福永武彦
第六随筆集 秋風日記
目 次
秋風日記
*
幻のランスロ
室生さんからの宝物
一枚のレコード
鉄線花
岡鹿之助さんと私
直哉と鏡花
「独身者」後記
にほひ草
三絶
朔太郎派
「山海評判記」再読
白髪大夫
「朝の蛍」
曰く言ひ難し
人称代名詞
「雪国」他界説
「氷島」一説
故郷について
美の使者―「臥鹿」
神西清のために
芥川龍之介全集元版のこと
「深夜の散歩」の頃
伴奏音楽
「使者」、「使命」、または世に出なかつた或る雑誌のこと
「死都ブリュージュ」を読む
富本憲吉と木下杢太郎
犀星歿後十五年
或る先生
中野重治の座談
私にとつての堀辰雄
小布施の秋
*
八つの頌
ネルヴァルの狂気
朔太郎の声
ベルナノスの二つの貌
中島敦の星
高橋元吉の泉
丸山薫の風景
寿岳文章の「神曲」
露伴の宝庫
*
風景の中の寺
*
掲載紙誌一覧
後記
[#改ページ]
秋風日記
再びの秋
今年の夏は信濃追分の山荘でゆつくりしてゐて、十月の初めになつてやつと東京へ戻つて来た。よく晴れた日の続く暑い夏だつたが、九月も末に近くなると気温が急に下り、寒さに顫へあがつてストーヴを焚いたりした。明方の温度が十度を切る日があつて、さういふ日に浅間登山道をぶらぶらと登つて行くと、見渡すかぎり一面に尾花の秋である。女郎花《をみなへし》は既に見当らず、吾木香《われもかう》も枯れかけてゐて、わづかに花らしい花といへば|とりかぶと《ヽヽヽヽヽ》ぐらゐにすぎない。少し前までは草むらの間で降るやうに鳴きつづけてゐた草ひばりさへも、途切れがちに歌ふばかりで、浅間山の噴煙が東になびいてゐた。
東京に帰つてから気温が違つたせゐかやたらに残暑を感じてゐたが、それでもさすがに十月で、肌寒い。と言つても蟋蟀《こほろぎ》はまだ鳴いてゐるし、この間は、あらし模様の夕暮に外から帰つて来ると、玄関の前に小さな蛙が跳ねてゐた。さつそく洗面器の中に入れて、それを野鳥の水浴び場として作つた浅い池まで持つて行つて放してやつた。あくる日様子を見に行つたらもうゐなかつた。池のそばでは|ほととぎす《ヽヽヽヽヽ》がいつぱい花をつけ、我が家の芒《すすき》は漸く穂を出し始めたばかりである。
春から夏、夏から秋、或は秋から冬といふやうに、季節の移り変つて行く時の自然は美しい。私は初秋の爽かな大気を、今年は二度味はつたやうな気がする。
中川一政個展
中川一政個展のレセプションの案内を受けたので、吉井画廊へ出掛けた。
中川一政が近年とり組んでゐるといふ箱根駒ケ岳の連作を中心にして、その間に静物や小さな肖像画などを配してゐる。しかし、何と言つても駒ケ岳の連作が凄い。画面いつぱいに立ちはだかつた山の全体が、今にもこちら側に倒れかかつて来さうな迫力を持ち、それが一番大きいのは一〇〇号で、その他八〇号や五〇号のがぞくぞくと並んでゐる。同じ場所からの同じ構図とも見えるものが、自然の状態と画家の魂の状態とに従つて、それぞれ微妙に別々のものであり、山の上には空、山の裾には海、そして山の中腹には昼の月がかかつて、一つの乾坤がそつくりこの画面の中に封じ込められてゐる。これこそ東洋画の精神を持つ日本人の油絵である。制作の場所が、山と向き合ふだけの高さを持つてゐるから、恐らくは風に吹かれながらの苦しい制作だつたに違ひない。
ところで私は中川さんとは文通ばかりでお目にかかつたことがなく、紹介してくれる知人もがなと会場を見まはしたが、これがさつぱり。それに肝心の中川さんらしい人も見当らないので諦めて帰らうとしたところ、何と、小柄でダンディな紳士がすぐそこにゐて、まさにその人と分つた。恐る恐る自己紹介に及んだが、その時、風に吹かれて制作してゐる画家の厳しい姿を、今のやさしさから思ひ浮べることが出来なかつた。
旧友の死
新聞で遠藤湘吉の死亡記事を読んだ。現に東京大学経済学部の教授で働き盛りなのだから、思はず我が眼を疑つた。
遠藤はむかし旧制の第一高等学校で、一緒に文藝部委員をやつた仲である。文藝部といふのは四人か五人の委員から成り、校友会雑誌を年に四冊出すために、広く原稿を募集してその選をしたり、また自分で原稿を書いたりする。もちろん自分で書いた原稿が没になる筈はないから、委員になつてしまへば天下御免である。三年生が卒業する前に次の年度の委員をそれぞれ推薦して行く建前で、私のだいぶ前には立原道造や森敦がゐたし、私の次の年度には中村真一郎と小島信夫がゐた。
私の年度では後に朝日の記者になつた酒井章一が見事な詩を書き、遠藤湘吉もまたペンネームを使つて、「おお私のノスタルジヤ」といつたやうな詩を発表した。委員は大体のところ詩か小説か評論かのどれかに専門が分れてゐたのに、遠藤の専門が詩であつたとはどうも思はれない。私たち委員は出張校正で印刷所に出向くのが何よりの愉しみで、といふのもそこで出る洋食弁当がお目当てだつたが、遠藤はいつも大きな声で笑ひながらお喋りばかりしてゐた。一年を通じて最も少ししか書かなかつた委員だつたらうと思ふ。
何年か前に会つた時に彼は所得税の専門家で、私が税金の安くなる方法はないかねえ、と訊いたら、昔ながらの学生じみた声で、そんなにうまく行くかい、と笑つてゐたが。
邯鄲
信濃追分では八月の中頃から毎晩、一種独特の虫の声が聞え始める。草むらの中で、いつ止むともなく連綿と鳴きつづけ、その合唱が昼間も聞えるやうになると、はや秋である。その虫の名を「草ひばり」と覚えたのは、恐らく追分村を歌つた立原道造の詩によつてだつたらう。
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
そして室生犀星の生前には、私は毎年この虫を取つて籠に入れ、軽井沢の室生さんの別荘へ持つて行つた。室生さんも私も、この虫を草ひばりと信じて疑はなかつた。
いつ頃からか私はその虫が「邯鄲」ではないかと疑ふやうになつた。字引とか事典とかの類を見ると、草ひばりは鳴声「フィリリリリ……」、大きさは七ミリ内外、色は淡黄褐色とあり、|かんたん《ヽヽヽヽ》の方は鳴声「ルルル……」、大きさは一二ミリ内外、色は淡黄緑色とある。それに草ひばりは暖地に多く寒地には適しないとも書いてある。「アニマ」といふ雑誌の十一月号で写真を見たら、やはり|かんたん《ヽヽヽヽ》に紛れもなかつた。
十年ばかり前にラヂオで|かんたん《ヽヽヽヽ》の合唱を聞き、それに想を得て「邯鄲」と題した短篇を書いたが、ラヂオを聞きながらも何とまあ草ひばりに似てゐるものだと感じてゐた。当り前である。信濃追分の寂しい風物には邯鄲の名の方がふさはしいと思ふが、立原道造の詩を今さら直すわけにはいかない。
シャンソン
私のやうに、調子がよくても悪くても横になつてゐることの多い人間は、とかくラヂオのFM放送をありがたがるが、懐しい「愛の言葉を」といふシャンソンを、リュシエンヌ・ボワイエの昔の声で聞いたあとで、今度はカンツォーネ歌手チンクエッティで、また聞いた。
私がこのボワイエの曲を、リス・ゴーティの「過ぎ行く艀《はしけ》」や、ダミアの「人の気も知らないで」などと共に、繰返し聞いて飽きなかつたのは戦争前の学生の頃である。何しろフランス語を覚えたばかりで、字引を引き引き内容を想像する他はない。ボワイエが若々しい可愛い声で歌ふ「愛の言葉を」にしても、あれは心の底では何も信じられない女が、嘘と知りつつ男の口説を悦んでゐる歌で、相手の男もそれを承知の上なのだが、そんな微妙な心持が当時の私に分つてゐた筈もない。チンクエッティの歌ふシャンソンには別の味があつて私も嫌ひではないが、ボワイエにはとても及ばない。
戦前の、「フランスはあまりに遠し」といふ萩原朔太郎の詩の一節がはやつてゐた頃、シャンソンは私たちの青春の一部を象徴してゐた。塚本邦雄の「薔薇色のゴリラ」は、この前衛歌人が彼の愛するシャンソン歌手三十人を縦横に語つた奇書だが、私にはとてもそんな造詣はない。ただ私もまたシャンソンを愉しむのに古いレコードがあればよく、歌手たちが日本に来たからといつて演奏会に出掛けようとは思はないのである。
冒険小説
大人になつてもまだ冒険小説が好きだなどと公言するのは、頭の中の成長がどこか止つてしまつたやうな気がしないでもない。これも子供の頃、森田思軒訳の「十五少年」とかライダー・ハガードの「洞窟の女王」とかで病みつきになつたために、つい子供の読物のやうな気がして軽んじるからだらうが、イギリス人は昔から冒険小説と子供むきの文学とに長じてゐたし、彼等もそのことを決して恥とはしてゐない。
私はもともと純文学ならざる面白い読物が大好きで、初めは本格探偵小説、ついでハードボイルド物、ついでミステリイ一般、ついでSFと、移り気なところを発揮したが、これも一つのジャンルを読み漁つてしまふと、やむなく別のジャンルに手を出した結果で、今はもつぱら冒険小説に附き合つてゐる。大体すぐれた作家は、その処女作を読めば見通しが立つものだが、アリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」、ギャビン・ライアルの「ちがつた空」、いづれも見事な出発ぶりだつた。その二人に飽きたところでデズモンド・バグリイを発見したが、これまたイギリス人で、二番目の作「高い砦」から四冊ばかり翻訳で読んだがどれも面白かつた。ただ冒険小説では、イギリス生れの主人公と対立する仮想敵国の悪役といふのが必ず顔を出すが、約束ごととは言へ共産主義国の悪口ばかり聞かされるのは閉口である。むかしハガードは、自然を迫害する文明そのものを仮想敵国とするやうな小説を書いたが、その方法で筋をつくるのは少々むつかしすぎるのかもしれない。
蒐集
何かを蒐集するのが趣味だといふ人は大勢ゐる。これにはピンからキリまであつて、キリの方には男の子が郵便切手を集めたり、女の子がコケシを並べたりするのまで入るだらう。この間、西武百貨店で泰西美術展といふのを見たが、これはアメリカの富豪ハマー氏の個人コレクションを展観したもので、まづはピンの方の代表に違ひない。このハマー氏は第一次大戦の直後にロシアに渡つてレーニンと商売の取引をしたといふやり手で、現在は石油会社の会長らしいから金は唸るほどあるのだらう。その趣味が美術品の蒐集で、それも現在のは三度目のコレクションだと聞いたが、レンブラントからシャガールまで、それぞれの作者にふさはしい作品が並んでゐて、単に金に飽かせて集めたといふだけのものではない。中にはギュスタヴ・モローの「サロメ」のやうに、これ一点でも入場料五百円は高くないと思ふ程の傑作があり、すつかり堪能した。
先日、遠藤湘吉の葬式で高等学校時代の古い友人に出会つた。中小企業の会社に出てゐると言つてゐたが、たまたまその趣味を問ふと、学生時代からやつてゐたがこの頃は国際的になつてね、と笑つてゐる。問ひつめると、人間の手で改良されてゐない植物の種子《たね》を集めて、それを栽培することだと嬉しさうに答へた。これまたピンの蒐集家に違ひない。
天下の名画を集めるのも、一粒の種子を集めるのも、愉しみに甲乙はないだらう。
草花を描く
私は趣味が多方面にわたつてゐるが、どうも長続きしないのは熱しやすく冷めやすい性質によるものか。昔ちよつと油絵に凝つてゐたが、やがてパステル、水彩画と次第に手のかからない方へ移行し、今年の夏は信濃追分で毎日、草花の写生をしてゐた。掌《てのひら》に乗る程の小さなスケッチブックに、黒インキのペンを用ひて輪廓を取り、日本絵具で彩色するといふ極めて簡単なもので、一枚が一時間とはかからない。
もつとも、まづ散歩をして草花を採つて来るところから仕事が始まつてゐる。次にはそれを植物図鑑で調べて、名前を見つけなければならない。花の名前を覚えるためにメモを取らうといふのがそもそもの発想で、名前が分らなければ、あれこれの図鑑で探すから半日はかかる。そのうちに花が萎《しを》れてしまへばもう役には立たない。一日に一点か二点のスケッチを毎日続けて、一石二鳥のお手製の草花図鑑が夏の間に六十枚ばかりもたまつた。但し夏の間だけで、東京に帰つてからはそれだけの小閑もない。
実を言へば、来年の夏はこれを日本画風に筆と墨とでやりたいのである。ペン画に彩色といふ和洋折衷よりは、初めから毛筆で描いた方が一段と冴えるだらうと、我ながら期待する。そして文人画を物せるやうになることを生涯の望みとして、目下は「芥子園画伝」や「十竹斎画譜」などの複製を傍らに置いて、見てゐるだけでも勉強だなどと口先ばかり。
きのこ
信濃追分の秋が恋しくなつて、一晩泊りで出掛けた。一晩のために自分の山荘を明けるのも面倒くさくて、懇意の本陣旅館を予約しておいたが、その日の朝、信越線で機関車の脱線事故があり、着くのが二時間もおくれた。宿の若い主人は、これでは今日は見えないかもしれないと言ひながら、山へきのこを取りに行つたとかで留守だつた。私はさつそく、スケッチの道具などを手にして近くの林道をぶらぶらと歩いた。今年は残暑が長くて、紅葉にはまだ少し早いやうな気もしたが、雑木林では黄ばんだ葉がしきりに散り急いでゐた。我が家に立ち寄つてみると、あけび棚のあけびの実がみな熟して口を開き、中には小鳥がつついたのもある。私は一つまた一つともぎ取つたが、種子を吐き出しながら食べるこの冷たい味こそ、秋の味と言つたものに違ひない。
いや秋の味と言へば、きのこがある。夕食にはきのこのいつぱい入つた寄せ鍋が出た。紫しめぢ、くりたけ、からまつきのこ、などが押し合ひへし合ひしてゐる。土地の人はみな場所を知つてゐて、行けば必ず取れるらしい。何年か前には、私も夢中になつて山を探し歩いたものだが、気分は爽快でも収穫はきまつて少かつた。こんなにたくさんのきのこを一度に食べるのが、何だか勿体ないやうだつた。
あくる日軽井沢と横川との間で、上り列車の窓から、横転したまま寝そべつてゐる四輛の電気機関車を見た。忽ち浮世の風が私を吹き抜けた。
幻の指揮者
去年の暮から今年の春まで病気で寝てゐたが、その間に寝たままで操作できる小さなステレオのカセット・ラヂオを枕許に置いて、好きな曲があるとカセットに取つて愉しんだ。
チェリビダッケはレコードには入れないことを主義とする幻の指揮者ださうで、これまでにさつぱり耳にする機会がなかつたところ、ルツェルン国際音楽週間の録音をFMで流したので、初めて聞くことが出来た。スイス音楽祭管絃楽団を指揮したもので、曲はシベリウスの二番の交響曲である。
私は昔からシベリウスが好きで、この二番は数へてみるとレコードだけで八枚もあつたが、チェリビダッケの印象は圧倒的だつた。どの指揮者も四一分から四五分くらゐで演奏する曲で、例外が二つ、トスカニーニは三八分、このチェリビダッケは四九分半である。トスカニーニのが一息に飲んだソーダ水のやうに終るのに対して、チェリビダッケは一点一画をも疎《おろそ》かにしない。遅い部分ではこちらの全身が耳になるほどゆるやかで、このうねりのやうな光沢を出すためにオーケストラの全員がどれほど苛められたのか、想像にあまりある。
今年の夏またFMで、シュトットガルト放送交響楽団を指揮したのを聞いて、ますます感銘を深くした。あまり名の売れてゐないオーケストラから最高の音楽を引き出すのは、名人藝に違ひない。弱卒をひきゐて孤城を守る真田幸村といつた感じがした。
アーサー王伝説
江藤淳の「漱石とアーサー王伝説」は、漱石初期の短篇「薤露行《かいろかう》」を、英文学及び世紀末美術と比較研究した労作で、肩を凝らさずに読むことが出来るが、それによれば漱石のこの作品の他に、アーサー王伝説に取材した創作は一篇もないさうである。翻訳や紹介の類も極めて少いから、このケルト系の伝説は、我が国ではあまりはやらなかつたといふことにならう。
それを読みながら思ひ出したのだが、私は中学生だつた時分に、子供むきのアーサー王伝説を翻訳したことがある。父が私にイギリスで出版されてゐるアーサー・ミー編輯の「児童百科事典」といふのを毎月買つてくれてゐて、たかが中学生の勉強だが、私はその中の面白さうな冒険譚だとか、神話伝説だとか、名作のリライトだとかを読んでゐた。そしてアーサー王伝説のうちの一部分をこつこつ訳して、東京開成中学の校友会雑誌に投稿した。私の書いたものが活字になつたのはそれが最初である。
一体なぜアーサー王伝説だつたのかと考へるが、私の家にはまた漱石全集が揃つていて、小学生の頃から私は分つても分らなくても漱石を愛読してゐた。とすれば「薤露行」がどんなに難解でも、あのロマンチックな空気は子供の私に深い影響を与へて、「児童百科事典」の中からアーサー王伝説を選ばせたのかもしれない。伝説のどの部分だつたのか、まさかランスロットと王妃との恋物語だつた筈もないが、はるか昔のことなので今となつてはもう思ひ出すことが出来ない。
[#地付き](昭和五十年十月、十一月)
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幻のランスロ
自分の書いたものの話で恐縮だが、私の小説「海市」の中に、外国から来たクラリネット奏者の演奏会の場面がある。主人公と女主人公とが或る音楽会に行き、そこで同じプログラムに耳を傾ける、しかもその音楽は主人公の魂の形成に大いに関係がある、といふ設定で、私はその場面を書くに当つていろいろと苦心した。
私自身に似たやうな経験があれば簡単だが、純粋なフィクションともなれば一つの音楽会のプログラムをそつくりつくり出す他はない。ピアノもしくはヴァイオリンの演奏会なら、どのやうなプログラムでも組めるが、私はその時どうしてもクラリネットを独奏楽器にしたいと考へた。つまりクラリネットの音色が、ここに予定されてゐる悲劇的な恋愛に、或は主人公たちの魂の色相《いろあひ》に、いかにもふさはしいと私には思はれた。もつと明るい恋愛小説ならフルートの方がいいだらう。しかしこの小説の場合、クラリネットは絶対だつた。
そこでプログラム。モーツァルトのクラリネット協奏曲も申し分ないが、オーケストラの出る演奏会では物々しすぎて、私の考へてゐる音楽会にはそぐはない。そこでクラリネットが主役を演じる小編成の室内楽となると、かねてからモーツァルトとブラームスの二つの五重奏曲を、比類のないものと思つてゐた。そこで私はどちらを採るべきかに悩み、結局は二つとも慾ばり、その上に短い四重奏曲を二つ含んだ贅沢なプログラムを組んでしまつた。何しろ実際のクラリネットの演奏会なるものに一度も行つたことがないのだから、いたしかたない。
この小説が発表されてから、ジャック・ランスロ氏が我が国を訪れて、その至藝を聞かせてくれた。レコードもぞくぞくと出た。私はモーツァルトのクラリネット五重奏曲のレコードはあらかた持つてゐるが、ランスロ氏が巌本真理四重奏団と一緒に入れたレコードを聴いてゐると、私は自分でもこのメンバーの演奏会に出掛けたことがあり、そこでこの曲を聴いて、そのまま小説に書いたやうな錯覚を覚えるのである。私は氏が来朝した当時、身体の故障があつて実際の演奏を聞いたことはない。しかしテレヴィや写真で見た限り、あの細おもてで長身のランスロ氏は、まさに私が小説を書きながら想像してゐたクラリネット奏者にそつくりである。私にとつて「幻のランスロ」といつたところだが、気の早い読者が私の小説を読んで、あれはジャック・ランスロの演奏会を使つたものだなどと早合点されたらどうしようかと心配である。
[#地付き](昭和四十六年二月)
室生さんからの宝物
宝物のあるなしを「婦人之友」から訊かれても、我が家などに大した代物がある筈もない。ところで宝物の宝物たる所以は金銭では購へない品物を指すのだらうから、さうすると打つてつけの宝物が一つ我が家にあつて、しかもまんざら「婦人之友」に関係がなくもない。
昭和三十四年だつたか三十五年だつたか、夏の或る日、室生犀星の軽井沢の別荘を私と細君とで訪問した。犀星老人が女性にやさしく男性にそつけないことは夙に知れ渡つてゐたから、私はいつも細君をお伴に連れて、と言ふよりはこちらが後ろにくつついて、御前に祗候することにしてゐた。さてその日、たまたま私が、先生は雑誌に載つたあとの原稿はどうなさるんですか、と訊いたところ、どうもしないよ、といふ返事。それぢやどれか一つ頂けませんか、と一膝乗り出せば、宜しい、といとも無造作に承知された。そこへ細君が、ああ女といふものは畏るべく無邪気で大胆だが、それなら「かげろふの日記遺文」の御原稿を下さい、と間髪を入れず叫んだ。へえあんな大物を貰ふ気かと私はびつくりして、思はずたしなめようとすると、先生の方は暫く眼をぱちぱちさせたあと、いいでせう、「婦人之友」の方へさう言つておきませう、といふ次第で、係の松井志づ子さんの手を通して、まんまと一年連載の全十二回分の原稿をそつくり頂戴に及んでしまつた。
さてこの宝物、原稿用紙で約三百枚、これを懇意にしてゐた河出書房の坂本一亀君に頼んで製本してもらふことにしたが、坂本君が無類の凝り屋と来てゐて、じつくり構へてなかなか出来上らない。本扉に金泥の和紙を一葉入れて室生さんに題字をお願ひするつもりでゐたのに、たうとう生前に間に合はなかつた。せつかく見事な装幀で製本が出来たので、これを中野重治さんのところへ持つて行き、函の背と本扉とに題字を書いてもらつたが、ついでに署名まで頼んだところ、中野さんが悪戯気を出して「福永武彦君の強要のまにまに恥をしのんで中野重治」と書かれたのには参つた。
さてこの宝物、細君は自分が貰つた気でゐるが、中野さんの詞書がある以上、私の所有でもある。まあ夫婦のことだから共有の宝物といふことにならう。思へば私たち夫婦は、室生さんからその時々に実に沢山の珍しい物を頂戴した。「かげろふの日記遺文」の原稿は中でも無二の宝である。その他の、私が先生から頂いた眼に見えぬ宝に至つては、これは短い文章には尽し難い。
[#地付き](昭和四十八年十一月)
一枚のレコード
中学生といふ年ごろは、藝術への一種の憧《あこが》れのやうなものが発生する時期なのだらうと思ふ。それはただの憧れにすぎず、知識とか理解とかとは関係がないから、後年の大人になつてからの評価とは、おのづから別物である。
といふことを言ひ出したのは、私が中学生時代に好きだつた一枚のレコードを思ひ出したからである。その当時、つまり一九三〇年代の初めの頃は、まだ手まはしの蓄音機の時代で、レコードもなかなか贅沢品に属してゐた。私は東京山の手に住むサラリーマンの一人息子で、母親は夙に亡くなり、父親と女中との三人で暮してゐたが、父親はこと書物に関してはうるさくて、息子がどんなに欲しがつても自分が認めた本以外は決して買ひ与へようとしなかつたが、レコードの場合には私の言ひなりになつてゐた。それはつまり私の父は文学にこそ多少の判断があつても(父は高等学校の時に芥川龍之介の一年下のクラスで、従つてまた夏目漱石を尊敬してゐた)、こと音楽に対しては謂はゆるオンチだつたことも作用してゐるだらうと思ふ。そのオンチの子がオンチであることは、蛙の子が蛙であるやうに自明の理である。またもう一つの理由が考へられるが、それは私たちの住んでゐた隣の家は日本少年寮と言つて、昔は多くの寮生がゐて私もその一人であり、近《こん》三四二郎さんといふ人が舎監の役をつとめてゐた。この近さんは病身のため東京帝国大学を途中でやめた後はもつぱら若い学生たちの相手をしてゐたが、趣味の多い人で、エスペラント語とヴァイオリンと水彩画とに等しく熱中してゐた。そこで少年寮がもはや子供たちを寄宿させなくなつてから(つまり私が最後の出身者だつた)、毎日のやうにそこで音楽教室が開かれてゐて、私も暫くの間ピアノなどを習つたことがある。要するに私の父は、その点でも、音楽に対して少々コンプレックスを抱いてゐたものだらう。
そこで私は本と違つて、好きなレコードは簡単に買つてもらふことが出来たが、当時のレコードは円本なんかとは較べものにならないほど高価だつた。それにSPだからちよつとした曲は何枚にもなる。例へばクライスラーの弾いたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、四枚半から成つてゐて、私は片面しか入つてゐないその五枚目を買つてすぐに落して割つてしまひ、その後久しくこの曲の最後のところを知らないままで過した。
さて一枚のレコードといふのは、実際は三枚の組物だつたが、サンサーンスのピアノ協奏曲の第四番である。ピアノの演奏は脂の乗り切つてゐた頃のコルトーで、コルトーの名前くらゐは知つてゐたと思ふがサンサーンスなどに中学生が熱を上げてゐた筈もなく、況やピアノ協奏曲などを知つてゐた筈もない。実のところこれはまつたく近さんにけしかけられた結果なので、父に買つてもらふとすぐに近さんが私から借りて行つてしまひ、父からあのレコードはどうしたのかと訊かれて返事につまつた覚えがある。私は近さんを尊敬してゐたから、たとひ貸したままになつてもちつとも惜しくはなかつた。
近さんはその数年後に亡くなられたが、まだ四十にもなつてゐなかつた。そしてサンサーンスは今日《こんにち》はやらない作曲家で、徒らに技巧的で内容がないなどと批評家に悪口を言はれてゐる。しかしこの協奏曲の第四番を聞いてみると、きらびやかなピアノは春の若葉からしたたる水滴のやうに透明で、せせらぎにひるがへる小鳥のやうに軽い。それはいかにも藝術への憧れをそそるやうに出来てゐる。これだけの形式の中に、内容がないなどと言へるものではない。私自身の好みも今ではサンサーンスから離れてしまつたが、この曲の向うに近さんの声を聞き、また中学生の頃の私の感情を思ひ浮べながら、思はずうつとりと聞き惚れるのである。
[#地付き](昭和四十九年三月)
鉄線花
まだ丸岡明さんが存命の頃、下落合のそのお宅を訪ねたことがあつた。六月頃の、梅雨にはひる前の、日射の明るい或る晴れた日の午後だつたが、奥さんのおもてなしを受けながら庭先のあたりを眺めてゐると、紫色の花が細長い茎の上で風にゆらゆらと揺れてゐるのが見えて、その風情がえも言はれなかつた。
そこであれは何といふ花です、と無知を曝けて訊いてみたら、あれは鉄線とたちどころに教へられた。こちらに恥をかかさないやうに丸岡さんはすぐに言葉を続けて、本来は中国原産で、ヨーロッパではクレマチスといふなどと説明してくれたが、悠然として大人の風格のある丸岡さんと、繊細な八弁花との対照が少々をかしかつた。しかしこのことに限らず、丸岡さんはいつも心のやさしい人だつたと思ふ。
私も以来すつかりこの花が好きになつて、毎年六月になると花屋に鉄線の鉢植が出るのを待ちかねて買つて来るが、鉢植のは最初の花こそ大輪に開くものの、次の蕾が開くときには色も薄く花も小さい。それに花片が一片でも散ると後は見苦しい。それでも私は、しばしの間の鉄線の花の姿を眺めながら、その時やさしい心持になつてゐる自分を発見するのである。
[#地付き](昭和四十九年四月)
岡鹿之助さんと私
私は昔から岡鹿之助さんの絵が好きだつたが、特にいつ頃から熱を上げたものか思ひ出すことが出来ない。ここで言ふ絵とは勿論本業の油絵を指してのことだが、また一方では岡さんの装幀の見事さに打たれ、またその装幀本の中にしばしば現れる簡素なペン画のデッサンにも強く惹きつけられた。例へば戦後に細川書店から出た堀辰雄の「風立ちぬ」は、岡さんによる装幀と、内容を飾る数葉のペン画によつて、戦前の野田版とは別個の存在価値を持つてゐる。
さて私といふ人間は思ひつくと矢も楯もたまらぬ癖があつて、或る頃から岡鹿之助に夢中になり始めたがさてそれなら何が可能だつたかと言へば、せいぜいその人の画集や著書を探す、展覧会に行く、そんなものである。一面識もないのに手紙を出すわけにもいかず、況や面会を求めるやうなはしたない真似は出来ない。一番の望みはその人の油絵をせめて一点なりと購ふことにあるが、これは貧乏文士にとつて高嶺の花もいいところである。
そこで私はさんざん迷つた末、たうとう新潮社から出す予定の本に装幀をお願ひするといふ方法を思ひついた。まさに厚かましい。しかしひよつとしたら岡さんに引受けてもらへるかもしれないし、だいたい厚かましい以外に岡さんに誼みを通じる手立はないのである。私は昔から装幀には凝る方だと自任してゐるが、それには多少のわけがある。一体我々の書くものは、それが原稿の形では印刷のための素材にすぎず、雑誌や新聞に載せられた時は中身を読んでさへもらへればいい。しかしこれが本となると、中身と容器とは微妙に呼応し合つてゐて、これがお互ひにそつぽを向いてゐるやうでは面白くない。従つて内容と装幀とには或る種の親密さが必要であり、従つてまた著者と装幀者との間にも何等かの sympathie が必要であるだろう。私は岡さんに対して大いに sympathique だつたから、岡さんの方からも多少は特別に見てもらへるかと虫のいい想像をした。
幸ひにして願ひはかなつた。この本は「忘却の河」で、内容には勿体ないほどの緻密なペン画によるデッサンを函に頂いた。また扉にも小さなデッサンを頂いた。デッサンと言ふのは誤りかもしれず、これはこれで完全な絵であり、ただモノクロームといふだけのことである。しかもその上に紙の材質はもとより、活字の大きさ、色、構図、などについても綿密な指定があり、見本を見た上での訂正変更もしばしば生じて、その入念なお仕事ぶりは本業の方とちつとも変らない。
一体岡さんのさうした心くばりはあらゆる面に現れてゐるやうで、例へば「フランスの画家たち」といふ著作がある。私なんかこれを読んで大いに教へられ、実作者の眼が働いてゐるところを特に有難く思つたが、この本は随分前の昭和二十四年に中央公論社から刊行されてゐて、それが昭和四十三年に同じ題名で再刊された。まつたく違つた装幀でいづれも好もしいが、新しい方の内容は新作を混へてゐるものの大部分は昔のままの表題である。ところが詳細に見ると、旧作そのままと思はれた論文のどの頁にも筆が入つて殆ど書き直しに近く、この再刊本が、装幀挿画はもとより、その内容まですべて面目を一新してゐることが分る。これは誰にでもそんなに簡単に出来ることではない。
私はそのあと「風土」や「草の花」などの旧著の新版を出す際にも岡さんに装幀をお願ひし、これまた聞き届けられたから、その時は題字までも一緒にお願ひした。かういふふうに段々に慾が出て、目下刊行中の私の「全小説」では、全十一巻の各巻の函にそれぞれ違つたデッサンを頂戴してゐる。これなどもその見事な線を確かめるには、印刷の色がごく薄い。といふのも印刷文字の方を主役にして、絵は背景にしりぞかせるといふのが岡さんの方針で、その点は譲つてもらへなかつたから、何だか折角の絵の上に題名などの麗々しく印刷されてゐるのが申訣ないやうな気がする。かういふ点が岡さんのけぢめといふものなのだらう。
装幀をお願ひするやうになつてから、漸く駒井哲郎君の紹介でお宅をお訪ねした。御馳走になつたりレコードを聞かせて頂いたりしたが、閑談尽きるところを知らない。しかし私の方がしよつちゆう病気をしてゐるし、岡さんの方もお忙しい日常だらうから、その後なかなかお伺ひする機を得ないでゐる。君子の交りは一年に一遍顔を見ればいいのだといふのが私の持論だが、もう何年もお会ひしてゐないのだから我ながら無精に過ぎる。しかし岡さんの、にこやかな微笑を内に湛へたその温顔は、藝術家の到達すべき境地の一つの見本のやうに、いつも私の前にある。またその数々のタブローは魂の疲れた時の安らぎとして、いつも私の眼前に彷彿とする。要するに私にとつて、岡鹿之助は藝術そのものの夢なのである。
[#地付き](昭和四十九年三月)
直哉と鏡花
断簡零墨まですべて収めた個人全集の中で、一番面白いのは日記や書簡のあたりである。これは鴎外漱石二家の全集を想ひ浮べれば誰でも頷くことで、表藝の作品とはまた違つた、謂はば勝手口の方から人の家を覗いたやうな趣きがある。他に少し例をあげれば、荷風の「断腸亭日乗」とか茂吉の「手帳」とかが個性的な魅力に富んでゐることは夙に知られてゐるし、内田百閧フ手紙の無類のユーモアも、百闡S集が刊行されて初めて読者の手に委ねられたと言ふことが出来る。
そこで志賀直哉と泉鏡花、この二巨匠の全集が目下雁行して刊行中だが、その全巻の内わけを一瞥しただけで、その間の驚くばかりの相違に気がつく。志賀さんの方は全十四巻のうち、未定稿、日記、書簡、談話などが、完成した作品に対して殆ど同じ分量を占めてゐる。一方、鏡花の方は全二十八巻のうち、小説と戯曲とが二十六巻を占め、日記書簡は一巻にも足りない。書簡には未発掘のものがあるとしても、これほど楽屋裏を見せない小説家も珍しい。この二人は何れも作品を完成させることに切磋琢磨の限りを尽した藝術家なのに、どこからこれ程の相違を生じたのだらう。志賀さんは作品以前の材料をもつとめて大事にし、鏡花は材料を遺すことを意識的に避けたといふことか。それを押しつめると、志賀さんは人生そのものの中に藝術を生き、鏡花は藝術の中にのみ人生を見出したといふことになるだらうか。
[#地付き](昭和四十九年十二月)
「独身者」後記
「独身者」は私が昭和十九年六月二十三日といふ正確な日附に於て書き始めた小説で、その日以後中判の大学ノオトに殆ど毎日せつせと書き継いでゐた筈だが、その年の秋ごろ、ノオトの三冊目の途中、第一部十一章まででぽつんと途切れてしまつた。未完の小説と言へば何やら一角《ひとかど》の作品のやうに聞えるが、「独身者」はプランによれば全三部九十章くらゐから成り、それも次第にプランがふくらんで、初め千五百枚の予定だつたのが遂には三千枚にもならうかといふ壮大な計画だつたのだから、未完と言つてもほんのとば口、閾《しきゐ》を跨いだか跨がないかくらゐのところで蹴つまづいてしまつた恰好である。世の中に未完の作品は数多いが、大体は終りの部分だけが欠けてゐるとか、せめて半分ぐらゐまではあるとかいふのが普通で、この作品のやうに頭だけといふのは極めて稀である。しかも内容にそれだけの価値があると分つてでもゐればとにかく、当の作者が忸怩として頭を掻いてゐるのではお話にならない。
そこで作品の成立について作者から少し説明を加へておく。私は昭和十六年三月に東京帝国大学文学部仏文学科を卒業し、この年の五月ごろから「風土」と名づけた長篇小説を書き始めた。また六月頃から日伊協会に勤め、翌十七年に参謀本部に移つて暗号の解読などをさせられ、その年の暮召集、即日帰郷となつた。昭和十八年早々に参謀本部をやめ、母校の仏文研究室に通つて文学辞典の編輯などをしてゐた。これはフランス十八世紀あたりの二流三流の詩人たちの略伝を書く仕事で、一枚いくらの原稿料を纏めて貰ふ約束だつた。従つて勤めの方は気楽で、稼ぎは覚束なかつたが暇は多分にあつた筈なのに、「風土」は初めの二章を書いただけで次の「舞踏会」の章がどうしても書けず、そこで中絶したきりになつて専ら詩を書いてゐた。その年の暮に日本放送協会の試験を受け、これが身体検査で引掛つて難航したがどうにかパスしたので、翌十九年の二月から国際局に勤務してニュースの仏訳やら仏印向けの放送などに従事することになつた。その頃私は独身で東海道線藤沢駅のすぐ近くにある羽衣荘といふアパートの一室に住み、午後の三時頃汽車に乗つて内幸町の放送局に出勤し、夜の十時頃また藤沢へ戻るといふ日常を繰返してゐた。そして「風土」を諦めて、新しく別の長篇小説を目論み始めた。従つてこの「独身者」の構想は、東海道線の列車の座席に揺られながら次第に醗酵して行つたものだと言へるだらう。私は通勤の往復にメモしたものを、下宿に帰つてから殆ど夜を徹していぢくり廻してゐた。
私が初めに執筆開始の正確な日附を書きとめたのは、この「独身者」のノオト三冊の他に、「独身者の日記」と題した同じ中判のノオト一冊が残つてゐるからである。これには「一つのロマンが空想され構成され書き出される迄」といふ副題がついてゐて、「六月四日朝」から「六月二十三日夜九時半」に至つてゐる。その最後のところに「今日の午後から筆を染め出した。」とある。その代り原稿が中絶した方の日附については、ただ秋ごろだつたらしいといふ私の朧げな記憶の他には何もない。またなぜ中絶したのかも、今から考へても定かに思ひ出すことが出来ない。何しろプランは練りに練られてゐたのだし、「風土」にあつては「舞踏会」の章が肝心の舞踏会の経験が(ついでにダンスそのものの経験も)当方にないといふ障碍のために行き悩んだといふやうな理由は、この場合にはさつぱり思ひ当らない。とすれば結局、その年の秋作者の身辺が俄に多忙になつて、残りを書き続けるだけの時間を捻出できなかつたといふことになるのだらうか。
「独身者の日記」は、作者の日常の生活と「独身者」の構想とから成つてゐて、しかもその大部分は、登場人物たちの性格、心理状態、彼等の行動の軌跡、相互の関係などであり、それに作者の小説論が加はる。また、登場人物たちにとつて過去への追想が重要な心理的主題となるのと同じく、作者にとつても個人的に重要だと思はれた過去の情景なども書かれてゐる。例へば昭和十六年及び十七年の夏、軽井沢のベア・ハウスで私が友人たちと一緒に過した当時の思ひ出。中村真一郎が「四季」の中で書いたカタストロフィ前の夏の原型である。しかし中村の小説がフィクションであるやうに、私も「独身者」の中にこの夏の経験をそのまま用ひるつもりはなく、ただその雰囲気を再現したいと懐しむところがあつたからであらう。といふのも、この「日記」を書いてゐた昭和十九年の六月は、ほんの二年前または三年前の夏に較べれば既にカタストロフィの渦中にあつて、過ぎた夏はもう決して戻らないことを痛感せざるを得なかつたからである。アメリカ軍はサイパン島に上陸し、戦況は日に日に険悪の度を加へつつあつた。私は参謀本部にゐてさへも召集を受けたので、放送局なら絶対安全と太鼓判を押されて逃げ込んだのだが、ここでも周囲に応召が相継いで、私たちは息を凝らしてゐた。さういふ中で私はこの長篇小説の中に(それがいつ終るか分らない程長いといふ点に私の運命を先の方へと追ひやりながら)ひたすら没頭してゐたと言ふことが出来よう。
「独身者」の主題は、「日記」によれば、「一九四〇年前後の青年達を鳥瞰的に描いて愛と死と運命とを歌ふ筈」だつたし、そのために十人以上の人物が相互に絡み合つて複雑な絵模様を見せることになつてゐた。「日記」の中には彼等がどういふ運命を辿るのか、すべて予測してある。そして私には、小説といふものはかうした綿密なプランに則つて書くべきものだといふ先入観があつた。私はアンドレ・ジイド――特にその「贋金つくり」――とオールダス・ハクスリィ――特にその「対位法」――の影響を受けてゐたやうである。そのことが、かへつて小説を書きづらくしてゐたことを、私は後に知つた。しかし当時私に必要だつたものは、この長篇小説の全体的構想、神の視点からする隅々までの透視だつたに違ひない。戦争が苛烈になり、いつ兵隊に取られるか、またその結果としていつ死ぬか分らないやうな青年にとつて、すべての人物を自己の分身として生き抜くことが、短い人生を永遠に生かすための唯一の方法といふふうに思はれた筈である。つまり私はまつしぐらにこの小説の中に飛び込み、小説はまたさうした私をすつぽりと呑み込んでしまつた。さういふ親密な関係は、数ケ月しか続かなかつたけれども。
その年の秋から以後、私はもう兵隊には取られなかつたが、多くの事件が相継いで起り、苦しい経験が幾度か私を強ひた。「独身者」のノオト三冊と「独身者の日記」のノオトは、それを捨ててしまふには未練がありすぎたが、再び開くだけの余裕もなくまた興味もなかつた。私はそれを完全な失敗作と極め込んで、まだしも「風土」の方に希望をつないでゐた。私が「風土」を完結させたのは、私が清瀬の療養所にゐた昭和二十六年のことで、それと共に「独身者」の方は文字通り篋底に投げ込まれることになつた。私もまさかこれが陽の目を見ることにならうとは予想しなかつた。
昭和四十七年になつて、「国文学」といふ雑誌がその十一月で私の特輯号を編み、その中で菅野昭正君と対談を試みることになつた。いろいろ訊かれてゐるうちについ昔の話になつて、「独身者」についてもうかうかと口を滑らせ、ジイドよりもロジェ・マルタン・デュ・ガールの影響の方が強いやうだといふやうなことを述べた。それからこんなことを言つてゐる。「ですから『独身者』三百枚、いまだに抽出しに寝てゐましてね、それをもう一遍書き直す――全然書き直すか、それは戦争中の話ですから、それを戦後まで引延して大河小説にするか、それとももう一切やめてしまつて、そのままにしておくか、いまだ思案中といふところです。」
思案するまでもない。私は昭和四十六年に「死の島」を完成させたあとは病気つづきで、一篇の新作も書けないくらゐだから、こんな昔の未完成品を何とかするだけの気力が起る筈もない。他にやりたい仕事が色々あつて、体力がつくのを空しく待つてゐる始末である。
そこで去年の秋のことだが、私の若い友人の一人で雑学世に並びなき郡司勝義君が遊びに来た折に、どう魔がさしたものか「独身者」の話になつて、そのノオトを篋底から埃を払つて引張り出す羽目になつた。彼は暫くそれをひねくつてゐたが、これはいいものが手に入つた、どうです、一つ限定本で出してみませんか、などと口走り、読み返してみないうちは何とも言へない、と私が生返事をしてゐるうちにいつもは長尻なのがそそくさとノオトを持つて帰つてしまつた。それぢや君が読んでから感想をしらせてくれ給へ、と背中に呼び掛けたが、その数日後には槐《ゑんじゆ》書房の大木卓也君が件のノオトを返却がてら我が家に現れて、コピイを取つて印刷所に入れました、もうぢき見本刷が出て来ます、と言ふ程の早手廻し。この大木君といふのが郡司君とコンビをなしてゐて、私も彼の穏かな人柄を愛して出版の後楯のやうなことをしてゐる以上、無下に怪しからんと怒鳴るわけにもいかず、やむを得ないかなといふ心境に陥つた。
去年の十二月から私はまたぞろ胃を悪くして寝たきりになり、「独身者」の校正が出ても春先になるまで見ることが出来なかつた。そこでどうにか横になつたまま校正刷を開いてみると、若気のあやまちは許せるが分別ある小説家がこんなものを活字にするのを許すわけにはいかない、といふ悲しい気持に襲はれた。しかし嘆いたとて後の祭、もともとは自分の耕した畑であるからせめて雑草を抜き取り石ころを除いたくらゐが関の山で、収穫が乏しいのはもともと地味が痩せてゐるせゐだと思ひ諦める他はあるまい。私がこれを落穂を拾ふやうに出版するからと言つて、限定版で少部数を限ることだし、格別世に問ふほどの意図があつてのことではないとお察し頂けるだらうと思ふ。要するに私が二十六歳の時にやみくもに書いた試作品で、ただそれを昭和十九年といふ時代の流れの中に置いた場合にのみ、多少の意味を持つことが出来るかもしれない。どうせのことなら「独身者の日記」の方も一緒に出せば内容の理解のために一層便利なのだらうが、その点は思ひとどまつた。第一に、残りの筋などを詳しく説明してしまつては、読者から空想の悦びを奪ひ取ることになるだらう。第二に、作者の私生活に触れた部分があり、私はさういふことを公表するのは好まないのである。
最後に装幀のことについて一言附け足しておく。槐書房は池田書店の姉妹会社だが、その池田書店に二十年ばかり前に岡鹿之助氏が描いたカットが沢山残つてゐた。大木君が大事さうにそれを持つて来て見せてくれたので、私はさつそく慾を起し、これらのカットを装幀や本文中の飾りに使はせてもらへないかどうかを、大木君を通して岡先生に申し出た。先生は承知されたばかりでなく、表紙の小間絵を描き直されたり、また色や活字の指定などもして下さつたさうである。かねがね岡先生には私の本の装幀を幾度もお願ひしてゐるのに、今回またもや私の厚かましい希望を聞き届けて頂いたことは悦ばしい極みである。「独身者」を本にすることの私の羞恥が、岡鹿之助装幀本といふことで消えるものではないとしても。
[#地付き](昭和五十年五月)
にほひ草
一
この春ごろ堀多恵子夫人から電話があつて、今年は堀辰雄の二十三回忌に当るから小宴を開いて由縁の方々をお招きしたい、就てはその時に配り本として故人愛蔵の中国文人たちの印十二顆を印譜につくつて配りたい、といふ趣旨を聞かされた。堀辰雄の随筆「我思古人」の本文を枕に置いて、印譜とその解題とから成る和本仕立の小冊子である。私はすぐさま賛成して出来るだけの加勢はしますと約束したが、その出版事務を担当するのが槐《ゑんじゆ》書房の大木卓也君と、大木君の相談相手である郡司勝義君だと知つて、それでは私の口を出す余地はないだらうと考へた。多恵子夫人が大木君に事務を委ねたのは、同じ槐書房が先ごろ堀辰雄の「かげろふの日記」を限定版で出版した縁によるもので、印譜の立案はもとより夫人の功績だが、その実現を大木君に任せたところが寔に幸運だつたやうに思ふ。といふのは私はまた槐書房とは多少の引つかかりがあり限定版の本を二冊ほど出してゐて、大木君が信頼するに足る人物であることを保証できるからである。
或る日、と言つても一昨年の暮ごろのことだつたか、郡司勝義君が飄然と我が家に現れて、耳よりな話があるから一口乗りませんかと持ち掛けた。その郡司君といふ人物をうまく説明することは難しいが、若いやうで老成した童顔のにこにこ顔で、二言目には大声で笑ひ、弁は立つ学はある話相手には申分のない好人物、附き合ひ出してからもう十年位になるだらうか。しかし申分のないのは座談だけではない。この間私が槐書房から出した「独身者」の後記の中で、彼のことを「私の若い友人の一人で雑学世に並びなき」と形容したところ、うちの細君が猛然と反対して、そんなの郡司さんに悪いわよ、雑学だなんて侮辱したやうで、と向きになつたのには弱つた。うちの細君にまでもてるやうでは郡司君はさぞや艶福家だらうと思ふが、私に言はせれば彼こそは雑学の大家、校正の名人、動く資料室、近代及び現代文学に関する文献学的造詣は端倪《たんげい》すべからざるものがある。(それなら雑学ならず文学だらうと半畳を入れられさうだが、文学ならそこいらの学者先生でも間に合ふので、雑学の方が格が上なことを細君は御存じない。)文治堂といふ小さな本屋さんから出た全五巻の中島敦全集は郡司君の独力の編輯で、その手腕にはまつたく敬服したから、私も文治堂から「批評A」及び「批評B」といふ、私の外国文学及び日本文学についてのエッセイ集を出す時に全面的に応援してもらつたが、郡司君は原稿の整理整頓はもとより、雑誌や新聞に新仮名遣ひで発表されたものはすべて歴史的仮名遣ひ正字に、妄に版元で仮名書きに直したものは漢字に、それぞれ戻す作業をやつてくれた。もつとも戻しすぎて、中には私の使はないやうな難しい漢字まで混つてゐたが、私は感心して現代の神代帚葉とは君のことかと持ち上げた。しかし眼光紙背に徹する筈の郡司君の校正にもやはり誤植はあつて、褒めすぎたのを悔むよりはどんな校正の名人にも誤植は避けがたし、浮世の常と慨嘆した。
その郡司君の話である。自分の親しい友人が限定版専門の出版をしたいと言つてゐるから智慧を貸してもらひたい、その代り先生の本は何でも出しますよ、と言ふから、一体何といふ名前の本屋かねと訊いたら、これが槐書房といふ、正に難解そのものの漢字を使つてゐるので、またまた君の雑学の現れか、とひやかしたら、いやこの命名は福田恆存さんです、福田さんも相談役の一人だと白状した。今どきこんな時代錯誤的な名前をつけるのはさすが福田恆存なりと感心し、ついでに出版予定の作品をいろいろと聞かされて、それでは君の友人とやらに会つてみようかといふことに相成つた。
槐書房の編輯責任者大木卓也君は、池田書店の出版部長だか何だかよく知らないがとにかく本職があつて、兼業の槐書房の方は企画から雑用までを一人でこなしてゐるらしい。その大木君が郡司君の案内で我が家に来るに及び、私も退つ引きならず黒幕を引受ける羽目になつた。堀さんの「かげろふの日記」なども端をそこに発したものである。
話を「我思古人」の方に戻すと、大木君が用紙には中国産棉連を使ひます印刷は精興社にきめましたなどと報告する一方、郡司君が顔の広いところで印譜の解説を金石学者の某先生にお願ひした上、実際にハンコを捺す仕事は先生のお弟子さんがたがしてくれるさうですといふところまで、とんとん拍子にきまつてしまつたから、最早私が屋上屋を架す必要もない。和本仕立の薄い小冊子で、たいして凝りやうもないのである。
そこでちよつと右の印譜の説明をしておかなければ、その間の私の心境が人には通じないだらう。堀辰雄の随筆「我思古人」を読めば分る通り、堀多恵子夫人のお父上が中国から持ち帰つた十二顆の印があつて、作者は明の文三橋、清の徐文長、奚銕生、陳曼生、趙次閑、呉譲之などの何れも錚々たる顔触である。堀辰雄が愛玩したのも故なしとせず、中でも徐文長の「我思古人」は逸品で、この印は堀さんの歿後室生犀星の許に貽《おく》られ、室生さんが分に過ぎるとおつしやつたとかで、亡くなられたあとまた堀家に戻つたといふ由緒ある品である。私はその「我思古人」を初めとしてすべて十二箇の印顆を紫檀の小箱に入れたままで多恵子夫人から借り受け、机上に安置して日夜愛玩した末、物欲しげな顔をして「我思古人」といふ堀さんと同題の随筆まで書いた。そしてこれらの印影を自ら一冊の印譜に編んだりして大いに小閑を愉しんだが、ゆくゆくは同題を踏んだ堀さんと私との随筆二篇を毛筆で清書したうへ、印影をも併せ収めた天下の孤本を作らうなどと空想したものである。つまりハンコは貰へさうにないから代りに肉筆|原ツ《げんきん》の印譜で我慢しようといふ腹だが、手習ひに時間がかかりすぎていつかうに実現に至らないで今日に及んだ。といふ訣合《わけあひ》がある以上、多恵子夫人が印譜を出されることに異議を申し立てる筋はさらさらないが、ちよつと一口乗せてもらひたいやうな気がしないでもない。そこで二十三回忌の配り本百三十部が出来たら、その後でこちらの分にもハンコを捺させて頂き、ついでに組版も借り受けて、福永の随筆だけ余分に附け足してある印譜を出してみたいと思ふがどうでせうか、と堀夫人に申し出た。当方は二十六部ほどである。幸ひにお許しを得たので、ここに堀版「我思古人」の他に堀・福永版「我思古人」の二種類の私家版が出ることになつたから、ややこしくて文献学的に間違ひを生じる懼れなしとしない。
二
五月二十八日の忌日が迫つて来たが堀版百三十部が予期したやうに進行しなくて、せめて当日の招待客に配る分だけでも間に合せなければ顔が立たないと言つて大木君が大車輪の活躍、ハンコを捺すのにお弟子さんでは時間がかかるといふので某先生御自ら仕事をなさつた。(印譜といふものは|原ツ《げんきん》すなはち直接に印影を捺したものが第一で、印刷ものとは格が違ふ。しかしその作業は素人でも出来るやうな爾《しか》く簡単なものではない。)それでもどうにか当日の夕刻宴席に届けられることになつて、そのことを電話で聞かされた時にはほつと安心した。私は昨年の暮に胃病で倒れ、春を過ぎて小康を得たものの自重して蟄居を旨としてゐるから、残念ながらその席には連ならなかつた。盛会だつたさうである。
そこからが眼目の話になるが、当日多恵子夫人の手から配られたこの「我思古人」は好評嘖嘖だつたものの、惜しむらくは一箇所誤植があつて、それを発見したのは私の友人中村真一郎である。彼は去年の夏頃から大患を煩ひさんざん人に心配を掛けたのに、あとの病人よりも先に癒つてこの会に出掛けることが出来たとは目出たい。しかも炯眼にもその晩のうちに誤植を発見して、早速多恵子夫人に次のやうな電話を掛けたさうである(と多恵子夫人が後に私に教へてくれた)。
「誤植を一つ見つけたんですがね。」
「あら、困つたわねえ。」
「一体奥さんは校正を見たんですか。」
「わたしは見てないのよ。」
「福永は校正を見たんでせうかね。」
「さあ、御加減が悪いからきつと御覧にならなかつたでせう。」
「どうかな。」
どうも私を犯人に仕立てたいらしくて、次の日には私にも電話が掛つて来たが、相談役としての責任を回避するやうで申訣ないけれど校正刷を吟味するだけの時間の余裕がなかつた。それに校正の名人が見落したのも無理からぬところがあつた。
印譜の中に陳曼生の「一琴一硯の斎」といふ風雅な印があつて、その側款を堀辰雄が「我思古人」の中に引用してゐる。
一琴一研高士尚志
携琴登山滌研曲水
吉金楽石興味何如
並置芸※[#「穴/總のつくり」、unicode7abb]聊以自娯
問題はその「芸※[#「穴/總のつくり」、unicode7abb]」を「藝※[#「穴/總のつくり」、unicode7abb]」と誤つた点にあつた。それといふのも印刷が精興社といふ一流中の一流の会社であるために、かへつて「芸」を略字と見て正字の「藝」に組んでしまつたものだらう。「藝《ゲイ》」はわざであり「芸《ウン》」は香草にほひ草の謂で、まつたく別の字なのだが、我が国では「芸術《ウンジユツ》」が「藝術《ゲイジユツ》」で通じてゐるから植字工をして誤らしめ、また郡司大木両君の眼から零れ落ちるといふことになつた。なに私が校正刷を見たとしても、発見したかどうかは覚束ない。
「芸※[#「穴/總のつくり」、unicode7abb]」といふのは書斎のことで、芸閣とも言ふ。「芸」即ち香草を書物の頁の間に挟んで虫を防ぐところから出てゐる。ところがその香草がどんな種類のものかよく分らない。説文によれば「目宿」に似るとある。うまごやしである。諸橋の大漢和には「くさのかう」とあつて、草の香とはオランダ渡来のヘンルーダと呼ばれる草である。一説に樹の名とするのもあり、今の「七里香」と説明してあるが、七里香は沈丁花だからちよつと頁の間に挟むわけにはいくまい。とにかく束ねて窓のあたりに吊しておき、虫干をしながらその葉を取つて書物の中に入れて行くのだらうと思ふ。そのうちに動く資料室こと郡司君がやつて来たら、よく訊いて確かめるつもりである。
中村真一郎と電話で長話を交してゐるうちに、色々のことを思ひ出した。格別匂とは関係がないが、銀杏の葉とか紅葉とかを栞代りに頁の間に挟むのは夢多い少女とばかりは限るまい。私は嘗て紅葉の美しい季節に洛北に落柿舎を訪れ、見事な柿落葉の一枚を手帳の間に挟んでおいたが今でも何処かにあるだらう。私が毎年暑を避ける信濃追分のあたりには麝香草と呼ばれる匂のいい草がところどころの草叢に茂つてゐて、これも虫よけにはなるかもしれない。また秋になつて草《くさ》木瓜《ぼけ》の実が黄色く熟すと、土地の人はそれを箪笥の中に入れて匂袋の代りにしてゐるやうである。私はあの固い実を薄く削いで焼酎に漬け込み、おいしい果実酒をつくつたことがあるが、これは私がまだ元気で酒を飲んでゐた頃の話である。
中村真一郎も私もお互に病後のためなかなか会ふことが出来ず、電話での長話が延々と続くことになるが、この随筆もいよいよ長引いて肝心の誤植の話から遠ざかる一方ゆゑ、この辺でおしまひにしよう。
[#地付き](昭和五十年七月)
三絶
または中川一政
中川一政の著書「我思古人」の中に「三絶」といふ文章がある。中川さんの随筆の中でも特に飄々とした滑稽味に富むもので、私は読むたびに笑つてしまふ。初めに定義があつて、「三絶と云ふのは何か人に傑れた事が三つ集つたことである。書でも画でも詩文でも音楽でも当代の一人者を三人集めれば出来る。」これはつまり一絶を三つ集めての三絶である。「ところが宗之問の父令文といふのは文辞に富み、書に巧みであり、力あつて人に絶す。世にこれを三絶と称すと云ふのがある。これは一人で三つを兼てゐるのである。」そのあとに改行して一行、「力でこられてはかなはない。」
私たちが普通に知つてゐる三絶は詩・書・画の三つであつて、三つ目が力持ちではこれはかなはないだらう。ではそこから詩・書・画の話になるのかなと思へば、「しかしもつと敵はないのは痴絶と云ふのがある。」と四番目の絶が登場して、どうやらこれが中川さんのこの随筆の眼目であるらしい。アンリ・ルソーは三絶で浦上玉堂は二絶だといふのは、ヴァイオリンと琴との他にルソーには「まじろがざる愚」があるからだといふ算術である。そしてそこまでが枕で、いよいよ本文にはひると、まづ中川紀元、次に熊谷守一、それから石井鶴三の話になるが、これらがすべて痴絶の痴絶ぶりを示すエピソードばかりで、そこまで一々引用してゐてはきりがないからやめると、結びの一行は、「しかし痴絶も立派な三絶の一つの資格になるのだからせいぜい修養した方がよい。」これで終りである。
三絶をごく当り前に詩・書・画の三藝に秀でた一個人といふふうに取るならば、私は久しい前から中川一政こそは三絶であらうと確信し、その仕事の全域にわたつて大いに関心を持つてゐた。画と書とで二絶、これは天下周知だから、もう一つ数を揃へて三絶にしようなどといふ好い加減なことではない。いくら相撲《すまう》やボクシングがお好きだといつてもまさか力絶ではあるまいし、もちろん痴絶の方でもあるまいから、残る一つ、まさに詩文に於て世に絶してゐると思ふのである。その画と書とは展覧会場でいくら涎を垂らしても私なんかが本物を所有することは出来さうにないが、詩文の方は古本屋に誼みを通じておけばその著書を端から手に入れることが出来るし、著書を座右に置いてその時々に繙いてさへゐればこれが本物であることはおのづから明かなのだから、私は中川さんが当代第一等の文章家であることを請合ふ。もつとも私如きが請合はなくても夙に知る人ぞ知る、私が力めばかへつてをかしい。
では中川さんの文章の魅力とは何だらうか。天衣無縫のうまみ、つまりは人間的な親しみがあつて、一読たちどころにその人と附き合つてゐる感じを持たされることである。従つて面識があらうとなからうと、昔から昵懇《ぢつこん》であつたやうに思はれて、何となく伯父さんと呼び掛けたいやうな気がして来る。中川一政の愛読者は世に多く、どうやら誰もが著者を他人とは思はなくなるらしくて、中川さんも天下にかう甥が沢山ゐてはさぞ迷惑だらう。
思はず脱線したが、中川さんの文章はまじりけなしの素人のそれで、我々のやうな文士の書くものがいつのまにか水垢のついて来るのに反して、中川さんの文章はいつも透明に澄んだ湧き水で、濁るといふことがない。それは必要にして充分なだけの言葉で物を言はうとした結果で、余分な衒ひや修飾のはひり込む余地はない。どうもそれは画の方の修業から来てゐるらしい。「目付のこと」といふ随筆にある宮本武蔵の観の眼と見の眼とが、中川さんに備つてゐて文章にも及んだことの結果だらうと思ふ。また「ムーブマンについて」の中に、「ものを見て木なら木、山なら山、さういふものをみてふつと心が動く、それがムーブマンなのです。言葉に現はれゝばそれが詩になり、形にあらはれゝばそれが絵になる。」その初めの心の動きが中川さんの場合には常に新鮮無比である。
しかしまたムーブマンは展開でもあるから、中川さんの文章は起承転結の骨格をそなへて、一見して直観と連想の赴くままに書かれてゐるやうに見えても、その実ちやんと論理の糸が張りめぐらされてゐることは、「三絶」の例にも明かである。「美術の眺め」や「美術方寸」に静物画の講義が載つてゐるが、そこでも起承転結が出て来て、画面のそれぞれの部分を描いて行く順序が重んじられてゐる。それならば文章の場合にも起承転結が等閑に附される筈はあるまい。中川さんの漢詩漢学の素養もこれに与つてゐるだらう。
そこで中川さんの文章で一番目につく特徴は、段落が多くてしばしば改行がある点だと思ふ。それは中川さんが初め詩を書いてゐたことや、またアフォリスム的表現を好むことなどから自然に発生したものかもしれないが、私はどうも呼吸と関係があるやうな気がする。作者の緩急自在な呼吸に合せて、文章が一段落づつ呼吸してゐる。息をつく度に段落となるが、そこには必ず間《ま》があつて、ちよつと真剣勝負の感じを伴ふ。一撃して火花が散るのが文章なら、間のあひだに作者は二歩も三歩も前進してゐて、今度は意外なところから打込んで来る。その妙味は何とも言へない。下手な文士がやたらに改行するのとは訣が違ふやうである。
そして中川さんの文章が息のしかたに特徴を持つとすれば、それは自在に呼吸する如く文章を書くといふことであり、必然的に中川さんの書が念頭に浮ぶ。あの書もまた一字一呼吸から成り、字と字とのあひだの間《ま》が見事に美しい。とすればその画もまた、油絵には珍しい東洋的な間によつて成り立つてゐるとは言へないだらうか。
誰にでも絵は描けるが中川一政のやうに描くことは出来ない。人はみな呼吸をするが、中川さんのやうに表現されたものが作者と同じ呼吸をしてゐることは稀である。詩・書・画の何れにも作者の息遣ひが感じられるといふことは、これを三絶と言はずして何ぞや。
[#地付き](昭和五十年七月)
朔太郎派
または人工の音楽
萩原朔太郎をフランスの詩人ボードレールに類《たぐ》へて、例へば日本のボードレールなどと呼ぶ呼びかたがあるらしい。ボードレールは十九世紀の中葉に活躍し、朔太郎の仕事は今世紀初頭の二つの大戦の間にほぼ位するから、時代的に言つてもまるで違ふ。もつとも我が国の文学運動がそれだけ後れてゐたと言ふのならそれまでだが、とにかく確かにこの二人の間には色々の類似点があつて、それを研究することは(相違点を数へることも含めて)面白い研究課題になりさうである。私は何もここでそんな大問題を論じるつもりはない。ただボードレールを引合《ひきあひ》に出すことによつて、朔太郎を理解しやすい点があるのではないかと考へた。
ボードレールはフランス象徴主義の先駆者の一人で、その生前には容易に真価を認められることがなかつたが、最晩年にはマラルメやヴェルレーヌのやうな、後に象徴主義の代表的詩人となる青年たちが、熱烈な讃辞を寄せるやうになつた。しかしボードレールは母親に宛てた手紙の中で、かうした若い連中の才能を諾《うべな》ひながらも、彼等に自分の影響を認めることにそこばくの危惧を抱いてゐたやうである。「どうやらボードレール派 L'eole Baudelaire といふものが存在してゐるやうです。」と何だか忌々しげに附け足してゐる。しかし十九世紀後半を占める象徴主義が、文字通り「ボードレール派」だつたことは言ふまでもない。
それと同じ筆法で、「朔太郎派」といふものも存在してゐるのではないだらうか。萩原朔太郎は若い詩人たちから殆ど仰ぎ見られてゐた。ボードレールの影響が徐々に及んだのに較べれば、朔太郎のそれは既に彼の生前に於て、つまり同時代に於て、始まつた点に相違がある。伊東静雄、三好達治、中原中也、立原道造などが朔太郎を取り巻いて、それぞれ別個の、しかし朔太郎と多分に共通するところのある世界を、形づくつた。中原や立原は朔太郎よりも早く死んで、彼等はまた彼等なりの影響を後世に及ぼすことになつた。しかし戦後三十年の今日まで、朔太郎にまさる影響を与へた詩人はなく、詩に志した者はみな一度はその道を辿つたやうに見える。萩原朔太郎は一時代を画したし、彼の問題が現代詩の重要課題の一つであることはボードレールと同じである。
しかし私が「朔太郎派」として名前をあげた詩人たちの多くは、雑誌「四季」に拠つてゐたから、「朔太郎派」はつまり「四季派」ではないかと考へる人も出て来よう。私はどうもさうは思はない。「四季」は堀辰雄、三好達治、丸山薫の三人が昭和八年に始めた詩の雑誌で、後に多くの同人を擁してリルケの亜流をなす感傷的抒情詩を氾濫させた。三好達治が殆どその中心に位してゐるやうに見えながら、自ら四季派に組せられることを潔しとしなかつたやうに、気骨ある詩人たちはただこの雑誌を舞台として作品を発表したにすぎない。「四季」の成功はジャーナリストとしての堀辰雄の腕の冴えによるものである。(これは決して堀を貶《おとし》めるものではない。堀は小説家としての才能の他に、編輯者としても、装幀家としても一流だつた。本づくりも雑誌づくりもうまかつた。)
では彼等が、と言つても私が「朔太郎派」として選んだのは、伊東、三好、中原、立原の四人だが、朔太郎から受け継いだもの、従つてまた他の「四季」同人たちが受け継がなかつたものは何だらうか。それは要するに萩原朔太郎の本質をなす部分であり、「朔太郎派」であるか否かはこの本質を見抜いて自分に取り入れることが出来たか否かに係つてゐる。そしてこの本質は、また奇妙にボードレールとも似通つてゐるのである。
萩原朔太郎は自らマンドリンを弾くやうな音楽好きだつたが、その詩の本質は一言で言ふならば音楽だらうと思ふ。彼は詩の中にしばしば不思議な擬音を持ち込んだ。奇抜ではあるが、必ずしも奇を衒ふものではなかつた。例へば「鶏」といふ詩の中に、その啼声を「とをてくう、とをるもう、とをるもう」と書いてゐるが、「自作詩自註」でそれを説明して、「黎明の時、臥床の中から遠く聴える鶏の朝鳴を、私は too-ru-mor, too-te-kur といふ音表によつて書き、且それを詩の主想語として用ゐた。」この主想語といふのは、例へばポオの「大鴉」に於ける Never-more のやうなものを指すらしい。彼は「猫の死骸」「沼沢地方」の二篇(共に浦《うら》と呼ばれる女性が登場する)に於ても、「それ故に詩のモチーフは、主として Ula といふ言葉の音韻にこめられてある。読者にして、もし Ula の音楽的情緒を、その発韻から感受することが出来るならば、詩の主想を|はつきり《ヽヽヽヽ》と掴むことが出来るだらうし、もしもその感受が及ばなかつたら、私の詩の現はす意味が、全体として解らないことになるでせう。つまり言へば私の Ula は、作詩の構成に於ける様式上の手法として、ポオの『大鴉』に於ける Never-more や、あの|れおなあど《ヽヽヽヽヽ》やと同じことになつてるのです。」(この引用の中の|れおなあど《ヽヽヽヽヽ》は Lenore のことらしい。)これを見ても分るやうに、朔太郎は詩の音韻的発想、及び全体の建築的構成といふ点で、ボードレールと同じく鮮かにポオを消化してゐる。彼はまた「青猫を書いた頃」といふ文章の中で、「浦は私のリジアであつた。」とも言つてゐる。そこで私は、せめてこの「猫の死骸」一篇を、次に引用させてもらひたい。
海綿のやうな景色のなかで
しつとりと水気にふくらんでゐる。
どこにも人畜のすがたは見えず
へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。
さうして朦朧とした柳のかげから
やさしい待びとのすがたが見えるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯体《がすたい》の衣裳をひきずり
しづかに心霊のやうにさまよつてゐる。
ああ浦 さびしい女!
「あなた いつも遅いのね」
ぼくらは過去もない未来もない
さうして|現実のもの《ヽヽヽヽヽ》から消えてしまつた。……
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫《どろねこ》の死骸を埋めておやりよ。
殆ど説明の必要もない叙情詩で、この一篇が取り分け傑作であるといふのではないが、全体を成立させてゐるものは音楽であり、例へば「浦」といふ流音を挟んで「びれい」「心霊」「未来」などの|r《アール》の音が並んでゐるあたり、心にくいまでである。そして音楽によつて詩を構築するといふことは、当然詩を技巧によつて作る、人工的な音楽をそこに与へる、といふことになるだらう。
天性の詩人はただ歌ふだけでよい。室生犀星は朔太郎の最も近しい友であり、共に詩作に励んで相拮抗したが、詩はまるで別物である。犀星は流露する如く自分の感情を歌ひ、その作品は無意識の泉から滾々と生れ出た。そして「犀星派」といふものがもしあるとすれば、例へば中野重治はその一人だらうし、私は現在この二人の詩をこよなく愛してゐる。しかし若い頃のことを言へば、私は詩は世界の意識的な作り変へであり、その媒介をなすものは音楽であるといふ原理をボードレールに学び、従つてまたひそかに自分を「朔太郎派」だと信じて、発表の当てもなく技巧の勝つた詩を書いてゐた。それは中原中也や立原道造が死んだあとの戦争中の話であり、その頃私が愛読した詩人たちは殆ど朔太郎及び「朔太郎派」に限られてゐたやうである。(犀星の詩の価値は、残念ながらその頃の私には分らなかつたから。)そして彼等に共通してゐたものは、昭和十年代の重苦しい空気の中で、如何にして自分ひとりの世界を作るか、またそこに黄昏の光と破滅の色とを反映させながら、如何にして彼に固有の世界のリズムを作品の上に移植するか、といふ努力にあつたと言ふことが出来る。世界はつまり謎であり、解釈不能な謎は破片となつて詩の行の上に散らばつてゐるが、意識的に謎を含ませた詩の美しさは、歳月が経つたからと言つて完全に解けたとは言ひにくい。それがまた今日に於て、萩原朔太郎を読み、伊東静雄を読み、三好達治を読み、中原中也を読み、立原道造を読むことの、魅力ともなつてゐるのだらうと思ふ。
[#地付き](昭和五十年七月、追分にて)
「山海評判記」再読
一
泉鏡花の小説で何を好むか、或は何を代表作と思ふか、といふ問は、興味のない人には一顧の値打もないだらうが、鏡花の愛読者を以て自任してゐる人にとつては甲論乙駁の大問題ででもあるだらう。勿論、何もかも好きだといふ文字通りの熱狂的鏡花宗もゐるには違ひないが、それにしたつてやはり贔屓の作品はあるだらうし、いくら鏡花が天才でもあの夥しく産んだ子供たちの中には、多少器量の悪い娘が混つてゐるとしてもそれはしかたがない。(しかし器量は悪くても性質はおつとりといふやうな取柄はある。鏡花の作品は、すべて一種独特の風味とでも言ふ他はない文章の魅力から成り立つてゐるから、才色兼備でなくても惚れつぽい男はついふらふらとなる。)そこでとにかく飛びきりの美人を選ぶとなると、これがまた退屈な時にはもつて来いの暇潰しで、鏡花全集の内容見本に出てゐる総目録をひろげて、あれこれ吟味して飽きることがない。題名が並んでゐるのを眺めて考へるだけでも愉しいし、題名だけでは中身の記憶が怪しい時にはつい本を持ち出して来て再読三読に及ぶから、いつかうに決着がつかない。そこでいつそ内容を分けてそれぞれのジャンルに従つて代表を選ぶことにすればどうだらうか。数へてみれば、
一、藝道物、といふジャンルが先づある。主人公が藝術家とか小説家とかの場合には藝術物と呼んだ方がふさはしいだらうが、ここは古風にしておく。例へば「歌行燈」。
二、郷土物、郷土はすなはち金沢とその周辺で、作品は「照葉狂言」以来おびただしい。私は鏡花の描いた金沢の風物を愛するから、金沢の石川文学館がこの種の短篇ばかり集めて、手頃な選集でも出してくれないかと待望してゐる位である。勿論そこに地誌的な解説を附けて。
三、恋愛物、多くは悲恋物である。
四、侠艶物、これは私の造語だが侠気ある女性を扱つたもので、
五、色街物、と共通するところが多い。
六、怪談物、これは順序から言へば真先に来てもいい位のもので、鏡花の最も得意なジャンルだらうと思ふ。「眉かくしの霊」の終りのところなんぞ、何度読んでもぞつとする。
七、旅行物、金沢と東京以外にも、作者は各地に旅行して材料を仕入れてゐる。これが空間ではなく時間を旅行するとなれば、
八、時代物、これも幾つかあつて、例へば「鯛」のやうな短篇の味はひは心憎い。
九、私生活物、必ずしも自伝的といふ程ではなくても、随筆的に身辺を描いたものがある。しかしごく尠い。鏡花は私小説からはまつたく縁が遠いのだから。
と、かういふふうに分けてみると、一つの作品が純粋に一つのジャンルに属するやうな場合の方が稀で、二つ三つとジャンルに跨がつたものが圧倒的に多いから、それぞれに例をあげたくてもやたらに首を捻つて、従つて最初の設問に対してもなかなか結論には至らないのである。
二
しかし以上の他に、私が仮に波瀾万丈型と名づけたジャンルがあつて、筋立本位に出来てゐて読者に固唾を呑ませるやうなものを言ふが、これはおほかたは長篇で、右に挙げた各ジャンルがその中で複雑に混り合ふことにならう。とするとジャンルを主題によつてではなく、一篇の長さによつて長篇中篇短篇といふふうに分け、それぞれに好きな作品を選ぶのも悪くないだらう。そこで鏡花の長篇小説では何を選ぶかといふことになれば、長篇は数が尠いから、まあ簡単である。
風流線
婦系図
芍薬の歌
由縁の女
龍胆と撫子
山海評判記
たつたこれだけである。他にも長篇で立派に通りさうな「白鷺」とか「鴛鴦帳」とかいつたものが幾つかあるが、右の六篇は長さがぐんと違ふからこれだけに限るとすれば、私が一番愛着の深い作品は、一は勿論「風流線」で、二は「由縁の女」である。勿論と言つた以上その理由を説明しなければなるまいが、要するに私は旧制の高等学校時代に初めて鏡花を読み、忽ち熱中し、特にこの「風流線」で寝食を忘れた覚えがあつて、そのあと少くとも二度は読み返したがその度に巻を措く能はざるものがあつた。たとひ私が純文学の専門の如きしかつめらしい顔をしてゐるとしても、私はかねがね、このやうな滋味豊かで興味津々たる作品をややもすれば批評家が二の次にするのは宜しくないと思つてゐる。鏡花の愛読者でも「風流線」には保留をつけるやうで、さういふ人はきつとこれを大衆文学だと思ふのだらう。筋が出たら目だとか、人物が類型的だとか、分つたやうなことを言つてけなすやうだが、しかし鏡花の筆が、その記述が、暗闇の中から鮮かに浮び上らせた映像を読者がじつと見守つてゐれば、筋は鏡花世界に必然のものとして運ばれ、人物は鏡花世界に生きてゐることのしるしを帯びて動くのである。これほどの喚起力を持つ文学を通俗的として貶《おとし》めるのは、評者が文学の本質を理解してゐないせゐではないかと少々疑ふ。
さて「由縁の女」のことはこの際省略させてもらふとして、長篇六篇のうち私は「山海評判記」のみを読んだことがなかつた。一作でも欠けてゐれば、何を選ぶと言つても公平は期しがたい。この作品はむかし大学生だつた頃に、岩波の旧版全集を小遣をはたいて取つてゐたにも拘らず、戦争中のどさくさでどうやら読み落したらしいのである。しかもその大事な全集を戦争末期に手放してしまつた。戦後久しく鏡花に餓ゑたあげく、苦労の甲斐あつて漸く春陽堂版の元版全集を手に入れ、それを信濃追分の山荘に運んで毎年夏になつて繙くのを無上の愉しみとしてゐたが、残念ながらこの春陽堂版全集には大正の末頃までの作品しか収められてゐない。そのあとには単行本として「昭和新集」とか「斧琴菊」とか「薄紅梅」とかが纏められてゐるが、「山海評判記」は見当らず、従つて私にとつての幻の作品といふことになつてゐた。この一作のために岩波版全集を買ふには、古本の値が少しばかり高すぎた。
「山海評判記」は昭和四年に時事新報に連載された新聞小説で、私はその頃まだ小学生だつたから読んだ筈もない。そして連載後にこれだけの長大作が単行本にならなかつたとは不思議千万で、私もあらゆる著作年表や古書目録などの類を注意して来たが、ついぞ「山海評判記」なる本が存在する証拠にお目にかかつたことはなかつた。二三年前に篠田一士君がその評論で鏡花を取り上げ、この作品について書いてゐるのを読んだために一層刺戟されたが、新しく出始めた全集も巻数順の配本で当分は拝めない。待ち切れなくて昨年の夏、村松定孝さんの好意によつて旧岩波版全集第二十四巻のリコピイを送つてもらひ、すぐさま一読して溜飲を下げた。
それから一年して、たまたま月報に原稿を頼まれ、なるべくなら「山海評判記」を取り上げてもらひたいといふ註文、得たりとばかり引受けたのだが、さて書く段になると作品の内容がさつぱり思ひ出せないのである。もともと私は記憶力の悪い方で、翻訳物の推理小説なんか最後の数頁で犯人が曝露される段になつて初めて前に読んだことがあつたと分る位だが、鏡花のこの作品に対してそれでは申訣が立つまい。いくら一瀉千里に読んだからと言つて、忘れたことの口実にはならないだらう。
そこにひよつとすると鏡花の作品の一つの特徴があるのかもしれない。波瀾万丈型と前に言つたが、それに対比されるものは神韻縹渺型で、鏡花を読む愉しみは細部に陶然となることで筋を追ふことではない、とも言へるのである。私は要するにうつとりと読み耽つて、何しろその時はいづれ原稿を書かされる羽目になるとはつゆ思はなかつたから、読み終つた時には年来の宿願を果したカタルシスのために筋の方は綺麗さつぱり忘れてしまつた。それに「山海評判記」は珍しく(それとも鏡花がそれだけ枯れたといふことになるのか)波瀾万丈型とは言ひにくい長篇なのである。
負け惜しみばかり言つてもゐられないから、私は信濃追分の山荘で、この夏、白樺の葉蔭に椅子を持ち出して「山海評判記」を再読した。また改めて色々と感ずるところがあつたから、それを次に書かうと思ふ。
三
「山海評判記」は一言で言ふなら不思議な作品である。摩訶不思議と言つてもよい。鏡花の物はどれも不思議だと言つてしまへばそれまでだが、ただの奇々怪々とはわけが違ふ。しかしその不思議さを説明するためには、この作品の組立といふか筋書といつたものを、掻摘んで述べておかなければならない。先ほど鏡花をジャンルによつて分類したが、この作品は殆ど集大成の感がある程、いろいろのジャンルに相亙つてゐる。
全体で二十四章から成り、例によつてそれぞれに小見出しのみがついてゐる。一章は「ゆふ浪」で能登は和倉温泉の鴻仙館に泊つた一人の客が主人公であるらしい。この客が宿屋の隠居のお媼《ばあ》さんに夕食の註文をするところで、その好みからどうも作者の鏡花その人によく似た人物のやうに思はれる。ついで二章の「長太居るか」で按摩が登場するが、「歌行燈」以来馴染の悪役ではなく、ただ客に怪談を一席聞かせるのが役目である。この「長太居るか、居るは何ぢや、七年前の夫の仇。」といふ古狸に因む古譚は、主人公がこの後もつい口に出して「長太居るか」と呟くやうに、全体への一種の無気味な暗示にもなつてゐる。ここまでで既に読者は小説の前味に舌なめずりして、話の先を促したい気持だが、三章の「夜の蝶々」は、旅館に滞在してゐる神経衰弱の中尉殿と、七つになるそのお嬢さんとのエピソードで、按摩の良勘が絡むものの、そこはそれまで。四章の「その呼声」では、客が寝てゐるところに廊下から「長太居るか」と呼ぶ声が聞えて来るまつたくの怪談である。
これだけでも怪談物のジャンルに属することは間違ひなく、また旅行物であることも題名の「評判記」が示してゐよう。旧岩波版全集の月報第三号に載つた小村雪岱の文章によると、「『山海評判記』は昭和四年七月から同年十一月へかけて、東京時事新報へ掲載されました長篇小説で、先生五十六歳の作であります。これより先き同年五月、能登国和倉温泉和歌崎館へ遊ばれ帰途金沢市上柿木畠藤屋旅館へ宿られました。この能登行は令夫人とそれから金沢市で針屋をして居られました鏡花先生の従姉に当られる、おてるさんといふお方と御一所で、あまり旅行をされない先生としては珍しいことでありましたが、あとになつて見ますと此時の御旅行のことが『山海評判記』の中にしばしば出てまゐる様であります。」つまり鏡花は、この長篇のためにわざわざ取材旅行に出掛けたものらしい。
この主人公が矢野|誓《ちかふ》といふ名の小説家であることは、四章まで伏せてある。「長太居るか」と廊下から呼ばれても、居るのは長太ではなく誓であるといふ次第で、鏡花の語り口はいつもこのやうである。按摩が良勘なのは良寛上人と間違へられたからで、三章まではただの按摩にすぎず、中尉殿には遂に名前がない。読者は読み進むにつれて人物たちをそれぞれ区別して記憶するが、それはその姿、立居振舞、声、気質などによつてであつて、必ずしも名前によつてではない。その代り鏡花が登場人物に名前を与へる時は、その場面は適切であり、名前そのものも印象的である。
こんなにゆつくりしてゐては小説の終りまで附合ふのは大変だが、次の五章から九章まで(「浅草がへり」「山帰り」「井戸覗き」「一銚子」「続井戸覗」)は、場所は変つて東京芝門前で、時は関東大震災の後とあるが、前述の小村雪岱の文章によると「この篇の時代は昭和四年頃現在でありまして」とだいぶ離れてゐる。しかし描写では震災からさして遠くはないと思はれる箇所がある。(尚、季節は六月である。これは十二章に出る。)ついでながら作者を思はせる小説家矢野誓は、とても五十歳を越えてゐるやうには見えないが、このことは後に述べよう。
この部分では花柳数枝といふ踊りのお師匠さんの娘お李枝《りえ》が登場し、これが女主人公。「それに、娘は、実を言へば、あの容色《きりやう》につけても、あはれ、気の毒らしい、が、十七と云ふ、うら若さに――烏森に住へる頃、容色望みで、無理強に娶られて、やがて十年……仔細あつて不縁になり、一昨年の暮ごろから出戻りである。」(五章)これだけでも読者の想像力を大いに刺戟するが、過去の経緯については終りまで何の説明もない。年の頃は二十七八といふことにならうか。お師匠さんは「四十を一寸|内外《うちそと》か、もう些《ちつ》と出たらうか、」とあるが、親子だから四十六七より若いといふことはあるまい。もと「仲ン町の名妓」で、その学校以来の友達のお澄《すう》ちやんがつまり矢野誓の奥さんで、お李枝からはごく親しい小石川の小父さん小母さんに当る。その小説家夫妻が和倉へ出掛けたらしいと電車の中で聞き、(噂話をしてゐた二人は、十九章に説明があつて、はつきりさうとは書いてないが水上瀧太郎と久保田万太郎である。従つて噂された小説家はいかにも鏡花その人のやうに見える。後の二十章の「半夜」には、鏡花が紅葉に弟子入りした頃の話が出てそれを証明する。)その噂を新聞で確かめると、自分もひとつ和倉へ出掛けようといふ気持になる。母と娘とのやりとりはなまめいた、親密な雰囲気を持ち、お師匠さんの昔語りには色街物の情緒がある。
しかしこの部分では、お李枝の見る紙芝居、または姿歌舞伎、または飴屋芝居といふのが眼目である。大体この五章「浅草がへり」の出だしが、「――長太居るか――と親仁《おやぢ》、一つ願はうぢやねえか。」と客の町内連の一人が黒頭巾の親仁に言ふやうに、完全に前の章を受けてゐる。そしてこの男、安場《あんば》嘉伝次は、白山の姫神様の教へをひろめようとして能登から出て来た大道飴屋である。といふのはその能登には「龍宮の乙姫様の親類ぐらゐな女性」がゐて、「此の芝居の、種仕掛が、外題によりますと、その龍宮の親類あひから出ますのでな。」といふことになつてゐる。その「姫神同然」の「お頭」が誰であるかは分らない。しかし「お頭」の作つた「芝居の種仕掛」は奇怪なものである。第一段は舞台にある井戸のまはりに島田と銀杏返と大円髷の三人の女が現れ、それがそれぞれ雉子、山鳥、牝鶏の首に変つて消えるといふ怪異。地の文で書かれてゐる。第二段はお李枝が母親に語つて聞かせる形で書かれ、子雀が三羽井戸に落ち、それを若い学生が助けたところに白山詣りの巫女《いちこ》が現れて、その三羽の子雀は三人の女が(つまり第一段の三人である)命がけの願を掛けたその願のかなつたしるしだから、もとの井戸へ落すやうにと命じる。お李枝が見たのはそこまでで、怪しい巫女と睨み合つてゐた年の若い男がをぢさんに似てゐたと口走つたところで、母親から辛辣に「おや、お前、をぢさんは、私を好きだ、と云つてるが、其の様子では自分の方で……」とひやかされる。お李枝は黒頭巾から能登行をすすめられてゐたし、「お母《つか》さんの出やうによつては、新聞の記事による、お澄をばさんたちのあとを和倉へ追つて行きたいのである。」
続く十章十一章の「合歓の葉かげ」「紫の桑」は能登に戻つて、矢野誓が運転手の相良弥之助を相手にしての道中記で、お白様、白山権現の考証があり、邦村柳郷の名を借りて柳田国男とその令嬢の逸話などが語られるが、ここでも女の生首が出たり、井戸をめぐつて三人の女が姿を見せたりする。
次の十二章の「横川―柏原」は、全体のちやうど真中に当る。お李枝と弟の力二郎とが上野駅で別れるところからお李枝の一人旅だが、同車してゐて深夜柏原の駅頭で駅員相手に奇術を演じるのは例の安場嘉伝次で、ここでどうもお李枝にはあやかしがついてゐるらしい不安を覚えさせられる。
次の十三章の「いらたか」では、矢野誓が運転手にする話の途中からで、これが三羽の子雀が井戸へ落ちた紙芝居の第三段に当り、子雀を助けた若い学生といふのが、似てゐるどころか矢野その人であつたことが分る。巫女は負けて引下るが、それから三人の女が幻のやうに矢野に附き纏ふことになり、十五章の「掛蓑」では安場嘉伝次が矢野の塾朋輩であることが明され、その嘉伝次から、雀を助けたことで子孫が絶えると「われらの教祖」がおほせられてゐるといふ警告状が届いたことがあつて、オシラ神に奉仕する一党と矢野誓との確執が、この小説の主題であらうといふことが読者に理解されて来る。
そのあとは駈足で端折《はしよ》ることにするが、次の十六章の「逢魔ケ時」では、坊主合羽を着た「全身濃き影の如き怪しき婦人」が怪異を示し、十七章十八章の「鰈」「青帽女子」ではドレス姿の女優が現れて、座頭はおかみん(巫女)で一座は白神座《はくしんざ》だと宣言して、露店の河豚売や万年筆屋や蝙蝠浴衣の若い者などを卵塔場へ誘ひ込む。従つて三人の女のうちの二人までは登場したが、三人目はいつ現れるかといふ興味を起させる。一方宿に着いたお李枝に、矢野がむかし塾に通つてゐた頃の話を聞かせるのが二十一章の「姫沼綾羽」で、この文学志望の呉羽《くれは》ことクレオパトラは後に女優となり、美術家となり、一転して多額納税者の寵妾《おもひもの》になつてゐた頃矢野が逢ひに行つたことがあつて、その話をお李枝に口述筆記させて彼女にお化粧料を稼がせてやらうとする。しかしその話は題名がついたところまでで、本文には到らない。二十二章の「歌仙貝」では、矢野とお李枝が相良弥之助の車で富木《とぎ》へ行く途中女工場から逃げて来た娘を助け、そこからテンポが早くなつて二十三章の「廿三人の馬士」では、三十九曲りで眇《すがめ》の土蜘蛛甚太夫を初めとする馬士たちに襲はれてお李枝が死を決し、最後の「白山の使者」では、落人の工女が茣蓙を投げすてると忽ち霊力を発揮して二人を救ふ。「呉羽さんのお身内ですか。」との矢野の問に、「お師匠さんはあらためて――またお目にかゝります。」と答へて、そこで「長太居るか」をもぢつた長い唄によつて大団円といふことになる。その唄の文句の中にこの小説の謎めいたものが象徴的に隠されてゐる。
しかしそれを言ふ前に少し余分な説明をすると、私が老婆心めかして筋を追つて来たのは、この長篇が章から章へと巧みな語りぐちによつて構築されてゐることを言ひたかつたからである。例へば紙芝居の舞台が三段に分れてゐたり、東京での母と娘の対話が和倉での矢野と運転手との対話に照応してゐたり、章が改まる度に次から次へと読者を引張つて行く力は大したものである。しかし反面、部分的な面白さが勝ち、全体的な構図としては読者の想像力に少々頼りすぎてゐるところが見えるのは、新聞小説であることを作者が意識しすぎたせゐだらうか。姫沼綾羽は最も重要な人物であり、その雅号|くれは《ヽヽヽ》は宿の床の間の軸物の落款として既に二章に出るが、それを二十一章まで読者に覚えておいてもらはうといふのは虫がよすぎるだらう。安場嘉伝次はその二十一章で、クレオパトラをめぐるアントニオの一人だつたことが説明されるものの、実物の方は柏原駅で奇術を演じる十二章で消えてしまふ。また彼が駅員と問答してゐる時に、列車の昇降口からその名を呼ぶ「沈んだ錆のある声」の持主で、「焦茶の背広服を無雑作に、額の髪が真つ直ぐに立つたが、俯向いたから、仄白いのみ、面《おもて》は分かず、一箇の偉丈夫」が、嘉伝次を「ぐいと、片手抱きに、地《つち》からひよいと、軽くもぎ離して、列車へ入つた。」といふまるで天狗のやうなこの人物は、一体誰なのだらうか。このあと十七章に、露店の万年筆屋、実はさる高等官の息子で今は落魄し売れない原稿を持ち廻つてゐる壺田といふ男が出るが、とても偉丈夫などといふものではない。神経衰弱の中尉殿とそのお嬢さんは、十四章の「吉丁虫《たまむし》」で姿を消してそれつきりになる。といふふうにこの長篇の中では、まるで紙芝居の舞台が一場面ごとに変るやうに、人物が次々に変幻出没し、その間の暗転が実に暗く長い。まるでこの小説の主役は「闇」そのものであり、その闇の力が主人公の矢野誓をおびやかし、次いで女主人公のお李枝を、この下町育ちの、無邪気で、色気があつて、ややお転婆で、怪異とは何の関係もなささうなごく日常的な女性を、すつぽりと呑み込んでしまふところに、この小説の底知れない気味悪さがあるやうな気がする。
従つて「山海評判記」は、単純な筋書を複雑な仕掛によつて練りに練つたもので、写実的な経糸と幻想的な緯糸とを綯ひ交ぜ、そこに鏡花独自のさまざまな要素を絡み合せてゐる。怪談物であり旅行物であることは既に述べたが、二十一章の呉羽に関する部分はそつくり郷土物である。また主人公が小説家で、とりわけ最後に筆をとる大事な右手を噛んでお李枝に血を啜らせる場面などは立派な藝道物に違ひない。
といふふうに見て来て、さてジャンルとしては最も肝要な恋愛物としてはどうか、――といふ点に、私の言はんとするこの作品の不思議さが存在するのである。
四
「山海評判記」の不思議さは、まづ人物の動機づけが曖昧である点から始まる。そこが近代ヨーロッパ風の理窟の勝つた小説とまるで違ふところで、作者は登場人物の意識の動きに関して合理的な説明を試みるよりは、読者の想像力にその大部分を委ねて平然としてゐるやうに見える。
初めに主人公の矢野誓、この男は新聞記事には夫婦連れとあつたが、実は単身で和倉温泉に来てゐる。なぜ来たのかといふ理由は書いてない。もつとも旅行をするのに一々理由を述べる訣合もないやうなものの、鏡花自身は取材旅行に奥さんと従姉とを伴つてゐたのだから、作者が愛妻家らしい矢野を一人で旅立たせたのには、それだけの理由があつた筈である。「由縁の女」では主人公が墓参のために単身帰郷するが、主人公の妻には前後を締めくくる重要な役割があつた。しかしこの作品では妻のお澄は全然姿を見せない。動機らしいものとして、「幼少の折、かうした、唄も話も聞かしてくれた、きれいな町内の娘さんが、行方知れず。それが(中略)此の能登の奥で、学校の習字の教師をして居るとか云ふのを、夢のやうに聞いて居て、そんな事も可懐《なつかし》くつて当地《こちら》へ出て来たんだがね。」と矢野が二章で按摩に説明するところがあるが、按摩ならずとも「何を世迷言《よまひごと》」で、根拠としては薄弱、「習字の教師」とやらも遂に登場しない。
しかし問題はお李枝である。この魅力的な出戻りの娘は、女ひとり矢野を追ひ掛けて能登へ旅立つが、その理由がまた明かではない。矢野誓夫妻が(と新聞記事にあつたから)黙つて湯治に行つたのが口惜しいと口では言つてゐるが、をばさんが一緒に行つたかどうかを小石川まで確かめに行く手間も惜しんでゐる。これはどうもお李枝が内心で矢野を想ふあまり、その人が単身であることを切望しながら汽車に乗つたとしか思はれない。大体このお李枝には「心願」の筋があつて、ここ三年ばかり浅草観世音に参詣を欠かさないといふのだが(五章)、これについてはまた何一つ説明されてゐない。まさか二人がしめし合せた筈もないし、をぢさんと李枝ちやんとの宿屋での会話もしごく淡泊ではあるが、最後のクライマックスはこの二人が相思の仲でなくては成立しないだらうと思ふ。とすればこれはお李枝の側からの片想ひだつたのが、能登の富木街道で露《あらは》になつたといふことなのだらうか。
そこで主人公の矢野誓の年齢だが、作者の鏡花は大震災で五十、昭和四年なら五十六歳である。しかし小説を読んでゐると、主人公はとてもそれ程の老人には見えない。戦後はみな若返つて五十過ぎても大したことはないが、昭和の初めでは立派な年寄、現に鏡花その人は文壇の長老格であらう。ところが矢野誓はお李枝の恋人にしてもをかしくない程若々しく描かれてゐる。歌舞伎の二枚目を名優が演じてゐるのとは訣が違ふから、これはどうも鏡花が作中の人物の方をわざと若返らせたものとしか思はれない。つまり恋愛物の主人公にふさはしい。
これを恋愛物と見た時に、一層不思議なのは姫沼綾羽こと呉羽の存在である。この女性は嘗て矢野を初めとするアントニオたちの憧れの的であり、中でひとり反抗する矢野に対して好意を持ち、彼が新年会のあつた夜中に朋輩連中の闇討にあつて倒れた時に、橇に載せて運んでくれた真黒な坊主合羽を着た三人の女の一人で、矢野のお祖母《ばあ》さんはその上臈を白山権現のおつかはしめだと思つたといふから、あやかしはその時早くも始まつてゐたことになる。そして彼女は本舞台に一度も登場しないものの、三人の女の座頭であり、|おかみん《ヽヽヽヽ》であり、お師匠さんであり、安場嘉伝次の「龍宮の乙姫様の親類ぐらゐな女性」であつて、舞台の裏から糸を操つてゐることは間違ひない。とすれば彼女は、矢野に対して昔から一種の恋着を抱いてゐたのだと言へないこともない。つまりこの小説の最も理解しにくいところは、オシラ神の一党は果して主人公の敵なりや味方なりやといふ点である。また何故に主人公にのべつ干渉するのかといふ点である。
そもそも因縁の始りは三羽の子雀を助けたところにあつた。しかし矢野によつて阻まれた巫女は「お媼《ばあ》さんの行者」(九章)であつて、呉羽とは別人である。とすれば呉羽は巫女の後継者で、その意を体して矢野に祟つてゐることになる。巫女が安場嘉伝次を通しての祟りは子孫が絶えるといふ点にあつたが、既に矢野夫妻には子供がないのだから、何も更に呉羽が矢野に祟る必要もあるまい。それに呉羽に使はれる三人の女は、或は高浪に立往生した自動車を助け、或は矢野を怨む壺田某を卵塔場へ誘ひ込み、或は矢野とお李枝を危機一髪の間に救ふといつたやうに、常に主人公の味方として示されてゐる。謂はば呉羽は矢野の守護神のやうでもあり、それは呉羽が今も矢野を想つてゐることの証拠ともなるだらう。
しかしそれでは筋が通るまい。祟りは一体どうなつたのか。お李枝が安場嘉伝次の紙芝居を見たことが、彼女の能登行の無意識のきつかけになつてゐた筈である。そこに「種仕掛」がなかつたではすまされまい。ではどういふ祟りが予定されてゐるのかと言へば、それはこの小説の最終部分、宿の内にも外にも一面に湧き上りたちこめる、「長太居るか」に始まる唄の文句に、隠されてゐるやうに思はれる。
白山権現、
おん白神の、
姫神様の、
おつげを聞けば――
お李枝、お李枝、
お李枝のきみは、
あなたへやらぬ、
こなたへ渡せ。
山からなりと、
海からなりと。
つまりお李枝は馬士たちに襲はれてまさに命を落すところを助けられたが、それはオシラ神の意志であつて、それも矢野との恋を成就させようがためではない。お李枝を待つのは、推量すれば、呉羽の後継者としての位置であらう。そこでお李枝の「心願」を思ひ出さなければならない。嘗て矢野は、娘たちの心願かなつたしるしとして井戸に落ちて死ぬべき子雀を救つてしまつたが、矢野がさういふ過ちを冒した以上は、お李枝の「心願」がかなふべき筈は決してないのである。矢野とお李枝の間に子供が出来る筈も決してない。彼女の恋を知り、また彼女を恋しく思ふやうになつたその瞬間に、「あなたへやらぬ、こなたへ渡せ。」とばかり矢野の前からその姿は掻き消えてしまふだらう。どのやうにして――。その仔細については作者は何一つ洩らさない。一見して如何にもハッピイ・エンドの如く見えながら、実は暗くて無気味な余韻を残してゐるところが、この小説の神韻縹渺たる所以だらうと思ふ。これこそ他に類例のない小説、敢て言ふなら読者の想像力を手玉に取つた傑作である。
五
ところで不思議ついでに、ここにもう一つ不思議を生じた。前にも書いたやうに、「山海評判記」は昭和四年に時事新報に連載されて以来、昭和十五年六月に旧岩波版全集の第二十四巻(第三回配本)に初めて収録されるまで、新聞切抜の状態のままで作者の篋底に眠つてゐた、と思はれて来た。
しかるに岩波書店のU君が、奇特にもこの夏の暑い盛りに岩波の地下室の倉庫の中にもぐり込んで色々調べてくれたところ、図らずも興味津々たるものを発見した。二種類の校正刷で、それを複写に取つて面倒ながら送つてもらつた。一つは「要三校」と書かれたこの小説の再校のゲラ刷、もう一つは三校のゲラ刷である。と言つても、岩波版全集の印刷の途中に生じた再校や三校ではなく、まつたくの別物である。その証拠に、全集の方は一頁を十五行四十三字詰に組んで、扉から数へて三百八十三頁あるのに対し、このゲラ刷では一頁を十四行四十字詰に組んで、本文の「ゆふ浪」から始まつて全部で四百二十三頁ある。再校三校ともパラルビである。
もう少し詳しく説明すると、再校には鏡花の手が丹念に入つてゐるが、惜しむらくは百四十頁まで、全体の三分の一しかない。それに扉も目次も欠けてゐる。一方の三校の方は、まづ初めにペン書で「山海評判記」と書いた中扉と、同じくペン書で目次を書き加へた中扉裏とがついてゐて、中扉の初めには「鏡花全集第三回原稿」と書かれ「佐藤」の印が捺してあり、中扉裏の方には欄外に「鏡花全書」といふ活字体の判が捺してある。そしてこの「鏡花全書」の判は、以下見開きの偶数頁ごとに終りまで必ず捺してある。本文の第一頁欄外には「注意!! 此原稿ニテ総ルビ振ニ組ムコト」とあり「佐藤」の印が見える。つまり手書の部分はすべて当時編輯を担当した佐藤佐太郎氏の筆蹟である。従つて岩波版全集が「山海評判記」を印刷するために用ひた原稿が、時事新報の切抜ではなくてこの「三校」のゲラ刷であつた以上、昭和四年から昭和十五年に至る間に、どこかの出版社が「山海評判記」の単行本上梓を試み、再校で著者校も取り、三校まで行つたところで中絶したといふことになるだらう。それはいつ頃のことで、またどこの出版社だつたのかといふ疑問を生じ、また「鏡花全書」といふ以上は一種の連続的出版の第一回を意図したものだつたのか、それともこの判は再校のゲラ刷には見えないから、岩波が「鏡花全集」を指すつもりでこれを用ひて凸版印刷に渡したのか、といふやうな疑問が次々に浮ぶ。U君が佐藤佐太郎氏に確かめたものの、記憶がないさうである。どなたか御存じの方があつたら、ぜひその間の経緯をおしらせ願ひたいものだと思ふ。
「山海評判記」は鏡花晩年の最も力の籠つた長篇小説で、作者としてはこれを美しい本に仕立てることに並々ならぬ夢があつただらう。それが三校まで行きながら陽の目を見なかつたのでは、意気大いに沮喪しただらうことは想像に難くない。前に少しく引用した小村雪岱の月報にも、この流産した書物のことはまつたく触れられてゐない。小村雪岱は新聞連載に当つて毎日挿絵を描き、これがどれも素晴らしい出来である。三校が出てゐる時期に装幀者が未定だつたとは考へられないし、その肝心の雪岱が何も言つてゐないのでは、では誰が装幀を担当する予定になつてゐたのだらうか。といふやうに、謎は一層深まつて行く。そして今日まで四十年以上も経つてゐながら、この幻の出版について何ひとつ知られてゐなかつたとは不思議中の不思議といふふうにも考へられるのである。「山海評判記」が不思議な作品だといふ印象が書誌学的分野にまで及んでゐるのも、いかにも鏡花らしいと言へるかもしれない。
[#地付き](昭和五十年八月、九月)
白髪大夫
夏の間は、信濃追分にある山荘に暑を避けるのが私の習慣になつてゐるが、長年にわたつてゐるから土地の風物に多少の変化が生じて、夏の終りになつて、さう言へばこの数年来、白髪大夫《しらがだいふ》がすつかりゐなくなつたと思はず呟くやうなことがある。
月おくれのお盆がすみ、夜風が涼しくなつて硝子戸を締め切つた方がいいやうな季節になると、土地の人が白髪大夫と呼んでゐる大きな黄褐色の蛾が、燈火を慕つてきまつてやつて来たものだ。網戸にすがりついて、目玉に似た紋のある羽をばたばたさせてゐる。めつたに戸が明いてゐようものなら、忽ち電燈に飛びついて来て家ぢゆうが大騒ぎになる。翌朝見ると、家の外まはりに蛾の亡骸《なきがら》が幾つも落ちてゐて、中にはまだ羽をぴくつかせながら蟻に引かれて行くのもゐて哀れを誘ふ。そして網戸の網目の一つ一つには、一晩のうちに小さな卵がびつしりと産みつけられ、それを掃除するのも楽ではなかつた。
あれは昭和三十四年の夏だつたか、私のところに結城昌治が居候に来て、小さな山荘のそのまた小さな納戸《なんど》の中に机を置き、彼の最初の長篇である「ひげのある男たち」を書いてゐた。私の方は二階の四畳半に机を据ゑて「ゴーギャンの世界」と取組んでゐた。くたびれると相呼応して下駄ばきで庭へ出、長い物干竿を代る代る手にして、白樺の葉の間にゐる白い大きな毛虫(その白いところがつまり白髪大夫の名前の謂《いは》れだが)を叩き落したり、またホースを手繰り出して庭に水を撒いたりした。毛虫の後始末を誰がどうしたかは思ひ出さない。思へばその頃は私も若く結城昌治は更に若くて、私は鉢巻をし半ズボンをはいて、結城君を散平ちやんと呼びながら頤で使つてゐたやうである。
白髪大夫が次第に姿を見せなくなつたのは、蛍なんかが減つたのと軌を一にし、しきりに農薬が使はれるやうになつたことの結果だらうが、調べてみると白髪大夫、本名「くすさん」は栗などの害虫ださうである。それがはびこつてゐた頃は皆の憎まれ者だつたのに、ゐなくなつてみると寂しく感じるのは人間の身勝手といふものだらうか。
[#地付き](昭和五十年十二月)
「朝の蛍」
私が学生だつた頃の、最も人気のあつた詩人の一人に斎藤茂吉を数へることは、少しも奇妙ではない。茂吉はもとより歌人だが、芥川龍之介や宇野浩二のやうな小説家が、絶讃といふ言葉が当てはまるやうな褒めかたをしたために、アララギとか明星とかいつた歌壇のわくを越えて、広く文壇の中に属すると言へた。私たちは茂吉の歌を詩として読んだから、北原白秋や萩原朔太郎などと、ことさら区別する必要を認めなかつた。
しかしここに一つだけ大いに区別すべき点があつた。茂吉の歌集「赤光」と「あらたま」とが、容易に手に入らなかつたことである。白秋の「邪宗門」にしても朔太郎の「月に吠える」にしても、稀覯本《きこうぼん》であることに変りはないが、当時それでも古本屋に出ないことはないし、出ればいくら高くても買へないわけではない。しかるに茂吉の歌集はアララギの会員がみんな買ひ占めるらしくて、市場に姿を現したためしがない。私はそれでも島木赤彦と合本になつてゐる現代短歌全集の一巻によつて渇を医してゐた。また「あらたま」を人から借り受けて、せつせと書き写した覚えがある。
茂吉がやつとのことで新しい歌集を出すといふので、私たちは胸を踊らせて「寒雲」「暁紅」それに「白桃」と、つづけさまに出た歌集に感激したものだが、それでも初期の作品に対する渇望は依然として不満となつて残つてゐた。たまたま軽井沢の堀辰雄のところで茂吉について論じてゐたら、その場に芥川龍之介の甥に当る葛巻義敏さんがゐて、「朝の蛍」でよかつたらあげませうか、もつとも文庫本ですよ、と言つてくれた。「朝の蛍」は「赤光」と「あらたま」から抜いた自選歌集で、それを小型にした麻装の改造文庫があとから出た。たかが文庫本と言ふなかれ、扉に「昭和十二年夏齋藤茂吉山人」と署名がしてあつて、貰つた時には天にも昇る心地がした。
その時以来、この一冊の文庫本ほど、私のポケットに馴染んだ本はほかにないやうである。
[#地付き](昭和五十一年一月)
曰く言ひ難し
この頃のやうに巷に活字が氾濫して、読みたくもない印刷物が泡沫のやうに浮んだり消えたりしてゐる御時勢になると、文学もまた、もとより活字から成り立つものである以上、その値打がめつきり下つたやうである。私の考へでは文学といふものはゆつくりと味はふべきもので、どんなに忙しくても一語づつ辿り、めつたに飛ばし読みなんかをしてはいけない。速読術と称して斜めに読むことがはやつてゐるが、これは相手がまがひ物の場合に限るので、本物に対しては本物のつきあひ、つまり一字一句をも疎《おろそ》かにしない読みかたが必要である。そしてまがひ物ばかり読まされてゐると、いつのまにか本物を見分けるための読者の眼が衰へて来て、その眼が近眼になることもあるし、また老眼になることもあつて、それを調べるためには眼医者に眼の検査をしてもらはねばならず、そこで専門の眼医者たちの論文をあつめた「講座文学」のやうなものが発刊される次第にもなるのだらう。これは冗談だが、噛みしめて味はひながら読むに足りるものが少くなつたことは御時勢とばかりは言へない。
さて私は本物と分つてゐるものをゆつくり読むことを主義としてゐるが、忙しい世の中ゆゑ急いで読んでも分るものなら誰しもわざわざ一字づつ拾ふことはない。ゆつくり読むとは、作者がさういふ読みかたを読者に強制してゐるといふ意味でもある。難解なものは、それを理解するためにどうしても立ち止つて考へざるを得ないが、文学は哲学とは違ふから、立ち止るのは考へるためといふより味はふための方が多いだらう。そして味はふといふことは、そこに文学表現によつて初めて可能になつた微妙なものがあるといふことに他ならない。同じ藝術でも音楽や美術とは違ふものであり、同じ活字による表現でも哲学や歴史や宗教とは違つたものである。
表現が文学にとつての重要な課題であることは、「講座文学」の内容の多くが表現に関つてゐることでも知られるが、文学の表現が必ずしも万能といふわけではない。世の中にはどうしても表現できないもの、筆舌に尽せないものがあり、それは古来、曰く言ひ難しと呼ばれてゐる。曰く言ひ難いものは浩然の気ばかりではない。そしてこの捉へにくいものに魅力を覚えるといふか野心をそそられるといふか、何とか表現してみようと試みるところに、文学が藝術に高まらうとする意欲の一端を見ることが出来よう。例へば俳句の世界は曰く言ひ難しから成り立つてゐる。自然の風物にしても季節の移り変りにしても、対象を捉へる眼が固定し確定してしまへばその風流はもはや月並である。表現が伝統のわくの中にきちんと収つてしまへばこれまた月並である。曰く言ひ難しをどのやうに料理するかが謂はば料理人の腕であり、その材料は決して生まのままの実体ではない。比喩を使つて言へば、一本の釣糸を水中に垂らしてゐるやうなもので、釣竿を伝はつて来るかすかな感触に魚がかかつてゐることは分つても、獲物そのものは眼に見えない。釣糸の先に獲物の大きさを想像するところに、詩が成立してゐる。マラルメに倣つて言へばそれは virtualite であり、一種の虚像、もしくは潜在する可能性である。どこまで行つても表現の不可能なもの、曰く言ひ難いものであり、しかも曰く言ひ難しが、そのままそこに表現されてゐる。
かういふ微妙な味はひは、俳句によつて訓練された日本人の感覚にふさはしいし、私はそれを明治以後の多くの小説家の叙景の文章に見ることが出来る。叙景と言つたが、必ずしも風景とは限らない。一つの情景に対して感覚が充ち溢れて迸り出て行く感じ、その感じは読者としても追体験できさうだがしかしこの作者の描いたやうには嘗て感じたことがなかつた、もどかしかつたところを教へてもらつた、と言つた種類のものである。例へば、「※[#「木+解」]の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。」とかういふ文章がある。それは誰しも感じたことのある経験であり、しかもそれは曰く言ひ難い感動である。作者はそのあとにかう続ける。「どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤が一つ、丁度平衡を保つてゐる。」そこで読者はなるほどと合点するのである。
もう一つ例をあげよう。「かくては風よりも月よりも虫の声よりも独居の身に取つて雨ほど辛いものはあるまい。」それは読者も推量できるところだが、そのあとに自分の日記の文章がつづき、「そゞろに憶ふ。雨のふる夜はたゞしん/\と心さびしき寝屋の内、これ江戸の俗謡なり。一夜不眠孤客耳。主人窓外有芭蕉。これ人口に膾炙する小杜の詩なり。」と二つ引用があつて、「風声は憤激の声なり水声は慟哭なり。雨声に至りては怒るに非ず嘆くに非ず唯語るのみ訴ふるのみ。」と説明されると、作者の感慨は読者がただ漫然と雨の音を聞くのよりも一層切実だといふことが分つて来る。前の例は芥川龍之介の「或阿呆の一生」から、後の例は永井荷風の「雨瀟瀟」から取つたものだが、荷風のこの作品は雨のふる夜の曰く言ひ難い情緒を、ただそれのみを、描き切つた作品だと言へようか。
芥川の感覚と荷風の情緒とは、ほんの一例にすぎない。夏目漱石から川端康成まで、無数の例をあげることが出来るのは、つまり私たちは曰く言ひ難いものは即ち日本的なものだと思ひ、それに作者たちが適切な表現を与へたことを悦ぶからかもしれない。しかしそれは何も俳句的世界に限るわけではない。人事の複雑さにも曰く言ひ難いところは無数にある。横光利一の「機械」なども、その時代のフランスあたりの心理小説の模倣のやうに思はれて来たが、あれは風物を見る眼で人事を見たものではなかつただらうか。新感覚によつて表現不能な情緒を描き出さうと試みる点では、横光利一は川端康成と殆ど同じ場所に立つて、ただ別々の方向を見てゐたにすぎない。
私たちが曰く言ひ難しと感じながら、しかもわざわざ表現する必要を認めないためにやり過してゐるのは、風物よりもこと人間に関つた場合である。人との附合のあひだに、私たちはしばしば人間とは不思議なものだと感を新にし、測り知ることの出来ないものに出会ふ。しかしそんなことに一々驚いてはゐられないほど人生は多忙だし、読者はみな小説家といふわけではないから、人間の、或は人生の、かうした不思議さを書きとめることは出来ない。しかし訣《わけ》の分らないもの、謎のやうなものは、人生に充ち満ちてゐて、容易に表現することが出来ないからこそ、私たちはそれらを人生に於ける偶然とか運とか宿命とか呼び、また人間に於ける愛とか気紛れとか心変りとかその他さまざまの符牒をつけて呼んで、一応は分つたやうな顔をしてゐる。
小説家もまた、人生の上に曰く言ひ難しを感じて、それに新しい十全の表現を与へたいと願ふ。しかし小説家が表現の専門家だからと言つて、さう簡単に成功するとは限らない。もしもその体験が、素直に言葉に移されてそれで感動を与へるやうな私小説の場合ならば、比較的やさしいかもしれない。しかしその時に、つまり言はれてしまつた時に、曰く言ひ難いものの魅力が消えてしまふ恐れも多分にあるだらう。曰く言ひ難いものの魅力を(それは現実の奥底にひそんでゐる観念、イデエ、のやうなものだが)そのまま温存しつつ表現することが肝要であり、それは私小説の範囲を超えるのである。現実の中から如何にしてこのイデエを抽出するかが、謂はば職業の秘密と言つたものになるのだらうか。(念のために言へば、決してイデエによつて現実を解釈するのではない。その場合には一定の世界観で解釈するのだから何でも解決できよう。)
私はどうやら少し余計な方へ足を踏み込んでしまつた。私はただ、曰く言ひ難しは詩の世界に限らない、小説の中にもさういふ部分は沢山あるから、読者よどうか見落さないやうにゆつくりとお読みなさい、と言ひたかつたまでである。
[#地付き](昭和五十一年一月)
人称代名詞
今昔物語集はどこを開いてどこから読み始めても、意外性に富んだ面白い話が次から次に出て来て、飽きることがない。これが仏法説話集であり、全体を貫く根本理念によつて統一されてゐることは勿論としても、そのことは読者が、好き勝手にあちらこちらを拾ひ読みする愉しさを妨げるものではない。と言つても、一つを読むとつい釣られて次の話を自然に読む、といふことがしばしば起り、それは一つの話と次の話とが、極めて微妙なニュアンスを保つてどこかでつながつてゐるといふ理由に基くものだらう。
これらの話の大部分は、その面白さを筋に負つてゐる。しかし筋といふのは語り口によつて左右されるのだから、昔から噂話もしくはゴシップといふものの秘訣は、ありさうもない話をいかに本当らしく話すかといふ点に懸つてゐたのだらう。仏法の部では、どんな奇蹟が起つても読者(聴衆)の方にそれを期待する気持があるから大人しく聞いてゐるだらうが、世俗の方はそれだけの魅力がなければ読者を引き寄せることは難しかつたに違ひない。とすると語り口に必要なものは、筋の真実を証明するに足りるだけのリアリズムといふことにならう。この種のリアリズムが最も効果を発揮するのは、会話の部分である。
今昔物語集の中の話は必ずや会話を含んでゐて、誰かが何かを喋らないやうな話はまづ殆どない。会話が複雑になれば、話し手は声色を使ひ仕方話《しかたばなし》で相手を魅了することが出来るし、そこに於て話の中の人物が生彩を放つて動き出すのである。会話といふものは一人称と二人称とを使ふから、人称代名詞の使用といふ点にも、今昔物語集の一つの特徴を見ることが出来るかと思ふ。
一人称の方はそんなに種類が多いわけではない。ざつと見ると「己《おのれ》」「我《われ》」「自《みづから》」「此《ここ》」「丸《まろ》」などが用ひられてゐる。それに対して二人称の方は驚くほど色々あつて、簡単に並べてみると、坊さんに対しては「和院《わいん》」「和僧《わそう》」「御前《おほむまへ》」「御房《ごばう》」「和御房《わごばう》」、身分ある人には「殿《との》」「我《あ》が君《きみ》」、やや尊敬の意味をこめて「主《ぬし》」「和主《わぬし》」「和御《わご》」「和男《わをとこ》」「君《きみ》」「和君《わぎみ》」、女同士だと「御許《おもと》」「和御許《わおもと》」、対等より少し下に向つて「其《そこ》」「汝《なむぢ》」、それを少し立てて言ふと「尊《みこと》」となり、罵るときには「己《おのれ》」となる。「己」が一人称にも二人称にも同じやうに使はれてゐるのは面白い。「和」といふのは重宝で、接頭語としてしばしば出て来るが、狐が男に呼び掛けるのは「和主《わぬし》」で、その男が狐に向つて呼ぶのは「和狐《わぎつね》」であり、女童に化けた狐に向つては「和児《わこ》」と呼び掛けてゐる(巻二十七第四十、第四十一)。といふやうに、これらの人称代名詞は時と場合によつて色々に使ひ分けられ、人物もそれに従つて生気躍動するのだから、どうしても二、三の例をあげて説明しなければならない。
巻二十八第一は、近衛府に仕へる舎人《とねり》たちが稲荷詣《いなりまうで》に行き、一行の中にゐた茨田《まむだ》の重方《しげかた》といふ色好みの男が自分の妻にいつぱい食はされる話である。舎人たちが雑沓のなかを闊歩してゐると、一人の美人が木の蔭にかくれてやり過さうとしてゐる。そこで重方が近づいて口説いてみたが、「奥さんをお持ちのくせに浮気なんか起して、そんな話が聞けるものですか」と愛敬のある声で言つたので、重方は「我君《あがきみ》我君」と女に呼び掛けて、くそみそに自分の妻の悪口を言つたあとで、「御前《おほむまへ》ハ寡《やもめ》ニテ御《おは》スルカ」と当つてみる。女は「此《ここ》ニモ指《さ》セル男モ不侍《はべら》ズ」と気のあるやうなことを言つておいてから、「早《はや》ウ御《おは》シネ。丸《まろ》モ罷《まかり》ナム」とすげない。「此」と「丸」と較べれば、初めの方は親密さがあり、後の方は急に他人行儀になつた感じである。
重方は両手を合せ、烏帽子が女の胸にふれるまでに首を垂れて、更に口説を続けると、女はいきなり烏帽子ごしに髻《もとどり》をつかんで、重方の頬をぴしやんとぶんなぐつた。顔を起してよく見ると「早《はや》ヲ、我《わ》ガ妻《め》ノ奴《やつ》ノ謀《たばかり》タル也《なり》ケリ」といふ始末。重方はびつくりして、「和御許《わおもと》ハ物ニ狂フカ」とたしなめるのに、妻の方はかつと頭に来てゐるから「己《おのれ》ハ何《い》カデ此《か》ク後目《うしろめ》タ無キ心ハ仕《つか》フゾ」と、以下は「己」ばかり使つて亭主を罵倒する。稲荷詣でが終つて家へ帰ると、重方が御機嫌を取つたので妻の御機嫌もやつと直つた。そこで重方曰く、「己《おのれ》ハ尚《なほ》重方ガ妻《め》ナレバ、此《か》ク厳《いつくし》キ態《わざ》ハシタル也」と、ここでは相手を呼ぶのに「己」を使つてゐるが、余計なことを言つたばかりに更に妻から「此《こ》ノ白物《しれもの》」などと馬鹿にされるのである。
この話で見ると、舎人《とねり》ぐらゐの身分では夫婦はお互ひに相手を「己」で呼ぶらしい。「お前」とか「あんた」「お前さん」ぐらゐに相当するのだらう。一人称の方は出てゐないが、これはなくても話は通じる。その妻がやんごとない美人に仮装すると、一人称に「此」や「丸」を使ひ、相手からは「我君」や「御前」と呼び掛けられてゐる。重方の口にする「和御許」だけが、仮装の美人に対してなのか自分の妻に対してなのか一見曖昧だが、これは文脈から見て妻に対するものでなければならない。この語は巻二十九第三十五では、「賤《いやし》キ者」の妻同士の会話に用ひられてゐるがこれを別にすると、巻二十八第四十二では、自分の影に怯えた豪傑が妻に向つて使つてゐるから、見かけほど叮嚀なのではなく、ごく親密な感情をあらはして「そなた」ぐらゐの意味なのだらう。この「和御許」が馴れ親しんだ妻に対する呼びかけだと知つて巻二十八第三十三を読むと、年五十ばかりの郎等《らうどう》がおもちやにされてゐる亀を見て、「己《おのれ》ガ旧妻《もとのめ》ノ奴《やつ》ノ逃《にげ》タリシハ此《ここ》ニコソ有《あり》ケレ」とふざけて、その亀に向ひ、河のそばで「亀来《かめこ》亀来」とせつせと呼んでゐたのになぜ出て来なかつた、「和御許《わおもと》ハ月来恋《つきごろこひし》カリツルニ、口吸《くちす》ハム」と言つて口を寄せたから、忽ち唇に食ひつかれた。この話の点睛は、「和御許」といふ人称代名詞にあると言つても過言ではない。
もう一つ例をあげれば、芥川龍之介の「藪の中」の原話である巻二十九第二十三で、妻を馬に乗せた男が大江山のほとりを歩いてゐると、大刀ばかりを帯びた若い男が道連れになる。初めは「主《ぬし》ハ何《いどこ》ヘゾ」などと見知らぬ間だから遠慮がある。「あなた」ぐらゐだらうが、どつちの男の発言かははつきりしない。話が進行して、二人の間で大刀と弓とを取り替へると、矢を二筋貸してくれと頼まれる。「其《そこ》ノ御為《おほむため》ニモ此《か》ク御共《おほむとも》ニ行《ゆ》ケバ、同事《おなじこと》ニハ非《あら》ズヤ」といふ理窟で、「其」となると馴々しくなつて「そちらさん」ぐらゐの感じ。そのあと忽ち弓に矢を番へて、「己動《おのれうご》カバ射殺《いころ》シテム」となる。「お前」よりも「貴様」といふのに近いだらう。賊が女と寝たあとで言ふのは、「其《そこ》ニ男ヲバ免《ゆる》シテ不殺《ころさず》ナリヌルゾ」で、ここでも「其」が使はれ、お前さんのために亭主を許してやるんだの意になるだらう。そのあと妻が不甲斐ない夫に対して使ふ二人称は「汝《なんぢ》」で、「己」よりもやや改まつた、しかしそれだけ冷たい感じがする。
紙数がないからこの上の例は引けないが、人称代名詞が豊富だといふ日本語の特色を、今昔物語集が代表となつて示してゐるやうな気がする。それに日本語は一人称や二人称を省略することでも含蓄があるのだから、使ふときには必ずやそれだけの重みがあることに注意しなければならない。
短い話の中でひりりと辛《から》い味を出すにはリアリズムが必要であり、そのためには会話によつて登場人物を躍動せしめればよいといふ現代にも通じる小説作法が、既に今昔物語集の中にも見られるといふことの証明に、この小文を草した。
[#地付き](昭和五十一年一月)
「雪国」他界説
奥野健男が「すばる」の二二号に「他界の原風景」といふエッセイを書いてゐて、その中に川端康成から京都のホテルで長時間にわたつて話を聞いたことがあるといふ事実を披露してゐる。その時川端さんは「雪国」はあの世だと語つたさうである。「国境の長いトンネルは黄泉の国への羨道《えんだう》である。トンネルのこちら側はこの世、向う側はあの世、つまり死者の国」といふのだが、私はそこの条《くだ》りで思はず眼から鱗の落ちる思ひがした。
私は嘗て「雪国」について多少の文を弄したことがあり、その中で主人公の島村は「一種の幽霊のやうな存在」であるとか、読者は島村を「鏡として雪国の世界を見てゐる」とか書きはしたが、島村が即ち「幽霊」であるとも、鏡の向うが「死者の世界」であるとも、書くにはいたらなかつた。周囲を暗闇にして、舞台の上にだけ薄明が漂ふといふあの仕掛には気がついたものの、あれが他界の消息であることには思ひ及ばなかつた。作者にさう言はれてみると一言もない。私なんか自分の小説では他界に行き着くまでに長い汽車の旅をさせてゐる位だから、あの簡潔な導入部(なにしろ小説が始まつたばかりの第一行目で向うに行き着いてしまふ)には感嘆のほかはない。奥野君が話を聞いたのは、川端さんがノーベル賞を貰ふ少し前の夏といふのだから、なぜもつと早く教へてくれなかつたのかとぼやきたくもなる。
ところで暫く考へてゐるうちに、少し話がうますぎるやうな気もして来た。私などは学生の時分に「雪国」は雑誌の連載で読んだのだが、例へば昭和十年一月号の文藝春秋に載つた「夕景色の鏡」と、同じ一月号の改造に載つた「白い朝の鏡」とは、「雪国」の最初の部分を構成するものだが、単行本(昭和十二年)とは大幅な違ひがあつて、例の「トンネル」に先立つ部分(そこでは島村が汽車に乗つて駒子に会ひに行く動機が説明される)とか、駒子の視点から彼女の商売女としての経歴や心理を描いてゐる部分などが、単行本ではすつぱりと省略されてゐる。といふことは、雑誌連載当時のこの小説は、決して川端さんが自ら言ふやうな「トンネルの向う側はあの世」の感じではなく、一種の紀行的風俗小説に他ならなかつた。
とすると単行本にする際に、作者は新しいモチイフを得て、今までのとは違つた観点から改作したものだらうか。単行本も昭和十二年版と、それを増補した昭和二十三年版とがある。しかしどうも私には、その時点ではまだ川端さんはこの「観点」を獲得してゐなかつたやうな気がする。といふのは新潮社から出た十六巻本川端全集の第六巻あとがき(昭和二十四年五月)で、作者は「したがつて私にはこの作品の終つた後に、島村は再び来ず、気の狂つた葉子を抱へて生きる駒子の姿が、彷彿として浮んでゐるわけである。」と書いて小説の先があることを匂はせてゐるが、島村といふ鏡に映るからこそ死者の国が実存するので、「島村は再び来ず」といふのでは、それはもう虚無以外の何ものでもないだらう。
従つて私は川端さんがこの観点を得たのは、もつと遅く、奥野君が会つて話を聞いた頃からさして溯らないのではないかとも思ふ。その時既に川端さんはこの世は即ち死者の国だと観じてゐて、さう言へば「雪国」もさうだつた、無意識のうちに私はそれを書いてゐたのだ、と気がついたのではないだらうか。この問題については、まだまだ考へることが多さうである。
[#地付き](昭和五十一年一月)
「氷島」一説
「氷島」と言ふと私には個々の詩よりも先に、まづあの軽やかな、そして薄い角背の本が、眼の前に浮んで来る。白地の箱にも、鶯色の表紙にも、扉にも、飾り罫の囲みの中を上下に分けて、いづれも同じデザインで上には横に The Iceland といふイタリック体の横文字があり、下には四行に分けて年号、著者名、題名、発行所名などのごつごつした漢字が縦に並ぶ。その和洋折衷(漢洋折衷と言ふべきか)が奇妙に調和して一種のエクゾチックな印象を与へたものである。明治時代の古い教科書に似せた造本で、それが人に郷愁を起させると言はれるが、私は旧制の第一高等学校に入学した年に殆ど初めて詩集らしい詩集として新刊の「氷島」を手に取つたものの、大正生れの私に明治時代の教科書なんかが縁のある筈もなかつたから、つまりはあの英語と漢字との共存が私の内部の疼きやすい部分を刺戟したのだらうと思ふ。萩原朔太郎の著書は、詩集に限らずどれも著者のややアルカイックなハイカラ趣味による斬新な趣向を凝らして甲乙はつけがたいとしても、元版の「青猫」とかこの「氷島」のやうなあつさりした装幀もなかなかに捨てがたいのである。
私は何も「氷島」の装幀を論じるつもりではない。「氷島」によつて萩原朔太郎の名を知り、それから「青猫」や「月に吠える」などの詩集を読んだ。それ以来朔太郎の作品にはその全域にわたつて親しんで来たが、十七歳の少年の感受性に訴へたこの詩集を今でも特別のもののやうに考へるのである。私は「氷島」が朔太郎の昇りつめた絶頂であると思ひ、これを詩人としての朔太郎の衰弱であるとは認めたくない。それが若い頃の第一印象に基くだけの理由ではないことを少しく証明してみたいと思ふ。
私は「氷島」が、意識的な言語を用ひ意識的な主題を展開した、意識的に構築された詩集であると考へてゐる。意識的にと言ふことは意志的にと言ふことでもあるが、そこに無意識が加はつてゐないわけではない。しかしこの詩集について朔太郎自身が、「明白に『退却』であつた。」(「『氷島』の詩語について」)とか、「おそらく藝術品であるよりも、著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるのだらう。」(「自序」)とか言ふのは、どうも煙幕の嫌ひがある。これが「実生活の記録」であるといふ見かた、つまり私小説心境小説に近づけて読み、そこに親愛感を覚えたやうな読者は大勢ゐただらうが、私はこれを人工的に作られた詩集であつて、「詩的情熱の素朴純粋なる詠嘆」(これも「自序」にある)を実験して見せたものだといふふうに考へたい。それは「青猫」時代とはがらりと変つた立場に立つもので、その特徴は簡潔さ、力強さ、「絶叫」、従つてまた文語体、漢語の使用、「朗吟の情感」にある。それにも拘らず朔太郎詩の根柢に常に流れてゐた或る謎めいたものは、曖昧な表現を避けた筈の直接的、断定的なテクストに於て、一層深められてゐるといふ結果を生じてゐる。謂はば一種の欠落の美学とも言ふべきものに、「氷島」の象徴詩としての位置があるのではないだらうか。
個々に見て行かう。まづ題名。これが今迄の「月に吠える」とか「青猫」とか「蝶を夢む」とか言つた、魂が自己の外へとあこがれて行くやうな情緒ではない。「青猫」は青い猫であり訓で読まれるが「氷島」は氷の島ではなく音《おん》でしか読まれない。作者は「自序」の中に、「著者の過去の生活は、北海の極地を漂ひ流れる、侘しい氷山の生活だつた。」と書いてゐる。それは作者の精神内部の極北地帯に存在する「氷山の嶋々」であり、謂はば固有名詞なのである。ヒヨウタウといふ簡潔な響きは、漢詩の読み下し文のやうな本文を早くも予見してゐる。
次に「自序」があり「目次」があつて、中扉の、「エピグラフ」とでも言ふべきなのだらうか、自作の俳句とその前書が来る。「我が心また新しく泣かんとす」と前にあつて一句、
冬日暮れぬ思ひ起せや岩に牡蠣
これにどういふ註解があるのか私は知らない。「牡蠣」といふ言葉は散文詩の「虫」の中では「或る人々にとつて」「女の肉体」を指すものとされ、散文詩の「臥床の中で」に於ては「私は牡蠣のやうに眠りたいのだ」といふふうに用ひられてゐる。前者には考慮の余地はないが後者の眠りの要素を幾分加へて、私は「岩に牡蠣」で家庭のイメージにつながるやうに思ふ。冬の海の暮れて行くところ牡蠣にさへもしがみつく岩があつた、しかし自分には「宿るべき家郷」はない。「思ひ起せや」とある中七字が、上《かみ》と下《しも》との季語の重複を詩的に処理してゐる。これは作者が冬の海を見ての嘱目吟ではなく、その場所にない作者の想像、言ひ換へれば作者の内部風景の喚起であり、それも自《おのづか》ら浮び上つたといふのではなく、意志を以て自分に喚起を命じてゐる。そしてこのやうな態度は「氷島」の全部の詩を貫いてゐる。
朔太郎は『詩の原理』の第十章で次のやうに言つてゐる。
「即ち和歌の詩情は感傷的、感激的で、或るパッショネートな、情火の燃えあがつてゐるものを感じさせる。之れに反して俳句は、静かに落着いて物を凝視し、自然の底にある何物かを探らうとする如き、智慧深い観照の眼をもつてゐる。」
彼は和歌と俳句との違ひを色々と論じてゐるが、右の引用で見れば、「青猫」が和歌的であり「氷島」が俳句的であると言へるだらうと思ふ。俳句は客観的ではあるがその「観照」は「常に必ず主観の感情によつて事物を見」るもので、俳句の表現は「情象」であつて客観的な「描写」ではない、と朔太郎は説明する。この俳句的な「情象」といふ言葉が、「氷島」の詩には最もふさはしいやうである。
本文は二十五篇ある。その中には既に「純情小曲集」に収められた「郷土望景詩」四篇が含まれるが、これは単なる再録とはわけが違ふから「氷島」はあくまでも全二十五篇から成る詩集である。そのやうに構築されてゐる。
「エピグラフ」に続いて「漂泊者の歌」があり、作者自ら巻末の「詩篇小解」に「巻頭に掲げて序詩となす」と言ふやうに全体を眺望する位置に置かれてゐる。そしてこの詩集の特徴を一気に示してゐる。
日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後《うしろ》に
一つの寂しき影は漂ふ。
これがこの詩のみでなく詩集全体を通じての主格である。「影」――主人公は「影」であつて作者自身ではない。それが、
ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
と続いて二人称で呼び掛けられるが、作者はこの漂泊者の行方を想像力の中で凝視し、彼の精神が「憧憬する」ところのもの、「情象」を歌ふから、決して描写そのものに堕することはない。この最初の二行は最後の方で、
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊《さまよ》ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
と変形して繰返され、「断崖の上」や「陸橋の下」を歩む者はこの「影」であり、「断崖」は「意志なき断崖」によつて宿命の如く立ちはだかるもの、「憂ひ」は擬人化ではなく「影」の属性であることが分る。つまりすべての秀でた象徴詩の例に洩れず、この作品も全体が一眸のもとに読まれることを要求するのである。
さてこんなふうに書いて行けばとても短い枚数で言い尽すことは出来ないが、詩集を通じて主格は「我れ」で、それも「わが憂愁」「わが人生」「わが感情」「われの生涯《らいふ》」などのやうに所有格で使はれることが多い。文語体のために自然に主格を省略した場合も甚だ多い。「火」とか「虎」では「汝」といふ呼び掛けで火や虎が呼ばれてゐる。そしてそのすべてを通じて、観照する精神はそこにおのれの「影」を見詰めてゐる。その影は火にもなり、虎にもなり、軍艦にもなり、機関車にもなる。それらは「意志」、「歯をもてる意志」だが、また同時に「無用の人」でもあれば「虚無の鴉」でもある。しかし決して実在の詩人その人になることはない。集中の二番目の詩「遊園地《るなぱあく》にて」には、それでないと意味を捉へにくい曖昧な一行がある。
今日の日曜を此所に来りて
われら模擬飛行機の座席に乗れど
側《かた》へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔《ひとみ》に
やさしき憂愁をたたえ給ふか。
また最後のところ、
ふたり模擬飛行機の座席に乗れど
君の円舞曲《わるつ》は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。
この作品には「われら」として二人の人間が登場するが、「側へに思惟するもの」が誰を指すか、一般には女性を指すと取るやうである。しかしこれは「君が側へに思惟するもの」即ち詩人を指すのでなければならない。それでないと最終行がその前の行と対にならない。かういふ点が私の「欠落の美学」と呼ぶものである。篠田一士はさういふ女性は模擬飛行機には乗つてゐない、詩人がひとり乗つてゐるだけだと彼の「『氷島』論」で奇抜なことを考へたが、それなら寧ろ反対に、女性ひとりが乗つてゐる方が自然だらう。その時「側へに思惟するもの」は詩人の「影」である。詩人は一人の女性が円舞曲《わるつ》と共に遠ざかるのを眺めながら、彼女の隣に自分の影を置いて寂《さび》しむのである。もつとも私は二人が並んで乗つてゐるとする意見だが、その時でも詩人は影にすぎず、その影は恋人の瞳孔に自分の憂愁を映して見るが、彼女は決して「接吻《きす》するみ手」をこの影に借すことはないだらう。
このやうに見る時に、二十五篇の詩は詩人の影が(幽霊が、と言つてもよい)或は都会を、或は郷土を、さまよひ歩くのを詩人その人が見詰め、歌ひ、嘆いた作品といふことになるだらう。「郷土望景詩」から採られた三篇も、「我れ」の実在感の薄い詩が選ばれ、それらが十八番目の「国定忠治の墓」と二十四番目の「監獄裏の林」との二つの新作の前触をなしてゐる。そして全体の構成が都会風景と郷土望景詩とを交互にまじへ、その間に主題を明示した中心的な詩(「帰郷」、「新年」、「品川沖観艦式」と「火」、「無用の書物」から以下四篇、といふふうに次第にクレッセンドになつて行く)を置き、それらの前後に軽い恋愛詩が点綴される。ここのところはもう少し詳しく説明したいところだが、紙数が許さないからどうか詩集について見てもらひたい。そして詩集全体の最後に「詩の評釈は、それ自身がまた詩であり、詩でなければならぬ。」といふノヴァリスの言葉に倣つて、作者の自註である「詩篇小解」がコーダの如く響いてゐる。
私はここから文体の問題、その欠落の多い謂はば空白の美についても一言したいと思つてゐたが、それは欠落のままで読者の想像に任せることにしよう。
[#地付き](昭和五十一年二月)
故郷について
私のやうに小学校の半ばで故郷を出てしまつた人間に、故郷を語る資格があるものだらうか。私は太宰府の近くの二日市町で生れ、福岡の西公園の近くで幼年時代を過した。梅崎春生がまだ生きてゐた頃、君の小学校はどこだと聞くから、初めは当仁《たうにん》でそれから警固《けご》に移つた筈だと答へたら、そんな小学校は聞いたことがないなあと言はれて、まさかとばかり泡を食つた覚えがある。
その後、旧制の高等学校の生徒だつた時に、父親のお供をして、一度だけ関門海峡を連絡船で渡り、水城村に墓参に帰つた。それからは二度と九州を訪れたことがないから、九州が陸つづきで行けるといふことが不思議でならない。私の故郷は海の向うにあつて、容易に帰ることの出来ないところだといふ固定観念が私のなかに濃く焼きついてしまつてゐる。
私の足の重さは、私が病気がちであるとか、無精であるとかの理由に基いてゐるので、格別の理由があるわけではない。今どき、その気にさへなれば九州は決して大して遠いところではあるまい。ただ私の中にある故郷のイメージは乏しいなりに私なりには貴重この上ないもので、私はそれを「幼年」といふ小説に書いたが、記憶の中にあるだけで私には充分なやうな気がする。たとひ同じ空間に身を置いても、過ぎ去つた時間はもう取り返すことが出来ないといふやうなことを、つい考へるのである。
[#地付き](昭和五十一年三月)
美の使者―「臥鹿」
中国古代青銅器展にて
殷周期の、溢れるやうな古代の力を凝縮した、巨大で圧倒的な青銅器を見て来たあとで、戦国時代のこの「臥鹿」と題された青銅の置物が目につくと、まるで暗い林のあひだをさ迷ひ歩いてゐて、ふと、樹間に一匹の鹿がうづくまつてゐるのを見たやうな錯覚をおぼえる。高さは五〇センチばかり、決して小さいといふ程ではないから、遠目には本当に小鹿がゐて、今にも立ち上つて逃げ出しさうである。ちよつと折り曲げた後肢の微妙な曲線、ぴんと張つた耳、あどけない目つき、そして天にそびえる二本の角の、写生のきはみから作り出された抽象的な造型のたしかさ。これは祭器でもなければ、実用の道具でもない。空想の動物ではもちろんない。謂はば親しみのある動物に、永遠のいのちを賦与したものである。恐らくこの鹿は、歴史の興亡の合間から、二千何百年かの歳月をこえて幻のやうに私たちの前に姿を現した、「美」の使者とでも言ふほかはあるまい。
[#地付き](昭和五十一年四月)
神西清のために
神西清が亡くなつたのは昭和三十二年の春だつたから、早くも二十年に近い歳月が流れた。その全集を出すことに、文治堂といふ小さな本屋さんがゆつくり時間をかけて取り組んでゐたが、先ごろ最終巻の第六巻を出して目出たく完結した。六冊の全集を並べて見てゐると、さまざまな感慨がある。
今日、神西清の名はただその伝説によつて人に知られ、作品によつて知られてゐるのではないことに、まづ言ひ知れぬ無念さがある。神西さんは詩を書き、小説を書き、戯曲を書き、エッセイを書いた。一方ではまたフランス文学とロシア文学との翻訳を試みた。それらはすべて自分の気に入つた仕事を、職人の手仕事のやうに入念に仕上げることを特徴とした。感覚は鋭敏にして繊細、特に言葉に対する感覚の微妙なことには驚くべきものがあつた。この頃は日本語の問題がジャーナリズムを賑はしてゐるが、全集第六巻に収められた国語論や翻訳論などを見ると、この人を失つたことで戦後の日本語はその分だけ停滞してゐたやうな印象を受ける。神西さんが文章を練るときには、文字通り一刀三礼といふ形容がふさはしかつた。
感覚がするどく働くうへに凝り屋と来てゐるから、この人の仕事が遅かつたのは故なしとしない。何しろ一枚とか二枚とかの書評を頼まれても、苦吟につぐ苦吟、締切が日一日と延びてたうとう一月経つてしまつたといふやうな例はざらである。小説ともなれば、すべて骨を刻む苦心の産物で、作者の理想が高いからこれで完成といふことがない。眼高手低の言葉どほり、神西さんの内なる批評家は、他人よりも自分に厳しかつたと言へるだらう。
従つて神西清は本来孤立せる藝術至上主義者で、文壇的な人間とは思はれなかつた。しかるに新潮社が昭和二十八年に「昭和名作選」といふ文壇的な企画を立て、その編輯と解説とを中村光夫氏と神西清との二人に委嘱した。きつと神西さんの犀利な批評眼を見込んでのことだつたと思ふが、神西さんは担当した巻の解説を書くのに骨身を削り、そのためこれが後れに後れて出版社を大いに悩ませた。しかしそれは同時に、神西さんが命を縮めた一因となつたのかもしれない。そしてこのシリーズは十一冊ほど出たところで、神西さんの死とともに中絶してしまつた。
「昭和名作選」の企画された昭和二十八年は、また堀辰雄の死んだ年でもあつて、その夏、信濃追分にある堀家でしばしば編輯会議が行はれた。私はサナトリウムを出たばかりで土地の宿屋で静養してゐたが、神西さんは堀家の書庫に泊り込み、「昭和名作選」に選んだ作者の全作品を抱へて、日夜読んだり、書いたり、また削つたりして、それがちつとも進行しなかつた。私は宿屋の隣室に泊つてゐた中村真一郎と、あれでは勿体ないな、牛刀をもつて鶏を割くとはあのことだな、さつさとやつちまへばいいのに、と噂したものである。神西さんだつてわざとゆつくりしてゐたわけではないだらう。凝ることは習ひ性となつて、苦行もまた愉快といふところがあつたのかもしれない。しかしそのために堀全集の会議を怠《おこた》るやうなことは微塵もなかつた。旧友のために全力を尽してゐた。
神西清は堀辰雄とは高等学校以来の親友であり、共に同じ文学の道を歩いたが、その資質も似てゐたし、文学上の好みに於ても共通のものがあつた。例へば二人ともプルーストが好きだつた。ただ堀が一筋に、脇目もふらずに小説家としての道を進み、プルーストを強引に自分の方に引き寄せたのに対して、神西は趣味的にプルーストを読んだのにすぎなかつた。彼は才能にまかせて詩も書き、小説も書き、戯曲も書き、エッセイや紹介も書き、しかしその何れにも自分で満足しなかつた。詩や戯曲はほんのとば口でやめてしまひ、小説でも真に彼らしい仕事の一歩手前のところで立ち止つてしまつた。と言つて、「灰色の眼の女」や「雪の宿り」が、傑作でないわけではない。思へば小説家は、あまり眼が見えすぎては前進することが出来ず、或る時は手探りで進むことも必要だが、神西さんは先が見えない限り進まうとはしなかつた。批評家はよく見える眼を持つてゐなければならないが、神西さんは初めから見えすぎるために、霧の中を次第に登りつめて快晴の山頂に達するといふことがなかつた。何よりも堀辰雄の文学の無二の理解者だつたから、それを常に意識して、自分は堀とは違つたものを書かなければならないと思ひ、わざとホームグラウンドを離れたといふやうなこともあつたかもしれない。
もし神西清が不幸な小説家だつたとしても、それならば幸福な翻訳家だつたと言へるのだらうか。その翻訳のうまさは定評があり、チェーホフやプーシキンの多くの名訳は今でも広く読まれてゐる。しかし神西さんにとつて翻訳は畢竟、余技にすぎなかつたやうに私は思ふ。或る時私が、おせつかいにも神西さんに向つて、そんなに翻訳をしないで小説をお書きになつた方がいいんぢやないんですか、と言つたことがある。ツルゲーネフの「けむり」か何かを翻訳中だつた。そしたら神西さんは怖い顔をして、君、子孫のために美田を買ふといふことを知つてゐるかね、と言はれて私は一言もなかつた。確かにさういふことはあるだらう。しかし神西さんの翻訳は、おしなべて神西さん好みの地味なものばかりで、チェーホフとプーシキンとを別にすれば、バルザックの「おどけ草紙」とか、シャルドンヌの「ロマネスク」とか、ガルシンの「紅い花」とか、レスコーフの「僧院の人々」とか、アンデルセンの「即興詩人」とか、今のツルゲーネフの「けむり」とかで、美田といふほどの実りがあつたとは思はれない。しかしこれらが良心的な名訳だつたことは確かだから、せめて絶版のものはもう一度版を起してもらひたいのである。
神西清の本領は、従つてやはり翻訳以外の、小説とエッセイとの創作に於て見るべきであり、私が神西清を不幸な小説家だと言つたとしても、不幸な小説家は他にも大勢ゐるだらう。彼等を救ふ道は、読者がその作品を改めてじつくりと読み直すことの他にはないのだから、今、神西清全集が多くの人の手に渡り、読まれることによつて甦ることを、私は願つてやまない。
[#地付き](昭和五十一年六月)
芥川龍之介全集元版のこと
今年の黄金週間の始まる前の日に夕刊を見てゐたら上野の京成百貨店の古書展の広告が出てゐて、品目の中に芥川龍之介全集の元版があつた。それが目に入るとむらむらと欲しくなつた。
昭和九年から十年にかけて岩波書店から出た十冊本の普及版全集は、私が自分で買つた全集類の最初のものである。もつとも親父から十円貰つて神田の一誠堂へ行き、帰りのタクシイ代を五十銭分だけ値切つて意気揚々と持つて帰つたのだから、厳密には自分で買つたとは言へない。旧制の高等学校の生徒だつた時分である。その愛読した全集を戦争のどさくさで失ひ、戦後は岩波の新書判全集で間に合せて来た。私は本はおほかた横になつて読むことにきめてゐるから、軽ければ軽いほどいい。新書判は私には打つてつけで、漱石にしても潤一郎にしても大抵はそれで読むが、元版の芥川全集ともなれば話はちよつと別である。戦前から既に高嶺の花で学生などには手が届かず、戦後になると芥川ははやらなくなつて、あまり出物を見受けなくなつた。私は目下或る雑誌にエッセイを連載し、その中で堀辰雄にかかづらつてゐるが、いづれ芥川とか室生犀星とか中野重治とかいふ方面にも手を廻したいと考へてゐる。しかし何ごとにも学問的であるよりは趣味的なのが先に立つ私のことだから、まづは本を取り揃へて愉しみたいし、それには欲しい本を手に入れるのが急務といふことにもなる。さういふ状況でこの芥川全集の元版が目についたのだから、欲しくなつたとしても我ながら無理はない。値段の方はあまり安いとは言へないが、まづは相場か。
あくる日百貨店に電話を掛けた。昔ならさつそく駆けつけるところなのに衰へたものだ。するとこの本を出品してゐる古本屋さんが言ふには、一足違ひで来たお客さんが、明日、実物を取りに来ることになつてゐると。一足の差と言つてもこちらは電話、向うが勝なのは明かだが、さうなると矢も楯もたまらず電話を切つたあとからまた掛け直して古本屋さんを呼び出し、すみませんがね、僕の本でよかつたら何でも署名してそのお客にあげるから、芥川全集は僕に廻してくれるやうに頼んでみてくれませんかね、と甚だ虫のいいことを言つた。
翌日また電話して聞いてみると、話はしたもののそのお客はふんふんと頷いて、しかし本は持つて帰つたとの返事。名前と電話番号とは聞いてあると言つて教へてくれたが、脈があるものやらないものやら。その晩Nさんといふその人に電話で誼みを通じ、いろいろやりとりがあつて、遂に黄金週間の終つたあとの或る日、Nさんが義弟との二人づれで、八冊の全集を我が家まで運んで来て下さつたのには恐縮した。本好きの税理士さんで閑談一刻、私の著書二冊を献呈し、全集の方は元の値段で譲つてもらつて目出たし目出たしと相成つた。
元版芥川龍之介全集は、昭和二年十一月から昭和四年二月にかけて出たが、堀辰雄はその頃東京帝国大学国文科の学生で、芥川の甥に当る葛巻義敏と共に編輯を手伝つた。彼が卒業論文「芥川龍之介論」を書いたのは昭和四年一月で、卒業は三月である。さういふ点でもこの全集は堀辰雄の大学生活と深い縁がある。ついでながら編纂同人といふのも記録しておかう。いろは順である。小穴隆一、谷崎潤一郎、恒藤恭、室生犀星、宇野浩二、久保田万太郎、久米正雄、小島政二郎、佐藤春夫、佐佐木茂索、菊池寛の十一名。
装幀や造本は小穴隆一の責任だが実に好ましい。表紙は青梅の手織の紬《つむぎ》を藍に染め、背には小学校二年生の芥川比呂志の書いた字が金で押してある。箱は簡単。箱は棄てて中身だけ並べるといふのが小穴隆一のプランだつたらしい。その辺までは岩波の他の全集がその後これを踏襲してゐるからほぼ想像がつくだらうが、一番違ふのは用紙である。英国製コットンで極めて軽く、菊判七百頁で八〇〇グラムしかない。そのクリーム地の上に五号活字十四行四十三字詰に組んであるから、たいへん読み易い。見返しには各巻別々に芥川の書画が木版多色刷で出てゐる。
この全集は芥川龍之介の遺言によつて岩波書店から出版されたが、そのことについて「新潮社七十年史」に河盛好蔵さんの書かれたところを紹介すると、昭和二年七月二十四日に芥川が死にその初七日に故人の親友と出版関係者が集つた。芥川の目星《めぼし》い単行本はそれまで殆ど新潮社の独占するところだつたから、ここで鳶《とんび》に油揚《あぶらげ》を攫はれた新潮社代表中根駒十郎は大いに嘆き、遺言なら全集はあきらめるがその代りとして一冊本の選集のやうなものを出させてもらへまいか、と申し出た。久米正雄がそれに対して、新潮社はずるい、さういふことをしていいとこだけさらつてしまふ、と言つたとかで、中根駒十郎は俄然怒り心頭に発し、すんでのことで久米正雄と取組合を演じるところだつたといふ。
中根駒十郎は名編輯者として名高いが、この一冊本の選集は四六判七百八十二頁の大冊「芥川龍之介集」定価二円八十銭となつて誕生したのだから、喧嘩は喧嘩、商売は商売、さすがである。この本がまた巧妙を極めたもので、前半の小説四十篇は大正十四年に新潮社から出た現代小説全集第一巻「芥川龍之介集」にそつくりそのまま、後半の小論文小品紀行随筆の類から翻訳発句短歌印譜の類に至るまで、これがまた大正十五年に出た随筆集「梅・馬・鶯」にそつくりそのままである。巻末の年譜が、現代小説全集の時の自作年譜に三行ほど附け足してあるのだけが違ふ。そしてこれを九月十二日に発行し、私が持つてゐる本は十一月五日発行の二十三版だから、神速機敏、岩波の方の第一回配本(第四巻)が十一月三十日に発行されるまでに売りに売つたものと見える。第二回配本の月報に岩波茂雄が、「一般的に深刻なる不況の際であり又円本に疲れて居る時であり更に又発表の間際に全集に紛らはしき芥川龍之介集の大々的広告など特別の障害もあり」と厭味を言つてゐるが、しかし岩波の全集も売行は良好だつたとのことである。もつとも紙型を使はない原版刷りで予約出版と来てゐるし、一冊の定価が四円もするから、そんなに沢山は売れなかつただらうと思ふ。
これが私が芥川龍之介全集元版を手に入れた次第だが、長い間大事に保存されてゐたらしくて、第一回配本の見返しに昭和二年七月二十五日の東京朝日新聞の一頁分が折つて挟んであつた。全面を埋めた芥川の死の記事を読んでゐると、それからほぼ二分の一世紀が過ぎ去つたことに一種の実感を覚えるのである。
[#地付き](昭和五十一年五月)
「深夜の散歩」の頃
早川書房の「ミステリ・マガジン」が二十周年を迎へるといふので、お目出たいとばかりに原稿を引き受けたが、二十年といふのは古風に言へば二昔《ふたむかし》で、当方のお年が知れるといふものである。この雑誌がもともとは「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」と称して、「リーダーズ・ダイジェスト」の流れを行く翻訳専門の雑誌だつたことなど、今の若い読者にはまるで関心がないだらう。しかし略して「EQMM」と呼んでゐたこの雑誌ほど、その当時、知的な雰囲気を漂はせてゐた娯楽雑誌は他になかつたのではないかと思ふ。編輯の根本方針は今の「ミステリ・マガジン」でも大して変らず、翻訳の探偵小説がずらりと並んでゐるところは昔の「EQMM」と同じだが、惜しいかな魅力に於て少々欠けるところがあるらしい。といふのは昔は傑作が鮨詰めだつたが、今はなかなか面白い短篇に当らない。これは長篇の単行本の分野でも、同じやうな嘆きがある。
早川書房の「EQMM」が出る前は、古本屋でアメリカ兵の読み捨てた本国版の「EQMM」を見つけて来て暇な時に読むことが、一種の知的な愉しみだつた。それが日本語版が出るに及んで、定期的な愉しみとなつた。もつともその分だけ知的な要素の方は減つたとしても、探偵小説はもともと知的なものである。何しろ日本語版といふのは、たくさんある本国版の作品の中から面白いのだけを選りすぐつて載せてあるのだから、どの号も充実してゐて、およそ詰らない作品のあらう筈がない。端から端まで一息に読み通せる。これは編輯長の都筑道夫君の選択眼がすぐれてゐたこととも、もちろん関係がある。
子供の頃「新青年」といふ雑誌は、ぎつしりと面白い小説や読み物に充満してゐたといふ印象が今でもあるが、恐らくこの「EQMM」も、それに匹敵する出来映えだつた。私はたびたび引越をして、当時の雑誌は一冊も残つてゐないから確かめることが出来ないが、めつたに確かめる気を起しでもすれば、何しろ二十年経つてすつかり忘れてゐるだらうから、忽ち夢中になつて読み耽ることは請合ひである。
私の記憶が間違つてゐなければ、初めのうち「EQMM」は完全な翻訳物ばかりで、オリジナルなものは殆ど載つてゐなかつたやうである。そこへ都筑君が日本人の手によるコラムの欄をつくり、私は一度「探偵小説と批評」といふ文章を書いたことがあるが、その後暫くして連載のエッセイを頼まれることになつた。私はちやうどその頃、加田伶太郎のペンネームで探偵小説をぽつぽつと書いてゐて、この名前の蔭にゐる本名の方は絶対にばれないやうにしてゐたから、都筑道夫がそれを見破つて、私をからかふつもりで連載を依頼したのかどうかは確かでない。私も探偵小説のマニアを以て自認してゐたし、この仕事を引き受ければ、ぞくぞく刊行されるポケット・ミステリを端からくれるといふのだつたから、一も二もなく承知したにきまつてゐる。そこで昭和三十三年七月号から、「深夜の散歩」と題して書き始めた。
探偵小説を読むことが暇潰しの筆頭である人間にとつて、これほど易しいことはない。何しろ暇はつくれば必ず生ずるものだし、材料の方は早川書房と創元社とが競争で毎月新刊を出してゐるのだから、どうせ一冊残らず読むにきまつてゐるのである。連載を書くのは、ただその読後感をしるすだけである。といとも簡単に考へてゐたが、しかし探偵小説の批評もしくは紹介には色々とタブーがあつて、多少なりとも読者に犯人やトリックのヒントを与へたりしてはいけない。面白いぞとは言つても、その面白さをあまり詳しく説明するとタブーに引掛る。決して楽な仕事ではないことが、追々に分つて来たから、十八回ほど続けたところで勘弁してもらつた。私がやめたあとは中村真一郎が「バック・シート」と題して十五回ほど書き、そのあとを丸谷才一が「マイ・スィン」と題して二十一回ほど書いた。つまりかういふ二頁見開きの連載コラムの欄がすつかり定着したので、この形式が今にいたるまで続いてゐるところを見れば、私はまあ草分けの一人にはひるだらう。
編輯長の都筑道夫はその上「EQMM」の別冊といふものを考へて、こつちの方はオリジナルな日本人の作品だけで行かうとしたから、私も加田伶太郎の名義で短篇を二つばかり書いた。これは「深夜の散歩」を連載してゐたのと同じ時期で、思へば都筑君のためにだいぶ尽したものだ。ところが都筑君にしても、またバトンを引き継いだ次の編輯長の小泉太郎君にしても、翻訳物ばかり見てゐるとそのうちに腕がむずむずして来るものか、編輯業に見切をつけて実作の専門家になり、忽ち名をあげてしまつた。「EQMM」といふ雑誌は、読んでゐるうち自分もやりたくなるやうな奇妙な魅力を持つてゐたらしくて、結城昌治君なんかもそのくちである。お蔭で私も読者としてそれまでの翻訳物一辺倒から、次第に日本物を読むやうになつた。
中村真一郎と丸谷才一と私との三人が、「EQMM」に連載したこれらの短いエッセイを一本に纏めて、早川書房から新書版で出したのは、丸谷君の連載の終つた昭和三十八年だつたし、その頃は私も加田伶太郎に見切をつけて、かういふ遊びを全然しなくなつてゐた。そのうちに「EQMM」も題名を変へてただの「ミステリ・マガジン」になつたのは、そろそろ本国版の「EQMM」だけでは材料が不足して来たせゐだつたらう。私の加田伶太郎時代はちやうど「EQMM」の盛んだつた時期と重なるから、それはまだ本格探偵小説が息の根をとめられずにゐた幸福な時代だつたと言ふことが出来るかもしれない。
私の手許に古い雑誌がないと先にも書いたが、単行本の方は一冊だけ残つてゐて、これをぱらぱらとめくつてゐたら、中村真一郎の「バック・シート」の八回目に「最も純粋な藝術家である福永武彦が、時に加田伶太郎に転身して、息を抜くやうに。」といふ文章にぶつかつた。昭和三十五年十二月号である。私はこのペンネームをひた隠しに隠して、親しい友人といへども天機洩らすべからずとしてゐたから、いつどの辺からジャーナリズムでは周知のこととなつたのか不思議に思つてゐたが、存外わが友中村真一郎などがその元兇であるのかもしれない。私の創作慾もその頃からめつきり衰へたから、思へば私が加田伶太郎として一番張り切つてゐたのは、ちやうど「EQMM」に「深夜の散歩」を連載してゐた頃かもしれない。恐らく翻訳物の探偵小説を毎月たくさん読まされて、私もまた腕を撫してゐたからであつたらう。
[#地付き](昭和五十一年六月)
伴奏音楽
かういふ文章を書くたびに必ず枕に置くので我ながら情なくなるが、こと音楽に関して私はまつたくの素人で、おたまじやくしも読めないことを自認してゐる。従つてまともなことを言ふ筈もなく、言へる筈もないのである。しかしまた素人には素人の特権があつて、勝手なことを口走つても玄人に大目に見てもらへるところがある。所詮、大したことを言ふとは誰も思ひはしない。
私は下手の横好き、と言つても聞くだけのことで自ら楽器を操るわけではないから上手も下手もないものだが、どういふものか音楽を聞くことには昔からしごく熱心で、FM放送とかレコードとかをしよつちゆう掛ける癖があつた。音楽会といふのは会場まで足を運ばなければならず、それには当方が無精者であるといふ制約があつてしげしげ通ふわけには行き兼ねるが、自分の家で聞いてゐる限りは何の面倒もないから、夢中になつて聞き惚れるのである。
ところで私といふ人間は、この頃こそ少しは角が取れたものの昔は頑固一徹と来てゐて、仕事は仕事であり遊びは遊びである、その間には厳としたけぢめがあると固く信じてゐたから、これでは「ながら族」になれる筈がない。レコードを聞いてゐて、さて仕事ともなれば、ぱちんとステレオのスイッチを切つて原稿を書き始めるといふ寸法。その結果は明白である。仕事に夢中になつてゐればレコードを聞く暇がない、レコードばかり聞いてゐれば文債を果すことが出来ない、といふ羽目になる。
一昨年から昨年に掛けての冬、病気で寝てゐる間に小型のステレオのカセットコーダーを買つて枕許に置き、めぼしい放送があると端からカセットに収めて、繰返し聞いて愉しんだ。私の病気といふのは胃病だが、胃病にはどうも音楽療法は利き目があるらしい。ストレスが亢じると胃が悪くなるのは当然の理窟だから、音楽を聞いて心を平静に保つてゐれば、病気も早く癒えようといふものである。本復した時には、買つたのもあれば自分で録音したのもあつて、併せると沢山のカセットがたまつてゐた。
元気になつて来ると小型の器械では物足りない。書斎の机のそばに据ゑつけた電蓄の器械を少しばかり上等にし、これでカセットを聞いてみると前よりも上等の音が出ることは無論である。それで今度はレコードとカセットとを代る代る聞いて悦に入つてゐたが、何しろ自分の書斎である以上たまには仕事もしなければならない。いや病気の間はもとより、治つてからも何だかんだと長い間怠けてばかりゐたので、書くべき原稿の約束は山ほどあり、そんなに呑気にふんぞりかへつてチェリビダッケが最高だとかポリーニが天才だとか呟いてばかりはゐられない。となると、結果は見え透いてゐて、いつ頃からだつたらうか、「ながら族」となり果ててしまつた。
考へてみると私にも多少の経験がないわけではない。夏の間は信濃追分の山荘に暑を避けることにしてゐるが、本来はそこで仕事をするのが目的である。しかるに夏は高校野球といふものがあり、これをテレヴィで連日中継するからついつい見てしまふ。このテレヴィの器械は蒲団の敷いてある足許の箪笥の上に置いてあり、私はまづ横になつて本を読み、読みつつテレヴィの野球を見、それを見つつ昼寝をするのである。本と言つても多くは推理小説だが、思はず息を呑む殺人の場面に歓声があがれば、手を休めてテレヴィに注目する。これ位のことはどんな子供でもやつてゐる。
そこで東京での書斎に戻ると、仕事をしてゐる机の上にカセットを五つ六つ用意した上で器械に掛け、原稿を書きながら曲が終る度にそれを引繰り返したり取り換へたりする。加賀乙彦君の随筆を読むと、彼はレコード五枚を連続演奏する高級なステレオを所有して、執筆の間ぢゆうバッハとかベートーヴェンとかを掛けてゐるさうである。私はそんな立派な器械は持つてゐないから、レコードよりは取扱ひに便利なカセットの、それもなるべく九十分とか百二十分とかの長時間録音したものを、用ひることにしてゐる。つまり一晩に一人の作曲家といふプログラムで、その同じ作曲家が毎晩続くこともあれば、一晩代りでまつたく別の作曲家になることもある。もちろん途中でプログラムが変り、聞きたいと思つた曲のカセットがなければレコード棚を探してみることもある。またむやみに筆が走つてステレオが暫く留守になることもたまにはありさうなものだが、私の原稿を書く速度はすこぶる遅く、曲が終ればすぐに気がつくのである。
それに私は、この五六年といふもの小説をまつたく書いてゐない。仏頂面をしてエッセイとか随筆とかを少々物すだけで、これらは伴奏音楽の助けを借りて漸くに筆が進むのである。小説を書いてゐる時には、頭の中にいつのまにか音楽のやうなものが響いてゐて、本物の音楽が鳴つてゐるとかへつて邪魔つけに感じるものだが、連載物のエッセイとか頼まれものの随筆とかになれば、伴奏音楽の効果は絶大であり、頭は苦しんでゐても耳は愉しんでゐるから、ストレスを生じる懼れはまつたくない。聞きながら書いてゐる筈のところが、いつのまにか書きながら聴いてゐるやうなことになつて、思はず気を取り直すこともしばしばである。かういふ時の音楽は、決して聴いてはならず、ただ静かに聞えて来るだけでなければならない。従つて何度も聞いてゐてよく知つてゐる曲、あまり変化がなくて単調な曲、そして同じ作曲家の同じ傾向の曲、などが好ましいことになる。私のレパートリイの一端を次にあげてみようか。
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一、バッハ、チェンバロ曲(これは沢山あるから例へば「平均律」だけでも一晩の仕事には充分である。「ゴールトベルク変奏曲」と「パルティータ」とを組合せた位では、一晩には足りない。)
一、バッハ、無伴奏チェロと無伴奏ヴァイオリン
一、バッハ、カンタータより数曲
一、モーツァルト、セレナーデと喜遊曲
一、モーツァルト、初期の交響曲
一、バロック音楽を取りまぜて
一、ショパン
一、ブルックナー、「五番」「七番」「八番」
一、マーラー、「四番」「五番」「六番」
一、ドビュッシイ、管絃楽曲
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こんな組合せはいくらでも出来るだらうが、決して曲そのものが優秀だとか演奏が素敵だとかいふ規準によるのではなく、私の仕事との関係によるのである。そして夜中になつて、仕事の方はたうとう一枚も原稿が書けず、代りにシベリウスを「一番」から「七番」まで聞き通したなどといふことも起る。しかし今晩は何にしようかとあれこれ拈《ひね》くつて考へるのは、何しろその時は「ながら族」ではないから、これでなかなか愉しいものである。
ついでながらこの短い原稿を書くのに、私は二晩を費した。初めの晩はブルックナーで、次の晩はマーラーを用ひた。御覧の如く、内容とは何の関係もない。
[#地付き](昭和五十一年六月)
「使者」、「使命」、または世に出なかつた或る雑誌のこと
「近代文学」について何か書くことを約束したが、日が経つにつれうまく書けさうにもないことが分つて来た。その書けさうにないことそれ自体を書きさへすれば私の責任は果せるものの、気の進まないものは書かないといふ主義に従つて仕事をしてゐるから、これは御免蒙りたい。しかし何かを書くといふ約束は果さなければならず、そこでふと思ひついて、「近代文学」の創刊が準備されてゐたのとほぼ同じ頃、つまり昭和二十年の敗戦後の数ケ月の間に、私が中村真一郎や加藤周一と一緒に出すつもりでゐた(しかもつもりのまま立ち消えになつてしまつた)或る雑誌のことを書きたいと思ふ。敗戦後には雨後の筍のやうに新しい雑誌が出たが、土のなかに埋れたまま芽を出さなかつた雑誌はその何倍もあつただらうし、私たちの雑誌もそのうちの一つで題名さへもきまつてゐなかつた。
中村真一郎の「戦後文学の回想」(筑摩叢書)を見ると、その十七章に、昭和二十三年に出たマチネ・ポエチックの雑誌「方舟」に先立つて、私たちの間で「使命」といふ雑誌が目論まれてゐたことが出てゐる。これと私の言ふ題名さへきまつてゐなかつた雑誌とは同じものだが、私はそれが後に「使命」に決定したことを知らなかつた。でなければそのことをすつかり失念してゐたのだらう。私の記録では題名の第一候補は「使者」だつたから、私はずつと「使者」とばかり信じてゐた。どつちにしても陽の目を見なかつた雑誌であり、もしも「使命」などといふ大それた題名を掲げてゐたら、荒正人君あたりからいち早く攻撃されてゐたかもしれない。しかし大人しい「使者」よりも壮大な「使命」の方が、あの頃の何一つ恐れといふものを知らなかつた仲間たちの意気込みを、より正確に示してゐるやうな気がしないでもない。
私の記録と言つたが、私は敗戦の年の九月から十二月まで珍しく日記をつけてゐて、その間に北海道帯広、信濃追分、東京、上田、岡山県笠岡、東京といふふうに動き、その間にこの雑誌のことがしばしば出て来る。(翌年の昭和二十一年になると、とびとびに少しばかり日記をつけてゐるだけで、個人的な事情で雑誌どころではなくなつてしまつた。従つて私はその後のことは何も知らない。この企画が流れ、後に「方舟」になつて実現した時にも、私は病床にあつてその企画に加はることが出来なかつた。)
そこで私はこの日記の中から雑誌に関する部分だけを抽出して、以下に書き写すことにする。都合三回ほど出て来るが、その度に少しづつ変化してゐる(かへつて痩せて行つたところもある)。中村の「戦後文学の回想」に出てゐるのよりは、やや詳しい。文章の幼稚なところはどうか大目に見てもらひたい。
第一回は、昭和二十年九月八日の夜、上田市奨健寮で加藤、中村との相談の結果である。
○新雑誌の計画
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1、月刊、三百枚、百頁より百五十頁の予定。大きさはn・r・f・型、或は「思想」型。
2、来年四月号より発足。
3、誌名未定、仮題「使者」Sisya-Messager、文学と評論との月刊雑誌。
4、横組、なるべくルビなし。
5、内容、作品(百五十枚)研究(百枚)記事(五十枚)の三部。
6、本屋、第一候補北沢書店、その他多元的に探すこと(主として中村)。
7、パトロン(同右)。
8、編輯
編輯委員会(中村真一郎・加藤周一・福永武彦)はあらゆる作品を審議し掲載か否かを決定する。毎月三人が廻り持ちで当番となる。
作品提供者、窪田啓作、小山正孝、山崎剛太郎、中西哲吉、白井健三郎、原條あき子、枝野和夫、森有正、三宅徳嘉、川俣晃自、芥川比呂志、加藤道夫、山室静、野村英夫、立石龍彦、北沢(英文学)
顧問、片山敏彦、堀辰雄、風間道太郎、中野好夫、阿部知二、渡辺一夫、今日出海、吉満義彦、太田
9、内容
第一部作品、我々三人の作品を主とし、持ち込みの原稿より精選する。ただし詩のみは純粋に定型詩を書くマチネ・ポエチックの同人のみとする。劇は芥川、加藤(道)二氏の協力を得る。小説は長いロマンをあまり切り刻まないで出す。例へば「風土」の如きは三回か四回で載せる(ただ三ケ月に一度といふふうにする)。問題はいい短篇を見つけること。
第二部研究、これは毎月特輯研究とし、最初の一年位は二十世紀の文化人(主として作家)を取り上げる。a未刊の書簡の如きもの、或は取れればメッセージ bBio-bibliographie c部分的翻訳 d何人かによる評論
予定される人々、ヘルマン・ヘッセ(N)、ロマン・ロラン(N)、ジュリアン・グリーン(K・F)、ロジェ・マルタン・デュ・ガール(F)、トーマス・マン、タゴール(N)、レヴィ・ブリュール(Naka. Kubo)、シンクレア・ルイス、オールダス・ハクスリィ、ヴァージニア・ウルフ、ユージン・オニール(F)、アルベルト・シュヴァイツァ(Yamamuro)、カルル・シュピッテラー(N)、コスチス・パラマス(N)、アンドレ・マルロー(K・F)、ポール・ヴァレリ、永井荷風(F)、ドリュ・ラ・ロシェル、アンドレ・シュアレス、ジャン・ジロードー、ジュール・ロマン
また百年祭といふやうな機会を利用して過去の作家を捕へる。
予定、四月ジョルジュ・デュアメル、五月ジュリアン・グリーン、続いてオニール、ロラン、タゴール、ヘッセ、荷風等。
第三部記事、a毎月の文化的事件の暦、簡単な感想を含み、一種の雑誌のマニフェストを滲み出させる。b何人かによる短いエセエ、凡ゆる分野に於て。特に戦闘的な要素と actuel な要素とを必要とする。気儘な新刊紹介や映画演劇批評。多くの人に依頼して原稿を書いてもらふ。此の欄に於て雑誌がインテリの知的協力を求める意志を表明し、また雑誌の水準の高さを直接《ヽヽ》誇示する。
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○創刊号目次
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作品、小説として「風土」(福永)七十枚、「七週間」(中村)四十枚、「我が伊太利亜に赴くは」(加藤)二十枚、或は後二者をはぶき加藤道夫の劇。詩、我々の ecole の小アントロジイ、福永、中村、加藤、窪田、枝野、原條。評論として「ヤスパース」(加藤)三十枚、或は森有正の哲学論文を加へる。
研究、ジョルジュ・デュアメル
aメッセージ(片山敏彦)、片山敏彦あて書簡。
bビオ・ビブリオグラフィ
c作品抜粋、Elegies, Civilisation, Pasquier(筋と断片)、Essai sur le Roman.
d片山或は中村による Realisme spirituel の研究、加藤による文明批評家としての彼、福永による Roman-cycliste としての彼、中野好夫による英小説との関聯に於ての彼。
記事は未定。
尚表紙は二色、図案なしの簡素なもの。目次を表紙に出す。裏表紙に英・仏文による雑誌の紹介、予定原稿紹介。広告は別頁(これも横組のこと)。この他に文化擁護の立場と外国文学との交流を目指す旨のマニフェストを早目につくり配る。広くインテリの協力を求めようとする。
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この雑誌の一番猛烈なところは横組といふ点にあるだらう。殆ど訂正を加へずに写し取つたが、やむを得ない場合の他は外国語で書かれた文字を翻訳または省略した。Naka.とあるのは中西哲吉で、この頃私たちはまだ彼が戦死してゐたことを知らなかつた。顧問の中の太田とあるのは、恐らく太田正雄こと木下杢太郎だらうと思ふ。太田正雄が亡くなつたのはこの年十月十五日である。
第二回は十月十一日千ケ瀧にゐて書いてゐるが、雑誌の具体的な指針を並べて、それを清書した上で皆にくばつて、人と折衝する際のメモにしてもらふといふつもりだつたらしい。
○雑誌のための指針
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1、純粋高貴な文学と批評とのための月刊雑誌。新しい日本文学のための先駆的一中心たらんとする。
2、若い世代の作家達により、文学を旧来の文壇的なものから解放し、外国文学の水準に達し得る作品のみを期待する。A
3、従つて旧作家連には、善意ある指導者の他には執筆を求めない。
4、外国の作家との広く親しい交流をはかる。
5、外国文化(特に文学)の歪められざる紹介による一般教養の向上を一目的とし、これに関する紙面を有する。B
6、青年の視野に立つ政治的社会的批判を保ち(遍く思想的立場を含む)、現実を直視する紙面を有する。C
7、文学以外広く藝術・哲学・科学等の原稿を採用する。
8、若い世代を読者に求む。雑誌への彼等の自由な登場を歓迎する。
○内容
A、六〇頁、一四〇枚、「作品」――小説・詩・劇・論文
B、四〇頁、一〇〇枚、「研究」――一作家研究(例へばデュアメル)、一時代作品研究(例へば十七世紀)、ジャンル研究(例へば演劇)
C、二〇頁、六〇枚、「記事」――現実に関する発言、外国文壇の動き、新刊批評、藝術界月評、暦
○人的要素
編輯主幹(名目の)――風間道太郎
編輯委員会――中村・加藤・福永(当分の間)
編輯事務――枝野・遠藤・園池
○題名
使者 使命 コスモス kosmos 九美神 Muses 青春
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第三回は十二月二十三日、この日私が東京の九品仏の親戚の家にゐるところに、信州から上京した中村が加藤と共に現れ、午後から出版社のことで初対面の石川達三氏を三人で訪ねて行つたりしてゐる。夜は加藤の家で遅くまで語り合つてゐる。雑誌の内容はほぼ決定し、同時に文明批評叢書といふのを平行して出さうといふことになる。「この企画は優秀だからどこの本屋でもとびつくだらう」などと虫のいいことが書いてある。ついでにそれも写しておかう。
○雑誌 九〇頁、二三五枚
1、作品 三〇頁、七五枚
風土(連載・福永)四〇枚
短篇(未定)三〇枚
詩 (未定)五枚
2、特輯研究 四〇頁、一〇〇枚
デュアメル研究
選集 三五枚
年表(加藤)五枚
論文(渡辺)二〇枚
同 (片山)二〇枚
同 (中野)二〇枚
(二号より)翻訳短篇一、作家研究
3、記事 二〇頁、六〇枚
時評(森有正)
帰還兵士の手記(立石)
時評(風間道太郎)
問題提出
暦
雑誌評(マニフェストを含む)
(二号よりの記事内容)
哲学(森有正・串田孫一・立石龍彦)
宗教(森有正・浅野準一)
文学
演劇(芥川比呂志・鶴丸睦彦・村山知義)
音楽(片山敏彦)
舞踊
絵画彫刻(片山敏彦)
建築(生田勉)
映画(北原行也)
歴史(林謙太郎)
政治法律(立石芳枝)
経済(加藤俊彦)
自然科学
[#この行2字下げ、折り返して5字下げ]社会(竹山道雄・風間道太郎・今日出海・石川達三)このうちに新聞、出版、農村、教育などを含む
書評
雑誌評
ルポルタージュ
問題提出
暦
主張
○シリーズ「文明批評叢書」一〇〇―一五〇頁、二円以内、小判、一万部以上
監修 片山敏彦・渡辺一夫・中野好夫
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マン、L'Avertissement a l'Europe(渡辺)
ロマン、L'Esprit de la Liberte
J・R・ブロック、La Naissance d'une Culture
ベルル、La Mort de la Pens仔 bourgeoise
フェルナンデス
デュアメル(中村)
ロラン(片山)
フォースター(中村)
ツヴァイク
バッソ(片山)
その他ゴルキイ、シュヴァイツァ、タゴール、クローチェ、マリ、マルロー等
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かういふものを書き写してゐると、三十年も昔のことが朧げに浮んで来るが、このあとすぐに「近代文学」の創刊号が私たちの眼に触れるわけである。その時の、やられた、といふ感じと、なにこの位なら恐るるに足らない、といふ気持とは今でも忘れられない。それに「近代文学」は私たちの雑誌とはだいぶ趣きを異にしてゐた。私たちがこの雑誌を遂に刊行できなかつた理由はいろいろあるだらうが、結局は我々三人では、七人の近代文学同人よりも遥かに力が不足してゐたといふことになるだらう。私たちは夢を見すぎてゐて、実際家としての手腕に欠けるところが多かつた。少くとも私はその方面ではまるで駄目だといふことが、この後の生活の面でも次第に証明されて、自信を喪つて行くのである。あれはむやみと忙しかつた時代で、私たちはあらゆる点で餓ゑてゐた。この雑誌のことも、餓ゑの一つの現れとして、今でも私の記憶の中にかすかに残つてゐる。
[#地付き](昭和五十一年七月)
「死都ブリュージュ」を読む
私がローデンバッハの名前を覚えたのは遠い昔のことで、御多分に洩れず永井荷風の紹介によるものである。また上田敏の「海潮音」に収められた訳詩一篇によつても、このベルギイの詩人に対する興味を喚び起した。たまたま春陽堂文庫に「死都ブリュージュ」の翻訳があつて、この小説が荷風の「すみだ川」の粉本をなしてゐることは承知してゐたが、荷風は荷風、ローデンバッハはローデンバッハ、あながち荷風がローデンバッハの真似をしたわけではないとしても、私にはローデンバッハの小説の方が「すみだ川」よりも面白かつた。
これは戦争前の話で、戦後になつて私が小説を書き出した頃には、ローデンバッハは完全に過去の人として忘れられてゐた。むかしは古本屋に転つてゐた原書が、もうどこにも見当らなかつた。私は「ブリュージュ」を読み返してみたいと時々思つたが、本が手に入らないのだからしかたがない。しかしローデンバッハが試みた方法だけは頭の中に残つてゐたと見えて、「廃市」といふ小説を書く時に、ひよつとして似るやうなことがあつては困るなと心配した覚えがある。しかしたとひ似なかつたとしても、題名がそつくり同じなのだからローデンバッハには借があると言はなければならない。
そこへ今度、窪田般彌君が新訳を試みて、実に四十年ぶりくらゐで再読した。原書を見つけたら、愉しみに翻訳してみようなどと考へたこともあつたが、窪田般彌君の翻訳なら文句はない。私は殆ど忘れてゐた小説を、恰も青春時代に一度だけ行つた町を再び訪れたかの感を以て、ゆつくりと味読した。町は時の流れに腐蝕されるが、小説は少しも変らない。変つたのはこちらの方である。
「死都ブリュージュ」は、死に絶えたやうな町の印象を、死んだ愛妻の面影と重ね合せることで生きてゐる、一人の中年の男の物語である。ロマンチックな書割は、この場合、主人公の心理を説明するために不可欠のもので、そこにローデンバッハの発明がある。秋から冬にかけての、雨のふる日の夕暮、といふのが作者の好みの季節、好みの時刻である。しかしそれだけなら底が知れてゐて、短篇にしかならない。作者は女主人公に、死んだ愛妻にそつくりの悪女を登場させ、その女にうつつを抜かしてゐる男の姿を、死都ブリュージュの眼で見つめさせてゐる。いや、町の代りに、必要な金をためて修道院にはひることを唯一の望みにしてゐる年老いた召使の女を、登場させる。彼女は主《あるじ》に献身的に仕へるが、しかし主の行為が或る限界を踰えることを許しはしない。それはこのブリュージュの町の住民たちの考へを代表するものでもある。その眼が見つめるもとに、悲劇は初めから約束されてゐる。
この小説の長所は、心理にもなければ筋書にもない。ローデンバッハは後に自らこの小説を劇化して、「蜃気楼」(Le Mirage)と題する四幕の悲劇を書いた。人物も同じで(主人公の友人に画家が一人、余分に登場するが)、話の進行も同じである。しかしこの戯曲には、「死都ブリュージュ」の魅力はまつたくない。つまりこれは、文章によつて喚起された一つの死んだ町が主役なので、人間たちが現実に演じるメロドラマではその香気が失せてしまふ。畢竟一人の詩人が、一生の間にただ一つだけ書いた傑作、とでも言ふべきものだらうか。
[#地付き](昭和五十一年十一月)
富本憲吉と木下杢太郎
富本憲吉が陶藝家であることは自明に属するが、どういふものか私の中では、久しくその名は木下杢太郎の著書と結びついて、装幀家のやうな印象を持つてゐた。従つてまたパンの会の一員であるかのやうに錯覚してゐた。木下杢太郎のすべての著書のうち、富本憲吉の装幀になるのは、第一作の戯曲集「和泉屋染物店」(明治四十五年刊)と第三作の小説集「唐草表紙」(大正四年刊)との僅か二冊にすぎない。その間に挟まる戯曲集「南蛮寺門前」(大正三年刊)は杢太郎自身の装幀である。私は杢太郎を装幀家として大いに認める者だが、これら初期の三冊の本はたいへんよく似てゐて、外函に貼つてある木版画を見較べると三冊ともまるで同一人の手になるとしか思はれない。「南蛮寺門前」が杢太郎の絵である以上、さうすると外函は杢太郎がすべて自分で手がけ、中身は二冊だけ友達の手に委ねたといふことになるのか、または外函の方の二冊も憲吉が杢太郎をそつくり真似して描いたといふことになるのだらう。目下私の手許には「唐草表紙」だけしかなくて、他の本の外函は写真によつて判断してゐるのだから断定は出来ないが、誰ぞ専門家に教へを乞ひたいものである。(後記。この原稿を書いてから校正が出るまでの間に「和泉屋染物店」を手に入れた。その目次を見ると「表紙画及装幀 富本憲吉氏」と並んで「函貼附画 木下杢太郎氏」とあるから、以下もこれに倣つて、外函がみな杢太郎の手になつたことは明かである。この本を見てゐなかつたために余計な苦労をしたが、ここに訂正する。)といふやうにこれら三冊が三匹の羊のやうに似てゐたために、私の記憶の中で杢太郎と憲吉とは二人の兄弟のやうな印象を残してゐた。
富本憲吉の装幀として、私はもう一冊、大正四年に東雲堂から出た「第一詩集マンダラ」といふのを持つてゐる。これはマンダラ詩社の詞華集で、「第二マンダラ」は出なかつたらしい。蒲原有明、三木露風、北原白秋、河井酔茗、ヨネ・ノグチ、沢村胡夷、上田敏の七人が同人で、それぞれ幾篇かの詩または訳詩を持ち寄つてゐる。その本の装幀が富本憲吉で、生彩ある木版画で表紙と扉とを飾つてゐるが、表紙はペルシャあたりの鳥の模様、扉の方は草花の模様である。いかにも洋行帰りらしい、清新でハイカラな感覚に溢れてゐる。
しかし富本憲吉はマンダラ詩社に属してゐたわけでも、パンの会に属してゐたわけでもない。ちやうどこの時期は彼が外国から帰つて、漸く自覚的に陶藝への道を歩み始めた頃に当るが、それは一筋の道で、文学と関つてゐるやうなところは少しも見えない。木下杢太郎を追悼した「文藝」の昭和二十年十二月号に、彼は思ひ出を語つて「ソウ親しくつき合つたと云ふ程ではありませむが」と言つてゐる。しかしこの頃彼が木版画を試み、また杢太郎に頼まれて装幀を試みたといふことは、それなりの意味を持つものだと私は思ふ。木版について言へば、木版は本来が簡素な線の、或は簡素な色彩の美術である。装幀はと言へば、それは或る目的(ここでは書物を飾るといふ目的)のためにする図案である。それはどちらも富本憲吉の謂はゆる模様といふものと関係があるだらう。
富本憲吉が風景や草花をせつせと写生し、それらに基いて陶器のための模様をつくつたことは誰でも知つてゐる。また文字を使つても模様をつくつた。それらは独創を尊ぶことから出てゐて、かの有名な「模様から模様を造らず」といふ根本思想がそこにある。富本憲吉の模様について語らうと思へば厭でもそこに触れないわけにはいかない。
風景にしても草花にしても、その下絵の数はおびただしくあるだらうから、その中から最後に自分のものとして絶対の自信を持つに至つた模様は、それを原型として無限に複製をつくつて行くことが出来る。そのことを彼はかう言つてゐる。「模様を造るのは作曲に似たり。模様をかくは演奏するに似たり。」つまり「造る」といふのは独創的な図柄を発明することで、「かく」といふのはその複製を陶器の上に描くことである。そこからして例へば「芍薬」について言はれた「拾数年来幾百度此の図を描いたか知れない。描くうちに原図との異《ちが》ひが自然に生じ殆むど原形をとゞめなくなる。」といふやうな言葉を生じる。一つの曲を幾百度演奏しても原曲の形をとどめなくなることはないだらうから、先程の比喩はあまり正確だとは言へない。しかし一つづつの模様が自然に違ひを生じて来るのは、その模様が生きてゐることの証拠でもある。なぜならば原型である図柄は、その中に発展への、或は成長への、限りない可能性を秘めてゐるし、そこのところが普通の写生と大いに違つてゐるからである。
富本憲吉の模様は、それが紙の上に描かれた場合にも実に簡素の極みのやうに美しい。しかし陶器の上や磁器の上に焼かれた場合の方が文句なしに一段上である。作者はあらかじめ釉薬がどういふ発色をするのか充分に心得た上で、それを透視しながら模様を描くのだから、出来上つたものの効果は初めから模様の中に潜在してゐたと言へるだらう。陶藝家である富本憲吉の模様が、陶磁器の上から離れてそれなりに独立して面白いのは、それが未来への潜在力を持ち、それ自体のうちにすべての可能性を凝縮してゐることによると思はれる。
従つて富本憲吉の模様は、彼の頭脳の中にあつて、あらゆる陶磁器の肌や形やふくらみや色と共に(それが透視すべき未来だが)一つの本質として完成してゐる。その本質が、先程の比喩に従へば「演奏」されて、壺の上に投影され実現する。それが少しづつ違つて行つても、それは原型から複製をつくるのとは違ふ。もとの本質は常に同じである。従つて草なら草、花なら花、風景なら風景、文字なら文字としての模様は、その草や花や風景や文字の本質を伝へて、それ自体が象徴的な味はひを持つことにならう。そこで初めに私が述べたやうに、富本憲吉の模様は木版画のやうな簡素な線から成るし、また或る種の目的のために作られること、装幀のための原画と同じである。「壺の形なしに模様を考へる事が出来ず。」と彼は言ふが、壺がなくてもこれらの模様が死んでゐるわけではない。更に模様から、それのゑがかれるであらう壺とか皿とかを想像する愉しみさへも、我々には残されてゐる。
私は一般の絵かきの写生と富本憲吉の写生とを比較してもう少し論を進めようかと思つたが、紙数がないから省略してまた木下杢太郎に戻らう。木下杢太郎が大正三年に書いた「陶器に関する考察」は「富本憲吉君の作品展覧会を観る」との副題を持つ「哲学的」な論文で、「地下一尺集」に収録されてゐる。これは陶器をまづ形態学から見、次に生理学から見るといふ、実に理路整然、しかも最後は愛情をこめた憲吉論になつてゐる。恐らく大正三年といふごく初期の時代の作品を扱ひながら、杢太郎は既に憲吉の本質を見抜いてゐたのだらうと思ふ。
木下杢太郎は若い頃画家にならうかと迷つただけあつて終生絵が好きで、自著他著の装幀を幾つか試みてゐるが、或はそこに富本憲吉の模様がひそかな影響を与へてゐたのではないかと、私は時々考へる。「春径独語」とか「本の装釘」とかいふ随筆を見ると、杢太郎は庭を散歩して植物を観察し、それを写生することを好んだが、しばしば本の表紙を念頭に置きながら「天然の装飾」を眺めてゐる。つまりいまだ生れてゐない一冊の本といふ未来の目的のために写生し、写生がおのづから簡素化された模様であるかのやうに描く。写生された草花が、特に図案化されてゐない時でも、内部に自然の力を潜在させた装飾となつてゐる。「地下一尺集」とか「雪櫚集」とかの、杢太郎が自分で装幀した著書を見ると私はつい富本憲吉を聯想するが、それが昔の印象に基くことは勿論としても、それとは別に、私がかねがね decoratif な美術を愛し、但しそれは内部に生き生きした生命観を漲《みなぎ》らせた場合に限ると信じてゐることも、それと関係があるだらう。富本憲吉はまさにそのやうな藝術家の一代表であり、杢太郎が憧れてゐたのもまさにさういふものであつたらうから、私の聯想もあながち自分勝手といふわけではないだらうと思ふ。
[#地付き](昭和五十二年二月)
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追記。初出の校正時に「和泉屋染物店」を手に入れて文中に註を入れたが、その後更に「南蛮寺門前」を入手して目次を見ると、「表紙画、装幀並背文字 フリッツ・ルンプ氏」、「紙箱表題画 木下杢太郎氏」と出てゐた。ルンプはパンの会の仲間だつた若いドイツ人である。従つて文中に「南蛮寺門前」は杢太郎自身の装幀と書いたのはこれまた間違ひで、外函の絵はみな杢太郎だが、装幀の方は二冊が憲吉、一冊がルンプといふことになる。
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犀星歿後十五年
室生犀星が世を去つたのは昭和三十七年三月二十六日である。今年は歿後十五年に当るといふので小文を需められたが、早くも十五年が過ぎたなどとは、殆ど信じられない位である。私は室生さんの晩年に知遇を得たので、親しくして頂いた期間は十年に充たない。しかも昨日のことのやうに思ひ出すことが出来る。長年の療養所暮しから足を洗つて、私が人並の生活をするやうになつたその同じ年に堀辰雄が亡くなり、それから毎年の夏を信濃追分の小さな山小舎で過すやうになつて、一夏の間に幾度か旧軽井沢にある室生さんの別荘を訪れることが、一種の習慣になつてゐた。堀辰雄は中野重治などと共に同人雑誌「驢馬」の時代から室生犀星の弟子格であり、その堀さんに代つて今度は私が弟子入りをしたといふやうな気持が、どこかでしてゐたのだらう。
室生学校は男女共学だがこの頃は女生徒ばかりのやうだ、と当時私はひそかに慨嘆した。室生家を訪ねる時に、私は一人で行つたことはめつたにない。こちらが話下手と来てゐるから、室生さんにぎよろぎよろ見られると話の接穂がなくなる。大抵は細君を楯の代りにする。または堀多恵子さんのお伴をして行く。室生さんのお宅では令嬢の朝子さんが座に加はるし、女性の編輯者が同席することもある。とにかく「女ひと」が大勢ゐれば室生さんは御機嫌がよくて、その室生さんの嬉しさうな大きな顔を私は皮肉でなしに惚れ惚れと眺めてゐた。
確かに室生学校の生徒たちは、「驢馬」の頃を別にすれば、晩年は女流が多かつた。しかし室生さんのお弟子を以て任じてゐる人はさう多くはゐなかつたやうで、大抵は聴講生だつた。「黄金の針」といふ評論集があつて、その扉には「おうごんの針をもて文をつくる人々の伝記 室生犀星作る」と一流の書体で書いてある。つまり女流作家ばかり十九人の評伝なのだが、そのうち室生学校の卒業生だと自任してゐる人は森茉莉さん一人かもしれない。中には悪口を書かれたと言つて、後々まで息まいてゐた人もゐて、私など片腹いたく思つてゐた。室生さんの文章によつて活写されるとは何たる光栄かと私などは考へるが、しかし室生さんがあの頃、自宅の学校に女生徒ばかり入学させたり、女流作家をいちいち訪ねて材料を仕入れたりしてゐたのは、すべて旺盛な文筆活動の源泉に他ならず、つまり女生徒たちは先生にていよく利用されてゐたのだといふことに気がつく。室生犀星晩年の七八年間は、「杏つ子」や「かげろふの日記遺文」を初めとして、噴出するやうに傑作が生れた黄金時代であり、老年になつてあれほど猛烈な仕事ぶりを示した作家は、決してそんなに多くはゐない筈である。「女ひと」に対する好奇心は、つまりは生きることへの熱情と固く結びついてゐたやうに思はれる。
私は室生学校の卒業生であることを誇りとする。しかし室生さんの生前に、私はその学校に学んでゐることを、それほど自覚してはゐなかつた。一つには私が、作品を判断するには何もその人間を識らなくてもいいやうな先入観を持つてゐて、室生犀星の文学を、若い頃に読んだ時の判断のままに受け入れてしまつたことにもよるだらう。若い頃、私は詩は萩原朔太郎を好み、小説は芥川龍之介を好んで、犀星を認めなかつた訣ではないが夢中になるところまでは行かなかつた。室生さんの歿後、その全集が出ることになつて、私は編纂委員の一人として詩や小説や随筆をたくさん読み、昔の判断が間違つてゐたのではないかと顧みるやうになつた。そしてこれは偉大にして不幸な作家だといふ認識に達した。偉大なのはもちろんその渾沌《こんとん》たる内容のゆゑであり、不幸なのはその渾沌が世人に(私を含めて)正しく理解されてゐない故である。
故人を懐しむのは人情の常だが、この十五年の間に私は、私が室生学校に在学してゐた頃、どんなに色々のことを教はつたかを今更のやうに思ひ出してゐた。私は先生がにこにこしながら女生徒たちに話される言葉を一言も聞き洩らさなかつたが、私はそれらの言葉よりも、室生さんの行住坐臥、一見穏かな生きかたそのものから、文士として、また人間としての生きかたを教へられたやうである。
新潮社版の室生犀星全集は、私が言ふのもをかしいが、良く出来た全集だつたらうと思ふ。しかし室生さんの全作品を、たうてい網羅することは出来なかつた。それが一つの心残りである。またこの十五年間に、私が不幸な作家だと呼んだやうな部分は未だにそのままで、批評の分野でも、実証的研究の分野でも、復刻の分野でも、多くの仕事が残されてゐる。金沢の石川近代文学館にしても、去年発足した「犀星の会」にしても、それぞれ活溌な仕事をしてもらひたい。また室生朝子さんが父君の作品の初出を調査してゐるから、いづれその成果の発表されるのが愉しみである。とにかく室生犀星はまだまだ全貌が明かにされてゐない作家だらうから、文学を愛する人たちの関心がそこへ向ふことを私は祈つてやまない。
[#地付き](昭和五十二年三月)
或る先生
学校にゐた間はいろんな先生に巡り会つたし、学校を出てからも多くの先達に教へを乞うた。しかしやはり最も懐しいのは、小学校の先生といふことにならうか。それは子供の感覚が、海綿に水分が泌み込むやうに新鮮な知識を吸収するから、小学生の頃に仰ぎ見た先生の印象はそれだけ強く脳裏にとどまつてゐるせゐでもあるだらう。
と言つても私は、小学校を全部で五回ほど変り、初めの二回は福岡市で、あとの三回は東京に来てから転々としたから、最後の青柳小学校の他はまるで覚えてゐない。「仰ぎ見た」などと言つてもその点は怪しいもので、学校を変ることがいかに子供の負担になるかといふ証明ともならうが、なに実は私の記憶力が悪いことの結果である。そして記憶の霧が立ち罩めてゐる中で、青柳小学校に通つてゐた当時のことは、或るところは明るく、或るところは暗く、時間の闇の向うに明滅してゐる。
青柳小学校は小石川区の護国寺の門前の、音羽の通りの右の角から少し目白寄りに寄つたところにあり、今は小石川区が文京区と変つたやうにその位置も変つたらしいが、小学校そのものは残つてゐる筈である。私は四年生の半ば頃に転校して来て卒業までゐたが、担任はずつと大村寛康先生だつた。
子供の私は、大村先生をとても怖い先生だと思つてゐた。といふのは先生が笑つたのを見た覚えがまるでない。縁なしの眼鏡を掛け、口許に黒子《ほくろ》のあるこの先生は、端然としていつも厳粛そのものだつた。もつともそれは教壇の上でのこと、まさか休み時間や放課後にも苦虫を噛みつぶしたやうな顔ばかりされてゐたわけではあるまい。ただ私は、残念ながら先生のさうした優しい面を思ひ出すことがないのである。
大村先生は、図画、手工、唱歌をのぞいた全科を教へられたが、専門は歴史と習字だと聞かされてゐた。何でも「日本歴史年表」といふやうな著作があり、折り畳み式になつた薄い図表だつたが、それを我々はみな買はされた。そして歴史の時間は、先生のお話に熱がはひつて大へん面白かつた。天|勾践《コウセン》ヲ空シウスルコト莫レなどといふ成句を覚えて、生徒たちは得意になつたものである。それから習字、この時間にも先生の真面目さが我々に乗り移つて、常に一種の緊張感があつた。生徒たちが一心に筆を動かしてゐると、いつのまにか先生がすぐうしろに立つてゐて、我々の右手をその暖い大きな手の中にすつぽりと包み込み、引く、撥ねる、力を入れる、力を抜く、いちいち実演して教へて下さる。肱をつけてはいけない、途中で休んではいけない、ペンキ屋をやつてはいけない、さういふ先生の声がまだ耳許に聞えてゐる。それだけ熱心に教へられたのにちつともうまくならなかつたのは、もともと私の手が悪かつたせゐだらう。
大村先生は六年一組の男子クラスを受け持つて、そのクラスの受験成績は大へん良く、一番の子は武蔵高校の中等科へ、二番から五番までは府立へ、六番から十番までは揃つて開成に入つた。私もその開成組だが、そのあともみなしかるべき学校へ入学した。だから先生は受験のヴェテランだつたのだらうと思ふが、何一つ特別な勉強方法を授つた覚えはない。そして体操の時間といへばきまつてドッジボール(我々はデッドボールと呼んでゐた)で、我々が二組に分れて嬉々としてボールをぶつけ合ふのを先生は見てゐるだけ。また綴方の時間は、いつからか私が冒険小説のやうなものを書いて行き、それを級長の鳴海四郎が朗読するのを、先生もまた生徒たちと一緒に聞いてゐるだけ、といふやうなことになつた。何といふ鷹揚な先生だつたらうと感心するが、なに先生の方でも、やれやれとばかりその間休養を取られてゐたのかもしれないと今にして思ふ。
[#地付き](昭和五十二年四月)
中野重治の座談
中野重治は、と書いてから、何も身辺のことを書くのに中野重治は、と大上段に振りかざすことはないと思ひ返して、以下は中野さんと呼ぶことにするが、私は昔から中野さんとか堀さんとか室生さんとか呼びなしてゐて、中野先生と言つたことは一度もない。尊敬の度合から言へばこれら三人はみんな先生格だし、特に室生犀星を室生さんだなんて気軽に呼ぶのは空恐ろしいやうな気がしないでもないが、どうもやつぱり室生さんである。だいいち中野さん自身がその座談の中でも作品の中でもいつも室生さんなのだから、こちらもその真似をしてゐるところがある。中野重治や堀辰雄にとつて彼等が「驢馬」の頃に室生さんの弟子であつたことは間違ひないのだから、私なんかは孫弟子といふことにならうが、文学の世界で師弟関係がうるさかつたのは漱石の弟子たち位までのところで、今では問題にもならない。だいいち、さんづけしたからと言つて尊敬の念が薄れるといふものではない。
それにしても中野さんには、どうも先生と呼びたい感じ、どこぞ田舎の小学校でむかし教はりました、といつた感じが伴つて、そこが懐しい。人柄が田舎ふうで、話をしてゐるとこちらものんびりして来て、田舎の物識りのおぢいさんから故事来歴を聞かされてゐるやうな気がするから不思議だ。私がここに田舎といふ字を三度も使つたからと言つて、それは決して貶下的に用ひたのではない。中野さんが犀星を評して言つた「母乳のごときもの」を、中野さんの場合にも感じるといふことである。
しかしかういふ印象は私にとつて特殊なのかもしれない。怖い人、眼の鋭い人、油断すれば身ぐるみ剥がれさうな徹底的な論客、といふ印象が専ら流通してゐるやうである。それは政治に関つた場合だらうし、私は政治やイデオロギイとは無縁な人間だから中野さんの怖い方の側面は見てゐない点もある。そちらの方面で中野さんと附き合つてゐる人はさぞ大変だらうと同情する。
室生さんが亡くなり、私が室生犀星全集の編纂委員の一人に任じられるに及んで中野さんの知遇を得た。夏の間私は信濃追分の山小舎にゐて、それまで旧軽井沢の室生家を訪ねてゐたのが、室生さんの代りに今度は沓掛の中野家を訪ねて行く。東京では同じ世田谷区だから割合に近い。しかし出無精の私のことだから訪ねると言つても数へるばかりである。行けば長話をして、その間大いにもてなされ、愉快な気分で帰つて来る。中野さんのお宅から帰る時には、いつも、ああ面白かつた、とまるで映画館からでも出て来たやうな不遜な独り言を呟く。
中野さんの座談、これが天下一品に面白い。しかし、さてどこがどう面白いのかは説明しにくい。ややゆつくりめのテンポと、にこやかな表情、そしていつのまにか話に引き込まれてゐる。大抵の場合は奥さんの原泉さんが一緒で、これが本文に対する註解の役割。そして中野さんの話が間の取りかたがうまいのは、女優である奥さんの影響なのかなと考へたりもする。
ではどんな面白い話を聞いたのかと問はれれば、これがさつぱり。私の記憶力が悪いのは勿論だが、中野さんの話も右に飛び左に舞つてとどまるところを知らず、門を出てああ面白かつたと言つた瞬間にみんな忘れてしまふのである。私が禁酒禁煙を守るやうになる前だからもう八九年の昔になるが、或る夏、M君といふ若い友人と二人して沓掛の中野邸を訪問した。M君は車を運転して行つたので飲むわけにはいかない。昼さがり、中野さんからビールを御馳走になりながら話を聞いてゐるうちに、これが無闇と面白いから、M君、君よく聞いて覚えておいてくれ給へ、一つも忘れるな、と固く念を押したが、それで油断したのか安心したのかすつかり酩酊し、はや黄昏時となつて辞去したが、綺麗さつぱり何が何やらすべて忘却してしまつた。M君の方は大丈夫かと思つてゐたら、この方もあまり色んな話だつたのでこんぐらがつて何も覚えてゐないといふのだから、やんぬるかな。
かういふことを繰返して、遂に去年の六月ごろ、片方の掌に載るくらゐの小型テープレコーダーを購入し、これなら大丈夫とばかり中野さんのお宅を訪問した。質問する材料もちやんとあつて、昭和十三年一月号の「文藝」に出た「自作案内」の最後のところ、――「今後私は長篇小説を書く積りである。予定をいへば、『第一章』、『ドック』、『田舎医者』その他である。また戯曲を書く積りである。予定は、『山城国民議会』、『泣き虫、笑ひ虫、おこり虫』その他である。」といふのがどんな作品なのか、ひとつ訊いてみようといふ魂胆であつた。
しかしこんな器械を目の前に出されたら、誰しも厭だらうと思つたから(少くとも私なら厭である)だいぶ愚図愚図してから、奥さんの方に向つて、エヘン、かういふ最新式の文明の利器を知つてゐますか、と切り出した。あら家にもいいのがあるわよ、と奥さんに逆襲されて、聞いてみると中野家には遥かに上等の呼出式無線信号器(と呼ぶのかどうかは知らない)があつて、奥さんがハンドバッグの中に潜めて持ち歩き、中野さんが家にゐて用のある時にスイッチを入れると、バッグの中でピイピイとひよこのやうな声を発するから、すぐさま家に電話を掛けて様子を訊くといふ寸法ださうである。
その話が終つたところで当方の器械の説明をし、ちよつと実験をしてみたが、中野さんはにこにこしてゐてちつとも厭さうな顔ではない。そこで安心して、「泣き虫、笑ひ虫、おこり虫」とは一体何です、どんな筋書なんです、と訊き始めた。中野さんがゆつくり思ひ出しながら話をしてゐるうちに、奥さんから、福永さんそれ入つてゐるの、と訊かれて慌てて机の上の器械を調べてみると、何と、録音のスイッチはまだ入らないままである。許可を得てこれから入れます、と神妙なことを言つたが、お蔭で「泣き虫、笑ひ虫、おこり虫」は録音しそこなひ、もし注意されなければ、そのあとの「山城国民議会」や「ドック」や「田舎医者」などの話も入れそこなふところだつた。好奇心のみはあつても、どうも私は器械に弱いのである。
どうせなら録音の内容を公開すれば、私の雑文よりはよほど面白いだらうが、著作権は中野さんにあることだし、いづれ中野さん御自身の手で書いてもらへばその方が一層面白いのだから、私はこの辺でやめにする。
[#地付き](昭和五十二年四月)
私にとつての堀辰雄
堀辰雄の特輯号を編むから何か書くやうにと頼まれ、そのつもりでゐたもののこの春は例によつて健康状態がはかばかしくなかつたので、荏苒日を曠しうして今日に至つてしまつた。そこでいよいよ慌ててこれを書く始末だが、何を書くのか我ながら心許ない。
堀辰雄が信濃追分の疎開先でひつそりと息を引き取つたのは昭和二十八年の五月二十八日だつたし、私は今これを昭和五十二年の五月半ばに書いてゐるから、数へてみると既に満二十四年がここに過ぎ去ることになる。時の流れの速かなことは殆ど信じ難いほどで、私たち生者がその後に生きた生は一つの連続した立方体ではなく、ただの一枚の平べつたい壁のやうに思はれるが、それは私たちが時々刻々に違つた顔をして錯綜する生を生き抜いて来た間に、いつ振り返つてみても死者はいつも同じ静かな表情を浮べながら、我々を見守つてゐるのを見たからであらう。私たちは死者が生きてゐた時の顔をしか知らないから、時間はもう遠い昔に停止し、死者が年を取るのは、私たち生者が生から新しく得たものによつて、その表情の上に私等の魂から発する光を反映させた場合に限るのである。しかしその意味では、死者もまた生者が成長するのと同じ尺度で成長し続け、決して過去の或る一地点にじつと停止してゐるのではないと言ふことも出来る。故人である先生よりも弟子の方が年を取つてしまつたといふやうな場合に、しかも先生はいつまでも先生だと人が言ふのは、決して尊敬から出たお世辞でも修飾でもなく、弟子が成長して行く眼で見てゐる以上は先生の方も(たとひいつも穏かな死者の表情を持ち続けるとしても)やはり成長を続けてゐるのだと考へなければ、理窟に合はないだらう。初めにあつた距離は、死の一点に於て逆転するのではなく、それなりにいつまでも等距離を保つてゐる筈である。
私にとつて堀辰雄は尊敬すべき先生たちの一人だつたが、ただこの一人といふやうな間柄ではなかつた。つまり私は昭和十六年の夏、野村英夫に初めて堀さんを紹介されてから戦争中の数年間その知遇を得たが、戦後は私の方が北海道に行つたり清瀬の療養所に閉ぢ籠められたりしてゐたので、殆ど数へるばかりしか会つたことがない。それに私は堀さんの好意を得るために積極的に働きかけるといふやうなことはしなかつたから、野村英夫や森達郎や中村真一郎のやうに堀辰雄の弟子として自ら任じるわけにはいかなかつた。戦後になつて、自分が気質的にも、また文学の質に於ても、堀辰雄に似てゐるやうに感じる度に、亜流とみなされてはかなはないと思つて、堀辰雄の弟子だなどと呼ばれないやうになるべく非堀辰雄的な小説を書かうと努めて来た位であつた。しかしそれは私が堀さんを尊敬しなかつたといふ意味では毛頭ない。その辺を少し説明する必要があるだらう。
直接には、私は堀さんから文学についての有益な指導を受けたことがなかつた。堀さんが座談の間にさういふ話題を取り上げた場合には聞いたこともあつた筈だが、特に印象に残つてゐるやうな記憶はない。中村真一郎が堀さんから教へられた話を沢山するので、なるほど彼は堀さんに見込まれた優秀なお弟子だつたのだなとしばしば感心する。
しかし弟子といふものは、決して先生の作つた道の上を歩くとは限らない。堀辰雄は芥川龍之介の弟子であり、芥川の死後二年目に当る昭和四年の春、東京帝国大学の卒業論文に「芥川龍之介論」を書いたが、その初めに次のやうな箇所がある。
「芥川龍之介は僕の眼を『死人の眼を閉ぢる』やうに静かに開けてくれました。僕は|その眼《ヽヽヽ》でゲエテやレムブラントの豊かな美しさを、ボオドレエルやストリンドベリイの苦痛に似た美しさを、そしてセザンヌや志賀直哉の極度の美しさを見てゐるのであります。そして又、僕は|その眼《ヽヽヽ》で芥川龍之介自身の作品をも見てゐるのであります。」
また、――
「しかし彼は最後に、彼の死そのものをもつて、僕の眼を最もよく開けてくれたのでした。」
確かに芥川の文学を理解することによつて堀の眼は開いただらうし、その死は根源的な体験として堀の視線を方向づけただらう。しかし芥川龍之介が堀の眼を開いたとしても、堀の眼はあくまでも彼自身の眼であり、彼は何も特別製の義眼を入れたわけではなかつた。この卒業論文の翌年に書かれた「藝術のための藝術について」の中に、早くも次のやうな文章がある。
「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事の終つたところから出発するもののみが、真の弟子であるだらう。」
これは一つの決意であり、謂はば反逆の宣言である。堀辰雄は芥川龍之介によつて眼を開かれはしたが、その眼は彼の固有の眼であり、また芥川の「死そのもの」によつて開かれた以上それは死を内蔵する眼と呼んでも間違ひではなかつた。堀辰雄は生活の上でも文学の上でも、細心の注意を籠めて芥川龍之介の踏んだ道の上を歩くまいと努めたやうに見える。芥川の眼は刃物のやうに鋭く外側にある対象に切り込んだが、堀の眼は寧ろ外界には眼に見えないもののあることを認め、それが見えないままにしかも見えて来るといふ状態を描き出さうとした。芥川のやうに物を見ることが、或は物が見えすぎることが、作者を次第に nerveux な危険に導くことを知り、如何にして nerveux でないやうに身を持するかといふ点に、堀の苦心があつたやうである。要するに堀は、現代人は如何にすれば自殺しないで生きて行かれるかといふ命題を研究し、芥川の悲劇的な教訓に従つて自己を改造して行つた。その意味では強靱な意志を持つた藝術家であり、またその意志によつて自己の好むままの生活(趣味的な、と言つてもよい)を送り、自己の希望するままの文学(これまた趣味的な、と言へる一面を持つ)を実現した。芥川よりは遥かに健康であり、また遥かに幸福であつたやうに思はれる。
私が堀辰雄から学んだものは、根本に於てこの堀辰雄が芥川龍之介に対して持つた態度と同じである。如何にして堀辰雄の踏んだ道とは違つた道を歩むか。そしてかういふ態度は、私と共に堀辰雄の周辺にゐた中村真一郎や加藤周一などにも共通してゐただらうと思ふ。少くとも戦後に新しく小説を書き始めた新人たちにとつて、堀辰雄の作品は通過すべきものであつて到達すべきものではなかつた。「その仕事の終つたところ」は堀辰雄の場合「菜穂子」がそれに相当するだらうから、私たちは「菜穂子」の先へ行かうと決心してゐた。文体といふ点に関しても、堀さんの柔軟で屈折した、謂はば非芥川的な文体で小説を書かうとは思はなかつた。勿論芥川龍之介の文体に就かうと考へた訣ではない。しかし堀辰雄があれほど芥川龍之介の文学に親炙し、最も近しい弟子として出発しながら、見事に芥川の影響を感じさせない文章を書いたといふその点に、私たちは敬服したと言ふことが出来る。影響といふものは無意識のうちに沁み込んで来るのだから、真似をしないことは簡単でも影響を受けないで済ますことは決してた易くはない。そのためには明晢な意志を常に保ち続けなければならない。
しかし私の場合に、堀辰雄の影響を進んで受け入れた点が幾つかあり、私はそれによつて自分が堀辰雄の弟子の一人とみなされることを容認する。しかしかういふことを自分で麗々しく書くのは気が引けるから、共感した点を大ざつぱに、箇条書ふうに書きとめておかう。だいいち自分でもあまりよく考へたことはないし、これはつまり締切日に追はれての思ひつきである。
一、堀辰雄の文学的立場が、出発に当つて、フランス現代文学の影響の下にあつたために、彼はハイカラだとして後々まで貶《おとし》められた。既に昭和五年頃に、「小説を書くには」「もつと複雑な精神作用が、百パアセントの虚構《フイクシヨン》が必要だ。」と書き、「小説に特有でないあらゆる要素を、小説から取除く。」といふジイドの純粋小説の理論を紹介してゐる。昭和五年は一九三〇年で、ジイドの「贋金つくり」は一九二五年の出版だから、その摂取のしかたは実に早い。しかし大事なことはその機敏さではなく、このやうな方法論を彼が一生貫き通した点である。
一、堀辰雄の眼は、先程も述べたやうに外界の見えないものが見えて来るやうに馴致された眼である。それは当然内面にも及ぶ。自己と他者との別なく、その見えない部分に或る種の照明を当てて浮び上らせようとする。その照明は人工的、技巧的であり、死者の眼と呼んでもいいやうなところがある。早くも「聖家族」に於て、死んだ九鬼の眼はこの小説の世界をあまねく支配してゐる。「風立ちぬ」に於て、女主人公は死ぬ以前から死者の眼で周囲を見詰め、その眼は同時に主人公の眼と重なる。私が堀の小説の特徴として認め、そこから学ばうと思つたのはかういふ点である。
一、堀の持つ視点が形而上的に死者の眼によるものとすれば、日常的にはそれは病者の眼であつたと言へる。病者である以上は健康な人間とは違つた生活の価値観といふものがあり、幸福があり、夢想がある。死を内在するやうに苦しみを内在して生きて行く時に、その生活態度は明るく、思ひやりに充ち、赦しを持ち、たとひ信仰的でないとしても宗教的にならざるを得ない。恐らく人があまり口にしないゲーテの影響なども、そこにあるのかもしれない。私は嘗て生きることの達人だといふふうに評したことがある。
一、従つて人生が藝術に優先する。堀はその文学的な道程で藝術のための藝術を早くから選んでゐたやうに見えるが、彼がその藝術のために人生を蔑《ないがし》ろにしたことはない。人生は常に藝術よりも尊い。芥川は「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」と言つたが、堀は決して諾《うべな》はなかつただらう。私もまた人生は常により重要であるといふ観点に立つて藝術を創る。
一、人生は本質的に悲劇的であり、藝術はそのやうに人生を見る。しかし堀は人生をペシミスチックに見てゐたわけではない。彼は生きることを、無尽の泉から汲み取ることの出来る冷たく澄んだ水として、愉しみつつ味はつた。恰もディレッタントのやうに見えるが、その愉しみはすべて仕事の上に収斂して行くので単なる遊びとは違ふ。充実して生きたといふ意味では、病苦に苦しめられつつ生きた五十年の生涯は決して短くはない。
一、直接的な教訓として、私は堀辰雄からなるべく数すくない作品を、吟味し彫琢しつつ入念に書くことを学んだ。如何にして少しだけ書くか。また書いた作品に対して、如何にして責任を持つか。堀辰雄は病身だつたから作品が少いのではなく、書きたくないものは書かなかつたから少かつたのである。そして作品といふのは小説に限らず、エッセイも随筆も翻訳も、手紙にいたるまで、彼にとつてはすべて作品であつたやうに思はれる。その意味では堀辰雄は紛れもなく自己を律することの厳しい藝術家だつたし、青年の時期にさういふ藝術家と親しく交はることが出来たのは、私にとつて得がたい幸福だつたのだといふふうに、歿後二十四年の今にして考へるのである。
[#地付き](昭和五十二年五月)
小布施の秋
一
私は小布施の町について極めて僅かのことをしか知らない。或る年の夏の終りから秋の更ける頃まで、その町にゐたことがあるといふただそれだけである。しかし私たちが記憶の深い淵を探り、懐しい想ひと共に想起するやうな町は、必ずしもそこに於ける滞在の長さと正比例するものではないだらう。長い旅の間にほんの一晩か二晩しか泊らなかつたにも拘らず、いなそれ故に尚さら、鮮明な印象として定着してしまつたやうな遠い町を、人はしばしば記憶の霧の彼方に見るに違ひない。景色がよかつたとか、名所旧蹟があつたとか、人情が濃やかだつたとか、それ相応の理由がそこに考へられるだらうが、しかし最も大事なことは、その町と旅人とが謂はば同じ空気を呼吸してゐて、その結果両者の間には一種の交感といつたやうなものが存在した、といふことだらうと私は思ふ。
二
私はその年、昭和四十五年に、小布施の町に二月ほどゐた。但しそれは旅人としてゐたといふよりは病人としてゐたのである。例年、私は信濃追分にある小さな山荘で夏を過すことにしてゐるが、その年はたまたま八月半ばに俄に胃を悪くして倒れ、どこぞに入院しなければならぬ羽目になつた。折よく懇意の医者が週に一度づつ東京から小布施の新生病院に通勤してゐてその便宜を得られるといふこともあつたし、暑い盛りに東京の病院に入るのは気が重く、距離にしても東京まで帰るよりは同じ長野県下の小布施の方が近いといふこともあつて、十日ばかり安静にして少し落ちついたところで、寝台自動車で小布施へと運ばれた。胃出血で幾度も倒れた経験によれば、要するに万事を放擲して大人しく寝てさへゐれば大した手当をしないでも良くなるのである。どうせ寝てゐるのなら、知らない土地で過すのも面白からうと高を括つたやうなところもあつた。
小布施の新生病院についてはかねて聞き及んでゐた。カナダの聖公会が経営してゐた結核専門のサナトリウムで、私の伯父がそこに長らく入院してゐたことがある。結核が次第に時代おくれになつたために、今では結核以外の病気の患者のためにもベッドが提供され、奥まつた病棟がそれに当てられてゐた。しかし往時に較べれば患者の数は全部を合せてもごく少かつたやうである。私はその一番奥のだだつ広い部屋――恐らく昔は大部屋で七八人の患者を収容してゐたのだらうが、その部屋のベッドを附添の細君と二人だけで占領して、じつと寝てゐた。部屋の南側は屋根のある板張のテラスに続いて裏庭に面し、その裏庭は泉水などをあしらつた凝つた設計で、その先の方は栗林になつてゐた。もつとも私は寝たきりだつたから部屋の外のことは話に聞いたばかりである。
私は生来多病で今までに渡り歩いた病院や療養所は数へ切れないが、この新生病院での経験も、なかなか趣きの深いものがあつた。結核病棟と違つて私のゐた普通病棟の方はまるで人気《ひとけ》がなく、いつもひつそり閑と静まり返つてゐた。ただ朝の起床、三度の食事、安静時間の初めと終り、それに就寝時の消燈などの時刻になると、それぞれメロディの違つたシロフォンの涼しい音色が、スピイカーから洩れて来た。それは看護室の中で当直の看護婦さんたちが実地に演奏してゐるものだつた。そしてそれを聞く度に、自分の身がカナダにでもゐるやうな気持になるのである。
三
秋が深まるにつれて私は漸く起きて歩けるやうになり、病室の中からテラスへ出てみたり、更には病室を抜け出して裏庭の中を散策したりするやうになつた。それまでにも、安静時間になると栗林の方向からしばしば看護婦さんたちのコーラスが聞えて来て、それはつまり彼女たちがこの時間を利用して栗拾ひに出掛けるのだといふことが分つてゐた。現に粒の揃つた見事な茹で栗を看護婦さんからお八つに貰つたこともある。従つて自ら栗林に行つて栗拾ひをしてみたいといふのは病人の切実な願望だつた。
私は胃病の患者だから安静時間を守る必要はないだらうといふ勝手な理窟をつけて、意気揚々と、と言ひたいが実は細君をステッキの代りにして、初めて栗林を探険に行つた時のあの躍るやうな気持は今に忘れられない。小布施が栗の名産地であることは百も承知してゐたが、病院の敷地の中にまでかういふ広々とした栗林があるといふのにはびつくりした。僅かに木洩日の射す足許には口の開いた毬《いが》が幾つも落ち、見上げれば葉叢の間に黄ばんだ毬が点々と見えてゐる。信濃追分でも、この季節には山栗を拾ふのはきのこ狩と並んで愉しみの一つだつたが、こちらの方は何しろ栽培された林の中だから見つけ出すのも容易だし、栗の実の巨大なことも比較を絶してゐる。しかも林の中はあくまで静寂、看護婦さんたちと鉢合せをしない限り、まるで山中にゐるやうである。私はそれから毎日、日課のやうに栗林に出掛けて行つたが、栗を拾ふことよりも、そこに佇んでゐることだけで限りない満足を覚えてゐた。時折、毬からこぼれ落ちる栗の実が鋭い音を立てた。恢復期の病人の五感にはすべてが新鮮に感じられ、さういふ時には沈黙を引き裂くこの幽かな音は、一つの天啓のやうにも響くのであつた。
かすかなる驚きありて栗の実の
落ちたるかたへ四五歩あゆみぬ
その時私はかういふ歌を作つた。
四
病院の敷地と接して林檎畑があり、風に落ちた紅い実がごろごろ転つてゐた。勿体ないから貰つて行つてもいいかとその場にゐた畑の持主に訊いてみたら、そんな落ちたのよりも、なつてゐるのを好きなだけ採りなさい、と気前のいいことを言つてくれた。この時の林檎もうまかつたし、また巨峰といふ名の葡萄は(これは金を出して買つたがただのやうに安かつた)その後これほど美味な巨峰を食べたことはない。胃病の身として果物をむやみに平げるのはよくないと分つてゐても、目前の誘惑にはなかなか抗しがたいのである。
病院の中の栗林を通り抜けると、そこにはもう松川が流れてゐた。私は寂しい川原の上に出て濁つた水の流れや雁田山などを眺めたり、千両堤の上を歩いたりした。秋の爽かな風に吹かれて川音を聞いてゐると、いつまでも飽きることがなかつた。
日ましに元気になるにつれて、私は更に足を伸し、雁田山の麓の道を通つて岩松院の方まで歩いたが、お寺の中に入つたことはない。しかしこの行程の途中で見られる風物は、私の中に眠つてゐた郷愁のやうなものをしきりに促した。かういふところでのんびり暮したらどんなにかいいだらうと、埒もないことを考へてゐた。
要するに私の知つてゐる小布施は、病院と、松川と、町はづれの寂しい道と、それ位のものにすぎない。もつとあちこち歩き廻らうと思つてゐるうちに、早くも退院の日が来てしまつた。私は後ろ髪を引かれる想ひでこの町を去つた。しかしその町で見た幾つかの風景は、私の網膜の中に、今でも小さな絵のやうに焼きついてゐる。
いがばかり蹴とばして秋の別れかな
[#地付き](昭和五十二年六月)
八つの頌
ネルヴァルの狂気
私は昔から文学が一つの狂気であることを毫も疑つたことはないが、しかしシュルレアリストたちに倣つて人工的にこの狂気を創り出さうと試みたことはなかつた。それは私が夙にジェラール・ド・ネルヴァルによつて、狂気もまた天与のものであり、自ら体験する以外にこの狂気を文学に定着する術《すべ》のないことを、胆に銘じてゐたからである。体験することと定着することとの間には無限の距離があり、彼のみがその秘密を知つてゐたに違ひない。それにしても何といふ壮大な狂気であることか。宇宙的といふ言葉はジェラールのためにあると言つても過言ではなく、その暗黒の太陽から発する光は我々の奥ふかく射し込む。いまこの難解な詩人の主要著作が正確な日本語に移されるばかりでなく、精緻な註解によつて照明されるといふのは、我々読者にとつて嬉しい限りである。ジェラールと親しく呼びたいやうな何ものかを持つこの詩人のためにも。(昭和四十九年十一月)
朔太郎の声
萩原朔太郎は明治大正詩史に屹立する古典的存在であるばかりでなく、昭和五十年の今でも、少しも古びることのない生きた現代詩人である。その詩には、一方には生得の感覚の鋭さから生じた焼けつくやうな特異のイメージがあり、他方には律動的な、耳にこころよい響きがあるが、それは自《おのづか》ら流露するものと言はんよりは、彼が意志的に構築した音楽の建物である。この建物はただ読者の心琴に触れた場合にのみその想像力の中に形づくられ、読み終れば余韻を残して溶けて行つてしまふ。イメージと音楽との微妙な組合せによつて読者の精神の内部に喚起されたこれらの世界は、象徴主義の名で呼ばれるにふさはしいものであり、一行の決定稿を得るためのおびただしい量のヴァリアントを見れば、いかに彼が言葉を吟味し声調を錬磨して絶対の表現を求めたかは明かである。しかもその詩の奥深いところに響く彼の肉声には、日本の山河からでなければ生れない情感がこもつてゐて、その声に耳を傾けるたびに、朔太郎は私にとつて故郷のやうに懐しい。(昭和五十年二月)
ベルナノスの二つの貌
ジョルジュ・ベルナノスには二つの貌《かほ》があり、私などが学生時代に知つてゐたのは、フランス心理小説の作者としての彼である。一九三〇年代にはモーリアック、J・グリーン、ベルナノスの三人のカソリック作家が、ほぼこの順序で人気があつた。彼等に共通してゐたのは、陰鬱な雰囲気を貫いて人間性の深淵に射し込む暗い眼指《まなざし》で、そこに異邦の異教徒をも頷かせるだけの心理の洞察がうかがはれた。私などはベルナノスの小説を、フランス十八世紀の暗黒小説の系列に置いて見るやうなところがあつた。
なぜベルナノスの人気が前の二人に劣つてゐたかと言へば、それは彼の作品では聖職者が主役を占め、そこに俗人の類推の及ばない世界が現前したからであらう。といふことは、神と悪魔との間にあつての魂の闘ひが彼の主題であり、しばしば日常の舞台が超自然的なものに転位して行くからである。しかしこのやうな幻想が、文学としての普遍性を持たない筈はない。
ベルナノスは小説家である反面、自己の良心に忠実であらうとして右に左に揺れ動き、アクシオン・フランセーズ、スペイン内乱、レジスタンス、戦後の共和制などの時の流れにあつて、常に彼自身の立場に立つて多くの評論を書いた。私はこちら側の貌をよく知らないが、戦闘的なポレミストとしてのベルナノスの方が、この頃ではよりよく知られてゐるのかもしれない。しかしこの双面のヤヌスは、苦悩を超えて聖性へと向ふ魂の持主であり、常に戦慄的な魅力によつて我々を彼方へと誘ふのである。(昭和五十年十月)
中島敦の星
若く死んだ小説家は誰しも、彼等が果すことの出来なかつた未来を思ふことで哀惜きはまりないが、中島敦の場合は特にその感が深い。彼は大学を出て女学校の教師となり、教師をやめて南洋のパラオへ行き、帰国して文によつて立つ決意をしたところで、忽ち死んだ。しかしその作品は、自我に憑かれ物に憑かれ存在に憑かれた思想的な小説から、世界の悪意を物語の框のなかに捉へた客観的な小説まで、完結した作品はその完成度によつて、未完の作品は内部に含まれた可能性の量によつて、すべて今書かれたやうに新鮮で、しかも既に古典と呼ぶにふさはしい。その醒めた眼は、現代の文学的渾沌の夜空にかがやく、一つのしるべの星である。(昭和五十年十二月)
高橋元吉の泉
高橋元吉は郷土前橋の詩人たることに甘んじて、名聞を求めるやうなことをしなかつた。市井に隠れて、書を書き、また絵をかいた。それは今どき珍しい文人としての生活であつたやうに思はれる。しかし広く知られることがなかつたからと言つて、前橋の詩人といふ呼称は不名誉でも何でもない。本人にとつてどこに住まうと、どこに詩を発表しようと(或は発表しまいと)そんなことはどうでもよかつたのだらう。それは自足し充足した生活である。
戦争前に冨山房文庫といふのがあつて、昭和十五年に萩原朔太郎の編纂で「昭和詩鈔」が出た。私は並み居る詩人たちの間に初めて高橋元吉の詩五篇を発見して、珠玉を収めたこの一巻の中でも、特にそこに山間の清冽な泉を感じた。一しづくまた一しづくと、湧き水のしたたるやうにして高橋元吉の詩は成つた。水は常に清らかに、冷たく、天上の青を映してゐた。私が深く打たれたその五篇の詩の背後には、その晩年にいたるにつれていよいよ円熟して行く数多くの詩があり、今それらが集められて高橋元吉詩集五巻が上梓されるといふのは、何よりの悦びである。たとひ詩人がひつそりと生きることを望んだとしても、その作品はもつと大勢の人に読まれ、愛され、歌はれなければならない。これほどの詩人の詩が埋もれてゐるやうなことがあつてはならないと、私は考へる者である。(昭和五十一年三月)
丸山薫の風景
一つのすぐれた詩の効能といふものは、それを読んだことによつて風景が最早それを読まなかつた昔のやうには眼に映らないといふことであらう。丸山薫は「帆・ランプ・鴎」に始まる幾冊かの詩集によつて港と海鳥と練習船とを印象づけ、また「北国」以後の戦後の幾つかの詩集によつて今度は山間の風物と子供たちとを印象づけた。しかしこの詩人は何よりもまづ「幼年」の詩人であり、そこに含まれてゐた早熟な心のふるへをいつまでも持続し、反抗と熱狂との思ひをしづかになだめながら、次第に人生に対する観照を研ぎすまして、人生が一つの風景として見えるところまで成長し続けた。やさしくて懐しい詩人である。(昭和五十一年六月)
寿岳文章の「神曲」
寿岳文章さんは一代の碩学といふ言葉のふさはしい人である。今日では一代の碩学などといふ表現は古び、またそのやうな学者も少くなつた。寿岳さんは黴くさいアカデミックな学者であることを潔しとしなかつた人で、その代り当代稀な教養人となつた。和紙についての深い造詣、工藝についての確かな理解、書物についての豊かな愛情、しかも本職が英文学者であることを忘れてはならない。その寿岳文章さんがダンテの「神曲」を翻訳されると聞いた時には、相手が古典中の古典だけに、遥かな旅路に対して一抹の危惧がなかつたとは言へない。ところが七年の歳月が過ぎて「神曲」は見事な日本語に移し変へられ、我々は今や訳者に導かれて、地獄から煉獄を経て遂に天国に昇ることが出来るのである。あらゆる教養が一団となつてこの翻訳の中に結集してゐるのを見るとき、翻訳も亦、全人格的なものだといふことをしみじみと感じるのである。(昭和五十二年一月)
露伴の宝庫
読者の年齢に応じて、愛読する作家にも自らなる変化があるだらう。例へば漱石は人生の朝に熱中することがふさはしく、鴎外は正午に於て嗜むのが当を得てゐる。とすれば露伴は、午後の日の傾きかけた時刻に、漸くその人を発見するのではないだらうか。急いで言ひ添へれば、これは私個人の経験である。青年には漱石に、壮年には鴎外に、それぞれ私淑しながら、露伴はと言へばただその一隅を耕したのみで敬して遠ざけた。昨秋私は宿痾に倒れ、以来荏苒として日を過す間に物に渇くやうに露伴を読みたくなり、或は古書を購ひ或は全集端本を借覧して、殆ど病中の憂さを露伴によつて払つた。と言つてもまだその門をくぐつたばかり、この先には露伴語彙ともいふべき豊饒自在な日本語を駆使した数々の作品が、その彼方に「芭蕉七部集評釈」を遠望させつつ、小説を初めとするあらゆるジャンルに亙つて控へてゐるのかと思へば、心をどるのである。これ程の魅力に私が手を拱いてゐたのには、若者の眼がとかく西洋の新しい文物に向けられ、江戸文藝から古に溯るのみでなく更に中国に至り印度に至つた露伴の東洋的気骨を、盲点に入れてゐたといふ一般的な理由もあつたに違ひない。またそこに、漱石鴎外と較べて露伴の孤独もあつたに違ひない。しかし今や全集の再刊に伴ひ、この無尽蔵の宝庫に恣《ほしいまま》に参入できるのは、老若を問はず日本語を母国語とする者に与へられた無二の恩恵であり、ひとり私のみの悦びではあるまい。(昭和五十三年三月)
風景の中の寺
その時には格別のこととも思はないでゐて、後になつてから懐しく想ひ起すやうな時期があるものだが、今からもう二昔も前のこと、春の小半月を京都で過したことがある。私はこの七八年といふもの健康状態が芳しくなくて、そのため旅行も出来ず、せいぜい東京の自宅と夏の間の信濃追分の山荘とを往復するばかりだから、それが一層京都を懐しく思はせるのかもしれない。京都は新幹線で行けば東京からほんの一時《ひととき》で、思案をする方がをかしい位のものだが、今年の春は遂に決心して何年かぶりに桜を見に行かうと旅館まで予約してゐたのに、出掛ける三日ほど前に少々具合が悪くなつてお流れになつてしまつた。具合が悪いといふのは私の場合いつも胃の状態を指し、これが微妙に出来てゐるため今までの経験では長時間自動車に揺られてゐると、とかく破裂しがちである。桜を見るとなれば、私がもう一度も二度も行きたいと思つてゐるのは丹波は常照皇寺のしだれ桜だが、あそこは北山を越えてから周山街道を車で逸散に走らなければならず、私に許容されてゐる走行距離を少々はみ出してゐて、果して京都まで行つたとしてもその遠出が出来たかどうかは疑はしい。とすれば前に行つた時のことを思ひ出して、その記憶を大事にしてゐれば済むといふことにもなるのである。
私が常照皇寺のしだれ桜を見に行つた話は既に随筆に書いたことがあるが、その時は友人たちと一緒で細君に置いてけ堀を喰はせたから、今度は連れて行つて見せてやりたいと思ひはしたものの、こと私に関してはこの前で充分に堪能したから是非とももう一度といふ程のものではない。一期一会《いちごいちゑ》は桜の場合にも当てはまることで、適切なタイミングを失へば見ても見なかつたに等しくなる。私はその年、微雨の中でこのしだれ桜が二分咲きから三分咲きへと次第に開くのを見てすつかり満足した。もう一度行つたからとて、必ずしも同じ三分咲きが見られるものではないし、記憶の中では花は最早散ることもないのだから。
しかしこのしだれ桜も、――しだれ桜の名品として今ではすつかり有名になつたが、常照皇寺といふ舞台を別にしてはその価値を半減するだらう。少くとも我々の感じる情緒としては、例へば円山公園のしだれ桜が夜の人工照明の下で美しいのとは、まつたく趣きを異にするのである。常照皇寺のしだれ桜は、南朝ゆかりのこの古寺の境内にあつてこそその存在理由があり、光厳天皇の御陵によつて南朝のはかない歴史を偲ぶことと、山国の春のほんの数日間に綻び、咲き揃ひ、そして散つて行く桜を愛《め》でることとは、本質に於て同じである。私はしだれ桜にばかり執着してゐるやうだが、それは私がその時期を狙つて常照皇寺に詣でたからで、この寺は山桜も一段と見事だといふし、秋の紅葉の素晴らしさはこれまた住職の保証したところであつた。丹波の山奥に、鬱蒼たる檜や杉の大樹に囲まれて建つこの禅寺が、周囲の自然の中に溶け込むことによつて一箇の別天地を創り出してゐることは言ふまでもない。寺といふものは、それを取り巻く環境を生かすことによつて、常に現世に於ける別天地であることを指向するやうに見える。
○
さて私は春の京都で花の時節を過した話をするつもりでつい常照皇寺の方に逸れてしまつたが、昭和三十二年の春、京都の或る出版社の紹介で、南禅寺の塔頭《たつちゆう》最勝院の一室を借り受けて暮したことがある。出版社が作者を一箇所に軟禁して原稿を書かせることを俗に「罐詰」と称するが、私もまた頼まれた仕事を仕上げるために京都に拉致されるに当つて、どうせのことなら宿屋の一室で呻吟するよりも、お寺の中で閑素に暮したいと申し出たものである。もつともこの時は細君と一緒だつたから、長期間滞在するのに宿屋の飯ばかりでは飽きが来るだらうから、お寺の一室なら気儘が出来さうだといふ見込みもあつた。当時は我々夫婦が、多少の不便は忍んでも好奇心を満足させたい年頃だつたことも勿論である。朝昼を兼ねた食事には火鉢に火だねを貰つてパンなどを焼いて食つてゐたが、毎晩どこぞに晩飯を食ひに行くのは少々くたびれた。出版社のHさんといふ女性が、有難いことに時々お弁当の差入れをしてくれた。境内にある湯豆腐屋にせつせと足を運んだことは勿論である。
私はその他にも京都をしばしば訪れ、宿屋で罐詰になつたことも幾度かあるが、京都にゐるといふ実感をこの時ほど味はつたことはない。南禅寺には金地院を初めとする由緒ある塔頭が他にも幾つかあり、そんなところに泊れるなどとは思ひもしなかつた。一体どういふ縁故でこの出版社が最勝院を紹介してくれたものか。先代の住職の未亡人である大黒さんが私たちの世話をしてくれたが、世話と言つても私たちは玄関に近い書院を一つ借り受けてそこで寝起きしてゐたにすぎない。他の部屋がどうなつてゐるのか、がらんとして人の気配はなかつた。ただ時々は現に塔頭をあづかつてゐる壮年の住職が姿を見せて、使はない時は必ず電燈を消して下さい、と言ひながら廊下も便所もみんな真暗にしてしまふので、細君は夜になるとびくびくしてゐたらしかつた。
南禅寺は京都五山の上位で、広い境内に伽藍が聳え建つてゐる。これを小まめに見て歩くのは骨が折れるから、普通は石川五右衛門の三門から大方丈まで行くと、それでもう安心してさつさと永観堂の方へ抜けてしまふ。人が多ければ尚更である。つまり寺を見る時に群集の間に伍してゐると、つい自分も身体を動かす気になつて、一箇所に佇んで静止した風景としての建築を見るといふことをしない。見物人がぞろぞろ動くのは目障りだから、自分も一緒に動いてしまへば見物人の姿が静止するやうな錯覚を覚えるのだらうか。そんなことはない。本来、寺は静かなものである。見物人がゐないに越したことはないが、なかなかそんなわけには参らぬ。大体、寺が見物するものであるかどうか、そこにも問題があるだらう。
南禅寺は見物人の方の側から言へば、三門と、大方丈の前庭と、金地院にある茶室と障壁画とを見れば、ほぼ足りる。誰でも一度は足を向けるが、何しろ京都には名高い寺が数限りなくあるから、南禅寺がどんなに格式が高からうと、そんなことは見物人にとつて問題にはならない。極端な言ひ方をすれば、京都の寺がみなそれぞれの目玉商品を持つてゐる中で、南禅寺は図らずも石川五右衛門によつて名を売つてしまつたから、大方丈庭園の美しさや伽藍の配置の妙などは人目を惹かず、要するに哲学の小道と称される疏水べりを銀閣寺まで歩いて行くための出発点または終点といふにすぎない。名所ではあるが、金閣銀閣石庭苔寺などと同日には語れない。
しかしその中で暮してみると、南禅寺は実に忘れられない寺である。暮すと言ふのは甚だ痴《をこ》がましいが、広い境内を我が物顔に歩き廻つて修行の雲水たちと度々行き逢へば、何となく見物人の眼よりは借家人の眼になつて、情も移らうといふものである。
私たちが寺を見物して歩くときに、その寺が生活を持つてゐることをつい忘れがちになる。見物する程の寺は殆ど由緒ある古寺ばかりで、現在では拝観料を取ることで生活を支へてゐるやうな寺も少くないが、それでもそこに生活がないわけではなく、況や過去に於ける生活の名残は現に感じられる筈である。それを見落しては寺を見たといふことにはならない。大原の寂光院は今は知らないが、私が行つた頃は茶室で尼さんが茶を点《た》ててくれた。その一服の茶は建礼門院の生活とどこぞで結びついてゐるやうな気がした。もつとも京都の寺はこの頃はどこもかしこも拝観料を取つて抹茶をふるまふらしく、経営といふ点では致し方ないものと思ふものの、それによつて寺それ自体の生活の匂が稀薄になつて行くのは寂しい。寺は僧侶の修行の場であつてむやみと俗人の足を踏み入れるべき場所ではなく、それを承知で恐る恐る我々俗人が拝観に及ぶからこそ、古寺のゆかしさも伝はつて来ようといふものである。拝観料さへ払へば、見物人はどんな傍若無人の振舞をしてもいい訣合《わけあひ》のものではあるまい。
南禅寺大方丈の庭園は瓦を頂いた築地塀《ついぢべい》によつて仕切られてゐるが、本来はその向うに借景として南禅寺山が見えた筈だ。今では庫裏の瓦屋根が山を隠して、庭はそれだけの空間として区切られてゐる。借景といふことは勿論作庭上の重要な要素に違ひないが、私はこの南禅寺の庭のやうな、限られた空間の中に永遠が凝縮されてゐる感じを、更に好む。これは私がこの庭を隙《ひま》に飽かせてじつくりと眺めた結果である。それに正面に見る築地塀と庫裏とに共通する瓦葺の直線的な美しさは、円やかな植込や石組と相俟つて、まるで初めから予想されてゐたやうな効果をあげてゐる。この瓦屋根といふものは、南禅寺に限らず寺院建築の美的根拠の一つだらうが、南禅寺のやうに広い境内に多くの建物が分散してゐるところでは殊に目立つやうに思はれる。
私は「隙に飽かせて眺めた」と書いたが、見物する時に余裕があるとないとでは印象の違ふことは勿論である。南禅寺の塔頭に足場を持つのは地の利を得てゐるといふことであり、私たちはしばしば桜の咲く疏水べりを銀閣寺まで散歩の足を延し、途中にある永観堂や法然院の閑寂を愉しんだり、洛中洛外の寺詣りに出掛けて行つて日の落ちる頃に人一人ゐない境内を急いで帰つたりしたが、どんな有名な寺よりも南禅寺の方に肩を持ちたくなるのは要するにそれだけ親しんだからである。日が落ちてから、体裁だけでも(といふのは毎日出歩くから大黒さんの手前も恥づかしくて)電燈の真下に机を据ゑて原稿を書いたりしてゐると、何やら遠くの方が騒がしい。物見高いのは持前だから、すぐさま細君を語らつて様子を見に行くとこれが映画のロケーションで、ライトが煌々と白い土塀を照し出す前を丁髷姿の浪人が往つたり来たりしてゐる。と、忽ちにして剣戟の響きが起る始末。本来なら神聖な禅寺の中で飛んでもないことだと慨嘆すべきところだが、これが意外に似つかはしく感じられて、腕組をして見物してゐる。それといふのもこの寺が歴史的存在だから、勤皇の志士も新撰組もひとしく吸収してしまふのだらう。私たちの他に弥次馬が殆どゐないのも、いつまでも眺めてゐた理由の一つである。
最勝院は特に建築がすぐれてゐるわけでも寺宝を蔵してゐるわけでもなく、わざわざ見物に来るほどの人がゐる筈もなかつたから、私たちはごく気楽に住んでゐた。裏手へ廻ると見上げるやうな石段が続き、登り詰めたところに奥の院があつて、その辺はひつそり閑としてまさに春|闌《たけなは》だつた。最勝院の庭に白木蓮がひとり咲き誇つてゐたことも、今に忘れることが出来ない。
○
寺を見物するのに、人が尠ければこれに越したことはない。しかし京都奈良の名ある寺ともなれば、見物人がゐないことはまづ考へられないから、私たちは眼の前にうろうろしてゐる群集がゐないものとして、謂はば想像力を負の力で働かせて、寺を見なければならない。それは精神の一種の訓練といふことになる。
しかし凡夫としては、相願はくは他に見物人などゐない方が宜しい。花や紅葉の時節に何となく人が大勢出てゐて当り前のやうな気がするのは、醍醐寺や勝持寺が花見の客を抜きにしては語れず、嵯峨や大原や三尾などの寺が紅葉ともなれば人と落葉とで埋まるのを見馴れてゐるための錯覚で、人がゐなければ花も紅葉も一層風情があるだらう。
私は京都に行く度に、大抵は銀閣寺道にある小さな宿屋に泊ることにしてゐるが、これが銀閣こと慈照寺を見るために地の利を得てゐることは言ふまでもない。寧ろあまり近すぎてかへつて行きにくいといふことさへある。或る時、夕方近くにぶらりと見物に行くと、魚板を鳴らす音が高らかに響いて、見学の時間が終つたことをしらせた。私はわざと遅れたわけではないが、池の向う側にゐたので殆ど一人だけ取り残された形になつてゆるゆる歩み、暫くのあひだ銀閣の影が池の表に浮んでゐるのを恣《ほしいまま》に眺めてゐた。かういふことは偶然でなければ出来ることではない。
それからまたかういふこともある。冬のごく寒い日に、車に乗せられて円通寺に案内されるといふ幸運を持つたことがあつた。私がどこぞ人の行かない珍しい寺に行きたいものだとせがんだ結果で、冬の最中ならば何処でも閑散としてゐた筈だが、さすがに洛北の円通寺まで出掛ける物好きはまづあるまい。麓の深泥池《みどろがいけ》には薄氷《うすらひ》が張つて荒涼とした風景である。坂道を難航しながら車が登つて行き、円通寺に着いた時には市内よりも雪が深いのに驚くと共に、これでは折角の庭園も見る程のことはないだらうと早くも落胆した。
円通寺の庭園は躑躅や山茶花などの植込で名高い。それ以上に生垣の向うに比叡山を借りてゐることで知られてゐる。しかし板張の縁の上に腰を下して見渡したところでは、借景の代りに雪催《ゆきもよ》ひの空が重苦しく垂れ込めて、どこに比叡山があるものやら。植込はみな雪をかぶつて杉苔の色も掻き消されてゐる。ところがその白一色の庭の中では、形の面白い石が区切られた空間にさまざまの変化をつけてゐて、じつと見てゐるうちそこに微妙な波動を生じる。
とは言ふものの、見物も一種の苦行に近い。寒気は冷え切つた縁の上の足腰をしびれさせるし、吹きつける風は顔の筋肉を凍らせる。しかしこの、借景さへもない雪の庭は、およそ庭といふものの極北を示してゐたやうである。これほど閑素高雅な空間は人間業では作れないだらう。それはたまたま自然が作り出してくれた偶然の産物で、もう少し雪が深ければ石の形を見分けることが出来ず、雪が溶けてゐればちぐはぐで調和が取れないにきまつてゐる。かういふところに行き逢ふといふのが、一期一会である。
○
またかういふこともあつた。或る年の暮も押しつまつた一日、若い友人と共に奈良ホテルに泊ることにきめて神戸から奈良に廻り、博物館で愚図愚図したあとで法隆寺に詣でたから、冬の日は早くも落ち、人一人ゐない境内を後にする頃は満天の雲が茜色《あかねいろ》に燻《くゆ》つて、五重の塔を赤々と染め上げた。私たちは振り返り振り返りしながらホテルに向つたが、かういふ凄絶とも言へる真冬の法隆寺の遠景には、それまでに私の抱いてゐたイメージを除き去つて、この寺を永遠の中に位置せしめる力があつた。
私がしげしげと奈良へ行つたのは戦争中で、戦後ほど修学旅行の生徒たちや団体客で混雑するといふことはなかつたが、それでも白日のもと境内に人のゐなかつたためしはない。私は万葉集に凝つてゐて一冊の岩波文庫をいつもポケットに忍ばせ、埃つぽい西の京をてくてく歩きながら「大和の春」といふ、題名だけが先にきまつてゐる一冊の詩集を(三好達治ふうの四行詩集であることを意図しながら)書かうと目論んでゐた。戦争の央ばで、いつ召集が来るかもしれぬ不安はありながら、馬酔木《あしび》の茂つてゐる春、萩の花のこぼれる秋の古寺巡礼は、不思議に心のなごむものがあつた。しかし私の詩集はその中の唯の一篇も書かれることがなかつた。大和にゐる間の、万葉人の昔に自分も生きてゐるやうな心の落ちつきが、騒がしい東京に戻るとすぐにも消え失せてしまつたためだらうか。或は憂愁に鎖されてゐた心が、明るい大和路の寺を巡つて古い仏たちに見参するうちに晴々として、詩を書くなどといふことがどうでもよくなつたためだらうか。法隆寺や薬師寺や興福寺や唐招提寺など、その名前の響きさへも懐しいのは、それらの寺を初めて見た頃の、私の青春とも密接に結びついてゐるからであらう。これらの寺は歴史といふ一つの風景の中で永遠を刻んでゐる。時間はそこでは停止してゐる。それは仏たちの思惟が、その微笑が、その慈悲が、永遠の中で停止してゐるからである。寺の建物は歴史の中にあつて頽《くづ》れやすく移ろひやすいが、仏たちは不壊《ふゑ》であるとその頃私は信じてゐた。
私が冬の荘厳な夕陽に照し出された法隆寺の金堂や五重の塔を見ながら感じたものは、これらの建物もまた永遠だといふことである。戦災に遭ふことがなかつたといふ意味ではない。火災による災害はいつ起るかもしれず、木造建築は常にその危険を孕んでゐる。にも拘らずこれらの建築は、いや多くの伽藍をちりばめた広い境内は、そこが永遠を具現化した別天地であることを示してゐる。金堂は焼けることもあるだらうし、塔は頽れることもあるだらう。しかしそれらの建築は現世に於ける仮象にすぎず、そこに含まれてゐる精神的な力、或は宗教的な力は、常に永遠を目指してゐて火にも風にも損《そこな》はれることはない。
それはまたかういふことにもなるだらう。寺を見るのに他に見物人がゐないに越したことはないと私は繰返したが、見る方の眼が寺の本質を見抜くならば、うろうろしてゐる団体客が眼に入る筈はない。また耳が子供たちの喧騒を聞く筈がない。彼は別天地にゐるので観光地にゐるのではない。その本質とは寺の持つ精神的な力である。その力に感応する限り、恰も仏像が「見る」ものでなく「拝む」ものであるやうに、寺も、「見る」ものから「詣でる」ものとなるだらう。
○
かういふことを言つたからとて、私が仏教を信じてのことではない。我が国の仏教徒は基督教を貶《さげす》み、基督教徒は仏教を蔑《ないがし》ろにする。しかし大部分の人はその何れをも信じないから、宗教といふものに対して殆ど無関心である。それは冠婚葬祭にかかはる風習としてあるばかりで、魂の拠りどころとして求められてゐるやうではない。多くの日本人は或る種の宗教的な心情を持ち、魂の平安を切に望んでゐるに違ひないが、遺憾ながら彼等の魂を慰めるだけの現実の宗教が見当らないといふことではないだらうか。
日本人は寺が好きだ。京都や奈良にあれだけ多くの見物客が行くのは、何も皆が皆寺にばかり行くわけではないとしても、その行程の中に寺が入らないことはないだらう。その場合の寺といふのは、第一は歴史といふ風景の中にある寺であり、第二は自然といふ風景の中にある寺である。見物人の宗旨が何であらうとそれは関係がない。
歴史といふ風景の中にある寺は、殆どの寺がそれに属するだらうが、特に奈良や大和にあるすべての古寺は、その歴史的な雰囲気を除外しては考へられない。それは宗教的感情といふよりは、喪はれた故郷への憧憬であり、喪はれた時間への情緒であつて、それらの寺の中では天平白鳳の時間が停止してゐるのである。そしてすべて永遠を象徴するものは宗教的である。
しかしもう一つの、自然といふ風景の中にある寺の方が、より一層日本人の好みに合つてゐるのかもしれない。それは自然といふ風景の「中にある」と共に、自然といふ風景を「中に持つ」寺でもある。簡単に言へば「庭」を持つ。京都の市中には私が先に述べた南禅寺大方丈をはじめ、天龍寺にしても、龍安寺にしても、西芳寺にしても、大徳寺にしても、金閣銀閣にしても、また円通寺にしても、みな庭によつて名を知られ、その何れもが禅宗に属する。その他にも庭によつて見物人を集める寺は洛中洛外に数多くある。その場合に、一般の見物人は美術史の研究や作庭の勉強に由緒ある庭を見に行くのではない。彼等の目的は寺にあるので、庭は寺の附属物にすぎない。そして寺を見るといふことは、その寺の中にあつて現実の時間を離れた別天地を、言ひ換へれば永遠を、垣間見《かいまみ》るといふことではないだらうか。
禅僧たちにとつて、寺院は修行の場であり、俗界と隔絶した一区域を作つてゐた。その中に庭を作るといふことは、貴族や茶人が作るのとは違つた意味があつたに違ひない。私は何もここで庭園史を略述するつもりはないが、十一世紀の半ばに藤原頼通が宇治の別業を寺に改築した時に、阿弥陀堂とそれを取り巻く阿字池とは極楽浄土を象徴するものに他ならなかつた。足利義満の北山殿(金閣)にしても、足利義政の東山殿(銀閣)にしても、建築物そのものと庭園(池を含む)とが構成したのは来世の具現としての浄土である。その後に中国から神仙説が輸入されて、庭園の池の中に神仙島を作り松を植ゑる方式が流行するが、これまた理想の別天地を見せようとするものに他ならなかつた。
禅寺の庭が意図したものも、浄土世界の表現であることに変りはない。ただそれ以前の庭が具体的写実的に、一種のミニアチュアとして、浄土を描写しようとしたのに対し、禅寺の場合には「枯山水」といふまつたく新しい形式が導入された。池もなく、島もない。いや、あることはあるがただ象徴といふにすぎない。それは自然といふものをその原素である精神に還元させ、時間といふものをその源である無に還元させたものである。そこでは風景は、一つの内的風景である。
従つて禅寺に於て、庭は美的対象であると共に精神の、思惟の、対象でもあつた。浄土宗の庭のやうに未来の理想境をあらかじめ用意するといふよりは、現世の中に垣間見られた永遠であり、集注された精神の夢幻境であつた。京都の禅寺は、たとひ繁華な市内に近接して建つてゐる場合にも、豊かな自然に取り囲まれ、一歩その門に入れば中にはエッセンスだけから成る別の自然が、庭として存在するといふ仕組である。
私たち日本人は自然を好む。従つてまた自然の風景の中にあつて一つの精神的なものを象徴する寺を、その中に含まれる庭と共に、しげしげ見たくなるのは当然のことである。私たちは浄土に生れ変るなどと思ひはしないが、寺を訪れてゐる間には、或る永遠の息吹が私たちの魂に吹きつけて来るのを感じる。私たちはそのやうな静けさを愛するのである。
[#地付き](昭和五十二年九月、信濃追分にて)
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掲載紙誌一覧
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秋風日記 「朝日新聞」昭和五十年十月二十七日附夕刊より十一月八日附夕刊まで日曜祭日を除く 原題「日記から」書肆科野版「櫟の木に寄せて」(昭和五十一年九月刊限定版)所載
幻のランスロ
ビクター・レコード ジャック・ランスロの藝術(3)モーツァルト「クラリネット三重奏曲」ビクターVX―26ジャケット所載(昭和四十六年春発売)
室生さんからの宝もの 「婦人之友」昭和四十九年一月号
一枚のレコード 「読売新聞」昭和四十九年四月二十一日附
鉄線花 「草月」九十四号(昭和四十九年六月発行)
岡鹿之助さんと私 「アート・トップ」二十二号(昭和四十九年六月発行)原題「私にとつての岡鹿之助」
直哉と鏡花 「図書」昭和五十年一月号
「独身者」後記 槐書房版「独身者」(昭和五十年六月刊)所載
にほひ草 「槐の木蔭」二号(昭和五十年八月発行)
三絶 筑摩書房版「中川一政文集」第四巻月報(昭和五十年九月)
朔太郎派 「太陽」昭和五十年十月号
「山海評判記」再読 岩波書店版「鏡花全集」第二十四、二十五、二十六巻月報(昭和五十年十、十一、十二月)
白髪大夫 「インセクタリウム」昭和五十一年一月号
「朝の蛍」 「日本経済新聞」昭和五十一年一月十八日附「本との出会い」欄
曰く言ひ難し 岩波書店版「講座文学」第三巻月報(昭和五十一年二月)
人称代名詞 小学館版「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集四」月報(昭和五十一年三月)
「雪国」他界説 「文藝展望」第十三号(一九七六・春)
「氷島」一説 筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第二巻月報(昭和五十一年三月)
故郷について 「朝日新聞」九州版広告頁(昭和五十一年日附不詳)
美の使者―「臥鹿」 「日本経済新聞」昭和五十一年四月八日附夕刊
神西清のために 「朝日新聞」昭和五十一年六月二日附夕刊 原題「不幸な小説家」
芥川龍之介全集元版のこと 「新潮」昭和五十一年七月号
「深夜の散歩」の頃 「早川ミステリ・マガジン」昭和五十一年八月号
伴奏音楽 「FM fan」十七号(昭和五十一年八月九日号)
「使者」、「使命」、または世に出なかつた或る雑誌のこと 深夜叢書版「『近代文学』創刊のころ」(昭和五十二年八月刊)所載
「死都ブリュージュ」を読む 「週刊読書人」昭和五十一年十二月十三日号
富本憲吉と木下杢太郎 六興出版版「富本憲吉模様集成」(昭和五十二年三月刊)挟込み
犀星歿後十五年 共同通信社経由「信濃毎日新聞」昭和五十二年三月二十三日附
或る先生 「子供と教育」昭和五十二年六月号
中野重治の座談 筑摩書房版「中野重治全集」第三巻月報八(昭和五十二年六月)
私にとつての堀辰雄 「国文学」昭和五十二年七月号
小布施の秋 書肆科野版木村茂銅版画集「小布施」(昭和五十二年七月刊)序文
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八つの頌――
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ネルヴァルの狂気 筑摩書房版「ネルヴァル全集」内容見本(昭和五十年二月)
朔太郎の声 筑摩書房版「萩原朔太郎全集」内容見本(昭和五十年四月)
ベルナノスの二つの貌 春秋社版「ベルナノス著作集」第一巻月報(昭和五十年十月)
中島敦の星 筑摩書房版「中島敦全集」内容見本(昭和五十一年二月)原題「中島敦頌」
高橋元吉の泉 煥乎堂版「高橋元吉詩集」内容見本(昭和五十一年五月)原題「清冽な泉」
丸山薫の風景 角川書店版「丸山薫全集」内容見本(昭和五十一年秋)原題「丸山薫頌」
寿岳文章の「神曲」 集英社版「神曲」内容見本(昭和五十二年二月)
露伴の宝庫 岩波書店版「露伴全集」内容見本(昭和五十三年四月)
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風景の中の寺 毎日新聞社版「古寺百景」(昭和五十二年十一月刊)跋
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後記
今度の随筆集は今までのが或は文学関係とか、或は身辺雑記とか、或は音楽美術とか、多少とも同じ傾向のものを集めて分類してゐたのに対して、主として昭和五十年から五十二年に至る間の随筆エッセイを、ほぼ年代順に集めただけのものである。それに落ち零れてゐたものを少し拾つた。
それといふのも本文中の随筆にしばしば枕として出て来るやうに、私はここ数年、病と仲良くしすぎてはかばかしい仕事も出来ぬ有様、小説にはまつたく筆を染めず、僅かに短い随筆やエッセイの類を病の合間に物してゐるばかりである。従つてその数も尠く、分類したくても分類のしやうがないから、新しいものを年代順に並べるといふ藝もないことと相成つた。但しこの方が変化があつて、似たもの同士が並ぶよりは起伏に富むのではないかと内心思はないでもない。
そこで随筆と言はんよりはエッセイに近いものまで混ることになつたが、近頃の私は正面切つたエッセイなどとても書けず、どれも随筆との合《あひ》の子《こ》みたいな軽いものばかりだから、それ程の違ひがあるとも思はれない。またこの中に含まれる「独身者」の後記について一言すれば、私は今まで単行本に附けた後記の類を随筆集に収録したことはないが、この「独身者」といふのは私が青年の頃初めて書いた未完の長篇小説で多少の思ひ出もあり、それにこの単行本はごく少部数の限定出版でさして人目に触れた筈もないから、ここに加へたことを大目に見て頂きたい。後記といふのは大体が随筆の領分である。
それにもう一つ、この随筆集の原稿を纏めたのは、今年の五月、私が胃を病んで北里研究所附属病院を退院した後に我が家で静養してゐる間だつたが、新聞雑誌の切抜に手を入れる気力もなくて元の原稿そのものを出版社に廻した。従つて歴史的仮名遣ひのままである。私はもともと歴史的仮名遣ひを墨守し、ただ発表のときは相手次第、新仮名でもしかたがないと諦める方針だつたが、この際少し意地を張ることにした。歴史的仮名遺ひだから難しいとか読みにくいとかいふのは、畢竟馴れの問題で、馴れさへすれば新仮名の文章を読むのとさして変らないだらう。読者諸氏に対して特に不親切といふことにはなるまいと思ふ。
私は原稿を渡した後、いち早く信濃追分に移つて安静静養を旨としてゐたが、そこでまた胃に異常を来して校正刷などに附合ふゆとりもなくなつた。揚句《あげく》の果《はて》またぞろ病院暮しの羽目になつて、諸事出版部の徳田義昭君に任せ切りである。それやこれやで発行が後れたことも申訣なく思つてゐる。後記といふのは随筆の領分だと前に書いたが、これではまるで病状報告で我ながら情ない。この本が出る頃にはもつと元気になつてゐたいものである。
昭和五十三年九月二十一日、軽井沢病院にて
[#地付き]福永武彦
この作品は昭和五十三年十月新潮社より刊行された。