時、相客となったのである。
その日、彼女は白地に墨絵で桜を描いた着物を着て、しとやかに坐っていた。その日本的な風情に、史郎は心惹かれた。史郎は若い時から、いい意味での日本的な女性を心に描いていた。彼女はそれにふさわしい女性であった。
彼女の方も、明るくスマートな青年実業家である史郎に好意を持った。二人は時々、芝のレストラン「クレッセント」(音楽用語で「次第に強く」という意味だそうだ)でデートするようになった。史郎は神彰とは対照的な、いわば平凡な常識的な青年実業家であった。彼女の望む「静かな、充実した生活」をする相手としてはふさわしいと思われた。家のものも、史郎には好感を持ち、二人の結婚には全面的に賛成した。むしろその方を推した。
そして彼女は、たまたまその年の十一月五日、神彰の渡米中に、塚本史郎との婚約を発表した。しかしそれ以来彼女は日夜|煩悶《はんもん》しはじめた。彼女の心には神彰のイメージが強く焼きついていたのである。彼女は史郎と婚約するまで、それほど強く神彰のイメージが自分の心に刻みつけられているとは思っていなかった。
「私はね、今だから話せるんですが、婚約した時(註=塚本史郎と)から傷ついたの。毎日毎日が、地獄のような苦しみを味わっていたといえば大げさだけど……」(『週刊文春』昭和三十七年三月五日のインタビューの答え)
彼女はこのために肉体までおかしくなり、吐血したりした。そして彼女は、自分の偽りのない本心を史郎に正直に告白して、了解してもらい、相手をそれ以上苦しめないうちに、二カ月で婚約を解消したのであった。史郎も彼女の気持を素直に了承した。
このようにして彼女は、神彰と正式に結婚したのだが、それがまた二年余で破局となった。しかもそれは、愛し合っていながら別れなくてはならないという、異常なケースであった。その経緯は、「作家として、妻として、私の立場から」(『婦人公論』)という切々たる手記に詳しいが、要約すると次のようなことになる。
結婚して三カ月目、神彰の目算がはずれて、アート・フレンド・アソシエイションは大赤字を出した。そしてその年の暮、彼は佐和子に莫大な金を作るように懇願した。
「結婚する前の約束では、彼は私にいい作家になってくれ、そのために協力する。アート・フレンドは、君に手伝いはさせない。外国の一流の芸術家が来たときだけ妻として一緒に食事するぐらいでいい、ということだった。事実、アート・フレンドのことで私が何かいうと、『男の仕事に口出しするのか』とひどく怒られたし、私も考えてみれば作家であることと妻であることだけで手一杯だった。(中略)だが、暮になって彼の頼みに接して、私は愕然として経営者の妻でもある私を発見したのだった。|彼の信頼している協力者とその家族《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(傍点巖谷)たちを路頭に迷わせるわけにはいかないといった彼の言葉に、私は心を打たれ、無一文になるのは覚悟していたが、ここまで考えていなかったのは迂闊だったと反省した」(「手記」)
彼女は金策に奔走した。幸い結婚に反対した母も友人たちも、快く協力してくれた。どうやら急場をしのぐことは出来た。しかし、その後も経営は思わしくなかった。彼女は原稿料をつり上げ、週刊誌や月刊誌の連載を片っ端から引き受けた。六本の連載を同時に引き受けたこともあった。
この二年間に、彼女は「香華」「助左衛門四代記」「有田川」「連舞」「非色」「ぷえるとりこ日記」と次々に長篇を書きまくった。
その最中に彼女は妊娠した。勿論産みたかったが、アート・フレンドの前途が楽観を許さない状態だと思い、今出産すれば、しばらく執筆は出来ないだろうと思うと、ためらわれた。
しかし、彼は彼女の妊娠を喜んで、絶対に産めと言った。
「無理して書くことが出来なくなりますが、いいのですか」
「うむ、大丈夫だ」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「くどい。君は母親になることだけを考えていればいいのだ。アート・フレンドと君とは関係がないのだ」
「どうして関係がないのよ。私のお金をさんざん使って」
「関係がない。女には口を入れさせない」
「お金は入れても、口は入れられないのですか」
「金がどうした。くれとは言ってないはずだ。借りたものは返す。君は安心していい子供を産めばいいのだ。もう黙っとれ」
そんな会話がかわされた。
彼女は彼をやはり頼もしい男だと思った。こうして彼女は、昭和三十八年十一月、長女|玉青《たまお》を産んだ。
その頃、思いもかけぬ出来事が起った。「彼の信頼している協力者」が、恐ろしい陰謀をたくらんでいたことが発覚したのである。
「シャガールの画集を見てから絵筆を捨てた」という神彰は、その頃、尊敬する画家シャガールの大展覧会を遂に実現させた。シャガールは高齢のために来日出来なかったが、|愛娘《まなむすめ》のイダ・シャガールが来てくれた。大成功であった。
しかし、彼には事業家としての天才的な|嗅覚《きゆうかく》はあったが、事務的な才能には欠けていた。そういうことはすべて他人まかせであった。「協力者」を信頼しきっていた。帳簿を見たこともなければ、実印も「協力者」に預けっぱなしであった。二人が「シャガール展」の成功を喜び合っている間に「恐ろしい企みごと」がなされていた。
「私がそれを知ったのは、退院(註=出産のための入院から)して家に帰って間もなくのことである。叛乱はどうやら幹部のやり方に疑いを持つ若者たちによって、割れてしまっていたらしかった。ある日、この人たちは|神《じん》を訪ねて来て、話が長びいたのか一緒に食事を始めた。時間がきたので私も隣室で食事をしていたのだが、襖一つへだてているだけだから、話し声は手にとるように聞えてくる。が、途中で私は愕然として箸を止めた。木原さんたちの神に対するクーデターは、かなり前から計画されていたというのだ。私は最近になってトップ記事ライターでは一人者と言える草柳大蔵氏から、私たちの結婚披露宴で、彼等はすでに分派活動を起すといい、彼を味方に引入れようとしていたことを知って唖然とした。彼の許可を得て、私はそのときの彼の言葉を正しくここに書いておく。
木原さんは、そのとき私たちの結婚披露宴の進行係だった。会場の手配その他をしてくれた人である。その彼が、披露宴の最中、音楽の聞える中で声高に、
『われわれはアート・フレンドから独立して新しい仕事をしようと思う。もうとても|神《じん》とはつきあいきれないんだ。ついてはその節は、あなたにマスコミ面で協力を願いたい』と言ったというのだ」(「手記」)
彼女はびっくりして夫である神彰に実情を|訊《き》こうとすると、事業のことに口を出すなと|叱《しか》りつけられた。むりに帳簿のことを聞くと、
「そういうことは木原君にまかせて、僕は事業計画と金融をやる。そういう約束ができてるんだ。男と男の間にな」と、強く言った。彼女は引き下がるより仕方なかった。
彼女はがむしゃらに仕事をした。彼も一人で金策に奔走した。彼はもう彼女に金を借りようとはしなかった。一度は出来ても二度は出来ないことを知っていた。
その彼にも次第に実情が判って来たようであった。しかし彼は決して弱みを見せまいとした。彼はもう、家も、別荘も、|骨董《こつとう》も、売れるものはすべて売りつくしていた。
ある日突然、彼は言った。
「君と離婚しておこうか」
彼女はびっくりして、
「どうしてなの?」と言った。
「木原たちが裏からけしかけて、君の家を担保に押えると金を貸した連中に言っているんだそうだ」
「まさか。新憲法では夫の財産と妻の財産を区別しているわ。そんなことは出来る道理がないわよ。いつこの家に踏みこまれたって、あなたのものはもう何一つないのですもの、大丈夫よ」
しかし、彼はもう決意していた。もうこれ以上彼女に迷惑をかけたくないと思っていた。
「アート・フレンドは倒産するだろう。七月まで持ちこたえるには、あまりにも悪質な妨害が多かった。君と離婚したいのは、この家のためではない。それは君の言う法律通りだろう。しかし、多くの債権者の中には本当に困る人たちがいると思うのに、女房に養われてヌクヌクと再建に立上るほど、僕はなさけない男ではないのだ。第一、世間に顔むけができないじゃないか。返せる金だと思うから君にも借りて来たが、返せなくなった今は君も債権者だ。しかも君への返済は、立直ってからでも一番最後になる」
これに対して彼女は、思いつくありとあらゆる言葉をつかって彼の決意を翻えそうとしたが出来なかった。
「君には生活力がある。子供を扶養する能力がある。だが僕には、妻子よりも債権者の方が今は大切なのだ。そして再起するのに僕は女の力を借りたくない。再起したら必ずまた君と結婚するよ。だから子供の親権者は僕にしておいてくれ。子供にものの買える身分になったら、帰って来る。君と一緒にいれば僕には無茶ができない。一匹狼になって一暴れすれば、このくらいの借金はすぐ返せるのだ。そう長い時期ではない。僕は命がけでやりたいんだ。分ってくれ」
こうして彼は「彼の信頼する協力者」に|復讐《ふくしゆう》するために妻子を捨てて立上った。二人は二人の不和のために別れたのではなかった。夫神彰を食いものにする連中の|鉾先《ほこさき》をかわすための、やむを得ぬ“別れ”であった。
神彰を食いものにする連中は、有吉佐和子の金を目当てにしているのだった。彼女は夫のために|獅子奮迅《ししふんじん》の働きをして、しゃにむに書きまくり、金を貢ごうとしたが、駄目であった。結局これは別れるより仕方がないという悲しい結論に達したのであった。一家共倒れになることの悲惨を極力さけたのである。
[#改ページ]

川端康成のノーベル賞受賞
スエーデン王立アカデミーが一九六八年度ノーベル文学賞受賞者を日本の作家川端康成に決定したというニュースがストックホルムから入ったのは、昭和四十三年十月十七日のことであった。川端が夕食を終えて立ち上った時、外国通信社の記者から電話で第一報が入った。
その夜は百人を越える報道陣、お祝い客が川端家につめかけて、|凄《すさ》まじい騒ぎになった。
「ひっきりなしのお祝いの電話や、つめかけた報道陣にごった返す川端邸」
「同邸への細い路地は、訪問客の車でぎっしり。|今《こん》文化庁長官をはじめ、石原慎太郎、立野信之、北條誠といった作家たちも次々に降り立ち、広い邸内は深夜までせわしい喜びに包まれていた」
「紺の和服を着た川端さんは口数がきわめて少なかった。二、三十本もつき出されたマイクの前でつぶやくように答えた」
と十八日付各新聞の朝刊は報じた。
川端康成がノーベル文学貧の有力な候補に挙げられたのは昭和三十七年春からの事で、その三月に来日したノーベル文学賞選考委員のハリー・マチソンが、「授賞候補に日本の作家三人が挙げられている」ことを明らかにした。
三人の氏名には触れなかったが、それが川端康成と谷崎潤一郎と西脇順三郎の三人であるという風評がいつのまにか流れた。以来、毎年川端と谷崎が並んで候補に挙げられ、昭和四十年には三島由紀夫の名も挙った。その頃から十月になると、報道関係は、川端か三島を予測して待機していた。そして四十三年の十月十八日、正式に決定が報じられて、日本中が沸きに沸いたのである。
受賞決定が報じられた翌日、十月十九日の午前、アルムクビスト・スエーデン大使が、川端家を訪れ、授賞を伝える正式のメッセージと、授賞式(十二月十日)の招待状を手渡した。報道陣、祝い客、見物人が川端家を前日以上にとりまき、数人の警官が出て交通整理に当たるほどであった。
授賞の理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」と報じられたが、東洋人としては一九一三年(大正二年)に受賞したインドの詩人タゴールに次いで二人目であった。
川端は、『朝日新聞』に、
「受賞の理由は、第一の“おかげ”として日本の伝統というものがあり、それを作品に書いたからだと思う。第二の“おかげ”は各国の飜訳者がよかったためでしょうが、日本語で審査してもらったらもっとよかった。第三は三島由紀夫君の“おかげ”。昨年候補にのぼりながら、若すぎるということでダメになり、そのオハチが私にまわってきたのでしょう」と語っている。
川端はさらに
「この受賞は大変名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、いしゅくしてしまうんではないかと思います。……受賞したからといって、いまさら、とくにどうということはありません。ぼくはもともと、やくざ者なので」ともつけ加えた。
そして川端康成は、日がたつにつれて、だんだん不機嫌になっていった。
十一月十七日、日本ペンクラブ主催の、受賞祝賀会が催されたが、はなやかな席の、壇上に立たされた川端は、
「女房のいる前で、しゃべったり出来ませんよ」と|挨拶《あいさつ》を拒み、さっさと祝賀の人波の中にまぎれ込んでしまった。
十二月三日、授賞式に出席のためストックホルムに向けて羽田空港を飛び立つことになったが、その日、鎌倉の家を出る|間際《まぎわ》も「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは、行きませんよ」と、突然、不機嫌になって、だだをこねたという。
「羽田空港には、世にも不機嫌な疲れた顔付で現われた。(中略)
待合室が二つとってあった。一つは、プライベイト用、一つは記者会見などをする公式用、交通公社の配慮であった。氏は、二つの部屋を行ったりきたりしていたが、とつぜん、
『ああ、だんだん楽しくなってきました』
と、叫んだ。
『もう明日から、このわずらわしさは、ないのですからね』
そして、随行する私の娘と、同じく随行の石浜春上さんの手を引いて、
『何か買いにいきましょう』
空港の売店の方へ、大股で歩き去った」(北條誠「川端康成・心の遍歴」)
川端夫妻に、女婿の川端香男里、北條誠の娘元子、石浜恒夫とその娘春上といったところが、報道関係を除く一行であった。
授賞式は、十二月十日、ストックホルムのコンサート・ホールで催された。
「紋付のうえに、うすねずみいろのインバネスを羽織った川端さんを先頭に、階段をロビーへ降りてゆくと、待ち構えていた日本の報道陣のカメラマンたちが、夫妻に群がるように素早いシャッターを切りつづけた。
さきのノーベル・カーには、川端さん夫妻と香男里さんとフォルクマン(スエーデン外務省の接待係官)とが乗り、うしろのノーベル・カーには、娘たちふたりと岸恵子(前夜パリから|駈《か》けつけたという。『雪国』の駒子に扮した姿が評判になった女優で、川端が名付親であり、フランスの映画監督イブ・シャンピと結婚の際も保証人として立ち合った)、それから川端さんの小説の英訳者であり今回の受賞記念講演の通訳者であるサイデンステッカーとわたしと、毎日新聞記者で川端さんの甥の秋岡義之くんとが乗った。ストレーメンの対岸の王宮も、ノーベル・カーの車窓から眺め去るストックホルムの街筋も、まだぼんやり暮れ残って明るかった」(石浜恒夫「追憶の川端康成」)
コンサート・ホールの式場では、石浜は最前列の家族席に坐らされて|面喰《めんくら》ったという。この席にはまた日本国の代表として、文化庁長官今日出海夫妻も列席した。
十二月十二日は、記念講演の日であった。この時のことを北條元子は、
「朝から先生はノーベル財団を訪問して、賞金をおうけとりになる。原稿を完成したのも講演のはじまる一時間前。今からではうまくほんやく出来ないと、サイデンステッカー氏がベソをかく。
午後二時から記念講演。壇上の先生は疲れも見せずいつもより少し高い声で話される。
夜七時半から、大使館で大使夫妻主催のレセプション。これで公式スケジュールはぜんぶ終了。ホテルヘ戻ると、
『疲れました』
先生は一言おっしゃって、目をとじられた。十月十七日いらいのお疲れがどっとあふれ出た感じ」(前出「川端康成・心の遍歴」)
とつづっている。
ルチア祭の十二月十三日、川端康成は疲労で倒れ、食事もせず、十五日の夜まで「こんこんと」眠り通した。
「げっそりとやつれた先生の頬に、私はかなしくなる。このすばらしい忍耐力。でも先生の幸せは、いったいどこにあるのかしら」と北條元子は書いている。
この年の十二月、川端康成は、郷里茨木市の名誉市民に推され、翌年の六月には、住んで三十余年になる鎌倉市の名誉市民に推された。
しかし、受賞旅行に立つ前の文章「夕日野」(『新潮』昭和四十四年一月)に次のように書いている。
「作家は無頼、浮浪の徒であるべきだ。栄誉や地位は障害である。あまりの不遇は、その芸術家の意志が弱く忍苦に脆いと、才能までしぼむこともないではないが、逆に声誉もまた才能の凝滞衰亡のもとになり易い。運にめぐまれた私はかねがねその運に抗しかねて来たほどであつた。今後が思ひやられる。(中略)
辞退はもう困難であり面倒である。ただ、小説家なるものは『不名誉』の言行をあへてするにきまつてをり、無道背徳の作品をあへて書くにきまつてゐる、それがなくなれば小説家の死滅であるほどだから、いつなん時『名誉市民』の称号を取り消されてもよい、たいていさういふ事態が生じるだらうと、私はくりかへし強く言つたが、市の人たちは納得がゆかぬやうであつた。賞はその年度のものであるし、文学賞だから作家の不徳に理解もあらうが『名誉市民』は生涯つづく資格とすると、なほ気が重いわけだ。しかし私はあらゆる『名誉』から自由でゐさせてほしい」
[#改ページ]

三島由紀夫の自殺
昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で割腹自決を遂げたというニュースは、全日本を|震撼《しんかん》させた。
三島由紀夫は昭和四十二年四月「ひとり志を抱いて」自衛隊に“体験入隊”したことがある。彼はその時、平岡|公威《きみたけ》という本名で入隊したので、隊員ははじめのうち彼を三島と気付かなかった。
彼は入隊して間もなく、友人の評論家村松剛に次のような手紙を送った。
「前略
出発前はいろいろお世話になりました。軍隊生活もすでに十日、すつかり体も馴れ、三度三度の隊食もペロリと平らげ、朝は六時の起床ラッパと共にはね起き、快晴の富士を目前に、千五百の駈足、爽快きはまる生活です。小生のストイシズムはここで完全に満足されました。ここでは何しろ、ストイシズムは何ら奇癖ではなくて美徳なのですからね。
簡素単純、何ら不必要なもののない生活は、小生が久しく求めてゐたものです。それに昔の軍隊のやうに陰惨ではない。しかし軍隊は結局人間だといふ当り前な発見をしました。ここでの人間関係はすぐ耳に入り、そのバカバカしさも頗る面白いものです。目下、戦術の勉強をしてゐます。帰つてから煙に巻いてあげませう。(中略)
この厖大な組織が、あるかどうかわからぬ戦争といふものへ向けられた巨大な『イリュージョンの組織体』だといふことに、面白味を感じます。しかも今の志願制度だと、軍費の七、八割は人件費なのですから、イリュージョンのために、ものすごい金が、人間に支払はれてゐるわけです。同じイリュージョンでも、文士に支払はれる金は何と僅少でせう!
都知事選挙は小生の思ふやうになりましたね。アメリカには、ピリリとした刺戟になつて、いいのではないでせうか?
御健闘を祈りつつ
四月二十三日
[#地付き]平岡 公威」 
彼はこの時はじめて本名で村松に手紙を出した。
入隊の二日前、三島のために、村松とS編集者がささやかな壮行会を開いた。その礼状でもあった。
小宴は紀尾井町の「福田屋」という料亭で催された。彼はこの小宴を非常に喜んで、子供のようにはしゃいだ(彼の入隊はこの段階では、少数の知人以外には極秘にされていた)。
編集者のSがにがりきった顔で、
「三島さん、あんまり馬鹿なことをしないで下さいよ」と言うと、彼は子供がいたずらを見つかった時のように、おどけた表情を見せた。
この頃彼は、ひそかに民兵方式による国土防衛組織を作ることを考えていた。フランスの当時の国防相メスメルが、抵抗パルチザンの恒常的組織化としての民兵を考え、フランスの軍隊を少数の通常軍と民兵の核としての部隊とに分ける――ほかに核戦略部隊がある――計画を発表した。その論文を村松が彼に送り届けた。彼はこの他、カナダ、ノルウェー、スイスなどの民兵組織についても研究していた。「祖国防衛隊」は彼の構想では、民兵の核になるはずであった。
しかし、こんな|厖大《ぼうだい》な構想が、一人の文士の手で実現されるはずがなかった。彼は何人かの財界人を説いて廻ったが、当然のことながらその結果は思わしくいかなかった。彼はこの構想を一年あまりで断念した。彼は次に小規模の「祖国防衛隊」を考えた。十数名の青年が彼の考えに賛同した。その十数名を引き連れ、彼は翌年の春、再び自衛隊に集団入隊した。
しかし、集団入隊するのに「祖国防衛隊」では、そこらの既成の右翼団体と一緒にされる|怖《おそ》れがあるので、「楯の会」ということにした。|勿論《もちろん》「|醜《しこ》の|御楯《みたて》」の「楯」である。
こうして「楯の会」は、昭和四十三年十月に結成された。
「間接侵略に対処するために民間防衛の一翼を担う」というのが発足の趣旨であった。主として学生を中心とした組織で、彼はその隊長であった。
彼は「楯の会」のために、華麗な制服を作った。制服が出来上ったのは四月で、高輪プリンスホテルで、制服を着用しての最初の会合が催された。
この日、隊員以外の人でただ一人招かれたのが村松剛だった(その一年半後、国立劇場で「楯の会」の正式な発表パレードが行われた)。村松は、大きな|金屏風《きんびようぶ》を張りめぐらしたそのかげから、次々に制服に着替えて出て来る青年の姿を見て目を見張った。
意匠を高名なデザイナーに依頼し、自分もいろいろ注文をつけて出来上ったこの制服に三島は満足していた。ただ、銃砲刀剣類所持等取締法の規則に抵触しないように、剣の長さを短かくして、結局、ペーパー・ナイフのようなものになってしまったことだけが不満だった。
彼の「楯の会」は、世間では冗談半分ないし彼特有の演出と受けとられた。それが彼の「偽装」でもあった。ハデな制服にしたのもその一つであった。彼は「楯の会」を、あまり厳粛に紹介することによって「機が熟する以前に」社会を過度に|刺戟《しげき》することを怖れていた。
『平凡パンチ』のような娯楽的な週刊誌にとくに「楯の会」を取材してもらったのも、彼の「深謀遠慮」であった。
「楯の会」の費用は、結局どこからも寄付を仰がず、全部彼が負担した。
夏冬二着の制服、“体験入隊”の宿泊費等は隊員が最後には百名余もいたから、総額にしたら、月に二百万を下らなかった。
寄付を申し出た人も幾人かいた。しかし彼は、それを固辞した。はじめの目的の「民兵組織」ではなく、いわば彼の思想に賛同する小集団であったから、経済的にも純潔であることが望ましいと彼は思ったのだ。
「楯の会」の趣旨にあるように、三島は「楯の会」を、騒乱の際の自衛隊の|尖兵《せんぺい》としようと思っていた。しかし、いかに尖兵になっても、本隊の自衛隊が動かなければ何にもならない。そこで彼は、自衛隊員と密接に接触して、その意向を|執拗《しつよう》にたしかめようとした。
“体験入隊”で、厳しい訓練を受けるかたわら、|休憩《きゆうけい》時間には幹部と常に接触し、ディスカッションをたたかわした。そんな時、彼の、日本の文化や伝統を、天皇を中心として守って行こうという考え方までは隊員も納得了解するものが多かったが、その先、彼が「自衛隊は今の憲法を守って行くつもりか」という話になると、意見がどうしても対立した。それが彼には歯がゆくて仕方がなかった。
そのもどかしさが、
「われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待たぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真の姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」という「|檄文《げきぶん》」になったのだ。
「十九日の四時十分に、楯の会の者を連れて五人で行きます。各人、白黒の無帽、半身の写真を一枚ずつと、着帽のものを一枚ずつ。それに五人全員一緒の写真を、モノクロとカラーとで撮って下さい」
半蔵門の東條会館写真部の新地保のところに三島から電話がかかったのは十月十五日のことであった。
彼はその日、四時十分きっかりに、四人の隊員を連れて東條会館へやって来た。全員レンガ色の華麗な「楯の会」の制服であった。
撮影の打合わせで、彼と撮影技師新地保との間に口論が起った。彼は、
「半身写真はバストから上を撮ってくれ」
と言った。ところが新地は腰まで入れると言ってゆずらなかった。
「あなたのようなウマヅラが、その上にまた帽子をのっけて、バストから上じゃ、サマになりませんよ」
すると彼は、むっとしたような顔で、
「|たいへん《ヽヽヽヽ》な用に使うんだから、僕の言うことを聞いてくれ」と言った。
「じゃあ、私には撮れません」
十分ほどもめごとが続き、彼が、
「じゃあ、両方の言い分の中間にしよう」
と折れて、おさまった。
「うまく撮ってくれよ」と彼は言い、「この人はきれいに写真を撮る人だから、おまかせしよう」と、皆に笑顔で言った。
ところがあとの四人、森田、古賀、小川、小賀は、妙に固くなって、顔面も|蒼白《そうはく》だった。
表情をやわらげるため、新地が、ふざけて
「気をつけえッ!」と叫んだりした。
最後に五人が並んだ。彼はぐっと目をむいてみがまえた。新地は、その目があまりにも狂人の目のようで、気味が悪かったので、
「先生、そのグリグリ|眼《まなこ》をなんとかして下さい」と言った。
すると彼は、
「いや、このどんぐり眼のままでやってくれ」と言った。止むなく新地はそのままでシャッターをきった。
普通、東條会館では、写真の出来上りは十八日かかった。新地がそのことを言うと、彼は、どうしても今月中に仕上げてくれと言った。そして、十一月一日に、彼自身が写真を受け取りに行った。
なお、十九日の撮影のあと、彼等五人は、東條会館内のレストランを借り切り、ウエイトレスも寄せつけず、食事をした。その時、彼等五人の|役割《ヽヽ》が決められたのである。
十一月十二日から十七日まで、池袋東武デパートで「三島由紀夫展」が催された。
東武デパートの元橋宣伝課長が、七月三十一日に電話し、八月五日に彼の家を訪問して、その企画を申し出ると、彼は快く承諾した。
「私の全部をお見せしましょう」と言って、自分から内容の検討、配列の仕方を引受けた。
彼は「書物」「舞台」「肉体」「行動」の四つの河が「|豊饒《ほうじよう》の海」へ流れるような形に構成した。彼はこの展覧会に異常なほど熱を入れた。十回以上も打合わせをし、オープンの前日には、展示物の配置から、説明文まで、四時間もかけて、全部自分でやりとげた。
展示にあたって、彼は、
「この“関の孫六”と、天皇陛下から贈られた銀時計だけは、絶対に大切にして下さい」と、くどいほど何度も言った。
彼は、展覧会場の“四つの河”のすべてに、自分で説明文を書いたが、その一つの“肉体の河”の一節は次のような文章である。
「……しかし肉体には、機械と同じやうに、衰亡といふ宿命がある。私はこの宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもつとも危険な道を歩かされてゐるのである」
また“行動の河”の一節には次のように書かれている。
「肉体の河は、行動の河を自然にひらいた。女の肉体ならそんなことはあるまい。男の肉体は、その本然の性質と機能によつて、人を否応なしに、行動の河へ連れて行く。もつとも怖ろしい密林の河。鰐がをり、ピラニアがをり、敵の部落からは毒矢が飛んで来る。この河と書物の河とは正面衝突する。いくら『文武両道』などと言つてみても、本当の文武両道が成立つのは、死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。(中略)たゞ、男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである」
この展覧会の最中の十五日に、彼は、二十年間の親友伊沢甲子麿に電話をかけた。
「どうしても、今日会いたい。時間をつくってくれ」
その夜七時半、彼は伊沢と帝国ホテル十七階のバーで待ち合わせた。窓際の席で向い合って、十一時半まで二人は|呑《の》んだ。ブランデー四杯ずつ、|牡蠣《かき》とサンドイッチをさかなにして呑んだ。
彼は、美しい日本の文化がだんだん壊れていくのを嘆き、清宮(島津貴子)がデパートの店員になりさがったことを慨嘆した。
思想と行動が一致していた人として尊敬していた吉田松陰のことを、しきりに話した。そのあとで、
「五十年以上は生きたくないね。西郷隆盛が死んだのは五十だが、あれが限度だね」と言った。
彼の話は、内容的には、かなり激しいものであったが、その話す口調は、とくに激するでもなく、はじめから終りまでおだやかで、ときどき例の大声の笑いをまじえた、いつもと少しもかわりのない、明るいリラックスしたものであった。
「……『豊饒の海』は終りつつありますが、『これが終つたら……』といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジヤのバイヨン大寺院のことを、かつて『癩王のテラス』といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあと、一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と一ト並べにされることにも耐へられません。いはば、増上慢の限りであります。
それはさうと、昨今の政治状勢は、小生がもし二十五歳であつて政治的関心があつたら、気が狂ふだらうと思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ『日本』は、無視され、軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の『日本』が、小生には可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく、身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、彼女はもう一度女にしてやることができたのでした。(中略)彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ『日本はどうなつて行くのだ? 日本はなくなつてしまふのではないか』と心配さうに訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。『これでいいぢやないか、結構ぢやないか、角を立てずにまあまあ』さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。(中略)どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレツとし、ダラツとしてゐます。烈しい精神は時代おくれになり、このごろのサラリーマンは、ライスカレーさへ辛くて喰べられず、お子様用のライスカレーを注文するさうです……(下略)」
これは、彼の死の一週間前、十一月十八日付で、彼の学習院中等科時代の恩師、清水文雄宛に送られた、暗示に満ちた手紙の一節である。
そして十一月二十日、彼は、ホテルオークラの、行きつけの理髪店「ヨネクラ」へ行った。
「ヨネクラ」の理髪師佐藤英明は、彼の頭を刈りながら、
「先生はご自分の本で何が一番印象に残っておられますか」と|訊《たず》ねた。彼はすぐに、
「『金閣寺』だ」と答えた。そして「一番、精いっぱい作家生活を打ち込んでいるのは『豊饒の海』だね」と言った。
佐藤はたまたま「金閣寺」の初版本を持っていたので、
「それでは、値が出るかも知れませんね。こんど『金閣寺』を持って参りますから、サインをお願いします」と言った。すると彼は、
「うん、近いうちにうんと値が出るかも知れんぜ」と、一瞬、目をキラキラとかがやかせて、カラカラ笑いながら言った。
十一月二十一日、午後六時、三島は若い一人の男を連れて、赤坂二丁目の薩摩料理の店「鶴丸」に姿を見せた。二人共背広の上に、同じカーキー色のダスターコートを着ていた。彼の方はアタッシェケースを手にさげていた。
「いまそこでエビをたべて来たんだが、小さくてあまりおいしくなかった。うんと大きいのを食べさせて下さい」
彼はそう言って料理を注文した。
銚子を二本ほどとり、二人は小声で何かしんみりと話し合っていた。
それは彼と森田必勝との“かための|盃《さかずき》”であった。
勘定は一万六千円だったが、彼は何かぼんやりしていて、一万円札を三枚出し、店のものに指摘されて、苦笑して一枚だけ引っこめた。そしてテレかくしのように、
「ああ、こんなにおいしい店は東京に一軒しかない。また来るよ」と言った。
彼はそのまま一路、南馬込の自宅に帰った。
するとそこへ「浪漫劇場」の演出部の和久田誠男がやって来た。来年二月公演予定の「サロメ」の打合せである。その演出を三島がやることになっていた。
彼は例によって、普断と変りなく|諧謔《かいぎやく》をとばしながら高笑いして話し合った。
夜十一時半頃、夜食をたべに六本木へ出ようということになった。
外に出る前に彼は和久田を、三階の居間に案内した。そこには、中央に“|癩王《らいおう》のテラス”の像があり、左に自分のブロンズ像、右に自分の英訳された本が並べてあった。
「いいだろう。癩王をまん中に、左に僕の肉体、右に僕の精神があるんだよ」と彼は|嬉《うれ》しそうに説明した。
六本木は「|福鮨《ふくずし》」にしようと彼が言った。瑤子夫人が車の運転をした。
彼はスエードの|半袖《はんそで》シャツ姿であった。
車の中で彼は、映画「憂国」が外国のある映画祭に出品されることになったという話をし、
「ほらみろ、瑤子」と、得意そうに言った。「|俺《おれ》は常に十年先を見ているだろう。わかってくれる人はわかってくれるんだ。『憂国』が認められたじゃないか。おまえは目先のことにこだわりすぎるよ」
瑤子夫人は運転席から、
「あれは、まぐれ当りでしょう」と笑って答えた。
「福鮨」では日本酒を呑んだ。和久田が彼に
「最近先生はあちこちで本を出されますね。すこしあせっていらっしゃるんじゃないんですか」
と、ぶしつけな質問をした。彼は、
「そうかね。ま、『豊饒の海』が終ってからを見てほしいね」と言った。
「終ったら、どうなさるんですか?」と和久田は、たたみかけるように訊ねた。彼は、ニヤリと笑って、
「それはね、きみ、死ぬよりほかないじゃないか」
そう言うと、彼は、ワッハッハッと|哄笑《こうしよう》した。が、すぐに隣りの瑤子夫人に気づくと、
「あ、これは、俺の家ではタブーだったな」と笑いながら言った。「死」を口にすることは、彼の家族の間ではタブーになっていた。
鮨が出た。彼はイカは喰べなかった。彼はイカとかカニが大嫌いだった。それは、イカもカニも、|躯《からだ》から血が出ないから嫌いだというのだった。
「福鮨」を出たのは十二時半だった。
「この辺に一晩中やっているスーパーが出来たらしい。車をまわしてみよう」と彼が言った。しかしそれは見つからなかった。
冷えきった深夜であった。スエードの半袖シャツ姿の彼は助手席で寒さにふるえた。夫人から、「その膝かけをかぶったら?」と言われ、彼はそれをすっぽり頭からかぶった。
十一月二十四日、午後二時、彼は四人の楯の会員を連れて、丸の内皇居前のパレスホテル五一九号室に入った。他の四人は、森田必勝、古賀浩靖、小賀正義、小川正洋で、いずれも二十代の青年である。最後の密談が行なわれたのだ。
午後三時、彼は新潮社に電話をかけた。
「『豊饒の海』の原稿をあす十時三十分に取りに来て下さい」
それから、最高裁記者クラブのNHK記者伊達宗克と『サンデー毎日』編集部の徳岡孝夫に、次のような同じ趣旨の電話をかけた。
「あすお会いしたい。明朝十時五分にもう一度お電話しますから、居場所を教えて下さい」
午後六時五分、彼ら五人は、新橋の料亭「末げん」に入った。
五人とも、いつもはスポーティなポロシャツスタイルなのに、この日に限って、背広にネクタイをきちんとつけていた。
料理は彼の好きな鳥鍋にビールであった。
彼以外の四人は、妙に固くなっていた。彼だけが一人ではしゃいでいた。みんなの気持をやわらげようと、
「ほれ、呑めよ」とビールの酌をした。
女中が、
「あら、私がおつぎします」と言うと、
「いや、今日は僕がつぐからいいよ」と言った。
少し酔いがまわると、彼は|箸《はし》を|仕込杖《しこみづえ》のかわりにして、
「勝新はな、こうやるんだ」と言いながら、目をパチパチさせて、座頭市のまねをしたりした。
しかし、四人の隊員は、ほとんど笑いもしなかった。
翌二十五日、午前九時半、彼の家に四人の隊員が迎えに来た。彼は既に「楯の会」の制服に身をかため、名刀“関の孫六”を腰につけて玄関に待っていた。
市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地の門をくぐったのは午前十時四十五分であった。
既に「楯の会」隊員中三十三名が、市ヶ谷駐屯地に隣接した「市ヶ谷会館」に集合していた。
『サンデー毎日』編集部の徳岡孝夫は、その日、いつもより早目に社に出た。午前十時五分、前日の約束通り、三島から電話がかかって来た。いつものように、丁寧な言葉遣いで、声も落着いていた。
「自衛隊市ヶ谷駐屯地のすぐそばにある市ヶ谷会館に、十一時においで下さい。玄関に楯の会の制服を着た倉田か田中という青年がいます。では十一時に」
電話は簡略であった。徳岡は指定の十五分前に市ヶ谷会館に着いた。会場案内に「楯の会例会、三階」と書いてあった。
玄関にいた制服の青年に声をかけたが、倉田でも田中でもないと答えた。三階の例会場をのぞくと三十人ほどの隊員がカレーライスをたべたりコーヒーを呑んだりしていたが、倉田と田中はそこにもいないと言われた。
ロビーでしばらく待って、丁度十一時五分になると、さっき玄関で合った青年が、
「自分が田中です。先程、お訊ねを受けましたが、時間を厳守せよと命じられていましたので……」
用意周到な仕組み方に、徳岡は、これはただごとではないと感じた。田中という青年が差し出した手紙をひったくるようにして開いた。
「前略
いきなり要用のみ申し上げます。
御多用中をかへりみずお出でいただいたのは、決して自己宣伝のためではありません。事柄が自衛隊内部で起るため、もみ消しをされ、小生らの真意が伝はらぬのを怖れてであります。しかも寸前まで、いかなる邪魔が入るか、成否不明でありますので、もし邪魔が入つて、小生が何事もなく帰つてきた場合、小生の意図のみ報道関係に伝はつたら、大変なことになりますので、特に私的なお願ひをして、御厚意に甘えたわけであります。
小生の意図は同封の檄に尽されてをります。この檄は同時に演説要旨ですが、それがいかなる方法に於て行はれるかは、まだこの時点に於て申上げることができません。
何らかの変化が起るまで、このまま、市ヶ谷会館ロビーで御待機下さることが最も安全であります。決して自衛隊内部へお問合せなどなさらぬやうお願ひいたします。
市ヶ谷会館三階には、何も知らぬ楯の会会員たちが、例会のため集つてをります。この連中が、警察か自衛隊の手によつて移動を命ぜられるときが、変化の起つた兆であります。そのとき腕章をつけられ、偶然居合せたやうにして、同時に駐屯地内へお入りになれば、全貌を察知されると思ひます。市ヶ谷会館屋上から望見されたら、何か変化がつかめるかも知れません。しかし事件はどのみち、小事件にすぎません。あくまで小生らの個人プレイに過ぎませんから、その点御承知置き下さい。
同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノーカットで御発表いただきたく存じます。
事件の経過は予定では二時間であります。しかし、いかなる蹉跌が起るかしれず、予断を許しません。傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものであることを御理解いただきたく思ひます。
万々一、思ひもかけぬ事前の蹉跌により、一切を中止して、小生が市ヶ谷会館へ帰つて来るとすれば、それはおそらく十一時四十分頃まででありませう。もしその節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好いお願ひ乍らお願ひ申上げます。
なほ事件一切の終了まで、小生の家庭へは直接御連絡下さらぬやう、お願ひいたします。
ただひたすら一方的なお願ひのみで、恐縮のいたりであります。御厚誼におすがりするばかりであります。願ふはひたすら小生らの真意が正しく世間へ伝はることであります。
御迷惑をおかけしたことを深くお詫びすると共に、バンコック以来の格別の御友誼に感謝を捧げます。
[#地付き]匆々  
十一月二十五日
[#地付き]三島由紀夫  
徳岡孝夫様
二伸 なほ同文の手紙を差上げたのは他にNHK伊達宗克氏のみであります」
徳岡は急いで同封の“檄”をひろげた。心臓が早鐘のように打っていた。長い文章を追っていく自分の目の動きがもどかしかった。やっと最後のパラグラフまで来た。
「しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ」そして「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」――
写真が七枚入っていた。一枚を除いて、すべて写真館で撮ったフォーマルなものであった。五人一組が一枚、一人ずつが五枚、森田必勝のだけが別に一枚。それぞれに裏面に姓名、生年月日、出身地が自筆で書きこまれていた。森田の字は、分厚い印画紙の表面に跡が出るほど、強い筆勢で書かれていた。「必勝」という名の物凄い語感に徳岡は感電したようになった。
そばで同じように封筒の中身を読んでいたのはNHKの伊達宗克であった。徳岡と伊達は初対面であった。二人とも真青な顔で名刺を交した。
「どういう意味でしょう」
「ただごとじゃありません。あッ、パトカーが来た! また一台来た!」
ロビーの窓から本部総監部の正面が間近に見えた。二人は手紙の|示唆《しさ》に従って、屋上に駆け上った。駆けながら、手紙と檄を左右に靴下の中に隠した。
屋上から望見する総監部バルコニー前の広場には二、三台の車が集まり、人の騒ぐ気配がした。時計は間もなく十一時四十分を指そうとしていた。〈三島がこの時刻に帰って来ないとすると、檄に言う「この挙」が決行されたことは明白だ。すぐ行こう!〉
二人は、腕章をつけて、屋上から駆け降り、総監部へつっぱしった。
バルコニーから、先ず檄がまかれた。続いてたれ幕が降りて来た。
「楯の会隊長、三島由紀夫と……は、東部方面総監を拘束し、総監室を占拠した」
「全自衛隊を集合せよ」
「二時間は攻撃を加えるな」
といった五つの要求が墨で書かれていた。たれ幕からは古風な風鎮がぶらさがっていた。
やがて三島由紀夫が、楯の会の制服姿で現われ、バルコニーに仁王立ちになった。帽子はなく、「七生報国」と書いた、中央に日の丸のついたはちまきをきりりとしめていた。
「日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、精神的にはカラッポになってしまってるんだぞ。きみたちそれがわかるかッ!」
それが彼の第一声であった。
全員招集をかけられた自衛隊はバルコニーの前庭に千人近く集まっていた。
「……自衛隊にのみ真の武士道が残っていることを私は夢見た。……自衛隊を名誉ある国軍とするために……しかるに昨年の十月二十一日には……」と、彼は叫び続けた。
「このヤロー!」
「ちんぴらァ!」
「英雄気取りしやがって!」
大声の|罵声《ばせい》がとんだ。彼は、
「静聴せーい!」とやりかえした。「われわれは心から自衛隊を愛してきたんだ!」
「えらそうなことを言うんなら、お前はなぜ、われわれ同志を傷つけたんだ」と隊員の一人が叫んだ。|間髪《かんはつ》を|容《い》れず彼は「抵抗したからだ!」とやりかえした。
「俺についてくる|奴《やつ》は一人もいないのか!」という彼の声は罵声におしつぶされた。
「よおし、諸君は憲法改正のために立上がらないという見通しがついた。それでは、ここで天皇陛下万歳を三唱して演説を終る」
それが彼の最後の言葉であった。
彼は万歳を三唱すると総監室にとって返した。午後十二時十五分であった。そこで彼はやにわに上衣を脱ぎ、上半身裸になった。
東部方面総監益田兼利は、猿ぐつわをはめられ、楯の会の他の四人に押えつけられていたが、しぼるような声で、
「やめんか! |命《いのち》を大切にしろ!」と叫んだ。
しかし、彼は益田の三メートル左側のじゅうたんの上に正坐すると、
「やァッ!」と大声を上げざま、短刀を腹に突きたてた。間髪を容れず、森田必勝が、|介錯《かいしやく》の|刃《やいば》をふり上げた。一度では切れず、三太刀か四太刀斬りかけたが、やはり斬れなかった。タイミングが狂ったらしい。その後古賀がかわって一太刀で斬り落した。
益田が「祈れ!」と叫んだ。楯の会の四人が涙を流して合掌した。
続いて森田が|自刃《じじん》した。隊員の古賀が、一刀のもとに森田の首をはねた。
その日、十一月二十五日は、旧暦の十月二十七日で、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死した日であった。
[#改ページ]

瀬戸内晴美の得度
昭和四十八年十一月十四日、突然瀬戸内晴美が、平泉中尊寺に|於《おい》て|得度剃髪《とくどていはつ》して、人々を驚かせた。
世人には突然のことのように思われて驚かされたが、彼女自身にとっては、それは突然のことではなかった。
十年余もさかのぼって、昭和三十七年七月から、瀬戸内晴美は『週刊新潮』(二十九日号)に「女徳」を連載しはじめた。その取材のため京都を訪れ、仏教書を置いてある古書店を見て廻り、寺々を訪ねて得度の様式を学びとろうとした。それはまったく取材のためであった。
ある日、古書店で仏教書を開いて見ていると、質素な法衣をまとった老僧が傍へ寄って来て声をかけ、
「智積院を訪ねたらよい」と、重みのある口調で言い、じーっと彼女の顔をみつめて、「あんたが得度なさるのやな」と言った。
彼女はびっくりして、「いえ、小説の取材のために来たのです」と、あわてて言った。老僧はおだやかに笑って、
「そのうち、あんた自身の役に立つやろな」とつぶやいた。その言葉がなぜか彼女の心の底に、溶けぬ石のように残った。その頃から彼女は次第に放浪を夢み、出家|遁世《とんせい》に|憧《あこが》れを抱くようになっていった。
昭和三十八年の暮、練馬区高松町の家から関口町の目白台アパートに移り、翌三十九年の暮には中野本町通りに移った。その家はもと質屋だった蔵のある家で、そこに一人の男と|同棲《どうせい》していた。それは三年ほど続いたが、次第にすさんだものになっていった。
「……お互いが傷つけ合うだけの愛の末期の地獄の中にいて、私たちは互いの踵にとりつけられた鎖の重さによろめきながら、それを断ちきってくれる何か奇蹟のようなものを待ち望んでいた。男が造り直してくれた蔵の二階の書斎の中に、囚人のように自分を縛りつけ、せまい窓の鉄格子に向って、私は終日坐っていた。髪を逆立て、青黒い顔に目を血ばしらせ、あさましい鬼のような顔になって私は男とのくらしをささえるため、身分不相応の家賃を払うため書きつづけていた。毎晩正体もなく酔って帰ってくる男を珍しくなじった朝、男は宿酔のむくんだ顔をそむけていった。
『この家へ入るのに素面で入れると思ってるのか。あなたが仕事している時、家の中へ一歩入ると、空気は堅い硝子のように冷く張りつめていて、人をはじきかえすんだから』
ああ、この男とも愈々別れる時が来たと思った。それまであれこれ聞いていたいいわけや厭味よりも、男のいう硝子のような空気の堅さと冷さが私にも肌に感じられる実感として伝わってきた」(瀬戸内晴美「世外」――『辺境』第二次第二号)
こうして男と別れ、彼女は、京都西ノ京原町の「化物屋敷のような」大きな家に移った。その家を買うための五分の一の金しか持っていなかったが、家主の老人は、残額を年賦払いでいいと言った。彼女は八年間、重い借金を背負い、しゃにむに書き続けた。
一方彼女は、元住んだことのある目白台アパートにも一室を借り、仕事部屋と、新しい男とのしのび|逢《あ》いの場所にした。
「私は京都の家に留守居の少女を三人も置き、自分は東京のアパートの地下室の仕事部屋で暮し、てんやものばかり食べるという常識はずれの採算の合わない暮し方をつづけ、物嘲いになった。行き当りばったりで衝動買いをしたり、気分で後先の見境いなく人にものをあげてしまったりするのは、ひとりで暮すようになって以来、いつのまにかついてしまった癖だった。浪費家で無計画で引越気違い。私の暮しぶりはいつでも八方破れの破滅寸前だ。私が結婚していた頃、夫の少い給料をいくつもの封筒に使用別にわけておき、家計簿を丹念につけた家持上手の妻だったなど話しても、今では誰が信じてくれよう」(同前)
昭和三十九年から四十五、六年にかけて、彼女は一番広く活躍している。しゃにむに書きまくっているし、テレビのインタビュアーにもなっている。誰に気がねなく、働いた自分の金で、着たいものを着、美味を探究し、時には男を引き入れ、一人住いには広すぎる家を二軒持って、思いのままの、いわばぜいたくな暮しをしていた。二つの家で、和風と洋風の生活様式を並行に味わった。しかし、それも何か空しいものに思われた。
昭和十八年、結婚するまで、彼女には恋らしい恋はなかった。しかしその逆に、終戦直後、離婚後は、出家するまで三十年の間、彼女に恋の伴わない日はほとんどなかった。何度も何度も恋をした。
「私は恋をいけにえにして噛みくだいた心臓の血で小説を書いた。私が飽きもこりもせず、男と女のかかわりを書きつづけたのは、いくら書いても、私の愛が不如意を訴えつづけるからであった。何事にも切れっぱしの関心では満足出来ず有縁と思いこめば、全身全霊で関わらねばすまない不自由な性質だった。人でも物でも、私は一度関わったら最後、命がけの愛情を注ぎこまずにいられない。そういう愛が過剰で、相手が受けとめきれないとわかるまで三十年の歳月と、いくつもの恋のなきがらを踏みこえなければならなかった」(同前)
まさに阿波女の典型である。情が濃いのだ。ただひたむきに、休む間もなくコマのようにきりきり自転しながら、砂漠の水を|需《もと》めるような渇きで、ある時は、永い漂泊の旅に憧れて出かけ、またある時は、激しい死の誘惑が彼女を襲いはじめた。
「本郷ハウスの十一階に仕事場を構えてからは、その誘惑はいっそう私にとりついてきた。十一階の窓から下はさえぎる物のない垂直の壁だった。その窓に肘をつき、上体を乗りだし、私は毎夜のように踏みつぶされた凧のように地に伏している自分の死体をまざまざと見た。なぜ、そんなに死にたがるのかと訊く自分の声に、鸚鵡がえしに、こんな世の中にまだなぜ生きていたいのかと訊きかえす声がかえってくる。凧のような自分の死骸を見下しながら、私は一年間『抱擁』を書きついだ。『死』を小説に封じこめる作業が終った時、私はもう、出家するしかない自分を見出していた」(同前)
昭和四十五年頃、彼女が仕事場にしていた目白台アパートに、円地文子も「源氏物語」現代語訳の仕事のために一室を持っていた。ある日彼女は、円地文子の部屋を訪れ、例の笑顔を見せながら、それとなく、自分がいま出家したい心境にあることを話した。すると円地は、きっとなって、
「だめですよ、そんなこと。いやよ私は。あなたが尼さんになるなんて、いやですよ」と言った。それがあまりに|一途《いちず》な口調だったので、彼女はそこに肉親のような愛情を感じて黙ってしまい、冗談のような顔をしてまぎらわした。
それから|暫《しばら》く歳月がすぎた。彼女は、表面は以前と変らず、こつこつと作品を書き続けていたが、いつも心の片隅から消えなかったのは“出家”のことであった。もう一人、彼女の“出家”を最後まで反対し続けた人がいた。それは郷里徳島の七十を越した叔母であった。叔母は、
「お母さんが生きていたら、どんなに嘆くことでしょう」と言って、しきりに止めた。
しかし、昭和四十八年の秋立つ頃、彼女の決意はもう不動のものとなった。最後まで反対しつづけた叔母に彼女は電話をかけた。
「叔母さん、自殺や心中するよりいいでしょう」
叔母は電話の向うで一瞬絶句した。そしてしばらくして、
「そりゃあなあ、二、三年前から、私はあんたが自殺するんやないかと、本当は夜も眠れんことが多かったんよ」と言った。
「だからあきらめなさい。死ぬんじゃないんだから、今よりもっと逢えるんだから」
「ほな、もうあきらめます。でも私は式には出ませんよ。何でそんなむごいこと目の前で見られるもんか」
叔母は涙ぐんで電話を切った。
親しくしていた|城《じよう》夏子に電話をかけて、自分の決意を告げた。
「あなたはそういう人よ。止めないわ。これからはきっと、もっと素晴らしい恋愛小説が書けると思うわ。でも、|淋《さび》しいわね」と城は言った。そして次の日、雨の中を、ペリカンの黒い万年筆を届けてくれた。城はその時、どうしても入口から上ろうとせず、
「ただ顔を見るだけでいいの、これからも小説を書くことをやめないようにという意味よ」と言った。
彼女は円地文子に告げるのが一番つらかった。あの、むきになって反対した一途な顔が眼に浮んで困った。それでもだまって別れて行ってしまう気にもなれなかった。勇を|鼓《こ》して電話をかけた。今度はもう、そんなに強くは反対しなかった。そして翌日の朝、今度は円地の方から電話があって、
「昨夜は一睡も出来ませんでした」と言った。その電話を聞いて彼女ははじめて涙をこぼした。
恩師の丹羽文雄にも、仲好しの横尾忠則にも電話で別れを告げた。河野多恵子には得度に立会ってもらいたいと思って、一緒に来てほしいと頼んだが、
「怖いからいや」と断わられた。
十一月十三日、真暗に暮れきった夜の|闇《やみ》の中、彼女は一の関の駅に降り立った。
「プラットホームには、俊子(註=晴美)の外に人影もない。線路の向うに、黄色い灯に映し出されている小さな駅の建物は、水の中の家のように、灯も硝子も人も、冷え冷えと濡れて見える。
深海魚めいて、ゆらりと動いている数人の人影の中から、黒い法衣の男が改札口へ駈けよってきて、額に片手をあげ、こちらをすかし見ている。二度逢ったことのある老師の侍僧の若い道念であった。俊子を認めたらしく、プラットホームに向って大きく手を振っている。道念の吐く息が、白い綿菓子のように見えると思った時、自分の吐く息がもっと白く、目の前で凍りつつなびくのを見た」(瀬戸内晴美「比叡」)
その夜彼女は、中尊寺の宿坊に一室を与えられ、一夜を明した。
朝早く、力強い太鼓の音に、眼を覚まさせられた。
「太鼓の音はつづいて同じ間を保ち荘重に響き渡る。得度式の第一鐘は、知己、親族、父母の入堂着坐の合図であった。
俊子は昨夜からひとりだけに与えられた宿房の一室で、正坐し呼吸を整えた。太鼓の波動は俊子の下腹にじんじんと凍み通っていく。
窓の外には刈り入れの終った明るい田園がのどかにひろがり、その彼方に|束稲山《たばしねやま》の緑が低く横たわっている。空は晴れ渡り、朝雲が山の上に紗をひきのばしたように薄くたなびいている。
散り残った紅葉の緋色が、窓の真上から拡がり、部屋が焔の上に漂っているように見える。
俊子の膝の前には『得度式次第』と書かれた紙片が置かれていた。鏡は部屋の隅に立っていたが、俊子はふり向こうとは思わない。最後の着付けを終った時、鏡の中の自分にしっかりと別れは告げてあった」(同前)
心身を|潔《きよ》める意味で、まず|湯浴《ゆあ》みをさせられた。
「濁りのない湯の中に浮んだ乳房は掌に掬うと、まだまるく豊かでさえあった。脚も腕も湯を通して見ると、現実のものより白く蒼く、清潔に見えた。自分の肉体が醜く老い崩れる前に、出離するということに、俊子はひそかに満足を覚えていた」(同前)
第二鐘が重々しく鳴りひびいた。
「お時間になりました」と、|襖《ふすま》の外で静かな声がした。部屋を出ると外はしんしんと寒かった。
「長い暗い廊下を幾曲りもして本堂に入ると、今日のため殊更に荘厳された堂内に、すでにきらびやかな色とりどりの七条袈裟をつけ、長い水晶の装束数珠を持ち威儀を正した衆僧たちが、二十人近く、整然と列立している。
肉親知己は、本尊前の堂内に左右二列に分れて着坐していた。天井の高い広い堂内に、彼等の数は如何にも少なく、頼りなげで、俊子の目には痛々しく憐れに映った」(同前)
荘厳な得度式がはじまった。得度式は、啓白|三宝《さんぼう》、剃髪着衣、三帰授戒、|発願《ほつがん》勧修、|回向《えこう》法楽の順に行われた。
得度式が終ると、大勢つめかけたマスコミ関係の記者に会見して、彼女は次のように語った。
「急に思いついたのではありません。長い間、ひそかに考えていたことです。しかし、今年の今日、こうして実現するとは予想していませんでした。
来年(四十九年)の五月頃から二カ月間、天台宗の総本山、比叡山延暦寺にこもって修行します。行く末はささやかな庵をもって、ひっそりと生きていきます。たぶん、今後は、和服も洋服も着ることはなく、法衣を身にまとって生きてゆくことでしょう。でも、作家としての生活まで放棄したわけではありません。ゆうべも、宿で週刊誌の連載小説の原稿を書きました。自分の文学をもっと深くするために、この道を求めたのです。尼僧としての修行をつみ重ねることにより、より一層、文学の道をきわめることが出来、自分というものもわかってくるでしょう。そのように仏が導いてくれるものと信じています。……」
それから百日目に、彼女は、ここにも引用した「世外」という長文の「得度の心境」をつづったものを書いたが、その中で、自分がこれまで読んで来た多くの本の中でも、コンスタンの「アドルフ」と、|鴨 長明《かものちようめい》の「方丈記」を愛読していることを告白し、最後を次のように結んでいる。
「アドルフの絶望感に激しく脅かされながらも、私はついに、自分の孤独地獄を先どりしたわが国の世捨人たちの捨身の行方に、自分の残る歳月を賭けることに決断した。
そしてあれから百日すぎた今、アドルフの絶望感と、鴨長明の孤独に徹した昂揚が、日によって交互にあるいはないまぜになりながら、降りつづける雪の中から訪れてくる。『魚は水を飽かず、魚にあらざればその心を知らず。鳥は林を願ふ、鳥にあらざればその心を知らず。閑居の気味もまたかくのごとし。住まずして誰か語らむ』(方丈記)」
瀬戸内晴美は、浮世から世外へ引越したのである。
[#改ページ]

川端康成の自殺
昭和四十七年四月十六日、川端康成が、仕事場に使っていた逗子小坪のマリーナマンション四階の部屋で、ガス管を口にくわえて、|謎《なぞ》の自殺をとげた。
その年の一月半ばにマリーナマンションの一室を求め、週三回ほど仕事場に使っていたということで、いつもは手伝いの者がつきそっていたらしいが、その日は一人で午後三時過ぎに現われたという。
「散歩に行く」と言って鎌倉の家を出たのが二時四十五分頃で、夜になっても戻らないので、手伝いの島守敏恵が九時四十五分過ぎマンションを訪れ、異変に気付いたのである。
死亡推定時刻は午後六時頃、ガス中毒死で、洗面所の中に|敷蒲団《しきぶとん》と掛蒲団が持ち込まれ、入口のガスストーブの栓からガス管を引き、蒲団の中で口にくわえていたという。|枕元《まくらもと》には、封を切ったばかりのウイスキーの|壜《びん》とコップがあり、遺書のようなものは何もなかった。
元警視総監で都知事選で川端の応援を得たことのある秦野章は、次のように書いている。
「川端康成氏が、ガス管をくわえて死んでいたというかたちは、確かにガス自殺であったことに間違いはない。遺体の一部にあらわれた法医学的所見にもガス吸引の結果と認められるものも、あきらかにあったようだ。
しかし、あのようにきれいな死に顔を見れば、決定的な死因は、むしろ大量の睡眠剤、ガスはその補充とみることが自然ではないかと思う。
枕もとに置いてあった、飲みかけのジョニー・ウォーカー、水の数滴を残したコップ。そして同室にあった睡眠薬の空壜。
他殺の疑いは全くないということで、死体の解剖はしなかったため、科学的な立証にはならないが、私の考えでは普通のガス自殺ではなく、むしろ睡眠薬の方にかなりのウエイトのおかれた自殺ではないかと思う。
ガス自殺という公式発表に狂いはないとしても、睡眠薬常用の先生の日常と、何よりも安らかで美しい死に顔を見れば、そして富士や江の島を窓外に望んで、天下の絶景とも言えそうな浜辺のマンションの一室に、死への旅路を求められた先生の行動を見れば、そこには睡眠薬を使った静かな死が、あったのではないかと思われてならない」(昭和四十七年五月五日付『日本大学新聞』)
この突然の死の報道は、文壇に、いや日本中、世界中に大きな衝撃をあたえた。
その夜、沢野久雄は書斎で原稿を書いていた。そこへ新聞社から電話がかかった。あわただしい声で川端康成の自殺を伝えた。「本当ですか?!」と大声を上げた。信じられなかった。受話器を置くとまたベルが鳴った。別の新聞社からであった。あと三つ四つの新聞社からかかった。同じことであった。川端家に電話をしたが、ベルが鳴り続けて、誰も出なかった。時計はやがて十一時になろうとしていた。
急いで身支度をして、車を呼び、鎌倉へ向った。車は藤沢から江ノ電の軌道沿いの道に入り、やがて海岸通りに出た。腕時計を見ると二時になろうとしていた。
「ちょっと、車を止めてくれませんか」
彼は突然そう言って、車を降りた。
「道は断崖の上を走っていて、海は低かった。その低い海の、岸から数十メートルのところで、くだける大きな波がしらが、悪魔の歯のようにしらじらしい。そしてその先はもう、ひたすらに暗い。こんなに黯い海というものを、私は今日まで見たことがあるだろうか。星月夜の鎌倉の空から、最後の星が失われたようである」(沢野久雄「川端康成点描」)
たかなる胸を押しころすように、何度も大きく息を吸いこんでから、また車に乗った。
|長谷《はせ》の川端邸に近づくと、車と人でごったがえしていた。報道関係の人が寄って来て、質問をあびせかけた。「悲しいです」と一言だけ言った。
二十何年通いなれた門を入り、広い庭を急ぎ足で横ぎった。玄関を入ると、そこも人が一杯だったが、誰が誰だかわからなかった。長い廊下をゆくと、二、三人の女性にかこまれて秀子夫人が立話をしていた。
「どうしたんです、一体……」
彼はどなるように言った。疲れきった顔の秀子夫人が、小さな声で、
「それが、なんにも分らないのよ、沢野さん、何も……」
夫人の眼から涙があふれ出て、身体がゆらゆら揺れると、倒れかかって来た。その肩を抱いた。
「すると、夫人の嗚咽が、水のように私の胸に沁みて来るのである。私が川端さんの死を、避けがたい事実として受け取ったのは、実にこの瞬間だった。
そのすぐ奥の、かぎ型に縁のついた六畳間で、川端さんは静かな表情で、眠っておられた。名作『古都』を書かれたあと、ゆかりの北山杉で建てられた離れの家の、一番奥の部屋である。三つの鱗の黒い紋服に、紫がかった袴をつけて。それは、あのストックホルムのコンサート・ホールの舞台で、栄えあるノーベル賞を受けられた時の衣裳そのままであった」(同前)
鎌倉の家の書斎には、冬樹社版「岡本かの子全集」の、序文の一枚目と二枚目の十一行目まで書いた原稿用紙と一枚目の書き直しが八枚、未完のままになっていた。
昭和三十九年から四十三年にかけて『新潮』に断続的に連載され、ノーベル賞受賞後、書き継がれなかった「たんぽぽ」も未完であった。昭和四十六年の『新潮』十二月号、四十七年一月、二月、三月号と連載された「志賀直哉」も未完であった。仕事はすべて途中であり、仕事さなかの死だけに、その自殺は、寝耳に水の感を与えた。
十七日が通夜、十八日に自家で密葬が行なわれたが、|駈《か》けつけた客は、ノーベル賞騒ぎの時よりもはるかに多かった。
「彼は果して死んで仕舞ったのであろうか。昭和四十七年四月十六日、数え年七十四歳で死んだのは事実であろうか。僕にはまだ本当とは思えない。飄々乎として僕の家の門を叩き、
『やっぱり旅は好いね』
と笑いながら戻って来るような気がしてならないのだ。
僕は僧形にしてこそおれ涅槃など知る由もない。恐らくこの世で誰も涅槃など知っている人間はあるまい。川端康成にとっての涅槃は四月十六日から始まったのに相違ない。現世で体得できないものは涅槃の日から悟達するしかないではないか。
文鏡院殿孤山康成大居士
この位牌は僕の心の仏壇にまつられ朝夕の読経を僕の生きる限り絶えることなく続けるであろう。それで川端が満足するかどうかわからない。しかしながら僕が満足するまで止めない筈だ」(今東光「小説・川端康成」)
五十有余年の親しい仲であった今東光は、その衝撃が人一倍大きかったようだ。
「まったく予想もしなかった」しかし「あの年で自殺できるのは勇気の現われではないだろうか」(林房雄)
「寝耳に水」(丹羽文雄)
「ただびっくりしている」(サイデンステッカー)
「悲報を聞いて、何となくやっぱりそうか、と思った」(小林勇)
以上は各紙に載った人々の感想の一部である。
葬儀は、五月二十七日午後一時から、青山葬儀所において、日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本近代文学館の共催で行われた。佐藤首相、船田衆議院・河野参議院両議長、高橋芸術院長、今東光、丹羽文雄が弔辞を読んだ。
この弔辞について、その日の報道担当の北條誠は、記者の質問に次のように答えている。
「佐藤さんと川端さんは家の行き来もあったし、総理としてではなく友人として加えてほしい――と密葬の日から申し出があったので。両院議長は、議会で議決をしているので、読まぬまでも受け取ってもらわねば困る――ということで。芸術院長は当然で、本当なら次に文化庁長官がはいるところですが、今日出海さんが病気で、はずした。弔辞はふえたのでなく、逆に減ったわけです。今東光さんは友人代表、丹羽さんは三団体代表。主催者側なのでこちらをあとにするのが常識でしょう」
また、葬儀が、死後四十二日も後に行なわれたことについては、
「川端家の葬儀は四月十八日の密葬であり、これはあくまで三団体の葬儀――ということを理解していただければ……」と答えている。
文壇関係者ばかりでなく、政財界、芸能界の人、一般の川端文学ファンが参列し、主催者側の用意した三千本の白菊がたちまちなくなるほどの盛儀であった。
[#地付き]〈了〉

あ と が き
これは昭和五十四年一月から十二月まで『小説新潮』に毎月十五枚ずつ連載したものに、新たに二百枚ほど書き加えたもので、半分以上が書下ろしである。
二年程前に出版した「瓦版 昭和文壇史」(『懐しき文士たち 昭和篇』と改題〈文春文庫〉)の続篇である。前回は「戦前・戦中篇」で、昭和二十年八月十五日、終戦の日で終っているので、この本は、その終戦の日からはじめ、昭和四十七年四月十六日、川端康成の死で一応結ぶことにした。
十数年前、私は「物語・戦後文壇史」(朝日新聞社)という本を出しているが、それは戦後十年余の出来事を重点的にピック・アップしたものであり、その後、沢山の大きな事件があり、また新しく発見した事柄もあったので、多少重複したところもあるが、|殆《ほとん》ど加筆改筆している。
私の知る限りのことを書いたつもりだが、枚数の関係もありまだまだ落ちている重要な事柄もあるに違いない。ご教示頂ければ幸甚である。
前回の「瓦版 昭和文壇史」(時事通信社)を併読して頂きたいと思う。
昭和五十五年四月
[#地付き]巖谷大四
引用・参考文献
高見 順「高見順日記」(頸草書房)
平林たい子「林芙美子」(新潮社)
中村智子「宮本百合子」(筑摩書房)
永井龍男「菊池寛」(時事通信社)
吉屋信子「自伝的女流文壇史」(中央公論社)
井上 謙「評伝横光利一」(桜楓社)
秋庭太郎「考証永井荷風」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風伝」(春陽堂)
浅見 淵「史伝・早稲田文学」(新潮社)
浅見 淵「昭和文壇側面史」(講談社)
杉森久英「苦悩の旗手太宰治」(文藝春秋)
長尾 良「太宰治」(宮川書房)
尾崎一雄「あの日この日」(講談社)
塩谷 賛「幸田露伴」(中央公論社)
青山光二「織田作之助」(現代社)
大谷晃一「生き愛し書いた」(講談社)
坂口三千代「クラクラ日記」(文藝春秋)
北村夫「小説田中英光」(三一書房)
中島健蔵「回想の戦後文学」(平凡社)
野口冨士男「日本ペンクラブ三十年史」(日本ペンクラブ)
山上次郎「斎藤茂吉の生涯」(文藝春秋)
奥野健男「素顔の作家たち」(集英社)
尾崎秀樹「文壇うちそと」(筑摩書房)
沢野久雄「小説川端康成」(中央公論社)
沢野久雄「川端康成点描」(実業之日本社)
北條 誠「川端康成・心の遍歴」(二見書房)
臼井吉見「事故のてんまつ」(筑摩書房)
丸岡 明「贋キリスト」(角川書店)
清水幾太郎「わが人生の断片」(文藝春秋)
[#改ページ]
単行本
昭和五十五年五月時事通信社刊
「瓦版 戦後文壇史」を改題
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
懐しき文士たち 戦後篇
二〇〇一年七月二十日 第一版
著 者 巖谷大四
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Daishi Iwaya 2001
bb010702