難波利三
てんのじ村
「さ、行きまひょか」
家の前に集合した顔ぶれを見回して、花田シゲルが声をかけた。
男達は全員、戦闘帽をかぶり、開襟シャツに国防色のズボンをはき、ゲートルを巻いている。女達は日の丸を染め抜いた手拭で姉さんかぶりをして、モンペ姿である。いずれも右肩から斜めに、貯蓄・増産奨励慰問団≠ニ墨書したたすきをかけていた。
曲芸のミナミ菊丸は小柄なため、顔の半分が帽子で埋まり、奇術の浪華一虫斎は逆に大柄だから、帽子も開襟シャツの襟元も窮屈そうである。漫才の東洋一丸、腹話術の太平公介、それにアコーディオン伴奏の杉君夫らも、どことなく身にそぐわない装いをしている。一人、陸軍大将のような鼻|髭《ひげ》を貯えた浪曲の天王寺家忠造だけが、戦闘帽をかぶると様《さま》になり、本物の軍人と見まがうほどだった。
「今日も、ええ天気になりそうでんな」
「こんな日は、空襲があるのと違いますやろか」
「かないまへんなあ。留守中に爆弾なんぞ落とされたら」
「留守中のほうが、かえってよろしいがな。命に別条あるやなし、ちゅうわけで」
「それも、そやな」
シゲルの妻で、漫才の相方でもある花田千代香と、東洋一丸の相方の東洋勝江が喋《しやべ》りながら歩く。他にも踊りの花柳美根奴や、歌の橋川しのぶ、女漫才の夢ポン子・朝ペン子、三味線の天王寺家光子など、女性は七、八人おり、男女合わせると十五、六の人数になった。
路地の角にはコンクリート製の防火用水が二つと、砂袋が三十個ほど積み重ねてある。団長格のシゲルを先頭に、一行が通りかかると、防火用水のそばでヒマワリの種を干していた数人が、
「行ってらっしゃい」
と、口々に言った。漫才、浪曲、曲芸など、いずれも芸人だが、慰問団には加わっていない連中だった。
「シゲル兄さん、今日はどちらへ?」
「和歌山や」
「広島と長崎に新型爆弾が落ちたという噂やから、気ィつけてや。和歌山はアメリカに近いからな」
「おおきに」
開け放した長屋の玄関先で、一升瓶の米をついていた珍芸の星大流が、手を止めて顔をのぞかせた。彼の本来の芸名は星ホームランだが、英語の使用が禁止になったため、大流などと妙な名前に変えていた。
「こんなぼろ長屋が集まっとるところに、アメリカさんもわざわざ爆弾を落とすことはないと思うが、間違いちゅうこともあるからな。留守中、もしものことがあったら、頼むで」
「よっしゃ。まかしといて。米俵と酒樽と、砂糖袋と金庫と、とり合えず、それだけ持ち出したらええんやろ」
「そのとおりや」
シゲルが答えると、一同の間に笑いがはじけた。ないものばかりを、星大流は並べ立てた。
表通りへ向かう緩い坂道を登りかけて、シゲルは足を止めた。
「ほんまに、寂しい眺めやで」
「またや、またや」
同じように立ち止まった浪華一虫斎が、戦闘帽をかぶり直しながら、甲高い声で茶々を入れた。
前方の空は早々と、青く展《ひろ》がる。そこへさしかかると必ず望めたはずの通天閣が、姿を消してから、シゲルはそう呟《つぶや》く癖がついた。あるべきはずのものがない空間は、青く澄んでいる分だけ、かえって味気なく、わびしく映った。
シゲルの漫才のネタには、通天閣を取り入れたものがある。落下傘《らつかさん》の代わりにコウモリ傘《がさ》を使って飛び下りるとか、天辺でオナラをすると、大阪中の人が目を覚ますとか、立ち小便なら、万里の長城も顔負けするくらいの虹が、天へ向かって弓なりの形にできるとか、面白|可笑《おか》しく用いてきた。
だが、その締めくくりには決まって、通天閣を褒《ほ》めたたえる言葉を忘れなかった。
「明治四十五年の七月三日、この私が御年十四歳であらせられたときに、総工費九万七千七十一円四十一銭で建てられましたんやで。それだけの銭で焼きいも買うてみなはれ、一体どれだけ買えるやら。大阪中、いもだらけになりまっせ」
客を笑わせておいてから、高さは七十五メートルあり、二階までは階段を登り、そこからエレベーターで、展望台へ一直線だと説明する。東に生駒の連山が、西には大阪湾から淡路島まで一望できると喋れば、知っている客は合点して頷《うなず》き、まだの客は興味ありげに膝《ひざ》を乗り出す。どちらにしても、通天閣のネタは評判がよかった。
ところが、昭和十八年二月十三日、鉄材供出のため、通天閣は解体された。約三百トンの鉄屑になって献納され、軍艦かなにかに化けてしまった。
それ以後、シゲルは通天閣のネタを使わなくなった。言えば愚痴になりそうだし、下手に口をすべらせると、憲兵隊に引っ張られる恐れがある。
「あの通天閣が、お国のために役に立つのかと思うと、われわれ銃後を守る国民としても、うれしいことですわな。通天閣、万歳と、褒めたたえてやらなあきまへん。ほんまに、結構なことや」
一度、奈良の田舎の舞台で、そう言った覚えがあるが、自分の言葉の白々しさが嫌になり、それっきり、やめてしまった。
通天閣は、そこにあって欲しい。路地の入口から望める空に、そびえていてもらいたい。漫才に使うからというだけではなく、毎日見馴れたその姿に、愛着もある。そんな思いが、つい呟きになってしまうのだ。
「通天閣高い、高いは煙突、煙突は黒い、黒いはインド人……」
空を見上げて、浪華一虫斎は気らくに口ずさんだ。
「早よ行かな、電車に乗り遅れまっせ」
妻の千代香に促《うなが》され、シゲルは衣裳を入れたトランクを持ち替えて歩き出した。
「ごめんやっしゃ」
歌手の橋川しのぶが、そう断わってから、あーあーと発声練習を行ない、
「丘にはためく、あの日の丸を、仰ぎ眺める我等の瞳──」
と、勝利の日まで≠歌い始めたので、一同もそれに合わせ、口ずさみながら歩いた。
「もっと色気のある歌、おまへんのかいな」
ミナミ菊丸はぶつくさ言い、みんなに遅れないように大股《おおまた》で足を運ぶ。そのたびに、戦闘帽がずれて顔をおおった。
一同は天王寺駅から和歌山行きの電車に乗った。胸のたすきに気づいた駅員が、
「ご苦労様です」
と、声をかけた。乗客の中にもわざわざそばへ寄ってきて、ねぎらいの言葉をかける者がいる。シゲルは敬礼して答えた。
和歌山で電車を乗り換え、紀ノ川沿いに三十分余り登った町が、今日の行き先だった。同じ顔ぶれで三日前までは岡山県下を回ってきたが、今日からは一週間の予定で、和歌山の各地を巡回する段取りになっている。この一年余り、そういう内地慰問の仕事が急激に増え続けた。
駅まで迎えにきていた馬力で、一同は国民学校の講堂にたどり着いた。炭焼きの人達や、松根油採りのために動員された学生達の慰問が、シゲル達の役目である。講堂には二百人ほどが詰めかけ、仮設舞台の背後には、日の丸の旗と並べて、一億一心火の玉だ!!≠ニ書いた垂れ幕がかかっていた。
国民服とモンペ姿のまま、一同が舞台に勢揃いし、シゲルが手短に挨拶した。お国のために貯蓄と増産に励んでもらいたいが、今日だけはくつろいで、思い切り笑って下さいと述べた。それだけで拍手や歓声が飛び交い、客席はざわめいた。
幕開けは、橋川しのぶの歌だった。テイチクで一枚だけレコードを出した実績のある彼女は、三年ほど前から、てんのじ村に住みついている。そのレコードが売れなかったため、専属を解かれたらしい。年は三十を越えているが、美声は衰えていなかった。
めんこい小馬∞隣組∞お山の杉の子∞朝だ元気で≠ニ、杉君夫のアコーディオンの伴奏で続けざまに歌い、終わりは勇ましく、勝利の日まで≠ナ締めくくった。客席からも歌声が舞い上がり、大合唱になった。
続いて、ミナミ菊丸が、番傘の上で升《ます》を転がしたり、足を使ってその傘を、空中へ放り上げたりする芸を見せた。あおむけに寝転び、下駄《げた》をはいた足で大きな水がめを自在にあやつる芸は、シゲルの知る限り、ミナミ菊丸の右に出る者はいない。しかし、水がめを持ち運ぶのが大変なので、慰問のときは省略していた。
女漫才の夢ポン子と朝ペン子が、代用食のおいしい食べ方をネタにした話を演じ、浪華一虫斎が紐《ひも》とナイフを使った奇術を見せたあと、シゲル達の出番になった。
千代香が三味線で道頓堀行進曲≠弾き、いきなり歌い出す横で、シゲルがあきれ、困惑して見せるところから、二人の漫才は始まる。持ち時間二十分のうちの前半は、喧嘩まがいのやりとりや罵《ののし》り合いを続け、
「では、仲直りするために、ここらで趣向を変えさせて頂きます」
と、シゲルは一旦、舞台の袖に姿を消した。それも、いつもの段取りだった。
シゲルは手早く、衣裳を替えた。それまで着ていた開襟シャツとズボンを脱ぎ捨て、かすりの着物に縞《しま》の袴《はかま》を着け、足袋《たび》をはく。頭に大きめの学生帽をかぶったところで、合図を送ると、千代香の三味線は、
※[#歌記号]お手々 繋いで 野道を行けば
を、奏で出す。それに合わせて、シゲルは腰を落とし、脚を縮め、子供に似せた背丈になって舞台の上を歩き回った。
かぼちゃ≠ニ名付けた、シゲルが得意とする出しものの一つである。縮めた脚は袴の中に隠れているので、客席からは頭でっかちの子供に見える。
「まあ、シゲルちゃん。いつの間にか、可愛らしい坊やになって」
千代香は三味線を止め、手を繋いで一緒に歩く。
「坊や、年はいくつなの」
「イチュチュ」
かぼちゃ頭をゆらゆら揺らせて、シゲルが答えると、客席は大爆笑になった。腹を押さえて笑いころげる者もいる。どこの舞台でも受ける芸だが、ここでは特に笑い声が大きかった。
ひとわたり、舞台の上を歩き回ってから、千代香は再びバチを握り、浪花小唄≠弾き出した。その曲に合わせて、シゲルが次第に脚を伸ばし、元の背丈に戻るのがオチになっていた。
千代香の三味線が同じ曲を繰り返し、シゲルが半ばぐらいまで成長して見せたとき、客席の後方が急に騒々しくなった。笑いが鎮まり、みんなはいっせいに首をひねった。
〈なんやいな。折角、ええとこ、やっとるのに〉
シゲルは不快感を覚えた。簡単そうに見えるが、この芸は難しい。小刻みに、少しずつ伸び上がっていくには、脚腰に相当な負担がかかる。若いころならともかく、四十半ばの年では、かなり苦しい。にもかかわらず、懸命に演じているのに、客の視線は舞台から離れ、講堂の入口のほうへ集中した。
「えっ!」
「嘘をつくな。馬鹿野郎」
「非国民め。そんなことがあってたまるか」
いくつかの声が飛び交い、ごおっと雷鳴に似た唸りがはじけ、客席は総立ちになった。聞きとれない叫びを上げ、次々と飛び出して行く者がいる。
「なにがあったんやろ」
一調子、三味線の音を上げて、客の目を振り返らせようとしていた千代香が、怪訝《けげん》そうに手を止めた。シゲルも芸を中断して、一気に伸び上がった。
「喧嘩でも始まったんかいな」
「それにしては、騒ぎ方が大袈裟《おおげさ》でっせ」
客席からはたちまち人の姿が消え、あとにはゴザが散乱している。楽屋にいた連中も飛び出して、シゲルらと一緒に、舞台の上で立ちつくした。
そこへ、ミナミ菊丸が駆け込んできた。様子を探りに行っていたらしい。
「日本が、日本が、戦争に負けたんやて!」
「なにっ」
「いま、ほんの、いまさっき、ラジオで、天皇陛下が、そう言いはったそうや」
「ほ、ほんとか、それ」
「学校の、宿直室にいた先生が、確かに、そう聞いたそうや。戦争は終わった、いうて」
シゲルの周りの何人かが、歓声とも悲鳴ともつかない声を上げ、その場へ座り込んだ。
「なんで、やめたん。なんで負けたん」
「いやや、そんなん。いやや、そんなん。最後には、神風が吹くはずやったやないの。神風が、鬼畜米英を吹き飛ばしてしまうはずやったやないの」
「そうよ、そうよ。私ら、そう信じてたのに。負けたやなんて──」
夢ポン子と朝ペン子が口々に喚《わめ》き、顔をおおって泣き出した。橋川しのぶはなにか叫んで、杉君夫の胸にしがみついた。
シゲルは虚脱感に襲われ、舞台の上であぐらを組んだ。学生帽を脱ぎ捨て、袴をめくり上げた。内股の辺りに、急に汗がにじみ出すのを覚えた。
「菊やんの話、ほんまやろか」
同じように座り込んだ浪華一虫斎が、半信半疑の面持ちで訊いた。
「嘘やと思うなら、自分で確かめてきたら、どうや」
鼻の頭に汗を溜めたまま、ミナミ菊丸は口を尖《とが》らせた。
「あの騒ぎを見ると、どうやら、ほんまらしいな」
シゲルは呟いた。
開け放された講堂の窓からは、校庭の一部が見える。そこには数十人が入り乱れ、喚声を上げている。走り回る者や、地べたで土下座する者もいた。
「とすると、本日の演芸は、これで打ち切りやな。折角、新ネタ、下ろそうと思うたのに」
東洋一丸がとぼけた口調で言い、手にした鼓を一つ叩くと、それを合図のように、夢ポン子と朝ペン子の泣き声が止んだ。
校庭の騒ぎの中に、一人、兵隊らしいのが混り、上半身裸になって抜き身の軍刀を振り回している。
〈難儀やな〉
視線を吸い寄せられながら、シゲルはそう思った。かぼちゃ≠熱演中だったせいか、下半身にはまだ気怠《けだる》さが残り、頭だけが空っぽになっていく感覚があった。
半裸の兵隊が奇声を張り上げ、天に向かって切りつけると、軍刀は鋭利な輝きを放った。青いガラス板をはめ込んだように、空は澄む。昭和二十年八月十五日の出来事だった。
電車が正常に動かず、駅ごとに何十分も停車するため、一行が大阪へたどり着いたのは、その日の夕方だった。
天王寺駅前の広場では焚《た》き火が燃え盛り、百人余りの人々が太鼓や鉦《かね》を打ち鳴らして、踊り狂っている。夕焼けに染まる上空を、焚き火から舞い昇る黒煙が塗りつぶす。腕を組み合わせた一団が右に左にねり歩き、意味不明の言葉が飛び交う。中国や韓国など、いわゆる第三国人と称される人達らしかった。
それを横目に、避けるようにしながら、シゲル達はてんのじ村へ急いだ。貯蓄・増産奨励慰問団≠ニ書いたたすきは、全員、電車の中で外した。戦争に負けたと分かったいま、そんなものを着けていると、どのような言いがかりをつけられるか知れないと、恐れたのである。
「えらいことになったなあ」
「一体、これから、どうなるんやろ」
小声で話しながら、みんなは足を運んだ。左側の小高い場所にある市民病院の木造病舎が、紫色に変わった夕焼けの中で、心もとなげにたたずむ。その前を通り、南海電車天王寺線の踏切の手前にある細い道を、左に折れた。
一帯の正式な地名は、大阪市西成区山王町という。だが、明治のころ、東成郡天王寺村という行政区分になっていた時期があり、その名残りらしく、天王寺を縮めた通称てんのじ村≠フほうが、シゲル達ここに住む芸人の間では、通りがよかった。
一行が帰り着いたとき、路地のそこここには大人達の輪ができ、子供らが不安そうに顔を見上げていた。狭い軒の間に展がる空は、まだ明るさを残しているのに、路地にはナスビ色の夕暮れがたち込めている。街灯も家々の電灯もともらず、みんなの姿が影絵のようにうごめいた。
「おお、無事に戻ってきたな」
シゲル達に気づいた人だかりの中から、ステテコ姿で上半身裸になった星大流が駆け寄った。
「知ってるやろ」
「知ってるで」
「まさか、負けるとは思わんかったな。神風、なんで吹かんかったんやろ」
夢ポン子らと同じようなことを呟き、星大流は首をかしげた。蚊が襲ったのか、派手に脇腹を叩き、忙《せわ》しなくかきむしった。
「この先、日本、どうなるんやろ」
「さあ、そいつは俺にも分からんな」
「男も女も、日本人は全員、裸にされて、鎖に繋がれて、奴隷に売られるちゅう噂やけど、ほんまやろか」
「いや、成人男子は皆殺しにされて、女は慰《なぐさ》みものにされるちゅう話やで」
寄ってきた漫才師の一人が、腕組みして言った。早々と、そういう流言飛語が発生しているらしい。
「ま、なるようになるやろ。じたばたしても始まらんで」
シゲルは言い返した。なにがどうなるのか、実際のところ、見当もつかない。周囲の状況から判断して、戦争が終わったことだけは本当らしかったが、それ以外は、なにをどうすればよいのか、全く考えもつかなかった。
「そやけど、これで空襲もないやろし、防空壕へ逃げ込む必要もないようになるし、結構な話やがな。今夜から、枕を高うして寝られるわ」
路上で七輪の火を熾《おこ》していた老婆が、うちわを使いながら口を挟んだ。双葉千浪という芸名を持つ浪曲師で、七十を越えているが、仕事の口さえかかれば、いまでもどこへでも出向いて行く。
「そら、そうやけど、命あっての物種やからな。皆殺しにされたら、一巻の終わりや。ま、千浪姉さんぐらいのお年になると、いかな毛唐どもも、手出しはせんやろから、大丈夫やけどな」
星大流が言うと、双葉千浪は無言で七輪の向きを変え、勢いよくうちわで扇《あお》いだ。そのため、木屑の煙に見舞われて、星大流は激しく咳《せ》き込んだ。シゲルも煙たかった。
「お前が余計なことを言うからやで。謝りィな」
「すんまへん、千浪姉さん」
煙を避けながら、星大流は詫びたが、双葉千浪は素知らぬふうで、燃え立った七輪の火に顔を染めていた。その辺りだけが赤く映え、夕暮れどきの路地の家並を浮き上がらせた。
慰問団の一行も、誰一人として自分の家に帰ろうとせず、あちこちの人だかりに加わっていた。不安感に捉われているらしい。
「そやけど、ほんまに、どうなるんやろな」
星大流が心もとなげに呟いた。
「てんのじ村は焼け残った。それだけでも、よしとするか」
シゲルが言うと、周りから、
「そやな。そう思わな、しゃない」
「殺されるのなら、みんな、ひとまとめにして、仲良く殺されよやないか」
「殺されるのに、仲良くちゃうのは、けったいやで」
「なんでもかめへんがな。そのときは、わい、冥土《めいど》の土産に、一世一代の芸を見せたるぞ」
「折角やけど、お断わりやな。お前の芸なんか見たら、地獄へ行かされるがな」
「ぬかしたな」
と、賑やかな声が上がった。が、それもすぐに鎮まり、路地には不気味な静寂がたち込めた。双葉千浪婆さんが、七輪を家の中へ持ち込んだので、急に闇が濃くなった。
シゲルがてんのじ村に住みついたのは、いまから八年前、昭和十二年のことだった。初めの一年は、山王町の中を這っている南海電車の天王寺線の、踏切のすぐそばにある長屋にいたが、電車が通るたびに、チンチンチンと警報器の鳴るのがうるさいので、そこから南へ、入り組んだ路地を五十メートルほど入ったところにある現在の場所へ変わった。
八軒長屋の一番奥で、そばには共同便所が建っているが、その先は行き止まりだから、静かである。ただ、人様が便所を使うたびに気配が伝わるので、食事のときなどは迷惑した。それでも、しょっちゅうというわけではないから、踏切のわずらわしさよりは、まだましだと思った。それに、なにしろ、家賃が安かった。
シゲルは明治三十二年一月十九日、鳥取県の米子に生まれた。大正九年、二十一歳のころ、国鉄に勤め、鳥取県と島根県の大社駅との間を走る機関車に乗務していたが、ある休みの日、ふらっと大阪へ遊びにきた。
どこへ行こうかと、駅の構内をうろついているうち、一枚のビラが目に入った。
安来節大興行!! 本場から一行来たる!!
そこにはそう書いてあり、ドジョウすくいのひょうきんな絵も描いてあった。
当時、ドジョウすくいなら日本一だといわれる、中村千賀治という名人が米子に住んでおり、シゲルは仕事の合間に、趣味として習いに通っていた。そのため、ビラを見たとたん、興味を覚え、天満にある劇場へ見に行った。
ところが、そこには知った顔があった。田舎の同じ村の大工が三味線を弾き、あんまが尺八を吹いている。懐かしさを覚え、シゲルが楽屋を訪ねると、
「おお、シゲさん、ええところへきた。お前、ドジョウすくい、踊れんかの」
と、訊く。ドジョウすくいなら、中村千賀治に習っていると答えると、頼む、手を貸してくれと言う。
「|よごれ《ヽヽヽ》が女を連れて、ドロンしよっての、困っとるんよ。助けてくれや、金ははずむでの」
ドジョウすくいを踊る者は、扮装が滑稽だから、よごれ≠ニいわれている。ドロン≠ニは、失踪《しつそう》することである。
次のよごれ≠捜すまで、二日か三日でよいという。習い始めて、ちょうど、面白い時期に差しかかっていたので、シゲルは二つ返事で引き受けた。舞台へ上がって客に見せることに、奇妙な快感を覚えた。
三味線の糸を通した一文銭を、鼻の先に貼りつけ、豆しぼりの手拭で頬かぶりし、股引《ももひき》に木綿《もめん》の着物を尻からげする。腰には小さな竹かごも付ける。それがよごれ≠フ格好である。
※[#歌記号]安来千軒 名の出たところ
社日桜や 十神山 アラエッサッサ
三味線と尺八に合わせ、女の歌い手が三つほど歌い、後ろでは、かすりの着物に赤い腰巻をちらつかせた女の子四人が踊る。続いて、四つ目の安来節が始まるのを見計らい、シゲルが登場した。
※[#歌記号]出雲名物 荷物にゃならぬ
聞いてお帰り 安来節 アラエッサッサ
ざるを頭にかぶって腰をかがめ、シゲルが歌に合わせて舞台へ踊り出ると、それだけで客席は沸いた。抜き足差し足、舞台の上を一巡しながら、視線はきょろきょろとドジョウを捜し求め、やおら、ざるを手にとり、追い込んで行く。
そのとき、ヘコヘコと、腰を前後に動かす踊り方もある。だが、シゲルの師匠の中村千賀治は、それは卑しい芸だと敬遠した。途中で客席に背中を向け、立ち小便する所作も、同じく卑しいからと、省いた。そこまで品悪くしては、芸としての値打ちがなくなると考えているようだった。
「大したもんじゃないかの、シゲさん。客は大よろこびだで。本職より上手だがの」
これなら、次のよごれ≠捜す必要はない。シゲさん、あんた、専属になってくれないかと、大工が切り出した。きちんとした宿に泊め、食事代は別にして、月給八十円出すという。
シゲルが国鉄からもらう日給は四十銭で、五十マイル走ると十銭の手当がつき、一泊すると同じく十銭が加算される。それでも日給は六十銭にしかならず、月に二十五日働くとして、月給は十五円である。
それを、大工は八十円出すという。好きなドジョウすくいを踊って、そんな大金をもらえるなら、こんな結構な話はないではないか。一緒に踊る女の子らは、早々と、師匠、師匠と呼んでくれる。
〈思い切って、やってみるかの〉
金銭的な魅力に加えて、初めて知った楽屋の雰囲気にも引かれた。機関車に乗って、石炭を焚《た》くよりは、比べようもなく華やかな世界だった。
休みは三日あった。その間、シゲルはドジョウすくいを踊り続けた。大工の誘いに従おうか、どうしようかと、内心、迷っていた。
よごれ≠ヘ楽しいし、金もよい。だが、先行きどうなるか、不安もある。
その点、国鉄なら安心できる。この国が続く限り、潰れることはないだろう。
それに、国鉄に入るためには、親や親戚などにも、ずいぶん迷惑をかけていた。周囲の骨折りで、就職できたのである。
そういう周りの状況を、すべて無にして、自分の好き勝手でよごれ≠ノ徹するのは、やはり気が咎《とが》める。芸人などになっては、親兄弟に顔向けできなくなるのではないか。
迷いを抱きながら、シゲルが三日目の舞台を終え、楽屋へ引き返してくると、思いがけない人物が待っていた。機関区の上司である運転監督が、いきなり胸倉を掴《つか》んだ。
「貴様、なんという恥さらしな真似をするだで。国鉄の体面を汚すようなことをしてからに。ただいま限り、クビだ」
大工が慌てて、とりなそうとしたが、運転監督は聞き入れなかった。顔を赤らめ、クビを連発した。
あとで分かったことだが、運転監督も同じときに休暇をとり、大阪へ遊びにきていたらしい。そして、シゲルと同様、安来節のビラに誘われて、天満の劇場へ入ったところ、見覚えのある顔を発見し、楽屋へ確かめにきたのである。
シゲルが踊るときには、舞台の右側に、
出演──花田シゲル
と書いた札が貼り出される。それが本名であるのも、シゲルにとっては都合悪く働いた。
それっきり、米子へは帰らず、安来節の一座と行動を共にするようになった。座長格の大工はよろこび、約束どおりの待遇でもてなした。
「のう、シゲさんよ。ものは考えようだで。そりゃ国鉄は堅いかもしれんが、石炭焚いて、まっ黒になって働くより、舞台で踊って、お客をよろこばせるほうが、はるかに楽しいでの」
まず、これにも不自由しないしと、大工は小指を立てて見せた。
天満の次に、一座は千日前の寄席に出た。だが、そこではさっぱり受けず、大工は大阪に見切りをつけ、東京へ行くことになった。
浅草を中心に、丸二年頑張ったが、いまひとつ評判にならず、一座は再び大阪へ舞い戻った。ところが、大阪では安来節が大流行になり、どの劇場もそれを売りものにしていた。二年前、シゲルらの一座が天満の劇場で演じた効果が、いまごろになって現われたようだった。
「わしらのまいた種が、いよいよ花を咲かせたようだの」
大工は張り切り、好条件で神戸にある多聞座と契約した。シゲルは劇場主の依頼を受け、安来節なら日本一という評判の、渡辺おいとを安来まで呼びに行き、連れてきた。おいとの名調子で、シゲルがドジョウすくいを踊ると、たちまち大評判になり、連日、入り切れないほどの客が押し寄せた。
その間に、シゲルは四つ年上の千代香と所帯を持った。彼女は同じ一座に所属している、森永八千代という日舞の師匠の、一の弟子だった。
結婚相手がドジョウすくい専門の芸人と知った千代香の親は、猛反対した。楽屋まで押しかけてきて、二人の仲を裂きにかかった。
だが、無駄だと分かると、父親は一転し、
「決して、見捨てて下さるなよ」
と、シゲルの前に両手をついて頼んだ。
「まかせて下さい」
舞台扮装の一文銭を鼻につけたまま、シゲルが答えたので、父親は泣き笑いの顔を見せた。二人の間で、千代香はうなだれていた。
はやっていたにもかかわらず、多聞座は四年で潰れ、一座は京都の勢国館に移った。そこには五色会という集団があり、四、五十人の芸人が所属していた。シゲルと千代香も、そこへ加わったが、安来節はもう時代遅れだと言われて悩んだ。
「あんた、いまからは漫才の時代でっせ。漫才やんなはれ」
「やれ言うたかて、そんなもの、急にできるかいな。第一、相手もおらんし」
「ここにいてまんがな」
「お前が?」
「そう。私、三味線ができるから、それに合わせて、あんた、歌でも歌うたら、よろしいんや。あんたのその声、なかなかのもんやから、どうにかなるんと違いまっか」
千代香に言われ、シゲルもその気になった。歌は好きだし、喉には結構、自信もある。もし、それで通用しないようなら、なんでもかまわないから、面白可笑しく踊ってやるか。よごれ≠応用すれば、客を笑わせる踊りの一つや二つ、作り出せるだろう。
ちょうどそのころ、曾我廼家鬼王という漫才師と知り合い、弟子にしてもらう約束をとりつけた。鬼王は旅回り専門の芸人だったので、シゲル夫婦も一座と一緒に全国を回った。五色会を離れ、大工らとも縁が切れた。
「お互い、頑張って、一流の芸人になろうの、シゲさん」
「おう、あんたも、頑張ってや」
「ま、わしのほうは、ともかく、鉄の線路の上を走ってたあんたを、板の上へ引き上げたのは、このわしだけえの。責任があるだで。シゲさんにゃ、ぜひとも出世してもらわにゃの」
いつまで経っても抜けない訛《なま》りで言い、大工は肩を叩いて励ました。彼は三味線一筋に、生きる覚悟を決めていた。
曾我廼家鬼王について各地を回り、千代香と二人で舞台を踏んでいるうち、シゲルには自信がついてきた。夫婦漫才として名前も知られるようになり、一座では一番の人気者になっていった。
漫才の内容は、千代香が最初に提案した形どおりであった。彼女が三味線を弾きながら、小唄、端唄、都々逸、民謡、歌謡曲など、その日の客の顔ぶれを見て歌い分け、シゲルが横から文句をつける。
「そんな、えらそうなことを言うのなら、あんた、手本を見せて頂戴」
立腹した千代香に言われ、それならと、今度はシゲルが歌い出す。真面目に、上手に歌い上げるので、客席は聞き入り、感心したような拍手が起こる。
それを見計らって、
「なかなか、やるやないの」
と、千代香が褒め、図に乗ったシゲルが、
「へん、どんなもんじゃい」
と、鼻をこすって胸を反《そ》り返らせるので、客席はどっと沸く。そのあと、ドジョウすくいを踊ったり、シゲルがひねり出したかぼちゃ≠演じて、一段と笑いを高めた。
大阪では大きな頭のことを、大もんじ頭≠ニか大もんじゃ≠ニ言う。そのため、かぼちゃ踊りは別名、大もんじゃとも言い馴らされるようになり、客の間に知れ渡った。
それだけで充分商売になるような気がして、シゲルは千代香と相談して、一座を逃げ出した。曾我廼家鬼王について、どさ回りをするようになってから、すでに二年が過ぎていた。
このままでは、いつまで経っても、どさ回りから抜けられそうにない。そんなことをしなくても、いまの自分達の漫才なら、一流の劇場で通用するのではないか。客の手応えはあり、日毎に人気は高まっている。この機会を逃せば、一生、どさの芸人で終わるかもしれない。
焦りも覚え、シゲルらは大阪へ舞い戻った。不義理をした曾我廼家鬼王には、詫びの手紙を書いた。
しかし、大阪では全く相手にされなかった。どこの劇場主も、素っ気なかった。
「花田シゲル・千代香の夫婦漫才? 知らんなあ、うちは結構や」
地方での評判が、大阪には皆目、届いていない。かぼちゃ踊りだけでも、一度、見て欲しいと頼むのに、どこの劇場主もとり合おうとしなかった。
「あかん。早まったかもしれんな」
「よろしいがな。もう一ペん、一から出直しまひょ」
「詫びを入れて、鬼王師匠のところへ戻るちゅうわけにはいかんしな」
「当たり前でんがな。そんなみっともない真似、できまっかいな」
やむなく、夫婦はてんのじ村へ転がり込んだ。そこは交通の便がよいせいもあり、明治以前から、あらゆる種類の芸人達が集まってきて住みついており、別名、芸人長屋、芸人横丁といわれていた。
二人が踏切のそばの長屋へ住むようになって間もなく、蘆溝橋事件が勃発《ぼつぱつ》した。その年の初めには、広田内閣が総辞職し、続いて誕生しかけた宇垣内閣が流産してしまい、二月二日、ようやく成立した林内閣も、三月三十一日には解散に追い込まれた。四月三十日に第二十回総選挙が行なわれ、五月三十一日にはまたも総辞職、六月四日に近衛内閣成立と、国内の情勢は混沌《こんとん》としていた。
そういう中で発生した蘆溝橋事件を契機として、日中戦争が起こった。日本軍は北京を占領し、続いて上海、そして杭州湾へ上陸した。
昭和十三年十月、日本が広東、武漢を占領した直後、シゲル達夫婦に仕事の声がかかった。てんのじ村の住人である漫才の人生幸朗が、慰問団に加わらないかという。兵庫県庁からの依頼で、台湾、海南島、それに広東の、第一線の兵士達を慰めに行くらしい。
開店休業の状態だったシゲル夫婦は、その誘いに乗った。期間は約四十日という。その間、食事代が助かるだけでも、もうけものだと思った。
人生幸朗を団長として、三十人ほどが一座を組み、門司から上海丸に乗り込んだ。船中で二泊して台湾に着き、そこを振り出しに慰問が始まった。
娯楽に飢えた兵隊達は大よろこびし、一座は各地で大歓迎を受けた。シゲル夫婦も張り切って舞台を務めた。ドジョウすくいと、かぼちゃ踊りは特によろこばれ、兵隊達は腹をかかえて笑いころげた。勝ち戦《いくさ》が続いているので、どの表情も明るかった。
予定の日程を消化して、一行は日本へ引き揚げたが、シゲル夫婦だけは残るように頼まれた。歌手の渡辺はま子がやってくるから、一緒に慰問を続けて欲しいという。自分らの漫才の評判がよかったからだと思い、シゲルはよろこんで承諾した。ようやく、一人前として認められた気分だった。
渡辺はま子は飛行機で、台湾まできた。間近で見ると、圧倒されるほどの美しさだった。妻の千代香も美人だと思っていたが、渡辺はま子のそばに寄ると、急に色あせて映った。
慰問に回る途中、彼女は気さくに話しかけた。台湾へくる前に、支那の夜≠ニいう題の歌を、レコードに吹き込んできたと言い、口ずさんで聞かせてくれた。
※[#歌記号]支那の夜 支那の夜よ
港の灯り 紫の夜に
と、彼女が歌うあとからシゲルも口真似し、すぐに覚えた。千代香も一緒に覚え込み、三味線で弾き語りなどした。
慰問の終わりの日、渡辺はま子を真ん中に囲み、将校達や現地の芸妓、それにシゲルらも加わり、記念写真を撮った。彼女は再び、飛行機で日本へ帰ったが、シゲル達は船便だった。
「俺らも、飛行機に乗れるような身分にならな、あかんな」
「ほんまですな」
「お前、ええ喉してるんやから、歌い手になったら、よかったんや」
「あんたこそ、そうしたらよかったのに」
デッキで潮風に吹かれながら、二人は渡辺はま子のことを話題にした。そのうち、どちらともなく、支那の夜≠歌い出した。いい歌だと、シゲルは気に入った。
日本へ帰ってくると、その歌は大流行していた。街中に曲が流れ、子供達までが口にしている有様だった。
てんのじ村にも、それは浸透し、八百屋のおかみさんが店先の大根を片付けながら口ずさんでいたり、風呂屋の脱衣場で小学生ぐらいの男の子が、着替えの最中に口笛で奏でていたりした。
シゲルにはそれが、うれしかった。自分は渡辺はま子その人から、じかに教えられた。その歌が、いま全国に広まっているのかと思うと、誇らしい気持ちがした。
日中戦争は長期戦となり、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争へと発展した。その間、シゲルは何回となく慰問団に加わり、中支、北支から樺太方面へも出かけた。樺太のある町では、海岸ばたにニシンが山積みされたまま、異臭を放っていた。
大東亜戦争の半ばごろから、国外への慰問は減り、シゲルはもっぱら、内地を回るようになった。慰問団を迎えるほど、前線に余裕がなくなったのだろう。
新聞は連日、勇ましい記事を載せていた。しかし、通天閣が供出されたころから、シゲルには疑問があった。
〈どこかで誰かが、嘘ついとるな〉
そんな気配を感じていた。そうして迎えた終戦だった。
「あかんなあ」
「あかん」
「一体、どうなるんやろか」
「さあ、分からん」
戦時中、燃料不足のために休業していた風呂屋が復活したので、行くと、知った芸人の顔に会い、体を流しながら、そんなやりとりが繰り返された。
国中が食べることに必死で、娯楽を求める余裕さえない。てんのじ村の芸人達にも仕事の注文はなく、みんなは食うことに追われている。ヌカ、フスマ、イモのつる、ヒマワリの種、ヨモギ、ペンペン草と食べつくし、シゲルは奇術の浪華一虫斎や、曲芸のミナミ菊丸らと連れ立って、天王寺公園から茶臼山の辺りへ、食べられる草はないかと捜しに出かけた。
「虫《ちゆう》やん。お前、むかし、シルクハットの中から、鳩やウサギを出して見せてたけど、あの要領で、米の一升も出してくれんかいな」
「なんぼシゲル兄さんの注文でも、そればっかりは無理やな」
「無理か」
「無理やな」
行き帰りに、そんな話が出た。
「なんぞの間違いで、ひょっとして、米が出るかもしれんで。虫やん、一ぺん試してみィ」
「あほぬかせ」
ミナミ菊丸が言うと、浪華一虫斎は一蹴《いつしゆう》した。冗談めかして言いながら、ミナミ菊丸の言葉には真剣な響きがあった。
闇市には米でも砂糖でも出回っている。羊羹《ようかん》でもぼた餅《もち》でも、なんでもあった。だが、それが買えるほど、金の持ち合わせがなかった。
シゲルにはろくな衣裳《いしよう》がないが、千代香はかなりの着物を持っている。そのうちの何枚かは、モンペに化けたりしたものの、娘時代に着ていた分などが、タンスの底で眠っていた。
それらが一枚ずつ、質屋へ行くようになり、ある日、シゲルが枕に使っていたアズキを取り出していると、千代香が二十歳ぐらいの娘を連れて戻った。髪を後ろで束ね、化粧っ気は全くなく、かすりのモンペ姿はみすぼらしく映るが、色白の整った顔をしていた。
「この子、上手やねんて」
千代香は狭い玄関先に娘を待たせて、奥の間のタンスに駆け寄った。
「なにが上手やねん」
「質屋で借りるのが。この子に頼んだら、二倍ぐらい、借りてくれるそうやわ。勝江姉さんに教えてもろてんわ」
千代香はタンスの前に膝をつき、下の引き出しから着物を二枚、取り出した。手早く、それを風呂敷に包み、玄関先へ戻った。
「ほな、頼むわな」
「へ。なんぼほど、お借りしまひょ」
「なんぼでもええけど、できるだけ、めいっぱいに、お願いしたいねんけど」
「分かりました」
ほな、行ってきます、と、娘はペコリと頭を下げ、風呂敷包みを胸元に抱いて出て行った。
「見かけん顔やけど、どこの娘や」
「最近、引っ越してきたんやて」
「どこに住んでんねん」
「私らが前に住んでた、踏切のほうらしいけど、詳しいことは知らんわ」
「大丈夫かいな。そんなもんに、着物を持たせて」
「それは大丈夫やわ。勝江姉さんと親しいようやから」
千代香はシゲルがざるに取り出したアズキを、てのひらですくって鼻先へ当て、
「ちょっと、油くさいかもしれんけど、食べて食べられんことはないやろね」
と、しきりに匂いを嗅ぐ。
「雑草を食うこと思うたら、ましやで」
昨日、メリケン粉が手に入ったので、今夜はそれを使って、ぜんざいを作る手筈になっていた。砂糖がないから、塩味である。
向き合いに建っている長屋の中ほどに、コンクリートで固められた二メートル四方ぐらいの共同炊事場がある。蛇口が二つ、背中合わせについており、どちらからも、常に水が漏れていた。
千代香はそこで、アズキを洗って戻った。
「あれで、千円も借りてくれたら、ええんやけど」
「あの子、借り方が上手やというのは、質屋の親父と、ややこしいんかいな」
「いいえ。そんなことは全然ないけど、頼み方が上手らしい。それで、質屋の大将も、つい、ほだされて、財布の紐を弛《ゆる》めるみたいやと、勝江姉さん、言うてたわ」
「質屋通いの名人、か」
「勝江姉さんが感心するぐらいやから、そういうことになるわな。人様のことは言われへん、私かて、その道では相当、達人のつもりやけど」
「なんちゅう名前や」
「美也子。確か、西美也子とか言うてたようやけど」
二人が話しているところへ、美也子が戻ってきた。
「行ってきました」
「ご苦労さん」
千代香と一緒に、シゲルも玄関先へ出た。
「これだけ、借りてきました」
美也子は息をはずませながら、百円礼二十枚と質札を差し出した。
「まあ、そんなに」
「借りすぎましたやろか」
「いや、ええんやわ。どうせ受け出すつもりのない品物やから。これやったら、売るより得かもしれへんわ。おおきに」
千代香はよろこび、美也子の手に百円札を一枚、握らせようとした。だが、彼女はそれを拒んだ。
「ええから、取っといて」
「いいえ。そんなことしてもろたら、困ります。|うち《ヽヽ》はただ、持って行っただけですから。この先、また、どんなお世話になるやら知れまへんのに」
年齢のわりには大人びた言葉遣いをして、美也子はどうしても受け取ろうとしない。
「それでは、こっちの気持ちがすまんがな」
「いりません。そんなことしやはったら、もう、うち、頼まれても行きませんよ」
二人は掴《つか》み合うような格好になり、玄関先で押し問答した。
「よし。ほな、今夜、ぜんざい作るから、食べにおいで。それなら、ええやろ」
シゲルが提案すると、千代香も合点した。
「そや、それがええわ。な、ええやろ。せいぜい、おいしいぜんざい作っとくから、食べにおいで。ええか、絶対、おいでや」
「それなら、よばれにきます」
「ほんまやで」
「へ、おおきに」
美也子は頷き、律義《りちぎ》に礼をして立ち去った。
「いまどき珍しい、躾《しつけ》のええ娘やな」
「百円渡したら、よろこんで受け取ると思うたのに。けったいな子」
千代香は首をかしげ、
「ほな、今日は思い切って、甘いぜんざい、作りまひょ。ちょっと、そこまで行ってきまっさ」
と、手提げ袋を持って出かけた。
「あんた、七輪でアズキ、炊《た》いといておくんなはれ」
一旦、家を離れてから引き返し、開け放したままの玄関先で言った。
市民病院の前の坂道に沿って、闇市が並んでいる。千代香はそこへ、甘いものを買いに行ったらしい。
闇市では、公定価格一円五十銭の石鹸《せつけん》が五円、煙草も一円の金鵄《きんし》が十五円、七円のピースと十円のコロナは二十円で、十八円五十銭の地下足袋が百円で売られている。砂糖もサッカリンも、すべて数倍の値が付いていた。
千代香はメリケン粉を買い足し、サッカリンを手に入れて戻った。枕のアズキは、それほど妙な匂いもせず、うまそうな色に炊けた。
シゲルも手伝ってメリケン粉をこね、まじないのようにサッカリンを入れて出来上がったころ、美也子が遠慮がちに訪れた。
「さあ、上がった、上がった」
円《まる》い飯台の前に招くと、彼女はモンペの脚で正座を作った。薄い裸電球に照らされた顔は、昼間より子供っぽく見えた。
千代香がサッカリンを奮発したので、ぜんざいは充分甘い。メリケン粉のだんごも歯当たりがよく、シゲルは三杯、たいらげた。
美也子は二杯で茶碗を置き、もっと食べるようにと勧める二人に、
「あのう」
と、言いにくそうに口を開いた。
「なんやの」
「厚かましいお願いですけど、このぜんざい、一杯だけ、もらわれしませんやろか。持って帰って、うちの人に食べさせて上げたいと思いまして」
「うちの人いうて、あんた、結婚してるの」
「へえ」
美也子はか細く答えて、うなだれた。千代香は意外そうに、シゲルの表情を窺《うかが》った。
「で、旦那さんは、なにしてはるの」
「漫才師ですけど」
「漫才師?」
シゲルと千代香は、同時に訊き返した。
「荒中千久、いいますねん」
「なに、荒中千久やて」
シゲルは膝を乗り出した。荒中千久といえば、そのむかし、ずいぶん売れた漫才師だった。どこの劇場でも、ビラの名前が大きく載る大看板であった。年はシゲルより十ぐらい上で、五十半ばになっているはずだ。
「あの、荒中千久が、ここへ移ってきとるんかいな」
「へえ」
「それで、あんたが、その、女房ちゅうわけで?」
「へえ」
美也子は小さく、すんまへん、と、付け加えた。
「別に謝る必要はないけど、そのいきさつ、よかったら、聞かせて欲しいな。あんたと千久はんとでは、相当、年が離れているはずやが」
「余計なこと、訊きなはんな」
千代香がシゲルをたしなめたが、美也子は嫌な素振りを見せず、静かな口調で話した。
「うちの父は実川八洲司という歌舞伎役者でしたけど、気に入らんことがあったらしゅうて、そこを飛び出して、漫才師になった変わり者でした。その父のもとで、うちも漫才の修業をしてましてんけど、去年、神戸の寄席で、荒中千久さんと知り合うて、父のところから逃げ出して、そのまま一緒に住むようになりましてん」
かつての勢いはなく、荒中千久は落ちぶれていた。それを見て、美也子が同情心に駆られたのが、きっかけらしかった。
「で、あんた、いま、いくつや」
「十九です」
「千久はんは?」
「三十六ほど、年上です」
シゲルと千代香は、またもや顔を見合わせた。美也子は淡々と答え、正面を見た。それ以上、余計な言葉がかけられないほど、健気《けなげ》な決意のにじみ出た表情だった。
千代香は小鍋に、たっぷりと、ぜんざいを入れた。
「すんまへん。厚かましいこと、言うてからに」
「遠慮せんかてええがな。お互い、腹の中へ収めたあとやからバラすけど、このアズキ、枕に入ってたやつやで。味、どうもなかったか」
シゲルが言うと、美也子は大して驚きもせず、
「道理でちょっと、びん付け油の匂いがしたみたいやけど、甘いものは久しぶりやから、おいしかったわ」
と、屈託なく答えた。声の調子が高くなり、娘らしい明るさが漂った。
千代香が渡す小鍋を大事そうにかかえ、美也子は何度も礼を言いながら帰った。
「ええ子やのに、苦労しよるな」
「ほんまに」
「けど、千久はんは幸せ者やで」
「羨《うらや》ましいでっか」
「そりゃ、お前。あんな若い、別嬪《べつぴん》の嫁はんがいるんやからな」
「よくも、ぬけぬけと」
千代香がつねろうとする指をかわして、シゲルは玄関の戸締まりに立った。早々と床に入っているのか、路地の家々の明かりは消え、闇だけが濃い。遠くで電車の警笛が聞こえた。
シゲルが浪華一虫斎やミナミ菊丸と一緒に、時間をかけて朝風呂に浸《つ》かっていると、番台の老爺が顔をのぞかせ、
「奥さんが呼びにきてはりまっせ」
と、知らせた。
「なんやいな」
「なんや知らんけど、急ぎの用事らしいでっせ」
急《せ》かされて、シゲルが腰に手拭を当てた格好で、玄関との仕切りのガラス戸を開けると、足踏みしながら待っていた千代香が駆け寄った。
「仕事が入りましたんや、仕事が。虫やんも菊やんも一緒に、すぐにきてくれいうて、円之助はんところから、連絡が入りましたんや」
「ほんまか」
「のんびり朝風呂になんか、浸かってる場合やおまへんで。早よ、上がんなはれ」
シゲルの後ろに付いてきていた浪華一虫斎と、ミナミ菊丸が、おうと歓声を上げた。ろくに体も拭かず、三人は早速、衣服を着始めた。戦後、初めて舞い込んだ仕事だった。
円之助はんというのは、てんのじ村にある芸能社のことで、正式には円之助芸能社と称する。元漫才師だった松鶴家円之助が親方になり、芸人達の仕事を斡旋《あつせん》していた。戦時中は休業状態にあったのが、ようやく活動し始めたらしい。
シゲルはステテコ姿で、家に駆け戻った。千代香はかぼちゃ≠ニよごれ≠フ衣裳を揃え、三味線の糸を確かめていた。
「ほら、あの、美也ちゃんが、知らせにきてくれましたんや」
「美也ちゃんいうて、あの、千久はんの」
「そうだす。あの子、円之助はんところの、先乗りしてるそうやわ」
千代香は三味線をしまい、シゲルを急《せ》き立てた。
先乗り≠ニいうのは、興行先にビラを届けたり、宿の手配をしたりして、前金を預かってくる役目である。漫才の仕事がないため、美也子はそういう使い走りをしているようだった。
シゲルは戦時中の名残りの、胸に名札が縫い込んである国民服を着た。背広は三着ばかり持っていたが、千代香の着物と共に、質屋の蔵で眠っているはずだった。
円之助芸能社の前には、十二、三人の顔が揃った。浪曲の天王寺家忠造と光子、漫才の東洋一丸と勝江夫婦、腹話術の太平公介、歌手の橋川しのぶと、アコーディオンの杉君夫、女漫才の夢ポン子と朝ペン子、それに、浪華一虫斎、ミナミ菊丸ら、いずれも慰問団のときの顔ぶれである。
「この連中がくり込んだら、今度は、日本がまた戦争を始めたというニュースが、飛び込んでくるんと違うかいな」
「まさか」
「和歌山の山奥で、戦争に負けたと聞いたときには、びっくりしたもんな」
「そや。俺、その瞬間、切腹でもしようかと思うたで」
「竹光《たけみつ》でか」
「あほ」
久しぶりの仕事にありつき、みんなは上機嫌だった。次々と軽口が飛び出し、笑い声がはじけた。
「相手さんの都合で、急な仕事になってしもうたけど、よろしゅう頼むで」
円之助親方はそう言い、玄関先に出て一同を見送った。
行き先は、大阪府下の藤井寺にある神社だった。戦時中、途絶えていた秋祭りが復活することになり、その余興に招かれたのである。
美也子が道案内に同行している。電車を降りた一行は、彼女を先頭にして、刈り入れの終わった田圃《たんぼ》の中の道を歩いた。
前方には森があり、赤、青、黄色の幟《のぼ》りがひるがえる。あちこちの畦道《あぜみち》から歩いてくる人々が、その森に向かって集まり、晴れた上空をトンビが舞う。空気に野の香りがあった。
「平和やなあ」
「平和や」
「こんな風景を見ると、ほんまに戦争が終わったんやなと思うな」
「食べものは、厳しいけどな」
「これだけの田圃があったら、さぞ、ぎょうさん、米が穫《と》れるはずやけどな」
「帰りに、どこぞで米、買うて帰ろか」
「ほんまやな」
境内の片隅に、丸太を組み合わせた舞台が作ってあった。幕はなく、両側に笹の飾り付けだけが施されている。杉皮数枚で囲った個所があり、そこが楽屋で、下には荒ムシロが敷いてあった。
「なかなか、手厳しいな」
「それでも、芸を見てやろかという気持ちがうれしいがな。文句は言えんで」
「それも、そやけど」
氏子総代らしい紋付姿の男と、同じ格好の数人が一行を迎え、すぐに始めて欲しいという。境内にはすでに大勢の人々が詰めかけ、舞台の前にも人だかりがしていた。
シゲル達が支度にかかる間に、先程の氏子総代が、
大阪直送大演芸
と書いた、まだ墨のしたたる紙を持ってきて、笹の枝に吊るした。
「なるほど、直送やな」
「おもろいこと、書きよるやないか」
それを横目にして、一同は手早く衣裳をつけた。挨拶もなにもなく、橋川しのぶの歌で開演となった。彼女は真っ赤なドレスを着ている。戦時中、一度だけ、その姿で舞台に立ったが、非常時に不謹慎だと咎められ、それっきり、しまい込んでいたらしい。
歌う曲も軍歌ではなく、一曲目は東映映画「ハナ子さん」の主題歌で、轟夕起子が歌って大流行したお使いは自転車に乗って≠、手ぶりを入れながら軽快に歌った。
続いて、南の花嫁さん∞青い牧場∞森の水車≠熱唱し、ピーピーと口笛が飛び交うほどの大喝采を受けた。気をよくした橋川しのぶは、もう一曲湖畔の乙女≠しんみり歌って、締めくくった。赤いドレスが映えて、華やかな舞台だった。
〈ほんまに、平和やな〉
舞台の袖で見守りながら、シゲルはそう思った。拝殿のほうからは、かしわ手の音や、話し声が届いてくるが、それも妙な安らぎを感じさせた。
浪華一虫斎は帽子から延々と紙テープを取り出したり、ステッキを花に変える芸を見せた。ミナミ菊丸は扇子を広げて鼻の頭に立てたり、レコード盤やソロバンや傘などを、次々と同じ要領で立てて見せ、最後は靴を顔の上に載せかけて、客を沸かした。
「戦争が終わったというのに、うちら、やっぱり、腹ぺこやわ」
「舞台に出る早々、情無いこと言いなや」
「ほんまやもん。夢ポン子、朝ペン子という名前なんか、やめにして、いっそのこと、腹へった、メシくわせ、に変えよか」
夢ポン子と朝ペン子は、いきなり、そう喋って笑いを生んだ。
浪曲の天王寺家忠造は松の廊下≠唸《うな》り、腹話術の太平公介は、闇市の光景を話題にした。
みんな、久しぶりの舞台で張り切っている。シゲルと千代香も遅れをとるまいと、懸命に努めた。
シゲルがドジョウすくいを踊ると、境内には爆笑が起こった。舞台の前に陣取った紋付姿の百姓風の老爺が、自分も手ぶりを真似て踊り始め、そばにいる老婆に引き止められた。それでもやめようとせず、シゲルを仰ぎ見ては、続けた。ドブロクにでも酔っているらしい。
自分の出番のときに、そういう振舞いをされると、不快な気分になる。客の視線が、そちらへ散るからだが、今日は祭りである。シゲルは大目に見ることにして、わざと老爺をけしかけるように踊った。
「ええぞ、ええぞ」
客は面白がり、シゲルと老爺を見比べて囃《はや》し立てた。千代香は一声、高い調子で安来節を歌い、三味線をかき鳴らした。
シゲル達が杉皮囲いの楽屋へ引き上げると、老爺も付いてきた。気に入ったから、握手して欲しいという。栗色に日焼けした、小柄な老爺だった。
シゲルが手を握って応じていると、ミナミ菊丸がそばへきた。
「お爺ちゃん。この辺で、米を売ってくれるところ、ないかいな」
「米なら、わしとこにあるぞ」
酒くさい息で老爺が言うと、後ろに付いてきていた老婆が、紋付の袖を引いてたしなめた。
「ええがな。おもろい芸、見せてもろたんやから、米ぐらいやるで。どうってことあれへん」
老爺が景気のよい言い方をしたので、楽屋にいる者が全員、注目した。
「そや、お爺ちゃん。その勢いで、ぽんと奮発してんか」
杉君夫がけしかけると、老爺は大きく頷いた。だが、老婆が反対した。
「酔うた勢いで、ええ加減な約束したら、あきまへんで、お父さん。さ、帰りまひょ」
老爺の腕を掴み、連れて帰ろうとした。
舞台には、東洋一丸と勝江夫婦が上がっている。だが、楽屋のやりとりが気になるらしく、二人はしきりに顔を向けた。
「ま、ま、そう言わんと、お婆ちゃん。いや、奥さん。ぜひとも、お願い致しますよ」
天王寺家忠造が、鼻髭の顔を精一杯|和《なご》めて、頼み込む。みんなも周りに集まった。
「無料《ただ》とは言いまへん。持ってるだけの金、払いまっさかいに、お願いしますわ」
千代香が言い、他の女達も口々に頼んだ。
老爺は老婆に頭が上がらないのか、首を折り、立ったままで前後によろつく。酔った格好をしているようだった。
「いまの世の中、お金なんぞ、いくらもろても、仕方ありまへんしな」
呟いて、老婆は細い目を左右に動かした。楽屋中を探るように見回してから、
「その着物と帯と、そっちのドレス。その三品なら、交換してもよろしいけどな」
と、千代香と橋川しのぶを顎《あご》で示した。
「そんな、無茶な」
橋川しのぶは悲鳴を上げ、後退《あとずさ》りした。とんでもないというふうに、首を横に振った。
「それは、ちょっと」
千代香も渋った。今日は久しぶりの舞台なので、戦時中は着られなかった派手めの、紅色の目立つ着物を着ている。黒地の帯には金糸の刺繍《ししゆう》がしてあった。
いやなら、それまでというように、老婆は老爺を促して帰りかけた。
「待っておくんなはれ。この着物と帯なら、なんぼほどの米になりまっか」
「あんた──」
「ええがな」
千代香を制しながら、シゲルが切り出した。いずれ、質屋へ運び込むことを思えば、同じではないか。みんながこれほど米を欲しがっているのに、折角の話を無にしては申しわけないと思った。
「この着物、脱いでしもたら、私、着て帰るものがあらしまへんで」
「俺のかぼちゃ≠ナもよごれ≠ナも、かめへんがな」
「かないまへんで、そんな格好は」
「ほな、俺がそれで帰るから、お前、国民服を着たらええんや」
「それも難儀でんがな」
シゲルはぐずる千代香を説得した。それを見て橋川しのぶが、それなら自分のドレスもと、申し出たが、押し止めた。老婆は着物と帯で、米二斗を渡すという。それだけあれば、一人二升弱ずつ分配できた。
東洋一丸・勝江の漫才が終わるのを待って、一同は老婆に付いて境内を出た。元気なく、一人遅れそうになる老爺に、美也子が付き添って歩いた。気のやさしい娘だった。
米は大っぴらに持ち運びできない。その場で人数分に分け、それぞれが腹に巻き付けたり、衣裳の中に隠したりした。
千代香は納屋の隅を借り、かぼちゃ≠フ扮装になった。学生帽を目深にかぶり、かすりの着物に袴をはくと、書生風に見えなくもない。少なくともよごれ≠謔閧ヘ、見られる格好だった。
「なんやしらんけど、追いはぎにでも遭うたような気分やわ」
帰りの電車の中で、千代香は愚痴った。
「すんません」
橋川しのぶは泣き出しそうな顔で謝り、他の者も口々に、申しわけないと言った。
「そやけど、あの婆さん、あんな派手な着物を、一体どうするつもりやろ。娘にでも着せるんやろか」
「おのれが着る気と違うかいな」
「まさか」
「いや。あれで結構、自分では若いつもりかもしれん」
「悲劇やな」
「いや、喜劇や」
浪華一虫斎とミナミ菊丸が、大声で喋る。
「千代香姉さん、恩に着まっせ」
「ほんまや。身ぐるみ脱いで、犠牲になってくれたんやからな。みんな、千代香姉さんのほうに、足向けて寝たら、あかんで」
夢ポン子と太平公介が言い、
「その代わり、尻向けても、かめへんで」
と、東洋一丸が茶化したので、車内の客が振り返るほどの笑い声が起こった。
それをきっかけに、次々と仕事の注文が舞い込むようになり、てんのじ村は活気づいた。世の中が少しずつ落ちつきを取り戻すにつれ、それまで忘れていた娯楽を思い出していくようだった。
いや、食料不足は相変わらず続いている。空腹を忘れようとして、みんなは娯楽を求めるのかもしれなかった。
以前のように、長々と朝風呂に浸かる者はおらず、芸人同士顔を合わせると、
「これから、奈良や」
「わいは四国やで」
と、手短に行き先を知らせ合い、そそくさと帰って行く。景気のよい噂を聞きつけて、各地から芸人が集まり、その数は日毎に増え続ける。旅役者の一座も住みつき、色ものとして芝居の間に挟む奇術や曲芸を調達しては、地方へくり出した。
いま、てんのじ村は唸りを上げている。シゲルには、そう思えた。正確に数えようもないが、何十もの棟割り長屋が密集したこの狭い土地に、四、五百人の芸人がひしめき合っているのではないか。路地で行き交うどの顔も、生々《いきいき》として足どりが軽い。
〈ええことや。ええことやで〉
身震いが出そうなほど、シゲルにはその活況がうれしかった。初めて芸人になったころと同じ、高ぶりを覚えた。
神戸の焼け残った映画館が、演芸場に改装された初日、シゲルらは招かれて出演した。それまでは寺社の境内の仮設舞台とか、会合のあとの座敷での余興がほとんどで、正式な舞台で演じるのは、戦後初めてであった。
シゲルは張り切った。
「ええか。いつも同じ芸ばかりでは、進歩がないから、今日はかぼちゃ≠フあとで、一曲、歌うからな」
「なにを歌いますんや」
「ほら、ずっと前、渡辺はま子から、じかに教えてもろた支那の夜=Bあれ、やったろと思うんや。三味線、いけるやろ」
「ほら、いけまっけど、あんたのほうこそ、大丈夫でっか」
「大丈夫やがな」
始まる前に、二人は打ち合わせた。立見の客がいるほど、場内は混み合っている。拍手に迎えられて、舞台の中央に立った。
いつもどおり、千代香が三味線を弾いて、民謡の佐渡おけさ≠歌った。一緒に手拍子をとり、歌い出す客もいて、早々と雰囲気は盛り上がる。勢いづいた千代香は、横でけなすシゲルを無視して、関の五本松≠ノ歌い継いだ。
「ニワトリが絞め殺されるような声を出して、よくもそんな、古くさい歌が歌えるもんやな」
「古くさいことあれへんがな。民謡は私達日本人の心の歌やねんから。古いものは古いなりに、また味があるんよ。ね、お客さま、そうでしょ」
千代香が客席に問いかけると、そうだ、そうだの声に合わせて、拍手が起こった。
「分かった。いま、手を叩いたお客さんは、あんたの親戚ばかりやろ」
「よくもそんな、憎たらしいことが言えるわ。そんなこと言うなら、あんた、いっぺん、歌うてんか。お手本、見せてんか」
「よっしゃ、まかせとけ」
「先に断わっとくけど、民謡はあかんで。あんた、古くさいと言うたはずやからね」
「そんな古くさい、民謡なんか、頼まれても歌うつもりはないで。こっちは歌謡曲や。それも、そんじょそこらの歌謡曲とは違うで。ほら、みなさんも知ってはりますやろ。あの流行歌手の渡辺はま子さん。あの人から、じかに、口移しで教えてもろた歌でっせ。それを一発、ぶちかましまっせ」
「ほほう、聞かしてもらいまひょか」
おしまいに歌うつもりが、客席の雰囲気に合わせて、早くしたので、千代香は確かめるように視線を寄越した。シゲルも目くばせで答え、三味線の前奏に合わせてマイクの前へ接近した。
※[#歌記号]支那の夜 支那の夜よ
港の灯り 紫の夜に
胸元で手を組み、顔を上向け、全身を揺するようにして、シゲルは渡辺はま子の仕草を真似た。思い入れたっぷりに歌った。
一番を終わり、二番に入ろうとしてマイクに口を近寄せたとき、客席の後方で怒声が上がった。同時に四、五人の男達が、通路に立っている客を乱暴にかき分けて、舞台のほうへ駆け寄った。一瞬、何が起こったのか理解できず、シゲルは歌うのを忘れて棒立ちになった。千代香も三味線を中断した。
〈また、なんぞ、お国の一大事かいな〉
シゲルの脳裡には、和歌山の山奥で終戦を知った日のことが甦った。
だが、舞台の前にたどり着いた男達は、いっせいにシゲルを指差した。そして、口々に喚いた。
「支那とはなにごとだ、支那とは」
「貴様、われわれを侮辱する気か」
「その言葉は、貴様達日本人が、われわれの国を侵略していたときの名残りだ」
「いまは違うぞ。貴様ら、敗戦国だ。敗戦国民のくせに、そんな言葉を使って、いいと思うのか」
「中国と言え、中国と。そして、もう一度、初めから歌い直せ」
たちまち舞台へ駆け登り、数人がシゲルの胸倉を掴んだ。二つ三つ、頬に痛みが走った。
「すんまへん。勘忍《かんにん》しておくんなはれ」
「謝ってすむと思うか」
続いて三つ四つ、頭や腹を殴られた。千代香は三味線を投げ出して止めようとし、楽屋から係員も飛び出してきた。
「この人、なにも知りませんのや。堪忍しておくんなはれ」
「申しわけありません。お許し下さい」
千代香と劇場の支配人が割って入り、男達をなだめた。
「表に連れ出して、人民裁判にかけろ」
「そうだ、そうだ」
総立ちになった客席から、煽《あお》り立てるような声が上がり、男達はシゲルの腕を掴んで引っ立てようとした。
「あんた、謝んなはれ。土下座して謝んなはれ」
千代香が必死の声を張り上げ、舞台の上で土下座したので、シゲルも男達の手を振り切り、手をついた。
「堪忍しておくんなはれ」
平グモのように頭をすりつけ、夫婦二人はひたすら謝った。堪忍しておくんなはれ、と、呪文《じゆもん》のように繰り返した。
「いまの歌、二度と歌わないと、約束できるか」
「はい、できます」
「支那という言葉はない。中国なのだ。分かったか」
「はい、分かりました」
「よし。今日のところは、許してやる」
男達は客席のほうへ向き直り、右手を高々と上げて中国語で叫んだ。客席からも手を上げて応える声が舞い、場内がどよめいた。支配人に急き立てられ、シゲル夫婦はその隙に楽屋へ逃げ戻った。
「すぐに引き上げなはれ」
蒸し返すことを恐れたらしく、支配人は楽屋からも二人を追い立てた。場内ではまだ、喚声が唸りを上げていた。
「好きな歌も歌えん世の中になったんやろか」
「そんなことはないやろけど、あんたが調子に乗って、あんな歌を歌うからやわ」
「あんな歌、か」
「そう。あんな歌だす。生涯、歌いなはんなや」
「風呂で、鼻歌で歌うのも、あかんか」
「あきまへん」
帰りの電車の中で、二人はそんな話をした。時代は変わった。確実に変わった。シゲルは実感として、そう思った。
そのいきさつが災いしてか、仕事の注文が途絶えた。てんのじ村の芸人達は、相変わらず忙しい日々を送っているのに、シゲルのところには口がかからなかった。もめごとを極力嫌う雇う側としては、当然かもしれなかった。
〈しゃない。当分、骨休めや〉
これっきり、永久に仕事がこないとは思えない。そこまで深刻になる必要もないだろうと、シゲルは割と悠長に受け止めていた。
忙しかったおかげて、近ごろは質屋にもご無沙汰できる経済状態になっている。十日や二十日なら、遊んで暮らせるぐらいの貯えもあった。
仕事がこなくなって五日目の夕方、シゲルが台所の七輪で酒のカスをあぶっていると、共同便所のほうから異様な音が聞こえてきた。腹わたが全部飛び出すのではないかと思えるほどの、すさまじい下痢である。千代香は銭湯へ出かけて留守だった。
そのときの気配は、いやおうなく伝わってくるので、聞き馴れている。だが、いま届いてくる分は、珍しいくらいの賑やかさであった。
「なんとも、派手やないか、誰やろ、一体。まさか赤痢にでもかかっとるのと違うやろな」
下すだけ下して音が止んだので、シゲルがほっと吐息を吐いたとき、今度はハーモニカの音色が聞こえた。
※[#歌記号]青葉しげれる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
と、桜井の訣別《わかれ》≠フ曲が流れてきた。
七輪の上の酒のカスを裏返そうとして、シゲルは手を止めた。
〈ニカちゃんか?〉
玄関へ急ぎ、下駄《げた》をはきかけて、慌てて引き返した。酒のカスを金網ごと、板の間へ放り出し、再び下駄をひっかけた。
「ニカちゃん、ニカちゃんか!」
共同便所へ駆け寄り、三つ並んだ大のほうの、戸が閉まっている奥の分を叩いた。
「おい、ニカちゃん。ニカちゃんやろ」
シゲルが忙《せわ》しなく戸を叩くのに、中から返事はせず、ハーモニカの音色が高くなる。一番を終わって二番に入り、なおさら高く、張り切って吹く。騒ぎを聞きつけて、同じ長屋の住人達が集まった。芸人達はまだ仕事先から戻っておらず、留守番役の年寄りや子供達だった。
ニカちゃんこと、朝日家ハーモニカは、同じ長屋に住んでいたが、昭和十七年、兵隊に征《い》った。ハーモニカを二、三本、まとめて吹いたり、鼻で鳴らしたり、あるいは卵の殻の中に絵を描いたりする珍芸の持ち主だった。そういう芸の初めには、必ず桜井の訣別≠吹くのが慣わしであった。
「わい、この歌、好きやねん。この歌、歌うと、人間、真面目に生きなあかんなと思うねん」
幼いときに両親を失ったニカちゃんには、その歌の詞のどこかに引かれる部分があるのかもしれなかった。いつだったか、シゲルにそんな話をしたことがあった。
ニカちゃんという愛称は、ハーモニカのニカからきている。舞台中を走り回りながら吹いたり、逆立ちして曲を奏でたり、ときには尻に当てて妙な音を出したりする芸は、客に人気があった。
戦地の彼に、芸人仲間の寄せ書きなど入れて、シゲルは慰問袋を送った覚えがある。しかし、届いたのかどうか、返信がこなかったので、心配していた。あるいは、戦死でもと、嫌な想像も働いた。それが、いま、無事に戻ってきたのである。
「なにしとんのや、ニカちゃん。早よ、元気な顔を見せんかい」
シゲルが怒鳴ると、ようやく音色が止んだ。一つ咳《せき》払いが聞こえ、便所の板戸が開いた。
「えー、本名、戸賀幸太郎。芸名、朝日家ハーモニカ。ただいま、帰って参りました」
便器をまたいで一歩進み出、ニカちゃんは左手で敬礼した。軍服の右腕は、垂れ下がったままであった。
「あほ。便所の中で、なにを言うんや。早よ、出てこんかい」
「長屋のみなさん。無事でしたか」
「ああ、無事やで」
さあ、早よと促しながら、シゲルは垂れ下がった右腕を掴もうとした。が、そこには軍服の袖しかなかった。
「へへへへ。やられましたんや、敵さんの弾で。名誉の負傷や」
驚くシゲルに、屈託なく笑いかけ、
「長屋のみなさん、お出迎え、ありがとうございます」
と、ニカちゃんは長身を折り曲げるようにして、にこやかに笑顔をふりまいた。もともと長い顔が、痩せて頬骨が張っているため、なおさら長く見える。大きな目は奥へ引っ込み、せり出し気味の前歯だけが、白く輝いた。
「どこの世界に、無事に復員してきた挨拶を、便所の中でする奴があるかい。下痢したり、ハーモニカ吹いたり、ほんまに難儀な奴やで、ニカちゃんは」
腕を失ったことへの慰めの言葉を、とっさに思いつかず、シゲルは元気よく、言い返した。
「すんまへん。昨日、和歌山へ上陸して、変なぼた餅《もち》、食ったもんやさかいに、腹具合がおかしゅうなってしもうてからに。ここへたどり着くなり、便所へ駆け込んだようなわけで」
「ぼた餅でか」
「餡子《あんこ》が糸引いてましたさかいにな」
「そんなもの、よう食ったな」
「なんせ、腹ぺこで」
「ま、なんにしても、無事で帰ってこられたのが、なによりや」
「あんまり、無事でもおまへんけどな」
ニカちゃんに寄り添って、シゲルは便所の前を離れた。老人や子供達も、取り囲むようにして歩く。洗面具を提げた千代香が、路地の角から姿を現わし、
「まあ、ニカちゃん」
と、駆け寄った。石鹸箱と軽石が忙《せわ》しなく鳴った。
ニカちゃんの家は、路地の入口から二番目である。彼が出征中も、玄関に鍵などかけてはいない。長屋のおかみさん達が、ときたま、掃除に訪れるためであった。
「さあ、お帰りやでえ」
シゲルが勢いよく戸を開け、誰もいない部屋に向かって声をかけた。先に上がり、裸電球をつけた。
「おお。このカビくさいのが、わが家の匂いや」
ニカちゃんは部屋を見回し、鼻先をうごめかした。柱の日めくりの上に、軍帽を引っかけ、奥の仏壇の前に座った。おかみさん達が草花と水を欠かさないので、小さな仏壇はチリ一つかぶっていなかった。
「腕一本、ないようにしましたけどな。ま、生きて帰りましたで」
正座を作り、片手で線香を上げながら、ニカちゃんは仏壇に語りかけた。シゲルもそばで拝んだ。千代香も他の長屋の人達も、上がり込んでいた。
「おい、お母ちゃん。今夜は祝いやぞ」
「へ、承知しました」
シゲルが言うと、千代香が急いで立ち上がった。ニカちゃんは正座を崩さず、しばらくの間、仏壇と向き合っていた。
「ところで、シゲル兄さん。通天閣、どうなりましたんや。共同便所の窓からは、ちょうど、正面に見えてたのに、なんぼ捜しても見当たりまへんで」
向き直って、ニカちゃんが尋ねた。彼が出征するころまでは、まだ通天閣も健在だった。
「十八年の二月、お国のために供出されよったんや」
「ひえっ。無茶しよるな」
「ほんまに、無茶な話や」
「一日一回、便所の窓から、通天閣を拝まんことには、ウンコの出が悪かったのに。それが見えんから、わいの腹具合、変になりましたんやで。ぼた餅のせいだけではおまへんな」
「そうかもしれん。俺も通天閣がないようになってからというもの、どうも気分がすっきりせんのや」
シゲルも相づちを返した。それは本当だった。同じ思いの者は、二人の他にも何人となく、てんのじ村にはいるはずだった。
千代香は長屋のおかみさん達に呼びかけて、すき焼きの用意を整えた。七輪を四つ、路上に持ち出して火を起こし、共同の炊事場ではネギや白菜を洗う。牛肉と豆腐も揃い、その夜は大宴会になった。
浪華一虫斎やミナミ菊丸らも、仕事から戻り、みんなはめいめい、自分の箸と茶碗を持って、ニカちゃん宅へ集まった。老人や子供らも押しかけ、六畳と四畳半の二間続きの部屋には、人々が溢《あふ》れた。
シゲルは酒も煙草もやらないが、千代香は男達のためにメチルアルコールと二級酒を一本、算段していた。闇市で手に入れたらしい。
「千両役者が戻ってきたから、てんのじ村はまた賑やかになるで」
「ほんまや。ちょいと長めの顔やけど、ニカちゃん、なかなか女好きがするから、うるさいことになるやろ」
浪華一虫斎と、ミナミ菊丸が言うと、ニカちゃんは左手で右腕の袖を叩いた。
「これやから、もう、あかんで。舞台へ立てるかどうかも、怪しいもんや」
大きな目に、ふと、寂しげなかげを走らせた。
「腕の一本や二本、どうしたちゅうんや。げんに、ニカちゃん、便所でハーモニカ、吹いてたやないか。充分、舞台に立てるがな」
シゲルは背中をどやしつけた。とたんにニカちゃんは、へへへへと、歯を剥いて特徴のある笑い方をする。それから、腕を失ったいきさつを話した。
「突撃という隊長の命令で、わい、一番に飛び出して、敵陣めがけて突進したんや。そしたら、バリバリバリと、機関銃の弾が飛んできて、気がついたら、わいの右腕、どこかへ消えてもて、あれへん。えらいことしてくれよったな。可哀相に、あの右腕、どこへ行きよったんやろと、そこらを捜したけど、なんせ戦場やろ、ゆっくり捜されへんのや」
挙句に野戦病院へ入院させられ、内地へ送還される日を待っているうちに、終戦になったのだという。
戦地でもハーモニカは手放さず、戦いの合間には、みんなに吹いて聞かせたらしい。
「おかげで上官には可愛がられ、野戦病院でも従軍看護婦らによろこばれて、結構、ええ思いをさせてもろたけどな」
「こいつめ。さあ、呑め」
腹話術の太平公介が酒の入った湯呑みを、ニカちゃんの鼻先へ差し出した。
「いや、ほんまに。おおきに、おおきに」
へへへへと笑って、ニカちゃんは湯呑みに口をつけた。その話は、どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか、判別がつけにくい。だが、右腕を失ったことは、まぎれもない事実だから、それ以上、とやかく言う必要はないと、シゲルは思った。話題にすればするほど、妙な雰囲気になりかねなかった。
「よっしゃ。ここらで、そろそろ、裸踊り、いこか。ニカちゃん、従軍看護婦とやらに気に入られたという話やから、女には不足してないかもしれんが、久しぶりに内地の女もええやろ。というても、目の保養だけやが」
てんのじ村の芸人は、おめでたいことがあったりすると、男も女も、すぐに裸になって、ふざけ合う習慣がある。今夜はニカちゃんの復員祝いだし、折角の宴が陰気になっても困ると思い、シゲルはそう提案した。
西美也子は顔を見せておらず、女性で最も若いのは、漫才の夢ポン子と朝ペン子で、どちらも二十四、五である。次いで歌の橋川しのぶが三十過ぎで、その他は急に間が開く。
天王寺家忠造の妻の光子が四十一、東洋一丸の妻の勝江は、千代香より年上の五十半ば、日舞の花柳美根奴は六十を過ぎ、女浪曲の双葉千浪婆さんなど、七十を二つ三つ越えていた。
芸人以外のおかみさん達の中には、二十代や三十代の者もいる。だが、彼女らは素人衆であり、芸人の悪ふざけに付き合わすわけにはいかなかった。
そこでシゲルは、まず千代香に命じた。
「おい、お母ちゃん、裸踊り、頼むで」
「私みたいな、お婆ちゃんもやりますんか」
「なんでもかめへんがな。枯木も山の賑わいや。ずらっと裸を並べて、ニカちゃんのど肝抜いたれ」
「ほな、みなさん。一丁、やりまひょか」
千代香の言葉に、男どもは手を叩いた。だが、夢ポン子、朝ペン子、それに橋川しのぶらは渋った。
「いややわ、うちら」
「子供も見てるのに、教育上悪いわ」
「かめへんがな。どうせ、ここらの小せがれや。女の裸ぐらい、見なれとるやろ」
「そやそや。もったいつけんと、早よ、やってんか」
男達が煽り立てると、双葉千浪が茶碗と箸を置き、
「ニカちゃんの折角のお祝いや。ぐずぐずせんと、早よ、やりまひょか」
と、腰を浮かせた。
「えっ、千浪姉さんまで……」
ミナミ菊丸が言おうとするのを、シゲルが口を押さえて止めた。
「余計なこと言うたら、あかん。自分ではまだ、女のつもりやねんから」
「しかし」
「しかしも、へったくれもない。黙って見てたらええねん、黙って」
千浪婆さんを先頭に、女達は奥の間のガラス障子を開けて裏へ出た。小さな縁側と庭があるので、そこが仮の楽屋になった。他に空き部屋はない。
大御所の千浪婆さんに率先されては、若い夢ポン子らも見習わないわけにはいかなかった。
「その代わり、ニカちゃん。あの歌、ほら、わたしのラバさんちゅうの、あれ、吹いてんか」
ほどなく、千浪婆さんが顔をのぞかせて言い、彼女を真っ先にして女達が座敷へなだれ込んだ。全裸ではなく、着物や襦袢《じゆばん》や腰巻を、手分けして身にまとっている。
千代香は素っ裸に着物を羽織った格好で、胸元と脚の付け根は手でおおう。橋川しのぶと夢ポン子は、襦袢で同じような真似をし、朝ペン子は着物を前後ろに着て、背中側をさらけ出す。天王寺家光子、東洋勝江、花柳美根奴らも、胸から上と太ももから下ぐらいしか見せていないが、千浪婆さんが最も大胆に張り切り、枯れた胸元を剥き出しにして、赤い腰巻の脚を危なっかしく跳ね上げた。
ニカちゃんはあぐらをかいて座り、懸命にハーモニカを吹いた。それを取り囲むようにして、女達は体をくねらせる。男達は歌い出し、年寄りや子供達まで手を叩く。
「まだまだ、千代香姉さん、色っぽいでんな」
「おおきに。そう言うたら、よろこぶやろ」
浪華一虫斎に答えて、シゲルも声を張り上げた。よく見ると、ニカちゃんは大きな目を閉じて吹いている。固くつぶった両端から、光るものがしたたり、口に咥《くわ》えたハーモニカの上に落ちた。みんなの歓迎を、よろこぶ涙に違いなかった。
〈あほ。泣くやつがあるかい〉
シゲルは立ち上がり、手早く衣服を脱ぎ捨てた。越中ふんどし一つの格好になり、女達の輪に加わった。そのまま座っていると、自分のほうも、目がしらがおかしくなりそうだった。
「よっしゃ、わいもや」
「俺もや」
浪華一虫斎とミナミ菊丸が続き、他の男達も次々と、ふんどし一つになった。手を振り、腰をあやつって、思い思いに踊り出す。年寄りや子供らまでが見習い、盆踊りのような騒ぎになった。ニカちゃんは左手だけで、巧みにハーモニカをあやつった。顔面は涙でてらてらに光った。
すき焼きが煮えすぎ、焦げくさい匂いを舞い昇らせていたが、誰も気づかず、宴は夜遅くまで続いた。
一カ月と経たないうちに、シゲル夫婦にも再び仕事の声がかかるようになった。農業協同組合や漁業協同組合、会社の慰労会などの余興が主だが、一日に三カ所ぐらい回るときもあり、朝早くから夜遅くまで、追い立てられるような慌しさだった。他の者達も同じ有様で、てんのじ村の芸人達は多忙を極めた。
そういう中で、ニカちゃんだけが、おとなしかった。戦地ぼけしたつもりはないが、客の前に立つ自信がないという。右腕を失ったのが、影響しているようだった。
ハーモニカも、普通に吹くのに不都合はないが、二本一緒に持つのは難しいし、三本は完全に駄目である。逆立ちも不可能だから、その辺りに悩みがあるのかもしれなかった。
それでも熱心に、芸の勉強は始めていた。ある日、午前中の時間が空いたので、シゲルが立ち寄ると、ニカちゃんは敷きっ放しの布団の上で、卵をいじくっていた。
「ちょうどええところへきてくれはった。シゲル兄さん、ちょっと、これ、見ておくんなはれ」
鶏卵をてのひらに乗せて差し出した。ハーモニカの他に、ニカちゃんにはもう一つ、卵を使った芸がある。針で細かい穴をあけ、中身を吸い出したあとの殻の、内側へ、竹の串を用いて浮世絵風の美人画を、舞台の上で即興に描くのである。どこで覚えたのか、絵心には確かなものがあり、ハーモニカよりは、むしろ、そちらのほうの評判が高かった。
ただし、それは電球に透かして見なければならないので、まともな舞台では損である。お座敷芸程度に、一人一人の客にのぞいて見てもらってこそ、値打ちの分かる芸だった。
ニカちゃんは右利きだった。その利き腕は失ったものの、左がある。それでいま、試したところらしかった。
「どれどれ」
シゲルは卵を裸電球にかざし、細い穴に目を当てた。以前は赤とミドリの絵具を使用していたが、いまは墨一色である。光線を浴びて、高島田に結った女の顔が浮かび上がった。
「おお。いけるやないか」
シゲルは感嘆した。以前に比べると、どの線も弱々しいが、切れ長の女の目には色気が漂う。馴れない左手で描いたにしては、上出来だと思った。
「ほんまでっか」
「ほんまやがな。これだけ描けたら、商売になるで」
「そう言うてもろたら、なんや、こう、自信のようなものが湧いてきまっせ」
「それやがな、それ。芸人は自分の芸に自信を持つこと。それしかないんやからな、頼りにするものは」
「ほんまでんな」
「ハーモニカで二、三曲、ええ歌を聞かせてから、そのあと、この卵の美人画を見せたら、客はよろこぶで。どや、そろそろ、仕事を始めては。注文、なんぼでも取ってくるで」
シゲルが言うと、ニカちゃんは座ったまま大きく礼をした。
「おおきに。いずれ、お願いせなあきまへんけど、もうちょっと、待っておくんなはれ。せめてこれぐらいの絵が、二、三分で描けるようにならんと、客は待ってくれまへん。退屈して、しらけさせまっさかいにな」
もっともな理屈だった。即興に描くのだから、時間は短ければ短いほど効果がある。切り紙の芸などと同様に、迅速さが要求された。
「よっしゃ。ほな、もうちょっと待つけど、ええ加減なところで、踏ん切りをつけな、あかんで。舞台は遠ざかるほど、怖《お》じ気づいてくるからな」
「分かってます」
ニカちゃんは頷いた。戦地で三年を過ごし、復員してきたのは、戦後、一年半余り経ったころだから、五年近くも舞台を離れている計算になる。その空白を埋めるのは、気持ちの上でも、かなり難しいことかもしれなかった。いつもは陽気なニカちゃんの顔が、そのときだけは厳しく引き締まって見えた。
プロ野球が復活して、日毎に人気を高めているのを見習い、シゲルも新しいネタとして、野球を取り入れた。掛け合いで喋るのでは、「早慶戦」という、エンタツ・アチャコの名作があるから、それ以上の漫才はやれそうにない。
そこで、千代香の号令と三味線に合わせて、シゲルが一人で、舞台の上でプレーする芸をひねり出した。阪神タイガースと同じ、縞柄の帽子とユニフォームを身につけ、ピッチャーの投球フォームから、一転してキャッチャーに回り、バッターにもなる。
ストライク、ボール、ヒット、エラー、ホームランなどと、千代香は大声で喚いては、忙しなく三味線をかき鳴らす。それに合わせて、シゲルが投手や捕手や打者や内野手、外野手の役を、一人で演じるのである。
慌てて転んだり、ピッチャーの役のはずが、バッターになったり、ホームランのはずがファウルでアウトになったりするので、そのたびに客席は沸いた。
〈よっしゃ。これは、いけるぞ〉
時流に乗った新しいネタとして、シゲルは自信を持った。年寄りが多いときには、従来どおりのよごれ≠竍かぼちゃ≠演じるが、客が若いと野球狂時代≠ニ名付けたそれを出した。三振∞すべり込み∞トンネル∞デッドボール≠ネどもあり、帽子を飛ばして奮闘するので、子供らにも受けた。
さらに面白く、笑わせる工夫はないかと、ある晩、シゲルが千代香と相談しているところへ、ニカちゃんが顔をのぞかせた。
「偉いなあ、二人とも。立派な芸があるのに、新しいものを勉強するやなんて、やっぱり、心構えが違いまんな」
着流し姿で上がり込み、二人のそばで端座した。
「えらいところを、見られたな」
シゲルはユニフォーム姿のまま、向き合って座り、千代香も三味線をやめた。有名な投手や打者の形を真似ようと決め、練習している最中だった。
「そんなことより、どや、ニカちゃんのほうは。卵の絵、もうだいぶ、早よなったか」
「へえ。時計を睨みながら、やってまんねんけど、なかなか、うまい具合にいきまへんな」
ニカちゃんは着物のふところへ手を突っ込み、半紙に包んだものを取り出した。
「こんなもの、どうでっか。よかったら、食べてもらおと思うて、持ってきましたんや」
広げると、センベイ、キャラメル、菊花の形の砂糖菓子などが出てきた。
「おお。珍しいもんやないか。一つ、もらうで」
「どうぞ、どうぞ。姉さんも、どうでっか」
「へ、おおきに」
勧められて、シゲルと千代香はセンベイをつまみ、ニカちゃんも音をさせてかじった。
焼け跡は整備され、大阪の街は日毎に復興していく。警察の手で闇市は封鎖され、世の中は次第に落ちつきを取り戻している。しかし、食料不足だけはいちじるしく、ことに甘いものは手に入りにくい。闇市のあった場所には縄が張られ、竹矢来が組まれたりして、完全に息の根を断たれたため、一般庶民は、かえって食料難に追い詰められてしまうという面もあった。
それだけに、センベイなど口にするのは、シゲルも千代香も久しぶりだった。
「どうしたんや、こんな結構なものを」
「へへへへ。種明かし、しまひょか」
特徴のある笑い方をしてから、ニカちゃんは長い顎を撫《な》で回した。
「紋付の羽織が一枚だけあったら、よろしおまんねや」
「どこぞで、落語でもやるちゅうんかいな」
「落語なんか、わいにできるわけ、おまへんがな」
「ほな、浪花節か講談か」
「違いまんな」
「じらさんと、早よ言いな」
「斎場だす」
「さいじょう?」
「ほら、そこの、阿倍野の斎場でんがな」
てんのじ村から南東方向に、歩いて十分足らずのところに、阿倍野斎場がある。明治七年に大阪府が開設した墓地で、約二万坪の広さがあり、無数の墓石が林立している。シゲルも一、二度、訪れた覚えがあった。
中には、初代の大阪商工会議所会頭──五代友厚や、御堂筋と地下鉄で名を知られる第七代の大阪市長──関一らの墓もある。市内では最も規模の大きい墓地だった。
明治十八年十月二日に行なわれた五代友厚の葬儀には、中之島からこの墓地へ向かう会葬者の列が、延々二キロにも及び、今太閤の葬式≠ニ称されたという話も残っている。
それほど大がかりなものではなくても、そこでは毎日、いくつかの葬儀が行なわれている。ニカちやんは紋付の羽織姿で、そこへ出向き、親戚か知人らしい顔をして会葬者の列に加わる。焼香して立ち去る人には、山菓子として、センベイ、アメ、岩おこしや、あるいはハガキ、切手などを渡す習慣があるので、それをせしめてくるらしい。
「遅まきながら、戦地から遺骨が戻ってきたり、空襲で死んだ人の葬式が行なわれたりして、あそこで待ち構えていると、一日に十やそこら、葬儀がありまっさかいにな。ちょいと金持ちふうな、会葬者が多いところを狙って、こっちも並びまんねや。その代わり、誠心誠意、真心込めて、故人のために、お焼香させてもらいまっせ。袖すり合うも他生の縁、これもなにかの因縁やろと思うて」
ニカちゃんはもっともらしく言った。
「ほな、これ、葬式の山菓子を、かすめ取ったやつかいな」
「そういうことやけど、別に汚ないことありまへんで」
「それはそうやろけど、なあ、お母ちゃん」
「ほんまに。なんやしらんけど、あんまり気持ちのええもんと違うしィ」
「お二人の口には合いまへんか。ほな、ハガキか切手、持ってきまひょか。ぎょうさん、ありまっせ」
ニカちゃんは大きな目をきょろつかせて、二人の顔を見比べた。根がひょうきんで、憎めない性格である。山菓子だと分かると千代香の言うとおり、あまり気持ちのよいものではないが、それもニカちゃんの親切心の現われだと思え、シゲルはそれ以上、なにも言えなかった。
山菓子では、シゲルがよろこばないと思ったらしく、一週間後、今度は妙な誘いをかけた。東住吉区の寺の境内で催される予定だった演芸大会が、前夜からの雨で中止になり、シゲルの体は空いている。千代香は奥の間で、つづくりものの針を動かしていた。
「風呂に入って、銀シャリが食べられる。それも、無料。金いらず。どうだす、シゲル兄さん。そういう結構なところがおますんやが、いまから、行きまへんか。それに、ぜひ、見てもらいたいものもあるさかいに、付き合うておくんなはれ」
「まさか、阿倍野の斎場と違うやろな」
「いや。あれはもう、やめましたで。不衛生やいうて、警察がうるさいもんやから」
ニカちゃん以外にも、山菓子目当てのニセの会葬者が目立つようになり、警察が取り締まりを始めたらしい。
「千代香姉さん。ちょいと、シゲル兄さんを、お借りしてもよろしいやろ」
ニカちゃんは奥に向かって声をかけた。
「どうぞ。悪いところへは、連れて行かんといてや」
「分かってます」
さ、早よ行きまひょと、ニカちゃんは急《せ》き立てた。新ネタを考えるか、昼寝でもしようかと、シゲルは退屈しているときだったので、誘いに乗ることにした。
雨は小降りになっている。下駄をはき、二人で一本の番傘に入って、家を出た。ニカちゃんは風呂敷包みを提げていた。
誰が入れたのか、路地の角の防火用水の中で、金魚が数匹、泳いでいる。横に積み上げられた砂袋は放置されたまま、あちこちが破れ、砂がこぼれ出して広がる。その後ろ側から突き上げるように、沈丁花が枝を伸ばし、可憐な蕾《つぼみ》をふくらませていた。
天王寺から電車に乗り、二人は大阪駅へ着いた。東出口を出て、ガードの下をくぐると、電車の高架下に細長い建物があった。どの窓にも木製の格子が入り、壁はモルタル塗りである。入口には横書きで大阪市立・梅田厚生館≠ニ書かれた看板が掛かり、UMEDA−KOSEIKANと、ローマ字も添えてあった。
ニカちゃんは玄関で下駄を脱ぎ、板張りの廊下を素足で歩いた。中は薄暗い。
「なんや、ここは」
「浮浪者の収容施設でんがな」
「こんなところで、なにをするんや」
「まあ、よろしいがな。いまに分かりまっさ」
事務室らしい部屋をのぞき、ニカちゃんは気軽に、
「いよっ。きましたで」
と、声をかけた。黒ぶち眼鏡の五十がらみの男が、椅子から腰を浮かせて笑いかけ、もう一人、三十半ばのふくよかな顔付きの女性が、ソロバンの手を止めて笑顔を向けた。机は二つしかなく、部屋の中ほどには火のない石炭ストーブが出しっ放しになっていた。
「いつも、すみませんな」
「なんの、なんの。こっちこそ、ええ勉強させてもろてます」
ニカちゃんは眼鏡の男と気安く喋《しやべ》り、シゲルを兄貴分だと紹介した。
「花田シゲル・千代香の漫才いうたら、その世界では有名でっせ。今日は一人やから、漫才はできまへんけど、そのうち一ペん、やってもらうよう、館長さんからも頼んどいたらどうですか」
ニカちゃんがそう言うので、男は背広のポケットから名刺を取り出し、
「井原といいます。ぜひ一度、お願い致しますよ」
と、頭を下げた。事情がのみ込めないまま、シゲルも礼をした。男の名刺には、梅田厚生館館長−井原健次とあった。
「みなさん。朝日家ハーモニカさんが、本日もお越し下さいました。いまから、楽しい演芸の数々を、お見せ下さいます。娯楽室へお集まり下さい」
井原はメガホンを口に当て、細長い廊下を歩きながら知らせた。すると、左右に並ぶ各部屋から、男や女や子供らが続々と姿を現わした。
「どういうことやねん、これは」
「慰問でんがな、慰問。戦禍で痛めつけられて、笑いを忘れた人々を慰めて上げる。大義名分はそうですけど、わいの本心としては、ここの観客の前で、自分の芸を試しとうおまんねん。ここで通用せんようなら、銭のもらえる舞台には、到底、立たれへんと思いますんや」
ニカちゃんはすでに、何回となく訪れているらしい。そうして勉強した芸が、はたしてどの程度のものか、シゲルに見て欲しいのだと話した。
山菓子など、もらいに出かけたりするニカちゃんに、シゲルは内心、どうなることかと心配していたが、芸の習練にも怠りなかったわけである。したたかに勉強しているのだ。
それにしても、ニセの会葬者といい、浮浪者施設の慰問といい、ニカちゃんの知恵の回り具合は一風変わっている。シゲルなど思いもつかないところに、目をつける。そういう点では、独特の嗅覚《きゆうかく》を持ち合わせているのかもしれなかった。
娯楽室には七、八十人の大人や子供達が集まった。収容されて間がないのか、男達の中には破れた衣服をまとっている者もいる。だが、女や子供らは小ざっぱりした身なりをしており、垢《あか》じみた者は見当たらなかった。
警察は頻繁に、浮浪者狩りを行なっている。そうして補導した者を、この施設へ収容するのである。
昭和二十年三月十三日夜、大阪市内はB29九十機による初の大空襲に見舞われた。六万五千発余りの油脂焼夷弾を落とされ、百数十カ所から火の手が上がり、死者四千六十人、重軽傷者一万八千余人、十三万世帯が焼け出されるという大被害を受けた。
その翌日、十四日に、大阪市は大阪駅の構内に戦時案内所を設けた。終戦と同時に、それが市民案内所となり、戦災孤児、浮浪児、浮浪者、行くあてのない病人、復員軍人などの相談に乗っているうち、必要に迫られて施設を開設し、昭和二十二年に現在の名称に改名されたのである。
娯楽室の奥まったところには、高さ五十センチ、畳三枚分ほどの舞台が作られている。ニカちゃんは紋付の羽織姿で登場し、大きな目を精一杯和めて一同を見回した。井原や女の事務員らと一緒に、シゲルも後ろのほうの床に座った。椅子や座布団はなかった。
「え、毎度おなじみの、朝日家ハーモニカでございます。このドングリまなこと長い顔は、一ぺん見たら、すぐに覚えてくれはりましたやろ。それにこれ、丹下左膳やから、覚えやすいですやろ」
ニカちゃんは羽織の右袖を振り、片目をつぶって顔を歪めて見せる。
「この前も言いましたように、敵陣へ乗り込んで行って、チャンチャンバラバラやってるうちに、ずばっと斬《き》り落とされましたんや。そこらをジープが走り回っとるから、大きな声では言えまへんけどな、さあ、十人、いや、十五、六人は、わたいのほうもやっつけてやりましたで」
普段はわい≠ニ言うのを、舞台ではわたい≠ニ、丁寧に表現する。
右腕を失ったことを、ニカちゃんはしたたかに取り入れて喋った。復員してきた日に話した状況とは異なるが、本人は全く頓着ない様子だった。
ひとくさり喋ってから、ニカちゃんはハーモニカを取り出した。青葉しげれる桜井の、と、桜井の訣別≠吹奏し、終わると、もう一つ、両端に紐《ひも》の付いたハーモニカを出した。
「ちょいと、ごめんやっしゃ」
断わってから、その紐を両耳にかけると、ハーモニカが鼻の真下へきた。そうしておいて、頭を左右に傾けると、ハーモニカも鼻の下を移動する。それを利用して、鼻の穴を使い、
※[#歌記号]お手々つないで 野道を行けば
と、靴が鳴る≠吹き始めた。同時に、もう一つのハーモニカを宙に放り上げ、受け止める。右に左に頭を振りながら、一本の手でそれを行なうのは、相当難しいはずであった。
〈なるほど。考えよったな〉
普通に吹くだけでは妙味が薄いと思い、ニカちゃんなりに知恵を絞ったらしい。シゲルは目を凝らして見守った。
娯楽室には拍手や笑い声が舞い上がる。ニカちゃんはリンゴの歌≠ノ変え、放り上げたハーモニカを後ろ向きになったり、倒れそうになったりして受け止め、みんなを沸かせた。
おしまいにはそのハーモニカを尻に当てがい、高音を鳴らしたので、爆笑になった。鼻の下に吊るした分を思い切り吹いたようだが、客席からは本物が飛び出したように見えた。
続いて、卵を取り出した。
「この卵、中身は空っぽだす。けさ、わたいが食べましてん。さて、この中へ、お望みの絵を描いてごらんに入れましょう」
そう言って、ニカちゃんは客席に向かって注文を訊いた。前に陣取った男の子が、ジープと言うと、
「ジープか。わたいの嫌な自動車やが、折角の注文やから描きましょう」
と、その子を舞台に呼び上げて、卵を持って立たせた。動かないようにと申し渡し、ニカちゃんは竹串の先に墨汁をつけ、卵の穴に差し込んだ。腰をかがめ、真剣な表情で左手を小さく動かす。
「ええか、ボク。ボクが注文したんやからな、動かさんように持っててや。変な絵になったら、ボクの責任やぞ」
冗談口を叩きながら、二分ほどで竹串を抜き出し、腰を伸ばした。以前のニカちゃんは左手で卵を持ち、右手で描いていた。だが、それが不可能なので、客を利用する方法を思いついたらしい。注文に応じて描くというのも、よい趣向だと、シゲルは思った。
「はい、ご苦労さん。完成やで。さあ、ボクが注文したんやから、一番に見てごらん」
ニカちゃんが言うと、男の子は卵の穴に目をあてた。電球のほうに向けて透かし見た。
「どや」
「ほんま、ジープや」
男の子は顔をほころばせた。他の子らも次々と舞台へ上がり、卵を手に取った。
「割らんようにしてや。大人にも見てもらうんやから」
ニカちゃんは心配そうに、子供らの手元を見守った。
その卵は大人達の間を回り、最後に井原のところへきた。シゲルも電球に透かして確かめた。
白い殼の内側には、幌をかけたジープが巧みに描かれている。運転席には帽子をかぶった進駐軍の姿もあり、ハローという言葉も書き込んであった。
「大したもんですなあ」
井原が感嘆気味に呟いた。女事務員が頷き、シゲルも相づちを打った。ジープにはハンドルもあり、タイヤのミゾまで刻まれている。窮屈な中で竹の串をあやつって、しかも短い時間で、よくもそれだけ精密に描けるものだと、感心した。
ニカちゃんが舞台から下りてくると、井原は礼を述べ、風呂を勧めた。ちょうど、沸いたころだから、シゲルにも入るように言った。
「ほな、シゲル兄さん。ちょいと入れてもらいまひょか」
ニカちゃんは先に立って廊下を歩いた。どこになにがあるのか、この施設の構造はとっくに知っているらしい。
風呂は十人ぐらいが一緒に入れそうな大きさだった。まだ誰も入っておらず、木の桶が積み上げられて乾いていた。
「どうでした、わいの出しもの」
並んで湯船に浸かりながら、ニカちゃんが尋ねた。右腕は肩口から失くなっており、あとには黒い肉が盛り上がっていた。
「大したもんやがな。びっくりしたで」
「ほんまでっか」
「嘘言うても、しゃないやろ。ハーモニカの趣向も面白いが、卵の絵、あれには感心したで。二分足らずで、あれだけ正確にジープが描けたら、文句ないがな。充分、銭、とれるぞ」
「美人画を描くことに比べたら、ジープなんか、子供だましみたいなもんでっせ」
「それにしても、誰でも、ああは描けんで。大した芸やないか」
「おおきに。そう言うてもろたら、ほんまに自信がついてきたみたいや」
ニカちゃんは片手で顔をこすった。心地よさそうに目を細め、二、三度、首を回転させた。
「この施設には、なかなか、役者が揃うてまんねんで。自称、華族夫人がいてるし、元・新町の芸者やったという婆さんや、戦犯だというおっさん、絵の上手な天才少年画家、短歌の好きな文学老女、それに山伏くずれや尼さんくずれなんかが、ごろごろしてまっせ」
「みんな、焼け出されたわけやな」
「そういうことでんな。その挙句に、浮浪者になったわけやが、極めつけは、東條英機の弟だと自称しているおっさんでんな」
「ほほう。そんなのまでいるんかいな」
「子供のころ、自分は大阪のある名家へ、養子に出されたと言うてるそうやけど、顔だけ見ると、なるほど、似てまっせ。さっきも、娯楽室にきてましたで」
興味があるなら、あとで確かめに行こうかと、ニカちゃんは言ったが、シゲルは首を横に振った。本物だろうが偽者だろうが、関心はない。東條英機という名前を耳にするだけでも、わずらわしかった。
「シゲル兄さん。背中、流しまっさ」
「なにを言うてんねん、あべこべやがな」
シゲルが背中を洗ってやろうとするのに、ニカちゃんは拒み、それなら先に洗わせて欲しいという。芸人として、先輩後輩のけじめを律義に守るつもりらしかった。
「兄さんの肌、つやつやしてまんな」
ヘチマでこすりながら、ニカちゃんが背中から声をかけた。
「もう四十も半ばを過ぎてるんやで」
「いやいや。まだ青年みたいな弾力がおますで。三十過ぎたばかりのわいのほうが、あきまへんな」
なあ、シゲル兄さん、と、ニカちゃんは改まった声になった。
「なんやいな」
「この、背中一面に、別嬪《べつぴん》さんの顔、彫らしてくれまへんか」
「なにお」
「観音さんでも、弁天さんでもかまいまへん。こんな綺麗《きれい》な肌に彫ったら、見事なもんができまっせ」
「ニカちゃん。お前、そんな技術、持ってるんかいな」
「へえ。死んだ親父が、そっちのほうでは少しばかり名を知られた人物でしたさかいにな。わいも子供のころから、見よう見真似で。ほら、門前の小僧ちゃうやつでんがな」
そういう下地があるから、卵の中に絵を描いたりできるのだろう。シゲルは初めて聞いた。
「どうだす、兄さん。このわいに、一世一代の彫りものを、させてくれまへんか。なに、左手一本でも要領は同じやから、自信はありまっせ。びっくりするくらいの別嬪さん、彫りまっせ」
ニカちゃんはヘチマの手を止めた。肩越しに頼んだ。
「折角やけど、なんぼニカちゃんの頼みでも、それだけは堪忍してもらいたいな。俺、そういうのは、趣味に合わんのや」
「あきまへんか」
「あかんな」
シゲルが断わると、ニカちゃんは再びヘチマの手を動かした。挙句に、
「もったいないなあ」
と、溜息を吐き、音が出るほど、シゲルの背中を叩いた。
二人が風呂から上がるのを待って、女の事務員が食堂へ案内した。みんなの食事はまだあとになるらしく、長いテーブルの中ほどには、二人分の食事が整っていた。
イワシの丸焼き二匹に、大根下ろし、かぼちゃの入った味噌汁、それに、真っ白い御飯が茶碗に八分目ぐらい入っている。
「な、ほんまに銀シャリですやろ」
長椅子に並んで座りながら、ニカちゃんが耳打ちした。混りものの全くない白い飯−銀シャリなど、シゲルは長い間、目にしたこともない。ニカちゃんの言葉どおり、そこにはその銀シャリが盛ってあった。
「ほんまのほんまを言うたら、わい、これにありつきたいばっかりに、ここへきてまんねん。大きな声では言えまへんけどな」
早速、箸を使いながら、ニカちゃんは、どうだすか、と、顔を向けた。イワシの頭からかぶりつき、白い御飯を口へかき入れて、シゲルは頷いた。
「あの館長がやり手やから、ここの収容者は毎日、こんな御飯を食べてまんねんで。贅沢《ぜいたく》なもんですやろ。わいも浮浪者になりたいくらいのもんや」
ニカちゃんはしきりに話しかけた。だが、いちいち答えるのが面倒なくらい、シゲルは食べることに熱中した。白い御飯の味と香りは、忘れていたものを思い出させるようだった。
活況のてんのじ村から、二人三人と、芸人達が離れるようになった。多忙になり、稼ぎまくった連中が、他の場所に家を求め、移っていくのである。
漫才の東洋一丸と勝江夫婦は、NHKのラジオに出演したのがきっかけで、次々と大劇場から声がかかるようになり、たちまち全国的に名前を知られるほどになった。てんのじ村では一、二の売れっ子ぶりだったが、玉出のほうに土地付きの一戸建てを買い求め、村を出て行った。
浪曲の天王寺家忠造・光子夫婦も、やはりラジオで名前を売り、東洋一丸らを追うように村を離れた。岸の里で家を手に入れたらしい。
奇術の浪華一虫斎と、珍芸の星大流は、ともに大手の興行会社の専属に入り込み、大国町にある社宅代わりの文化住宅へ移った。
シゲルが親しくしているのは、その四組、六人だけであるが、他にも、兄弟漫才の空とおし・海ふかし、三味線とギターを売りものにしている三人姉妹のニコニコ娘、男同士のラッキョ・久富、姉弟漫才の明日いう子・今日いう三、落語の松福亭一角、桂麦松、講談の月形虎之介、奇術の中川ジャック、姉妹漫才の塩原大砂・塩原小砂など、いずれもラジオや一流の舞台で名を知られるようになった芸人達が、次々とてんのじ村から離れた。
浮き沈みの激しい世界である。稼げるときに稼いだ金を、家なり土地なりに代えておく方法は、利口だった。
それを基盤にして、芸に打ち込むことができるし、思い切った冒険も可能になる。小さいところにしがみついている必要がなくなる分だけ、確実に芸はふくらむはずだった。
正直、シゲルは羨ましかった。村を出て行ける芸人達に、あやかりたいとさえ思った。
「長いこと、お世話になりましたけどな。玉出のほうに、掘っ立て小屋みたいな家が見つかったもんやさかいに、移ることになりましたんや。ま、土地付きやから、それだけが値打ちかいなと思うてますんや。ぜひ、一ぺん、みなさんお揃いで遊びにきておくんなはれ」
シゲルの家で開いた送別会で、東洋一丸はそんな挨拶をした。謙遜しながらも、誇らしさのちらつく言い回しだった。
シゲルもみんなを前にして、そんな台詞《せりふ》を言ってみたい。てんのじ村が、決して住みにくいというわけではなかった。いや逆に、こんな住みやすいところはない。
それだけに、住みやすいだけに、いつまでも居続けると、生涯、抜け出せなくなるのではないかという不安がある。暮らしやすさに安住していれば、芸そのものまでが、この村に見合う程度の器量に凝り固まるのではないか。棟割り長屋や路地の臭気がしみついた、見栄《みば》えのしない芸になりはしないか。
いや、すでに、そうなっているかもしれない。そんな焦りに、シゲルは捉われた。
〈俺も一ペん、ラジオに出してくれたら、全国的に名前を知られるようになれるのに〉
シゲルはそれを待ち望んだ。だが、機会はめぐってこず、次々と入る仕事は余興程度のものばかりであった。
シゲルと千代香の漫才は、喋りの面白さよりも、むしろ見せるほうが主になっていた。よごれ≠熈かぼちゃ≠熈野球狂時代≠焉A動作の可笑《おか》しさを狙っている。聞かせる芸ではなく、見せる芸である。それだけに、ラジオという電波には、全く不利な立場にあった。
せめて、一流の演芸場からの注文がこないかと心待ちにしたが、それも舞い込まなかった。芸の上では、村を出て行った芸人達にひけをとらないつもりでいるのに、誰も檜《ひのき》舞台を与えてくれない。世間の奴らは目がないと、愚痴の一つもこぼしたくなるが、それを言うと自分がみじめになりそうなので、シゲルはのみ下した。
まだ諦めるのは早い。この先、運が向いてこないと決まったわけではない。いや、きっとくる。前向きに、そう思いたかった。
ニカちゃんはシゲルが世話する仕事を始めるようになった。円之助芸能社にも所属して、そちらの分も引き受けた。
ハーモニカと卵のほかに、彼はもう一つ、青ガエル≠ニいう珍芸もひねり出している。尻に一メートル余りの竹を挟み、舞台の上でカエルが飛びつくような格好を作る。それから、脚にくくりつけて隠した自転車の空気入れを使い、自分の腹をふくらませていく。青ガエルが尻に麦わらを突っ込まれ、ふくらまされていくという趣向である。
腹部には氷枕が三つほど、くくりつけてあり、空気はそこへ入る仕掛けになっている。腹が大きくなるにつれて、客席はざわつき、悲鳴も上がる。カエルの衣裳をつけたニカちゃんは、顔だけはのぞかせたまま、限度いっぱいまでふくらませながら、目を剥き、舌を出し、さまざまな表情を作る。そうして笑いを巻き起こした挙句、一度に氷枕の空気を抜き、舞台の上に突っ伏せる。
他愛のない芸だが、次々と変わるニカちゃんの顔と、巧みな演技力とで、客ははらはらしたり、笑いころげたりして、評判がよかった。やる気を出したニカちゃんを見るのは、シゲルもうれしかった。出世してこの村から出て行った芸人達を手本に、頑張るつもりになったようだった。
だが、一方では焦って方向を誤る者も現われた。夢ポン子・朝ペン子の若手が、そうである。近ごろは一緒に行動する機会がなかった。
彼女らは大阪以外の仕事先へ行くとき、塩原大砂・塩原小砂と名乗っている。そういう噂がシゲルの耳に入ってきた。
塩原大砂・塩原小砂はラジオで人気が出始め、全国的に名前が浸透しつつあるが、実物を見た人はまだ少ない。その隙を窺い、夢ポン子・朝ペン子は二人になりすまし、ネタから喋る特徴まで真似て、地方の舞台へ立っているらしい。
同じ仲間のそういう振舞いは、情無い。事実かどうか本人に確かめ、もし事実なら、即刻やめるように注意してやりたいと思い、ある夜、シゲルは彼女らのアパートへ出かけた。風呂へ行くところだった二人は、洗面器を提げたまま、おどおどした目でシゲルを部屋へ入れた。用件を察している気配だった。
「嫌な噂が耳に入ってきたんやがな」
二人の前であぐらを組み、シゲルはいきなり、切り出した。部屋には昼間の熱気がこもり、蒸し暑い。夢ポン子がシゲルの視線を避けるように、一つだけある窓を開けに立ち、朝ペン子はうちわで風を起こした。
「塩原大砂・小砂は必死に努力した結果、いまの地位へ這い上がったんや。二人だけやない。出世して、この村から出て行った芸人は、みんなそうや。自分の力で名前を広め、売れるようになったんや。こんなこと、わざわざ言わんでも、充分、分かってるはずやけどな」
夢ポン子・朝ペン子はまだ若い。これから先、出世の機会はいくらでもめぐってくる。それを忘れ、待ちきれずに、人の偽物になって舞台を務めるのは、自分で自分の首を絞めるのも同じだと、シゲルは諭《さと》した。これまで一緒に仕事をしてきた仲間として、実際、悲しかった。
「ニカちゃんを見てみい。自分の芸で、一生懸命頑張ってるがな。勿論、この俺かて、誰にも負けんように努力してるつもりや。あほなことを考えんと、自分らの漫才を磨くことやな。それが一番手っとり早い、出世の近道やで」
シゲルは自分自身にも言い聞かせた。二人はうなだれたまま、顔を上げなかった。
「分かったな。俺の言いたいのは、それだけや。夢ポン子・朝ペン子というたら、もうかなり、名前の売れてる漫才やないか。自分らの名前を、もっと大事にせなあかんで。そやろ。お互いに頑張ろで」
帰りかけて、シゲルは二人の肩を叩いた。
「よう分かりました。堪忍して下さい」
「すみません、シゲル兄さん」
二人は涙声で詫びた。
「俺に謝らんでもええ。分かってくれたら、それでええんや。さあ、風呂へ行っておいで」
シゲルは部屋を出た。二人が納得した様子なので、胸のつかえが解消する気分だった。
だが、翌日、夢ポン子・朝ペン子は、てんのじ村から姿を消した。シゲルにも他の誰にも、挨拶はなかった。
〈俺、余計なお節介を焼いたんやろか〉
シゲルの気は滅入った。二人がいたたまれなくなるような淵へ、追い詰めたせいではないかと、反省した。
ニカちゃんと一緒に行くはずだった余興の仕事が、相手側の都合で延期になった日、シゲルは誘われて、再び梅田厚生館へ出かけた。初めて連れて行かれたときから、一年以上も経ち、シゲルはもう忘れていたが、その間、ニカちゃんは何回となく、一人で出かけていたらしい。
この前は芸もせず、風呂に入り、白い御飯を頂いたから、今度はお返しをする必要がある。気を遣わなくてもよいと、ニカちゃんは気楽に言うが、シゲルの気持ちがすまないので、久しぶりにかぼちゃ≠ナも踊るつもりで、衣裳を持って出向いた。
といっても、千代香は行かないので、三味線がない。代わりにニカちゃんのハーモニカで、靴が鳴る≠吹いてもらうことにした。
だが、その日、梅田厚生館は異様な雰囲気だった。いま、高松宮様がおいでになり、館内へ入られたところだという。天皇をはじめとして皇族の方々は、終戦後、気軽に全国各地へお出かけになり、親しく国民と接触されている。高松宮様もその一環として、戦禍に痛めつけられた人々を慰めるため、梅田厚生館へ足を踏み入れられたようであった。
「これやったら、芸なんかできる状態ではないな。日を改めて、出直そか」
シゲルが言うと、ニカちゃんが、
「芸は無理としても、折角の機会やから、宮様の顔だけでも拝んで帰りましょうや」
と、早速、玄関へ入って行った。
「大丈夫かいな」
「大丈夫でんがな。さあ、上がんなはれ」
ニカちゃんに急《せ》かされ、シゲルが玄関先へ入ったとき、すぐ前の廊下に井原館長の姿が現われた。二人には目もくれず、
「こちらでございます」
と、うやうやしく案内する館長の声に続いて、写真などで見覚えのある高松宮様が、ゆったりした足どりで歩かれる。瞬間、ニカちゃんは棒立ちになり、シゲルは深々と頭を下げた。
宮様の後ろには、十人余りの背広姿の人達が従っている。さほど緊張した様子はなく、随行者達の中にはほほえみを浮かべる者もいた。
「シゲル兄さん、一緒に行きまひょ」
ニカちゃんに促されて、シゲルも一行の後ろに付いて歩いた。館内の電気はいつもより明るく、廊下は掃除がいき届いていた。
「ここが娯楽室でございます。慰問の演芸などを、ここで行なっております」
黒いダブルの背広を着た館長が説明すると、高松宮様は長身をかがめるようにして中を見渡された。そこには十五、六人の収容者達が集まっており、いっせいに遠慮のない眼差しを向けた。
館内は男女別の部屋に区切られ、それぞれ、蚕棚《かいこだな》式のベッドが設けてある。その上で正座して迎える収容者達に、高松宮様は小さく頷かれる。濃紺の三つ揃えの背広の胸元からのぞく白いハンカチが、清潔そうに映った。
男子部屋に続いて、館長は食堂へ案内した。三十人余りの子供らが、食事の最中だった。ありのままの姿を見てもらうため、そうなったようである。
「食堂でございます」
館長が説明すると、それまで無言だった高松宮様の口から、
「おお、銀シャリだね」
という言葉が飛び出した。子供らの茶碗の中身が見えたらしい。ひと固まりになった随行者達の背後にいるシゲルにも、それは聞こえた。ニカちゃんは目玉をきょろつかせ、シゲルの顔を窺う。彼の耳にも届いたはずだった。
時節柄、宮様も下世話の言葉に通じていらっしゃる。可笑しさと同時に、シゲルは急激に親しみを覚えた。
そのあと、高松宮様は随行者達を従え、市役所へ向かわれた。館長達とともに玄関先で整列し、シゲルとニカちゃんも見送った。
「参った、参った」
館長に挨拶だけして引き上げる途中、ニカちゃんはしきりに呟いた。なにが参ったのか、恐らく、宮様の口から飛び出した銀シャリが原因らしく、呟いてはうれしそうに、忍び笑いを洩らした。シゲルと同様、親近感を抱いたのかもしれなかった。
帰りに、ニカちゃんはシゲルを新世界へ誘った。面白いものを見せてやるという。
「ストリップちゅうのん、知ってまっか」
天王寺公園を抜け、動物園のそばの坂道を下りながら、ニカちゃんが訊いた。
「裸踊りのことかいな」
「おお。知ってまんな」
「それぐらいのこと、俺でも知ってるで」
いつ、どこからともなく、シゲルの耳にもストリップという言葉は入っていた。楽屋でミナミ菊丸や太平公介が話しているのを、聞いたのかもしれなかった。
「高松宮様と並べるのは恐れ多いけれど、いま、新世界でやってるストリップに、インドのお姫様ちゅうのが出演してまんねん」
「インドのお姫様?」
「そうだす。嘘か本当か分かりまへんけど、話の種に、まあ見てみなはれ」
「なんでも、よう知ってるなあ、ニカちゃんは」
「へへへへ。よう言いますやないか、蛇《じや》の道はへび、ちゅうて」
ニカちゃんは首を引っ込め、前歯をのぞかせて笑った。物欲しそうな鳩の群れが、二人の周りを取り巻いて、一緒に歩いた。
ストリップ小屋の前には、インドの姫君来日! 当劇場にて特別出演!!≠ニ印刷したビラが何枚も貼ってあった。入口には呼び込みが立ち、盛んに声を張り上げている。むかし、縁日に掛かった見せもの小屋と同じ印象だった。
百人ぐらい入れそうな場内には、男達が溢れ、立ち見の客もいる。舞台には日本髪の女が登場して、緋色《ひいろ》の乱れた襦袢姿で体をくねらせていた。
「こっちのほうが、よう見えまっせ」
背の高いニカちゃんは、シゲルを自分の前へ導き、二人は通路に立って眺めた。頭上の拡声機からは小判鮫の唄≠ェ降りかかる。女はそれに合わせて、襦袢の前を思わせぶりに開き、内股の白い肉をわずかにのぞかせた。
続いて、紫色のドレスの女が、港が見える丘≠フ曲に合わせて、日本髪の女と同様に体をくねらせたあと、墨色の顔の女性が舞台に現われた。頭には王冠に似た飾りを載せ、長い髪を背中まで垂らしている。ひたいの真ん中には赤い印があり、環状の大きな耳飾りをゆらめかせる。片方の肩は剥き出しで、もう一方のほうに掛けた金色の布状のものが、胸元と下腹部をおおっていた。
「いよいよ、お出ましでっせ」
ニカちゃんが耳打ちした。曲は一変して、コブラ使いが吹き鳴らすようなものが流れ、舞台の両側からは青白い煙が漂った。いかにもインドの姫君らしい、演出だった。
曲に合わせて、姫君は金色に輝く布を巧みにあやつった。乳首が見えるか見えない程度にずらせていき、さっと隠して、ほほえみかける。眉は濃く、目は青くふちどられ、妖しげな視線を投げかけた。
肌も手足も、顔と同じ色調である。姫君は舞台いっぱいに歩き回り、胸と内股を危ういところまでさらけ出す。そのたびに、客席の頭は上下左右に揺れ動き、感嘆まじりの吐息が洩れた。
インドのお姫様が、日本へきてストリップをするわけはない。インチキに決まっているだろう。
だが、奥深い感じのする目や、肌の色具合を見ると、本物のインド人かもしれないと、シゲルには思えた。姫君はともかく、インドの娘には違いなさそうである。街で見かける進駐軍の黒人兵よりは、いくらか白っぽい色だった。
舞台の姫君は、回転しながら体の布を解いていき、全裸になると同時に、後ろ向きになった。四肢を広げて伸び上がり、最後は思わせぶりに臀部《でんぶ》をくねらせた。
「どうだす。ご感想は」
「なかなか、結構なもんや」
「一応、それらしゅうに化けてますやろ」
「偽物か」
「当たり前でんがな」
「けど、インド人には違いないんやろ」
「さあ、どうだか」
ニカちゃんは意味ありげににやつき、ストリップ小屋を出ると、一足先に帰って欲しいと告げた。行きたいところがあるらしい。
「すんまへんな。ほな、ちょっと、行ってきまっさ」
片手を上げて、ニカちゃんは人ごみにまぎれ込んだ。そこから、てんのじ村までは、歩いて十分とかからない。油ぎった匂いの漂うジャンジャン横丁を抜け、シゲルは帰途についた。人の姿が溢れ、食べもの屋の前はどこも賑わっているのに、通天閣が見えないせいか、シゲルには新世界という街が、百貫も二百貫も軽くなって感じられた。
「靴いらんか、靴。バリバリの本革やぞ」
関西線のガード下に陣取った赤ら顔の男が、通行人の流れをさえぎって、手にした靴を売りつけた。以前、ミナミ菊丸がそこで買った赤革の靴は、馬糞紙製で、玄関から一歩出たとたん、底が抜けたと嘆いていた。抗議に行くと、男は即座に、
「お前、ひょっとすると、雨の日に、はいたんと違うか」
と、訊いた。いいや、晴れの日だと言うと、
「おかしいな。二回や三回、充分はけるはずやけどな」
と、しきりに首をかしげて見せたらしい。
男のだみ声を聞き流して、シゲルはガードをくぐり、広い道路を横切った。その先は、飛田本通りへ続き、左の方向にてんのじ村がある。夕餉《ゆうげ》の支度に、あちこちの路地で七輪の火を熾しているらしく、黒瓦のくすんだ屋根屋根の上には、煙が淡くたなびいた。
「あの子、大したもんやわ」
ある日、千代香が銭湯から戻るなり、感心したように言った。円之助芸能社の先乗りをしている西美也子が、夫の荒中千久のために、一世一代の引退興行を思い立ち、すでにいま、四国一円を巡回しているという。
「玉松一郎・ミスワカナや、笑福亭枝鶴さんらに友情出演してもろて、四国の次に和歌山方面も、一カ月かけて回るそうやわ」
すべては美也子が夫のために、最後の花道を飾らせてやろうと考え、段取りをつけたらしい。風呂屋では、その話でもちきりだったという。
「若いのに、ほんまに、あの子、偉い子やわ。なかなか、できんことやもんね」
「千久さん、ええ女房を持って幸せ者やで、実際」
シゲルも感心した。玉松一郎・ミスワカナといえば、漫才界の大看板である。残念ながら、シゲルなど、足元にも及ばない。その彼らがわざわざ友情出演するところに、荒中千久のかつての実力のほどが偲《しの》ばれた。
引退興行をすませて安堵したのか、それから間もなく、荒中千久は死んだ。シゲルは結局、生前の彼には会わずじまいだった。落ちぶれて、てんのじ村へ住みついた千久は、意識的に人目を避けていたようでもあり、他の芸人達ともほとんど交流がなかった。それだけに、なおさら、美也子は苦労を強いられたことだろう。
一人になった彼女は、千代香の口ききで、シゲル達の長屋へ引っ越してきた。東洋一丸・勝江夫婦が出て行ったあとの空家へ、桃月房子という漫才師と一緒に住んだ。桃月房子は二年前、相方に死なれて一人になっていた。年は美也子より、三十以上も上だった。
「うち、房子姉さんと、漫才やらしてもらおうと思うてますねん」
美也子はシゲルと千代香の前でそう言い、よろしく頼みますと頭を下げた。生前、荒中千久がそれを勧めていたらしく、引退興行で四国や和歌山を回るとき、美也子は桃月房子とコンビを組み、すでに舞台を経験しているようだった。
暮らしも芸も、ひたすら体当たりで、ぶつかっていく。健気なだけでなく、美也子には旺盛な生命力が感じられる。いずれ、よい芸人になるだろうと、シゲルは思った。
「美也ちゃんみたいな女子《おなご》を嫁はんにもろたら、男は幸せやぞ」
路地を挟んで美也子の向かい側に住むニカちゃんにシゲルが言うと、彼は柄にもなく、てれた。
「そら、よろしいけど、わいみたいな男、美也子はんが相手にしてくれますかいな」
「そいつは、話してみんことには分からんで。どや、俺が一つ、ちょうちん持ち、したろか」
「いや、やめておくんなはれ。恥かくのん、決まってますがな」
「弱気やな。ニカちゃんらしゅうないで。ああいう女子《おなご》は、嫌いか」
「とんでもない。わいにはもったいないと思いまんねん。月とスッポン、ちょうちんに釣り鐘。話になりまへんがな」
ニカちゃんは頑《かたくな》に拒み、取り合おうとしない。余計な世話をすれば、美也子にもかえって迷惑をかけることになるかもしれないと思い、シゲルはひとまずその話を引っ込めた。
無理に勧めなくても、独身の男女が近くに住んでいれば、自然に機が熟していくことも考えられる。そのときこそ、自分が乗り出して、二人を夫婦にしてやろうと、シゲルは気長に待つつもりになった。
美也子ほどの器量よしで、しっかり者の女なら、そのうち、誰かが目をつけるに違いない。いや、すでに、狙っている相手がいるかもしれなかった。
そんな、誰とも知れない男に、美也子を横取りされたくない。といって、自分の女房にできるはずもなく、そのままにしておくのも、気がもめる。幸い弟分のニカちゃんは独り身だし、年齢的には美也子と十ほど離れているだけだ。二人なら性格も合いそうに思え、シゲルは一緒にしてやりたいと考えたのである。
「どやろ、この話」
「そら、ニカちゃんにはええかもしれんけど、美也ちゃんにとっては、また苦労の繰り返しになるかもしれへんで。なんちゅうても、ニカちゃん、気の毒な体やさかいに」
千代香は渋り、余計な口出しはせず、見守るほうが利口だと言った。そうかもしれないと、シゲルも引き下がった。
天神祭りの日の夕方、シゲルが路地に打ち水して、竹製の床机《しようぎ》を玄関先へ並べていると、白いワンピースの女が姿を見せた。赤いふちの色眼鏡をかけ、後ろで束ねた長い髪を振るようにして、一軒ずつ表札を確かめながら近づき、
「あのう、朝日家ハーモニカさんの家は、どこですか」
と、尋ねた。ニカちゃん宅には本名の、戸賀という表札だけが掛けてあった。
「そこ、その家でっせ」
指差して教えながら、シゲルは前まで案内した。
「おい、ニカちゃん。お客さんやぞ」
とたんに、奥からニカちゃんが、ステテコ姿のまま飛び出した。
「なんやいな、不意に」
シゲルと入れ代わりで、玄関先へ立った女に、ニカちゃんは慌てた口ぶりで浴びせた。
「ちょっと、急用が」
「それならそれで、知らせてくれたら、わいのほうから出かけて行くのに」
「そやかて、電話、あれへんもの」
「ともかく、上がり」
ようやくシゲルに気づいたらしく、すんまへんと小さく詫び、卑屈な笑いを洩らしながら、ニカちゃんは玄関の戸を閉めた。そのときにはすでに七、八人、長屋の顔ぶれが集まっていた。
「誰やいな、一体」
「色眼鏡なんか、かけてるさかいに、はっきり分からんかったけど、このてんのじ村では見かけん顔やな」
「ニカちゃん、相変わらず達者なもんやで」
酒の匂いをさせたミナミ菊丸が、戸の隙間に目を接近させた。祭りにかこつけて、早くから呑んでいるらしい。
「あたしという者がありながら、そんな別嬪さんを連れ込んで、一体どうしてくれるのよ」
腹話術の太平公介が、女の声色《こわいろ》で言い、みんなを笑わせる。
「ちくしょう。ニカちゃんだけが、なぜ、もてる」
「あいつ、女にはやさしいし、マメやからな」
「家の中は静まり返っているけど、なにをしてるんやろ」
「そりゃ、お前。いまごろは、半七つぁん、てなもんで、ちょねちょねと」
裏へ回って、みんなは様子を窺《うかが》おうとする。だが、シゲルが止めた。折角の愉しみを、邪魔するのは悪い。この長屋へ、あんな若い娘が出入りしてくれるだけでも、うれしいではないか。そっとしておいてやろうと、シゲルが言うと、みんなも納得した。
「よっしゃ。ほな、ニカちゃんに協力したろ。まだ日は暮れそうにないけど、しっぽりと、夜更けの雰囲気を出すために、犬でも鳴かせまひょ」
太平公介は首を伸ばして、犬の遠吠えを真似た。ミナミ菊丸が自分の鼻をつまみ、口三味線で新内を唸《うな》った。それに合わせて、みんなは足音を忍ばせながら、ニカちゃん宅の前を離れた。
路地の角に住む花柳美根奴が、白髪を丁寧に撫でつけて、家の前の古ぼけた籐椅子に座っている。浴衣がけで、ゆるやかにうちわを使いながら、みんなを見て顔を崩した。足元の蚊取り線香から煙が舞い昇り、軒下に吊るした祭りのちょうちんが、明るさを増していった。
六月三十日の愛染さんで始まる大阪の夏祭りは、天神祭りを頂点にして、住吉大社で幕を閉じる。その間、大阪のどこかで、毎晩、夏祭りが行なわれているのである。
住吉さんの祭礼が終わり、盆が近づいたころ、シゲルは通天閣が再建されるという噂を耳にした。うれしい話だった。
昭和十八年の二月に解体されて以来、新世界の空は虚しく、間延びした状態が続いている。そこに新しい通天閣がそそり立てば、どれだけ引き締まるか知れやしない。新世界だけではなく、大阪中の空にまとまりがつく。大阪はやはり、通天閣だ。それがないと、落ちつかない。なによりも、てんのじ村からの眺めが味気ない。噂が本当であることを、シゲルは祈りたかった。
同じころ、テレビジョンという耳なれない言葉が急激に広まり、ほどなく、行きつけの風呂屋が実物を備えつけた。男湯と女湯の脱衣場の境目の、番台から真正面になる天井の辺りに、それは神棚のように鎮座していた。
「電気紙芝居やな」
「どういう仕掛けになっとるんやろ」
「そりゃ、お前、電線の中を、あの絵が通ってくるんやで」
「そら、そやけど、どういうふうに通りまんのや」
「ずっと、こう、小《ちい》そうに縮かんできて、そこへきて、ぱっと大きいなるんやろ」
「ぱっと、でっか」
一緒に風呂へ出かけたミナミ菊丸とニカちゃんが、シゲルのそばで、そんなやりとりを交わした。まだ脱ぎかけの者や、湯から上がってきた子供らが入り混り、いっせいに画面へ吸い寄せられている。脱衣場は大賑わいだった。
「テレビちゅうようなものが、どんどん増えていったら、わいらにも仕事の声がかかるようになるかもしれまへんな、シゲル兄さん」
湯船に体を沈めながら、ニカちゃんが話しかけた。
「そやな。ラジオは声だけやけど、テレビは見せるんやからな。ニカちゃんの珍芸も、菊丸の曲芸も、俺の踊りも、格好はつくわな」
シゲルは頷《うなず》いた。
「格好がつくちゅうようなもんと、違いまっせ。舞台で見てもろてるのと同じやから、しめたもんや。大いに受けまっせ」
「そや。俺らのような曲芸は、ラジオにはさっぱり縁がないけど、テレビなら大ありや。よっしゃ、やりまっせ。じゃんじゃん出て、全国の人に見てもらうんや」
すでに注文でも舞い込んだように、ミナミ菊丸は意気込んだ。
「菊丸兄さんみたいに、よろこぶのはまだ早いけど、お互い、可能性はありますわな、シゲル兄さん」
「そやな。確かに可能性はあるな」
「なんや、冷たい言い方でんな、シゲル兄さんは。関心おまへんのか」
ニカちゃんは湯気に透かして、シゲルの顔を確かめた。
「そんなことはないけど、テレビちゅうもんが、まだ、よう分からんからな」
口ではそう答えながら、シゲルの心中も穏やかではなかった。ラジオと違って、テレビは見せる機械である。とすると、ニカちゃんの言うとおり、舞台で演じるのと同じ感じで見てもらえる。よごれ∞かぼちゃ∞野球狂時代≠ネど、自分の持ち芸は、すべて有効になってくる。それらがテレビに写し出されて全国に流れると、たちまち評判になるのではないか。うまく活用すれば、全国に名前を知られる芸人になれる。この時流に乗れば、人気者になれるかもしれない。
「なあ、シゲル兄さん。無料でええから、ネットなんかいらんから、テレビに出してくれいうて、頼んだら、どうですやろか」
ネットというのは、出演料のことである。背中の洗い合いをしながら、ニカちゃんが言った。
「そこまで安売りしたら、値打ちがないで。お互い、天下一品の得難い芸を持ってるんやから、そのうち、向こうから頼みにきよるで。いや、必ずくるはずや」
自分に言い聞かせるように、シゲルは力を込めた。ニカちゃんとミナミ菊丸も、大きく相づちを打った。
「俺、なんやしらんけど、うれしゅうなってきたで」
「わいもや」
二人は子供のように、湯を掛け合って、はしゃいだ。その気持ちは、シゲルも同じだった。前方に明かりが見えたようであった。
風呂屋で初めて見たテレビは、その後、頻繁に目につくようになった。電気屋の店先には人だかりがして、野球やボクシングの放送に見入っている。テレビあります≠ニ、入口に貼り紙した喫茶店やお好み焼き屋が、あちこちに出現した。
演芸番組も増え、てんのじ村から出て行った芸人達が、続々と登場するようになった。兄弟漫才の空とおし・海ふかし、姉妹漫才の塩原大砂・塩原小砂、三人姉妹のニコニコ娘、落語の桂麦松などが顔を見せ、シゲルが親しくしていた浪華一虫斎や東洋一丸・勝江らもたびたび見かけるようになった。
忙しいせいもあってか、てんのじ村を去った連中は、その後、誰も姿を見せない。例外はただ一人、あほを売りものにしている漫才師のラッキョが、月に二度、てんのじ村にある馴染《なじ》みの散髪屋へ、わざわざタクシーを使って、訪れるぐらいであった。
長屋ではまだ誰も、テレビを持つ者はおらず、シゲル達は風呂屋か、その並びにあるお好み焼き屋で見ることが多かった。大抵は、ニカちゃんとミナミ菊丸がそばにいる。二人とは一緒に仕事へ行く機会が多いので、休むときも同じだった。
「一体、どうなってるんやろな」
「なんぞ、手違いでも生じてるんと違うやろか」
画面で知った顔を見るたびに、ニカちゃんとミナミ菊丸は、ぼやいた。
「ほんまに、けったくそ悪いな」
シゲルも相づちを返した。テレビは急激に出回っているのに、自分達にはいっこうに声がかからない。それが不可解で、腹立たしかった。
「そやけど、一虫斎の奴、テレビに出るようになってから、確実に腕が上がったな。前はちょこちょこ、へましてたのに、このごろはぴちっと決めよる」
羨《うらや》ましがりながら、ミナミ菊丸は膝を乗り出して画面を注目する。それはシゲルも感じていた。
東洋一丸・勝江の漫才は、鼓を用いるせいもあり、どちらかといえば古くさい芸だが、テレビに登場するようになってからは、その古さに独特の味わいが加わり、ひと回り大きくなった印象がある。二人が並ぶだけで、舞台には一種の風格さえ漂う。
浪曲の天王寺家忠造と光子は、どちらも十ぐらい、若返って見える。化粧で誤魔化しているのだろうが、それだけではなく、忠造は声の伸びがよくなり、艶《つや》もある。そんなよい声をしていたかと、改めて聞き惚れるほどであった。
テレビは人を変える。それも、よいように写し出す作用があるのではないか。挙句に、全国に顔を知られ、名前が売れるのだから、芸人にとって、こんな有難いものはないだろう。
そう思うと、シゲルは苛立《いらだ》った。テレビに登場する芸人達との差が、日に日に開いていくような焦りを覚えた。
だが、相変わらず、テレビ局からの注文はこない。いつかニカちゃんが言っていたように、こちらから売り込みに行く手もある。そうしようか、とも思う。
しかし、五十を越えた自分の年齢を考えると、ためらいが生じる。若い者ならともかく、五十面さげた芸人が、のこのこ売り込みに行くのは、いかにもみじめったらしいではないか。そこまでするのは、いくらなんでも、自分の気持ちが許さない。
それで願いがかなって、テレビに出演できればよい。だが、相手にもされず、門前払いをくわされると、どういうことになるか。それこそ、みじめったらしくて、情無くて、以後、舞台に立つ自信も失ってしまうだろう。芸人廃業に陥るかもしれない。
それやこれやを考えると、結局はじっと待つのが利口だと思えた。それしか手がないようだった。
ニカちゃんの家に現われた色眼鏡の女は、その後、姿を見せなかった。長屋の連中が騒ぐから、顔を出すなと、彼が止めているのか、それとも、あれっきりになったのかもしれなかった。
それについて、ニカちゃんはなにも話そうとしないので、シゲルも余計な問いかけはしない。美也子を勧めたいきさつがあるから、ニカちゃんとしても、シゲルに悪いと気を遣っている節が窺えた。
「なあ、シゲル兄さん。わい、兄さんや菊丸兄さんと一緒になって、テレビから声がかかるのを心待ちにしてたけど、考えてみたら、こんな体やもんな。到底、無理やわな」
ある日、ニカちゃんが気弱そうに言った。
「あほなこと言うなよ。芸人は芸が勝負や。体を見せるんと違うぞ。芸を見せるんや、芸を」
「そら、そうやけど」
「テレビがなんじゃい。テレビがなんぼほどのもんや。そんなもんに出んかて、ニカちゃんにはなんぼでも、仕事があるやないか。俺もそうや。テレビなんか、しょせん、邪道かもしれんぞ」
俺、仕事の注文がきても、断わるかもしれんと、シゲルは言い放った。ニカちゃんを元気づけたい気持ちもあったが、喋っているうちに、自分の感情がこもった。いっこうに出演の機会を寄越さないテレビへの、恨みがあらわになった。この分では、次第にテレビ嫌いになりそうだった。
芸人仲間では、一人暮らしの花柳美根奴が、最初にテレビを買い入れた。そのつもりで、前々から貯めていたらしい。
千代香や路地の連中は、晩になると、見せてもらいに出かけたが、シゲルだけは寄りつかなかった。余計なものを買ってくれたと、花柳美根奴にも腹が立った。
「みんな、行儀よく、正座して見まんねんで。千浪姉さんなんか、きちんと紋付の羽織まで着てはりまっせ。それで、テレビの中の人が礼をすると、美根奴姉さんが同じように礼をしやはるから、みんなも見習うて、いっせいに頭を下げますんや」
帰ってくると、千代香はそんな話を聞かせた。だが、シゲルは背中を向けて無視した。
「そうそう、今夜は一丸兄さんと勝江姉さんが出てはったわ。二人とも、若返りはったみたいやで。つい、この間まで、ここに住んではったのに、えらい出世しやはったもんやなあ」
「うるさいぞ」
シゲルは怒鳴った。それでも、千代香はやめなかった。
「あんた、このごろ、変でっせ。テレビができてから、いやらしゅうになりはったんと違いますか」
千代香はシゲルの心を見透かしている。
「あんたらしゅうもない。へんねし(嫉妬)なんかしなはんな。そんな暇があったら、私らも早よテレビに出してもらえるように、頑張りまひょうな」
「うるさい、言うてるやろ」
シゲルは下駄を突っかけ、乱暴に外へ出た。千代香の言うとおりだと思う。テレビが出現して以来、自分の気持ちは苛立っている。意識しすぎて、落ちつかない。それを、ずばりと言い当てられて、なおさら悔しさがつのった。いっそ、この世の中から、テレビがなくなればよいのにとさえ思った。
長屋の狭い軒の間に、星空が展《ひろ》がる。腕組みして、シゲルは見上げた。テレビがなんじゃいと、ニカちゃんに大見栄を切った台詞《せりふ》を、自分に言い聞かせるには、だいぶ時間がかかりそうだった。
「あんた、風邪ひきまっせ」
千代香が羽織を持って現われ、背中に掛けた。星が一つ、斜めに走った。
テレビの仕事は入らないが、新世界のジャンジャン横丁にある温泉演芸場≠ゥら、シゲルに注文がきた。その演芸場は昭和二十五年五月、浪曲の常打ち小屋として開設されたものの、翌年からは漫才小屋となり、大いに賑わっていた。
てんのじ村の芸人にとっては、そこへ出演するのも、一つの夢だった。余興と違い、堂々とした舞台である。テレビほど華々しくはないが、やり甲斐のある仕事であった。
シゲルらの他に、ニカちゃん、ミナミ菊丸、それに新コンビの桃月房子・西美也子の漫才も呼ばれていた。持ち時間二十分、昼夜二回の出演で、十日間続く。ネットも余興より二割方多い条件なので、みんなは張り切った。
プログラムの一番手は、新人の桃月房子・西美也子である。桃月房子は年期が入っているが、コンビとしては新しいので、そういう編成になった。
幕が開く直前、美也子は舞台の袖で、てのひらに人≠ニいう文字を指で書き、呑む仕草を繰り返した。上がらないために、芸人がよく行なうまじないだった。
「大丈夫や。初めから客を笑わせようと思わずに、練習のつもりでやったらええねん」
シゲルは肩を叩いて励ましたが、自分自身、初めての舞台なので、脚の筋肉が引きつれそうな高ぶりがあった。支那の夜≠フ一件以来、まともな舞台にはほとんど出演していなかった。
桃月房子・西美也子は、どちらも三味線を持ち、一月から十二月までにかかわりのある歌を、交互に歌う漫才を見せた。むかしからある形だが、民謡、歌謡曲、童謡などから、無理にこじつけて歌うところに可笑しみがある。美也子は桃月房子に劣らない美声で、間の喋くりも達者だった。
早口でやり込め、フグという仇名のある桃月房子が言葉に詰まり、丸っこい顔をなおさらふくらませて不貞腐《ふてくさ》れると、客席はどっと沸く。反対に、自分がやり込められると、美也子は子供が泣くように両手を顔に当て、
「うわーん。お母ちゃんに言うたんねん」
と、大声で泣き真似をする。着物の裾が乱れるのもかまわず、舞台に尻をついて座り、駄々をこねて見せる。その仕草が面白く、客は手を叩いて笑い、舞台のかげから見ているシゲルまでが、つい、引き込まれた。
「初めての舞台とは思えんくらい、堂々としてるがな。大したもんやで」
「ほんまに、見事なもんでんな。あの若さで、あれだけの芸ができるんやから、恐れ入りやの鬼子母神。ええ芸人になりまっせ」
シゲルとニカちゃんは、舞台の袖で囁《ささや》き合った。美也子らは持ち時間を十分も超過する熱演だった。
楽屋へ引き上げてくる二人を、シゲルは拍手で迎えた。
「よかった、よかった。客は大よろこびやがな」
「おおきに、有難うございます」
桃月房子はひたいの汗を拭《ぬぐ》い、美也子は目頭を潤ませた。無事に終え、安堵したらしい。気丈なはずが、とめどなく光るものをしたたらせた。
「泣くのは、舞台だけでええんと違うか」
シャレのつもりで、シゲルが言ったが、誰も笑わなかった。美也子は千代香と桃月房子にすがるようにして肩を震わせた。
舞台にはニカちゃんが出ている。青葉しげれる桜井の、と、いつもの曲をハーモニカで吹いてから、鼻で奏でたり、宙に放り上げたりして喝采を受ける。そのあとは、卵の絵で場内を感心させた。
「そこら中、ジープに乗った進駐軍が走り回っとるから、大きな声で言えまへんけどな、わたいのこの腕、アメリカはんの親分、ほら、マッカーサーはん、知ってはりまんな、あのマッカーサーはんと、バターン半島の先端の、巌流島みたいなところで、チャンチャンバラバラと斬《き》り合いになって、やられましたんや。名誉の負傷ですな」
客の注文に応じて、竹串を動かしながら、ニカちゃんは陽気に喋る。
「けど、わたいも日本男子のはしくれや。やられっ放しではおきまへん。ちゃんと、仕返しはしてまっせ。マッカーサーはん、三年前に本国へ呼び戻されましたやろ。あれは、このわたいが、トルーマン大統領に告げ口してやったからでっせ。あんなもん、やめさせてくれ言うて」
大嘘も、そこまでいくと芸になる。客を大笑いさせておきながら、ニカちゃんの目は真剣に卵の殼をのぞき、注文どおりに描き上げた。四畳半で、芸者と差し向かいで酒を呑むところ、という絵だったらしく、客席を順番に回っていく卵に、次々と感嘆の声が上がった。
「あんなこと喋って、大丈夫かいな。アメリカはんに目をつけられたら、ことやぞ」
マッカーサーをからかうような台詞は、アメリカの反感をかうのではないかと気になり、楽屋へ戻ったニカちゃんにシゲルが忠告すると、彼は笑い飛ばした。
「そんなもん、大丈夫でんがな。万が一、ぐずぐずぬかしてきたら、こっちとしては、むしろ望むところでっせ。アメリカはんを相手に喧嘩してみなはれ、世間は騒ぐやろし、わいの名前も知れ渡りますやろ。芸人としては願ってもない幸運でっせ。ほんまのところ、わい、アメリカはんから、なんぞ言うてこんかと、心待ちにしているぐらいでんがな」
そう言われると、シゲルにも言葉がない。ニカちゃんの芸人魂に、脱帽する思いだった。
ミナミ菊丸は傘の上で皿や升《ます》を回したあと、久しぶりに水がめの芸を出した。高下駄をはいて、あおむけに転がり、四斗入りの大水がめを巧みに回転させた。
赤茶色の水がめの表面は、よくすべる。それを下駄の歯であやつり、最後は片方の足だけで宙へ放り上げ、受け止める名人芸を披露した。
ミナミ菊丸はシゲルより三つ下で、五十一になる。若くはなく、力のいる芸だが、まだまだ達者なものだった。
シゲル達の出番になり、千代香は三味線の弾き語りで高原の駅よさようなら≠歌った。
「いま出てきたところやのに、さようならとは、なんちゅう失礼な歌を歌うんや。常識をわきまえ、常識を」
シゲルは横から、いちゃもんをつける。お決まりの手順だった。
しかし、歌い終わったあと、千代香は打ち合わせにない台詞を口にした。
「この人、近ごろ、機嫌が悪うおますねん。テレビに出たい出たい言うて、駄々こねますんやで。出たいなら、出られるように、自分らの芸を磨かなあかんいうて、私、言い聞かせてまんねんけどな。な、そうですやろ、お客さん。それが肝心ですわな」
即興の喋りに、シゲルは一瞬、驚いた。が、客席からは勢いよく、
「そや、頑張れよ」
「応援するぞ」
という励ましの声がかかった。
「おおきに、おおきに」
とっさに、シゲルも礼を言った。
「ほら、見てみい。お客さんも、ああ言うてくれてはるんやから、頑張んなはれや」
千代香はバチを持った手で、シゲルの肩を叩いた。故意か偶然か、そのとき、それを落とし、
「あらら、商売道具を落としたら、えらいこっちゃ」
と、慌てて拾いにかかった。
「生意気なことぬかさんと、そっちこそ、しっかり頑張ってや。バチなんか落としたら、罰《ばち》が当たるで」
シゲルが言い返したので、客席には笑いがはじけた。筋書きにないやりとりだったが、意外と受けた。作りものでなく、本音が飛び出したせいかもしれなかった。
締めくくりによごれ≠演じ、二人は舞台を下りた。楽屋では劇場主が待ち構え、ねぎらいの言葉をかけた。
「おかげ様で、大入り満員の盛況で、よろこんでますんや。この調子で、お願いしますよ」
「へ、精一杯、頑張りまっさ」
「あの、テレビのやりとりの場面が面白かったけど、ああいうネタは、誰が考えはるんですか」
劇場主はシゲルと千代香を見比べた。
「そら、この人ですわ」
千代香は涼しげな顔で、シゲルを見た。花を持たせるつもりらしかった。
夜の部の幕開けに、桃月房子・西美也子が登場すると、客席の前に陣取った白髪頭の老爺が、
「おめでとう、美也子ちゃん」
と、声援を浴びせた。そのまま舞台のそばへ近づき、大きな花束を差し出した。
美也子は駆け寄り、跪《ひざまず》いて受け取った。
「おおきに、お爺ちゃん、おおきに」
早くも涙声になり、美也子は握手した。何度も礼を言い、桃月房子の横に戻った。すんません、お姉さん、と、謝る声が拡声機に入った。素早く目もとを拭い、美也子は改めて客席を向いた。
「こんな舞台の上から、個人的なことを言うてはいけませんけど、一言だけ言わせて下さい。いま、私に花束を下さいましたお爺ちゃん。そこに座っておられます、そのお爺ちゃんは、私が行きつけの質屋さんのご主人です。私がこの舞台へ出してもらえたことをよろこんで、わざわざ花束を持ってきて下さったのです。いい質屋さんです。本当に有難うございます。これからも、よろしゅう、お願い致します」
おしまいの文句で、客席には笑いが起こったが、すぐに拍手にかき消された。美也子は泣き笑いの表情で頭を下げ続け、桃月房子も客と一緒になって手を叩いた。老爺は肩をすぼめて立ち上がり、美也子と同様に客席へ向かって何度も礼をした。
「ちょっとした美談やな」
「美談や」
「わいも馴染みの質屋は、いくつかあるけど、あのお爺ちゃんところは、行ったことがないな」
「俺もやで。今度からは、あのお爺ちゃんところの客になったろか。いま行ってる質屋とは、いつも喧嘩腰やからな、花束なんか、到底、くれよれへんで」
ニカちゃんとミナミ菊丸が、舞台の様子を窺いながら話した。美也子は質屋で借りるのが上手だと、いつか、千代香が言っていたのを、シゲルは思い出した。単に借りるのが上手なだけでなく、人間的にも気に入られているから、わざわざお祝いに駆けつけてくれたのに違いない。
〈あの子の人徳やな〉
シゲルもその光景を、ほほえましく眺めた。美也子にとっては、心に残る出来事に違いなかった。
「わいにも、花束をくれるような客はおらんかいな」
美也子らの次に出演するニカちゃんは、そんな冗談口を叩いて、舞台へ向かった。
ハーモニカの次、卵の絵の注文を聞き、竹の串をあやつりながら、いつもどおりに喋り始めた。
「アメリカ兵が、親子丼を食べているところという注文ですけど、お客さん、あんた、だいぶと皮肉屋でんな。親子丼いうたら、カシワと卵ですやろ。それを、この卵の中へ描けというんやから、ほんまに皮肉でっせ。いや、ヒニクと違うて、カシワやな」
なんや、わけの分からんことを言うてますがと、客席を笑わせ、さらに話を続けた。
「そうそう、親子丼いうたら、面白い話、思い出しましたで。だいぶ前ですけどな、こんなことがおました。ある浮浪者の収容施設へ、慰問に行ったところ、ちょうど、高松宮様がおいでになっておられましたんや。それで、一緒にくっついて見学してたら、高松宮様、食堂で子供らが白い御飯を食べているのを見て、おお、銀シャリだね、言いはりましたんや。わたい、それ聞いたとき、可笑しいやら、うれしいやら。宮様も下々《しもじも》の言葉を知っておられる。これこそ、ほんまの民主主義、自由平等の世の中になったんやなと、体のしびれるような感激を覚えましたで」
梅田厚生館で遭遇した光景を、ニカちゃんは取り入れて喋った。銀シャリというところで、客席に笑いが上がった。
マッカーサーの件もそうだが、皇室のことも、笑いの材料には用いないほうがよいと、シゲルは思う。いくら事実であろうと、民主主義の世の中になったからといっても、そこには歯止めが必要だ。どんな思惑の人間がいるか、しれやしない。マッカーサーはともかく、高松宮の銀シャリ発言で笑いを取るのは、やめたほうがよいと、シゲルはニカちゃんが舞台から下りてくるのを待って、忠告しなければと思った。
「さあ、できましたで。お客さん、ご苦労さん」
卵を持って立たせた中年男に、ニカちゃんはねぎらいの言葉をかけ、
「その代わり、一番先に見る権利は、あんたにおます。どうぞ、電気に透かして見ておくんなはれ」
と、勧めた。
そのとき、客席の後方から、数人の男達が舞台に向かって駆け寄った。いずれも派手な背広や、革ジャンパーを着ている。
「よくも、おのれは」
喚《わめ》きながら、舞台へたどり着き、よじ登ろうとした。シゲルも同じような場面に、遭った覚えがある。
〈ほら、みい。言わんこっちゃないがな〉
いまの銀シャリうんぬんが反感をかったのだろうと思い、舞台へ出てニカちゃんをかばってやろうとした。だが、彼の姿は消えている。後ろの幕をくぐって、素早く逃げたようだった。
「あの野郎、どこへ隠れやがったんや」
「逃がすな」
男達は楽屋へなだれ込み、ニカちゃんを捜した。リーゼントや、丸刈り頭がおり、どの目も鋭い。銀シャリの一件に、反感を覚えるような風体には見えなかった。
「なんですねん、あんたら。舞台を台無しにしてからに」
「やかましい。あいつに用があるんや。あいつを出せ。どこへ隠したんや」
劇場主が駆けつけ、追い返そうとするのに、男達は土足のまま、楽屋中を捜し回った。だが、ニカちゃんの姿はどこにもなかった。ハーモニカや、竹串などを放り出したまま、いち早く逃げたらしい。
ミナミ菊丸が急いで舞台を取りつくろい、客席の騒ぎは収まった。
「あいつを捕まえるまで、わいら、何回でもくるからな」
男達は捨て台詞を残して引き上げた。
「あの男が、一体、なにをしたというんや」
銀シャリとは無関係に思えて、シゲルが尋ねたが、男達は答えず、肩をいからせて帰って行った。やくざ者の振舞いだった。
その夜、路地へ戻ると、ニカちゃんの家に明かりがともっていた。千代香を一足先に帰らせ、シゲルは立ち寄った。珍しく、玄関には鍵がかかっていた。
「どなた?」
用心しているらしい。シゲルがノックすると、ニカちゃんが探るように問い返した。
「俺や」
「シゲル兄さん、一人でっか」
「いや。変なのが五、六人、付いてきてるぞ」
「威《おど》かさんといておくんなはれ」
戸を開け、シゲルを入れると、ニカちゃんはすぐにまた鍵を差し込んだ。余程、怯《おび》えている様子だった。
「どういうことやねん、一体」
「面目おまへん。大事な舞台を、放り出してしもうてからに」
ニカちゃんは正座を作って頭を下げた。持ってきたハーモニカを、シゲルは手渡した。
「いつか、ここへ女が訪ねてきたことを、覚えてはりまっか」
「覚えてるがな。色眼鏡をかけた、髪の長い子やろ」
「そうそう。それが、これもんの、これやということを、知りまへんでしたんや」
ニカちゃんは人差し指で頬を切る真似をしてから、小指を立てて見せた。
「よりによって、そんな女に手を出したんかいな」
「いや。初めからそうやと分かっていたら、わいもそんな物騒なことはしまへんがな。本物のインドのお姫さんではないとしても、インドの女子《おなご》には違いないやろと思うて、ちょっかい出しましたんや」
「ほな、あの、ストリップの」
「そうでんがな。あの姫君だす」
ニカちゃんは鼻の頭をこすった。
「いつか、ここへきたのは、ほな、あの女やったんかいな」
「そうだす」
「俺に日本語で、この家を尋ねよったがな」
「当たり前ですがな、日本人やから」
こともなげに言い、ニカちゃんは手短にいきさつを話した。
インドの女性に興味を覚え、花束など持って楽屋へ訪ねているうち、ニカちゃんが芸人だと知って、向こうも関心を示すようになった。日本語が分からないということなので、初めは手ぶり身ぶりで意思表示をしていたのだが、あるとき、おすし食べたいと、女が片言の日本語で言った。舞台が終わるのを待って、ジャンジャン横丁にあるすし屋へ連れて行き、食べさせたあと、連れ込み旅館へ誘うと、女は素直についてきた。
〈ははん、インドの女性やから、ここがどういう場所か、知らんのやな〉
ニカちゃんは、そう判断した。だが、部屋で二人だけになると、女は不意に、
「ああ、しんど。もう、あほな真似、やめとくわ」
と、溜息まじりに言った。
「あんた、日本語、喋れるんか」
驚くニカちゃんに、
「そら、そうやわ、日本人やもん。うち、お風呂に入って、体洗うてくるわ」
と、平然と言い放った。呆気《あつけ》にとられるニカちゃんを残して、女は浴室へ入り、ほどなく、白い肌になって現われた。インドのお姫様に化けるために、毎日、楽屋で全身に墨を塗っているらしい。
「漫画やないか」
「ほんまに、漫画を地でいくようなもんやけど、そのほうが割増しがついて、ネットがええそうでっせ」
「そら、そうやろ。墨代や手間もかかるやろし」
「ま、あの女、ぱっちりと大きなお目々してるし、鼻筋は確かやし、結構、彫りの深い顔立ちですやろ。そやから、うまい具合に化けられるようでんな」
「のろけかいな」
「そういうわけでも、おまへんけど」
シゲルが言うと、ニカちゃんはてれ笑いを浮かべた。それから、話を続けた。
「まだ呆然《ぼうぜん》としているわいに、女が平気な顔で言いよりまんねや。インドのお姫さんが、おすし屋で、トロやオドリやカッパを、ぱくぱく食べるのは、変やと思わへんの、と。そう言われると、あの女、ゲソまで食べてましたんや。そやから、自分が偽物だということを、このわいが、薄々感じていると思うたらしいでんな」
日本も日本、大阪の八尾生まれで、いたって柄の悪い河内弁を話す女だという。その彼女が、ミナミを縄張りにしている愚連隊──天極組の親方の息のかかる女だと知ったのは、深い関係になってかららしい。
「けど、妙でんな。ちゃんと体を洗うて布団へ入ったのに、あの女の寝転んだところだけ、シーツが黒うに汚れてまんねや。毛穴まで染み込んでる墨が、にじみ出すようでんな、汗と一緒に」
「それも、のろけか」
「ほな、のろけついでに言いますけど、女もわいのほうを気に入ってくれて、向こうとは手を切ろうとしよりましたんや。そやけど、なんせ、道理の分からん連中ですやろ、話がこじれてトドのつまり、芸ができんように、わいの腕を叩き切ったるとか、コンクリート詰めにして、大阪湾へ放り込んだるとか、威《おど》かしよりまんねん」
これ以上、腕を切られるのは困るし、まだ命も惜しい。どうしたものかと思案中、今日の騒ぎになったらしい。
あの連中のことだから、いずれ、この家も嗅ぎ当てるのに違いない。そうなる前に、ドロンを決め込もうと考えて、ニカちゃんは荷物をまとめていたのだという。
「今夜、いまから、ある場所で、女と落ち合う約束ができてまんねん。そやから、勝手なお願いで申しわけおまへんけど、この家、よろしゅうに頼みまっさ。わいが兵隊に征《い》ってたころのように、適当に管理しておいておくんなはれ。厚かましいお願いですけど」
「そんなことは、たやすいけど、いまからすぐとは、急やな」
「うかうかしてたら、一本しかないこの腕を切られるか、コンクリート詰めでっせ。かないまへんがな、そんなのは」
「銭、持ってるんかいな」
「ま、そこそこ」
シゲルは財布から、有り金の二千円を取り出した。少ないが、餞別《せんべつ》だと手渡した。
「すんまへんな、こんなことまでしてもろて。ほな、遠慮せずに、頂戴しまっさ」
ニカちゃんは押し頂き、服のポケットにねじ込んだ。仏壇の前へ座り、簡単に拝んでから、復員のときにかぶってきた軍帽を頭へ載せ、風呂敷包みを提げた。そそくさと玄関へ立ち、まだ座敷にいるシゲルのほうへ向き直った。
「ほな、シゲル兄さん。朝日家ハーモニカ、ただいまからドロンさせてもらいます。あとのことは、よろしゅうに頼みます」
風呂敷包みを足元に下ろして敬礼し、ニカちゃんは外の気配を窺ってから、
「ドロドロドロン……」
と、呪文《じゆもん》を唱えながら、自分の家にシゲルを残して立ち去った。
10
通天閣再建の噂は現実になり、昭和三十一年十月二十八日、二代目が完成した。総工費三億四千万円で、高さは百三メートルあり、初代よりは二十九メートルも高い。内部の円型エレベーターは、世界最初という評判だった。
てんのじ村からも、通天閣が望めた。だが、初代に比べると、まろやかな線に欠け、シゲルには素っ気なく映った。巨大な梯子《はしご》か、ろうそく台のように見えなくもない。
〈高いだけが、能ではないやろに〉
シゲルは不服だった。初代は王宮風の建物の上に建っていたせいか、支えの鉄骨にも、展望台の形にも、優雅な趣があった。二代目は、その優雅さに欠ける。
しかし、なにもないよりは、ましである。百三メートルの塔のおかげて、新世界の空は格好がついた。間延びした空間に芯が通り、活気が甦るようだった。
〈あいつも、どこかから、この通天閣を眺めとるかもしれんな〉
シゲルはニカちゃんのことを思い出した。彼も通天閣には、愛着を感じている一人であった。復員してきた日、長屋の共同便所の窓から通天閣が見えないと、嘆いていたのを覚えている。
〈いや。通天閣が見えるような場所には、いてないかもしれんな〉
女と二人で、大阪を離れているかもしれない。彼がドロンしてから、すでに二年余り経っているが、全く音信はない。
〈ま、便りのないのが、無事な証拠かもしれん〉
シゲルは若いころの自分と千代香の姿を重ね、ニカちゃんとあの女も、どこかでしぶとく、舞台を踏んでいるだろうと想像した。愚連隊は何度か路地にも押しかけてきたが、諦めたのか、そのうち、姿を見せなくなった。
通天閣が再建されても、シゲルはもう漫才のネタには使わなかった。いつまでも通天閣ではないだろう、という思いと同時に、どことなく味気ない二代目の姿に、失望しているからでもあった。逃がした魚を惜しむ心理に似て、シゲルの目に焼きついている初代の幻影が、強すぎるせいかもしれなかった。
「ずんぐりむっくりの初代より、二代目のほうが、はるかにスマートやし、格好よろしいがな」
千代香やミナミ菊丸はそう言うが、シゲルは頷かなかった。通天閣は初代に限る、と思った。
昭和三十三年四月一日付で、売春防止法が完全実施されることになり、てんのじ村と隣り合わせにある飛田遊郭は、大正七年以来の歴史に終止符を打った。大阪では唯一つ、戦災を免れた色街だが、法律には勝てなかった。
翌年の四月十日、皇太子殿下が正田美智子さんと結婚され、式典の模様がテレビ中継された。それを機に、テレビの普及率は急激に伸びた。一般家庭にも続々と出回るようになり、路地では花柳美根奴に次いで、ミナミ菊丸が購入した。
「居ながらにして眺められるというのが、重宝やがな。映画館を一つ、買い込んだような気分やで」
ミナミ菊丸は悦に入り、仕事に出かける電車の中や楽屋で、テレビの話題ばかり持ち出した。
「なあ、うちも買いまひょか。表通りの電気屋さんなら、二十回払いの月賦にしてくれるそうでっせ。ちょっと、やりくりつけたら、買えんことおまへんけどな」
千代香は欲しがり、
「これからは、なんちゅうたかて、テレビの時代でっせ。テレビを見て勉強しとかな、私らの芸も、時代に遅れまっせ」
と、けしかけた。だが、シゲルは聞き入れなかった。いまだにテレビからは、仕事の注文がこない。テレビ局というところには、さぞ見る目のない奴ばかりが揃っているのに違いなく、そんな奴らの作る番組など、見る気にもなれない。頑《かたくな》に、そう思い、こだわっていた。
テレビが普及するにつれて、てんのじ村の活況にかげりが見え始めた。シゲルらの仕事の量も、次第に減少した。大劇場は相変わらず賑々しいが、地方の公民館や寺社の境内で催される余興に、客が集まらない。そんなものを見るよりも、テレビと向き合うほうが愉しいのだろう。
てんのじ村に住みついていた旅役者の一座が、解散に追い込まれ、何人かがチンドン屋に転向するという話が伝わった。
歌手の橋川しのぶと、アコーディオンの杉君夫は、この村にとどまっていても、いっこうにうだつが上がらないので、一勝負するため東京へ出て行くという。
浪曲の双葉千浪は廃業し、奈良で所帯を持っている妹夫婦の家で、世話になるらしい。
出世して、売れるようになって、てんのじ村を出て行く芸人の話は、羨ましい半面、心の励みにもなる。よし、自分達も頑張って、後に続こうという意欲を駆り立てる。
だが、転職や廃業の話は、気が滅入る。先行き不安を感じ、重苦しくなってしまう。いやな世の中になりそうな予感を、シゲルは覚えた。
「ゆうべ、演芸番組を見てたら、浪華一虫斎の次に登場した東京の五入グループが、シゲル兄さんと同じような芸をやってましたで」
朝風呂へ出かけ、一緒に浸かっていると、ミナミ菊丸が話しかけた。またテレビの話かと思い、湯船から出ようとしたシゲルは、もう一度、体を沈めた。
「同じような芸いうて、どれやねん」
「ほら、野球狂時代。シゲル兄さんみたいに、一人ではなしに、男四人と女一人が同じユニフォームを着て、いろんな野球の格好を見せてましたで」
「それ、なんちゅう奴らや」
「さあ、そいつは見落としましたけどな。あれ、シゲル兄さんと同じようなことしとるなと、気になりましたんや」
ミナミ菊丸は先に出て、体をこすり始めた。シゲルは湯船の中に残った。
他人の芸を真似てはいけない、という規則はない。しかし、芸人同士は暗黙のうちに、それを犯さないように心がけている。シゲルもそのつもりで、自分なりの芸をあみ出してきた。よごれ≠熈かぼちゃ≠熈野球狂時代≠焉Aそうだった。
ところがいま、自分の芸を真似する者が現われたという。いや、真似をするつもりなどなく、向こうは独自に思いついたのかもしれない。シゲルの存在など、全く知らないかもしれない。その可能性は強い。とすると、文句を言うわけにもいかないだろう。
シゲルにテレビ出演の機会は、めぐってきそうにもないが、向こうはこれからも、何回となく登場するのに違いない。結果、全国の人々が知るところとなり、今後、シゲルがどこかの余興でそれを演じると、真似をしていると思われかねない。
そんな、あほな、こっちが本家やと叫んでみても、始まらない。全国的に伝わるテレビの威力には、到底、勝てそうもなかった。
「そういうことがあるから、やっぱり、テレビを見て、研究しとかなあきまへんで、シゲル兄さん。どこのどいつに、自分の芸を盗まれてるかもしれまへんよってにな」
シゲルの胸中を見透かすように、ミナミ菊丸は手拭を使いながら言った。実際、そのとおりかもしれない。テレビを見張っておく必要がある。千代香も欲しがっているのだから、この際、買い入れようかと、考え直す気になった。
今日は午後一時までに、富田林の農協へ行かなければならない。円之助芸能社を通じて舞い込んだ仕事で、ミナミ菊丸や、桃月房子・西美也子らも一緒である。昨日、一昨日はなにもなく、三日ぶりに出かけることになった。
洗い場の鏡をのぞき込み、シゲルは安全カミソリを使った。口の周りをふくらませ、丁寧に剃《そ》った。
〈あいつ、月賦でも買えると言うてたな。頭金は、なんぼほどいるんかいな〉
そんなことを思いながら、顎の下にカミソリを当てたとき、
「シゲル兄さん、えらいこっちゃ! 千代香姉さんが、千代香姉さんが──」
男湯の脱衣場へ駆け込んできた美也子が、湯殿との境目のガラス戸を開けて喚いた。声が天井に反響して、とっさにはなにを言っているのか、聞き取れなかった。
「なんやいな」
「姉さんが、大変やねん。早よ帰って、早よ、早よ」
「あいつが、どうしたんや」
「火が、火が」
美也子は息を切らせて叫ぶ。湯殿まで駆け込み、シゲルの腕を掴《つか》んで急き立てた。
「火事か」
「違う。姉さんが、姉さんが」
シゲルは裸のまま、飛び出そうとした。番台の横を駆け抜けようとすると、素早く追ってきたミナミ菊丸が、湯上がりのタオルを押しつけた。それを腰に巻き付け、裸足で走った。美也子もミナミ菊丸も、後に続いた。
家の前には人だかりがしている。玄関先は水に濡《ぬ》れ、バケツが一つ、転がっていた。シゲルに気づいた人達が、左右に広がった。
千代香は上がりかまちのところで、呻《うめ》き声を上げていた。全身が黒く焦げ、どこが顔なのか、シゲルには一瞬、分からなかった。桃月房子と花柳美根奴がそばて、おろおろしていた。
「どうしたんや」
「千代香姉さんの着物に、ガスの火が燃え移ったんやわ。悲鳴が聞こえたので、私が家からのぞくと、姉さん、そこの玄関先で、火だるまになってはったんよ」
桃月房子が震え声で言った。シゲルが風呂へ行く前、千代香は食事の支度を始めていた。昼食を早目にすませて出かけなければならないので、朝の残りの味噌汁を温めるとか言っていた。そのとき、誤って、ガスの火を着物に燃え移らせたようだった。
シゲルの家でも、近ごろは七輪に代わり、ガスコンロを使用している。不慣れなせいもあって、千代香は火に気づくのが遅れたらしい。
「救急車、遅いなあ」
「電話、もう一ペん、かけてみィ」
集まった人達の間で苛立たしげな声が上がったとき、近づいてくる救急車のサイレンが聞こえた。路地の入口で止まり、
「こっちや、こっちや」
「早よ、こんかいな、早よ」
と、ミナミ菊丸と腹話術の太平公介が、救急隊員達を案内して駆け戻った。千代香は低く、呻き続けている。救急隊員達は素早く毛布でくるみ、担架に乗せた。
「しっかりせい、お母ちゃん。ええか、しっかりするんやぞ」
運ばれて行く千代香に、シゲルは大声で浴びせた。腰に巻き付けたタオルが、ずり落ちたのも気づかなかった。美也子が手早く、つくろった。
ご主人も乗って行って下さいと言われ、シゲルは急いで身支度を整えた。美也子も一緒に乗り込み、救急車はサイレンを鳴らして表通りへ出た。着いた先は、阿倍野の救急病院だった。
美也子は仕事を断わって付き添うと言ったが、シゲルは行くように強く勧めた。その気持ちだけで、充分だった。彼女は千代香に、恩義を感じているらしい。義理固いところがあった。
夕方、仕事先から戻った美也子は、その足で病院へ駆けつけた。桃月房子やミナミ菊丸らも一緒であった。
誰かが知らせたらしく、てんのじ村から出て行った浪華一虫斎も姿を見せた。以前は見かけなかった金張りの腕時計をはめており、景気のよさが窺えた。
「すっかり、ご無沙汰しているうちに、とんだことになってしもうてからに。大変でしたな、シゲル兄さん」
「おおきに。忙しいやろに、わざわざ、きてくれたんやな」
「当たり前でんがな。シゲル兄さんや、千代香姉さんには、なにかとお世話になりっ放しや。どこだったか、姉さんが舞台衣裳を身ぐるみ脱いで、米に換えてくれはったこと、いまでも忘れてまへんで」
浪華一虫斎は神妙な顔で話した。そばでミナミ菊丸が、珍しいものでも見るような目で、全身を眺め回した。
東洋一丸・勝江と、天王寺家忠造・光子の夫婦は、テレビの仕事で時間の余裕がないらしく、それぞれ、見舞いの果物かごを寄越した。どちらの夫婦とも、近ごろは本芸だけでなく、ドラマにも顔を出して、評判を高めていた。
「俺はてんのじ村で育ったことを誇りに思うてるから、どこででもそれを言いふらしてるけど、中には変なのもいてるで」
病室のそばの廊下で、長椅子に座りながら、浪華一虫斎が言った。
「どういうことやねん」
シゲルが訊き返すと、浪華一虫斎は言い淀んだ。
「こんなこと言うたら、シゲル兄さんに殴られるかもしれまへんけど、てんのじ村の出身を、恥だと思うてる連中がいてますんや」
「なにお」
「いや、俺はさっきも言うたように、てんのじ村の出身を誇りにしてるけど、むかしの仲間で、いま、テレビやラジオで活躍してる連中の中には、そんなこと、絶対に隠しておこうとしている者がいてますんや」
「誰やねん、そいつは」
シゲルは荒い口調になった。てんのじ村の出身が、どうして恥なのか。なぜ隠そうとするのか。
むかしの苦労がしみついている場所など、思い出したくないのか。くさいものに、ふたをかぶせたい気持ちにでもなっているのか。
いずれにしても、出世した者の傲《おご》りの表われだろうと、シゲルは思った。売れているから、そんな心理が働き、過去を振り返るのを恐れている。てんのじ村など、自分にはもう関係ない、いや、これまでも関係はなかったのだと、思い込みたいのだろう。
「名前を上げるのは、やめときますけど、大体分かりますやろ。寄りつかんようになった連中が、そうでんな。そういう自分も、長いこと、ご無沙汰やけど」
浪華一虫斎は苦笑いした。誇りにしていると言った彼の言葉が、はたしてどこまで本当か、シゲルには分かりにくかった。
一つ上の世界へ飛び上がって、自分がそれまで立っていた場所を見下ろすと、ずいぶん汚ならしく映って仕方がない。顔でもそむけたくなってくる。そういうことかもしれなかった。
金張りの腕時計をのぞき込み、自分もいまからテレビの仕事があると言い、浪華一虫斎は腰を上げた。
「こんな場所で変やけど、シゲル兄さん。なんやったら、一ぺん、テレビ局のプロデューサーに紹介しまひょか」
一旦、帰りかけた浪華一虫斎は、引き返してきて声をかけた。
「いや、結構や」
シゲルは断わった。あれほど望んだテレビ出演が、いまはうとましく思われる。てんのじ村にどっぷりと浸《つ》かっている自分には、不似合いな、異質の世界だと、教えられる気がした。
「あいつ、見舞いにきたのか、羽振りのよいのを見せびらかしにきたのか、分かりまへんな。しゃない奴やで」
ミナミ菊丸が舌打ちした。
その夜、遅く、千代香は息を引きとった。顔面をはじめ、全身三分の二以上の火傷《やけど》を負っていた。呻くだけで言葉にならず、それが止んだときが、臨終だった。美也子が一番先に声を上げて泣いた。
〈欲しがっていたテレビ、早よ買《こ》うてやったらよかったな〉
白布をかぶせられた千代香のそばに寄り添いながら、シゲルはしみじみ思った。
11
さすがに、気落ちした。
妻であり、仕事の相棒であった千代香を失い、シゲルは途方に暮れた。二人の間には、子供がいなかった。それだけに、なおさら寂しさがこたえた。
この先、どうなるのか、考えもつかない。考える気力もない。全身の力が抜けたようで、なにをするのも面倒だった。自分が自分ではないような心もとない感覚が、日が経つにつれて募った。
「シゲル兄さん。うちにできることなら、なんでも遠慮せずに言うてね」
美也子は親切に言い、日に一度は必ず顔を見せた。おからが上手に炊《た》けたから食べてみて、とか、この漬け物、おいしいよ、とか、こんなもの、もろてんと、カステラを持ってきたりする。挙句に、シゲルが溜めている汚れものを捜し出し、洗濯からアイロン掛けまでした。
「そんなことしてもろたら、申しわけないがな。自分でするから、放っといてんか」
「なに言うてはりますのん。男が洗濯なんかしたら、みっともないわ」
シゲルの手から奪うようにして、美也子は汚れものを持ち帰った。桃月房子やミナミ菊丸や、路地の他の人達も、なにかと気遣いを示す。だが、美也子ほど気のつく者はいなかった。損得なしに動き回る性格のようである。千代香に死なれた寂しさの中で、彼女の親身の振舞いだけが、シゲルの救いになった。
すぐに仕事を始めなくても、少しぐらいの貯えはあるので、食べるのには困らない。もっとも、仕事がしたくても、相方がいないのでは、どうにもならない。シゲルはこれまで、千代香以外の人間とはコンビを組んだ経験がなかった。
それを考えると、なおのこと気が滅入る。漫才には相性があり、たとえ夫婦でも、うまくいかない場合も生じる。その点、千代香とは申し分のない呼吸だったと、シゲルには思えていた。
〈さて、どうしたものやら〉
千代香の四十九日をすませ、シゲルに気力が戻りかけたころ、再び奈落へ突き落とされるような話が伝わった。てんのじ村を貫いて、高速道路ができるという。そのため、現在住んでいる長屋を、立ち退かなければならないらしい。
「阪神高速道路が、ちょうど、飛田の上空でカーブして、阿倍野斎場をかすめて、平野のほうへ延びて行くんやて。そやから、高速道路の幅にひっかかる建物は、全部取り壊しになるそうや」
計画は確定的で、この長屋もその中に含まれていると、ミナミ菊丸は話した。シゲルは初耳だった。
「そのための説明会を、今夜、美根奴姉さんの家で開くから、みんな、ぜひ出席してもらいたいと、町内の役員さんが言うてましたで」
「そんなこと、一方的に決められたら、かなわんがな」
「ほんまに。人が機嫌ように暮らしとるちゅうのに」
「俺は反対やな。そんな勝手な話、承知できんで」
「そら、そうでんがな。長屋の連中も、同じ気持ちでっせ」
ミナミ菊丸も、シゲルに頷き返した。
その夜、花柳美根奴宅には、長屋の顔ぶれが揃った。美也子、桃月房子、太平公介らも姿を見せた。どの顔も深刻そうに、白かった。
道路公団側からは背広姿の三人が出席し、町内の役員達も列席した。総勢二十四、五名の会合である。二間続きの部屋は、ほぼ塞がる状態であった。
三人の中で最も年上の、白髪混りの頭を丁寧に撫《な》でつけた男が、柔らかな口調で説明を始めた。いま、道路行政は重大な局面を迎えている。ここで思い切った手を打たなければ、将来、大阪の交通網は完全に麻痺してしまう。ひいては、都市の発展にも多大な影響を及ぼすことになる。ために、われわれは高速道路網の確立を目ざし、着々と工事を進めている。その点、お含み頂き、ご協力願いたいと、頭を下げた。
続いて若い男が、青写真を広げて具体的な計画を説明した。ミナミ菊丸が話していたとおり、高速道路はてんのじ村の西寄りの辺りを、北から南へ縦断し、飛田で東方向へ曲がって延びる。
「で、この長屋は、どの辺りになりますんや。その地図では」
シゲルが質問すると、男は赤い点線で囲まれた中の一点を指差した。点線部分が、高速道路になるらしい。シゲル達の長屋は、その中程に位置していた。
ひととおりの説明が終わるのを待って、シゲルは再び口を開いた。
「とりあえず、私は反対させてもらいまっさ」
「とりあえずって、そんな」
公団側の一人が呟《つぶや》き、周りから失笑が洩れた。
「反対の理由は、どういうことでしょうか」
最初に説明した白髪混りの男が、にこやかな表情で問いかけた。同調するように、両側に控えた役員達も笑顔を向けた。余裕がありそうな態度であった。
「ご存知かどうか知りまへんけど、てんのじ村はいま、さびれていく一方です。テレビのおかげで仕事の量が減り、芸人達はこの村から、どんどん離れておりますんや。そんなときに、何十軒もの家が取り壊されて、頭の上に道路なんか作られたら、息の根を止められることになりますがな。折角、戦禍を免れた家並みが、台無しになってしもうて、誰も住まんようになりますで」
「そや、そのとおりや」
ミナミ菊丸が大声で言った。美也子や桃月房子が頷き、長屋の他の人達も相づちを返した。腹話術の太平公介は、普段の声で、
「俺も反対します」
と、わざわざ手を上げて宣言した。
公団側の三人や、町会の役員達の顔から笑いが消えた。頭を寄せ合い、小声で話を交す。シゲルに視線を這わせる者もいる。何者か、確かめているようであった。
早急に結論が出るはずもないので、今後は定期的に会合を開き、話し合いを進めるということで、その夜は一応、終わりになった。公団側の三人は、何度も礼をして帰って行った。
シゲル達長屋の住人は、全員、借家人である。家主は天下茶屋に住んでおり、月に一度、集金に現われるだけであった。
居住権を主張して、とやかく言う必要もないほど、家主は大らかな人物だった。出征中のニカちゃんのため、誰にも貸さずに空家にしておくぐらいの、思いやりのある老爺である。小柄で、首の後ろにピンポン玉ほどのコブができていた。
今回の立ち退き問題にしても、だから、いっさい口出しはせず、シゲル達住人の意向にまかせる態度を見せた。
「慈母観音の生まれ代わりかもしれんで」
「観音様は、女やろ」
「ついでに、家賃もただにしてくれたらええのにな」
ミナミ菊丸と太平公介が、そんな冗談口を叩くぐらい、気のよい家主だった。
以後、何回となく開かれた会合で、シゲルは一貫して反対の立場をとった。初めの日の発言の中に、すべてを込めたつもりだが、それは少々、綺麗《きれい》ごとにすぎるようでもあった。
高速道路の建設のために、てんのじ村全体が消滅するわけではなく、シゲルらの住む長屋など、数棟が立ち退きを迫られるだけであるが、それでも味気なくなるのは確かだろう。出世した者や、道に見切りをつけた者が村を去り、芸人の数は次第に減っている。その上、立ち退きで家を失えば、また何人か何十人かの芸人が、この村を捨てなければならない。人ごとではなく、シゲル自身、その立場にあった。
しかし、本気で村に残ろうと思えば、借家を捜せばよい。どこかに空家があるはずだ。
そんなことよりも、住み馴れたわが家を離れたくないという、つまりはごく個人的な、得手勝手な思い込みが、反対理由の根本にある。ひとりシゲルだけでなく、それはみんなが同じだった。また、当然の理由ともいえた。
「自動車を走らせるために、なんて、俺らが犠牲にならな、あかんのや」
「よりによって、てんのじ村の上を走らさんかて、もっと東か西へ寄せたら、ええやないか」
「上方の芸人にとって、ここは原点や。ふるさとやで。そういう由緒ある地区を、高速道路のために破壊するやなんて、とんでもない話やないか。大阪にとっては、取り返しのつかん間違いをやらかすことになるぞ」
回を重ねるにつれて会合は白熱し、ミナミ菊丸や太平公介らも喧嘩腰になって、まくし立てた。シゲルはいつの間にか、反対運動の前面に立たされた。口火を切った手前、それも仕方なかった。
しかし、反対運動を続けるうち、シゲルは自分の気持ちの微妙な変化に気づいた。てんのじ村がさびれるだろうという心配は、無論、ある。住み馴れた土地への愛着心も、ある。最初は、それだけのつもりであった。純粋だった。
だが、仕事もせずに反対運動を続ける自分に、疑問を覚えた。漫才の相方である千代香のいない現在、全く先の見込みは立たない。再び舞台に立てるあてがない。その不安をまぎらわせるために、反対を叫んでいるのではないか。仕事への心配を誤魔化そうとして、これ幸いとばかりに、立ち退き反対に固執しているのではないのか。心の空白を埋める格好の対象として、反対運動に飛びつきはしなかったろうか。
シゲルがそんな思いにとりつかれているとき、ミナミ菊丸と太平公介が聞き捨てならない噂を教えた。
「ほんまのこと言いますけど、シゲル兄さん、気ィ悪うせんといておくんなはれや」
「なんやいな」
「仕事もせんと、シゲル兄さんが反対運動に力を入れてるのは、立ち退きのときの補償金を、ぎょうさんもらう魂胆やからやと、陰口してる者がいてまっせ」
「なに」
「俺もそんな話を聞いたけど、もっと、えげつない噂も流れてまっせ」
太平公介が口を挟んだ。シゲルが訊くと、怒らんといておくんなはれや、と、前置きして、話を続けた。
「シゲル兄さん、表向きは反対してるように見せかけてるけど、裏では公団側と繋がっていて、いずれは円満解決するように、みんなを説得させるため、たんまり握らされとるらしい、と。千代香姉さんが亡くなったあと、本気で相方も捜さずに、ぶらぶらできるのは、そのためやろ、いうて」
「そんな、無茶な。誰がぬかしとるんや、そんな、でたらめを」
シゲルは怒鳴った。思わず、太平公介の胸倉を掴んだ。
「俺とは違いまっせ。苦しいでんがな。放しておくんなはれ」
「よくも、そんなことぬかしくさって」
「なあ、菊やん。お前も聞いたやろ」
太平公介はミナミ菊丸に相づちを求めた。
「ああ、確かに聞いた。誰とは分からんけど、そんな噂が流れとるのは、ほんまでっせ。シゲル兄さん」
「なんちゅうことを」
シゲルは太平公介の胸倉から手を引っ込め、唇を噛んだ。許せない噂だった。足元から根こそぎ、ひっくり返されるような陰口であった。
その噂は、シゲルの内部にのぞいていた惑いに、追い討ちをかけた。当初の純粋さが薄れ、仕事への不安感をまぎらわせるための代りとして、反対運動に打ち込んでいるのではないかという後ろめたさが、いっそう色濃くふくらんだ。もしかして、噂の根源は、シゲルのそんな心の曇りを敏感に見抜いて、不信感を覚えて、流布されたのかもしれなかった。
「やめるで、俺」
シゲルは宣言した。
「そんな、急に」
「お前が、しようもないことを、シゲル兄さんの耳に入れるからやで」
「お前も言うたやないか」
ミナミ菊丸と太平公介は慌てた。自分達は信じているから、これまでどおり、反対運動の先頭になって欲しいと、引き止めた。
だが、シゲルは突っぱねた。そんな陰口をされてまで、反対運動を続けたくはない。あとは自分らで、好きなようにやるがよい。頭の天辺まで、どっぷりと浸かっているはずのてんのじ村が、急によそよそしく、他人めいた装いに映った。長屋の軒先や路地全体に、陰湿な空気の澱《よど》みが感じられた。
シゲルは反対運動から手を引いた。美也子や桃月房子、花柳美根奴、それにミナミ菊丸や太平公介らは懸命に慰留した。
「いま、シゲル兄さんにやめられたら、どうしようもおまへんがな」
「折角、ここまで頑張ってきた運動が、ぺっちゃんこになってしまいまっせ」
みんなは頭をすりつけて頼んだが、シゲルは聞き入れなかった。
〈結局は公団側の思いどおりにされてしまうんやろ。反対しても、無駄や。あほなことしても、しゃないで〉
一歩後退して眺めると、そんな投げやりな気持ちにもなり、完全に熱意を失った。
一週間後、シゲルは家を明け渡し、てんのじ村から出て行く決心をつけた。千代香の葬式のときに参列した義弟が、西宮市の高台に家を新築したから、もしよければ、一緒に住まないかと誘ってくれた。彼はボルトやナットの製造工場を、手堅く経営していた。
「折角、家を建てたのに、子供二人は東京の大学へ行ってしもうたさかいに、私と家内の二人暮らしですんや。気がねする者は、誰もいまへんで。姉さんに先立たれて、兄さんもおいそれとは、漫才の相方がありまへんやろ。この際、引退しやはるのもよし、誰ぞ見つけて、続けはるのもよし。ひとまず、うちへきて、ゆっくりしてはどうですか。生意気言うようですけど、兄さん一人ぐらいの面倒は、みさせてもらいまっせ。そうしたら、死んだ姉もよろこんでくれますやろ」
横で妻も、同じように誘った。温かい申し出だった。
おおきにと言っただけで、そのときはあてにもしていなかったが、てんのじ村に嫌気がさしたいま、改めて行く先を考えると、シゲルにはそこしか思いつかなかった。義弟夫婦の言葉に、ふと甘えたい気になった。
〈とり合えず、行くだけ行ってみよか。もし、住みにくいようなら、そのときはまた、どこぞのアパートでも捜したら、ええやろ〉
シゲルは気らくに考えることにした。一旦、村を出て行く決心をつけると、親身に世話をしてくれた美也子までが、うとましく感じられた。
「シゲル兄さん。ほんまに、てんのじ村を離れるんかいな」
「そのつもりや」
「もう一ペん、思い直してくれへんやろか」
ミナミ菊丸がしきりに引き止めたが、シゲルは耳を貸さなかった。それなら、せめて送別会だけでも、派手にやりたいという申し出も、断わった。そういう席を設けられると、またもや口々に、慰留するのに違いない。それがわずらわしかった。
「送別会もせずに、シゲル兄さんと、こんな別れ方をするやなんて、夢にも思わんかったで。兄さん、年をとるにつれて、だんだんと片意地になってきたんと違いまっか」
「そうかもしれんな」
シゲルは軽く、いなした。噂の発生源は、ミナミ菊丸や太平公介ではないと信じたい。彼らは善意で、シゲルの耳に入れたのだろう。
だが、結果的にはそれが、シゲルの気持ちに冷や水を浴びせた。てんのじ村に、愛想をつかせる原因にもなった。
挙句、シゲルの中には、ミナミ菊丸や太平公介に対しても、得体の知れない腹立ちが芽生えていた。余計なことを聞かせてくれたものだと、恨めしく思える。筋違いな、逆恨みだとは分かっているのに、こだわってしまう。ミナミ菊丸が指摘するとおり、年をとるにつれて、片意地になっているのかもしれない。いや、すねているのかもしれなかった。
「なにかあったら、連絡したいから、住所を教えといて欲しいわ」
美也子に言われ、シゲルは彼女にだけ、西宮の義弟宅を知らせた。
いよいよ発つ日、みんなは表通りまで見送って出た。義弟が白い外車で迎えにきたので、シゲルは助手席に収まった。主な荷物は、よごれ≠竍かぼちゃ≠ネどの舞台衣裳と、千代香の位牌《いはい》、形見になった三味線、それに、ニカちゃんの留守宅から持ち出した、彼の両親の位牌ぐらいであった。
「シゲル兄さん、元気でね」
「たまには、顔見せてよ」
「気が変わったら、いつでも戻ってきてや」
「それを待ってるで」
みんなは車を取り囲み、口々に声をかけた。シゲルは小さく手を振って、それに応えた。
千代香が逝き、弟分のニカちゃんがいないてんのじ村に、用はない。もっと早く、それに気づくべきだったのではないか。これをきっかけに、芸人など廃業しても惜しくないと思った。
「みんな、手を振ってはりますよ」
ハンドルを握りながら、義弟がバックミラーをのぞいて教えた。だが、シゲルは振り返らなかった。腰をかがめ、フロントガラス越しに、通天閣を捜した。前方にそそり立つはずのそれは、なぜか見当たらず、スモッグに煙る鈍色《にびいろ》の空だけが展がった。
12
義弟の家は、甲山《かぶとやま》の裾野の高台にあった。新しく開けた高級住宅地で、一帯には瀟洒《しようしや》な建物が点在する。道はかなりな勾配《こうばい》だが、どの家もたっぷりと敷地があり、庭木や門構えに贅沢《ぜいたく》さが窺えた。
鉄筋二階建ての義弟宅は、シゲルが想像したよりも豪勢だった。建物全体が白で統一され、艶やかな光沢の緑の屋根瓦が貼り付いている。アーチ型の門には、槍を並べたような、中世ヨーロッパ風の門扉が立ちはだかり、城を思わせる造りであった。
廊下には赤い絨毯《じゆうたん》が敷かれ、南向きに十五畳ほどの応接間と、それより広いリビングルームがある。どの部屋からでも海が見え、シゲルが与えられた二階の一室からは、大阪湾が一望できた。
「大したもんやないか。ナットやボルトは、そんなに儲かるんかいな」
「いやあ、儲かってませんけど、ま、なんとか順調にこれたさかいに、ようやく、この程度のものが建てられましたんや」
義弟は牛革張りのソファに体を沈め、ブランデーグラスを舐《な》めながら、顔をほころばせた。猪首に赤のガウンが、精力的に見えた。
「生前、姉さんにも、一ぺん遊びにきてくれ、なんやったら、兄さんと一緒に、ここへ引っ越してこいと、言うてましてんけどな。とうとう一度も、この家を見ずじまいでしたな」
酒を呑まないシゲルは、義弟の妻の道子が出したジュースに口をつけた。二人の親切が本物かどうか、自分の中で探ろうとする神経が働くが、居心地は悪そうになかった。
「兄さん。そんな子供みたいなものを呑まずに、一杯ぐらい、付き合うてくれまへんか。これ、もらいものやけど、五万はするフランスの酒でっせ」
義弟は緑色のブランデーの瓶を持って勧めた。が、シゲルは辞退した。
「生意気言うようやけど、芸人として、酒も煙草もやらないというのは、損と違いまっか。女遊びをして困るという話も、姉さんから聞かされた覚えはないし、兄さん、真面目すぎまっせ。そのために、芸が小さくなってしまうということは、おませんか」
「大いにあるかもしれんな。そやけど、持って生まれた性分やから、しゃないやろ」
シゲルはジュースを呑み干した。素人に、芸をとやかく言われるのは、面白くない。だが、引っ越してきた早々、むきになって反論するのもためらわれ、その程度に抑えた。
〈毎日、こんなこと、ぬかすようなら、長居は無用やな〉
シゲルは窓に目をやった。街の灯がきらめき始め、海は紫色にたそがれていく。空には薄く水色がかかり、その果てに一筋、橙色の横縞が彩った。
「大阪は、こっちかいな」
シゲルは左の方向を指差して訊いた。
「そうだす。なかなかの眺めですやろ。そこに、双眼鏡がありまっせ」
義弟は腰を上げ、飾り棚の引き出しから、双眼鏡を取り出した。
「天気のよい日には、通天閣や、生駒の山や、堺や和歌山方面まで見えますよ」
「通天閣も、か」
「ええ。あの方角に」
立ち上がったシゲルのそばへきて、義弟は双眼鏡を手渡しながら指差した。
「見てみなはれ」
促されて、シゲルは双眼鏡を目に当てた。窓に接近し、焦点を合わせて大阪の方向を探った。
赤、青、緑の色ガラスを粉にして、景気よくばらまいたような輝きが展開する。それらの間を丹念に見透かすうち、白く縁取りされた、ろうそく状の突起物が、視界に入った。後方に広がるのは天王寺公園の森か、黒々とした背景の中で、それは鮮明に浮き立って見えた。
「あった。あった、あった」
シゲルは思わず、口走った。大きな声になった。
「そうでしょう。見えるでしょ」
「ほんまや。間違いない。通天閣や」
「その右のほうへ、ずっと向けていくと、堺、泉南、和歌山などの灯が見えまっせ。左のほうは、生駒、それに確か、大阪城も見えるはずやけど」
左右を指差して、義弟は教えた。だが、シゲルは通天閣に焦点を合わせたまま、動かなかった。ここからなら、人差し指の先ほどの高さにしか見えないが、白い突起物は雑多なきらめきの中で点滅もせず、そそり立つ。今日、そのそばを離れてきたばかりなのに、ずいぶん久しぶりに見る思いがする。気に入らないはずの二代目の塔が、急に懐かしさを覚えさせた。
〈あの辺が、てんのじ村やな〉
シゲルは通天閣のふもとへ双眼鏡を向けた。目を凝らして探った。が、一帯は墨色が濃く、明かりらしいものは見当たらない。はるか上空を、飛行機が赤い灯をにじませながら飛び去った。
てんのじ村と西宮とでは、空気が違う。味も清浄さも、明らかにその差が分かる。ほこりっぽく、湿った澱みが、絶えず、まつわりつく村に比べ、こちらは透明感があり、清々しい。初秋だというのに、義弟の家の裏庭の片隅には、ススキが数本、穂をのぞかせて、銀色の輝きをふりまいていた。
初めの日に意見めいたことを口にしたきり、その後、義弟はシゲルの気にさわる話はしない。毎朝、八時前に、自分で車を運転して出勤し、帰るのは九時か十時ごろになる。妻の道子は習いものが多いらしく、ほとんど毎日のように出かけるので、昼間はシゲルだけになった。
体《てい》よく、留守番役に連れてこられたのか、とも思う。が、そのほうがかえって、気がらくだ。道子と二人だけになる時間は、シゲルにとっては妙に気詰まりだった。
一日中、シゲルは二階の自分の部屋から、双眼鏡で眺めて過ごした。海の色は日によって異なり、天気のよい日は深緑に盛り上がる。曇天のときは、不気味に黒ずむ。ときには白波が立った。
しかし、そんな変化もシゲルには興味がなく、レンズを向けるのは大阪の街だった。それも一点に集中した。
昼間は同じ色の大気に溶け込むため、通天閣は定かでない。建物群の中に埋まって、見つけにくい。
だが、夕暮れどきになり、白いネオンに縁取りされると、くっきり浮き上がる。闇が深まるにつれて、鮮明になった。
「あった、あった」
そのたびに、シゲルは思わず、呟きを洩らす。そのまま焦点を合わせ、長々と見とれる。何度眺めても、飽きなかった。
雨の日、視界はさえぎられて、大阪の街は姿を消す。通天閣も隠れてしまう。
それでもシゲルは、双眼鏡を手放さない。雨が小降りになるのを待って、目を凝らす。大阪の上空がわずかでも開け、街の灯がちらつき始めると、すかさず、通天閣を捜し求めた。
〈こんなところまできて、なんで、こんなことをしてるんやろか〉
ふと、思うこともある。懐疑的になり、双眼鏡から手を放す。だが、すぐにまた握り直して、窓際に立ってしまう。
〈難儀な癖がついたもんやな〉
舌打ちしながら、レンズに目を当て、通天閣を追い続ける。毎日、夜になるのが待ち遠しかった。
道子に勧められ、退屈まぎれに、下の街にあるパチンコ屋へ出かけたことがある。義弟の釣り道具を借りて、神戸まで釣りにも行った。
しかし、どちらも熱中できず、長続きしなかった。パチンコ屋の喧噪《けんそう》さには苛立つし、釣りのほうは、じっと浮きを注目していると、息苦しくなった。
義弟が言うほど、シゲルは自分自身、生真面目な人間だとは思っていない。かなり、でたらめで、横着な部分がある。
けれども、こうして気ままに過ごす時間を与えられ、改めて自分を眺めると、あきれるぐらい、無趣味な人間だと悟った。食って寝て、芸をしてきただけのように思える。それでよかったのか、悪かったのか。どこかで大きな損をしているのではないかという気がする半面、いやいや、それで得になっているのだという思いもある。どちらにしろ、てんのじ村にいるころには考えもしなかった方向へ、神経が働いた。
久しぶりに、シゲルは舞台衣裳を取り出した。西宮へきて半年以上になるのに、それまでは一度も手を触れなかった。気になりながら、風呂敷包みを開くのが億劫《おつくう》で、押し入れの隅へしまい込んでおいた。開くと、てんのじ村の思い出が溢れ出そうで、恐ろしかった。
風呂敷包みは三つあり、よごれ∞かぼちゃ∞野球狂時代≠フ別に分けてあった。そのうち、よごれ≠フ分を、シゲルは開いた。
頭にかぶるざるを底に敷き、木綿がすりの着物、股引、腰紐を畳んで重ね、その上に、赤子の頭ぐらいの大きさの竹かごを載せている。竹かごの中には、豆しぼりの手拭と、一文銭が入れてあった。
※[#歌記号]安来千軒 名の出たところ
社日桜や 十神山 アラエッサッサ
小さく口ずさみながら、シゲルは一つずつ、身に着けていった。義弟は会社、道子は木彫りの教室に出かけ、家の中には誰もいなかった。
豆しぼりの手拭や、木綿がすりにしみ込んだ汗くさい匂いが、懐かしさを誘う。尻を端折り、一文銭を鼻の先に付けて、ざるを頭にかぶった。
「ええか、お母ちゃん。いきまっせ」
部屋の片隅に、ニカちゃんの親の分と一緒に、千代香の位牌が祭ってある。それに向かい、シゲルは話しかけた。
「テケテンテンテンテンテンテン、テケテンテケテン、テレッテンテン」
口三味線で前奏を唱えながら、シゲルは部屋の端から中ほどへ歩み出た。腰をかがめ、ざるの頭を振り、足を交互に持ち上げるようにして踏み出して行く。
※[#歌記号]嫁が島田となるそれまでは
どんな苦労もして松江 アラエッサッサ
千代香はその文句が好きだった。張りのある声で歌い上げ、どんな苦労もして松江、のところへ差しかかると、よごれ≠熱演中のシゲルに、ちらっと視線を向ける癖があった。気持ちに通じる部分があったのかもしれない。
三味線を取り出し、位牌のそばへ立てかけて、シゲルは再び、同じ詞を口ずさみながら踊った。甲高く突き抜ける千代香の声が、耳の底に甦る。どんな苦労も、と、繰り返して歌い、ドジョウを追い詰め、すくい上げたざるをゆすりながら、シゲルは不意に、熱いものに襲われた。たちまち目頭が潤み、位牌も三味線も見えなくなった。
千代香が無惨な死に方をした直後も、葬式のときも、シゲルは涙を流さなかった。なのに、一人でよごれ≠演じているうちに、急激に悲しさを覚えた。涙が次々と溢れ出た。
「お母ちゃんよ」
位牌の前であぐらを組み、シゲルは三味線を膝に抱いた。一文銭を顎までずらせ、鼻水を啜《すす》り上げた。
いまは不自由なく、豪勢な家に住ませてもらっている。義弟や道子に、不服はない。二人とも親切だった。
が、それだけでは補えない虚しさがある。孤独感に捉われる。千代香とともに、舞台で客を沸かせてきた衣裳を身に着けてみて、なおさら、それが募った。しみじみ、一人になった寂しさに突き上げられた。
翌日、シゲルはてんのじ村へ出かけた。それまで我慢してきた感情が、よごれ≠フ衣裳を身に着けたとたん、抑えきれなくなった。美容体操に行くという道子に、自分も都合があるからと断わり、シゲルは先に家を出た。
空は晴れているのに、風の強い日だった。シゲルは電車の駅まで、バスに乗った。途中、窓からは白波の立つ海が見え隠れした。
高台から下ってきても、相変わらず風は強い。青い可憐《かれん》なリボンを、いくつも結びつけたように、新芽をのぞかせたばかりの街路樹の柳が、もつれそうに大きく乱れた。
駅前に帽子屋があるのを見つけ、シゲルはベレー帽を買い求めた。コーヒー色のそれを頭に載せ、店の鏡をのぞくと、自分が少し変わって見えた。
ついでに眼鏡屋を捜し、店先に陳列された安物のサングラスの中から、できるだけ色の濃い品を買った。それをかけると、シゲルだと気づかれずにすむはずだった。
阪急電車で大阪へ着き、地下鉄に乗り換えて動物園前で下車した。改札口へ向かいながら、シゲルはベレー帽をかぶり直し、初めてサングラスをかけた。視界が急に暗くなり、危うく、つまずきそうになった。
地上へ出ると、まずジャンジャン横丁へ向かった。いきなり、てんのじ村へ足を向ける勇気がない。ひとりでに鼓動が高鳴り、膝が細かく震えた。誰かに見られているような心地がして、背後に位置する村のほうを、振り返ることもできなかった。この辺りでは、知った顔に出会う恐れがあった。
〈そやけど、この格好なら、大丈夫。気づかれへんやろ〉
そうは思うものの、気分は落ちつかない。シゲルは客のいないドテ焼き屋を見つけ、暖簾《のれん》をくぐった。通りへ背中を向ける場所に、腰を下ろした。鼓動を静めたいと思った。
ドテ焼きは、筋肉《すじにく》を串刺しにして、白味噌で煮たものである。味噌の香りがまろやかに染み、串カツほど油っこくないので、シゲルは好物だった。酒に合う食べものだが、そのままでも、おいしい。
「兄ちゃん、すまんけど、お茶、おくれ」
小ビールを一本、申しわけに注文して、軽く口をつけてから、シゲルは店員にそう頼んだ。筋肉は時間をかけて煮てあるので、柔らかい。白味噌の甘さと溶け合い、いかにもジャンジャン横丁の食べものらしい風味を、口中に広げていった。
お茶を二杯お代わりして、ドテ焼きの串を五本食べ、シゲルは店を出た。将棋クラブの格子窓のそばには、男達が群らがり、中の勝負をのぞき込んでいる。腕組みしたり、ポケットに手を突っ込んだまま、体を斜めにして詰め合い、目を奪われていた。
「赤色三番、大当たり。赤い花なら曼珠沙華《まんじゆしやげ》……」
と、|Z《ゼツト》ゲーム屋からは、調子のよい口上が流れてくる。縦、横、斜めに|おはじき《ヽヽヽヽ》を並べていくこのゲームも、新世界の名物の一つだった。
昼間だというのに、ジャンジャン横丁は賑々しい。食べものの匂いや、人いきれが入り混る中を歩いているうち、シゲルも落ちつきを取り戻した。
中ほどにある温泉演芸場は、昭和三十二年に新花月≠ニ改称され、隆盛を誇っている。シゲルは足を止め、看板を見上げた。
曲芸・ミナミ菊丸、腹話術・太平公介と、知った名前に続き、漫才・桃月房子・西美也子の名もあった。あれっきり、美也子からはなんの連絡もなかった。
〈みんな、頑張っとるな〉
懐かしさを覚え、シゲルは余程、入ろうかと考えた。しかし、かつて自分も出演した劇場へ、客として入場するのは、みじめな気がし、思いとどまった。ニカちゃんや、千代香の舞台姿が甦り、心辛くなるのに違いなかった。
〈あいつらの芸を、いまさら、銭出して見る必要もないやろ〉
呟いて、その場を離れた。
「上手になりましたなあ、あのコンビ」
「女同士では、いま最高と違いまっか」
劇場から出てきた初老の二人連れが、シゲルと並ぶようにして歩きながら喋った。
「ことに、西美也子の突っ込み≠ェ、よろしいな。絶妙なタイミングで」
「あの二人、来月からは道頓堀の角座に出るらしいでんな」
「当然でっせ。あれほど、面白いんやから」
シゲルは聞き耳を立てたが、初老の二人はそのまま、すし屋の暖簾をくぐった。
角座は芸人にとって、正真正銘の檜舞台である。そこへ出演できるようになれば、芸人として一流の折り紙を付けられたのも同然であった。シゲルはまだ一度も、その舞台を踏んでいなかった。
〈大したものになりよったな、あの子〉
シゲルは複雑な思いにゆさぶられた。早速、祝いに駆けつけたい気持ちと、妬《ねた》ましさが交錯する。芸人としては、年齢も実績も、自分のほうがはるかに上であるのに、美也子が軽々と、それを越えた。素直によろこんでやらなければと思う一方で、悔しさと羨ましさがからみつき、心の底をかき乱した。
〈そんな大切なことを、なんで、この俺に、一番に知らせてこんのやろ〉
自分がてんのじ村を離れたからか。芸人活動をしていないからか。美也子にとっては、もう用のない人間になったのだろうか。いや、もともと、用などなかったのかもしれない。
〈つまりは、去る者日々に疎《うと》し、ちゅうことやな〉
呟いて、シゲルは足を止めた。いつの間にか、叩き売りのところへきている。人だかりの真ん中から、威勢のよい啖呵《たんか》がはじけた。が、それもシゲルの耳には入らなかった。
〈やめとこ、か〉
てんのじ村を訪れる気が、失せてしまった。最初から村の中へ入るつもりはなく、周辺から眺める考えだった。それとなく、うろつき回り、匂いを嗅ぐだけで充分だと思っていた。
しかし、それさえ億劫になっている。近づくことに、ためらいがある。美也子の出世話に、こだわりを感じているからであった。
〈あほらし。出かけてこんかったら、よかったで〉
サングラスの曇りを拭い、ベレー帽をかぶり直してから、シゲルは通天閣のほうへ足を向けた。初代には何度か登った覚えがあるが、二代目は一度もない。折角、きたのだから、せめてそれぐらい、登って帰ろうと思った。
観光バスが二台止まり、団体客が列を作っている。順番を待って、シゲルもその後ろから、エレベーターに乗り込んだ。
一旦、二階で降り、そこから展望台へ向かうエレベーターに乗り継ぐ。高度が増すにつれ、シゲルの耳は痛くなった。
しかし、展望台からの見晴らしはよかった。北は大阪駅から箕面方面の山々が、南は堺、和歌山が、東には生駒の連山が紫色のひだを刻み、西は大阪湾の向こうに、淡路島が墨絵模様の輪郭を描く。初代より三十メートルほど高くなった分だけ、見通しは利くようだった。
展望台には望遠鏡が設置されている。ひとわたり、肉眼で眺めてから、シゲルは南側の望遠鏡に十円玉を落とし込んだ。足元には、てんのじ村の屋根屋根が連なっている。そこへレンズを向けた。
春の陽射しを真上から浴びて、どの瓦も銀紙でも貼り付けたように反射する。わずかにのぞく路地の地面も、光線の加減で白く光り、物干し場の洗濯物が清潔そうに、はためく。
〈どの辺りになるやろな〉
シゲルは自分が住んでいた建物を捜し当てた。長屋はまだ以前のまま残り、どこにも取り壊された形跡はない。立ち退き騒動は進展していないのか、通天閣から見下ろすてんのじ村は、なに一つ変わりがなかった。
〈俺、早まったんやろか〉
些細《ささい》なことに腹を立てて、軽率な振舞いに及んだのではないかという思いが、シゲルの脳裡をかすめた。自分がいなくなると、てんのじ村はたちまち、崩壊してしまうような気持ちが、どこかにあった。道路公団の手で村の家々は壊されていき、様相が一変するだろうと予想していた。密《ひそ》かにそれを、痛快だと感じる働きもあった。
だが、その気配は全く窺えず、いま一人、洗面器を提げたステテコ姿の男が、路地の白い陽射しの中を、のんびりした足取りで歩いて行く。その先にそびえる風呂屋の煙突からは、悠長に煙がたなびく。いつの間にか風も治まり、春らしい日和に落ちついていた。
〈なんや、騙《だま》されて、俺だけ踊らされたみたいやな〉
ちょうど、時間になり、望遠鏡は見えなくなった。軽く叩いて、シゲルはそばを離れた。
ポケットにはもう一個、十円玉がある。西側へ周り、今度はそこにある望遠鏡へ近寄った。自分がいつも眺めている通天閣から、今日は逆に、西宮の義弟宅を捜そうかと思った。が、入れかけた十円玉を、ポケットへ戻した。
〈そんなもの、眺めても、しゃないな〉
捜しても見当たらないかもしれないが、わざわざレンズを向ける気も失せた。これから帰って行く家が、急に味気なく感じられた。
シゲルは南側へ戻り、再び、てんのじ村を見下ろした。もう望遠鏡は使用せず、サングラスを外した目で眺めた。
村の光景は、先程と微妙に異なる。どの家々の屋根も片側だけ輝き、もう一方は黒が濃い。わずかに光線の角度が、変わったせいらしい。その上に無数の影をふりまきながら、鳩の群れが飛び去った。
13
シゲルが西宮に移って、二度目の夏がきた。
この辺りは高台だから、街中に比べると、二、三度は確実に気温が低い。それでも、汗がべとつくときもあり、しのぎやすい日ばかりとは限らない。
部屋には冷房装置がついているが、シゲルは嫌いなので、扇風機ですませている。だが、その風も生温かく、大して効き目はなかった。
義弟と道子が連れ立って、ゴルフに出かけた日曜日、シゲルはランニングシャツとステテコ姿で、テレビの前に座っていた。蒸し暑い日だった。
義弟が趣味で集めている洋ランや、裏庭の池の鯉の世話をしたりして、このところ、隠居のような生活が身についている。双眼鏡で通天閣を眺める癖も遠のき、大阪方面へ出かける機会もなかった。
数えの六十八になっている。いつの間に、そんなになったのかと、自分でも驚くほどだが、このまま朽ちるつもりは、毛頭ない。もう、ひと花、いや、ふた花も三花も、咲かせたい疼《うず》きがある。
そのため、シゲルはテレビの演芸番組を熱心に見た。どんな芸人の、どんな芸が売れているのか、見極めようとした。そういう目で眺めると、以前は嫌悪したテレビが、ごく身近なお手本に思えた。むかしの仲間だった東洋一丸・勝江は、漫才の他にもドラマに出演したり、こんな夫婦・あんな夫婦≠ニいう娯楽番組の、司会にまで手を広げて好評を博している。二人の顔をテレビ画面で見るのにも、抵抗は覚えなくなり、一体どこに人気の原因があるのか、探ろうとした。
だが、どう見ても、東洋一丸の喋り口より、自分のほうがなめらかで、声の質もよいような気がする。年格好は同じだが、ひたいから頭頂部にかけて、すでに一本の毛もない東洋一丸よりは、白髪混りながら、まだ毛の多い自分が、はるかに若く見える自信がある。ときたま二人が演じる漫才にしても、勝江が鼓を叩いては、一丸の禿頭を話題にして誤魔化しているようで、シゲルには全く面白くなかった。
それでも、客は笑い、二人の声が聞きとりにくいほどの拍手が起こる。笑いころげる客席の表情が、画面に写し出されたりした。
「ほんまに、わけの分からん世の中になったもんやで」
そのたびに、シゲルは口に出して言い、つい、チャンネルを回してしまう。研究しなければと思うのだが、ひとりでに手が伸びる。ドラマや司会役の彼らを見るのは、別にどういう気もしないが、本芸の漫才で喝采される二人をブラウン管で眺めるのは、どうにも我慢ができなかった。
「あいつらより、俺と千代香のほうが、息も合うてたし、おもろかったのにな」
チャンネルをひと回りさせるだけで、結局はもとへ戻し、まだ二人の顔が写っていると、慌ててスイッチを切った。
いつまでもよごれ≠竍かぼちゃ≠フ時代ではないと思い、シゲルは密かにネタをひねっていた。テレビのニュースや、新聞記事をヒントにして、漫談風の材料をノートに書き留めている。それを使って、時事漫談はどうだろうかと考えていた。
正式に習った覚えはないが、千代香が弾くのを見てきたので、少しぐらいなら、三味線をいじることができる。喉にはまだ自信があるから、喋りの合間に歌を入れて、柳家三亀松の関西版を狙えば、珍しがられるのではないか。
そんな思惑があり、近ごろは日に一度は必ず、三味線を取り出して、爪弾きの練習をする。双眼鏡に代わって、それが日課になっていた。
「暑うおますなあ」
ひとり言を言い、シゲルはテレビを見ていた。明日から始まる天神祭のニュースが、そこには写っている。ちょうちんが飾られた境内に続いて、大川端が画面に捉えられ、アナウンサーは百万以上の人出があるだろうと告げた。大阪の夏は、このころが最も暑い。
ニュースが終わるとコマーシャルになり、長々と続くので、シゲルはチャンネルを切って立ち上がった。テレビにも退屈したので、日課の三味線を練習しようと思った。
「さあ、始めまっせ、お母ちゃん」
位牌に話しかけ、手拭で顔を拭ってから、シゲルは三味線を手に取った。音締めを回して糸の調子を合わせ、浪曲子守唄≠弾き始めた。
が、当たり前に歌っては面白くないので、シゲルはその節で高校三年生≠フ歌詞を口ずさむ。どちらも三、四年前に大流行した歌だった。赤い夕陽が校舎をそめて、の文句を、逃げた女房にゃ未練はないが、の節で精一杯、どすをきかして歌うのである。この前から、それを練習していた。
しかし、節に気をとられると、歌詞を間違え、歌詞を正確にと思うと、節のほうがまごつく。字余りになる部分もあり、辻褄《つじつま》合わせに、早く歌わなければならなかったりするから、容易ではなかった。
シゲルが何回目かを繰り返しているとき、人の声が聞こえた。手を止め、耳を澄ますと、開け放した窓の下のほうで、
「シゲル兄さん! いてはるでしょ」
と、大声が上がった。三味線を置いて、シゲルは窓際へ急いだ。門の外で伸び上がりながら、美也子が白い日傘を振り回した。
「おお、美也ちゃんか」
「やっぱり、シゲル兄さんやわ。三味線が聞こえるから、そうに違いないと思うて、さっきから何回も呼び鈴を押してるのに、聞こえんかったみたいね」
「すまん。ちょっと待ってや」
シゲルはステテコ姿のまま、階下へ下りた。呼び鈴は二階まで通じていないし、三味線の弾き語りに力が入っていたので、気がつかなかった。
「よく、ここが分かったな」
門を開け、シゲルは美也子を招き入れた。
「兄さんに教えてもろた住所を見せて、あちこちで尋ねてきましてん」
「それはそれは、ご苦労はん。ま、上がってんか。いま、俺一人やから、気兼ねはいらんで」
「立派なお家やねえ」
美也子は玄関を見回し、
「ほな、お邪魔します」
と、小さく言い、白いサンダルを脱いだ。向きを変えて揃えるために、青い水玉模様のワンピースの裾をふくらませて、しゃがむと、汗混じりの化粧品の匂いが、辺りに漂った。
シゲルは二階の自分の部屋へ、美也子を案内した。一枚だけあるござの座布団を勧めた。
「こんな、だらしない格好で、すまんな」
「よろしいがな、暑いことやし」
扇風機を強にしかけて、
「冷房入れようか。そこに機械が付いてるんや」
と、シゲルが言うと、
「うち、それ、嫌いですねん。扇風機で結構です」
と、美也子も断わった。
「俺と同じやな」
「兄さんも、でっか」
「そや。スイカと違うねんから、変な冷やされ方したら、かなわんがな」
口がなめらかになり、冗談が出た。美也子の姿を目にしたときから、気持ちがはずんでいる。暑いから、そのままの格好で、と言う彼女に、背中を向けながら、シゲルは手早くズボンをはき、義弟が寄越した茶色い網目の半袖シャツを着た。
美也子は箱に入った手土産を差し出してから、改めて座り直した。
「ほんまに長いこと、ご無沙汰ばかりして、すんません。けど、シゲル兄さんのお元気そうな顔見て、ほっとしましたわ」
しみじみ見つめ、手にしたハンカチで鼻の頭を叩いた。
「美也ちゃんも元気そうでなによりやで。かれこれ二年ぶりやもんな」
「シゲル兄さん、ここへ移ったきり、てんのじ村へは一回も顔見せにきてくれはらしませんのやもん。菊丸兄さんも、公介兄さんも、えらい恨んではりまっせ」
美也子は軽く、睨《にら》む目つきになった。
「すまん」
シゲルは顎を撫でた。そんな仕草が、つい出てしまう。夏痩せするのか、美也子は以前に比べると頬の肉が落ち、肩の辺りも細く見えた。
「三味線弾きながら、なんやしらんけど、歌うてはったところを見ると、シゲル兄さん、まだまだ舞台に立つ気、おますんやろ」
「引退宣言したわけでもないからな。そら、機会さえあったら、やるつもりやで」
「それ聞いて、安心しましたわ」
美也子は合点し、一旦、崩しかけた膝を揃えた。それから、真っ直にシゲルを見た。
「実は今日、シゲル兄さんに、お願いに上がりましてん」
「なんやいな、改まった顔してからに」
「うちと、この美也子と、コンビ組んでもらいとうおますねん」
「俺が、美也ちゃんと──」
「へえ。お願いします。経験の浅い未熟者が、兄さんみたいな大ベテランに、こんな厚かましいお願いができる筋合いやおませんけど、そこを曲げて、お願いに上がりましたんやわ」
お願いしますと、美也子は両手をついた。
「ちょっと待った。不意に、そんなこと言われたら、びっくりするやないか。第一、美也ちゃんには、桃月房子はんがいるやろに」
シゲルが言うと、美也子は一瞬、扇風機のほうへ顔を向けた。そのまま、か細く、
「姉さん、房子姉さん、死にはりましてん」
と、呟いた。
「死んだ? 房子はんが」
「四月の初めでしたさかいに、もう、三カ月以上になりますわな」
「なんで、また、急に。元気やったんやろ」
シゲルの言葉に、美也子は首を小さく左右に振った。それから、手短に説明した。
桃月房子は昨年の暮れごろから、ときどき意味不明の言葉を口走るようになった。舞台では全く別条がないのに、家にいるとき、大声で笑い出したり、怒鳴ったりして、焦点の定まらない目になる。
正月が明けたころから、症状がひどくなったため、美也子が医者へ連れて行ったところ、ノイローゼだと診断された。その医者の紹介で、堺市にある精神病院へ入院させたが、心臓病と胃腸障害を併発して、そのまま死亡したという。
「房子姉さんと、うちの漫才のこと、シゲル兄さんのお耳に入ってるかどうか分かりませんけど、角座やその他、あちこちの大きな劇場《こや》に出してもらうようになって、結構、売れてましてん。いいえ、うちにしたら、売れすぎみたいな感じでしたわ。一月の末には、初めてのテレビの仕事も入ってたし。そんなふうに、急に忙しゅうになったもんやさかいに、房子姉さん、うちの気がつかんところで、心配したり、悩んだりしてはったのかもしれませんねん。なんちゅうたかて、うちらの漫才は、房子姉さんで持ってたんやさかいに」
美也子は桃月房子に、花を持たせる言い方をした。シゲルにはそれが、快く聞こえた。
「房子はん、年はいくつやった?」
「七十四で逝きはりました」
「年はともかくとして、芸人としては、ようやく運が向いてきたところやったのにな」
「そうですねん。惜しいことでしたわ。大きな体に似合わん、気のようつく、やさしい人でおましたわ」
美也子はしんみりした口調で言った。話が途切れ、扇風機の唸りだけが聞こえた。
シゲルは階下へ下り、冷蔵庫から氷を出した。カルピスを入れ、再び戻った。勧めると、美也子は赤い棒でかき回して、口へ運ぶ。氷が軽やかな音を立てた。
「美也ちゃん、あんた、いくつになったんや」
「もう、四十を越えましたわ、兄さん」
「そないになるか」
「いややわ。シゲル兄さんかて、六十七、八にならはりますやろ」
「よう覚えてるな。数えの八や」
「そうですやろ。確か、うちと、二十六、七、離れてるはずやから」
コンビを組もうと思うからには、美也子は当然、シゲルの年齢を計算してきたのだろう。ほぼ正確に言い当てた。
「で、どうですやろ、シゲル兄さん。足手まといになるかもしれませんけど、さっきの話、承知してもらえませんやろか」
美也子はコップを置いて言った。
「有難い話やけどな」
シゲルは言葉を切った。実際、その申し出は有難かった。漫談をするつもりでも、はたして使ってくれるところがあるのかどうか、全く分からない。正直なところ、まだ自信もない。
その点、漫才なら不安はないし、美也子が相方なら、やり甲斐がある。長いだけの自分の経験よりも、角座やその他、大きな劇場の舞台を踏んでいる彼女の実績のほうが、内容的には上回る。年齢的にも脂が乗っているから、この組み合わせは、シゲルが得になりそうだった。
それが分かるだけに、素直に返事がしにくい。うれしさが内側にこもって、反対の言葉が出た。
「もう六十八やで。俺みたいな年寄りと組まんでも、美也ちゃんなら、よろこんで組みたいという志願者が、なんぼでもいてるやろ。そっちのほうで捜したら、どうや」
「そんな、年寄り風、吹かさんといておくんなはれ、シゲル兄さん。うち、房子姉さんとは、三十三離れてたし、主人の千久とは三十六、離れてましたんやで。それに比べたら、シゲル兄さんとは、たったの二十六か七しか、離れてませんよ」
「たったの、か」
「そうですがな。うちの相方としては、シゲル兄さんが一番若いことになりますねんで」
美也子は妙な理屈を言った。が、それは彼女の気遣いらしかった。桃月房子に死なれて、困ってもいるのだろうが、それだけではなく、シゲルをもう一度、舞台へ引き戻そうとして、説得している響きがあった。同時に、心底から自分にすがりついてきた節も窺え、シゲルとしては二重に気分のよい話だった。
「あの、立ち退き問題は、どうなってるんや」
「話を逸《そ》らさんといておくんなはれ、兄さん」
「別に逸らすつもりはないけど、気になっているんでな」
「結局、立ち退くことに決まりましたわ」
「やっぱり、そうか」
「シゲル兄さんが手を引きはってからは、呆気ないくらい、早よ決着がつきましたわ」
まだ工事は始まっていないものの、早晩、立ち退きを迫られることになるので、美也子は去年の秋、同じてんのじ村の東寄りの、高速道路計画には影響されないほうへ引っ越したらしい。
「やっぱり長屋ですけど、今度は二階建てやさかいに、うちが上、房子姉さんが下を使うてましてんわ。そやから、シゲル兄さんさえ、その気になってくれはったら、そこへ住んでもらおと思いまして」
「そこ、いうて、美也ちゃんと一緒にかいな」
「屋根は一緒やけど、上と下で」
「俺は、一緒のほうがええけどな」
言ってから、シゲルは慌てた。カルピスの残ったコップを手に取ろうとして、危うく、こぼしそうになった。
「いや、冗談や、冗談」
そんなことで、もし美也子に、コンビの話を取りやめにされては困ると思った。
「けど、同じ屋根の下で住むと、他の連中から見たら、俺が美也ちゃんに、判コ押したと思いよるかもしれんで。いや、この年やから、それはないか。俺の気の回しすぎかもしれんな」
判コを押すというのは、女性と肉体関係を持つという、芸人仲間の符丁である。シゲルがそう言うと、美也子はコップの底で溶けかかった氷を口に入れ、小気味よく噛み砕いた。
「それは大丈夫やわ、シゲル兄さん。うち、房子姉さんに、あんな死なれ方をしてから、お大師さんを信仰するようになりましてん。そのとき誓うたことは、芸の上達と引き換えに、男はんを断つ、ということでしてん。てんのじ村の芸人さんらは、それ、知ってはるさかいに、シゲル兄さんと、うちが、同じ屋根の下で暮らしても、変な想像、しやはらしませんわ」
美也子は淡々と話した。
「四十やそこらの年で、男を断つやなんて、もったいない話やないか」
シゲルは力を込めて言った。六十八の自分でも、まだ男の欲求はある。男女の違いがあるにしても、美也子のその誓いは、いかにも惜しい気がした。
「あんた、男嫌いか」
「そんなわけでもおませんけど、男は千久はん一人だけで結構。これまでもそう思うてきたし、これからもそのつもりでいきますわ」
美也子は凛《りん》と響く言い方をした。シゲルは口出しできなかった。
男を断つ誓いを立てた美也子は、自分なら安全だと考えて、コンビの相談を持ちかけたのではないか。男として無難な年齢だと、計算したのかもしれない。
だが、それでもかまいはしない。この際、それ以上を望むのは、贅沢だろう。美也子は住むところまで用意して、誘いをかけてくれる。ひと花咲かすには、願ってもない好機だった。
「ほんまに、千久はんは、幸せなお人やなあ。ほな、俺も、その千久はんにあやかるために、美也ちゃんの相手をさせてもらおうか」
シゲルはようやく、承諾の返事をした。二十七も若い美也子と一緒に、舞台に立てるだけでも、心うれしいではないか。漫才も若返り、今度こそ、テレビから声がかかるくらい、売れるかもしれない。そんな期待感がふくらんだ。
「おおきに。有難うございます。よろしゅう、お願いします」
「それは、こっちの言う台詞やがな。なんせ、二年も舞台を離れてるんやからな。だいぶ、勘が狂うてるやろ」
「そんなもの、すぐに取り戻せますがな。ああ、よかった。ほっとしましたわ」
美也子は吐息を吐き、膝を崩した。いつか、シゲルの中にのぞいた彼女への妬みは、跡形もなく消えていた。
「ええもの、見せたろ」
シゲルは双眼鏡を取り出した。美也子を窓際に立たせ、焦点を合わせてから手渡した。
「その方向、見てみィ」
指差して教える方角へ、美也子はレンズを向けた。強い陽射しに焙《あぶ》られて、大阪の街は白々と湧き立つ。その中でそびえる通天閣を、彼女も探り当てたようだった。
「へえ、あんな方向になりますんか」
「ここへきた当時、俺、あればっかり眺めて暮らしたもんや」
シゲルは本音を吐いたが、美也子はなにも言わす、双眼鏡に目を当てたまま、忍び笑いを洩らした。
「なんやいな、急に」
「こうして眺めると、あの通天閣、大阪のオチンチンみたいに見えますやんか」
双眼鏡をシゲルに返し、美也子は口元を押さえて笑った。
「ほな、大阪の街は、男ちゅうわけやな」
「そんな気、しませんか」
「せんこともないけどな。ともかく、その、オチンチンのそばへ、帰って行くことにしよか」
シゲルは改めて双眼鏡を覗いた。昼間は見えにくいはずの通天閣が、いつもより鮮明に、大きく逞しく望めた。
14
美也子が用意した今度の長屋は、大阪市立大学付属病院の崖のきわにあった。戦前からの建物で、四畳半と六畳の間取りは前と同じだが、共同便所ではなく、各家に炊事場と便所が付いている。それに電話まであった。
五軒並んだ一番奥に、ミナミ菊丸が養女夫婦と二人の子供らと住み、その隣りがシゲルの家である。二階の美也子とは便所が同じになるだけで、炊事は別々だった。
ミナミ菊丸の孫になる小学生の男の子は、引っ越してきた当初、
「僕とこの家、便所があるんやぞ」
と、自慢して、次々と友達を連れてきたらしい。アパート住まいで、共同の便所しかない子供らは羨ましがり、入れ代わり立ち代わりして入り込むので、困ると、養女がこぼしていたという。といっても、水洗ではなく、旧式の形だった。
西宮の義弟は、シゲルが引っ越すとき、快く送り出した。いつでも帰ってきてよいと、道子も親切に言った。留守番役に重宝しただけではなく、心底、面倒見がよい二人なのだと、シゲルは感謝した。
漫才のネタを、美也子はいっさい、まかすという。シゲルは義弟宅で考えた、時事漫談風の材料と、替え歌を組み合わせ、千代香同様、美也子には三味線を弾かせる形を取り入れることにした。
途中、彼女がシゲルの話を茶化したり、突っ込んだりして笑わせる。やり込められて困惑するシゲルを尻目に、美也子は澄まし顔で、三味線の弾き語りを始める。腕は確かで、美声でもあるから、客は聞き惚れ、満足する、という趣向だった。
よごれ∞かぼちゃ∞野球狂時代≠フ、かつての持ちネタは、やりたくなかった。いずれも、すでに古くさい感じがつきまとうし、千代香の思い出と重なるのも嫌だった。若い美也子を相手に、むかしの芸を演じても仕方がないという思いと、いま一つ、千代香と作り上げたよごれ≠竍かぼちゃ≠竍野球狂時代≠ヘ、そのまま、そっとして置きたい気持ちもあった。
美也子は荒中千久に、操を立てている。それなら自分も、千代香に対して、芸の上での操を立てたいと思った。
美也子の三味線に合わせて、シゲルはマラカスをあやつることにした。両手に持ってリズムをとるのは、さほど難しくなく、すぐに馴れた。小気味よい砂の音は、三味線とも合った。
ネタはいくつか用意しており、客の顔ぶれを見て演じ分ける。そのため、新しい歌ばかり取り入れるわけにもいかず、年寄り向けも必要である。その辺りの臨機応変は、主導権を取るシゲルの責任だった。
古いなら、いっそのこと思い切り古いほうが面白い。そう考え、シゲルは昭和の初め、砂山捨吉という漫才師から、どこかの楽屋で教えてもらった今と昔≠ニいう数え歌を思い出し、美也子と掛け合いで歌うことにした。
※[#歌記号]一つとせ 開けた昭和の今日は 津々浦々の果てまでも 熱き御政治が行きわたり これを思えば徳川の 幕府の昔を考えりゃ 今の昭和は有難や
※[#歌記号]二つとせ ふるさと発ちいではるばると 父母訪ねて阿波おつる ところは浪花の玉造 警察眺めて目に涙 あのとき相談所があったなら あんなに苦労もしなけりゃ しもしない
シゲルが一番、美也子が二番と歌い継ぎ、
※[#歌記号]十とせ とかくまた文明の今日は 山を砕いて石を割り 大木茂れる信貴山の 神や仏の 参拝も ケーブル電車でわけもない 空を飛び交う飛行機で ハワイ旅行も夢の間よ これを思えば思うほど 開けた昭和の御代こそ有難や
まで歌い上げる。一番から九番までは、砂山捨吉に教えてもらったとおりだが、十番の、ケーブル電車のあとのところの
※[#歌記号]空を飛び交う飛行機で ハワイ旅行も夢の間よ
という文句だけは、今風にシゲルが付け足した。一番に徳川幕府という古めかしい言葉があるから、目下テレビなどで盛んにもてはやされているハワイ旅行を最後に出せば、その移り変わりが一段と強調されると思ったのである。
二人は何回となく練習を重ね、呼吸や間の取り方を計算した。美也子は勘が鋭く、絶妙の呼吸で突っ込む。そのとき、噛みつくように目を剥いたり、一転して笑顔になったり、あるいは素っとぼけたりと、表情も実に豊かだった。
いつかジャンジャン横丁で耳にした、男達の噂が本当だったと、シゲルは実感した。美也子の突っ込み≠ノは、シゲルのぼけ≠ェ薄れるほどの味があった。
舞台へ出せる自信がつき、いよいよ活動を始める前、美也子は四国へ行かせて欲しいと言った。
「うちが信仰しているお大師さんの御跡《みあと》を慕うて、八十八カ所めぐりをしたいと思うてますねんわ」
今年は一番の札所から四十三番まで巡り、一年おいて再来年、四十四番から八十八番まで回るという。荒中千久、桃月房子、それに千代香と、三人の霊を慰め、今後の舞台の成功を願ってきたいらしい。
「ほんまはシゲル兄さんにも、一緒に行ってもらいたいけど、無理ですやろな」
シゲルは信仰心に乏しいほうである。千代香の位牌と、ニカちゃんの両親の分は部屋に祭っているが、それ以外、特に拝んだりする対象はない。長年、仕事の場として、寺社の境内へ入り込んできたから、有難味を忘れたのかもしれなかった。
それを知っているので、美也子は強く誘わず、一人で四国へ遍路に向かった。予定は一週間だという。
「折角、練習した漫才、忘れたらあかんで」
「大丈夫ですがな。血の中へ入れ込んであるさかいに」
「千代香の霊も、頼むわな」
「まかせといて下さい」
ほな、行かせてもらいます、と言い置いて、美也子は家を出た。路地の入口まで、シゲルは見送り、家にいたミナミ菊丸も姿を見せた。
「美也ちゃん、ほんまに感心やで。身寄りのない房子はんの葬式から骨《こつ》上げまで、全部してやったもんな。最後の最後まで、面倒みてたで。なんぼ、仕事の相方やというても、なかなか、そこまではできんもんやからな」
ミナミ菊丸は腕組みしながら、一人で頷いた。シゲルより少し若いが、頭にはすでに毛が一本も残っていない。小柄な体が、なおさら小さくなったようだが、頭の大きさだけは異様に目立つ。シゲルが演じるかぼちゃ≠ノ似てきた。
「根がやさしいんやろ」
美也子が立ち去った表通りを眺めながら、シゲルは言った。ミナミ菊丸の孫を先頭に、三、四人の男の子らが二人のそばをすり抜けて、路地の奥へ駆け込んだ。まだ、便所の自慢をしているのかもしれなかった。
ミナミ菊丸は、それを見やりながら、
「そやから、シゲル兄さんも安心やな。大船に乗った気分でいられまっせ」
と、笑いかけた。
「どういう意味や、それは」
「荒中千久、桃月房子と、美也ちゃんは二人の最期を見とったわけや。二度あることは三度あると言いますやないか」
「あほ。俺はまだ、死なんぞ」
「けど、千年も万年も、生きられまへんがな。どう考えても、美也ちゃんよりは、シゲル兄さんのほうが先でっせ」
「げんの悪いこと、ぬかすなよ。新コンビで、いまから売り出そうとしてるのに」
「そら、そうやけど、二人の年を足したら、なんぼになりまっか。当然、百は越えてますわな」
「やかましい」
シゲルが叩く真似をすると、ミナミ菊丸は両手で禿頭を押さえた。男の子らは口々に喋りながら、路地の奥から現われ、表通りへ走り去った。
シゲルがてんのじ村へ戻ってきた晩、ミナミ菊丸も腹話術の太平公介も、涙を流してよろこんだ。二人とも、夜遅くまで帰ろうとしなかった。
そのうれしさが尾を引き、ミナミ菊丸は甘えている。憎まれ口を叩くのは、その裏返しだろうと、シゲルは受け止めた。
美也子は予定どおり、四国から戻った。巡礼にはバスを利用したという。歩いていては、何十日もかかるらしい。
円之助芸能社の口ききで入った初仕事は、福井県の敦賀にあるヘルスセンターだった。朝九時すぎ、二人は雷鳥≠ナ大阪を発った。
道頓堀の角座へ出ていた芸人が、敦賀のヘルスセンターの余興に出演するのは、正直、辛いはずである。だが、美也子はそんな気配を全く見せず、車中でも陽気に喋った。
「こうして、シゲル兄さんと並んで汽車に乗ってると、旅行でもしてる気分になりますな」
「新婚旅行、かいな」
「そうだす。六十八と四十一の、合わせて百|九《ここの》つの新婚さんですがな」
「足し算するから、あかんのや。引き算してみいな」
「六十八から四十一を引くと、二十七ですわな」
「それが、この俺の年やと思うてくれたら、ええんや」
「ほな、うちはゼロ歳でっか。そんな、あほな。ゼロ歳の女の子が、結婚できますかいな」
「そうなったら、ややこしいことやで。花婿が花嫁を、ねんねこで負うて新婚旅行に行かなあかん。哺乳瓶《ほにゆうびん》と、おしめ持って、背中のこの子、僕の嫁さんですねん、と」
「それ、兄さん、使えまっせ。今日のネタに、早速、入れまひょうな」
美也子は意気込んだ。シゲルも頷いた。二人の年齢差を話題にして発展させると、確かに使える材料だった。
一時間半ほどで到着し、駅まで迎えにきていたライトバンで、二人はヘルスセンターに入った。大広間の会場には、三百人余りの客が詰めかけている。生命保険会社の招待客だった。
どこの芸人なのか、東北|訛《なま》りのある手品師が、鳩を出して引き下がったあと、早速、シゲル達の出番になった。敦賀ぐらいなら、日帰りできるので、そのための時間を調整して、早くすませるようになっていた。
シゲルはモーニング、美也子は着物姿で舞台に立った。手にはそれぞれ、マラカスと三味線を持った。今日のために、シゲルは新世界の叩き売りで、モーニングを手に入れた。銀色のネクタイを締め、胸のポケットには白いハンカチをのぞかせた。
「実は今日、私ら、結婚しましてん。というても、ほんとの夫婦とは違いまっせ。誤解せんといて頂戴ね。漫才のコンビとして、くっつき合いましてんわ」
「そうだす。新コンビを組んで、今日が初めての舞台を務めさせて頂くことになりましたんや。花田シゲル・西美也子の、できたての、ほやほやコンビ、どうか今後とも、末長うに、ご贔屓《ひいき》下さいますよう、お願い申し上げます」
「お願い致します」
舞台の上から、二人が左右、正面と向き直って礼をすると、客席からは拍手が上がり、いくつもの励ましの声がかかった。
「有難うございます」
「有難うございます」
二人は何度も頭を下げた。好意的な客席の反応に、シゲルは先行き明るいものを感じた。
二人の年齢差を話題にして、早速、車中のネタを組み入れた。花嫁をねんねこで背負い、哺乳瓶とおしめを提げて新婚旅行に行くというくだりで、シゲルが動作を入れると、美也子はすかさず、子守唄を弾き語りした。客席は沸き、隣りの人の背中を叩いて笑いころげる女性もいた。
おしまいの数え歌のあと、
「そやけど、こんな古くさい歌を歌いながら、新婚旅行に行ったら、周りの人がびっくりしやはりますやろな。新婚旅行の、骨董品《こつとうひん》や言うて」
美也子が言うと、またも笑いがはじけた。爆笑のうちに、二人は舞台を下りた。新コンビの門出は成功だった。
楽屋で封筒入りのネットを受け取り、二人はヘルスセンターを出た。次にどんな芸人が出演するのか、見ている時間的な余裕はない。自分達の責任だけ果たすと、ただちに引き返さなければならなかった。
泊まりだと、ネットは割増しになるし、主催者側としては芸人の宿泊先まで手配しなければならない。余分な費用がかかる。それを避けるため、慌しい日程が組まれていた。
二人は四時すぎに、てんのじ村へ帰った。円之助芸能社へ立ち寄り、ネットはそのまま差し出す。その中から手数料を引かれ、改めて受け取るしきたりだった。
「シゲル兄さん、今夜、みんなを集めて、パーティやりまひょか。新コンビのお披露目と、初舞台の成功祝いを兼ねて」
「そら、ええな。やろか」
「ほな、うち、この足で市場へ寄って帰りまっさ。すき焼きで、よろしいか」
「それでええやろ」
半分ずつ受け取ったネットを、シゲルはそっくり、美也子の手に押しつけた。二年ぶりに稼いだ金だが、惜しいとは思わなかった。
「ええのに、そんなことしやはらんでも」
「ええから、それ、遣うてんか。どうせ、足らんはずやで」
敦賀のネットは、二人分で三万だった。そこから、芸能社に約一割の手数料を引かれている。すき焼きパーティには、酒もビールもいるから、その半分足らずの金では、充分でない。美也子も出費になるはずだった。
その夜、シゲルの家の六畳の間にガスコンロを二つ並べ、パーティを開いた。ミナミ菊丸、太平公介、花柳美根奴、それに菊丸の養女夫婦と、二人の子供らも参加した。
初めに、シゲルと美也子は立ち上がって並び、手短に挨拶した。敦賀の舞台での成功を話すと、みんなは拍手し、子供らまでが手を叩いた。前の長屋からの知り合いは、それだけになっていた。
ミナミ菊丸は自分で買ってきたシャンペンを抜き、太平公介は大きなケーキを差し出した。上にはチョコレートで相合傘が描かれ、シゲル・美也子と記されていた。
子供ら二人は、シゲルと美也子に花束を手渡した。
「おおきに、おおきに。うちらが勝手に呼び集めておきながら、こんなことしてもろたら、なんやしらんけど、シゲル兄さんと、ほんまに結婚でもした気分になってくるわ」
「したらええがな。どうせ、死に水、とらなあかんのやから」
ミナミ菊丸が野次を飛ばし、養女がそれをたしなめ、笑い声がはじけた。
シゲルはシャンペンに口をつけた。今夜は酔いつぶれてもかまわないと思った。気のいい、やさしい人間ばかりが、ここに残っている。そのやさしさが、居心地よい。それが忘れられなくて、てんのじ村へ舞い戻ってきたのだと、改めて悟った。
花柳美根奴は、自分で歌いながら、花笠音頭≠踊り始めた。普段は曲がっている腰が、踊るときには不思議と、真っ直に伸びた。
15
高速道路の工事が始まった。
てんのじ村にブルドーザーが入り、立ち退きのすんだ長屋や民家、アパートなどを、またたく間に壊していった。壁も材木も屋根瓦も、頓着なく、ブルドーザーは鋼鉄の牙を剥いて噛みつく。恐竜じみたショベルカーも加わり、巨大な爪を振りかざして襲いかかる。屋根瓦は派手に砕け散り、柱は悲鳴のような軋《きし》みを上げて折れる。舞い上がる土煙が静まったあとには、無惨に破壊された残骸《ざんがい》が浮かび上がった。
「もったいない話やなあ。瓦も柱も、まだ使えるやろに」
「それを残そと思うたら、手間がかかるからな。いっそ手荒に壊すほうが、安上がりなんやろ」
「折角、戦争で焼け残った建物が、むざむざと取り壊されてしまうやなんて、悲しい話やないか」
「それが、時代の流れ、ちゅうことやろな」
「そんな時代の流れなんか、いらんのに」
「ほんまや。このブルドーザーと、ショベルカーの奴らに、てんのじ村の息の根を断たれているような気がするな」
工事を遠まきに眺めながら、シゲルはミナミ菊丸や太平公介と話した。以前、住んでいた長屋も呆気なく取り壊され、あとには工事用のプレハブ小屋が建っていた。
新コンビを結成したが、仕事は年々少なくなり、シゲルはこのところ、暇な日が続いた。ミナミ菊丸や太平公介らも同様で、体を持て余した三人は、工事現場を眺めて時間を過ごした。
ブルドーザーやショベルカーの唸りに追い立てられるように、てんのじ村からはまた一段と、芸人の姿が減っていく。シゲルの知り合いでは花柳美根奴が、足腰の立つうちに身のふり方を決めておきたいと言い、羽曳野にある老人ホームへ入った。彼女には所帯を持っている二人の息子がいるが、どちらも引き取る気がないようであった。
花柳美根奴が入所する日、工務店を経営しているという五十年配の息子が、ライトバンで迎えにきた。タンスや食器戸棚など、大型の家具は老人ホームに持ち込めないので、美根奴婆さんは息子の家へ運ぶように頼んだ。が、彼はにべもなく、
「あかんあかん。こんなもの、持って帰っても、置くとこあれへんがな。どうせ、ぼろやないか。粗大ゴミの収集日に、捨ててもろたらええんや」
と言い、見送りに集まっていたシゲルらに向かって、
「頼みまっさ、処分しておくんなはれ」
と、ハンチングをかぶったまま、声をかけた。その態度が、シゲルの勘にさわった。
「あんたのお母さんが、長年、大事に使うてはった品物やで。持って帰ったら、どうや。それが親孝行ちゅうもんと違うか」
「そや。タンスも戸棚も、まだ充分、使えるがな。これぐらいのもの、置く場所ぐらい、どうにでもなるやろに」
シゲルに続いて、ミナミ菊丸が言うと、息子は意外そうな目を向けた。それっきり、不貞腐れたように口をつぐみ、自分一人でタンスを引きずり出そうとした。表通りへ放置するつもりらしい。
「それだけ邪魔なら、置いとけ。俺がもらうから」
我慢できずに、シゲルは怒鳴った。ミナミ菊丸も、食器戸棚をもらうと言った。どちらも欲しいわけではなかった。
だが、息子は、目深にかぶったハンチングの下の目に、意味ありげな笑いを浮かべ、運転席へ飛び乗ると、無言のまま、荒っぽいハンドルさばきで発進した。その間、花柳美根奴は助手席で、黙って目を閉じていた。
「気をつけてね、姉さん。面会に行かしてもらうからね」
美也子が駆け寄り、声をかけた。ライトバンは青い煙をまき散らし、路地の角を曲がって見えなくなった。
「お互い、年を取るにつれて、腹を立てる回数が多なったんやろか」
「そうかもしれんな」
シゲルとミナミ菊丸は、顔を見合わせて苦笑した。玄関先まで引きずり出されたタンスの引き出しが、半開きになり、樟脳《しようのう》の匂いを発散させた。
コンクリート製の巨大な橋桁《はしげた》ができ、高速道路が完成すると、てんのじ村の様相は一変した。古い家並みの上空を、わがもの顔でのたくる灰色の道に圧倒されて、村はいびつに縮かんだ。高架の下には赤土の露呈した空地が続き、味気なさに拍車をかけた。
シゲルはそのころから、妙な癖がついた。高速道路の橋桁のそばを通りかかると、尿意を催し、コンクリートの柱に向かって立ち小便した。
「分かりまんな、シゲル兄さんの、その気持ち。そういうのを、心理学的にみると、潜在的なんとか言うのと違いまっか」
ミナミ菊丸が知ったふうな解説を加え、自分も並んで放尿した。シゲル自身は、立ち退き騒動のこだわりなどないつもりだが、ミナミ菊丸の言うとおり、どこかになにかのわだかまりが潜んでいて、そういう行為に出るのかもしれなかった。
〈老人性の嫌がらせか、それとも、ぼけが回ったんやろか〉
しかし、相手はコンクリートである。立ち小便ぐらいでどうなるはずもないと思い、シゲルは気の向くままに放尿した。いつの間にか、ミナミ菊丸に続いて太平公介も、それを真似るようになった。
三人が小便をひっかける橋桁から、わずかに北寄りの地点に、高速道路の阿倍野入口がある。昭和五十二年の十一月、そのそばの空地に、記念碑が建立された。
このままの状態が続くと、早晩、てんのじ村は消えてしまう。高齢化した芸人達が欠けていくにつれ、消滅の危機にさらされている。
それを憂いて、この際、記念になるものを残しておこうという動きが、四年ほど前から持ち上がり、ようやく実現にこぎつけたのである。シゲルも世話役の一人として、その運動には名前を連ねていた。
高さ六メートル、幅二メートルの、愛媛産の青石で作られた記念碑には、漫才台本作家・秋田實の筆で、
てんのじ村記念碑
と刻まれ、右肩には上方演芸発祥之地≠ニ付け加えられている。台座には、いわれを刻み込んだ銅版がはめられ、正面の下には、赤御影石に白い字で大入≠ニ書いてある。総工費の七百五十万円は、かつて、この村に住んでいた芸人や、シゲルら地元の者が出し合った。
除幕式の日には、東洋一丸・勝江や、天王寺家忠造・光子、浪華一虫斎、星大流らも顔を見せた。橋川しのぶと杉君夫の二人は、東京へ出て行ったきり、音信はなく、その日も姿を現わさなかった。テレビにも登場しないから、まだどこかで、くすぶっているのかもしれなかった。
小春日和の日だった。二手に分かれた紐《ひも》の端に、シゲルも連なり、幕を取り除いた。快い陽射しを浴びて、青い岩肌は宝石めいたきらめきを放つ。珍しげに鳩が一羽、早々と止まった。
「もうちょっと、右のほうへ据えて、通天閣と向き合う格好にしたら、よかったのにな」
「そんなことしても、しゃないやろ。どうせ向こうが、高いのに決まっとるんやから」
「高い低いの問題やない、気持ちの問題や」
シゲルのそばで、ミナミ菊丸と太平公介が、珍妙な囁きを交わした。
式典が終わると、東洋一丸らは早々に引き上げた。いずれも仕事が待っているらしい。
「虫やん。馬鹿話でもしていかんか」
ミナミ菊丸が誘ったが、浪華一虫斎は、この次にな、と断わった。タクシーを呼び止め、乗り込んでから、
「どうでもええけど、菊やん、お前のここ、えらい、さっぱりしたな」
と、奇術の要領のしなやかな指の動きで頭を差し、そのまま走り去った。
「しようもないこと、ぬかしくさってからに。あのタクシー、事故でも起こしやがったらええのに」
ミナミ菊丸は唾を吐き捨てた。
浪曲の天王寺家忠造と光子は、テレビで見かける回数は減っているが、他の者は相変わらず活躍中である。関西の芸能界では、すでに確固たる地位を築いたようだった。
記念碑が完成すると、それまでは月に七、八本ほど舞い込んでいた仕事までが、半分に減った。碑が災いするわけはなく、てんのじ村の流れが、ちょうど、そういう時期に差しかかっていたのだろう。建てるのに時を得た、皮肉な結果ではあった。
立ち退き騒動に決着がついたとき、取り壊しの対象に入る建物の居住者には、補償金が支払われた。シゲルもそれは、受け取った。ミナミ菊丸も太平公介も美也子も、以前の長屋に住んでいた者は、居住年数に応じた額をもらった。
それをそっくり定期預金に回しているから、その利息と、老齢年金の支給分とで、贅沢さえしなければ、食べるのに困ることはない。美也子だけは年金の対象に入らないが、シゲルもミナミ菊丸も太平公介も、すでに充分な資格者だった。
立ち退きの反対運動の先頭に立っていたころは、思いもしなかった状況に、シゲルは置かれていた。補償金のおかげで、仕事がなくても細々と食える。これもまた、皮肉な現象ではあった。
美也子は京橋にある邦楽教室から頼まれて、週に二回、三味線を教えに行くようになった。漫才の仕事があると、そのほうを優先し、教室は休む。だが、重なるほど仕事の注文は入らないので、めったに休む必要もなかった。
「あの記念碑が、ちょうど、墓石みたいになってしもうたな。あれでもって、てんのじ村は一巻の終わり。死んだようなもんやがな」
ミナミ菊丸が慨嘆するが、シゲルにもその思いは強かった。碑を建てようという運動の発生自体、それを察知した火急の願いだったのだろう。
記念碑ができて三年目の秋、その前で簡単な催しが行なわれた。有志が集まり、その間に亡くなった者の霊を慰め、思い出を語ろうという試みだった。
言い出したのは、シゲルである。一人二人と欠けていき、てんのじ村に住んでいる芸人の中では、いつの間にか最高齢の八十一になっていた。
幸い、体のどこにも異常はない。新聞を読むときに眼鏡をかけるぐらいで、耳も歯も、足腰も達者だった。その年まで、医者知らずで過ごしてきた。舞台で声を張り上げ、適当に緊張するのが、体にとってはよいのかもしれなかった。
ミナミ菊丸は、シゲルより三つ下、太平公介は五つほど若いが、世間的には老人である。菊丸は入れ歯になり、公介は高血圧の持病があるものの、仕事さえあれば舞台に立つ。いずれもまだ当分、弱まりそうな気配はなかった。
「わしら、あほなことばかり言うて、のんきやから、この分やと、三人揃うて、百の大台まで生きるかもしれんで」
「化けものやな」
「わしらはともかく、シゲル兄さんは、ほんまにそこまで、いくかもしれまへんな」
「美也ちゃんがそばにいるからな。あのエネルギーが飛んできて、ええクスリになってるんやろ」
ミナミ菊丸と太平公介は、勝手なことを言った。その美也子も、すでに五十四になっていた。
電話やハガキで呼びかけたにもかかわらず、三年目の催しに集まったのは、八人だけであった。三人の他は芸人ではなく、近くの住人達である。東洋一丸らは姿を見せず、美也子は三味線教室のため、欠席した。
「おじんやおばんが集まって、思い出なんか話しても、しゃないちゅうことかいな」
「そんな暇があったら、孫の守りでもしとけと、息子や嫁に言われとるのかもしれまへんで」
長椅子に腰を下ろして、茶を啜りながら話していると、三味線のケースを提げた美也子が姿を見せた。顔を出そうと思って、早目に切り上げてきたという。急いで歩いたらしく、紫の着物の裾が、わずかに乱れていた。
「シゲル兄さん、ちょっと」
美也子はシゲルを手招きした。
「こんなところで内証話をせんかて、家でなんぼでも、できるやろに、見せつける気かいな」
気づいたらしく、ミナミ菊丸が茶化した。いつもの美也子なら、すかさず、なにか言い返すところだが、相手にならず、シゲルの耳元へ口を寄せた。
「いま、そこで、ニカちゃん兄さんに似た人を見かけましてん」
「ニカちゃん?」
とっさには分からず、シゲルは訊き返した。その声で、ミナミ菊丸と太平公介もそばへきた。周りがニカちゃんと言うので、美也子は以前から、それに兄さんを付けて呼んでいた。
「ニカちゃんいうて、あの、むかし、一緒に住んでた、あれか」
記憶をたどりながら、シゲルは美也子の顔を見た。
「芸名、朝日家ハーモニカ。本名は確か……」
ミナミ菊丸が口出しした。
「もう何十年にもなるさかいに、顔ははっきりと分からへんけど、ニカちゃん兄さん、確か右腕を、戦争で失うてはりましたわな」
「そや、右や」
美也子の話に、シゲルは意気込んだ。そのため、左手で卵の殻の中に絵を描く練習を重ね、舞台でも演じて見せた。シゲルはよく覚えている。
「こんな肌寒い季節やのに、その人、半袖シャツ、着てはるんよ。しかも、右のほうの手がないから、よう目立つさかいに、うち、なんとなく見ながら歩いてたんよ。そしたら、視線が合うて、あ、どこかで見たような顔やなと思うたとたん、向こうもびっくりしたような顔で、こっちを見てはるんやわ」
「それで」
「ニカちゃん兄さん、大きな目、してはったし、その人、顔は白髪混りの髭だらけやけど、同じような大きな目、してはりますんや。そやから、うち、思わず、ニカちゃん兄さんと違いますの、と、声をかけたら、その人、慌てたように背中向けはりましてん。そのまま、逃げるように、姿をくらましはったんですわ」
美也子の話を聞くうち、それはニカちゃんに違いなさそうだと、シゲルには思えた。ドロンしたのは、昭和二十九年ごろである。それから二十五、六年も経つから、ニカちゃんもすでに、六十を二つ三つ越えているはずだった。シゲルは急激に、懐かしさを覚えた。
美也子が見かけたのは、天王寺公園の藤棚のそばだったという。公園を通り抜けようとしたとき、よろつく足取りで現われた男が、金網のクズかごに片手を突っ込んだ。投げ捨ててある折り詰め弁当を、拾い上げた。それが、ニカちゃんに似た男だったらしい。
天王寺公園と、てんのじ村の間には、鉄道と道路が二本、走っている。だが、直線で結ぶと、二、三百メートルほどの距離だった。老いて近くまで舞い戻ったが、落ちぶれた姿を見られたくないために、そんなところをうろついているのかもしれない。
シゲルは記念碑の前へ集まった人達に、急用ができたと断わり、天王寺公園へ向かった。ミナミ菊九と太平公介が後に続き、美也子も三味線を提げて従った。
「あほやなあ。こんな近くにいるのなら、なんで、てんのじ村へ戻ってこんのや」
「義理の悪いことでも、したと思うとるんやろか」
ミナミ菊丸と太平公介は、すでにニカちゃんだと決めてかかっている。シゲルもそれは同じだった。
一つだけある環状線の踏切を渡り、四人は天王寺公園へたどり着いた。なんの花か、花壇には赤と黄色の花々が密生して咲き競い、まだ青味を残した芝生の上には、アベックらが陣取っている。西の空の果てにはトマト型の夕陽があり、大気を紅に染めかけたところだった。
藤棚の下のベンチは、十人余りの浮浪者達に占拠されていた。中には布団や毛布を持ち込んでいる者もある。
シゲルを先頭に、四人は順番に顔を確かめて回った。文句を言う者はなく、いずれも無気力そうな目を、着物姿の美也子に投げかけた。
「右腕のない男、知らんか」
七輪に鍋をかけ、煮ものをしている男に、ミナミ菊丸が尋ねたが、聞こえないのか、振り向きもしなかった。
図書館のそばを抜け、四人は美術館のほうへ足を向けた。銀杏《いちよう》が葉を落とし、地面には金色のまだら模様ができていた。
夕陽は赤味を増し、美術館の窓が燃え立った。玄関の石段の中ほどに、男が一人、座り込んでいる。白っぽい半袖のシャツ姿で、ゴム長をはき、正面から浴びせる朱色の光線を、ぼんやり眺めていた。
「あれよ、あれ」
美也子が指差した。シゲルは小走り、みんなも急いだ。男が慌てたように顔を向けた。
「ニカちゃん!」
シゲルは叫んだ。男は立ち上がり、片手で這うようにして石段を登った。だが、その先にある美術館の玄関はすでに閉まり、行き止まりになった。そのまま玄関に顔を向け、汚れたシャツの背中を見せた男のそばへ、四人は近寄った。美也子は石段の下へ、三味線を投げ出していた。
「これはこれは、みなさん、お揃いで、ご機嫌さん」
どう対処しようかと、思案したらしい。数秒間、後ろ向きになっていた男が、振り返るなり、そう言った。やはり、ニカちゃんだった。白いものが目立つ髭面の中で、シゲルの見覚えのある大きな目が、怖《お》じ気づいたような動き方をした。
「こんな近くにいて、なんで、てんのじ村へ帰ってこんのや。水くさいやないか」
懐かしさで、喉に熱い固まりが込み上げてきそうになったので、シゲルはわざと怒鳴りつけ、力まかせに肩を叩いた。ニカちゃんはよろけ、
「すんまへん、つい、その、敷居が高うて」
と、気弱そうに呟いた。
「てんのじ村に、敷居なんかあるかい」
ミナミ菊丸が言い返す。
「いや、その、敷居やのうて、鴨居《かもい》かいな。ほら、頭の上に、大そうなものができてますやろ。あれを見たら、なんやしらんけど、わいの知ってるてんのじ村ではないように思えて、足が縮かんでしまいましたんや」
ニカちゃんは黄色い歯をのぞかせた。
「よっしゃ。それだけのことが喋れたら、充分や。とにかく、引き上げよう」
シゲルが促し、みんなはニカちゃんを取り囲んで石段を下りた。夕陽は半円型に残り、右側にそびえる通天閣を、火の塔に塗り上げている。ニカちゃんが歩くたびに、ゴム長の破れ目が珍妙な音色を奏でた。
「この格好、戦地から戻ってきたときより、勇ましいやないか」
シゲルが元気づけようとして言うと、ミナミ菊丸が、
「グアム島も、ルバング島も、顔負けやな」
と、付け加えた。
美也子は一人だけ遅れ、三味線を胸元に抱きかかえ、うつ向き加減で歩いた。ニカちゃんの変わりように胸を痛め、泣いているのかもしれなかった。
「近くて遠いは、てんのじ村。遠くて近いは、人の情。これ、いまのわいの実感でんな」
どういうつもりか、ニカちゃんはそんな言葉を口にしてから、へへへへと、特徴のある笑い方をした。老いたせいか、その声はどこか漏れるような頼りなさであった。
16
ニカちゃんは衰弱していた。シゲルの家へ住まわせ、病院へ連れて行こうとしたが、頑に拒んだ。金銭面で、シゲルに迷惑をかけたくないと考えてるのかもしれなかった。
髭を剃ると、その下から、むかしの顔が表われた。が、痩せて肉の削《そ》げた分だけ、老けて映る。頬骨と顎が張り出し、もともと長かった顔が、なおさら間延びして見えた。
ドロンした相手のストリッパー、インドのお姫様のことは、口にしようとしなかった。古い話である。あのあと、どうなったのか、シゲルも特に興味などないし、ニカちゃんとしても話したくないようだった。
ただ、天王寺公園で浮浪生活に身を落としていた状況を考えると、その後、ニカちゃんがどのような暮らしをしてきたのか、おおよその想像はできた。いつからそういう羽目に陥ったのか、それまではどこでなにをしていたのか、ニカちゃんは話そうとしないし、シゲルも訊かなかった。体は衰えているが、それだけに、きれいさっぱりと、過去のしがらみをかなぐり捨て、洗い晒《さら》されて戻ってきたように思えた。
もうハーモニカを吹く力はなく、手が震えて絵も描けない。脚も弱っている。
「なあ、ニカちゃんよ。ずっと、むかし、お前、俺のこの背中に、入れ墨を彫りたいと言うたことがあったけど、いまなら、弁天さんだろうが観音さんだろうが、なんでも好きな絵を彫らしたるけどな。一丁、試してみるか」
テレビが見える場所に敷いた布団で、一日中、横たわっているニカちゃんを、励まそうとしてシゲルが言うと、
「あきまへん。わいのこの手は、電気アンマみたいに震えよるし、シゲル兄さんのその肌は、もう油紙みたいな色でんがな。お互い、いたみ分けや」
と、力なく笑い、空咳《からぜき》をした。
その咳が止まず、エビ状に体を曲げて苦しむときがあり、聞きつけた美也子も二階から下りてきて、シゲルと二人がかりで背中を撫でたりしていると、咳き込みながらもニカちゃんは、しきりになにか口走った。
「オンディバヤキシャバンダバンダソワカ。ナルビルシャナブツオンバラダトバン。タンマカキャロニカソワカ。オンハンドマダラアバキヤジャラジイソロソロソワカ。オンアラハシャナ」
信心深い美也子は、経文のようだと言うが、シゲルには皆目、分からない。ニカちゃんは咳き込みながらも何回となく、それを唱え、片手で胸を押えた。
「なんやねん、それ」
平静なときに、シゲルが尋ねると、ニカちゃんは自分のおまじないだと言った。苦しいときにそれを唱えると、不思議と、らくになるのだという。
「腹が減って、死にそうなときでも、これを唱えながら、うろつき回ってたら、必ず食いもんにありつけましたで。袋に入ったままのパンがあったり、まだ手をつけてないすしの折りがあったりしますんや。ええ、おまじないでっせ」
そのときだけ、かつてのニカちゃんらしい、ひょうきん者の目つきになり、
「そういうたら、戦後間もないころ、シゲル兄さんと浮浪者の慰問に行ったことおましたけど、あんじょう、自分がその仲間になってしもうてからに。さっぱり、わやや」
と、笑顔を見せた。それから、種明かししまっさ、と、真面目な表情になり、説明した。
それによると、ニカちゃんのおまじないというのは、寺などに参ったときに唱える、ご真言や祈願文の類らしい。
オンディバヤキシャバンダバンダソワカというのは、天王寺にある本邦最初の庚申尊のご真言、ナルビルシャナブツオンバラダトバンは、奈良の東大寺の大仏殿、タンマカキャロニカソワカは二月堂、オンハンドマダラアバキヤジャラジイソロソロソワカは、同じく奈良の興福寺の南圓堂、オンアラハシャナは、比叡山延暦寺の文殊菩薩の祈願文らしかった。
「仕事であちこち旅して回るうちに、そんなところへ立ち寄って、つい覚えましたんやが、一つよりは三つも四つも一緒のほうが、効き目が多いやろと思うて、庚申さんも大仏さんも文殊さんも、ひとまとめにして、わいのおまじないにしてますんや」
「そんな無茶なことをしたら、かえって罰《ばち》が当たるんと違うかいな」
「そうかもしれまへんな。げんに、この有様やから」
「そんな意味で言うたんと違うで」
「分かってますがな。けど、こんなことにすがるのは、わいが弱ってきた証拠や。もう、先は見えてまっせ」
「あほなこと言うなよ。俺も菊やんも公介も、百まで生きるつもりやのに」
「残念やけど、わいはそこまで、付き合い切れまへんで」
ニカちゃんと喋《しやべ》るのが、シゲルには愉しかった。懐かしい話が、次々と甦った。だが、長話を続けると、ニカちゃんはひたいに脂汗をにじませ、それでもまだ喋ろうとするので、頃合いを見計らって打ち切る必要があった。
美也子は細かい気配りを見せた。シゲルとニカちゃんの二人分の食事の世話をし、暇があれば布団のそばに付き添った。
むかし、シゲルはニカちゃんと美也子を夫婦にしたいと願った覚えがある。自分には過ぎる相手だと、ニカちゃんは辞退したが、いま思うと、そのころ、彼はあのインドのお姫さんと付き合っていたのだろう。
シゲルの口から、ニカちゃんはどうかと、美也子に言った記憶はない。だが、千代香が密かに打診している可能性はあった。とすると、そのとき美也子は、どう答えたのか。
もともと、心根のやさしい女だが、ニカちゃんに対しては、特に献身的だった。夜中にでも咳をすると、寝間着の上に羽織を引っかけて、すぐに下りてきた。シゲルに世話をかけさせないようにと、気遣っているせいもあるのだろうが、それだけとは思えない尽くしようである。
〈俺が寝込んだときも、これぐらいの面倒をみてくれるやろか〉
シゲルがふと、妬《ねた》ましさを覚えるほどだった。単なる親切なのか、特別な感情の表われなのか、いつか機会をみて、美也子に確かめたかった。
ニカちゃんが同居するようになって半年余り経ったころ、東京のテレビ局の者だという男の声で、シゲルに電話がかかった。東西の古い芸の持ち主達を呼び集め、みんな合わせて五百歳≠ニいう題の番組を作りたいと言った。
「こちらの手元にある資料によりますと、花田シゲルさんは明治三十二年一月十九日、つまり、一八九九年のお生まれですから、今年で満八十二歳になられますし、相方の西美也子さんは昭和元年、一九二六年のお生まれで、満五十五歳ですね。二人合わせると、百三十七歳になります」
そういう資料を、どこで手に入れたのか、男の話は正確である。東京のテレビ局が、自分のことを知っている──。シゲルにとって、それはうれしい衝撃だった。
「それで、東京のほうで二組と、大阪のほうでは一組、花田シゲル・西美也子さんのコンビだけということになりますが、ぜひ、出演願えないでしょうか」
夜の生放送なので、その日は東京で宿泊することになる。無論、ホテルを手配するし、交通費と食事代も持つという。願ってもない条件だった。
受話器を耳に当てながら、シゲルの体は細かく震えた。テレビ局から、最高の条件で仕事が舞い込んだ。しかも、大阪ではない。東京のテレビ局からだ。
「お二人の持ち時間は、十五分ぐらいになると思いますが、私どもがお願いしたいのは、花田シゲルさんのドジョウすくい≠ニかぼちゃ≠ナすね。その二つを、十五分以内で収まるように、ぜひ、見せて欲しいのですが、いかがでしょうか」
いかがでしょうも、なにもない。よろこんで、やらせてもらいたい。が、すぐには声が出ず、シゲルは唾をのみ込もうとした。喉が引きつれ、目を剥いた。
ニカちゃんにリンゴのジュースを飲ませていた美也子が、怪訝《けげん》な顔で立ち上がり、シゲルにも水の入ったコップを手渡した。
「どうでしょう。ぜひ、お願いしたいのですが」
「へ、よろしおます」
水で喉を湿らせて、シゲルはようやく返事をした。声はうわずった。
「じゃ、詳しいスケジュールは、追ってお知らせ致しますが、西美也子さんにも、よろしくお伝え下さい。言い遅れましたが、私──」
男は芸能担当の栗原だと名乗り、電話を切った。シゲルの体は、まだ震えた。
「テレビからや」
わざと、さり気なく言い置いて、シゲルは便所へ入った。高ぶり、震えているところを、美也子やニカちゃんに見られたくなかった。
長々と時間をかけて用を足し、落ちつきを取り戻してから、二人のそばへ戻った。
「よごれ≠ニかぼちゃ≠、やって欲しいらしい。美也ちゃんと二人で」
「どこのテレビでっか」
美也子より先に、ニカちゃんが訊いた。
「東京や」
シゲルはぶっきら棒に答えた。よろこびを悟られるのが、面映ゆい。この年になって、初めてめぐってきたテレビ出演である。近ごろでこそ忘れかけていたけれど、一時はどれだけ憧れ、羨《うらや》ましがったことか。いまかいまかと、テレビ局からの連絡を待ちこがれた時期もあった。
素直によろこびを表わすには、年を取りすぎた。待って待って、待ちくたびれた。挙句に、諦めの境地になり、テレビなど、もう無縁だと思えるいまになって、転がり込んだ話である。それを、あからさまによろこぶのは、自分自身に対しても、きまりが悪かった。みっともなく思えた。
「大したもんでんな、シゲル兄さん。兄さんの芸は、東京まで鳴り響いとるわけでっせ」
ニカちゃんは起き上がろうとした。素早く、美也子が手助けする。すんまへん、と小さく言い、ニカちゃんは布団の上に座った。
「早速、お祝いせな、あかんがな。居候の分際で、厚かましいことを言うようやけど、美也ちゃん、今夜は菊丸兄さんや公介兄さんに集まってもろて、宴会でっせ」
「そんな、大そうなことと違うがな、テレビに出るぐらい」
シゲルがなだめたが、ニカちゃんは聞き入れず、美也子を急《せ》き立てて連絡に行かせた。
「大そうなことでっせ、テレビに出るちゅうのは。全国民を前にして、舞台に立つようなもんやないですか。それだけ大勢の人に、自分の芸を見てもらえますねんで。芸人として、そんな幸せなこと、おますかいな。遠いむかし、確か兄さんと一緒に、わいもそんな夢を描いたことがおましたな」
「そうやったかいな」
「とぼけてからに。お見通しでっせ、兄さんの気持ちは」
「なにかいな」
「うれしゅうて、かなわん、ちゅうて、顔に描いてありまっせ」
「そんなこと、あるかいな」
「あるある。大ありやがな」
「ちょっと、ニカちゃん。今日は喋りすぎやぞ」
シゲルが止めるのに、ニカちゃんはやめない。こんなめでたい日や、喋りたいだけ喋らせてんか、と言い、
「そやけど、シゲル兄さんは偉い。ほんまに、大したもんや。わいは夢で終わったけど、兄さんはついに、その夢を実現させるんやからな。立派なもんや。しかも、大阪やない、東京のテレビや。なんちゅうたかて、東京は日本のヘソや。大きな出ベソや。檜《ひのき》舞台どころか、ダイヤモンドの舞台やがな」
「そんな大そうなこととは違う、ちゅうのに。たかがテレビやないか。ほら、俺とこにも、そこにあるで、安物が」
シゲルはてれて、話をはぐらかした。だが、内心、うれしさが広がった。ニカちゃんは素直に、祝福してくれる。ともに、よろこんでいる。その気持ちが、うれしかった。
その夜、ミナミ菊丸と太平公介が顔を見せ、祝宴になった。なにかあると、すぐに集まり、すき焼きの鍋をつつく。その晩も、ニカちゃんの布団のそばへコンロを据え、シゲル、美也子、ミナミ菊九、太平公介が取り囲むように座った。
「その、東京のテレビ局にある資料に、俺や公介の名前も載ってるかどうか、行ったついでに、調べといて欲しいな」
「そや。もし、付け落ちになってたら、シゲル兄さん、こそこそっと、書き加えといておくんなはれ。頼みまっさ」
「ニカちゃんの分も、な」
ミナミ菊丸と太平公介が、冗談とも本気ともつかない口ぶりで言った。二人とも何回となく酒のコップをかざし、乾杯を叫んだ。
17
出発の前日まで、シゲルは練習に励んだ。
よごれ≠ニかぼちゃ≠ヘ、長い間、演じていない。美也子と組んでからは初めてでもあり、呼吸を合わせる必要があった。
よごれ≠ヘ安来節、かぼちゃ≠ノは童謡の靴が鳴る≠ニ浪花小唄≠ェ要る。美也子の三味線の腕は全く心配いらないが、安来節はめったに歌わないので、その弾き語りを練習しなければならなかった。
布団に臥せたまま、ニカちゃんが二人を見守った。ときにはミナミ菊丸と太平公介も姿を見せ、腕組みしながら、おとなしく見物した。批評めいたことは、誰も言わない。お互いにプロである。他人の芸に差し出がましい口を挟むのは、最大の無礼になると心得ていた。すき焼きの宴とは一変して、そこには厳しい空気がたち込めた。
練習に入る前、シゲルは一つ、美也子に頼みごとをした。三味線は、千代香の愛用した分を使って欲しい。せめて三味線だけでも、一緒に東京へ連れて行き、テレビに出してやりたかった。千代香もテレビ出演を、夢にしていたのだ。
美也子は快く承諾し、馴れるために、練習のときから千代香の三味線を使用した。
「おう、おう。千代香姉さんもよろこんで、張り切って鳴ってはりますわ」
バチをはじきながら調子を確かめ、美也子は声量たっぷりに安来節を歌った。路地の外まで聞こえたらしく、クリーニング屋と雑貨屋の親父が、玄関先から顔をのぞかせた。
ミナミ菊丸と太平公介にニカちゃんの世話を頼み、当日、二人は新幹線で上京した。美也子と並んで指定席に収まりながら、シゲルは指を折って数えた。
大正九年、芸人になって間もないころ、安来節の一座とともに上京し、浅草を中心に二年ほど、東京の舞台を踏んだことがある。それ以来、六十何年振りだった。当時は夜行列車で何時間もかかり、東京駅に降りたとき、煤煙《すす》で汚れたシゲルの顔を見て、
「シゲさん、そのままでよごれ≠ェできるぞ」
と、誰かに言われたのを覚えている。そう言う相手も、鼻の周りが黒かった。
シゲルと美也子は、東京駅からタクシーに乗った。テレビ局の名前を告げ、玄関へ横着けすれば、そちらで料金を払うという話だった。
東京が初めてだという美也子は、大して珍しがる様子もなく、
「大阪も東京も、同じようなもんですわな。車と人間が、ぎょうさんいてからに」
と呟《つぶや》き、ちらっと窓の外へ目をやったきりである。それでも彼女は、けさは早くから美容院へ行き、髪を整えていた。
テレビ局の玄関には、赤い絨毯が敷いてあった。受付で名前を言うと、女の子がダイヤルを回し、少し待つようにと告げた。ソファに腰を下ろしながら、シゲルの脚は自然に震え始めた。
なんだか、よい匂いがする。シゲルは鼻をうごめかせた。美也子の髪かと思ったが、そうではなく、なにか香料が漂うようだった。
ほどなく、ジャンパー姿の男が現われ、栗原だと名乗った。長身で、薄い色のついた眼鏡をかけていた。
「遠いところを、ご苦労さまでした」
短くねぎらい、先に立って案内した。エレベーターに乗り、五階で降りて、また長い廊下を歩いた。どうぞ、と、促されて入った部屋には、シゲル達と似た年格好の男女が二組、行儀よくソファに座っていた。
「では、みなさん、お揃いになりましたので、私のほうから紹介させて頂きます」
栗原はそばに控えた長髪の男から、書類のようなものを受け取り、シゲルらと向き合う形で座った二人を手で示した。
「こちらにいらっしゃいますのが、寿々山徳丸・久枝さんです。徳丸さんが七十五歳、久枝さんが七十歳で、合わせて百四十五歳の漫才コンビです」
紹介された二人は、無言で頭を下げた。男より女のほうが恰幅《かつぷく》のよいコンビだった。
次いで栗原は、シゲル達のほうを向いた。
「大阪からきて頂きました、花田シゲル・西美也子さんです。シゲルさんは八十二歳、美也子さんは五十五歳になられます。合わせて百三十七歳ですね」
「よろしゅうに頼みます」
シゲルは深々と礼をした。美也子も同じように挨拶した。
「さて、こちらのお二人が、今日の最高齢者、芦田家文助・トミさんの漫才コンビです。文助さんは九十一歳、トミさんは八十九歳ですから、お二人合わせると、ちょうど百八十歳になられます」
紹介された芦田家文助は、小さな顔を正面に向けたまま、目玉だけをわずかに動かした。芦田家トミは黙って礼をした。
二人の年齢を聞いたとき、シゲルは思わず唸《うな》った。九十一と八十九がいるとは、予想外だった。
東京へくる前、シゲルは密かに考えていることがあった。集まる三組の芸人の中では、八十二歳の自分が、最も年長ではないかと思っていた。
その年で、現役というのは、数少ない。げんに、てんのじ村では最高齢者である。いや、大阪中を捜しても、いないのではないか。自分が最年長ではないか。それだからこそ、わざわざ東京まで、招かれたのだろうと思っていた。
年が上だからといって、偉いわけでもない。芸が達者とも限らない。だが、その年まで、芸一筋に生きてきた実績は、得難い。その実績は高齢になるほど有難味が加わり、世間の見る目も変わっていく。芸に箔《はく》が付き、輝きを増す。
同じ芸道なら、漫才の道なら、六十歳よりは七十歳、七十歳よりは八十歳の演じるほうが、面白味はともかくとして、世間の受け止め方は明らかに違う。その年で、よくもそんな芸ができるものだと、感心され、尊敬もされかねない。年上という事実だけで、得をする場合が生じる。
シゲルはそこに、自分がいるのではないかと、思っていたのである。自分より年上の現役の芸人は、東京にもいないだろうと、自負していた。東京にいなければ、日本にも、という期待もあった。
しかし、見込みは外れた。東京には、九十一と八十九がいた。
〈やっぱり、てんのじ村よりは、広いちゅうことやな〉
恐れ入りましたと、言葉が出そうになるのを、シゲルはのみ込んだ。自分が急に、若僧になり下がったような心地さえした。
三組の年齢を合計すると、四百六十二歳になる。それに、司会役の若い二人──近藤光之という二十歳の男の子と、松田エリカという十八歳の女の子の分を加え、ちょうど、五百歳になるのだと、栗原は説明した。二人は歌手らしい。
「この番組は、単にみなさんのお年を売りものにしようというわけではありません。当然のことですが、それぞれ、何十年もかかって磨き上げてこられた珠玉の芸を、テレビを通じて、全国のみなさんにお見せしたいと考えて、企画したものです。その点、誤解のないように、お願い致します」
栗原はそう言い、三十分ほど休憩したあと、リハーサルに入りたいと付け加えた。
コーヒーとジュースと、どちらがいいかと、女の子が訊きに現われ、シゲルはジュースを注文した。栗原らは姿を消し、三組の六人だけが残った。
「どうも、こういう晴れがましい場所は、苦手ですね、あたしゃ」
寿々山徳丸が垂れ気味の目を和めて語りかけ、それがきっかけで雑談になった。全国くまなく歩き回ったつもりだが、上方だけは縁がなく、いつも素通りしていると、芦田家文助も意外と艶《つや》のある声で喋った。
二組とも、いわゆるどさ回り専門の芸人で、一流の劇場には出た経験がないらしい。無論、テレビは初めてである。
いまでこそ、シゲルも大劇場には出演する機会がないが、かつては、神戸、京都、大阪、それに東京まできて、当時の一流演芸場の舞台を踏んだ実績がある。美也子の角座には、少々見劣りするけれど、どさ専門だという目の前の二組よりは、華々しい経歴だ。少なくとも、どさ回りだけではなかった。
〈勝ってるな〉
そう思うと、シゲルは優越感を覚え、気持ちがらくになった。テレビ局へ足を踏み入れたときから、自分の体ではないような感覚に捉われ、落ちつかないでいたのだが、少し余裕が生まれた。それでも、ストローを持つ指は、まだ震え気味だった。
「それじゃ、お願い致します」
栗原が現われて声をかけ、六人は彼に付いて部屋を出た。磨かれた廊下をいくつか曲がり、楽屋のようなところへ連れて行かれ、一同は支度にかかった。足らない品物があれば、取り揃えますが、と訊き、栗原はまたも姿を消した。シゲルと美也子は片隅に陣取り、衣裳を着けた。
よごれ≠ニかぼちゃ≠ヘ全く扮装が異なるから、十五分の持ち時間内で二つを演じるとなると、途中での着替えを迅速に行なわなければならない。豆しぼりの頬かぶりや、鼻の一文銭、腰かごなど、小道具の多いよごれ≠フほうに手間がかかるので、シゲルは先にそれを演じることにした。
終わると、舞台の袖へ駆け込み、学生帽、かすりの着物、袴、それに足袋《たび》と下駄のかぼちゃ≠ノ早替わりする。そのうち、最も時間を食う足袋だけは、よごれ≠フときからはいておくことに決めた。
それでも二十秒ぐらいはかかるので、シゲルが栗原に相談すると、
「じゃ、その間に、CMを入れましょう」
と、簡単に答えた。
支度を整えた六人は、ひな壇式の客席が見渡せる舞台へ連れて行かれた。天井には無数の照明器具がぶら下がり、テレビカメラが三台、前方に控えている。レシーバーのようなものを頭に付けたり、台本らしいものを手にした男達が何人も、忙《せわ》しなく動き回った。
客席は薄暗く、まだ誰もいない。だが、真上から強い光線を浴び、正面で待機するカメラを見たとたん、シゲルの体は震え始めた。今度は前よりも激しく、上体が前後に揺れた。
「大丈夫ですか、シゲル兄さん」
気づいたらしく、美也子が耳元で囁《ささや》いた。
「ああ、大丈夫や」
答えるつもりが声にならず、口の中で消滅した。
〈こんなもの、どうってことあれへんがな、どうってこと。俺はこの年まで、何百回も舞台を踏んできてるんやないか〉
シゲルは自分に言い聞かせようとした。
〈劇場《ハコ》の経験がない寿々山徳丸や、芦田家文助なんかと違う。俺は大舞台にも立った経験があるやないか〉
落ちつけ、落ちつけと、シゲルは呟いた。咳払いして、そっと深呼吸も繰り返した。だが、体の震えは収まりそうになかった。
テレビで見た覚えのある近藤光之と松田エリカが姿を現わし、栗原が舞台の上で手短に紹介した。
「よろしくお願いしまーす」
青いジャケットに白いスラックスの、お揃いの格好をした二人は、語尾を引くような言い方をして、大袈裟に頭を下げた。それから台本を開き、栗原と顔を寄せて打ち合わせを始めた。
足した年が最も若いシゲルらのコンビから、リハーサルを行なうことになり、栗原の合図で二人だけが舞台に残された。美也子は着物の襟元に小型のマイクを付けられ、
「じゃ、お願いします」
の、栗原の声で、三味線を弾き始めた。
※[#歌記号]安来千軒 名の出たところ
社日桜や 十神山 アラエッサッサ
美也子が一番を歌い、二番に入りかける辺りで、シゲルは舞台の下手から登場した。ざるをかぶり、へっぴり腰になって、足を運んでいく。
だが、膝が震えて足がもつれ、十歩ほど進んだところで、転んでしまった。ざるが頭から外れ、舞台の端へ飛んだ。
「ストップ。大丈夫ですか」
どこからか、栗原の大声が響いた。美也子は弾き語りを止め、シゲルのそばへ寄った。
「大丈夫? 兄さん」
抱き起こしながら、心配そうにのぞき込む。
「ああ。ちょっと、つまずいただけや」
起き上がり、シゲルはジャンパー姿の男が手渡すざるをかぶり直して、再び舞台の袖へ引き下がった。体に異常はなかった。
〈なんちゅうざまや。俺らしゅうもない〉
鼻の一文銭を確かめ、深呼吸して、シゲルは人目がないのを幸いに、てのひらに人≠フ字を書き、のみ込んだ。美也子は一番を終わり、二番に取りかかった。
〈よし、今度こそ〉
シゲルは慎重に足を運んだ。抜き足差し足の要領で、舞台の中央へ出て行った。が、足に気を回しすぎ、次の動作に移るのを失念した。ざるをかぶったまま、いつまでも舞台の上をうろつくシゲルに、
「兄さん、次、次」
と、美也子が歌の途中で教えた。その声がマイクを通して場内に聞こえ、栗原はまたもストップをかけた。
「大丈夫ですかね」
栗原が眼鏡を光らせて舞台へ駆け登り、不機嫌そうに言った。
「すんまへん」
「ちょっと、緊張してはりますんやわ。すんませんけど、次のお方を先にしてもろて、その間、休憩させてもらえませんやろか」
美也子が頼むと、栗原は頷いた。二人は舞台の袖へ引き下がり、代わって寿々山徳丸・久枝が登場した。彼らは楽器を用いず、喋るだけである。全国に散らばる国鉄の駅名を、一つも残さずに並べ立てる漫才だった。
その声も、しかし、シゲルの耳には入らなかった。よごれ≠ナは、これまで失敗などした覚えはない。仮に失敗をしても、それがまた、芸にすり替えて見せられるはずだった。
それなのに二度も、続けざまに、思いがけない失敗をやらかした。よりによって、東京のテレビ局へきて、である。そんなへまをするなど、夢にも思わなかった。
「あんまり張り切ったら、体に毒でっせ。見てみなはれ、ここにいてはるテレビの人ら。みんな、うちらの息子みたいな年の人ばっかりですがな。いいえ、シゲル兄さんから見たら、どのお方も、孫でっせ」
長椅子に並んで腰を下ろしながら、美也子が言った。大舞台の経験がある自信からか、彼女はいつもと変わらなかった。
「じゃ、次、かぼちゃ≠やってくれますか」
栗原が現われ、声をかけた。
「すんまへん、ご迷惑かけて」
シゲルは謝り、すぐさま衣裳を替えた。かすりの着物、袴、下駄、そして学生帽をかぶった。栗原はそばで見守った。
美也子の言うとおり、みんな孫のような男達ばかりである。栗原にしても、同じだろう。
〈よっしゃ。今度は大丈夫や〉
シゲルは自分に暗示をかけた。美也子が弾く、
※[#歌記号]お手々 繋いで 野道を行けば
に合わせて、舞台へ出て行った。尻を落とし、袴の下でしゃがむ体勢になりながら、足を運んだ。
それはよごれ≠謔閨Aはるかに窮屈な形を強いられる。上体は垂直に保ちながら、徐々に伸び上がっていかなければならない。
舞台の上を一巡して、中学生ぐらいにまで成長したとき、シゲルの下駄は袴の裾を踏んだ。あかん、と思った瞬間、前につんのめり、帽子を飛ばして腹這いの状態になった。まだ震えが残り、下駄をはいた足が自由に動かなかったのである。
栗原はもう声をかけず、カメラのそばで腕組みしたまま、二、三人の者と顔を寄せ合った。美也子は学生帽を拾い上げ、シゲルの頭に黙ってかぶせた。二人は再び、舞台の袖へ引き下がった。
「なんでやろな」
シゲルは溜息を吐いた。どうしてこうも、失敗を続けるのか、分からない。自分の体が、急に別物のように思えた。情無かった。
テレビに初出演できる直前になって、初めての失敗が次々と飛び出す。一体、これまでの自分の芸は、なんだったのか。六十余年の芸歴が、誇りが、一瞬のうちに無に帰してしまうような寂寥感《せきりようかん》に捉われた。真っ黒な淵へ、叩きつけられるみじめさを覚えた。
もう結構です、このまま、お引き取り下さい。そう言われるものと、シゲルは覚悟を決めた。美也子には申しわけない。愉しみにテレビを見ると言っていたニカちゃんや、ミナミ菊丸、太平公介らにも、会わす顔がない。そう思うと、シゲルはふと、死にたい心地さえした。
いっそ舞台の上で、いや、もう舞台へは出してくれないだろうから、いま、この場で、自分の首を絞めて死んでやろうか。幸い、豆しぼりの手拭がある。ひと思いに、それでくくるか。
美也子は無言で、三味線の音締めをいじっている。その三味線は、千代香の形見である。
〈ちょうど、ええやないか。千代香もそばにいるわけやし〉
シゲルは美也子が、トイレにでも行かないかと待った。寿々山徳丸・久枝の姿は見えず、舞台には書生姿でバイオリンを持った芦田家文助と、矢がすりに緑色の袴の女学生に扮したトミが登場し、歌い始めている。シゲルらのそばには、誰もいなかった。
「美也ちゃん」
「なに」
「──すまんな」
「どうってこと、おませんがな、兄さん。気にしなはんな」
「あんた、おトイレ、行っとけへんか」
「トイレ? 別にいま、したいこと、おませんけど。シゲル兄さん、行きたいんでっか」
「いや、そんなわけでもないけど」
「けったいな兄さん。けど、そう言われたら、なんやしらんけど、行きとうなってきたわ。ほな、ちょっと、この三味線、預かっといておくんなはれ」
美也子が立ち上がろうとしたとき、栗原が現われた。シゲルは観念した。
「リハーサルはこれぐらいにして、あとは本番になります。それで、お願いがあるんですが」
「なんでっか」
シゲルは目を閉じて答えた。
「本番中に失敗されても、やめたりせずに、そのまま続けて欲しいのですよ。それはそれで、絵になると思いますので。よろしく、お願いしますよ」
淡々と言い、すぐに立ち去った。
「出してもらえるんやな」
シゲルは美也子を見た。声がうわずった。
「当たり前ですがな。ほな、うち、ちょっと、おトイレへ。えーと、どこやろか」
美也子は三味線を手渡して、きょろつきながら離れた。シゲルは安堵した。栗原の言葉に、救われる思いだった。
〈よっしゃ。なんぼでも失敗したる。失敗して、全国のみなさんの笑いものになったるで。どうせ、笑われる芸やないか〉
シゲルは三味線を膝で抱きながら、苦笑いした。もう少し、栗原の現われるのが遅ければ、取り返しのつかない馬鹿をするところであった。そっと首筋を撫でた。
本番は夜の八時から始まった。司会役の近藤光之と松田エリカが、舞台の両側から勢いよく飛び出し、マイクの前に立った。後ろではバトンガール達が踊る。ひな壇式の客席は、立ち見の人がいるほど詰まっていた。公開放送になっているらしい。
「今夜、これから登場して頂く三組、六人の方々は、僕ら芸能界の、大、大、大先輩の方達ばかりです」
「そうです。とっても素敵な、お爺ちゃん、お婆ちゃんばかりです」
「その、お爺ちゃんとお婆ちゃんと、僕ら二人の年齢を全部プラスすると」
「なんと、なんと、なんと、五百歳になりまーす」
場内には溜息混りの歓声が上がる。
「故《ふる》きを温《たず》ねて新しきを知る。それでは早速、始めて頂きましょう。まず最初は、わざわざ大阪からお越し下さいました、花田シゲル・西美也子のお二人です」
「二人のお年は、合わせて百三十七歳でーす」
軽快なやりとりをすませて、近藤光之と松田エリカは舞台の袖へ駆け戻った。代わって、美也子が登場し、三味線をかき鳴らす。前奏に続き、張りのある声で安来節を歌い始めた。
シゲルは舞台の下手で待機した。不思議と、体に震えはない。美也子が二番に入るのを見計らい、なめらかに足がすべり出した。
※[#歌記号]嫁が島田となるそれまでは
どんな苦労もして松江 アラエッサッサ
頭のざるを手に待ち代えて、シゲルはドジョウを追い詰める。腰を沈め、右に左に体をくねらせながら、舞台の上を凝視する。二匹、三匹、五匹、十匹、七、八センチぐらいの奴が、本当に泳いでいる。逃げまどうのが見えた。
〈よし、こいつめ〉
慎重に慎重に、抜き足、そして差し足して呼吸をはかり、大きく深く、すくい上げた。が、一回目は素早く逃げられてしまい、ざるにはゴミだけが残る。それをつまみ、一つずつ確かめながら捨てていき、小首かしげて、ざるを裏返しにして叩き、改めて狙いをつけた。
※[#歌記号]お国恋しや あの灯は関か
関はよいとこ 五本松
美也子の声をかすかに聞きながら、シゲルは舞台の上のドジョウを追った。いる、いる。十匹、十五匹、いや二十匹はいる。静かに静かに足を進め、目を剥き、口を結んで、さっと素早く、すくい上げた。
ゴミをつまみ、右に左に捨てていき、ざるの底をのぞくと、うごめいている。五匹、六匹、獲れている。尻をくねらせ、腰のかごに、そいつを落とし込む。それから、ちんと手ばなをかみ、腰を伸ばして客席に、満足そうな笑顔を向けた。
爆笑と拍手が舞い上がり、場内はどよめいた。甲高く歌う美也子の声も、かき消された。
シゲルはざるを手放して、次の動作に移った。逃げそうになった一匹を、両手で捕まえようとして、くねくねと、さまよう。右手の親指を立ててドジョウに見せかけ、目を見開き、口を歪めて、表情豊かに踊った。
よごれ≠セけで時間を使うわけにはいかない。アンコールの拍手の中で、シゲルは舞台の端へ駆け戻り、かぼちゃ≠フ衣裳を身に着けた。帽子、かすりの着物、袴、それに下駄をはき、美也子の靴が鳴る≠ノ合わせて再び登場した。
今度は初めから、大爆笑だった。だいもんじゃ頭を揺らせ、舞台を歩き回りながら、元気よく両腕を前に上げる。途中で一度、美也子は三味線をやめ、そばへ寄って、
「まあ、可愛いわね、シゲルちゃん。いくつなの」
と、訊いた。
「ボク、イチュチュ」
シゲルが幼児言葉で答えると、場内の笑いは最高潮に達した。奇声を上げる女の子らもいた。
美也子は浪花小唄≠ノ移る。それに合わせて、シゲルは少しずつ背丈を伸ばした。小学、中学、高校、大学と、帽子のかぶり方と、顔の表情に変化をつけ、それらしく見せる。もとの姿に戻り、美也子と並んで一礼したとき、拍手の嵐になった。
「アンコール、それ、アンコール」
そんな合唱を浴びながら、二人は舞台を下りた。
「いやあ、驚いちゃいました。さすがですね。すごいもんです」
待ち構えていた栗原が駆け寄り、感動気味に口走った。
「リハーサルのときは、一体、どうなるかと、正直なところ、心配しましたが、本番になったとたん、あれですからね。いやあ、本当にすごいもんです。素晴らしい芸を見せて頂きました。有難うございました」
栗原はシゲルの手を握り、しばらく放そうとしなかった。
「おおきに、おおきに」
シゲルも握り返した。美也子は三味線を胸元で抱き、たもとの端で目頭をこすった。舞台では寿々山徳丸・久枝の漫才が始まっていた。
18
テレビ局が用意したホテルの部屋は、ツインルームだった。フロントまで同行した若い局員は、手違いを謝り、早速、シングル二つに切り替えると言った。が、美也子が、
「よろしいやないの、もう、それで」
と、呟き、シゲルのほうを窺《うかが》った。
「そやな。そうしとこか」
シゲルが頷くと、若い局員は何度も詫びて引き下がった。
部屋は十階にあった。ボーイに案内されて、二人は入った。窓からは、夜空に突き出た東京タワーが望めた。
「あの人が言うてはったとおり、今日のシゲル兄さん、すごかったわ。千代香姉さんとのよごれ≠竍かぼちゃ≠焉A何回となく見せてもらいましたけど、今日ほどの出来はなかったんと違いますやろか。自分が三味線を弾いてて、こんなこと言うのは変やけど」
窓際に立ったシゲルのそばへきて、美也子が話しかけた。
「なんやしらんけど、自分でも体がよう動きよったみたいや。練習のときは、どうなることかと、冷や汗かいたけどな」
冷や汗どころではない。シゲルは厭世観《えんせいかん》にも捉われた。危うく、突っ走る寸前だった。
それが予想外の好結果を生み、いま、こうしてホテルの窓から、東京の夜景を眺めていられる。つい二時間ほど前、あれほど絶望的になったことが、嘘のような快さであった。
今日や昨日の、急ごしらえの芸ではない。六十年には六十年なりの歴史があり、値打ちがある。自分でも計算のできない、神経の行き届かないところでも、体はきっちり、覚えていてくれる。土壇場で開き直ったとき、そいつがいい具合に、手を足を、頭を胴体を、動かしてくれた。ただ、それだけのことなのだろうと、シゲルは思った。
「あの、東京タワーと、通天閣と、どっちが格好ええやろ」
横で沈黙している美也子に、シゲルは問いかけた。心の内のうれしさが、つい、関係のない言葉になって飛び出した。出来のよかった芸の感触は、やたらと口に出してよろこばず、じんわりと温めておきたい。あまり喋ると、逃げてしまいそうな不安もあった。
「暗いから、はっきり見えませんけど、東京タワーは、なんやしら、鉛筆の芯みたいに尖《とが》ってますし、通天閣はクレヨンみたいに、ずんぐりしてるし、どっちもどっちですがな」
「鉛筆の芯と、クレヨンか」
「そんなところですやろ」
そう言ってから、美也子は不意に忍び笑いを洩らした。
「なにが可笑《おか》しいんや」
「いえ、別に」
美也子は口元を押さえ、窓際を離れた。シゲルには思い当たる言葉があった。いつか美也子は、通天閣が大阪のオチンチンみたいだと表現した。東京タワーも、やはり同じだと、思ったのに違いない。
だが、二人だけの部屋で、それを口にすると、この爽快な気分が壊れるような気がして、シゲルは黙っていた。そのほうへ考えが向くのを、避けたい気もあった。
「シゲル兄さん。お風呂、先に入りはったら」
バスルームをのぞいて戻り、美也子が促した。
「ほな、そうしよか」
シゲルはベッドのそばで一枚ずつ脱ぎ、下着だけになってバスルームへ入った。
「棺桶みたいやな」
洋式の黄色い湯船に体を入れながら、シゲルは呟いた。
〈風呂は日本式の、檜の湯船に限るで〉
いつもは銭湯しか利用していないくせに、シゲルは贅沢《ぜいたく》なことを思う。それも、気分がよいからに違いなかった。心の中のうれしい部分はそっとしておいて、その周りで、とりとめのないことを口にしたり、思ったりする。年を取ると、そういう愉しみ方が身に付くのかもしれなかった。
「シゲル兄さん、背中、流しまひょか」
美也子が声をかけたので、シゲルは頼むことにした。といっても、腰掛けはないので、湯船のふちに尻を乗せなければならなかった。
用意してきたらしく、美也子は花柄のパジャマに着替えており、腕まくりしてタオルに石鹸《せつけん》を塗りたくった。
「便利悪いでんな、こういうお風呂は」
「そや。俺もそう思うてたところや」
背中をこすられながら、シゲルはニカちゃんのことを思い出した。風呂ではいつも背中の流し合いをしたし、入れ墨を彫らせて欲しいと言われたこともある。美也子に洗ってもらいながら、それが甦った。
「そや。家へ電話、かけたろか、ニカちゃんに。まだ、起きてるやろ」
「けど、ニカちゃん兄さん、電話口まで出られますやろか」
「菊やんか公介が、そばにいてるかもしれんがな」
「そうでんな。ほな、あとでかけまひょか」
「俺らのテレビ写り、どうやったんか、聞きたいな」
見る約束をしていたから、見たのは間違いない。が、それがどんな具合であったか、シゲルは確認したかった。テレビ出演を、心底、よろこんでくれたニカちゃんに、無事に役目を果たした報告もしておきたかった。
「なあ、美也ちゃん」
ニカちゃんの話が出たついでに、シゲルはもう一つ、訊きたいことを思い出した。
「ニカちゃんがドロンする前やから、もう古い話やけど、俺、あんたとニカちゃんを夫婦にしたいと思うて、あいつにだけは話した覚えがあるんやが、あんた、千代香の口から、なんぞ聞いてへんか」
「聞いてましたで」
「やっぱり。あいつ、お喋りやからな」
で、どう思ったのかと、シゲルが訊くと、美也子は手を止めた。洗面器もないから、そのまま一度、湯に浸かるようにと言った。
「シゲル兄さんや、千代香姉さんが、そう言うてくれはるんやったら、うちはそれでもええと思うてましてんけど。なんせ、もう、むかしの話でんがな」
もう、よろしいやろと、美也子はバスルームから出た。話を打ち切りたいのか、洗うのをやめたいのか、どちらとも聞こえる言葉だった。
とすると、あのとき、ニカちゃんさえドロンしなければ、二人は夫婦になっていたのだろう。荒中千久に死なれて、美也子も寂しい時期だったのに違いない。そうなっていれば、二人は無論、自分もまた、いまとは別の道をたどっていたかもしれないと、シゲルは思った。結局、ニカちゃんが、インドのお姫さんなどというインチキにのぼせたため、話は潰れてしまったのである。
〈そやけど、いまからでも、大丈夫やないか。六十半ばと五十半ばなら、夫婦になっても、おかしいことはないやろ〉
ニカちゃんの体が心配だが、健康にさえなれば、まだまだ若い。自分に比べると、羨ましいくらいのものである。
六十八のときにコンビを組んで以来、シゲルも美也子に女の色香を感じてきた。口では年寄りめいたことを言いながら、折があればと、密かに思っていた。二階で寝ている美也子に妄想を駆り立てられ、夜中に階段を登ろうとしたことも、二度や三度ではなかった。
だが、そのたびに歯止めになったのは、このコンビをしくじると、もう二度と再び、自分は漫才ができなくなるのではないかという思惑だった。確実に判コを押せば、また状況も変わるだろう。なおさら好転するかもしれない。しかし、その自信はなかった。
本気で拒まれ、嫌悪されると、コンビは解消に追い込まれる。美也子以外に、漫才の相方を務めてやろうという人間は、まず出現しないだろう。そんな心配が、ブレーキの役目を果たした。打算だけではなく、それを上回るほどの、強い体の疼《うず》きもなかったわけである。
年とともに、その傾向は深まり、二、三年前からは、もう美也子に対して妙な感情を覚えなくなった。長年、同じ屋根の下で暮らし、舞台で顔を合わせているうちに、余計な気の迷いが濾過《ろか》されて、肉親に近い存在に変化した。
ちょうど、娘で通用する年格好であり、実際、美也子の振舞いには、そんな気配がある。芸人仲間の習慣で、兄さんと称しているものの、日ごろの接し方には、父親に対するそれのような態度が窺えた。シゲルの側にまだ、邪心のあるころから、一貫して彼女のほうは変わらなかった。
今夜、ツイン部屋をためらわなかったのも、その表われに違いなかった。そんな彼女をいとおしむ思いが、シゲルのうれしい気分の中で、お節介なほうへのぞき出した。古い話をいま一度、蒸し返したくなった。
交代して風呂を使い、美也子は備えつけの寝間着姿で現われた。
「ほな、家へ電話してみるか」
「そやね」
ベッドの間にある緑色の受話器を取り、美也子はダイヤルを回した。
〈そやけど、俺と美也ちゃんが同じ部屋で寝ると知ったら、ニカちゃん、どう思うやろ。変なほうに、気を回しよるかな〉
いや、この年である。そんなことは、毛ほども思わないかもしれない。
〈俺の、自惚《うぬぼ》れか〉
ベッドの上であぐらを組みながら、シゲルは美也子の姿を見守った。三十六、七年前、彼女を初めて見たときは、まだ確か十九ぐらいのういういしさだった。自分も四十半ばの男盛りであった。
それが、いま、ツインルームに入り、ホテルの同じ寝間着姿になりながら、特に変わった妖しい心の動きも覚えない。馴らされたのか、それだけ体が衰えたのか。どちらにしろ、時間は意地悪な働きをするものだと、シゲルはしみじみ思った。
「あかんわ。なんぼ呼んでも、出やはらへん。もう眠りはったのかもしれまへんな、ニカちゃん兄さん」
美也子は受話器を戻した。
「ほな、ええがな。どうせ、明日は帰るんやから」
「そうでんな」
美也子は自分のスーツケースを開け、化粧品の袋を取り出した。窓際のテーブルに向かい、顔の手入れを始めた。シゲルはベッドに転がった。
「なあ、美也ちゃん」
「なんですの」
「あんた、ニカちゃんと、やってみる気、ないか」
「え、なんですって」
顔のマッサージをしていた美也子は、ひたいに白いものを塗り残したまま、振り向いた。
「そないに、びっくりせんかてええやろ。いや、さっきも言うたように、俺、むかし、あんたとニカちゃんを、夫婦にしたいと思うたことがあったさかいに、遅まきながら、いまからそれを、実現できんもんかいな、と思うてな。もっとも、それにはニカちゃんが、元気になることが肝心やけどな」
「そんな。なにを言いはりますの、シゲル兄さんは。うち、もう五十半ばでっせ。お婆ちゃんでんがな。ニカちゃん兄さんかて、確か十ほど上やから、六十……」
「俺から見たら、二人とも、まだ若いもんやないか。年寄り風吹かしたら、あかんぞ、年寄り風を。いつか、美也ちゃん、俺にそう言うたやないか」
「そやけど、いまさら、そんな」
「今日、俺、うれしい心やねん。生涯で初めての最後かもしれんほど、うれしい日や。その、うれしい気持ちを、美也ちゃんにも、ニカちゃんにも、ばらまきたいんやな。それで、こんなこと、言い出したんや」
天王寺公園を通りかかった美也子が、浮浪者に身を落としたニカちゃんを見かけたというのも、なにかの因縁ではないか。二人を結ぶ手品の糸のようなものが、存在するからではないのか。
「ニカちゃん、あんな体やから、苦労を背負い込むことになるかもしれんが、男の六十半ばは、まだ若いがな。健康にさえなったら、余興ぐらい、行けるで。なんせ、得難い芸を持ってるんやから」
シゲルが言うと、美也子は黙ったまま、再び顔のマッサージを始めた。耳たぶから襟足まで、丹念にこすった。
「いまさら夫婦というのは、かないまへんわ。そやけど」
「そやけど、なんやいな」
「シゲル兄さんが、そう言いはるんやったら、ニカちゃん兄さんのそばに付いてて、面倒ぐらいは見させてもらいますけど」
いまでも美也子は、献身的な看病を続けている。だが、夜はどうしても目が離れるので、それを避けるために、シゲルと上下を交代するという話なら、かまわないと言った。つまり、シゲルが二階へ、美也子がニカちゃんの臥せている階下で、寝起きするというわけである。
それは美也子の口実に違いない。てれ隠しに、そんな理屈を言うのだろうと、シゲルは受け止めた。
「ま、美也ちゃんがそう言うのなら、それでもかめへんけどな。ニカちゃんのほうにも、異存はないやろ」
鷹揚《おうよう》に言ってから、シゲルは自分の気持ちが、急に逆回転するのを感じた。初めは純粋に、今日のよろこびを、二人に分け与えたい心境だった。口火を切ったのは、そのためであった。
が、美也子は割と簡単に、その話を受け入れた。口実はともかくとして、ニカちゃんとの同居を承諾した。シゲルは二階へ、自分は下で住むという。事実上、夫婦になるつもりだろう。
美也子はいつか、男は前夫の荒中千久だけで結構だと言った。弘法大師を信仰するとき、男を断つ誓いを立てたとも聞いた。
その美也子が、大して抵抗もなく引き受けたことが、シゲルには少々意外だった。はぐらかされた気がした。
「しようもないこと、言わんといておくんなはれ、シゲル兄さん」
そんな言葉が、激しく一蹴《いつしゆう》する台詞《せりふ》が、美也子の口から飛び出すのを、シゲルは心のどこかで期待していたようである。それがあるから、よろこびをばらまきたいなどと、おためごかしを言い、美也子の気持ちを試したのではないか。ところが、あっさり承諾されてしまった。
〈なんやかやと綺麗《きれい》ごとを並べ立てても、やっぱり、女やで。まだまだ、生ぐさいもんやな〉
うれしさが薄らいでいく心地を味わいながら、シゲルは布団をかけた。美也子は黙って、長々とマッサージを続けた。
しかし、言い出したのは自分である。いまさら引っ込めるわけにはいかなかった。
「形はどうであれ、大阪へ帰ったら早速、仮祝言の真似ごとでもしとこか。菊やんや公介らに集まってもろて」
「そんな大袈裟な。ニカちゃん兄さん、臥せてはるのに」
「ええから、俺にまかしといてんか」
シゲルは布団を引き上げてかぶった。仕方ない、もののはずみだと思った。
ようやく顔の手入れをすませ、美也子は隣りのベッドに入った。香水の匂いが漂った。
「消しまっせ」
断わって、枕元の電気スタンドを消した。その声が浮き立っているように、シゲルには聞こえた。明かりが絶えると、部屋は闇に支配され、カーテンの合わせ目の辺りに、ほんのわずか、下界の灯がにじんだ。
「もう眠ったんか、美也ちゃん」
しばらくして、シゲルは声をかけた。神経が高ぶって眠れなかった。
「いいえ。なんやしらんけど、目が冴えて」
「俺もやで」
「今日はいろんなことがおましたさかいに。初めて東京へきて、初めてテレビに出してもろて。それに、いつもは上と下に寝ているシゲル兄さんと、こうして枕並べて寝せてもろて」
「初めてづくしやな」
「そうですわ」
話が途切れたが、美也子はまだ寝入った気配がない。部屋には鈍い唸りがこもり、どこかで水洗を流す音が聞こえた。
「なあ、美也ちゃん」
「なんですか」
「ニカちゃんと夫婦になっても、俺とのコンビは続けてや」
「当たり前ですがな。それに、うち、なにも、まだニカちゃん兄さんと、夫婦になると決めたわけやおまへんで。面倒を見させてもらうと言うただけでっせ」
「それも、そうやな」
シゲルはうれしくなった。寝返りを打ち、美也子のほうへ手を伸ばした。
「なあ、美也ちゃん。せめて、手だけでも繋いで寝よか」
「ほな、そうしまひょか」
美也子もベッドから手を差し出し、暗い中で互いに探り当てた。てのひらが温かい。
「これがほんまの、お手々、繋いで、やわ」
「そういうことや」
美也子は小さく、口ずさんだ。シゲルも合わせた。握り合った手を、軽く揺り動かした。
「俺が、もう十年、いや、せめて五年、若かったら、こんなことではすまさんのやけどな」
「おお、恐い恐い」
美也子は大きく手を振り、再び低く、お手々、繋いで、と歌い続けた。
19
翌日の午後、二人がてんのじ村へ帰り着くと、シゲルの家にミナミ菊丸や太平公介らが集まっていた。
「シゲル兄さん、ニカちゃんが──」
「ニカちゃんが、どうしたんや」
「ゆうべ、急に容態が悪なって、救急車で運んだんやけど」
ミナミ菊丸と太平公介が、シゲルを奥の間へ連れて行った。そこにはニカちゃんが、白布をかぶっていた。
美也子がなにか叫んで、駆け寄った。シゲルもそばへ座り込んだ。枕元では線香が焚《た》かれ、ニカちゃんは静かに眠っていた。
「ニカちゃん、ゆうべ、お二人のテレビを見て、上機嫌でしたんや。さすがにシゲル兄さんの芸は、日本一や、美也ちゃんの三味線も天下一品やと、布団から起き上がって見てましたんや」
「そうでんね。シゲル兄さん、ええぞ、美也ちゃん、最高や、てな声まで張り上げて、よろこんでましたんや。あんまり力入れたら、体にさわるぞと言うのに、耳を貸さず、よごれ≠フ真似までしよりますんや」
余程うれしかったらしく、ニカちゃんは喰い入るようにテレビを見たあと、
「わいも、うかうか、病気なんか、してられんな。八十二のシゲル兄さんが、これだけの活躍しやはるんやから」
と、台所へ立って、卵を持って布団へ戻ったらしい。
「やめとけよ。ニカちゃん。急にそんなことしたら、体に毒やから」
「そや。元気になってから、始めたらええんや」
ミナミ菊丸と太平公介が止めようとするのに、ニカちゃんは聞き入れず、中身を抜いた卵の殻に、墨絵を描き始めた。両膝の間に挟んで固定し、竹の串をあやつった。
その最中、激しく咳き込み、二人が背中をさすったりして介抱した。だが、鎮まらず、ニカちゃんは失神状態に陥った。すぐに救急車を呼び、病院へ運び込んだが、そのときにはすでに、息絶えていた。肺ガンの疑いがあり、発作的に起こった咳のため、急性心不全に見舞われたのだと、医者は診断したという。
「俺らのテレビを見て、無茶しよったんやな」
シゲルはぽつりと言った。
「無茶やおまへん。ハッスルしすぎましたんや」
ミナミ菊丸がなだめるように呟いた。シゲルは白布を取り除き、ニカちゃんの顔を確かめた。目を閉じ、口をわずかに開けて、前歯を二本、のぞかせている。いかにも笑っているような、笑顔でなにか話しかけているような死に顔だった。
美也子は言葉もなく、見入った。髭の浮き出たニカちゃんの頬を撫《な》でながら、しきりに頷いた。
「おおきに。テレビ、見てくれたんやな」
手を合わせてから、シゲルは語りかけた。そのとたん、美也子が嗚咽《おえつ》を洩らして突っ伏した。ゆうべ、余計な話を勧めたことを、シゲルは後悔した。いま、こんな結果になるのなら、もっと早く、二人を夫婦にしてやるべきだったと、素直な思いに突き上げられた。
ミナミ菊丸らは、昨夜、シゲルらに知らせるべきかどうか、迷ったという。だが、ニカちゃんはすでに息絶えてしまったのだから、慌てて連絡する必要はないだろうと相談し、思いとどまったらしい。上京中の二人に、余計な心配をかけず、せめて一晩ぐらい、のんびりさせてやろうという心遣いのようだった。美也子が電話をかけたとき、誰も出なかったのは、ちょうど、病院へ行っていたからだろう。
ひとしきり泣いてから、美也子は顔を上げた。
「すんません。みっともない真似、してしもうてからに」
台所へ立ち、派手に水音をさせて、顔を洗った。結婚話など口にして、美也子をその気にさせたことを、シゲルは心で詫びた。
〈ニカちゃん。お前が死に急ぎしたからやで。せめて、もう半年でも、一カ月でも生きててくれたら、よかったのに〉
美也子のために、シゲルはニカちゃんの死を恨めしく思った。
「これ、見てやっておくんなはれ」
ミナミ菊丸が卵の殼を手渡した。ニカちゃんが最後に描いていたものだという。シゲルは電灯に透かした。
「どうだす。よう似てますやろ」
太平公介が口出しする。シゲルは眼鏡をかけて、改めてのぞいた。
小さな穴の内側に、二人の人物が墨で描かれている。一人は頬かぶりして、ざるを持ち、腰をかがめてドジョウすくいを踊っている。そばで一人が、三味線を弾いている絵だった。
どちらの表情も、そっくりに描いてある。シゲルが頬かぶりしている豆しぼりの手拭は、それらしい模様が入り、美也子が手にした三味線には、正確に三本の糸まで張ってあった。
「震える手で、よくもこれだけ、細こうに描けたもんやな」
「執念かもしれまへんな。芸人として、最後の執念を、これに込めて書きよりましたんやろ」
「そうかもしれん」
シゲルとミナミ菊丸は頷き合った。台所から戻った美也子に、卵の殻を手渡し、
「あんた、形見にもらっとき」
と、シゲルは言った。ニカちゃんも、それをよろこぶのに違いない。美也子は明かりにかざしたまま、いつまでものぞいていた。
葬式は陽気にしようと決めた。そのほうがニカちゃんらしいと、シゲルは思った。
ミナミ菊丸が、お経ができると言うので、坊さんは呼ばず、シゲルの家に近しい仲間が集まり、執り行なうことになった。
四月半ばの爽やかな日だった。
桜がまだ残っているらしく、玄関先に張りめぐらせた黒い幕のあちこちに、どこからか飛んできた花びらが数枚、まつわり付いた。黒地に淡紅色の彩りが、ひょうきん者のニカちゃんの葬式らしいと、シゲルには思えた。
紋付姿のミナミ菊丸が祭壇の前へ陣取り、両側にシゲルと美也子が座った。後ろには太平公介、ミナミ菊丸の養女夫婦、それに、特に付き合いはないが、てんのじ村に住んでいる他の芸人達十人余りが、聞きつけて参列した。漫才、曲芸、浪曲など、いずれも六十は優に越えた顔ぶれであった。
ニカちゃんの写真は、出征する日の軍帽をかぶったものしか残っていなかった。それを引き伸ばして遺影にし、棺桶には愛用のハーモニカを二つ、入れた。
ミナミ菊丸は神妙にお経を唱え始めた。袈裟さえ着ると、僧侶と見まがうほど、容貌は似て映った。
シゲルはお経を知らない。ミナミ菊丸の唱える経文が、正確かどうかの判断がつけられない。だが、口調だけはなんとなく、聞き覚えがあった。
木魚を叩き始めたころから、その口調が怪しく思え、シゲルはミナミ菊丸の横顔を窺った。文句も変な具合であった。
「はげた木魚を横ちょにかかえて、朝から晩まで、親のかたきか遺恨のあるよに、あっちゃ向いて、すっからん、こっちゃ向いて、すっからん、すかすか、ばかばか、馬鹿げたお経の文句にゃ間違いない」
「おい、菊やんよ」
シゲルが小突いたとき、背後の太平公介が身を乗り出して、
「それ、あほだら経と違うか」
と、声をかけた。
「え?」
ミナミ菊丸は振り返り、木魚が止んだ。
「うちも、どうも変やと思うてましてんわ、菊丸兄さん」
美也子も口を出し、シゲルもやはり、そうかと思った。あほだら経≠ヘ山崎正三・都家文路が得意とする漫才の芸の一つで、何度か聞いた覚えがあった。シゲルが歌う今と昔≠フ類である。
「おかしいな。どこで間違えたんやろ。初めは、まともなはずやったけどな」
ミナミ菊丸は首をひねって向き直った。
「しっかりしてや、にわか坊主」
「やかましい」
太平公介に言い返して、ミナミ菊丸は木魚を叩いた。再び、お経を唱え始めた。
だが、五分ほど経ったころ、またもや文句が怪しくなった。
「火事には消防、家には女房、くれん奴はけちん坊、魚にほうぼう、正月歳暮、煮染めはごんぼ、はしりに水つぼ、かまどに消しつぼ、田圃に土つぼ、痛いがでんぼで、辛いが辛抱、これだけ言うても聞こえんお方は、金てこつんぼにゃ間違いない」
「あかんわ、またやがな」
太平公介の声で、ミナミ菊丸は木魚を止めた。参列者の間から笑いが洩れた。
「自分では、お経を唱えてるつもりやのにな。なんて、こないになるんやろ」
「葬式に、あほだら経をやられたら、ニカちゃんも棺桶の中で、苦笑いしとるで」
「あいつのことやから、面白がって、踊り出しよるかもしれまへんな」
「ま、ええ供養にはなるやろ」
シゲルと太平公介が話していると、美也子が自分もお経ができるから、交代しようかと言った。
「ほな、ピンチヒッター、頼むで」
ミナミ菊丸は立ち上がり、美也子と場所を代わった。彼女は四国八十八カ所を巡礼するほど、信心深い。ミナミ菊丸より、お経は確かなようだった。
美也子は朗々と唱え始めた。陰にこもらず、明るい口調である。語尾に安来節の音色が混るようだが、文句は間違いなさそうだと、シゲルは聞いた。美也子にお経を上げてもらえば、ニカちゃんも大満足に違いなかった。
三十分余り、美也子が唱えたあと、シゲルはもう一つ、付け足すように頼んだ。
「ほら、ニカちゃんが自分のおまじないにしてたやつ。ついでに、あれも、やっといてやったら、あいつ、よろこぶやろと思うんやけどな」
シゲルが言うと、美也子は頷いた。いつの間にか覚えていたらしく、祭壇に向かって高らかに唱えた。
「オンディバヤキシャバンダバンダソワカ。ナルビルシャナブツオンバラダトバン。タンマカキャロニカソワカ。オンハンドマダラアバキヤジャラジイソロソロソワカ。オンアラハシャナ」
三回繰り返して、美也子は深々と頭を下げた。
「なんでんねん、いまのは。あほだら経ではないようやが」
太平公介が尋ねたが、シゲルは説明しなかった。
「お経のサービスでっか」
「そんなもんやな」
曖昧《あいまい》に頷いた。
焼香が始まって間もなく、玄関の近くにいる参列者の一人が、シゲルに来訪者があると知らせた。
「この、お取り込みの最中に、誰やいな」
ごめんやっしゃ、と、参列者の間を抜けて、シゲルは玄関先へ出た。若い男が二人、急いで歩み寄り、生真面目な礼をした。
「師匠、僕らを弟子にして下さい」
「なに」
「師匠のドジョウすくい≠ニかぼちゃ≠、テレビで見せてもらって、僕、感動したんです。それで、ぜひ、弟子にして欲しいと思って、お願いにきたんです」
「僕もです。ぜひ、弟子にして下さい。お願い致します」
一人は長身で、白いセーター姿、もう一人は小柄で、赤いセーターを着ている。どちらも高校生か、もう少し上ぐらいの年格好だった。
「師匠、お願いします」
「お願いします、師匠」
二人は口々に師匠と言い、揃って頭を下げた。
「ちょっと、待った」
シゲルは両手でさえぎった。これまでに師匠と呼ばれたことはある。が、弟子にして欲しいと申し込まれた覚えは、一度もなく、自分でもその気はなかった。弟子をとって、教え込むほどの芸ではないと思っていた。
それに第一、てんのじ村の芸人達は伝統的に、弟子をとらない傾向がある。ここは芸を教えたり、習ったりするところではなく、一芸を持った者が便宜上、寄り集まっている場所である。自分の芸で金を稼ぎ、飯を食い、生活している土俵である。厳しいその土俵に、弟子などかかえ込む余裕のないのが、本当かもしれなかった。
「折角やけど、俺は弟子をとるつもりはないな。誰か他の人に当たったら、どうや」
「そんなこと、おっしゃらずに、ぜひ、お願いします、師匠」
「そうです。僕ら、師匠の芸に惚れて、お願いに上がったんです。弟子にしてもらうまで、ここを動きません」
どこかで聞き覚えたのか、古くさい、お決まりの台詞を言い、二人は玄関先へ座り込もうとした。
「そんなことしたら、かなわんがな。見てのとおり、今日はお取り込みの最中やで」
立つように、シゲルが促したとき、いつの間にか現われたミナミ菊丸が、割り込む形で立った。
「よろしいやないか、シゲル兄さん。こんな若い弟子ができるのは、兄さん一人だけのためやない、てんのじ村全体にとっても、結構な話でっせ。なんせ、おじんやおばんばかりになって、逼塞《ひつそく》状態やからな。こういう若い連中が、たとえ一人でも二人でも住みついてくれたら、先に希望が持てまんがな。シゲル兄さんの後継者であると同時に、この村の後継者にも成り得るわけやから」
ミナミ菊丸の言葉に、二人の若者は喜色を浮かべ、またもや、お願いしますを連発した。
「こういう日に、こうして二人が訪ねてきたというのも、なにかの縁でっせ。ニカちゃんが引き合わせたのかもしれまへんで」
ミナミ菊丸は、若者の側について勧めた。
〈なるほど〉
シゲルは腕組みした。ミナミ菊丸の言い分は、もっともだと思う。自分にとっても、てんのじ村にとっても、若い後継者ができるのは、悪い話ではない。
伝統芸の落語は伝承が可能だが、演者の個性の比重が重く、多彩なネタをあやつる漫才は、無理といわれる。落語は教えられるけれど、漫才は教えられない、とされている所以《ゆえん》である。
しかし、シゲルのよごれ≠竍かぼちゃ≠ヘ充分、教えられる。漫才の芸ではあるが、踊りでもある。シゲル自身、よごれ≠ヘ、そのむかし、中村千賀治という師匠について習ったものだった。
つかの間、そんなことが頭に浮かび、シゲルは迷った。改めて、テレビの影響力の大きさも感じた。
そこへ、ミナミ菊丸が再び、
「なあ、シゲル兄さん。これはきっと、ニカちゃんの引き合わせに違いおまへん。早速、この二人にも、焼香させなはれ」
と、促した。
「では、師匠。そうさせて頂きます」
「僕もです」
ミナミ菊丸の勧めを幸いに、二人の若者はすぐさま玄関へ入り込み、靴を脱いで上がった。
〈しゃないな。ニカちゃんの引き合わせなら〉
ミナミ菊丸の言うとおり、シゲルにもニカちゃんの引き合わせのように思え、それなら引き受けなければなるまいと、悟った。理屈よりも、そのほうが、気持ちの中で優先した。
赤と白のセーター姿の若者は、葬式の場では異彩を放った。が、二人は祭壇の前で正座を作り、神妙に焼香した。
「おお、紅白でお祝いに現われよったな。ニカちゃんの葬式、桜の花びらはひらひら舞うし、お目出たいことになってきたで。シゲル兄さん、これやったら最初から、菊やんに、あほだら経を唱えてもろたほうが、やっぱり正解やったかもしれまへんな」
太平公介が茶化したので、参列者の間に爆笑が上がった。美也子も笑い、シゲルも釣られて声を立てた。
〈聞いてるか、ニカちゃん。賑やか好きな、お前の葬式らしゅうになったやろ〉
笑いながら、シゲルの目には潤むものがあった。本当にニカちゃんは、逝ったのだと感じた。
20
名前を付けて欲しいと言うので、シゲルは背の高いほうを、花田ヒカル、低いほうはモエルと名付けた。どちらにも、自分の名前の中からル≠与えたのは、分解すればノレ≠ニなるその片仮名に、乗れ=A芸に乗れ、人気に乗れ、売れる波に乗れ、という思いを託したつもりであった。その上、光り輝き、燃え上がれという、欲張った願いも込めての命名だった。
家が手狭で内弟子にするわけにはいかず、養うほどの力もないので、二人にはアパートを借りて住ませた。そこから毎日、シゲルの家へ通ってくる。外弟子の形をとった。
アパートはてんのじ村の西南にあり、飛田に近い。六畳一間で共同生活をしながら、二人とも夜は、阿倍野のスナックでアルバイトをした。生活費は無論、シゲルは小遣いを与えるほどの余裕がないからと、最初に条件を伝えておいた。その代わり、どんなアルバイトをしてもかまわないと申し渡してあるので、自分達で見つけたようであった。その点、気らくだった。
毎朝、二人が家へくると、自分のところと、二階の美也子の部屋の掃除をさせ、市場への買物にも行かせた。シゲルだけの弟子ではなく、美也子にとっても同じ扱いをさせた。漫才の弟子は、当然そうあるべきだと、シゲルは思っていた。
寺社の境内や、ヘルスセンターの余興があると、二人に荷物を持って同行させた。ヒカルは高校を出て印刷工の見習いに入り、モエルは美容学校へ通っていたらしい。どちらも十九歳だった。
シゲルは直接、教えることはせず、自分の舞台をかげから見学させた。そのため、よごれ≠竍かぼちゃ≠セけではなく、野球狂時代≠竅A美也子との掛け合いの今と昔≠ネど、自分の持ち芸を次々と演じるように務めた。弟子と名が付くからには、すべてを学び取ってもらいたい。そんな思いがあった。
美也子も暇を見つけては、二人に三味線を手ほどきした。安来節も教えた。いずれはどちらかが弾き語りをし、どちらかが踊るようにしなければならない。そのための練習だった。
弟子が付くと、シゲルの気持ちにも張り合いが生まれた。若い二人が、自分の芸を受け継いでくれるのかと思うと、尻こそばゆくなるようなうれしさに捉われる。舞台を務めていても、前の客席よりは、かげに控えている二人に見せている気分になった。力も入り、それが生き甲斐に変わっていった。
美也子も同様らしい。師匠としての毅然とした姿勢を保ちながら、若い二人に細やかな気遣いも見せた。スーパーで目についたからといって、シャツや靴下などを買い与えたりした。
余興先へ向かう電車の中などで、師匠と呼ばれると、周りの客の視線がいっせいに集まる。そのときの気分も決して悪くはなく、シゲルは弟子を持って、よかったと思うようになった。ニカちゃんの引き合わせを、感謝したいほどだった。
半年余り経ち、シゲルと美也子が宝塚のヘルスセンターへ出かける朝、ヒカルとモエルが姿を見せなかった。前日、申し渡した時間を三十分以上も過ぎたのに、どちらも現われなかった。
「どうしたんやろ、あいつら」
「まさか、忘れてることはないやろね」
美也子はアパートへ電話をかけ、管理人に呼び出しを頼んだ。だが、部屋には誰もいないという。
仕方なく、二人は荷物を持って家を出た。途中、アパートへ立ち寄り、管理人と一緒に部屋を確かめると、道具類はなにもなく、壁に一枚、松田エリカが笑いかけるカレンダーだけがぶら下がっていた。
「ドロンやな」
「そんな感じですわな」
シゲルと美也子は顔を見合わせた。嫌気がさしたのか、もう習うことはないと、見切りをつけたのか。それならそうと、一言、言えばよいものを、若い二人は黙って逃げ出したようであった。
管理人は、家賃が二カ月分、とどこおっていると言った。いま、持ち合わせがないので、後日、必ず払いにくるからと、シゲルは約束した。それぐらいは、仕方がないと思った。
「ものになってくれたらええのにと、愉しみにしてたのに」
美也子は気落ちした呟きを洩らした。シゲルも落胆が大きかった。宝塚へ行くのを取りやめにしたいくらい、急に体が重く感じられた。気持ちに張りができ、生き甲斐に思えるほどになっていただけに、二人に逃げられた衝撃は強かった。
〈引き合わせてくれたニカちゃん自身が、そもそも、ドロンの前科持ちやからな。あの二人がドロンしよるのも、無理からん話かもしれんな〉
シゲルは妙な納得をした。だが、ニカちゃんの話を口にすると、美也子に余計なことを思い出させるかもしれないので、黙っていた。
それでも、なにかの間違いで、あの二人が戻ってくるかもしれないと、シゲルには内心、期待するものがあった。密かに心待ちしていた。口では言わないが、美也子にもその気配が窺えた。
だが、ヒカルとモエルは戻ってこず、今度は意外なところから姿を現わした。その日、仕事がなく、シゲルが家でくつろいでいると、ミナミ菊丸が慌しい足取りで入ってきた。
「シゲル兄さん、早よ、テレビつけてみい。出とるがな、出とるがな」
口走りながら、ミナミ菊丸は自分でスイッチを入れ、チャンネルをいじった。
「出とるいうて、誰やいな」
「ドロンした奴らやがな」
「なに」
「いけしゃあしゃあと、漫才やってまっせ。ほら」
ミナミ菊丸が指差す画面には、確かにあの二人が映っていた。ヒカルとモエルは真紅の衣裳を着け、聞きとりにくいほどの早口で、まくし立てている。公開放送らしく、客席からは断続的に笑いの渦が舞い昇った。
シゲルは画面を睨《にら》んだ。二人がいなくなってから、そろそろ一年になる。その間、心の中には常に、今日辺り戻ってくるのではないかという思いが、巣喰っていた。余興に出かける電車の中でも、そんな気がして、つい周りを見回した。帰りにくい二人が、ひょっとして、自分らの後を付けているのではないかと思え、確かめたくなった。だが、そのたびに、期待外れに終わった。
その二人が、いまテレビに出ている。彼らが姿を消して間もなく、漫才ブームが起こり、次々と新人が登場した。演芸番組が急に増え、毎日必ず、どこかのテレビ局が漫才を放送している有様だった。
しかし、登場するのは新人ばかりで、東洋一丸・勝江らは全く顔を見せなくなっている。病気でもして、とっくに引退したのか、それとも、亡くなったのか、いっこうに消息は伝わらなかった。
彼らほど老齢ではないベテランや、中堅どころの漫才師達も、ブームには無縁らしく、テレビにはめったに登場しない。新人の漫才師達は、漫才の内容は二の次三の次にして、アイドル的な持てはやされ方をしているようだった。
シゲルもブームは知っていた。が、騒々しいだけで、意味不明な言葉のぶっつけ合いをする漫才には、ついて行けず、近ごろはチャンネルを合わせる機会もなかった。目の疲れを覚え、ブラウン管と向き合うのが大儀でもあった。
そのため、ミナミ菊丸に教えられるまで、ヒカル・モエルがテレビに出ていることを知らなかったが、彼らも新人コンビの一組として、ブームに加わっているようであった。
熱狂的な拍手と笑いの中で、二人は深々と一礼し、駆け足で舞台から消えた。続いて、司会役のアナウンサーが登場し、マイクに向かった。
「いかがでしたか、大船タロー・ジロー、ご両人の漫才は。相変わらず元気いっぱいの張り切りようで、気持ちがいいですね。あの、大きいほうのタローくんは、以前、印刷工場で働いていたそうです。小さいほうは美容師になりたかったそうですよ。その後、自分達で漫才の勉強に励み、今日の人気者の座についたわけです」
さて次はと、アナウンサーが続けかけたとき、ミナミ菊丸がスイッチを切った。
「なんちゅう奴らや、あの二人は。わしの口ききで、シゲル兄さんの弟子にしてもろて、名前まで付けてもろておきながら、借金残してドロンしくさって、おまけに勝手な名前を付けてくさる。わし、いまからテレビ局へ電話して、あいつらのこと、なにもかも、ぶちまけてやりまっさ」
ミナミ菊丸はひたいの血管をふくらませて怒り、早速、電話のそばへ寄った。が、シゲルが止めた。
「ええがな、菊やん。やめといたり」
「シゲル兄さん、舐《な》められてまっせ。あんなヒヨコに、勝手な真似されて、たまりまっかいな。それでは芸道のしめしがつきまへんで。兄さんがええいうても、このわしが承知しまへん。気持ちが治まりまへんがな」
ミナミ菊丸は一〇四番でテレビ局の番号を尋ね、ダイヤルを回した。いま、テレビに出ていた大船タロー・ジローと、番組の責任者を出せと、声を荒げた。
だが、急に気抜けしたように、受話器を置いた。
「あれは一カ月ほど前に録画したものやから、大船タロー・ジローは、いまテレビ局にはおらんそうや。責任者も外出中やと、ぬかしくさる」
溜息を吐き、受話器を手で叩いた。
「そやけど、シゲル兄さんが腹を立てんのは、おかしいな。そんなに、もの分かりがええようになったら、怪しいで。明日辺り、ころっと逝ってしまうんと違うかいな」
「ころっと逝けたら、幸せやで」
「あかんわ、こたえてへん。明日どころか、今夜辺りが危ないぞと、美也ちゃんに注意しといたろか」
電話が通じず、シゲルが平静でいるのが、ミナミ菊丸には腹立たしいらしく、毒づいて、毛のない頭をかきむしりながら立ち去った。
シゲルも心底、平静だったわけではない。若い二人に苦汁を呑まされた思いはある。折角、付けてやった名前を無断で捨てたことには、憤りさえ覚える。許し難いと思う。
だが、現実にいま、あの二人はテレビで人気者になり、活躍中である。それを、とやかく蒸し返すようなケチを付け、足を引っ張る真似をしては、可哀相だと思った。
わずか半年ほどだが、二人が自分の弟子であったことは、事実として残る。世間は知らなくても、本人達がそれを知っている。よごれ≠熈かぼちゃ≠焉A美也子の三味線も安来節も、二人は真剣に覚えようとした時期があった。
その事実だけで、よいではないかと、シゲルは思う。自分の息のかかった若い二人が、いま脚光を浴びている。名前は違っても、本人二人には間違いない。半年間に教えたことが、学んだことが、いまの原動力になっていないとも限らない。いや、きっと役立っているはずだ。そう考えることで、許せる気持ちになった。
〈菊やんの言うとおり、もの分かりがええようになったようやな〉
シゲルは呟いた。そのもの分かりのよさは、ミナミ菊丸の言うほど、不快とは思わなかった。短いかかわりだったにせよ、師匠と呼ばせた相手が、いま売れっこになっている。毎日、この部屋を掃除していた二人が、世間で持てはやされている。それだけでも、満足できる優越感を覚えた。
〈タロー・ジローやなんて、どこかの犬みたいな名前を付けんかて、俺が与えたヒカル・モエルのほうが、よっぽど、ええのにな。最初にその名前を付けてやったから、光り輝いて、燃え盛るようになったんやろ〉
自己満足かもしれないが、シゲルは充分、得心だった。
三味線教室から帰った美也子に、その話をすると、驚きもせず、
「うち、だいぶ前から知ってましてん。テレビで見て、ああ、あの子らやなと、気がついてましてん。そやけど、シゲル兄さんの耳に入れて、兄さん、頭に血ィでも昇らせはったらいかんと思うて、黙ってましてんわ」
と、言った。
「血ィなんか昇らすかいな。よろこんどるぐらいやで」
「へえ。ほんまでっか。シゲル兄さんが、それだけもの分かりがようなったら、心配でんな。危ないんと違いまっか」
「菊やんも、さっき、そうぬかしよったで」
「そら、えらい、すんまへん」
笑い声を立ててから、美也子は真顔になり、
「けど、なんにしろ、ちょっとでも自分らが教えた人間が、売れてくれるのは、心うれしいもんですな。陰ながら、応援してやりまひょうな」
と、屈託なく言った。こだわりのない美也子の口ぶりに、シゲルも救われた気がした。
21
てんのじ村を素通りしたまま、漫才ブームは呆気なく消えた。はかない寿命であった。
テレビの漫才番組は姿を消し、若手漫才師達が登場する機会も極端に減った。同時に、大船タロー・ジローも見かけなくなった。タローのほうは、ときたま、レポーター役で画面に登場するが、二人の漫才はもう見られなかった。異常とも思えたブームの反動か、彼らに限らず、漫才そのものがテレビから締め出されている傾向さえあった。
芸ではなく、連中は個性で売っていた。それも無茶苦茶な、とにかく目立ちさえすれば、よしとする売り方だった。
シゲルはむかし、二十分の漫才のうち、三回、客を笑わせれば充分だと教えられた覚えがある。だが、連中は口を開くたびに、笑わせようとする。客もそれを期待する。どっちもどっち、慌しすぎた。喋っている内容は聞きとれず、客も聞いてはいない。顔を見て、姿を見て、雰囲気だけで笑っている。そんなものが、長続きするはずはなかった。
大船タロー・ジローを知ってから、シゲルはできるだけ、彼らの出演する番組を見るように努めたが、何度見ても、喋ることの半分も理解できなかった。
いまこそ、よごれ≠竍かぼちゃ≠出せばよいのに、と思った。古い芸も、若い客には、かえって目新しいはずだ。そんな芸があったのかと、他の若手とは違った目で見られ、人気も増幅されるだろうと思うのに、ついに二人は一度も演じることなく、テレビから消えた。シゲルにとっても、寂しい話だった。
「自業自得、天罰てきめん。消えて当然やで、あんな奴ら。もしも、また、のこのこと、てんのじ村に姿を現わしてみィ、ただではすまさんで、シゲル兄さん」
ミナミ菊丸は腕まくりして言った。シゲルのもの分かりがよくなる分だけ、彼のほうは片意地になっていくようだった。
大阪府下の寝屋川市にある成田山新勝寺には、関西の芸人達の手によって「笑魂塚」が建立されている。昭和三十四年五月、重量三十トンの、巨大な握り飯に似た型の自然石を、六甲山から採り出して運び、境内の一角に据えてある。裏側に埋め込まれた銅版には、芦乃家雁玉、東五九童、秋田Aスケ・Bスケなど、重だった芸人の名前が刻み込まれ、そばには岸本水府の川柳、
ハリキリの 大阪弁が 立てた旗
という句碑も建っていた。
正月、その前で奉納演芸を行なうことになり、シゲルと美也子、それにミナミ菊丸、太平公介らは、元旦の朝八時、難波球場の前へ集合した。そこからは貸切りバスで、成田山へ向かう。他にも、てんのじ村からは五人が参加し、シゲル達が着いたとき、バスにはすでに三十人ほどが乗り込んでいた。
いずれも、第一線を退いた元芸人や、現役ではあっても、テレビなどには用のない顔ぶれである。てんのじ村だけではなく、大阪中に散らばっている、それらの人達が集まり、奉納演芸を行なうわけである。
バスは八時半に発車した。高速に乗り入れ、速度を増して行く。シゲルは美也子と並んで前の席に座り、すぐ後ろにはミナミ菊丸と太平公介が陣取っていた。
美也子は朝早く、予約しておいた美容院へ出向き、日本髪に結っている。他にも二人、彼女よりはるかに年上の漫才師と踊りの女性が、同じ髪型に結い、正月らしい雰囲気を漂わせた。
空は澄み、冬とは思えない陽射しが降りそそぐ。阪神高速道路の守口線を下り、淀川べりの道に入ると、幹事役のミナミ菊丸が太平公介に手伝わせ、一升瓶の酒を紙コップについで回った。イカの燻製《くんせい》やオカキも添え、行き渡ったところで、
「シゲル兄さん、乾杯、頼みまっさ」
と、言った。見渡したところ、シゲルが最年長のようだった。
「おめでとうございます。それでは、ご指名によりまして、乾杯の音頭をとらせて頂きます」
シゲルは立ち上がり、西宮から戻って以来、愛用しているベレー帽を脱いで一同のほうを向き、乾杯を叫んだ。みんなも唱和し、車内には賑やかな声が充満した。淀川の水面が、陽をはじいて光った。
「花田はん、一体、なんぼにならはりましたんや、今年で」
「八十四、かいな」
後方の席の誰かが訊いたので、シゲルが答えると、おお、と感嘆気味の声が上がった。
「よくも、その年まで、ぼけまへんな」
「なんぞ、極意でもあるんと違いまっか」
「目も耳も、足腰も達者そうやし、どう見ても十、いや二十ぐらいは若うに見えまっせ」
「羨ましい限りやで。あやかりたいくらいのもんや」
「ほんまに。やっぱり、美也子はんみたいな、年の離れた女子《おなご》はんと、コンビ組んではるせいかもしれまへんな」
みんなは遠慮のないことを言った。ミナミ菊丸が調子に乗り、
「この人、怪物でんがな。普通の人間は真似なんか、できまへんで。わしは三つ年下やが、反対に二つ三つ、上に見えますやろ」
と、自分の頭をひと撫ですると、
「二つ三つどころやない、二十か三十は上に見えるで」
と、誰かが茶々を入れた。車内に起こった笑いが、静まるころを見計らい、シゲルは口を開いた。
「八十四やそこらで、びっくりされては、かないまへんな。二年前、東京へ行ったときには、九十一と八十九の夫婦漫才さんがいてはりましたで。私もなんとか、そこまで頑張るつもりやさかいに、ま、お手柔らかに願いまっさ」
うおっという喚声が上がり、拍手が起こった。シゲルは礼で応え、ベレー帽をかぶり直して座席に腰を下ろした。
「花田はんの、その心意気、みんな、見習わなあきまへんで」
「ほんまや。長生きも芸のうちとか言うけど、芸があるから、長生きできるのかもしれまへん」
背後のざわめきを聞き流しながら、シゲルは深々と、シートに体を沈めた。美也子は後ろを振り返り、ミナミ菊丸や太平公介らと喋っている。髪に差した飾りが揺れ続けた。
妙なものだと思う。二十一歳のとき、なに気なく遊びにきた大阪で、安来節のビラを見かけたばかりに、この道へ入ってしまった。あのとき、ビラなど目につかなければ、国鉄で定年退職を迎え、いまごろは米子の田舎で、隠居暮らしをしているかもしれない。子や孫にも恵まれていたかもしれない。
本来、自分のために用意された道が、もう一本、あったのではないか。いま現在も、それは無垢《むく》なまま、残っているのではないのか。六十余年、歩んできたこの道は、結局は間違いで、本当の道とは大きくかけ離れた、悪路だったのではないか。
シゲルは思う。
そっちの道を進んでいれば、元旦早々、奉納演芸の舞台に立つはずもないだろう。孫の手でも引いて、鎮守の森へお参りに行くのがせいぜいである。
どちらがよいのか悪いのか、分からない。向こうがよいようにも思え、こちらでよかった気もする。
だが、現実の自分は、いまこうして、芸人仲間と一緒に、バスに揺られている。乗り換えるバスがないのと同様、もうこのまま、この道を走るしかない。六十余年も、走り続けてきたのだ。
それなら、いっそ、とことん、突っ走りたい。先程、みんなに話したことは、冗談やシャレのつもりはなかった。本心から思ってのことだった。
二年前に会った芦田家文助という芸人は、健在なら九十三歳になっている。まだ舞台に立っているのかどうか、分からない。その後の消息は知れなかった。
しかし、九十一の舞台姿は、確かに見届けている。書生の装いで、バイオリンを弾いていた。シゲルは自分の目で見た、そのときの芦田家文助の年齢を、目標にしたいと思った。
九十一までには、まだ七年ある。そこまで生きて、よごれ≠踊り、かぼちゃ≠演じたい。かなうことなら、二つか三つ、越えてもみたい。そのくらいまで生きて、芸ができれば、この道が決して間違いではなかったと、納得がいくのではないか。華やかさの乏しかった自分の芸に、せめて日本一高齢の、現役芸人の冠をかぶせたい。九十一の上がいれば、そのときはまた、その上を狙うまでだと、シゲルは思った。
それまで生きられるか、てんのじ村が消えてしまうか。競争になるかもしれない。だが、その競争は、新たな生き甲斐をもたらすに違いなかった。
〈欲張りやな、俺は〉
シゲルが呟くと、美也子が顔を向けた。
「いま、なにか言いはりましたか」
「いや、別に」
シゲルは静かに答えた。窓から差し込む陽射しが、快かった。
対向車のフロントガラスが反射して、鋭い光線を浴びせかけた。バスは初詣でで賑わう坂道を登り始める。前方には、今日の舞台になる寺の大屋根が見えてきた。
昭和五十九年四月 実業之日本社刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年七月十日刊