飛鳥部勝則
バベル消滅
目 次
序章 バベル覚醒――風見国彦の当惑
一章 バベル侵食――田村正義の受難
間章 バベル陶酔――殺人犯人の告白
二章 バベル生成――風見国彦の災難
終章 バベル消滅――佐藤潤一の奸計
単行本あとがき
文庫版あとがき
序章
バベル覚醒――風見国彦の当惑
私、好きな人がいます、と少女はいった。
何故、私にそんなことをいうのだろう。ところが彼女は、
「私、好きな人がいるんです」
と、繰り返すのだった。
子供の相談になどのっていられない。
私は警備員に過ぎない。
濃紺の制服を着て展示室を巡視し、椅子《いす》に座って観客を見張り、作品に触ろうとする輩《やから》に注意し、走り回る子供をいさめる、小さな版画館の警備員なのだ。悩みの相談など柄でもなかった。警備員と観客。それ以上のつながりはない。親でも親戚《しんせき》でも医者でもない。友達や恋人ではあり得ない。彼女の相談は唐突だった。今日に限ったことではない。少女の話題はいつも唐突だ。日常的な会話がない。
例えばこんなことを聞くのだ。
地球は丸いか?
「地球は円球かってこと……」
少女の声は透明でよく通った。
地球儀を思い出しながら、
「そりゃ丸いさ」
「違うの……楕円《だえん》球」
知らなかった。
「楕円なのか? 正円ではなく」
「どっちがふくらんでるか、わかる?」
年甲斐《としがい》もなく真剣に考え込んでしまった。地球が楕円だとしたら東西南北どちらにふくらんでいるのか。地球は北極から南極へと貫く地軸を中心に回っている。星をある程度柔らかい物体と考えたとしたら、どうだろう。
「東西にふくらんでるのかな」
「それじゃ……地軸が真っすぐだったら?」
地球は太陽の周囲を回る軌道に直立しているわけではない。傾いている。確か二十三・五度だったか。だから昼と夜の時間に差ができ季節がある。すると、
「春夏秋冬がなくなるのかな。赤道近くでは常に暑く、両極付近では常に寒い」
「北極と南極は?」
質問の意図がよくわからない。黙っていると、少女は自問自答した。
「北極と南極では日が沈まないことになるの。太陽は昇りも沈みもしない。上半分だけ顔を出し、一日かけて一回りする」
もし地軸が真っすぐだったら、確かに極の天体状況はそうなるだろう。答えを聞いてから問いが理解できた。
彼女は独り言のように小さな声で、
「私……白い氷原の上に一人立っている。……見渡す限り氷の平原。鈍色《にびいろ》の低い空。はるか向こうの地平線にはいつも太陽。上半分だけ顔を出して……私の周りを回る。ぐるぐる、ぐるぐる回っている。一日中、一年中、いつも……いつも」
少し間をおいて、ぽつりと、
「住んでみたい」
極寒の地、奇妙な天体運動、一種の地獄ではないか。なのに、
「どうして? 何故そんなところに住みたい?」
少女は唇をうっすらと開けて顎《あご》を静かにそらした。
「だって、人がいないもの」
横顔を見る。
何もいえなかった。
長い睫《まつげ》が静かに上下する。少女はいつも横顔を見せていた。笑わない。ほほ笑みさえないのだ。決して笑わず、横顔しか見せない少女だった――私にしてみれば。
彼女は日常生活に侵入して来た異物だった。
日々の暮らしはぬるま湯に浸《つ》かるように過ぎる。私は大津版画館の中を歩き回っているだけだった。観客は僅《わず》かで日曜日でさえすいている。無理もない。版画館は島の中に建っていた。
鷹島《たかしま》自体知る人は少ない。佐渡と粟島《あわしま》のほぼ中央にある。佐渡ほどではないが、千メートル近い山々がそびえ、大きな川と平野を持ち、小さな湖まである。町もあれば村もあり、内地を歩いているのと変わらない。役場もあれば学校もある。消防署も警察署も病院もコンビニエンスストアもビデオCDレンタル店もある。芸術村さえあるのだ。新潟の芸術村は小国町《おぐにまち》と鷹島にしかない。小国は四方を山で囲まれた小さな町だ。陸の孤島であり、鷹島は文字通りの孤島だった。どちらも雪深い。鷹島の芸術村は、村起こしならぬ島起こしという名目で始まった。効果の程は疑わしい。宣伝不足が一番の原因だろう。施設設備もみすぼらしい。大津版画館にしても、木造の公民館を改築したもので見栄えがしない。定期船に乗ってまで見に来るような場所ではないのだ。
無数のウミネコが飛び交う港を持っているのが浦町である。続く大津町は都会といってもいいほどだ。大津町役場からしばらく寂しい道路を高山のほうへ向かうと針葉樹林が開けてくる。≪樹海≫と呼ばれているが、富士の樹海に比べるべくもない。その似非《えせ》樹海を背景に古い館《やかた》の群れが、ひっそりと身を寄せるように建っている。朽ちかけた旅館『とどろき荘』、ただの薄汚い民家にしか見えない『国際交流の館』、村長の旧邸だが廃屋の『芸術村会館』、そしてこの取り壊し寸前の公民館――『大津版画館』である。郊外にひっそりと建つこれらの建物は、島に取り残された老人を思わせた。
版画館の壁板は風雪のため黒ずみ、もともとの色がわからない。中に足を踏み入れると、木々の腐ったような臭いが立ち込める。板張りの廊下は歩くと軋《きし》む。二階の版画展示室も天井は染みだらけだ。
展示室には誰もいない。いつも、そして今も。
私はだだっ広い部屋の隅に一人座り、ぼんやりと時間をつぶしている。見張る必要はほとんどない。ぼんやりしていること、それが私の主な仕事なのだ。三十代後半なのに老人のような毎日。≪出戻り組≫にはちょうどいいのかもしれない。島の若者は皆都会へ出て行く。私も東京に職を求めた。職種は販売。
昔、東京には空がないといった女がいた。ほんとの空が見たい、と。私には本当の空は東京にあるように思えた。しかしそこに空はなかった。電化製品の販売に心と体を磨《す》り減らしただけの日々だった。望んだものは得られなかった。そこには何もなかったのだ。何を望んでいたのか、それすら今は覚えていない。私は島に戻り、スーパーでレジを打っていた女と結婚した。子供はない。
展示室の広さは八メートル×十メートルくらいだろうか。クリーム色の壁に約六十点の版画が常設されている。世界各国の版画があった。日本作家の作品も混在している。研究、分類したうえの展示とは思えない。学芸員が機能していないのであろう。もっとも私自身絵にはあまり興味がない。美術で関心があるのは陶芸くらいだ。展示室は以前会議室として使われていたらしい。壁面には一段掛けで大小さまざまな版画が並ぶ。八十センチ四方くらいの作品が一番大きいだろうか。壁が妙に広く見えて寂しい。恩地孝四郎という版画家の作品がけっこうある。有名な作家らしいのだが何と読むのかわからない。そのまま読めばオンチコウシロウか。音痴? 奇妙な名前だ。ケーテ・コルヴィッツというドイツの版画家の作品もある。暗闇《くらやみ》の背景から女の顔がアップで浮かび上がっていた。右手で顔半分を隠している。何かを憂うかのように眉間《みけん》に深く皺《しわ》が刻み込まれている。遠くに向けた漂うような視線だ。男のようにごつい指をしている。好きではないが、魅《ひ》かれる。一日一度は見てしまう。昔の私を見るようなのだ。都心で暮らしていたころの私は、毎日こんな顔をしていた。
展示作品を寄贈したのは地元出身の政治家だった。高価なもの、資料的に重要なものもあるらしい。あまり面白いとは思えない。一度見て回れば十分だ。地元の人でも二回見に来る人は少ない。島外から来る人はもともと少ない。知られていないのだろう。版画館の一階で講演や陶芸教室などの催し物がある時だけ、客が増える。版画館とはいうが、展示されているのは二階だけで一階は行事用に広く開放されていた。むろん版画館が企画する催し物もある。そんな時以外いつも客はまばらだ。
しかし、どんなものにも例外はある。
寂れた版画館に最近奇妙な常連ができた。毎日通って来る者がいるのだ。
少女だ。
少女はいつも閉館間際にやってくる。
学校帰りなのか……四時三十分。
決まった時間に展示室にやってくる。
入り口わきに警備員用の椅子《いす》があった。私はここで時間をつぶす。五時で閉館だ。その三十分前に退館連絡の放送が入る。
大津版画館は午後五時に閉館となります。お時間までごゆっくりご鑑賞ください
すました女の声が館内スピーカーから流れた。
すると、少女が現れるのだ。
放送とほぼ同時に展示室に入って来る。他の客は全くいない。展示室の中央には観客用の休憩コーナーがあった。正方形の革張りの黒いソファが、四つまとめて置いてある。彼女はそこに座る。私は時間を持て余す。このところいつも同じパターンだ。
頭の中は既に閉館後の点検作業のことで占められている。閉館後のほうがむしろ忙しい。そのうえ、今朝シャッターが壊れた。一階作品搬入口の開閉がうまくいかない。見ておけとの指示が出ている。放ってはおけない。今日はいつもにも増して閉館間際の来客を迷惑に感じた。ちょっといらいらする。数少ない大切なお客様ではあるのだが、早く帰って欲しかった。
少女は自分だけの世界に入っている。
絵を見る人はみんなそうだ。はたから見ていると面白いくらいに≪自分――絵≫の関係が成立する。他者の入り込む余地はない。むろん私の思惑など知るべくもなかった。
彼女は毎日塔を見ている。
塔?……そう、バベルの塔だ。
『バベルの塔の崩壊』コルネリス・アントニスゾーン
画面中央に六層のバベルの塔が描かれている。ローマのコロッセウムを細長くしたような形だ。空から光とともに天使の群れが舞い降り、ラッパを吹き鳴らし、塔を破壊している。塔の右半分は積み木のように崩れ落ちていた。手前には群衆が描かれている。驚く人、逃げ惑う人、嘆き悲しむ人、倒れ伏す人、様々だ。映画の一場面のような版画である。
説明的でつまらない絵だと思う。宗教に疎いせいか内容もよくわからない。作品の良し悪しよりも、わかるわからないが先に来てしまう。絵の好き嫌いなど人それぞれだろうが、私は魅力を感じない。何度も通って鑑賞するほどの作品とは思えなかった。
少女はいつも塔を見ている。
美術に関心があるのかもしれない。版画家を目指していて……この作品には専門家にしかわからない特殊な技術が使われており……それを学ぶためにいつもああして見ている……のだろうか。それにしては集中力を欠いている。見るともなく見ている感じなのだ。あざとい解釈が正解とは思えない。ならば……
何故少女は通ってくるのか?
見当もつかない。
彼女は版画をぼんやりと眺めている。
私は、少女をぼんやりと眺めている。
黒に近い濃紺のセーラー服を着ていた。少し光沢のある水色のリボンをしている。襟の白いストライプが妙に鮮やかだ。展示室中央に置かれた制服のオブジェのようにも見える。髪はおかっぱふうのストレートで肩くらいまである。目の上で、前髪が測ったように切り揃《そろ》えられていた。黒髪。目は切れ長で奥二重だった。瞬《まばた》くと眼球の形がくっきりと浮き出る。瞼《まぶた》が薄いのだろう。きめ細かな小麦色の肌をしている。日焼けとは違う。この時期特有の張りがある。よく見ると顔の造りには古風さが漂っていた。なのに洋風なのだ。博多《はかた》人形の名人が作ったフランス人形のようなちぐはぐな美しさだった。虚弱な感じはしない。しかしデリケートではかなげにもみえる。薄い布で宝石を覆ったような暗い輝きを放っていた。
大津中学校の制服だ。版画館とは自転車で三十分くらいの距離か。学校が放課になってから間を置かず来るのかもしれない。中学生の年齢など見当もつかないが一年生ではないだろう。大人びている。甥《おい》の恭介《きようすけ》と同じくらいだろうか。恭介は兄の息子だ。受験を控えている。少女が彼より年下には見えない。甥の交友関係など知らないが、二人は知り合いかもしれなかった。大津中学は一学年三クラスの学校である。
空調の微《かす》かな音が響いていた。
閉館間際の展示室で、警備員とセーラー服の少女だけが、五歩の距離を置いて、それぞれの椅子に座っている。
彼女の姿が一瞬、鏡をのぞき込む女の姿に見えた。
左の横顔を見せている。鼻梁《びりよう》が高い。背筋を伸ばし、行儀良く膝《ひざ》を揃えて座っている。笑みはない。薄い唇を一本に結んでいる。冷たい。笑顔を想像できなかった。
少女は版画から目を外した。視線を泳がせる。周りの版画を見ているようでもある。こちらを向くこともあった。特に意識したふうでもない。壁と同じなのだろう。五、六分もすると姿勢が崩れてくる。両手を背の後ろに置き、体を斜めに伸ばす。スカートから膝がのぞく。靴を脱ぐ。椅子に横座りになる。再び足を降ろす。白い靴下が床に触れた。片膝を立てる。太ももが付け根の辺りまで露出した。白い下着が見える。しばらくそのままでいた。立てた右膝の上に両手を重ね、小首を傾げて、ぼんやりと絵を眺めている……
やがて再び両膝を揃えた。スカートが膝下まで覆う。靴を履く。
なんだか、ほっとしてしまった。
それにしても。
少女はいつから来るようになったのだろう?
初雪が降る前だから十一月中旬。一ヵ月は版画館通いが続いている。ほとんど毎日やって来た。まだ話したことはない。その必要もなかった。切っ掛けがない。
ところが何が切っ掛けになるかわからないものだ。
校章バッジが目に入ったのだ。初めて気が付いた。胸に校章がある……当たり前かというと、そうでもない。最近バッジを付けている大津中学校の生徒は珍しい。恭介でさえしていないのだ。近所でもほとんど見かけなかった。彼女は二十年以上も前の私のように、胸にバッジを付けている。ちょっとしたタイムスリップ、反射的に声をかけてみる気になった。
腰を上げ、二歩近づいて、
「……きみ」
少女は横顔を見せたままだ。反応がない。
「きみは大津中学校の生徒だろう。毎日来ているね」椅子の上の学生|鞄《かばん》に目を遣《や》って、「学校帰りのようだが……」
彼女は唇をきつく結び顎を少し引いた。何だか愛想がない。
「……どうして毎日のように来るんだね?」視線をバベルの塔の版画に飛ばしながら、「いつもこの場所でその版画を見ているね。気に入っているのか。まぁ俺に絵はわからんがね。面白いとも思わないし……どうなんだろうね」
横顔を改めて見直す。相変わらず自分一人しかいないような顔をしている。
「この版画館に何度も来る人は珍しい。きみくらいのものだよ。しかも決まって同じ時間だ。どうしてなんだろうね。部活か何かやっていないのかい?」
薄紅色の唇の端が少し上がっただけだった。言葉はない。わたしも口をつぐんだ。間の悪い沈黙を持て余す。何をいってもほとんど反応がない。見ず知らずの中年男に話しかけられた女の子の反応はこんなものかもしれない。明確な意図があって話しかけたわけでもない。だが、不快さも少し感じた。腕時計を見ると、閉館まであと五分というところだ。話している場合ではない。お帰り願わねばならない。試しに、必要以上に丁寧な口調でいってみた。皮肉に受け取られても無視されるよりはいいだろう。
「そろそろ閉館のお時間でございます。ご退出いただければと思います。またのご来館をお待ち致しております」
微動だにしない。依然として沈黙が支配している。腹が立つというより不可思議な気分だ。
「あの……閉館」再びいいかけた。
少女はフッと息を吐いた。呼吸を感じたのはこの時だけだ。
吐息一つに飲まれてしまった。
人形が息をしたような感じなのだ。しかも……
「警備員」
と、彼女はいった。透き通るような、耳に心地よい声だった。彼女は顎を上げ、横顔を見せたまま、ぽつりぽつりと言葉をつないだ。
「警備員って、話しかけても、いいの?」
私が黙り込む番だった。予想もしない角度からの質問なのだ。
少女は静かにいった。
「私……藤川|志乃《しの》。あなたは?」
自己紹介されてしまった。お名前をいただき光栄だ、が、……≪あなたは?≫……だって?
この職について七年になる。来館者からこんなふうに名前を聞かれたことはない。それに初めて話す年嵩《としかさ》の男にむかって≪あなたは?≫と聞く子供も珍しい。最近の子供は口の利き方を知らないといわれる。そうかもしれない。しかしお忍びの王女から名前を聞かれたような甘美な感覚も少しはあった。
「俺は風見国彦だよ」
そして、こう付け加えてみた。
「三十九歳。妻一人、不美人。しがない警備員。学校の成績、中の中。身体頑強。三流四年制国立大学卒業、人相悪し。子供……なし」
――悪のりか?
彼女は彫像のように動かなかった。
瞼を静かに閉じる。長い睫《まつげ》が影を落とす。一瞬、悲しげに見えた。
時計を見直す。閉館だ。しかし少女は動こうとしない。ふと時間が止まったような気がした。広い展示室の中、姿勢良く椅子に座る少女を、二歩の距離で、ただ見下ろしている。香りが漂ってきた。花を思わすような芳香だ。軽いめまいを誘うような、頭がぼんやりしてきそうな、そんな香り……
その時、後ろから声をかけられた。
「風見さん、何やってるんですか?」
痩《や》せた男が腰に両手を当てて立っていた。事務の佐藤潤一だ。私と少女を交互に見ながら、低い声で、
「そろそろ閉めなきゃ。そこのお客さん、申しわけありませんが、閉館です」
目の端でスカートがひるがえった。藤川志乃は速足で出口に向かう。背中を向けたまま「さよなら」といった。聞き取れないくらい低く小さな声だった。事務の若者は少女の後ろ姿が消えるまで目で追っていた。やがて私の方を見てニヤリと笑うと、
「可愛《かわい》いというより、きれいですね」
美少女コンテストのコメントか?
なるほど整った顔立ちではある。しかし子供の顔というのはまだ十分に固まっていない。人間以前という気がする。佐藤は二十代後半だ。少女と年が近いぶん生々しく見ることができるのかもしれない。私には藤川志乃くらいの子供がいてもおかしくはなかった。それに彼は独身なのだ。
「お嫁さんにでもするかい佐藤? 三年か五年なんてあっという間だぜ。ただし取り扱い注意だ。顔はそこそこでも変わってる。愛想がない」
「結構ですよ、足りてます。面食いは認めますけどね。僕は大人の女が好きなんです。制服趣味はありません。セーラー服なんて佐伯《さえき》俊男じゃあるまいし。もっとも佐伯は好きですけどね」
「佐伯?」
「画家、イラストレーターですよ。ブラックユーモアとエロティシズムの交じり合った絵を描きます。デッサンもうまい。佐伯はよくセーラー服を描くのです。何故か? 彼はこういいます。本当のセーラー服を見ても、性欲も何も感じない。ところが描いているとムラムラしてくる。つまり≪女学生≫のイメージは想像力の中にしか存在しない。僕も同じです。佐伯に限らず、少女|姦《かん》願望は二十世紀の芸術家の重要なテーマの一つです。ナボコフはもちろんですが、他にもバルテュス、ベルメール、マンディアルグなど重要な作家がいろいろいます」
ナボコフ以外は知らない。それぞれ画家、彫刻家・写真家、小説家、なのだそうだ。
「それは一つの時代精神といってもいいくらいです。彼らは理屈で割り切れず正解の出ない現実を、人間関係を、嫌悪し、観念のエロティシズムの中に逃避して行ったように見える時があります。彼らは制作者だからそれでもよかった。おなじ時代に生きる僕たちはどうでしょう。生み出すことのできない人々は、現実と想像の境界線を取っ払うことによって、その欲求を満たそうとするのかもしれませんね」
「しかし、犯罪につながるぞ」
「実際にいろいろ起こってるじゃないですか」
佐藤は頬《ほお》のこけた貧相な男だが、見ようによっては知的に見える。話し好きで時々鋭い洞察力を発揮することもあった。島の出身ではない。東海の生まれらしいが詳しくは知らなかった。職場を転々と変えてきたようだ。何をやっていたかはわからない。文学が特に好きらしい。私も嫌いではないが苦手だ。長編だと途中で投げ出してしまう。佐藤にそういったことがある。すると、僕も嫌いですよ文学は、と切り返された。僕の好きなのはエンターテインメント小説です。娯楽小説は楽しむために読みます。文学は眠るために読むのです。中でもミステリーですよ風見さん。文学とエンターテインメントがどう違うのか私にはわからない。ミステリーが推理小説のことだとしたら作り物過ぎてつまらない。読んでいる時間があれば水泳やスキーをやっている。
佐藤はスキーはからきしだが水泳はうまい。鷹島は泳ぐ場所には事欠かなかった。しかしスキーにも意欲を見せ、今シーズン中に一度はスキー場に一緒に行くことになっている。彼は私にしょっちゅう企画を持ちこんできた。何故私なのか? 風見さんは聞き上手だからですよ。確かに話すよりは聞いているほうがいい。佐藤の蘊蓄《うんちく》に付き合える人間はあまりいないのかもしれなかった。飲みに行こうなどというのは日常茶飯事だ。今夜も一杯やりにいこうと誘われた。そのために一階の事務室から二階の展示室に上がってきたのである。
「わかったよ。今夜の予定はない。だがこんな所で油を売っていていいのか」
「買い手がいるんでね。いいんですよ」
それから急に真顔になって、
「陶芸教室の時期が近づいてきましたね。後一ヵ月というところですか。何であんなものを企画するのか……うっとうしい限りです」
「きみも参加してみればいいんだよ。土いじりもやってみれば面白いものさ」
「土が茶碗《ちやわん》になっても面白くはないですよ。風見さんは今年もまた参加するんですか」
「準備するだけで終わりなんて、それこそ馬鹿らしい。作ってみなけりゃね」
「風見さんが美術好きとはね」
「好きなのは美術じゃないよ、陶芸さ。美術の全部が好きなわけじゃない。陶芸は上手《うま》くいかないところがもどかしい。もどかしさを楽しむのさ」
大津版画館は一階に実習室を二つ持つ。広いほうは通称『市民の広間』と呼ばれている。ここで毎年、冬に版画館主催の陶芸教室が開かれるのだ。夏にはデッサン会が開かれる。小さいほうの実習室に名前はない。随時七宝焼や絵手紙の講習がある。受講者は島民がほとんどだが講師は外部から呼ぶことが多い。
「佐藤、今年は何人集まった?」
「十人くらいでしたね。去年は二十人はいたのに」事務員は浮かない顔で、「去年のトラブルが影響しているんですかね……」
私はそれには応《こた》えず、
「十人というとほとんど常連さんかな」
「そうでもないですよ」
「今年も来るんだろうなぁ、のんきな上原さん、二人目の孫ができた川島さん、派手なテイコさん、あと、マサカツさんとかね、大津役場の青年」
「上原優次さん、川島歓太さん、木中貞子さん、田村正勝さんね。みんな来ますよ。受講者名簿に出てましたから」
「講師は誰なんだ? 人当たりはいいんだろうね」
「去年の人みたいなのは困りますよね、受講者とケンカするんだから始末に負えない」
「…………」
「今年は大人しい人ですよ。諸川玲《もろかわれい》。一応全国で名を知られた陶芸家です」
「知らんね」
「珍しく鷹島在住の芸術家です」
「芸術村の名に引かれて島に来た世捨て人の類《たぐ》いじゃなかろうね」
その手の人材は豊富だ。外国からドロップアウトして来た者もかなりいる。
「違います。むしろ何でこれほどの人がここに来たのだろうと思うような人です。何か込み入った事情があるのかもしれませんね……」
佐藤は思わせ振りないい方をしてからおもむろに、
「地井戸《じいど》玲って知ってますか?」
「聞いたことはあるな。確か作家だろ?」
「エッセイ集を数冊出してます。地井戸玲は諸川玲のペンネームなんです」
「土いじりと作文か……器用な男だね」
「この間お目にかかりました。会場の下見に来たんです。窯の様子を入念に見て行きました。不思議なムードの人でね……紳士といえば紳士なんですが」
佐藤は上目遣いで天井を見てニヤリと笑った。
「ちょっと怪しい感じでしたね。ボサボサの長髪。落ち武者。手が妙に女性的でしなやか。何だか目がいやらしい」
――変質者か?
「講師に対して随分失礼なことをいうね」
「見たままをいったまでです」
「八つ当たりしてるんだろ」
「それもありますね。催しがあると仕事が全部僕のところに来るんですからね。受講者の募集と受付、会費の徴収、宿泊準備、材料の注文、講師の接待、何から何まで。これが全部事務員の仕事ですか?」
「愚痴るなよ。働くのは傍《はた》を楽にするってことさ。俺も手伝うよ。館長はああいう人だし。ちゃんとした学芸員もいない。人手が足りんのさ」
村田館長は大津小学校を退職して、ここに来た。仕事をしないというより、できない。
「学芸員は二人もいるのに役に立たないんですからね」
木戸のぼんやりしたラテン系の顔が頭に浮かんだ。眉村《まゆむら》はアザラシのような男だ。
「当てにしてますよ風見さん。僕はこのままじゃ過労死ですよ過労死」
彼は消灯やシャッター閉めを手伝ってくれた。佐藤はすぐ弱音を吐く。しかし口でいうほど弱ってはいないのだ。偽善者というのがあるとすれば、偽弱者というところだ。自信の裏返し、意外としたたかな男なのかもしれない。
佐藤は私の陶芸好きが意外だという。
本心だ。準備は苦にならない。手伝うといったのも彼の負担を思ってのことばかりではなかった。自分が使うものでもあるからだ。主催者側の人間でありながら実習に参加している。ろくろを回すのは楽しい。思い通りにならないところが、いい。単調で平凡な日々を過ごしていると、ささいなことに楽しみを見つけなければやり切れない。
藤川志乃も一つのアクセントだ。
楽しみというほどではないが、代わり映えしない生活に変化をつけてくれる。
彼女は相変わらずやって来た。
私たちは少しずつ話をするようになっていった。話といっても≪会話≫ではない。ダイアローグがモノローグにしかならないのだ。かみ合わない。志乃はほとんど一方的に話す。私は適当にあいづちを打つ。この年頃の少女が何に関心があるのかわからない。芸能界か異性か、勉強かスポーツか……見かけは普通の中学生、むしろ≪昔の中学生≫だ。古い型のセーラー服を着ているからそう見える。しかし私の中学時代の記憶から話題を連想することは難しい。第一忘れている。結果として、こちらからは話を振れなかった。
自然と聞き役に回る。
この日は珍しく会話がある程度成立した。
私は志乃の左側に立って、肩にかかる切り揃えられた黒髪を見ている。
彼女は中央のソファに座り、いつもの版画を見ながら、
「海に沈む夕日は大きく見える?」
「とても大きいね」
「何故?」
「……わからないな」質問の意味もわからない。
「朝日も天頂にいる太陽も大きさは全部同じ。なのに何故夕日は大きいの?」
少し驚いた。志乃がこちらの気持ちを汲《く》んで答えてくれたのだ。珍しい。普通の人との会話では意識さえしないことなのだが。改めて少女を見直すと、ストレートの黒髪が横顔をほとんど覆ってしまっていた。
「それは……比較するものがあるせいじゃないかな。天頂には比較するものが何もない。水平方向には海とか山とか比較できるものがいろいろある。だから大きく見えるんじゃないか」
「大地のできもの、バベルの塔」
無視された。
いきなり話題を変えたらしい。むしろ鮮やかなくらいだった。少しはコミュニケーションが取れ、私の解答も悪くはなかったかなと思ったとたんにこれだ。志乃の目は正面の版画を捕らえている。そこにはアントニスゾーンの『バベルの塔の崩壊』があった。
それにしても……
「できもの?」
「ある作家がいった。≪地底の底から吹き出た奇怪なできもの≫バベルの塔。エッセイで読んだの。ブリューゲルの絵についての本。大地のできもの……私もそう思う」
ブリューゲルとは、誰だ?
そもそもバベルの塔、とは?
バベル。子供のころ読んだアクションマンガを思い出す。超能力者の少年が悪の一味と闘うストーリーだった。バベルの塔はヒーローの基地だ。内部に巨大コンピューターや様々なメカニックを備えた鉄壁の要塞《ようさい》である。塔の周りで人工的な砂嵐《すなあらし》を作り出し、人を寄せ付けない。頼もしい超未来的な建築物だ。形は崩れる前の版画の塔と似ていた。
もう一つ連想した。一時代を築いたアメリカのプロレスラーだ。元新聞記者だった。観客の頭の中に≪強い≫というイメージを植え付けるのが上手かった。リングに立つと大きく見えるオーラを放つ。日本でも数多くの名勝負を生んだが、プエルトリコで刺されて死んだ。突然だった。彼は≪動くバビロン塔≫といわれていた。バビロン塔とはバベルの塔のことであろう。
思い起こすのはそれくらいである。バベルの塔の話そのものは知らない。
少女はささやくように言葉を並べていった。
視線がさまよい、宙に浮く文字を読んでいるかのようだった。
「タワー……タワー・オブ・バベル……バベルの塔、それは天への塔、神に近づく塔、人の叡智《えいち》の結晶。バベル……バラル……それは混乱、混乱の塔、だから倒れる。ヤハウェ……神。ヤハウェは人々をたしなめた。シンアルの地、人々は集う。天まで届く塔、建設、高慢な企て……不遜《ふそん》、尊大、傲慢《ごうまん》……思い上がり、自惚《うぬぼ》れ、塔の建造、それは人々の奢《おご》り……能力過信。神への挑戦、不遜、ヤハウェは言葉を混乱させた。バベル、それがバベル。神の警鐘。だから塔は未完になった。未完成の塔。分散、人々も、言葉も……散り散り。四散、分裂、全地に放たれた。バベルの塔の崩壊。元には戻らない。壊れた塔。再建しない……二度と」
巫女《みこ》の神託を聞いているようだった。口を挟める雰囲気ではない。彼女はかまわず続ける。声は聞き取れぬほどに低い。
「見よ……彼らは一つの民で一つの言葉である。今に彼らに不可能はなくなるだろう……下って行って混乱させよう。だからその町はバベル、と呼ばれる」
この子は……大丈夫なんだろうか?
少女はバベルの物語を語ったらしい。人が天まで届く塔を建てようとし、神に罰せられ、世界に散らされた、ということくらいはわかった。
版画を見直す。天に届く塔にしては低すぎる。富士山より低いかもしれない。確かに天からの攻撃で壊されてはいた。天使は神の使いだろう。塔は今まさに音を立てて崩れ落ちようとしている……
志乃はまだ口の中で何かいっていた。
世界……とか星という言葉が聞き取れた。何故か父……風や草……友達……自分とつぶやいたような気がする……
何かに憑《つ》かれたような少女を現実に連れ戻したいと思った。今引き戻さないとこのままどこかへ行ってしまうような奇妙な切迫感があるのだ。何でもいいから問いかけようと思い、
「バベルとバビロンは、同じなのかな」
間抜けな質問に、的外れな答えが返ってきた。
「バビロンの大|淫婦《いんぷ》」
だいいんぷ? 淫婦に≪大≫が付くと奇妙な感じだ。ユーモラスでさえある。しかし少女は笑いのかけらもない冷たい口調で、
「水の上に座っている大淫婦……緋色《ひいろ》の獣の背に。紫と緋色の衣……宝石と真珠で身を飾り立て……手には金の杯。杯の中には……」
少女は伏し目がちに、「忌まわしいもの、淫行の汚れ……」
しばらく息を止めている。
「水の上、バビロンの大淫婦、私と同じか」
声に意志が戻っていた。こちらの世界に帰って来た感じだった。
志乃は天井の一角を見ている。澄んだ、しかし遠い目だ。手を伸ばせば届くのに、距離は遠い。見えない空気の壁がある。少年マンガのバベルの塔の、砂嵐のバリアーみたいなものだ。人との交わりを拒む透明な膜。話に脈絡がない。掴《つか》めないのだ。何故こうも自分の世界に浸れるのだろう。目の前に他人がいるのに。話しかけてさえいるのに。今の中学生くらいの子供はみんなこうなのか。彼女だけが特別なのか。私が扱い方を知らないだけか。
無駄を覚悟で質問してみる。
「バビロンの大淫婦ってのは聖書の話かね」
「ヨハネの黙示録。その中のエピソード」
良かった。一応会話になった。
「≪大淫婦≫は悪役。ヒロインは≪太陽をまとう女≫。この女はマリア。子供を身ごもってる。イエス・キリスト。太陽をまとう女を食べようと竜が襲いかかる。七つの頭と十の角を持つ竜、そして赤い」
「赤い竜?」
「竜はマリアとイエスを襲う。その瞬間、神が救い出した。そして天の戦が始まる……」
知りもしない宗教の話にどうやってついていけばいいのか。しかしおかまいなく志乃は続ける。聞かせることが目的ではなくなっていくのが、はっきりとわかった。
「大災害が起こる。神の怒りの洪水。そしてバビロンの大淫婦の登場。水の上に座って。洪水の後でも生き残ってた……神の怒りも通じなかった。彼女を発見したのは、ヨハネ」
水面《みなも》に座っているというのも妙ないい方だ。浮くではなく座る。大洪水の後水浸しになった大地。水面に座っている大淫婦。スケールが大きいうえにシュールなのでイメージが浮かばない。そんな絵があったら見てみたいものだ。
その時。
突然志乃の様子が変わった。
視線が宙をさ迷いだしたのだ。迷走している。唇が少し開く。白い歯がのぞいた。息を止めている。不安になるほど、長く。
やっと……息を継いだ。ほぼ同時に言葉がこぼれた。低い声だ。
「私、好きな人がいます」
何故私にそんなことをいうのだろう。
相談相手としては不適格。警備員なのだ。対応できない。やり方がわからない。
しかし彼女は繰り返した。
「私、好きな人がいるんです」
そして、俯《うつむ》いた。
一章
バベル侵食――田村正義の受難
T
男の周りに塔が建つ。
バベル、バベル、バベルの塔だ。
塔の姿を落書きする。最下層から一層一層積み重ねていく。実際に建設するように、紙の下から上へと、藁半紙《わらばんし》の裏側に。
表側には『生徒指導に関して・案件・校外喫煙』とある。
会議には加わらず田村正義はひたすら落書きを続けた。
生活指導の窓口が発言している。
「……えー、三年A組の三浦晃、高橋広志の二名が授業を抜け出してタバコを吸っていました。スーパー吉源の裏の駐車場です。えー、三時頃近所の家の人から電話がありました。六限の体育をさぼったらしいのです。私と菊間先生の二人で駆けつけたところ」
見つかっても悪びれもせず吸い続けた。三浦などは二人に向かってタバコを投げ付けて笑ったという。三浦か、と田村は思う。赤いメッシュの入ったロンゲが目に浮かぶ。高橋というのは知らない。今回初めて会議に名が出た。
「三浦の喫煙が発覚したのはこれで二度目です」
甲高い声で説明しているのは村川である。童顔の老教師だ。黒板側が議長席で、村川はその左端で起立して発言している。村川の隣が教頭、校長、議長、一番右が書記である。長机は議長席に向かって二重のコの字型に配置されていた。三人用の机で、全部で二十はあるだろう。ほぼ全職員が出席しており空きは少ない。田村は廊下側の一番奥、出入り口の近くに座っていた。すぐにでも退室したい気分だった。村川とは対角線上の位置にいる。部屋の中央には石油ストーブが二つ設置されていた。点《つ》けてから間がないらしく、まだ肌寒い。
大津中学は現代のバビロンだ。
いや、と田村は思い直す。魔窟《まくつ》は至るところにある。ここもバビロンの一つなのだ。
学校は荒廃している。毎日毎日生活指導の職員会議だ。こんな筈《はず》ではなかった。刑事のマネをするために教師になったのではない。学校は教育の場だ。子供たちを尋問、場合によっては恫喝《どうかつ》するような場では断じてない。にもかかわらず、その信念を曲げてまで田村は連日怒声を張り上げている。飲酒、喫煙、暴力、売春。中学生も大人と同じだ。歯止めが利かないという点ではそれ以上でさえある。トイレでタバコを吸うなどというのは日常茶飯事だった。少し前、授業をさぼってバイクを飛ばしている男子がいた。町中を無免許で走り回っていたのである。通報があったが対処できなかった。駆けつけたときには姿がなかったのだ。大津中学の制服を着ていたという。夏休みにはレイプ事件もあった。不良グループ三人組が、帰りの遅くなったテニス部の女子を暴行したのである。サッカー部の部室につれこんだのだが、そこには縄まで用意されていたという。被害者は転校した。
荒れている。
朝起きると胃が重く、頭痛がする。今も、頭の芯《しん》が痺《しび》れたように疼《うず》く。田村は鉛筆を置き瞼《まぶた》をもんだ。目を開く。めまいを感じた。
自分が生徒のころ学校はこんな所ではなかった。昔は良かった。かつて田村は≪昔は良かった≫などという輩《やから》を軽蔑《けいべつ》していた。彼らは時代に取り残されているに過ぎない。約三千年前のバビロニアの粘土板にも、おなじことが書かれていたのである。『今の若者は根本から退廃し切っている』『以前のように立ち直るのは、もはや望むべくもない』……これを信じるとすれば人間はバビロニア以来悪くなる一方の筈である。そんなことはない。進歩も発展もあった筈だ。昔は良かったなどというのは極めて一面的な見方なのである。しかし、その考えは根底から揺さぶられた。心から昔は良かったと思ってしまうのだ。時間は連続するものではなく一種の断層を持つものらしい。例の粘土板もバビロニアの若者が、現代と同じくらいひどいということを明かしているに過ぎないのかもしれなかった。
描いたバベルの塔を真っ黒く塗りつぶす。
最初からひどい学校に来たものだ。最初だから荒れた中学に回されたのかもしれない。
島の中学だというからのんきな所かと思っていた。古い屋敷とモダンな建て売り住宅が並ぶ町は、ゆったりとして時間がゆるやかに流れているように見えた。坂を上ると広い校庭が目に入る。グラウンドの金網に沿ってしばらく歩くと校門があった。そこに足を踏み入れた時、望んでいた世界を得た、と思った。
地獄だった。
新採用ゆえ授業や基本的な事務仕事も上手《うま》くこなせない。校務分掌は生活指導係だった。童顔の老教師はいったものだ。うちは生活指導が一番大変だが、あんた若いんだからバリバリやってもらいます。最初のうちは若いということだけで何とかなるもんです。生徒はついてきます。
――若さだけではどうにもならなかった。
事件は毎日起こるうえに授業でさえままならない。私語を初めとする授業妨害がひどく、時間中でも生徒は平気で外へ出て行く。初任者は特になめられる。田村は頭突きを食らわされたことがある。鉛筆で刺されそうになったことさえあった。空手を習った。護身のため極真空手の講習会が開かれていた。放課後有志が集まって段持ちの教師から習うのだ。同僚と二人でヤクザ映画のビデオを借りて来て見た。迫力ある怒り方を身につけよう……笑い話だ。しかし二人は本気だった。
不安は胃を破壊した。
精神クリニックのカウンセリングにも通っている。
目に見えた効果はない。
教員の間でも田村はおかしいと評判だ。生徒も避けて通る。鏡を見るといつも青ざめた顔がそこにあった。七三分けの銀縁メガネ。二十二歳なのに十は老けて見える。色白で髭《ひげ》が薄い。目の辺りに不健康な赤みがさしている。ひどく険悪な表情だ。ノイローゼ……そうかもしれない。何に対しても憎しみを感じる。全てを恨む。学校の生徒も職員も、自分をこんな所に送り込んだ教育委員会も、島の住民も……
……そうだ。あの生徒は何という名前だったか……昨日の放課後、準備室にやって来たあの子供は。帰り支度をしている時にやって来てくだらない質問を始め、教師をあなた呼ばわりしたあの女子は……
田村は唐突に浮かんだその顔に理不尽な怒りを感じた。
再びバベルの塔の落書きを始める。
おかっぱの中背の生徒だ。珍しく標準服を着ていた。大津中学の大部分の生徒は改造服を着ている。校章バッジまで付けていた。大人のような目で田村を見て、いきなりこう聞いてきたのだ。
「ピラミッドとジッグラトはどう違うんですか?」
メカニックじみた無気質な声で、独り言のようだった。相手をするのも煩わしい。七時半を回り、勤務時間はとうに過ぎ、腹も減っていた。自然とぶっきらぼうな答え方になった。帰りたかったのだ。
「何で?」そんなことが知りたいんだ。試験範囲じゃないだろ?
生徒は少し黙り込んでから、
「あなた、社会科の先生、でしょ」
田村は憮然《ぶぜん》とした。
「ちゃんとした受け答えをしなさい。こっちは質問をした理由を聞いているんだ。それに教師に向かってあなたとはなんだ? それでも生徒か。帰るぞ、先生は用があるんだ」
切りそろえた前髪の下の目が暗く光ったような気がする。少しぞっとした。
「帰って期末試験の準備でもしろ」
生徒をおいて部屋を出た。逃げたような気分だった。施錠は部活で残っている久保に任せておけばいい。久保は野球部を見ていて田村より帰りが遅かった。
それにしても。
少女が一瞬見せたさげすむような目付きが忘れられない。
あいつは何という名前だったか……
……そうだ、志乃、藤川志乃だ。3年B組。授業中は目立たない。他がひど過ぎるせいもある。空気のような生徒だ。……嫌な奴《やつ》だ。大人を馬鹿にする。なめやがって。気に障る女だ。憎い。担任は細井英子、クズだ。しかもあばずれ。俺を捨て、流れ者の外人なんかに走りやがって。全く……ちょっとしたことにも憎しみが湧《わ》く。何もかもが気に食わない。ぶっ殺したい。
「えー、で、この三浦君と高橋君の今後の指導についてですが、生徒の将来のことを考えて、えー、慎重に決めていく必要があるかと思います」
村川はまだ話し続けている。≪えー≫が田村の気に障った。いらいらするのだ。村川の話など全く聞いていなかったが、内容の見当はつく。事件の概要、生徒の学習態度、成績、性格、生活態度、友人関係、家庭環境……そしてこれから今後の指導の話し合いに入るのだ。田村は鉛筆を握り、今度はジッグラトを描き始めた。紙は真っ黒になりつつある。大まかな輪郭を描いたところで、ふと手を止めた。
……ピラミッドとジッグラトの違いだって? 俺が知らないと思っているのか。
形は似ている。両方とも四角錐《しかくすい》の建造物だ。ジッグラトの形は階段ピラミッド状といわれることもある。ピラミッドはエジプト、ジッグラトはメソポタミア。一方が王の墓で、一方が神の塔だ。ピラミッドは下にあるものを守り、ジッグラトは上にあるものへと向かう。力のベクトルは地と天、全く異なる。ピラミッドは主に前二七〇〇年頃から前一一〇〇年頃建造され、ジッグラトは主に前二七〇〇年頃から前二〇〇〇年頃にかけて建てられた。前七世紀から前六世紀の新バビロニア時代のジッグラトは、聖書の「バベルの塔」の発想源であるらしい。
バベル。
田村はジッグラトを真っ黒に塗り潰《つぶ》した。力を入れ過ぎて紙が破れる。……何で、ジッグラト、バベル、塔なんて描いてるんだ俺は。あいつに聞かれたからだ。藤川志乃。昨日の夢の中にまで出てきた。何故かスカートが短くなっている。膝頭《ひざがしら》がのぞいていた。指でスカートの端をつまみ上げて、奇妙なことをいった。
「ヤハウィストはバビロンを訪れた。彼は見た。天に届くジッグラト。そびえ立つ塔。エ・テメン・アン・キ。バブ・イリ……バベルの都。行き交う言語。アッシリア語、エジプト語、バビロニア語、言葉の混乱。……塔は建っていた」
少女はしゃがみこむ。後ろから巨大なバベルの塔が出現した。
「ジッグラト――バベルの塔」
目が覚めた。夢をはっきり覚えていた。しゃがんだ膝のむっちりした感じが妙に生々しかった。塔の姿も鮮烈だ。巨大な巻き貝の怪物のような姿。
田村は『旧約聖書』を読んだことがない。だが、史実は知っている。本文を読まず、周辺の知識だけ持っているのもおかしなものだが。夢の中の志乃のセリフは、社会科教師としての知識だった。『旧約聖書』の著者はモーセだとする説もあったが、現在では否定されている。成立のもとになった史料は四つ――ヤハウェ史料、エロヒム史料、申命記的史料、祭司的史料である。最も古いのは前十世紀頃成立したヤハウェ史料で、神の名にヤハウェが用いられていた。この史料の作者は仮にヤハウィストと命名されている。彼は実際に古代バビロニアを訪れたらしい。バブ・イリ(バベル)の都で、エ・テメン・アン・キという名のジッグラトを見た。『エ・テメン・アン・キ』は『天と地の礎の家』と訳される。これがバベルの塔のモデルになったという。バベルの塔はその意味では実在したのである。古代バビロニアは多民族国家であり様々な言語が飛び交っていた……
……毎年、適齢期の娘たちが競売にかけられていたという。美女は高価だった。その売上金は売れ残った娘たちに配分された。ヘロドトスは賢明な風習と評価している。……同じくヘロドトスによると、病人は町の広場で横になっていたという。通行人は声をかけるよう義務づけられていた。医者ではなく通りがかりの人が病気への助言、対策を与えるのだ。自分や知り合いも同じ病に罹《かか》ったとか、その時どうしたとか。医者が少なかったのである……
視線を感じた。
我に返ると、隣のふっくらしたおばさん教師が田村の顔をのぞきこんでいる。彼女の視線は手元の汚れ破れた紙へと移動した。藁半紙《わらばんし》を丸めてポケットに入れる。喫煙事件の討議は終わっていた。村川は連絡事項の説明を始める。
「今日の昼のことですが、えー、理科準備室の薬品棚が壊されとりました。薬ビンが幾つか盗まれ、中には劇薬も含まれてます」
田村は異常な事件だと感じた。≪連絡≫で処理していいようなことではない。しかし誰からも異議は出なかった。事件に慣れていたのだ。会議に疲れてもいた。
「現在調査中です。私は学校に、えー、警察を入れるのは賛成しかねます」
どうでもいいことだ。悪ガキのいたずらだろう。田村は全てを投げていた。
会議は六時二分に終わった。勤務時間を過ぎている。
田村の頭の中には帰ることしかなかった。
会議室を一番に出ると、用務員室に向かう。
木中|稔《みのる》を待たせてあるのだ。同世代の用務員だ。一緒に夕食をとりそのあと一杯やるつもりでいる。田村も木中も酒好きだった。
用務員室には船山という五十過ぎの用務員しかいなかった。木中はもう帰宅した、伝言は受けていないという。船山は、髭の浮いた四角い顎《あご》をなでながら、
「木中君、顔色悪かったよ。このところずっと元気がなかったが今日は特にひどかった。思い詰めたような顔してるんだ。うちで寝てるんじゃないか。電話してみろよ」
線の細い女のような顔が目に浮かんだ。女形《おやま》のような美男子と、いえないこともない。
電話を借りた。六時十分。木中はアパートにいた。
口の中で言葉をかみ殺すような、はっきりしない声で、
「具合が悪いんだ。今日はアパートで休んでます。風邪じゃないんだけど……ごめんなさい」
≪ごめんなさい≫が女性的な言い回しにきこえた。いかにもこの男らしい謝り方だ。
ならば、帰るだけだ。
田村は足早に社会科準備室へ向かった。
準備室は特別棟三階にあった。教室や教務室のある普通棟とは渡り廊下でつながっている。渡り廊下は消灯されていた。暗いトンネルのように闇をはらんでいる。
田村は歩きながらもいらだたしさを覚えた。長々しいだけのくだらない職員会議だった。時間の無駄。出なければよかった。一人くらいいなくても、どうということはない。
そういえば……美術の伊庭《いば》の姿がなかった。伊庭|典克《のりかつ》。いいかげんな男だ。よく職員会議をすっぽかす。遅刻や休みが多い。授業さえまともにやらない。すぐ準備室に引っ込んでしまう。生徒はやりたい放題だ。管理職やPTAからにらまれている。あんな男がいるから学校が荒れるのだ。芸術家気取りなのだろう。油絵を準備室で描いている。それも気にくわない。職場で趣味をやっているのだ。しなければならないことはいくらでもあるだろうに。何のための準備室だ。学校では学校の仕事をしろ。伊庭はいつもにやけている。鼻髭も気にくわない。厭味《いやみ》の一つもいってやろうか……
一言いってやろう。今頃美術準備室でのんきに絵でも描いているに違いない。行ってみよう。特別棟の階段は隅に砂と綿ぼこりがたまっていた。清掃していないのだ。時々、清掃監督の猫背の教師が掃いている。確かに生徒を動かすよりは手っ取り早い。
田村は階段を二段ずつ上がる癖がある。一段ずつしか上がれなくなったら中年の証拠だと、何かで読んだのだ。以来階段を上がる時、いつも意識していた。意識してしまうのだ。気にし始めると、とことん気になって仕方がない。読んだことを後悔しさえした。中年が怖いのではない。止めるのが怖いのだ。一度始めたことを止めるのが恐ろしい。病的だ。彼は囚《とら》われやすい男だった。自分でも異常だと思う。
二階まで上がったときには息が荒くなっていた。二十代前半なのに体が弱っている。過労は若さではカバーできない。汚れた床に向かって大きく息を吐く。すると……
上のほうで気配を感じた。三階に上がる階段の踊り場。
見上げる。影のような黒い塊があった。
濃紺のセーラー服。青いリボン。黒髪。冷たい目。――あの子だ。藤川志乃。
髪は見事に整えられ幾何学的な二等辺三角形を作っている。
視線がぶつかった。違う。少女の視線は通り抜けた。田村を透かして別のものを捕らえている。存在を無視されたような不快さを感じた。
三階から何者かがけたたましい足音を立てて駆け降りてくる。
少年だ。後ろから少女の肩をつかむ。
「待てよ」
力ずくで振り向かせた。志乃の髪が円を描いて回る。
田村は空咳《からせき》をした。わざとらしく、二度。少年の目が教師を捕らえた。ばつの悪い顔、一瞬。すぐに、笑顔。見事な仮面の被《かぶ》り方だ。志乃から一歩身を引く。利発そうな目だ。さらさらの髪を真ん中で分けている。身長は田村より高いかもしれない。細面だが痩《や》せこけてはいない。引き締まっているのだ。田村は彼を知っていた。風見恭介だ。成績は学年で常に三本の指に入る。性格が素直で教師の評判もいい。
志乃は静かに階段を降りてくる。
少し間をおいて恭介も続いた。少女は何もいわず通り過ぎる。香《かぐわ》しい甘い匂《にお》いが鼻腔《びこう》を刺激した。すれ違いざま恭介が、さようならと丁寧に頭を下げた。厭味は感じなかった。田村は少し顎を引いて応《こた》える。二人は一階へと消えて行く。下司《げす》な想像をしてしまった。キスしかねない勢いだったからだ。今日は十二月三日。期末試験を六日後に控えている。遊んではいられない筈《はず》だ。部活でもしていたのか。しかし一部の運動部を除き部活動は休止期間に入っている。テスト一週間前から休みになるのだ。志乃は何部かわからないが、恭介は確か美術部だった。美術室か美術準備室にでも行っていたのだろうか。
三階に着く。廊下を見渡すと明かりが漏れている部屋がある。奥から二番目、美術準備室だ。一番奥が美術教室、手前が社会科準備室である。
廊下の明かりは消えていた。美術準備室のドアは少しだけ開いている。中の光が薄暗い床に、青白い歪《ゆが》んだ長方形を描いていた。
不安を感じた。根拠のない不安だ。虫の知らせのようなもの……
足を止めた。不安の理由を探る。
何の問題もない。ある筈がない。ドアが少し開いているだけだ。いらいらして神経がささくれているのだろう。電灯がついているということは、伊庭はまだ帰宅せず、中にいるということだ。絵でも描いているのだろう。それだけのことだ……
しかし。
田村は準備室の中をのぞきこんだ。
入り口から直接部屋の内部はうかがえない。鉄製のロッカーと作品乾燥棚が衝立《ついたて》のように設置され、視線を遮っている。足を踏み入れた。微《かす》かにストーブの燃焼する音が聞こえる。人の気配がない。生臭い臭《にお》いが鼻をついた。覚えのある臭いだ。ロッカーの右わきを迂回《うかい》して進む。
足……足が見えた。
床に投げ出された足。ダーク・グレイのスラックス。
視線を恐る恐る上げていく。背広も暗い灰色だ。床にうつ伏せに寝そべっている。後頭部をこちらに向けていた。顔は見えない。思わず目をそらす。後頭部に、赤。何とか視線を戻した。赤い……真っ赤な傷口。流れ出た血が床に溜《た》まりを作っている。思考が停止した。吐き気が襲う。しゃがみこむ。動けない。目が傷口に張り付いている。見たくないのに、離せない。田村は初めて包丁で指を切った時のことを思い出していた。小学生だった。指の血を吸う。傷口を見る。再び血が溢《あふ》れ出す。吸う。凝視する。溢れる血。目が離せない。あの時の感じだ。後頭部に二つの裂け目がある。大きな方の傷口から少しだけ白い骨がのぞいていた。塊が喉元《のどもと》まで込み上げた。両手で口をふさぐ。
しばらくして、少しだけ呼吸が整ってきた。
横たわる男に近づく。顔をのぞきこむ。
伊庭典克だった。
苦悶《くもん》の表情を張り付けている。生前のにやけた髭面からは想像もできない。虚空に向かって永遠に叫び続けているような顔だ。妙に長い舌が床を舐《な》めている。
ストーブは音を立てて燃えていた。最大火力だ。田村の思考はあらぬ方向へいった。――ストーブは≪中≫の火力で使う校則になっているんだぞ何やってるんだ伊庭のヤロウは何てルーズな男なんだ――覗《のぞ》き窓から、揺らめく炎を見つめた。生き物のように蠢《うごめ》いている。目を逸《そ》らす。そして……
見たのだ。
そこに、塔が建っていた。
黄土色の、巨大な、歪《ゆが》んだ塔が。
混乱の塔、田村が憑《つ》かれるように落書きしていたバベル――バベルの塔が。
何故だ? どうしてこんなものが俺の目の前に現れるのだ? これは……何だ?
見入ってしまった。状況は忘れた。
油絵だった。大きい。高さは身長くらいある。幅も一メートル以上あった。がっしりした木製のイーゼルに立て掛けられている。伊庭典克の作品だ。
魁偉《かいい》なバベルの塔だった。伊庭が建てた現代のバベルの塔だ。円錐《えんすい》形が基本の、巻き貝のようなフォルムをしている。黄土色の壁だ。画面は暗い緑色で縁取られている。室内から窓の向こうの塔を眺めているようでもあった。背景はくすんだ水色の空だ。塔の各階は徐々に面積を小さくして積み重なっている。螺旋《らせん》状に上昇していくような不安な形だ。各層にはいくつもの窓がある。一番下の窓にセーラー服の少女の顔が大きく描かれていた。
藤川志乃の顔だった。……違う。彼女ではない。田村にはそう見えてしまったのだ。志乃の顔ではなかった。似ているのは髪形全体のシルエットくらいだ。制服も大津中学のものではない。伊庭は学校に女を連れ込んでいたという噂《うわさ》があった。真偽の程は分からない。
絵の中の少女は泣いていた。透明な涙が頬《ほお》を伝っている。何故泣くのか。何が悲しいというのか。画面全体も割れている。数本の斜めの線で断ち切られていた。割れた鏡を拡大したようでもある。この分断は何を表しているのだろう。バベルの塔の崩壊か。割れた少女の心か。壊された体か。それら全てか。田村はバベルの絵の囚人《しゆうじん》となった。全身が目になったような気がする。隅々まで見ると他の窓にもそれぞれ奇妙なものが描かれているようだ。例えば騎士、そして秤《はかり》、階段をのぼる人、マリア像……
「ナニ、ヤッテンダ」
いきなりだった。
後ろから怒声が飛んだのだ。
心臓が凍る。明らかに外国人の声だ。
こんな場合でなかったら笑ってしまうような奇妙な発音だった。
白いコートの大男が立っていた。二メートル近い長身だ。澄んだブルーの瞳《ひとみ》に射竦《いすく》められた。彫りの深い大作りな目鼻立ち。銀髪は薄くかなり後退している。鼻から口にかけての皺《しわ》が深かった。白目を剥《む》き出しにして田村を睨《にら》んでいる。
腰が抜けたような気分だったが、同時に疑問も湧《わ》いてきた。
何故オーエン・ハートがここにいるのか?
田村はこの男を知っていた。皺だらけなので老けて見えるが、まだ四十前の筈だ。駅前の英会話教室で講師をしている。島に来て三年になるという。カナダから流れて来た画家である。絵で食えず、英語を教えて生計を立てていた。日本語はなかなか上達しないようだ。
彼はオーエンを知るだけでなく、憎んでもいた。恋人を奪われたからだ。英語教師の細井英子は田村の恋人だった。同期採用のため、すぐに親しくなった。二ヵ月と続かなかった。四月の終わり、英子は英会話教室に通い始めた。発音に今一つ自信がない。生徒の前でうまく発音できないのだ。オーエンから本場の発音の指導を受けた。教えられたのは発音だけではなかったようだ。二人は急接近した。結果、彼女は同僚教師を捨て、英語講師にくら替えした。田村はオーエンを憎み、英子を憎んだ。今は不可解さが憎悪を飲み込んでいる。オーエンが何故ここにいるのか理解できない。
学校の美術準備室。午後六時二十分、辺りは真っ暗だ。外国人の画家――英会話講師には場違いだ。細井英子に会いに来たというのならわかる。しかし、ここは伊庭典克の準備室なのだ。しかも部屋の主は死んでいる……
頭を割られた髭面《ひげづら》の死体が転がり、床に血溜まりができ、側にバベルの塔が建ち、少女が涙を流し、後ろから異様な言葉遣いの外国人が出現する。これは――この世界は何なのだ?
「アナタ、ヒトコロシタ」
たどたどしい言葉で糾弾された。……こいつは何をいっている。俺《おれ》が人殺しだって?
「ケーサツニレンラク、ワタシスル」
……何だその発音は、日本にいるなら日本語を話せ、ちゃんとした日本語を。
理不尽な怒りが生まれた。怒声が喉《のど》をついて出る。
「黙れ」
田村は声が低い。恫喝《どうかつ》するとかなりの凄《すご》みがある。白人は一瞬|気圧《けお》されたかのように一歩引いた。青い目が面白いように泳いでいる。田村はオーエンを睨みつけながら、
「私はやってない。早とちりするな」
他人の動揺する姿を見ることが、冷静さを生んだ。彼は人前では自分のことを私と呼ぶ。
「あなたこそ学校に何の用だ。オーエン・ハート」
少し間を置いて、オーエンは両手をおおげさに広げながら、
「ワタシ……ワタシ、カレ、アウ、キタ、ヨウジ……」
身振り手振りを交えて説明した。翻訳しているような気分だ。要するにこういうことらしい。オーエンは月に一度は鈴木画廊に足を運ぶ。島で唯一の画廊である。先月入ってみると、伊庭典克の個展をやっていた。文学的な絵が多く、つまらない。しかし一点だけすばらしい絵がある。オーナーに値段を聞いた。安い。一週間後に支払いを済ませた。だが一向に作品が届かない。画廊に問い合わせると、画家が直送するという。伊庭に連絡を取った。あの絵は個展終了後気に食わなくなり、描き直している。良くなってから渡す……
「ヒジョーシキデス。エドガー・ドガハ、ヨクコンナコトシタラシイデスケド。イバハ」
信用できなかった。金を払ったのに、絵を渡さないつもりなのではないだろうか。そこで、見に来ることにしたというのである。学校で絵を描いていることは知っていた。
田村は辺りを見回して、
「そんな絵がどこにある?」
オーエンは伊庭の死体を気味悪そうに見ていた。伊庭は万歳するような格好で、頭をストーブに、足を入り口側に向けて倒れていた。石油ストーブは部屋のほぼ中央にある。その奥が窓と流しだ。窓に向かって右側には机と本棚、教材や道具の整理棚がある。左側には大きな鉄製のキャンバス整理棚があった。上下二段に分かれており、絵が縦にぎっしりと並べられている。横に二メートル近い木製のイーゼルがあり、バベルの塔の絵が立て掛けられていた。前には椅子《いす》と、絵の具や筆が入ったキャスター付キャビネットが置いてある。
オーエンは死体からできるだけ遠回りにバベルの絵の前に向かった。田村は後ろから、
「おい、まさかその絵じゃないだろうな、あんたが買ったのは」
「チガウネ、コレ。ワタシガカッタノハ、ナチュール・モルト。ソレニ、ホラ」
腕を伸ばし、毛だらけの手で画面を隅々までなで回して、
「パーフェクトニカワイテル」
白い大きな手のひらを見せた。大量の埃《ほこり》が付着している。田村は些細《ささい》なことが気になった。
「あんた画家だろ。他人の絵を平気でなで回すのか。無神経だな。少しは常識をわきまえろ」
気になるといわずにいられない。いつも何かに脅迫されているような気がする。いわないことが、怖い。田村も絵に近づいた。舐《な》めるように表面を観察する。完全に乾いているようだ。オーエンがなで回した部分だけ、薄く埃が取れていた。かなり以前に描き上げた絵なのだろう。今描き直してはいない。画面右下の隅にサインが入っている。≪IBA・1995≫。絵を凝視していると、横で男がごそごそと何か始めた。キャンバス整理棚の中の絵を端から引っ張り出して見ているのだ。目的の絵を探しているのだろう。オーエンは何よりも買った絵のことを優先させていた。ここが殺人の犯行現場であることを忘れている。……俺もだ、と田村は気づいた。殺害現場の保持などという考えはどこかへ飛んでいた。二人ともどこかが狂っている。
突然オーエンが奇声を上げた。
「オーッ、コレダッ、アッター」
三十号くらいの油絵を棚から引き出した。静物画だ。剥製《はくせい》の鳥を中心にして、洋酒のビンやグラス、果物などが、暗い背景から浮かび上がっている。リアルだ。実物が絵の中に入ってしまっていた。
「オーッ、ノオーッ」
また叫んだ。やかましい男だ。田村はオーエンを睨みつけた。カナダ人の両手にはべっとりと黒い絵の具が付着していた。静物画の表面がまだ乾燥していなかったのだ。絵が気に食わず、描き直していたというのは事実のようだ。手についた黒の色からすると、背景を塗り直していたらしい。
田村は、ふと、違和感を感じた。
この奇妙な感覚は何なのか。オーエンの黒く汚れた手を見た瞬間、それを感じた。もどかしい。伊庭は絵を描き直していた。乾いていなくて当然ではあるのだが……
オーエンは英語で何かいいながら流しで手を洗っていた。石鹸《せつけん》を付けて丁寧に絵の具を落としている。水の音。何故かそれが田村に忘れていたことを思い出させた。
警察に連絡しなければならない。
机の上の電話に向かう。ここから校外にもかけられる。局番を回してから一一〇番するのだったか? 番号をプッシュしかけて、止めた。オーエンにいっておくことがある。
「おい、そこの大男。ここは犯行現場だ。殺人事件が起こったんだぞ」
オーエンは驚いたように両目を見開き田村を見た。言葉が完全には通じていないのだろう。
「人殺しだよ。伊庭は殺されたんだ。現場を勝手にいじくるな。市民は警察に協力する義務がある。手を洗ったら水を止めろ。ぼっとしやがって。あちこち触るんじゃない。絵は元に戻しておけ。ごそごそ動き回るな。何て気が利かないんだ。間抜け、唐変木……このデクの坊」
最後はオーエンに伝わらないことを予測して罵倒《ばとう》した。
案の定、カナダ人は両手を広げ肩をすくめて、
「デク……? ワタシ、ニホンゴワカリマセーン。アナタ、メガコワイ。シタガイマス。モウイチド、イッテクダサイ」
田村は応えず、電話をかけた。
U
田村は冬を待っていた。
冬が好きなわけではない。雪が見たかったのだ。
雪を見たことがないわけでもない。豪雪を知らなかったのだ。
東京で生まれ育った。教師になると決めた時から雪国に行こうと思っていた。だから新潟の採用試験を受けた。深い理由はなかった。長野でも秋田、山形でもよかった。どこでもよかったのかもしれない。合格して、採用の通知が来たのは三月半ばのことだった。離島だという。かまわなかった。のんびりできるだろう。
それは錯覚だった。……今にして思えば。
雪が降っている。夜のとばりの中、静かに舞い降りていく。一メートルは積もるだろう。県内では少ないほうだという。山間部ではもっと降るのだ。また雪を下ろさなければならないのか。先週の日曜日、初めて雪下ろしを体験した。屋根に積もった雪を落とすのだ。腰くらいまで積もっていた。大家は手伝いながらも、脅した。この冬、もう一回くらいやらんと家が潰《つぶ》れるよ。彼は老人だったが、同じ時間で田村の倍くらいの雪を落とした。慣れている。
築三十年という古い平屋建ての一軒家を借りている。大学へも自宅から通ったせいか、アパートには入りたくなかった。台所、風呂、便所の他に部屋が二つある。八畳間を仕事部屋にし六畳間で寝ていた。
消灯し万年床に横たわる。長い一日だった。
柱時計は午前二時を指し示す。
七時には起きなければならない。
起きる瞬間が地獄なのだ。後五分もう三分、布団の中にいてしまう。登校拒否は生徒だけではない。枕元《まくらもと》にはいつも灰皿が置いてある。起きぬけに一本吸わないと肝が据わらない。朝の儀式だった。朝だけではない。一時間に一本は吸いたくなる。立派なヘビースモーカーだ。精神的な登校拒否かもしれない。
しかし、自分はまだましな方なのかもしれないと田村は思う。
実際に学校を休みがちの職員さえいる。用務員の木中稔だ。腺病質《せんびようしつ》の青白い顔をしている。ぼそぼそと小さな声で話す。いつ死んでもおかしくない弱々しい男だ。だがどこかが自分と少し似ている。見かけではない。嫌いではなかった。四月、友人を作りたかったこともあり、よく夕食に誘った。食べた後は飲む。泥酔するまで飲み続ける。木中は田村ほど酒に強くない。しかし彼は断れない男だった。昨日食事の約束を蹴《け》ったのは珍しい例外だ。よほど心か体の具合が悪かったのだろう。
田村は子分が欲しかったのかもしれない。
木中が学校を休むようになったのには、はっきりした切っ掛けがあった。九月半ば、不良グループに囲まれ、暴行を受けたのだ。五人のうち二人は角材を持っていた。≪むかつく≫という理由からだった。何故むかついたのかはわからない。彼らにとって原因は重要ではない。むかつくこと、それが全てだった。腕とあばら骨と鼻を折られた。もともと≪おんなおとこ≫≪オカマ≫と馬鹿にされ、目をつけられてもいた。≪本人の希望により≫世間では交通事故に遭ったということになっている。校長の意志が働いたという噂《うわさ》もあった。
以来、用務員の青年は体調不良を理由に職場を休むようになった。週に一、二回は休んでいるのではないだろうか。
木中は近所に住んでいる。妻とは別居中で独り暮らしだ。昨日のこともある。朝、迎えに行って一緒に出勤しようか。そうしよう――と、決めた時気づいた。不安なのは、怖いのは、自分なのだと。木中の存在を必要としている、自分自身なのだと。
タバコが吸いたくなった。
何もかもが憎らしい。この島もこの町も学校も職員も生徒も村川も細井もオーエンも藤川も風見も木中も、そして自分、田村正義も。昨日の職員会議では盗難事件が報告されていた。理科準備室から毒薬が盗まれたのだ。誰が盗んだのだろう。そして何の目的で? ひょっとしたら自分と同じタイプの人間が盗《と》ったのかもしれない。彼(彼女?)は決まった目的があって毒を盗んだのではなかった。無作為に毒物を撒《ま》き散らしたかったのだ……。結果は無意味な大量殺人。青酸カリや亜砒酸《あひさん》が目の前にあれば、今の田村ならやってしまうかもしれない。少なくとも誘惑は感じるだろう。
疲れているのに、神経が高ぶっているせいか眠くならない。電灯を点《つ》ける。畳に放り投げてあった文庫本を手に取った。眠る前に少しずつ読んでいる。クライブ・バーカー『ダムネイション・ゲーム』。
寝室の壁には本が雑然と積み重ねてある。本棚はない。ほとんどがホラーとミステリーだ。SFも少しある。子供の頃から好きだった。昔は夢やロマンを求めて読んだものだ。今は≪逃げ≫を求めて本を読む。疲れていて内容は半分も頭に入らない。しかし活字を追うこと自体が現実世界からの逃げだった。M・R・ジェイムズとウエィクフィールドとエイクマンを続けて読んだ時期にはさすがに悪夢にうなされた。それでも止めなかった。逃げたかったのだ。少しでも不安をごまかしたかった。
今夜はいつも以上に手にした本に集中できない。さらって来た少女を薄くスライスして食べている場面で嫌気がさした。本を投げ出す。両手を頭の後ろで組んで、黒ずんだ天井をぼんやり眺めた。
無理もない。今日は……正確には昨日は、ひどい一日だった。殺人事件の第一発見者になったのだ。
警察を呼び、到着するまでに十五分を要した。待つ時間は異様に長く感じるものだ。十五分が一時間にも思えた。成田という五十絡みの刑事が指揮をとった。面長で鼻が高く、目尻《めじり》が垂れ下がっている。柔弱な面相とは裏腹に低くしわがれた声を出す。指示は的確で素早かった。廊下には学校中の職員、残っていた生徒が集まって来ていた。生徒の中には、興奮してお祭り騒ぎになっている者も、携帯電話で友達を呼び出している者もいた。非常識にも浮かれていたのだ。下手をすれば大混乱になっていただろう。成田は制服警官を使ってヤジ馬を手早く整理した。校長も教頭も村川も青ざめておどおどしているだけだった。田村とオーエンは隣の社会科準備室で取り調べを受けた。死体を発見した状況を細大漏らさず述べた。
凶器は机の下から発見されたという。べったりと血痕《けつこん》が付着したブロンズ像だ。四十センチくらいの頭像で、かなり重い。伊庭の前任の美術教師の作品だった。写真を元に作った島の名士像で、売り損ねたものらしい。机の上に数年間置きっ放しになっており、誰の目にもついた。死んでから二時間は経過していないだろうということだ。解剖してみないと正確なことはわからない。死亡推定時刻は午後四時半から六時半頃ということになる。
いわれるまでもない。田村は清掃終了時に伊庭の姿を見かけている。四時頃だった。社会科準備室の清掃当番を帰した後、職員会議に向かおうと廊下に出た。その時、明けっ放しの美術室のドアごしに動き回っている伊庭の姿を見かけた。手にモップを持っていた。伊庭が監督では誰も掃除に来ないだろう。職員会議に彼の姿はなかった。死体を発見したのは六時二十分頃だったから、その間に殺されたのは間違いない。刑事にそういった。
成田は強気に断言した。
「必ず犯人の目撃者が出ますね。四時から六時二十分というのはかなり半端な時間です。深夜でも早朝でもない。しかも場所は学校です。誰かが犯人の姿を見ている筈《はず》です」
成田は外部の者の犯行とふんでいるようだった。計画的な犯行でもないだろうという。
「常識で考えてください田村先生。学校の準備室等という人の出入りが激しい場所へ夕方やって来て殺す。……そんな計画を立てる犯人がいますかな。もっと都合のよい場所と時間はいくらでもある筈だ」
やはり突発的な犯行だろう。成田はとつとつと言葉を継いで、
「放課後、伊庭先生を訪ねた者があったんでしょうね。何かの用事で美術準備室に入って来た。そして被害者と口論になった。かっときた来訪者は手近にあったブロンズ像を先生の頭に叩《たた》きつけた」
真相はそんなものだろう……
布団が冷気でじっとりと湿っている。布団乾燥機でも買って来なければなるまい。田村はタバコの箱に手を伸ばしかけて、止める。
突然目の前にバベルの塔が浮かんだ。幻覚だがありありと見えた。
網膜に張り付いてしまったのだろうか。黄土色の巻き貝のような形をしていた。伊庭の描いた絵だ。塔は分断され、少女は涙を流していた。意味はよくわからない。
現場で抱いた違和感を思い出す。もう少しで掴《つか》めそうなのだが、掴めない。あれは何だったのだろう……
……それにしても、オーエン・ハートが現れたのには驚いた。伊庭の絵を見に来たのだという。無神経な男だ。恋敵でなくとも好きになれない。……準備室に向かう途中では風見恭介と藤川志乃に会った。ただならぬ雰囲気だった。あれからどうしたのだろう。デートでもしたのだろうか。いや……もっと重要なのは、それ以前、どうしていたのか、だ。特に恭介は美術部だ。美術準備室に顔を出した可能性もある。伊庭の事件に関して何か知ってはいないだろうか。不審な人物を見かけたりしなかったのか。……伊庭典克は殺されるような男だったか。動機は存在するのか。伊庭は確かにいいかげんな男だった。営利企業ならすぐに減給、左遷されるだろう。しかし敵を作りはしなかった。弱気で、全てのものから逃げているような男だ。教師や生徒からの信望は薄いが憎まれるほど深くかかわってもいない。そわそわして落ち着きがなく、何事につけでたらめだ。にやけた髭面《ひげづら》は確かに感じが悪いのだが……殺されるほどの理由は見当たらない。もっとも殺人の動機などというものは犯人にしかわからないものかもしれない。衝動的な殺人だったら本人でさえよくわからない場合もある……
……今夜は眠れそうにない。
昨日の出来事を繰り返し思い描くうち、辺りが白んできた。ヒーターは鈍い音を発しながら一晩中熱風を吹き出し続けた。出勤三十分前に急に睡魔が襲ってきた。心が逃げたがっているのだろう。寒くはなかったが、ぎりぎりまで布団の中にいた。タバコを一本ふかしてから、おもむろに立ち上がる。
顔を洗う。鏡の中に青ざめた顔がある。極度の近視のためぼやけて見えた。両目とも〇・一以下なのだ。眼鏡を掛ける。はっきりした。七三分けの特徴のない顔の中で、目だけが異様な光を放っている。落ち窪《くぼ》み、充血し、隈《くま》ができていた。
車に乗り込みエンジンをかける。白い朝だ、空も町も道も。細かい雪が休みなく降り続けている。四輪駆動の軽自動車。エンジンを五分ほど暖めてから発進させた。
海山荘へ向かう。木中稔の住むアパートだ。一キロほど車を走らすと、右手に農協低温倉庫のドーム状の屋根が見えてくる。隣にアパートが建っていた。青っぽいグレイの壁に赤い屋根の二階建て、目的地だ。空が低い。ネズミ色の雲を背に赤い屋根が妙にまがまがしく目に映った。雪はまとわりつくように水っぽい。
学生アパートのような安普請である。駐車場に車を停め、階段を上って行く。鉄製の階段は雪で濡《ぬ》れて滑りやすくなっている。寝不足のせいか足に力が入らない。二階に着く頃、足を取られた。落下しかけて、必死で手摺《てす》りに掴まる。呼吸が荒い。頭から落ちたら命はないだろう。
木中の部屋は奥から二番目だった。褐色のドアの前に立ち呼び鈴を押す。反応はない。二度、三度と鳴らす。動きはないようだ。七時五十分。起きていてもいい時間帯だ。むしろ起床していなければおかしい。立てないほど具合が悪いのだろうか。新聞受けには新聞が投げ込まれたままだ。ノックした。「木中」と声を掛けてみる。ノックし続けた。気配がない。中に人がいないかのようだ。この感覚には覚えがある。つい昨日だ。美術準備室と同じなのだ。胃がキリキリと痛みだした。あの時の……死体を発見した時の、感じ。
まさか……いや、あり得ない。そんな偶然は……同じことが二度も起こるなんて……木中は風邪で寝込んでいるのだ、あるいは二日酔いか……違うな、登校拒否、それとも急に旅行にでも行ったのか……別居中の奥さんの家に行っている……いずれにせよ職場を放棄したいのだ。体よりも心の具合が悪くて、居留守を使ってるのだろう……
田村は無意識のうちにドアのノブを握っていた。
ドアを引く。鍵《かぎ》は掛かっていない。少しためらう。「木中……」と呼びかける。声が震えた。答えはない。ドアを開くと、嫌な音を立てて軋《きし》んだ。ゆっくりと足を踏み入れる。後ろ手で静かにドアを閉め、薄暗い部屋の中に入っていく。同じだ。昨日と同じだ。同じ感覚だ。そこには頭を割られた死体が横たわっていて、横に……バベルの塔が……
今度は?
入ってすぐのところがダイニングキッチンになっていた。右にトイレと浴室のドアがある。八畳間に続く引き戸をゆっくりと開けていく。少しずつ部屋の中が見えてくる。奥のベッドが目に入った。上に和布団が敷いてある。すえた臭《にお》いが漂ってきた。そして床には……床には小さなガラステーブルが置いてあり、その側に……
あった。
昨日と同じものが。
準備室で見たものが。
死体、横たわる男の――死体だろうかこれは。
めまいがした。頭痛がする。気持ち悪い。吐き気を感じた。腹のあたりに手をやる。
……そうだ、次の行動もわかっている。恐る恐る近づいて死体の顔をのぞきこむのだ。それからバベルの塔を発見する……
地雷を確かめるような足取りで部屋に入っていく。紫のトレーナーを着た男がうつ伏せに横たわっている。顔をのぞきこむ。木中稔だ。吐血している。緑のカーペットが血を吸い込み、赤黒くなっていた。顎《あご》が外れるほど口を開いている。歯が赤く染まっていた。剥《む》き出した白目には細かい血管がびっしりと浮き出ている。顔中に苦悶《くもん》の皺《しわ》が走っていた。これがあの女形《おやま》のような木中か。鼻梁《びりよう》に薄く残る傷痕《きずあと》を発見した。生徒に殴られた時のものだ。
田村には一瞬後の自分の姿が見えたような気がした。未来の映像が実際に見えるような不思議な感覚だった。彼は今、しゃがみこんで死体の顔を見ている。次に左側の壁を見るのだ。するとそこにバベルの塔が建っている。……静かに顔を横に向ける。左の壁を見た。白い壁紙。そこにバベルの塔が……
なかった。ただの壁だ。そんな筈はない。
そこに塔が建つ筈なのだ。
田村は心のどこかで自分の理屈の奇妙さに気づいていた。しかし、塔はなければならなかったのだ。壁には三分の二以上破り取られたカレンダーの上部しか残っていない。灰色の金属の竿《さお》が釘《くぎ》で止めてある。残っているアート紙から12という数字がかろうじて読み取れた。十二月のカレンダーだ。奇妙だ。まだ十二月四日なのに何故破り取ったのか。しかも紙の上部が残るような乱暴な破り方で。まるでむしり取られたようだ……むしり取る? では破られたカレンダーはどこへ行ったのだ?
辺りを見回す。カレンダーらしき紙切れはどこにある。ゴミ箱はからに近い。
その時、うかつにも初めて気づいた。
死体が何か握っている……右手でアート紙をもみくちゃにしている。
後先考えず、引っ張り出した。B4くらいの大きさのようだ。紙を広げる。
血走った目が食らいつく。
――見ろ、塔は、建っていた。
ここに、バベルの塔が建っていた。
破り取られたカレンダーだった。十二月の曜日表の上にバベルの塔の図版が印刷されている。田村はそれを床の上に放り投げて、笑った。笑っていたのだ。さあ今度は後ろから声をかけられるに違いない。怒声が飛ぶのだ。奇妙な外国人の発音で、ナニヤッテンダと。彼は床に座り込んだ。笑いが止まった。涙が一粒こぼれる。両膝《りようひざ》を抱きかかえ床のカレンダーを眺めた。
絵の下には小さく≪ピーテル・ブリューゲル(父)『バベルの塔』一五六三年≫とある。未完成の巨大な塔が描かれていた。まだ工事中であり足場らしきものも見える。大まかにいえば円錐形《えんすいけい》の塔だ。素材は岩なのだろうか。地面と塔の境目には巨大な岩石のようなものが見える。塔全体が岩から掘り出されたかのようだ。無数の人間が小さく描き込まれていた。ツルハシをふるって石を切る者、火を焚《た》いている者、階段をのぼっている者、馬車に乗っている者など、様々である。手前には従者を引き連れた王の姿があった。彼の前には四人の庶民が跪《ひざまず》いている。
田村は絵を見ているうちに冷静さを取り戻していった。
ハンカチを取り出し、カレンダーの表面を丁寧に拭《ふ》く。再び指紋を付けないようにハンカチで覆って、握り潰《つぶ》し死者の手に戻す。木中の手は生魚のように冷たかった。喉《のど》まで込み上げてくるものがある。こらえきれず、流しへ行って吐いた。吐瀉物《としやぶつ》を水で流しながら呼吸を整える。
吐き気を抑えるのに数分費やした。顔を上げると壁のホワイトボードが目に入った。
今日から向こう一週間の夕食の献立表が書かれている。大根と豚肉の重ね煮、カキのカレーソテー、サバの韓国風南蛮漬け、中華風カニ鍋《なべ》、牛肉の黒糖煮、ホウレン草と卵のグラタン、鶏もも肉の赤ワイン煮、随分凝った料理ばかりだ。木中の趣味は料理だった。素材も吟味していた。飲み屋の添え物にケチを付けていた姿を思い出す。おかしみと悲しみを同時に感じた。
しかし……それだけではなかった。違和感があった。伊庭の殺害現場で感じたのと同じような奇妙な感じがある……
だが冷静に分析している場合ではない。警察を呼ばなければならなかった。それとも木中の妻に電話するのが先か。別居中とはいえ一応結婚しているのだ。しかし電話番号がわからない。やはり警察が先か。
電話を求めて部屋に戻ると、ベッドの上に小瓶を発見した。枕《まくら》の横に八センチくらいの薬物の瓶が転がっている。茶色いガラス製で、かなり古くラベルの字が読み取れない。擦《こす》れたようなラベルには化学記号が記されていたようだ。田村は理科準備室から盗まれた劇薬のことを想起する……
受話器を取り警察に連絡した。来るのはまたあの成田だろうか。
死体といるのに耐え切れず外へ出た。
通路の手摺《てす》りに両手をつき、深く息を吸う。雪は止んでいた。あんなに近くに高山のなだらかな白い尾根が見える。小さな島、小さな町だ。その大津町で二つの異常な死体が、他ならぬ自分によって発見された。ひどい偶然だ。
二人は同じ中学の職員だった。教員と用務員。他の共通点はあるのだろうか。しばらく考えた。思いつかない。少なくとも伊庭と木中は親しくはなかった。伊庭にとって木中はいつも「用務員さん」であり、名前で呼ばれることはなかった。木中は田村以外の教員と親交はなかったようだ……考え続けているうちに別のポイントに気づいた。
伊庭典克は昨日、十二月三日、四時頃から六時二十分頃の間に殺されている。木中稔はどうか。昨日六時には生きていた。電話で「具合が悪い」から食事に出られないという弱々しい声を聞いている。現在八時少し過ぎだ。昨日の午後六時から今朝の午前八時。木中はこの十四時間の内に死んだ。約半日で二人の男が死んでいる……
もし殺された……二人とも同一人物によって殺されたのだとしたら、どうだろう……殺人鬼は人気タレント並みの過密スケジュールをこなしたことになる。昨日の夕方伊庭を殴り殺し、その夜、あるいは翌朝、木中を殺しに出掛けた。木中は瓶から直接毒を飲んだらしい。犯人が強引に飲ませたのだろうか。刃物で脅して嚥下《えんか》させたのかもしれない。自殺でなければの話だが。……何故そんなに急いで殺人を行ったのか。約半日以内に二人を殺さなければならない理由があったのだろうか。
田村は二つの事件が殺人で、しかも同一犯人だと思い込んでいた。
思い込んでいる……自分に気づいた。何故だろう。結果から原因を探る。伊庭の事件は明らかに他殺だ。木中の事件は自殺に見える。自殺、そうに違いないのだ。田村は思い込もうとしてみた。すればするほど、逆の可能性が頭をもたげてくる。すなわち自殺に見せかけた殺人。まさか。そんな筈《はず》はない。頭を軽く振って否定した。一人芝居のようだった。自殺だ。自殺なのだ。しかし……それなら何故木中の部屋で違和感を感じたのだろう。あれは美術準備室で感じたのと同じ種類のものだった。
巨大なバベルの塔が目に浮かぶ。ありありと見えた。触れられるようだった。田村は気づいた。違和感だけが問題なのではない。それよりもあのバベル……バベルの塔だ。バベルの塔が二つの現場に現れた。そこに何か意味があるのか、全くの偶然か。むろん偶然だ。意味があるわけがない。だが……もし偶然でなかったら、犯人が作為的に残していったものだとしたら、どうなる? どんな意図があるというのだ。天に届く巨大なレンガの塔。犯人はバベルで何を示そうとしているのか。
田村はバベルに侵食されつつあった。
V
所詮《しよせん》は他人事《ひとごと》だ。
伊庭の死も木中の死も。
十二月九日、五日間が過ぎている。
期末試験の初日だった。
田村の精神状態にかかわりなく日常の仕事は存在する。山のように押し寄せた。気持ちを切り替えることもできず、無理やり仕事をこなしていく。心を押し潰《つぶ》すのだ。殺人事件などにかまっていられない。消耗していることに気づかないほどだ。
今もこうして仕事をしている。
署名運動。勤務時間外のくだらない仕事だ。某政治家の応援署名だった。公務員の仕事ではないと田村は思う。だが所属する組織によっては有無をいわさず駆り出される。六人の男が署名を求めてうろついていた。地域の労働組合の人々で、教員は田村一人だ。
午後七時三十分。辺りはすでに暗い。
ビデオCDレンタルショップの駐車場だ。消雪パイプから水が放出されている。気をつけて歩かないとズボンが濡《ぬ》れた。約二十台の車が停められている。平日だが来客は予測したより多かった。声をかけると二人に一人は署名してくれる。
田舎者なのだ。田村ならいかなる場合でも署名などしない。通り過ぎるだけである。名前など書いていては濡れるではないか。雪がこんなに降っているのだ。
彼は自分にいらついていた。間抜けな姿なのだ。まるで小学生の写生大会だ。署名用紙は縦五十センチ横六十センチくらいの台紙にセットしてある。台紙には斜めに紐《ひも》が通してあった。それを首にかけて、画板のように固定する。右手には数本のボールペンとサインペン。どんなにぞんざいな扱いを受けても、相手にぺこぺこしなければならない。
赤いコートの女に署名を頼む。カタツムリが這《は》うようにゆっくりと記名した。間近で見ると化粧で隠し切れない皺《しわ》がある。不快な甘い匂《にお》いがした。木中貞子を思い出した。稔の妻も赤い服を着ていた。五日前、初めて会った。
木中稔の事件現場に来たのはやはり成田だった。高い鼻をしたフランス人のような刑事。田村を見て驚くか怪しむかと思ったが、まるで反応がない。淡々と指揮し質問するだけだった。プロなのだろう。感情をまるで見せない。
しばらくして別居中の妻が到着した。住所録が見つかり連絡が取れたのだ。女は毛皮のコートにサングラスといういでたちで現れた。サングラスを外すと、モデルのように派手な顔がそこにあった。間隔がやや開き、やぶにらみ気味だが、二重の大きな目をしている。真っ赤な唇が不思議に下品ではない。ウェーヴした髪が肩に掛かっていた。『ブラック』というスナックで働いている。稔より少し年上で、高校の頃、知り合った。二人は高卒で働き始め、いつの間にか結婚し、いつの間にか別居していた。
田村も『ブラック』へ行ったことがある。その時貞子はいなかった。店の中には四十代後半のママだけだった。『ブラック』は色の名ではなく画家の名から採ったという。絵や工芸品が飾ってあった。陶芸もある。湯飲みの見事な円筒形を見ていると、ママが解説してくれた。うちのコが作ったの、毎年陶芸教室に行ってるのよホラ大津版画館の。
それが貞子だったのだろう。彼女はしばらく稔の死体を見下ろしていた。さげすんでいるようにも見えた。ゆっくりと目を細める。死体が見にくいというのではなく、周りの男の視線を意識しているような色っぽい目付きだった。赤い唇から言葉が漏れた。
最後までつまらない男ね。
コートを外す。彼女は真っ赤な……タートルネックのセーターとニットのスカートを身に着けていた。
その赤を今、思い出したのだ。
署名を終えた女は、赤いコートを翻して店の中へ消えた。
客が途絶えた。田村は想いの中に沈む。
あの日、学校へは随分遅れて行った。木中の死は自殺ということになりそうだった。遺書は発見されていない。砒素《ひそ》を飲んでいた。ベッドの上に転がっていた薬物瓶には砒素が入っていたのだ。小瓶に直接口をつけ一気に飲み干したらしい。ひとたまりもなかっただろう。凄《すさ》まじい苦しみだったに違いない。もがき苦しみ手近にあったポスターを破り取って握り潰した。死体に不自然な外傷はない。その後も田村は警察の訪問を何度か受けている。
バベルの絵は、成田によれば木中自ら握り締めたということになる。……犯人によって握らされたのではなく。
砒素は大津中学校の理科準備室から盗まれたものだった。木中自身が、準備室に侵入し、手に入れたのだろう。動機の見当もつく。生徒に暴行を受けノイローゼ気味になっていた。自殺に間違いない。しかし……田村には別の考えがあった。日を追うごとに確信にまで高まってきている。警察にはいっていない。伊庭の事件の捜査のその後について聞いてみた。進展しているのかどうか。成田はとぼけるばかりだった。
黒いコートの女が突然出現した。
白いワゴン車の陰からだ。車体に隠れてそれまで見えなかったのだ。
頭から足先まで一つのシルエットになっている。田村は署名ボードを差し出しかけて、止めた。生徒だ。しかもあの女、藤川志乃だったのだ。セーラー服の上に、引きずるような長いコートを羽織っている。唇を一本に結び、冷たい目をしていた。田村の方をちらりとも見ず、ガラスの自動ドアの向こうへ消えていく。彼はぼんやりとその背中を見送った。明日も期末試験だ。二日目で、二科目のテストがある。あいつは何をやっているのだ。少しは勉強したらどうか。田村の頭の中には自然と説教の言葉が浮かんだ。頭の中で演技をしているのだ。教師の発想を繕っている自分がおかしい。本心は少女を振り向かせたいだけなのかもしれない。気を引きたいということか、あんな子供の。
見かけた生徒は志乃だけというわけではない。テスト期間にも拘《かかわ》らず結構やってくる。しかし心をささくれさせたのは彼女だけだった。それにこの時間帯に制服を着て遊びにくる子は変わっている。セーラー服以外の藤川志乃は想像できなかった。彼女の笑顔と同じくらいイメージできない。田村は志乃の笑顔を見たことがない。
気を取り直し、若い夫婦を捕まえ署名させた。署名活動が終了したのは八時ちょうどだった。リーダーが他の五人の署名用紙を回収した。今日一日で百人近い署名が集まっている。家族全員の名前を書いてくれた人もいた。ご苦労なことだ。田村は自分自身も皮肉った。学校の仕事が終わってからこんな実のない作業を押し付けられて、ご苦労様。
志乃はまだ出て来ない。田村は店の中へ入って行った。自動ドアが音を立てて開く。正面が文房具や雑貨のコーナーになっている。右半分が書籍、左半分がビデオやCDのレンタルと販売のコーナーだ。蛍光灯の白い光が今夜は肌寒く感じられた。客は意外と多い。小学生から老人までいる。
志乃はCD販売コーナーにいた。対角線上に離れて背中で様子をうかがう。横顔が見える位置まで移動する。おかっぱが横顔を隠し、高い鼻筋しか見えない。CDを端から順に一枚一枚手にとって見ている。緩慢な動作だ。目的の品を探しているようではない。ぼんやりしている。壁の表示パネルには≪日本・ポップス≫とあった。この少女も流行《はや》りの歌を聴くのだろうか。
白っぽいパッケージのCDを長々と見ている。棚に戻す。
同時に、右側から女の手が伸びてきた。
丸々とした手だ。一見、茶髪のおばさんだった。改めて見直すと、若い。高校生ではないだろうか。緑色のセーターに灰色のスカートをはいている。
女の体が志乃にぶつかった。わざとぶつけて押しのけたように見えた。志乃は二、三歩よろめいた。茶髪がCDを取る。今しがた志乃が手にしていたものだ。まるでケンカを売っているようなぶつかり方だった。
志乃の顔に変化はない。
茶髪も何事もなかったかのようにCDの裏表を眺めている。黄色に近いソバージュを時々かき回す。二人に言葉はなかった。奇妙な沈黙が支配する空間が生まれる。愚劣な行為と不当な無言が異次元を捻《ひね》り出していく。田村は成り行きを見守る。
志乃は不思議な行動をとった。
茶髪はハンドバッグと紙製の買い物袋を手にしている。志乃はさりげなく赤いパッケージのCDを引き出した。同じくらいの自然さで女の買い物袋に入れる。茶髪は全く気づいていない。売り物を放り込んだのである。注視していなければ見逃してしまう一瞬の行為だった。見ていても、当たり前の動作に思えてしまうさりげなさだ。あっけに取られた。志乃は女を万引きの犯人に仕立てようとしている。あのままドアをくぐろうとすれば警報装置が作動し、従業員に取り押さえられてしまうだろう。彼女は無実を主張するだろうが、不快な目に遭うことは間違いない。志乃は気に食わぬ者に万引きをさせようとしている。
復讐《ふくしゆう》なのだ。体をぶつけて無神経に押しのけたことへの。
黒いコートの少女は仮面のような無表情のまま出口へ向かった。田村は後を追う。茶髪女など知ったことではない。駐車場の半ばで、捕まえた。声をかける。
「待てよ、藤川」
うわずっていた。
駐車場の車はおよそ十台に減っている。常夜灯の青白い光が少女の目許《めもと》に深い陰を作った。
「見ていたぞ藤川。お前、どういうつもりだ」
「……何が?」
とぼけている。怒りが湧《わ》く。学校仕事の上に署名活動をやり疲労が極限まで来ていたせいもある。ちょっとしたことが気に障るのだ。殴ってやろうか。怒りのせいだけではない。殴りたいという嗜虐《しぎやく》的な欲望もあった。セクシャルな暗い欲情だ。むしろ淫欲《いんよく》が男を突き動かしていた。理由づけはできている。彼女は過ちを犯した。他人を罪に陥れた。田村が正義なのだ。正当性を疑う必要はない。
志乃との距離は約三歩だ。逃げようとしても無駄だ。駆け出しでもしようものなら、捕まえて拳《こぶし》でぶん殴ってやる。間を詰めようと、一歩、足を踏み出した、その時。
その時だった。
少女の方から入ってきた。
田村の間《ま》の中に。
いきなり歩を詰めたのだ。
目の前に志乃の顔が来た。少し首をのけぞらせて見上げている。
見おろしているのだが、見くだされていた。視線が真っこうからぶつかる。整った顔に涼しい無表情な目だ。長い睫《まつげ》、瞬《まばた》きもしない。唇が触れ合いそうだ。息を止める。たとえようのない香り。目を逸《そ》らす。他人の距離ではない。自分からいきなり恋人の――愛人の距離に入ってきた。広く開いた制服の胸元から鎖骨がのぞいている。細い首筋が緊張していた。再び目が合う。見つめあった。耐え切れず、一歩引く。志乃は離れた分だけまた近づいた。息が口元に感じられる。冷たい視線を外さない。教師という立場を忘れた。引き込まれたのだ。奥二重の瞳に見入られていた。こんな少女に……子供なのに。
田村は優位に立とうとあせった。
「お前は店の中で」声がひっくりかえった。
「とんでもないことをしたな。せ、先生は見ていたぞ」
無意識のうちに自分のことを先生といっていた。普通の精神状態なら田村はいわない。
「茶髪の女の手提げにCDを放り込んだだろう。万引きだと思わせようとしたんだ。違うか。やり過ぎだぞ。少し体がぶつかっただけじゃないか。お前のやったことは犯罪だ。わかっているのか」
空疎な言葉が空回りしている。志乃は表情を変えず目も離さない。不気味な感じもした。気圧《けお》されている。不良にもこれほど圧倒されたことはない。本当に中学生か、本当に少女なのか、本当に、人間なのか……藤川志乃とは何者なのだ?
少女は唐突にきびすを返した。
何事もなかったかのようにゆっくりと歩き始める。対応できなかった。どうしてよいかわからない。呼び止めるのが精一杯だった。
「……待て」
すがるような情けない声だ。行かないでくれといってしまったような気さえした。少女は足を止める。振り向かない。田村はその時、何もいうことが見つからないことに気づいた。黒いコートの背中は闇《やみ》そのものに見える。何をいえばいい? 志乃は後ろ姿のままだ。
教師は何とか言葉を捻り出し、
「早く……帰って勉強しろ。明日は期末テストの二日目だろう」
滑稽《こつけい》だった。が、少女は応《こた》えた。背中を見せたまま、予想外の言葉で。
「何を期待してるの?」
期待? 何を期待してる? 一瞬考え込んだ。この女は何をいっているのだ? 何故ここで期待などという言葉が出てくるのか。虚を突かれた。それだけではない。急所を突かれたような嫌な感じが残った。体の中に砂が入ったみたいだ。殺意が芽生えた。それほどに暗く激しい憎しみを感じた。
志乃は夜の帳《とばり》の中に消えて行った。
むしょうに腹立たしい。何もできなかった自分が。何もさせなかった少女が。
立ち尽くす田村に後ろから誰かがぶつかってきた。さっきの茶髪だ。仲間を引き連れている。派手な服装の金髪の女だ。外国人のように金色に染めている。高校生だろう。茶髪と金髪は志乃を追うように闇に溶けた。
次に何が起こるのか、志乃がどんな目に遭うのか……想像がついた。いいではないか。学校ではいつも起こっていることだ。どうなってもいい。ひどい目に遭えばいいのだ。茶髪の女は、おそらく店を出る前に手提げの中のCDに気づいた。犯人は黒いコートの中学生だとすぐに見当がつく。さぞかし≪むかついた≫ことだろう。≪キレた≫に違いない。文字通り血が流される筈《はず》だ。それもいい。疲れた。疲れ過ぎている。藤川志乃が暴行されている姿を思い描くと、小気味いい感じがした。性的満足に近いものさえ感じた。
気分転換のため、もう一度店内に入り書籍コーナーを見て回った。雑誌を立ち読みしている人が三、四人いた。さっきより客はまばらになっている。ハードカバーは避けた。地味なタイトルの文庫本がいい。三十分ほど見て『10の世界の物語』と『隣の家の少女』という本を買った。作者はA・C・クラークとG・ケッチャムだ。
近くの薄汚いラーメン屋で遅い夕食をとった。油っぽ過ぎて胃にもたれる。家に帰りついた時には十時を回っていた。万年床にもぐりこむ。麺《めん》が形のまま胃に残っているような気がした。タバコをふかし、『10の世界の物語』を手に取る。SF短編集だ。A・C・クラークなら妙な刺激もあるまい。読んでいるうちに眠くなるだろう。クラークの作品は輝く部分を持ちながらも全体的には退屈だ。田村は目次を開いたとたん、自分が間違っていたことに気づいた。『思い起こすバビロン』という短編があったのだ。真っ先に開き、むさぼるように読む。あっという間に読み終わった。
本を放り投げた。何ということだ。こんな本の中にもバベルがあった。もっともバベルの塔やバビロンの話ではない。通信衛星の話だった。体は疲れているのに頭は興奮し、眠くなるどころではない。これで何度目なのだろう、自分の周りにバベルが出現するのは。彼は布団を頭までかぶって体を丸めた。
今ならわかる。二つの事件現場で感じた違和感の原因を説明できる。冷静になりさえすれば考えるまでもないことなのだ。
美術準備室のイーゼルに立てられたバベルの塔の絵を思い出す。絵自体に違和感はない。おかしな絵だが、それだけだ。問題は、あの絵が完全に乾いていたことなのだ。オーエンが手でなで回しても大丈夫なくらい乾燥しており、埃《ほこり》さえ積もっていた。では何故そんな絵がイーゼルに立っているのか。不自然ではないか。伊庭にはその時制作している絵があったのだ。オーエンが買った静物画を描き直していた。それを棚にしまい、昔の絵を引き出してくるのはおかしくないか。しかも静物画は乾いていなかった。引っ張り出したオーエンの手には絵の具がべったりとついていたのだ。画家が、まだ濡《ぬ》れている絵をぎっちりと詰まった作品棚に押し込むようなことをするのだろうか。
やはり不自然だ。むしろこう考えたほうがいい。二つの絵を入れ替えたのは犯人だった。伊庭を殺した時、イーゼルには静物画が置かれていた。その絵は棚に押し込み、バベルの塔の絵を出す。むろん静物画がどんなに傷もうとかまわない。何故二つの絵を交換したのか。バベルの塔を見せるためか。どうしてバベルの塔でなければならなかったのか。それが意味するものは何なのか。どんなメッセージが秘められているというのだろう……
また、これが事実だとすれば犯人を限定する条件がある程度明確になる。犯人は、伊庭が描いたバベルの塔の絵をかつて見ていた。そして準備室に保管していたことを知っていた。その程度には伊庭と親しい人物なのだろう。
田村はある考えが閃《ひらめ》くと、それが自明の真実だと思い込む傾向がある。他人に吹き込まれた考えを自分の思いつきだと錯覚する癖もあった。
木中の事件はどうなるか。伊庭の事件で絵を見せようとしたのだとすると、木中の手に握られたカレンダーも犯人の仕業かもしれない。犯人が同一人物ならあり得る。
同じ犯人?――その可能性はあるか?
あると田村は思う。小さな島の同じ町内でわずか半日ほどで二人の男が死んだ。現場には、どちらにもバベルの塔が残されていた。同一犯である可能性はきわめて高い。少なくとも二つの死体を偶然発見してしまうことよりはあり得るだろう。二つの現場に偶然バベルの塔の絵が現れる可能性よりはずっと高い。もっとも警察は二つの事件を切り離して考えているようだ。バベルの絵になどこだわっていない。気づいてさえいないだろう。自分だけが知っているのだ。田村はわずかな優越感を感じた。
成田刑事の考えでは、木中はもがき苦しみ手近にあったカレンダーを引きちぎったということだ。そうだろうか。むしろ犯人がカレンダーを破り取って手に握らせたと考えたほうが自然だ。バベルの塔を見せたかったとすれば、犯人がカレンダーを用意してきた可能性さえある。田村は木中の事件にも自然と犯人を想定していた。自問してみる。自殺ではなかったのか?
違う。第一に遺書がない。第二にドアが開きっ放しだった。自殺するのなら鍵《かぎ》を掛けるのではないか。ロックするのを忘れるほど、心が乱れていたということか。発見してほしかったのか。あるいは犯人が外へ出て行ったから鍵が掛けられなかった……施錠する手段がなかったのだろうか。第三に献立表だ。ホワイトボードには凝った料理のメニューが七つずらりと並んでいた。その日から七日後の夕食の献立だった。今にも自殺しようという男が、一週間後のメニューまで決めるものだろうか。そんな人間が自殺するのか。木中稔はやはり殺されたのだと田村は結論した。ならばバベルのカレンダーも意味を持ってくる。犯人のメッセージなのだろう。
それとも――
あれは被害者のメッセージなのだろうか。
木中は犯人に無理やり毒を飲まされ、息絶える間際に何かを伝えるため、カレンダーを破り取った。バベルの絵は犯人や真相を示すダイイングメッセージだということになる。その可能性もあった。犯人、被害者いずれのメッセージにせよ、バベルの塔を調べれば見当がつくだろう。いつかやってみよう。彼は大まかな結論を出した。
≪伊庭典克と木中稔は同一犯人によって連続して殺害された。バベルの塔に謎を解く鍵が隠されている≫
小説の中の名探偵のような気分になった。
名前が正義ではユーモア・ミステリーか。自分の名前は嫌いだった。≪せいぎ≫と読まれたことがない。必ず≪まさよし≫なのだ。小学生の時から最初の呼名は必ず≪たむらまさよしくん≫だった。その度に≪せいぎです≫と訂正した。教師は、間違えた照れ隠しにか、≪せいぎくんか、変わった読み方だね≫などとにやける。失笑するクラスメイトもいた。高校に入ってから正すのをやめた。どちらで読まれてもかまわない。自分にとって重要な人だけが正しく読めばよい。
推理小説は相当数読んでいる。クイーンよりもバークリー、カーよりもロースンを好むタイプの読者だった。ニコラス・ブレイクなどという作家も面白い。内外問わず古典から最新作まで広く読み漁《あさ》ってきた。今回の事件でさえ、どうしても推理小説の枠内で捕らえてしまう。皮下に隠された真相を深読みしようとする。想像というより捏造《ねつぞう》かもしれない。かつて読んだ推理小説のいくつかを思い出す。とたんにさっきの自分の結論――同一犯による連続殺人――が怪しげなものに思えてきた。まだまだいろいろな可能性がある。
例えば、だ。
犯人が一人の場合と二人の場合に分けて考えてみよう。
犯人が一人の場合。二つの事件は、両者を殺す動機を持つ者の犯行であった。その動機とは何か。伊庭に対する動機は思いつかない。木中となるとなおさらだ。二人を殺す共通の動機となると見当もつかない。バベルだけが二人を結び付ける。推理小説ならば被害者の接点を探るストーリー展開になっていく。結果、彼らが女をレイプし死に追いやったというような過去が掘り起こされる。事件は彼女の恋人か家族の復讐《ふくしゆう》だったのだ。このパターンでは被害者側に自覚がある場合とない場合がある。レイプ事件などは自覚があるが、例えばタバコの投げ捨てが火事の原因になって恨みを買ったなどという場合、身に覚えのない理由で狙《ねら》われることもある。概して後者の方がストーリーは面白い。
動機など存在しなかったというパターンもある。犯人は単なる殺人鬼だった。バベルの塔に憑《つ》かれたサイコパスなのである。人の皮膚や赤い竜や幼女に憑かれた様々な異常犯罪者が書かれてきている。海外のサイコ・サスペンスでは、神になり代わろうとする意志が犯人にある作品が高く評価されているようだ。宗教に疎いと、どうもピンとこない。謎解き物の解決としてもつまらなかった。しかしストーリーの持って行き方次第では、ミステリーマインド溢《あふ》れるものになる。マーガレット・ミラーやクイーンの某作品を思い出す。
こういうパターンもある。犯人は一方の被害者にのみ犯行の動機を持っていた。もう一人は誰でもよかった。どちらかの殺人は犯行の理由をごまかすためのものだった。この場合犯人は伊庭か木中のどちらかにしか動機を持っていない。動機を隠すための殺人ならば、バベルの絵が生きてくる。また、絵そのものに意味がある必要もない。むしろバベルはニセの犯人を指し示すミスディレクションであることが多い。ただし捜査側に二つの事件の共通性を気づかせなければならない。田村だけしか知らないようでは話にならなかった。絵を目立たせるとかマスコミを利用するなど方法はいくらでもある。
同じようなパターンに最初の殺人は予行演習だったというものもある。いずれのストーリー展開も筆力がないと小説としては成功しない。こんなことで人を殺すのだろうかという後味の悪さ、ばかばかしさが残るだけだ。
伊庭を殺したのは木中だったというのはどうか。木中はそれを悔いて自殺した。現実的で、あり得る話だったが、つまらない。平凡だ。田村は現実の事件を面白さという物差しで測っていた。その基準を異常とは思わなかった。現実と虚構が混在する可能性の迷路をさまよっていたのだ。……
犯人が二人いる場合を考える。
代表的な例が交換殺人である。二人の犯人が被害者を交換して殺す。動機のない方を殺害する。お互いが容疑者から外れるわけだ。念入りにアリバイを作っておくのが望ましい。手口を同じように見せかける場合と、あえて共通性を作らない場合がある。小説では名作も多いが、現実の犯罪となるとどうだろう。相方《あいかた》の犯人が裏切らないように知恵を絞らねばならない。実現不可能の場合が多いのではないだろうか。推理物の中には、一方の犯人が殺人を犯してから、一方が交換殺人を実行する前に相方を殺してしまうという話もある。
交換殺人の場合には、基本的には犯人たちの事前の打ち合わせが存在する。では、二人の犯人が相談などせず、別々に各被害者を殺したのだとしたらどうか。本来事件の関連は全くなかった。別々の事件だったのである。ところが第三者が死体にバベルの絵を添えて事件の共通性を作ってしまったのだ。何故そんなことをしたのか? 動機を不明にするためだ。犯人の一方を、または両方とも、庇《かば》いたかったのだろう。……可能性としては面白い。しかしこの場合でも捜査サイドにバベルの符丁を気づかせなければならない。現実はそうなっていない。
こういうことも考えられる。第二の殺人の犯人は、最初の殺人の目撃者だった。たまたま伊庭が殺されるところを見ていたのである。第二の犯人もこれから殺人を実行しようと思っていた。手口や犯行現場に同じ特徴を作っておけば、自分の犯行を最初の犯人になすりつけることができるだろう……
これらの真相は推理小説の中で限りなく語られてきた。現実にはあり得ないような解決も少なくない。彼は最も現実的な解決も考えてみた。
伊庭も木中も別々の犯人によって殺された。絵は偶然そこにあった。もう少し現実的になりそうだ。伊庭は殺されたが木中は自殺だった。事件につながりはなく、バベルに何の意味もない。これでどうか?
田村は砂を噛《か》んだ。何という味気なさだ。これではまるで≪現実≫ではないか。つまらない。手応《てごた》えのある解答が欲しい。彼にとって現実は≪現実≫ではなく、小説内世界の続きのように人工的で構築性があり、興味深く、生きるに値するものでなければならなかった。それほどに日常生活を忌み嫌っていた。日常はただ生命を磨《す》り減らすだけの空気の薄い空間だった。現実から逃げたかったのだ。しかし……できなかった。決して、できなかった。その不可能性は現実と虚構の境界線を侵食した。境界線にはバベルの塔が建っている。幻の塔は陽炎《かげろう》のように姿を揺らめかせた。リアルとフィクションが地続きの世界。
それが彼の世界だったのだ。
W
少女は白い包帯を巻いていた。
頭に真っ白い包帯が幾重にも巻かれている。こめかみから青いあざが少し顔を出していた。締め付けているため、おかっぱの髪の量が少なく見える。
包帯の藤川志乃が目の前に座っている。両手を膝《ひざ》の上に置き、真っすぐ前を見、微動だにしない。布の冷たい白が痛々しかった。制服の袖《そで》から手の甲にかけても包帯がわずかにのぞいている。手がもう少しがっしりしていたら、グローブをつける前のボクサーのようだ。
実際ボクシングをやったのかもしれない。茶髪と金髪の女子高生タッグとのデスマッチだ。志乃は試合に負けただろうが、ひょっとして引き分けくらいにはいったのかもしれない。
社会科準備室の片隅でテーブルを挟み、生徒と教員二人が対峙《たいじ》している。空気は静かな緊張をはらんでいた。取り調べは担任と生活指導で当たることになっている。田村は生活指導係だ。準備室に志乃を呼んだ。辺りは既に薄暗い。やかんが音を立てている。少女の後ろにある窓は暖気で白く曇っていた。
田村は志乃がこうなることを知っていた。駐車場を出てから、近くの路地裏かどこかで痛めつけられたに違いない。予測できたことだ。罪悪感はない。
しかし予想外の展開もあった。相手側の高校から問い合わせが来たのである。島の高校は浦町高校一つだけだ。今朝、かねてから目をつけていた女子生徒二人が揃《そろ》って包帯を巻いて来た。不審に思った担任は彼女たちを呼んで調べてみた。はっきりしたことはいわない。正直に口を割るタマではないのだ。どうやらケンカをしたらしい。高校側は複数の中学生がからんでいると見ている。二人がそうほのめかしたのである。彼女らが加害者なのか被害者なのかもよくわからない。中学のほうでも調べてほしい。少なくともこういう容貌《ようぼう》の生徒――藤川志乃だ――がいた筈《はず》だ。確認してください。
田村はにんまりした。昨夜の志乃の後ろ姿と、追う二人の女子高生を思い出す。三人は闇の中へ消えた。一対二だ。志乃は二人に殴られ蹴《け》られ、野良猫のように反撃した。爪はなかなか鋭かったらしい。荼髪と金髪は言葉を濁し事実を話さないという。当然だ。面子《メンツ》がある。相手は中学生の小娘一人なのだ。与《くみ》し易いと舐《な》めた。反撃は予想以上に激しかった。自分たちも手傷を負ってしまったのである。話せないわけだ。むろん志乃の受けたダメージは比較にならないほど深いだろう。セーラー服の下の白い肉体には至るところに鮮やかな傷痕《きずあと》が刻まれているに違いない。想像しているうちにおかしな気分になってきた。体の中心が熱い。天井を見上げ意志の力で抑えこんだ。
彼の隣には細井英子が座っている。背中に棒が入っているかのようだ。やつれて見えるほど、ほっそりしている。長い髪を後ろで一つに束ねていた。時々遠くを見るような目をする。濃い隈《くま》ができ、日々の激務を物語っていた。
この女こそかつての田村の欲望の対象だったのだ。細井も今年大津中学へ新任で来た。親密な仲になるのに時間はかからなかった。互いに心細かったせいだ。男は結婚を考えた。女は関係を断ち切った。オーエン・ハートに乗り換えたのだ。前後関係はよくわからない。結婚を持ち出したからオーエンに走ったのか、新しい男ができたから田村を切ったのか。細井は英語教師だが発音が苦手だった。克服するため英会話教室へ行き、オーエンと会った。田村はオーエンを憎んだ。憎しみは細井にも向けられた。彼女は志乃の担任だった。
担任は生徒に聞いた。あなたは何をしたの? いつ、どこでやったの? ケガは大丈夫なの? 何故そんなことになったの?
生活指導係も聞いた。何をしたのか? いつ、どこでやったのか? ケガは大丈夫なのか? 何故そんなことになったのか?……田村は答えを知っていた。知らぬことにも見当がついた。それでも白々しく聞き直す。もう一度、何をしたのか――と。
志乃は細井にも田村にも答えなかった。何度同じことを質問したことだろう。言葉が通じないのかと思えるほどだった。無言が続く。時々「はい」と「いいえ」で答えることもある。田村の顔を見ることはない。
細井は志乃の胸のあたりを見ながら、
「何度も繰り返すけど、浦町高校から問い合わせが来たんです。高校の生徒とうちの生徒の間で集団のケンカがあったらしい。昨夜のことです。あなたらしい姿を見た人がいました。藤川さんは何か知りませんか」
「いいえ」
無駄だ。一時間もこんなことを繰り返している。実のある答えはない。
「高校生側は二人でした。両方とも女の子です。今朝、包帯を巻いて登校して来たんですよ、あなたのように。知りませんか。四、五人の中学生に囲まれて殴られたらしいんです。男子も女子もいたということでした」
それは嘘《うそ》だ。
「中にいた女の子の顔や髪形、身長なんかがね、あなたに似ているの。向こうのいう特徴と一致してるんです。それからその包帯。……正直に話してくれるとうれしいんですけどね」
無言。
「どうしてケガをしたの」
「転びました、自転車で」
「雪道を自転車?」
「はい」
見え透いた嘘だ。島の冬道で自転車に乗るなど自殺行為だ。田村はよほど昨夜のレンタル店でのことを切り出そうと思った。結局口にしなかったのは志乃の態度が不可解だったからだ。彼女は田村が昨日の事件を察していると知っている。なのにとぼけている。わからない。恐れているわけではないようだ。全てを切り離した態度に見える。
包帯が雪のように白く冷たい。
奥二重の切れ長の目も人を凍らせる。高い鼻と一本に結んだ少し薄い唇。傷一つないきれいな顔だ。不思議だった。ケンカをしたのに顔に傷が全くない。必死で守ったのだろう。包帯の下の両手は、ぼろきれのようになっているのかもしれない。
沈黙が続いている。担任は質問の方向を変えた。作戦だったのか、間を持たせただけなのかは、わからない。
「お父さん……元気?」
少女は息を止めた。唇が微《かす》かに動く。静かに細く吐き出す。表情は変わらない。
心なし体を硬くして、
「……何で?」
質問も答えも田村にはわけがわからなかった。細井は軽くうなずき、
「一週間前、家庭訪問しましたね。あなたは無断欠席、遅刻が多いですからね。あの時お父さんは風邪をひいてました。もう治ったのかなっ――」
「はい」鋭く答えた。話を打ち切ろうとしたようだ。
細井は言葉を失った。単なるつなぎの質問だったらしい。それにしては奇妙な反応だった。志乃が少しでも感情を露《あらわ》にしたのは父の話になった時だけだ。この時の志乃の様子は田村の脳裏に深く刻まれた。
誰も何もいわない。間の悪さに彼はわざとらしく肩をすくめた。処置なしだ。
志乃を帰したのは六時半過ぎのことだった。
結局何も話さなかった。沈み込むような疲労感があった。細井はぼんやり椅子《いす》に座ったままだ。田村は重い腰を上げ、コーヒーをいれた。粉が浮くようなインスタントコーヒーだったが、気付けにはなるだろう。香りがなく苦くて黒い液体を流し込みながら、高校への対応を話し合った。良い案は浮かばない。姑息《こそく》な手段は使わず、正直に伝えるしかないのかもしれない。すなわち事実不明。田村は横の女をぼんやりと眺める。
「細井先生、明日また仕切り直しましょう」
彼女は目と目の間をもみほぐしている。
「もう一度、藤川志乃を呼ぶんですか」
「無駄ですね。あいつは何も話さない。明日は高校への対応のみ相談しましょう。差し障りなく、しかも誠意を見せる必要があります。要は、もののいいようです」
「そう……ですね先生。明日ね。今日はもう……疲れました」
おかしなものだと田村は思う。恋人だったのに、二人だけでいても、教師言葉で話している。意識してのことではない。習慣だ。男女として見れないほど疲れているということでもある。田村は帰り道を思った。毎日通っているというのに、雪道に車を走らせることさえおっくうだ。
細井はあらぬ方を見ながらぽつりと、
「あの子」
しばらく黙り込む。女の化粧気のない顔を見つめる。黒ずんだ不健康な唇だ。
「何なんでしょうかね、田村先生……」天井に視線をさ迷わせながら、「私、時々怖くなるんです。藤川志乃が」
「怖い、ですか。生徒を恐れていては何もできませんよ」
口先だけだ。彼も志乃に恐怖を感じた。昨夜の駐車場での少女の凄《すご》みを思い出す。
しかし同僚に対しては、
「生徒理解が重要なんです。理解しなければ指導はできません」
机上の空論だ。人間を理解することなどできるのか、田村は常に疑っている。自殺したいという生徒から相談を受けたことがあった。その子はしつこく≪死にたい≫だけを繰り返した。質問には答えず話も聞かず、あまりに同じ言葉ばかりいっているので、しまいには投げた。≪死ねばいい≫。すると生徒はいった。≪先生は僕を理解していない≫。
「子供の言葉をそのまま認めることが真の理解になるとは限りません。かといって疑ってばかりでも駄目なのです。人間を理解するためには一旦こちらの価値観を捨ててかからねばならない。恐れていてはいけないのです。生徒は、教え導くべき存在です。まだ十三、四、五の子供なんですよ、中学生は」
「子供でしょうか、あれは」
「藤川ですか」
女教師は答えなかった。田村の話も聞き流していたようだ。≪あれ≫といういい方が引っ掛かる。志乃は確かにあれといいたくなる生徒ではあるのだが。
「彼女は問題児なのですか。授業中は目立たない生徒ですね」
「ふだんはいるのかいないのかわからないくらい大人しい。成績は普通です。真ん中よりちょっと上でしょうか。社会と数学が得意なんです。体育もまあまあ。欠席さえなければもっといいんですけど。うちのクラスには例の不良グループがいるんですが」
「男子のワル三人組ですね。屋上やトイレで喫煙してるのを何度か見つけられた」
「彼らがしょっちゅう妨害するので授業はめちゃめちゃです。英語は他のクラスより四、五時間遅れています。でもクラス中がざわざわしていても、藤川だけは我関せずって感じなんです。あの子の周りだけ空気が違うんです」
確かに少女は別の空気を纏《まと》っている。近寄ると弾かれるような気がする。
「友達はいるんですか」
「いつも独りです。親しい子はいないみたい」
「ボーイフレンドは」
「あの暗さじゃ無理ね。奇麗なんだけど、同世代にはちょっと、歯が立たないっていうか」
「でもまぁ……いい生徒なんじゃないですか」
声に皮肉がこもった。授業のやりにくい三年B組の中では、目立たないというだけで、いい生徒の資格がある。細井は考え込むように腕を組んで、
「いい生徒とはいえませんね。学校をすぐ休むし、遅刻はするし」
「さぼり?」
「この間も二日間無断欠席をしたんです。あまりに休むんで家庭訪問をしました」
「その時お父さんは風邪をひいていた、と」
志乃が息を止めたときの様子を思い出し、
「……家はどこなんですか」
「小塩町。レンタルショップがあるでしょう。あれのすぐ近くなんです。歩いて五分」
「そう……藤川でも夜ビデオを借りに行ったりするんでしょうかね……」
「え」
「何でもありません。お父さんは何をやっているんですか」
「建築会社です。父は社長」
「藤川建設ですか」
細井は軽くうなずいた。藤川建設は島の土木工事、建設業務を一手に握っている会社である。ある程度裕福な家の娘なのだ。
「社長令嬢か。一人っ子だな、あの様子じゃ」
「父と娘の二人で暮らしています」
「お母さんは、どうしたんですか」
「それが……」急に声をひそめて、「九年前に離婚したんです。名古屋の実家に帰ったそうです。子供を残して逃げるように出て行ったらしいんです。志乃の父は藤川三津男というのです。マメな人らしくて、子育てから炊事洗濯掃除まで苦にせずやってきたといってました」
「見習いたいものです。そんな人と何故離婚したんでしょうかね」
「見かけは今一つです。でっぷり型の色白のコックという感じの人。まゆが薄くて目が切れるように細い。瞬《まばた》きすると消えそうな感じなんです。唇が厚くて、赤くて」
心なし変態的な顔を想像してしまった。
「身長は田村先生より少し低いかしらね」
「社長は道楽息子で親の財産を食いつぶしてるって聞きましたよ。藤川建設も今では落ち目なんでしょう?」
「噂《うわさ》ね。この町では何でもすぐ噂になる。話題がないんです。井戸端会議も同じ話の繰り返し。先生方の教務室の世間話みたいね。藤川三津男社長は意外と遣《や》り手だという説もあるんですよ」
「豪邸に住んでいるんでしょうね」
「広い庭のある洋館風の立派な家です。車もベンツでした。私が訪ねた時、三津男氏は洗車してました」
「風邪をひいてるのに洗車ですか。症状は軽かったんですね。では……何故さっきあんな質問をしたんです」
彼女はややいい淀んだ。
「……つなぎの話題が欲しくて……いえ違うわね、お父さんとの仲が心配だったんです」
「志乃と父親との仲?」
彼女は二、三度瞬きをしてから、
「他の先生にはいわないで欲しいんですが」
一層声をひそめて、「志乃は三津男氏の本当の子供じゃないんです」
「血のつながりがない? 養子か……奥さんの連れ子」
「連れ子です。志乃が四歳の時、再婚したんです」
珍しいことではない。しかし夫婦は九年前離婚したという。志乃が五歳の頃だ。四歳の時再婚したとすると共に暮らしたのは一年間ほどだったのではないか。初婚でもないのに短すぎる。母親が五歳の子供をおいて出て行くというのも不自然だ。
「細井先生、二人は何で離婚したんでしょうかね」
「性格の不一致だそうです」
「子供をおいて出て行きますか?」
「男を作って逃げたのよね。実情はそうだったらしいのです」
「逃げた女房の娘か。よく育てられたものだ。三津男氏は本質的な子供好きだったんでしょうかね。私にはできません」
「かなり変わった育て方をしたと聞きました。具体的には……よく知りませんが」
「で、お父さんとの仲が心配だった、と。親子ゲンカが絶えなかったりしたんですか」
「仲が悪いわけではないんですよ。むしろ……」
ためらいがちに、「必要以上にいいっていうか」
「――どういう意味ですか」
細井の声は聞き取れないほど小さくなっていく。
「三津男氏が志乃を愛しているのは間違いないと思うんです。でもね……自分の子供に対する愛情とは違うような気がして……いえ、勘ですよ。血はつながってなくとも親子の関係は成立すると思います。でもあの二人は、何だか……いいえ、どうかしらね。わかりませんけど……志乃はまぁ可愛《かわい》い方の女の子だし、三津男氏は四十代前半の男やもめ、広い家で二人ぐらし……ちょっとね」
「考え過ぎでしょう先生。テレビドラマではあるまいし」ポルノ映画でもあるまいし。
「そうですよね……田村先生のいう通りだと思うんですよ。だけどね……志乃は家にもあまりいたがらないんです。学校も休みますが家にもいません。帰りはいつも遅いというんです」
「道草を食ってるのか。しかしどこで? 遊び回っているというタイプじゃないし」
「本人に聞いてみました。≪美術館≫とだけ答えました」
「鷹島で美術館といえるのは、大津版画館くらいだな。つまらん場所ですけどね。藤川らしいといえば、らしい」
田村は学校に届いた版画館の広告を思い出した。大津版画館で陶芸教室があるのだ。参加してみようか、と唐突に思った。気分転換になるかもしれない。美術に深い関心はなく、≪歴史≫を教える時でも≪文化≫は駆け足で進めた。陶芸には遊びの要素が多い気がする。
「私も大津版画館だと思うわ。一度行ったけど、それで十分みたいな汚いところ。二度行こうとは思いません。志乃は毎日のように行っているというんです。どうしてかしら。よほど家に帰るのが嫌なんでしょうか」
「絵を見るのが好きなだけですよ」
「作ったり描いたりは好きみたいですけどね」
「家にいたくない……思春期の少女の父親への反発、不快感、よくあることではないですか」
一瞬、女は唇を歪《ゆが》めた。
「あの子、よく痣《あざ》を作ってくるんですよね、首とか胸のあたりに。制服に隠れてほとんど見えませんけど。今回のようにケンカで殴られたり蹴《け》られたりの痣じゃなくて……何かこう……もっと赤くて生々しい……」
一拍おいて付け加えた。
「殴られてるの、かも」
先の≪殴られる≫と後のそれでは意味が違うらしい。≪殴られる≫にもいろいろあるようだ。田村の頭の中で想像が勝手に膨らんでいく。でっぷりした中年男と志乃が並んで立っている姿がまず浮かんだ。背後から光を受け、影法師のようだ。二人の距離が縮まる。恋人のように手を取った。彼らのシルエットは次第にもっと奇妙な形を取り始めた……。妄想を振り払うように、わざと的外れなことをいってみた。
「藤川は皮膚の弱い生徒なんだと思います。虫刺されとか少し引っ掻《か》いただけでも痕《あと》が残るたちのね。それと、先生の意見には反しますが、藤川には恋人がいるんじゃないですか。男子生徒と交際してるんですよ。最近の中学生は大人と同じですからね。朝、首筋にキスマークがついていてもおかしくはないですね」
風見恭介の端整な横顔を思い出した。伊庭が殺された日、踊り場で志乃とラブシーンを演じているように見えた。全く相手にされていないようにも見えたが。
「そうですよね」女教師は妙に明るく答えた。
「まさかお父さんとね、考え過ぎですよね、私」
自分の言葉を信じていない口ぶりに聞こえた。田村はまた空想に囚《とら》われる。憑《つ》かれやすく、思い込みが激しいことはわかっているが抑えられない。三津男と志乃のシルエットがまた見えた。志乃の父になど会ったこともないのにありありとイメージできる。二人はまるで恋人のように近づく。触れ合う。肩を抱く。手を腰に。そして重なる。愛人のように。縦に――横に。二つの影は異様な形を取り始める。想像し得る、あらゆるフォルムを見せ始めるのだ。彼は白日夢の中に沈んだ。社会科準備室も細井英子もストーブも窓の雪も全て消えうせた。時間さえも無くした。天地なく白い空間だけが残る。父と子の歪んだ姿しか見えなかった。どれくらいそうしていただろう……
彼を現実の空間に引き戻したのは、≪突き刺さるようなもの≫だった。体に何か食い込んだような気分。……視線? 鋭い視線を感じる。彼の周りには、徐々にテーブルが、ソファが、机と椅子が、本棚が壁が流しが窓が、社会科準備室が――細井英子が生成していった。刺さるような鋭い眼差《まなざ》しは隣の女から発している。
細井英子、彼女の目。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、汚らわしい理解不可能な別の生き物を見る、蔑《さげす》むような光をたたえた彼女のその目。
X
≪少女|失踪《しつそう》本件で三人目≫
脈絡なく藤川志乃を思った。昨日の不毛の取り調べが頭に残っていたせいかもしれない。鷹島日報の三面記事の見出しである。十二月十一日、金曜日、朝刊。失踪したのは中村直子という小学生だった。十二月三日、学校の帰途行方不明になり、翌日警察に届け出たが発見されず、公開捜査に踏み切ったという。むろん志乃には何の関係もない。
朝刊を読むのは久しぶりだ。朝はテレビ欄しか見ない。帰宅してから読むこともある。目を覚ますと職場へ行くだけで手一杯で、新聞を開くゆとりはない。今朝は気まぐれで見た。すると≪少女失踪≫の見出しが目に入った。田村には関係ないことだ。
新聞を閉じようとしたが……できなかった。
手が止まる。さっきの記事の隣を改めて見直す。小さな記事だが衝撃は大きかった。
≪教員殺害の犯人自首≫
一気に読んだ。それからゆっくりと読み直す。信じられなかった。
伊庭典克を殺した犯人が昨日大津署に出頭して来たというのだ。
あり得ない結末――田村にとって、あってはならない解決だった。これで決着がついてしまってはならないのだ。焦りを感じた。空想と地続きの彼の世界が足元から崩壊してしまう。
犯人の名は≪谷川|祐三《ゆうぞう》(二十三)≫と出ていた。島に寄生する自称芸術家の一人で、画家だ。動機が実にくだらない。かっときて殺したのだ。谷川は伊庭が自分の絵を盗作したと思い込んでいた。学校にまで踏み込んで糾弾したが、伊庭は認めようとしない。頭に来て、殴り殺した。警察は現在裏付け捜査に入っているという。
そんな筈《はず》はないと確信する一方で、――あの男ならやりかねない――とも思う。
彼は谷川を知っていた。学校中で知らぬ者はない。
十一月に文化祭があった。校舎は生徒だけでなく、保護者を中心とした外部の人間でごった返していた。田村はその時、教務室で村川と話していたのだ。すると、ドアが乱暴に開いた。二人の女子が駆け込んでくる。変な人がいるんです。早く来てください。目付きの悪い青年が、可愛い女の子に≪モデルしないか≫といってまわっているというのだ。村川と二人で駆けつけると、生徒の手をつかみ酒臭い息をはきかけている男がいた。角刈りで浅黒い肌、険しい目をしている。警察|沙汰《ざた》になるところだった。二人掛かりで引きずるようにして追い出した。それが谷川祐三だったのだ。
それだけでは終わらなかった。職員一同治まらず、会議にもかけられ、学校長を通じて厳重注意・抗議の通達をすることが決定した。会議が終わってもすぐには皆、席を立たなかった。リンチ・タイムが始まったのだ。口火を切ったのは理科の島田だった。誰が谷川を呼んだんだ、奴《やつ》の知り合いはどいつだ? 雑談の形をした弾劾のざわめきが広がった。谷川っての絵描きだってよ。伊庭先生の仲間だわね。芸術家なんてのはどいつもこいつも……白い目が伊庭に集中した。誰も彼もがにやけていた。田村は吐き気を催した。
伊庭はゆっくりと席を立った。逃げ出すようでもない自然な動作だった。慣れていたのだろう。続いて田村も会議室を出た。同情したのではない。愚劣な連中につきあっていられなかっただけだ。廊下を歩く伊庭の横顔を思い出す。
口ひげの下に暗い笑みを浮かべていた。いつも心が外の場所を漂っているような男だった。その時は、珍しく伊庭の方から話しかけて来た。
谷川祐三は確かに俺《おれ》の知り合いさ。だが友人というほどじゃない。友人って何だろう。田村先生は友人なんてのがいるのかい。友達がいると信じられたのは子供のころだけさ。谷川は画家としては俺よりも上だったな。才能があった。才能ってのはね、≪欠けてる≫ってことさ。例えば腕が一本ないとしよう。人はそれを補完して新しい腕を作ろうとする。これが創造さ。才能ってのは三本目の腕があることじゃない、腕が一本しかないってことさ。わかるかね。谷川に欠けてたのは腕だけじゃなかった。何より常識が欠けていた。芸術家の罪は傲慢《ごうまん》だよ。あいつは何をやっても許されると思っているところがあった。シャバであんまり働いたことがない。画家というよりフリーターだな、世間的にはね。谷川と俺は同じ美術団体に所属している。あいつとはその授賞式で知り合った。谷川は大賞、俺は奨励賞だったよ。
奴はクレージーなアル中だが、そうなったのには理由がある。昔からあんなじゃなかった。奥さんを亡くしてからだ。交通事故でね。自動車にはねられた。雪道を歩いてたんだ。雪で視界がきかない日で道路も凍結していた。運転手が、道を横断しようとする彼女に気づいた時には手遅れだった。即死だったという。凍った道だと車は簡単に止まらんものさ。その運転手が鈴木|智子《ともこ》。事務の鈴木さんだよ、先生も知ってるだろ。いつも事務室の隅で暗い顔して座ってる。あの人が加害者なんだよ。印象が薄い? そうだろうな。事故は去年の冬に起こった。田村先生が来る前の話だ。鈴木さんはしばらくショックで寝込んでいたよ。事故とはいえ人を殺してしまったんだからね。あれから彼女は一層暗くなった。
谷川祐三も変わった。駄目になった。生活は荒れる一方だ。体の中には血じゃなくてアルコールが流れている。奥さんは薬局で働いててね、ほとんどそれで生計を立ててた。あいつはヒモみたいなもんで、奥さんは金ヅルさ。だけど、それだけでもなかったんだね。妻を亡くしてから彼は変わった。同情すべき男なのさ。
鷹島は小さな島だ。何をやっても筒抜けになってしまう。交通事故など起こそうものなら町中に広がる。それだけじゃない。人間関係もどこかでつながっている。人と人とが、予想もしない形でつながっているんだ。俺はそれがいやでね。狭い社会なんだから仕方ないんだが……。鈴木さんがひき殺した相手にしてもそうだ。谷川の奥さんを俺は前から知っていた。保子《やすこ》といってね、美人だよ。何で知ってるかって? かつての生徒さ。大津中学の卒業生なんだよ。美術部だった。絵を描くのがとても好きでね。油絵に興味を持ってた。俺の一番弟子だったよ。≪画家≫に変な憧《あこが》れを持ってたんだろう。高校を卒業してからすぐに谷川と結婚した。谷川祐三は少なくとも画家の匂《にお》いは持っていたからね。
保子には弟がいる。弟も美術部さ。風見恭介――あの風見君だよ。優等生だね。何というか、無難な生徒だ。先生も風見は知っているだろう。髪を真ん中で分けた、背の高い奴だ。生徒の姉を同じ学校の職員がひき殺したんだよ。狭い町ならではのことさ。ひどい話さね。
谷川祐三には俺からも注意しとくよ。生徒にちょっかいを出すなってね。でもまぁ無駄だな。校長のありがたいお話? 効き目ないね。人の話なんか聞きやしない。しつこくいおうものならどうなるか。≪切れる≫だけさ。気に食わないことがあるとすぐ腹を立てる。奴は≪切れる≫男なのさ。……
その通りだと田村は思う。三たび新聞を読む。
谷川は≪切れた≫。そして伊庭の頭を割った。自分の絵と他人の絵が似ているなどということで普通は殺人など起こらない。しかし彼ならばつまらぬことで理性を失い、伊庭を殴り殺したとしても不自然ではなかった。谷川は、個展かコンクールか何かで、自分の絵とそっくりの伊庭の絵を見た。事実盗作だったのか、偶然似ただけなのかはわからない。第三者が見て本当に似ていたのかどうかも不明だ。だが谷川は盗作と決めつけた。怒り狂い、学校にまで乗り込み文句をつける。伊庭は認めない。≪切れる≫。とっさにブロンズ像をつかみ、伊庭の頭を殴りつけた。事故のような衝動的殺人。ありふれた事件。
面白くもない。面白くない事件の解決などあり得ぬことだ。田村はいつのまにか現実の事件を面白さで判断することに慣れていた。新聞記事はむろん≪バベルの塔≫など触れていない。当然だ。捜査陣の眼中にないのだろうから。それでいい。田村だけが知っている。そこには屈折した優越感があった。
気づくと遅刻しそうになっていた。
大急ぎで学校へ向かう。雪道をのろのろと走る他の車が邪魔だった。
自動車の中でも、職員朝会でも、授業中でさえも事件のことを考えていた。それほどショックを受けていたのだ。
授業は抜き打ちテストをやった。登校してから二十分くらいでいいかげんに作ったものだ。既成の問題集の丸写しだった。開始して十分もすれば生徒はざわざわし始め、止めなければ騒ぎ出す。中間期末テストでさえ、気を引き締めてかからないと、テスト用紙が宙に舞う。中学生が一番抑えられない。小学生や高校生は意外に落ち着いていると聞く。高校の採用試験を受けるべきだった――田村は中学の方が楽だと思っていたのだ。
今、テスト中の二年A組もひどいものだ。
教室は汚れ、床にカバンや教科書が乱雑に積み重なっている。部屋の四隅はゴミだらけだ。ごみ箱からもゴミがあふれ出している。清掃していない。教室後ろ側の連絡黒板は、いつ来ても落書きでいっぱいだ。今日はワイ画が大きく描きなぐられている。黒板横の掲示板は鋭い刃物で斜めに切り裂かれていた。あらゆる髪形あらゆる改造服の生徒がいる。髪の黒い生徒は数えるほどだ。
教室は後ろの座席から徐々に騒がしくなり始める。テスト中でも同じことだ。やらなければやらないで、どうというものではないことを、彼らは既に知っていた。田村は放っておいた。本気になるのが馬鹿馬鹿しかったのだ。外に考えたいこともある。好きにさせておけばよい。頭の中は事件のことでいっぱいだ。
伊庭典克の殺害犯人は谷川祐三だったという。心のどこかではまだ信じられなかった。自首しただけで確証はない。しかし、これを事実と仮定してみる。では、田村が不審に思った静物画とバベルの塔の絵の入れ替わりは、どう説明がつくのだろう。
例えばこういうことは考えられないか。伊庭はその夕方、オーエンが準備室に来ることを知っていた。オーエン自身が連絡したのかもしれない。彼が来れば、渡しそびれている静物画を無理やり持って行こうとするだろう。それは困る。半端な完成では渡せない。あるいは手放すのが惜しくなっていたのかもしれない。一時的に隠しておこう。目につく所には置いておけない。そこで、棚から一枚抜きだし、描きかけの静物画を押し入れた。絵の表面がこすれるかもしれないが、持ち去られるよりはいい。また描き直せばいいのだ。バベルの絵を出したのは伊庭であり、犯行現場にあったのは全くの偶然ということになる。
この推測に特別不自然な点はない。解釈などというものは幾通りでもあり得る、確定不能な代物《しろもの》だ。一つ思いつくとそれが正解のように見える。さっきの仮説が正しいとすれば、絵の内容――バベルの塔に意味はない。当然、伊庭の事件と木中の事件とのつながりもない。木中稔は自殺したのだとするのが妥当だ。
あの献立表はどう解釈すればいいのか。疑ってみよう……あれが根拠になるのか、と。そもそも、自殺することと夕食の献立を立てることに論理的なつながりはあるのか。無理なこじつけではなかったか。自殺しようとしていたら、向こう一週間分の献立表など作らないという。そうかもしれない。しかし、逆はどうか。献立表を作っていたとしても自殺することはあるのではないか。どんなに重要な決定・計画があろうと死ぬときは死ぬ。ましてや夕飯のメニューだ。思い立ったら毒を一気に仰ぐだろう。自殺はいつでも起こり得る。木中は服毒し、もがき苦しみ、近くにあったものを破り取って握り潰《つぶ》した。偶然、そこにバベルの塔のカレンダーがあったのだろう。
偶然――偶然だ、何もかも。全ては偶然なのだ。たまたまそうなったに過ぎない。世界は田村を中心に回ってはいなかった。現実は個人に隷属しないのだ。しかし……
何かが目の前を飛び交っている。教科書やノートが文字通り飛び交っているのだ。生徒が投げ合いを始めた。テスト用紙も宙を舞っている。……これが、現実だ。田村は認識する。自分の思い通りにいかない、これが現実なのだ――と。終了のチャイムが鳴った。「起立・礼」の号令がかかる。誰も席を立たなかった。生徒も、号令をかけた委員長も、田村自身でさえも。
清掃時間となった。
社会科準備室へ向かう。すると美術室の前の廊下を二人の生徒が雑巾《ぞうきん》がけしていた。
監督が伊庭の時とは大変な違いだ。美術室をのぞいてみた。五人の生徒が整然と床を掃いている。怒鳴り声が飛ぶ。「机の下をちゃんと掃け」……江上康夫だ。伊庭の代わりに採用された常勤講師である。短く刈った髪に長い顔、黒い肌と濃い眉《まゆ》の男だ。生徒に対する態度は教師というより軍隊の青年将校を思わせる。彼が来てから美術の授業は異様に静かになった。何をやらせているのだろうと不思議になる。江上と目があった。睨《にら》みつけるように鋭い視線だった。
目で殴られた感じだ。
放課後、図書室へ行った。
部屋の中には紙の腐ったような臭いが満ちている。生徒の姿はない。安心している自分に気づく。子供がいないと心が休まる。教師の適性がないのだろう。百科事典の近くの机に場所を取る。しばし物思いにふけった。
≪現実は隷属しない≫。これについて、田村は疑ってみた。一考の価値があると思う。現実は田村の奴隷ではない――果たしてそうか? 本当に自分の思い通りにいかないものだろうか。やり方によっては現実を足元にかしずかせることができるのではないか。何かの武器でこの世界を取り戻せる可能性が、あるのではないか。
その武器とは≪解釈≫。現実は解釈によって姿を変える。例えば……谷川祐三が伊庭典克の後頭部を殴りつけたとしよう。谷川は伊庭を殺したと思い逃走する。ところが伊庭はまだ生きていた。意識を失っていただけだ。谷川が去った後もう一人の人物がやって来た。その人物が落ちているブロンズ像を拾いあげ、伊庭の息の根を止めたのだ。真犯人は別にいる。サスペンスドラマによくあるパターンだ。田村は伊庭の死体を実際に見たが、後頭部には殴られた傷痕が二つあった。仮説は成り立つ。むろん谷川が二回殴ったとも考えられる。
また、こういう仮説も有り得る。谷川は誰かを庇《かば》って自首したのだ。この場合、真犯人はほとんど逮捕寸前まで警察に追い詰められ、谷川もその事実を知っていた、という可能性が高い。また谷川のような利己的な男が庇いたくなるような人物が真犯人でなければならない。もっとも谷川は情にもろい浪花節《なにわぶし》調の男でないとは限らない。性格のパターン化は危険だ。
バベルの塔もやはり気になった。伊庭とブリューゲルの絵が頭から離れない。……そうだ、バベルの塔だ。あれさえなければ話は簡単なのだ。二つの事件を結び付ける必要もない。バベルの塔があるばっかりに事件に関連ができてしまう。あの塔、そびえたつフォルム……それこそが鍵《かぎ》だ。世界を解釈する――解釈して世界を取り戻す、鍵なのだ。あの塔さえ現れなければ悩まずにすむ。苦しまずにすむのだ。……苦しむ? 田村は≪苦しむ≫といういい方に引っ掛かった。苦しむだけだろうか。懊悩《おうのう》や苦痛しか感じていないだろうか。――違う。バベルがあるからこそ現実が面白くなるのではないか。あれこそが現実を下僕にする鎖なのではないのだろうか。そして……麻薬のようなものだ。苦しみを伴うからこその甘美な愉悦、それが彼にとってのバベル……
百科事典のコーナーヘ行った。茶色い大部の本は開かれないまま古びてしまったかのように見える。は行が載っている巻を引き出し、机に戻った。
ハ……バヘ……バベル……バベルの塔。あった。
簡単な記述だ。およそ次のように書かれている。
Tower of Babel(英)ついに完成しなかった天に至る塔。『旧約聖書』「創世記」十一章一―九節に記されている。
ノアの大洪水の後、人類は繁栄し、全地は一つの言葉を語り、天に達する塔を建設しようとするまでになった。神は人々のおごりを戒めるため天より降り、言葉を乱して人々を各地に散らした。よって塔は未完成となった。この主題は技術革新の賛歌と傲慢《ごうまん》の危険が表裏一体であることを示す。バベルの塔は人間の知恵の成果であり、塔の破壊は人間の能力過信への警鐘である。バベルの塔のモデルはジッグラト、すなわちメソポタミアの巨大な聖なる建築物だったとされる。バビロンのジッグラト「エ・テメン・アン・キ」(天と地の礎の家)を指すともいわれる。これはマルドゥク神の神殿エサギラに付随する塔で、七階建て、九十メートルの高さがあったらしい。塔の物語はキリスト教美術で画題としてよく取り上げられた。
田村は挿絵に注目した。
ブリューゲルが描いたバベルの塔だった。しかし木中が握っていた絵とは違う。こちらの塔はほとんど完成していて、人の姿が目立たない。一五六八年頃の作品だという。三角錐《さんかくすい》の先が欠けたような巨大な塔が、画面を覆っている。雲を突く威容だ。ピーテル・ブリューゲルは少なくとも二枚のバベルの塔を描いた。未完成の塔とほとんど完成した塔。画家の意図はわからない。同じ主題の絵の注文があっただけかもしれない。しかし……と田村は推測する。
ブリューゲルはバベルの塔を建てたかったのではないか。彼は絵の中で建築をした。建築とは何だろう。家屋や橋などの建物を造ることである。それだけではない。建築は空間を認識する一つの方法である、ともいえる。人は何もなければ空間そのものは認識できない。建築物は空間を区切ることによって、人に明確な空間を実感させる。建築があるからこそわかる空間がある。一方、絵画も平面の中に空間を造る作業だ。描くことによって空間を表現するのである。一筆一筆描くことによって画面に建築するといってもよい。空間の創造とそれによる認識という点において絵画も建築も共通するのである。ただし重要なことがある。建築は住み得る空間で絵画は住み得ぬ空間であるということだ。ブリューゲルは住み得ぬ空間に塔を建てた。まずは建築途中の塔だ。しばらくして二枚目の塔を描く。塔はほとんど完成していた。二枚の絵には≪継続≫がある。住み得る空間の中で実際に塔が建築されていたかのごとくである。画家はその時間、絵を描いていた。絵筆を持つこととレンガを積むことが、ここではイコールとなる。ブリューゲルは二枚の絵を描くことによってバベルの塔を完成させたのである。
田村は自分に引き寄せて考えてみる。画家は絵筆によって塔を完成させた。自分にも……できるのではないか。しかし、どうやって? 方法は? 住み得ぬ空間の中では有り得るだろう。例えば体験を元に小説を書く。では、住み得る空間の中では有り得るか?
唐突に思いつく。もう一度事件が起こったとしたら……その現場にもバベルの塔の絵が残っていたとしたら……どうだろう?……もう偶然とはいえまい……
まさか。いくらなんでもあり得ない。事件が三度も連続する筈《はず》はない。次の事件など起こるわけがない。だが……
彼は一時間ほどぼんやりと時間をつぶしてから帰宅した。
夜、夢にバベルの塔が現れた。
塔は下から一層一層できあがっていく。フィルムを高速で回すようなものすごいスピードだ。よく見ると数千数万という人々が蟻のように蠢《うごめ》き、レンガを一枚一枚積み上げている。全て手作業だった。手は血にまみれている。レンガが徐々に赤く染まっていく。赤い塔の壁。バベルの塔は血まみれだ。何故道具を使わないのか田村には不思議だった。自分なら一瞬のうちに作り上げてみせる。彼はバベルの塔の完成を確信した。そうだ……道具など使わずにだ。その瞬間、塔は完成した。頂上が雲の上を突き抜ける。人の群れは消えていた。――そうではない。よく見ると死んでいた。塔は数え切れぬ死体の群れで覆われていた。
目が覚めた。ひどい悪夢だ。しかも寒い。この冬一番の冷え込みかもしれない。
ヒーターのスイッチを入れる。まだ五時半だ。もう少し眠れる。窓から外を見ると雪だった。全てを白く覆っている。一晩で六十センチくらい積もったのではないか。駐車場に屋根はない。自動車は雪の中に埋まっているだろう。掘り出さなければならない。彼は再び布団の中に入った。一旦入ってしまうと、ぎりぎりまで出ることができなかった。車で行くのはあきらめよう。バスで出勤すればいいのだ。
田村は普段より十五分早く家を出てバス停へ向かった。二キロはある。道路には除雪車が入ったため、アスファルトが見えていた。それでも道幅は極端に狭くなっている。車が通ると一旦止まって道を空けねばならない。白い息の向こうにバス停の標識が見えてきた。丸い標示板にさえ雪が凍結して積もっている。先客が一人いた。
黒に近い紺色のハーフコートを着、鞄《かばん》を提げた少年だ。田村を認めると、模範的なあいさつをしてきた。
「お早うございます」
風見恭介だった。田村は少し顎《あご》を引く。二人でバスを待った。お互いに鬱陶《うつとう》しく感じているのか、気まずい雰囲気が漂う。田村は珍しく自分の方から、
「風見はバスで通学してたのか」
「はい。柿山新田に住んでます」
「ここからだと歩いて十五分以上かかるな。私はこの近くに住んでいるんだよ」
「知ってます。この辺りで先生が車に乗っているのをよく見かけました」
この町ではいつも誰かに見られている。
「先生、車はどうしたんですか」
「埋まってしまった。雪かきをする時間がなくてね。まぁ、潰《つぶ》れはしないだろう」
「意外と潰れますよ」
「君は冬以外は自転車通か」
「一年中バス通です。このバスで学校に行っている人、結構多いんですよ。生徒が十人くらい。事務の鈴木さん。用務員さん……」
「用務員って、船山さん?」
「いえ、自殺しちゃった……名前は度忘れしたけど若い方の人です」ややためらってから、「伊庭先生もこれで通ってたんですよ」
田村の首筋が粟立《あわだ》つ。死んだ二人は同じバスで通勤していた。これも偶然なのだろうか。恭介の横顔を見る。伊庭が殺された晩のことを思い出した。
「美術の先生が殺された日、会ったな」少年が眉《まゆ》をしかめるのを横目で見ながら、「あの日も職員会議があった。この学校では君たちのせいで毎日会議だ。長引いた会議が終わって、準備室へ向かう途中で、私は君を見かけた。特別棟の二階だった。君は藤川志乃と階段を降りてきたね。あんなに遅くまで何をやってたのかね」
「それは、……」
「部活ではないだろ。休止期間に入ってたから」
「お話し、してたんです。藤川と、屋上で」
「オハナシ?」嘘《うそ》くさい。しかも「屋上だって? 確かあの日は雪が降ってた筈だが」
「僕たちが話していた時は止んでたんです。寒かったけど」
まさか暖めあったんじゃないだろうな。
田村はよほどおかしな目で恭介を見ていたらしい。少年は軽い軽蔑《けいべつ》の表情を浮かべた。風が吹いた。真ん中で分けた恭介の髪がさらりとなびく。
「先生、誤解しないでください。僕と藤川はそんなんじゃありません」
バスは遅れている。雪による交通マヒで三十分以上遅れることもあるのだ。
田村は少しうんざりした口調で、
「藤川は風見の恋人じゃなかったのか」
「違いますよ」
「照れることはない」
「幼なじみなんです。といっても小学校からですが。藤川もこのバスで通ってますよ。一つ前の停留所から乗ってくるんです。僕は、ほら……アメリカから来たでしょう? だから友達ができなくて。最初は言葉もよく通じなかったし。親から日本語も習ってたんですけどね。周りの子供たちになじめなくて。でも、藤川だけは他の子供たちと違った。昔から、変わってたんです。だから、かえってなじみやすかった」
特殊な境遇の生徒の話は、教員間ではすぐに広がる。田村も恭介の生い立ちを知っていた。彼の父母は一時期アメリカで大衆的な日本料理店を開いていた。しかし営業不振となり、わずか数年で帰国した。恭介はその頃生を受けた。外国名も持っている。確かエドガーといった。
「エドガーっていうんだったね、君は。エドガー・カザミか。それともカザミ・エドガー・キョウスケかな」
恭介はあいまいに頷《うなず》き、
「藤川は昔から変だった。今でも覚えています。あいつ……花びらを食べたんですよ。小学校一年か二年の頃でした。一緒に野原で遊んでたんです。あの頃は草が高かった。僕たちが小さかったんですよね。彼女は白い野草の花びらを一つ一つむしり取っている。花占いをしているように見えました。最後に一枚の花びらが残ります。彼女はしばらくそれを見ていましたが、やがてゆっくりと口に含んだんです」
滔々《とうとう》と話し続ける。他人に口を挟むすきを与えたくないかのようだった。
「どうというシーンではないのかもしれません。だけど、何だか見てはいけないものを見てしまったような……」
田村は想像してみる。花びらを食べる少女。子供らしい無邪気な場面にも滑稽《こつけい》な場面にも気味悪い場面にもエロティックな場面にもなりうる。志乃ならば、どうだろう? 白い色の花びら、音も無く、薄紅色の唇。
「こんなこともありました。二人で昆虫採集に行ったことがあるんです。日差しは強く、捕虫網は天に向かって伸びていた。僕はアゲハ蝶《ちよう》を捕まえた。藤川は何も捕まえなかった。というより、何もしなかったんです。彼女に僕の蝶をプレゼントしました。藤川はしばらく虫かごを見ていた。すると……やがて……フタを開け蝶を掴《つか》み出したんです。何をするんだろう……。彼女は蝶の羽を両手で広げると……おもむろに片方の羽をむしり取ってしまった。茶色と黒の羽が落ちて行く、音もなく。今も、目に焼き付いている。彼女は僕をおいて森の中に入って行った。あの頃は森に見えた。今思うと林だったかもしれない。藤川は木々の間をさまよった。僕はそっと後をつけたんです。彼女は木々の間に蜘蛛《くも》の巣を見つけた。ぼんやりと見つめている。いつまでも、見つめている。そして、素早く、片羽のアゲハ蝶を無造作にクモの巣に張り付けたのです。女郎蜘蛛が寄って来ました。藤川は蝶がどうなるのか……じっと見ていた」
少年が黙り込んだので、何かいわなければならないような気になった。
「小さい子はよくそういうことをするもんだ。蟻の巣に熱湯を流し込んだり、カエルに爆竹を咥《くわ》えさせて火を点《つ》けたりね。子供には嗜虐《しぎやく》性がある。成長過程の一時期に特有な傾向だ」
反射的に並べた言葉が白々しく響く。志乃の行動はそれだけで説明できない気がする。恭介も納得していないようだ。アゲハの羽をむしり取り、蜘蛛の餌《えさ》にする。少女がむしり取った羽は、そして蜘蛛の巣に張り付けたかったものは、本当は何だったのだろう。
「伊庭先生が殺された日も、僕は藤川と屋上で話していました。どうしてそんな状況になったのかは覚えていません。たいした理由はなかった。彼女のほうから誘ったんです。それで何をいい出すのかと思ったら……聖書とか神話の話」
「わざわざ放課後、屋上でか?」
「でも事実なんです。変わってるでしょう?」
「どんな話をしたんだ……バベルの塔の話、とか……」
「何ですかそれ。いろいろ聞いたんで、――あいつ一方的に話しまくるんですよね、だからよくは覚えてないんですが、確か……ロトの話がありました。ロトっての、聖書に出て来ましたよね」
バスが見えた。鉄色の車体に赤いラインが入っている。
「知らないな」
「塩の柱になったとかならないとか……そんな話でした」
バスは雪まじりの泥水を撥《は》ね上げて止まる。乗り込む時、整理券を取り忘れた。少年が二枚取って一枚渡してくれた。久しぶりに乗ったんでね。礼の代わりのいいわけ。バスの中はかなり混んでいる。東京の満員電車を思い出した。動けるだけあれよりはいいが。中高生が多い。
田村は奇妙な感慨にふけった。バスの中に子供たちが密集している――これは本当はかなり異常な事態なのではないだろうか。人間も生物である以上、他者の入り得ぬ領域、テリトリーを持っている筈である。その不可侵領域を最初から子供たちは奪われている。満員電車や混雑したバスで通学し、教室は鮨詰《すしづ》め状態、机ほどのスペースの確保もままならない。家でも同じだ。家族から侵食される。彼らには居場所がない。≪場所≫を確保できないのだ。しかし人は場所の中にしか存在できない。その時、現実に求められない場所を彼らはどこに求めているのだろう。風見恭介はどこに居場所を求めるのか。そして、藤川志乃は?
志乃は神話や聖書の話をよく口にするという。そこが彼女の場所なのかもしれない。しかし何故神話や聖書なのか。そこに流れがあると社会科教師はこじつける。資本主義社会は儲《もう》けることを神格化した。社会の規範を、≪神≫を中心にしたものから≪金≫を中心にしたものへと変化させたのである。その結果、社会は人をも商品化することになっていく。商品化は物質化につながる。人をモノとして扱う歪《ゆが》み。この歪みは個人レベルで補正できるものではなく、いやおうなく人は不適応を起こし、精神障害に陥り、自分の殻に閉じこもり、周りを分断していった。だから……彼らはおそらく帰りたいのだ、神を規範とする社会に。人々が今よりは楽に暮らせたと思える時代に戻りたいのだ、「全世界は一つの言語、一つの言葉であった」あの頃に。だから神話や聖書の世界にひかれるのかもしれない。我々は神を希求する。たとえ、子供であったとしても。
運転席側から奇妙な発音の日本語が聞こえてきた。
「キョウハ、バス、コンデマスネ。ユキガツモッテル、オオイデス」
頭一つ高い男がいた。薄い銀髪、オーエン・ハートだ。このバスで塾に通勤しているらしい。髪をていねいに横になでつけている。大きな目の中で、ブルーの瞳がきょろきょろ動く。隣に立つ見知らぬ女と話している。
「大雪のせいで車が使えず、バスに乗った人が多いんでしょう」
三角眼鏡をかけた女が低い声で話す。オーエンの言葉を翻訳するような調子だ。顎《あご》のとがった鋭い逆三角形の顔型だった。同じ塾の講師かもしれない。
「ソデスネー、アサカラツカレマス」
あさかーら≠ニ聞こえた。近くに立っていた中学生の女子の一団が、クスクス笑った。無神経に噴き出す高校生もいた。温かい笑いでなく嘲《あざけ》りの笑いだ。日本に来たら日本語しゃべれなどとつぶやくものもいる。彼らにとって見知らぬ人は≪他人≫でさえない≪他物≫なのだ。デリカシーなどという言葉は死語である。心遣いのこまやかさなどみじんもない。笑われたものの気持ちなど忖度《そんたく》できる筈がなかった。あるいは、しないだけかもしれないが。普段なら腹が立つところだ。しかし今日に限っては、田村は冷静だった。
笑われているのはオーエンなのだ。いい気味だ。諸君大いに笑い、蔑《さげす》みたまえ、遠慮はいらない、彼はカナダからの流れ者、自称芸術家の落伍者だ。いてもいなくても変わりないつまらぬ男なのだ。……そして、自分から恋人を奪った男だ。
オーエンは隣の女と話し続けている。誰かがまた笑った。外国人は平然としている。周囲の笑い声を気にしているようではない。田村にはそれが気に食わなかった。オーエンには嫌な気分になってもらわねば困る。弱者・敗者にしたいのだ。けろりとして見えるが、心の中では不快なのではないか。不愉快に違いない。腹わたが煮え繰り返っているのだ。そうでなければ面白くない。……彼は奇妙な思い込みを続けた。
気配を察したかのようにオーエンが田村の方を見た。視線がぶつかる。青い目の男はニヤリと笑い右手を上げた。目をそらす。負けたような気分だった。たまらなく不愉快だ。オーエンに背をむける。
鈴木智子の姿が目に入った。最後列の座席の右端に座っている。ベージュのコートをまとい、小さな体を丸めていた。短めの髪が湿ったようにべったりしている。垂れぎみのどんよりした目だ。血色も悪い。冴《さ》えない女、本校の事務員。おそらく交通事故を起こしてからずっとこんな顔をしているのだろう。事故とはいえ人を殺したのだ。鈴木は事故を起こしてから車の運転をやめたという。隣に立つ風見恭介を見た。涼しい顔をしている。彼は鈴木智子をどう思っているのだろう。肉親をひき殺した相手として憎んでいるのか。気持ちの整理はついているのだろうか。
智子が咳《せき》をする。カゲロウの羽のように見えない女だ。存在感がないのだ。事務室の片隅に座っていても気づかないほど。
バスが停留所の一つに停まる。田村の横に座っていた老婆が降りた。急いで席を取る。カバンを開いて本を出す。バスが発進した。『旧約聖書入門』。暇な時読もうと思い、持ち歩いている。むろんバベルの塔を調べるために買った。だが今は、ロトの物語を知りたい。屋上で志乃が恭介に話したという≪塩の柱≫のエピソードだ。
ロトは「創世記」に現れるアブラハムの甥《おい》である。ロトとその家族はソドムにやって来た。乱れた淫《みだ》らな町だった。天使たちはロトに告げる。「明日この町は滅ぶ。逃げなさい。しかし決して後ろを振り返ってはならない」ロトとその家族が逃避すると、ソドムとゴモラは硫黄《いおう》の火によって滅ぼされる。逃走の途中、ロトの妻は町の様子が気になって仕方がなかった。ついに、こらえきれず、振り返ってしまう。すると、ロトの妻は塩の柱となった。これがロトの物語である。
しかし田村が興味深く思ったのは、その続きだった。ロトの娘たちは人類が滅んだと思い込んだ。大破滅を体験したのだから無理もない。彼女たちは父にブドウ酒を飲ませ泥酔させた。そしてロトと交わった。交互に関係を持ったのである。子孫を絶やすまいとして娘たちは父親と交接した。娘にとってロトは実の父だった。……志乃と違って。
気分が悪くなってきた。バスに揺られていて酔った――と思い込んだ。慣れないことはするものではない。吐き気がする。伊庭と木中の死体を見た時の感触を思い出した。胃の中のものが逆流してくるあの時の感じ……
そのとき何かがひらめいた。つかもうとするが……駄目だ。逃げられた。しかし、今朝何か重要な手掛かりを得たような気がする。見たか、あるいは聞いたか。一連の事件をつなげ、解決するほどの重要なヒントが、目の前にあった。
田村はそう確信したが、それが何だったのか、はっきりとは掴めなかった。
Y
鈴木智子の存在を意識したのはそれから五日後のことだった。
不在によって存在を意識したのだ。
智子は死んだ。知らせは唐突だった。十二月十四日、月曜日の朝。
教務室には担任用の机しかない。クラスを持っていない教員の机はなかった。田村はいつも後ろ側の隅に立って、朝会が始まるのを待つことになる。他にも十数人の教員が立っていた。職員朝会は「お早うございます」のあいさつで始まる。諸連絡が終わると、司会が教頭に意味ありげな目配せをした。
若い教頭はわざとらしく咳払いしてネクタイに手をやると、
「実は先生方にご不幸のお知らせがあります」
黒々としたオールバックをなで上げ、
「事務の鈴木さんが亡くなりました。事故でした」
教頭は一拍おいた。エーという声が上がる。騒然となった。ざわめきはなかなか引かない。
どうなってるんだこの学校はこれで三人目だよ生徒だけじゃねぇなおかしいのはPTAへの対応はどうする子供たちへの悪影響が心配ですわ若いのにお気の毒鈴木さんが死んだのかしかし――いったいどうして?
教頭は役者のように間を読んで、
「朝、学校に連絡がありました。同じアパートに住む西村貞夫さんという方から連絡があったのです。西村さんが――」
会社に出勤しようと外へ出た時、奇妙なものが目に入った。彼の部屋はアパート一階の中央にある。左手には二階へ上がる鉄の階段があった。その真下の地面に、糸の切れた大きな操り人形のようなものが転がっていたのである。手足が勝手な方向を向いている。体に雪が積もっていたが、ベージュ色のコートを着ているようだ。近づくと二〇四号室の鈴木智子だとわかった。頭から額にかけて血まみれで、首も奇妙な角度に曲がっていた。明らかに死んでいる。警察を呼び職場にも連絡を取った。智子は独身の独り暮らしだったため、実家には学校の方から連絡した。現場には校長他数名が向かったという。
「鈴木さんは階段から足を滑らせて転落したものと思われます。駐車場には一日一回除雪車が入るためコンクリートがほとんど剥《む》き出しになっていました」
鉄製の階段は急なうえ、濡《ぬ》れると滑りやすく、以前から危険視されていたという。日曜日、アパートの住人が誰も気づかなかったところを見ると、深夜か明け方の出来事だったのではないか。職員一同、今後の対応を話し合った……田村を除いて。
田村はバスの中で見た智子の暗い表情を思い出していた。垂れ目の生気のない顔。ぼんやりと外を眺めていた。
彼女は階段から足を滑らせて死んだ。事故であるらしい。深夜か明け方だという。彼女は遅く出勤して早く帰るタイプだ。夜遊びしている様子はなかった。恋人もいなかったようだ。友人がいたのかどうかもわからない。夜遅く帰ったのか、朝早く出かけたのか。夜出かけて、朝帰ったのか。コンビニエンスストアへでも行こうとしたのだろうか。そうなのか……? 田村は意地でも不自然な点を見つけ出そうとしていた。現実をそのまま受け入れたくない――認めない。鈴木智子の事件は田村のバベルの塔を完成させるリンクの一つにはならないだろうか。≪リング≫ではなく≪リンク≫、鎖の輪である。L・I・N・K――だ。
妄想が怪しげな決意を生んだ。……現場で塔を探そう。
朝会はいつの間にか終わっていた。
漫然と時間を潰《つぶ》しながら一日を過ごす。最近教材研究をしていない。授業も一方的に話し続けているだけだ。生徒が聞いていようといまいと関係ない。
授業が終わると清掃もさせずに、すぐに学校を出た。勤務時間など守っていられない。
鈴木智子のアパートへ車を走らせる。歓送迎会の帰り、同じタクシーに乗ったので場所は知っていた。水っぽい雪が降っている。青や黄色の鮮やかなアノラックを着た小学生の一団が道を歩いていた。校則通り集団下校しているのだ。偉いものだ。彼らはまだルールを守れる。道路わきに積もる雪は、彼らの頭より高かった。風見恭介とバスを待った停留所を過ぎる。さらに山のほうへ数キロ進むと、右手に真新しいアパートの群れが並んでいた。判で押したように赤い屋根だ。智子はその中の一つ『ひかりハイツ』に住んでいた。木中稔の『海山荘』を思い出す。形はよく似ている。意外と両方とも藤川建設の仕事なのかもしれない。島の建築はほとんど独占していたから、有り得る。車を駐車場に停め、アパートの二階を見上げる。
周囲を見回す。階段の下には何の痕跡《こんせき》もない。人が死んでいた気配などみじんもなかった。チョークの跡がついているのかもしれないが、雪に覆われ見えない。住人も警察も自殺を疑うことすらしなかったのかもしれない。鉄の階段を確かめるように一つ一つゆっくりと上がっていく。確かに滑る。木中のアパートの階段で足を滑らせたことを思い出した。必死に手摺《てす》りにしがみつき、頭から落ちたらどうなるだろうなどと恐怖を感じたものだったが……
二〇四号室を捜す。あった。郵便ポストに鈴木智子の名前を見つける。この部屋だ。中で物音がする。ノックした。腰が引けている。恐る恐るという感じだった。
頭に手ぬぐいを巻いた年嵩《としかさ》の女がドアを開けた。平べったい顔をした小太りの女で、六十は過ぎているだろう。田村は挨拶《あいさつ》した。
「は、初めまして。大津中学の田村と申します。こ、この度は大変ご愁傷様でした。ご焼香させていただければと思いまして」
「そうですかぁ、学校のせんせ様ですか。智子がお世話になりまして。母のセツと申します」
米つきバッタのように何度も頭を下げる。
「そりゃまたねついことで、だんだんどうも。なんでもできねども、ま、あがらっしゃい。おちゃぐれぇだすすけ」
方言だ。未《いま》だに島の方言はよくわからない。またバベルの話を思い出した。ここにも言葉の分裂がある。後半はおそらくそれはまたご丁寧に、ありがとうございます。何もできませんが、お上がりください。お茶くらい出しますので≠ニいったのだろう。
願ってもない。いただこう。
玄関を入ると、左手にダイニングキッチンとバス・トイレがあり、右手に和室、奥にもう二部屋あるようだ。和室に招かれた。八畳間だった。中央に木製のテーブルが置かれている。そばに緑の電気掃除機があった。セツがさっきまで使っていたのだろう。テーブルに向かって座ろうとすると、座布団を出してくれた。緑茶が出された。口を付けると、飲めないほど熱い。少しすすってテーブルに置いた。智子の死体は警察病院へ運ばれたという。
母はお茶には口を付けず、
「あのこはがっこではなじだったがかなぇ」
智子は学校ではどんな様子でしたか。
「真面目で通ってました。しっかり仕事をすると評判でした。お気の毒です」
「運がなかったがあて。影の薄い子だったっすけの。階段から落ちるって、全くなにやってるがあっぺか」
セツの声がしだいに湿っぽくなっていく。部屋に入った動機が動機なだけに涙声を聞くのは苦痛だ。この部屋にはバベルの塔を探しに来たのだ。手ぬぐいを取った母の髪は真っ白だった。目は赤く瞼《まぶた》がはれている。
「もう三十ちけてがんに、おとこっこひとりつれてこらんねえてがんな、よっぽどノテツだったがあっぺかな。友達もあんまりいねかったみてだし」
ノテツまたはノウテツとは何か? 文脈からすると、脳鉄、頭が硬い、無能、力や魅力がない、ということらしいが……
田村は朝と同じことを考え始めた。なぜ彼女は深夜か明け方、階段から足を滑らすようなことになったのだろう。遊びに行ったか、帰って来たか。彼女は孤独だった。恋人や友人がいたのか。コインランドリーやコンビニエンスストアへでも行こうとしたのか。
何者かに呼び出されたということはないだろうか。電話で呼び出したのか、実際に夜中訪問したのか、あらかじめ連絡してあったのか。田村ならアパートを訪ねるだろう。電話や口約束では確実性が薄い。智子は犯人に誘われ、外へ出た。犯人は一緒に階段を降りるふりをして、さりげなく彼女の背後に回り、一押しすればよい。智子は落ちていく……。かなりの音がした筈《はず》だ。悲鳴を上げなかったのだろうか。アパートの住人は何故気がつかなかったのだろう。ミステリーのパターンを思い浮かべてしまう。別の場所で殺しておいて階段の下に放置する。……考えすぎだ。足を滑らせて階段を転がり地面に激突する――確かに音を立てそうだが、非常にリアルに考えると、ほとんど無音に近い状況だった可能性もある。悲鳴も、あげなかった。いずれにせよ、住人は気づかなかったという事実が残ったのだ。
問題はその後である。犯人はどんな行動を取ったのか。逃走する前に何かをしなかったのか。例えば……バベルの痕跡を残す……ようなことを。
セツはテーブルを抱き込むように体を丸めて、娘の話を延々と続けている。田村はぬるくなったお茶を飲み干した。苦い。辺りを見回す。クリーム色の砂壁、青いストライプの入ったカーテン、小さな黒いテレビ、殺風景な部屋。どこにもバベルの塔は見えない。少なくともこの部屋にはなかった。他の部屋が見たい。
急に立ち上がった。
女はビクッとして田村を見上げた。
「奥の部屋、見てもいいですか」
「はい?」わけがわからないようだ。
当然である。説明する気はない。気が急《せ》いている。田村はセツのあいまいな返事を勝手に了承と捕らえた。奥の部屋に続くドアを開ける。板敷きの洋間だった。セツもついて来た。がらんとしている。がっちりした木製の机と高価そうな肘《ひじ》つき椅子《いす》がある。書棚やタンスもあった。装飾はほとんどない。女性らしい匂《にお》いはなかった。そして――バベルの塔もない。続くドアを開く。寝室だ。セツが何かいいかけた。かまわず入る。シングルのベッドのシーツには皺《しわ》一つない。化粧台と姿見がある。田村は智子の化粧した顔を見たことがない。していたのかもしれないが、気づかなかった。立派な衣装棚もある。しかし、肝心のものがない。
バベルがなかった。絵も写真もカレンダーもポスターも画集も、何もないのだ。そんな筈――そんな――そんな筈はない。必死で塔を探した。衣装棚を開ける。服が数枚あるだけだ。後ろでセツが何か叫んでいる。知るか。あらゆる引き出しを開けた。ベッドの下をのぞく。ない、何もない。他の部屋でも同じことをした。やはりなかった。セツにつめよる。両肩に指が食い込んだ。痛みからか恐怖からか女の顔が歪《ゆが》む。
「掃除した時、何か捨てなかったか。写真か何か……。あんたが部屋に入った時、どこかに塔の姿を見なかったかね」
「トウ? 何のことだっぺかなえ」おびえたか細い声だ。
突き飛ばすように手を放した。わかる筈がない。説明しても理解できないだろう。警察でさえ知らないのだ。気づいているのは自分だけ。冷静になれ。どこかにある筈だ。気を静めろ。そうだまずこの女に、「セツさん、すみませんでした。本当に失礼しました。これには深い訳があるのです」と謝った。目が合う。嫌悪をあらわにした……小動物の目だ。こんな目をどこかで見たことがある。そう……細井英子だ。藤川志乃を準備室に呼んで調べたあの日、こんな目をした。彼女はおびえてはいなかったが、異物を見るような眼差《まなざ》しは、同じだ。
セツから目を離し、電灯の笠《かさ》に視線を移す。集中するためにその一点を見続ける。……犯人は、夜、智子の部屋を訪れた。ドアをノックする。智子は犯人を中に入れた。よく知っている人物か、母の知らない恋人か。犯人は部屋のどこかにバベルの塔を残す。その後智子を部屋の外に誘い出し、突き落とした。しかし今、部屋の中には、どこにも塔の痕跡がない。
待てよ。犯人が部屋の中に入らなかったとしたらどうか。智子は犯人を中へ入れなかった。あるいは犯人が入る必要を感じなかったか。いずれにせよ、言葉巧みに誘い出した。智子はコートを着て外へ出る。ドアをロックし、階段のほうへ向かう。殺人。……犯人は、それから? 下に降り、死んだかどうか確認する。死体のそばにバベルの画像を残す。発見者や警察が何も気づかず処分してしまったのか。あるいは……あるいは、階段を上り、部屋の方へ再び戻って来て……ドアには鍵《かぎ》が掛かっていて入れず……そして……
田村は急に駆け出した。玄関へ向かう。セツはついてこない。かかとをつぶして靴を履き、外へ出る。ドアの左わきに赤い郵便ポストがあった。つまみを持って乱暴に引く。ポストが揺れた。その中に――
塔が建っていた。ポストの中にハガキ大の小冊紙が入っている。『あなたは神を信じますか』というタイトルだ。文字は表紙の左側にゴシック体で縦に入っている。右側には塔の絵が印刷されていた。バベルの塔だ。今まで見た塔とはフォルムが違う。この塔は角張っていた。基本的には四角錐《しかくすい》の塔なのだ。伊庭やブリューゲルの描く塔は円錐が基本だった。絵の感じも全く異なる。水彩のような淡い色彩で描かれた塔の姿は、むしろのどかに見えた。田村はその古拙な絵画を目に焼き付けた。本を開いて中身をのぞく。宗教勧誘のパンフレットだ。ポストの中に入っていても何の不思議もない。宗教団体の勧誘員が配って回ったのだろう。たまたまこの冊子がポストの中に入っていたのだ。田村はニヤリと笑った――この事件だけならば、だ。自分の読みは当たっている。塔は建っていた。推理した通り郵便ポストの中に入っていたのだ。連続殺人の犯人は存在する。鈴木智子の事件はやはりリンクの一つだった。彼は自分の結論をもはや疑わなかった。
田村は玄関から声をかけた。心なしか弾んでいる。
「セツさん。私はこれで失礼します。お役に立てず申し訳ありません」
彼女は奥の方で煙《けむ》に巻かれたような顔をして立っていた。田村が頭を下げると、相手も丁寧に下げる。頭が膝《ひざ》にくっつくかと思うほどだった。去ろうときびすを返すと、後ろでつぶやく声が聞こえた。
ありゃちっと、かわってらあ。
あいつは少し変わっている。変人だ。あるいは、狂っている。自分のことをいっているのだろうか。頭の隅でぼんやりと思いながら、ドアを閉めた。
車で自宅へ向かう。知らないうちにスピードが上がっていた。
気分が浮ついている。世界が少し自分の思う通りに回った。
コンビニエンスストアの明かりが目に入った。寄ることにする。島で唯一の二十四時間営業の店だ。駐車場には他に車が一台しかない。白いセドリックだ。江上康夫の車ではないだろうか。運転席側の車体に三本の傷が前から後ろまで走っている。釘《くぎ》のような鋭いものでつけられた引っ掻《か》き傷だ。この傷には見覚えがあった。
ある日の放課後のことだ。田村は下校しようと自分の車へ向かっていた。すると白いセドリックの前で背の高い男がたたずんでいる。どうしたんですかと声をかけた。彼は黙って指を差す。車体に三本の傷がついていた。男の体は少し震えている。長くて黒い顔。濃い眉《まゆ》を歪《ゆが》め、大きな目を落ちつきなく動かしていた。田村が生徒の仕業ですかと聞くと、あいつらだと答えた。今度あったらぶん殴ってやる。それはどういうことですかと代打教師に聞く。男は何もいわず車に乗ってしまった。江上はファナティックな男だ。準備室にいても美術室からの怒鳴り声が聞こえてくる。工事現場のような怒声が飛ぶ。毎時間だ。伊庭とは百八十度違う。生徒にはあれくらいでちょうどいいのかもしれない。車を傷つけられるようなリスクが伴うけれども。
セドリックの中には運転手の他にも誰かいるようだ。助手席のドアが開く。鮮やかな赤いコート。赤い女。目が田村を捕らえた。
「あら先生。この前はお世話になりました」
一瞬誰だかわからなかった。
「私よ、貞子、木中貞子」
目を細めて艶然《えんぜん》と笑った。木中稔の妻だ。初七日に会ったばかりだった。初めて顔を見たのは、稔が死んだ日だ。田村は稔とは親しくしていたが、別居中の妻とはそれまで面識がなかった。紹介されるどころか話にも出なかった。稔にとって触れたくない部分だったのかもしれない。夫の死に立ち会った日、彼女は毛皮のコートの下に赤い服を着ていた。今夜は赤いコート。よほど赤が好きらしい。
「田村先生でしょ、忘れちゃったの、嫌ねぇ」
忘れたのではない。昼の顔と夜の顔が違うのだ。田村は間の抜けた返事をした。
「木中さん今晩は」そして「あなた、江上先生とお知り合いなんですか」
「先生は何を買いにいらっしゃったの」
質問に質問で返し、ガラスのドアへ向かう。「夕食を買いに」と答え、貞子に続いて店内に入る。明るい照明と、全国共通のディスプレイが島を忘れさせた。オレンジ色のかごを取る。見ると彼女はまっすぐレジに向かった。
貞子は避妊具を買った。
すれ違う。香水のよい匂《にお》いがする。明るく、じゃあね、といった。赤いコートを翻して出て行く。ふくらはぎに目が行った。
≪じゃあね≫じゃないと田村は思う。木中貞子、夫が死んだばかりなのだ、少しは神妙にしていろ。弁当コーナーで品定めする。胃にもたれそうなものばかりだ。結局何も買わずに外へ出た。食欲が減退した。貞子と稔は何故結婚したのだろう。それをいうなら何故離婚しなかったのか。夫婦の事情は他人に窺《うかが》い知れない。貞子は江上と深い仲なのだろうか。そうだとしたら、いつからか。稔の生前からかもしれない。店の客として知り合ったのだろう。江上康夫の馬面を思い出し、一層不快になった。さきほどの高揚感は跡形もなく消えうせていた。
家についても気分は冴《さ》えなかった。
もっとも就職してからこの方、真に晴れやかな気持ちになったことなど一度もない。
厭世《えんせい》的な気分はマルセル・シュオップを手に取らせた。何故か今日は文章の気取りが鼻につく。二ページで投げ出した。クレイグ・トーマスを読んでみる。高年齢層のラブ・ロマンスにうんざりした。途中で放棄する。
眠ってしまおうか。
なかなか寝付けなかった。今日に限ったことではないが。
寝返りを打つ。一日を振り返る。不愉快な事ばかりではなかった。鈴木智子の死が微《かす》かに彼の心を明るくしていた。モラルなど関係ない。事実、光が射してきたと彼は思った。推理通りの展開になってきたのだ。自分だけが真相をつかんでいる。次第に愉快になってきた。ほとんど甘美な感覚だった。世界が思い通りに動く快感。やっと世界を、自分の世界をこの手に取り戻したような気がした。二度と手放すまい――二度と。
一時頃布団から出て、濃いコーヒーをいれた。どうせ眠れないのだ。
考えたいことがある。机に向かう。新聞広告の裏に BABEL と鉛筆で書く。カップの中で黒い液体が湯気を立てている。彼は書きながら事件を整理していった。
十二月に入ってから身近な人間が三人も死んでいる。
最初に美術教師の伊庭典克が撲殺された。十二月三日・木曜日、大津中学の美術準備室でだった。凶器はブロンズ像。午後四時頃から六時二十分頃の間に殺されたらしい。画家の谷川祐三が自首してきた。動機は谷川の思い込み。自分の絵を盗作された(?)ことによる怒りである。
同日午後六時頃から翌午前八時頃までの間に第二の事件が起こった。警察はもう少し時間帯を絞り込んでいるはずだ。海山荘の自室で木中稔が死んだ。大津中学の用務員で、服毒自殺とされている。理科準備室から盗んだ毒薬を嚥下《えんか》したらしい。
第三の事件は、九日後の十二月十三日・日曜日の深夜から翌朝にかけて発生した。事務の鈴木智子が、ひかりハイツの階段から転落して死んだのだ。事故と思われている。
田村は、≪誰が、何故、何時、何処で、どんなふうに≫死んだかを箇条書きしていった。一通り書き終えてからもう一度眺める。殺人、自殺、事故死。どこにも不自然な点はない。これが真相なのかもしれない。少なくとも田村が望まない≪現実≫ではある。
彼は≪ナゼ≫と大きく書き足した。クエスチョンマークをつけ、≪ナゼ?≫を二重丸で囲む。そして≪BABEL≫を丸で囲んで一本線で≪ナゼ?≫とつなげた。こちらのナゼはさっきの何故とは違う。ナゼ――何故、バベルの塔の絵が三件の現場に残されていたのか。偶然か、意味があるのか。意味があるとしたら何を表しているのか。
犯人がバベルの絵を残していったと仮定する。伊庭の油絵、カレンダー、パンフレットは、犯人が死体のそばに計画的に置いていったものだった。何故か。むろんメッセージを残すためだろう。では、誰に対して伝えようというのか。
大まかにいって二つの場合がある。一般大衆など大多数の人間にメッセージを送る場合と、特定の人物(集団・個人)にだけ伝わるように残す場合とだ。
バベルは一般大衆へのメッセージではないだろう。世間へ挑戦状を叩《たた》きつけているとは思えない。少なくとも世の中を騒がして面白がる愉快犯の類《たぐ》いではない。田村は、大衆へのメッセージとして、現状より効果的な演出法はないか一応考えてみた。例えば伊庭の絵に血文字で BABEL と書く。油絵が血をはじくとしたら、赤い絵の具で書いてもいいだろう。木中の場合はまあ可というところか。鈴木の死体には、口にパンフレットを咥《くわ》えさせる。三つの事件でこれだけやれば、いやでもバベルに注目が行く筈だ。マスコミから≪バベル連続殺人≫などという名称をつけられるかもしれない。マスコミに直接情報を流すという手もある。不特定多数の人々に伝えるとしたら、工夫が足りない。現状では、世間はおろか警察でも気づいているかどうかというところだ。やはり一般大衆へのメッセージとは思えない。
では、バベルは特定の人物(たち)へのメッセージなのか。
特定の人物の中には≪他人≫の他に≪自分≫も含まれる。特定の≪他人≫にメッセージを残す時には復讐《ふくしゆう》や脅迫などの意味をもつことが多いだろう。バベルの塔は復讐や脅迫に至る原因であり、象徴である。また被害者サイドに恐怖感を与えようとした可能性もあった。いったい誰に向けて発信したのだろう。木中や鈴木に対しての信号か。あるいは第四の被害者に対してか。だが、≪他人≫にメッセージを残すことは被害者側の防御を堅くするという逆効果もあるのだ。一方≪自分≫へのメッセージという場合はどうか。犯人は自己満足のために絵を残していった。意味は犯人にだけわかればいいのだから、メッセージの解明は困難を極めるだろう。そのかわり意味が掴《つか》めれば犯人を特定できる可能性は高い。
現時点ではバベルの塔の意味から、被害者三人のつながりを推理することはできない。バベルの塔についてもっと知る必要がある。休日に図書館へ行って調べよう。
しかし逆はどうか。三人の接点からメッセージの意味を照射できないだろうか。
彼らは同じ職場の職員だった。田村はそれ以外の関連を知らない。伊庭も木中も鈴木も孤独を噛《か》んでいた。他人と交わりたがらない男女だった。何か思いもしないつながりがあるのかもしれない。調べられるか。推理小説だったとしたらどうだろう。事件をつなぐ≪失われた輪≫を見つけ出す物語となるのではないか。
失われた輪=ミッシングリンク。もともとは、生物の進化の過程で失われた一段階を指す言葉だったらしい。ある段階の痕跡が発見されないので、例えば原人から人類への進化がうまくつながらないのだ。鎖の輪が失われ、切れてしまった状態である。筋道をつけるためにはその輪を発見すればよい。推理小説の場合ではミッシングリンクを見つけ出せば犯人が判明し事件が解決する。むろん読者を含めた捜査サイドを誤導するテクニックにもなり得る。現実の事件はリンクを発見したくらいではなかなか解決しないだろうが。
田村は推理小説的思考の森へ迷いこんでいく。
≪失われた輪≫を見つけ出せば犯人がわかるというのは基本的なパターンだ。しかしミッシングリンクテーマと思わせておいてひっくりかえすパターンもある。例えば、結局バベルマニアの無差別殺人だった。この場合、被害者三人のつながりは真に何もない。
もう一ひねり。犯人は目的の人物をごまかすため、無関係な人々を殺したのだ。捜査側の混乱を狙《ねら》ったのである。無差別殺人に見せかけた。あるいは逆に被害者につながりがあるように見せかけた。この場合、本当に殺したいのは、伊庭、木中、鈴木のうち誰であってもよい。また伊庭と木中、木中と鈴木、鈴木と伊庭というペアでもよいのだ。さらに真の被害者は彼ら三人の中にいない可能性もある。第四の被害者が本命だったのだ。または第五の、第六の、第七の、第八の第九の第十の……と、可能性は無限にある。ただし本命を後に回せば回すほど、捕まる危険性は増大する。
無関係な人を捜査|攪乱《かくらん》のために殺す。ありふれたパターンだが名作も存在する。これらはしばしば犯人の人間性を不当に歪《ゆが》めていると評された。トリックのために人間性を都合のいいようにねじ曲げていると。その通りである。現実にこんな殺人を犯す人はあまりいない。しかし、皆無ではない。犯人が、本当に歪んでいたとしたら、どうか。小説内世界では不自然でも、現実世界ではいつどこにいてもおかしくない人物ではないか。彼は様々な顔を思い浮かべた。同僚の、生徒の、近所の人々の顔を……全く誰も彼もが歪んでいる、病んだ顔をしている……大人も子供も自分も他人も。どいつもこいつもそんな奴《やつ》らばかりではないか。だから――だから嫌気がさすのだ、だからうんざりするのだ、だから疎ましいのだ、だから苦しいのだ、だから、……逃げ出したいのだ。
田村はまた一つの可能性を思いついた――三重交換殺人。
笑いがこみあげてくる。どんな可能性だって有り得るのだ。口では何とでもいえるのと同じように。交換殺人だとすると、犯人が二人の場合と三人の場合がとりあえず考えられる。それ以上の集団だって有り得るだろう。ところが、だ。交換殺人などというものは明確な動機が存在し、犯人が推定され得るからこそ意味がある。木中や鈴木に対し動機が成立するものがいるのだろうか。警察は動機を持つ者を検討してみただろう。誰も出て来はしまい。警察が疑うような人物がいないようなら、被害者を交換しても意味がない。ばかばかしい限りだ。自分は遊んでいる。死者を踏みにじりオモチャにして遊んでいるのだ。罪悪感はない。むしろ爽快《そうかい》だ。現実を玩弄《がんろう》することができる。自分中心に世界を回せるのだ。
するとこんなふうにも思えてきた。
犯人は心の中で捕まえてほしいと思っているのではないか。現場に同じ痕跡《こんせき》を残す――しかも大袈裟《おおげさ》でなくささやかな痕跡を残すというのは、早く捕まえてくれ、でないとまた殺人を犯してしまう、という心情告白ではないのか。いいだろう。見つけだし捕まえてやる。警察ではなくこの自分――田村正義が。正義、まさよしでなくせいぎ。嫌な名前。滑稽《こつけい》だ。しかし今こそ名前を自分のものとすることができる。
現在までの三つの事件だけではデータが少ない。切れた鎖をつなぐもう一つの輪……次の事件が必要だ。第四の事件が起こるだろう。いや必ず起こらねばならない。予感ではなく確信だ。田村に≪決意≫に近い感情が生まれた。次に狙われるのは誰か。
見当もつかない。熟考した。駄目だった。わからない。
被害者は同じ学校にいた。そこに何か……何か、ある筈だ。どこかに法則性がある筈なのだ。伊庭典克・木中稔・鈴木智子。男・男・女。四十代・二十代・二十代。既婚・既婚・未婚。教員・用務員・事務員……
はっとした。被害者は大津中学の教員、用務員、事務員なのだ。残るは……次に狙われるのは、ひょっとして……大津中学の、生徒、なのではないか。
「教員」――「用務員」――「事務員」――「生徒」、これが被害者のリンクなのではないだろうか。
Z
図書館は森閑としていた。ページを繰る音が吸いこまれるような静寂に包まれている。
日曜日だというのに数人しかいない。腰の曲がった老紳士、眼鏡の太った中年男、高校生のカップル一組、そんなところだ。大津町の図書館はあまり知られていない。駅前通りにある市民文化センターの中にあるのだ。文化センターとはいうが公民館みたいなものだ。小規模の講堂、会議室、教室、休憩室などがある。たまに有名人の講演や小コンサートが開かれることもあった。図書館は二階の一番奥に位置した。本の数も少ない。受付には、顔の凹凸を板で押しつけたような感じの女がいる。田村は窓際に席をとった。窓から雪に覆われた町並みと道路が見える。遠くに高山がかすかにうかがえた。時々車が通り過ぎる音が聞こえる。
何冊かの画集を持ってきた。中世からルネサンスにかけての本である。鈴木智子の事件に現れたバベルの塔の絵を調べるためであった。郵便ポストに入っていたパンフレットの表紙、あれは古拙な絵だった。おそらくルネサンス以前の絵だろう。細かい部分まではっきり覚えている。よほど印象が強かったに違いない。それでも持ち去ればよかったと後悔する。宗教勧誘の冊子など智子の母は目もくれなかったに違いない。
実に多くの画家がバベルの塔を描いている。塔が何故彼らを引き付けたのか。理由の一つは形そのものにある。完全な幾何学形態を思わせる単純なフォルムは絵の中で映える。強い形なのだ。更に塔は見る者の思いを誘《いざな》う。塔の内部へ、心情の内部へと自然に導かれていく。物語を感じさせる。造形的にも文学的にも格好のモチーフなのだろう。
三冊目の画集にその絵を見つけた。『聖書の物語』という本に載っていた。角張ったバベルの塔は頭の中に焼きついている。間違いない、この絵だ。
ジュリオ・クローヴィオ≪バベルの塔≫
『ファルネーゼの時祷《じとう》書』より 一五五〇年頃 ミニアチュール
解説を読んでみたが、クローヴィオという画家についてはほとんど触れていない。十六世紀のマイナーな画家なのだろう。おおよそ次のような記述だった。
「バベルの塔」のエピソードは、バベルという言葉をヘブライ語のバラル(混乱する・混同する)によって解釈するか、アッカド語のバブ・イリ(神の門)に従って解釈するかによって、二つの象徴を含んでいる。一つはヤハウェの懸念、「彼らに不可能なことはなくなるであろう」とする人間の不遜《ふそん》・傲慢《ごうまん》に対する神の警告である。もう一つはたとえ性格・思想・行動様式・思考は異にしようと、言語が一つであれば人はついには「神の門」にも達する創造を成し遂げるであろうとの比喩《ひゆ》である。バベルの塔を扱った美術で現存する最古の作例は、十一世紀にサレルノで制作された象牙《ぞうげ》板浮彫だ。十二世紀に入ると一連のイタリアの大聖堂に、大規模な壁面モザイクが制作される。更に十四世紀になると写本の挿絵としての作例が現れ始めた。クローヴィオの絵は下って十六世紀のものである。
ミニアチュール(写本彩色画)が自然描写を取り入れたことは、バベルの塔の表現に根本的な変化をもたらした。十四世紀に描かれた塔の大半は、単純な四角柱もしくは六角柱をしている。十六世紀後半のクローヴィオのバベルの塔は、底面積が徐々に小さくなる立方体の積み木を垂直に重ねたものだ。塔の外壁には螺旋《らせん》状の通路がある。塔を見る視点の位置は高く、この頃から壮大な世界風景を絵の中に取り入れるようになった。
世界風景とは何だろう。おそらく単なる背景ではなく、文字通り≪世界≫を背景の中に封じ込めるような壮大な風景のことであろう。塔の形は、いろいろな描かれ方をしてきたらしい。十四世紀には単純な四角柱、六角柱だった。時代を経るにつれそれが立方体を積み重ねたものになったという。さらに木中が握っていたカレンダーのバベルの塔は円筒建築だった。
『ブリューゲル』という画集を開く。二枚のバベルの塔はすぐに見つかった。代表作らしい。一枚はウィーン美術史美術館にあり、もう一枚はロッテルダムのボイマンス美術館に所蔵されていた。木中が握っていたのはウィーンのバベルの塔だった。建物の内部の様子が見える塔だ。一五六三年に描かれている。巻末の解説を読む。
美術史の上では十六世紀にバベルの塔の主題が流行した。大半の作例がネーデルラント(オランダ・ベルギー)に集中している。十六世紀後半となると塔は円筒建築として描かれるようになる。全体が巻き貝のような螺旋形をしているのが特徴である。ブリューゲルの二枚の絵も例外ではない。ローマのコロッセウムが発想源だといわれている。作品的な影響はコルネリス・アントニスゾーンの銅版画だとする説もある。
参考図版としてアントニスゾーンの銅版画『バベルの塔の崩壊』が小さく載っていた。塔は巨大な積み木のように崩れている。既視感に囚《とら》われた。この絵には見覚えがある。どこでだったか……。しばらくして思い出した。大津版画館だ。常設展示されている。十六世紀の西洋の銅版画がこんな島にあるとは信じ難い。おそらく偽作だろう。しかし確かにこの絵だった。
伊庭の絵を思い出した。彼は大津版画館の『バベルの塔の崩壊』を見たことがあるのか。見てはいるだろう。影響を受けたかどうかわからない。バベルの塔のフォルムの歴史的変遷などは知らなかったのではないか。だが伊庭も現代のバベルの塔を描いた。分断された塔の中で少女が泣いている。一九九五年に描かれており、完全に乾燥していた。
ノートを広げ落書きを始める。伊庭の絵のタイトルを考え始めたのだ。遊びだ。
『バベルの塔の少女』ありきたりだ。
『バベルの塔と少女の涙』説明的な感じ。
『バベルのもと少女は泣く』やぼったい。
『思い起こすバビロン』A・C・クラーク。
『バベル崩壊』バブル崩壊?
崩壊……倒壊、破戒、破滅……いっそのこと、消滅。
『バベル消滅』これで決定だ。
ノートに、事件現場に現れた順に書いてみる。
伊庭典克『バベル消滅』一九九五年
ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』一五六三年
ジュリオ・クローヴィオ『バベルの塔』一五五〇年頃
待てよ……
制作年代がさかのぼっている。
出現する絵が次第に古くなっているのだ。第一の事件の絵が一九九五年、第二が一五六三年、第三が一五五〇年頃である。二十世紀から十六世紀まで一気に四百年、次はわずかに約十三年だが、確かに時代を逆行している。新しい事件が起こる度に、絵は古くなっていくのだ。これは、どういうことか。もしかしたら新しい≪輪≫を発見したのではないか。
我知らず興奮した。ならば、次の事件に現れる塔の絵は一五五〇年以前の絵なのではないだろうか。思いつきである。しかし彼は自分の発見を盲信した。
第一の輪・教員――用務員――事務員――生徒
第二の輪・一九九五――一五六三――一五五〇――それ以前、仮に一四XX。
四番目の事件ではおそらく生徒が殺され、現場には一四XX年の塔の絵が現れるだろう。
だが……何故だ。どうしてバベルの塔が古くなっていくのか。どんな意味がある? そもそもなんでバベルの塔なのか。何度考えてもわからない。
窓の外に視線を泳がせる。高層ビルなどはどこにもない。高さ四十五メートル以上を高層建築物、百メートル以上を超高層建築物というらしい。霞が関ビルは一七〇メートルで三十六階、ニューヨークのエンパイア・ステートビルが三八一メートル百二階建てという。さすがに天には届かない。ブリューゲルの『バベルの塔』をもう一度眺める。
この塔を実際に建てることは可能か。巨大な建造物を支えるには相当の基礎工事が必要である。フランドルやネーデルラントは低湿地もしくは埋立地であり、あのような巨大な建物をつくるのは実質的には不可能であろう。地上部分と同じ位の基礎構造を地下につくらなければならない。画家はこの不可能を可能にするために、この地方にはない巨大な岩山を想定し建築の基礎とした。岩山を削り出し、円形コロッセウム的建築を段階状に組み上げていく。基礎の問題さえ解決すれば後は絵に描かれた通りに作っていけそうである。壁の内側にはレンガ、外側には石材をもちいる。レンガを組み合わせてヴォールトやアーチ、控壁《バツトレス》などをつくり、上へと重ねていく。絵の細部に当時の建築現場がリアルに再現されている。人夫は岩山を削り出す。船で石やレンガを運ぶ。起重機や滑車で上に持ち上げる。石材を切り出し彫刻する。画面の中で今も建築が行われているかのようである。
日本のゼネコンに建築できるかどうか聞いたとしたら、答えはおそらく、可能。藤川建設では無理かもしれないが。
絵の中の塔は建造できるかもしれないが、天に届く塔となると、どうだろう。天を単純に宇宙と考えてみる。将来技術が発達すれば限りなく高い建築物が建てられるのかというと、どうやら無理らしい。地球の自己重力が働いているためだ。建物がある高さを越えると、地球の引力によって下層部が粘土のように広がってしまうという。天に届く塔の建築は不可能らしい。重力は周りの空間に均等に働く。だから星は丸くなる。立方体や三角錐《さんかくすい》の星はない。丸い天体の形を変えるようなことがあれば再び丸くなろうとする力が働くのである。バベル建造計画は地球の形を変えるプロジェクトでもあるのだ。もしどうしても建てるとなれば、地球以外のもう一つの引力発生源をつくらなければならないだろう。
除雪車が雪を弾き飛ばしながら、ゆっくりと通り過ぎる。赤いスポーツカーが、対向車が来たにもかかわらず、追い越しをかけた。ぎりぎりですれ違う。小さくなる赤い車体を追いながら、ばくぜんと、塔とは何だろう?――と思った。
塔は建築物だ。細長く、高い。何のために建てるのか。灯台や鐘楼は実用的な目的のために建てられる。ギュスターヴ・エッフェルの話を思い出す。エッフェル塔の上部には密会用の個室がある。これなども実用的な目的といえよう。
バベルの塔はむろん、実用のための建築ではない。目的があるとしたら、何か精神的なものだ。塔は高い。高さに人は憧《あこが》れる。自己のありようを誇示するのが高さなのだ。それは他者を低く見ることを実現する。塔の高さは権力への意志を表しているといってもよい。故に塔は無限に天を目指して高くなっていく。天に届くということは神に至ることに通ずる。これが塔の上に向かう力、いわば≪天≫の性質である。さらに塔は下に対しても力の方向をもつ。≪地≫の性質といえる。仏教の塔やピラミッドのように墳墓としての塔というものがある。死者の栄光や偉大さを表してそびえ立つ。これは≪地≫の力、すなわち死の力が強い。死者が天に向かう場合の≪高さ≫を保証するのも塔の性質である。バベルの塔は明らかに≪天≫の性質が強い。天に向かう傲慢不遜《ごうまんふそん》の塔だからこそ神が破壊したのだ。
アントニスゾーンやブリューゲルの絵を見ても塔の内部がどうなっているかは不明だ。一種の都市のようになっているのだろうか。塔の内部というとどうしても螺旋《らせん》階段を思い浮かべてしまう。バベルの塔の内部にも螺旋階段はあるだろう。ほとんど螺旋の道といっていいかもしれない。塔の内部をぐるぐると渦巻き状に天へ向かって上っていく。聖地への巡礼である。その道は直線ではない。紆余《うよ》曲折のある道、人生の、あるいは人生を考える道・哲学の道である。バベルの内部にはおそらく渦巻きがある。
アントニスゾーンの『バベルの塔の崩壊』をもう一度見直す。天からの攻撃によって、今まさに倒壊しようとしている。現実の廃墟に比べれば、神話的のどかさとでもいうべきものが感じられ、映画の一場面のようでもある。原文ではどうなっているのだろう。聖書にパニック映画のシナリオみたいな文章が出ているとは思えない。
『旧約聖書』を探す。この本には名画の数々が挿絵として多数|掲《の》っていた。『旧約聖書』は紀元前十二世紀頃から紀元二世紀頃に及ぶイスラエル民族の記録である。歴史の書であり、モーセを通じて与えられた律法の書であり、預言の書であり、文学でもある。ユダヤ教の聖典、キリスト教の教典の一つである。読み進めてみると、単純に物語としても面白い。
アダムとエヴァの子供、カインは耕作者に、アベルは羊飼いになった。何故か神はアベルの供物しか受け取らない。カインは怒りアベルを殺す。人類最初の殺人である。かくも早い段階で人は人を殺している。アダムとエヴァにはさらにセトが生まれ、カインにも子供ができて子孫が増えていくと、世の中に悪がはびこり始めた。神は早くも世界を作り直すことにする。雨を降らせて創造物を全滅させるのだ。ただし、セトの子孫のノアだけは例外だ。ノアは方舟《はこぶね》を造り、鳥や獣をひとつがいずつ乗せた。
大洪水の後、すべては滅び、ノアが人類の始祖となる。彼は第二のアダムなのだ。良き種、ノアの子供たち、セム、ヤペテ、ハムから人類すべての民族が発生する。神の人類再生のプロジェクトは、しかし、ここでまた頓挫《とんざ》してしまう。問題は、数。増え過ぎた人類は神を恐れぬ傲慢な計画を立て始める。バベル建造計画である。
「創世記」十一章一から九節にそのエピソードがあった。
全世界は一つの言語一つの言葉であった。彼らは東から旅立ってシンアルの地に平野を見つけ定着した。彼らは互いにいった。「さぁ、レンガを作り固く焼こう」レンガが石の代わりになり瀝青《れきせい》が漆喰《しつくい》の代わりになった。それから彼らはいった。「さぁ、町と塔を建設し、その頂を天まで届くようにしよう。こうして我々は名を上げ、全地の面に散らされることのないようにしよう」そこで主《しゆ》は人間たちが作った町と塔を見るためにくだってきた。主はいった。「見よ、彼らは一つの民で、皆が一つの言語である。そしてこれを彼らはなし始めたのだ。今に彼らが企てることはすべて、もはや不可能なものがなくなってしまうだろう。さぁ、我々はくだっていって、あそこで彼らの言葉を混乱させ、だれも他人の言葉がわからないようにしてしまおう」こうして主は彼らをそこから全地に散らした。それゆえ彼らは町を立てるのを止めなければならなかった。そこでその町はバベルとよばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ、主が彼らをそこから全地に散らしたからである。
意外な発見をした。再度読み返してみる。やはりそうだ。不思議だ。
塔が崩壊したなどという記述はどこにもない。アントニスゾーンの絵を見ていたから、主は天使を遣わし塔を壊した≠ニいうような文章を期待していた。そんなものはない。具体的な叙述どころか、後半では塔そのものの姿が消えてしまっている。前半では、レンガと瀝青という素材まで具体的に書かれ、町と塔が建設される。しかし主が登場してから塔そのものが消えてしまう。少なくとも文中では触れていない。あえて関連する部分を探せば、それゆえ彼らは町を立てるのを止めなければならなかった≠ニいうところだろう。町を立てるのを止めたということは、当然塔の建造も中止になったのだろう。読者は想像するしかない。
矛盾するようだが、バベルの塔の挿話では、バベルの塔は重要ではない。少なくとも『旧約聖書入門』の簡単な記述を読み、漠然とイメージしていたものと、原文は異なる。彼はこう思っていた。≪人間が傲慢にも天に届く塔を建てようとし、神の怒りをかい、塔を壊される物語≫。しかし「創世記」を見ると神は塔を破壊してはいない。言葉を混乱させて人々を散らし、結果として塔を未完に終わらせただけである。この違いは大きい。
つまりバベルの塔の物語は≪塔≫の物語ではなく≪言語≫の物語である。≪塔の崩壊≫を語るのではなく、≪言葉の混乱≫がメインのテーマである。
これは田村にとって一つの発見だった。しかしユダヤ教徒やキリスト教徒、『旧約聖書』を知る人々にとっては常識なのだろう。
現在、世界にはいったい幾つの言語があるのだろう。何千もあるに違いない。一億人以上が使っている言葉だけでも、中国、英、ロシア、スペイン、ヒンズー、ベンガル、アラビア、ポルトガル、ドイツ、日本、……他にもあるだろうか? さらにインドでは、ヒンズー語が公用語だが、他に十四の地方語が公的使用を認められ、加えて百七十の言語、五百以上の方言があるという。ロシアでも二百種以上の言語や方言が使われている。
これらもバベルの塔の崩壊の後遺症なのだろうか。
聖書の当該箇所では、建設の命令者もまた言及されていない。画集解説を参照するうち、次のような文章にぶつかった。
「創世記」十章八―十節に「ニムロデは地上で最初の勇士となった。……彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」という件《くだり》がある。またヨセフスの『ユダヤ古代史』ではニムロデを建設の命令者と特定している。これらを典拠として王の姿は必要不可欠なモチーフになっていった。
ニムロデの姿も、塔が破壊される描写も原典にはない。ブリューゲルの絵のニムロデには典拠があった。では、アントニスゾーンは、どうしてあのような図像、塔が破壊される姿を描いたのか。単に画家のイマジネーションが生んだものか、それとも何か影響源があるのか。
田村は、手掛かりを求めて各種の画集を検索していく。『世界の版画』11巻にアントニスゾーンの例の絵が載っていた。図版の解説を読み進むうち、次のような記述にぶつかる。
バベルの塔が崩壊する場面は『旧約聖書』には記されていない。しかし、『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」十八章に〈バビロン崩壊〉についての記述があり、これが典拠とされた。
「ヨハネ黙示録」を捜し出してきた。一読したくらいでは、よくわからない。さすがに黙示録である。おおよそ次のような内容に思えた。
ヨハネに声が聞こえた。小アジアの七つの教会に彼の見た幻視を書き送れというのである。まず玉座のキリストの幻が現れる。キリストは七角七眼の子羊に巻物を渡す。巻物の七つの封印が一つ一つ解かれていく。天変地異が起こる。最後の封印が解かれた時、七つのラッパが吹き鳴らされた。天変地異はさらに連続して起こっていく。ラッパの後に太陽をまとう女性が登場する。彼女に七頭十角の獣が襲いかかった。天上で戦いが起こる。大天使ミカエルは竜を打ち破った。七つの鉢を幻視する。多くの災い。バビロンの大|淫婦《いんぷ》が登場する。子羊は彼女に勝利し、バビロンの都は天の炎に焼き尽くされる。そして天のエルサレムが誕生した。
論理的な一貫性あるストーリーではない。同一の出来事を異なった観点から何度も記述しているように見える。原資料のようなものがあり、それを作者が編集したのならこういう文章が出来上がるかもしれない。
「黙示録」巻末の訳者解説を読み込んでいく。
著者はヨハネである。ユスティノスやエイレナイオスは彼を十二使徒のヨハネであるとしたが、現在では一般に同名の別人とされている。
成立年代もはっきりしない。最古の証言はエイレナイオスのもので、ヨハネの幻視はドミティアヌス治世(紀元八一―九六)の終わりに見られたものだという。更にバビロン破壊への言及が年代決定の手掛かりとなる。バビロンはローマを表すという。何故か。それはローマの軍隊がエルサレムとその神殿を破壊したという理由からである。前六世紀のバビロニアがやはり同じことをやった。ローマ軍によるエルサレム破壊は紀元七〇年のことである。つまり、本書の成立は七〇年の後なのだ。仮にデータが正確なものとすれば、黙示録は七〇年から九六年の間に成立したということになる。実際には、ミステリーの中の死亡推定時刻の限定のようなわけにはいかないのだが。
では、実際にバビロンの滅亡はどのように書かれているのか。
「黙示録」十八章には次のようにある。
これらの後に、私は別の天使が天から降ってくるのを見た。その天使は大きな権威を帯びていて、地上は彼の栄光によって明るく照らし出された。その天使は力強い声で叫んでこういった。「倒れた、倒れた、大いなるバビロンが。そこは悪霊たちの住処《すみか》、あらゆる汚れた霊の巣窟《そうくつ》、あらゆる汚れた鳥の巣窟、また、あらゆる汚れた嫌悪すべき獣の巣窟となった。なぜなら、すべての民族は、彼女の淫《みだ》らな激情を呼び起こす淫行《いんこう》の葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲み、地上の王たちは、彼女との淫行を行い、地上の商人たちは、彼女の途方もない贅沢《ぜいたく》によって金持ちになったからである」
十八章の≪彼女≫は、バビロンの大淫婦と呼ばれる。第二の終末の後、≪水の上に座っている≫姿をヨハネに発見される。
私は一人の女が緋色《ひいろ》の獣の背に座っているのを見た。その獣は、神を冒涜《ぼうとく》する数々の名前が体中に書かれていて、七つの頭と十本の角とを持っていた。この女は紫の衣と緋色の衣とをまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り立てて、その片方の手には忌まわしいものと彼女の淫行の汚れとが一杯に満ちている金の杯を持ち、その額には、一つの名前が書かれていた。
これがバビロンの大淫婦であり、ユダヤ人を終始迫害したローマを象徴している。「黙示録」では宿敵ローマをバビロンになぞらえ、その滅亡を願った。十八章の倒れた、倒れた、大いなるバビロンが≠ニいう部分にも強烈な響きがある。これが画家のイマジネーションに働きかけバベルの塔の物語に結び付くことは大いに有り得た。
『旧約聖書』のバベルの話と、黙示録のバビロンの話は本来別のものだ。画家アントニスゾーンはその二つから新しい一つの画像を創造した。もともと、創造とは、関連のない二つのことを結び付けることによって生まれる。新しいことを思い付いたようでもどこかに前例があるのだ。完全に新しいものを創造する力は、おそらく人間には与えられていない。
関連のないものを結び付ける。そして新しいものを生む。
自分も同じなのではないだろうか。
伊庭と木中と鈴木の死も、実は無関係なのかもしれない。世間で思われているように、別々の事件なのだ……
田村の身近にいる人々が死んで行くことも偶然、連続して事件が起こったことも偶然、バベルの塔が現場に現れたことも偶然、すべては偶然なのではないだろうか。
偶然……この世のこと、あらゆるものは偶然の積み重ねだ。それが、解釈によっては必然となる。現実世界は人の解釈によって、世界として形成されると、彼は思う。ということは現実は解釈によって変貌《へんぼう》を遂げるのかもしれない。
ブリューゲルの画集を開く。ウィーンのバベルの塔を眺める。自分が今ここにいて、この絵が目の前にある。この事実さえ偶然なのだ。すべては偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然偶然偶然偶然……
――必然だ。
間章
バベル陶酔――殺人犯人の告白
必然です。それ以外にいいようがありません。決定しているのです。
私によってもたらされる死は必然です。神になった気さえします。
殺人は生きた肉体を一瞬のうちに物体に変える行為です。人の夢も希望も思考も永遠に消し去ります。人外、まさに神の領域なのです。
私はこの島で三人の人を殺しました。すべて私が殺したのです。
この事実に気づいている者は誰もいません。鷹島にはもちろん日本中でもいない筈です。警察は疑ってさえいない。日本の警察は優秀だといいます。その通りでしょう。優秀すぎるのかもしれません、私のような殺人鬼はかえって捕まりにくいようです。
私のような犯罪者。非常識で発作的でありながら、なおかつ計画的で慎重。そのうえ破廉恥《はれんち》。
私は普通の生活を営んでいます。男か女か、いわぬが花というものでしょう。年齢もしかり。鷹島で皆と同じように食べて寝て遊んで、働いてまたは勉強して毎日を過ごしています。ただし、いわゆる普通の社会人からは少しずれているかもしれません。会社勤めのサラリーマンやOLではなく、警察や教員などの公務員ではありません。≪全体の奉仕者≫たる公務員など虫酸《むしず》が走ります。
≪全体≫って何でしょう。国民全体か、社会全体か。しかし……社会等というものが今の日本にあるのでしょうか。かつての日本はムラ社会だったといいます。知り合い同士の社会。そこでは人間関係が最も重要でした。今はどうでしょう。関係などというものが基本に存在していますか? 他人との関係どころか自分のテリトリー、≪場≫さえ確保できないのが現代なのではないでしょうか。私の……私だけの場所などどこにもない……許されているのは、生きるのに精一杯の身の回りだけ。最小限。でも、守らねばならない。でないと生きていけません。
自分だけの極小の場所に他人が入ってはいけないのです。不可侵領域があるのです。鈍感な人間が入ってくるとたちまち爆発する。地雷です。私たちは身の回りに地雷源を持っているのです。日常生活を送る見慣れたこの平地は、実は地雷に満ちているのです。私があなたの……あなたが私の……地雷を踏まないと、誰が保証してくれるでしょうか。
あなたは既に、私の地雷を踏んでいるのかもしれませんよ。
私には時間があります。暗い空想を広げ、甘美で残酷な妄想を育て上げるのに十分な時間を持っています。私は常に殺人を夢見ます。被害者が死に至る一瞬を思い描くのです。陶然としてしまいます。気持ちいいんです。犠牲者の日常生活を調べあげ、計画を練り、準備する期間さえ楽しくて仕方ありません。気分を盛り上げていくと、ある臨界点に達します。決行の時です。一種突発的な瞬間、発作みたいなものです。他人には無計画に見えることでしょう。だから捕まらないんです。
殺すこと、それは快楽です。
気持ち良さに気づいたのはいつのことだったでしょう。最初に殺したのはチアキでした。女の子じゃありません。雌の子猫でした。ミケネコです。家で飼ってたんです。小学校一年か二年だったでしょうか。猫を殺した理由なんてありません。何となく石で叩《たた》き潰《つぶ》したんです。なかなか死にませんでした。それがまた楽しくて。
以来私は猫さらいになりました。人さらいではなく、猫さらい。ノラ猫は嫌いです。汚く凶暴で捕まりにくい。飼い猫を狙《ねら》うのです。誘拐して来た猫にはエサをやり大切に育てます。泣き声がうるさい時には、おとなしくなるまで殴り続けます。たまに肩の関節を外したりします。ひょこひょこして愛らしいです。
猫はちゃんと躾《しつ》けないといけません。おとなしく上品なのが理想です。体もきれいに洗います。たまに洗濯機で洗ったりします。目が回って楽しいでしょう。
猫は寒がりです。一緒にストーブにあたり、コタツに入り、布団で寝ます。寄り添う猫は温かくて可愛《かわい》らしい。時々前足をつかみ後足をストーブの上に付けてみたりします。死のダンスです。肉の焦げる臭《にお》いがたまらない。足の裏が焼けて、猫もとてもいい気分でしょう。
こんなに可愛がっているのに、猫は意外と早く死にます。少し物足りなく、寂しい。
だから人間に変えたというわけではないんですが。
私はおかしいんでしょうか? その通り、私は異常です。断言します。私は異常、わかっているのです。自分の異常に気づいていれば、その人は異常者ではないといわれることがあります。嘘です、俗説です。その証拠がこの私です。自覚があろうがなかろうが、異常は異常、殺人鬼は殺人鬼なのです。私にしても殺人が罪悪であることは知っています。普通程度の頭脳を持ち、日常生活を営んでいるんですから。
しかし……殺人は本当に罪悪なのか……あなたはどう思いますか?
人類は外国との戦争を行い、多数の異国民を殺してきました。掠奪《りやくだつ》、強姦《ごうかん》、虐殺を有史以来繰り返してきたのです。何故でしょう。それは自分の文化圏に属さないものは≪ヨソモノ≫だからです。よそ者、異人、ひょっとしたら、異物。人は違う階層、異なる文化の人間に対しては、いくらでも冷酷になります。例えばキリスト教とイスラム教の対立、同じ宗教上の正統と異端、これらは数限りない争いを生み出しました。人々は神の名のもとにあまたの死者を出してきたのです。人類、国、文化、宗教などの壁を越えることは非常に困難なことです。それどころか自分と他人の壁さえ、私たちは越えられないではないですか。
自分以外はすべて異物。異物と異物が共存し、バラバラに散っているのが現代です。このような状況では殺人は殺物にしかなり得ない。むろんどんな生物にも生きる権利はあります。そして、どんな人間にも。すべての人間には生きる基本的人権が保障されます。これは社会の原則です。何故そんなものが必要なのか。自分の生きる権利を守るためです。共同幻想を利用するんです。でないと、真実が浮上してしまいます。生存可能な、生存に適した、強い生物だけが生きていける、という自然の鉄則が。もはや社会の原則や共同幻想は崩壊し、ヒトは原初の状態に戻りつつあるのかもしれません。
だから殺人も許される……とはさすがに私もいいませんよ。
殺人は被害者の人権を奪い、未来を消し去ってしまいます。周囲の人々を悲しませ、時には恐怖を与えます。社会の歯車を狂わせることもあるでしょう。むろん法で罰せられます。人が人を殺すなどということは許されません。禁じられているのです。絶対に許されない。殺人が罪悪であることは間違いないんです。ただし……ただし、楽しいのです。快楽なのです。人は快楽を求めます。他人の快楽を奪っても、自分の快楽を求めるのです。当たり前です。私だけが例外ではないですよね。
ジル・ド・レエ、憧《あこが》れます。ジャンヌ・ダルク麾下《きか》の元帥にして幼児|殺戮《さつりく》者。ユイスマンスやバタイユが彼について書いてます。ジルは若くして戦功を立てましたが、錬金術に凝り悪魔を礼拝し、嬰児《えいじ》を虐殺して、処刑されました。死刑になるまでの八年間に、百四十から二百、あるいは八百もの子供を殺したんです。彼は幼児の腹を割き、手足をばらばらにし、目をえぐり、頭蓋骨《ずがいこつ》を打ち砕いたといいます。断末魔の苦悶《くもん》と痙攣《けいれん》を楽しみ、瀕死《ひんし》の被害者に向かって射精したとか。若かりし頃に少女将軍にかしずいた彼は、今度は子供をかしずかせたくなったのかもしれませんね。私なんかまだまだです。せいぜい首を絞めるか、ナイフで刺すくらいしかできませんから。一桁《ひとけた》しか殺してませんし。
むろん私は快楽のためだけに殺人を犯すわけではありません。私は異常だが狂ってはいない、……いないですよね? 殺人に理由がないわけではないんです。でも本来、動機なんてなくてもかまわないのかもしれません。私の動機は積み重ねによって徐々に出来上がりました。一言でいってしまうことも可能でしょうが、――憎悪、復讐《ふくしゆう》、嫉妬《しつと》、利欲、信仰……言葉に置き換えたとたんに、何かが失われてしまうような気がします。
殺人の動機はジグソーパズルです。一つ一つのピースは特別重要ではありませんが、それが百、千と組み合わされることによって、明快な画像を結びます。出来上がった全体の絵がや≪憎悪利欲≫という言葉に当てはまるのだと思います。しかし、動機の実態は、常に一つ一つのピースそのものなのです。
ところで私は今、二千ピースのパズルをやっています。パズルは目の前のテーブルに置いてあります。たくさんのピースが散らばっている。台紙の四隅の方から、およそ四分の一が埋まってきているんです。
当てはまるピースを捜します。画面左下の部分ならすぐに見つかるでしょう。人物の一団がいます。ここに、ピースがありました。王の顔です。ニムロデ王なんでしょう。彼はバベルの塔の建造を命じたといわれています。
私は今、『バベルの塔』のパズルで遊んでいるんです。
意味不明の断片を組み合わせながら、徐々に塔の形が露《あらわ》になっていくのを見ています。
塔そのものを建てているような気分です。レンガを一片ずつ積み重ねるようにピースを組んでいくのです。
やがて塔は完成するでしょう。
パズルを買った時、私は一人殺した。
パズルを始めた頃、二人目を殺した。
パズルを続けながら、三人目も殺した。
三人目を殺したのが十二月三日。もう一ヵ月が過ぎました。
私はまた一人殺すでしょう。
あっ、船のピースがありました。どこに当てはまるんでしょう。右の、ここか? 違う、合いません。ピースを放り投げました。ぼんやりと思いを巡らします。
……そうです。
四番目の犠牲者。
子供、女の子、少女。私のもの。
舞台は、寒村の寂れた旅館あたりでいかがでしょうか?
二章
バベル生成――風見国彦の災難
T
私はリフトに乗っていた。二人乗りのリフトだ。
空は高く澄み渡っている。冬の晴天は空気が澄明になるようだ。白いゲレンデに様々な原色が流線を描く。鮮やかなスキーウェアの色だ。上級者も初心者もいる。足の下を、小学生くらいの男の子が三人続いて滑って行く。
隣には佐藤潤一が乗っている。白が基調のスキーウェアに青と黄色の模様が入っていた。
彼に誘われてスキーに来たのだ。塩沢の五楽園スキー場である。鷹島にはスキー場はない。海を渡り魚沼か上越まで来なければならない。妻も来る予定だったが、インフルエンザで寝込んでしまった。一応、看病しようかと申し出てみた。自分で何とかするという。お腹が出てきたからたまには運動してらっしゃい、というありがたいお言葉をいただいた。
事務員は白い息を吐きながら、
「西洋人は伊勢神宮は世界遺産に入らないっていうんですよね」
「二十年に一回建て替えてるからか」
「遷宮しますからね。世界遺産ていうのは材料がオリジナルでなければならないんです。伊勢神宮には当然、オリジナルな材料はない。下手をすればレプリカ扱いです」
「でも、法隆寺は世界遺産なんだろ」
「あれも修復の時材料を替えるから問題になったらしいですよ。直しが多いですからね」
「パルテノンみたいにオリジナルでないと駄目なのか」
「そこに異議があるんですよね。法隆寺も伊勢神宮も生きている。文化を継承してます。しかしパルテノンは死んでいる。西洋は物質で残す。日本は物質に加えて非物質でも残す。非物質とは、記憶とか技術の継承のことです。これも立派な文化の継承なんじゃないだろうか。だから伊勢神宮もオリジナルです」
「物に頼らない残し方があるってのは面白い」
「そこから古いものを残しながらも新しいものを受け入れる日本文化の柔軟性が生まれるんです。西洋人は不変を求めるから材料も堅牢《けんろう》なものを使う。永遠への憧れが強いんでしょうかね。そうそう、不変といえば……」度入《どい》りのサングラスを少し持ち上げて、
「何で『白い恋人たち』なんでしょうかね」
リフトにつけられたスピーカーからおなじみの音楽が流れている。
「僕が来るといつもポール・モーリアですよ。『オリーブの首飾り』、『エーゲ海の真珠』」
「俺が子供の頃からだよ、このスキー場は」
「微《かす》かな哀調がいいような、寂しいような……おっと、そろそろ降りる準備をしなけりゃ」
佐藤はスキーを始めて間もない。初心者の頃はリフトの乗り降りが怖いものだ。特に降りる時のタイミングが難しい。慣れればどうということでもないのだが。リフト降り口の雪の斜面が近づいてくる。あと十メートルというところだ。彼はもうスキーの先を持ち上げている。
「急ぐなよ」
「風見さんは慣れてるから余裕を持っていられるんです。僕は始めたばっかりです。スキー場に来たのもまだ四回目です」
「なら楽勝だ」
「緊張するなぁ」
降り口の斜面に接する瞬間、スキーの先を上げた。着地する。軽くスケーティングして脱した。後ろで「うわ」という小さな悲鳴が上がる。振り向くと、佐藤が転倒していた。リフトが止まる。引き返す。見張り小屋から熊のような係員が出て来た。二人で助け起こす。彼は係員に何度も頭を下げ、私に向かっては、「ホント、面倒見が悪いんだから」
私たちはスキー場のてっぺんまで来ていた。ゲレンデは足元のはるかむこうまで広がり、その先に塩沢町が見渡せる。しばらく風景を観賞した。佐藤はスキーを止めておくので精一杯のようだ。私は佐藤の膝《ひざ》が震えるのを見ながら、
「さて、下まで無事に降りられるかな」
「早く上達するにはとにかく一番上まで登ること。そういったのは風見さんじゃないですか」
「そんなこといったか」
「あのねぇ、僕はボーゲンしかできないんですよ。直滑降とボーゲン」
ボーゲンとはスキーをハの字に開いて、左右に曲がったり、止まったりする技術をいう。むろん前を狭めて後ろを広げる。曲がる時だけハの字に開き、あとは揃《そろ》えて滑る技術をプルーク・ボーゲンという。ここまでくればスキーを揃えて曲げるまでもう一歩である。佐藤は曲がる基本はマスターしているのだ。
「さて、どちらを滑るかね」
右側の斜面が初心者用の緩やかな第六ゲレンデ、左側が上級者用の急な第五ゲレンデである。
「もちろん、こっちです」
彼はストックを両脇《りようわき》に抱え込み、腰をかがめ、直滑降スタイルで第五ゲレンデに突入していった。猛スピードで滑り降りていく。背中が見る見る小さくなる。なかなかやるじゃないか、と思ったとたん、こけた。頭から雪面に突っ込む。二、三度回転して止まった。体が柔らかいなぁ、死にはしないだろう、たぶん。
私は周りの風景や人々の様子を楽しみながら、ゆっくりと第六ゲレンデを滑り降りていった。
コースから少しはずれたところに十本の巨大なピンが立っていた。赤のラインが一本入った白いボーリングのピンである。プラスチック製のようだ。斜面の上の方から人間ボールが滑ってきた。自動車のタイヤに乗った少年だ。八本倒した。係員がピンを立てる。次は子供を膝に抱いた男性がアタックしてきた。親子ボールだろうか。七本倒す。子供の歓声が聞こえた。スキー場でやる巨大ボーリング大会だった。
不思議な一団が目に入った。全員が黒か紺の防寒具を着て、白に赤字のゼッケンを付けている。三、四十人はいるだろうか。スキー帽も黒で統一されていた。一列に続いて滑降してくる。ぎこちない滑り方で、転倒している者も大勢いた。
私は一団に追いつき、追い越して、先頭の百メートルくらい先で止まった。見上げる。黒い軍団はゆっくりと大きな弧を描いて滑ってくる。中学生くらいの子供たちだった。ゼッケンを見ると地元中学の生徒だ。それにしてはよく転ぶ。ぎこちない滑り方だ。下手すぎて、かえって不自然だった。どうしてだろう?
はいているスキーを見て、謎《なぞ》が解けた。
自分の中学生時代を思い出す。体育の授業の一環に、スキー授業があった。ノルディックである。スキーでやるマラソンだと思ってもらえばいい。校舎の周りに何キロかのコースを作り、ひたすら走る。二本のスキーの跡が線路のように延々と続くコースだ。追い越す時にはバンフライと声をかける。前を走っている者は一旦コースの外へどかなければならない。バンフライとは何語でどんな意味なのだろう。後ろから声をかけられただけで、道を空けねばならないのは、何となく理不尽だった。ノルディック用のスキーは、ゲレンデを滑るアルペンのスキーより細くて軽い。また、靴の先はスキーに固定されているが、踵《かかと》側はパカパカ開く。ゲタのようである。走りやすくできているのだ。
スキー授業は学校の近くを走り回るのが基本だが、たまに遠出することもある。教員が生徒たちを近くのスキー場まで連れてきたのだ。そしてゲレンデを滑らせた。遊び、サービス、なのだろう。走るだけよりずっと面白い。ただし問題がある。ノルディックのスキーは基本的には斜面を曲がれるようにできていない。体重のかけかたが曲がる時のポイントになるのだが、この時、踵が固定されていないのは非常に具合が悪い。ノルディック・スキーで斜面を曲がるのは一種独特の要領がいる。それを飲み込めなければ、転ぶ。当然なのだ、曲がれるようにできていないのだから。少年時代に経験済みだ。
私はゲレンデの隅のほうに立っていた。
中学生たちの先頭集団はさすがに上手《うま》い。見事なシュプールを描いて駆け降りて行く。頭ひとつ高いゴーグルをかけた男が教員だろう。少し間が空いて、第二陣が来た。まぁまぁだ。
一人、直滑降に近い滑り方をしている男子がいた。真っすぐに初心者風の少年に突っ込んでいく。黄色いヤッケを着た小学校低学年の男子だ。ボーゲンでゆっくり曲がっている。
危ない。しかし、ぎりぎりのところで中学生がかわした。ほっとする。
と思った瞬間、後ろから衝撃が来た。
転んだ。もつれるように青いウェアの中学生が倒れる。何が何だかわからなかった。予期せぬ方向からぶつけられたのだ。たいした痛みはない。尻餅《しりもち》をついたまま、相手を睨《にら》んだ。
ゼッケン11番。イイやつなのかも。帽子をかぶっていなかった。キャベツのようなカーリーヘアをしている。赤みがかった髪だ。目が小さく、鼻が横に広がっていた。やや幼い浅黒い顔にニキビが出始めている。一昔前のヒッピーのようなムードがあった。彼はへへっと笑って立ち上がった。よろけながら体を反転させる。こちらを見もせず、滑り降りていった。
座ったまま、背中を見送る。あっけらかんとしていて、かえって腹が立たなかった。私にはまだ子供がないが、こんな子供ならいらないような気がする。
雪の上に赤い点があった。一つ、二つ、増えていく。
血だ。どこか切ったらしい。少年のスキーのエッジにやられたのだろう。左手首を切っていた。手袋と袖《そで》の隙間《すきま》に自殺しそこねた時のような浅い傷が付いている。かすり傷だ。少しひりひりしてきた。傷口を見ていると、日が陰った。
そうではない。人が日光を遮ったのだ。
見上げると中学生が立っていた。
瞬間、顔が逆光の中に沈む。おかっぱだ。あの子かと思った。目を合わせるのを避けるようにしゃがみこむ。横顔が目の前にきた。埴輪《はにわ》のような顔。黒いスキー帽をかぶり、紺のウェアを着た少女はまるで男の子のようだ。彼女は手袋を取り、ポケットをまさぐっている。傷のことなど忘れて、少女の横顔を見ていた。吊《つ》り上がった細い目。低い鼻筋。抜けるように白い肌。口を堅く結んでいる。藤川志乃、いつもと同じだ。周りは版画館ではなく、相手は志乃ですらなかったが。スピーカーから甘ったるい音楽が流れている。「白い恋人たち」。
こんにちはと声をかけると、どうもと甲高い声で答えた。
「スキー授業か。俺《おれ》も君たちくらいのときやってた。まだ続いてるんだね。俺はスキーで走るのが嫌いでね。馬鹿馬鹿しいと思ってた。ゲレンデを滑ってるほうが楽しいよね、たとえノルディック・スキーでも」
そうですか、と気のない返事をして、彼女はポケットからハンカチを取り出した。銀色の薔薇《ばら》の刺繍《ししゆう》が入っている。ロボットのようにぎこちない動きで、
「どうぞ」
とハンカチを差し出した。白さが目にしみる。受け取って傷口に当てた。少女は立ち上がると、すぐに背中を向けた。小さな声で、ごめんなさいといって、滑り出す。
彼女が謝る必要はないのだ。見る見る小さくなっていく背中に向かって、大声で叫んだ。
「ありがとう。洗って返すよ」
ゼッケン7番。洗いはするが、返せないだろう、おそらく。彼女はストックを頭上に上げ大きく二、三度振って応《こた》えた。
授業の最後のグループがやってきた。曲がろうとするたびに転んでいる。六、七人のグループだった。斜面は緩やかで転んでもどうということはない。
手首のハンカチを見た。うっすらと血が滲《にじ》んでいる。ハンカチの少女とはわずかな関わりだったが、志乃よりよほどコミュニケーションが取れた気がする。これからの若者も捨てたものではない。どんな育て方をしたら、志乃のような子になるのだろう。優しさをもっていたとしても、普段はかけらも見せない。会話さえ上手く成立しない。一度親に会ってみたいものだ。
第四リフト乗り場まで滑り降りると、佐藤が待っていた。
「やっと来ましたね」
「生きてたか。何回転んだ?」
「五、六回。首が痛いですよ」
「骨折しなかったのが不思議だ」
「もう一度上へ行きましょう。今度はしっかり教えてください」
「前向きに転ぶ人は上達が早い。尻餅をつく人は上手くならない」
「そういう風見さんこそ、手にケガをしてますね」
「死にかけたよ」
「大袈裟《おおげさ》な。何ですか、その薔薇の刺繍は? 意外と乙女チックですね」
「俺のじゃない。女の子にもらったのさ」
「女にぶつかったんですか? わざとですね」
「ガキが突っ込んできたのさ。女の子は通りすがり。二人とも中学生だった」
「関係ない子がハンカチを? 今時、何て奇特な」
「俺には天使に見えたよ」
「ガキの恋人かもしれませんね」
「幻滅させるなよ」
「あなたこそ僕をがっかりさせないでください。指導を期待してるんですからね」
「何を教えれば良いので?」
「シュテムターン、僕の今日の目標は、足を揃えて曲がれるようになることです」
「今度上にいったら命はないな」
「早くリフトに乗りましょう」
タフな男だった。
U
海に雪が降っている。
大粒の牡丹《ぼたん》雪が灰色の空から落ちてくる。
無数に舞い降り海の中に消えて行く。波は高い。暗い蒼《あお》い海。
軽トラックを降りた。雪が波音を消しているような気がする。筋肉痛がひどい。太腿《ふともも》が張っている。昨日のスキーの疲れがまだ残っていた。佐藤は熱心だが上達はもう一つだった。運動神経は余りないようだ。もっとも最後には怪しげなプルーク・ボーゲンで滑っていた。初心者にしては上出来なのかもしれない。もう十回も行けば、足を揃《そろ》えて滑れるようになるだろう。スキーは≪滑れればいいや≫的な考え方をしていては上達しない。格好をつけることも重要なのだ。佐藤は美意識のある男だ。私より上手くなるかもしれない。
三日間スキーを楽しみ、昨夜、島に帰って来た。今朝出勤してみると、彼はピンピンしている。私は体が重かった。十の年齢差が表れている。運動不足もあろう。
私は軽トラックを愛用している。スキーと違い車は見た目などどうでもよい。走ればいい。実用に適していればさらによい。緑のホロ付きの白いトラックは確かにやぼったい。しかし作品や資材の運搬はこれで十分だ。
今も、浦町から大津町の版画館まで陶土の山を運送している途中だった。
館長から頼まれたのだ。浦町の画材屋まで行って、陶芸教室の教材を取って来てくれという。監視の仕事はどうするのかと聞いてみたが、火曜の朝から来る客などおらんよとの鷹揚《おうよう》な答えが返ってきた。その通り。しかし私は警備員なのだ。勘違いしている。小柄な老館長は拝むように右手を出して、「何とかそこを一つ」といった。私は承知した。
大津版画館は月曜が休館日である。火曜の午前中の客は皆無といっていい。私がいなくても問題は起きないだろう。いても、何もないが。仕事の分担が明確でないのは困りものだが、おかげでこうして道草も食える。展示室でぼんやりしているより、海を見ているほうがいい。早く帰る必要もない。
海岸に来ると初めて島が実感できる。町や山際に行ってしまうと内地と同じだ。鷹島も佐渡と同じ一種の大陸なのだ。この海岸も夏は海水浴客でにぎわう。今は私の他にもう一人しかいない。男が波打ち際をとぼとぼと歩いている。濃紺のハーフコートを着て黒いズボンをはいている。広い砂浜、遥《はる》かな海、低い空と一面の雪。ぽつりと小さな黒い点。とても孤独だ。海の向こうに本土は見えない。
私は彼に近づいた。コートに見覚えがある。こちらを向いた。少年だ。
「恭介」
「国彦さん」
風見恭介だった。兄の息子である。叔父《おじ》と甥《おい》だ。彼は私を国彦さんと呼ぶ。兄は日本料理屋をやっている。景気のいい時はアメリカに進出していた。恭介には姉がいた。不幸な事故で死んだ。少年は上品で知的な顔をしている。目が合うと伏し目になった。憂い顔だ。何を憂うというのだろう。時計を見ると午前十時。
二人で海を見た。
「お前、何やってるんだ」
「美術部なんです。冬の海を描きたくて」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
少年は本土を思う流刑者のような目で遠くを見ていた。
「担任には連絡しました、具合が悪いから遅刻するって。疑われませんでしたよ」
「優等生だからな。だからといってサボっていいわけではない」
人のことはいえないが。
「わかっています。もう少ししたら、行きますよ。学校なんて僕一人いようがいまいが関係ない。勝手に回っていくんです」
「学校の問題ではない」
「それもわかってます。僕自身の問題だっていうんでしょう。でも、どうしようもないんです。逃げたくなるんです。抑えられないんです。海を見たくなるんです。……わかりますか?」
「わからんね」
恭介はフッと笑って、
「SFって好きですか。破滅ものってあるでしょう。全世界が滅びてしまう。何故か自分一人が生き残る。彼は地球最後の男だった。男は小屋にこもり、人類の歴史を書き始める。あるいは世界最後の小説を書くんでもいい。ペンを進めて行く。すると、後ろでドアをたたく音がする。小さな部屋にノックの音が、一つ、二つ、響くんです……」
「幽霊かね」
「いいえ。それは地球最後の女だった」
「意表をつかれたね」
「有名なオチですよ。もとはアメリカン・ジョークか、ショートショートか、忘れました。英語でいえば人も男も Man ですからもっとオチが決まる。でも、そんなことはどうでもいいんです。僕たちは皆、地球最後の男、そして女なんです」
「皆?」
「すべての子供たちです。皆、人類最後の生き残りなんです。世界が滅ぶ前の、今から」
「何だって」
「世界中でたった一人なんです、全員が。だから人間同士向き合うことがない。他人がいないんだから。自分一人だけ……つまり地球最後の人類を演じてるんです。コンピューターに向かい合う。ファミコンやゲームの世界に浸る。友人も恋人も家族もその中から引っ張り出せばいい。ウォークマンで耳をふさぐ。目さえ、閉じながら歩いてるんです。僕たちは一人きりです」
「それでは社会が回らん」
「わかってはいるんですよ」
恭介は静かにいった。確かにわかっているのだろう。自分の思いを言葉にできるのだから、まだいい。言葉にできない子供たちはどうなるのか。スキー場でぶつかったカーリーヘアの少年のようになるのか、あるいは藤川志乃か。話題を変えよう。
「美術の先生が殺されたね」
明るい話題は見つからなかった。
「伊庭先生ですね。印象の薄い教師でした。放任主義で、ポリシーがなくて」
「でもショックだっただろう」
「一時、学校がその話題で持ちきりではありましたね。≪俺、警察に聞かれたぞ≫とか≪私、テレビに出たのよ≫とか、意外とはしゃいでました。それも去年末までで、年を越したら急速に風化した。話に出なくなったんです」
「代わりの美術の先生はどうだい」
「江上ですか。講師ですからね、教員じゃない」
「先生には違いなかろう」
「暴力教師ですよ。放任もどうかと思いますが、軍隊式もちょっとね。陰口をたたかれてます。芸大三浪の恨みを生徒にぶつけてるんだって。この前も、話を聞かなかった女子が拳骨《げんこつ》で殴られてました。体が一回転しましたよ。ま、怒らす僕らも悪いんですけどね」
「最近珍しい体罰教師だな」
「すぐ裁判になりますからね。長く続ける気はないんでしょう。そういえば森川の奴《やつ》が、いつか殴ってやるといってたな」
「昔は≪お礼参り≫といってた。卒業式の後、教員をボコボコにする」
子供の頃、体罰はありふれていた。考えてみると、今の子供たちよりたいしたことはしていなかったような気がする。にもかかわらず、先生はよく手を上げた。殴られた弾みに、教師の腕時計で顔を切った生徒もいた。今なら免職ものだろう。当時の先生は怖かった。暴力が怖いのではなく、我々生徒に対して大人だった。最近はそうではないのかもしれない。
「江上よりは伊庭の方がいいかもしれませんね」
「恭介……」
以前から気になっていたことを口にした。
「イジメにあってないか」
「どうして?」
「伊庭先生を殺したのは谷川祐三、お前の義理の兄だ。そういうことはイジメの原因にならないのか」
少年は軽く笑った。
「おかしいことをいったかい?」
「国彦さんがそんな心配をすることがおかしかったんです。すみません」
「心外だね」
「イジメになんかあっていませんよ。兄が殺人犯とか、明快なものは意外と原因になりません。イジメの理由はもっとモヤモヤした、はっきりしないものです。何から始まるのか誰にもわからない。生徒Aが生徒Bを臭いといったとする。実際にBが臭いかどうかはどうでもいい。≪クサイ≫という言葉だけが一人歩きする。Bを見ると≪クサイ≫という言葉が出る。Aだけでなく他の人間もそういうようになるんです。これがイジメです。原因は関係なく、歯止めもきかない。卒業するか転校するか、死ぬか、とにかく存在しなくなるまで続くんです」
「そいつは怖い。俺は逃げることを勧めるね」
「戦おうにも相手が漠然とし過ぎています。耐えるか逃げるかですね。生きるか死ぬかになったらなりふりかまわず逃げた方がいい」
「ぎりぎりで生きてるんだな、中学生も。お前の偉いところは考えをはっきりいえることだ。叔父《おじ》とはいえ他人の俺にね。正しい考えかどうかは、まぁいい。コミュニケーションが取れるというのはすごいよ」
恭介は受験勉強ふうに、
「communication、伝達、連絡、通信、意思の疎通、伝染、伝導、伝言、交通。語源 common、ともにある、ともに何かをする。同類の語源、communion、ともにすること、共有、親しい交わり、仲間。――違いましたっけ?」
「知らんよ。俺は、お前が他人と正常な関係を作れるっていいたいだけさ」
「ロビンソン・クルーソーが孤島で生まれ、最初からそこで暮らしていたら人間になれたでしょうか」
「≪ロビンソン・クルーソー≫にはなれなかっただろうね。孤島で二十七年間も人と交わることなく、生きていくことだけはできただろうが」
「もともと人は世界との関係の中に存在します。生物的な関係さえ成立すれば生きていくことだけはできるんです。大気や大地、太陽光線、それらが作り出すものがあれば生存は可能です。ただ環境的、自然的関係だけでは人間になれない。ロビンソン・クルーソーになれないんです。他の人間との関係の中で生きることによって初めて、人間になれるんです」
「理屈っぽいな」哲学に興味をもち始める年頃だ。「まぁお前のいう通りだろうね」
「最も強いコミュニケーションって何だと思います?」
「そりゃお前、……愛情行為だろう?」
「恋愛かもしれませんね」
少しポイントがずれた。≪行為≫の方に力点があったのだが。
少年哲学者風見恭介ふうのいい方をしてみよう。恋愛は心と体の触れ合いに始まり、コミュニケーションの完成へと向かう。完成はすなわち合一であり同時に消滅でもある。俗に二人は一人というやつだ。さらに肉体的な合一は生命の発生につながる。子供の誕生は父母の究極のコミュニケーションの結果なのだ。……私がやると駄目だね、恭介に及ばない。
彼は私の考えを読んだかのように、
「心の合一、コミュニケーションの完成などあり得るんでしょうか。恋愛の際、二人の心の距離が消滅したと感じるのは錯覚であり、これが多くの悲劇を生むと思うんです。恋愛とは永遠に距離を縮めようとする人間の行為である」
「恭介君、恋でもしているのかい?」
それには答えず、海を見たままで、
「話しやすいんですよね、国彦さんには。聞いてくれるから。先生は駄目です。親も。友達は友達で気を遣います」
「俺は子供の気持ちなんてわからんぜ」
「でもないみたいですね。僕は意見とか指導なんて期待してませんから、国彦さんくらいでちょうどいいんです」
「そんなもんかね」
「そんなもんです」
「ところで、伊庭先生の他にも学校関係者の誰かが死んだんだろ」
「新聞には出ませんでしたね」
「噂《うわさ》では、事務の人が自殺したとか。学校から毒薬を盗んで」
「用務員さんが自殺したんだと思いますよ」
「事務の女と聞いたぞ」
「用務員の男でしょう」
「おかしいな」
事実の認識は、かくもあいまいなものである。だが一つの手掛かりを思い出した。
「思い出した。今度うちの版画館で陶芸教室が開かれる」
「唐突ですね。僕も参加しますよ、部の顧問・江上先生と」
「そうだったな。でだ、参加者の一人に木中さんという常連がいる。色っぽい感じの美人だ」
「美人?」
「その美女の旦那《だんな》が年末自殺したと聞いた。確か中学校の用務員で、毒を飲んだということだった。用務員の中に木中さんという人はいなかったか」
「用務員さんの名前なんか覚えてませんよ。先生の名前だって全部知らないんですから」
「前言撤回。記憶が正しいとしたら、≪用務員の男が服毒自殺をした≫ことになる」
「すると≪事務員の女が階段から落ちて事故死した≫」
「……二人も死んでるのかい? 先生の他に」
「そうみたいです。学校側は特に何もいわないけど。あえて伏せてるのかも。それに、もともと事務員とか用務員なんてどんな人がいるのか、三年いてもわからないんですから」
「俺が教師なら自殺とか事故死は伏せるかもしれないな。教育上いい影響はない。本人の名誉もあるし。短期間に三人も死んだとしたら、まさしく魔窟《まくつ》、悪魔の学園だ」
「やめて下さい。それでなくてもひどい学校なんだから」
少年は心なしかさっぱりした表情でたしなめた。
「――ひどい学校に帰るか、恭介」
「送ってくれますか」
「甘えるなよ」
「そういうと思った」
「歩いてけ。たいした距離じゃない。お前が運転して、俺を乗せてくれるなら別だが」
「中学生が運転? 犯罪ですよ。でも興味あるな」
「軽トラでよければいつでも貸してやるぜ」
「免許取る前に練習させてもらおうかな」
まんざらでもないようだ。彼にいきなりハンドルを握らせたらどうだろう? 案外|上手《うま》く操縦するのではないか。今の子供たちはメカに対する適性を当時の私たちよりずっと持っているような気がする。恭介は右手を軽く上げると、防砂林のほうへ消えていった。
そろそろ版画館へ戻るとしよう。陶土を届けなければならない。陶芸教室は一月十五、十六、十七日に予定されている。成人の日と土・日を使って行うのだ。四日後から始まる。参加者は例年並みの人数だ。私も外野として冷やかす。恭介にはその時また会えるだろう。
雪が止んできた。
重くのしかかるような灰色の空だけが残った。
海は底冷えのする暗さをたたえている。
V
手の平で粘土を平たく伸ばす。小鉢の底を作っている。直径を決め、切り針で切り取って形を整える。粘土を薄く溶いたドベを塗り、紐《ひも》状にした粘土を底にしっかりとくっつけた。その上にさらに紐粘土を積み上げていく。
陶芸教室の初日は紐作り成形から始まる。電動ろくろを使わず、終始手で作る。紐状の粘土を使って形を作っていく。小鉢が基本課題だったが、余力があったら他に何を作ってもよい。花瓶や灰皿に挑戦する者もいる。
二つ目の小鉢を作っていた。おおよその形はできているが、少しいびつだ。
後ろから男の低い声がした。
「風見さん、あんたはもうちょっとコテを使いなさい。こんなふうに」
男は木製の成形ゴテを当てて形を整えた。ほんの少しの修正で大きく変わる。教えるだけのことはあった。作品の良し悪しなどちょっとした違いなのだ。
今回の陶芸教室の講師は諸川玲だった。
事務の青年いわく≪一応全国で名を知られた陶芸家≫であり、≪ちょっと怪しい感じ≫の男である。地井戸玲というペンネームでエッセイを書いたりする。ザンバラ髪に青い作業衣というスタイルだ。軟弱な落ち武者といったところ。あまり強くない故郷を追われた武士。垂れ下がった前髪からのぞく細い目に、時々陰惨な光が宿る。一芸に人生を賭《か》ける男の目付きなのだろう。単なる変質者に見えなくもない。低い声には知的な響きもある。五十を過ぎても独身だ。京都から鷹島に来た。
「諸川先生は京都で窯を開いていらしたんでしょう?」
「ああ、落ち着いたいいところだった」
「何故この島に?」
「……人間関係が煩わしくなったんですな」
男は低く笑った。目が暗く陰っている。よほどのことがあったのかもしれない。長い芸術的伝統を持つ古都に住んでいれば、作家同士の軋轢《あつれき》も相当なものだろう。眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》がよっている。言外の複雑な事情もあるのかもしれない。突っ込んだことは聞かずにおいた。
「どれ、わしが口縁を切り揃《そろ》えてみましょうかな」
諸川は切り針を手にした。ろくろを手で回す。女のように白い手がなよやかに動いた。別の生き物が袖《そで》から出ているようだ。異質な感じ。その異様さはどこかで恐怖とつながっていた。講師の手直しが済むと、私は仕上げ用皮を手にした。表面を仕上げて切り糸でろくろから切り離せば完成である。
彼はよそへ移動した。さりげなく気を遣っているらしい。口を出し過ぎもしない。指導者は放任主義でも駄目だが、目立ち過ぎてもいけない。諸川玲は適任だ。今年の陶芸教室は上手くいくだろう。去年はひどかった。トラブルが起こったのだ。講師の大島某と受講生がケンカしたのである。殴り合いにまで発展した。大島が口を出し過ぎたせいだ。受講生は芸術家気取りの大学浪人だった。二十歳の青年で、芸大しか狙《ねら》っていなかった。二人ともプライドが高すぎたのだろう。今年の講師は冷たいくらいに落ち着いている。間違ってもトラブルは起こすまい。受講生は十一人いておおむねおとなしい。中には例外もいるようだったが……。
この部屋は『市民の広間』と呼ばれていた。作陶するための作業台、ろくろ、乾燥棚、窯、流しなどの設備が整っている。部屋の中央にストーブが設置されていた。出入り口のドア側に教卓と移動式黒板があった。作業台は木製の脚のがっしりしたもので、六人用である。二列で三机ずつ並んでいた。最大三十六人が使用できるわけだ。参加者はアトランダムに席を取る。十一人の受講生が散らばっている様子は寂しく見えないでもない。だが、ゆったりとスペースが取れるので制作には好都合であるともいえた。
午後の実習はもう少しで終わりとなる。午前の部は開会式から始まった。館長が挨拶《あいさつ》し講師と世話人の紹介をする。その後、諸川玲のスピーチがあり、実習に入る。
世話人は学芸員の眉村敬二と私だ。眉村はアザラシのようにずんぐりした男で、ドロンと濁った目をしている。見かけとは逆に、いつも忙しがっていた。何かというと「風見さんタノム」といって消えてしまう。実習には参加しない。結果として材料・道具の準備から参加者の世話に至るまで、ほとんど私の仕事になる。現場での責任をすべて預けられた形だが、特に不満はなかった。好きで参加しているのだから、人の面倒を見ることも苦にならない。
私は最後列の右端に座っていた。流しの近くである。窓から外を見る。少し雪が降っていた。建物の周りにはブルドーザーが除雪に入る。雪囲いをする必要はない。
江上康夫がまた手を洗っている。
この男は、そわそわと何度も流しに足を運ぶ。土を扱えば手が汚れるのは当たり前だ。神経質なのだろう。水を大量に使い、丁寧に洗っている。手が少しでも汚れていると、作品の完成度に響くとでもいうのだろうか。完璧《かんぺき》主義者なのかもしれないが、少し病的だ。セーターの緑色さえ何故か健康的に見えない。
大津中学の常勤講師で、伊庭が急死したため代わりに入った。東京芸大を三浪したのち、多摩美術大学に入学・卒業したが教員採用試験には落ちた。むろん教員免許は持っている。専攻はデザインで、横尾忠則《よこおただのり》を崇拝しているという。二十代で頂点を極めるのが目標だ。理想と現実のギャップに悩んでいるのかもしれない。
暴力教師だという。授業がやりにくいからそうなるのではないだろうか。何しろ死んだ伊庭の後を受け継いだのだ。もっとも恭介の話では、前任者の殺人事件は生徒にたいした影響を与えなかったらしい。
学校で教員が殴り殺される。異常な事件の筈《はず》である。しかしあまり騒がれなかった。生徒はむしろ浮かれぎみだったという。この事実こそ、事件そのものより異常だ。病んでいる。日常が病み過ぎて麻痺《まひ》しているのかもしれない。以前、女性教員が中学校の廊下で刺し殺されるという事件があった。ナイフを持っていた生徒が教師を校舎の中で刺したのだ。凄《すさ》まじい事件である。ところがこの事件は思ったほど問題視されなかった。他校で起こった校門圧死事件ほどにも話題にならなかったような気がする。こちらは教員が遅刻した生徒を締め出そうと校門を閉め、圧死させてしまった。教師が生徒を・生徒が教師を、死に至らしめる。どちらも強烈な事件の筈だが世間的には風化も早かった。それ以上の異常事や大事件が次々と起こるせいだろう。我々はそれに慣らされてしまった。伊庭の死も子供たちにとっては、多発する理不尽な事件の中の一つに過ぎないのかもしれない。あるいは、他人の死などまったく切り離しているのだろうか。今日のテストや明日発売されるゲームのソフトの方が重要な世界に生きているのか。
私にはわからない。
江上は短く刈った髪に面長の顔をした、どことなく馬を思わせる風貌《ふうぼう》をしている。荒れ馬ではないが癇《かん》の強い馬だ。濃い眉《まゆ》にどんよりした目、黒い肌はスペイン人といっても通じそうだ。いつも何かに追われて、いらいらしている。せっかく講座に参加したのだから楽しめばいいのに。彼は何かを避けるかのように速足で自分の場所に戻っていった。
ストーブ付近で私語が始まる。
部屋の中央に設置してあるのは大型の黒い石油ストーブだ。やかんが音を立てている。二時間に一回は水を入れてやらねばならない。寒くはなくても、人は自然とストーブの周りに集まる。たまり場となり、おしゃべりが始まるのだ。
「立派な銀髪ね。おまけにショーン・コネリーみたいにハンサム。どこの国からいらしたの」
「イ、……イラシタ?」
男は自分の薄い銀髪をなでた。
「いらしたって言葉、わからなかった? ごめんなさい」
ゆっくりと言葉を区切りながら、「あなたは、どこの国から、来ましたか?」
「オーッ、カナダデス。キョネンキマシタ」
「お仕事……仕事は、何ですか?」
「ガカデス。デモ、エーカイワヲオシエテマス。バット、ココロハシジンデス」
「画家でなりわいは英会話教師、心は詩人というわけね。面白い方。なぜ、トーゲイをやりにきたんですか?」
「ニッポンノ、トラディショナルナブンカニ、オモシロミカンジマス。トーゲイ、ウキヨエ、ニワ、ドキ、テラ……」
「陶芸、浮世絵、庭、土器、寺……」
「スシ、フジヤマ、ゲーシャ」
「寿司、富士山、芸者……?」
「ジョーク、デス」
「いい男の上にお話もお上手ね。絵描きさんのわりにカラッとしてるし。この島に集まる芸術家は変態みたいなのばかりなのよ。絵でも教わろうかしら。英会話は駄目よ馬鹿だから。昼間なら時間はあるんだけど。そうね、モデルなんかいかがかしら」
頭の後ろで両手を組んでチープなポーズを作った。この女がやると、それなりに決まっている。腰のラインが美しい。
「絵を描きたいけど苦手だし、描いてもらう方がいいわ。私を描きませんか。時間はあるのよ。独り身だし。夫が死んだんでね」
男は陽気に、オーッ、モデル、OKOKなどと応えた。
のどかなものだ。
近くで粘土を紐《ひも》状に伸ばしている江上康夫の背中が、ピクピクと震えている。私語が気になるのか他に理由があるのか。スパルタ教師らしいから、授業中はしゃべるなと指導しているに違いない。
周囲のことなど気にせず、二人は会話を続けていた。
女はモデルに相応《ふさわ》しい派手な顔をしている。間隔が開きぎみだが、二重の大きな目だった。白目がやや水色がかって見える。高い鼻と厚めの唇。化粧が濃く、唇はワイン・レッドに塗られていた。下品ではない。顔の造作にうまく合っている。センスがいいのだろう。目を細めて人を見る癖がある。男に対してだけかもしれない。女としての部分に自信があるらしい。絵のモデルより写真のモデルに向いていそうだ。絵の具で厚化粧の顔を描くのは難しいのではないか。それに、写真なら一瞬ですむ。長時間じっとしていられるタイプではなさそうだ。
妻とは正反対だ。私の家内は我慢強くて口うるさい大家という感じの女である。絵、写真ともにモデルには向かない。人には分相応というものがある。
彼女は木中貞子といった。後家である。昨年自殺した大津中学の用務員、木中稔の妻だ。貞子は『ブラック』というスナックで働いている。趣味は工芸一般で陶芸教室の常連である。
貞子と話している大男は、オーエン・ハートというカナダ人だ。初参加である。私より一〇センチは背が高い。私も身長は一七五センチあり、低い方ではない。この部屋の中で私が顔を見上げるのは、カナダ人と役場の青年くらいだ。
グレイのジャージの腹のあたりが粘土で激しく汚れている。不器用なのか慣れないだけか。あの大きな手でどうやって陶器を作るのだろう。画家だというが、あんな手で細かい部分を塗れるのだろうか。諸川とは対照的な無骨な手だ。目鼻立ちが大きく映画俳優のようだった。表情の作り方も大袈裟《おおげさ》で、よく片方の眉だけ上げて皮肉な顔をする。気難しそうには見えず、ユーモラスなムードが漂う。口の回りに笑みを絶やさない。ブルーの瞳《ひとみ》は吸い込まれるような魅力がある。髪が薄いうえに鼻から口にかけての皺《しわ》が深く、年齢不詳だが二枚目といえた。
二人はまだ話し続けている。声が大きくなってきた。特にオーエンのテンションが高い。目鼻立ちや手が大きいのはかまわないが、神経が大雑把では困る。立ち上がり、彼らに近づいた。主催者側の人間であることを意識しつつ、
「お二人とも少し声が大き過ぎるようです。ご注意いただければと思います。そろそろ作業を再開されませんか」
外国人はハイ・ハイといって、すぐに移動した。
後家はストーブに手を差し伸べ、目を細めてしばらく私を見ていた。だが、やがて「じゃ、やりますか」といって戻っていった。
部屋の中を見回す。静かに作陶している。張り詰めた空気さえ漂っていた。集中力がいい作品を生む。各人の緊張の合間を縫って諸川玲が静かに巡視を続けていた。
少年が諸川を呼び止めた。風見恭介だ。茶色のジャンパーにジーンズといういでたち。彼は美術全般に興味を持っている。しかし美術部に入ったのは三年からで、それまではスキー部にいた。スキーではかなりの成績を残したらしい。受験を控えて続けるのを断念した。美術なら好きな時にやれる。島の高校ではなく、内地の進学校を狙《ねら》っていた。今回は美術部顧問の江上に引率されて来た。
甥《おい》は器用な少年だ。昔からそうだった。日本料理屋の伜《せがれ》。私の兄も器用な男だった。料理だけでなく、電化製品の修理なども巧みにこなした。手先の器用さは親譲りなのだろう。兄はアメリカで営業を失敗し、帰国した。アメリカ在住の頃生まれたため、恭介はエドガーという異名を持つ。正月、よく兄の家族と過ごすのだが、兄は異国での苦心談を面白おかしく話す。夢見る少年の顔をする。時が苦い経験を甘く腐らせたらしい。昔、幼い恭介とはこたつに入って、よくトランプをして遊んだ。ある時ゲームがすんだ後で、少年はカードを立てて積んだ。息を止めて作業していた。見事なカードの城が完成した。塔のようにも見えた。今も目に浮かぶ鮮やかなカードの城だった。
恭介は陶芸でも持ち前の器用さを発揮している。小鉢は私とは比較にならないほど滑らかに仕上がっていた。小鉢の底の高台《こうだい》をどうすればよいか講師と相談している。試験に臨む生徒のように真剣なまなざしだ。風貌《ふうぼう》そのものが優等生ふうなので得をする。真ん中で分けた髪形は中学に入ってから変わっていない。整った顔立ちだが柔弱ではない。諸川は丁寧に知識を披瀝《ひれき》していた。
陶芸教室は三日間で実施される。参加者の多くは泊まり込みだ。旅館はこちらで用意する。未成年には保護者の同伴が必要だ。むろん教員でもよい。一日目は紐作り成形で小鉢を作る。まず手で触って土になじむのである。薄い小鉢はできないが、独特の味のある作品ができる。二日目には電動ろくろを使って湯飲みを作る。私は一日目の実習が終わってから、電動ろくろを設置して回る。これが、大仕事だ。電動ろくろを使う二日目が終わると、陶芸をやったという実感がわく。三日目は自由制作だ。こうして三日間の実習が終わる。作品はこちらで保管し、乾燥させ、素焼きする。二週間後、もう一度受講者が集まる。本焼きを前提に釉薬《ゆうやく》を塗るのだが、絵付けをしても、そのまま持ち帰ってもよい。一週間後に完成品を渡す。
宿泊込みで行う三日間だけが実質の講座である。週をおいての二回は自由参加みたいなものだ。参加者が取りに来れず、発送する場合もある。宿は毎年『とどろき荘』と決まっている。階段のきしみが激しい古い旅館だ。参加者兼世話人という形で私も宿泊する。
今年の参加者には学校関係者が多い。十一人中四人を占める。木中貞子を含めれば五人かもしれない。
大津中学の職員では江上の他にもう一人、田村正義という社会科の教師が参加していた。ドアの近くで静かに実習している。グレイの古い厚手のジャケットを着ていた。中肉中背で顔も平凡、目立たない。青白い顔にはどこか大正時代のインテリという風情がある。結核持ちの作家のようだ。黒縁眼鏡の奥の目付きが鋭い。目の回りに赤みがさしていて、そこだけ見ると危ない人だ。少しピリピリしている。落ち着きがない。馬面の江上と同じだ。学校の先生というのは皆そうなのだろうか。大津中学の若手の教師だけの特徴なのか。何かに追われている。追っているのは何なのだろう。
美術部の顧問は恭介の他にもう一人、意外な生徒を連れて来ていた。
藤川志乃だ。
参加者名簿に名前を見つけた。別人かと思ったものだ。公共施設で行う市民講座に参加すること自体、ある種の積極性の証明である。周りは見ず知らずの人が多く、年齢層も異なるのだから。このような催しに参加する子供には思えなかった。消極的で孤独を愛する少女に見えたのだ。どういうことなのだろう?
この位置からだと、細い背中とピラミッド型の髪しか見えない。セーラー服を着て姿勢よく座っている。彼女はいつも制服だ。普段着というものがないのか、制服が普段着なのか。ここまでファッションに気を遣わない女の子も珍しい。表情は窺《うかが》えなかったが見当はつく。冷たい無表情で作陶しているのだろう。
少女の黒い背中に、音もなく近づいてきた男がいた。
諸川玲だ。
講師が受講生に近づくのは当然だ。不自然だったのは足音を立てず、忍び寄るように接近した点である。しかも後ろからだ。電車の中で獲物に近づく痴漢のようだった。ザンバラ髪の男は志乃の背中にぴったりと寄り添う。近すぎる。成り行きを見守った。
青い作業衣の背中に少女はすっかり覆われていた。流しの近くへ移動する。この方がよく見えた。諸川は後ろから抱き込むような姿勢で指導している。良くいえば、父が娘を後ろから抱擁している姿だ。男は唾液《だえき》のたまったような粘っこい声で、
「ここはもう少し薄くする」
声の質が他の人に対するときと違う。妙に優しく、
「成形ゴテはこうやって使うんですよ。もっと丁寧に」
手を取って教えている。明らかに触り過ぎだ。陶芸界では師匠が弟子に教える時、こんなふうにするのか。――まさか。不愉快になった。志乃はうつむいている。髪に隠れて表情は見えない。小麦色の小さな手を、女のように白く滑らかな、しかし大きな手が、覆っている。男の手が少女の右手から肩へ這《は》うようにゆっくりと上がっていった。そして再び静かに下がっていく。肩から胸へ……胸の膨らみへ。しばらく止まった。志乃は下を見たまま動かない。諸川の手は腰の方へ移動していく……
痴漢以外の何物でもない。だが志乃は抵抗しなかった。声一つ上げないのだ。奇妙だった。こんな環境・状況で子供にいたずらする中年男も異常だが、何の反応もしない被害者もおかしい。諸川はまだ少女の体をなで回している。
頭に来た。
一歩踏み出した、その時――
「諸川先生」
低いが良く通る声がした。ドアの方からだ。
「完成しました。ちょっと見ていただきたいんですが」
七三分けの秀才顔の青年が、警官のように鋭い眼差《まなざ》しで睨《にら》んでいる。田村正義だ。視線が圧力を持っていた。押されたように諸川が一歩引く。手を志乃から離す。ほっとした。
ほうけたような表情が目に焼き付いた。夢を見ていて目覚めた時のようなだらしなく緩んだ顔だ。どこかへ≪イッて≫いたらしい。しかしそんな顔を見せたのは一瞬だった。すぐに講師の顔に戻る。見事な仮面の被《かぶ》り方だった。舞台俳優のようだ。この男は仮面を被り慣れている。
諸川はためらいなく、しかしゆっくりと田村に近づいた。
作品をしばらく眺めてから、
「いいでしょう。見事な出来栄えです。集中力が作品に表れとる。美術などというものは所詮《しよせん》集中力です。それで優劣が決まる」
口先でほめてから、真っ赤に充血した目で田村を見た。
「乾燥棚に運んで並べてください」
乾燥棚は、部屋の奥の壁に設置されていた。既に完成した作品がいくつか並んでいる。田村は猟犬のような目付きで諸川を一瞥《いちべつ》してから、「わかりました」と低い声でいった。凄《すご》みがある。取調室で殺人犯を追いつめることさえできそうだ。
志乃のそばへ行く。僅《わず》かに甘い香りがする。彼女は顔を上げた。私を見たわけではない。視線の先には移動式黒板がある。黒板には何も書かれていない。眼差しはさらに遠くのほうへと向かっている。奥二重の切れ長の目に表情はない。高い鼻、一本に結ばれた薄い唇。見事なくらいに平静だ。柔らかな弾力のある肌には、赤み一つない。展示室でいつも見ている横顔だ。破廉恥な行為を受けた後とは思えない。何故冷静でいられるのだろう。ふと、慣れているんじゃないかと思った。根拠はない。
何といっていいかわからず、
「大丈夫か?」
志乃はゆっくりと棒状の粘土を積み重ねる。
しばらくしてから、そっけなく、
「何が?」
それだけだった。
自分の場所に戻った。もう一つ作ってみよう。粘土を棒状にし始める。形が歪《ゆが》んだ。さっきのいやらしい光景がちらついて集中できない。諸川もいい歳をして子供相手に何をやっているのだろう。もっとも少女|姦《かん》願望に年齢は関係ないのかもしれない。事務の佐藤が指摘した通り、こんなものが時代の流行だとしたら困ったものだ。
中学生が参加しているのは珍しい。今年は藤川志乃、風見恭介と二人もいる。例年の受講者には高齢者が多かった。今年は若手が多い。生徒二人はもちろんだが、江上康夫、田村正義は二十代だ。化粧の濃い木中貞子もそうだろう。この五人と、もう一人役場勤めの青年は若い方の部類だ。オーエン・ハートは年齢不詳だが、四十前後ではないだろうか。外国人の年齢はよくわからない。私には一般に老けて見える。他に定年退職を迎えた男性が三人と、五十代の専業主婦という構成メンバーで、計十一人となる。恭介、志乃、江上、田村、オーエン以外の六人は、毎年来るいわば常連である。
本日の講座は後一時間で終了となる。五時終了をめどにしていたが、各自が作品を仕上げ、乾燥棚に並べ終えた頃には、五時十五分を過ぎていた。
江上は見事に整った小鉢を三つ作った。それぞれ微妙に形が違う。意図的に変えたことがわかる。学校で教えるだけのことはあるようだ。恭介は同じような形の小鉢を四つ完成させた。弱々しく面白みがない。面白いのは志乃の作品だ。普通の小鉢と、縄文式土器を思わせるような鉢を作り上げている。後者は情熱的な作品といってもよい。常に冷静な少女の手になるものとは思えなかった。オーエンのは小鉢というより土瓶だ。おおらかな作品といえる。ただし焼いた時、割れるかもしれないが。私のは、いびつだ。恭介の器用さが羨《うらや》ましい。
田村は独特の作品を作った。二つ完成させた小鉢には何の変哲もない。しかし、残る一つが奇妙だった。いびつな円筒形が重なっている。円筒形の直径は上にいくほど小さくなっていた。人の排泄物《はいせつぶつ》にも見える。中は空洞になっている。これは何かと尋ねると、
「塔……いえ……花瓶です」
この社会科教師も変わっている。
W
地吹雪が起こり、フロントグラスをさえぎった。積雪を強風が吹き散らしている。車がやっとすれ違うくらいの狭い道を上っていく。晴れていれば前方に高山が見える筈《はず》だ。小さな針葉樹林を抜ける頃、雪が大量に降ってきた。降雪と地吹雪で前が見えない。フォグライトでも視界五、六メートルというところだ。まさしく雪の壁である。送迎バスとの距離を取った。
『とどろき荘』へは二十分くらいの道程だ。実習の片付けを終え、一行はバスで旅館に移動していた。私は自分の軽トラックでバスの後に続いた。今晩飲み、一泊する。ただし明日の朝には、参加者より早く会場に行き、準備しなければならない。だから自分の車で行くのである。
旅館の黄色い窓明かりが見えるころ、雪は小降りになった。小さな湖のほとりに、古い旅館が建っている。界隈《かいわい》に民家はない。落ち着いている。寂れているともいえた。『とどろき荘』到着である。バスから少し離れて駐車場に停めた。駐車場はかなり広く、普通車なら三十台は余裕を持って駐車できるのではないか。バスから降りた人々が、速足で旅館の入り口へ向かっていく。車を降りた。
視界の隅に奇妙なものを捕らえた。
駐車場の出入り口側に半円球の雪の塊があった。巨大な野球ボールを半分に切ったようなものだ。かなり大きい。高さ二・五メートル、幅三メートルくらいある。近づいて、見た。雪だるまの成れの果てかと思ったが、おそらくこれはカマクラだ。酔狂な客がカマクラを作ろうとして、途中で放棄したのだろう。もう少し高く雪を積み上げて、中をドーム状にくりぬかなければならない。重労働なのだ。
フロントで鍵《かぎ》を受け取ろうとすると、既に相方《あいかた》が持っていったとのことだ。参加者のほとんどは個室が取れたが、部屋数が足りず私は相部屋だった。同宿は田村だ。彼は部屋で待っていた。荷物を置くと、すぐに二人で大広間に向かった。襖《ふすま》を開けると既に全員が集合している。ここで夕食をとり、そのまま宴会へとなだれ込む。
夕食がすむと恭介と志乃は部屋に戻っていった。
宴会は異常に盛り上がった。参加者と館長、無関係の版画館の職員までやってきて、総勢二十名となった。宴会料理は好きではない。島ではどこへ行っても刺身がメインだ。魚は好きなのだが芸がなさすぎる。明日は早く、そんなに飲むわけにもいかない。カラオケが始まった。眉村学芸員が口火を切る。前座を務めさせていただきます。演歌だ。デビューできるほど上手《うま》い。潮時と思い、席を立つ。館長にことわり、田村から部屋の鍵を受け取って、会場を出た。
大広間は一階にあった。廊下に出ると急に寒さを感じた。階段を上がる。ひどく軋《きし》む。一歩歩くたびにミシリと音がした。二階は中央廊下を挟んで部屋が並んでいる。階段よりの二つの部屋が相部屋で、あとは個室だ。相部屋には館長と眉村、私と田村が入った。私の部屋は右並びの一番手前だ。階段に最も近い。夜中に昇降されたら眠れないのではないかと思うほど、階段は音を立てる。ドアに鍵を差し込む。
カチリと音がする。同時に右奥のドアが開いた。
中から恭介が出てきた。彼の部屋ではない。確か、志乃の部屋だ。部屋割り表をちらっと見たことを思い出した。夕食がすんでから二人は一緒にいたのかもしれない。あの少女と、どうやって時間を過ごすというのだろう?
「恭介」
少年は驚いたようだが、すぐに笑顔になり、
「ああ、国彦さん。十二分にきこしめしましたか」
「きこしめす? 古文の授業じゃないんだぜ。そんなに飲んでられんよ。俺《おれ》はお客さんじゃない。明日があるんだ」
「接待の必要はあるでしょう」
「お前、本当はいくつだ? 俺の代わりに働いてくれよ。暇ならちょっと話でもするか」
甥《おい》を部屋に誘った。八畳間の和室にバス・トイレつきだ。テーブルを挟んで少年と向かい合う。彼はお茶を淹《い》れた。さりげなく気を遣っている。飲むと、苦い。葉の入れ過ぎだ。しかしもう一口すする。
「国彦さん、明日は十時から始まるんですよね」
「宴会が妙に盛り上がっててね。明日はみんなダウンしてるかもしれん。予定通り始まらないかもな。ま、午前中は作業になるまい。それにしてもお前、昔から思ってたんだが、今時のガキにしては珍しく言葉遣いが丁寧だな」
彼はお茶に口をつけて、「苦いですね」
「たまには敬語抜きでしゃべってみろよ」
「ですます≠ヘ言葉の鎧《よろい》なんですよ。心を守るバリアーです」
「そんなにもろいのかい?」
「明日は午前中、諸川先生の講演会ですよね」
「二日酔いの頭にはいいかもな――眠れて」
「主催者側のいうことですか」
「謹言耳が痛い。が、諸川玲ってどう思う」
「どうって……さすがに陶芸家って感じです。手つきが全然違いますね。教え方も丁寧です。見かけは不潔っぽいけど紳士です。江上なんかよりよほど教え方が上手《うま》い」
そうかもしれない。志乃以外にとっては。
「江上なんか、とは何だ。先生をつけろよ」
「教育実習生みたいなもんです」
「彼が暴力教師になる気分がわかってきたぜ。なめられていい気持ちになる奴《やつ》はいない」
「まぁ、江上先生も伊庭先生よりはいいですよ。僕を講習会に参加させてくれたし」
「受験勉強の方はいいのか」
「いつも勉強してるわけじゃありません」
「あの子も美術部なのか」
少年は茶碗《ちやわん》にぬるいお茶を注いだ。ゆっくりとすすってから、
「あの子って?」
「とぼけるなよ。おかっぱの美少女」
「美少女? 藤川志乃ね。何で名前をいわないんですか、いやらしいな。彼女は即席部員。この陶芸教室のことを聞いて入部しました」
「お前と参加したかったんじゃないのか。卒業前に思い出を作りたくてね」
「何てセンチメンタル」
「恋人なのかい?」
「ただの幼なじみです。藤川が参加した理由はよくわかりません。講習会のことは僕が教えたんです。たまたま話に出たんですよ。大津版画館で毎年、陶芸教室を開いていて、今年は参加するって。藤川は聞いてないみたいに見えた。でも突然、私も行くって」
「お前としちゃ、文句ないわな」
「先生は面白くなかったみたいですね」
「動機が不純というか、わかんないからね」
「江上先生は美術命の人なんです。生徒の遊びには付き合っていられないという。確かに藤川の動機はもう一つ腑《ふ》に落ちない。彼女は美術とか陶芸が特別好きなわけではないんですよ」
では何故、志乃は参加したのか。
「大津版画館には毎日来てたぜ」
「あいつが版画館に……?」
私はきゅうすにお湯を入れた。中にまだ残っていたらしい。自分と甥の茶碗に注ぐと、ぬるいお茶が出た。二人で音を立ててすする。恭介をじっと見て、
「閉館間際に来る。いつも同じ版画を見ている。版画家にでもなるのかと思った」
「どうして、毎日?」
「こっちが聞きたい」
恭介は、ガラスの灰皿をテーブルの上に出して、吸いますか? と聞いた。妙なリアクションだ。少年は頬杖《ほおづえ》をつく。なかなかさまになっている。
「変な奴なんですよね、藤川は。聖書とか神話の話ばかりしてる。アーチストの話なんかしない。テレビとか観ないんです。ドラマやバラエティの話が通じない。映画も駄目。ゲームもやらないし。スポーツ少女ってわけでもない。何やってるんだろう」
「勉強してるんだろ。お前と違ってさ」
ひやかしたが、受け流された。
「成績はまぁまぁなんですよ。先生に反抗しないし。おとなしい扱いやすい生徒なんじゃないかな。欠点は遅刻欠席が多いことですね。その意味で問題児。学校休んで何やってるのかな」
「森の中で、切り株に腰掛けて聖書を読んでるとか。青い鳥を探している、とか」
「そうかもしれない」
「茶化してるんだよ」
「知ってますよ。……さっき藤川の部屋に行ってみたんです。本を読んでた。僕は話しかけました。でも、何をいっても反応がない。無視されました。見てる本が普通じゃない。何だと思いますか?」
「レ・ミゼラブル」
「往生要集《おうじようようしゆう》」
「源信《げんしん》? 女子中生が?」
「何が面白くて平安時代の本なんか。紫式部とか清少納言ならともかく……源信」
「受験勉強か」
「出ませんよ」
「浄土教か。宗教のことはよくわからなくてね」
「僕も。でも確か地獄のすがたが書かれてましたよね。ダンテの神曲みたいに」
「前は血の池、後ろは針の山?」
「よく覚えてないんですが、罪に応じた八つの地獄があるんです。殺生を犯した者は果てしなく傷つけ合う世界に落とされるとか、盗みを犯した者は熱鉄の上で切られるとか」
「舌を抜くってのもある?」
「上の地獄にいくほど罪がプラスされてくんですよね、あれ。殺生・盗み・邪淫《じやいん》・飲酒《おんじゆ》プラス妄語、――つまり嘘《うそ》・いいかげんな言葉、この罪を犯した者が舌を抜かれるんです。その名も大叫喚地獄。国彦さんも気をつけた方がいいですよ」
「反省してるよ。結構詳しいじゃないか」
「地獄・天国なんかについては興味があって調べたことがあるんです。『煉獄《れんごく》の魂』の煉獄ってなんだろうって」
「彼女も興味があるんだろうか」
「でしょうね」
「それとも死ぬ準備でもしてるんだろうか」
「行く先の下調べですか……」
「様子を見てこようかな」
「藤川の部屋へ?」
「お前も行くか」
「……止めときます」
「そうか」
受験勉強の話題になった。高校入試を受けたら、私は間違いなく落ちるだろう。中学時代の勉強などきれいに忘れている。実生活には必要ないのだ。≪将来必要になるから≫。当時の先生たちはいったものだ。そんな将来がどこにあったのだろう。現代の教師はどう教えて、――ごまかしているのか。しかし中学や高校の勉強が不必要とは思わない。やらなければ必要かどうかさえわからないのだ。無駄も必要である。人はエッセンスばかりを取り入れるわけにはいかない。必要にばかり囚《とら》われると、不必要なものが出てきた時取り込めず、≪キレる≫ことになる。恭介は勉強が嫌いではないという。どこかに興味を見つけられるのだ。頭が柔らかい。
しばらく雑談をしてから少年は出ていった。
タバコを一本ゆっくりとふかす。テレビを点《つ》ける。ニュースキャスターのアップ。ちょっと見て、消す。部屋を出た。
廊下には冷気が漂っている。体が少し震えた。人の気配はない。宴会はまだ続いているらしい。恭介と話している間、階段はきしまなかった。人が上がって来れば気づいただろう。奥の部屋に向かう。ノックする。遠慮がちに二度、力を込めて二度。返事はない。ノブを回してみた。鍵《かぎ》は掛かっていない。何となく、不用心な気がした。
「入るぞ」
ドアを開く。和室へ続く引き戸は最初から開いていた。志乃は畳に正座し、テーブルに向かっている。右顔を見せていた。修行者のようにきっちりした姿勢だ。文庫本を読んでいる。目を離さない。ここからでは書名も著者名も見えないが、『往生要集』だろうか。テーブルの上には数冊の本が置かれていた。文庫が二冊、大きな画集が一冊。
勝手に部屋に上がり込み、あぐらをかいた。志乃は微動だにしない。正面に座るのは気が引けた。少女の右側から、横顔を見る形になった。私はいつも志乃の横顔を見ている。彼女は決して笑わない。そんな筈《はず》はないのだが、イメージができあがってしまっていた。
彼女は横顔で、「何?」といった。
「楽しんでるのかなと思ってさ」
無視された。恭介と同じ扱いか?
テーブルの下からガラスの灰皿を取り出す。タバコに火を点ける。何をしに来たのか、来てから考えている。テーブル上の画集が目に入った。ビニールでラッピングされており、まだ開けていない。洋書らしい。タイトルは『The Tower of Babel』、≪バベルの塔≫だ。表紙には精密なバベルの塔の絵が印刷されている。
紫煙を吐き出しながら、
「絵の本、見ていいか」
「駄目」
読んでいる本から目を離しもしない。『往生要集』。灰皿に灰を弾《はじ》き落とした。
煙を輪にして吐き出してみる。見向きもしない。
「そういえば、版画館でも、いつも同じ版画を見ているね。あれもバベルの塔だ。何故だね」
「私……」
言葉を飲み込む。押し黙る。待つ。反応なし。タバコをもみ消す。
「陶芸教室に参加するために美術部に入ったんだってね。陶芸、好きなのか」
志乃は再び、「私……」といった。
沈黙。
「今年受験だろう。島の高校へ行くのかい。それとも内地へ?」
「……私……」
沈黙、あるいは緘黙《かんもく》。
黙秘権を行使されている刑事みたいだ。らちがあかない。≪私≫がどうしたというのか? 何を伝えたいのだろう。はっきりいえばいいのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。放っておいた方がよさそうだ。
背を向けて立ち去ろうとした時――
「風見さん」
呼び止められた。初めて名前で呼ばれたことに軽いショックを受けた。振り返る。立ったまま見下ろす。少女の横顔、黒髪のおかっぱ、目は本に止められたまま。
四たび、「私……」という。四度めの沈黙。しかし、私は待った。
やがて少女はつぶやいた。
「タバコ、くれる?」
タバコを吸う中学生がいても不思議ではない。善し悪しは別にして。
だが私が気になったのは、志乃が本当に告げたいことを伏せたような気がしたことだ。たまたま出てきたセリフに聞こえた。
「吸うのかい? 吸えるのかい? 中学生」
「みんな吸ってる」
そんなことはあるまい。しかし一本放ってやった。少女は旅館のマッチで火を点けた。深く吸い込み、吐く。大人びた顔だ。慣れているようにも見えた。確かに子供の頃は、タバコをふかしただけで大人の気分に浸れる時期がある。その程度とはレベルが違う。
銀幕の女優のように紫煙に目を細めながら、
「驚いた?」
「びっくりしちまったよ」本心ではない。
「私……」
またか。いささかうんざりした。しかし私を待っていたのは、真の驚きだった。
「私……私は一人だった。いつも一人だった。学校でも、家でも、町の中でも……いつも……」
ささやくような声だ。何が、始まるというのだろう。
「いつも一人だったの」
その点では、私も――たとえ女房がいても。
「勉強だってしてる。家で計画を立ててやってる。時間は少し。家にいたくないから。学校の中で成績は上のほう。しくじっても真ん中より下には落ちない。先生に対しては素直で真面目。授業もちゃんと聞いてる。周りの子はめちゃめちゃ。体育とか音楽もできるだけ出てる。演じてる。いつも演じている。見る人を意識している。ちゃんとやってるって思わせようとしている。でも、真面目すぎてもいけない。だからサボるの、遅刻するの、休むの。浮いちゃいけない。目立たないこと、差し障りがないこと、いるかいないかわからないこと、それが大切。いつも人と溝を作っている。壁を立てて暮らしてる。交わらないこと。安全策。事なかれ主義。空気のような存在。でないと危険なの。危ないの。いつだって一触即発。人の領域に入らないこと。自分の領域に入れないこと。かかわらないこと。世界を閉じること。私のクラスでもいじめがあった。いじめられてた子は死のうとした。いじめに理由なんてない。あるのは流れだけ。他には何もない。彼女は手首を切った。でも死ねなかった。バカね。死ぬくらいなら逃げる。いじめてるのは普通の子たち。ワルじゃない。普通だから直らない。矯正できない。止まらない。だから逃げるの。逃げるしかないの。私はいじめに加わらなかった。助けもしなかった。見てるだけ。それしかない。教師は無力。話し合いは無駄。言葉が通じないもの。ムカつく、キレる、それだけ。バベル、混乱、言葉の混乱。それが私たち。私は最初から逃走しようとしてた。逃げたかったの。でもできなかった」
――何から?
「みんな仮面を被《かぶ》っている。役割を演じている。先生には、田村や江上にはわからない。わかろうとしない。彼らは自分のことで精一杯。いつも何かに追われてる。ビクビクしている。不安を感じてる。落ち着かない。若い教師ほどそう。信用できない。親と同じ。口のうまい先生は人気がある。人気取りばかり狙《ねら》ってる奴《やつ》。でもそれだけ。つけあがってる。こっちで合わせてやってるのに。先生に合わせられない馬鹿な子も増長する。歯止めがきかない。未成年、子供、中学生、義務教育、だから何をやってもいい。許されると思い込む。暴れる。無茶をする。暴走する。自分を壊す、他人を壊す、人生を壊す、棒に振る。私はごめん」
――わかった。もういい……
「私はごめんなの。恭順するのも、反抗するのも。計算計算いつも計算。尻尾《しつぽ》を振ってる。この私も。大人は尻尾を振ればよくしてくれる。道を作ってくれる。振らなきゃ潰《つぶ》される。見放される。知ってるの、知ってて利用してるの、私たち。でも、本当はいや。私は、いや」
――わかっているよ。
「……恭介もそうなのかい?」
志乃が話を止めた。私という他人が介入したせいだろう。彼女はふいをつかれた口調で、
「彼は……よくわからない。素直な子。私と違う」
問いに正面から答えた。志乃と会ってから初めてのような気がした。私は彼女の中に場を得たのかもしれない。
「私――」なおも続けようとする彼女を、
「志乃」
鋭くさえぎった。
もういいんだよ……志乃。
少女のタバコをゆっくりとつかみとった。私も初めて彼女を名前で呼んだ。今日は記念日。お互いの名を呼び合った最初の日だ。奪ったタバコを口に咥《くわ》える。湿っていた。二、三度ふかす。深く吸い込んで、吐く。煙で輪を作る。一つ二つ、三つ。今度は少女も横目で見ていた。
「かっこわるい」
そうだ俺はかっこわるいぜ。
「藤川志乃」
しゃがみこんでタバコをもみ消す。志乃の目をのぞきこむ。目をそらした。
「お前は話がしたかった。心の中をさらけ出したかった。気持ちを語る相手が欲しかった。誰もいないんだな、お前には。見ず知らずと変わらん、俺以外に。それこそかっこわるいぜ」
志乃の表情が凍りついた。
「何をい……」
さえぎって怒鳴りつけた。
「タバコを止めろ。第一に体に悪い。第二に法律違反。第三に人の迷惑。第四に親や学校に対する裏切りだ。そして第五に、俺が気にくわない。この俺が気にくわねぇんだよ。大人ぶってるツラをみるとヘドがでるぜ。ジャリが」
本当に怒っているのではない。本気で怒っているのだ。少女は少しぼんやりした感じで、
「あなた……誰?」
「あなたじゃない。風見だ。さんづけで呼べ」
「私、」
「うるさい。知った顔をするな。来い」
少女の手をつかみ、無理やり立たせた。引きずる。軽い。部屋の外へ連れ出す。まるで誘拐だ。志乃は叫び声一つ上げない。階段を降りる。戸外へ。少し、雪。志乃はセーラー服だ。
「寒い」
「黙れ」
無茶苦茶だった。
駐車場に私の軽トラックがある。運転席に中学生を押しこんだ。私は助手席に乗る。キーを入れてエンジンをかけた。
「何するの……」
「発進」
「え」
「発進だ」
「どうして」
「スタート。足・左、クラッチ。左手、ギア・ファースト。右足、アクセル」
少女はクラッチやアクセルを踏んでみている。
「それはブレーキ。左足で踏む。ギアは、こうだ」
「……はい」
「よし、出せ」
「はい」
エンストした。
「クラッチはゆっくり離す。もう一度だ」
三、四回失敗した。だが、今度は、
「行けるぞ」
少女の顔が意志をもっている。
発進した。車体はノックしながら前に進む。三メートルは走った。すぐに衝撃がきた。前につんのめる。雪の壁にぶつかったのだ。目の前に、駐車場の周囲の片付けられた雪の崖《がけ》。たいしたショックはない。どうせボロ車だ。
「事故」と志乃はつぶやいた。少し生き生きしている。
「これがお前だよ、お前の姿だ。わかるか」
「寒い」
私は車を素早く降りて、運転席側のドアを開けた。
「出ろ」
引きずり降ろした。
「体を暖めるぞ」
ホロの中からシャベルを二本取り出す。一本、志乃に渡した。
到着したとき見たカマクラの原型に近づき、
「これにできるだけ高く雪を積め」
「はい」
いい返事だ。私は狂ったようにシャベルを振るった。駐車場|脇《わき》に積み上げられた雪をすくう。積んでいく。少女も力の限り手伝った。頭の隅で何故か悲しみが込み上げてきた。何をしてる俺は何をしてるんだ志乃をどうしようというのだ何ができるというのか俺に。かなりの高さまで積んだ。汗だくだ。志乃も肩で息をしている。「固めるぞ」シャベルで押し付けた。「穴を開ける、掘るぞ」ドームができていった。
カマクラの完成だ。およそ三十年ぶりで作った。
急いで車に戻りビニールシートと携帯用小型ストーブ、茶色いアノラックを持ってきた。アノラックを志乃に渡す。大きすぎた。彼女は息を切らしながら、
「変な臭いがする」
「ぜいたくをいわない」
カマクラの中にオレンジ色のビニールシートを敷く。
「休もう」
二人でカマクラの中に入った。かなり大きく作った筈だが余裕はない。体がぴったり密着した。小さなストーブに点火する。二人ともすぐに両手をかざした。少しずつ暖かくなる。呼吸が収まってきた。頬《ほお》にわずかに暖気を感じる。カマクラは雪でできているので寒そうだが、意外と暖まるのだ。志乃は小さな両手をストーブの上でこすり合わせている。知らず、私も同じようにしていた。寄り添う少女の体の小ささを実感する。志乃は小柄なのだ。私には子供がない。右頬に柔らかい髪を感じた。ストーブの炎が音もなく揺らめいている。雪は止んでいた。物音ひとつしない。半円形の出入り口からは、駐車場と平原に積もる雪、向こうの山が暗闇《くらやみ》の中にうっすらと見えた。
一瞬、世界には私たちだけしかいないような気がした。大雪原に二人だけでいるように錯覚した。雪の中、二人きりなのだ。これが、彼女の世界なのかもしれない。太陽がいつも半分だけ顔を出して回っている薄暗い北極、あるいは南極。人のいない零下の雪原。期せずして、私はそこに招かれた。
「初めてだろう。カマクラっていうんだよ」
「知ってる。入ったのは初めて。作ったのも」
「子供の頃はよく作った。正月だ。近所の友達とだ。餅《もち》を焼いたり、みかんを食べたり、カルタ取りをしたりした。家の中でもできることだった。でも、カマクラの中でやると全てが違って見えた。雪の壁、外の景色、独特の空間。あの頃はこの空間を広く感じたものだ。自分たちが小さかったんだね。今ではカマクラもすっかり見かけなくなった。子供たちが作らなくなったんだ。その点では、君も」
「初めて……車を運転したのも、初めて」
「反省している」
「驚いた」
一拍おいてから、急に話題を変えて、
「私の父は建設会社の社長なの。太っていて、どことなく女性的。眉《まゆ》が薄くて目が細いの。ちょっと赤みが差した唇。彼はお父さんじゃない。パパなの……パパって呼ばせるの」
「よくわからん」
「血がつながってない。私は母の連れ子。母は再婚だった。私をおいて母は逃げた。父以外の男のもとに」
「ありがちなことだ」
「父は私を殴るの、蹴《け》るの、血を吐くくらい。顔よりも、体、手足を」
「たまに聞くな」
「楽しそうに殴るの」
「珍しい」
「その後は妙に優しくなる。別の……別のいじめ」
「ひどいな」
「怖かった。怖くて、苦しくて、痛くて、つらくて、私は海に入って行った。夜、海岸を歩いたの。毎晩、毎晩、歩いてた。家を抜け出して。私は中学一年だった。ある夜、波打ち際を歩いているうち、いつの間にか足首まで海水につかってた。このまま奥へ。深いところへ。海の中へ。楽になりたかった。帰りたかった。一歩一歩海に入って行く。海水が足首から膝《ひざ》へ、膝から腰へ、胸へ、顎《あご》へ、上がってくる。このまま消えてしまいたい。二度と戻りたくない。死にたい。でも……でも、でもできないの。どうしてもできないの。水が口までくるとどうしても浮いてしまう。死にたいのに、浮くの。駄目なの。体を浮かせちゃうの。どうしても。何度も何度もやってみた。でも駄目。浮いてしまう。まるで水の上に座っている大|淫婦《いんぷ》」
「それが、バビロンの大淫婦」
いつか少女がいっていた。自分はバビロンの大淫婦だと。水の上に座る大淫婦、私と同じだと。大袈裟《おおげさ》な見立てと笑うことは、私にはできない。彼女は実際に世界の滅亡を見た。それは一人の少女の狭く小さな世界だったが、いわば現代に切り崩され、義理の父によって完全に瓦解《がかい》した。彼女は確かに自分の内にバビロンの大淫婦を見たのだ。少女は抵抗した。死を選ぶという形でだったが。それは究極の逃走であり、闘争だった。命を捨てて何かと戦ったのだ。どうして笑えよう。志乃は命を捨てて何かと戦った。そして、負けたのだ。それでよい。負けることによって生き延びたのだから。
「人に話したの……打ち明けたのは、風見さんだけ」
私は少し考えてから、
「冷たいようだが、俺は力になれん。今、君がどんな状況にいようと、どんなひどい目に遭っていようと、君を救うことはできない。俺には何もできない。話を聞いてやることくらいが関の山だ。それでいいなら話してほしい。いくらでも聞いてやる。話せば気の済むこともある。俺は何でも聞いてやる。だが、守ることはできない。結局君を守るのは君自身だけだ。慰めはいわない。強くなる。自分自身を強くする。明日の君は今より少し強い。一年後の君はもっと強い。本当にそうなるかはわからない。だが、それを信じて生きる。無理をすることもない。嫌なものは断れ。抵抗しろ。不可能なら逃げちまえ。こんな話を聞いたことがある。女の子向きの話でなくて申しわけない。豊臣秀吉が木下藤吉郎だった頃、殿軍をつとめた。戦いに敗れて退く時、しんがりの軍が防戦し仲間を逃がす。木下の軍が籠城《ろうじよう》して友軍すべて引き揚げることになった。夜になると、木下は戦いに備えていると見せかけて、すべてを捨てて逃げ去ってしまった。翌朝敵が気づいた時には後の祭り。結局木下は兵を失うことなく、殿軍を務め上げたわけだ。鮮やかな引き際だ。ぐずぐずしてちゃいけない。逃げる時は徹底的に逃げる。卑怯《ひきよう》だろうが何だろうが死ぬよりはずっといいぜ。俺《おれ》にいえるのはそれぐらいだな」
「……ありがとう」
妙に素直じゃないか。どうしちまったんだい?
「礼をいわれる筋合いはない。俺もいつも迷ってる。つまらんことでね。禁煙しなけりゃ、とか、うるさい女房からいつ逃げようかとか。たいした男じゃない。人のことはいえないね。ま、俗人だな。恭介といい君といい今の中学生は知的レベルが高い。版画館に通うなんて、昔の俺じゃ考えられんよ。何が楽しくて来てたんだい」
「父親くらい歳が離れてても、恋愛関係って成立するの?」
「いつもながらの脈絡のないものいいだね。そうだな、俺は成立しないと思う。考えられない」
「私……夜、書道塾に通ってるの。塾の先生がちょうど父くらいの歳。二枚目。父と違って」
「習字、ね」
「その人は奥さんと別れて独身。彼がいうの。私が十八になったら結婚しないかって」
「阿呆《あほ》か。からかわれてるんだよ。ジョークさ」
「冗談で結婚しようなんていうの。四十くらいのおじさんなのに」
「そいつが本気ならなおのことやめときな。とんでもない変態オヤジだ。人生棒に振るぜ。この先いくらでもいい人と出会える。うらやましい。君なら、選べるぜ」
志乃は何故か言葉に詰まった。
「――塾をやめればいいの」
「近づかなきゃいいのさ。無視するの得意だろ」
書道塾へ通っているとしたら、大津版画館を出てから行くことになる。ふと、作り話ではないかと思った。その疑問を検討する間もなく、少女は話題を変えて、
「去年の二月のこと、覚えてる?」
「何のことにせよ、忘れたね」
「二月半ばのある日、日曜日の午後、大津版画館へ行った。曇ってた。雪が降りそうだったけど、傘を持って行かなかった。二時間くらい版画を見てた。あの日初めて見に行ったの。でも見ているうちに飽きてきた。帰ろう。でも、外へ出ようとしたら、足が止まったの。ガラスのドアの前だった。足が前に出ない。外に出たくない。家に帰りたくない。父に会いたくない。私はぐずぐずしてた。そしたら青い制服の警備員が来たの。面倒臭そうに、私を外に追い出して、施錠した。いつの間にか、閉館の時間になっていたのね。私は帰らなかった。帰りたくなかった。帰れなかった。雪が降り始めた。でも傘がない。すっかり暗くなった。ドアの外にしゃがみこんでた。動けなかった。震えてきた。ひどい大降りの雪。その時、誰かに肩をたたかれたの。私を追い出した警備員だった。むっつりしてた。黒いコートを着てた。傘を開き、帰るぞ、とふきげんそうにいった。私は傘の中に入った。会話はなかった。たまに道順を聞くだけ。右、左、とだけ私は答えてた。雪の道をゆっくりと歩いて帰った。前が見えないくらいの雪。私たち以外には誰もいないみたい。今みたいに。無口で怖い顔をした中年男は、私にはとても背が高く見えた。結局、玄関まで送ってもらったの。その人は、いらいらした口調で、じゃあな、といって、今きた道を引き返していった。それが、あなただった」
「あなたじゃないだろ。風見さん」
記憶を探る。確かに版画館の出入り口でうずくまっていた少女を家まで送ったことがあった。去年の冬だ。二月だったかどうかはわからない。具合が悪そうだったので放っておけなかった。無口な子だった。やっと家までたどり着いたことを覚えている。自分がお人よしのおせっかいに思えた。あの日、インフルエンザにかかっていて熱があったのだ。具合が悪かったのは私の方だ。雪道を長々と歩かされて、いっそう熱が出てきた。家についてもありがとうの一つもない。馬鹿馬鹿しくなった。お下げ髪の少女だったような気がするが、顔は覚えていない。名前を聞いたかどうかさえ、忘れてしまった。あれが、藤川志乃だったのだろうか。
「俺たちは既にデートしてたってわけか」私にとっては拷問デートだったが。
「私は版画館に行くようになった」
「年末年始にかけて、毎日のように来てたね」
「家に帰りたくないから」
「そう……」
「雪、止んでる」
しばらく前から止んでいる。
少女は外へ出ようとする。袖《そで》を引かれた。広い駐車場。車は所々にしかない。薄い雲の間から少しだけ月がのぞいている。雪明かりが微《かす》かに辺りを照らす。二人並んでしばらくぼんやりしていた。すると――
志乃が三歩前に出た。くるりと振り返る。
正面。初めて顔の全体を見た……見せてもらったような気がした。相変わらずの無表情だ。月光が少女の顔を青白く照らしている。雲が流れて月にかかった。少女は静かに聞いた。
「踊る?」
「何だって」
「踊る」
「踊れるのか」
「知らない」
「まねでもするのか」
ダンスなどやったことがない。まして二人で踊れるわけがない。私には遠い世界だ。映画かテレビドラマなら、月光のステージで≪あまり踊れないんだよ≫とかいいながら、けっこう見事に踊ってみせたりするものだ。私じゃ駄目だ。だが、これは二人の舞台だ。観客のいない舞台なのだ。志乃の背に手を回す。手を組む。彼女は少し体を硬くする。形はできた。ステップ。……わからない。踊ろうにも思いつかない。踏み出すステップが彼女の第一歩になればいいのだが。何もしてやれないのか。志乃は人に話すのが苦手なのだ。思いを口にできない。伝えられないだけだ。曲がっていない。踊りか。これしか知らない。一旦組んだ手を放す。少女の横に並ぶ。右手で右手を取り彼女の肩に持ってくる。きゃしゃな指だ。左手で左手を取って前へ。そして一歩踏み出す。悲しみとおかしみが同時に込み上げてきた。ステップ、ステップ、回転させる。馬鹿だ・俺はなんて駄目・できないこんなことしか。オクラホマミキサー。それは二人だけで踊る、オクラホマミキサー。
……足を止める。手を放す。
志乃は前を見たまま、いった。声に少しだけ弾みがあるのは、気のせいか?
「かっこわるい」
まったくだ。議論の余地はない。しかし、私もいい返す。
「いちいちかっこつけるんじゃないよ、お前は」
X
粘土はすぐに崩れた。
電動ろくろを止める。軽く練り直す。叩《たた》いて回転板に押さえつける。私はまだ中心を上手《うま》く合わせられない。回転板と粘土の中心軸が合っていないと作れない。本当に合わせるには三年かかるという。ろくろを始動させる。一応、中心を決めた。粘土の上を平らにし、親指で穴を開ける。穴を湯飲みの口くらいに広げた。
二日目の実習は電動ろくろで湯飲みを作る。午前中は諸川の講演だ。スライドを使い、巨匠の名作や自作を大量に見せた。カーテンで暗くしたためか、かなりの参加者が目を閉じていた。二日酔いのせいだけではなさそうだ。講師の低く静かな声が子守歌のように響いていた。一同にやっと生気が戻ったのは、午後の実習が始まる頃である。
両手の中指と人差し指を使って筒を引き伸ばす。脇《わき》を締め、指先に神経を集中する。湯飲みの形になってきた――と思った瞬間、崩れた。
上手くいかない。いかないからこそ、やりがいもある。
ドアの上に丸い時計が掛かっていた。文字盤に星座の十二宮がデザインされている。午後三時。あと二時間ほどで二日目の講習も終わりだ。
なんとか湯飲みに見えるものを作るのに、もう一時間を費やした。午後四時。
少しいびつだが、私にしてはいい出来だ。湯飲みの底に切り糸を入れる。両手の人差し指と中指で持ち上げ、さん板の上に置く。
その時だった。
ぶつかる音。あっという男の声。何かが落ちる音。「こら」という怒声。
部屋中の目が集中する。江上康夫と藤川志乃がストーブの近くに立ちつくしている。男は全身を硬直させていた。少女は茫然《ぼうぜん》としている。二人の足元にはつぶれた湯飲みが数個、散乱していた。さん板が二枚落ちている。おそらく、完成した作品を乾燥棚へ運ぼうとし、お互いの、あるいはどちらかの不注意でぶつかってしまった。結果、作品をさん板とともに床に落とし、湯飲みは粘土の残骸《ざんがい》と化した。馬面の男の口は、≪こら≫の形に開いたまま固まっている。顔色が赤から青に変化するさまはユーモラスでさえあった。
面白がってはいられなかった。
江上が手を上げた。止める間もなく平手が飛ぶ。右頬《みぎほお》。骨が砕けるような音がした。首が左へがくっとのけぞる。左頬。少女の顔は振り子のように揺れた。男は少女を突き飛ばした。スカートが翻る。腰から床に当たった。蹴《け》りが入る。志乃の腹に、一回、二回、三回、四回。少女は守るように体を丸める。江上は暴れ馬になった。相手の頭といわず背中といわずめちゃめちゃに蹴り始めた。息が荒い。顔が歪《ゆが》み、笑ったようになった。
おかしなものだ。私はただ見ていた。予想外の異常な行動にすぐに対応できなかった。ガラスのコップがテーブルから落ちるのを見ている時のようだった。スローモーションみたいにゆっくり見えるのだが、手が出ない。間に合わない。何とかしなければ。重い腰を上げる。体に鉛がついているようだ。声さえ出ない。
江上に誰かが組みつく。私より早かった。一八〇近い長身の馬男を一六〇そこそこの騎手が乗りこなそうとしている。狂ったロデオだ。七三分けの男の眼鏡が飛ぶ。かまわず、彼は江上を志乃から引き離した。田村正義だった。
私は志乃に駆け寄った。しゃがんで声をかける。――大丈夫か。彼女はふらつきながらも立ち上がった。手の甲で口を拭《ぬぐ》う。真っ赤な血がついた。私はポケットをさぐった。銀の薔薇《ばら》の刺繍《ししゆう》が入った白いハンカチが出てきた。スキー場で少女にもらった物だ。洗いはしたが返しそびれている。志乃にハンカチを渡す。もう一度、大丈夫か、と聞く。
志乃は表情を変えず、しかし震える声で、
「いいの……慣れてるから」
後ろで罵声《ばせい》が飛んでいる。工事現場で聞くような怒鳴り声だ。――てめぇおとなしくしやがれキレやがってそれでも教師か。江上ではない。田村がいさめているのだ。≪それでも教師か≫といいたくなるほど口汚い。田村も江上に劣らずエキセントリックな男のようだ。だが、私よりは行動が早かった。志乃を守ったのは彼である。私は田村の眼鏡を拾った。割れてはいない。江上はおとなしくなっている。青白い顔をし、自分が殴られたかのように自失していた。
眼鏡を田村に渡すと、彼は、
「すみませんでした。私の方から謝っておきます。江上には後で厳しくいっておきますから」
その程度ですむのか。しかし田村の目には説得力があった。彼の頭は私の鼻くらいの位置なのだが、見下されている感じがした。田村は落ちつきはらった声で、
「藤川は病院へ連れていくか旅館で休ませた方がいいでしょう」
木中貞子が床に散らばった粘土やさん板を片付けている。
田村は眼鏡を掛け、位置を修正しながら、全員に向かって、
「皆さん、たいへん失礼致しました。見苦しいものをお見せし、申しわけありませんでした。心から謝罪致します。お気になさらず、どうか実習をお続け下さい」
気にするなといっても無理だ。かえって騒然となった。江上は机の上に腰掛けてほうけた顔をしている。田村は志乃を従えて部屋を出ていこうとする。私は二人を呼び止めた。
「先生、よかったら私が送りましょうか」
「そう……では、お願いしましょうか。タクシーでも呼ぼうと思ってました。助かります。でも、教室の方はいいんですか」
「世話人はもう一人いますんで」アザラシがいるだけだが。
「すみませんね」
「玄関で待ってて下さい」
私は学芸員室へ行った。眉村は机にしがみつくようにして書き物をしている。状況を説明し、世話を任せると、あからさまに迷惑そうな顔をした。私はニヤリと笑って、いつもの彼のセリフを横取りした。「後はタノム」
玄関で、二人は身支度を整えて待っていた。結局病院へは行かず、旅館で休むことにしたという。車に田村と志乃を乗せた。少女を真ん中に挟んで座る。志乃は口にハンカチを当てていた。銀の薔薇の刺繍が入ったハンカチ。私の次は志乃の血か。旅館につき、自分の部屋に入るまで、彼女はハンカチで口をふさいでいた。
部屋に入るとすぐ、志乃はトイレに駆け込んだ。吐いているのかもしれない。
「藤川の部屋、初めて入ったな」とピント外れなことをつぶやいて、教師はテーブルを部屋の端に移動させた。私は押し入れを開き、布団を出して敷いた。どっちに枕《まくら》がくるか迷ったが窓側にした。シーツは新しいものに変わっている。陽の光で見ると、畳の古さが一目でわかった。田村は隅に寄せたテーブルに向かい一息ついている。
いや……違う。
茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしている。自失し、何かに心を奪われているようだ。背中が窓からの光で、逆光に暗く沈んでいる。窓から外を見ているのか、窓の下のテーブルを見ているのか。彼に近づき、視線の先をのぞきこんだ。
テーブルの上を見ている。数冊の文庫本と洋書の画集があった。彼の目は画集を捕らえているようだった。バベルの塔の画集だ。ビニールで覆われている。昨夜見たままの状態だ。志乃はこの本をまだ見ていない。田村は画集を手に取ろうとして、止めた。脅えているように見える。独り言をいう。
「俺《おれ》はこんな本見たことないぞ……バベルの塔だけの画集があったなんて」
彼は他人を意識しない時、自分を俺というらしい。私と同じだ。
田村の声は次第に聞き取れないくらい低くなって、
「……あった……ここに、あった、バベル……バベルの塔が……こんな所に塔が……建っていた……ミッシングリンク……つながった」
尋常ではない。首の後ろに濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》を当てられた気分だ。見てはいけないものを見てしまったような気がする。まるで病人だ。田村も江上も歪《ゆが》んでいる。学校も社会も歪んでいるのだろう。彼は操り人形のようにぎこちなく振り返った。七三分けに眼鏡。アジアのどこにまぎれこんでも見分けられない平凡な顔。目だけが異様な光を帯びている。視線が泳いだ。
「どうしたんですか、先生」
「風見さん、もしかしたら」
同時にいった。同時に黙り込む。視線がぶつかった。田村の目に宿っているものは恐怖……か? 緘黙《かんもく》することによって言葉を促す。彼はうわずった声で、
「もしかしたら……」囁《ささや》くように、
「殺人事件が起こるかもしれない」
「何?」
突拍子もない。どういう発想か。冗談をいってはいない。目が本気だ。彼は私の次の動作を警戒するような、妙な目付きをしながら、
「殺人――とは限らない。一見、殺人には見えないかもしれないんです。自殺、事故死……とにかく人が死ぬ……と思う」
私もつられて低い声で、
「死ぬって、誰が?」
「わからない。でもたぶん、――いや、私かもしれないし、あなたかもしれない。とにかくもう一つ……それで完成する」
「完成?」
「ミッシングリンク」
「何ですそれ?」
「失われ、」いいかけて止めた。私の肩越しに後ろを見ている。振り向くと志乃が立っていた。ひどい顔をしている。両頬は髪に隠れて見えないが腫《は》れ上がっているだろう。
「布団、敷いといた。横になるか」
「大丈夫」
「やはり病院へ行った方がいいんじゃないですか。それとも医者を呼ぶか。お父さんに連絡しなければなりませんね」これは田村。
「止めて。放っておいて。休みたいだけ」
「だが保護者には連絡しなければならない」
「駄目」
「何だと」
田村の語調がきつくなった。あんないい方をされれば無理もない。私はなだめるように、
「まぁ落ち着いてください先生。藤川さんはたいしたことはないようです。保護者の方はお仕事で家にいないのかもしれません。後程、私が責任を持って連絡しますんで」
「教員には教員の責任がある。こうなったのも我々の落ち度だし」
目でプレッシャーをかけながら、
「私が、責任を持ちます」俺が責任を持つっていってるんだよ。
「……そうですか。では、お願いします」
妙に素直に折れた。責任感は強いが、根は小心者なのかもしれない。田村はばつが悪そうに、辺りを見回した。目が画集に止まる。教師は生徒に向かって、妙な猫なで声で、
「藤川、悪いがこの画集、先生に見せてくれないか。輸入ものらしいね。見たことないんだ。バベルの塔だけの画集があるなんて知らなかった。いいだろう?」
「駄目」
「まだ開いてないからか。そうだね。買ったばかりのものを人に見られるのは嫌なものだ。まず自分が見たいからね。先生はその次でいい。頼むよ」
「あなたには見せない」≪あなた≫じゃないだろ。
「藤川……」
哀願してるようだ。何故あの画集が見たいのだろう。ばつの悪さをまぎらすためとしたら、しつこすぎる。意図は、何か。
「見せてください、藤川さん」
「いや」
「藤川!」いきなり怒声が混じった。
私は田村を手で制した。目を見て、静かに、「出ましょう」
「しかし……しかし……藤川の容体が心配です」
そうではあるまい。涙目で画集を見ている。わからない。
「先生、部屋を出ましょう。藤川さんは大丈夫ですよ。歩けるし、頭もしっかりしてるし、生意気な口も利ける。死にはしませんよ。お望み通り放っておきましょう」
「でも」
「行きましょう、田村先生」
田村を押し出すようにして、部屋を出た。ドアを閉める前に、志乃に声をかける。
「鍵《かぎ》掛けとけよ」
少女は布団の上に横座りしたまま動かなかった。ドアを閉める。田村はまだ部屋の中、おそらく画集に未練を残しているようだった。私は版画館に戻って講習会の様子を見ることにした。田村は少しためらってから、同行するという。保護者に連絡するとかしないとかいう話は既に頭にないようだった。車中ではお互いに一言も発しなかった。
版画館に到着すると、気が重くなった。今年もトラブルが起きてしまった。去年は講師と受講者のつかみ合い、今年は受講者同士の暴行事件、狂ってる。
実習室のドアを開く。静かだった。
驚いたことに江上がろくろを回していた。誰よりも集中している。木中貞子がこちらを見てニッと笑う。恭介も私を見た。何か聞きたいようだが、無視した。田村は自分のろくろに向かう。さすがにすぐに制作には移れないようだ。私はストーブの側で油を売る。眉村の姿はない。役に立たない世話人だ。田村の言葉が頭を掠《かす》めた。
殺人――人が死ぬ?……まさか。
部屋の中を見回す。江上康夫、木中貞子、オーエン・ハート、諸川玲、風見恭介、その他五人の受講者、そして私――風見国彦、田村正義、……藤川志乃、この中から死人が出るというのか。殺人……だとすれば犯人さえこの中に存在している、のかもしれない。田村の不気味な予言に根拠はあるのだろうか。バベルの塔の画集に示す執着は何を意味しているのか。妄言であることを祈った。
その後の講習会は静かに進行し、終了していった。
旅館に着いた時も、皆あまり口を開かなかった。夕食でも会話が弾まない。
宴会では、違った。異様な盛り上がりを見せたのだ。それまでの反動のように騒ぎまくっていた。昨夜の二倍は荒れた。恭介、志乃、江上の姿はなかった。志乃と江上は夕食もとっていない。江上がいなかったせいか、悪口大会になった。罵詈雑言《ばりぞうごん》が飛び交う。他人を悪くいい貶《おとし》める時、人は何故あんなに楽しそうな顔をするのだろう。江上に同情はしない。だが酒の肴《さかな》にする気もない。結局のところ彼らは、口では道義を説きつつも、単に血を見て興奮しただけなのかもしれなかった。暴行事件の話が一段落した頃、一座はますます盛り上がってきた。混乱の度を深めたといってもいい。オーエンが特にひどかった。凄《すさ》まじいハイテンションだ。英語交じりの日本語で爆笑の渦を巻き起こしている。明るさでは木中貞子も負けてはいない。ウェーヴのかかった長い髪をかき上げ、自信満々に振る舞っている。志乃ならこう形容するかもしれない。バッカナーレにまぎれこんだアルテミス。
明るすぎるということは、暗すぎると同じくらいおかしなことだ。付き合っていられない。
自分の部屋に戻ることにした。誰にも断らずに宴会場を出る。無礼は承知だ。こんな時こそ眉村に働いてもらおう。鍵を忘れたことに気づいた。だが会場に戻るのはわずらわしい。
「風見さん、鍵」後ろから声をかけられた。
見ると田村だった。私に続いて出て来たのだろう。並んで廊下を歩く。
「田村さんも部屋に戻るんですか。十分飲みましたか」
「飲めないんですよ。戻ります」
「飲めば飲むほど強くなるってのは嘘《うそ》らしいですね。強い弱いは生まれつきの体質らしい」
彼はあいまいに笑い、「風見さん、今夜は怖い顔してますね」
田村の顔を見上げて、
「昨年と同じですよ。また事件が起こってしまった。今年は暴行。去年はケンカ」
「あれはすごかった。殴り合いですからね。今年のもひどい。美少女虐待ショーかと思った」
「笑えないよ、田村さん。ジョークが過ぎる」
七三分けの眼鏡の男は素直にスミマセンと謝った。
「ま、冗談にしたくなる気持ちもわかるがね」
部屋に入ると、布団が敷かれていた。テレビを点《つ》け、二人で漫然と眺めた。くだらないバラエティー番組だ。仰々しい刺激に満ちている。普段は気づかず、面白く見てしまう。愚劣さに気づかぬほど感覚が鈍磨しているのだろう。百害あって一利なし、だがやめられない。おかしなものだ。田村は眼鏡を外し、布団の上で体を横にした。テレビから二メートルは離れている。目を痛めないためという。ブラウン管の中で顔の歪《ゆが》んだコメディアンが正論を吐いている。影響力は政治家の比ではあるまい。特に若者に対しては。匹敵するのはミュージシャンくらいのものだろう。九時になった。
志乃の様子を見にいくことにする。田村に断って部屋を出た。薄暗い廊下を歩いていると、下から宴会のざわめきが、微《かす》かに聞こえてくる。
ドアをノックする。返事はない。鍵は開いている。この前と同じ。不用心だ。部屋の明かりはついていた。少女は布団に入り天井を真っすぐ見上げている。おかっぱの人形みたいだ。
襖《ふすま》からのぞき込むようにして、
「顔の腫《は》れは引いてきたな。具合はいいかい」
「大丈夫。かまわないで」
「ドアの鍵、掛けとけよ」
返事はない。静かにドアを閉め、自分の部屋に戻った。
田村は映画番組を観ていた。『007/リビング・デイライツ』。日本語で訳してほしい。かといって往年の『007/危機一発』などというのも困るが。主人公はショーン・コネリーではなく、見慣れぬ俳優だが適役だ。考えずに面白く見れる。今の私にはいい。宴会が終わったらしく、廊下の方で足音や話し声がする。思った通り階段の足音も筒抜けなのだ。
イギリスのアクション映画はハリウッド製と違いどこかに品格がある。『危機一発』の邦題で公開された『ロシアより愛をこめて』などは偏愛していた。子供の頃見た印象が今も鮮やかだ。少年の私から見ても総じて子供っぽかった007映画の中で、珍しく大人の匂《にお》いがあった。かなり微妙な男女の機微が描かれていた。偽りの関係しかあり得ないスパイ戦の中で浮上してくる真の関係。少年だった私は、おそらく今よりも敏感にそれを感じ取った。さらに冒頭とラストに出てくるヴェニスの風景がすばらしくロマンティックで、FROM RUSSIA WITH LOVE……と歌う男の声とともに長く記憶に残った。私はヴェニスの風景をロシアと勘違いし、ロシアってなんてすばらしいんだろう……と思っていた。大人になってからこの映画を観直したことがある。胸躍るアクションものから、少し退屈な名作ものに変貌《へんぼう》していた。こちらが変わったのだが。昔感動したものは観直すべきではない。
007が終わり、ニュースが始まった。
灰皿を引き寄せタバコをふかす。相方に迷惑がかかるので今まで遠慮していた。田村は掛け布団の上にそのまま横たわり、軽いいびきを立てている。眠ってしまったようだ。テレビのヴォリュームを下げる。眠る気にならない。深夜映画が始まった。『ホット・スポット』主演ドン・ジョンソン。つまらない。いきあたりばったりのストーリー。脚本があるのだろうか。主人公が何をやってるのかさえ、よくわからない。三十分くらい観てギブ・アップした。チャンネルを変える。『レオン』だ。十二時三十分。ジャン・レノの顔が大写しになった。と――
同時に異変が起こった。
ガシャンという音がした。やや遠くだったが鋭く耳につき刺さった。窓ガラスが割れたような感じだ。心に黒いものが広がる。水の中に落ちる一滴の墨汁だ。音は二階の奥から聞こえた。志乃か? 田村の不吉な言葉が蘇《よみがえ》る。
私は田村の肩を揺すぶった。熟睡していたようだ。彼は上半身を起こして、欠伸《あくび》をし体を伸ばす。真っ赤な目を二、三度|擦《こす》り、
「すっかり眠ってしまった。……風見さん。どうしたんです?」
「変な音がした」
「聞こえませんでしたよ、寝てましたから」
「窓ガラスが割れたらしい」
「何で」
「わからん。ドロボウか、事故か。様子を見て来ようと思う。どうする?」
彼はしばらくぼんやりしていた。一、二分が十分にも思える。一人で行こうと決意した時、「一緒に行きます」足元をふらつかせて立ち上がった。
廊下は暗く誰もいない。右奥の部屋のドアが少し開き、光が漏れていた。志乃の部屋だ。
「鍵《かぎ》を掛けておかないから」
思わず愚痴っていた。ドアへと走る。背後でドアが開き、人々が出てくる気配が感じられた。ざわついてくる。ノブに手をかけた。勢いよく開く。襖《ふすま》は開け放たれていた。板の間から向こうの六畳間まで見通せる。電灯はついていた。
少女が俯《うつぶ》せに横たわっていた。掛け布団のうえに倒れ伏している。背中に銀色の棒のようなものが突き立っていた。白いジャージが赤く染まっている。
人々が集まってきた。誰かが叫んでいる。
「皆さんは入らないで。ここにいて下さい。落ち着いて。誰か救急車と警察を呼んで下さい」
田村だ。生徒を仕切るように命令する。学校で集団を動かすのが仕事なのだ。慣れていた。
部屋の中に駆け込む。テーブルに一瞬目がいく。開かれた画集。目に焼き付く。黄土色の円筒形の塔。バベルの塔だ。そんなことはどうでもいい。志乃の顔をのぞきこむ。白いタオルで猿ぐつわをかまされている。上着が乱れ、きゃしゃな肩がはだけていた。白いブラジャーがずり落ちている。襟を引っ張りあげ、服を整えてやった。その時。
志乃の肩がわずかに動いた。
生きている。
こういう時は何でもいいから話しかける。テレビで得た怪しげな知識だ。私は耳元で、
「志乃、おい志乃、しっかりしろ、脅かしやがって、まだ生きてるじゃないか、傷は浅いぞ、大丈夫だ。すぐ救急車が来る。俺《おれ》だ、風見だ、わかるか、俺がわかるか」
志乃の目が私を捕らえる。一瞬だ。次の瞬間にはもう焦点を結んでいなかった。口が少し開く。何かいいかけた。猿ぐつわが邪魔をする。右手が動いた。指先に血がついている。
震える人差し指が、畳の上に置かれ……這《は》うようにゆっくりと進み……半円を二つ繋《つな》げたような形が描かれ……指の動きは次第に……緩慢になっていき……そして……止まった。
止まってしまった。
その瞬間、志乃の体から力という力が抜けていくのがわかった。瞳をゆっくりと閉じていく。
――睫《まつげ》が長い。いや、そうではない。何を考えているのだ俺は。瞼《まぶた》が上がらない。死んだのか。動かない。死んだ? まさか。ピクリともしない。こんな時どうする。彼女をかき抱く。そして男泣き。駄目だ。生きていたらどうする。下手に体を動かしたら助かるものも助からない。死んだように見えるだけ、たぶんそうだ。ナイフを抜くか。無茶だ。触るまい。かえって致命傷になってしまうかもしれん。血は止まっていない。だが出血は意外と少ない。不幸中のさいわい。助かるかもしれない。猿ぐつわは? 外そう。ちくしょうめ。ひどいことをしやがる。口に手を当ててみよう。息を少し感じる。気のせいか? 手首に触れてみようか。俺は脈の取り方なんかわからん。なんてこった。バタフライナイフ、銀色の。背中、腰の左のあたりに刺さっている。その下にもうひとつ傷口があった。二度刺されたのだ。バタフライナイフか。一時、少年たちの間で流行《はや》ったやつだ。テレビの影響だ。人気ナンバーワンタレントが使っていた。犯人がバタフライナイフを使ったのはその影響? 短絡的だ。同じようなことが俺の子供時代にもあった。人気歌手がライターを小道具にして歌ってた。子供が彼のまねをして火事を起こした。歌手はブラウン管の中で泣きながら頼んでいた。危険なことはしないでください。――なに考えてるんだ。しっかりしろ。待て。待つんだ。待つしかない。救急車を待つしかない。ただ待つのはつらい。長い、長すぎる。一秒が千秒だ。この一秒一秒が地獄と天国のすべてを含む、ってのは誰の言葉だったか。――
待つしかなかった。
中学教師がゆっくりと部屋の中に入ってきた。埃《ほこり》を立てるのを恐れるかのように慎重にだ。彼の目が畳の上の血文字に留まる。志乃が今、書き残したものだ。文字ではないかもしれない。
「何だ、これは? この血文字、血模様は? こんなものが出てくる筈《はず》がない。どう当てはめればいいのか。ダイイングメッセージ……手掛かり……なのか」
田村は著しく集中力を欠いて見えた。いうこともピンボケだ。この非常時に何をいっているのか。教え子の心配をするのが普通だろう。彼の頭に志乃はない。腹が立つ。かといって何ができるというわけでもないのだが。
インテリ面の青年は受験問題集を解説する時のような口調で、
「何を書こうとしたんだ。……E、アルファベットのEに見える。しかし、メッセージだとしたら、何を伝えようとしたのだろう。……犯人、犯人の名か?……いや、そうか……犯人の名前……そういうことか」
何をぶつぶついってやがる。少女の顔は土気色だ。血の気が引いていくのがありありとわかる。田村は被害者に目もくれず、窓に近づいた。
「ガラスが割れている。何故窓が割れたのだろう。ガラスは部屋の中にほとんど落ちていない。外から割ったわけではないようだ。鍵は掛かっている。人が通り抜けるだけの隙間《すきま》もない。犯人は外部から侵入しなかった。では、どうして? 内側から何かがぶつけられた。おそらくそうだ。犯人か被害者が窓ガラスに何かぶつけたのだ。大きなものではない。外に落ちている筈だ。雪に埋もれているかもしれない。だが、何故ガラスが割られたのか」
いいかげんにしてほしい。考えたことをすべて口にしている。誰に聞かせるというわけでもないようだ。私はガラスが割れる音を聞いてここに来た。割れていて当然だ。被害者と犯人が争ううち、何かのはずみで割れたのだろう。重要なことではあるまい。いらいらする。不自然なのだ。テレビのサスペンスドラマを思い出す。ルポライターやスチュワーデスや看護婦や葬儀屋や芸者が、警察顔負けの活躍をする。彼らは名探偵だ。たいした必然性もなく事件に首を突っ込み、捜査権もなく捜査し、手掛かりも論理もなく素人とは思えぬ見事な、しかし都合のいい推理を披露する。まさしく名探偵そのものである。あれはあれで面白いので、つい観てしまう。今の田村はドラマの名探偵の安手なコピーだ。
「あっ」
名探偵が大声を出した。芝居がかった様子はない。
「何だ、これ……そんな……あり得な……塔……建ってい……そんなこ……俺はこんなことし……風……」
所々しか聞き取れなかった。志乃の側にしゃがみこんだまま、田村を見上げた。私に背を向けて立ち尽くしている。彼は振り返った。視線が合うと、目には生々しい恐怖の色がある。
「どうしたんですか? 先生」
「お、俺……いや、私はこんなことし……信じない。風……」冷静になろうと努力している。「風が吹けば桶屋《おけや》が儲《もう》かる式の発想なんだ。信じない……信じられない。そうとも……しかし、しかし、しかし、また……また、バベルの塔があった。テーブルの上の画集、血が付いた本のページ、白い立方体のバベル、思った通りのリンク、バベルの塔は建っていた。やはり塔は建っていたのだ……」
狂ったように見える。そんなに重要なことか。
「先生、あんたしっかりしなさい。バベルが何だっていうんです。バベルの塔の本なんだから、塔の絵が載ってて当たり前です。くだらない」
廊下では旅館の経営者が、廊下にいる人々を一階ロビー前の喫茶室へ移動させていた。従業員を含め、皆のろのろと動き出す。心配そうな眼差《まなざ》しを感じた。恭介だ。田村に視線を戻す。私はこの一瞬以外彼から目を離していない。逆に田村は私などまるで眼中になかった。極端な話、私がこの瞬間に志乃に止《とど》めを刺しても気づかなかっただろう。それほど何かに心を奪われていた。彼はテーブルの前に座り込み、背中を向けたまま、
「風見さんは……何も知らないから……そんなことをいうのです。話を聞いてくれればあなたにも理解できる。これが、どんなに重要なことなのか。……警察に、いわなければ。……私から警察に、告げなければ」
「何を告げるというのです」
サイレンが聞こえてきた。次第に大きくなる。
田村はゆっくりと振り向き、
「この事件、藤川志乃の事件が、連続殺人の一環だということです」
「連続……殺人?」
「そして、おそらく私は一連の事件の犯人を知っています」
Y
刑事役を演じる舞台俳優のようだった。
気難しく眉《まゆ》をしかめている。目尻《めじり》の垂れ下がった男だ。面長で、鉤鼻《かぎばな》をしている。顔中に深い皺《しわ》が走っていた。色が白く、黒目が茶色がかっているので、フランス人のようだ。今にも張りのある言葉でトレビアン! とかいい出しそうである。実際には低くしわがれた声で話す。五十歳前後だろうか。背が高く、手足が長い。ダーク・スーツに身を固めたこの男は成田といった。俳優ではない。本物の刑事である。
隣の男はまだ若い。小柄で岩のような体をしている。白っぽいスーツを内側から筋肉が圧迫していた。角刈りにエラの張った顔には闘争心があふれている。高見沢と名のった。あまり話さず、始終手帳に何かメモしている。取り調べは成田が中心に行った。
警察と救急隊員はほぼ同時に来た。志乃は病院に運ばれていった。
タンカに乗せられた姿はとても小さく見えた。青白い顔をし微動だにしない。少女の顔は生気を失ってますます人形化していた。死んでいるように見えた。後は神に祈るばかりだ。ただし神などいはしないだろうが。存在するとしたらおそらく虫みたいなものだ。我々とは原理が違う。祈りなど通じない。自分の力の及ばぬ部分は突き放すことにしている。死んだ時が寿命なのだ。志乃に力と運があれば生き残る。
藤川志乃に会うことは二度とないような気が、……私にはした。
さすがに父親に電話した。高い声の男だった。「大変だ大変だ」と大変を何度も繰り返した。人の良い親父《おやじ》があわてふためいている様子が目に浮かんだ。すぐに病院に向かうという。志乃の話とは印象が少し違った。電話だけでは何ともいえないが。
旅館には制服や私服の警官たち、白衣や作業着の鑑識らしき人々が入り乱れた。警察が来るまで私と田村が見張っていたので、犯行現場の保存はほぼ完璧《かんぺき》だろう。私たちは喫茶室に禁足された。トイレさえ断ってから行かねばならない雰囲気だった。
室内には四人用の丸テーブルがいくつか配置され、私たちは適当に別れて座っていた。喫茶室の照明が普段より暗く思える。成田の眉と目の段差が濃い陰を作っていた。額が高いところも外国人だ。常に一同に油断なく目を配っている。刑事たちは立ったまま質問をした。簡単な事情聴取の後、旅館の経営者や従業員、私たち以外の泊まり客は別室に移された。別個に調査するということだ。当面無関係と判断されたのかもしれない。容疑者は陶芸教室の関係者なのだろう。むろん、従業員や他の客から警戒を解いたわけではない。また、完全に旅館外の外部の者の犯行という可能性も検討しているに違いない。取り調べは一人ずつかと思っていたが、まずは全員一括して行うようだ。
館長は出張のため、宿泊していない。学芸員の眉村が最高責任者ということになった。彼はしどろもどろになりながらも、これまでの経緯や人物の紹介をした。極めて要領が悪かったため、何度か手助けしなければならなかった。
成田は渋い声で念を押し、
「皆さんは一昨日から陶芸教室に参加、あるいは関係していた。場所は大津版画館の一階、講師は諸川玲氏。昨日は実習の二日目だった」
時計は午前二時を示している。興奮しているせいか眠気はない。長々と宴会をやっていた連中の多くはひどい顔をしている。だが、あれだけ飲んだのにオーエンはけろりとしていた。隣に座る恭介の横顔が目に入る。虚《うつ》ろな顔だ。心がどこかに行っている。私と恭介、田村、眉村が一つのテーブルについていた。江上、オーエン、木中、諸川でもう一つ、残りは三つのテーブルに別れて座っていた。
「昨日の午後トラブルが発生した」刑事は江上をちらりと見て、「作品を運ぶ時、江上さんと藤川さんがぶつかった。江上さんは逆上し暴力をふるった。そうですね?」
美術教師は顔を伏せたまま、はいといった。伏せていても顔が長い。
「何故子供にそんなことをしたんですかね」
「自分でもよくわかりません。僕はどうかしてました。ひどいことをしたと反省しています」
高見沢がぽつりと、「傷害罪」
「す、すみません。僕は美術のことになると駄目なんです。冷静でいられなくなります。心を込めて作った湯飲みを藤川……さんに壊されてしまったんです。思わず手が出てしまって……そしたら頭が真っ白になって。本当に申し訳ありませんでした」
「私に謝罪されてもねぇ。相手が違いますね」
成田は、独特の皮肉な響きがある≪ね≫を多用する。
「藤川さんに壊されたというが、お互いの不注意でぶつかったらしいじゃないですか。被害者面して自己防衛に走るのはやめなさい。見苦しいですよ。あんた、学校の先生ですよね。あんたみたいな人が学校の、我々公務員の、信用失墜を招くんですよねぇ。しかるべき処置をとらんとね。でも、まぁ今はおいておきましょうか」
舞台から観客をなめるように一同を見回し、私に目を留めて、
「藤川さんは、風見さんと田村先生に送られて旅館に着いた。何時頃でしたか」
「四時半くらいじゃなかったかな」
「午後四時三十分頃からずっと自室で休んでいて、夕食もとらなかった、と。具合がかなり悪かったんでしょうかね」
私は田村を見た。目配せを受け止めない。考え事をしている。話を聞いていないようだった。やはり普通ではない。
「部屋に戻ると吐いていたようです。本人は大丈夫だといってました」
「医者を呼ぶか、病院に連れて行くかするべきでしょう」
「反省してます」病院に行けば、少なくとも、こんなことにはならなかった。
「保護者にも連絡しなかったとか。何故ですか?」
いわくいい難い。
「私のミスでした。すみません」
≪私には、彼女はたいしたことがないように見えたんでね。急ぐこともなかろうと思いました。最近の子供は過保護過ぎますよ、ま、見解と立場の違いですかね≫とは、いえない。長い物には巻かれろ。むろん本当の理由もいえない。
恭介が私を睨《にら》んでいる。成田は話題を変えて、
「風見さんと田村先生は旅館から版画館へ戻った。実習が終わったのは五時。全員で移動し旅館に着いたのが六時。夕食は七時から、宴会は七時三十分頃から始まった……」私はいちいち頷《うなず》いていた。「終わったのは何時でしたか」
一同顔を見合わせた。私にはわからない。木中貞子が口を開いた。
「中締めが終わってからも、ぐずぐずしてたものねぇ、みんな……」
午前二時を回っているのに顔の張りが失われていない。生気に満ちている。赤い唇が妙にあでやかだ。メイクし直したのか。大きな目を細め、二人の刑事を交互に見た。
「昨夜はすごく盛り上がったのよ。我を忘れて飲んでた。ぐでんぐでん。ミスター・ハートなんかすごかったのよ」お前もだ。「みんな引き揚げたのは九時半というところかしら」
誰も異議を挟まない。記憶をたどる。二階の廊下が騒がしくなったのは、007映画が始まってから三十分過ぎた頃だった。宴会が終了したのは九時半頃に違いない。
私は自分から話題を切り出し、
「私は宴会を少し早めに切り上げました。飲んだら吐き気がしてきたんで」理由は嘘《うそ》である。「同室の田村さんと一緒に部屋に戻りました。八時半くらいだったでしょうか。テレビを観てたんですが、藤川さんの様子が気になって部屋を訪ねたんです」
高見沢が≪ほう≫という顔をした。彼はひっきりなしに手帳に何か書いている。私たちがそれほど実のある話をしているだろうか。落書きしてるんじゃないだろうか。
成田は無表情に、「それは何時ですか」
「九時、でしょうか。ドアの鍵《かぎ》が開いていたんで、勝手にのぞいてみたんです。彼女は布団をかけて寝てました。顔色も悪くなかった。部屋の中には入らず、襖《ふすま》から声をかけただけです。彼女は大丈夫だと答えました」
「何故部屋の中に入らなかったのですか」
「布団に入ってましたから」
「部屋の電灯はついていたんですね」
「眠ろうとしているんじゃなく、寝ていただけです」
「鍵も掛けずにね。不用心ですねぇ」
「いつも掛けないんですよねぇ」成田の口調を真似てしまった。「ロックしろと注意してたんですけど。妙に自分を突き放したところがあって」その結果がこれだ。
「犯人が誰であれ、侵入は容易だったわけですね」
「顔見知りでなくとも、何の苦労もなく」
「あなたが行った時、藤川さんに訪問者があった様子はありませんか」
「気づきませんでした」
「これから誰かに会うとかは?」
「なかったと思います」
「被害者は九時に布団の中で休んでいた。宴会は九時三十分に終わり、全員が二階の自室に戻る。皆さんはその後どうしていたんでしょうかね。後で聞きます。風見さん以降に、藤川さんに会ったか、見かけた人はいませんか」
恭介が口を開きかけて閉じた。成田はそれを見逃さなかった。視線が少年を射る。恭介は目を逸《そ》らした。
「どうですかね、風見君」恭介は風見君、私は風見さん。「藤川さんの容体が気になりませんでしたか」
「……すごく心配でした。今と同じくらい」
「恋人かね」
「同じクラブの部員で、同級生で幼なじみ、それだけです。藤川と親しい人なんかいないと思います。友達がいなかったんです。僕は……」
話し続けるうちに小さな決意の表情が浮かんできた。
「僕は、昨晩、二回ほど藤川の部屋に行っています……」
成田は一つ頷いて先を促す。
「僕は夕食が済むとすぐ部屋に戻りましたが、藤川のことが気になって仕方ありませんでした。それで八時頃、部屋に行ってみたんです。ノックしても返事がなかった。勝手に入って襖のところで容体を聞きました。襖は開いていた」私と同じことをやっている。「一時間後に国彦さんが行った時と同じように布団に寝てました。僕が何をいっても、うんともすんともいいません。無視されたんです。で、部屋に戻りました。テレビを観たり、雑誌を読んだりしましたが、集中できません。でも、どうしても気になって、もう一度藤川の部屋に行きました」
「何時ですか」
「夜中……十二時十分でした」
「十二時十分? やけに細かく覚えてますね」
「時計を見ながら迷ってたんです。行こうか、行くまいか」
「随分遅いですね。十二時三十分頃に藤川さんは刺された。事件は君が行ってからすぐに起こったのです。どういうことなんですかねぇ。二度目に行った時も彼女は寝ていましたか」
「起きてたんです。白いジャージを着て窓際のテーブルに向かって本を読んでました。眠れなかったのかもしれません。やはり襖のところから話しかけましたが、完全に無視されました」
「何を読んでたんでしょうね」
「テーブルの上には何冊か本がありました。ビニールに包まれた洋書。文庫本が何冊か。彼女が手にしていたのは文庫本の詩集でした。ウィリアム・ブレイク『無心の歌、有心の歌』です」
「ブレイク? 詩? 私にはわからん分野ですね。藤川さんはどんなふうでした? 変わった点に気づきませんでしたか」
「普段から変わってますから」
「どんなに小さなことでもいいんです。つまらない言葉の断片とか」
「完全に無視です。全くの無言でした」
高見沢が珍しく横槍《よこやり》を入れ、
「それで君は帰ったの。それだけで?」
「戻りました」
「十二時過ぎって、女の子を訪ねるには、ちょっと遅くないか。何か別の目的があるなら別だがね」
「そんなものありません」
「下心があったんだろう。中学三年くらいになれば、別に不自然じゃない。同じ旅館に泊まるなんてめったにないチャンスじゃないか。正直にいいな」
警察官もいじめをやるようだ。よこしまな思いを抱いていたとしても、公衆の面前で認められる筈はない。それとも、鎌をかけて何かが出てくるのを待っているのか。
「僕は彼女の容体が心配だっただけです」
「恋人なんだろ」
「同級生です」
「恋人にしたかったんだろ」
「違います」
高見沢は妙にしつこい。
見かねたのかどうか、木中貞子が口を挟んで、
「まさか刑事さん」高見沢が微《かす》かに唇を歪《ゆが》めた。罠《わな》は恭介だけでなく全体にかけられていたらしい。「恭介君が藤川さんを襲おうとしたとかいいたいわけ?」
「可能性はあるよ」若い刑事はにやけた顔で、「部屋に入っていやらしいことをしようとした。むろん少女は抵抗する。だから刺しちまったんだな。バタフライナイフは一時子供の間で流行《はや》ったし。販売が規制されたくらいだ。中学生の男子が常備してても不自然とは思わないね」
「私には不可思議この上ないわね。恭介君がナイフをのんでるなんて。ま、見かけで判断してるんだけどね。それに、彼が刺したんなら、十二時に被害者を訪ねたなんていい出すと思う? 私は思わないわね。それなら恭介君よりずっと怪しい人がいるわ」
女はザンバラ髪の男を睨《にら》んだ。
「諸川先生よ。教えてもらってて何だけど、彼は変よ。実習中に藤川さんの後ろに回って、ベタベタ触りまくって、いやらしいったらありゃしない」カナダ人に話を振って、「そうでしたわよね、ミスター・ハート」
オーエンは片方の眉《まゆ》を上げて目玉をぎょろりと動かし、
「ハイハイ、イエスネ。センセイハアブナイ、アブノーマルネ。ワタシモミマシタ」
彼らも諸川玲の痴漢行為を見ていたのだ。木中とオーエンは、刑事の前でもまったく臆《おく》するところがない。緊張感がないのだ。私の倍くらい図太い。
諸川は、二人を見下し、意外に落ち着いた声で、
「冗談をいってもらっては困りますな。私は指導していたに過ぎない。手取り足取り教えることも時には必要です。初心者、下手なものには丁寧に教えるのが道理でしょうが」
木中は髪をかき上げて唇を歪め、
「私は初心者で下手だけど、近づきもしなかったじゃありませんか。あんた怖いんでしょ、女が。ロリコン? マザコン? 先生って童貞? あんたみたいな人が女の子の部屋に忍び込んだりするのよ。思い通りにいかないから刺しちゃったりね。違う?」
いい過ぎだ。口が過ぎる。諸川に自分の魅力がまったく通じなかったことが気にくわないのかもしれない。しかしリアリティはある。あの触り方は普通ではなかった。いわれても仕方ない。諸川の体が痙攣《けいれん》するように震え始めた。木中と諸川は同じテーブルで向かい合っているが、隣にオーエンという巨大山脈が聳《そび》え立っているため、安心して挑発できるのだろう。
さすがに成田がいさめて、
「木中さん。いい過ぎですね。場というものをわきまえて下さい。取り調べの最中なんですからねぇ。話を戻します。十二時十分以降、藤川さんを見た人はいませんか」
反応なし。
「風見君が被害者に会った最後の人ということになりますね。確認します。十二時三十分、ガラスの割れるような音がした。これは藤川さんの部屋の方角から聞こえた。実際に窓ガラスは割れていました。駆けつけると藤川さんは背中を刺されて倒れていた」
色の薄い瞳で私を見て、「服装が乱れてたんじゃないですか」
「乱れてました。肩がはだけていたんです。かわいそうだったから直しました。その時、生きてることに気づいた。猿ぐつわも私が外したんです」
「当然そうするでしょうね。あなたの目から見て、どの程度乱暴されていたようですか」
「服が乱れていただけだと思います。それ以上は何もされていない」
と、答えるしかないではないか。配慮のない質問だ。
「暴行されかかったような感じでした。レイプされた様子はなかったですね」
事実である。が、明らかに犯されていたとしても、人前でいえるものではない。
成田は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いて、
「風見さんが服を直した時点では、被害者に意識があった」
「その時だけ、意識を取り戻したようです」
「意識を取り戻し、畳に指で何か書いてから動かなくなった。そうですね」
≪動かなくなった≫といういい方が気に入った。≪死んだ≫でも≪息絶えた≫でもない。志乃は今、病院で手術中だろうか。大丈夫、助かる筈だ。自殺しようとしたのに死ねなかった子なのだ。まだこの世に役割があるに違いない。珍しく田村が顔を上げ何かいいかけた。しかし思いとどまったようだ。志乃が血で書き残したものに、考えがあるのかもしれない。私は成田の襟の辺りを見て、
「藤川さんは、あの時、何かを伝えようとしたみたいでした」
「意識は混濁していた筈です。あなたを認識できたんでしょうかね」
「目が私を捕らえました。一瞬でしたが」
「風見さんに何を伝えようとしたんですかね」
ハーフのような茶色い瞳がじっと見つめている。
「……わかりません。必死に何かを伝えようとして、力尽きたんです。伝えようとする途中で……ふっと……全身の力が抜けたみたいでした」
田村が体を硬くしたのがわかった。何かおかしなことをいっただろうか。
「風見さん、意味はわからなくても、あれは藤川さん本人が書いたことは間違いないですね」
「目の前で書きましたから」犯人の偽装工作ではない。
私は逆に質問してみた。
「刑事さんは、あれは何だと思いますか」
「血文字ないし血模様の検討は後回しです。重要かもしれないし、重要ではないかもしれない」軽くいなされたのが気に食わず、もう一つ質問してみた。
「窓ガラスは何で割れてたんでしょう」
成田は高見沢と目配せしてから、
「ま、これくらいは明かしてもいいでしょう。窓の外に置き時計が落ちていました。雪に沈み込んでましたがね。旅館の各部屋に置かれている四角い置き時計です」
あれか。十五センチ四方くらいの黒いやつだ。
「時計の落ちていた位置、ガラスの破片の飛び散り方などから、仮説が成り立ちます。当たり前のことですが、時計は部屋の中から外に向かって投げられた。というより、時計をガラスにぶつけたんでしょうね」
「何故そんなことをしたんですか」
警察にあまり質問するのは危険な気がした。だが、後ろめたいところがあるわけではない。
成田は再び高見沢と顔を見合わせてから、
「ご想像にお任せします」
では、想像してみよう。犯人は十二時十分を少し過ぎた頃、志乃の部屋に向かった。どこかのドアの陰から、恭介が出ていくのを見ていた可能性もある。犯人は志乃の部屋の前に立つ。ドアを静かに開く。鍵《かぎ》は掛かっていない。忍び足で板の間を渡り、襖《ふすま》を開く。志乃は机に向かって本を読んでいた。犯人には背中を向けている。犯人は一気に詰め寄った。襖は開けっ放しだったかもしれない。その場合、ドアから部屋の中まで一息に通過した。猛獣のように静かに素早く、だ。犯人は少女の口をふさぎ、バタフライナイフで脅す。騒ぐと殺すぞ。猿ぐつわを咬《か》ませる。その時、ナイフの切っ先が外れた。志乃はその隙を見逃さなかった。抵抗する。服はこの時、乱れた。口にタオルが食い込み声が出せない。手近にあった何かを窓に向かって投げた。音を出せば助けを呼べるかもしれない。それが、置き時計だったのだ。
あるいは犯人にぶつけようと思って投げたのだろうか。それが逸《そ》れて窓に当たってしまった。とにかく窓はこうして割れた。大きな音がして、犯人はあわてたことだろう。怒りさえ感じたかもしれない。ナイフで刺す。背中から二度だ。そして逃走する。
「ガラスの割れる音がして、まず風見さんが廊下に出たんでしたねぇ。その時、誰か不審な人物を見ませんでしたか」
「誰もいませんでした」田村をちょっと見て、「部屋の中でぐずぐずしてましたからね」
「どれくらいしてから部屋を出ましたか」
「はっきりとはいえません。田村さんを起こしたりしてましたから。短くて一分、長くて三分、それ以上ではないでしょう」
「その間に、犯人は被害者の部屋から出て二階の部屋のどこかに入った。あるいは風見さんの部屋の前を通り過ぎ、階段から一階へ逃走した。あなたはどちらだと思いますか」
「藤川さんの部屋の窓から外へ逃げたんじゃないですか。雪があるから、飛び降りても大丈夫ですよ」
「その痕跡《こんせき》はありませんね。窓には鍵が掛かっており、雪には足跡などまったく付いていなかった。窓ガラスは割れていましたが、人が通り抜けられるほどの隙間はありません。せいぜい風が吹き抜けるくらいでしょう。犯人が窓から外へ出たとは考えられません。二階の部屋に戻ったか、階段から一階へ逃げたか、ということになります。あなたの部屋は階段のすぐそばだ。何か気づきませんでしたかね」
慎重になった。下手に答えると自分の首を絞めることになる。
「テレビの音がうるさかったんです。田村さんは眠ってましたし。犯人が階段を降りても、私たちは気が付きませんでしたね」
嘘《うそ》だった。田村が眠っていたのでヴォリュームは絞っていたし、犯人が階段を降りたとしたら気づいた筈だ。それくらい階段は軋《きし》む。忍び足で歩いたとしてもだ。あの時、気配はまったくなかった。犯人は素早くどこかの部屋に入ったのだ。私と田村の部屋以外のどこかに。そして静かにドアを閉めた。二階の部屋は我々が借り切っていた。すると――
間違いない。犯人はこの中にいる。
犯人は講座の中の一人に限定されるのだ。全員の顔を一人一人見回す。誰が藤川志乃を殺した……いや、刺したのか。
成田は同室の田村にも同じ質問をしている。そのうちアリバイ調べが始まるだろう。保身を考えた。私も容疑者の一人である。私はテレビを観ていた。志乃の部屋に様子を見に行った午後九時から、音を聞いて駆けつけた十二時三十分までだ。その間ずっと田村と一緒にいた。室内トイレには一回くらい行ったか。しかしアリバイは完璧《かんぺき》である。この時ばかりは、相部屋でよかった……と、思ったとたんにぞっとした。
彼は眠っていたではないか。志乃は十二時三十分に刺された。あるいは犯行時刻を恭介が訪ねた十二時十分から、十二時三十分の二十分間に広げてもよい。その時間帯、田村は熟睡していた。彼は数時間前から、六畳間を一歩も出ていないのだ。私が九時に志乃の部屋に行ってからずっとだ。私自身が証人、鉄のアリバイだ。翻って、私はどうだろうか。彼は私のアリバイを証明できるだろうか。――無理だ。彼は眠っていたのだから。例えば田村が、こう考えたとしたらどうなるか。私が藤川志乃を刺した。理由は何でもいい。レイプし損ねて刺したとしよう。凶行に及んでから、素早く部屋に戻り、田村を起こす。私はいかにも今ここで、自分の部屋で、音を聞いたようなふりをして話しかけた。≪ガラスが割れる音がした。様子が変だ、見に行こう……≫。そして第一発見者になりすます。厳密にいうと、私にはアリバイが成立しないのだ。
アリバイから犯人をしぼるのは容易ではあるまい。時間が時間だし、個室にいた者はアリバイがなくて当然だ。もう一組の相部屋でさえ、昨日は館長不在のため眉村が一人で使っていた。犯人以外ほとんどが泥酔していたかもしれない。最も遠い位置にいた私が一番最初に駆けつけたのだ。その可能性はある。
「藤川さんの隣の部屋に入っていたのは」成田は木中貞子を見て、「あなたでしたね。気づいたことはありませんか」
「何も聞こえなかったわ。いえ、聞いたんでしょうけど、わからなかったわ。ベロベロになって眠ってましたもの。夢うつつの中で、何か大きな音を聞いたけど、あれがガラスの割れる音だったのね。ちゃんと起きたのは、救急車が来てからよ」
私が志乃に寄り添っていた時、廊下に彼女の姿はなかったような気がする。部屋の中にいたのは、本当かもしれない。だが眠っていたというのは、どうだろう? メイクが奇麗すぎる。この女が化粧にかける時間など見当もつかないが、案外一瞬で済む……のだろうか?
「ねぇ、刑事さん。犯人は男なんでしょう」
「その可能性は高いと思いますね」
「当然よ。藤川さんは乱暴されてたんでしょ。いえ、服が乱れていただけだったかしら。でもガラスが割れてたってことは、彼女、犯されたか、犯されそうになって抵抗して、時計を投げたってことよね? 犯人に投げたのか、最初からガラスにぶつけたのかわからないけど。いずれにせよ、女は少女を襲ったりしないわ。犯人は男。そうでしょう?」
「ま、そうでしょうね」
成田は煮え切らない返事をして、
「廊下を隔てて向かいの部屋はどうでしたか」
江上康夫は首を横に振って、「僕も眠っていて出遅れました」と、つぶやいた。
成田は全員にアリバイを聞いていく。物音がした時、何をしていたか。誰かと一緒にいなかったか。私と田村だけが申し合わせたようにお互いのアリバイを保証した。彼は≪うたた寝していただけで、風見さんが出て行けばわかった≫などといって、口裏を合わせた。事実でないことは私が一番よく知っている。他にアリバイが成立した者はない。
木中貞子は犯人は男だといった。私もそう思う。しかし、もし我々にそう思わせるために志乃の服装を乱したとしたらどうだろう。根拠はないが可能性はある。同じようにガラスを割ったのが犯行時間をごまかすためだったとしたらどうか。志乃は十二時半以前に刺されていた。犯人はその時間をごまかそうとして、後からガラスを割ったのだ。ところがこれは無意味なのである。ガラスの割れた時間にアリバイのある者はいない。一方、私と田村は、それ以外の時間でもアリバイが成立する。どちらにしても無駄な工作なのだ。裏の読み過ぎは禁物だ。かえって事態をややこしくする。≪狂った男が十二時半に志乃を刺した≫、これが結論だ。単純な事件なのだ。私は一応、全員をフォローするつもりで、
「ここにいる皆さんが犯人とは思えません」と、心にもないことをいった。「犯人は変質者か何かで、私が廊下に出る前に階段を降り、一階から脱出したのだと思います」
「そうですねぇ」と成田はあいまいに頷《うなず》き、「ただし問題があります。我々が到着した時、玄関や窓は施錠されてました。犯人はどこかに隠れていて、ドアが開けられると、どさくさにまぎれて外へ出て逃げたのでしょうか。あり得るかもしれない。この旅館は人里離れた場所に建っています。この辺をうろつく変質者となると、冬眠できなかった熊みたいな奴《やつ》ですねぇ。しかし、ま、外部の者が犯人であると、私も思います」
私は思わない。
「畳の上のメッセージについても、皆さんに聞いておきましょうかね。藤川さんは持てる力を振り絞って血で模様を描きました。文字かもしれません。彼女は何を伝えようとしていたんでしょうかね。皆さんの考えを聞きたいのです」
「頭の固い我々じゃ、どうもね」と、高見沢。
「私は見てないからわかんないわよ。どんな形だったの」
木中貞子だけではない。私と田村以外誰も見ていないのだ。廊下から見たとしても、明確な形はわからなかっただろう。ということは、犯人でさえ見ていないかもしれない。これが何かのポイントになるか、どうか。ともかく被害者自身が書いたメッセージであり、犯人が偽装したものではないことだけは間違いない。成田は手帳を取り出し、ボールペンで何か書いた。破り取って木中たちのテーブルに置く。木中、オーエン、諸川、江上の目が紙片に集中した。
「私の角度から見るとEね。アルファベットのE」
「アルファベット? ダブリュー、Wデスネ」
「数字の3ですかな。あるいはひらがなの、ろ」
「僕にはMに見えます」
四人はそれぞれの位置から見て、考えを述べた。紙切れが私たちのテーブルに回ってくる。私と田村は知っていたので、恭介と眉村がゆっくりと見てから、次のテーブルに回した。田村が何かぶつぶついったが、聞き取れなかった。
「皆さん、どうですか、意見は? 被害者は何を伝えようとしたんでしょうかね」
犯人を告げようとしたのか、別のメッセージか。誰も口を開かない。田村が小声で独り言を始めた。刑事二人は何もいわない。沈黙がプレッシャーをかけた。各自の心に猜疑心《さいぎしん》が芽生える。疑う心が暗闇《くらやみ》に鬼を産む。疑心暗鬼。死ぬかもしれない時、複雑なメッセージを残すわけがないのだ。もしEやWや3やろやMが、犯人の名の頭文字や最初の一文字を表しているとしたら……。想像は悪い方に広がり、妄想は綻《ほころ》びを産む。刑事はそれを待っているのかもしれない。私はイニシャルがK・Kだからまだいい。これが例えば風見悦彦、E・Kだったら穏やかではない。万田悦彦、E・Mだったら目も当てられない。和田とか三助、ロミオでもいやだろう。犯人でなくても不安になる。犯人だったら地獄だ。
隣の男はずっとつぶやき続けている。気に障った。見ると、取りつかれたような顔をしている。視線を感じて彼は口を閉じた。静かに立ち上がる。全員の目が集まった。
「私に一つの考えがあるのです。メッセージは犯人の名前を告げています。そして」
田村正義は思わせ振りに言葉を切った。
「私は犯人を知っています」
Z
「刑事さん、私にお話しする時間を下さい。無礼は承知しています。非常識であることもわかっています。それでもあえて発言したいのです。聞いてほしいのです。あなたがたに伝えたいのです。伝える義務があるのです。どうしてもいわなければならない。何故なら……何故なら、私は犯人を知っています。犯人は外部の者、侵入した変質者なんかではない。犯人は私たちの中に……この中に、目の前に、いるのです」
田村の目付きは尋常ではない。教師というより、群衆の前で演説するノイローゼの町長候補のようだった。喫茶室はざわついていた。ざわめきが甘美なメロディーであるかのように、うっとりした顔をしている。目が宙をさまよう。青白い電灯の光を受けて眼鏡がきらりと光った。
「成田さん、高見沢さん、プロの目から見れば私のいうことなど笑止かもしれません。しかし、しばらくお付き合い下さい。最後まで聞いた上で賢明な判断をお願いします。これはおそらく私だけが知っている異常な事件なのです」
異常なのはお前だ。
高見沢は何かいいかけたが、成田が手で制した。二人は空いているテーブルにつく。高見沢はあからさまに不快な顔をし、成田は馬鹿にしたような笑いを浮かべている。何が出てくるのか見届ける気になったのかもしれない。事情聴取を受けている者が演説をぶち始めるなど、初めての経験だろう。刑事たちの沈黙を田村は許可と受け取った。
「ご協力に感謝します。まず皆さんに前提を飲み込んでもらわなければなりません。藤川志乃の事件は単独の事件ではない。一連の事件の一環です。世間も、マスコミも、警察でさえも見過ごしている連続殺人事件の、おそらく最後の一つなのです。いや、最後の一つにしなければならないのです。何故ならここで犯人を捕まえておかないと次の殺人が起こる可能性さえあるからです」
彼が話し始めた時、普通には見えず、天才か狂人か迷った。今なら断言できる。この男は狂人だ。間違いなく狂っている。
「考えてみれば、偏執狂的殺人鬼がこんな小さな島の中に野放しになっているとは恐るべきことです。しかし警察が気づかないのも無理はない。犯人の放つ信号が中途半端だからです」
背中を丸め、小刻みに体を震わせている男がいる。ザンバラ髪の諸川玲だ。彼が……何故?
「犯人は愉快犯ではない。発信するメッセージは非常に弱々しいものでした。私がそれに気づいたのはたまたまです。むしろ運の悪い偶然からなのです。私は犯人の信号を捕らえたが何もできなかった。ところが私は今回犯人の尻尾《しつぽ》を掴《つか》みました。犯人特定の手掛かりを得たのです。法的証拠にはならないでしょう。しかし犯人はその人物以外にはあり得ない。ところで、高見沢刑事、実は一つお願いがあるのですが」
「――は?」虚を突かれたようだ。
「藤川が刺された部屋から、ある物を持って来てもらいたいのです。テーブルの上にある画集です。注意してほしい点があります。開かれた状態で持って来て下さい。テーブルに置いてあるそのままで、おそらく藤川が開いておいたその状態で、皆さんに見て欲しいのです。犯行現場には私と風見さんしか入っていません。保存状態は完璧《かんぺき》の筈です。お願いできますか。それが無理ならば全員で犯行現場を見に行ってもいいんですが」
高見沢は迷惑そうな顔で成田の判断を仰いだ。どうせ許可されまい。ところが成田はニヤリと笑って頷《うなず》いた。若い刑事は渋々立ち上がり≪何でこの俺が……≫と呟《つぶや》きながら、ゆっくりと階段の方へ向かった。意外な展開だ。
「犯行現場にあったのはバベルの塔の画集です。藤川が持って来た洋書なのです。私はある事情から、バベルの塔に興味を持っていましたが、この画集は今まで見たことがありませんでした。殴られた藤川を送って部屋に入った時、初めて見たのです。昨夜、事件が発生し、再び風見さんと彼女の部屋に入った時、画集は開かれた状態でテーブルの上に置いてありました。私はさっき、この本を≪藤川が開いておいた≫といいました。彼女は刺された時、テーブルに向かい、文庫本ではなく、この画集を見ていたと思われる。そう確信する根拠があるのです。これは、犯人にとって非常に都合のいいことでした」
画集に異常に執着していた田村の姿を思い出す。犯行現場で見た時など、恐怖に囚《とら》われていたようだった。その理由が、今、わかるのだろうか。
「理解を得るためには、話を昨年末に溯《さかのぼ》らせなければなりません。過去に私の周りで三件の異常死があったのです。いわれれば刑事さんたちにはわかる筈です。成田刑事とは初対面ではありません。第一の事件は伊庭典克殺人事件でした。彼は私の同僚で美術の教師です。十二月三日木曜日、四時から六時二十分の間に、大津中学の美術準備室で撲殺されました。凶器はブロンズ像です。私が第一発見者になってしまいました。死体を発見した時、オーエン・ハートさん、あなたはいきなり後ろから現れましたね」
「ソウデシタ。イバノエ、トリニイッタノデス。ワタシノカッタエ。カレハ、カクシテマシタ」
「ハートさんは伊庭の絵を買っていた。伊庭は絵を渡したくなかったらしい。ハートさんは学校まで乗り込んできた。ちなみに伊庭が急死したため、講師として臨時採用されたのが江上康夫先生です」
「僕です。しかし伊庭先生を殺した犯人は、自首しましたよね。確か谷川祐三という」
「自称画家が出頭しました。谷川は風見恭介君の義理の兄に当たります。彼の姉の夫です」
「姉の話は関係ないでしょう。義兄は伊庭先生に盗作されたと思い込み、かっとなって、殴っちゃった。事件は解決してるんです。連続殺人の第一の事件なんかじゃない。他に犯人がいるわけないんです」
「そうでしょうか。谷川は伊庭を殴ったかもしれない。しかし、致命的な打撃を与えていなかったとしたらどうか。事実私は、彼の頭に二つの傷口を見ている。谷川は伊庭を殺したと思い込む。その後真犯人がやって来て、とどめを刺す」
成田は何かいいたそうだ。実際に口を開いたのは恭介だった。
「何故事実をねじ曲げるんですか。義兄が殺した。二回殴ったんでしょ? それでかまわないじゃないですか」
「谷川は誰かを庇《かば》って自首したのかもしれません」恭介をねめつけて、「とりあえず、ここでは伊庭の殺害犯人は別にいる可能性もあるということに注意して下さい。この事件には、目立たないが重要なポイントがあった。伊庭の描いたバベルの塔がイーゼルに掛かっていたのです。今描いている絵は棚に押し込められていました。これは不自然です。何故乾いていない絵を鮨詰《すしづ》めの棚に押し込み、乾燥している絵を引っ張り出して来たのか。私はそこに作為を感じたのです。犯人はバベルの塔の絵を見せたかったのではないか、と」
「セイブツガヲ、ワタシカラ、カクシタンデス。ソレニ、バベルノエ、カキナオシタカッタノカモ。ムカシノエ、カキナオス、ヨクヤルコトデス」
「これだけで終われば全て忘れることもできたかもしれない。そうはいかなかった。偶然とは恐ろしいものです。第二の事件が起こり、ここでも私は第一発見者になってしまったのです」
「もしかして、夫の自殺? 確かに田村先生に発見されたわ。でも夫はノイローゼ気味で、自分から毒を飲んだのよ。殺人じゃない、自殺よ」
「十二月四日の朝でした。木中稔の死体は彼のアパートを訪ねて発見しました。服毒していました。本校の用務員です。手にカレンダーを握っていました。警察の方に謝らねばなりません。その紙を引っ張り出して開いてみたのです。そこには、またもやバベルの塔がありました。ぞっとしました。心底恐怖を感じました。だってそうでしょう? 二度も続けて死体を発見し、二度も続けてバベルの塔を発見したのですから。擬装自殺、自殺に見せかけた殺人、という考えが頭をよぎりました。そして、今回の現場でも不自然な点を発見したのです。木中はこの先一週間分の夕食の献立表を作っていました。壁のホワイトボードに書いてあったのです。そんな男が自殺するのでしょうか」
「でも稔は自殺したのよ。あんな男、いつ死んでもおかしくなかったわ。女の腐ったような奴《やつ》」
「遺書がありませんでした。ドアの鍵《かぎ》も掛かっていません。毒を何かに混入して飲ませたか、無理やり嚥下《えんか》させたか、方法はいくらでも考えられます」
「そうとは思えないわね」
「第三の事件は十二月十三日ないし十四日に起こりました。日曜日の夜か、翌朝に事務員の鈴木智子が死んだのです。アパートの階段から転落死し、事故とされています。しかし、これまた殺人であっても何の不思議もない。後ろから押せばいいだけですから。そして私はここでもバべルの塔を発見したのです。郵便ポストの中に宗教勧誘のパンフレットが入っていました。その表紙が、バべルの塔だったのです。第三の塔の発見です。私の周りにバベルの塔が次々と建っていくような……不思議な感覚でした」
田村は夢遊病の独裁者のように一同を見渡し、それから薄暗い天井をぐるりと見回した。彼のいう全てがとてつもない妄言に思える。牽強付会《けんきようふかい》の寄せ集めだろう。刑事は何故止めないのか。横槍《よこやり》を入れずに田村の話に付き合っている。常識的に考えれば、田村説は万に一つも真実ではあるまい。しかし、不思議なもので周りの人々があまりに否定すると、逆に真実に聞こえてくるところもある。田村は演説を再開し、
「私はバベルの塔の物語を調べ、絵を研究しました。犯人が何故犯行現場にバベルの絵を残すのか知りたかったのです。理由はいくつか考えつきました。だが、重要なネックがあった。気づいているのが私だけ、ということです。事件の共通性、バベルの塔に気づいているのは私だけなのです。だから塔のメッセージは、世間や警察に対する挑発ではない。捜査の誤導を狙《ねら》ったものでもありません。次の被害者をおびえさせたり、追い詰めたりするものでもないでしょう。では何故、現場にバベルの塔が現れるのか。もし犯人が≪神≫だったとしたら、私を狂わせるためだったのかもしれません」
それが真相かもしれない。
「犯人は人間です。可能性を潰《つぶ》していった結果、一番妥当な解釈は次のようなものだと判断しました。≪バベルの塔は犯人の真のメッセージである≫という最も平凡な結論です。犯人が連続殺人を犯す強固な動機を持っており、自分の中でだけ、バベルの塔と動機は関連していたのです。私は犯人の立場になって考えた。考え続けた。その結果犯人になりきってしまった。憎悪が怨念《おんねん》を生み、復讐《ふくしゆう》を思い描く。偏執狂的に計画を練り上げる。その過程でバベルの塔は浮上してきた。この場合、犯行現場にメッセージを残すという行為は、被害者その他あらゆる他人に対してではなく、犯人自身への、内なる自分にだけ伝えるメッセージ――ささやかな復讐の告白……だったのではないでしょうか。世間や警察には問題にもされていないことを考えると、これが唯一の妥当な結論に思えてきます。ということはバベルの塔の意味を解読すれば、犯人に肉薄できる可能性があるということです。私は現れた三枚の絵を検討しました。そしてある法則性に気づいたのです。第一、第二、第三の事件と続くに従って、絵の制作年代が次第に古くなっていくのです。一九九五年の伊庭の絵、一五六三年のブリューゲルの絵、一五五〇年頃のクローヴィオの絵、続く事件にはそれより古い絵が現れるだろう。私はそう読みました。そして、事実、第四の事件・藤川志乃の事件の犯行現場には、十五世紀、一四〇〇年代の絵が出現したのです。犯行現場のテーブルの上にバベルの塔の画集がありました。部屋に入ると私はすぐにそれを見た。見えてしまったのです。開かれたページには、まさしく現れるべくして現れた絵、一四〇〇年代の絵の図版が出ていました。私も風見さんも手を触れていない以上、犯行後そのままの状態で残っていた筈です。事実ページの隅に赤い小さな染みの点々がついていました。犯人が最初に刺し、ナイフを引き抜いた時の、被害者の血の飛沫《しぶき》が付着したものと思われます」
画集は目に入ったが、あまり記憶にない。血の飛沫など気づかなかった。あの状況で絵の本に注意がむくなど普通の人間ではない。田村は階段の方を見た。高見沢だ。白い手袋をはめ、顔に苦渋を浮かべて、画集を運んでくる。本は開いたままビニール袋に入っていた。彼は田村の前にそれを置く。
「ご覧下さい。これが犯人の残したメッセージ、第四のバベルの塔です」
全員が田村のテーブルに集まった。成田も少し離れて見ている。視線が本に集まっていく。
見た瞬間、奇異な思いに囚《とら》われた。これはどういうことだろう……
約三十センチ四方の正方形の画集だった。右側に図版、左側が文章である。文は読めない。ドイツ語らしい。数字は制作年だろう。≪1433≫。どうやら田村のいう通り十五世紀の絵のようだ。直方体が積み重なった形の白いバベルの塔が描かれていた。塔の周りを通路が螺旋《らせん》状に取り巻いている。左側に王とその取り巻きの一団が見えた。右側では起重機のような工具を使って技術者たちが働いている。背景は樹木が生い茂る丘だ。明るく青い空に星がきらめいている。夜か昼かわからない。
「これはベッドフォード公の時祷《じとう》書の中の一葉で、作者不詳の『バベルの塔』です。一四三三年頃描かれました。文字ページの左下を見て下さい」
指差す。直径五ミリくらいの赤い丸が一つ、はっきり見える。後は意識しないと見えないほど小さい。田村がいっていた血痕《けつこん》らしい。志乃の、血……か。
田村は、ニヒルな顔をした高見沢に向かって、
「これは被害者の血でしょうか」
「そのようだね。畳やテーブルに飛び散った血と明らかに繋《つな》がっていた。鑑定してみなければ、被害者本人のものかどうか断定できないが、まず間違いないね」
犯人がナイフを引き抜いた時、志乃は窓に背を向けていたのだろう。かなりもつれあったのかもしれない。
「高見沢刑事のいう通り、この血痕は被害者のものと考えてまず間違いありません。鑑定結果がそれを裏付けるでしょう。この事実から何が推測できるか。藤川が犯人に襲われた時、この画集を見ていた。あるいは見てはいなかったが、このページが開きっ放しになっていた、ということです。そこには犯人にとって都合のいい絵が載っていた。犯行を決意したのはそれを見た瞬間だった可能性があります。つまり少女に猥褻《わいせつ》な行為をするため、とか、単に話をするため、様子を見るために部屋に来たのだが、その絵を見て目的を殺人に切り換えたのかもしれない。この連続殺人犯はそれくらいアバウトなのです。だから却《かえ》って正体が掴《つか》めず逮捕もできない。むろん犯人自身が別のバベルの絵を準備して、部屋に忍び込んだ可能性もあります。犯人にとって重要なことは、部屋に残るバベルの塔の絵が、自分が用意したにせよ偶然そこにあったにせよ、第三の事件で提示した一五五〇年以前の絵でなければならないということです」
田村は眼鏡の真ん中に手をやって少し上げ、
「バベルの塔の絵は次第に古くなっていきます。明らかに思惟《しい》的なもので、犯人の作為を感じます。現代からルネサンスへ、そして中世へと溯《さかのぼ》っていくのです。この遡行《そこう》は何なのでしょう。私は考えました。犯人が残した矢印は何を指し示しているのか。その先に、何があるのか。現代、ルネサンス、中世、その先には――。現代絵画、マニエリスムないしルネサンス絵画、中世写本、その前は? 一体何に続くというのだろう。古代末期、遺跡の壁画……まだ先があるか。考えているうちに、私には、犯人の矢印がある一つのものを指しているように思えてきました。そう、それこそすべての始まり、『聖書』です。『旧約聖書』「創世記」十一章一から九節。原典です。原点である原典なのです。すべてはここから始まった……オリジナル・バベル。犯人が指差していたのはこれです。すべての鍵はここにある」
言葉を切ってニヤリと笑う。
「これがこの事件の前提です。本来のバベルの物語に手掛かりがあると、ここでは覚えていて下さい。では、犯人を絞り込んでいきましょう。第四の事件、藤川志乃刺殺事件の――」
志乃が死んだとは限らない。教師は≪刺殺≫といい切った。生徒のことなど歯牙《しが》にもかけない態度に不満を覚える。しかし口を挟める雰囲気ではなかった。彼のマイナス・エネルギーが部屋全体を支配している。
「殺害現場に現れた手掛かりを検討します。畳に血で書かれたメッセージです。皆さんのいうとおり、Eとも、Wとも、3とも、ろとも、Mとも、読めます。刑事さんが書いたメモ、今どこに回ってますか。誰が持ってます?」役場の青年が持っていた。陶芸教室の常連である。「貸してくれませんか。……ありがとう。まぁ、これが≪ろ≫と読めるかどうか疑問ではありますが。それに私は現場を見ているためいくつかの可能性は最初から除外できるのです」
メモをMの形にして皆に示し、
「見て下さい。藤川は右手の人差し指でこれを書いた。ちなみに彼女は右利きです。仮にこれをMと読むとします。私が見た時、指はどちら側に止まっていたか。指の位置はMの左側の端だった。風見さんに確認します。藤川の指はMの右端から動き始め、二つの山を描き、左端に来て止まった。そうですね」
無言で一つ頷《うなず》く。間違いない。ゆっくりと這《は》うような指の動きが、網膜に焼き付いている。書いている途中で力尽きた感じだった。
「とすると書き順からいっても、3やろやMでないことは明白です」
諸川玲が深く息を吐いた。過敏に反応し過ぎている。妙ないい方だが、巻き添えを食うのを恐れるような態度……に見えた。あれが頭文字だとしたら、最も怪しい男が真っ先に除外されたことになる。むしろ残念なくらいだ。諸川は、M。私は唐突に3に当たる人物を思い出した。藤川三津男、志乃の父だ。旅館には来ていない。外部からの侵入者だとしたら、彼くらいふさわしい男は、他に思いつかない。これも除外されて、残念だ。もっとも電話で話した限りでは、そそっかしい人のいいオヤジだったが。
「残るはWかEです。私はWには何も思い当たりません。皆さんはいかがですか?」
すぐには思いつかない。誰も反応しなかった。
「Eが残りました。おあつらえ向きの人がいますね」
男の長い顔から血の気が引いていく。
「江上康夫先生。藤川志乃はあなたを犯人として指名したのだと思いませんか」
「ば、馬鹿な。僕は確かに藤川を殴った。だがそれだけだ。殺しはしない、動機がない」
「湯飲みを壊されたじゃありませんか」
「それくらいで、ひ、人殺しなんかするもんか」
「いいえ、十分動機として成立します。芸術家の作品に賭《か》ける想いは常人には計り知れない。作品を壊されることは、わが子を殺されるに等しい。事実、あなたの暴行は凄《すさ》まじかったじゃありませんか。私が止めなければあのまま殺していたかもしれない」
江上は言葉を飲むように息を止めた。認めたのかもしれない。
「≪作品を壊されたから≫殺した、というのはフィクションだと不自然だがノンフィクションだとあり得る動機の一つです。試しにフィクション、小説でも十分通用する動機を考えてみましょうか。あなたは自慢の作品を壊された腹いせに、少女を殴り、蹴《け》った。それだけでは気持ちが治まらなかったのです。夕食も食べず自室に籠《こも》るうち、むくむくと暗い感情が頭をもたげてきた。ついにこらえきれず、藤川の部屋へ行く。彼女をレイプするためにです。あなたは変態教師だったんです。だが抵抗され、刺した」
「お……怒るぞ」
妙なセリフだ。田村はするりとかわし、
「可能性を考えているだけです。いっている私も信じてはいない。藤川だけならともかく、一連の事件の犯人だとは思えないのです。伊庭と鈴木に対する動機がない。講師になるために伊庭を殺すなどということはあり得ない。しかし木中稔に関してはどうでしょう。あなたは貞子さんと特別親しかったようだ。夫が邪魔だったかもしれない」
「僕が貞子さんと? み、認めない」
「あら」女はあでやかに笑って、「認めてもいいのよ、別に。私と稔が不仲で別居してたことはみんな知ってるし。たとえ私が江上さんと不倫してたって、夫は別にかまわなかった筈よ。そんなに愛されてないもの。彼が邪魔でもなかったし」
「保険金が目的かもしれませんね」
「それが可笑《おか》しいのよ。受取人はお母さんなんだって。阿呆《あほ》らし」
「すると木中稔に対する動機も成立しない」
「駄目ね。江上さんを庇《かば》ってるわけじゃなく、真実。稔が、殺したくなるくらい存在感のある男だったら良かったのよ。そしたらもっとうまくいったわ、私たち。空気男ね、まるで」
「やはり、江上さんは一連の事件の犯人ではない。動機がありません。そしてバベルとの関連も見当たらないのです。江上さん以外にEに当たる人はいるのでしょうか。いませんか?……そうですか、では、Eでもないのでしょうか」
ある人物がはっとした。青ざめている。
「あのメッセージは犯人の頭文字ではないのでしょうか。確かに一見Eの頭文字を持つ人は江上康夫しかいないようだ。Eは頭文字でなく他の何か、例えば人体的特徴をさしているのか。そもそもアルファベットでさえないかもしれない。だが私はもう少し頭文字のEにこだわりたいのです。何故なら一人思い当たる人物がいるからです。さらにその人物はさっきの事情聴取の中で明らかに嘘《うそ》をついています」
田村は遊んでいるように見えた。警察と我々を向こうに回し、ぎりぎりのゲームを楽しんでいる。彼はゆっくりと一人一人の顔を眺めていく。ある人物が手を握ったり開いたりしている。一通り見回してから、その人物のところで目を止めた。
「実はEの頭文字を持つ者はもう一人いるのです。彼はある事情から特殊な名前を持っている。それは、君です。風見恭介君」
少年の体が硬直した。
「風見君はアメリカで生まれたため、別の名前を持っていたね」
「……エドガーです」
「すると君もEだ。風見君が藤川志乃を殺したんだね」
「嘘です。それにまだ藤川が死んだとは限らない」
「嘘をついたのは君の方です。取り調べの時、君は明らかに嘘をついた。風見君は藤川の容体が気になって、十二時十分に部屋を訪ねたといったね。そしてその時、被害者が読んでいた本の作者とタイトルをあげた。それは文庫本だった。確かかね」
「そうです。文庫本の詩集、ブレイクの『無心の歌、有心の歌』でした」
「おかしいねぇ。君は襖《ふすま》から声をかけたといった。被害者は窓際で本を読んでいた。襖からはかなりの距離がある。文庫本の作者とタイトルまで見えたのかね。しかも藤川はテーブルに向かってたんだろう。君に背を向けてた筈だ。作者とタイトルまでわかるとは思えない。君は嘘の証言をした」
「…………」
「君は部屋の中に入ったのだ。六畳間の方まで入ったんだろう。違いますか?」
恭介は少しためらってから、
「……はい。そうです。……嘘をついてすみません。僕は部屋の中に入りました。でも、殺してなんかいません。藤川が心配だっただけなんです。でも全然相手にされませんでした。黒い置き時計を見ながら無視に耐えてた。それで、十二時二十五分に僕は部屋を出て、自分の部屋に戻ったんです。信じて下さい」
「ほう、完全に無視された。それで殺したんですか。だいたい夜十二時過ぎに部屋を訪ねるなんて目的は決まってますよね。君がそんな破廉恥《はれんち》な生徒とは思わなかったよ」
「あなたこそ、なんて教師だ。いいがかりはやめて下さい」
「君にはね」生徒に対する物いいになっている。「動機が成立するんですよ。もう諦《あきら》めなさい、一連の事件に対する動機があるでしょう?」
「ありません」
「お姉さんがいたね。保子さんだ。谷川祐三の妻でもある。彼女は交通事故で死んだ。君は轢《ひ》いた人をさぞかし恨んだことだろうね。大好きな姉だったから」
「姉とは仲が悪かった。はすっぱなんです。結婚してからは完全に音沙汰《おとさた》なし。谷川ってヤクザな男は兄とも思えなかったし」
「口では何とでもいえるさ。君は事故の加害者を憎み、殺害する計画を立てた。お姉さんを殺したのは鈴木智子、本校の事務員、第三の被害者だ。君は彼女を階段から突き落としたね。さりげなく巧妙な手口だった」
「冗談じゃない。殺人なんてやってない。僕は子供ですよ」
「子供じゃないよ。中学生は。都合のいい時だけ子供になるんじゃない」
「僕は藤川を刺していないし、鈴木さんを殺してもいない。伊庭先生や木中さんに至っては、殺す理由さえないんです。用務員さんなんてめったに会いもしなかったんですよ」
「めったに会わないからこそ殺せる、ということもあります。君の動機は本当は鈴木智子にしか存在しなかった。他の三人に対しては本質的な動機がない。ある筈がないんです。他の被害者は誰でもよかったんですから。ゲームなんです。君は現実世界をゲーム化しなければ、この世界に耐えられなかった。明るく楽しいゲームではない。暗く真摯《しんし》な疎外された命懸けのゲームだったのです。ゲームのルールは二つありました。一つめは犯行現場にバベルの塔を残すこと。対戦相手は警察。彼らが符丁に気づくかどうか。さらに君は世間を、大人を、試していたのです。バべルに気づかなければ彼らを笑い者にできる。バベルに気づいた時は犯行動機のカモフラージュになる。被害者がすべて学校関係者だったのも犯人を象徴しています。君は学校という世界しか知らなかったのだから。被害者は≪教員――用務員――事務員――生徒≫の順に殺していく。これが第二のルールです。教師であれば、用務員や生徒であれば、誰でもよかったのです。偶然、藤川が画集を持って来たから、殺しただけです。殺して≪みた≫といういいかたが正しいかもしれない。彼女を刺すチャンスがなければ、別の生徒が死んでいたでしょう」
恭介は、檻《おり》の中の珍獣を見るような目付きをし、聞き取れないくらい低い声で、
「中学生がそんなことするか?」
「何だって?」田村が鋭く聞きとがめた。
「笑わせるな。中学生だから殺すんだよ。自分以外は人間じゃない。人だけど人でない。だから殺せるんだ」声が次第にエキセントリックな調子を帯びていく。「君たちは繋《つな》がらない。人と人とが繋がらないんだ。路傍の石のように無視することも、ゲームの駒《こま》にすることもできる。この世界はテレビドラマと同じだ。昨日死んだ人が今日のテレビに出る。今死んだものが次の番組に現れるんだ。死んでも復活する。復活できるくらい死そのものは軽い。命なんてそんなもんだ。君自身ゲームの中で何度死んだかね。そして何度生き返った? だから殺せるんだよ。理由もなく、三人もね。君は鈴木智子を殺し、動機を隠すために無関係な三人を殺した。いや、それは後からつけた理由だな。本当の動機は≪遊び≫、世間を社会を警察を大人を相手に、自分と他人の命を賭《か》けて行う崇高かつ下劣な遊びだ。君は理由もなく三人も殺した……いや、遊ぶために四人も殺したのだ」
「刑事さん……、誰かこの人を止めてください。田村先生は――狂っている」
私も同感だ。田村の体から力が抜けた。心なしすっきりした顔をしている。日頃の鬱憤《うつぷん》を晴らしたかのようだ。彼は急に猫なで声を出し、
「……安心なさい、風見君。実は私は君が犯人だとは思っていない。江上先生の場合と同じようにただ可能性をいってみただけです。だいたい、被害者が君を犯人と指名したいのなら、わかりにくいエドガーなんて名前の頭文字を書くでしょうか。か(ざみ)でも、き(ょうすけ)でも、KでもK・Kでも、風見国彦さんに告げたいのなら甥、お(い)でもオイでも何でも、もっとわかりやすい伝え方がある筈です。何を好んでエドガーなんて。それともう一つ。風見君にはバベルの塔を残す必然性がないのです。現場に現れるのが何故バベルの塔でなければならなかったのか? 君には理由がない」
つきあっていられない。犯人を絞り込む論証のように聞こえるが、不純な動機を感じた。この男は、江上や恭介、同僚教師や生徒に当たり散らして日頃の鬱憤を晴らしているだけではないか。欲求不満を解消するための告発とはいやらしい。
明らかに不愉快な表情をしていたのだろう。「――風見さん」と田村が声をかけてきた。
「あなたは血のメッセージが何を示していると思いますか。EW3ろMいずれでもないのか。犯人の名を示すものではないのだろうか。では藤川志乃は何を伝えようとしていたのか」
「わかりませんよ」
「ダイレクトなわかりやすいメッセージである筈なんです。藤川は意識を失う前に風見さんを見ましたね。あなたに、気づきましたね?」
「と、思います」
「被害者は風見さんにメッセージを送ったのですね。他の誰でもない、あなたに。ならば風見さんになら、少なくとも風見さんだけは、藤川の伝えたかったことがわかるのではないですか」
メッセージの書かれた紙片を私の前にかざし、
「あなたには伝わると彼女は思ったのです。難しいことではない筈です。風見さんなら、これを見て犯人を指摘できる」
落ち着いてもう一度考えてみる。見当がつかない。志乃は力を振り絞って何かを伝えた。脳みそを振り絞らねばわからぬものの筈はない。しかし。
「藤川は、風見さんが猿ぐつわを外したせいで意識を取り戻し、メッセージを書き始めた。そして再び意識を失った瞬間に指が止まった。彼女は全部書き終えてから息絶えたと思いますか」
志乃が死んだと思い込んでいる点に、やはり反発を覚える。
田村はあれが未完のメッセージである可能性を示唆した。図か字を書き終える前に意識を失ったというのか。志乃の指の動きを思い出す。次第に失速し、止まった。
「――あり得ますね」
「認めてもらえますか。そうです。そうでなければならないのです。藤川は畳に図か字を書き始め、書き終える前に力尽きた。未完の伝言だったのです。では何を書こうとしたのか。本当はどういう形ができ上がる筈だったのか。ごらんください」メモをMの形にして皆に提示し、「こうしてみると、右側が長く左側が短い。指は左側にあります。その指は次にどう動く予定だったか」紙片をテーブルに置きボールペンを取り出して、「思えばこの手掛かりは私にとって、あってはならないものでした。予想外のエレメントだったのです。しかし結局は私の推理を補強してくれることになりました。……被害者の指はこう動くつもりだったのです」
ボールペンを左端からほぼ真っすぐに右端に移動させ、繋げた。
紙をかざし、「これは何に見えますか?」
誰かがオオ……と外国人のイントネーションでいった。
紙の上にはいびつなマークが書かれていたのだ。
「藤川志乃はハート・マークを描こうとして途中で力尽きてしまったのです。書き終えていればこんなに易しいメッセージはない。彼女は最後に自分を刺した犯人の名を告げた。ハート・マーク」カナダ人を指さし、恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべて、「ハート、ミスター・ハート、オーエン・ハート、あなたの名を伝えようとしたのです。そうです。ハートさん、あなたが藤川志乃を刺した。そして伊庭典克、木中稔、鈴木智子を連続して殺害した犯人なのです。あなたこそが、この異常なバベルの塔の連続殺人の犯人だったのです」
ハートは悄然《しようぜん》としていたが、やがて顔が真っ赤になっていき、
「ワタシガ、……ハンニン?」白目を剥《む》き出し、怒鳴るように、「オーッノオーッ、チガイマス。ニホンゴムズカシイ、ヨクワカラナイ。デモワタシ、ハンニンダトオモワレテル。チガイマス。ワタシハ、コロシテナイ」
田村はハートの言葉を遮るように、
「皆さん、今の言葉をよく覚えておいて下さい。彼はこういっています。≪日本語は難しくてよくわからない≫――ここで、話を前に戻します。私は一連の事件の謎《なぞ》を解く鍵は「創世記」十一章にあるといいました。バベルの話です。≪バベルの塔≫の話というより、≪バベル≫の話なのです。バベルはヘブライ語のバラル、すなわち≪混乱≫から来ているといわれます。原典は次のような内容です。世界は一つの言葉で同じように話していた。人々はシンアルの地に塔のある町を立てようとする。神はそれを見ていう。彼らは一つの民で一つの言葉を話しているから、このようなことを始めた。これでは彼らが何を企てても妨げられなくなる。人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き取れないようにしよう。……そして人々は全地に散った。町の建設も未完に終わった。ゆえにこの町はバベルと呼ばれる。神が言葉を混乱――バラルさせ、人々を全地に散らせたからである。
気づきましたか。塔が出てくるのは話の前半です。後半では塔という文字さえ出てこない。私が省いたのではなく原文でもそうなのです。それに気づくとバベルの塔が主題の物語とは思えなくなる。では≪塔≫の物語でなければ何の物語なのでしょう。いうまでもないことかもしれません。≪言語≫の物語です。バベルの塔の挿話の主題は言葉なのです。神が言葉を混乱させたために、世界は一つの言語から多言語になった。世界に≪諸言語≫が発生したのです。そして様々な異なる諸言語があるために、人間たちの間で話が通じ合わなくなった。言葉が人々の障害になったのです。異なる言葉は人と人の関係を阻む見えない壁です。犯人はそれを憎んだ。≪日本語は難しくてよくわからない≫……彼は日本語を、言葉そのものを憎み、言葉の通じない相手を憎み、言葉を混乱させた神を憎んだ。異なる言語の人間、社会そのものを憎悪したのです。犯人の頭にバベルの塔の物語が浮上した。塔の姿が消えなかった。だから犯行現場にバベルの塔が現れたのです。彼は私よりずっと聖書に造詣《ぞうけい》が深かった。言葉を乱した神、その神への不信、反抗・戦い、そして呪《のろ》い。同時に日本人への呪詛《じゆそ》。バベルの塔、それは言葉と神と異国人への呪いだったのです。
日本語は難しくてよくわからない。……私は思い出します。雪のため車が使えずバスで通勤したことがあるのです。私はバスの中で印象的な場面を見ました。ハートは笑われてた。言葉遣いで周りの人々に笑われていたのです。彼は例の奇妙な発音の日本語で、連れの女と話していた。乗客はそれを笑った。嘲笑《ちようしよう》していたのです。無礼な笑い声に、はらわたが煮えくり返ったことでしょう。彼は日本人が憎かった。異国の言葉を操る我々が人を人とも思わぬ嘲笑を浴びせたように、彼にとって我々は唾棄《だき》すべき別の生き物だった。お互いに人とは認めない。人であって、人でない決定的に異なる生物だったのです。だから犯人にとって殺人は、≪殺獣≫と変わらなかった。わからぬ言葉は犬の鳴き声と同じです。≪違うもの≫のです。風見君、思い出しませんか。君もあの日バスに乗っていましたね。君は見ましたか。オーエン・ハートが笑われるところを。鈴木智子も藤川志乃もそのバスに乗っていた。伊庭典克も木中稔も生前同じバスで通勤していたという。そうですね」
少年は静かに頷《うなず》く。
「通勤のバス、それが≪失われた輪≫だったのです。彼は毎朝、毎晩のようにバスの中で笑われていた。実際に伊庭や藤川が笑ったかどうかは問題ではない。彼を笑う無名の日本人たちは≪サトウ≫とか、≪タナカスズキ≫だった。それがイバ、キナカ、フジカワであっても一向にかまわない。大声で笑われたことも、含み笑いされたことも、唇を歪《ゆが》められたこともあったでしょう。ニヤリ・クスクス・ヘヘヘ。彼は笑われていた。笑われていたのです。嘲笑、冷笑、憫笑《びんしよう》、哄笑《こうしよう》、何でもあった。≪笑い≫が彼を殺人鬼にしたのです。四人は彼らを笑った。だから彼らを殺したのです。言葉のことで笑った。だからバベルの塔が建ったのです。少なくともハートは四人に笑われたと判断した。犯人もまた≪笑い≫の罠《わな》に掛かったのです。
笑いは時に罠を仕掛けます。コンプレックスを持っている人に対しては特にそうです。こんな話があります。列車の中で恋人と談笑していた男がいました。周りのことなど目に入らず、時に声を立てて笑ったりします。列車が停まり二人は降りた。彼女と並んで歩き始めた時、いきなり背中に衝撃が来た。彼は何がなんだかわからなかったといいます。彼女は見ていました。見知らぬ男が彼氏の背中に空手の蹴《け》りをくらわせるのを。彼女は二人の男の間に立って、暴行してきた男に事情を聴きました。相手は列車の中で二人の前の座席に座っていた男だった。彼は二人が自分のことを笑いものにしたと思い込んでいたのです。目の前で俺《おれ》のことを声を立てて笑っている、と。もちろんそんなことはなかった。しばらくすると男は冷静さを取り戻し、去っていった。しかし最後まで二人のいうことを信じなかったといいます。
ここから殺人まではもう一歩です。彼がナイフをもっていたとしたら、どうなったでしょう。彼氏か彼女かあるいは両方が、刺されていたのではないでしょうか。皆さんは、笑われたくらいで人は人を殺すものではないといいますか。あなたは笑われたことがないのですね。人には自制心、理性、良識、何らかの歯止めがある、と? あなたは人間というものを知らない。人はすぐに壊れます。いつでもどこでも壊れ、そして壊す可能性があります。オーエン・ハートは伊庭を撲殺し、木中を毒殺し、鈴木を突き落とし、藤川を刺した。伊庭の時など、私が発見してからやって来たように、見せかけたりした。人がやって来る気配を察し美術室に身を潜めたのでしょう。彼は四人も殺した。人は他人から見ればささいな理由でも殺人を犯す。唯一の救いは誰でも、というわけではないことです。オーエン・ハートは例外だった。
いや、そうではないのかもしれません。現代は、そしてこれからも、どちらが例外なのか、にわかにはいえません。ひょっとしたら≪誰でも≫の世界が到来しているのかもしれない。その世界の象徴こそ、バベルの塔の連続殺人であり、その犯人であるオーエン・ハート、すなわち、あなた、なのです」
田村の顔に完全な満足の表情が広がった。
彼の異様な熱気が真空のような沈黙を作り出している。
目を閉じていた成田がゆっくりと瞼《まぶた》を上げた。
田村はハート・マークが描かれたメモ用紙を丁寧に四つに折り畳む。
ドアが開き、静かに制服警官が入って来た。成田に耳打ちして、すぐに出て行く。
成田は少し憂鬱《ゆううつ》そうに、疲れたような声で、
「よいお知らせです。病院に運ばれた藤川志乃さんの手術が終わりました。重体ですが、一命を取り留めました。命に別状はありません」
志乃が生きている。犯人逮捕は時間の問題だ。事件終了。
その時、誰かが素晴らしい発音で大声を上げた。
「Shit ! ……Boring……Fake it !」
終章
バベル消滅――佐藤潤一の奸計
※
「都市伝説って知ってますか?」
佐藤潤一の話は面白い。発想に飛躍があるからだ。風見国彦は事務員の話を聞くのが好きだった。聞き上手だとよくいわれる。自分で話すよりいい。
大津版画館の展示室だった。アントニスゾーンの『バベルの塔の崩壊』に向かい、中央にある椅子《いす》に、三人並んで座っている。左から風見国彦、恭介、佐藤だ。国彦は少女の姿を追憶する。一人に慣れた孤独な姿だった。彼女はいつもこの椅子に座っていた。
事務員は二人の顔を交互に見て、
「それは町の噂《うわさ》であり、ちまたにあふれる流言飛語です。よくいえば現代のフォークロア、はっきりいってデマ、です。一昔前であれば、、≪口裂け女人面犬なんちゃっておじさん≫の類《たぐ》いですね。トイレから青い手赤い手が出るとか。恭介君は身近な例を知らないか」
「金田さんの土蔵門の前には白い婆さんが出没する。学校前のラーメン屋でチャーシューを食うと腹痛を起こす」
「そういうこと。ま、後者はただ衛生管理がいき届いてないだけの話だけどね」
恭介は休日を使って版画館に遊びに来ていた。旅館の事件から一ヵ月以上経っている。国彦の覚えている限りでは二度目の来館だった。少年は事件の後も昔と変わりなく見える。絵に描いた優等生だ。しかしあれだけの経験をしたのだ。見えないダメージは受けているだろう。
いや……と、国彦は思った。打撃を受けたのは自分だ。少年ほど心が柔軟ではなかったのだろう。志乃が血を流している姿が頭から離れなかった。警察を前に演説を続ける田村の顔も。事件が終わり、日常の勤務に戻っても、以前と何かが違う。形のないものの喪失。憑《つ》き物を落とすように妻にすべてを話した。事細かに話した。事務員にも同じようにした。二度話すことで少し楽になった。佐藤は随分細かいことまで聞き返してきた。それも、今では昔に思える。
佐藤は版画の方に目を遣《や》りながら、
「都市伝説はどこからともなく発生し、広まっていく。しかし広がるだけ広がった噂が、突然消滅することがある。≪生成≫したものが≪消滅≫するんだ。ある時を境にして噂は完全に消えていく。恭介君、その切っ掛けがわかるか」
「教えて下さい」国彦も知りたかった。
「実物が登場するんだよ。噂が流れた末に本物が出現する。その結果、噂は急速に消え去る。例えば、口裂け女だ。知ってるかい?」
「聞いたことはあるけど」
国彦はむろん知っている。マスクをして通行人の前に立ち、「わたしってきれい?」と聞くとか、バイクより速く走るとか。流行《はや》ったのは七〇年代末のことだった。
「その口裂け女の本物が出た? 実際にそんな化け物がいたんですか」
「真夜中にタクシーが走っていたんだ。運転手は、ふと、路上にたたずむ女に気づいた。真っ白い着物を着ている。顔を見たとたん、仰天した。口が耳まで裂けている。手にした肉切り包丁がライトでキラリと光った。口裂け女だ……。運転手は警察に通報した。口裂け女は捕まえられた。九州の話だったと思う」
「警察に逮捕された? マヌケな妖怪《ようかい》だな」
「むろん妖怪じゃなかった。娘さんのいたずらさ。口紅でメイクして顔を作ったんだ。あまりによくできたんで、近所の人を驚かしてみたくなったんだな。というわけで、ホンモノが出た。これを境に噂は消えた」
「そんなことだろうと思った」少年はふーんと頷《うなず》いて、
「噂が実物を産んだんですね」
佐藤は恭介の頭越しに、
「風見さん、僕の作文、読んでくれましたか」
話題が急変した。志乃みたいだ。ただしこの男の場合、話に繋《つな》がりがないようでいて、ある。
国彦は手にしたコクヨの原稿用紙の束を示して、
「きれいな字で書けよ。読めないぜ。章のタイトルまでつけるとはね。『覚醒』、『侵食』に『生成』。間章まで入ってる。『生成』は俺《おれ》がしゃべったそのままだね」
「口述筆記といってもいいでしょう」
「気恥ずかしい。まぁ、細かい部分はフィクションの筈だが、そうとは思えんよ。『侵食』は完全な創作だろう?」
「ドキュメントといってほしいですね。いや、ノンフィクション・ノベルか」
「暇な男だ」
「楽しみが少ないんです。身の回りに起きる筈のない、すごく変わった出来事ですからね。記録しておきたくなったんですよ。ヒューマン・ドキュメント大賞にも応募できるし。受賞したらドラマ化されるし」
「ミステリー大賞の間違いだろ?」
「結構ヒューマンな出来事だと思うんだけどな。本質的な意味で≪人間らしい≫事件じゃないですか。もちろん僕がいってるのは藤川志乃さんの事件ですよ」
佐藤は腰を上げ、バベルの版画を背にして、国彦と恭介の前に立った。
「藤川さんには悪いのですが、この事件で特に面白いと思ったのは次の点です。それは、都合のよい偶然が最悪の事態を招いた、ということなんです。犯人にあまりに都合よく、犯行に必要なエレメントが集まってきた。タイミングも怖いくらいにバッチリです。被害者のリンク≪教員、用務員、事務員、――生徒≫。偶然、生徒を殺す機会が手に入った。しかも彼女はバベルの塔の画集を持って来ていた。バベルのリンク≪一九九五、一五六三、一五五〇、――それ以前≫。画集の中にはちゃんと一四〇〇年代のバベルの塔の絵が載っていた。被害者は犯行時にそれを開いてさえいたんです。加えて彼女は決定的なリンク≪同じバス≫で通学していました。すべては恐るべき偶然です。私を殺して、と被害者がいってるみたいです。あるいは、汝《なんじ》の手で殺せ、と神様がそそのかしているようです。殺人を犯さざるを得ないように状況がしてしまった。この事件で真に恐ろしいのはそこです。殺人者が状況を作ったのではなく、状況が殺人者を作った。加害者は状況と偶然による被害者だったんです。犯人がすぐに逮捕されたのは、本人にとって幸運だったのかもしれません」
国彦は犯人の顔を思い浮かべた。凄《すさ》まじく歪《ゆが》んだ顔をしていた。志乃が助かったと成田が告げた瞬間の、唇の震える様子まではっきりと覚えている。
「そうだな。殺人者が野放しにならなかったのは不幸中の幸いだ。被害者は犯人の顔を見ていたからな。事件はスピード解決。もし志乃が死んでいたら」
「次の事件が起こったかもしれないんですね」
と、恭介が受けた。三人とも黙り込む。少年は足元を見て思い詰めたような顔をしている。事務員はぼんやりと版画を眺めていた。国彦は甥《おい》に話を振って、
「藤川さんを見舞いに行ったか」
恭介に対しては、藤川さん、といってしまう。何故か志乃とはいえない。
「まだだよ」珍しく不機嫌な声を出し、いいわけするように、
「退院したけど学校には来てない。家で休養してる」深く息を吸い、
「行きそびれてるんです」また敬語に戻った。
「行ってやれよ」
少年はむっとしたように黙り込み、話題を変えた。
「僕にはまだ信じられないんです。藤川を刺したのがあの人だったなんて。彼は確かにおかしかった。あの目……落ち着きなく動き回る焦点を結ばないあの目……確かに狂ってた。でも……でも、信じられない。田村先生……田村正義が、事件の犯人だったなんて」
※
「犯人は田村正義だった」
佐藤はこれまで見たことのない優しい笑いを浮かべて、
「君の気持ちはわかるよ。勉強を教えてもらっていたんだ。先生の長所、善良な面も知っている。本質的には優しくて繊細な人だったからあんなふうになったのかもしれない。彼は普段からの激務でノイローゼになるほど神経を痛め付けられていた。専門医からカウンセリングを受けてもいる。その荒れきった精神状態の中で、伊庭と木中の異常死を連続して見た。約半日のうちに偶然二つの死体を発見したのだ。心の中の大事な部品が弾《はじ》け飛んだ。凄まじい衝撃だっただろう。僕だって狂っちまうかもしれないね」
「先生がおかしくなったのは僕たちのせいかもしれない。学校は確かに荒れてた。そう……あんなの学校じゃない」声が少し震え、「でも駄目なんだ。できない……どうしようもないんだ。一部の奴《やつ》らにかき回されてしまう。だけど止められないんだ。先生にも、僕たちも、誰にも」
「田村が境界線を越えて行った理由は他にもいろいろある筈だ。僕は『侵食』で少し書いてみたが、どこまで表現できたかは、わからない。風見さん、どうでしたか」
「今一つかな。文学のことはわからんが、ちょっと説明不足かもしれん。それより俺が文句をいいたいのは後半だ。『生成』は全然駄目じゃないか。あれじゃ、田村正義にアリバイが成立するみたいに読めちまう。田村が二人でて来てるのに区別がつかないぞ」
「そこがいいんです……いや、それでいいんです、別に。しっかり読んでいれば、いちいち説明しなくても、二人の田村に気づきます。風見さん、その原稿返してくれますか」
「何が面白くてそんなややこしい記述を。学童作文コンクールにも引っ掛からんぜ」
「この部分を読み直すと田村が二人登場していることがわかります。『生成』のX、藤川さんが刺された夜のことです。あなたと同じ部屋に宿泊した田村は、完全なアリバイの持ち主でした。彼はむろん田村正義ではありません」
「ちょっと待て。俺は知ってるが、読者にそんなことわかるか?」
「わかりますよ。事件の夜、宴会を抜けて、二人で部屋へ戻る場面があります。風見さんと田村は並んで廊下を歩く。この田村はあなたが、≪顔を見上げ≫るほど背が高い。ところが田村先生は≪彼の頭は私の鼻くらいの位置≫にあるという背の低さ。ちなみにこの文章は藤川さんが江上に暴行された場面に出てきます。具体的には、『生成』のVによると風見さんは≪一七五≫、Xによると田村正義は≪一六〇そこそこ≫。
二人の田村は、両者とも七三分けで眼鏡を掛けているが、同室の田村は眼鏡を外し、目を痛めないため≪二メートルは離れて≫テレビを観る。伊達《だて》眼鏡なんでしょう。一方田村先生は≪両目とも〇・一以下≫で肉眼だと鏡でさえぼやけるほどの≪極度の近視≫。風見さんが≪相方に迷惑がかかるので今まで遠慮≫するくらいタバコに縁のない田村と、≪起きぬけに一本吸≫い、≪一時間に一本は吸いたくなる≫田村。一方は≪飲めないんですよ≫といい、もう一方は≪食べた後は飲む。泥酔するまで飲み続ける≫。いずれも田村正義の描写の文例は『侵食』のUから引いています。手掛かりはまだある。風見さんと同室の田村は廊下でこんな会話を交わします。風見さんのセリフ、≪また事件が起こってしまった。今年は暴行。去年はケンカ≫。これに応えて田村は次のようにいうのです。≪あれはすごかった。殴り合いですからね≫。つまり、この田村は昨年の陶芸教室のトラブルを覚えている。明らかに初参加者のいえることではない。田村正義なら去年のケンカを見ている筈がないんです。
すなわち同室の田村は田村正義ではないという結論になります。二人の田村のうち一人はいうまでもなく教員の田村正義です。では、もう一人の田村とは誰なのでしょう。読者のつもりで検討してみます。講習会の受講者は十一人いました。田村は初参加です。初めての受講者は田村の他に、恭介君、藤川さん、江上先生、ハート氏と五人いました。残る六人は毎年参加しています」
『生成』のVを参照しながら、
「彼ら六人は、≪毎年来るいわば常連≫です。メンバーは木中さん、≪定年退職を迎えた男性が三人と、五十代の専業主婦≫そして≪役場勤めの青年≫です。この中に、もう一人の田村がいるということになる。年齢性別等考え合わせると該当するのは役場の青年しかいません。決め手は身長。風見さんが顔を見上げるほどの大男とは? 『生成』のV、≪この部屋の中で私が顔を見上げるのは、カナダ人と役場の青年くらいだ≫。では、彼は何という名前なのでしょうか」
「その他大勢の中の一人? この青年の名前なんて文中に出てたか」
「出てるんです。『覚醒』の中で他ならぬ僕たちが会話してます。≪今年も来るんだろうなぁ≫≪大津役場の青年≫≪田村正勝さんね≫≪来ますよ。受講者名簿に出てましたから≫――田村正勝。フルネームで書いてあります。つまり『生成』には、大津中学の田村正義と大津役場の田村正勝の二人の田村が登場していたのです。風見国彦と風見恭介、二人の風見がいたようにね。あなたがアリバイを証明した人物は、田村正勝、役場の青年の田村さんなのです。ついでに僕は作中で、≪風見さん=私≫が田村を呼ぶ時、田村正義を田村≪先生≫、田村正勝を田村≪さん≫で書き分けておきました」
「何でそんな書き方をしたのか理解に苦しむよ」
「たまにはミステリーも読んでください」
「もう一つ、俺には大きな不満があるぞ。『生成』の終わり方だ。何だあれは? 犯人がオーエン・ハートみたいじゃないか。あれじゃ、田村が志乃を刺したことが、読者にわからない」
「わかりますよ。少し丁寧に考えていきましょう。田村正義は画集に異常に執着していた。彼は事件の日初めてバベルの塔の画集の存在を知った。そして犯行時まで画集の中身を見ていない。あの本は珍しい洋書で、犯行直前まで梱包《こんぽう》されており、田村が見せてくれと執拗《しつよう》に頼んでも断られていた。この点についてはいいですか?」
「≪駄目≫、≪あなたには見せない≫、≪いや≫なんてあしらわれていた。気の毒だったぜ」
「事件の夜ガラスの割れる音を聞いて、風見さんと田村、――田村正義ですね、二人が藤川さんの部屋に入った時、彼はいう。≪血が付いた本のページ、白い立方体のバベル≫部屋の中で田村は何かに触れましたか。触れるチャンスはありませんでしたね?」
「君の書いた通り、一瞬しか目を離していない。旅館の経営者がやじ馬を移動させ始めた時だけ目を離した。その時以外は警察が来るまで何も触れなかったと断言できる」
「逆にいうとその時なら、田村は物に触れるチャンスがあったということになります。風見さんが目を離したのは、田村がバベルの塔がどうのといい始めて、≪血が付いた本のページ、白い立方体のバベル≫と口にし、あなたが≪しっかりしなさい≫と注意した、その後ですね」
「後だったよ。奴が血だのバベルだのいってから、外野が動き始めた」
「少し経って、警察が到着し取り調べが始まる。頼まれて、高見沢刑事が現場から画集を運んで来ます。開いたまま持って来た画集の右ページには≪白い立方体のバベル≫が出ており、解説のページには被害者の血が付着していた。被害者本人のものであることは鑑定により確認されています。取材した時、成田刑事に確かめました。この血は、畳やテーブルに残った血痕《けつこん》と考え合わせても、被害者が襲われた時に付着したに違いない。犯行の瞬間に付いたものなのです。すなわち、犯行が行われた、まさにその時、このページが開いていたということになる」
「その前提に異議はない」
「この事件には珍しい特徴があります。それは、分刻みの事件である、ということです。この要素が犯人当てを容易にしている。ポイントは画集です。恭介君は夜十二時十分に被害者に会った。この時、画集はビニールに包まれていましたね。犯行以前、被害者の部屋に最後に入ったのは君だ。その時、画集はまだ開かれてさえいなかった。君が二十五分に出て行ってから、藤川さんは画集の包みを開き、ページをめくり始める。二分経過。彼女は、白い立方体のバベルの塔の図版を見ていた。ほとんど同時に犯人が侵入して来る。猿ぐつわ、そしてもつれ合う。三分経過。被害者は時計を窓に。ガラスの割れる音。十二時三十分ジャスト。犯人は藤川さんを刺し、素早く逃走。三十二、三分には風見さんが駆けつけている。つまり犯行以後、最初に部屋に入ったのは風見さんなのです。恭介君が出ていってから七、八分後だ。その時、あなたは見た。テーブルの上に開かれた画集がある。この時何故か……≪黄土色の円筒形の≫バベルの塔が目に入った。どうしてそうなったのかは後回し。今は次の点に注意して下さい。
犯行以前、部屋に最後に入った時、画集は梱包されており、塔は見えなかった。
犯行以後、部屋に最初に入った時、≪黄土色の円筒形の≫塔が見えていた。
故に犯行時、≪白い立方体の≫塔が見えていたことを知っているのは犯人だけである。
田村正義は知っていました。故に田村が犯人なのです。証明終わり」
「俺もあの画集の件はおかしいと思ってたよ。だが、あの夜はそれどころじゃなかった。混乱してたんでね」
「カワイコちゃんが死にかけてましたからね」
「嫌ないい方をするなよ」
「なら恋人ですか? あの時あなたの頭の大半は恋人の生死に占められていたに違いない。高見沢が画集を持って来た時のあなたの反応、≪見た瞬間、奇異な思いに囚《とら》われた。これはどういうことだろう……≫」
「だって俺の見た絵と違ってるんだもんな。びっくりしたぜ」
「犯人も驚愕《きようがく》したでしょう。あなたに続いて部屋に入ってみると、≪黄土色の円筒形の≫バベルの塔の絵が出ていたんですから。塔の形からいっても一五五〇年以降の絵だったのでしょう。一五五〇年以前でなければミッシングリンクは成立しない。狼狽《ろうばい》ぶりもわかります。彼は現場で真の叫び声を上げる。≪あっ≫、≪何だ、これ≫、≪俺はこんなことし……風……≫。彼は普段人前では≪私≫といいます。この時は、私ではなく俺というところに本心が現れている。彼はこういいたかったのです。≪俺はこんなことしてないぞ。風が吹き込んでページをめくったんだ。ちくしょう≫」
「ちくしょうは余計だよ」
国彦は成田の言葉を思い出す。窓ガラスは割れていたが、人が通り抜けるだけの隙間《すきま》はなく……≪せいぜい風が吹き抜けるくらいでしょう≫。同時に、犯行現場で狼狽する田村の顔も思い出した。彼はその時田村に、どうしたんですか、と聞いた。返ってきた答えは今考えると失笑ものだ。こんなことは信じない、≪風が吹いたら桶屋《おけや》が儲《もう》かる≫。
「で……犯人は慌てふためき、開かれているページを背中で隠して、思わず白い塔だの血が付いてるだのいってしまった。廊下で人々が移動し始める。風見さんの視線が外れた。田村はその一瞬に賭《か》けたのです。ページをめくり、白い塔を出した。≪血≫や≪白い立方体のバベル≫を口にしたのも、ページを犯行時に戻したのも、明らかに犯人の失策です。バベルに取りつかれていたが故の失敗なのです。バベルの塔にこだわり過ぎ、余計なことをしてしまった。冷静に考えてみれば、発見時に≪黄色い円筒形の塔≫が出ていても構わないんですよ、別に。田村にとって、被害者は藤川さんでなくてもよいわけですから、別の生徒を殺して新たに仕切り直しをすればいいだけなんですよね……」
「危ないことをいうなよ。お前が一番犯人っぽいぜ」
「純粋に筋道を立ててるだけですよ、モラルは抜きにして。それに、警察が調べ始めれば、畳、テーブル、本の端に残った血痕から、本来開かれていたページを突きとめたかもしれない。風でページがめくれてたって、どうってことなかったかも」
恭介が珍しく口を挟んで、
「警察に突きとめられるんなら、先生にだってできたんじゃないかな。こんな可能性はないですか。田村先生が犯行現場に入った時、黄土色の塔が出ていたが、血の痕跡から犯行時間に開かれていたページを捜し当てた。すると、そこに都合良く白い塔が。つまり、彼は部屋に入った時、白いバベルの塔のページを開いただけだった。ミッシングリンクに取りつかれてはいたが、犯人ではない」
「混乱してるね、恭介君。田村は、風見さんが目を離す前に血とか白い立方体とかいったんだよ。君の仮説が正しいなら、田村がそういう前に、風見さんが目を離していなければならない」
「俺には、へまをした田村の気持ちもわかるな。警察はバベルの塔なんか眼中にない。ひょっとしたら犯行時どのページが開かれていたか確認するかもしれないが、しないかもしれない。まして、何の絵が出ていようと知ったこっちゃない。――これでは彼は困るわけだ」
「妙に同情的じゃないですか。恋人を殺されかけたのに」
「だからその恋人っていうのはやめろ」
「女の子を刺すような男に同情なんてできませんよ。だが犯人の罪は罪として、と≪状況偶然≫の罪、そして≪運≫が悪かった、といういい方は許されるかもしれない。田村はバタフライナイフを携帯していたか、生徒から取り上げたかしていた。そして、旅館ですべての条件が偶然|揃《そろ》ってしまったんです。ミッシングリンクの≪生徒≫・≪バスの乗客≫、さらに凶器も機会も田村の願う≪犯人≫さえも参加者の中にいる。しかし犯行現場へ足を運ぶまで、ためらいがあったかもしれない。何故なら田村は藤川さんの画集を見ていなかったからです。彼は部屋に侵入した時、初めて開かれた画集を見た。そこには決定的なリンク・≪一五五〇年以前の絵≫がありました。条件が揃った……揃ってしまったのです。条件が一つでも欠けていたら犯行は後に延ばされた筈《はず》です。これでは殺すしかない。いや、……殺さざるを……刺さざるを得なかった。言い換えればと≪状況偶然≫が彼を殺人者に仕立てたのです」
「結局、彼が手を下したのは藤川だけだったんですよね。新聞で読んだんですけど」
「第一から第三の事件はやはり≪殺人・自殺・事故≫だった。当然過ぎるほど当然だね」
「先生は事実をねじ曲げてた。僕たちにぶった演説も、もう一つ説得力がなかったかも」
そうかな? と国彦は思う。あの場ではやはり田村の気迫に押されていた。全員が狂気に飲み込まれた。刑事二人にしても例外ではないかもしれない。今思えば演説の中で彼はけっこう自分の心情を吐露していた。≪何故、現場にバベルの塔が現れるのか。もし犯人が〈神〉だったとしたら、私を狂わせるためだった≫。≪私は犯人の立場になって考えた。考え続けた。その結果犯人になりきってしまった≫。≪現実世界をゲーム化しなければ、この世界に耐えられなかった≫……。演説を終えた田村の顔はエクスタシーに輝いていた。彼はハートを犯人として指名したが、逮捕されようがされまいがどうでも良かったのではないか。警察を前に演説し、長い推理を展開して犯人を指名するつかの間の栄光が欲しかった。自分自身が捏造《ねつぞう》した世界で、架空の、絵空事の、作り物の勝利を得たかったのだ。事実彼はつかの間、ヘロデ王へと変貌《へんぼう》した。くだらない日常生活から脱却し空中楼閣の王となったのだ。彼は実際にバベルの塔を建てたのかもしれない。砂の塔は一瞬にして崩れ去り、後には何も残らなかったのだが。田村の異様な推理の後、取り調べはひとまず終了となり、講座関係者は一階に泊まることになった。翌朝、田村正義だけを残し、国彦たちは比較的早く解放された。志乃の証言が得られたのだ。
「殺人、自殺、事故、そこに現れるバベルの塔。都市伝説が実物を産むように、バベルの塔の連続殺人の幻想が本物の殺人者を産んだ。実物が現れたとたんに噂が消え去るように、犯人が実在したとたんにバベルは消滅した。これはそういう事件だったのです」
佐藤はそう締めくくる。
※
「佐藤さん」と恭介。「僕と国彦さんは、あなたの奸計《かんけい》に嵌《は》まったんじゃないでしょうか」
「なかなか興味深いことをいうね」
「あなたは確かにある種の論理性を持った推理を展開した。しかしすべては結果が出てからの後知恵、出来レースなんですよね。犯人はわかっている。そこから逆に事件を再構築していった。自分でテキストを作り自分で解読しているんです。推理小説でいえば探偵ではなく、もろに作者。それが探偵役みたいないい方をするのはどうも卑怯《ひきよう》というか、納得いかないんです」
「なるほどね。でも、今、会話しているこの世界がもし推理小説内の空間だったとしたら、僕はかなりフェアな謎解《なぞと》きをしていることになると思うよ。だって僕は読者と、変ないい方だけど、≪一字一句≫同じ情報しか手掛かりにしていないからね。君は推理小説を読むかい」
「日本の最近の本格系のを、少し」
「本格推理小説ね。作者が自覚してるかどうかは別にして、探偵役がどうだろうと、作者がやってることは同じなんだよ。勝手に作った世界を勝手に解釈して解体している。その意味では今までの僕の推理展開とか、君との会話とか、二人を取り巻く空間は推理小説そのものさ」
「佐藤さんは、ある意味では田村正義と同じことをやっているんですね」
「世界の解釈による再構築と解体か。僕はそれを現実にやるほどの度胸はないよ」
「馬鹿ではないってこと?」
「小心者ってことさ。君は小栗虫太郎とか、夢野久作を読んだことあるかい」
「『黒死館』を読みかけて、落ちました」
「それでいいんだよ。ハードボイルド、アクションものを読もう。チャンドラーとかフランシス、バグリイ」
「高校に入ったら読みます」
「佐藤、生意気なガキですまん」
「フィクションに出てくる子供子供した中学生とは違いますね」
「リアリティがないってか。時々思うんだが、俺なんか中学生頃の方が難しい話をしてたのかもな。今は脳みそ腐ってるけど。一つ注文をつけたいんだが、あの『間章』がどうしても気にくわないんだよね。これでは、いかにもバベルの塔の連続殺人鬼が存在するみたいに読めるぜ」
「紛らわしいからいいんです。いや……もとい、注意深い読者ならこの殺人鬼はバベルの塔の殺人鬼とは違うことに気づくと思います。文中にはこうある。≪三人目を殺したのは十二月三日≫。ところが田村のいう第三の被害者、鈴木智子が死んだのは十二月十三日夜から十四日朝にかけてです。約十日のずれがあるんですよ。『間章』の殺人鬼がバベルの殺人鬼なら≪三人目を殺したのは十二月十三日≫あるいは≪十四日≫にならなければおかしい。すなわちこの殺人鬼はバベルの殺人鬼ではない。二人の風見、二人の田村がいたのと同じく、二人の殺人鬼がいたのです。もっとも片方は田村の頭の中にしか存在しなかったのですが。
では『間章』の殺人鬼は何者なのか? 十二月三日には何が起こっていたのだろう。『侵食』のXの冒頭に次の場面があります。田村は十一日の朝、新聞に目を通し、谷川が自首したことを知る。伊庭の事件に予想外の犯人が出現してしまった。田村を愕然《がくぜん》とさせた記事の隣にはこんな見出しがある。≪少女|失踪《しつそう》本件で三人目≫中村直子という小学生が十二月三日に行方不明になっている。十二月三日、しかも三人目です。『間章』の殺人鬼は女の子を三人殺しており、第三の被害者は中村直子であると推測できるでしょう」
「読者にそこまで求めるのか……」
「僕は『侵食』と『陶酔』、AとBという文章を並べておいたに過ぎない。二つを関連させて考えようと、別々に捕らえようと読み手の自由です」
「何だか無責任だな。ところで『間章』の殺人鬼のモデルはあいつなんだろ」
「逮捕されてよかったです。事件の後、長野県へ移った矢先、逮捕されましたからね。少女を襲って失敗したんです。島で三人、その前に京都で数人殺してるらしいです」
「怖いなあ。僕に対しては紳士だったんですよ」
「藤川さんに対しては紳士じゃなかったぜ。諸川玲。逮捕されて溜飲《りゆういん》を下げたよ。さすがに『間章』を読んだだけでは諸川とは特定できないよな、見当はつくけど」
「あの章の殺人鬼は本筋とは別物だと気づいてもらうだけでいい。でも伏線、ヒントは出してあるんですよ。『間章』の中でいささか唐突にジル・ド・レエの名前が出てきます。≪ジル・ド・レエ、憧《あこが》れます。ジャンヌ・ダルク麾下《きか》の元帥にして幼児|殺戮《さつりく》者≫」
「それのどこがヒントなんだよ」
「諸川玲はエッセイストでもあり、本を出してます。おそらく憧れの人から採ったであろう、彼のペンネームは?」
「…………」
「地井戸玲」
※
「実は、俺にはまだわからないことがある。佐藤の作品の話じゃなくて、現実の話なんだけどね。藤川さんを刺した犯人は田村正義だった。当然、彼女が残したメッセージはオーエン・ハートを指したものではなかったことになる。じゃあ、あのハート・マークは何だったのかな」
田村は謎解きしながらいったものだ。≪この手掛かりは私にとって、あってはならないものでした≫。それはそうだろう。彼はハートを犯人に仮想していた。ハートは事件に相応《ふさわ》しい動機を持ち、憎い恋敵でもある。田村は志乃の血文字を見て、とっさにハート・マークを思いついた。国彦は、彼の物事をこじつける力にはむしろ感心してしまう。
「ハート・マークの書き順も気になるし。俺も右利きだけど、下から書き始めて左側から上にあがり山を二つ作って、右から降ろす。すると指はM型の右側に来ることになる。志乃の指は左側に来ていた。あれはハートじゃないんじゃないか」
「僕は下から右に上げますけど」恭介があっさりいった。
「上の真ん中の窪《くぼ》みから始めて、左側に下がっていきますね」これは佐藤。「マークは文字じゃないんだから、書き順なんてない。自分にとって格好良く奇麗に書ける順序が、書き順になる。右利きの人は普通水平線を右から左に引きます。建築士、デザイナーなどのプロの中には左から右に書く人が結構いる。そのほうが真っすぐ引けるというんです。藤川さんは恭介君と同じ書き方をしていたということですね」
「やはりハート・マークなのか。それが、どうやったら田村正義を指す符丁になるんだ?」
佐藤はややいいにくそうに、
「あなただけに伝えたかったんですよ」
「だから何を?」
「ハート・マーク」
「ハートじゃないんだろ?」
「ハートですよ」
二人とも押し黙った。奇妙な間があく。やがて佐藤が困ったような顔で、
「オーエン・ハートじゃなく、ハート・マークそのものずばり。本当にわからなかったんですか? 女の子のハート・マークですよ、≪I love you≫または≪Love me≫に決まってるじゃないですか。つまりアモーレ攻撃。あれはダイイングメッセージなんかじゃない。ダイレクトメッセージだったんです。若い女の子から告白されるなんてうらやましいなぁ。嬉《うれ》しいでしょ?」
「若すぎる。なんだか恥ずかしいぜ」
恭介は俯《うつむ》いて一言も発しない。
※
大津版画館は午後五時に閉館となります。……
すました女の声が流れる。少女はもうすぐ来るだろう。そしてこの椅子《いす》に座る。版画をぼんやりと眺めるだろう。奥二重の切れ長の目、高い鼻、薄い唇、おかっぱの黒髪。志乃はいつも横顔を見せていた。国彦は思い出す。一度だけ正面から向き合ったあの夜、雪のステージ、二人はカマクラを作った。少女は来るだろう。そして自分に話を聞かせるのだ。宇宙、自然、神話、宗教、……国彦は黙ってそれを聞くだけだ。気持ちを汲《く》んでやれない。何ができたというのか。彼女はやがて来るだろう。展示室に入り、椅子の上に鞄《かばん》を置き、膝《ひざ》を揃《そろ》えて座るのだ。国彦は、待っている自分に気づいた。
しかし、少女が二度と来ないだろうことも、心のどこかでは、知っていた。
カマクラの夜の告白と助言は、二人の真の関係を成立させたが、同時にそれは、二人のこれまでの関係の消滅でもあった。ここにも『都市伝説』のアナロジー。
事務員は去り叔父《おじ》と甥《おい》が残っている。やがて閉館の時刻が訪れた。
恭介は何もいわず立ち上がる。出入り口へ向かう少年の背中に、
「見舞いに行ってやれよ」
立ち止まったが、背中を見せたまま、応《こた》えない。
国彦は静かな声で一言告げた。会ったらこう伝えてくれよ……
恭介は、言葉を受け取ったかのように、何もいわず右手を上げた。
※
白い部屋だ。
何もなかった。
壁の白。レースのカーテンの白。
白いベッドに少女は横たわっていた。
赤い薔薇《ばら》の花束を買った。
果物|籠《かご》などは相応《ふさわ》しくない。恭介は花束を持ったまま立ちすくむ。
わかっている。薔薇の花なんて陳腐だ。しかし志乃に贈る花束は薔薇でなければならない。
「藤川、久しぶり……顔色がよくて安心した」
花瓶がない。
ドアの前から話しかける。少女は天井を見上げたままだった。
「お父さんが仕事に出てて不便じゃない?」
「――いいの」
「お手伝いさんが来てくれてるんだね。感じのいい人だ。山形さんっていうんだってね。とっても明るいお婆さん」
こんなことをいいに来たのではない。
「あの、藤川、これ……お見舞い」なんて間抜けな姿。
「そこに置いて」
壁に花を立て掛ける。滑って横に倒れた。花びらが散った。二、三枚……赤。
二歩、ベッドに近づく。
「話し相手が欲しいんじゃないかなって思って、それに……僕も話したいことがあるし、いつもいいたいと思ってたんだけど、藤川は一方的にしゃべるだけだし……たまには僕の……」
驚いた。恭介の顔を見ている。
違う。倒れた花束を見ているのだ。
「薔薇の花、散っている」視線は天井へ。
「……花、好きかい?」力のない声。
志乃は深いため息をつき……
はっとするような鋭い声で「薔薇の花」といった。
「私……好きになりたかった。薔薇の花が……好きになりたかった。……この部屋が好きになりたかった。自分の家が……父が……この町が……好きになりたかった。学校が、先生が、友達が、風や草や海が好きになりたかった。言葉や遊びや時間や音楽や星やあなたが好きになりたかった。自分、……自分が好きになりたかった」
会話はすれ違う。
「恭介君」
「何?」
「青い月って知ってる」
いつもの会話と同じだ。
「カナダで山火事が起こったの。煙は大気圏まで上がった。だから光が青っぽくなったの。青い月の夜。でも、見たいとは思わない、今は」
「そう……だね」
「私、なんとか崖《がけ》の上に登ろうともがいてた。必死で草をつかんで……でも駄目だったの。刺された。落ちてしまった、でも……それでよかったの。刺されたから、落ちたから、何かが死んだ。それが青い月」
志乃は瞳を閉じる。
「……僕は君にいいたいことがあるんだ」
眠ってしまいそうに見えた。今は、止《よ》そう。
「……君に伝えたいことがあるんだ。昨日|叔父《おじ》に、風見国彦にあった。僕に見舞いに行けっていってた。君に、こう伝えてくれって。国彦さんはひとこと――」
いい淀《よど》む。
「どうしたの?」
「僕には意味がわからなかった。いつもの戯言《たわごと》みたいで」
「何ていったの?」
「ひとこと……かっこつけるな、って」
志乃は薔薇に目を遣《や》る。
恭介には国彦の言葉がわからない。
長い沈黙の後……
私、好きな人がいます、と少女はいった。そして、……いました、といい直す。
「私、好きな人がいたんです」
少年の顔を正面から真っすぐに見る。
「かっこ、つけるなって?」
そして、鮮やかに、笑った。
単行本あとがき
ゴシック・リヴァイヴァルあるいは塔・螺旋・廃墟について
T
「絵もお話もない本なんて、なんの役にも立ちはしないわ」と少女はいった。
私は彼女に読んでもらうために絵もお話もあるこの作品を書いた、というのは半ば韜晦《とうかい》だが半ば真実でもある。少女の名をアリスという(『不思議の国のアリス』角川文庫版)。アリスのいう「絵もお話もある本」というのはゴシック・ロマンスの重厚な絵入り三巻本を指していたのかもしれない、という荒俣宏氏の面白い指摘がある。また、ハンプティ・ダンプティが塀の高みから落ちて死ぬのは、傲慢《ごうまん》故の天罰、すなわち『バベルの塔』の物語の一種だとする高山宏氏のこれまた面白い指摘もある(ハンプティ・ダンプティはプライドが高い。傲慢==プライド)。
絵が先にある。『バベル消滅』のタブローを描いたのは小説を書いたのより数年早い。絵の方は確か四、五年前には描き上がっている。前作『殉教カテリナ車輪』(東京創元社)でも事情は同じで、あの作品でも本文が書かれる数年前に絵のほうは完成していた。小説を書いてから内容に合わせて絵を描いたのだと思われているようだが、事実は異なる。絵は小説のために描かれた挿絵ではなく、逆に小説は絵の説明のために書かれたものでもなく、二つは同時に存在しつつ自然に結び付いた。
U
あの頃、何故あんなにバベルの塔の絵が描きたかったのだろう。
思えばエッフェル塔からロックフェラー・センター、十九世紀末から二十世紀初頭にかけては塔のイメージが流行した時代だった。十八から十九世紀のロマン派の時代もそうだ。ジョン・マーティンの、どこかにバベルの塔が見える災厄画。ヴィクトル・ユーゴー。「ヴィクトル・ユーゴーとは、自分がヴィクトル・ユーゴーだと思っている狂人だ」(ジャン・コクトー)。ユーゴーはデッサンも多数残しているが、いわゆる『塔狂い』でもある。スタンダールの『パルムの僧院』、ベックフォードの『ヴァテック』。ベックフォードは富豪でもあり、実際に八十メートルの塔を建てた。八角形の塔の上に尖塔《せんとう》が屹立《きつりつ》していたという。この塔は落雷によって崩れた。バベルを想起させる出来過ぎたエピソードだ。彼は小児愛の人でもあったらしい。
この時代はゴシック・リヴァイヴァルの時代でもある。イギリスで十八世紀末、ホーレス・ウォルポールの別邸がゴシック様式で建てられてから流行し始めた。彼は『オトラント城|綺譚《きたん》』の作者でもある。以来、庭園建築として、ゴシック修道院の廃墟やキオスク(あずまや)が愛好されるようになった。更に十九世紀から聖堂建築はゴシック様式で建てられるようになり、イギリス以外のヨーロッパ諸国へも広がっていく。いたるところに尖塔が林立し、まさしく塔の時代だった。ロンドンの国会議事堂でさえこの影響を被っている。さかのぼって十六世紀、ブリューゲルが、モンス・デジデリオが、ファルケンボルフがファン・クレイブが、そしてアタナシウス・キルヒャーが『バベルの塔』を描いたマニエリスムの時代が、やはり塔のイメージが流行した時代だった。
塔のイメージが盛んに現れる十六、十八世紀はまた、『螺旋《らせん》』の時代でもある。
ファルネーゼ宮の内部は巨大螺旋階段が貫いているが、これはマニエリスム期の代表的な建築だ。そしてグロッタ。地下|洞窟《どうくつ》は巻貝を建築化したものだといわれる。内部には実物の巻貝が大量に埋め込まれてもいた。絵画においてもティントレットやポントルモの画面には螺旋状ないし蛇行する階段が頻繁に登場する。この時代の画家は人体さえ螺旋状に表現した。ロマッツオのいう「蛇状曲線」である。そこに現れるのは一方向からだけではない無限の視点と角度による表現だ。ブリューゲルの塔もこの流れにある。私にいわせれば人間が体内に内臓(腸)などの螺旋を持つ空間だとするならば、バベルの塔は明らかに擬人的建築である。バベルも内部に螺旋状の階段を持つのだろうから。シンアルの地の人々が造ろうとしたものは、人造人間・巨人==神そのもの、ですらあったのかもしれない。マニエリスム期から二百年後の十八世紀末から十九世紀にかけて再び、螺旋階段流行の時代となった。代表的な例がピラネージの『幻想牢獄』と、それを取り込むロマン派文学(たとえばトマス・ド・クィンシー)である。
『塔・螺旋』のイメージは同じ時期に流行してきた。何故か?……その時代はどういう時代だったのか。簡単にいえば『一つの視点』を否定する時代である。『人間』一つ見るにしても、そこにはもはや確固とした直線的な見方はあり得ない。シェイクスピアは「人物の周りをぐるぐる回って眺めでもするかのように、多くの角度から」ハムレットを見る(ワイリー・サイファー)。とするなら、世界がもはやある一つの『世界』に収まるわけもなく、そこには混沌《こんとん》・深淵しかあり得ないのだ。『一つ』を否定する時代。だからこそ『一つの言葉』を破壊したバベルの塔神話が甦《よみがえ》るのであり、『一つの角度』を否定する螺旋様式が席巻するのである。そして二十世紀、二十一世紀は……現代は、特に日本は、どうなのだろうか?
加えて、『塔・螺旋』の氾濫《はんらん》と共に同時期『廃墟』が浮上してくるのも、おそらく偶然ではない。世界の混沌・深淵は容易に廃墟のイメージと結び付く。十六世紀イタリアには人工の廃墟、「廃墟をかたどっていて、目に大変よろしい館」(ヴァザーリ)が多数存在していたらしい。十八世紀から十九世紀にかけては、特にイギリスにおいて廃墟が崇拝された。上流階級の土地所有者は競って人工廃墟を建設する。マリオ・プラーツいわく「廃墟趣味とは元来、怪奇なるものに発展する可能性を内に秘めた≪ピクチャレスク≫な様式」である。一方ドイツ・ロマン派は、廃墟こそ人間の内面の表象とみなす。文学におけるティーク、絵画におけるフリードリヒ。そして現代の日本においては比較的最近、現実の廃墟、地震によるある地域の全体的崩壊さえ顕現した。
V
何故ブリューゲルによって『バベルの塔』が描かれたのか。
十六世紀といえばトリエント公会議の時代、伝統的カトリシズムが新興プロテスタントに敗れ、巻き返しを図っていた時代である。この時期は聖書そのものへの関心がそれまでになく高まった。ローマ・カトリックの支配が崩壊し、カルヴァン派・ルター派・再洗礼派などのプロテスタント諸派が激しい争いを繰り広げてもいた。つまりキリスト教内部において『統一言語』が失われていた時代だったのだ。ブリューゲルの作品に当時の世相の影、宗教戦争に対する画家の思いが反映されているとみても不自然ではない。
更にブリューゲルが住んでいたアントウェルペンと、バビロンには明らかに類似点がある。古代都市バビロンは異なる言語、方言を話す民族が各地から流入して来たので、意思伝達の困難が深刻な問題だったという。一方、十六世紀のアントウェルペンはフランドルの貿易の中心であり、一種のメガロポリスだ。そこは、たちまち六つか七つの主要国語が話されているのを耳にするほどの人種の坩堝《るつぼ》であった。画家は様々な意味で自分の時代にバビロンを見たのである。
同時期アントウェルペンのプランタン印刷所から、全八巻の『多国籍語対訳聖書』(一五七三)が出版されている。ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、カルデア語の四ヵ国語で印刷されたこの聖書は、カトリック当局から異端視された。神が発したもともとの言葉は、何語だったのだろう……。モーセはヘブライ語で十戒を受け取ったのか、それとも言葉のイデアのようなものだったのか。神の言葉、全能の言葉があるとしたら、とてつもない精神的物理的力の場となるに違いない。例えばそれは、ディレイニーの『バベル‐17』のような形を取るのだろうか。
ブリューゲルは巨大な岩山を想定し建築の基礎とした。フランスのモン・サン・ミシェルの、岩山と修道院が一体になった姿を思い出す。サン・ピエトロ大聖堂をも、連想する。カトリックの総本山。ピエトロすなわちペテロ。ペテロはもともと岩を意味した。イエスは使徒ペテロに次のようにいったのではなかったか。「あなたはペテロ(岩)。私はこの岩の上に教会を建てよう」……ブリューゲルが岩の上に塔を建てたのも単に建築上の必要性からだけではない。
W
≪塔・螺旋・廃墟≫の流れでいうと『ヨハネ黙示録』にも「回転視点」(パノフスキー)あるいは螺旋的視点を感じてしまう。同一の出来事を異なった観点から何度も記述しているように見えるからだ。原資料を編集したとしても結果としてそうなっている。
世界の破滅も黙示も心の中にある。本格推理の様式の中で、それが書ければと思った。
ルネサンスという言葉が目につく。ミステリー・ルネサンス、本格のルネサンスなどという使われ方をする。異議はない。しかしルネサンスという言葉は私にとっては少し眩《まぶ》しい(マニエリスムという言葉でさえそうだ。ポントルモ、ブロンズィーノあるいはジョン・ダンそしてシェイクスピア)。無論ルネサンスは美術史のみに用いる概念ではない。しかし、あえて美術に引き寄せていうなら、一九九九年に至る本格物を含む日本ミステリーの数年の動向は『ルネサンス』というよりは『ゴシック』、ゴシックへの先祖返り、ゴシック復興、すなわち『ゴシック・リヴァイヴァル』に見える。
『ゴシック・リヴァイヴァル』の時代はまたゴシック・ロマンスの時代でもあった。ゴシック・ロマンスと世紀末日本ミステリー。その類似を挙げれば、例えば@作品の巨大化・長大化。A神秘的テーマやモチーフへの志向、またそれらをパターン化・ルーティン化すること。B舞台の設定を居心地のよい過去≠ノ求める。C絵入りの本の登場、などがある。これらの点からいうなら、確かに二つの時代は近い状況になりつつあるのかもしれない。
ただし私がここで述べたいのは『ゴシック・リヴァイヴァル宣言』ではない。作者が意図的であるかないかにかかわらず、作品がうかつに先祖返りすることは、警戒しなければならない。今日、ウォルポールやベックフォードやラドクリフやマチューリンやプレストの代表的な作品だけでも一通り読んだことのある読者がどれだけいるだろう。彼らは何故、そして彼らの数倍は存在した筈の群小ゴシック作家たちは何故、歴史の中に埋没してしまったのか。端的にいって何故読まれなくなったのだろうか……しかし、この場では明言を避けたい。
一方五、六十年代に作品を意図的にゴシック化させて成功した作家にボワロ&ナルスジャックがいる。私は彼らの次のような言葉がとても好きなのだが、本書を読了した方はあるいは納得していただけるかもしれない。推理小説とは「推理が恐怖を作り出し、そしてその恐怖を推理が静めなければならない物語」。あるいは『呪い』の中の登場人物のいう、「事件に三面記事流の陳腐な外観を与えてやることもできるでしょう。けれども私は自分に語り聞かせながら物語るほうを選ぶのです。事件のそれぞれが真の比重を得てきたのは私の内部でなのですから」(大久保和郎訳・創元推理文庫)――いかがだろうか?
本書に興味を持たれた方は、例えば『バベルの謎』(長谷川三千子・中央公論社)を読まれるとよい。バベルの塔を解読していくことにより、本書で述べた一般論のさらに奥、真に壊滅的な真相にまで至る名著である。ゴシック文学でいえばやはり『ヴァティク』(ベックフォード・国書刊行会など)、人間ボールの件などはシュールなおもしろさ、そして入門書となれば『ゴシック幻想』(紀田順一郎他・書苑新社)が現在でも最良の啓蒙書、ケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』は未訳だが、黙示録ならば『ヨハネの黙示録』(岩波書店)という優れた訳書があり、百の入門書を読むより本文に直に当たってその「わからなさ」かげんを楽しむのがよい。また、私がバベルの塔に魅かれるのはつまるところ巨大な渦巻きだからなのだが、伊藤潤二氏の『うずまき』連作(小学館)は、このテーマにさまざまな角度から迫る傑作だ。絵入りの本となると本文でも触れた『無心の歌、有心の歌』(ブレイク・角川文庫)が美しく、筆者の『N・Aの扉』(新潟日報事業社)は本作と表裏の関係にあるゴースト・ストーリー、しかも≪本格推理の幽霊≫の話であり、興味のある方はご一読いただければ幸いである。
文庫版あとがき
泥棒の風呂敷《ふろしき》あるいは反響について
唐草模様の風呂敷はすっかり見かけなくなった。
ところで、ふろしきを何故「風呂敷」と書くのかというと、湯上がりの足を拭《ふ》く敷物に似ているからとも、入浴の際着物を包んでいたからともいわれている。昔は、白いぐるぐるを散らした濃い緑色の木綿布が、家財道具や荷物を包んでいたり、服をくるんでいたり、押し入れの中で座布団などを覆っていたりしたものだ。
一昔前のマンガで泥棒は、必ず唐草模様の風呂敷を背負った姿で描かれた。
当時の一般的なイメージだったのだろう。それに、白や黒一色の風呂敷では絵的に寂しい。頬《ほお》っかむりをして、たくさんの渦巻き模様を背負った泥棒は、どこへ行ってしまったのか。しかし私は、その素朴な渦巻きを、いつも面白いと思っていた。
渦巻く蔦《つた》は、ぐるぐると伸びて繁茂し、ものを覆い尽くす。人はそれを無限の繁栄や不滅、ひいては長寿、豊饒《ほうじよう》などと結びつけた。また渦巻くものは物と物とを結び付ける聖なる形であり、衣装、壺《つぼ》や皿などの陶器、建築にも表現され、渦を身にまとう怪獣なども想像された。やがてそれは、DNAや宇宙とも照応しあい、根源的な力の象徴となっていく。
バベルの塔は巨大な渦巻きでもある。
伊藤潤二氏の『うずまき』(小学館)に魅《ひ》かれるのは、タイトルの通り渦巻きそのものをテーマにしているからだが、珍重すべき図形ホラー、ないし図像学的ホラーだからでもある。この作品のクライマックスに現れる「うずまき長屋」を、後に伊藤氏はバベルの塔のように描けばよかったと語っていたが、私は氏の描くバベル長屋が見たかった。ちなみに氏の作品の中では『白砂村血談』を偏愛している。『白砂村』の主人公はラストに「憑《つ》かれて」終わるが、その姿に、何となく我が身を見るのである。
『バベル消滅』も憑かれた人の物語だが、私自身、この小説を熱に浮かされたように執筆した記憶がある。書き始めたのは第一作が出た少し後だから、一九九八年の十月頃だろうか。熱狂的に綴《つづ》りながらも、しかし活字になるとは考えていなかった。角川書店の編集者にお会いしたのは、この作品が半ばほどできた頃だから、翌年の一月だったと思う。
彼らは車でやってきた。
東京から豪雪の地まで、高速道路を走ってきたのである。捕まったら、即刻裁判所行きのスピードできたのではあるまいか。ドライバー新名新氏は、やはりただものではない。本名が回文になっている点からして、ただものとは思えない。氏は、エリート大学生がそのままナイスミドルになったような雰囲気を持っていた。助手席に、化粧品のコマーシャルから抜け出てきたような女性が座っており、その方が三浦玲香氏だった。
三人で質素に地元名産のへぎ蕎麦《そば》を食い、粗末な借家で打ち合わせをした。私の家は、職場へ行くための前線基地のようなもので、人間的な温かみはない。本の類《たぐ》いもあまりない。ろくな暖房設備すらなく、しかも古い木造建築特有のすえた臭いが満ちている。その家で、数本の企画を出した。この硬い『バベル消滅』を、「美少女虐待物」といって売り込んだ記憶がある。お二人がどんなイメージを思い浮かべたのかはわからないが、ともかく「ではそれでいきましょう」という具合になった。
数ヵ月後小説は完成し、新名氏に電話で「できました」と告げると、氏はやや戸惑いぎみに「早いですね」といった。さらに数ヵ月後、三浦氏の大変な――体を壊すほどの――ご尽力の結果、本書は無事に刊行される運びとなった。執筆の機会をいただいた新名新氏、単行本に引き続き文庫化でもお世話になった三浦玲香氏に、この場を借りて心から謝意を表したい。
井上雅彦氏から解説をいただけたのも望外の幸せである。
魔道の先達ともいうべき氏の文章の中に、自分の名を発見した時は驚いた。私の作品はどれも、孤独にたたずんでいるようなものばかりだが、『バベル消滅』は特にその傾向が強い。何故ならこれは、「私の小説など誰も読まないのではないか。それでも作品が書けるのか」という危機感が書かせたものだからである。発売当時の反響も少なく、『塔の物語』(角川ホラー文庫)巻末の井上氏の二行の書評がほとんどすべてだったといっていい。
しかし、私は幸せだった。
ちゃんと見てくれる人がいる。わずか二行の文章。
私にはそれで、充分だったのだ。
角川文庫『バベル消滅』平成13年8月25日初版発行