サムライガード
警護寮《けいごりょう》から来《き》た少女《しょうじょ》
[#地から2字上げ]舞阪 洸
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[#地から2字上げ]椎野 唯
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目次
第一章 出会いとは即ち新たな始まりである…………7
第二章 武士《ぶし》の真価とは即ち閾うことである…………41
第三章 百聞《ひゃくぶん》は即ち一見《いっけん》に敵《かな》わぬものである…………121
第四章 決意とは即ち変化を受け容《い》れる覚悟のことである……233
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明治維新《めいじいしん》はなかった。
明治新政府の廃刀令《はいとうれい》もなかった。
江戸幕府《えどばくふ》と武士《ぶし》は生き残り、刀もまた、その命脈《めいみゃく》を保《たも》った。
いや、保ったどころではない。欧米列強の圧力に対抗するためにも剣術は奨励《しょうれい》され、新たな剣術の流派が次々と興《おこ》り、銃器に対抗する奥義《おうぎ》まで編《あ》みだされた。
数度に亘《わた》る大きな改革を断行した江戸幕府は欧米列強からの干渉をことごとく跳ね返した。東アジアの国々が植民地化されていく中でも、日本の独立が揺らぐことはなかった。
世界規模の大戦に巻き込まれたことも幾度《いくど》かあったが、幸か不幸か、国の存続が危うくなるような重大な敗戦を、日本が経験することはなかった。
そうして時は流れ、とうとう二十一世紀。
超長期政権として命脈を保ち続ける江戸幕府も、今や第三期と呼ばれるほどに変容していた。
日本という国も、また然《しか》りである。
これは、そんな日本で、君《くん》のために闘い、己《おのれ》のために護《まも》り、義に殉《じゅん》じ、愛に生きる、可憐《かれん》で健気《けなげ》な侍少女《さむらいしょうじょ》たちの活躍を描いた物語である。
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第一章 出会いとは即ち新たな始まりである
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春も本番という四月後半のよく晴れた日の朝。
ここ数日同様、今日も春の陽射《ひざし》しが麗《うら》らかな清々《ずがずが》しい一日になりそうだったが、そんな清々しさとは正反対の濁声《だみごえ》が、土岐川清海《ときがわきよみ》邸に響き渡った。
「清海様、清海様、早くせねば遅刻してしまいますぞ」
叫んでいるのは、この屋敷の家宰《かさい》である石見重太郎《いわおしゅうたろう》である。すでに齢《よわい》五十を超えているが、声は大きくて張りがあり、背筋もびんと伸びている。
家宰とは言ってみれぱ執事のような存在である。彼の服装も、黒のトラウザーに白のシャツ、黒のジャケットに細身のタイという定番のそれであった。普通の執事と違うのは、左腰に刀を差していることだ。
「うるさいなぁ、石見は。今からどれだけ急いだって、もう遅刻は確定だよ」
と投げやりに応えるのは、この屋敷の主人である土岐川清海。
主人とはいっても、彼はまだ高校生に過ぎない。訳あって家元を離れ、この屋敷で一人暮らしをしている……ああ、いや、一人暮らしといっても、屋敷には家宰の石見を始め、料理人や下働きの者などがいることはいるのだが、肉親・家族は誰もいないので、ここでは一人暮らしと言っておこう。
高校生の一人暮らしには些《いささ》か不釣り合いな大きな邸宅に清海が住んでいるのは、彼の実家が裕福な武士《ぶし》の家、土岐川家本家であるからに他《ほか》ならない。
主人であるのに、清海は家宰の石見に頭が上がらない。何しろ石見は、清海が幼少の頃から土岐川家に勤めていた重鎮《じゅうちん》だ。
武士でありながら、出世の道を捨てて土岐川家に仕えることを選んだ石見は、まさに家宰の鑑《かがみ》とでもいうべき人物で、数十年に亘《わた》り、誠心誠意、主人に仕えてきた。そんな石見を大いに信頼し、重用《ちょうよう》していた清海の父が、息子が一人暮らしを始めるというので、わざわざ清海に付けてくれたのである。
実質的にこの土岐川清海邸を仕切っているのは、彼、石見重太郎だ。世間知らずの清海が、このような邸宅で気儘《きまま》に一人暮らしができるのも、彼がいるからこそである。
「遅刻をするにしても、一時限目から出席されるのと、二時限目からの出席になるのでは大違いでございます。ほら、お急ぎくださいませ」
と石見に迫られると、清海もそれ以上の抵抗ができない。彼は石見に追い立てられるように自宅の門を潜《くぐ》って表に出た。
「んじゃ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
門の外まで見送りに来た石見が、清海に向かって深々と頭を下げた。
自宅を後にして清海はいつもの通学路をぶらぶらと歩いていく。遅刻になろうがなるまいがどうでもいいと思っているのは確実だった。
清海の屋敷がある地域は武家屋敷が建ち並ぶ閑静《かんせい》な住宅街だったが、バブルの頃に家屋敷を手放した者も多く、その後のバブル崩壊で再開発は進まないまま今に至り、住まう者がいないまま荒れ果ててしまった区画があちこちに散見される。
通学路の周囲には高い建物がないため、ことさら蒼《あお》い空が広く感じられる。予鈴《よれい》前なら通学の生徒で賑《にぎ》わう道も、すでに授業が始まろうというこの時間では静かなものである。
清海の通う嶽宗館学園《がくしゅうかん》は、街中から離れた小高い丘の上にある。そのため、通学の時間帯を外れれば、この通学路に人影は見当たらない。それは今日も同様で、のんびりと歩を進める清海以外に通りかかる者さえいない。
清海は背が高く――百八十センチ半ばだろう――筋肉質の体つきをしていた。髪は短めで、白い半袖のシャツを着て、ゆったりとした黒のトラウザーを穿《は》いている。トラウザーの左腰には開口部があって、そこに刀を差していた。なぜ清海が刀を差しているかといえば、彼が通う高校――嶽宗館学園が、武士養成校であるからだ。
武士養成校に通う高校生は、未成年であっても帯刀《たいとう》を許されている。それはエリートの証《あかし》であると言ってもいいだろう。日本の子供の多くは、幼い頃から腰に刀を差すことを夢見て勉学に励《はげ》むのだ。
清海が歩いているのは、車道と歩道の区別がない幅員《ふくいん》六メートルほどの道であるが、その道と直角に交わる細い路地との交差点、白い築地塀《ついじべい》の陰から、清海の行く手を遮《さえぎ》るように一人の少女が唐突に現れた。
紺のセーラー服に、襞《ひだ》のあるゆったりとした丈《たけ》の長い、これまた紺のスカート。スカートの左腰に開口部があり、そこに日本刀を差している。であれば、彼女もまた、武士を目指す女子学生なのだろう。
濡《ぬ》れているように艶《つや》やかに輝く腰まで届きそうな長い髪と理知的な瞳が印象的なその少女は、女性にしては身長が高い部類に入るが――おそらく百七十センチくらいか――痩せているので、清海と比較すれば、ずいぶんと華奢《きゃしゃ》に見えた。
少女は左手の親指を刀の鍔《つば》に置いたまま一礼した。いつでも鯉口《こうぐち》を切れる体勢だ。右手こそ柄《つか》に乗せていないが、準臨戦体勢といってもいい。
顔を上げた少女は、抑《おさ》えの利いた声で呼びかけてきた。凛《りん》とよく通る声だった。
「土岐川清海様……いえ、徳川《とくがわ》清海様とお見受けいたします」
清海が僅《わず》かに目を見開く。
清海は土岐川家で育てられたし、今も土岐川姓を名乗っているが、しかし、彼の本当の名は徳川清海なのだ。将軍家、徳川家の血を引いている。だが、それは極秘中の極秘。嶽宗館学園でも知っているのはただ一人、学園総長のみ。生徒が知り得るような情報ではない。それなのに、この見知らぬ女子学生が知っているというのは……。
清海の心に、体に、緊張感が溢《あふ》れだす。
「おまえは誰だ? 俺の本当の名を知ってる奴は、そうはいない。ってことは……まさか、俺を殺しに来た刺客《しかく》か? だが、俺の将軍職|継承《けいしょう》順位は二十八位だぜ。俺なんか殺しても意味はないだろうに」
少女は真剣な顔で頷いた。
「もちろん、二十八位のあなた様であれば、殺す価値はございません」
清海は、少女に向かって小さく肩をすくめてみせた。
「そう正面切って肯定されると、少し哀《かな》しいな」
「あ、申し訳ございません」
少女は頭を下げた。
「こう言い直させていただきます。順位二十八位のあなた様は、その辺の野良犬《にらいぬ》を殺す程度には価値がございます」
「悪くなってるだろ、それは!」
清海が少女を睨《にら》みつける。
「俺を馬鹿にしてるのか、おまえ!?」
「とんでもございません」
顔を上げた少女は、ぷるぷると首を左右に振った。
「ですから、それはあなた様が順位二十八位であればの話でございまして、ですが、今のあなた様は……」
少女は、ああ、と呟《つぶや》いて一人で頷《うなず》いた。
「そうですか、まだご存じないのですね」
「何を?」
「あなた様の継承順位は、ここ数日の中《うち》に跳ねあがってございます」
清海の目が大きく見開かれた。
「マジかよ!?」
「いろいろと事故とか事件とか辞退とかが立て続けに起きましてございます。そのおかげで、あなた様の順位は、昨日《さくじつ》の時点で十七位にジャンプアップしておりますのです。まさに、赤丸急上昇。まことにもって、おめでとうございます。いえ、ですが、しかし……おめでたいかどうかは、なかなかに微妙なところではございますが」
「おいおいおい、僅か数日でそんなに急に? っていうか、なんだよ、赤丸急上昇って。歌番組じゃあるまいし、そんなにホイホイ上がるか? いや、抑《そもそも》、どうしておまえがそんなことを知っている? やっぱ、刺客か、おまえ」
「わたくしが刺客だと言ったら?」
清海は、少女が薄く笑ったような気がした。
「そりゃぁ、闘《や》るしかあるまいよ。俺も黙って斬り殺されるわけにはいかないからな」
「あなた様は、北斗真陰流《ほくとしんかげりゅう》の免許皆伝《めんきよかいでん》でありましたね」
そこまで知っているのか。いったい何者だ、こいつ。
清海はますます不審に思う。
刺客か? と訊《き》いてはみたものの、刺客だったら、標的とこんな悠長《ゆうちょう》に話をしているはずがない。
では、いったい、こいつは……。
考えても判らないことは人間を不安にさせる。清海は内心の不安を押し隠して、ぶっきらぼうに応えた。
「おうよ」
「ですが、実戦経験はあまりないようにお見受けいたします」
「ふん、だったら闘《や》ってみるか?」
清海は左手親指を静かに鯉口に置いた。
この若さで免許皆伝を授与されるくらいだ。清海の剣の腕は、その辺の大人《おとな》にだって後《おく》れを取ることはない。武士を目指す猛者が集まる嶽宗館学園でも、同級生相手の道場剣術であれば、ほぼ無敵を誇っていた。
だが少女の言うとおり、清海には実戦経験がなかった。道場剣術と本物の斬り合いの差が、いったいどういうものか、どれほどのものか、彼は知らない。
強がってみたものの、彼の額《ひたい》に、柄を握る右手に、じっとりと汗が淒《にじ》む。
「その必要はございません。少なくとも、今のところは。どうぞ、刀から手をお離しくださいませ」
と言われて、はい、そうですかと手を放した瞬間に斬りかかられては堪《たま》らない。清海は相手の言葉を無視し、右手で柄を握ったまま、もう一度、訊いた。
「おまえの話は、どうにもよく判らないな。何者だ、おまえは? 刺客じゃないのなら、俺のところへ何しに釆やがった? まさか恋文《こいぶみ》でも渡しに来たわけじゃあるまい?」
「まさか」
鼻で笑うような、その否定の仕方、なんか……むかつくな。
清海が険《けわ》しい顔で少女を睨んでいると、少女は左手を鞘《さや》から離して両手を腰の前に置いた。
「申し遅れました」
そう言って、少女は丁寧《ていねい》に腰を折った。その態度を見る限り、清海に危害を加えようという意図はなさそうだった。
少女はセーラー服のポケットのジッパーを開け、中から何やら手帖《てちょう》のような物を取りだし、それを開けると、清海に向けて掲《かか》げるのだった。彼女が見せたのは、白分の写真が貼られた、パスポートにも似た何かの身分証明書。だが、そこに書かれている文字は小さくて、清海のところからは読めなかった。
なんだ、あれは? と清海が目を細めていると、彼女はすぐに自分の名を名乗った。
「わたくし、愛生愛香《あいおいあいか》と申す者でございます」
「あいおいあいか?」
知らない名前だな、と清海が内心で首を捻《ひね》る。
「愛から生まれた愛の香《かお》り、で、愛生愛香でございます。あるいは、愛の香が愛を生む、でもけっこうでございますが。ちなみに、愛生が家名《かめい》でございまして、愛《あい》、生愛香《おいあいか》ではございませんので、お間違えなきようお願いいたします」
「間違えるか、そんなもん! ってか、ずいぶんと慈愛《じあい》に満ちた名前だな。で、その愛香さんは、俺にどんな用があるんだ?」
「はい、わたくしは、ここに記《しる》してございますように」
愛生愛香と名乗った少女は、もう一度、手にした身分証を掲げてみせた。
「幕府警護寮《ばくふけいごりょう》に所属する者でございまして、あなた様の護衛を命じられたため、こうして参上いたした次第《しだい》でございます」
清海の顔に戸惑《とまど》いの色が浮かぶ。
警護寮は我々が知っている警察組織のようでいて、しかし少し違う。ここは内外の重要人物の護衛に特化した組織なのだ。特定人物の護衛は、何十人もの人間を大量に動員してもあまり意味がない。動くのは常に少数。それだけに、集められた警護寮の剣士は精鋭。清海はそう聞いていた。
こいつが本当にそこの剣士だとすると、驚きだが……というか、そんな奴が、なんで俺のところに来たのかが判らない。
そう思った清海が、話は相手に判るようにしてくれないかな、と言うと、少女は澄《す》ました顔で身分証をしまって、もちろんでございます、と応えた。
「つまり、端的に申しますと、将軍職継承順位二十位内にランクインされた方には、幕府警護寮から専門の護衛が派遣されると、そういうわけなのでございます」
「そいつは……初耳だ」
という清海の言葉にはなんの反応も示さずに、愛香は淡々と話を進めていく。
「さらに端的な話を続けさせていただきますと、公《おおやけ》にはされていない制度ですので、あなた様がご褥じないのも当然かもしれません。何しろ、護衛がついているなどと公言しては、護衛の意味がございませんから。この場合、護衛とは、対象者を陰から密《ひそ》かにお護《まも》りするということを意味するのでございまして、暗殺者たちにその存在を知られないようにすることこそが肝要なのでございます。あなた様は十七位にまでランクが上がりましたので、こうしてわたくしが密かに派遣されてきたと、そうお考えくださいませ」
「いやいやいや。少しも端的に聞こえないのは、俺の耳のせいか?」
愛香は伏し目がちになって小さく頭を下げた。
「申し訳ございません。話が回りくどいのは、わたくしの九十九ある欠点の中《うち》の一つでありまして、何とぞ、ご寛恕《かんじょ》のほどをお願いいたします」
「……なかなか欠点が多いんだな、おまえ」
というか、九十九も欠点がある奴は、もう人間止めたほうがいいんじゃないか?
などと、清海は心の中でつけ足す。だが、愛香は恐縮したように肩をすぼめた。
「恐れ入ります」
「恐れ入ってる場合じゃない。だが、まぁ、ようやく話は見えてきたか。とはいえ」
清海は、愛香の頭の天辺《てっぺん》から爪先《つまさき》まで、舐《な》めるように視線を這《は》わせる。彼女の剣の腕を推《お》し量《はか》ろうとしたのだ。
だが、愛香は。
「清海様、そのように情欲に満ちた目で見られては、わたくし、どのように応対してよいのか、はなはだ困ってしまうのでございますが。もし、あなた様がわたくしを愛人にしようとお考えであるならば、わたくしは一度、上役《うわやく》に相談させていただき……」
「お考えじゃねえよ! そうじゃなくて、おまえが警護寮の剣士で、俺を護衛するとか大きなことを言う以上、大した腕の持ち主なんだろうな? ってことだよ、俺が言いたいのは」
「申し訳ございません。女だてらに剣の腕が立ちすぎるのが、わたくしの九十九ある欠点の中の一つでごさいます」
軽く会釈《えしゃく》をした愛香がそう言うと、清海は不思議そうな顔になった。
「欠点なのか、それは」
「はい。剣の腕が立つ、のではなく、立ちすぎる、のがいけないのでございます。女ごときに負けては、男子一生の不覚、などと思う方々も世の中には多いのでございまして、わたくしはこれまで数多くの男子の皆さまに一生の不覚を負わせてきてしまっている業の深き女なのでございます」
「ああ……そうなんだ。難儀《なんぎ》な人生だな。で、そこまで言うおまえの流派と腕前は?」
愛香は、またも丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「天心無明流《てんしんむみょうりゅう》免許総伝にございます」
「免許総伝か」
「総伝」は、この世界では一般的に「皆伝」の上にあると思ってくれていい。総伝の場合、皆伝には含まれないような裏技とか秘技なども伝授されているから、つまり総伝の剣士は、皆伝の者よりも強いことになる。
「いや、その前に。いま、おまえ、天心無明流って言ったか?」
「申し上げました。聞き取りにくうございましたか? 話すときの声が小さいのが、わたくしの九十九ある欠点の中の一つでございまして」
「ああ、いや、別に小さくはない。ちゃんと聞こえてるよ。そうじゃなくて、ちょっと驚いたのさ。天心無明流っていやあ、世間では幻の流派みたいな言い方をしているじゃないか。戦国最強とか天下無敵とかって噂はよく聞くけど、実際に見た奴はいない……なんてな。おまえ、ほんとうにそれなのか?」
「はい、それなのでございます」
「そりゃぁ、面白いな。俺も一度、この目で見てみたいと思ってたんだ。おい、やっぱり俺と闘《や》り合え」
「いえ、わたくしはあなた様の護衛でありますから、あなた様を斬《き》ってしまっては、わたくしはよくて切腹《せっぶく》、悪くすれば切腹、いずれにせよ、お家は断絶《だんぜつ》の憂《う》き目に遭ってしまうのでございます。わたくしとしても、わたくしのせいで一族|郎党《ろうとう》を路頭《ろとう》に迷わすような真似《まね》はできないのでございます」
よいのと悪いのとの差が判らねえんだが、と少し考え込んだ清海は、しかし、すぐに顔を上げた。
「殺し合おうなどとは言ってないそ。ちょっと道場ででも木刀を合わせてくれりゃあ、それでいいんだよ」
「しかし、あなた様のお命を絶《た》たなくても、あなた様に一生の不覚を負わせてしまえば、わたくしとしては、はなはだ不本意なのでございまして」
「おい、上等だな。そこまで言ったからには、ごめんなさいじゃ済まないそ!? 俺に負けたら、そうだな、素《す》っ裸《ぱだか》でよさこいソーラン節でも踊ってもらおうか」
愛香が少しだけ頭を引いた。
「それは、わたくしを愛人にしたいという清海様の情欲の思いを遠回しに表現されているのでございましょうか?」
「違うよ。っていうか、どうしてそこに話を持っていく!? おまえ、本当は俺の愛人になりたいんじゃないのか!?」
「とりあえず今のわたくしには、そのような気持ちは微塵《みじん》もございません」
「……そこまできっぱりと否定されると、それはそれで哀しいんだが」
「ですが」
愛香は何かを窺《うかが》うような鋭《するど》い視線を素早く周囲に投げかけ、すぐに清海に視線を戻した。
「もし清海様がわたくしの腕をお知りになりたい、技を見てみたいと仰るのであれば、直接に対時《たいじ》しなくとも、お見せするのは可能でございますが」
「ああ、ぜひ拝《おが》ませてもらいたいものだな。で、いつ拝ませてくれるんだ?」
「いま、この場にて」
「なに!?」
道の左右、ずっと先まで続く築地塀《ついじべい》が途切れる辺りに六人の人影が湧《わ》いた。いずれもが黒っぽい上下に身を包み、腰に刀を差している。のみならず、全員が帽子を被《かぶ》ったり覆面《ふくめん》をしたり仮面をしたりして顔を隠しているのが、あからさまに怪しかった。さらに、被っている仮面が最近|流行《はやり》のアニメの登場人物の物だから、怪しさもここに極まれりといった感じだ。
「な、なんだあ、あれは!?」
「早くも本物の刺客がいらっしゃったようですね。清海様の順位が十七位に上昇したことは、まだ公にはなっていませんのに。なかなか手際《てぎわ》のよい者がいるようです」
「おいおい、驚いたな、こいつは。俺は、本当に狙われるような立場になったのか。というか二十位の上と下で、そこまで違うものなのか」
「もちろんでございます。それほどに将軍職は重いのでございます」
むうん、と清海は小さく唸《うな》った。
徳川の血筋として生まれた身とはいえ、将軍職など、所詮《しょせん》、白分の人生には関係のないものだと思っていた。だが、これからはそうも言っていられないようだ。おそらく、今後は自分の意志とは無関係に、徳川の血と向き合わざるを得ない場面が出てくることだろう。清海は今そのことを実感した。痛感した。
ちっ、面倒くさいな。
徳川の血のせいで、今まで清海は、ずっと日陰者の人生を歩んできた。本当の名を名乗れず、本当の父親にも会えないままだ。なのに、口陰者の立場はそのままに、いきなり命まで狙われるようになるとは。
清海の心に、自分を放りだした実《じつ》の父親に対する、そこはかとない怒りが湧いてきた。
考え込んだ清海を見て愛香がどう思ったのかは判らないが、彼女は少しも表情を変えずに、では清海様、と呼びかけてきた。
「わたくしは行って参ります。清海様は、その場を動かれませぬように」
愛香は近所のスーパーマーケットに買い物にでも行くような気軽さで、こちらに足早で歩いてくる六人の不審な男たちに向かって歩《ほ》を進め始めた。
男たちは、いずれもが右手で刀の柄を握っている。すでに鯉口が切られているから、殺《や》る気満々なのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。巫山戯《ふざけ》たお面を被ってはいるが、彼らの全身からは殺気が満ち溢れている。
刺客全員が刀を使うのは、銃の発射音のような大きな音を立てれば、誰かに聞きつけられ、仕事の途中で邪魔が入る虞《おそれ》があるからだ。それだけではない。接近戦になると、銃では仕留め損ねる可能性が出る。狙った人物が防弾チョッキを着込んでいれば失敗の可能性は高くなる。第一、敵味方が入り乱れてしまうと銃は使えない。静かに確実に標的を暗殺するには、やはり刀による斬殺に限るのである。それに、刀は銃に比べて手に入れるのが簡単だ。アメリカ人の多くが銃を持っているように、日本人の多くは刀を持っているのだから。武士であるか否《いな》かに拘《かか》わらず。
愛香は、ゆったりと歩を進めながら、ゆうるりと右手を刀の柄に乗せた。
道はそれほど広くないから、襲撃者たちは三人横隊で二列になって近づいてくる。
男たちの行き足が上がった。
愛香と男たちの間合《まあ》いが急速に詰まる。
襲撃者が、いっせいに抜刀《ばっとう》した。
春の陽光に白刃《はくじん》が煌《きら》めく。
その輝きは人を斬るためだけに鍛《きた》えあげられた武器の持つ美しさの象徴であった。
抜刀した刀を振りかざした男たちが一気に間合いを詰めてきた。一方、愛香はまだ刀を抜いていない。
おい、ヤバイって。
愛香の応援に出ようと思わず腰の刀の柄に右手を乗せた清海だが、そこで思いだした。天心無明流のことを。
そうか、抜刀術《ばっとうじゅつ》だ。天心無明流ってのは、抜刀術の真髄《しんずい》を究《きわ》めたって言われる流派だった。つまり、あいつが抜いてないのは、そういう闘い方をするってことだ。
安堵《あんど》の息を吐《は》いた清海は、右腕に込めた力を抜いた。
であれぱ聞題はないだろう。警護寮の剣士が、あの程度の襲撃者に後《おく》れを取るとも思えない。もし本当に危なくなったら、それから白分が出ていってもいい。
清海はそう考えた。
何より、天心無明流の抜刀術を見られる機会など、然《そ》う然《そ》うない。
見逃してなるものかよ。
柄に右手を置いたまま、清海は目を見開き、一瞬も見逃すまいとして、愛香の後ろ姿を追い続けた。
互いが剣を振れば相手に届きそうになまで距離が縮まったとき、不意に愛香の体から闘気が迸《ほとばし》った。
「うぉつつ!?」
清海は思わず反射的に刀を抜きかけていた。
これほど離れた場所にいる清海が思わず反応してしまうほど峻烈《しゅんれつ》な闘気が、柄に添えた愛香の右手から、愛香の全身から、そして愛香の刀から放たれた。であれば、それは刀氣《とうき》というべきか。
愛香の強烈な刀氣に圧され、三人の隊列が僅かに乱れる。
いちばん前に出た男が、真《ま》っ向《こう》から刀を振り下ろしてきた。
届く!
切っ先は、僅かな前傾姿勢で立っている愛香の眉間《みけん》に届きそうな間合いだった。避けようがないほどの勢いだった。切っ先でほんの数センチ眉間に斬り込めぱ、それで彼女は死ぬ。
見ていた清海の心臓が圧迫されるような光景だった。
だが、愛香は相手が斬りつけてくるタイミングが予《あらかじ》め判っていたかのように左足を大きく引いて上体を背後に反らせ、相手の切っ先に空を切らせた。切っ先は、愛香の体のほんの数センチ先を通過していった。恐るべき見切りであり、恐るべき度胸であった。
清海は内心で大きく唸った。
あいつ……実戦慣れしていやがるな。何度も修羅場《しゅらば》を潜《くぐ》っていねえと、あんな真似《まね》は絶対にできない。
安堵と感心の息を吐《は》いて、清海は抜きかけの刀を鞘に収めた。
必殺の一撃をかわされ、相手はバランスを崩す。前のめりになって必死に刀を止める男に向かって、今度は愛香が真っ向から刀を振り下ろした。いつ抜いたのか、見ていた清海ですら気がつかなかったほどだ。
だが、それは見えないほど速かったわけではない。実際、愛香が刀を振り下ろすのは、はっきりと見えた。
そうだ。速いというより、あれはタイミングの問題か。
清褥はそう考える。
抜く直前も、抜く瞬間も、愛香の体には、無駄なカがまったく入っていない。あのように自然体で構えられては、相手には抜く瞬間が察知できない。
まさしく後《ご》の先《せん》。相手の出方を見て、それに相応《ふさわ》しい応手《おうしゅ》で対すれば、百戦百勝の理《ことわり》。だが、それは言うほどに簡単なことではない。何しろ相手のほうが早く斬りつけてくるのだ。緊張感、恐怖心、気負《きお》い、焦《あせ》り。そういった諸々《もろもろ》の感情から無縁《むえん》でなければ到達できない、剣心一如《けんしんいちじょ》の境地である。
マジかよ。天心無明流総伝、ここまで凄いのか。
清海は心の底から、自分と同年代の少女の刀の腕に驚嘆した。感嘆した。
最初に刀を振るった男は、綺麗に眉間を縦に割られ、血を噴いて昏倒《こんとう》した。
愛香は、すでに次の敵に向かっている。
いわゆる抜刀術は、刀を抜く速さのみが喧伝《けんでん》されることが多い。中には鞘から刀を速く抜くのが抜刀術のすべてだと思い込んでいる輩《やから》さえいる。だが、抜刀術は抜くだけの剣術ではない。抜いてからも速いのだ。流れるように剣を振るい、途切れることのない連続攻撃を仕掛ける。それこそが真の抜刀術。抜いた刀を、闘いの最中にいちいち収めることもない。
愛香は流れるように流麗な刀捌《かたなさば》きと宙を舞うような優雅な体《たい》捌きとでもって、瞬《またたく》く間《ま》に左右の襲撃者を斬り伏せていた。
二列目の三人が急停止した。
予想を遙《はる》かに超える剣技を持つ武士の出現に――見た目はただの女子学生だ――度肝《どぎも》を抜かれたに違いない。
返り血を浴びた愛香は、しかし顔色一つ変えずに、血に濡れた白刃を提《さ》げ、残りの三人に向かって足を踏みだした。そのうちの二人は、すでに及び腰になっているのが清海にもはっきりと判った。
未だ闘志を湛《たた》えた一人が、裂帛《れっぱく》の気合いもろとも斬り込んできた。おそらくは、この襲撃者たちのリーダー格であろう。刀の腕も、明らかに他《ほか》の五人とは一線を画している。
あの男だけが本物の武士か? 残りは、おそらく武士崩れか武士志望者。あるいは、街道場で剣術を習っただけの自称剣士かもしれない。
清海はそう当たりをつけた。
金にでも釣《つ》られやがったか。馬鹿な奴らだ。
もっとも、彼らの行為が愚行に終わりそうなのは、愛香がいたおかげだ。清海一人だったら、彼らはまんまと暗殺料をせしめていたかもしれない。そう思うと、ぞっとする。
上段から振り下ろされる鋭い斬撃《ざんげき》を、愛香は刀で受け止めに行った。だが、膂力《りよりょく》は明らかに男のほうが優っている。彼女の細腕であの斬撃を受け止められるのか!?
清海が息を止めて見つめていると、刀と刀のぶつかり合う金属音が響いた。
愛香は、しかし、相手の斬撃を受け止めはしなかった。体《たい》をかわしつつ鏑《しのぎ》で受けて、そのまま相手の力を利用して受け流したのだ。男の白刃は愛香の刀で軌道を変えられ、斜めの方向に逸《そ》れていく。
流した己《おのれ》の刀を、その勢いのままに返した愛香が、相手に刀を叩《たた》きつける。必殺の一撃を流され、体が泳いでしまった男には、愛香の鋭い斬撃を受けることもかわすこともできなかった。右袈裟《みぎけさ》に斬られた男が、血を噴きあげて倒れ込むと、それを見た残りの二人は完全に戦意を喪失し、脱兎《だっと》の如く逃げだしていった。
残心《ざんしん》を示していた愛香は、倒した敵が息絶えたのを確認すると、ゆっくりと右手を動かし血振《ちぶ》りを行った。ひゅん、という空気を切り裂く音が清海の耳にまで届いた。
素早く滑らかに納刀《のうとう》した愛香に向かって、清海が駆け寄っていく。
「おい、逃げた奴を追わなくていいのか?」
愛香が軽く会釈を寄こした。
「どうせ黒幕の名も知らぬ雑魚《ざこ》でございましょうが、念のため、別の者に追わせましてございます。もし背後にいる者が判れば、こちらに報告がございましょう」
「別の者?」
「はい。わたくしたちは一人では動きません。通常は二人一組、もしくは三人一組で護衛の任に就《つ》くのでございます」
清海は驚いた。
ってことは、こいつのパートナーがいたってことなのか!?
別の人間の気配《けはい》などまったく感じなかった。清海が襲撃者に気を取られていたにしても、大した腕である。さすがに愛香のパートナーと言っていいだろう。
「そいつは、この近くに?」
「はい、少し離れたところに控えておりました。その者が、あの二人の後をつけております。残りの二人を斬らなかったのは、逃げ帰る先を突き止めようという意味合いもございまして」
「なるほど。しかし……まったく気づかなかったな、そいつに」
「その者は忍者《にんじゃ》上がりですので、気配を隠すのが殊《こと》の外上手《ほかうま》いのでございます。あまりお気になさらずに」
「いや、そう言われても気になるが……。しかし、それよりも」
清海は、まじまじと愛香を見つめる。
彼女のセーラー服やスカートは色が濃いので返り血は目立たない。だが、美しい顔にかかった血はそのままだ。それで平然と話をする愛香は、一種異様な妖艶《ようえん》さが漂っていた。
「感心したぜ。天心無明流、凄いな。というか、おまえの腕が凄いんだな」
清海は本当に感心していた。感嘆していた。感服していた。木刀を持って道場で叩き合うのなら、少しは対抗できるかもしれない。だが、真剣でこの少女と斬り合おうとは思わない。
自分の生死がかかっている場面で、あれほど冷静に刀を振れる者は、そうはいない。達人と呼ばれるレベルに近いのではないか、とさえ思える。
愛香が軽く一礼して、そして静かに言った。
「では、わたくしが護衛の任に就くこと、ご承知していただけますでしょうか」
この少女なら、護衛としてなんの不足もない。清海はそう思う。だが、それでも念のために訊いてみる。
「俺に拒否権はあるのか?」
「拒否権はございませんが、担当者に関しての希望はある程度尊重されますゆえ、もしもわたくしでは信頼するに足りないと思われるのであれば、別の人間を寄越すように要求することは可能でございます」
あの腕を見せられて、信頼するに足りないなどとは間違っても言えない。清海は、正直にそう口にした。
「いや、おまえ以上の腕前の者が、そうそういるとは思わない」
「では、よろしゅうございますね?」
ああ、頼んだ、と頷いた清海は、改めて愛香の体に視線を這わせる。
「それに……おまえはいい女だ。不粋《ぶすい》な男なんぞに護られているよりは、きっと楽しいだろうしな」
右手を口許《くちもと》に持っていった愛香が、ごほん、と小さな咳払《せきばら》いをした。
「どうしてもわたくしを愛人になさりたいようですが」
「そんなことは言ってないそ!」
「わたくしにその気は毛頭《もうとう》ございませんが、これから二十四時間、清海様のお側に張りついて暮らすようになるわけですので、ええ、どこかで何かの間違いが起きないとも限らないのでございますが、しかし、わたくしをお手つきにされてしまうと、それはそれで、いろいろ大変なことがございますゆえ、わたくしを襲う場合には、どうか御熟慮《ごじゅくりょ》の上にも御熟慮を重ね……」
「襲わないよっ。ていうか、おい、ちょっと待て!」
愛香が小首を傾《かし》げた。返り血を浴びたままの凄惨な姿と、平然と人を斬れる度胸に似合わず、彼女のその仕草は可愛らしかった。
「何か?」
「二十四時間? いま、おまえ、二十四時間張りつくとか言ってなかったか?」
「言いましたが、それが?」
「どういう意味だ、二十四時間って!?」
「どういう意味もこういう意味も、文字通り、二十四時間張りつくのでございます。あなた様が朝起きてから、あなた様が夜寝るまで、いえ、夜寝ている間でも、護衛役はつねにお側に、ぴったりとべったりとねっとりと張りついて、あなた様の安全をお護りするのでございます。もちろん、あなた様が入浴されているときも、廁《かわや》に入っているときも、どなたかと逢《あ》い引きを楽しまれるときも、例外ではございません。それが護衛役の務めなのでございますれば」
「拒否権は?」
「ございません」
はた迷惑だ、と思わないでもない清海である。
だが、うん、しかし。むさ苦しい野郎に二十四時間、張りつかれるのよりは遙かにマシだろうな。いやいやいや、待て待て待て。風呂? 俺が風呂に入っているときでも張りつくって、それは……。
清海の脳裏に、風呂場で彼を護衛している愛香の姿が浮かんだ。刀は持っているものの、もちろん彼女は全裸だった。
当然だ。入浴するのに下着とか着けてる奴を俺は許さないし、水着で風呂に入る奴なんか、獄門磔《ごくもんはりつけ》だ。
脳裏に浮かんだ全裸の愛香の細部が微妙に湯気で霞《かす》んでいるのが少し……というか、大いに残念だが、その辺は、これから確かめる機会もあるに違いない。何しろ、二十四時間べったり警護なのだ。
となると……これはこれで、けっこう楽しいのかもしれない。
将軍職の継承権を持つ高貴な血筋とはいえ、徳川清海が健全な男子高校生である以上、このような妄想《もうそう》に踊らされてしまうのも無理ないことではあった。
「では、清海様、参りましょう」
よからぬ妄想を破られた清海が、慌てて顔を戻した。
「ど、どこへ?」
「学校へ、です。それとも、今日はサボリなのですか?」
「俺みたいな善良で真面目《まじめ》な学生が、学校をサボるわけないだろうが」
と言い張ったものの、教士《きょうし》や同級生から、清海が真面目な学生だと認知されている可能性はかなり低い。もしアンケートを採《と》れば、「不真面目」あるいは「素行不良《そこうふりょう》」に一票を投じる生徒のほうが圧倒的に多いだろう。
「真面目な学生にしては、かなり遅めの登校のように思われますが」
「遅刻とサボリは違う」
と清海があくまで言い張ると、愛香は探るような目を向けてきた。清海の言葉を信じていないのは明らかだった。
「そういうものでございますか?」
「そういうものだよ。それよりもだな」
なんとか話題を変えようと、清海は強引に会話の行き先を捻曲《ねじま》げた。
「おまえのことは、なんて呼べばいい?」
「はい、愛香、でけっこうでございます」
「愛香か。まあ、そうだな、愛香だな」
「何かご不満がございますか?」
「いや、不満ってこともないんだが、いきなり呼びすても馴《な》れ馴れしくないか?」
「では、愛ちゃん、は如何です?」
「もっと馴れ馴れしいじゃないか。ってか、おまえ、ちゃんって感じじゃないそ。どちらかというと、愛香様ってほうが似合いそうだけどな」
「わたくしは、それでもよろしゅうございますが」
「いいわけあるか。なんで俺が護衛役を様呼ばわりしなきゃならんのだ!?」
「冗談《じょうだん》でございますから、怒らないでくださいまし」
「おまえの話し方は、酒落《しゃれ》や冗談にゃ聞こえないんだよ」
愛香は哀しそうな表情になり、そっと面《おもて》を伏せた。
「申し訳ございません。酒落や冗談が下手《へた》なのが、わたくしの九十九ある欠点の中の一つでございまして……」
「ちょっと待て。なんか、話の論点がずれてきてるぞ」
自分のことは棚《たな》に上げ、我《わ》が儘《まま》な男である。
「俺が言いたいのはだな、高校へ行ったら、おまえは俺に張りついていられねえだろ? ってことだよ」
愛香が目を大きく見開いた。
「え? いられますよ」
清海も負けずに目を大きく見開いた。
「は? どうして? おまえが警護寮の人間だってのは秘密なんだろう? 部外耆は高校には入れないじゃないか」
「わたくし、本日をもちまして、黴宗館学園へ転校することになっておりますので」
「マジか!?」
「マジマジでございます」
そうか、マジマジなのか、と小さく眩いた清海は、いやだがしかし、と首を捻った。
「嶽宗館学園は武士養成校だ。いわば武士見習いが勉強する場所だ。でも、おまえはすでに警護寮で任務に就いている。ってことは、高校なんか飛び級で卒業してるってことだろ? 今さら高校に通う必要はないんじゃないのか?」
「基本的に、わたくしは警護寮に所属しておりますが、まだ学生でもあるのです。いわゆる特別待遇生という存在でありまして、であるからこそ、この任務に推《お》されたわけでございます」
「?」
「清海様のように学生の身分であらせられる要警護対象者を警護するには、学校の中に入り込まなくてはなりません。ですが大人が学校に入れば、それだけで目立ってしまいますし、いろいろな不都合を招きもいたします。木は森の中に隠せ、と申しますように、学生である警護対象者をお護りするには、警護の任に就く者も学生であることが郡合がいいのでございます」
清海は、ははあなるほどな、と呻《うめ》くように言った。
「同じ学校の生徒であるなら、学校内ではもちろんのこと、登校下校の途中に傍《そば》にいても、何もおかしくはないわけでございます」
「言われてみれば、たしかにその通りだ」
「清海様は嶽宗館学園の二年でございましたね?」
「ああ、そうだ」
「わたくしも二年生として転校いたしますので」
「二年生……として? それって、本当は二年生じゃないってことか?」
愛香が、くすっと笑った。
「さあ、どうでございましょう。女子に年齢を訊くなど不粋でございますよ、清海様」
あ、笑うとちょっと印象が変わるな、こいつ、と少し驚く清海だった。
「たぶん、清海様と同じ組になると思います。警護寮が予め手を回してくれているはずでございますれば」
獄宗館学園は中高一貫のエリート校で、一人前の武士を育てることを目的にしている。在学中の生徒は基本的に士分見習いの扱いとなり、未成年でも帯刀を許される。
卒業後は様々な進路があるのだが、やはり軍人や警遷官《けいらかん》になる者が圧倒的に多い。中には、敢《あ》えて官僚の道を選ぶ者もいるが、いずれにせよ、この時代の日本では、「武士(侍)」とは固定された身分ではなく、一種の「資格」なのである。「武士」になることは、即ち国家上級公務員試験に合格したようなもので、将来を保証されたも同然だった。だからこそ、親は我が子を武士にしようと躍起になるのだが、それは余談である。話を元に戻そう。
笑《え》みを消した愛香が丁寧に腰を折った。
「不束者《ふつつかもの》でございますが、どうぞ今日からよろしくお願いいたします」
「うん、まあ、俺もよろしく頼むわ」
同級生として愛香と共に学校生活を送るのは、気詰まりのような、頼もしいような、嬉しいような、なかなか複雑な気持ちの清海だった。
かくして幕府警護寮の愛生愛香は、この日から将軍職継承順位十七位の徳川清海の護衛を務めることと相成《あいな》った次第である。それは、徳川清海の平穏な日常が終わりを告げ、波欄万丈《はらんばんじょう》の日々が始まったことを意味していたのだが、この時点の当入たちに、それを自覚することなどできるはずもなかった。
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第二章 武士《ぶし》の真価とは即ち闘うことである
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すでに授業が始まっていたため、校門付近にもグラウンドにも校舎内の廊下にも、誰一人として生徒の姿は見当たらなかった。
清海《きよみ》はふだんから割と気儘《きまま》な――というより、どちらかというと自堕落な学園生活を送っているので、今さら遅刻の回数が一回や二回増えた程度ではどうということはないのだが、今日はただの遅刻ではない。愛香《あいか》を連れているのが拙《まず》い。
じつは二週間ほど前、全校生徒の注目を集めるような出来事《できごと》が清海の身に降りかかっていて、その出来事によって、彼は学園の大多数の生徒――男女間わず――を潜在的《せんざいてき》な敵に回したような状況にあった。さらに今日、返り血を浴びた美少女連れで遅刻してきたところを誰かに見られでもしたら、全ての生徒が顕在的《けんざいてき》な敵に早変わりするかもしれない。
清海が周囲から要《い》らぬ注目を引くことは、愛香にしても歓迎できないことなので、二人は辺《あた》りに気を配りながら校門をくぐり、校舎内を歩いて学園総長室までやって来た。
学園の正門にも敷地内にも、生徒だけでなく教士《きょうし》の姿も守衛の姿も見当たらなかったから、二人は誰にも見咎《みとが》められずに校舎まで釆られたのであるが、それだけ人がいないということは、逆に三口えば不審者の侵入も許し易《やす》いということだ。そこが愛香には気にかかる。
生徒も教師もみな真剣を持っている学校に敢《あ》えて忍び込もうと思う泥棒など、普通はいないだろう。だが、明確に他人を殺《あや》める意図を持っていれぱ話は別だ。その場合、このように警戒が薄くては、簡単に侵入を許してしまうことになる。
その辺り、学園総長殿に確認しなくてはなりませんね。
と思いながら、愛香は学園内の見取り図を頭に描きつつ歩いていた。
学園総長室へ行く前に愛香が手や顔を洗う必要があったので、校舎に入った後《あと》、まずは洗面所に寄った。服に付いた血はどうしようもないが、手や顔の血は落としておかないとならない。もし教士の誰かに出会えば、確実に呼び止められてしまう。
秘書に取り次いでもらい、二人は総長室に足を踏み入れる。
学園総長室自体は、それほど広い部屋ではなかった。窓を背にして紫檀《したん》の大きな執務机が置いてあり、嶽宗館《がくしゅうかん》学園の学園総長、松平助信有恒《まつだいらすけのぶありつね》が黒い革張りの椅子に腰を下ろしていた。
檜《ひのき》作りの壁や天井《てんじょう》からは、仄《ほの》かな木の薫《かお》りが漂ってくる。有恒から見て左側の壁際に来客用のソファセットが置いてあるが、賓客《ひんきゃく》には奥の応接室を使うから、このソファセットは、それほど高価な物ではない。壁際《かべぎわ》には大きな書棚が並んでいて、何やら古めかしい全集本や教育・軍事関係の書籍がびつしりと並んでいた。
松平助信有恒は、少年時に朝鮮戦争の従軍経験があるという古き猛者《もさ》である。その経歴を考えるならば、還暦《かんれき》など疾《と》うに過ぎているはずであるが、鍛《きた》えあげた筋肉は今も健在で、腹周りにも脂肪など見当たらず――髪の毛は薄いが――一見、五十代にしか見えない。
松平という姓で判るように、彼は徳川家の遠戚である。前述したように、清海が徳川将軍家の血を引いていることを知っている、この学校でただ一人の人物であった。
「警護寮《けいごりょう》の護衛方《ごえいがた》課長から話は聞いておるぞ」
ゆったりとした革張りの椅子に背を預けた有恒は、清海と愛香から、清海が登校途中に襲撃を受けたことを聞かされたにも拘《かか》わらず、機嫌《きげん》よさそうに笑った。
「ぬしが、天心無明流総伝《てんしんむみょうりゅうそうでん》の使い手、愛生愛香《あいおいあいか》であるか。なるほど、凄まじき腕を持っておるようじゃの。だが、それよりも驚いたのは」
そこで言葉を切った有恒は、舐《な》めるような視線を愛香に向けた。
「このように美しき女子《おなご》だったことじゃ」
愛香は慌てず騒がず、清海のときと同じように平然と応えた。
「松平様、そのように情欲に満ち溢《あふ》れた目を向けられましては、わたくしとしてはどのように応対すればいいのか、困ってしまいます。まさか、あなた様もわたくしを愛人になさりたいのでございましょうか」
慌てて清海が愛香のセーラー服の端を引っ張り、声を出さずに唇だけを動かした。
(おい、おまえ、減多《めった》なこと言うんじゃない。こいつを怒らせると後が恐いそ)
勉学にあまり熱心ではない清海は、これまでに何度も総長室に呼びだされ、有恒から説教《せっきょう》を喰らつている。一度など、仕合《しあい》にかこつけて、さんざんに木刀で殴られた。
学園総長の恐さを肌で知っている清海は、だから愛香に忠告をしたわけだが、彼女は少しも意に介さずに、澄ました顔で学園総長を見やっている。
怒るかと思った有恒は、しかし清海の予想に反して機嫌よさそうに笑った。
「ぬしのような腕の立つ美少女を愛人にできたら、儂《わし》はもう、いつ死んでもええがのお」
清海が軽くずっこける。
このエロ親爺《おやじ》が! 学園総長が、そういうこと言ってていいのかよ!?
と内心でツッコんだ清海だが、愛香はにこにこと笑いながら頭を下げるのだった。
「まぁ、松平様ってば、正直者でございますこと」
「どうじゃな。本気で考えんか? 儂には地位と金と権力があるぞ。アチラのほうも、まだまだ若い者には負けん」
単刀直入な誘いだな、おい。
有恒の言葉に清海は呆《あき》れ果ててしまった。こんな爺《じじい》が学園総長をやっているんだから、世も末《すえ》だと思う。
愛香、何かガツンと言ってやれ。
という思いを込めて清海が愛香の横顔を見た。だが愛香は、有恒のとんでもない申し出にも、にこやかな笑顔を絶やさなかった。
「せっかくのお申し出でございますが、お断りさせていただきたく存じます」
大きく仰け反った有恒を見て、清海が内心で毒づく。
がっかりしてるんじゃないよ、エロ爺め。
「そんな考慮する間もなく断らんでもええじゃろうに。こんな年寄りは嫌《いや》か?」
愛香は、にこやかな笑顔を崩さないまま、あっさりと言った。
「わたくしは、やはり同年代の殿方《とのがた》がよいと思うのでございます」
有恒が、がっくりと肩を落とし、見る影もなく萎《しお》れた。
「ぬしは、正直者だのお」
「はい、わたくしの九十九ある欠点の中の一つが、正直過ぎる、というものでありまして、おかげで周りからは世渡り下手《べた》という評価をいただいているのでございます」
ま、たしかに上手《うま》くはなさそうだな、と思う清海である。
「ま、ええ。ぬしの正直さに免じて、ここはさっぱりと水に流そうではないか。その代わり、儂が言ったことも内緒にな?」
「ご安心くださいませ。いま仰《おっしゃ》ったことだけでなく、松平様が現在お囲いになっていらっしゃる三人のこ愛妾《あいしょう》に関しても、内緒にしておきますことをお約束申しあげます」
ぐぉぉおっつ。
悲鳴のような声を上げて、有恒が椅子から転げ落ちた。
こいつ、その歳で三人も妾《めかけ》を……。真性のエロ親爺《おやじ》だな。っていうか、この勝負、完全に愛香の勝ちだな。
全校生徒の畏怖《いふ》の的、鬼の学園総長・松平助信有恒を平然とやりこめる愛香に、清海は改めて感心してしまった。
必死に起きあがり、なんとか椅子に座り直した有恒は、机に両肘《りょうひじ》を起いて両手を組み、身を乗りだして組んだ両手の上に顎を乗せると、誰かに聞かれるのを怖れているかのように声を潜《ひそ》めて言った。総長としての威厳も何もあったものではない。
「く……くれぐれも奥には内緩じゃぞ?」
奥、とは奥方《おくがた》、つまり妻のことだ。有恒の妻もまた健在なのであるが、面白いことに、鬼の学園総長も妻にはさっぱり頭が上がらないらしい。
「もちろん、承知しております、はい」
愛香が澄ました顔で頭を下げた。
安堵《あんど》の息を吐いた有恒は、あ〜〜、さて、と言って大きな執務机の抽斗《ひきだし》から何やら分厚い書類の束を取りだし、机の上に置くと、ぱらぱらと手で繰った。
「転校手続きのほうは済んでおる。組も、清海と同じ弐組に入れるようになっておるでな。とりあえず清海の、つまりは土岐川家の縁者ということにしてあるから、転校したての愛香が、いきなり清海とべたべたくっついて歩いても、それほど不番には思われないじゃろうて」
べたべた……って、どういう警護だ、それは、と清海がちらっと横に立っている愛香を盗み見るが、彼女はなんの反応も見せていなかった。
「とはいえ、清海と愛香がべたべたしているのを見た清海のガールフレンドがどう思うかは、儂は知らんがの」
「いや、待ってくれ。俺にはガールフレンドなんて、いないそ」
「ほ? そうじゃったかの?」
「そうだったよ」
にやにやといやらしい笑みを浮かべながら、有恒は目の前に立っている二人を交互に見た。
「では、まったく問題はないのぉ。のう、愛香よ?」
愛香が、ちらっと清海のほうへ流し目を送ってきた。なかなか妖艶《ようえん》な表情で、彼は思わずどきりとしてしまう。
「問題はないのでございますか、清海様?」
「ないない。全然ない」
「ですが、清海様に恋文をお出しなさった二年|伍組《ごくみ》の化野家《あだしのけ》ご令嬢、化野雪乃《あだしのゆきの》様などが、ご気分を害されませんでしょうか?」
今度は清海が焦《あせ》りまくる番だった。
「わ〜〜、おまえ、なんでそんなことまで知ってやがるんだ!?」
そう、二週間ほど前に、清海は突然、化野雪乃から恋文を受け取っていたのだ。
その内容は、まあ、恋文というほどではなく、「わたくしとおつき合いくださいませぬか」という程度のモノだったのだが、そんなことは余人《よじん》には判らない。
二年の男子だけでなく、すべての男子生徒|憧《あこが》れの的《まと》である化野雪乃が恋文を出したとなれば、これはもう大事件だ。その余波はかなり大きく、期せずして清海は、学園中の男生徒から注目や嫉妬《しっと》や呪詛《じゅそ》を浴びる存在になってしまっていた。
それだけではない。凛々《りり》しく強く美しい化野雪乃は女子にも圧倒的な人気があり、その雪乃が「男なんかに恋文を出した」ということで、清海は女生徒からも注目や嫉妬や呪詛を浴びる羽目《はめ》になっていた。
というような事情は、学園の生徒ならほとんどの人間が知っていることではあるが、どうして釆たばかりの警護寮の者が知っているのか。
その清海の疑問に、愛香はあっさりと答えた。
「警護寮|調《しら》べ方《かた》の調査に手抜かりはございませんゆえ」
調べ方まで使って俺の身辺調査をしたのか。いやまぁ、よく考えれば、警護対象者のことを調べるのは当然かもしれないが……あまり気分のいいもんじゃないな。
清海が呟《つぶや》くようにぼやいた。
「俺のプライバシーは完全無視かよ」
「ほっほ〜〜、化野雪乃がのお。そうなんか、清海よ?」
総長が、輿味深そうな視線を清海に向けてきた。
「いや、総長、それは、その、だからといって俺と雪乃がつき合ってるとか、そういうことはもう全然ないわけで……」
かなり、しどろもどろの清海だった。
「まぁ、ええわ。雪乃がぬしを殺そうとしても、そこの愛香が護《まも》ってくれるじゃろうて」
「痴情《ちじょう》のもつれによる刃傷沙汰《にんじょうざた》は、本来、警護の対象外なのですが、しかし、清海様の身に危険が差し迫った場合は、遺憾《いかん》ながら、わたくしがその化野雪乃様を斬って捨てるのも止《や》むなしかと……」
「いやいや待て待て。斬って捨てたら、そりゃマズイって。っていうか、痴情がもつれたりはしないから。ましてや、刃傷沙汰なんかには絶対ならないから」
と釈明《しゃくめい》する清海の額《ひたい》には、びっしりと脂汗《あぶらあせ》が浮きでていた。
「ならば、よろしいのでございますが」
うん、まぁ、大丈夫だよ、と口の中で小さく呟いた清海は、しかし、一抹《いちまつ》の不安を感じないでもなかった。
化野家は伝統と格式を誇る高貴な家柄だった。そこのご令嬢である雪乃は、気品溢れる優雅な女生徒で、取り乱したり逆上したりすることがない。嫉妬に駆られて恋敵《こいがたき》に向けて刀を抜くなんてことは考えられない。
ただ、そうは言っても。
転校してきたばかりの愛香が――いくら縁戚だと言っても――どうして清海の隣に始終張りついているのか、雪乃にはその理由が判らない。清海や愛香にしても、理由を教えることはできない。となると、雪乃がどれほど高貴で優雅であろうとも、気分を害する可能性はある。
それにだ。雪乃には親衛隊とも言うべき熱心な女生徒の取り巻きがいる。雪乃が何も言わなくても、取り巻き連中が何か言ってくる可能性は、たしかにあった。
いや、もちろん、俺と雪乃がつき合ってるわけじゃないんだけど。
好きです、おつき合いください、と彼女から言われたものの、今のところ正式な返事はしていない。
優柔不断《ゆうじゅうふだん》といえぱ優柔不断、煮えきらないといえば煮えきらない態度だが、学年でも一、二を争う艮家のお嬢様は、日陰者の清海にとって眩《まぶ》しすぎた。加えて、彼女の完壁《かんぺき》さ、完全無欠さが清海には重荷に感じられて、それが返事を躊躇《ためら》わせる要因にもなっていた。
かといって、断ってしまうのも恐れ多い。というか、本音《ほんね》を言えばもったいない。化野雪乃は素晴らしい女生徒だ。家柄がいいだけではなく、華のある美人で、剣の腕も立つし、その上頭もよい。それでいて高慢にならず、周りを立てることも知っている。
そんな美女が、なぜ清海に「つき合ってください」などと言ってきたのかが、清海本人にも今一つ判らない。どこかで彼女の気を惹くようなことをした覚えもない。だが、光栄なことではあった。
もし本気でつき合うのなら、全校生徒をすべて敵に回してもいい、と清海に思わせるほどの、よく出来た女子だ。しかし、まだ清海には、全ての生徒を敵に回してでもつき合おうという覚悟はできなかった。
清海は「少し考えさせてくれ」と応え、彼女も「お待ちしております」と言って、縞局、そのままになっている。
ま、雪乃に関しては、なるようにしかならないわけだから、今ここでジタバタしても始まらないよな。
などと清海が自らを納得させていると、有恒が、それはそうと愛香よ、と訊《き》いた。
「もう一人は、どうしたんじゃ?」
有恒は手元の書類に目を落として言葉を継いだ。
「たしか鞠元《まりもと》と言ったと思うが……おお、そうじゃ、鞠元|毬藻《まりも》、こ奴の転校手続きも済ませてあるんじゃが、ぬしと一緒ではなかったんか?」
まりもとまりも、って言うのか。真ん中で分けると、まりも&《と》まりも、か。面白い名前だな。愛生愛香も面白いんだが。
どんな字を書くのか、清海が想像していると、隣の愛香が一歩、進みでた。
「はい、それは」
愛香が、襲撃を撃退した後に、警護寮の仲間、つまり「もう一人」が逃げた襲撃者を追っていったことを説明した。
「ですが、そろそろ戻ってくるのではないかと思われ……あ、どうやら戻ってきたようでございます」
「む?」
気配《けはい》を感じた有恒が首を巡らせ、背後に鋭《するど》い視線を送った。
清海も顔を上げ、有恒の頭越しに部屋の向こうを見ると、学園総長の背後、開け放った大きな窓から、一人の少女が窓枠に足を乗せた体勢で宙に浮かんでいた。ミニスカートから伸びた引き締まった脹《ふく》ら脛《はぎ》が目を引いた。
なんだあ!?
一瞬驚いた清海だが、すぐに彼女が両手で綱を握っていることに気がついた。つまり、上階、あるいは屋上から綱を伝って下《お》りてきたと、そういうことだ。
そりゃ、そうだよな。宙に浮かぶなんて、そんな芸当ができる奴がいるはずない。
少女は指先の開いた黒い手袋をはめ、両手で綱を掴《つか》んでいた。余った綱の先の部分は腰に巻きつけている。
いつの間に……っていうか、すげえ登場の仕方だな。まぁ、忍者《にんじゃ》上がりというには相応《ふさわ》しいのかもしれないけど。
と清海が呆れていると、窓枠に足を乗せ、綱で体重を支えたまま、少女がぼそりと呟くように訊いてきた。
「入ってもよい、ですか?」
有恒が渋い顔で頷く。
「うむ……まぁ、仕方がない。入るがええ」
少女は身軽な様子で室内に飛び込んできた。愛香のスカートに比べると、彼女のそれはかなり短く、思わずそこへ目が行ってしまう清海である。だが、清海の期待に反して、スカートが翻《ひるがえ》ったり捲《めく》れたりすることはなかった。
残念。いっそ上から降りてくるところを、下から覗《のぞ》いてみたかったな。
少女は腰に巻きついた綱を外し、窓枠から上体を乗りだして屋上を見上げ、二、三度、手にした綱を揺すった。それでフックが外れたのか、上から綱の残りの部分が落ちてきた。両手で受けとめた少女は手際《てぎわ》よく綱を丸め、腰に付けた革製の収納ケースにしまった。
「失礼、いたしました」
大きな机を迂回して、部屋に入ってきた少女が愛香の横まで歩いてきた。彼女はそこで足を止め、姿勢を正し、松平助信有恒に向かって丁寧に腰を折る。それまで黙って見ていた愛香が声を上げた。
「松平様、清海様、ご紹介いたしましょう。わたくしと同じ、警護寮護衛方三課所属、特別待遇生の鞠元毬藻にございます」
いったん頭を上げた少女は、もう一度、深々と低頭した。
「鞠元毬藻で、あります」
結局、清海は彼女の名前がどんな字を書くのか、このときは判らなかった。
毬藻は腰に刀を差しておらず、代わりに腰の後ろ、背中側に斜めに帯びている。なるほど、先ほどのような軽業《かるわざ》を行うのなら、刀は腰に差していないほうが都合がいい。背中の刀も普通の物より刃渡りが短く、いわゆる忍者刀に似ている。もっとも、忍者刀のような直刀《ちょくとう》ではなく、刀身には多少の反《そ》りがあった。
襞《ひだ》のある黒っぽいスカートは膝上《ひざうえ》で、着ているセーラー服の丈も短い。その意匠は愛香とは別物だった。足下《あしもと》は靴ではなく編《あ》み上げのサンダルだが、サンダルといっても、平底《ひらぞこ》で薄く、足の甲をしっかりとホールドできるような作りになっている。身長は百六十センチほど、髪の毛はツインテールふうに結《ゆ》っていて、愛香とは何かと対照的な鞠元毯藻であった。
「なるほど、ぬしが毬藻か。飯縄《いずな》の出というだけのことはあるな」
「恐れいり、ます」
「毬藻、こちらが護衛対象者である徳川清海様だ。もう見知っているとは思うが」
と愛香が清海を紹介すると、毬藻は黒目がちの大きな瞳を彼に向けてきた。
「遠くからで、したが先ほど」
「逃げた者二人、どうした?」
「それなの、ですが」
表情は変わらないものの、毬藻の顔に戸惑《とまど》いの色が浮かんだ。
「途中で斬られてしまい、ました」
「なに?」
愛香だけではない。清海も、有恒でさえ、顔色が変わっていた。
「どういうことだ? 斬ったのは何者か?」
と愛香が重ねて間うと、毬藻は自分が失敗をしでかしたかのように身を縮め、低く抑揚のない声で報告をした。
「少し距離をおいて後をつけていたので気配を察知して駆けつけた、ときにはすでに二人は一刀の下に斬り捨てられて、おりまして犯入の姿は影も形もありま、せんでした」
面白いしゃべり方するな、こいつ。
ふつう、あまり切らないところで息継ぎをする癖が毬藻にあることに清海は気がついた。
愛香が難しい顔で小さく唸《うな》った。
「犯人は、気配に気づいた毬藻が現場に駆けつける僅《わず》かの間に二人を斬り、その場から逃走していった……ということになるのか」
「もう少し時間があれぱ、周囲を調べることもできた、のですが残念ながら警邏《けいら》が駆けつけて、きたのでわたしはその場を離れざるを得ません、でした」
「後で課長にでも頼んで手を回してもらおう。しかし、今の推定どおりだとすると、尋常《じんじょう》ならざる相手だな、そいつは」
「ですが、そうすると一つ疑間が湧《わ》いて、くるのです」
毬藻がそう言うと、愛香が、そうだな、と頷いた。
「その尋常ならざる相手が、どうして襲撃グループに加わっていなかったのか。あるいは、どうしてそいつ自身が単独で襲ってこなかったのか、ということか」
「そう、思います」
毬藻を見つめていた有恒が、愛香に視線を移した。
「だとすると、愛香よ、ぬしが試《ため》されたのかもしれんぞ」
「そう……でございますね」
愛香は難しい顔のまま考え込んでしまった。しばらくして顔を上げた愛香だが、難しい顔を崩そうとしない。
「……その可能性が高いように思われます。そうなると、毬藻の存在も知られてしまったかもしれません」
「ってことは、何か? 俺の護衛役の腕を確認するためだけに、あいつらに俺を襲わせたってことか?」
愛香が重々しく頷いた。
「清海様の護衛にどんな者が何人付くのか。その者の腕はどれほどなのか。それを知るために捨て駒を使った、ということでございましょう」
「捨て駒……」
「はい、捨て駒でございます。どうやら、黒幕は本腰を入れて清海様を殺すつもりのようでございます」
たかだか俺を狙うのに、捨て駒まで使うか。
清海が不機嫌そうな顔になる。
「そんなことに本腰を入れる暇があったら、もっと生産的なことにカを入れるべきだな」
「黒幕にとっては、清海様を殺すことが、とても生産的なことなのかもしれません」
なんだよ、それは。どこが生産的なんだよ、などと清海がぶつぶつと口の中で文句を言っている。
「平気かな、愛香よ」
と有恒が訊いた。
「学園内であれば、わたくしと毬藻とで対応できるとは思うのでございます。学園全体の警備がやや薄いのが少し気にはなりますが……」
そこで、愛香は、ちらっと有恒を見たが、彼は何も言わずに愛香の次の言葉を待っている。仕方なく、愛香は言葉を継いだ。
「問題は登下校の道と、清海様のプライベートの時間帯でございます。場合によっては増援を要請する必要があるやもしれません」
顔を上げた清海が愛香に訊いた。
「そこまでする必要があるのか?」
「今後の展開|次第《しだい》でございますが。いずれにせよ清海様には、お一人での行動は謹んでいただかざるを得ないのでございます。まことに申し訳ございませんが、化野雪乃様とやらとの逢《あ》い引《び》きも、当分の間、ご遠慮していただくしか他《ほか》なく」
「してないって、逢い引きなんか」
「本当でございますか?」
「本当だよ。人の言葉を疑うなよ」
「ならば、まぁ、よろしいのでございますが、しかし……」
「しかし、なんだよ?」
「いえ、なんでもこさいません」
軽く首を横に振った愛香が、有恒に向き直った。
「では、ただ今から、愛生愛香、鞠元毬藻の両名は徳川清海様の護衛の任に就《つ》かせていただきますので、よろしくご高配《こうはい》のほどお願いいたします」
「うむ、判っておる。ぬしらも、何か困ったことがあれば、遠慮せずに儂に言うがいい。できるだけの配慮はしてやるでの」
「ありがとうございます」
「ありがとうござい、ます」
「助かります、総長」
「気にせんでもええわい、清海よ。ぬしのことは、親父《おやじ》さんに頼まれておるでな」
清海の父は、現将軍の弟、徳川|兼壬定嗣《かねみさだつぐ》である。清海はそう聞かされていた。
母親が正妻ではなく愛妾だったため、清海は生まれてすぐに母親の実家である土岐川家に預けられて、そこで養育されたのだった。父親は愛妾に生ませた清海にさして関心がなかったらしく、彼は物心がついてから一度たりとも、父である兼壬定嗣に会ったことがなかった。
ちなみに、土岐川家の家格はそれほど高くなく、そのことが清海の将軍職|継承《けいしょう》順位の低さに繋がっている。
「では、学園内でぬしらの面倒を見てくれる教士を紹介しておこうかいの」
有恒は手元にある内線電話の受話器を取りあげ、隣室に控えている秘書を呼んだ。
「すまんが、桐慧《きりえ》君を呼んでくれんか」
秘書の返事を確認した有恒が、受話器を降ろした。
「すぐに来るそうじゃ。三人とも、少しだけ待ってくれ」
しばらく待つと、隣室から、失礼します、という声がかかった。
「桐慧教士がお見えになりました」
「入ってもらってくれ」
はい、と言う返事と共に、両開きの重そうな木の扉が開けられ、若い女性秘書に先導されて、やはり若い女性教士が部屋に入ってきた。
前合わせの上着に袴――といっても、いわゆる女袴《おんなばかま》なので、実質はスカートと一緒なのだが――という出《い》で立ちの秘書は、当然のように帯刀しているが、教士のほうは刀を左手に提《さ》げていた。
一瞬、秘書は怪評《けげん》そうな目を毬藻に向けた。案内した覚えのない者が室内にいれば、秘書としては不思議に思うだろう。だが、有恒が何も言わないし、その女生徒自身も、さも当然そうな顔で立っているので、秘書はそれ以上追及するのを止《や》め、有恒に対して頭を下げた。
「お連れいたしました」
「ご苦労さん。下がってよろしい」
「では、失礼いたします」
有恒の視線が、退出していく女性秘書の腰回――有《あ》り体《てい》に言って、お尻の辺――に向けられていることに気づいた清海は、内心で舌打ちする。
まったく、このスケベ親爺が。
しかし、すぐに白分も同じ種類の視線を入ってきた女教士《じょきょうし》に向けてしまったのだから、清海に有恒を非難する資格など無い。
女性教士の名は桐慧南月《きりえみなつき》。二十代後半の美入女教士で、浩海が所属する弐組の担任だった。
白いブラウスの胸元から胸の谷間が覗いている。胸の盛りあがりが大きい分、谷間は深く険《けわ》しかった。ブラウスの丈は極端に短く、スカートとの問に隙間がある。つまり、お腹が覗いているのだ。ブラウスからベルトで吊ったミニの黒いタイトスカートは伸縮白在の素材で、刀を差すために左腰の部分が大きく開いている。
ウエーブのかかった赤い髪を肩に垂《た》らした桐慧は、その妖艶な出で立ちにも拘わらず、かなり攻撃的な印象を見る者に与える女性だった。
美人で巨乳で色っぽい恰好《かっこう》の女教士となれば、男子学生に人気があるのは当然だが、彼女は学園でも三本の指に入るという剣の腕を誇っている。清海も、剣術の授業では彼女にさんざん叩《たた》かれたものだ。
桐慧のスカートの左腰開口部からは腰に巻かれた太めの帯が覗いているが、これは刀を差すためには帯を腰に巻くことが不可欠なためで、帯刀している者は男女間わず巻いているのだ。
腰に巻いた太めの帯の上にスカートや袴を穿《は》くわけだが、スカートや袴には前と後ろに二本、細い帯が付属していて、それを体の前と後ろで結んで締める仕組みになっている。スカートや袴の上に回したこの細い帯で、左腰に差した刀の鞘《さや》を支えるのである。これをしないと、鞘の先端が地面のほうへ落ちてしまって具合が悪い。この辺は、武士《ぶし》や武士見習いの男女が穿く物に共通した作りである。
ちなみに、公式の場に出るときは二本差しだが、ごく少数の例外を除けば、ふだんはたいてい大刀《たいとう》の一本差しだった。ごく少数の例外とは、例えば二刀流の使い手などであるが、学生はみな一本差しである。
学園総長の御前《ごぜん》に出るということで、腰の刀を鞘ごと抜いて左手で持っていた――いわゆる携刀《けいとう》姿勢である――桐慧は、有恒の前に進み出て姿勢を正し、刀を右手に持ち替えた。この際、刃《やいば》を下向きにするのが相手に対する礼儀である。
桐慧は腰を折り曲げ、学園総長に対して低頭した。
腰を曲げても背筋は曲がらない。真っ直ぐな棒を、ただ一点で折り曲げただけ、という見事な姿勢だった。桐慧のこの美しい姿勢を見れば、それだけで彼女の剣の腕が並大抵ではないと知れる。
顔を上げ、刀を左手に戻した桐慧は、引き締まった表情で叫ぶように言った。
「桐慧南月、参上しました!」
「ああ、ご苦労さんだの」
軽く会釈《えしゃく》を返した有恒が、自分の左手に並んでいる清海、愛香、毬藻のほうへ視線を移すと、桐慧は滑るように立ち位置を移動し、三人に相対するように学園総長の右側に立った。
有恒は、もう一度、桐慧に視線を戻す。
「来てもらったのは他《ほか》でもない。例の話の件じゃがな」
桐慧は正面に立つ愛香と毬藻を睨《ね》めつけた。
「つまり、そこの二人が警護寮から遣《つか》わされてきた者……ってわけですね?」
「そうじゃ。愛生愛香と鞠元毬藻じゃよ」
愛香と毬藻が深々と低頭した。やはり、背筋が伸びた美しい姿勢だった。
「警護寮護衛方三課所属、特別待遇生の愛生愛香にございます」
「同じく警護寮護衛方三課所属、特別待遇生の鞠元毬藻で、あります」
「俺は当高校二年弐組担任、桐慧南月だ」
美人女教士は、自分のことを堂々と「俺」と称した。
「おまえらのことは総長殿から聞いている。土岐川清海……いや、もう徳川清海様と呼ぶべきなのかな」
清海が慌てて手を振った。
「いや、今までどおり、土岐川でいいです。少なくとも、しばらくは土岐川清海で通すつもりですから」
と言った清海は、ちらっと右を見て、学園総長に確認した。
「で、いいんですよね、総長?」
「ああ、それでええ。儂も今のところ、ぬしのことは桐慧君にしか話しておらん。ぬしの身分を明かすかどうか、明かすとすれば、いつ明かすのか。その辺は、お父上と話し合《お》うて決めてもらうしかあるまいの」
という有恒の言葉に清海は、ええ、いずれそのうち、と曖味《あいまい》な返事をしただけだった。
話し合うったって、会ったこともない父親と、どう話し合えばいいんだ!?
というのが清海の正直な感想である。
「清海の出自についても、現在のランクについても、総長殿から聞いた。なかなか大変なことになったな」
そう言って、桐慧はにやりと笑った。
「まあ、人生は山あり谷あり底なし沼ありだ。いろんな経験を積めば、将来、きっと役に立つだろう」
山とか谷はともかく、底なし沼にはまったら将来がないような気がするんだけどな、と思わずにいられない清海だった。
「そんな不安そうな顔をするな。警護寮から、こんな腕利き美少女剣士が来てくれたんだからな。むしろ嬉しいだろう?」
「いや、嬉しいというか……まぁ、哀《かな》しくはないですが」
「でだな、その美少女剣士殿は、二人とも弐組に入ってもらうことにする。つまり、清海と同じ組だ。警護には、そのほうが都合がいいだろうからな。転校生が二名も入るとなると不思譲に思う奴もいるかもしれないが、なあに、この間の授業で病院送りになった奴が二名出たばかりだから、その代わりだと言えば問題はない」
あ、そういえば、と清海は思いだした。昨日の剣術の授茉で、楓慧にぶっ飛ばされて入院してしまった生徒が二名出ていたのだ。
「桐慧教士、まさか」
清海が疑い深そうな顔になった。
「このために、あの二人を病院送りにしたわけです?」
「そんな小細工《こざいく》を俺がするか! あの二人は正当に病院送りになったんだよ」
正当な病院送りって、どんなだよ!?
とツッコミたいところだが、桐慧相手ではちょっとばかり恐ろしい。清海は我慢してスルーした。
「二人の分担は、直接の護衛が愛香の担当で、周囲の警戒、及び連絡業務が毬藻の担当と聞いているが、それでいいんだな?」
桐慧が愛香と毬藻を交互に見た。ええ、そうでございます、と愛香が頷いた。毬藻はなんの反応も見せない。
表情も変えないし、なんか、人形みたいな奴だな、いや、人形というか、能面か?
毬藻を横目で盗み見た清海は、そんなことを思う。
「ということでじゃな、桐慧君には、ぬしら二人の支援をお願いしてある。困ったことがあれば、まず桐慧君に相談するがええじゃろう」
「総長、支援というのは、具体的にはどういうことなんですか?」
と清海が訊いた。
「それはじゃな、ぬしと愛香が常に行動を共にしても不自然ではない状況を作ってもらう、ということじゃな」
清海は、ああ、なるほどね、と頷いた。
「例えば、席を隣にするとか、当番を同じにするとか、同じ委員会に所属するとか、そういうことじゃな。愛香は土岐川家の遠縁に当たる、としておいたから、清海とくっついていても、それほど不自然ではなかろうて。一方、毬藻までくっついていると、さすがに怪しまれる虞《おそれ》がある。だから毬藻は、周囲の警戒と連絡業務というわけじゃよ。愛香の家については、適当に誤魔化しておけばええのじゃが、他の先生に訊かれることもあるかもしれんからな。その辺の設定は、あとで愛香から聞いておいてくれ。よいな、清海?」
「はい、俺はかまいませんが」
「まぁ、この学園内にいる間は心配せんでもええわい。うちの教士はいずれもが手練《てだ》ればかりじゃしな」
と言う有恒は、愛香ほどには学園の警備状況に懸念《けねん》を抱いていないのは明らかだ。
「問題は、先ほど愛香も言ったように、ここへの行き帰りの道と、ぬしの家のほうじゃな。ぬしの家には、ふだん、あまり人がおらんのじゃろ?」
「あれ? ちょっと待ってくださいよ」
清海が首を捻った。
「二十四時間、つねに警護とかって愛香は言ってましたが……つまり、愛香と毬環は俺の家に来るんですか? それこそ不自然じゃないですか?」
「そのための遠縁じゃろう」
「ってことは……」
「愛香はぬしの家に下宿する、ということになるな」
マジだったのかよ。
恐れと不安と期待と喜びが入り混じり、清海の胸申はなかなかに複雑であったが、その思いが顔に出ないように気をつけながら、彼は毬深を見た。
「えっと、彼女は?」
毬藻は相変わらず表情一つ変えないまま微動だにせずに立っている。彼女の代わりに、有恒がにやりと笑った。
「毬藻は苦学生でな。働きながら高校に通うんじゃ」
「まさか……」
いきなり毬藻が口を開いた。
「わたしの実家は貧乏です、からわたしは自分の学費を自分で稼がないといけない、のであります」
眉《まゆ》一つ動かさないまま、毬藻はそう言った。
そんなことを、冷静に冷徹に言われてもなあ、と思う清海である。
「毬藻は、ぬしの家に家政婦として雇《やと》われることになる。その辺は、ぬしの家の家宰《かさい》と話をつけてあるでの」
「なんだよ、みんなして俺の知らないところで勝手に話を進めやがって……」
と清海が口の中でぶつぶつと文句を言う。
「本来の予定では、愛香と毬藻は、今日のところは顔合わせだけで、正式に転校してくるのは明日《あす》以降のはずだったんじゃが、さっそく襲撃があったとなると、悠長なことは言っておれん。今日のうちに転校してもらって、今日からぬしの家に詰めてもらうこととしよう。すべてはぬしのためなんじゃから、ちょっと慌ただしいのは我慢せえ」
「いや、まあ、我慢できないとか巫山戯《ふざけ》るなとは言わないけどさ」
同年代の女子二人と一つ屋根の下で暮らすというシチュエーションには、それなりに惹《ひ》かれる清海であるが、しかし、その相手が、愛生愛香と鞠元毬藻だというのが素直に喜んでいいのかどうか、けつこう微妙なところかもしれない。
とくに毬藻のほうなんか、寝ている間も天井裏から覗かれたりしそうだしな。
自分のプライベートの時間と空間が侵食されそうな予感がして、清海は手旗しで喜ぶことはできなかった。
すると。
「ご安心、ください清海様」
彼の思いを読み取ったのか、唐突に毬藻がそう言った。
「は?」
清海が怪評そうな顔を毬藻に向けると、彼女はニュースの原稿を読むアナウンサーのように淡々と言った。
「清海様がお一人で何をしていようとわたしには、関係ありませんのでお気遺いは無用であります。清海様はわたしのことなど、気にせずに心ゆくまでエロ本やらエロDVDやらをご堪能《たんのう》されて、くださってけっこうなのであります」
清海が、びしいっと毬藻を指差した。
「ちょ……ちょっと待て!俺がいつもエロ本読んだリエロDVD見たりしているように言うのは止めろ!」
「でも……」
毬藻が軽く眉を顰《ひそ》めた。今日、彼女が初めて見せた表情の変化だった。
「若い殿方は、エロ本やエロDVDを見て、毎日毎晩、必死にオナ……」
「うわああ!」
清海が大慌てで毬藻に飛びつき、右手で彼女の口を塞いだ。
「なんてこと言うんだ、おまえは!」
毬藻は手で口を塞《ふさ》がれたまま謝《あやま》った。
「すみまふぇん」
すでに元の無表情に戻っているから、あまり謝られている気はしないが、とりあえず、それで口をつぐんだようなので、清海は毬藻の口を押さえていた右手を放し、自由になった右手の甲で額に浮きでた冷や汗を拭った。
「清海様!」
「ひえぇっっ」
耳許で愛香に大声を出され、清海が跳び退《すさ》った。
「な、なんだ?」
「清海様お好みのジャンルは、どのようなものなのでしょうか?」
「ど、どうしてそんなことを訊く?」
「いえ、世の若い男性は、みな、巨乳だメイドだなどと言って騒いでいらっしゃるようなので、清海様もそうなのかしら、と思いましてございます。もしそうであれば、わたくし、清海様のお家に下宿させていただく間、頑張ってメイド衣装に着替えようかと思ったりもするのでございますが、とはいえ、お乳はこれ以上大きくなりませんので、そこはそれ、そこはかとなくご容赦いただきたいのでございます」
そこはかとなく容赦、って意味が判んねえよ! しかし……メイド衣装の愛香か。それはそれで惹かれるが。べつに巨乳じゃなくたっていいし……って、いやいやいや、そんなことを言ってる場合じゃないだろう。
清海は己《おのれ》の頭に湧いた妄念《もうねん》を振り払おうとした。しかし、強く振り払いすぎて、思わず本音《ほんね》が漏《も》れそうになる。
「それにだな、俺はメイド物よりも、どちらかというと競泳み……」
愛香と毬藻が、清海の顔を覗き込んだ。
「きょうえい?」
「……って、そうじゃないよ。俺の好みなんか、どうだっていいだろ。それが、俺の警護と何か関係があるのかよ!?」
愛香は、あっさりと首を横に振った
「関係は、まったくございません」
清海が軽くずっこける。
「単なる個人的な興味でございます」
「そんな興味は捨てろ」
「捨てるには、些《いささ》か惜《お》しい気がするのでございますが」
「いいから、捨てろ!」
「……判りましてございます」
という愛香の顔は、どことなく不満そうだった。
まったく、この調子じゃ家にいても、くつろげなくなりそうだな。
とそのとき、桐慧がいきなり彼を呼んだ。
「土岐川!」
「はっはい?」
「家でエロ本読むのはいいけどな、学校へ持ってくるなよ。もしも持ってきやがったら、斬り殺すぞ?」
「来ませんよっ」
というか、俺がエロ本好きってのを、さも周知の事実のように言うのは止めてくれ……などと清海がぶつぶつと文句を言うその傍《かたわら》らで、有恒が哄笑《こうしょう》した。
「は〜〜っはっはっはっ、エロ本くらいで斬り殺されていたら、わしゃ、今までに何百回死んだことか」
女性陣三人の、とてつもなく冷ややかで、どこまでも軽侮《けいぶ》に満ちた眼差《まなざ》しに気づいた有恒が、わざとらしく咳払《せきばら》いをする
「あ〜〜、まぁ、そういうことなんでな、桐慧君、二人を君の組へ連れていって、生徒に紹介してくれんか」
「判りました」
桐慧が一礼した。
こうして清海は、愛香、毬藻と級友として学校での毎日を過ごすこととなったのだった。
清海は素知《そし》らぬ顔で、三時限目が始まる前の休み時間に教室に顔を出した。遅刻はよくあることなので、誰かに何かを訊かれるようなことはなかった。
そして、四時限目。
桐慧教士の受けもつ授業、「戦史《せんし》」の時間である。戦史の授業とは、古今東西の戦闘や戦争の歴史を紐解《ひもと》き、その戦術や戦略を点検し、検討し、評価するという内容だ。武士養成校ならではの授業である。
ふつうは黒板に地図を描いて進めることが多いが、ちょっとしたジオラマを作って、そこに敵、味方の部隊を表す駒を配置して行うこともある。もっと大がかりになると、グラウンドに立体地図を構築し、生徒自身が駒となって模擬演習の如《ごと》く動くことさえある。
清海は、この授業が大好きだった。剣術や体術といった一対一の戦闘術よりも、戦術や戦略を考えるほうが自白分の性《しょう》に合っていると思うのだ。
時に熱心になりすぎて、担当教士の桐慧と意見が衝突してしまうこともあったが、さっぱりした性格の桐慧は、意見の食い違いで衝突しても、それをネタに生徒を叱《しか》ったり怒ったり虐《いじ》めたりするようなことはなかったから、清海はこの授業に安心して取り組めた。
その桐慧南月が、愛生愛香と鞠元毬藻を伴《ともな》って教室に入ってきたときには、男生徒の間から歓声とも喚声《かんせい》ともつかない大きな声が上がった。
桐慧が鋭い目つきで教室内を睨めつけた。今の彼女は腰に刀を差しているから、そういう顔つきになると、かなりの迫力だ。すぐに声は鎮《しず》まった。
ちなみに、生徒たちは教室内では帯刀していない。教室の隅にあるロッカーに収めるように指導されている。だが、まだ自分のロッカーのない愛香は腰に刀を差したままだし、毬藻も背中から腰に刀を移していた。
男生徒の声は収まっても、愛香と毬藻を見つめる彼らの目には、何かに取り憑《つ》かれたような熱が浮いている。
まあ、騒いで当然だよな、と清海は思う。
とにかく女生徒の数が少ないのだ。弐組三十二名中、女生徒は六名しかいない。
抑《そもそも》、武士になろうという女子の数が少ないから、全体の男女構成比を考えれば妥当な数字なのだが、男生徒の間では不満が大きかった。
組の女生徒の数が他《ほか》より一名多い、少ないというだけで、組同士の争いの種になったりするくらいだ。そういう意味では、いきなり女生従が二名も増える弐組は、今後、他《た》の組からの嫉妬と挑発を覚悟しなくてはならないだろう。
しかも、そのうちの一人――愛生愛香は、常時、自分の傍《そば》にいることになる。
ただでさえ、化野雪乃から恋文をもらったといって男生徒たちから目の敵《かたき》にされている清海である。いくら愛香が遠縁だと言い訳しても、それまで以上に敵対視されるのは確実という状況だ。それが面倒くさくて鬱陶《うっとう》しくて、今から憂鬱《ゆううつ》な気分になる清海だった。
などという彼の懊悩《おうのう》など知らぬまま、桐慧は転校生の二人を紹介した。
「背が高くて髪の長いほうが愛生愛香だ。こう書く」
四角張った大きな文字で黒板に「愛生愛香」と書いた桐慧は、書き終わると顔だけを生徒たちのほうに向けた。
「そっちの小さくてツインテールっぽい髪の奴が、鞠元毬藻。こう書く」
と言った彼女は、すぐに黒板に向き直り、「愛生愛香」の横に「鞠元毬藻」と板書《ばんしょ》した。そこで初めて、清海は毬藻の名前の字面《じずら》を知ることができた。
チョークを置いて手を払うと、桐慧教士は二人の間に割り込むように立った。桐慧の身長は百七十台後半だから、そうして並んで立つと、三人の凸凹《でこぼこ》ぶりはなかなか見事だった。
「今日から愛香と毬藻も、みなと同じ、日本国の武士《さむらい》たらんとする仲間だ。共に手を取り、励《はげ》まし合って、立派な武士を目指せ」
「おーっす」
「では、白己紹介」
左右に目を配った桐慧は、
「じゃ、愛生からな」
と促《うなが》した。
はい、と返事をして、愛香が一歩、進みでた。彼女は、今朝方、清海と出会ったときの恰好である。つまり、セーラー服に長い紺のスカ――踝《くるぶし》辺りまである――という出で立ちだ。襲撃者を撃退した際に多少の返り血を浴びているのだが、紺という色合いが幸いして、それはほとんど目立たない。
隣の毬藻も、愛香とはデザインが違うものの、やはりセーラー服にスカートだ。長さは前述したように愛香の物よりも短く、膝上のミニスカートだった。
以前の学校の制服のまま来た、という設定なのだろうが、嶽宗館学園の女子制服は白いブラウスに上下一体となった淡色のワンピースタイブのスカートだから、二人の恰好はかなり目立っていた。
そう言えば、この二人が、どこから来たことになってるのか聞いてなかったな。あとで確認しておこう。
見るとはなしに二人を見ながら、清海はそんなことを思った。
「愛生愛香でございます」
前に出た愛香が丁寧な物腰で頭を下げた。
「まだまだ未熟者《みじゅく》、不束者《ふつつかもの》でございますれば、皆さま方には当学園の先輩として、よろしくご指導ご鞭撻《べんたつ》のほどをお願いいたします」
頭を上げた愛香が元の位置に戻った。
なかなか如才《じょさい》のない挨拶だな。
愛香が何を言うのか注目していた清海は、当たり障《さわ》りのない内容に少しがっかりした。
彼女なら、もっととんでもないことを平気で言いそうな気がしたんだが。
もっとも、彼女の立場としては、一般の生徒に目立ちたくないと思っているはずだ。だからあれは、きっと猫《ねこ》を被《かぶ》ったのだろうと、清海はそう結論づける。
「次、毬藻」
桐慧に促され、毬藻が一歩、前に出た。相変わらず、表情は全く変わらない。
「鞠元毬藻で……す」
「す」のタイミングに合わせて軽く頭を下げた毬藻は、すぐに顔を上げ、他《ほか》に何も言わずに元の位置に戻ってしまった。男生徒の間から拍子抜けの溜め息が漏れる。
「何か質問は?」
目の前に座っている生徒たちを、桐慧がぐるりと見渡した。とたんに、待ちかねていた男子生徒が一斉に口を開き、教室内が蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。
「スリーサイズは?」
「彼氏、いる?」
「妹、いる?」
「流派は何?」
「剣の腕は?」
「今日の下着の色は?」
「携帯の番号教えて」
どうでもいい質問と、もっともな質問が、入り乱れて飛びかった。口笛が吹かれ、拍手が上がり、床を踏み鳴らす音が響く。
数少ない女生徒たちは眉を顰《ひそ》めているが、新しい女子転校生――しかも二人とも、かなりの美少女だ――を前に、男生徒たちは完全に舞いあがっていた。
「好きな刀匠《とうしょう》は?」
「人を斬った経験はある?」
「キスの経験は?」
「趣味はなに?」
「刀の銘《めい》は?」
「競泳水着とスクール水着、どっちが好き?」
最後の質間は、ぜひ、清海も訊いてみたいところだったが……しかし、あまり騒いでいると桐慧教士がキレる虞《おそれ》がある……と思う間《ま》もなく、桐慧は腰の刀を抜いていた。
「ぎゃぁすか五月蝿《うるせ》えぞ、てめえらっ」
真《ま》っ向《こう》上段に愛刀を振りかぶった桐慧は、そのまま教卓目がけて振りおろす。
鈍い音がして教卓が真《ま》っ二《ふた》つになり、同時に室内に静けさが戻った。
可哀想に。今学期、何個目だ、先生に斬られた教卓は。
縦に二つになって床に転がった哀れな教卓のために、清海は瞑目《めいもく》した。
それにしても、桐慧の腕前は大したものだ。いつ見ても鮮やかな刀捌《かたなさばき》きだ。学園でも三本の指に入るという話は、おそらく真実だ。
清海は、ちらっと愛香に視線を送った。
愛生愛香と桐慧南月、どちらが強いんだろう。一度、闘わせてみたいな。竹刀とか木刀ではなく、真剣で。
そんな不謹慎《ふきんしん》なことを考えてしまう清灘だった。
震えあがった男生徒たちを隗めつけた桐慧が、
「質問の時間は終わり」
と無情な宣告を下した。
「なんだよ、二人とも、まだ何も答えてないじゃないか」
などと、弱々しい抗議の声が上がったが、桐慧はそれらの声を締麗に無視した。
「さて、二人の席だが……」
教室内を見渡した桐慧が、清海の隣の席を指差した。
「愛香は、あそこだ。土岐川清海の隣」
清海の席は窓側から二列目の後ろから二番目だ。愛香の席は最も窓側の列の後ろから二番目ということになる。
「本当は空《あ》いてるわけじゃないんだが、その席の奴は、しばらく学校へ来られないだろうから、とりあえず、あそこを使っておけ」
ひでえ。
ひでえな。
ひどすぎる。
あちこちから、駈くような非難の声が上がったが、桐慧はそれらも黙殺した。
はい、と愛香が頭を下げた。
「毬藻は、あそこだ」
桐慧が教室の左隅を指差した。そちらは廊下側の出入り口に近い席だった。
「はい」
「よし。では、二入とも席に着け。ああ、刀を抜いてな。ロッカーは、空いてるところを適当に使え」
下《さ》げ絡《お》を解《ほど》き、刀を抜いて携刀姿勢になった愛香と毬藻は、刀を右手に持ち替えると、生徒たちに向かって一礼した。
「よろしくお願いいたします」
「よろしくお願い、します」
頭を上げた二人は刀を左手に持ち替え、静かに歩《ほ》を進めて指定された席まで歩いた。
とりあえず刀を壁に立てかけた愛香は、席に着く前に清海へ向かって会釈した。
「よろしくお願いいたします、清海様」
とたんに教室内がざわめいた。
男生徒が清海に向ける視線が険しくなる。いや、男生徒だけではない。数少ない女生徒の目にも疑い深そうな色が浮かんでいた。
誰もがこう思ったことだろう。
清海と美人転校生は知り合いなのか!? と。
清海はこれから始まるであろう難儀《なんぎ》な学園生活を思い、大きな溜め息を吐《つ》いた。
四時限目が終わると、男生徒は二つのグループに分かれ、それぞれが各々《おのおの》の標的に向かって突進した。言うまでもなく、一つは愛香を標的にしたグループで、もう一つが構藻を標的としたグループだ。
主流派が愛香を質問責めにしているその横で、分派の四人が清海の席を囲んだ。友だちと呼べるような存在が学園にいない清海だが、その四人は比較的親しくしている者たちだった。
「おい、土岐川、転校生がどうしておまえの名を知っている?」
「っていうか、おまえら知り合いなわけ?」
清海は曖味に頷く。
「あぁ、まぁ、な」
「なにぃぃ!?」
「どういう知り合いだ、こら!?」
「いや、実家が遠縁に当たるってだけで、本人と親しいってわけじゃないんだが」
四人が安堵の息を漏らした。
「じゃあ、二人は許嫁《いいなずけ》とか、そういうことはないんだな?」
「ないよ」
「久しぶりに再会した幼馴染《おさななじ》みが、子供の頃に抱《いだ》いた仄《ほの》かな恋心を再燃させるなんてこともないんだな?」
「なんだ、そりゃ。どこかのゲームじゃあるまいし、そんな都合のいい展開が、然《そ》う然《そ》うあってたまるか」
「じつは血の繋がっていない妹だとか、言いだしはしないだろうな」
「おまえら、一度、頭蓋骨《ずがいこつ》かち割って脳味噌《のうみそ》の掃除をしてやろうか!?」
「じゃあ、俺たちが彼女に言い寄ってもかまわないんだな」
「俺たちが彼女と親しくなっちゃっても、かまわないんだな!?」
「俺たちが交際を申し込んじゃっても、かまわないんだな!?」
「俺たちが彼女を押し倒しちゃっても、かまわないんだな?」
「おまえらがそうしたいのなら、すればいいんじゃないか?」
「するともよ!」
「ああ、いや……」
清海が四人に向かって右手を伸ばした。
申し込むのはいいけど、押し倒そうとするのだけは止《や》めておいたほうがいいそ。命が惜しければな。
清海はそう言おうとしたのだが、すでに四人は愛香を取り囲んでいる主流派の輪に入り込んでいた。
教室の出入り口近くでは、同じように毬藻が男生徒に取り囲まれていた。人数的には、愛香を囲んでいる男生徒のほうが毬藻のほうより少し多いようだ。
やれやれ、平和な光景だ。
立ちあがった清海が、大きく伸びをした。
さて、昼飯をどうするかな。
その瞬間、愛香を囲んでいた人垣《ひとがき》が割れた。
「清海様、お昼をお召しあがりですか?」
「ん? ああ、そうだけど」
「では、ご一緒させていただきます」
そう言って愛香が頭を下げた瞬間、その場にいた男生徒たちから、どす黒いオーラが立ち昇った。
「あ〜〜〜」
なんと応えていいか清海が迷っていると、いきなり愛香が清海の腕を取ってきた。
「お、おい、愛香?」
「ささ、参りましょう、清海様。お昼をいただいた後は、散歩がてら、学園内を案内してくださいませんか」
男生徒たちから立ち昇るどす黒いオーラが、瞬時に殺気に変わった。
「愛生さん、案内なら僕が!」
「土岐川なんぞと一緒にいたら、あなたの貞操《ていそう》は大きな危機に見舞われるぞ」
「君は騙《だま》されているんだ。そいつはろくな奴じゃない!」
うるせえな。大きなお世話だ。
いい加減頭に来た清海が怒鳴《どな》ろうとすると、それを制するように愛香が清海の体に自分の体を寄せてきた。
「皆さま、申し訳ございません。わたくしは、清海様に、ご案内していただきたいのです」
口々に囀《さえず》っていた男生徒たちが急に静かになった。
「さあ、清海様、二人で静かにお昼をいただくことといたしましょう」
「え? いや、うん、しかし……」
煮え切らない態度の清海を、愛香が引っ張って……というか、体を密着させたまま押しだすようにして教室から出ていった。
「ぐわぁあぁ〜〜」
「なんであんな奴に〜〜〜〜っ」
「化野嬢から恋文をもらうだけでも許せんのに〜〜っ」
「間違ってる。世の中間違ってるぅぅ」
血涙《けつるい》を流しながら悶《もだ》えていた男生徒たちは、しかし、すぐに顔を上げた。
出入り口の近くの人垣はまだ崩れていなかった。あちらでは、鞠元毬藻に対するアタックがなおも続いているようだ。
全員が、あっさりと攻撃目標を変更した。
清海と愛香が教室から姿を消した次の瞬間、毬藻を囲んでいる人の輪に加わろうとして、彼らは一斉に駆けだした。
同時に。
持参した弁当を机の上に広げようとしていた女生徒のグループが血相《けっそう》を変えて立ちあがった。
「大変よ」
「よくは判らないけど、昨日《きのう》、今日、知り合ったなどという関係じゃないわ」「そうよ、そうよ、女の勘《かん》が囁くのよ。あの二人は、以前からの知り合いよ。しかも、かなり仲のよい」
「雪乃様に御注進《ごちゅうしん》」
女生徒たちは、足音も高く教室から駆けだしていった。
「なあ、愛香」
廊下を歩きながら清海が呼びかけた。
「なんでございますか、清海様」
「ことさらに敵を作るような言動は慎《つつし》んだほうがよくないか?」
という清海の指摘に、愛香が小首を傾《かし》げた。
「ことさらに敵を作っているわけではございませんが」
いや、作っているように思うんだが。本人にはその自覚がないのか。だとすると、よけいに厄介《やっかい》な……。
これ以上事態がややこしくなりませんように、と清海は祈った。
「まぁ、それは措《お》いといて。で、昼飯はどうする? と言っても、選択肢《せんたくし》は二つしかないんだけどな。学食へ行くか、購買部で何か買って、どこかで食うか」
愛香が妖艶な流し目を送ってきた。
「ご昼食の代わりに、わたくしをお召しあがりになる……というのは如何《いかが》でございましょう、清海様?」
清海の目が点になる。
「…………は? いま……なんて?」
愛香はいつもの澄ました顔に戻って、冗談《じょうだん》でございます、と言い放った。
「それとも、本気になさいました?」
愛香に見つめられ、清海の脇の下を、ど…っと冷や汗が流れ落ちていく。
「いや……そんなことがあるわけ……」
「まあ、残念でございます。本気で迫られたら、わたくし、迷ってしまったですのに」
と言って、愛香はくすくすと笑った。
いや……そういうことは、冗談でも言わないようにしてくれないかな。
すぐに笑い止んだ愛香は小首を傾げ、少し考えた。
「そうでございますね」
顔を戻した愛香は、では、と言った。
「せっかく二人きりになったのでございますから、購買部で食べる物を買ってきて、どこかでいただくといたしませんか?」
二人きりねえ。
そのこと自体に不満があるわけではない。だが、二人きりで昼飯を食べていたことを誰かに知られると、それこそ酒落にならない事態になりそうな気がする。そこが清海には恐いところであるが、しかし、愛香と二人きりで昼ご飯を食べるという誘惑には――ベつに愛香を食べようなどという邪《よこしま》な思いを抱いたわけではないが――勝てなかった。
「じゃあ、そうするか」
「では、購買部まで、わたくしをお導きください」
導くとか導かないとか、そんな大げさな言い方をされてもな。
と口の中でぼやきつつ、清海は先に立って廊下を歩いていく。
昼休みになったばかりの廊下には、あまり生徒の姿は見受けられない。ほとんどの生徒は、教室で弁当を広げているか、学食で昼食を食べ始めているか、購買部で昼食を買っているところかのいずれかだ。
学食はあまり広くないので、出遅れると席待ちをする羽目になる。購買部も、それほど潤沢《じゅんたく》に商品を仕入れているわけではないから、出遅れるとお気に入りの食べ物が売り切れになっていることが多い。だから学食組も購買部組も、四時限目が終わると直《ただ》ちに目的地へ走らなくてはならず、今時分《いまじぶん》に廊下をのんびり歩いている者はほとんどいない。
購買部は南棟一階にある。二年の教室は北棟二階なので、清海は左に曲がって階段を下《お》り始めた。すぐ後を愛香がついてくる。
「そういえば、毬藻はいいのか?」
階段を下りながら、清海が訊いた。
「毬藻は毬藻で、適当に何かを調達することでしょう。最悪、昼ご飯にありつけなかったとしても、死にはしません。毬藻は忍びの出だけあって、二、三日食べなくても平気な娘《こ》でございますし」
そういうことを訊いているんじゃないんだけどな。まあ、いいか。
首を振り振り階段を下りた清海が、南棟への渡り廊下へ向かって歩きだそうとしたとき、彼の前に人影が湧いた。
「土岐川君」
「あ……」
薄暗い廊下でこちらを睨《にら》んでいるのは、化野雪乃の取り巻きである参組《さんくみ》の女生徒、秋霜桔梗《あきしもききょう》と相楽《そうらく》美乃里《みのり》であった。二人ともそこそこに美人で、そこそこに剣の腕が立つため、男生徒にそこそこの人気がある。だが、二人とも化野雪乃に心酔《しんすい》しているために、男など眼中になく、いつも雪乃のために動いていみのだった。
その二人が、こうしてわざわざ俺を待ち構えているということは……。
清海は悪い予感を覚えて内心で密かに溜《た》め息を吐《つ》いた。
……うちの組の女子が、さっそく御注進に走りやがったな。
二人は清海の背後に立っている愛香を険しい目つきで見ていたが、やがて清海に視線を戻した。目つきは険しいままだ。
「少しお話があるのですけれど」
ほら、来やがった。
悪い予感が的中して、清海は微《かす》かに身震いする。
「わたしどもに、おつき合いいただけませんこと?」
と美乃里が言った。
「いやまあ、いいけど」
「では、余人《よじん》に邪魔されないところへ行きましょう」
と桔梗が言った。
「えーと、俺、昼飯、まだなんだけど」
とたんに二人の眉が跳ねあがる。
「あなたは、こんな重要な話よりも、昼ご飯のほうが大事だとでも仰《おっしゃ》るの!?」
「そのくらい我慢なさい。武士《ぶし》は食わねど高楊枝《たかようじ》、と言うではありませんか」
いや、それ、意味が少し違うだろ、と思う清海だが、こういうときの女子をまともに相手にしてはいけないことくらいは弁《わきま》えている。
「ああ、判ったよ。じゃあ、どこへ行く?」
「第一|練武場《れんぶじょう》の裏手へ参りましょう。この時間なら、あそこには誰もいません」
「では、土岐川君、どうぞ」
事ここに至っては逃げられない。というか、逃げだせぱ事態はいっそう悪化する。とりあえずこの二人と話をして、愛香はただの縁戚であり、別につき合っているわけではなく、もちろん雪乃のことをないがしろにしているのでもない、ということをきちんと説明すれば、判ってくれるのではないか。
という僅かな望みに縋《すが》った清海は、ゆっくりと足を踏みだした。すると、当然のように愛香がついてくる。
桔梗から鋭い声が飛んだ。
「お待ちください」
「何か?」
と清海が訊く。
「わたしたちは、土岐川君に話があると言ったのです。そちらの転校生に用はありませんよ」
「むしろ邪魔になるので、ついてこないでくださいな」
清海が振り返ると、愛香がもの問いた気な視線を向けてきた。
「あ〜〜」
参ったな。愛香を連れていったら、それこそ相手を怒らせるだけで、話し合いもできなくなりそうだしな。
清海は、愛香に向かって謝るように手を合わせた。
「悪い。ちょっと行ってくるから、どこかで待っていてくれないか」
「ですが」
二十四時間べったり警護を宣言した愛香としては、この程度のことで清海と離れるわけにはいかないだろう。清海から目を離すことなど、彼女にしてみれば職務怠慢《しょくむたいまん》である。それは清海としても判る。判るが。
清海は声を落として、愛香の耳許《みみもと》で囁《ささや》くように言った。
「すぐに戻ってくるし。それに学園の中だから心配は要らないだろ?」
愛香は、ふうと溜め息を吐《つ》いた。
「仕方がございません。ですが」
「ですが?」
「清海様は、ずいぶんと女子《じょし》におもてになるのでございますね。少し見直しました」
「馬鹿なことを言うな。もててないだろ、これは!?」
などと、顔を近づけて二人がごにょごにょと言い合っているのを見せられた美乃里と桔梗の頭に血が上る。
「土岐川君、早くしてくださいませ」
「その女と離れるのが、それほどお嫌なのですか!?」
「判った、判った。いま行くから」
じゃあ、後でな、と小さく手を振って愛香をその場に残し,清海は美乃里と桔梗と共に第一練武場の建物へと向かった。両側から二人に挟まれて歩くその姿は、白洲《しらす》へ連行されていく罪人のようでもあった。
黒っぼくて大きな正方形の建物が第一練武場で、その裏手には、背の高い常緑樹が疎《まば》らに生えている、ちょっとした空《あ》き地があった。その向こうは背の高いブロック塀《べい》があって視界を遮っている。塀《へい》の先は崖《がけ》……とまではいかないが、けっこうきつい斜面になっているのだ。この学園の敷地が高台にあるので、四囲《しい》はどこも同じような急斜面だった。
学園の周囲は鬱蒼《うっそう》とした森になっていて、斜面のあちこちには罠《わな》が仕掛けられているという話だった。もちろん、授業を抜けだして下界へ遊びに行こうという不埒者《ふらちもの》を捕まえるためだ。
練武場とは、剣術や弓術《きゅうじゅつ》、体術などの訓練を行う場所で、学園内に全部で四つあった。第一練武場は、その中でも最も大きな建物だ。
この他にも、水練場や射撃場などがある。水練場は、いわゆるプールだが、我々が知っているプールよりは、ずっと水深が深い。それも当然、ただ泳ぐことだけが目的ではなく、そこで潜水泳法や着衣泳法、水中格闘術を習ったりするからだ。
この学園に射撃場があるのに驚くかもしれないが、現代に生きる武士としては、射撃術も学ばなくてはいけないのだった。同時に、銃を相手にした場合の闘い方なども習う。
「で、話って何?」
太い樹の幹に背を預けた清海が訊いた。
訊くまでもなく判るような気もするが。
というのは黙っておく。
清海に正対して立つ美乃里と桔梗が眦《まなじり》を吊《つ》りあげた。
「あなた、雪乃様という御方がありながら、いったいどういうおつもりですの?」
「あの転校生と、あなたの関係は?」
予想通りだな、と内心で溜め息を吐《つ》いた清海は、しかし、なんのことか判らないという顔で首を稔《ひね》ってみせた。
「関係って、俺の家とあいつの家が縁戚だということだよ。転校したてで、この学園のことがよく判らないだろうから、しばらく面倒を見てやれと親父《おやじ》に言われてな」「あら、土岐川家と?」
「ああ、相生家は縁戚なんだそうだ。っても、俺もよく知らなかったくらいだから、あまり近しくはないようだけどな」
「では、雪乃様からあの転校生に乗り換えたわけではないのですね?」
俺はまだ雪乃に乗ってねえぞ! とツッコミたいところだが、それをしたら、またもや話がややこしくなる。
ぐっと我慢した清海は、
「当たり前だろ。というか、どうして今日来たばかりの転校生と俺がそういう関係にならなくちゃならないんだ!?」
と胸を張って応えた。
美乃里と桔梗が顔を見合わせている。
「まぁ、そういうことでしたら」
「雪乃様をないがしろにするようなことがあれば、承知しませんわよ」
「しないって」
「その言葉、お忘れなきように」
二人が清海を置いてその場から離れようとした、そのとき。
頭上から声が聞こえた。
「見ぃつけた」
はっとして、清海、美乃里、桔梗が、練武場の屋根を振り仰《あお》いだ直後に、屋根から人が降ってきた。高さが五メートル以上もある屋根の上から軽々と飛び降りたその身のこなしは、ただ者ではない。
「徳川清海様だねぇ?」
灰色の上下に身を包んだ男は、顔を覆面《ふくめん》で隠し、当然のように左腰には刀を差していた。全身から剣呑《けんのん》な雰囲気が溢れだしているのが感じられた。
ヤバい。こいつはプロだ。プロの暗殺者だ。俺がどうこうできる相手じゃねえぞ。
清海は後悔した。愛香を置いてきたことを。
だが、事情をまったく知らない美乃里と桔梗は、学園内に侵入してきた不審者程度にしか思っていない。己の剣術にそれなりの自信がある二人は、左腰の刀の柄《つか》に右手を乗せ、男のほうへ近づいていった。
男は「徳川清海」と本名で呼びかけたが、「徳川」と「土岐川」は音が似ているので、二人は特に不審に感じなかったらしい。
「おい、そいつを相手にするな。さっさと逃げろ!」
背後から駆けよった清海は、二人の襟首《えりくび》を悩んで引きずり倒した。
「なっっ何をっっ」
「どういうつもりですの、あなたはっっ!?」
地面に仰向けに転がされた美乃里と桔梗が跳ね起きて喚《わめ》くのを無視して、右手で柄を握った清海が1歩、二歩と進みでる。
「いいから、早く誰かを呼んでこい」
二人が怪誹そうな顔で互いを見やっている。焦《じ》れた清海が腹の底から声を出して怒鳴《どな》った。
「早くしやがれ! でねえと、死人が出るぞ」
主に、死ぬのは俺だろうがな。
清海の迫力に、思わず口を閉じた美乃里と桔梗は、踵を返し、その場から走り去っていった。
ちっ、俺もお人奸しだな。緒局、俺が相手することになっちまった。
「あれあれぇ、あの二人は護衛じゃなかったのかぁ?」
清海が油断なく身構えたが、男は不思議そうに首を捻っている。
「まぁ、どつちでもいいやぁ。俺はあんたを殺せばいいんだから。一人になったのは、むしろ奸都合ってもんだしぃ」
男がゆっくりと右手を柄にかけた。
来る!
相手の動きを察知した清海が、刀を抜こうとした瞬間、男が疾《はし》った。
速っつ!
清海が刀の柄に手をかけた瞬間に、相手の姿がかき消えた。
……下かっっっ!?
相手は地面にひざが付きそうなほど身を低くして、手にした白刃《はくじん》を横に薙《ない》いだ。白刃の煌《きら》めきが清海の足下に迫った。
やべえっっっ!
清海は本能的に刀を抜いていた。類《たぐい》い希《まれ》な反射神経を持っている清海だからこそ可能になった対応だ。
足を斬ってしまえば、相手はもう動けない。それからゆっくりと止《とど》めを刺せばいい。最少の労力で最大の効果を得る攻撃である。男の動きは道場剣術とはまったく異質の、人を斬るために磨《みが》かれた、まさに人斬り剣術であった。
清海は抜いた刀をそのまま下ろし、相手の刀から足をガードする。切っ先を地面すれすれで止め、受けたら反撃に移ろうと思っていた清海だが、勢い余って切っ先を地面に突き刺してしまった。この辺りが実戦慣れしていない清海の弱点だ。だが、今回はそれが幸いした。切っ先が刺さって刀が固定されたからこそ、清海の刀は相手の激越な斬撃を受け止めることができたと言える。もしも切っ先が浮いていたら、刀ごと足首を持っていかれたかもしれない。
金属同士が衝突する甲高い音が響いた。
低い体勢で清海を見上げた男が、にたりと笑った……ように思えた。顔は覆面で隠しているから、本当に笑ったのかは判らない。
「なかなかやるもんだねぇ」
男は低い体勢のまま大きく跳び退《すさ》った。
切っ先を地面から抜いた清海が、刀を青眼《せいがん》に構える。相手が変則攻撃を得意としているのであれば、これがいちばん対応が利《き》くだろうと思ったのだ。
男のほうは、刀を右手に持ち、だらりと提げているだけで、特に構えない。だが。
男の闘気が迸《ほとばし》った。
二撃目が来る!
清海は思わず柄を強く握り、慌てて力を緩めた。余分な力を入れてはいけないのだ。そんなことをすれば動きを遅くし、技の切れを鈍らせてしまう。だが、生きるか死ぬかという局面を迎えると、どうしても人は力が入ってしまう。
はは、やっぱ、愛香は凄えんだな。
蝶《ちょう》のように身軽に華麗に舞って襲撃者を斬り倒した愛香の剣の腕に、今さらながら驚嘆する清海だった。
相手が一歩、踏みだしたそのとき。
男目がけて何かが飛んできた。
「むっっ!?」
一本、二本、三本。
それは棒手裏剣《ぼうしゅりけん》だった。
男は手裏剣を刀で叩き落とす。
一本、二本、三本……すべて落とした。
飛んでくる棒手裏剣は、ひじょうに落としにくい。なぜなら、狙われた者からすると、自分に向かって飛んでくる棒手裏剣は「点」にしか見えないからだ。これが十字手裏剣や八方手裏剣であれば、まだ上下、あるいは左右に幅があるので応対はし易い。だから、棒手裏剣を三本まで叩き落とした男の腕は、並みではなかった。
だが、手裏剣を投げた者は、その上を行く腕前だった。
さらに四本目、五本目と続けざまに飛んでくる。しかも、飛んでくる方向が変わっていた。移動しながら正確に狙いをつけ、手裏剣を投げ続けているのだ。なんとかこれを落とした男が、清海に向かって呪詛《じゅそ》の言葉を吐《つ》いた。
「てめえ、隠してやがったなぁ」
さらに六本目、七本目、八本目。息吐《つ》く間《ま》もない連続攻撃に、さすがの男も応対しきれなくなった。
七本目が男の足を掠《かす》めた。八本目が男の左肩に刺さった。
「ちぃっっ」
男が刀を左手に持ち替え、刺さった手裏剣を右手で抜いた。
空から人影が降ってきた。襲撃者同様、練武場の屋根の上にいたのだろう。
その入物は膝丈のスカートを穿いていたが、しかし不思議なことに、勢いよく飛び降りてきたにも拘わらず、スカートは僅かに膨らんだだけで、捲《めく》れあがったりすることはなかった。
「毬藻かっっ!」
地面に降り立った鞠元毬藻は、ちらと清海に向かって頭を下げた。
「遅くなって申し訳、ございません」
清海は盛大に安堵の息を吐いた。同時に、今の降下シーンで、どうして彼女のスカートが捲れない!? おかしいじゃないか! などと邪《よこしま》なことを思ってしまう。
男と清海を績ぶ線の間に立った毬藻が腰の後ろの刀を抜いた。
「蝿《はえ》のように集《たか》る男子生徒の皆さんから抜けだす、のに思いの外《ほか》時間を食ってしまったので、ございます」
清海は噴きだしそうになった。
蝿のように。言い得て妙だが……可哀想な奴ら。
「愛香もすぐに参り、ます。ご安心、ください」
という毬藻の言葉を聞いたためか、男は脱兎《だっと》の如《ごと》く身を翻した。毬藻が本物の護衛であることを悟《さと》ったのだろう。そしてもう一人が駆けつけてくれば、手負《ておい》いの自分では対抗できないと考えたに違いない。
「徳川様よ、またそのうちな」
左肩を負傷しているにも拘わらず、男は逃げ足も並みではなかった。
「要らねえよ。二度と来るな」
逃げる男の背に向かって、清海が言葉を投げつけたが、その言葉が終わるか終わらないのうちに、男は練武場の向こうへと消えてしまった。
「おい、毬藻、追わなくていいのか」
「清海様の安全確保が最優先、でありますので」
「ああ、そうか。そりゃ、ありがとうよ」
清海がその場にへたり込んだ。
助かったと思うと、全身から力が抜けてしまったのだ。今ごろになって動悸《どうき》が激しくなり、全身の汗腺《かんせん》から脂汗《あぶらあせ》が噴きだしてきた。
ああ、やはり真剣を握っての斬り合いは違う。道場で竹刀《しない》や木刀《ぼくとう》を振るっているのとはまったく違う。間合《まあ》いがどうの、形がどうのなんてことを考えてる余裕はない。頭ではなく、体が勝手に反応しただけだ。よくもあの一撃目を受け切れたものだ。今ごろ、両足首から下を無くしていたかもしれない。最悪、命までも。
そう思うと、気が遠くなりそうだった。その場に倒れ伏してしまいそうだった。
くそっ。なんだって俺がこんな目に。
堂々と徳川を名乗っているのなら、まだ納得できる。リスクは大いなる特権と引き替えに支払う、いわば税金だ。だが、徳川を名乗れない身分なのに、徳川を名乗っている連中と同じような危険を背負わされるのは、どう考えても理不尽《りふじん》だ。
その理不尽さに対する怒りで、清海は倒れそうになる体と挫《くじ》けそうになる心をかろうじて支えた。
すぐに、男が消えた方角から愛香が姿を現した。
刀の柄に手を置いた愛香が、早足で清海と毬藻の下へ歩み寄ってきた。
「後を追ってみましたが、逃げられてしまいました」
そう言いつつ、へたり込んでいる清海の前で足を止めた愛香は、不意にその場に跪《ひざめず》いて、額《ひたい》を地面に擦《こす》りつけるように土下座した。
「お……おい?」
「申し訳ございません、清海様。わたくしがついておりながら、清海様を危険な目に遭わせてしまったこと、なんとお詫《わ》び申しあげればよいものやら。もしもわたくしを許せないとお思いであれば、この場で、裸踊りをご命じなさってくださってもよいのでございます。わたくしと毬藻は喜んで裸になり、よさこいソーラン節を踊ることでございましょう」
平伏したまま愛香がそう言うと、立ったままの毬藻が、わたしは嫌、と口の中で呟いた。
愛香と毬藻の裸でよさこいソーラン節には、大いに魅力を感じる清海だったが、しかし、ここでそんなことを命じては、白分の地位を利用した、ただの卑怯者《ひきょうもの》の誹《そしり》りは免《まぬが》れないだろう。
だから清海は、ぐっと我慢した。
「いや、まぁ、それはいいよ。こうして無事だったんだし」
愛香が少しだけ顔を上げ、上目遣いに清海を見た。
「よろしいのでございますか?」
そんなふうに確認されると、なんだかとっても惜しい気になるが……。
裸になった愛香と毬藻が、激しいビートでよさこいソーラン節を踊り狂っている、そんな妄想が清海の脳内で渦《うず》巻いた。
い、いかん。このままじゃ、命じてしまいそうだ。
「でやあ!」
清海は裂帛《れっぱく》の気合いと共に右手を動かし、自分の右拳で自分の顔を殴りつけた。
愛香が、びくうっと上体を引く。
「い……如何《いかが》なされましたか、清海様?」
「いや、なんでもねえ。なんでもねえんだ。ちょっと気合いを入れようと思ってな……」
という清海の言い訳を愛香は特に疑おうともせず、そうでございますか、と領いた。
「なんにせよ、かたじけのうございます。清海様が海よりも広いご厚情を示してくださったおかげで、この愛生愛香、裸でよさこいソーラン節を免れましたこと、末代《まつだい》までも語り継《つ》ぐでございましょう」
そんなことを語り継がれても俺が困る。
「もう、いいから。それより、ほら、さっさとこの場から逃げようぜ。そのうち、美乃里と桔梗が誰かを連れて戻ってくる。俺たち三人が一緒にいるところを見られちゃ拙《まず》いんだろう?」
「そうでございますね」
両膝を付いていた愛香が、発条《ばね》仕掛けの人形のように、ひょいっと立ちあがった。清海も地面に手をついて立ちあがろうとした……のだが、なぜか腕に力が入らず、へにゃっと頽《くずお》れてしまった。
「あれ? あれれ?」
お……おかしいな。さっきは動いたのに。
清海が身を起こそうと必死に藻掻《もが》いていると、愛香が手を差しだしてきた。
「清海様、さあ、どうぞ」
「あ……いや、その……」
「恥ずかしがる必要はございません。初めて真剣で斬り合った後でございますれば、極限までの緊張感から解放されて体が弛緩《しかん》してしまうことは、さほど珍しいことではございません」
「そう……か」
清海は不承不承《ふしょうぶしょう》、差しだされた愛香の手を握った。
「酷《ひど》い場合は、小便を漏らしてしまうくらいでございますから、清海様など、まだましなほうでございます」
「漏らした奴と比較されて慰《なぐさ》められてもな」
「わたくしなど、それはもう盛大にお漏らししてしまったのでございますから」
「え?」
思わず愛香の手を放した清海は、ごろんと仰向《あおむけ》けに地面に転がってしまった。
「マジ?」
愛香の目が、す…っと細められた。夜叉《やしゃ》のような形相《ぎょうそう》で、清海は思わず鳥肌が立った。
「冗談でございます。それとも清海様は、わたくしが失禁《しっきん》するような女だと、本気でそう思われたのでございますか?」
清海は頸骨《けいこつ》も折れよとばかりに、全力で首を左右に振った。
「まっまさかっ、そんなことがあるわけ、ないだろっ」
「ならばよろしいのでございますが」
「っていうか、おまえの話し方が冗談に聞こえないのが問題だと思うんだけどな」
「申し訳ございません。酒落や冗談の下手《へた》なのは、わたくしの九十九ある欠点の中の一つでございまして」
「いや、それ、もう聞いたから」
背後から毬藻が、ちょいちょいと愛香の背を突っついた。
「お楽しみのところ、ごめん。誰かこちらに近づいて、くる」
「べつに楽しんでいるわけではないのだけれど」
愛香がもう一度、清海に向かって手を差し伸べると、毬藻は清海の背後に回った。
「さ、清海様、急ぎましょう。この場にいると、厄介《やっかい》事に巻き込まれてしまいます」
ああ、と応えて清海が愛香の手を握ると、愛香が強く彼の手を引いた。同時に、毬藻が背後から両手を脇の下に差し入れ、清海の体を抱えあげるように押した。手からは愛香の温かさが、背中からは毬藻の柔らかさが伝わってくる。
「……すまないな」
「お気になさらずに」
と愛香が応えた。毬藻は何も言わずに清海の背中を押している。
二人の助力を得て、ようやく清海は立つことができた。
毬藻は体を放したが、愛香は清海の手を取ったままだ。
「清海様、走れますか?」
「ん……大丈夫そうだ」
「では、参りましょう」
毬藻を先頭に、三人は第一練武場の向こう側へと急いだ。といっても、清海は愛香に手を引かれてなんとか走っているという状態だったが。
背後で大勢の声が聞こえてきた。どうやら厄介事には巻き込まれなくて済みそうだ。
先頭を走っていた毬藻が振り返った。
「愛香、わたしはこれで」
「ああ、ご苦労さん」
「毬藻」
清海が声をかけると、彼女は足を止めず、顔だけを振り向けた。
「はい?」
「ありがとうな」
「どういたし、まして」
こくりと頷いた毬藻は、顔を戻すと、一気に走る速度を上げた。彼女の背中はすぐに見えなくなった。
そこはグラウンドから少し外れた場所で、疎林《そりん》になっていた。
「ここまで来れば大丈夫でしょう」
愛香が走る速度を緩めた。
「ふぅ」
清海が大きく息を吐《は》いた。ふだんならなんでもない距離と速度だが、なんだかとても疲れた気がする。
「あ」
まだ愛香の手を握ったままだったことに気づいた清海が、照れ笑いを浮かべた。
「すまん」
清海が愛香の手を放すと、愛香は、にっこりと微笑んだ。
「全然すまなくはございません。わたくしの手でよろしければ、いつでもどこでもお使いくださいませ」
それは、どういう意味だ? と清海が内心で首を捻る。あるいは、大した意味はないのか。それにしても、たまに見せる愛香の笑《え》みは、なかなかに魅力的だった。
清海が愛香の笑みに見入っていると、愛香は真面目な顔に戻った。
「清海様、詳しいことをわたくしにお話くださいませ」
「ああ……そうだな」
清海は男が屋根の上から降ってきて、毬藻の攻撃を受けて退散するまでを、愛香に話して聞かせた。
「なるほど、そういうことでございましたか。しかし、それは……」
腕組みした愛香は低く長く唸った。
「気になることは二つございます」
「二つ?」
「はい。一つは、朝の襲撃と関連性があるのか、ということでございます」
え? と清海が驚いた。当然、朝の襲撃を受けてのことだと思っていたからだ。つまり、朝、愛香や毬藻の存在を確かめた敵は、この学園に忍んできて標的を見張る。たまたま清海が一人になったのをこれ幸いに襲ってきた、とそういう流れだと思ったのだ。
自分の考えを清海が愛香に言うと、愛香は、それにしては、と首を捻り、清海の想像を肯定しなかった。
「じゃあ、愛香は、朝のあれと今のこれとは無関係だと思うのか? たまたま同じ日に起きたが、黒幕は別だと?」
「もちろん断定はできないのでございますが、どうも一貫性に欠けているというか、チグハグな印象を受けるのでございます」
「そう……なのか?」
「朝のあれは、清海様に護衛がついたかどうかを、そして護衛の腕がどれほどのものかを確かめる、そうした意図の下《もと》に行われたと推定されます。であれば、あれはあれで終わっているはずなのです。その後、わざわざ学園にまで別の暗殺者を送り込む必然性がございません。毬藻の棒手裏剣を七本までかわしたのございますから、先ほどの刺客《しかく》、朝の雑魚《ざこ》よりも遙《はる》かに格上でございましょう。そのような者をわざわざ学園《ここ》に送り込むくらいなら、朝の襲撃犯に加えておけばよいのではありませんか? あるいは、あのような雑魚たちではなく、もっと精鋭を集めて一気に片をつける。そう考える方が自然なように思うのでございます」
「うん、なるほど。たしかに、そうかもしれない。だけど、朝のあれで、愛香や毬藻のことを確認したから、ここまで刺客を送ってきたってことは考慮に入れなくていいのか?」
愛香が、ふふっと笑った。
「先ほどの刺客、朝の雑魚より腕が立つとは申せ、毬藻の手裏剣だけで退《しりぞ》いていきました。斬り合いになれば、毬藻に分があったのは明白。わたくしと毬藻の腕を確認した後に送り込むにしては、少し足りないのではございませんか?」
大した自信だ。それが少しも嫌みでないのは、愛香と毬藻がそう言い切れるだけの実力を伴っているからだ。
「そのとおりだな。俺が黒幕なら、そして愛香と毬藻の腕前を知っているのなら、あいつ一人で事が成就できるとは思わない。俺が一人になったのだって偶然なんだしな」
「そういうことなのでございます」
「……ってことは、つまり、別々の黒幕がいて、双方、無関係に俺を狙う刺客を送ってきやがったってことか」
う〜〜ん、と清海が唸った。
「参ったな」
「もてもてでございますね」
「そういう冗談を、さらっと言うな。こっちは命が係《かか》ってるんだぞ!」
たちまち愛香が萎《しお》れた。
「じょ……冗談が下手《へた》くそで、申し訳ございません」
「あ、いや……俺も強く言いすぎた。愛香が俺を護ってくれているのにな。すまない」
「いえ、悪いのはわたくしでございます」
「いや、俺が言いすぎたんだって」
「いえいえ、清海様は少しも悪くございません」
「だったら、愛香だって悪くはないんだから、気にするなよ」
愛香が不思議そうな顔で清海を見上げた。
「な、なんだ?」
「清海様は……」
と言いかけて、愛香は口をつぐんでしまった。
「おい、なんだよ?」
「いえ、なんでもございません」
小さく首を横に振った愛香は、それよりも、と言った。
「気になることその二、でございますが」
愛香の言いかけたことが気になった清海ではあるが、「愛香の言う気になること」も、とても気になるので、清海は愛香の話題転換に乗ることにした。
「あ、そうか。二つあるって言ってたな。で、その二つ目は?」
「なんというか、早すぎるのでございます。あるいは、執念《しゅうねん》を感じる、と言ってもよいのでございますが」
「早い? 執念? どういうことだ、それ? 意味が判らないそ」
「それはでございます」
愛香が、小さく咳払いをした。
「清海様は十七位にランクインなされました。たしかに刺客の一人や二人、送られてきてもおかしくはない順位でございます。ですが、ランクインされてからこれほど早く、しかも立て続けに、というのが少し違和感があるのでございます」
「襲われる危険が高いからこそ、警護寮はおまえみたいな護衛を寄越すんだろ?」
「そうなのでございますが、しかし、今回の二件、十七位の相手にするには、些《いささ》か大がかりなように思えるのでございます。なんと言いましょうか、個人的な動機、例《たと》えば『目の上のたんこぶを取り除いてしまえ』というような極めて個人的な動機の場合、刺客を雇って送り込んで、それで終わりです。腕利きの刺客を雇えぱ、成功する可能性もないことはございません。警護寮の護衛とて万能ではございまぜんから。ですが、成功しても失敗しても、事件は単発なのでございます」
そこで言葉を切った愛香は、今回のものは、と言葉を継いだ。彼女の表情が少し深刻そうになっているのが清海には不安に思えた。
「どちらもが単発とは思えないのが少しばかり奇異に感じるのでございます。清海様の順位が上がってから、ほとんど時をおかずに襲ってきております。どうしてそれほど早く襲撃計画の実行が可能になったのか。そして、どちらの襲撃にも、清海様を亡き者にしようという意志、執念、それに基づいた計画の周到さを感じるのでございます」
清海が嫌な顔になった。
「そんなふうに力説されると、まだ他《ほか》にも何かありそうで恐いんだが」
「いずれにせよ、事件のことは警護寮のほうへ報告しておきますゆえ、背後関係などは調べ方が探ってくれることでありましょう」
「まあ、そっちは任せるけどな」
「とはいえ、学園内にまで刺客が入り込んできたとなると、やはり、考えを改める必要があると思われます」
「考えを改めるって?」
「学園にいる間は心配ない、という前提をでございます。どうやら、学園にいる間も、襲撃があるかもしれないことを考慮に入れて行動をしたほうがよさそうなのでございます。そうなりますと、学園の警備自体が薄いのが、どうも気掛かりなのでございまして、これでは、いつ刺客が侵入してきてもおかしくはないのでございます。もちろん、学園外でも、つねに襲撃に備えなくてはならないのでございます」
清海は、は〜〜〜〜、っと盛大な溜め息を吐《つ》いた。
愛香や毬藻に二十四時間警護なんかされたら息が詰まりそうだ、などと思っていたが、どうやら甘かった。大甘《おおあま》だった。これからは、二十四時間、つねに命を狙われる危険と共に暮らさないといけないようだ。
「そうだな。充分に注意しよう」
「それがよろしゅうございます」
と大きく頷いてから愛香は、それはさておき、と言った。
「お昼がまだでございますが、清海様、空腹ではございませんか?」
「あ!」
清海は思わず腹に手を当てた。
「昼飯のことなんか、すっかり忘れてた。言われてみれば、たしかに腹は減っているが」
「どういたしましょう?」
「今さら購買部へ行ったところで、まともな物が残っているとも思えない。仕方がない、学食へ行くか」
愛香が微笑んだ。
「はい、わたくしは清海様が行かれるところなら、どこへでも」
清海が、うっと上体を引いた。
あ〜〜も〜〜、そんな顔でそんなこと言われたら、本当にこいつを連れてどこか遠いところに行きたくなるじゃねえか。
清海は頭を振って己の邪念を振り払った。
「じゃ、学食へ行くか」
まさか、この後《あと》、本当に愛香と共に遠いところへ行く羽目《はめ》になろうとは、このときの清海には夢想《むそう》だにできなかった。
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第三章 百聞《ひゃくぶん》は即ち一見《いっけん》に敵《かな》わぬものである
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清海《きよみ》と愛香《あいか》の二人が学食へ到着したとき、貴重な一時間の昼休みのうち、早くも半分が経過していた。先陣を切って学食に殺到《さっとう》した生徒たちの大半は、すでに昼食を終えて席を立っているから、学食は恐れていたほどには混《こ》んでいなかった。
なるべく目立たないようにと、二人は学食のいちばん隅の席を確保したが、それでも、その場に居合わせた生徒たちの注意を大いに引いてしまうのは仕方のないことか。
愛香に注がれる男子の視線は憧《あこが》れと賛美が入り混《ま》じった熱いものだが、すぐに彼らは敵意の籠《こも》った冷たい視線を、一緒にいる清海に浴びせかけてきた。さすがに学食で腰に刀を差している者はおらず、みな、脇の架台《かだい》に刀を置いているのだが、中にはそっと刀に手を伸ばす者さえいた。
一方、数少ない女子の視線は、なかなかに複雑だ。
いったい二人はどういう関係なのか、ということを推《お》し量《はk》ろうとするもの、ただの興味本位なもの、男子と同様、敵愾心《てきがいしん》に溢《あふ》れたものなど、複雑な様相《ようそう》を示している。
やれやれだな。
自分の刀を架台に置いて椅子に座った清海は、内心で大きな溜《た》め息を吐《つ》く。
これから毎日、こんなふうに過ごさなきゃいけないのか。しかも、どこで襲われるか判らないときやがるし。情けないやら腹が立つやら。なんで俺がこんな目に……。
清海が仏頂面《ぶっちょうづら》で己《おのれ》の境遇に対する呪詛《じゅそ》の言葉をぶつぶつと呟《つぶや》いていると、愛香がすっと立ちあがった。
「ん?」
顔を上げた清海に、愛香は手にした札を示して言った。すでに彼女も刀を外している。彼女の立場からすると、本音を言えば外したくはないだろう。だが、さすがに学食で腰に刀を差したままでは目立ちすぎる。
「番号を呼ばれましたので、受け取って参ります。清海様の札もお渡しくださいませ。一緒に持って参りますので」
「いや、いいよ。俺も行くから」
「そうでございますか?」
「おまえに二つも持たせちゃ悪い。自分の分くらい、自分で持つさ」
「はい、では」
二人は周りの生徒から注目を浴びながらも、素知らぬ顔でカウンターまで歩いていき、注文した品を受け取って、先ほどの席まで戻ってきた。
二人が頼んだ品は、清海が味噌《みそ》カツ定食、愛香は天ざる蕎麦《そば》だった。
ちなみに、味嗜カツなどという関東ではあまり馴染《なじ》みのない品がメニューに入っているのは、この学園の初代学園長が名護屋《なごや》の出身だったからという専《もっぱ》らの噂《うわさ》である。
「さっさと食べて、とっとと出ようぜ。どうも落ちつかない」
割り箸《はし》を割りながら、清海がそう言った。
「そうでございますね」
愛香も割り箸を手に取った。
二人が食事に箸《はし》をつけたそのとき、何やら学食の中がざわめき始めた。
なんだP と顔を上げた清海は、自分のいる席に向かって化野雪乃《あだしのゆきの》が歩いてくるのを認め、思わず仰《の》け反《ぞ》ってしまう。危《あや》うく口の中の豚《とん》カツを吐《は》きだしそうになった。
雪乃は左手に刀を提《さ》げ、背後に三人の女生徒を従えて、学食内の生徒たちの注目を一身に浴びながら、まっすぐ清海のいる卓へと近づいてきた。
雪乃の身長は百六十五センチほどだが、姿勢がよいので実際よりも背が高く見える。背に垂《た》らした長い栗色《くりいろ》の髪は軽くウエーブしていて、艶々《つやつや》とした輝きを旗っていた。着ているのはもちろん嶽宗館《がくしゅうかん》学園高校の制服なのだが、スカート丈《たけ》は従えている三人の女生徒よりも短く、スカートから延びている形のよい筋肉質の白い足が清海には眩《まぶ》しかった。
同じ物を着ているのに彼女だけが目立つのは、内面から滲《にじ》みでる気品というか自信というか誇りというか、そういうモノのせいだろうか、と清海は考える。そして、そんなモノは自分にはないな、と思う。
徳川の血筋だというのに。
高貴な血を引いた者が誰でも高貴な人間になれるかというと、そんなことはない。それを思うと、憂鬱《ゆううつ》な気分になる清海だった。
たしかに、人としての器《うつわ》、格といったものを左右するのは血だけではない。その育ちも大いに影響している。母方の家に預けられ、徳川姓を名乗れなかった清海にとって、育ちがマイナスにばかり働いているわけではないのだが、この時点では、彼にそこまでのことは自覚できていない。
いったん大きくなった学食内のざわめきは、今や完全に鎮《しず》まり、みな、息を呑《の》んで次に起きる出来事《できごと》を待ち構えている。
清海のいる席の手前で足を止めた雪乃が、
「こんにちわ、土岐川《ときがわ》君」
と挨拶《あいさつ》を寄越した。
「あ……ああ、どうも」
清海がぎこちなく会釈《えしゃく》すると、いきなり愛香が立ちあがり、雪乃に正対した。
「化野雪乃様ですね。お初にお目にかかります。わたくし、愛生愛香、と申す者にございます。本日、この学園に転校してまいりました。以後、よろしくお見知りおきくださいますよう、お願い申しあげます」
丁寧《ていねい》に腰を折り、丁寧に頭を下げた愛香が挨拶の口上《こうじょう》を述べると、雪乃は軽く微笑《ほほえ》んだ。
「初めまして、愛生さん。化野雪乃です。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
こういう状況になると、二人の女性の視線が絡《から》まり、空中で火花が飛んだりすることもあるのだが、この場合は、まったくそんなことはなかった。愛香が雪乃をライバル視する必要はないのだから当然といえば当然だが、雪乃のほうも、見知らぬ女生徒が清海と同席しているにも拘《かか》わらず少しも慌《あわ》てたり騒《さわ》いだりしないのはさすがだった。
「あ、立ち話もなんですから」
雪乃が顔を巡らせ、清海を見た。
「ご一緒させていただいてもよいかしら、土岐川君?」
「え? いや……俺は別にかまわないけど」
「では、失礼いたしますね」
左手に提げた刀を架台に置くと、雪乃は自ら椅子を引いて、微笑みを浮かべたまま腰を下ろした。愛香も椅子に座り直す。
「雪乃様、紅茶をどうぞ」
三人の取り巻きの一人が、手に持っていたティーポットとティーカップの載《の》った盆《ぼん》を食卓に下ろした。
「ありがとう」
卓を挟んで清海の正面に愛香と雪乃が並んで座っている。愛香は澄ました顔で。雪乃は微笑んだまま。
周りにいた生徒たちは、じっと息を殺し、身じろぎもせずに三人を注視していた。
「みなさん、わたくしは土岐川君と歓談してまいりますので」
と雪乃が、控えていた三人の取り巻きに言った。つまり、話の邪魔だから下がりなさい、ということだ。三人は無言で頭を下げ、引き返していった。
思わぬ展開にどう対応していいか判らぬまま、清海が困った顔で雪乃を見ていると、雪乃が食卓の上の二人の食事に目をやった。
「あ、どうぞ、わたしにおかまいなくお食べください。冷めてしまいますわ」
「そ……そうだな。じゃ、失礼して」
清海が食事を再開すると、愛香も黙って箸を動かし始めた。
雪乃は二人の食事になどまったく興味を示さない態度で、静かに紅茶を飲んでいる。
周囲に奇妙な緊張感が盛りあがっていき、周りの生徒たちは息をするのも忘れたまま三人を見守っていた。
なんだか生きた心地《ここち》がしなくて、清海は食事の味がまったくしなかった。まな板の上に載せられた鯉《こい》は、こういう心境なんだろうか、などと考える。
砂を噛《か》むような味気《あじけ》ない食事を終えた清海が、お茶の入った湯飲みに手を伸ばした。
少し遅れて愛香も食事を終えた。女子にしては、けっこう食べるのが早い。
清海が湯飲みを食卓に戻すのと同時に、雪乃が声をかけてきた。
「土岐川君」
清海が、ぎくりと小さく頭を引いた。
「な、なに?」
「お変わりはありませんか?」
「いや……別にないけどな」
「それはようございました」
「雪乃のほうは、どうなんだ?」
「はい、わたくしも変わりなくやっております」
「そうか。そりゃ、よかったな」
「………」
「………」
か、会話が続かね〜〜。
脇《わき》の下に冷や汗を流しながら、いったいどうしたものかと清海は悩《なや》んだ。
元々、清海は弁舌爽《べんぜつさわ》やかという質《たち》ではない。無口ではないが、会話をすること自体が面倒くさくて好きではないのだ。女子との会話が楽しいと思ったこともない。このように女子と面と向かったときに何を話せばいいのか判らない。
とはいえ、雪乃は自分に交際を申し込んできた相手なのだから、無視して黙《だんま》りを決め込むというわけにもいかない。何か気の利いた話題を、と考えた清海は、そのとき愛香の立場を紹介し忘れていたことを思いだした。
そうだよ、愛香が土岐川家の縁戚《えんせき》であることは、俺が言わないとマズイだろ。
これが何か話のきっかけにでもなればいいんだが、と思いつつ、清海はぎくしゃくと右手を挙げた。
「えっと、こっちの愛生愛香なんだけど」
清海が愛香を指し示す。
「愛生家は土岐川家の縁戚なんだ。今度、愛香がここに転校してくることになったんで、親父《おやじ》から、しばらく学校で彼女の面倒見てやるように言われてな」
雪乃が、ちらっと隣の愛香に視線を走らせた。愛香が無言で頭を下げる。
「はい、お聞きいたしましたわ」
「そうか。まあ、そんなわけで、俺は愛香を案内して歩いているわけなんだ」
ははは、と清海がぎこちなく笑う。
「じつは」
と雪乃が唐突に切りだした。
「土岐川君が、転校生といっしょにお昼を召されるという話を聞きまして、それで気になって様子を見に釆たのです」
「え!?」
「土岐川君が連れている転校生の女子は、いったい、どのような方なのだろうかと」
清海が目を白黒させる。
雪乃に面と向かって「気になる」と言われるとは夢にも思わなかったが、抑《そもそも》、雪乃は清海に「おつき合いください」と申しでているのだから、彼が一緒にいる女子のことを雪乃が気にするのは、ある意味、当然といえば当然ではある。
「いやでも、縁戚の娘《こ》を案内してるだけだし、雪乃が気にするほどのことでは……」
「そうでございますよ、雪乃様。わたくしのことなど気にかけずに、清海様と存分に乳繰《ちちく》り合ってくださってけっこうなのでございます」
「ち……乳繰り合うって、貴女《あなた》」
今度は雪乃が目を白黒させている。
「わたくしは右も左も判りませぬゆえ、何かと清海様のお世話になってしまうと思いますが、雪乃様と清海様のお邪魔をするつもりはこれっぽっちもございませんので」
「いえ、そうではなく」
雪乃が苦笑している。
「えっと……愛生さん」
「愛香、でけっこうでございます」
「では、愛香さん」
「はい、なんでございましょうか」
「わたくしと土岐川君は、おつき合いをしているというわけではありません。今のところ、わたくしの一方的な懸想《けそう》ですから、貴女《あなた》こそ、わたくしのことをそこまで気にする必要はないのですよ」
と雪乃が言うと、愛香は、ああ、そんな、と嘆息《たんそく》して天を仰いだ。
清海と雪乃が不思議そうな顔で愛香を見る。
「雪乃様のように美しく気高く気品《きひん》があって剣の腕も立つ女性から交際を申し込まれながら、それを断るだなんて、清海様はいったい何をお考えなのでしょう」
雪乃は、まぁ、と言って顔を綻《ほころ》ばせた。
「貴女とは、お友だちになれそうな気がします」
愛香と雪乃が顔を見合わせて領《うなず》き合っていると、堪《たま》らず清海が口を挟んだ。
「いやいやいや。俺は別に断ったわけじゃないそ」
「では」
雪乃がゆっくりと顔を清海に向けた。
「まだ、わたくしには希望があると思ってよいのでしょうか?」
「いや……うん……まぁ……そうなる……かな」
とことん歯切れの悪い清海である。
「土岐川君の今の言葉を聞けて、わざわざここに来たかいがありました」
雪乃は満足そうに言うと、残った紅茶を優雅に飲み干した。
「では、わたくしはこれで失礼いたします」
優雅な所作《しょさ》で立ちあがった雪乃は、自分の刀を手に取り、それはそれとして、と愛香に顔を向けた。
「わたくしの剣の腕……というのは、どなたからお聞きに?」
愛香は涼しい顔で嘘を吐いた。
「清海様からお聞きいたしました。清海様と互角の腕前をお持ちだとか。まさに歩く才色兼備《さいしょくけんび》であらせられますね」
-それほどの者ではありませんよ。でも」
雪乃は愛香の全身に視線を這《は》わせて言った。
「貴女も、かなりお出来になるようにお見受けしましたが」
「はい」
愛香は謙遜《けんそん》するでもなく自慢するでもなく、ごく自然に肯定した。
「わたくしも清海様と互角かそれ以上の剣の腕を持っているのでございます」
さすがの雪乃も、この愛香の応えにはかちんと来た。
自分で「清海と互角かそれ以上」などと言うのだから、よほどの自信があるのだろう。
前にも触れたが、清海は学年でも一、二を争う剣の腕なのだ。その清海に優るとも劣らない腕を雪乃は持っている。家柄をひけらかすことのない雪乃であるが、己《おのれ》の剣の腕は大いに自負《じふ》していた。
愛香に「清海以上」と言われたら、それはつまり、自分以上と言われたことに等しい。いきなり転校生にそんなことを言われて笑っていられるほど、雪乃は大人《おとな》しくはなかった。
見た目は優雅で温厚そうな雪乃だが、これでもかなり負けず嫌いなのだ。ちょっとこの娘《こ》の腕を試《ため》してやろう、と雪乃が思ったのも自然な流れだったかもしれない。
「それは素疇らしいですね」
雪乃はそこでいったん言葉を切って、強い意志の籠った視線を愛香に投げつけた。
「ぜひ一度、お手合わせいただけませんかしら」
清海が、びくっと小さく仰《の》け反ったが、顔を上げた愛香は、雪乃の強烈な視線を真《ま》っ向《こう》から受け流し、あっさりと申し出を受け容れた。
「それは、よろしゅうございますが」
「何か間題がありますか?」
「聞題はございません。ですが希望はございます」
「なんでしょう?」
「得物《えもの》は竹刀《しない》や木刀《ぼくとう》ではなく、模造刀でお願いしたいのでございます」
「……ええ、いいわ」
「もう一つ、仕合《しあい》は非公開でお願いいたします」
「非公開?」
「はい。わたくしの流派は少し特殊なものなのでありまして、あまり他人様《ひとさま》にお見せしたくはないのでございます」
雪乃は一瞬だけ考えたが、すぐに頷いた。
「ええ、判りました。その条件も受けましょう」
「ありがとうございます」
雪乃の顔に興味深そうな色が浮かんだ。
「特殊な流派というのは、なんなのかしら」
「天心無明流《てんしんむみょうりゅう》でございます」
雪乃が小さく息を呑んだ。すぐに彼女は清海に顔を向ける。
「ああ、そうらしい。俺もよくは知らなかったんだけど」
雪乃は不敵に笑って言った。
「それは、ますます仕合が楽しみになってきました。では、放課後、第三練武場を貸切にしてお待ちしておりますわ」
愛香が大きく頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「では、土岐川君、失礼します」
清海に向かって丁寧に頭を下げた雪乃は、その場で踵《きびす》を返し、取り巻きの三人が待つ学食の出口に向かって歩いていった。
緊張感から解放された清海が、大きく息を吐《は》いた。
二人の周囲でも、幾《いく》つもの安堵《あんど》の息が漏《も》れていた。
「どうかされましたか?」
と愛香が不思議そうな顔で清海を見た。
「いや、どうかっつ〜か」
清海は頭を軽く振って応えた。
「どうなることかと冷や冷やしていたんだが、何事もなくてよかったと思ってさ」
「仕合をすることになりましたが」
「うん、まぁ、それはそれで少し気がかりなんだけどな」
「気になさることはございません。これは、なんと言いましょうか、わたくしのほうから誘った結果でございますので」
「なに?」
「雪乃様の剣の腕を確かめてみたくなりました。それも、実戦的な剣の腕を」
「ああ……だから木刀じゃなくて模造刀なのか」
「いえ、それは、わたくしの個人的な都合でございまして」
「個人的な都合って、どんな?」
「わたくしの流派は、ふだんの鍛錬《たんれん》のときでも、木刀や竹刀を使わず、模造刀や真剣を使っているのでございます。ですので、木刀や竹刀は扱いに慣れておりません」
「ふうん、そうなんだ。しかし、模造刀で打ち合うのは危なくないか?」
「危のうございますよ。わたくしも何度か骨折したことがございます」
などと、愛香は恐ろしいことをさらっと言った。
うぉっ、さすがに天心無明流だな。
清海は大いに感心した。
「真剣を振るときなど、小さな切り傷の絶《た》えることはございません。おかげでわたくしの体は、あちこち切り傷の痕《あと》だらけでありまして、とても他人様《ひとさま》の前で裸になることのできない体なのでございます」
「い……いや、なんちゅうか、傷だらけじゃなくても、女の子が他人様の前で裸になっちゃ、マズイんじゃないか?」
愛香が、くすっと笑った。
「そうでございますね。ですが、わたくしの夫となる御方《おかた》は、わたくしの体を縦横《じゅうおう》に走っている無数の醜《みにくい》い刀傷の痕を見ることになりしょう」
「おいおい、何どこかの殿下《でんか》みたいなこと言ってんの!? というか、刀傷の痕なんて、愛香が立派な武士《ぶし》である証拠だろ。醜いことなんか、あるかよ」
愛香が、鷲いた顔になって清海を見た。
「清海様は……」
「え? なに?」
「いえ……そうでございますね、清海様であれば、わたくしは醜い刀傷の痕でも喜んでお見せしてもいいかと思うのでございます」
「は?」
「ご覧になりますか?」
「はあああ!?」
清海は思わず腰を浮かせかけていた。
「ちょっ、おまっ、なに言ってっ……」
「さて、冗談《じょうだん》はこのくらいにしておきませんか、清海様」
ぱたっ、と清海が食卓の上に突《つ》っ伏《ふ》した。
「冗談ね。いやいや、もちろん冗談に決まってるよな。判ってるさ、もちろん」
むくりと上体を起こした清海は、恨《うら》めしそうな顔で愛香を見た。
「おまえ、意外と酒落《しゃれ》や冗談《じょうだん》、上手いじゃないの」
「ありがとうございます。わたくし、冗談を褒《ほ》められたのは生まれて初めてなので、ちょっと嬉しくなってしまいました」
「そうか。そりゃよかったな……って、そうじゃなくて!」
清海が食卓を手で強く叩《たた》き、食卓が大きく跳《は》ねた。
「どこで話がずれていったんだ?」
と首を捻りながら、清海が途切《とぎ》れた会話を思いだそうとする。
「……ああ、そうか。おまえのほうから雪乃を仕合に誘ったって話だ」
清海が、じろりと愛香を睨めつける。
「なんで、そんなことをした?」
「特に深い意味はございません。あの御方の腕前を確認しておくことは、この先、何かの役に立つかもしれない、と思っただけでございます」
「役に立つ……って、どんな?」
「いえ、それは判りませんが」
「なんだよ、適当だな」
「申し訳ございません。ですが、遺恨《いこん》を残すような真似《まね》はいたしませんので、ご心配なさりませぬよう」
「ま、その辺は信頼してるけど……。俺と雪乃は、ほぼ互角だからな。俺より愛香が強いわけだから、雪乃よりも強いことになる。雪乃に怪我《けが》だけはさせるなよ」
「承知しております」
「なら、いいんだ」
椅子の背に自分の背中を預けた清海が、視線を天井に向けた。
「俺は最初、おまえと雪乃がここで騒動を起こすんじゃないかと心配したんだよ」
愛香が真面目な顔で首を横に振った。
「あの御方《おかた》は、それほど子供ではございませんよ」
「うん、まぁ……そうなんだろうな。とりあえず、俺とおまえの関係も納得したみたいだし、一安心《ひとあんしん》だ」
「さて、それはどうでございましよう」
「え?」
清海が不思議そうな顔を愛香に向けた。
「雪乃様、わたくしと清海様が縁戚であるという説明を、頭から信じられたかどうか」
「疑ってるってのか?」
「疑っているかどうかは判りませんが、なんとなく不自然な匂《におい》いを感じていらっしゃるかもしれません。頭の良い御方のようでございますから」
たしかに雪乃の成績はいい。教科を間わず、試験の成績はつねに上位だし、剣や体術、水練術の成績も抜群《ばつぐん》だ。好きな教科は熱心に勉強するが、そうでない教科にはさっぱりやる気を見せない清海とは大違いである。
「まあ、あいつは優等生だからな」
「優等生というより、勘《かん》の鋭《するど》い御方だと思うのでございます」
「勘?」
「ええ。女の勘といいますか」
「……俺には判らない世界だ」
愛香が、くすりと笑った。
「そうでございますね」
こいつ、笑うと印象が変わるんだよな。
たおやかな愛香の笑顔を見ながら、清海はふと毬藻《まりも》のことを思いだす.
あいつも笑うと印象が変わるんだろうか。というか、そもそも毬藻の奴が笑うことなんて、あるのか?
ぜひ一度、毬藻を笑わせてみたいと思った清海は、思わず右手で握り拳《こぶし》を作り、ぐっと力を込めていた。
よし、あいつを笑わせることができたら俺の勝ちだぜ。
なんの意味もない勝負ではある。
「さて、清海様、そろそろ教室に戻りませんか? お昼休みも、もうじき終わりです」
「もう、そんな時間か?」
清海は顔を上げ、学食の壁掛け時計を見やった。
「そうか。いや、出遅れたから、当然と言えば当然だな」
清海は立ちあがり、空《から》になった器を載せた盆を持ちあげる。
「わたくしがお持ちいたしましょうか?」
と愛香に訊《き》かれ、清海は首を横に振る。
「いいよ。このくらい自分で持つ」
盆を持ちあげた清海が歩きだすと、まだ学食に残っていた数少ない学生たちが興味深そうな目を向けてきたが、彼は一顧《いっこ》だにせずに返却口を目指して歩いた。
愛香も立ちあがり、自分の盆を持って清海の後を追いかけていった。
歩きながら愛香は考えていた。先ほどの襲撃犯のことを。雪乃との仕合の件は、すでに彼女の頭の片隅に追いやられている。
朝の事件では何も心配していなかった愛香だが、昼の事件を受けて少し考えを変えていた。清海にも説明したとおり、どこか怪しい印象を受ける。不審の念を拭えない。
将軍職|継承《けいしょう》レースのライバルの中《うち》の誰かが刺客《しかく》を送り込んできた、というような単純な事件ではないのかもしれない。ひょっとして、事件の裏には、自分たちも知らない事情があるのではないか。警護のプロとしての彼女の勘が、そう囁《ささや》いている。
それに、この学園にまで刺客を送り込んできた者がいる。どこの何者かは、現状、見当もつかないが、そこまでするということは、犯人の本気度を示している。やはり学園の警備状況は気掛かりだった。
いずれにせよ、化野嬢との仕合の前に、先ほどの襲撃の件、学園総長殿にもご報告しておいたほうがよさそうですね。
愛香から、放課後に雪乃と仕合をすることになった、と聞かされた毬藻は、六時限目の授業に出ずに、練武場とその周辺を下調べに出かけた。
戻ってきた毬藻は、学園総長室で二人と合流し、練武場内及びその周辺に異常なし、と愛香に報告した。
「ただ」
「ただ?」
と愛香が促《うなが》した。
「練武場の周《まわ》りに何人か生徒がいた、のですが……」
「そりゃ、学園内に生徒はいるだろ?」
清海がそう口を挟むと、毬藻は、こくりと領いた。
「そこにいた生徒に、何か不審な点でも?」
と愛香が重ねて訊くと、毬藻はかくっと顔を左に向け、次にかくっと右に向けた。横断歩道を渡る前の小学生のような仕草《しぐさ》だが、どうやら否定の意を表す首を振る動作だったらしい。
「いえそういうわけでは、ありません」
「ならば、気にすることもないでしょう」
「すまないな、毬藻、授業をさぼらせることになっちまって」
清海が謝ると、毬藻は眉《まゆ》一つ動かさず、問題ありま、せん、と言った。
「それがわたしの仕事、ですので。学園の授業などどうでも、いいのであります」
「おいおい、儂《わし》の前でそういう本音《ほんね》を言わんでもらいたいもんじゃな」
有恒《ありつね》に睨まれ、毬藻は無表情のまま首を棘《すく》めた。
「まぁ、学園内にまで刺客が入り込んできたとなると、これは念には念を入れぬわけにもいかんからな。だが」
有恒は深刻そうな顔を隠そうともしない。
「まさか、そこまで事態が差し迫っているとは思わなかったの。愛香が言うように、学園の警備態勢を少し強化しないとならんか。とはいえ、警邏《けいら》や衛士《えいし》を入れて、あからさまに警備を強化すると、生徒や教士《きょうし》に怪しまれるだろうからのお。なかなか悩ましいところではあるの」
「いずれにせよ、今すぐには無理な話ですし、その辺に関しては、総長様にお考えいただくということで」
と愛香が言うと、有恒は、そうじゃな、と応えた。
「何かいい方法がないか、考えてみるか」
「では、わたくしどもはこれにて失礼いたします」
低頭した愛香が顔を上げると、椅子に深々と腰掛けていた有恒が上体を乗りだしてきた。
「愛香よ、仕合はいいが、くれぐれも化野雪乃に怪我をさせぬようにな。それと、あまりこっぴどくやっつけるのも無しじゃぞ?」
「判っております、総長様」
「うん、ならばええのだがな」
三人は改めて有恒に礼をすると、総長室を退去した。
総長室を出たところで毬藻と別れた清海と愛香は、その足で第三練武場へと向かった。
清海、愛香、毬藻の三人が総長室から退出すると、奥にある応接室に通じる重厚な扉《とびら》が静かに開いた。
応接室から姿を現したのは、仕立てのよい背広に身を包んだ、痩せて背が高く、目つきの鋭い若い男だった。左腰に刀を差しているから、彼もまた武士ということになる。
「なるほど、あれが徳川清海と、その護衛の任に就《つ》く警護寮の者ですか。なかなか面白そうな男ですね。それにしても」
男は薄く笑った。その笑顔は、どこか酷薄《こくはく》そうな印象を見る者に与える。
「護衛方《ごえいがた》も、ずいぶんと腕利きを送り込んできたものです。まぁ、腕利きを送るようにと嗾《けしか》けたのはこちらですが、それにしても、あの三十人斬りの愛生愛香とはね」
現れた男に視線を向けた学園総長は、しかし、すぐに視線を外し、椅子の背もたれに自分の背を預けた。
「三十人斬り……ああ、あの半蔵門外《はんぞうもんがい》の事件か」
「そうですよ。一般には知られていませんが、さる御方が襲われたとき、愛生愛香ともう一人の護衛役が、たった二人で三十人もの襲撃者を屠《ほふ》ってしまったという事件。二人で、というものの、八割方は愛生が斬ったようで、あれで愛生愛香の名は裏の世界に鳴り響きましたからね。もっとも彼女は『襲撃者の二、三人は生かしておくべきだった。これでは背後関係を探れないではないか』ということで、上層部から叱責《しっせき》されたそうですが」
若い男は、小さく鼻を鳴らした。
「まぁ、護衛方は、護《まも》るべき者の生命《せいめい》の安全が第一ですから、仕方がない面もありますがね。それに彼女は……」
男は胸のポケットから煙草《たばこ》の箱を取りだし、中から一本を抜いて、ライターで火を点《つ》ける。
火の点《つ》いた煙草を銜《くわ》えた男は、大きく息を吸い込むと、ゆっくりと紫煙《しえん》を吐《は》きだした。
「愛生愛香は少し壊れている」
「壊れているじやと?」
有恒が、怪訝《けげん》そうな顔を男に向けた。
「ええ、そう。壊れているのですよ。いや、わたしも詳しいことは知りません。あくまで受け売りなんですがね。彼女は少し壊れているのだそうです。恐怖心とか憐憫《れんぴ》とか、そういう情緒《じょうちょ》面が欠けている。だから、敵を恐れず、そして敵に対して手加減《てかげん》ができない。そこが、彼女が護衛としてとびきり優秀な所以《ゆえん》なのだと、専《もっぱ》らそういう噂ですよ」
「それは……興味深い話だが……」
若い男は総長の言葉にかまわず、続けて心中密《しんちゅうひそ》かに呟いた。
それに、もう一人が外忍《げにん》集団、飯縄《いずな》一族の鞠元毬環ときた。まさか警護寮の連中、あの秘密を……いや、そんなことがあるはずがない……。
幕府お抱えの忍者《にんじゃ》集団である伊賀《いが》や甲賀《こうが》を内忍《うちにん》と呼ぶのに対し、幕府の管理が及ばないところで独自に活動してきた忍者集団を外忍と呼ぶ。飯縄一族のような独立系だけでなく、かつて薩摩《さつま》や長州《ちょうしゅう》などの雄藩《ゆうはん》が抱えていた忍者集団の流れを汲《く》む者たちも外忍の範疇《はんちゅう》に括《くく》られているのだが、飯縄忍群はその中でも特に戦闘力の高い集団として有名だった。
もっとも、現代は「忍者」というだけでは食べていけない時代なので、毬藻のように、武士として幕府に召し抱えられる者もいるのだが。
天井《てんじょう》を睨《にら》むようにして何かを考え込んでいた男は、総長の言葉で現実に引き戻された。
「しかし、おぬし、本当にあれをやる気なのか?」
総長に顔を向けた男は、煙草を街えたまま小さく肩をすくめる。
「むろん、やりますよ。それが、わたしの仕事ですからね」
「そうは言うがのぉ」
総長は渋い顔になる。
「万が一、不測の事態が起きたら……」
「まぁ、その辺はこちらで後腐《あとくされ》れの無いようにしますから」
有恒は、まだ納得がいかないといったふうに、低く唸《うな》りながら首を捻った。
「と言われても、はい、そうですか、とは頷《うなず》けんなぁ」
「こちらとしてもね、命懸けの覚悟なんですよ。それはあなたもご承知のはず」
むむむ、と唸った有恒は、大きな溜め息を吐《つ》いた。
「清海たちを騙《だま》すようなことになるのが、どうものぉ」
「罪悪感に苛《さいな》まれると?」
「そこまでは言わんが……晴れやかな気分にならんことは確かじゃの。まぁ仕方がない、というのも判るが。とはいえ、くれぐれも上手くやってくれよ? 騒動が大きくなってしまうと、儂だけでは抑えられなくなるぞ」
「お任せください」
若い男は総長の机まで歩み寄ると、机の上の花瓶《かびん》に挿《さ》してある花を一本、手折《たお》った。
右手で挟《はさ》んだ煙草を口から離した男は、手折った花の薫《かお》りを嗅《か》ぐように、左手で自分の顔の前に花をかざした。
「わたしとしても、あたら若く美しい花を散らすのは本意《ほんい》でありませんからね」
花を胸ポケットに挿した男は、机上《きじょう》の灰皿《はいざら》に煙草を押しつけて火を消すと、
「では、失礼」
と言い残し、ゆったりとした足取りで総長室から出ていった。
有恒は身じろぎもせずに、男が出ていった扉を見つめるのだった。
第三練武場の入り口には、雪乃の取り巻きの二人が立って、無関係の者が入り込まないように見張っていた。
その二人に挨拶をして、清海と愛香は練武場の中へと入っていく。
木造の第三練武場は、コンクリート造りの第一や第二に比べれぱ小規模で、天井もそれほど高くはないし、観客席も存在しない。
入ってすぐの左右に靴置き場がある。清海と愛香は、ここで靴を脱いで床に上がった。
靴とは言うが、足の指は出ているし、足首や足の甲は紐帯《ちゅうたい》で締める形式だし、靴底は薄くて全体が柔らかいし、どちらかというとサンダルに近い作りで、足袋(もしくは五本指靴下、あるいは裸足《はだし》)をして、それを履《は》いている。学生の中には革靴を履いている者もいるが、愛香のような護衛のプロは、冬ならともかく、今の季節に革靴を履いたりしない。清海も、革靴は窮屈《きゅうくつ》で鬱陶《うっとう》しいので、いつもこちらを愛用している。
目の前にある観音開《かんのんびら》きの扉を潜《くぐ》れば、そこが練武場だ。更衣室は練武場の左右に一つずつあって、入って右手が男子用、左手が女子用である。
ここは床が板敷きだった。二人は、つるつるに磨《みが》かれた未床の上を静かに歩き、練武場の奥へと向かう。
そのとき、左手の女子更衣室から雪乃が現れた。
制服を脱ぎ、萌葱色《もえぎいろ》の道着《どうぎ》にもう少し色の濃い草色《くさいろ》の袴《はかま》に着替えた雪乃は、鉢巻《はちまき》きを締め襷《たすき》を掛け、凛々《りり》しくも勇《い》ましい出で立ちである。左腰に模造刀を差し、右手で面を持っていた。左手はごく自然に鞘《さや》を掴《つか》み、親指を鍔《つば》に載せている。あくまで自然体で、大一番を前にしても気負いや力みは、少なくとも彼女の体からは感じられなかった。
「お待ちしていましたわ」
と雪乃が二人に声をかけてきた。
「なんか、闘る気満々だな、おい?」
雪乃の顔を見た清海が、少し揶揄《やゆ》するようにそう言うと、雪乃は、もちろんです、と胸を張って応えた。
「天心無明流の使い手と仕合ができるなど、なかなか経験できることではありません」
態度や物腰はいつもと変わらなくても、その言葉を聞く限り、その表情を見る限り、彼女なりに気合いが入っているのは間違いないようだ。
視線を清海から愛香に移した雪乃は、
「さあ、愛香さんも早くお着替えを」
と促した。
「わたくし、本日転校してきたばかりなのでありまして、道着や袴など、持っていないのでございます」
雪乃が左手を口に当て、あら! と驚いた。
「それは気がつきませんでした。誰かの物を借りますか? であれぱ、外にいる者に言って用意させますが」
「いえ、他人様《ひとさま》の物を借りるより、このままでいかせていただいたほうが動き易《やす》いと思うのでございます」
雪乃が、愛香の頭の天辺《てっぺん》から爪先《つまさき》までを、観察するように睨《ね》めつけた。
セーラー服にスカートという愛香の恰好《かっこう》は、あまり剣術には適していないように思えるが、しかし、雪乃が穿いている袴も、足の部分が二つに分かれていない形状で――女袴《おんなばかま》と呼ばれることもある――実質的にはスカートのような物なのだ。機能的に、それほど大きな差異はないとも言える。むろん、セーラー服よりは道着のほうが剣を振るのには適しているが……。
「本当に、それでいいのですか?」
と雪乃が念押しすると、愛香はあっさりと頷いた。
「はい、これでけっこうなのでございます」
「まあ、貴女《あなた》がそう仰《おっしゃる》るのなら無理にとは申しませんが。で、刀は如何《いかが》なされますか?」
「練武場に置いてある予備の模造刀でけっこうでございます。自分で選んできてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。更衣室の奥が道具置き場になっていますから、そこで使い易そうな物を探してくださいな」
「では、しばし、失礼をば」
雪乃に向かって丁寧に腰を折った愛香は、頭を上げた後、くるりと方向転換をして更衣室まで歩き、扉を開けて中に消えた。
がらんとした練武場に雪乃と二人だけで取り残され、清海は戸惑《とまど》った。
何か話をしないと。
黙って突っ立っているのはどうにも不自然な気がする。かといって、交際を申し込まれて断った――正確には「否《いな》」とも「諾《だく》」とも応《こた》えていない、というところだが――相手と、いったい何を話せばいいのか、やはり清海には判らない。
「あ〜〜、え〜と……」
ぎこちない態度で清海が話しかけようとすると、雪乃が微笑んだ。
「面白い御方ですね」
「え?」
「愛生愛香さんです」
「あ……あ〜〜、そうだな。面白いと言えば面白いかな」
「面白いといいますか、興味深いといいますか。少しくわたくしたちとは違った雰囲気をお持ちです」
「違った雰囲気?」
「そうです。剣の腕が並外れているのはなんとなく判りますが、それ以外にも、年に不相応《ふそうおう》なほどの落ちつき具合など、とても学生には見えませんし。それにあの話し方と態度……いつも目上の方と接しているような印象を受けました」
鋭いな。
清海は、雪乃の観察眼に少なからず驚いていた。
警護寮護衛方として常に生死を賭《か》けた闘いの場に身を置いているのだから、愛香が同年代の学生より落ちついた雰囲気なのは当然だ。また、警護の対象者は白分よりも年上で地位が上のことも多いだろうから、謙《へりくだ》った態度と物言いになるのも、これまた当然だ。
たった一度、会って少し話をしただけで、愛香の背景にあるものを感じ取ってしまうとはな。頭がいいだけではなく、人物の観察眼も大したものだ。
清海はそう思った。しかし、そうだとすると、雪乃がいったい何故《なぜ》、自分に交際を申し込んだのかが気になる。とても気になる。
自分のどこが、このお嬢様のお眼鏡《めがね》に適《かな》ったのだろう。
清海は意を決して訊いてみることにした。
「あのさ、雪乃」
「はい?」
「あんた、俺のどこが気に入ったわけ?」
雪乃は、一瞬、呆気に取られた顔を見せたが、すぐに、くすくすと笑いだした。
「え? 俺、何かおかしなこと言ったか?」
「ああ、いえ、失礼しました」
笑いを収めた雪乃は、しごく真面目な顔になった。
「交際を申し込んだ相手に、そのようなことをお訊きになるところです、とお答えしておきましょう」
「いや……意味が判らないんだけど」
「それはさておき」
雪乃は滑らかな動作で腰の模造刀をぬいた。刀を上段に構え、そこから一気に振り下ろす。ひゅんっ、という鋭い風切り音が響いた。
「天心無明流、この目で見るのが楽しみですね」
雪乃は、何度か素振りをくれると、刀を輪に収め、清海に向き直った。
「土岐川君は見たことがあるのですか? 天心無明流」
「あ〜〜〜」
見たことはある。今朝方《けさがた》、目の前で。しかも、それは実戦だった。本物の斬り合いだった。人が人を斬るところを眼前で見たのは初めてだった。
昼休みには、自身が真剣で人と斬り合った。もちろん、それも生まれて初めての体験だ。
そう思うと、今日は色々、人生での初体験《はつたいけん》が多いよな。去年一年間のすべてを合わせても、今日一日で起きたイベントには敵《かな》わないかもしれない。
自分の生活が、いや、もしかすると、自分の人生その物が、今までと大きく変わろうとしていて、そのターニングポイントが今日という日なのかもしれない。清海は、そうまで思った。
「土岐川君?」
ぼんやりと何かを考えている清海を雪乃が覗《のぞ》き込む。
「ああ、悪い悪い」
清海は慌てて意識を目の前の雪乃に振り向ける。
「天心無明流か」
今朝方、見たばかりだ、ということは、当然、雪乃には言えないから、清海は誤魔化すことにした。
「名前は聞いたことがあるけど、実際、見るのは俺も初めてだ」
「自分で刀を合わせてみようとは思いませんの?」
「俺は……雪乃ほど剣術に熱心じゃないからな」
「あら、そうでしたかしら?」
清海は額《ひたい》に冷や汗を浮かべて応えた。
「まぁ、雪乃との仕合を見せてもらえれば、それで充分だよ」
雪乃は少し頬を膨らませた。
「土岐川君、剣術に熱心ではないのに、わたくしより強いのですから」
「え? そんなことはないだろ? だいいち雪乃とは仕合したことないじゃないか。まともに闘《や》り合えば、雪乃のほうが強いかもしれないぜ?」
「では、一度、お手合わせ、お願いできますか?」
「いや……止めておくよ。負けたら格好悪いもんな」
「お優しいのですね」
「は?」
1つ、つけ足しておきましょう。土岐川君の優しいところが気に入った、と」
「えぇぇ?」
清海は狼狽《うろたえ》え気味に訊いた。
「や、優しいって、お、俺が?」
「はい」
雪乃は極上の笑顔を向けてきた。
「ご自分では気がついていないところなども、なかなかよいと思います」
「あ……あ、そうなんだ。それは……光栄だな」
顔を赤くして清海が頭を掻《か》いた。そんな清海のことを、雪乃が微笑んで見ている。清海は思わず横を向いてしまった。
「わたくしにとって、今日はとてもいい日になりました」
「へ?」
清海が顔だけを振り向けると、雪乃はいかにも嬉しそうに言った。
「土岐川君と、こんなにお話ができましたもの」
清海は、いっそう赤くなった顔を見られまいと、そっぽを向いた。
「そ……それにしても愛香の奴、遅いな。刀選びにいつまでかかってやがるんだ!? ちょっと行って、呼んでくるわ」
清海が足早に歩きだし、道場を横切って更衣室の扉の前まで突進した。
扉を開けようと清海が手を伸ばした瞬間、扉が開いて中から愛香が姿を現した。
「うわっ?」
驚いた清海は、思わず跳び退《ずさ》る。
「お待たせいたしました」
「お、おお。ずいぶんのんびりと刀を選んでいたんだな。待ちくたびれたから、いま呼びに行こうとしたところだ」
と清海が嫌みを言うと、愛香が一瞬、にんまりとした笑みを浮かべ、微《かす》かに唇を動かした。
(なかなかよい雰囲気でございましたね)
彼女の唇の動きは、そう読み取れた。
あ! こいつ、わざと遅れやがった? っていうか、俺と雪乃が話してるところを覗いてやがったな!?
清海が思い切り睨みつけるのを平然と無視し、愛香は道場の真ん中で待っている雪乃のところへ歩み寄っていく。
「お待たせしてしまって、申し訳ございません」
「いえ、それはかまいませんが……愛香さん、面は?」
雪乃が持っているのは、我々がよく知っている剣道用の面とは違い、前面が強化プラスチック製の視界がクリアな面だった。この形式のほうが、この時代の日本では一般的なのだ。
「不要でございます」
「けれど……それではわたしが打ち込めないわ」
「気になさらずに打ち込んでくださってかまわないのでございます」
雪乃が眉を顰《ひそ》めた。
「わたしの打ち込みなど届かない、という自信がおありなのですね?」
「そうではございません。面を被《かぶ》っているとどうしても視界が狭くなりますし、また頭も重くなりますので動きにくいのでございます。それに、わたくしは面を被って刀を振った経験がほとんどございません。被らないほうが闘《や》り易いのでございます」
「そうですか。では、わたくしも着《つ》けるのは止《や》めにいたします」
雪乃は手にしていた面を、練武場の隅《すみ》へ投げ捨てた。
うわ? 雪乃の奴、けっこう怒ってる? っていうか、意外と負けず嫌いだな、あいつ。
優雅で典雅なお嬢様だと思っていた雪乃の隠された一面を垣間《かいま》見た気がして、清海は少し嬉しくなった。が、すぐにそんな白分が気恥ずかしくなって、白分ツッコミをしてみる。
いや、なんで喜んでるんだ、俺は!?
雪乃と愛香は、練武場中央に五メートルほどの間を置いて正対した。
「仕合形式は寸止《すんど》めで。どこでもいいから先に刀を入れたほうが勝ちということで、よろしいかしら?」
と雪乃が声をかけると、愛香は小さく頷いた。
「はい、それでけっこうでございます」
寸止めで、と雪乃は言ったが、模造刀で仕合うとなると、寸止めが決まらないこともある。止《と》めようとしても勢いがついていて止めきれず、相手の体に打ち込んでしまうのだ。その場合、竹刀よりも木刀よりも、怪我をする危険度が高いのは言うまでもない。
おいおい、ほんとうに大丈夫だろうな。
愛香の剣のうでは抜群だと思うし、信頼もしているが、二人の締麗な顔に傷が付いたりしたら大変だぞ、と清海は内心でハラハラする。
「土岐川君」
「お、おお?」
「判定役をお願いします」
「ん……判った」
まぁ、心配しても仕方がないか。止《や》めろと言って聞くような雪乃じゃなさそうだしな。
最終的には愛香がなんとかするだろうと自らを納得させ、清海は二人が立つ中間点のやや横に移動した。
そこで立ち止まった清海が、改めて二人を交互に見やる。
道着と袴の雪乃、セーラー服にスカートの愛香。いずれ劣らぬ美少女が面を被らないまま刀を手に相対している様は実に絵になっている。清褥は思わず二人に見惚《みほ》れてしまった。
清海から声がかからないのを不思議に思ったのか、雪乃がちらっと視線を向けてきた。
「土岐川君?」
「あ……あ、悪い。じゃあ、構えて」
顔を戻した雪乃は、ゆっくりと右手を鞘に置き、静かに刀を抜いた。
雪乃は抜いた刀を上段に構える。
頭部を狙おうってのか好 意固地《いこじ》になってるな、雪乃は。
雪乃の打ち込み面の鋭さは、生徒の間でも評判だ。まともに木刀で打たれれぱ、面を着けていても脳震盪《のうしんとう》を起こしかねない。それが模造刀で、しかも面を着けていない頭に入れば、頭蓋骨陥没《ずがいこつかんぼつ》骨折は確実である。
本来なら止《と》めなくてはいけないところだが、相手は愛香なのだ。いくら雪乃の打ち込み面が鋭くても、かんたんに打ち込まれることはないだろうと清海は確信している。
何しろ、真剣で襲ってきた刺客六人を一蹴《いっしゅう》したほどの腕だからな、あいつは。
その愛香は、静かに右手を柄《つか》に置き、左手親指で鯉口《こいぐち》を切った。
清海は、一歩、二歩と下がって、右手を挙げ、そして勢いよく振り下ろした。
「始めっ!」
だが、ふたりは微動《びどう》だにしなかった。
「抜かないのですか?」
と雪乃が訊き、
「これが天心無明流ですゆえ」
と愛香が応える。
抜かないのが構えだと言われれば、それは抜刀術《ばっとうじゅつ》であることを意味する。愛香の答えで、名前が有名な割りには実態が知られていない天心無明流が抜刀術であることを雪乃は悟《さと》った。彼女は抜刀術の使い手と刀を交えた経験はない。
これは……迂闇《うかつ》に切り込めなくなりましたね。
お互いがブロンズの彫像《ちょうぞう》にでもなったかのように身動きを止《と》めたまま、睨み合いは二、三分ほども続いた。
緊張感が極限まで高まり、傍《はた》で見ている清海まで体が強《こわ》ばってきそうだった。
と、そのとき。
不意に愛香が一歩を踏みだした。いや、一歩だけではない。二歩、三歩と、雪乃に向かって近づいていく。なんの躊躇《ためら》いもなく、微塵《みじん》の恐れもなく、じつに自然で滑《なめ》らかに。
なっ、なんなの、この迫力は!?
愛香のあまりにも自然な歩法に気圧《けお》された雪乃は、思わず一歩、二歩と下《さ》がってしまった。
くっ、駄目《だめ》よ、これ以上は下がれない。下がっては負けを認めたも同然。
下がってしまった自分を叱咤《しった》し、雪乃は歯を食いしばって踏み留《とど》まった。
雪乃が下がるのを止《や》めると同時に愛香も足を止《と》めた。止めて、雪乃を見て、愛香はにこりと微笑んだ。
なに、その余裕!?
萎《な》えそうになっていた雪乃の闘志に、再び火が点《つ》く。
もう一度、間合いを詰めてきても、もう下がらない。あの娘《こ》が間合いに入った瞬間に、振り下《お》ろします。
直前で止めれば、勢いがつきすぎて運悪く刀が当たったとしても死ぬことはないはず。そう自分を納得させた雪乃は、遠慮しないで真っ向から振り下ろそうと覚悟を決めた。
それに、と雪乃は思う。
愛香は思っていた以上の腕前だ。思い切り振ったとしても、まともには当たらないだろう。
いえ、むしろかわされるでしょうね。でも、どうかわすのか、かわした後にどう動くのか、それを見てみたい。
果たして愛香は、もう一度、歩きだした。雪乃に向かって。静かに。滑らかに。
ゆっくりと滑るように近づいてくる愛香を、雪乃は上段に構えたまま待ち受ける。
愛香はまだ刀を抜いてすらいないというのに、恐ろしいほどの圧迫感だった。
これが……幻とすら言われた天心無明流。この娘《こ》は、この若さで、それを会得《えとく》しているというの。
額に脂汗《あぶらあせ》を浮かべ、雪乃は待った。愛香が聞合いに入るのを。
早く。早く。早く。早く。
自分のほうが有利な体勢であるはずなのに、精神的に圧されていた雪乃は、最後の最後で我慢しきれなかった。
充分な間合いまで愛香を呼びこむ直前に、雪乃は刀を振り下ろしてしまった……というのは傍からの見方。雪乃は、それで届くと思ったのだ。
おそらく時間にすれば、コンマ何秒かの差でしかない。だが、その差は、達人相手の闘いでは生死を分けることになる。
雪乃が刀を振り下ろそうと腕に力を込めた瞬間に、愛香は左足を大きく引き、上体を後方へと傾《かし》がせていた。
愛香の頭上すれすれで刀を止めようと思った雪乃だが、そこに愛香の頭はなかった。
あ!? と思ったが、もう遅い。
目標物を見失った雪乃の刀は、そのまま空を切った。その勢いで、雪乃の体が僅《わず》かに前方へと流れる。
刹那《せつな》、愛香の左腕と右腕から剣気《けんき》が迸《ほとばし》った。
しまっっっ!!
咄嵯《とっさ》に雪乃が体を戻そうとしたその瞬間。
雪乃は、自分の右肩に入った相手の刀が、左胴までを切り裂いていくのを感じた。
斬られたっっ!
鋭く激しい痛みに襲われ、雪乃は自分の体から血が噴きだすのを見た。
彼女は目の前が真っ暗になった。
もちろん、それは雪乃の錯覚だ。実際には、愛香の刃先が雪乃の右肩に押し当てられているだけである。
左足を引いて雪乃の刀をかわすのと同時に愛香は抜刀し、相手に空を切らせた瞬間に、間髪《かんぱつ》を入れずに右足を踏み込んでいた。だから愛香の刀は雪乃の体に届いたのだ。
もし愛香の刀が真剣だったら。
寸止めをしなかったら。
先ほど雪乃が感じたように、彼女の体は右肩から左胴にかけて袈裟懸《けさが》けに一刀両断《いつとうりょうだん》となっていたのは確実だった。
「勝負あった!」
清海が大声で決着がついたことを宣言する。
「あ……」
ふらっとよろけた雪乃は、そのまま腰を落とし、床にへたり込んでしまった。
しばらく残心《ざんしん》を示していた愛香だが、やがてすっと右足を引きながら横の血振《ちぶり》りを行い、滑《なめ》らかな所作《しょさ》で納刀《のうとう》した。
「おい、だいじょうぶか、雪乃臣」
床にへたり込んでいる雪乃に、清海が駆け寄ってきた。
「あ……ええ……それは……」
雪乃は立ちあがろうとしたのだが、上手くいかなかった。腰に力が入らないらしい。それを見た清海が手を差し伸べた。
「ほら」
「……ありがとうございます」
雪乃は素直に清海の手を取った。
清海は腕に力を込めて、雪乃の体を引っ張った。それでようやく雪乃は腰を浮かせ、立ちあがることができた。
立ちあがった雪乃は清海の手を放し、恥ずかしそうに俯《うつむ》いて、小さな声で言った。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「いや、べつに恥ずかしくなんかないさ」
と清海が応えると、愛香が澄ました顔で言葉を被せてきた。
「そうでございますよ。清海様など、腰を抜かした上に、お小便まで漏《も》らしてしまわれたのでございますから」
「馬鹿なことを言うなっっ。いつ俺が漏らしたよっっ!?」
顔を振り向けた清海が、噛《か》みつかんばかりの形相《ぎょうそう》で怒鳴《どな》った。
「ああ、申し訳ございませんっ。生来《せいらい》の酒落《しゃれ》や冗談|下手《べた》なものですから、どうかお許しくださいませっ」
愛香が、へこへこと頭を下げた。
くすっ、と雪乃が笑った。
「貴女、面白いのね。それに……」
笑いを収めた雪乃は、ごくりと唾を呑んだ。
「とても強いわ」
いえ、と雪乃は首を振る。
「強いのは判っていたつもりでしたけど、まさか、これほどとは思いませんでした。自分が井の中《なか》の蛙《かわず》であること、思い知らされました」
「それほど卑下《ひげ》なさらなくてもよいのでございます。化野様は充分にお強うございます。ただ、わたくしが女だてらに剣の腕が立ちすぎるだけでございますゆえ」
雪乃が目を点にして愛香を見ている。
「……そこまできっぱりと自分で言い切る人は初めて見ました」
愛香が深々と低頭した。
「正直者にもほどがある、というのが、わたくしの九十九ある欠点の中《うち》の一つでございまして、化野様に不快な思いをさせてしまったのであれば、まことに相《あい》済みません」
ぷつつ。
雪乃は小さく噴きだした。
「変な人」
「はい、それもわたくしの九十九ある欠点の中の一つでありまして。ですが」
愛香は少し哀《かな》しそうな顔になった。
「わたくしは、自分では、自分が変わり者だとは微塵《みじん》も思わないのでございますが、誰に訊いても、おまえは変わっている、と断言されてしまうのでございます」
愛香は、哀しそうな顔を、今度は清海に向けてきた。
「わたくしは、それほどに変わっていますでしょうか?」
「超変わってる」
「はぐっ」
愛香は見えない鉄槌《てっつい》にでも殴《なぐ》られたように仰《の》け反《そ》った。
それまでくすくす笑いをしていた雪乃が、声を上げて笑いだした。
「うふふふふ、貴女、本当におかしな人ね」
「そうで……ございますか」
愛香はいかにも不本意だという顔で、笑い続ける雪乃を見ている。
「まぁ、愛香が変わり者なのはいいとして」
「いえ、清海様、あまりよくはないのでございます」
「今のを見ていたら、俺もおまえと闘ってみたくなったぞ。愛香、今度は俺の相手をしてくれないか?」
「え? それは……はい、ようございますけれども」
愛香が不思議そうな顔になった。
「清海様では、わたくしに勝つことは難しいと思われますが」
「本当に正直者だな、おまえは!」
「あああ、申し訳ございません」
「だが、それはいいんだ。俺も勝てるとは思っちゃいねえ。それより、天心無明流を体感してみたいんだよ。なんというか、雪乃にだけ体感させておくのは、ちょっと悔しいじゃないか」
「はい、ですが」
愛香は小首を傾げた。
「べつに今でなくてもよろしいのではございませんか? どうせ、これからは二十四時間、いつもこ1緒させていただくわけですので」
あっっ、馬鹿っっっ!
清海が凄まじい目つきで愛香を睨んだ。
愛香も、しまった! という顔になり、自分の右手で口許《くちもと》を押さえたのだが、もう遅かった。
「二十四時間一緒……」
雪乃が疑念の籠った目で、清海と愛香を交互に見やっている。
「とは、どういうことなのでしょう、土岐川君?」
清海は脇の下に滝のような冷や汗が流れるのを感じた。水量的には、そう、華厳《けごん》の滝くらいだろうか。
「ああ、いや、ほれ、あれだ、この学園への通学に便利なように、愛香は当面、俺の家に下宿《げしゅく》することになったんだよ」
「土岐川君は、一人暮らしでしたわね?」
「いや、家宰《かさい》とか使用人とか料理人は、いるぜ?」
「それはそうでしょうけど、でも、ご実家を離れて暮らしているのでしたわね?」
「ん……まあ」
「そこへ、愛香さんが?」
雪乃の目には、疑念というか疑惑というか不審というか不信というか、そうい・惹のが寄り集まり、渦《うず》を巻いているように思える。
「い、いや、なんというか、まぁ、成《な》り行《ゆ》きで……」
清海の脇の下を流れ落ちる大量の冷や汗は、今や華厳の滝からナイヤガラの滝へとグレードアップしていた。一方、雪乃の疑念の渦巻きは、今や熱帯性低気圧から台風へとグレードアップしつつある。
おい、何か言えよ。
と清海が愛香に目配《めくば》せする。こくりと首を縦に振った愛香は雪乃に向き直り、一気にまくしたてた。
「化野様。わたくしが漬海様のお住まいにお世話様になるとは申せ、それはべつに男女の関係を確立させようというわけではなく、縁戚の者として便宜を図っていただくという以上の意図はないのでありまして、お気になさる必要は微塵もないかと思うのでございますが、もし、どうしても気になるようでございましたら、化野様も、一度、清海様のお宅を訪れてみてはいかがでございましょうか?」
うわ〜〜、馬鹿馬鹿、おまえ、なに勝手なこと言ってやがるんだ!?
清海が、わたわたと手を振り回す。
「あら」
雪乃が顔を巡らせ、清海を見る。
「よろしいのかしら、土岐川君?」
「あ〜〜」
ここで駄目だと言ってしまうと、確実に雪乃は臍《へそ》を曲げるだろう。雪乃を怒らせたくはない、というのが清海の正直な思いだ。
彼女は学園の生徒たちに絶大な影響力を誇っている。彼女を敵に回したりしたら、それこそ酒落にならない事態を迎えそうだ。まともな学園生活を送れそうにない。
もっとも、元々が周りの生徒たちと仲良くしようなどという気がない清海のことである。全校生徒が敵に回ったとしても、そのときはそのときだ、という開き直り……というか、覚悟がある。
それよりも。
雪乃を怒らせたくない、雪乃に嫌われたくないという思いを清海は持っている。別に雪乃とつき合うかどうかとは関係なく、個人的に彼女が崇敬《すうけい》できる人物だと思っているからだ。
そう、化野雪乃は、学園でも数少ない、個人的に尊敬に値する立派な人物だと清海は評価しているのだ。ただし、立派すぎて自分とは釣り合わない。そんなふうにも思えるので、交際の申し込みに首を縦に振れなかったわけだが。
なんにしろ、清海としては、今ここで雪乃の機嫌を損《そこ》ねたくはなかった。
彼は肩を落とし、
「ああ……まあ、雪乃が釆たいのなら、いいけど」
と応えるしかなかった。
雪乃の顔が、ぱっと輝いた……ように見えた。
「今日は、とてもいい一日になりました」
と雪乃は嬉しさを隠さずに言った。
「土岐川君とたくさんお話ができた上に、お家に伺《うかが》ってもいいと約束していただきましたし」
くるっと体の向きを変えた雪乃が、愛香に微笑みかけた。
「これも、貴女のおかげかしら、愛香さん」
「わたくし如きでよろしければ、いつでもお力になるのでございます」
と頭を下げる愛香を、清海が殺入光線を発しそうなほど鋭い目つきで睨んで、叫んだ。
「そんなことより、愛香、俺との仕合を!」
顔を上げた愛香が、小首を傾げた。
「ほんとうに今、闘《や》るのでございますか?」
「闘るよ!」
「はい、承知いたしました。では、化野様に審判役をお願いしたいと思うのでございます。よろしいでしょうか?」
「ええ、いいわ」
「じゃ、雪乃の刀を貸してくれ」
「え? でも、これ、土岐川君には、少し軽いのじゃないかしら」
「愛香の抜刀の鋭さに対抗するには、いつもより少し軽いくらいのほうがいい」
「そう……ですね。では」
下《さ》げ緒《お》を解《ほど》いた雪乃が、左腰の刀を抜いたとき、練武場の入り口の扉が開いた。
「ん?」
三人が顔を振り向けた。
開いた扉から、ぞろぞろと生徒たちが入ってくるではないか。
清海が不思議そうに眉を顰《ひそ》めた。
「おい、雪乃、貸切にしたんじゃなかったのか?」
「しましたよ」
「じゃあ、あいつらは。なんだ?」
「なんでしょう。というより、外の入り口には、杏香《きょうか》さんと美沙緒《みさお》さんが立っていたはずなのですが」
などと話している間にも、練武場に入ってくる生徒の数は増え続けた。かでに二十人近くになっている。
「清海様、化野様」
と呼びかけた愛香の声に、先ほどまでと違って緊張感が感じられた。
「どうした?」
「様子がおかしいのでございます」
清海と雪乃が、すぐに愛香の声に込められた緊張感に気づいた。
「どういうことだ、おかしいって?」
「あの生徒たちの挙動が、おかしいのでございます」
と愛香に指摘され、清海と雪乃は、もう一度、入ってきた生徒たちに視線を向けた。
たしかに。
足取りがふらついている者がいる。
あらぬ方向を見ている者がいる。
いや、それよりも。
腰の刀の柄に左手を置いている者が多い。しかも、何人かは、すでに鯉口を切っているではないか。つまり、臨戦体勢ということだ。
「愛香……」
清海の声にも、ずいぶんと緊迫感が色濃くなっていた。
「はい?」
「おまえ、雪乃以外にも、誰かと仕合をする約束を取りつけてたのか?」
「清海様、今はそういう冗談を仰っている場合ではないように、わたくしには思えるのでございますが」
「そうだな」
「清海様は、もう少し、冗談を言われる際のTPOを勉強なされたほうがよろしいかと思うのでございます」
「おまえにそれを言われたくはないけどな」
「あなた達……」
雪乃が呆れた顔で言った。
「大した度胸ですね。あれは、どう見ても正気ではありませんよ」
「はい、そのようでございます。どうやら術をかけられて、操《あやつ》られているのではないかと思われるのでございますが」
「はあぁ? 術だあ!?」
清海が愛香に向かって怒鳴った。
「術って、誰になんの術を!?」
「誰がどのような術をかけたのかは皆目《かいもく》判りませんが、なんのための術かは、おおよそ見当がつきましてございます」
「だから、なんの!?」
「清海様を殺すため、でございましよう」
漬海は、うえぇっ、と呻《うめ》いた。
「やっぱり、そこに行くのか」
「はい、そうなると思うのでございます。しかしながら、行ったとしても、逝《い》かなけれぱいいのでございますから、あまりお気になさらずともよいのではございませんか」
「気にするわっ!」
「え? ちょ、それは……いったい、どういうことなのですか!?」
雪乃は大いに狼狽《うろた》えて、なんとも言えない表情で、清海と愛香の顔を交互に見た。
「申し訳ございません、化野様」
愛香が頭を下げた。
「詳しいことはお話できないのでございますが、清海様は、ただ今、絶賛お命を狙われ中なのでございます」
「ええぇっっ!?」
「絶賛とか言うなっ!」
「あぁっっ。冗談が下手くそで申し訳ございませんっ」
「いえ、もう何がなんだか……」
雪乃が頭を振りながら入り口へと目を向けた。すでに練武場内には、二十人を超える生徒がひしめくように立っている。
誰かが練武場の扉を閉めた。ご丁寧に、内側から鍵《かぎ》までかけたようである。
「おい、愛香」
「はい、清海様?」
自分たちを取り囲むように半円形に立ち並んだ生徒たちに鋭い視線を走らせながら、清海が訊いてきた。
「ってことは、あいつらの腰の物は、真剣なんだな?」
「その可能性が極めて高い、と思われます」
「ちっっ」
舌打ちをくれた清海に向かって、愛香が訊き返した。
「如何《いかが》いたしましょう? 斬ってしまうのは簡単でございますが、生憎《あいにく》、わたくしは自分の刀を持っておりません」
「あ!」
と小さく叫んだ清海は、いやいや、と首を振る。
「おまえが自分の刀を持っていたとしても、斬るわけにゃいかないだろ!?」
「そうで、ございますか?」
「いや、そうだって。あいつらは刺客《しかく》じゃないんだから。この学校の生徒なんだから」
「刺客であろうと生徒であろうと、清海様を亡《な》き者《もの》にしようと狙っているのは、同じでございますよ」
「同じじゃないって。あいつらは操られているだけなんだろ!?」
「それは確実だと思われますが、もう一つ、極めて小さいながら別の可能性がございます」
「どんな?」
「化野様と清海様の懇《ねんご》ろな仲を嫉《ねた》んだ恋敵《こいがたき》の方々が、実力行使に出た……」
「んなわけ、あるかつっ!」
と清海が怒鳴ると、雪乃も顔を赤くして抗議した。
「そ、そうですよ。わたくしと土岐川君は、まだそんな関係では……」
「冗談はそのくらいにしておきまして」
清海と雪乃が、軽くずっこけた。
「おい、愛香、今の冗談も、なかなか上手かったぞ」
「お褒《ほ》めに与《あずか》り恐縮です」
「貴女……」
雪乃は、とことん呆れたといった顔で愛香を見ている。
理由はまったく判らない。どういう状況なのかも判らない。それでも今、自分たちがかなり危ない目に遭《あ》いそうな事態に見舞われている、ということは雪乃にも判る。
それなのに、愛香のこの落ちつき具合はどうだ。
先ぼどの仕合でもそうだった。
何度も修羅場《しゅらば》を、死線を潜った者だけが醸《かも》しだす雰囲気――落ちついた態度と恐ろしいほどの冷静さ。そして何より、模造刀にも拘わらず、雪乃に「斬られた」と錯覚させたほどの迫力を持ったこの少女は。
雪乃は、愛生愛香が、ただの転校生ではないことを確信していた。
「貴女は、いったい何者なのです?」
「そのこ質問には、いずれ。今は、この事態をどう打開するか、に専心するべきかと思いますれば」
雪乃は、不承不承《ふしょうぶしょう》、頷いた。
練武場へ入ってきた二十数人の生徒たちは、じりじりと間合いを詰めてくる。三人は、生徒たちが回り込んでいない後方に向かって下がるしかなかった。
「斬り伏せるのが駄目であれぱ、強行突破するのが早いように思われますが、しかし、三人揃《そろ》ってとなると、些《いささ》か難《むずか》しゅうございますね」
三人か。
その言葉を聞く限り、愛香は、清海を助けるためなら雪乃を見捨ててもいい、とは思っていないわけだ。
そんなことを言いやがったら、ぶん殴ってやろうかと思ったが。
天心無明流の使い手である愛香を殴れるのかは、はなはだ疑聞だが、少なくともどやしつけてやろうとは思った。だが、そんなことをしなくても済みそうだ。清海は大きく安堵の息を吐《は》いて言った。
「そうだな。こっちの武器は模造刀が二本だけだし、突破は難しいな。自分の刀を外さなきゃよかったぜ」
「武器は、わたくしが相手の刀を奪ってしまえばよいのでございますが、しかし、斬ってはいけないとなると、相手の刀を奪ってもあまり意味はございませんし」
「これで叩くしかないか?」
と清海は雪乃から受け取った模造刀を掲げた。
「そうでございますねえ。しかし、相手の戦闘力を奪わなくてはならないのですが、かといって怪我をさせてはならないとなりますと、それはそれでかなり難しいことなのでございます」
愛香が、ちらっと清海に視線を向けた。
「多少の怪我に目を瞑《つぶ》っていただければ、少し楽になるのでございますが」
「そうだな……でも、あくまで多少だぞ。相手へのダメージは最小限に抑えてくれよ? おまえならできるはずだろ!?」
た つ
愛香は小さく溜《た》め息を吐《つ》いて一歩前に出た。すでに三人は、前方と左右を生徒たちに完全に取り囲まれていた。
「仕方がございません、やってみましょう。時間を稼《かせ》げれぱ、毬藻の応援を期待できますし」
「え? 毬藻……って、同じ転校生の鞠元毬藻さん?」
雪乃が隣の清海の顔を見上げた。
「あ……まぁ、なんというか、その話は、また後でな」
「では、清海様、化野様のこと、お任せいたしました。ですが、危ないと思われたら、どうか、遠慮なさいませぬように。清海様の身に万が一のことがございますれば、わたくしの手加減に意味が無く……というより、手加減したことが間違っていた、という結論になってしまいますゆえ」
「ああ、なんとかするさ」
清海が、雪乃を庇《かば》うように彼女の前に立った。
「ちょっと、土岐川君、わたしだって闘えますから」
「いいから、後ろにいろ。雪乃は関係者じゃねえんだ。おまえを危険な目に遭わせるわけにはいかないんだよ!」
と怒鳴られても、雪乃には訳が判らない。
関係者って、なんのこと!? どうしてみんなが操られているの!? どうして土岐川君の命を狙って来るの!?
さすがの雪乃も、腹立たしい思いを抑えられない。だが、今はそんなことで言い争っている場合でもない。
なにしろ得物《えもの》を持っていないのだから、どうしようもない。剣の腕に多少の自信はあるが、何も持たないまま真剣を持つ大勢の者の相手をするのは至難《しなん》の業《わざ》だ。
それに、先ほど、多少の自信をへし折られたところですしね。
雪乃は、改めて愛香の姿を目で追いかけた。
愛香は、まっすぐに立っている。平然と立っている。腰には刀を差しているが、それはただの模造刀だ。
愛香の前には、半円を描くように、二十人以上の生徒たちが立ち並んでいて、すでにほとんどの生徒が抜刀している。手にしているのは、みな真剣に見えた。
彼ら、彼女らの目が虚《うつ》ろなのは、やはり操られているということか。
雪乃には、自分たちが絶体絶命の危機に追い込まれたという実感がある。なのに愛香は平然と立っている。その姿からは、高ぶりも興奮も、怯《おび》えも恐怖も、何も感じられない。愛香が現状を「絶体絶命の危機」などとは思っていないのは明白だった。
いったい、このような危機に、どうすればあのように平然と立ち向かえるのか、雪乃には理解できなかった。
よほどの修羅場を潜ってでもいない限り、そんなことは不可能に思われるが、愛香がそれをやってのけている以上、彼女は、よほどの修羅場を潜り抜けてきていることになる。
あの年で……恐ろしい娘《こ》だわ。
雪乃は身震いした。
迫りくる真剣を持った二十人以上の襲撃者に、ではなく、真剣を持った二十人以上の襲撃者に平然と立ち向かえる愛香に。
生徒の数人がふらつく足取りで愛香に向かって近づいていく。
彼らが手にした白刃《はくじん》が、真剣であることを主張するかのように、練武場の照明の光を受けて煌《きら》めいた。
いちばん前に出ていた五人が愛香に斬りかかった。それ以上の人数でかかろうとしても、刀を振る空間が確保できないのだ。それほど広くない練武場に二十数人もの生徒がひしめいていることが、ここでは愛香にプラスに働いた。
愛香は華麗な足|捌《さばき》きで相手の初撃《しょげき》をかわすと、間髪を入れずに前に出た。白刃の群をものともせずに踏み込んだ。
愛香の左手が動き、凄まじい速さで鞘を引いた。
襲撃者がそれと気づく間もなく、すでに刀が抜かれていた。
そう、抜刀術の真髄《しんずい》は左手の動きにこそある。左手で鞘を引くから、右手を大きく動かすことなく刀を素早く抜けるのだ。
愛香は鋭く右手首を返し、抜いた刀を水平に薙《な》いだ。刃のない刀が正面男生徒の手首を打ち据《す》え、堪《た》らず生徒は刀を落とした。
次の瞬間、愛香は刀を両手に持ち、左右の生徒に斬りつけていた。いや、斬りつけたというより、叩きつけたというほうが正しいか。何しろ刃のない模造刀なのだから。
だが、鋭い斬撃《ざんげき》を受ければ模造刀でも充分な凶器になる。手首や腹を打たれた生徒が次々に刀を取り落とし、その場に蹲《うずくま》った。
瞬《まばた》きするほどの間《あいだ》に、向かってきた五人の生徒が床に転がっていた。
愛香は床に落ちた刀を一本、足蹴《あしげ》にし、刀は背後にいる清海の足下《あしもと》まで床を滑ってきた。
清海が右手で模造刀を持ったまま、左手でそれを拾おうと腰を屈《かが》めたそのとき、後ろから雪乃が手を伸ばし、先に刀を掴んでしまった。
「おい、雪乃!?」
「わたくしは、自分の身くらいなら、自分で守れます」
「いや、危ねえぞ」
「武士を目指す者が、人の背中に隠れているだけなど、許されることではありません」
そうか。雪乃は、こういう奴だったのか。遠くから見たり聞いたりしてるだけじゃ、人となりは判らないものだな。
という思いを新たにした清海は、
「じゃあ、半分、任せたぜ」
と声をかけた。
「はい、お任せください」
愛香は圧倒的に強かった。
のろのろと動く生徒たちの間《あいだ》を舞《まい》を舞《ま》うように華麗に動き、続けざまに生徒たちを斬り伏せて――じっさいに斬っているわけではないが――いく。
あまりに愛香が手強《てごわ》いため、彼女を迂回《うかい》して後ろにいる清海と雪乃に向かおうとする生徒た
ちが出てきた。
当然といえぱ当然だ。
生徒たちが操られているのなら、「目標は清海」と命じられているはずだから。
しかし、練武場自体がそれほど大きくないのが、やはり清海と雪乃にも幸いだった。大きな戦闘空間が取れないため、愛香を迂回できた人数は少なく、いま二人のところへ向かって来たのは左右それぞれ三人ずつだけだった。
「清海様!」
と愛香から注意を促す声がかかった。さすがの彼女も、回り込んだその六人を倒しに戻るような暇《ひま》はなかったのだ。
「判ってる。こっちは大丈夫だ」
と清海が返事をした。
その程度の人数なら、相手が真剣を持っていようと、清海や雪乃との腕の差を考えれば、大した問題ではない。問題があるとすれば、相手の生徒に大怪我をさせないように闘わなくてはならない、という点だけだった。
清海が模造刀を、雪乃が真剣を振るい、寄せてきた生徒たちを迎撃《げいげき》する。
二人とも、まずは相手の刀を落とすことに注力する。刀さえ落としてしまえば、もはや恐くはない。清海は腕を、雪乃は小手《こて》を――当然、峰打《みねう》ちだが――狙った。鋭い打撃が入り、生徒たちは堪《たま》らず刀を取り藩とす。
こうして三人は、操られた生徒たちによる襲撃を撃退しつつあったが、その頃、毬藻は毬藻で別の敵と闘っていた。
10
清海と愛香が第三練武場へと入っていった直後のことである。
練武場周囲の警戒に当たろうとした毬藻が学園内をひっそりと歩いていると、彼女の行《ゆ》く手を遮《さえぎ》るように、二人の人物が現れた。正確に言うと、行く手を遮ったのが一人で、背後を抑えたのが一人である。
二名は嶽宗館《がくしゅかん》学園の制服を着ていたが――前方に立つ者が男子の制服で、後方に立つ者が女子の制服だ――双方ともおかしな面を被っていた。その手のことに疎《う》い毬藻は知らなかったが、面は最近放送されたアニメのキャラクターを模した物だった。
それだけなら巫山戯《ふざけ》た生徒もいたものだ、で済みそうだが、二人が醸《かも》しだす雰囲気は、とうてい学園の生徒とは思えない剣呑《けんのん》なものだった。
毬藻は即座にそのことに気づく。
プロで、すね。
毬藻は黙って背中の刀を抜いた。相手を誰何《すいが》することもない。そんなことをしても、プロ相手には無駄なことだ。
それにしても昼休みの、ときといい学園の警備はどうなって、いるのでしょう。
毬藻は学園総長に盛大に文句を言ってやろうと心に誓った。もっとも、口数の少ない毬藻の「盛大な文句」は、愛香のいつものおしゃべりにすら届かない程度のものだろうが。
毬藻が刀を抜いたのを見て、前後の敵も刀を抜いた。
毬藻が前方の敵に向かって疾《はし》った。
疾る彼女の左手の指の間に、いつの間にか手裏剣《しゅりけん》が挟まれていた。
背後の敵に向かって続けざまに十字手裏剣が飛んだ。
次の瞬間、彼女は前方の敵に斬りかかっていた。
前方の敵は毬藻の鋭い斬撃を苦もなく受け止め、後方の敵は飛んできた手裏剣を続けざまに刀で払った。
できる!
毬藻は斬り縞んだ相手から距離を取るべく、大きく跳んだ。
後方への手裏剱攻撃は完全な不意打ちだった。
前に走りながら、真後ろの敵に手裏剣を投げるなど、ふつうなら予測できない。忍者上がりの毬藻ならではの攻撃だ。だが、その予測できない攻撃を、相手は見事に跳ね返した。
前方の敵も、そうだ。毬藻の斬撃は鋭く、刀の軌道も途中で変えている。並みの人間なら受け止めることはできないはずだった。
だが、二人とも受け切った。
朝の刺客は言うまでもないが、昼の刺客と比較しても、この二人のほうが遙《はる》かに腕が立つ。実戦の経験も積んでいるのだろう。
これは厄介《やっかい》、な。
毬藻は二人が視野に入るような立ち位置を確保して、双方の動きに注意を払う。
二人は、前後に毬藻を挟む位置を確保し直そうと移動を始めた。
仕方なく、毬藻も動く。
闘っているところを生徒にでも見られたら拙《まず》いので、毬藻は横手に広がっている雑木林《ぞうきばやし》の中へと相手を誘った。
狙いどおり、二人は毬藻を追ってくる。
林の中で、少しでも有利な位置を取ろうという三人の陣取り合戦が始まった。
忍者上がりの毬藻の足でも、二人を振り切ることができない。
いったい何者!?
学園内の林の中、木陰《こかげ》を縫《ぬ》うように移動する毬藻は、少し気が急《せ》いていた。
自分のところへこれほどの腕利きが二人も来たということは、おそらく清海と愛香のところへは、これ以上の刺客が行っているに違いない、と読んだからだ。
急がないといけ、ない。
手の内を隠している場合ではない。そう判断した毬藻は、右手でスカートを捲《めく》った。スカートの中には、無数の内ポケットや留め帯、留め金があり、そこには手裏剣や苦無《くない》や鎖《くさり》など、数多くの武器が収納されていた。
どうしてスカートが捲れないんだよ民 と清海が残念がった秘密がこれだったのだ。たしかに、これだけの物を収納していれば、かなりの重量になる。高いところから飛び降りたときにスカートが翻《ひるがえ》らなくても当然だった。
毬藻は収納してある武器の中から、一本の鎖を引き抜いた。先端には尖《とが》った錘《すい》が付いている。
毬藻はそれを左手に隠し持ち、右手で刀を構えて男のほうへと疾った。
一直線に駆け寄ると見せて、途中で方向を変え、横手にある樹の幹に向かって跳ぶ。
樹の幹を踏み台にして、毬藻はさらに上へと跳んだ。
男の頭上を取った毬藻は、左手の鎖を振り下ろした。
男の頭頂を目がけて、鎖の先端についている錘が真っ直ぐに飛んでいく。
男は体をかわそうとしたが、鎖は毬藻が軽く操作しただけで軌道を変え、男の体を追った。逃げきれないことを悟った男は、かろうじて刀の峰《みね》で錘を弾いた。
その対応の早さ、的確さを見ただけで、男が並大抵の腕ではないことが判る。毬藻の予想以上かもしれない。
だが、鎖による攻撃は、あくまで陽動。刀が錘を弾いた直後に、毬藻が急降下してきた。
「くっっっ」
男は毬藻の必殺の一撃をなんとか受けた。だが、体勢が崩れてしまっている。毬藻が二撃、三撃と連続攻撃を放つ。男は押されっぱなしになった。今や毬藻の攻撃から逃げるので精一杯、といった戦況だ。
一気に片をつけ、ます!
毬藻は右手で刀を振るいながら、相手に向かって鎖を振るった。さすがの男も、バランスを崩した体勢からでは鎖を避けきれない。鎖が体に巻きつき、体の自由を奪った。
黒幕の名を尋きたい、ので殺しはしませんが。
毬藻は腕の一本くらい斬り落とすつもりだった。
男が必死の形相《ぎょうそう》で叫んだ。といっても、面を被っているから、本当に必死の形相だったかどうかは判らない。だが、少なくとも、その叫び声には追い詰められた者の焦《あせ》りが表れていた。
「ホワイト! 何してる!? 早く助けに来ないか!」
ホワイトというのは、アニメ「ふたりはプリ☆綺羅」の主人公の一人、ブリ綺羅☆ホワイトのことだが、毬藻にはなんのことだか判らなかった。この男が被っている面が、もう一人の主人公、プリ綺羅☆ブラックだということも、当然、知らない。
男の呼ぶ声に呼応するように、もう一人の襲撃者、プリ綺羅☆ホワイトの面を被った女が上から降ってきた。その攻撃を察知した毬藻は、舌打ちして体の向きを変える。
毬藻の頭上で、女のスカートがふわりと広がった……ように見えた。スカートが邪魔で、降下してくる女の体が見えない。
これは!
次の瞬間、毬藻は跳び退《の》いていた。跳び退いて、地面の上を転がっていた。
毬藻が立っていた場所に、どす、どす、どす、と鈍い音を立てて、五、六本の棒手裏剣が突き刺さっていた。
転がり、距離を取った毬藻が、素早く立ちあがる。女は、男と毬藻を結ぶ線上に立っていた。
毬藻は改めて女と正対する。女はワンピースタイプの制服を脱いで、ブラウスだけになっていた。ブラウスの丈がやや長目だったから、マイクロミニのワンピースに見えなくもなかったが。つまり、先ほど空中で広がったスカートは毬藻に対する目眩《めくら》ましだったのだ。ただでさえ小さく見える棒手裏剣をスカートの陰に隠して見えなくしてしまう。なんとも念の入った攻撃だ。毬藻だからこそ察知してかわせたが、並みの者なら、手裏剣は確実に命中していただろう。
わたしと同じ忍者上がりで、すか?
「は〜〜、助かったぜ」
と男が安堵の声を漏らした。
「だらしないですね、ブラック」
「そう言うなよ。そいつ、とんでもない奴だぜ。俺あ、こういう変則攻撃は苦手でな」
「まぁ、そういうときのために、わたしがいるわけですが」
「にしても、絶景だなあ、ホワイト」
鎖を外しながら、男が嬉しそうな声を上げた。それで、女のほうは自分が今どういう恰奸なのかを思いだしたようだ。
「いやぁ、役得、役と……ぎやあ!」
男は女に刺されていた。
女は毬藻から目を逸《そ》らさないまま、後ろ向きに、ざす、ざす、ざすと、手にした刀の切っ先で三回、男の肩や腕を軽く刺した。
「痛え、痛え、痛え!」
男は跳び退って、女の刀から逃げた。
「な……何しやがるんだ、こいつは!」
流れる血を手で押さえながら男が喚く。
「怪我したら、どうすんだよっ! っていうか、もう怪我してるよっっ!」
「あなたにこれ以上、この恰好を見られたくないので、次は目を潰《つぶ》してあげましょう」
男はぶるぶると首を横に振りながら、ふるふると両手を左右に振った。
「いやいや、判った判った。俺はもう何も見ない。っていうか、何も見えないから。スカート脱いだおまえさんが、下帯《したおび》一丁《いっちょう》でお尻《しり》を丸出しにしてるとこなんて、ぜんっぜん見えないから安心してくれ」
女は軽く左手首を返した。いつの間にか彼女が手にしていた十字手裏剣が、男目がけて飛んでいった。
「うわあ!?」
男は自分の眼前で手裏剣を掴み取った。
後ろ向きのまま狙いをつけた標的目がけて正確に手裏剣を投げる女も女なら、それを眼前で掴み取ってしまう男も男だ。
「危ないだろ、てめえ! 目に刺さったら、どうすんだよ!?」
「刺さってもいいつもりで投げましたが?」
「この女郎《めろう》〜〜」
男が低い除り声を上げた。
な、なんなのこいつ、ら!?
毬藻の命を狙ったにしては、ずいぶんと余裕がある態度だ。余裕がありすぎる。標的の目の前でこんな巫山戯た態度を取るなど、プロの腕ではあっても、プロの刺客とは思えない。
わたしの命を狙ったので、はない?
毬藻は混乱した。
では、こいつらの目的は? 今ごろ、こいつらの仲間が清海様を襲っている、のだと思ったけれど……。
毬藻は、今朝方の襲撃を思いだしていた。
あれは白分の腕を確認する、ための襲撃だと愛香はそう結論づけていた。ではこれはわたしの腕を確認する、ための?
それにしては二人の腕が立ちすぎた。朝方の襲撃者とは雲泥《うんでい》の差だ。それなのに、今の二人からは、本気の覚悟が感じられない。
どう、いうことですか?
毬藻が構えていた刀を下ろし、女に声をかけた。
「あなたも忍者上がりです、ね?」
男を睨んでいた女が振り返る。
「も? ああ、そうか、そうか。あんたも忍者上がりってことか。なるほど、あの変則攻撃も納得だわ」
「あなたたちの狙いが今一つ判らない、のですがしかし、訊いても教えてはくれないのでしょうね」
「そうね。それは秘密」
「ではやはり捕まえて尋《き》くしか、ないということですか」
下ろした刀を、毬藻はもう一度持ちあげた。
「あぁ、いや……そうね、うん、もういいかな」
などと、ブリ綺羅☆ホワイトの面を被った女は意味不明の言葉を発し、するすると下がっていった。
「所定の時聞を経過したと思われるので、そろそろ引き揚げましょうか」
所定の時間?
毬藻が内心で首を捻る。
「ではね、お嬢さん。さようなら」
女が跳んだ。跳んで、地面に落ちているスカートを拾いあげると、そのまま林の奥に向かって走り去っていった。
「あ、おい、待ちやがれ」
ブリ綺羅☆ブラックの面を被った男が、慌てて女の後を追う。
男は振り返りもせずに、後方の毬藻に向かって手を振って見せた。
「じゃあな、お嬢ちゃん。なかなか面白かったぜ。あ、これ、返しとくわ」
男は背後に向かって、毬藻の鎖を放り投げた。
敵に背を見せて逃げていくとは、なかなか大胆な男だ。毬藻が攻撃してきても、逃げるだけなら逃げきれる、という自信があるのだろう。
呆気《あっけ》に取られた毬藻は、跳んできた鎖を摺むと、その場に呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす。
今の二人はいったい……。
しばし考え込んだ毬藻は、すぐに女が言っていた言葉を思いだす。
所定の時間を経過した。
女はそう言っていた。
ということは、これは単なる時間稼ぎ?
そう思えば納得できるが、では、なんのための時間を稼いでいたのかというと……。
毬藻は僅かに目を見開いて振り返った。
やはり、清海様と愛香が!?
毬藻は第三練武場目指して走りだした。
11
毬藻が第三練武場まで駆けてくると、入り口に二人の女生徒が倒れていた。調べてみると、二人は気絶しているだけだったので、毬藻はかまわず練武場に入っていった。
入ったところが靴箱だ。そこにはなんの異常も見当たらない。毬藻は、その先にある内扉を開けて練武場に突入しようとした。
ところが。
中から鍵が掛かっているのか、扉が開かない。毬藻はスカートを捲ると、何やら金属製の鉤爪《かぎづめ》のような器具を取りだした。
それを手に扉に取りついた毬藻は、僅《わず》か十数秒であっさりと鍵を開けてしまった。
毬藻は中の様子を窺《うかが》い、特に戦闘が行われていないのを確認すると、扉を開けて練武場内に足を踏み入れた。
このとき、すでに闘いは終了していた。
何者かに操られ、清海や愛香を襲ってきた総勢二十六名の生徒たちは、すべて床に転がっていた。気絶している者もいるが、大半は腕や足、腹などを押さえて呻いている。
生徒たちが手にしていた刀はすべて真剣だったが、それらは今、練武場の片隅に無造作に積みあげられていた。
室内の様子を一瞥《いちべつ》した毬藻は、清海、愛香、雪乃に怪我がなさそうなのを見て、小さく安堵の息を吐《は》いた。
「清海様、ご無事で、したか」
と毬藻が声をかけると、清海が何かを言う前に、愛香が皮肉っぽい声で応えた。
「おお、毬藻。ずいぶんと早かったな。おかげで我々は、なかなか楽しい経験をした」
う、と一声呻くと、毬藻は愛香や清海に向かって低頭した。
「遅れてすみ、ません。途中で邪魔が入り、まして」
「邪魔?」
愛香の目が光った。
「どういうことだ?」
「それが……この学園の制服を着た二人組に襲われましてそれを撃退する、のに予想より手間取《てまど》ってしまいました」
「おい、本当か!? で、毬藻はなんともないのかよ?」
毬藻は清海に向かってもう一度、頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます。もちろんわたしはなんともない、のであります」
「そうか。そりゃ、よかった」
腕組みした愛香が、怪誹そうな顔で首を捻った。
「おまえが手間取るということは……その二人、生徒ではなかったわけだな?」
「ええ、制服を着て変なお面を着けていましたが生徒、ではないでしょう。二人とも昼休みの男より、も遙かに脆が立ちました。それにしても」
毬藻が、陸揚《りくあ》げされた鮪《まぐろ》のようにごろごろと転がっている生徒たちに視線を走らせた。
「これはいったい?」
愛香が小さく肩をすくめた。
「いきなりこいつらに襲われたのだ。誰かに操られていたのは間違いないとは思うのだけれど、さて、誰がこんなことを、という点になると、皆目《かいもく》見当もつかないな」
清海が練武場内に転がっている生徒たちを見て、言った。
「というか、愛香、俺にはどうもよく判らないんだが、学園内で、これだけの生徒相手に術をかけるなんて芸当ができるものなのか?」
「そこなのでございます、清海様」
体側《たいそく》を下にして倒れている生徒の傍《かたわ》らに屈《かが》み込んだ愛香は、生徒の体を押して仰向けにさせると、その顔を覗き込んだ。
「術そのものはさほど強くはないようですが、一人にかけるだけだとしても、それなりの時間は必要でございましょう。それが、この人数でございますから、一人三十秒としても、十分以上かかる計算になります。一分ならば、二十分以上。一人一人ではなく、一度に何人か、まとめてかけたのかもしれません。あるいは、術をかける者が複数いたか。いずれにしても、予《あらかじ》め準備をしておかなくては、とても無理なのでございます」
「しかし……」
立ちあがり自分の下へと寄ってきた愛香に対し、清海が何かを言おうとしたが、それを遮《さえぎ》るように雪乃が進みでてきた。
「あの、土岐川君、愛香さん、わたくしを置き去りにしていないで、この事態を説明してくださいませんかしら。それに、鞠元さんまでここに釆たというのは……」
雪乃が三人の顔を交互に見やった。
「あなた達はいったい何者なのです!?」
「おい、愛香、どうすりゃいいんだ?」
と清海が愛香に囁くように訊いた。
愛香は難しい顔のまま、力なく首を左右に振った。
「こと、ここに至っては、知らぬ存ぜぬでは通りませんでしょう。それに」
愛香は、きつい目で自分たちを睨んでいる雪乃にちらっと視線を走らせた。
「雪乃様が許してくださらないでしょうし」
「もちろん、許さないわ。あなた達が話さないというのであれば、わたしは直《ただ》ちに学園総長に対して、この事件の犯人の徹底的な捜査と学園内の安全を確保することを要求いたします。むろん、あなた達がただの転校生でないことも、併《あわ》せて学園生徒会に諮《はか》るつもりです」
愛香、毬藻、清海の三人は、互いに顔を見合わせ、はあ、と溜め息を吐《つ》いた。
「あ、なんですか、その嫌そうな顔は厚」
雪乃が柳眉《りゅうび》を逆立《さかだ》てる。元々が整った美しい顔立ちなだけに、怒ると、一種、凄みが出て、かなり恐かった。
清海が慌てて言い訳を始めた。
「いや、べつに嫌がってるわけじゃないんだ。ただ、なんというか、話をしてしまうとだな、雪乃に迷惑がかかるというか、危険が及ぶというか」
「あら。わたし、まだお話を聞いていませんが、すでに迷惑もかかっていますし、危険な目にも遭っていますけど?」
「あ〜〜……」
やりこめられた清海が、困った顔で、隣にいる愛香を見た。
「判りました、雪乃様。お話いたしましょう。ですが、この件をまず、学園総長に報告しなくてはなりません。我々は学園総長室に参りますので、ご同道願えますか? 余人《よじん》には聞かれたくない話ですので、綱かな説明はそのときにさせていただきたいと思うのでございます」
一つ、深呼吸した雪乃は、小さく首を縦に振った。
「………判ったわ」
「お手数をおかけいたします」
と愛香が低頭すると、毬藻も、ぺこりと頭を下げた。
清海は、すまんな、と拝《おが》むように手を合わせた。
「いいえ、それはよいのですが。それより」
雪乃は顔を巡らせると、床に転がっている生徒たちを見た。
「この人たちを、ここに放っておいてもよいのですか?」
雪乃の間いに愛香が応えた。
「術は、もうじき切れるでありましょう。切れれば危険はありませんし、自分が何をしたかもはっきりと覚えていないと思われます。このまま放置しておいても問題はないと思われるのでございます」
清海が小さく肩をすくめる。
「そうか。じゃあ、俺たちは総長室へ行くとするか」
それにしても、と清海は内心でもう一度、溜め息を吐《つ》く。
自分を取りまく状況の激変に自分自身が追いついていけない。
こいつは……ほんとうに昨日《きのう》までと今日からとで、俺の人生が別物になっちまったのかもしれないなあ。
清海のその感想は、あながち的外《まとはず》れではなかった。
12
四人は、第三練武場の入り口で気絶していた雪乃の取り巻き二人を介抱《かいほう》した後、二人に口止めをして、この場所から離れるように言った。これが、清海、愛香、毬藻の三人だけだったら確実に一悶着《ひとみもちゃく》起きるところだが、雪乃がいたので二人とも特に何も言わずに従ってくれた。
「くれぐれも他言《たごん》は無用ですよ」
と言う雪乃に二人は大きく頷き、質問もしないまま足早に立ち去っていった。
なんというか、こういうときに人望の差を感じるな。
忸怩《じくじ》たる思いのする清海であるが、それはふだんの生活態度の反映なのであるから、文句を言っても仕方がない。
ま、今さら人気取りをしようとも思わないしな。
心の中で肩をすくめた清海は、愛香、毬深、雪乃と共に学園総長室を訪《たず》ねた。
雪乃が三人と共に現れたことに驚いた有恒だが、清海、愛香、雪乃が練武場にいるときに学園の生徒たちに、毬藻が練武場へ行く途中に正体不明の二人組に、それぞれ襲われたという話を聞くと、顰《しか》めっ面《つら》になった。
毬藻を襲った二人に関しては、絶対に生徒ではあり得ない、と彼女が断言したから、またもや学園内に侵入者を許したことになる。学園総長としては、たしかに頭の痛いところだろう。清海や愛香は彼の顰めっ面の意味をそう理解した。
総長に報告をする際に、これまでのあらましを愛香が語ってくれたので、雪乃も大まかな事態は把握《はあく》できていた。
彼女は、清海が徳川家の人間であることと、彼の将軍職継承順位が跳ねあがったせいで刺客に襲われるようになったことを聞かされ、かなり驚いたようだった。
それも当然か、と清海は思う。
それよりも清海が気になったのは、自分が徳川家の人間であることを知った雪乃が、今後、どうするだろうかということだった。
まぁ、あれだな。触らぬ神に崇《たた》りなしって感じかな。
これで自分との交際を諦めてくれるのなら、自分との距離を置いてくれるのなら、それはそれでかまわないと清海は思った。
ちょっと残念だけどな。
学園総長は難しい顔を崩さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「込み入った話になるので、奥で話すとしようか」
机上のインターフォンで、奥の部屡に飲み物を持ってくるようにと秘書に伝えた有恒は、椅子から立ちあがり、応接室に通じる扉まで歩み寄った。
「ほれ、四人とも、入るがいい」
大きな木製の扉を自ら開けた有恒は、奥の応接室へと四人を誘った。
立ちあがった四人は、失礼します、と頭を下げ、応接室へと足を踏みいれた。
雪乃は、ずっと何かを考えているようだった。
応接室には革張りの豪奢《ごうしゃ》なソファが置かれていた。四囲の壁の前の陳列棚《ちんれつだな》には、大小様々なトロフィーや盾《たて》が並べられ、床には優勝旗のレプリカが所狭《ところせま》しと立てられている。それらは、いずれもが嶽宗館学園がインターハイなどで優勝したり準優勝したときに獲得した物だった。さすがに全国にその名を轟《とどろ》かせている嶽宗館学園、剣術部や柔術部などを初めとする各クラブの全国大会での優勝回数だけでも、両手両足の指を合わせても足りないほどだった。
大きなソファに四人を座らせると、有恒は一人掛けのソファに腰を下ろした。彼から見て右側の三人掛けのソファに清海と雪乃が、左手の三人掛けのソファに愛香と毬藻が座っている。
扉をノックする音に続いて、秘書の声が聞こえた。
「お飲物をお持ちいたしました」
「入るが、ええ」
「失礼いたします」
扉が開き、盆を手にした二人の秘書が入室してきた。
「お茶でございます」
二人は、一瞬、四人に視線を送った。
学園総長が生徒を応接室に通したなど、異例中の異例な出来事である。いったい何があったのか。この四人は何をしでかしたのか。秘書としても興味を抑えきれない。とはいえ、じろじろと見るほど無礼《ぶれい》な真似もできない。いくら相手が生徒でも、ここに通された以上、総長の客人でもあるのだ。それを弁《わきま》えられないようでは有恒の秘書など務まらない。
秘書が四人にお茶を配り終えると、有恒が彼女たちに念押しした。
「話が終わるまで誰も通すな。電話も取り次がんで、ええ」
「承知してございます」
低頭して、二人の秘書が部屋を出ていき、入り口の扉が閉まった。
静かな部屋に総長の長い溜め息が響いた。
彼は順次、四人に視線を送った後、卓の上に置かれた器に手を伸ばした。お茶が入った陶器は志野《しの》で、鮮やかな白い紬薬《ゆうやく》が目に眩しかった。
きっと、この器《うつわ》一つで何十万とするんだろうな、と思いつつ、清海も器に手を伸ばす。
温《ぬる》めのお湯で淹《い》れられたお茶は高級|玉露《ぎょくろ》で、甘露《かんろ》な味だった。
さすがに学園総長、いい器を使い、いいお茶を飲んでやがる。
ふだん飲めないような高級なお茶を堪能《たんのう》した清海が、ゆっくりと器を卓上に戻す。
「で、総長」
自分たちを禍き入弛ておきながら、なかなか話を始めようとしない有恒に対して、焦《じ》れたように清海が上体を乗りだした。
「今回の事件なんだけど……」
有恒は右手を挙げて清海の言葉を遮《さえぎ》り、重々しい声を上げた。
「今回の事件は、なかったことにしてもらおう」
「は?」
清海が、ぽかんとした顔で総長を見ている。
清海だけでなく、愛香や毬藻も、総長の言葉の意味を推し量《はか》ろうとするかのように目を細めて有恒を見る。雪乃も今の彼の言葉には大きく眉を顰《ひそ》めた。
「じゃから、今回の事件、生徒が何者かに操られておまえを襲ったなどという事件は、なかったのじゃよ、清海」
真っ先に雪乃が口を開いた。
「つまり、臭《くさ》い物には蓋《ふた》……と、そういうことなのでしょうか、総長様?」
「そうではない」
有恒は力なく首を左右に振った。
「べつに不祥事《ふしょうじ》を隠そうとかそういうことではないんじゃ。これを公《おおやけ》にすれば、これまで以上に清海の立場が危うくなる。そういうことなんじゃ」
彼は愛香に目をやって、訊いた。
「ぬしなら、判るであろう?」
「はい、それは判らないではございません。今回の事件、公にしないのは、なるほど致し方ない面もございましょう。ですが、三十人近い生徒が何者かに操られたのは事実でございます。その犯人を追及しないでいいとは、とうてい思えないのでございますが」
「いや、もちろん調べはする。調べはするが、それは学園《こちら》の手の者で密かに調べるだけ、ということじゃ。警邏を学園に入れたりはできん。そんなことになれば、清海の正体が学園中に知れてしまうことになりかねん。正体が知れれば、清海はこの学園に居《お》れなくなるじゃろうよ。いや……もうすでに、居れなくなっているのも同然じゃが」
清海は有恒の言葉に敏感に反応した。居れなくなっているのも同然、という部分に。
「どういうことです?」
「このままでは、儂がぬしを護り通す自信がないということじゃ」
「はあ?」
「考えてもみよ。今日の昼に刺客の侵入を許し、その上、生徒たちを操られているのじゃぞ。それ以外にも、毬藻を襲ったという正体不明の二人組もいる。ぬしが二十位以内にランクアップした当日だけでこの始末じゃ。今後、毎日このようなことが続いてみよ。いずれぬしの身に危害が加わるのは避けられん」
「待ってくださいよ、総長。そのために愛香と毬藻がいるんでしょうが」
「もちろん、その二人の腕を信じぬわけではない。むしろ、警護寮護衛方の中でもとびきりの腕利きだと思うておる。じゃがな、愛香と毬藻にも限界はあろう。じっさい、今日だとて、毬藻がぬしらと切り離されたときに、生徒を操るのではなく、刺客が襲ってきていたらどうだったか、考えてみい」
「ああ……たしかにな」
生徒を操るなどという、手間をかけた割には効果が薄い戦術を採用せずに、黒幕が腕利きの刺客を送り込んでいたら……。
事実、毬藻が苦労したほどの腕利きを二人、送り込んで釆たのだ。あの二人と同等の腕を持つ刺客を複数、送り込めば、愛香と清海はかなり際どい状況に追い込まれていただろう。
二十数名の生徒を操るなどという手間暇をかける余裕があるなら、複数の刺客を送り込むことだって可能だったのではないか。
その辺の齟齬《そご》がどうにもよく判らないと思う清海だが、彼が学園にいる限り、今後も刺客が襲ってくる可能性は、かなり高いと思われた。
「学園は城とは違う。ここに立て籠ることも、誰かが侵入してくることも想定されておらん。悪意を持った人物が本気になれぱ、刺客を侵入させることなど造作《ぞうさ》もない。そして、何百人という生徒がいるとなると、そのうちの誰かになりすますことも、それほど難しくはないだろう。考えてみれば、これほど護るに適さない場所もないというわけじゃよ」
「わけじゃよ……って、そうあっさりと言われてもなあ」
清海は腕を頭の後ろで組んで天井を見上げる。
「じゃあ、俺にどうしろって言うんですか? 学園に釆ないで、家に籠城してろって? けど、いつまで? まさか、このまま一生、家に閉じ籠って過ごせなんて言うんじゃないでしょうね、総長!?」
清海が有恒を睨んでいると、
「いえ、清海様」
と愛香が横から口を挟んできた。
「なんだ!?」
「総長様には何かお考えがあるご様子。まずは、それをお聞かせいただくといたしませんか。怒るのはその後でも間に合うかと」
「あ? 考え?」
いったん愛香に向けた顔を、もう一度、清海は総長に振り向けた。
「ほんとうに何かあるんですか?」
「ああ、うむ」
有恒は一つ咳払《せきばらい》いをくれてから、おもむろに口を開き、ないこともない、と言った。
「それはじゃな、清海、ぬしが転校することじゃよ」
「なんだってぇ!? それこそ厄介払《やっかうばら》いってことじゃないですか!」
怒りに思わず清海が腰を浮かせかけたのを、隣に座っていた雪乃が押し止めた。
「土岐川君、人の話は最後まで聞きましょう。判断するのは、全部聞いてからにすればよいと思います」
「あ……」
清海は浮き足立っている自分を自覚して、恥じ入った顔で腰を下ろした。
「すまない、雪乃。ちょっと興奮した」
「いいえ」
雪乃が微笑んだ。清海は彼女に謝ると、続けて有恒にも頭を下げた。
「すまない、総長。あんたが責任逃れをするような人じゃないのは判ってるのにな」
「いや、気にせんでもええ。ぬしの立場であれば、混乱したり焦ったりするのも当然のことじゃからな」
そんな清海を、愛香が正面から興味深そうに見ている。
徳川将軍家の血を引きながら随分と謙虚《けんきょ》な御方であること。わたくし、これまで、己の役目|柄《がら》、徳川将軍家に連《つら》なる御方を何人も間近で見てきたし、警護の対象にもしてきましたが……その人たちの大半は、将軍家の血筋であることをむやみやたらと自慢し増長した俗物《ぞくぶつ》でした。任務でありますからお護りしてはきましたが、じっさい、死のうが生きようが大して変わりはない愚者《ぐしゃ》ばかりでした。ですが、清海様は……そういう愚者とは明らかに一線を画していらつしゃる。
愛香には清海の言動がずいぶんと新鮮に感じられた。
彼の謙虚さが、土岐川家で育てられた所以《ゆえん》なのか、それとも彼白身の生釆《せいらい》の性格に因《よ》るものなのかは、今の愛香には判断できないのだが、少なくとも今までに警護の対象としてきた俗物どもとは違う人物であるのは間違いなさそうだ。
わたくしは久しぶりに、本当にお護りしたい警護対象者と出会った気がします。
上から命じられたというだけでなく、自分自身の意志で護ろうと思うこと。それは、愛香にとって、とても重要なことなのだ。感情の一部を無くしてしまっている彼女が、自分が人間であることを思いだせる貴重な経験なのだから。
今度ばかりは課長に感謝しなくてはならないかもしれません。
などと思いつつ、愛香は、ちらっと隣の毬藻に視線を走らせる。毬藻だけは、いつもと変わらず、茫洋《ぼうよう》とした顔で、ぼ〜〜っと宙を見つめていた。
相変わらず、何を考えているか判らない奴ですね。
でも、と愛香は思う。
毬藻と組むのは久しぶりだけど、今回の毬藻は、いつもより仕事に熱心な気がする。毬藻も毬藻なりに清海様のことを評価しているのかもしれません。やる気になった毬藻は、じつに心強いパートナーなので、それは大いに助かりますね。逆に言えぱ、やる気にならない毬藻は、かなり当てにならない存在なわけだけど。
やる気になっているのかどうかが見た目で簡単に判断できないのが、毬藻と組んで仕事をするときの難しいところで、それは愛香も充分に弁えている。
ですが……今回は心強い毬藻だと思ってもよさそうです。期待していますよ、毬藻。
愛香はもう一度、毬藻に視線を向けたが、そこであることに気づき、愕然《がくぜん》とした。
毬藻のほうから、隣に座る愛華にだけ聞こえるような微《かす》かな寝息が聞こえてきたのだ。
こっ、こいつ、目を開いたまま寝ている!?
忍者は小刻みに短い睡眠を取り、結果、数日も寝ないまま活動できると聞くが、なるほどと感心する愛香だった。
13
何度か大きく深呼吸して気分を落ちつけた清海が、改めて有恒に尋ねた。
「で、総長、俺が転校……って、どういうことですか?」
総長は、うむ、と重々しく頷いた。
「この学園は、たしかに丘の上にあるが、周りは開けた場所だし、街にも近い。誰かが近づくのは簡単なことだ。いちおう敷地はフェンスや塀《へい》などで囲っているが、それなりの技術を持った者なら、忍び込むは簡単であろう。だが、警備の者を大幅に増やすわけにはいかないのは、前に言ったとおりだ」
有恒はそこで言葉を切り、愛香と毬藻に目をやった。
「それでも愛香と毬藻ならば、ぬしを護ることはできよう。だが、このように刺客の侵入を許していると、そのうち一般の生徒に危害が及ぷ虞《おそれ》がある」
あ、そうか! と清海が膝《ひざ》を打った。
「他の生徒……か。そこまでは考えなかったな」
「そうじゃ。刺客が生徒を人質に取る危険もある。己《おのれ》の正体を感づかれた刺客が、生徒を襲う危険もある。そこまでは、いくら愛香や毬藻でも手が回らんじゃろう」
愛香が無言で頷いた。
一方、毬藻はなんの反応も見せない。まだ寝ているのだろうか。
総長や清海に気づかれないうちに彼女を起こすべきかどうか、愛香は少し迷った。
だが。
不意に毬藻の上体が前のめりに倒れ込み、顔面が単とぶつかる、がつん、という衝撃音が響いた。
「うわっ!?」
清海、雪乃、それに有恒が、びくうっと上体を引いた。
「ど、どうしたんじゃ、毬藻!?」
と総長に訊かれ、毬藻がゆっくりと上体を起こし、顔を上げた。額と鼻の頭が赤くなっているが、表情はいつもとまったく変わっていなかった。
「え……はい、少し白分に気合い、を入れてみました」
誤魔化《ごまか》した! こいつ、上手《うま》く誤魔化した!!
ちらっと隣を見た愛香は、毬藻の咄嵯《とっさ》の対応に思わず内心で除り、感心した。
まぁ、これで徹夜が利《き》くのなら目を瞑《つぶ》るしか。
「お、驚かすなよ、毬藻」
清海が大きく安堵の息を吐《は》く。
「申し訳ありま、せん」
毬藻は無表情のまま、感情の籠っていない声で謝った。
「ま、ええ。それだけぬしの護衛に熱心だということじゃろうて」
「まぁ……ありがたい話だけどな」
「さて、話を戻すがの」
と有恒が言い、四人は彼に視線を戻した。結局、毬藻が居眠りをしていたことに気づいたのは愛香だけであった。
「学園を預かる儂としては、一般の生徒に危害が及ぶことだけはなんとしても避けなくてはならんのじゃ。それ判ってくれような?」
「ああ、いや……判る」
と清海が頷くと、顔を上げた雪乃も賛意を表した。
「たしかに、今回のことでも、下手《へた》をすると死人が出かねない事態でしたですものね。愛香さんの剣の腕が抜群であったからこそ切り抜けられたわけですが、いつもいつも、こう上手《うま》くいくとは限りませんし」
毬藻は無言で、こくこくと頷いただけだったが、どうやら完全に目を覚ましたようである。
愛香は密かに胸を撫《な》で下《お》ろした。
彼女はそんな自分の心の動きを悟られないように気をつけながら、有恒に対して訊いた。
「ですが総長様、この学園で一般生徒に危害が及ぶ虞《おそれ》があるのでしたら、どの学校へ移っても同じことではないのでしょうか?」
「それが、そうではないんじゃ」
「え?」
四人が怪評そうな、不思議そうな顔を有恒に向ける。
「武士養成校の中には全寮制の学校があるのを知っておるな?」
「それは知ってますけど」
と清海が頷いた。
「でも、全寮制というだけで、本質的には同じ高校なんでしょう? 警邏は入れられないし、警備の人間も増やせないわけだし、ここと大して違わないんじゃ?」
「ほとんどの学校は、そうじゃな」
「ってことは、同じじゃない学校もある……ってことですか?」
「そういうことじゃ」
と応えた有恒は、卓上の内線電話を手に取った。
「ああ、伸尉《のぶい》君か? あの資料をここに持ってきてくれんか。……そう、あれじゃ。……うむ、頼んだぞ」
有恒が受話器を戻して数秒後に、扉をノックする音が響いた。
「総長様、伸尉でございます」
「おお、かまわん、入ってくれ」
「失礼いたします」
扉が開けられ、先ほどの秘書のうちの一人が応接室に入ってきた。手に何やら大きな封筒を持っている。
「こちらに置きますので」
秘書は、持ってきた封筒を卓の上に置いた。
「ああ、ご苦労さん」
「では、失礼いたします」
応接室から退室していくときに、伸尉という秘書が微《かす》かな哀《あわ》れみの色をその目に浮かべたのに愛香は気がついた。
あれは……どういう意味でしょう?
と考えていると、有恒が封筒の中から何やら書類を引っ張りだして卓の上に広げた。
「この学校なんじゃがな」
と有恒が言う。清海、雪乃、愛香が上体を乗りだし、卓上の書類を覗き込んだ。毬藻だけは体を動かさずに目だけを書類に向けた。
そこにはこう書かれていた。
「全寮制の武士養成校、大蝦夷《おおえぞ》学園」
「おい、だから、これって……」
少し声を荒げ気味に何かを言いたそうにする清海を、有恒は手で抑える。
「人の話は最後まで聞けと、雪乃に言われたばかりじゃろうが」
清海は、あぁ、と小さく呻いて静かになった。
「この学園はな、他《ほか》とは少しばかり違っておるのじゃよ。どう違っているかと言うと」
いったん言葉を切った有恒は、清海、愛香、毬藻を順繰りに見やった後に言葉を継いだ。
「ここは学園その物が完全に外界から隔離されているのだ。そして、学園自体が要塞というほど堅固な造りになっておるのだ」
三人が、いや雪乃までもが、不思議そうな顔で有恒を見ている。
「学校が要塞って……どういうことです?」
と清海が訊くと、有恒は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「じっさい、かつては要塞だったのじゃよ、この学校は」
「ええぇ?」
「大昔の話じゃがな、日露戦争《にちろせんそう》の頃、幕府が露西亜《ろしあ》の攻撃に備えて、蝦夷地《えぞち》にいくつもの要塞を造ったのは知っておろう? この学校は、後に廃棄されたその中《うち》の一つを改造して、高校として使っておると、そういうことなんじゃ」
有恒が、にやりと口の端《はし》を歪めた。
「本物の要塞だからの、じつに堅固な作りだわ。周囲を背の高い城壁で囲まれておるし、見張りのための望楼《ぼうろう》もある。望楼には常時、見張りが立っておるしの。人里離れた海岸線の丘の上にあるから、気づかれずに近づくこと自体が難しい。ふだん生徒は外出を許されておらんから、生徒になりすまして侵入することもできん。出入りの業者に対するチェックも厳しいそ。というわけで、刺客が忍び込むのは至難《しなん》の業《わざ》と、そういうわけじゃよ」
清海が疑わしそうな目になって有恒を見やった。
「わけじゃよって……なんか、話を聞いてると、学校っていうより、刑務所みたいに思えてくるんだけど?」
「当たらずといえども遠からず、じゃな」
「遠くないのかよっ!?」
総長相手に思わずツッコンでしまう清海だった。
「だがの、ここなら安心じゃぞ? 刑務所に外部から忍び込むなど、まず、できん相談じゃからのお。それに、ここだけの話、この学園の生徒は、いろいろと素行《そこう》に難があったり、じっさいに問題を起こしたりした者が多いのでな、多少のことがあっても平気だわ」
「なんてリアクションすればいいのか判らないよ」
「ですが、清海様」
と愛香が呼びかけてきた。
「なんだ?」
「これは意外とイケるかもしれませぬ」
「そ、そうかあ?」
「清海様は刺客に怯《おび》えることなく勉学に励《はげ》めますし、わたくしと毬藻は、他《た》の生徒の方々を気にせず清海様の警護を続けられます。万が一、刺客が忍んできたとしても、ここならば多少の荒事《あらごと》も許されそうでありますし」
「……なんか楽しそうだな、愛香。俺の気のせいか?」
「いえいえいえ、全然、楽しくなどございません。もちろん清海様の完全|完襞《かんぺき》な気のせいなのでございます」
「…………」
「あれあれあれ、ほんとうでごさいますから。わたくし、先ほどの、操られた生徒たちによる清海様襲撃事件に於きまして、誰も斬れなかったのを不満に思っているとか、そういうことはまったくございませんので」
「馬鹿正直にもほどがあるってのは、ほんとうだな、愛香」
「あ!」
愛香は慌てて自分の手で自分の口を押さえたが、すでに遅かった。雪乃と有恒も呆れた顔で彼女を見ている。
「まあ、愛香が楽しいかどうかは措《お》いとくにしても」
清海は力なく首を左右に振った。
「どうにもこうにも、俺の選択肢《せんたくし》は、ずいぶんと狭められている気はするんだよなぁ」
「すまんな、清海」
有恒が頭を下げた。
「ぬしの力になれなくて、まっこと、申し訳なく思っておる」
「いや、気にしないでください、総長。あんたには充分によくしてもらった。これは、将軍家の血を引いた俺が支払うべき税金なんだろう、きっと。というか、そうでも思わなきゃ、やっていられないし」
「土岐川君」
「なんだ、雪乃?」
「きちんと税金を払っていれば、そのうちいいことがありますよ」
「そうは思えないんだけどな」
肩を落とし、溜め息を漏らした清海は、やがて顔を上げた。
「少し考える時間をもらってもいいですか、総長?」
「ん? ああ、かまわんよ。じゃが、あまりのんびりとはしておれんぞ?」
「判ってます。まぁ、そこへ転校するのが一番手っ取り早いのは判ってはいるんですけどね。ただ、それにしても、気持ちの整理をつける時間は欲しいかなあ……と」
「ふむ、では、学校は休んでかまわんから、自分で納得のいくまで考えるがよかろう」
「え? いいんですか、来なくても!?」
「わざわざ行き帰りで危険を冒《おか》す必要もあるまい。それに、学園側としても、危険を呼びこみたくはないのでな」
「結局、厄介者払いかよ」
げっそりとした顔で清海が眩いた。
「愛香、毬藻、清海のこと、頼んだぞ」
「委細、承知しております、総長様」
と愛香が応えると、毬藻も小さく首を縦に振った。
「頑張り、ます」
「では、清海様、ご自宅へ戻りましょう」
「ああ、そうだな……って、あれ?」
清海が怪誹そうな顔になって愛香と毬藻を見る。
「二人とも、今日から来るのか?」
当然だという顔で愛香が頷いた。
「すでに警護の任に就いておりますから、お側から離れること、これ、能《あた》わず」
「手ぶらでいいのか?」
「必要な物は、警護寮に運絡すれば、いつでも清海様のこ自宅のほうへ送ってもらえるのでございます」
「必要な物って?」
「そうですね。主に着替えとか化粧品とか」
着替え……。それってつまり……。
「はい、清海様のお考えどおり、下着とか下着とか下着などでございますね」
「ぱっっ。お、俺はそんなこと考えてないそっっ」
愛香が、くすっと小さく笑って頭を下げた。
「ああ、それは失礼いたしました」
なんか、もう見え見えのバレバレだった。
「どうせ着替えを送ってもらうのですから、ご希望があれば仰ってください」
「は? 何を?」
「ですから、メイド服が必要であれば、一緒に送ってもらうよう手配いたしますので」
清海は一瞬だけ、想像した。メイド服に着替えた愛香と毬藻を。恐ろしく魅力的な想像だったが、彼は気力を振り絞ってその画像を脳裏から振り払った。
「要《い》らねえよつっ」
「そうでございますか。ならば、よろしいのでございますが」
あ、ちょっと早まったか……。
「では、総長様、本日はこれにて失礼いたします」
と愛香が立ちあがろうとするのを、有恒が右手を挙げて抑えた。
「ああ、ちょっと待て」
有恒は内線電話を取って、秘書を呼びだした。
「儂じゃ。土岐川清海以下、三人が帰るから、車を出すよう手配してくれ」
内線電話を置いた有恒が、清海に言った。
「いま、車の手配をさせたから、それで帰るがよかろう」
「あ、すみません」
「気にするな。儂にはそのくらいのことしかできんでな」
それと、と言って総長は雪乃を見た。
「雪乃も、今回の件、くれぐれも内密にな」
思いつめた顔で何かを考えていた雪乃が、はっと顔を上げた。
「はい、言われるまでもありません」
「そうじゃな。ぬしが友だちの秘密をぺらぺらとしゃべるような者ではないのは判っておるが、何しろ事が事なのでの」
「親兄弟であろうと、決して口外はいたしません」
「うむ、頼んだ」
そこへ秘書がやって来た。
「車は四、五分で用意できます。こちらへどうぞ」
立ちあがった四人が有恒に向かって頭を下げた。
「では、失礼いたします」
「失礼します」
「…………」
「清海よ、身辺《しんぺん》には充分に気をつけるのじゃぞ」
「判ってます。今日みたいに何度も襲われて、それでも気をつけない奴がいたら、それは単な
る馬鹿ですよ」
有恒は、うむ、と除るように応え、腕組みしたまま四人が退出していくのを見送った。
14
有恒は、そのままの姿勢で固まったように椅子に座っていた。
そうして四、五分ほどが経《た》っただろうか。
やがて音もなく応接室の扉が開き、若い男が静かに入室してきた。以前に、この応接室で有恒と話をしていた、あの若い男だ。
有恒が腕組みを解き、顔を上げた。
「君か……」
男が総長の執務机の前に立ち、
「ご苦労様です、総長」
と挨拶すると、有恒は渋い顔で頷いた。
「どうやら清海は、その気になってくれたようじゃが……」
「そうですね。というか、そうでないと困りますのでね。もし嫌がったら、もう一つ、二つ、仕掛けないとならないところでした。そのような事態にならなくて幸いですよ」
「儂もほっとしておる。これ以上、清海たちを欺《あざむ》くのは気が進まんからのぉ」
「べつに欺いているわけではありませんが」
「……しかし、判らんな」
「何がですか?」
「徳川清海に、そうまで固執《こしつ》する理由が。あ奴は、たかだか十七位ではないか」
「たしかに順位は十七位ですが、現実的には、順位どおりに継承が為《な》されるわけではありません。それはあなたも、よくご存知のはず」
「まぁ、健康状態に問題があったり、高齢だったりすれば、継承会議で推されることがないのは判るよ。そういう場合は、本人からの辞退があることも多いしの」
「そのとおりです。徳川清海の場合、順位が十七位とはいえ、彼の上には、いま総長が言われたとおり、高齢の方や健康に間題を抱えている方がいますからね。実質的には、もっと順位が高いと思っていい」
「それでもじゃ。内調《ないちょう》が介入してくるのは、些《いささか》か大げさな気がするのじゃがな」
有恒が言う「内調」とは、内務大臣の直属機関、調査・調整方の略称だ。であれば、この若い男は「内調」の人間ということになる。
「その辺は」
若い男は上着のポケットから煙草《たばこ》を取りだし、一本、口に銜《くわ》えた。 ライターで火を点け、美味《うま》そうに煙を肺に送り込んだ後、男は大きく紫煙《しえん》を吐《は》きだした。
「なんといいますか、企業秘密ということで勘弁してください」
「内調は企業ではあるまいに」
「ははは、そのとおりですね」
男は薄い笑みを浮かべたまま、紫煙をくゆらせている。それ以上の説明をする気はなさそうだった。
まあ、儂も内調の事情に首を突っ込む気など、さらさらないがな。
と内心で思いつつ、総長は男の名を呼んだ。
「あとな、斉《いつき》君」
「はい、なんでしょう?」
総長が、卓上の灰皿を男のほうへ押しやった。
「長生きしたけれぱ、煙草は控えたほうがええぞ」
「いえいえ」
斉と呼ばれた男は、少し短くなった煙草を灰皿に落として採み消すと、次の一本を箱から抜き取った。
「僕は長生きする気はあまりないので、おかまいなく」
新しい一本に火を点けた斉は、宙を見上げて考える。
徳川清海が大蝦夷学園へ転校するのは、まず間違いないだろう。そこまでは彼の想定どおりの展開だった。
だが、懸念《けねん》もある。
今回は、少し事を急いだ分、予想よりも撒《ま》いた餌《えさ》に対する反応が大きかった。さすがの彼も、こうまで早く本物の刺客が清海に対してちょっかいを出してくるとは思っていなかった。
斉は何度も紫煙を吐《は》きだした。総長は黙ってそれを見ている。
この先――清海が大蝦夷学園に転校した後に備えて、すでに何通りかの手が用意してあるが、最悪の場合、想定外の事態が起きる可能性もあることはある。
しかしまぁ、何か予定外のことが起きたとしても、それを乗り越えられるくらいの度量と機転を見せてくれないとな。むしろ、作り物ではない真の危機、本物の試練こそが、徳川清海の成長に繋がることだろう。
二本目の煙草を灰皿で操み消した斉は薄い笑いを浮かべた。本人には自覚がないのかもしれないが、傍《そば》で見ている者からすると、どうにも酷薄そうに感じられる笑みだった。
それに、だ。彼以外にも候補は何人もいるわけだから、万が一、危機を乗り越えられなかったとしても、徳川清海はそこまでの人間だったと諦めればいいだけの話さ。
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第四章 決意とは即ち変化を受け容《い》れる覚悟のことである
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嶽宗館《がくしゅかん》学園から戻った翌日のこと。
清海《きよみ》は自宅で、愛香《あいか》、毬藻《まりも》と共に朝食を摂《と》っていた。
清海の自宅は大江戸《おおえど》市郊外の多摩区《たまく》にあった。地域的には、我々が知っている八王子市《はちおうじし》から日野市《ひのし》の周辺である。多摩区の|J R《ジエイアール》 八王子駅《はちおうじえき》――江戸幕府《えどばくふ》の下でも構造改革は行われ、国鉄《こくてつ》は民営化されていた――周辺には武家屋敷《ぶけやしき》が立ち並ぶ一画《いっかく》があって、清海の自宅は、その外《はず》れに建っていた。この辺りは、我々が思い浮かべる都内の住宅地とは随分《ずいぶん》と様相《ようそう》が異《こと》なっていて、かなり余裕のある街並みが広がっていた。
清海が暮らすのは築地塀《ついじべい》に囲まれた庭付きの屋敷。建物は二階建てだ。周囲に点在する広大な邸宅とは比べ物にならない慎《つつ》ましい物だったが、それでも庭には樹木《じゅもく》が植わり、小振りながらも池や築山《つきやま》があった。
開《あ》け放した障子《しょうじ》の向こうに庭を眺めながら、三人はダイニングで朝食を食べている。屋敷が和風なので、食事も畳の上に座って摂るかといえば、案外そうでもない。清海の実家は昔からダイニングテーブルに椅子《いす》という食事スタイルだったので、自然、彼もそのスタイルを受け継《つ》いでいた。
周りに高い建物がほとんどないので、見上げる空がじつに広い。都心に行けば超高層ビルが建ち並んでいるのだが、郊外は低層家屋が多く、昔ながらの風情《ふぜい》、情緒《じょうちょ》を保《たも》っている。それが、この日本のいいところである。
一人暮らしとはいえ、料理人や使用人がいるから、清海や愛香が台所に立つことはない。
愛香と毬藻は昨日《きのう》と同じ恰好《かっこう》、つまリセーラー服だったが、清海は自宅用のラフな上下だ。総長公認の休日なので、朝食を急ぐ必要もない。三人はのんびりと食事をしている。
やがて、最初に食べ終えた清海が、ご馳走様《ちそうさま》、と言って朝刊に手を伸ばす。
続いて食べ終わった愛香が、ご馳走様でした、と手を合わせた。
毬藻は、まだ黙々と食べている。
立ちあがった愛香は、ワゴンのポットからお湯を清海と自分の湯飲みに注《そそ》ぎ、少し冷ましてから急須《きゅうす》に移した。日本茶を淹《い》れるのに熱湯は適さない、というのは日本人なら常識だ。
淹れたお茶を湯飲みに注ぐと、愛香は清海の湯飲みをテープルの上に運んだ。
「清海様、お茶をどうぞ」
新聞から目を外した清海が、軽く愛香に会釈《えしゃく》した。
「あ、すまない」
「いえ」
一口、お茶に口をつけた愛香は、清海がお茶を飲み終わるのを待って、彼に語りかけた。
「清海様」
「なんだ?」
「じつは、朝一番で課長から連絡がございまして」
「ん? 課長……って、つまり、愛香の上司か」
清海は新聞をテーブルに置いた。
「はい、わたくしと毬藻の直属の上司、警護寮護衛方三課の課長にございます。その課長が、清海様にお目通りしたいと申しておりました。よろしゅうございますか?」
「べつにかまわないけど、なんの用だ?」
「わたくしも詳しいことは聞いておりません。ですが、昨日《さくじつ》の件は昨日の中《うち》に報告しておきましたゆえ、それに関して何か判明したのではないか……と推察されるのでございます」
「なるほど。だとしたら会わないわけにはいかないな?」
「いえ、清海様がどうしてもお嫌で、顔も見たくないと仰《おっしゃ》るのであれぱ、課長には『おまえの顔なんか見たくねえ』と清海様が仰っております、とお伝えするのでございます」
「いやいや、そんなことは言ってないから。つていうか、会ったことないから、顔が見たいか見たくないかなんて、判らないよ」
「では、よろしゅうございますね?」
「ああ、いいよ。どうせ今日は学校を休んで暇なんだから」
「本当によろしゅうございますね?」
「……なんで、そこで念を押す?」
「いえ、さしたる意味はございませんが」
「まさか、変な奴なんじゃないだろうな?」
「まさか」
愛香が不意に立ちあがった。
「では、わたくし、ちょっと失礼して、課長に連絡してまいります」
清海に一礼すると、愛香はそそくさとダイニングから出ていった。
何か……怪しいな。
愛香がダイニングから出ていくのを見送った清海が、ふと目を毬藻に転じると、彼女はまだ食事を続けていた。
食べるのが遅いんだな、こいつ。忍者上がりなのに、それでいいのか?
毬藻に課長のことを訊いてみようかと思った清海だが、彼女の食事の邪魔をしては悪いと思い直し、黙って新聞を手に取った。
程《ほど》なくして愛香が戻ってきた。
「課長に連絡がつきましてございます。偶々《たまたま》、用事があって近くに来ているそうでして、一時間ほどでここへ来られるとのことでございますが、それでようございましたか?」
「ん、まあ、かまわないけど。特に何かやることがあるわけでもないし.じゃ、石見《いわみ》に言っておくか」
と清海が腰を浮かせそうになるのを、愛香が手で抑えた。
「家宰《かさい》殿には、わたくしがお伝えしてまいります」
「あ、そうか。悪いな。ところで、課長……」
「いいえ少しも悪くはないのでございます。では」
愛香は椅子に座る間《ま》もなく、清海に質問する暇《いとま》さえ与えずに、もう一度、足早にダイニングから出ていった。
その直後に、
「ご馳走様で、した」
という小さな声が聞こえてきた。ようやく毬藻が食事を終えたのだ。
「お粗末様《そまつさま》」
と清海が声をかけると、毬藻は、ぷるぷると首を左右に振った。
「とても美味《おい》しかった、のです」
「そりゃ、よかったけど。にしても、毬藻は食べるのがゆっくりなんだな」
と清海が言うと、毬藻は恥ずかしそうに俯《うつむ》いて、ぼそぼそと応えた。
「任務に就《つ》くとまともな食事をする、機会が少ないのでつい味わって食べてしまう、のです。すみません」
「いや、すまなくはないけど。任務中は、まともな食事じゃないのか?」
「はい、わたしは見張りなどの仕事が多いので携行食の、世話になることが多いのでして」
清海は、テレビドラマの刑事物で、刑事が容疑者の動向を見張る際に車の中でハンバーガーやおにぎりを食べているシーンを思いだした。
「そうか。なかなか大変なんだな。まぁ、俺の家にいる間は、どれだけゆっくり食べても平気だから」
「ありがとうござい、ます」
と頭を下げた毬藻が、片づけましょうか? と清海の膳を指さした。
「あ、いや、家の者が片づけにくるから、いいよ」
「そうです、か」
毬藻は自分の分のお茶を淹れると、音を立てずにそれを啜《すす》った。
「あのさ、毬藻」
「はい?」
「おまえのところの課長って、何か間題のある人なのか?」
毬藻は少し首を傾《かし》げ、いえ、と応《こた》えた。
「何も問題はないと思われ、ますが」
「そうか。なら、いいんだけど」
だったら愛香のあの態度はなんだったんだ? と清海が眩くと、それを聞きつけた毬藻が、愛香は、と言った。
「課長が少し苦手なのかもしれない、のです」
「へえ? 苦手って、どう苦手なんだ?」
「さあ?」
「なんだよ、さあ? って。毬藻が苦手だって言ったんじゃないか」
「ええ、いえ、なんとなくそう思うだけ、でして。それにわたしもあの課長は少しばかり苦手、ですので」
「毬藻は、どうして苦手なんだ?」
「恐い人です、から」
「恐い? どう恐いんだ?」
「さあ?」
がくっと、清海がずっこけた。
どうも上手く話が噛み合わないなぁ。まぁでも、毬藻とこれだけ話しただけでも、大きな進歩なのかも?
などと思いつつ、それ以上の追及を諦めた清海は、再び新聞に目を落とした。
清海が新聞をあらたか読み終えても、まだ愛香は戻らない。新聞を畳んでテーブルに置いた清海が、ゆっくりと顔を上げた。
「愛香の奴、遅いな。家宰が見つからないのか」
「捜してきましょう、か?」
椅子から立ちあがった毬藻が、傍《かたわ》らの架台《かだい》に置いてあった自分の刀を手に取った。護衛とはいえ、さすがに警護対象者と共に食事をするときは刀を外す。
「いや、さして広くもない家だ。すぐに見つかるだろ。いいから、座ってろよ」
「はい、では」
毬藻はお腹の前で内側の幅広の帯に刀を差し入れ、左腰の開口部から鞘《さや》の先端を出し、刀の位置を整えてから下げ緒を結び、鞘が当たらないように注意しながら再び椅子に腰かけた。
武士《ぶし》用の椅子は、左右非対称のことが多い。それはつまり、差した刀が邪魔《じゃま》にならないようにと、背もたれや肘《ひじ》置きがデザインされているということだ。
毬藻が座るのと同時に愛香が戻ってきた。
「ずいぶんと時間がかかったな。石見の奴、いなかったのか?」
と訊く清海に、愛香は、にんまりと微笑《ほほえ》んだ。
「いえ、家宰殿はすぐにみつかりました。来客の件、しかとお願いしてきてございます」
「にしては遅かったじゃないか。っていうか、おまえ、何か機嫌がよさそうだな」
「はい。わたくしは家宰殿から、いろいろとお話をお聞きしてきたのでございます」
清海が怪評《けげん》そうな顔になる。
「いろいろな話?」
「はい。清海様がご幼少の頃、寝小便をされて乳母《うば》殿に折檻《せっかん》されたことですとか、外で犬に追いかけられ、泣きながら逃げ帰ってきたことですとか、本宅の庭の大きな池に落ちて溺れかけたことですとか、いろいろと興味深いお話をお聞きいたしましたのでございます」
「あ」
顔を上げた毬藻が、愛香に向かって言った。
「わたしも聞き、たい」
「聞かんでいいっっ!」
「そんな殺生《せっしょう》、な」
毬藻が恨《うら》めしそうな顔を清海に向けてきた。
「何が殺生だ。っていうか、哀《かな》しそうな顔で俺を見るのは止めろ」
[はい……」
なんでこういうときにだけ表情を変えるかな、毬藻の奴。
と思いながら愛香に目を転じると、彼女は彼女で、とても楽しそうに笑っている。
「愛香も忘れろっ。聞いた話は全部っ」
「ですが」
「九十九も欠点があるおまえだ。物忘れだって酷《ひど》いんだろ!? っていうか、酷いに決まってる。その欠点を活かして綺麗に忘れるんだ!」
笑みを消した愛香が、申し訳なさそうな顔になって言った。
「わたくし、記憶力は意外とよくて」
「なんだとぉ!?」
「とくに、このような衝撃的な内容は、なかなか忘れられそうにございません」
気を落ちつかせようと、清海は大きく深呼吸した。
「だったら……聞いた話は誰にも言うな。毬藻にもだ。おまえの胸にだけ留《とど》めておけ」
「清海様」
「……なんだ?」
「わたくしの九十九ある欠点の中《うち》の一つに、口が軽い、というものがございまして」
「愛香!」
立ちあがった清海が、びしいっと愛香を指さした。
「俺を脅す気か!?」
「めめめ、滅相《めっそう》もございません」
愛香は、わざとらしく、ぶるぶると首を横に振った。
「だいたいだな、護衛方の人間が口が軽くていいのかよ!?  業務上の秘密は厳守だろ!  ほいほいと他人にしゃべるなんてことが許されると思ってるのか!?」
「もちろん、業務上の秘密は口が裂けても漏《も》らさないのでございます。ですが、プライベートの話になりますと……」
愛香が、くすっと思いだし笑いを漏らした。
「別物でございまして」
こいつめええ。
清海は握り締めた右手を、ぷるぷると小刻みに震わせる。愛香の態度を見る限り、どれほど止《と》めても脅《おど》しても、毬藻に話すのは確実だ。
いやいや、毬藻に留まらず、下手《へた》すりゃ屋敷中の者に広まってるかもしれない。そんな事態だけは避けなくては。っていうか、石見の奴、どうしてこいつに昔の話をしやがったんだ!?
一度、石見にがつんと言ってやろうと心に誓う清海だった。だが、実際に家宰の前に立つと、なかなかがつんと言えないのが清海の弱みだ。それに、家宰にがつんと言おうが言うまいが、愛香が聞いた話を忘れてくれるわけではない。
清海は必死に考えた。
仕方がない。強攻策が駄目なら、ここは搦《から》め手《て》から行くしか。
「愛香」
「はい?」
「おまえが聞いた話だって、業務上に知り得た秘密だ。そうだろう?」
愛香は不思議そうな顔で首を捻った。
「え? そうでございますか?」
「当然だろ。おまえが任務中! に入手した、関係者以外が知り得ない! 話で、しかも当の本人が他人には聞かれたくない! と言ってるんだから」
「ええ、まぁ、そう言われると……そんな気がしないでもないのでございますが」
「そうに決まってる」
「判りました。これは業務上の秘密と認定いたしまして、決して関係者以外には口外しないことを、ここにお誓い申しあげるのでございます」
はあ、助かった。
清海は大きく安堵《あんど》の息を吐《は》いた。
だが、すぐに彼は、愛香の言葉に一つ問題点があるのを悟《さと》った。
「関係者……以外?」
「はい。任務の際に知り得た秘密は、共に任務に就《つ》いている仲間とは共有するのが常でございまして」
清海が、うげっ、と小さな悲鳴を上げて、愛香と毬藻を交互に見た。
「まさか?」
「はい。わたくしが任務中に知り得た秘密は、現状、パートナーである毬藻と共有ということになりますので」
ないす愛香!
毬藻が、びしっと、愛香に向けて親指を立ててみせた。
なんてこった。逆にお墨《すみつ》付きを与えちまったぞ。
策士《さくし》、策に溺《おぼ》れるとは、まさにこのことである。
清海が、がっくりと肩を落とした。
「も、いい。俺は部屋に戻る。課長が来たら報《しら》せろ」
清海は悄然《しょうぜん》とした足取りでダイニングを後にするのだった。
「お客様がお見えになりました」
と家宰の石見が報《しら》せに来た。
自室から廊下に出た清海は、客間に向かう前に、石見に一言、注意を与えたのは言うまでもない。しかし「がつんと言う」にはほど遠い言い方だった。それでも石見は頻《しき》りに恐縮して、
「まつこと、申し訳ございません。つい口が滑りまして。ですが愛香様は、とてもよいお嬢様ですから、清海様がお気になさることはありません」
などと慰《なぐさ》めにもならない慰めを言った。
隣室には、愛香と毬藻が控えているはずなので、清海は声を落として家宰に訊いた。
「その愛香は、どうした?」
「上司の方にご報告を、と仰って、毬藻様と共に客間へ向かいましたが」
二人は、もう、ここにはいないのか。ならば。
清海は家宰に詰め寄った。
「愛香が、いいとか悪いとかの間題じゃないだろ」
「いえいえ、そんなことは。愛香様のような素晴らしきお嬢様に清海様の下《もと》へ嫁《とつ》いでいただければ、このお家も末永く安泰《あんたい》でございますのに」
「ど、どうしてそういう話になる!?」
「どうでございましょう、清海様。せっかく護衛に就いていただいたのでございますから、護衛の期間が終わるまでに、愛香様と懇《ねんご》ろな関係になってしまわれては?」
あ! まさか、こいつ、そこまで考えて、わざと愛香に昔話を漏らしやがったのか!?
愛香や毬藻と親しくなるのは、清海にとって悪い話ではない。というか、個人的には歓迎だ。将来、どうなるかなど措《お》いておいても。だが、今は心にそんな余裕がないのも事実だった。
何しろ刺客《しかく》に襲われたばかりなのだ。今後も襲われる可能性が高いからと、転校を勧《すす》められたばかりなのだ。
清海は小さな溜め息を吐《つ》いて、家宰の肩を軽く叩《たた》いた。
「まあ、そういう話は、まだ俺には早いよ。高校を卒業したら、そのうちな」
「……はい」
残念そうな顔で頭を下げた石見を残し、清海は客間へと向かった。
客間のソファには、中央に課長と思しき人物が、左右に愛香と毬藻を従えるような形で座っていた。年の頃は三十そこそこだろうか。凛々《りり》しい雰囲気を漂わせた美人で、いかにも有能そうな印象の女性だった。
清海が入室すると、三人がいっせいに立ちあがって頭を下げた。
背の低い硝子《がらす》製の卓を挟んで、清海が三人の対面に立つと、真ん中の人物が証明書を差しだした。
「徳川清海様、わたくし、香我美《かがみ》橘華《きっか》と申す者でありまして、護衛方三課の課長を務めさせていただいております。以後、よろしくお見知りおきを」
顔写真入りの身分証には、たしかに「護衛方三課 課長 香我美橘華」とあった。
若いんだな。しかも女か。愛香や毬藻が嫌がるほどの課長だから、どんな奴かと思ったんだけど……落ちついた雰囲気だし、割と真《ま》っ当《とう》そうじゃないか。
香我美橘華が着ている物は上下揃いの白っぽいスーツで、いかにも有能そうに見える。細身のスラックスの左腰が開いていて、そこに刀を差しているのは武士として当然の恰好だ。もっとも、ここは他人の家の客間であるから、今は刀を外している。
最近は女性の社会進出がいろいろなところで声高《こわだか》に叫ばれているから、護衛方の課長が女性でも、それほどの驚きはないが、彼女の若さには驚きを禁じえない清海だった。
この若さで課長ということは、武士であるだけでなく、国家上級公務員試験の甲種に受かつているということを意味する。
つまり、エリート中のエリートってことか。そこが、愛香や儘藻が苦手だと思うところなのだろうか。
それだけではない。護衛方の課長を務めるということは、剣の腕も並大抵ではないはずだ。
これが愛香と毬藻の上司ねえ。言われてみれぱ、なるほど切れ者って感じだが。
清海も丁寧に頭を下げた。
「徳川清海です。今回は、いろいろとお手数《てすう》をおかけします」
頭を上げた清海は、お座りください、とソファを指し示した。
「ありがとうございます」
香我美課長が座ると、左右の愛香と毬藻も椅子に腰を下ろした。
三人に続いて清海が腰を下ろすと、それを待っていたかのように、石見が清海のお茶を運んできた。使用人ではなく、家宰が直々《じきじき》に運んできたのは客の香我美に敬意を表してのことだ。
三人の前にはすでに湯飲みが置かれているが、まだ誰も口をつけていないようだった。
石見が下がると、清海は湯飲みを持ちあげ、
「お茶をどうぞ」
と促《うなが》した。
それで三入が湯飲みを持ちあげ、お茶に口をつける。清海もゆっくりとお茶を飲み、静かに湯飲みを卓上に戻した。
「で、今日は、なんのお話なんですか?」
「はい、それですが」
湯飲みを右手で持ち、底を左手で支えたまま、香我美は正面から清海を見つめた。真っ直ぐに背筋が伸びた姿勢が美しい。
「昨日《さきじつ》、愛生《あいおい》から報告を受けました件について探ってみたのですが、少し不審な点がございまして」
「不審な点?」
はい、と頷いた香我美は、静かに湯飲みをテーブルに戻した。それだけの所作ですら、どことなく優雅さが感じられる。
「清海様が、継承《けいしょう》順位二十八位からランクアップされたのが一昨日《いっさくじつ》のことでございます。いかにも急な話でしたので、こちらも慌てて手配をし、愛生、鞠元《まりもと》の両名を送ったのですが」
「ああ、おかげで助かったよ。護衛方の仕事の早さに、俺は感謝してる」
「ありがとうございます」
と一礼した香我美は、すぐに顔を上げ、話を再開した。
「しかし、急でございましたから、まだその情報は部内にも伝わっておりません。警護寮でも知っているのはごく一部の幹部だけ。極秘情報ですので、護衛方の現場の人間では、清海様の護衛の任に就いた愛香と毬藻以外は知り得ないことなのです」
香我美は、意味深な表情で言葉を切った。
清海は彼女の次の言葉を黙って待つ。
しばらく沈黙が辺りを支配した。
「ですが」
と、ようやく彼女は口を開いた。
「どうも、その極秘情報が他所《たしょ》に漏れているようなのです」
「なんだって?」
「確証があるわけではないのですが、しかし、そうとでも考えなければ、昨日、いきなり清海様が刺客に襲われた理由の説明がつきません」
「まぁ……そうだな。でも、説明はつくかもしれないけど、それが何を意味するわけ?」
「今のところ、意味は判りません」
と香我美が即答したので、清海は苦笑する。
「我々は背後関係を探るのと同時に、そちらも少し探ってみたのですが」
香我美は、そこで言い淀《よど》むように口を閉じた。言うべきかどうか、迷っているようにも見受けられる。
清輝が、香我美さん! と促すと、彼女はそっと上体を乗りだして既くような小声で言った。
「清海様、この話はどうか心の内に留《とど》めておいていただきたいのですが」
俺に念押しするなら、愛香にもするべきだろう……と思いつつも、清海は大きく頷いた。
「もちろんだよ」
「何者かが幕府内部に、この情報を意図的に流したと思われる痕跡がありまして」
「ええ!?」
清海はソファから跳びあがりそうになった。
「いったい誰がそんなことを!?」
「誰が、ということについても、現状、まったく判りません。そこが逆に不気味でして。とはいえ、まだ昨日《きのう》の今日《きょう》のことですから、もう少し探れば何かしら出てくるとは思うのですが、しかし、あまり深く探りを入れますと藪蛇《やぶへび》になる虞《おそれ》もありますので、事は慎重に運ばざるを得ないと考えております」
藪蛇……。
香我美がそう言うからには、彼女は幕閣《ばっかく》の誰かが絡《から》んでいる可能性までも想定しているということになる。
そこまで大事《おおごと》になるのか、と清海は愕然《がくぜん》とした。
というか、そんなことをして、誰か得する奴がいるのか? あるいは、何か得することがあるのか?
考え込んでしまった清海の代わりに、愛香が課長に訊いた。
「課長、背後関係のほうは如何《いかが》でございましたか?」
「ああ、それね」
顔を横に向けた香我美は、清海に対するのよりも幾分ざっくばらんな調子で応えた。
「そちらも、今のところ手がかりはなし。まぁ、半日やそこらでは調べ方の調査にも限界はあるでしょう。そちらも、もう少し調べれば何か出てくると思いますけど」
愛香は、了解の意を込めて頷いた。
顔を正面に戻した香我美は、清海様、と呼びかけた。それで清海は伏せていた顔を上げる。
「何か?」
「嶽宗館学園の総長から、転校を勧《すす》められたと聞きましたが」
清海は溜め息を吐《つ》いた。
「ああ、たしかにね。大蝦夷《おおえぞ》学園ってところに転校するように強く勧められたよ。少し考えさせてくれってことで、返事は保留にしてあるんだけど」
「わたくしも、清海様が江戸にいないほうがよいのではないかと考えます」
「あんたもか……」
「はい。今回の事件、どうもよく判らないことが多いのです」
「ってことは……まだ何かあるのか?」
「これは、清海様の件と直接、関わりがあるのかどうか不明なのですが、一昨日から、複数の要警護者の身辺で不可解な事件や事故が立て続けに起きておりまして」
「どういうこと?」
「清海様と同じように刺客に襲われた者、交通事故で病院に運ばれた者、過度の飲酒によると思われる心臓|発作《ほっさ》を起こした者、釣《つ》りに出ていて遭難事故に遭《あ》った者などが出ております」
「おいおい、まさか、それが全部、暗殺事件だとでも?」
「いえ、まだそうとは言い切れません。むしろ、中《なか》の幾《いく》つかは単なる事故でしょう。しかし、ここ数日に集中して起きていることを考えますと、偶然と片づけてしまっていいものかどうか。さて、そこで、です。ここ数日で何があったかを振り返ってみますと」
香我美が意味ありげな視線を送って寄越した。
「目立ったことといえば、清海様の継承順位が跳ねあがったことくらいでしょうか」
「いや、ちょっと待ってくれ」
清海が、香我美の話を遮るように右手を挙げた。
「俺の順位が上がったってことは、他にも順位が上がった者がいるんだろう?」
「はい、当然、おります。十位代後半の継承権者が、ごっそりと抜けましたので」
「だったら、俺だけに注目するってのは変じゃないか?」
「しかし、清海様のすぐ上に位置される方々は、順位こそ上ですが、現実問題として、継承会議に諮《はか》られた場合、将軍として推《お》される可能性は低い方ばかりですので」
「ああ、そういうことか」
と清海が納得するには訳がある。
将軍に何かあった場合、次代の将軍を選ぶ際に、将軍職継承会議という機関が大きな発言権を有しているのだ。
幕閣《ばっかく》や在野《ざいや》の有識者《ゆうしきしゃ》で構成されるこの会議は、様々な角度から、次の将軍に相応《ふさわ》しい者を挙《あ》げる役目を負う。
この段階で、高齢者、あるいは健康や素行《そこう》に問題があると思われる者などが篩《ふるい》い落とされる。将軍はあくまで国家の最高指導者でなければならない、という理念があるから、健康やその他《た》、問題を抱える者をその座に即《つ》けるわけにはいかないのだ。
現実問題として六十歳を越えている者には将軍職が回ってくる可能性はほとんどない。五十歳代であっても、会議の際、その年齢が俎上《そじょう》に上《のぼ》るのは間違いない。
「つまり、いま俺の上にいる連中は、年寄りが多い……ってことなのか?」
将軍職継承順位など気にしたこともなかった清海は、現在の序列と継承権者の詳細など、何も知らなかった。
「お年を召された方、あるいはご健康に不安がある方、でありますね。しかも、二十代の継承権者が一人、三十代の継承権者が一人、それぞれ昨日と一昨日、事故と事件で、一人は命を落とし、一人は重傷を負って入院されました。それも今、護衛方で大間題になっているのでありますが、それはさておき、実質的には、清海様は十二位か十三位辺りに位置されていると考えてもよろしいのではありませんか」
マジかよ。
たしかに十位そこそこであれば、命を狙われる危険は今までの比ではないだろう。
にしたってなあ……。
「先ほども言いましたとおり、いま、継承権者の周囲で事故や事件が頻発《ひんぱつ》しております。ですので、わたくしどもとしてもまことに心苦しいのですが、清海様にだけ増援を出す、ということができないのであります。そのような事情を勘案《かんあん》すれば、やはり清海様には大蝦夷学園へお移りいただくのがよろしいのではないかと、そう考えております」
香我美は熱の籠《こも》った口調でそう言った。彼女の口調からは、清海の身を案じてくれているのが伝わってくる。それには清海も感謝したいと思う。
だからといって、この場で、はいそうですか、とは言えなかった。
何といっても、いま転校するのは、尻尾《しっぽ》を巻いて江戸から逃げだすようで気分が悪い。
まぁ、俺の個人的な気分の問題なんだけど、やっぱりこういうのは、ちゃんと納得してからでないとな。
最後の手段として、自宅に家庭教師を呼んで勉強を続け、試験だけを受けに学校へ行く、という奥の手だってあるのだ。
「もう少し考えてみますよ」
と清海は気のない返事を返すだけだった。
香我美は繰り返し清海に転校を勧めた後、愛香と毬藻と簡単な打ち合わせをこなし、清海の屋敷を辞していった。
黒塗りの国産高級車「富岳《ふがく》」に乗り込んだ香我美を見送った清海は、その場で大きく伸びをして、ゆっくりとした足取りで屋敷に戻っていった。
転校……転校か。どうするかなぁ。
大蝦夷学園に転校するしかないだろうな、というのは理屈では判っている。だが、しなくても済むものなら、しないで済ませたい、とも思う。清海の頭の中は、そちらの可能性を探すことを優先させてしまった。この後、自分の甘さを、浅はかさを、清海は大いに反省することになった。
結局、その日は一日、清海はどこにも出かけずに家の中で過ごした。とはいっても、どこかの引き籠りお嬢様のように、朝から晩までゲームをしたり漫画を読んだりして、だらけていたわけではない。勉強も(少し)したし、剣術の修行だって怠《おこた》らなかった。
こと剣術の修行に限れば、学校の授業などより遙《はる》かに充実していたといえなくもない。何しろ修行の相手が愛香と毬藻だったのだから。
それに、この二人が相手だと、修行は限りなく実戦に近くなる。午後のほとんどを、庭だけでなく屋敷の中までも使って愛香と毬藻を相手に稽古《けいこ》を続けた清海は、一年間の剣術の授業で得た経験値を、僅《わず》か一日で超えてしまったような、そんな気さえした。
清海はいつになく充実した気分で夜を迎えた。
昼間の稽古の疲れが出て、清海はいつもより早めに就寝することにした。
清海の寝室に愛香と毬藻がやってきた。午後の十時頃のことだった。
夕食後は、さすがに二人ともセーラー服を脱いで私服に着替えていた。私服とはいっても、基本的に道着に袴だから――多少の装飾はあるが――見た目、それほど面白くはない。
せっかく私服に着替えるんだから、もう少し可愛い服とか着てもいいのに。
などと清海は不満に感じたが、それを口に出すことはなかった。
やはりメイド服を用意させるべきだったか。ミニスカの。
などと邪《よこし》なことまで考えたが、それは絶対に口に出せない。
畳に敷いた布団の前に胡座《あぐら》をかいた清海が、自分の前に正座した愛香と毬藻に、ご苦労さん、と呼びかけた。
「ちょっと早いけど、疲れたから、俺はもう寝ることにするわ。二人はどうする?」
軽く頭を下げた愛香が、清海の背後にある布団を見て言った。
「もちろん、二十四時間べったり警護でございますから、わたくしどもも清海様のお布団で、ご一緒に」
「……は? マジ?」
目が点になる清海である。
「もちろん、冗談《じょうだん》でございますが」
「……ああ、そう」
こいつの場合、冗談が上手《うま》いとか下手《へた》とか言う前に、なんか、からかわれてるみたいなんだよな。
「わたくしと毬藻が交代で見張りにつくのでございます。まずはわたくしが三時まで。その後、清海様がご起床されるまで毬藻が担当するのでございます。清海様は、どうぞ、ごゆつくりとお休みくださいませ」
毬藻が、愛香の言葉を肯定するように、こくこくと、首を縦に振った。
「愛香と毬藻がいてくれれば安心して寝られるな。っていうか、そもそも、この自宅まで刺客が襲って来るとも思えないしな」
「とは思うのでございますが」
「その口振り……おいおい、可能性があるとでも?」
「普通であればないと思うのでございますが、今朝の課長の話を聞くと、どうにも油断はならないと思うのでございます」
「うーん」
腕組みした清海が低く唸《うな》った。
「そんなことを言われると、おちおち寝ていられなくなるな」
「たとえ賊が忍んできても、清海様には指一本触れさせるものではございません。わたくしと毬藻の、此《こ》の刀に懸《か》けまして」
という愛香の目には、強烈な意志の光が宿っていた。毬藻も、いつもの茫洋《ぼうよう》とした表情とはほど遠い、引き締まった顔で力強く頷いた。
「ああ……ありがとうよ」
「では、毬藻は控え室で仮眠を取らせていただきます。わたくしは隣室にて見張りを」
「うん、よろしくな」
「これにて失礼させていただくのでございます」
一礼した愛香と毬藻が静かに立ちあがった。
二人が寝室から出ていくのを見送った清海は、伸ばしていた背中を丸め、ふぅ、と溜め息を吐《つ》く。
何か、昨日から溜め息しか吐《つ》いてないような気がするんだが……けど、まぁ、考えていても仕方がないか。じっさい、あの二人がいれぱ、刺客が何人来ようと後れを取ることなんかないだろうしな。
照明を落とし、布団に潜り込んだ清海は、明日からどうするかを、とりとめもなく考える。
学校に行かなくてもいいとはいえ、いつまでも家に閉じ籠っているわけにもいかないよな。家庭教師を雇《やと》うことを本気で考えるか? たぶん、事情を話せば実家から援助は出るだろうし。それとも……それとも、やはり転校するしかないのか? 大蝦夷学園に。
北海道の北端にあるという大蝦夷学園。昔の要塞を改造して使っているという全寮制の高校。
なんだかなぁ。流刑者《るけいしゃ》にでもなったような気分だぜ。
薄暗い部屋で天井を見つめながら清海はあれこれと考えを巡らせていたが、そのうちに眠気が襲ってきた。
いつしか彼は眠りに落ちていた。
誰かが清海の体を軽く揺すっている。
「……ん?」
何者かの人影が目の前にあった。
清海が跳ね起きる。跳ね起きて、傍らに置いてある刀に手を伸ばす。
その誰かが彼の耳許《みみもと》で囁《ささや》いた。甘い薫《かおり》りが清海の鼻腔《びこう》を擽《くすぐ》る。
「清海様」
目の前の人物が愛香であることに気づき、清海は伸ばした手を戻した。
「どうし……」
言葉を発しようとした清見の唇に、愛香が右手の指を置いた。
「お静かに」
愛香の言葉は囁くような小声だが、耳許で話しているので声はよく聞きとれる。清海が圧迫感を感じるほど、彼女の顔が体が近くにあった。
清海は自分の唇に置かれた愛香の指を除け、彼女に負けないくらいの小声で踊き返した。
「どうした?」
「何者かが屋敷に侵入したかもしれません」
「なんだっ……」
叫ぼうとした清海の口を、今度は愛香が右手で覆った。愛香の手の温かさが口許《くちもと》から伝わつてきて、清海の心臓はドキリと跳ねた。
「お静かにお願いいたします」
清海は無言で二、三度、首を縦に振った。
「すでに毬藻が屋敷内を見回っております。家宰殿にもお声をかけしました。家人《かじん》の皆さんと共に、どこかに身を潜《ひそ》めているようにお伝えしてございます」
「そ、そうか。けど」
清海は何かを窺うように周囲に目を配り、耳をそばだてた。
「何者かが侵入……ってのは、間違いないのか?」
と清海が囁くと、愛香は小さく頷いた。
「ただし、人数までは判りません。それほど大人数ではないと思われますが、かなりの腕であることも間違いないようでございます」
なんてこった。まさか、この屋敷にまで。
いくらなんでも自宅が襲われることなどないだろうと高を括っていた面がある。だが自分の認識は甘かったと、清海は思い知らされた。
舌打ちして、清海は改めて刀に手を伸ばす。
そのとき。
庭のほうで闘気が膨れあがり、殺気《さっき》が炸裂した。
直後に低い人の呻《うめ》き声が聞こえてきた。男の声だったから、毬藻に斬られた賊《ぞく》の者だと誰察される。
「おい、加勢に行かなくていいのか!?」
「わたくしは清海様のお側を離れるわけにはいかないのでございます」
「けど、そうすると毬藻が一人で相手をしなくちゃならないだろ?」
「毬藻なら、よほどの相手でもない限り、なんら心配はございません。また、よほどの相手である場合は正面から斬り合いません。斬りつけては逃げ、逃げては斬りつけるという、些《いささ》か武士らしくない闘い方をしますので、彼女が負けることは考えにくいのでございます」
「なら……いいんだけどな」
「それよりも、問題は」
「間題は?」
「毬藻を回避して、ここまでやって来る者がいるかどうか、でございますね」
ごくりと清海が唾を呑む。
「まあ、一人二人なら、いてもかまわないのでございますが、五人、六人となると、清海様を護《まも》りながら闘うのが、少し難しくなるのでございます」
愛香も、襲撃者の人数に拘《かか》わらず、負ける可能性など毛ほども考えていなかった。それはそ
れで心強いのだが……自分が足手まといで闘いにくいと言われてしまうと、清海としては忸怩《じくじ》たる思いだ。
と、そのとき。
庭から大きな叫び声が聞こえてきた。
「鞠元殿、ご加勢いたしますそ!」
それまで平然としていた愛香の顔色が変わる。
「あれはっ!?」
愛香は左手で鯉口を切り、跳ねるように立ちあがった。
清海にはすぐに判った。あれは家宰の石見の声だ。
「石見っ!」
「家宰殿、どうして!?」
身を潜めているようにと愛香が念押ししたにも拘わらず、家宰の石見は、毬藻と賊の斬り合いに参戦してしまったようだ。正義漢であり熱血漢である彼の人柄が、ここでは裏目に出てしまったといえる。
拙《まず》いですね。賊《ぞく》の腕が予想以上であれば、家宰殿が危ない。いえ、それ以上に、毬藻の足を引っ張りかねません……。
すぐに駆けつけるべきか、と思ったものの、しかし、愛香は逡巡《しゅんじゅん》した。
この部屋から出てしまっていいものかどうか。
愛香が駆けつければ、斬り合いもすぐに終息するだろう。だが、万が一、斬り合いを擦《す》り抜けた賊がこの部屋に辿《たど》りついたら……。
可能性は低くても清海様を危険に晒《さら》すわけにはいきません。昨日は学園で、わたくしが清海様と離れたばかりに、清海様があわやという目に遭われてしまったのですから。かといって、清海様をおつれてして乱戦の中に飛び込むのもどうかと……。
清海は愛香の逡巡を見て取った。彼女が白分の身を案じてくれているのは判る。だが、清海としては石見を放っておくことはできなかった。
愛香が俺を残して行けないのなら、俺が行けばいい。そうすれば、愛香も白動的についてくることになるんだからな。
刀を鞘から抜いて、抜き身を右手に提《さ》げた清海が歩きだす。
「清海様!」
彼の前に立ち塞《ふさ》がった愛香を、清海は左手で押し退《の》けようとする。
「退《ど》け、愛香。石見を見殺しにはできない」
愛香が右手を柄《つか》から離し、伸ばしてきた清海の左手首を握る。見た目からは想像もできないほどの握力だった。
「清海様ご自身が危険な目に遭っても、でございますか?」
愛香と清海の視線がぶつかった。清海は視線を逸《そ》らさなかった。
「むろんだ」
愛香が清海の手首を放した。
「では、わたくしが先に参ります。決してわたくしから離れないでくださいまし。よろしゅうございますね?」
「判っているよ」
障子硝子《しょうじがらす》を開け放し、愛香が廊下に出た。降り口に置いてある草履《ぞうり》を履いて彼女が庭に降りると、その後に清海が続いた。
庭の片隅で今も斬り合いは続いているようだ。時たま刀と刀がぶつかる甲高い音が響くが、声は聞こえてこない。毬藻も刺客も、一声も上げずに闘っているのだ。それこそがプロの業《わざ》というものだろう。
だが、と愛香は暗い気持ちになる。
家宰殿が無事であれば……。
プロではない彼だけは掛け声を上げているはずなのだ。だが、何も聞こえないのなら、彼はすでに……。
そのとき、自分たちに向かって横から突進してくる者の気配《けはい》に愛香が気づいた。
やはり、毬藻を回避した者がいたのだ。
敵は二人。
そう判断した愛香は、清海を護るべく、滑らかな足運びで立ち位置を変えた。
左手の屋敷を背負う位置に移動した愛香は、斬りつけてくる者の初撃を難なくかわし、すれ違い様《ざま》に抜刀《ばっとう》した。
愛香の刀は賊の腹部を両断する。
見事に上半身と下半身に分かれた賊は、しかし低い悲鳴を上げただけだった。そいつは最期《さいご》の瞬間までプロだった。
残りの一人は愛香が斬りつけた瞬間を狙ってきた。見ようによっては、最初の者を囮《おとり》に使ったとも取れる。仕事を成功させるためなら手段を厭《いと》わないという、これまたプロの遣り口だ。だが、プロとしての比較なら、愛香は襲撃者の蓬か上を行っている。相手の攻撃などお見通しという対応で軽々と体をかわし、敵に空《くう》を切らせる。
直後、愛香の刀が一閃《いっせん》した。
相手の右腕の肘から先が地面に落ち、男は大きく仰《の》け反《ぞ》った。その瞬間に、愛香は切っ先を男の喉《のど》に突き入れる。
切っ先は男の喉を貫き、反対側に飛びでた。
すでに男は絶命していた。
凄い。やはり愛香は凄い。
清海は命を狙われたことも忘れ、愛香の華麗な身のこなしに見惚《みほ》れていた。
男の喉から刀を引き抜いた愛香は、鋭《するど》く血振《ちぶ》りをした後、静かに納刀《のうとう》した。
「清海様、急ぎましょう」
「あ? ああ、そうだな」
二人は毬藻が闘っている場所へ向かって駆けだした。
愛香と清海が駆けつけたとき、すでに戦闘は終結していた。
毬藻の足下《あそもと》に転がっている賊の遺体は六つ。愛香が斬って捨てたのが二人。
「毬藻、敵は全部で何人?」
と愛香が訊くと、毬藻は低く抑えた声で応えた。
「十人」
二人、逃げたか。だが、それよりも。
愛香は、もう一度、倒れている賊の遺骸を冷ややかな目で見下ろす。
十人も投入してきたというのが……。しかも、あの二人、それなりの腕だった。闘い方も間違いなくプロ。毬藻が六人を斬るのに、少し手間取ったというのも、相手がそれなりの腕の者を揃《そろ》えてきたという証左《しょうさ》。しかし、清海様の自宅に十人……。
これをどう見るべきか。
周到だと考えるか。それとも急ぎすぎだと取るべきなのか。
いずれにせよ、尋常《じんじょう》な事態ではない。尋常な事態では……。
物思いに沈んだ愛香の思考を、毬藻の声が打ち破った。
「清海、様……」
沈んだ声だった。
「どうした?」
「ごめんな、さい」
「は? 何が?」
毬藻がそっと左手を挙げた。
「!」
庭に配された岩の陰に、もう→人、倒れている者がいた。深夜、灯りのない庭。しかも、辺りには襲撃者の血の匂いが立ちこめている。清海が気がつかなかったのも無理はない。
「石見!?」
慌てて清海が駆け寄っていく。その後に毬藻が、さらに愛香が続いた。
倒れていたのは、まさに家宰の石見だった。
「石見!」
清海が傍らにしゃがみ込み、大きな声で呼びかけた。だが、返事はない。
「斬られたのか!?」
血走った目で、清海が石見の体を見渡す。だが、どこにも斬られた痕は見当たらなかった。
「怪我は……してないようだな」
清海が安堵の息を吐《は》くと、再び背後で毬藻の、ごめんなさい、という声が聞こえた。
首だけを後ろに回すと、頭を下げている毬藻が見えた。
立ちあがった清海が、毬藻に相対した。
「どういうことだ、毬藻?」
「あの……」
毬藻は少しだけ顔を上げ、上目遣いに清海を見たが、すぐにまた視線を落とし、消え入りそうな声で応えた。
「わたしが殴り倒し、ました」
「はあ!?」
「あのまま賊と斬り合いに、なると家宰殿が危ないと思いまして。それでわたし、咄嵯《とっさ》に背後から頭を」
一つ大きく息を吸い込んだ清海が、もう一度、石見の傍らにしゃがみ込んだ。彼の体の脇に、バールのような金属製の工具が落ちていた。
毬藻の奴、これで? っていうか、こんな物まで持ち歩いてるのか。
清海は、そっと石見の頭に手を差し入れて軽く持ちあげてみる。
「あ!」
彼の後頭部には大きなコブができていた。
清海は静かに石見の頭を下ろす。
「すみません、でした」
またも毬藻が頭を下げた。
「いや……」
清海はもう一度、大きく安堵の息を漏らした。
「まぁ……石見の命に別状がなければ……いいんだ」
愛香も密かに胸を撫《な》で下《お》ろしていた。
家宰殿の声が聞こえなくなったから、てっきり……。けれど、なるほど、毬藻の判断は正しかった。あのまま家宰殿が賊の相手をしていたら本当に斬られていたかもしれない。ですが、毬藻の判断を清海様が判ってくださるだろうか。
闘いの邪魔だからといって石見を殴ったのか!? と清海が怒りださないか、それが愛香には少し心配だった。
だが、清海は。
「毬藻の判断は正しかったんだろう。いくら石見が腕利きだといっても、プロの刺客を相手に斬り合えぱ、どうなるか判ったものじゃないからな。下手《へた》すりゃ死んでたかもしれない。それに愛香に隠れていろと言われたのを無視して、のこのこ出てきたんだ。コブの一つくらいで済んだのは、むしろラッキーだったと思うべきだな」
よかった。やはり清海様は理性的な思考と判断ができる御方だ。
改めてそのことが確認できて、愛香は嬉しく思った。
そのとき、低い呻き声が上がった。
清海が目を落とすと、石見の体が微《かす》かに動いた。
「石見?」
と呼びかけると。彼は薄く目を開いた。
「きよみ……さま」
「大丈夫か?」
「ええと……わたしは……あぅ」
石見が右手を挙げ、自分の後頭部を押さえた。
「あぁ、いや……」
正直に話したものか、清海は少し迷った。だが、どうにも誤魔化しようがないので、結局、すべてを正直に石見に話した。
「そうで……ございましたか」
後頭部を手で押さえたまま、石見が力なく笑った。
「ごめんな、さい」
進みでてきた毬藻が、家宰に向かって大きく頭を下げると、石見は、いいんですよ、と手を振ってみせた。
「愛生様のお言いつけを守らなかったわたしが悪いのですから」
「そうだ、石見、おまえが悪い」
立ちあがった清海が、腕を組んで石見を見下ろした。
「いくら腕に自信があったとしても、相手はプロの刺客なんだ。おまえが斬り合いに出ていっても、毬藻や愛香の助けにはならない。むしろ、邪魔になる。餅《もち》は餅屋、適材適所って言葉があるだろう? こういう斬り合いはな、毬藻や愛香のようなプロに任せておけばいいんだよ。その場限りの感情や意地なんかで行動してると痛い目見るぞ。そしてそれは本人だけじゃなく、周りにだって迷惑をかけるんだ」
と言いつつ清海は、いま言ったことは全部自分にも当てはまるな、と思った。石見を叱《しか》ったつもりが、結局、自分を叱ることにもなって、清海は苦笑せざるを得なかった。
もそもそと起きあがった石見が、清海の前に跪《ひざまず》き、額《ぬか》ずいた。
「清海様の仰《おお》せは、まこと、ごもっとも。石見重太郎、清海様のお言葉を肝《きも》に銘《めい》じておきますゆえ、何とぞお許しを」
清海が慌てて手を振った。
「いや、べつに許すとか許さないとかじゃないけど」
それから片膝を落とした清海は、平伏している石見の肩にそっと手を置いた。
「もう年なんだから、あまり無茶するなよ」
「ありがとうございます」
愛香は、そっとその場を離れた。
清海様は事の善悪の判断ができるだけではなく、相手のことを思い遣《や》ることができる御方だ。徳川家の血筋にしては、随分とお優しい。そう言えば雪乃嬢《ゆきのじょう》も、清海様の優しいところが気に入った、などと仰《おっしゃ》っていたが、なるほど、こういうところなのかな。それにしても。
愛香は肩越しに、ちらっと背後に視線をやった。
石見はまだ謝っているし、清海は、いいからもう立てよ、と促している。その横では毬藻がじっと立ち尽《つ》くしている。
愛香は、ふふ、と小さく笑った。
清海様は善い御方だ。わたしが命を懸けてでもお護りするべき価値がある御方だ。
愛香がそんなふうに思うのは、久しぶりのことだった。
少し庭を歩き、築地塀《ついじべい》の手前で足を止めた愛香は、笑みを消し、腰に差してあった携帯電話を抜いた。
「あ、課長、愛香でございます。夜分遅くに申し訳ございません」
寝起きを感じさせない鋭い声で、香我美は短く訊いてきた。
「何があった?」
「はい、じつは………」
愛香が事件の報告を終えると、香我美は、
「すぐに行く。二人は現場《げんじょう》を維持して待機」
と即答して携帯を切った。
愛香は自分の携帯電話を腰の収納ケースにしまうと、ふと空を見上げた。
雲の切れ間から輝く半月が顔を覗《のぞ》かせ、辺りに銀色の月光《げっこう》が降り注いできた。
ああ、美しい月だな。こんなふうに空を見上げ月を見るのも、偶《たま》にはいいものだ。
柄《がら》にもなくそんなことを考えながら、愛香はその場に立っていた。
やがて遠くから警邏車《けいらしゃ》のサイレンの音が聞こえてきた。
土岐川《ときがわ》清海|邸《てい》襲撃事件の後始末の陣頭指揮を執《と》ったのは、警邏の責任者ではなく、警護寮護衛方三課長の香我美橘華だった。護衛方の任務中の事件であり、要警護対象者を狙った襲撃であることが明白なための措置《そち》だった。襲撃犯の遺体も警護寮が51き取り、背後関係などの調査を行う手筈《てはず》になった。
だが、あからさまに警備の要員を増やすと、清海が特別の存在であることが近隣の住民に知られてしまう虞《おそれ》がある。清海の血筋は、現状、極秘事項なので、対外的には、香我美は事件を、あくまで単なる強盗事件で押し通さなくてはならなかった。
単なる強盗事件であれば、清海の屋敷を護る警灘や護衛方の人員を増やすわけにはいかない。
夜明け前までには、集まった警邏も護衛方も、そのほとんどが引き揚《あ》げていった。残ったのは数人の警邏だけで、それも外から目立たないように、屋敷の内外にそっと立っているだけだ。その程度なら、事件の現場を維持しているだけに見える。
静けさが戻ってきた屋敷の中で、香我美は改めて愛香から報告を受けた。毬藻と清海も同席していたが、毬藻は元から口数が少ないので、特に何かを訊かれた場合以外は、ほとんど口を開かない。
愛香が報告をする間、清海は無言を貫いていた。
愛香が詳しい報告を終えると、香我美が質間を開始する。まずは清海に対して。
香我美が質問をすれば、清海は的確に応えた。だが香我美は、清海が質問に答えながらも、ずっと何かを考え続けていることに気づいていた。
清海が寝入った後のことは、彼に訊いても何も判らない。香我美は、襲撃者侵入時の様子を愛香と毬藻に念入りに問い質《ただ》した。香我美の質問は鋭く的確で、部下に曖味《あいまい》な答えを許さない。
なるほど、二人が苦手に思うわけだ。というか、俺も苦手だよ、こういう人は。
清海、愛香、毬藻の三人を解放した香我美が、待たせてあった部下と共に引き揚《あ》げていったのは、すでに夜明けも間近な時刻だった。
10
その後、清海は、泊まりで勤めている奉公人《ほうこうにん》たちを集めた。石見を除くと、今夜、屋敷にいたのは三人だった。その石見は、念のためということで布団に横になっている。
「毬藻に後頭部を強く殴られたのですから、あまり動かないほうがいいでしょう」
という愛香のアドバイスを、石見は今度は素直に聞いた。
「不安に思っている者がいたら、遠慮は要らない、屋敷から引き揚げてくれていい。事態が落ちつくまでは、ここに来なくてもかまわない。もちろん、その間も給金は払う」
清海がそう言っても、引き揚げようとする奉公人はいなかった。学校では適当でいい加減で、あまりやる気を見せない清海だが、少なくとも自宅では奉公人に好かれているのが判る。
それを見て、愛香は微笑《ほほえ》ましく、同時に頼もしく思った。
自宅が襲われるという危急の事態に直面しながら、奉公人にさえも思い遣りを忘れず、主人としてきっちりとした対応を見せるのは、さすがでございますね、清海様。
奉公人たちを自室へと引き取らせると、清海も自分の部屋に引き返した。
「俺は少し寝るよ。愛香と毬藻も、寝られるなら寝ておいたほうがいいぞ。いくらなんでも、もう今日は何もないだろ」
二人にそう言い残して、清海は自分の寝室に入った。少し思い誌めたような表情だったのが愛香には気にかかる。
ですが、清海様が何を考え、どう決断されようと、わたくしと毬藻は、あの御方についていくだけ。そうして、あの御方をお護りするだけ。此《こ》の刀にて。
愛香は愛刀の柄《つか》を右手でそっと撫《な》でた。
「さてと、どうしようか」
縁側に立った愛香は、白々《しらじら》と明けてきた東の空を見上げて大きく伸びをする。
襲撃があったのが、愛香が不寝番《ねずのばん》に就《つ》いていた時間――午二時頃――だったから、彼女は結局、一睡《いっすい》もしていないことになる。
「愛香少し寝て、きたら?」
と毬藻が気を使ってくれた。
「わたしは寝た、から平気」
「そうだな。そうさせてもらおうか。今日も忙しくなるかもしれないものな」
毬藻が、こくりと頷いた。
「昼前には起きるつもりだが、もしも起きてこないようなら、起こしてくれ」
毬藻が、もう一度、頷いた。
忙しくなるかもしれないという愛香の予想は当たった。だが、忙しさの内容は、愛香や毬藻が考えていたのとはまったくの別物になった。
11
午前十一時を回った。
清海の寝室の隣室に控えていた毬藻が、愛香を起こしに行こうかと腰を浮かせかけたとき、縁側《えんがわ》に面する障子《しょうじ》が開いて愛香が入ってきた。そのままの恰好で寝たらしく、彼女の道着と袴は少し皴《しわ》になっている。
毬藻はそのまま立ちあがって愛香を手招き、縁側に出た。
毬藻が草履を履いて庭に下りたので、愛香も彼女に続いて庭に出た。
「どうした、毬藻?」
まだ清海が寝ているだろうと思い、愛香の声は騒くような小声だった。
「それが」
毬藻が顔を寄せてきた。彼女も寝ている清海に配慮したのだろうと思った愛香だが、毬藻の言葉は彼女の予想を裏切った。
「……清海様あれからずっと起きて、いたみたい」
「本当か?」
「間違い、ないと思う」
「そうか」
やはり清海様は何かを考えていらしたのだ。はて、何を考え、どういう決断をされたのか。あるいはまだ決断には至っていないのか。
清海の決断|次第《しだい》では、護衛の任務がさらに困難になるかもしれない。だが、どれほど困難な状況であっても警護の対象者を護らなくてはならない。
それが護衛方に属する武士の本分というもの。警護対象者が清海様であれぱ、なおさらです。
愛香が自分で自分に気合いを入れようと思ったそのとき、不意に清海の寝室の障子が開いた。ぎくりと、愛香と毬藻が振り返ると、そこには、眦《まなじり》を決した清海が立っていた。
「愛香、毬藻」
「はい、なんでございましよう、清海様」
愛香と毬藻が、彼の下《もと》へと急ぎ足で歩み寄っていった。
縁側から庭の二人を見下ろした清海は、一言、
「行くそ」
と言った。
「ええと……ご登校なさるのですか?」
「違うって。俺が嶽宗館《がくしゅうかん》学園へ行ったら、他《ほか》の生徒に迷惑がかかるだろ」
それはそのとおりでございますが。
「タベのことで思い知ったよ。無関係の者にしてみれば、俺の存在は迷惑なんだってことが。学校へ行ったら、最悪、昨夜の二《に》の舞《まい》になる」
それも、そのとおりでございますが。
清海がそれを判ってくれたのは、愛香や毬藻にとつては喜ばしいことだ。
しかし、だとしても、清海様はどちらへ行こうと仰っているのか?
と愛香が小首を傾げると、清海が焦《じ》れたように叫んだ。
「だから、大蝦夷《おおえぞ》学園へ行くんだよ。このまま家にいても、学校に行っても、きっとまた誰かに迷惑をかける」
清海が宙を見上げ、力強く言った。
「俺が学園総長の言葉を容れて、さっさと転校していれば、昨夜の襲撃だってなかった。石見や家人たちに迷惑をかけることもなかった。そうだろう?」
清海が顔を戻した。愛香と毬藻を見る彼の目には強い意志の光が宿っている。
「無関係の者を巻き込んじゃいけない。それを避けるためには、俺個人の好き嫌いなんて言ってちゃいけない。俺個人の都合なんて、二の次、三の次だ。だから俺は大蝦夷学園へ転校することにした」
愛香と毬藻が顔を見合わせていると、清海は胸を張って言った。
「それが、俺が出した結論だ」
清海に向き直った愛香と毬藻が領いた。
清海様が結論を出された以上、わたくしや毬藻が言うことは何もありません。護衛としては、清海様の行くところに同道するだけです。
むろん、毬藻も同じ思いだ。
これでわたくしと毬藻の仕事の困難さは大いに軽減されたと言えますね。江戸に残ったまま嶽宗館学園に通うよりも警護の仕事は遥かにし易《やす》くなるはず。でも、そんなことは些細なこと。わたくしはとても喜んでいるのです。誰かに強制されるのではなく、昨晩の襲撃事件を受けて考えた清海様が、正しい結論を導きだしてくださったことを。
「判りましてございます、清海様。不肖《ふしょう》、この愛生愛香と鞠元毬藻、清海様と共に大蝦夷学園へと出向き、必ずや清海様の御身《おんみ》の安全を確保いたすのでございます」
「ああ、頼んだぜ。愛香、毬藻」
愛香と毬藻が力強く頷いた。
「お任せください」
「任せ、て」
12
こうして徳川清海は、愛生愛香、鞠元毬藻の二人と共に自宅を離れ、蝦夷地《えぞち》にある全寮制の高校、大蝦夷学園へと転校することになった。
徳川清海は決断を下し、新しい一歩を踏みだしたのだ。同時に、彼と二人の護衛役の新たな闘いが、蝦夷という新天地で始まることになった
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あとがき
初めましての方、初めまして。いつもの方、毎度ど〜も。舞阪《まいさか》 洸《こう》です。新しいレーベルで一作目を出すときは緊張するものですが、今回も例外ではありません。緊張しています。
さて、本作は「せっかく習った居合《いあい》いの知識と実践を活《い》かして何か作ろう第二弾」(ちなみに第一弾は「狗牙絶《くがた》ちの劔《つるぎ》」)なのですが、ここに至るまで、かなりの難産でした。
振り返ってみれば、企画書代わりに冒頭三、四十枚ほどを書いてK村編集長に提出したのが、かれこれもう一年前。企画自体は割とすんなり通りました。というか、提出した翌日にはOKが出ていた(笑)ような気がします。執筆も順調に進んで、去年(07年)の十一月末に原稿は完成していたのです。当初の予定では今年の二月に発売になるはずでした……が、そこからが長かった。いったん決まりかけた絵師さんが郡合《つごう》で駄目《だめ》になり。他《た》の侯補者はスケジュールが合わずに次から次へと轟沈。一時は「本当に出るのか、これ?」などと、どんよりとした暗い気分に包まれたこともありましたよ。それがこうして発売にこぎ着けたわけで、大きく安堵《あんど》の息を吐《は》いております(といっても、これを書いてる時点ではまだ出ていないので油断はできませんが)。
さて、「狗牙絶ち」も本作も「現代でチャンバラをやらせよう」という狙いで作られていますが、しかし、その舞台設定は大きく違っています。「狗牙絶ち」の場合、「現代そのものでチャンバラをやらせるにはどうしたらいいか」という観点から設定が作られていて、そのため狗牙《くが》も狗牙絶ち衆も人知れず密《ひそ》かに活動しています。肝心《かんじん》のチャンバラも普通の人の知らないところでひっそりと行われているのです。
一方、本作の場合、もっと堂々とチャンバラしよう……というか、みんながチャンバラしている世界を創《つく》ろう、とまあ、そういう狙いで考えられているのです。そんな世界を考えるとき、大いに参考になった――インスパイアされた――のが「銀魂《ぎんたま》」なのです(わたし、[銀魂」の大ファンなんですよ)。ところで、原稿を書き終わった後、島田荘司《しまだそうじ》さんの新シリーズの紹介文を読んで腰が抜けるほどたまげました。うん、まぁ……そういうこともあるよね。
ということで、表面的には似ていても根本思想が異なっている「狗牙絶ちの劔」と「サムライガード」ですが、もちろん共通項もあります。それは「セーラー服」「美少女」「日本刀」という三つのキーワードに集約されるでしょう。なんだかんだ言っても、結局はこれがやりたかったのだというのが本音《ほんね》かもしれません。
似ているようで違っている「狗牙絶ち」と「サムライガード」、読み比べてみると、きっと楽しさ三倍増です。ちなみに門狗牙絶ちの劔1」は、富士見ファンタジア文摩から絶賛発売中でありますので、よろしかったら、ぜひどうぞ。
この企画に「GO」を出してくださったK村編集長、様々な困難にも負けず発売にこぎ着けてくださった担当K本氏、急逮《きゅきょ》、イラストを引き受けていただいたにも拘《かかわ》らず、ぎりつぎりのスケジュールの中、魅力的な愛香《あいか》と毬藻《まりおも》を描いてくださった絵師の椎野唯《いしのゆい》さん。お三方には伏《ふ》してお礼を。
しかし……いま気がつきましたが、わたしの担当さんとか、やたら「K」の人が多くね?
ちょっと数えてみましょう。
ファンタジア文庫の編集長がK藤氏で、新担当がK藤さん[Kの字&藤の読みは違う)。
ファミ通文摩の編集長がK西さんで、担当がK崎氏。
『ドラゴンエイジ』の編集長がK原氏で、担当がK嶋氏。
そしてGA文庫の編集長がK村氏で、担当がK本氏。
うわ? 「K」ばっかじゃん! なんでやねん!? なんで「K」の人ばっかやねん!? 誰かの陰謀ちゃう?
舞阪の、担当三人集まれば、KKKだよ危ねぇな(短歌ふうに詠《よ》んでください)。
というのは、まぁ、どうでもいいことなんですが(ホントにどうでもいい)。
次巻では蝦夷地《えぞち》が舞台となります。蝦夷。つまり北海道《ほっかいどう》ですね。
北の大地では、どんな騒動が三人を待っているのか。愛香&毬藻と清海の関係に何か変化が出るのか。雪乃《ゆきの》を含めて、ラブ的(笑)な進展はあるのか。舞阪名物新キャラは、どんな女の子なのか。
ちなみに今の予定だと、欧州《ヨーロッパ》からの留学生である金髪碧眼《きんぱつへきがん》の女の予が出るんじゃないかなと思ったり思わなかったり。ただし。それはあくまで予定なので、出なかったらごめんなさい。何しろプロット立てませんからね、わたしの場合。書いてみるまでは、お話がどう転がるか、どんな新キャラが出るのか、作者にも判らないんですよ。凄いでしょ? (威張《いば》るな!)
まぁ、最終的には七人の女の子が登場して「七人のサムライガード」になるんじゃないかなと思ったり思わなかったり。嘘《うそ》ですが。とはいえ瓢箪《ひょうたん》から駒《こま》が出たり、嘘から真《まこと》が出たりする可能性がないこともないです。そこまで続けばね。続くといいなぁ。
では、二巻でお会いしましょう。きっとおそらくたぶんひょっとしてもしかすると秋くらいかもしれません。その前に。七月には「鋼鉄《はがね》の白兎騎士団《しろうさぎ》Z」がファミ通文庫さんから出ますので、そちらもよろしく! なのであります。
[#地から2字上げ]二〇〇八年五月吉日 舞阪 洸