福永武彦
風土
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[#裏表紙(表紙2.jpg)]
この作品は
堀辰雄《ほりたつお》に
捧《ささ》げられる
[#ここから地付き]
或《あ》る朝、わたくし等は出発する、脳漿《のうしよう》は焔《ほのお》に燃え、
怨嗟《えんさ》と味にがい慾望とに心は重く、……
ボードレール「旅」
[#ここで地付き終わり]
[#改ページ]
第一部 夏 ――一九三九年――
一章 再会
1
何という素晴らしいお天気だろう、今日は何でも道子さんに言えるぞ。砂丘の上に立って海を一眸《いちぼう》の下に見渡しながら、早川久邇《はやかわくに》は大きく息を吐いて、決心したように呟《つぶや》いた。明るく、眩《まぶ》しく、小気味よいほどに晴れ上った日だった。夏は既に季節の幕を開いていた。空には陽《ひ》の光が砂よりもなお小さく飛び散って、眼に痛いほど一面にきらきらしている。思わず飛び上るほど熱した砂、濃い紺青の海の色、そして水平線を劃《かぎ》っているむくむくした入道雲。夏は到《いた》るところに季節の旗を振りかざしている。少年は、急いで歩いて来たため流れ出る額の汗をタオルで拭《ぬぐ》いながら、午後のかっかと燃える太陽に全身を曝《さら》したまま、パラソルの蔭《かげ》に身を入れようともしない。赤と黄との西瓜模様《すいかもよう》の附いたビーチパラソルの中には、脱ぎすてられたケープやバスケットが、人待顔に投げ出されているばかり。少年は少し眉《まゆ》をひそめて、渚《なぎさ》の方を見詰めている。色とりどりの海水帽や水着の類《たぐい》が、砂と波とを背景に互に混り合いながら、一つの雑色になって眼にちらちらするから、目指《めざ》す人を見定めるのは容易ではない。が、久邇の顔は暫《しばら》くすると晴々と笑って、高く右手を振った。無邪気な悦《よろこ》びに充《み》ち満ちている。
今日は何でも言えるぞ。少年はもう一度言葉に出して呪文《じゆもん》のように呟いてみた。赤く焼けた太陽が、蒼穹《そうきゆう》の一角から励ますように彼を見下している。そしてこの広々とした海の眺《なが》め……。だが、何を道子さんに言えばいいのか、実はそれがまだはっきりと分ってはいない。何でも言える、が、何を? 僕は、何が一体そんなに嬉《うれ》しいのだろう、と久邇は心に尋ねてみる。それは、この晴れわたった明るい夏の午後のためだろうか。今しがた僕が書きとめて来た即興曲、僕の作品第六番のためだろうか。それとも道子さんの……。そう、それはみんな本当だ。つまりは僕が、道子さんを好きなことから始まっている。それが今日、僕にはっきりと分ったのだ。さっきピアノを弾《ひ》いていた時、僕には、道子さんが僕にとって大事な、大事な人であることが、胸の痛くなるほどよく分った。不思議な分りかただった。そしてそれと共に、今までただのお友達にすぎなかった道子さんが、それ以上のものに思えて来た。じゃ、そう言おうか。君がとっても好きなんだと、そう言ってしまおうか。しかしそんなことはもう分っている。それに、口には出しては言いにくいなあ。一体何と言えばいいんだろう……。そして久邇は、内気な悦びに頬《ほお》を赧《あか》らませた。眼は、渚から人々の間を縫って自分の方へ歩み寄って来る友達の姿を、微笑の中に捉《とら》えて離さない。何でも言える、ともう一遍考える。よし、思い切って言ってしまおう、何でもいい、何かを。そして久邇の頭脳の中を、今朝思いついた即興曲のリズムに乗って、或る考えが閃《ひらめ》きのように早く流れて行く。
――ああ、くたびれた。
少女は大胯《おおまた》に久邇の側《そば》まで歩いて来ると、水に濡《ぬ》れた肌《はだ》を惜しげもなく砂にまみらせながら、胡坐《あぐら》をかくような形で坐った。久邇がにこにこして話し掛けようとした時、道子の方が先を越す。
――久邇さんたら、どうしていらっしゃらなかったの、どうしてお迎えに来て下さらなかったの?
怒ったみたいに唇《くちびる》を尖《とが》らせている。今まで水に漬《つか》っていたせいか、形のいい小さな唇が紫に近い朱色になって微《かす》かに顫《ふる》えているのが、少年の眼には相手が本気になって怒っているように見える。久邇は意想外の相手の言葉にびっくりして、せっかくの愉《たの》しい気分が潮のように引いて行くのを感じる。彼は思い出した、毎日の午後、海に行きがけに道子さんを誘うといういつもの約束を、今日初めて反古《ほご》にしたことを。
――今さっきね、と口籠《くちごも》った。お家へ行ってみたら小母《おば》さまお一人で、お庭で本を読んでいらっしゃった。道子さんたちとうに海へ行ったと聞いたもんだから、僕これでも大急ぎで飛んで来たとこなんだ。美代ちゃんは?
――そんなに待ってはいられないじゃありませんか、いつだってお昼御飯のじき後に来て下さるのに。あたし、今日はお八つ近くまで待ってたことよ。道子はそう言い捨てると、つんとして海の方を見た。そして附け足した。……美代はまだ泳いでるんでしょう。あたし知らないわ。
女中のことなぞ言い出されたのが、いかにも癪《しやく》に障《さわ》るという口ぶりだった。
久邇はどぎまぎした。美代という若い漁師の娘は、お伴をして来たのをいいことに、今日もまた伸々と沖の方まで泳いで行ったに違いない。久邇が思わず道子に釣られて海の方を見ても、到底見さだめることは出来なかった。それに美代のいるいないはどうでもいいことだ。僕はまたなぜ、美代ちゃんのことなんぞ訊《き》いたのだろうか。
――今日遅くなったのはね……。
久邇は言い澱《よど》んだ。何でもこういう弁解じみたことを口にするのは厭《いや》なものだ。先生の前に立たされている僕。お父さんの前でもじもじしている僕。いつでも怒られている時にはうまい文句がいっこう浮んで来ないのだ。しかし、と思い直す。しかし、今は何でもない。相手は道子さんだし、遅くなったのはピアノのせいなのだ。そのピアノも、今日は素晴らしい収穫があったのだから。そう考えると久邇は急にまた嬉しくなって来た。思うことを全部一息に言ってしまおうとして、彼は早口に喋《しやべ》り出した。
――今日はお稽古《けいこ》をしているうちにね、急に気が向いて来たものだから即興を弾き始めたんだよ。それがまた面白いように次から次へ拡《ひろ》がって行って、何て言うかな、まるで花火みたい。その主題がとても素晴らしいんだ。それがね、こういうの……。
少年はすぐに右手の人差指を昆虫《こんちゆう》の触手のように鋭敏に宙に打振りながら、彼の謂《い》わゆる素晴らしい主題を小声で口吟《くちずさ》み始めた。浜辺《はまべ》に群れている人々の話声も、単調な波の響きも、ポータブルの掛けている流行のダンス曲も、何ひとつ聞えないようなうっとりした眼つきをしている。唇から踊り出した音楽のメロディが、小さな妖精《ようせい》たちのように少女の廻りをひらひらした。それでも、道子はいっこうに御機嫌《ごきげん》を直そうとしない。拗《す》ねたように口を挟《はさ》んだ。
――それで、ピアノの方があたしより大事だったというわけ?
久邇はびっくりして、半ば口を開いたままで旋律をやめる。その唇が女の子のそれのような可愛《かわい》い形のままで動かなくなった時に、音楽もまた、急に日光の下に曝《さら》された氷片のように溶けてしまう。いいや、決してピアノの方が大事だったわけではない。勿論《もちろん》道子さんの方がずっと大事なのだ。海に行くのが遅れたのも、もとはといえば道子さんに関係がある。そうだ、思えば今がチャンスなんだ。道子さんがわざわざ僕に助け舟を出してくれてるんだ。きまり切ってるさ、そんなこと、と言えばよい。ピアノだって何だって、道子さんほど大事なものは何もありはしないよ、と。久邇は機敏にそう考えた。が、どうしたというのだろう。彼が口にしたのはやっぱりピアノのことだった。
――きまりきってるさ、そんなこと。……でもね、今日の即興曲は間違いなしにいいものになりそうなんだよ。僕じきに書きとめておいた。早く出来上るといいなあ。今まで僕の作ったものの中で一番自信があるんだ。
厭だわ、と道子は唇を噛《か》んで考えた。御免ね、遅くなって、と一言おっしゃれば済んじまうのに。なぜ久邇さんたら、大事ないつものお約束を破っておきながら、それを謝《あやま》ろうとはなさらないのだろう。おっしゃるのはピアノのことばっかり。ピアノをたねにしてごまかそうとなさっている。謝るのがそんなに癪《しやく》なのだろうか。
少年の方は謝るなどということは全然考えていなかった。約束は必ず守らなければならない。が久邇は、自分が即興曲を一つ作ったことが、きっと道子の気に入る筈《はず》だと考え込んでいた。もしただ謝りさえすれば相手の御機嫌が直ると教えられたなら、久邇は悦んでその通りにしただろう。彼はそれに気がつかなかった。
――弾いて聞かせてあげるからね、と言った。
少女は黙ってしまった。久邇は横眼で窺《うかが》ってみる。海水帽からはみ出した鬢《びん》の毛が、海の微風にやさしげに戦《そよ》いでいる。つんと澄ました時、正面から見るときつい感じのする道子の顔も、横顔は、やっと子供らしさが抜けたというだけのあどけなさだった。そしてこの横顔を見詰めていると、それだけで、さっき歩いて来た時の嬉しさが、そしてこの少女が、自分の一番仲好しの友達なのだという誇りが、また意識の閾《しきみ》に昇って来た。何か言おう、何でもいい。そして考えてみる、さっき何を閃きのように言おうと思ったのかと。
――即興曲じゃ平凡だから何かいい題が見つからないかしら……。
いやそんなことじゃない、僕がさっき考えたこと……。思い出せなくなって、久邇は不安になって来た。今が本当のチャンスなのだ。周囲には誰もいない。美代ちゃんは海にいる、後から来る筈のお幸さんもまだやって来ない。せっかくこうして二人きりなのだから、何とか言ってみよう。いつまでもお友達でいようと。そんなことは極《きま》っている。じゃ、道子さんが僕は誰よりも好きなのだと。いや、そんなことは言えやしない。そういうことは昼日中《ひるひなか》口に出して言うことじゃないと、いつか読んだ本に書いてあった。それじゃ何と言おう。僕はさっき何を思いついたのだろう。それを言いさえすれば、きっと道子さんの御機嫌が直る筈《はず》なんだが……。
その時、道子が不意に立ち上った。健康な、すらりとした両脚《りようあし》が、しっかと砂を踏んで、そのざくっという音が少年の夢想を覚《さ》まさせた。びっくりして見上げる。道子の顔は笑っている。が、口にしたのは断定的な言葉だった。
――久邇さんは来たばかりだから、これから泳ぐんでしょう。あたしはもう帰るから。
道子は海水帽をさっさと脱ぎ捨てる。パラソルの蔭から大きな麦藁帽子《むぎわらぼうし》を取り上げてかぶり、ケープを水着の肩の上に羽織ると、もう一度久邇の方を見た。
――美代が戻ったら、あたしは先に帰ったと言って頂戴《ちようだい》。
そして左手をちょっとお別れのしるしのように打振ると、もう四五歩離れていた。怒ったのだろうか、と久邇は思った。そんな筈はない、あれは笑った顔だったもの、陽気な身ぶりだったもの。だが、それならどうして、あんなにぷいと帰る気になったのだろう……。彼は訝《いぶか》しそうに眼許《めもと》に皺《しわ》を寄せると、砂浜の人込の中を身軽に歩いて行くケープの後ろ姿を、瞬《またた》きもせずに見詰めている。
道子は大胯にサンダルで砂を踏んで歩いて行く。しかし心では急いでも、識《し》った顔に呼び止められると、その度《たび》にちょっと立話をしたり、せめて笑顔《えがお》ぐらいは振り蒔《ま》かなければならない。それに、自分でもはっきりしないこの憤りの他《ほか》には、強《し》いて少女の足を急がせるものは何もないのだ。去年まで、――久邇さんとお友達でなかった去年の夏まで、毎日あの人たちときゃっきゃとふざけて遊んでいたものだ。はすはな、お洒落《しやれ》な、それでいて何も知らない少女たち、その人たちと仲間になって毎日遊び呆《ほう》けていた。あの連中は今年も亦《また》、 Wandervogel《ワンダフオーゲル》 のように別荘にやって来て、砂の上に寝そべったまま、下らない自慢話や、人の悪口や、映画スターの評判に暇を潰《つぶ》している。久邇さんとばかり一緒にいる今年のあたしを、何と噂《うわさ》しているのだろう。笑っている。あそこで三人、忍び笑いにあたしの方を見て笑っている……。久邇さんとは今年初めてお友達になった。それでも、あなたがたよりはずっとずっといいお友達よ。男の子のお友達だからといって、笑うなんて失礼だわ。何でもママンが、久邇さんの昔お亡《な》くなりになったお母さまと、女学生の頃に御一緒だったとかいうことだ。ママンはそのせいか久邇さんをひどくお可愛《かわい》がりになる。それも大きな人のように、叮嚀《ていねい》にお相手をなさっている。けれどもそれはおかしいわ。久邇さんたら、まだ本当の子供なんですもの。子供だわ、子供だわ。臆病《おくびよう》で、はにかみ屋で、直に涙を零《こぼ》しそうな眼つきをして、少しぼんやりと考え込んでいる。いくら久邇さんが、あたしより背が五センチ高くてピアノがお上手《じようず》でも、やっぱり子供だわ。……でも、今日はどうしたというんでしょう。謝る時にも謝らないほど強情で、ちっとも人の気持を分ってはくれない……。
防風林を越えて、別荘の小さな番号札がところを置いて向い合っている細い砂道に出ると、風が通わなくなって急に蒸暑い。道子は相変らず怒ったように唇元《くちもと》を結んだまま、麦藁帽子をちょっと横に傾ける。松林の頂きで、葉群《はむれ》が涼しそうに戦《そよ》いでいるのさえ、窪《くぼ》みの、風通しの利《き》かぬ小道を歩いている少女には癪に障る。しかし道子の本心では、勿論久邇を怒っているのではない。ただこういうふうに素気なく久邇さんに置いてきぼりを喰《く》わせれば、久邇さんは後悔する。女の人を大事にしないのはいけないことだと分って来る、そしてもう決してお迎えの約束を破ったりなんかはしないだろう、と思う。あたしが急に帰ったから、今頃はきっと悲しそうに溜息《ためいき》を吐《つ》いて、べそをかいているに違いない。そういう空想が、次第に少女の心を陽気さに傾ける。足もゆっくりになる。久邇が何も言わず、何ひとつ打明けなくても、道子を一番親しい友達にしていることは、少女にはよく分っている。ただもっともっと、久邇は彼女を愛し、敬《うやま》い、大事にしなければいけない。なぜなら、道子が Wandervogel《ワンダフオーゲル》 の連中を差置いて久邇ひとりのお相手をしてやるというのは、この上もない特別の恩恵なのだから。ああお姫さまのように愛されたい、と呟く。そして愛されるという言葉が、少女の早熟な想像の中で、今までに読み耽《ふけ》った様々の物語の写象を一つに混ぜ合せ、複雑な甘美な馨《かお》りをくゆらせて、いつまでも潮音のように響いている。
道子は汗を拭《ぬぐ》いながら、ぶらぶらと足取を遅くした。道端《みちばた》の籬《まがき》の中で、大輪の向日葵《ひまわり》の花が真昼の太陽に金色の光を蒔《ま》き散している。少し延び上って、垣《かき》の中を覗《のぞ》き込んだりする。
――ああ、お嬢さん……。
急に呼び止められた。
道子は驚いて、振り向きながら麦藁帽子の鍔《つば》を少し持ち上げる。日光が眼にはいって眩しい。その眼を細くして、話し掛けた相手を見詰めた。「お嬢さん」と自分を叮嚀に呼んでくれた人に無意識の好感を抱《いだ》きながら、なるべく自分を大人《おとな》らしく見せかけようとして、大きく息を吸い込んだ。恐らく久邇が側にいたら吹き出すに違いないような取り澄ました恰好《かつこう》で。
呼び止めたのは、避暑地荒しの不良少年ではない。それが分って、道子は半ば安心したような、半ば残念なような気がする。立派な人、つまり大人だ。年はパパが生きていらっしゃったら、と思われるくらい。パパはあんなにお若くてお亡くなりになったけど、もし生きていらっしゃったら、四十におなりの筈だ。この方も優しそうな、パパと同じ芸術家のように見える。そして道子は思わず微笑を浮べようとした。が、まだ早い。彼女は思い出す、自分はただお嬢さんと呼ばれていい気になっただけ、相手の人は一面識もない赤の他人に過ぎなかったことを。道子は胸をしゃんと起して、何か御用という顔をした。
それが分ったのだろうか。相手はちょっと唇元で笑ったようだった。急いで言葉を続けた。
――失礼ですけどね、この辺に三枝《さいぐさ》さんという家を御存じありませんか? 三つの枝と書くんですがね。
――三枝《さいぐさ》さん……?
――そう。昔からの古い別荘です。昔は荒巻《あらまき》といった家ですがね。僕は十年以上も前に訪《たず》ねたことがあるんだが、どうも思い出せなくて……。
――存じています、と眼に一種の光を浮べながら言った。わたくしに附いていらっしゃい。
道子は先に立って歩き出した。笑っているのを相手に見られては困るというふうに、堅く唇を噛《か》んでいる。それでも、くっくっと声を殺して小刻みに笑っているのだ。相手はそれに気がつかず、右手のステッキを左手に持ち替えて、ハンカチで額の汗を拭った。
――散歩のつもりで出て来たのだが、こう暑くては人の家を探《さが》すのも苦痛ですね。お嬢さんもこの近くですか。
――ええ、と生半可《なまはんか》な返事をして、附け足した。もうすぐですの。
道子は帽子の蔭から時々ちらっと眼を遣《や》って、相手を観察した。顔の色が蒼白《あおじろ》くて陽焼《ひやけ》の跡がないから、別荘住いの人ではない。つまり、道子や久邇や Vogel《フオーゲル》 連中のような黒ん坊の仲間ではない。少し軽蔑《けいべつ》したように訊いてみる。
――東京からですの?
――二三日前にね。
そう言ってから、どうして分ったのかと怪訝《けげん》そうな顔をした。少女は取り合わず、相変らずつんとしている。
背の低い木の門に「三枝」と書いた標札が掲げてある。植込の間に砂利《じやり》を敷いた道が五六間玄関まで続いている。ここです、と言いながら少女はずんずんと玄関の前まで行き、振り向いて、ここです、ともう一遍繰返した。眼には先ほどと同じい一種の光がある。
――やあ、わざわざどうも。
見知らぬ男はそう言って、叮嚀にベレーをかぶった頭を前にさげた。目指《めざ》す別荘をやっと見つけたというだけではないような、一種の感慨を皺《しわ》を寄せた眉間《みけん》の辺に浮べている。それでも、格別急に訪《おとな》いもせず、あたりを見廻していたが、その時にはもう少女の姿は見えなかった。玄関の横手から裏の方へ行ったものらしい。抜道があるのかな、と男は呟いた。そして、今さら帰るわけにもいかないといった恰好で、そっと呼鈴を押した。二階建の相当に大きな、古めかしい洋風建築は、色の褪《さ》めた壁に蔦葛《つたかずら》を隙間《すきま》なく生《お》い茂らせて、森閑《しんかん》としている。遠くで微かに呼鈴の鳴る音。が、どこにも人気《ひとけ》はない。玄関の左側に庭の方へ出る枝折戸《しおりど》が半ば開いたままで、みんみん蝉《ぜみ》の喧《かしま》しい鳴声が奥の木立の方でする。客は呼鈴を押しあぐんで、つかつかと枝折戸から庭の中へはいった。
2
いつのまにか眠ってしまったものらしいが、どんな夢を見ていたのかどうにも思い出せない。それでいて、眼が覚《さ》めるなと自分に言い聞かせるだけの時間があり、なおも眠ったまま、思い出せない夢の筋を一生懸命に考えている。どうしても何の夢だったか分らない。そう呟《つぶや》いた自分の声で、芳枝《よしえ》ははっと眼が覚めた。
眼を開いてみると、あたりは少しも前と変らない明るい夏の世界だった。緑の葉に降り注ぐ午後の光線があまりに眩《まぶ》しくて、思わず息を吸い込んだ瞬間に、自分の少し前に、背のひょろ高い、白い背広姿の男が立っているのを見た。あ、と微《かす》かな声を出して、思わず腰を浮そうとした。
識《し》っている人なのだ。それは間違いなく一眼で分った。ただ、もう殆《ほとん》ど忘れてしまったような、遠い昔の人。少し困ったように唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑っている。その笑いかた……。
まだ夢の中かしら、と芳枝は心に訊《き》いた。それとも、夢はもう覚めたのだろうか。わたしは部屋の中があまり暑いので、本を持って庭へ出た。椅子に腰を下して、読むともなく本の頁《ページ》をめくっていた時、久邇さんが道子を誘いにいらした覚えがある。それからいつのまにか眠ってしまったものらしい。が、今は目覚めている。そしてわたしの前には誰かがいる。むかし親しくしていた人。あまりに親しくしていたために、それからの長い不在の時間が、かえってその名前に一種の艶《つや》を与えてしまった人……。
――桂《かつら》さん……、桂さんじゃありません?
そう短く叫んで立ち上った。頬《ほお》が、濃い紅に染められ、そして褪《さ》めた。慌《あわ》ててはいけない、と自制しながら、今まではしたなく眠っていたことといい、不意に現れたこの珍しい人といい、芳枝は殆ど途方に暮れた。
――桂昌三《しようぞう》です。お久しぶりでした。……その声にも覚えがある。客は詫《わび》のしるしもないといったように、ベレーを小さく丸めてしまった右手を、せわしなく身体《からだ》の前で動かしている。
――実は、ベルを押しても誰もお出《い》でがないものですから、つい庭の方へはいってみる気になりましてね。どうも失礼しました。まさかここで急にお目にかかろうとは思わなかったものだから……。
客が弁解の言葉を述べているうちに、芳枝はどうにか気を取り直した。それでも、眠る前に眼鏡を外《はず》したかどうかが思い出せなくて、不確かな手つきで顔に触《さわ》ってみたりする。眼鏡は掛けている。そして眼の前にいるのは、様子こそ変ったけれど、十何年も前に親しくした桂昌三に紛れもない。
――まあびっくりいたしました、と溜息《ためいき》まじりの声を出した。本当に、まるで夢のようですわ。とにかくそこにお掛けになって下さいましな。庭の中で失礼でございますけど。
――有難う。ここは気持がいいんですね。
客は背の低いテーブルを囲んだ小さな籐《とう》の椅子の一つに腰を下した。ステッキの頭にひょいと帽子をかぶせると、側《そば》の空《あ》いた椅子に立て掛けた。葡萄棚《ぶどうだな》が二人の上に蔭をつくっている。芳枝は足許《あしもと》から、読みかけのまま落ちてしまっていた仮綴《かりとじ》の本を取り上げて、再び椅子に腰を下したが、何から口を利《き》けばよいのか分らない。ただひどく感動した面持をしている。その間に客は額の汗を拭《ふ》き終ってハンカチをポケットにしまうと、女主人の顔を一種の馴々《なれなれ》しげな、懐《なつか》しそうな表情でじっと見た。
――あなたは昔と少しも変りませんね、と静かな声で言った。
――何からお話ししたら宜《よろ》しいのでしょう。あんまりだしぬけですもの。
――そう、どうも恥ずかしいくらい、ひどく御無沙汰《ごぶさた》したものです。お別れしたのは、あれは、一九二三年、震災の年でしたね、今年は一九三九年だから、と指を折って、もう十五年以上になる。御結婚のことも、パリへいらっしゃったことも、よく知ってはいたんですがね、知っていて、とうとう見送りにも行かなかった。お帰りになったのは風の便《たよ》りに聞いてはいましたが……。たしか、お子さんがおありの筈《はず》でしたね? もう随分?
――道子でございましょう? もう数年《かぞえ》で十五になりました。
――そう……か、そういう計算になりますね。ぼんやりと呟いた。
――思えば、本当に長い長い間、お会いしなかったものですわねえ。
微笑を以《もつ》て頷《うなず》き返した。上衣《うわぎ》のポケットから扇子を出して扇《あお》ぎながら、女主人の方をしげしげと眺《なが》めている。その眼に人懐しさが光っているからきまりが悪いというほどではないが、芳枝も慌《あわ》ててテーブルから団扇《うちわ》を取り上げ、相手に倣《なら》って風を入れた。二人のいるあたりにはアカシヤの葉が翳《かげ》って、折々は涼風が扇ぐ手を休めさせる。
――御主人がパリで亡《な》くなられたことは新聞で読みました。御主人……というより三枝君、いや三枝と呼びすてにした方が僕には懐しいですね。その後のことはさっぱり知らなくて。お帰りになってもう随分になるんですか?
――はあ、主人の亡くなりました次の年には、もう引き上げて参りました。それから直に、ここの昔からの父の別荘に引き籠《こも》って、あまりお附合もしないで暮しておりましたの。それはそうと、とちょっと息を継いで、桂さんこそ如何《いかが》でございました?
――僕ですか? と言って男は苦笑した。額に皺《しわ》が寄ると、声の若さとは違った翳《かげ》のようなものが、その顔に滲《にじ》み出る。
――ずっと絵の方を御勉強でしたの? と芳枝は相手の表情には無頓着《むとんじやく》に訊いてみた。こんなところにいますと、展覧会などにはもう殆ど出掛けませんので……。
――まあ僕も絵かきなんでしょうね、絵を描く以外に能が無いんだから。男は無造作にそう答える。
――でも、ここへは絵を描きにお出でなんでしょう? ずっと御滞在ですの? と畳みかけて訊いた。
――二三日前に友人の別荘へぶらりと来てみたんですが、商売気はいっこうありません。何しろ東京は暑くてね。そして何か言い出しそうにして、ぽつんとやめた。話が尽きると蝉《せみ》時雨《しぐれ》が繁《しげ》くなる。東京からやって来ると、この辺は涼しくていいものですね、と取って附けたように言った。
――……ですかしら? と語尾の上る声で芳枝が答えた。わたくしなんぞ、もう幾年も住みついていますせいか、それほどにも思いませんけど。もっとも、馴れるまでは秋冬《あきふゆ》は寂しうございました。夏の賑《にぎや》かさが九月になると急にさびれてしまいますでしょう。何だかこうそわそわして、いっそ東京へ帰ろうかなと何度思ったかしれませんの。それでも行ってみますと……、ええもう二三日で厭《あ》きてしまいます。段々に田舎者《いなかもの》になってしまいましたわ。それにここは道子の身体《からだ》にもよくて。
――御病気なんですか?
――いいえ、ただ少し弱いものですから。
――しかしお嬢さんにはお寂しいでしょうね、夏以外は?
――どうですかしら。十四五の女の子なぞというものは、何にでも興味を覚えてあまり退屈しないように見えますから。ピアノとか、絵を描くこととか……、そう絵を描きますのよ。遺伝でしょうか、あれの父が……。
桂は巻煙草の箱を取り出すと、眼でいいかというふうに女主人に訊いて、その一本に火を点《つ》けた。煙が少し靡《なび》きながらゆらゆらと昇って行く。
――三枝君は亡くなられる前頃には、大層いい作品があったようですね。向うの雑誌に出ているのを拝見しましたが。
――ええ、と言って、なぜともしれず少し頬を染めた。大使館の方を勝手にやめてしまってからというもの、もうすっかり絵かき気取で、それに新聞でも、日本の若い外交官が芸術に生きることを宣言した、なんぞと大袈裟《おおげさ》に囃《はや》すものですから、すっかり得意になって。
――三枝君はもともと上手《じようず》だったんだからなあ。昔はよく議論をしたものでした。本場のパリへ行ったのじゃ、好きな道に精進したくもなるでしょう。しかし、夢のようですね。どうも本当とは思えないな。
――わたくしが言うのも何ですけど、太郎の絵は天分があったのじゃないかと思いますの。
そう言ってから、主人のことを不躾《ぶしつけ》に客の前で太郎と呼んだことに気がつき、さっと赧《あか》くなった。
――……ちょっと浮世絵風のとこを油に取り入れたのが新味があるとか言われて……。
早口にそう附け足したが、相手がフランスの雑誌で見たことがある、と言ったばかりなのを思い出し、余計なことを口にしたと面映《おもは》ゆく感じた。それに、雑誌に出ていたというのは、どの絵だったのだろう。もしかしたら、わたしをモデルにしたものではなかったろうか。頬の赧くなるのが自分でも分ったために、それを子供らしいと笑われはしないか、そう考えるうち一層どぎまぎして来た。桂は少し横の方を向いて、ぼんやり煙を吹いている。
――昔はよく御一緒にお喋《しやべ》りをしましたわね。
芳枝の少し突飛な言葉にも、男はただ首を振って頷《うなず》きかえした。
――あの頃が懐しうございますわ。
――そうですね、と首を正面に向けた。そういえば奥さん、あの時分は眼鏡を掛けていらっしゃいませんでしたね?
――あの頃はお洒落《しやれ》でしたから。そしてやや恥ずかしそうに縁なしの眼鏡を指で抑《おさ》えた。
――あの頃はみんな若かったな、と考え深く言った。三枝君にはあの頃からもう自分の道というものがあった、だからあそこまで行ったんです。早く死んで天才になる方が、駑馬《どば》のように生きているより余程《よほど》ましですよ。
この人はむかし青年の頃そうだったように、今でも、思うことをずけずけとおっしゃる、と女は思う。しかし、こんな自嘲《じちよう》のようなことをおっしゃってはいけない。何かもっと明るい話題はないだろうか。さっきから気になっていたこと、それを今持ち出してみようかしら。無遠慮かもしれないのだけど……。
――桂さん、御結婚なさっていらっしゃるんでしょう? 思い切って訊いてみた。どんな方をお貰《もら》いになりましたの? 無邪気な表情で、少し首を傾《かし》げながら、そう訊いた。
客はまた苦笑した。暗い眼をしている。そしてこのような眼をいつか見たことがあると芳枝は思う。いつだったろう、そして誰に?
――どう見えます? と男の方で訊き直した。相手がわざと陽気にしようとしていることを見抜いて、悦《よろこ》んでそれに調子を合せた。
――そうですわねえ……、存外世話女房型のお優しい方かしら? それとも……?
桂はただ笑っている。
――そしてお子さんが、そう、お二人ぐらい?
――当らない、と言った。僕はまだ独身です。
――まあ……。或《ある》いはそうかもしれないと思ったのが当ったのだが、芳枝は正直に驚いてみせた。驚きましたわ。もういい御年配におなりなのに。
――もうじき四十ですよ。あの頃は若かったな。三枝君より一つ年下だった。
――立派な方がたくさんおありでしたでしょうに、となおも話をそらさなかった。
――それは好きな女もいました。
なぜか不機嫌《ふきげん》な吐き出すような声だった。客はそして、新しい煙草に火を点《つ》けた。今まで身近にいた人が、急に識《し》らぬ他人になってしまったようなよそよそしさを芳枝は感じる。相手の言い方が礼を失しているとはその時感じなかった。困って、立ち上った。
――あら、お茶も差上げませんでしたわね。ちょうど女中が買物に出ているものですから。
――どうかお構いなく、もう失礼しますから。無愛想なところは少しも変らない。
――ちょっと冷たいものを持って参りましょう。御免遊ばせ。そう言い捨てると、早い足取でベランダの方から家の中へはいって行った。
客は低い籐椅子に凭《もた》れたまま、無心に煙草の煙を上げている。太陽の位置が移って、葉群を洩《も》れる光が眼に痛くなったので、横向きにベランダの方を見たりする。
家の中から女中を呼ぶ芳枝の声が聞えて来る。客の表情が少し動いた。「道子、あなたいつ帰って来たの? そう。美代は? え……。」返事は聞えて来ない。「それじゃ道子が持って来て頂戴《ちようだい》。ええ。どこにしましょう……。」そして桂がその声の調子に昔を偲《しの》んでいる間に、微笑を浮べながら芳枝が戻って来た。
――お待たせしてしまって。いかが、中へおはいりになりません?
――いやここで結構です。返事は相変らず素気《そつけ》がなかった。どうぞ本当に構わないで下さい。散歩の途中でちょっと寄ってみただけですから。……それに、このお庭は昔と変らないが、涼しくて仲々いいですね。
――あら、よく覚えていらっしゃいますこと、と言って、自分も元の椅子に就《つ》いた。
――ここでこうして荒巻さんにお話を伺ったこともありますからね。
――そうでした。父の生きていた頃のことでしたわね。そして自分でも気分を引き立たせようとして、団扇《うちわ》をゆるやかに使った。ここは陽が翳《かげ》ると涼しいので、わたくしよくここでぼんやりと本を読んだりいたしますの。さっきも掛けているうちについうとうとしてしまいまして。桂さん、御覧になりましたのでしょう?
――は、は、は……。仕方がありません、偶然来合せてしまったんだから。
――まあ、と言って、怨《えん》じるような、媚《こ》びるような眼つきをした。本当にお人が悪い……。
そして二人とも声を合せて笑った。今までの長い時間の空白を、その笑いで一挙に埋めてしまうかのように。
――ママン、そちらへお持ちするの?
少女の甲高《かんだか》い声がその時ベランダの方でした。芳枝は立ち上りながら軽く頷《うなず》いた。少女が両手に銀の盆を持ち、そっと近寄ってそれを母親の手に渡した。テーブルの上に置かれた時、コップの中で氷の破片が硝子《ガラス》に触れ合って清らかな響きを立てた。
――御紹介しますわ、これが道子ですの。
客は笑った後のため一層渋く見える顔を、その時ゆっくりと少女の方へ向けた。
――この方は桂さんとおっしゃってね、昔パパがそれは仲良くなさっていらした方。絵をお描きになる。御挨拶《ごあいさつ》なさいな。
――初めまして。道子でございます。乾燥した、いかにも社交的な挨拶の仕方だった。
客はびっくりして相手をまじまじと見ていたが、慌《あわ》てて、やあ、と曖昧《あいまい》な声を出した。紛れもない、この家へ来る道筋を案内してくれたさっきの少女なのだ。ただまるで別人のように、取り澄ました無感動な表情……。
――道子もそこへお掛けなさい。一緒におあがり。
――はい。
少女は少し俯向《うつむ》いたまま慎《つつま》しやかにコップを手にしている。取りつく島もないような静けさで。ただ見たところが子供っぽいから、何かそぐわない感じがする。客は気を取り直して、火の消えた煙草を足許《あしもと》に捨てた。
――いかが、随分大きうございましょう?
自慢そうに芳枝が娘を顧みた。そのように大きな娘の、自分が母親であることを示して、自《おのずか》ら年齢が露《あら》わになるのを隠そうともしない。よく似ている、と桂は思う。しかし、自分が初めて識った頃の芳枝さんは、このお嬢さんよりもっとずっと大きかった。それでも眼の前の二人を姉妹と見間違えそうなほど、この人は昔と少しも変らない……。
――道子はそれは絵が好きで……。近頃は少し油の方もお稽古《けいこ》しておりますの。どう道子、一度桂さんに御覧になって頂いたら? いかにも軽やかな声で言った。
――厭《いや》よ、ママン。
相変らず下を向いて、ただそれだけの返事だった。少女には、初めての人にすぐそういうことを言う母親が面白くない。客の方も、芳枝の見せた笑顔に、格別お世辞ひとつ言おうとはしない。
――何か絵のお話でもなさいな? と娘を促《うなが》した。少女は俯向いた眼を時々コップから起して、上眼づかいに客の様子を窺《うかが》っていたが、慌てて澄ました表情に戻る。
客が立ち上った。
――さあ帰りましょう。とんだお邪魔をしちまった。
――あら、もうですの? 芳枝は思わず腰を浮した。
相手が帰るということは今まで全然念頭になかった。尋ねたいこと、言いたいこともたくさんあって、これからという時にもうお帰りになるなんて。道子があんまり無愛想なので、気まずくおなりになったのではないだろうか。道子も、いつもならこんなふうではないのに……。
――なに散歩の途中なんですよ。また伺いましょう。
客はベレーとステッキとを手にして、少しほほえみながら女主人に挨拶した。
――それじゃまたいらっしゃって下さいまし。お尋ねもしませんでしたけど、どちらに御滞在でいらっしゃいますの?
――いや、この側《そば》です、近くなんです。
――それじゃ本当にまた。お話がたくさんありますもの。お宜《よろ》しければ明日にでもどうぞ。
桂はその声の中に、この場に不似合なほど熱心な、訴えるような調子を感じた。釣られて、約束するように頷き返しながら、やり場のない眼を少女の方へ移した。
母親の蔭に隠れていた道子は、その時初めて悪戯《いたずら》っ子《こ》のように、何か二人の間に特別の諒解《りようかい》でもあるかのように、無言で笑った。
――道子、あなたなぜあんな仏頂面《ぶつちようづら》をしていたの? と芳枝が訊いた。
客が帰った後は蝉《せみ》時雨《しぐれ》が喧《かしま》しい。陽はもうだいぶ西に傾き、葉末を洩れて来る光もいつしか弱くなっている。しかし風はまったく凪《な》いで、桂の喫《す》っていた煙草の匂《におい》が、まだ空中に立ち罩《こ》めていはしないかと芳枝は思う。
――だって……。
道子は口籠《くちごも》る。あたしがあの方を家までお連れして来たのだと教えたなら、と考える。ママンがきっとびっくりなさるだろう。そんな秘密がありながら、どうして世間並のお話が出来るでしょう。
――だってと言うことがありますか。あんまりあなたが黙り込んでおいでだから、桂さんお気を悪くなさったじゃありませんか。
あら、あたしのせいかしら、と道子は首をひねる。そしてなぜとも知れず母親が怒っているらしいので、さっきの秘密を教えてあげましょうという気が、まるで消えて行ってしまう。はぐらかすように別のことを言い始める。
――今日久邇さんたらお迎えに来てくれなかったでしょう。後から追っかけて来て言うにはね、ピアノを弾《ひ》いていたんですって。即興曲を作っていて遅れたんですって。ねえママン、あの暑いのに本当にピアノなんか弾いていられるかしら。あたし、久邇さんお昼寝して寝過したんじゃないかと思うんだけど……。
芳枝は娘の話に耳を貸すでもなくぼんやりと考え込んでいる。今さっきまでは、桂さんはなぜ急にお帰りになったのだろうかと心に訊いていた。今は、あの人は何のために来たのだろうと怪しんでいる。十何年も会わない人。わたしの結婚以来|便《たよ》りも交《かわ》さぬ他人になってしまった人。その人が何で今頃、不意にわたしの前に現れたのだろう。そこに何かしら意味があるのではあるまいか。何かしら、人のあらかじめ知り得ない、不思議な天の配剤のようなものが……。
道子もまた心の中で尋ねている。ママンは何を怒っていらっしゃるのだろう。あの桂さんという人が、あたしがお茶を持って来たら急にお帰りになったということが、そんなに大変なことなのだろうか。それにあたしが来た時、ママンも桂さんも笑いを途切《とぎ》らしておしまいになった。何をあんなに愉快そうに笑っていらしたのだろう。一体、あの桂さんというのはどんな方なのだろう。ママンはひどく叮嚀で、それでいてよそ行きというようではない。パパの昔のお友達だという話だけど、ママンにとっても、昔はそんなに親しかったお友達なのだろうか……。
道子は少し首を起して、逆光線のために蒼白《あおじろ》く見える母親の顔を、その表情の蔭に何かの謎《なぞ》を読み取ろうとするかのように、じっと見た。
3
何か大事なものをなくしたような、この寂しさは何だろうか。そう久邇は心に訊《き》いた。さっき、道子さんが僕を残して行ってしまった前と、何ひとつ変ったものはない。太陽は相変らずかっかと海を照しているし、水着の人たちは相変らず喋《しやべ》ったり、笑ったり、しぶきをあげて泳いだりしている。砂は鉄のように熱く焼けて、小さな蟹《かに》が、時々驚いたように穴から穴へ素早く駈《か》けて行ったりする。それなのに僕の心は、何だか寂しく沈んで行くようだ。さっき踊るようにしてここへやって来た時の、あの浮々した気持はどこへ行ってしまったのだろう。
違うのは、ただ道子さんが側にいるのといないのと。しかし昨日までは、道子さんと別れたあとで、こんなにまで心が寂しくなったことはなかった。それに道子さんとお友達だからといって、そういつも一緒にいたわけではない。一緒にいたのは、一日の僅《わず》かの時間だけ。その他の、一人きりでいる時間の大部分を、僕は少しも寂しいなんて考えてはいなかった。僕はそんなに女々《めめ》しくはない。小さい時に亡《な》くなったお母さんのことだって、僕は大抵忘れている。思い出しても、懐《なつか》しいと思うだけ、決して泣いたりなんかはしない。それは当り前だ。十五にもなって、誰がお母さんのことを思い出して泣いたりなんかするものか。
けれど今はまるで違う。僕はやっぱり大事なものをなくしたような、変な寂しさを感じている。何か大事なものが、心の中からふっと消えて行ってしまったような感じ、しかしそれが何だか、僕にはさっぱり分らないのだ。これは恐らく、さっき道子さんが僕の胸に鋭い針のようなものを刺し込んで、ぷいと帰ってしまったせいだろうか。ひょっとしたら、道子さんは怒っていたのかもしれない。しかし何を一体怒ることがあったのだろう。
怒ってはいなかった。道子さんの唇元《くちもと》は笑っていたのだもの。あの人は少し高慢なように笑う。大人《おとな》びた、不思議に落ちついた笑い方だ。どんな時でも、自分を忘れてしまうほどに心から笑いこけることがない。そこが小母《おば》さまと違う点だ。小母さまは本当に無邪気に、子供っぽく、愉《たの》しげな笑いかたをなさる。どうして親子のくせにあんなに違うんだろう。違うどころかまるで逆《さかさ》まなんだ。小母さまのは陽気に銀の鈴でも鳴らすみたいで、道子さんのは口に酸漿《ほおずき》でも含んだような含み笑いだ。ひょっとしたら、道子さんは鏡を見て、そっと笑い方のお稽古《けいこ》をしたのじゃないかしら。あの人は早く大人になろうとして、あんまり背伸をしすぎている。
しかし怒っていたのかもしれないなあ。そう思うからこそ、僕はこんなに不安なのじゃないか。一体そんなに、あの人は僕にとって大事な人なのだろうか。道子さんのちょっとした言葉、ちょっとした動作が、僕の心にこんな苦しい波紋を投げるほど、そんなに道子さんは僕にとって大事な人なのだろうか。
そうだとも、さっき僕が息を切ってここへ走って来るまで、ひっきりなしに考えていたのはそのことだった。そうだった。僕があんなに嬉《うれ》しがったのは、ピアノの即興曲が出来たことよりも、僕にそれが分ったことの方が、よっぽど大きな原因だったのだ。僕は初めショパンのお稽古をしていた。そのうちに面白いように指が動いて、僕が頭の中で考えていたことが、どんどん指の先に伝わって来るようだった。僕は頭の中に蟠《わだかま》っていたものをみんな一時に吐き出すように、一心に弾き始めた。僕がいつもいつも考えていること、道子さんのこと、その思いが、いつしか音楽の波の中に流れて行ったのだ。それは不思議な悦《よろこ》びだった。愛することとピアノ曲を作ることとが、もう区別することの出来ぬ同じものだった。僕は汗を流してピアノに向いながら、道子さんの面影を思い浮べていた。冷たく、清らかな、いつまでも消えぬ光のような。
ああそれが今まではよく分っていなかった。道子さんとお友達になってまだやっと一月《ひとつき》だ。しかしそれは何と生きがいのある、何と素晴らしい一月だっただろう。僕のように内気で、学校でもあんまり友達のいない者に、あんな素敵な人がお友達になってくれたなんて。僕は毎日胸を踊らせていた。しかし、これが愛することだとは知らなかったのだ。ピアノの他《ほか》に、まだ愛するものがあるなんて、どうして考えることが出来ただろう。
けれども分った。まるで魔法のように分ってしまった。愛するというのはまるで別のことなのだ。ピアノが好きなというようなこととはまるで違う。それからまた、お父さんやお母さんが好きなのとも違っている。それに、僕の一番好きなお母さんはもう死んでしまっている。道子さんは、まったく他の誰とも違って、僕の心を一人占めにしているのだ。どうしてそんなに好きになってしまったのだろう。そして、好きだということが、どうしてこんなにはっきり自分に分ってしまったのだろう。それもピアノを弾いている間なんかに。昨日までは、愛していてもそれが自分でよく分らなかった。だから平気でいられた。今日はもう平気ではいられないようだ。道子さんがいなくなったあとの、この大事な物をなくしたような寂しさ……。
ああ僕は愛している。それが分ったのは何という嬉しさだろう。愛する……。愛するというのは、一体どんなことなのか。なぜこの愛だけが特別に違うのか、僕には分らない。しかし愛することは、豊かな、悦ばしい、実《みの》りの多いものだろう。この眼の前にひろがった海のように、涯《はてし》のないものだろう。そこに少し不安な、風の戦《そよ》ぎがあるかもしれないけれど。
風……。道子さんの方は一体どうなのだろう。僕は愛している、しかし道子さんの方は? 道子さんの軽蔑《けいべつ》したような笑い、怒ったような唇元《くちもと》、心を見抜くような眼。あの人の日常の中で、僕というものはどんな位置を占めているのだろう。あの人は社交的で、お友達も多くて、それに気紛《きまぐ》れだから、ひょっとしたら僕を相手にしてくれるのも、あやふやな、確かさのないものかもしれない。そういうことを考え出すと、どうして僕の胸はこんなに疼《うず》くのだろう。しかしそれでも僕はいつまでもあの人の愛を願っているだろう。そしていつかは、いつかは、僕の本当の心を知って、僕を心から愛してくれるだろう。その時、この風のような不安は消えて行くだろう……。
いつかは? しかしその機会はもう僕の手の中にあるんじゃないか。今日の即興曲、あれは道子さんのものだ。あの人だけのものだ。それが分った時に、あの人はきっと心を動かすだろう。こういうことを思うと、僕は今にも三枝《さいぐさ》さんの家へ飛んで行って、道子さんに会いたくなる。愛していることを自分に知って、こうして離れているのは苦しい。苦しい……のだろうか。
しかし僕は行かない。僕はいつまでも暑い砂浜に寝転《ねころ》んでいる。これは僕のものぐさだろうか。それに遠くにいてあの人のことを思う気持、これは決して苦しみではないようだ。ちょうどグミの実のように、少し苦味を持った甘さなのだ。こうした少し不安な、何か落し物でもしたような気持が、ひょっとしたら、愛するということの悦びの中に初めからあるのかもしれない。それは僕が今日まで知らなかったものなのだ。
そうだ、僕は今思い出した。さっき道子さんに会うまで一生懸命に考えていたこと、そして道子さんに会っている間じゅう思い出せないでいたことを。僕はあの即興曲の題を、道子さんの手でつけてもらうのだ。「水のほとり」とか「海の思い」とか、何かドビュッシイのように華《はなや》かな題名を、道子さんに選んでもらうのだ。そうすると、まるで二人の合作のような感じになる。幾つも作って、組曲のようになるともっといい。僕はその楽譜をあの人に捧《ささ》げる。頁《ページ》を開くと、「三枝《さいぐさ》道子《みちこ》に」と書いてある。ああそれはどんなに愉《たの》しいだろう。僕はその曲を弾いてあげる。あの人に教えてあげる。あの人がピアノに向う後ろに立って、あの人の髪の匂《におい》を嗅《か》ぎながら、僕の字で書いた楽譜を一緒に眼で追っている……。
僕は愉快だ。僕は叫び出したいようだ。僕の前には、この広々とした海がひろがっている……。
二章 少年少女
1
風には既に海の声がする。松の梢《こずえ》が重々しげに撓《たわ》んでいる。久邇と道子とは、次第に足を急がせながら海へ行く道を歩いている。今日も暑さは昨日に劣らないが、雲の往来《ゆきき》が速くて陽《ひ》の翳《かげ》っている間の方が長い。二人とも黙っていて、時々道子の方が空を見上げたりする。
どうして気分というものは一日でこうも変るのだろう、と久邇は思う。今日は少しも心が晴々とすることがない。同じ海へ行く道を歩いていながら、昨日のように愉しさに小踊りしたくなるような気分ではない。道子さんと一緒に歩いていることが、かえって気詰りな、澱《よど》んだ気持に僕を誘う。どうしてなのだろうか。
今日は何もかもがいけなかった。朝のうちの油照りのお天気は昼になって陽が耀《かがや》き始めたが、空には依然として雲が多く、風の音まで加わり出した。何だか薄気味の悪い空模様に変って、一月の余も早いのにもう二百十日の来そうな気配だった。むんむんしてひどく蒸暑い上、風は午後になって著しく速度を増した。「お坊っちゃん、今日は泳ぎは駄目ですよ、」とばあやから幾度も念を押され、「それじゃ三枝さんのところで遊ぶから、」といい加減な返事をして家を出た。半ズボンの下にパンツをはいて来たから泳ごうと思えば泳げるけど、お幸さんを伴には連れて来なかった。それに、一層その方が都合がいいかもしれない。昨晩、大きな楽譜に綺麗《きれい》に清書しておいた即興曲を、出掛けにくるくると巻いて小脇《こわき》に抱《かか》えたから、泳ぎに行く代りに今日は道子さんにそれを弾《ひ》いてあげるつもりでいた。
ところが相手の方は、勿論《もちろん》海に行く気だった。風の出ていることを格別気にしているようにも見えない。小母《おば》さまも平気な顔をしていらっしゃる。久邇が、「今日はとても泳げそうにありませんよ、」と説明し出して、初めて小母さまも眉《まゆ》をひそめながら、窓の外を御覧になった。
――そうね、今日はおやめなさい、道子。変にむしむしすると思ったら、風が出て来たから。
――ママン、こんな風ぐらい何でもなくってよ、と道子は唇《くちびる》を尖《とが》らせる。久邇さんたら臆病《おくびよう》なのよ。
――でもね、波の荒い日にまで泳がなくったっていいでしょう。そう言って母親は取り合わず笑っている。今日は久邇さんと御一緒に家でお遊びなさいな。
――いや。それじゃ浜まで散歩に行って来る。泳がないから。ね、それならいいでしょう? せっかく水着を着ちゃったんだもの。道子はそう言いながら、スリッパを突掛けた素足で絨緞《じゆうたん》の上を往《い》ったり来たりする。もうケープも羽織って、先ほどから久邇の来るのを待ちあぐんでいたという恰好《かつこう》だった。今日みたいな暑い日に、お家になんかいられないわ、と附け足した。
結局水にははいらないという母親との約束で、道子は久邇と一緒に出掛けることになった。道子は少年が臆病で、自分を引き留めようとしたことを怒っている。久邇の方も、ピアノを聞かせる予定がふいになったのでしょげこんでいる。しかし道子が泳がないと約束して出て来たために、泳ぎのお相手に雇われている美代という女中も、今日はついていない。二人きりで話が出来そうだという期待が、少しばかり久邇の胸をふくらませ始める。
防風林を抜けると道が爪先上《つまさきあが》りになる。丘の上に登ると海が一眸《いちぼう》の下に見えた。
風音の割には波はそう荒くはない。それでも渚《なぎさ》から相当の沖合で、もう波頭が白く崩《くず》れたまま、雪崩《なだれ》を打って砂浜へと食い込んで来る。陽がまた翳ったため砂の色を吸い込んで、眼路《めじ》のうちに耀きというものが感じられない。二人はサンダルを引き摺《ず》るようにして砂地を歩いて行く。
今日はいつもよりぐんと人が尠《すくな》い。脱衣場の竹矢来《たけやらい》の端で、赤地に「氷」と白く染め抜いた旗がむなしく風に飜《ひるがえ》っている。砂の上に甲羅《こうら》を干している人たちも今日は数えるほどで、二人は顔馴染《かおなじみ》に呼び留められるということがない。それでも、渚で水浴びをしている子供たちや、波乗りに興じている若い連中の、獣のような叫び声が聞えて来る。
二人は暫《しばら》く歩いて、渚から割合に遠ざかった小さな砂丘に登った。そこが二人の巣だった。久邇は半ズボンの腰をどしんと砂の上におろしたが、少女は立ったままなおも海の方を見ている。片手で麦藁帽子《むぎわらぼうし》の鍔《つば》をしっかと抑《おさ》えている。
――坐らないの? と少年が訊《き》いた。
道子は答えない。風は次第にやんだが、白いケープの裾《すそ》がはたはたと鳴っている。すんなりした素肌《すはだ》の脚《あし》が鋭く緊張して、サンダルが砂の中に半ばめり込んでいるのを少年は見た。
――久邇さんなら見えるでしょう。泳いでる人だっているんじゃない?
そう言いながら、少女は久邇の側《そば》に並んで腰を下した。眼を細くして、少年の顔と沖の方とを半々に見ている。
――そう……。あそこに、あそこに。ああ割にたくさんいらあ。二十人くらいいるのじゃないかな。
――……でしょう? と言って少し笑いながら、眉《まゆ》をひそめて早い目瞬《まばた》きをした。眼が痛いの。
――道子さんには見えないの、あの辺で泳いでる人?
――見えないわ。だって近眼なんだもの。
――眼鏡を掛ければいいのに。
――厭《いや》よ。ママンもそうおっしゃるんだけど、厭だわ。誰が眼鏡なんか。そう言ってまた笑った。それにママンだってね、お若い時には眼鏡なんかお掛けにならなかったんだって。
笑うと陽に焼けた顔に皓《しろ》い歯が見える。その皓さが、鼻筋の素直さや、頬《ほお》のふっくらした丸みや、豊かに麦藁の蔭から零《こぼ》れ落ちる髪などに、この容貌《ようぼう》の点睛《てんせい》を与えている。
ほら、また大人みたいに笑った、と久邇は思う。そして自分でも気分が清々《すがすが》しく晴れて行くのに気がつく。
――あら鴎《かもめ》が飛んでるわ、と道子が頓狂《とんきよう》な声を出して、少年の注意を海の方に向ける。
――何処《どこ》に? ああ。道子さんの眼も鴎なら見えるんだね。
そして二人は仲よく笑う。
少年の気持は明るくなる。海はその裾に絶間なく崩れる白波を装ったまま、眼路の彼方《かなた》まで茫漠《ぼうばく》と拡《ひろ》がっている。雲は依然として多く、水平線の涯《はて》は煙っているが、陽が射《さ》し初《そ》める度《たび》に海に明暗のだんだら模様が織りなされる。
二人のいる砂丘の上は、風こそ強く当るが眺望《ちようぼう》は自在だった。近くの砂地には人の姿は見えない。二人きりだということが意識の閾《しきみ》に昇って来ると、久邇には風景もよく眼に映らないような気がする。思えば二人きりになれたのは昨日が初めてだった。それが昨日、二人の間の何だか変てこだった原因かもしれない。しかし今日は大丈夫だ。昨日失ったチャンスを今日こそ手に入れればいい、そう自分に言い聞かせる。言おう、この気持を。愛するというこの不思議、この不安、この悦《よろこ》びを。それに即興曲も出来ている。題は道子さんと相談して附ければいい。総《すべ》てが昨日の通りで、しかも昨日より一層都合よく運びそうなのだ。
一層都合よく……、そうだろうか? と久邇は心に訊く。僕は昨日と同じように、今、心をわくわくさせながら悦んでいるのだろうか。何かが違うようだ。天気も違う。昨日のような真夏の耀かしい蒼空《あおぞら》は今日は見えない。道子さんは、さっきちょっと笑ったものの、また黙って考え込んでしまっている。それに僕だって、心がいっこうに飛び立つようじゃない。昨日はピアノが面白いように弾けて、先生の、久邇さんには本当に天賦の才がありますわね、とおっしゃったいつかの言葉が、そっくり耳許《みみもと》に聞えて来るような気がした。ピアノを弾いていない時でも、一日中、音楽の精が頭の中を踊っていた。今日は違う。僕にはちっとも才能なんかないようだ。即興曲も出来上ったら、もう組曲にしようという気もなくなってしまった。僕の好きなショパンの、ただの真似《まね》ごとに過ぎないような気さえし出した。それに今日は曇っている。僕に欲しいのは道子さんの慰めだ、励ましだ。久邇さんはお上手《じようず》ねえ、と言う明るい声なのだ。道子さんは社交的で、お世辞がうまいから、心から僕のピアノが素晴らしいと思っているわけじゃない。それでもいいのだ。僕が即興曲を弾いてあげる。あの人が聞く。まあ素敵だわ、と叫ぶ。それでいい。……なのに僕たちは、こうして海に来ている。楽譜は空《むな》しくグランドピアノの上に置きざりになって、くるくると巻いたのが半分ほどゆるんだまま、僕が来て拡げてくれるのを待っているだろう。勿論、まだ弾くことも出来る。後で帰ってから、何なら夕方にでも、……しかし駄目、もうどうしても弾く気がしない。今はもう駄目なんだ。何かが、――昨日あれほど僕の心を明るくはずませた何かが、いつのまにか、僕の内部で死んでしまっている……。
――さて、泳ぎに行こうかな、と道子が悪戯《いたずら》っぽく言った。
久邇はそれを聞いてびっくりする。彼はうつつに考えながら、先ほどから見るともなしに見ていた、少女がケープを脱ぎ、麦藁帽子と海水帽とを取り替え、それから退屈そうに砂を弄《もてあそ》んでいたことを。この人は退屈なのだ、と思う。僕が黙り込んでいたものだから、それで気を悪くしているのだ。
道子は少しも気を悪くしてはいない。今日は風があると久邇が警告したために、危く毎日の行事が中止になるところだった。その時の不機嫌《ふきげん》さは、しかし、海をひと目見渡した時の、何かひろびろと心に訴えて来る悦びの前には跡かたもなく消えてしまった。道子は次第に愉快でたまらなくなって来る。相手が難《むずか》しそうな顔をして考え込んでいるのが、吹き出したくなるほどおかしい。ひとつ威《おど》かしてあげよう。そこで道子は、泳ぎに行こうかな、と言った。少年は慌《あわ》てて首を起した。訝《いぶか》しそうに本気だろうかと自分に訊いているその眼。道子はもっと悪戯を続けたくなる。
――あたしちょっと泳いで来るわ、とまた言った。
――だって駄目だよ。泳がないっていう約束で来たんじゃないか。
――約束? それは風があって、波が高いからというわけでしょう。もうすっかりお天気になってしまったわ。
なるほど、眩《まば》ゆいように陽が照り始めている。蒼空が雲の間から、ちょうど灰白色のカンヴァスの上に一塊の青い絵具をあちこちになすりつけたように、不規則な形で覗《のぞ》いている。しかし海の色は相変らず暗く、陰気で、風は幾分|凪《な》いだが沖合に白波が獣の牙《きば》のように険しい。久邇は眼をあげて不安そうに額を曇らせる。
――見て御覧、あんなに波が……。
――何でもありはしなくってよ。泳ぎましょうよ、ねえ。
――しかし、小母さまが……。
何もママンなんか引合に出さなくったっていいわ、と道子は思う。久邇さんが泳ぎたくないのなら、厭だとおっしゃればいい。あたしが泳ぐのを留めようとなさるのなら、もっとはきはきおっしゃればいい。曖昧《あいまい》なのは嫌《きら》い。
――久邇さんはここで待っていらっしゃい。そう言って立ち上った。
大変だ。本気なのだ。久邇の顔色が少し蒼褪《あおざ》める。さっきから戯談《じようだん》だとばかり思っていたのに、いつのまにか本気になってしまった。なぜなのだろう。僕が小母さまのことを言ったせいかしら。道子さんは何かといっては小母さまに反対しようとする。本当に天邪鬼《あまのじやく》なのだ。だけど約束は守らなくちゃいけないなあ。
――あんなところで泳いでるわ。そう言って少女は遠くの方を見る眼つきをする。さっき眼がよく見えないと言ったことなどまるで忘れて。道子はそういう思わせぶりをすれば、きっと久邇が慌《あわ》てて引き留めてくれるものと計算する。大事なのは、久邇さんがもっとびっくりしてどぎまぎすること。そうすれば、なにちょっと威《おど》かしただけなのよ、そう言って笑って済ませることも出来る筈《はず》だった。
――僕よした方がいいと思うんだがなあ。溺《おぼ》れるかもしれないよ。
――溺れるもんですか。
――だってあんなに波は高いんだし、それに僕たちの腕前じゃ……。
その言い方が道子の気に入らない。道子は泳ぎにはひどく上達したつもりなのだ。小さい時から海岸に住んで、充分に経験を積んでいるのだから。美代にだって負けはしない。久邇さんは臆病なのだ、と考える。そうすると、なおのこと一人で沖へ出て相手を心配させてやりたくなる。しかし、一人ではやっぱり大して面白いことはない。二人で泳ぐか、それでなければこうして寝そべってお喋《しやべ》りしている方がいい。少女は立って海を見詰めたまま、二つの誘惑の間で迷っている。
――溺れるものですか。もう一度言って、久邇の顔を見た。
少年は唇を噛《か》んでいる。どうしてこの人は僕の気持が分らないのだろう。僕の言うことを聞かないのだろう。こんなに僕が、一緒にいたいと思っているのに。何か僕が、道子さんを怒《おこ》らせ、無理にでも泳ぎに行きたくなるようなことを言ったのだろうか。
少年が唇を噛んでいるのを見て、道子は思わずむっとした。なぜなら、唇を噛んだ相手の顔は、まるで笑いを噛み殺しているように見えたから。溺れても知らないよ、助けになんか行ってあげないよ、と含み笑いの久邇の口が言っているような気がする。
どうして久邇が笑うなんぞということがあっただろう。彼はまったく困ってしまったのだ。何と言ったらうまく道子を引き留めることが出来るだろうか。うまい言葉が、例によって、なかなか浮んで来ないのだ……。
――ねえ、泳いだってつまらないじゃないか。
そんな平凡な文句が唇をついて出た。それは道子の怒りを決定的にした。
――あたしにはつまることよ。
言い捨てるともう歩き出した。暫《しばら》く行ってちょっと振り向くと、久邇さんはお昼寝でもしていらっしゃい、と言った。そのままどんどん砂丘を駈《か》け下りて行く。久邇が漸《ようや》く腰を浮したのはその時だった。少年はもうびっくりして、どうしようかというふうに遠ざかって行く相手の後ろ姿を見ていた。一緒に泳ぎに行かなければ悪いだろうか……。だが、お昼寝でもしていらっしゃい、と親切にあの人は言ってくれた。決して怒っていたわけではないだろう……。
道子は水の中に二三歩踏み込んだ時、また少年の方を振り返った。しかし近視の少女には、少し不安そうに眉を暗くして、渚《なぎさ》の方を向いている久邇の姿は眼に入らなかったに違いない。彼女は足早に水の中を進んで行った。そして久邇は、相手がもう一度振り向いてくれたことに安心して、ごろりと砂の上に横になった。
2
素足に触れた水の冷たい感覚は、いつもの気をそそるような夏の海ではない。道子は急に怖《こわ》くなって反射的に後ろを振り向いた。一体に何だかおかしな具合だった。道子は決して泳ぎたくはなかったのに、いつのまにか水の中に足を踏み入れている。振り向いたところで、黄ばんだ砂丘や、揺れ撓《たわ》んでいる松林を見るばかり、久邇の姿なぞ眼にとまる筈《はず》はない。それは分っていても、何かしら振り向かずにはいられなかった。しかしすぐ空《うつ》ろな視線を返すと、決心したように覆《おお》いかぶさって来る波の間を切り進んだ。たとい今久邇が追い掛けて来、謝《あやま》って連れ戻そうとしたところで、道子は容易に承知しなかったに違いない。ひどく口惜《くや》しい気分で、強く足を蹴《け》って泳ぎ出した。
人をバカにしているわ、と道子は思う。久邇さんたらどういうのでしょう。あたしだって、何もこんな日にまで泳ぎたくはないわ。あたしは戯談《じようだん》にあの人を威《おど》かそうとしただけ。それなのに久邇さんたら知らない顔をなさっている。勝手におし、溺《おぼ》れても知らないよ、と言うように。それにもうすんでで笑うとこだった。何がおかしいのだろう。あたしは久邇さんにバカにされるほど泳げないわけじゃないわ。これくらいの波、何でもないじゃありませんか。久邇さんなんかよりよっぽど上手《じようず》よ。だけど、久邇さんだってやっぱり上手よ。ただあなたは臆病《おくびよう》だから、少し荒れてるのが怖くて、それで泳ごうとなさらないのかしら。どうもそうではなさそう。波は本当に大したことはない。大きなうねりが揺籃《ゆりかご》のようで、海が子守歌《こもりうた》をうたってあたしを眠らせてしまいそうだ。そう、久邇さんたら何だか変なのだわ。今まではああではなかった。あたしの気持をすぐに暁《さと》っていつでも親切にして下さった。口数は尠《すくな》いし、御愛想《おあいそ》は言わなくても、 Wandervogel《ワンダフオーゲル》 の連中とは較《くら》べものにならないほど心の底が暖かかったわ。あの人はあたしが好きなのだ。だから何でも、あたしが口にしないことでも、すぐ気がついていたのだ。それが急に何もかもちぐはぐになって、ひとつひとつあたしの気持と食い違って来たのはどうしたわけでしょう。そう、昨日からのことだった。昨日も変だった。お迎えにも来て下さらなかったし、お詫《わび》の言葉もおっしゃらない。今日は今日で、変に威張っていらっしゃる。不思議だわ。急に久邇さんが前の久邇さんでなくなって、王子様が魔法を掛けられてこうのとりにされたみたいなの。どうも変てこなの。なぜでしょう。ひょっとしたら、あの人あたしが嫌《きら》いになってしまったのかしら。もうあたしをお姫様のように大事にしようという気がなくなってしまったのかしら。嫌いならいい。あたしは何も久邇さんだけがお友達じゃないのだから。いいわ、嫌いになったのなら嫌いになったのでもいいわ……。
口の中が塩鹹《しおから》くなる。道子は少し首をそらして海の水を吐き出した。眼がちくちく痛いところを見ると、涙が出て来たのかもしれない。泣かないわ、と声に出して言った。海の色が、遠くは暗く濁っているにも拘《かかわ》らず、道子の廻りでは水晶のように明るく澄み切っている。腕や脚《あし》がいびつに歪《ゆが》んで沈んでいる。それを少女はことさらに動かしてみたりする。時々、大きなうねりが軽々と彼女の身体《からだ》を持ち上げるようにする。
怖くなんかないわ、と思う。こんなに脚が綺麗《きれい》に水の中で光っている。自分の脚だとは思えない。まるで人魚のように綺麗なんだもの。でも……人魚に脚はなかったわ。久邇さんの脚の方が、あたしのよりよっぽどすらりとしている。けれど海の中では、あたしの脚だって負けはしないわ。海が透明な衣裳《いしよう》で包んでくれると、あたしたちの身体が汚れのないものに変るのだわ。その代り、考えることだって違って来る。夢のような希望や、外国のことや、生きることや死ぬことや、色んな難《むずか》しい問題を考えるようになって来る。これも海があたしたちに与える作用なの。海はちっとも怖くはない。海は悲しい時にあたしたちを心から慰めてくれる。ママンがずっと海の側《そば》でお暮しになるのも、パパのいらっしゃらない寂しさを、海の声、海の馨《かお》り、海の感触で紛らしたいからなのだろう。海は心の中にまでいつのまにか沁《し》み込んで、何か遠いもの、涯《はてし》ないもののやるせなさを植えつけてしまう。ちょっとした悲しみが本当の純潔な悲しみにまで亢《たか》まって、その上で、生きていることはいいことだというような、うっとりした悦《よろこ》びの中に溶けて行ってしまう。あたしは海が好きなのだ。長い間この土地に住んで、もう海とはお友達になってしまった。けれどもママンが海をお好きなのとは違う。あたしは海が、生きる場所を思わせるから好きなのだ。それは一つの戦場なの。海は闘いへの勇気を与えてくれる。けれどもママンには、海はただの慰めに過ぎないのね。そこではどんなに傷《いた》ましい過去も、死の記憶さえも、蒸気のように消えて行ってしまう。あたしには印度洋《インドよう》の夕暮が忘れられない。あれはパパが夢のようにパリでお亡《な》くなりになった翌年の春だった。ママンとあたしとは、あの暑い印度洋で、日本へ着くまでの日数を数えていた。見たことのない故郷の国へ一日一日と近づいて行く悦びよりも、幼いあたしには、親しかったパリの記憶が次第に薄れる悲しみの方が大きかった。その記憶の中にパパが、あたしの大好きなパパの姿が、大事にしまってあったのだから。しかし、パパがお亡くなりになった、もう遠い遠いところへいらして二度と会うことが出来ないという、そんなはっきりした死の意味は、五つや六つのあたしには思いつかなかった。印度洋の夕暮だった。あたしとママンとは甲板に出て、大きな火の玉のような太陽がゆっくり西の海に沈んで行くのを見ていた。「あのお陽《ひ》さまは海の中へ落っこちて溶けてしまうのね、」とあたしは言った。ママンはぼんやりした眼つきで、「ええお陽さまは死んでしまうのよ、」とお答えになった。その時急に、あたしには死というものが、怖い夜の感じ、そしてその中に一種の快い苦しみを持った夜の恐怖として、初めて分って来た。太陽はあっという間に沈み、荘厳な黄昏《たそがれ》が印度洋の涯ない海と空とを一面に包んでしまった。「パパはもういないのね、眼に見えないとこに沈んでおしまいになったのね。」そんなことをあたしは言った。ママンのお顔は夕映《ゆうばえ》に照されて、聖マリア様のように見えた。「でも、でも、」とあたしは尋ねた。「明日になればまたお陽さまが昇るわ、ねえパパだって……。」ママンの答はぞっとするほど冷たかった。「いいえ道子、今日死んでしまった太陽は、もう明日には昇りません。」海が暗くなって、汽船の切って行く波だけが仄白《ほのじろ》く澪《みお》を引くのを、甲板の手摺《てすり》に凭《もた》れて見ていたあたしは、そこでわっと声をあげて泣き出した。海がお陽さまを呑《の》んでしまった、パパが海に沈んでしまった。そんなことが意外にはっきりした姿を持って、泣いているあたしの頭の中に浮んでいた。パパにはもう決して会うことが出来ない。そしてこの夜はもう決して明けることがない。あたしにはそれが初めてはっきりと分った。あたしがあんまり泣くので、ママンはケビンまであたしを連れて行くのに、ひどく苦労をなさったそうだ。しかし夜はやっぱり明けて、また単調な印度洋の一日を迎えた。そして新しい太陽は奇蹟《きせき》でも何でもなかった。それなのにパパは永久に沈んでしまった太陽だった。遠いパリで、そしてあんなにお若くて……。乗っている自動車が引っくりかえるなんて、そんな運の悪いことが一体あるものかしら。あたしにはその時どうしても呑み込めなかった。昨日まであんなに道子を大事に可愛《かわい》がって下さったパパが、ドライヴの途中で横から来た自動車を避けるため並木と衝突して、そのはずみに自動車の下敷におなりになったなんて。誰がそんなバカなことを本気になって考えるでしょう。でも本当だった。ママンと二人で病院に駈《か》けつけた時、パパはもの言いたげな御様子をなさったけれども、もう道子と呼んでは下さらなかった。教会での長いお式。聖マリア様。揺れている蝋燭《ろうそく》の灯。あたしは焼絵《やきえ》玻璃《がらす》の中のお坊さんや十字架などが、うそ寒いパリの太陽に照されて、夢のように光っているのを見ていた。家の中を埋めた花束。色んな人たちの御挨拶《ごあいさつ》。何という賑《にぎや》かな日々の連続だっただろう。パパのいない悲しみは、そうした慌《あわただ》しさの中に埋もれてしまった。可哀想《かわいそう》なパパ。そして可哀想なママン。ママンはどんなにかお寂しかっただろう。けれどもママンは決してお泣きになんかならなかった。お葬式の時もつつましく伏眼がちに黙り込んでいらした。日本の女の人は悲しみを表に出さないと言われている。ママンもやっぱりそうなのかしら。あたしの覚えている限り、いつも気丈夫だった。あたしが夕暮の印度洋で泣いた時だって、ママンは、「道子にはママンが附いているでしょう、パパの分まで可愛がってあげますからね、」とおっしゃった。しかしどんなにお寂しかっただろう。ママンにとって、パパはたった一人の、大事な大事な方だったのだ。でも、そう、あたしは思い出した。ママンがたった一度、さめざめとお泣きになったことを。あれはいつだっただろう。パパがお亡くなりになってから幾日か経《た》った、うそ寒い夜のことだった。あたしは夜中にふっと眼を覚《さ》ました。夜卓の上のかすかな灯に照されて、あたしはママンがベッドの横の椅子に腰をお掛けになったまま、ハンカチを顔に当てていらっしゃるのを見た。「ママン、ママン、どうなさったの?」あたしはそう叫んでベッドの上に起き直った。ママンは泣いていらした。涙が頬《ほお》の上を垂《た》れていた。若くてお綺麗なママンも顔の色は蒼《あお》ざめて、涙の痕《あと》が白く光っていた。「道子、もう駄目、パパはもうお帰りにならない。」それは訴えるような、咽《むせ》ぶような声だった。「もう駄目、パパはもうお帰りにならない……。」あたしにはまだ死というものがよく分っていなかった。しかしママンの悲しみだけは、直接あたしの魂に呼び掛けて来た。あの気丈なママンを泣かせるものとして、その時、あたしは死の悲しみを理解した。「可哀想なママン。」あたしはそう叫んで、ママンの首を抱くように凭《もた》れかかった。寒い夜だった。パジャマの襟《えり》にママンの冷たい涙が滴《したた》り落ちた。可哀想なママン……。ママンはその時、あたしを固く固くお抱きになった。そして狂おしい声で、「道子、あたしたちはもう駄目、あたしたちも一緒に死んでしまいましょう、」とお叫びになった。「もういっそ死んだ方がいい、ねえ道子、死んだ方がましよ……。」ママンの手には強い力があったし、その声はいつもの若やいだママンの声ではなかった。あたしは急に怖くなった。あたしを抱いているのが、ペローの物語に出て来る魔女のように思われた。「厭《いや》よ、死ぬのは厭。」意外なほどはっきりした声であたしは叫んだ。ママンは声をあげてお泣きになった。そしてあたしはまたいつのまにか眠ってしまった。あんなに心の緊張した、人生の大事な瞬間に眠ってしまうなんて、何と不思議なことだろう。もっともあたしはその時まだ五つか六つで、何も知らない赤ん坊だったのだけれど……。
道子は思わずびくっとして聯想《れんそう》の糸のもつれを解いた。手や足が意外に冷たくて知覚がない。振り返ってみる。もう砂丘や松林が限りなく遠い。どうしてこんな沖まで出てしまったのだろう、と思う。うねりが、ゆっくりと道子の身体を持ち上げそして沈める。さあ帰ろう。大変だ。急に不安な気持が濃くなり出す。そして海水帽からはみ出した髪の一|房《ふさ》が、濡《ぬ》れてしっとりと重いのをその時感じる。
さあ帰ろう、と呟《つぶや》いた。力を出して泳がなければいけないわ。溺れたりなんかしないわ。溺れたりするのは、結局意志が弱いからだ。あたしは自分の意志が肯定しないような死にかたはしたくないわ。死は意志の命じるものでなくちゃ。パパはお気の毒だった。パパはまだまだ立派な絵をたくさんお描きになりたかった。あんな不意の、強制された死にかた、パパはそれがどんなにか口惜《くや》しかっただろう。ママンは何でも諦《あきら》めている。ママンには張合いというものがない。もしも天使が翼を拡《ひろ》げてママンを訪れたら、いつだって悦んで身を任せるに違いない。あたしは違う。あたしは自分で死を呼びつけるのでなくちゃ厭。しかし死が、どうしても避けられない人間の運命なら、海の中で死ぬのは悪くないと思うわ。海は人を眠らせる。ちょうど魚や貝や海藻《かいそう》などが海に生れたり死んだりするように、人も海では静かに死んで行くだろう。そしてもう人間の醜い世界を忘れ、世界から忘れられて、眠りのような死を味わうことが出来るだろう。人間はどうせ死ぬのだから。トウパパウの持っているものはみんな滅亡するのだから……。海……。しかし、海はやっぱり死ぬ場所ではないわ。海はあくまで生きる場所、生活と希望との場所だとあたしは思う。ここでは力の限り生きなければならない。風がまた出て来た。飛沫《しぶき》がひどくて眼をあけていられない。もっともっと力を入れて泳ぐこと。でも、手や足がどうしてこんなに冷たく無感覚になってしまったのだろう。今日は美代がいない。いつもは美代があまり遠くないとこにいてくれるのに、今日に限ってあの子を連れて来なかったのは、何か不吉な前兆じゃなかったろうか。不吉な……。あたしのゴーギャン、あの絵はいつでも持主を不幸にするのだから、ひょっとしたらあたしが溺れて死ぬことを……。まさか、まさかそんなバカなことなんかありはしないわ。それに美代なんかいたっていなくったって同じこと、あたしは一人で泳げる。もう誰に教わらなくても、ちゃんと一人前になっている。さあ自信を持とう。……風の音がごうごうと鳴っている。あたしの耳の中で、風が鴎《かもめ》のように羽ばたいている。もっと一生懸命に、力の限り泳がなくちゃ。もしあたしが声をあげて呼んだなら、誰か助けに来てくれるかしら。いいえ、あたしは声なんか出さないわ。久邇さんが来てくれるかしら。あの人は駄目、あの人は来てくれやしない。久邇さんは意地悪だもの。でもあたしは溺れたって声なんか出しはしないわ。でも、こんな時には、よく誰かが助けてくれる運びになる。通俗な小説だったら、きっとそういうふうになるものだわ。|Prince charmant《プランス・シヤルマン》 が生命《いのち》がけで助けに来る……。けれどもあたしは御免だ。そんなことで頭が上らなくなるなんて、おお厭だ。そういえば昨日のお客さん、何と言ったっけ、そう桂さん、あんな人が偶然にあたしを助けてくれないかな。あの人なら大丈夫。パパみたいに大きいんだから、ロマンスになんかなりはしない。ありがとうって言えば、それで済んじまう。桂さんになら助けてもらってもいいな。まだ遠い。何だかもう息が詰りそうになって来た。桂さん、桂さん……。髪が濡《ぬ》れて、重い、重い……。
3
――……すると三枝君は、本気になって絵の方にはいったわけですね?
今までじっと画面を見詰めていた桂昌三は、そう言ってからまた芳枝と向い合って腰を下した。しかし眼は依然として壁に懸《かか》った画布を離れない。
――ええ、何だかひどく真剣でしたの。わたくしにはどうもよく分りませんでしたけど、|diable au corps《デイアブル・オ・コール》 とでも申すのですかしら、勤めをやめた頃はまるで神経の塊《かたま》りみたいにぴりぴりしておりましたわ。
――僕はまた道楽が亢《こう》じたくらいかと思っていました。そうですか、もともと絵が好きだったんだから、二重生活に耐えられなくなったというわけですね。桂はそしてゆっくりと女主人の方を振り返った。
――パリへ行きましてからは、もう明けても暮れても絵の話ばかりで、最初のうちはわたくしを伴に連れて画廊を廻って歩くくらいでしたが、そのうちに若いフランス人の画家たちと識《し》り合《あ》いになる、高価なタブローを次々と買い込んで来る、勿論《もちろん》制作の方は毎晩で、大使館の仕事で昼の時間を取られるのがそれは厭そうに見えました。
――それはそうでしょうね。油が乗って来た時に他の仕事で縛られるのは辛《つら》いから。
――大使館をやめる頃には、役所のかたからも色々忠告されたらしいのですけど、本人はいっこう平気で、役人に芸術は分らないと口癖のように申しておりました。辞表が通りました時に、わたくしを掴《つか》まえて、|Alea jacta est《アレア・ヤクタ・エスト》 …… そんな難しいことを呟《つぶや》いておりましたが、何だか怖《こわ》いようでした。嬉《うれ》しそうでいて、それで少し不安げな、厳《きび》しい顔つきで……。
――それはそうでしょう、と言って、桂は憂鬱《ゆううつ》そうに眉《まゆ》に皺《しわ》を寄せた。パリは何しろ本場ですからね。絵かきの数だってちっとやそっとじゃない。その一人一人が眠る間も惜しいくらい毎日仕事をして、さて何十年かの後何人浮び上るか。仕事そのものが楽しいからといって、やはり認められたいための仕事ですからね。識られざる傑作も、埋木《うもれぎ》になった天才も、たくさんいるでしょう……。怖いな、パリは。まして素人《しろうと》から専門家になろうというのは、大冒険ですからね。ゴーギャンみたいなのは珍しい例ですが、それだって苦労に苦労を重ねて、生前はあまり認められていない。三枝君がひと思いに画家に転向されたというのは、いくら自分に恃《たの》むところがあったにせよ、心の底は苦しかったでしょうね。しかしそれだけ思い切ったのには、奥さんの内助の功も大きかったんじゃないんですか。
――あら、わたくしなんか相手にしてくれませんでしたわ。モデルに使われますだけで。大使館をやめた当座は、二人してダンスばかりしておりました。
桂は芳枝の顔をふと真剣な瞳《ひとみ》で見詰めた。官吏と芸術家との岐路に立った男が、それこそ崖《がけ》から飛び下りるような気持で新生を決意した時に、妻がそうした心のドラマに関与しないということがあり得るだろうか。三枝太郎は彼の愛妻にその決意を諮《はか》らないほどに自己の天分を信じていたのだろうか。それともこの奥さんは、御主人の心の動きを暁《さと》り得ないほど単なるお人形でいたのだろうか……。
芳枝は相手の探るような眼つきに、自分がモデルに使われると言ったために生じた、職業的な視線を感じた。彼女は赧《あか》くなって横を向いた。桂さんの眼には、着物を通して肉体の奥底を凝視するような鋭さがおありになる、と思う。そして見るともなしに壁に懸った風景画を見ている。
その二十号の油彩は、三枝太郎の作品の一つだった。パリのモンパルナス辺の裏街を、謂《い》わば乱雑に描き出したものだが、原色を生《なま》で使った絵具の色が鮮《あざや》かな効果を生んで、それを渋い、バーントシエナのトーンで統一している。明るいパリの空がそのまま芳枝の記憶の中に甦《よみがえ》って来る。この絵を見る度《たび》に、パリへの郷愁がこみ上げて来るのを禁じ得ない。パリ……、そこには芸術家の良人《おつと》と、最新の衣裳《いしよう》と、キャバレの音楽と、そして今はもう持ち得ない青春の夢とがあった。
桂昌三も相手に倣《なら》って再び絵の方を向いた。なるほど、この絵はうまく描かれている。デッサンは少し粗雑だが、色の鋭い感覚はそれを補ってあまりがある。一種の雰囲気《ふんいき》も滲《にじ》み出ている。しかしどこかに、素人をあっといわせるこけおどしのようなものが感じられる。絵が少々|綺麗《きれい》ごとに過ぎるのだ。これは少し残酷な言いかたかもしれない。あまりに作者が現実に夢を持ちすぎ、 hallucinatoire《アリユシナトワール》 に風景を画こうとしたのかもしれない。しかしともあれ、三枝太郎は風景画家になる人ではなかったのだろう。いつぞや雑誌で見た裸婦は、それこそ浮世絵風の味を入れて、ひどく甘美な傑作だったように覚えている……。
――わたくしこの絵がそれは好きなのでございますのよ。上手下手《じようずへた》は分りませんが、何だかパリにいた時のことを思い出して……。桂さんはパリにはどのくらいいらっしゃいまして?
――僕ですか? そしてぽつんと答えた。僕は行かずじまいです。
芳枝はびっくりして客を見る。相手の瞳が陰鬱に翳《かげ》って見えたので、悪いことを訊《き》いたのかな、と思ったけれど、それはもう遅すぎた。が、客はそうした気分を自ら憐《あわれ》むかのように、煙草に火を点《つ》けて深々と吸い込むと一息に喋《しやべ》り出した。
――僕はパリどころか、外国へはまるっきり行ったことがないんです。この狭い牢屋《ろうや》のような日本に、宿命的に縛りつけられているんでしょう。勿論《もちろん》、ヨーロッパへは行きたいと思いました。むかし奥さんや三枝君たちと一緒に遊んでいた頃は、パリへ行きたいというような話をみんながしていましたね。僕なんか、随分過激なことを言ったものだ。覚えておいででしょう。日本なんて国には何の未練もない、出来たら一生フランスあたりで暮したいものだと。
――ええ、覚えておりますわ。あの頃は誰でもが外国の夢に憑《つ》かれておりました。
――あなたが三枝、いや三枝君と結婚なさって、お揃《そろ》いで向うへ行かれるというのは、随分|羨《うらやま》しかった。僕も何度も行けそうにはなったのですが、その度に故障が起りましてね。結局無理をすれば行ける時にでも、少々僕の意志が不足していたのでしょう。そのうちに、もう行っても始まらないだろうというような、変にさっぱりした気持になってしまって……。
――でも、と芳枝がおずおずと訊いた。今でもいらっしゃりたいとお思いなのでしょう?
――そうですね、正直なところ行きたいのか、行きたくないのか……。今では、さあ行き給《たま》え、とお膳立《ぜんだて》を揃えてくれても、もう行く気にはならないでしょうね。どうせ行くのだったら、もう少し昔に行きたかった。二十代のうちに行きたかった。僕みたいに、三十代ももう終るような年頃では、何かにつけて感激が薄いですからね。こういうふうに物を見る眼が疲れて来てはどうにもなりません。
――でもパリはようございますよ。わたくしはもう一度行きたい……。
若々しい声でうっとりと呟いた。桂はちょっと皮肉そうに唇《くちびる》を歪《ゆが》めたが、相手の素直さに打たれてしまう。
――夢を持てる人は羨しいですね。そう言った声に皮肉はなかった。
――あら、桂さんは如何《いかが》なの? まだ夢はたくさんおありでしょうに。
――もうありませんね、恐らく。思えば、パリへ行きたがっていた頃はまだ若かったと思いますよ。近頃はもう何の関心もない。たださっきのように、パリへ行ったことがあるか、などと人に訊かれると、一種の |inferiority complex《インフエリオリテイ・コンプレクス》 を感じる。これだけは厭ですね。しかしそうかといって、夢は自《おのずか》ら生れるもので、やたらに製造するわけには行きませんよ。
桂はそう言ったなり、椅子の背に凭《もた》れかかった。
わたしの夢と言ったのは何もパリのことだけではないのに、と芳枝は思う。昔存じあげていた桂さんは、希望と野心とに充《み》ち満ちていらっした。もっとも時々は、暗い翳《かげ》の射《さ》すこともあったけれど、それさえ一つの魅力だった。絵のことではいつもひどく勇敢で、少しの妥協も容赦もなかった。いつでも遠い未来を見詰めるような眼をなさっていた。お若い時からあれほど熱心で、一筋に絵の道をお歩きになったのだから、どんなにか夢を持って、立派なお仕事をなさったに違いない。ただわたくしはこの方のお描きになったものを、奇妙なことに一度も拝見したことがないものだから……。
――わたくしには分りませんわ。夢がなくてお仕事が出来るものでしょうか?
芳枝のそうした質問に、桂はびくっとして放心状態から覚《さ》めた。もう十何年も会わないで、他人だと言い切ってもいいほどの間柄なのに、少女の時と少しも変らぬ真剣な畳みかたでこの人は向って来る。それが桂の口に、ほんのりとした微笑を醸《かも》し出させる。
――夢というか希望というか、それがなければ駄目ですね。僕なんかは、深淵《しんえん》の廻りを爪立《つまだ》ちで歩いているようなものです。
ごく無造作にそう言われて芳枝は何となく笑ってしまったが、言葉の真の意味は暁《さと》れなかった。桂はやはり穏かな微笑を続けている。
女中が果物を盛った盆を捧《ささ》げて客間へはいって来た。桂は冷たい紅茶のコップを手に取りながら訊いた。
――お嬢さんは、今日は?
――海岸へ出掛けましたの。今日はお天気が悪いのでおよしと申したんですが、肯《き》きませんで。我儘《わがまま》で困りますのよ。先ほどの少女のようなひたむきな表情が一足飛びに母親のそれに変った。
――僕がこの絵の中で羨しいのは、と桂はまた画布の方へ首を向けて、この中に粗暴な生命力が息づいていることですね。絵のテクニックなどを後廻しにするだけの烈《はげ》しい息込が見られる。これは一体若さなんですかね? それとも gnie《ジエニイ》 かな?
――それは太郎も、何だか楽に描いたらしうございますのよ。たしか大使館をよす前の作品でしたでしょう。
――そうでしょうね。この中には苦しさとか懐疑とかいうものがない、僕はあまりたくさんは知らないが、それも大かたは複製ですが、三枝の作品はどれも非常に肯定的な、謂《い》わばイデーはない代りに現実を最も美しい面で捉《とら》えたといったようなのが多いんでしょう。自分の才能を信じ切って、徒《いたず》らに他を気にするということがなかった。こういう生き方は羨しいですね。
――まあ好きなことが出来て、幸福な人だったのでございましょうね。
そう言った芳枝の言葉の中に一種の苦味が混っていたが、自分の思想を追っていた桂はそれに気がつかなかった。
――羨しい、と繰返した。
桂さんの眼が少し曇った、と芳枝は思い、それと共に、自分の顔色も蒼《あお》ざめていはしないかと心配になる。芳枝があれほど愛していた太郎の生涯で、どうしても許すことの出来ない思い出が、「幸福な人だったのでございましょうね、」と言った自分自身の言葉によって甦って来た。そして、自動車事故で死ぬ少し前頃の、絶望的な、ひどく痩《や》せて眼ばかり光らせていた太郎の顔が鮮かに浮んで来る……。
――やはり天才というものは、盲信でも何でも、自分の才能をぎりぎりまで信じ切った人間でしょうね。
そう言った桂の眼の澱《よど》んだ光も、一瞬芳枝を戦慄《せんりつ》させるだけの不安に充ちたものがあった。現実の桂の顔と、記憶の中の太郎の顔とが、同時に重なりあった。
――僕が三枝を羨しいと思うのは、と少し勢づいた声になって、桂は話し続けた。自分の力を一息に出し切ることの出来たその情熱ですよ。誰にでも才能はある。しかし才能という奴《やつ》は、小出しにしているうちにいつのまにか泉が涸《か》れてしまうことが多いんです。僕のような者が、そのいい例でしょうね……。
芳枝はますます顔色の蒼褪《あおざ》めるのを感じる。客が遠慮もなく会話を真剣な領域に進めて行くので、どう相手をすればいいのか分らなくなって来る。こうしたひたむきな議論を芳枝は長い間忘れていた。現在の芳枝が識っているサロンの間では、話という話はいつでも frivole《フリヴオル》 なのだ。どうしたら桂さんのお話を別の筋道に向けることが出来ようか。
――難しいお話ですこと。わたくしよく……。
――三枝のように、大使館の方に勤めていて、それで天職が絵の方にあると気のついた奴はまだいいんですよ。外交官としても才能があるんだから、一つの才能から他の才能に変っただけです。僕なんか、この年になって、どうやら間違ったと気がついたんですからね。
――間違ったとは?
――絵かき商売が間違いなんですよ。もともと本当の芸術家に生れついていなかったんでしょうね、それを今まで、自分で勝手に芸術家だと思い込んで来た。夢がなければ生きられないというわけですか。
――まさか……、と芳枝は微《かす》かな声で言った。
――いや本当なんです。或る女がむかし僕に言いましたよ、あなたは絵かきでも何でもない、あなたに出来ることは自分を騙《だま》すことと女を騙すことだけだ、とね。
――まあ……。
――いや、気のつくのが遅すぎました。子供の時から絵を描くことしか覚えようとしなかったのだから、今さら厭だと言っても他《ほか》にやれるものはありはしない。つまり、他のことには才能がない、しかし自分の選んだ職業にも才能がないということが、やっと分ったのです。こうなると人生というものが……。や、どうしました?
――何でもございません。芳枝はそう早口に言って、顔を隠すように、氷片の溶け切った紅茶のコップを手に取った。そして心もちほほえみながら、薔薇《ばら》の匂《におい》がきつくて、と附け足した。
まったくこの匂は強すぎる。と桂は思う。テーブルの上の青磁の壺《つぼ》から、季節|外《はず》れの薔薇が豊かに溢《あふ》れ出ている。その明るい紅が飾りの殆《ほとん》どない薄青い芳枝のドレスとよく似合っている。桂はもう一本の煙草に火を点け、椅子の上で少し身体《からだ》の位置をずらしながら、そこで話頭を転じた。
――これは前に人から聞いたのですが、三枝君の立派なコレクションをこちらにお持ち帰りになったのだそうですね。もし宜《よろ》しかったら見せていただけませんか。何でも、印象派のいいものが多いとか……。
――あら、それはお気の毒なことをしました、と顔を起してはきはきした声で答えた。家なぞに置きましても見る人もありませんので、親戚《しんせき》の、やはり美術に趣味のある人に預けてありますの。何ならそちらを御紹介いたしますから。
――いや、それなら結構です。ただちょっと思い出したものですからね。
言い終るともう何の未練もないように椅子の背に凭《もた》れかかった。しかし芳枝は、相手の声の中に一種の失望の響きを聞いた。お気の毒だった、と思う。が、それと共に、昨日と今日、相手がこんなにしげしげ自分を訪《たず》ねてくれたのも、単にフランスの絵を見たいためだったのかという、軽い拍子抜けも感じないわけには行かなかった。
――ここは海岸で湿気が多いものですから、絵の保存には宜しくないそうですの、とやはり弁解を続けた。主人の描いた物も、殆どそこに預けてしまいました。もっとも、道子が好きなものですから、コレクションの中でゴーギャンだけ一つ取ってありますけど。
――え、ゴーギャン、三枝の好きだった? と驚いた声で相手を見詰めた。それは有難い。お宅にあるんですね、拝見出来ますか、と畳み込んで訊いた。訊きながら殆ど腰を浮していた。
――それが、実は二階の道子の部屋にございますのよ、と困ったように言い澱《よど》んだ。道子がおりませんとどうも……。
――ああそうですか、とおとなしく返事をすると、桂は再び腰を掛けることをせずに、立ち上って客間の中を歩き始めた。なぜ道子がいなければゴーギャンを見てはいけないのか、そんなことは考えなかった。黙然として部屋の中を往《い》ったり来たりした。
豪奢《ごうしや》な絨緞《じゆうたん》を敷きつめた客間だった。大きな大理石の煖炉《だんろ》の上に、飾り箱に入れた懐中時計や、小さな写真立や、タナグラの人形などが小綺麗《こぎれい》に並べてある。その上の壁にゴブラン織の壁掛がゴンドラをあしらった水都の風景を見せている。その右手の壁の中央に例のパリ風景の油絵。玄関に通じる扉の右手には、どっしり坐ったグランドピアノが鏡のように光りながら、部屋の中の光景を黒く吸い込んでいる。桂はその蓋《ふた》の上に何げなく置かれたくるくると巻いた楽譜を手に取ってみる。即興曲。ハ短調。作品第六番……。ぼんやりと表紙の大きな肉太の字を読みながら、それをまた元に戻す。廻転椅子の上にも側の小机の上にも、楽譜が乱雑に取り散らかしてある。ピアノと直角に、壁にはめ込みになった低い本箱。洋風の仮綴本《かりとじぼん》と並んで、フランス人形が窮屈そうに腰を屈《かが》めている。部屋の反対の隅に、隣の読書室と境をなすように置かれた大きな石膏像《せつこうぞう》。それは手をあげて踊るように逃げて行くダフネと、風のように後を追うアポロンとの裸像だった。桂はそれを見て、ああこの作者は誰だったかしらん、と呟いた。この石膏像と本箱との間に、大きく開かれた二つの窓がある。桂は窓の框《わく》に凭れて、そこで煙草をくゆらせ始めた。吐き出された煙を風が一掴《つか》みに掴むと、烈しく部屋の中へ追い返して来る。桂は不安げに顔をあげて天候を見た。
芳枝は椅子の中に蹲《うずくま》ったまま考えている。わたしはさっきから何を怒ったように睨《にら》んでいたのかしら。桂さんがいきなりお立ちになって部屋の中をお歩きになるのを、わたしは何となく気にして見ていた。あまり礼儀のある仕方ではない。けれども桂さんという方は、芸術家らしくエチケットにこだわらないところがいいのだ。本当に何を怒ることがあろう。わたしが気分を害したのは、桂さんのいらっしゃった目的が、絵を御覧になりたいからで、わたしにあるのではないと分ったからに違いない。が、何も自惚《うぬぼ》れるようなことはない。わたしは昔の夢ばかり追っている人間だもの、今さら心を踊らせたり悲しませたりしても何になろう。わたしの青春はとうにわたしを見捨ててしまった。そして恐らくは桂さんもあのお口の利《き》きようからみて、そんなに楽しい日をお過しになっているとは思えない。わたしはさっき、ひどく素気なくゴーギャンをお見せするのを断ってしまったけど……。道子の部屋へ黙ってはいったりすれば、あの子がひどく怒《おこ》るにきまっている。でも、わたしの断りかたは少し無愛想に過ぎたのじゃないかしら。せっかくいらっしゃったのに。道子の気持を大事にすることも勿論必要だけど、あの子はまるで我儘《わがまま》に近いのだから……。とにかく訊いてみよう。折入って頼めばまさか厭とは言わないだろう。もうそろそろ帰って来る頃だから……。
――やあ何だか雨にでもなりそうですね。そう言って、窓に凭れていた桂が、側《そば》のテーブルの上の灰皿に煙草をなすりつけると、振り向いた。
部屋の中が少し薄暗くなっている。青磁の壺に飾った薔薇のひと塊《かたま》りが、憂わしげな女主人の側で微《かす》かに揺れている。ああ綺麗だな、と思う。それが不意に明るく心に反射した。美しいものは、その瞬間の生きがいなのだ……。
――降りますかしら? と小首を傾《かし》げながら、芳枝が言った。
4
陽《ひ》が射《さ》し初《そ》めるとそれはぎらぎらした真夏の太陽だったから、早川久邇は側に脱ぎ捨てられた道子の麦藁帽子《むぎわらぼうし》を取って、無造作に顔にかぶせた。微かに髪の匂《におい》がする。ほんのりと黄ばんだ麦藁の部屋の中でなおも眼をぱちぱちさせながら、久邇は今度は両手を頭の下に組んで本格的に脚《あし》を長々と伸した。樹々の梢《こずえ》のざわめく音が聞えても、ここは砂丘の窪《くぼ》みになって風はあまり当らない。そして陽が照り出すと、さっきシャツを脱いだために裸の胸がこそばゆいように暑い。それでも、陽は照ったり翳《かげ》ったりする。少年はいい気持になって仰向のまま眼をつぶると、心地よい安らいを唇《くちびる》の上に浮べている。
が、不安はまったくなくなったわけではない。女友達が泳ぎに行ってしまってから、久邇は二度も砂丘の上に立って、眼の痛くなるまで葵色《あおいいろ》の海水帽の行方《ゆくえ》を探《さが》した。その度《たび》に、道子さんは泳ぎが上手《じようず》だからという口実が、後を追おうとする気持を妨げてしまう。久邇の知っている限り、道子さんは何でも出来、何でも上手なのだ。絵も描ける、ピアノも弾《ひ》ける、外国の本も読める、編物もする、お料理も出来る、自転車にも乗れる……。何でも出来る。ただ少々|気紛《きまぐ》れで熱心さが長く続くことがない。前にはあんなに夢中になって代る代るピアノを弾いたのに、近頃は絵ばっかし描いている。が、泳ぎだけはいつも熱心だ。それに本当にうまいのだ。識《し》り合《あ》いになった頃は、男の子の方がうまい筈《はず》だという自信があったけれど、病気上りのせいか近頃では道子さんにかなわないと一途《いちず》にそう信じていた。従って少しぐらい風があっても、大して心配はしていないのだ。
心を掠《かす》めた不安は、少女が怒っていはしないかという疑いだった。しかし何を……? 僕が一緒に泳ごうとしなかったのはよくなかったかしら。だけど僕は、小母《おば》さまに泳がないと約束したんだもの。僕はあの小母さまのおっしゃることなら何でも聞くつもりだ。僕が道子さんを好きなのも、ひょっとしたら小母さまに対して道子さんと同じ立場でいたい、お母さんだと思いたい、或いは小母さまから道子さんと同じように子供だと思われたい、そんな気持があるからかもしれない。それにしても道子さんは、あんなに小母さまが好きな癖に、どうして逆らったり、約束を破ったりするんだろう。あの人は本当に分らない。御機嫌《ごきげん》がいいかと思うと急に悪くなる。悪くなっても、僕にはなかなかその理由を見つけることが出来ないんだからなあ。
怒っていたのだろうか、とまた考える。人は理由がなくても怒ることがある。お父さんがそうなんだ。お父さんは僕が嫌《きら》いじゃないんだろうが、お仕事のうまく行かない時かしらん、時々ひどくお冠《かんむり》になる。自分で気のつかない間に、人が何かを自分に含んでいるというのは、何と厭《いや》なことだろう。それに僕はぼんやり屋だから、しょっちゅう大事なことに気がつかないでいるのだ。
しかしこうして寝ているのはいい。何という静けさだろう。道子さんが遠くの方で泳いでいる。遠くの方に、道子さんがただいるというだけで、僕の心は今こんなにも静かなのだ。ここではただ風の音がする。そして波の歌、人々のざわめき、舞踏曲、そんなものが子守歌《こもりうた》のように微かに聞えて来る。ああ、これでいいのじゃないだろうか。何も言わなくても、このままで、ただ心の中に実りの多い愛を持っているならば、それでいいのじゃないだろうか……。しかし僕には分っている。こうした心の平静もやがて消えてしまって、いつもの不安がまた忍び入って来ることを。暫《しばら》く落ちついていたかと思うと、直に暗い翳《かげ》が僕をおびやかそうとするのだ。そして僕に少しでも平和を与えるのが惜しいというように、意地悪な悪魔が忍び足で僕の方へ歩いて来る……。
それは本当だった。忍び足で誰かが近寄って来る気配を久邇が感じた時には、薄い網目に夏の光を洩《も》れさせていた麦藁帽子の中が、急にもう真暗になった。ああ、と驚いて起きようとすると、相手は、身体《からだ》ごと少年の上に覆《おお》いかぶさるようにしながら、しっかと久邇の顔の上の麦藁帽子を抑《おさ》えてしまった。思わずびくっとしたほどの冷たい身体だった。道子さん、道子さん、と呼びながら、久邇は相手を跳《は》ねのけて起き上ろうとしたが、今まで頭の下に組んでいた両手は、痺《しび》れて用を足さなかった。しかし相手は直に争いをやめ、手を離した。顔の上の覆いが取れると、少年は眩《まぶ》しさに眼をちかちかさせる。
久邇はその時見た、道子が表情のない大きな眼を見開いたまま、横坐りに彼の方を向いているのを。裸の両脚に細かい砂が一面に附いている。そして身体全体がまだびしょびしょに濡《ぬ》れて、紺の水着がしなやかな曲線を示しながら肌《はだ》の上に密着している。何か傷ついた獣のような、粗暴なものが感じられた。
――どうしたの? とびっくりした声で訊《き》いた。
少女は何か物を言おうとしたが、少し唇を動かしただけだった。紫色に変った唇をしっかと噛《か》んでいた。頬《ほお》には血の気がなく、わずかに肩にかかるほどの髪が重苦しく眼の上にかぶさって来るのを、痙攣《けいれん》的な手つきで払っている。そして久邇は気づいた、道子のかぶって行った葵色《あおいいろ》の海水帽が、揉《も》みくしゃになって五六歩のところに捨ててあるのを。
――大変だったらしいねえ、と力をつけるように言った。
少女はちょっと唇を動かしただけで、くたびれたように俯向《うつむ》いた。呼吸の荒いのが久邇にもよく分った。濡れた水着の胸がせわしなく隆起するのを、久邇は正面に見ないようにして見ていた。少女は手を胸に当てた。
――苦しいの? と訊きながら、立って側へ寄った。
少女は首を起して、うん、うん、と頷《うなず》いた。そして相手が不安そうに眉《まゆ》をひそめるのを見ると、手真似《てまね》で自分の側に坐らせた。
――大変だったわよ、と案外落ちついた声で言った。
――そうだったろうね、随分ひどかったんだろうねえ。
久邇は無邪気に同情を籠《こ》めて呟《つぶや》いた。道子の顔色の悪いのが痛々しかった。悪戯《いたずら》をされたことなぞはもう忘れていた。
――凄《すご》い波だったことよ。あたし今までに、こんな波の荒い日に泳いだこと、一度もなかったわ。相手の同感を確かめるように一語一語に力を入れながら、道子は段々とお喋《しやべ》りになって行った。……それで随分遠くまで行ったのよ。赤旗のとこなんかとうに出ちまった。おかしいと気がついた時は、何だか潮に流されてるみたいだった。
――よかったねえ、よく帰れたねえ。
――もう少し力がなかったら、きっと流されて行ったことよ。
久邇は感心して聞いている。相手が大袈裟《おおげさ》に話を運んでいるのを、彼は少しも気にしていない。道子は安全地帯に帰って来たのですっかり安心した。それでもさっきは随分腹を立てたのだ。ふうふういって久邇のところまで辿《たど》り着いてみると、少年は麦藁帽子を顔の上にのせて、呑気《のんき》そうに寝転《ねころ》んでいたのだから。でも今は、相手が本気になって相槌《あいづち》を打ちながら心配してくれるので、段々に御機嫌が直ってしまう。そこで、甘えるように久邇の手を取って言ってみる。
――触《さわ》って御覧なさい、ね、ほら、心臓が今にも割れそうでしょう?
触ってもいいものだろうか。一瞬ためらってから、久邇の花車《きやしや》な指が、音楽の最初の調べを生み出そうとしてピアノの鍵盤《けんばん》に向う時のように、少女の胸の上に置かれる。冷たい。そしてその冷たさの底から、血の滾《たぎ》る流れのようなものが、暖かく、こそばゆく、久邇の手に伝わって行く。それは傷つけられた小鳥のように喘《あえ》いでいる。優しく小さなふくらみの上で、久邇の手は暫く輪郭を確かめ、その律動を暗記してから、触った時と同じようにためらいがちに離れた。
――行かなければよかったねえ、と言った。
その言葉が魔法を解いた。道子は今までの浮き立つような気持が、急に頽《くず》れて行くのを感じる。行かなければよかった……。そう、泳ぎにさえ行かなかったなら、波に苦しめられてすんでで溺《おぼ》れる破目にも会わなかっただろう。こんなに胸苦しくもならなかっただろう。第一に、久邇さんから、行かなければよかったねえなどと、高見《たかみ》の見物みたいな口の利《き》き方《かた》をされることもなかったに違いない。行ったのはあたしの勝手だったろうか、と心に訊く。だって、あなたが留めないから行ったんじゃありませんか。あたしは何も泳ぎたいことはなかったのに……。そう考え出すと、自分がこんな危い目に会ったのは、みんな久邇さんのせいだという気がして来る。あたしが疲れ切って帰ってみると、久邇さんたらどこを風が吹くというふうに、顔の上に帽子をのせて寝ていたんじゃありませんか。脚を長々と伸して(それにあたしは、と思い出す。あんなに怒っていながら、なぜあたしの脚は久邇さんの脚ほど綺麗《きれい》じゃない、などと埒《らち》もないことを考えていたのだろう)、何もかもが癪《しやく》に障《さわ》って来るのだ。こんなにあたしがひどく苦しんでいるのに、久邇さんたら少しも分っては下さらない、少しも親身になっては下さらない……。
久邇は女友達が気の毒だと思っている。が、それをどう口に表せばいいのか、それがさっぱり分らない。次第に逃げて行く暖かみの記憶を、そっと手の中にとどめておこうとするかのように、掌《てのひら》いっぱいに砂を盛りあげてみたりする。急に手の中の砂を払って、道子の髪に触った。
――まだこんなに濡れてるよ。早くしぼった方がいいんじゃない?
冷やかに死んだ髪だった。久邇がその冷たさにちょっとためらった時、道子が不意に相手の伸した手を払った。
久邇の身体がはずみを喰《く》って横ざまに倒れた。
それはもう考えるひまがなかった。あまりにあっけなく少年が倒れたのを見ると、道子は微かに声を立てながら、相手の身体に拳《こぶし》を揮《ふる》っていた。狂暴な怒りに感情の全部が支配されてしまったように、一心に挑《いど》みかかって来た。動作だけがあった。
久邇は暫く打たれるままになっていた。相手の怒りが意想外に出たため、何に基づいているのか考えることも出来ない。彼は片手で相手の拳を防ぎながら、脚を曲げて立とうとした。道子の素肌の脚に附いている砂が、ざらざらと零《こぼ》れ落ちた。
久邇は半身を起すと、転《ころが》るように砂丘を逃げた。道子は直に追い掛けて来たが、もうそうなると少年の方が力が強かった。二人は暫く相撲《すま》っていたが、久邇は巧みに相手の片手を宙で捉《とら》えてしまった。道子の身体が前屈みになって砂の上に頽《くず》れると、捉えられた片手だけが、歪《ゆが》められて背中の上でたゆたった。烈《はげ》しい息遣《いきづか》いをしていながら、なおも争おうとして自由な方の手でしきりと砂を掻《か》いていた。
少年の心にも、その時不安に充《み》ちた荒々しいものが昇って来る。相手のこうした発作的な振舞が、本気なのか戯談《じようだん》なのか分らない。戯談だとしたならば、あんまり人をバカにした仕打だと思う。こうして相手を掴《つか》まえた以上は、泣声を立てて謝《あやま》るまでは相手を苛《いじ》めてもいい筈だった。しかし、もしも本気だったら……。その想像の前に久邇の心は暗くなる。もし道子さんが本気で怒っているのなら(だが、なぜ?)もうおしまいだ。識らないどうしの昔に帰ってしまう。もうお友達ではなくなってしまうだろう……。
――道子さん、一体どうしたの?
道子は答えない。久邇の手がゆるんだ隙《すき》に、身体を起してまた向って来ようとする。髪が乱れているために、どんな表情をしているのか久邇には分らない。そして彼の心にも、もうどうでもいいといったような、すてばちな気持が生れて来る。暫く打ち合ってから、彼は道子の両手をしっかと捉え、背中に廻してしまった。少女の細い指が微かに宙に痙攣《けいれん》する。横ざまに投げ出された脚が、砂の中に半ば埋もれて顫《ふる》えている。久邇は手に力を入れた。道子はもう完全に自由を失って、髪が砂に着くくらいに首をうなだれ、一心に|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いているが、それでもまだ声を立てようとしない。久邇に、力のない相手をもっと苛めてやりたい急な欲望が湧《わ》いて来る。さらに手に力を入れると、蜜蜂《みつばち》のとまった小さな花のように、道子の身体が傾き、顫える。そして鋭く、痛い、と叫ぶ。久邇は驚いて手を離す。
久邇はそうしてぼんやりと相手を見守っている。少女はやはり捉えられたままの位置に、背中の上に、両手を廻して身動きもしない。紺の水着に組み合せて置かれた手の、手頸《てくび》だけ赤く充血しているのが痛々しい。どうしたんだろう、と思う。どうして黙ったままで動かないのか。さっき久邇が寝転んでいたところと違って、ここは風が吹き渡っているから、久邇の熱した頬に海の風が心地《ここち》よい。そして零細な砂の粒が風の中に混って、昆虫《こんちゆう》の羽音のように響かいながら、道子の身体を少しずつ埋めるように吹き寄せて来るのを見ている。
――ねえ、どうしたんだい? 何とかお言いよ。
不安が次第に亢《たか》まって来るから、そう言いながら並ぶように道子の側に坐った。しかし道子は身体を前に屈めたまま、いっこう口を利こうとしない。少年は暫く黙って様子を見ていたが、そのうちに思い切って相手の肩に手を掛け、抱き起すようにした。少女はおとなしくされるままになっている。
――どうしたの? 痛かった?
そう優しく訊きながら、相手の顔の前に重苦しく垂《た》れている髪を掻きあげてやろうとした。しかしそれよりは、道子が自分で髪を後ろに揺《ゆす》った方が早かった。
そして久邇は見た、眼を大きく見開いて、頬のあたりに少し砂を附けながら、少女が皮肉そうに唇を曲げて笑っているのを。何だ、笑ってるの、と思わずそう叫び出したくなるような、ほっとした気持だった。
道子はなおも黙ったまま、久邇の投げ出した両脚の側に唾《つば》を吐いた。驚いて脚を引くと、砂の混った唾が二つも三つも飛んで来た。そしてその後から、少女の甲高《かんだか》い笑い声が。
それから二人は、海の方を向いて黙って並んだまま坐っていた。わけの分らない親しさが、不意に湧いたように、二人の間を流れていた。
――あら、雨が降って来たことよ。
そう言う道子の声に、久邇はいつの間にか空がまた曇って、大粒の雨がぽつぽつ落ちて来たのに気づいた。人々の驚いて騒ぐ声がする。久邇は立って、麦藁帽子の置いてある方へ歩いて行った。
三章 海について
1
今日もわたしは海へ行かなかった、と三枝芳枝《さいぐさよしえ》は思う。久邇さんや道子が一緒に行こうと誘ってくれても、何かこう億劫《おつくう》で、じっとひとりきり樹蔭《こかげ》で椅子に凭《もた》れている方がよかった。ここにいても遠くから波の音が聞えて来る。今日もひょっとしたら桂さんがお見えになるかもしれない、わたしは心の奥底であの方のお出《い》でになるのをお待ちして、それで海へ行こうとしなかったのかもしれない。ああそんな娘むすめした空想がわたしを悦《よろこ》ばせるほど、わたしはもう若くはない。わたしは誰も待ってはいない。わたしはただぼんやりと眼をつぶって、半ば目覚《めざ》め、半ば眠ったような虚脱の中で、過去の時間が砂のようにさらさらと音を立てて、わたしから降り零《こぼ》れる音を聞いている。過ぎ去った時間が、もう一度わたしの記憶の中で、ある時は早く、ある時はゆるやかに、さらさらと降り零れて行くのを……。
わたしは遠いざわめきを聞く。わたしは聞き分ける、みんみん蝉《ぜみ》や早い蜩《ひぐらし》の合唱、微《かす》かにそれに混る虫の音《ね》、母親が子供を呼ぶ優しい声、子供の勢づいた返事、ピアノの弾《ひ》く練習曲……。そしてすべての物音を越えて、まるで忘却のように絶間なく心に忍び入って来る波の音を。わたしは単調なその響きが、わたしの心の奥底からひとりでに生れて来たのではないかと思う。こうして遠い物音にゆすられながら、わたしの心は次第に眠って行く。桂さんが初めてお見えになった時も、わたしはこうして椅子に凭れたまま眠っていた。わたしはその時どんな夢を見ていたのだろうか。それははっきりした形を持っていたようだったが、わたしは思い出すための鍵《かぎ》をなくしてしまった。
この真昼の物音。それはもう明かに区別できないような、音になる前の音の集りなのだ。ちょうどむかしの時間を振り返ってみる時に、さまざまの色が入り混ってただ一つの灰色の壁に見えるように。けれども過去の死んだ記憶の間から、印象が鮮《あざや》かに蘇《よみがえ》った時の嬉《うれ》しさは、わたしのようにもう昔の夢の中でしか生きていない人間には、この上もないものだ。わたしの夢、わたしの過去は、もうパリにしかない。
パリのアパルトマンでも、硝子窓《ガラスまど》を越えて街のざわめきが響いて来た。それは色々の音を綯交《ないまぜ》にして、それをやわらかく地の底に埋めたような rumeur《リユムール》 なのだ。わたしはぼんやりと眼をつぶって、表の通りから、閉めた窓を抜けて忍び入って来るこの rumeur《リユムール》 を聞くのが好きだった。かの平和なる物のひびきは街より来る……。煖炉で薪《まき》がぱちぱちはねる音がする。部屋の中はものうく暖かい。
「まだ?」と訊《き》く。
「うん、もう少し。」
わたしはくたびれて手の位置を少し動かす。しかしそれは、太郎がわたしの方を見ていない時に限られている。もし見つかろうものなら、額の皺《しわ》を鋭くしてわたしを睨《にら》むにきまっている。髪が眼の方に覆《おお》いかぶさって来るのが、いかにもうるさそう。ジャンパーの袖《そで》にたくさん絵具の附いていること。
「おい、手が少し動いたじゃないか。駄目だよ、そこを今描いているんだから。」
見つかった。わたしは唇《くちびる》の端で笑っている。寝椅子の上に長々と寝そべっているのも、時間が経《た》てばやっぱり苦しくなる。手の下で乳房が汗ばんで来る。曲げている片脚《かたあし》が痺《しび》れて伸したくてしかたがない。
「まだ?」ともう一度、甘えた声で訊く。
太郎は返事をしない。せっせとパレットの上で絵具を溶かしている。煖炉の火が少し暖かすぎる。わたしは催促するようにちょっと口笛を吹く。横眼で側のテーブルの方を見る。花瓶《かびん》から盛れこぼれそうな紅《あか》い薔薇《ばら》。その重たげな匂《におい》が、さっきからわたしに頭痛を起させているのだ。わたしは流行のタンゴを口笛で吹いてみる。ああわたしはもう長いこと口笛を吹く癖を忘れてしまった。もうきっと吹けないだろう。薔薇の紅に負けて、わたしの肌《はだ》が蒼白《あおじろ》く冴《さ》えすぎはしないだろうか。
「太郎、この薔薇紅すぎはしない?」
太郎は返事をしない。そう言えば桂さんも、わたしの顔色が悪いとおっしゃった。わたしはただ青のドレスとよく似合うだろうと思ったのに。しかし薔薇はやはり nu《ニユ》 と一番よく似合うのだ。紅すぎる筈《はず》のないことを、太郎はよく承知している。わたしが口笛を吹くのにも退屈し切った時、太郎がパレットを投げ捨てて、「今日はこのくらいにしておこう、」と叫ぶ。わたしは悦《よろこ》んで、背伸をして起き上ろうとする。しかしそれよりも早く、太郎がわたしの裸の身体《からだ》を軽々と抱き上げてしまう。
「厭《いや》よ、絵具が附く……。」
わたしはそう叫んで、太郎のジャンパーの間で身を|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》く。太郎はしかしわたしを抱《かか》えて大胯《おおまた》に画布の方へ歩いて行くと、殆《ほとん》ど出来かけたタブローを見せてくれる。「薔薇と裸婦」。前景の四分の一ほどに強烈な色彩の薔薇がある。そして手を胸と腹とに置き、片脚を半ば曲げた黒髪の裸婦が、夢みるようにその奥に横たわっている。
「傑作ね。」
「ああ、何しろ二人の collaboration《コラボラシオン》 だからね。」
そう言って嬉しげに笑った太郎の唇。わたしの背と腿《もも》とに廻した太郎の大きな手。絵は今もなおわたしの部屋のベッドの向うに懸《かか》っているけれど、笑った太郎の唇と手とはもう決して帰って来ない。
Collaboration《コラボラシオン》 ……と太郎は言った。あの頃は愉《たの》しかった。本当に太郎の描いたどんな絵でも、半分はわたしが描いたようなものだった。太郎が絵の構図をきめ、わたしが絵の気分をつくった。筆を動かすのは太郎でも、動かさずにはいられない気分にしたのはわたしだった、自分が役に立っているという悦び、それは創造する悦びにも劣らないようだった。「薔薇と裸婦」ができ上った時に、わたしたちは喊声《かんせい》をあげてアトリエの中を踊り廻った。太郎の顔が、力を出し切ったあとの放心したような悦びと、新しい情熱を潜在させた期待とのために、きらきらと輝いているのをわたしは見た。創造の悦びが、いつでも太郎の顔に天上の光のようなものを放射していた。芸術家というものは、それほどの grace《グラース》 を身につけて生れたものだろうか、それほど幸福な人間なのだろうか。
それならば桂さんはどうなのだろう、わたしはあの人の苦しげな表情を、一種の戦慄《せんりつ》なしに思い浮べることが出来ない。あの人は昔から、ひたむきな、それこそ芸術と心中でもしそうなほどの情熱を、持っていらした。技術的にも太郎なんかと較《くら》べものにならないくらいの専門家で、まだほんとに若かったあの頃でも、態度が真剣で少しの妥協もなかった。太郎とむずかしい議論をなさっていらした。そうしたものは、今でも少しもお変りになってはいらっしゃらない。時々ニヒリストのような口をお利《き》きになるけど、あの方はやはり真面目《まじめ》な、芸術のための芸術家だ。あれで太郎を羨《うらやま》しいと本気でおっしゃった。どうしてなのだろう。桂さんには、謂《い》わば genie《ジエニイ》 が欠けているのだろうか、太郎の方がより天分に恵まれていたとでもいうのだろうか。
しかし悦びの中に芸術の創造があるというのは、ひょっとしたらわたしの間違いかもしれない、もっと苦しい、絶望的なものの中にこそ、真の芸術があるのかもしれない。わたしにはもうそれを解きあかすことが出来ないのだ。太郎が死んでからは、わたしはもう芸術の秘密からは遠い。太郎が死んでからもうそろそろ十年になろうとする。そしてわたしを取り巻いて、次第に世俗的な、芸術に縁の遠い人々の渦が、ひろがっている……。
太郎もそう言えば何という苦しげな表情をしていたことだろう。あれは死ぬ前の、殆ど一年くらいの間だった。確かに、制作がそれまでのようにとんとん拍子というわけには行かなかった。一筆一筆が喘《あえ》ぎながら下されていた。そしてあの憎いサラーという女がいた。何もかもが軌道を外《はず》れ、悪魔が二人の間で踊っているようだった。あの屈辱に虐《さいな》まれたような、痩《や》せて落ち窪《くぼ》んだ太郎の表情は、芸術の恩寵《おんちよう》が既に自分を見捨てたことを知った、芸術家の失望の表情だったのだろうか。それとも二人の女の間でバランスを取っている、平凡な男性の悲劇を表していたのだろうか。しかしあの暗い眼指《まなざし》は、やがて迫って来る不測の、不可避の、運命を、あらかじめそれと見抜いているようだった……。
運命、――それは何と不思議なものだろう、わたしたちが何も気づかないでいるうちに、すべてが計算され予定されているなんて。そういうふうに考え出すと、桂さんがお出《い》でになったのだって、何かそこに特別の意味が、勿論《もちろん》桂さんもわたしも知り得ない謎《なぞ》のようなものが、課せられているのかもしれない。本当にもう十五年ばかりもお会いしなくて、殆どもう忘れてしまったような人が、急に思い出して訪《たず》ねて来て下さるなんて、胸の踊るようなことではないだろうか。
胸の踊るような……。ああそれはみんな根も葉もないことだ、みんな空《むな》しい夢なのだ、もう三十五にもなり、道子のような大きな娘がありながら、なおもロマンチックな希望に胸をふくらませているなんて、女というものは何とバカにできているのだろう。このわたしとは一体何だろうか、……花言葉ばかり覚えていた小さな頃から、何にでも憧《あこが》れたりすねたり笑ったりしていた可愛《かわい》い女学生、わたしを取り巻いた幾人もの健康な青年たち、その中の一人との華《はなや》かな結婚、道子の誕生、それからの五年間は時間は重たく充実して過ぎる、パリの懐《なつか》しく愉しい五年間、そして不意に、急に、呪《のろ》いのように、太郎の死、夢の終り、虚脱した自分を見詰めていた長い印度洋《インドよう》航路、再び見た少しも変っていない日本の姿、海岸の別荘に道子と二人埋もれてしまった生活、青春と希望との静かな後退、それから時間は何と単調に、早く、ものうく過ぎて行ったことだろう。退屈な御婦人方との砂を噛むような対話、未亡人というものに注がれる多少|羨望《せんぼう》的な、そのくせ厳《きび》しい視線、ダンスパーティ一つにも陰口のたねを見つけ出そうとする俗世間……。ああ一体こういう一人の女の歩みの中で、どこにわたしというものの正体があるのだろうか。わたしを育てて来た昔の華かな時間、外交官の一人娘として自由にのびのびと育った日々は、古くなった飾り時計のように錆《さ》びついて死んでしまったのだろうか、青春はもうどうしても還《かえ》らないのだろうか。
桂さんも変っておしまいになった。昔はあんなに元気で、未来を一筋に見詰めていらした人。桂さんの肩に重たく懸っている過去は、わたしに鏡のようにわたし自身の年を映し出して見せる。しかし桂さんはなぜ、独身をお通しになったのだろう。太郎よりも一つ若いのだから、もう三十九におなりの筈だ。一体この十五年間、わたしの知っていない間に、あの方はどんな生活をお過しになったのだろう。桂さんはおっしゃった。或る女がむかし僕に……と。或る女、どんなひとかしら、サラーのような? どうして独身をお通しになったのかしら、きっと数々の不運なことがおありだったのに違いない。パリへいらっしゃらなかったというのは、きっと一番の御損だっただろう。あの方の暗い眼、その奥に山あいの沼のように湛《たた》えられた暗い光、そこにはどんな謎が隠されているのだろうか。それでいて一面、肉体を見抜くような職業的な鋭さがあの眼にはある。桂さんが太郎の「風景」をじっと御覧になった時の視線、それはわたしにまで、芸術の持つぞっとするような厳しさを思い出させた。わたしはまた桂さんにお会いして、芸術というものについて教えていただきたいような気がする、むかし太郎に習ったのとは、また違った種類の芸術について……。ああ今わたしが眼を開けば、またこの前の時のように、桂さんがわたしの前にお立ちになってはいらっしゃらないだろうか。そしてじっとわたしを見詰めて、わたしが眼をあけるのをお待ちになってはいらっしゃらないだろうか。わたしには何だかそんな気がする、ただこの眼を開きさえしたならば……。
2
桂昌三はさっきから罠《わな》に落ちたように立ち竦《すく》んでいた。最初の訪問の時と同じ具合だった。ベルを鳴らそうとして手を伸しながら、不意に気が変って枝折戸《しおりど》から庭の方へはいってしまった。女主人がまた椅子に凭《もた》れて眠っていはしないか、そうした漠然《ばくぜん》とした期待が果して意識の閾《しきみ》の下でうごめいていたのだろうか。しかし現実に、顔を薄青く翳《かげ》らせながら眠っている人を葡萄棚《ぶどうだな》の下に見出《みいだ》した時の驚きは、確かにぎょっとする不安を彼に喚《よ》び起した。どうしてまた魔に憑《つ》かれたように、庭の方へ廻ってしまったのだろう。たまたま来合せたのだと、また同じ言い抜けが可能だろうか。そこに何か特別の意味を附け加えて、女主人が悪く取ることはないだろうか。
が、それがどうしたというのだろう。桂の心は直に不敵になる。今さら引き返すことは出来ないという覚悟が、気の弱い泥棒が居直らずにはいられなかった時のように、彼の心を締めつけて、桂はしげしげと犠牲者の顔を眺《なが》め始める。
この前と同じだった。あどけないと言えるほどの無心の表情。葉末を洩《も》れる光線が小妖精《しようようせい》のように唇《くちびる》の廻りで踊っている。時間がまるで停止していたかのように、桂は初めて女主人の前に自分を置いた時の驚きを、今も同じ緊張に於《おい》て捉《とら》えている。ただ現在の感動の方が、そこに幾分の客観的なゆとりと多少の後悔とを残しているせいか、より沈鬱《ちんうつ》な、より厳粛なもののように感じられた。この数日間を隔てた二つの出会いの間に、時間は何を作用したというのだろうか。何もない、と桂は断言することが出来る。何ひとつ時間の作用したものはない。同じ髪、同じ眉《まゆ》、微笑を潜在させた同じ唇、懶惰《らんだ》の中に己《おのれ》の位置を確かめている手足の同じ姿態。そして十五年、この驚くべき歳月を溯《さかのぼ》っても、なおも荒巻芳枝《あらまきよしえ》という一少女は、唇にあるかないかの誘うような微笑を浮べて、葡萄棚の蔭《かげ》で午睡の夢を貪《むさぼ》ってはいなかっただろうか。そして生真面目《きまじめ》な青年だった桂昌三は、やはり素直な驚嘆の色を現しながら、眠れる美姫《びき》の前に跪《ひざま》ずいてはいなかっただろうか。十五年も数日も、人間の記憶が振り返る時間というものの中では、共に何と無価値に、泡沫《ほうまつ》のように空《くう》に帰してしまうものか。いな寧《むし》ろ、時間は無いと言った方がより適切なのではあるまいか。この婦人が、妖精の森の美姫のように、長い歳月を一瞬の夢としてこんこんと眠り続けてしまったのだと言った方が。
しかし感動は長くは続かない。折から明るい夏の光線が、幾重にもなった木の葉の間を洩れて、ちらちらと芳枝の顔を照し出す。そして桂昌三は、何か不自然なものをその容貌《ようぼう》の上に気づき始める。謂《い》わば人工的な眠りの表情、人工的な美しさといったようなものを。それは今日の訪問を、明かに数日前のそれと区別するものだ。この顔は眠りをつくっている。そして彼には次第に分って来る、十五年の時間の持つ現実の重たさが。しかしそれをどう表現したらいいのか。この顔は確かに美しい、恐らく未婚時代よりも一層完成して美しい。そこに歳月の刻んだ、造化の妙と人工の力との混り合った美しさがある。しかし、現在の方が一層完成して美しいということの中に、謂わば逆説的に、時間の謎《なぞ》を解きあかす鍵《かぎ》が隠されているのではないだろうか。
桂は相手の顔をよく見ようとして一歩近づいた。その時、芳枝がまぶしげに目瞬《まばた》きしながら眼を開いた。
――ほらいらした、と呟《つぶや》いた。そして意味ありげな微笑を浮べて居住いを正した。
あたかも予期していたと言わんばかりの相手の落ちつきが、桂の心に最初のぎょっとするような不安を思い出させ、喚び返した。時間を超《こ》えた相手の美しさに感動して、暫《しばら》く忘れていた理由のない後ろめたさが、分っていますわ、とでも言いたげな芳枝の微笑で一時に甦《よみがえ》った。しかし、何を見破られたというのだろう?
――わたくし、きっといらっしゃるものと思っていました。
射《さ》し込む陽《ひ》に団扇《うちわ》をかざしながら、芳枝はさも嬉《うれ》しそうに言った。想像が当ったというだけのそれは嬉しさだったけれども、桂にとっては、自分の行動がまるであらかじめ計算されていたのではないかという不安を感じさせられる。
――散歩の途中にお宅の前を通るものですからね、つい足が向いて。そんなことを弁解のように呟いてみる。
――ええどうぞ、たんといらっしゃって下さいまし。いつもこんなに無人《ぶにん》で、それは退屈しておりますから。そう言って椅子から立ち上った。
――中へおはいりになりませんか。ここは今日少し陽が射すようで……。
相手が自分の言いなりになることをよく承知しているような自信が、芳枝の一挙一動にある。どうしてこの人は今日こんなにいそいそとしているのだろう。そうした疑問が自ら桂の心中に湧《わ》くが、彼もまたいつとはなしに反射的な微笑を浮べて、女主人の誘うままになっている。
――海へお出《い》でになりましたの?
――泳ぎにですか? いや、だいいち僕は泳ぎの方は駄目なんです。
二人は石の踏段を二段昇り、ベランダから読書室の中を通り抜けて、ゆっくり客間の中へはいって行った。
――わたくしはよく朝早く泳ぎに参りますのよ。少し水が冷たくても、人がいないのでいい気持ですわ。お昼はどうもうるさくて。
――僕は時々砂の上に坐ってぼんやり海を見ているくらいですね。だからなるべく人のいない時がいい。裸になって水に飛び込むなぞという酔狂な真似《まね》はとてもできません。勿論《もちろん》泳げないせいも多分にあるでしょうが。
――泳いでいる時はいい気持ですわ。まるで時間というものが違った dimension《デイマンシオン》 で流れて行くみたい、時間が無いみたいですわ。
時間、その言葉でまたぎょっとする。眠っている相手を見詰めていた間の秘《ひそ》かな心の動きを、すっかり見抜かれてしまったようで、桂はがっかりしてすすめられた椅子に腰を下す。どうも今日は調子が狂っている、と心で言う。
――泳ぎというのはそんなに愉《たの》しみなものですかね。つい相手に釣られてお世辞のように言った。
――それは……、泳ぎは神さまのお与えになった人生の最大の愉しみの一つですわ。
――ふん、そうすると僕は、人生の愉しみを一つだけ損しているということになるわけですか。
――ええ、と笑って、お金で買えない愉しみですわ、神さまから無償でいただいたものですわ。
――そうですかね、無償の骨折りというよりどうも無益なる骨折りといった方が正確なようだ。
――ええ、でも、とむきになって抗弁する。人生なんて無益な骨折りだけで出来ているものじゃないのですかしら。泳ぎなんて、純粋に無益なだけまだましなのじゃありません?
桂は返事に困った。このひとは、昔まだ若い娘だった頃にもひたむきで、負《ま》けず嫌《ぎら》いで、よく青年たちに喰《く》ってかかったものだ。そんなことを思い出した。彼は隣の部屋との境にあるアポロンとダフネとの石膏像《せつこうぞう》を、ぼんやりと眺めている。
――わたくし水の中で手や足を動かすのは、いつか人間が空を飛べるようになるためのお稽古《けいこ》じゃないかと、そんな夢みたいなことを考えますのよ。いつかああいうふうに、手や足を動かして空中を飛べるようになったら、どんなにいいでしょう。
――それはいいでしょう。相手の無邪気さに思わず笑ってしまいながら、頷《うなず》く。それじゃ僕も稽古をしておくかな。みんなが飛べるのに僕だけ地面を這《は》っているのは厭だから。
――ええそうなさいまし。それに夏の暇つぶしには一番ですわ。
二人は陽気に笑ったが、桂のは少し苦《にが》かった。今さら泳ぎの稽古でもあるまい、と考える。それはまるで、人生をもう一度始め直すようなものだ……。
――海という奴《やつ》は、と気を取り直すように言った。僕には眺めているだけでたくさんですね。
そして相手の賛成し兼ねるような眼つきを見て、さらに言葉を続けた。
――……それも、実を言うとあまりしばしばは見たくもない。僕にとって、海はどうも近づきにくいもの、愛し得ないものです。奥さんはボードレールの「人と海」という短い詩を覚えておいででしょう。あの中で、確か人間と海とは永久に仲直りすることの出来ない仇敵《きゆうてき》だと言うようなことが書いてありましたね。僕にとって海が親しみにくいのも、やはりボードレールの言うように、海がこの醜い人間の鏡だからでしょう。一体、海は孤独の象徴です、人間も孤独です、しかし海の孤独はあまりに大きすぎる、人間がそこに共感を求めるには、あまりに桁《けた》が違う。孤独というものは人によってそれぞれ重味の違うものですが、どれだけの孤独を積み重ねても、とても海には及ばない。群集の孤独といったものを考えても、人類の孤独というような大きなものを持ち出しても、全然|太刀打《たちうち》が出来ない。茫漠《ぼうばく》として表情もない。悦びも悲しみも、この孤独の中では消えてしまう。これは神の創《つく》った永遠の標本じゃないんですかね。こいつは山と較《くら》べてみるとよく分る。つまり海の孤独は絶対の大きさを持っていて人間の孤独では歯が立たないが、山は人間と相対的な関係に立って、こっちの孤独と一定の比例を保って相手をしてくれる。五の悲しみを持っている者には五の、十の悲しみを持っている者には十の、といった具合にね。だから行けば慰められる、一種の安定感、安住感を得られる。それがまあ、むかし僕がよく山へ行った理由でしょうね。こうした孤独の比例が、海にはない。海は絶対の孤独で人間の感情を超えてしまっている。海にあるパトスは人間のパトスでは測られない。……しかし、退屈でしょう、こんなつまらぬ議論は?
――いいえ、どうぞ、面白くうかがっていますわ。
芳枝は真面目《まじめ》そうに眼を光らせて、手にした縁なし眼鏡の柄を知らず識《し》らずに立てたり寝かせたりしている。
――海は、さっきのを少し訂正して、単に孤独というより絶望といった方がいいかもしれないな。孤独と絶望とは違う。孤独とは持続的な魂の状態ですが、絶望は急激な自己破壊の発作です。つまり孤独とは、魂の最も純粋な持続によって、人間を絶望から持ちこたえているものです。ところで僕が、さっき海を絶対の孤独といったのは、こうした自己破壊の発作が永久に疲れることなく続いている、謂わば持続せる絶望であるという意味なのです。それは人間にはもう理解の出来ないことですね。人間は希望に支《ささ》えられて僅《わず》かに生きているだけですからね、絶望を持続することは出来ない。絶望は死に通じています。だから海は、あまりにも人間以上の、人間に敵対する自然の、印象を与えて、人間の小さな孤独を押しつぶしてしまうんですよ……。
――そうですかしら、と小首を傾《かし》げながら芳枝が言った。わたくしなんか、そう申しちゃ何ですけれど、海とはお友達のような気がしているのですけど。
芳枝はこの前の桂の訪問の時、その話が次第に堅苦しくなるのに気を揉《も》んでいたのを思い出したが、今日は少しも窮屈に感じていない。相手がそういう難しい議論をするのが、かえって自分というものを認めてくれたようで嬉しい。そして桂には、女主人が眼鏡を取っているのが親密への誘いのように感じられる。
――それはそうでしょう、これは僕一個の意見だから、奥さんにはまた別の印象があるというのは当然ですよ。考えてみると、こういうふうに海が嫌いなのは、僕の幼年時代の環境が作用しているのかもしれませんね。僕はこういう話を、むかし奥さんにしたことはなかったかな?……僕の育った田舎《いなか》というのは、東北の或る海岸の小さな網元《あみもと》の家でね、亡《な》くなった母親の実家でした。そのあたりというのが、殺風景な、荒涼とした、実に物悲しいところなんですよ。そこでの生活も、単調で、平凡で……。自然は、ああいうところでは、人間に対抗する暴力なのです。子供の印象に刻まれた海には、何の浪曼性《ろうまんせい》もない、陰鬱《いんうつ》で、絶望的な回想ばかりです……。
――まあ、と呟いた。
――あそこへはそれから一度も行ったことはありませんが、それでも眼をつぶると、こう眼の前に浮んで来ますね、鼠色《ねずみいろ》をした暗い海とか、月見草の咲いてる砂丘とか、地引網とか、どれも変に絶望的な感じを持っていて、どうせ死ぬのならああいうところで死にたいと、そういう誘惑を感じますね。幼年時代か。幼年時代は人間をつくってしまうんですね。
――お郷里《くに》は、でも、誰でも懐《なつか》しいものじゃないんですかしら?
――さあ、郷里《くに》なんてものは無いに等しいんでしょうね、僕なんかには。あっちこっちふらふら歩いてばかりいる、全くの vagabond《ヴアガボン》 ですからね。
――しかしここはお宜《よろ》しいでしょう。気候は暖かですし、海だって、荒れることはありませんわ。
――同じですよ、と断定的に言った。僕は仮面の下の素顔を見ているから。それに、ここは人種が嫌いだ。避暑地というのはみんなこんなものですかね。
人種が……まあひどい、と思ったがその感じは表情には出なかった。
――じゃなぜ、そんなお嫌いな海岸になぞいらっしゃったの? と急に悪戯《いたずら》っ子《こ》のように眼を細めて訊いた。しかし桂はそれに取り合って笑いはしなかった。
――それは……、と言い澱《よど》んだ。ちょっと鏡を見たくなったのかもしれません、と無愛想に附け足した。
桂は立ち上って、さっきから眼についていた石膏像の側へ行った。芳枝は眼鏡を掛け直した。桂昌三という古い識り合いの出現をどう解釈したらいいだろうと、また同じことを心の中に問い掛けている。今のお答はあまりにわざとらしい、と思う。偶然なのかしら、それとも意味があるのかしら。わたしのためだろうか、絵のためだろうか。
――ああベルニーニ……、とそう呟く声がした。
――何でございます? 腰を浮して桂の方を見た。そして石膏像の前に立っている桂のところへ歩いて行く。
――いやつまらないことです。この作者の名前が思い出されなくて気になっていたんですが、確かベルニーニでしたね、イタリアン・バロックの?
――ええ、フランスでは |Maitre Bernin《メートル・ベルナン》 と言って割に人気がございますの。むかし御覧になった記憶はおありになりません? 父が選んでここに飾ったのですから、きっとむかし……。
――そうでしたかね。この部屋はよく覚えているのだが……。
――わたくしこの若々しい感じが好きなんですの。
――そう、古めかしいけど、青春の感じはありますね。テクニックの問題じゃないんでこの雰囲気《ふんいき》が……。
しかし、桂はさっき席を立ってこの彫刻の側《そば》まで来た時から、まるで別のことを考えていた。この前聞いたゴーギャンの絵、そのタブローを是非とも見たいものだ。しかしどういうふうにそれを切り出そうか。
――まだお茶も差上げませんで。ちょっと……。
手持ぶさたに桂の側に立っていた芳枝が、そう言って彼に背を向けようとした。その動きが桂に素早い決意を与えた。
――実は……。そしてくるりと振り返った相手の、待ち受けたような表情に躊躇《ちゆうちよ》する。……実は、ともう一度言って、この前おっしゃったゴーギャンですが、ひとつ見せていただけませんか。
やっぱりそうだった。芳枝の気持が急に頽《くず》れる。安心したような、がっかりしたような気持。この方がお見えになるのは、ただ絵を御覧になりたいばっかしだ。
――どうも気になりましてね、と少し恥ずかしそうに相手の眼を避けた。ゴーギャンというのは懐しい、むかし三枝君とよく議論をした……。それにどんな絵なんだろうと思うと……、どうも夜なんか、気にし出すと眼が冴《さ》えてしまうくらいなんです、他愛《たわい》もない話ですが。
無理もない、と思う。この方は専門家なのだもの。
――お見せするのは何でもないのですけど、と言って困り果てた顔をした。ほら、道子の部屋にございますでしょう。おかしな子で、何しろわたくしでも部屋へはいるのを厭がりますものですから。
――それじゃお嬢さんの許可を得ればいいわけですか、と軽く訊いた。
――それが道子はひどく我儘《わがまま》でして、とまだ渋っている。何しろあの絵をひどく大事にして、誰にも見せないと申しておりますくらい……。
――それはどういうわけで?
――よく分りませんわ、あれくらいの子供の心理は。パパのお形見で、あたし一人のものだなぞと申したり……、とにかくひどく好きらしうございますの。勿論《もちろん》、作品としても価値のあるものでしょうけど。
――駄目ですかね。そう言って苦笑している。
その時、お気の毒だという気持が芳枝の心の中に急に迸《ほとばし》った。一人の娘の我儘と、一人の画家の真剣な希望との、どっちが重いというのだろうか。
――参ってみましょう。あとで道子にあやまれば済みますから。二階になりますの。
その表情を、少し血の気が引いているにも拘《かかわ》らず、桂はひどく美しいものに思った。
しかし二人が動き出す前に、急に若やいだ声が庭の方でした。あら帰って参りました、と言う芳枝の声よりも早く、ベランダから白いケープを纏《まと》った少女が、それこそ風のように飛び込んで来た。
――ママン、久邇さんが追い掛ける……。
両方の手に麦藁帽子《むぎわらぼうし》を一つずつ掴《つか》んでいる。読書室との仕切のところで、危く、桂にぶつかりそうになって止った。
そのあとから同じ背恰好《せかつこう》の、これは白いシャツと半ズボンとを身に附けた少年が、相手に取られた帽子に吸いつけられたように駈《か》け込んで来たが、少女の母親が見知らぬ客と一緒にいるのを認めると、急に赧《あか》い顔をして少女のすぐ側で立ち止った。
――まあまあ、二人とも大変な勢いなのね。
これはまるでアポロンとダフネじゃないか、と桂は思う。ギリシャの神々がそっくり生きかえったようなものだ。桂は感心して二人を見守っている。こうした青春の生きた人物たちが現れると、何とこのベルニーニは古くさく野暮《やぼ》に見えることだろう。
芳枝は桂の側から客間の中央へ戻りながら、
――さあ二人ともこっちへいらっしゃい、と言った。そういつも喧嘩《けんか》をしては駄目ですよ。
――ママン、それが喧嘩というわけじゃないのよ。ただ久邇さんの帽子が……。
――もうたくさん。それより御挨拶《ごあいさつ》なさいな。桂さん、この前お会いしたでしょう。
少女は首をこっくりさせると、黒眼がちの、少し睨《にら》むような表情をしながら、いらっしゃいませ、とはっきりした声で言った。桂はどうもこの少女には気おくれがする。その他人行儀さが、急に招かれざる客としての自分を意識の中に喚び起す。
――随分元気がいいんですね、と微笑して言ったが、少女はにこりともしなかった。
――久邇さんは初めてでしたわね。御紹介しましょう、早川久邇さん、道子の大事なお友達ですの。横浜で大きな貿易商をなさっていらっしゃる方の坊っちゃん。こちらは桂さんとおっしゃって絵をなさる方。
少年はさっきからはにかんだように少女のうしろにいたが、
――僕、早川久邇です、と早口に呟いた。
――久邇さんは、と芳枝が桂の方を見返りながら、それはピアノがお上手《じようず》なんですの。わたくしの女学校時代のお友達の忘れ形見でいらっしゃるんですが、その方がまたお綺麗《きれい》な、ピアノの上手な方でしたわ。
母親のことを言い出されて顔を赧くしている少年の方を、桂は頷《うなず》くように見た。情熱を潜在させた、深い、澄み切った眼の色をしている。すべてを早熟に見抜いていて、孤独な心に耐えている眼、芸術家の眼だ。
少年の方も何か親しみやすいものを、この背のひょろ高い、刺すような眼をした画家に覚えたようだった。彼はまだ赧味のある頬をしていたが、もう道子のうしろに隠れてはいなかった。少女の方はぴょいと横にさがって、革《かわ》の長椅子に腰を下した。両手の麦藁帽子を一つに重ねて、ぽんとテーブルの上に投げた。
――道子、あなたはバスを浴びていらっしゃい。早くするのよ、お茶にしますから。
――ううん、と不承不承に腰を上げた道子に、急いでという手真似《てまね》をした。
――お行儀が悪い、と小声で言ってから、少年の方を向いて、久邇さん、ゆっくりなさって宜しいんでしょう、と訊いた。少年がどっちつかずの表情をしているうちに、道子は振り向きもせずに大胯《おおまた》にドアの方へ歩いて行く。その時急に母親が呼びとめた。白く冴《さ》えた顔になっている。
――あのね、道子。実は桂さんが是非ゴーギャンを御覧になりたいとおっしゃるのだけど、どう、見せて差上げてもいいかしら?
娘に対する言葉としては、寧《むし》ろ叮嚀《ていねい》すぎる調子で言った。
――厭《いや》よ。
意外なほどはっきりした、甲高《かんだか》い声だった。少女は母親を見、それから桂を見た。
それは道子自身もびっくりしたくらいとっさに出た返事だった。しかしそれは当然のことだ。道子はさっき部屋の中へ走り込んで桂と顔を見合せた時に、急にすべてを思い出したのだ。この前波の荒い海を泳いでいるうち溺《おぼ》れかかって、つい自分の意志に負けながら、桂さん、桂さん、と二度も(そう、二度も)声を出して無益にこの人の名前を呼んだことを。どうしてまた桂さんの名前なんぞ呼んだのだろう。それも今まですっかり忘れていたことが、相手の顔と向き合うと烈《はげ》しい怒りになって甦《よみがえ》って来た。それに母親が何かそわそわしているのも気に喰《く》わない。桂さんの側で、何か一心に話していらした。一体桂さんというのはママンにとって何だと言うの。その桂さんにあたしの部屋を見せるなんて。久邇さんにさえ見せたことのないあたしの部屋、あたしのゴーギャン……。それに久邇さんのいる前で、あたしがうんと言えるものですか。
――厭よ、絶対に厭。
そう叫んでドアをぱたんと閉めて出て行った。
芳枝が一層白く醒《さ》めた顔で振り返った。
――ああなのですもの、困ってしまいますわ。まるで聞きわけがなくて。
――は、は、は、断られちまいましたね。そう言って桂は笑っている。
この方は平気らしく装っていらっしゃるが、と芳枝は思う。しかしどんなお気持だろう。たかが子供の我儘のために……。
――いや断られてはしかたがない。そろそろ失礼することにしましょう。
――あらもうですの、今お茶を入れますのに。
芳枝は事がうまく運ばなかった上急に帰ると言い出されて、眼を大きく|※[#「目+爭」、unicode775c]《みは》っている。眼の底に相手の同情を求める光が動いている。
――いや、これで失礼しましょう。また伺います。そして少年の方に軽く会釈をして歩み出した。
――じゃどうぞまた、どうぞまたいらして下さいまし。
今度お出《い》での時には、道子が何と言おうと必ずお見せしますから、そういう気持を籠《こ》めて、芳枝は繰返して呟いている。
――僕も帰ります。
それまで黙って椅子に掛けていた久邇が、ぴょこんと立ち上った。
――あら久邇さんも?
黙ったまま首で頷いている。少年はさっきから、その明るい瞳《ひとみ》でこの場の光景を見ていた。そして彼は、母親のように彼が愛している小母さまの態度の中に、何かしら不可解なもの、今までの小母さまにはなかったものを感じた。それが何であるかは分らない。ただまるで別の女の人を見ているような気持の悪さ。久邇は急に不安になった。
桂と久邇とが、そこで一緒に別れを告げた。
――ようく髪を洗わなければ駄目ですよ。
シャワーの音のするバスルームの前の廊下に立って、芳枝は通りすがりに娘に注意する。裸になって頭から水を浴びている道子には、その言葉が聴《き》き取れない。
――厭よ、と叫ぶ。
――塩気があるといつまでもべたべたしますからね。
道子はシャワーの栓《せん》をひねって水をとめると、また、
――厭よ、と叫んだ。
――なに? と母親は訊く。
――あたしの部屋に人を入れるの、厭よ、ママン。ママンだって御自分のお部屋は大事でしょう。あたしがはいるのだってお嫌《きら》いになるじゃないの。
――おやまだそんなことなの。芳枝ははぐらかすように、声の調子を変える。髪をようく洗うんですよ。
母親が廊下を遠ざかって行く跫音《あしおと》を聞いてから、道子はまた栓をひねる。そして水に濡れて虹《にじ》のようにきらきら光っている身体をシャワーの下で小刻みに動かしながら、道子はなおも叫び続ける。
――厭よ、厭よ、厭よ……。
3
――君は泳ぎはうまいの?
並んで道を歩きながら、桂昌三は少年に訊《き》いた。
――ええ、と素直に頷《うなず》く。でも道子さんの方がもっとうまいんです。
――道子さんの方がね。一体あのお嬢さんはどういう人だい? 僕にはさっぱり分らないが。
――道子さんですか。久邇は困ったようにふと黙る。サンダルを引き摺《ず》るようにして歩いている。
――僕はちょっと会ったばかりだが、いつも僕に怒ってるみたいだね。
――ええあの人の気分はよく変るんです。あの人には天使が附いていると僕は思うんです。
――天使? とちょっと分らなくなって訊き返す。
―― Angel《エンジエル》 です、と英語で言って、少し気まり悪そうな表情をする。道子さんが一人でぼんやり考えている時には、あの人に天使が附いていて、二人の間で何か秘密なお喋《しやべ》りをしているんでしょう。もっとも他の人と一緒の時でも、天使が道子さんに色々教えてくれるらしいのです。そういう時には、道子さんはとても話がうまくて、お愛想がよくて、親切なんですが、天使が行っちまったあとは、たいてい御機嫌《ごきげん》が悪いんですよ。
――なるほど。
桂は少年の巧みな説明に感心する。この子は実に頭がいい、と思う。しかし彼が関心を持ったのは、少年のそうした解釈を通して見た道子の姿かもしれなかった。
――君たちは二人とも健康でいいね、と今度はそういうことを言った。僕もさっき三枝さんの奥さんから、泳ぎをすすめられたんだけど。
――あら、泳げないんですか? 麦藁帽子《むぎわらぼうし》を傾けて、不思議そうな眼つきで桂の顔を覗《のぞ》き込んだ。
――ああ駄目なんだよ、と相手の無邪気な言い方に苦笑した。
――僕、教えたげましょうか、とじきに言った。何でもないんですよ、泳ぐの。
――ありがとう、まあいいよ。どうも今さらね。
――惜しいなあ、本当に何でもないんだけどなあ。
桂は少年のそうした呟《つぶや》きに、心の晴々とするような人間の善意を感じる。久邇の方も、初めて会ったこの大人《おとな》の人に、意外なほど親しみを覚えて来る。子供に向って、初対面から、僕は泳ぎは駄目なんだよ、とあっさり打明けた人があっただろうか。久邇にとって、大人は大抵|嘘《うそ》つきで子供を騙《だま》すことばかり考えている。しかしこの人は別らしい。こういう人となら怖《こわ》がらずにいくらでもお相手が出来る、そうはにかみ屋の少年は思う。
――健康であるのはいいことだなあ。桂はしみじみした声で、少し花車《きやしや》ではあるが黒く陽《ひ》に焼けた少年の腕を、羨《うらやま》しそうに眺《なが》めている。……僕はこの頃、健康な芸術というものを考えるようになった。もっとも考えたところで僕なんかにはどうせ不可能なのだが、芸術というものがもっと希望のある、もっと明るい、暖かい、謂《い》わば民衆の中にあるためには、今のままでは動きが取れなくなっているんだね。ヨーロッパのように文明が爛熟《らんじゆく》し頽廃《たいはい》したところでは、何か未知の地方に Dreamland《ドリームランド》 を求めて、東洋とか太平洋の島々とかへ逃げ出した人たちがいる。ラフカディオ・ヘルンとか、フェノロサとか、ピエル・ロチとか、モラエスとかいう人は、日本へ来た。しかし新しい健康な芸術が、いや芸術は駄目だとしてもせめて新しい風土が、そこにあった筈《はず》はない。それは古い、古いものだ。その古いものの中に新しい美が眠っていただろうか。どうかなあ、僕には日本はそんな |El Dorado《エル・ドラドー》 とは思えん。ヘルンやモラエスなども、お世辞でなければ負け惜しみを言っているとしか思えない。……それからまた或る者は海の中へ逃《のが》れて行った。ゴーギャンは(どうしてまたゴーギャンなんだ、と桂は考えながら眉《まゆ》をしかめた)、ゴーギャンはタヒチへ行ったし、スチヴンスンはどこかの島へ行った。この連中は自分の霊感を探《さが》しに行ったのだが、しかし霊感の基になるのは原始人の健康な生命力だと思ったのだ。しかしだね、西欧の文明に訓練された眼は、素朴に健康を呼吸することは出来なかっただろう。そう思うね。……ところで僕たちのような日本人は、一体どこへ行ったらいいのか。どこにそんな健康な、真の生きた芸術の酵母があるのか、それがさっぱり分らない。それに何も、背景に充分に爛熟した文明なぞがあるわけじゃない。いや全然そんなものはない。野蛮な、未開の国だ。そうした新しい美の問題を誰も考えていはしない。政治と文化とはまるでうらはらで、政治ががむしゃらに走って行く間に、文化は塵《ちり》を浴びて蹲《うずくま》っているだけだ。その政治も、シナとの無意味な戦争に引《ひ》き摺《ず》られて、どこまで走って行くやら。近頃はまた、ノモンハンで変なことを始めている。日英会談は行き悩んでいる。ね、日本という国は、貧しい、というより恐らくは間違った政治力の中で、四苦八苦しているのだ。その中でただ僕とか、或いは少数の僕のような芸術家の頭の中で、こうした文化の問題が絶望的に考えられている。西洋文化の摸倣《もほう》が行くところまで行き着いて、さて自分の固有のものはどこにあるのだろう、という反省だね。もちろん摂取したものだって本物かどうかは分らない。しかし一歩を踏み出すとしても、どっちを向けばいいのか、これがまた分らないのだ。暗中摸索というわけだ。真に健康なものは、ひょっとしたら僕たちの間に、この古びた日本の中にあるんだろうけど、僕なんかには見当がつかないのだね。そこで君たちのように、若くて健康な人たちを見ると羨しいということになるのさ。健康な芸術か……。君はピアノをやるんだってね?
――ええ、と困ったように答えた。まだ駄目なんです。
桂はその返事を聞いていなかった。彼は子供を相手に大人気ない話をしたことを、またそれが相手に分ったかどうかを、少しも気にしていない。彼はただ喋《しやべ》りたいことを喋ったというだけで、なおも頭の中の考えを追うように眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた。
道は直に海辺《うみべ》に通じた。陽《ひ》は既にだいぶ西に傾いて、防風林の樹々の間に斜めの光線が射《さ》し込んでいる。穏かな海が見えた。
――これは、海に来ちまった、と桂が夢から覚《さ》めたように言った。君は家へ帰るんだろう?
――いいえ、まだいいんです。
――そう。それじゃどこかに腰を下そうか。
久邇が先に立って松林の中を進んで行く。やがて林を出て、陽の翳《かげ》った小高い砂丘のあたりを、どうですか、と言って手で示した。桂は頷いて、二人は砂の上に腰を下す。萎《しお》れた月見草が磯草《いそくさ》に混ってあたり一面に生《は》えている。防風林の中から聞えて来るかなかなの声と共に、足許《あしもと》で季節には早い秋の虫のすだく声がする。桂はポケットから煙草の箱を出すと、紙巻に火を点《つ》けて煙を吐いた。
――君、この海を見給《たま》え、と桂が言った。
夕暮が近くなって、もう泳いでいる人の数も尠《すくな》い。それに二人の見ているあたりの渚《なぎさ》は、中心から離れてもともと泳ぎ手のあまりいないところだった。久邇は脚《あし》を投げ出してぼんやり海を見ていたが、静かですね、と答えた。
――うん静かだね。しかしこの静けさの中には、あらゆる動乱、喧騒《けんそう》、暴風、破滅、そうしたものが隠されているんだよ。これはつまり人生なんだろう、個々の人生の怖《おそ》るべき総和みたいなものだろう。これよりずっと規模は小さいけれど、都会の中でちょうど同じような静けさを味わうことがある。つまり、いつでも何か物音の聞えている真昼の都会で、まったく不意に、ちょっとの間だけ音という音が聞えなくなる瞬間、それは変に不気味なものだ。僕は海を見ていると、都会でのそうした一瞬が、ここでは無限に続いているような気がするね。
――こんなに静かなのになあ、と久邇が呟いた。
――それは君がまだ小さくて、人生を知らないからだろう。人生というのもこうしたものだ。表面はいかにも静かで何の不安もないように見えるが、しかしいつでも、白波のように、絶望が牙《きば》を噛《か》んでいるのだ。海はまったく人生に似ているよ、粗暴で、強情で、残酷で……。それでいて実に原始的で、さっきの健康な Dreamland《ドリームランド》 というのも、海なんかがそれの象徴じゃないかと、ちょっと騙《だま》されないものでもない。ところが大違いなんだ。これは決して健康なものじゃないね、これはデカダンスだ。
――僕なんか、とおずおずとした声で久邇が言った。海はやさしくて人を寝かしつけるもののような気がします。悪く言えば、いつのまにか人を死の方へ誘って行くような……。
――死? と桂が訊いた。
――死、ええ death《デス》 です。何だか死の匂《におい》のようなものを感じるんですが。
桂は少年の言葉に急に不安を感じた。何だ、君にはもうそんなことが分っているのか、と思う。それは海の本質だし、また、いずれは君が知るようになる人生の本質なのだ。死の匂……。彼は新しい煙草を一本取り出して、古いのの火先《ほさき》で火を点《つ》けた。そして言った。
――そうだね、海の音楽というのはデカダンスだからね。人生というものは死をその胎内に孕《はら》んでいるが、海はまったく死の仮装だろうね。
――それはどういうことなんですか、そのデカダンスというのは? 久邇が訊く。
――そうね、デカダンスか、何と説明したらいいだろう? 桂はちょっと考え込んだ。……一体、美とは何だい? 美とは時間という流れの中で、或る時は流れに逆らって生れ、或る時は流れのままに泯《ほろ》びる時に生れるものだ(そこで桂の脳裏に、さっきの眠っていた芳枝の面影が非常な早さで通り過ぎた)。……しかしながら時間という制約、或いはさらに人生という制約の中で、その制約を逆に愉《たの》しみながら生れて来た芸術は、すべてデカダンスなのだ。僕たちはよく或る連中のことを、あいつはデカダンだと言う。それは、時間というこの怖るべき怪物の魔手から逃《のが》れるために、酒とか阿片《あへん》とか hachisch《アシシユ》 とか、さまざまの手段を尽す人間、それからまあ芸術をもその手段の中に加える人間のことだ。もっとも彼|等《ら》は、結局は時間の中で泯びて行ってしまうのだがね。だから作品というものも、それが本質的に時間に叛逆《はんぎやく》するように創《つく》られているのだから、時間の中で泯びてしまう作品はデカダンスだ。人生はその中に死を含んでいるのだから、本質的にはデカダンスだ。作品はだから、人生の框《わく》の中に収ってはならない。美はそれが時間を乗り越えた時に、初めて純粋なものとして生きて来る。例《たと》えば「モナリザ」の微笑、有名だから君も知ってるだろう、それは実際の時間とは無関係に、微笑そのものの時間を持っている。謂《い》わば時計では計り得ない時間だね。エル・グレコの「トレドの風景」にしても、その絵の中では一つの街がそれ自体で生活しているのだ。だから一時間その絵を見ている人に、一日を、一季節を、一年をも、感じさせることが出来る。音楽は最も象徴的な芸術だから、三十分間のベートーヴェンのシンフォニーは、決して現実の三十分間ではないやね、分るだろう。従って芸術家は、彼の作品が時間の中で泯びないことを目的として、というより作品自体が一つの特別の時間、時計で計られない時間を持つために、制作するのだが、普通には単に時間の奴隷となって終るのだ。つまり音楽は、一定の時間の間をただ音が混り合って流れるだけだし、絵や彫刻は、時間を殺してしまうだけだ。作品が固有の時間を持っているというのは、極《きわ》めて少数の傑作に限られている。こういうふうに、たとえ時間に叛逆しようとしても、結局敗れることに快感というか諦《あきら》めというか、それを見出《みいだ》す態度が、僕の言うデカダンスなのだ。時間の中に泯びることの分っている美、そうした種類の美に憧れる態度、そう言ってもいいだろう。そしてその最も極端な場合というのは、作品が泯びることを作者が意識して試みている時だ。シュルレアリスムの作品などは、作品の中で時間を殺すことによって、永遠の時間をそれに与えようとしている。しかしそうした目的は遂《つい》に成功しなかった。僕なんかも一時は随分やってみたが、空《むな》しい道草に終った。つまり時間を殺そうとする態度そのものが、謂わば作品から時間的継続を剥奪《はくだつ》する結果になった。しかしこれは専門的すぎるから、君にはよく分らないだろう。こういう意識的というか闘争的というか、それとは違って、もっと怠惰に、作品が泯びることを初めから目的としている連中がいる。音楽で言えば流行的な舞踊音楽の作者たち、これは直に君にも分るだろう。音楽とは、この連中にとって最も甘美に時間の中で死んでしまうことだ。これが最も極端なデカダンスだと僕は思うね。ところがこういうふうに、泯びるとか泯びないとか、そんな時間の問題を全然考慮しないで、ただ時間を無意識に切断することによって、作品を創《つく》ろうとする人たちがいる。そこに民衆の芸術がある。つまりこれはアマチュアの芸術だ。郷土人形とか、壁掛とか、陶器とかをつくる職人たち、或いは子供の描く絵、こういったものに、真に驚くべき傑作の生れることがある。そして僕はこれこそ健康な芸術だと思い、それに真から憧《あこが》れているのだ。古代のエジプトとかギリシャとかの芸術作品は、すべてこういう具合にして生れ、しかも時間に逆らって永遠に生命を保っている……。しかし、どうもつまらないお喋りをしたね。退屈だっただろう?
――いいえ、とお世辞でも何でもなく言った。けれど難《むずか》しくて……。
――そう、僕は相手によって話を変えることが出来ないから。しかし君、大きくなるにつれて君にも色々なことが分って来るよ。
そして、少し歩こうじゃないか、と言って立ち上った。久邇は従順に画家の側《そば》に随《つ》いて行く。砂丘をくだる時には、サンダルが滑《すべ》って歩きにくそうだ、と桂は思う。彼は手を伸して少年を支《ささ》えてやる。しかし少年の柔軟な身体《からだ》は転《ころ》ぶようなことはない。
――人生に夢があるうちはいいね、と防風林を縫う細道に出てから、桂が言った。人生がまだ、きらびやかな、希望の多い、未知のものである間はいい。君は大きくなって何になろうと思うの、何をしたいの?
――僕ですか。そしてためらわずに答えた。いいピアノ曲を創りたいと思います。それから旅行をしたいなあ。
――旅行か。うん、僕も一時はあっちこっちへ行った。外国までは行ったことはないが……。
――いいでしょうねえ、あっちこっち行けたら。久邇は眼を大きく見開いて、羨《うらやま》しそうに呟く。
――そういえば、君は「ニッポン」号のことなんかには興味はないの?
――ああ、あの世界一周の飛行機ですか? 僕あんまり……。
――そうかい、中学生なんかみんなあれで夢中なんじゃないかな、月末には出発するんだろう?
――世界中を飛行機で行けるというのはいいですねえ。でも僕、そんなに欲ばらなくても、ただ旅行できさえすれば何処《どこ》でもいいんです。
――そう、旅というのは、時間の中に純粋に身を委《ゆだ》ねることだからね。それは自分を時間の中で透明にすることで、そこから芸術の酵母としての時間を、謂わば、盗むことが出来る。旅というのはいいものだ。しかし、それも若いうちのことだ、僕はもう疲れたね、もう旅行にも疲れた。時間は時間で勝手に過ぎて行くがいいんだ……。
独《ひと》り言《ごと》のように言って、それから気を取り直すように少し声を大きくして言った。
――芭蕉《ばしよう》なんかはいつでも旅の中にいたんだね。旅というのは、空間の移動じゃなくて時間の流れなんだね。従ってその中で自分というものを最も純粋に保って、凝縮された時間の秘密を十七字の小世界に表現したのだ。季節感というものは、つまり自然のもつ時間と人生のもつ時間との交渉で、それが旅なのだ。若い時は蕪村《ぶそん》の方が好きだったが……、君は蕪村なんか知ってる?
――ええ、蕪村も芭蕉も、学校で習いました。もっとも少しだけど。
――うん。僕も二十歳《はたち》ごろは、蕪村の、例えば、……「鮒《ふな》ずしや彦根《ひこね》の城に雲かかる、」といったようないかにもハイカラな、油絵風の色彩がひどく好きでね、芭蕉の枯淡な味なんかにはあまり興味がなかった。そのうちに今度はやっぱり芭蕉の方がよくなり、それから今度はもう、俳諧《はいかい》の世界ではどうにもならないことが分って来た。……しかしまあ芭蕉は悪くない、芭蕉の句には、どれにも作者が背景に持っている時間が感じられるから。
――僕は、芭蕉の方がリズミカルだから好きです。
久邇は簡単にそう言ってから、言い過ぎをしたように赧《あか》くなった。桂はただ頷いた。
――君には未来があるからいいなあ、と再び羨しそうに呟いた。
そして二人は松林の蔭《かげ》を黙って歩いて行った。二人が漸《ようや》く並んで歩けるほどの細い道だった。桂は蕪村やボードレールなどを読み耽《ふけ》って、これからの画家はあらゆる他の芸術にも通じなければならないと言っていた青年の頃を思い出している。久邇は久邇で、まだこれからだと桂に言われた、その未来の日々のことをぼんやりと夢みている。二人の足幅の違いが(久邇は時々、少し駈《か》けるようにして足を急がせなければならない)、そのまま年齢の違いと、また過去と未来とに向っている二人の思考の違いとを示している。松林が尽きて、広い国道に出た。
――僕はこっちへ行くんだが、君は? と桂が訊いた。
――僕ですか。僕はもう少しこの辺をぶらぶらします。晩御飯までは家へ帰ってもつまらないんです。
家へ急いで帰りたがらないというのは、それはどういう家庭なのだろう。一瞬、桂は少年の身の上に興味を覚えた。しかし、直にそうした興味を自ら消すように、眼の前で手を振った。
――それじゃ、さよなら。またお会いしよう。
久邇が麦藁帽子を取って叮嚀にお辞儀をしている間に、背のひょろ高い桂昌三の姿は、長い影を引きながらアスファルト道路を遠ざかって行った。久邇は暫《しばら》くそこに立って見ていたが、画家は一度も振り返らなかった。
4
海が次第に夕暮に近づいている、と久邇は思う。海はもうじき、暗い夜の喪服を着るだろう。遠い雲が次第に夕焼の色に染まって行くから、やがてこの辺が黄昏《たそがれ》に煙るようになるだろう。もう泳いでいた人たちも殆《ほとん》ど家へ帰った。蝉《せみ》だけが林の中で鳴いている。そしてこの静けさ。夕方の海は何と音楽の快い旋律のように感じられることだろう。桂さんもおっしゃった、海は音楽だと。波の単調な律動の中に、叫び出したいような、泣きたいような、眠りたいような、何とも言えない音楽の波のようなものがある。それは何と甘美に僕の心を揺《ゆす》ぶることだろうか。時間の中に泯《ほろ》びて行こうとする態度は、デカダンスだと桂さんはおっしゃった。僕はまた、お酒を飲んで酔っぱらうようなのがデカダンスだとばかり思っていたのに。そうすると僕のように、夕暮の海をいつまでも飽きずに眺《なが》めていて、時間の流れるのをまるで音楽のようにうっとりと聞きほれているのなんぞも、やっぱりデカダンスだと言うのだろうなあ。
海とは何だろうか。この不思議な、未知の存在。その中には、確かに旅への誘いのようなものがある。この海の向うには、いつでも、僕たちが餓《かつ》えたように憧《あこが》れている未知なものと、その未知を解く鍵《かぎ》とがあるようだ。しかしそれは何だろう、この僕たちを誘って行くものの正体は。それはひょっとしたら死かもしれない。海には死の匂《におい》がする。海は結局死の仮面で、その快い音楽で人の心を麻痺《まひ》させながら、いつのまにか人を死に導くのかもしれない。
道子さんも分らない。道子さんはその名前のように未知なのだ。あの人の中にも、やはり僕を誘って行くものがある。しかし僕はやっぱり、それが何であるか分ってはいないのだ。ただ、道子さんにあるものは、海にあるものとはまるで違う、極端なように違うのだ。それは本当にもっと健康なものだ。もっとぴちぴちと、太陽の光線に照された透明なものだ。僕とは違う。桂さんが僕を健康だと言ってくれたけれど、僕は半年ほど前には軽い肋膜炎《ろくまくえん》で寝ていたのだから。僕はやっと元気になった。そしてもっと元気に、健康に、強くなりたいと思う。道子さんのように。道子さんには生きて行こう、愉《たの》しく生きて行こうとする、鋭い意志がある。あの人がしょっちゅう気が変るというのも、あの人の心と身体《からだ》とに溢《あふ》れるばかりの生命力があって、それをどう抑《おさ》えつけていいか分らないからなのだ。恐らく生きるということは、非常に矛盾に富んだ、でたらめの多いものなんだろう。ちょっと見には簡単でも、円周率のように割り切れないものなんだろう。道子さんを見ていると、あの人の気分の変り易《やす》いところまで、僕はやっぱり好きで、あれでこそ本当に生きているのだなあと感心する。僕なんか駄目なんだ。僕はおとなしくて、平凡で、何の突飛なところもない。これはもう半分死んでいるのと同じなのかも知れない。しかしこういうふうにして死んで行くのなら、それもまた何といいだろう。お母さんは死んでしまっている。お母さんは毎日、天国のこうした砂浜の上に腰を下して、海のような下界を覗《のぞ》き込んでいらっしゃるかもしれない。それはもう平凡で、単調で、今日の一日が昨日の一日と少しも違わないような、もの静かな生活だろう。死というものが音楽のように、或いはこの海を見詰めている時の気持のように、快いリズミカルなものだとしたなら、死は少しも恐ろしいものではないだろう。
今日の一日が昨日の一日と違わないような……。そう言えば桂さんは、君には未来があるからいいなあとおっしゃった。どんな未来があるのだろうか。時間は早く、まるで魔法のように過ぎ去って行ってしまうから、ひょっとしたら未来とは、この今日のことかもしれない。僕が病気のあとを養うために、学校を休んでこの海岸に来てからもう一月半、道子さんを識《し》ってからもう一月だ。それなのにこれだけの時間は、まるで一日のように飛び去ってしまった。一日と一日とがどんなに似通っていたことか。しかもそれは愉しい、心の踊るような毎日だった。道子さんと友達になってからというもの、僕は時間の早い流れを、どんなにか引き止めたく思っただろう。時は流れる。そしてもう一月ちょっとすると、僕は横浜に、お父さんのところに、戻らなければならない。そしてまた中学に行かなければならない。僕は一学期を殆ど休んでしまったから、それはどんなに苦しいだろう。そしてもう道子さんとも、海とも、お別れなのだ。時間はそしてまた早く、早く、過ぎて行くだろう。
陽《ひ》はもうすっかり西の山にはいってしまった。暗闇《くらやみ》が、次第に黄昏を浜から海の方へ追い掛けて行く。天が燃えているように、赤い。
一日一日がどんなに僕にとって尊いだろう。僕はそれを大事に心の中に刻み込んでおきたい。もう道子さんと会えなくなった時に、思い出の中で愉しい日々をもう一度生かすことが出来るために。けれども、どの一日もみな似通って、平凡な、寧《むし》ろ物足りないような一日ばかりだ。それこそ今日の一日が、昨日の一日と違わないような。僕は五時半頃起きる。朝の窓から射《さ》し込んで来る新鮮な太陽、そして爽《さわや》かな微風。僕は顔を洗い、冷水摩擦をして、それからちょっと散歩に行く。大抵は家の裏手の小山に登って、朝の海を一眼で見渡すのが僕は好きだ。僕は蝉《せみ》の声に送られて、飛ぶように山を駈《か》け下りて来る。朝御飯が済んだらピアノのレッスンだ。そしてピアノを弾《ひ》いている間の時間は、何もかも忘れてしまっている。何もかも……、ひょっとしたら道子さんのことだけは考えているかもしれないけど。ばあやが十時のお茶を持って来てくれる頃でも、僕はまだピアノの前の廻転椅子に腰を掛けて、楽譜なんぞをめくったりしている。ばあやが、学校の方の御勉強は、と言いたげな顔をする。大丈夫だよ。それでもまだ暫《しばら》くぐずぐずしている。それから一気に宿題をやってしまう。それから一学期の、僕が休んで習わなかったところのお浚《さら》い。そんなものは、みんなやりさえすれば簡単なものだ。お昼を済すと、僕は直に三枝さんのところへ飛んで行く。お幸さんが先廻りして浜辺《はまべ》へ行っている間に、僕は道子さんと、たまには小母《おば》さまも御一緒に、誘い合せて出掛ける。そして泳いだり、遊んだりする。陽が強くてかっかと照っても、それはどんなに気持のいい暑さだろう。くたびれて大抵は一緒に三枝さんのところへ戻る。お話をしたりして夕方ぐらいまでいる。御飯をいただいて、ピアノなぞを弾いて、夜帰って来ることもある。けれども大抵は、ちょうど晩御飯に間に合う時間に家に帰って来る。夜はまたピアノ、それから手当り次第に本を読んで、そして九時半頃に寝てしまう……。けれどもこうした同じような日課が、毎週土曜日になると例外になる。僕はお昼すぎに汽車に乗って横浜へ出掛けて行く。午後先生のところでピアノのレッスンをみてもらう。そして夕食を、きまってお父さんと一緒に食べに行くのだ。目方はふえたか、とか、毎日何をしている、とか、色んなことを訊《き》かれて、いちいちそれに返事をしなければならないから、この御飯が特別においしいとも思わない。それから映画を見たりする。僕はお父さんのとこで一晩泊って、日曜の午前中をぶらぶらしてから、またばあやのところへ帰って来るのだ。こうした例外が四へんあると、もう一月が経《た》っている。そしてあと五へんか六ぺんの土曜日を出掛けると、僕はもう行ったきり帰っては来なくなるのだ。道子さんは、小母さまと御一緒に、いつまでもこの海岸にいることが出来るのに。僕はお別れの時の悲しさが、今からもう想像できるようだ。
こういうふうにして過ぎて行くのだろう。日が日に重なり、月が月に重なり、年が年に重なるうちに、いつの間にか大人《おとな》になってしまうのだろう。未来……その言葉の中には、何か華々《はなばな》しく心をそそるものがある。例《たと》えば、僕が今年のクリスマスプレゼントに、今からもうお父さんに予約して頼んでいるリコルディのショパン全集とか、また来年の春か、或いは秋ぐらいの、僕の最初の演奏会とか。そんな心の浮き立つような空想が、この未来という言葉の中にある。けれども僕には分っている、こうした空想は空想である間だけがいいのだということが。リコルディも、馴《な》れてしまえば昔からある他の楽譜と同じように、古くさくなってしまうだろう。演奏会だって、度重《たびかさ》なれば、ただ虚栄心を満足させるだけの、機械的な習慣になってしまうだろう。そして僕は喝采《かつさい》の一つずつの拍手の中に、早い時間の声を聞くかもしれない。
桂さん、あなたが僕に羨《うらやま》しそうにおっしゃった未来を、僕はこういうふうに考えています。まだ子供のくせに、もう無邪気に明日が信じられないなんて、僕はひねくれた、いけない子なんでしょうか。ええ知っています、今日の愉しさも明日の悦《よろこ》びも、それがあることは知っています。ただそれが直に醒《さ》め、あとに苦い滓《かす》を残す筈《はず》だということも、今からもう分っているのです。桂さん、あなたは何だか悲しそうな人ですね。僕にはそんな気がする。そして僕もきっとあなたみたいな大人になるんでしょうね。あなたがアスファルトの道に引いて行ったあの長い影……。
もう暗い。黄昏もすっかり消え、海の向うで入日に赫《かがや》いていた雲も、もう紫色に死んでしまった。月見草が首を起し始めている。海はもうすっかり喪服を着終ったようだ。さあ帰ろう、ばあやが心配しているに違いない。
海よ、さよなら。また明日……。
四章 タヒチの女
1
一息に、その華《はなや》かな色彩と噎《む》せかえるような香気とに、人の心を眩惑《げんわく》し、圧倒する印象だった。
赫《かがや》くような南国の太陽が、物の影までを明るく照し出している砂地に、裸体のタヒチの女が一人、画面の中央に少し斜めを向きながら立っている。しなやかな、それでいてくっきりした、荒削りな線からなる体格、その素晴らしいヴォリュームは、彼女の祖先である密林を駆け抜ける巨人等の血が、今も体内に脈々と流れていることを示さずにはおかない。顔にはマオリ人種特有の憂鬱《ゆううつ》な微笑が、その厚い肉感的な唇《くちびる》をかすかに染めている。何か未知の恐怖を待ち受け、また或る望ましい悦《よろこ》びを待ちうけているような微笑。眼は環礁に囲まれた入江のように、深く透明に澄み切っている。が、その中には、いつ熱を帯びてきらきら耀《かがや》き出すかもしれぬ感情の遥遊《ようゆう》と、ひと度《たび》耀いては、周囲のすべてのものを焼き泯《ほろ》ぼさずにはやまない、情熱の漠《ばく》とした予感とが隠されている。聡明と高貴とを表す広い額。そしてこの意志の強い表情を飾るものは、黒い髪に挿《さ》された優しいクチナシの花である。
その身体《からだ》は大地に生《は》えたように立っている。未開の民族では、動物のように両性の区別がはっきりしていない。男は女に似ているし、女は男に似ている。そうした中性的、hermaphrodite《エルマフロジツト》 的な美しさが、この女にもある。片手は胸の上で合掌の形のまま残されている。肩から流れ落ちる二の腕と、指先が天を指《さ》している掌《てのひら》とが、鋭い平行線をつくり、手頸《てくび》に嵌《は》められた銅の腕輪が同じ縦の線を短く摸倣《もほう》する。もう一方の手は、合掌の位置から急に差出されたように、単純に、真直《まつすぐ》に、延されている。画面の外の或るものに、呼び掛け、誘いかけているようなその形。胸は厚く、乳房は豊かに息づいている。胸から腰へかけてのがっしりした強力な線、その量感。腰には、緑の切地に紅《あか》い花を彩《いろど》ったパレオを纏《まと》っている。身体を支《ささ》える強靱《きようじん》な脚《あし》の筋肉。そして野獣の蹄《ひづめ》のような、厚味のある、爪《つめ》の固い足は、むきだしのまま揺ぎもなく砂の上に立つ。この身体の全体を覆《おお》うものは、一種名状しがたい異様なその皮膚の色、代赭色《たいしやいろ》を基調に暗い緑にまで陰影づけられたその皮膚の色である。部分的には紫に近い翳《かげ》となって皮膚の匂《におい》のようなものを感じさせる。
タヒチの女が立っている風景もまた、いかにも豊饒《ほうじよう》な耀きに富んでいる。砂は明るく、金色にはじけている。緑の草に混る熱帯の奇異な花々。大きな椰子《やし》の樹の蔭《かげ》になった暗紫色の土の上に、極楽鳥のようなきらびやかな羽をした鳥が一羽。彼方《かなた》にはマンゴの密林。それと少し離れて、クリムズン・レイクの紅《くれない》を天に噴《ふ》き上げている壮麗な火焔樹《フランボワイヤン》の眺《なが》め。樹々の間を縫って、遠く海が見える。紺青の水の色と、珊瑚礁《さんごしよう》に砕ける緑色の波頭との対比。そして、この海の向うに、火を噴いている小さな火山島までが微《かす》かに見える。全体が無限に拡《ひろ》がりを持ち、砂地の示す明るいオレンジ色と、森や樹々のくすんだ緑青色の背景とが、コントラストをなして熱帯の息苦しい暑さを呼吸している。その間に点在する花や、火焔樹《フランボワイヤン》や、鳥などの、図案化された色彩。こうした響き合うような色彩の世界から、見る者にくらくらした眩暈《げんうん》を与える強烈な芳香が流れて来る。女の肢体《したい》から発する動物的な匂《におい》と、自然から発する植物的な匂とが、画家の技法によって混淆《こんこう》された、噎せかえるような強烈な芳香が……。
しかし常に焦点が帰って行くのは、濃いオークル・ジョーンに塗られた女の顔、その暗示に富んだ眼であろう。タヒチの女は何者かを待っている。この眼も、この微笑も、この姿態も、未知の何ものかを期待し、摸索《もさく》するものだ。しかしそれは何か。眼は静かに見詰めている、画面の外にあってじっと彼女を窺《うかが》うものを。眼はあらゆる冒険を、情熱を、探究を、自棄を、そして絶望をさえも予見している。が、唇を染めた微笑の中にある一抹《まつ》の哀愁は、未開民族に固有の先天的な諦念《ていねん》を示すものだろうか。それは死霊、かの Tupapau《トウパパウ》 にみちた恐怖の夜を背後に持つ者の、心弱い哀願なのか。未知なものに差出された手、その訴えるような姿勢は、来るべきものをただ passive《パツシヴ》 に受け入れる態度なのだろうか。
いやどうもそうではないようだ、と桂昌三は考え始める。この瞳《ひとみ》の中には極《きわ》めて自由な、溌剌《はつらつ》とした意志がある。いかなるものを与えられても、遂《つい》に同化し、克服しなければやまない未開人の強靱な意志。この画面の外に待ち受けているものが、例えば運命といった抽象的な存在でも、彼女は従順にそれを受け入れた後、徐々に、執念深く、しかし最後には必ず、それを征服してしまうだろう。これは従順ではあるが、しかし自己の世界の勝利者となる者の眼指《まなざし》なのだ。ただその勝利は極めて遅く、また僕たちの考える勝利とはまるで違ったものなのだ。未開の民族は、文明人の前に一種の geste《ジエスト》 を示しながら、自己の内部の世界に於《おい》てのみ生きている。僕たちも亦《また》、古代に於てはそのように生きたのだろう、が今となっては、結局それは文明人には分らないのだ。自らタヒチ島に真の生活を求めたゴーギャンでさえも、彼のやさしい愛人が、マオリ族のイヴが、心の奥深いところで、祖先の血によって秘《ひそ》かに養い育てていた固有の思想を、暁《さと》ることは出来なかっただろう。この女の不可思議な眼指《まなざし》、不可思議な微笑……。
――傑作ですね、実に素晴らしい。
なおも画面を睨《にら》んだまま、唸《うな》るように桂が呟《つぶや》いた。
芳枝は手持無沙汰《てもちぶさた》に窓に凭《もた》れて、表の方を眺めていたが、その声に眼鏡をきらりと光らせながら振り向いた。そして画家が依然として絵に夢中になっているのを見ると、次第に相手が、好きな玩具をいつまでも離さないでいる子供のような気がして来て、思わず母性的な微笑を浮べてしまう。部屋にはいるなり画面の前に釘《くぎ》づけになって、もう自分の方を振り向きもしなかった桂に、今までは多少気がいらいらしていたのだけれども。
――そんなにお気に召しましたの? と訊《き》いた。
桂は漸《ようや》くのことで、声のする方に向き直った。窓から射《さ》し込んで来る午後の光線は、アカシヤの葉群《はむれ》を越えて来るために部屋の中に緑色がかった明るさを漂わせたが、それでもなお桂さんの頬《ほお》にいつもには見られない赧味《あかみ》が差していると芳枝は思う。
――素晴らしいですよ、と興奮した声で言った。ゴーギャンの作品の中でもひと際《きわ》いいものじゃないんですか。これほどの傑作が日本に来ているとは知らなかった。
――専門の方が御覧になっても、そんなにいいものですかしら?
――そうですとも。一体コレクションをやっていられる親戚《しんせき》の方というのは、この絵を御覧になったんですか?
――いいえ、見ませんの。何しろこれは道子が……。
――そうでしょうねえ。他にどんな素晴らしい絵があったか知らないが、大抵の蒐集家《しゆうしゆうか》ならこれに真先に飛びつかない筈《はず》はありませんからね。
そう言っている間にも、桂の視線は芳枝からまた絵の方へ戻って行く。それが芳枝には何だかおかしくてならない。
――わたくし、このゴーギャンは贋物《にせもの》じゃないかと疑っていますのよ、と威《おど》かすように呟いた。
芳枝のこの言葉は予期通りの効果をあげた。桂は、何ですって? と言ったかと思うと、直に首を向けた。そして不思議なことを聞くという面持で芳枝の顔をじっと見詰めている。
――この絵にはどうもすっきりしないところがありますのよ、と相手の視線が眩《まぶ》しいように眼をぱちぱちさせながら答えた。おかしな因縁話みたいのが附いていますの。……この絵は、パリで、太郎が親しくしていました或るフランス人の画家を通して、名前のあまり知れてない、ちょっといかがわしい評判のある男から買いました。急にお金にしたいとかいうので……。そのお友達の方がとても欲しがっていらっしゃったのですけどお値段が折合わなくて。太郎はゴーギャンといえば眼のない方で、これは掘出し物だと大悦《おおよろこ》びでした、それでもゴーギャンはもうすっかり有名でしたから、何でも他の絵かきのものなら四五枚は買えるとか申しておりました。
――それは高かったでしょうね。
――でも、それほどでもございません、というのがそれが変な絵なので、何ですか最初は、タヒチ島でゴーギャンをよく識《し》っていた土人の持物だったらしうございますわ、それをうまいことごまかしてタヒチ航路の船員が手に入れたものの、喧嘩騒《けんかさわ》ぎでその船員が殺されたとか、売りつけられた男が病気で死んだとか、色んなことがあって結局そのブローカーの手に落ちたんだそうです。何だか急いで手放したがっていました。わたくしは詳しいことはもう忘れてしまいましたけど、道子はよく覚えていますわ、この絵はそれは縁起が悪いんだと迷信じみたことを考えているようですわ。わたくしにしたってあまりいい気持はしませんでした、太郎の方は平気でしたが……。
――で、その贋物というのは?
――ゴーギャンも偽作が随分あるらしいと聞かされて、……惜しいことに署名がございませんでしょう、色々ひとに見せましたけれど、結局まあ本物だろうと……。
――なるほどね、なかなか神秘的だ。しかしこれは本物ですよ、奥さん。僕は本物だと思う。そう言って、桂はまたタブローの方へ戻って行った。
画家は絵の中を覗《のぞ》き込んで、部分部分のテクニックをいちいち確かめた。なるほど、署名もなく、年代もない。しかし誰が、どのような摸作者《もさくしや》が、このように完璧《かんぺき》にタヒチの女とタヒチの雰囲気《ふんいき》とを、画き出し得ただろうか。その女は今もなお、測り知られぬ微笑を眼と唇とに漂わせて、画面の外の或る者をじっと待ち構えている……。
芳枝はまた窓に凭《もた》れて、眩しい戸外の景色を眺《なが》め始めた。ここからは海は見えないが、爽《さわや》かな微風が潮の味わいを乗せて、時々ゆるやかに流れ込んで来る。しかし芳枝はただぼんやりと外を見ていたわけではなかった。眼鏡を掛けた眼をさらに神経質に細めながら、門の前の道のあたりをしきりと窺《うかが》っている。勿論《もちろん》まだ時刻は早くて、道子や久邇さんの帰って来る筈はない。そう理性が囁《ささや》いても、今にも道子が、ママン、ママン、何処《どこ》にいらっしゃるの? と呼びながら階段を駆け昇って来るような気がしてならない。本当に胸がどきどきする。それなのに桂さんの、いつまでも丹念に絵を御覧になっていらっしゃること……。
――大丈夫ですよ、となおも絵を見詰めながら桂が繰返した。これは恐らくタヒチ時代の、ゴーギャンが自殺を試みた頃の作品じゃないんですか。単にポーズとしてはこういう裸体のモチーフは色々あるが、これだけの暗示的な内容というと、……僕はいまふっと思い出した絵があるんですがね、何でも、「我々は何処《どこ》から来たか、我々は何か、我々は何処へ行くか、」というバカに長い題の作品で、それも文字通りの大作、一|米《メートル》に四米ぐらいあるんだそうですがね、その絵に感じられるのと同じような象徴的な気分がこの中にもある、一種の部分的な下絵、といっても独立したものだが、そういう印象を感じますね。その大作は、ええと確か左の端に眉《まゆ》をしかめた老人が暗い表情で考え込んでいる、右の端に無心に赤ん坊が眠っている、その間に、裸体の、或いは着物を着た、何人もの男女がいて、裸体の女をかたどったお地蔵さまみたいなのがあって、山羊《やぎ》とか鳥とか猫とか、そして樹々の向うに海があって、島があって、どうだったかな、とにかく壮麗なパノラマなんですがね、単に装飾的というより自分の死を予想して生命を賭《か》けて描いたものだ、彼がタヒチで見たり考えたりしたことの総決算なんです。それを、……この女の絵を見ていると同じようなモチーフから出ているような気がするんです、この表情、何ものかを摸索し、切望し、期待しているとでもいうんですか……。
――わたくしどうも怖《こわ》くて、と芳枝がそこに言葉を入れた。
――怖い?
――ええ、絵の因縁ばかりでなく、この土人の顔も何だか怖いようですわ。
怖い、それは確かにこの表情の与える印象の一つだった。よく見ているうちに、叫び出したいような情熱が唇から洩《も》れて来はしないか。そこには、行為への強い誘惑がある。熱帯の太陽の赫《かがや》く下で、瞬間を永遠化すような、肉体のみを生命たらしめるような、烈《はげ》しい原始的な行為への……。
――お宜《よろ》しかったら、いかが、参りませんか? そう芳枝が誘った。
この気持が分ったのだろうか。桂は思わずびくっとして相手を見る。芳枝が窓を離れて部屋を横切って行くのが、夢から覚《さ》めたように現実の感覚を喚《よ》び覚す。
――わたくし、それにこの部屋にいるのが怖いんですのよ、と言ってから急いで、何しろ道子には内証なんですもの、と附け足した。ちょっと困ったような、無邪気な顔をしている。
――ああ道子さんの部屋でしたね。
勿論、芳枝が怖いのはそのことだけではなかった。二人きりでいることの、無意識の恐怖。そして二人を見詰めている土人の眼。
桂は、ここがあの不思議な少女の部屋だということを思い出すと、多少の好奇心を浮べながら急いで部屋の中を見廻した。狭い部屋だった。薄い桃色の壁紙が少女の居間らしい雰囲気をつくっている。二つの大きな窓。壁際《かべぎわ》のベッド。枕元《まくらもと》の夜卓の上に投げ出された幾冊もの外国の流行雑誌。硝子張《ガラスばり》の本箱の中に乱雑につめこまれた書物。窓の前に印度更紗《インドさらさ》を掛けたマホガニーの机。その上に散ばった小さな文房具類。衣裳箪笥《いしようだんす》。そして桂の素早い視線は、部屋の隅《すみ》にパレットや絵具箱と共に、描きかけのカンヴァスを一枚見つけた。壺《つぼ》に入れた向日葵《ひまわり》を画いた十号の静物。ゴッホの向日葵のような鋭さは勿論望むべくもないが、しかし何という清潔な印象……。
――これはお嬢さんの作品ですね? と訊いた。
――何ですか、近頃は静物に変ったようですわ、と芳枝が答えた。この前まではしょっちゅう海岸へ写生に行っていましたけど。
そして興味なさそうに、参りましょう、と言いながらもうドアの外に出ていた。
2
――海の方へ行って御覧になりませんか、何だかわたくし気が重くって。
そういう芳枝の誘いに頷《うなず》くと、桂はステッキを握って先に表に出た。あとを追って来た芳枝が、スカートの短い白いスーツの散歩服に着替えているのも気づかずに、門のあたりでステッキに凭《もた》れかかったまま、懐《なつか》しげに昔風の洋館を眺《なが》めている。芳枝もそれにつられて、何か厭《いや》な気分でも振り払うかのように、眉《まゆ》をひそめながら二階の窓のあたりをちらりと見た。
道を歩き出しても、桂は黙然と考え込んでいる。あの絵の中にあったものは一体何だろうか、とまた考える。画家は一人のタヒチの女と、明るい熱帯の風景とによって、何を思惟《しい》し、何を表現しようとしたのだろうか。そしてあの女が手を差延べて待っているもの、その或るものとは何だろうか……。桂の頭の中を、そうした疑問が幾つも過ぎ去って行く。答もなく。この暑い太陽の下では、どうも頭が冴《さ》えないようだ、と諦《あきら》めかける。しかし、何か未来といったもの、それがあの画面の主題ではなかったろうか。漠然《ばくぜん》と僕たちの前に立ちはだかり、あらゆる可能性によって僕たちを慰めかつおびやかす未来への哀願のようなもの。だが果してゴーギャンは、かの疲れた文明人は、彼の未来を、彼の希望を、信じただろうか。
――ゴーギャンも可哀想《かわいそう》な男ですね、と桂が独《ひと》り言《ごと》のように話し始めた。あれは一種の憑《つ》かれた人間ですからね。どこにいても満足が出来なくて、とうとう海の彼方《かなた》へまで夢を探《さが》しに行った。が、タヒチでも、結局夢の中に生きることは出来なかったでしょう。ゴーギャンはああいう特異な色彩画家として、彼にふさわしい色彩の国を探し求めた。芸術家としての extase《エクスターズ》 は、なるほどタヒチへ行って実現されたでしょう。しかし人間としてのゴーギャンは、いつでもフランス人でい、都会人でいたんですからね。それはもう彼にとって誇りでも何でもなく、出来たらどれくらい投げすててしまいたいと思ったかしれない vanite《ヴアニテ》 だったんでしょうが、どんなに頑張《がんば》っても、未開人種と同じ幸福を味わうことは出来はしない。つまり最後まで試みて、最後にやはり元のままだということが分っただけでしょう。あの絵の中にある女の表情、あの求めているもの、それが何かということは僕たちにも分らないし、ゴーギャンにも恐らく分っていなかった。もしあの絵をタヒチの土人に見せたら、一言でこれは何だ、と断言するんでしょうが。ゴーギャンは結局ああいう神秘なものを、ただ神秘なままで、それに恍惚《こうこつ》となりながら写してみせただけです。僕は「ノアノア」という彼の書いた紀行を読んだことがあるが、何ですね、あれほど熱心に土人に親しみ、未開の生活の中にはいりこんでそれを摸倣《もほう》しても、結局彼は etranger《エトランジエ》 に過ぎなかったんだ、そういう印象を受けましたね、その時。
――でも、と日傘《ひがさ》を傾けながら芳枝が訊《き》いた。ゴーギャンという人は、タヒチへ行って救われたんじゃありません? わたくし、きっと為合《しあわ》せだったのだろうと思うんですけど。
――それは、芸術家としては救われました、しかし人間としてはやっぱり不幸だったのでしょうね。ああいう憑かれた人間、つまりデモンを持った人間は、何処《どこ》へ行っても同じですよ。いつでも彼の裡《うち》にあるデモンが、さらに未知なもの、さらに新奇なものへと、彼を追いやるんですから。僕は今でもはっきり覚えているんですが、ゴーギャンがタヒチ島から彼の妻に書き送った手紙の一節に、 |Esperer, c'est presque vivre《エスペレ・セ・プレスク・ヴイヴル》……「希望することは殆《ほとん》ど生きることだ、」という文句があるんです。つまり彼は未来を信じようとしたんですね。これは随分悲惨な言葉だと僕は思うんですよ。これは絶望の中にいる者が、何とか生きようとして搾《しぼ》り出して来た言葉です。希望があればこそ生きていた、希望があることによってのみ僅《わず》かに生きていた、しかもこれがタヒチで、彼が憧《あこが》れて行った夢の国で書かれたんですからね。タヒチもパリも、結局のところ彼にとっては同じだったんでしょう。
――それであなたは何処へもいらっしゃらないの? と芳枝が訊いた。その問の中には、しかし、いつもの少し軽やかな、皮肉なような調子は感じられなかった。
――何も理窟《りくつ》で行かないわけではないが、と苦い声で画家は答えた。……しかし東京もパリも、結局は同じでしょうね。もう遅すぎる。若い時なら、まだ芸術家としての自分が出来上っていないから、知らない国、それもパリのような芸術の中心地へ行けば、感激がメチエを鍛えあげるかもしれない。しかしもう曲りなりにも自分というものが出来上ってしまった。今さら出掛けたところで、何の利益がありますかねえ。
――でも、どういうふうに御自分が出来ておしまいになったんですの? と執拗《しつよう》に訊いた。
――どう……って、つまり奥さんの御覧になる通りにですよ。
桂はそう言って、フランス人のよくするジェスチュアを真似《まね》て、道化役者のように両手を身体《からだ》の前で拡《ひろ》げてみせた。
――まあ、と笑《えみ》を含みながら、日傘が少し揺れた。けれども、環境が変化すれば、それだけ内面が刺戟《しげき》されていい作品が生れるんじゃありません?
――それはまあそうですがね。僕も前には旅行が好きで、あっちこっち行ったものです。しかし僕のは一種の精神的な要求だったので、絵を描くために、つまり絵の主題を探しに行ったわけじゃありません。芸術家として行くんじゃない、人間として行くんですね。謂《い》わば人間としての僕が、旅という純粋な時間の中で、自分を透明にして眺《なが》めようとする目的のためなんです。うまく行けば、精神の悦《よろこ》びの中から作品が生れる場合もある。しかしそれは副産物ですね。それに悦びは持続しないし、制作は悦びじゃないから。
――でも、外国へいらっしゃれば、もっと副産物が多いかもしれませんわよ。
――なに、何処へ行っても同じですよ。僕という人間には窓がないんだから、風景というものは内面で揺れ動いているだけですよ。
――そんな、と溜息《ためいき》に近い声を出した。
――とにかく駄目ですね。僕も来年はもう四十だからなあ。やっぱり年齢というものもあるんでしょう。この日本という土地に、否応《いやおう》なしに縛りつけられているのかと思うと、近頃は段々愛着を感じて来ました、ごく平凡な、昔からのありふれた日本の風景にね。古びた民家とか、荒れた寺とか、……それに日本の女の人の着物姿なんかもいいと思いますね。
――まあ、あなたがそんなことをおっしゃるなんて、と芳枝が感に堪《た》えないような声を出した。むかしフランスへ早く行きたいと、そればっかり口癖のようにおっしゃっていらしたのは桂さんじゃなかったかしら? 太郎なんかより、もっともっと熱心だったじゃありませんか。
――それは奥さん、昔は昔ですよ。そういつまでも二十代の気持ではいられない。
――要するに、熱がさめておしまいになったのね。
――そんなとこですかね、しかし奥さん、……
――あら、と日傘を動かして鋭く桂の注意を引いた。どうかその奥さんだけはおやめになって。せめて昔のように芳枝さんとでも呼んで下さいな。
一種の媚《こび》のある言葉だった。相手をもう警戒しない、ごく親密な気分にはいっていることは、今まで桂さんと呼んでいた相手をさっきからあなたと呼んでいたことにも窺《うかが》われるが、しかし芳枝は自分ではそれに気がついていなかった。桂は思わず苦笑した。
――じゃ芳枝さん、と言いながら笑っている相手の方を見る。
――はい。
――ええと、何だったかな。うん、つまり僕という人間は、昔から熱し易《やす》く冷《さ》め易いんですよ。あの頃は熱病にかかったようにパリへ行きたかった。青年はいつでも何かに夢を持たなければいられませんからね。
――けれど、どうしてそうおなりになったのでしょう? と不思議そうに言う。お仕事の方が何かうまくお行きにならなかったの?
――絵ですか。そう言ったまま暫《しばら》く考え込んだ。…………油絵というものに対する僕の今までの carriere《キヤリエール》 は、結局暗中摸索に過ぎなかったんでしょう。一体僕|等《ら》のような洋画家にとって、最も深刻なのは伝統がないということです。日本に洋画がはいってまだ六七十年にしかならない。僕たちの血の中に、なるほど日本画から来た絵の感覚はあるとしても、油絵に対する先入的なものは何もないわけです。それでいて日本画ではあきたりなかった。油絵を描かずにはいられなかった。ここに僕等の宿命的なものがあるんです。つまり僕等は、例《たと》えばヨーロッパ人が何世紀もかかって築きあげた伝統を、個人の内部に於《おい》て、掘り起し、種子《たね》を蒔《ま》き、実らせなければならなかった。しかもそれはまったくの荒地だったんです。自分より他《ほか》に一人の恃《たの》む者もいない、その自分さえ盲探しに探してつくりあげる他はない。そこでヨーロッパの伝統や、もっと小さくは絵を描くための雰囲気《ふんいき》を見つけようとして、フランスなどへ勉強に行った画家はたくさんいます。彼等もメチエだけは覚えたかもしれない、しかし真に油絵というものの精髄を掴《つか》んだ者が何人いたことか。つまり伝統というものは、単にパリへ行ったらあるという代物《しろもの》じゃない。日本人である僕たちは、何処にいても自分で伝統をつくらなければならないんです。メチエの問題だけを取ったって、僕等はフランス人より二十年も三十年もおくれているんです。つまり僕ぐらいの年輩の者の描く絵は、そのテクニックの点では、やっと絵を描き出した二十歳《はたち》ぐらいのフランス人の青年で出来るものですよ。僕たちは汗水を垂《たら》して研究し、漸《ようや》く技法を習得した。しかしそんなものは、伝統を血液の中に持っている西欧の人間にとっては、本能に過ぎない。僕等は不可避的にそうした立ちおくれを余儀なくされているんです。ピカソのして来た仕事を御覧なさい。ピカソは仕事が色々と変って、その度《たび》に脱皮して来た人です。最初は所謂青《いわゆるブルー》の時代だった、それが直に薔薇色《ローズ》の時代になる、それから黒人芸術に鼓吹された黒の時代、そのあとでキュビスムの神様になった、しかし若い連中がキュビスムで大騒ぎしているうちに、先生の方は新古典主義の肖像などを描いて、最近ではスペイン内乱に取材した「ゲルニカ」などという大作を物している。この先どこまで伸びて行くか僕等には見当もつかない。こうした進歩のどの一つの時代を取っても、日本人なら束《たば》にして一生がかりでも出来ない仕事を、一人でやっているんです。勿論《もちろん》ピカソは天才だからとも言えるでしょう。しかし仮に同じ天分を僕等が持っていたとしても、どうしてもああは行きかねるものがある。況《いわ》んやセザンヌとか、ルノワールとか、マチスとか、一筋に自分の道を歩いた画家のいる高さ、それはもう絶望的に高いんですね。僕も昔は、なに頑張《がんば》ればという意気込があったから、セザンヌの高さが手の届かないものだとは思わなかった。ところがどうして、近頃になって自分のメチエが大体出来上ってしまうとよく分る、駄目ですね、絶望なる哉《かな》ですよ……。
桂はそれで黙ってしまったから、芳枝も言葉の継ぎ穂がなく、二人は黙々と陽《ひ》の照った道を歩いた。漸く海岸へ近づくと、華《はなや》かな避暑地らしい空気が漂って来る。子供や女の鋭い叫び声。ボール投をして遊んでいる少年たちの喊声《かんせい》。蓄音器の鳴らすぎすぎすした舞踏曲。そうしたものが波の音に混って、この辺まで歩いて来ると、早く早くと人の心を海へそそりたてているように、芳枝はいつも感じていたものだ。しかし今日は、人々のざわめいているあたりを離れるように、芳枝は松林の蔭《かげ》に近いところで腰を下した。
――あなたのお嫌《きら》いな海ね、と言った。
桂も並んで砂の上に腰を下す。芳枝はあたりを見廻して、
――この向うに道子たちのパラソルがある筈《はず》なんですけど、お分りになりません? と訊いた。赤と黄との模様で。
そして義理のように砂浜に眼をやっている桂に、いいんですの、分らなければ、と直に言った。そして今までの近視の縁なし眼鏡を、白皮のハンドバッグから出した黒眼鏡に代えた。桂は沖の方を見詰めている。入道雲がいかにも暑そうに、むくむくと水平線の上に開いている。
――さっきのお話ですけど。
芳枝が日傘の柄をくるくると廻しながら話し掛ける。その日傘は二人分の蔭をつくるには小さすぎたので、桂の身体半分に、松の梢《こずえ》を縫って来る日射が縞《しま》をなして落ちている。しかし海の微風は汗ばんだ額に快かった。
――……日本の芸術家は、と言葉を継いだ。みんなそういう暗いお気持でいらっしゃるのね?
――そう、洋画に限らず、彫刻でも、音楽でも、文学でも、すべて芸術に携っている人間は、伝統を持たないので苦しんでいますね。文学のように、日本文学の伝統がちゃんとあるように見えるものでも、そんな伝統だけではやっぱり役に立たない、と僕は思うんですがね。もっとも文学のことは僕は門外漢だからよくは分りませんが。……しかしこうした苦しみを嘗《な》めているのは謂《い》わば少数で、その日暮しの絵を描いている連中が多いと言えば多いようですね。
――そんな絶望の中にいらしても、お仕事の方はやっぱり出来ますの? と芳枝が訊いた。
――それは出来ますよ、絶望というのは持続された状態じゃないから。一体芸術家というものは天から与えられた唯一の職業で、他には何の才能もない、謂わば潰《つぶ》しの利かない人間でしょう。本当に絶望してしまったら死ぬより他《ほか》はない。しかし芸術家として、誰しも自分の才能には自惚《うぬぼれ》を持っていますからね。この自惚で生きているんです。つまり真底から絶望するのは、芸術家の中にいる人間が絶望するので、芸術家の方はお目出たい代物ですよ。
――そんなに別のものですかしら、芸術家と人間と?
――僕は違うと思いますね。僕という人間の中にデモンがいて、それが僕を芸術に駆り立てるのだと思いますね。ただ……(そう言って暫く桂は眼をつぶった)、ただ本当の芸術家、本当の天才というものは、勿論それが一体になっているのかもしれない、しかしどんな強靱《きようじん》な意志がそうした人間を支《ささ》えているのか、僕には見当もつかないからなあ。僕なんか中途半端《ちゆうとはんぱ》な存在ですよ。芸術家としての僕が袋小路《ふくろこうじ》にはいっているのに、人間としての僕はまだ生きていますからね。
芳枝はそっと横眼で桂の表情を窺うのだが、桂の気持は何とも分らなかった。一体どんな絶望なのだろう、と空《あ》いている方の手で砂をいじりながら芳枝は考える。それは芸術の方で行き詰りになって、絵が描けないからというただそれだけの理由ではないらしい。芸術家の中にいる人間が絶望する、とおっしゃった。桂さんの今までに、どんな苦しい事件があったのだろうか。わたしには分らない。わたしには絶望というものが分っていないのだ。それはどんなものだろう。太郎がわたし以上に絵の方に夢中になり、サラーという女が現れ、そしてわたしと太郎との間がごたごたした。しかしあれは口惜《くや》しさでも悲しみでもあったけれど、絶望というようなものではなかったような気がする。太郎が死んで、わたしは道子と二人きりでパリのアパルトマンに取り残された。わたしは道子を抱《かか》えて途方に暮れた。が、あの心細さの中には、しっかりしなければいけないと自分に言い聞かせる気持も混っていた。わたしは今までに悲しみは知っていたが、絶望という感じは知らない。一体どうしてなのだろう。ひょっとしたらわたしという人間は、桂さんとは人間が違うのだろうか。
――どういうものなんでしょうねえ、絶望というのは? と顔をあげて訊いた。
桂はぼんやりした眼を芳枝の方へ向け、それから海の方へ移した。
――絶望とは、キエルケゴールも言っているように、死に至る病ですよ。ただ簡単にそう答えた。
桂は説明したくなかった。また説明することが出来なかった。経験と思索とのために混乱し、疲労し、遂《つい》に冷却したこの心を。絶望と僅《わず》かばかりの希望との間を、惨《みじ》めに揺《ゆら》いでいるこの心を。すべては古い昔に溯《さかのぼ》って、動かすことの出来ぬ運命の星が、徐々に、確実に、自分をこのように形づくってしまった。自分でも半ば忘れ、また忘れ去ろうと努めている数々の苦しい事件、その間に泯《ほろ》びてしまった彼自身の魂。むかし荒巻芳枝が三枝太郎と結婚したのも、その同じ人を彼が愛し、その愛のために苦しみ、意志を強くして二人の側を去ったのも、すべては何のためだったのだろう。そして絶望という言葉の翳に、幼年時代の埒《らち》もない影像が、次から次へと浮び上って来る、黝《くろ》ずんだ海や、田舎《いなか》の停車場の前の広場で林檎《りんご》を売っていた女の子や、雪が白く光っている遠い山脈や、また自分を可愛《かわい》がってくれたお君さんが岬《みさき》から身を投げて、夜の浜辺《はまべ》にその屍体《したい》が上った時の、あの寒々とした星の光などが。
桂は海を、この耀《かがや》かしい夏の海を見ていた。そして海辺に群れて嬉々《きき》として遊び戯れている数多い人々を。誰が僕を理解するだろう、と思う。この真昼の明るい天と海との間で、誰が僕の絶望を理解するだろう。しかし……。
――しかし、と言った。しかしやっぱり僕にでも夢があるんですよ。相手のためによりは寧《むし》ろ自分を慰めるための言葉のように発音した。……芸術家としてはもうパリへ行く夢も、大傑作を物しようという夢も、まるでなくなってしまった。しかし人間としては……、生きている限りは、まだ何か希望がありますね。|Esperer, c'est presque vivre《エスペレ・セ・プレスク・ヴイヴル》 ……でしょう。何の希望だか自分でも分らない、空《むな》しいものだけど。
―― |Esperer, c'est presque vivre《エスペレ・セ・プレスク・ヴイヴル》 ……
芳枝は繰返して、美しい発音で呟いた。桂の横顔を窺うと、海の微風に男の髪があるかないかに戦《そよ》いでいる。その時、急に彼女には分った、急に分ったような気がした、何等《なんら》かの希望がなければ生きて行けないという相手の暗い沈んだ心の裡《うち》が。
――ええ分りますわ、と思わず叫んだ。わたくし分りましたわ、あなたのおっしゃることが……。
芳枝はそう言って、黒眼鏡を外《はず》して桂の方に向き直った。桂はこの子供っぽい声に驚いて彼女を見詰めたが、眼鏡を持った手で風に靡《なび》くスカートを押え、片手で日傘の柄を握り締めている相手の少し紅潮した表情が、この時、一つの希望のように美しいものに映った。
3
――あれは桂さんじゃないかな? と久邇が言った。
久邇と道子とは、さんざん泳いだあとの疲れた身体《からだ》を波打際《なみうちぎわ》で休ませていた。熱い砂の上に横になるにはまだ少し動き足りない気持、そうかといってこの上泳ぐ気もしないような。道子は濡《ぬ》れた砂の上に坐り込んで、折々擽《くすぐ》るように彼女の脚《あし》に触れて行く波の悪戯《いたずら》に身を任せている。久邇はその側《そば》に立ってふと砂浜の方を見たが、急に道子の注意を促《うなが》すようにそう叫んだ。
――何処《どこ》なの? と言って道子も立ち上ったが、少年の指差した方向に空《むな》しい視線を投げただけだった。……見えやしないわ、と諦《あきら》めたように呟《つぶや》いた。
――うんと先の方だよ。松林の根もとのところ。分らないかなあ。一緒にいる女の人は誰だろう?
――誰か御一緒なの?
――うん、薄緑色のパラソルの蔭《かげ》にね……。
――それじゃママンだ、と断言して、また胡坐《あぐら》をかくようにして波打際に坐った。
――どうしてあんなところにいるんだろう? 泳がないのかな。そう言ったなりなおも立って見ている。……そうそう泳げないんだった、と呟いた。
――なに、誰が? 道子が首を起した。
――桂さんさ。
久邇も渚《なぎさ》に坐る。半円を描いて寄せて来る波が脚に触れる度《たび》に、快い夏の感覚が身体中を引締める。
――まあ情ない。泳げないの、あの方? 無遠慮にそう叫んだ。
――そりゃ泳げない人もいるさ。あ、そこに水母《くらげ》がいらあ。
二人の関心はそこで透明な、ぶよぶよした生き物の方に移った。道子が人差指の先でつつくのを、刺されるよ、と言いながら久邇が木片で拾いあげようとする。しかし急に大きな波が来て、せっかくの水母を笑い声のうちに浚《さら》って行ってしまった。久邇はそこで乾《かわ》いた砂の方に移って、木片の先で蟹《かに》の穴を一生懸命に掘り出した。
――久邇さんたら、この前桂さんと一緒にさっさと帰ってしまったのね、と道子が言う。ひどいわ、黙って帰るなんて。それから困ったようにしゃがみ込んでいる久邇に、訊《き》いた。……どんなお話をなさったの?
――うん、あの時ね。そう言いながらも掘る手を休めない。何だか色んなことを聞いたんだけど。海のこととか、健康な芸術のこととか、デカダンスとか……。
――健康な芸術って何のこと?
――それがね、何だか難しくてよく分らないんだ。ちぇっ、やっぱし駄目だ、蟹なんかいやしない。
久邇がいくら掘っても、下から下からと水が湧《わ》き出して来て、蟹はとうに横穴へ逃げ込んだらしい。手に持っていた木片を力いっぱい沖へ向って投げた。
道子ははぐらかされたようで、思わず憤慨する。何のお話だか教えてくれたっていいのに。芸術というからには、きっと絵のお話をなさったに違いない。あたしの方が、油絵をやっているだけ久邇さんよりよっぽどお話が分っただろうに……。道子は折から彼女の足の側に駈《か》けて来た小蟹を、邪慳《じやけん》に水の方へ追い立てる。桂さんたら、ママンともお話をなさる、久邇さんともお話をなさる、あたしだけいつものけものになっている、と思う。自分の方でぷりぷりした態度を取っていたことは綺麗《きれい》に忘れている。そして道子は、桂さんを家まで案内したという秘密が、ただ彼女と桂さんとの間にだけ介在していることを、急に誇らしげに思い起す。
――あの桂さんっていうのはどういう人なの? と久邇が訊いた。
何だ、知らないの? と心に呟く。けれど彼女自身も実は何も知らないのだ。こっちが訊きたいくらいなのだ。
――知らないわ、と素気なく言った。ママンのお友達よ。ねえ、パラソルのとこへ戻らない? わたし喉《のど》が渇《かわ》いちゃった。
――うん、戻ろう。
そして二人は競走のように砂浜を駈《か》け出した。
大きなビーチパラソルの蔭《かげ》で、お幸さんがコップに取ってくれた魔法壜《まほうびん》の冷たい紅茶を息も継がずに飲んでから、二人は腹這《はらばい》になって陽《ひ》の当る砂の上に寝た。背中が痛いようにじりじり焼けて来る。ひょいと向きを変えた時に、久邇はさっきの二人がすぐ側まで歩いて来ているのを見た。
――ごめんなさい。そう言いながら、芳枝が二人の足のところに立った。
――僕さっき気がついていたんですよ、と言って久邇がむっくり起き直る。あそこの、松林のところにいらしたでしょう?
――起きなくてもいいのよ、久邇さん。それから道子に向って、あなたもいい色に焦げたわねえ。久邇さんに負けないわ。
道子は寝たまま首を起して母親の方を振り向いたが、どうせ黒ん坊よ、と一言言ったきり知らん顔をしている。娘のそうした愛想《あいそ》のない返事が、芳枝に家を出る前の後ろめたい行為を思い起させて、少し胸が冷たくなる。
――さあ奥さま、どうぞ。そこはお暑うございましょう。
お幸さんがパラソルの蔭から現れて、しきりに芳枝を中へ誘う。芳枝の後に従っている桂に、ちょっと驚いたような表情をしながら。
芳枝とお幸さんとが、久邇のばあやが暑いのでこぼしているとか、美代はいつも勝手に泳いでばかりいて子供たちのお相手をしないとか、そんな取りとめのない話をしている間に、桂はなおも日向《ひなた》に立って、感心したようにあたりの人込《ひとごみ》を眺《なが》め廻している。
――よくこんなごたごたしたところで、泳いだり寝転《ねころ》んだり出来るものだなあ、と呟いた。
――沖の方まで行けばあんまりいないんですよ、と久邇が答えた。
――しかし君、ああやって寝そべっている連中は、歩いている人に踏まれやしないのかい?
――まさか、そこにはちゃんと交通道徳というものがありますよ。
その返事に思わず桂が笑い出したのが、いかにも仲がよさそうに見えて道子には面白くない。俯向《うつむき》になったまま作戦を練っている。何と言って自分も仲間にはいろうか……。
――桂さん、お茶をおあがりになりません? と芳枝が呼び掛けた。お茶といってもこれは久邇さんのお招《よ》ばれですけど。
――ありがとう。しかしその中は狭苦しそうだな。
桂はパラソルの中へはいろうともせず、紙のコップに注《つ》いだ紅茶を芳枝の手から受け取ると、行儀悪く立ったままで一飲みした。
道子が切り出したのはその時だった。
――桂さんは泳げないんですってね? 皮肉な嘲笑《ちようしよう》的な声で言った。
桂は思わずたじたじとなる。何という変な少女だろう。しかし人のよさそうに笑って、
――そう、残念ながらね、と返事をして、道子の側に腰を下した。
――久邇さんから聞いたんだけど、おかしいわ。どうしてでしょう?
相変らず嘲《あざけ》るように唇を尖《とが》らせている。芳枝がパラソルの中から、道子、と呼んでたしなめたけれど、見向こうともしない。
――それはね、と桂が説明した。僕は子供の頃、田舎《いなか》で育てられたんだが、田舎というのが東北の小さな漁村でね、子供でもよく舟に乗せられる。それで僕もまだ小さな子供だった頃、和船に乗せられて沖の方へ連れて行かれた。浪《なみ》の荒いところでね、びくびくしていた。すると漁師の安さんというのが、いきなり僕を水の中へ放り込んだんですよ。漁師仲間では子供に泳ぎを教えるにはそれが一番手早いんだそうだけど、何しろ不意で、驚いたのなんのって……。これは人を溺《おぼ》らせて殺すんじゃないかしらん、と考えた。それはお祖父《じい》さんもお祖母《ばあ》さんも、みんながそれは僕を可愛《かわい》がってくれてたんだが、やっぱり実の両親というものを知らないから、とっさの間《かん》になると変なひがみが出て来るもんなんですね。それで子供心にすっかり怯《おび》えてしまった。そのあともうどんなにすすめられても、泳いでみようなんて気は全然なくなってしまった。
――ふうん、と高慢そうな、しかし真面目《まじめ》な表情で道子が首を振った。だって、その時は少しは泳げたんでしょう?
――それはちっとはね、何しろ無我夢中だったから。
――だったら試《ため》しにもう一ぺんお稽古《けいこ》をなされば?
――とんでもない、とまるで今にも水に放り込まれやしないかという声で、慌《あわ》てて断った。
その手つきがおかしくて、道子はけたたましく笑い、芳枝もつられて笑い出した。
――そう言えば桂さん、とその顔を見ながら、むかしここで御一緒に遊んだ時にも、あなたお一人だけ泳ぎにならなかったわね。
――そうでしたね、あの頃はもっと人出が尠《すくな》かったなあ。
――板乗《いたのり》でもなさればいいっておすすめしたのに、どうしてもなさらなかった。
――ええ、あんな酔狂な真似《まね》はしたくなかった。
――まあ酔狂ですって。道子はそう言うと、また声を立てて笑った。一体いつごろのお話なの、それ? と訊いた。
――あれは震災の年だった、震災の年の夏休みだった、と桂が思い出すように眼許《めもと》に皺《しわ》を寄せた。
――ええ、わたくしのまだ娘時分ですもの、この辺も昔から思うと嘘《うそ》のように開けてしまいましたわ。
桂は煙草をくゆらせながら、またあたりを見廻す。最後にその視線が、自分をしげしげと見詰めている少女の上に落ちる。道子の好奇心にみちた瞳《ひとみ》が、太陽を直視した時のように眼に痛い。その健康そうな、活力に溢《あふ》れた肉体は、まだ泳ぎ足りないように小刻みに動いている。
――如何《いかが》でしょう、こんなもの? と言いながら、小さな罐《かん》に入れたボンボンを手にして、お幸さんが現れた。子供たちの手がさっそく延びる。桂も空《あ》いた方の手で一つ撮《つま》むと、煙草をぽいと捨てた。
――ああボンボンか、何だか昔の匂《におい》がするなあ。
――本当に、と芳枝が相槌《あいづち》を打つ。そう言えば昔も食べましたわねえ。あれは高遠《たかとお》さんでしたかしら、幾つボンボンが口の中へはいるかって賭《かけ》をなさって、……
――そうそう、高遠君ね、あいつと確かススム君とが競争をしたんですよ。高遠は口の大きな奴《やつ》でね、十や十五は軽く収ったかな、物を言う時でも大きな口を明けた。
――まあ悪口屋さんね、桂さんは、と道子が言った。
――高遠さんはどうなさったんでしょう? と芳枝が訊いた。
――知らないんですか、高遠は死にましたよ、大学を出てから内務省の官吏になり、だいぶ嘱目されていたらしいんですがね、三年目ぐらいに急性肺炎で死んだ。
――そうでしたの、と言って眉《まゆ》をひそめた。元気のいい方でしたのにね。
――三枝も死んだし、高遠も死んだか……、そう、あの人はどうしました、ススム君の姉さん、万理子《まりこ》さん?
――万里子さんはお元気のようですわ、もう久しくお便《たよ》りもありませんけど。
――あの頃はみんな元気だった。
――本当に。桂さんなんか、朗かで、雄弁で、まるで眼の前にこう浮んで来るようですわ。
桂は苦笑した。そして四人は皆別々のことを考え出した。
桂はむかしこの海岸で、三枝太郎や高遠茂や荒巻芳枝などと共に過した、夏の数日のことを思い浮べた。芳枝の友達の上村万里子《かみむらまりこ》や、またその小さな弟などもいた。今の久邇君と同じ年頃の、可愛い少年だった。そして皆は泳いだり、ボール投をしたり、色んなお喋《しやべ》りなどをした。十五年前……、そしてそれはやはり太陽の耀《かがや》かしい真夏だった。僕は一人、砂浜の上に寝転んで、ぼんやりと皆が泳ぎから帰って来るのを待っていた。僕はその時何を考えていたのだろう。自分の愛している者が、自分以外の人を愛していると知ってしまった時の、あの空しい静けさ。最早《もはや》、運命の軌跡は自分の望むままには引かれなかったと暁《さと》り、この後も、その軌跡は孤独と絶望との中にしか引かれていないだろうと分った時の、あのほろ苦い喪失感。そして苦悩に引き裂かれる胸を抑えて、僕はのんきそうに道化の役をその日一日演出した。そしてそれからの十五年間も、一日一日はあの空しい絶望と、それでいてなお生きようとする僅かばかりの希望との、絶え間のない繰返しに過ぎなかった。そして僕はまた、何に惹《ひ》かされてかここへ来た。その人の側で、熱く焼けた砂の上にいる。しかし三枝太郎は既に死んだ。高遠茂は既に死んだ。上村万里子は、……何処で生きているか。そしてこの僕は、依然として、道化のように砂浜の上で笑っている……。
芳枝の回想も過去の日々へと向った。三人の快活な青年に取り囲まれ、何の悲しいことも知らなくて幸福に暮していた若い日の自分の姿。あれはわたしの青春の最も明るい一|頁《ページ》だった、と思う。わたしはあの時まで、太郎も好きだった、桂さんも好きだった、高遠さんは、……それほどでもなかったけど。そして太郎から結婚を申し込まれるまで、わたしの心は長い間二人の間を揺いでいた。揺ぎながらわたしの心は、幸福だった。そしてわたしが太郎からプロポーズされたのは、あの夏の夜、たしかわたしがピアノか何かを弾《ひ》いて、そのあと庭へ出てからだった。わたし等は次の年の六月に結婚した。あの夏の幾日かの中で、わたしは空《うつ》けたように遊んでいた一日を思い出す。あれは恐らく太郎の告白を聞いた次の日だったに違いない。わたしにはすべてが幸福に充《み》ちていた。万里子さんもひょっとしたら太郎が好きだったのかもしれない。寂しそうなお顔をなさっていた。けれどもわたしは幸福に浮かされていたから、気のつかぬふりをしたことを覚えている……。
道子は思う。桂さんて方は、本当にそんな朗かな方だったのかしら。さっきから笑ってばかりいらして、ちょっと見には陽気そうに見えるけど、あたしはそうは思わない。さっき、お友達がお亡《な》くなりになったとおっしゃった時の、あの暗く寂しそうなお顔。桂さんはきっと、思い出すだけでも厭《いや》な、不愉快な過去を持っていらっしゃるのじゃないかしら。ママンは何でも明るくて、華《はなや》かなのがお好きだから、きっと昔、ママンと桂さんとはそう気が合わなかったのだろうとあたしは睨《にら》むんだけど。けれど一体どんなだったのだろう。ママンとはどんなお友達だったのだろう。それが何とか知りたいようなものだ……。
久邇だけがまるで別のことを考えていた。彼の想いは過去へは向わない。彼はさっきから小母《おば》さまの笑いと道子さんの笑いとを比較して眺めている。小母さまのはまったく子供っぽくて嬉しそうだ。それなのに道子さんときたら、今日はまるで突き刺すような、皮肉な笑い方なのだ。僕はいつか、道子さんが鏡を見てお上品ぶった笑い方を研究したのじゃないかと考えていたけど(ああしかしそれはいつのことだったろう。もう前の、前のことのような気がする)、さっきのはちっともお上品なんてものじゃない。じゃこれが生地《きじ》なんだろうか。これが飾りけのない、天使のいなくなった時の、道子さんの本当の笑いなんだろうか。しかしなぜ、桂さんにそんな生地を見せる必要があったのだろう……。
蝉《せみ》の声が松林の中から響いた。それは波の単調な響きの中を、まるで生への意志のように、急調に、けたたましく、貫いて通った。桂は口の中で溶けて行くボンボンの甘さが、過去を思い起させ、過去を甘美に再現させようとするのを感じた。過去は遠い。そして現在は、不可避的にこの遠い過去に繋《つなが》っている。現に生きているこの一日が、過去の陰影を免れ得ないというのは、何という皮肉な宿命だろうか。しかし……。
――……過去は過去をして葬らしめよ。桂は小声でそう呟いた。
芳枝はパラソルの中にいたし、久邇はまた腹這になって砂を掘っていたから、桂の独《ひと》り言《ごと》を聞いたのは道子一人だった。道子は桂の方を向いてはいなかったが、この画家の過去に対する燃えるような好奇心に眼を光らせて、両肱《りようひじ》を突いたまま海を見詰めていた。まるで海が、そのまま桂の過ぎて来た生の実体ででもあるかのように。
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第二部 過去 ――一九二三年八月――
一 日[#「一 日」はゴシック体](1[#「1」はゴシック体])
爽《さわや》かに晴れた夏の朝だった。三人の青年が、まだ人通りのない別荘地帯の細い砂道を、ゆっくりと歩いていた。砂には夜露の湿りけが残っていて、歩くたびに下駄がきしきしと音を立てた。松林の梢《こずえ》を洩《も》れて来る朝の日射《ひざし》は、まじりけのない金色に耀《かがや》いていた。今日一日の暑さがこの光の中に約束されていた。
先に並んで歩いて行く二人は、水着の上から宿屋の貸《かし》浴衣《ゆかた》を引掛け、麦藁帽子《むぎわらぼうし》をかぶっていた。片っ方の男は二人較《くら》べてみるとひどく背が低くて身体《からだ》つきも貧相に見えたが、その代り威勢はよかった。盛んに大きな手ぶりで、ドイツのインフレーションを論じていた。
――……おどろくべきものだ、いやまったくね。戦争には負けるもんじゃないな。マルクの値打はそろそろ金貨の二千万倍にもなるんじゃないか。今年の正月にはそれでもまだ四千倍くらいだったんだからな。おどろくべきものだ。この上どこまで値打が下って行くか、何しろ二千万倍となると、こいつは天文学的数字だよ……。
そして相手がはかばかしく感心もしないので、今度は後ろを振り向いて呼び掛けた。
――なあ、桂《かつら》?
二三歩おくれて歩いていた青年は、何だい? とこれも大して気の乗らない返事をした。彼は白い半袖《はんそで》の開襟《かいきん》シャツに麻の半ズボンをはいていた。やはり麦藁帽子をあみだにかぶり、宿屋の貸下駄をつっかけ、肩からはスケッチ用紙を入れた大きな紙挟《かみばさ》みを黒い紐《ひも》でぶらさげていた。それはいざという時に、首から吊《つ》ってスケッチ板になるような仕組になっていた。シャツの胸ポケットから4Bの鉛筆の先が覗《のぞ》いていた。
――何だいじゃない、君はドイツのインフレを知らないのかい?
――知ってはいる、が数字には興味がない。
――ふうん。芸術家は霞《かすみ》を食って生きてるってわけか。
そして話し掛けた男は、今度は隣の背の高い青年に矛先《ほこさき》を移した。
――いまどきドイツに留学したら安くあがるな、どうだい三枝《さいぐさ》? ただみたいに暮せるぞ。
――じゃ行けよ。君なんざ |Kleine Herr Takatoch《クライネ・ヘル・タカトホ》 てんで、どこに行っても大もてだよ。
――ちぇ、バカにするない。
そう言って高遠茂《たかとおしげる》はさばさばと笑った。いつでも話熱心でよどみなく喋《しやべ》ったが、そのくせ喋り終った時にはもう何の話か忘れてしまったような、けろりとした顔をしていた。
道には相変らずひと気がなかった。みんみん蝉《ぜみ》が廻りじゅうからうるさいほど鳴きたてた。突っかけて来た柾目《まさめ》のあらい杉の日和《ひより》下駄《げた》は、真中に大きな宿屋の焼印が押されていたから、足の裏で妙にこそばゆい感触がした。桂昌三《しようぞう》は足許《あしもと》を見て、時々、わざと小石を下駄の先で跳《は》ねとばした。朝の爽かな空気にもかかわらず、いっこうに落ちつかない気分だった。
――いやにゆっくり歩いてるな、と背の高い男が振り向いて言った。何ぞいいモチーフでも見つかったかい?
桂は直ににこりとした。気分は落ちつかなかったがそれをひとに、特に三枝に、知られたくはなかった。
――こんな林の中には何もないよ、と答えた。僕はこの道は初めてだが、海は遠いのかい?
――うんもうすぐだ。荒巻さんのとこに寄るのでちょっと廻り道をした。
――芳枝《よしえ》嬢さきに行っちまったとこを見ると御機嫌《ごきげん》ななめかな、と高遠が言った。
――今日はいつもより少し寝坊をしたんだろうか?
――なに、桂を引張ってくるんで手間取ったんだ。昨日あれほど一緒に来いって芳枝嬢に命令されているのに、こいつったら、今朝になって、僕はやっぱり写生に行くなんて吐《ぬ》かすんだから。けしからんよ。
桂はなおもにやにや笑っていた。君|等《ら》の泳ぐのを見ていても始まらない、と言った。
――あんまり駄々をこねると芳枝嬢に取っちめられるぞ。
――しょっちゅう取っちめられてるからな、高遠は。
――大丈夫だよ、芳枝さんは、と三枝が言った。あの人はやさしいから口先だけさ。
そんなことは分っている、と桂は思う。誰が芳枝さんが口先以上に怒ると思うものか。しかし、あの人はやさしいからとはっきり口に出して言えるのは三枝ばかりだ。三枝にはそれを言う特権がある。少くとも昨晩《ゆうべ》からは……。
――万里子《まりこ》さんたちも待ってるんだから、ともかく急ごうや、と三枝が促《うなが》した。
急いで歩くと汗が首筋や額に滲《にじ》み出て来た。桂はタオルを首の廻りに巻きつけて、その端で耳のうしろを拭《ふ》いた。そのたびに、微風がこころよく肌《はだ》に感じられた。
――しかし君等の熱心なのにはおどろいたよ、と高遠が言った。よくまあそう夢中になって絵ばかり描いていられるものだ。
――なに僕なんざ大したことはないさ、桂みたいに本職じゃないからな。僕は何しろ泳ぐ方もあるし、芳枝さんのお相手もあるし。
――ちっとは国際法の勉強もしておけよ。
――せっかくの夏休みだ、勿体《もつたい》なくてそうも行かない。しかし桂は本当に熱心だね、まったく感心する。
――そうおだてるなよ、と桂が言った。僕には夏休みもくそもないからなあ。ここまで来た以上すこしは何か纏《まと》めて行かなくちゃ。
――一体専門家ともなると、そんなにしょっちゅう勉強してなきゃならんものかね? と高遠が訊《き》いた。何だかやたらに出掛けてるようだがせいぜいスケッチぐらいだろ? スケッチが何枚できた? 三枝の方がけっこう早く油絵《あぶら》に纏るようじゃないか。
桂は答えないで、にやにや笑った。勝手に何とでも言えよ、といった風に。
――一体に三枝は器用なたちだな、と今度は高遠が矛先を転じた。なかなかよく描く。
――生意気言ってやがる、分りもしないくせに。
――どうだい、もうだいぶ描きためてるんだろ? 個展でもやるのか?
――戯談《じようだん》じゃない、おだてるな。桂に嗤《わら》われるぞ。
――なに桂だって認めてるさ、なあ?
桂はちらっと三枝の顔を見たが、やはり何とも答えなかった。
――秋の大学の展覧会に三四点出してみるつもりだ、と三枝が言った。
何という平静な顔をしているのだろう、と桂は思った。まるで何もなかったように。嬉《うれ》しくも何ともない、もうそんなことは忘れてしまったというように。もし僕が昨晩《ゆうべ》のような経験を持っていたら、どうしてあんな落ちついた顔ができるものか。……桂がそのあとで急に勢よく喋り出したのには、三枝のおっとりした話しぶりが、かえって一種の苛立《いらだ》たしい興奮を心に惹《ひ》き起したせいかもしれなかった。しかしそれにもまして、自分の意識が知らず識《し》らずに昨晩のことに戻って行くのが、癪《しやく》に障《さわ》ってしかたがない。一体いつまで、同じことばかり考えているというのだ。
――アマチュアというのはそれでいいんだ、絵をたのしんで描く、ただ自分の思うままに、自分の満足の行くように表現する。そのうちには段々に技術が上手《じようず》になる、それで一層せいが出る。まったく羨《うらやま》しい次第だよ。
――そんなにたのしんでばかりはいないぜ、と少々不服らしそうに三枝が言った。
桂は眼の前で手を振った。
――なに、それがたのしみでなくて何がたのしみなものか。それからちょっと間《ま》を置いてゆっくりと言葉を続けた。……僕なんかにも覚えがあるよ、君等と一緒に高等学校の黴《かび》くさい寮舎にいた頃さ。あの頃は絵が好きでね、授業をサボって絵ばかり描いていた。そのうちにもうどうしてもアマチュアじゃ済まされなくなった。それでとうとう親父《おやじ》と喧嘩《けんか》して学校をやめちまったというわけだろう。この話は三枝はよく知っていたっけ。それでいよいよ飛び込んでみてからさ、段々に辛《つら》さが身に沁《し》みたのは。何しろ村山先生というのが、――これは僕が住み込みで弟子入《でしい》りした先生だが、随分と厳《きび》しい人でね、一日に少くとも十二時間はパレットを手にしていなくちゃいかんという主義なんだ。一日に十二時間、それまで好きで描いていた頃とは比較にも何もなりゃしない。その十二時間主義を十年みっちりやれば絵らしいものの形だけは分る、麓《ふもと》にまでは辿《たど》りつく、てんだから大変さ。随分苦しい思いもしたけれど、確かに村山先生の言ったのは本当かもしれない。
――いつになったら物になるんだ、それで?
――先生に拠《よ》れば、まず日本人は一生かかってヨーロッパの二流どこまで行けばいい方だとさ。
――情ない話だな、と高遠が口を挟んだ。己《おれ》はそういうのは嫌《きら》いだ、日本人の卑屈なところを如実にあらわしている。
――いや、美術の世界ではなかなかそういったものでもないんだよ。
道はそこでゆるく右に曲り、松林を突き抜けると、紺青の海が一面に眼の前にひらけている。三人は砂丘の上でちょっと足をとめ、海から吹いて来る清々《すがすが》しい風を胸いっぱいに吸い込んだ。朝の太陽が、遮《さえぎ》るものもない晴れわたった空から、一切を焼き尽すかのような勢いで照り耀いている。桂は眼のくらめくような暑熱を覚えた。
三人はだらだらの砂丘をくだって行く。芳枝さんは一体どんな顔をしているのだろう、と桂は考える。三枝はごく平静でいる。しかし芳枝さんは? あの人は女だからそんなに巧みに感情を殺すことなんか出来る筈《はず》はない。もし僕なら……。そして思考がつまずく。くらくらした暑熱を感じる。こんなことを考えて何になろう、もう僕とは何の関係もないのだ、まったく他人のことなのだ。人がみな個々に固有の生を営んでいるように、僕には僕の生があり、芳枝さんには芳枝さんの生がある。二つの生は相交らない。そしてそれでいいんじゃないか、何もくよくよすることはないんじゃないか……。
見覚えのある大きなビーチパラソルの横に芳枝さんの立っているのが見え、万里子さんが見え、ススムちゃんが見え、……三人の足が早くなる。しかしどんな顔をしているのだろう? 意識がどうしてもそこへ帰り、そこから昨晩《ゆうべ》のことへ帰って行く。桂は急ぎ足の二人の大学生のあとから、なおもくらくらした暑熱を感じながら歩いて行く。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行《そこう》的[#「溯行的」はゴシック体])
荒巻芳枝が「月光」を弾《ひ》き終って、半ば得意げな、半ば安心したような、上気した顔をこちらへ向けながら立ち上った時に、桂昌三はそのつんと澄ました表情をこよなく美しいものに感じた。拍手が起り、皆が一斉にざわざわと話し始めた。桂だけが長椅子に凭《もた》れたまま、横着《おうちやく》を極《き》め込んでそこを動かなかった。「月光」を聴《き》きながら一心に考えていたこと、それは次第に遠ざかって行くが、甘美な音楽の気分は今でも失《う》せず漂っている。自分が先に立って芳枝さんに註文《ちゆうもん》し「月光」を弾いてもらったのだから、いま、礼を言わなければいけないこと、礼を言えば芳枝さんがきっと悦《よろこ》ぶこと、それは分っていた。しかし一言でも俗っぽいことを言ってこの気分をみだしたくはなかった。音楽の与えるこの天上的な、夢幻的な情緒、その中に放心し陶酔している自分を芳枝さんはきっと分ってくれるに違いない。音楽を聴くというのはこういうことなのだ……。
そうした勝手な理窟《りくつ》をつけ(というよりそうした理窟らしいものを漠然《ばくぜん》と感じて)桂は気楽そうに長椅子の端に倚《よ》りかかっていた。芳枝さんと万里子さんとが、グランドピアノの横手のソファに並んで、二人ながら白い団扇《うちわ》を使っている。眼を薄く開くたびに、団扇の白さがシャンデリアの明りを反映して眩《まばゆ》く眼に沁《し》みる。そうだ、僕はさっき少し葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲みすぎたんだな、と思う。夕食までにビールを飲んで、食事の間には、今日はおめでたいからと言ってすすめられたブルゴーニュの「白」を、つい過してしまった。荒巻氏の御秘蔵だけあって素晴らしい味だった。しかし何がおめでたいと言うんだろう。荒巻さんは栄転でもしたのかな。……荒巻さんが大きな声でロンドンの大使館詰だった頃の思い出話をしている。諧謔《かいぎやく》に富んだ話しぶり。高遠が盛んに相槌《あいづち》を打つ…… |Ilest entre biere et vin《イレ・アントル・ビエール・エ・ヴアン》 ……あれは僕の悪口かな? さっき葡萄酒を飲んでいる時に、|entre deux vins《アントル・ドウ・ヴアン》 というのはほろ酔いのことだと教わったのだが……。
桂はふと眼を開いた。いつのまにか眠ってしまったものと見える。彼はズボンのポケットからハンカチを取り出して、汗ばんだ額のあたりを叮嚀《ていねい》に拭《ふ》いた。前の小机の上に硝子《ガラス》のコップに入れた紅茶が置いてある。しかし中の氷はとうに溶けて生ぬるく淀《よど》んでいた。
荒巻氏と高遠とは依然として部屋の隅《すみ》で話をしている。芳枝さんと万里子さんの姿は見えなくなって、長椅子の上に大型のヴォーグ雑誌がひろげてある。三枝の姿も見えなかった。暑いな、と呟《つぶや》いて桂は読書室の方へ行ってみた。そこも風はあまりはいらなかったから、ベランダを抜けて庭の方に出た。
庭に出るとさすがに潮気を帯びた風が涼しかった。夜空はよく晴れて天《あま》の河《がわ》がきららかに見えた。防風林の上に、満月にはちょっと欠けたぐらいの月が青白く懸《かか》っていた。桂はアカシヤの根元にあるベンチに腰を下したが、暫《しばら》くそうしているうち風はふっと凪《な》いでしまった。藪蚊《やぶか》がぶんぶんいって纏《まとわ》りついた。桂は団扇を忘れて来たのに気がついて、軽く舌打をして立ち上った。庭の奥の方へ行ってみた。泉水の乏しい水の面に月の影がさわやかに映っていた。彼はさっき「月光」を聴きながら考えていたことを思い出そうとしたが、それは正確に念頭に昇って来なかった。泉水の先は果樹園になっている。その辺は藪蚊も多く、風もあまり涼しくはなかった。彼はそろそろ戻ろうと思い、ポケットから煙草の箱とマッチとを取り出した。火を点《つ》けた時に、人声が暗闇《くらやみ》の向うでした。
言葉はよく聞きとれなかった。芳枝の声で、上ずった、子供子供した調子、いかにも嬉《うれ》しそうにひびいた。桂はちょっとどきっとした。勿論《もちろん》、自分に呼び掛けたのではない、この煙草の火に気がついたわけでもない。そして、万里子さんと一緒なのだろうと考えて、栗《くり》の樹の蔭《かげ》から一足出ようとした。
――……で、パパはびっくりして?
――ううん、いっこうに。にこにこしていた。
その声は三枝だった。何だ三枝と一緒なのか、そう知ると、不思議に動きかけた足が止ってしまった。二人はゆっくりと近寄って来る。
――パパだってそうなのよ、太郎さんがあんまり白ばっくれているものだから。
――何をさ?
――もっと早くプロポーズして下さればよかったってこと。
――ふん、僕は芳枝さんとうに御承知のことと思った。何だい、いまさら……。
――あら、そんなのなくってよ。太郎さんたら女の方には誰にでも親切でしょう、例《たと》えば万里子さんにも……。
――よせやい。僕はまた芳枝さんは桂に、……
――え、桂さんに?
そのあとで、早口に、口の中で、何か言っていた。
桂は煙草を取り落した。落した瞬間に、今まで火の消えた煙草を手にしていたことに気づいた。彼は栗の樹に倚《よ》りかかり、少し首を起した。少し先の空地《あきち》に、月の光に照されて、二人の姿が見えた。
背の高い三枝が、黒い大学の制服を着て、向うむきに立っていた。その蔭に、蔦模様《つたもよう》の縞《しま》の荒い浴衣《ゆかた》を着た、小柄な芳枝の姿が見えた。片手にした団扇が膝《ひざ》の上に垂《た》れていた。その顔は三枝の背に隠れて見えなかった。
――……太郎さんたら意地悪ね、自分のことを棚《たな》にあげてひとを苛《いじ》めるんだもの。
――どうして?
――だって、わたしが太郎さんを好きなことぐらい分っていそうなものじゃありませんか。
――それはまあそうだけど。
――そんなら何も桂さんのことなんかおっしゃることないわ、嫌《きら》い……。
――ふふ、怒《おこ》られちまった。
そして沈黙が落ちた。桂の倚りかかっている樹の肌《はだ》が掌《てのひら》につめたかった。少し前に屈《かが》んだ黒い制服の背で、白い団扇だけがひらひらと揺れた。団扇を持った手の手首のところが、抱きしめられた浴衣の袖《そで》から長く延びて月の光に浮き出していた。少し両足を浮して背伸をしていた。夜蝉が、思い出したように、じじ……と鳴いた。芳枝の手から団扇が落ち、空《から》になった掌が制服の背を這《は》った。
不思議だ、不思議だ、と無意識に桂は口の中で呟いた。栗の樹につかまった手はもう汗でべたべたしていた。蚊が耳許《みみもと》で執拗《しつよう》に羽音を立てた。見つかっては困るな、とそんなことも考えていた。
――……これから先どうするの? パパはどう言って?
芳枝の低い、恥らいを帯びた声が聞えて来た。
――うん、秋にうちうちだけで披露《ひろう》をすることになるんだろう。式は僕が卒業してから、来年だね。
――まだなかなかね。そしたらパリへ行きましょうよ? パリで暮しましょう……。
――それは分らないよ、外交官試験にパスしなきゃならないからね。
――きっとパスして、ね?
――パスしたってパリへ行けるとは限らない。
――大丈夫、あたしパパに頼んでうんと運動してもらう。
――パパにそれだけの顔があるのかな、ちょっとあやしいなあ。
――あらあんなこと、パパに言いつけてあげよう……。
二人は笑った。そんな大きな声で笑っちゃ厭《いや》、と芳枝がはずんだ声で言った。
桂は樹の蔭にじっと立っていた。両腕で胸を抱くようにしていた。心臓がどきどきし、嘔気《はきけ》に似た不快な感覚が胸もとに込みあげ、虚脱が身体中《からだじゆう》を縛っていた。そして彼はちらっと芳枝の顔を見た。それは今までに一度も見たことのなかったような、生き生きした、そして同時に夢みるような表情だった。月の光に照されて、その顔はラファエロの天使のようにあどけなく見えた。桂は眼を伏せ、それから樹の根元にしゃがみこんだ。胸が苦しく、シャツが汗で濡《ぬ》れているのが分った。
桂が眼を起した時にもう二人の姿はなかった。彼はふらふらと立ち上った。月は松林からやや高く昇っていた。
彼の眼の前で、或る不思議なことが起ったのだ。彼はそれを見た。見る前の僕と見たあとの僕とにどういう違いがあるだろう、と彼は心の中で言った。たしかにその間に、何かが僕の内部で崩《くず》れ、死んでしまった、――何か或る大事なもの……。しかしそれは何だろう、その失われた大事なものとは一体何だろう……。
桂昌三は痺《しび》れた足を引き摺《ず》って、さっき二人が佇《たたず》んでいた空地まで行った。そこに団扇が一つ、月の光を吸い込んで、冷たく光りながら落ちていた。
一 日[#「一 日」はゴシック体](2[#「2」はゴシック体])
――遅いのねえ、あなたがた。
桂昌三が二人のあとからパラソルの蔭《かげ》まで歩み寄った時に、彼が出会ったのは三人の顔を等分に見廻している悪戯《いたずら》っぽい芳枝の眼だった。いつもと少しも変らず、どんな微妙なトリックをも見逃《みのが》すまいとするように、眼鏡を掛けてない近視の眼を出来るだけ大きく見開いて、瞳《ひとみ》がきらきらと光っていた。薄いピンクの水着を着て、白いケープを羽織り、アマゾンのように両の拳《こぶし》を腰に当てていた。
――きっとお寝坊なさったのね。
芳枝の横に、少し離れて、上村万里子がにこやかに笑いながら立っていた。その紺の水着が、二人並べてみるとひどく地味だった。二人の姿は、一瞬、写真のポーズのように見えた。
――僕|等《ら》もう一時間も待ってたよ、ねえ姉さん?
腹這《はらばい》になってこっち向きに首を起していたススムちゃんが、むくむくと起き直った。
――まあ大袈裟《おおげさ》ね。
――僕なんかもう一泳ぎしちゃった。
そこで皆が輪になって坐った。芳枝はなおもつんと澄まして三人を睨《にら》んでいたが、手近の高遠を責めつけた。
――あなたでしょう、高遠さん、お寝坊の張本は?
――違う違う、これはね、桂が駄々をこねたからですよ。お供は厭《いや》だってね。
――まあ、と芳枝が怨《えん》じるような眼つきをした。
――そうでもないんだが、……しかし泳げないのに見ていてもなあ。
――桂さん、板乗《いたのり》なら出来るよ、とススムちゃんが言った。板乗はそりゃ面白いぜ。
――あとでボール投をして遊びましょう、と芳枝が言った。
――ひとつお茶でも飲ませていただきたいものですな、と三枝が言った。
汗を拭《ふ》き終ると、海から吹き寄せて来る微風が清々《すがすが》しかった。午前の空は透明に晴れ渡って、天頂から水平線に近づくに従い紺碧《こんぺき》の色が次第に薄く褪《さ》めて行った。渚《なぎさ》から波頭の白く崩《くず》れているあたりまでに、人々が水を浴びて騒いでいるのが見える。砂浜は割にひと気がなく、ところどころにビーチパラソルが派手な色合を誇り、砂の上に引き上げられた古ぼけた漁船と奇妙な対照を示していた。脱衣場を兼ねた葭簀張《よしずばり》の茶店が二軒ほど並んだ向うに、地引網が柵《さく》に懸《か》けて乾《ほ》してあった。風景が無限にものうく、単調な繰返しのように桂には思われた。彼はポケットから煙草の箱を出してその一本に火を点《つ》けた。
女中がパラソルの蔭に坐ってアルコール・ランプでお湯を沸かしていたが、漸《ようや》く熱い茶を皆に注《つ》いで廻った。桂はぼんやりと煙草をふかしながら、芳枝がお茶を飲むのを見ていた。その心の中にどんな感情が流れているのか、桂には分らなかった。
――さっきの話だがね、と不意に三枝に話し掛けられて、桂は思わずどきんとした。
――うん?
――何だかアマチュアじゃ駄目みたいだが、一体どういうとこが悪いんだい?
――悪くはないさ。羨《うらやま》しいって言ったのさ。
――何だい、それは皮肉かい?
――そうじゃない。アマチュアにとっては芸術はたのしみなんだ、やればやるほど面白くなる。たのしみながら腕が上って行くんだから羨しいと言ったんだよ。僕等になると苦しみばかりだ。
――それでもアマチュアじゃしようがないんだろ?
――僕がまだ君等と一緒に学生だった頃さ、親父《おやじ》がよく言ったものだ、お前は絵が好きなら趣味でやれ、職業は職業で別に持って、その合間に絵を描いているのなら責任がないからのびのびとやれる。生《なま》じっか一本立で飯を食おうと思えばどうしても苦労するだけだ、うまく行ってまぐれ当り、まず乞食《こじき》になるくらいが落《おち》だ、……とね。親父は僕がちゃんと大学にあがってお役人にでもなってくれたらと思っていたのさ。ところが僕はそんな生ぬるいことじゃ気が済まなかった。趣味? ……おかしくって。生命懸《いのちがけ》のつもりなのに何が趣味だ? 親父と大喧嘩《おおげんか》したあげく、とうとう飛び出しちまった。
――で、親父さんの意見がやっと身に沁《し》みたというわけか? と高遠が訊《き》いた。
――戯談《じようだん》じゃない、あんな分らず屋の言うこと……。
――しかし何も学校をやめることはなかったと思うんだが、……
――君は昔もそう言ったよ、三枝。それが常識家の、つまりアマチュアの考えかたなんだ。芸術というのはまるきり別物だ。
――随分思い切りのいい方ね、あなたは? と芳枝が言った。
――なに、demon《デモン》 にでも憑《つ》かれていたんでしょう。人間という奴《やつ》はそう簡単には割り切れない。
――それでいつかは後悔しないかな、と高遠が言った。
――先のことなんかやみくもだよ、現在さえ後悔しないで生きていればいいんだ。
――不肖の息子《むすこ》だ、と高遠が極《き》めつけた。親父さん泣いてるだろう?
――どうかなあ、どうせ勘当されたくらいだもの、もともと親父から可愛《かわい》がられたことはなかったし。厄介払いしたつもりでいるだろう、きっと。親父ときたら役人根性だから僕と合う筈《はず》はないさ。
――おいおい、己《おれ》たちも役人の卵だよ、と高遠が笑った。
――お寂しいでしょうに、と万里子が言った。
桂はちょっと唇《くちびる》の端で笑ってみせ、煙草をくゆらせた。三枝と高遠も同じように煙草の煙をあげ、女たちはボンボンの罐《かん》を廻した。ススムちゃんが、さ早く泳ごうよ、と姉をせかしているのに、万里子はなかなか腰を上げないで、芳枝と、もうじき避暑客目当に開かれる筈のバザーの話をしていた。ススムちゃんは高遠に競泳の話をせがみ出した(高遠の言うのを聞いていると、彼はひとかどの水泳選手のようだった)。
喫《の》みさしの煙草をぽんと砂の上に投げ捨てると、三枝が指の先で自分の頤《あご》をつつきながら桂に尋ねた。
――またさっきの話になるけどね、アマチュアはたのしみながら描く、専門の絵かきは苦しんで仕事をする、……その場合、生活なんてものを除外して、ただ絵を描くことだけに限定してもだね、君たちは決して楽に、のびのびと絵をたのしんでいるわけじゃないと、……するとそうした違い、素人《しろうと》と玄人《くろうと》とのそうした違いは、一体どこから来るんだろう?
――うん、それはね、と桂が言った。彼は三枝の捨てた煙草の吸殻が薄い煙をあげてなおも燃えているのをじっと眺《なが》めていた。……それは恐らく感動というものの質が違うのだろう。僕はこう考えるんだ、現実の美しさというものがある。人はそれを見て感動する、そして芸術的な表現欲を刺戟《しげき》される。ね、現実というものは実に誘惑的だ、attractive《アトラクチヴ》 だ。だからアマチュアの場合、そうした現実の美しさ、つまりマチエールだね、それを画面に写し植えればそれで満足する。それは技術だからね、技術さえ或る程度上達すれば、とにかく現実を絵として再表現することが出来るわけだ。物を見る眼が素直で、マチエールに素直に感動するから、出来上ったものにも現実の美が匂《にお》っている、しかしそれが芸術の美となるところまではなかなか行かないんだ、謂《い》わば現実の美の摸写《もしや》にすぎないんだ。
――なるほど、で専門家の方は?
――専門家はね、そんなに素直に感動はしない、一ひねりも二ひねりもしてマチエールをこね廻す。僕の考えでは、現実の美しさは一度死ななければ芸術の美しさにならない。現実が一度死んで、それから本当の絵の美しさが画面の中に生き生きと復活して来るんだ。現実が死ぬ、現実を殺す、つまり感動を殺すということになるんじゃないか。それでなければ、物の奥にある真に本質的なものをどうして掴《つか》むことが出来るだろう? 現実の素材の中にある感動が普遍にまで亢《たか》められるのは、そうした厳《きび》しい眼によって、現実の内部にあるものを芸術家が見抜いた場合なのだ。それを見抜かなければ芸術家とは言えない。
――するとアマチュアはそうした眼を持っていないというのかい?
――いや、アマチュアでは真の芸術家になることはむつかしいと言うんだ、道があまり安易にすぎるからね。
――結局、訓練の厳しさ……か?
――訓練といったって、個人個人の問題なのだからね、メチエを確立しようという自分自身の気持さ。
少し前から皆は話を止めて桂の説明を聞いていたが、そこでちょっと途切れたので芳枝が眼を大きくあけて桂の方を笑顔で見た。
――桂さん今日はなかなか雄弁ね、颯爽《さつそう》としてるわ……。
そして万里子と顔を見合せた。
桂も少し笑った。忘れよう忘れようとしている気持、それがかえって自分をお喋《しやべ》りにしているのだ、……そのことに気がついた瞬間から、意識が今と昨日とに二分された……。
――どうもその感動の質が違うというのが分らないな、と高遠が訊いた。専門家は感動を殺すといったって、素朴な純粋な感動が悪い筈はないんだろう?
――そりゃそうだ、しかしね、感動から表現までの間に光線のプリズムのように幾通りもの屈折があると思う。アマチュアの時には、最初の感動がそれこそ純粋で大きいかもしれない、しかし惜しいことにそれが屈折の度《たび》に少しずつ小さくなる、最後の表現では十のものが二か三になってしまう。専門家の場合にはまず最初に感動を殺す、零《ゼロ》にしてしまう、それから屈折の度に大きくして行く、その大きくするしかたに謂わば職業の秘密があるんだ。
――すると最初の感動の時には、アマチュアの方が感動が大きいんだな?
――それもむつかしい問題だ。一般にね、素人はマチエールが素晴らしくないと手を出さない、だから最初の感動の大きさが表現意欲を決定する。専門家は経験が豊富でそれを整理して記憶しているから、見掛けでは小さなマチエール、小さな感動でも、経験をつなぎ合せてそこに大きな感動を喚び起すことが出来る、セザンヌの林檎《りんご》のように、実際のモデルはごくつまらないものであっても構わないんだ。もっといい例がないかな……?
桂はぼんやりと周囲を見廻した。万里子は右の掌《てのひら》に砂をのせてそれを左の掌にこぼしている。ススムちゃんはまた腹這に寝て足をばたばたさせている。高遠は煙草をくゆらせている。三枝は海の方を向いている。ただ芳枝ひとりが熱心な眼つきで桂を見詰めていた。二人の眼が合い、それが桂の意識を明かに昨夜のことに連れ戻した。
――例えば、昨晩《ゆうべ》芳枝さんが弾《ひ》いてくれたベートーヴェンの「月光」ね、あれには色んな伝説があるらしいが、仮にあの第一楽章が月の光の射《さ》し込んで来るような印象を持ち、ベートーヴェンもそれをモチーフにしてあの曲を創《つく》ったとしてみよう、……もっとも僕は僕なりにこの曲を別に解釈しているんだが、……そうすると霊感を得た時の一時的な印象に、それまでのあらゆる月光の印象が重なる、さらに月光を浴びながら考えていたその思考内容が、純粋に凝結してモチーフを形成する。ね、その場合に最初の感動はもう問題じゃないんだ、大事なことは最初の感動を如何《いか》にして持続するか、それも、より豊かに、より深く、持続するかという点に懸っているんだ。それを極端に言えば、最初の感動を殺すということになると思う……。
桂はくたびれて話しやめた。芳枝の手が無意識に、ピアノの鍵盤《キイ》を叩《たた》く時の指の形をつくっている。桂は悩ましげな眼つきで、先ほどからじっとそれを見詰めていた……。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
荒巻芳枝がグランドピアノの前に坐って、呼吸を整えた後に、奏鳴曲「月光」の最初の三連音符をしなやかな指で鍵盤《けんばん》の上に拾った。
……ああ月の光が射《さ》して来る、と桂昌三は思う。この曲は「月光」と呼ばれているが、そんなことはベートーヴェンの与《あずか》り知ったことじゃない。音楽批評家のレルシュターブが、スイスのリュセルヌ湖で月光に照された波の上の小舟を見ながら、この第一楽章を思い出したというのは確かにありそうなことだ。しかし風景を見てこのソナタを思い出したというのでは、単なる印象にすぎない。「月光」という呼名《よびな》は、ベートーヴェンほどの苦悩も絶望も知らない人間が、勝手な印象をこの曲にくっつけたものだ。大事なことは、風景がソナタを喚起するのじゃなく、ソナタが風景を喚起することだ。この曲は確かに何かを、何か或る抽象的な風景、それでいて僕たちの精神の中で無意識の記憶が、ちょうど血液が僕|等《ら》の無意識|裡《り》に五体を廻《めぐ》っているように、まどろみながら眠っている、そうした抽象的でありながらしかもはっきりと僕たちに絡《から》みついて離れない或る風景を、喚起する。……遠い記憶、それも昔の昔に見て、もうとても思い出すことは出来ないと思っていて、なお時々、ふっと閃《ひらめ》きのようにそのかすかな形か、色か、匂《におい》のようなものが甦《よみがえ》る、そうした印象、……天上から落ちて来る一条の光、それは月の光ではない、もっと神秘的な、もっと宇宙的な光が、暗い地上に射し込んで来る。それは一種の宇宙的な生意識なのだ、或る創造の意欲が宇宙の中に充満して、それが一条の光となって暗い地上に射し込んで来るように、……すると地上の闇《やみ》にも、仄《ほの》かな微光が、あるかなしかに漂い始める、……そうした印象、しかも射し込む一条の光を中心に、同心円をえがいて次第にひろがって行くもの、ひろがりながら次第に沈んで行くもの、ひょっとするとこの生の意志は、もっと暗い、パセチックなものかもしれない、虚無、そして死、……苦しみの中に射す慰めの光、絶望の中に射す仄かな希望、死の中に射す生、……そうだ、これは人間が生れる前の死の世界なのだ、あらゆるものの泯《ほろ》びた虚無の世界、そこに天上から爽《さわや》かに一条の光が射し込んで来る。死に絶えた、月世界の表面を思わせるような、氷と石との世界、詩人が「パリの夢」に夢みたような、「永遠の静寂が翔《かけ》っている」世界、そこに今生れて来ようとするものの明るい意志が働き始める……。
第二楽章。それは天上の遠い耀《かがや》きを映した理想の生だ、すべての悦《よろこ》びはそこに開く、生、優美なスケルツォ、ただ夢の中に、無意識の記憶に、ふと閃きのように漂って来るもの、愉《たの》しく、快活に、手をつないで舞曲を踊る天使の群、次第に早まり、次第に高くなり、生、地上の人間のかかわり知らぬ希望の生、優雅に、気高く、遠い転生の以前の記憶、しかも時々は人間に垣間見《かいまみ》ることを許す幻の生活、明るく、華《はなや》かに、快活に、乙女《おとめ》たちの唄声《うたごえ》のように、或る時は少しゆるやかになり、それからまた早く早く、流星のように、花の輪のように、生、この明るい情緒、この明るい笑い、みどり児《ご》が母親に見せる笑い、乙女が恋人に見せる笑い、華かに早く、愛する者の豊かな希望のように、愛することは生きることであるように、悔のない無垢《むく》の愛、葉末にしたたる朝露のように、儚《はかな》く早く、夢のように、愛することにすべてがあり、生きることが愛だった遠い世界の記憶の破片、風にさらわれた一輪の花、一枚の花片のように、生、「二つの深淵《しんえん》の間に咲いた一輪の花」のように、理想の生……。
そして再び深淵の呼声、逆《さか》しまに吹き下す風、第三楽章、これこそは生、人間の、現実の、束《つか》の間《ま》の、悲しい生、急速に、生の第一主題、青春、燃え滾《たぎ》る、灼熱《しやくねつ》する、奔騰する日々、この短い命、悲痛な印象、運命の手の中に閉じこめられた苦悩の生、最早《もはや》悦びの影を宿さず、最早天上の幻を消し去ったこの生の喘《あえ》ぎ……。そして雪崩《なだれ》のように落ちて来るもの、第二主題、それ、死の呼声。いま、死は生を呼びに来る、雪崩のように、疾風《はやて》のように、すべてを消し去る死、幻をも現実をも、すべてを一陣に消し去る風、悦びをも悲しみをも、すべてを虚無の涯《はて》に運び去る船、早く早く、死が歌う、死が呼ぶ、生がそれに答える、愛が生を引きとめる、二つの争うもの、二つの主題、憤怒《ふんぬ》に捩《ね》じ曲げられた鉄の柱、柔軟に折れ曲る一本の蘆《あし》、対立する意志、そして再び第一主題、激情の間に生れた仄々《そくそく》とした一種の静けさ、怒濤《どとう》に映る雲の形、或る遠い風景、……雪をいただいた遠い連山、沈黙のように自分の眼から逃れて行く風の吹く砂丘、黝《くろ》ずんだ海、電信柱が無限に単調に連なっている田舎道《いなかみち》、停車場の前でぽつねんと林檎《りんご》を売っているかくまきを掛けた女の子、……意識の裡《うち》でとうに忘れられていた生の原型のような幾つかの風景、……そして早く早く、天の意志を伝えて翔《か》け下りる風、風の十字路に捉《とら》えられたまま飛びやりもせず揺れている落葉、猛禽《もうきん》の嘴《くちばし》にくわえられて顫《ふる》えている小鳥、早く早く、次第に亢《たか》まって行く不安、あらゆる生きた筋肉を奔命に動かす苦悶《くもん》、咽喉《のど》もとを締めつける絶望、……そして急に、不気味に凪《な》いだ風、ざわめきを止めた海、暗い微光を漂わせた現実の外の風景、今こそ死が生を運び去る、最早|抗《あらが》うものではなく慰めるもの、奪うものではなく与えるもの、……死の勝利、仄々とした宇宙の光が、隈《くま》なく地上を照し出す中を、すべては再び遠ざかる、天上の風にさらわれて、束の間の短い生は、虚無から虚無へ、忘却から忘却へ、死から死へ、……すべては渾沌《こんとん》の中に忘れられて……。
一 日[#「一 日」はゴシック体](3[#「3」はゴシック体])
――何だかすっかり桂に威張られちまったな、と高遠が言った。芸術家というものは鼻息の荒いもんだ。
――そういうつもりじゃないよ、と桂が苦々《にがにが》しげに言った。
――しかしどうも絵は分らない。三枝のところで近頃の画集を見せてもらったが、あれはどういうんだ? 何だか四角だか三角だかがやたらとある奴《やつ》、青銅《からかね》みたいな顔をした奴……。
――ピカソだろう、と三枝が説明した。
――それからまだまだ変なのもあるぜ、新聞紙や藁《わら》しべなんぞを貼《は》りつけた奴、首のない女とか、なめくじみたいな鳥とか、まるで気違《きちが》い沙汰《ざた》だ。
――あるね、確かに、と桂も思わず笑った。今は過渡期なんだ。印象派のドクトリンが漸《ようや》く終って、新しい芸術がどんどん起って来ようという時代だ。僕もパリの新しい流行には大いに関心を持っているが、正直なところよく分らないね。とにかくキュビスムは大戦で一応終ったんだろう、ピカソはとても一筋縄《ひとすじなわ》じゃ行かないからいつまでもキュビスムじゃいないや、近頃はいやに古典的な絵を描いている。大戦が終ってダダが生れて、今は、――この一九二〇年代は、今までのところダダイスムの時代だが、それもいつまでのことか。何しろマチスはマチス、ドランはドラン、ルオーはルオー、ルノワールは死んだけど、大家は皆それぞれの道を歩いているさ。
――しかしオーソドックスな奴でも一体どこがいいんだか、と高遠が言った。例《たと》えば君たちが金科玉条としているセザンヌさ、あれの林檎《りんご》は変にいびつであまり美味《うま》そうじゃないや、風景だって厭《いや》に歪《ゆが》んでるじゃないか。
――それは違うんだ、つまり全体の調和という点から考えると、フォルムが歪みを持ち、水平線が傾いているというのはそれが真実なんだ。これは deformation《デフオルマシオン》 というんだが、何も形がうまく描けないからそれでああいうふうにごまかしてるんじゃない。いくらでもちゃんと描けるんだ。そこがアマチュアとは違うんだよ。
――ふうん、しかしアマチュアっていえば、三枝の絵のどこが悪いんだろう? うまく出来てると思うがな。
――わたしもそう思うわ、と芳枝が言った。
芳枝はそして三枝の方を見た。眼がきらりと光った。三枝は知らん顔をして煙草をふかしている。桂はその二人を、暫《しばら》く、悩ましげな眼つきで見詰めていた。
――三枝の絵はたしかにうまく出来てるんだよ、僕も敬服はしてるんだ。たしかに美しい。ただ、……
――うん、ただ? と高遠が訊《き》いた。
――ただね、美しすぎるんだ。
――矛盾だよ、それは、と高遠が笑った。
――まあ聞き給《たま》え。現実というものは attractive《アトラクチヴ》 だ。しかしそれを画面に再表現するためには、さっきも言ったように感動を殺さなければならない。しかるに三枝は見たものにせいいっぱいに感動する。熱狂的に画面の中に自分を投げ込む。すると、タブローの方はなるほど attractive《アトラクチヴ》 に仕上るだろう、しかしそれは現実、つまり彼がモチーフに選んだ現実とはまるで無関係なものだ。つまり三枝の絵はあまりに観念的なのだ。
――それで悪いだろうか、とその時三枝が振り向いて言った。
――例えば君の海を描いた風景ね、あの海はプルシアン・ブルーだが、何だか君の好みのプルシアン・ブルーのために海の方が存在しているような気がする。
――しかし僕にはそれが真実なのだ。
――ところがね、三枝、それは真実じゃないと僕は思うんだよ。現実に海があり、海の色がある。その色は真実だ。それを自分の方に近づける、その近づけるプロセスの中に芸術家のメチエがある。現実にある真実と芸術家の持つ真実との差、その差を次第に縮めて二つのものを合致させるところに芸術があるんだ。君の絵がどんなに美しいとしても、それは現実が画家の内面の世界に喚《よ》び起した唯《ただ》ひとつの色とは言えないと思うんだ。君の場合には、君自身の好みがいつも強すぎてね。何だかちょっと見にはばかに華《はなや》かで色彩のアラベスクみたいだが、その実、画面の与える統一した感動というものがない、……どうも悪口になっちゃった。
――なかなか大したもんだ、と高遠が言った。
――僕は後期印象派の末裔《まつえい》でたくさんだ、と三枝が言った。
――でもわたし、太郎さんの絵好きよ、と芳枝が言った。
――わたくしも、と小さな声で万里子が言った。言ってから頬《ほお》を少し赧《あか》くした。
――あら、あなたもお好きなの?
――わたくしにはよく分らないのよ、と困ったように万里子が弁解した。
――こうファンが多いんだから三枝も以《もつ》て瞑《めい》すべきだね、と高遠が言った。
桂はくたびれたように眼を起して海を見た。晴れ渡った海、たとえ僕がどんなに三枝の絵を悪く言ったところで、芳枝さんの心が今さらどうなるというのだろう、僕の心がどうなるというのだろう。芳枝さんには恐らく絵のことは分らない、それでも三枝の絵が好きだとなれば、それが全部だ。そしてあらゆる芸術は、文句なしに好きだと言ってくれる人たちによって存在しているのじゃないか……。桂はぼんやりと悲しそうな顔をした。
――それで桂さんは如何《いかが》なの? と芳枝が訊いた。一体どのくらいお上手《じようず》なの?
――僕なんかまだ駄目ですよ。
――見せていただきたいわ、桂さんの絵、ねえ万里子さん?
――僕はなかなか完成しないんです。出来上んない絵を人に見せるのは厭だから。
――出来上らないって、勝手にそうお極《き》めになってるんじゃなくって?
――僕は直に駄目にしちゃうんです、じき破いたり、上から色を塗ったりしちまうから。
――永久に人に見せないで終るんじゃないか、と高遠が言った。
――それじゃ困るけど、と桂は笑った。
――やれやれ専門の絵かきというものは大変なものだ、頭の中が、七面倒くさい理窟《りくつ》ばっかりこね廻すように出来上っているのだろう、己《おれ》たちの頭が六法で詰ってるようなものかな。
――わたしそんなの厭だわ、と芳枝が言った。専門といったって絵を描く方の専門でしょう、何も悪口をおっしゃる方の専門ではないのでしょう……。
そして自然に眼が三枝の方へ行った。
――ああ僕もう飽きちゃった。ススムちゃんが足をばたばたさせて言う。ねえ、姉さん?
――御免なさい、さあ行きましょう。
――本当に、ひと泳ぎしましょうよ、と芳枝も頷《うなず》いた。
ススムちゃんが真先に立ち上った。芳枝はケープを脱いで女中に渡し、海水帽をかぶった。高遠と桂だけが依然として胡坐《あぐら》をかいていた。
――美とは何ぞや、と高遠が暗誦《あんしよう》するように言った。チンプンカンプン芸術国ハ、万世一系ノ美、コレヲ統治ス、か。
――おい行かないのか、と三枝が訊いた。
――もうちょっと桂のお相手をする。実はまだ絵のことで(と狡《ずる》そうに眼をぱちぱちさせて)質問したいことがあるんだ。
――桂さん、お留守番お願いしますわ、と芳枝が言った。
一同は陽気に砂の上を遠ざかって行った。それを見るともなしに眺《なが》めながら、何だい? と無愛想に桂が訊いた。
――そうさ、と高遠は暫《しばら》く間《ま》をもたせてにやにやしていた。……さっきの話だが、芸術家は感動を殺すんだって?
――うん、そう言った。
――どんな美しいものを見ても?
――うん。
――どんなに attractive《アトラクチヴ》 でも?
――うん。
――じゃ芳枝さんを見ても感動しないのか? え、あの attractive《アトラクチヴ》 な人を?
そして桂が答に詰っている間、腹をかかえて笑った。そして大笑いに笑ってから、皆のあとを追って飛ぶように走って行った。
桂がひとり残った。
芳枝さんを見ても感動しないのか、と桂は心の中で繰返した。高遠、君はどうしてそんな残酷なことを言うのだ? もし君が昨晩《ゆうべ》のことを知っていたら、君は決して僕をからかうことは出来ないだろう。僕は芳枝さんが好きだ、芳枝さんの美しさに感動する。しかし君だって、心の裡《うち》では芳枝さんが好きなのじゃないか。あの人は、誰だって、ひと目見たら好きになるような人なのだ。それなのにチャンスはもう永久に去ってしまった……。
桂は一人きりになった。そして一人きりの自分を感じた。慰めが欲しかった。が、それを与えてくれる者はどこにもいなかった。耀《かがや》かしい太陽と、午前のしずかな海。喜ばしげに走ったり、泳いだり、騒いだりしている人たち。一体それは僕とどういう関係があるのだろう。昨日の僕と今の僕とが、もうまるで違ってしまったように……。
桂は昨夜のことを思い浮べる。「月光」を聞きながら僕は音楽の気分を愉《たの》しんでいた。「月光」を芳枝さんに頼んだ時にも、僕はああしたカタストロフをまるで予想してはいなかった。人間というのは何という眼の見えぬ動物だろう。僕が愉快に談笑したり、音楽を聞いたりしていた間に、不幸はぬからず用意されていたのだ。現に僕|等《ら》の知らないこの瞬間にも、不幸はどこかで、ひそかに、用意されているかもしれないのだ。何という惨《みじ》めさ……。
そして桂は、ぼんやりと回想の中に沈んでいた。
過去(溯行的)
一同が夕食を終ってサロンに引き上げた時にも、夏の明るい黄昏《たそがれ》はなおたゆたっていて、まだ電燈を点《つ》ける必要はなかった。桂はソファに身を埋め、足を組み、葡萄酒《ぶどうしゆ》のグラスを手から離さなかった。もっとも桂だけではなく、白葡萄酒の瓶《びん》は三枝と高遠と桂との間を往《い》ったり来たりしていた。芳枝と万里子とはコーヒーを飲み、荒巻氏はシガーの煙をあげていた。荒巻氏はコーヒーにコニャックを入れて、その香を愉しんでいた。そして一同はゆったりと落ちついた気分になった。
こうした夏の夕暮は何といいものだろう、と桂は心の中で言った。僕はすっかりいい気持だ。この葡萄酒のうまさ。芳枝さんの少し上気した顔。芳枝さんもさっき少し口をつけていたようだから、きっとそのせいだろう。万里子さんはいつものように褪《さ》めた顔の色をしている。何だか寂しそうな人だ、あれはどういう人なんだろう。芳枝さんのお友達だというくらいのことしか僕は知らないが。「……一体どういうのがいいんです?」「うん、それは色々あってね。」三枝とは前からの馴染《なじみ》らしい。「まあ一般に言えば、『白』では Sauternes《ソーテルヌ》 と Chablis《シヤブリ》 だろう、Sauternes《ソーテルヌ》 はジロンド地方でとれる、 Chablis《シヤブリ》 はブルゴーニュだね、人によっての好みがあるがイギリス人はブールガンディといってこのブルゴーニュを嗜《たしな》むようだ。」荒巻さんは本当に趣味のいいディレッタントだ。外交官というのはみんなあんなものかな。もしああいう人がお父さんだったらどんなにいいだろう。「しかし何年のどこのがうまいというのを諳《そらん》じるまでは骨だね。年期がかかるよ。」外国に行くというだけで、教養がひとりでに身に附くことがある。どうしたってパリに行かなくちゃ駄目だ。パリが本場だ。本場で修行を積まなければ物になるものもなれやしない。「君たちも向うへ行くことさ。このブルゴーニュもどうも日本へ持って帰ったら味が落ちたようだ。」「だってパパ、ちゃんと栓《せん》がしてあるのに。」「いやなかなかそういうものでもないよ。灘《なだ》の生一本は揺られて運ぶ間に味がよくなるというが、葡萄酒はそうは行かん。」日本には本当に打込める先生なんかいないのだ。それは僕が自惚《うぬぼ》れてるというんじゃなくて、日本では、自分のメチエを磨《みが》くだけで精いっぱいなんだ、とてもお弟子《でし》の面倒を見るところまでは行きはしない。「つまり葡萄酒は穴蔵の中に何年も何年も貯蔵しておくものだ。この cave《カーヴ》 の中にある時に、葡萄酒は一番うまいんだよ。瓶詰にしてしまえばおしまいさ。」芸術というものは移植してしまえばおしまいなのかもしれない。「パパのお得意のとこね。」「やれやれ葡萄酒を飲みにフランスまで行くかな。」「己《おれ》も内務省なんかを志望するのはやめにしようか。」「いやそのくらいの値打は充分ある。葡萄酒の味は恋の味だ。」そうしたら油絵なんてものは、日本じゃとても育たないような運命を初めから持っているのだろうか。「まあ厭《いや》なパパ、ねえ万里子さん?」「はは、パパはこれっくらいじゃ酔わないよ。」荒巻さんはどうしてあんなに御機嫌《ごきげん》がいいんだろう。そういえば、今日はおめでたいからというので御秘蔵のブルゴーニュが持ち出されたのだが。「しかし葡萄酒というのは、頭へは来ないが足を取られますね。」「それは君、舌触《したざわ》りがいいからつい飲みすぎるせいだろう。」三枝も何だか嬉《うれ》しそうにしている。さっき食事の前に奴《やつ》は荒巻さんの書斎にはいって行ったが、あの時はばかに神妙な顔つきをしていたじゃないか。しかし僕も、今日はひどく愉《たの》しいんだからなあ。「どうだね、桂君なんかはよく飲むんだろうね?」
――え、僕? いや僕はそんなに飲みません。
おどろいた。僕はそんなに赤い顔でもしているのかしら。「一般に日本じゃ芸術家はよく飲むのじゃないかな。近頃の文士連中と来たら……。」「桂はくそ真面目《まじめ》な方ですからね。」「それはいい。何も decadent《デカダン》 である必要はないからね。」
――ええ僕もそう思います。
「なに桂はもともと飲めない口なのさ。」
――日本ではね。荒巻さん、芸術家よりは政治家の方がよっぽどよく飲むんですよ。卵でもね。
「ははは、言いやがったな。」「高遠にはかなわないさ。奴は右も左も相当だからね。」「ほう、高遠君はそんなにいけるの?」「何しろ味噌《みそ》をなめなめでも一升は飲もうという男ですからね。」「まあ、わたしお酒飲みは嫌《きら》いよ。」芳枝さんのちょっと眉《まゆ》をしかめた顔は美しい。「なに酒なんて、飲んでも飲まれなきゃいいんですよ。」「だって……。」「芳枝さんなんか一度にお汁粉を五杯くらい平気なくせに。」「まあひどい、太郎さんたら。ひどいわ、ねえ万里子さん。」「じゃ、三杯くらい?」「知らない。」「文士と言えば、この前死んだ有島《ありしま》なんかは真面目なピューリタンだったんだろうにね。」「有島|武郎《たけお》か、あの自殺はショッキングでしたね。」「しかし有島という人は、アメリカにいた頃は随分|放蕩《ほうとう》無頼の生活をしたらしいじゃありませんか。」有島武郎の運命か、しかしどうして自殺なんかしたんだろう。「あれはスキャンダルだね、ああいう死にかたは。」「何もひとの奥さんなんかと一緒に死ななくてもと思いますね。どうせ死ぬにしても。」「太郎さん、そんなことおっしゃっていいの、万里子さんは有島さんのファンなのよ。」「知らなかった、万里子さんがね?」「あら。」「若い人たちには大した人気があったらしいじゃないか。」「万里子さんはずうっと『泉《いずみ》』の愛読者ですもの。」「芳枝さんも好きなんじゃない?」「わたしは……そう、でも早月|葉子《ようこ》みたいな人は嫌いね。」他人がどんなに考えたって、死んだ人間の内面にまではいって行くことは出来ないのだ。自分から自分の生命《いのち》を断ち切った人間には、それだけの理由がある。誰にも分らない理由がある。「何と言っても『或る女』は傑作だろうね、お読みになりましたか?」「いや私はまだ読んでいない。いずれ読んでみたいと思っている。」「あの作品の中には脈々たる社会への抗議がある。そこが凡百の通俗作品とは大いに違うところだ。」「高遠もなかなか利《き》いたようなことを言うね。」「ふん、とにかく自然主義の黴《かび》くさい奴とは較《くら》べものにならん。」「しかし陰気だね、万里子さんはどう思います?」「分りませんわ。でも気の毒な人だと思いますわ。」「早月葉子ですか。」そうだ、確かに気の毒な人だ。「……あのヒロインを追い詰めて行く damonisch《デモニツシユ》 な力は凄《すご》いね。」「自然主義ならあれを環境から割り出して描こうとする。しかし『或る女』では性格というものの factor《フアクター》 が大きい。謂《い》わば悲劇は葉子自身のうちにあると己《おれ》は思うね。」そうだ、悲劇は内部的に崩壊するのだ。それが近代人の宿命なのだ。
――しかしね……。有島ほど理智的でお洒落《しやれ》な人が、よくまああんな死にかたに我慢出来たね。
下らないことを言ってしまった。「死んだあとのことなんか分らんじゃないか。」「死ぬときめたらどんな死にかただって同じだろうさ。」どうも少し葡萄酒が廻ったらしい。
――でも小説では葉子が苦しみながら死んで行くだろう。ああいう凄絶《せいぜつ》な光景を作者は実に冷酷な眼で追体験出来たのだぜ。それがよくまあ自分のことになると、……
「それは山にいる者は山を見ずだろう。」「恋はめくらとも言うし。」誰にも分らないのだ。「あれが恋といえるかね、高遠?」誰にも分らない、自殺した人間の気持が誰に分るものか。「それは恋だろう。」「それでなくちゃ有島さんが可哀想《かわいそう》じゃないかしら。」「お、芳枝さんが味方した。」「魔がさしたんだろうね、きっと。」「人間はひとりでは死にたくないのじゃないか、それで誰でもいい、相手を見つけて一緒に死んだのだろう。」「己は恋だと思うね。」「高遠も割にロマンチックなんだなあ。」「己はもともと自然主義は嫌いだとさっき言ったろう?」「蓋《けだ》しこれは女の方がそそのかしたという感じだね、それでむらむらと死にたくなったんだ。」「そそのかしたなんてあんまりよ、太郎さん、それでは波多野《はたの》秋子が可哀想よ。」「波多野秋子? しかしもし波多野秋子が現れなければ、有島は死ななかったかもしれない。」「それは水掛論だよ、どっちがどっちとも言えないさ。」「桂さんはどうお思いになって?」
――僕はやはり有島武郎自身に、たとえ一人ででも、死ぬだけの充分な理由があったと思いますね。
「秋子は?」
――女の気持はどうも分らない。
「まあ狡《ずる》いのねえ。」分らない、分らない。「桂の言う通りだ、確かに有島は人間的に行き詰っていたんだ。」分らない。「君たちはだいぶ葡萄酒が廻ったらしいね。」「いいや、そんなでもないですよ。」「そういうのをね、|entre deux vins《アントル・ドウ・ヴアン》 というんだよ。」「しかし悪くない気持だなあ。」何だか少し睡《ねむ》くなって来た。いつまで堂々|廻《めぐ》りをしていても同じことだ。こういう時には音楽だ、音楽を聴《き》くに限るのだ。
――芳枝さん、ピアノを聴かせてくれませんか。
「あら、桂さんが何をおっしゃるかと思ったら。」幸福なような、それでいて少し憂鬱《ゆううつ》な気分。「それはいい、芳枝、何かお弾《ひ》き。」「そうね、何にしましょうか。」
――よかったら、「月光」を弾いてくれませんか。
「まあむつかしい御註文ね。」「これで芳枝さんのピアノが聴ければ申し分なしだ。」「芳枝、ひとつやって御覧。」
そこで夕闇《ゆうやみ》の少しずつ濃くなって行く部屋の中を、恥らいを頬《ほお》に浮べながら、荒巻芳枝がグランドピアノの方へ歩いて行った。
一 日[#「一 日」はゴシック体](4[#「4」はゴシック体])
――お寂しそうですのね?
その声で桂は夢想から覚《さ》めた。覚めてから首を起すまでの短い瞬間に、ああ芳枝さんが帰って来た、芳枝さんが僕のために帰って来た、という錯落した意識が稲妻《いなずま》のように走った。
――ああ、あなたですか。
勿論《もちろん》、芳枝ではなかった。上村万里子が水に濡《ぬ》れた痩《や》せぎすな身体《からだ》をやや前に屈《かが》めて、桂の前に立っていた。肩をすっかり隠し、二の腕のあたりがゆるく襞《ひだ》になっている紺の水着を着たその姿は、芳枝とは見違える筈《はず》もなかった。片手に大きな浮輪を抱《かか》えている。そして桂にまじまじと眺《なが》められると、恥ずかしそうに浮輪を足許に置いて桂と並んで坐った。
――みんなは?
――皆さん沖の方で泳いでいらっしゃいます。ススムちゃんまでくっついて行きました。
――で、万里子さんは金鎚《かなづち》?
――桂さんも、でしょう?
万里子は微笑を口に含んでいたが皮肉の色はなかった。胸を隠すようにつつましく両腕を組みながら、無心な表情で砂の上に坐っていた。肉づきの薄い身体、ふくらみのすくない胸、片膝《かたひざ》を少しくずしていたが、それさえもなまめかしいという感じからは遠くて、……桂は急に相手に身近なものを覚えて、微笑を引き継いだ。
――僕は全然駄目。
――でもお暑いでしょう? お脱ぎになればいいのに。少し水をお浴びになれば……。
――泳げもしないのにばちゃばちゃする気にはなれないなあ。
――まあ、それわたくしへの当てこすり?
二人は少しずつ笑った。桂は首から吊《つる》したスケッチ帳を大事そうに膝の上に抱いたまま、タオルで汗を拭《ぬぐ》った。汗が二三滴、スケッチ帳の上に垂《た》れていたのも叮嚀《ていねい》にこすった。
――それでスケッチなさいますの?
――これ? そう、陽《ひ》に当てたので反《そ》っちまった。
――本当にお暑そう、それをお外《はず》しになった方が、……
――いやこいつは大事だから。万里子さんはそれで面白いんですか、ばちゃばちゃやって?
――ええ面白うございます。
――僕はどうも水は嫌《きら》いだな。
――じゃ火の性《しよう》ですのね?
――古風なことを言いますね。一本気で熱し易《やす》い、まあ直にかっとする質《たち》かな。
――情熱的……でしょう。芸術家はみんなそうなのでしょうか。
――しかし僕は |nil admirari《ニル・アドミラリ》 が信条なんですが……。
――太郎さんも情熱的な方《かた》ですわね。
桂はまた暑そうに麦藁帽子《むぎわらぼうし》を取って汗を拭《ふ》いた。半ズボンをはいてシャツまで着ている自分に些《いささ》か道化を感じている。少しやけ気味に首筋をこすった。
――こんなところへ来るくらいなら、宿屋で昼寝でもしてればよかった。
――そういえば浜ではあまりお見受けしませんこと。
――岬《みさき》の蔭《かげ》のとこへ行くととても涼しいんですよ。大抵はあそこで写生をしてます。
――お一人で?
――ええ、勿論《もちろん》一人ですよ。一人で絵を描いている時が一番|愉《たの》しい。
――でも御一緒なんでしょう、太郎さんたちと?
――宿屋には一緒に泊っています、しかし昼はまるで別行動ですね。だいたい僕は泳げないから海岸になんぞあまり行きたくないって言ったんですがね、三枝が承知しなくて強引に引張り出されちまった。つまらないとこですよ、こんなとこ。山にでも行ってた方がよっぽどよかった。
――まあ。でも芳枝さんがいらっしゃるからここもいいでしょう。
桂は内心を見透かされたような気がして、どきっとした。しかし万里子には何もそんな企《たくら》みはなかったらしい。ごく普通の、少し寂しげな表情で俯向《うつむ》いている。
――今日だって、こんなとこへ泳げもしないのにのこのこ出て来たというのも芳枝さんの命令ですよ。デッド・ボールをするのに人数が足りないからというんでね。
――まあ、命令だなんておひどい。
――なに命令に違いはありませんや。桂さん、よくって、駄目よ、……こうだから。
――まあ、ともう一度|怨《えん》じてから、でも芳枝さんは何でもはきはきとおっしゃれるから羨《うらやま》しい、と小さな声で嘆息した。
桂は心の中で二人のお嬢さんを比較してみる。芳枝さんは明け放しで、のびのびと育って、少し我儘《わがまま》だがそれさえも魅力なのだ。悲しい時には泣くだろうし、嬉《うれ》しい時には心から笑いこける。表情が微妙に変り、その度《たび》に大人《おとな》になったり子供になったりする。万里子さんの方は(僕はここに来て識合《しりあい》になったばかりだから、詳しいことは何も知らないが)いつでも節度を保って、いつも少し寂しげな表情を浮べて、よほどでなければ内心の感情を表にあらわさない人だ。恐らくは荒巻さんのような自由な家庭とはまるで違った、日本的な古くさい家庭に育って、自分の個性をどこかに置き忘れたまま平凡に結婚してしまうのだろう。内心に燃えている情熱も、次第に生活に磨《す》りへらされて消えて行くような……。それが日本では、ごく普通の女の運命なのだ。平凡でいて、それでどこか親しみの持てるお嬢さん、万里子さん……。
――万里子さん、と思わず呼んでしまった。
――はい、とこちらを向く。
――いや何でもない。
そして二人はまた少しずつ笑った。桂は照れくさそうに首に懸《か》けていたスケッチ帳をはずし、ゆっくりと首筋の汗を拭いている。
――ねえ桂さん……。
なおも微笑を絶さない口許《くちもと》を少し開いて呼び掛けた。そして桂が、一種の魔術的な親しみを覚えている間に、
――そのスケッチ帳を見せて頂けません? と軽やかに訊《き》いた。
桂は心の中では確かにためらっていた、しかしさっき大事だと言ったことはふと意識から消えて、手は、何でもなくそれを相手に渡してしまっている。気がついた時には、万里子は大事そうにはだかの膝の上にそれを置き、暫《しばら》く黒い表紙の上を見ていた。
桂は風の絶え間を見はからって上手《じようず》に煙草に火を点《つ》けた。万里子はスケッチ帳を開いて一枚一枚を丹念に眺め始めた。桂の眼が、万里子の横顔にとまった。
ただ若さだけが取柄のような、丸味を帯びた平凡な顔。唇《くちびる》が少し開き、白い歯並がかすかにこぼれている。桂はその顔に、――どこの街角《まちかど》ででも出会い、その顔かたちを後々まで、はっきり覚えていることの出来ないような顔に、一層の親しみを感じている。しかし芳枝さんの顔は、まるで違っているのだ、と心の中で呟《つぶや》く。それは何処《どこ》で出会っても、唯の一度だけではっきりと印象に刻み込まれてしまう顔だ。美しさの自信ではなく、自分が他人とは違うという個性の自信が、いつでも芳枝さんを生き生きとさせている。たとえもっと美しい人が側《そば》にいたからといって、芳枝さんは少しもひけ目を感じたり妬《ねた》んだりなんかしないだろう。いつでものびのびとしているだろう。内部から泉のように溢《あふ》れ出て来るもの。豊かな感受性。はきはきした物の言いよう。明け放しの無邪気さ。燃えるような好奇心、でもやや気紛《きまぐ》れな……。
――どれもむつかしいんですのね。
万里子の声が意識を喚《よ》び覚《さま》す。僕は何を考えていたのだろう、と桂は思う。一瞬過ぎ去ってしまえば思い出せないようなつまらないこと、ただ万里子の横顔を見ていながら、考えていたのは万里子さんのことではなかった。
――分りにくいでしょう、と言って笑った。ひとに見せるためのものじゃないから。
――これ、不思議……。
桂は覗《のぞ》き込んだ。鉛筆であらあらしく描かれた海の風景、踊るような漁船、岩と波との奇妙な交錯。
――ほら太陽が……。
太陽が二つある、一つの太陽には翼のようなものが生《は》えている。桂は苦笑した。
――それはね、太陽の位置が変ったから、……
――でもこれは?
――何も太陽に羽が生えたわけじゃないんだけど、ちょっとそういう気がしたまでですよ……。
万里子は遠くのものを見詰めるような瞳《ひとみ》で桂の方を向いた。そして少しためらいながら言った。
――何だか怖《こわ》いような気がいたしますわ、桂さんの絵。
――僕のはあんまり美しくはないからなあ。
――でも美しすぎるのよりは宜《よろ》しいのでしょう、太郎さんのよりは?
――それは皮肉ですか。
万里子は直に赧《あか》くなって怨じるように桂を見上げた。
――そういうつもりではございません、と切口上のような口調で言った。ただよく分りませんでしたの、さっきのお話。
――三枝の絵が美しすぎるという奴ですか?
――ええ。
――あれはね、……何というかな、現実というのは生きもので、時々刻々に僕達の外面で動いている、それをよく見澄ましてその本質を捉《とら》えることに芸術家の任務があるわけでしょう。ところが三枝の絵では、そんな現実に何の会釈もない、生きたものでも死んだものでもいっこう構わない。つまり三枝の美の観念だけが、図案のようにカンヴァスの上に振り蒔《ま》かれているという感じなのです。
――でも美しさというものは、絵を描く人の一人一人に、もともと極《きま》っているものではないのでしょうか?
――そう、美の観念は一人一人に固有のものです。絶対の美というものは人間の業《わざ》ではない。美は相対的です。例えば小学生の自由画がある、精神病者の描いた絵がある、或る意味では美しいものです。が、そういう美しさはしばしば現実とは無関係です、現実を再表現する力はない。絶対の美ではない。そういうとこに、素人《しろうと》の寄りつけない芸術のむつかしさがあると思うんです。
――じゃ、やっぱり太郎さんの絵はお認めにならないのね?
万里子の声は少し悲しそうだった。桂は反射的に相手の顔を見たが、それは彼の気のせいだったかもしれない。唇にはなおも微笑が浮んでいた。肉の薄い唇、かすかに紅《べに》を引いた……。しかし彼の気持は、少しずつ、少しずつ、沈澱《ちんでん》した。彼はそれを振り払うように、力強く言った。
――僕はね、三枝の絵を認めないわけじゃない、ただアマチュアの絵、アマチュアの芸術というものを認めたくないんです。それはアマチュアにも天分のある人はいる、三枝にだって才能があることを僕は認めるのにやぶさかじゃありませんよ。しかしもし彼が芸術家に生れつき、芸術家としての自覚を持っているならば、どうしてアマチュアで満足できるんです? 芸術というのはそういうものじゃない、そんな、片手間に算盤《そろばん》をはじき片手間に絵筆を握るような、そんな割り切れたものである筈がない。もっと真剣な、もっと血みどろなものですよ。ね、ゴーギャンという画家を御存じでしょう、三枝の好きな。ゴーギャンは株屋の店員だった。しかしそれでは我慢が出来なくなって、とうとう店をやめ妻子を放擲《ほうてき》して、まっしぐらに苦難の道に飛び込んでしまった。彼はもう三十五だったんですよ。だからもし三枝が本当に自分の才能に気がついたら、いつか、アマチュアであることに厭気《いやけ》がささないとは限りませんね。いつかそういう日が来るかもしれない……。
桂の声は次第に低くなって行った。こんな理窟《りくつ》をこねてみても始まらない、と彼は自分に言いきかせるように呟いた。
それから、ふと別のことを訊いた。
――三枝とは昔からのお識合《しりあい》なんですか?
――はい、あの……、と少し言葉を濁してから、芳枝さんとは女学校をずっと御一緒なものですから、よく芳枝さんのところで……。
――ああそう。
桂はもう相手の言うことを聞いていなかった。そのまま話が途切れて、万里子はまたスケッチ帳にかえる。桂はぼんやりと海を見詰めている。晴れた海と明るい空。そして急に絶望が胸元に込み上げて来る。昨日のこと、そして取り返しのつかないこと。心の中がしんと静まり、がらんとした心の壁に突き当るようにさむざむとした風が吹いている。何か透明な、まじりけのないもの。昔はそれが愛する気持だった。愛する気持と絶望とは何とよく似ているのだろう。どちらでも、白い焔《ほのお》が心の中で燃えている。ただ、一つは心を暖め、他の一つは無意味に火影《ほかげ》が揺れているばかり……。
暑い。桂は汗を拭った。そして俯向いた万里子の横顔を眺め、この人は何を考えているのだろうと思った。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
アンコールの曲が終った時に、オーストリアの著名なヴァイオリニストは右手に弓をさげ、左手に楽器を持って、ゆるやかに一|揖《ゆう》した。拍手が四方から急霰《きゆうさん》のように浴せかけられている間じゅう、桂昌三は酔ったような面持で、両手をポケットに突込んだまま、遥《はる》か下の方の舞台の上に立っている芸術家の、微動もしない、意志的な表情を眺《なが》めていた。拍手をすることは問題ではない、問題は音楽を自分の物にしてしまうこと。しかしやがてヴァイオリニストが大胯《おおまた》に退場し、劇場の赤い緞帳《どんちよう》が垂《た》れ下って来た時にも、桂はやはりポケットに手を入れて前屈《まえかが》みの姿勢で腰を下していた。あたりの観客は殆《ほとん》ど立ち、ざわざわした熱っぽい空気が場内に籠《こも》っていた。桂が漸《ようや》く立ち上ってみると、三階の椅子席には人影はまるでなかった。
長い階段を下りて場外へ出ると星が見え、濠《ほり》の水に松の影を落して夜の空が映っていた。夜は晩春の重く澱《よど》んだ暖かみを湛《たた》えていた。三々五々に散って行く人たちのあとについて、桂もそこだけは明るい電車の停留所の方へ歩いた。そこで電車を待ちながら暫《しばら》く立っていたが、電車がなかなか来なかったのでまた歩き出した。心の中ははずんでいた。
音楽がなおも彼の心の中で続いていた。弾《ひ》いたのが誰であったか、またそれがどんな曲であったかは、今ではもう問題ではなかった。ただ純粋に音楽的なもの。耳に聴《き》かれた音楽は魂の状態をより純粋にするための一つの契機にすぎない。音楽が耳許《みみもと》に鳴り、恍惚《こうこつ》の瞬間が始まる、その瞬間の持続することの中に音楽の持つ真の効用がある。音楽とは、その時、最もまじりけのない魂の状態なのだ……。
桂の頭脳がなおも一種の浮々した興奮の中で音楽の効用について考えている間じゅう、彼の内部は、何かしら、形のあるものを摸索《もさく》していた。しかし感覚の陶酔があまりに圧倒的だったから、彼の考えていた音楽の効用が、実は識閾下《しきいきか》に隠された芳枝の魅惑的な写象と不断に呼応し合っていることに、まだ気がついていなかった。
桂は電車の停留所で、自分の下宿のある方角に行く電車を二台もやり過した。なぜかは自分でも分らないままに。しかし彼がぼんやりと眼をあげて眺めていた星の光が、――夜の街の上に懸《かか》っていた雲の間に、かすかに瞬《またた》いていた星の光が、不意にその耀《かがや》きを増し、彼の内部に射《さ》し込んだ時に、彼にすべてが分った。彼は直に決心し、別の方角に行く電車に乗った。
途中で下り、一つの思念にだけ捉《とら》えられて、彼は暗い道を何処《どこ》までも歩いて行った。白い大きな石の門の前で、夢から覚《さ》めたようにふと我にかえった。軒燈に「荒巻」と書いてある。鉄のくぐり戸はかすかに軋《きし》んだ音を立てた。彼はそこをはいり、ためらった。遅い、と思った。大きな木蓮《もくれん》の木が、白い花のかたまりを疎《まばら》に樹間に残したまま、闇《やみ》の中に甘い匂《におい》を放っていた。地面の上に花片《はなびら》が幾つか散っていた。
遅かった。時刻はもう十時を過ぎていた。桂は木蓮の木の前に立って邸《やしき》の方を眺めた。二階の、芳枝の部屋の窓に、明るく灯が射していた。芳枝さんはまだ起きている、と彼は思った。それは彼を安心させた、しかし足はやはりそこから一歩も動かなかった。訪問をするには遅すぎる時刻だ。木蓮の香《かお》りが、彼と芳枝さんとの間の空間を、一つの思慕につなぎ、短縮し、抹殺《まつさつ》した。彼はそして空想した。
彼は(桂は三人称で空想した)玄関のベルを押す。顔馴染《かおなじみ》の女中がびっくりした顔で戸を開き、まじまじと桂を見る。彼は早口に言う。
――芳枝さんはまだ起きていらっしゃいますか? ちょっとお会いしたいんだけど。
彼は応接間に通される。彼は腰を下す気にはならない。部屋の中をぐるぐると廻っている。確かに遅すぎる、と考えている。芳枝が和服姿で、急ぎ足にはいって来る。
――まあ桂さん、どうなさったの、一体?
――起きていましたね、僕きっと起きていらっしゃるだろうと思った。
――そりゃ子供じゃないんですもの、まだ起きてます。でも、いま何時《なんじ》だか御存じ?
――僕ね、今晩行って来ました、例の帝劇。
――ああクライスラー、素敵だったでしょう? わたし去年のジンバリストより好き。やっぱりいらしてよかったでしょう?
――素敵だった。あんなに素晴らしいとは知らなかった。僕はね、芳枝さんがあんまりすすめるものだからやっとその気になったんだけど、何しろ入場料がばか高いんでしょう、どうも損だなあと思い思い出掛けたんですよ。ところがおどろいた。いくらクライスラーでもこんなに感動するとは思わなかった。何しろレコードでも聴いてるんだし、……
――生《なま》はまるで違うでしょう?
――違う、確かに。音楽というのはまさにああいうものなんですね。芳枝さんのピアノよりだいぶうまかった。
――ひどい。でもピアノとヴァイオリンとは違ってよ。
芳枝さんが負けん気の表情をする。
――結局、エネルギーの集中ということになるんでしょうね。一つの曲を弾く、その瞬間の指の動きに、一生の経験がいっぺんにおさらいされて、いちどきに流れ出す。芸術家を決定しているのは、彼が一生かかって貯えた経験なんでしょうが、しかしそれは、concentrate《コンセントレート》 された表現によってしか知ることが出来ない、そのエネルギーの流れ出しかた、それがつまりメチエなんでしょうね。大したもんだ。
――そんなむつかしいことを考えていらっしゃったの?
――いや、考えていたのはもっと別のことです。これは、今、気がついた。
――なあに、その考えていらっしゃったこと?
――それは、……僕もう帰ります。
――あら、いまお茶をさしあげますわ。で、御用はなに?
――用なんかないんです。ただちょっと報告に来たかった。
――まあ何ておかしな方なんでしょうね、桂さんは。
芳枝さんは遠慮なしに笑い出す。桂も一緒になって笑う。細く眼を開いたその表情、白い歯が電燈の灯にきらきらする。彼は笑い声を背中に聞きながら、呪縛《じゆばく》する魔力を逃《のが》れるように応接間からどんどん歩き出す。待って、待って、と芳枝さんが呼び掛ける。しかし彼はさっさと玄関の方に歩いて行く……。
灯はまだ明るく点《つ》いていた。木蓮の一つ一つの六弁花が、遠い灯を受けて仄《ほの》かに、清浄に、光った。桂の心の中で、ヴァイオリンの絃がゆるやかに顫音《せんおん》をひびかせていた。彼の心は充《み》ち足りていた。
桂はもう一度二階の灯を見上げ、またかすかに軋るくぐり戸を開き、それから暗い夜の道を歩いて行った。彼の心は孤独で、その中にいつまでも明るい灯がともっていた。
一 日[#「一 日」はゴシック体](5[#「5」はゴシック体])
――桂さんはどういうお暮しをなさっていらっしゃいますの?
万里子の声が少しかすれて聞えたので、彼女が今まで桂のことを考えていたのでないことは確かだった。何か別のことを思っていて、ふと気を取り直して何となく訊《き》いてみたのに違いない。桂は直にそれに気がついたが、そうかといって相手の考えていたことの内容は分らなかった。
――暮しって経済的なことですか?
――いいえ、あの……さっき、お父さまと仲違《なかたが》いをなさったとか……。
万里子はスケッチ帳から眼を起していたが、その眼はぼんやりと砂の上に注がれていた。桂が煙草に火を点《つ》けて、ぽいとマッチの燃殻《もえがら》を砂の上に投げたので、びっくりしたように顔を起した。
――やあ御免なさい。……親父《おやじ》と喧嘩《けんか》したのは随分前のことですよ。それからずっと村山先生のとこに置いてもらっていたんですがね、そのうちに先生と面白くないことが出来ちまったものですから、……
――あら、また喧嘩ですの?
――いやいや、これはね、意見がちょっと合わなかっただけで喧嘩というわけじゃない。僕は今だって先生を尊敬しているし、時々出掛けて行って批評してもらっています。ただ内弟子《うちでし》だとどうも拘束が多いし、自由が利《き》かないでしょう。例《たと》えば他の流派の先生のところへ行って教えを乞《こ》うなんてことは出来ない、ところが僕は一人の先生の言いつけだけをはいはいと守って、小型のエピゴーネンにはなりたくないからなあ。……まあ色んなわけがありましてね。目下は独《ひと》り暮《ぐら》しです。
――お独りで?
――ええ、完全な独立です。実はパトロンといったような親切な人が一人いるんですがね、まだ売れるような絵はとても描けないし、そうかといって理由もなく生活費をもらうのは厭《いや》だから、今のところ経済的な関係はなしです。いずれパリへ行く時の旅費だけは借りないわけには行きませんが、向うへ行ったらまた自力のつもりですよ、何とかなる。
――では今は?
――どうやって食ってるかと言うんでしょう、僕はね、下宿の近くにある小学校の図画の教師をしているんですよ。時間は取られるがしかたがない。それに小学校の生徒だってばかにはなりませんよ、逆に教えられることも再々だし、時には怖《こわ》いようなこともある。それから中学生の受験勉強も見てやっている。その他何でもやりますよ、金になることなら。
――まあ大変でしょうねえ。
――大したことはない、ただこういう夏休みぐらいにしか旅行が出来ないでしょう、そいつが辛《つら》い。それを、三枝の奴《やつ》にそそのかされてこんなつまらないところに来ちまって……。
桂がいかにもいまいましそうに発音したので、万里子は思わず笑った。手でスケッチ帳の黒い紐《ひも》をおもちゃにしている。
――お食事なんかは……?
――もちろん自炊です、もっとも時々下宿のばあさんが気の毒がってつくってくれますがね。
――下宿屋さんじゃございませんの?
――違う違う、下町の小さな酒屋の離れです、離れといってもひどいものだ。だいたい僕なんかの生活費が幾らであがっているか、万里子さんみたいなお嬢さんには想像もつかないでしょう。
――まあ。それではお父さまの方とは全然?
――勿論《もちろん》、全然関係なし。
――でもお母さまは?
――母親はいないんですよ、と少し低い声で答えた。とうの昔に死んでしまった……。
万里子はそれを聞いて乙女《おとめ》らしい感傷的な表情をした。しかし直に、自分でもそうした気持を振り払うように、話題を変えた。
――小学校の先生をなさりながら絵を描いていらっしゃるなんて、あなたのお嫌《きら》いなアマチュアによく似ていますこと。
――そりゃ違いますよ、と桂は言下に答えた。アマチュアは、例えば三枝は、学生でありながら暇な時に絵を描く、僕は絵を描く方が本職でその合間に子供を教えているんですからね。
――御免なさい、でも時間の割合から言ったら本職をなさる時間の方がすくないのでしょう?
――そうなんですよ、悲しいかな、……もっと自由な時間が欲しいなあ。
桂はさっきから煙草を手にしたまま喫《の》むのを忘れていた。短くなった吸殻が不意に指を焦し、慌《あわ》てて砂の上にそれを払い落した。その恰好《かつこう》が子供っぽかったので万里子は小さな声で笑った。そしてそれを潮に、膝《ひざ》にのせていたスケッチ帳を閉じて、ありがとうございました、と言いながら桂に返した。桂はそれを受け取り、ちょっと考えてから、パラソルの蔭《かげ》に置こうとした。そこでは女中が、忘れられたようにじっと坐って雑誌を読んでいた。そして桂の手にしたスケッチ帳を見ると、大事そうにそれをバスケットの上に置いた。
桂はまた元に戻って新しい煙草に火を点けた。万里子はそれを眼で追っていたが、
――お寂しくはございませんの? と訊いた。
――それは寂しい時もありますよ。
――お父さまのことをお考えになりますでしょう?
――親父のことか。しかし人間はね、みんな他人なんですよ、親子だって同じことだ。
――まあ、わたくしはそうは思いませんけど……。
――親子の血が通っているだけに一層他人のこともあるでしょう。……僕は時々寂しくなるけど、それは人間が本来持っている孤独のためで、現在の環境がどうのこうのということはありませんよ。
――でもそれは不自然なのじゃございません? やはり親子|兄弟《きようだい》が一緒に暮す方が、……
――そうは限りません、一人で暮す方がよっぽどいい場合もある、僕はああいう偽善的な、本心を押し隠した生活が、家庭の中にまで持ち込まれるのはやり切れないな。
――それで、一人の方がお宜《よろ》しければ、結婚もなさいませんの?
その質問はまるで予期していなかった。訊いた方の万里子も頬《ほお》を赧《あか》くしたが、桂の方はどぎまぎして、慌てて煙草の煙を吐き出した。
――結婚なんかしませんよ……。
そしてちょっと間《ま》を置いて、絶対に、と附け加えた。そのまま暫《しばら》く黙っていたが、やりきれなくなったように早口に喋《しやべ》り出した。
――それは僕だって寂しくなった時には、市民の幸福といったようなものを考えることはありますよ、暖かい家庭があって、妻がいて子供がいて、小さな悦《よろこ》びに一家中がわくわくして、夜になると家中が打揃《うちそろ》ってお茶を飲んで、……そういう夢を僕だって考えます。しかしね、もし真に芸術家であり、芸術家であろうと思うならば、そういうことは贅沢《ぜいたく》な望みというものなんです。それは、芸術家であるから一切の家庭的な悦びを諦《あきら》めろとは言わない、芸術家であることと市民であることとを、うまく両立させている人もいるでしょう。しかし最初から二兎《にと》を追うことは出来ない。芸術家の道は荊棘《いばら》の道です、普通の人の尺度では計り切れない。芸術家が自分の我意を通したら周囲の妻や子が泣くでしょう、しかし逆に妻子のことばかり考えたら、自分の芸術を捨てなけりゃならない。幸福は、一面に於《おい》て、芸術家を殺すものです。……だからよほどうまい場合にだけ、よほど選ばれた芸術家の場合にだけ、芸術家と市民とが両立する、しかしその場合は極《きわ》めて稀《まれ》ですね。僕はそんなことは考えない……。
――それはどういう場合でしょう?
――そう……色んな条件が満足されなくちゃならないだろうけど、例えば、心から自分の芸術を理解してくれる人と一緒になった時なんかは……。
桂は煙草の吸殻を思いきり遠くへ投げた。意識が重苦しく錯綜《さくそう》した。これはみんな心にもないことだ、と彼は思った。僕だって幸福を求めている、芳枝さんを愛したというのは、芳枝さんによって幸福を求めようと考えたからじゃないか。それを今になって、――もう芳枝さんが手の届かないところへ行ってしまってから、今さら、幸福は芸術家を殺すなんて言うのは卑怯《ひきよう》じゃないか。心から自分の芸術を理解してくれる人か、……もう何の関係もない。芸術家らしいポーズをつくることと芸術家であることとはまるで別なのだ。否応《いやおう》なしに孤独の道を選ばざるを得なくなってから、こんな管《くだ》を巻いたところで、……くだらないことだ、くだらないことだ……。
――なかなか幸福にはなれませんわねえ。
万里子がしみじみとした声で言った。それは相手に同情するというよりも、自分の本心を吐露したような響きを持っていた。桂にかすかに好奇心が湧《わ》き、それが重苦しい気分に取って代った。
――万里子さんなんかは幸福な筈《はず》じゃありませんか? と訊いた。
――あらどうして?
――どうしてって、僕はよく知らないけど万里子さんはちゃんとしたとこのお嬢さんでしょう、お父さんもお母さんもおありなんでしょう?
――はい。
――それこそ市民の幸福を味わっているんでしょう?
――ええ、でも……。
――でも何ですか?
――もう諦《あきら》めておりますの、とかすかな声で言った。
何を諦めているというのだろう、漠然《ばくぜん》とした疑問が桂の心に湧いた。彼はぼんやりと眼をあげて青く晴れ渡った海を見た。芳枝さんや三枝などがのんきに沖の方を泳いでいる海。そして何かを諦めている万里子さんと、諦めきれないで昨日と今日との意識の間に分裂している僕。そしてこの不思議なほど明るく燃えている午前の太陽……。
何を諦めているというのだろう。桂は遠くを見ていた眼を万里子の顔の上に落した。万里子もまた海を見ていた。その耐えがたいような暗い瞳《ひとみ》の色、そこに沈んだ感情、……あ、と心の中で桂は思わず叫んだ。これは、万里子さんは三枝を愛していたのじゃないだろうか。三枝を愛していて、その愛がもう酬《むく》いられないことを知って悲しんでいるのじゃないだろうか。ひょっとしたら昨晩《ゆうべ》のことを見たのかもしれない。見なかったとしても、女心の直観で、三枝と芳枝さんとの間のことを見抜いていたのかもしれない。そしてこの人は、もう諦めてしまっている。どんなに裕福な家庭に育っていても、それでは幸福とは言えないだろう……。しかし、ひょっとしたら僕は、まるで間違った想像をしているのかもしれないが?
――生きるというのはどういうことなのでしょう? とその時、万里子が訊いた。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
窓に、明るい秋の日射《ひざし》がふりそそいでいる。紅《あか》いスエーターを着て、窓際《まどぎわ》の肱掛椅子《ひじかけいす》に凭《もた》れたまま本を読んでいる芳枝の姿勢が、桂昌三の眼にそのまま一つの構図のように映った。窓から射し込む陽《ひ》が逆光になって、芳枝の髪が光の縞《しま》の中に浮んでいる。芳枝は直に微笑を見せた。桂はその側《そば》の椅子に腰を下すと、勉強ですね、と呟《つぶや》いた。芳枝はものうそうな手つきで、仮綴《かりとじ》の本をテーブルの上に投げた。
――あら、勉強というほどじゃなくってよ、フランスの小説なの。
――分りますか。
――失礼ね、分りますわよ。そして綺麗《きれい》な声で笑いながら言った。パパはとてもやかましいの、たくさん御本を読まないと怒るんですもの。その代り小説でも何でもそれは構わないの。
――僕はどうも小説は苦手だなあ、と桂は言った。フランス語で小説を読むと頭が痛くなる。
――あらどうしてでしょう? 勘をはたらかせればいいのよ、分らないところなんかどんどん飛ばしちゃって。
――でもね、フランス人というのは僕|等《ら》と違うでしょう。フランス人は複雑ですよ、ゴール以来の明るい情熱と、近代的な聡明な理性とがうまく調和されている。謂《い》わゆるパスカルの |esprit de geometrie《エスプリ・ド・ジエオメトリ》 と |esprit de finesse《エスプリ・ド・フイネス》 ですね、そこら辺は僕等の物差では少々……。
――桂さんのおっしゃるのはフランス人がむずかしいというので、フランスの小説のむずかしさとは違うお話じゃありませんか。
桂はちょっとつかえて、苦笑しながら煙草を取り出した。芳枝が手許《てもと》を睨《にら》んでいる。桂はああそうかという顔をして、いいですか? と訊《き》いた。
――桂さんもだんだん紳士におなりになった。
芳枝が嬉《うれ》しそうに笑った。桂は相変らずにが笑いを口許に湛《たた》えて、煙草に火を点《つ》けた。
――しかしフランスの小説のむずかしさはですね、と煙を吐き出しながら言った。風俗や習慣がまるで違うところにあるんですよ、第一に僕の分らないのはキリスト教の伝統だな、特にカソリックの儀式なんかときたらまるで珍ぷんかんだ。
――そうかしら、と可愛《かわい》く小首を傾けている。
――伝統というものは一筋縄《ひとすじなわ》じゃ行きませんからね、僕等みたいな門外漢には見当もつかない。儀式というけど、その背後のキリスト教の精神が、だいいち、よくのみこめてるわけじゃない。それとギリシャ以来のヘレニズムの伝統、……美というものの信じかた。
――そうね、東洋でいう美とはまるで違うようですわね。
――美がね、生活と一体になっているんです。キーツのあの言葉、|a thing of beauty is a joy forever《ア・シング・オブ・ビユーテイ・イズ・ア・ジヨイ・フアレヴア》 というように確かに美は生活的な悦《よろこ》びなんですね。ところが東洋では、美とは内部から自然に滲《にじ》み出て来るもので、謂《い》わば哲学的、瞑想《めいそう》的というかな、とにかく僕たちの知ってるのは俳諧《はいかい》とか茶室とか言ったさむざむとした美しさですね。
――何か向うでは美しいものが強いという気がしますわ。
――美しいものが強い?
――でしょう? 美しいものは決して負けてはいないわ、美しいというのは善《よ》いこと、正しいこと。
――そう、それは古代では、古典的な時代では、どこででも言えたことなんですね。ギリシャだけには限らない、日本でもそうだった。サッポーとか、あれは何と言ったっけ、「君が行く道の長路《ながて》を繰り畳《たた》ね、……」
――狭野《さぬの》娘子《おとめ》でしょう、「焼き亡《ほろ》ぼさむ天《あめ》の火もがな。」
――そうだった。つまりパトスの生活なんですね、素朴で、美しいものを信じ切って、自分の情熱のままに動いた、その情熱が美しかったのですね。打算もない、外聞もない……。
――本当に。どんな悲劇の主人公でも、本人たちは案外たのしそうに見えますわ。
――そうですね。パトスに従ってそのパトスが間違わなかった。現代人はもうそんな美しいパトスを持ってはいないんです。
――あら、わたしたちは美しくはないの?
――それは、あなたは美しいけど(桂は思い切ってそう言った。芳枝はかぶせるように明るい声で笑った。桂さん、お世辞までお上手《じようず》になった、と言ってまた笑った。)……いや本当に、でもね、一般に人間はもう美しくはないんです。実際、美はどこにもない、ただ古代人の見た自然が今でもやはり美しいだけです。
――芸術家のくせにそんなことおっしゃって宜《よろ》しいの? 自然は芸術を摸倣《もほう》すると言った人もいるんじゃありませんか。
――それは……、と桂はまたたじたじとなった。それは、僕等は美を見出すことに峻厳《しゆんげん》なんですね。
――あら、それはつまらないことじゃありませんか。わたしなんかどこにでも、いつでも、美しいものを見つけ出しますわ、何でもみんな美しいわ、何でもあんまり美しいので、眼がくらくらしてしまうくらいですわ。
――それは、……羨《うらやま》しいですね。
――でしょう? わたしその方が幸福だと思うわ。
――そりゃ無論幸福ですね。
――芸術家がそんなに峻厳でなくちゃならないなんて、随分窮屈なお話ですこと。そんなに severe《セヴエール》 でいらっしゃる間に、本当に美しいものを見過しておしまいになるかもしれなくてよ。
――いや、そんなことはありません。
――どうかしら?
――しかし人生というものは違うんだから。芳枝さんは人生の苦しみなんてものをまるで御存じないんだから。
――わたしはじめじめしたのは嫌《きら》い。わたしは明るいのが好き。
――そりゃ僕だってそうですよ、しかしね、僕は簡単には美を見出したくはない、それが最後に、本当に美しいものを見つけ出すための態度だと思うんですね。僕だって何も生れた時からこんなに |nil admirari《ニル・アドミラリ》 じゃなかったんです、ただ僕の過去が、……
――あたしは身の上話は嫌いよ、桂さん。そして早口に附け足した。……御免なさい。
桂は黙って新しい煙草に火を点けた。
――わたし悪かったかしら、でも、わたしは現在のことだけでお附合したいの、その方が、いいところも悪いところも、間違わずに相手の人が分ると思うんですの。
――そうかもしれませんね、と桂は言った。
桂は窓から降りそそぐ秋の日射をぼんやりと眺《なが》めた。彼は芳枝の言ったことに少しも気を悪くしてはいなかった。しかし生きることはまた別なのだ、と考えていた。美しいものへの燃えるような憧憬《どうけい》と、生きることへの陰鬱《いんうつ》な怖《おそ》れとが、彼の心の中でためらい、絡《から》み合っていた。眼を移すと、逆光の中で、芳枝の微笑を含んだ表情がいつまでも一つの構図のようだった。
一 日[#「一 日」はゴシック体](6[#「6」はゴシック体])
生きるということ、――果してそれは何だろう、と桂は思った。僕|等《ら》は生きているようにしか生きていない。人の一人一人に別々の顔があるように、一人一人に別々の生きかたがある。誰もがどのように生きるかを心にきめているわけではないのに、自《おのずか》ら生きかたは人によって違って来るのだ。生きるということは、生きることを考えるということではない。そんなことは考えただけで分るものじゃない、そして大部分の人は分らないままに生きて行くのだ。そうかといって、一体誰がそれを分っているのだろうか……。
――生きることか、むずかしいことを訊《き》きますね、と桂は言った。万里子さんはいつもそんなことを考えているんですか?
彼は万里子の眼と行き会った。その瞳《ひとみ》の底に沈んでいる感情は、恐らく彼とは身近なもののような気がした。暗く光っている瞳。そして万里子の平凡な容貌《ようぼう》の中で、ぱっちりと開かれた黒い二つの瞳ほど美しいものはなかった。が、万里子は直に眼を伏せてしまった。
――いつもというわけじゃございません、でも、時々、何だかまるで分らなくなってしまいますの。
――それはそうですね、僕にもよく分らない。
――一人で考えていたってどうにもなるものじゃございませんけど……。
――芳枝さんとはそういう話をなさることはないんですか?
――ええ、芳枝さんはああいう方《かた》でしょう?
――じゃ三枝とは?
桂は言ってから後悔した。万里子の頬《ほお》に薄《うつす》らとした恥らいと寂しげな微笑とが浮んだ。少し答をためらっていた。
――……わたくし太郎さんとそんなに親しくはございませんの。それにあの方、すぐにひやかしておしまいになるんですもの、とても……。
――なに三枝には限らないんですよ、と慰めるように言った。これは高等学校以来のくせなんですね、学生ってのは大抵そうなんだけど、真面目《まじめ》な話をするのが変に照れくさいんです。勿論《もちろん》かたい話もする時はするんだが、大抵は相手が真面目に来るのをはぐらかして、皮肉に皮肉にと持って行く。要するに心の中で考えていることを率直に言ってのけるのが恥ずかしいんですね、男の名折《なおれ》のような気がしてくるんですね。
万里子は微笑した。が、それは諦《あきら》めたような微笑だった。桂はまた煙草を取り出したが、風が少し吹いて来て、マッチの火が二度も三度も吹き消された。万里子が風上の方に身体《からだ》をよじらせた。桂はその姿態を焦点の合わない視野の中に認めながら、かすかな焔《ほのお》を風から守った。一服吸ってから、ありがとう、と言った。そして二人は暫《しばら》く黙っていた。親密な感情が心の中に次第にひろがって行った。
――しかし率直に言うとしても、生きることは分りませんね。分らないということの中に、恐らく Leben《レーベン》 の本質がある。僕等は死ぬその瞬間まで、生きるとはどういうことかさっぱり分らないで生きて行くんです。考えただけ余計に分らなくなる。いっそ虚心に、精いっぱいに、自分の力の範囲内で生きて行けば、それが一番いい生きかたなのかもしれませんね。
――でも考えないわけには参りませんわ。
――そう、そこが人間の悲しさですね。まあ僕に分っているのは、簡単なことだけど、現在を充足的に生きるということですね。過去のことは考えない、未来のことも考えない、ただこの現在を、自分で満足が行くまでに力いっぱいくよくよしないで生きる。しかし現在というものはいつでも未来に片足を踏み出しているのだから、従って現在だけで未来のことを考えないといっても、それは未来を見詰め、小刻みに未来を自分のものにして行くことにもなるんじゃありませんか。
――でも反対に、現在というのは過去がつくってしまったとも考えられませんかしら?
――それは確かに、現在は過去から片足を踏み込まれているとも言えますね。
――何だかいつまでたってみても、現在は過去によって極《き》められてしまったような気がいたしますわ。
――そう、過去は或る意味では取り返しがつきませんからね。しかしそれだけ、僕等は現在を充足的に生きなければならない。それには、……気取って言えば、勇気と選択とが必要だと思うんですね。僕等は未来に向って生きる。未来は偶然ではない、未来は或る程度まで現在を生きる時の勇気と、事に当っての正しい選択とによって決定されるのです。勿論、運命というようなものはある。しかし運命の潮にただ流されて行くだけでは、人間として生れたかいがない。その運命の中で、その運命に耐え、自分の生きて行く方向を正しく選択してこそ、真に人間らしいのじゃありませんか。
――正しく選択するとおっしゃるけど、どうすれば正しいか正しくないかが分るのでしょう?
――……それは、後悔が伴わなければ正しいとするのでしょうね。結局、選択を決定するのはその人の人間としての経験の全体ですからね、そして勇気と意志。
――でも過去のことを考えないでいられますかしら?
――考えないというより、捉《とら》われないんです。過去に捉われていたら、現在なんて影の薄いものになってしまう。もし過去がすべてなら、僕等の生はもう決定してしまっているんですからね。
――ええ、そう思いますわ。
――そんなことはない。例《たと》えば、……仮に或る人が、ごくつまらない過《あやま》ちで人を殺したような気がするとしますね。確かなことは分らなかった。そして後悔にさいなまれて、自首することも出来ないで、まあ坊さんか何かになって二十年ぐらい経《た》ってしまった。そこでばったり、殺したと思った男に出会ったとすれば、その二十年はどうなるんです? 過去に捉われたこの二十年は、Leben《レーベン》 とは言えないじゃありませんか。
――それは、……
――それは殺したと思った直後に、人間としての正しい選択と、その選択を決定する勇気とがなかったためなんです。
――でも、そういうふうに生きる人もいるのですわ。どんなに後悔していても、そういうふうにしか生きられない人も……。
――そんなに弱いことじゃ駄目ですね、と桂は言った。言いながら舌の上に、一種の苦味《にがみ》を感じていた。
――駄目ですの、と小さな声で万里子が言った。過去はもうどうにもならないものですわ。わたくしたちが生れてしまったその日に、わたくしたちが育てられたその間に、今日のわたくしというものはもう用意されてしまったとしか思われませんの。性質だけでも、……どうしてわたくしはこうなのでしょう、芳枝さんのような方ならそれこそいつでも未来がおありでしょうに……。
そして万里子は俯向《うつむ》いたままじっと砂を掬《すく》っていた。掌《てのひら》の窪《くぼ》みの上の僅《わず》かばかりの砂。そのかすかな重みを、桂も自分の心の中に次第に重たく感じ始める。
――しかし、と彼はしいて笑顔をつくって言った。それほどの過去があなたにあるとも思えませんがね、万里子さん?
――ええ何も波瀾《はらん》のあるようなものではございません、ごくありふれた……。わたくし実は養女ですの、子供の頃に上村の家へ貰《もら》われて参りました。そうしましたら、あとからススムちゃんが生れましたの。
――本当の御両親は?
――二人とも元気でいます。いっそ実家の方へ戻れたらよっぽど気楽なのでしょうが、今のお父さまもお母さまも、義理を立ててわたくしに婿を取ろうと考えていらっしゃいますの。お母さまはよくして下さいますけど、心の中ではススムちゃんが可愛《かわい》くて可愛くてしかたがないのでしょう、わたくしにはよく分りますわ。ですからわたくし、実家へ戻れるか、せめて嫁にでも出していただければと思いますのに、……わたくしは本当に余計者なんですの。……こんなことをお話しても何にもなりませんけど。
――それで過去が現在をつくっていると言うんですね?
――はい。
桂は黙って煙草をふかした。薄青い煙が風になびいて行く。水平線に仄《ほの》かに薄靄《うすもや》のようなものが煙っている。そして太陽は相変らず燦爛《さんらん》と、海に、砂浜に、遊び戯れている人たちの上に、降り注いでいる。可哀《かわい》そうに、と桂は思う。このお嬢さんにもやはり苦労はあるのだ、幸福に暮しているように見えても、人の心の隅《すみ》にはいつでも悲劇の波が寄せたり引いたりしている。義理、そして日本の古い古い家。その中で若い娘が、義理のしがらみに縛られたまま、個性のない生活を続けて行くのだ。いつまでこういう惨《みじ》めなことが続くのだろう。自分の自由も、恋も、みんな諦めたまま……。
桂は煙草を捨て、その吸殻から眼をすぐ側《そば》のパラソルに移した。その蔭《かげ》では、さっきと同じかしこまった姿勢をして、女中が雑誌を読んでいる。浴衣《ゆかた》を着ていることから見ても、この女中が一緒に泳ぐために来たのでないことは確かなのだ。芳枝や万里子などと恐らくは同じ年頃、そして彼女を育てた封建的な農村の貧しい家庭。芸術とか美とか、そういったものとまるで無関係に生きているたくさんの人たち。……古い古い日本、と彼は小さな声で呟《つぶや》いた。
――しかしね万里子さん、もっと不幸な人だっているんですよ、あなたはまだまだ、……謂《い》わば贅沢《ぜいたく》な不幸なんじゃないかなあ。
――それは分っています。
――だったらもっと勇気を持つことは出来ないんですか、もっと未来を見詰めて? ね、僕等を取り巻いている封建的な因襲に、何も窒息してしまうことはないじゃありませんか。僕なんか親父《おやじ》と喧嘩《けんか》して飛び出しちまった。あなただってもっともっと勇気をもって、……
――喧嘩をしろとおっしゃいますの?
万里子がやっとゆとりのある微笑を見せた。桂は答に詰った。
――いや、……それはね、つまりもっと自分の考えを通せと言うんですよ。
――お父さまもお母さまも、それはいい人なんですの。実家の方の両親も、わたくしから申すのは何ですけど、悪い人じゃございません。そういう間に挟《はさ》まれて、わたくしに何が出来ますでしょう?
――善意という奴《やつ》は、かえって人を苦しめることもありますからね。しかし万里子さんのような人がなあ、教養もあるんだし……。
――駄目ですわ、それにわたくしは女ですもの、女に何が出来るでしょう?
――しかしそんなことを言ったんじゃいつまで経《た》っても駄目ですよ、女の人が自覚しなくちゃ。
――芳枝さんなら。……わたくしはそういう星廻りなんですわ。
――星廻り? 古いなあ。
――桂さんにはお分りにならないんだわ。
桂昌三は黙っていた。黙って、万里子の掌の上から掬《すく》ってはこぼし掬ってはこぼしするさらさらした砂を眺《なが》めていた。僕には分らない、とこのお嬢さんは言う。果して僕に分らないだろうか。この人の今日の苦しみをつくってしまった過去、この人には何の責任もなくただいつのまにか形づくられてしまった不幸、それは僕にはよく分っている。ただこの人には勇気がないのだ、未来を直視するだけの勇気が……。そして僕の言う未来という意味を、ひょっとしたら万里子さんは分ってくれるかもしれない。……彼の心の中に、何もかも言ってしまいたい熱っぽい情念が、上潮のように差し込んで来た。
――僕には分るんですよ、と彼は力強く言った。そして彼は眼をつぶり、暫《しばら》く考えてから一息に喋《しやべ》り出した。……僕の考えでは、人生は過失に充《み》ち満ちている、というより、人生そのものが過失だと言えるくらいです。従って僕たちの過去は、いつでもああしなければよかったという悔恨にさいなまれて、今日の日まで続いているんです。じゃ一体どうすればいいか、というわけでしょう。……まあ聞いて下さい。身の上話なんて厭《いや》なものだけど、何だか急にあなたに喋りたくなった。僕はね、子供の時分ずっと東北の片《かた》田舎《いなか》の、小さな漁村で育てられたんです。村の網元《あみもと》の家だったが、それでも生活は貧しかった。お祖父《じい》さんとお祖母《ばあ》さんとが可愛がってくれたんですが両親はいなかった。両親は東京にいると教えこまれていたんです。その辺は寂しいところでね、ひと気のない砂丘が続いていて、波が荒くて、……僕はもう子供の時以来行ってもみないが夢の中ではよく見ます。しかしこれからももう行ってみようとは思いませんね。……人間も、風景と同じように貧しくて、野蛮で、封建的で、子供心にもいつも圧迫されているような気がしていた。小学校に行ってもおばあさん子ではバカにされますからね。そういう生活が小学校の終り頃まで続きました。
――随分お寂しかったでしょうねえ。
――しかし寧《むし》ろ幸福だったのかもしれない。というのは、あの頃は何も知らなかったんです。無智は、考えてみれば一種の幸福ですよ。それに孤独ではあっても純粋だった。子供はみんな詩人ですしね。……それで小学校の終り頃に、実の父親というのが現れて、僕は祖父母の手から東京へ移された。生活が一変したんです。今まで母方《ははかた》の姓を名乗っていたのが桂に変った。今度は父親もいる、母親もいる、女の同胞《きようだい》もいました。何だか不思議でしかたがなかった……。
――今度はお宜《よろ》しかったのでしょう?
――それがそうは行かなかった、と桂は苦い微笑を唇《くちびる》に浮べて言った。……僕は中学にはいって、段々に色んなことが分って来ました。面倒くさいからはしょって言えば、僕の父親は官吏で、妻が病気で転地していた間に、行儀見習に来ていた娘に手を附けたんですね、それで子供が出来かけたので実家《さと》の方に帰してしまった。僕はそうして生れたんですよ、legitime《レジチム》 な子供ではなかった。つまり過失から生れて、僕自身の意志のないところで運命が僕をおもちゃにしていたんです。
――まあ、それでお母さまは?
――それがね、死んだことは死んだんですが、どういうふうに死んだのかは分っていません。病気で死んだのか、自殺したのか、たとえ病床で死んだとしても、そこに死ぬ意志がなかったとは言いきれませんからね。とにかく誰も教えてはくれませんでした。田舎では固く秘密にされていたのでしょう、親父とは実の母親のことについて話し合ったことは一度もない。僕は時々、全然母親というものなしで生れて来たような気がするくらいですよ……。
そう言って桂は深く息を吸い込んだ。万里子はかすかな声で、お気の毒な、と言った。
――僕はつまらないことを喋っちまった。しかしね、同情はしないで下さい、僕は同情なんかされたくはない、僕はただ、人生は過失に、……過失に伴う悔恨に、充ち満ちているものだと言いたかったんです。そこで命題、……人生が過失であるとすれば僕等はどういうふうに生きればいいか?
桂はそれを戯談《じようだん》めかして、ポーズをつくって言った。万里子は、しかし、笑わなかった。
――ね、僕の言う意味が分るでしょう? 犯してしまった過失が取り返しのつかないものだとしたら、人生はもう決定している。その過失も、自分自身の与《あずか》り知らないものだとしたらなおさらでしょう。ね、そんなバカな筈《はず》はない。人生というものは、生きて行く当事者が極めるべきものです。僕の言いたいこと分りますね?
――ええ、よく分ります。
――だから僕等は過去を見ながら生きていてはいけない、現在の時間を完全に燃焼させて未来に向って生きなければならない。それには、行動の中に自分を投げ込むことです。そこに僕の見つけた生き方があるんです、勇気と選択とをもって行動の中に自分を投げ込むこと。
――むずかしいことですわ。わたくしみたいな女にどんなことが出来ますでしょう?
――なにごく簡単なことですよ。教えてあげましょうか……。
そして桂は、ちょっと恥ずかしそうな面持をして万里子を見た。万里子はつぶらな瞳を起した。
――あなたにも出来る行動というのは、友情でもいい、恋愛でもいい、要するに愛することですよ、と桂は言った。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
喫茶店の中は、昼間から電燈が点《つ》き、ストーヴが燃え、息苦しいほど煙草の煙が立ち罩《こ》めていた。底冷えのする天気で、客は腰を下してもいつまでも靴音をかたかたいわせていた。窓《まど》硝子《ガラス》は湯気でくもり、水滴が糸を引いて硝子の上に縦の縞《しま》をつくった。カウンターの側《そば》の蓄音器がひっきりなしに音楽を鳴らしていた。
――あら、とうとう雪になったわ。
寒い風とともに三四人の大学生が勢よくドアをあけてはいって来ると、それを見て若いウエイトレスが明るい声を出した。大学生の黒や茶の外套《がいとう》の肩に白いものが斑《まだら》に降りかかっている。その中の一人が、肩の雪を振り払いながら部屋を見廻していたが、大きな声で、桂、と呼び掛けた。
――よう、どうした?
隅《すみ》のテーブルでぽつねんと肱《ひじ》を突いていた桂は、夢から覚《さ》めたように首を起した。外套は着ず、色の褪《さ》めたルバシカを着込んでいる。
――何だ、三枝か。そう言ってにこにこした。
――久しぶりだね。どうしたんだい、まるで遊びにも来ないじゃないか?
三枝は連《つれ》と分れて桂の真向いに腰を下した。洒落《しや》れた手袋を脱ぎ、ウエイトレスにコーヒーを註文し、正面から桂の顔を覗《のぞ》き込んだ。
――久しく会わなかった。なにしろ忙しくて……。
――忙しい? 何だ、こんなところで悠々《ゆうゆう》ととぐろを巻いているくせに、と遠慮のない口ぶりで極《き》めつけた。
――本当に忙しいんだよ。今日もね、内職のくちがあるというので、ここで話をしていたんだ、今その人が帰ったばかしさ。
――ふん、どんなくちだい?
――なにポスター描きさ。それが駄目でね、あんまりひどい条件なんで断っちまった。それで少々がっかりしていた。
――しかし何もそんなに無理しなくったっていいんだろう?
――それがね、村山先生のとこを出ちまったものだからだいぶかかりが多くなってね、しかたがないから、……
――待て待て、村山先生のとこっていつの話だい?
――そう、……もう二月《ふたつき》くらいになるかな。
――呆《あき》れた、なぜ教えてくれないんだ、今どこにいるんだい?
――失敬、遠いんだ、隅田川《すみだがわ》の川向うさ。それが忙しくてね、いずれ出掛けて行って君と話をするつもりでいたんだが、何しろ追われているだろう……。
三枝はそれを聞きながら註文のコーヒーに口を附け、分別くさい表情をした。しかしそういう顔はいっこう彼に似つかわしくなかった。桂は煙草をくゆらせている。
――しかし桂も落ちぶれたな、ポスターなんぞを描くのか。
――いや、これには意見がある。僕は自活するようになってから気がついたんだが、大衆の生活ってものは実に美から縁が遠いんだね。芸術家が一心不乱に傑作をつくりあげたって、そんなものと何の関係もないんだ。
――それはそうさ。
――しかしひどいんだぜ、実際悲しくなる。ああいう無智で、貧乏で、その日暮しの連中にとって芸術なんて絵にかいた餅《もち》なのさ。しかしね、芸術というものは本来、大衆と無縁のものであるべき筈《はず》がないんだ。いつかは必ず芸術作品が大衆のものである時代が来る、ね、そうだろう?
――それで君はポスターを描くのかい?
――そうだよ、大いに芸術的なポスターを描いて啓蒙《けいもう》するんだ。ただあんまり条件が悪くちゃね、何しろ生きる方が先だから……。
――しかし勿体《もつたい》ないな、未来の天才桂昌三もそんなことでこき使われているなんて。
――なに今だって天才だ。
桂は昂然《こうぜん》たる面持をしたつもりだったが、それも長続きがせず、やがて寒そうに肩をすくめた。
――しかし僕の生活だって同じようなものさ、何しろ美とは縁がない、美しいものは何もない、どうもやっぱり金がなくちゃ美とは縁が薄いようだ……。
――さみしいことを言いやがる。
三枝は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて考え込んだ。それからちらっと腕時計を見、顔に微笑を取り返して呼び掛けた。
――桂、いま君ひまなんだろう?
――暇というほどじゃないさ。
――構わない、久しぶりだもの。どうだい、晩飯を食おうや?
――うん、それもいいな、おごるのか?
――おごってもいいんだが、それよりね、荒巻さんのとこに行って一緒に招《よ》ばれよう、その方が御馳走《ごちそう》がある。
――誰だい、それ?
――荒巻さんさ、外務省の役人さ、そこのお嬢さんが芳枝さんといってね、なかなか話せる。とにかく気の置ける家じゃないから心配するな。
――しかし知らないんだからね。
――いいさ、僕がよく知っている。さ、行こう……。
三枝はさっさと手袋を取って立ち上った。桂は渋い顔をして彼のあとから表に出た。夕暮の街は早く暗くなって重たげな雪が一面に降っていた。美しいものだってあるのさ、君は出嫌《でぎら》いだから眼をつぶって見ないだけさ、と三枝が桂を振り返って言った。後の半分は聞きとれなかったから、桂は頷《うなず》いてこの雪景色を美しいと思った。
荒巻家の応接間にはいってからも、桂はまだそわそわして落ちつかなかった。おい本当にいいのかい? と三枝に訊《き》いたが、三枝は自分の家のように平気で、芳枝さんを連れて来よう、と言い捨てたままドアから出て行った。桂は部屋の中をぐるぐると歩き廻り、豪奢《ごうしや》な壁掛や煖炉《だんろ》の上の飾り人形や時計などを眺《なが》めてから、窓の側に行った。そこで表を見ながら立っていた。
もう夜が落ち、窓の外の、四角に区切られた灯の射《さ》している部分の空間の中にだけ、雪が踊るように降りしきっていた。今頃やって来て飯を食うなんて、と桂は思った。どうも厚かましいな、だいいち今日が初対面の家なんだからなあ。弱っちまった。三枝の奴《やつ》はどこかに行っちまうし、といって今さら逃げ出すわけにも行かないし……。
雪は、見詰めているうちに、桂の頭脳の中にまでしんしんと降り込んで来た。後ろで、漸《ようや》く熾《おこ》って来た煖炉の薪《まき》がぱちぱちとはぜる音がした。その他《ほか》は厭《いや》にしんとして、彼は次第に不安になった。
その時、勢よくドアが明いた。
桂が振り向くと、明るい色彩をさっと投げ掛けて少女が走るように近づいて来た。あとから大胯《おおまた》について来る三枝は眼にとまらなかった。
――よくいらっしゃいました。わたくし芳枝です……。
花模様の大柄の着物を着て、髪に紅いリボンを結んでいるのがいかにもあどけない、それでいてどんな場所に出ても微塵《みじん》も物怖《ものお》じしないだけの、勝気な、華《はなや》かな落ちつき。真直《まつすぐ》に人を見詰める瞳《ひとみ》と、ちょっと取り澄ました、微笑を湛《たた》えた唇《くちびる》。ああ綺麗《きれい》なひとだ、と直観の中で思った。
――僕、桂です、とへどもどしながらいつまでも眩《まぶ》しげに相手を見詰めていた。
一 日[#「一 日」はゴシック体](7[#「7」はゴシック体])
――愛すること、ですの? と意味が分らないままに上村万里子は鸚鵡返《おうむがえ》しに呟《つぶや》いた。そして気がついて頬《ほお》を赧《あか》らめ、面《おもて》を俯《ふ》せた。
――そう、愛することです、と桂は繰返した。一番やさしいこと、僕|等《ら》の誰もが出来ることです。少しも考えたりためらったりする必要はない、それでいて現在という時間を完全に燃焼させて生きることが出来る。女の人は男と較《くら》べるとずっと純粋だから、それだけひたむきに愛し得るんじゃないかと僕は思うんです。
――でも愛するだけなんですの、愛されないで?
――そうですとも、愛されることには何の値打もない、愛されることは単なるエゴの満足ですからね。しかし愛することは違う、人は愛することによってその人以上のものになることが出来る。ということは、その人の現在が充足的に生き抜かれて、もう過去の事実によって何等拘束されることがない。過去なんかくそくらえですよ。あらゆる可能性を、愛することがつくるんです……。
しかし万里子は寂しげな表情をした。伏せたまま顔を起さなかった。
――わたくしなんか、愛すれば愛するほど孤独のような気がいたしますわ。
――孤独だから愛するんですよ、と桂は力をこめて言った。孤独というのは人間が生きている基本的な状態でしょう、それはいつでも行動へと流れ出す Potential《ポテンシヤル》 な力なんです。だから愛することによって孤独は救われる筈《はず》ですよ。
――桂さんのおっしゃるのは一般に人を愛するということなんですの?
――いやそうじゃない、友情でもいい、恋愛でもいいって言ったでしょう。勿論《もちろん》特定の人を目標にしての話です。汝《なんじ》の隣人を愛するというふうにまでなれば、それは一番いいんでしょうがね。
――で、その人を愛していればそれだけでいいとおっしゃいますの?
――そうですよ、と桂は軽く頷《うなず》いた。
――わたくしは厭《いや》。
その時、桂がびっくりしたほどの強い声で万里子が言った。眼がきらきらと光っていた。
――……厭です、と繰返して言った。それが何になるでしょう。愛しているだけ、愛されることなんて少しも考えないで、それが何になるでしょう? 自分が惨《みじ》めに見えるだけじゃありませんの?
――それは……。
――わたくしは愛されたい、と胸のうちを搾《しぼ》り出すような声で言った。女というものはいつでも愛されたいと思っているのですわ。それは、わたくしのような人間は、もう諦《あきら》めてはいます。どうにもならないことは知っています。でも、せめて愛されたいと思うからこそ生きているのですわ。いつかはお伽話《とぎばなし》の王子様のような人が現れて、わたくしを愛して下さるかもしれないと思って……。そういう夢はありますわ、わたくしのような者でも。
――しかしそれは本当の生き方じゃないと思うんですよ。愛されるということは余分の期待ですからね。そういう夢は裏切られやすい、それは一層苦しみを増すだけです。
――ええ、苦しいことですわ。
――しかし行動の中に生きるってことは苦しみじゃありませんよ。そこに全身を賭《か》けている。苦しいとかなんとかいうことは問題じゃないんじゃないかなあ。
――わたくしは駄目ですわ。わたくしは愛されたいの……。
それは心の底からの訴えだった。桂は黙ったまま煙草に火を点《つ》けた。煙草には何の味もなかった。
――男の方はお強いんですわ、と小さな声で万里子が言った。お強いからそうした生きかたもお出来になるんですわ……。
――僕か、と桂は呟いた。
僕にそれが出来るのだろうか、と彼は思った。孤独の中に今までともされていた灯、それさえもう消えようとしているのだ、いやもう消えてしまったのかもしれないのだ。もう希望はない。もう何もない。愛すること……か。しかし希望の全然ないところで、いつまで愛して行くことが出来るだろう……。
――僕はせめて、後悔の伴わない生きかたが出来ればと思っているだけですよ、と言った。
桂は煙草の煙を吐いた。煙が薄《うつす》らと風に流れて行く。その向うに、午前の海がきらきらと耀《かがや》いている。人は愛されることを全然考えに入れないで、ただ愛するだけということが出来るのだろうか。僕は出来ると言った。しかしそれは、望みのないことが分っているから、それで強がりを言ったのじゃないだろうか。こんなことはみんな理窟《りくつ》だ、みんな言葉だけなのだ。誰だって愛されたいと思っているのだ。万里子さんはそれを正直に言う、僕にはそれが言えない、それだけのことだ。何という僕のくだらなさ……。
――あなたは素直な心を持っているんですね、とやさしく言った。
万里子は何か言おうとしてやめ、身体《からだ》をよじらせて恥ずかしげなしぐさをした。そして二人はそのまま黙ってしまった。桂はしきりに煙草をふかした。無言のまま、二人はその時親密だった。
二匹の傷ついた獣のように僕等は傷痕《きずあと》を舐《な》め合っている、と桂は思う。この人は三枝を愛していた、そして愛されることに失敗した。僕がちょうど芳枝さんに失敗したように。僕等は二人とも無力で、希望を失って、惨めに孤独の中に閉じこもっている。僕等はお互いにいたわり合い、慰め合い、同情し合うことが出来る。お互いに理解し合うことも出来る筈なのだ。それなのに、なぜ、僕の愛しているのはこの人ではないのだろうか。なぜ芳枝さんで万里子さんではないのだろうか。この人は芳枝さんほど綺麗《きれい》じゃない、芳枝さんほどの明るい聡明な教養も才気もない。しかし万里子さんには、暖かい、やさしい、素直な心がある。もっともっと身近な、触れ合って来る心がある。そこから、新しい可能性がひらけては来ないだろうか……。
しかしもう遅かった。桂の眼は渚《なぎさ》から真直《まつすぐ》にこちらへ歩いて来る芳枝の姿を認めた。その側《そば》に三枝たちがいる。ああ芳枝さんが帰って来た、と思わず呟いた。万里子も顔を起し、少しきつい表情に変った。それと共に、今まで二人の間にあった親密なものは消えてしまった。二人はもう他人だった。ちょうどこの海岸に来る前に、二人が他人だったように。
そして桂の眼は、吸いつけられたように、歩み寄って来る芳枝の姿をじっと見詰めている……。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
桂が寄宿寮に帰って来た時に、自習室の中は閑散として三人ほど机に向っているだけだった。その三人も、机の上に本だけは開いていたが何か大声で議論をしていた。三人は一斉に入口の方を見た。
――おい、とうとう破裂しちゃったよ。
そう言って、桂は窓際《まどぎわ》に行き、スチーム用の鉄管の上に足をのせて、開いた窓に腰を下した。そこから、マントを着たまま、くたびれたように帽子を脱いで自分の机の上に投げた。三枝が、直に椅子から立ち上って彼の側《そば》に来た。
――ファーターとやったのか?
――ああ、とうとう喧嘩《けんか》しちまった。いよいよ学校はやめた。矢でも鉄砲でも持って来いだ。
眼鏡を掛けたおとなしそうな生徒が、椅子の上から伸びあがるようにして、本当か? と訊《き》いた。桂は頷《うなず》いて、やれやれさ、と言いながらポケットから煙草の箱を取り出した。
――まあ落ちついて茶でも飲めよ。
三枝が、高等学校のマークのはいった茶碗《ちやわん》にお茶を注《つ》いでやった。その冷たくなったお茶を桂は一息に飲み、煙草に火を点《つ》けた。隣の自習室で陽気に寮歌を合唱しているのが聞えて来た。煙が夜の闇《やみ》の中に吸い込まれて行った。
――もう再交渉の余地はないのか? と三枝が訊いた。
――うん、完全な決裂だね。……こうなんだ。今日久しぶりに家に帰ってみたら、親父《おやじ》があらたまって、お前も三年になったのだから少し絵の方を控えて勉強しろって言うんだ。そこで僕もかねて何度も匂《にお》わせてあることだからさ、思い切って言ってやったんだ。僕は法律なんてものに何の興味もない、役人になる気は全然ないんだから、勉強しろって言っても無駄だってね。その代り絵の方は好きだし、村山先生も見込があると言ってくれるのだから、いっそはっきり学校なんかやめちまいたいってね。いやそれからが大変さ。親父の奴《やつ》、怒っちまって……。
――それは怒るだろう。
――そう親父の肩を持つな。親父はね、絵が好きだといってもどれほど才能があるか怪しいものだ、己《おれ》は認めん、とこう来るんだろう。これじゃ水掛論だから、僕は村山先生のとこに行って訊いてみてくれと言ったんだ。法律とか政治とかいうものは並の頭《あたま》さえあれば人並にやって行ける、しかし絵なぞ描いて一頭地を抜くのは並大抵の才能では駄目だ、これが親父の意見なんだ。僕はだから並大抵なんてものじゃない、僕は天才だって言ったんだ……。
――桂も言う時にはなかなか言うんだな。
――しかたがない、時の勢いだからね。しかしそれからはもうめちゃくちゃさ。勝手にしろ、勝手にします、でね。ムッターが間にはいったけど親父はかんかんになってるしさ、どうにもなりゃしない。
――それで終りか?
――それで終りだ、さばさばした。
桂は思い出したように火の消えた煙草にもう一度火を点けた。生暖かい春の夜で、新学期がはじまったばかりだった。窓の側の桜の樹から、残りすくなになった花片が、時々音もなく降りかかった。
――どうするんだ、それで? と眼鏡を掛けた生徒が訊いた。
――村山先生のとこに住み込むつもりだ。先生は前から、来てもいいって言ってたしね。
――学校は?
――学校は明日にでも手続きをしてやめる。君たちともお別れさ。
――思い切りのいい奴だなあ、とそれまで黙っていた生徒が感歎《かんたん》した。
桂は三人の顔を見て笑った。
それから二階の寝室に上って行くまで、芸術と人生とについて議論が尽きなかった。そのうちに遊びに行っていた連中も帰って来たので一層|賑《にぎや》かになった。最初のうち、何も学校をやめなくてもと言っていた三枝さえ、大きな声で、よし、僕がついてるから大丈夫だ、頑張《がんば》れ、と繰返すようになった。
皆が寝に就《つ》いてからも桂は眠られなかった。彼は家を出る前に見た父親の顔を思い出した。蒼《あお》ざめた小柄な顔の中で、口髭《くちひげ》がぴくぴくと痙攣《けいれん》していた。煙管《きせる》を持っている手もかすかに顫《ふる》えていた。桂は玄関からもう一度父親の居間に呼び返された。父親は端然と火鉢《ひばち》の前に正坐し(寒がりの父親は四月でもまだ火鉢を離さなかった)、彼がはいって来た時にも、やや俯向《うつむ》いたままその顔を起さなかった。先ほどの一徹な勢いはもう見られなかった。
「昌三」と暫《しばら》くしてから呼んだ。「お前はやっぱり行くつもりか?」
「行きます。」
「そうか、わたしはもう留めないよ。しかたがない……。」
父親はそこで言葉を途切らせ、暫くためらっていた。桂は父親の髪にいつのまにか白髪《しらが》がふえているのに気づいた。
「好きなものならしかたがあるまい。ただ……お前が出て行くのは何かほかに不満があるのと違うか?」
「不満? そんなものはありませんよ。」
「そうか。」
父親は黙って、たぎっている鉄瓶《てつびん》を取ってゆっくりと茶をいれた。桂の前に茶碗をすすめてくれた時に、彼は何とはなしに不安を覚え出した。父親は茶を一口すすり、「だいぶ暖かくなったな、」とぽつりと言った。
「僕もう寮の方に帰りますから。」
「うむ……。」
そして顔を起し、正面から彼を見た。
「お前は……わたしを怨《うら》んではいないか?」
「僕がですか? それは、お父さんは理解がないから、……」
「いや、そういうことではない。その点ではわたしはお前と考えが違うのだから、わたしは一歩も譲らない。が……。」
桂は暗闇の中でその時の父親の顔をまざまざと見る。一瞬、毅然とした表情が、次の言葉を切りそうになって弱々しく歪《ゆが》んだ。父親はためらいながら言った。
「……わたしはお前の母親に済まないことをした、そのことでお前にも長い間気の毒な思いをさせたと思う。」
桂はどきりとした。嘗《かつ》て父親が、自分からそういう話を始めたことは一度もない。彼は火鉢にかざしていた両手にぐっと力を入れた。
「お前の母親は不為合《ふしあわ》せな女だった、せめてわたしはお前を為合せにして償うつもりでいたのだが……。」
「分っています。」
「わたしは決して責任を逃げるつもりではなかった。ただ、わたしはその時意志が弱かったから……。」
今さらそんなことを、そんな卑怯《ひきよう》なことを、と桂は思った。胸もとに言葉が込み上げて来たが、それを口に出しては言えなかった。学校をやめるやめないで騒いでいた先ほどの忿懣《ふんまん》と、今さっき部屋にはいった時に感じた憐憫《れんびん》とが入り混り、それにさらに母親のことを言い出されて、新しい忿懣と憐憫とが心の中で錯綜《さくそう》した。多くの色彩が混って白く見えるように、彼は白く褪《さ》めた感情の中でいつまでも唇《くちびる》を噛《か》んでいた……。
桂は寝返りを打った。父親の顔が、あの弱々しく過去を見詰めていた顔が、今も彼の網膜に焼きついていた。しかし母親の顔は、――彼が今のような時に一番なつかしく思い、一番呼び掛けたいと願っている母親の顔は、おぼろげにでも浮ぶことはなかった。それはまったく未知の人でしかなかった。
――おい、まだ寝ないのか、とその時隣に寝ていた三枝が眼を覚《さま》して言った。
――うん。
――早く寝ろ。美は絶対だ、美しいものだけが強いのだ。頑張《がんば》れ……。
――何だい、得意の白《せりふ》だな。おい、寝言を言ってるのか?
桂は暗闇の中で少し笑った。三枝は直にまた眠ってしまったらしかった。空気は暖かく、花の匂《におい》がした。過ぎたことなんか考えてもしかたがない、と桂は思った。これから僕の本当の Leben《レーベン》 が始まるのだ。そして彼は未来の像を意識の中に築き始めた。精神の指が、粘土細工を捏《こね》るように、やすやすと遠い未来をこの瞬間に実現した。
一 日[#「一 日」はゴシック体](8[#「8」はゴシック体])
――何をお話していらしったの? と芳枝が横坐りに坐りながら訊《き》いた。
万里子は口の中で声にならない返事をした。……なに色んなつまらないことですよ、と桂はさりげなく答えたものの、彼の様子にどこかへどもどした色は隠せなかった。芳枝はお行儀の悪い坐りかたをしたまま、その二人を、なおも胡散《うさん》くさげな表情で眺《なが》めていた。ススムちゃんと、そのあとから三枝と高遠とが、輪になって腰を下した。
芳枝は悪意のない、好奇心にみちた眼を光らせている。芳枝さんの、細く見開かれた、少し近視の眼は美しい、と桂は思う。しかし、さっきから彼の気持をざわめかしているのは、恐らくはやや放逸に投げ出された芳枝の姿態だった。はだかの足首から膝《ひざ》のあたりまでが砂にまみれている。そして水に濡《ぬ》れたためにぴったりと肌《はだ》に密着したピンク色の水着。外見以上に肉づきのいい身体《からだ》の中で、呼吸のたびに豊かな胸のふくらみが高まり、そして沈んだ。細そりした首筋から肩にかけてのなだらかな傾斜の間に、裏返しにした貝殻のような肩胛骨《けんこうこつ》のわずかの窪《くぼ》み。ダブルの水着が腰のあたりでたるみそこだけ肉体の線を消しているために、かえって未知のなまめかしさを匂《にお》わせている。そして太腿《ふともも》の、滑《なめ》らかでぴりりとした感じ、そこでは皮膚そのものに一種の生命力がみなぎって、乾《かわ》いた一粒の砂が触《さわ》っても処女性が鋭く反撥《はんぱつ》して来るに違いない……。
しかし桂はそれをまともに見ていたわけではない。彼が眼を逃げようとすればするほど、視界の中に焦点の定まらない(それでいて部分部分が異常なほど明確な)魅力が執念深く彼に迫って来た。彼は苦しげに煙草に火を点《つ》けた。こうして並べてみると、万里子さんとは何という違いなのだろうと考えている。会話が入り乱れて始まり、女中がパラソルの蔭《かげ》から現れて熱い茶を皆に注いで廻った。
――さあ今度はデッド・ボールをして遊ぼうかな、と独《ひと》り言《ごと》のように芳枝が言った。
――賛成、とススムちゃんが叫んだ。ススムちゃんはお茶を飲み終ると早速腹這《さつそくはらばい》になって寝転《ねころ》んでいる。
――ススムちゃんは随分お行儀が悪いのね、と万里子が言った。
――うん、だってもうひと皮|剥《む》けなくちゃ本当じゃないもの。
――芳枝さんは元気がいいなあ、と高遠が感心した。もう少々休んでからにしましょうや。
芳枝は活力に充《み》ち溢《あふ》れているようにしょっちゅう足の位置をずらしていた。ススムちゃんはさっさと起き上って、砂の上にラインを引き始めた。
――やれやれ。
芳枝が高遠を睨《にら》んで、弱虫ね、と極《き》めつけた。皆が笑い出した。
――わたしがチームを分けるから、と芳枝が皆の顔を見廻して言った。よくって、まず一番|上手《じようず》なのは、太郎さんと、それからススムちゃんとわたしでしょう?
――芳枝嬢すごい自信だ、と高遠がひやかした。
――僕はちょっと段が違うからそのつもりでいてくれよ、君たち全部を相手にしたっていいぜ、と三枝が口を入れた。
――黙っていらっしゃい、あとの三人は同じくらいだから、……
――どうも芳枝嬢は僕を見損《みそこな》っているようだ。
――だったら高遠さんは太郎さんとお組みなさいな、その代り万里子さんも御一緒よ。
――わたくし、そりゃ下手《へた》なの。
――姉さんうんと苛《いじ》めてやるから、とススムちゃんが遠くから叫んだ。
――大丈夫だよ、万里子さん、僕|等《ら》がうまくカヴァーしてあげるさ、と三枝が主将の貫禄を示した。
――桂さんはわたしの方よ、お願いしてよ。
――あまりお願いのされ栄《ば》えもしないようだ。高遠が無遠慮に悪口を言った。
そして芳枝を先頭に皆が立ち上った。桂は煙草を捨てると、一番あとから、麦藁帽子《むぎわらぼうし》を取り去り、下駄を脱いだ。自分だけがシャツに半ズボンといういでたちでいることに、やはり一種の道化を感じている。
桂はラインを越えて、芳枝と共に手前側の矩形《くけい》の中にはいった。ススムちゃんが敵陣のうしろに立ち、ゲームはすぐに始まり、大きなボールが蒼空《あおぞら》を背景に芳枝とススムちゃんとの間を軽やかに往復し出した。その度に三枝と万里子とが前を見せたり、背中を見せたりする。桂がぼんやり見ているうしろで、高遠がひっきりなしに弥次《やじ》を飛ばした。
三枝がひらりと跳躍したかと思うと、ボールは見事に彼の手の中で光った。形勢が一変し、早いボールが桂の頭上を過ぎて高遠に渡った。桂はくるりと向きを変え、脚《あし》の筋肉を収縮させた。ボールにつれて風景が閃《ひらめ》くように転回する。隣で芳枝が少し前屈《まえかが》みになって警戒しているのが、ちらっと視野の中にはいった。
――そら。
掛声を掛けて、三枝が低目を狙《ねら》ってボールをぶつけたが、芳枝は巧みにそれを掬《すく》い取った。そして反対に油断して立っている万里子に球《たま》を投げつけた。万里子はそれをぽろりと落し、あらしくじった、と独《ひと》り言《ごと》を言ってラインの外に出た。
三枝がまたボールを掴《つか》み、高遠、万里子との三人の間でボールがくるくると交錯した。桂はもう何も考えてはいない、芳枝が、大丈夫? と訊いた時にも、彼は返事をするだけの余裕がなかった。球は閃くように早く飛んだ。それは彼に一つの機会のように思われた。この機会を掴まなければ、この機会をうまく捉《とら》えなければ、ただそれだけのことが彼の脳裡《のうり》に刻み込まれていた。海が廻り、砂浜が廻り、岬《みさき》が廻り、空が右に左に動き。……機会を捉えなければ、……芳枝さんの脚が時々視野に入り、その息づかいが側《そば》で聞え、海が廻り、……その時、ボールがあっという間に形をぐんぐんと大きくして彼の頭上を飛んだ。チャンス、――彼は手を伸し、さっとそれを掴んだ。ボールは彼の両手の間で苦悶《くもん》し、飛び跳《は》ね、あげくにするっと滑った。彼は慌《あわ》てて一息吸い込み、ボールのあとを追って勢よく手を差し出した。が、ボールはそれよりも早く砂の上に落ちた。
――やりそこなったなあ、と言って桂は苦笑した。
――大丈夫よ、桂さん、わたしが頑張《がんば》ってよ、と芳枝が言った。
桂がラインの外に出て、代りにススムちゃんが陣の中にはいった。ボールが再び三枝と高遠との間を往来し出した。桂はそれを眺めていた。ボールは機会のように廻る、と彼は思う。機会は人の手から人の手へと、とどまることなく循環する。誰がそれを掴むか、……僕ではなかった、機会は僕の手から滑り落ちた。そして僕の掴み得なかった機会は、なおも人の手から手へと廻《めぐ》っている……。
しかし彼の眼は直に芳枝の動きに集注し、全部の思考を奪ってしまった。軽やかにすらりと伸びた両脚、柔軟に屈折する上半身、翼のように空中で動く素早い手。白い手が閃き、ボールが捉えられ、芳枝が向きを変えた。芳枝の真剣な光った眼、乱れた髪、球を投げる時の腰のしなやかな回転、二の腕の白さ。あれで陽焼《ひやけ》をしているのだろうか、という桂の早い意識。そしてまた、蒼空を飛ぶボールのきらめくような往復。……機会は手から手へと廻《めぐ》って行く、と桂は再び考え始める。
その間にゲームはどしどし進行した。ススムちゃんや高遠や万里子が、代る代るアウトになったり陣の中へ戻ったりした。さすがに威張るだけあって三枝と芳枝とは一度もアウトにならなかった。桂は力を籠《こ》めてボールをぶつけたが、それはいつも巧みに躱《かわ》されるか受け取られるかした。身体が汗ばみ、太陽が皮膚を焦した。その時、不意に絶望が彼に落ちた。
こんなことをしていて何になるのだろう、と彼は思った。機会がもう失われてしまったことが分っていて、いまさら何を待っているのか。もう待つものはない、もう希望はない、今は一刻も早くここを立ち去ることだけだ。それなのに僕は何をしているのだろう、ボールを投げたり、落したり、笑ったり、叫んだり、……それが何になるというのだろう。みんなつまらぬ道化にすぎないのだ。しかし、……とボールを投げながらまた考え直す。しかし青春というのはこういうものかもしれない、絶望があっても絶望に負けてしまわないだけの力、悲哀の中ででも笑ったり愉《たの》しんだりすることの出来る力、失ったものを再生する蜥蜴《とかげ》のような生命力、だから僕がこうやって遊んでいる間にも、この僕はやはり本質的な僕、この一日は僕の青春の中で本質的に生きられた一日であるのかもしれない。ひょっとしたら生きることは、考えたり悩んだり苦しんだりすることにではなく、こうして無心に遊んでいることの中にあるのかもしれない……。
ススムちゃんの、しっかり、しっかり、と叫んでいる声で、桂はまた眼を凝《こら》した。ゲームはさらに進行して味方は芳枝ひとりになっている。三枝と万里子との間をボールが往復するたびに、芳枝が向うを向いたりこちらを向いたりする。汗で乱れた髪が頬《ほお》にくっついている。いつでも応じられるような前屈みの姿勢、警戒した光った眼、結んだきりっとした唇《くちびる》。万里子の投げる球は遅かったが、三枝は力を籠めて正確な、素早いボールを送った。芳枝は息をはずませている。乳房がせわしない呼吸を続けている。ボールにつられて操《あやつ》り人形のようにくるくると廻った。可哀想《かわいそう》だ、あんなにすることはない、と桂は思った。早くぶつければいい、取るか、落すか、とにかくそれできまる。あんなにいつまでも苛《いじ》めていることはない……。しかしボールは、芳枝の手の届かないくらいの高さを、巧みに往《い》ったり来たりした。芳枝のすらりとした膝《ひざ》、身体の重心を支《ささ》えている小さな足、その足が方向を変えた刹那《せつな》にちょっとよろめいた。
――ああ、と桂は口の中で叫んだ。
芳枝の身体が乱れ、片膝が砂に突き、上半身が左側に歪《ゆが》んだ。桂は息を飲んだ。危い、早く起きあがればいい、という意識、それに混って、残忍な、冷たく見詰める男の本能が、芳枝の取り乱した姿態に無意識の volupte《ヴオリユプテ》 を覚えている。その時、一瞬の猶予もなく、三枝の手からボールが低く芳枝の脚をめがけて飛んだ。芳枝は反射的にそれを掴もうとしたが、ボールの勢いに押されて横ざまに倒れ、ボールは転々と視野の外に転がった。芳枝は上半身を俯向《うつむき》に、腰を右側によじり、両脚を短く曲げた形で砂の上に倒れている。一種の清潔ななまめかしさ。桂は拳《こぶし》に力を入れ、駆け寄った。
一番最初に駆けつけたのは高遠だった。芳枝さんどうした? と早口に呼び掛けた。三枝が続いてその側に寄った。桂が近づいた時に芳枝は倒れたまま首を起し、こちらを向いて少し笑った。しかし彼女が手を伸したのは一番側に屈み込んでいる高遠ではなかった。横手に、冷静な顔で、立って眺めている三枝の方だった。そして桂が重たい絶望の意識を喚《よ》び覚《さま》している間に、三枝はゆっくりと芳枝の身体を抱き起した。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
遠い山脈には雪が白かった。広場の前の通りを軸にして、左右に低い屋並が雪もよいの鉛色の空に押し潰《つぶ》されていた。町といっても大した広さはなく、少し高台になったこの広場から眺《なが》めると、町を廻《めぐ》ってうねって行く河の向うはすぐに寒々と枯れた田圃《たんぼ》で、ところどころに雪が残っていた。その果てに白い山がはるばると連なっていた。その風景は寂しかった。
広場の前の通りには人影がちらほらとあるばかり、誰もかくまきをして背中を曲げたまま急ぎ足に歩いていた。広場の中もしんとしていた。隅《すみ》っこの方で子供が三人ほど、かたまって凧《たこ》を上げていたが、凧がうまくあがるだけの風は吹いていなかった。それでも風は寒かった。初冬の陽《ひ》はまったく雲の蔭《かげ》にかくれ、見渡す限り明るい華《はなや》かな色はどこにもなかった。遠い河の水が凍ったように鈍く光っていた。
――昌三、寒いのに何をしている?
少年は声のする方を振り返った。そして父親に恥ずかしそうな微笑を見せた。父親は彼と並んであたりを見廻していたが、
――さあ、寒いから待合室の方へ行こう、と言った。
言ったなりに、もう歩きかけた。少年はまたおずおずとした微笑を送った。
――……もう少し見てる。
――何を? 何も見るものなんかないじゃないか。
しかし少年は動かないで、澄み切った眼をまた遠い山脈の方に向けた。父親は強《し》いなかった。
――じゃ早く来るんだよ、もうじき汽車の着く時間だから。
少年はこっくりした。父親は待合室の方へ戻って行った。
広場の横手は、停車場の並びに黒い柵《さく》が続き、その中に倉庫が二つ、北側にだけ雪を残して、ぽつねんと立っていた。柵の前には材木が黄色い木肌《きはだ》を見せて積まれていた。少年は材木に凭《もた》れ、寒そうな顔もしないでこの寂しい風景を眺めていた。彼のいる側《そば》で、背の低いぶなの木が一本、僅《わず》かばかり残った枯葉をしきりに風にふるわせている……。
少年にとって、それは初めて見る風景だった。この一日、彼は自分の新しい境遇の変化に、びっくりしたような眼をあたりに配ってばかりいた。祖父母の家に、彼が一度も見たことのない父親が現れたのは一昨日のことで、今朝はもう長い間馴《な》れ親しんでいた祖父母と別れて、父親と二人きり、馬車に揺られてここの停車場まで来た。これからさき、さらに汽車に乗り、もっと長い長い旅行をして、彼が夢にしか見たことのない大きな都会へ行こうとしている。そこには母親もいるだろう、姉妹《きようだい》もいるだろう、すべてが今までとはまるで違うだろう……。
「昌ちゃん、東京サ行くんだって?」
彼の耳には、昨日、小学校で彼の学友たちが口々に羨望《せんぼう》と驚歎の色を見せて呟《つぶや》いていた言葉がなおも響いている。悲しいよりも、寧《むし》ろ少し得意げな気持。しかしその中には幾分の不安と、また未来への幾分の恐怖とがつつまれている。
しかし今朝は彼も泣いた。
「昌三、達者でなあ……。」
あのいつもの元気のいい、声の大きな、赤銅色《しやくどういろ》に焦げた頬《ほお》に白い髯《ひげ》のある祖父にも、沈鬱《ちんうつ》の色は隠せなかった。祖母は声もなくただ泣き沈んでいた。老人たちは生きて再び会える日の覚つかないのを知っていたに違いない、しかし昌三にはそれが分らなかった。未来というものが、今までとはっきり違うことは、彼にはまだ朧《おぼろ》げにしか諒解《りようかい》されていなかった。
未来は次第に彼の前に実現する。馬車の窓から見た風景、そしてこの停車場、遠い山脈の雪、凍りついたような河の水、それらが彼の心の中に反映した。そして黒い柵の向うに、どこまでもどこまでも続いているレールの色。
停車場の構内で駅員が何か怒鳴り出した。少年は夢想から覚《さ》め、ちょっと身顫《みぶる》いし、材木の側を離れた。父親のくれた毛糸の手袋をして、手と手とを大事そうに組み合せている。
停車場の入口のところに、かくまきに肩を包んだ小さな女の子が、前に籠《かご》を置いて林檎《りんご》を売っていた。お下げの髪が風に揺れている。かじかんだ小さな手、紅《あか》い林檎の実。その子は昌三が自分の前を通りすぎて行く時に、じっと彼の方を見詰めていた。その眼指《まなざし》は、無量の感慨を含んで、故郷を離れて行く少年の心を刺し貫いた……。
待合室の中では、モンペ姿の百姓たちがストーヴを囲み、ざわめいた空気が揺れ動いていた。父親はただ一人洋服姿で、ベンチに腰を下していた。昌三が側にすり寄った時に、寒かっただろう? と訊《き》いた。少年はこっくりした。皆が自分たちの方を見詰めているのがまぶしかった。駅員がまた怒鳴り、父親は懐中時計をチョッキのポケットから出して一|瞥《べつ》し、側に置いてあった小型のトランクを手にして立ち上った。昌三は肩から通学用の鞄《かばん》を掛けた。プラットフォームまで、父親のあとから駆けるように歩いて行くと、鞄の中で、大事に持って来た学用品がかたことと音を立てた。
一|輛《りよう》の客車を半分だけ仕切った二等車の中は、がらんとして客の姿はなかった。汽車は直に動き出した。父親は口附煙草を出してゆっくりと火を点《つ》けた。
少年は靴を脱いで、窓を向いて座席の上に坐った。少し腰を浮かしたまま、熱心に窓の外を眺め出した。枯れ枯れとした田圃が次から次へと続き、時々百姓家がまじった。遠くにある山脈はじっと動かなかった。
――お母ちゃんは何《な》して来なかった?
少年がふと思い出したようにそう訊いた時、父親は怪訝《けげん》そうな表情をした。少年は今朝、父親と二人きりの旅行を始めてから、自分からは殆《ほとん》どひと言も喋《しやべ》らなかった。
――うむ、と父親は頷《うなず》いた。……お母さんはお家の用事が忙しくてね、お前の来るのを今頃お家で待っているよ。
少年は黙ったまま頷き返した。そしてまた窓から一心に風景を眺め出した。未知の風景が飛ぶように展開し、雪山の白い雪が鉛色の空の下で光った。
一 日[#「一 日」はゴシック体](9[#「9」はゴシック体])
皆がくたびれ込んで、砂の上に車座になって坐った。思い思いに足を投げ出している。陽《ひ》は次第に天心に近づき、両手をうしろに突いている上半身の影が真下に落ちた。
汽船の煙が見えらあ、とススムちゃんが言った。
――どこ? と万里子が訊《き》いた。
――ほら、水平線のあそこのとこ。
空と海と、限りなく蒼《あお》く冴《さ》えていたのが、漸《ようや》く一線を劃《かく》すあたりに白い雲が湧《わ》き出している。雲に微妙な影が生じ、薄《うつす》らと流れている汽船の煙はさだかには見えない。
――ススムちゃんたら眼がいいのねえ、と芳枝が言った。わたしなんか眼鏡を掛けたってよく見えないわ。
――海はいいなあ、海の向うの、向うの方へ行きたいなあ、とススムちゃんが呟《つぶや》いた。
皆がその気持に同感した。車座が少し乱れて一斉に海の方を見ている。鴎《かもめ》がのびやかに海上を飛んだ。
――桂さんはいつパリへいらっしゃるの? と芳枝が訊いた。
――僕? 早く行きたいんだけど、パトロンの方の都合もありますしね。
――君はいいパトロンを持って為合《しあわ》せだよ、と三枝が言った。
――そのパトロンと喧嘩《けんか》するな、と高遠が言った。どうも桂は血の気が多すぎて、やたら喧嘩をしたがるからいけない。
――大丈夫だよ、どうしたってパリには行かなくちゃ。
――わたしも早く行きたい、と芳枝が言った。
万里子は寂しそうな顔をした。三枝はのんきに煙草をくゆらせている。
――僕は日本なんて国に未練はないな、と桂が言った。パリへ行って、とにかく暮してさえ行けるなら、僕はもう生涯向うにいて絵を描いているよ。
――欧米崇拝の悪《あ》しき影響だな、と高遠が口を入れた。
――古い古い日本、……何の未練があるものか。
――そう言ったものでもないだろう、と三枝も肩を持った。
しかし芳枝が、パリは絶対にいいと言い出したので、話題はパリの評判に移った。芳枝はパリのこまごまとした知識をおどろくほどよく覚えていた。三枝と桂と万里子とが、聞き役になった。
その間に、高遠とススムちゃんとはボンボンのはいった小型のガラス瓶《びん》をやったり取ったりして、一つずつつまんでは口の中でがりがりと噛《か》み割っていた。二人とも競争のように音を立てていた。
――一体これ、幾つくらい口の中にはいるかな? とススムちゃんが言った。
――まず二十は大丈夫だね、と高遠が答えた。
――二十? そんなにはいるもんですか、とススムちゃんがバカにしたように言った。
――やってみようか。
――うん、噛んじゃ駄目だよ。
――ようし。
高遠は口の中のを細かく噛み砕いて呑《の》み込んでしまってから、一つつまんで口に入れた。そして、一つ、と言った。
――二つ、と続けて、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、……
その辺から自分では声が出なくなった。側《そば》でススムちゃんが笑いながら、十、十一、十二……、と勘定した。
――そこで何をしていらっしゃるの? と芳枝が声を掛けた。わたしたちにも一つ頂戴《ちようだい》。
――駄目、駄目、いま大変なとこなんだから。十四、十五、……
――まあ、ボンボンがなくなってしまうわ。
皆が笑ったので、高遠もふくらんだ口をほころばしかけ、眼を白黒させた。
――十七、十八、……
そこでもうどうにもはいらなくなった。無理やりにもう一つ口の中に押し込もうとしたが、わっと叫んで三つ四つ吐き出した。続けてあとから五つも十も吐き出した。小さなボンボンが砂まみれになって、幾つも彼の前を転《ころ》がった。
――まあ勿体《もつたい》ない、と万里子が言った。
――洗ってくれば食べられるよ、とススムちゃんが弁解した。
――厭《いや》なススムちゃん、と芳枝が睨《にら》んだ。
――ああ苦しかった、バカなことをやったものだ、と高遠が述懐した。
――君らしいや、余人のよくするところではないよ、と三枝が笑った。
残り少なになったボンボンの瓶が皆の手から手へと渡った。桂もその一つをつまんだ。ボンボンにはかすかに薄荷《はつか》の匂《におい》がした。その時、ススムちゃんが身体《からだ》を曲げて、あら何だろう? と叫んだ。そして立ち上った。皆の視線が、それにつれて、砂浜の向うにむかった。人がどんどんその方向に走って行く。
――僕、見て来る。
言ったよりも早く、砂を蹴《け》って走り出していた。
――何でしょうね? と芳枝が訊いたが誰も答えなかった。
桂は急激に自分の顔色が蒼ざめて行くのを感じた。不吉な、悲劇的なものの予感が、はっきりと彼を捉《とら》えた。意識がそこからふと断絶したように、彼はそれを理解した、それは死だ、ススムちゃんが見に行ったものは彼自身の屍体《したい》なのだ。……そうした唐突《とうとつ》な空想が、為体《えたい》の知れない不安を呼んで、彼の現実感覚を侵蝕《しんしよく》した。恐らくそれを僕は夢の中で見たことがある、と彼は思った。これと同じ場面を、いつか、夢の中で。芳枝さんがいて、三枝がいて、高遠がいて、太陽が赤い球のように耀《かがや》いていた。ススムちゃんが海岸にあがった水死体を見に行って、そして僕も皆と一緒にそれを見物に出掛けた。その屍体はまさに僕だった。僕以外の誰でもなかった。……しかし本当にそんな夢を見たのだろうか。桂はまだるっこしい感じの中で、現実が次第に悪夢の方に近づいて行くのをぞっとする気持で待ち受けていた。ぼんやりした視線を砂浜の向うに向けている間に、長い時間が経《た》ったように思った。
ススムちゃんが走って帰って来た。
――見て来たよ……。
息をはあはあとはずませている。立ったままで報告した。
――あのね、溺《おぼ》れて死んだ人なんだ……。
――ふうん、男かい? と高遠が訊いた。
――うん、それは見なかった。
――泳いでいるうちに溺れたのかな? それとも自殺かな?
――さあね、どうかな、と口真似《くちまね》した。
――何だい、見れば分るじゃないか、水着を着てたか着物を着てたか……。
――うん、それがよく見えなかったの、とススムちゃんが困ったように答えた。……だって人がたくさんいたんだもの。
――ススムちゃんらしいわねえ、と万里子が言った。まるで鉄砲玉のお使い。
――じゃもう一遍行って来る、ね?
――よし、一緒に行こう、と高遠が言った。三枝、どうだ?
――厭ですわ。万里子が眉《まゆ》をひそめた。およしになったら……。
――行ってらっしゃい、面白いじゃないの、と芳枝の方は平気だった。ようく見て来て報告して下さいな。
――それなら自分でも来ればいいのに、と三枝が言った。
――厭よ、見るのは厭。
笑いながら二人はススムちゃんのあとから歩きかけた。桂だけが、今までどおり、足を投げ出したままでいた。
――桂さんはいらっしゃらないの? と芳枝が訊いた。
――僕? どうしようかな?
――お行きなさいよ。芸術家は機会を逃《のが》さず見聞をひろめなければ駄目ですわよ。
桂は思わず口を歪《ゆが》めた。しかしそれが取って附けたような笑いであることは自分でも分っていた。
――おい行こう、と高遠が呼んだ。
行って何になるだろう、と桂は思った。そこにあるのが何だか僕はちゃんと知っているのだ。もしこれが夢ならば……。そして記憶が揺いだ。それは意識のはるか下の隠れた部分で、今にも息を吹きかえしそうになっている記憶なのだ。しかし或いは、それはまぎれもない現実であるかもしれない……?
――さあ、早くってば……。
駄々っ子が地蹈鞴《じだんだ》を踏むように、芳枝が上半身を投げかけて桂の腕を掴《つか》んだ。芳枝のふっくらと盛り上った胸の隆起が、水着を通して、すぐ眼の前に、手の届くところにある。そして眼を逃げればその横に、無心に、長々と露《あらわ》な肌《はだ》を見せている脚《あし》。桂は小さくなった口の中のボンボンを噛み砕いて、魔法に掛けられたように立ち上った。その背中で芳枝がくすくすと笑っている。
四人は砂浜をくだって行った。真昼に近い太陽はますます明るく燃え、渚《なぎさ》で、波は単調な死を繰返した。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
――大旦那《おおだんな》、お君さんの屍体《したい》があがった……。
慌《あわただ》しい跫音《あしおと》を立てて安さんが土間からはいって来た。その身体《からだ》に附き纏《まと》っている浜辺《はまべ》のうそ寒い空気が、一瞬に、部屋の中の不安を凝縮させた。囲炉裏《いろり》の火に陽焼《ひやけ》した顔を赤鬼のようにほてらせていた祖父と叔父《おじ》とが、ぐいと首を土間の方へ向けた。
――なんだ、屍体? 本当《ほんとう》か? と祖父が嗄《しわが》れた声で叫んだ。
――……源の舟が岬《みさき》の裏で見つけやした、いま少ししたら浜サ戻って来やすべ。
――そうか、と祖父は太い眉毛《まゆげ》を翳《かげ》らせて、深い嘆息のような声を出した。
――とにかく浜で火たいておくよう手配しときやしたから……。
――御苦労だった……。孫太、汝《にさ》安と一緒に行け。わしは飯を食って直に行くから。
叔父が安さんと共に出て行くと、また沈黙が落ちた。土間にわずかに射《さ》し込んでいた西陽が次第に影の部分を濃くして行く。
――とんでもないことをなあ……。
それを呟《つぶや》いたのは祖母だったが、祖父も、叔母《おば》も、同じ気持で頷《うなず》き返した。少年はぴくりと身体を動かした。
――昌三、どこサ行く? と祖母が呼んだ。その声が異様に高く響いた。
――……浜サ。
――子供なんか行くもんじゃない、と祖父がおだやかに、しかし厳《きび》しく言った。
――御飯《まま》もまだなくせ、と叔母が附け足した。
少年はまた囲炉裏の側《そば》に坐り直した。心の中で風のようなものがざわざわと鳴っていた。お君さんが死んだ、お君さんが死んだ、と海から吹いて来た風が叫んだ。おれのせいじゃない、と少年は抗議した。お前のせいだ、お前が殺したようなものだ、と山から吹いて来た風が叫んだ。二つの風が、少年の意識の砂丘の上で、つむじ風のように綯《な》い合さり、くるくると廻った。嘘《うそ》だ、嘘だ、と彼は叫び続けた。お君さんが死んだなんて、おれのせいだなんて……。しかし現実の意識が冷たく彼の上に落ちた。
少年はぼんやりと見ていた、叔母が囲炉裏の自在鉤《じざいかぎ》にかかった鍋《なべ》からしきりと汁を掬《すく》っている。温かそうな湯気が立ちのぼっている。洋燈《ランプ》に灯が点《とも》された。いつもならば夕暮のたのしい団欒《まどい》なのに、沈黙と不安とが重たく部屋の中を領していた。
どうして死んだのだろう、と食事の間にも少年は思い続けた。お君さん、お君さん、どうして死んだの? ……その答は帰って来なかった。しかしどんなことなのだろう、死ぬということは? それは不思議な、神秘な、それでいて何でもない日常の一|瑣事《さじ》のようにも思われた。時化《しけ》の海で、漁師たちが度々《たびたび》波に呑《の》まれた。その行方《ゆくえ》は知れず、屍体もあがることは稀《まれ》だった。漁師の生活が板子《いたご》一枚下は地獄という危険をいつも蔵しているように、しかしそれとはまったく違った意味で、少年の心の奥深いところに、死が、或いは死のようなものが、時々、生と入れ変りに隠れんぼをして遊んでいた。死は、まるで生れた時から巣くってでもいたように、少年の内部に住み、理由のない、放心したような絶望の中で少年に呼びかけた。その死が、今、あざやかに隠れ場所から貌《かお》を出した。
早い食事を終って祖父が出掛けて行った。少年は囲炉裏の側に小さくなって坐っていた。祖母と叔母とが後片附に立ったりしゃがんだりしていた。土間からはいって来る空気が次第に冷たくなって行った。少年は囲炉裏に小さな手をかざした。
少年は不意に立ち上った。ぱちぱちとはぜる火を見詰めているうちに、何かじっとしていられないものが彼の足を動かした。彼はそして廊下を通り、お君さんの部屋にはいった。
部屋の中は薄暗くなって、わずかに櫺子窓《れんじまど》から乏しい夕暮の微光が射し込んでいた。そこでは懐《なつか》しいお君さんの匂《におい》がした。それは髪油と、白粉《おしろい》と、そして一種の体臭のようなものを混ぜ合せていた。壁に、婚家先から持ちかえった箪笥《たんす》があり、その側に衣紋掛《えもんかけ》に掛けた不断の着物が懸《かか》っていた。少年はそっとそれに触《さわ》ってみた。それにもやはり古びた、懐しい匂がした。
少年はまた囲炉裏の側に引返した。台所から祖母の話声が聞えて来るだけで、そこには誰もいなかった。少年は眼を光らせると、下駄を突っかけて土間から逸散に走り出した。表に出ると、春先のまだつめたい空気が薄暮の中に光り、茂みの蔭《かげ》や、駆け出して行く足許《あしもと》に、夜が次第に濃くなって行った。
その日のお昼御飯の時に(それは春休みの一日だった。その朝、転任になって土地を離れて行く黒木先生を見送ったあとで、少年は部屋に籠《こも》ってひとり絵をかいていた)お君さんはいなかった。少年はそれが気になったが、まもなく忘れてしまった。しかしお君さんは何処《どこ》からか帰って来て、ひとりで晩《おそ》い食膳《しよくぜん》に向っていた。そのあとで、またお君さんの姿が見えなくなった。「どうしたのかねえ。昌三、お前は知らないかい?」祖母にそう訊《き》かれた時に、しかし少年は黙っていた。彼は昨夜のことを思い出した。昨夜のお君さんは確かにどうかしていたし、昌三を相手に独《ひと》り言《ごと》のようにその悲しみを訴えた。しかしお君さんのそうした細やかな心の動きを、祖母に告げた方がいいものかどうかは分らなかった。自分をも人をも欺いているような気がしていながら、なぜとはなく心の疼《うず》くままにしていた。
念のためにお君さんの部屋を探《さが》してみて、祖母がお君さんの短い遺書を発見した。それには原因も何も書いてなく、ただお世話になっていながら勝手に死ぬことを許してほしいという旨が、落ちついた筆先でしるされていた。涙のあともなかった。末尾に一行、昌三ちゃんさようなら、と書いてあった。少年は祖母がその遺書を読むのを聞いた。昌三ちゃん、さようなら、……その一行が異様に少年の心に沁《し》みた。
それから家の中が急に騒がしくなり、手のすいた漁師たちがそれぞれの場所に走った。舟を出す者もいた。そして焦躁《しようそう》と不安との中に、時間が重たく過ぎて行った……。
少年は逸散に走った。夜が次第に、荒れ果てた浜辺の道を包み出した。道端《みちばた》の石地蔵の涎掛《よだれかけ》が白く眼に映った。少年はそれを横に見て走った。もう暫《しばら》く行くと小さな稲荷《いなり》神社がある。鳥居の傍《そば》に石彫の狐《きつね》が二匹、凝然とした表情で佇《たたず》んでいた。そこは不断でも怖《こわ》かったが、今、濃くなって行く闇《やみ》の中で、狐《きつね》は誘うように少年を呼んで啼《な》いた。彼は逸散に走った。赤や白の稲荷の旗が風の中で揺れていた。砂地を駆け下りて行く時、あたりはとっぷりと暮れかけていた。
少年は浜を見廻した。海にはまだ残輝がただよい、僅《わず》かばかり仄明《ほのあか》るい空の雲を映していた。岬が獣の蹲《うずくま》った形で横たわっていた。そして少年が眼をやると、一町ほど先の岬よりの砂浜で、焚火《たきび》の焔《ほのお》が天を焦していた。黒い人影がその廻りをちらちらした。少年はそこへ走った。
焚火のすぐ側の砂の上に、裸の女が髪を乱して長々と寝そべっていた。最初のうち、それがお君さんであるとはどうしても思えなかった。安さんが馬乗になって人工呼吸を施していた。上半身の白い身体、腰から下を覆《おお》った赤い布、そして安さんの黒い背中、それらの鮮《あざや》かな色彩を少年は識別した。彼は両の拳《こぶし》に力を籠《こ》め、無言劇のように立ちすくんでいる人たちのうしろから、じっと悲劇的な光景を眺《なが》めていた。
それはお君さんにまぎれもなかった。しかしいつものお君さんとはあまりに違いすぎていた。生命を待ち望んでいる幾人もの真剣な視線の中で、お君さんはひとり恣《ほしいまま》に眠っていた。その平和な表情。死ぬというのはこういうことなのだろうか、と少年は思った。そして、なぜとも知れぬ自責の念が、またおもむろに彼の心を重たくして行った。すべてが夢の中の出来事のようだった。
安さんの手が、一定の時間を置いて、規則正しい運動を繰返した。開いた掌《てのひら》が、お君さんの鳩尾《みずおち》から左右に別れ、乳房の横を這《は》った。安さんの身体が前に屈《かが》み、自分の両臂《りようひじ》が脇《わき》で支《ささ》えられるほどにお君さんの胸を圧迫した。そしてさっと手を離し、身体を引き起した。その動作が、単調に、いつまでも、続いた。もう一人の男が、乾《かわ》いた布で投げ出された手や足を丹念に擦《こす》った。
焚火を残して夜はまったく落ちた。空は薄く曇り、星影も疎《まばら》だった。そして少年の心の中にも、暗黒なものが現実の意識を次第に追い詰めて行った。少年は手を動かし、首を振った。しかし悪夢の光景は依然として覚《さ》めなかった。
――駄目か、やはり駄目か……。
それは祖父の荒々しい、それでいて掠《かす》れたような声だった。少年はそれを認識した。しかしそれを最後に、暗黒なものが現実の意識を全部占領し、少年は虚無の深淵《しんえん》に底知れず沈んで行った。
一 日[#「一 日」はゴシック体](10[#「10」はゴシック体])
大きな輪をつくって立ち竦《すく》んでいる水着姿の人たちのうしろから、三枝と高遠とがススムちゃんにせきたてられて近づいて行った。そのあとを、桂は重い気分で歩いて来たが、気の進まないままに横手に廻って、少し首を延してみた。前が壁になって何ひとつ眼に映らない。しかし彼はそれでよかった、見る必要はなかった。なぜなら、彼は何がそこにあるかを知っていたから。
そこに、その砂浜の上に、彼が死んでいた。彼は眼を見開き、呼吸もなく、ただ一種の重苦しい感覚を保ったまま、そこに死んでいた。瞳《ひとみ》に蒼《あお》く澄み渡った空が映り、真昼に近い太陽は赤い火の球《たま》のように見える。彼をめぐって幾人もの人たちが、輪になって彼を覗《のぞ》き込んでいた。そして口々に何か話し合っている。しかし話声は聞えて来なかった。彼の見ている眼と廻りの人たちとの間を、厚い硝子板《ガラスいた》が遮《さえぎ》っていた。この奇妙な錯覚、……そしてそれは現実よりも一層現実に近かった。確かにこういう光景を彼はむかし見た。浜に打上げられた水死体と、物好きな見物たちがそれを取り囲んでいる光景をも見たし、また同時に、水死体の眼から、廻りにどよめいている人たちの姿をも見た。それはどういう悪夢の記憶だったのだろう。記憶というよりも、それは、今ここにある現実そのものの、予見ではなかったろうか……。
その時、前にいた人が不意と首を横に曲げた。放心が褪《さ》めた。桂はそこに、砂の上に、さっとぶちまけたような長い髪を見た。荒筵《あらむしろ》が顔の上まで掛けられている。ああ女だ……、自分ではなかった。そう思った瞬間に、すべての理性が彼に返って来た。悪夢の記憶ではなかった、むかし彼自身が立ち会った或る事実の記憶だった。
側《そば》で人が話している。
――駄目なのか、もう?
――駄目にきまってるさ、あの足を見ろ。
――足?
――見えないか、あんなに水ぶくれになっている。
――可哀想《かわいそう》なものだなあ、若い女だろうに。
――死んじまえばお終《しま》いだよ……。
桂は身体《からだ》をずらして人垣《ひとがき》のうしろに出た。それ以上見ている気にはなれなかった。見ていることに堪《た》えられなかった。そのまま五六歩さがり、砂の上に腰を下した。暑い。陽《ひ》がかっかと照りつけて、砂が焼けるようだ。口の中にわずかに薄荷《はつか》が匂《にお》い、咽喉《のど》がからからに乾《かわ》いている。身体中の筋肉が、まだ悪夢の中にいるように、ぎごちなくこわばっている。麦藁帽子《むぎわらぼうし》をあそこに置きっ放して来たのは失敗だった、と考え、そのことを、暑さのことを、太陽と砂とのことを、要するにこの水死体以外のことを、無理やりに考えようとした。しかし執念のように彼を捉《とら》えて離さないものが、彼の思考を内部へ、内部へと誘った。
むかし、やはりこれと同じように、お君さんの屍体《したい》が浜へあがった、と思い出している。それはもう十年も前のことだ、そしてそれは夜だった。その時僕はまだ子供で、死というものの隠された意味が分らなかった(しかしその意味が、今なら分っていると言えるだろうか……)。死はいつも不意に来る。しかし僕たちの精神の中には生れた時から死が用意されていて、絶望の瞬間に、生の意識を根こそぎにくつがえし、謂《い》わばその人間を殺してしまうのだ。昨日からの僕、その僕は死んでいたのだ。死者の眼で現実を見、それが僕に奇妙な錯覚を与えていたのだ……。
――桂、どうしたんだ?
三枝がいつもの親しげな表情で近づいて来た。桂はその顔を見上げ、首を横に振った。
――気分でも悪いのか?
――帰ろう、と言って高遠も近づいた。大したことはない、てんで見えやしない。
――ね、どうして死んだのか分らなかったでしょう? とススムちゃんが訊《き》いた。
桂はぼんやりと皆の顔を見た。先に行ってくれ、と三枝に向って呟《つぶや》いた。
――早く来いよ。
そして三人はがやがやと話し合いながら遠ざかって行く。桂は眼を人垣の方へ移し、それから海を見た。海は相変らず平和に、波の色が限りなく蒼い。水平線に少しずつ雲が湧《わ》いた。
しかしなぜ今までこの記憶を思い出さなかったのだろう、と桂はまた考える。悪夢の記憶(しかし果してそういう夢を見たのだろうか)そればかりが意識に揺《ゆら》いで、なぜこの事実を思い出さなかったのか。確かに遠い、忘れかけていた記憶だった。しかし決して忘れ切っていたのではない。時々は思い出していた、心が暗く沈んでいたような時に……。しかし今さっき、こんなにもよく似通った状況だったのに、なぜ思い出さなかったのだろう。東京に出て来る前の田舎《いなか》の生活、それは全体として、不愉快な、強《し》いて思い出したくはないような生活だった。しかしその中でも一番印象の痛烈な、悲劇的な記憶、お君さんの死、それが甦《よみがえ》って来なかったことに、何等《なんら》かの意味があったのではないだろうか……。
桂は立ち上った。みんなに嗤《わら》われては困る、という考えが不意に心を走った。足がふらふらしている。彼はその足を引き摺《ず》ってパラソルのところまで戻った。落ちていた麦藁帽子をひろってかぶり、腰を下した。芳枝が彼にむかって笑いかけたが彼は答えなかった。皆は愉快そうに談笑していた。
なぜお君さんは死んだのだろう。幾つもの疑問が次から次へと桂の意識に湧き上った。……なぜ有島武郎は死んだのだろう。すべての死んだ人、自らの生命を断った人、それはなぜなのか。なぜ死んだのか。そう、お君さんは希望がないから死んだ。お君さんはきっと最初から、――僕が最初にお君さんを見たその時から、希望を持っていなかったのに違いない。希望のない者は死ぬのだ。……しかしこの僕にも、希望は何もないのだ、昨日から僕の希望は失われた。それなのに僕は、こうして芳枝さんの笑い顔を見ながら、まだ生きている。僕は、自分を欺いて、まだ生きている……。
――お茶をどうぞ。
万里子の声がした。桂はその黒い、同情にみちた瞳《ひとみ》を見上げた。しかし万里子の心の中の暖かいものは桂の内部にまで沁《し》み込んでは来なかった。少し前まではこの上もなく親密に思われた人、それも今はまったくの他人に過ぎない。桂は孤独の殻を固くして、機械的に熱い茶を啜《すす》った。そしてぼんやりと皆の話声を耳にしていた。もうそろそろ帰ろうというのに、ススムちゃん一人が、板乗をしよう、板乗をしようとせがんでいる。あげくにとうとう大人《おとな》の方が負けて、ススムちゃんが茶店に浮板を借りに走って行った。皆は腰を上げた。桂は頷《うなず》きながら、皆が砂浜を下りて行くのを眺《なが》めていた。ススムちゃんが大声で叫んでいるのがここまで聞える。桂がひとり、麦藁帽子をかぶり、両肱《りようひじ》を膝《ひざ》の上に突き、両手の間に頬《ほお》を埋めた姿勢で、そこに残った。太陽はほぼ天心に達した。
どうして今までこの記憶を思い出さなかったのだろう、どうしてだろう……。その疑問が未《いま》だに彼の意識の中をたゆたっている。そして一つの答が、閃光《せんこう》のように、閃《ひらめ》いた。すべての記憶は選択的なのだ。思い出すことの厭《いや》な事実というものがあり、それはいつも記憶の底へ底へと押しやられている。お君さんの記憶もそれなのだ。あの時の僕の持っていた幼い自責感、自分をも人をも欺いているような感じ、罪の意識……、それは僕にとって、今でも、不愉快な痼《しこり》のように精神の運動を束縛している。昌三ちゃんのせいじゃない、とお君さんは言った。確かにあの人の死に僕は責任がなかった、なかったと思う。しかし責任というものは、意識のもっと深い、もっと測り知られない部分で、人を苦しめているのだ。真の責任がどんなものか、誰が知ろう。責任とは、その人間が生きて行く限り、負うべき負目《おいめ》のようなものだ。それは死ぬまで果し終えることのないものだ。そして僕は、お君さんに対して責任がある、その死に対して罪の意識がある。そのために僕はお君さんの記憶を思い出したくはなかったのだろう……。
しかし、と桂は自分に話し続ける。しかしもし現在の僕に、昔と似通った意識、罪の意識がなかったならば、記憶はもっと早く甦っていたかもしれない。罪の意識、それは三枝のことだ。僕は三枝と仲の良い友人で、いつも彼と心から許した間柄だった。困った時には助けてもくれた。それなのに、芳枝さんのことだけは秘密だった。芳枝さんへの愛は僕の心を照していたただ一つの灯《ともしび》だったから、僕はそれを誰にでも、三枝にでも、洩《も》らしたくはなかった。芳枝さんが昔から三枝と親しいことは分っていながら、僕自身の気持は三枝に対するのと芳枝さんに対するのとで二分された。そこから、三枝に対していつも済まないという負目のようなものが、無意識に働いていたのだ。そして昨日の結果。三枝は素晴らしい奴《やつ》だ、あいつと芳枝さんとはお似合の夫婦になるだろう。三枝は頭もいいし、絵もうまい。あいつは俗世間でも出世するだろうし、けっこう玄人《くろうと》はだしの作品もつくるだろう。僕なんかよりよっぽどましの人間だ。あいつは本当に善い奴だ。しかし、……しかし、僕の中に怨《うら》みがましいものが全然ないとはいえない、むかしあいつに済まないと思っていた、それなのに今は、僕の愛をこなごなに砕いたのが三枝であることが意識の中にある。それが怨みがましい気持になって、僕の気分を沈ませるのだろう……。
しかしそれだけではないのだ。むかしお君さんが死んだ時に、自分を欺いているような気持がした。今も、僕は自分を欺いている。僕にはもう希望はないのだ。芳枝さんは僕にとってすべてだった、芳枝さんが僕の未来を明るくしていた。僕にはもう何の気力もない。父親に叛逆《はんぎやく》し、家庭に叛逆し、伝統に叛逆し、そうして孤独の中に閉じこもって、しかし何を待っていたのか。愛、愛、ただそればかりだ。人生か、それは愛することだ、愛して愛されることだ。芸術? 芸術が何になろう。僕にはもう何も残ってはいないのだ、死んだ方がましだ、いっそお君さんのように死んだ方が。昌三ちゃん、さようなら。人生がこのような苦しみの連続ならば、お君さんのように、早く諦《あきら》めてしまった方が悧巧《りこう》なのだ。それなのに、なぜ、僕は生きているのだろう。なぜ、自分を欺いてまで生きているのだろう……。
桂は放心したように眼を遠くに向けた。同じ空、同じ海。しかしこの空は死んでいる。この海は死んでいる。それは、見ている僕の眼が死んでいるからだ。――桂は頭を揺り動かした。頭の芯《しん》が痛い。そしてその中を、遠い昔に聞いた覚えのある声が、幻聴となって響いていた。昌三ちゃん、さようなら……。
暑い。
昌三ちゃん、さようなら。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
昌三が五年になった年の新学期から、彼のクラスの担任が黒木先生に代った。先生はこの地方に赴任したばかりで、年も若く、他の先生たちとどこか違っていた。いつも紺の詰襟《つめえり》の服を着、長い髪が額の上に垂《た》れ下って来る度《たび》に神経質に指先で払った。白墨を持つとその指はいかにも細くしなやかだった。陽焼《ひやけ》した生徒たちに較《くら》べると顔色は青白くて生気がなかったが、その代り潜在的な気魄《きはく》に充《み》ち満ちていた。気宇のある精力的な眉《まゆ》をしていた。声も太く、よく透《とお》った。従って生徒たちの信望は、自《おのずか》ら、早く、形成されて行った。しかしその懐《ふところ》にまでは近づけさせない凜《りん》としたもの、生徒たちの窺《うかが》い知れない一種の自負が、鋭い瞳《ひとみ》に光っていた。
昌三が黒木先生と親しくなり下宿先にまで遊びに行くようになったのは、晩春の一日に、海岸で絵を描いている先生と口を利《き》いたのが初めだった。昼顔の咲いている砂丘の蔭《かげ》で、先生は三脚を立て、小さなズック張の組立椅子の上に腰を掛けて海岸の風景を画《えが》いていた。昌三は先生を認めてその側《そば》に走り寄ったが、黒木先生、と呼んだきり眼は吸いつけられたように画面から離れなかった。クレヨン画しか知らない子供にとって、この盛り上って来る蒼《あお》い海、砂の手触《てざわ》りが感じられそうな黄ばんだ砂丘、そして空間に浮き出した黒い乾網《ほしあみ》の柵《さく》、――初めての油絵の印象は魔術的だった。
先生は昌三をその名で呼び(少年は母方の姓を名乗っていたが、同じ姓は村の中に多かったから先生は名前で生徒たちを呼んだ)教壇で見る時とはまるで違った優しい声で話し掛けた。しかし昌三は魅せられたように先生の絵筆の動きを眺めていた。先生も鋭い眼つきで、風景と画面とを代る代る睨《にら》んだ。時間はまったく停止していた。
ひと区切まで行ってから二人は話を始めた。昌三は学校の成績がよくて級長をつとめていたから、それまでも先生と接触する機会は多かったが、先生が絵を描いていることを知って今まで以上の親密さを覚えた。そして彼は、先生の説明に貪《むさぼ》るように聞きほれていた。絵というものが遊びではなく、一生を賭《か》けるにもふさわしいだけの壺中《こちゆう》の世界を築いていることを、先生の気魄の中に知った。彼はその後下宿先を訪れて、先生の手になった他の油絵や、手ずれのした画集などを見せてもらった。先生は使いかけの水彩絵具を気前よく彼にくれた。昌三は感激して毎日のように絵を描き始めた。紅《あか》いはまなすの咲いている貧しい庭を前にして、漁師の家の黴《かび》くさい離れの一室で先生が気焔《きえん》をあげている時に、少年は分ったような顔をして熱心に相槌《あいづち》を打った。いつかは自分も、こういう絵が描け、こういう議論が出来るようになったら、と思っていた。
その年の秋、昌三の身辺にもう一つの新しい変化が起った。祖父の遠縁に当る者で、婚家先を不縁になったお君さんというまだ年の若い娘が、暫《しばら》くの間というのでこの家に引き取られて来た。昌三はその間の事情を何も知らない、祖母も叔母《おば》も口を緘《とざ》していた。しかしお君さんをいたわろうとする暖かい思いやりが家の中を流れ、それは母親のない少年の気持をも同化した。東北の大きな都会で育ち、相当の教養もあり、言葉つきなども漁師の娘たちとまるで違って、標準語を話しても少しも不自然ではなかった。心ばえもやさしく、昌三にはことのほかに親切で、昌三ちゃん、昌三ちゃんと呼んだ。色白な顔に小さな泣き黒子《ぼくろ》があり、どことなく寂しい感じがして、時々、大した原因でもないのに感情が激したように泣いた。
昌三はその頃まで、自分ひとり母親が無いことに、人が考えるほどの寂しさを感じてはいなかった。父親も母親も東京にいると聞かされていたが、母親はきっと死んでしまったのだと勝手に極《き》め込んでいた。そのくせ死ぬというのはどういうことなのか、はっきりとは分らなかった。東京にいようと死んでいようと、不在であることは同じなのだ。死は畢竟《ひつきよう》、不在にすぎない。そしてお君さんの出現は、少年の心の空虚な部分を埋めた。祖母にも叔母にも充《みた》されなかったものが、お君さんによって次第に充されて行った。
昌三は黒木先生から貰《もら》った水彩絵具でお君さんの肖像画をかき、先生のところに見てもらいに行った。その絵は先生の興味を強く惹《ひ》いたらしかった。稚拙にかかれてはいたが、お君さんを特徴づける不幸の翳《かげ》が、遠くを見ている暗い瞳と、薄い唇《くちびる》と、痩《や》せた頤《おとがい》とにうかがわれた。少年は技術的には未熟でも為合《しあわ》せを失った女の心だけは写していた。先生はお君さんの身の上をいろいろと昌三に訊いたが、彼にはそれに答えるだけの知識がなかった。絵をほめられたことでわくわくしていたので、先生がお君さんに人並以上の関心を寄せていることに気がつかなかった。
秋の末に父兄会があり、祖母も叔母も折悪《あ》しく具合が悪くてお君さんが代って出席した。お君さんと先生とは、恐らくその時初めて顔を合せたのだろう。お君さんは帰って来てからもばかにはしゃいで、そのあと二三日はうって変ったように黙り込んでいた。しかしお君さんにはありがちなことだったので誰も気に留めなかった。昌三にとって、それをお君さんにたずねることは何となく憚《はばか》られた。
そのあとで昌三が先生の下宿に遊びに行く時に、ときどき両方から手紙を頼まれるようになった。最初はごく短いものだったが、そのうちに封筒の中身の重たさが少しずつ昌三の気にかかった。しかし彼は何も知らなかった。どちらの方が先に文使いを頼んだのか、それさえ直に忘れてしまった。冬になって雪が深くなると、祖母が心配してあまり表に出掛けることを悦《よろこ》ばなかったから、昌三が先生の下宿を訪れることも尠《すくな》くなった。そのような時、お君さんは暗い瞳をして、どんよりと曇った空をいつまでも眺めていた……。
昌三の級友に健ちゃんという子がいた。校長先生の一人《ひとり》息子《むすこ》で昌三と級長を争うほど成績もよかったが、どこか子供らしいのびのびとしたものに欠けていた。顔のつやが悪く、見るからに病身らしかった。餓鬼大将の民《たみ》という漁師の息子を腹心にして、民が仲間を集めて女の子を泣かせていると、いつもその側で、唇に大人びた冷笑を浮べながら、じっと見張っていた。誰に対してでもうちとけるということがなく、中でも昌三を眼の仇《かたき》にした。
雪が何度も降ってすっかり根雪になってしまった冬の日の午後、昌三が遅くなって学校から帰って来ると、小さな橋の側でどこからともなく雪つぶてが一つ、風を切って飛んで来て彼の肩に当った。昌三はよろめき、怒ってあたりを見廻した。もう一つ雪つぶてが飛んで来た。土堤《どて》の上の樹の蔭で、悪童連が笑いながら雪を捏《こ》ねているのが見えた。昌三はそっちへ走って行った。肩から下げた鞄《かばん》がかたかたと音を立てた。つぶてが二つ三つ彼の身体《からだ》の側を飛んで行った。もう少しで連中のところに届くという時に、藁《わら》ぐつの足が滑って道の上に転倒した。鞄の中身がぶちまけたようにその場に散った。
民を真先にして子供たちが笑いながら昌三の廻りに集った。昌三は眉をしかめながら起き直って、雑記帳や鉛筆やお弁当箱を集めにかかった。誰ひとり手助けをする者はなかった。一人だけ、気の小さいのが一番遠くに転《ころ》げて行った筆入を取ろうとすると、「こら、」と呼びとめられた。とめたのは健ちゃんで、「昌ちゃんのとんま、」とはやしていた。昌三はその顔を見上げ、「何すんだ?」と怨《うら》めしげに言い返した。
昌三が雪の上から一番大事そうに拾い上げたのは薄茶色の封筒だった。それは端の方がくしゃくしゃになって雪で湿っていた。「えや、こだえして、」と彼は喘《あえ》ぎながら方言で言った。「先生な手紙、こだなしていいのか、いいのか?」今まで涙ぐんでいたのが、先生という言葉を口にするともう怖《こわ》いものはないような気がした。そして彼の言葉は、事実、それだけの効果を惹《ひ》き起した。民を初めとして、悪童たちの顔の上に急に不安そうなためらいが流れた。
「嘘《うそ》やら?」と健ちゃんが言った。健ちゃんひとりは人を小馬鹿にしたように腕組をして立っていた。皆は彼の顔を見た。「黒木先生な手紙だよ、」と昌三は言い張った。昌三の手にした封筒の上に皆の視線が落ちた。
「嘘こき、」と自信ありげに健ちゃんが繰返した。「ンだ、ンだなあ、昌ちゃんサ手紙なんかわたす筈《はず》がねえだべ、」と民も相槌を打った。皆ががやがやと騒ぎ出した。「本当《ほんてん》、先生な手紙だよ、」と昌三は叫び、封筒を皆の前に差出した。しかし封筒の表にも裏にも誰の名前も書かれていなかったから、昌三の旗色はますます悪くなった。封筒の封じ目が湿って少し剥《は》げかけている。「見たら分るべした、」と誰かが後ろから叫んだ。昌三はかっとなって、「ようし、」と言うなり、封じ目に指を掛けた。
ああそんなことをしてはいけない、……昌三は心の中で誰かが必死になって制止している声を聞いた。久しく手紙の使いを頼まれることもなくなって、今日、久しぶりに先生が思い切ったように彼に手渡した手紙。「じゃ頼むからね、」と言った時の先生の表情が眼の前に浮んで来る。学校で手紙の遣《や》り取《と》りをしたことは今まで一度もなかったのだから、それは先生がよくよく決心してのことに違いなかった。いけない、よそう。――はっきりとそう思った。しかしその時はもう遅すぎた。
封筒の中から折り畳んだ幾枚もの便箋《びんせん》が現れた。昌三はしっかとそれを掴《つか》み、用心しながら最後の一枚をひらいた。皆の眼が吸いつけられたように名前の上に注がれた。「どうだ?」と、昌三は勝ち誇った叫びをあげた。それが先生の手紙に間違いないということが分ると、民を初めとして悪童たちの表情に濃い不安の色が動揺した。「どれ、よく見せろ、」と健ちゃんが言った。昌三は警戒の気持を少しゆるめながら健ちゃんに名前の文字の部分を見せた。その瞬間、あっという間に、健ちゃんが彼の手の中にあった手紙を引ったくった。昌三は不意を打たれ、立ち直った時には健ちゃんは雪煙をあげて土堤の上を走っていた。昌三は蒼くなって直にそのあとを追い掛けた。
手紙を失ったまま昌三は空しく家へ帰った。心の中は焦躁《しようそう》と後悔とに責められていた。「昌三ちゃん、どうしたの?」とお君さんから訊《き》かれた時に、彼は思い切って言ってしまおうとして、ふと心がにぶった。もう一度ためしてみてから、――そう決心すると、鞄を放り投げて健ちゃんの家へ走って行った。しかし校長の息子は、玄関で素気なく昌三をあしらった。「あれは父さんに渡した、」と言い切ったきり、昌三がどんなに頼んでも相手にならなかった。昌三はとぼとぼと薄暗くなって来た雪の道を踏んで帰って来た。よっぽど黒木先生の下宿へ廻ってみんな懺悔《ざんげ》してしまおうかと思いながら、どうしてもそれだけの勇気がなかった。家の前では、お君さんが心配して彼の帰りを待ち受けていた。「一体どうしたの、昌三ちゃん? なんだか様子が変だから。」昌三はその手に縋《すが》って泣き出した。しかしそのわけを口にすることは出来なかった。
次の日曜に、昌三は先生から遊びに来るように言われた。昌三は祖母に断り、重たい気分で出掛けて行った。お君さんが悦んで彼に手紙を托《たく》したから、或いはこの前先生の手紙を取られたことも尻尾《しつぽ》を出さないで済むかもしれないという気もした。それでも心は痛んだ。自分自身を責める気持は少しも変らなかった。
先生は久しぶりに訪問した昌三を款待し、嬉《うれ》しそうにお君さんからの手紙を読んだ。そのあとは直に絵の話に移って、不断と格別変ったところも見えなかった。しかし昌三がそろそろ帰《かえ》り支度《じたく》を始めた時に、先生はさりげなく口を切った。
――……お前を責めるつもりじゃないんだよ、だけどね、どうしてお前は先生の手紙をひとに渡したんだ?
――あれ、健ちゃんに取られたんです。
――取られた? しかしね、お前の方から渡したと私は聞いたんだが……。
――いいえ、取られたんです、と泣声になって昌三は答えた。
――先生はお前が好きなんだ。お前ひとりは頼みになると思っていたのだ。それなのにお前は、……
――でもそうなんです、本当《ほんてん》取られたんです。
昌三はおろおろ声でそれだけ言うなりわっと泣き出した。黒木先生は憮然《ぶぜん》とした表情で暫《しばら》く少年を見詰めていた。
――ああ先生が悪かった、とやさしい声で呟《つぶや》いた。子供というものは正直なものだ、それを疑ったのは私の心が狭かったからだ。もう泣くな。
昌三はなおも泣きじゃくっていた。先生は独《ひと》り言《ごと》のように述懐した。
――こんなことをお前に言っても始まらないが、私は校長から厭味《いやみ》を言われてね。私なんぞ教師の風上にも置けないそうだ。そうかといって、私が何をしたわけでもないのに……。ここは住みにくいところだね、うたぐり深い人たちばかりで……。私が若くてまだ世馴《よな》れてないせいもあるのだろうが……。
そのあとは平穏な日が続いた。正月には先生を家に招《よ》んだし、昌三の方も遊びに出掛けた。学校で文使いの役をつとめるようにもなった。一度だけ、放課後に廊下で手紙を渡されているところを健ちゃんに偸《ぬす》み見られたように思った。しかし昌三が気がついた時、健ちゃんは機敏に消え失せていた。そうした日々の間に、先生とお君さんとの仲がどういうふうに進展しているのか昌三は知らないままでいた。ただ、先生の信望は次第に衰えて行き、教室の中で生徒たちはひそひそ声で先生の悪口を言い、学期が終ると転任になるような噂《うわさ》をした。昌三だけが噂を本当とは信じなかった。昌三の最初の失敗がどのような大きな波紋を描いているのか、彼は少しも推察していなかった。お君さんの態度にもさして変ったところはなかった。
また春が帰って来て、生徒たちが成績簿を貰《もら》う学年の最後の日になった。黒木先生は皆に成績簿を渡したあとで短い話をした。その話はむずかしくて昌三には全部を理解することは出来なかったが、先生の言葉の節々が明かに彼の心に刻み込まれた。
――……お前たちはまだ小さいのだから色々な分らないことがあるだろう、と先生は言った。我々を囲んでいる世界というものは不思議なものだ。お前|等《ら》はたいてい漁師の子だから、何度も海に行ったろうし、海の話も色々と聞かされただろう。しかし海の中がどうなっているか、海の底の深い深いところの有様は人間には分らない。そういうことはいくらもある、海だけではなくて、我々の周囲に人間の分らないことは無数にたくさんある。その中でも、この我々、人間というものは不思議なものだ。人間の心の奥は分らない。我々の感情の動きにさえも、理性では律し得られないものがある。いくらでも未知の部分が、我々の心に影を落しているのだ。それだから生きるということは、心の中の未知のものを追求して、自分が自分自身になることだ。この、自分が自分自身になるということが、人生に於《お》ける最も大事なことだと先生は考える。それで、今、先生がお前たちへのお別れに言いたいことは(その時までこそこそと内輪話をしていた生徒たちが、そこで急にしんとなった)――先生はこれ限りでこの学校をやめるからお前たちに話をするのもこれが最後だが、どうかこのことだけは覚えておいてほしい。いつか、自分が自分自身になること。……お前たちは漁師になるのなら、自分の中の漁師としての力を充分に発揮して本当の漁師になってほしい。労働者になるものは本当の労働者になってほしい。絵の好きな者は(そこで先生は鋭い眼指《まなざし》で昌三の顔を見た)本当の絵かきになってほしい。もしも漁師の子が漁師として完成したならば、それは人間としても完成したことだ。それが人間としても一番偉いのだ。自分自身になることによって、我々は人間になることが出来る。分ったね、先生の言いたいのはそれだけだ……。
春休みの一日に、黒木先生はこの土地を去った。その前の晩、夕食が済むと直にお君さんが何処《どこ》かへ出掛けて行った。きっと先生とお別れをしに行くのだろうと昌三は考えていた。昌三が寝る時間になってもお君さんは帰って来なかった。彼はいつも奥の寝部屋に祖母と蒲団《ふとん》を並べて寝ることになっていたが、その晩祖母はまだ土間の方にいたから昌三はひとりきりだった。そして彼が横になって暫くしてから、お君さんが帰って来て、彼の枕許《まくらもと》に坐った。
洋燈《ランプ》の乏しい光に照されて、お君さんの顔色はいつもより一層|蒼褪《あおざ》めて見えた。瞳は深淵《しんえん》に湛《たた》えられた夜の水のように暗く沈んでいた。唇が時々ぴくぴくと痙攣《けいれん》した。そして昌三ちゃんと呼んだなり、いつまでもじっと俯向《うつむ》いて動かなかった。昌三は身を起し、おどろいたようにその手を掴んだ。
それからお君さんは激したように話し始めた。それは昌三に話し掛けるというよりも、心の中の苦しみをただ当もなく訴えるというふうだった。言葉はきれぎれで、昌三には聞きとれないところも多かった。泣いているようでも、その瞳は乾《かわ》いていた。
――どうしてこんなに不幸なのでしょう、どうしてこんなに不幸なのでしょう? とお君さんは繰返した。……わたしたちは何も悪いことはしていないのに、どうしてこんなにひどく苛《いじ》められるのでしょう? 先生もお気の毒に、……わたしは何処へ行っても、人を不為合《ふしあわ》せにし、自分を不為合せにしてばかりいる、それでも決してわたしが悪いのではない、先生が悪いのでもない、ええ昌三ちゃんが悪いのでもないのよ、……みんなそういうふうにきまったことなのでしょう。でもどうしてあんなに眼の仇にしなければならないのかしら、どうして、どうして? あんなにいい先生を? ……わたしはそれは先生が好きだった、どうにもしかたがなかった、好きになっていけないわけなんか何もないのに、……先生をああまでして追い出さなくても、ええ昌三ちゃんが悪いのではないの、わたしが好きになったのがいけなかったのでしょう、……いいえ、いけないと言われても好きなものはしかたがない、そうでしょう、わたしが先生を好きになったからってどうしていけないの? 先生もわたしがお好きだとおっしゃった。それがどうしていけないの? 好きになることが悪いというのがわたしにはどうしても分らない。わたしには分らない、分らない、……わたしは不幸だった。わたしはずっとずっと不幸だった、そしてわたしにはどうすることも出来ない、ねえ昌三ちゃん、もう駄目なのね、もう何の望みもない、もうわたしには何にも、何にも、残ってはいないのね?……
昌三はひと言も口を利かないでそれを聞いていた。慰めようと思っても慰める言葉は口に出て来なかった。それに、幼い少年に、この不幸な女を慰めるどれだけの語彙《ごい》があっただろうか。そしてお君さんの心も、話している相手が誰であろうと、恐らくはただ自分の悲しみの上にだけ固く鎖《とざ》されていた。
その間に、昌三の心も暗く沈んで来た。もう何ひとつ希望はないように、すべては固く鎖されてしまった。悲しみが心に湧《わ》き、それが波のように揺れ、洋燈《ランプ》が一層暗くなった。そしてお君さんのかすかな囁きをきれぎれに聞きながら、ただそのことだけに自分のあらゆる同情を注ぎ込むように、昌三はいつまでもしっかとお君さんの冷たい手を握り締めていた。
一 日[#「一 日」はゴシック体](11[#「11」はゴシック体])
桂昌三はそのまま同じ姿勢でいた。両手の間に頭を埋め、麦藁帽子《むぎわらぼうし》を前に傾けてかぶり、じっと足許《あしもと》の砂を見詰めていた。生命のない砂、熱く焼けただれた砂、……耳に幻聴を聞き、砂上に死の象《かたち》を思い描きながら、彼はいつまでも動かなかった。砂は無心にひろがっている。人間の生命というものは、この砂のように空《むな》しいのではないだろうか、徒《いたず》らに、無数に、……思想はそこから少しも進展せず、放心の中に虚無を湛《たた》えて、彼の内部ですべては死に絶えていた。時間は停止し、一切が空しかった。
しかし僕は生きなければならぬ。
長い放心のあとで、半ば無意識にそう呟《つぶや》きながら、桂は首をあげた。微風が顔に正面から吹きよせる。いつのまに出た風なのだろう、かすかに、涼しく、無量の生気を含んで、海から風が吹いて来る。汗でびっしょりになった額に、頬《ほお》に、頸筋《くびすじ》に、復活のように風が吹く。空はあくまで蒼《あお》く、海は遠く、水平線にむくむくと白い雲が湧《わ》いた。僕は生きなければならぬ。太陽は天心に、そのすべてのエネルギーを惜しげもなく発散する。
僕は死ぬことは出来ない、と桂は呟いた。僕は生きる。僕は生を選択する。しかし今までのような、こんな生き方では駄目なのだ。それは生きながら死んでいるようなものだった。何と多くの人が生きながら死んでいることだろう、今日の僕のように。それでは駄目なのだ。昨晩《ゆうべ》のことが重苦しく現在の意識を決定し、昨日が今日をつくってしまうようでは駄目なのだ。それも心の中には絶望を湛えながら、笑ったり喋《しやべ》ったり、ひとを欺き自分を欺いて、ただ生きているというだけの生き方では、それが何になろう。現在の苦しみを忘れるために、心を他に紛らそうとつとめている病人のような生き方が、何の役に立つだろう。僕が中学生の時に、盲腸炎になってうんうん言いながら手術を待っていた時の気持、それと今とは殆《ほとん》ど同じなのだ。何とか愉《たの》しいこと、未来のこと、現在とは関係のないことを考えようとしても、意識は絶えず病患に苦しんでいる自分に、そして眼の前に自分を待ち受けている手術に、不可避的に戻って行った。現在もその通り、病患は絶望で、手術は死だ。この手術には助かるという希望はないのだ。そういう生き方、苦しみの擒《とりこ》となって生きて行くことに、何の価値があろう。生きる以上は、純粋に、生そのものを生きなければならぬ。僕の選ぶのはそういう生だ。
有島武郎は自ら死んだ。お君さんは自ら死んだ。自ら死を選ぶことは、予想される死の恐怖に眼をつぶりさえすれば、かえって易《やさ》しいだろう。そのような死は生きる責任の放棄だから、生に絶望した者には反対に希望であるかもしれない。寧《むし》ろ絶望しつつ、絶望の擒とならないで生きて行くことがむずかしいのだ。
僕はそのように生きよう。人は必ず死ぬ。僕はすべてを死から割り出して生きよう。
過去から現在を導き出すことは易しい、昨日の出来ごとから今日の絶望を導き出すことは自然の数だ。しかしその反対に、未来から現在を割り出すことはむずかしいだろう。未来の窮極は死だ、僕はすべてを死から割り出し、死者の眼から物を見て生きよう。死者はその未来に虚無をしか持たず、従ってそのぎりぎりの点から現在を見れば、一日といえども、一瞬といえども、尊いだろう。死者の眼というのは死んだ眼ということではない、空が死に、海が死んで見える眼ではない、人が死の瞬間に於《おい》て、ああ自分はよく生きたと思い、もう一切の欲望も空しくなって過去の日々をふりかえる、そういう眼だ。そういう眼で、未来の源から現在を顧みるのだ。しかしその未来は明日に尽きるかもしれないし、今この一瞬に尽きるかもしれないのだ。その視点に立って見れば、今日の絶望も或いは明日の僕をつくるのにプラスするものかもしれぬ、そこにはまだまだ可能性がある、今の涙も次の瞬間の悦《よろこ》びとなるかもしれぬ、それは要するに、人間として生き終った最後の時に決定することだ。僕はそれをあらかじめ見よう。死者の眼に映る過去のように、未来に於て現在を見よう。
人間には無限の可能性がある。ただそれはいつとだえるかもしれず、今この瞬間に終るかもしれない。ただ、人はその瞬間を出来る限り未来に延そうとする、或いはその瞬間を全然考えまいとする。僕はそれを常に死の視点から測量し、常にぎりぎりにまで僕の可能性を試みてみよう。人間が未来に向って可能性を孕《はら》んでいるということは、決して単なるオプティミズムではない。その未来は限定された未来、明日にでも虚無に尽きる未来だ。しかしそのことを知っている限り、現在の時間は永遠よりも長い。それはもう過去によって左右されることもなく、純粋な時間そのものだ、それは死によって洗われた生だ、僕はその生の中に生きよう。
もう僕に愛はない。僕は昨日、愛を失ったと思った。今、僕は自ら愛を失うことを選択したのだと考える。これは決して負け惜しみではない筈《はず》だ。愛の道は不毛の野に尽きた、今はただ孤独の道があるばかりだ。僕は残されたただ一つの道、芸術の道を踏んで、僕の可能性を試みてみよう。そしてその道を通って、むかし黒木先生の言った人間としての完成を試みよう。僕は今まで道草を食って来たのだ、親父《おやじ》と喧嘩《けんか》して高等学校を「横」に出た時に、僕の道はもうきまっていたのだ。僕はその時、事の重大さがよく分っていなかったし、今までにもあまり甘く考えすぎていた、幸福な市民社会が僕をも待っているような気がしていた。そんなことはみんな誤りだ、芸術家の道は孤独の道だ、肉親を失い、愛する人を失い、乞食《こじき》になってもなおひとりで歩いて行くべき道だ。僕はその道を踏んで僕の可能性を試みよう。
僕はパリへ行こう、パリへ行って一人前の画家になろう。たとえ人に知られず、貧しく、ただ一人であっても、僕でなければ、桂昌三でなければ描けない絵を描こう。どんなに寂しくても、僕は僕一人の道を歩こう……。
微風が正面から桂の顔に突き当る、彼はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。海はひたすらに蒼い、この海は生きていると思う。無限の穹窿《きゆうりゆう》、この空は生きていると思う。水平線にはむくむくと入道雲が湧いている。砂浜には次第に人の数がふえて行く。桂はその人たちを見廻した。
そして桂は誇りと寂しさとの入り混った感情で、じっとその人たちを眺《なが》めていた。……これはみんな僕とは無縁の人たちだ、と呟いた。もう僕とは何の関係もない、芳枝さんも、三枝も、高遠も、万里子さんも、そして泳いだり走ったり笑ったりしているたくさんの人たちも、僕とは何の関係もない……。
天頂に太陽が燃えている。
君たちよ、幸福な人たちよ、さようなら。
過 去[#「過 去」はゴシック体](溯行的[#「溯行的」はゴシック体])
ひとりでさびし
二人で参りましょ
見渡すかぎり
嫁菜スたんぽぽ……
何処《どこ》からともなく女の子の甲高《かんだか》い幼い声が聞えて来る。昌三はひとりで砂丘の上に腰を下し、頬杖《ほおづえ》をついて荒狂う海と対していた。
見渡すかぎり
嫁菜スたんぽぽ……
しかし季節は秋だった。颱風《たいふう》が過ぎたばかりの海はどんよりと曇り、白い牙《きば》を剥《む》き出した波濤《はとう》が、沖の方まで際涯もなくうねっていた。そこに一|艘《そう》の漁船も姿を見せず、いつもは活気のある砂浜の上にも人の影はなかった。空には早い雲が飛ぶように走っていた。
昌三はひとりきりだった。暴風《あらし》は漸《ようや》く収ったとはいえ、夕方のひと気のない浜辺《はまべ》に用もないのに出掛けて来る者は誰もいなかった。彼のすぐうしろには芒《すすき》の原がひろがり、海から強く吹きつけて来る風にしきりに靡《なび》いている。その中で子供の手鞠唄《てまりうた》が聞えて来る筈《はず》はない、聞えるのはただ波の音、風の音。しかも幼い昌三の耳に、こびりついたように、可憐《かれん》な歌声が離れなかった。
ひとりでさびし
二人で参りましょ
見渡すかぎり
嫁菜スたんぽぽ……
昌三はひとりきりだった。何処にいても、いつでも、心の中は寂しかった。それは必ずしも両親がいないことに基因していたのではなかっただろう。祖父母は眼の中に入れても痛くないほどこの幼い孫を可愛《かわい》がってくれたし、叔父《おじ》も、叔母《おば》も、安さんも、家の中の人は誰でも、昌三にやさしくしてくれた。しかし彼は寂しかった。理由のない寂しさが、生れた時から彼の心の底に住み、傷痕《きずあと》のように疼《うず》いていた。皆がやさしくしてくれることが、かえって重荷のように感じられることさえあった。そういう時、彼は黙って表に飛び出した。お稲荷《いなり》さんの前を通って(そこは怖《こわ》かったから眼をつぶって走り抜けた)砂丘の上に腰を下し、一心に海を見詰めていた。そうすると、心が少しずつ静まって来た。寂しいことは寂しくても、波や船や雲を見ているうちに心が紛れてしまった。
今日の海はいつもとは違った。寧《むし》ろ黒いといった方がいいような濃紺の色に濁って、猛然たる勢いで陸地に向って侵入した。飛沫《しぶき》が、暗い灰色の一線をなしてひれ伏している砂浜の上を飛び越え、昌三の顔にまで散りかかった。空には海鳥の一羽もいない。ただちぎれちぎれの雲が、低く、早く、飛んで行った。見ている視界全体が今にも踊り出しそうだった。その中を、びゅうびゅうと唸《うな》り声《ごえ》を立てた風が、昌三の小さな肺に刃《やいば》のように斬《き》り込んで来た。自然は一種の敵意を持った。
日は夕刻に近かった。西の空は赤く焼け、雲がところどころ血の色に染った。海もそれにつれ、焼けただれたように沸騰した。風が一層冷たくなった。
昌三は真剣な眼つきをして、じっと自然のパノラマを眺《なが》めていた。その間に、彼の心の中にも何か力強いものが、叛逆《はんぎやく》のように湧《わ》き上った。何か荒々しいもの、生の誘惑のようなもの……。それが潮鳴をひびかせて小さな魂を通り過ぎて行った。昌三は拳《こぶし》を握り締め、呼吸を殺して暴風《あらし》の海と対していた。これでもか、これでもか、と風が言った。負けるもんか、と昌三は怒鳴った。自分は一人きりで、その一人きりは強いのだと思った。あたりは少しずつ暗くなった。
――おおい……、昌三ちゃん、昌三ちゃん……。
遠くから安さんの声が方角をさぐっている。昌三は身顫《みぶる》いをして立ち上ると、逸散にそちらに走って行った。はにかんだような顔をして、安さんの大きな、がっしりした手に縋《すが》りついた。
――大旦那《おおだんな》が心配してッからなあ……。
無口な安さんは多くを言わなかった。しかし昌三にはよく分っていた。彼は安さんに手を取られたまま、足並を合せるため走るように歩いた。お稲荷さんの前を通る時にも、少しも怖いとは思わなかった。
――何していたね? ぽつんと安さんが訊《き》いた。
――睨《にら》めっこしてた。
――へえ、誰と?
――海と。
――海?
安さんは大声をあげて笑った。昌三の小さな拳を握っている手に、その時痛いほど力がはいった。
――それでどうしたね?
――うん、勝ったよ。
二人は次第に暮れそめて行く芒の道を歩いて行った。風が二人を追い越すように吹き過ぎた。そして歩いて行く間じゅう、昌三は耳の奥のどこからともなく、また思い出したように手鞠唄の調べがかすかに響いて来るのを聞いていた。負けないぞ、と心の中で叫んでも、その声は消えなかった。
ひとりでさびし
二人で参りましょ
見渡すかぎり
嫁菜スたんぽぽ……
一 日[#「一 日」はゴシック体](12[#「12」はゴシック体])
さあ行こう、と桂昌三は自分に呼び掛けた。
それでも彼は腰を起さずに、砂の上に坐っていた。自分の決意を反芻《はんすう》するように眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたまま、手で無意識にポケットから煙草の箱を取り出した。その中にはもう最後の一本しか残っていなかったから、彼はそれを口にくわえ、用のなくなった空箱《あきばこ》をくしゃくしゃに潰《つぶ》して砂の上に捨てた。そして火を点《つ》け、深く煙を吸い込むと、この煙草を一服してから、と自分に言訳《いいわけ》した。
僕は今晩、ここを立とう、と彼は考えた。そしてもう二度とここへは帰って来まい、もう二度と芳枝さんにも三枝にも会うまい、喜劇は終った、明日からの僕はもう今までの僕ではないだろう。
……僕は午後の間をひとりでぶらぶらして、何とかさりげない口実をつくって、今晩の汽車で立とう。しかし大袈裟《おおげさ》に、思わせぶりに、別れて行くのは厭《いや》だ。二人に決してそれと分らせないように、いつか後になって、あれきり僕と会わなくなったけど何かの意味があったのではないだろうかと、芳枝さんや三枝がいくら考えてみても、決してそのわけが分らないように、平静に、さりげなく、別れよう。恐らく本当の悲劇というのはそういうものだ。いつもいうさよならと同じ調子でさよならを言い、また会うことがあるかのように別れて行こう。しかしこのさよならには、二度と会える希望はないのだ。
桂はゆっくりと煙草を喫《の》んだ。……ひょっとしたら停車場まで芳枝さんたちが散歩がてら送って来てくれるかもしれない。僕にはその時の芳枝さんの顔が眼に見えるようだ。いつものはしゃいだ、少し茶目けを帯びた芳枝さんの笑い声が、停車場のプラットフォームじゅうの人々の注目を浴びるだろう。昨晩《ゆうべ》と同じ大柄な花模様の浴衣《ゆかた》を着て、手には団扇《うちわ》を持っているだろう。明るい、無邪気な笑い。話しながら桂さんと呼ぶ時の唇《くちびる》の動き。僕が手を出したら、きっと握手をしてくれるだろう。小さな手が僕の手の中に埋まるだろう。ただ一瞬の暖かい血が、その時だけ、初めて、そして最後に、二人の間に通うだろう。しかしそれでお終《しま》いだ。さよなら芳枝さん、さよなら桂さん。汽車が動き出し、プラットフォームの上の芳枝さんの姿が、華《はなや》かな白い浴衣が、髪が、手が、そのすべてが、僕との距離を増して行く。さよなら芳枝さん……。次第に遠く……。それで終りだ。そのあとは、もう僕の意志があるばかりだ。
一本の煙草は喫み終った。桂はそれをぽいと眼の前に捨てた。海からの微風に、青い煙が薄《うつす》らと砂の上を這《は》って流れて行く。しかしそれも直に消えた。桂は立ち上った。
桂はビーチパラソルの中を覗《のぞ》き込み、バスケットの上からスケッチ帳を取り上げた。若い女中は退屈そうな顔もせず、依然として雑誌を読んでいる。
――僕、先に帰りますからね、皆が来たらそう言って下さい。
女中は叮嚀《ていねい》に頷《うなず》き返した。桂は麦藁帽子《むぎわらぼうし》をかぶり直し、日蔭《ひかげ》の外へ出た。
彼はもう一度あたりを見廻した。空も、海も、眼に入る一切のものが洗われたように美しい。すべての風景は、と彼は考える、それが唯《ただ》一度限り、二度と見る機会はないという印象で眺められる限り、常に新鮮で美しいのだ。それが死者の眼だ。死者の眼で見る限り、人生は常に無限の美しさに充ちている……。
太陽は一日の絶頂にあって燃える。
桂昌三は少し俯向《うつむ》き加減のまま、短い影を足許《あしもと》に落して、大胯《おおまた》に、砂を踏んで歩いて行った。砂丘をのぼり、松林の入口でもう一度振り返ってみたが、海辺《うみべ》で遊び戯れている人々の姿はただ雑然として、芳枝さんも、三枝も、高遠も、万里子さんも、ススムちゃんも、見分けることが出来なかった。
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第三部 夏の終り ――一九三九年――
一章 燈台
1
――早く行きましょうよ、早くしないと花火が終ってしまう……。
さっきから母親の支度《したく》が遅いのでひっきりなしに急《せ》き立てていた道子は、門を出るともう忙しく久邇《くに》の手を引張りながら、後ろを振り返って叫んだ。しかし母親も桂《かつら》も、いっこう足取を早くしそうな様子もない。二人ともお行儀よく歩いている。本当にママンは nonchalante《ノンシヤラント》 で困るわ、と怒ったように言うと、久邇の手をぎゅっと力を入れて掴《つか》んだ。久邇にはそのフランス語が分らなかったけれども、相手の大人《おとな》ぶった言いかたがおかしいので一人で笑った。二人は手を引き合って二人だけ足を早くした。
しきりに気をそそるような花火の音が聞えて来る。時々空が明るくなるが、散歩道を挟《はさ》んで、松の樹々が網目のように夜空を小枝で覆《おお》っているから、花火はまるで見えやしない。二人はどんどん歩いて行って、光線のきらきらしている大通りと、暗い海の方へ行く道との分《わか》れ路《みち》のところで、立ち止って待っていた。海岸の方から戻って来る人の方が多いので、道子は心配そうにしている。
やっと芳枝《よしえ》と桂とが追いついた時に、道子はせっかちに靴の先で石を蹴《け》りながら、怒ったように二人の方を睨《にら》んだ。
――ママン、もうどうやらお終《しま》いらしいわ、だって帰る人の方が多いんだもの……。
――そう、困ったわね。
――どっちへ行くの、海の方へ行ってみる?
――そうね、何なら通りのフジ屋へでも行って冷たいものを頂きましょう、ねえ桂さん?
桂は黙って頷《うなず》いた。道子は不服そうな顔をしている。あそこのテラスからだって花火は見えますよ、と芳枝がとりなすように言った。
――ママンのお支度ったら本当に遅いのねえ、と精いっぱいに道子は皮肉を言うと、それでもまたどんどん先に立って久邇を引張った。
大通りは光線が眩《まぶ》しく、露店の間を人波が往《い》き来《き》している。花火の音のするたびに、散歩の人たちの足がちょっとたじろぎ、一斉に空を見上げている。四人は岐阜提燈《ぎふぢようちん》の幾つもぶら下っている喫茶店の前まで来ると、二階への階段を昇った。
店の中はいつもより一層客が立て込んで、テラスの手摺《てすり》に凭《もた》れて花火を見ている人たちの黒い後ろ姿も幾つか見えた。ボーイが目ざとく芳枝の前へ飛んで来ると、器用にテーブルの間を縫いながら、四人を植木鉢《うえきばち》の蔭《かげ》の、入口からは見えなかった空《あき》テーブルへと案内した。夜の風が時々、涼し気に棕櫚竹《しゆろちく》の葉を戦《そよ》がせている。四人はそこに席を占めると、道子が早速《さつそく》、クリームソーダを四つ、とかしこまっているボーイに命令した。
――でも桂さんは? と芳枝が画家の顔を窺《うかが》った。……そんな子供の飲むようなもの、おビールでも?
――いやそれで結構です、と少し笑って答えた。今日は若い人たちのお伴《とも》だから。
ボーイが、クリームソーダを四つでございますね、と復誦《ふくしよう》しながら、頭をさげて引き下った。
――あたしお酒飲む人|嫌《きら》い。
道子がぷりぷりした声で一方的に宣言した。子供の飲むようなもの、という母親の白《せりふ》がだいいち気に入らない。大人だってクリームソーダが嫌いじゃないくせに、と思う。まあでも桂さんがビールを飲まないのは感心だ。
長い間隔を置いて、威勢のいい音と共に花火が夜空を彩《いろど》った。しかし待っている間の方が長いから直に首が痛くなって来る。桂は眼を疲らせて、花火の空から振り返るように芳枝の横顔へと眼を移した。植木鉢の棕櫚竹の葉ごしに、店の明るい電燈の灯が首筋に柔かく当っている。薄い菫《すみれ》と白との細縞《ほそじま》のはいった小千谷縮《おじやちぢみ》を着ている。つつましく結んだ唇《くちびる》、テーブルの上にそっと置かれた白い手……。それをテーブルの向う側から、ボーイの持って来たクリームソーダの中にストローを突込んだまま、上眼ごしに道子がちょっと睨んだ。分っています、という顔をこっそりした。
――ああ綺麗《きれい》だ、と久邇が叫んだ。
しだれ柳の裾《すそ》の青い火が、夜空の中に一つずつ消えて行く。
――ママンは花火なんか御覧にならないでもいいのよ、と道子が言った。
芳枝はもとの姿勢に返って、ストローを口に含んだ。
――あらどうして?
――だってえ、どうせよくはお見えにならないんでしょう?
――本当に眼鏡を忘れて来てしまって。
どうだか、と道子は思う。あれはきっと嘘《うそ》、あんなにお支度が長かったのだもの、眼鏡はわざと掛けていらっしゃらなかったのにきまっている。それもなぜだか、わたしはちゃんと知っている……。そして自分が眼鏡を掛けようとしない理由を、母親の上に類推した。
――花火というのは、見ていて何だか悲しい気持になる、と桂がぽつんと言った。
――どうしてでしょう、わたくしなんか気が浮き浮きして参りますわ。
――為合《しあわ》せですね。僕は日本的なものというふうに考えるから……。
――そういえば、フランスではあまり花火を見た記憶もないけど……。ストローを指の間に挟んで芳枝がちょっと考えるように眉《まゆ》をひそませた。わたくしはあの威勢のいい音が好きですわ。それからふと話題を変えて訊《き》いた。……ほんとにどうして桂さんはパリへいらっしゃらなかったのでしょう?
――それはこの前言いました。
――でも、なぜだかはよくお聞きしませんでしたわ。
――そうでしたかね、と相変らずの無愛想《ぶあいそ》な声で言った。
――あら桂さん。道子が急に顔を上げて母親に助太刀《すけだち》した。そんなおっしゃりかたってないことよ、レディに失礼よ。
桂はしかめた眉を解いて苦笑した。
――本当よ。
――道子、あなた……。
――いや僕が悪かった、いま説明しますよ。そう言って桂はゆっくりと煙草に火を点《つ》けた。何だか訊問《じんもん》されているみたいだが、とちょっと笑って、何度も行きそこなったんだから、最初の時のことを話しましょう。あれはちょうど奥さんが三枝《さいぐさ》君と結婚した年だったかな、僕にパトロンがいましてね、……とどうも何処《どこ》から話したら道子さんに分るかしらん、僕は高等学校の時分に、つまりそこであなたのパパと友達だったんだが、絵の方をやる気になって親父《おやじ》と喧嘩《けんか》して学校をやめちまったんです。それ以来親父とは音信不通になって僕は僕だけで自活していたんだが、そのパトロンというのが親父の親友でね、その人のとこへ時々行くからまあ親父の消息は分っていた。そのパトロンが、いざパリへ行こうという段になって、金をやるから僕に自画像を一枚描いて行けとこう言うんです。ね、その人の顔を描けというのなら分るが、この僕の顔をですよ、でその魂胆が僕にこつんと来た。
――どういうことでしょう? と芳枝が訊いた。
――つまりこういうわけですよ、僕という人間が気違いみたいに絵に熱中していることが、やっと親父にも分った。この分ではひょっとするとパリへ行ったら行ききりになるかもしれん、親父も寄る年波だし、心の底では家出した息子《むすこ》が可愛《かわい》くなかったわけでもないのだろうから、謂《い》わば本人の代りに自画像を残して行ってもらいたい、……という気になって友達を通して自画像を註文したんでしょうね。それがどうも癪《しやく》に障《さわ》った。
――あら、分りませんわ、と芳枝が呟《つぶや》いた。
道子は眼を大きく見開いて、桂の口許《くちもと》を見詰めている。桂は煙草を一息吸った。
――分りませんか……、そうだな、今になってみれば僕にも親父の気持というのが同情できるが、その頃は何しろ一途《いちず》でしょう、親父のそういう裏の気持が分ったとたんに、廻りくどい駈引《かけひき》が厭《いや》になった。つまりお前が可愛いなら可愛いとはっきり言えばいい、それをそのパトロンが、親父のことは|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》にも出さず、お前の絵もうまくなったろうから、なんて言うんでしょう、バカにしている。僕はそういう大人の、大人っていうのはちょっと変だが、その頃は実際、裏に魂胆の潜んでいる大人のやり口が癪でね、僕は自画像が満足に描けるくらいならパリまで修行には行かないって断っちまった。
――かたくなね、とにこにこして道子が言った。母親が分らないといったその時の桂の気持が、彼女にはよく分る。大人には分らないのね、と気をよくしている。
――そう、本音を吐けば自画像はむずかしいのでね。それに僕はその頃アブストラクトの絵をやっていたから、急にリアリズムで肖像を描く気もしなかったし……。それやこれやで、何も厭な思いをしてまで旅費を貰《もら》う必要もあるまいと思って、とうとうパリへは行かなかった。
――やっぱりよく分りませんわ、と芳枝が呟いた。本当にかたくなな方ね、道子の言う通り。
――わたしには分ってよ、と道子がむきになって言うと、久邇の顔を見た。久邇も頷いた。
――芸術家というのはそうした変な奴《やつ》ですよ、と桂は眼を夜空の方へ向けながらぽつんと言った。しかしどうも自画像は気恥ずかしいな、今でも厭だ、だいいち描くような顔でもないし……。
それきり黙ってしまった。芳枝は素早い視線で相手を見る。夜の空に注がれている意志的な瞳《ひとみ》、暗い内容を潜在させて鎖《とざ》された唇。「描くような顔でもないし……。」この表情ひとつにさえ、昔の桂さんと何処か変ったものがある、と思う。が、どう変ったのか、何となく皮肉に、何となくシニックに、何となく憂鬱《ゆううつ》そうに、ただ変ったということの他《ほか》は分らなかった。花火が続けさまに鳴った。子供たちが振り返って見ている。芳枝は思い出したように、クリームのすっかり溶けてしまったコップにストローの先を入れた。
――あたしもパリへは行きたいけど、それ vanite《ヴアニテ》 じゃないかしら? と道子がまたしげしげと桂の顔を見詰めながら訊いた。
――絵かきの場合はそうでもないでしょう。
――どうして? 手でストローを玩具《おもちや》にしながらまた訊いた。
――そう……。
桂は新しい煙草に火を点けながら暫《しばら》く考え込んだ。また花火が空に散って、鮮《あざや》かな色彩の模様がふくれ上り、少しずつ、迅速に、夜の闇《やみ》の中に吸い取られた。桂は煙草を持った指の先で、花火の消えた空を指《さ》した。
――あの花火、あれを見ると悲しい気持がするとさっき僕が言ったでしょう。あれにはむずかしい火薬の知識や、調合の技術や、熟練などが必要で、それには常に危険を伴っている。鍵屋《かぎや》とか玉屋《たまや》とかいうのは、それぞれ門外不出の秘伝を伝えて、独特の芸術を創《つく》りあげたんですね。それで何カ月もかかって製作した花火を、両国の川開きなんかで瞬《またた》くうちにぽんぽん上げてしまう。美しいがはかない、或いは逆に、はかないが故《ゆえ》に美しい、ここに日本の芸術の一番普通の特徴がある、桜の花の散りやすいのを愛したのと同じようなね。そういうものは過去の芸術、或いは過去へ向っている芸術だと言えると思うんですね。日本人は仏教的な無常観と、儒教的な死生観とを、血肉の中に持っている、それが芸術の中にも色濃く出ている。例《たと》えば、茶室がそうでしょう、移ろいやすい材料を使って、謂わば冬の感覚の中に独特の雰囲気《ふんいき》を愉《たの》しんでいる。それは過去の集積した現在によって生きているので、未来はそこでは問題じゃない。庭もそう、西芳寺や竜安寺の庭を見てもそういうことを感じる。今の瞬間の重さをつくっているのは、対象と鑑賞者とが、それぞれ持っている過去の重さでしょう、石には石の重さ、苔《こけ》には苔の重さ、その生きて来た自然の長い時間が、庭を見る者の過去に微妙に作用して生じる一種の共感、つまり correspondances《コレスポンダンス》 なんですね。対象が対象なりに、人間とは無関係に、それ自身の時間を持っているので、それに与《あずか》ると与らないとは、見る人の持っている過去に由《よ》るわけです。俳諧《はいかい》も……、そういつか久邇君にちょっと話したが、俳諧にあるものはこの一瞬の美しさだが、その一瞬が季節の中に一定の秩序を保って位置しているということ、現在までに幾回も幾百回も繰返されて経験された過去があり、そうした季節感の無限の重なり合いの上に立っているということ、それがあって初めて現在の一瞬が、再びはないこの貴重な瞬間として生きて来るのでしょう。季《き》というものがある限り、俳諧は過去へ向っている芸術の代表ですね。他のものもみんなそうだ、茶の湯がそう、あれは impromptu《アンプロンチユ》 ……茶や花や絵や茶室などが、人間と一緒に演技している即興劇で、僕なぞに言わせれば生花なんかと同じに、現在の瞬間の中に溺《おぼ》れているデカダンなものですよ。……どうもお喋《しやべ》りしちまったが、肝心の絵はといえば、木造建築の中で絹や紙をつかって描いた絵が、同じように過去を向いているのは当然でしょう。それは人間的な生命の燃焼から生れたものではないから、アフロジットや聖母を画くことから始まったヨーロッパの絵画とは本質的に違っている。だから過去へ向っている日本芸術とすっかり縁を切って勉強するためには、パリへ行くのが必須条件だということになるでしょう。変な三段論法だけど、道子さん分った?
道子は眼を光らせて聞いていたが、直にこっくりした。
――伝統というものは、と桂は考えながら附け足した。そういう過去の堆積《たいせき》の上に立っているが、過去が常に洗われ、未来の方向に向けて新しく生れ変って行くのでなければ、それは何にもならない、ただの死んだものに過ぎない。日本の中世の芸術は、そういう意味ではルネサンスを経験してはいないんですね、だから鎖《とざ》された芸術で、未来へ向って開いてはいない。つまりヨーロッパの精神とは全く対照的なもので、そこから出発することは出来ないというわけですよ。
――分りました、と道子が頷いた。じゃ早くパリへいらっしゃれば? と単刀直入に切り込んだ。
――それはまあそうだが、と苦笑する。
――だったら何も、ぐずぐずなさることはないじゃないの?
――そう簡単には……。
――だってえ、どうしてでしょう? その方がいいのなら。
――道子、と芳枝がたしなめた。
――だってママン、あたしには分らないわ。
――それはね、もっと若い時に行けたらよかったんですよ、と沈んだ声で答えた。日本の芸術は過去へ向っているというが、僕という人間自身がやっぱりそうなんですよ。若い頃、まだ経験というものが固まっていない頃、もし行けたのならよかった。が、僕という人間が過去によって捉《とら》えられ、その制約の中から一歩も出られないとしたらね。もう遅すぎると言えるわけでしょう。
そう言った時の桂の顔がいかにも老《ふ》けて見え、それが芳枝にはひどく寂しく感じられた。「描くような顔でもないし……。」陽気にぽんぽんと心の中に木霊《こだま》していた花火が、残像の空《むな》しさを残して夜の闇に消えた。過去へ向っている、過去へ向っている、と芳枝は自分に呟いた。
――遅すぎるほどのお年でもないのに、と道子が言った。ねえ久邇さん?
桂はなおも苦笑を浮べて、久邇が真面目《まじめ》な顔で頷き返すのを見ていた。
――芸術家に年齢はない筈《はず》よ、とまた気取って言った。
――経験というものは、それ自身未来へ向って開かれている筈なんですよ、と桂は言った。それでいて初めて経験が生きて来る。が、僕のような場合には、経験は一つ一つが死んだもので、その廃墟《はいきよ》の上に死んだ経験がまた積み重なる。そんなものがいくら重なったところで、足場そのものが死んでいるんです。だから僕にとって新しい、未知の経験というものはない。或る固定した観念が先にあり、あらゆる経験が、僕自身の過去を確かめるためにしか発生しない。だからどうしても駄目なんですよ。一日一日が過去の連続にすぎない。……だから久邇君なんかを見ていると、経験が常に新しい糧《かて》で心が未来へ開かれていることが分るから羨《うらやま》しい、僕なんかにはもう新しさというものがないんだから……。
ふと話しやめて耳を澄ませる表情をした。何処かで、恐らく通りのラジオ屋からでも聞えて来るのだろう、ピアノの旋律がゆるやかに響いている。一瞬、放心したように、眼を閉じた。
――ああ「月光」だ、と久邇が呟いた。無意識にテーブルの上に置いた左手の指が動いている。
桂が眼を開き、頷いた。
――奥さん、あの曲を覚えていますか?
――何をでしょう?
分らないという表情をした。
――いやいいんです。……「月光」か。僕はこの曲を聞いていると一つのことをしか考えない。つまりそれが僕の |idee fixe《イデ・フイクス》 です。いい音楽というものは聞けば聞くほどよく感じる筈なのに、それが新しい経験にならない、昔考えたことを思いかえすだけなんですよ。
――何を考えるんですか? と久邇が訊いた。
――なに、埒《らち》もないことさ……。それから急に熱心に話し掛けた。あの曲は君、どういうものだろう。色んな伝説があるだろう、僕|等《ら》が小学校の読本《とくほん》で習ったところでは、何でも盲の女の子がピアノを弾《ひ》いてるとこへ行って、ベートーヴェンが窓から射《さ》し込む月の光に感興を得て創ったというし、それから何とかいう詩人の、瀕死《ひんし》の父親のために祈っている乙女《おとめ》の詩に暗示を得て創ったという説もあるし、それに、あの頃ベートーヴェンが恋仲だった伯爵令嬢への失恋がもとだという説もある、……どうもどれも大して本当らしくはないやね。
――そんなことどうだっていいのじゃありませんか? と小さな声で久邇が言った。
――そうさ、だから僕も僕なりに解釈を下しているのだ、それはね、こういうんですよ。……第一楽章は人間が生れる前の虚無の世界を表している。そこではすべてが死に絶えている、そこへ天から一条の微《かす》かな光が落ちて来る、ただの月の光じゃなく、もっと神秘的な、もっと宇宙的な、一種の生への意志のような光だね、それが氷と石とで出来た荒涼たる虚無の上に爽《さわや》かに落ちて来る、……という印象なんだ。
――確かにそういう感じはありますね、それから?
――節二楽章は、たしかリストが「二つの深淵の間に咲いた一輪の花」と名づけたものだ、これは天上の楽園だと思う、つまり人間が嘗《かつ》てそこに暮した生活へのおぼろげな記憶だ、華《はなや》かに、そして短い。清純なものへのあこがれ、幸福と陶酔、……それから引き続いて第三楽章の presto《プレスト》 になる。あの早い、絶望的な調子、そこでは二つの主題が生と死とを表している。現世のはかない愉しみへの執着と、荒々しく訪れる死の恐怖と、ね、この二つの主題が代る代る人間の魂を引き裂くのだ、謂わば、生は疾風のように過ぎて行く、死は深淵のように呼んでいる、そういう感じ、しかし最後に、死が勝って、再び人間はもとの虚無の中へ沈んで行くのだよ。どうだい、こういう解釈は?
――面白いんですね、それが、桂さんがいつもお考えになることなんですか?
――いや、若い頃にこういうことを思いついたのだ。こんなロマンチックなことを考えながら、「月光」を聞いていられた頃はよかったと思うのさ。
桂はゆっくりと煙草をふかした。曲は第二楽章へかかった。表のざわざわした響きに混ってよくは聞えて来ない。花火もいつのまにか終ったらしく、喫茶店の内部もまばらに席が空《あ》いた。芳枝が軽く溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
――わたくしも昔あの曲を弾きましたわ。
――そうでしたね。そう言えば久邇君、と呼び掛けた。いつか君のピアノを聞きたいものだなあ。聞かせてくれる?
――ええ、いつでも、とにこにこした。
――わたくしも昔は上手《じようず》に弾けたものだけど、と芳枝が言った。
――桂さんの |idee fixe《イデ・フイクス》 て何でしょう?
さっきから黙っていた道子が、急に、脅《おびやか》すように訊いた。ストローを細かく千切り終って、その一つ一つをおはじきのように指の先ではじいている。
――そうね……、と言ったなり答えなかった。
――何?
――そう言えば、と芳枝が助太刀《すけだち》を出した。亡《な》くなった主人なども美しさということをしょっちゅう口に出していましたわ。美はこの手の中にある、どうやったらそれを掴《つか》み出せるか、なんて。どんな時でも、美しいと叫ぶと止《とま》ってしまうんですの、子供みたいに。髪などを梳《けず》っていますと、そのままで、なんて註文して、二十分ぐらいもじっとさせておくのですものねえ。
――美か、しかし三枝君もただ美しさにだけ憑《つ》かれていたわけではないでしょう?
――ええ、むずかしいことは分りませんでしたけど……。
――芸術家を捉えているものが、ただ芸術的な命題だけだったら楽なんですよ。人間的な苦しみがそこに混って来るから、それで芸術と人生とに心が分裂してしまうんでしょう。
――お得意ですのね、芸術家と人間とは違う、ですか?
――あたしそんなの分らないわ、と道子がまた鋭く口を入れた。
桂はゆっくりその顔を見た。
――例えばね、芸術家はその作品のために非人情なことを要求される場合もあるでしょう、それを人間としてあまりに同情的だったら作品は完成しない。モデルが風邪《かぜ》を引きやしないかと心配ばっかししていたら絵なんか出来やしないんだから。
――ふうん、と、腑《ふ》に落ちぬ顔をした。
――だから三枝君だって、とまた芳枝の方を向いて、必ずしも芸術のことばかりが気になっていたわけでもないのでしょうね、芸術のために一層人生が苦痛になることもある。三枝君のようにひたむきに勉強したら……。
芳枝は話題が亡くなった主人の上にたゆたっているのを後悔した。それを言い出したのは自分だった。子供の前では、そういう話はしたくないと思い、さりげなく言葉を入れた。
――如何《いかが》でしょう、そろそろ出掛けません? そして附け足した。もう花火もすっかり終ったようですわね。
道子はちらっと素早い視線で母親を見たが、何も言わなかった。桂さんがちっとも自分とは話してくれず、ママンや久邇さんとばかり議論をしているのがとても癪《しやく》に障《さわ》っていた。母親も気に入らないし、久邇さんも気に入らない。ぷりぷりして真先に階段を下りた。ラジオ屋の大きなスピーカーから、「月光」の第三楽章が聞えて来る。早い旋律。「生と死とを表している二つの主題……。」人の出は来た時ほどではないが、露店の廻りに人が渦を巻いているからなかなか歩きにくい。「疾風のように過ぎて行く、深淵のように呼んでいる……。」道子は一人でさっさと歩き、ふと金魚鉢《きんぎよばち》を並べた露店の前で立ち止ると、吸いつけられたようにそこへ近寄った。
2
大きな水盤の上に電燈の灯が明るく映り、水が揺れる度《たび》にきらきらと光った。身体《からだ》を水盤の上で泳がせるようにして、小さな手網で金魚をすくっている人たち。子供が悦《よろこ》んできゃあきゃあ騒いでいる。
――何を見てるの?
久邇が肩越しに首をすり寄せた。道子は子供たちの横で硝子鉢《ガラスばち》の中を睨《にら》んでいたが、振り返って、ちょいと頤《あご》でくねくねと泳いでいる金魚の方をしゃくった。
――これも過去へ向っているのよ、と皮肉に言った。
――綺麗《きれい》だなあ、と久邇は文句なしに感心する。
――なに、不自然だわ、とけなす。さっきはこれを一つ絵に描いてみよう、画面いっぱいにうんと deformer《デフオルメ》 したら人間の怒った顔みたいで面白いな、とそんなことを考えていたのだが、久邇を前にしてはそう簡単に手のうちを見せるわけには行かない。
しかし久邇はうっとりと、蘭鋳《らんちゆう》のしなやかな動きを眼で追っている。
――グロテスクだわ、よく見ると、とまたけなした。
久邇は道子に、悪口屋さん、と言い返した。二人は笑った。
道子の心の中で、さっきからの怒りっぽい気持がすっと引いて行く。また歩き出して、通りに母親と桂との姿が見当らないと知っても、そんなには驚かない。
――もっと先かしら?
二人は足を早くして散歩の人たちを追い抜いた。それでも道子は次第に気のない歩きかたになる。久邇さんよく探《さが》してみて、と言いながら、自分の方はどうでもいいような顔をした。
――駄目だ、きっと海の方へ逸《そ》れちまったんだよ。
久邇ががっかりして側《そば》へ戻って来るのを待っていたが、ちょっと頷《うなず》き返して、戻ってみましょう、と先に立って歩き出した。ぶらぶらと石などを蹴《け》っている。
――僕たちそんなに道草をくったのかなあ?
――そうじゃないのよ、と謎《なぞ》のような微笑を浮べて、言った。
二人は夜店をひやかしながら時々|埒《らち》もないお喋《しやべ》りをしていたが、岐阜提燈《ぎふぢようちん》の並んださっきの喫茶店の前まで来ると、道子の足がぴたりと止った。
――疲れちゃった。ねえクリームソーダをもう一杯飲まない?
そう言って悪戯《いたずら》っ子《こ》らしく唇《くちびる》を尖《とが》らせた。久邇はなあんだと思った。
――うん、いいなあ。だけど僕お金を持ってないぜ。
――お金? お金|要《い》るかしら?
久邇はきょとんとして道子の取り澄ました表情を見ている。構わずに先に立ってとんとんと階段を昇った。二階は一層|空《す》いて来て、まばらにしか客がいない。さっきのボーイがにこにこ顔で二人に挨拶《あいさつ》した。
――クリームソーダを二つ、と註文してから内緒話のように声を小さくして、でもね、わたしたちお金ないのよ、それでもよくって? と訊《き》いた。
――はあ、この次で結構です。
ボーイは一つお辞儀をして引き下った。道子は得意そうににっこりした。
――本当にどうしたんだろうね、小母《おば》さんたち? 久邇が神経質に眉《まゆ》をひそませている。
――ママンのことなんか放っておおきなさい。
――そうだ、桂さんが一緒だものね、心配ないや。
――あら、バカね、と嘲《あざけ》った。だから心配なんでしょう?
――え、なに?
――分らない人はいいの。
道子はボーイの持って来たコップを自分の方へ引き寄せた。それから二人は鼻をつき合せてそれぞれのコップにストローを入れ、すっかり子供っぽい表情になって咽喉《のど》をごくごくいわせた。
飲み終るとさっさと店を出て、二人はまた大通りをぶらぶら歩いた。暫《しばら》く行ってから、二人は何となく海の方へ曲った。道が暗く、海からの風が次第に涼しくなる。防風林を抜け終ると暗い海が平らにひろがり、星明りをほんのりと映していた。遠い岬《みさき》の旋光燈台が、時間を置いて、薙《な》ぐように一条の光芒《こうぼう》を投げ掛けた。あたりはひどく静かだった。
――さあ、遅くなるからもう帰ろう? と呼び掛けた。お宅まで送って行ってあげるから。
――まあ偉ぶってる。
――だってもう遅いぜ。
――久邇さんたら早く帰ってピアノを弾《ひ》きたいんでしょう?
――そんなことはないよ。
――どうだか……。
道子の御機嫌《ごきげん》がまた悪くなった。ママンが何処《どこ》かこの辺にいらっしゃる筈《はず》だ、と考えている。が、眼を凝しても二人の姿はさっぱり見つからない。何処かしら、どんなお話をしているのかしら?……意識の面《おもて》に、眼鏡を掛けてないママンの華《はなや》かな顔が浮び、それに桂さんの沈んだ表情が重なり……。「生が呼び、死が答える。」遠いとこを見ている眼、困ったような微笑。……大人たちには秘密がある、と思い、ママンのことが口惜《くや》しく思いかえされる。パパのお話になったら、もう出掛けましょう、なんて。大人は何を考えてるんだかさっぱり分りはしないわ、裏に裏があるんだから、いつだって。わたしはもっとはきはきしたのが好き、もっと純潔で、綺麗《きれい》で、……でもあんまり綺麗ごとじゃねえ、久邇さんなんてほんとにまだ子供なんだから。大人たちってのはどういうふうに話すのだろう、そうっと聞けたら面白いな。でも、教えて下さいって頼むわけにも行かないし。本当に桂さんたら、わたしには何も教えて下さらないんだから……。
砂浜をさくさくと跫音《あしおと》を立てて歩いた。波打際《なみうちぎわ》まで行って、ちょっと足を濡《ぬ》らしてみよう、と独《ひと》り言《ごと》を言いながら、靴を脱ぎ、ソックスを取って靴の中へ入れた。
――大丈夫? と久邇が心配そうに訊《き》く。
――平気よ。
どんどん水の中へはいって行き、ああいい気持、と叫んだ。スカートの端を両手で引き上げている。旋光燈台の灯が、一瞬まぶしくその後ろ姿を浮び上らせた。しかたなしに久邇の方も靴を脱ぎ、ズボンの裾《すそ》を折って、側まで歩いて行った。夜の水が足にこそばゆい。
二人はそうして沖の方を向いて立っていた。波のしずかなざわめき。そして時々のまぶしい燈台の灯。
――どうしたの? と訊いた。
道子は黙っていた。久邇は何だか不安になってその肩にそっと手を掛けた。少女は逆らわなかったから、その身体が抱かれるように久邇の胸に凭《もた》れかかった。暫《しばら》くの間そうしていた。
――あたし寂しいのよ、とぽつんと言った。久邇の胸がどきどきし始めた。どう言ったらよいのか分らなかった。
――……ママンたらまるであたしのことなんか考えて下さらないんだもの、と甘え声で言った。ママンはまるで夢中なのよ。
――何に?
へまなことを訊いたらしい。道子はまた黙り込んでしまった。久邇は抱いている手に少し力を入れた。
――あたし本当に一人きりなのよ、と暫くしてからまた言った。
――大丈夫だよ、僕が附いてるから。
――久邇さんが? ちょっとひやかすような声、そして急に、あなたあたし好き? と訊いた。
やっぱりそうだ。久邇の胸の鼓動が一層早くなった。さあ大変だ、色んな言わなければならない言葉、何度も復習して用意しておいた言葉が舌の先でもつれ合い、心臓が早く早くと急《せ》き立てた。が、肩を抱いた手に力がはいっただけで肝心の返事は生れて来なかった。
――好き? ともう一度訊いた。
――そんなの……当り前じゃないか、と漸《ようや》く答えた。
――じゃどのくらい? どのくらい好き?
――どのくらいたって……。
――厭《いや》、そんなの。
――誰よりも好きだよ。
――本当に? ママンより好き?
――勿論《もちろん》だよ? 小母さんはだって……。
――桂さんは? 桂さんより?
何でまた桂さんなんだろう、びっくりした。道子の方でも自分の質問がおかしくなる。大人たちならば、こんな間の抜けたようなことは言い合わないだろう。久邇さんたらまるで子供なんだもの。
――あたしのためなら何でもしてくれる?
――勿論さ。
――じゃピアノやめられる?
いらいらした声で訊いた。久邇はさっと蒼《あお》くなる。それは彼のアキレスの踵《かかと》だった。大事なピアノをやめる……、それが出来ないことは道子さんだって百も承知の筈なのに。どうして僕をそんなに苛《いじ》めるのだろう、ピアノが好きなことと、道子さんが好きなこととは、全然別の話なんだからなあ。
そうは考えても、しかし結局は負けてしまった。
――僕、何でもするよ、と蚊の鳴くような声で答えた。
道子はまるで聞いていないように、そんなことはもうどうでもいいように、黙っていた。スカートの端を両手の指の先でつまみ、肩を抱かれたまま大人《おとな》しくそこに立っていた。やや暫く経《た》ってから、少し掠《かす》れた声で言った。
――久邇さん、好きになった時どうするのか知ってる?
久邇の頭の中で血が一層騒いだ。波の音、波の音。ちぎれちぎれに幻想が走った。そして道子の顔は、頬《ほお》の触れるほどほんの側にいながら、暗闇《くらやみ》の中では仮面のように暗かったし、旋光燈台の灯の中ではやはり謎のようだった。いま、いま、大事なことが決定する、と考える。そんな冒険をしてもいいかしらん、ひょっとしたらすっかり駄目にしてしまうかもしれない冒険? 機会はいつでも危険を含んでいる、近代の楽曲が不協和音を含むように、……そんなつまらない聯想《れんそう》。
――おバカさんねえ、と言った。
再び旋光、……道子は眼をつぶり、心もち久邇の方へ顔を近づけた。通った鼻筋、ふくよかな頬、少しおしゃまに尖った唇。燈台の灯が久邇の意識の内部を照して、素早く過ぎ去った。そして暗闇。
久邇は顫《ふる》える手に力を入れて少女の身体を抱き寄せた。道子の小さな唇にそっと自分の唇を当てた。仄《ほの》かな甘い馨《かお》り。あ、いま僕は空を飛んでいる、という短い意識。ああもう永遠に、永遠に……。
道子は背中に廻された久邇の手を押しのけるように、さっと暗闇の中へ身を引いた。久邇は思わず赧《あか》くなった。次の燈台の灯が道子の身体を照した時、彼女は渚《なぎさ》の方へ歩きかけていた。
――スカートを濡《ぬ》らしちゃったわ、と拗《す》ねたように小さな声で言った。
3
道子たちが金魚屋の前にいるのをちらっと横眼で眺《なが》めながら、そのまま知らん顔で芳枝は歩いて行ったが、桂の方はぼんやりと古い友達のことを考えていたから、何も気がつかなかった。三枝太郎、……古い親しい友、あの黴《かび》くさい高等学校の寄宿寮で初めて言葉を交《かわ》し、直に心と心とを許し合うようになった昔の友。気立のいい奴《やつ》で、絵もうまかったし、頭脳も明晰《めいせき》だった。色んな点で自分を啓発してくれ、お互に何ひとつ隠さなかった。荒巻芳枝を紹介してくれたのも彼、僕が高等学校を「横」に出て絵の方に専心した時に、いつまでも面倒を見てくれたのも彼だった。三枝太郎、そのやや貴族的な、端正な顔だちが、いまも眼の前に浮んで来る……。
――海の方へ参りましょう、と芳枝が言った。
……たった一つだけ彼に隠したこと、それは荒巻芳枝への自分の愛だった。三枝が芳枝さんを愛していることを承知していながら、青春の燃え立つ焔《ほのお》は消すすべがなかった。僕もまた愛した、その人を、十九歳の芳枝さんを、今この僕の側《そば》をやや急ぎ目に歩いているその人の昔の姿を。そしてその年の夏、芳枝さんの心にあるのが、自分ではなく三枝だということを知って、僕は二人の側を離れて行った。三枝はこの人と結婚し、外交官としてパリへ行き、絵かきになり、そしてあっけなく死んでしまった。そういうのが人間の運命なのだろう。極《きわ》めて簡単なことだ。が、もしこの人と結婚していなければ、三枝の運命の軌跡ももっと別のように引かれていたかもしれぬ。もしこの人の愛を失わなければ、この僕にももっと別の生きかたがあったかもしれぬ。この長い時間が、すべて空《むな》しかったということは出来ないだろうが……。
――もう大丈夫、もっとゆっくり歩きましょう……。
――何が?
二人は防風林の中を歩いていた。芳枝はちょっと微笑を見せたがそのわけは桂には分らなかったし、また気に留めて考えようともしなかった。同じ一つの疑問へと帰って行った。
――三枝はどうして死んだんでしょうね?
――自動車事故で亡《な》くなりましたのよ、ドライヴをしていながら、乗っていた車が顛覆《てんぷく》して……。軽い口調で言った。彼女の着ている縮《ちぢみ》の着物の細縞《ほそじま》の模様が、桂の眼の隅《すみ》に滲《にじ》んでいる。
――それは知っています。ただ……それで自分で運転していたんですね?
――ええ。サラーという女を乗せて……、とやや渋った声で返事をした。
――じゃその人も?
――サラーは即死でした。太郎の方は病院まで息がありましたけど意識は恢復《かいふく》しませんでした。
――そのサラーという人は? もし失礼でなければ?
――サラーですか?
芳枝は軽く溜息《ためいき》を洩《もら》した。気分が次第に暗く沈んで来た。二人はだらだら坂を登って、やがて夜の海の見える砂丘の上に立った。
――……サラーはモデル商売の女で、ユダヤ系の、眼のさめるような金髪の美しい人でした。まだ若くて、少しすれてはいましたけど画家仲間では引張りだこでした。太郎は最初のうちわたくし一人をモデルにしていたのですが、お役所をやめてから絵の方も少しずつ行き詰って、それでサラーを描いてみる気になったのでしょうね。……昔の話ですけど、太郎は誰からでも好きになられるタイプで、ちやほやされると自分の方でも直に夢中になってしまいます。サラーの方も……向うの女《ひと》というのはみんなああなのでしょうか、自分の感情をあからさまに示して遠慮というものがございませんわね、サラーは誰の前でも、わたくしの前でも、太郎が好きだと公言するくらいでしょう、とても露骨なんですの。わたくし、あの頃、とても不幸でした……。
桂は頷《うなず》いた。二人の前の黝《くろ》ずんだ海の向うで、遠い岬《みさき》の旋光燈台が明るい光の穂を廻転させる。光の早い流れが時折二人の姿を洗って過ぎた。
――わたくしはとても不幸でした、と繰返して言った。……道子がいましたけどまだ小さかったし、わたくしは本当にひとりぼっちでした、パリの中にひとりぼっちで投げ出されて、どうしていいものやら……。
――しかし、あなたは三枝を愛したのだから、とやや強い声で言った。
――それは愛してはいました。勿論《もちろん》サラーなどと違って、しんからあの人を愛してはいました。それでも、愛しているから不幸な場合だって、ないわけじゃございませんでしょう?
――そうですよ、愛していることは不幸なことですよ、と今度はもう落ちついた、つめたい声で答えた。で、あなたは三枝のために今でも独《ひと》りなんですか?
――いいえ、あの人を愛していたのはみんな昔のことですわ、今ではもう……惰性で生きているとでもいうのでしょうか。
二人は燈台の方向を向いて立っていた。光がゆっくりと廻《めぐ》って来る度《たび》に、波の静かな海原の上に白い光道が走り、燈台の位置を明かにしてまた暗闇《くらやみ》の中に消えた。過ぎて行く時間を示すのは、ただこの一筋の明暗の交替ばかりだった。
――桂さん、あなたはどうしてお独りなの? と今度は芳枝が訊《き》いた。
――僕ですか、僕もどうやら惰性で生きているからでしょうね。
そのまま二人は黙ってしまった。桂の前に十五年前の夏の思い出がゆるやかに旋回する。十五年前、その頃はまだ若かった、若くてひたむきだった、と思う。芳枝さんに招《よ》ばれて、三枝と高遠茂との三人づれで、ここの宿屋に泊っては、毎日のように荒巻家へ遊びに行った。まだこの人のお父さんも生きていたし、万里子さんというお友達もいた。皆が陽気に騒いで、泳いだりボール投をしたりした。夕食を荒巻さんのところで招ばれて、そのあと芳枝さんのピアノを聞いたりもした。そしてあの晩、芳枝さんが弾《ひ》いたのは「月光」だった。僕は無心にあの曲に耳を澄ませていたものだ。曲が終ってから、一人で庭へ出てぶらぶらした。そして木立の中で、ふと、芳枝さんと三枝とが話をしているのを聞いてしまったのだ。月が出ていて、三枝の大きな手が芳枝さんの背中に廻されていた。ああ、あれを見さえしなかったならば。あの大きな手、草の上に落ちていた団扇《うちわ》。地面の底に吸い込まれて行くようだったあの時の気持……。
――芳枝さん、と呼んだ。
――はい。
何も言うことはなかった。しかし暗闇の中で自分の方を向いているらしい芳枝の顔を意識すると、何か口に出さなければならないと感じた。折からさっと光が薙《な》ぎ、桂はじっと待っている相手の表情を見た。
――……ボードレールに「燈台」という詩があるんですがね、と話し掛けた。
――「燈台」?
――ええあの燈台ですよ、昔もここへ来て、あの燈台の灯を見ていたものだ……。それでボードレールの詩というのは、ヨーロッパの偉大な画家たちを歌ったものですがね、覚えていませんか、「ルーベンス、忘却の河、懶惰《らんだ》の苑《その》、」というのが最初の一行で、レンブラント、ゴヤ、レオナルド、ドラクロワ、なんかを一|聯《れん》ずつ歌っている、その最後にね、こうした偉大な芸術家たちは幾千の砦《とりで》の上に点《とも》された燈台だと言っているんです、人間の dignite《デイニテ》 を示す最上の証拠だと。僕もね、昔、ここでこうやって燈台の灯を眺めながら、そういうことを考えていました。偉大な芸術家は人類の燈台だと思って、自分もまたそうした画家になろうと考えていたんです。あの頃は若かった……。
――でも今だって……。
――今はどうかな? 昔は生きるのが厭《いや》になった時でも、この芸術の道にだけは希望があったんです、人生に絶望しても芸術には夢があった。が、今では芸術に絶望して、それでまだ惰性で生きているんだから……。
――どうして御自分の芸術にそんなに絶望しておしまいになったのかしら? あの頃よりずっとお上手《じようず》におなりになったんでしょうに?
――それはね、一種の宿命みたいなものでしょうね、僕たちの生きているこの因襲的な日本、伝統のないこの後進国、野蛮で、粗野で、羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》と野心しか知らない人間がうようよして、戦争好きの軍人たちが威張っている国、これが日本ですよ、そういう狭い框《わく》の中で、良心的な芸術家がどうやったら生きて行けるんです? ……生活の苦しいのは我慢も出来る、が、軍の鼻息をうかがわなければ絵具にさえこと欠くようなところでね。サーベルをぶら下げて、シナへでも従軍して出掛けて行けば、行ける奴《やつ》は、それでもいい。山の中へ引き籠《こも》って好きな絵だけ描ける身分ならそれでもいい。しかし僕のような貧乏画家はまず飯も食わなきゃならないし、……とても十九世紀の「|詛われた詩人《ポエツト・モーデイ》」のように、屋根裏部屋で餓死するわけには行かないんだから。
桂はぽつんと話をやめた。燈台の灯の中で、芳枝は波打際《なみうちぎわ》に道子たちの姿を見たように思った。はっとして、もう少し歩きましょう、と呟《つぶや》いた。二人はさくさくする砂丘の上を踏んで松林に沿って歩いた。跫音《あしおと》が近づくにつれて、松の根元の草叢《くさむら》で虫の音がそこだけ暫《しばら》くやんだ。
――三枝だって苦しんだでしょう、と呟いた。
――あの人は……お坊っちゃんでしたから、自分のためにだけ仕事をして……ほんとに自分本位で……。
――そう、あいつは我《が》の強い奴だった。金持の息子《むすこ》だし、好きな人とは結婚したし、パリへは行ったし、……それでも三枝が苦しまなかったとは言えないと思いますよ。
――ですかしら?
――奴には奴の苦しみがあったに違いない。芸術家というのは必ず苦しむように生れて来ているんです。
――でもあの人は、わたくしの半分も苦しまなかったような気がしますの。低い声で言った。
苦しむことを知らない芸術家というものはない、と同じことを桂は思い続ける。三枝は苦しんで死んだ。自動車が顛覆したというのは、恐らくは一種の自殺行為だったのだろう。しかしその原因は、もう永久に突きとめることが出来ない……。
――人には皆苦しみがある、と独《ひと》り言《ごと》のように呟いた。三枝には三枝の、あなたにはあなたの、僕には僕の……。
芳枝は頷いた。気分がますます暗く沈んで来た。立ち止り、海の方を見た。燈台の灯が、心の中の思い出を照し出して、素早く過ぎた。
――わたくしはきっと間違っていたのでしょうね? と訊いた。
――何がです?
――昔のことですけど、……わたくしはあなたという方とお近附になって、芸術というものの厳《きび》しさが怖《こわ》いように感じられました。あの頃のあなたはただ一途《いちず》に芸術に奉仕していらっしゃった、恋人よりは芸術の方を大事になさる方だとわたくしは思いました。それだから……。
――それだから三枝と結婚したんですか? 言いようのない味の苦さを舌の上に感じながら、桂は訊いた。
――その頃は太郎がわたくしにふさわしいように見えました。あの人は何でも屋で、見栄《みえ》ぼうで、そりゃ人の気を惹《ひ》くのが上手でした。それに若い娘なんて、賢いように見えても愚かなものですわねえ、未来の外交官だって魅力だったし、……でも結婚してから、あの人はわたくしが子供の時から待っていた理想の良人《マリ》ではないことが分りましたわ。
――誰だって結婚すればそういうことが分るんですよ、仮に僕と結婚していれば一層苦しんだだけですよ。
――いいえ、苦しむのはいいんです、ただわたくしはもっと真面目《まじめ》に生きたかった、もっと本当に、もっと中途半端《ちゆうとはんぱ》でない本当の生きかたが欲しかったのです、もっと本当の自分で、愛したり愛されたりされたかった……。
――しかし芳枝さん、……
――あなたはなぜあんなに不意にいなくなっておしまいになったのでしょう? わたくしには分りませんでした、いつまでもお友達でいられると思っていましたのに……。
――あなたが三枝と結婚してもですか?
――そんなにあの人のことばかりおっしゃらないで。それはわたくしがバカだったのですわ。
――そんな筈はない、三枝はいい奴でした。あいつを選んだのは当然ですよ。
――いいえ、間違いでした。パリへ行ってから気がつきました。何度も、昔のことを、あの夏のことを、思い出しました、でももう遅すぎたのです。
本当にそうなのだろうか、という疑問が桂の心の中に揺れている。この人はそんなに僕のことを考えてくれたのだろうか。これは一時の沈んだ気分が言わせている言葉ではないのだろうか。それを信じたい心と打消す心と、そして常に疑う癖のついている自分への憐《あわれ》み。
――しかしね、芳枝さん、と諭《さと》すように言った。結婚というのは一つの生きかたの決定ですからね。そういう生きかたを選んだのだから、その苦しみはあなたの責任でしょう?
――でもわたくしは責任を果しました、……もう太郎はいませんわ、死んだ人はもうわたしたちとは何の関係もありませんわ……。
わたしたちという言葉を、無意識に、誘うように、発音した。微《かす》かな吐息が単調な波の音に混った。すぐ足許《あしもと》で虫が鳴いている。そしてあたりは一層静かだった。
――あなたはなぜこんなに不意にいらっしゃったの? と急に肩をすり寄せて、訴えるように訊いた。なぜ? もうお忘れになったものと思っていましたのに……?
――それは、と言って声を呑《の》んだ。
――ゴーギャンを御覧になりたいためでしたの?
――ゴーギャン?
思わずびっくりした声だったので、芳枝は微かに笑った。お笑いになっては厭、と自分で言いながら、思い出し笑いのようにまた口をすぼませた。桂はそれを可愛《かわい》らしく感じた。
――なぜ今までずっといらっしゃらなかったの? と訊き直した。
――それはね、もうお会いしないつもりだったんですよ。……あなたが三枝を愛していると知ってから、もう僕の出る幕はないじゃありませんか。
――でもいらっしゃったわ、と安心したように呟いた。
――そう、来ない方がよかったのかもしれない。結局は何にもならないんでしょうがね。
――いや、そういうおっしゃりかた。でも、本当に、またお会い出来たなんて、……お忘れになったのではなかったのね?
――忘れる筈はありません。
――じゃ、なぜもっと早く来て下さらなかったのかしら?
――だからもうお会いしない決心だったのです。それなのに……。
――それなのに?
――つい決心がゆるんだのでしょうね、もう何もかも行き詰って何処《どこ》へも帰るところがなくなった。だから、ふとあなたのことを思い出したのでしょう。
――何のために?
――生きるためにとでもいうんですか……。
――それでどうなのでしょう、わたしという女は?
息を早くして娘のような熱心さで訊いたが、桂は苦い微笑を浮べただけだった。みんな空しいことだ、と思っていた。絶望した人間が、すべてを捨て去る前に、もう一度、もう一度だけ、昔の恋人に会ったところで何の役に立とう。僕の中の幼いもの、僕の中のロマンチックなものが、過去の夢をもう一度追い求めさせてここまで僕を引張って来たとしても、僕にはもうそうした夢を信じる力はない、この人にも恐らくはもうないだろう。時間は無駄に過ぎたわけではなく、人間は無駄に年を取ったわけではない。無駄に?…… あの昔の、耀《かがや》かしいパトス、パトスの中に身も心も忘れはててしまう烈《はげ》しい愛、それがもう一度僕のものに、この人のものに、なる筈がない。恐らくすべてはもうとうに終っているのだろう。もう一度お浚《さら》いをしてみたところで、時間が洗い流した純情や、希望や、情熱を、二度と取り返すことは出来ないだろう……。
芳枝はすぐ側にいて桂の表情を見ていた。燈台の灯に照されて桂の唇《くちびる》の上に認めたわずかの微笑も、次の旋光の時には冷たい灰のように死んでいた。画家が何を考えているのか、彼女には分らなかった。ただ、暗く悲しげなものが彼女の心に伝わって来た。
――ねえ桂さん、とそっと呼び掛けた。……あなたはいつだったか希望することは殆《ほとん》ど生きることだとおっしゃったじゃありませんか? もう一度希望することは出来ないのでしょうか?
――しかし僕のようなものが……。希望といっても手の中に捉《とら》えられないようなはかないものなのに。
――でも、生きることは出来ますわ。ねえ、桂さん?
芳枝は悲しげな張《はり》を持った声で訴えた。その声が痛いように桂の心の中を貫いた。これが昔と同じあの芳枝さんなのだろうか、と疑う。あのさっきまでの、あのちょっとよそよそしいような奥さんと同じ人なのだろうか。桂の意識に、昔の、若々しくはずんだ声をした、快活な少女の面影が浮ぶ。そして十五年の歳月、その間に二人を別々に遠ざけてしまったもの……。
――もう遅すぎるでしょうよ、と呟いた。
――いいえ、いいえ、と必死に喘《あえ》いで言った。そんな筈はありませんわ、今からだって、今からだって……。
――しかし、僕という人間は、いい意味でも悪い意味でも芸術家の端くれです。芸術家という奴は厳しすぎるほど厳しい生活を持っているんです。あなたには、芸術家の内心の怖《おそ》ろしさがきっと分らないでしょう。あなたには夢であることが、僕には苦しみなんですよ。
――それは分っています。それでもわたしは、きっとあなたのお仕事のお手伝いが出来ると思いますの、きっと。
――しかし、あなたが三枝を愛せなくなったのは、三枝が外交官をやめて芸術家になったからじゃないんですか? もしずっと外交官だったなら……。
――それはあんまりです。
声と共に、しゃくり上げるように泣き崩《くず》れた。桂は茫然《ぼうぜん》として彼女を見詰めていた。
芳枝は顔を両手で隠すようにして、子供のように泣いた。燈台の明りが当ると、その髪が波のように揺れてつやつやと光った。桂は、芳枝さん、芳枝さん、と急いで呼び、両腕で抱《かか》えるように彼女の肩を抱き寄せた。引き寄せられるままに、なおも、あんまりです、と微かに呟きながら、芳枝の身体が桂の胸に縋《すが》りつき、そこに頭の重みを投げ掛けて来た。桂はじっと彼女の肩を抱き締めた。
その間に、芳枝の身体の暖かみが掌《てのひら》に伝わって来るように、生きることの仄《ほの》かな愉《たの》しみのようなものが彼の心の中にも次第にふくらみ始めた。僕にこの人を苦しめる権利はない、と彼は思った。こんなにも身を投げ出して僕のために生きようと言ってくれる人、その人は、昔僕が死ぬほどに愛し、その愛のため自らをも殺しかねなかった、その同じ芳枝さんなのだ。あの青春の暗い日々に、ただこの一つの灯《ともしび》がどんなに僕を暖めてくれたか……。
――芳枝さん、といたわるように呼び掛けた。昔の僕にとって、あなたという人は灯《ともしび》だったんですよ。しかし、その灯《ひ》はもう消えてしまった……。
芳枝が顔を起した。涙に濡《ぬ》れたその顔を燈台の灯が照し出した。
――いいえ、光はまた返って来ます、と喘ぐように呟いた。あの燈台の光のように、また……。
暗闇になってもその顔はすぐ側に残像となって残った。涙と白粉《おしろい》との入り混った甘美な匂《におい》がした。そうだ、もう一度生きることは出来るだろう。早い決意が桂の頭脳の中で一種の幸福感と混り合った。必ず生きることは出来る……。そして芳枝の言葉のように、燈台の灯はまた返って来た。その中で、芳枝は眼を閉じ、わずかに唇を痙攣《けいれん》させた。
燈台の灯が過ぎ去った時に、桂はその唇に接吻《せつぷん》した。すべての時間が止り、芳枝は無抵抗に、しかしその唇にあらゆる言葉を含めて、桂の情熱の中に身を委《ゆだ》ねた。桂の手が、左手は深く肩を抱き、右手は背中から腰の上に滑った。その時、一瞬の記憶が、ふと、情熱を中断した。芳枝の背中の上に置かれていた大きな手、地に落ちた団扇《うちわ》……。
しかしそれは一瞬だった。芳枝はすぐに接吻を返して来た。ちらっと眼をあけた桂の網膜に、初めて気がついたように天《あま》の河《がわ》が大きく映り、そのまま沈んで行った暗闇の中で、ただ烈《はげ》しい陶酔のみが、もう一切の記憶を遮断《しやだん》して、桂の内部に霧のように立ち罩《こ》めていた。
4
燈台の灯がゆるやかに廻っている、と久邇は思う。爽《さわや》かな風、静かな夜、海からの微風が霊感のように僕の心を吹き過ぎて行く。旋光燈台が眩《まぶ》しく僕の中に光を送る。ああ何でもみんなが美しい、みんな生き生きと、霊感にみちている。
道子さん、道子さん、もう僕たちは決して離れることはないのだね、もう僕たちの間にはいつまでも二人だけで生きて行く約束が取り交《かわ》されたのだね。右手の弾《ひ》くピアノの音と左手の弾くピアノの音とが入り混って一つに聞えるように、道子さんの心と僕の心とはもういつでも同じ音楽をひびかせている、二人の心をあのキスがつないだ以上、もう決して決して心配することはないのだろうね……。
でも、でも、こうやって歩いて行くと、少しずつ、少しずつ、悦《よろこ》びが逃げて行く、心の中に暖められた美しい思い出が少しずつ逃げて行く、そして僕はまた一人ぼっちの自分を感じる。ああいつまでもこの記憶をとどめておくことは出来ないのだろうか、僕の手の中に抱かれていたあの人の身体《からだ》、僕の頬《ほお》に触《さわ》ったあの人の髪、僕の唇《くちびる》にかかったあの人の息……、いつまでもそれをとどめておくことは出来ないのだろうか、愛していれば愛しているほどもっと愛したいと思い、愛されれば愛されるほどもっと愛されたいと思う、人間はそんなに欲ばりに出来ているのだろうか。前にはキスなんて考えてみたこともなかった、それが一度キスしてしまえば、もっともっとしたくなる、もっともっと抱きしめていたくなる、そしてそのあとにはまた孤独が返って来るのだ。愛することには極《きわ》みというものがない、もう大丈夫、もう僕たちは決して離れない、とそう信じ、そういう悦びの中を魂が羽ばたいて飛んで行くのを感じても、しかしやっぱり何処《どこ》かに不安があるのだ。これはなぜだろう、みんなが幸福そうにしていられるのに、どうして僕だけがもっともっとと望むのだろう。
あああの瞬間、あれをとめておくにはどうすればいいのか、あの充実した瞬間、それが永遠に続くにはどうすればいいのか、……そうだ、僕はピアノソナタを書こう、その中で僕たちの愛が高潮し、幸福が永遠にとどまり、魂が絶えず羽ばたいているようなソナタを。それこそ本当に僕とあの人とが一緒に作ったものなのだ。たとえ僕の手にあまるとしても、どうして僕に書けないことがあろう、あの人がいるのだから、あの人が慰め、はげまし、謂《い》わば僕の中に住んでいるのだから。そうだ、ピアノソナタを書こう。その中ではもう不安はない、その中では不安のない道子さんがいつまでも生き生きと生きている。
ああ何と美しいことだろう、道子さんも美しい、音楽も美しい、この夜も美しい、燈台の灯も美しい、みんなが僕の廻りで僕たちの愛を祝福して生きている。
僕は生きる、この世界の中に、僕が確かに生きているという証拠を楽譜の中に刻み込もう。僕にはきっといいものが書ける、ああその旋律がもう僕の心の中で早く早くと急《せ》き立てているようだ。僕のソナタは翼を持つ、それはあの人の面影を追って、何処までも空高く飛ぶだろう。
愛、それが生きることだ。
二章 傷ついた指
1
すぐ後ろへ来て声を掛けられるまで、道子は何も気がつかなかった。砂地を踏む軽い跫音《あしおと》と、お嬢さん、と呼ぶ声とが同時だった。びっくりして、近視の人に特有の怒ったような細く見開いた眼で、振り返った。
――勉強してますね、と言って桂昌三がにこにこ笑っている。
なあんだ、と思い、そういう顔をしたかったのだが、唇《くちびる》にはつい子供らしい親密な微笑を浮べてしまった。困ったようにまた描きかけのカンヴァスに首を向けた。画家は彼女の三脚の足許《あしもと》に、どっこいしょと腰を下した。
渚《なぎさ》から砂浜が盛り上るように高まった砂丘の上で、午前の太陽が穏かな海の面に燦々《さんさん》と照りつけていた。裏手は蝉《せみ》の声のかしましい雑木林、そこに波の音が木霊《こだま》して、ふと廻りじゅうが海のように思い違う。見下すと左手に、視界を遮《さえぎ》って小さな岬《みさき》が海の中へ突き出し、裸の岩に波が白く砕けている。海水浴場とはだいぶ離れていたから、あたりはごく静かで、人の姿はなかった。
――むかし僕もここで絵を描いたことがある、と桂が言った。
――あら、ここを知ってらっしゃるの? 右手に筆を握ったまま道子が訊《き》いた。この場所でいいモチーフを発見したから自分だけの風景だと思っていた。ちょっと癪《しやく》に障《さわ》る。
――ええ知ってますよ、まだあなたなんか生れてない頃のことだ。
言いながら煙草に火を点《つ》けて深々と吸った、ついその方を見ていて、画家が来てから気が散って何も描いていないことに気がつく。
――じゃパパも一緒ね。
――そう……。
――じゃママンともその頃から御存じだったわけね?
――そう、知ってましたよ。
平静な表情だったから、諦《あきら》めてまたカンヴァスの方を向いた。といって、格別描き出す気もしない。暫《しばら》く考えていた。
――ねえ、桂さん、と訊いてみた。桂さんはどうして結婚なさらなかったの?
――おやおや、難問を出しましたね。
――ね、教えて。
――そうですね、いい人が見つからなかったからでしょう。
――いい人ってどんな人? どんな人ならお気に入るの? ママンみたいな人はどう?
桂は知らん顔をして煙草をふかしている。大人は本当に狡《ずる》い、と道子は思う。
――教えてよ。
――もっと大きくならなければそういうことは分りませんよ、と答えた。
――分る分る、だから……。
――僕はね、結婚というのは人生の浪費だろうと考えたんですよ。
――そんなの、結婚なさらなければ何とも言えないわ。だいいち桂さん、お独《ひと》りだってけっこう浪費なさっているんでしょう?
桂は少々困って、短くなった煙草を眉《まゆ》をしかめて吸い続けた。
――どんな理由かな、と小首を傾けて考えながら、桂さんはきっと misogyne《ミゾジイン》 ね? と訊いた。
――むずかしい言葉を知ってますね、女嫌《おんなぎら》い……だったかな?
――でしょう?
――そうでもない。
――じゃ……?
道子は三脚の上から身体《からだ》を乗り出すようにして、せわしげに足を動かした。
――お気に入った人が見つかれば結婚なさる?
――いや多分しないでしょう。
――駄目? ママンでも駄目?
桂は吸殻を力いっぱい投げた。それは砂丘の途中に落ち、少し転《ころ》がって青い煙をあげた。その少し先に波が寄せては引いている。
――ママンでは駄目? と執拗《しつよう》に訊いた。
――僕は誰とも結婚しませんよ、と言い切った。さあ絵をお描きなさい、僕が見てあげる。
道子はぷりぷりした顔でカンヴァスを睨《にら》んだ。うまくはぐらかされたのも癪だし、自分が絵の方をお留守にしたのを画家に見抜かれたのも癪だ。やけにプルシァン・ブルーを筆の先に溶いて、海の沖の部分を厚く塗った。
桂の眼の前に、健康そうなすんなりした道子の脚《あし》が、薄い水色のスカートの下から覗《のぞ》いている。白皮の運動靴と白のソックス。フランス語のシャンソンを口ずさみながら、その片脚が拍子を取って小刻みに動いている。桂はふっと溜息《ためいき》を吐《つ》いて立ち上り、道子の背中越しに描きかけの画布を見詰めた。
六号のカンヴァス、荒々しいタッチで夏の海が盛り上るような量感をもって描かれている。空と岬《みさき》と砂浜、――手前側の砂浜にはまだ手が触れてなく、白い下塗りが残っていた。波の表現は技巧的で、烈《はげ》しい光線の投射が紺青の上に眩《まぶ》しい。
――どこか似ているなあ、と独《ひと》り言《ごと》を言った。
――なに?
――いやね、あなた、パパの絵とよく似ている。
――そうかしら? あたし、パパの絵はあんまり知らないのよ。
振り向いてまた桂の顔を見た。柔和な微笑を浮べているその顔が、ふとパパのように錯覚される。
――モンパルナスの風景が客間に懸《か》けてありますね。
――ええお家にあるのはあれとバラの絵。
――ほう、そんなのがあるんですか?
――あの方がきっと傑作よ、正面のテーブルの上に紅《あか》いバラの花瓶《かびん》があって、遠景に裸の女の人が寝ている……。
――それは見たいなあ。
――ところがママンが御自分のお部屋に大事に懸けて、あたしにだって見せて下さらないくらい。
――どうしてだろう?
――その女の人というのがママンなの、分って?
確かフランスの美術雑誌で複製を見たことのあるのはその絵だったのだろう、と思う。三枝は感覚的な、寧《むし》ろ官能的な絵を得意とした。鋭い色彩感覚、直観によるフォルム、装飾的ともいえる鮮《あざや》かなヴァルールの変化。
道子は筆を換えて、パレットの上にクローム・イエローを溶かし始めた。
――それは砂地のとこに塗るの?
――そうよ。
――海も下塗りしたんでしょう?
――ええ、glaze《グレーズ》 にした方が色が綺麗《きれい》でしょう?
――海はいいが砂地のとこはどうかな、それじゃザラザラした効果が出ないんじゃないかな。
――でも、やってみる。
構わずに塗り始めた。桂は側《そば》から手の動きを見ていた。道子がまた訊いた。
――パパはお上手《じようず》だった?
――そうね、僕はパリでの作品を殆《ほとん》ど知らないから……。
――その前は?
――まだ何とも言えなかったが、とにかく下手《へた》じゃなかった、天分のある人だった。
――桂さんとどうだったの? どっちがお上手だったの?
――そりゃ何とも言えない、考えが違っていたし……。それから眼を移して沖の方を眺《なが》めながら、言った。何しろ三枝君には後期印象派の、特にゴーギャンの、影響が強かった。自分でも意識して、ああいう decoratif《デコラチフ》 な、色彩の美しい絵を描いた。僕は……違っていたから。
――桂さんは誰のお弟子《でし》?
――そうだな、僕は何度も変った。あの頃はキュビスムばやりで、僕もアブストラクトの絵を描いていた。が、まあセザンヌの影響が一番強いんでしょうね。セザンヌは画面の中にオブジェの持っている力をそのまま形と色とで表そうとした。単純で、素朴だが、しかし文学でも思想でもない絵画そのもの、謂《い》わば絵画の持つ最上の能力がその中に発揮されているように描いた。ゴーギャンとは違いますね。
――わたしはゴーギャンが好き。
――そうでしょうね。そういう絵だ。ゴーギャンは画面を意識的に構成したから、オブジェの持っている力だけでは満足しなかった、そこから、文学的だとか詩的だとかいう批評が生れたが、そんなことは気にとめなかったんですね。昔こういうことを、あなたのパパとよく議論していたものだ……。
桂の意識に過去の記憶が波のように頽《くず》れ落ちた。三枝が彼の耳許《みみもと》でささやく。
「ゴーギャンの選んだ題材が問題なのじゃない、その生き方、そこに問題があるんだ。」
「現実に対する態度だね。」
「彼でなければ出来ない生き方、パリからブルターニュへ、それからマルチニックへ、タヒチへ、最後にマルキーズ諸島へ、それはモチーフを追うというより自分自身の生《レーベン》を求めて摸索《もさく》しているのだ。」
「しかし本当の生《レーベン》が、文明の中にではなく未開の世界にあるという原理は、ゴーギャンにも分っていただろう、しかしパリジャンの彼にタヒチの土人になりきることは出来なかった筈《はず》だ。」
「しかしそれはもう問題じゃないんだ。ゴーギャンは生きればよかったのだ。絵によって生きるのじゃない、絵の中で生きるのだ。ゴーギャンは絵の中に自分の生活を持った。外部の世界が彼の絵の中に、彼のものとして在《あ》る。」
「しかし、僕は一種のもどかしさ、未開人として生きられないもどかしさを彼の絵に感じる。彼のタヒチは、やはり文明人の見たタヒチに過ぎない。」
「しかし、」と三枝は声を大きくした。
波が絶え間なしに渚《なぎさ》に打寄せている。幻暈《げんうん》のような海のきらめき、意志のような鴎《かもめ》の飛翔《ひしよう》、そして静寂。
――しかし、と桂は言葉を続けた。今になってみれば、僕にもむかし三枝の言ったことがよく分るような気がする、確かに絵の中で生きればいい。ゴーギャンは生きた。感覚の鋭い人間ならば、彼の絵の中に一種の詩的な情緒を感じるのは当然だし、それをゴーギャンがあらかじめ計算したのも当然でしょう、生きるということは不可解なことだから、彼の描く人物にそういう神秘さが匂《にお》っているのも当然だ。例《たと》えばあの土人の女は単にマオリ族の女を写生しただけのものじゃなくて、画面の外にある眼に見えぬ世界をじっと見詰めているというのも……。
――あらあ、と道子が甲高《かんだか》い声で桂の独白を中断した。それ、わたしの部屋にある絵のことでしょう?
――ああ、そうだった。桂は振り向いた相手の顔をぼんやりと見た。実はそうですよ。
――桂さん、御覧になったのね?
――ちょっとね。
――厭《いや》な方、大人の人は約束を守らないから嫌《きら》いよ。きっとママンが、……
――いや、あの人のせいじゃない、僕が悪かったんですよ。
道子は聞かないで、つんとカンヴァスの方を向いた。砂浜の部分には既にクローム・イエローを塗り終ったが、いっこうに量感が出て来ない。しかしぷりぷりしているから絵の効果を真面目《まじめ》に考える余裕がなかった。
――やはりそこのとこは変なようだ、と桂が指で示した。
――いいの、と言って、今度はパレットの上でオークル・ジョーンを混ぜ合せながら、わたしとにかく自分でやってみます、出来上るまでは御覧にならないで。
桂は苦笑して、また砂の上に腰を下し、新しい煙草に火を点《つ》けた。意識の上に波の音が聞えて来る。手や足に太陽の暑熱を感じる。
ああ静かだなあ、と思う。ああ実に平和だ。こうやって生きているのだ、何ごとも考えずに、無心に、こうやって生きていればいいのだろう。過去、それが何になろう。過去は過去をして葬らしめよ、死者は死者をして死なしめよ。すべてはもう返って来ない。三枝太郎は幾枚かの作品を残して死んだ。作品さえあればそれでいいのだ、たとえその作品が人々に忘れられても、死んだ者は平和に眠っているだろう、生きている者と何の関《かかわ》りもないだろう。こうやって無心に煙草をふかしていればいい、午前の太陽は耀《かがや》き、海は青く光り、少女は絵を描いている。その上何を僕が望むことがあろう。このおかしな少女の側にいると何だか心が安まって来る、我儘《わがまま》そうで、威張ったような口を利《き》いて、時々は小生意気にも思われるが、十四五の女の子なんてみんなこういうものだ。みんな……しかし、この少女がフランス語を覚えているとか、絵が描けるとか、そういうこととは違った何か別のものが、何か本質的に僕には未知のものが、この少女の中にあるのだろう。三枝も僕とは違っていた、あいつの行きかたは平凡な俗っぽいものだと思っていたが、決してそれだけではなかったようだ。あいつは芸術とは縁の遠い素人《しろうと》だと思っていたのは間違いだった。ただあいつは遅く目覚《めざ》めたのだ。もう僕と何の繋《つなが》りもなくなった頃に。そして僕は、三枝の中の天分をあらかじめ明かに見抜き得なかった。人は他人を理解することは出来ぬ、芳枝さんの心の動きさえ、僕には理解することが出来ぬ。愛しているのか愛していないのか、……自分の心さえはっきりと見定めることが出来ないでいて、どうしてあの人の心が分るだろう。ただこうやって生きていればいいのだ、何も考えずに、考えずに……。
吸殻を遠くへ投げた。が、それはやはり渚までは届かなかった。道子は一心に絵を描いている。桂は手持無沙汰《てもちぶさた》に足許の砂を掌《てのひら》に掬《すく》った。むかしもこうやって掌の砂の重みをはかっていた、砂の重みをはかりながら何を考えていたのだろう。その時から長い時間が経《た》った。しかしその時の現在とこの現在との間に、どれほどの違いがあるというのか。死んだ砂の感触、表面は熱く焼けているが、少し掘って行けばそれはみんな死んでいるのだ、人の心のように、僕の心のように、……この貝殻の美しさ、死んでもなお美しいものか、しかし芸術に死後はないのだ、三枝が死んだその時に彼の作品も死んだのだ、遺《のこ》された作品というものは、もう彼とは何の関《かかわ》りもない。生きている限り、制作している限り、芸術は芸術家のものだ、しかしそれが民衆のものとなるのは民衆自身の作用なのだ。そこにはもう芸術家の手の及ばない運命がある。ああ僕の芸術なんか、貧しく、拙《つたな》く、僕の死と共に終るだろう、そして僕の死んだあとで、若い人たちがまた新しい芸術をつくるだろう、その時代には……。
――あっ、と叫んで手を引いた。現在の意識が瞬間に返って来た、右手の中指に細長い貝殻の破片が突き刺さっている。不思議なもののように見詰めていた。
――どうなさったの?
声と同時に、手にしたパレットを立ち上ったあとの三脚の上に置き、筆を投げるようにその上に捨てて道子が飛んで来た。画家は左手を使って突き刺さった貝殻を引き抜いた。みるみるうちに、溢《あふ》れ出る血潮が指を伝わって流れ落ちた。
――大丈夫? と訊きながら、胸の小さなポケットから花模様の綺麗《きれい》な刺繍《ししゆう》のあるハンカチを取り出した。
――大したことじゃない。
――これできつく縛りましょう、何もお薬がないから。
――そのハンカチじゃもったいない、僕のズボンに……。
――いいのよ。
道子は前に垂《た》れ下って来た髪を払って、花車《きやしや》な指を動かしながら強く怪我《けが》の部分をくくった。子供みたいね、と言った。砂いじりなんかなさって……。
桂は苦笑したまま人ごとのように片手を相手にあずけている。幾重にも中指に巻きつけた布の表面に薄らと血がにじんで来た。
――痛いでしょう? そう言って自分の方が痛そうに眉《まゆ》をしかめている。
――大丈夫、どうもありがとう。
――でも困ったわ、右手でしょう、絵が描けるかしら?
――絵? なに構わない、どうせ休みなんだから。
そして桂の浮べた自嘲《じちよう》的な微笑を、瞳《ひとみ》の中を覗《のぞ》き込むほどの近い距離から、道子は不思議なことを聞くといった面持で、じっと見詰めていた。
久邇が磯《いそ》づたいにやって来たのはちょうどその時だった。道子さんが一人で絵を描いている筈だ、と思い、二人きりになれるという望みに胸をふくらませていたのに、砂の上に膝《ひざ》をつくほど身体を曲げた彼女の蔭《かげ》に、誰かが親しげに腰を下している。瞬間的に心が重くなり、血の気が引いて行くのが自分でも分った。しかし道子が人の気配にこちらを振り返った時、蔭にいた人も首を向けて合図をした。それが画家だと知るのと同時に、心の中のわだかまりがすっかり消えてしまい、久邇は砂を蹴《け》って側へ駆けつけた。
――どうしたんですか?
桂が繃帯《ほうたい》した右手の指を上に向けている、久邇はおどろいて、直に心配そうな顔つきになった。道子は皮肉に笑った。
――桂さんたら子供みたいなの、砂いじりなさって指を突き刺したの。
――それは大変だ。
――何でもないんだよ、と平静に言った。道子さんが大袈裟《おおげさ》なだけさ。
――でももうおいたはいけません。
母親の言うような白《せりふ》を言ってにこっと笑うと、三脚のところへ戻った。パレットの上に置いた筈の描きかけの筆が下に落ちている。道子はちょっと二人の方を窺《うかが》って、砂まみれの筆を拾った。慌《あわ》てたところを人に知られるのは癪《しやく》だと思った。
二人はそれに気がつかない。久邇は画家と並んで腰を下すと、晴れ渡った海の方を見た。それから眼が自然と道子の方へ行く。道子が、もう熱心にカンヴァスに向っているのを、やさしい表情で眺めていた。
――僕ねえ、絵のことはよく分らないんですよ、と久邇が画家の方を振り向いて言った。
――勉強すれば分るようになるさ。
――そうかしら?
――これからの芸術家というものは、文学とか音楽とかいう一つだけのジャンルに閉じこもっていたんじゃ駄目だ。それには勉強が必要だね。芸術家の眼というものは、本来確かな筈だからな。君だって好きな絵とか嫌いな絵とかは言えるだろう?
――それは言えます。
――芸術というのは畢竟《ひつきよう》それだね、本ものなら好きになる、好きだということが全部だ。つまり芸術家の魂というものがあって、それがあらゆる芸術に自分の尺度を持つ、その尺度で正確に測れるかどうかは勉強次第だが、尺度を使うに値するか値しないかは、つまり本ものか贋《にせ》ものかは芸術家の魂を持っていれば分る筈だよ。だから詩人とか音楽家とか彫刻家とかの分け方があるより、ただ芸術家があると思った方がいい。芸術家には俗人が対立するだけだ、artiste《アルチスト》 に対して vulgaire《ヴユルゲール》 が、玄人《くろうと》に対して素人《しろうと》があるのさ。それだから君のように、……
――桂さん……、と向うから道子が声を掛けた。お家へいらしってお薬つけてもらった方がいいと思うわ。ママンだってきっとお待ちかねなんだから、と皮肉に附け足した。
――血はもうとまったようだ、とそれでも少し腰を浮した。
――駄目、駄目、消毒しておかないと化膿《かのう》するかもしれないし、と脅《おど》かすように言った。お家のあたしの部屋に薬箱がありますからね、その中に繃帯もお薬もはいっています。まずオキシフルでよく洗って、そのあとマーキュロをつけておおきなさい。
――沁《し》みないかな?
――弱虫ね、桂さんは。マーキュロは大丈夫、沁みるのはヨーチン、でもヨーチンの方が殺菌になっていいんだけどな……。
――それじゃ行こうか。
――オキシフルをお忘れになっちゃ駄目よ、ママンは何にも出来ない人なんだから。
桂はあっさりと立ち上った。じゃまた会いましょう、と久邇に言った。久邇は叮嚀《ていねい》に礼を返した。
立ち去って行く画家のあとから道子が片手をメガフォンにして言い足した。
――桂さん……、でもあたしの部屋へはいっちゃ厭よ……。
桂は手を振って、それから急ぎ足に砂を踏んで遠ざかって行った。
2
若い二人がそこに残った。道子は久邇のことなんぞ気にも留めないというふうにカンヴァスに向って手を動かしている。しかし久邇は平気だ。嬉《うれ》しくてしかたがない。久しぶりに午前中に表に出たので、空気が澄み切って太陽の光線が洗われたようにすがすがしい。海に、雲に、もう秋の気が動いている。裏の林の中でつくつく法師がしきりに鳴いた。
――ねえ道子さん、と話し掛けた。道子さんにも随分かいがいしいところがあるんだね?
――何が? と気のない返事をした。
――何がって感心しちゃった、桂さんの怪我《けが》のことさ。
――あんなこと誰にだって出来るわ、もっともママンなら、とくすっと笑って、あわてるかもしれないな……。
――でも随分親切だった。だって今まで、いつだって桂さんにはそっけなかったじゃないか。
――そうかしら、とこちらを向いて考えるふりをした。それから、あたしあの人好きよ、と言い切った。
――僕も好きだよ、とけろっとしている。
――あの人がママンと仲よしでなければもっと好きになるんだけどなあ……。
――ふうん?
――本当よ、結婚したっていいくらいだわ。
それだけ言っても久邇は平気でにこにこしている。いつもの、直に顔色を変えて心配する久邇らしくない。
――年が違いすぎていておかしいよ、と笑った。
――そんなことは平気、とむきになって筆を持った手を宙に動かした。あたしはもうじき大人だし、それに苦労していますからね、いい奥さんになれるわ。
――苦労だなんて不思議だ、お嬢さん育ちの癖に。
――本当にそんなにバカにしたものじゃなくってよ、と唇《くちびる》を尖《とが》らせて、でもね、桂さんは駄目なの、桂さんは結婚なさらないのですって。
――そう? 桂さんがそう言ったの?
――ええ、でも秘密よ。
道子はまたカンヴァスの方を向いた。秘密、あの桂さんという人は何だか秘密のありそうな人だ、と久邇は思う。道子さんは何を知ってるのだろう、天使にでも教わったのかな。
――僕はね、桂さんは小母《おば》さまと結婚なさるのかと思っていた。
――あらママン? とまた振り返って、ママンなんか駄目よ、全然つりあわないわ。
――どうして? 桂さんはいい人だし……。
――単純ねえ、そんなことじゃないのよ。それはママンだっていい人です、よすぎておめでたいくらい。でも駄目なの。
――どうしてつりあわないのだろう? としんから不思議そうに訊《き》いた。
――分らない? 教えたげましょうか? そして左手にパレット、右手に筆を持ったまますっかりこちら向きになった。……ママンの方がつりあわないの、さっき桂さんが芸術家には俗人が対立すると言ったでしょう、ママンはつまり vulgaire《ヴユルゲール》 なの。
分っただろうという顔をした。画家が暗に自分を指《さ》して俗人とか素人《しろうと》とか言ったような気がして、さっきは不意と腹が立った。しかしもうそのことは忘れている。あたしは絶対に俗っぽくなんかない、と思っている。俗っぽいのはママンなのだ。久邇がきょとんとしているので、もう少し説明した。
――……ママンは芸術がお好きかもしれないわ、眼も肥えているし、御趣味もいいし、絵のことでも、音楽のことでも、ひとかどの connaisseuse《コネツスウーズ》 には違いない。だけど芸術家は分らないのよ、芸術家とはまるで違った世界に住んでいる人なのよ。だからあたし、ママンにはきっとパパが分らなかっただろうと思うわ。桂さんのことだって、勿論《もちろん》決して分る筈《はず》がないでしょう。
――だって芸術が分って芸術家が分らないなんて変じゃないか、と久邇が言い返した。
――変じゃない、とやっきになって答えた。それにママンて人は何にも出来ない人なのよ、あたしは本当に並々ならぬ苦労をしたの。あなた嗤《わら》うけど久邇さんなんかには分らないわ。女中が病気になったらお料理も出来ない人、ちょっと心配ごとが起るとじき頭の痛くなる人、ねえ、だからあたしが何でも相談相手になって、こうした方がいいって言ったんだわ。
――だけど、と不服そうに言った。そんなことは愛してれば問題じゃないよ。
――生意気言ってるわ。そして相手と同じくらい自分も赧《あか》くなりながら、早口に言った。だいいちママンには男の人を愛することなんか出来やしないんだわ、ママンはいつでもヒロインになりたがって、舞台の真中にいなきゃ気が済まないんだもの、自分を犠牲にすることを知らないで、どうして人を愛せるでしょう?
――だって小母さまは道子さんのためを思って、今日まで結婚なさらなかったのじゃないのかなあ。
――そんなの、……ママンは贅沢《ぜいたく》だからいい人が見つからなかったのよ、ママンは夢ばっかり見ているでしょう。そりゃあたしはママンが好きだけど、ママンて人は肱掛椅子《ひじかけいす》に倚《よ》りかかって夢を見てればいいのよ、本当にねんねえなんだから。
大人ぶってあんなことを言ってる、というふうに久邇は微笑した。じゃ桂さんは? と訊いた。
――桂さん? 桂さんは素晴らしい芸術家よ、だけどやっぱり何にも出来ない人ね、絵を描くだけ。
簡単に片附けた。それから思い出したようにカンヴァスの方を向いて、
――久邇さんがいるものだから、ちっともはかどりゃしないわ、とこぼした。
そのまま暫《しばら》く黙っていた。涼しい風が海から吹いて来ると、道子の豊かな髪がときどき風に靡《なび》く。日射は強いのに面倒くさいのか脱ぎ捨てた麦藁帽子《むぎわらぼうし》が遠くの方に転《ころ》がっていた。そこから、眼がまた道子の方へ戻る。髪が靡いた時、頸筋《くびすじ》の耳の下に小さな黒子《ほくろ》のあるのを見つけ出した。おやあんなところに黒子があるのかな、と思って見上げるようにしながら少し身体《からだ》を道子の三脚の方にずらした。
その時、二人きりだということがあらためて意識の閾《しきみ》に昇って来た。頬《ほお》がほてって、身体中がかっかと熱い。今まで二人でして来た話題、結婚……その未知の言葉が頭の中の壁にぶつかりあって木霊《こだま》している。不意に、掠《かす》れた声で、訊いた。
――道子さん、僕と結婚してくれる?
道子は平気で筆を動かしている。
――ね、どう? と少し声を大きくした。
――そうね、いつか……。
――約束する?
――でも分らないわ、よく考えてみなくちゃ、……それから思い出し笑いを浮べながら久邇の方を向いて附け足した。でもね、さっき桂さんが、結婚は人生の浪費だとおっしゃったことよ。
――そんなの……。
しかしもう道子は真面目《まじめ》な横顔を見せながらカンヴァスと取り組んでいる。久邇が何を言おうかと考えているうちに、道子がそっけない口を利《き》いた。
――久邇さんは今頃何しにいらっしゃったの? 午前中はピアノのお稽古《けいこ》でしょう?
――うん、でも道子さんが今日の午前は写生に行くと言ったから……。
――見にいらっしゃいとは言わなかったわ、あたし。
――でも……。
――あたしはそんなの嫌《きら》い。大事なお稽古じゃありませんか。あたし、久邇さんがもっともっとピアノお上手《じようず》になってほしいの。
久邇は頷《うなず》いた。こういう時に、何を言っても無駄なことは分っていた。
――じゃ僕帰らあ。午後に行くからね。
――ええいらっしゃい。
そして久邇が立ち去ったあと、道子は怒ったような表情のまま一心に絵を描き続けていた。
3
――二階のわたくしの部屋へ参りましょう。
そういうと先に立って絨緞《じゆうたん》を敷いた階段を昇り始めたが、踊場で振り返って、子供みたいな方ね、と艶《つや》のある声で笑った。
階段を昇る度《たび》に、着物の裾《すそ》から零《こぼ》れ落ちるスリッパをはいた素足が、形のよい踝《くるぶし》からふくら脛《はぎ》までを露《あら》わに見せている、それを困ったように桂は意識していたが、踊場でやっと並んで相手の頬《ほお》の微笑を見た。
――もう道子さんからもさんざんひやかされたあとですよ。
――あの子、失礼な口を利《き》きましたでしょう?
――そうでもない、何しろこっちが不注意なんだから。
――道子にも本当に困りますのよ。
二階の廊下に出て、娘の部屋を横眼で睨《にら》みながら素通りすると、その隣の、廊下の奥の部屋の戸を明けて、中へはいって行った。どうぞ、と呼ばれて、桂も不細工に右手の指を上に向けたまま後に従った。
芳枝は窓に懸《か》けた薄青い、半透明の紗《しや》のカーテンを手早く開いた。窓から、潮気を帯びた午前の風が、閉めないで来たドアの方へと吹き過ぎて行く。それと共に焼けた砂と草木との入り混った微《かす》かな匂《におい》がした。焦茶のとび飛白《がすり》が、明るい窓を背景に、身体の輪郭を浮び上らせている。
――何を御覧になっていらっしゃるの?
部屋の中央に立ったまま、桂はぼんやりと眼をそらした。さっき何かを考えていたのだが、ふとそれを忘れてしまった。壁紙も薄青い一色のトーンに統一された、道子のよりは一廻り大きな部屋。壁には填込《はめこみ》の大きな鏡の附いた衣裳箪笥《いしようだんす》、その横に和箪笥、鏡台、飾り箱、印象派風の小さな静物画の前に机、椅子、――きちんとしているようでどこか懶惰《らんだ》の匂がする。桂が眼を反対側に移した時、芳枝が着物の袖《そで》を軽く押えながら、アルコーヴとの仕切りになったカーテンを引いた。
――こちらの方がお楽でしょう、ここでちょっとお待ちになって。お薬を持って参りますから。
白い毛布を掛けたマホガニーの寝台が見える。芳枝は微かに香水の馨《かお》りを残して部屋を出て行ったが、桂はやはり部屋の真中で待っていた。
芳枝が把手《とつて》の附いた木の箱を持って帰って来ると、まあまだ立っていらっしゃる、と言いながら、アルコーヴの寝台の上にそれを置いた。桂はそのあとからベッドの側《そば》へ歩いて行った。
――上衣《うわぎ》を脱がせてあげましょう。
――しかし、……
――お暑いでしょう?
誘うように手をひろげ、指を痛めないようにぎごちなく右手を棒にしている桂から、するすると上衣を脱がせた。そして桂を寝台の上に腰掛けさせると、木箱を開いた。小さな硝子《ガラス》の薬瓶《くすりびん》が幾つもレッテルを貼《は》られて並んでいる。硝子の色も白いのや青いのや黄色いのがある。ピンセットや、繃帯《ほうたい》や、その他様々の道具がはいっていた。
――大したものですね、と感心した。
――これは道子の趣味なんですのよ。
――そうそう、何でも最初はオキシフルでよく拭《ふ》くんだそうです。
――存じています。
芳枝はレッテルを確かめてから、細い指の先で桂の指に巻きつけたハンカチを解き始めた。血がこびりついて桂が痛そうに眉《まゆ》をしかめるのを、芳枝は脱脂綿にオキシフルを染《しみ》させて叮嚀《ていねい》にその部分を洗った。前屈《まえかが》みになると、カールした髪が、真珠の耳飾りと一緒に揺れている。
――道子がああしてこうしてと指図《さしず》しましたでしょう?
――オキシフルのあとはマーキュロだそうです。
――道子ときたら、わたしには何も出来ないつもりでいるんですものね。
戯談《じようだん》めかして言いながら、口惜《くや》しそうなのがそれこそ子供っぽくて、思わず桂の唇元《くちもと》がほころびかける。しかし、やっぱりあまりうまい手つきではない、ハンカチを引張られるとつい、痛い、と叫んだ。
――御免なさい、取れました。
桂は相手に手をあずけたまま眼を窓の方へ向けた。あまり間近いところに芳枝の髪があるので呼吸が苦しい。窓の外を見、また芳枝の上に眼を返し、それから寝台の頭の方を見た。
――さあこれでいいわ。
ああこれか。壁に懸けた二十号の油絵、これが例の「薔薇《ばら》と裸婦」に違いない。部屋にはいる時に記憶にあって、そのあとふっと忘れてしまったこと。指の上にくるくると繃帯を巻き終った芳枝が、首を起して、相手の視線につられて絵の方を見た。
――これは立派なものだ、と桂が呟《つぶや》いた。
華《はなや》かな色彩のコントラストが、鮮《あざや》かな紅《くれない》が、濃緑が、オレンジが、白が、見る者の視線をそこに釘附《くぎづけ》にしなければやまない。今にもはじけ出しそうな薔薇と、それを支《ささ》えている安定のいい青磁の壺《つぼ》と。そしてその背後に、焦点の少しぼやけた間隔を置いて、一人の裸婦。軽やかに延された脚《あし》、胸と腹とを隠している両腕、その間から豊満な肉づきを以《もつ》て溢《あふ》れ出している若々しい肉体、ものうくクッションの上に投げ出された首、その黒い髪、その捉《とら》えどころのない瞳《ひとみ》、そこにある一種の逸楽的なしずけさ……。
――自信のある絵だ。そう独《ひと》り言《ごと》を言うと、つかつかと絵の側へ行った。
画家の真剣な横顔が、芳枝から羞恥《しゆうち》を消し去って行く。絵の中のモデルを他人のように見た。
――太郎の描いたものではこれが一番評判でした。
――そうでしょう、ちょっと浮世絵風のとこが洒落《しや》れている。フランス人の好きそうなエグゾチスムだ。
――あら、それ悪口? と抗議した。
――いやそうじゃない、一体油絵なんてまともにやったんじゃフランス人にかないっこない、独創的な味を出す、それにはやはり日本の伝統というのは役に立つでしょう。例《たと》えばフジタを御覧なさい、あの毛筆の細い線……。
――分りました。で桂さんは?
――僕? 僕が自信のあるように見えますか?
持前の鋭い視線を芳枝の上に注ぐと、また寝台へ戻って来て彼女の隣に腰を下した。繃帯をした右手の指をじっと見詰めている。
――自信なんてものは、と吐き出すように言った。あってもなくても問題じゃないんだ、要するに描けばいいんですよ、何にも考える必要はない、描きたいから描く、単純なことです。描きたいから描くというのは、自分の中に世界があるから描くのだ。自分にしかない世界、他人が一指をも染め得ない世界、生れたくて生れたくて、早くしてくれと喚《わめ》いている胎児を世界の外に送り出す、それが創造でしょう。芸術家の内部はそういう要求でいっぱいの筈《はず》だ。世界さえ充実していれば、作品は自《おのずか》ら出来る、それが自信というものでしょう。それが……僕にはないんだ。その世界が、とぽつんと附け足した。
――でも、そういう世界のあるのが芸術家なのでしょう?
――僕の中の世界は、僕にむきになって絵を描かせるほど豊かじゃないんですよ。無理やりに搾《しぼ》り出さなければ生れて来ないんですよ。
――そんなに苦しんで、……
――苦しんでまで描く必要があるか、と言うんでしょう? そうね、必要の問題じゃないんだ、それはやっぱり描きたい、必然なんですね、描きたい、が生れて来ない、惨《みじ》めなものですよ。
――でもどうしてなのでしょう? と覗《のぞ》き込むようにして訊《き》いた。
――子供の時から病気がちの人がいるでしょう、芸術的要求というのは健康な身体《からだ》ですよ、病気になる度《たび》に、その要求がすっかり衰弱するようなものです。
芳枝にはその比喩《ひゆ》がよく分らなかったから、黙って相手の横顔を見ていた。
――こういうことがあった、と落ちついた声で話し出した。僕の識《し》っていた或る女の人ですがね、教養もあったし美しくもあった、絵のこともよく分った。ちょうどスランプの頃でね、搾《しぼ》り出すようにして一枚描きました。その絵は、まあさっき言った自信という奴《やつ》が割とあって、これなら立ち直れるかと思ったんですよ。それを彼女に見せた。すると手厳《てきび》しい批評をしてくれました。思い通りに、ざっくばらんにね。実際大した絵じゃなかったのかもしれない、しかしその時にね、何でもいい、高等学校の言葉で言えばノー文句にね、好きだと言ってもらいたかった。誰がけなしてもいいから、自分の愛している人間に、ひと言、この絵は好きだと言ってもらいたかった。こういうのは卑怯《ひきよう》ですかね。……しかし僕のような自信のない芸術家の、これが本音《ほんね》でしょうね。
――で、その方《かた》は?
――長つづきしっこないじゃありませんか。
――どんな方だったのでしょう?
――話したってしかたがありません、あなたなんかの知らない世界のことなんだから。
そして行き場のない、暗い、絶望的な眼を、窓の方へ向けた。
――わたしならきっと好きになりますわね、と低い声で言った。きっと……。
――どうかなあ。
――本当よ、でも、わたし一枚も拝見したことがないなんて……、見せて下さいます?
――僕はね、自分の気に入らない間は人に見せたくないんです。長い間一つの作品をいじくって、駄目となると破いてしまう。……破くというのは大袈裟《おおげさ》で、貧乏画家はカンヴァスが惜しいから、別の絵を描くために上塗りをするだけですがね、……とにかくなかなか気に入らないんですよ。
――では作品の数が尠《すくな》いのね?
――そうだなあ、気に入ったのが尠いとは言えるが、作品は随分ありますよ、何しろ食わなきゃならないでしょう、註文があればどんなまずい顔でも描いてやる、手頃の小品を製造しては伝《つて》を求めて売り込む、それはまあ描いている時は真剣だが、自分の情熱を注《そそ》ぎ込んだとは言えませんからね。そうした商売の合間合間に、こつこつと描いては塗り、描いては削りしているんです。
――本当に拝見したいわ、と同じことを言った。
桂はそれに答えず黙っていた。芳枝は寝台の横手に深く腰掛けたまま、宙に浮かした足を拍子を取るように動かしている。桂が、ふと気を変えるように、明るい声で言った。
――昨日の朝でしたか、あなたが泳ぎに行くのを見ていました。
――あら、わたし、ちっとも知らなかった……。
――朝飯の前に松林の中をぶらぶらしていた。すると偶然、あなたがケープを松の枝に懸《か》けて、真直《まつすぐ》に渚《なぎさ》の方に歩いて行くのが見えました。
――何処《どこ》から御覧になっていらっしゃったの?
――だいぶ離れていました。それから羽衣《はごろも》を懸けた松の樹のそばへ行って、天人の帰って来るのを待っていた。
――まあ、厭《いや》な方……。それでわたし、気がつきませんでした?
――そのようですね。僕はあれで随分長い間、ぼんやりと坐っていたな、そうするとあなたが、沖の方から一直線に泳いで帰って来ると、急ぎ足に砂の上を歩いて、ほんの僕の眼の前へ来ました。
――どうして声を掛けて下さらなかったのでしょう?
――ぼんやりと見とれていたんですよ。あなたは実に綺麗《きれい》だった、濡《ぬ》れた肩や手や脚《あし》で小さな水滴が朝陽《あさひ》にきらきら光っていた、水着が肌《はだ》にぴったり合って、……あなたはいい身体をしていますね、均斉のよくとれた……、柔軟性のある四肢《しし》、全体を微妙な変化で包んでいる輪郭、とぎれることのない線、そして厚みのある、なだらかな肉づき……。
――もうたくさん、厭。
芳枝はきらきら光る眼で睨《にら》んだ。
――怒ったんですか?
――怒りはしません。でも……。
――これは職業的関心なんですよ。
――わたし……、と口籠《くちごも》ってから羞恥心《しゆうちしん》を振り払うように一息に言った。それじゃあなたのモデルになってあげましょうか?
桂は無言の暗示にみちているその眼を見た。それから、逃げるように首をそむけ、後ろむきに壁に懸《かか》った油絵を見た。若々しい、豊麗な肉体が、そこでも誘うように彼を見詰めている。
――お厭?
芳枝はすらりと寝台の上から滑り下りると、少し首を傾《かし》げて桂の前に立った。そして微笑を含んだ表情で、困って横を向いている画家の顔を覗き込むようにした。桂はしかたなしに首を正面に向けた。
――僕は今、スランプなんですよ、絵を描く気がしないんですよ、と答えた。
――どうしてでしょう? わたしでは駄目? 顔の表情が少しこわばった。唇《くちびる》がわずかに開いたままで、白い歯並が真珠のように零《こぼ》れている。
――決してそういうわけじゃないけど……。
――あなたはたった今、わたしを綺麗だとほめて下さいましたでしょう? それから、職業的関心ともおっしゃった……、それなのにどうして駄目なのでしょう?
――それは……つまり絶望しているからでしょう。
――だからわたしはそれを癒《なお》してあげたいの、そんな、絶望なんて……。
――前にこういうことを言ったことがあるでしょう、と構わずに話し続けた。僕という人間が絶望しているので、その人間の中にいる芸術家の方はおめでたい代物《しろもの》だって、覚えていますか? 芸術家はとにかくメチエを持っているから、その人間が絶望していても仕事は出来る、だからあなたをモデルにして絵を描くことは出来る、……しかしね、僕という人間がまず生きていることが大事なのだ、生きた人間から生れた芸術ならその作品は意味を持っている、その反対に死んだ人間の小手先からつくり出された作品、そんな屑《くず》みたいなものがいくら出来たところで何の役にも立たない、それは絶望した人間の小型の複製、つまり小型の絶望した作品にすぎない、しかし本来作品というものはそれだけで独立した生命を持っているべきもの、それこそ絶望した人間をも生き返らせるだけの力を持っているべきものでしょう。だから常に人間の問題が芸術家の問題よりも先だ、僕が生きていなければ僕の作品も生きてはいない、分ったでしょう、僕は死んだ作品をつくりたくはないから……。
――あなたは御自分を死んだ人間だとおっしゃるの?
桂は答えなかった。
――そんなのは厭、そんなのは厭、と張《はり》のある声で繰返して叫んだ。あなたはこの前、生きるって約束して下さったでしょう? わたしが生かしてあげます、わたしが何でもします、どうしてもうお忘れになったのかしら? ね、何とかおっしゃって?
――勿論《もちろん》、忘れてはいません……。
――じゃ、生きられるわ、ね、そうでしょう、二人で……。
芳枝の身体がかぶさるようにすぐ眼の前にある。髪が揺れ、耳飾りが揺れ、差し伸した手が動き、焦茶の飛白《かすり》模様《もよう》が華かに身体を包んでいる……。なぜ、この人はこんなに熱心なのだろう、と不思議に思う。放っとけばいいのに、僕みたいな、こんな屑のような人間、もっと早ければ、もっと昔なら、もっと僕が疲れていなければ、しかし疲れているからこそこの人が必要なのか、「わたしが生かしてあげます。」そうかもしれぬ。「もう一度希望することは、」……出来ないだろうか。しかしなぜ希望するのか、なぜこの人に僕が必要なのか、僕のような者が……。
――生きましょう、二人で。
自分の掌の中の、暖かい、汗ばんだ手。人は理由があるから愛するわけではない、この愛が最後の希望であるとしたら、この愛の中に、無理由に、無目的に、一切を忘れ去って飛び込んでしまえば救われる、この薄い布地の下に未知の裸体が息づいている、その裸体は生きている、イヴ、無理由に、もしあなたが過去のない女ならば、僕の眼が、この職業的な、絶望的な、死者の眼が、あなたに過去も、教養も、虚栄も、三枝太郎も、日本も、パリも、何も見ないで、ただ一人の女を、イヴを、見ることが出来るならば、僕はきっと救われる……。
――……そして結婚しましょう。
結婚、十五年前に最も望んでいたこと。「どうして桂さんは結婚なさらなかったの?」「ママンみたいな人はお気に入らないの?」「結婚は人生の浪費だろうと考えたんですよ。」恐らくは、もうあまりにも遅すぎるだろうが……。
――先のことは分りませんよ。
――では今は?
瞳《ひとみ》が光った。かすかな息が頬《ほお》にかかった。
――今はわたしがお好き?
考える余地はなかった。桂は握っていた手を引き寄せると、空《あ》いた方の手で野獣のように芳枝の肩を抱き、力いっぱい自分の胸に締めつけた。すべての意識が瞬間に消え、重たい身体が凭《もた》れかかり、頬に触れた意外なほど冷たい髪の感触の間から、夢中になって相手の唇を探《さが》し求めた。芳枝は不自然なポーズのまま、身体を半ば捩《ねじ》向けられて、首だけは少し上向きに、暖かい唇をあずけて来た。唇と唇とがぶつかり合い、歯が鳴り、やわらかい生物《いきもの》のように舌が動き、紅《あか》い薔薇《ばら》が揺れ……。そして短い、早い意識、ああ今ならば生きられる、この情熱の中ならば生きられる……、芳枝が溜息《ためいき》のように仄温《ほのぬる》い息を洩らして首を少し遠ざけたのを、背中に廻していた右手が直に芳枝の髪の上へ滑り、強く、万力《まんりき》のように、髪を抑《おさ》え、髪の中へ食い入り、わずかの呼吸を求めて逃げようとする唇の上に、再び蛇《へび》のように、鞭《むち》のように、男の唇が襲いかかった。かすかな叫びが半ば殺されると、唾液《だえき》と汗と髪の匂《におい》の中で、二人の頭が左右に揺れ、薔薇が揺れ、薔薇が揺れ、縺《もつ》れ合った身体が廻転し、芳枝のぐったりと力の抜けた上半身が寝台の上に弓なりに押し倒された。桂の左手が着物の上を滑る。少しでも早く、少しでも確実に、この薄い布地の下に息づいている肉体のあらゆる線を、あらゆる起伏を、あらゆる肉づきを、貪欲《どんよく》な掌に覚え込んでしまおうと、脇腹《わきばら》から胸へ、背中へ、腰へ、それからまた息づいている乳房へと、しかし着物を通しての間接の接触に耐えられなくなった手が、さらに貪欲に、自分の首を巻いている芳枝の二の腕を捉《とら》え、露《あら》わな肌の上を腋《わき》の下の窪《くぼ》みへと進み、裸の肩のゆるやかな傾斜を確かめ、愛撫《あいぶ》し、抱き締めている……。「薔薇と裸婦」の一瞬の記憶。その時、かすかな叫びをあげて、芳枝が急に|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き始めた。
――厭……。
急に狂ったように跳《は》ね起きようとする。捉えられた身体を廻転させ、首をそむけ、手を突張り、とうとう向うむきに寝台の横にしゃがみ込むようにして逃げるのを、兇暴《きようぼう》な手が羽交締《はがいじめ》にして抱き寄せた。手が肩を滑って裸の乳房の上にぶつかり、その暖かい重味の印象に、ためらって止った。乳房が烈《はげ》しく喘《あえ》いでいる。
――どうしたの?
――厭、ここでは厭……。
斜めに首を起して桂の顔を、やさしい、情のこもった、逸楽的な瞳で見た。
――でもここでは厭。
その眼、すっかり乱れて後毛《おくれげ》が汗ばんだ頬に密着している髪、すっかり露わになった首筋から肩、掌の中で、捉えられた小さな鳩《はと》のように啼声《なきごえ》を立てている豊かな乳房、今ならば生きられる、という再びの早い意識。芳枝は相手の表情に危険を暁《さと》ってまた※[#「足+宛」、unicode8e20]き始めた。黒い髪の毛が、桂の眼の前で揺れる、揺れる……。
――痛い。
思わず桂の手から力が抜けて行く。芳枝の身体がするりと滑り、喘ぎながら立ち上った。桂は不思議なもののように、自分の右手の中指に白く巻きつけられている繃帯を見る。どうして今まで、この傷のことを忘れていられたのだろう……。
――御免なさい、痛くしたかしら?
そのなまめかしいポーズ。片肌が殆《ほとん》ど脱げそうになっているのを両手で隠すように胸を抑え、しなやかに身体を動かして衣紋《えもん》を繕うと、ほてった頬を心配そうに翳《かげ》らせながら、片方の手を頽《くず》れた髪に当て、少し遠くから覗くように桂を見た。
――怪我のことを忘れていた。
――大丈夫?……でもわたし、この部屋では厭なの、分って下さる?
そして近づくと、素早く相手の唇に接吻《せつぷん》した。
――ひどい方、と濡《ぬ》れた瞳で見詰めた。こんなになさって。
そしてさっとアルコーヴを出ると、カーテンを引き、その蔭から、ちょっとお待ちになって、と声を掛けた。
桂は一人きりベッドの上にごろんと倒れた。かすかな体臭と、海からの風と。みたされないもの、あああの瞬間になら生きられたのにという後悔、しかしその方がよかったのかもしれない。カーテンの向うで衣《きぬ》ずれの音がする。「ここでは厭。」何も考えずに何も考えずに……。しかしなぜ厭だったのだろう、なぜ? もし本当に愛しているのならば。この部屋には三枝太郎が生きているとでも考えたのか。子供らしい……。
――下へ参りましょう、とやはりカーテンの向うから声がした。恐れ入りますけど薬箱を……。
桂はむっくり起き直り、箱と上衣《うわぎ》とを手に取ると、カーテンの横から隣の部屋へはいった。化粧をし直した顔が、すぐ前に、幾分の羞恥を帯びて待っている。眼が笑っていた。
――バカに怖《こわ》そうですね、と桂は皮肉を言ったが、芳枝は薬箱を受け取ると、もうドアの方へ歩き出していた。
隣の道子の部屋の前で、半開きのドアの蔭から、桂は芳枝が薬箱を置いて帰って来るのを待っていた。
――どうしておはいりにならないの? と中から芳枝が訊いた。
――何ね、決してはいっちゃいけないって、さっき道子さんに念を押されたものですからね。
――まあおかしな方。
階段を下りながらも芳枝はまだくすくす笑っていた。その間、桂の意識の中で今しがたドアの蔭からちらっと見た「タヒチの女」の表情が、幾つかの印象を一つに結実させようとしていた。あれは肉体の逸楽を待ち望んでいる表情ではないのだろうか、と彼は思った。
三章 わが生のすべてのもの
1
早川久邇にとって、この年、夏の休みは早く過ぎた。といっても、休みはまだすっかり終ったわけではなかったが、ノモンハンでの奇怪な(真実の戦況というものがまるで分らなかったから、圧倒的勝利という関東軍発表が、誰の眼にも底気味の悪いものに映った)日ソの衝突が次第に抜きさしのならぬ深みにはまって行き、一方、日米通商航海条約のアメリカによる一方的廃棄通告、日英会談に於《お》ける現地軍代表の引揚など、何かしら異常な雰囲気《ふんいき》を孕《はら》んだまま、気持の悪い暑熱の八月が独ソ不可侵条約の方向へと進んで行きつつある間に、久邇は新聞紙に報じられる外部の時間に、殆《ほとん》ど気を取られるということがなかった。愛する者にとって、時間はそういうことで過ぎ去って行くのではない。ふと残りすくない八月の暦を眼に留めた時に、ふと波の砕ける響きを聞き、虫のすだくのを聞き、白い雲が水平線に死んで行くのを見るような時に、時間は少年の内部で音を立てて頽《くず》れて行った。過ぎて行くその時々に於《おい》て、少しも一様であるとは言えない時間、道子さんと一緒の時には羽のように軽いのに、会える時を待っていらいらしているとうんざりするほど長くのろのろした時間、もう休みが済んでしまえば毎日会えることもなくなると思って、大事に大事にその重みをはかっている時間、それもすべては、振り返ると、あまりにも早く経《た》った。
どうしてこんなに早く経ってしまったのだろう、と久邇は思う。道子さんを識《し》ってから、自分の人間が変ってしまったようにさえ思えるのに、自分は相変らずの子供で、相手の方ばかりがどんどん成長し、どんどん大人になって行くようだった。初めて識った頃の道子さん、大人になろうとして背伸をしながら、子供の頃の大事なお人形さんをいっしょくたに箪笥《たんす》の中に仕舞い込んだに違いない道子さん、天使がしげしげと遊びに来ていた頃の道子さん、それが今では、時々|軽蔑《けいべつ》したように自分を見ている気がする。一度だけキスをしても、そのあとはもう平気で何か別のことを考えているよう。どうしたら自分もあの人のようになることが出来るのだろう、と思うのだが、少女の速《すみや》かな成長の秘密はいくら考えても掴《つか》めなかった。
道子は飽きっぽいというのではなかったけれども、気紛《きまぐ》れで、しょっちゅう気が変った。それも久邇が驚いてばかりいる原因の一つだったかもしれない。いつでも命令するような口を利《き》き、久邇の方でも素直にそれを承知したから、二人が二人だけで会う巣(と名づけていた)をきめるのはいつも道子の方だった。久邇は最初に道子に会った時に、彼女の描いてくれた地図を今もありありと思い出すことが出来る。それは大事に折り畳んで楽譜の間に挟《はさ》んであるが、もうすっかりそらで覚えてしまった。「あら、あなたは何処《どこ》も知らないのね?」そう言ったかと思うと、走って行って大きなスケッチ帳とクレヨンとを持って来ると、絨緞《じゆうたん》の上にお行儀の悪い恰好《かつこう》で坐った。それから橙色《だいだいいろ》のクレヨンを取ると、まず縦横無尽に道路を引き始めた。それが終ると、藍色《あいいろ》では海を、緑色では防風林を、黄色では砂浜を、灰色ではお店や別荘を、橙色の点線ではその別荘の間を抜ける「非公式な」抜け道を、笑ったり喋《しやべ》ったりしながら描いた。その上、黒いクレヨンを取って、「この辺にはモズがたくさんいるのよ、」というところにはモズの絵、「この岬《みさき》では黒ダイが取れるの、」では泳いでいる魚、「燈台はこっちの方なんだけど地図の中にはいらないわ、」では、海の中に宙に浮んだように斜めの恰好で燈台の形と光芒《こうぼう》とを画き出した。久邇はびっくりして、奔放に動く指先を眺《なが》めていたものだ。
巣は何度も変った。最初の巣は茶店のあたりからだいぶ離れた砂丘の蔭《かげ》で、そこは泳ぎに行く関係上、毎日のように落ち合ったが、その他にも、森の外《はず》れとか、岬よりの海岸とか、久邇の家の裏手の小山の中腹とか。そして久邇は貰《もら》った地図のそのところどころに、MとKとの組合せ模様をこっそりと描き入れた。
一番新しく出来た巣は、岬の方に行く途中にある、人の知らない墓地の中だった。墓地といっても、もう文字の読めなくなった古ぼけた石碑と、すっかり苔《こけ》のむした丸石とがごろごろして、草の芒々《ぼうぼう》と茂った中に、卒塔婆《そとば》が半ば朽ちながら四五本固まって倒れていた。その蔭でしきりに虫が鳴いた。あたりはまったくひっそりして、よく耳を澄ませると波の音が微《かす》かに聞えて来るだけ。そして松の枝々から、けたたましいつくつく法師の声が降って来た。
――何だか気味の悪いほどさみしいところだね、と最初の時、久邇は言った。
――わたしここが大好きよ、と道子は平気の平左だった。ここはね、むかし海で死んだ漁師たちのお墓なの、だから誰も来やしない。わたしここで瞑想《めいそう》に耽《ふけ》るのが好きだわ。
――ふうん。どんなことを考えるの?
――パパのこととか、死ぬということとか、色んなことよ。お墓の下へ行ってしまうなんて本当に変なことね、死んだ人はもういないなんて、……わたしパパはね、やっぱし生きていらっしゃるような気がするの、パリの何処か場末の小ちゃなアパルトマンで、誰にも分らないような絵を描きながら、もうわたしのこともママンのことも考えないでね。芸術家なんてみんなそうね、パパは本当の芸術家だったんでしょうね。
――道子さんはパパのことを覚えてるの?
――そりゃ……。パパはよくあたしを肩車に乗せてリュクサンブールの公園に行ったものよ。あんな変な恰好ってフランス人はあんまりしないのね、みんなびっくりして何とか声を掛ける、あたしは面白くてきゃあきゃあ言ったわ。本当にいいパパだった。あたしパパがそりゃ好きだった、だからどうしても、パパがあんな自動車事故なんかでお亡《な》くなりになったとは思えないの。分る、この気持?
――分るさ、勿論《もちろん》、僕だって……。
――でも死んでしまったら平和でしょうね、と相手に構わず、あたりを見廻しながら言った。こんなとこでいつまでも眠っていたらどんなにいいでしょう……。
しかしこの人はのんきに眠ってなんかいられない人だ、とその時久邇はお腹《なか》の中で思った。
今日も、二人はしめし合せて、夕暮に近い散歩道をぶらぶらとこの墓地までやって来たが、道子は怒ったような顔つきのまま、さっきから物も言わない。丸石の上にハンカチを置いて腰掛けている。久邇はそういうのには馴《な》れっ子《こ》だったから、ズボンのポケットに両手を突込んでその前をぶらぶらした。あたりで一面に虫がすだいている。早い秋が、遠い波の音にも感じられた。
――僕ね、一楽章形式のソナタをつくってみているんだ、とぽつんと言った。
――あら、そう? と久邇の顔を仰いで眼を大きく見開いた。
――うん、いま一生懸命なんだけど、とてもうまく行きそう。第一主題が華《はなや》かでね、明るくて、きらびやかで、ちょっと道子さんみたいなんだ。そう言うと、思わず赧《あか》くなり、早口にあとを続けた。……第二主題の方はその反対にね、憂鬱《ゆううつ》そうな重い旋律……。
それだけで言葉が続かなくなり、頭の中でメロディをそらんじるような表情をした。
――その主題が久邇さんなのね、と道子が言った。
おや、と相手を見直した。僕が今、頭の中でお習《さら》いしていた第二主題がこの人の耳に聞えたのだろうか……。しかしもう道子は自分の方を向いてはいない、そして、ひょっとしたらあれは皮肉じゃなかったのかしらん、という疑いに加えて、いつも道子と二人きりでいる時に感じる不安が、少しずつ久邇の心の底に萌《きざ》し始める。
――早く出来るといいわね。ふと首を起してにっこりした。
その笑い顔が久邇を元気づけた。やっぱり皮肉じゃなかった。このソナタが、僕たち二人の愛をモチーフにしていることを、道子さんはちゃんと分っていてくれたのだ。安心すると無性に喋《しやべ》りたくなる。そして質問が自然に、いつも考えていることの上に落ちた。
――ねえ道子さん、と少し恥ずかしそうに訊《き》いた。本当に僕たち結婚できるのだね?
――この間もそんなことおっしゃったわ、久邇さんたら。
道子は軽く、はぐらかすように言った。
――だって気になるもの。ねえ、約束してくれる?
――そうねえ……、でもわたしたちはまだ満《まん》で十四よ、まだ随分随分待たなければならないわ。
久邇は正面を向いて相手を注目したが、少女の方はぼんやりと眼をそらせていた。
――どのくらい待つ? 幾つになったらいいだろう?
――何が?……ああそうね、男の人はせめて二十五くらいにならなくちゃ。……でもそうしたらわたしも二十五になっちゃうわ、遅すぎるな。
――ね、もっと早くしようよ、二十歳《はたち》ぐらいの時にさ。
――駄目よ、あなたなんかそのくらいじゃまだ子供よ。だいいち久邇さんはいつまで経ってもきっと子供だろうと思うな。
――そんなことはない、僕きっと勉強するよ、と久邇はむきになって言った。
――何の? ピアノの?
――いや、もっと色んな、もっと大人になるための勉強を。
――勉強したって大人になれるものですか、と極《き》めつけた。そしてしょげ込んでいる久邇の顔をちらっと見て、ここにお掛けなさいな、と言った。わたし上から見下されているの嫌《きら》いよ、と附け足した。
久邇は少女の横の石の上に腰掛けた。道子は横眼で相手を睨《にら》んでいたが、さらに怒ったような声で言った。
――大体、あなたは簡単に言うけど、結婚したらお金が要《い》るのよ、知ってる?
――うん、大丈夫だよ、お父さんはお金もちだから、……
――駄目、そんなの。あなたのパパがお金もちだってそんなこと当にならないわ。お金ってものは自分で稼《かせ》がなくちゃ、あなた稼ぐって言葉の意味知ってる? ひとのお金なんか、たとえあなたのパパのでも当にしちゃいけないわ。
――じゃ僕、ピアノを弾《ひ》いて、……
――駄目駄目、きっと久邇さんがそう言うだろうと思った。ピアノなんてお金になる筈《はず》がない。芸術でお金もうけしようなんて本当に考え違いよ、そんなことをしたら苦しむだけ、ね、……桂さんを御覧なさい、あの方は貧乏でしょう、だからこそいい絵が描けるのよ。もしも桂さんが売れっ子で、どんどん売れる絵ばかり描いていたら堕落しちゃうだけよ。芸術てのはそういうものよ。
久邇は感心したように相手の顔を見ていたが、
――じゃどうすればいいんだろう? と尋ねた。
――しかたがないわ、芸術家はもともと貧乏なものでしょう?…… ところがわたしは貧乏して惨《みじ》めなのは嫌いと来ている……。
――困ったなあ。
――困ったわねえ。
二人は顔を見合せて嘆息し合った。怒ったような顔をしていた道子の表情がいつのまにかやわらいで、瞳《ひとみ》の底にみずみずしい潤いが流れている。その黒い瞳に樹々の緑と夕焼雲とが映っていた。
急にぱちぱちと目瞬《まばた》きした。
――でも大丈夫かもしれないわ、たった一つ方法があるんだもの。
――何? と眼を光らせた。
――分らない?
――分らないなあ……。
道子は唇《くちびる》に謎《なぞ》めいた微笑を浮べながら、じらすように相手の表情を待っていた。それからやっと、教えたげましょうか、と言った。
――わたしね、本当に好きな人のためなら自分が先に立って働いてあげるわ。
――道子さんが?
――そうよ、それが本当だと思うの、そうしてその人の芸術をお金のことなんかで縛られないように大事に育ててあげる、わたしは何でもするつもりよ。
――ふうん。
――でも、と釘《くぎ》を刺した。本当に好きな人のためよ、よくって、本当に好きな人でなければ駄目なのよ。
それはもうさっきの、怒ったような声だった。僕じゃ駄目? と訊こうとした久邇は何か気後《きおく》れがした。道子はそっぽを向いてしまい、久邇は小さな溜息《ためいき》を洩《も》らした。
夕暮が一層近くなり、あたり一面に煙ったような茜色《あかねいろ》の光線が滲《にじ》んでいる。蝉《せみ》が必死になって鳴いている。この人は何を考えているのだろう、とまたそこへ疑問が行く。この関心の不在、それは何か他《ほか》に、道子の注意を強く惹《ひ》きつけるものがあるからに違いない。しかしそれは一体何だろうか。……すると不意に自分でも、まるで別のことが記憶に浮んだ。道子さんの右の耳の下に、ちょうど頸筋《くびすじ》の、あのふさふさした髪の下に、小さな黒子《ほくろ》があった筈だ。それを思い出すと同時に、髪を掻《か》き上げてその黒子に触《さわ》ってみたいという願望が、どうにも我慢のならないほど強く、久邇の心を捉《とら》えてしまった。あの可愛《かわい》らしい小さな黒子……。そして内心の誘惑にためらっている右手の指が、無意識に、苛立《いらだ》たしげに、出来かけのピアノソナタの高潮した旋律を練習し始めていた。
2
お昼に近い時間だった。二階の自分の部屋で芳枝が口笛を吹いている。そのあまり上手《じようず》でない低い口笛が、無人《ぶにん》の家の閑《しず》けさを思わせて、明け放した窓から庭の方へ流れて行く。残暑の強い日射を受けて、アカシアの葉蔭《はかげ》が青々と涼しい。
芳枝はのびのびと椅子に凭《もた》れ、膝《ひざ》の上に大判のヴォーグ雑誌をひろげて置いたまま、のんきそうに口笛を吹いている。窓越しに緑の光線が芳枝の顔の上にやわらかい影を落している。口笛を吹きそこなってはひとりで笑った。
急にドアが開くと、びっくりした芳枝の前に小走りに道子が走って来た。暑そうに頬《ほお》をほてらせ、荒い息づかいのまま母親を見下した。
――どうしたの、道子? ノックもしないではいって来て?
――御免なさい、と素直に謝《あやま》ってから、だってママン、と勢い込んだ。
――汗でもお拭《ふ》きなさい、今帰ったの? 絵の方はどう?
――そんなことじゃないのよ、ママン、と一層眼を鋭くした。ママンでしょう、桂さんを入れたの?
――何? 何処《どこ》に?
――だって桂さんが……。
――一体何のお話?
道子はたくさんのことを一度に言おうとして、思わず息を詰らせた。それから堰《せき》を切ったように早口に喋《しやべ》り出した。
――ママンだって御存じのことなんでしょう? わたしが厭《いや》だって言ってること、ママンだって桂さんだって御存じなのに、ひとの留守にこっそりはいってみるなんて卑怯《ひきよう》だわ、卑怯でしょう?
――それ、桂さんがあなたの部屋へはいったってこと? そんなことはないと思うけど……。
――いいえ、分っています。だってママン、わたしがいま写生から帰ってお部屋へはいってみると、ぷうんと煙草の匂《におい》がするんですもの。あれは桂さんがいつもあがる煙草の匂よ。
――そんな筈《はず》はないと思うわ、道子。何か別の匂でしょう。
こんなはっきりした証拠があるのに、……そういったいらいらした表情が、道子のきつそうな眼、きつそうな唇元《くちもと》に滲《にじ》み出ている。芳枝は膝の上の雑誌を閉じると、側《そば》のテーブルの上に置いた。
その母親の落ちついた動作が、一層道子の機嫌《きげん》を悪くした。
――ママンはどうしてそんなに桂さんの肩ばかりお持ちになるの?
――どうしてって……。
芳枝が心もち頬を赧《あか》らめたような気がして、道子はさらに攻撃の手を強めた。何もかも、この頃考えていることを洗いざらい、言ってしまいたかった。
――ママンはすっかりお変りになってしまったわ、まるで「複雑怪奇」よ(と、はやりの言葉をにこりともしないで言った)、もう道子の大事なママンじゃないみたい、わたしそんなのは厭よ、ママンはママンでいてほしいの、道子のよく識《し》っているママン、……この頃のママンと来たひには、ルージュは濃くお附けになる、眼鏡は決してお掛けにならない、それに声だって……、昔はあんな艶《つや》のある、やさしい声は道子にだけ掛けて下さった、今はわたしになんかそっけない口しかお利《き》きにならない。「道子、何のお話?」厭だわ、そんなの、絶対に厭。
芳枝はおどおどして聞いていたが何も言わなかった。首を起していたので、逆光の中で顔色が蒼白《あおじろ》く見えた。
――一体何なの、あの桂さんて人、あんな風来坊みたいな人? わたしあの人|嫌《きら》いよ、あの人さえいらっしゃらなければ、ママンはいつまでも道子のママンだったし、……
――道子、とその時芳枝が強く呼び掛けた。
――なに? 母親がきっと謝《あやま》ろうとしているのだと思って、唇《くちびる》を尖《とが》らせたまま待っていた。
――道子、あなたがそんなことをわたしに言う必要はないでしょう。
意外な返事に少女は怒《おこ》って殆《ほとん》どその場に跳《と》び上った。
――わたしのことはわたしのこと、桂さんのことは桂さんのこと、あなたに干渉される必要は認めません。
道子は蒼《あお》くなって、母親が低い、やや語尾の顫《ふる》える切口上でそれだけ言うのを聞いていたが、あっというまに身を翻すと、パタンとドアの音だけを残して走るように部屋から出て行った。
――小母さま、道子さんは?
あまり暑いのでさっとシャワーを一浴びして浴衣着《ゆかたぎ》のまま客間へ出て来た芳枝は、そこに久邇が棒のように突っ立っているのを見た。
――どうしたの、久邇さん? まあお掛けなさい。
――道子さんがね、今日は海岸に見えないんですよ、だからどうしたのかなあと思って……。
なおも立ったまま心配そうに眼を光らせている。芳枝は手で示して椅子に腰を掛けさせた。
――どうしたのでしょうね、あの子ったら今日はとても変で、お昼も食べないで何処《どこ》かへ行ったきりなんですよ、わたしはまた久邇さんのところだとばかり思っていました……。
――いいえ、僕のところじゃない。
――でもそんなに気になさることもないでしょう、大丈夫よ、久邇さん、道子は気紛《きまぐ》れだから。
久邇は少し笑った。
――お楽にしてらっしゃい、もうお八つでしょう、道子もきっとお腹《なか》を減らせて帰って来ますわ。
そう言って、軽く手ぶりで待っているように合図をすると、図書室を抜けて食堂の中に姿を消した。
芳枝がいなくなると、久邇はまたそわそわし始めた、道子が「とても変」だったという原因が少しも分らないだけ、考えれば考えるほど一層不安になって来る。その辺の本や雑誌をひねくってみたり、窓から外を見たり、汗を拭いてみたり、そんな落ちつかない恰好《かつこう》をしている間に、芳枝が大きな盆の上に飲物やパンや果物などを載せて戻って来た。
――はい、今日はわたしのサーヴィス。
テーブルの上にお盆を置いて、パンを切り始めた。それを見るともなしに見ているうちに、小母さまのすっきりと化粧をなさった顔にふと気がついた。この涼しい香水の馨《かお》り、みずみずしく塗られた唇、ほのかに赧味《あかみ》を差した頬、ふと他《ほか》の女の人を見ているような気がした。
――久邇さん、道子のことで何かしらお気づきになったことはなくて?
ちょっと手を休めて、上眼づかいに少年の方を見た。
――どういうことですか?
――久邇さんが御覧になっても何か変じゃないかしら、この頃? どういうものかわたしに逆らってばかりいますのよ。
久邇は黙って伏目がちになったまま、小母さまの細いしなやかな指がパンにチーズを挟《はさ》むのを眺《なが》めていた。僕たちのこと、僕たちがキスしたり結婚の話をしたりしたことが道子さんの素振にあらわれて、それが小母さまに変だというふうにとられたのではないだろうか。何か小母さまに悪いことをしているような漠然《ばくぜん》とした意識。
――……わたしが変ったなんて言うんですのよ、わたしは何も変ってなんかいないでしょう。道子がどうしてそんなことを気にするのか……。
悪いことじゃない、決してない、僕たちは本当に、心から、愛し合っているのだから。……でも小母さまが御存じなくて、それが僕たちの間だけの秘密だとしたなら、やっぱし悪いことなのかなあ。
――……道子も時々大人っぽいことを言うようになったけど、でもまだねえ、まだ子供でしょう? 道子や久邇さんなんかには分らないことだってありますものね。
サンドイッチをすすめられて、久邇は首を起し、小母さまが笑っているのを見た、明るく、若々しく、何の心配もないように。これが小母さまだったかしら、という再度の錯覚。「わたしが変ったなんて、」と言ったさっきの言葉。そうだ、小母さまはまるで変っておしまいになった。秘密、――それは僕たちの間にあるのじゃなくて小母さまの方にあるのだ。小母さまが前と違っていながらそんなことはないとおっしゃるそのこと、それが道子さんが変になったという原因に違いない。僕が亡《な》くなったお母さんの代りに、こういう人がお母さんだったらどんなにかいいだろうと思っていた小母さま、この人はもうその同じ小母さまじゃない……。そしていつだったか画家の言った「デカダンス」という言葉が、ふと鮮《あざや》かに記憶の上に浮んだ。
久邇は味のないサンドイッチを、黙って口の中に押し込んだ。
3
道子は怒っていた。しかしいつから怒りが萌《きざ》し始め、どのようにして深く医《いや》しがたい傷痕《きずあと》になってしまったのかは分らなかった。その上、怒っている相手が誰なのかもよく分らなかった。母と子との二人暮しだったから勿論《もちろん》ママンが好きなのには違いなかったが、桂さんが現れてママンが前とはまるで変ってしまうまでは、その好きさ加減がこれほどだとは思わなかった。だからママンも癪《しやく》だったし、また桂さんも(桂さんに並々でない好意を持ったことがあっただけに)癪だった。それから久邇さんも、いつもピアノのこととか夢みたいな結婚のことばかり話していて、こういう重大問題の相談相手とするにはまったく不足だという点で癪だった。
しかしママンから、あなたに干渉される必要は認めない、などと開き直られてから、道子の怒りははっきりした焦点を持った。つまり、桂さんというものがいるからママンまであんな普通でない態度を示すようになったのだ。桂さんがいなければ、ママンだっていつまでもしとやかで優しい道子のママンだし、久邇さんは大事な仲好しのお友達でいられる(久邇さんも、どうも桂さんに好意を持ちすぎている)、とにかく桂さんをやっつけて、「家庭の平和」をみださないようにしてもらわなければ。わたしの部屋へこっそりはいって大事なゴーギャンを見るなんて、家宅侵入罪で訴えてもいいくらいだわ……、道子はそう考えて、今までに少しでも好きだった気持をすっかり帳消しにした。
しかしどうすればいいのか、……何よりも桂さんをつかまえてはっきり言ってしまうことだ。それで道子は午前中に海岸へ写生に行くのをやめて、桂さんが泊っているという別荘をうかがってみたり、桂さんの行きそうな場所を待伏せてみたりした。それでもいっこうに足取は掴《つか》めなかった。そのくせ、午後泳ぎに行っている間に家の方へ現れた形跡がある。それで次の日は、思い切り早く、海岸で久邇の方を何とかごまかして別れてしまうと、昼下りの一番照り返しのきびしい時間に、汗をかきながら一人で家へ帰って来た。
家の中はいつものようにひっそりしている。お勝手で女中が水を流している音がする。客間には誰もいなかったからきっと二階のママンの部屋だろうと思い、そう考えるだけで頬《ほお》がほてって胸がどきどきし始めた。
階段をゆっくりと昇りながら、道子は何とも言いようのない厭《いや》な感じに打たれた。表で桂さんの行方《ゆくえ》を探《さが》し歩いていた時には、自分が冒険小説の女主人公のような気がして秘密めいたスリルも覚えていたのだが、今、ひょっとしてママンと桂さんとが一緒にいる不意を襲うようなことになりはしないかと考えると、興味以上に、自分がひどく卑劣な行為を冒しているような気がして来る。でもしかたがないわ、と道子は自分に言いきかせる。わたしが悪いんじゃない、二人の方が悪いんだもの。そして跫音《あしおと》を忍ばせて母親の部屋の前まで来た。
本当にこの中に二人きりでいるのだろうか、身体中《からだじゆう》がいきなり熱くなって、気味の悪いほど汗が出て来た。部屋の中はひっそり閑《かん》として何の物音もしない。ノックをしようかしまいかとためらい、眼をつぶってぐっと把手《とつて》を廻した。鍵《かぎ》はかかっていなかった。
部屋の中には誰もいなかった。アルコーヴのカーテンが両側に引かれていたから寝台の上まで一眼で見渡せた。道子は深い失望と、その反面少しばかりの安堵《あんど》とを覚えて、がくんとそこの椅子に腰を下した。誰もいない、一体何処《どこ》へ行ってしまったのだろう……。しかしそうした推理よりも、張り詰めていた糸が切れてがっかりした気持の方が強かった。バカにしてるわ、と思った。
しかたがないからお昼寝でもしよう。ぼんやりと椅子から立ち上り、母親の部屋を出て、自分の部屋の戸を明けた。俯向《うつむ》いたまま五六歩はいり、危く突き当りかけて驚いて跳《と》び上った。
――御免なさい、と思わず口を衝《つ》いて出た。
ゴーギャンの絵の前に、じっと画面と対して向うむきに立っていた桂昌三が、その声にくるりと振り返った。
――ママンは?
反射的に母親のことを訊《き》き、訊いてからしまったと気がついた。尋ねるのはそんなことではなかった、そんなことはまったくどうでもよかった、大事なのは……。
――桂さん、と勢い込んで名前を呼んだ。意外なことにどぎまぎして、さっきからとんちんかんなことばかり言っていたために、今までの怒りが二倍にも三倍にも大きくなって甦《よみがえ》った。しかし画家が静かに立っていたので、一度おくれを取った気持は二の句を喚《よ》び起さなかった。
道子は相手の眼を見た。何をこの人は絵の前で考えていたのだろう、それが不思議でたまらないような、いかつい、沈んだ眼の表情をしている。何かを一心に考えていたが、思考そのものが周囲の現象とまるで無関係なために意識が即応する現実界を持たず、暫《しばら》くの間は前に立っている少女が誰であるかも分らない様子だった。考えていたことそれ自体に疑問と躊躇《ちゆうちよ》とがあり、それが奇妙な、錯乱した放心の印象を与えた。しかしふと我に復《かえ》ると、おだやかな微笑を口のほとりに浮べた(しかし眼はまだ刺すように鋭かった)。
――やあお帰んなさい、あなたのお母さんは何か用事があるとかでね、僕がちょっと留守番をいいつかりました。
――桂さん、とやっと元気を取り戻した。どうしてここにいらっしゃるの? 誰がわたしの部屋にはいっていいと言いました?
そう極《き》めつけるように言った。相手はやさしく笑った。
――やあ悪いことをしました。どうしても気になるものだから、ついね……。
――何が? とまた反射的に訊いてしまった。
――この絵ですがね、と言いながら身体を半分その方向によじらせた。これは確かに立派なタブローに違いない、しかし一体なぜこの絵が見る者にこんな強烈な印象を与えるのか、絵そのものの持つ表現の力、現実を再表現した技巧の点にすぐれているのか、それとも画面がその題材として持っている文学的なものとの交渉、謂《い》わば現実が見る者の内部に働きかけるポエチックな、象徴的な味わいによってすぐれているのか、その辺が僕にはどうも気になってならなかった、それを僕の中のデモンが、否応《いやおう》なしに解決を求めるものだから……。
――でもわたしが、はいっては厭だと言ったでしょう? 何となく弱々しい声だった。
――それは確かに悪かった。しかしね、どうしても見たいという気持、道子さんにも分るでしょう? 自分で自分を制し得ない damonisch《デモニツシユ》 な力、そいつがふらふらと僕をこの部屋へ引張って来ちまった。
――何だか御自分のことじゃないみたいね、と精いっぱいの皮肉を言った。
――いやそうじゃないんだが……。桂は沈んだ顔で首を横に振った。……僕の言いかたがまずいんだが、何と言うかな、……道子さん、僕はね、こういうふうにあなたのお父さんぐらいの年でしょう、それがあなたぐらいの年頃からずっと絵を描いて来た、僕はこういうゴーギャンのような行き方じゃなくて、表現というものがただ絵にだけ特殊の方法で、つまり他の芸術のジャンルと一切|関《かかわ》ることなしに、謂わば純粋にですね、絵の極限にまで行くことは出来ないだろうかと考えて来た。……純粋な絵画、絵のための絵、それはアブストラクトの方向へ行かないでも、例《たと》えばセザンヌなんかは純粋だった、そういうものを自分でも窮《きわ》めたかった。だから昔、あなたのお父さんなんかともよく議論をした、僕はこういうゴーギャンのようなポエチックな処理というものが分らなかった。……そして次第に年を取ってしまった、絵というものは僕の一生を賭《か》けた仕事だったが、その絵というものを、直接に人生に関《かかわ》らない、もっと純粋な、もっと抽象的なものと思って長い間仕事をして来たんです、そして最後に来たのがどうにもならない行き詰りだった。
桂はそこで唇《くちびる》を歪《ゆが》めたまま暫く黙っていた。少し大きな呼吸をして、物を考えている時の、焦点の定まらない眼で、じっと道子の方を眺《なが》めていた。
――……僕の行き詰りは、ただ絵の点ばかりじゃなくて恐らく人生の生き方という点でも分らなくなって来ているんでしょうね、僕は絵のことしか分らない人間だから、絵で行き詰れば人生でも行き詰る、……僕は昔、高等学校時代にドイツ語の教科書で習った言葉を時々ふっと思い出すんだが、こういうのがありましたよ、|Das ist alles meines Lebens《ダス・イスト・アレス・マイネス・レーベンス》 ……「それこそはわが生《レーベン》のすべてのものだ」とね、絵は僕にとって、確かに「すべてのもの」だった、しかしそのすべてをなす「生」が、Leben《レーベン》 が、僕にはまた分らないと来ている、……そこでこのゴーギャンですがね、これを最初に見た時に、この中に人生の謎《なぞ》が隠されているような気がした、このマオリ族の女の表情の中から、僕が探《さが》し求めている人生の目的のようなものが分るんじゃないかという気がしたんです、僕が前に邪道だと思ったこういうポエチックな絵画の中に、今頃になって救いを求めようなんていうのは滑稽《こつけい》ですがね、しかし滑稽に見えても、僕にとっては真剣なんだ、恐らくあなたの想像も出来ないくらいにね……。
道子は黙って聞いていた。彼女には画家の言うことがよく分った。ママンと違ってわたしには芸術家が分る、と久邇に公言したくらいだから、桂の心の奥底の考えは一々理解された。行き詰ったということも、絵が「生のすべてのもの」だということも、ゴーギャンに救いを求めようとするその気持も。それなのに、なぜ桂さんは、あなたの想像も出来ないくらいに、などとおっしゃるのだろう。それに桂さんが、厭にしんみりした声を出してわたしを説得しようと極めてかかっているのも癪《しやく》だ。わたしを子供だと思ってバカにしているのだ……。
――でもこのゴーギャンはわたしのものよ、と抗議した。
――それはそうだけど、しかし一つのタブローが人に与える意味というものは、……
なぜこの人は弁解なんぞするのだろう、なぜ謝《あやま》ってくれないのだろう、相手が久邇さんである時と同じように、自分の気持が相手に通じない時の(自分の方では相手が分りすぎるほど分っているのに)烈しい怒りが、瞬間的に爆発した。眼を鋭くし、唇を尖《とが》らせて、一息に叫んだ。
――これはわたしのものよ、このタヒチの女はわたしのものよ、この島も、樹も、花も、みんなわたしのものよ、この女が見ているものはわたしのものよ、わたしは誰にも、誰にもあげないことよ……。
――しかし、絵は個人のものでも、絵を見るという行為は個人の所有ではないから、……
――そんなことをおっしゃるのは勝手よ、これはわたしのもの、わたし一人のもの、大体デモンなんておっしゃるのは芸術家が自分をいい子にする方便だと思うわ、あなたはデモンのせいでこっそりゴーギャンを御覧になるの、デモンのせいでママンがお好きなの?
はっとして言いすぎたと思った。画家の顔が一層暗く、沈んだ。暗い表情のまま俯向《うつむ》き、それから首を起してじっと道子を見た。道子も負けないで睨《にら》んでいた。
二人はそして明るい部屋の中でじっと見合っていた。時間は止り、その中で急に、けたたましく蝉《せみ》が鳴いた。沈黙が重苦しく道子を圧倒した。
――そんなにわたしを見ちゃ厭。
低い声で叫んだ。先に物を言った方が負けだと知っていながら、口を利《き》いてしまった。それが屈辱感を倍加した。画家は黙ったまま眼をそらし、絵の方を向いた、この気づまりな沈黙を救うものもまたその中にあるかのように。道子は相手の僅《わず》かな身体の廻転を焼き泯《ほろぼ》すような鋭い眼指《まなざし》で睨んでいたが、さっと足を踊らせると、一息に絵の前まで駈《か》けて行った。
身体を精いっぱいひろげるようにして絵の前に立ち、絵を隠した。顔が汗ばみ、息がはずんでいた。頬に、乱れた髪がこびりついた。
――絵を見ちゃ厭、と叫んだ。
ママンと、つまらない言葉を一言口にしたばっかりに、もう何もかも駄目なような気がした。もう桂さんとの間の一切の親密なものが消えてしまい、ただ暗い憤怒《ふんぬ》ばかりが、多少の後悔を伴って、心の底でふつふつと燃えたぎっていた。なるようになれと思い、嫌いよと、叫んだ。叫んだ瞬間に僅かばかり残っていた後悔もまったく尽きた。
――嫌いよ、桂さんなんか嫌いよ、と叫び続けた。あなたがいらっしゃるまではママンは亡《な》くなったパパがお好きだった、道子がお好きだった、ママンは道子のもの、ゴーギャンは道子のものだった、それなのにあなたが何もかも取っておしまいになる、わたしは厭よ、たとえママンがわたしのものでなくなっても、このタヒチの女はわたしのものよ、よくって、わたしだけのものよ、わたしは絶対に、あなたになんか負けやしないから、よくって……。
――しかし、……
道子は急に顔色を真蒼《まつさお》にすると、すぐ横の壁の際《きわ》にあった筆立用の壺《つぼ》の中からパレットナイフを掴《つか》んだ。しなやかに身体が動き、あっと思った瞬間には、それを逆手に持って、ゴーギャンの絵の真中に思いきり突き刺した。気味の悪い音がしてナイフが半ばまで突き通った。
桂は呪縛《じゆばく》にかけられたように身動きもせずに眺めていた。ナイフが画面に刺さった瞬間、彼は声にならない呻《うめ》きを洩《も》らすと、飛びかかって道子の右手を掴んだ。しかしその時には、メスが患部を引き裂く鈍い音を立てて、カンヴァスを斜めに傷つけていた。
死んだような沈黙が落ちた。
桂の大きな、がっしりとした掌《てのひら》の中で、道子の腕はもう少しも動かなかった。生気のない身体が、今にも倒れそうになってやっと桂の手に支《ささ》えられているようだった。ナイフを握っていた手を離したので、両手がだらりと前に垂《た》れ下った。桂はその身体をそっと椅子の方へ運んだ。道子は喘《あえ》ぎながら椅子の上に身体を投げ出し、両手で顔を覆《おお》ってしくしくと泣き出した。
桂は絵の前に戻った。パレットナイフは、最初に突き刺さったタヒチの女の胸から、斜め下に十五センチほど下ったところで、柄を下にして今も微《かす》かに揺れていた。桂はそれをそっと抜き取り、もとの壺の中に立てた。そして憂鬱《ゆううつ》な眼つきで、じっと傷ついた絵を見守った。
さっき考えていたこと、道子が部屋へはいって来るまで、一人で、考え悩んでいたことが、今、意識の閾《しきみ》に昇って来た。タヒチの女が凝然と画面の外に見詰めていたもの、――それは死だった、あらゆる情熱と本能と希望との中に潜んでいる死、静かな憩《いこ》いとしての死、現世の彼方《かなた》に、現世と少しも変らぬ様相のまま、より浄化され、より透明な光線に包まれて横たわる Nirvana《ニルヴアーナ》、一切を超《こ》えて永遠の生につながる涅槃《ねはん》だった。そしてタヒチの女は、些《いささ》かも動じることなく、冷たく、死を眺めている。それは、言い換えれば、この女が生きていることだ、彼女は死を見詰めて生きている、死を見詰めるが故《ゆえ》に、この上もなく生き生きと、逞《たくま》しく、生きている、このタヒチの女……。
それが今、生は尽きた。胸もとを刺したパレットナイフが、彼女の生の焔《ほむら》を一息に吹き消した。恐らくはこの一枚のゴーギャンが、未知の謎を湛《たた》えて生の象徴のように絶望の内部を照していたのに、今、光は瞬時に消えてしまった。破かれた画布、それは畢竟《ひつきよう》、一個の死せるものにすぎない、もう何ものをも照さず、何ものをも救うことがなく……。
桂は一言も口を利かず、すすり泣いている道子の前を通って、しずかに、跫音《あしおと》を忍ばせて、部屋を出て行った。
4
これが僕の一生を賭《か》けて待ち望んでいたものだろうか、と桂昌三は心の中で訊《き》いた。
暗い室内だった。大きなベッドの枕許《まくらもと》にあるテーブルの上で、青いシェードを掛けた小さなスタンドが、半透明の仄《ほの》かな光を周囲に投げかけていた。その弱い光は、寝台の上に横になった芳枝の裸の上半身と、身を起して彼女を見詰めている桂と、またテーブルの上にあるコップを載せた水差、灰皿、花瓶《かびん》などを照しているだけで、部屋を劃《かぎ》った壁までは届かなかったから、部屋の大きさも分らず、暗い空間が何処《どこ》までも続いてただ二人だけがぽっかりと宙に浮いているような感じがした。蚊をよけるために窓に金網が張ってあったし、外は月もない夜で星明りも部屋の中を明るくするほどではなかったから、ただ時々、微《かす》かな風が潮気と草花の匂《におい》とを漂わせて吹き込んで来る度《たび》に、そこに窓があると分るだけだった。小さなホテルの中は森閑《しんかん》としずまりかえり、どこかで掛けているラジオが、思い出したように大きくなったり小さくなったりしながら、陽気な音楽を伝えて来た。
これが十五年間、僕が待ち、望み、求めて来たものだろうか、と桂は再び訊いた。もしこれが十五年前のことならば……、それは返らぬ後悔だった。もし十五年前なら、生きる力はここから脈々と生れて来ただろう、世の中にこういう歓喜があり、その陶酔の中に全的に身を打込み身を泯《ほろぼ》して、貪《むさぼ》るように生を生き尽すことが出来ると知って、生きることに深い自信を持つことも出来ただろう。しかし今は? 恐らくはもう遅いのかもしれぬ、もうあまりにも疲れすぎ、生きることの愚劣さを厭《いや》というほど味わわせられたあとでは。もう未知なものへのあの胸の踊るような期待も、希望することの疼《うず》くような悦《よろこ》びもない。未知はすべて終った、タヒチの女の神秘も、芳枝さんの神秘も、未知なものはすべて終った。しかし、生きる以上は、その点から、未知なものがすべて終ったその点から、新しい出発が始まるのかもしれぬ……。
桂は醒《さ》めた、乾《かわ》き切った精神で、半《なか》ば身体《からだ》を起したままじっと芳枝の寝姿を眺《なが》めていた。肉体がなお持続する歓喜と陶酔とにあらゆる末梢感覚《まつしようかんかく》を麻痺《まひ》させているのに、精神がこのように、肉体とまるで無関係に、はっきりと目覚《めざ》めているというのは何故《なにゆえ》であろう。眼は常に画家の眼であり、精神は常に芸術家の精神であるという宿命……。そして情熱の坩堝《るつぼ》の中に耽溺《たんでき》することの出来ない眼は、無限の情熱を潜在させて眠っている神秘な肉体を計量した。
スタンドの仄《ほの》かな半円の中に、芳枝の無抵抗に投げ出された裸身が、仰向に、腰から下を柔い半陰影《ペノンブル》に没したまま、大理石のような光沢を見せてしなやかに横たわっている。放恣《ほうし》な片腕が頭の下の支《ささ》えになって枕との間を埋め、横向けに光を避けた頭をその上で休ませている。もう一つの腕は胴に沿ってものうく平行線をえがいたあと、肱《ひじ》の関節で斜めに曲り、腹部を通って太腿《ふともも》の上でとまった。上半身は、曲げられた腕と横を向いた首とのために桂のいる方に少し傾斜していたが、そのせいで均斉のよくとれた、双子《ふたご》のように並んだ乳房の片方だけがちょっとひずんだ形をして、横向きになった乳首が呼吸のたびに微《かす》かに揺れている。斜めに投射する光を受けて、乳房の谷間に深い翳《かげ》が窪《くぼ》み、光の当る部分は細やかなきめを見せて、ふっくらとした曲線をえがいて盛り上った。
桂は丸味を帯びた肩に触《さわ》り、そこから投げ出された腕に沿って胸の方に手を動かした。暖かい皮膚がしっとりと汗ばみ、全神経の通《かよ》った男の掌の下で、無意識に情熱を求めて戦慄《せんりつ》した。僅《わず》かに眼を開いた。
――眠い……。
身体を少し動かしたはずみに、首に懸《か》けた真珠の首飾りが触れ合って微かな音色を立てた。空《あ》いた手を起して桂の腕に触り、眠そうに口の中で何か呟《つぶや》いた。
――なに?
桂は上半身を屈《かが》めて芳枝の口に顔を持って行った。芳枝は眼を薄く明けたまま首を少し起し、唇《くちびる》を或る期待の形に尖《とが》らせた。桂は微笑して、接吻《せつぷん》で彼女の首を再び枕の上に押し戻した。口の中で芳枝が言った。
――わたし、十時過ぎには家へ帰らなくちゃ、……道子がきっと寝ないで待っているから……。
桂は頷《うなず》いたが、相手はそれを見てもいずにもう眼を閉じていた。規則正しい呼吸が胸をふくらませ、いつのまにかまた眠ってしまったものらしい。桂の手が、そっと、暖かい皮膚を愛撫《あいぶ》し続けた。
僕は変った、と桂は思う。この人の身体の美しさ、よく均斉のとれた、肉づきのいい、豊かな実りの多い身体。……しかし、肉体というのはただそれだけのものだ、どのように美しくても、肉体はただ形而下《けいじか》の感覚の輪の中に鎖《とざ》されている。それは、恐らくは、僕という人間が変ってしまったせいなのだろう、昔の、あの純情で、素直で、生真面目《きまじめ》だった頃の僕ならば、こういう考え方は出来なかっただろう。僕は何人もの女を知った。真の愛情を伴っていない時に僕たちの感じるものは単なるエロチスムにすぎない、それは一時的な、興奮した神経の感じる幻覚で、どれほど経験を積み重ねても本能の満足というにすぎず、何等《なんら》人に経験としての成長を与えるものではなかった、人間を亢《たか》めるものは肉体の持つ魂で、決してエロチックな陶酔ではない。僕が一生を通じて心の底から愛していたのはこの人一人だ、他の場合は恐らくすべて遊戯というにすぎなかっただろう、だから僕がこの人に感じなければならないのは、エロチスムではなくて魂の筈《はず》なのだ、それなのにこの人があまりにエロチックだとしたら、……それは死んだ三枝が及ぼした影響なのだろうか。
芳枝が脚《あし》を曲げ、腕を持ち上げ、眼を薄く開いて、
――幸福よ、と呟いた。
そうだ、幸福な人だ、そして充《み》ち足りた幸福な肉体……。この肉体を愛していながら、三枝はなぜ死んだのだろう。その疑問が、今までに何度も喚《よ》び覚《さま》されたその同じ疑問が、芳枝の身体をやさしく愛撫している手の動きとはまるで無関係に、桂の心の中を過ぎた。……サラーとかいうモデル女、それは決して事件の本質とは大して関りがなかったのに違いない。恐らく肉体が、その細部まで三枝を満足させ、経験の積み重なりによる肉体の陶酔を限度にまで窮《きわ》めたという点では、ずっと芳枝さんの方が有利だったに違いない。従ってその答はまるで別の点に、恐らく芳枝さん自身の裡《うち》にある。その答は、……この肉体の愛がただそれだけに劃《かぎ》って、精神の愛にまで亢《たか》まらなかったという、芳枝さん自身の持つ本質的な悲劇の中にあったのではないだろうか。三枝も可哀想《かわいそう》に……。
――何かおっしゃって? と芳枝が訊いた。
――いや何も言わない。
――いいえ、何かおっしゃったわ、なに?
――そう? 三枝も可哀想にと言ったかな?
――あら? と眼を開いた。あなたは太郎に嫉妬《しつと》していらっしゃるの?
――そうじゃないよ、勿論《もちろん》。
――あの人のことなんか考えるのはよしましょうよ、わたしにはこの愛が大事なの、あなた一人が大事なのよ、分って下さる?
――分る。
――あなたは? あなたも?
そうだ、自分が一生に愛したのはこの人だけだ。この人がいなくなってから、僕の生活は空虚に過ぎた。「わが生のすべてのもの」とは、この人のことだったかもしれぬ。「わが生のすべてのもの」、そして長い歳月……。その間、僕が求めていたのはいつも同じ芳枝さんだった、その同じ面影だった。十五年ぶりにこの人に会った時に感じた印象、昔のままだという印象は間違ってはいなかっただろう。変ったのは僕、しかし芳枝さんも、決して少しも変らなかったわけではない、この人の示す僅かばかりの変化、それは三枝の影響なのだ、三枝の影響だけが僕に重苦しく理解される。恐らく三枝が死んだのは、この人が三枝を愛していなかったからだろう、愛していないことが三枝に分ったからだろう、といって、他に誰かを愛していたわけではない、この人は心から三枝を愛しているつもりでいた、ただ、この人には他人を愛することが出来ないのだ、自分をしか愛し得ない人なのだ、僕をもまた決して愛してはいないだろう……。
このふくよかな肉体、この腕、この胸、この腹、このしなやかに折り曲げられた脚、……しかし僕の求めていたのはこの肉体ではない。恐らく肉体に満足する人間と、肉体の彼方《かなた》を見ている者とがいる。僕は決して肉体のみに満足することは出来ぬ、僕が求めて来たのは芳枝さんという全人間、愛し得る主体としての一個の精神だった。しかも今、僕の手にはいったものがただ肉体だけ、何等の魂の羽ばたきをも感じさせないただの肉体だけだとしたなら、この十五年間は、いや僕が生れてから歩いて来たこの人生は、ただの道草に過ぎなかったのだろうか、「わが生のすべてのもの」が芳枝さんの魂のない肉体だけだとしたなら、「生」とは無に終る絶望、絶望の上に重ねたもう一つの絶望にすぎないのか……。
桂の手が瀕死者《ひんししや》のそれのように痙攣《けいれん》し、力を籠《こ》めて芳枝の裸身を抱き締めた。芳枝は声にならない呻《うめ》き声《ごえ》を洩《も》らし、身体を左に曲げ、頭の下に入れた手を引き抜こうとした。しかし桂の身体がその上を覆《おお》うように、右手で相手の自由を失った二の腕を抑《おさ》えつけたまま、息詰る接吻で圧迫した。乱れた髪が枕の上で無数の蛇《へび》のようにうごめき、裸の胸がはげしく隆起し、脚が絡《から》み合ってベッドが軋《きし》んだ音を立てた。二人がそのまま呼吸を殺し合っている間じゅう、芳枝の顔は苦痛と情熱とに歪み、漸《ようや》く男の執拗《しつよう》な唇が離れたあと、紅《あか》い濡《ぬ》れた口は、深い海の底から浮び上って来た海女《あま》のような、口笛に似た鋭い吐息を洩らした。
――いや、そんなに御覧になっちゃ。
同じような言葉をごく最近に聞いたという記憶が心の中に閃《ひら》めきながら、この若々しい、艶《つや》のある、エロチックな声、……柔い電燈の光を受けて長い睫毛《まつげ》の蔭《かげ》で秘《ひそ》かに、恥ずかしげに見開かれている眼、そして相手の貪るような瞳の下で、やさしく、しなやかに、いやいやをした。
これは文明のイヴだ……。桂はその時ふと思い出した、ストリンドベリーとゴーギャンとの間に、あの頽廃《たいはい》した文明の担《にな》い手《て》と、原始の飽くことのない心酔者との間に交《かわ》された手紙を。ストリンドベリーがゴーギャンに送った手紙の一節、――「彼は一体何者か、彼はゴーギャンである、窮屈な文明を憎み嫌《きら》った野蛮人、創造主に嫉妬するあまり、暇な時に自ら些《いささ》かの創造に耽《ふけ》った一種の巨人族《チタン》、自分の玩具を壊《こわ》して別のものをつくろうとする子供、彼は空を青ではなく赤であると見ることによって、大衆を否定し、大衆を無視しようとする者だ……。」そのように無理解な(しかし一面でまた画家の本質を突いた)ストリンドベリーに対して、昂然《こうぜん》とゴーギャンは自分の所信を述べる。「……あなたの、文明という考えの生み出したイヴは、あなたをも、また我々をも、殆《ほとん》ど誰でもを女嫌いにする。……私の画いたイヴは(彼女だけが)、当然、我々の眼の前に裸体のままでいることが出来る。あなたのイヴは、このような自然の状態では、羞恥《しゆうち》を見せないで歩くことは出来ないだろう、そして(恐らくは)あまりにも美しすぎて、悪と苦痛とを喚び起す者であるだろう……。」悪と苦痛とを喚び起す者、文明のイヴ、この肉体の中には、ゴーギャンをして遠い原始を夢みさせた、荒々しい、単純な、未開人の innocence《イノサンス》 はない、そこに恐らく未来はない。文明は自己の創造と自負と虚栄との中に泯《ほろ》び、文明のイヴは過剰な意識と、エロチスムと、自らを鏡に映したエロディアドの美の崇拝との中に泯びて行く。ゴーギャンがヨーロッパの文明に疲れ、遠くタヒチへと逃《のが》れた時に、彼に新しい生命を喚び覚させたのはこのような女ではなかった。原始のエデンに、日光の下で、嬉々《きき》として遊び戯れていたマオリ族のイヴは、決してこのような女ではなかった。しかし、今さら何を求めよう。この人、この、僕の手の中にすべてを委《ゆだ》ねて眠っているこの人に、僕は一生を賭《か》けてしまった。昔、僕がこの人を選択した(しかし失敗した)時に、僕が自分自身に課した責任が、僕の一生を決定して既に取られてしまった。責任を果すことに一生がある、僕が生きるための力を求めて再びこの人に会いに来た以上、僕はここでしか生きられないだろう……。
僕はなぜ芳枝さんに会いに来たのか。十五年前に、夏の焼けつくような暑い浜辺《はまべ》で、無限の霊気を含んだ潮風を吸って、孤独に生きようと決心した、その時の記憶がまざまざと甦《よみがえ》って来るようだ。孤独に生きること、しかしそれは結局間違いだった。人間は孤独では生きられない、僕のような寂しがり屋の人間がどんなに心を強く持っても、孤独は不毛にしか通じていず何ものをも生み出さなかった。僕は自分がそう決意したような、強い芸術家ではなかった。僕には意志はあった、恐らく才能もなかったわけではない、しかし何かが僕には欠けていたのだ、――運命? いや、運命とは人間が自らつくるものだ、その自らつくる、自らを生かす、何ものかが不足したのだ。「わが生のすべてのもの」としての芸術、しかし僕の絵はただ僕だけのもので、他とのつながりを持っていなかったから、それは僕に真の生きがいを感じさせなかった、芸術を愛してはいたが、その愛は底なしの沼のように僕を溺《おぼ》れさせただけだった、芳枝さんを愛してはいたが、その愛を失ったことは僕をして徒《いたず》らに人生に叛逆《はんぎやく》させただけで、青春の貴重な時間を結実させなかった。僕を生かすものは、恐らくは生きる意志に貫かれた献身的な愛だろう、が、それは今、芳枝さんから、この文明のイヴからは、来ないだろう、死んでいる僕の内部を暖めるには、芳枝さんの内部もまた死んでいるのだ、肉体がこのように暖かく、生き生きと匂っているのに……。
芳枝は脚を折り曲げ、子供のように身体を丸くして、横向きに、桂の方を向いて眠っていた。髪が頬の上に乱れている。その髪をそっと掻《か》き上げてやりながら、桂はしずかに自分の絶望の重味を量った。絶望……、この、自ら如何《いかん》ともなし得ないもの。桂の意識が一層ひろがり、生きることの苦しい時代を思った。現代、この三十年代は、苦悶《くもん》の形相を湛《たた》えたまま暗雲の立ち罩《こ》めた黄昏《たそがれ》を迎えようとしている。平沼内閣は総辞職の声明に「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と言った。「複雑怪奇」なのは欧洲の天地ばかりではない。この数年間、世界はすべて不気味なものに包まれている。ハーケンクロイツの旗がひるがえってからのヨーロッパ、日章旗のはためくアジア、そしてエチオピア侵略、スペイン内乱、シナ事変、ナチのオーストリア併合、独ソ不可侵条約、……世界は刻々に破局に急ぎつつあるという印象。うわべの平和の蔭に常に隠されている恐怖、それが僕たちの生きている時代なのだ。昔、芳枝さんを失った時に、不幸は人の知らない間にいつのまにか用意されていると思ったことがあった。「月光」を聴《き》きながら、僕はまるで別のことを考えていたのだから。思えば、不幸はいつ、人間を訪れるかもしれぬ、政治はいつ、人間の平和な生活を覆滅させるかもしれぬ。政治は人間のつくるものでありながら、しばしば人間の理解の上を行く。不可解な政治、そして不可解な人間、僕には何も分らないのだ、芳枝さんの内部がどのように動いているのか、僕には少しも分らないのだ。ただ、政治がいつのまにか僕|等《ら》の精神に影響し、滲透《しんとう》し、生活を左右してしまうように、芳枝さんの存在は、僕の一生を通じて、抜きがたく僕と結び合されてしまったのだろう。僕等は政治の呪縛《じゆばく》から逃れられぬ、それは濃霧のように僕等の周囲に立ち罩《こ》め、僕等の視野をふさいでいる、地球上に於《お》ける政治的運命の進行が、微粒子のような個々の人間の生涯をも知らず識《し》らずのうちに決定し、束縛する。……その暗黒の中で、人間のささやかな愛が何だろう、人間の愛が、どれだけの高貴なものを回復し得るというのだろう、しかし……愛もまた一つの運命かもしれぬ、たとえ今の僕が、重苦しい絶望とわずかばかりの希望との間を空《むな》しく往復しているとしても、しかしそれが与えられたただ一つの生きかたかもしれぬ……。
その時芳枝が、半ばまどろみながら呟いた。
――ねえ、パリへ行きましょう、パリへ行って二人で暮しましょう……。
パリ、……明るい光が桂の内部を一瞬照し出した。パリ、それが最後の希望かもしれぬ(もし生きるならば……)。もしパリへ行って僕の芸術が救われるならば、愛もまた救われるかもしれぬ。人間としての愛は、もう僕のように疲れ切った人間を再び生かすことは出来ないし、文明のイヴはもう決して救いではないだろう(そのことが、僕にはあまりにもよく分ってしまった)、恐らく人間にとって絶望に馴《な》れすぎるほど不幸なことはないのだ、精神のバネが新しい愛に対してすっかりゆるんでしまっている。しかし芸術は、……芸術は? もし新しい環境で、新しい気持で仕事をすることが出来るならばこの行き詰りから抜け出ることも或いは可能かもしれぬ。芸術家というのはおめでたい代物《しろもの》だから、ひょっとしたら……。パリ、そこでは芳枝さんも、もっと生き生きと、もっと希望をもって、生きられるだろう、過去のない女となって、一切の煩わしい伝統から離れて。異邦人の生活は決して楽ではないだろうが、僕のように、謂わばもう祖国を失ってしまった者、地上の異邦人にとっては、パリはかえって暮しやすいかもしれぬ。長い間の道草生活で覚えた、漆や蒔絵《まきえ》などの日本的な技術が、助けにならないとも限らないし、……もし生きられるならば、生きよう、そこで、芳枝さんと一緒に……。
あたりは静かで、風に少し潮の匂が増した。ラジオはさっきから甲高《かんだか》い三味線《しやみせん》の音《ね》を伝えている。桂は聞くともなしにそれに耳を傾けていた。古い古い日本、と口癖になっている言葉を呟いた。恐らくは僕の血肉の中に、この三味線の音を(たとえどんなに古風でも)いいと思う感覚が沁《し》み込んでしまっているのだろう、僕という人間は、そういう意味では、もう取り返しがつかないのかもしれぬ、(たとえパリで暮したところで……?)もう土壌はすべて耕され、新しい芽生を生む力はそこではもう望めないのかもしれぬ、恐らくは……。
桂の沈んだ心の中で、絶望と希望とが代る代る交替した。彼はぼんやりと、夢みるように、暗い窓の方を見ていた。しずかに風の吹き込んで来る窓の方を。
その時、ラジオがニュースを伝え始め、声が急に大きくなった。きれぎれの言葉が、灯の廻りを飛ぶ蛾《が》のように、桂の注意力の周囲を羽ばたき始めた。異様に緊張したアナウンサーの声の調子が、苛立《いらだ》たしく桂の意識を中断した。
「……国防軍………麾下《きか》の………日本時間………」
「……ポーランド兵を………グラヴィッツに………」
「……全線にわたり………国境を越えて………」
急に目覚めたように、悪寒《おかん》が彼を襲った。言葉、言葉、その裏の意味、早く早く……。
「……ベルリン発至急報……」
「……の渡河を目指して廻廊地帯に進出した軍隊と……ポーゼン地区……包囲の態勢を整え……」
「……今暁よりすべて……空軍の猛烈な爆撃に……」
「……会議に於てイタリア政府は……戦争のイニシャチヴを……」
芳枝が眼を開き、身体を少し動かしかけて、何時《なんじ》? と訊いた。桂が返事をしなかったので、脚を伸し、笑いながら桂の手を取って上半身を起した。窓の方を向いている桂の顔を覗《のぞ》き込むように見た。
暗い、つめたい顔をしていた。眉間《みけん》にいかつい皺《しわ》を寄せ、唇を固く結んで、眼に見えぬ遠い空間を、その空間の中のさらに暗黒の一点を、凝然と見詰めていた。芳枝ははっと息を呑《の》み、どうなさったの? と訊いた。
桂はゆっくりと芳枝の顔を振り返った。暫くの間、それが誰であるかも分らぬような、空《うつ》ろな視線で見詰めていた。それから無理にほほえもうとして、乾いた声で、
――戦争だよ、と呟いた。
四章 風土
――戦争だよ、と桂昌三は呟《つぶや》いた。
海へ行く道には黄ばんだ空気がうっすらと翳《かげ》り、時々、松の梢《こずえ》を洩《も》れて、血のように染った太陽の光線が斜めに射《さ》し込んで来た。道には人けがなく、蝉《せみ》が擅《ほしいまま》に鳴いている。二人の跫音《あしおと》を聞いて、小さな蜩《ひぐらし》が手の届くところから急に飛び立った。
――どうしても駄目ですか、と少年が訊《き》く。
――大きくなる一方だろうね。イギリスは昨日宣戦を布告したし、フランスも最後|通牒《つうちよう》の期限が切れれば当然戦争状態にはいるだろうし……。
――イギリスの飛行機がドイツ領にビラを撒《ま》いたそうですね?
――それは昨日だろう、さっきのニュースでは、英空軍がウイルヘルムスハーフェンを爆撃したそうだ。宣伝ビラぐらいでどうにかなる相手じゃない、ナチの文化は組織的だから、どうしてドイツ人はみんなこの戦争を正義のためだと思っているよ。どっちの側にも正義がある、それが戦争の怖《こわ》いところだ、ドイッチュラントにも神はあるし、キングを救ってくれるのもやはり神だからね。
画家と少年とは防風林を抜け終って、海の見える砂丘の上に立った。日没時の、大きな、火の玉のような太陽が、いま水平線に沈もうとして、爛《ただ》れたように赤く燃えていた。海は静かで、浜辺《はまべ》もまた静かだった。空には一面の鱗雲《うろこぐも》が、相似の一つ一つの片雲を黄色く染めたまま、海の上に影を落していた。
――いつか来たところだね、と桂が言った。君はもう晩御飯だろう?
――いいんです。
そう言って久邇は松の樹の根元に腰を下し、画家をその側《そば》に誘った。ポケットから煙草を出して火を点《つ》けているその手つきを見ているうちに、久邇の心は何だか不意に悲しくなった。
――君はいつまでここにいるんだね? おだやかな声で桂が訊いた。
――僕ですか? 今週中には帰らなくちゃ、もう学校も始まってるし……。桂さんはどうなさるんですか?
――僕は明日の晩帰る、知らなかったのかい?
――え、明日の晩? びっくりして相手の顔を見た。
――明日ね、お別れに芳枝さんが御馳走《ごちそう》してくれるそうだ、そのあとの汽車で東京へ帰ろう。
――何か急な御用事でも? と親しげに眉《まゆ》をひそませて訊いた。
――僕みたいな風来坊に用事なんかないさ、と気軽に言って苦笑した。とにかく東京へ帰ってみる気だ、それからどうするか……。
――でも、何か戦争のせいなんですか? とやはり心配そうに尋ねた。ひたむきな瞳《ひとみ》の色、そこに夕焼雲が映っている。
――いやただそう決心しただけなんだ。そして暫《しばら》く黙っていたが、ゆっくりと話し出した。……それにしても、戦争というものは、どこかで僕たちに影響してないわけではないんだね。戦争は、今、ここで、砲弾が炸裂《さくれつ》し兵隊が死んで行くからそれで戦争だというものではないんだよ、海の向うで起っていることは、ここで起っているのと同じことなのだ、それなのに僕たちは、何とそれに無関心なことだろうね。戦争はとうに始まっている、日本が満洲で口火を切ったんだ、それからイタリアがエチオピアを侵略した。あの時は誰もが可哀《かわい》そうなエチオピアに同情して、日本のお嬢さんが向うの王女さまになるって騒いだこともあったじゃないか、しかしエチオピアの肩を持つのは国策に反するというので、いつの間にか輿論《よろん》も抑《おさ》えつけられ、そのうちに忘れられてしまった。その次の年がスペインだ、もう三年になるが、フランコの叛乱《はんらん》でスペインが二つに割れた、ヨーロッパやアメリカでは人民戦線軍に投じるインテリの数が次第にふえたし、文学者も画家も、それに民衆も、みんな遠くから一つの気持で戦っていたのだ。しかし日本では、それは対岸の火災だった、そして僕たちは何一つ出来なかった。それから一昨年《おととし》になって蘆溝橋《ろこうきよう》だ、暴支膺懲《ぼうしようちよう》とかいって、シナでの戦争は日ましに大きくなって行く一方だ。それなのに本当に戦争を苦しんでいる人、戦争が悪だと考えている人が何人いるだろう。民衆は政府の愚民政策にみんな騙《だま》されている。戦争はシナで行われているので、どんな血腥《ちなまぐさ》い、残虐な戦闘が、今、この瞬間に、無垢《むく》の生命を奪っているかもしれないのに、ここでは万事が平和で、それが当然だと思っている、「ニッポン」号がサンフランシスコに着いたとか、ヨーロッパが戦争になったら欧洲映画がはいって来なくなるだろうとか、そんなことが話題なのだ。……不思議なことだね、大体僕がポーランドに同情したところで、現にシナを苛《いじ》めているその日本人の片割れなんだからね、シナでの戦争さえもどうすることも出来ないでいて、それでポーランドに同情する資格なんかある筈《はず》はないのさ。大体忘れるというのが不思議なんだ、……そう、僕の若い友人で一緒に絵の方をやっていた奴《やつ》が、去年の夏、例の張鼓峰《ちようこほう》事件というので戦死した、僕はその頃、何にもそんなことを考えないで、山の中で絵を描いていたんだからなあ。……あの張鼓峰事件というのが、どだいバカげた代物《しろもの》だった、君なんかもちろん知らないだろうが、あれは血気にはやった職業軍人が、抜駆《ぬけがけ》の功名心に駆られて、ソヴィエト軍の陣地に不意打を掛けたんだ、兵隊こそいい面《つら》の皮さ、殆《ほとん》ど全滅でね、僕の友人もその一人だった。新聞にはソ聯《れん》兵の不法越境と出ていたが、……バカげた、不合理な話だ、何のために死んだのかわけの分らぬ死にかただった、天才的ないい奴でね、どんなにかいい仕事をするだろうと僕|等《ら》がたのしみにしていたのに、誰も知らない間に、誰も知らないところで、簡単に死んじまったのだ。しかしね、シナでも、スペインでも、ポーランドでも、何の責任もない無辜《むこ》の人間が無慈悲に殺されているのだ、そして僕等はそのことに責任があるんだよ……。
太陽は既に水平線に沈んで、海も空も一時に赤く燃え始めた。鱗雲が、その切れ目ごとに濃い紺青の空を無限に遠く見せて窪《くぼ》み、ひらひらと宙に浮いた片雲の一つ一つは火の粉のように燃え上りながら、吹き飛びもせず落ちもせず、ただ色合の次第に薄く褪《さ》めて行くことで刻々に移り行く時間を示していた。画家はじっとそれを眺《なが》めていたが、溜息《ためいき》のように同じ言葉を繰返した。
――戦争というものはいつでもここで起っているのだ、決して海の向うでばかり起っているのじゃない、だから、例《たと》えばフランスがいずれ戦場になるからそれで僕もパリへは行けなくなるだろうというような、そんな単純なことで戦争が僕に影響するんじゃないのだ。
――フランスが戦場になるかなあ? と久邇が無邪気に訊き返した。マジノ線もジイクフリート線も凄《すご》いっていうから、前の大戦のように塹壕《ざんごう》で睨《にら》めっこになるかもしれませんよ、そのうちどっちも厭《いや》になって、……
――久邇君の言うようだといいんだがね、ああいう要塞線《ようさいせん》というのは万里《ばんり》の長城《ちようじよう》みたいなもので、これがあるから大丈夫だという信頼感を国民に植えつけるのが役目だから、実質はどういうものかな、攻撃の武器はいつでも防禦《ぼうぎよ》の武器よりは精巧だからね。
――やっぱし大きな戦争になりますか? とまだ諦《あきら》めきれないように言った。
――駄目だろう、これはポーランド一国の問題じゃないんだ、大英帝国《グレート・ブリテン》の威信とフランス共和国の名誉とが賭《か》けられているし、……野蛮な戦争になるだろう。ナチズムというのは憎悪の哲学だからね、民族と血と大地と虚無……、狂信者というのは怖《おそ》ろしいよ。
――厭だなあ、戦争なんて。
――実に厭だね、善い戦争はなく悪い平和はない、と言ったのは誰だったかな? もう現代人は、そういうことを聞いてもせせら嗤《わら》うだけになってしまった、観念的だとか何とか言ってね。素直な気持になりきることが出来ないんだから。
黄昏《たそがれ》が煙のように立ち罩《こ》めて来た。手許《てもと》もまだ明るく、空も明るく、それでいて何処《どこ》とはなしに、夕暮の翳《かげ》りがあたり中に揺いでいる。波の単調な響きが少しずつ夜を呼び寄せた。
――どうなるんでしょうね、それで? もうピアノなんか何の役にも立たなくなるんでしょうか?
桂は少年の顔を見、膝《ひざ》の上に置かれた手を見た。年の割に大きな、よく発達した、柔軟な手、恐らくその手は、銃を執ることも剣を握ることも出来ないだろう。
――ヨーロッパの文化か、と呟《つぶや》いた。そうだね、文化はきっと根柢《こんてい》から覆《くつがえ》されてしまうだろう、この前の大戦ですっかり傷《いた》めつけられた文化だから、またもう一度戦争になったら根こそぎ駄目になってしまうかもしれない。みんなそういうことを知っていて、それでどうにもならないんだよ。ヨーロッパの文化は十九世紀が絶頂だったのかもしれないから、どっちみちもう降り坂なんだろう、だから戦争がみんな清算してしまうかもしれない。……しかしだね、決して泯《ほろ》び去ってしまうことはないと思うんだ、ヘレニズム以来の伝統は根強いものだ、とことんまで行って生きかえる時が、本当の文化なのだ。ルネサンスというものを持っていて、文字通り「再び生きた」文化なのだから、新陳代謝する能力は僕等の想像以上だろう。だからそう心配するものでもないと思うよ。……問題はやはり、この僕たちの日本だろうね、ヨーロッパが戦争になったらこの日本がどうなるか、それの方がよっぽど心配だね。どうやら戦争に勝ち続けて一等国だと威張っていられる間はいい、しかし明治維新以来の借りものの文化が、いざという時に独《ひと》り立《だ》ち出来るかしらん。戦争になって日本が孤立してしまえば、その文化が果して活力素になるかどうか怪しいものだと思うのだ、また徳川時代の鎖国状態と同じような、いじけた、偏狭なものになってしまうかもしれない。……こういうことは、結局、日本固有の文化の問題だろうね。日本の文化は、平安朝《へいあんちよう》時代に華々《はなばな》しく開花した、それは古代文化とシナ文化との集大成で、そのシナ文化の中にはペルシャやインドから東漸した文化が含まれていた、そこにはギリシャの影響さえある、つまり平安朝文化は一種の世界文化で、おおどかで、平明で、明晰《めいせき》だった。それが源平の乱ですっかり頽《くず》れ、惨澹《さんたん》たる暗黒時代を迎えた。そうして室町《むろまち》の文化が来た。それが、もしもヨーロッパのように、中世のあとのルネサンスならよかったのだ。しかし、室町文化は決してルネサンスではなかった、それは中世に対する反動ではなく平安朝文化に対する反動だった、貴族文化に対する庶民文化、暖色の文化に対する寒色の文化、暗い、うそ寒い、非個性的、象徴的なものだ。それが、日本が外国文化の影響を受けないで、この特殊の風土の中で、特殊の材料を使ってためしてみた実験の結果だった。これはもう世界文化ではなく一つの地方文化にすぎない。しかしそれでも、確かに、これは日本的な、とにかく文化というに価いするものだった、能も、茶室も、俳諧《はいかい》も、庭も、みんな立派なものだ、ただあまりにも風土的、モンスーン的だがね。しかしそのあとで、一層厳密な実験を試み、完全に外に開く窓を鎖《とざ》してしまい、ただこの文化だけを培養してみたところ、その結果は創造的な精神というものがどんどん萎縮《いしゆく》して行っただけだった。徳川時代というのは近代じゃなかった、それは室町文化がルネサンスでなかった一つの証拠だね。そうして明治維新になった。今まで持っていたものは何の役にも立たぬ、というので外国の文化が、つまりハイカラなものが洪水のように流れ込んだ。この点が出発点だった、無理に言えば僕たちのルネサンスだった、といって何に復《かえ》ればいいんだい、それは日本固有の文化じゃなかった、遠いヨーロッパの文化という、まったく異質のものに復ろうとしたのだ。伝統のないところに無理にも接木《つぎき》しようとしたのさ。そしてこの新しい実験は現に進行中なのだ、小型の、独り立ちの出来ないような、幼い文化だ、しかしこれから本ものになれるかもしれないという見透しはある。ね、乳母《ばあや》がついているからお乳が飲めるんだよ、その乳母さんが喧嘩《けんか》を始めたんじゃ乳呑児《ちのみご》は一体どうなるのかね、それが自分じゃもう大人のつもりでいる……。実際思い上っているんだろうね、この日本は? 鎖された文化、天皇崇拝、神道、家族制度、武士道、……万邦無比の国か。
低い声に情熱を潜在させて喋《しやべ》っていた桂が、ぽつんと言葉を切った。暗い表情が、忍び寄って来る夜気と共に、その顔を仄《ほの》かに翳《かげ》らせている。空の中の赤味を差した光が少しずつ消え、海が次第に藍色《あいいろ》を増して行った。
――僕ね、桂さんがいなくなったらもう訊く人がいないから少しお訊きしてもいいですか? 久邇がおずおずと口を利《き》いた。
――ああいいとも、何だい?
桂は新しい煙草に火を点《つ》けて、少年の方を見た。
――そうすると、と考え深そうに、両膝の上に肱《ひじ》を突いて久邇が訊いた。芸術家というのは戦争になったらどうすればいいんですか?
――そうね、芸術は本来、平和なものだからね、それは平和のためにあるんだろうね、だから本質的に戦争とは相容《あいい》れない、従って戦時には、芸術家は沈黙せざるを得ない場合が多いだろう、もし propagandist《プロパガンジスト》 として生きるのでなければね。外部的な条件のために沈黙するのは恥じゃないさ。しかし芸術家は常に未来の作品のために生きているのだから、その間に内心の、創造の樹液を枯らしてしまったらお終《しま》いだ、常に未来を用意して、いつかは必ず立派な樹木にまで成長しなければならない、だから沈黙することもむずかしいし、沈黙してなお内心の焔《ほのお》を絶さないということもむずかしいのだ。
――でももし作品がつくれる前に死んでしまったら?
――それはしかたがない、それでなくても運命は芸術家に苛酷《かこく》なのだから。芸術家には色んな敵がある、一人前の芸術家になるというのは大変なことだよ。
――それで、さっきのですね、芸術が平和なものだとして、それは何のためにあるんですか?
――何のために? と繰返して、桂はゆっくり煙草をふかした。……そう何のためにね、芸術家は創《つく》りたいから創る、彼はその意味を考えない、が、こういうことは言えるだろう、人間は誰でもその内心に創造したいという欲望を持っている、どんなささやかなものでも、創造は悦《よろこ》びで人間の魂を亢《たか》めてくれる、それは破壊することとはまったく違った、本質的に人間を美しくするものだ。しかし誰でもが創造することは出来ないから、選ばれた人間が、自分たちの作品を通して、そうした創造の悦びを人々の心に再現させる、人々に自分等もまた創造に与《あずか》っているような追体験をさせるわけだ。まあとにかく、芸術家ははっきりした効用を目指《めざ》して創造しているわけじゃないさ。創りたくってしようがないんだから、理窟《りくつ》は二の次さ。
――それでね、僕が訊きたいのは、一体どこからそういう創造する力が生れて来るのか、ということなんです。作品を生み出す力は何なのですか?
画家は黙ったまま、指の先でかすかに煙を上げている、短くなった煙草の火を見詰めていた。それを一息吸い込み、吸殻を前に投げた。次第に濃くなって行く夕闇《ゆうやみ》の中で、その青い煙は直に薄らと消えてしまった。
――君はむずかしいことばかり訊くね、と言って少し笑ったが、言葉は、寧《むし》ろ悲痛に聞えるほどの、沈静した暗鬱《あんうつ》な感情を響かせていた。……作品を生み出すものは孤独じゃないんだろうかね。孤独、……これは僕の経験から出ているので、或いは違っているかもしれないが、僕は孤独から創る。自分の孤独の中で、たれ一人助ける者もなく、|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き苦しんで何とか逃げ出そうと試み、逃げて行く場所は何処《どこ》にもないと分って夢中になってこの孤独と格闘する、そこが僕の創造の場なのだ。自分の中の空白なものを埋めようとする気持、孤独の重圧から自分を解放しようとする気持、しかも決して孤独が厭なのじゃない、ただいつでも孤独を意識しているから、作品によってせめてこの孤独を暖めようと思うんだね。だから泉のように滾々《こんこん》と湧いて来るような霊感があるわけじゃない、自分の生命を少しずつ削り取るようにして、自分だけの力で、創造するのだ、悦びであるよりも苦しみであることの方が遥《はる》かに多い、それでも、創らずにはいられないのだ。創ることも苦しいし創らないことも苦しい、何のための苦しみだろうかと時々ふっと思うね……。
終《しま》いの方は独り言のように小さな声で呟いた。久邇はそこで何かを一心に考えていたが、相手の言葉が途切れてから、暫くしてためらいながら尋ねた。
――でもその源《みなもと》に、愛がなることはないでしょうか?
言ってから、愛という言葉を口にしたのが恥ずかしかった。
しかし桂は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せてじっと前を見詰めたまま、首を縦に振って久邇の言葉を肯定した。
――そう、愛ね、君はよくそこに気がついた。確かに充《み》ち溢《あふ》れるような愛から創造する芸術家もいる。つまり二種類の芸術家がいるわけだ、孤独から創る者と愛から創る者と、奪う者と与える者と、自分のための芸術家と他人のための芸術家とだね、そういう一応の区別は出来る。一人は孤独の中に呻吟《しんぎん》し、より高いものに憧《あこが》れ、謂《い》わば「心の中に持っているものを外へ出すために」創作する、従ってその作品は自らの血と肉とで贖《あがな》われている、例えばベートーヴェンのような、……もう一人はいつでも充ち溢れるような愛を持ち、幸福な生涯を送り、霊感はいつもみずみずしく、人々を愛し人々に愛される作品を創った、例えば、バッハやモツアルトなんか、もっともモツアルトなんかあんまり幸福だとも言えなかったのかね? とにかく、そういう羨《うらやま》しい芸術家もいる。が、僕は自分を孤独の型だと考えているのだ、それは決して昂然《こうぜん》と、自信をもって、言ってるわけじゃない、君なんかそういうふうになってもらいたくないと思うから言うのだ。本当に才能さえあれば、孤独でいいのだ、誰にも煩わされず、個性的な仕事をこつこつとやっていればそれでいいのだ。しかし僕のような貧しい才能しかなければ、生涯も貧しく芸術も貧しいのだ。僕はギリシャ神話のプロメテのように、自分の不幸を禿鷹《はげたか》に食わせながらこの貧しい芸術を育てて来た、決して不幸を売物にしようとは思わないが、求めて孤独になったわけでも不幸になったわけでもないんだよ、もし幸福な愛というものが与えられていたら、もっと人間らしい、もっと生き生きした作品が創れたかもしれない。が、僕にはそういうものが与えられなかった。嫉妬《しつと》ぶかい芸術の女神に奉仕して、自分の人生をすりへらしてしまった。愛している時でさえも、いつも苦しみばかり感じていたのだ……。
声が次第に低く、途切れがちに響いた。あたりは一層暗くなった。
――僕は、愛していることは幸福だと思います、と久邇も独り言のように低い声で言った。
――そうだね、愛していることは、本来、幸福な筈《はず》だね、人は幸福になろうと思って人を愛するのだ。久邇君なんか、まだ無邪気に人を愛することが出来る筈だ。いつまでもそれが出来たなら、どんなにかいいんだろうけどね……。
そして暫く黙っていてから、附け足すように訊いた。
――君は道子さんが好きなのだろう?
久邇は首を起して、直に、好きです、と答えた。そしてややためらい、子供らしい、素直な、考えるような表情で呟いた。
――でもあの人は……ひょっとすると桂さんが好きなのかもしれません。
画家はあっけにとられたようだった。反射的に笑い、バカなことを、と一言のもとに否定した。ポケットからまた煙草の箱を出し、一本を抜き取ってマッチを点《つ》けた。マッチの火が一瞬、尖《とが》った鼻と、煙草をくわえた口許《くちもと》とを、明るく照し出した。
あたりはもうそれほど暗くなっていた。秋の初めらしい、長くたゆたっていた黄昏《たそがれ》も漸《ようや》く尽きた。わずかに残っていた薄明りも暗紫色の夜の中に吸い込まれた。空を覆《おお》っていた鱗雲は西に流れ、無数の星の燦《きらめ》き始めた晴れ渡った夜空が、次第にその領域をひろげて行った。かすかに西の空の水平線に近く、片雲の下翳《したかげ》が薄い橙色《だいだいいろ》を見せていたが、それもみるみるうちに褪《さ》めてしまった。岬《みさき》の燈台が、いつのまにか、明るい光芒《こうぼう》を転回させ始めていた。
――愛するということの意味が分るまでには、長い時間がかかるよ。
画家は低い声で、思い出したようにそう言った。言ったきりぼんやりと煙草をふかしていた。彼は重たい気分を感じた。心の中で、何ものともしれず疼《うず》くような痛みが、強くなったり弱くなったりした。それが生きていることなのだと思った。すべての生きた人たちの苦しみが、彼等の死後もなお宙に漂っているような、或いは天と地との間に自然の痛みのようなものがあり、それが一人一人の生きた人間の心の中に暗い影を落しているような、そのような落莫《らくばく》とした印象が彼を捉《とら》えていた。夜はそのように落ちた、心の痛みのように落ちた。
桂はその時、独りきりだということを痛切に感じた。原始の未開の人間たちが、狂暴な野獣の遠吠《とおぼ》えを耳にしながら、暗黒の夜の中で感じたような、凍りついた孤独。側にいる、この怜悧《れいり》な、素直な、やさしい少年の心づかいも、彼には何の慰めでもない、ただ彼が行きずりに出会い、仄《ほの》かに心を暖められた行人《こうじん》の一人というにすぎない。彼にとって、すべての愛した人、すべての心を傾けた友人というものも、畢竟《ひつきよう》は行人というにすぎなかっただろう。ただ一人、裸のまま、孤独に生れ落ちた人間は、成長するにつれて次第に交友の輪をひろげて行くが、最後に、再び、初めの孤独にまで帰って来る、今までの大きくひろげられていた輪が、その実は一匹の魚をさえ捕えることの出来ない幻の網だったことを知って。その時に孤独は、最早《もはや》何等の創造を喚《よ》び起さない心の痛みとして理解される。生きていることが罪であるような、この間違った(しかしその間違いを証朋することの出来ない)意識。夜はまったく落ちた。
「君には恐らく分らないことだろうね、久邇君。」桂はそう心の中で少年に呼び掛けた。「愛するということの、この宿命的な苦しみ。それが自分の孤独を二倍にも三倍にもすることが分っていながら、しかも愛さなければいられないこの気持。魅惑の風土へのこの出発と、人が旅から抽《ひ》き出すこの味苦い知識。そしてすべての未知が分ってしまったあとの、このほろ苦い静けさ。もう再び出帆し、再び航海して訪《たず》ねて行くべき新しい風土は何処にもないと知った時の……。」
――久邇君、僕はこういうことを考えるのだ、と声に出して言った。しかしその声は聴き取りにくいほど低かった。……日本の或る偉い学者がね、風土によって文化を大きく三つの型に分けている、それは「牧場」型と「砂漠《さばく》」型と「モンスーン」型との三つだ、しかし「モンスーン」型といっても日本とシナとでは違うし、細かく分けようと思えばまた色んなことが言えるんだが、……そういう類型を、僕は人間の精神の上にも数えられるように思うのだ。僕たちは一人一人が違った風土を持っている、或る人は暖かい、日光のよく当る、平和な「牧場」型の風土を、或る人はさむざむとした、草も樹も育たないようなシベリア的な風土を、或る人は……まあとにかくそういったふうにね。そして僕たちはいつでも、自分とは違った風土に憧れるものだ、違った未知の風土に憧れてそこへ行きたいと願うものだ、僕がこのじめじめした日本が厭になってパリに憧れたようにね、そういう、何処かへ行きたいという気持、それが愛するということなのだ、未知の風土、それは愛する人の心だ。しかし人間という奴は、せっかく憧れて行った風土に、いつまでもとどまっていることが出来ない、そこからまた新しい風土へ、また新しい心へと、僕たちの心は飽きることなく遍歴する。そして疲れ切ったあげく、最後に、自分の孤独へと帰って来るのだ、ちょうど外国に長くいた日本人が、また味噌汁《みそしる》と米の飯が食いたくなって、この貧しい日本へ帰って来るようにね。どんなに他人を愛し、心から理解し得たと思い、同じ呼吸を呼吸し、同じ眼でものを見、同じ心でものを考えたとしても、人間はただこの自分の風土、この自分の孤独の中にしか住むことは出来ないのだ。この僕もどんなにか人を愛したいと思い、またどんなにか人を愛しただろう、……しかし僕の人生は、結局、孤独というにすぎなかった。長い間夢を見て、夢の中で色んなことを学んだようにも思ったが、眼が覚《さ》めてみれば、確かなものはただ自分の孤独があるばかりだった。人を愛するということはみんな空しいことだった。未知である間が一番美しかった。日本にいてパリに憧れている間が、恐らくパリは一番美しいのだろう、少くとも最も愛していられるのだろう。人間も……。いつまでも夢を見ていられればね……。
桂は自分にだけ言い聞かせるように、知らず識《し》らず声を落して行ったが、最後にぽつんと止めてしまった。手にした煙草もいつのまにか消えていた。久邇が話し掛けようとして画家の方を向いた時に、折から、もうすっかり夜になった海の上を薙《な》いで来た旋光燈台の明るい光芒に、画家は片手の中に頬《ほお》を埋めて、じっと海の方を見詰めていた。
桂は眼の前に、颱風《たいふう》の吹き過ぎたあとの荒れ狂った海を見た。それはふと甦《よみがえ》った遠い記憶の幾齣《いくこま》だった。瀕死《ひんし》の太陽が血を流したように、牙《きば》を剥《む》いた浪《なみ》の上を照していた。靡《なび》いている芒《すすき》の原を見た。何処までも限りなく続いている砂丘を見た。萎《しお》れた月見草、だらんと垂《た》れた乾網《ほしあみ》、打上げられた漁船、そして彼を養ってくれた老いた祖父母の顔(祖父母はもう死んだ)、漁師の安さんの顔(安さんは時化《しけ》の海で死んだ)、幼い彼を可愛《かわい》がってくれた、泣《な》き黒子《ぼくろ》のあるお君さんの顔(お君さんは岬から身を投げて死んだ)、幼馴染《おさななじみ》の小学校の生徒たち(その幾人かはもう死んだだろう)、僕を育て、僕を決定した風土はそれだった、……その暗い絶望的な意識、魚くさい土間、またたいている洋燈《ランプ》の灯、小さな机の並んだ小学校の教室、雪を帯びた連山、凍りついた塩からい空気……。
――ああすっかり遅くなったね、もう帰ろう。
そう言うと夢から覚めたように立ち上った。あとから急いで腰を起した久邇は、画家が独り言のように、僕は故郷へ帰ってみるつもりだ、と呟くのを聞いた。一陣の風のように過ぎて行く燈台の灯の中で、画家の顔が或る強靱《きようじん》な意志を表しているように、久邇にふと感じられた。
五章 「月光」
1
桂が帰るという日の晩餐《ばんさん》も、それまでに幾度か四人きりで内輪に催された晩餐と比べて、大して変っている点はなかった。ただ、桂はあまり口を利《き》かなかったし、道子もなぜか不機嫌《ふきげん》に黙り込んでいたので、自然に沈黙がちの、しずかな食事になった。そのあとで皆が客間の方へ移ってからも、これでお別れだという目立った変化はなかった。しかし窓から吹いて来る微《かす》かな風には新秋の冷え冷えとした空気が感じられたし、夕べの光もどこか淡々しかった。部屋の中はまだほんのりと明るくて、中央のシャンデリアに電燈をともす必要はなかった。
四人はそれぞれに、くつろいだ姿勢で腰を下していた。芳枝は煖炉《だんろ》の前の肱掛椅子《ひじかけいす》にやや浅く腰を掛け、画家がいつもの通り自分の正面の、窓を背にした長椅子に深々と凭《もた》れているのを見ていたが、その顔は夕映《ゆうばえ》の窓を背景にしていたので、どのような表情なのかは分らなかった。無言で煙草をくゆらせていた。長椅子の背に片手を掛け、その手で首の後ろを抑《おさ》えていた。
同じ長椅子の反対側に、久邇がいつもの少し寂しげな顔を俯向《うつむ》き加減《かげん》にして、大人《おとな》しく腰掛けていた。道子は横手の肱掛椅子に、脚《あし》を組み、首を椅子の背にもたせかけるようにやや仰向に天井のシャンデリアを睨《にら》んだまま、ぼんやりと黙りこくっていた。何てお行儀が悪い、と芳枝は思ったが、注意する気にもならず、またいつのまにかそれを忘れてしまった。
――皆さんお帰りになると寂しくなりますわ、と自分の考えていることを言った。
桂はちらりと芳枝の方を向いたが、頷《うなず》いただけだった。
――本当に秋ぐちは寂しくて、毎年毎年……。
――いっそ東京にお移りになればいい、と久邇が側《そば》から言った。
――本当に。ちょっとと思っていたのがすっかり住み着いてしまって……。何処《どこ》かへ行きたいと思いますわ。
画家の方を見たが画家はぼんやりと思考に耽《ふけ》っているらしく、代りに道子が急にこちらを向いた。
――あたしは厭《いや》よ、あたしは何処へも行きたくなんかないから。
そのそっけない調子に、芳枝のふくらみかけた心が冷《さ》めてしまう。いっそパリへでも行こうかと思う、……そう言ってしまいたかったのに。しかし、言う機会はこれから何度でもあるのだから。
さりげなく久邇と会話を続けた。
――久邇さんももうすっかりお丈夫ね?
――ええ、僕もう大丈夫です。すっかり元気だ。
――でも、どんなに軽かったからといって、肋膜炎《ろくまくえん》のあとはようく気をつけていなければ駄目ですよ。
――はい。
――あなたはお母さまがいらっしゃらないから、自分でよく注意なさるのよ。
――ええ大丈夫です。
桂は聞くともなしに、煙草をふかしながら、二人のやりとりを聞いていた。やはりこういうふうにして昔もぼんやり人の話を聞いていたものだ、と思う。同じ季節だった、同じ部屋だった、そして同じ人……。遠い歳月、もう決して帰っては来ない時間。あの時も窓は明いていたし、芳枝さんはやさしく笑っていた。荒巻さんがいた。温厚な紳士。三枝太郎がいた。あの晩、奴《やつ》と芳枝さんとが会っているところを、もしも僕が見なかったならば。高遠茂がいた。六法をペラペラ暗誦《あんしよう》して得意になっていた奴。そして、みんなもう死んでしまったのだ。むかし快活に、はずんだ声をして、僕たちは何を話していたのだろう、何を夢み、何を望んでいたのだろう。それはあまりにも遠いことだ、死んだ者は喪《うしな》われた生を再び生きることは出来ないし、生きている者も、喪われた生を再び生きることは出来ない、同じ季節、同じ部屋、同じ人、……あの時に、電燈はもう既に点《つ》けられていただろうか……。
――久邇君、と思い出したように呼び掛けた。
ちょっとびっくりして振り向いた。
――いつかピアノを弾《ひ》いてくれると約束したね?
――ああそうだった。
――ひとつ頼むよ、いいだろう?
――弾きます、と嬉《うれ》しそうに答えた。
――「月光」を弾いてくれないか、あれを聴《き》きたい。
芳枝が何か思い出したように、ああ「月光」ね、と小さく呟いた。しかし彼女が思い出したのは、花火の晩に画家が「月光」の話をしたことで、昔の記憶ではなかった。
少年が頷いて立ち上るのを、桂はじっと眼で追っていた。昔はそれが芳枝さんだった。恥らいと誇りとに紅潮した頬《ほお》をして、軽い足取でピアノの方へ歩いて行った。あの時は幸福だった、幸福だと自分で思っていた……。
早川久邇はピアノの前の廻転椅子に腰を下し、黒光りのするグランドピアノの蓋《ふた》を開いた。それからまた立ち上り、少し神経質に椅子をくるくると廻してやや低目にすると、両手の指を暖めるように捏《こ》ねまわしながら、再び席に就《つ》いた。そして急に落ちて来た静寂の中で、青空を昇りつめたあげく空中に凍りついてしまった二羽の雲雀《ひばり》のように、開いた両手の指を鍵盤《けんばん》から少し離したまま、……待っていた。
2
ピアノ奏鳴曲|嬰《えい》ハ短調「月光」
第一楽章 adagio sostenuto
僕は最初にピアノに指をおろす時の気持が好きだ、と久邇は思う。初めに言葉ありき、その言葉とは音楽のことに違いない、右手がそっと拾って行く三連音符、それは風のそよぎ一つない死に絶えた世界に、しずかに忍び寄って来る仄明《ほのあか》りなのだ、ゆるやかに、ゆるやかに、音が音を呼び、それは少しずつひろがって行く、少しずつ育って行く、小さな波紋が次第に大きな波紋に育つように、右手の拾うしなやかな三連音符、そして降り注いで来る宇宙の光、桂さんがいつかおっしゃったように、死に絶えた世界に新しい生命が生れようとしているのだ、青ざめた光が地上を覆《おお》い、ゆるやかに、ゆるやかに、充分の音量を保って、桂さんはどうしてあんなに暗い、沈んだ顔つきをなさっているのだろう、「僕は故郷へ帰ってみるつもりだ、」どうして故郷に帰る人があんな寂しそうな顔をしていなければならないのだろう、桂さんは小母《おば》さまがお好きなのだろうか、しかしもしお好きなら昨日のようなことはおっしゃらないに違いない、愛することがそんなに苦しいことなら、何も愛する必要はないわけだから、しかしそれでも愛さなければならないというのが、愛することの性質なのだろうか、僕だって、たとえどんなに苦しくても、道子さんを愛さないわけには行かないのだから、桂さんは寂しい人だ、ああいう大人になるのは厭《いや》だなあ、桂さんはきっと「モンスーン」的な風土を持った人に違いない、道子さんは勿論《もちろん》「牧場」型だ、あの人は明るくて、豊かで、牧場のように実りの多い愛を持っているのだから、小母さまは……小母さまも「牧場」型かしら、でも、小母さまの心の中には何かしら死に絶えたものがある、「砂漠《さばく》」のように、何も生み出さず、ただ乾《かわ》いた砂と徒《いたず》らに熱い太陽と、しかしそんな筈《はず》はない、あの道子さんのお母さんだもの、桂さんが好きになるような人だもの、きっと「牧場」型の人なのだ、僕はあの小母さまをよく識《し》らないからそれできっと間違っているのだろう、前には大好きだった、今ではそんなに好きじゃない、何だか時々怖《こわ》いような気がする、そうだ大人というのはみんな怖いのだ、何かしら僕なんかには分らないものを持っているのだ、桂さんのあの暗い表情の底にあったもの、ゆるやかに、ゆるやかに、充分の音量を保って、こんな余計なことを考えてちゃいけないのだ、ピアノを弾《ひ》いている時に他のことを考えるのは、音楽を冒涜《ぼうとく》するものだと先生がいつもおっしゃる、音楽、音楽、桂さんにもし欠けているものがあるとすれば、それは音楽なのだ、音楽がありさえすればあの人は生き返ることが出来る、桂さんはきっと芸術の中に何もかも投げ込んでおしまいになった、だからきっと人生というものが、搾《しぼ》り取ったあとのレモンのように乾《ひ》からびたものになったのだろう、もしそこに音楽がありさえすれば、この宇宙の光のように注いで来るものがありさえすれば、音楽は死んだ人さえ甦《よみがえ》らせることが出来る、孤独を慰め、愛している人たちをもっともっと愛させることが出来る、ゆるやかに、ゆるやかに、充分の音量を保って、愛すること、愛していることは幸福だと僕は桂さんに言った、本当にそうなのだろうか、自分で自分を幸福だときめているのではないだろうか、未知の風土にあこがれるという桂さんの言葉、道子さんという人は今でもまだ僕にはその名前のように「未知」なのだ、未知だから愛している、不安だから一層愛している、そしてそれでいいのだ、不安だって愛している限りは幸福なのだ、僕があの人を想い、あの人が僕を想っていてくれる間は、ゆるやかに、ゆるやかに、ああ僕にとって生きることは悦《よろこ》びなのだ、道子さんが僕の弾くピアノに耳を澄し、ひたすら僕のことを考えていてくれる間は、生きよう、いつまでも美しく、いつまでも未知の風土にあこがれて、そうして生きて行けばいい、僕たちは生き、いつか結婚するだろう、それから長い時間が経《た》ち僕たちがやがて死んでしまったあとでも、この愛だけは空気のように残るだろう、音楽のように残るだろう、この愛の記憶、この美しかった夏、この美しい未知の風土、ゆるやかに、ゆるやかに、充分の音量を保って、僕たちはきっと生きられる、ね、道子さん、明るい、豊かな、実りの多い風土の中に、音楽の悦びのような悦ばしい日々を、僕たちはきっと生きられる……。
第二楽章 allegretto
わたしは晩《おそ》い夏の夕暮のこの静かな時間が好きだ、と芳枝は思う。夏はもう果てて、やがて秋が来る、夏の耀《かがや》かしい太陽も、白い雲も、光る海も、みんな記憶の中に死んでしまうだろう、しかし毎年の夏の終りにわたしが感じていたような、あの空《うつ》ろな寂しさは今のわたしにはない、この夏だけは愉《たの》しかった、それは今までとはどんなにか違うのだ、むかし太郎と約束をした夏が愉しかったように、しかしもっと明るく、もっと悦ばしく、この夏の記憶だけが……、わたしはこうしてぼんやりと椅子に凭《もた》れている、わたしの前には桂さんがいる、音楽が鳴っている、悦ばしげにピアノの音がわたしの廻りで踊る、やや快速に快活に、手をつないで踊る娘たちのように、明るい声で歌う天使たちのように、わたしはうっとりと眠くなる、わたしはそうして眠っていたのだ、木洩日《こもれび》のちらちらする、そよ風の渡る庭の中で、そうするとふと眼の前に桂さんがいらっしゃった、嘘《うそ》のように、魔法のように、少し困ったようなやさしい顔をなさって、それから何もかもが前と変ってしまった、わたしは生きる、わたしの青春はもうすっかり過ぎてしまったわけではない、眠りから覚《さ》めるということの中に、どんなに大きな悦びが隠されていることだろう、わたしは長い間眠っていたのだ、太郎が死んでからの長い長い間を、いいえ、ひょっとしたらその前から、もっと昔の、初めて桂さんをお識《し》りした頃から、わたしはずっと眠っていたのかもしれない、それだから太郎のことばかり眼に映って、あの頃桂さんのことを何とも思わなかったのかもしれない、桂さんが万里子さんと親しくなさっていたようだから、それで、万里子さんがお好きなのだと勘ちがいしていたのかもしれない、もし昔から目覚めていたら……、しかしわたしがバカで、ずっと眠り込んでいたからこそ今のような悦びが不意と目覚めたのだ、音楽が鳴っている、この第二楽章、リストが「二つの深淵《しんえん》の間に咲いた一輪の花」と呼んだ、この明るく、快活な、優雅なスケルツォ、わたしは花のように今を生きる、今までが深淵であり、今から後が深淵だとしても、わたしは今を生きている、それに、これからだってきっと幸福なのだ、桂さんがいる限りわたしはもう幸福だ、わたしたちはパリへ行こう、行って美しい夢を描こう、青春はまだ決して過ぎ去ったわけではないし、わたしはまだ若いのだから、……若い時にわたしもこの曲を弾いたことがある、桂さんが聞きたいとおっしゃってそのために弾いたような記憶、しかし何を考えて弾いていたのだろう、そしていつだったろう、もうみんな遠い昔のことだ、わたしの指はかたくなってしまってもう「月光」を弾きこなすことは出来ないだろう、すべてはそういうふうに過ぎ去って行く、しかしまた新しく生れて来るものもあるのだ、わたしたちは一つのことを忘れてまた新しい一つのことを覚える、一つが死んでまた一つが生れる、すべては順ぐりに変って行く、それが成長するということなのだろう、わたしはむかし桂さんという人が分らなかった、今から思うとあんないい人が分らなかったなんてまるで不思議なよう、しかしそれだからこそ桂さんの本当の値打が今のわたしによく分るのだろう、やや快速に快活に、手をつないで踊る娘たちのように、明るい声で歌う天使たちのように、こうして生きよう、美しい夢をもって、わたしの前には桂さんがいる、道子はどうしてあんなに怒《おこ》ったような顔をしているのだろう、桂さんは音楽を聴《き》いている、わたしは音楽を聴いている、二人はきっと同じことを考えているのに違いない、幸福なわたしたちの未来、わたしたちの夢、パリの夢、もう決してこの夢は覚めることがないだろう、いつまでもこうしていよう、やや快速に快活に、わたしはうっとりと眠くなる、わたしは晩《おそ》い夏の夕暮のこの静かな時間が好きだ……。
第三楽章 presto agitato
なぜ「月光」なのだろう、と道子は思う。なぜ「月光」であって他の曲ではないのだろう、いつぞや桂さんが |idee fixe《イデ・フイクス》 とおっしゃったのは何のことなのだろう、この急速な、怒濤《どとう》のような呼声、重苦しい陰鬱《いんうつ》な印象、決して明るく華《はな》かな曲ではないのになぜ? 桂さんがお別れに何の意味もなく「月光」を選んだとはわたしには思えない、何となく久邇さんに頼んだのでは決してない、そこに何かしらわたしの知らない意味があるに違いない、恐らく桂さんの生きかたの中に、この音楽と切り離せないものがあるというような、桂さんの暗く沈んだ顔、眼をつぶって何を考えていらっしゃるのかしら、もし喧嘩《けんか》さえしなかったらわたしはそのわけを訊《き》くことも出来たのに、速く速く、生は疾風のように過ぎて行く、疾風のように過ぎて行く、でももう遅いのだ、わたしがあのゴーギャンにパレットナイフを突き刺してしまった以上は、どうしてあんなことをしたのかしら、あんなバカなことを、いいえ、しかたがない、桂さんがわたしを怒らせたのが悪いのだわ、憎らしい人、どうしてママンの気持をすっかり持って行ってしまったのでしょう、そっとしておいて下さればいいのに、ママンたらあんなにうっとりしてピアノを聴いている、あんなに愉《たの》しそうに、それなのに桂さんの顔、苦しげに、緊張して、あれは決して音楽を聴いている顔じゃない、何かがあの人を惹《ひ》きつけているのだ、何が? それはわたしには分らない、あの人はおっしゃった、|Das ist alles meines Lebens《ダス・イスト・アレス・マイネス・レーベンス》 ……そのドイツ語の意味はわたしにも分る、「それはわたしの人生のすべてのものです、」一体何がすべてなのだろう、あの人はいつでもその「すべてのもの」のことばかり考えているのだろうか、速く速く、死は深淵のように呼んでいる、深淵のように呼んでいる、それはわたしだっていけなかった、パレットナイフなんかで突き刺すことはなかった、あの時わたしを御覧になったあの暗い、心の底まで沁《し》み込んで来るような眼、わたしが傷つけたのは絵じゃなくて桂さんの眼だった、怖《こわ》い眼、じっと、悲しげに、訴えるように、わたしを睨《にら》んでいた眼、しかしそれはわたしではなくわたしの背後にあるものを、もっと遠い、人間の眼に見えぬもっと先のものを、じっと見詰めていた眼なのだ、その中では二つのものが争っていた、意志と絶望と、欲望と後悔と、そして恐らくは生と死と、いつか桂さんがおっしゃったこの第三楽章の二つの主題のようなもの、それがあの人の眼の中で影のように踊っていた、それを見たのはわたしばかり、わたしだけが知っている、ママンなんか夢を見ているだけなのだから決して決して分りはしない、わたしは桂さんという人を芸術家らしい、プライドの高い、強情な威張り屋さんだと思っていたけど、もっと素直な、寂しい、子供のような人なのかもしれない、あの物に憑《つ》かれたような眼、そして疲れ切った暗い翳《かげ》、何をあんなに考えているのかしら、眼をつぶって、あれは決して音楽を聴いている顔じゃない、速く速く、疾風のように過ぎて行く、深淵のように呼んでいる、わたしの大事なゴーギャンをとうとう駄目にしてしまった、カンヴァスの後ろからそっとテープを当てて、絵具を怖《おそ》る怖る塗って、ちょっと見には分らないように何とかごまかしてしまったけれど、もうあれは本当のものじゃない、もうすっかり駄目にしてしまった、せめて桂さんが許してさえ下さるならあんなゴーギャンなんか惜しくはないんだけど、でもどうしてあんなバカなことをしたのだろう、どうせ突き刺すのなら桂さんの絵にでも突き刺せばよかった、憎らしい人、あたしのことなんか気にも留めてくれやしない、ママンとはすっかり「恋仲」だし、……いいなあ「恋仲」、どんなにいいだろうなあ大人の人と「恋仲」なんかになったら、……それから久邇さん、桂さんときたら久邇さんととても仲よくお話をなさる、どうしてわたしだけをのけ者にしなければならないのだろう、わたしは絵のお話も出来る、音楽のお話も出来る、「人生」のお話だって出来るわ、それはまだ子供だから何でもってわけには行かないけど、でも勉強すれば何でも分るわ、それなのになぜわたしを避けてばかりいるのだろう、生は疾風のように過ぎて行く、死は深淵のように呼んでいる、桂さんのあの暗い、沈んだ顔、心の底で争っている二つのもの、……そうだった、いつか浜辺《はまべ》で桂さんが右手の中指に貝殻で怪我《けが》をなさったことがあった、わたしがどんなにかびっくりしたのにあの人は平気の平左だった、どうせお休みだからと言って笑っていた、そんな、お休みなんてものが芸術家にある筈はない、大事な右手の指に傷をつければ仕事が出来ないにきまっています、お休み? そんなことは言いわけになりはしない、じゃなぜ平気だったのだろう、どうして少しも心配しなかったのだろう、あの人が本当の芸術家でないから? いいやそんな筈はない、絵を描くことに絶望してしまっているから? もう絵を描く気が少しもないから? 速く速く、そうだ、あの人はもう生きる気がないのだわ、絵を描くことにも、愛することにも、もう何にも本気でやる気がない、あの人の眼は最初から生きようなんて気の全然ない眼だったのだ、深淵のように呼んでいる、深淵のように呼んでいる、桂さん、あの人はきっと死ぬ気なのだ、きっともうそう極《き》めてしまっているのだ、それなのにママンのあの愉しそうな、ぼんやりした顔、桂さんが死ぬというのにママンたら一体どうしたのかしら、速く速く、誰にも分っていない、誰にも助けることは出来ない、桂さんはもうお立ちになる、このあとすぐ汽車で行ってしまう、もうどうすることも出来ない、深淵のように呼んでいる、もしわたしが喧嘩しているのでなければ、もしあの人にそう言うことが出来たら、出来たら、もう遅い、遅い、深淵のように呼んでいる、もうどうしても引き止めることは出来やしない……。
3
久邇が雪崩《なだれ》のようにコーダを弾《ひ》き終って、そのあとの沈黙をたのしむかのようにそっとピアノの蓋《ふた》をしめている間に、彼は自分の背中で軽い吐息を洩《も》らしているらしい人々の気配を感じた。お上手《じようず》ねえ、いつも、と言う小母さまの声。ありがとう、という桂さんの声。久邇は少しはにかみながら振り返った。
――本当に大したものね、と芳枝が情愛のこもった眼でもう一度|頷《うなず》いた。
久邇がもとの場所に戻ったあと、あたりは急に静かになった。遠くでつくつく法師が鳴いている。部屋の中はもう薄暗くなりかけて、道子はまた肱掛椅子《ひじかけいす》の背に首をもたせかけて天井の方を睨《にら》んでいたし、桂は両手の中に頤《あご》を埋めたまま絨緞《じゆうたん》の上に眼を落していた。音楽が終ったあとの、不意と悲しげな沈黙……。
――暗くなって来たこと、と芳枝が呟《つぶや》いた。
それから困ったように、しんとしている部屋の中を見廻して、
――道子、と呼んだ。メロンが冷してあるから女中にそう言って……、それから電燈を点《つ》けて頂戴《ちようだい》。
道子はひどくのろのろした動作で立ち上り、黙ったまま、すっと席を離れた。部屋の中をゆっくりと歩いて行き、食堂に通じるドアから姿を消した。その後ろ姿の持っている一種の表情を(怒っている? 何かを一心に考えている?)久邇はじっと眼で追っていた。
――先に電燈を点けてからにすればいいのに、と低い声で芳枝が言った。
部屋の中はしんとして、道子の消えたあとの半開きのドアが、暗い食堂の中を覗《のぞ》かせて白く浮き上って見えた。かすかに食堂で道子の声がした。
道子は直に帰って来た。後ろ手にドアを閉め、横手の壁にあるスイッチの方へ手を伸した。
急に、驚くほど明るくなった。天井のシャンデリアと部屋の四隅《よすみ》にある飾り燭台《しよくだい》とに、一斉に眩《まぶ》しく灯がともった。久邇は眼をぱちぱちさせ、少し身体《からだ》を動かし、その拍子にスイッチから手を離してこちら向きに歩き出そうとする道子と、ぱったり眼が会った。二人の視線が、ふと縺《もつ》れるように重なり合った。
その時だった、この放心した、物に憑《つ》かれたような道子の瞳《ひとみ》の奥に、久邇はまったく自分とは無関係の、「他人」の眼を見た。自分があれほど道子を愛する思いに包まれてピアノを弾いていた間じゅう、この人の考えていたのは全く別のことだった。いな、今までの長い間、愛し愛されていると思っていた間じゅう、この人の心は決して僕の上になどなかったのだ。一体どうして? 何を? なぜ? 分らない分らない、ただこの人は決して僕なんかを愛してはいない、――そのことだけが異様に確実な印象となって、何を? なぜ? 幾つもの疑問符が踊るように錯綜《さくそう》する意識の中で、ふと両肩に落ちて来た重味のように、久邇は重たくこの絶望を量っていた。
六章 悪夢・回想
1
広いがらんとした部屋の、その隅《すみ》に立って、道子は窓の方を見ていた。部屋の中は真暗で、隅といっても何処《どこ》に壁があるのか分らなかったが、確かに鎖《とざ》され、閉じ込められているような気がした。一人きりだった。
道子の見ている窓は一つだけ、それも途方もなく大きな窓だった(従って、彼女のいるのは自分の部屋の中ではなく、何処か見知らぬ部屋の内部に違いなかった)。窓には硝子戸《ガラスど》がしまり、表の景色は、樹々も、建物も、空も、みんな奇妙な形に歪《ゆが》んで、それらの間から、昼のものとも夜のものともしれぬ光が、薄ぼんやりと、やや黄ばんで、部屋の中へ流れ込んでいた。何かがきっと起る、そうした気持で、道子は食い入るようにその窓を見詰めていた。
見くたびれてちょっと目瞬《まばた》きをした隙《すき》に、窓に影が差し、と思うと黒衣のちっぽけな人物が、硝子戸を開くことなしに、やすやすとその窓から室内に飛び込んで来た。猫のように軽い身のこなしだった。が、こちら向きに立ち上ったのを見ると、それは醜い顔の老婆で、頬《ほお》も頤《あご》も痩《や》せ衰えた中で二つの眼だけがガラン洞《どう》のように大きく、まるで眉毛《まゆげ》が睫毛《まつげ》の代りをつとめているように、すべすべした額の下に開いていた。腐った魚の目玉のように生気がなかった。少しばかりの髪が顱頂《ろちよう》にぴったりとくっつき、その端を小さな髷《まげ》に結っていた。
老婆は窓の右手の暗い壁の方へ動いて行った。すると眼に見えぬ糸に操《あやつ》られているように、また硝子窓に黒い影が差し、前と同じい姿勢と動作をして、ちっぽけな人物が一人、ぽんと部屋の中に飛び込んで来た。顔を起すのを見ると、それもまた髪を小さな髷に結い、ガラン洞のように大きな眼をした同じ老婆だった。と、またもう一人、硝子窓を乗り越えて、同じ顔、同じ身体《からだ》つきの老婆が部屋の中へはいって来た。三人は無言のまま窓の右手の壁の前に行き、忙しげに身体を動かし始めた。
何をするのだろう、と道子は思った。怖《こわ》くはあったが、疼《うず》くような好奇心も感じた。まじろがず三人の老婆の動作を眺《なが》めていた。三人は手に手に、金鎚《かなづち》や釘抜《くぎぬき》のようなものを持って、壁から何かを引き剥《は》がしているらしかった。しかしそれが何であるかはさっぱり分らなかった。ひょっとしたらあれは一人きりなのかもしれないわ、と彼女は思った。あたしはひどい乱視になってしまって、そのせいで一人の人が三人に見えるのかもしれないわ。彼女は母親の言いつけ通りに眼鏡を掛けて来なかったことを後悔した。が、老婆はやはり、確かに、三人いた。三人ともせっせと働いたあげく、やっとのことで壁から四角な板のようなものを引き剥がした。その時窓からの黄ばんだ光線に照されて、三人の手の中にあるものが漸《ようや》く道子にはっきりと分った。――それは彼女の持っているゴーギャンの絵だった。「タヒチの女」だった。
「いけない、いけない、それを持って行ってはいけない、」と道子は大声で叫んだ。しかし不思議に声が出て来なかった。彼女はそちらへ走って行こうと思ったが足は釘づけになったように動かなかった。いけない、いけない、と口の中で叫び続けている間に、老婆たちは手にした額縁をも壊《こわ》し始め、バラバラになった木の枠《わく》を周囲に投げた。しかし無言劇のように、物を壊す音も、それを床に投げる音も、聞えて来なかった。道子は急に怖《こわ》くなった。
逃げよう、と思って、背後の闇《やみ》の中へ逸散に走り出した。眼の前がすぐに階段になっていたから、彼女はそれをトントンと四五段|駈《か》け下りた。が、そこでまた絵のことが心配になると、後ろ髪を引かれるように手摺《てすり》に凭《もた》れて振り返った。階段は勾配《こうばい》が急で、暗い穴蔵の底から上を見上げているような感じがした。その一番上の、彼女が逃《のが》れて来た暗闇を背景に、手摺にのしかかるように身体を前に凭れかけさせたまま、一人の人物がじっと彼女を睨《にら》んでいた。
それは小人のように背の低い土人の男で、顔は身体に較《くら》べてずっと大きく、完全に禿《は》げ上った丸い頭に何処からともなく微《かす》かな光が当っていた。気持の悪い嗄《しわが》れた声で叫んだ。「もうこの絵はお前のものじゃないよ。」その口はしかし、少しも動かず、声だけが生物《いきもの》のように階段を滑り落ちて来た。「もう決してお前のものじゃない……。」禿頭を光らせて、土気色《つちけいろ》の顔を逆さまになるほどに下に向けながら、小人の男は彼女を睨みつけた。彼女は、あ、と短い声をあげて、そこから無我夢中で走り出した。
周囲の暗闇が少しずつ、少しずつ霧のように霽《は》れて、風景が眼に映り始めた。マンゴの巨木がそそり立っている密林の中に細い道が走り、道子は一人きりその中を駈け抜けて行った。よかった、よかった、と思った。きっと夢を見ていたのだわ、どうしてあんな怖い夢を見たのでしょう……。密林を抜けると、緑色の草がところどころ花を咲かせた砂地になった。すぐ向うに海が見え、波が白く砕けていた。海には小さな火山島があり、それが絶え間なしに焔《ほのお》を吹き上げている。これはいつか見たことのある風景だ、と思ったが、何処なのか思い出せなかった。あたりはひどく明るく、綺麗《きれい》な色の鳥が樹々の間を飛び廻っていた。
彼女はやっと走るのを止めた。バナナの樹が、房々《ふさふさ》とした果実を扇型に実らせていた、彼女は樹の蔭《かげ》に入り、その一房を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取ろうとした。その時だった、すぐ側《そば》の茂みの中に、黒衣を着たさっきの三人の老婆がゴーギャンの絵を抱《かか》えて、こちら向きに立っているのを見た。あたしのゴーギャン、と思い、すぐにそこへ向けて走り出した。もう少しも怖くなかった。どうしても取り返さなくちゃ、と思うことで怖さも何も忘れてしまった。
三人の老婆は硝子玉のような目玉を剥《む》き出して彼女の近づくのを見ていたが、魔法に掛ったように急に身体が縮み出すと、みるみるうちに三つの黒点になり、それも芥子粒《けしつぶ》ほどになって消え失《う》せてしまった。後にはゴーギャンの絵だけが砂の上に残っていた。彼女は悦《よろこ》んでその側へ駈け寄った。老婆たちがいなくなったことを少しも不思議には感じなかった。
砂の上に、仰向に、額に入れたままの「タヒチの女」が置かれていた。道子はその絵を上から眺めた。明るい熱帯の樹々、砂原、遠い海、火山島、……廻りの風景が鏡に映されて画面の中へ吸い込まれているように、彼女の今いる場所とあまりにも似通った風景が額縁の中にある、そしてその中央に、自分を鏡に映したように一人の女、……しかしそれは間違いなくタヒチの女だった。緑の切地に紅《あか》い花を落したパレオを腰に纏《まと》ったまま、片手を胸で合掌の形に保っている。
よかった、とうとう取り返した、と道子は思った。彼女はその額縁を砂の上から起した、それと同時に、画面の中のタヒチの女もまた起き上ったように見えた。合掌の形に二の腕から折れ曲っていた片手が、ゆるやかに延された。すると、道子がぎょっとして身体を竦《すく》めたことには、土人の女の豊かに息づいた乳房の下に、パレットナイフがぐさっと突き刺さっていた。そしてその無表情な、わずかばかり微笑を湛《たた》えている顔が少し揺れたかと思うと、首が動き、手が動き、胴体が動いて、大胯《おおまた》に一歩を動き出した。額縁の中からするっと抜け出すと、もう画面の中の風景はすべて現実の中に置き換えられ、拡大され、椰子《やし》の樹の蔭には極楽鳥がいたし、火焔樹《フランボワイヤン》の向うには海が紺青に見えた。それと共に額縁の中の絵のあった部分はすっかり透明になり、カンヴァスさえもなくなってしまった。
道子はびっくりして手にした額縁を離したが、その瞬間にタヒチの女は、銅の腕輪を嵌《は》めた片腕をほんの彼女の側にまで差し出していた。いやよ、と叫んで後ろへ身を引いたが、裸の女は大胯になおも歩み寄って来た。道子は悲鳴をあげて逸散に逃げ出した。砂原はまたじきにマンゴの密林に通じていたから、彼女は緑色の森の中をどんどん走った。振り返ってみると、タヒチの女はパレットナイフを胸に、なおも大胯に歩いて来る。道子がいくら走っても二人の間隔はいっこう開かず、女はいつも道子のすぐ後ろにいた。
――ママン、ママン……、と道子は呼んだ。
彼女はどんどん走った。密林を抜けると小川のほとりへ出た。この道は山に通じている筈《はず》だ、と彼女は思った。タヒチの土人たちの伝説、――死霊が、Tupapau《トウパパウ》 が、山の中に住んでいて、夜になると起き出しては眠った人たちを襲いに来る、その記憶がふと甦《よみがえ》った。山の方へ逃げて行っては危い、と思っても、何処までも、執拗《しつよう》に、追い掛けて来る土人の女、しかも距離は段々に詰って来るようだった。道は次第に嶮《けわ》しくなり、巨大な羊歯《しだ》や蘇鉄《そてつ》が廻りじゅうに茂っていた。いつの間にか夜になっていた。トウパパウが出て来るわ、と彼女は思った。彼女はまた怖くなった。
――ママン、ママン、助けて……。
彼女は大声で呼んだ。風景が動き、周囲が急に暗くなり、霧のようなものが湧《わ》き上って彼女を包んだ。タヒチの女は見えなくなり、あたりの樹も道も草叢《くさむら》も、みんな見えなくなった。
――ママンはここにいますよ。
――ああよかった、とっても怖かったのよ、どんどん追い掛けて来たのよ。
――もう大丈夫、ママンがいますからね。
道子は自分の寝台の上に俯向《うつむき》になって寝ていた。俯向で、両手を首の両側にひろげて、敷布の上にぺたんと腹這《はらばい》になっていた。そして裸のままだった。どうしてこんなおかしな恰好《かつこう》をして寝ているのでしょう、と思った。何だかそこに俯向に寝ているのも自分だし、またそれを見ているのも(というのは、裸体で寝ている少女を誰かが見詰めていた)自分のような気がした。自分が自分を見ている、と思った。
母親もまた自分を見ていた。母親は寝台の横手に腰を下し、じっと道子をのぞき込んでいた。いつものような優しい顔で、側から見守っていてくれた。
――本当にママンね?
――大丈夫よ、ママンがついていますからね。
道子はこっくりした。もう大丈夫だった。いつでも怖い夢を見てうなされた時には、ママンが側についていて下さった。だからもう大丈夫、ママンさえいてくれれば……。
ふと、もう一人の人物がママンの後ろから、やはり自分を見ていることに気づいた。自分、即《すなわ》ち白い敷布の上に腹這に寝ている裸体の少女を。そして同時に、寝ている自分は、一枚の印画紙の上に二重に焼きつけられた写真のように、少女と、母親と、その背後の人物とを見た。その人物は横向きかげんになって、真黒い頭巾《ずきん》のようなものをかぶり、眼だけが白く光っていた。確かにマオリ族の土人で、年も取っているようだったがさっきの老婆ではなかった。その人物は不気味に道子を睨んでいた。何の表情も浮んでいないその顔が、かえって異様に恐ろしかった。
――ママン、ママン、とまた呼んだ。
それからすべてが混乱した。寝台の側で自分をやさしく見守っていた筈の母親、それがいつのまにかタヒチの女に変貌《へんぼう》した。胸にはまだパレットナイフが刺さっていた。道子は、あ、と叫んで逃げ出した。タヒチの女が追い掛けて来る、タヒチの女が追い掛けて来る。道子はどんどん走った。何処を走っているのかもう少しも分らなかった。廻りじゅうに暗闇が揺れ動いていた。いつでも自分のすぐ後ろにタヒチの女を感じた。つかまったら大変だ、と思い、もう一度母親を呼んだ。
――ママン、助けて……。
母親が姿を現し、道子は助かったと思った。しかし本当の恐怖はその時始まった。母親は決して彼女を助けようとも、タヒチの女を阻止しようともしなかった。冷たい、怒ったような顔をして、一緒に道子を追い掛けて来た。どうして、どうして? と彼女は走りながら考え続けた。どうしてママンまでが? 道子にはそのわけが分らなかった。ただ、母親に対して自分は何か悪いことをした、悪いことをしている、それだからママンが怒ってしまったという意識が、心の中を暗く、重たく、占めていた。それに絶望の意識、ママンまでが追い掛けて来る、もう誰も助けてくれる者はいないという……。
道子は走った。狭く細い道は山の方に通じていた。山の中にはトウパパウがいる。しかしまだしもその方がよかった。振り返ってみると、母親とタヒチの女ばかりでなく、三人の老婆も、禿頭の小男も、頭巾をかぶった白い眼の老人も、みんな後から追い掛けて来るようだった。森の中に彼|等《ら》の影がちらちらした。道子は怖くなってもっとどんどん走りたかった。しかし身体が言うことをきかず、いくら気ばかりあせっても思うように先へは進めなかった。それは荒れ狂う海の中で、くたびれた四肢《しし》を動かして泳いでいる時に似ていた。空気は波のように重く、身体の自由を縛っていた。
――桂さん、桂さん……。
波の中に漂うブイのように、暗中に射《さ》した一筋の光のように、希望が結晶して一つの名前を呼んだ。そうだ、どうして桂さんのことを忘れていたのだろう。
――桂さん、助けて……。
どうして忘れていたのだろう、princecharmant《プランス・シヤルマン》 のように、魔法に掛けられた王女さまを必ず助けに来て下さる人、きっと来て下さる……。
そうだった、すべては彼女の望んだ通りだった、桂はほんの側にいて、やさしく彼女を見詰めていた。彼女はその手にしがみついた。
――助けてね、桂さん。
――ああ助けてあげるよ。心配しなくてもいい。
道子はその手に凭れて後ろを振り返った。タヒチの女が大胯に近づいて来る、もう母親の姿もなく、老婆たちの姿も見えなかった。が、タヒチの女は、一人だけ、ゆっくりした足取で追い掛けて来た。
――来るわ、来るわ、と叫んだ。
しかし桂はびくともしなかった。タヒチの女は一層近より、その髪に挿《さ》したくちなしの花も、胸もとに揺れているナイフも、パレオの花模様も見える。道子は掴《つか》んでいる桂の手をぐっと握り締めた。
その時、空《あ》いた方の手を桂は前に動かした。それが何なのか、咄嗟《とつさ》の間に道子には分らなかったが、黒い、四角な、枠《わく》のようなものが二人の前に突き出された。タヒチの女は息の触れるほどに近づくと、するっとその中へはいり込んでしまった。
――ほら、もう大丈夫だよ、と桂は言って微笑した。
道子はそこで初めて、桂の手の中にあるのがゴーギャンの絵、額縁にはいった自分の「タヒチの女」であることに気づいた。何もかもそこにちゃんとあった。金色の砂や火焔樹や鳥や珊瑚礁《さんごしよう》などの風景も、裸体の土人の女も。まるでみんな嘘《うそ》のようだった。
――よかったなあ、あたし本当に怖かったのよ。
――そうかい、と桂は穏かに答えた。
――本当に。きっと夢を見ていたのね、怖い夢を。
この夢は日記の中につけておくだけの値打がある、だから忘れないためにお習《さら》いしておいた方がいい、そう思ったので道子は一生懸命に思い出しながらそれを桂に話してきかせた。桂は黙って聞いていたが、話し終ると、
――それは |Manao Tupapau《マナオ・トウパパウ》 だよ、と言った。
――それなに?
――ゴーギャンの絵だ、きっとそれを夢に見たのだ。Tupapau《トウパパウ》 というのは死霊のことだ。
――ええ知ってる、でももう大丈夫ね?
――君が見たのはみんなトウパパウさ、タヒチの女も、その変なお婆さんたちも、小男も、みんなトウパパウさ。
――じゃ、ママンも?
――君のお母さん……? そう、やっぱりトウパパウだよ。
道子はびっくりして桂の持っている額縁を見た。また少し怖くなった。
――どうしてなの?
――トウパパウというのは死んだ人の霊なのだ、君のお母さんは死んだ人なのさ。
二人は山道を歩いていた。森が恐ろしい形をして蹲《うずくま》り、黒い谷が傷痕《きずあと》のように深く切れ込んでいた。空には月が青白く懸《かか》り、その光が桂の沈んだ顔色を照していた。
――桂さん、その絵をどうなさるの? と訊いた。あたしその絵は怖いから嫌《きら》い。
――僕はこれを持って行くよ。
――何処へ?
――何処までも。
――いやいや、この絵は不吉なのよ、とても厭《いや》なお話があるの。本当のことなのよ。だからそれを捨てて頂戴《ちようだい》、ね、いいでしょう?
――いや、僕はこれを持って行く。
――でも本当に怖いのよ、この絵をね、タヒチ航路の船員が古道具屋に売ったんですって、その船員は喧嘩《けんか》をして、波止場から海の中へ落っ込ちて死んでしまったのよ、古道具屋はブローカーに売り込んだあとで、何だったっけ、何か急の病気で死んでしまうし、パパはそのブローカーから買ったんだけど、自動車事故でお亡《な》くなりになったでしょう? いいことなんか何もありはしない、ね、だから……。
桂はそれに答えなかった。二人は手を取り合ったまま山の中の道を歩いていた。月はますます冴《さ》え、二人は立ち止ってその月を見た。桂は手にした額縁を離して側の大きな岩に立て掛けると、道子の手を取って、月の方を指さした。
――あの月を見て御覧、と言った。
道子は「月光」奏鳴曲の初めの主題を思い出した。それは何処からともなく聞えて来たが、しかし聞えて来る筈はなかった。
――君はこういう伝説を知っているかい? と桂が穏かな声で話し始めた。……古いタヒチの伝説だがね。ヒナというのは月の女神だ、テファトウというのは地球の神だ、ヒナがテファトウに言った、「人間が死んだらまた甦らせてやって下さい。」テファトウは答えた、「私は厭だ、決して甦らせはしない。人間も死ぬ、草や木も死ぬ、地球も死んでその終りが来るだろう。」「それではお好きなようになさればいい、」とヒナは言った、「私だけはまた月を甦らせてやりましょう。」そこでね、ヒナの持っているものは死んでもまた甦ったが、テファトウの持っているものは滅亡した。人間もまた死なねばならなかった、……と言うのだ。
桂はそれきり黙ってしまった。月は高く昇った。道子は月に照された森の方に眼を移したが、何かちらちらと影の動くのが見えた。
――あれは何? と桂の手を握り締めながら訊いた。
――あれはみんなトウパパウだ、と桂は答えた。
桂はそっと道子の手を離すと、置いてある額縁を取った。絵の中でタヒチの女がかすかに笑った。
――あ?
――これもトウパパウだ。
道子が見ているうちにその顔は母親のそれに変った。母親は冷たい笑いを浮べていた。
――あ、大変。
――大丈夫だよ、決して額縁の中から出て来はしない。
そう言って桂は額縁を小脇《こわき》に抱《かか》え込むと、しずかに道子に言った。
――さあ、君はもうここからお帰り。
――いやよ、あたしは一緒に行きます。
桂は暗い微笑を見せた。
――君は何も知らないからそんなことを言うのだ、僕の持っているこの額縁の中の女がトウパパウのように、この僕もトウパパウなんだよ、死んだ人間なんだよ。
道子はびっくりした、しかし格別怖いとは思わなかった。
――ここは死の国なのだ。この山の中では草も木も死んでいる、人間もみんな死んでいる。月だけは死んでも甦るが人間は甦らない。ね、ここは君のような生きた人間の来るところじゃない、ここで必要なのは死んだものばかりだ。だからもうお帰り。
桂はそう言ったなり、額縁を手に持ってすたすたと歩き出した。その後ろ姿に月が白く射した。
――桂さん、桂さん……。
後を追って道子は呼んだ。桂はくるりと振り返ると、
――君は今来た道をお帰り、と繰返した。生きている人たちの間に、分ったね?
――厭です、と道子は大きな声で叫んだ。桂さん、一緒に行きましょう、一緒に帰りましょう。死んでは厭、あたしと一緒に行きましょう、行って一緒に暮しましょう、こんなところ、あなたのいるところじゃありません、あたしがきっとあなたを生かしてあげます、だから帰りましょう、その絵なんか捨ててしまって、ね、お願い、行きましょう、帰りましょう……。
桂はじっと道子の顔を見詰めた。その顔にあるかないかの寂しい微笑が浮んだ。
――駄目だ、僕は死んだ人間なのだ、君と一緒に行くことは出来ない。もう遅すぎるのだ。
桂はそして月に照された断崖《だんがい》の上の細い山道を足早に歩き出した。道子は暫《しばら》くその背中と長く引いた影とを眺めていた。山の中はしんとしていた。
――厭、厭、行っちゃ厭。
彼女は叫び、走り出した。桂はもう振り向かなかった。
――桂さん、桂さん、と悲しい声で呼んだ。もしどうしてもあなたが行くのなら、あたしも一緒に行きます。
桂はやはり振り向かなかった。あたしはこの人を愛している、だから何処までもついて行くのだ、そう思いながら道子は、月の光の射している夜道を、桂の後ろ姿を追いながら、一心に走って行った……。
2
――ママン、ママン……。
かすかに道子の声がした。芳枝は首を起した。
やや悲しげな、押し殺したような声を聞いた時に、芳枝は机に肱《ひじ》を突いて、とりとめのない夢想に沈んでいた。耳を澄してみると、もう開いた窓から単調な波の響きと、降るような虫の音《ね》とが聞えて来るだけで、あたりはあくまでしんとしていた。夜はかなり更《ふ》けていた。道子がこんな時刻まで起きている筈《はず》はなかったから、手早く黒いボレロを肩に引掛けると、ドアをあけて隣の道子の部屋へはいって行った。
部屋の中は薄暗く、窓から月明りが床の上に明るく射《さ》し込んでいた。芳枝は寝台の枕許《まくらもと》にある夜卓の上をさぐってスタンドの灯《ひ》を点《とも》した。青いシェードの下で、部屋の中は急に海の底のように蒼《あお》ざめて見えた。
開いた窓から潮気を帯びた風がそよそよと流れ込んで来る。まあ、窓を開けたまま眠ってしまうなんて、と思った。部屋の中は寧《むし》ろ涼しすぎるくらいだったのに、道子は蒲団《ふとん》から身体《からだ》を抜け出し、横向きに、殆《ほとん》ど俯向《うつむき》に近い恰好《かつこう》になって眠っていた。パジャマの袖《そで》がまくれて、不自然に折れ曲った裸の右腕に身体の重味が懸《かか》っている。頭は枕の上からずり落ち、髪は乱れ、頸筋《くびすじ》が汗で光っていた。しきりにうなされていた。
――ママン、ママン、とまた呼んだ。
――はい、ママンはここにいますよ。
芳枝は娘の身体に手を掛けると、腕に力を入れ、ぐにゃぐにゃした上半身を仰向に直してやった。横向きになった頭をそっと枕の上に据えてやった。道子は薄く眼を開き、口をもぐもぐと動かした。
――もう大丈夫よ、ママンがいますからね。
道子は安心したのかかすかな寝息を立て始めた。その顔にスタンドの直射光が当らぬよう青い笠《かさ》を少し傾けると、芳枝は側《そば》の椅子を引き寄せてベッドの横手に腰を下した。脱ぎすてた蒲団を胸まで引き上げてやり、そのままじっと道子の寝顔を見詰めていた。
可愛《かわい》い顔をして、と芳枝は思う。まだ夢の続きを見ているように、少し眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、唇《くちびる》をおちょぼに尖《とが》らせて。何度こうやって、道子の寝顔を見ていたことだろう。道子が夢を見てうなされると、その度《たび》に側についていてやったものだ。この頃はもう大きくなって世話もやかせなくなったけれど、前には手を握っていてやらなければ怖《こわ》がってしようがないこともあった。病的な神経を持っている子だった。寝相も悪くて、腹這《はらばい》になって寝る癖があった。どうしてそんなおかしな恰好をするの、と訊《き》くと、だってこの方がラクチンよ、と当り前のように言う。俯向の方がずっと寝苦しいにきまっているのに。時々は寝ぼけて、来てみるとパジャマのまま部屋の中にぼんやり立っていることもあった。幼なかった時にはいつも、この子の寝つくまで、こうして床の側で見守っていてやったものだ。むかしパリにいた頃、太郎が夜遅くまで帰って来ない時など、道子のすやすやいう寝息を聞きながらぼんやりと物思いに耽《ふけ》っていた。道子はまだ本当に小さくて、わけも分らず急に泣き出すことがよくあった。そういう時、道子が夢の中で感じている不安が、じかにわたしの心にまで伝わって来るようだった。
本当にどんなに不安だったことだろう。パリにいた頃は、今から考えるとただ一色に愉《たの》しかった思い出のように見えるけれど、太郎が死ぬ前の一年間、太郎が死んでからの半年は苦しくてしかたがなかったものだ。それが苦しかったから、かえってパリへ行った最初の頃のことばかり思い出して懐《なつか》しく愉しく思われるのだろう。太郎がいたから、太郎がわたしを愛していたから、それで幸福だった。しかし太郎がわたしをかえりみなくなり、きっとサラーと一緒にダンスでもして遊んでいるのだと考えながら、無心に眠っている道子のかたわらで編物などをしている時、わたしの心はどんなに悲しく沈んでいたことだろう。道子だけが頼みだった。幼くて、聞き分けのないことばかり言っていた道子、夢の中でうなされてママン、ママンと呼んでいた道子……。あの頃は心の中が少しも落ちつかず、苦しみが憎しみにまで亢《こう》じていた。世の中が灰色に見え、マロニエの病葉《わくらば》がほろほろと散るのを窓から眺《なが》めていた。それなのに、太郎が死んだ時のあの愕《おどろ》き、眼の前が真暗になったような、それでいて悲しみは決して急激にやって来ることはなかった。お葬式の時にもわたしは涙のひとしずくをも人に見せたことはない。乾《ひ》からびた心で、もう何ひとつ考えられなくなって、側にいる道子の手をじっと握り締めていた。そうして一日一日と経《た》ってから、冬になって、急に悲しみはわたしに生きることのはかなさを思い当らせた。マロニエが裸になり、パリの空を重苦しい雲が覆《おお》い、石畳を歩く靴の音が乾《かわ》いた高い響きを立てる。……生きていることが何になるだろう、遠い異郷に来て、良人《おつと》に死に別れ、小さい道子の手を引いて、見知らぬ人たちの間に放り出されたまま生きて行くことが。
わたしは思い出す、あれは冬の寒い夜だった。夜が更《ふ》けて、窓からやはり蒼ざめた月の光が落ちていた。わたしはいつものように、眠っている道子の寝台の側に腰を掛けて、道子の寝息を聞きながら、悲しい思いに沈んでいたのだ。これから先どうやって暮したらいいのだろう、父の遺産があるからといって、もう太郎もいないのに、日本へ帰って道子と二人暮したところで何になるだろう。わたしはその時になって、どんなにか太郎を愛していたことを暁《さと》った。太郎、太郎、その人を愛して、その人と結婚して、何の不安も覚えないでパリへまでやって来たのだ。たとえサラーがどんなに太郎の気に入ったからといって、あの人が本当に心の底で愛していたのはわたしだった、わたしであってサラーではなかった。偶然の椿事《ちんじ》があの人とサラーとを一緒に自動車事故で殺したとしても、もしそういうことがなかったなら、太郎はきっとわたしのところへ帰って来た。が、一度切れた糸はもうつなぎ合されない、生と死との間はもう無限に遠い。太郎が何を考えていたのか、もう知るすべさえもありはしない。ああやって不意に生命を断ち切られて、太郎はどんなにか心残りだったろう、暗い幽冥界《ゆうめいかい》を一人で歩きながらどんなにかわたしという者を寄び寄せたいと思っているだろう、わたしはわたしを呼んでいるあの人の声を聞くように思う。わたしにももう何の希望もないのだから、もう生きることは苦しみの上に苦しみを重ねることにすぎないのだから……。「ママン、ママン、どうなさったの?」わたしは顔を抑《おさ》えていたハンカチを離して、道子が寝台の上に起き上っているのを見た。眠そうに眼をぱちぱちさせて、不思議そうにわたしを見詰めていた。「道子、もう駄目なのよ、もうパパはお帰りにならないのよ。」そのきまりきったことが、急に取り返しのつかない重みになってわたしを押し潰《つぶ》した。そうなのだ、もうあの人は帰っては来ないのだ。こうやって夜の更けるまで道子の寝台の側についていると、必ず廊下に跫音《あしおと》がして、困ったような、それでいて負《ま》けず嫌《ぎら》いの威張った顔で、あの人が帰って来たものだ。それなのにもう……。「もう駄目なのよ、道子。」わたしは道子を抱きしめて泣いた。あのやわらかい小さな身体、手の中の小鳥のように、パジャマの中から暖かみを伝えて来る身体、わたしはそれを抱きしめてほろほろと泣いた。「道子、あたしたちはもう駄目、あたしたちも一緒に死んでしまいましょう、もういっそ死んだ方がいい、ねえ道子……。」わたしは夢中になってそう叫んだ。もう何の希望もなかった、もう生きるための何の希望もなかった。太郎の死とともにわたしの生涯は終っていたのだ。太郎がわたしを呼んでいる……。「厭《いや》よ、ママン、死ぬのは厭。」わたしはあの道子の声を思い出す、幼い道子の示した最初の反抗、あの鋭い、怒《おこ》ったような声。「死ぬのは厭。」そして絶望の中からも、また生きなければならないという気持が起って来た。道子のために。ただ道子のために。わたしはすべてを道子のために犠牲にする覚悟をした。太郎が死んだから、太郎の代りにわたしの全力をあげて道子を愛した、わたしは道子を愛することで生きて来た。
しかし生きるというのは自分のために生きることだ。わたしはいま自分のために生きる、それが本当の生きかたなのだ。太郎が死んでからの空《むな》しい時間、自分をかえりみずただ道子のために費されたこの十年間を、今こそわたしは取り返すことが出来る、今こそわたしは取り返さなければならない、桂さんを愛することで。わたしの前に新しい、本当の生活がひらけて来た。わたしは間違っていたのだ、何も知らずただ太郎の魅力に惹《ひ》かされてあの人を愛しあの人と結婚した、その時に本当のわたしというものは置き去りにされていたのだし、道子のために犠牲になって暮して行こうと考えていた時には、わたしという人間はいないのも同じだった。もう間違うのはよそう。わたしは桂さんを愛している、桂さんを愛することの中に本当のわたしが生れ、育って行くように。もうこれはわたしの最後のチャンスなのだ、もうおばあさんになってしまって二度と人を愛することなんか出来る筈はない、これはわたしの青春の最後の余燼《よじん》、わたしを燃す最後の希望なのだから。愛している、愛している、この疼《うず》くような悦び、この気持に較《くら》べればむかし太郎を愛していた頃は、何と子供子供していたことだろう、あれは愛するとさえ言えないくらいだった。わたしの中にある好奇心があの人の派手な性質、明るい容貌《ようぼう》、釣合った身分などに引き寄せられて、勝手な夢を思い描いていたのだった。あの頃は何にも知らなかった。生きるということがどんなことなのか、知りもしないで、それでもやはり生きていた。「芳枝さんは人生の苦しみというものを何も知らないのだから。」むかし桂さんにそう言われたことがあった。今はわたしは悲しみも苦しみも知り、それを知ることで一層よく生きることが出来る筈なのだ。知らないで生きているより、それは十倍も貴重に人生を生きることだ。むかしは何も分らぬねんねえだった。万里子さんが太郎を愛しているような気がしていて太郎を取られては大変だと思っていたし、桂さんは万里子さんがお好きなのかもしれないと思ったこともあった。人の心の動きというものは分らない。万里子さんとは仲のいいお友達だったけれど、女どうしの友情なんてその場限りのはかないものだ。あの人はわたしがパリにいた頃に結婚なさって、御主人と一緒に九州の方に移って行かれた。わたしが日本に帰って来てから最初のうちこそしげしげと手紙も交《かわ》していたが、それも三月に一遍、半年に一遍というふうになって、いつしか音信も途絶えてしまった。御苦労もおありのようだったけれど、しかしいい奥さんにおなりになって、お子さん方も多いし幸福に暮していらっしゃるのだろう。万里子さんが時々見せた寂しそうな微笑、わたしはあの人の顔だちを思い出す、眼を俯《ふ》せると睫毛《まつげ》の長い人だった。しかし人は別れてしまえばそれだけのものだ、生別も死別も、別れてしまえばもうそれでお終《しま》いなのだ。万里子さんとわたしとが娘の時分にどんなに仲よしだったとしても、あの人の歩いて行く道とわたしの歩いて行く道とはまるで違っていたから、いつのまにかお互に姿を見失ってしまった。人生とはそういうものなのだろう……が、決してそれだけ、人と人とが別れて行く悲しみだけで出来ているのではない。お互に忘れたと思っていた頃にまたふと会うこともあるのだ、わたしと桂さんとのように。そういう人たちは神の手であらかじめそうと定められて、再会の悦《よろこ》びを大きくするために長い間引き離されていなければならなかったのかもしれない。お互に別の道を歩いていて、こうして同じ人生の宿駅で廻《めぐ》り会うなんて、もうこれからはいつも一緒なのだ、一緒に同じ道を踏んで行くことが出来るのだ……。
わたしたちはパリへ行こう、パリへ行って一緒に暮そう。桂さんのような天才肌《てんさいはだ》の芸術家がパリにいらしったことがないというのは、本当にお気の毒なことだ。あの人はもっともっと腕ののびる人、きっと素晴らしい絵の描ける人だ。わたしはパリへ行って、あの人を本当の、立派な画家にしなければならない。モジリアーニの妻のように。たとえどんな苦しいことがあっても、あの人の芸術と、わたしの幸福とを、パリの生活の中に賭《か》けよう。
そうはいってもパリで暮すことはそんなに簡単じゃない、旅費はとにかくとして生活費というものが日本にいる時とは比較にならないくらいかかるのだから。前にパリにいた頃は物価が安かった、満洲事変以来、円がどんどん安くなっているから今のフランにしてどのくらいの生活費が要《い》るものなのか、わたしにはよく分らない。でも一フランが十五銭だとして計算してみると、一月に三千フランかかるとすれば四百五十円、二人でその倍かかるとして、年に一万円か、……まあ随分大変なお金がかかるのだわ。麻布《あざぶ》の本宅を売ってしまってそのお金を充《あ》てるとして、いつぞや売るという話があってお値段を聞いておいたけど、あれをもとにして大体のお値段をつけてみると坪がまあ百円、……でもガレージなんかが附いているから百二十円として建坪五十坪で六千円になる、土地はいい場所だから坪八十円として大体八千円ぐらいになるだろう、それで一万四千円、それに色んなものを売って、……そう、いざとなったら太郎の蒐《あつ》めた印象派のコレクションを手放せばいい、気長にうまく売れば相当のお値段になるだろう。どっちにしても二年や三年は暮せる。桂さんも少しはお金をおつくりになるだろうし、駄目なら駄目でわたしのお金だけで暮せるだけ暮せばいい。お金がなくなれば帰って来るまでのこと、パリ帰りとなればあの人の絵も少しは売れるようになるだろうし、もし帰る気がなければ、そう、二人でパリで死んでしまえばいいんだから。でも道子はどうしよう、道子をパリまでつれて行くのは大変だし、道子もそんなに行きたがりはしないだろうから。でももし行きたがったら、いいえ行かないものとして親戚《しんせき》のとこにあずけて行くことにしましょう。お金をそれだけ残しておけばいい、わたしたちは決して遊びに行くわけではないのだから。もし道子がもっと大きくなって音楽とか絵とかを勉強するためにパリへ行きたいというのなら、その時はきっと行かせてあげる、そう言えば、道子はきっと聞き分けてくれると思う。邪魔にするわけではないけれどわたしは桂さんと二人きりで暮したい。もう道子のために犠牲になることはない。わたしはわたしのために生きる、わたしは明るく、華《はなや》かに、希望をもって生きる、パリで、……むかし、初めて太郎と一緒にパリへ行った頃のように。
それにしても太郎はなぜ死んだのだろう、いくら考えても答の返って来ない疑問。そして桂さんはなぜあんなに太郎の死のことを気にしているのか、……太郎は自動車事故で死んだ。偶然に、ちょっとした運転のあやまちのために死んだ。わたしはあんなにも真心から、本当にひたむきに太郎を愛していた。だからあの人が自分で死ぬ気になるなどということは決して考えられない。サラーとはただ遊び半分につきあっていただけ、心の底では一瞬もわたしというもののことを忘れたことはなかった筈だから。あの人はよく言った。「芳枝、お前が僕を愛してくれることはよく分っている、僕はどんな時でも、たとえサラーと踊っている時でも、いつでもお前が僕を愛してくれてるということを思い出し思い出ししているのだ。」夜が更《ふ》けて、わたしが道子の寝台の側であの人の帰りを待っていた。あの人は蒼《あお》ざめた顔をして帰って来ると、わたしの瞳《ひとみ》の中をのぞき込んでそう言ったものだ。「一瞬も忘れたことがない、」と。しかしそれなのにどうしてあんなに苦しげに、弁解のようにではなくわたしを寧《むし》ろ責めるように、言わなければならなかったのだろう。「お前が僕を愛していることは分りすぎるほどよく分っている。」まるでわたしが、あの人を愛しすぎてでもいるように、愛しすぎるのは愛することとは違うことででもあるかのように。パリにいた頃のわたしはまだ子供だった。太郎のことで頭がいっぱいで、ちょっとでもあの人から離れていたくはなかったし、あの人の心の全部、どんな小さな秘密をでも自分で承知しなければ気が済まなかった。「そんなにお前のように言ったってお前はお前、僕は僕じゃないか、お前に分らないことだってあるさ。」そう言われるとむきになって、「厭、厭、そんなの厭、あなたのことなら何でも全部分っていなければ厭なの、」と言い張った。だからサラーのことが出来て来ると、わたしは嫉妬《しつと》というのではないけれど太郎に秘密があるというだけであの人を責めたし、あの人も、「決して秘密なんてものじゃない、ただのモデル、ただの友達だよ、」と言いながらも次第にサラーと親しくなって行った。そしてわたしと太郎との間でそれまでには思いも寄らなかったような烈《はげ》しい諍《いさか》いが起るようになった。でも、たとえわたしが少しはヒステリックだったとしても、それは太郎を愛していたからこそのことじゃないかしら。あんなにも愛していたから、太郎が一人で(わたしを連れないで)散歩をするのでさえも口惜《くや》しかったくらいだもの、あの人がサラーと親しくなった時にわたしが裏切られたように感じて怒ったのはきっと当り前だった。あんなにひたむきに愛していた。太郎のためになら死んでもいいと思っていた。それなのに本当に太郎が死んだ時に、どうしてわたしは後を追って死ななかったのだろう。モジリアーニの妻のように。どうして……、それはきっと道子がいたからだ。
道子は眠っている、口を時々もぐもぐと動かし、少し眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、……昔もこうやって可愛《かわい》い顔をして眠っていた。道子が眠っている側では、わたしたちも遠慮をして大きな声では話さなかったものだ。愛しかたが足りないからそれで不満が出て来るというのは分るけど、愛しすぎるということがどうして不満になるのだろうか。それはきっと男の人の我儘《わがまま》だ。女には愛しすぎるということはない、その人のために死んでもいいとまで考えている時に、どうしてその愛が間違っているということがあろう。「お前は自分を愛しているのだ、自分が心にえがいている僕というものを、外交官としての僕、芸術家としての僕を、愛しているだけなのだ。本当の、あるがままの、この三枝太郎ではない。」そう言った、でもそんな筈はないのだ。わたしの方がサラーよりもどれだけ太郎を愛していたことか、サラーなんかはほんの軽い気持で太郎を愛しただけなのだ。もしもサラーさえいなかったら、もしもわたしたちだけだったら、どんなに幸福だっただろう。太郎だってあんなに苦しむことはなかった。あの人の窪《くぼ》んだ眼、こけた頬が、眼に見えるようだ。次第に無口になり、唇《くちびる》を引き結んだままじっと遠くを見詰めていた。とうとうわたしとサラーとがぶつかり合って、鋭い口論をたたかわせた時にも、あの人は何を考えているのか分らないような表情をして、二人の女の間にある空間を、その空間に西日に照されて漂っている無数の塵《ちり》を、ぼんやりと、気の抜けたように眺めていた。愛している、愛していない、と、口の酸《す》っぱくなるような議論を続け、あげくのはてに二人ともすっかり疲れ切って、互に敵意にみちた瞳を探るように向け合った。その時サラーが太郎を見て、それからわたしに訊いたのだ。「この人の考えているのが何だか分る?」まるでそれの分ることが、この勝負をきめてしまうかのように。「困っているだけでしょう、」とわたしは吐き出すように言った。「どっちの女がいいかと思って、ためらっているだけでしょう。」「違う、」とサラーは蒼ざめた顔に、ルージュを濃く引いた唇ばかりを異様に赤く光らせながら、きっぱりと言った。「違う、この人は死ぬことを考えている。」わたしはあの少し嗄《しわが》れた声を思い出す、|Non il songe a la mort a la mort《ノン・イル・ソンジユ・ア・ラ・モール・ア・ラ・モール》 ……そして、わたしの方を向いた、傷を負った獣のような、太郎の無感動な眼、黙り込んでしまったサラー、不意と落ちかかって来た沈黙。そしてあれはうそ寒い秋の夕べで、狭いサラーのアパルトマンの中に、赤い夕陽が斜めに射《さ》し込んでいた……。
――桂さん、桂さん……。
遠くから呼んでいる声。芳枝はびくっとなって現実の意識に復《かえ》った。寝台の上で苦しげに蒲団《ふとん》の端を掴《つか》んでいる道子の手、またうなされて、しきりと頭を動かしている。まあこの子は夢の中で何を考えていることやら。スタンドの蒼白い光線が寝台の上に暗い影を落している。芳枝は娘の手を取ってしっかりと握り締めてやった。
しかしやっぱりパリはよかった、とまた回想の中に沈んで行く。パリではみんなが生きている、どんなに苦しくても、そこでは人が生きることに真剣なのだ。人が自分自分の生きることに専念して、精いっぱいに自分というものを発揮している。わたしはもう一度そういうふうに生きたい。桂さんと二人で。桂さんは毎日絵を描く、わたしはわたしで出来るだけあの人のお手伝いをしよう。「マダムはお人形《プウペ》のように可愛い、」と言われることももうないだろうけれど、しかしパリでは、いつまでも年を取らないで暮して行ける。あそこでは街全体が青春を呼吸しているのだ。三色に染め抜かれた提燈《ランピオン》の下で、アコルデオンの音《ね》に合せながら、老人も若者も一緒になって踊っている革命記念日の夜、誰でもがみんな若くて、陽気で、ダンスがうまくて、そしてくるくると廻って踊っている。夜の更けるまで、靴音を歩道にひびかせて、わたしたちは踊ることが出来る……。
芳枝はそっと握っている道子の手を離した。今度こそ本当に眠ってしまったらしい。蒲団を掛け直してやり、椅子を横に寄せ、スタンドの灯を消した。急に部屋の中に、明るい月影が射し込んで来た。芳枝は窓に行き、硝子戸《ガラスど》を閉めようとして、そのまま窓に凭《もた》れて表の景色を眺めていた。
満月には少し欠けた月が、耀《かがや》かしく中空に浮んで松の樹の上を森閑《しんかん》と照している。空には雲一つなかった。遠い波の音、そして庭一面の虫の声にまじって、「月光」奏鳴曲の旋律を耳に聞くように思った。
むかしこの曲を弾《ひ》いたことがあった、と思う。久邇さんが弾いたように、わたしもまた上手に弾いた。そうだった、あれはわたしの十九の年の夏、パパも聞いていらした、桂さんも、太郎も、高遠さんも、それに万里子さんも、みんながわたしの弾くのを聞いていた。耀かしい夏、太郎とわたしとが結婚の約束を交したのはあの夏だった。そして桂さんもわたしを愛していらっしゃったのだ。もう十五年も昔のこと、そしてわたしはまた、人を愛し、その人と生きようとしている。人生とはそうやって、同じことを繰返すことだろう。同じところから出発し、同じところへ戻って来ることだろう。昔も今も、月の光が射している。わたしは苦しみも知った、人生に不幸があることも知った。わたしはもう昔のわたしではない、しかしそれでいいのだ、それでいいのだ、すべてがまたうまく行く……。
戦争? どうして桂さんはあんなに戦争のことばかり気にしていらしたのだろう。戦争はドイツとポーランドとのこと、遠い海の向うで起っていることだ。たとえドイツが攻め寄せて来てもフランスにはマジノ線があるのだから、マジノ線は決して破られることはない筈だから、フランスは決して負けることはない、だから大丈夫、きっとうまく行く、ポーランドだけで戦争は終るでしょう。わたしたちはパリで幸福に暮せる、桂さんのようにそんなに心配ばかしなさることはないのだ。わたしたちはまたパリで革命記念日のあの愉《たの》しい雰囲気《ふんいき》を味わうことが出来る。爆竹が鳴っている、アコルデオンのゆるやかな旋律、三色の提燈《ランピオン》が風に揺れている、わたしたちはくるくると廻って踊る、マロニエの上に月が照っている……。
――桂さん、桂さん……。
またかすかに道子が呼んだ。芳枝は振り返ったが、道子はそれきり声を立てなかった。芳枝はほっと溜息《ためいき》を吐いた。風が涼しかった。
――もう秋だわ。
芳枝はそう呟き、窓を締めた。硝子戸を越えて、明るい月影が芳枝の蒼白い顔を照し出し、道子の寝台の足許《あしもと》へまで、水のようにさらさらと流れ込んでいた。
この作品は昭和二十七年七月新潮社より刊行され、第二部が加えられた形の完全版が東京創元社、新潮社より刊行されたのち、昭和四十七年六月新潮文庫版が刊行された。