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完本 男たちの大和(下)
辺見じゅん
目 次
五章 爆沈
六章 桜
七章 鎮魂
戦艦大和乗組員戦没者名簿
主要参考文献
文庫版あとがき
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五章 爆沈
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1
昭和二十年四月七日の朝になった。
暗雲は低くたれ込め、日出《につしゆつ》時刻が過ぎても洋上は薄暗かった。
第二艦隊は大隅《おおすみ》海峡を通過すると、針路をほぼ真西に二八〇度の方向で前進をつづけた。空からの攻撃に備え、「大和」を中心に一・五キロ間隔に巡洋艦「矢矧《やはぎ》」と駆逐艦八隻を配置した輪型陣である。
午前六時すぎ、「大和」にただ一機|搭載《とうさい》されていた水上偵察機が、二人の搭乗員《とうじよういん》を乗せて飛び去った。レイテ沖海戦までは六機の水偵がかならず搭載されていた。今は一機も無駄にできなかった。
「私たちも、大和と運命を共にさせてください」
二人の搭乗員は口々に頼んだが、別の場で存分に働くようにとの有賀幸作艦長の判断で飛び立たせることになった。水上偵察機は艦の上空を二度旋回すると、別れの挨拶《あいさつ》に翼を左右に振り、機首を北に向けて指宿《いぶすき》基地へと飛び去った。
その後、突然、先頭の「矢矧」の左後方にいた駆逐艦「朝霜《あさしも》」が、
「ワレ機関故障」
の旗旒《きりゆう》信号とともに、修理中と打電してきた。すでに出し得る最高速力は一二ノットに低下している。この先、制空権を敵の手ににぎられた海域で故障、漂流する艦が、蝟集《いしゆう》する敵艦上機の好餌《こうじ》になるのは明らかだった。
「ワレ続行不可能」
速力をゆるめ状況を見まもる第二艦隊に、ふたたび信号が送られた。「朝霜」は隊列を離れ、しだいにその姿は見えなくなった。
その後、「朝霜」が、
「一三〇度方向ニ艦上機見ユ」
と知らせ、ついで、
「一二二一、九〇度方向ニ敵三〇数機ヲ探知ス」
という緊急報告を打電して消息を絶ったのは、機関故障を告げてから五時間余が経ったころである。艦隊からただ一隻で脱落していった「朝霜」の最期がどのような状況を迎えたか、目撃した者はだれもいない。
戦闘記録には、
「分離行動中ニシテ敵機ト交戦中ノ電ヲ発信後消息不明、船体沈没後総員戦死セルモノト推定ス」
とその最期が簡略に記されているだけである。
「朝霜」にはまた、五日の午後、第二艦隊へ「引導をわたし」に訪れた草鹿《くさか》参謀長に、
「連合艦隊最後の作戦と言われるなら、なぜ、司令長官も参謀長も、日吉の防空|壕《ごう》を出て、この特攻出撃の陣頭指揮をとらんのですか」
と、声を荒らげて迫った小滝久雄第二一駆逐隊司令が乗っていた。
杉原与四郎艦長以下、全乗組員三二六名は、沖縄特攻を目前に、一名の生存者もなく全員戦死を遂げた。
この朝、測的発信手の八杉康夫は、戦闘配置の前部測的所の塔内でまだ暗いうちに目を覚ました。
測的所は、前檣楼《ぜんしようろう》の最高部に位置する射撃指揮所の下にある。半径五メートルほどの円形の部屋には、目標までの距離測定のための一五メートル測距儀をはじめ計器類がひしめいている。八杉はこの測距儀の両端にある対物レンズを初めて拭《ふ》いたときの恐怖が忘れられない。命綱を着け、細い手すりを伝わって小刻みに歩を運ぶ。眼下に露天甲板や二五ミリ機銃群が小さく見えた。測的所の円形の一角には電探《レーダー》室が、遮光幕にくぎられてある。
昨夜から狭い場所に腰かけたまま仮眠をとっていた八杉は、頭が重く腰が痛かった。左隣には班長の石田直義一番測距手が肩からすっぽり毛布をかぶり、測距儀に頭をもたせかけたまま眠っている。
「八杉、もう、起きたんか」
石田が声をかけたが、その眼は寝不足で充血していた。
七時すぎに八杉が兵員|烹炊《ほうすい》所に朝食の戦闘配食を受け取りに行くと、
「おい、これ、持っていけ」
知り合いの主計兵が、相撲部員用の特大の握り飯をくれた。
「頑張れや」
主計兵はニッと笑った。
十七歳の八杉は、その一言で睡眠不足からの不快感も消えた。丸野正八主計兵曹の顔を見てゆきたかったが、そのまま兵員烹炊所を出た。
八杉は「大和」に乗って間もなく、第二士官次室の従兵に選ばれた。従兵になったとき、最初に先輩から言われたのは、
「おい、丸野主計兵曹には気をつけろ、烹炊所のボスだからな」
八杉が士官室用の食事をもらいに行くと、ズボンを膝《ひざ》までまくりあげ、長靴姿の古参下士官風の男が、
「今度、新しく従兵になったんは、おまえか」
睨《にら》みをきかした声で言った。八杉は直立の姿勢をとり、
「ハイ、八杉上等水兵です。よろしくお願いします」
緊張した声で答えた一瞬、黄色い山形マークの善行章が一本、目に入った。
「おう、そうか、しっかりやれや」
これが丸野正八との出会いだった。うるさい男との評判だったが、八杉には意外に親しみやすい表情だった。相性がよかったのか、それ以来丸野は、まだ初々《ういうい》しさの残る新入りの従兵の八杉に、目をかけてくれた。
「おまえのとこの助田《すけた》少尉はな、うどんが好物なんや。たまには上官に差し入れせんとあかんな」
と言い、巡検後には薬缶《やかん》にうどんを入れてもたせてくれたこともある。
八杉が配置に戻り、朝食を配った。大きな握り飯に、
「上田兵曹用だのう」
班長の石田が眼を細めた。上田兵曹は相撲部員である。
この後、士官室からギンバイしていたサイダーをみんなで飲んだ。
旋回手の細谷太郎が、
「あと何べん、めしを食えるやろ」
小声で傍の北川茂に言った。
昨夕の総員集合のとき、「君が代」を歌っていると、左に四国の山脈が見えた。四国の海岸の松の木が沈みかけた夕陽を背景に黒いシルエットをつくっていた。トラックやリンガ泊地から戻って豊後《ぶんご》水道にさしかかると、よく四国の松の木が見えた。そのたび、細谷は内地に戻った気がしたものだった。
「もう、内地には帰ってきいへんのやな」
普段は陽気で人なつこい細谷だったが、胸の底から熱いものがこみあげた。
歌が終わると、すぐ戦闘配置につけの命令で、細谷はトップの測距儀へかけ上っていった。途中、通路で八杉康夫に会った。八杉は水兵長の細谷に黙って敬礼した。細谷も短く答礼した。
細谷には八杉について、食事のことでの思い出があった。
細谷より八杉は七つ年下である。「大和」に乗った初対面のとき、八杉は細谷の目に華奢《きやしや》に映った。八杉は大根や人参《にんじん》などの野菜の煮物には一切手をつけず、汁だけめしにぶっかけて食事をしていた。
「えろう、偏食する兵隊やな」
そこで、細谷は八杉をつかまえると、
「貴様、今日から一週間以内に野菜を全部食べる訓練をしろ。もし、一週間以内にできなかったら、厳しい罰直を与える、ええな」
と脅した。
八杉はびっくりした顔で細谷を見ていたが、「ハイ」と返事をした。罰直がこわかったのか、一週間以内で何でも食べるようになった。
八杉の方では、食事のとき細谷が斜め前にいる。大根や玉葱《たまねぎ》などは何とか食べられるようになったが、人参だけはどうしてもダメだった。しかし、細谷が大きな眼で見ているので無理矢理人参を飲み込んだ。
戦闘が始まると、旋回手の細谷は椅子《いす》に腰を下ろした。細谷のすぐ横の一番奥には電波探信儀の部屋があった。そこは暗幕で仕切られていて、中はレーダー・スクリーンをみるため真っ暗になっている。「大和」で一番年若い正木|雄荘《ゆうそう》たちがいた。
「大和」に二一号レーダーが取り付けられたのは、昭和十八年七月だった。十九年初頭には二二号、一三号電探が追加装備され、このころ高松宮殿下が見学のために来艦された。
細谷たちは戦闘配置のまま、殿下をお迎えした。奥の電探《レーダー》室へ殿下が入られるときも、細谷は前かがみになって電動機を動かしていた。電探室を出て来られた殿下は、
「この配置は、つらいか」
不意に聞かれた。
「そんなことは、ありません」
細谷は人間一人がようやく通れる幅しかない狭い背後を通ってもらうため、鉄の椅子の上で前かがみになって答えた。
「そうか」
殿下は細谷の肩を軽く叩《たた》き、部屋を出て行かれた。
天皇陛下の弟君に肩を叩かれ、細谷は、「感激」した。
この朝、高松宮殿下が天皇の御名代として戦捷《せんしよう》祈念のため、伊勢神宮に出発されたと知ったら、細谷は新たな「感激」を覚えたかもしれない。
細谷は朝食の握りめしをほおばりながら、七日の夕刻まで艦はもつのかな、酒保にはまだ大分残っているから、今夜は御馳走《ごちそう》かな、などと考えていると楽しかった。
「マーチン二機、二三〇度方向!」
見張員が声をあげ、対空戦闘ラッパが鳴った。
八杉はとっさに腕時計を見た。午前十時十六分だった。「大和」の二三〇度方向、四五キロの上空に、米のマーチンPBY飛行艇二機がついにあらわれた。
主砲発射の合図に、八杉は配給品のビール一本をチェストに残していたのを思い出した。主砲を撃つとビール瓶が割れると聞いている。
八杉は、このビールへの執着が余程つよかったのか、昼前に便所に降りると、すでに締め切ってある居住区へのマンホールをくぐり、チェストの中のビールを肌着で巻いてきた。自分が飲みたいからではなく、探照灯配置の師範徴兵の加藤二曹に進呈するつもりだった。加藤二曹は巡検後のときなど、
「配置へ来んか」
と八杉を呼び、いろいろな話をしてくれた。そんな折は酒保から買い求めたビールにウィスキーを少し注ぎ、
「こいつは、柳かけというんだ」
いかにも酒好きらしく相好を崩しおいしそうな表情で、八杉にも飲んでみるかと言ったりした。だが、八杉がビールを進呈する機会もなく、この日の午後の戦闘で、加藤二曹は戦死した。
マーチン飛行艇の出現は、敵艦上機群の来襲を予告するものだった。一瞬、艦内に緊張が走った。
「大和」は右三二〇度つづいて左一六〇度に回頭、主砲射撃開始の準備をしたものの、艦隊の射程外を、厚い密雲を巧みに利用した、つかず離れずの触接に、主砲は発砲できなかった。
「大和」では昨夜から気象班の者たちが福山豊気象長とともに、あらゆる資料をもとに気象状況の検討をつづけていた。気象班の野呂《のろ》昭二は、福山気象長の指図で仲間と天気図を作成し、天象が味方と敵とどちらに有利に働くか討論をした。
高度一〇〇〇メートル以下の層積雲が不気味だった。今朝は東支那《ひがししな》海からの低気圧で、雲量は昨日の八から一〇に、雲高は一〇〇〇から二〇〇〇メートルと低く、一二メートルの南の風が海上にうねりをあげていた。中国大陸からの黄塵《こうじん》をまじえた霧がたち込め、視界も急速にせばまっている。
雲の低い天候は、敵飛行隊にとって艦隊を発見するのに困難だと考えられたが、一方、敵機が至近距離にくるまで射撃も回避運動もできないので、艦隊側の不利も憂慮された。
野呂昭二は、昭和十九年に設立されたばかりの土浦海軍気象学校の第一期生として卒業すると、十九年十二月に「大和」に乗った。普通、駆逐艦などでは信号兵一人が気象担当だったが、「大和」では気象長の他に四名の気象担当者がいて、さすが違うと感心した。戦闘が始まると気象業務はなくなり、この日も戦闘配置は艦長伝令だった。「配置につけ」の号令がかかると、艦橋に走る。
「雨だ、雨が降ってきたぞ」
艦橋では、声が上がった。
「とうとう、雨か……」
野呂は窓を打ち叩く雨滴を眺め、気がふさいだ。
朝食のとき、
「汁粉《しるこ》が食べられたら、成功だな」
仲間の一人が、つぶやいた。
主計科の同年兵からこの日の夜食に汁粉がでると聞きだしてきたらしい。
野呂は一瞬、汁粉が食べられるようなら、沖縄突入ができるかもしれないと思った。
機銃分隊の後藤虎義兵曹も、雨の降りだした空を不安な面持で眺めていた。この雨が敵と味方のいずれに有利なのかまったくわからなかった。
後藤の戦闘配置は、後部のそれも艦尾の旗竿《きかん》付近だった。通称、特の九、一〇番機銃と呼び、レイテ沖海戦以後に設置された。甲板から海の上にせりだし、爆風除けのない裸の機銃だった。レイテ沖海戦のときは、この裸の特設機銃員の多くが鉄片でアゴをえぐられたり、腕を切断されたりした。彼と同姓の後藤二曹も左舷《さげん》の照準器で炸裂《さくれつ》した至近弾の破片にアゴをえぐられ、重傷を負った。内田貢が爆風によって左眼をはじめ、体中に破片を受けて吹きとばされた前日である。そのときの苦い経験をいかし、海に張り出した特設機銃のまわりを弾片除けのために柔道畳で囲んだ。
後藤の配置付近には「大和」の戦時郵便局があった。普段は担当者がいるのだが、今度の出撃の際にからっぽになったので、居住区が最下甲板の後藤たちは、その戦時郵便局を臨時待機所にしていた。昨晩もそこで仮眠をとり、今朝は五時前に目を覚ました。
十時すぎにきたマーチン飛行艇は、後藤の配置からよく見えた。副砲が威嚇《いかく》射撃をしたが、巧みな触接で、射程内に入ってこないのが腹立たしかった。この敵触接機の眼をくらますため、「大和」では変針点に達したとき、針路を三二〇度にとり北上の気配をみせたり、たびたび向きを変えたりしたが、効果はさほど期待できない気がした。
そのころ、第一艦橋では伊藤整一司令長官が、
「鹿屋《かのや》からの直掩機《ちよくえんき》に連絡はつかないのか」
と近くの参謀にしきりに訊《たず》ねた。
連合艦隊司令部に、「ワレ触接ヲ受ク」と打電したあとだった。
副長の能村次郎は、そのとき後ろに控えていた参謀の一人が、
「連絡はとれません」
と答えていたことを記憶している。
この朝早くに鹿屋基地から十数機の戦闘機を護衛に出動させる旨の連絡が入り、心待ちにしていた。
連合艦隊司令部では、予想される敵の大編隊に対し、航空機の欠乏の折からわずかの掩護《えんご》をつけたところでさしたる効果はないとの判断で、直掩機を五航艦に特に要請しないことにしていた。しかし、出撃海域を管轄する鹿屋の宇垣纏《うがきまとめ》五航艦長官はこの艦隊出撃に反対を表明しているので、うるさいことを言うにちがいない。そこで、連合艦隊参謀から宇垣に対し、
「第二艦隊の行動については、五航艦に迷惑はかけず」
と、あらかじめ言ってきていた。
五航艦に迷惑はかけずと言われ、宇垣は無性に腹が立った。そもそもこの作戦は、五航艦と密接な関連があるではないかと怒った。
「余は同隊(第一遊撃部隊)の進撃に就ては最初より賛意を表せず、GF(連合艦隊)に対しては抑へ役に廻りありたるが今次の発令は全く急突にして如何とも為し難く、僅に直衛戦闘機を以て協力し敵空母群の攻撃を以て之《これ》に策応する外道なかりしなり」
宇垣は連合艦隊司令部への批判も込め、四月七日の日記にその心境を披瀝《ひれき》している。
宇垣には、第一遊撃部隊、わけても「大和」の出撃行動に対し、どうして無関心でいられようかという思いがある。宇垣にとって「大和」は一年間、山本|五十六《いそろく》司令長官の参謀長として乗った懐かしい艦である。その後も、第一戦隊司令官として、ビアク島砲撃、マリアナ海戦、レイテ沖海戦と行動を共にした艦だった。
宇垣は五航艦の幕僚たちの反対も押し切って、一五機の掩護機を割いた。搭乗員の中には、伊藤司令長官の一人息子、叡《あきら》中尉の名もあった。この宇垣らしい心くばりを、「大和」の伊藤司令長官が知っていたであろうか。父は知らなかったとしても、直掩機もなく沖縄出撃に向かう艦隊の前途を、当然、息子の伊藤叡中尉は承知していた。しかし、この伊藤叡中尉を乗せた直掩機は、艦隊前方で敵機に包囲された。そのときはあやうく脱出したものの、父の死に遅れること三週間後の四月二十八日、ふたたび沖縄に向かう特攻機に乗り、伊江島《いえじま》付近海域で撃墜された。
宇垣が出動させた一五機の直掩機が交代で数機ずつ艦隊上空を護衛していたのを「大和」の乗組員たちは鮮明に記憶している。
通称トップといわれる主砲射撃指揮所の方位盤動揺修正手の竹重忠治は、「大和」の上空をつかず離れず護衛する味方の零《ゼロ》式戦闘機を見て、たのもしいな、と思った。竹重がこの直掩機に最初に気づいたのは午前七時すぎごろだった。
一五メートル測距儀のさらに上にある主砲射撃指揮所からは、上空がよく見える。直掩機は三機いた。竹重は外側の通路に出て帽子を振りたいような気持だった。
呉《くれ》を出港して徳山沖にくる間、漁船や鳥を目標に何度も戦闘訓練を行なってきていた。その間にも、味方の戦闘機は来てくれるのだろうかと、村田元輝射手や家田政六旋回手たちと話し合った。たとえ、三機であろうとたのもしかった。
十時すぎ、「大和」を護衛していた零式戦闘機が上空を旋回したかと思うと、翼を左右に振り、あっという間に姿を消した。
伝声管から敵マーチン飛行艇現わると伝えてきたのは、それから一六分後だった。まるで味方の戦闘機が反転するのを待ち構えていたかのような敏速な登場だった。
第一艦橋見張員の上甲正好も、直掩機が上空を護衛していたのを見ている。
「今度の戦《いくさ》に直掩機をつけてくれたのか」
と心丈夫に思っていると、
「味方基地ニ帰投ス、対空警戒ヲ厳重ニセヨ」
直掩機から発光信号が送られ、その数分後にマーチンがあらわれた。
防空指揮所の伝令をやっていた長坂来《ながさかきたる》は、戦後もだいぶ経《た》ってその折の搭乗員の一人に再会している。午前六時から十時まで、交代で数機ずつ護衛したという。この一五機のうちの一機に乗っていた搭乗員は、大阪外語大からの学徒出陣だった。
上甲見張員の記憶にあるように、マーチン飛行艇二機が艦隊の前方に罌粟粒《けしつぶ》のごとくあらわれたのは、宇垣の出動させた上空直掩の戦闘機の最後の一機が鹿屋《かのや》基地へ向かって飛び去って間もなくだった。
マーチン飛行艇が艦隊上空の雲間に登場する数時間前、沖縄本島北東海域では多数の米航空母艦が集結していた。
第五八機動部隊指揮官ミッチャー中将|麾下《きか》の空母「ホーネット」「ベニントン」以下一四隻の飛行甲板では、作業員がアベンジャー雷撃機に落下式増槽タンクを取り付ける作業に追われていた。目標は前夜、九州東岸で米潜水艦が発見した日本艦隊だった。
ミッチャー中将は第五八機動部隊旗艦「バンカーヒル」の艦橋から攻撃隊の発艦準備を眺めていたが、やにわに無線電話で沖縄東方海上にいる米第五艦隊旗艦「ニューメキシコ」の司令長官、レイモンド・スプルーアンス大将を呼びだした。
Will you take them or shall I ?
詰問するようなミッチャー中将の自信に満ちた声に、スプルーアンス大将はしばらく沈黙した。
昨夜から、スプルーアンス大将は自ら「ニューメキシコ」に乗艦し、第五四砲撃支援部隊のデイヨ少将とともに「大和」を攻撃する手筈《てはず》を決めていた。しかし、ミッチャー中将麾下の空母「エセックス」からの午前八時十五分緊急電で、
「敵艦隊、ダイヤモンド型ノ輪型陣中央ニ戦艦一、巡洋艦一ナイシ二、駆逐艦七ナイシ八、N三〇度四四分、E一二九度一〇分ノ地点、針路三〇〇度、速力一二ノット」
との報告に戸惑いを隠しきれなかった。
実際には「大和」は二二ノットで針路は二八〇度だったが、この針路三〇〇度の報告は、西北西にあたり、沖縄ではなく佐世保《させぼ》航路の可能性を示唆している。もし、「ヤマト」部隊が佐世保航路に向かうなら、デイヨ部隊の追跡は距離的にも至難だった。
「ヤマト」との目前の対決を待望していたスプルーアンス大将は、作戦の岐路に立たされていた。そこに入ったのが、ミッチャー中将からのこの無線電話である。
彼は自ら沈黙を破ると、米海軍史上最も短い戦闘命令といわれる返信を送った。
You take them.
ミッチャー中将は、司令長官の命令を満足げに受けとると、至急、パーク参謀長に攻撃開始を命じた。
午前九時五分、ミッチャー中将は日本艦隊の正確な状況を把握するため、戦闘機一六機、通信中継機四機の計二〇機を発進させ、つづいて声をはりあげた。
「第五八・一、第五八・三、第五八・四各機動部隊、攻撃隊発進させよ。全機ヤマトを仕留めるまで帰艦するな」
午前十時十八分、まず第五八・一および第五八・三機動部隊の空母群から戦闘機、爆撃機、雷撃機の二八〇機が先陣として発艦した。つづいて第五八・四機動部隊一二六機も舞い上がった。
しかし、スプルーアンス大将は、ミッチャー中将に航空攻撃の許可を与えたあとも、デイヨ艦隊への出撃待機命令を取り消さなかった。「ヤマト」付近の気象状況から判断して、砲撃の機会はまだ残っていると考えた。それは、彼自身が、この日本海軍最後と思われる出撃に対し、戦艦同士の対決につよい執着を覚えていたからでもあった。
スプルーアンス大将が、戦艦主力のデイヨ部隊に「ヤマト」以下を砲撃させる戦術をたてていることは、彼の上司である太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ元帥も承知していた。ニミッツはこの部下の願望が無残に崩れてしまった経緯《いきさつ》を、のちに『ニミッツ太平洋海戦史』の中で、述べている。
「スプルーアンス提督はただちにディヨー提督指揮下の戦艦部隊に対し掩護任務につく準備をするように命じた。ディヨー部隊は日本艦隊を、本国の基地に後退することができないほど遠方に進出させ、しかも九州基地からの航空掩護圏外まで南方に誘致することになっていた。それから四月七日の適当な時期にディヨー部隊は進出して、日本艦隊を強力な砲火で押し包む手筈になっていた。しかるに、ミッチャー提督は、日本部隊が水上部隊だけと一戦を交え雌雄を決するまで指をくわえて放っておくという考えを毛頭もっていなかった。七日の夜明け前、彼は第五八機動部隊でこの獲物を仕止めようと、北方に向かって進撃に移らせはじめた」
スプルーアンス大将の戦術が、俊敏な部下のミッチャー中将に先制攻撃をかけられて崩れた経緯がわかる。
スプルーアンス大将がデイヨ部隊の四六隻の艦艇のうちから三四隻を選び、出撃準備を命令したのは六日の夜半だった。三四隻の乗組員たちは真夜中だというのにベッドから飛び起き、
「ジャップの巨大な獲物と刺しちがえるのだ!」
歓声をあげて、叫んだ。
少年のような主計兵まで逆立ちして大喜びだった。編成から洩《も》れた一二隻の艦上では嘆声と怒声が渦巻いた。
しかし、スプルーアンス大将のデイヨ部隊への出撃命令を読んだミッチャー中将は、その電文を破り捨てた。パイロット出身の空母部隊の指揮官として、この巨艦をパイロットたちに沈めさせたかった。ミッチャー中将が是が非でもジャップのこの巨大な獲物に執着したのは、レイテ沖海戦での「ヤマト」と同型艦「ムサシ」の沈没は、機動部隊の飛行機の戦果であったのか、それとも潜水艦の雷撃の結果かという米海軍内での論争にも決着をつけたかったからである。そこで、スプルーアンス大将の戦術の機先を制するため独断で索敵を始めた。こうしてミッチャーの発進させた哨戒《しようかい》機からの報告が、スプルーアンスに否応ない決断をうながす結果になったのである。
日米の艦隊指揮官である伊藤整一とレイモンド・スプルーアンスが極めて親しい間柄だったことは、「大和」に昭和十九年十二月より副電測士として乗っていた吉田満が、著書『提督伊藤整一の生涯』の中で明らかにしている。
吉田満の著書によれば、両者がワシントンで出会ったのは、沖縄決戦の一八年前にさかのぼる昭和二年のことだった。
当時少佐だった伊藤整一は、米国駐在を命じられ、その年の五月に、ワシントンの日本大使館に着任している。このときの大使館付武官は大佐だった山本五十六である。
山本は、伊藤より一年四か月前の大正十五年一月にワシントンに着任している。新しく駐在を命ぜられてやって来た伊藤は、山本大佐にいろいろな相談をした。山本から日本語を使う機会の少ない場所に宿泊しなければ言葉が上達しないと言われ、ニュー・ヘブンのエール大学の寄宿舎に入ったという話もある。
この伊藤少佐の米国|赴任《ふにん》に前後してワシントンに到着したのが、アメリカ海軍情報課の通信技術専攻だったレイモンド・スプルーアンスだった。日本大使館主催のパーティで知り合った両者は、しだいに親交を結ぶ。当時伊藤が三十七歳、スプルーアンスは四十一歳だった。伊藤は日本へ残してきた娘への贈り物の相談にスプルーアンス夫人の知恵を借りたりして、公私にわたるつきあいを深めた。
やがて、この二人が一八年後に敵味方に分かれ、ともに総帥として再会するとは思ってもみなかった。おそらく、通信技術畑のスプルーアンスは、日本艦隊の指揮官が「セイイチ・イトウ」であることは、事前に暗号解読によって知っていたにちがいない。
「イトウの海軍軍人としての経歴に有終の美をそえるべき戦闘になるとすれば、戦艦対決の檜《ひのき》舞台を提供することをもって、せめてもの餞《はなむけ》としたいという感慨が、あるいはスプルーアンスの胸中をよぎったかもしれない」
と吉田満は、解釈している。
こうした両者の宿縁を抜きにしても、ニミッツ元帥やスプルーアンスには、日本海軍を育てた東郷《とうごう》平八郎へのある種の特別な思いもあった。
明治三十八年、アナポリス海軍兵学校を卒業して間もないニミッツは、少尉候補生として戦艦「オハイオ」に乗り、日本を訪れている。日露《にちろ》戦争が終わってすぐのころだっただけに、日本海海戦で勝利を収めた東郷は、ニミッツにとって憧憬《どうけい》の対象だった。園遊会で東郷を遠く眺めていたニミッツは、候補生を代表して、
「われわれのテーブルで歓談して下さいませんか」
おずおずと申し出た。
東郷は快く話をしてくれた。英国海軍の学校で勉強した東郷の英語は流暢《りゆうちよう》だったが、それにも増して、このときの感激は、つよくニミッツの心に刻みこまれた。その後、東郷の亡くなったとき、ニミッツは国葬に参列し、東郷邸にも出向いて哀悼の意を表した。
ニミッツを尊敬するスプルーアンスもまた、東郷への憧憬を抱いた一人だった。ニミッツの二年後に、同じく遠洋航海で少尉候補生として日本に立ち寄ったスプルーアンスは、東郷提督との面会に胸を熱くした。当時、東郷が司令長官として乗っていた日本の連合艦隊旗艦「三笠《みかさ》」を礼訪して敬意を表した。眼前を通りすぎる東郷の後ろ姿を見かけただけで言葉を交わすこともなかったが、その感激は忘れられなかった。
「戦いにはむろん計算も必要だが、名誉という要素も加わる」
スプルーアンスはデイヨの水上部隊をもって迎え討つ決意をしたとき、こう言っている。
彼が艦隊同士の対決で「ヤマト」を葬りたいと望んだ心情を憶測すれば、日本海軍を育てた東郷提督への、それこそ餞の心が含まれていたとも考えられる。ミッチャー中将の無線電話を受けとったときのスプルーアンスの沈黙は、それにつづいた命令が米海軍史上最も簡潔であったわりには、複雑なものだったに相違ない。
「大和」のレーダーが、ミッチャー中将の発艦させた大編隊を探知したのは、午前十一時七分である。一八〇度方向、一〇〇キロ付近だった。「大和」から各艦に米機動部隊の第一波近接が至急、知らされた。その後、十一時三十五分には、艦隊七〇キロ付近に二群以上の敵機接近が探知された。
雨脚は次第に激しさを増した。
「戦闘配食受けとれ」
艦内スピーカーからは、空襲に備えて号令がかかった。
乗組員にとって最後の食事になった昼食には、握りめし三個、沢庵《たくあん》数切れと茹卵《ゆでたまご》がついていた。
能村副長が、堀井正主計長から「配食終り」の報告を受けたのは、十二時近かった。
戦闘配食ながら白米の握りめしをほおばり、堀井主計長自らが運んできた熱い紅茶をのみほした伊藤司令長官は、周囲をかえりみるようにして、
「午前中は、どうやら無事にすんだな」
と言った。
「大和」には主砲弾九〇〇発、副砲弾九〇〇発、高角砲弾七二〇〇発、機銃弾一八万三〇〇〇発を積んでいた。これが敵機と闘うための銃砲弾数である。すでに奄美《あまみ》監視|哨《しよう》からは敵編隊発見の情報が届いていたし、「大和」のレーダーも敵機接近を探知していた。戦闘開始がそう遠くないことを承知していたが、それ以上の言葉はつけ加えなかった。伊藤は右舷側の長官席に腰かけ、前方をみつめた。
「輸送船一隻、右舷前方」
突如、見張員の声が響いた。
午後〇時二十分ころ、日の丸を掲げた一隻の輸送船がすれちがった。甲板では兵隊たちがしきりに手を振っている。大島輸送隊だった。
その輸送船から、
「ゴ成功ヲ祈ル」
「大和」の指揮官に向かって短く発信してきた。
一瞬、「大和」の艦橋に微笑が満ちた。もとより、大島輸送隊のだれしも、「大和」が特攻作戦で沖縄へ向かう途中などとは知るはずもない。
「ワレ期待ニ応エントス」
「大和」からの返信が送られた。
輸送船が姿を消した直後、艦橋スピーカーに、電探室室長長谷川兵曹の切迫した声が届いた。
「目標捕捉、イズレモ大編隊、接近シテクル!」
対空戦闘のラッパが鳴り、「配置につけ」の号令が乗組員たちをそれぞれの部署に走らせた。
海図台で茹卵をほおばっていた艦長伝令の中井(現・川畑)光三はとたんに茹卵を喉《のど》に詰まらせながら、配置へ走った。一瞬、第二砲塔下黒板に書かれていた「死に方用意」の文字が脳裡《のうり》をよぎった。
有賀艦長は第一艦橋上部の防空指揮所に、能村副長は司令塔内の防禦《ぼうぎよ》指揮所に下りた。
艦内に静寂がはりつめた。
午後〇時三十二分、
「グラマン二機、左二五度、高角八度、四〇〇〇、右に進む」
対空見張員の甲高い声が響きわたった。
「今の目標は、五機……一〇機以上……三〇機以上」
つぎの瞬間、
「敵機は一〇〇機以上。突っ込んでくる!」
間髪を入れず、有賀艦長の声がふき出た。
「撃ち方はじめ!」
砲声を合図に、「大和」は二四ノットに増速した。
2
副砲、高角砲が連続的に砲弾を発射した。機銃も一斉《いつせい》に火を噴き、音の氾濫《はんらん》が艦体を揺さぶった。
副砲砲員長の三笠《みかさ》逸男は、
「敵機三〇機……」
の伝声管の叫びに、塔外をのぞいた。
低い乱雲を利用して飛んでくる艦爆の編隊が目に入り、慌てて鉄の扉をしめた。緊張した塔内に、急に電灯の光がつよく目に映る。
「敵機五〇機!」
拡声器はまた叫んだが、レイテ沖海戦で三日間に一五〇〇機の来襲を受けた砲員たちに動揺はなかった。
「敵機は約一〇〇機」につづき、「大編隊、突っ込んでくる!」と告げた。
一瞬、戦慄《せんりつ》が走ったが、三笠は足を踏んばるように股《また》を開いて突っ立った。
「副砲、撃ち方はじめ!」
前部指揮所からの清水芳人副砲長の命令に、右、中、左と一斉に砲身を振りむけて撃った。敵愾心《てきがいしん》だけが全身にたぎり、一発一発と撃ち込むたび、
「これでもか、これでもか」
と三笠は心の中で叫んだ。
避弾のために大きく転舵《てんだ》をするのか、艦は右に左にときしむ。砲塔内で敵機の見えない三笠たち砲員は鋭い金属音と轟音《ごうおん》の中で、機械的に操作をつづけた。
全艦をつつむ砲煙のため、ついに方位盤が照準不能になり、砲側照準に移った。砲塔を左いっぱいに回した。爆弾が命中したのか、照準孔より飛び込んでくる轟音と爆風のために指揮が困難になった。やがて、三笠は自分のくだす命令にどこか自棄がまじっているのを感じた。
砲員は汗と疲労の色を浮かべ、肩で大きくあえぎながら弾を装填《そうてん》していた。
そのとき、
「二番副砲爆弾命中、使用不能。砲員長ほか数名戦死」
との報告がきた。
とっさに、砲員長の小久保兵曹の顔が浮かんだ。
「かかあに手紙を書かなくちゃ」
笑いながら言っていた小久保兵曹は、三笠と砲術学校高等科の同期だった。後部の副砲射撃指揮所にいて、指揮官は臼淵磐《うすぶちいわお》大尉だった。
「小久保、先に死んだか」
頭の中は真っ白に麻痺《まひ》してしまったのか、小久保兵曹の戦死もピンとこなかった。悲しさも切なさも湧《わ》かず、撃った。
砲煙のために方位盤射撃から砲側照準に移ったが、いつの間にか左に傾き操作は困難になっていた。
「主砲、副砲は射撃中止、機銃、高角砲は全力を発揮せよ」
艦長命令が伝声管に響く。
射撃を止めると、頭上をかすめる敵機の爆音が、首をすくめたくなるような恐怖を三笠たちに呼び起こした。
三笠は副砲塔の防禦が弱いため、直撃弾を受けた場合に備えて、装薬を少なくして待った。砲塔内にいると、艦のどこがやられているのか状況がつかめない。傾斜する塔内にも、艦をゆすぶる爆音がとどろいた。部下の砲員たちが、三笠の顔を不安そうに見た。
「大丈夫、たいしたことはない」
三笠は声を出し、笑って見せようとした。しかし、その表情はひきつっていた。
敵艦上機が、四囲より「大和」「矢矧」に向かって殺到してきた。
一五メートル測距儀についていた八杉康夫が、対空見張員の「敵機発見」で配置に就いたのは、握りめしの二個目を食べていたときだった。
目標捕捉の測距を開始した。測手の基針の動きが止まるや、発信手の八杉は瞬間的に追針を合わせ、射撃盤への発信ボタンを押した。ただこのためにのみ日々猛訓練を受けてきたのだ。班長の石田直義が、接眼鏡を指さした。視野いっぱいにグラマン、カーチスの戦爆連合の大群が見えた。胡麻《ごま》粒をばらまいたように敵機が入り乱れている。後方から逆落しをかけてくるのは二五〇キロ爆弾を抱えたカーチスであろうか。
敵機が近距離になると、 測的不能になる。 測距塔をまわし、 次の目標を捜すしかなかった。
「あッ、落ちた」
石田班長が鋭い叫び声をあげた。
急角度で降下してきた敵機を捉えたらしい。
八杉が測距儀ごしに前方の窓からこの状況を見ようとしたとき、
「貴様、逃げるか。逃げるなら叩き切ってやる」
いきなり、中央の一番測距長、中筋武四兵曹長が手元の日本刀に手を伸ばした。
石田班長が右|肘《ひじ》で席へ戻れと八杉を押した。
八杉の体がふるえた。逃げる気などない。どこへ逃げるというのだ。怒りでふるえが止まらなかった。
測距塔に機銃弾が当たるのか、リズミカルな金属音が弾《はじ》けた。
そのとき、後部測的所の助田《すけた》庄司少尉が白鉢巻を血に染め、軍刀を杖《つえ》にして八杉の上のハッチより降りてきた。
「分隊長報告、後部電探室全滅、後部測的所全滅!……」
助田少尉は、それだけ言うのもようやくだったのか、崩れるようにうずくまった。
「よし、ごくろう」
江本義男大尉はひと言声をかけると、気ぜわしく前方を見た。
助田少尉がふらふらと立ち上がった。目がすわっている。軍刀を杖に歩きだした。
「助田少尉、行かんでください」
八杉は体ごとぶつかり押し止めたいと思ったが、声はでなかった。呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿をみつめた。
丸野主計兵曹に、助田少尉はうどんが好物だから持っていってやれ、と言われ、私室へ差し入れしたときの嬉しそうな顔がちらついた。叫ぶか、わめくか、走りまわるかしないと、この気持は押えられなかった。
魚雷が命中したのか、測距儀が激しく揺れた。
八杉の近くで、北川茂も助田少尉の後ろ姿をみつめていた。生き残った北川茂は、そのとき声をかけなかった自分が悔やまれてならなかった。彼は、戦後もだいぶ経って同じ三重県の助田少尉の遺族を捜し、その最期を伝えている。
左舷《さげん》の防禦盾《ぼうぎよたて》のない特設機銃にいる畑中正孝は、突っ込んでくるカーチスに狙《ねら》いをつけた。同じ配置の九人の機銃員が一心同体となり、ひたすら銃弾を噴き上げた。
最上甲板はずれの機銃指揮塔では和田健三少尉が、後部機銃群指揮官として指揮棒を振り、射撃目標を示す。和田は兵隊から叩き上げて少尉になった助田少尉と同様、親分肌だった。
「日本はいま、戦争をしとる。わしらは全力をあげ、戦うのが使命なんだ。なにもかも忘れて戦ってくれ。おまえたちだけを死なせはせん」
奈良県出身の和田少尉は、総員前甲板集合で沖縄特攻を言い渡されたとき、八分隊の機銃員たちに言った。
カーチスの投弾が、するどい金属音をあげて急角度で降下してきた。その瞬間、「大和」の一三号電探付近に命中したのか、畑中の眼に白くのぼる硝煙《しようえん》が見えた。三号レーダーの切れたアンテナの架線が風に吹かれている。
不意に、畑中たちを襲うかのように、グラマンが急降下してきた。敵の機銃弾は、銃座の木甲板に当たった瞬間、一列に木片を跳ねあげ、弾け飛んだ。ヤリのようにとがった木片が兵隊の腹に刺さった。
畑中たちは銃身が灼《や》けつくほど撃ちまくったが、艦の転舵で機影のあとをねらう有様だった。そのつど、弾丸はむなしく消えた。
「あいつら、撃ちにくいように突っ込んできよる」
畑中は、ぼやいた。
このとき、奥村昭二射手の右舷二五ミリ三連装の正式機銃群から歓声が上がった。右舷艦尾からのカーチス一機が撃墜された。
しかし、畑中は、一瞬、目をみはった。
「大和」の左横についていた駆逐艦「浜風《はまかぜ》」の艦尾付近に凄《すさ》まじい轟音とともに火柱が噴き上がった。みるみる艦の真ん中に大きな水柱が立った。水柱が消えたとたん、艦は二つに折れ艦尾を上に棒立ちとなると、あっという間もなくその姿を消した。
第一波の空襲が終了して敵が潮の引くように去ったのは、午後〇時五十分だった。
主砲射撃指揮所の竹重忠治に、すぐ下の伝令所から、
「後部副砲射撃指揮所、応答なし、様子見てくれ」
と言ってきた。
竹重は十九年四月まで、後部副砲射撃指揮所の射手だった。竹重がすぐ背後の小窓を開けると、後部付近に黒煙が立ちのぼっている。
間もなく、伝令が上がってきた。
「駄目だ、後部は直撃を受けている」
竹重は伝令に言った。
指揮官の臼淵大尉は竹重とは入れ違いに配置された。そのとき、黒煙の下に臼淵大尉がいたのを知らなかった。
前部副砲射撃所の清水芳人副砲長は、第一波の敵襲が去って一息ついたとき、
「後部、急降下爆撃機、二機!」
伝令の鋭い声が入った。しかし、まだ手ひどくやられているとは思わなかった。引きつづき、
「後部至近弾!」
「弾庫近く!」
伝令の緊迫した声が追いかけた。
清水が後部の様子を見るため窓に近づくと、指揮所方向から煙が昇っていた。薄い煙だった。
清水はその煙を見て、消火は上手《うま》くいったようだと思った。しかし、そのあと重傷を負った伝令の少年兵が血まみれになってたどり着いた。
「後部……副砲射撃指揮所……全滅しました」
少年兵はその一言を伝えるため、必死で走ってきたようだった。電源が途絶したため伝令兵しか通報の手段はなかった。
「本当に、全員か!」
清水は自分の顔から血の気が引くのがわかった。
「臼淵は、臼淵はどうした!」
清水は気色ばんで言った。
「臼淵大尉……戦死」
伝令兵の顔はもはや、紙のように薄白かった。清水の腕の中で崩れ落ち、息絶えた。
「臼淵が戦死した……」
清水は絶句した。
副砲射撃指揮所の指揮官臼淵|磐《いわお》は、清水の一廻り年下の二十四歳になる青年士官だった。清水は昭和十九年十二月に「大和」に転任するとすぐ、この若い青年士官の資質の中に好もしいものを見出した。臼淵は若い中尉、少尉たちのガンルームの室長で、その信頼も篤《あつ》かった。頭は怖ろしいほど切れたが、そうした様子は見せなかった。理の通らないことには上官であろうと反対したが、仕事振りは水際だっていた。清水は副砲分隊の掌握《しようあく》や訓練は臼淵にまかせ、滅多に口をはさまなかった。
一月に入って、測的分隊長の隠沢《おんざわ》兵三大尉に転出命令が来た。能村次郎副長は、清水に後任として臼淵大尉を欲しいと申し出た。このとき、清水は彼には珍しく抵抗を示した。
清水の配置である前部副砲射撃指揮所は、全艦の指揮中枢を置く前檣楼にあった。最も敵機に狙われやすかった。清水が心配していたごとく、有賀艦長陣頭指揮の防空指揮所では見張員、伝令が機銃弾に倒れた。伊藤司令長官のいる第一艦橋も、外界視認のため三方に設けられた窓を機銃弾が貫き、見張員三名が戦死している。清水は前檣楼に直撃弾を受けたら、臼淵に指揮をとってもらおうと決意していた。そのため後部指揮所にいて欲しい、それが「大和」にとって最善であり、戦闘を有利に導くものと確信していた。
能村副長から申し出を受けた夜、清水は臼淵に副長の希望と彼自身の意向を伝えた。臼淵はしばらく考えたあと、
「わかりました。自分は後部指揮所で戦いましょう」
微笑を浮かべて答えた。
しかし、今、清水の意図は思ってもみなかった悲劇を引き起こしてしまった。後を託したつもりが逆になった。自分の代わりに生かしておきたかったのに、なんということだ。
「大和」への最初の命中爆弾は、後部副砲射撃指揮所と後部電探室への急降下爆撃機による一発ないし二発の直撃弾だった。鉄壁の二つの部屋は真っ二つに裂け、計器はあとかたないまで破壊された。配置についていた乗組員たちは一瞬にして戦死、一片の肉塊すら残さず飛散した者もいた。
艦橋下の電探室にいた伝令の伊藤信隆は班長に言われて後部に走り寄り、息を呑《の》んだ。数分前までそこに詰めていた戦友たちの肉体は、どこにもなかった。
「大和」は数十発の爆弾、魚雷をかわしはしたが、人員の被害は惨澹《さんたん》たる光景を呈していた。
「大和」の航行や戦闘力に、さほど支障はないものの空襲が始まってわずか二〇分にも満たなかった。「矢矧」は爆弾、魚雷各一発を受けて航行不能、「浜風」は魚雷が命中し沈没した。
「よし、大丈夫、沖縄へ行けるぞ」
清水芳人副砲長が自らを鼓舞するように部下たちに叫んだとき、第二波約一〇〇機が襲ってきた。死傷者の運搬や破損兵器の戦場処理が始まったばかりの午後一時二十分ころだった。
ふたたび間断なき炸裂があたりを襲った。高角砲がうなり、機銃が弾丸を上空に放ちつづけた。舞い下りる敵機の爆音。機銃弾が艦上を走り、キューンキューンと甲高い金属音をたてて絶え間なくはね返る。耳栓をつめても鼓膜が麻痺する。
第一波の攻撃が去ったあと、三番主砲の上にある特設機銃の機銃長の近藤三津男兵曹は、降りてくると、
「頭の上で副砲が発砲するもんで、鼓膜をいためたらしい」
と言った。
畑中正孝のところの機銃長岡田兵曹が、
「防空|頭巾《ずきん》と耳栓をつけたらいいでしょ」
と言うと、
「何言うとる。あんなものつけて戦《いくさ》がでけるか。号令も聞こえん」
声を荒らげて話しているのが聞こえた。
畑中たちも防空頭巾と耳栓を渡されていたが、裸の特設機銃ではだれも使っていなかった。
雷撃機は左舷に集中しているのか、雲間より急降下して来たカーチスが三番主砲塔上に姿を見せ、急速度で体をかわして舞い上がった。二五〇キロの爆弾が二つ、畑中の頭上に黒い糸を引いて落下してきた。畑中が思わず首をすくめると、そのまま舷側《げんそく》をかすめて海面に落ちた。炸裂音とともに、水柱が甲板に盛り上がり、畑中はしたたかに海水をかぶった。
畑中が海水に水びたしになっている間、受持の左機銃の弾倉がカラになった。慌てて仲間と力を合わせて装填していると、またもや垂直の尾翼を銀色にひらめかせ、カーチスが降ってきた。
「やられる!」
本能的に身をかわした瞬間、爆音があたりを塗りつぶした。
気がつくと、木村又右衛門や玉仙正一上水ら三名が血まみれになり、折り重なって倒れていた。
交代のないまま、機銃は火を噴いた。倒れていた玉仙上水がよろよろと立ち上がった。血で真っ赤になった銃弾を装填した。玉仙は広島県出身の十八歳の志願兵だった。気力をふりしぼり装填すると、崩れ落ちた。
玉仙上水の血のついた弾丸は敵機に向かって放たれた。
「玉仙、やったぞ!」
畑中は駆けよると、玉仙上水の耳に口をよせて叫んだ。しかし、玉仙はすでに息絶えていた。
「玉仙、見とれ、見とってくれ!」
畑中の心は奇妙に落ち着いた。恐ろしいと思う気持は消えていた。
雷撃機が魚雷を投下し、機銃を撃ち込んできた。中里水兵長が声をあげ、坐《すわ》り込んだ。胸を弾丸が貫通していた。
銃身は海水をかぶり、ぬれ雑巾《ぞうきん》で冷やす必要もなかった。左舷中部に集中した至近弾が海面に落下しては水柱を噴き上げた。
甲板には、射ちまくる機銃のカラ薬莢《やつきよう》が転がった。艦が左に傾いているためカラカラと音をたてたが、畑中は傾斜に気づかなかった。
右舷二五ミリ機銃の小林昌信上水は、射手の一人が敵の機銃掃射で胸を射ぬかれ戦死すると、とっさに交代して二五ミリ三連装にしがみついた。その直後、三連装機銃の真ん中の銃身に機銃弾が命中、破片が眉毛《まゆげ》に上に突きささった。一瞬、気を失いかけたが、手拭《てぬぐ》いを包帯代わりにしめた。
突然、小林の隣にいた轟《とどろき》弥三一上水が右|大腿《だいたい》部に銃弾を受け、倒れた。轟上水の顔はみるみる蒼白《そうはく》になり、甲板上にはいつくばった。
小林は走り寄ると、戦時医務室に抱きかかえて連れて行った。途中、轟上水は出血多量で絶命した。
昨夜、班長から少しでも仮眠をとれと言われて小林と轟は横になった。
「轟、ねむれるか」
話しかけると、
「眠れへん。アカンなあ」
大阪弁で答えた。
それでも若い二人は、いつの間に寝入ったのか、朝の「総員起こし五分前」で目を覚ましたのだった。轟も小林と同じ十八歳だった。五日の「酒保《しゆほ》開け」の酒盛りのときは、声を大きく張りあげて歌う小林に、手拍子をとってくれていた。
いまは屍《しかばね》となった轟上水を衛生兵に託して配置に走りよろうとしたとき、何気なく見上げた艦橋に、敵機が低空飛行で機銃掃射をしかけていた。艦橋へのラッタルを小林と同じ年ぐらいの少年兵の伝令が前かがみになって駆け足でのぼっていく。
「気をつけろ!」
小林は思わず声をふりしぼった。
その瞬間、敵機は伝令兵の頭上をめがけ、機銃弾を浴びせた。伝令兵はラッタルから真っ逆さまに墜落した。
二番高角砲員の細川秋司は、早く撃つことで頭がいっぱいだった。三番砲手に砲弾の補給を急がせていたが、砲手が夢中になっているうちに砲弾がたまってしまった。砲弾のたまった個所に敵弾を受けると、細川たちは一瞬のうちに吹き飛んでしまう。
「揚弾停止、止め止め!」
細川上水は慌てて叫んだ。
出撃の際、細川たちは、二番高角砲付近のデッキサイドの手すりに、太いロープを網の目のように吊《つ》るし、弾片よけにした。
後部への直撃で発生した火災の煙が通路を伝わってきた。火災が起こるとガス発生の恐れがある。弾が来ないので振り向くと、後ろの者が倒れている。
「砲が動かない」
と声を上げると、機銃掃射で旋回手が頭をぶち抜かれていた。
中部舷側にある機銃砲台が付け根からやられていた。兵隊が覆《おお》いの中に入ったまま、海中に落下した。
細川が弾丸を取りに行くと、命中弾で目の前が赤くなった。とたんに飛ばされ、気絶した。砲員の半数が倒れた。ハッと目を覚ました細川は傍で戦死した仲間の千人針が目に入った。自分のお守りを居住区に取りに行こうと思った。しかし、居住区へのラッタルをのぞくと、大きな穴があき、何もなかった。
第三波、約一五〇機がつづいて襲ってきた。高角砲甲板付近の鈍い音に、畑中正孝は誘爆か、と瞬間思った。魚雷が左舷中央部に命中、副|操舵《そうだ》機が故障したのだが、このとき誘爆かと緊迫した表情になったのは、レイテ沖海戦での「摩耶《まや》」や「武蔵《むさし》」の沈没が誘爆のためだったと聞かされていたからである。誘爆は一瞬にして艦を内部から裂く。これほど恐ろしいものはなかった。
「畑中、背中から血が出とるぞ」
岡田兵曹が、言った。
慌てて背中に手をあてて見ると、戦闘服の破れから血が流れていた。爆弾の破片だろうか。傷は浅い、と思った。畑中は今朝、露天甲板で成田山のお守りを拾った。だれが落としたのかわからなかったが、大事に携帯していた。そのお守りが、自分を守ってくれたのだと思った。
左舷後部の張出し甲板の真下と左舷中央部に魚雷が命中した。大きな水柱に引きちぎれた張出し甲板が空に吹き上げられ、二基の正規機銃群が砲塔ぐるみはね上がった。細川高角砲員が声もなくみつめた機銃砲台である。落下とともに一片の肉も血も残さず、海中に没した。
畑中たちは呆然《ぼうぜん》とした。
そのとき、後部の指揮塔から指揮官の和田健三少尉が、
「敬礼、敬礼をしろ!」
と走り寄って、叫んだ。
畑中たち機銃の生き残りの五人は、二基の機銃塔の落ちた海に向かい敬礼した。涙がボロボロ落ちた。
和田指揮官も流れでる涙を拭《ぬぐ》わなかった。
「敵機、急降下!」
の声に、また機銃にとびついた。
敵機は頭上を斜めに横切り、上昇した。
「弾丸は、あるか」
機銃員が足をひきずり近寄った。
「あるぞ」
畑中は大声で答えて振り返った。いまそこにいたはずの機銃員が爆弾で消えていた。
輪型陣の左翼にいた駆逐艦「涼月《すずつき》」は、命中弾を受け火災を起こしていた。同じく駆逐艦「霞《かすみ》」は第二波で直撃弾、至近弾を受けて航行不能に、第二水雷戦隊旗艦の「矢矧《やはぎ》」はすでに後方二〇キロに遅れていた。
「大和」も左舷中央部に魚雷三本を受け、副舵が取舵《とりかじ》をとったまま故障した。船体は左に七、八度傾いたが、乗組員たちの中には戦闘に没頭して気づかぬ者も多かった。その傾斜も、右舷タンクに三〇〇〇トンの海水を注水、間もなく復原した。
しかしそれも束の間、左舷中央部にまたも魚雷二本が命中する。「大和」は左へ再び傾斜しはじめた。
艦の傾斜によって、完全に水線下となった左舷下甲板の高角砲発令所は、浸水とガスの充満とで脱出不可能になった。
「水が膝《ひざ》まできました」
と報告してきた。
防空指揮所にいた川崎勝己高射長は、
「発令所を放棄し、鉄扉をあけて外へ出ろ」
と命令した。
しかし、隣の部屋もすでに浸水して鉄扉は開かなかった。
「逃げられんか」
川崎高射長の声に、
「最後のビスケットを楽しんで食べています」
「とうとう首まで水につかりました」
最後の報告の後、声を絶った。
「扉が開かない、外から開けてみてくれ」
隣の発令所からの悲痛な電話に、高角砲射撃盤の中島(現・武藤)武士《たけし》は、兵を見にやった。
「駄目です。扉の外は満水です」
部屋にいた者たちは、声もなかった。
中島たちの配置も、油ぶきの床に水が不気味に輪型を描いて、広がった。またたくまに膝下二〇センチに達した。
「今、開けるぞ、がんばれ!」
今は勇気づけるしか言葉がなかった。
「頼む、もう胸まで水につかった。みな、椅子の上に乗っている」
悲痛な叫びがあがった。
「がんばれ、がんばれよ」
扉の開かない理由はわかっていたが、それを知らせることはできなかった。もし、鉄扉を開ければ、海水はなだれ込んでくるだろう。
そのとき、大音響とともに艦が左右に大きく揺れた。配置の電灯は一瞬にして消えた。真っ暗になった。応急電灯がつき、かろうじて班員たちの顔が見える。電源がやられた。
「もう、あかんな。首まで水がきた。われわれは艦と運命を共にする。生還したら、よろしく伝えてくれ」
最後の電話のあと、「天皇陛下万歳」を唱えて、連絡を絶った。
中島は、同年兵で兵庫県竜野市出身の井口兵曹の声が耳朶《じだ》につきまとった。
「井口、すまん。おれもすぐに行くからな」
中島は手を合わせた。
隣の配置の最期を追うように、中島の配置でも射撃盤の上面に水は斜めに鈍く張った。射撃盤の使用は不可能になった。
最後の盃《さかずき》を交わそうと、一升瓶を手に代わる代わる酒を満たした。無言で盃を高くあげ、各自のみほした。
「おい、みんな靖国神社で会おう」
だれかが言ったが、答える者はいなかった。
若い志願兵の手が小刻みにふるえている。盃の酒はそのままだった。
奇妙な静寂が流れた。
「最後だ、残していた菓子を食べよう」
酒より甘いものの好きな三重県出身の深谷水兵長が、トランクの中のゼリー菓子を口にほうり込んだ。
中島は食欲もなかった。
「ああ、おれ、たった十九年の生涯か。もっと遊んどけばよかった」
深谷水兵長はおどけて言ったが、その拳《こぶし》は固くにぎられていた。
そのころ、「大和」の傾斜は一五度に達していたが、速力はまだ一八ノットあった。
しかし、左舷への集中攻撃に、浸水も増えた。傾斜したまま走るので、波は甲板上の出入口から艦内へ流れ込んだ。傾斜復原を急ぐため、右舷機械室、罐《かま》室への注排水が命じられた。しかし、この注入は艦の推進力半減につながる。
最上甲板では機銃員たちが、鉄片を浴びながら、射撃をつづけた。甲鉄でおおわれた「大和」の体にもようやく衰えが見えはじめていた。
中島たちは班長を先頭に配置を離れ、ハッチを開けた。上に登るラッタルのところまできた。ラッタルは傾斜のため、はしごを横にした状態で、登れそうにない。上から下ろしてくれた一本の綱をたよりにたどり着いた。
そのときだった。
応急員らしい一人の兵が金槌《かなづち》を持ち、中島たちが登ってきたラッタルを下りようとしている。
「貴様、もう下に降りても無駄だ。浸水している」
中島が言うと、
「命令です。どこが魚雷でやられたか、調べに行きます」
思い詰めた声で、飛び込むようにまっしぐらに暗い階下へ降りて行った。
ようやく、最上甲板にたどり着いた。一瞬、中島はめまいがしそうになった。光が眼に沁《し》みこんだ。明るい空の見える場所へ出たというだけで、ほっとした気持になり、落ち着きをとり戻していた。雨はやんでいた。しかし、中島たちは、雨が降っていたことさえ知らなかった。
明るさに眼が慣れた中島は、あまりにも惨とした光景に息を呑《の》んだ。
平時の甲板洗いで磨きあげた美しい甲板は、血と硝煙《しようえん》でまだらになり、どす黒く茶褐色に変わっていた。主砲以下の各砲の砲身はバラバラに乱立し、天に向かって突き立っているものもあれば、砲先が海水に浸っているものもある。
中島はなにかやわらかい物につまずいた。死体だった。血糊《ちのり》で足がすべった。
どこからか、機銃の射撃音がまばらに聞こえた。
運用科の高橋弘は、負傷者を中甲板の戦時治療室へ運び込むのに追われていた。死者は浴室に積みかさねるのだが、空襲が激しくなると、甲板に散乱する脚、腕など海中に投棄せねばならなかった。
戦闘開始の前、高橋は確認のため治療室をのぞいた。軍医や看護兵が待機していた。軍医は手術服に着替え、ゴム手袋にマスクをし、耳元をテープで留めている。手術台の傍には、ガーゼ、包帯、脱脂綿が積まれていた。
戦闘が始まって数十分後、この治療室も麻痺状態になった。運び込まれる負傷者はふくれあがり、床は血に浸った。軍医も看護兵も、魚雷を受けるたびに、床の血にすべり、手術道具はひっくり返った。その間にも負傷者は間断なく運び込まれ、おびただしい数の傷兵が通路にあふれた。手足の飛んだ傷兵のうめき声と死体のつづく通路を往復しながら血の生臭い匂《にお》いに酔った。
第三波の来襲のころには、戦時治療室の機能は全く停止してしまった。負傷者の血が厚さ一〇センチ以上も床に溜まり、艦が右に傾斜すれば右に、左へ傾けば左に流れた。傾斜も七、八度を越すと、軍医も看護兵も疲れはて、ただ鉄柱にしがみつくしかなく、呆然としていた。歩こうとすると、血の海にズルッとひっくり返った。
「大和」が傾き始めたとき、高橋たちの指揮官の大辻慶次兵曹長が、
「最下甲板に多数の怪我人が出た。だれか行ってくれ!」
と命令した。
そこには、高橋ともう一人、津市出身の富田範夫二等兵曹しかいなかった。高橋は、二十七歳、富田は四つ年下だった。高橋は当然、自分が行くしかないと思った。しかし、大辻兵曹長をじっと見た。大辻はすでに気が顛倒《てんとう》していた。煙草《たばこ》をスパスパ吸い、あたりを行ったり来たりして落ち着かなかった。
「自分が行きます」
突然、富田範夫が言った。
高橋は富田の腕を引っ張って、隅へ連れて行った。
「富田、もうフネは傾いとる。下には降りられんぞ」
しかし、富田は高橋の手を振り切り、ラッタルを降りていった。
高橋は呆《ほう》けたように、電気の消えた下甲板へ吸い込まれるように降りて行く富田の肩のあたりを見ていた。富田のやつ、まるで自殺でもするように消えちまった、と思った。ラッタルに吸い込まれるように消えた、とうわ言のようにつぶやいた。大辻兵曹長は、富田の降りて行く姿も目に入っていないかのように、ブツブツ独り言を言い、行ったり来たりをつづけた。
もはや、高橋が立っていることもできないほど、艦は傾いていた。
3
主計兵曹の丸野正八が艦の最初の衝撃を感じたのは、夜食の小豆の缶詰を用意しようと、
「早《はよ》う、倉庫から出してこい」
と、烹炊《ほうすい》所員に叫んでいたときである。
後部付近からのズブズブという衝撃は、腹に響く魚雷の深い振動とはちがった。
「やられたな」
殺気だって命令していた丸野は、つぶやいた。
戦闘開始の十数分後、後部副砲射撃指揮所と後部電探室に最初に受けた直撃弾だった。
丸野たちが中甲板右舷後部の居住区に待機していると、左舷の高角砲揚弾機の供給口から火が噴きだした。上からか下からかわからないが火の粉が大きくなる。左舷の高角砲に弾丸を揚げる揚弾機からも火が噴きだした。丸野が閉めに行ったとたん、前からの火で服が焼け、飛び上がった。居住区にも爆撃を受けた。
丸野たちの周辺は火の海になった。主計科の半分以上がやられた。熱風と火のかたまりが走った。服は火がつきペラペラになり、頭から焼けていたのに、痛いとも熱いとも感じず上へあがった。
あたりはどこも火の海だった。「大和」がこんなに燃えるとは、思ってもみなかった。動揺していたのか、丸野の他に三人が出たのは、爆撃を受けた後部右舷の短艇格納庫付近だった。途中、掌衣糧長の須貝逸二主計中尉が血だらけで倒れていた。すでに右腕は飛び、もう片方の手で内臓を押えている。淡路島出身の土井義行兵曹とともに須貝中尉を助け起こし、後部に出た。後部へ引っぱりあげると、なぜか須貝中尉は、
「寒い、寒い」
と体を震わせた。
丸野が、どこかで毛布を拾って来ようとその場を離れたとき、後部右舷のカタパルト付近に魚雷が一発命中した。毛布を捜しに行かなかったら即死だった。
丸野が魚雷による激しい衝撃に振りむくと、火柱があがった。朱色の火柱はうつくしかった。この世の光をすべてあつめたようなうつくしさだった。一瞬、丸野は火柱に見惚れた。
丸野は「総員最上甲板」の命令は聞いていない。あっという間に波立つ海水に吸い込まれ、気がついたときは、巻き込まれた渦の外へ出ていた。
「大和」に最後のとどめを刺したのは、第四波襲撃の空母「ヨークタウン」から舞い上がった六機が発射した右舷への魚雷だった。つづいて左舷の中部と後部にも命中したが、右舷への一発は破孔にとびこみ、艦腹に深くくい込んだ。
一時復原した傾斜は二〇度を越え、速力は七ノットに落ちた。
「大和」の前檣楼には、
「ワレ舵故障」
と水色に白い横線の三角旗がひらめいた。
後部下甲板の通信室が魚雷で徹底的な破壊を受け、山口博通信長以下通信科員の大半は戦死した。
「大和」には、諸施設の完備した通信室が三か所に設置されていた。第一通信室は上甲板、第二は下甲板、第三は最下部通信室で最下甲板前部にあった。第二、第三とも直接防禦区画の甲鉄に囲まれていたが、水防力に弱かった。第三通信室には敵信傍受班として日系二世の中谷邦夫少尉がレシーバーを耳にタイプライターに向かっていたが、魚雷命中の浸水による戦死が報じられたのは第四波襲撃後の二時十分すぎごろといわれる。「大和」には中谷少尉の他にも四人の二世が乗っていたが、全員戦死している。「大和」の通信機能のすべては瞬時に潰滅《かいめつ》、「初霜《はつしも》」がその少し前から代行した。
そのころ、第一艦橋では伊藤司令長官が椅子につかまりながら、戦闘状況について森下参謀長と協議していた。
「長官、もうこのへんでよいかと思います」
と上申するのに、
「そうか、残念だったな」
伊藤司令長官は短く答えたという。
司令部の参謀たちが集合し、今後の戦況についての「決心」が、次のように決定された。
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一、突入作戦ハ成立セズ
二、生存者ハ救助、後図ヲ策スベシ
三、艦隊幕僚ハ「冬月《ふゆづき》」ニ移乗シ、残存部隊ノ接収ニ任ズベシ
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これが、戦闘詳報に記されている「決心」である。引きつづき「初霜」を通じ、同じ特攻作戦に参加している航空隊へ一時五十分、簡単な戦闘報告がなされた。
「敵艦攻艦爆二〇〇機以上ト交戦。『矢矧』魚雷二本命中、航行不能。『大和』魚雷爆弾命中。駆逐艦『冬月』『雪風』以外全部沈没マタハ大破」
空襲が始まって二時間も経たぬうちに、わずかに健在なのは駆逐艦「初霜」「冬月」「雪風」の三隻だけだった。「朝霜」「浜風」はすでに沈没し、第二水雷戦隊旗艦の「矢矧」もこの報告後一五分経て、沈没した。「大和」沈没までは三〇数分の時間しか残されていなかった。
伊藤司令長官が草鹿連合艦隊参謀長に対して最後まで固執《こしつ》した、乗組員の無駄死を避けようとする配慮は、第四波来襲前のこの〈生存者ハ救助、後図ラ策スベシ〉の中にこめられていた。
「総員最上甲板」という退避命令について、有賀艦長と伊藤司令長官との間で会話が交わされたはずだが、その時間の経緯はもはや定かでない。
艦長は茂木史朗航海長に、
「艦を北向きにもっていけ」
と命令した。
死者を北枕《きたまくら》にして寝かす慣習にならって、沈没する前に艦首を北に向けるようにとの指図と思われる。能村副長の伝える「傾斜復旧の見込みなし」の連絡は、艦長の耳にも届いていた。
艦長からその報告を受けた伊藤司令長官は、「大和」に駆逐艦を横付けすることを命令した。
長官の命令は、残存する駆逐艦に手旗信号で伝えられたが、接舷《せつげん》する気配はなかった。巨大な「大和」の沈没する折の渦に巻き込まれることを恐れたのかもしれない。しかし、これは後のことであって、伊藤司令長官は知らなかった。参謀たちを前に、
「もはや、大和は沖縄に行くことも難しくなった。幕僚は横付けの駆逐艦に乗り、沖縄へ先行せよ。自分は大和に残る」
と言ったという。
これは、森下参謀長の回想による。
伊藤司令長官は一同に握手をすると、森下参謀長の敬礼に答礼をし、斜めになった床をふみしめ、階下の長官私室に降りていった。
その後を追おうとする石田恒夫副官を、
「行ったらいかん」
と参謀長は引き戻した。
森下参謀長はコンパスにつかまる恰好《かつこう》で、長官の後ろ姿を凝視していた。
「発令所長、御写真を守れ」
という号令が伝声管から流れたのを坂本一郎上曹は聞いた。
坂本の配置は、八杉康夫と同じ前部測的所である。
坂本はすぐに、退去命令が近いな、と察知した。
海軍では両陛下の御真影を「御写真」と呼称し、平常は長官公室に奉安していたが、出撃前に艦内でもっとも堅牢《けんろう》で清潔な場所とされる吃水《きつすい》線下の主砲発令所に移す。
万一の場合、この「御写真」が敵の手に渡ったり流失するのを怖れ、主砲発令所長である服部信六郎第九分隊長が警護の任に当たることになっていた。
服部発令所長はこの命を受けると「御写真」を奉持して私室に入った。中から鍵《かぎ》をかけ、殉じた。
その一〇数分後、
「総員最上甲板ッ」
という艦長のしわがれ声がもれた。伝令が復唱し、艦内に流れた。
「総員最上甲板」とは、総員退去の意である。
海軍生活八年余の坂本にとって、初めて耳にする号令だった。坂本はこの戦争を「大和」とともにすごしてきた。乗艦したのは、まだ「大和」が艤装《ぎそう》中の昭和十六年九月一日だった。
「大和」は、呉の第四ドックに巨体を入れていた。海軍砲術学校高等科練習生を卒業して間もないころで、坂本はこの艦を一目見るなり、かぎりない魅力と愛着を抱いた。日米開戦がとりざたされていたので、もし開戦となれば、アメリカの誇る「ワシントン」や「ノースカロライナ」といった戦艦群を相手に戦うのだと、武者ぶるいを覚えた。
坂本は、このような状況下で愛艦と別れるようになるとは思いもしなかった。
艦の傾斜はさらに大きくなり、右舷の赤腹が大きく見えていた。そこでは、真っ黒になるほどたくさんの乗組員が手をあげ、何か叫んでいた。坂本には「天皇陛下万歳」と叫んでいるように聞こえた。測的所を出た坂本は傾斜が大きいのでこれ以上おりるのは無理と、その場にとどまった。
近くで川崎勝己高射長が、
「軍艦旗は下ろしたか」
と叫んだ。
その声を聞いた瞬間、坂本はずるずると海面にすべりこんだ。
同じ測的所の細谷太郎は、艦橋後部トップの軍艦旗が、手の届きそうな近くでひたひたと水につかっているのを目撃している。
細谷は、「総員最上甲板」の命令と同時に、江本義男分隊長が、「よし!」といって立ち上がり軍刀をつかんだのにびっくりした。彼は江本分隊長の顔を見て、
「いよいよ最後やな、わしらとどめを刺されるんや」
と、覚悟した。
以前、分隊長に、
「その軍刀、何に使うんですか」
と聞いたことがある。すると、
「おまえらが弾丸にやられて苦しみだしたら、これで息の根をとめてやる」
ニコリともせず答えた。
細谷はそのときのことを思い起こし、てっきり江本分隊長に一人一人軍刀でとどめを刺されるのだと、思った。しかし、江本分隊長は軍刀をつかむと、
「そろそろ、外へ出るか」
と言った。
細谷がホッとして有福武雄先任伍長の方を見ると、大酒飲みの有福はどこに隠し持っていたのか、サントリーの新品のウィスキーを一本出し、封を切るとラッパ飲みしはじめた。そこで細谷も、主計科からギンバイしていたザラメの砂糖を取り出し、あたりを見まわしてから口の中へほうりこんだ。いつ、このザラメの砂糖を「ねぶろう」かと思っていたからだ。
艦はますます傾き、腰かけていられず立って体を支えていた。もう、砲の音も聞こえなかった。いよいよ「大和」も沈むんかいなァという思いがかすめたが、悲壮感はなかった。
射撃発令所には同年兵で伝令をしている古城守水兵長がいた。古城の配置では外の様子が皆目わからない。艦が傾斜しているのに気づいて戦況がどのように推移しているのか知りたがった。電話が通じたから、
「大丈夫。今のは至近弾や」
などと分隊長に気づかれぬよう教えて、安心させていた。
「おーい、がんばれよ、異常ないか」
「ああ、上のほうはひどいらしいな」
「大和」がもう沈みそうだとは言えなかった。
あたりは、しんと静まっている。
江本分隊長がもう一度、
「おい、出ろ」
と怒鳴った。
細谷は遮光幕でくぎられた電探室の兵隊に、
「飛び込もう、総員退去や」
大声をかけた。
しかし、電探室の若い兵隊たちは惘然《ぼうぜん》自失の表情で、ポカンとしたまま細谷を見た。
「おい、外へ出るぞ」
ふたたび声をかけ、前方の測距儀の横から外へ出る有福先任伍長の後を追った。北川茂や大村兵三もつづいた。
外へ出て、細谷は驚いた。目の前に「大和」の甲板が山のようにせりあがっている。右舷の腹にずり落ちないようにしがみついた人たちが、横になったり上になったりして蔽《おお》いかぶさってきた。細谷たちの配置の近くに立てられた軍艦旗が手の届きそうな近さで、ひたひたと水につかっていた。
「あれを取りに行かなあかんな」
と思ったとき、艦が急激に傾き出した。そのまま、渦を巻いている海中に吸い込まれた。
細谷と一緒に出たはずの北川と大村は、一五メートル測距儀の上にあがっていた。最後の煙草になるかもわからんと、二人で「誉《ほまれ》」を吸った。二人しか傍にいなかった。測距儀の電源が切れ、二人の重みで動きだした。押え切れず、海に滑り落ちた。屏風のような波に巻き込まれた。耳と目に金火箸《かなひばし》を突き込まれたような痛さを感じた。水中が真っ赤に光り、板で尻《しり》を殴られたときに似た衝撃を受けた。爆発の水圧でほうりあげられ、海から飛び出た。
気がつくと、すぐ近くに大村兵三がいた。
配置が近くでも退去のときはさまざまだった。
八杉康夫は、「総員最上甲板」を聞いていない。
あたりが急に静かになり、傾斜復原がなされていないのに気づいたとき、間欠的な鈍い音で振動が伝わった。
「高角砲弾が誘爆しているのかのう」
と石田直義班長が天井のハッチを開いて外の様子をうかがった。
「甲板に海水が上がってきよるが、大丈夫だろうか」
今まで見せたことのない不安な表情だった。
代わって中筋武四兵曹長が首を出して見ていたが、黙って席に坐った。
傾斜はますますひどくなった。このころ、「総員最上甲板」があったようだ。
「おい、行くぞ」
中筋兵曹長がハッチから脱出し、つづいて皆が出て行った。
八杉は体が左に滑ってころんだ。ハッチに手をかけて外をのぞき、息を呑んだ。
艦の左舷の大半は海中に没し、煙突下部にある一五〇センチ探照灯が沈みかけていた。右舷ハンドレールにたくさんの兵たちがぶらさがっている。体をハッチにこすられながら測距塔から脱出し、二一号電探アンテナの金網を強くにぎった。体を支えるためだ。
そのとき、八杉は防毒面を配置に置き忘れているのに気づき、四〇度を越した傾斜の中をふたたび測距塔内に戻った。官品遺棄は重罪だった。塔内に入った瞬間、板の上に敷いてあった毛布がすべって左側の湾曲した内壁に叩きつけられた。このときになっても不沈艦だという思いはどこかにあったが、初めて怖ろしさに襲われた。
八杉はだれのかわからない防毒面を首にかけると測距儀の凸部に手をかけ、ほとんど真横の感じのハッチから再度脱出し、二一号電探の支柱にむしゃぶりついた。
巨大な煙突は海中に落ち込み、排煙孔から大量の海水を呑み込んでいる。屹立《きつりつ》した右舷側から兵隊が滑り落ちていた。
海水が目前に迫り、もりあがった。胸まで水が来たとき、艦から遠ざかるべく手足を必死に動かしていた。
音がまったく聞こえない。耳がひきちぎられるように痛く、胸が息苦しかった。こんなに苦しいのなら死んだほうがましと、海水を呑んだ。少し楽になった。
いつだったか、新兵時代の教班長が、
「おまえら、艦が沈《ちん》して渦に巻かれて苦しくなったときはな、海水を呑め。腹いっぱい呑んだら少しは楽になるぞ」
と豪快に笑って言ったことがある。
そのときのことが、八杉の頭をかすめたのかもしれない。
海水を呑んで楽になったと感じたのは瞬時で、胸の中を焼け火箸でえぐられるような痛みが走った。
そのとき、突然、海中で爆発音が起きた。暗緑色の海底ふかく、鮮やかなオレンジ色がひろがった。その爆発で巨《おお》きな渦が割れた。八杉の体はくるくると回転させられ、たちまち、海水の圧力で噴き上げられた。
「総員最上甲板」の号令が、いつの時点でかかったかは判然としない。生存者たちの証言を総合するに、沈没まで一〇分もなかったという。艦内の通信機能が寸断され、電話や高声令達器にかわる伝声管の損傷も甚大だった。伝令がラッタルを降りて報告の途中、機銃弾に襲われ転落したという証言もある。艦長の号令は口伝えに伝わっていった可能性も考えられる。しかし、最上甲板以下を配置とした機関科をはじめ、操舵、通信、救護に当たっていた兵士たちが配置から去るには、時間はあまりにもなさすぎた。退去しようにも出口の鉄扉が艦の激しい傾斜のため開かず、またハッチのハンドルを手で廻しているうちに艦が水中に没し、ついに艦と運命を共にした兵士たちの数はおびただしい。浸水してくる海水とともに死の瞬間を迎え入れねばならなかった者たちもたくさんいた。浸水が起これば防水扉もハッチも閉ざされる。残酷だが、艦を救い大勢の乗組員たちを救うためのやむを得ぬ処置でもあった。
傾斜復原のため右舷機械室および罐室《かましつ》への注水を命令された第七応急指揮所指揮官の上遠野《かとおの》栄少尉は、自分の目の前で部下をなだれ込む海水の犠牲にしている。両室への注水および船艙《せんそう》内注水を命令された上遠野にとって一五度近い傾斜のなかを最下甲板まで十数人の部下をつれ、懐中電灯を手に次々にハッチを開けて降りて行くのは大きな危険だった。何度かラッタルにしがみつき、艦底深くたどり着いた。
「だれか注排水口の位置を知っている者いるか」
上遠野の声に、何人かが注水の重責をになおうと声をあげて応じた。
「よし、そこの二名、急げ。注水弁を開けたらすぐのぼって来いよ」
二人の部下が懐中電灯を手にラッタルを降り、注水弁を動かし始めた。
そのとき、右舷下部に魚雷が命中した。船艙内に海水がなだれ込んだ。
「ハッチ、閉めろ!」
上遠野は叫んだ。二名の部下を海水の中に残してハッチを閉めるのは身を切られる思いだが、ハッチを閉鎖しなければ海水が奔流のように流れ込んでくることは明らかだった。ハッチを閉めさせると、急いでラッタルをかけのぼった。中甲板指揮所へ戻ると、そこもまた膝も没する浸水だった。部下二名の生命を代償にしたというのに、まもなく退去命令が下った。それも、爆撃によって艦内電話も伝声管も途絶えたため、彼は不安になって上甲板に上り、はじめて知った。
「大和」が沈没にいたるまでのおよそ二〇分間の状況は、「第二水雷戦隊戦闘詳報」他の記述によると次のようになっている。
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一四〇二(注―一四時〇二分) 左舷中央部に爆弾三発命中。艦長は右舷タンクに注水を命じたが、右舷タンク注水による傾斜復原は限度に達したので、右舷機械室、罐室に注水を命じ、復原を図った。
一四〇七 右舷中央部に魚雷一本命中。機械は左舷機だけで、速力は一二ノットに減じ、傾斜は左六度となった。
一四一〇 左六〇度、一〇〇〇メートルに雷跡四本発見。左舷中部および後部に魚雷命中。
一四一四(五) 左九〇度、一〇〇〇メートルに雷跡一本を発見。左舷中部に魚雷命中傾斜増大。
一四二〇 傾斜は左へ二〇度。このころから傾斜は三〇度、五〇度と急に増加した。
一四二三 左舷に大傾斜、艦底露出。前部、後部の砲塔が誘爆、瞬時にして沈没。第二艦隊司令長官伊藤整一中将、「大和」艦長有賀幸作大佐以下「大和」乗組員二四八九名は、艦と運命をともにした。(N三〇度二二分、E一二八度〇四分の地点)
[#ここで字下げ終わり]
最後の魚雷命中から沈没までは、まさに「瞬時」である。この一〇分にも満たない時間が、乗組員たちの生と死を一瞬のうちに分けた。
三番主砲測距儀の中測手の坂本(現・松岡)隆治が、総員退去の命令を知らされたのは、梅村清松砲台長からである。突如、魚雷が命中して砲塔内の電灯が消えた。
「こりゃ、いかんな。外の様子を見てくる」
梅村砲台長は坂本の後ろを通って、塔内のあちらこちらにつかまるようにしながら、鉄扉のハンドルを廻した。砲塔の外に出た梅村砲台長が息せききって戻り、
「おい、総員退去だ。退去命令が出た。みんなすぐ出ろ!」
切迫した声で怒鳴った。
坂本隆治は、すぐ上の部屋に、レシーバーを耳にした若い伝令兵の伊達勝行がいるのに気づき、
「総員退去だ、早く降りて来い」
と声をかけた。
返事がないので、不安になって伝声管で叫んだ。伊達伝令が砲塔外に出るには、坂本の下をくぐり抜けねばならない。
「おい、聞こえるか。総員退去だ!」
坂本隆治の大声に、ようやく、
「はい、はい」
伊達は答えたが、動く気配はない。
電話担当の伝令は、どんなときも持ち場を離れてはならないのが規則だった。淡路島出身だといつか故郷の話を控え目に語ったことのある十七歳の伝令は、頑《かたくな》にその命令を守っているのだった。
「おい、伊達! もう持ち場を離れていいんだ」
「はい、はい」
伊達はふたたび澄んだ細い声で答えたが、いつ指令が届いてもよいようにレシーバーを離さなかった。
「坂本、ぐずぐずするな」
梅村清松砲台長に肩を押され、彼は鉄の囲いでしかない砲塔の上によじ登った。砲塔内にいた仲間たちの姿はすでに見えなかった。伊達のいる方を振りむきかけたとき、囲いから滑り落ちた。
坂本隆治は、大きな渦に巻き込まれてふたたび海上に浮かび上がったとき、「大和」の右舷後部のカタパルトが海中に落下してゆくのを見た。ああ、艦橋も落ちていくと思った一瞬、大きな渦に再度巻き込まれた。
海中で、沈没前の「大和」の最期を目撃した乗務員は意外に少ない。
坂本隆治はカタパルトにつづき艦橋が落下したのを見ているが、電探の伊藤信隆は、艦首を上に、第一、第二砲塔が見えたと語っている。みるみる大音響とともに砲塔より火焔《かえん》を噴き上げ爆発が起きた。遙《はる》か上空に噴き上げられた破片がキラキラ光りながら落ちてくる。見上げると、巨大な鉄片だった。水中に潜った途端、頭に鋭い衝撃を覚え、そのまま失神した。気がついたときは重油の海だったという。
坂本隆治は渦にまき込まれるとき、眼球が飛びでるような衝撃を受けた。目をあけると、真っ赤な光が見えた。海中が真っ赤に染まった。そのとき、ものすごい力で上へ押しあげられ、海上へ投げ出された。
「大和」の姿は影も形もなかった。信じがたいことが起きたように、周囲を見渡した。あたり一面、重油だった。
坂本の胸の中をしーんと淋《さび》しいものが吹き抜けた。彼は海軍砲術学校卒業を前に、一番から三番まで「大和」希望と書いて提出した。海軍軍人ならだれしも憧《あこが》れる「大和」に乗艦が決まったとき、もうこのフネが棺桶《かんおけ》ならいつ死んでも思い残すことがないと思った。その「大和」が一瞬のうちに沈んでしまったのだ。
グラマンの機銃掃射に襲われた。海面を弾が走る。慌てて重油の下へもぐった。二度ほど襲われた。ひどいことをする、と腹が立った。ふたたび海面に顔を出して何かつかまるものがないかと見回すと、太い丸太を組み合わせた防舷材が近くにあった。坂本はそれにつかまり、近くに泳いでいる連中を呼んだ。一〇人ばかりが集まった。みんな重油で真っ黒な顔をしていたが、彼の見知った顔はなかった。
夕闇《ゆうやみ》が迫るころ、駆逐艦「冬月」の内火艇《ないかてい》に救助された。
艦内スピーカーが何か叫んでいたが、竹重忠治にはよく聴きとれなかった。艦内スピーカーは「総員最上甲板」を命令していたのだった。
竹重たちのすぐ下は防空指揮所である。伝令が上がってきて、総員最上甲板を告げた。伝令は大声で叫んだ。死に場所はこの主砲射撃指揮所と決めていたのに、もはやここには為《な》すべき何もないのだ。
鉄扉を開き、塔の回りを囲む廊下へ出て手すりにつかまった。艦はすでに四〇度近く傾いていた。間もなく、「総員退去」という声が下から聞こえた。竹重は廊下の手すりにつかまったまま、動けなかった。「総員最上甲板集合」を伝令が伝えにきたとき、竹重たちの戦闘配置の者三人が、必死に最上甲板へ降りようとしているのが見えた。
竹重は「総員退去」の声を聞いたとき、手すりにつかまったまま、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。無意識に発せられた声だった。手すりから手を離すと落ちそうなので、片手だけ挙げた。周囲の者も叫んでいた。三度、竹重は叫んだ。軽巡「大井《おおい》」に十六歳で乗って以来、一〇年に近い海軍生活だった。天運がなく、思うように主砲が斉射できなかったのが心残りだった。
傾いた右舷の甲板に人が黒く群れているのが竹重の位置から見えた。小山のような赤腹の上にも人が並んでいた。上甲板から滑り落ちて行く者も大勢いる。およそ一〇〇〇人以上の人間が傾いた「大和」の上にいた。
竹重の配置のすぐ下に一五メートルの測距儀がある。その歯止めが艦の傾斜で外れ、くるくる回った。竹重はそれに腰をはねられ、あっという間に海中へ落ちた。落ちていく瞬間、竹重は妙なことに気づいた。「天皇陛下万歳」と言ったとき、自分は母親のことも呉にいる女房のことも一切思いださなかった。どこにおっても死ぬ者は死ぬんや、これで最後だと、海へ投げだされて思った。
泳ぐなどという余裕はなかった。何かにぐいぐいと引き込まれていくようで苦しかった。耳も口も海水を飲んだ。もう駄目だと思ったとき、凄《すさ》まじい音響とともにあっという間に海の上へ躍り出ていた。上空は真っ黒で、何か不明なものが宙から海面に落ちてきた。竹重の意識がそれで戻った。見ると、「大和」の姿はかき消えていた。
不意に、助かった、と胸の中で叫んだ。近くに一メートルほどの丸太がたくさん浮いていた。「大和」の最上甲板に敷かれていた木材の破片のようだった。一本では足りないと思い、三本ずつ脇《わき》に抱えた。生きたいと思った。下手に泳ぐと疲れがひどくなるので波のうねりにまかせた。敵機が機銃掃射をしているのが見えたが、彼の近くには来なかった。それより竹重の近くに味方の駆逐艦から発射された対空弾が落下し海面で爆発した。駆逐艦は全速で走り、また退避した。あのスクリューに巻き込まれたらおしまいである。事実、スクリューに巻き込まれて死んだ者もいた。駆逐艦は竹重のすぐ近くまできて、また遠ざかった。推進機の音が間近に聞こえる距離だった。
四、五メートル先に大きな材木が何本か浮いている。波のうねりの間にそれが見えた。少し泳いであの材木につかまったほうが助かりそうだと思ったが、波のうねりの間に見え隠れする材木を取りに行く気にならなかった。生きたいという気持がそのとき抱えていた丸太を放させなかった。
重油で真っ黒になった顔の幾人かがその材木につかまり始めた。やがて、波のうねりの底に材木は消え、見えなくなった。波はかなり高かった。
推進機の強い音が聞こえ、竹重のすぐ傍へ駆逐艦がきた。距離は三〇メートルくらいだったので、初めて命の綱の丸太を放して泳いだ。舷側に近づくと、上からロープを投げてくれた。ロープにつかまって上へ上がろうとしたが、重油でズルズルすべり、腹部までしか体が持ち上がらない。
「おーい、ロープをゆるめてくれ」
竹重は叫び、ゆるんだロープを腋《わき》の下から廻して先をねじった。「ハウチ」というやり方だった。上から引っぱるときちんとロープがしまる。竹重が引っぱり上げられているとき、すぐ横にいた兵隊がロープにつかまったままズルズルと海中に沈んでしまった。竹重が甲板に上がっても、その兵隊はついに浮いて来なかった。
「ロープだけでは駄目だ、縄梯子《なわばしご》を下ろせ!」
駆逐艦の乗組員が叫んだ。
竹重が救助されたのは、「雪風《ゆきかぜ》」だった。体のロープを外しながら、今まで自分のいた海面を見た。「雪風」を目がけて泳いでくる一人の兵隊は、頭が割れていた。その頭がパクパクと口を開けて動いていた。彼が助けだされたのは、早い方だったらしく、まだ、二、三人しか救出されていなかった。
油だらけになった戦闘服を脱ぎ、着替えの服をもらった。
「機銃に欠員があったら、いつでも言ってくれ!」
竹重は服をくれた「雪風」の乗組員に言った。やはり気が立っていたし、畜生、やってやる! という気持だった。服の他に竹重は手拭いをもらった。自分が眉間《みけん》を切って鉢巻をしていたのを思い出した。「大和」に魚雷が命中したとき、左目と眉毛《まゆげ》の間を防震装置にぶつけ、切っていた。この傷跡は、戦後三〇余年経っても、竹重の顔に黒々と残っている。傷に重油が入り、そのまま入れ墨のように残った。
「雪風」で、竹重はだれにも知った者には会わなかった。
しかし、竹重の主砲射撃指揮所では、黒田吉郎砲術長をはじめ、射手の村田元輝、旋回手の家田政六、弾着修正の小林健、伝令の金築正宇、補助員中村(現・三島)正助、照尺手の岩本正夫の八名が「雪風」に、伝令の大西広だけが「冬月」に救助された。竹重が「雪風」の中で同じ配置のだれにも会わなかったというのは、各自が離散してばらばらに収容されたからだろうが、やはり生死の境をようやくくぐり抜け虚脱状態にあったものと思われる。
常に敵機の攻撃目標である艦橋の通称トップと呼ばれる配置にあって、三名しか戦死者を出さずにすんだのは奇蹟に近かった。安全と思われた砲塔内や上甲板以下の人々はほとんど救助されていなかった。
森下信衛参謀長、能村次郎副長以下二六九名(推定)の生存者中、「雪風」にはまた、一一四名が救助されている。このとき、生存者の点呼をとったのは、旋回手の家田政六中尉だった。
吃水線下の下甲板に勤務しながら指揮官が負傷、指揮を代わりにとるため最上甲板に上がって生き残ったのは、高角砲発令所長の細田久一少尉である。
細田は伝声管を通して、
「指揮官負傷、発令所長ただちにあがって指揮をとれ」
との連絡を受けた。
しかし、このとき細田の配置も、魚雷や爆弾の命中で消防主管が破れ、天井から浸水してきていた。
細田は四番高角砲の、射撃盤員全員を高角砲の応援として連れていくことにした。
特年兵の小野和夫たちが一緒についてきた。一人、中川水兵長だけが残った。
「中川、おまえも行かんか」
細田が声をかけたが、
「自分は責任上、最後まで射撃盤におります」
と動こうとしなかった。
細田は上の鉄扉をあけようとしたが開かない。たぶん、天井の上で爆弾が炸裂したのだろう。
こうした場合、どのような通路をたどれば上へあがることができるか、「大和」が艤装《ぎそう》中のころより乗っていた細田は、艦内のどこもわが家のように熟知していた。そこで、もう一つ下の機関室へ降り、艦底を前部の方向に進み、ようやく主砲発令所の下から上へあがることができた。迷路のようにくねった通路を通り、ラッタルを登っての道程なので、四、五人いたはずなのに、上へついたときには途中ではぐれたのか、細田と小野の二人だけだった。途中、艦内はすでに爆弾でやられて電気は消え、まったくの手さぐり状態で、通路には行李《こうり》がひっくり返ったり、死体がころがっていたりした。
指揮官の渡辺英昌分隊長は負傷していたが、生命に別状はなかった。しかし、兵器より兵員の損害の方がひどかった。腕が飛んだ者、爆風に叩きつけられて身体が煎餅《せんべい》のように薄くなった者など、目をおおうばかりだった。
小野は八番高角砲に行ったが、人員は半分やられていた。まだ射撃はしていた。目標確認ができないので、旋回だけとって射撃する状況となった。突っ込んでくる雷撃機に対し、その前に弾幕をはるようにして射撃した。
傾斜が急に早まり、赤腹が海水をあおりたてながら露出した。傾斜した甲板に山積していた死体がころがり、波にさらわれた。
「バタバタしてもしかたない。水が上にあがってくるまで待っとれ」
細田の声に、小野はうなずいた。
最下甲板にある機銃の弾庫にいた中島銀三も、助からないはずの配置から生還した一人である。
最上甲板にいる者は死傷も多いが、敵を見ているから無我夢中で戦うことができる。しかし上甲板以下になると敵の姿が見えない。砲塔のなかの弾庫、火薬庫にいるものは、戦況がわからないだけに不安や焦燥にかられる。
中島たちの弾庫の頭上に鈍い震動が走ったとたん、伝声管は途絶えた。電気も切れてしまった。
「おい、上へ行くか」
班長の岸脇文治兵曹が部下たちに声をかけた。配置が使用不能になったので、最上甲板の機銃分隊の応援へ行くことになった。
この岸脇班長は、巡検後の丸野正八たちとのバクチの最中に中島銀三を見張役に仕立てていた関係もあり、中島をとりわけかわいがってくれた上官である。
岸脇班長を先頭に、中島たちが一階上の下甲板まで来たとき、召集兵が一人まだ上がって来ていないのに気がついた。
「中島、手伝って出して来てやれ」
班長に言われ、彼はまた戻った。途中でこの召集兵に会い、急いで班長たちの所に戻ると、岸脇はすでに倒れていた。
「中島、火傷してしまったらしい」
班長が低い声でうめいた。それでも、副砲分隊の火薬庫まで来て、ハッチをあけようと手をかけると、爆風が勢いよく吹き抜けた。真空になったためか、厚いハッチが開いたと思った瞬間、中島は気を失った。目を開けたとき、高角砲と副砲の兵隊が中島を助け起こしていた。
「班長、班長はどこです」
中島は叫んだが、班長の声はなかった。中島が連れに行った召集兵も他の仲間たちも一瞬のうちに死んでいた。
「ぐずぐずしていたら危ないぞ、上へ行こう」
副砲の兵隊が懐中電灯で中島を照らしながら、言った。
中島はよろよろと立ち上がった。頭の中は砂礫《されき》が詰めこまれたように重苦しかった。
幸いなことに、どういう具合かハッチが開いていた。副砲の兵隊と中島が上がりかけると、高角砲の兵隊が、
「わしは行かん、ここに残るぞ」
と急に言いだした。
「どうした。一緒に逃げや」
副砲の兵隊が誘ったが、
「まあ、あんたら、先行けよ。わしは本艦と一緒に海に沈むことに決めたんや」
そう言うと、高角砲の弾庫の方へ消えてしまった。
中島は副砲の兵隊とハッチをのぼった。もうどうでもいいような気持に襲われたが、たどり着けるところまで行こうと歩きだした。
ようやく最上甲板へ出たとき、艦の傾斜で艦腹が露《あら》われていた。海上に滑り落ち、吸い込まれて浮き上がったとき、「大和」の甲板が垂直に近くなっているのが見えた気がした。その瞬間、海中に巻き込まれた。海中でくるくるまわされ、夢中で棒のようなものを握った。人間の片足だった。中島はいつのまにか気を失った。どのくらいの時間が経過したのかわからないが、突然、ウマに乗った侍があらわれた。二人の侍は長い槍《やり》を持ち、ものも言わず中島をにらみすえた。二人の侍が消えたとたん、中島は息をふきかえした。気がつくと、海面に浮いていた。
戦後、紀州の加太《かだ》に帰って父親にその話をすると、
「先祖が侍やったそうだから、導いてくれたんやろ」
と言われた。
先祖は東本願寺の関係につながる家系だったが、最後は雑賀《さいが》一族とともに侍となって戦い、敗れたそうだ。
配置の艦橋上部の二二号電探にいた泉本《いずもと》留夫が、海中に吸い込まれてもう最後と思ったときに、眼前に浮かびあがったのは、故郷の氏神である弁財天だった。
奈良県吉野郡|野迫川《のせがわ》村出身の泉本の脳裡をよぎったのは、柞原《ほそはら》にある弁財天のやさしく包み込むような顔だった。
「大和」には、対空見張用の一三号電探、二一号電探、対水上見張用の二二号電探を装備していた。
泉本の直属上官は、のちに『戦艦大和ノ最期』を書いた吉田満だが、沈没後は一度も会っていない。
班長の宮沢元彦兵曹は、呉を出撃する四日前に結婚式を迎えていた。最後の上陸で初夜を迎えた宮沢兵曹は、
「女《おな》ごの体はやわらかいのう」
と部下たちにものろけた。
出港以来かたときも兵器の調整を怠らず、勤務に熱中していた。
第三波の攻撃のとき、機銃掃射の弾《たま》がまともに宮沢兵曹の首を貫《つら》ぬいた。泉本と宮沢兵曹との距離は、間に航海時計が一つあるだけの近さだった。宮沢兵曹は即死だった。第四波の始まる前、
「泉本、おりゃ、出るぞ」
同じ班の森兵曹が飛び出した。
泉本が部屋を出たとき、第一艦橋から伊藤整一司令長官が降りてくる姿を見た。泉本は部屋へ戻り、仲間の吉田進に、
「長官が降りたから、出よう」
と声をかけた。
長官が戦闘配置の第一艦橋を出るときは、もう終わりと知っていた。艦の傾斜が激しいので艦橋の上へのぼった。途中、茂木史朗航海長がロープで羅針盤に体をくくっている姿が見えた。
戦闘中の有賀艦長は防空指揮所に、伊藤司令長官、森下参謀長、茂木航海長、花田掌航海長はその一段下の第一艦橋にいた。
艦長を補佐し、直接操艦命令を令達する立場にある航海長の茂木史朗中佐は、出撃直前の異動で発令されたために出港に間に合わず、呉を出て三田尻《みたじり》沖に仮泊中の「大和」に、漁船を借りて乗り込んで来たといわれる。
「大和」や「武蔵」の旋回性能は他艦に比較して抜群によかった。二七ノットの高速で舵角いっぱい三五度にとっても九度しか傾かないといわれた。これは射撃に有利だった。ただ、舵が利《き》きだすのが遅かった。普通の艦では三五度の舵を取った場合に、舵輪を二回まわして、舵角を半分もどしたところで艦の回頭が止む。「大和」はさらに四五度ほどまわさないと勢いがついて止まらないといわれた。魚雷や爆弾が見えているのに舵いっぱいで「急げ」といっても、なかなかまわりはじめなかった。
「クセを呑み込むまでは、白刃の下をくぐるようだった」
と森下四代目艦長も言っている。
レイテ沖海戦での森下艦長の操艦が乗組員の信頼と不沈艦神話をかきたてたのは、よく知られている。クセのある気難しいこの大きな艦を意のまま操艦するためには天性の資質もあるが、やはり在職期間の長さが大きくものをいう。レイテ沖海戦の戦闘で同型艦の「武蔵」が撃沈されたのは、艦の位置(輪型陣では中心位置のほうが守りやすく、「武蔵」は「大和」の一列外にいた)もあったが、回避行動の不備も指摘されている。森下艦長に比べて、「武蔵」の猪口艦長が着任二か月余だったことも影響していたかもしれない。もっとも、このレイテ沖海戦では、「武蔵」が被害を一手に引き受ける役目を負っていたともいえた。
沖縄水上特攻の無謀な作戦や米軍の苛烈《かれつ》な攻撃に対し、万全の回避行動を求めるのは苛酷《かこく》だが、やはり有賀艦長が「大和」に着任して三か月余であったこと、艦長補佐の茂木航海長に至っては一週間足らずだったのも不運だった。
艦橋では茂木航海長が上部の防空指揮所にいる艦長と鋭くやりあっていたと語る乗組員もいる。
「艦長、いまの魚雷見えませんでしたか」
「見えなかった」
「見えませんでしたか」
くり返して問う航海長の顔はひきつり紅潮していたという。
右舷の注排水タンクのすべてを満水にし、あとは部厚い装甲鈑《アーマー》で囲まれた主要防禦区画の鉄の箱舟を残すだけだった。防禦区画内部の右舷の機械室、罐《かま》室にまで水を張り、それでバランスを保つしかない。「大和」は、敵機に蜂《はち》のごとく刺され、満身|創痍《そうい》となってのたうちまわっていた。
泉本留夫が見たという、羅針盤にロープで体をくくりつけた茂木航海長の姿は、操艦の責任を自ら負ったのかもしれない。
第一艦橋にいた航海科信号幹部付の高地俊次は、能村副長が第一艦橋に上がってきて、そこから伝声管で、
「もう本艦は、注水では傾斜が直りません」
と報告していたのを目撃している。
「ああ、もう大和はあかんのやな」
と高地は思った。
艦長は伊藤司令長官と伝声管で話し合ったのか、ほどなく「総員最上甲板」の命令が下った。第一艦橋の伝令だった高地は、マイクに向かった。
「総員最上甲板!」
と号令を復唱した。
その直後、
「おい、みんな、艦と運命を共にせい」
花田掌航海長が叫んだ。
高地たちは互いに、体を舵輪へくくりつけた。
伝声管を通じて防空指揮所にその騒ぎが伝わったのか、有賀艦長からの声が聞こえた。
「馬鹿なことをするな。助かる者は助かって次の戦闘に参加せい」
高地たちは、舵輪にくくったロープをほどいた。
高地たちが四つんばいになって傾いた艦橋の外へ出たあと、花田掌航海長はまた自らの身を羅針盤にくくりつけて艦と共に沈んだという。
「総員最上甲板」の号令が口伝えに艦内をかけめぐっていたころ、畑中正孝たち機銃員の生き残り数人は、もはや艦の傾斜で照準を合わすこともできず、立っていることもままならなかった。
「おれたちの墓場の掃除でもするか」
と、あたりのカラ薬莢《やつきよう》を片付けはじめた。しかし、傾斜の激しい甲板を空の薬莢はカランカランと乾いた音を立てひとりでにころがった。
ちょうどそのころ、畑中たちの直属上官の和田健三後部機銃指揮官は、後部の機銃員に、
「撃ち方やめ。総員最上甲板」
を命じた。
その声は、指揮棒を振り、たえず声をはりあげての命令に、しわがれていた。
和田は、集まった部下たちの一人一人に敬礼をすると機銃指揮塔に走り、軍刀を脇腹《わきばら》に突き立て自害した。
剣道の達人で奈良県出身の和田少尉は、兵隊から叩きあげの特務士官で、二人の幼い娘の父親でもあった。
「おまえたちだけを死なせはせん」
と部下に言っていたこの指揮官は、その言葉通りに自刃した。
右舷後部では、機銃の射撃音がまだ聞こえていた。
最下甲板の電線通路に隠れたままの内田貢は、何度かはらわたにこたえるような衝撃を感じたが、時計がなかったので時刻はわからなかった。
だいぶ前、柔道部員の唐木正秋が飛び込んでくると、
「内田、戦闘服に着替えろ」
と言いながら、あわただしく内田の着替えを手伝った。
「敵さん、来たんか」
「いや。だがもうすぐだな。マーチンが二機偵察しよる。あいつら、主砲を向けると巧みに逃げて行きよる。まるで、なめられとる」
唐木は握りめしを一個手渡すと、
「いいか、フネがおかしくなったらおれんとこに来い、マスクして来いよ」
それだけ言うと、部屋を出て行った。
呉で「大和」に乗って以来一〇日以上経つのに、内田にはひどく短く感じられた。うつらうつらとさまざまなことが思い出され、少しも退屈しなかった。
「おまえ、一人でよう平気だな」
淡路島の漁師の息子である北栄二が、感心したように言った。缶詰の空缶に水を入れて運んできたときだ。
「いや、考えることいっぱいあるでな」
と答えると、
「おまえ、おかしなやつだな」
呆《あき》れた声になった。
北栄二には、いくら考えても、山本長官から貰《もら》った短剣が大事だと言って、病院を抜けだしてまで艦に戻った内田が合点いかないようだった。
呉の海軍病院での内田は、柔らかいものしか食べられない状態だった。ブドウ糖を打ち、食道からクダで流し込んでいた。
「内田なあ、少しでも食べておけよ」
鬼頭光吉は言ったが、口から押し込むようにしてようやく少しずつ食べた。水が飲みたいと痛切に思った。
空缶の水は、水クサかった。海水を蒸溜《じようりゆう》して真水にしていたので、内田には水クサく感じられた。
唐木が去ってしばらくしたころ、ダダダンという音が聞こえてきた。実際に聞こえたのかどうかも明確ではなかったが、内田には機銃の音のような気がした。機銃の音を耳にすると、内田はいてもたってもいられなかった。
九番機銃の射手だった内田は、銃の音に血が騒いだ。あのレイテ沖のときの焦げくさい硝煙《しようえん》の匂いや、灼《や》けた銃身の火照りが体中にうずいた。突っ込んでくる敵機が見えないというのは、かえって怖ろしかった。内田はじっとしていられなかった。
内田は唐木正秋の戦闘配置へ向かって登った。病院で松葉杖《まつばづえ》をついていた内田は、何度もしゃがみ込んだ。右舷後部の三番主砲付近にある唐木の配置へは、艤装中から乗っていた内田はどのようにして行くのかよく知っていた。しかし、ひどく遠い道のりに感じられた。途中、足の裏や手にぐにゃりとした生温かい感触をおぼえた。散らばった肉のかけらだった。
不意に、機銃、高角砲の砲銃声が間近に聞こえ、前方にかすかな明るみがさした。後部の最上甲板が見えた。内田は機銃の音が聞こえてくると、不思議に心が落ち着いた。
内田が唐木の配置に近い甲板にようやくたどり着いたときは、敵の第二波攻撃の最中だった。艦体は左に五、六度傾きはじめていたが、乗組員たちは歩行が平常と少し違うような気がしたくらいで、ほとんど気づいていなかった。内田は上へあがって歩きだした。
「ここへ来たらあかん」
内田に気づいて唐木がどなった。唐木の近くにいた機銃員が血に染まってぶっ倒れた。
唐木の三連装機銃の銃座は円形になっていて、床に足の踏み場もないほど薬莢がころがっていた。
唐木は内田のそばに走ってきた。
「内田、今は危ない。下へ降りなあかん」
「唐木、わし、機銃手伝ったるわ」
「なに言うとる、そんな体で。下へ降りなあかん」
唐木は怒った声で言った。
頭上を黒いネズミの糞《ふん》のような爆弾が斜めに糸を引いて迫った。
内田は思わず声をあげた。首をすくめた瞬間、流れ弾が内田の右足を貫通していた。
あたりが静かになった。敵機が去った。
「内田、やられたんか」
唐木は飛んでくると、
「手当てをしてやるからな、待っとれよ」
と言い、どこから持ってきたのか、内田の脚に添え木をして、応急手当てをした。
「動いたら、あかんぞ。じっとしとれ」
唐木は内田を引きずって隅に連れ込んだ。
ふたたび、敵機が襲ってきた。
敵機の爆音と銃弾の金属音が重なった。甲板に躍るように轟音《ごうおん》がとどろいた。
「魚雷命中や」
左舷中央部あたりのようだ。
左目に眼帯をした内田は、耳だけが鋭敏に研《と》ぎ澄まされていた。爆弾が空気を切り、しゃりしゃりと砂礫の軋《きし》むような音が聞こえた。レイテ沖で死にかけた恐怖がよみがえり、ふるえがとまらなかった。紙一枚下にでも隠れたかった。
敵機の攻撃は執拗《しつよう》をきわめた。内田には長い時間のように思えた。どっちみちあかんのなら、唐木の近くで死にたかった。
傾斜が激しくなったのか、内田の体は甲板をころがった。兵隊の折り重なったかたまりに勢いよく体がぶつかった。かたまりのなかからぜえぜえ喉《のど》を鳴らす音がし、それも間もなく止《や》んだ。
だれかが、内田の体を丸太にくくった。唐木のようでもあり、他のだれかのようでもあった。
「唐木、わしを風上の方向に寝かせてくれ」
内田は言った。
艦の速度は急速に落ち、傾斜の激しくなったのが感じられた。
そのとき、爆弾が笛の鳴るような音をさせて落ちてきた。内田の肉を弾の破片が貫いた。右肩から左肩へ、首の背後から喉にかけて灼けるような鋭い痛みが走り、視界がしだいに赤くかすみはじめた。
内田の耳に遠くのほうから動物の咆哮《ほうこう》にも似たすすり泣きが聞こえる。
その声は、
「ソウインタイキョ、ソウインタイキョ」
と言っているようだった。
傾斜した甲板を、機銃弾の薬莢と一緒になって死体がころがった。内田は丸太にくくられたままころがり、その上を人々が足早に踏んだ。
「総員退去」の号令がかかっても、右舷後部の機銃の一基は、まだ射撃をつづけていた。唐木たちの爆風除けのないむきだしの機銃だった。
唐木は、弾薬をかきあつめては、撃った。
一八〇センチを越える柔道部員の唐木の頭上に、敵機は標的を見つけたかのように降下した。仁王立ちになった唐木をめがけ、破片がふり落ちた。足と胸をやられ、唐木の体は崩れた。
「唐木、やめよ、もうやめよ!」
内田は声をふりしぼった。
横に倒れた唐木は立ち上がりかけた。「入道」のあだ名の唐木の顔には血が噴きでていた。甲板に散在する弾を血まみれの手で装填《そうてん》した。機銃の銃身は過熱して火となっていた。
「内田、見とれ、見とってくれ!」
唐木正秋の声が聞こえたと思った瞬間、内田は甲板をころがり、海面に叩きつけられた。
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六章 桜
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1
四月七日の朝、佐世保防備隊にいた水野弥三少尉は、当直室を出ると朝食をすませて三階の通信室へあがった。
通信室では、通信長や暗号長らと一緒に、水野も通信士として仕事をしていた。水野の仕事は、乱数表を使って軍機に属する暗号を翻訳することだった。海軍の暗号には艦艇《かんてい》用の「呂《ろ》暗号」、飛行機用の「登《と》暗号」などあったが、中心になるのは五|桁《けた》の乱数を使って翻訳する「呂暗号」だった。軍機に関する暗号電文は、准士官以上の者が翻訳することになっていた。
八時すぎ、暗号文を持った兵隊が水野のところに来た。彼はいつものように乱数表を使って、すぐに翻訳した。
水野の顔色が変わった。電文は「大和」を旗艦とする第二艦隊からだった。
「ワレ敵ノ触接ヲ受ケ……」
昨日の夕刻、水野は通信長が小声で言った言葉を思いだした。
「大和もついに沖縄に突入作戦をやるそうだ」
「大和」部隊の出動については、三月下旬ごろに水野たちも聞いていた。三月二十八日に「大和」が呉軍港を出港したことを傍受した水野は、佐世保防備隊の山田鉄雄司令に、
「是非とも聞いていただきたいお願いがあります。自分を大和に転勤させてください」
と願い出た。
山田司令は、もともと口数の少ない人だった。水野の顔を黙って見るだけで、いいとも駄目だとも言わなかった。
当初、「大和」が徳山から豊後水道を下り、佐世保に寄る予定だったのを水野は知っていた。佐世保に寄港した折、「大和」に乗りたいと思った。海軍第三期兵科予備学生の仲間は、次々と艦に乗っていた。水野ひとり、陸《おか》にいた。あのレイテ沖海戦では、仲間たち五二名が散華《さんげ》した。彼は生き残った。
水野は改装空母「千歳《ちとせ》」に通信士として乗っていた。空母「瑞鶴《ずいかく》」を旗艦とした小沢治三郎中将指揮の機動部隊による「捷《しよう》」一号作戦に、「瑞鳳《ずいほう》」、改装空母「千代田《ちよだ》」、航空戦艦「伊勢《いせ》」「日向《ひゆうが》」などとともに「千歳」も参加した。栗田艦隊のレイテ突入を助ける囮《おとり》部隊として、敵を北へ誘導する作戦であった。「千歳」は零《ゼロ》戦と天山《てんざん》を一八機積んでいた。普通だと三〇機|搭載《とうさい》しているのだが、もはや飛行機がなかった。
昭和十九年十月二十四日の夜、水野は飛行甲板横の右舷《うげん》無線電話室で、一通の暗号電文を翻訳していた。軍機扱いの電文だった。柊原《ひいはら》市蔵通信長があわただしく持ってきたその電文には、「武蔵」沈没が告げられていた。通信長は翻訳された一文を見ると、
「岸艦長のところへ至急、持っていけ」
と言い、部屋を出ていく水野に、
「よいか、これは、おれとおまえと艦長だけの極秘だからな」
とつけ加えた。
戦艦「武蔵」が沈んだと知って艦内に動揺が起きるのを防ぐためだった。当時、「大和」と「武蔵」は不沈艦だと思われていた。というより、日本海軍の不沈艦でなければならなかった。
水野は艦長室へ電文を持っていった。岸良幸艦長は顔色を変え、沈黙した。
翌二十五日、栗田艦隊が米艦載機の追撃を受けていたころ、フィリピン北東海上の小沢機動部隊もハルゼー麾下《きか》の米機六〇機の攻撃を受けた。
空母「千歳」の無線電話室で戦闘詳報作成を命じられていた水野は、この戦いが初めての経験だった。やがて、後部に直撃弾を受けた「千歳」は火災も起こさぬまま巨大な鎌首を持ち上げ、あっという間にエンガノ岬《みさき》の東方三二〇キロ地点で沈没した。三時間ばかり漂流した水野たちは軽巡「五十鈴《いすず》」に救助された。「五十鈴」は油を使い果たして沖縄の中城《なかぐすく》湾に入った。そこで「伊勢」に移乗し、大竹海兵団へ帰った。
「千歳」と「瑞鳳」の生き残りの約三〇〇名が佐世保へ帰らず大竹へ上陸したのは、いわゆる軟禁のためだった。大竹では飛行機の格納庫へ入れられたが、しばらくして今度は軍用列車で佐世保に全員送られ、残務整理をした。水野には|南※[#「くさかんむり/比」、unicode8298]《なんび》航空隊付で比島への転勤命令が出たが、比島へ行く飛行機も艦もなかった。彼はそのまま、佐世保の防備隊に留め置かれた。
水野はぼんやり、通信室の窓外を眺めた。この数日の暖かさで桜がほころびはじめている。立ち上がると、「大和」からの暗号電報を持って二階に降りた。ドアをノックして司令室に入った。椅子に坐っていた山田鉄雄司令は黙って電文を読んだまま、一言も言葉を発しなかった。
その日の佐世保は低気圧の影響をあまり受けず、晴れたり曇ったりだった。だれもが「大和」の話はしなかった。そのくせ、だれもが「大和」は駄目だろうと思っているようだった。動揺といえば、「武蔵」のときのほうが大きかった。
夜になって、水野は「大和」の沈没を知った。
その夜、水野は潜水艦基地の連中と「万松楼」へ出かけ、酒を飲んだ。海軍の連中ばかりだった。「大和」沈没を知っている者もいただろうが、だれも話題にしなかった。
水野は口数少なく杯を乾していた。「大和」に乗って死にたかったのに、と思った。
水野弥三少尉は、「大和」には特別の感慨があった。水野の生まれた家は呉市宮原通りの高台にあり、擂鉢《すりばち》の底のような呉の町で、水野の家からドックはまる見えだった。水野の実家は裏山を背景にし、庭には三階建ての大きな倉をもつ大邸宅だった。
昭和十五年八月八日の早朝、一号艦と呼ばれた「大和」が進水式を迎えた。当日、四囲の山では、陸戦隊の連中が要所要所を厳重に警戒し、海上には煙幕が張りめぐらされた。一般市民もその日は外出禁止だった。しかし、少年だった水野は目をこらし、密《ひそ》かにドックから曳《ひ》き出されてくる「大和」を見た。山のような巨大なフネだと思った。まるで、ドックから引きずり出されるような感じを受けた。
その後、呉の陸軍憲兵隊が海軍関係の商人たちを矢つぎばやに引っぱり、ひどい目にあわせているという噂《うわさ》が伝わった。東京の大学に入った水野が夏休みで帰省した昭和十六年の夏、水兵が憲兵隊につれ去られていくのを何度か目撃した。呉では憲兵隊のことをよくいう者はいなかった。
呉は海軍の町だった。なぜ、呉にいて陸軍憲兵隊が横暴なのか、海軍がそれを見て黙っているのか不可思議だった。その後、海軍に入った水野は、陸海軍と陸を上にいう理由を、軍の成立を通して知った。やはり、陸軍の方が力をもっていた。
水野は海軍の町に育ち、少年のころより海軍に憧憬《どうけい》を持っていた。
「お母さん、海軍に入って水交社で晩めしを食わせてやるよ」
と、よく言った。
水交社は海軍の将校クラブで士官以上の海軍の家族だけが立ち入りを許されていた。洋風建築の水交社は少年の夢をかきたてた。しかし、彼が切実に海軍を志願したいと思う出来事が、突然、起きた。まさに、水野にとって青天の霹靂《へきれき》ともいうべき事件だった。水野がまだ明治大学法科の学生だった昭和十六年十二月八日のことだった。
日本が太平洋戦争に突入したその朝、虎《とら》ノ門《もん》に近い南佐久間町の邸宅に、海軍省の者と名乗る男が二人、あらわれた。彼らは「警査《けいさ》」だと名乗った。
「おれは何も悪いことはしとらん、心配するな。じき、戻ってくる」
父は静かな口調で言い残すと、二人の警査と家を出た。外にはまだ人がいる気配だった。しかし、その日、父はいくら待っても遂に帰って来なかった。
まんじりともせず朝を迎えた水野は、知り合いに頼んで海軍省に問い合わせた。父が呉海軍建築部贈収賄事件にからむ嫌疑で、横須賀の海軍刑務所に拘置されているのを知った。
彼の父は、元・呉市長の水野甚次郎だった。貴族院議員で土木建築業「水野組」(現・五洋建設)の社長であり、彼はその三男だった。
海軍刑務所は横須賀の大津にあった。その日、水野は姉婿の林良と蒲団《ふとん》を持って大津へ急いだ。大津には夜遅くに着いた。あちこち捜したが夜のことで、刑務所はなかなか見つからなかった。
寒い晩だった。灯火管制のため、どこも真っ暗だった。深海の底のような町が東の空から白みはじめたころ、刑務所はようやく見つかった。門衛をたたき起こして頼んだが、面会は出来なかった。蒲団を門衛に託し、二人は帰った。
父の甚次郎はそれからまる二か月帰らなかった。彼は毎日、アメリカ大使館前のアメリカン・ベーカリーでサンドイッチをつくってもらい、横須賀の大津海軍刑務所に運んだ。門衛の応対は最初のころにくらべて丁重になり、
「お父さんは、今日から個室に入られましたよ、大丈夫ですよ」
と言ってくれるようになった。しかし、相変わらず門内へは一歩も入ることができず、むろん面会はかなわなかった。刑務所に出入りできるのは、海軍少尉候補生以上だということを知った。
父の甚次郎が大津海軍刑務所を出たとき、報道陣が押しよせた。父は、だれにも会いたくない、一人になりたいと言った。父の水野甚次郎は、「大和」のことも呉海軍建築部贈収賄事件にからむ逮捕の一件も、戦後亡くなるまで一言も語らなかった。父の逮捕のきっかけには、服部海軍建築部長がからんでいた。信頼していた服部が父を貶《おとし》めるためにいろいろしゃべった。しかし甚次郎は無罪だった。服部は二年四か月の実刑を受けた。甚次郎は黙ってその服部の留守家族の面倒を見た上、戦後は彼を水野組に入れた。水野は、父にはそうした情に厚い一面があるのを知った。
水野弥三が海軍を志願したのは、父および母への情の故である。しかし、入隊の間際まで、彼は両親に知らせないつもりだった。
大学の卒業が半年くりあげられ、そのくりあげ卒業の翌日の昭和十八年十月一日、水野は海軍第三期兵科予備学生として入隊した。横須賀武山海兵団での基礎教程、久里浜《くりはま》の横須賀通信学校での専門教育を終えて翌十九年五月三十一日、海軍少尉になった。新米少尉の襟章には桜が一つ輝いた。
父の甚次郎に少尉になったことを伝えると、
「そうか」
と答えただけだった。
水交社へ連れて行って喜ばせようと思っていた母は、父の事件で心労が重なったのか、彼が海軍に入る一か月前の十八年九月に亡くなった。
あれから一年と六か月が経った。
少年の日、自宅の二階から「大和」の進水する瞬間を見た水野は、「大和沈没」の傍受電報を自分が翻訳するとは思いもしなかった。「大和」には同じ通信学校同期の少尉で第二艦隊司令部付の竹内英彦や渡辺光男も乗っていた。よもや、二日前の夜、露天甲板で二人が互いのお守りに写真を入れて交換した、その竹内が戦死したなど知る由もなかった。
佐世保の「万松楼」で酒を飲みながら、水野の胸中を父や「大和」のことが去来した。
八日の晩、「大和」や「矢矧《やはぎ》」で生き残った少佐以上の者たちが、佐世保鎮守府に来ているという知らせを水野は受けた。
「矢矧」には、呉二中の時の彼の先輩だった古田吉之少佐が乗っていた。通信長だった。
問い合わせると、古田先輩は生き残っているという。水野は食糧を買い込んで、古田少佐に面会した。古田は重油で目を傷めていた。二人とも沈没については触れなかった。数日後、古田から佐世保の高級旅館「菊水」に来いと言われた。水野が行くと、海軍の高官たちが宴席にずらりと並んでいた。古田は水野を自分の後輩だと紹介した。水野は宴席の隅で緊張して坐っていた。宴席には第二艦隊参謀長森下信衛少将もいた。ひどく暗い表情だった。
2
「初霜」の艦橋では、砲術長の藤井治美大尉が「大和」の最期を息をつめて見ていた。乗組員の列が舷側《げんそく》をつたわり海中に投げだされた一瞬、艦中央部寄りの火薬庫付近から轟音《ごうおん》とともに火柱が立ち、艦体は真っ二つに割れたように見えた。前部は艦首を、後部は艦尾を上に直立すると、沈下しはじめた。巨大なスクリューにはいのぼる人影が見えたと思ったとき、艦尾とともにすべてが海中へと没した。
「初霜」は「大和」の右六〇度、一五〇〇メートルに位置していた。
「大和の艦体が真っ二つになったときの火炎の熱さは三〇有余年経っても忘れられない。天から艦体の大小種々雑多な破片が、ハンドレールが、機銃の一部が、砲塔の一部が降ってくる。思わず鉄兜《てつかぶと》を頭につけた」
と宮崎県出身の藤井治美は回想する。
藤井の兄は「大和」が沖縄へ向かった同じ日に、予備学生として特攻機に乗り、戦死した。
同じく「初霜」の通信士だった松井一彦は、左舷へ傾斜を増した「大和」の赤腹に、乗組員がアリのようにはいあがり、七、八〇度の傾斜になったと思われるころ、突如大音響とともに誘爆、人も艦も火柱ごと天に噴き上げられたのを見ている。水煙がおさまったとき、もはや艦影は消えうせていた。「初霜」の最上甲板では砲塔の兵員たちも鉄兜姿のまま、呆然《ぼうぜん》と「大和」の消えた海面を見守っていた。
「大火柱とともに瞬時にして沈没する大和に見入っていた兵員たちは、まさに荒野で親を失ったような気持だった。私が最初に乗った艦の砲術長や司令もその後大和に行かれ、亡くなっているので、今でもとりわけ親近感をもっている。とくに、下士官兵は一番優秀な人たちをえりすぐったと聞いている。大和沈没のあとは重油と浮遊物があるだけで、生存者は一人としていないように見えた」
と語る通信士の松井一彦は、「大和」沈没前の一時五十分に、酒匂《さこう》雅三艦長の命令で最初の戦闘報告を「天」一号作戦の航空隊へ発信した人である。
第二艦隊の中の最も若い艦長である酒匂雅三少佐の指揮する「初霜」は敵空襲後沈没した「浜風」の生存者二五六名をただちに救助、次いで夕方の五時には、同じく沈没の「矢矧」の生存者を救助した。
第二水雷戦隊司令官古村啓蔵が漂流三時間余で救助されたのは、「初霜」である。浴室で重油を流したあと、酒匂艦長から借りた軍服をつけて艦橋にあがった。艦長から戦況の報告を受けると、連合艦隊司令長官あてに、
「今ヨリ残存部隊ヲ率イ沖縄ニ突入セントス」
という電報の発信を命じた。しかし、この電文は電波にも乗らず、戦史にも記録されずに終わった。古村の沖縄突入電報を暗号に組んでいる最中に、連合艦隊司令部からの命令が届いた。
GF電令作第六一六号
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) 第一遊撃部隊ノ突入作戦ヲ中止ス
(2) 第一遊撃部隊指揮官ハ乗員ヲ救助シ 佐世保ニ帰投スベシ
[#ここで字下げ終わり]
駆逐艦から次々に通報された戦闘状況から判断した中央の公式命令だった。
この命令の受信は、五時五十分といわれる。「大和」沈没後二時間余りして、草鹿龍之介参謀長に対する伊藤整一司令長官の初志が果たされたといえる。
しかし、この作戦中止命令は、沖縄水上特攻を絶対の使命として受けとっていた残存の駆逐艦にはある種の戸惑いを与えたのも事実だった。
「雪風《ゆきかぜ》は寺内艦長以下沖縄へ突っ込むつもりだった。たとえ雪風一艦になっても嘉手納《かでな》湾に突入する気構えだった」
と「雪風」の航海長中垣義幸中尉は語っている。「雪風」では「大和」の最期を見届けると、寺内正道艦長は「冬月」坐乗《ざじよう》の残存部隊の先任指揮官吉田正義司令あてに、
「イカガセラルルヤ」
の信号を送らせている。その間も「雪風」は南進をつづけた。
やがて「冬月」から信号が送られた。
「生存者ヲ救助シテ再起ヲ計ラントス」
しかし、この信号に納得できないかのように、再び「冬月」に信号が送られた。
「イカガセラルルヤ」
「スミヤカニ行動ヲ起コサレタシ」
矢つぎばやの信号を発しながら、「雪風」はなお南進をつづけた。
爆弾の破片を浴びながら鉄兜も防弾チョッキも着用せず天蓋《てんがい》から首を突きだし、中垣義幸航海長の肩に両足をのせ、足を踏んでは操舵《そうだ》を命じていた寺内艦長らしい気丈さだった。寺内艦長が中垣航海長に足で合図するしかなかったのは、敵機の爆音や自艦の発射音に操舵の命令がかき消されるからだった。
しかし、作戦中止命令を受けとると、この「雪風」と「冬月」は、全力をあげて生存者の発見と救助にとりかかった。
「大和」が横転すると、乗組員たちは巨体の沈下によって引き起こされた渦巻きにまきこまれ、海中に吸い込まれた。駆逐艦の救助まで三時間余、海面では生と死の闘いがつづいた。
黄色い光が走った。
三笠《みかさ》逸男兵曹は、無意識に水をかき、けった。自分が海水の中にいるのに初めて気づいた。早く海面に顔を突きだしたいと、しきりに水をけったが、胸が次第に苦しくなる。少しずつ意識が遠くなる。手足の力はしだいに脱け、胸は裂けるように痛かった。
「おれは死ぬのか」
と思った一瞬、最後の力をふりしぼって手足をばたつかせると、水の中が白っぽくなった。彼の体は、海面から躍りでた。出た!……思わず呼吸したが、その飛び上がった反動でまた体は沈んでしまった。水を飲んだ。海水が鼻の奥にまで入り、苦しさにしきりに手足を動かした。息が苦しかった。そうだ浮身だ、と三笠は思った。足をひろげ、手を左右に動かそうとし、右手がしびれて動かないのに気づいた。やられたかなと思いながら左手だけ広げ、頭を後ろに引いてアゴを突きだした。
三笠の体は、海面に浮いた。呼吸を整え、思いきり大きな息をした。空がかすんだように見えた。生きている、と胸の中で叫んだ。空気が顔にふれてくる。開けた目は痛いが、次第に明るさが感じられる。
重たく垂れさがった雲間や雲の下を、敵機はまだ飛んでいた。
あたりを見まわすと泥のような重油の層に、ひきちぎられた木片が浮いている。ようやく長さ一尺ほどの木片を見つけてとりすがると、またも体が沈み、海水を飲んだ。つかみなおした木片は、三笠の体を託すにはあまりに小さかった。重油の臭いが口からあふれた。
白い火薬缶が見えた。ねばりつく重油をおしわけ火薬缶に取りつきながら、あの海中での黄色い光は、火薬庫が爆発したときの閃光《せんこう》かと思った。
火薬缶に取りすがって見渡すと、大きなうねりと、重油の漂う海ばかりだった。
「おれ一人か……」
ぼんやりとうねりの彼方《かなた》を眺めながら、一人なら一人でよいと思った。
うねりに乗って見まわすと、黒い頭がぽつり、ぽつりと見えた。
「集まれ、集まれ」
海面をはうように声が聞こえた。
火薬缶を押しながら近づくと一〇人余りの人たちがいた。艦橋上部が配置の士官たちの顔が見えたが、重油に汚されてだれだかはっきりしない。
「おい、先任下士、こっちへ来い」
主砲射撃指揮所の村田元輝射手の声だ。川崎勝己高射長の姿が見える。高射長は何にもつかまらず立ち泳ぎをしていた。
「高射長、この火薬缶につかまりませんか」
三笠が言うと、
「いいよ、ぼくは大丈夫だ」
だが三笠には、重油に汚れた顔が元気がないように思えた。
つかまるところのない火薬缶は、しがみついているとかえって疲れを増した。ようやく、長さ一メートルほどの棒を見つけた。股《また》にはさみ、勢いをつけて棒を前に突きだすと胸から上が楽に浮いた。甲板の破片らしいチーク材が浮かんでいたので、右手にその木片をつかむと浮力がついた。波に身をまかせていると軍歌が高く低く海面を伝わってくる。その歌声を三笠は人ごとのように聞いていた。
何時ごろだろうといつもの癖で左手を上げると、ガラスのなくなった腕時計は二時すぎで止まっていた。沈没したのは二時ごろだったのかと思った。分隊士も砲員も一人もいなかった。
砲塔が傾斜のために旋回不能になり、何かにつかまらなくては立っていられなくなったとき、突然、
「主砲発令所長、御写真守れ」
の声が拡声器から流れてきたのを覚えている。三笠の配置の副砲へは、最後まで命令が聞こえていた。
しばらくして、「総員最上甲板」の命令が響いた。三笠は一瞬、耳をうたがったが、
「退去だ、扉を開けろ!」
と叫んだ。
傾斜で鉄扉が動かなくなる、と思った。
伝声管につかまり、一瞬、ためらった。しかし、弾庫、火薬庫の部下たちに、退去を伝えた。脱出できるはずのない吃水《きつすい》線下だった。
「砲員長、後ろの扉が開きません」
「なにっ、ハンマーをもってこい」
艦の傾斜で、ケッチ《かけがね》が扉にかかってしまったのだ。ハンマーで叩《たた》くと、扉が音を立てて開いた。
「みんな出ろ!」
室内の三二名に叫んだ。
三笠は副砲の通風塔の上に立った。そばに分隊士の徳田朝芳兵曹長がいた。
「砲員長、もうガスマスクを外そうや」
三笠はうなずき、マスクを外した。外したとたん、手がすべって落としてしまった。水はすでに砲塔の基部まできていた。常時大事にしていたのに、呆気《あつけ》なく海中に見えなくなった。
右舷の甲板は、絶壁のように頭上に迫っている。
このときうなりを立てて、敵機二機が頭上をかすめた。
「もう、駄目だな」
と思ったとき、足元を揺さぶる命中音と一緒に、艦橋は巨木が倒れるように傾きはじめた。機銃の薬莢が落ちた。すでに水が足を濡《ぬ》らしはじめた。
どこからともなく、「万歳」の声がわき起こった。三笠も両手を上げて力いっぱいに叫び、その手を下ろさないうちに、そのまま前に倒れたことまでは覚えている。
三笠は海面に漂っていた。あたりを見まわした。いつの間にはぐれたのか、また一人になっていた。
しーんと静かな、諦《あきら》めといった気持が漂いはじめた。生きたくもなければ、死にたくもない。怖ろしくもなければ、一人でいるのが寂しくもない。寒くもなく、痛くもない。不思議な静かな心持がひたひたと押しよせた。ただ、波間を、一枚の木の葉のように漂った。
長い時間のように感じられた。戦闘中にくらべ、ずいぶん長く感じる。いつの間にか敵機も見えなくなっていた。三笠は敵の機銃掃射を目撃していない。
不意に、東の水平線にマストが一本見えた。その左にもまた、一本、見えた。やがて艦橋が見え、甲板が姿をあらわした。
「駆逐艦だ……」
味方の駆逐艦が生き残っていたのだ。熱いものがこみあげ、マストにひるがえる軍艦旗がぼやけた。
かすかに、呼ぶ声が海面をわたる。
三笠は棒を股にはさみ、木片を脇《わき》にかかえたまま、手首だけ動かした。
右か左かと迷っていると、潮の流れが三笠を右の駆逐艦の方に送った。煙突や後甲板付近では、重油にまみれた漂流者が縄梯子《なわばしご》につかまって上がっている。後ろを振りかえったが、だれもいなかった。艦まではまだ、四、五〇メートルはある。潮流と手首の水かきで、前甲板近くまで流された。
「おーい、投げるぞ」
前甲板の兵隊が、綱を投げてくれた。甲板の兵隊は縄を引き、煙突付近の外舷の低いところにたぐりよせた。頭上を二人の兵隊が綱につかまって甲板にはい上がっている。
三笠は目の前の縄梯子を左手でつかまえた。水際までしか下りていない縄梯子に、右手を痛めていたので左手をかけ体をよせようとしたが、全身の重みが左腕一本にかかり、腕がまがらない。
「救助を急げ、前進をかける」
艦橋からメガホンで怒鳴る声がした。
「いそがなきゃ、離すぞ」
甲板の兵隊が叫ぶ。
三笠はぶらさがっている縄を口にくわえた。上から引っぱってもらい、左腕に力を込めて、ようやく縄梯子につかまって立った。待ちかまえていた甲板の兵隊が襟首をつかみ、ずるずると引き上げた。
甲板にたどり着いた三笠は、そのままうつぶして動けなかった。
工作科の竹中茂の戦闘配置は、後部第二注排水管制所である。そこは後部三番主砲の後ろにあたり、森川時巳たち六、七人の兵がいた。森川は三月二十一日に柱島《はしらじま》で乗り組んだ兵隊だった。
竹中の配置の後ろには舵取機械室があり、ここから艦内の防水区画に水を送る。艦橋の下の注排水指揮所から命令を受けると、部屋のハンドルを廻した。たとえば右舷に魚雷が命中した場合、左舷へ水を送って艦の水平を保つのである。
竹中の第二注排水管制所は、戦闘のあいだあちこちの部屋に海水を注水するため、ハンドルから手の離せない忙しさだった。こんなに「大和」に魚雷が命中しているのかと呆《あき》れるほどだった。こりゃ、いかんな、と竹中が内心思い始めたころ、指揮所からの命令は途絶えてしまった。
電話も伝声管も切れた。彼の位置にはもともと、伝令は来ない。状況がわからず、不安を増した。ハンドルにつかまったまま、部下たちも脅えた表情をしている。しかし、部屋の中にじっとしているほかなかった。
「大和」はギシギシと重い鉄を軋《きし》ませ、竹中の耳にはフネ全体がけもののような悲鳴をあげているように響いた。
やがて、上部のフードのあたりから、シャーッと海水が入ってきた。
「おい、ハッチを開けろ!」
竹中の声に、森川時巳がようやくハッチのハンドルを廻した。水が勢いよくなだれ込んだ。
工作科の者は次々と外へ出た。森川につづいて竹中が最後に出た。ハッチから外へ出ると、激しい水流に彼は後部へ押し流された。口中が妙に甘かった。命令が途絶え、なにもすることがなく、それぞれ一本あて配給されたサイダーを口の中に流し込んでいたからだ。蓋《ふた》を開けるものがないので、近くの兵器で飲み口を割った。
竹中たちが後部に流されている間、電気は切れたままで、暗闇《くらやみ》の中を手さぐりして外へ出た。「大和」の後部は、黒煙をあげていた。
飛行甲板に出ると、
「森川、もうマスクを取れよ」
と声をかけた。
配置にはりついている間つけていた防毒マスクを、まだつけたままだった。
「これで、最後かもしれん」
竹中は煙草《たばこ》を取り出した。森川も吸ったが、煙草を吸う気力のない者もいた。飛行甲板の少し離れたところには、怪我人が丸太のようにころがり、あたりは血の海だった。
艦が傾き始めた。竹中は森川たちと一緒に移動した。彼にはかつて沈没の体験があった。ミッドウェー海戦のとき、竹中茂は重巡「三隈《みくま》」に乗っていた。この「三隈」は高速航行中の「最上《もがみ》」と衝突、さらに米艦載機の攻撃を受けて沈没した。総員退去の命令で海に入った彼は浮遊物につかまり、ようやく救助された一人だった。
「おい、森川、沈んだらあの畳につかまろう」
竹中は、甲板の柔道畳を指さした。
二人がその柔道畳のそばに近づいたとき、畳もろとも海へズルズルと入った。竹中と森川は畳につかまった。潮の流れが速く、畳と一緒に二人は波のうねりに流された。そのせいか、二人は「大和」が沈むときの大きな渦には巻き込まれずにすんだ。
「大和」の爆発が起こった。竹中には、「この世の終り」が来たかと思えるような轟音だった。火柱をあげて、あっという間に「大和」は海中に没した。
やがて、竹中たちのつかまっている柔道畳の近くに、重油で異様に真っ黒になった兵隊が流されてきた。虫の息だった。
「森川、こいつ、上へあげるぞ」
竹中は男の腕をとった。男の腕の皮がズルッとむけた。ひどい火傷だった。やっとのことで、男を畳の上へ引きあげた。
「おまえ、どこの兵隊だ」
竹中は、火傷で頭の毛もなくなり、その上、重油で真っ黒になった兵隊に聞いた。
「主計科……」
男はひと言、それもようやくという口調で答えた。
竹中は片方の手で柔道畳につかまりながら、もう片方の手を自分の頭にやった。戦闘帽はまだ無事だった。竹中は戦闘帽の中に、懐中時計と一五〇円入った財布を入れていた。「三隈」が沈められ、救助されたとき、彼は貴重品も金も一切、身につけていなかった。救助はされたが、金がなくて困った経験があったので、煙草を一服した折に時計と財布はしっかり戦闘帽の中に入れておいた。
「雪風」に救助されたのは、同じ配置では竹中と森川の二人だけだった。甲板では工作科の舌崎《したざき》省吾が傍にいた。舌崎とは海の中でも一緒だったはずだが、途中ではぐれた。柔道畳の上に引きあげた主計科の兵隊もうねりに呑《の》まれ、見えなくなった。
「雪風」では、重油でベトベトになった服を脱ぐと、乗組員から新しい服をもらった。夏用の「防暑服」だった。「雪風」の乗組員の居住区でビールをもらい、飲んだ。同室の者の階級はわからなかったが、石田恒夫副官とか黒田吉郎砲術長とかいう声を聞き、そんな偉い人のいるところは窮屈でたまらんと思った。「雪風」をめがけて魚雷が走ってくるのもわかったが、とにかく助かるかもしれないという気持になっていた。竹中は部屋を出ると、甲板へあがった。甲板へあがって、これで生きられる、と初めてホッとした。
周囲の兵隊たちも、安心したような表情になっていた。ふと、竹中は異様な光景にぶつかった。脱ぎ捨てた戦闘服の山から、何人もがバンドを抜き取り、三本も四本も自分の腰に巻いていた。
竹中は四本ものバンドを腰に巻いている兵隊に近寄ると、
「おい、そんなにようけえ、いらんじゃろう。一本、自分にくれ」
とその兵隊から一本もらった。
死ぬ心配がなくなると、人間はまず物に執着するようになるのか。「大和」の吃水線下の戦闘配置で、もうくるか、とまるで死刑を待つような気持でいたことなど信じられなかった。
竹中茂は昭和十五年の徴募兵で、「大和」には十七年七月に乗り、一等兵曹だった。すでに二十六歳になっていた。
佐世保へ生還したのは、翌日午前十時ごろだった。しばらく島に隔離され、呉へ残務整理に帰った。
佐世保の駅で、竹中は満開の桜を見た。「雪風」で佐世保に着いたとき、島にも咲いていたかもしれないのに、竹中は桜の記憶がない。呉へ戻る佐世保の駅で初めて桜を見た。桜といえば、新兵で横須賀へ行ったとき、満開の桜が彼を迎えてくれた。まだ今よりずっと若く、張りきっていた。そして今、「三隈」につづいて二度目の敗残兵となって、満開の桜を見ている。
竹中は汽車が動きだすとともに、まだ戦争は終わっていないのだという意識を取りもどした。
呉海兵団の柔道場で、竹中は生き残った前宮正一とばったり出逢《であ》った。
「前宮、今夜は呉の街で思いきり飲もう、遊ぼう」
竹中の声に、前宮はうなずいた。その晩、竹中は無事だった戦闘帽の中の一五〇円を一晩で使い果たした。前宮は酔っぱらった竹中を見て、こんなにお金を使ってしまってと心配した。明日になって後悔するのではないかと竹中が上官だっただけに心配だったが、翌朝、竹中はかえっていっさい使い果たしたことで、さっぱりした表情になっていた。
呉での残務整理も終わった竹中は、工作科の同年兵と一緒に広《ひろ》駅付近の海軍の設営隊へ行った。海岸に面し、山を背負っていた。|灰ケ峰《はいがみね》も遠望できた。広の設営隊は四十代の予備役兵ばかりだった。彼はそこで、終戦まで見張役をしていた。竹中たちが広の海軍設営隊へ行ったその夜、呉は空襲を受けた。七月一日の夜から二日にかけての空襲ではB29が延べ八〇機、呉市全体を襲った。
それから一月ほど経ったある日、設営隊の兵舎で南京虫を爪《つま》ようじでつぶしていると、ドカンともの凄《すご》い音がした。外へ出ると、灰ケ峰の向こうから、巨大な黒煙が盛りあがった。竹中は「大和」が沈没したときの光景を思い起こし、不吉なものを感じた。
「発電所が爆発したらしい」
とだれかが、言った。
翌日、広の駅にひどい火傷をした人たちが降りてきた。頭から黒い油をかぶった人もいたし、強い火で急激に皮膚を焼いた火傷のように、ペロッと皮がむけ、白い肌が見えている人もいた。
「どうしたんですか」
竹中が思わず訊《たず》ねると、
「なにか知らん、黒い雨が広島に降った。ピカッと光ったあと、ドンといった。目がくらんで気がついたら、こんな姿になっていました」
その人は、垂れ下がった腕の皮膚を引っ張って答えた。
「ピカドンの新型爆弾だ」
と言う者もいた。
竹中と同じ工作科でも戦闘配置は第八応急班の前宮正一は、左舷後部中甲板にいた。前宮の隣が後部指揮所で最初の攻撃を受けた場所だった。第一波の攻撃で、外は見えないが、体に強い衝撃を受けた。指揮所にいた板東《ばんどう》定昌兵曹は防毒マスクをかぶっていたが、爆風でやられた。防毒マスクをかぶっていたところだけを残し、あとは火傷で猿面冠者《さるめんかじや》のような顔になった。
十六歳の吉藤昭典少年兵も指揮所でやられ、血に染まって倒れた。頭をやられたのか、頭蓋骨《ずがいこつ》が見えていた。前宮は吉藤少年兵を抱き起こし、背負って戦時応急室へ連れて行った。少年兵はうわ言で軍歌のようなものをうたっていたが、すぐに息を引きとった。
敵機は後部に集中して襲いかかるのか、あちこちに至近弾が落下した。戦闘が激しくなると、どこを補充せよと命令されても、体が艦の傾斜で動かない。応急班の仕事は雷撃被害による破損の補強をしたり、被爆による艦内火災の消火、浸水による艦の傾斜復原のための注排水処置などの地味だが極めて重要な配置である。配置を守るというより、矢つぎばやの後部への魚雷命中に、目と耳を押えてみんなかたまる。指揮官も重傷を負った。
二時すぎ、またもや左舷後部に魚雷が命中し、鉄板に亀裂《きれつ》が入った。亀裂から海水が奔入し、穴はみるまに大きく裂けた。
「かたまるな、散らばって待機せよ」
猿面冠者のようになった板東定昌兵曹が、叫んだ。
数人が激流のような海水に、一瞬のうちに呑み込まれ、姿を消した。前宮はようやく上へあがると、後部の飛行甲板にでた。外の状況のまったくわからなかった前宮は驚いた。艦はすでに大きく傾いていた。後部のスクリューが空中で空回りしている。傾いた左舷後方へ人が集まっていた。海水で鉄板がすべり、そちらへ行こうとしても、動けなかった。そのとき、前宮の目の前に一本のロープが投げられた。ロープを投げてくれたのは、木村邦夫水兵長だった。前宮は、「総員退去」を聞いていない。ロープを伝わって、左舷にかたまっている生存者の方へよじ登った。そこから外舷を歩いてすべり込むように海に入った。
「おい、前宮!」
舌崎省吾が、泳いでいた。
「前宮、艦《フネ》が沈むと渦に巻き込まれるから、急いでフネから遠くへ離れろ」
まだ、艦はゆっくり片肺航行で動いていた。艦の方向とは逆の海に投げだされたのが幸いだった。
「丸太がある、あそこまで行こう」
舌崎が声をかけたが、丸太までかなり遠い。
呉の海で育った舌崎は泳ぎが達者だった。
「駄目だ、おれ、行かれん」
「早くこい。駆逐艦が助けに来てくれるはずだ。早く行こう」
しかし、舌崎の達者な泳ぎにはついて行けなかった。見る間に彼の姿は見えなくなった。前宮は海に入ってから、見違えるように生き生きしだした舌崎に圧倒された。艦では上官たちからおもしろ半分によくいじめられ、軍隊ボケのようになってぼんやりしていたときもある。要領が悪く、気の小さいところがあった。しかし、前宮は舌崎の几帳面《きちようめん》すぎるほど真面目《まじめ》なところが好きだった。
うねりは高く、山のようだった。だれ一人見えなくなってドスンと落とされると、重油でタドンのようになった頭がちらほら見えた。前宮は病気の父のことを思った。彼は八人きょうだいの長男だった。横須賀から呉へ転勤になる数日前、「チチキトク」の電報が入った。呉へ向かう汽車が京都駅で止まったとき、兵隊を見送りにきていた親御さんらしい人に、急いで走り書きのメモを渡した。姉婿が京都駅の出札主任をしていたので、これから転勤で呉へ行くとだけ書いた。父はどうなっただろうかと頭をかすめた。
前宮の近くに八畳敷ぐらいの防舷《ぼうげん》材が浮いていた。木と竹で組まれ、左右の舷に吊《つ》り下げて、艦が接岸するとき舷側を守るものだった。その防舷材に一〇人ほどと一緒につかまった。だれかが、機銃掃射だと言った。
「かたまるな、離れろ!」
前宮たちの頭上を敵機が機銃掃射をして走った。機銃掃射は執拗《しつよう》にくり返され、そのたびに重油の下にもぐった。何人かがやられて死んだ。人がかたまっていると狙《ねら》われるので、彼は防舷材を離れて近くの丸太につかまった。
「早《はよ》う、駆逐艦まで泳がんと、助からん」
しきりに「駆逐艦」と言っていた舌崎のことが思い浮かんだ。
舌崎省吾は、前宮正一を探したがどこにいるのか見えなくなった。渦に巻き込まれる前、振り返ると波間に前宮の頭が見え隠れした。お互いに目と目で確認して泳いでいるだけだった。
同じ工作科の同年兵だが、戦闘配置は離れていたので、海に入る前に前宮がどこにいたかは知らなかった。舌崎は、同じ配置の小塚栄三水兵長がかなり早く海へ飛び込んだのを見ていた。しかし、あとになって、小塚が生還していないのを知った。
舌崎の近くには多田分一や竹中茂、森川時巳がいたのは覚えている。竹中は海へ入る前、
「今度は靖国神社で会おう」
と多田に言った。舌崎はその竹中の声をすぐ傍で聞きながら海に入った。
「冬月」に救助された舌崎は、前宮が甲板の上にうずくまっているのでびっくりした。
「前宮、大丈夫か、何、ほしい」
前宮は「水、水」と微《かす》かな声であえいだ。
前宮の横に、どこも負傷していないようだが、体全体がぐにゃっとして、関節のはずれた、まるでタコのようになった人間がいた。
「おい、しっかりしろ」
だれかがその男を抱きあげたが、男はタコのようにぐにゃぐにゃしていた。
甲板はどこも助ける人間と助けられる人間とでごった返していた。舌崎は前宮に飲ませる真水を探しに降りた。すぐ近くに士官室らしい部屋があった。舌崎はドアを開けるとそっと入っていった。だれもいなかった。ウィスキーのポケット瓶があったので盗み、ポケットに入れた。それから水の入った薬缶《やかん》を失敬して急いで甲板に上がった。前宮は毛布をかぶってふるえていた。
「前宮、水だ」
舌崎は薬缶からコップに注いだ水を渡した。前宮は驚いたような顔をして舌崎を見上げていたが、コップにかじりついて一気に飲み乾《ほ》した。
舌崎は前宮の傍につきっきりでいた。前宮が助かってくれてうれしかった。しかし、これからまたこの駆逐艦で沖縄まで突っ込んでゆくのかと思うと、暗澹《あんたん》たる気持になった。
駆逐艦の兵隊が乾パンを運んできた。それを見て「大和」の兵隊の一人が、突然その袋をひったくり、走って逃げた。みんなおかしくなっている、気が変になっている、と舌崎は茫然《ぼうぜん》と見ていた。
3
高角砲射撃盤の中島(現・武藤)武士がようやく最上甲板に上がって間もなく、「総員最上甲板」の命令が下った。
「皇居のほうを向き、最後のお別れをしろ」
と言う声が聞こえ、「天皇陛下万歳」と叫んだ。
中島武士も声のかぎりに唱えた。
艦が大きく傾き今にも横転しそうだと思ったとき、
「自分は泳げません、どうしたらよいでしょう」
傍で応召兵らしい年輩の兵がおろおろした声で言った。
「浮遊物を探せ、それにつかまれば大丈夫だ」
中島が言い終わらぬうち、応召兵は走り去った。その後ろ姿を追いながら、助からんだろうな、と思った。
甲板は傾き絶壁になっている。右舷のハンドレールにぶらさがっている兵や、艦の赤い腹にはい上がろうとしてのけぞり、海面に悲鳴をあげてまっさかさまに落ちていく兵もいる。自分もその一人だと思った。同じ死ぬなら一秒でもよけい息をして死のう、渦に巻きこまれないためには、一刻も早く飛び込み、艦から離れるのが賢明だ、という船乗りの常識が頭の中をかすめた。ハンドレールを足場に、露出した赤腹にはいのぼった。泳ぎの邪魔になる脚絆《きやはん》も靴も脱ぎ捨てた。
気がついたとき、体がコマのように回転しながら海中の深みに吸い込まれた。眼の前は真っ暗で、必死にもがいた。渦巻きに身を任せ、吸い込んだ息を小出しに一秒でも生きようとしたが、だんだん苦しくなって肺の空気も少なくなった。そのとき、母親の顔が浮かんだ。出征の日の朝、どんなときもこれを身に着けておくようにと渡された故郷の氏神様のお守りはしっかり戦闘服のポケットに入れている。母よ、さようなら、と言い、「なんまんだぶつ」と唱えた。今まで口に出していったこともなかったのに、ひとりでに口をついて出た。一口、二口と苦しまぎれに水を飲んだ。体いっぱい海水を飲んだらあの世とやらに行けるのだな、と思っているうちに、意識が朦朧《もうろう》となった。その瞬間、体に大きな衝撃を受けた。木刀で力を込めて腹部を殴られたような衝撃だった。「大和」が横転して大爆発を起こした一瞬だが、海中にいる中島武士はむろん知らない。ただ、その衝撃で仮死状態になった。
ふと、眼の前が薄明るく赤茶けていた。ぼんやり霞《かすみ》がかかった。ああ、冥土《めいど》にきたのだと微かな意識の底で思ったが、間もなく、今度は不思議な力で水面へと吸い上げられた。海上は泥糊《どろのり》のような厚い重油の層だった。生きたい、助かるかもしれないという気持がはじめて湧いた。こんなところで死んでたまるかと思った。そのとき、歌声が聞こえてきた。軍歌だった。遙《はる》か向こうに、筏《いかだ》を組み、十数人がむらがっていた。筏のところまで行こうと泳ぎはじめたとき、「頼む、助けてくれ」と彼の首に腕をからませてきた者がいた。夢中でその手を払いのけようとしたが、相手の指先には必死の力がこもっていた。中島は首に腕をからませてきた男とからまりあったまま海中に沈んだ。やっとのことで男の腕を振りほどいた。ようやく浮上し、近くにある木片を手にしようとしたのもつかの間、二、三人の者たちに力ずくでもぎとられた。
波は高かった。谷底から頂へ持ち上げられたり、突き落とされたりがつづいた。泳いだら疲れると、波切りに変えた。波の山を中途で潜る泳ぎ方で、中島は海兵団にいるときから水泳には自信があった。
ときには遙か向こうの波が島に見えてホッとする。錯覚だった。体はしだいに熱が奪われ冷たくなってくる。何ひとつすがる浮遊物は見つからなかった。
マストが見えた。一隻の駆逐艦らしいフネが接近してくる。味方か敵か区別がつかなかったが、もうどうでもよかった。駆逐艦は漂流者の周辺を大きく円を描くようにして近づいてきた。数人の兵がスクリューに巻き込まれ、一瞬のうちに姿を消した。
駆逐艦は停止に近い状態になると、ロープを投げおろした。最初の一本に兵たちがむらがった。一人がロープにとりすがって半ばまで登りつめると力尽きたのか滑り落ちた。ふたたび浮いては来なかった。
ロープが幾条か投げおろされた。一本のロープに数人がむらがり争った。中島もロープを引き寄せるとのぼりかけた。しかし、つかんだロープをものすごい力でもぎとられ、海中に滑り落ちた。必死に浮き上がると、また、ロープにかじりついた。ここでロープを離したらおしまいだ。せっぱ詰まった気持だった。駆逐艦の乗組員がロープの先を輪にして投げてくれたのが幸いした。体に巻きつけると、
「引きあげてくれッ」
甲板をふりあおいで叫んだ。足にしがみついてきた者があったが、必死でふりほどいた。甲板上へ引きあげてもらうと、崩れるように倒れた。
「甘ったれんな!」
頭上から大声が降ってきた。
中島武士が救助されたのは、「冬月」だった。
運用科の小山(現・八代)理は、砲火の音もとだえ、あたりが急に静かになったので、後ろのハッチを開けて班長の名を呼んだ。隣の部屋にいるはずなのに返事がなかった。仲間たち数人と下甲板に降りた。暗くて周囲の様子がわからなかったが、懐中電灯を頼りに最後部のハッチを開けた。マンホールから海水が逆流してくる。あわてて閉めると、
「後甲板に退避しよう。前部伝令班も呼んでこい」
と大急ぎで言った。小山理は二十歳の水兵長だった。
マンホールを開けて海水の中を潜ってゆくと、防毒面の吸気管が詰まって息ができなくなる。ようやくラッタルのあるところまで行くと、上から上遠野《かとおの》栄少尉がロープを下ろしてくれた。班長もそこにいた。部下が配置に残っているのに自分だけ退避したのかと思うと腹が立ち、
「部下を見殺しにして退避するのか。それでも班長か」
大きな声で怒鳴ってしまった。普段ならけっして口にできない言葉だった。班長は艦載|艇《てい》格納庫に入っていった。駆逐艦に拾い上げられて班長の姿が見当たらないので気になった。あんなこと言わなければよかった、と自責の念にかられた。
甲板では、カタパルトが根元から折れ、左舷海中に吹っ飛んだ。天蓋《てんがい》のある機銃も銃座ごと甲板をすべって海中に落ちた。三番主砲塔の上で一人の士官が日の丸の手拭《てぬぐ》いを頭に締め、軍刀を持って軍歌を歌っている。手すりにつかまり、一本の煙草をまわして一服ずつ吸った。
土手のようになった舷側《げんそく》を同年兵の木村邦夫水兵長と下り、飛び込むとすぐ渦に巻き込まれた。母親の顔がぼうっと浮かんだ。ぼくは先に死にます、とつぶやくと故郷の景色が目に浮かんだ。
爆発の際にその破片で負傷した者も多かった。同じ班の兵の一人は、両足切断という重傷を負った。同じ駆逐艦に助けられ、気絶したまま便所に放置されているのを見た。
同年兵の木村邦夫が丸太棒をかかえ、
「小山、こっちへ来い」
と呼んでいる。
泳いで行こうとするが、海中に沈んでいる者が足を引っ張る。必死の思いでふりほどき木村の丸太棒につかまった。
広い海面には人影がまばらにしか見えない。三〇〇〇人以上乗っていたというのに、と思うと、淋《さび》しさが胸につき上げた。
「あッ、フネだ」
だれかが大声をあげた。
艦はだんだん近づいてきた。
「味方だ、味方の駆逐艦だ」
軍艦旗が見えた。たしかに味方の駆逐艦だ。
「クチクカーン」
周囲に歓声がどよめいた。みんなちぎれるほど手を振った。
駆逐艦の甲板からおろされたロープをつかんだ瞬間、助かったと思った。しかし、急に力が抜け、のぼる気力は萎《な》えた。気力をふりしぼり、海面より一メートルほどよじのぼったとき、後ろから引き下ろされそうになった。
「ロープは、一人ずつにしろ」
甲板から大声で叫んでいるが、せっかくつかんだロープを離す者はいない。甲板の兵隊は重油を吸ってふくらんだ兵たちの体の重みに堪えられず、そのロープを離してしまった。
小山はふたたび海中に落ちた。重油でヌルヌルになったロープをのぼっていくのはとうてい無理なので、縄ばしごを探した。縄ばしごは見つかったが、そこでも数人の兵たちが先を争っている。気だけがあせり体が思うようにきかないらしい。小山は自分の前の者の体を押し上げ、すぐ後ろにつづいた。一段、一段とようやく登った。
甲板では駆逐艦の兵隊が腹ばいになって、手を差し延べ、彼の襟《えり》をつかんで引き上げてくれた。舷側に身を乗りだして手を差しだした兵隊の両足を、別の二人が押えていた。
貴重品を残し、軍服は海にデッコ(捨てる)してくれと言われた。寒さで手がかじかみ、戦闘服が脱げないでいると、ナイフで裂いてくれた。母と一緒に写した写真一葉と千人針のハンカチ、それと出征時に買ってもらったスイス製の腕時計を残して、あとは全部海に捨てた。写真もハンカチもすべて重油でべったり黒かった。
真っ裸になり体を拭《ふ》いてもらっていると、右舷中央およそ一〇〇メートルほどの海面に、一人の兵隊が、
「助けてくれ、助けてくれ!……」
と浮きつ沈みつ叫んでいる。負傷でもしているのか潮に流されていた。
「おかあさん……」
という声がとぎれとぎれに聞こえた。
やがて、力つきたのか、その兵の姿は波間に消えた。
八杉康夫は、急な爆音に驚いて空を見た。低空を銀色の腹をした敵機が迫ってくる。海中にもぐる気力もなくぼんやりしていると、敵機の姿は雲間に消えた。
寒いはずなのに、とろりとした重油の海は不思議な眠気を誘った。いつの間にか十数人の環《わ》ができ、海上に浮かんでいた。
「そいつ、寝よるぞ、殴れ」
円材を脇にかかえ片手で水をかいていた古参の下士官風の者が叫んだ。
海面に頬《ほお》ずりするようにした少年兵の横顔は、すでに目を閉じている。
「おい、眠ったら死ぬぞ」
その下士官は肩をゆすった。少年兵は一瞬目を開いたが、じきに閉じた。下士官は力いっぱい殴りつけながら、
「眠ったらあかん、死ぬぞ」
と言ったが、少年兵は微かに微笑を浮かべたまま、ゆっくり重油の海に沈んだ。
まるで夢でも見ているかのような幸福そうな寝顔だった。
十数人の環の中で、その下士官は沈没の経験者でもあるように落ち着いていた。
一本の長い円材に三人がつかまりながら近づいた。その内の一人は重油に染まらなかったのか顔も頭も真っ白にふくれあがっている。火傷のためか一本の毛もなかった。彼はうねる波に連れていかれ一人だけ離れた。
「おーい、おれも連れてってくれ、捨てていかんでくれ」
火傷の兵隊は叫んだが、だれも返事をしなかった。
「おーい、みんな……」
細い声はしだいに遠ざかった。
八杉は、さきほど、たった一人で泳いでいたときのことを思いだした。艦が沈没した際の大爆発によるものか、空から無数の金属片がキラキラ落ちてきた。急いで海中にもぐり、ようやく上がってきたときには周囲にだれもいなかった。重油が鼻から口から入って噎《む》せた。つかまる物は何もなく、思わず、
「助けてくれッ……」
と叫んでいた。
うねりに呑み込まれ、また溺《おぼ》れた。
「助けてくれ……」
もがきながら叫んだ。死にたくなかった。
そのときだった。重油で顔は黒く染まっていたが、鋭い眼光と口髭《くちひげ》に見覚えのある偉い人が目の前にいた。高射長の川崎勝己少佐だった。八杉は第二士官次室の従兵だったので口をきく機会もなかったが、高射長の分隊の下士官や、従兵たちからその古武士のような性格については聞いていた。
「軍人精神とは死ぬことだ。敵機必中撃墜につとめよ」
この佐賀県出身の対空砲火指揮官は、野太い声で『葉隠《はがくれ》』の一節を語ったりするということだった。
八杉は目の前にその高射長をみつけ、自分はなんということを叫んでしまったのだと自己嫌悪にかられた。かりにも志願兵だ、帝国海軍の軍人であるはずだ。
「高射長……」
八杉はひきつった声になった。叱《しか》られる、しかし死にたくないという思いがこみあげた。しかし、高射長は叱りも怒鳴りもしなかった。
「落ち着いて、落ち着いて、そーら、大丈夫、これにつかまるんだよ」
高射長は脇に抱えていた円材を八杉のほうに押し流した。八杉はその円材にしがみついた。
「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ、がんばって生きるんだよ」
「高射長……」
八杉は声をあげようとしたが、言葉にならなかった。自慢の口髭は重油でオットセイのようになっている。近寄りがたい威厳のあった高射長の、幼児をさとすようなやさしい言葉だった。
その川崎高射長ともうねった重油の波間ではぐれてしまった。ふたたび高射長の姿を見たのは、駆逐艦がカッターを降ろし、近くの漂流者たちを救助しはじめてからだった。われ先にと駆逐艦にむらがる者たちの中で、高射長は八杉の左方向に一人漂っていた。距離にして二〇メートルも離れていなかった。
「高射長ッ……」
八杉は幾度も声をあげた。喉は渇いてかすれ声だったがしきりに叫んだ。その声に一度顔を向けたようだったが、急に体をめぐらすと駆逐艦とは別の方向にむかうようにその姿は消えた。
八杉もまた、駆逐艦のおろすロープを奪い合う人々の群れを見た。ロープを体に巻きつけようやく水面を離れた者の足を、引きおろすようにしてすがる者たちもいた。戦闘のときではなく、この救助のときに、生まれて初めて地獄を見た。死ぬとはもう思わなかった。殺されると思った。
八杉は急いで駆逐艦の後部に向かった。舷側はだんだん低くなる。だれか大声をあげているのが聞こえた。舷側には大きな波が寄せていた。
八杉は反対舷に行こうと向きをかえようとした。そのとき、目の前にロープに結ばれた丸型ブイが落ちてきた。見上げると、甲板で一人の兵が、「早く早く」と促すように見ていた。八杉はとっさにブイの中に頭から体を入れ、急いで三度ロープを引いた。引きあげよしの信号だった。艦首方向に目を走らせると、もうだれもいなかった。艦はいきなり前進し始めた。
八杉の足は舷側にかかったまま滑った。甲板上の兵は顔を真っ赤にして足をハンドレールにかけ、弓なりになってロープを引いた。ようやく八杉の手はハンドレールの柱をつかんだ。足先が小さなでっぱりにかかった。艦は速力を速めている。八杉の体が持ち上がった。あと一歩というとき、甲板の兵は八杉の体を抱きかかえ、後ろにのけぞった。この一瞬、八杉の体はハンドレールを越えた。ブイが足にはさまったまま、抱き合って二人とも甲板上にころがった。
「バカ野郎!」
兵は泣きながら、八杉の横面《よこつら》を殴った。よろける八杉を引き起こし、「よかったな、おまえ、よかった……」といって、また殴った。八杉は目を涙でいっぱいにして、「ありがとう、ありがとう」とくり返した。八杉は海軍に入り、殴られてうれしいと思ったのは、このときが初めてだった。八杉を助けてくれたのは同年配の十七、八の上等水兵だった。
重油と海水で泥のようになった戦闘服を脱ぐと、駆逐艦の艦橋の下の兵員居住区に行った。ブドウ酒をもらい、ようやく落ち着いたとき、皮のお守り袋を思いだした。母のまきえが福山をはじめ京都の伏見稲荷、千葉県の成田不動、東京の浅草観音と、駆けずりまわるようにしてもらってきたお守りが入っていた。海兵団入団以来、肌身離さず持っていたお守り袋は、脱ぎ捨てた戦闘服のポケットに入れてあった。
八杉は駆逐艦の兵が甲板から重油に汚れた服を海に投げ捨てていたのを思いだし、褌《ふんどし》のまま後部甲板へ走った。駆逐艦にいちばん最後に救助された八杉には着替えの服は与えられていなかった。
高速で走る艦尾にウエーキ(航跡)が白く盛り上がって遠ざかる。昏れかかった海面はどす暗く、舷側に波が白い飛沫《しぶき》となって砕け散った。
「あった!」
八杉の戦闘服も褌も先ほど脱ぎ捨てた状態のまま後甲板の隅に置かれていた。ポケットをさぐり、皮のお守り袋を手にすると、腕時計をまだ巻きつけたままにしていたのに気づいた。重油でねっとりした時計を見ると二時二十九分で止まっている。八杉はその腕時計をむしりとると、思いきり遠くの海へと投げ捨てた。
兵員室に戻ると、オスタップ(洗濯桶)の周りで何人もが吐いていた。八杉も急に気持が悪くなり、オスタップに走った。小さな木片やコルクまじりの重油が吐きだされた。
握りめしが配られた。食欲はなかったがほおばるとうまかった。漂流中、何度か、昼の握りめしを残して戦闘配置についたことが思い浮かんだ。
毛布を一枚与えられ、褌のままくるまっていると、一人の兵が笑いながら手招きしている。この居住区の兵らしかった。立ち上がっていくと釣床の奥へ手をとって引っ張っていった。もう一人、兵が立っていた。八杉を命がけで救助してくれたあの上等水兵だった。上水は、八千代|飴《あめ》を食えと、八杉の手に載せてくれた。このとき、八杉ははじめて自分の救助されたのが「雪風」だと知った。
「雪風はラッキーなフネなんだ。艦長は、オレのいるうちは絶対沈まんといってる」
二人の若い上水は、いくぶん得意げに、快活な口調で話していた。
八杉の胸に寂寥《せきりよう》感がこみあげた。自分の艦は沈んだのだ。あの「大和」はもうどこにもないのだ。
毛布にくるまった八杉の耳に、「磯風《いそかぜ》」が沈んだという話し声が聞こえた。大破した「磯風」の処分が「雪風」に命ぜられ、砲撃によって沈められたのだった。「磯風」の乗組員もまた、「雪風」に救助されていた。うつらうつらと眠れぬ八杉の耳朶に、敵潜水艦の電波をキャッチしたらしいという声が伝わった。
「もう一度やられたら、今度は助からんな」
疲れた暗い声が闇《やみ》の中に聞こえた。
「今度やられたら、死んでやる。二度と助けてくれなんて言うものか。きれいに死ぬぞ」
十七歳の八杉康夫は、自分に言いきかせるように、幾度もつぶやいていた。
第二艦隊一〇隻のうち、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆逐艦「朝霜」「浜風」「霞」「磯風」が沈没した。残った四艦のうち「涼月」は大破したまま漂流し、その行方がつかめなかった。「初霜」は「浜風」と「矢矧」の、「雪風」は「大和」「矢矧」と「磯風」の、「冬月」は「大和」「矢矧」と「霞」の生存者をそれぞれ乗せ、敵潜水艦電波を捕捉しながら、佐世保に向かった。
この日、四月七日、もう一つの出来事が歴史に記されている。小磯内閣に代わって、海軍出身の鈴木貫太郎枢密院議長を後継首相にした鈴木内閣の親任式が行なわれた。「大和」沈没の悲報が届いたのは、親任式を終えた各大臣たちが控え室に参集していたときだった。新内閣の軍需大臣豊田|貞次郎《ていじろう》の娘婿は、第二艦隊先任参謀山本祐二大佐であった。山本参謀は艦橋の外に出たものの、漂流中に戦死していた。
海軍大臣|米内光政《よないみつまさ》は、ただちに皇居に参内し、天皇に第二艦隊の戦況を奏上した。
「陛下、連合艦隊は、もはや存在しません」
このとき、米内光政はそう申し上げたと伝えられている。
日本海軍の栄光と伝統を担った第二艦隊が正式に解散したのは、それから十数日後の四月二十日である。
四月七日の夕刻、アメリカ第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将のもとにも、第五八機動部隊が「ヤマト」以下の大半を撃滅したという報告がなされた。
空母「バンカーヒル」の飛行甲板では、第五八機動部隊司令官のミッチャー中将が、巨艦「ヤマト」を沈めて陽気に引きあげてくる凱旋《がいせん》パイロットたちを、一人一人握手をしながら出迎えた。「ヤマト」撃沈の状況をとらえたフィルムもただちに現像され、次々に映しだされた。興奮と歓声の渦まく中で、一人、ミッチャー中将のみが静かだった。パイロットの一人が不審に思って訊《たず》ねると、中将は答えた。
「ヤマトは、海底に沈めるには、あまりに惜しいフネだった」
4
翌四月八日朝、最初に「冬月」が、つづいて「雪風」「初霜」が佐世保に入港した。脱落し、行方のわからなかった「涼月」は、右舷前部に直撃弾を受けて後進で戦闘をつづけていたため、僚艦にはぐれて漂っていたが、上等兵曹の指揮で午後二時三十分、三艦にだいぶ遅れて佐世保に帰ってきた。第二艦隊の戦死者はおよそ三七〇〇名、そのうち「大和」の戦死者が大半を占めていた。
佐世保に入港した生存者たちは、重傷、軽傷、元気な者とそれぞれ三つに大別された。重傷者と軽傷者の一部は海軍病院に、その他は、佐世保港内のどこか[#「どこか」に傍点]に、「大和」以下の沈没を隠すため、隔離された。
副長補佐で甲板士官の国本鎮雄中尉も「雪風」に救助された一人だった。
佐世保港を間近にした「雪風」の艦上で、国本の目に最初に映ったのは、北海道|小樽《おたる》市によく似た景色だった。佐世保港を囲み雛壇《ひなだん》状になった市街地一面に、桜が絢爛《けんらん》と咲き誇っていた。
国本は口をきく元気もなくその桜を眺めていた。徳山沖で特攻を命じられたときに見た桜と、生き残って見る桜とは違った。大部分の兵を失い、敗残兵となって生還した国本の死んだようになっていた感情が、桜を見た瞬間、はげしく揺さぶられた。桜に飾られてあまりに落ち着きすましたこの街の姿が、憎らしく思えた。
「桜が、桜なんかが咲いてやがる」
突然、傍にいた兵の一人が気が狂《ふ》れたのか甲板上をわめきながら走り廻った。
海軍病院に収容された国本は、夜になって耳が遠くなっているのに気づいた。翌日にはもう筆談でなければなんの用もたせなくなった。沈没時の水中爆発が原因であった。
病院の窓から見ると、明るい陽光を浴びて桜が散りかけていた。副長補佐として艦橋最下部の司令塔内で防禦《ぼうぎよ》指揮に当たっていた国本は、能村次郎副長と自分のほかには、司令塔の生存者はいないことを知って、深い悲しみが湧《わ》いた。
国本鎮雄は、レイテ沖海戦のときの軽巡「阿武隈《あぶくま》」の生き残りだった。対空射撃指揮官だった彼は、艦が大型爆撃機B24約三〇機からの命中弾によって沈没すると、清水芳人砲術長兼副長等とともに漂流すること三時間余ののちに救助されたのである。「大和」乗組みは、二十年三月九日だった。
司令塔内の国本たちに、下部防禦指揮所から「浸水間近! 天皇陛下万歳!」という最後の連絡があったあと、副長は艦橋頂部の防空指揮所にいる艦長の安否がわからなくなったから、と艦橋へはい上がっていった。
午後二時を過ぎたころには傾斜も三五度に及び、国本たちは机にしがみついて立っているのがやっとだった。部下たちにようかんとサイダーを配ったとき、司令塔の前室にある操舵室から鉄扉を開け、一〇人ほどの者たちが出て来て、
「総員退去が今かかりました。総員退去です」
口々に叫んだ。
操舵室の伝声管から流れてきたという。
司令塔内の出入口は、床に直径六〇センチほどのハッチが一つあるだけだ。
国本は部下たちを床のハッチから全員下ろしたあと、司令塔を出た。部下たちは、最上甲板への出入り口を平常時の通路に向かい走っていた。
「待て!」
と叫んだが、だれにも聞こえないのか戻ってくる者はいなかった。国本はしかたなく、とにかく艦橋外へ出ようとすると、幸いにすぐ傍の高角砲甲板へ出るハッチが開いていた。水兵が一人、ひっかかっている。四〇度を越えた傾斜に、床は壁に、壁は天井に近い状態になっていた。兵を押し出し一緒に艦橋外へ出たとたん、海面が持ち上がり海の中へ放り込まれた。
海中ふかく放り出された国本が気がついて見ると、すでに艦はなかった。重油を浴びて真っ黒になった戦闘帽の頭が幾つか漂っているだけである。弾火薬庫爆発時に水中で受けた衝撃で後頭部が割れるように痛い。頭の痛みをこらえて周囲を見渡すと、近くに能村次郎副長、清水芳人副砲長の顔が見えた。
「副長ここにあり、生存者集まれ」
甲板士官であり副長補佐だった国本は声をはりあげた。四月初めの東支那海の海は寒く、歯がガチガチ鳴った。負傷者を真ん中に人の環《わ》を作ってみて、あまりの少なさに衝撃を覚えた。三三〇〇余名の人々のうち、どれほどの者たちが生き残り得ただろうかと暗い気持になった。
国本は佐世保の海軍病院に半月ほどいて、別府の病院に移った。別府の桜は、そのころにはほとんど散っていた。
国本と同じく「雪風」に救助された三笠逸男は、褌と毛布一枚をもらった。
「おい、三笠じゃないか」
思いがけなく「雪風」の兵に声をかけられた。砲術学校で同期の小島上等兵曹だった。
「ひどいことになったな」
右肩を脱臼《だつきゆう》し、鎖骨《さこつ》を折った三笠の姿を痛ましそうに見ながら、小島上等兵曹は言った。
佐世保に上陸するとき、小島は自分の軍服を三笠にとくれた。彼は三笠より少し小柄だったが、階級は同じだった。三笠はその軍服を着たが、上衣は右肩の痛みで腕が通らず、片手に持って艦を下りた。歩ける者は海軍病院まで行くことと言われて、それぞれ坂道を歩きはじめた。
三笠たちの頭上からチラチラと桜の花びらが散った。道の左右の桜は満開だった。
「オレは、生きていた……」
桜を見て、初めて生きていることを実感した。
道の左側には佐世保海軍病院がある。垣根の向こうで作業をしていた何人かのモンペ姿の女たちが、垣根越しに黙々と坂をのぼってくる三笠たちを眺めていた。石ころの道を裸足《はだし》の足を引きずっている者や、上半身裸の者、戦友の肩を借りて歩いている者たちを、女たちは黙して見送っていた。三笠は、女たちの視線を感じて、生きてかえった実感を覚えると同時に、敗残兵として、ひどく卑屈な気持にもなった。
海軍病院の門の所には、先にあがっていった負傷兵たちが屯《たむろ》していた。
「ここには入れないらしい。もう一度桟橋まで戻れ」
だれかが、言った。
負傷兵が沈没した「大和」の乗組員と外部にわかっては困るので、病院側では受け付けられないから上陸桟橋まで帰れということらしかった。三笠たちはまた上陸した桟橋まで坂道を戻った。
桟橋には団平《だんぺい》船が横づけされていた。三笠たちはそれに全員乗せられ、曳船に曳《ひ》かれて、向かいの島の桟橋に着いた。島には人影どころか犬一匹さえいなかった。ガランとした空き家の兵舎が建っているだけだった。
兵舎の庭には桜の若木が幾本かあって、愛らしい花をつけていた。兵舎に集まった三笠たちの人数は八〇人ほどだった。庭で休息をしていると、衛生兵や看護人が桟橋から上がってきた。
夕方になった。朝、「雪風」で乾パンを食べたきりだった三笠は、昼飯も口にしていなかった。兵舎の庭からは海が見えた。穏やかな春の海だった。「大和」が昨日沈んだのが、まるで嘘《うそ》のような気さえした。自分は、悪い夢を見たのだろうか。夢のなかの出来事のように思えてならなかった。脱臼した右肩と鎖骨に鋭い痛みが走り、夢ではなかったとひとりごちた。戦争だったのだ、「大和」はあとかたもなくなってしまったのだ。
兵舎にはマットが運び込まれ、仮の病舎づくりが始められた。食事は、庭にテーブルが運び出され、桜の木の下で摂《と》った。テーブルの上に桜の花びらが散った。食事が済むと、三笠はいちどに体が沈み込むような深い疲労に襲われた。
兵舎に入り、板の間に敷かれたマットの上へ倒れこんだ。隣に、体じゅうに包帯を巻いた男が横になっていた。マグロを並べたように負傷者がころがっていた。だれも口をきかなかった。三笠の隣の包帯だらけの男は、膿《うみ》で黄色くなって悪臭を放っていた。三笠はあたりを何度も見廻したが、顔見知りはひとりもいなかった。上陸したときから気になっていた。八〇人もいた分隊のだれ一人も、三笠の周辺にはいないのだ。徳田朝芳分隊士もいなかった。四十歳で妻子持ちの補充兵だった山田実一等水兵の姿もない。生き残ったのは自分一人だったのだろうか。三笠は不安になってきた。
兵舎にいるのは、みな三笠より年の若い兵隊だった。元気のあるのが、しきりに戦闘のときのことをしゃべっていた。が、ほとんどの兵隊は貝のように口を閉ざしていた。看護人が重油に汚れた三笠たちの耳と目を洗いにきた。手当てはそれだけで、重傷患者のほうが先だった。
三笠はふかい沈黙にたえきれなくなり、
「あんた、だれですかのお」
隣の包帯にうずまった男に声をかけた。
「わたしは、主計科の丸野正八です」
男は疲れきった小声で答えた。
ギンバイもしたことのない三笠は主計科とは没交渉だった。二人はそれっきり口をきかなかった。口をきく気力もなかった。三笠はその日から、昭和二十三、四年ころまでは、いっさい戦争の話も「大和」の乗組員だったことも口にしなかった。山田実のことが気になって、もし遺族の所在でもわかればと思い、大阪の人に会ったとき、山田実のことを語ったのみだった。三笠の戦闘配置周辺ではだれも怪我をした者はなく、山田も海へ入ったにちがいないが、佐世保に入ったときは、いなかった。大阪で骨董《こつとう》商をしていた山田は、なかなか艦の仕事が覚えられなかったが、いつまでたっても娑婆《しやば》っ気を引いていることが、かえって三笠には気に入っていた。
夜になった。あたりに濁った沼の底のような静寂がひろがった。その夜、三笠はなにも考えず、死んだように眠った。夢ひとつみず、泥のように眠りこんだ。翌朝、肩の痛みで目が覚めた。三笠の治療の順番がまわってきたのは、その日の昼すぎだった。時間が経っていたので、脱臼した関節は容易に元へ戻らなかった。その仮病舎には一〇日ほどいた。その間、知った顔のいない三笠はやり切れなかった。
一〇日ほどすぎて、佐世保の海軍病院に移され、一泊した翌日、汽車で別府の病院に運ばれることになった。丸野正八も一緒だったが、彼は畳の車輛《しやりよう》に寝かされ、三笠は別の車輛に腰かけて行った。別府でも別々の病室だったので、丸野と顔を合わせることはなかった。
別府の駅では、軍服の左腕だけ袖を通し、上半身をギブスで包んだ三笠の異様な姿を、行き交う人々がうさんくさいものを見るような目で眺めた。
寝た状態で畳の車輛にのせられ別府の病院に運ばれた丸野正八の服には、「赤札」がついていた。全身火傷で、「赤札」はもはや手当てのしようもないという証だった。別府には二か月いた。
ある日、家族が面会に来た。極秘のはずだったが、旅館や映画館を姉が経営していた関係で情報は正確に伝わっていた。
二か月後、丸野は呉へ帰った。二、三日して、呉の海軍病院へ行った。病院では献立表作りをやった。
呉で終戦を迎えた。米軍が来るというので呉海軍病院を明け渡すことになり、病院にいた者はすべて大竹の海兵団に移った。
翌二十一年の二月に除隊になった。それまではめし炊きは病院でも必要だったし、引き揚げ者も次々に戻り、丸野は留め置かれた。その大竹海兵団にいた折、偶然、映画館前で丸野は三笠と再会した。三笠が声をかけると、
「生きとったんですか」
丸野が驚いて言った。
「何言うとんなら、佐世保では虫の息やったじゃないの。顔もきれいになって、ちゃんと髪も生えとるのオ」
「大和」では乗っていることさえ知らなかった二人は、共に死線を越えて再会し、旧友のように肩を叩き合った。
細谷太郎は「冬月」に救助された。細谷の記憶では浦頭《うらがしら》という島の伝染病の隔離病舎に入れられたという。
細谷は海に入ったとたん、あっという間に渦の中に巻き込まれた。何度も苦しくなっては海水を飲んだ。海水を飲むと、少し気分が楽になったが、じきに苦しさは増した。爆発で海中ふかく吸い込まれたときは、海の底が真っ赤だった。
このとき細谷は、「まるで極彩色や」と思った。どれくらい経ち、何があったのかはわからないが、ゾクッと寒くなって気がついた。重油の海に漂っていた。体を動かそうとしたが、両足がしびれて動かなかった。動くのは左手だけだった。右は腕があるというだけで、感覚はなかった。あたりを見廻したが、彼がつかまれそうな浮遊物はなかった。左手一本で水を掻《か》きながらようやくうねりの大きい波の上に漂っていた。体が波の頂へ浮きあがると、重油でタドンのようになった兵隊たちが寒々と浮いているのが見えた。潮の加減で十数人の者たちの浮いているあたりへ流された。
「階級、氏名を名乗れ!」
とだれかが言った。その横には、森下参謀長が浮いていた。細谷は以前、森下が艦長だったころに伝令をしていた。
細谷は名乗れと言われても黙っていた。名前を告げている者たちもいたが、彼は口をきく気力もなかった。
「そうや、同じ死ぬんなら、森下参謀長の傍で死のう」
左手をようやく動かし、森下参謀長のほうへ近寄った。
だいぶ経って、「雪風」と「冬月」が近くを通った。甲板から何か叫びながら、木箱のようなものを投げてくれている。微《かす》かに、「待っていろ!」という声が聞こえたような気もいた。しかし、「雪風」も「冬月」も遠ざかった。
やがて、ふたたび「冬月」が近くまできた。周囲にいた者は「冬月」に向かって泳ぎはじめた。しかし細谷はじっとしていた。泳いで、たとえ「冬月」に接近できたとしても、もう左手だけでは上へあがれない。見渡すと、少し離れた海上に、森下参謀長ともう一人が泳がず、じっと波に身を任せるように漂っていた。
すると、突然、「冬月」の後尾から内火艇《ないかてい》が一直線に細谷のほうをめがけ走ってきた。細谷は信じられないことが起きたように見ていた。内火艇は近くまで来ると、すぐに森下参謀長を救助し、もう一人を助けた。そして、細谷ひとりを残し、あっという間に発進した。細谷はあわてた。この機会を除いては助からない。
「おーい、ここにもおるんや!」
彼は死にもの狂いで叫んだ。その声が聞こえたのか、内火艇の後尾からロープが投げられた。左手で細谷はようやくロープをつかんだ。内火艇は一〇メートルほど走った位置で止まり、ロープをたぐりよせると彼を拾い上げてくれた。森下参謀長は生きているのか死んでいるのかわからないような状態で横たわっていた。もう一人、疲れはてたようになっているのは、副官の石田恒夫のように見えた。「冬月」の内火艇に乗って、そうかと納得した。内火艇が一直線に走ってきたのは森下参謀長を救助するためだったのだ。内火艇に乗っているのは三人だけだった。いってみれば、わいは「附録」やったんやとわかった。「附録」でもなんでも救助されてうれしかった。
内火艇から「冬月」に移乗し、細谷は艦内に入った。居住区の中には救助者のためのサイダーや水、乾パンなどが置いてあった。艦内の医務室へ行くと、細谷の動かない腕を見るなり、
「ああ、脱臼だ。こんなのは怪我の内に入らん」
と無造作に言われた。
細谷はサイダーを飲んだ。こんなにうまいもんはなかった。三矢サイダーだった。もう一本ほしかった。
外が騒がしくなった。全身に包帯を巻いた負傷者が、次々と部屋に運び込まれてきた。航行不能になった「霞」に横づけしたとき、敵弾を罐《かま》室に受け、全身を大火傷した者たちだと言った。
「苦しい、水をくれ、水を……」
彼らは叫び始めた。その中の一人が、水をとりに部屋の隅へ這《は》っていった。一口飲むと、
「ああ、うまい」
とつぶやくように言い、それっきりで息が絶えた。
その夜、一晩で幾人もの死者が出た。救助されたが氏名を名乗ることもできず、丸太のように横になったままの兵もいた。細谷がいざるようにその兵の傍に行くと、微かに息をしていた。
細谷は、夜中になって、脱臼した右腕が痛みだし、眠れなかった。
佐世保に入港し、浦頭の伝染病隔離病舎に入れられたあと、細谷の目は幾本もの桜の木に吸いよせられた。枝いっぱいに花をつけていた。一面の桜はいかにも長閑《のどか》だった。桜を見ているうちに、細谷は寂しくなった。なんで、生き残ったんやろか、と思った。その夜は、壁にもたれウトウトしてすごした。翌朝、飯が運ばれてきたとき、細谷の右腕は棒のように硬直して動かなかった。左手を使って、黙って飯を食った。軍医が巡回に来たが、細谷には何の手当てもしてくれなかった。彼はポツネンと一人、壁にもたれてすごした。知っている者はだれもいなかった。同じ配置の者はだれも助からなかったのだろうか。手当てをしてもらえなくても、とにかくここに居させてもらえるだけで有難いことなのかもしれない。昼飯も晩飯も黙々と左手で食べた。夜はまた壁にもたれたまま、ウトウトした。そうして、五日が過ぎた。
腫《は》れあがった右腕はセメントで固められたようになっていた。五日目の昼すぎ、病院長の巡回があった。細谷は病院長の前へ飛びだした。どうして自分の手当てはしてもらえないのかと詰め寄った。周囲では兵隊が突然大声をあげたので驚いていた。しかし、細谷は破れかぶれになっていた。隔離病舎に入れられて彼が口をきいたのは、これが初めてだった。その日は朝から、気が立っていた。
「貴様、生意気、言うな」
軍医が怒鳴った。殴りかからんばかりの剣幕だった。しかし、病院長は、
「よし、わかった、巡回は中止だ。あれに寝ろ」
と言うと、ピンポン台を指さした。
病院長は細谷の腕を見て、びっくりしたようだった。ちょっと動かされても、死ぬかと思う激痛が走った。
「肉が骨を巻きこんどる。骨はつくが、元どおりになるかな」
と言った。すぐに鼻先に麻酔をかがされ、細谷は気を失った。
右腕の脱臼は治ったが、五日間も放置されていたせいで、腕はまったく動かなかった。別府の温泉へ行って治療せよ、と言われた。
最初は別府の亀川《かめがわ》海軍病院にいた。そこは、医者もたくさんいて、きれいな看護婦もいた。ようやく娑婆《しやば》にたどり着いた気分だった。しかし、二、三日すると軍医が来て、
「おまえは、仮病舎へ行け」
と言われた。せっかくいい病院に来たのにと不満だったが、しかたなく仮病舎へ移った。ところが、そこは大きな旅館で、一日じゅう温泉に入ることができた。
一日に一三回温泉に入り、右腕の治療に専念せよとのことだった。彼は毎日、ふやけるほど温泉に入り、右腕をもみほぐした。右腕はすこしずつ、よくなってきた。早く腕を治して海兵団へ戻りたいと思い始めた。懸命に右腕をもんだ。右腕がようやく肩のあたりまで上がるようになった。六月十五日から一か月の休暇をもらった。大阪へ帰ろうとしたが、大阪は空襲で駄目だというので、奈良の五条の親戚《しんせき》へ行った。呉の海軍病院へは一か月目の七月十五日に行った。軍医のほかに院長も来て、
「大和のかたですか」
書類を見ながら言った。
彼らは細谷の右腕をあちこち調べ、しきりに相談したあと、紐《ひも》で右腕をしばった。病室の中を通っているリームにその紐を渡し、彼の右腕を引っぱった。
細谷は悲鳴をあげそうになった。そのはずである。彼の右腕は肩から上へあがらなかった。それをむりやり紐で引っぱり鉄棒にぶらさげたのだ。全員が眺めていた。約一時間、鉄棒にぶらさげられたままで、細谷は脂汗を流した。その間、みんながその細谷の姿を眺めていた。一時間が経ち、細谷の腕をおろすと、
「まあ、これで大丈夫でしょう。失礼しました」
と言って全員が、病室を出ていった。
細谷はポカンとした表情でその後ろ姿を見ていた。この荒療治が効いたのか、細谷は二日後に退院した。
細谷が退院したころ、参謀長の森下信衛は呉海兵団長として海兵団に着任していた。細谷はその森下に呉の練兵場でバッタリ出会った。どちらも一人だった。
「団長室に来んか」
森下に言われ、細谷はついていった。
森下は団長室に入るなり、まあ、坐《すわ》れと言った。
「体の具合は、どうだ」
森下は尋ねた。彼は佐世保からのことを簡単に報告した。
「そうか、大変だったな」
森下は、一瞬、目をつぶるようにした。
「細谷、表向きは何もしてやれんが、何かあったら言うてくれ」
細谷は、「ハイ」とだけ答えた。
翌日、細谷に何の作業もしなくてよいという命令が下った。防空|壕《ごう》掘りの者たちを山のほうへ連れていくだけの役割になった。毎日毎日、ノミとハンマーとハッパをつかっての横穴掘りの作業を見ているだけでよかった。
呉軍港では重油がなく、わずかに残っていた艦艇《かんてい》も、島陰で浮き砲台にされていた。かつては連合艦隊として華々しく活躍した艦艇も、いたずらに命を長らえているといったありさまで、甲板には松や杉を植え、敵の目からその存在を隠していた。しかし、米機は充分に承知していたのか、
「ワタシタチハ、爆撃ニキタノデハアリマセン。フネノ上ノ木ガ枯レテイマス。植エカエテクダサイ」
こんなビラが、撒《ま》かれたりした。
七月末、細谷は団長室に呼ばれた。
「細谷、貴様は八月十五日付で某宮様付に内定したぞ」
森下が言った。
戦争があのままつづいていたら、細谷はなんという宮様付になっていたのだろうか。しかし、日本はその八月十五日に、敗れた。
細谷太郎と同じ「冬月」に救助されたのは、後藤虎義である。
後藤は、艦が後部から沈みはじめると、周囲の部下たちを集め、みんなで今生《こんじよう》の別れに煙草を吸った。そして、
「よいか、海へ入ったら柔道畳をブイにしろ」
と言った。
後藤たち後部|旗竿《きかん》付近の二五ミリ特設機銃のまわりを囲っていた柔道畳は、艦が急激に傾斜すると同時にはがしてあった。畳|一畳《いちじよう》に三人はつかまれるはずだった。畳は一号ケンパスといわれる一番厚い布で覆《おお》われているため、ほとんど海水を吸わなかった。
後藤たちは、最初から柔道畳を持ったまま海へ入った。
「渦に巻き込まれるから、しっかり畳につかまれよ」
と後藤は言っておいた。
「大和」から二、三〇〇メートルばかり離れたところで振り向くと、右舷の赤腹に大勢の人が鈴なりになっているのが見えた。しばらく浮いていると、もの凄い爆発が起きた。しかし、後藤たちはこのとき、渦には巻き込まれなかった。バラバラと海面に鉄片が落ちてきたときも、畳の下にもぐって避けた。海中にもぐったとき、おおかたの人々が証言しているのと同じように、あたりが真っ赤に染まっているのを見た。再び海面に出たときは、グラマンがしきりに機銃掃射をしているのが見えた。だが、後藤たちの方向には一機もこなかった。後藤は、「大和」の爆発は二度あったと記憶している。生存者たちのほとんどは、爆発を海中で経験した瞬間に気を失っているので、貴重な証言ともいえる。
後藤は腹巻に油紙で包んだ腕時計と金八〇円を入れていた。「冬月」に救助されて調べると、腕時計は二時四十分で止まっていた。三笠のは二時すぎ、八杉のは二時二十九分で止まっている。おそらく、渦に巻き込まれたかどうかの差であろう。
「冬月」が接近したが、艦は走ったままなのでロープには容易につかまれなかった。後藤がうろたえていると、
「この野郎! しっかりしろ!」
甲板から元気づけに、怒鳴られた。
後藤は縄ばしごとロープにつかまり、さらにロープを体に巻きつけて、ようやく甲板に上がった。気がつかなかったが、足を負傷していて、甲板に上がると急に血が噴き出してきた。医務室に行けと言われて降りていくと、周囲は負傷兵でいっぱいだった。「階級、姓名を名乗れ!」と言われた。
そのとき、頭から全身に包帯を巻いた男が、
「水をくれ、水をくれ!」
と叫んでいた。
ひどい火傷だと、思った。あとでわかったことだが、それは丸野正八だった。ただし、それを知ったのは戦後、再会してからである。
すでに、ポートワインやウィスキーの配給も終わっていたのか、後藤はいっさい、口にしていない。
後藤が手当てを受けて通路に出ると、
「お、生きていたんか」
と声をかけられた。
砲術学校高等科のときの同年兵だった。彼は後藤を自分の居住区に連れて行き、「千人力|飴《あめ》」をくれた。
後藤はその「千人力飴」を口に入れ、やっと人心地がついた。一緒に柔道畳につかまっていた九、一〇番機銃の者で助からなかったのは、二人いた。広島県出身の迎川健吾上水と名古屋出身の寺の息子で師範学校出の加藤進水兵長だった。二人とも、泳げない兵隊だった。
後藤は甲板へ上がると、見張所に立った。同年兵から潜水艦がいるので手伝ってくれと言われていた。
救助は打ち切られたが、まだ海の上には「大和」の人間が泳いでいるような気がしてならなかった。風の音が、「助けてくれ……」と悲鳴をあげている声に聞こえてならず、夜の海面へ目をこらした。
夜も更けて、後藤は後部甲板で寝た。横になったが、足がうずいて目が覚めた。
佐世保に入港したあと、細谷たちと同じく隔離病舎へ移された。しばらくして、呉へ帰る者がいたので、
「海兵団の海友社の女事務員にこの紙を渡してくれ」
と、一枚の紙片を託した。
その紙には、島根の実家の住所と、至急印鑑を送ってくれ、とだけ書いた。海友社の女事務員の上田さんはよく知っていた。印鑑を送ってくれと知らせたら、両親は自分が生きているとわかるはずだと、思った。
主計科の大森義一は、四月七日の昼前の伝声管で、
「敵機三機、左舷前方発見!」
という声を聞いた。
大森の前には、円形に偉いさんばかりが並んでいる。有賀幸作艦長や伊藤整一司令長官、森下信衛参謀長もいる。第一艦橋の司令部付戦闘記録員だった彼は、すべてそこで行なわれる戦闘に関して記録しなければならない。伝声管の声は見張員からだった。艦長や参謀長が窓から左舷前方を見ているので、大森も横の窓から外をのぞいてみた。大森の眼に、遙《はる》か彼方をキラキラと敵機が銀色に光りながら飛んでいくのが見えた。「敵機三機左舷前方発見」と彼は記録した。これが、大森の書いた唯一の戦闘記録である。
大森は初陣だった。大森はそれ一行を書いただけで、そのあとはなにも記録しなかった。書かなかったのではなく、後は戦闘のあまりのもの凄さにウロウロして、何も書けなかったのだ。
間もなく、後部に最初の被弾があり、後部で大森と同じように記録員として待機していた者が、煙突から出てきたような真っ黒い顔で、第一艦橋に上がってきた。大森と交代する予定の同じ主計科の戦闘記録員で、川端主計兵長だった。
「後部、主計科爆弾命中!」
と青ざめた顔で報告した。
戦闘が始まると、平常は主計科で事務を執っている大森たちは、ウロウロするばかりだった。最初はこんなものかと思い、次に来たなと思い、あとはたまげるばかりだった。戦闘が激しくなると、若い士官の中には怖ろしさのために目を見ひらき、鼻水をたらす者もいた。大森は、おれがうろたえるのも当たり前やと思った。それに、ここには偉いさんばかりいる。わけても一番偉いのは先の艦長の森下参謀長だ、みんなもそう言っている。そうだ、森下参謀長にくっついていれば安全だ、と思った。なにしろ、レイテ沖海戦での操艦ぶりを、それ以後に「大和」に乗った彼は、先輩たちから耳にタコができるほど聞かされた。そこで、大森は、森下参謀長の邪魔にならないように気づかいながら、つかず離れずでいた。
敵機は、戦、爆、雷の連合混成で来襲した。
「みごとなもんだ。照準も避弾も心得ているよ」
森下参謀長は笑って敵をほめていた。傍で茂木史朗航海長が、
「お椀《わん》でもかぶせられたようなこの天候じゃ、撃てやしません」
と答えている。
「シブヤン海では、たしかに晴れてたからな。しかし、あのときより、確実に腕が上がっとる。みごととしかいえん」
後ろにいた若い士官の中にはそうした参謀長を、まるで不謹慎だとでも言うように眉《まゆ》をひそめている者もいたが、大森はさすが参謀長だと感心した。あの若い士官らは、さっきは怖ろしくて鼻水をたらしていたくせにと、おかしかった。
森下参謀長は少しもじっとせず、艦長のいる防空指揮所に行っては何か話したりしている。艦の左傾斜が戻らなくなると、
「今度、魚雷が来たら、右舷に当てさせるか」
と言ったりした。右に当てれば傾斜が少しは戻ると考えてだが、右に当てるも何も、魚雷は艦の後部にまとめて命中した。
やがて、艦長と電話で何か小声で話しているのが、大森の耳に入った。
「有賀、もう駄目だな」
大森にはそう聞こえた。それを耳にはさんだとたん、大森は走って艦橋の外へ出た。彼は、自分が「大和」で一番初めに逃げたのかもしれない、と言っている。
しかし、早く脱出した者が助かるという保証はない。生存者のさまざまな証言を聞くと、真っ先に配置を飛びだした者が、かえって生命を失ったりしている。
大森は、大きな波にさらわれ意識を失った。気がついたときは、海中は真っ暗だった。大爆発が終わってだいぶ経ったときだったのかもしれない。爆発は知らないと言っている。意識は朦朧《もうろう》として、生きているのか死んでいるのか、彼自身見当もつかなかった。
小豆島《しようどしま》に生まれた大森は、水泳は達者で河童《かつぱ》にも負けないと思っていた。しかし、このうねりでは泳げば疲労が著しいだけだと思い、泳がず波に身をまかすことにした。だれかが、足を引っぱった。気がつくとあたりには黒い頭が、いくつもかたまっている。泳げない者は、近くの人間に必死で抱きつき、一緒になって沈んでいる。大森も足を引っぱられ、海中に引きずり込まれた。大森は一緒に沈んで、相手をゆっくり足でけった。可哀想《かわいそう》だと一瞬思ったが、彼も死にもの狂いだった。一緒に沈みつづけるわけにはいかない。やっと海面へ上がると、今度は背後から抱きつかれて沈んだ。振り切って逃げた。波に漂いながら、あたりを見廻した。近くにはしごが浮いていた。そのはしごをつかみ、浮いているものを手当たりしだい、はしごの下へ突っ込んだ。三メートルぐらいのはしごの上に巧《うま》く乗った。
駆逐艦が少し離れたところにきた。大森の少し先の波間にいた者が、駆逐艦をめがけて懸命に泳いだ。しかし、彼は目測して、この距離ではとても泳ぎつけないと思った。泳いで行ってたどり着けなければ、それっきりだ。体力の消耗を怖れた。
あたりは薄暗くなりかけた。駆逐艦は前より大森の近くにきた。これが最後になるかもしれないと思った。彼ははしごを捨て、全力で泳いだ。駆逐艦の真正面へ向かって、泳いだ。ぶつかって死ねばそれまでだが、運を天に任せるしかない。しかし、運よく、ロープにつかまった。一回目のときは泳がずに眺めていた大森は、舷側のロープからズルズルと海へ落ちてゆく人間を幾人も見ている。ロープの一本を腕に巻いた。だが、上がれなかった。体が重かった。もう一本を環にして巻いた。不意に駆逐艦が走りだした。見ると、薄暗くなった空に敵機がまだ飛んでいる。駆逐艦はジグザグに走った。彼はロープを巻きつけたまま流された。
やがて、
「お、かかっとるぞ、こっちにかかっとる」
甲板から声が聞こえ、大森の体はロープごとズルズルと引っぱり上げられた。
大森が救助されたのは、「雪風」だった。
兵員室はどこも満員だった。濡《ぬ》れねずみのまま、別の部屋を捜した。士官室らしい部屋のドアを開けると、中には人がいなかった。部屋に入るとベッドがある。彼は海水と重油で濡れた戦闘服を全部脱ぎ、褌《ふんどし》をもとって素裸になると、そのベッドにもぐり込んだ。体が冷えきっていた。机の上を見ると、机の間に赤玉ポートワインが一本ある。彼はそれを失敬して、一本まるごと飲んだ。うまかった。酔いが回って、素裸のままベッドで眠りこんだ。
「おい、起きろ!」
どれくらい経ったか、激しく肩を揺すられた。若い士官風の男が立っている。
「貴様、元気がある。医務室へ行って手伝え!」
と怒鳴られた。
「フンドシ、ありますか」
大森は言った。士官風の男は越中褌《えつちゆうふんどし》を一本ほうった。彼はそれを締め、褌一丁のまま、医務室へ行った。
医務室は腸がピクピク動いている者や、片腕のない者、両足のない者がうめき声をあげていた。彼が入ると、いきなり、
「おい、その褌の元気なやつ、こっちに来い」
軍医に呼ばれた。
軍医はノコギリを大森に渡した。
「脚をこっから切れ!」
さすがに、大森はためらった。
「貴様、戦友を見殺しにする気か!」
大森は生まれて初めて、生きている人間の足をノコギリで切った。
佐世保に着くと、大森もまた島へ行かされた。知っている者はだれもいなかった。声をかけてくる者もいなかった。
その島には何日間いたかさえ、彼は覚えていない。四月七日の一日のうちで、あまりにさまざまな事が起こりすぎた。一日じゅう、呆《ほう》けたように、島の窪地《くぼち》で日向《ひなた》ぼっこをしていた。
やがて、呉へ戻ると、残務整理で経理をやれと言われた。しかし、「大和」に乗って四か月にも満たない大森義一は、自分の艦のことをまるで知らなかった。
奥谷美佐雄もまた、「雪風」に救助された。奥谷の戦闘配置である三番主砲塔は、三つに仕切られていて左右と中央の砲室があった。
奥谷たちの主砲は、艦が沈むまで一発も撃っていなかった。視界の狭い戦闘だった。機銃などと違い、飛行機が視界に入ったときは、主砲を撃つには遅すぎた。戦闘の間じゅう、主砲を幾度も旋回させたが、ついに、「撃て」の命令は下らなかった。伝声管からは断片的な状況が入ってくるだけで、ほとんどわからぬまま、むなしく時を過ごした。
やがて、三番砲塔を固定せよ、という命令が下り、その作業をした。その直後、
「飛行甲板後部火災発生、ただちに三番砲塔の者は、消火にあたれ!」
緊急命令が下された。副砲の火薬庫と主砲弾庫との中間部での爆発らしかった。副砲火薬庫に注水を行なおうとしたが不可能だった。ハッチを開けると、腰の近くまで浸水している。消火どころでなく、外へ出てそのまま海へ入った。三番砲塔では、艦が左へ傾いて重いハッチが開かず、右の部屋の者はついに一名も脱出できなかった。
奥谷は「雪風」に救助されている。ロープを腰に巻き、歯で噛《か》んでのぼった。甲板に引きあげられると、艦橋見張員の上甲正好が心配そうな顔で立っていた。
「よかった、あんたが生きてないと奈良の家へ遊びにも行かれん」
上甲は母親の遠縁にあたる男だった。
軍服を脱いで毛布と褌をもらった。通路にうずくまると、猛烈な睡魔に襲われた。
「眠るな。眠ると死ぬぞ!」
声が聞こえたが、眠かった。このまま、ずっと眠ってしまいたかった。
「おい、これを飲め!」
「雪風」の乗組員が液体の入ったグラスを渡してくれた。一気に飲んだ。ウィスキーだった。ウィスキーは腹にしみた。一杯のウィスキーで、ようやく元気を取り戻した。
甲板や通路は、リノリウムのせいか油と血でドロドロだった。まるで負傷者の輸送船だった。
「沖縄へこれから行くんじゃろうか」
傍でうずくまっていた兵隊が溜息《ためいき》をついた。
「まだ魚雷攻撃を受けている……」
別の兵隊が、つぶやいた。
拡声器から、「本艦はただ今より佐世保へ向かう」と、放送があった。
佐世保では、どこか島に上がった。額に打撲傷があったが、手当ては受けなかった。
島に着いたとき、生きていることだけでも知らせようと、下士官以上の者のだれかが呉へ伝令に行くことになった。クジ引きで榊《さかき》兵曹長が当たり、呉へ戻ってまた佐世保に引き返してきた。しかし、その後三〇余年過ぎても彼の消息は不明である。
救助された兵士たちに、桜はさまざまな思いをもたらした。
八分隊一三班二五ミリ機銃の堀重信は、佐世保に入港して土を踏んだときの感触と、モンペ姿の女性がいたあたりに一面の桜が咲いていたことだけを鮮やかに覚えている。生存者の点呼が始まり、
「八分隊、一三班の者!」
と言われて前へでた。後ろを振りかえって、だれもいないのに、彼はギョッとした。昨日まで一緒に暮らしていた仲間が一人もいないのだ。生き残っているのは自分だけだという事実が、「摩訶《まか》不思議」でならなかった。十九年の徴募兵だった堀重信は、二十年一月二日付で「大和」に乗ったばかりだった。
堀重信も、二二号電探の泉本留夫も、「雪風」に救助された。
泉本は鉄片で腰と頭をやられ、島の隔離病舎に入れられた。
「病院の窓ごしに見たサクラは、なんともいえんかった。ただ、涙を流すばっかりだった。おれは生きて帰ってきた、だけど、また死ににいかんならん。なぜこの片方の手か足かちぎって、帰ってこんだったか。そうしたら、もう二度と兵隊に行くこといらんのに。
私らはその当時、死んでいくのはお国のためと訓練されとった。死ぬのは当たり前やと思っとったのに、一ぺん大和で死に損なうと生きていく気力も、闘う力も薄れてしもうた。ただ、窓越しにサクラを見て、なぜ、この手を片方落とすか、足を片方ちぎってこんかったかと、思うたです」
「雪風」に救助された泉本は、腰と頭が割れるように痛く、はい上がって軍医のところに行った。重傷者がひしめき、軍医の服は血まみれだった。
「おまえ、まだ生きておるやないか」
と軍医に一喝された。
次から次へと人が死んでいった。死体は浴室に入らず、通路に重なっていた。泉本は死体をまたいで、また這《は》うように兵員室に戻った。
島の隔離病舎から、別の海軍病院に一か月ほどいたあと、神奈川県|厚木《あつぎ》の電測学校に、高等科電測室練習生として入った。玉音放送は、久里浜の見張所で聞いた。
玉音放送を聞いたとき、これで戦争は終わったという気持はなかった。アメリカ兵に殺されるやろなと思った。その時分の海軍の兵隊はみなそう思っていたという。
しかし、九月に入ると、殺されることもなく高野山《こうやさん》に近い野迫川《のせがわ》村へ戻った。除隊のとき、毛布一枚と缶詰数個をもらった。
彼の家では高野豆腐をつくっていたが、戦後は需要が減り、木材関係の仕事をしていた。今は野迫川役場に勤めている。
泉本の家では五人兄弟が全部出征した。泉本が「大和」に乗ったのは二十一歳のときである。
戦後になって「大和」の話をしたとき、
「あんた、あんなに大勢死んどるのに、なんで死んでこんかった」
と村の者に言われた。
その人は泉本よりずっと若く、むろん戦争には征《い》っていない。それ以来、「大和」のことは口にすまいと思うようになった。
四月八日の夜、高橋弘は、佐世保の仮病舎に隔離されていた。人伝てに、同じ運用科の表《おもて》専之助が重傷だと聞いた。
高橋は重症患者の部屋を捜し、表を見舞いに行った。
師範徴兵の表に、高橋は新兵教育したことがある。「大和」には十八年七月から乗っていた。いかにも育ちのよさを思わせる人柄で、男前もよかった。
高橋が重症患者の部屋に入ると、ムッとする臭いがした。悪臭だった。
入り口近くに、両足切断の表が寝ていた。両足の残った部分はチューブで巻かれている。
「おう、大丈夫か。えらいことになったな」
高橋が声をかけると、
「体が暑くて……」
と呟《つぶ》やいた。気はしっかりしているようだった。
「沈没のとき、鉄板かなにかで、やられたらしいですわ」
両足切断でよく助かったものだと、思った。
帰りぎわに、表が言った。
「鬼頭《きとう》兵曹が、廊下の向こうにいます」
「鬼頭が……」
高橋は同じ運用科の鬼頭も重傷なのかと思った。
鬼頭光吉は、「大和」が艤装《ぎそう》中に三等水兵で艦に乗ってきた。高橋は二等水兵だった。鬼頭は人あたりのいいよく気のつく男で、高橋は目をかけていた。表はそれを知っていて、鬼頭のことを知らせたのだ。高橋は、この鬼頭が、唐木正秋や北栄二と一緒になって電線通路に内田貢をかくまっていたことは知らなかった。
「暑い、暑い」
表はしきりに口走った。
「表、ガンバレな!」
高橋はそれしか言えず、廊下へ出た。廊下にも負傷者がひしめいていた。向かいの病室に行くと、鬼頭は窓側に寝ていた。見ると、鬼頭は片足を失っている。
「鬼頭兵曹、どうした」
「鉄板でやられたらしい。第二関節から下をぶった切られた」
沈痛な声だった。
「痛いか?」
「ああ、痛い。それより、表はどうしてます」
「表はもう、大変やな、両足やもの」
「そうですか。昨夜《ゆうべ》一晩、暑い、暑いと言いよったですわ」
部屋じゅう、血と膿《うみ》のまじった臭いがたち込めていた。
「高橋兵曹、窓を開けてくれんですか」
高橋は、窓を開けた。
庭に桜が咲いていた。
「桜か……」
高橋は窓に立ったまま、しばらく外を眺めた。佐世保に入港して間もなく、包帯をもらうために人々がかたまって待っていた。そこにも桜が咲いていた。枝垂《しだ》れ桜だった。
「サクラ、咲いとる」
「ああ、サクラじゃのお」
傍にいた者たちは、ポカンとして桜を見ていた。涙を流している者もいた。
昨晩は、同じ病室の一人が、気が狂《ふ》れて夜中に声をあげて走りまわっていた。もう一人は、腹がふくれて苦しい苦しいとうめき、しまいにピクピク痙攣《けいれん》を起こして亡くなった。機銃でやられ、ガス壊疽《えそ》を起こし腹が太鼓のようになっていた。
そのとき、鬼頭が独り言のように言った。
「わし、これで除隊や」
「除隊?」
高橋は聞き返した。
「ああ、もうこれでおつとめはできん、除隊じゃわのう」
重ねて言った声は、どこかうれしさを隠しきれないふうだった。
なるほどな、と高橋は思った。除隊などという言葉は、それまで高橋の頭にはなかった。そうか、鬼頭は除隊か、とつぶやいた。片足を失った鬼頭には気の毒だが、うらやましくもあった。
翌日、高橋弘は、表専之助をふたたび見舞った。表の顔色が変わっていた。一晩でこんなに衰弱するものかと思うほどの変わりようだった。
「暑い、暑い」
とくり返す声にも、力がなかった。
鬼頭の部屋に行くと、告げた。
「表はもう、いけんわ。死ぬるわい。衰弱し切っとる」
「そうですか。表は両親がなく、祖母に育てられたというてました。そうですか、いけんですか」
しばらく、二人は黙っていた。
「あいつら、まだ生きとるんと違いますか」
ふいに鬼頭が言った。
高橋が怪訝《けげん》な顔になると、
「ああ、まだ生きとるな……」
ともう一度つぶやいた。
鬼頭は、「大和」の装甲鈑《アーマー》で囲まれた艦内では、沈没してもハッチを閉めていれば、多量の酸素が送られている。生き残っている者が、まだいるはずだと言うのだ。
「アーマーは頑丈だからな」
高橋も、思わずうなずいた。
「沈んだまま、生き残っとるのは、つらいなあ」
鬼頭は自分が片足を切断しているのも忘れて、しきりにそのことを心配していた。高橋もまた、明治の末の第六号潜水艇事故で、乗組員がもがき苦しんで死んだ話を思いだした。
「まだ、生きとるなあ」
鬼頭は、高橋が帰るまで幾度もくり返した。そのことで頭がいっぱいのようだった。
軽傷だった高橋弘は、呉へ帰ることになった。表はもう駄目か、と思いながら佐世保駅に向かった。
内田貢は、意識が朦朧となったまま、人々の入りまじった佐世保の海軍病院の片隅に、忘れられたように横たわっていた。内田が意識を取り戻すのは、脇腹《わきばら》に注射針を無造作に差し込まれるときである。そのときだけは、わずかに意識を取り戻した。しかし、何をされているかはわからなかった。内田はものも言えなかった。
内田の体は、全体が異様にゴム人形のようにふくらんでいた。右足は太股《ふともも》から第二関節へ弾が貫通、右肩から左肩に、首の後ろから腋《わき》の下に、また胸にも無数の鉄片が食いこんでいた。その上、肋骨《ろつこつ》は左六本、右二本が内側に折れ、生きているのが不思議な状態だった。
内田は丸太にくくられて海に入った。だれが丸太にくくりつけてくれたのか、内田の記憶にはなかった。
内田は海に引きずり込まれ、気がついたときには海中に漂っていた。かなり長い間気を失っていたのか、「大和」の爆発も知らない。喉《のど》をやられていたことがかえって幸いしたか、ほとんど海水を飲んでいなかった。
海の上で、内田はくるくる体が動いた記憶がある。内田は左腕を丸太にくくりつけられていた。右腕は怪我をしていたが、無意識に動かしていた。内田の体に兵隊の死体がぶつかった。海中で死体はかたまりあった。彼の右手は死体のバンドを引き抜き、丸太に自分の腕をしばりつけた。
内田はどのようにして救助されたかも、駆逐艦の艦名も覚えていない。のちにいろんな人から聞いてみると、内田が助けられたのは「冬月」ではないか、という。救助されたときにものも言えなかった内田は佐世保でだれかが戦闘服のネームを見て、唐木か、と言ったのをおぼろに記憶している。唐木は戦死したはずだ、じゃ、これはだれだ、という会話が交わされているのをうすぼんやりと記憶していた。
「大和」が沈没して一か月近い昭和二十年五月五日、新緑の鮮やかな呉の二河《にこう》公園に生き残った者たちが集まった。生存者の半数以上は重傷者で入院中なのか、集まったのは、一〇〇人ほどだった。彼らの中には、三笠逸男も丸野正八や鬼頭光吉も、そして内田貢の姿も見えなかった。
その日は朝から晴れていた。公園の奥には二河川が流れ、その川筋に沿ってみんなは、滝まで歩いた。滝の前には平たい岩場があり、そこで昼食を食べた。
「えろう、人数が減ったもんじゃのオ」
高橋弘は集まった人たちがあまりに少ないのに驚いていた。生き残ってきたのが奇蹟のように思えた。彼は呉を出港する前にも、この二河公園にみんなで来たことがあったのを思い出した。あのときは、「保健行軍」といって、一種の遠足のようだった。その折は半舷上陸で、今日のように少ない人数になるとは思いもしなかった。もっと、みんなの顔には活気があった。鬼頭や表専之助はどうしただろうと思った。彼は酒が飲めなかったので、気分をまぎらす術《すべ》もなかった。
大森義一は、だれも知った者がいなかった。品川の経理学校から一緒に艦に乗った者たちは、大森を除いて五人とも亡くなっていた。
八杉康夫のところに、一升瓶をさげた家田政六がよってくると、
「おい、おまえ、なかなか演奏がうまいな」
と言いながら、
「今日は無礼講だ、おまえも飲め」
とコップに一升瓶から酒を注いだ。
八杉はこの日、アコーディオン持参で、みんなの伴奏を受け持っていた。日本酒より甘口のポートワインのほうを飲んだ。酔った兵隊の一人が、滝つぼに頭から落ちたりした。だれかが引きずりあげた。
みんなは、少しでもあの沈没の瞬間を忘れようと、酒にまぎらしているように思えた。
陽が傾く前、ささやかな別れの宴は終わり、彼らは名残を惜しみながら各自の新しい死に場所を求めて散っていった。
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七章 鎮魂
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昭和四十七年秋――。
八杉康夫は佐世保に着くと、九十九島《くじゆうくしま》めぐりの遊覧船に乗った。大和の沈没後に隔離されていた「島[#「島」に傍点]」を、一度海から調べてみたいと思ったからだった。
内海の秋めいた風が海面を渡っている。遊覧船は西彼杵《にしそのき》半島の近くをゆっくり走った。十月の空に星条旗がひるがえっている。
「左に見えますのが、横瀬の米軍給油基地でございます」
ガイド嬢の明るい声が、スピーカーからひびいた。
なにげなくガイド嬢のいう方角を眺めていた八杉は、一瞬、眼をみはった。もう一度確かめるように視線を走らせた。彼のちょうど正面に急な坂道が見えた。
急いで遊覧船の二階にかけ上がると、甲板に出た。二〇〇ミリの望遠レンズをカメラにセットし、やはり、間違いないと思った。あの日、喘《あえ》ぐようにしてのぼった急な坂に眼をこらした。そうか、島だと思っていたが、半島だったのか。彼は急いでシャッターを押すと、つぶやいた。横瀬という地名も初めてだったし、そこに米軍基地があることも知らなかった。
船が桟橋に着くと、タクシーをつかまえた。横瀬基地のよく見える場所に行ってくれ、と頼んだ。
「お客さん、あそこは米軍の補給所で近寄れませんよ。やっぱり、海から見るのがいちばんでしょうな」
運転手は、屈託のない表情で答えた。
八杉は明日、もう一度、遊覧船に乗って確かめたかった。その夜は、佐世保で泊まった。呉へ帰る日に泊まった旅館を捜してみたが、街は一変していた。
かつて島だと思っていたあの場所は、西彼杵半島の北端にある横瀬だった。そして今、米軍の補給基地になっている。
急に疲労を感じて、旅館の畳の上に寝ころがった。あれから二七年が経《た》ったのだ、と思った。あの島での生活が自分の心の中の不思議な部分として奇妙な鮮やかさで甦《よみがえ》った。
昭和二十年四月八日の夜、「雪風《ゆきかぜ》」に救助された八杉は、佐世保に着くと汽艇で島へ連れていかれた。
この日、「雪風」の佐世保入港は、戦後の戦史記録では午前十時ごろになっているが、なぜか島へ行くまでの八杉の記憶は抜け落ちている。汽艇に乗ってから、ようやく彼の記憶は明確になってくる。
佐世保湾を南下し、半島の先あたりを汽艇が走った。その岬《みさき》のような地点で、負傷者を団平《だんぺい》船に移した。岬の上にはどういうわけか皓々《こうこう》と灯りのついた大きな建物があった。八杉は負傷者が降ろされるのを見て、建物は病院なのかと思った。しかし、灯火管制の折、どうしてこんなに明るく電灯を灯しているのか、不思議でならなかった。島へ着いたのは夜の十時ごろだった。多分、だれかが教えてくれたのだろう、船着場から少し行くと、坂があった。幅はダンプカーが二台通れるぐらいだった。急な坂である。丘の上まで一本道の坂だった。ちょうど、土手をのぼっているような急な勾配《こうばい》だった。
「雪風」が佐世保に入港したとき、湾口の高後崎《こうござき》(向後崎とも書く)の断崖の上に海軍の見張所が見えた。その岬に桜が咲いていた。花びらが風に散っているのが見えた。それから、八杉の記憶は欠落してしまう。夕刻までの間、どこで何をしたのか、まったく記憶がなかった。
あの日、八杉には、急な坂を登るのが、ひどくつらかった。目的地はまだかと何度も思った。坂がどこまでも夜の闇の中へ続いていた。その坂をみんなが黙々と足を引きずり登っていった。口をきく気力のある者はだれもいなかった。
ようやく丘の上へたどりつくと、木造の兵舎が三棟ばかり見えた。暗闇の中に兵舎は黙然《もくねん》と建っていた。目的地はここなのかと思った。
八杉たちは、奥のほうの粗末なバラック建ての兵舎に入れられた。
兵舎の中の畳敷きの部屋でその夜は寝た。それぞれ毛布一枚が与えられた。起きた者は各自だだっ広い部屋の片隅に毛布をきっちり畳んで重ねた。
海軍では自分の服をいざというときに着用しやすいように畳み、枕がわりにして寝る。そこでもそうだった。八杉は一番上にズボンを重ねて寝た。「雪風」でもらったもので、彼の体より大きな軍服だった。
兵舎には、透明な窓ガラスが入っていて、庭が見渡せた。
少し膝《ひざ》に痛みを覚えた。右足の向こうずねを打っていた。打撲傷と、小さいがかなり深い裂傷があった。無意識にポケットの中をさがしていた八杉は、自分の軍服ではなかったのに気づいた。彼は日ごろからメンソレータムを常用していた。たいていの傷はそれをつけて治した。八杉は近くにいた兵隊にメンソレータムはないかと聞いた。兵隊は窓から少し離れた兵舎のほうを指さし、あの定員分隊へ行けばあるかもしれない、と言った。八杉たちの入っている兵舎から少し離れた松林の近くに、大きな建物があって、そこに定員分隊がいた。定員分隊は一等水兵ばかりのいわゆる補充兵たちだった。食事や煙草の配給は、その定員分隊へ受け取りに行っていた。
八杉が入ってきたのを見て、五、六人の寝ころがっていた補充兵たちは慌てて起き上がり、八杉に敬礼した。八杉は十七歳だが上等水兵だった。
八杉は配給の煙草を取り出すと、
「だれかメンソレータムを持ってませんか。煙草と交換したいのだけど」
と聞いた。
あまり期待していなかったが、四十前後の兵隊が、
「はい、私が持っております、少し使っていますが」
と答え、八杉の煙草と交換した。
「ここは海兵団ですか」
八杉が訊ねると、彼らは黙った。
「何をするところですか」
彼らは八杉の問いかけに、当惑した表情だった。どこか落ち着きがなく、八杉と口をきくのさえ避けたがっている様子だった。
丘の上にずっと駐屯《ちゆうとん》しているのか、定員分隊の兵隊たちは、救助された八杉たちより活気がなかった。
来る日も、来る日も、島では何もすることがなかった。まるで、軟禁状態だった。食事も「大和」と変わらないメニューが出て、不足をいう者はいなかった。散歩するぐらいしか体を動かすことはないので、八杉は食事を全部食べきれず、他の兵隊に回していた。細谷太郎がいたら、さっそく、ひと言いったかもしれないが、その姿はなかった。助からなかったのだろうか。八杉の知っている人々は一人もいなかった。
兵舎の周囲は広く、二方に海が見えた。
八杉は雑木林のほうへ散歩に行った。かなりな距離だった。雑木林のところどころに、地面から茸《きのこ》型の大きな煙突のようなものが見えた。近づいてみると、雑木林の中に点々と設けられた排気孔だった。そこから独特の匂いが、微《かす》かに流れている。八杉は、これは重油ではないか、すると、この島全体が重油の基地になっているのか、と思った。どこか不気味だった。
ある日、食事が終わって廊下に出ると、珍しく、明日の日課が貼り出されていた。海軍では「総員起こし」とともに、毎日の日課がくり返されるのが常だった。島にきて日課らしきものが貼り出されたのは、はじめてだった。明日は運動会だと書かれていた。
翌日、各班にわかれ、島ではじめての運動会が行なわれた。だれが考えたのか、ズボンを脱ぎ、ズボン下だけになって、リレーや短距離の競争をした。
その翌日は、演芸大会だった。それぞれが隠し芸を披露した。最初は歌謡曲大会だった。勝ち抜き戦で、八杉が一等になった。渡辺はま子の「明日の運命《さだめ》」を歌った。「明日の運命」は山田五十鈴主演の映画の主題歌だった。一等、二等、三等と賞品が出た。八杉はビールを一ダースもらい、その夜、みんなで飲んだ。
翌日の昼食後、八杉が散歩していると、向こうからS上曹がやって来た。彼は艦のときと同様に、島でも何か気に入らないことがあると、ビンタの制裁を加えていた。艦には「青鬼」「赤鬼」と呼ばれた恐い古参の下士官がいたが、怒るとS上曹の端正な顔は青白く凄みを帯びたので、「青鬼」と怖れられた。一瞬、困惑したが、運動場のようにだだっ広いところで、今さら逃げるわけにもいかなかった。八杉のそばまでくると、
「貴様、歌がうめんじゃの」
と言って、軽く彼の横面を張った。S上曹はそのまま、立ち去った。
島にはどれくらいいたか、八杉の記憶では十数日のような気がするが、はっきりしない。
運動会はよくやった。一日、雨が降って中止になったことがあった。八杉は雨樋《あまどい》を伝わって窓の外に落ちる雨滴を一日じゅう眺めていた。思い出すまいとすればするほど、「大和」とともに沈んだ戦友のことが浮かんだ。
散歩のときも、海のほうはできるだけ見ないようにして、雑木林を歩いた。
大声がして窓の外を見ていた八杉が振り向くと、兵隊のひとりがS上曹にまた殴られていた。兵隊たちの表情は何もすることがないだけに暗く、陰惨になっていくのが感じられた。いつになったら島を出られるのだろう。
雨が降って、運動会が流れた翌日の朝、八杉は上曹の呼び出しを受けた。行くと、
「おい、公用だ、佐世保に行く。ついて来い」
と言われた。もう一人、八杉と同じ兵隊がいた。八杉がどういう公用か聞く間もなく、上曹は急がすようにして兵舎を出た。八杉ともうひとりの兵隊は、慌ててそのあとについて、坂を下った。船着場にはもう一人の上曹がいた。八杉たちはその二人の上曹について船に乗り、佐世保へ行った。島から佐世保までは、船で三〇分程だった。二人の上曹は船に乗っても、何の用だともいわず黙っていた。久しぶりに外へ出られたので、うれしかった。二人の上曹は佐世保へ着くと、足早に海軍病院に向かった。
「二人とも、ここで待ってろ」
と言い残して、上曹たちは病院の裏口から中へ入った。八杉ともう一人の兵隊は、病院の裏庭で二人を待った。
上曹たちは正午をすぎても病院から出てこなかった。八杉は所在なく病院の裏庭をうろうろした。病院の桜は、すでに散っていた。
一時近くなって、二人の上曹は出てきた。口もきかず、海軍の集会所をめざして歩き出した。集会所の食堂へ着くと、上曹の一人がだれかと二言三言しゃべって戻った。
「少し遅くなったが、昼めしだ」
と言った。すぐに食事が出てきた。食堂には八杉たちのほかはだれもいず、ガランとしていた。おかずも四品そろい、あらかじめ連絡されていたような食事の出方だった。
八杉はこの日の二人の上曹ともう一人の兵隊の名もまるで憶《おぼ》えていない。夢の中の出来事のような、解きえない謎のような一日だった。この日、二人の上曹が海軍病院へ何をしに行ったかさえわからなかった。
それから数日経って、島を出た。その日、島を出たのは、一五、六人だった。八杉の記憶では、その少し前から十数人ずつ、島を出発していった気がする。佐世保での最後の夜、八杉たちは、旅館に泊まった。大きな日本旅館で佐世保駅の近くにあった。蒲団に寝るのは、救助されて以来はじめてだった。
その晩は、夕食を食べに、集会所前へ行った。集会所前では、補充兵たちがうどんを食べるために行列していた。八杉たちは待った。補充兵の数人がうどんを一杯もらっては、すぐまた並んだ仲間の列に戻った。幾度かそれをくり返している。八杉たちの順番はなかなか来なかった。八杉は補充兵のところへ歩み寄り、
「貴様ら、どういうつもりだ」
大声を張りあげた。
年輩の補充兵たちを行列から引きずり出して殴った。彼らを殴っているうちに、八杉はふいに胸の中が熱くなり、涙がこぼれた。腹の底に鬱積《うつせき》していたものが一度に噴きだし、わけのわからない悲しみと怒りがこみあげた。八杉が自分より下の階級の兵隊を殴ったのは、あとにも先にも、それっきりだった。
翌朝早くに、八杉たちは駅から軍用列車に乗った。呉へ帰るのだ。機関車のすぐうしろの一両目だった。八杉の胸の中に、突然、おれたちは敗残兵なのだという思いが湧いた。
肥前山口《ひぜんやまぐち》の駅では長崎からの列車の待ち合わせのため、しばらく止まった。八杉たちはホームへ出た。煙草をふかす兵隊もいた。
八杉はホームの端で煙草をふかしている機関助手に話しかけた。この列車は何キロぐらいで走るのかと聞いた。一一〇キロぐらいだと助手は答えた。八杉はほかにも、機関車について立てつづけに質問した。ひっきりなしにしゃべっていた。質問しながら、いったいおれは何をしているのだろう、と思った。
呉へ着いた八杉たちが下士官兵の集会所近くまで来ると、面会の父兄たちがかたまっていた。その中に、母のまきえの姿を見つけて八杉は驚いた。
なじみの「紅葉館」で母と向かいあうと、
「どうして、わしの帰ることわかっとったの」
と母に聞いた。
「おばあちゃんがな、きょうは康夫が帰ってくるいうてきかんのよ。夢でみたといって 泣くように行ってやれいうの。ようやく、切符を手に入れてきたのだけど、やっぱり本当だったんだね」
八杉をかわいがっていた祖母はまた、
「康夫がたらいに乗って内地へ帰ってくる。フネがのうなって、つくりに帰ってきよる」
とも言ったそうだ。
八杉は祖母の夢の知らせに驚いたが、暗い表情のまま黙っていた。
しかし、母のまきえは、八杉が旅館のご馳走を前に、涙をボロボロこぼして、
「わし一人ご馳走食べて……、まだみんな上陸しとらんのに」
と言っては、しきりに何かつぶやいていたのを覚えている。
「あんた、何いうとるの」
まきえは、ひょっとして「大和」で死んだ者たちの名を言っているのではないかと思った。
八杉の家ではそのころ親しく出入りしていた飛行兵曹たちから、「大和」が沈没したらしいと聞いていたし、呉の知り合いからも、その噂が入っていた。
その日、八杉はひと言も「大和」が沈没したことには触れず、母と別れた。「まだみんな上陸しとらんのに」という表現に自分の思いをこめただけだった。
八杉の戦後は、昭和二十年十一月二十三日、海軍二等兵曹で除隊し、福山の実家へ帰ったときから始まった。昭和二年十月生まれの八杉は、十八歳になったばかりだった。
実家は空襲で焼けたが、すでに豆腐工場跡にバラックが建っていた。八杉は家業を手伝いはじめた。一年もたったころだった。自分の息子が「大和」に乗っていたのだが、戦死のときはどうだったか聞きたい、と幾人もの親や親戚の者が訪ねてきた。そのなかに、二名、八杉の知っている者がいた。後部一三号電探にいた福山出身の同年兵の両親と、もう一人は、やはり同年兵で岡山出身の後部電探にいた者の叔母だと言った。後部電探は最初に直撃を受けた場所だった。肉片すら残らなかった。八杉は話すのがつらかった。「大和」の沈んだときの模様だけを話し、最初に直撃を受けたことは言わなかった。
八杉は玉音放送は聞かなかった。その日、八月十五日、八杉たちは陸戦隊として呉の山の中を切り拓《ひら》き、松林のなかに幕舎を張り、その中で四〇名ほどの兵隊と生活していた。幕舎は山中に点々とあった。陸戦隊は大隊、中隊、小隊、分隊と編成され、八杉は分隊の下士官だった。八杉の分隊は、二等水兵の徴募兵がほとんどだった。
八月十五日の朝、大隊長から陸戦隊は九州へ出動という命令が下った。分隊の兵隊を集めた八杉は、このとき、
「一生懸命に働くんだ。しかし、命は大事にしろよ、無駄死にはやめよう」
と強く言った。
正直いって、八杉は命が惜しかった。
その日、八杉たちは、幕舎に荷物を置いたまま、交代で川原石港の警備に当たった。夕方五時ごろ警備から戻ってくると、呉海軍警備隊の者から、日本は無条件降伏したと告げられた。日本が敗けたことをはじめて知った。
号泣する者もいた。しかし、八杉はこれで九州へ行かなくて済むと思った。
夕食のとき、食欲がないといってめしを食べない者もいたが、八杉は少しも残さず食べた。それから彼は風呂へ入った。八杉は、ああっ、と声をあげた。腕時計をはめたまま、湯につかっていた。そんなことは、今までなかった。ふたたび、八杉は二時間交代の警備へ出かけた。戦争は終わったのだ、という思いが、八杉の胸をかけめぐった。
そのころ、八杉の黒い小型の手帖には、「停戦ニ考フ」として、次のような文字が記されている。
[#ここから1字下げ]
一、死マデ決シテ海軍軍人ニ身ヲ投ジタルハ何故ナリヤ
一、死ヲ決シテ特攻隊員トナリタルハ何故ナリヤ
一、死ヲ決シテ陸戦ニ訓練シタルハ何故ナリヤ
一、今マデ家郷ヲ忘レタルニ今急ニ家郷ヲ憂愁ニ思フハ何故ナリヤ
一、軍人ガ降服後連合軍ニ楯ヲツクト何故悪キ事ナリヤ
一、大和民族ハ投降シテヨキモノナリヤ
[#ここで字下げ終わり]
これが、十七歳の、八杉の精いっぱいの問いかけだった。
「私は、軍国少年だった」
と八杉は言っている。
国に対する忠誠心に何の疑いももたず、特攻で死ぬことも怖れなかった。不沈艦「大和」は、彼の矜恃《きようじ》でもあった。その「大和」があっけなく沈んでしまった。しかし、その日、八杉が見たものは、「あっけない」といってすませられることではなかった。八杉は三〇余年前を振り返って語る。
「戦争がどんなにすさまじいか、酷《むご》いかを私が見たのは、あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。
雪風に拾い上げられたのは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、あの四月七日にあったと思っている」
生き地獄のような重油の海の中で、八杉にとって一点の灯りにもひとしい記憶は、川崎勝己少佐のことだという。
八杉は私記「一水兵の見た四月七日」に、みずからがつかまっていた円材を一度も口をきいたことのない一水兵に渡した川崎勝己高射長に関して、
「威厳を誇った高射長でも、近寄りがたい海軍少佐でもなかった。人間川崎さんの姿だった。もう遠い昔、あの時、死んだ筈《はず》の自分が、今生きている事の証《あかし》を求める時、川崎少佐は、私の生きざまに大きな影響を与えた人であった」
と記している。
対空指揮官であった佐賀県出身の少佐(戦死後中佐)川崎勝己については、高射長伝令だった杉谷鹿夫、長坂来、また私室従兵であった川瀬寅雄が、その人柄について記憶している。
「あまり物を言われん、寡黙な人だったが、よう『葉隠《はがくれ》』の話をしよって、軍人はいかに死ぬかが問題だというような話を覚えている。カッとなって怒るような人でなく、髭の立派な人で古武士のような人柄だった。三笠さんも海上で見たというし、どうして助からなかっただろうって、不思議なんです」
防空指揮所伝令だった杉谷鹿夫は、川崎高射長に海に飛び込めといわれて、発令所の左舷に行こうとしたが、傾斜で行かれず、右舷に出た。海が沸き立っていた。この海に飛び込むのかとためらっているうちに、海は盛り上がり、沸き上がってきた。そのとき、甲板のどこかで、まだ機銃を撃っていた。唐木正秋たちの後部機銃である。杉谷は飛び込むとき、高射長からこれを持っていくようにと、黒いカバンを渡されたが、大きな渦に巻き込まれて気がついたときは失くなっていた。軍艦旗を下ろしたか、と川崎高射長が叫んでいた声が耳に残っている。退去のとき、森兼義方兵曹が、親父の時計をとってくるといって居住区まで降りていった。杉谷も自家製の短刀を取りに行きたいと思ったが、下に行くことはもはや不可能だった。森兼兵曹はそのまま艦とともに沈んでしまった。
長坂来は、十八年十一月に、機銃から対空戦闘幹部として、左高角砲伝令に配置が代わり、第二士官次室、第一士官次室《ガンルーム》の従兵も務めていた。ガダルカナルが落ち、戦況もしだいに悪化していた。レイテ沖海戦前になると、上陸は遠のき、内地からの便りもとぎれがちになり、古参下士官たちは苛立《いらだ》って艦内の空気も荒れ、制裁も厳しくなった。そんな艦内の空気を察してか、川崎勝己が、前に乗っていた艦の話や『葉隠』の話なども織り込んで、よく訓話をしていたのを長坂は覚えている。外見は武骨だが、語り口は講談のようにおもしろかった。訓話の最後は、
「神州は不滅である。われわれはいよいよ神兵となって、皇国につくすときが来た。大和は沈まず」
と結んだ。
あるとき、
「ぼくは少尉候補生のときに遠洋航海で南方に行ってね、南方はよかった。南の島で酋長になりたいと思った」
妙にしみじみとした声で語った。
私室従兵だった川瀬寅雄は、「要するに」と「若干の誤差も許されない」という川崎高射長の口癖を記憶している。いかめしい軍人のように見えたが、私室に入ると実に気さくで、よくいろいろな珍しいものの残りを持っていけといってくれた。夜、分隊に戻って班長に渡すと機嫌がよかった。巡検後甲板整列で制裁を受けるときも、始まる前になると甲板下士官が、川崎少佐が呼んでいると迎えに来る。私室に行くと、明日の仕度の用意をしてくれと言われる。アイロンをかけたり、靴を磨いたりしても、まだ帰れと言わない。することがなくて部屋の隅にいると、
「おう、もう、帰ってよろしい」
声がかかる。分隊に戻ると、いつも、ちょうど制裁の終わったところだった。
進級試験の前だったか、
「ここからここをよく目を通しておけ」
とさりげない口調でいわれた。この問題が出るとはいわなかったが、目を通しておけといわれたところが、試験問題に入っていた。
漂流中の川崎勝己を見た人々は多い。髭が特徴だったせいもあって各自記憶している。
坂本一郎は、駆逐艦二隻を発見して周囲の者が手を挙げると、
「あの駆逐艦はこれから沖縄に行くのだ。救助はしてくれん」
と叱ったのを見ていた。
家田政六は、
「まだ本土決戦がある」
と激励していた姿を覚えている。
主計長の堀井正は、
「川崎高射長は泳ぎながらみんなに軍歌をうたわせて、眠ってはだめだとしきりに言っていた。しかし、駆逐艦のそばに行ったとき、いっしょに泳いでいたはずなのに、その姿が見えなかった」
と語っている。
三人の証言から推測して、多分、八杉が漂流中に会ったのは、その前のように思える。三笠逸男がいっしょになったときは円材は持ってなく、彼が浮遊物を手渡そうとすると、
「ぼくは、いいよ」
と断わっている。
漂流中の川崎勝己の様子からは、力つきて沈んでいったとは考えられない。八杉は、駆逐艦を目前に、死をえらんだのではないかと見ている。救助が本格的に始められたころ、急に体《たい》をめぐらせるようにして反対方向に泳ぎ去ったという話を生存者から聞き、ああ、高射長は対空指揮官としての責任をとったのだ、と思った。「軍人は死に方が問題だ」と語り、「若干の誤差も許されない」が口癖だった川崎勝己にとって、沖縄特攻は唐突な、「誤差」だらけの作戦に思えたに違いない。
戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘詳報は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。
「戦況|逼迫《ひつぱく》セル場合ニハ、兎角《とかく》焦慮ノ感ニカラレ、計画準備ニ余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミスミス徒死セシムルニ過ギズ」
この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類を見ない激烈な怒りがつらねられている。
沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだったという遺憾の思いで埋まっている。
この戦闘詳報は、漂流中に重傷を負い病臥中だった能村次郎副長に代わって副砲長の清水芳人少佐が記したものだった。能村副長は最終的にチェックしたが、書き加えることは一行もなかったと言う。
「タマは当たるまでは当たらん、大和も沈むまでは沈まん」
と、出撃前夜に部下を笑わせた清水芳人副砲長は、最上甲板集合のとき部下に最後の訓示を与えている。
「生きることができたら、生命を全うしてくれ。死を急いではならん。海につかるとのどが渇く。いまのうちに水を飲んでおけ。海に入ったら、何でもいいから浮いているものにつかまってじっとしていること。一人にならず、ひもがあれば結びあって集まっていること」
レイテ沖海戦のとき、志摩部隊の軽巡「阿武隈《あぶくま》」の砲術長兼副長だった自分が漂流したときの教訓を部下に語ったのだ。
清水もまた、回転しながら水中に吸い込まれたあと、海面に放り出された。漂流中の清水については、吉田満の『戦艦大和ノ最期』に次の記述がある。
「声|涸《か》レテ響キワタル『准士官以上ハソノ場デ姓名申告、附近ノ兵ヲ握ッテ待機、漂流ノ処置ヲナセ』叫ブアノ横顔ハ清水副砲長カ」
「みんな、集まれ、できるだけ寄っていよ」
清水は声をかけて、生存者たちを近くに集めた。かたまっていたほうが救助される可能性が強いと考えたからだった。
そのとき、駆逐艦が清水のそばを通り抜け、南に向けて去った。生き残りの駆逐艦だけでそのまま沖縄に突入するのだろうと、水面から手を高く上げ、
「おーい、あとを頼むぞ!」
と手を振り、叫んだ。
静かになった波のうねりに身をまかせていると、夢を見ているようだった。数時間前の激しい戦闘が夢の中の出来事のようで、夕陽が低く雲に映えているのさえ、美しく思えた。
清水は「雪風」に救助されると、能村副長に代わって戦闘詳報を作成しはじめた。かつて「阿武隈」のときも、艦長代理でやはり戦闘報告書を書いていた。おれはふたたび生き残り、また戦闘詳報を書くはめになってしまったかと思うと、ほろ苦かった。
清水もまた、佐世保港に入港すると「島」へ行った。この「島」は、たぶん八杉のいた横瀬だったろうが、彼はその地名についての記憶はない。「島」での清水は電話をかけたり、佐世保に行ったりして第二艦隊の生き残りの主だった人々からそれぞれの戦闘状況を聞き集めるのに忙しかった。
「島」の兵舎で深夜に報告書を記していると、怒りに手がふるえて思うようにペンが走らなかった。作戦の無謀さが、彼の胸を抉《えぐ》った。連合艦隊の伝統、あるいは栄光という美名に隠れて、たくさんの若者たちが海の底に沈んだが、自分もまた、死を美しいと考えていたのではなかったか。「大和」の沖縄特攻が決まったとき、全員が死を覚悟した。第二艦隊が沖縄へ水上特攻するのも一つの作戦だ。しかし、他に方法はなかったのだろうか。三〇〇〇名を越える死者の数を書きつけると、思わず暗然とした。無惨《むざん》、としかいいようがなかった。無念であった。
戦闘詳報をようやく書き終えるとまず森下信衛参謀長に、つづいて能村次郎副長に目を通してもらった。そのあと、豊田副武連合艦隊司令長官宛てに郵送した。
救助の駆逐艦を前に死をえらんだ川崎高射長とは別の意味で、生還した清水副砲長の艦および海中での処置も、指揮官としての一つの責任の在り方を示している。清水の、副砲長としての沖縄突入作戦に対する無念の思いが、この戦闘詳報には沸々《ふつふつ》と語られている。
清水芳人は残務整理を終え、五月初旬ごろ、愛知県に数日の慰労休暇で戻った。
突然、玄関先に現われた夫の姿を見て清水の妻は、亡霊になって会いに来てくれたのかと思ったそうである。
「うちは職業軍人ですから生きて帰ってこれるとは思っていませんでしたので、思わず夫の肩や首を撫でて確かめました。帰ってきたのは昼前で、新しい軍服を着ており、大和はと聞きましたら、おるわさと答えました。でも、毛のシャツの袖口に重油の跡がシミついてましたので、前の阿武隈のこともあり、わかりました。しかし、主人は、大和が沈没したことは決して口に出しませんでした」
このとき、清水芳人の妻は二十八歳で二人の子供の母でもあった。
数日後、清水はふたたび呉に戻った。敗戦の年の秋にアメリカ海軍技術調査団が来て彼も審問を受けた。調査団の一行は口々に、
「ヤマトは惜しいフネだった。あなたは生き残ってラッキーボーイだ」
と言い、清水を苦笑させた。
現在、愛知県豊田市で倉庫会社社長をしている清水は、東海地区(愛知、三重、岐阜)大和会の会長である。昭和二十年代の終わりに、東海地区では乗組員に敬慕されていた森下信衛少将を中心に「東海地区戦艦大和会」を結成した。「大和」の乗組員たちと遺族たちの最初の会だった。森下の病没後、副砲長だった清水芳人が、会長になり、亡くなった戦友たちの慰霊祭を、毎年四月七日に、名古屋市護国神社境内の戦艦大和記念碑の前でとり行なっている。
「慰霊というのは、大和で生き残った者たちが、大和での死者たちを忘れずにこれから生きていくことだと思っている。私はね、大和は生きておるんだと強く言いたい。神州不滅という言葉がありますね。戦友たちはこれを信じて亡くなった。私は彼らの尊い犠牲の上に、今の日本の繁栄があると思っとります」
清水芳人は、語っている。
八杉康夫は、川崎勝己の遺族の住所を知りたいと、昭和二十六年ごろ、夜汽車で生まれてはじめて東京に行った。厚生省援護局を訪れ、「大和」乗組員の名簿を見せてくれと頼んだ。係員が倉庫から運び出した乗組員名簿はまだ整理されてなく、何冊もの部厚い名簿を夕方近くまでかかって調べた。ようやく佐賀県であることまで判明したが、遺族の正確な住所は不明だった。このとき、八杉は、「大和」の沈没地点を調べるにはどこへ行ったらよいか、とも聞いている。係員は、
「さあ、私どもでは、わかりませんな」
と答えたきりだった。
その後、「大和」戦闘詳報や吉田満の著作などから、「徳之島沖」沈没説が定説になっているのを知った。しかし、八杉には納得できなかった。八杉には、四月六日に佐多岬の沖合で「大和」が西に転針して以後沈没まで、艦が針路を変えたとは考えられなかった。沈没地点は徳之島沖ではないとする根拠はもう一つあった。
あの七日の日の第二波攻撃のあと、八杉は頭上のハッチを開けて測距塔を飛び出すと、厠《かわや》を捜した。戦闘中の仮設厠としては、測距塔の出入口付近に一斗缶が置いてあるだけだった。そこには二人の先客がいたし、一斗缶は溢《あふ》れそうになっていたので艦橋厠に走った。そのとき、若い士官が入ってきて、怒られるかと思っていると、
「今のうちに小便しとけよ。とうてい奄美大島まで行けんから覚悟しとけ」
とニヤッと笑った。
自嘲的な笑いだったので強烈に覚えていた。八杉が急いで垂直のラッタルをのぼり、配置に飛び込んでまもなく第三波が来襲した。それから沈没までは一時間もない。このことからも、徳之島まで走ったとは思えなかった。戦後、防衛庁に調べに行き、この沖縄特攻が、別名「|坊ノ岬《ぼうのみさき》沖海戦」と呼称されていることも知った。
八杉は「大和」沈没地点を捜すため、あらゆる資料を集めた。「大和」のことにふれている雑誌はすべて買い求めた。海図も照合した。彼の、沈没地点への執着や生還後隔離された「島」を捜す異常とも思える情熱は、四月七日を自分の戦後の原点だと主張するところに起因する。あの日を境に「軍国少年」だったみずからが、戦後を生き直すためにも解明せずにはいられなかった。
しかし、戦後の生活は、まず生計を立てることから出発せねばならなかった。
戦後二年ほど家業を手伝っていた八杉は、アコーディオンを片手に駐留軍のキャンプめぐりを始めた。アメリカ軍の将校たちから沈没場所の情報を探るためもあったが、家業の手伝いに心が満たされなかったことも大きかった。彼は少年時代から音楽が好きだった。できれば東京の音楽学校に入りたいという夢を持っていた。
アコーディオンは旧制中学の入学祝いに母から買ってもらって以来、片時も離さなかった。これは少年のころに極度の吃音《きつおん》症だったことも影響していたかもしれない。この吃音症は、中学二年の夏休みに一人で大阪まで矯正に行きほとんどなおっていた。しかし「大和」のころの八杉を覚えている班長の石田直義の印象によると、内気な口数の少ない少年だったという。
八杉が音楽学校に入りたいという夢を海軍にかえたのは、やはり時代の風潮も大きかったろう。昭和二年に生まれた彼は、「忠君愛国」や、「国を救え、一億総特攻の先がけとなれ」を徹底して教え込まれた時代に成長した。父親は、急いで海軍に入らなくてもと反対したが、「軍国少年」だった彼には、そうした父の情さえ亡国的な考えのように思われた。それでいて、九州の佐伯《さいき》防備隊にいたときも、アコーディオンを下宿においていたのは、音楽が彼の心を慰める唯一の喜びでもあったからだ。
米軍キャンプめぐりのあとは、当時流行のNHKの「のど自慢大会」の伴奏者になって準専属で福山、広島、岡山あたりまでついていった。しかし、「旅がらす」のような生活を続けていく気持はなかった。福山の東中学校で音楽の非常勤講師も務めたが、収入は不安定だったし、先行きが心配だった。
八杉が、ピアノの調律師では当時名人といわれた神戸の|※[#「石+番」、unicode78FB]田《ばんだ》二郎のもとへ弟子入りしたのは、昭和二十九年一月だった。ヤマハ楽器の黒川という大阪支店長に紹介してもらって訪れると、※[#「石+番」、unicode78FB]田は八杉の顔を見るなり、年齢を聞いた。八杉は二十六歳になっていた。
「遅いな、一〇年遅いよ。この仕事は遅くとも十七、八からやらんとものにならんね」
にべもなかった。
だいたい耳は、二十二歳ごろから老化が始まる。それまでに調律の音を徹底的に叩き込んでおかないと無理だといわれた。
「それに、わしは弟子はとらんことにしとる」
※[#「石+番」、unicode78FB]田二郎は昔気質の名人らしく、口調も素っ気なかった。
八杉は一瞬、肩を落とした。しかし、そのまま福山に帰る気持はなかった。
「実は……私は海軍にいました。二等兵になったつもりで、はじめからやり直します」
必死の表情で頼んだ。
「二等兵のつもりか……」
※[#「石+番」、unicode78FB]田は、チラッと八杉の顔を見ると、はじめて笑った。しばらくして、
「おそらく、だめだろうが、まあ、少しいてみるか」
と言った。
八杉は※[#「石+番」、unicode78FB]田の家に住み込んだ。入門して数か月は家事手伝いの雑用が中心だった。しかし、海軍での新兵教育のつらさを思えば、どんなことでも耐えられた。
当時、ピアノの調律師は、全国に一五〇〇人ほどいた。そのほとんどが東京、大阪に集中していた。すべてすぐれた師に入門し、徒弟制度のなかで修業していた。八杉が※[#「石+番」、unicode78FB]田に弟子入りしたころ、ヤマハがようやく東京に調律師の養成校を設置したばかりだった。※[#「石+番」、unicode78FB]田の家には工場があり、外国製のピアノの解体、修理ができるようになっていた。三年かかるといわれたが、一年ほどで八杉はマスターした。弟子入りして三か月目に黒川支店長に会ったとき、
「※[#「石+番」、unicode78FB]田さんが、あいつは大したもんや、ほんまに二等兵のつもりでがんばりよる、というとったよ」
と励まされた。
しかし、弟子入りして半年たったころ、八杉は体がだるくてしかたがなかった。二階へ階段をのぼるのもやっとだった。彼は根をつめすぎて疲れがでたのかと、なんとか気力で克服しようと思った。夏の暑さのせいもあるだろうと自分に言い聞かせた。
ある日、師の※[#「石+番」、unicode78FB]田にも、
「八杉、体の具合が悪いのと違うんか」
と言われた。
神戸に来てはじめての休暇をもらうと、八杉は福山の病院に行った。
「あんた、原爆におうとらんか」
医者は言った。
ふつう五〇〇〇から八〇〇〇あるはずの白血球が、三〇〇〇ぐらいしかなかった。原爆には遭ってないが、広島に原爆が落ちた翌朝、陸戦隊の一員として救援に出かけていた。八杉たちはおもに死体処理を受け持ち、中心地の焼け野原を走り回った。八杉がそのことを語ると、
「二次被爆ですな」
と医師は言った。
八杉は目の前がまっくらになった。
しかし、八杉はふたたび神戸へ戻った。師には被爆の件は告げず、修業をつづけた。一年目に※[#「石+番」、unicode78FB]田は、
「よう、辛抱したな。だが、この仕事に卒業はないぞ。わしなんか一度も満足したことはない」
福山へ帰る八杉に、餞《はなむけ》の言葉をくれた。
福山に戻った八杉はヤマハ系の楽器店の技術課長として迎えられ、ようやく安定した生活の第一歩を踏みだした。しかし、被爆の影響があらわれだし、疲れやすかった。毎年、夏になると体がだるく、発病した。被爆者健康手帖をもらい、年に幾度も輸血を受けた。彼は昭和三十年代に一度結婚している。この結婚は不幸にして破局に終わった。被爆が遠因になっていたのかもしれない。それ以後、独身を通している。
昭和四十三年五月、鹿児島県徳之島の犬田布《いぬたぶ》岬に、「戦艦大和を旗艦とする特攻戦士慰霊塔」が建立された。沈没地点に最も近い陸地としてこの島の名があげられたのである。島内随一の風光美を誇る犬田布岬の断崖からは東シナ海が望まれた。徳之島には、あの四月七日のあと、手足がちぎれた遺体が次々と海岸に漂着したと言われている。最初は桜島の大爆発でもあったのかと思ったが、そのうち日本の軍艦がアメリカの飛行機によって沈没させられたらしいという噂が広まった。島の人々は毎朝海岸に出て流れ着く遺体を丁重に荼毘《だび》に付した。
八杉は慰霊祭の行なわれる二日前に鹿児島に行った。「戦艦大和会」の会長である石田恒夫や、事務局長の手島進など十数名が集まっていた。翌日、午後五時三十分出港の「あまみ丸」で鹿児島を発《た》った。船には「徳之島戦艦大和慰霊碑除幕式」の幕が張られていた。
船は翌日の午前十一時ごろ、亀徳港に着いた。晴れてはいたが、海は少し荒れぎみだった。建設委員長の迫水《さこみず》久常、小委員長の古村啓蔵(第二水雷戦隊司令官)以下、約六〇〇〇名が参列した。遺族代表は伊藤整一司令長官の実弟伊藤耕太郎だった。午後二時二十三分、「大和」沈没の時刻に、全員一斉に黙祷を捧げた。
除幕式の終わったあと、八杉は、黙然と海のかなたを眺めているベレー帽に紺のブレザー姿の男に気づいた。男は坂道を歩き出した。ソテツやアダンの繁る道だった。遺族らしい老婦人が、その男に何か話しかけているのが風に乗って聞こえた。
「あの日は、天気が悪うて……」
男の声に、八杉は聞き覚えがあった。思わず近づき、
「……分隊士じゃないですか」
と、声をかけた。
「八杉じゃないか」
その男も驚いた声になった。
「分隊士は、大和に乗ってたんですか」
「あんたも、大和だったんか」
二人の男は、口々にいった。分隊士と八杉が呼んだのは、三笠逸男のことだった。
三笠と八杉がはじめて出逢ったのは、昭和二十年九月二十日ごろだった。二人とも岡山県倉敷市にあった水島航空隊に双眼鏡や無線機や真空管などのいわゆる「隠退蔵物資」を運ぶ使命を与えられていた。福山の航空隊にも二週間ほどいっしょにいた。しかし、お互いに、「大和」に乗っていたことは言わず、別れた。戦後二三年経って、はじめて、再会したのだった。
除幕式の翌日は、徳之島一帯を低気圧が襲った。八杉が「あまみ丸」のロビーでテレビの天気予報を見ていると、三笠が乗船してきた。
「飛行機が欠航になって、えらい目におうたわ」
三笠は広島へ飛行機で帰る予定だったが欠航となり、タクシーで亀徳港に戻ったという。
暴風のため海は荒れた。「あまみ丸」はローリングとピッチングが激しくなってきた。
「こりゃあ、戦友が呼んどるんじゃろう」
「慰霊碑を建てるのが遅かったんで、戦友が怒っとるんかのォ」
元乗組員は口々に言った。
八杉も急激な天候の変わり方に、そうかもしれないと思った。
一等船室に戻った。救命胴衣の収納場所を確認した。海軍にいた八杉にも、はじめての経験だった。「大和」は冬の高波をかぶってもビクともしなかった。一五〇〇トン級の「あまみ丸」はまるで木の葉のように揺れた。
八杉は揺られながらベッドに横たわり、「大和」の司令塔と同じ高さだという二四メートルの慰霊塔を思い出していた。巨塔の上部には、輪型陣になぞらえた五つの円輪がはめこまれていた。断崖に設けられた足場から、遺族たちは花や遺品を海に向かって投げていた。よろめきそうになりながら、じっと海を見ている年老いた母親らしい姿もあった。
「大和は、本当にあの辺りで沈んだのだろうか」
昭和二十八年に出版された吉田満の『戦艦大和ノ最期』には、「徳之島西方二十浬ノ洋上、『大和』轟沈シテ巨体四裂ス……」と記録されている。八杉は異様にあかあかとした色を漂わせて沈む夕陽を眺めながら、妙な感じを覚えていた。
この時を契機に、八杉は「大和」の正確な沈没位置を知りたいと切実に思うようになった。翌年の慰霊祭のとき、八杉は鹿児島まで来たが、たまたま「大和」の沈んだ位置をめぐって議論になった。彼は激して、そのまま徳之島へは渡らず福山へ帰ろうとした。三笠が、
「見送りぐらいしてくれよ」
と淋《さび》しそうに言った。
八杉は徳之島へ渡る三笠たちを一人残って見送った。それ以後、彼は徳之島には行っていない。こうした自分の行動が、元乗組員たちに奇異に見られているらしいのも耳にした。「変人」とも「アカ」ではないかとも言われた。
八杉の胸に、あの幻の島が鬱勃《うつぼつ》と浮かんできた。島捜しにも積極的になった。散歩のときも、海の方角はできるだけ見ないようにして雑木林を歩いていた自分の姿や、木造の兵舎が幻影のように見え隠れした。
この「島」について生存者の証言は、実に曖昧模糊《あいまいもこ》としている。生存者たちが重傷者を除き、佐世保湾内のある場所に隔離されたのは海上特攻作戦の失敗および「大和」以下の沈没を隠すための処置だったが、そこがどこで、どのような生活であったかを鮮明に記憶している者は少ない。
「雪風」に救助された三番主砲砲台長の梅村清松の記憶では、一四〇名ぐらいいた。梅村は六名ほどの准士官以上と相談し、日用品のチリ紙や歯ブラシ、タオル、また服の調達に奔走したが、なかなか手に入らず苦労したという。兵舎の人員の割り振りも梅村たちがした。佐世保の鎮守府へ行ったとき、少尉だった梅村は、自分が無傷で生還したことに一種の恥辱を感じた。「島」には三日間しかいず、残務整理のために、急ぎ呉へ帰った。
生存者のなかでも八杉が島での生活をかなり具体的に覚えているのは、十七歳という感受性のもっとも鋭敏な年齢だったこともあろうが、彼は戦後もかなり早い時期から、この幻の島の究明に並外れた執着をもっていたからである。
この島を「浦頭」と記憶している者たちがいる。その一人は、細谷太郎である。細谷はその島に午後二時すぎに着いたこと、また島にいた衛生兵らしい者に、ここはどこだと訊ね、「うらがしらだ」と教えられた記憶がある。もう一つ、船が着いたとき、近くの島陰に改装空母の「隼鷹《じゆんよう》」が航行不能になって繋留《けいりゆう》されていたのを覚えている。改装空母「隼鷹」は、元日本郵船の「橿原《かしはら》丸」で、進水直前海軍に徴用されている。昭和十九年十二月、長崎の南西海岸で敵潜水艦の攻撃を受けて損傷、佐世保工廠で四か月かかって修理された。その後、燃料不足でそのまま佐世保港に繋留され、敗戦を迎えている。細谷は、自分たちがいたのは、島の伝染病隔離病舎だったと証言している。
三笠逸男の記憶も、細谷の描写とかなり似ている。やはり島陰に、艦名は不明だが、松の木など植えて偽装した艦がいたのを覚えている。おそらく、細谷のいう「浦頭」であったように思える。しかし、この「浦頭」と、八杉のいた島とは違う。八杉は島にいた十数日の間、細谷とは顔見知りなのに一度も顔を合わせていないし、三笠や細谷や、また彼らといっしょだった丸野正八たちが、その後別府の海軍病院に運ばれたことからも、「浦頭」へ隔離されたのは負傷者たちが中心だったようだ。多分、佐世保の海軍病院には担架で運ばれた重傷者の一部と士官たち、それ以外は、「浦頭」と「横瀬」にそれぞれ分散されて隔離されたに違いない。浦頭は針尾《はりお》島にある。旧海軍検疫所が海浜にあった。そこは終戦後、引き揚げ者のための検疫所になっていた。現在は、工業団地として整備中で埋め立てが進んでいる。
生存者たちの隔離された場所が、島ではなく「半島」だと証言する一人に、軍楽兵だった林進がいる。「大和」から「武蔵」に移った林は、昭和十八年五月二十三日に山本五十六の遺骨とともに横須賀軍港に向かったあと、九月中旬に佐世保海兵団付で転勤になった。海兵団では日々の軍楽練習のほか、佐世保海軍|工廠《こうしよう》での軍艦の進水式や飛行機の献納式に行ったりした。また、各部隊からの慰問演奏の要請を受けて九州の各地をまわった。
日時は明確ではないが、昭和二十年四月のある日、出張演奏要請があって、船である場所に行った。陸つづきの半島で、小さな部隊だった記憶がある。昼食も済み、演奏準備にとりかかっていると、突然、部隊は移動するので演奏中止といわれ、即刻帰るように命令された。林たち軍楽兵は、わけもわからずふたたび船に乗り、佐世保へ戻った。数日後、林たちが即刻退去するよう命ぜられたのは、この部隊の兵舎に沖縄水上特攻で生き残った「大和」の乗組員たちが収容されたからだと聞いた。「大和」には同じ村出身で昵懇《じつこん》の仲だった坂本一郎兵曹が乗っていた。林は、その安否を気づかったが確かめるすべはなかった。これが、昭和十七年二月から山本五十六司令長官とともに軍楽隊の一員として約一年間、「大和」に乗っていた林の、この艦との最後の関わり合いになった。
林進によると、軍楽隊の演奏がこれまで中止になったことは三回あった。最初は、トラックの「武蔵」で、ブイン、ショートランド方面前線基地へ視察に行った山本長官が帰艦するのを出迎えるために甲板に整列していると、ふいに整列解散になった。数日後、山本長官の戦死を聞いた。二度目が、「大和」沈没後のこのときである。三度目は、佐賀の祐徳《ゆうとく》稲荷近くに駐屯していた部隊に招かれていったときである。神社の境内で市民の人々にも聞かせる予定で準備していると、突然演奏中止といわれた。ちょうど昼前で、軍楽隊は「海ゆかば」のみを奏して帰った。その日は昭和二十年八月十五日で、間もなく天皇陛下の終戦の放送がラジオから流れた。林の海軍生活の思い出の中で演奏中止となったのは、何かしら非運のときだった。
林進は二度目の演奏中止になった場所の地名は覚えていない。八杉たちの隔離された「横瀬」だったろうか。
八杉の佐世保行きは十数度に及んだ。昭和四十三年以前にも出かけたが、やはり徳之島の慰霊祭後は頻繁《ひんぱん》になった。「大和」の沈没地点の探索も幻の島の究明も、孤立無援の孤独な情熱に支えられていた。幻の島が、西彼杵半島の横瀬だったのを知ったのは、戦後二七年目の昭和四十七年秋だった。八杉はようやく見つけた喜びよりも、空虚な気持に襲われた。
現在、八杉は、福山市内に「八杉楽器調律事務所」の看板を掲げ、ピアノの調律と依頼の注文を受けて海外の楽器を取り寄せる仕事のかたわら、クラシック音楽のプロデュースに生き甲斐《がい》を見いだしている。若い有為の音楽家を育てるのも八杉の夢である。
「死んでいて当たり前だった自分が生き残った……その証《あかし》というか、何か小さくても納得できるものを一つ一つつくっていくとなると、音楽につながる文化運動が自分にふさわしいと思っている」
八杉は、「大和」への郷愁やロマンは自分にはないとくり返し主張してやまない。しかし、あの島への執着を見ても、「大和」への愛憎が感じられてならない。幻の「島」も、そして「沈没地点」が徳之島の西や北でなく、長崎県の男女群島の南の海域らしいこともわかった。(実際に正確な地点が確認できたのは、昭和六十年になってからである)。たった一つ、八杉にとって心残りがあるとすれば、川崎高射長のことだろうか。
昭和五十七年、八杉はようやく川崎勝己の遺族を見つけることができた。墓参の希望を伝えたが、遺族からは、
「お気持はたいへんに嬉しいが、私たちは、あの日のことを忘れようと静かに今は生きております」
という、婉曲《えんきよく》な断わりが届いた。
2
昭和二十年六月に別府の海軍病院から呉に戻った三笠逸男は、まだ腕があがらなかった。
ある日、呉海軍病院への坂をのぼっていると、三種軍装姿の准士官が歩いてきた。
「おまえ、生きとったんか」
声をかけたのは、三笠の兄の美喜男だった。
「大和」から生還してはじめての肉親との再会だった。
「わしは今度、本土防衛のため四国の宇和島へ転勤になる。一度、おふくろの顔を見てくるつもりだが、おまえは休暇はとれんかのう」
三笠はまだ自分が生きて「大和」から帰ったことを田舎の母親にも知らせていなかった。
そこで、休暇をもらうと、広島県安佐郡の実家へ兄といっしょに戻った。兄はピシッとした軍服姿だったが、同じなりたての兵曹長でも三笠のはよれよれの三種軍装だった。
「本土決戦をやかましゅういうとるな」
汽車の中で、兄がポツリと言った。三笠は黙っていた。兄弟は「大和」のことはなにも話さなかった。
母のタマヨは、小さな家でたった一人で暮らしていた。母は三笠の顔を見ると、
「長いこと、ご苦労さんやったね」
そのひと言だけで、「大和」のことも、三笠の体の様子も訊ねなかった。涙ひとつこぼさなかった。兄がビルマから帰ってきたときも、同じだった。
終戦になって帰ったとき、三笠は母のタマヨに、広島の原爆のとき、たった一人でどうしたかと訊ねた。
「山ん中のたんぼとたんぼの間の溝に竹を渡してのう、ムシロをかけて、わし、みんなの大事なモン、守っとった」
と母は答えた。
三笠はそれを聞くと、涙ぐんだ。五人もの息子がいながらすべて戦地に征《い》き、だれ一人田舎に残った母親の防空壕を掘ることもできなかったのだ。
終戦になる少し前、三笠は駅で、年とった婦人に声をかけられた。
「失礼ですが、あなたは海軍の方ですか」
三笠がそうだと答えると、
「じつは、私の末の息子が大和に乗っとりましたが、いまだに何の連絡もありません。それで海軍の方を見かけますと、失礼とは思いながら、息子の消息をたずねているわけでございます。もし、大和のことを知っておいででしたら、お聞かせくださいませんか」
どこか上品な感じのする老婦人で、口調もきっちりしていた。
「息子さんのお名前は何といわれますか」
三笠は、自分は「大和」に乗っていたとは言わず、訊ねた。
「はい、息子は、ワリザヤサダミと申します」
三笠は頬《ほお》がこわばるのを感じた。
割鞘貞美は、三笠の部下だった。上等水兵である。二番副砲の照尺手だった。
「わかりました。ここに私の住所を書いておきますので、一度たずねてきてください。そのときまでに、調べておきますから」
三笠は、そう言った。
まだ戦争は終わっていなかったので、「大和」のことは口にできなかったし、そのときは連れもいた。
あれは、敵の攻撃が止み、射撃を中止しているときだった。鉄扉をはげしく叩く者があった。三笠が鉄扉を開けると、真っ青な顔をした割鞘上等水兵が飛び込んできた。
「二番副砲左舷に命中し、動かなくなりました。砲員長ほか六名、戦死です!」
「それで、大丈夫か」
「はい、旋回手が指揮しておりますので、大丈夫です」
割鞘はそのまま、走って帰りかけた。
「おい、敵の攻撃がまた始まったぞ。もう少し待ってから行け!」
「ハイ。しかし、自分は帰ります」
と、割鞘は元気に答えた。
「そうか、気をつけろよ」
割鞘は十八歳だった。彼は勢いよく鉄扉から外へ飛びだした。そのあと、彼がどうなったか、三笠も知らなかった。しかし、呉で残務整理をしているとき、割鞘が戦闘配置に戻ってすぐ壮烈な戦死を遂げたことを知った。
三笠はやがて、訪ねてきた老婦人に、自分が同じ艦にいて割鞘は部下だったこと、亡くなられたようだとだけ語った。しかし、実際の戦闘状況については語れなかった。老婦人が帰ったあと、三笠はぐったりした。このころから結核を発病していたことにもよるらしいが、自分は生き残っているという負い目が胸の奥を刺した。なぜ、おまえは生きて帰ってきたのかと詰問されなかっただけに、かえってつらかった。
海軍では艦をいかに守るかが第一の命題だった。艦を放棄するときは、死を意味していた。
三笠は「総員最上甲板」を聞いたとき、一瞬、動揺した。艦を放棄するなどということは、だれにも信じられなかった。艦が沈まないうちに海へ逃げること自体、自殺行為だと思ってきた。それゆえ、艦長にとって、総員退却を命令する潮どきが最もむずかしいといわれる。配置こそが死所とされ、「総員最上甲板」の号令のみが海軍の将兵を配置から引き離し、任務から解放する。だから、「総員最上甲板」の決定は艦長の判断にかかっている。もし、沈まないうちに命じたとなると、あとで大きな問題になった。
海軍では「総員退去」が明確に語られた戦訓はないといわれる。その参考とされるのは、大正八年制定の「艦船職員服務規程」の中の艦長に関わる事項に記された次の一文である。
「艦長ハ其ノ艦遭難ニ際シ之《これ》ヲ救護スルノ術全ク尽《つ》キタルトキハ御写真ヲ守護シ乗組員ノ生命ヲ救助シ且《かつ》重尊ナル書類物件等ヲ殊ニ機密書類及軍機兵器ノ類ハ主管者ニ其ノ処分ヲ命シ又ハ自ラ之ヲ保護シ已《や》ムヲ得サルトキハ適宜防止スヘキ処置ヲ施スヘシ」
有賀艦長が、第九分隊長の服部信六郎大尉に「御写真を守れ」と命じたのも、この規定にのっとった処置であり、暗号書を守るために、暗号員が艦と運命をともにすると伝声管から伝えてきたのも、そのためだった。
艦においては、戦闘中の生死もまた、紙一重の運不運である。どの配置が危険であるかは、戦闘の状況による。航空機の攻撃が主体となった場合は上部配置に死傷者が多くなるのは常だったが、「大和」の場合、下部配置に死者を輩出させたのは艦の極度の傾斜で脱出が不可能だったことによる。「大和」という大きな甲鉄の箱が不幸にも数多くの死者を生んだともいえる。
乗組員たちは、配置を「死所」とし、みずからの墓とも思っていた。とくに「大和」は不沈艦といわれたから、艦がいちばん安全なのだと信じていた。もし「大和」が航行不能になったとしても、沈んでさえいなければ、「大和」の生者と死者の数値は、逆になったかもしれない。
三笠は、佐世保に入港したとき、艦の健在だった駆逐艦の乗組員が自分たちに比べて晴れやかな様子をしているのが羨ましかった。彼らは正装し、「願いまあす」と元気に桟橋を降りてきた。
「雪風」に救助された三笠にはもう一つ覚えていることがある。航行不能になった艦を味方の手で処分せよ、という命令が下っていた。当時、「雪風」には九三式魚雷≠ェ積みこまれていた。日本海軍独得の酸素魚雷で、気泡を吹かず海中を走る自慢のものだった。白い雷跡が海上につかないため、敵には発見しにくい魚雷である。「九三式魚雷の威力を見よ!」と水雷長は叫んで、発射させた。しかし、いつまで待っても何の音も聞こえなかった。魚雷は停止している艦をはずれて、どこかに消えた。そこで、「雪風」の大砲を発射した。一発の砲弾で艦を沈めた。このとき、処分されたのは、「磯風」である。愛艦を失ったとはいえ、同じ「雪風」に救助された「磯風」の乗組員のほうが、「大和」の人々より、活気があった。
玉音放送は呉で聞いたが、雑音がひどく内容はよく聞きとれなかった。三笠にとっては玉音放送による突然の戦争終結より、四月七日の「大和」沈没のときのほうが衝撃は大きかった。
戦争が終わって半年後、三笠は仲介の人があって尾道の日立造船所の守衛になった。ようやく手にした働き場所だった。しばらくして、会社の健康診断で肺浸潤と宣告された。一瞬、目の前が暗くなった。職を失うことが怖かった。尾道へ行くころから体の不調を感じていたが、そうだったのかと思った。休職となり、造船所の療養所へ四か月通ったがよくならなかった。当時、療養所では肋膜に空気を送り込む気胸《ききよう》療法による治療を指導した。三笠の肺には水が溜まり、肩を動かすとチャポンチャポンと水の音が聞こえた。三笠には、悲しい音だった。知り合いの世話で、医療保険を国に申請した。やがて、養子先には居づらくなった。国立賀茂病院賀茂診療所へようやく入院できることになった。
病院へ行った。受付にはだれもいず、がらんと殺風景だった。奥のほうをのぞいていると、
「三笠じゃないか」
声をかけられた。海軍でいっしょだった三輪という男で、口髭を生やしていた。この病院の庶務課長をしていた。三輪は三笠の入院の話を聞くと、院長のところへ連れてゆき、自分の海軍の同年兵なのでよろしく頼むといってくれた。
三笠は第五病舎に入った。窓ガラスが全部割れている病舎で、三階建てだった。六人の相部屋で、三笠より若い者たちがいた。病院といっても規則はないにひとしく、若い患者たちは夜になると、酒を飲みに町へ出かけたりした。
三笠は病院に入る前、身辺の整理をした。戦後は博文館の当用日記に、「大和」でのことを克明に書いていた。しかし、入院前、その日記を風呂を焚《た》きながら焼いた。勤め口をようやく見つけてからも、
「おれはなんであのとき死ななかったのだろうか。死んだ戦友たちに会ったとき、どういう顔をしたらいいのだろうか。生き残って、何をしてきたんかと言われたら、どう答えればよいのだろうか」
とくり返し、考えた。
三笠にとって、「大和」は誇りだった。この戦争はおれたちがやらなければ、と思っていた。あれも、海軍に入ってからの教育によるものだったのか、と自嘲した。しかし、今さら死ぬ勇気も自分にはない、と思った。
病院での生活が始まってしばらくしたころ、手術をすることになった。昭和二十四年だった。医者は、
「この手術は危険性が大きい」
と言った。今だったら決して医者も口にしなかっただろうが、まだ世の中は騒然としており、医療設備も充分ではなかった。このとき、三笠は、
「ええ、どうせ死に損ないだから、大丈夫です」
と答えた。生き残りではなく、死に損ないという意識は、三笠の胸に底流していた。「大和」沈没の一瞬から、肉体は救助されたが、心は死と対峙していた。
三笠が手術を受ける前、隣のベッドの若い男が死んだ。喀血《かつけつ》し、痰《たん》をのどにつまらせ、息を引きとった。広島大学の講師で、もの静かな口調で語る男だった。
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さえざえとこの国原に秋立てば
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われの病ひの癒えゆく思ひ
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という一首を残していた。三笠よりずっと若かった。
この一首は、三笠の胸にふかく落ちた。
「大和」で死に損なった自分が、病院で息を引きとる若い男を看とっている。「大和」では砲塔内で戦死者を見なかったし、血まみれの甲板を見ることもなく海に引き込まれた。同じ配置の部下たちは海中で死を迎えていた。その自分が、こうして息を引きとる男をじっと見ているのが不思議でならなかった。
三笠には、なかなか麻酔がきかなかった。最初の手術では右の肋骨を五本切りとった。一〇日後には残り四本を切り、計九本切りとった。二度目の手術はクリスマスの日だった。この手術のさなかに、母のタマヨがなくなっていたが、三笠は知らなかった。正月がすぎて、兄からの手紙で知った。兄弟が次々と戦地から帰り、抑留されていた末の弟がシベリアから帰ったのが、母の亡くなる少し前だった。兄の手紙には、子供たちがみな無事に帰って、安心したように静かに死んでいったと書かれていた。三笠の病院には、母から月に千円が送られていた。乏しいやりくりのなかで送ってくる金だった。三笠はすでに三十歳になっていた。
三笠は療養中、毎日、焦りと不安にさいなまれた。十七歳で海軍に入り、軍隊しか知らなかった。それが三笠の人生の出発だった。戦争が終わり娑婆《しやば》に戻ると、不本意な入院生活だった。
まだ造船所の療養所へ通っているころ、本屋で偶然「サロン」(昭和二十四年六月号)という雑誌を見た。小説「軍艦大和」という題で、巨艦轟沈の真相とあった。吉川英治、小林秀雄、林房雄、梅崎春生の「絶讃の言葉」が載っていた。作者は吉田満とあった。吉田満は若い士官で「大和」に乗って三か月余だったので、三笠は知らなかった。
入院する前、養子先に居づらくなった三笠は、当時ミシン屋をやっていた兄の手伝いをしていた。二十三年二月、三笠は離婚した。結核菌を持った者が働くこともままにならず、いっしょにいるのはつらかった。
「わしの辛抱がたりんかった。済まんことをした、あれには気の毒したと思うとる」
三笠の述懐である。
広島駅の近くにはマーケットがあった。いわゆる闇市で、ミシンの部品も売っていた。機械いじりの好きだった三笠は、ミシンを買ってくれた農家へ修理によく行った。そうした手伝いしかできなかった。そのころ、広島駅はプラットホームしかなく、焼け野原にぼつぼつバラックが建ちはじめていた。広島駅からは宇品《うじな》の海のほうまで見渡せた。八丁堀のあたりは、雨の夜、リンが燃えるなどという噂もあった。広島には橋が多いが、橋げたはどれも壊れるかヒビが入るかしていた。
ある日、マーケットの店でお茶をもらって昼食をとっていると、青洟《あおばな》をたらした五、六人の子供が近寄ってきて、食い入るように三笠の食べるのを見ていた。
昭和二十六年秋、三笠はようやく退院した。トランク一つを持って広島に出てきた。埋立地の南観音町に間借りをし、ミシンのセールスや修理の仕事を始めた。教員やさまざまの職業の人たちが間借りしていた。気の合った者たちが集まって、ときには食事をしたりする。彼は楽しかった。戦前は海軍、戦後は病院暮らししか知らなかった三笠には、遅れてきたもう一つの青春だった。
ある日、同じ間借り仲間だった教員の女性が、近くに住む女友達を連れてきた。一目見て、小柄でかわいい女性だと、思った。つたゑといって、近くの病院で会計の仕事をしていた。
「でも、近々運輸省の中国海運局へ勤めることになってますの」
つたゑは三笠に言った。海か、彼はふっと懐かしく思ったが、自分が「大和」というフネに乗っていたとは言わなかった。
三笠は毎年四月七日がくると、朝から落ち着かなかった。時計を見ながら、あッ、もう偵察機がくるころだ、戦闘食が配られたな、海へ投げだされたころだと、分きざみにあの日のことを思い出した。しかし、それを語る相手もいない。たとえいたとしても、同じフネに乗った者でなければ本気で聞いてはくれないだろう。
ときどき、肉が手に入ると、間借りの仲間たちはすき焼きパーティを開いた。そんなときはつたゑも呼ばれて参加した。海軍、病院とつづいた長い生活のあとに、別の世界が呼吸《いき》づいていた。しかし、昭和三十一、二年になっても体にはまだ自信がなく、年に数回、高熱が出た。広島県|可部《かべ》町の療養所長だった米沢医師が広島市内で開業医をしていたので、ときどき、診察してもらった。おれはいろんな人に世話にばかりなっている。可部にいたころは同級生が彼の病気を聞き、毎日ヤギの乳を運んできて励ましてくれた。そして今は、南観音町の同じ間借りの仲間たちが自分のような者を親しく迎え入れてくれている。わけても、若いつたゑの存在が大きかった。だが、彼女と結婚するようになるとは考えてみたこともなかった。ひとまわり以上も年齢が離れていたし、一度結婚した彼には再婚など思いもよらなかった。そのうち、お互いの身の上話をするようになり、つたゑが台湾からの引き揚げで両親も兄弟も身寄りはだれもいないことを知った。
そのころ、三笠はパチンコにこっていた。根をつめるのでパチンコ店を出るとぐったりした。そういう三笠を見て、つたゑは、
「パチンコなんか、やめんさいよ」
と言ったが、三笠はそれでもやめられなかった。あるとき、つたゑは写真機を買ってきて、
「もう、パチンコはやめること。写真でも撮って気晴らしをしんさい。わかった」
明るい声で命令するように言った。
写真機は、そのころ売り出されたオリンパス・ペンだった。機械いじりの好きだった三笠は、今度は写真に熱中した。日曜日になると広島のあちこちを撮りに行った。広島はまだ焼け跡にバラックが建ったままだった。いつも小柄なつたゑがついてまわった。三笠が疲れを忘れてむきになって歩きまわる後ろで、
「もう今日はやめ……私、疲れました」
つたゑが音《ね》をあげる。ずっと年の若いつたゑがいつの間にか適当に三笠をいたわり、操縦するすべを身につけていた。三笠には若いつたゑの配慮が痛いように感じられた。
写真屋にフィルムを持っていき、現像、焼付けをしてもらうと、量が多いため金額がはった。そこで近所の知り合いの写真技師のところへ行き、現像や焼付けの技術を習った。海軍時代から機械方面に明るかった彼はすぐに覚え、自分で暗室をつくり、本格的に始めた。
昭和三十三年の初夏、三笠はつたゑと結婚した。彼は四十歳、つたゑは二十六歳だった。知り合って五年目になっていた。八丁堀にDPE屋の売り店があり、三笠はそこを買った。三笠にいわせれば、趣味が昂じてDPE業を始めたということになる。
「私は大和のこと、大層な手柄にいう人は嫌いでね、主人は聞かれても何も言わないところが気に入ったんですね。
結婚前でしたか、私の友達が大和に乗っていたのなら話してくれといったときも、何にも言わない。この人、大和に乗っていたというのは嘘かしらと思った。主人はね、言ってみたところでしかたのないことはいわんと言うのです。大和のことを話すようになったのは、徳之島の慰霊祭に行ってからで、結婚して一〇年も経ってからなんですよ。一つ、何かを越えたというか、ようやく明るくなりました。私は台湾からの引き揚げで両親も兄妹も身寄りはいない、物質というか有形のものは価値がないと思い込んでいたのが、大失敗のもとよね。この人のお金持じゃないとこ、気に入ったんですよね」
結婚前、つたゑは三笠のアルバムを見たことがある。「大和」のころの写真が貼られ、そこに書かれている文字を見て、胸を衝《つ》かれたという。
「写真の下にね、これは黒枠に入れるつもりで撮った写真なのに、生きてこれを見ているのはどういうことなのか、死んだ者は何も言わない以上、生きている者は何をすればよいのか……そう書いてありました。主人は、死んだ者の身代わりにはなれないといつも思っていたようなんですね」
つたゑが、徳之島の慰霊祭に行ったあとの三笠を何かを一つ越えたようだと見たのは、彼の性格をよく知り得た妻の言葉といえるかもしれない。
三笠は徳之島の荒れた海を眺めながら、ああ、亡くなった戦友が呼んどる、と思った。戦後二三年目になって生き残った戦友と再会し、あの四月七日の日のことをはじめて語れる、喜びも悲しみも、ともにわけ合う仲間がいることに心がやすらいだ。
帰りの「あまみ丸」の船室では、「大和」の連中が車座になっていた。八杉や糸川重明もいた。三笠は清水芳人副砲長がいるのを見つけた。二人は甲板に上がった。海は荒れ狂い、波が甲板に吹きあがった。
「これで、ようやく肩の荷が下りましたね」
清水が穏やかな口調で三笠をかえりみた。慰霊碑ができたことを言っているのだった。
「そうですなあ」
三笠は荒れた海を眺めながら、答えた。彼が清水を甲板に誘ったのは、戦後も二三年経って直属の上司だった副砲長に戦闘報告をするためだった。三笠はかいつまんで話した。清水は聞き役にまわった。清水は三笠が当時のことを正確に憶えているのに驚いた。
「しかし、なんですなあ……」
一応の報告を終え、三笠が言った。
「わたしらの撃ち方は、あれは邪道でしたわ」
三笠が自嘲的にいったのは、戦闘のさなか、射撃ができなくなったときのことである。三笠は「待止発射」を命令した。敵機の距離を測定し、その進行方向を定めて時限信管を調定するのでは、まるで撃つ暇がない。時限信管とは、弾の先に針のようにつけられた、発射して三秒から五秒で自爆を自由にセットできるしかけだった。
三笠は敵機が海上に現われたとき、すぐに撃つことを考えた。たとえ、敵機に命中しなくても、敵機の前で爆発すれば、相手が魚雷を落とすチャンスを少しでも少なくすることになると考えたのだ。測定して発射すると、砲弾は敵機の後方で爆発した。タイミングが完全に合わなかった。そこで、三秒に信管の時限装置を調定、敵機をつかまえると即座に撃つようにした。もともと、三笠は、射撃というのは、敵をおとすのではなく艦を守るためのものと考えていた。敵機が魚雷を落とすタイミングを崩すのにかなり有効だと思った。三笠のそのやり方はある意味で効果があった。のちに、アメリカ空軍のパイロットが、魚雷を落とすタイミングを計っていると、目の前で空中爆発が起こった。「ヤマト」はロケット弾を撃っているのかと思った、と語っている。敵パイロットに一種の恐怖を与えていたようだ。
しかし、三笠は、「あれは邪道でした」と清水に語った。
「いや、きみたちはよくやった。できうるかぎり奮闘したんですよ」
清水は二三年前の副砲長として、砲員長の三笠を労《いたわ》った。
三笠は、広島市白島の八丁堀の交叉点近くで写真のDPE業を営んでいる。広い道路に面した店構えは素通りしてしまうほどのささやかさだが、この店は、広島市内の「大和」の元乗組員や遺族たちのたまり場にもなっている。
三笠の店を訪ねてくる遺族たちの中には、山口博通信長の未亡人、葛上《くずがみ》芳子もいる。
夫人の姓が異なるのは、戦後に実家に戻ったからである。
海兵五二期の山口博の同期生には源田実や、「大和」の砲術長だった黒田吉郎がいる。
山口と結婚したのは、昭和十八年九月四日だった。九歳年長の山口は前妻を亡くし、幼い息子を抱えていた。このとき、初婚の芳子は、三十二歳になっていた。
いわゆる婚期が遅れたのは、末娘でしかも裕福な弁護士の父親にとりわけかわいがられていたことも影響していた。
「結婚というものが何か怖ろしいもののように思え、家の中で針仕事をしたり、吉田絃二郎の本が好きで、夢のように美しいことばかり考えているような、稚《おさな》いところがございました」
芳子は、しみじみと回想する。
芳子が、子連れの男との再婚を決意したのは、海軍中佐らしからぬ温厚な山口の人柄にもあった。そのころ、最愛の父を亡くし、安らぎを与えてくれるような身代わりを求めていた。
芳子の母親は士族の生まれであっただけに、
「女というものは、どんなときでも殿方には決して素顔を見せてはなりません。起きたらすぐにおしまいづけ[#「おしまいづけ」に傍点]をするようになさい。また、仰向けに寝るなどしてはいけません。かならずお腹を下にうつ伏せに寝なさい」
口癖のように言われて、育った。
そうした古風な女のゆかしさを慈《いつく》しみ、娘気分の残った稚さを大事にしていた山口は、
「結婚したからといってぬかみそ臭くならないでほしい」
と言ったりした。戦争もたけなわのころだったが、モンペ姿も好まなかったのは、ハイカラな気風のあった海軍気質を感じさせる。子供が好きで小児科医になりたかったが、貧乏だったので兵学校に行ったのだ、と語ってもいた。
山口が、「大和」の通信長となったのは、昭和二十年一月中旬である。呉鎮守府付の夫の転勤先が「大和」と聞かされたときは戦局も厳しい時期だっただけに、もう戦死だと心細さでいっぱいになった。
「フネに乗ったから死ぬとはかぎらんさ。ぼくの乗るフネの沈むときは日本も終わりなんだ」
海軍中佐だった山口が、「大和」を不沈艦と信じ込んでいたとは考えられない。多分、留守をまもる妻へのいたわりであったろう。
山口の最後の上陸は、昭和二十年三月二十六日だった。夜の十時すぎ、不意打ちに帰ってきた夫に、芳子は驚いた。呉の上陸桟橋から数キロの道のりを歩いてきたという山口は、
「外に出てみなさい。星がきれいだよ」
と声をかけた。
二人は、無言で空を眺めた。
「あの夜は、満天の星でございました。忘れもしません。主人との最後の夜でございましたもの。出撃の前でしたのに主人はそれにはふれず、帰らないつもりだったが、部下の方々が遠慮して上陸しないと悪いので帰って来たと申していました。星を見てましたら、急に淋しくなりまして、思わず淋しいと言いましたら、子供のようなことを言うなと笑ってました。
翌朝、家の前のたんぼのあぜ道を坊やとあの人が駆けっこみたいに走っていく後ろ姿を見たのが最後の別れでございました」
駅まで送りたかったが、姑に遠慮して家の前で見送った。
「大和」に戻った夫からはその後一通の便りもなかった。今まで離れていても感じたことのない空虚な気持に、ふいに襲われるようになった。夫との間の糸が突然、切れてしまったような、夫の息づかいが消えてしまったような不安にかられた。あとになって、山口が戦死した日からだったとわかった。
五月に入ったある日、
「博から便りはあるか」
舅がいつにない優しい声で訊ねた。
便りがないと伝えると、実は戦死したのだと告げられた。夫の弟が海軍士官で軍令部にいたため、情報が入ったのだった。舅の前では涙をこらえていた芳子は、部屋に戻ると息子を抱きしめ、思いきり泣いた。それから一か月というもの、悲しいというより苦しく、気が狂《ふ》れるのではないかと思った。ぼんやりとした状態が続き、舅に声をかけられても聞こえなかった。夜、眠っているあいだだけがせめてもの救いだった。
戦死の通知は、それから一年経ったころに届いた。一周忌を済ませてまもなく芳子が先妻の子を連れてひっそりと婚家を出ていった事情は定かでない。中佐だった夫の遺族年金は舅のほうにまわってしまったことさえ、語りたがらない。
実家に戻って一年後、母も亡くなった。昭和二十二年に広島市内の郵便局庶務課に勤務するようになった。娘時代に習っていた和文タイプが息子と二人の生活を支えてくれた。
「私、再婚などいっぺんも考えたことございません。思い出だけで充分、生きてまいれます。主人とは一年余の短い結婚生活ですけど、思い出すこと、多いんでございますよ。何かにつけて心の中に主人がおりますもの」
娘時代はさぞ美しかったろうと思われる芳子は、七十歳になっても品のよい玲瓏《れいろう》な老婦人である。静かな挙措《きよそ》には二三年間も職業婦人として働きつづけた面影はうかがわれない。今も、夫はかたわらにいるという芳子だが、ただ一つ恨みがましく思えるのは、山口が遺書を残さず死んでいったことである。一行か二行でもなぜ残してくれなかったのかと、夫に語りかけることも再三だった。その気持が氷解したのは、戦後も三六年間が経ってからである。昭和五十六年の秋に、夫の同期生で「大和」の砲術長だった黒田吉郎から、思い出を綴った『連合艦隊』という著書が贈られた。その中に、出撃前の四月五日の夜、機関長高城為行の部屋で黒田と山口と同期の仲間たちが最後の酒盃を交わす場面が描かれている。
「遺書は、書いたか」
と言う山口に、
「よせ、通信長。縁起でもないことぬかすな」
高城機関長が、とめたという。
芳子は、その一節を読み、とめどもなく涙があふれた。あの人が遺書を残さなかったのは、妻子を心にかけてくれたからだと、ようやく得心したのだった。
広島県呉市|長迫《ながさこ》の元海軍墓地の一角に、「戦艦大和戦死者之碑」が建立されたのは、昭和五十四年である。高さ三メートル、幅二メートルの自然石を二メートルの台座に据えた碑の周囲に、判明した二七六九名の戦死者名が銅板に刻まれてある。
夫の命日の四月七日には、この海軍墓地に詣でるのが芳子の楽しみである。銘板の前に立ち、「山口博」と刻まれた名を幾度も撫でさすっているうちに、気持も鎮まってくる。そのしぐさには、哀れに艶めいた風情さえ漂っている。
芳子は現在、息子夫婦と孫たちに囲まれて穏やかで静かな生活を送っている。孫たちが何か事があると、
「おじいちゃまに、ご報告しなくちゃね」
と仏壇に手を合わすのもうれしい。
広島市内に出たときは、三笠の店を訪ねる。
「大和を探索に行かれた三笠さんから、珊瑚礁の一片を頂きましたの。ありがたくて、きれいなケースに入れ、お仏壇に主人の写真といっしょに飾っております。お骨も遺品も何ひとつ、ございませんものね。この珊瑚礁のそばに、大和も主人も眠っているのだと思うと、大事な形見のような気がするのです」
近ごろ、芳子は死ぬことが怖ろしくなくなったという。死ねば夫のそばへ行かれるのだと思うと、早くおいでと手招きしてくれる気がするのだ。
「うちは、子供もおらんし、寝て食べていければいいと思っとる。うちは二人三脚というか、女房に食わしてもらっている」
と三笠は語る。
妻は中国海運局へ勤め、夫妻には子供がいない。
「女房も体のあっちこっち切っとってね、あんまり丈夫でないの。今辞めたら恩給もらえんし、年金がもらえるようになったら辞めてもええ。だけどそうしたら大和会にもあっちこち行けんようになるよと女房が言うとる。わしは一度失敗しとるけん、女房を幸せにせにゃいけん義務があるの」
三笠は慰霊祭と聞くと、どこへでも飛んでいく。ときどき商売のほうを忘れてしまうが、妻は、あなたの生き甲斐なんだからと笑っている。
「私はね、生き残った者はどうでもいいの。だけど、死んだものは生き還らない。彼らはね、何のために死んでったか、どう思って死んでったかと思うとね、何かしなければとウロウロするの。生き残った者は、やはり重い荷をしょって生きなきゃと思うとる」
「大和」の慰霊祭には再婚した妻たちはほとんど出席しない。その中で、一人、栗栖澄枝は出席している。「大和」で切腹した和田健三の妻である。再婚した夫の栗栖保弘は、慰霊祭への出席をすすめるという。
澄枝が夫の和田健三の切腹を知ったのは、戦後二三年経った徳之島での慰霊祭のときだった。そのとき、生存者の一人から、
「奥さん、あなたのご主人は腹を切られたんですよ」
と知らされた。
澄枝は真っ青になって何も言わなかった。あとで、ぽつりと三笠に、
「腹を切ってまで死なんでもよかったのに……」
つぶやくように言った。
澄枝の再婚した夫は、それを聞くと、
「そうか……」
と言って、しばらく沈黙し、
「自分で死ぬということはだれにでもできることではない。りっぱな死にかただ」
と妻に言った。
澄枝は和田との間に生まれた二人の娘を連れて再婚していた。その娘の結婚式に、三笠は招かれている。澄枝の夫の心配りだった。
「再婚した人のほとんどは、もう今さら何も言うてくれるなと言う人が多い。栗栖さんのご主人は立派だね。
最近は、大和会に入ってくる人が多うなった。一人でおることが淋しゅうなるのでしょう。年をとるというのはおかしなもので、若いときはできるだけ逃げたいと思った四月七日に遠まわりして回帰していく。やはり、わしにとっては、大和は青春だものね」
三笠は軍歌をうたったことがない。とくに「海ゆかば」は、葬式の歌なので、聞くのさえつらいと思っている。
3
竹重忠治は、ようやく仏間に通してもらった。萩《はぎ》市から持ってきた灯籠に灯をともし、仏壇に線香をあげた。合掌したあと、桐の箱から湯呑茶碗を取り出した。萩の窯元《かまもと》に頼み、特別に焼かせた湯呑茶碗だった。萩焼の一つひとつには、竹重の字で次のように書いてあった。
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菊水特攻隊 戦艦大和乗組 吉川忠一殿 昭和二十年四月七日 戦死
菊水特攻隊 戦艦大和乗組 瀬戸川義雄殿 昭和二十年四月七日 戦死
菊水特攻隊 戦艦大和乗組 川原 勉殿 昭和二十年四月七日 戦死
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竹重が取り出したのは、戦死した川原水兵長のために焼かせた萩焼だった。カバンの中には、残り一個が大事に入れてあった。最初の一個は前日、大阪の吹田《すいた》市で吉川忠一の遺族に手渡していた。
竹重が妻を伴って主砲射撃指揮所の戦死者三名の遺族を訪問する旅に出たのは、昭和五十四年六月二十四日だった。その日の早朝、萩市の自宅を出発してバスで小郡《おごおり》駅に出ると、新幹線で新大阪に向かった。大阪までは妻もいっしょだった。彼のカバンの中には、「大和」で通称トップと呼ばれた主砲射撃指揮所の生存者九名たちから託された墓前に供えるための品々が入っていた。灯籠と萩焼の湯呑のほかに、九名の仲間たちの心を集めた「感謝状」もあった。
吉川忠一の子息とは、昨夜の電話で待ち合わせ場所を決めていた。約束の銀行のあるビルの前は人で混雑していたが、彼の妻は、
「あ、あの方が吉川さんの息子さんよ。子供のころの面影があるわ」
すばやく見つけた。
三十代ぐらいの青年に走り寄り、彼の妻はその手を握った。青年のほうは覚えてないが、妻はまだ赤子だったころを知っていたので、目に光るものを溜めていた。母親が再婚したため奈良県の祖父母のもとで成長した。現在は二人の子の父親になって、大阪市東区で飲食店を経営している。竹重の妻は、
「大きく、りっぱになられて……」
とつぶやいた。
戦死した吉川一等兵曹は、昭和二十年一月に長子を得ていたが、三か月後の四月七日に戦死した。呉で竹重と吉川の家は、歩いて五〇メートルも離れていなかった。上陸が終わって艦に戻るときはいつも吉川が迎えに来たし、お互いの妻たちも親しかった。竹重が生還して呉へ戻った折、吉川の妻はまだ四か月にもならない長子の公《あきら》|を背負って訪ねてきた。なぜ、うちの主人は帰らないのかと聞かれ、竹重は思わず面を伏せるようにし、
「自分は急に転勤になって呉に戻ったので、知らんのです」
と答えた。切ない弁明だった。
竹重が佐世保から呉に戻ったのは、昭和二十年四月十七日だった。集会所の柔道場で残務整理をしたあと、五月一日付で呉鎮守府付の海軍兵曹長となった。いわゆる准士官であり、海兵団で一か月ほどの訓練を受けた。従来だと三か月から半年の訓練期間が必要だが、戦況が逼迫《ひつぱく》していたためか一か月で終わった。約一〇〇名がいっしょに訓練を受けた。七月四日には呉鎮守府付を命ず、の辞令が下り、「海兵団長の命令に服すべし」とあった。「大和」はすでになかったが、七月四日までは、「大和」の乗組員扱いとなっていた。大正八年生まれの竹重は、昭和十一年、「大井」に十七歳で乗って以来、一〇年間の海軍生活を送っていた。
呉の空襲のときは、当直で海兵団にいた。その日、七月一日は、日曜日だった。夕方までは、ときおり、雨が降り、妙に蒸し暑かった。六月二十八日に軍港の佐世保市、二十九日には岡山、下関に焼夷弾《しよういだん》が落とされた。マリアナを飛び立ったB29一六六機のうち半数の約八〇機が豊後《ぶんご》水道から呉上空に向かった。
空襲は真夜中に始まった。竹重は海兵団の防空壕に退避していた。無数の焼夷弾が投下され、山の手の和庄方面から火の手が上がり、最後に市の中心街が焼かれた。キツネ火が連なるように燃えはじめ、呉市全体は火の海になった。
竹重の入っていた防空壕の入口も炎で真っ赤になった。風のない晩だったが、市街地が燃える熱のため休山《やすみさん》へ向けて猛烈な風が吹きはじめた。
空襲は明け方にやんだ。戦闘配置のない彼は、一夜、恐怖におののいた。これは、「大和」の乗組員が一様にいうことで、戦闘配置のある者にくらべ、その恐怖心はくらべものにならない。
明け方になって空襲警報が解除されると、竹重は山の手の溝路《みぞろ》町の妻の住む家へ向かった。途中、山の側面に掘った防空壕の中に、何百人もの焼死体が折り重なっていた。道端にも黒焦げの死体がころがり、死体に取りすがって泣いている女の姿もあった。家も木も電柱もなく、道路は熱で熱かった。
溝路町の竹重の家も丸焼けだった。呆然として彼が顔をあげると、坂道を妻が青ざめた顔で下りてくる。無事だったかと、信じられないものを見るように妻を眺めた。妻も立ち竦《すく》んだまま、声もあげず彼をみつめていた。妻は、空襲の際には山へ逃げた。火が上がってきたら山の上から向こう側へ逃げろと夫に言われていた。蒲団《ふとん》に水を掛けて被《かぶ》ると外へ出たが、重くてたまらないので蒲団を放り出して逃げた。
翌日から、竹重は部下五〇人とともに、呉市内で死体処理に当たった。七月四日になると、呉警備隊に入った。もとは呉防備隊といっていたが、そのころは呉警備隊になっていた。防火用水に首を突っ込んで死んだ人も大勢いた。毎日、何十、何百という焼死体の回収作業を行なった。
焼け出された竹重は、妻とともに叔父の家へ寄宿した。彼の叔父は呉工廠にいた。四月八日の日、夕方のラジオで「戦艦一、沈没」と聞いて、彼の叔父は「大和」は沈んだと思った。叔父は竹重の妻にそれとなく彼の戦死を告げた。竹重が無事に帰ったとき、妻はまるで幽霊を見るような顔をした。
一〇日ほど死体回収作業が続いたのち、竹重の隊は「三角住宅」を建てる作業を始めた。応急住宅で、屋根だけのものだった。毎日、焼け跡に「三角住宅」を建てるため歩きまわった。数百軒、建てた。材木は豊富だったので来る日も来る日も建てた。
ある日、五〇人の部隊を連れて焼け跡に行き、材木に腰を下ろして新聞を読んでいると、竹重の持っていた新聞がピカッと光った。驚いて顔をあげ、しばらくすると鈍い大きな爆発音が広島の方面からとどろいた。まるで、遠雷の音のようだった。やがて、巨大な煙が立ち昇った。
「八木の火薬庫が爆発したんじゃろうか」
部下たちが、騒いだ。
午後になって、海兵団に戻ると、広島市が全滅状態らしいという噂が入り乱れていた。陸戦隊一個中隊がトラックを連ねて出発した。その中には八杉康夫たちもいた。
翌日、増援を求めて帰ってきた陸戦隊の連中から新型爆弾の威力の怖ろしさを聞いた。黒いものはすべて焼け、白いものだけが残っているという。空襲のときには白い毛布か頭巾をかぶって逃げるのがいいと真面目に論議された。
八月十五日に、呉海兵団で玉音放送を聞いた。原爆が広島に投下されたときも、日本はまだ敗けるとは思っていなかった竹重だが、とうとう敗けたのかと思った。涙がこぼれた。
その翌日、彼は森下信衛海兵団長の命令で「汽艇」に乗った。十数人の部下を連れ、柱島や大島など内海の島々をまわった。海軍の見張所のあった島から武器を回収するためだ。「汽艇」は五〇トン程度で、さらに小さい「通船」に乗り換えて見張所のある島の岸へ着ける。武器といっても一か所で二、三挺の旧式小銃が回収される程度だった。
海岸に立っている竹重に、残暑の日射しが照りつけた。瀬戸内海の波音は静かだった。蝉《せみ》しぐれが耳を圧した。油蝉やミンミン蝉である。水平線から巨大な積乱雲が盛り上がっていた。しかし、飛行機は一機も飛んでいない。戦争は終わったのだ、日本は敗けたのだ。これからの日本はどう変わるのか考えられもしなかった。「大和」の連中のほとんどが死んでしまい、今、自分だけが生き残って、波の音を聞いているのが不思議だった。八月の日射しに照りつけられながら、彼は波の音を聞いていた。
九月二十三日付で予備役編入となった。いわゆる除隊である。彼は妻の里の山口県|防府《ぼうふ》市へ帰った。
「なんで、萩《はぎ》へ帰らんの」
すし詰めの汽車の中で、妻が聞いた。
竹重は寂しそうに笑って、何も言わなかった。言えないというのが、正直な気持だった。敗残兵として、おめおめと故郷の萩の町に帰るわけにはいかなかった。十六歳で海軍に志願した彼は、萩の人々に申し訳ない気持だった。一か月ほど防府にいて、ようやく気持の整理をし、萩へ復員した。戦後、一五年間ぐらいは、「大和」の夢を見てはうなされた。
竹重の実家は、農家だった。彼は五人兄弟の五番目だった。長男は南方で戦死、四男は満州で戦死した。次男はシベリアへ抑留、三男はやはり満州で生きているのか、死んでいるのか不明だった。彼は萩へ帰ったものの居づらかった。家を出てゆこうとしたが、長男と四男を戦死で失った母親は、シベリアに抑留されている次男が帰るまで、せめて居てほしいと頼んだ。
戦後のゼロからの出発は、生えぬきの叩き上げの下士官だった者たちには、苦難の連続だった。十七歳で除隊した若い八杉康夫とはまた違った意味で、気持の切り換えに時間がかかった。竹重は、十八年秋に結婚した妻と二人の生計を立てるため、かつぎ屋まがいのこともしたし、萩市内で喫茶店も始めた。萩市で第一号の喫茶店だった。向かいの家の戦争未亡人と共同で始め、店の名前を「スミレ」とした。喫茶店といってもまだコーヒー豆など手に入らず、おしるこなどを売った。戦争帰りの仲間とタクシー会社をおこしたこともあったし、興行師をやって、浪曲や芝居など小屋に掛けたりもした。生活のために金になることならなんでもした。どんな仕事も元海軍下士官の律義さで、懸命にやった。生真面目すぎてどこか不器用だった。昭和四十一年には市内でボウリング場を始めた。子供が二人いて、男の子は大学に行かせたかった。ボウリング場は毎夜遅くまで営業し、生活は不規則になりがちだった。無理が重なり胃|潰瘍《かいよう》の大手術をした。よくなったかと思うと、今度は肝臓をやられた。しかも、艦から脱出するときの膝《ひざ》の傷が、ついに歩行不可能なほど悪化した。風呂に入るにも一人では入れなかった。肝臓と膝の悪化のため寝たきりの竹重を、愛知県知多郡南知多町から同じ主砲射撃所の方位盤旋回手だった家田政六が見舞いにきてくれた。家田は、そのときの竹重を見てもう死ぬと思った。奇蹟的に一命をとりとめた竹重の胸には、「大和」の遺族をたずねる魂鎮《たましず》めの旅に出たいという思いがやみがたく起きた。この命は自分一個のものではなく、「大和」の死んでいった仲間たちがもう一度生きろと返してくれた、そういう気持にかられた。山村の貧しい村から、食うために海軍に志願して、兵からたたきあげの下士官である三笠逸男にも通う心情だった。ただ、三笠の戦後は、死病との対峙から始まった。三笠はまた、自分が「大和」にこだわるのは、病気で人より「大和」と向かい合う時間が長かったからだ、と語っている。竹重の場合は、戦後二〇余年を生活再建のために走りつづけ、ようやく安定した矢先の死との向かい合いだった。子供たちも成長し、巣立ちを始める年齢にさしかかってからの発病だった。
昭和五十三年に山口県ではじめて、「大和」の元乗組員や遺族たちの全国大会があった。竹重は、このときに「戦艦大和会」というものがあるのを知った。この会は、徳之島に「戦艦大和を旗艦とする特攻戦士慰霊塔」が建立された昭和四十三年に生まれている。最初の会合はその年の十二月八日の開戦記念日に、大阪天王寺公園の天主殿で行なわれ、各地から四五名が集まった。森下信衛参謀長が昭和三十五年に死亡しているため、初代会長には、同期で沖縄特攻のときの第二水雷戦隊司令官の古村啓蔵がなった。古村が五十三年に逝去してからは、「大和」の主計長で、のちに副官として沈没を迎えた石田恒夫が会長となった。
竹重はこの会が一〇年目を迎えたときにはじめて出席し、遺族の名簿をもらった。翌年の正月過ぎから、山口県出身の遺族を訪ねる旅を始めている。全部で三四名を訪ねた。一口に三四名というが、本籍地はわかっていても、遺族は必ずしもそこにいるわけではなかった。彼はまず市へ着くと市役所で、村へ行くと村役場で、現住所を確かめた。最初に訪れたのは、小野春三の遺族の家だった。会って、「大和」の最後の状況を話した。大津郡|油谷《ゆや》町に住む椋木《むくのき》マツノという年老いた母を捜すのには、三日もかかった。田の中に二軒ほど家があり、ようやく見つけた。年老いた母親は、戦後三四年目に、息子の乗った「大和」の話を聞き、涙を流していた。
住所の確認できた山口県出身者の遺族たちを訪問する旅に決着がつくと、前々から念願していた、同じ配置の三人の遺族たちの住所を捜しはじめた。ようやく遺家族の住所がわかると、同じ山口県出身で美祢《みね》郡|美東《みとう》町に住む村田元輝に相談した。そして、同じ配置の仲間たちにも、連絡した。彼らは「戦艦大和トップ会」をつくり、年に一回会って当時のことを語り合う集まりをもっていた。
同じ戦闘配置だった仲間たちの会は、「大和」の元乗組員たちの中でも、この主砲射撃指揮所だけである。明治三十四年生まれの方位盤射手だった村田元輝を中心に、彼らは珍しいほどの結束を誇っている。九名の会員のうち、艤装《ぎそう》のころからの乗組員は村田と家田政六と艦長伝令の塚本高夫である。
村田は戦後、山口県の父祖伝来の土地に戻ると、農業のかたわら、町の公民館長や選挙管理委員などをつとめ、現在も矍鑠《かくしやく》として動き回っている。旋回手の家田は、生地の愛知県知多郡に戻り、伊勢湾に面した豊浜漁協の役員などをしていたが、今は勇退した。生きているうちに「大和」の正確な記録をまとめあげることを念願としている。塚本も故郷に戻り、愛知県北|設楽《しだら》郡の豊根村で、村会議員や森林組合理事をつとめている。
レイテ沖海戦のとき鷹を見つけた三島(旧姓中村)正助は、村田や竹重と同じ山口県出身だが、大津郡三隅町に住み農業をしている。岡山県出身の伝令の大西広と、島根県出身の金築正宇は、それぞれ故郷に戻り、家業の農業を引き継いだ。弾着修正で師範徴兵だった小林健は、教育の現場に戻り、岐阜県多治見市の中学校校長を経て、現在は土岐市教育委員会の教育長である。
七人がそれぞれ、海軍に入る以前の生活に戻っていたのに対し、竹重と同じように、戦後大きく人生を変えたのが、照尺手の岩本正夫である。島根県出身の志願兵で、十八年九月乗組みの岩本は、戦後、一から勉強し直そうと浜田高校に入学した。生還した当座は村の青年団運動に飛びまわっていたので、高校に入学したときは二十五歳になっていた。大学に進み、その後は外務省に入った。人事課を振り出しに、アジア局に配属されると、バンコクやシンガポールの日本人学校をつくって、その先がけになった。昭和三十四年に結婚し、ペルーに五年間滞在した後、アルゼンチン、パキスタン勤務を経て、昭和五十八年二月よりスペイン公使を務めている。
岩本の戦後もまた、亡くなった同年兵の遺家族を訪ねる旅から始まった。あの二十年四月五日の夜、同年兵ばかり十数人が集まって盃を交わし、生き残った者は墓参りすることを約束した。生存者は岩本だけだった。島根県の実家に戻った彼は、一二人兄妹の長男なので農家を継ぐことになっていたが、両親に、
「私は一回死んだ人間だから、長男でもあてにせんでください」
と頼んだ。二十年暮れから二十一年にかけ、リュックサックに米を入れると、同年兵の遺族の家を日本中に一人一人、尋ね歩いた。同年兵といっても各自配置が違うため、「大和」の最期を語ることしかできなかった。かなりつらい務めだが、海軍で身につけた克己心と約束を果たすという堅固な意思を支えに、和歌山出身の一人を除いては全部まわった。
竹重によると、「大和」時代の岩本は、勤勉で並みはずれた勉強家だったという。本もよく読んでいたが、哲学書や文学書ではなく、たいてい伝記類だった。
竹重は、この「戦艦大和トップ会」の仲間たちにも律義に連絡をとると、三人の遺家族に墓参の手紙を書いた。その中で愛知県に住む川原勉水兵長の妹からは、断わりの返事が届いた。彼はその手紙の内容に打ちのめされた。
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(略)私はたつた一人の兄が戦死して今年で三十四年、夢も希望もなくした女です。私も三十四年前は、日本の乙女として将来の楽しい夢を見て居りました。でも兄は、お前は結婚しないで待つてゐてほしい、僕が戦死した時はいい人を養子に迎へて、家を守つて欲しい、母さんを頼むと言はれ、全くその通りになつてしまひました。母は一人息子に戦死され、妹の私と暮して居りました。でも、五十年一月二十八日、七十七歳でこの世を去つてしまひました。
私も母となつて、子供がどんなに親にとつて大切なものか良くわかります。一人息子を死亡させ、どんなに淋しかつた事でせう。戦死の公報を受取つたとき、私が務めから戻つたら母が仏様の前で泣いて居りました。子供の沢山有る家は戦地に行つてもかへつてくるのに、一人息子の子供が私共の村でも亡くなつてゐます。(略)
大和に乗つてゐた人が生きてゐるのは不公平です。生存者はないはずです。生存者だけで戦死された大和の方々の法要でも何んでもやつて下さい。それが人間としてのつとめです。私はお話も何もききたいとは思ひません。妹として兄が気の毒でならないのです。今、生きていたらどんなに立派になつてゐる事でせう。(略)
貴男様達はどうして生きてゐられたのでせう。余ほどようりようが良かつたのですね。大和の映画を見て私は誰れも生きてゐないと思つてゐました。運良く生き残つてゐられる方々に申します。どんなに苦労しても命があれば倖せです。私は兄と二つ違ひですが、兄は心やさしく頭が良く、一度も叱られたり、いぢめられたりした事もなく兄妹仲がとても良かつたのです。今でも兄が生きてゐてくれたらと思はぬ日はないのです。生き残つてゐる人々にお逢ひする気持は御座居ません。うらやましくなるだけです。
[#ここで字下げ終わり]
竹重は便箋四枚にびっちり書き込まれたこの手紙を幾度も読んだ。彼はふたたび手紙をしたため、墓参りをさせてほしいと懇願した。生き残った者が負わねばならない責めだと、あらためて思った。返事はなかった。電話をかけたが、来てほしくないという返事は変わらなかった。大阪で吉川忠一一等兵曹の遺児と会った晩にも電話したが、「会いたくない」といわれた。しかし、彼は、妻と大阪で別れると、名古屋まで行った。名古屋から中央本線で高蔵寺駅に着いた。駅にはあらかじめ電話をしておいた小林健が待っていた。
「会うてくれんでも、家の前までは行くつもりですよ」
小林は、うなずいた。
竹重には、十九歳の川原勉のまだ少年のような顔が焼きついていた。ふっくらとした顔立ちで、静かで大声を立てることもなかった。手紙を読んでいると、妹の手をひき、遊んでいる少年の姿が思い浮かんだ。妹にとってかけがえのないたった一人の兄であり、母にとって唯一の息子だったはずだ。兄二人が戦死していた彼には、川原の母親の、身をよじるような歎きが理解できた。
運転をしている小林も、隣に坐った竹重も黙ったままだった。途中で何度か家を尋ねながら、車は川原の家に着いた。
川原の妹は、ようやく家の中へあげてくれた。しかし、黙ったままだった。二人は仏間に通された。りっぱな仏壇だった。萩焼の湯呑茶碗を供え、これでいっぱいお茶や水を飲んでくれと頭をたれた。竹重の眼から涙が畳の上へ落ちた。
竹重は、大和が沈没するまでの状況を静かに川原の妹に話した。死と生は、あのときだれにとっても紙一重だった。自分の生命さえ、どうなるのかだれにもわかっていなかった。
竹重の話を聞き終えると、川原水兵長の妹は、裏の丘に建つ墓へ案内してくれた。しゅうし無言だった。病みあがりの彼には、少しの傾斜もこたえて汗が噴きでた。だが、川原の妹は戦後三四年間、兄といっしょに「大和」で生きていたのだ、東シナ海の海底に沈んだ甲鉄の箱の中にいたのだと思った。「総員最上甲板」の命令が出たあと、それぞれが安全と思う場所へ退避した。しかし、今思っても無念なのは、下へ降りてゆく川原たち三人をとめる間がなかったことだ。それが生死の境目になった。
その日墓参をすませると、竹重は小林と別れて米原へ出た。大阪大学医学部にいる息子の車で、琵琶湖東岸を北上した。滋賀県と福井県との県境まで国道一六一号線を走った。戸数二五戸の山村の陽だまりに、瀬戸川義雄の家も、墓も眠っていた。集落の入口で待っていた瀬戸川の兄は、
「よう、遠方まで、おいででした」
と言って、深々と頭をさげた。
「あなたのお手紙を見て大喜びしとった母が、実は先週に急に亡くなりましてな」
瀬戸川の兄が、ぽつりと言った。
「おいくつでしたか」
「八十六歳でした。生きててよかった、義雄の話が聞けると喜んどりましたのに」
家には瀬戸川の父を中心に、兄妹や親戚の者まで大勢集まって、竹重の到着を待っていた。
竹重の報告を九十一歳になる瀬戸川の父親は、じっと聞き入った。耳が悪いというのに、涙を流して聞いていた。竹重が語り終えると、
「わしゃ、義雄が大和に乗っとったなんて、 今の今まで知らんかった」
瀬戸川の父は、つぶやいた。
家族の者たちは、戦後三四年間も、瀬戸川は舞鶴の鎮守府へ出征したと思っていたのだ。瀬戸川の家からは、たしかに呉より舞鶴のほうが近かった。瀬戸川は戦死したときは、十九歳の上等水兵だった。
「義雄の墓参りをしてやってください」
といわれ、竹重は近くの寺へ行った。家族、親族全員が案内してくれた。
合掌する竹重の耳に、寺の方丈さんのあげる読経の声が静かに聞こえた。竹重が立ち上がって振り向くと、琵琶湖の湖面が夕日に赫《あか》く焼けていた。
竹重が萩市に戻って数日後、川原勉の妹から丁重な礼状が届いた。
「御二人にお目にかかつて、三十四年間の私の気持が吹きとびました。今は亡き母も兄も草葉のかげでよろこんでゐる事と思ひます」
と手紙は結んであった。
正木雄荘の除隊は、昭和二十年九月初旬だった。毛布一枚と数個の缶詰をもらい、呉の駅から矢野に向かった。午後の電車に揺られながら、正木の心に重いものがのしかかっていた。正木の生まれた矢野の町から、彼の他に二人、「大和」に乗った。その二人とも戦死していた。遺族にその報告をしなければならなかった。
正木は「大和」が沈没したあと、休暇で二度、矢野の実家に帰っていた。最初に帰ったのは、昭和二十年四月十七日の矢野の春祭りのときであった。母は畑に行って留守だった。姉が呼びにいったが、帰る時間が迫り彼は家を出た。何べんも帰っていないのに、いつも母とは入れちがいになった。艦にいるときも、正木の上陸は三、四時間程度しか与えられなかった。仲間たちは呉の町を散歩したり、甘いものを食べに行ったりしたが、彼は矢野との往復の時間を計算し、一〇分か二〇分でも家にいる時間があると思えば、電車に乗った。沈没後に矢野に帰ったときも、「大和」が沈んだことや、まして、同じ町内出身の二人が戦死したことなど、口が裂けてもいえなかった。
しかし、戦争は終わったのだ。急速に十五歳の少年に戻った正木だったが、やはり軍人のはしくれとして報告に行かなければならないと電車に揺られながら思った。まだ、残暑はきびしく、駅に電車の止まるたび、蝉の鳴く声が聞こえてきた。
「大和」が沈没したときも、呉で空襲を受け、まるでザーと大雨が降るように焼夷弾《しよういだん》が降ってきたときも、まだ戦争は終わっていなかったので気が張っていた。しかし、今は違っていた。
戦死者の一人は、古吉博兵曹といった。正木より七歳ほど年長で、矢野の菓子屋の長男だった。正木が「大和」に乗って間もなく、艦内でバッタリ会った。
「おまえ、大和に来たんか」
古吉兵曹は驚いた声をあげた。機銃分隊だという。
その夜、古吉兵曹は正木の居住区を訪ねてくれて、
「おい、これを食えや」
と氷砂糖を一袋、正木の掌にのせた。それからもときどき、甘いものを持ってきてくれた。まだ煙草も酒もたしなまない正木には、甘いものが何よりもうれしかった。まあるい顔をほころばせ、礼をいった。それから一週間ほどして、上甲板で呼びとめられた。
「正木じゃないか?」
振り向くと、同じ町内の伊藤貢水兵長だった。従兵をしていた。正木より四歳ほど年上の伊藤も長男だった。従兵の伊藤はいろいろな物が手に入るらしく、たびたび、菓子を持ってきてくれた。二人とも同じ町内ということで、年下の正木の面倒を見てくれていた。
家に戻った翌日、正木は古吉の家へ行った。年とった母親が出てきた。
「正木雄荘です……」
といったまま、古吉の母親の顔を見たとたん、言葉が出なかった。
「ああ、帰られたんですかのう」
母親はそう言うと、
「うちの息子も、無事帰ったようですのう」
正木は思いきって、告げた。
「それが、大和は沈みまして、古吉さんは名誉の戦死を遂げられました。私はフネでいろいろ面倒を見てもらい、ほんとうによくしていただきました。残念です。おくやみ申し上げます」
言いながら、涙がふいに流れた。
しかし、古吉の母親は微笑を浮かべ、
「いいえ、私の息子は無事、帰ってきていると聞きました。そんなことはありません。無事じゃったです」
正木は母親のその言葉に胸を衝《つ》かれた。正木のいうことをまるで信じていなかった。
「息子は無事に帰っとるけん、じきに戻ります。そしたら、あんたも遊びにおいでなさい」
母親はくり返し、言った。
その日、家に帰った正木は黙りこくっていた。
「雄ちゃん、どうしたん?」
母のあや子が心配して聞いたが、いつもならなんでも話す彼も、その日のことは言わなかった。その夜、彼はうなされた。艦が沈没するときの夢を見た。古吉の笑った顔が夢枕に立った。古吉は彼に何度も頭を下げて消えた。夜中にびっしょり汗をかき、目を覚ました。
数日後、伊藤貢の家へ出かけた。気が重かったが、戦死した者のことを考えると、そんなことはいっていられなかった。
「やっぱり、ダメじゃったんじゃのォ」
伊藤の戦死を直立不動の姿勢で報告する正木に、父親は言った。
「わざわざ、のォ……。息子も本望じゃろう」
とつけ加えた。
正木の戦後も、食うための闘いから始まった。土方やトラックの運転手もした。十八歳になると運転免許を取った。そのころ、呉には進駐軍の兵士がたくさん上陸していた。街にはかつての海軍軍人の代わりに、アメリカ兵やイギリス兵がのし歩いた。
正木は知人の紹介で、「英連邦軍輸送隊」で働くことになった。かつての呉の軍需部が接収され、英連邦軍輸送隊が進駐していた。正木は、トラックの運転手になった。夜勤や当直があり、忙しかった。英語は正確にしゃべれないまでも、相手の話すことはだいたい理解できるようになった。外国の兵隊の下で働くのに、さほど抵抗も覚えなかった。しかし、休息のときなど、ふざけ半分にからかわれ、ボクシングのまねなどして殴ろうとするイギリス兵を逆に投げとばして、あとで大目玉をくらったりした。ベトナム戦争のとき、傷病兵をバスに乗せ、広島市内の見学に連れていったことがある。正木は彼らの底抜けの明るさに驚いた。
昭和二十九年に二十四歳で結婚した彼には三人の子供がいる。長男は幼いとき列車事故で頭を打ち、障害児になった。一人で食べることもできず寝たきりの長男は、正木の母が面倒を見ている。バスの運転手をやめたあと、正木は、東洋工業に入社した。現在、五十代前半の彼は、働きざかりの精悍《せいかん》な表情をしているが、髪は半ば白くなっている。二十二歳の寝たきりの息子を、
「うちの上等兵」
と呼び、その息子の行く末だけが案じられてならない。
広島県の世話人の三笠が「大和会」の会合のつど連絡するが、一、二回出たきりで、ほとんど顔を見せない。
「同年兵が生きとったら会って話すこともできるが、おらんものね。大和会に行っても偉いさんばかりで、わしのような若いのがおらんものね」
機銃の堀重信も、「大和会」の会合には出席していない。
「わしら、徴兵で、乗り組んで三か月余で大和は沈んでしまった。同じ班でただ一人しか生き残ってない。戦争いうても葉っぱの一枚みたいなもんで、何が何やらわからんうちに終わったというところでね。子供三人のうち長男が脳性小児麻痺だったんで、女房か私がそばについててやらんならん。いっぺんくらい慰霊祭にと思う気持はあっても、なかなかいけんのです」
堀重信は、岐阜県|本巣《もとす》郡|北方《きたがた》町でカメラ店を経営している。数年前、障害児の長男は二十九歳で亡くなった。
昭和二十年九月に復員した細谷太郎は、二十四歳になっていた。彼はサラリーマンやそれに類した生活はできそうにない、早く手に職をつけなければと焦った。ちょうど大阪で細谷の兄が料理店をやっていた。兄に一からやってみたいと相談した。
「板前の修業は、十代からやらなあかん」
と兄に言われた。二十四歳の彼は必死に修業した。兄が彼の師だった。「大和」にいたころから食べ物にはことのほか関心の深かった彼に、料理屋はふさわしかったかもしれない。しかし、そのころは高級料理は禁止されていたし、材料自体が手に入らなかった。竹串一つでも、竹を手に入れ、削って作らねばならなかった。砂糖も手に入れにくかった。しかし、結果的にはそれが幸いし、基本から習うことができた。彼が修業をはじめて三年目、兄が急死した。彼は、兄であり師である人を失い、ほうぼうに修業に出かけた。弟妹たちもいたし、早く一本立ちして、生活を安定させたかった。
戦後まもないころは闇の金がだぶついており、材料さえあれば商売になった。みんなが飢えていたから、食べ物の店は繁盛した。しかし、世の中が落ち着いてくると、人々はうまいものだけではなく変わったもの、高級な料理を欲した。二十四歳から板前修業をした彼には、そのころがいちばんつらかった。客の先を行かなければいっぱしの料理人とはいえなかった。
復員して二年ぐらいは、「大和」が沈み甲板が山のようにせりあがってくる夢を見た。客にも「大和」の話はしなかった。だが、いま、彼は言う。
「あのフネは、わしの青春や」
「大和」に乗れたことは大きな誇りであり、幸運であったとさえ思う。
細谷は現在、神戸の元町で小料理屋をやっている。神戸市の「大和」乗組員の世話人をつとめ、店内には「大和」関係の写真や本や額まで飾っている。客が「大和」のことを訊ねると、それがどんなにすばらしいフネだったかを語るのも、彼の料理[#「料理」に傍点]の一つになっている。
大阪市生野区鶴橋で、小体《こてい》な店構えの喫茶店兼お好み焼き屋を開業しているのは、鶴身《つるみ》直市である。
鶴身の戦後は、昭和二十一年初め、心斎橋付近で始めた喫茶店が出発になった。何人かの共同経営で、店名は「福助」とつけた。喫茶店「福助」は二年ほど続いたが、共同経営というむずかしさもあって、喫茶店から八百屋に変えた。八百屋と並行して、みやげ物屋もやった。当時|流行《はや》った甘栗屋もした。やがて、メーカー品を扱う店になった。しかし、しだいに世の中が安定してきて気持に余裕が出てくると、共同経営は破綻《はたん》した。
昭和三十年ごろ、店は行き詰まり、鶴身は独立した。経営が破綻する少し前、鶴身は店の近くに「大和」の遺族がいるのを知った。彼と同じ主計科の小倉森之助上等水兵の母親で、一人暮らしをしていると耳にした。彼は店の休日、地図を頼りに小倉上水の遺族をたずねた。建てつけの悪い玄関の戸を開けた。焼け跡に立った小屋のような家に、七十歳すぎの小倉上水の母はひとりで住んでいた。すでに、小倉の父親は亡くなっていた。
小倉の母親は、なかなか上へあがれとはいわなかった。それでも少し話しているうちにようやく、お線香をという鶴身をあげてくれた。
「うちの息子も若かったが、あんたもまだ若いね」
仏壇に向かった鶴身の背後で母親はいった。
「わしも、もう養老院へ行かなあかん年になってしもうたわ」
彼は小倉の母親を慰め、はげましてその家を辞した。
秋の空が抜けるように青かった。連れ合いも一人息子も失い、小倉の母親は年齢よりずっとふけていた。鶴身は、あてもなく心斎橋付近を歩いた。
大阪の町は、復興のエネルギーに満ちていた。しかし、鶴身の心は沈んでいた。生きて帰るつもりで、水上特攻に行ったのではなかった。鶴身も戦死した小倉も、昭和十九年の入団で、まだ二十歳にもなっていなかった。「大和」で娑婆っ気を短期間に抜かれ、最後は、国のために沖縄に向けて出撃した。鶴身は生きて帰れるなど思ってもいなかったのに生還し、日本は戦争に敗れた。頭にひどい火傷《やけど》をし、戦後しばらくは髪も生えてこなかった。
鶴身が独立して現在の場所へ店を開いてしばらくしたころ、すぐ前の家がやはり「大和」の遺族で、彼より四歳年上の主計科の棚橋水兵長の家だとわかった。ある日、心を決めてあいさつに行った。棚橋の両親は健在だった。鶴身は、「大和」の最期のことを口ごもるように語り、線香をあげて帰った。両親は二人とも黙って鶴身の話を聞き、言葉少なだった。その夜、鶴身は「大和」から海へ投げ出される夢を見た。目が覚めると、体じゅうに汗をかいていた。
昭和四十三年に大阪天王寺で第一回の「大和会」が開かれたとき、鶴身も出席した。鶴身が「大和会」のことに熱心になったのは、そのときからだった。彼は店の仕事が終わったあと、遺族名簿づくりのため、住所確認の手紙を書いた。かたわらで宛名は妻が書いた。大阪府出身の戦死者は総員三二〇余名と判明したが、連絡先の半数は戦災により行方不明だった。
戦争が終わると、大森義一は生まれ故郷の小豆島の土庄《とのしよう》へ戻った。家族は小豆島を引き揚げ大阪に家を持っていたが、空襲で焼かれた。土庄には、両親と戦争から帰った弟と、三人の妹がいた。長男が戦争から戻ってきたのは、翌年だった。
大森は小豆島へ帰ったが、何もすることがなかった。土方をやり、井戸掘りをやり、とにかく何でもやった。主計科だった彼は呉で残務整理をやっていたときに乗組員名簿もつくったので、遺族を訪ねて線香をあげたかった。
彼は山口県萩市出身の平田忠夫兵曹の遺族を訪ねた。平田兵曹は彼の直属上官だった。配置に爆弾が落ち、全身に火傷《やけど》を受けて艦橋に報告のため上がってきた。その後、平田兵曹がどうなったかはわからない。火傷で皮膚がズルズルになっていたので、海に投げだされても体力が消耗していて助からなかったのかもしれない。
大森は平田兵曹の遺族に会ったあと、帰りの汽車の中で、もう二度と遺族を訪ねるのはやめようと思った。彼は招かれざる客だった。母親は横を向いて涙ぐんでしまい、兄という人も来てほしくなかったという態度は、最初から帰るまでつづいた。すでに結婚していた平田兵曹の妻にも泣かれてしまった。息子の死を認めたくなかった母親は、大森の訪問で確実に死を宣告され、口もきかなかった。
大森は、生きて帰ったのが罪悪のような気持に襲われた。なんで、おまえだけ生きて帰ったのかといわれているようで、いたたまれなかった。
「これは生きて帰って、遺族の方を訪ねた人でないと、わからんと違いますか」
と大森はいう。
大森を目の前に見て、遺族は信じられないのだった。息子や夫の戦死の報告は、ありがた迷惑ということなのだ。
小豆島にいた大森は、呉で復員船の乗組員を募集しているのを知った。八人兄妹の次男である彼は、いつまでも小豆島にいる気はなかった。昭和二十一年五月十一日付で辞令がおり、十二日から復員船「二〇号輸送船」に乗った。辞令には「月給六十五円を給す」とあった。何度か航海したあと、この輸送船は台湾の沖、シンガポールへ向かう途中で大嵐に遭って座礁した。台湾で待機したがどうにもならず、呉へ戻った。輸送船には大阪出身の天野という主計科の男が乗っていた。別れるとき、
「何か仕事があったら、世話してくださいよ」
大森は頼んで、別れた。
座礁した輸送船は二〇〇トンの船で、すでに占領軍マッカーサー司令部の指揮下にあった。呉は、戦後、マーケットや闇市が立ち、怖い街になっていた。ぶっそうな街で、毎日何か事件が起きた。彼は呉の人事部を二十二年五月にやめ、大阪の奥村組の機材部に入った。天野が経理課にいて、そのツテだった。彼は三年ほどいたが、事情があって辞めた。独立して仕事を始めた。しかし、半年ももたず商売は失敗した。ふたたび製作所に勤めたが、そこも二年ばかりで辞めた。それから大森は、知り合いと二人で大平精器という会社をおこし、現在に至っている。
最近、大森は鶴身直市から大阪にいる遺族のことを聞いた。尾崎兵曹の九十歳になる母親が健在だということだった。大森の家にも何度か電話がかかり、息子のことを聞かせてほしいといわれた。尾崎兵曹は東京の経理学校から、呉海兵団へ大森たちを引率していってくれた人だった。
「私は、よう行かんでおるんです。息子の消息を聞かせてくれいうても、お婆ちゃんにしたら小野田少尉のように、どこかの離れ小島にでも生き残っとるんやないかと思っとるんと違いますか。私、九十歳のお婆ちゃんを泣かしとうないですわ。おまえらだけ助かりやがってと思われへんかと思うと、行きにくいですよ。私は、卑怯者《ひきようもの》でっしゃろか?」
大森は仕事から手を引けるようになったら、一人で戦友たちの墓参りに行こうと思っている。だが遺族の家を訪ねようとは思っていない。晩年は、生まれ故郷の小豆島の土庄に帰り、その土地で妻と静かに暮らしたいと、すでに家も用意してある。小豆島は、島四国八十八か所のある巡礼の地でもある。
佐世保の病院で高橋弘が心配していた両足切断の表《おもて》専之助は、九死に一生をえて生還していた。
表は、昭和十八年の師範徴兵である。「大和」には十八年七月に大竹海兵団の同期三〇名といっしょに乗った。一四分隊運用科で戦闘配置は中甲板の右舷後部の応急指揮所である。いっしょに乗った三〇名のうち、生き残ったのは福山市で公民館長をしている大村茂通と表だけだ。大村も師範徴兵である。
師範徴兵は、「短期現役兵」と呼ばれた。現役期間は、一般の者は陸軍が二年、海軍が三年と定めていたのにもかかわらず、教職についていた者は五か月ですんだ。これは昭和二年の兵役法で制定され、略して「短現」と呼ばれた。政府も軍部も教職の重要性を認めた特別の措置だったが、この特典も昭和十八年から一般徴兵と同じようになり、満期になるまで務めることになった。ただ、進級は従来どおりに一般徴兵より早く進級する。その代わり、年功を積んだ下士官が階級章の上に黄色い山形の「善行章」のマークが三年に一本ついたのに対し、マークはもらえなかったので、「ボタ餅」といわれた。「ボタ餅」といえば、「ああ短現か」とか「師徴か」などと軽視される一面があった。
表は三人兄妹の長男で、早くに両親を失い、祖父母に育てられた。教師の道を選んだときも次代を背負っていく子供たちの教育を、意義ある仕事とおもっていたが、兵役を短期間で務め終えるという魅力も大きかった。軍隊は好きではなかったので、甲種合格になったときは便所で泣いた。
彼は海中につき落とされた瞬間、気を失った。ふと、専之助しっかりせいという祖母の顔が浮かび、気がついたときには海面に浮き上がっていた。丸太につかまって足がしびれるのでさわってみると、肉が手にふれた。「大和」が誘爆を起こした瞬間、鉄片でやられたのだ。怪我をしたと知った瞬間、これでもう戦争に行かなくてすむとうれしかった。助かるかどうかということは念頭になかった。
「冬月」に救助されたときは、上から梯子《はしご》を下ろしてもらい引っぱりあげてもらった。止血して、包帯を巻いてもらっていると敵機が来た。表は便所にほうり込まれた。のどが猛烈に渇き、便所の中に流れている水を飲んだ。佐世保の病院で一一人の血をもらい、ようやく一命をとりとめた。その後、佐世保から呉の海軍病院へ、つづいて鳥取の三朝《みささ》病院へと移された。三朝で終戦を迎えたあとも、松江の日赤病院、広島県|甲奴《こうぬ》郡|上下《じようげ》町立病院、さらに大竹国立病院、別府の亀川病院と転々とした。義足が完成したのは、昭和二十一年秋だった。
義足ができると上下小学校の教員に復帰した。上下は三次《みよし》盆地の山中にある集落で、表の生まれた土地である。
教壇に立つ表は、戦前と戦後とでは生徒に戦争の伝え方が変わったのに気づいた。
彼は、生徒たちに、
「米軍さんが進駐してきても悪口をいうてはならん、米軍さんは日本を守ってくれよるんだ」
まず、こう語ったという。
それにしても、彼は、自分たちが戦場に征《い》くことで守ろうとした子供たちが、進駐軍の兵隊たちに易々《やすやす》と手を振り、チューインガムをせびるようになるとは思いもしなかった。あまりの素直さに、かえって拍子抜けした。
ただ、戦争に征った大人たちの一人として、「戦争はもういやだという感触」は生徒たちに伝える責任があると思った。
竹重といっしょに「大和」の遺族を訪ねた師範徴兵の小林健は、
「教育の現場に戻った当初は、そのうち仇《かたき》をとってやるという気持がありましたね。あのりっぱな大和が沈み、たくさんの戦友が死んだという、わびしさ、怒りからでしょうね。しかし、子供たちの顔を見ているうちに、戦争は悲しいものだ、二度と子供たちを戦場に送りこんではいけないという気持に変わっていきました。教育というのは恐ろしいですからね」
小林は、岐阜県多治見市内の陶都中学校の校長だったころ、毎年八月十五日がくると、全校生徒に、「大和」に乗っていたときの話をした。しかし、そうした話をすること自体、好戦的に取られてしまうおそれがあった。戦争を語ることのむずかしさである。そんなとき、小林の脳裡に浮かぶのは、もの悲しい、一枚の絵のような光景だった。
それは、「大和」が沈没し、横瀬にしばらく収容されたのち呉に戻って間もないころのことだ。
連翹《れんぎよう》や沈丁花の咲く呉の坂道を歩いていると、直属の分隊長で発令所長でもあった服部信六郎の家の前を通りかかった。ふと、垣根ごしに見ると、まだ若く美しい服部の妻が洗濯物を乾していた。その静かで平穏な物腰を見ていると、小林は胸を衝かれた。夫は今ごろどこかで、元気に活躍していると信じ切っている姿だった。
彼は、艦の傾斜復原が不可能になったとき、服部が御真影を守って私室に入り、内側から鍵をかけて艦と運命を共にしたことを知っていた。しかし、服部の妻は、夫が戦死したことなど夢にも思っていないだろう。いずれ、服部の妻のもとにも夫の戦死の公報が入るだろうが、そのときの悲嘆にくれる姿を思うと、じっとしていられず、逃げるようにその場を離れた。
小林はまぶたの裏に、そのときの光景や、同じ戦闘配置で亡くなった三人の戦友たち、親しかった同年兵の姿を重ねながら、「大和」を通して戦争というものの怖ろしさをくり返し語るようにしたいという。
表専之助はまた、
「天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはずみであって関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不始末でもしでかしたら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、そのほうが心配でしたね。自分の責任で、家族の者が非国民と呼ばれ、いわゆる村八分にあってはいけんと、まず家族のことを考えました」
表と同様の危惧《きぐ》をもらす元乗組員たちはかなり多い。これは、とくに徴募兵の人たちには共通した切実な思いだったのか、七分隊機銃の西中織三も、くり返し、強調した。
「わしは、フネでよう叩かれたけんのう、なんぼ飛び込んで死のうと思うたかしれん。死なんでいたのはのう、新兵のときに、おまえら、自殺したり逃げでもしたら遺骨が赤い風呂敷に包まれるといわれたからじゃ。手に爆弾があたりゃ、わし病院に行けるのにと思うたのう」
大正十年生まれの西中が、「大和」に乗ったのは昭和十九年である。十七年の徴募兵である彼は、二十三歳になっていた。
この西中の戦後の出発も、決して順調とはいえない。闇屋をしていたこともあったし、広島の山中に魚の行商にも行った。ようやく生活が落ち着いたのは、昭和二十五年になって尾道の市役所に入ってからだった。三〇年間勤めあげて停年になると、間もなく中風で倒れた。その後遺症で片手、片足が不自由になり、家の中に引きこもっている。
「大和では楽しい思い出はあまりない」
という西中は、「大和」関係の会合にも出席したことがないが、尾道の海辺の村にある彼の路地奥の家には、親類の者がつくったという「大和」の模型が飾ってある。
「戦争はもう、一代でけっこうですな。大和は巨大な棺ですよ。若いものを奪った墓場だと思ってます。ぼくはね、考えようによっては、足がなくなってよかったと思っている。戦死者や遺族に対して、足がなくなってまだ言い訳がたつ、弁解がたつといいますか、元気に帰ってきておったら、どうだったんだろうと思いますな」
風呂に入るときと夜寝るときだけは、義足をはずすという表専之助は、述懐する。
表の結婚は、昭和二十二年の暮れである。二十五歳のときで、妻は一つ下である。見合い結婚の妻は、
「私らは戦争中の女ですから、足がない、手がないというても、さほど抵抗がありませんでしたね。かえって私は、まだ若くて足がのうなって、精神的にも苦労しとるから、ふつうの人よりはいろいろ考えも深いだろうと思って、結婚しました」
と語る。
表は上下小学校教員を経て昭和二十六年に、広島県甲奴郡吉野村の収入役になっている。義足では子供たちと運動場を跳びまわることも無理だったので転職したのだった。昭和四十四年に町村合併で上下町となった町の教育長も務めた。役場にはオートバイに乗って通った。
昭和五十一年に退職すると、山間の上下町から三次《みよし》盆地のとっつきにある新市《しんいち》町に移った。長男夫婦と孫一人の五人家族である。
「結婚して三五年になりますが、よう足がわりになってくれたと思いますな」
表は、妻をねぎらうように、こう語った。
4
丸野正八の戦後は、呉で義兄の経営している映画館に勤めることから始まった。義兄の聞野《ききの》忠郎は、呉市内の焼跡にかなり大きな映画館を建てた。
敗戦直後の呉は、夜遅く歩いていると、身の危険を感じることも再三だった。呉時代の丸野は、身も心も「荒れていた」と語っている。しかし、一方では、戦時中には味わえなかった、突然ふってわいたような自由さも感じた。映画という仕事を通し、丸野は戦前とは異なった生活にも足を踏み入れていた。彼は賭け事は好きなほうだった。呉時代に少しずつ、彼の言葉を借りれば「幕内社会」を知るようになった。呉や広島の興行師とも顔見知りになった。
昭和二十五年ごろ、広島の興行師から義兄が「セントラル」という映画館を「譲りうけ」た。この世界では、「買う」ということを、「譲る」という。昭和二十六年に丸野は義兄から広島のその映画館を譲りうけ、経営した。ちょうど戦後の日本映画の上昇期にあたっていた。丸野は松竹に頼み、京都の「南座」と同じ名前をその広島の映画館につける許可をもらった。彼は和歌山での少年時代、正月になると京都の南座に芝居見物に行くのを楽しみにしていた。その名前にあこがれていた。譲りうけた映画館は、広島市|皆実《みなみ》町にあったので、「南座」という館名もふさわしかった。今の広島市皆実五丁目である。
映画は戦後の日本人の夢だった。唯一の娯楽ともいえた。正月映画は人が入りきれないほどの盛況だった。丸野の「南座」は、広島市内でもいちばん歴史が古く、六〇〇席もある大きな映画館だった。二階が畳敷きで、昔の芝居小屋の雰囲気を残していた。当時、大きな芝居小屋が次々と映画館に変身したがその走りだった。そのころの丸野を知っている者は、「幕内社会」に入っていた丸野が腹巻の中にピストルをしのばせていたという噂《うわさ》を聞いたことがある。真偽のほどはわからないが、そういう危険な世界にも、丸野は足を踏み入れていた。興行のなかでも、歌手などを呼ぶのを「色物」という。丸野は一時そういう仕事も手がけていた。
しかし、丸野にとって思い出深いのは、昭和二十八年に新東宝製作の「戦艦大和」ができたときだ。原作は、吉田満の『戦艦大和ノ最期』だった。この映画は、広島市内に住んでいた三笠逸男も、丸野が映画館主とはまだ知らなかったころ、「南座」で観ていた。福山市内でも上映され、八杉康夫も知り合いが映画館の息子だったので観たという。入口に福山市在住の「大和」の生存者の名が張りだされ、竹中茂の名前が書かれていたのを記憶している。八杉の名前はなかった。彼はまだそのころ、自分が「大和」の生存者であることを隠すようにしていた。
丸野は「南座」始まって以来という大宣伝を自腹をきってやった。オープニングには、石田恒夫や後藤虎義に来てもらい、舞台挨拶をしてもらった。「南座」は二番館だったので、上映期間は一週間だった。しかし、大入りで、二週間上映した。マスコミも乗った。中国新聞では、「生存者が語る戦艦『大和』の最期」という見出しで、生存者たちの座談会記事も載せた。丸野や後藤をはじめ、呉市内在住の細田久一や石田直義が出席した。
上映が終わると、丸野は石田恒夫たちとプリントを携え、講演と上映を兼ねてあちこちをまわった。広島県下はくまなくまわったし、呉の自衛隊にも出かけた。山口県のほうまで足を伸ばした。「大和」のことを知ってもらいたい一心だったが、楽しかった。
丸野が、このとき「南座」で上げた興行収入を、その直後の「戦艦大和会」の第一回慰霊祭で使い果たしたことは、あまり知られていない。「大和」の主計科のころから、丸野にはそういう気っぷのよさがあった。彼は自費で映画館に、広島県下の乗組員の遺族を招待している。
第一回の戦没慰霊祭は、昭和二十九年四月七日に、呉の西本願寺で行なわれた。病床についていた森下信衛参謀長が妻につきそわれて出席したが、その折の声涙くだる挨拶は、出席者たちの悲しみを新たにした。丸野、石田、後藤をはじめ、黒田吉郎、能村次郎、清水芳人、吉田満、細田久一、石田直義らが出席した。広島県下の遺族の中には、山口博通信長未亡人の芳子の姿も見えた。
戦後、最も早い時期に「大和」の名があらわれたのは、昭和二十一年八月十三日付の「朝日新聞」と思われる。一ページの約三分の二を費やして、「大和」の最期が報道されている。見出しには、「五千の生命を犠牲に 無謀な自殺作戦」と記されていた。しかし、一般にその存在を大きく知らしめる契機となったのは、吉田満の書いた『戦艦大和ノ最期』の出版と、翌二十八年に新東宝で映画化されたことだろう。またこの夏には軍人恩給も復活した。
映画化された年の冬、そのころ呉市にいた石田恒夫と広島市内にいた後藤虎義、丸野の三人が発起人となり、住所の確認された遺族へ一葉の写真を同封した次のような手紙を送った。
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戦艦大和沈没以来約八年半になります 私共も亡き戦友の遺家族の方々を何とかお慰めしたいと色々考え乍《なが》ら之又《これまた》八年有余無為に過してしまいました 本年八月初旬来私共がこのお彼岸に遺家族様方をお招きして何とか慰霊祭を執行したいと思ひましたが矢張《やはり》之も実現出来ませんでした せめてもと思って同封致しましたのが此《こ》の戦艦大和健在なりし時の英姿であります 此の写真は大和の実写として唯一の残っているものであります 今回東京京橋高橋写真製作所の御協力を得て私共有志の貧者の一灯としてお贈り致します
今私共は一生懸命生存者の連絡をとり且つ色々資金の捻出策を考へて明年四月七日満九年の大和の命日には何としても誠心こめた慰霊祭を執行したいと考えてゐます その節は是非御参列下さる事を今から御願しておきます
尚遺家族の皆々様方も今は亡き私共の戦友の加護を確信してお元気にお暮し下さる事を心からお祈り致します
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この第一回慰霊祭が行なわれたのは、丸野、石田、後藤の三人の努力の結晶だった。経済的負担も彼らの双肩にかかった。
「思ったよりお金がかかりましたな」
当時を回想して、丸野は笑う。
丸野の結婚は昭和十五年だった。「大和」に乗っていたころには娘を一人得て、呉に家もあった。その折の妻とは、戦後まもなく別れている。丸野とは同郷の和歌山県和歌浦の出身だった。しかし、別れた妻が和歌山で病を得たとき、広島から何度も病院に通い、亡くなったときは葬式も出してやった。
あるとき、広島の映画館のあたりをうろついている若い娘を見かけ、不審に思って声をかけた。広島の奥から家出してきたという。そのころ、丸野は一人娘と二人で、映画館のすぐそばに住んでいた。その娘を家に連れてきていっしょに住まわせた。丸野の娘と年齢も違わなかった。丸野はその娘が嫁に行くとき、すべて世話をしてやった。
二十九年の第一回の呉の慰霊祭のとき、大阪と広島の遺族から、自分の兄が「大和」に乗っていたはずだが、最後のときの話を聞かせてほしいといわれた。一人は機銃の人で、丸野にはわからない。もう一人は主計科だといわれたが、丸野の記憶にはなかった。丸野はその後も生き残った主計科の者に聞いてみたが、名前を知る者はいなかった。しばらくして、遺族の弟は主計科の者たちと写した写真を引きのばして持ってきた。写真の顔を見ても、思い出せなかった。この遺族が現在も兄の最後の消息を求めているのが気になってならない。
昭和三十二年十一月中旬、丸野は同じ主計科だった土井義行兵曹の遺族を訪ねて淡路島に渡った。あの四月七日の日、隣にいた土井兵曹は、丸野と位置を交代した。そのあと、丸野は負傷した須貝逸二中尉が寒がるので毛布を取りに甲板を離れた。戻ってみると、丸野の元いた場所で、土井兵曹はカッと目を開けたまま死んでいた。一瞬のうちの直撃弾だった。
あのときの土井兵曹の血に染まって倒れていた姿が、丸野の目に焼きついて離れない。自分の身代わりになって死んだように思えた。土井兵曹の遺族を訪ねたのは、戦後もずっとその思いが心の底にわだかまっていたからだ。
淡路島では、土井兵曹の両親と若くして未亡人になった人が迎えてくれた。若い妻は彼の話を聞きながら嗚咽《おえつ》した。母親も泣いていた。
しばらくして、母親は広島から来たという丸野の膝元に、旅費にしてほしいとお金を差し出した。びっくりして立ち上がった丸野に、
「どうぞ、少しですが気持ですから……」
相手は言った。丸野の顔色が変わった。
「わたしはたかりに来たんやありません。土井さんとはフネで親しくしていたので、ただお線香をあげさせてもらいたいと来ましたんや」
丸野はそういって、その家を辞した。
港で船を待ちながら、胸の中に何か切ないものが吹き渡った。いいようのない虚しさだった。自分だけが生き残って帰ったうしろめたさもある。それだけに余計、お金を差しだされたことにこだわった。相手が悪気でなかっただけに、丸野の気持はかえって傷ついていた。
翌年の秋、広島の蒲刈島へ西川肇主計兵曹の遺族を訪ねた。西川の妻も若かった。西川の妻は丸野を見るなり泣いた。丸野はその涙を見て、たまらなかった。帰りに、畑でとれた蜜柑《みかん》だからと西川の妻は差し出した。彼はその蜜柑を素直に受け取った。
徳之島に第二艦隊の戦没者のための慰霊碑が建立されたあと、「大和会」では、戦艦「大和」だけの慰霊碑を建設したいという声が起きた。それも「大和」建造のゆかりの地である呉の元海軍墓地に建てることが夢だった。「大和会」二代目会長となった石田恒夫や事務局の手島進や、中国地区の生存者たちが中心になった。とくに呉市内で文具店を営む細田久一、陶器店を営む石田直義と、広島市内で映画館を経営していた丸野正八は、商売そっちのけで駆け回った。そのため丸野はついに、映画館「南座」を人手に渡してしまった。数年前から映画は斜陽になり、ポルノ専門館になっていた。慰霊碑建設で飛びまわっているうち、沈没のときの火傷が原因で体を悪くし、碑の完成後は一年近く寝込んでしまった。積年の酷使で肝臓をやられ、現在も入院中である。しかし、担当医師は、
「寝ているわりには日焼けしてますな」
と言い、ときどき抜け出して、フネの仲間に会いにゆく丸野を知って、ぼやいた。
映画館が人手に渡ったあと、丸野は運送業を始めた。病院を抜け出してはトラックの運転をしていた。「大和」関係の集まりのときも、病院を抜け出す。
丸野は、「大和」が沈没して以来、赤飯も汁粉も一度も口にしたことがない。四月七日の夕食には赤飯、夜食には汁粉を出す予定だったのに、ついに食べさせないまま終わったことが苦になっていた。戦死した者たちの中には、主計兵からその献立を聞き、楽しみにしていた者も多かったと聞き、彼は絶句したことがある。生きている限り金輪際食べまいと心に決めた。自分の娘の祝い事にさえ、赤飯はいっさい出させなかった。しかし、丸野は、戦後三十八年経って、もう戦死者たちに許してもらおうと思った。
昭和五十八年二月、大阪での「大和会」の定例の会合で、彼は出席者の人数分だけの赤飯の缶詰を用意して持ちこんだ。これからは私にも赤飯を食べさせてほしいと、出席者の元乗組員や遺族たちに配った。
連合艦隊の軍楽隊員だった林進は、「大和」のほかにも「長門」「武蔵」と連合艦隊の旗艦に乗っている。だが、林には、ミッドウェー海戦、トラック島と、一年間起居をともにした「大和」の思い出はとりわけ深かった。しかも、思いがけなく沈没後の「大和」とも関わっていたので、そのめぐりあわせを何か運命的なもののように感じた。
林が予備役編入となって、佐世保海兵団から兵庫県|出石《いずし》郡出石町に復員したのは、二十年の九月一日である。それから一か月後、知人の警察官に勧められ、兵庫県の巡査試験を受けて警察学校に入った。そのころ、警察学校は、警察練習所と呼ばれていた。林はそこで「大和」の生存者の一人で、同郷の坂本一郎といっしょになった。家が近所だった関係もあり、坂本にはいろいろ世話になった。とくに坂本の分隊の下士官が酒保長だったので、酒の購入の便宜を計ってもらった思い出もある。坂本はのちに警視となり、署長となって退職している。
警察練習所を卒業すると、尼崎市の警備隊勤務を命じられた。あとになってこのときの隊長の富永才吉が、「大和」の遺族であることを知った。
林は、伊丹署に勤務していたころ、阪急西宮球場に警備の仕事で行ったことがある。大阪市音楽団の演奏があり、かつての軍楽隊の同年兵である井上と塚田に再会した。そのとき、大阪の警察に音楽隊があると耳よりな話を聞いた。
「林、行きたいのなら知り合いがいるから、頼んでやろうか」
林はその話を聞くと、心が弾んだ。軍楽隊でクラリネットを吹いていた彼は、すぐにでも行きたい気持にかられた。運よく大阪市警に出向が決まり、その後大阪府となった警察音楽隊員として勤務するようになった。
府警当時、大阪の「戦艦大和会」の事務局長の手島進から、三〇余年前の古びた珍しい楽譜を見せられた。「大和」がトラック島に停泊していたころの「戦艦大和艦歌」だった。昭和十七年秋ごろ、乗組員の士気を鼓舞するため、作詩、作曲の募集をしたことがある。林も応募した思い出がある。作曲が呉海軍軍楽隊となっているのを見て、たしか岩田重一連合艦隊軍楽隊長が作曲したはずだったと、当時の仲間で東京にいる元東京消防庁音楽隊長の常数に問い合わせた。それが縁でフィリップスレコードの耳に入り、作詩者が沖縄特攻で戦死した坂井保郎大尉であることもわかった。坂井の遺児が大阪府警の警部補になっていることも不思議な縁に思えた。
昭和五十七年の夏、林は一〇年ぶりに山陰の鄙《ひな》びた町、出石に墓参のため息子同伴で帰った。十七歳で海軍に入った林も五十八歳になっていた。
夜になると盆踊りの代わりにカラオケ大会が行なわれた。同年輩の元海軍の何人かに会い、なんとなく海軍時代の話に移った。林は、ミッドウェーの出撃前に呉工廠にいた同郷の人の家でひそかに父親と面会したことを思い出した。
「だれだったんやろか。世話になったのに名前を忘れてしまったんだ」
すると、そばにいた一人が、
「呉工廠に勤めていた人なら、綿谷さんだよ。きみ、じきそばの家に住んでるよ」
と、教えてくれた。
その夜、林は綿谷にも再会し、四〇年前の礼を言った。年老いた綿谷は、しきりに昔の記憶をたどる表情になった。
「そんなことがありましたな。実は、私は呉工廠で大和の大砲をつくってましたんや」
眼をうるませて、言った。
高橋弘の除隊は、昭和二十年十月初旬ごろだった。
その日は朝から曇り空で今にも雨になりそうな天候だった。海兵団の集会場で昼食を食べたあと、衣嚢《いのう》をかつぎ呉駅に向かった。衣嚢には、毛布と缶詰二個に、米二升が入っていた。駅までの道を歩きながら、彼は今晩どこに泊まろうかと思った。彼は帰るべき家も、待っていてくれる両親も失っていた。
広島に原爆が落ちた翌日、市内に家がある者には特別に、二四時間休暇が与えられた。高橋の家は市内の観音町にあった。呉線は小屋浦駅から先が不通になっていたため、広島まで歩いた。矢野あたりを過ぎると頭から黒い油をかぶったような人々に、次々と出会った。府中町の東洋工業前を通って大洲あたりになると顔や腕の皮膚が火傷のようになった被災者の列がつづいていた。その日ようやく家のあった場所まで行ってみたが、あたりは焼け野原で両親の遺体さえ見つけられず、海兵団に引き返した。
衣嚢をかついで満員の電車に乗った高橋は、今晩はどこに泊まろうと考え、急に心細くなった。
「午前中までは海軍の軍人だったが、昼からは乞食せんならんのか」
自嘲まじりにひとりごちた。そのまま海兵団に引き返したい気持になった。
高橋は除隊になったとき、雑役でも何でもするから置いてくれと頼みに行った。海兵団の事務係は、
「本日をもって、おまえは予備役編入だ。除隊届がすんだ者は早く出てもらわないと困る」
とにべもなかった。
高橋は腹が立って、
「引っぱるときは無理やり引っぱっといて、都合悪くなったら追っぱらうのか」
と言った。係の者は困惑した顔になり、
「まあ、そういっても軍隊にも米がない。とにかく帰れ、わしらも帰るんじゃけえ」
とにかく帰れといわれても、彼には頼るべき親類さえなかった。田舎に家のある者が喜びいさんで帰っていく姿を、羨望《せんぼう》をこめて眺めた。
広島駅に到着すると、高橋はあてもないままうろついた。郊外の農家なら泊めてくれるかもしれないと思って行った。一軒の家の前に立ち、声をかけた。
「兵隊さんですかのう」
その家の奥さんが言った。
高橋は、原爆で家も両親も亡くしてしまった、今晩だけでも泊めてもらえんかと頼み込んだ。
「うちも食べるものがなくってね……」
奥さんがそう言っていると、雨が降りだした。
「まあ、雨も降ってきたし、入《はい》んなさい」
翌朝、いつまでもその家に厄介になっているわけにもいかず、一晩世話になった礼をいって出た。昨夜の雨はあがり、晴れた秋の空が広がっていた。彼は自分の家のあった観音町に行ってみた。
寺が、焼け跡に仮小屋を建てていた。
「あんた、高橋さんじゃないかのう」
顔見知りのその寺の住職が声をかけてきた。
「落ちた屋根を開けなさったら、ひょっとして親御さんの遺体が出てくるかもしれませんな」
住職にいわれ、彼は瓦を一枚ずつ開けて両親の遺体を捜しはじめた。
「兄さんやないか」
弟の声がして、顔を上げた。
衣嚢を背にした弟が立っていた。弟も今朝除隊になり、家を捜しに来ていたところだった。
兄弟はいっしょに、焼け残った瓦をはがした。瓦の下からようやく父親らしい遺体が見つかった。二か月も経っていたため顔も体も崩れていたが、不思議にどこにも火傷の跡はなかった。着物の柄から父親に間違いないと思った。母親は見つからなかった。のちになって母親は、その朝早くに買い出しに行っていたことがわかった。買い出し先のどこかで原爆にあって死んだらしかった。
兄弟は、父の遺体の上に拾ってきた焼けぼっくい[#「焼けぼっくい」に傍点]を積み上げた。死体はなかなか焼けなかった。油がないので、焼けて骨になるのに時間がかかった。ようやく焼き上がったときは、午後の陽も衰えかけていた。見ると、あっちでもこっちでも、復員兵が遺体を焼く煙が、しろじろと昇っていた。
市役所も焼け、観音院の一角が仮事務所になっていた。そこには死亡届を出しに来た者たちが列をなしていた。
高橋の順番になると、戸籍係は言った。
「お母さんの骨がありませんな。たしかに亡くなったという確認ができないと、戸籍は消せませんよ」
高橋は腹が立ち、
「骨をもって来いといわれても、どこで死んだのかわからないんじゃ」
係の者にくってかかった。昨日からずっと腹を立ててばかりいると思った。
そのとき、そばにいた男が、
「あんた、その骨を早う二つに分けんさい。そうすりゃ、大丈夫ですよ」
小声でいった。
戸籍係も聞こえたはずだが、横を向いて素知らぬ顔をしていた。なるほど、と彼は思った。骨を二つにわけ、こちらが父親、こちらが母親の骨だと言うと、係の者はすぐに受けつけてくれた。
十月に除隊して以来、働き口はなく、除隊のときもらったわずかな慰労金もなくなり、食べる物にもこと欠く日々だった。そのときのことを思い出し、
「草も食べてみましたが、あれは食べられませんな」
という。夜は菩提寺の防空壕に寝ていた。
その年の十二月、高橋は山口県小野田の海底炭坑夫になった。正式の炭鉱名は、宇部興産本山鉱業所といった。
うれしかったのは、炭鉱に行くとまず、
「あんた、腹は減っとりゃせんか」
と聞かれたことだった。
高橋は、何でもいいから食べさせてくれと頼んだ。炭鉱の事務員は食堂に連れて行き、ブリキの皿にふかしたての芋を載せてくれた。彼は芋のひとつを泣きながら食べた。二つ目を食い、三つ目を口にしたとき、
「もっと、あげましょうか」
といわれ、高橋はびっくりして、
「まだ、食べられるんですか」
と声をあげた。
晩には飯《めし》がでた。麦飯だったがありがたかった。大根の煮つけまでついていた。
翌朝から、高橋は坑内に入った。キャップランプをつけ、坑内の坂のようになった暗がりを入っていった。海底炭鉱はガスの心配がないかわり落盤の危険につきまとわれる。坑内は地熱でぬくかったが、空気は悪かった。ダイナマイトを爆発させ、石炭を吹き出して落とす仕事である。仕事はきつかったが、人情味はあった。根っからの坑夫は少なく、高橋たちのような陸海軍の軍人や引き揚げ者がほとんどだった。
高橋弘の結婚は、昭和二十一年一月二日である。炭坑夫になった彼を遠縁の人が訪ねてきて、女房をもらわんかという。話はすぐにまとまった。妻は福山市|駅家《えきや》の出身だった。暮れにいっしょになり、正月二日には小野田に連れてきた。結婚すると長屋の一軒で所帯をもった。妻は鍋一個をもって嫁に来た。茶碗はなかったので、その鍋を真ん中において二人でつつきあって食べた。箸《はし》は裏山に行って竹を伐《き》ってつくった。夜は除隊のときにもらった毛布一枚を、二人とも頭から被《かぶ》って寝た。
翌年には、娘が生まれた。痩《や》せて小さく、今日死ぬか明日死ぬかと思った。妻は乳がでず、すり鉢に米を入れてすりつぶし、重湯《おもゆ》にして食べさせた。
「食うや食わずの生活でも寿命じゃったというか、死にもせんと大きくなりました。わしは日本が戦争に敗けて、こんなに繁栄するようになるとは夢にも考えんじゃった。あの当時の無条件降伏というのは、もうすべてもぎとられることだった。わしはあの状態が、四〇年も五〇年も、八〇年もつづくんじゃと覚悟しとった。それが一〇年も経たんうちにこんなに戻って……考えられんかったですわ。それが今はどうですか。一家心中しとる家でも冷蔵庫があるんじゃけん、驚きますらぁ」
高橋は小野田の炭坑に二〇年間勤めた。炭坑はしだいに不景気となって、閉鎖された。退職金をもらって高橋は、妻の実家に近い福山市に行った。
彼はまだ四十代の後半だった。働きざかりだったが、戦後の第二の人生も順調ではなかった。就職先は見つからず、建具の仕事をしたりもした。
「炭坑に長くおった者はそこを離れたら、なかなか使い道がないんですなあ。難儀しましたな」
炭坑夫の年金は五十五歳からだった。長男が高校生だったし、年金がおりるまで、彼は仕事を見つけて働かなければならなかった。昭和四十九年にようやく年金がおりるようになった。
高橋弘が戦後三十余年間、だれにも語らなかった秘密がある。彼が沈没して海中に放りだされて間もなく、目撃したある情景だった。
高橋は、二、三人の仲間と漂流していた。そばにいた一人が、
「艦長じゃないか……」
突然、驚いた声をあげた。
高橋もびっくりして見た。彼らのすぐ近くに、有賀幸作艦長が泳いでいた。
「艦長! 艦長が生きとる!」
高橋は大声をあげた。
その声に、口から水を吐きながら達者な泳ぎをしていた有賀艦長は、ちらっと高橋を見た。高橋の目と艦長の目が合った。その瞬間、艦長は急にもぐった。くるりと尻が見えたと思ったとたん、それっきり浮かんでこなかった。
高橋は戦後、そのときの艦長の最期を思うたび、なぜ、おれはあのとき艦長は生きとると咎《とが》めるような声をあげたのかと自分を責めた。艦長も助かってうれしかったろうに、自分の一言で自殺させてしまったという悔いが残った。
戦後もだいぶ経って、「大和」の最期を書いた本が初めて出版された。高橋はずっとその事実が気になっていたので、すぐに買い求めた。著者は吉田満という高橋の知らない若い士官だった。
「艦長有賀幸作大佐御最期
艦長最上部ノ防空指揮所ニアリテ、鉄兜、防弾『チョッキ』ソノママ、身三箇所ヲ羅針儀ニ固縛ス……」
と書かれていた。
その後も、「大和」関係の本が出版されるつど、そのくだりを確かめた。すべて吉田満の著書の記述をそのまま引用していた。だれが何によって体を縛りつけたかは吉田満と同様に記されていなかった。
高橋は、元乗組員たちがその著作そのまま、艦長が羅針盤に身三か所を縛りつけて艦と共に死んだと語っているのを知り、複雑だったが、艦長を自殺させてしまったという責めからは、幾分解放された。艦長の最期が美談として語られているのなら、最後まで秘匿《ひとく》すべきなのかもしれないと考えるようになった。ただ、高橋には、艦と共に最期を遂げたことが美談なのだろうか、生還することが咎められることなのだろうかという思いがくすぶった。
「艦長は、自殺したんじゃな。わしがこの目つきで艦長じゃないかと言うたし、周囲にいた者も言うたんで批難されたと思うたんじゃろう。でも、わしが言うことで、伝説を崩すことになるんじゃろうか」
高橋弘は語っている。
有賀艦長と同じ防空指揮所で伝令をしていた長坂来には、次のような記憶がある。
「艦が四〇度ちかくも左へ傾いている。やっとの思いで配置からはいだすと、電探計のまえに艦長がただ一人立っておられる。心なしかさびしそうな顔だった」
長坂は手にしていた金剛アメと煙草に気づき、
「艦長、煙草、どうですか」
と声をかけた。
「ああ、ありがとう……」
と答えたが、傾斜ははげしく、火はつけられなかった。艦長はきびしい顔で、
「自分は艦と運命を共にする。貴様は生きのこって仇をうってくれ」
と言ったのを覚えている。
一五メートルの測距儀が艦の傾きに一回転した。指揮所の艦首方向、防弾板のうえにはい上がっていた長坂が思わず首をすくめた瞬間、海中に投げ出された。
「艦長が羅針盤にからだをくくったと書いてあったのを読んで、わしは、それは艦長じゃないということを第一回の大和会でも言ったですよ。艦長は立ったままでしたよ……だいたい、からだをくくるものなど、そばにはありませんでした。わしは艦長伝令で、有賀艦長の言ったことを伝える役ですから、最初からしまいまで一緒でした」
塚本高夫は艦の傾斜がはげしくなったとき、
「フネを北向きに持って行け」
という艦長の命令を、第一艦橋の茂木史朗航海長に伝令した。茂木航海長からの、
「艦長、もうフネは動きません」
の答えに、
「そうか……」と言ったのみだった。
有賀艦長は決心したように、大きく息を吐いて言った。
「天皇陛下の御写真を守るように。軍艦旗を降ろせ。総員最上甲板集合!」
塚本は次から次へと伝令した。
「総員最上甲板」の号令をかけると、艦長は羅針儀につかまっていた。
「艦長、防弾チョッキを……」
と塚本は言った。
彼も防弾チョッキを着用していたが、自分より先にとってもらいたかった。
「僕は、かまわん、それより君らは急げ」
塚本は防弾チョッキと防弾カブトを脱いだ。有賀艦長は指揮用の白手袋で羅針儀につかまり、身を支えていた。塚本が片手で重心を支えて、片手で首からテレフォントークを外そうとしたとたん、海中に入った。羅針儀につかまった有賀艦長が、塚本の見た最後の姿だった。
「総員退去」の戦時訓が明確に決められていないのとともに、艦長の身の処し方もはっきりしていない。ただ、「艦長の退艦時期は最後」と定められているだけである。艦長が艦と運命を共にしなければならない規定はなく、山本五十六なども、そうした軍人としての死生の処し方に疑問を唱えていた。艦長が艦と道づれになることを美談とし名誉として受けとめる風潮を、ミッドウェー海戦以来嘆いていた。そうした自死の問題で優秀な艦長や指揮官を失うことを怖れた。艦が沈没にいたる戦闘の経験は、艦長にとっても得がたい経験であるはずだった。しかし、軍隊の精神構造は、そうした個人の能力を越えた士気を問題にした。
「大和」の最後の艦長である有賀幸作も、艦と運命を共にすることを、みずからに課した。しかし、みずからの意志を裏切るように海中で生きていたとしたら、高橋弘が目撃したように、「自殺」以外にはなかったのかもしれない。羅針儀に身を三か所縛って艦と最後を共にしたよりも、不本意に艦から離れて自殺を選択するほうが、もっと酷薄というべきだろう。そうした艦長に対し、
「艦長も生きてうれしかったろうに、自殺させてしまった……」
と高橋は述懐する。
「大和」の艦長は、食事も艦長室で一人である。艦内で保たれなければならない秩序が艦長の孤独を大きくする。
「大和」の艦長室には、海軍の嘱託となっていた画家の長崎|抜天《ばつてん》の描く漫画風の軸が一本かかっていた。砂浜と松林を遠景に、裸の二人の子供が大きな鯛《たい》を釣っている。どこか飄々《ひようひよう》としたこの絵には、「戦果の図」と題がつけられていたという。
昭和十九年六月、重巡「鳥海」の艦長だった有賀は、「あ」号作戦の途中サイパンでデング熱にかかった。同期の森下信衛参謀長は少将になったが、有賀は大佐のままだった。「大和」の第五代艦長となった有賀は、これを「男子の本懐」と受けとめた。塚本高夫は、沖縄出撃を前に、
「タテマエとして、総員退去はかけん」
と言ったのを記憶している。
冗談も言わず、口の重い有賀艦長は、「死に処を与えられた」この作戦を前に、どんな表情で漫画風の一本の軸を眺めていただろうか。
沖縄特攻のとき、第二艦隊参謀長だった森下信衛は、昭和三十五年六月十七日に病没した。
副官の石田恒夫の回想によると、森下は最後まで艦橋に留まっていたが、あたりは火の海になり、海に投げだされたという。海中で意識を失っていた森下を見つけ、駆逐艦の内火艇に乗せたのは、従兵の小宮山善一郎だった。小宮山は森下のそばにつききりで介抱した。
伊藤整一司令長官の東京の遺家族に戦死を伝えに行ったのも、森下と副官の石田だった。森下はまた、連合艦隊司令部に戦況の報告のため上京の途次、鹿屋《かのや》基地にいる宇垣纏五航艦長官を訪問している。このとき、森下と宇垣との間にどのような会話がかわされたかは定かでない。ただ、宇垣のこの日の日記には、
「語るべき処多々あるも等しく落つる所は其の出撃に対する要点なり。変通の道は知れ共斯《どもかく》縛られては如何《いかん》とも為《な》し難しと云ふ。尤《もつと》も千万とぞ思ふ」
と記している。
このときの森下の上京は、陛下から及川古志郎軍令部総長に対し、第二艦隊出撃に関する御下問に答えるためでもあった。
森下は、昭和二十二年四月十六日付で、呉復員局長官を最後に、海軍軍人としての生活を終えた。故郷の知多半島に戻ると、畑仕事の合間に、「大和」の遺族たちを訪れた。二年半後に発病し、亡くなるまでの一〇年間は「生きているような死んでいるような」日々だったという。しかし、妻のふさ子の回想では、「大和」の慰霊祭の日になると、昨日まで寝ていたのに、起きて出席した。かならず、ふさ子が連れそった。長野県にいる従兵の小宮山善一郎の結婚式のときも、雪の降る中を出席した。これが最後の外出になった。病床についていた森下は、賀川豊彦の著作を愛読していた。
晩年の三年間は寝たきりで、言語障害をおこし、家族と語ることもなかった。その少し前、妻のふさ子に、ぽつりと言った。
「わしは大和で死にたかった。死に場所を間違えた」
ふさ子には、夫の遺言のように思えた。
現在、高橋弘は六十四歳になる。戦後の苦労で、「大和」のことはもう過ぎ去ったこと、忘れてしまいたいと思っている。彼は腹の底からこの世に愛想がつきたという。
「あれだけの戦争が終わって、すぐまた朝鮮戦争がある。ベトナム戦争がある。中近東でも起きている。ありゃ、人間の業《ごう》ですな。人間は賢いところもあるが、本当にバカじゃ、愚者じゃのォ」
と思っている。
最近は、宗教関係の本ばかり読んでいるという。
5
明石《あかし》港に着いたのは昼ごろだった。
内田貢は船の待合室に歩きながら、
「さぶいな」
そばの男に言った。男は「大和」にいっしょに乗っていた近藤金雄だった。
昭和二十八年の春先だったが、海にはまだ冬の冷たい風が吹いていた。
内田たちが待合室に入ると、一〇人ほどのイキな恰好をした男たちがわがもの顔に狭い待合室を占領していた。内田は、この手合いはテキ屋やなと思った。彼らは大声で話していた。
待合室の横に簡単な食堂があった。
「うどんでも食べようか」
内田は近藤を誘うと、立てつけの悪いガラス戸を開けて中に入った。二人は天ぷらうどんを注文した。内田はあったかいうどんをゆっくり食べた。内田の顔の筋肉はほとんど動かないので食事はいつも柔らかいものをゆっくり食べることになる。しゃべり方も、ゆっくりした、低い声だった。
内田たちは、北栄二の淡路島の実家を訪ねるために明石港へきたのだった。
内田は戦後の生活が少しずつ落ち着いてくると、唐木正秋の遺族に手紙を出した。唐木といっしょに撮っている写真を同封した。しかし、遺族からは返事はなかった。内田はしばらくしてふたたび手紙を出した。やはり、返事は届かなかった。唐木の家を訪ね、線香の一本もあげなくては心が鎮まらなかった。しかし、二度も返事がないのはそっとしておいてほしいということなのだと思い、その後手紙は出さなかった。あとになって唐木の家の事情がわかり、無理をしないでよかったと思った。すでに唐木の母親は亡くなり、父親は後妻をもらっていた。
内田はまた、石川県に成瀬という男の遺族を訪ねた。成瀬は舞鶴鎮守府付だったが、たまたま神戸の造船所で働いていたときに召集を受けたので、呉鎮守府へきて「大和」に乗った。徴募兵の成瀬の方言をみんなが冷やかすたびにかばってやったりしたので、内田になついていた。内田は長野県白馬村の太田や、広島県甲奴郡上下町の小川の遺族の家も回っていた。上下町にはやはり「大和」の生存者の表専之助がいたのだが、分隊も違っていたから知らなかった。
唐木の遺族から返事がないので、内田は北栄二の遺族を訪ねようと思った。その矢先に突然、鷹取という女性から電話がかかった。聞き覚えのない名前だった。電話口に出ると、
「北栄二と呉で一緒にいました鷹取とし子です。ごぶさたいたしております」
内田は受話器を通して聞こえてきた声に驚いた。その女性には内田も何度か呉の北栄二の下宿で会っていた。正式に結婚していなかったが、昭和十八年ごろから北と同棲していた。
「どうしとったんですか?」
内田は懐かしい声になった。
元気で淡路島にいると聞き、安心した。戦後、北のことを思い出すたび、彼女はどうしているんだろうと思ったりした。おとなしそうな静かな女性だった。
「実は、籍のことで相談に乗っていただきたいのです」
北と彼女は一緒に暮らしてはいたが入籍していなかった。内田の妻となった春枝も、十九年ごろからいっしょだったが、戦後しばらくまで入籍していなかった。内田は傷だらけになりながらも生きて帰ってきたが、北は生還できなかった。
「淡路の役所では、二人の証人があれば同棲を認め、籍を入れることができるといわれました」
内田は電話が終わると、近藤に頼もうと思った。近藤はレイテ沖海戦前に艦から降りていたが、北栄二とは同じ相撲部員で仲が良かった。近藤は気のいい男だったので、内田の知らせを受けると、淡路島に行くと答えた。二人の同棲を知っているのは、内田と近藤以外にはいなかった。北ととし子は共に淡路島の津名郡津名町の生まれで、幼なじみだった。
「わしゃ、淡路じゃ怖れられとった。相撲も強かったけん、喧嘩《けんか》も強かった。北栄二が通るとみんな逃げた」
相撲部員の北は、
「そうじゃけん、内田にはかなわん」
と苦笑して言ったものだ。
彼は漁師の息子で気性も荒かったが、さっぱりしていた。
内田が呉の海軍病院を脱走し、山本五十六からもらった短剣を取りに艦に戻ったときは、さすがにあきれて、
「おまえ、そんな山本長官の短剣が大事なんか。死にに征くんだぜ」
と言ったが、電線通路に隠れていた内田に、唐木や鬼頭といっしょになって食べものを運んできてくれた。
淡路に向けて出港した船の一等船室には、先ほど明石の待合室に屯《たむろ》していたテキ屋の連中が、広々と席を陣どっていた。内田と近藤はそこへ入っていった。しばらく、うさん臭い目で内田たちを睨《にら》んでいた中の一人が、突然そばに寄ってきた。
「失礼ですが、四日市の親分さんで……」
内田は近藤の手前、ただ黙ってうなずいた。内田は親分ではなかったが、いわゆる危険な世界にも足を踏み入れていた。すでにそのころ「用心棒」の生活に入り、四日市の貢《みつ》ちゃんといえば、名も知れわたっていた。しかし、近藤の前でそういわれるのは気恥ずかしかった。彼にとって「大和」はかけがえのない青春そのものである。艦での仲間たちに会えば、「おう、おまえか」と海軍の世界にひたることができた。
テキ屋の連中は、内田が四日市のみっちゃんとわかると、ごきげんを取るように話しかけたり、茶を運んできたりした。
近藤は困った顔をしている内田に、ニヤッと笑いかけた。内田の気質をよく知っていたし、戦後のお互いの生活は彼らのつきあいの外のことだった。だれもが精いっぱいに生きてきたし、内田がそういう世界に足を踏み入れざるを得なかった事情も、うすうすながら知っていた。
淡路島の岩屋港の波止場に着くと、鷹取とし子が迎えにきていた。まだ若いのに化粧もせず、こざっぱりとはしていたが、年齢よりふけた彼女を見て、内田は胸を衝かれた。前に訪ねた遺族から、
「手足はなくてもいい、ダルマになってもいいから、うちの人にもあなたのように帰ってきてほしかった」
と言われ、内田はたまらない思いをしたことがある。
「お忙しいのに、本当に申しわけありません」
彼女は二人に頭をふかぶか下げると、内田を見て面を伏せるように、
「よう助かって帰ってきてくださいました」
と言った。
呉で会ったときとは別人のように面変わりした内田の傷だらけの風体を見て、やはり驚いたようだった。
彼女は内田たちを寺へ案内した。境内を抜けて裏へ出ると墓地があり、その一角に北栄二の墓があった。墓はきれいに掃除してあった。とし子が席をはずしたとき、住職がきて、
「あの人は、朝晩栄二の墓に詣《もう》でていますわ。掃除もなにもようやってます」
と言った。
内田は、そんな鷹取とし子をあらためて好ましく思った。北の惚《ほ》れた女のためになら力になってやりたかった。
彼女は二人を北栄二の実家へと案内した。家に入るなり、実家の雰囲気が何となくおかしいのを感じながら、仏壇に線香をあげた。北と彼女の籍のことを内田たちがしゃべると、冷ややかな応対になった。内田たちはお茶も出されずに引きあげ、先に戻っていた鷹取の家へ寄った。
彼女の親たちに泊まっていってほしいといわれ、内田と近藤は一泊した。その夜、内田は自分が「大和」にこっそり乗りこみ、北たちが水や食い物を運んできてくれたことなどを語った。はじめて語ることだった。近藤も驚いた顔で内田の話を聞いていた。
とし子も、その親たちも、内田たちの話をひと言も聞きもらすまいと耳を傾けた。北の思い出話に耳を傾けている彼女を見て、ふたたび内田は胸を衝かれた。
翌日、三人で役場へ行った。書類に二人が同棲していたことを証明する旨を書き、印を押した。近藤は仕事の都合でその足で淡路を発《た》った。内田はもう一泊し、翌日四日市へ戻った。
二か月ほどして、淡路島から手紙がきた。おかげで、北栄二の恩給が下りるようになりましたと書かれてあった。
内田は寂しかった。波止場でいつまでも内田に手を振り、見送っていた小柄な彼女の姿を思い浮かべた。
「北が帰っとったら、どんなにか彼女もうれしかったろうに。わしみたいな者が、悪運が強いというのか、生き還ってしまった」
船が出航し、しだいに小さくなっていく彼女の姿を見て胸が痛んだ。
その後もとし子が独身を通している、と内田は風の便りに聞いている。
内田は「大和」が沈没後、佐世保から呉の海軍病院へいつ運ばれたのかも覚えていない。彼は船で呉へ帰ったとばかり思っていたが、副砲長の清水芳人から呉へは汽車の寝台で帰ったのではないかといわれ、そうだったのかと、ボンヤリ思うだけだ。
「内田、おまえ、どこをうろついとった」
呉海軍病院の軍医長の臼田正雄中佐は、内田の顔を見るなり、
「おまえが脱走したとはいわんが、どこかで首でも吊ってるんじゃないかと思ったぞ」
と言った。
臼田軍医長の命令で、内田は海軍病院の一室へ一人、入れられた。特別待遇ではなく、内田がふたたび脱走を計りはしないか、という懸念《けねん》のためだった。軍医長は内田が病院からいなくなったあと責任を問われるのをおそれたのか、内密にしていたようだ。内田が「大和」になぜ、乗ったかにも触れようとしなかった。おそらく、佐世保の海軍病院から報告を受けていたと思えるが、触れることを避けていた。今度は一人部屋にし、衛生兵を病室につけた。見張りともいえた。
呉海軍病院では、両足の手当てを受けた。鉄片の他に弾も出てきた。のどの手術も受けている。手術は死ぬかと思うほどの苦しみだった。内田の体には麻酔が使えなかったからだ。レントゲンをとると、体は蜂の巣のようになっている。麻酔をかけると、体がぼろぼろになり、かえって助からないといわれた。内田の妻が戦後、大小合わせて一〇〇回近い手術を受けたと語っている。どの手術も麻酔が使えなかった。
「主人の体は、自分の体であって自分の体でないものとしか思えない。何かに助けてもらっているとしか思えんのです。不思議な力というか、普通では考えられない生命力があるんやろか」
内田の妻は、首をかしげる。
ある日、臼田正雄軍医長が、
「明日、おまえは氷川《ひかわ》丸に乗ることになった」
といった。
内田は他の患者とともに、呉から「第二氷川丸」に乗せられた。体全体の骨がきしむようだった。船は瀬戸内海を三浦半島に向かった。途中、妙なことを覚えている。二日ほど、船は「動《いの》かなかった」という。なぜかわからなかったが、その二日間、ひどくこわかった。着いたところは三浦半島の先端にある野火《のび》というところだった。海岸には松林があり、風に鳴っていた。
野火海軍病院で最初の食事のとき、各自が階級氏名をのべ、よろしくお願いしますと、班長に挨拶しなければならなかった。内田は声が出ないと手まねしてみせ、挨拶をしなかった。
患者の世話をする下士官を、「患者甲板下士官」という。その上に、「病院甲板下士官」というのもいる。前に大津の病院で殴ったのは、この病院甲板下士官だった。野火の海軍病院の患者甲板下士官は、ジロッと内田を睨んだ。以来、内田の行動は逐一《ちくいち》マークされたようだった。ここでも内田は、体の弾片を抜いてもらった。看護婦は円い、真ん中に赤十字のマークが入った帽子をかぶっていた。内田の病棟の看護婦長は今井さんといい、新潟の日赤病院から来ていた。出身が四日市に近い名古屋だったこともあり、内田に親切にしてくれた。気立てのやさしい女性で、ときどき話をするようになった。内田は呉からどういう書類が回されているのか知る由もなかったが、そこでも一人部屋だった。内田の体も気力もしだいに回復していた。しかし、やがて、横須賀海軍病院に回された。
内田の診断書を見ると、彼は、病院を転々としている。横須賀海軍病院のあとは、目黒海軍病院、次が岩手の花巻海軍仮病舎、青森の大湊《おおみなと》仮病舎、湯河原《ゆがわら》、上湯河原、熱海《あたみ》とつづいている。どうして、こんなに病院を転々としたのか不思議でならない。病院によっては、一週間足らずのところもある。
湯河原の海軍病院では、こんなことがあった。
病院では患者も作業に駆り出される。内田も毎日作業に出てはいたが、ほとんど腕の動かない内田は、松葉杖をついて立っているだけだった。なんで患者に作業をさせるのかと不満だった。ある日、気分がすぐれなかったせいもあって、病室へ入ろうとしたとき、追いかけてきた患者下士官に内田の腕が当たった。内田の腕は肩から先が棒のように硬直していたので、相手はわざとぶつかったと思ったようだ。
「内田、貴様のような奴は、事故退院だ!」
と怒鳴られた。
内田はその日のうちに同じ湯河原にある海軍仮病舎へ移された。同室の患者が看護婦といい仲になっていて、内田はおもしろくなかった。何日かしたころ、仮病舎の旅館の池へ素裸になって飛び込んだ。鯉が驚いてはねた。また、元の湯河原の海軍病院に戻された。
湯河原の海軍病院に戻って数日後、精神科の軍医長をしている河野少佐が来た。軍医長は衛生兵に、
「内田兵曹は頭にたいへんな傷がある。彼の体は普通ではない。外科から第九病棟へかえなさい」
と命令した。
第九病棟は精神科だった。内田は精神病の扱いとなった。その日のうちに第九病棟に移された。その病棟に入った瞬間、内田は度胆を抜かれた。
庭に下士官が一列に並んで出てきた。
「キヲツケ!」
見ると号令をかけているのは兵隊だった。
「なんや、兵隊が下士官を並ばせて、なんちゅうところや」
さすがの内田もびっくりした。えらいところに送りこまれたもんやと思った。
「空襲警報ガ発令サレタラ、キサマハドウスルカ」
兵隊が下士官の一人に大声で聞いている。内田は荷物を下に置き、衛生兵と二人でそのやりとりを呆然と眺めていた。
「ハイ」
下士官は兵隊の前へ一歩出ると答えた。
「彼ラヲマズ第一ニ避難サセマス」
と庭のつくばいを指さした。
「ヨオシ!」
兵隊が声をはりあげた。
兵隊と下士官たちは石の大きなつくばいの周りに集まって、何事か話し合っていた。突然、兵隊が、
「本日ハ解散!」
と叫んだ。そのまま、病室へと走り去った。
内田と衛生兵は、「彼ラヲマズ第一ニ避難サセル」とはなんだろうと思って、つくばいをのぞいて見た。そこに、数匹の魚が泳いでいた。
そのころ、しきりに空襲があった。敵機がひっきりなしに飛んできた。昼間、空襲警報が出て、内田たち第九病棟の者たちも竹藪《たけやぶ》の中へ逃げた。
しばらくして、内田はまた外科にまわされた。病舎のすぐ隣は旅館だった。その三階に女中部屋があり、内田の病室に面していた。その旅館の部屋からときどき女中の一人が、真っ赤に熟《う》れたトマトをいくつも投げ入れてくれた。内田はトマトが苦手で食べられず、他の患者にやった。
「内田兵曹はもてますね」
とからかわれ、内田は苦笑した。
ある日、廊下の階段のところで軍医の馬場中尉に出会った。
「内田兵曹、貴様は頭を手術するといいぞ」
といわれた。
内田は、「いやですわ」と答えた。
「なに、いやとはなんじゃ」
馬場中尉は目を据えた。
「貴様、海軍を除隊したくて、手術を拒否するのか!」
「もっと、手術道具のそろった正式な病院でしてほしいからですわ」
「この国賊!」
馬場中尉が叫んだ。
「国賊」といわれて、内田はカッとした。おまえら、戦争もしとらんで何をいいくさると思った。内田は馬場中尉を投げとばした。並の体でないとはいえ、内田が少し触れると相手は吹っとんで、階段からころげ落ちた。
「軍法会議だ!」
馬場中尉は階段の下から叫んだ。
翌日、内田は熱海の海軍病院へ転院させられた。内田は実家へ手紙を出した。一等機関水兵だった弟の紋次郎が見舞いにきた。
「兄貴、また、喧嘩しとらんやろな」
紋次郎は心配した。
内田の実家では、病院に見舞いに駆けつけると、内田が別の病院に転出しているので案じていた。
この熱海の海軍病院は、第三病舎といって性病患者ばかりだった。内田はなんで戦争してきた者が、こんなところに入れられねばならんのかと腹が立ってならなかったが、がまんしていた。
八月十三日、熱海にもたくさんのグラマンがきた。しかし、翌日は一度も空襲がなかった。妙だと思っていた。十五日、重大放送があるといわれ、大広間にみんな集まった。戦争は終わったのだった。内田は広間にへたり込んだ。ボロボロ涙が出た。よもや日本が敗けるとは思っていなかった。
秋になり、内田は退院した。退院したというより、追い出されたといったほうがよかった。湯河原の病院で、頼んでいた義眼をもらった。朝早く、駅へ向かった。途中、軍人を見る眼が変化しているのを内田は感じていた。切符を買おうとしたが、白衣で松葉杖をついていた内田は、人の波に突き飛ばされた。内田はもう怒る気力もなかった。朝から夕方まで汽車を待った。汽車はどれも満員で、窓を叩いてもだれも開けてはくれなかった。内田はデッキにぶらさがることもできなかった。
内田は一升瓶に水を入れて持っていた。軍刀をもった陸軍の将校が窓から見えた。開けてくれ、と窓を叩いた。しかし、その将校は聞こえぬふりをしていた。その窓から三つ目を、内田は叩いた。
「おい、乗れよ」
兵隊が窓を開けてくれた。
内田はようやく車内に入った。兵隊に一升瓶の水を、飲んでくれ、と渡した。車内は満員で汗と人いきれで臭《にお》った。兵隊はのどが渇いていたのか、水をうまそうに飲んだ。
内田は人波をかきわけて陸軍の将校のところへ行った。窓から引きずりあげられたときからの体の痛みも忘れた。
「貴様、同じ軍人だったくせになんという男や」
朝から夕方まで待ち、窓を開けてもらえなかった怒りが、爆発した。陸軍の将校は顔をそむけた。周囲に陸軍の兵隊はたくさんいたが、内田の剣幕に押されたのか、黙っていた。だれ一人、
「あんた、戦争は終わったけど、少なくとも上官じゃないか、なんということをいうのだ」
といって、内田を制止する者はいなかった。内田はそれが余計腹立たしかった。
汽車は沼津で乗り換えだった。疲労が出たのか、右眼がかすんできた。足はひどく腫《は》れていた。
名古屋の駅では眼が見えなくなり、柱にぶつかった。
「お宅、どこまで帰られるのですか」
近鉄の女車掌が声をかけてくれた。
内田ははじめて人間らしいやさしさに触れた気がし、涙ぐんだ。
のちに内田は、その女車掌に礼がいいたく、名前も聞かなかったことを悔やんだ。ようやく調べてもらい、礼にいった。それから数年が経っていて、その女車掌は記憶にないのか、戸惑ったふうな微笑を浮かべた。
四日市は、どこも焼け野原だった。
病院から戻った内田は、軍医に渡されたという手紙をもっていた。親に渡すように言われていた。内田は開封せず、父親に見せた。その手紙の内容を彼自身は知らない。彼の妻は、内田の父親から内密に聞かされた。その手紙には、内田の体はもう二、三か月しか持たないと書かれていた。しかし、内田は生きていた。
半年たったある日、内田の弟の紋次郎が、
「兄貴、湯の山のほうで開拓者の募集をやっとる。土地を耕せば、できたものは全部耕した者の手に入るそうだ」
とどこからか聞きこんできた。
弟の話では、湯の山の旧陸軍練兵場跡の広大な土地を開拓者に開放するということだった。
内田はもう松葉杖がなくても歩けるようになっていた。家族たちと相談の結果、彼と弟と妹の三人が開拓へ出かけることになった。長男は募集規定に外れていた。農村の長男は開拓者にはやとわないというのが、規定だった。四日市から湯の山までは電車で四〇分ほどの距離だった。
三人が旧陸軍練兵場跡に着いたとき、すでにかなりの数の開拓者が兵舎の中に入っていた。内田たちにも兵舎の片隅が与えられた。兵舎には仕切りがなく、家族の人数によって適当な場所が与えられた。仕切りには、ムシロをぶら下げた。兵舎の中にルンペン小屋を建てたようだった。
先着の開拓者たちの中には、すでに芋のツルを植えるばかりになっている者もいた。内田たちは毎朝早くに起き、持ってきたツルハシを振った。鉄工所だった内田の家には、特別製のツルハシがあった。ツルハシを打ち下ろすと、音がしてはね返された。少し掘ると土の下から大きな石が出てきた。
「兄貴、石ばかりやな」
弟の紋次郎がぼやいた。
「ぜいたくはいうとれん」
内田は言ったが、土の中からはかなり大きな石が次から次と出た。掘っても石だらけだった。内心、これはひどいと思ったが、彼にしては珍しく文句もいわず、毎日懸命にツルハシを振った。
内田たちがその土地を耕し、どうにか芋のツルを農協からもらってきて植えられるようになるまで、三か月はたっぷりかかった。
内田たちは朝から晩まで働いた。戦争であれだけの重傷を負い、軍医から二、三か月しかもたないといわれて帰ってきた内田が、その三か月間、開墾に従事できたのが不思議だった。周囲の者が土地を耕すのに半年費やすところを、内田たちは三か月でこぎつけた。しかし、芋のツルを植えたものの、収穫時になって根のほうに手をつっこみ掘り返してみると、痩《や》せた小さな芋が申しわけ程度に出てくるだけだった。どのような肥料をやればよいか知らなかった。先住者たちの畑には、まるまる太った芋がなっていた。
「あのときは、けなるうてけなるうて、しかたがなかった」
内田は羨《うら》やましかったと言っている。
開拓団に入ってからも、ときどき内田は四日市へ帰った。食料が足りなくて分けてもらいに行くのだ。たいてい、母親が、「ぬかまんじゅう」をふかしてくれた。内田が持って帰ると、弟妹たちはおいしいといって、いっきに食べた。一日じゅう肉体労働をしているのだから、腹が減るのも無理なかった。
しかし、内田たちの苦労は報われず、芋はならなかった。ある夜、彼は「けなるうて、けなるうて」ついに、野荒しをしてしまった。まるまるとした芋を親や兄妹に腹いっぱい食わせたかった。内田はよその畑の芋を掘り返し、ドンゴロスの袋に詰めて隠しておき、四日市へ持って帰った。
「おまえたちがこんなりっぱな芋をつくって……」
父親はその芋を見て驚いた。
内田は親に食わせたい一心だった。しかし、開拓者たちの間に芋が盗まれたという噂が立ち、ある夜、ふたたび野荒しに出かけた内田は見つかってしまった。
「兄貴、なんちゅうことをしてくれたんや」
開拓団を追い出されて四日市へ帰る電車の中で、紋次郎はうらめしげに兄を見た。内田は返す言葉がなかった。
内田は二十七歳になっていた。開拓団から戻されると、どこか働きに行かねばと考えた。すでに内田の実家には、春枝もきていた。籍は入れてなかったが、女房であった。春枝と内田の妹は、ほったらかしにしてきた湯の山の小さく痩せた芋をもったいないといって、掘りに出かけたりしていた。
内田は名古屋タイムスで北海道の炭坑夫を募集しているのを知り、応募した。国営の夕張炭鉱だった。職のない大勢の若者たちが試験場へ詰めかけた。身体検査で、眼帯をとれと言われた。内田が眼球がないというと、
「なに、片端《かたわ》か。片端者はいらん、帰れ帰れ」
と言われた。
内田は腹が立ったが、
「わし、仕事は人に負けしません」
「おまえ、何をいうとる。五体満足の者がいくらもおるのに、片端者などいらん.じゃまや」
別の面接者がいった。
そうか、片端者はいらんのか。
「片端者と、よういうてくれたな。そんなら何人でもいいからかかってこい。それでわしが負けたら、素直に帰っていくわな」
内田は試験官たちの坐っていた机をひっくり返した。
「なにをするんだ!」
男たちが飛びかかってきた。内田は次々と彼らを投げ飛ばした。
「警察を呼ぶぞ」
その会場でいちばん偉いらしい男が言った。
「呼ぶなら、呼んでくれ!」
面接を受けに来ていた大勢の若者たちが、内田を応援するように手を叩いた。だれかが、
「警察が来るぞ、逃げたほうがいい」
と声をあげた。
内田は人混みにまぎれて、その試験場を出た。
名古屋市内の広小路あたりまで来たとき、内田の怒りは収まっていた。寂しさが体を吹き抜けた。
明るい昼下りだった。ふいに、内田の目に涙があふれた。眼球のない左眼も泣いていた。
「わしは、なにも好きこのんで戦争に行ったわけやない。好きなときに引っぱっといて国営の炭鉱の募集でも、片端はいらんいうんか」
内田はなんでオレは死んでこんかったんや、と思った。内田のなかで、これまで張りつめていたものが、ボロボロと崩れ去った。
その晩、内田は熱を出した。高熱だった。片端者はいらんといわれたひと言で、内田から、はじめて生きる意欲が退《ひ》いた。体までが参ってしまっていた。
「大和」で生き残った内田は、病院を転々とした。体は傷だらけだったが、心の底に負けるものかという張りがあった。しかし、もう、自分は何もかも空《から》っぽのような気がした。
「唐木、わしがおまえを殺したんや」
内田は叫んだ。
「わしが傍におらなんだら、おまえは助かったんや」
あのとき、怪我をしていた自分を庇《かば》うために、必死だった唐木正秋の姿が浮かんだ。
「なんで、わしをおいて死んだんや」
内田は高熱でうなされていた。
「入道、わしも戦うぞ」
内田は夢の中で、唐木正秋に会っていた。
「見とれ、入道、わし撃ちまくるわ」
内田は敵機に向け、機銃を撃ちまくっていた。
「おう、内田、やるやないか」
太い眉の唐木が、笑った。唐木も過熱した機銃に弾丸を装填《そうてん》していた。
うつらうつらしていた内田の耳に、母親の声が聞こえた。全身に寝汗をかいていた。
「この子も戦争で傷だらけになって……また開拓で無理して……」
「医者を呼ばな、あかんな」
父親の声だった。その声に、
「いやや、医者はもうカンベンしてくれ」
内田は思わず叫んだ。
心の弱くなった内田は、医者と聞いただけで本能的に拒否した。また病院を転々とするくらいなら、死んだほうがよかった。
「わかった。お前のいうとおりにする」
父親がいった。
内田はそれを聞くとふたたび眠りに落ちた。夢の中で懐かしい声が聞こえた。
「内田君、がんばるんだよ、内田君」
山本五十六の声だった。内田はその声に答えていた。心は夢の中でなごんでいた。
内田は目を覚ました。家の中は静まっていた。起きて、水差しの水を飲んだ。熱も、すこし下がっていた。夢だったのか。山本長官が夢にあらわれて励ましてくれたのか。
「これはね、向こうのウィスキーだよ、きみ、飲まんかね」
長官は甘党だったが、機嫌のいいときは舶来のウィスキーを飲み、内田にもすすめた。何度も呼び出され、長官室に足しげく行くようになってからだ。内田はまったく酒は飲めなかった。
長官は実に聞き上手な人だった。あるとき、内田は長官にそのことを言った。
「それはね、きみ、人間は山、川でくるのがいいんだよ」
「山、川といいますと……」
「人間は一本調子でしゃべってはだめなんだ」
長官は噛《か》んで含めるようにいった。
「人間はね、山や川や平地があるようにしゃべらないとね。知ってることでも、ときにはフーンととぼけて、しっかり相手の考えてることを聞いてやることだよ。相手に話す間を与えてやらんとね。自分ばかりしゃべっては、何もわからなくなる。これはね、きみ、人間はそのしゃべり方でわかるということなんだ」
内田には思い当たる節がある。最初のころ、長官は固くなっている内田に、
「内田君、機銃のほうはどうかね。吹き流しのときと実戦のときとは、どんな感じかね」
内田は、かしこまって答えた。
「自分はまだ引き金を引いてません。でも実戦のときは当てようと思って、飛行機と銃の距離を考えるでしょう」
「フーン」と長官は感心してみせた。
「飛行機の速度と機銃のタイミングの問題なんだね」
内田は長官がなんで知っていることをわざわざ聞くのかと妙に思ったものだったが、あれも長官式のやり方だったのかと納得した。
こういうこともあった。内田が長官の前でしゃべれるようになってからのことだった。
「長官は女を相当泣かされたのではないですか」
「内田君、馬鹿なことをいってはいけないよ」
長官は即座に否定した。
「ぼくは女は嫌いだよ」
内田は内心、女の嫌いな男がいるものかと思った。トラックでも糧食艦の「間宮《まみや》」や「伊良湖《いらこ》」は食糧のほかに郵便物を運んできた。長官宛ての女名の手紙がずいぶん届いた。そちらのほうはかなりのものだという噂も聞いていた。しかし、そんなことは言えず、黙っていた。
内田が長官に呼ばれて私室に行くと、従兵も入ってこなかった。用のあるときは呼び鈴を鳴らした。
内田はときどき、長官の物の言い方に女を口説くときのような妙な感じがある、と思うことがあった。長官はさほどの男前でもないし、宇垣参謀長と並ぶと小柄なのが目立った。しかし、長官の語り口を耳にしていると、不思議に人を引きこんで離さない魅力がある。聞き上手のうえに、口説かれているような雰囲気があった。
「内田君。これ読んでみるかね」
あるとき、和紙に書かれた一通の手紙を差し出した。女文字の達筆で内田には読めなかった。
「長官。字がうますぎて、わたしにはさっぱり読めません」
長官は、大声で笑った。
「きみは苦労ないね」
内田は、「頭悪いね」と言われた気がした。しかし、長官の表情を見ていると気分のよいときの柔らかい顔つきだった。
「きみは上陸すると、女遊びするんだろう」
内田は「ハイ」とはさすがに言えなかった。
「ぼくなんか、江田島へ行く前から遊んでたよ」
内田は矛盾していると思った。前には「女は嫌い」といい、今夜は「遊んだ」と言っている。
「長官、読んでください」
内田は手紙を返した。
長官は女文字の手紙を読んだ。肝心のところにくると、ウッとのどがつまったようにし、ウィスキーを少し口へ運ぶ。飛ばし読みしているのが内田にも感じられた。
「内田君、今日はこういう手紙が四通きてるよ。四通とも別の女性からだがね」
内田には長官がなぜそんないい方をするのかわからなかった。
熱が下がると、内田は名古屋の名大病院に行った。裸になった体を見て、さすがに医師は息を呑んだ。診断が終わると、
「ご両親は、健在ですか」
と聞かれた。内田がうなずくと、
「仕度はあとで家からもってきてもらうことにして、すぐ入院手続きをとりましょう」
「入院はしません」
内田の声ははっきりしていた。
医師はしばらく黙っていたが、ちょっと待ってくれと言って、奥の部屋に入った。戻ってくると、
「これをかならずご両親に見せてください。かならずですよ」
一通の手紙を内田に手渡し、念を押した。
内田は病院を辞して、外へ出た。まるで体から力が抜けてしまっていた。魂が飛んでしまったような身の軽さでふにゃふにゃと歩いていた。
家に戻ると、父親に医師からの手紙を渡した。父親はその場で手紙を読み、ふたたび封筒にしまった。
「何が書いてあったんや」
内田は訊ねたが、
「なあに、大したことは書いてない」
と答えた。なにげない調子で、
「貢、おまえなにかしたいことはないんか?」
べつになかった。内田は片端者の自分に何ができるんやとふてくされた気持になっていた。
「そうか」
と父親は言った。しばらくして、
「貢、どうだ、総裁のところへでも行ってみるか」
総裁というのは、近くに住む顔役で、内田も小さいころから知っていた。子供のころからガキ大将だった内田を見て、
「みっちゃん、跡取りにほしいな」
とよくいっていたものだった。
しかし、鉄工所を経営していた父親は堅物で、将棋を差すのも嫌うぐらい、賭け事はいっさい受けつけなかった。その父親が総裁のところへ行ってみるかというのは解せなかった。
内田は、そのときの医師からの一通の手紙が、自分の運命を変えたと言っている。しかし、内田に数奇な運命をもたらしたのは、この手紙というより、山本五十六という男との出会いではなかったろうか。内田がそのことにしみじみ思いいたるのは、発病して八年間もの間寝ついてからだった。内田はその手紙をついに父親から見せてもらわなかったが、彼の女房は内容について知らされていた。
「貢は半年ともたん体だという。好きなようにさせてやるつもりや」
と父親は春枝に言った。
春枝はうなずいた。彼女もまた、表専之助の妻のように、戦前の女だった。内田が満身|創痍《そうい》となって生還してきたときから、ある覚悟を決めていたのだろう。除隊して来たとき、
「こんな体やけど、頼むわな」
内田はそれだけ言った。
年が明けて、内田は総裁のところへ行った。昭和二十二年になっていた。
「そうか、みっちゃん、来てくれるか」
総裁は喜んだ。
五十五、六の眼つきの鋭い男で、「隠居」とも呼ばれていた。
「お世話になります」
内田は頭を下げた。
その日のうちに、総裁の家の若い者に連れられ、ある場所へ行った。中に入ると煙草のけむりと人いきれでムッとした。博奕《ばくち》場だった。そこは別の世界のようだった。活気があふれ、札束が飛びかっていた。内田は喧嘩はしてきたが、賭け事は一度もしたことがない。酒も煙草ものまなかった。
「内田はん、その辺に坐ってください」
ヤクザ風の男が内田に頭を下げた。博奕の場から少し離れた位置に内田は坐った。
内田が総裁のところへ来たことは、すでにその場の者は知っているらしかった。肝心の彼だけが、いったい、おれはこれから何をやるのかと当惑していた。
その日から、内田の生活は一変した。内田にも少しずつわかってきた。彼は昼と夜に開かれる博奕場の、いってみれば用心棒だった。彼は、その間ただ坐っていればよかった。
「お疲れさんです」と帰ってゆく人が、内田の袂《たもと》に無造作に千円札を突っ込んでゆく。昼と夜の博奕の親分は違った。内田はその「場」であがったいわゆるカスリ、テラ銭を総裁のところへ運べばよかった。総裁はその日のテラ銭をいつもピタリと当てた。
「みっちゃんにも、そのうちわかってくるわ」
総裁は言った。
彼は、内田が博奕をやらず、テラ銭に手を出すはずがないのを見抜いていた。博奕場でもめごとがあると、「みっちゃん。ちょっと」と呼ばれ、内田が登場する筋書きだった。
内田には、信じられない世界だった。彼は、思ってもみなかった場所に足を踏み入れた。生きる力を失っていた内田は、体の底から力が生まれてくるような気がした。ひねくれたまま何もしないでいるよりはと思って、総裁のところへ来たのだったが、内田がはじめて出会ったその世界には、男たちの奇妙な活気が横溢《おういつ》していた。内田はその世界で、水を得た魚のように生きはじめた。競馬場の用心棒もやった。
あるとき、競馬場に東京から「殺しの善さん」という男が現われた。いきなり、拳銃を抜き出し、内田に狙いをつけた。周囲の者はいつの間にか逃げていた。内田は、逃げるわけにはいかなかった。ここで逃げたら、用心棒の看板を即刻下ろさなければならない。数日前、東京で中国人とヤクザの出入りがあり、内田は雇われて行った。ヤクザの一人が機関銃を持ちだし内田のそばで撃ちだした。機関銃を扱うのははじめてらしく、威勢のいいわりには止め方もろくに知らなかった。
「機関銃は、こうやって撃つんや」
内田は銃を取りあげると、雲ひとつない空へ銃口を向け、弾を撃った。周りの者は、仁王立ちになって空へ向けて機関銃を撃つ内田に、青くなって逃げ出した。「大和」で機銃を撃ちまくった内田には、機関銃などなんでもなかった。久しぶりに爽快《そうかい》だった。こんなもので人を殺したらいかんと思う反面、あの日以来、ひさびさに銃の音を聞いて快感にひたった。このとき、内田は当時の金で二〇〇〇円もらっている。
内田は相手の拳銃を見た。ここでひるむと四日市のみっちゃんも、もうあかんな、と思った。その道では「殺しの善さん」と異名をとる、一匹狼の殺し屋は、冷静な表情で内田の出方を計っている。内田は拳銃から相手の顔に視線をうつすと、
「安全装置はずさんと、わしが撃てるか」
低いゆっくりした声で言いながら、自分の心臓のところを指さした。
「撃つんやったら、ここを撃ってな.あっちこっち撃たんといてな」
無表情に言った。内田の顔の筋肉は、レイテ沖海戦、沖縄特攻のときの負傷で動かなかった。全く顔に表情がなかった。左眼は眼帯でふさがれ、右眼は人を刺すような鋭い眼つきをしていた。
「かっこうだけでは、あかんな」
内田はゆっくり言った。男はニヤッと笑うと、拳銃を引いた。
「内田さん、失礼したな」
それで勝負はついた。
「内田さん、兄弟分になろう」
と彼は言った。
いってみれば、「殺しの善さん」は、淋しい一匹狼だった。しばらくして、この「殺しの善さん」は、テレビのアンテナを直しに屋根にあがり、雷に打たれて即死した。東京でもテレビが出はじめの珍しかったころのことである。
ある日、内田がFという家を訪ねると、突然、その家の老女が、
「お父ちゃんが戦争から帰ってきた」
と声をあげた。
内田がなんのこっちゃと思っていると、垢《あか》だらけの子が「お父ちゃん」と内田に飛びついてきた。
見ると、内田に向かい、老女が両手を合わせて拝んでいる。父親と思わせてほしいと頼んでいるのだ。その子の両親は行方がわからなかった。着流しで来た男が兵隊から帰ってきたというのもおかしなもんだとニガ笑いしたが、内田はその子供を連れて家へ帰った。
妻の春枝は、隠し子が突然現われたのかと驚いた。彼らには子がなかった。
「その子、育ててな」
内田はそう言うだけで、くわしい事情はいわなかった。子供を家に置くと、またふらりと出て行った。
「あんたの、父ちゃんてだれ?」
春枝はその子に聞いた。
「目ェのない人」
子供は片目のまねをして見せた。
「えらいこっちゃ」
と春枝は思った。
「母ちゃんは、どこなの」
「ここや」
春枝を指さした。
「あんた、いくつ」
子供は指をひろげた。
「ああ、三つ……」
賢い子やと思った。
春枝は子供を風呂に入れた。垢がボロボロと出た。湯はすぐに黒くなった。
三日か四日経って、内田は帰ってきた。
「その子、だれや」
春枝はあきれた。
「目ェのないお父ちゃんの子や」
内田はびっくりした声で、
「えらい色の白い子やな」
と言った。
その子が家に来て、春枝は晴れて籍に入った。昭和二十三年になっていた。子供を籍に入れるには、母親も入れねばというわけだった。
「でもね、裁判所では怖いこと言われました。内田さんとこは、きちっと子どもを大きく育てられるか、いいかげん育てて売るんと違うかとかね。昔は、養子養女というて、売りとばしましたやろ」
その子だけではなかった。内田は戦災孤児を次々と連れてきた。多いときには五、六人いた。一一人の子を育てた。籍に入れた子が三人である。
「私もね、お父さんなア、猫の子や犬の子じゃあるまいし、ちゃんと調べなあかんと言いましたんや。なんて言うたと思います。親のことはかまわん、ほっといていいやないか。育てたほうが親や、あの子らもそう思ってるわ。そう言いましたんや」
一一人の子供たちの中には、大きくして嫁にやったのに、その後は、知らん顔の者もいる。
「ええわな、幸せならええわな」
内田は何にもいわない。
「だいたいが口の重い人でね、頭としっぽを言うだけで、あとは考えろという人なんですわ」
内田は子供たちの学校にもよく顔を出す。父親参観日は欠かさない。母親参観日にだって顔を出しかねない。
昭和二十六年ごろ、内田は中部地区の柔道大会にも出ている。内田は次々と勝ち進んだ。途中で監督が選手交代と言った。内田は監督の作戦だと思った。しかし、あとで聞くと内田の稼業が原因だった。
内田は、競輪場の方も取り仕切るようになっていた。
昭和四十年の春、四日市の桜が咲きはじめたころだった。
内田は毎年、桜の季節になると、憂鬱《ゆううつ》になる。「大和」の沈没したときのことが思い出された。体の調子もよくなかった。とくにレイテ沖海戦の折に失った左眼の奥が痛んだ。しかし、内田はあまり気にしなかった。彼の体は用心棒の生活に入ってからも痛んだ。喧嘩して痛めつけられたのではない。
内田は、興行師としても名を売っていた。しかし、昭和三十九年の春、あることを契機に足を洗った。
ある日、四日市の置屋へ用事があって出かけた。昼前なので、置屋には女将《おかみ》がいるだけで、静かだった。内田はその日風邪ぎみだった。女将がお茶の仕度をしている間、芸子の鏡台から鼻紙を拝借しようと小物入れを開けた。そこには内田が四日市で興行を打つたびに買ってもらった前売券が束になって入っていた。ほかの芸子の小物入れもあけて見た。やはり切符が入っていた。内田はショックを受けた。彼は用事もそこそこに置屋を出た。四日市の総裁にいわれ、内田は昭和二十四、五年ごろから興行を手がけた。内田の打つ興行はおもしろいほど当たった。内田自身もしだいにその方面にくわしくなり、次々と企画を立てた。自信もついていた。
内田は昼の四日市の町を蹌踉《そうろう》と歩いた。興行師は、もう終わりにせなあかんな、と思った。あんなに無理して切符を買うて付き合うてくれとる。申しわけないと思った。その足で、内田は総裁のところへ行った。
「隠居さん、わし、足を洗わしてもらうわ」
「なに、みっちゃん、もう一度いうてみい」
隠居は怒ったが、内田はいちど言い出したら聞かなかった。
「よし、わかった。みっちゃんには二度と興行うたせん、それでもよいか」
「ああ、もうやらん。わしは決めたわ」
そのころから、ときどき眼の奥がしくしくと痛み、頭が重かった。鉛を打ちこまれたようだった。
ある朝、内田は頭が割れるように痛くて、目を覚ました。春枝は彼の顔を見て、悲鳴をあげた。その顔は半分が二倍ぐらいにふくれあがっていた。フットボールを半分くっつけたようだった。
翌日、さすがに病院の嫌いな内田も観念して、名古屋の杉田眼科へ出かけた。院長の杉田は、歌手の三浦洸一を眉を少し太くしたような小柄な医者だった。
上半身裸になった内田を見て、杉田をはじめ医師たちは息を呑んだ。内田の体は切り刻まれ、いたるところつぎはぎだらけだった。ちょうど居合わせたドイツ人のドクターが「おおー」と声をあげ、目をむいた。
内田の激痛と発熱は、左眼の奥にある義眼を動かすための「義眼帯」というものが四つに割れ、それが二〇年近く目の奥のあちこちを擦過《さつか》して、鋭い刃物のようになっていたためであった。
「先生、麻酔を打たんでね」
手術台にあがった内田はいった。
「おみゃあさん、麻酔打たんでねゆうとるが、気が狂っちょるに」
杉田院長は名古屋弁で怒った。
「いや、先生、手術のたびに麻酔打っとったら、わしの体はもう中毒でボロボロになるだけなんや」
「おみゃあさん、手術がどれだけ痛いもんか、知らんな」
内田はしかたなく、「大和」でのことを語った。杉田は内田の話を聞いて、ようやく納得した。手術台のそばで、ドイツ人のドクターが逐一《ちくいち》、杉田院長に説明を求めている。ドイツ人は杉田のしゃべるドイツ語に大きくうなずいた。
手術が始まった。内田は、呻《うめ》き声ひとつ立てなかった。
ドイツ人のドクターは、
「おお、ジャパニーズ、ヤマト、ヤマト!」
と感嘆の声をあげた。
内田はしゃくにさわって、目を切られながら、
「口はいらん、ちゃんと手を動《いの》かせてしっかりやってな」
と言った。
手術が終わると、
「先生、服を出してな」
「おみゃあさん、何いうとる。これから入院するんでよお、起きたらいかんわね」
内田は服をくれんのなら、この手術着で四日市に帰ると言った。
入院ということに恐怖心さえ抱いていた。一度入院するとまた転々と病院をたらいまわしにされるのではないか、そうなったら、もうあかん、という気持だった。
内田は顔の手術のときも入院しなかった。顔から弾の破片を取りだした。麻酔はこのときもしなかった。受け皿に摘出された弾片が投げ込まれる音が、耳にこびりついている。
顔から弾片を取りだしたあと、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の毛細血管をつなぐ手術もした。そのあとは足の弾を抜く手術だった。足には無数の弾片が入っている。海軍病院を転々とする間、足からも弾片を抜いているはずなのに、
「なんで、こんなに次から次へと出てきよるんやろ」
内田はもう、手術も、病院も嫌だった。
眼のほうは回復に向かったが、頭の痛みは毎日ひどくなるばかりだった。
内田は、また病院へ行った。検査の結果、頭に爆弾の破片を浴びていた。それが原因で頭痛が起きるのだといわれた。頭蓋骨にいくつも弾片があって大手術が必要だという結論だった。
「また、手術か」
内田は体じゅうの力が抜けていくようだった。いったい、おれの体は、何度手術すれば元に戻るのかと思うと情けなかった。
内田はふらふらと松坂屋の屋上に上がった。屋上からは名古屋の街が見わたせた。ふと、内田は死にたいと思った。おれみたいな者は生きとっても何の役にも立たん。内田は金網に手をかけ、よじ登ろうとした。しかし、手に力が入らない。肩より上にあがらない両腕は、何の役にも立たなかった。死のうにも死に切れん、わしは生きなあかんようになっとるのやろか。
内田はデパートの屋上の金網のそばにへたり込み、何時間もぼんやりしていた。
頭の大手術をすることになった。手術室に入るとき、女房と娘に言った。
「元気でな、体に気をつけなあかんよ」
このときは、今までと違い、別れのことばのつもりだった。
その朝は内田にしては珍しく、
「いややな、手術」
とぼやいた。
こんなことははじめてだった。首から上の手術は、海軍病院でも受けていたが、いちばん嫌だった。
手術は九時間半かかった。医師は途中で、親族を集めるようにと、内田の妻に言った。危篤状態だった。
内田は手術の間、死線をさまよった。しかし、内田はまたも生還した。
一葉の写真がある。顔の半分が包帯で埋まった内田が着物姿で杖をついている。背後には、満開の桜と「大和」の主砲弾を台上に据えた記念碑が写っている。
この日、昭和四十二年四月七日、愛知県名古屋市の護国神社境内では、東海地区(愛知、岐阜、三重)「大和会」による「戦艦大和記念碑」の除幕式と戦没者慰霊祭がしめやかに行なわれた。
午前十時からの除幕式では、「大和」出撃のころに生まれた男女二名の遺児が幕のひもを静かに引いた。一瞬、三〇〇余名の列席者の間からは声がもれた。その幕の下から出てきたのは、「大和」の主砲砲弾(四六センチ徹甲弾)だった。この砲弾は運送会社をやっていた「大和」の元乗組員で、内田とも親しい四日市の杉浦喜久男が呉から一〇トントラックで運んできたものだった。
護国神社に記念碑を建てるにあたり、清水芳人らが相談の結果、主砲砲弾を記念碑代わりにと決まったのは一〇余年前にさかのぼる。清水の兵学校六〇期の同期生にかつて呉の火薬廠にいた神津幸直がいた。清水はこの神津から、敗戦後も「大和」の予備砲弾が大量に残っている話を聞いていた。敗戦後まもなく呉にきた進駐軍は、火薬廠へすべての弾を投棄することを命じた。しかし、神津たちは、日本海軍の最後の象徴であり、悲願でもあった「大和」の主砲砲弾が地上から消えてしまうのを惜しんだ。極秘に一〇発ほど火薬を抜き、いつの日か引き揚げられる日のために海の沖に沈めていた。
戦後もだいぶ経って、極秘に沈めた予備砲弾は海中から引き揚げられ、旧海軍の貴重な資料として江田島に据えられた。そのうちの一発が、懇請しつづけて一〇余年、今は呉市中国化薬の社長になった神津の奔走で寄贈を受けることができたのである。記念碑建立は、清水芳人や事務局の市川三男(主砲発令所)、若田一郎(副砲発令所)ら元乗組員が一丸となって進めた。碑の建立の資金には、切り詰めた生活の中から妻がへそくりをそっくり差し出した元乗組員の話もある。
護国神社の桜は満開だった。満開の桜の下に集まった三〇〇余名の中には、遺族として有賀艦長の子息の姿も見えたし、元乗組員には北海道の室蘭から飛行機で駆けつけた国本鎮雄もいた。
甲板士官で副長補佐の国本は、水中爆発で耳が聞こえなくなった。戦後は北大医学部に入り、現在は室蘭市|輪西《わにし》町で耳鼻咽喉科の病院長をしている。
式典の始まる前、
「三〇余年も前から余生を送っているようなものですよ。申しわけないが、医者のほうはあまり力が入らんで……人生というのは、やはり一回かぎりのものですな」
清水に苦笑しながら語りかけた。
列席者の端の席には、再度の弾丸摘出手術を一週間前に受けた内田が、春枝につきそわれて坐っていた。主治医は慰霊祭に出席したら死んでしまうといって止めた。春枝も今回だけは思いとどまって欲しいと懇願したが、
「わし、死んでもええのんや」
一言いうと、むっつり黙り込んだ。
内田の右足も弾片を抜くために一度骨を折っていたので、鉄製のギブスがはめられ、立ち上がるのも春枝の手を借りた。
内田の隣には、片足切断の鬼頭光吉が坐った。
鬼頭とは数年前に、二〇年ぶりに再会していた。鬼頭は面相のまったく変わった内田を見て、声もなかった。
「あんた、二度も死にかけて……」
とようやく言った。
レイテ沖海戦と、沖縄特攻のときのことを言ったのだ。沖縄特攻のときに内田を電線通路にかくまった鬼頭は、それが自分の責任でもあるかのように思ったのか、言葉少なだった。しかし、内田には、唐木正秋や北栄二を戦死させ、鬼頭はあのときのことを語りあえるただ一人の戦友のように思えた。
「内田さん、お互いに長いことないな」
鬼頭はぽつりと言った。
名古屋市音楽隊による「君が代」の吹奏が聞こえていた。
内田は自分のことより、鬼頭の元気のない様子が気になった。
「このごろ、頭が痛くてね」
鬼頭は頭痛が激しいと言った。いつも頭の奥底でホーヒ、ヒーホと号笛が聞こえてくるのだという。鬼頭は昭和十六年秋に「大和」に乗って沈没するまで下士官になっても伝令だった。いつも、号笛を吹き、艦内を走りまわっていた。
内田は最近の鬼頭が、酒乱気味なのを耳にしていた。片足切断の鬼頭の戦後の生活を思い、暗然とした。鬼頭のように自分も酒が飲めれば、もっとひどい状態になっていたかもしれない。
「わしなぁ、酒をやめようと思うとるんけど、頭が痛うて、ついやめられんのや。女房に苦労かけとるんや」
鬼頭光吉に会ったのは、この日が最後になった。翌四十三年九月十日、鬼頭は逝《い》った。
昭和五十八年七月十七日、岡山県の小川優が亡くなった。小川もまた生還者の一人だった。
その数か月前、内田は彼と電話で話していた。
「わしはえらいことになっとるんじゃ週に三回、血液を交換せんならん.人工透析を受けとるんじゃ。内田さんはどうかのォ」
「わしのほうは、もうメタメタにやられとるけど、小川さんのような病気にはなっとらんのでね」
という会話を交わした。
ふいに、小川が、
「内田さん、覚えとるかのォ」
「なんですか」
「ガダルカナル[#「ガダルカナル」に傍点]……ガダルカナルや」
内田は、ああ、と声をあげた。
「覚えとりますわ」
「ガダルカナル」の件は、「大和」でも小川と内田しか知らないことだった。ただ、三笠逸男は小川優から聞いて知っていた。小川が亡くなる一年前だった。三笠の記憶では、内田たちの前にも一回、「大和」では、兵員をガダルカナルへ派遣していた。このときは三笠の分隊士だった副砲の徳田朝芳兵曹長が行った。
内田たちが極秘の特別任務でガダルカナル島へ上がった日付は明確でないが、彼の記憶では昭和十八年の初めごろである。しかし、史実を勘案すると昭和十七年の秋であった可能性が強い。その島に内田たちは一か月以上いた。
内田と小川は、戦後もわりあいに早くから連絡をとりあっていた。しかし、それまでにあのガダルカナルでの一か月間の生活は話題にしたことがなかった。
「内田さん、あの時わしらを選んだのは、……山本長官だったんや」
電話の向こうで、小川優がいった。その声は誇らしさに満ちていた。
そうか、あれは長官だったのかと、内田は妙にしみじみとした気持になって、思い出していた。
「小川上曹、どこへ、何しに行くんですか」
内田は尋ねたが、砲術学校高等科出の優秀な下士官である小川は首を振った。
各艦から二名ずつ選ばれ、計八名が出た。それに指揮官一名を加え、九名が巡洋艦に乗ってトラック島から秘密裡に出港した。指揮官はこれより特別任務につくとだけいい渡し、何の説明もしなかった。
内田たちは、途中で駆逐艦に乗り換えた。さらに潜水艦に乗り換えガダルカナルへ向かった。潜水艦には陸戦用の測距儀や無線を積み込んでいた。夜中、潜水艦はガダルカナル沖で浮上した。艦は浮上しても、いつでも逃げられるように、エンジンは停止しなかった。ハッチから運び出した測距儀などを小舟に積んだ。九人で泳ぎながら押して、夜目にも黒々と茂って見えるガ島の岸辺に着いた。連絡してあったのか、岸辺には陸軍の兵隊が二人ひそんでいた。
二人の兵隊の案内で指揮官以下九名は、夜のジャングルに入った。八人が重い測距儀をかついで山頂へ向かった。先頭を歩く陸軍の兵隊は、内田たちの半分ぐらいの体重しかなく、眼は落ちくぼんでいた。
「こりゃ、えらいところへ来たな」
小川が小声で言った。
「どうも、元気のいい者が選ばれたようですな」
内田も小声で答えた。
小川優は、内田より四歳年長の古い志願兵だった。柔道部員ではなかったが、地方の二段を持っていて、ときどき内田に、
「おい、稽古をつけてくれ」
と言って、練習に来ていた。
そんなことで、内田と小川は分隊も階級も違っていたが、気心が知れていた。
小川はふだんは無口だが、気心が知れると胸襟《きようきん》を開いた。
「岡山県人は人見知りするが、いったん気心が知れると、ようしゃべるのォ」
いつだったか、小川はそう言って笑った。
小川は「大和」に昭和十七年に乗っていた。
山頂に出ると、陸軍の兵隊がいたが、マラリアにかかったり、下痢をしているのか異様に目玉だけが大きかった。ガ島の苦戦のひどさを内田たちは感じた。
ガ島へ日本軍が進出し、飛行場建設に着手したのは昭和十七年七月十六日であった。これを知った米軍は八月七日にガ島作戦を開始、対岸のツラギとともにガ島は米軍の手に落ちた。これに対して八月十七日には一木支隊がガ島に上陸を敢行、二十一日に攻撃をかけたが失敗していた。山本長官が長岡出身者の大勢入っている新発田の歩兵第一六連隊がガダルカナルで全滅しつつあることを知ったのは、トラックの「大和」に乗っていたときである。
ガダルカナル島の撤退が決まったのは、十七年十二月三十一日だった。しかし、実際の撤退作戦は二月一日から七日の間だった。ガ島のジャングルには十月二十四日の第二師団の総攻撃に失敗した陸兵が助けもなくひそんでいた。
真夜中に頂上に着いてわかったのだが、山頂から見える米軍の飛行場を測距儀で計り、艦に連絡して、大砲を撃たせるというのが、内田たちの仕事だった。しかし、内田たちが特別任務でガ島へ渡ったときは、すでに日本軍は全滅寸前だった。むろん、内田たちに、そういった状況がつかめていたわけではない。
内田たちは生まれてはじめてピストルを渡されたが、腰につけるのにも慣れなかった。海軍では帯剣はするが、ピストルはつけない。
内田たち八人が指揮官のもとで測距儀を設営しはじめたとき、ガ島沖から艦砲射撃が始まり、米軍の弾薬集積所にでも当たったのか、飛行場は大火災を起こした。砲撃は何時間も続き、一〇〇〇発以上の弾を撃ちこんだと内田は記憶している。内田たちの任務は、飛行場の建物の位置などを艦隊に連絡することだったが、すでに無線連絡する必要もないほど飛行場は大火災を起こしていた。
指揮官の指示で、その日のうちに内田たちは山からジャングルを抜け、海岸線へ降りた。
海岸で一晩味方の艦を待ったが、なぜか迎えに来なかった。昼は陸軍の兵隊たちと同じようにジャングルに潜み隠れた。内田たちは夜になると迎えの艦を待って海岸へ出た。内田たちの持ってきた食糧は三日間で底をついた。陸軍の兵隊と同じように小川も内田も、ヘビや草を食った。小川は下痢をし、マラリアにかかった。内田はマラリアにはかからなかったが、急激に痩《や》せた。
ある夜、陸軍の兵隊が、今夜は肉を食わせてやると言った。固いような、柔らかいような肉で、ほとんど物を食っていない内田にはうまかった。
「内田、妙な肉だな」
食べたあとで、小川がいった。声をひそめると、
「人間の肉かもしれんぞ」
言われてみれば、奇妙な味だった。
陸軍の兵隊たちは、目をギョロつかせて黙々と食べていた。
数日後、ジャングルで敵兵に行きあった。小川と内田は慌てて、別の場所へ散った。ジャングルに入ると、弾はめったに当たらなかった。
「敵いうても、ありゃ、日本人のような顔をしとったな」
小川はガ島には日系二世が大勢きとるのだとつけ加えた。
「そんなら、まるで日本人同士が戦争しとるようなもんじゃないですか」
「そうじゃのう」
小川はうなずいた。
一か月ほど経ったある夜、沖の潜水艦から小型の照明灯が蛍火のようにゆらゆらと夜空にあがった。敵に見つからないため、ほんのわずかの合図で、艦まで泳いでゆくことになっていた。
内田たち海軍の兵隊は、持ってきた測距儀や無線をジャングルに捨て、泳いだ。しかし、陸軍の兵隊たちは重装備のまま、ゲートルもつけ軍靴もはき、その上に銃を持って海に入った。
「そんなもん、捨てたらええのに」
内田は言ったが、
「これは天皇陛下からお預かりしたものです」
と陸兵たちはきかなかった。
艦にたどり着いたのは内田たち九人と一人の陸兵だった。陸軍の兵隊は大勢いたのに、助かったのはその一人だけだった。その陸兵が銃を持っていたのに、内田は驚いた。一か月余のジャングル生活で、内田は陸軍の兵隊たちの粘り強さに舌を巻いた。
トラック島から「大和」が呉へ帰り、上陸すると、その日、内田と小川は鳥取の三朝《みささ》へ行けという命令を受けた。その日のうちに鳥取へ行った。二人が着いたのは三朝温泉の旅館だった。命令はおよそ二週間の特別休暇だった。二人とも一〇〇〇円の大金をもらった。
「ガ島が落ちたのを秘密にしろということじゃのう」
上等兵曹の小川は言った。
内田は大手術のあと、八年間病床についた。その間、ベッドが四台こわれた。このときの手術を除いて、入院はしなかった。
数年前、内田は台湾に行ったとき空港の警報装置に引っかかった。三名の係員が内田を裸にした。全身の傷跡やひきつれに言葉もなかった。
「戦争ですか」
係員は流暢《りゆうちよう》な日本語で訊ねた。
「そうですがな、戦艦大和に乗っとりました」
内田は答えた。
三人の係員は、瞬間、敬礼をした。
内田は旅が好きだが、飛行機には乗りたがらない。内田の体の無数の破片や弾丸が金属探知機にひっかかって気色の悪い音を発するからである。
内田の体は麻酔がかけられず、レントゲン照射もすでに限度を越えている。あと何回手術をするのか、いつまで生きつづけるのか、内田自身にもわからない。一三〇余の鉄の破片が体の中をめぐっている。自分の体でありながら何か別の不思議なものによって生かされている気がしてならない。近々、胆嚢《たんのう》の手術をしなければならないと、主治医は主張する。胆嚢にも鉄の破片が入っており、それを摘出しなければならないのだ。春枝は反対している。しかし、手術はしなければならないだろう。
内田は四日市の街以外をひとりで歩くとき、盲人用の杖をつく。それでも、ときたま電信柱にぶつかったりする。内田といっしょに歩いてみるとわかるのだが、内田はたえず相手に声をかける。相手の声で自分との距離を計り、歩く。杖を使わないときは、そうして歩いている。
寒い夜など、いつまでも寝つかれないことがある。そんなとき、体の中でプツンと血管の切れる音が聞こえる。明日は病院に行かねば、とひとりごちる。
昭和二十年三月二十八日、戦艦「大和」、沖縄海域に向け呉を出撃。乗組員三三三三名。四月七日十四時二十三分、米航空機部隊の攻撃により、沈没。北緯三〇度四三分一七秒、東経一二八度〇四分〇〇秒。死者三〇〇〇余名、東シナ海の海底に眠る。生存者、昭和五十八年現在、一五〇余名。
[#改ページ]
戦艦大和乗組員戦没者名簿(階級は特進後のもの)
中将[#「中将」はゴシック体](艦長)
有賀幸作
大佐[#「大佐」はゴシック体]
林紫郎 高城為行 山口博 茂木史朗 (軍医大佐)黒田秀隆
中佐[#「中佐」はゴシック体]
川崎勝己
少佐[#「少佐」はゴシック体]
河野麻治 服部信六郎 中島武 星文吉 牧田国武 臼淵磐 松本治 今村国松 西下近治 村重進 山野京市 坂井保郎 藤本弥作 (軍医少佐)奥田龍一 磯部巌 (主計少佐)山本粂太郎
大尉[#「大尉」はゴシック体]
塚越仲太郎 宇都恵喜 江口喜 井学松次郎 山本勝 高脇圭三 木内秀樹 大森一郎 友田正武 花田泰祐 折出實一 村岡渉 永畑龍二 内橋忠雄 鶴井隆義 山崎巌 (軍医大尉)東郷健一郎 (衛生大尉)藤原一 (主計大尉)須貝逸二
中尉[#「中尉」はゴシック体]
鈴木嘉美 高田和夫 七里秀男 西尾辰雄 関原良臣 鈴木喜三郎 森一郎 松本素道 水島宗良 井高孝之助 分部武 伊ケ崎長太 長岡清一 足立英雄 中西政一 藤本正登美 橋詰徳雄 小矢田操 納要 永見貞隆 佐々木誠一 須田節三 村田正義 杉本勇次郎 志摩亀雄 河野健市 田中利作 河田博 金光正志 河田三十 助田庄司 保本政一 (主計中尉)川又満吉
少尉[#「少尉」はゴシック体]
大辻慶次 中川正己 和田健三 三浦一雄 水野辰夫 早川豊 金子一哉 住清二 岸義雄 祖父江正義 岩田良男 表重助 森山武利 細田豊 木村利明 吉田文夫 徳田朝芳 中筋武四 陰山陽三 鈴木健次 野村賢次 桑原忠男 兼綱秀夫 深町章雄 上田匠 角谷蔵太郎 夏井一衛 高井喜太郎 佐藤亨 岩城半作
傭人[#「傭人」はゴシック体]
(割烹手)長谷川伝司 (洗濯手)北川辰次 (理髪手)片田武 山田博道 井口春夫 (裁縫手)土屋額男
兵曹長[#「兵曹長」はゴシック体]
山本源治 重岡正雄 兼行夫市 大野収 福岡サ 福栄義弘 和田正心 浅川武雄 今西久尾 藤野喜美蔵 彦坂豊 中村友幸 川崎利夫 水津只一 川添重郎 斉藤恒男 原口惣一 宮本政亀 中尾覚 徳井高市 城本三次 渡部龍生 片寄完蔵 森崎林三 河本琢雄 田村澄雄 田邉虎雄 姫路愛忠 ※[#「さんずい+嬰」、unicode7034]田澄人 居内久男 畑中美春 玉木一夫 江本鶴雄 中島幸一 糯畑悌二 泉雅晴 樋上重喜 川口義雄 南光春 清水鴻三 藤井泰治 芳田清 岩田匡司 桑原佐太郎 岩田正一 西田誠 西田方二 長谷川毅 小林喜佐一 廣畑才市 森兼義方 鈴木恒哉 竹林好春 妹尾正雄 新谷兵三 長谷行雄 清田十一 浅井清一 新善郎 菱木金次郎 吉村一雄 香山辰雄 橋野六治 吉井央 日江井良夫 有福武雄 山本直夫 大上秀夫 小久保吉一 杉本三郎 三島忠 塩見諭 大森竹夫 田中寛 井之口藤二郎 佐藤柳治 伊藤幸次郎 藤谷史郎 中島真蔵 内藤一 平尾盛三 藤田勉 田中清 長谷川登 海本廣志 木村重己 中井皐 田丸陸司 小澤傅 田渕蔚 九鬼健三 大平高男 山崎幸男 土谷勝治 玉置清見 岸脇文治 楠満義 田中義雄 元椿行雄 平田貞之 松下春雄 中村久三 新井信雄 野津實 田中伍郎 福村勝 五百蔵寿 志田義明 小松浄 三木豊吉 南出秀夫 山岡初太郎 坂牧四郎 坂本常一 古谷五郎 柴垣政三 中井善一 近藤三津夫 村上忍 新本政吉 仲田新一 北村国明 杉崎兵次 渡辺明夫 (整備兵曹長)藤岡守男 (機関兵曹長)廣田進 椙本政義 村田栄吉 田中秀一 中村武仁 福永鈴喜 五十部寅雄 近藤純一 田端佐太郎 横山忠明 京名喜代次 川村忠也 井上潔 木原時男 三浦透 田中光行 弘中四郎 関戸武雄 藤尾寅太郎 山本一郎 松浦由之 清水正司 浅井藤正 中川外吉 中村廣務 山岡巌 小切間祐三 重野三郎 神尾浩 徳田哲男 中川國香 井上忠秋 小林大三 川口豊三 中原芳三 寺岡一二 秦野達次郎 宮本太吉 奥田忠文 飯沼宗雄 和田旭 西村馨 今田良行 水野正男 平田登 矢野次 小林好夫 川瀬正一 平野孫二 和田里見 犬飼敏雄 菊本良範 原野循 三谷三寿 柴崎正雄 重本進 中司直勝 中野松男 河村憲一 岡村厚 木村源三郎 母里太志 鈴村雄三 西田金次郎 田和勝吉 岡本留作 吉岡武雄 是行守三 山中伝一 分銅嘉一 田岡鋭吾 山田定治郎 平田良夫 林田義三 (工作兵曹長)中対陽太 島津敏香 鈴木一義 小笠原嘉明 田中仁 佐々木※[#「立/ノ/田/(人+人)」] 石橋留吉 (衛生兵曹長)丸山正雄 (主計兵曹長)西川肇 平田忠夫 諏訪進一
上等兵曹[#「上等兵曹」はゴシック体]
武田菊雄 橋本重生 中西信次郎 高橋謙四 鈴木潔 田丸勇 福尾崇 一上熊市 加藤廣一 原久治 森岡正直 山近勝實 峯岡三郎 藤田荘一 市川文平 椙本伝次郎 柳原健男 井上満 元一夫 藤井義一 茶谷喜代三 澤田愛吉 大村光治 河野一太郎 糸賀正 中田末人 黒野重男 横山芳教 座賀白一夫 羽多野貢 小島正一 小森光治 高延克己 碁田七朗 植野晃敬 庄野志良 重年廣二 高木正利 山内国松 福田寿之 渡邉幹一 稲場満 寺尾祥平 岡林保治 三代俊雄 市本敏行 西利右衛門 甲村義治 岸部誠也 友永貞夫 森弘 堀田素之 高須七郎 仲元房夫 田辺清市 深和守男 名村利雄 天白春樹 伊木平 島崎護 片平通保 村上勘次 島田国延 橋本庄一 吉川忠一 平井昭吉 岡田芳春 布施義晴 吉村精一 森原亀則 柳川八十一 本田貢 加藤豊三 大島仙一 吉富京助 岡村佶旻 堀田辰男 土井一男 新田強 東元義夫 石橋克夫 飯森義夫 上出定光 小川新造 市川寿 小坂賢 今石庄八 岡田一茂 谷崎成男 醤野政男 中山寿 山内幸雄 川端松夫 諏訪義雄 山崎利雄 西羅隆夫 早川日出男 前野政雄 坂田富十 成田万三郎 道下積 大井健太郎 藤原芳雄 井筒力三郎 久守芳登 杉山久市 下垣清八郎 石輪忠弘 長谷川※[#「日/舛」、unicode66FB] 中山義雄 鴨井鉄夫 佐原弘蔵 伊藤定明 飯田秀夫 岸本末吉 中林房吉 上田貞美 高藪利夫 秋山榮治 河原満治 高畑竹一 梶富三郎 長井陸蔵 吉岡※[#「日/舛」、unicode66FB] (上等機関兵曹)藤原一 山田勝 熊谷宗正 浅川忠義 大田俊夫 河本弘政 花木正明 和田勣 安枝斉一 松岡正義 須田鉱一 西山四郎 大森信義 河崎松之助 林文雄 桑原繁春 伊丹松男 井本春雄 中川久雄 糸賀房吉 倉重覚 安達勲 木村末蔵 真野睦二 白井斉 藤原清 倉田清作 末元保 雲出茂雄 杉山重太郎 鳥羽谷三郎 岡垣貞美 冨田利雄 丸岡彦次郎 新明哲吉 本池孝義 山田惣一 足立幸郎 平野三亟 祖父江市数 星野冨士雄 吉岡剛 松井貞治 高畠幹夫 井口竹一郎 辻本恒治 牧村慎三 樋口萬栄 米田次雄 綿谷忠太郎 山田禧三郎 寺本浅男 辻雄三郎 関口示 (上等工作兵曹)上田績 辻極松太郎 松川士郎 酒井敬原 藤田武男 多田文市 (上等衛生兵曹)古志純義 片岡誉士登 (上等主計兵曹)萓葺護 田畑貞次郎 天花寺成央
一等兵曹[#「一等兵曹」はゴシック体]
黒田文次郎 堀数一 高原武夫 竹山信男 加藤房己 松井勝義 高尾弘 石井可秋 久米博年 今井静夫 大平三吾 横川渡 山西彦治 山本一 岩田利男 月本元一 宮口繁太郎 服部冨美男 寺戸知 宮田慶一 幡精一 大田泰次 表健三 藤原清水 前地太治 岩瀬政和 尾崎喜朗 片山数一 喜納賢一 村上敏之 生田徳満 山田好一 大田政 増井郁 山崎清 粟原清市 山下猶 片野嘉男 沼本十一 木村義夫 北森重男 井上泰助 若狭和都 宮久保稔 槇本一夫 竹谷圭三郎 山本定正 細見東吉 福田賀寿雄 大月英雄 竹下茂 浦田冨士義 宮川実 西脇一美 田中元蔵 和田義一 宮脇渉 清水重一 武藤勉 河野春三 中村冨太 高家護 坂本豊一 尾崎義夫 小野田英雄 片岡健蔵 川合一郎 東養之祐 榊原※[#「日/舛」、unicode66FB] 永峰白道 伊藤志九 河原三二 吉田種吉 竹内正二 尾崎隆寿 太田正 間直馬 平野則一 清水清一 形部定男 羽根田久男 岸本浩平 早田恭平 笹田勉 鳥羽己之市 吉川静夫 世喜仁 澤田馨 竹本繁 大鋸保 西窪常太郎 土田宗一 山路武彦 木俣貞夫 小倉武彦 都筑巌 北川安夫 柴床和泉 片山脩 澄村量一 水谷宏也 武部茂 浅井萬年 鈴木博 富田正夫 平田計雄 北田留雄 辰井栄次郎 日野景治 片山守義 新田保 岡野静雄 大阪条男 岡本高夫 片岡久光 八馬友清 炭多辰男 藤井弘 田中※[#「日/舛」、unicode66FB] 安藤光雄 奈良本勇 加藤一行 荒川秀三郎 堀山半治郎 吉田重雄 平野英雄 大橋一次 大西一平 中朝雄 小倉増夫 藤田徳治 中谷定次 大利博 丸山勘次郎 木村岩太郎 小林嘉津一 濱田清 堀田金太郎 藤井義一 岩坂敏治 飛松武士 飯田忠夫 籔田泉也 中村四郎 和田四郎 千本勤 奥田学 伊藤博 和田至 大江弘 中村桂四郎 田中功一 池尻義二三 藤井三郎 田中英雄 河村忠美 竹内実秋 森友治郎 川瀬岩雄 中山登 丸澤利行 椙村岩夫 伊藤昭 玉木是男 井上修 亀井宗雄 飯塚二雄 遠藤和夫 加藤昭 奥田保 石谷堅吉 池本弘 布浦晋 小川頴雄 西山睦雄 西村次郎一 星野義明 川本覚 有田友喜重 小峯登 日比野憲史 鈴木吉一 高林清左衛門 今井喜三 岡本保雄 平林博 田原小四郎 前田利祐 田中辰二 池田正登 片山幸之助 下勝 岡喜洋一 若宮亀吉 市原春夫 山本澄 渡辺松次 内田正 安藤省吾 井上稀介 加藤茂 畑中稔 筒井徳松 堀直一 下永信道 水谷敏之 藤森琢治 岩井茂 森野安雄 東田裕 渡邉※[#「日/舛」、unicode66FB] 伊藤正明 中林信吉 白石和夫 丹羽武光 林貴 長谷佐太郎 深海與一 赤松繁雄 戎谷巌 大西久治 吉田栄次郎 乾泰彦 瀧徳一 丸山仁一 井口精造 永井泰真 森本栄治 沖本竹一 福島真一 市川芳彦 毛利春司 横江清 増田儀一 北栄二 鈴木京一 小田信一 小林寅義 渡辺秋男 唐木正秋 寺川友次 菊水咲雄 小泉賢次 米山保 小南常雄 幡井勝 中北澄男 古吉博 岡本恒 中桶一葉 岡田虎右衛門 室田次夫 安光信喜 三木勲 大下幸男 市本義章 亀田吉松 友谷茂男 福永貞治 中井三男 黒川正 入江勇 前田正治 的場太久美 渡邉正蔵 結城圓二 木田常志 川瀬渡 桜井高行 渡邉武 井口行雄 長谷川武 橋本左内 牛河実 岡本重忠 林秀治 岡田久栄 臼井光夫 出渕八朗 中川昌一 浦千代富 烏田豊重 西田博美 尾竹完六 阪石数 田路宗市 百田※[#「わかんむり/且」、unicode519D]治 高原悦次 山根主 加藤秀市 溝田小市 石原富雄 鬼頭徳市 森正男 間瀬昇 浅岡正八 中田仁 寺尾芳平 作谷治良 須山廣一 宮澤元彦 長田敏康 多田榮次 中井利次 濱中孝 大段秀義 田村久治 橋本勇 築橋久次 林原数政 鈴木一美 大村要 中家正文 熊谷好寅 横山親至 大野康槌 中山徳平 坂口一英 岡田和聡 柴田主税 小林進造 吉本淳助 水野安雄 松本千稔 伊藤武 児玉一郎 竹内尚義 山部巧 橋本巧 田中正利 高橋茂 土野廣三郎 後藤実昭 川口安市 近藤利夫 塚田行雄 金田勇 土生谷幸 流田数利 石川秀雄 中根民治 稲田巧 成瀬清市 (一等機関兵曹)小坂井三郎 鳴本博 佐々木幸雄 古川一夫 清水武治 中村邦夫 岡璽郎 辻本徳茂 黒田勝喜 箕浦政一 相田賢三 杉野定雄 多賀谷通則 若杉四方 下田信一 稲葉三明 辻宇太郎 井ノ本政夫 梅本徳二 丸根幸雄 坂口利一 小林正吉 前田一穂 小池保男 渡辺昌晴 犬飼康男 福田吉衛 西村保 矢定一海 遠藤角市 久保三一 北岡治 春本敏夫 三原輝男 土井正之 梅田進 南典男 奥野正三 竹本芳治 竹内武夫 国枝稔 村田勇 田中久男 合田薫 水谷繁男 加藤金雄 野田輝行 上田仁作 横田慶助 野嶋三郎 堀江二郎 井本忠男 北川良夫 太田忠男 上浦義雄 濱手寛 寺本春市 南羊二 蜷川博 岩井廣治 水谷進 吉光正一 藤井忠幸 高木敬一 中尾義一 越野一松 高矢光蔵 森窪秀夫 阪本市蔵 今泉内蔵二 井上頼任 木上徳治 山※[#「山+奇」]太郎 川村與吉 大本英夫 秦芳毅 泉杉雄 大山松夫 柴田康男 長谷川年夫 深川實 家城幸一 永田政雄 水谷鉄次郎 安田瀧春 三木源次郎 宮木太 渥美定利 倉地千代松 中本泰次 森末啓蔵 山崎明 森岡※[#「日/舛」、unicode66FB] 川端重雄 吉見増夫 岡野人志 駒田信男 夜久銀蔵 真見覚一 御船太郎 筒水奈良治 杉原彰 横山安治 南喜三郎 井上敏夫 松島義雄 (一等工作兵曹)白※[#「山+奇」]清 橋川敏夫 仲井健一 竹村寅生 小野純太郎 田中敏則 石崎十市 (一等衛生兵曹)秦正 古澤恒男 勝哲朗 (一等主計兵曹)水野正雄 吉井明義 小谷美智男 兼光充 土井義行 高木銀一 甲谷守正 中村千松
二等兵曹[#「二等兵曹」はゴシック体]
武田九一 大前重太郎 戸田正志 山崎時春 谷口亀三 高田勝 南喜旭 大田猪太郎 鶴海貫一 安藤忠夫 石本亀男 木下庄太郎 堀静夫 磯江重蔵 元田健吉 野々垣秀利 吉山善文 竹中※[#「くさかんむり+威」、unicode8473] 米岡新作 岡田寅美 高村久之 原田公 池部亀太郎 吉永義光 大竹利金 古城守 井町重夫 森義喜 久瀬一雄 岡田嘉之 熊田弘 笹田圭彦 林幸次 藤岡和恵 浦野正己 岩田節夫 桑田一恵 石橋新二郎 伊藤貢 木村環 宮多金也 西村清 山本誠一 米田寅一 福田謙一 坂口佐太郎 樋口俊一郎 坂巻峰易 原作蔵 谷三郎 石井博 中川通男 前川操夫 松村重幸 田中求 實井健 牧行成 松岡平八 山田隆一 小林働 出原幸人 松原一美 小竹豊吉 原田義雄 白澤武士 原田茂夫 松原文夫 今井俊一 細田照義 西山松雪 渡辺冨男 斎田茂一 深谷勇 鈴木勵 大井住夫 出本清己 村上久雄 細川二三夫 中野明 岡部富一 登田幸三 弓中義一 竹久民士 石原一夫 和田保二 内藤由福 平野正義 安藤末明 宮原敬一 蔵前昇 高田幸男 北本誠美 山口貞夫 小林※[#「日/舛」、unicode66FB] 竹内信一 竹本利行 梶谷健次 山川友也 中垣主計 長瀬忠雄 加藤寛治 米原知行 桑山寛 安田順市 富田範夫 各務幸作 田中茂 桑原貢 安田弘 藤田瀧男 水藤萬市 高見久一 笹山初男 宇那木寅夫 網本光治 中嶋喜一 鈴村亘 山下吉兼 森島富夫 森安勉 落合達男 原田晄三 坂明義 浅原通弘 川原勉 上原義男 高木虔之助 伊藤宗義 北畠周次 田中稔 中神寿美男 前端政市 高橋確 中瀬中司 清水久雄 志茂隆 片山文章 福永正三 近藤理秋 吉岡忠敏 若山秀男 籠主 加藤達雄 遠藤近寿 安藤修 橋本定一 奥明 中川忠 中原整 内田一男 廣垣勇 小西通弘 浅井小一 森田宗治 林知圓 今村林太郎 纐纈勝美 西山安雄 安積敏一 大塚保次 藤々木義邦 西岡四一 岡部京一 山本繁一 二村茂 原田博 枝常一夫 西井徳男 小池章 立原信吉 松本虎一 川内賢三 門脇博 水谷實雄 松葉敏一 有本英夫 松本唯一 加藤進 大西助雄 横井善吉郎 村上義孝 江本吉直 平野次男 土方武 山添久嗣 波多野徳男 福井俊秀 大林正義 河俣孝吉 乾元次 津森俊彦 高田谷彰 小坂猛 春日井幸重 山内義男 米田重範 飯田久夫 江川佐一 鈴木壽雄 小森登久 丹羽武之 河原清正 田邉章 佐々木正夫 畠敏雄 吉尾敏秀 鍛治新次 八木忠之 守屋毅 田中義清 高橋義正 河原忠雄 高瀬登 藤田正勝 北川正雄 谷口竹尾 川地文栄 鹿松善男 石飛由市 渡邉一郎 箱田泰一 森東晴雄 中尾喜平 山久保馨 織田海一 梅岡久士 古谷梅夫 牧美佐雄 栗原時夫 本田信一 藤原保武爾 渕本登 嶋岡嘉治郎 竹田隆 丸尾敏夫 高岡清士 内田嶺雄 永井正之 山種蔵 舟橋清 藤岡義夫 仲山芳雄 渡部平八 武田勝 片山章 梅林彊輔 阪口福治 藤井勇雄 大本孝市 東尾一男 林薫 石田操 渡辺修二 小泉慶数 梅林一良 井上五三太 岩田義春 今岡武志 吉田長四郎 仲野俊雄 伴一夫 高谷二郎 野村弥寿夫 国嶋常七 杉本文一郎 迎川健吾 山本節夫 柳田治雄 坂上田隆 張谷槇一 多田利苗 中野晁次 柿谷博章 鈴木準三 山口茂 青木英男 田中政次郎 森田君時 福森保男 上野靖 井口忠一 吉田武夫 田宮梅夫 浅尾訓造 福森邦義 中本一惣 田中辨蔵 新宮庄一 柏木勇 小泉政弘 辻ノ内茂 具志堅用喜 森山春一 小山秀夫 久村久満 猪坂秋夫 生嘉秀雄 今岡武好 大仲佐一郎 室山豊 山口清一 浅井一男 天野善弘 末広美義 長井幸夫 荒川進 芳賀綾進 松島繁尚 大鐘針治 細木泰夫 川渕東海夫 飯田光夫 吉田登 多田孝夫 中橋守勝 土谷淳一 福武正信 増井徳一 藤井馨 紙谷初夫 稲見学 太田勝 氏家静次郎 箕浦金夫 山口宗男 森本敏夫 中村菊三 水野春男 吉川豊一 金藤清志 高綱房榮 花光一夫 宮本徳治 沖田鉄治 有馬貞雄 辻村武雄 土屋為雄 山崎友数 今田忠夫 浅井善治 藤田一春 山本宇三郎 山田宜夫 上田一義 熊田俊一郎 加藤光治 小川喜一 佐藤弘 河合逸男 北村昇三 山中中 妹尾晴次 大井明 (二等機関兵曹)木下喜久男 加藤環 西林寿利 榊原幸一 濱田徳治 佐藤時夫 谷川祐二 北川秀美 池本仙太郎 河野隆 冨江卓男 小久保昇 田中祝一 泥敏 永田正 藤岡敬二 岩田一雄 酒井忠司 大坪清一 石本清一 岡田繁穂 野瀬清郎 宮本政名 中山恒明 波多野作治 打田重信 田中優 天野勇 府中信一 山本正三 喜多健治 東谷徳雄 小川澄人 本田通保 朝倉忠夫 進藤武夫 早野幸造 大内庄平 野村八郎 水津知 梅本浩孝 堀田新太郎 竹林馨 橋本久雄 竹中熱海 末松清 田中功一 瀧口義雄 小畑栄 蔵野春雄 川崎政太郎 大西十三春 中川猛夫 加河義男 貝谷太一 奥井正雄 松葉義美 森脇操 松井鉄四郎 藤田成義 山根博 梅屋栄 向山清二 吉田正一 野口智 石原壽男 川田彦市 鈴木萬吉 奥吉正 山本俊雄 加藤弘之 井上勝次 吉田良男 濱部雄次 大見初男 合田数市 遠藤芳一 平下冨雄 高田栄 友村晴男 波多野数夫 山本松之助 脇福太郎 吉野武一 新河新一 高藤哲雄 寺田一 谷川正實 新谷昇 西尾貞夫 中村信夫 紀田鷹士 種本伝太郎 岡田定松 大川泰彌 稲葉将雄 松原信一 村井友夫 三橋明 岩本實 稲葉利美 (二等工作兵曹)米田繁 坪谷賢作 松島正生 吉村一雄 吉田静雄 山下儀男 辻田貞男 本間政義 浅井勇 福本政夫 山内均 小塚栄三 村瀬謙一 林守一 宮川徳治 大東喜代治 寺崎嘉一 曾我雄三 (二等衛生兵曹)藤井次男 福田雅太郎 前田明男 土橋誠三 釜谷芳晴 大谷豁二 後藤千代治 梅田春治 (二等主計兵曹)川畑力 杉本栄 戸野昭二 藪内勇 井上文雄 伊吹貞夫 尾崎重信 三木吉太郎 大呂八重蔵 安藤正憲 寺輪徳蔵 亀田敏行 財間進 中川務
水兵長[#「水兵長」はゴシック体]
伊達恵 瀬戸川義雄 古谷清 若田克己 山崎美数 藤平一男 沖野勇 本庄寿美夫 口井節也 木南博 狩野健 辻美利 渡部幸夫 岡田豊 熊谷昭二 植田勤 岩佐實男 森崎隆男 土井三喜男 池田勇 白川繁則 古礒十 大國兼義 高井勇 森部保夫 岡田政人 石見嘉吉 須藤武美 橘博之 村田義人 森脇治雄 服部道明 宮田光次郎 早川敏一 大脇冨二 長屋富美雄 横江幸 出谷亀雄 福田良郎 小林正郎 志知幸一 杉浦八百次郎 神谷滋郎 横山國一 郷勇一 横林重行 新井隆次 三浦弘 加藤武 古東松雄 中野義治 葛井良一 西川留三 橋本※[#「日/舛」、unicode66FB] 赤木直 中村金三郎 本部植介 加藤一夫 西川吾一 岡本定夫 早川五郎 前田孝治 渡辺克己 森幸夫 広瀬昭三 村上政夫 的場誠 西浦喜蔵 小川菊司 平田竹男 片山計正 伊藤信行 西藤清一 棚橋賢一 今枝正行 野馬實 梶野義一 石川春男 森晃好 住谷傅 津田好一 山田昭生 山田利雄 上村三郎 高田泰三 藤原健二 澤井忠幸 森本節夫 藤井昭三 中島健一 加藤弘一 橋本正雄 藤井澄二 松岡宗市 岸本芳 杉原稔 山口一光 先田一成 鈴木三郎 高卓 川端章一 井上順三 窪田亘 田村政雄 粟田政美 山本進 岩浅光夫 山内恒昭 野田英雄 山本弘 奥迫栄 青山嘉平治 林重政 川崎勝美 伊達勝行 左近充國吉 志熊順二 中川正一 田仲一夫 北川利雄 日比野政一 小野木宰 福本一三 石田實 辻忠次 矢野啓二 井村俊美 清原昭治 藤田秋夫 中島慶蔵 新藤恭平 松井孝 内橋勝治 須谷正雄 今村太一郎 山本誠 能勢秀吉 中野隆 坂本定春 松永成雄 岸本誠哉 掛川一三 割鞘貞美 二出川福男 村井良祐 岡本安民 立古和正 加藤尊市 広江實 吉田孝志 牧清一 津多佐市 中島英男 石黒孝男 長尾政三 井上弘人 富永伊八 河合照夫 宮本八郎 矢野春夫 長坂鉅 岸上和雄 大矢仲七 山本峯二 石飛豊治 藤森広志 戸田強 小松政幸 江口宝一 塩路秀一 米川勇進 今井金光 我喜屋喜保 松本治俊 倉知昭夫 井上市郎 河合照成 松村友一 牛田正明 寺田謙三 藤林三次 佐藤繁一 須田實 長合収一 笹倉増二 沼田太三郎 西村泰吉 筧公昌 林末一 松井茂 富岡博 川北正明 吉長茂 櫻井尊之 戸田正行 藤田義一 芝田一 田丸誉富 土井久雄 中塩路寅造 清山博己 難波貢 宇佐美明 野津貞夫 佐々木吉次郎 森繁 鴨宮代昌 福井英夫 岡崎美夫 丹羽正隆 神庭享市 竹田一石 篠田敏生 前田勇 上原秋美 平田光重 佐崎哲朗 西浦文男 前田正一 熊澤長水 長屋輝次 高島高雄 武田金信 林亀雄 相賀肇 高橋秀義 小崎善一 安藤剛三 小野上勉 有坂清隆 稲川晋作 志知一雄 立道好次 石崎勝秋 原田璋道 上田美知雄 広田武市 貞池一男 加藤吉雄 鈴木錠平 石川敏治 林洋 中本實 奈良猛 古屋武治 藤田男一 西井政雄 市川流盛 加藤一郎 中川由治 佐々木幸一 太田武文 井上二一 安藤逸美 濱本数美 斎藤俊美 貝堀光治 野阪實 轟弥三一 中嶋良一 中村壽夫 田村隆夫 吉田勉 村上兼二 吉田松太郎 奥間政一 東幸雄 有田一美 尾田昭一郎 中里仲男 生川※[#「日/舛」、unicode66FB] 玉田功 河口辛二郎 三村保 藤原重威 村松利男 中本正義 中村脩 樋口利夫 濱田元治 荒木昭二 藤原熊男 岩田喜市 川井貞夫 秋山豊明 増田一 品川一久 永尾一男 刀彌登 岩田三千雄 島田治 岡部政雄 安藤清 金子忠市 河内辰夫 上村敏行 狩野一夫 福富勝一 西本春雄 棚橋保夫 山本義正 長縄信年 高橋定嘉 岡田郁三 村上仙蔵 川崎強司 阿部良人 前岡豊一 吉尾忠孝 加藤喜一 林格 此島治朗 栂正義 松村次郎 河村好次 嶋口勘次郎 西川登 大東勝利 東正夫 大嶋義人 丸山克己 福井忠 大木昭吾 笠原進 杉尾貞男 溝口菊夫 小林康夫 西江昇 丹羽郁郎 川本豊 井上定雄 西谷義雄 塚本利雄 平山敏 竹花治良 伊藤繁雄 柴田武 鍋島嘉雄 山田幸三 加藤正三郎 松陰實 有田清一郎 河合正吉 小谷清 山中晟 中坂茂雄 安藤一之 伊藤守治 津井勝己 大村茂治 坪井一男 田中繁 脇本一夫 石井可章 後藤徳次 宮浦久三 栗栖孝義 迫清一 若狭静夫 佐藤正美 大上光英 曾我茂 尻田秀則 中村瑞穂 (機関兵長)田中喜久男 奥田勇 杉本昭太郎 太田秋作 米田範貞 三井常一 伊藤光雄 喜田芳己 榊原弘明 鈴木政広 木村嘉春 小梅登※[#「木+止」]彦 舌古熊郎 鴫谷勝義 谷村鉄夫 宮地一 格青正一 筒井久夫 山本正男 嶋津義信 篠倉久保 松浦勉 高橋義雄 掛屋延壽 三原強 石上友二郎 大田理 益成勝雄 浦野峯一 飯田広行 辻亮二 田中登 徳永琢二 丹羽英介 伊藤光市 安井二郎 柴村重人 尾野隆賢 丸富康雄 清水清 亀谷政男 西養之祐 露口光夫 土屋正徳 前川五良 佐藤春夫 西村助一 安藤幸造 村上光夫 竹重章 山本正三 吉田甚三郎 原村正吉 中田岩男 丹下良雄 西野清 池畑義寛 江木昭二 松下信雄 船木清 冨田豊 田中勝一 津森英 西尾義夫 椋木俊光 橋本安雄 川西明雄 染田正治 初世弘義 横山郡三 古田郁男 大城政俊 畠山久喜 北川清一 中島照海 芦田重太郎 古田又男 鈴木大治 黒部栄 伊藤主悦 綱濱市衛 井上哲一 藪木隆芳 津守正彦 大谷龍平 柏井忠雄 松永嘉一 榊辰雄 山本末一 高橋作 森田隆雄 可兎一郎 濱崎才二 寺山富蔵 鈴木昇 川口一美 大林照男 菅原重夫 林武治 小池定雄 清原義視 古藤誠治 渋谷智市 長岡盛三郎 大孝五郎 上原真次郎 佐藤藤市 (工作兵長)東芳美 水原誠一郎 青木治義 友田輝夫 加納市郎 松下米太郎 吉田勝 東山保男 細島定敏 的場環 高田要 井上幸夫 小栗時男 高見忠志 村田光雄 西川進 吉藤昭典 豊原弘 植松一郎 久津間芳男 熊崎昭二 真福正雄 磯村登美夫小崎浩一 石井治重 鴨下豊美 山内操 新宅盛明 藤田譲 石田昭正 川本輝一 牧稔 福森武 新谷年男 竹本昭夫 峠秀明 山下忠義 岡本秀隆 (衛生兵長)萩野猛 前田仁良 梶田冨一 濱田吉雄 (主計兵長)小笠原幸次郎 西川原宗夫 近藤克己 樋川義一 米田義弘 西本秀雄 山路一貫 松尾龍太郎 山本末昌 大竹武夫 長岡虎一 坂停蔵 西浦安吉 ※[#「糸+白」、unicode7D08]谷勇 大下敏 楠正三 原田惣次郎
上等水兵[#「上等水兵」はゴシック体]
奥田忠男 山下守平 田中近雄 重本十郎 岩井好一 関戸浩 葛籠公 浅野熊吉 藪内一司 伊藤龍昭 駒井一己 和田功 笹川安太郎 小田隆夫 渡部篤 藤井仁一 畑定四郎 加藤昭雄 谷本美智雄 藤井克己 中山次郎 甲田周三 田辺訓治 本山哲夫 水上孝志 花正信 広瀬(松井)徳蔵 三鬼松明 瀧川一也 辻垣内清 藤原賢 中川實 深見猪三郎 後藤兼吉 伊藤勝 伊東弘 小谷一夫 倉永長市 中岡梅夫 年岡英雄 今井彦夫 川上寿一郎 玉仙正一 木村又右衛門 金澤兼雄 松川精志 村主京一 坂本武男 藤原寛 平岡伍一 岡小三郎 前田庄司 井上千三次 篠田定 筒井正一 松井一美 前見利夫 小田伊三郎 小林強 武田治 炭田利一 池田光男 扇本誠一 築山留一 鬼頭安時 細川實 吹田善則 坂本勉 駒田二郎 別所毅 中村智吉 中西照治 梶原宗義 村本勲三 鬼頭重一 島田茂三 豊田正太郎 岡本武雄 安藤文雄 広嶋整治 星野善三 鈴木春男 中西修次 岩田峰男 丹羽茂 田中豊造 江川義政 井川登 新田博 平田泰三 服部宏 甫喜本海紀 村田文平 武田雅男 河尻利一 川瀬富雄 成瀬恒和 岡仁一 俵谷徳二 内田治 真田克己 松末一男 谷口與一郎 萩原新一 佐藤朝一 仲村正雄 畔柳栄次郎 境野修 井本鶴松 永瀧彦之助 坂原米和 影山哲夫 渡会九蔵 福成寅雄 岡野幸二 坪井與一 古川六郎 栗本茂雄 城栄一 田中茂幸 堀田清一 秋田藤吉 小川佐太郎 大田原繁明 石川和平 丸澤巌 山本恭太郎 山元庄一郎 静末吉 吉田金兵衛 高野新松 松原唯夫 仲谷宏 半田政光 四元清 伊藤和正 西村寿一 西浦正雄 山田仁 奥田信太郎 藤原勇 井上常一 酒井秋三郎 山田勉 小畠誠二 早稲田稔 寺井一松 山本彌一郎 吉田騰 國本國輝 角谷元彦 稲田清正 水野善市 小田原強 坂口梅雄 山本逸郎 野田春治 新田信義 小川兼夫 平野喜代金 神谷甚一 亀島文助 鵜川淑 南野勝義 沖田弘 渡辺泉 三輪文一 津村宇三雄 山田實 林登美男 田中藤一 吉田冨吉 西野秀吉 倉田保永 中野春雄 西出数夫 寺田森太郎 宮司雪人 佐藤等 和田章雄 内藤行訓 小坂勇 大河内石松 岸健治 坂本東一 服部常男 泉谷四郎 岡部時次 竹下隆則 森下義光 高木芳明 木村晴義 山本喜平 漆谷秋政 島根秋夫 宮前猛 佐武正 安倉民治 山岡外三 伊藤繁雄 岡本玉楠 鈴木俊雄 金山勇 中島博 八野辰造 中谷嘉一 岩田善次郎 林健一 水野勝彦 中野善治 三浦定男 川西義雄 末永忠 加藤末太郎 下代敏雄 神吉喜代次 岩倉治男 南野俊郎 村上義広 浅野辰雄 浅田音次郎 濱崎政義 小谷幸三郎 小川憲一 長岡健一 畝川澄夫 佐々木玉衛 小島一敏 平鍋喜久雄 八野道男 渡邉昭二 内山濱市 田中重信 竹内数市 玉森作次 石原米重 市川高市 岡本松男 高岡勇 坂井重一 加藤辰二 盛喜忠助 花田定 大越睦法 南田治雄 恵美正幸 小山榛 石川夏治 東間文之 岩城賢次 遠茂谷明 津田五郎 三島美義 松久宗一 和泉伊三郎 田中定三郎 松本五一郎 堀内利明 田中茂 村上定男 阿部※[#「にんべん+今」、unicode4EF1]次 森川道夫 小田直義 大月勇 佐々田清一 赤川茂 藤原芳郎 才野木源蔵 仲山広美 鈴木一忠 赤木秀之 山田幸一郎 松原喜一 竹中勝好 北村昭二 上田順一 畠山弘 下垣隆夫 中西勇 西村臣也 石上一馬 木村喜次郎 藤本正二 下橋敏夫 山本實 ※[#「山+奇」]原邦※[#「にんべん+英」、unicode5040] 上田新市 西條広次郎 奥野武夫 巴里作太郎 秦野重男 生嶋八郎 西永勇造 松田定 籠橋三二 山下幸男 山本俊次 葛西安道 岡村繁夫 斎藤武夫 山崎昇 足立與四郎 井平光頼 近江田昌夫 西山孝一 田中勝次郎 藤山菊一 岡本利郎 上村彰 太田活水 高木昭治 佐々木竹光 松本幸男 長須重張 大田賢三 佐伯晴雄 酒井義明 小林梅夫 阿部清 苫谷保一 石飛仁 神谷末数 実節明 叶井正 永井佐兵衛 楠見稀代 水谷義雄 大坪省三 寺尾重貞 中岡善躬 松本勝 堀口良一 三宅高 坂崎健次 野尻義男 竹久薫 井上進市 田中梅雄 黒田輝雄 堀慶二 森賢次郎 石本正雄 西道島吉 波多野一三 中西桂治 西治郎作 唐門定夫 田村政夫 泉義雄 巽繁 森上岩夫 原田伸 川崎貞雄 澤昭雄 宇治上松 内藤元弘 伊東久信 吉田正一 古川庄七 青井諭 安原常夫 小嶋安太郎 尾崎秀雄 村田三郎 渡辺茂 (上等機関兵)下田正義 泰松慶次 中田千三 田平太造 上岡文夫 岡本茂治 菅原貞三 片山薫 岸田金太郎 森田綱夫 万埜勲 小出正信 市川利保 月岡悟 辻元守 福原昭 川島秋夫 岩越克己 瀬口秀吉 池村瑞 桝田重一 池山貞男 三行春登 辻勇 田中房人 村上武男 山岡豊 関東市太郎 岩本健治 久代恵一 渡邉春夫 信岡忠彦 西尾昭蔵 枡本朝男 青田茂一 石田常夫 下田哲治 亀岡照雄 竹下美雄 石井峯夫 松井登 瀧賢 吉田徳夫 加藤勝利 大谷優 清水郁夫 藤原昶 松尾芳治 大野周五郎 植本甲子郎 富永秀輔 中西里三 桝田信善 森純一 山野三吉 河上美佐夫 中瀬勝實 藤田剛三 岡邉重利 稲山富彦 澤崎富夫 湯脇包康 安井金光 丹羽三郎 前坂等 松下茂 吉村貞夫 宮村隆治 嶋田善三 浮田一夫 水田實 名田健児 伊藤末次 藤平武 立石正義 武嶋操 西岡清 (上等工作兵)杉野明 (上等衛生兵)和田辛男 横井金治 住久健三 遠藤幸男 (上等主計兵)村上将 下農正男 北村實男 田村正義 奥原昭典 森正男 高田忠利 林茂夫 北川繁 小林長保 岩谷炎治 三原貢 武市正三 中井七郎 須山満明 石井美佐雄 羽迫久 土井實 吉宗稔 三井光夫 石丸萬造 岸田弘 石田道男 水野春男 岩永義明 千代楠蔵 奥林久三郎 今江長一 山本清 遠藤稔 柏原有義 小倉森之助 田端巍 岩城喜久雄 木村弓一 北岡明 山口甲子太郎 青山弘 中常信良 中村茂雄 佐野鎮雄 中澤安太郎
第二艦隊司令部戦没者名簿
大将[#「大将」はゴシック体]
伊藤整一
少将[#「少将」はゴシック体]
山本祐二 (軍医少将)寺門正文
大佐[#「大佐」はゴシック体]
末次信義
中佐[#「中佐」はゴシック体]
松岡茂 小澤信彦 (軍医中佐)石塚一貫
少佐[#「少佐」はゴシック体]
新井伝次郎 中村太門 村野金三 山形安吉 野崎勇 (法務少佐)黒田藤吉 (技術少佐)福山豊 生垣栄 (歯科医少佐)岩佐尚 小梁欣夫
大尉[#「大尉」はゴシック体]
今村鉄夫 猪股慶蔵 吉木定雄 (軍医大尉)内田友久 福原房雄
中尉[#「中尉」はゴシック体]
竹内英彦 伊藤清 上野弘毅 中谷邦夫 高橋仁子 鈴木藤二郎 三嶋正造 (軍医中尉)黒野明 (主計中尉)毎澤信寿
少尉[#「少尉」はゴシック体]
川崎忠 足立光男 白子茂 中村末吉 松本昭 阿部貞雄
兵曹長[#「兵曹長」はゴシック体]
山中鶴吉 堀之内秀美 野崎佐一 池田正雄 宮田貞作 中野正次 大井邦夫 石田元一 古谷新三 大橋直一 大山正六 島田登 細谷宗蔵 山中静雄 山田俊雄 大矢部千里 笹野福松 増澤功 畑山栄治 人見武雄 飯塚寿一郎 大蔵茂雄 今村信夫 茂木新太郎 馬場良市 (機関兵曹長)石原純一郎 (工作兵曹長)堀太郎 (衛生兵曹長)大塚測 斎藤光男 (主計兵曹長)小出仁吉 (整備兵曹長)塩谷恭三
上等兵曹[#「上等兵曹」はゴシック体]
三澤泰人 伊藤善治 吉田勝雄 中村和雄 菅生孝蔵 増山栄作 森江清六 加藤富一郎 井上芳蔵 渡邉保 石井定雄 石毛林次 宇田川秋三郎 小松栄次郎 氏家光正 佐藤實 行方幸雄 (上等工作兵曹)高田仁一郎 (上等衛生兵曹)高橋與四郎 北林久信 (上等主計兵曹)井上芳彦 相澤富次郎 飯島虎之助 山下悟
一等兵曹[#「一等兵曹」はゴシック体]
小野博司 菊地久雄 安田金次郎 青山正三 飯嶌善作 杉本清次 小林正久 田澤茂孝 古川豊 尾崎克己 林宜平 菅原昭 (一等機関兵曹)工藤一男 (一等工作兵曹)高口正一 (一等主計兵曹)山田俊男 (一等整備兵曹)竹田升
二等兵曹[#「二等兵曹」はゴシック体]
青木一郎 神社喜一郎 高野三男 林田吉春 内野勇次郎 高野富雄 平井吉延 菅原迪 大橋幸美 酒井菊雄 千葉徳市 宮川肇 野澤朝男 熊田孝吉 小倉秀一 門木金一 宍戸庫一 勝山稔 (二等主計兵曹)大友五郎 早尾君夫 中谷増次 久保田順三 菊池菊松 沓間活衛 伊藤長七 桜井秀夫
水兵長[#「水兵長」はゴシック体]
平澤久作 上原國雄 岡澤伸男 本田伝雄 萩原盛作 中村一俊 村上茂 内藤喜久 安倍重保 竹内長重 森厚 花岡三次 田中米光 鈴木國雄 御園光三 森田清作 田口堅太郎 斉藤文雄 高野作次郎 高橋三郎 七海長吉 磯山政雄 菊地弘 尾張亀次郎 五十嵐正勝 三橋留次郎 吉田進一郎 浅見重文 田代金太郎 千葉千年 大出一郎 森下初五郎 有地健治 川村雄三郎 見城政志 石澤健彌 船山春美 長谷部次夫 伊藤泰人 宇井利雄 川口金盛 鈴木政明 高橋源二 真庭清三郎 降籏文男 富田友造 佐藤啓 斉藤昭之助 工藤健二郎 奥田誠八 佐藤三次郎 大山辰夫 片倉文二 桜井清治 日下正寿 館川昭重 松永亟之助 小林達也 松本功 (工作兵長)高橋良太 武政左内 高柳等 佐藤定男 小池貫一 成川友衛 成川治男 深澤博 井上久夫 川田幸雄 宮部武作 松本秀雄 熊谷次男 鈴木幸蔵 栗原初太郎 (主計兵長)藤田二庸 昆野信 菊地吉男 大森光明 (衛生兵長)三浦盛記 光輪善広 (整備兵長)飯島豊治
上等水兵[#「上等水兵」はゴシック体]
保泉安平 古川嘉之 中目正介 佐藤三郎 西形菊男 尾高金助 小原信 高橋克己 小川広一 長塚昭五 指田政一 干脇芳夫 関根光之助 會澤長 成田庄一 中村義一 若林恵三 高橋茂人 中島良作 津田昌治 根橋正彦 久下徳次郎 佐藤健作 後藤和男 小松国太郎 丹野武郎 江原達雄 田中春雄 千葉一男 石塚俊夫 (上等機関兵)吉田茂 鎌田権之亟 小倉嘉一 (上等主計兵)塚野英朔 藤生武次郎
[#この行3字下げ]この名簿は、戦艦「大和」沈没後、残務整理にたずさわった石田直義氏の協力を得て、作成したものです。
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主要参考文献
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伊藤正徳「連合艦隊の最後」「連合艦隊の栄光」(角川書店)
宇垣纏「戦藻録」(原書房)
「現代史資料・太平洋戦争3」(みすず書房)
反町栄一「人間山本五十六」(光和堂)
阿川弘之「山本五十六」(新潮社)
高木惣吉「自伝的日本海軍始末記」「山本五十六と米内光政」(光人社)
辻政信「ガダルカナル」(河出書房)
C・W・ニミッツ、E・B・ポッター共著 実松譲、冨永謙吾共訳「ニミッツの太平洋海戦史」(恒文社)
淵田美津雄・奥宮正武「ミッドウェー」(朝日ソノラマ)
吉村昭「戦艦武蔵」(新潮社)
草鹿龍之介「連合艦隊」(毎日新聞社)
大岡昇平「レイテ戦記」(中央公論社)
吉田俊雄・半藤一利「全軍突撃――レイテ沖海戦」(R出版)
福田幸弘「連合艦隊――サイパン・レイテ海戦記」(時事通信社)
呉海軍工廠編「呉海軍工廠造船部沿革誌」(あき書房)
庭田尚三「噫戦艦大和之塔」(呉大和会)
御田重寶「戦艦大和の建造」(徳間書店)
児島襄「戦艦大和」(文藝春秋)
吉田満「戦艦大和」(角川書店)
吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社)
吉田満「提督伊藤整一の生涯」(文藝春秋)
江藤淳「落葉の掃き寄せ」(文藝春秋)
吉田満・原勝洋「日米全調査戦艦大和」(文藝春秋)
福井静夫「日本の軍艦」(出版協同社)
能村次郎「慟哭の海」(読売新聞社)
坪井平次「戦艦大和の最後」(光人社)
小島清文「栗田艦隊」(図書出版社)
黒田吉郎「連合艦隊」(勁文社)
吉田俊雄「特攻・戦艦・大和」(R出版)
三井俊二「戦艦大和発見」(日本放送出版協会)
古村啓蔵回想録刊行会編「海の武将」(原書房)
呉鎮守府校閲「呉軍港案内」
中国新聞呉支社編「呉空襲記」(中国新聞社)
中邨末吉「手記・焼土の中から」
呉市史編さん委員会編「呉市史」(呉市役所)
小林健「いつか来た道」(私家版)
上遠野栄「六十年 私の自画像」(私家版)
防衛庁防衛研修所戦史室「海軍部・聯合艦隊」「沖縄方面海軍作戦」(朝雲新聞社)
パシフィカ編「連合艦隊」(パシフィカ)
[#ここで字下げ終わり]
このほか、新聞、雑誌、関係資料などを参考にしました。
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文庫版あとがき
昭和二十年四月七日、戦艦大和は沖縄特攻に向かう途中、東シナ海で沈没した。乗組員三三三三名(内一名は員数外だった)のうち、漂流して駆逐艦に救助されたのは、一割にもみたぬ二六〇数名。
私が昭和五十四年から三年余の取材のあいだにようやく消息を確認しえたのは一一七名であった。
本書が出版されたのは昭和五十八年の暮である。爾来、一〇年余の歳月が過ぎた。戦艦大和会の会長の石田恒夫氏や沈没時に一五歳の少年兵であった正木雄荘氏など、私が知り得ただけでも四〇数名の方たちが故人となられた。正木氏の訃報は娘さんからの手紙で知らされたのだが、そのときの驚きと悲しみは忘れられない。正木氏は戦死者のことを思うと苦しんで死にたいと、臨終に至るまで一切の痛み止めの薬や注射を拒否されたという。
出版の翌年、思いがけなく第三回の新田次郎文学賞を受賞した。その折の選考委員のお一人、尾崎秀樹氏にこの文庫の解説(上巻巻末に掲載)を書いて頂けたのは大きな喜びである。
「男たちの大和」は、戦艦大和をめぐる男たちの物語である。一〇〇〇枚を越える作品の後半は、生き残った男たちが戦後をどのように歩まれたか、彼等にとって「大和」は何であったかを書いた。本文中に記されているのは、昭和五十八年までのことであるのをお断りしておきたい。
出版後、それが縁となって沢山の遺族の方々と知り合った。父や夫や息子や兄弟たちがどんなふうに亡くなったのか知らせて欲しいという手紙を数多く頂いた。戦後四〇年近く経ちながら、戦艦大和の正確な沈没位置さえ確認されていなかったからである。
「一片の骨もありゃせん。役場でもろうた木箱の中にゃ半紙一枚入っとった。半紙にな、お写真と書かれとっただけじゃ。死んだとはどうしても思えん」
岡山の山奥で会った少年兵の母親は、八〇歳すぎても、息子の遺骨が見つかるまではどうあっても死ねんと繰り返し語ったのが、今も胸に残っている。
私はそうした遺族たちの思いにふれるにつけ、東シナ海に行きたいという思いを抑えることができなくなった。大和の探索はそれまでも幾度か試みられたが未確認だったのは、現場の海域が三五〇メートルを越える深さであり、日本に探索可能な潜水艇がなかったことが大きかった。念願かなって遺族や生還者の方々と一緒に東シナ海に行くことが出来たのは、昭和六十年の夏であった。多くの方々のご尽力により、ようやく大和をこの眼で確認することが出来た。そこは鹿児島の西南西三〇〇キロ(谷山《たにやま》港から約一六時間)の地点で、北緯三〇度四三分、東経一二八度、水深三四〇〜三五〇メートルの海底であった。艦体は四つに爆裂し、横たわっていた。戦後四〇年目に海底の大和に初めて出会い、慰霊祭を行った。戦艦大和だけでなく、東シナ海で戦死された多くの方々の慰霊祭であった。
私は三笠逸男氏と共にイギリスの潜水艇「パイセスU」に乗り、大和の沈んだ三五〇メートルの海底に辿り着いた。そして潜水艇の思いもかけぬ事故で、偶然にも大和の艦体の内部に入り込んだのである。そこには、今少し前まで戦争が行われていたかのように、薬莢や鉄カブト、ラッパ、兵士たちの靴などが散乱していた。大和は巨大な鉄の要塞といわれたが、私が見たのは海の墓場であった。私たちは何ものかに導かれるようにして、もっとも悲惨な戦場に行きついたのだった。
今回の文庫本化に際し、戦没者名簿を載せることが出来たのを、何よりも嬉しく思っている。戦後の日本がそうした沢山の死者たちの重みによって歩んで来たことを、あらためて考えるよすがにしたく思う。
また、筑摩書房文庫版の上梓にあたり、かなりの手直しをした.特に戦史的事実関係については徹底的な見直しをしたが、それには戦史研究家木山玄氏のご協力を得た。また大和の生還者で、東シナ海の旅にも同行された三笠逸男氏及び八杉康夫氏にもご助言頂いた。有意義な示唆を頂いた三人の方々や、編集部の柏原成光氏にもさまざまなご苦労を煩わしたことを記し、心より感謝を申し上げたい。
なお、このたびの文庫版は、可能なかぎり完本に近づけたつもりであるが、いまだ重要な事実を見落としていることもあるかと思う。ご指摘を賜れば幸甚である。戦後五〇年目に際して本書が出版されることは、私にとって感慨無量である。
戦争を知らない若い世代の方々にも読んで頂ければ、どんなにか嬉しいことであろう。
一九九五年春
[#地付き]辺見じゅん
辺見じゅん《へんみ・じゅん》
昭和一四年、富山県に生まれる。早大仏文科を卒業後、文筆生活に入る。「男たちの大和」「収容所からの遺書」「夢、未だ盡きず」などで数々のノンフィクション賞を受賞。
本書は一九八三年一二月角川書店から刊行され、一九八五年一一月角川文庫、一九九五年三月ちくま文庫に収録された。