福永武彦
第二随筆集 遠くのこだま
目 次
旅
京だより
貝合せ
梓湖の秋
北海道網走周辺
海の想い
旅情
心
失われた青春
友情の中の愛
純潔について
美しいもの
人生の学校
カタルシスについて
始める前
眼・耳
幻想の画家たち
映画の限界と映画批評の限界
西本願寺本三十六人家集
画家のアフィシュ
豪奢と静寂と悦楽と
好きな絵
ギュスタヴ・モローと神話の女
「眼」と「手」
ワグナー体験
音楽の魔術
私にとっての音楽
日常茶飯
カメラの一ケ月
テレヴィの魔力
東大仏文研究室の今昔
紫の背広
私と外国語
蛇の話
絵の話
新撰いろはかるた
東京の夏
習字
英彦山ガラガラ
前売切符
時計の話
たかが金魚
四つの展覧会
ピカソ・ゴル・妄想
ブラックの版画
ルオー遺作展
先駆者フジタの道
四枚の絵
金計量者(レンブラント)
沈黙の支配する町(ヤン・ファン・デル・ハイデン)
幸福の岸辺(ボナール)
現代の呪術的風景(フンデルトワッサー)
四つの映画
「野いちご」と意識の流れ
「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義
「太陽はひとりぼっち」と内面的風景
「アラビアのロレンス」と「わんぱく戦争」
四つの音楽
春の夜のシューベルト
夏の夜のヴィヴァルディ
秋の夜のアルビノーニ
冬の夜のモツァルト
掲載紙誌一覧
後記
[#改ページ]
[#小見出し] 旅
京だより
一、土鈴
この前京都へ行った時のことだが、或る晩、細君と河原町を散歩していて、ぶらりと一軒の古道具屋にはいった。二人とも、なんぞ掘り出し物でもないかときょろきょろ見まわしているうちに、細君があら土鈴があるわ、と頓狂《とんきよう》な声を出した。見れば棚の隅に、ほこりだらけの箱に詰め込まれて、数多い土鈴がころがっている。店番をしている若い男の店員にさっそく見せてもらうことにした。
と言うと如何にも造詣があるようだが、実はわが家にたった一つ、人から貰って、英彦山《ひこさん》ガラガラと呼ぶ福岡県の郷土玩具があるだけにすぎない。(但しその名前は後のちまで知らなかった。)音色がひどく澄んでいて、かねがね土鈴なるものに関心があったから、僕も細君も、旅先でこれほどたくさんの土鈴にお目にかかったのにはびっくりした。何でも蒐集していた人が手放したとかで四十個ばかりある。三つや四つならただでさしあげます、と店員に言われても、残念ながらどれが珍しいのか当方には見当もつかない。一つ一つ鈴の音色をたのしんだ末全部ひっくるめていくら、と細君が切り出した。先に見つけたのだから、当然自分が買う気でいる。僕はにやにやして彼女が店員と掛け合うのを見ていた。
おぼし召しでけっこうです。これが返事。商談ととのったと見たのか、早くも土鈴を一つずつ紙に包み出した。心配になって来た細君が尚も値段を訊くと、店の奥からハトロン紙の茶封筒を持って来て、僕らの前に置いた。
この中においくらでもどうぞ。そう言ったなり、せっせと包装を続けている。細君と僕とは顔を見合せるばかり。これが京都式商法というものか。
私のお小遣いで買うんだから、たくさんは出せないわよ。細君は遂に断固として宣言し、金子《きんす》そこばくを入れ、僕らは大荷物を抱えて、礼を言われながら店を出た。諸君、一体彼女はいくら入れたと思いますか。
[#地付き](昭和三十二年五月)
二、京の雪
押し迫った年の暮から正月にかけて、二週間ほど京都で過した。出版社に拉致されて宿屋の二階に蟄居《ちつきよ》させられたのだから、暮も正月もなく、せっせと働かなければならない。しかしまあ忙中閑ということはあって、ひとり身の侘びしさながら京の風情は充分に味わえた。
宿は南禅寺の畔《ほとり》にあり、私の泊った二階の部屋は「雨月の間」という。変な名前だから、たしか上田秋成の墓はこの近くの筈だが、それにあやかったにしてはあまり縁起がよくないなと思い、女中さんに尋ねてみた。すると女中さんが南の窓を開いて、庭の中ほどにある古井戸を指さし、あれが秋成の井戸どっせ、と教えてくれた。学無キヲ恥ヅとはこのことで、秋成と井戸とどんな関係があったかしらん、秋成が井戸に飛び込んで死んだとは聞いてないぞ、と自問自答した。彼女の説明によれば、原稿の反古をその中に捨てた有名な井戸なのだそうである。(口惜しいから東京に帰ってさっそく調べてみたら、秋成は死ぬ二年前の文化四年に、草稿を井戸に投じたと出ていた。晩年の十数年は南禅寺の近くを転々とし、自ら墓を南禅寺畔の西福寺に卜《ぼく》している。)
そこで毎日、古井戸を見ながら――と言いたいが寒いから窓を明けてはいられない。モーターで水をくみ上げる音を聞くのみである――憮然として仕事に励んだ。そしてやたらに書きそこないの原稿用紙を紙屑籠にほうり込んだ。
女中さんとはそれから仲好しになったが、外国人のお客から来た手紙に返事を書いてくれと頼まれたのには弱った。秋成の次は兼好法師の役割である。さてさて京都というところは、古典的雰囲気の豊かなところだと感じ入った。
大晦日の夜は八坂神社のおけら参りに出かけて、時雨《しぐれ》に濡れて火縄がくるくるまわる情景を見学し、宿屋の蒲団の中であたり近所の寺々の打ち鳴らす除夜の鐘を聞いた。あくる元日は平安神宮へ初詣でとしゃれたが、人波がどれも男女|組《くみ》をなしているのに、こちらは一人きりだから歯がゆい思いに駆られた。因《ちな》みに京都の女子は、十人のうち九人までが和服姿なのは、さもありなん。
こういうふうに、異邦人的感傷に耽っていると、あたかもよし七日から雪である。かねがね京都の雪はさぞかしとあこがれていたから、窓を明けて白く降りつもった東山から黒谷の塔などを眺め、冷えまっせ、と言われた通りに冷え切った。地図を片手に町を歩いてみて、「下京や雪つむ上の夜の雨」という凡兆《ぼんちよう》の句の実感を得たりした。
出版社の車で、洛北は円通寺へ雪見に行った。途中の深泥池《みぞろがいけ》には薄氷が張り詰め、枯れ蘆が風になびくところでまず感激し、次第に雪の深くなる坂道を登って、円通寺の庭の彼方に叡山を眺めて、うんと唸った。庭は一面の雪で、枯山水も苔もない。ツツジもモミジもない。四季を通じて最も不愛想な顔をしているには違いないが、しかし雪の庭は庭のエッセンスのようなところがある。但しこの風流は少しばかり寒すぎた。
庭といえば、南禅寺の近くで二つほど庭を見た。一つは個人の屋敷の庭、もう一つは非公開の庭だそうで名前はあげないが、ところどころの松や枯れ枝や岩の上に、残雪があるのも奥ゆかしいものである。
さて東京へ帰って、雪どころか雨も降らず、スモッグとからっ風との中で仕事の続きをしていると、やたらに京都が恋しくなる。せめて一年ぐらい住んで、町あるき、寺参り、お庭拝見で日が送れたらと思う。秋成の井戸のことがあるので、「胆大小心録」を読んでいるが、その中に「貧と薄情の外にはなるべきやうなし、云々」という京都の悪口にぶつかった。ただしこれは秋成が「十六年すんで」みての感想だから、私のような東京住まいの人間には、へそ曲りの爺さんの悪口としか思えないのである。
[#地付き](昭和三十八年一月)
三、風流初心
この春は三週間ばかり京都で過した。というといかにも悠々自適で風流三昧の境地のように思われるかもしれないが、さにあらず、京都のさる出版社が、私が東京にいるのではさっぱり仕事に精を出さないものだから、業《ごう》を煮やして、私を京都の宿屋へ幽閉したものである。そのために私は大文字山を窓前に見る景色のいい二階に机を構えて、桜の花のほころびるのも知らず、ひたすら勉学にいそしんでいたのだから、哀れはここに極まったと言えよう。毎日、朝から晩まで、近くの寺に鳴る鐘の音を聞き、山鳩の眠そうな声を聞くのみで、厳重な監視のもとに大いに精励した。
とは言うものの、時は春、ところは京都であるから、風流心の動くのは如何《いかん》ともしがたい。まず鳩居堂に行って、筆、墨、半紙、巻き紙、ついでに手習いのお手本まで買い込んだ。それから本屋に行って歳時記を仕込み、ぽかぽかと日のあたる畳の上にごろりと横になっては句をひねり、起き上っては、墨を磨《す》って右の俳句をしたためる。
但し、句も物になっていず、手の方は中学校以来お習字というものはしたことがないから、人に見せるようなものが出来る筈はない。そこでしかたなしに、留守番の細君あてに巻き紙さらさら、と言いたいが、とてもさらさらとは行きかねるから、おぼつかない文面をしたため、出来たての句を挟み、その下手なところはスケッチを加えてごまかし、なんとなく風流な心持ちになって、封をする。手紙一通にべらぼうに時間がかかるが、これも机に向っての仕事だから、宿屋では私みたいによく勉強する人は見たことがないと褒められた。
実はそれほど閉じ籠ってばかりいたわけではない、私のいた宿屋は銀閣寺道にあるが、そこから二つ先の電車の停留場の前に、およそがらくたの限りを集めたような古道具屋があり、晩めし前にちょいとそこまで散歩に行く。そこで安くて面白いものを買って来る。例えば大錦《おおにしき》という大阪相撲を型取った文鎮である。私なんか聞いたこともない昔のお相撲さんで、宿屋のおばあさんからその人気のほどを聞かせてもらうと、この百五十円の買い物がばかに掘り出しのような気がする。
それから小さな京焼きの皿とか、紫檀の茶托とか、鉄の朱肉入れとか、どれも百円から三百円までの品物、そうした小物を机の上に並べて、傍らに硯(これは冬に京都に来た時に買った端渓《たんけい》の小硯で、愛用して持ち歩いている)を置き、歳時記をめくっていれば、我ながら文人的心境に達する。ここで白状すれば、私の強制されていた仕事は、異国《とつくに》の詩人に関するものだったし、予定の締切日がはるかに過ぎ去っている以上、実はゆっくり墨を磨ったり句を案じたりするのは、私のせめてもの抵抗であった。
というふうに、日夜精励し、わずかに古道具屋の安物をあがなって憂さを晴らしていたところ、仕事もどうやら片がつき、帰る日も迫ったところで、とうとう風流の魔にみこまれた。たまたま友人と会って、この友人が彼の三高時代の旧友であるというさる著名な骨董屋に私を連れて行ったのである。
確かに、安物を安く買って来て、ぞんがい掘り出しものではあるまいかと夢想するのは、一種の愉しみである。しかし本当にいい品物を見ると、思わず目がくらむというのは、風流な人物にとっては当然の成り行きであろう。私は、せっかく作った俳句でさえ人前に披露するのを恥じるくらいで、硯や墨も実用に供するわけではないから、とうてい文人たるの資格はないが、いい品物を見るとそれが上等であることを鑑別するぐらいの素養はあるから、見せられた品物のうち、つい手に取ったきり返すのを忘れてしまったのがあったとしても無理ではあるまい。たまたま出版社の人も同席していたので、あとはたのむよ、とお願いして、取り敢えず有金残らずはたいて手附とした。物は古赤絵の振り出しと古染付の香合である。逸品であることは、私がその晩どうしても寝つかれなかったことでも分ろう。
それで三週間のカンヅメでした仕事の、純益がすべて吹き飛んだ。風流の初心はやはり安くはあがらないものである。
[#地付き](昭和三十八年四月)
貝合せ
a
貝殻を集めるというのは、海岸に行った人なら誰しも覚えのあることで、特に学問または趣味として蒐集している人を別にすれば、子供っぽいと言われてもしかたがあるまい。しかし人は心の中に多少に拘らず子供の心を保存しているものだし、浜辺を逍遥しながら忘れていた子供の心を思い出して、つい足許から色の美しい貝殻を拾い取るというのは自然の情である。大の男でさえそういうことはあろうから、これを女子供の戯れとのみは言い切れまい。それは一つには、自然の産物として、貝殻は小さくて、手頃で、芸術的で、押花のように色があせることもなく、石のように重たくて持ち運びに不便だということもない。
私は海岸に住んでいるわけでもなく、たびたび旅行をするわけでもないから、特に貝殻を多量に蒐集しているとは言えない。この頃はデパートなどへ行けば、南方産の綺麗な貝殻を飾り物用やアクセサリ用に売っているのを見かけるが、私はわざわざ金を出して買い集める程の蒐集癖は持ち合さない。私のはすべて旅行の思い出に持ち帰った品ばかりである。中でも増穂《ますほ》の浦で産した小貝が大部分を占めている。その貝殻のことを少し書いてみる気になった。
b
東京オリンピックのあった年の十月の下旬、私は一人金沢から能登半島に遊んだ。初めての土地で、金沢は知人がいて案内してもらったが、能登の方はガイドブックを予めぱらぱらと見た程度である。しかしそれによって、能登金剛と呼ばれる福浦《ふくら》から富来《とぎ》に至る奇巌地帯は一見の価値があると判断した。それと共に、富来の海岸は砂浜が続いていて、そこは古来三十六歌仙貝の産地として名高いという解説も読んだ。これが私の好奇心を刺戟したので、私はローカル線の終点からバスに乗って福浦に行った。
福浦は小さな漁村で、古くは渤海国《ぼつかいこく》の使節が上陸したと言われる港だが、今は見る影もなくさびれている。私がバスを下りてみると、秋雨がぽつぽつと顔にかかって、土地の人らしい相客たちは瞬くうちに四散してしまい、残ったのは私一人である。私は雑貨屋の店先に腰を下し、牛乳などを飲み、三十分ばかり遊覧船の戻って来るのを待っていた。底引き漁をしているとかで、重苦しい海底ハッパの音が時々聞えて来る。ひどく心細い気持がした。
やっと遊覧船が着いて、二十二人乗りの船を一人で借り切った。雑貨屋のおかみさんが値切ってくれたので、六百円で富来まで行ってくれることになった。それが午後の三時、船はすぐに出航したが、船長は(船長といっても乗組員はこの男一人である)黙々として梶を取るばかりで物も言わない。甲板に出れば雨に濡れるし、船室にいれば窓硝子が水滴に曇って定かに景色も見えず、せっかくの能登金剛の雄景もそれほど印象には残らなかった。眼前にそそり立つ奇巌絶壁は、奥伊豆の子浦《こうら》から波勝岬《はがちみさき》へ行く航路から見るのと似たようなものだが、ただこの方が遥かに荒涼凄惨な感じがした。とにかく三十分ばかりで着いてしまったから、私は船着場から鞄をぶら下げててくてく歩き、湖月館という宿屋に着いた。
富来も大して賑やかな町ではなく、宿屋も鄙《ひな》びた小さな宿屋である。金沢から電話を掛けておいたが、宿の中は森閑としていて、ただ今晩は宴会があるからうるさいかもしれないと念を押された。それを言ったのは、賢そうなやさしい娘さんで、どうやら女中さんではなくこの宿屋の娘さんと見えた。浜辺へ出る道を教わり、日の暮れるまでに大急ぎで見物に行くことにした。時刻はもう四時で、小雨はいつのまにかあがったらしい。私はレインハットをかぶりレインコートを着込んで、教わった道をさっきの船着場の方へ戻り、途中で手摺を朱に塗った太鼓橋を渡った。その先はすぐに浜辺で、そこが増穂の浦の南のはずれである。私は砂浜を踏んで歩き出した。
船で断崖絶壁のそそり立つ下を縫って来たばかりだから、この白砂青松といった海岸の印象は一種異様なものである。まるで嘘のように違う。しかもこの浜辺を行き尽すと、すぐにまた山が海になだれ込んだ奇巌地帯となるらしい。見渡す限り、遠くまで砂地が続き、左には日本海が、波静かとはいいながら沖合には白く吠える波頭を見せ、右手には背の低い松林が砂丘の上に細長く続いている。そして足許を見ると、これが砂か貝か見分けがつかないほど、小さな貝殻で埋め尽されている。私は波打際に近いあたりを、時々腰を屈めて貝殻を拾いながら歩いて行ったが、立ち止れば必ず綺麗な貝殻が数限りなく眼につくのだから、殆ど一歩も進めない。帰りに拾うことにきめて、とにかく先の方へ歩いて行った。
それは如何にも旅情を誘うような物寂しい場所である。打寄せる波の音は絶え間もなく、松風の響きがかすかにそれに伴う。波打際に沿って僅かに一組か二組の足痕が続いているが、前を見ても後ろを見ても人影一つ見えない。日は次第に傾き、雨雲の低く垂れた日本海の上に夕闇が少しずつ濃くなって行く。それは私が嘗《かつ》て見た風景の中でも、魂に沁み込むような暗く侘びしい風景であった。しかし気を取り直して足許を見ると、そこには自然の最も美しい標本が、色とりどりに乱れ落ちていた。殆どが小さくて、豆粒からせいぜい腕時計くらいのものばかりである。私は腰を屈めるのにくたびれて、その場にやおら腰を下した。そして片手に一掬いの砂を取ってみると、何とその中にはけし粒ほどの、しかも完全な形をした貝殻の赤んぼが、無数に混っているのである。造化の妙というような言葉が思い合される。しかしよく調べている暇もない。次第に手許が暗くなって来ているので、腰を上げざるを得なかった。その上、雨がしょぼしょぼと降り始めた。私は明朝、バスで立つ前にもう一度この浜へ来て貝殻を拾うことにしようと思い、急いで足を運んだ。砂地は湿って歩きにくかった。漸く橋のところまで戻った時には、日が落ちて町には電燈がちらほらと点いていた。
夕食を運んでくれたのはまことに垢抜けしない女中さんで、私がハンカチに包んで持ち帰った貝殻を検分していると、奇特な人もあるものだという顔で私を見た。私が娘さんに教わって浜へ行って来たのだと答えるや、大きな声で笑い、あれはこの家の若いお嫁さんだと告口して、それなら貝殻標本を見せてもらいなさいと私にすすめた。私が食事を済ませると、頼みもしないのに鄙びた声で土地の祭唄を歌ってくれた。そして、はいお粗末さまと附け足した。
娘さんではないところの若いお嫁さんが、幾つもの箱を重ね持って現れたのは、その暫く後である。最初の時は学生のような洋服を着ていたのが、今は着物に着かえている。それでもごく若そうである。御主人は高等学校の先生をしていると嬉しそうに言った。
箱の中にはたくさんの貝殻が、それぞれ分類して入れてあった。桜貝は桜貝だけ、ふじつぼはふじつぼだけといった具合に。そしてこれらの貝殻は、御主人のお母さんが主として集めたものだそうである。それも冬の間、十一月から三月にかけて、朝の八時頃からお弁当持ちで日の暮れるまで浜に出て拾ったものだという。雪の間のものが特によく、色艶がいつまでも変らない。若いお嫁さんもお伴をして一緒に行くとのこと。かじかんだ指の先で拾い集めた貝殻かと思えば、あだやおろそかには見られない。そして集めた貝殻を小さなビニイルの袋に区分けして、一年間の泊り客のお土産に渡すのだそうである。私はそれを聞いて、サーヴィスというものの本質がそこにあるように感じた。
c
若いお嫁さんが見せてくれたものに、三十六歌仙貝の実物標本があった。それぞれの貝に優雅な名前がついていて、一般に呼ばれている名称と違ったものもあるようだが、私はそれらの詩的な美しさに魅せられて書き写して来たから、次に記しておく。
すだら、梅の花、さくら、にしき、ほら貝、うらうつ、むらさき、なでしこ、きぬた、わすれ、千代の花、ますほ、いろ貝、みやこ、さたえ、白貝、なみわがしわ、まくら、ちどり、いたや、あわび、うつせ、あさり、ものあら、あし貝、はまぐり、小貝、雀貝、あこや、かたし、みなし、志ほ、かたつ、みぞ、しじみ、ちぐさ
三十六種、大部分は女の爪ほどの小さなものである。そして増穂の浦に産する貝殻は、すべて小さなことに特徴がある。三十六種を完全に揃えることは容易でないが、四百種くらいはあるらしい。
この増穂の浦が気象的に、また博物学的に一風変っているのは、対馬海流のせいである。日本海に突出した能登半島の、ちょうどこの部分に暖流が突き当る。砂上の松林には熱帯系の菩提樹が自生しているし、南方熱帯種の左巻きマイマイが在来種の右巻きのと共に棲んでいる。そして貝殻も、沖縄や琉球などから漂着するらしく、南海産の大型の貝殻をそっくり小型にしたものが多い。従って形態や色彩もさまざまで、しかも愛玩に適している。
この富来というところは昔から俳諧の盛んな土地柄だが、江戸の文化の名残は最近まで残っていたらしい。六歌仙貝、三十六歌仙貝、百歌仙貝などを集めて、箱に入れて珍重する風習が、元禄以後に広く全国に行われ、この能州増穂の浦は相州由比が浜、紀州和歌の浦と並んで、産地として日本三名所の一つに数えられていたという。その場合、歌仙の歌の文句を貝殻と照し合せて覚えることは、婦女子の教養の一つであった。このゆかしい江戸時代の風習は最近までこの富来町にだけは残っていたらしいが、若いお嫁さんはもうそれを知らなかった。
三十六歌仙貝の代表はさしずめますほ貝だろうが、私が思い出すのは芭蕉「おくのほそ道」の殆ど最後にある一節である。
十六日、空|霽《は》れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種《いろ》の浜に舟を走《は》す。
のところで、そこに句が二つ出る。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪の間《ま》や小貝にまじる萩の塵
また「泊船集」に次の句がある。
いろの浜に誘引《いざなは》れて
小萩ちれますほの小貝|小盃《こさかづき》
この種《いろ》の浜というのは福井県の敦賀湾の西岸に当り、古来貝殻の名産地として知られた歌枕である。既に西行の「山家集」に次の歌がある。
潮染むるますほの小貝拾ふとて
色の浜とは言ふにやあるらん
この歌の内容からも知られるように、ますほ貝は主として淡紅色を帯び、また紫がかったものもあるし、色の浜にふさわしいものであろう。しかしますほ貝の名を取った増穂の浦の方は、芭蕉も言及していないようだから、江戸時代も末に近くなってから人に知られるようになったものと思われる。
d
貝あわせという遊びがある。物合せの一種で、珍しい貝を左右二組が互いに見せ合って優劣を争うみやびやかな競技である。これですぐに思い出されるのは、「堤中納言物語」に含まれる「貝あはせ」という短い物語であろう。
蔵人《くろうど》の少将が、有明の月にさそわれてうかれ歩くうちに、やがて朝霧のたちこめた中に、女の子たちが出たり入ったりしている家を見つける。その一人の、瑠璃《るり》の壺に小さな貝を入れて走ってくる少女に見咎められて、先妻腹のここの姫君が、後妻腹の姫君と明日貝合せをすることになっているが、向うには有力な味方が大勢ついていて貝がたくさん集まっているらしいのに、こちらは弟君と二人で後ろ楯もなく、勝負のほどが心細いというようなことを聞かせてくれる。そこで少将は頼んでこっそり中へ入れてもらい、姫君と弟君との問答などを洩れ聞く。隠れている「西の妻戸に屏風押したたみよせたる所」に向って、さっき案内した少女が三、四人ばかりの仲間と共に来て、どうか御主人様を勝たせてあげて下さいと言って観音経を誦《とな》え始めるので、少将は蔭から小さな声で、
かひなしとなに歎くらむ白波も
君がかたには心よせてむ
と歌を詠んで聞かせる。暗に観音のふりをして。
抜け出して屋敷に帰ると、たくさんの珍しい貝を用意し、それを入れた小箱を洲浜《すはま》(洲浜というのは洲と浜とを形取った一種の盆栽のような飾り物の盤である)の上に据え、更にその上に金泥を塗った蛤や貝を蒔いて、翌朝、例の女の子に渡してやる。そして前と同じ場所に入れてもらって眺めていると、二十人ばかりも女の子たちが集まって来てその洲浜を発見し、大騒ぎを始める。「誰がしたるぞ」と口々に訊くうち、一人が「思ひ得つ。この昨日の仏のし給へるなめり。あはれにおはしけるかな。」と悦んでいる。「堤中納言物語」の例に洩れず、この話もぷっつりと終って、貝合せの場面までは書いてない。原文はごく短い。
貝合せは、平安朝末期頃から貝覆いと混同されるようになった。貝覆いもやはり物合せの遊びだが、これは三百六十個の蛤の貝殻を右貝と左貝とに分け、右貝(地貝《じがい》)をすべて並べ、左貝(出貝《だしがい》)を一つずつ出して、合ったものを取る競技である。しかし蛤の殻が三百以上も並んでいれば見当もつかないだろうから、絵を描いたり、歌の上の句下の句を別々に書いたりするようになった。ちょっと百人一首の遊びに似ている。貝覆いは江戸時代には盛んに流行したようであり、芭蕉の評語に「貝おほひ」の一巻がある。
しかし私は純粋の貝合せの方に興味がある。王朝の貴族たちの優雅な遊びに使うためには、姫君や女房の手に触れた貝の種類は、今ほど多くはなかったろうが、珍しいものを入手する点では遥かに困難だったろう。瑠璃の壺に入れて宝石のように大事にしていたに違いない。その情景が眼に見えるようである。
私は宿屋の若いお嫁さんから、お好きなのをあげましょうと言われて、特ににしき貝をたくさん貰った。自分が拾ったのもそれが多かった。但しにしき貝なのか、それとも檜扇《ひおうぎ》と呼ぶ種類のものなのか、貝類図鑑を見てもよく分らない。というのは図鑑にあるものよりもすべて小さく、最大のものさえ殆ど小指の爪の大きさしかない。扇型で、前耳が張り出し、放射肋《ほうしやろく》が走って、イタヤガイ科に属することは確かである。その色はおよそ千差万別で、黄、橙、紫紺、茶、臙脂《えんじ》、朱、等のさまざまの色が混っている。貝合せをする相手もいないから、時々原稿用紙の枡目の中に並べて、一人で色の配合を愉しんでいる。海の響きをなつかしむと言うが、どの貝殻もあの暗鬱な日本海の風景に似つかわしくないほど華かで明るい。
e
その翌朝は雨が降っていた。私は宿屋の傘を借りて増穂の浦へもう一度出掛けたが、傘を差していたのでは貝拾いでもあるまいから途中で諦めた。宿屋に戻って土地の俳人の句集などを繙いているうちに、バスの時刻になった。気の毒なほど安い宿賃を払い、お土産だという例のビニイル入りの貝殻まで貰って、この素朴な宿屋をあとにし、北へ行くバスに乗り込んだ。
今でも私は、その時の貝殻を並べてみては、湖月館というあの小さな宿屋と、むすめむすめした若いお嫁さんのことを、思い出すのである。
[#地付き](昭和四十二年三月)
梓湖の秋
私はこの夏は東京の家に閉じ籠って、それこそ一歩も外へ出なかった。長い作品にかかりきりで日夜精励したといえば聞えはいいが、何しろ今年の暑さは猛烈だったし、それに暑さを信濃追分の山荘に避けるのが例年のことなので、身体がすっかりなまっていて、東京の町なかなどに出て行けば、たちまち日射病にかかる恐れがあった。その仕事も九月の十一日に無事に終了し、やっと四、五日の暇ができた。そこでまず信濃追分に行って一泊し、さてどこぞ寂しい山の中に早い秋でもたずねようと、M君という若い友人を語らって、行き当りばったりに小海《こうみ》線に乗り込んだ。
私がまだ学生だった時分に、友人と二人で小海線に乗ったことがある。全線が開通してから幾年も経っていない頃で、参謀本部の地図にも汽車の線路が出ていなかったから清里の駅長室でそれを書き込んでもらったりした。野辺山では一軒きりの宿屋がまだランプで、あまりみすぼらしいから泊るのを敬遠した。その次の駅が信濃川上である。そこで下車して千曲川の上流のあたりを散歩したら大いに気に入ったが、ここでも宿屋が見つからなかった。そのころの小海線は蒸気機関車が喘ぎながらゆっくり走っていて、沿線には野生の鹿や兎が見られたし、列車から飛び下りて秋草を摘み、また走れば列車に追いつけるほど、のろのろしていたものである。もっとも我々は口に出してそう言ってみただけで、万一線路に置いてきぼりを食って熊にでも襲われてはかなわないから、飛び下りるのはやめにした。
さて私たちは信濃川上の駅で下車した。小諸から急行でわずかに一時間だから隔世の感がある。そこで駅員に、千曲川の上流でここから一番遠くにある宿屋を教えてもらった。たった一台のタクシイが戻って来るのを待ち、千曲川に沿って約三十分走ったところで、梓川と合流する。そのほとりにある小さな宿屋で、他に泊り客はなかった。鞄を置いてあたりの探険に出かけた。
千曲川もこの辺では水量がすくない。山羊が川原で草をはみ、岩の上では、しきりに黄セキレイが飛び交っている。三国峠や十文字峠や甲武信嶽《こぶしがたけ》の登山口に当っているから、晴れてさえいれば周囲に山ばかり見える筈だが、霧雨が降ったり歇《や》んだりして、残念ながら景色を嘆賞するわけにはいかない。そこで今度は梓川に沿って歩いてみた。少しばかり坂を登ると、ダムが見え、滝になっている。さらに登ると梓湖が一眸のもとに見おろされた。
これは流砂を防ぐための人造湖で、あとで聞いたところでは、信州では一番早く結氷するのだそうだ。霧が動き、水面に白い雨足が走ったかと思うとすぐにひっそりと静まる。湖畔に釣りをする人影が、手前に一人、向う側に一人見える。道ばたにレストハウスと称する建物があり、そこで道を教わって湖まで下りることにした。傘をさしたりつぼめたりしながら、坂道をくだった。
くだり切ったところは砂洲になっていて、幾筋もの細い流れが湖に注いでいる。少くともそれを三つ越えなければ湖畔までは行かれない。流れといっても、ひと思いに飛び越せないほどではないが、私は慎重を期して、途中に飛び石を置いた方がいいんじゃないかと言った。
M君は筋骨隆々たる力もちだから、軽々と石を運んで来てくれると見越していたら、先生これでいいでしょう、と草叢《くさむら》から見つけ出したものは、ささやかな流木である。とても橋を掛けるというわけにはいかないが、流れの中央に置けば水をかぶるほどではない。よし来たと私がすぐさまその上に片足を置き、向う岸に飛び移ろうと重心を掛けた瞬間に、流木はくるりと回転し、私の片足は見事に水の中に転落した。そのまま跳ねて向う岸に飛び移ると、M君はひらりと私の傍らに飛び来って言うには、やあ濡れましたね。
濡れましたねもいいところで、短靴の中はびっしょりだが、あと二つほど流れを渡り、砂洲の上を水際近くまで行って、やっとのことで靴と靴下とを脱いだ。ハンカチで濡れた足を拭き、もう片足で立ったままあたりを眺望した。
さして広くはないが、澄み切った湖である。夕暮が近く、対岸の山肌に霧が忍び足で下りて来ている。不意にけたたましくレコードが鳴り始めた。さてはレストハウスが我々の帰りを待ち受けて示威運動をしているな、と二人して笑ったが、それもすぐに歇み、あとは一層静かになった。すぐ前に防水の身支度を整えた男が、釣竿を構えてしゃがんでいる。
と一閃して魚の腹が波紋をえがいた。男は上手に竿を引き、やがて網の中に掬い取った。見物人である我ら二人を充分に意識しながら、砂洲の中ほどを掘って作った小さな生簀の中に放した。
何が釣れますか、と訊いてみた。
これは鱒、こっちは岩魚《いわな》。
なるほど生簀の中にもう一匹小さいのがはいっている。
やっと釣れたというところでしょうね、とM君が小声で悪口を言った。それにしてもうまい時に釣れたもんだ。
その男は竿をもう一度仕掛けると、湖に沿って歩き出した。長靴でじゃぶじゃぶと流れを横切り、はるか向うに小さく見える仲間の方へ飛んで行く。やがてその二人が何やら立話をしているのが見える。
あれは自慢しに行ったんだな、と私は言った。
湖が一段と暗くなり、時雨《しぐれ》が水面に音を立てて降り始めた。私は濡れた靴をはき、とぼとぼと道を戻った。せめてもう半月おそければ、山腹の紅葉が美しいだろうに。しかし小さな湖は既に秋の気配が濃くて、たとえ釣れなくても、こんなところで終日糸を垂れていたらどんなにかいいだろうと考えた。
足を濡らしたせいかどうか、二、三日ほかを廻って東京に帰って来たら風邪を引いた。東京も既に冷え冷えとして秋である。
[#地付き](昭和四十二年九月)
北海道網走周辺
網走に行って来た。
なぜ網走に行ったかという理由は、自分にもはっきりしない。私は一人で行ったわけではない。優秀な婦人記者と活気に充ちたカメラマン氏とが私に同行したから、つまりは紀行文を書くために行ったようなものである。しかし行先を決定したのは私で、広い北海道の中からわざわざ網走を選び出させたのは、私の内部にある無意識の悪魔の仕業であろう。その悪魔が私をそそのかして、オホーツク海を見に行けと命じたのに違いない。一度も見たことのない場所に行きたがるのはロマンチックな人間の常で、私もロマンチックなところを多分に持っていることは認めるが、オホーツク海が見たいというだけでは子供っぽい好奇心と言われてもしかたがあるまい。
網走は遠いところだという感じが、昔からあった。恐らく中学生時代に読んだ志賀直哉の「網走まで」という小品が、その源をなしているのかもしれない。「網走まで」は志賀直哉のごく初期の短篇で、明治四十一年に書かれている。上野から宇都宮まで汽車に乗った主人公が、頭の悪い男の子と乳呑児とを連れた若い母親と同席する話である。その中に、網走まで行くというその女が、汽車で通して行っても一週間はかかると説明する件《くだり》がある。そのことが、この小品の抒情的な味を決定しているので、これが「青森まで」とか「札幌まで」とかなら、それほどの悲愴感は与えないだろう。私は戦争の終った昭和二十年から翌年にかけて、帯広と東京との間を幾度も往復したことがあるが、その頃は汽車がむやみと混み、青函連絡船がしばしば欠航したせいもあって、それこそ通しで行って二日半から三日はかかった。八食分の弁当を用意して、それが足りなかった覚えさえある。帯広に較べれば網走はもっともっと遠い。遠いということは(しかも今では一日足らずで簡単に行けるということは)一つの魅力である。
私はまた海というものに一種の憧憬を持っている。これも私の与《あずか》り知らない悪魔のせいに違いない。私はもともと出無精であまり旅行をしたことがないから、漸《ようや》く七年ほど前に初めて日本海を見て、大いに感激した。太平洋とはまるで違った印象を受け取った。それから日本海を見に行くたびに、何かしら詩的な感動を覚えずに帰って来たためしはない。とすれば、いつかはオホーツク海を見たいという気持が、私の魂の奥底の方でずっと眠っていた筈である。寂しい北の海、流氷とあざらしとの海は、その海の名前を呟くだけで、私に一種の荒涼とした心象風景のようなものを齎《もたら》した。網走という町それ自体に対しては、私はまるで知るところがなかった。要するにオホーツク海が見られればどこでもよかった。
私たち三人はその前日の午後釧路で落ち合って、阿寒を越えて網走湖の畔《ほとり》にある宿屋に泊った。その宿屋に着いたのは夜の八時頃だったから、湖の所在は暗くてよく分らなかった。私は一日だけ早く釧路に来て同行の二人を待ち受けることにしていたが、飛行機が濃霧のために帯広止りになり、そこから自動車で釧路の宿屋に着いた時には既に日が落ちていて、そこでの印象はひどく心細いものだった。というのは釧路の特徴である濃い霧が硝子窓を塗り込め、一晩じゅう霧笛が鳴りひびいていた。しかも宿屋から見下したすぐ先に港があることなど、翌日までちっとも分らなかったから、まるで霧の中に一人きり放り出されているような不安が、寝てからも私をおびやかし続けていた。春さきから夏にかけてガスがかかることは、帯広にいた頃に充分に経験していたし、釧路はもっとひどいということも知っていたが、その夜のような霧の濃さは嘗《かつ》て経験したことがなかった。その上、このガスでは明日の飛行機も釧路にはとても着陸できる見込はまずないだろうし、もし帯広にさえ着陸できないようだったら、私一人でどうすればいいかという具体的な不安をも伴っていた。私は自分用のカメラを持っていたが、まさか本職のカメラマンの代りに写真を撮りながら網走に行くのでは、荷が勝ちすぎるというものだ。いくら腕に覚えがあると威張っても、プロのようにいく筈もない。そこで翌日の午後、同行二人が無事に帯広に着陸して、そこから車で駆けつけて宿屋に顔を見せてくれた時には、思わずほっとした。このカメラマン氏は(私は頭文字を使うより、ちょっと名前をもじってナカナカ君と呼ぶことにするが)屈強の青年で、如何にも旅馴れた人らしかった。そして婦人記者は(私は彼女をヒラヒラさんと呼ぶことにしよう)「私がついていれば絶対安全という感じを人に与える」と彼女が自讃したほどの、落ちついた女性である。地獄に仏とまではいかないが、濃霧に燈台という感じがした。
ついでに言えば、私たちは釧路を午後三時に出発して、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖をめぐって、美幌峠を越えて網走へ出たのだが、途中は曇り空と霧で、ナカナカ君の腕をもってしても上手な写真は撮れなかったらしい。だから私の紀行文も、そこのところはみんな省略する。阿寒湖は箱根の芦ノ湖のように俗化していたし、摩周湖は乳白色の霧の底にかすかにエメラルド色が揺らいでいただけだったし、屈斜路湖ではもう夕暮だった。それは五月二十二日で日蔭の山肌にはまだ雪が残り、ヒラヒラさんは寒さに顫《ふる》えていた。私たちは車の中でもっぱらお喋りばかりしていた。
網走湖は波らしい波も立たない静かな湖で、その岸に沿って国道と石北本線のレールとが走っている。私たちは十時頃宿屋を出発したが、快晴とまではいかなくても雨の心配はなさそうに思われた。網走の眺望をほしいままにするには、大観山と天都山との二つの見晴台があるが、特に天都山の頂きには(と言っても自動車であがれる程の高さだが)白樺の木の生えた広場の中に煉瓦づくりの展望台があって、周囲の風景が颯爽と眼にはいって来る。私はそこで、初めてオホーツク海を遠望した。
オホーツク海の第一印象は暗い。東の方に、オホーツク海の次第に遠ざかる海岸線と、それに倚りかかるように草原の中に浮んでいるトウフツ湖とを見た。いつのまにか空は一面の雲に覆われていて、海岸線の向うに知床《しれとこ》半島が千五百メートル級の山を並べている筈なのに、それを見ることは出来なかった。海は息苦しいほど暗澹とした色に染って、知床半島を神秘の雲の間に隠していた。
反対側の西の方には、すぐ手前によく耕された広い畑がひろがり、その左手は網走湖、耕地の先の丘の向うには能取《のとろ》湖が、どちらもエメラルド色に光っていた。この耕地では刑務所の囚人たちが働いているらしく、かすかに肉眼でも認めることが出来た。そして正面の北側には放送局の建物があって、オホーツク海の前に立ちはだかり、ただ鈍い波の色を背景に見せるばかりだった。
私がこの高台で見た網走の印象は、海の暗さと湖の明るさとの著しい対照である。この海のほかは、波の静かな広い湖も、整然と地肌を見せて仕切られている耕地も、漸く新緑を迎えた山や丘も、すべて五月の日射《ひざし》の中で活気に充ちていた。まるで海の暗さをそれで償おうとするかのように。
私が写真機を構えてやたらに写すので、ナカナカ君がどっちが本職だか分りませんね、と言った。こんなところでは絵葉書みたいなものしか撮れはしない。
私たちは天都山を下りて刑務所へ行った。網走の刑務所は昔から名高く、監獄と呼ぶ方が通りがいい。しかし網走川のほとりの、たんぽぽの咲き乱れる土堤に沿って煉瓦の塀をめぐらしたこの刑務所も、また意外なほど明るい感じを持っていた。網走と言えばすぐに監獄を思い浮べるのは気の毒である。ここには昔から多くの政治犯や兇悪犯が閉じこめられていたが、塀を越えて逃げ出しても網走川の水は夏も冷たくて泳ぎ渡ることは出来ないそうである。今では希望すれば、適当な罪名をくっつけて、四、五日入れてもらうことが出来ると、運転手さんが教えてくれた。見学がてら刑務所に逗留すれば、網走のすべてを知ったと威張ることが出来るだろう。如何にも明治の文化財といった煉瓦づくりの正門を眺めながら、私はその話をまさに現代の象徴のように受け取ったが、残念ながら私にはそれほどの好奇心はない。
網走の町は、汽車の線路に沿って細長く続いている。国道は綺麗に鋪装され、たとえ鋪装されていない道路にはいっても、このあたりの道はどれも整っている。未開の荒野に道をひらいたのは、網走監獄の囚人たちだった。彼等は文明開化の尖兵だった。私は車の窓から、電柱に貼ってある「暴力団住めないような町づくり」というポスターを眺め、有名な刑務所が町の真中にあるのでは、暴力団の出る幕はないだろうと考えた。
次に私たちは桂ケ岡にある郷土博物館に行った。この附近は桜の名所らしいが、桜は既に散って新緑が輝かしかった。(ついでに言えば、釧路ではまだ早くあと四、五日というところで、帯広釧路間の道のべの桜は満開だった。)この博物館は一見の価値があり、特に考古室、民族室が面白い。
北海道はすなわち蝦夷地《えぞち》で、蝦夷はすなわちアイヌであろう。しかしこのオホーツク海沿岸にはアイヌばかりいたわけではない。網走にはモヨロ貝塚と呼ばれる史跡があり、地下三メートルの深さのそれぞれの層から、七千年前ぐらいから六百年前ぐらいまでのさまざまの土器、石器、人骨、装飾品が発掘されている。特にオホーツク式文化の遺跡として、頭蓋骨に土器の甕《かめ》をのせ、胸に両手を組み、両脚を腹の上に折り曲げて仰向きに寝たままの骸骨が、展示されている。ちょっと気味の悪いものだ。その頭は北西に向っていて、より浅い地層に埋葬されているアイヌの骸骨とは異っている。この方は頭は東に向き、手も足も真直に伸したままである。オホーツク文化圏に属する民族が、一時期このあたりに住みつき、独特の文化をひらいたということは、私たちの空想をそそり立てる。彼等は千五百年前ぐらいから八百年前ぐらいまでの間に海を渡って来て、土着のアイヌ民族とは別個の生活を送っていた。私たちの持っているアイヌの最も古い資料は、六百年ほど前の「聖徳太子絵伝」である。その頃から和人がぽつぽつとアイヌと接触するようになる。しかし江戸時代の末近くにならなければ、蝦夷地に対する和人の本格的な探険ということは行われなかった。
博物館の硝子のケースの前で、縄文式や弥生式とは違った種類の土器を眺めて、殆ど時の経つのを忘れていた。ところでその隣の民族室には、アイヌ以外の、ギリヤーク人やオロッコ人の資料がたくさん並べられていて、これまた興味津々たるものがあった。明らかにロシアやシナの影響の見てとられる衣類もあれば、オロッコ独特の模様のある生活道具なども飾られ、装飾品などには惚れ惚れとするようなのがある。彼等はトナカイの橇《そり》に乗って、氷原の上を飛ぶように走っただろう。最早カラフトや千島を持たない我々にとって、この博物館は北の涯にいるという感じをまざまざと与えた。
博物館の入口で、他では売っていないというお土産品が並べてあった。びろうどの上にオロッコ模様を刺繍した女もちの財布をためつすがめつしながら、ヒラヒラさんは決心がつきかねる顔でどれがいいかしらと言った。
私たちの車は、右に小さな藻琴《もこと》湖を過ぎ、斜里《しやり》に向って走った。左手は海の筈だが砂丘があってよく見えない。右手は湿原で、やがてトウフツ湖に達する。このあたりは牛馬の放牧が盛んに行われていて、のんびりと草を食《は》む姿が道のすぐ側に見える。
トウフツ湖の中央部あたりで車から下りた。この湖は白鳥が飛来することで有名らしいが、もうその季節は過ぎている。またこのあたりの海岸線は原生花園として知られているが、これまた残念ながら私たちには縁がなかった。帰り道に藻琴湖のはずれで、漸く水芭蕉の群生するのを見たばかり。それももう枯れかけていた。これが六月になれば、一面にあやめが紫の花を咲かせ、鈴蘭やキスゲやハマナスが次から次に咲き乱れるそうだが、今さら悔んでも始まらない。そういう時期は空想してみるほかはない。一面の原野に花が咲き乱れている光景は、オホーツク海の荒波の音を伴奏に聞けばさぞ素晴らしいものであろうと思う。
砂丘をのぼり、海岸に出た。足跡一つない湿った砂の上に、漁師小舎があり、和船が引き上げられ、網が乾してある。空は曇り、沖の方から白く散る波頭がこちらに向って続き、水平線は曇っていて見えない。知床半島はまったく隠れ、斜里のあたりも定かではない。
斜里はこの少し先の、知床半島の入口にある町で、最上徳内《もがみとくない》が文化四年(一八〇七)にここで冬を越したことがある。八十四人の部下のうち五十一人が酷寒と脚気とのために死んだ。最上徳内は蝦夷地探険の先駆者で、近藤重蔵や間宮林蔵や松浦武四郎などがそのあとに続いている。私は松浦武四郎の数多い作品のうちで「近世蝦夷人物誌」を愛読したが、江戸末期に書かれたアイヌ人の風俗を知るにつけても、現在のアイヌの衰微に深い同情の念を覚えないわけにはいかない。彼等は酷寒のために死ぬことはなかったが、異質の文明のために殺されてしまった。
私は砂浜を踏んで、オホーツク海の冷たい水に触った。網走は流氷の町で、四月上旬まで氷が流れて来るという。真に網走を知りたいと思ったなら、当然最も寒い季節に来るべきなのだろう。その頃はこの海はもっと暗く、従って網走の町の印象ももっと別のものになるだろう。私は原生花園の花々を見そこなったのは惜しいとは思わないが、流氷だけはぜひ見たかった。しかし五月下旬にやって来たのでは、所詮望みのない話である。
ヒラヒラさんは砂浜の上でせっせと貝殻を拾っていて、ちっともいいのがないとこぼした。波が荒いせいか、形の満足な貝殻は殆どない。私はどこの海岸に行っても貝殻を採集して来るが、網走海岸では獲物は皆無で、その代り小石と流木とを拾い集めた。小石は東京に持ち帰って洗ってみたら、形も美しく、光沢や色つやも見事なものが多かった。波に磨かれて、せいぜい十円玉ほどの大きさである。
そこに、さあっと音を立てて雨が降って来た。
私たちは市内に戻って、すし屋で昼食をした。網走は内地では手に入らないような、うまい海産物の多いところだ。私が一番気に入ったのは、カニコというたらば蟹の子である。これは黒いぶつぶつしたキャビアのようなものだが、子になる前の液状をしたのはウチコという。それから鮭と鱒の合の子のスケというのがあり、鮭の内臓のチュウがあり、生まのホッキがあり、帆立貝があり、ウニがあり、イカやタコがある。私は小食だがナカナカ君は健啖で、ヒラヒラさんも美容食の程度を越えたのではないかと疑う。
腹ごしらえをしたところで、私たちはモヨロ貝塚に行き、博物館に陳列されていた資料の採集場所を見学し、それから水族館に行った。これがまた面白かった。トドというのはアシカに似た海獣だが、これが二匹昼寝をしている。それが如何にものんびりと、二匹くっつきあって寝ころんでいる。多分御夫婦ならん。そこでナカナカ君がカメラを向けて、おい起きろ、と怒鳴った。奥さんの方が目を覚まし、すたすたと(のさのさと、と言うべきか)檻の向うに逃げ、御亭主の方はこちらの方に近づいて来て、金網の前で頤がはずれるほどの大あくびをした。私はすんでのことにカメラを取り落すところだった。
もう一つの大きな檻の方にはトツカリという札が出ていて、説明に和名アザラシとあり、十匹ばかりはいっていた。狭い岩の上にごろごろ寝ていて、時々目を覚ました奴が水中を遊泳する。実に可愛らしい。東京の動物園にもいるかもしれないが、先程のすし屋と同じく、本場の物は本場で賞美するに限るといったものであろう。
それから私たちは能取岬の端にそそり立つ燈台へ行った。雨がぽつぽつ降り、風も強くなり、岬の上から見下すと海中の岩に飛沫《しぶき》が白い。沖の方は雲が低く垂れて暗澹たる空模様である。この海中の岩の上に、今頃の季節でもトツカリことアザラシの群がよく乗っかっているとのことだったが、折悪しく姿を見ることは出来なかった。こればっかりは実に残念だった。オホーツク海のオホーツク海たる所以《ゆえん》を、見そこなったという気がした。
能取岬から少し行くと、能取湖に海岸線が行き当る。一衣帯水という言葉があるが、こちら側の砂洲と、同じ海岸線をなしている向う側の砂洲との間に、海の水が流れ込んでいる。つまりちょうどこの地点で、湖が海と接触しているわけだ。そう言えば如何にも小さな湖のようだが、どうして、私たちの車がこの湖の周囲をぐるっと廻ってサロマ湖の湖畔に達するのに、あきあきするほど時間がかかった。この周辺もまた原生花園で、特に秋になるとサンゴ草の朱色の群落が見事なものらしいが、今時分は何もない。枯れた葦が生え、熊笹や蕗《ふき》が茂っているばかり。しかも雨は次第に本降りに近くなって、荒涼とした感じである。それでも湖の色は明るくて、それが不思議なようである。
車は常呂《ところ》の町を通って、やっとのことで栄浦浜というところに着いた。そこがサロマ湖の手前側、つまり東寄りの端である。
ひっそりした寂しい場所だった。小さな食堂、土産物屋、貸ボート屋、そういった建物が、すべて戸を鎖して並んでいる。漁師小舎もあり、湖の上には舟が何艘も出ているが人は殆どいない。「たばまきあります」という札がそこここの店の壁に出ている。つまりここは、夏場になるとキャンプ場になるらしいが、今はまったく季節外れということなのだろう。ナカナカ君は雨の中を飛び出して行ったから、私も負けずにボート小舎のあたりで土地の人を一人見つけた。私の顔を見ると、何で今頃来たんですと不思議そうな面持で尋ねた。申訳ないが、私にもその理由はよく分らない。ここからボートを出して対岸の(対岸といってもオホーツク海との境をなしている右手の方で、湖の反対側というのではない)砂洲に上陸し、そこから原生花園を見ながら歩いて戻って来るのが、面白いコースらしい。しかし日も落ちかかり、しかもこの雨では、出来ない相談である。
それにしてもサロマ湖というのは大きい。この端から見たのでは海とまったく区別がつかない。私は藤枝静男氏の「欣求浄土《ごんぐじようど》」という小説を読んで感服し、私も亦そこに描写されているこの湖の水が海に逆流する光景を見たいと思っていたが、サロマ湖の向う側である湧別《ゆうべつ》まで行けば夜中になることだろう。そこでこれも空想だけで間に合わせることにした。
このキャンプ場のすぐ近くに、古ぼけた木製の火の見|櫓《やぐら》と、新しい鉄製の火の見櫓とが並んで立っている。ちょっと待って下さいと言うや否や、ナカナカ君はカメラ三台を首にぶら下げて、雨の中を車から飛び出した。大丈夫かなと思ううち、彼は鉄製の方の櫓にするすると取りつき、それこそ猿《ましら》のごとく、あっという間に頂上に登ってしまった。さすがにプロはプロだけのことはあると私は大いに感心し、彼が四方八方を撮りまくるのを羨望の眼で眺めていた。アマチュアとしては、車の窓を明けて、せめて櫓の上のナカナカ君の雄姿を写すぐらいで我慢しなければなりますまい。
そして私たちの車は夕闇の迫って来る雨の道を、私たちの郷愁を乗せて、網走市内の方へ戻って行った。
[#地付き](昭和四十三年六月)
海の想い
今ではあらゆる交通機関が発達したし、旅行をすることは最も手軽な愉しみとなったが、それでも山国に育って一度も海を見たことのない人も、いないとは言えないだろう。それはその人にとって不幸なことだろうと私は考える。絵や写真というようなものがあるとしても、実際に海を見たことがなければ、恐らく人生の経験の中の大事な一部分が欠けていると言えはしないか。しかしまた反対に、海辺に育ち、海を見ることに馴れ切って、最早新鮮な魅力を感じない人がいたら、それもまた不幸なことに違いない。
夏になると海に行って水泳をする人は沢山いる。水泳のためだけならプールへ行けばこと足りよう。しかしどうしても海でなければならない人もいる筈である。これが単に夏だけでなく、従って水泳をするためでなく、海を見たいという欲求が猛然と起るとただそれだけのために、汽車に乗って海岸に行くような人は、恐らく一種の渇きのために海に憧れるのである。そういう詩的な本能が、誰の心のなかにも、こっそりと隠されている。
日本やイギリスのような島国では、特に海に対する親しみが、生れながらに血液の中を流れていると言えようが、我が国の場合に、柳田国男の説くように、南方の海から我々の祖先がこの国に流れついたことの記憶が、無意識のうちにあるのかもしれない。海は遠いもの、遥かなもの、懐かしいもの、そして神秘なものの一つの象徴的な形である。私は海を思うたびに妣《はは》の国という言葉を思い出す。妣という難しい字は死んだ母を意味するが、その言葉の指すところは母国というのとはいささか違う。妣の国はここにはない遠い国であり、しかも我々の魂のなかに生き続けている懐かしい古里である。それは実在するものではないとしても、人は海を見るたびに、海の彼方にそれを思い描くのである。
私は海のほとりで生れたわけでも、また育ったわけでもない。しかし自分でも奇妙に思えるほど、海への想いに取り憑かれていて、それが私の文学的発想の大きな部分を占めていることを否むわけにはいかない。私は若い頃詩を書いていたが、そこにはたびたび、私の想像のなかの海が描き出された。その頃、私はそんなに海を見ていたわけではないのに、海のイメージは名状しがたい憧れを伴って、私の魂に巣くっていた。無限なもの、人間の力の及ばないもの、あらゆる汚濁を洗いしずめるもの、――そしてまた不可知なもの、それはひょっとすると人間的な絶望とあまりにも隔りがあり、あまりにも大きすぎる故に、私を慰めてくれたのかもしれない。そして詩を書いていた頃、私は同時に「風土」という小説を構想していたが、その小説の人間的葛藤の向う側に、いつでも海が、一種の運命のように横たわっていた。そして私はそれ以来、海を人間の生、或いは人間の死の象徴のように見ることで、小説の発想を促されることがしばしばある。先ごろ「海市」という小説を書いたが、そこでは二人の男女のそれぞれが持つ海のイメージがまるで違ったものであり、そして二人の間にもまた海があることを示したいと思った。彼等はその海を決して渡ることが出来ない。なぜならばこの海は架空であり、また不可知であり、記憶をその底に沈めたまま、彼等の運命を先天的に決定しているからである。そして彼等は、彼等が魂の中に持っている海が如何に恐ろしいかを、決して理解することは出来ないのである。
私にとって、海は常にある。潮風は心の上を吹いて遠い海の呟きを伝え、砂と貝殻とは足許に砕け、鴎《かもめ》は飛沫の上を舞って悲しい声で呼ぶ。私は海の渾沌を愛する。原始の海のすさまじい呼び声を聞く。それと同時に、私は人間的なさまざまのことを考え、遠い祖先を偲び、妣《はは》の国を想い、妣を想う。そして私の内部の衝迫に促されて、海を見に行く。太平洋を、日本海を、また瀬戸内海を、オホーツク海を。海には違った風景があり、それは人の心のように複雑であり、美しいもの醜いもののすべてを蔵している。私はそこに何を見るのだろうか。恐らくは私が昔から見て来たもののすべて、人間的渾沌のすべてを、この海という自然の刻々に変る風景の中に、一つの煮つめられたエッセンスとして、眺めるのであろう。そして私は永遠というものが人間の手の届かぬところにあることを、冷たい水に指先を洗いながら、感じるのであろう。
[#地付き](昭和四十三年七月)
旅情
私は旅情について語ろうと思う。人が旅に出て、見知らぬ土地に自分を置いた時のあのやるせなく心細いような、それでいて心を吹き通る清々しい一種の風のようなものについてである。
と言っても、私は出嫌いの無精者と来ているから、いそいそと旅に出る方ではない。余程のことがない限り腰をあげようとはしない。だから旅の経験にも乏しいし、過ぎ去ったその時々の旅情に対する記憶の方も怪しい。私が旅情について語るのはいささかお門違いの感がある。それは承知の上である。
近頃は一般に、旅に出ても旅情を覚えることが少なくなった。それは旅そのものが普及して、誰でも気軽に出掛けられるようになったせいもある。交通機関の発達は目覚ましく、飛行機もあれば特急もある。道路がよくなって車は至るところを走っている。山間の僻地と思って出掛けると、豪勢なホテルが立ち並んでいることがしばしばある。そして津々浦々に旅行客が氾濫している始末だ。これでは情緒どころではない。もしも都会の延長であるような場所を好む人なら、それでも満足だろう。しかし誰も彼も好き放題に旅をしていると限ったわけではないし、旅を旅らしく味わいたいと思ってチャンスを捉えて出掛けた人が、せっかくのチャンスをただうるさい思いをしただけで帰って来たのでは意味があるまい。ちょっと気軽に旅に出るのが流行だとしても、その旅に旅情を感じようと思うのなら、やはりそれだけの心構えというものも必要だろう。そこで私は、私の乏しい経験に基いてこれを書くことにする。謂《い》わば私の旅のすすめである。
一体どういう時に、人は最も旅情を感じるのだろうか。少くとも私は、次のような要素を数え上げることが出来るように思う。第一にこちらの年齢が若いこと、第二に初めての場所であること、第三になるべく一人旅、でなければなるべく小人数《こにんずう》であること。
第一の年齢の点では、若い方がいいにきまっている。旅情とはこういうものかと感じる時は、無垢の感受性が新しい風物の中に没入している証拠だ。可愛い子には旅をさせろというありふれた格言も、これは大人の智慧であり、可愛い子がその旅の有難味を感じるのは彼が大人になってからであろう。そして記憶の貯水池にたくわえられた旅の経験は、生きることの悦びとしてその人の魂をいつまでも豊かにするだろう。
私は小学校の三年生の頃に、一夏、信州の山田温泉に伯父に連れられて長く滞在したことがある。なぜ父ではなく伯父とそこで暮したのか、恐らく海軍の軍人だった伯父が健康を害して休養を取る時に、私を一緒に連れて行ってくれたものだろう。私は既に母を喪っていたし、その前の年に九州から父と共に上京して来たのだから、新しい環境はいつも私に旅情を感じさせていたかもしれないが、この山田温泉での一夏が私の幼い感受性を研ぎすましたことは間違いない。粗末な宿屋が数軒並んでいるだけで、雷滝《かみなりだき》の方へ散歩に行くと百合や桔梗《ききよう》などの草花が咲き乱れていた。私は退屈もせずに暮していたが、遊び友達もなく、また遊び道具もなくて、伯父と二人きりどんな気持で日を送っていたのだろうかと思う。心細くて、しかしその心細さが人生の本質であるような気持が既に働いていたのかもしれない。
昨年の初秋、私は友人とともに再びそこに行ってみた。須坂からタクシイを傭い、その車が山道を登って行き、やがてここが山田温泉だと言われた時に、立派な宿屋が立ち並んでいて私の記憶とはあまりに違っていた。私はそこを素通りして、谷川の流れに沿ってその上流にある五色の湯というのに泊った。一軒きりの宿は素朴で、子供の頃の山田温泉の面影を残しているような気がした。次の日霧雨の降る中を坂道をくだり、雷滝を見に行ったが、古い記憶が一時に甦って、幼い日の自分をまざまざと見るようだった。三十年以上の歳月が既に経っていた。
曽遊の地にはそれなりの感慨があるとしても、初めての土地に行くに越したことはない。旅はやはり未知の場所を選んで試みるべきものだと思う。若ければ何処へ行っても初めてなのだし、そのことは常に新鮮な印象を与えてくれるだろう。しかし未知な場所はいつになっても必ず残っている。私は一度も日本海を見たことがなく、六年ほど前に初めて山陰に旅行した。その時私は石見太田《いわみおおだ》の高等学校の文化祭のために講演をたのまれ、日頃から人前で喋るような仕事は絶対に断ることにしていたのに、その時ばかりは日本海を見たい一心でつい引き受けた。私は妻を連れておっかなびっくりで出掛けたが、約束の講演が終るまでは地面に足がつかない心地だった。その代り厭な仕事が済んだあと、石見の波根《はね》の海岸や、また出雲の稲佐《いなさ》の浜で見た日本海の印象は、いまだに忘れがたい。稲佐の浜というのは、高天原《たかまのはら》から派遣された建御雷神《タケミカズチノカミ》が、大国主神《オオクニヌシノカミ》の子の建御名方神《タケミナカタノカミ》と力くらべをした神話の土地である。
神々も疲れて海を眺めけむ
日はしらじらと波間を照す
私は戯れに腰折を一首つくったが、秋風の爽かに吹きすぎる海は、思いのほか明るかった。旅行の予定地に対する多少の予備知識は、旅情を一層深めるものである。しかしまた何等の先入見なしに、ただ自分の感覚だけをたよりに見聞して来た場所が、後になって例えば万葉集の歌枕であると分ったような時に、その場所が一層懐かしくなることはある。
第三の要素としての一人旅、これも若い時ほど可能であろう。一人旅の効用は謂わば勝手気ままな行動と、それに伴う心細さにある。私は旅情というものを心細さと一緒にしたがっているように見えるかもしれないが、見知らぬ土地に一人で行くというのは不安なもので、そこに懐《ふところ》が乏しいという事情でも加われば、その旅は必ずや印象が深い。旅は風景のみでなく、その土地での人との交渉も大事な要素であり、一人旅の場合ことに行きずりの人の好意が身に沁みて旅の美しい印象をつくりあげるものだ。
しかしまた気心の知れた仲間どうしで、二人、三人、或いは四人ぐらいで旅をすれば、旅が一層愉しいことは勿論である。弥次喜多の例に俟《ま》つまでもなく、仲のよい二人連れなら何かにつけて便利だし心強い。私は旧制の高等学校の生徒だった頃、三日がかりで伊豆を歩いたことがある。(歩くということも、思えば旅情を得るための重要な要素の一つであろう。これも若さの特権と言えよう。しかし近頃は乗りものが多すぎて、次第に人が無精になった。この夏、人に連れられてたまたま谷川岳の天神平というところまで登った。登ったも少々おこがましい。自動車から下りたところがロープウエイの終点で、その先にリフトがあるから、宿屋から借りた下駄を履いたまま見晴らしのよい展望台に達する。ところがロープウエイもリフトも、重武装の若いハイカーで満員なのだ。こういうのはせっかくの丈夫な脚を粗末にするもので、天神平から尾根づたいに頂上まで行くのでは重武装が泣くだろう。)さてその伊豆旅行は友人との二人連れで、初日は西海岸の戸田《へだ》から海岸沿いに雲見《くもみ》まで。(その頃は雲見はまったくの僻地で、途中丸太を一本渡しただけの谷川があり、私も友人も顔を見合せて、やめようかと心細い声を出した。)次の日は更に南へ行き、石廊崎《いろうさき》と下田の中間にある侘びしい宿屋に泊った。最後の日は下田から天城を逆に下りて、雨が降り出したので最後のところだけバスを使い伊東まで行った。集団で登校している小学生たちが、すれ違いに必ず今日はと挨拶した。私は今でも伊豆が好きだし、そういう素朴な人情はまだ少しは残っていよう。
しかしたとえ仲間がいたとしても、心は一人旅のつもりでなければならない。一人であることによってのみ旅情が生れて来る。風物を見る眼は自分であり、感動するのも自分なのだ。他人が美しいと言った風景に同感しているだけでは、その風景は自分のものにならないだろう。旅情はその土地の中に、異分子である自分が存在していることの、その存在感から生れて来る。あくまで異分子で、完全に溶け込むということはあり得ない。常に大事なのは、自分が見ているという意識である。
さて人はいつまでも若くはない。若ければ無鉄砲に旅することも出来るが、やがては考えて、選んで、効果的に試みざるを得ない。しかし旅は環境の変化によって自然に感覚を鋭くする筈だから、特にその心構えがあれば、旅情はおのずから生れるだろう。また過去の経験の中から、忘れていた筈の旅の思い出が、その時一緒に重なり合い、一層感動を強くするだろう。若さは初めての印象を持つが、若くなければ多くの印象を比較し合って、この現在をよりしみじみと味わうことが出来る。古人の歌、句、詩の一つを覚えているだけでも、旅情は深いのである。
私は今年の春の初め、まだ雪の残っている頃に、中野重治、伊藤信吉両氏のお供をして能登に行き、たまたま七尾《ななお》港を過ぎた。波止場に立つと烈しい北風が吹きすさび、かもめが空に群れ、飛沫《しぶき》が岸壁にぶち当った。晴れ間が見えていたのに、向う岸が少し曇ったかと思ううちに雪が横なぐりに吹きつけて来て、私たちの足をよろめかせた。私たちは急いで駅前の食堂にはいり、熱いうどんを啜《すす》った。私は東京に帰ってから、室生犀星の「能登七尾の港」という詩を読んだが、旅情は、私がその詩を読む時にも、まだ続いていたということが出来よう。
廃港の夜はかもめさへも啼《な》き出でず、
ともしび山の肌にうつる、
金沢の旅館《やどり》をのがれ、
能登のくに七尾に来《きた》れど、
何処にゆかむとする我なるかを知らず。
あはれ、うち向ふ夕餉《ゆふげ》に
いのち断たれし鶏《くだかけ》のこゑの鋭どし。
(室生犀星「鳥雀集」より)
[#地付き](昭和四十三年八月)
[#改ページ]
[#小見出し] 心
失われた青春
失われた青春という言葉には、やや悲しげな浪漫的な響きがある。「失われた」というのは、例えばガートルード・スタイン女史が、その門下に集まった若いアメリカ作家のグループにつけた渾名《あだな》「失われた世代」とか、プルーストの小説「失われた時を求めて」とか、モーリアックの小説「失われたもの」とかが聯想《れんそう》されるように、もはや取り返すことのできないという意味だが、しかしそこに、取り返す可能性がまったくないわけではない。その故にこそ、後悔にも似たやるせない響きが生れて来るのだろう。
「青春」という言葉の方は、それ自体、日の当った、明るい、輝かしい場所を約束している。従って「青春」が「失われた」というのは、青春を過ぎ去った者が、過去を振り返っていう言葉である。現に青春を生きている人間にとって、たとえそれがどんなに暗く惨めであろうとも、可能性がすべて失われている筈はない。青春は、光とともに影を、希望とともに絶望を、愛とともに孤独を、本質的に孕《はら》んでいるのだから、「失われた青春」といえどもまた一つの青春であり、それは生きるに値《あたい》するものである。しかし振り返って過去を見る人間にとって、青春の一時期が或いは戦争のため、或いは疾病のため、自分の意思や希望とまったく相反して過ぎ去ったと考えれば、そこに多少の咏嘆をこめて失われた青春と呟くのも無理はないと思う。しかし僕の考えではどのような幸福な青春でも青春は刻々に失わるべきものであり、それは青春が享楽的であるとか充足的であるとかいうこととは関係がない。魂の成長する時期に於て、苦悩は生きるための本質的な特徴であり、それは常に失われることによって獲得されている。
僕が自分の青春を顧る場合にも、そこには戦争があったり病気があったりして、やはり「失われた」と言ってもいいような気がする。しかし僕は、失われなかった青春というものがあるだろうか、と反問する。それは、僕が最早、謂《い》わゆる青春の時期を過ぎて大人になったという意味ではない。僕は、失われたものは失われただけに貴重であり、仮にそれが自分の意思に反して剥奪されたとしても、しかもそのことへの自分の抵抗のしかたに於て、僕は僕の青春を生きたと言うほかはない。僕の今度書いた長篇「草の花」も、一つの失われた青春の物語だが、書いている間、僕はその青春を生きていた。僕は自分の青春をも、また架空の青春をも、それをもう一度生きようとは思わないが、振り返って、それが失われたとも思わない。魂が成長する時に、それは外界からの如何なる圧迫にも拘らず、成長するのである。
僕はサナトリウムに七年ばかりいて、その間に、多くの年少の友人たちが病気に苦しむのを見た。病気の過酷さや、経済的な悪条件や、愛情の頼みがたさによって、彼らは失われた青春を生きていた。他人の空しい言葉など何にもならないところで、彼らは自分の青春を孤独なままに築いて行くほかはなかった。しかしそれもまた青春なのだ。希望の多い華かな日々を送っている青年たちと較べて、これらの不幸な歪められた青春もやはり生きるに値するものだ。彼らが生き残って過去を振り返った時に、たとえ失われた青春でもそこに一人一人に固有の意味があったと、彼らは気がつくだろう。そして人生とは、常に何ものかを失いつつ生きて行くことだと知るだろう。
[#地付き](昭和二十九年二月)
友情の中の愛
友情というものは、恋愛とは対照的なものと考えられているし、また恋愛へ移行する前提的な精神作用とも考えられている。つまり、同性の間に感じられる愛――同性愛という意味ではない――と異性の間に感じられる愛とを、二つの別個のものとして見るか、或いは前者を後者へ至る一つの道程として見るかである。しかしその何れの場合にも、そこには愛があり、愛の本質には変りがないだろう。
僕は「草の花」という小説を書いて、その中にこの二つの現象を併置したが、その何れも、内に潜む純粋な愛を抽出してみようと思ったからである。あの小説の中で、同性に対する愛が異性に対するそれよりも、鋭くかつ豊饒に描かれているからといって、僕が友情を恋愛よりも特に重んじているわけではない。僕の書いた友情は特殊のケースだし、それはあらゆる場合に当てはまるとは限らない。
しかし僕は今でも、十代の終りごろに人の経験する友情、殆ど異性への愛と同じ情熱と苦悩とが、プラトニックであるだけに一層純粋な観念として体験される友情に、深い意義を覚えている。愛というものはすべてエゴの働きだが、このような友情は無償の行為というに等しい。この殆ど無意味とも思われる愛、相手が同性であるだけに一種の疚《やま》しさと心苦しさとを感じ、その愛の充足がどのようになされるのか、それさえも定かではないような愛の中で、人は自分の魂の位置を測定する。つまり愛するということは自分の魂を見詰めることであり、それは異性への愛の場合と少しも変らない。
僕の言う友情とは、あくまで自覚されたものである。自覚されていないものは意味がない。恰も生きることを自覚されていない「生」が、生きるに値しないように。しかし多くの場合、友情とは自覚しないうちに生れ、長い持続の後に、或いは何等かのショックを受けて、初めて友情として認識されるものだ。どれが本当の、金《きん》の、友情であるかは、多くの友人に取り囲まれて談笑しているだけでは分らない。そこに必要なものは、自己への省察と、自己に欠けたものを外部に探求する精神の働きである。困った時に助けてくれることだけが、友人の条件なのではない。相手の中にあって自分の魂を充す何ものか、それを求めることが友情であり、そのためにはまず、自己の魂の状態に対する明かな反省がなければならぬ。
このことは恋愛の場合にも同じである。魂の中の孤独の意識が愛を求める。しかし愛は求めるものだが、友情は多く、与えられるもの、そして与えられているから、人がそれを真に自覚するまで、ごく普通のこととして見すごされているものである。僕が「草の花」の中に描いたような|求める《ヽヽヽ》友情は、殆ど恋愛と置き換えられるような、ごく特殊な場合にすぎない。一般に、友情は燃焼した情熱の産物ではない。それは日常のざわめきの中に溶け込まれた静かなせせらぎの音であり、耳を澄まさなければ聞えては来ないものである。しかし僕等の生を美しくしているものは、常にこうした内面的な魂の声である。
友情が長続きし、恋愛がはかないと言われるのも、その燃焼が持続的であるか一時的であるかに懸っているのだろうが、異性の間にあって友情という言葉が使われる場合にも、それは恋愛とまったく別のものなのではない。友情を感じていた相手に、急に恋愛を覚えたというのは、魂が異質的な状態に変ったのではなく、内部にある本質的な愛が、その燃えあがりかたを変えたというまでである。愛は常に同じであり、違うのはただその表面の現れかたにすぎない。愛は大事なものであり、魂は掛けがえがないから、僕等は愛に麻痺してはならず、その大事さという点では、友情も恋愛も区別するところがない。ただ友情の方が常に魂の奥深いところに沈んでいるから、表面へまで燃え上って来ることがないまでである。
しかし恋愛は危険な分子を多分に含んでいて、ひと度失敗すればそれは相手を傷つけるのみでなく、自己をも傷つける。しかし魂が愛を求めて燃焼した場合に、人は危険を怖れてばかりはいられないのだ。愛は魂の絶対的な要求である。それは計算の上に立って、どちらかにころがるといったものではあるまい。恋愛が悲劇的な情緒を持ち、人がややもするとこの情緒に溺れるのは、愛することの中に一切か無かという賭が含まれているからだ。しかし友情にはそんな危険はない。友情の場合には、人は傷を受ける危険を冒さないでも、静かな愛を与えられている。しかしもし友情がそのような生ぬるい愛で涵《ひた》されているならば、それは真に魂の糧《かて》としての慰めを与えてくれることはないだろう。友情もまた、魂と魂とのぶつかり合いであり、間違えば傷を受けるだけの覚悟を伴わなければ、何の役にも立たないだろう。そこには単なる附き合いとは違ったもの、より自覚された、魂を豊かならしめるものが含まれていなければならぬ。そして僕たちは、友情が恋愛の代用品でも何でもなく、人生にとって最も大事な、魂の欲求の一つであることを、理解しなければならないだろう。
[#地付き](昭和三十年十二月)
純潔について
純潔というのは大事なものだから、なくさない方がいいでしょう、とたまたま編輯者《へんしゆうしや》に向って僕が口走ったら、若い編輯者は、いいや私はそうは思わない、純潔なんか早くなくした方がいい、と言下に答えた。なるほど、そんな意見もあるのか。僕には逆説的な名文句も出て来ないし、お説教も厭だし、こんな意見を求められる度に、自分の中の精神的純粋性が少しずつ薄められて行くような気がする。
そこで純潔というのは、純粋《ヽヽ》というのとは違って、もっぱら肉体的な意味に使われるのだろうが、どうしてこの純粋という方は、あんまり問題にならないのだろう。肉体が純潔であり、精神が純粋であるというのは、或る意味では大へん似ていることだ。青春に於て、人は肉体に於ても精神に於ても、等しくまじりけなしに美しい。そして人がその純潔を喪うと、どうやら精神の純粋性の方もだんだんに喪われて、いつのまにか俗物になってしまうものだ。
ところがこの純粋という言葉は、見た目には美しい言葉だが、実際にはどうだろう。あの人は純粋だというのが、しばしば、弱くてもいいもの、自我中心的なもの、勝手なもの、世間知らず、等々の、悪い形容詞に使われる。純粋であるから弱くて自殺する人間や、他人を困らせても平気な人間が、登場する。つまり純粋というのは、心の底の方にひっそりと沈んでいるべきもので、これが表看板になると、ちっとも綺麗でない。自分で自分を純粋だという奴がいたら、よっぽど馬鹿だ。
マラルメというフランスの象徴派の詩人が、その初期に書いた「蒼空」という詩がある。永遠の蒼空から、透明な皮肉が降り注いで、無能の詩人をあざけり笑う。この蒼空とは純粋性であり、詩人がそれを意識すればするほど、最早どこへも逃れる道のないことを、痛感せざるを得ない。
僕等にとって、純粋とは飾りではないし、また或る時期を限って与えられた授り物でもない。心の底で、常に意識を方向づける一つの生活態度である。とすれば、肉体的な純潔というものも大事には違いないが、飾りでも、授り物でもなく、自己を生かすための一つの態度というにとどまるだろう。蒼空に憑《つ》かれた人間が馬鹿げているように、純潔を振り廻すのも馬鹿げている。しかしそれをあまり無造作に取り扱うことは、精神の純粋をも、同時に、ないがしろにすることである。その点で、僕は純潔よりも純粋ということの方に、一層の関心を持ってもらいたいと思う。美しい純潔を守るよりも、美しく純粋を守ることの方が遥かにむつかしいのだ。
[#地付き](昭和三十一年六月)
美しいもの
戦争中の、僕がまだ大学を出たての頃、世の中から美しいものが次第に姿を消しつつあった。僕は高村光太郎のアトリエをしばしば訪れたものだが、高村さんは、美しいものを見抜く眼をなくさないように、とよく注意して下さった。そういう時の高村さんは、壁に掛けた智恵子夫人の切抜絵を眺めていた。確かにきたないものばかり見ていると、眼がそれに馴れる。物を見る眼が美醜を見抜けなくなれば大変だ。
何でも灰色に見えた時代が終って、米の飯は真白だし、モンペを脱いだ若い娘のスカートのみずみずしさ、その肌のつやつやしさに感激した頃から、また一昔という時代が過ぎ去った。近頃は僕たちはあまり感激しない。パリ直輸入のモードも、八頭身の美人も、天然色映画も、新型の自動車も、そんなことはもう普通になってしまった。美しいものばかり見ていても、眼というものは駄目になりますね、と高村さんが生きていたら、言いたいところだ。
ところがそんなに、何もかも美しいだろうか。確かに美とか醜とかいうことは、相互の関係の上に成り立っているので、この頃のように美しいもの、というより、美しそうに見えるだけのものが氾濫すると、真の美しさは逃げ出してしまっている。きょろきょろ眼を動かしても、大して美しいものなんかありはしない。必ずしも僕の感激性が薄れたというわけではない。
戦争中は、高村さんに言われるまでもなく、美を探し求めることに夢中で、流行とは別に、「万葉集」などを僕なりに愛読したものだが、この頃はまた、万葉や源氏などが広く流行しているようだ。僕は目下、「古事記」を現代口語に訳す仕事をしているが、これは決して時流に乗ったわけではなく、ここに日本の古い美しさが残っていると思うからである。「古事記」には、戦争中とは違った読みかたが必要であり、天皇制のための擁護の書として見るのでは、あんまり馬鹿げている。古代の日本人のよさ、美しさが、この古典の中にきらきら光っているのに、僕たちはかえって、その点に眼をつぶるように教育された。いま自由な眼からこれを眺めると、その叙事詩的構成や、多くのすばらしい抒情詩によって、似たような外国の古典に較べても少しも遜色がない。ところが僕は、戦争中に「万葉集」は読んだけれども、「古事記」はどうせ神がかりの代物だと思って、放り投げておいたのだ。
だから美しいものは、どこにあるか分らない。それはいつでも意外なところに潜んでいて、意外であるから美しいとも言えるのだ。馴れてしまったものが美しくないこと、モンペもYラインも同じことだ。但し真の芸術品が、繰返し味わえば味わうほど美しいことは、モツァルトにしても「万葉集」にしても、勿論である。
[#地付き](昭和三十一年七月)
人生の学校
若い女性、それも高等学校や大学を出たぐらいの若い女性が、ただちに人生に身を処するだけの賢さを持っている筈はない。どんなに学校の成績が優秀で、柔軟な理解力があったように見えても、人生の学校はたいへん点が辛いから、いつも及第し卒業するとは限らない。というのは、学校の試験には問題を出して採点する試験官がいて、答案の水準というものがあり、どんな気まぐれな試験官でも、ちゃんと書けている答案に零点はつけない。ところが人生の学校では、九十点取っても落第することがあり、二十点でも大丈夫なことがある。つまり場合によって、要求される点数が違って来る。決して一人の試験官が点をつけるわけではなく、勤めていれば上役や同僚が、結婚すれば家庭や親戚が、等しく点をつける。いな、そこには目に見えない社会という採点者もいる。人は常に他人によって見られているし、他人の持つ評価が、或る程度まで自分をつくって行く。油断も隙もない。
そうかといって、他人の思惑ばかり気にし、人に可愛がられて上手に世渡りして行けば、それでいいとは限っていない。つまり採点者は、結局は自分だという場合が多いのだ。問題が出てそれに答案を書く。他人はその行為に点数をつけるだろう。しかし自分も、それに点をつけなければならない。どうしても他人に相談のできない場合も起って来る。「不決断は最大の悪」とデカルトは言ったが、自分一人の意思で事を決めるのは、誰にとってもむつかしいのだ。況や若い女性がいきなり社会に出て、自分の行為を正確に判断することは、むつかしいだろう。
僕は賢い女性が好きだから、女なんて馬鹿でもいいという意見には賛成しない。しかしまた反対に、鼻の先に賢さをぶら下げているような女性は、最も嫌う。女の賢さは、男のそれのような、明哲な、冷厳な、理性的な性質のものとは限らない。もっとやさしい、やわらかい、感情の波につつまれた賢さも、ある筈だと思う。「かげろふの日記」の作者や「クレーヴの奥方」の作者は、そのような賢さを持っていた。しかし、その賢さに達するためには、人生の学校に於ける、苦しい勉強が必要だったわけである。
僕は若い女性たちの、人生に眼を光らせ、未知にあこがれ、青春の喜びにひとりでに微笑が口もとをほころばせる姿を、見るたびに美しいと思う。人生はそのように、二十代の初めに人が見るように、美しいものだ。しかしその口もとの微笑がいつか失われ、自分一人だけの涙を味わい、愚かな自分を嘆くようなことも、起るかもしれない。しかしそのような時でも、人生は本来は美しいものだ。嘆く者の傍らで、一人が尚も笑っているからといって、人生は常に美しいのだ。それを見あやまって、人生に毒を持ち、人生に毒されて、自分の心を毒にしてはならない。真の賢さが必要なのは、無事に世の中を渡って行く時ではなく、そうした悲しみや苦しみに打ちひしがれた時、自己の無力が痛切に感じられた時なのだ。
そういう時に役に立つ賢さでなければ、あってもなくても同じなのだ。人生という学校で、いつもいつも賢くあろうと緊張しているのは詰らない。人生は或る意味では馬鹿げてもいるのだから、たまには馬鹿であってもいい。しかし絶えず人生を見詰めていることによって、人は知らず識らずに賢くなって行くだろう。それほど人生は、多くの問題に充ち満ちているのだから。
僕の言ったことは、何も若い女性にばかり限った話ではない。男性でも同じことなのだ。そして僕がここに、特に女性を甘やかすようなことを言わないというのも、僕が女性に賢くあれと願う一つの例証なのである。
[#地付き](昭和三十二年三月)
カタルシスについて
ギリシャの悲劇について、分っているようで分らないことは沢山ある。作劇術の上で言うのではない。もっと本質的な、神々と人間との関係とか、運命とかいったものについて、少くとも僕には、不確かな点が少くない。これは僕が「古事記」とか「記紀歌謡」とかの我が国の古典を調べながら感じたことと同じ源に帰するので、古代人の思考内容のうちには、現代人の合理性ではどうにも解釈のつかないものが多いということなのだ。僕は大学生の頃、ギリシャ語に凝ってソポクレスなどを少しばかり齧《かじ》ったことがある。その頃は何でも分ったようなつもりで、友達とギリシャ文明の本質などという口はばったい議論を交していた。今になってみると、例えば運命という一つの言葉を取り上げても、ギリシャ悲劇の後に人類は何を附け足したのだろうかという気がしてならない。太陽の光に照されて上演された仮面劇は、近代劇場の人工照明の下に演じられる写実的な悲劇よりも、一層本質的に恐ろしいのである。
アリストテレスが悲劇の効用として用いた言葉に、「カタルシス」がある。これは宗教的な浄化という意味よりも、生理的な解放と取った方が正しいらしい。カタルシスも近頃では俗化して用いられ、映画を見たり探偵小説を読んだりした後でも、僕等はカタルシスを感じると言う。もしもこの言葉が生理的、医学的に、病からの解放を指すとするならば、ギリシャ悲劇の時代に、観客は悲劇を見終ってカタルシスを感じるのだから、観劇中は一種の人工的な病の状態にあったと考えてもよさそうである。即ち悲劇というものは、人為的に人を病的状態に陥れ、しかる後にそこから解放するもの、と定義することも可能なようである。
ギリシャ人に於て、とこれは僕の想像なのだが、病というものは一つの運命であったに違いない。死が運命であるとすれば、死に至る病もまた運命である。とすれば、人であることもまた一つの病であったに違いない。人はあくまで人であって神々とは運命を異にする。人は人であることの病から癒《いや》されることはない。しかし一般に人はこの病を忘れて暮している(野外劇場に集まった観客たちは、肉体的にも、まず健康であったと思われる)。そういう観客がテアトロンに於て見せられるものは、英雄たちの運命である。英雄たちもまた人には違いないが、彼等はみな明かに人であることの病を病む人たちである。オレステスにしても、オイディプス王にしても、ダナオスの娘たちにしても、彼等は神々ではないし、その病は彼等の力では癒されない。しかし彼等は病と闘い、その闘いによって、人であることの崇高さを示す。そのことは甚だ感動的である。
観客は、舞台を見ることに於て、人為的に病にかかる。ということは、彼等の病を自認し、その最も典型的な(或いは最も劇的な)表現を舞台の上の英雄たちに於て見るのである。そして見終った瞬間に、彼等自身の運命から解放されたように感じる。謂わば自分の病を舞台の上の英雄に押しつけて、厄払いをしてもらったような気分になる。復讐の女神たちの恐るべき呪いに魂を震撼《しんかん》させられても、劇の終った瞬間に、彼等は人であることの病から癒されたように感じる。この感じは、一種の飛翔感《ひしようかん》、エクスタジイ、つまり神々の方に魂が羽ばたいて飛ぶような感じである。
これがギリシャ悲劇の持つカタルシスについての、僕の思いつきである。こんなことをいくら思いついても、ギリシャ悲劇の持つ魅力の謎は解けはしない。ただ僕はギリシャやインドの古典とか、我が国の古い作品などを読んで、現代人の間尺では計算できない古代人の魂というものを感じる。そしてしきりとそうした魂にあこがれる。それは僕もまた、人であることの病を深く病んでいるからに他ならないだろう。
[#地付き](昭和三十五年三月)
始める前
私は物を始める前の、或いは物の始まる前の、ぴんと張りつめた気持が好きである。物を始めると言ったが、それは何でもいい。例えば私はこの頃、何ということもなく毛筆で字が書きたくなる。そこで硯に向って墨を磨《す》る。墨の匂いが次第に立ちこめて来ると、それだけで何とも言えぬ心の安らぎと、同時に精神の緊張を感じる。いざ墨が磨りあがって手習いを始めれば、思っていた半分もうまくいかないから、だんだんに厭になるが、これは直前に私の持っていた精神の集注がそのまま持続しなかったことの証拠であろう。
下手ついでに、私は暇を見つけて水彩、油絵などを試みることもあるが、そういう時も、画用紙、カンヴァスを前にして、絵具をチューヴから出したり、筆の穂先をためしたりしている時が、無性に愉しい。こういう気持は上手下手とは関係がないだろうと思う。私は茶や花にはまったく暗いが、これから茶を喫する前の一瞬、これから花を活けようとして花瓶に相対する一瞬は、恐らくそのあとの行為に匹敵するだけの緊張を必要としているのだろう。物を始める前の短い時間には、推量すれば、昔の武士が真剣勝負で、やあとばかり相手に切りつける前のエネルギイと同じものを含んでいるのかもしれない。その沈黙の中に、この勝負の成功不成功が懸っていて、ひとつ間違えば反対に切られてこの世とお別れになるだろうし、私の場合には、そこに精神の集注がない限りろくな字も書けずまたろくな絵も描けないのである。
物が始まる場合にも同じことが言えそうである。例えば、私は芝居の幕の上る前のざわざわした空気とか、ベルが鳴り終って、映画館の中がすうっと暗くなる瞬間が好きだ。といっても、私は芝居や映画に大して出掛けるわけではない。なにしろ期待したほどに実物が面白いことは稀だし、始まる前の雰囲気を愛するためだけに、入場料を払うのは馬鹿げている。この心理は、せっかく見に来た以上これから見せられるものはきっと面白い筈だという、一種の自己暗示のせいである。その点、音楽会にまさるものはない。特にオーケストラの楽士たちがそれぞれ勿体ぶって楽器の調子を確かめているのを、見たり聞いたりしていると、私はきっとわくわくして来る。肝心のそのあとの演奏よりもその方が気に入るくらいである。私はレコードを掛けて一人で聴くのも好きだがレコードの場合に一番物足りないのは、演奏直前のこの雰囲気が欠けていることである。もっともこれは私の勝手な言い分で、せっかくの名曲の前にヴァイオリンがきいきい軋《きし》んだのでは、そんなレコードは売れはしないだろう。
物の始まる前の「物」とは、要するに向うから与えられるものであり、こちら側に期待を生じさせるその効能が大きければ大きい程、私たちは自己暗示、もしくは自己催眠にかかりやすい。これは程度を越すと期待不安症となり、いざ始まるまではどうにも落ちつかないという病的な症状を惹き起す恐れもある。高いお金を出して音楽会の前売切符を買っておくと、当日の夕方にお腹が痛くなるという類いである。ぜひ見ようと思うテレヴィの番組の時間になると、たまたまお客が来るという不運もある。「物」とはままならぬものである。
これに反して、物を始めると言う時の「物」は、私ひとりに関わるので、相手とはまるで関係がない。お腹が痛くなったり客が来たりすれば、ただ延期すれば足りる。私は字を書いたり絵を描いたりするような、ごく趣味的なことばかり言ったが、すべて仕事を始める前の心の緊張は、愉しいものだしまた当然愉しくあってしかるべきである。なぜならそこにはこれからする行為へのエネルギイが一種の潜在的な状態として蓄積されている筈なのだから。女性の場合には(これは想像だが)お掃除の前とかお料理の前とかに、そうした気持があるだろうと思う。もしなければ、そのお掃除は完全ではなく、そのお料理はきっとあまりおいしくはないんじゃありませんかね。と偉そうなことを言っても、仕事というのは実は辛いもので、趣味とは異るから、私なんかも小説を書こうと思って原稿用紙をひろげたまま、いつまでも「始める前」の愉しさばかり味わっていることが多い。度を越すと、その愉しさが一週間も十日も続く。従って「物」を始める前の気持というのは、ごく短い時間に限るので、短ければ短いほど値打があるとも言えそうである。
[#地付き](昭和三十八年五月)
[#改ページ]
[#小見出し] 眼・耳
幻想の画家たち
一つの風景は、それが肉眼によって眺められた場合よりも、それがタブローとしてカンヴァスの上に定着された場合の方が、一層感動的である。その理由を分析することは美学の問題だが、僕個人について言えば、現実の風景は常に現実的であるにすぎないが、描かれた風景は幻想的であり得るということが、大いに作用している。絵画は(これは小説でも同じことだが)現実という流れるもの、初めもなく終りもない時間的空間的なひろがりを、作者の視点を設定することによって裁断し、謂わば現実の結晶体を作りあげることに目的がある。しかしもしそれが、――芸術の目的が、現実の小型の模型、そのミニアチュールをつくることだけにあるのならば、それは単なる模写にすぎない。そのような美学は、僕にとってまったく無意味である。作者或いは画家が、現実或いは風景から、存在する以外のものまでを見抜いてそれを描き出した場合にのみ、初めて芸術は感動的になる。現実の持つカパシティを、そっくり画面の上に写し取って、それでヴォリュームがあるなどと言うのは滑稽だ。
風景画と言えば、僕は何と言っても、エル・グレコの「トレードの風景」にまさるものを知らない。僕は勿論、実際のトレードも、またこの絵の実物も見たことがないから、単なる複製の上でこんなことを言うのだが、この複製を見て僕等が圧倒的な感動を受けるのは、恐らくエル・グレコの創作時の情熱が、僕等に直接伝わって来るからだろう。現実にはさまざまの見かたがあり、一つの都市を眺める視点もさまざまある。しかしトレードの全貌を俯瞰《ふかん》する視点は、唯一つの心理的視点、それもエル・グレコ的視点があるばかりだ。そして僕等はまさに、その同じ視点からトレードの町をこの中に見るのである。そしてこの視点は、謂わば幻想的視点であり、エル・グレコの眼は幻視的である。
僕は風景画について書きたいわけでも、美学について書きたいわけでもない。ただ僕は自分の好き嫌いについて一言弁解してみたいだけだ。僕の好きな画家は、本来、幻視的だ。僕の好きな作品は幻想的だ。ただそれが一律に行かないのは、画家たちの幻想と僕の幻想とが重なり合って、或る場合にはそれが反撥し合う場合もあり、また単なる色彩のアラベスクの上に、僕が少々異常感覚的な空想を恣《ほしいまま》にするという場合もある。
詩人ジェラール・ド・ネルヴァルは、「夢は第二の人生である」と言ったが、夢を現実と同じ比重で描いた詩人、小説家、画家たちを、僕は偏愛する。オディロン・ルドンは、ノヴァーリスのいわゆる「内面の神秘の道」を辿って、「月世界の花々」を描いた。これらの不思議な花々は、ただ彼ひとりの見たものであるが、しかし僕等は彼と同じ道を辿って、この世のものでない花々を見ることが出来る。ポール・ゴーギャンは、その未発表断片に、こう書いている。
「オディロン・ルドンに於ては、彼が夢に与えた真実らしさによって、それらの夢が一つの現実となる。」(「ヌーヴェル・リテレール」一九五三年五月七日号)
現代に於て、最も幻視的な画家は恐らくマルク・シャガールだろう。ゴーギャンやアンリ・ルソーに於ては、鋭敏な現実把握があり、それが独自の内部風景にまで濾過《ろか》されて、現実の光景が異様に幻想化されるのだが、シャガールに於ては、もう初めから夢の氾濫である。ただ、その中の登場人物も、背景も、色彩も、実際の夢がそうであるような、混乱した、或いは溷濁《こんだく》した印象を、微塵も与えることはない。それらはすべて澄明で、純潔で、きちんと整頓され、そこにはっきりした抽象化が見られる。このような秩序の感覚が、夢の持つ無限への浪漫性と相俟って、シャガールのすべての画面に、スラヴ的であると同時にパリ的な、明るいと同時に暗い、愉しいと同時に悲しい、一種不思議なノスタルジイを与えている。
これに較べれば、超現実主義の画家たちは、夢の持つ自然さよりも(シャガールの登場人物は、動物とか恋人とか天使とかにすぎない)夢の中で解体し、変貌し、分裂した、グロテスクなオブジェを扱うことが多くなった。僕は幻想というものは、作る者と見る者との間に共通の感覚があり、相互の間で幻想がやりとりされるのでなければ生きて来ないと考えるが、例えばサルヴァドル・ダリの幻想は、あまりに僕等に対して強制的でありすぎる。むかし僕は超現実主義に凝って、キリコやミロを愛していたが、彼等のモチーフが陳腐化し、またダリがあまりにもダリ的になるに及んで、少々厭きてしまった。僕がこの頃アブストラクトに凝っているのは、抽象画の方が、僕の幻想をより自由に生かし、内面への道を辿《たど》らせてくれるからだと、自分では考えている。
[#地付き](昭和二十九年四月)
映画の限界と映画批評の限界
「わが青春のマリアンヌ」という映画の批評を書くことを頼まれて、その試写を見た。
これはあなた向きの面白い映画だそうです、と言ってすすめられたので、一体あなた向きというのは何処の辺が僕向きなのか、他人は僕をどっちの方に|向いた《ヽヽヽ》奴だと考えているのか、これで分るという愉しみもあった。
ところで午後その試写を見て、同じ日の晩に、お金を払って「必死の逃亡者」というのを映画館で見た。なぜ僕が続けさまに別の、自分の見たい映画、つまり僕向きと自認する映画を見たかというのが、「わが青春のマリアンヌ」の批評になっているかもしれない。
そこでちょっと余談をさせてもらう。
僕は自分をひどく頑固な純文学専門家だと考えているが、誰しも弱みはあるもので、近頃はその弱みを巧みに衝かれて探偵小説の批評などをやらされた。映画の批評というのも、実は僕の第二の弱点なのだ。知っている人はあまりないが、僕は大学生の頃「映画評論」という高級映画青年向きの雑誌の同人で、アルバイトに映画批評をやっていた。勿論ペンネームを使っていたのだが、恥ずかしいからその名前は公表しない。沢村勉とか辻久一とか清水晶とかがその仲間で、「マリアンヌ」の試写の時に清水晶と十数年ぶりに会って、不意と懐かしくなったからこんな思い出を書くが、実は当時の僕の批評たるや、悪口の方で有名だった朝日新聞のQ氏に、一層輪を掛けたような点のからさ。たまたまQ氏が褒めかけたような作品でもあると、反動的に一層悪口を言いたくなるという生意気盛りで、今から考えるとあんなものは批評でも何でもありはしない。それでも御|贔屓《ひいき》の監督というのがあって、御多分に洩れずフランス一辺倒だったが、ルネ・クレールを別格に、フェーデ、デュヴィヴィエ、ルノワール、それにワイラーなどがAクラスで、この辺の連中の作品は口惜しいがだいぶ褒めた。要するに芸術映画というのが好きだったので、それは決して咎むべきことではない。
戦争になって雑誌が潰れ、ろくな映画もなくなったし、戦後には病気をしたりして、この十年に十本くらいしか映画を見なくなった。その原因の一つにはお金を払って見るということも作用した。広告で大体の見当はつく。その位の勘はまだ残っているから、お金を出す以上は面白い必要があるし、面白いのはそうそうはないし、またその映画を見るためのお金と暇がないということもある。従って久しく御無沙汰しているうち、見ない映画があんまり沢山になり、若い人と映画の話なんかするのは無学(とやはり言うのだろう)の手前、恥ずかしいという破目に陥った。
そこで僕の発見したことは、映画は身銭《みぜに》を切って見なくちゃ面白くないということだ。ただで見るとなれば詰らなくても時間の損だけで済むが、お金を払った以上は物質的損害に加えるに、自分がその映画を選択したという責任、つまり後味《ヽヽ》というものがある。その映画に対して自己を投企した、と難しく言うことも出来る。詰らなければそれは自分の責任で、提灯を持った批評家のせいではない。僕は身銭を切った場合、大抵は失敗しないのだがそれでもまんまと騙された場合もないではない。例をあげれば、一番ひどかったのがディズニイの「ファンタジア」という超愚作で、その次が最近のウラノワ女史の「ロメオとジュリエット物語」だ。特に前者については、これを褒めた映画批評家や音楽批評家に対して、自分の責任は棚にあげてだいぶ腹を立てた。ここでその理由を書いていたら脱線も甚しいから止めるが、要するに映画というものは、まず映画であればいいので、文学とか音楽とか演劇とかバレーとかに、変に色眼を使ったものは宜しくない。それからこれは映画批評家の通弊で僕なんかも昔経験があるが、ヒチコックと言えばその作品がずらりと頭に浮ぶ、だからヒチコックはいつも奇抜なスリラーで、カザンなら演劇的リアリズムということになり、肝心の作品がそれまでの同じ監督の作品との比較に於て見られる。そういうことはさして大事ではないので、一つの作品はそれだけで充分に批評に耐え得るのだ。ついでに言えば、ディズニイだから天才的だとか、ウラノワ女史だからバレーの最高峰だとかいう事大主義は宜しくない。映画は綜合芸術だから、あまり一部分のファクターだけを取り出すべきではない。
以上の余談から、そろそろ「わが青春のマリアンヌ」に移ると、これは文学に色眼を使った映画の見本みたいなものだ。もともとこの監督のジュリアン・デュヴィヴィエは文学作品を映画化するのが好きな人だが、この作品の場合、映画の限界というものが原作を殺してしまっている。僕はメンデルスゾーンの原作を読んでいないから比較は出来ないが、文学なら、こうした幻想味は読者の空想を刺戟して、作品の外側に余分の厚みを加えることも出来るだろう。つまり八のものを十にすることが出来る。映画では、八のものは八だけの効果しかない。
湖のほとりに古城があり、鹿の群が遊び、霧が流れ、不思議な館に謎のような女が住んでいる。地の果といわれるアルジェンチンから来た少年が、この女に恋をする。これは文学的題材であり、僕は例えばJ・グリーンの「幻を追う人」、アラン・フルニエの「モーヌの大将」、ジイドの「イザベル」、コランの「野蛮な遊び」、グラックの「シルトの岸辺」等を聯想した。原作はドイツ文学だが、確かに映画はフランス的に翻案されている。ところでこういう幻想味が映画に移されると、エクランはすべて現実として疑う余地のないイマージュを、観客に押しつける。謎の女は本当に館にいたのだろうかという疑問は文学的なので、映画は画面にその姿を正確に映し出したのだから、観客は当然彼女は存在したと思う。それを存在しなかったように思わせるために、つまりその点を幻想的にするために、監督はナラタージュを初めとしてさまざまの細工を凝らすわけだが、それは観客の自由意志による空想ではなく、監督によって強制された空想であって、そこに観客がついて行けなければ、興味索然たるものになってしまうだろう。幻想映画としてはコクトーの「オルフェ」は素晴らしい傑作だったが、あれは幻想が現実そのものとして描かれているので、観客が勝手な空想をしなくても、監督の与えてくれた幻想が既に充分にふくらんでいたのだ。「マリアンヌ」の方はふくらし粉が足りないから、僕はしばしば眼をつぶって、小説でならここはこういうふうに行くところだろうなどと考えた。
そこから映画批評の問題を考えると、本来映画批評というのは観客に指針を与えることを目的としているから、最大公約数的意見を尊重しなければならない。あんまり個性が強くては、一般の観客の物指にはならない。「マリアンヌ」のような映画は、批評家が大人しく監督のイマージュに従って行きさえすれば、結構面白いと言うだろう。しかし僕のように自分自身の好みの強い者が見ると、監督の文学趣味が文学に復讐されているような気がしてならぬ。(断っておくが、この原作小説が傑作だろうなどと僕が考えているわけではない。映画から推察した限り、大したものではないようだ。それでも、文学は文学に違いない。)
この試写のあとで口直しに映画らしい映画を見たくなり、ワイラーの「必死の逃亡者」を見ることにしたが、これは明快な善玉悪玉映画で、身銭を切っただけのことは充分にあった。二時間ばかり、他のことは考えずに(僕は空想癖が発達しているから、映画の途中でも画面そっちのけで空想に耽るが)夢中で見ていた。こういう隙のない、きびきびした演出と、デュヴィヴィエの悠々と遊んでいるような演出と較べると、どうもアメリカの監督はまず観客の身になって映画をつくるが、フランスの監督は自分のためにつくっているような気がする。フレデリック・マーチという俳優は、昔は僕等が「大根マーチ」と悪口を言ったものだが、この作品では役にはまって見事だった。他の俳優もみんな玄人で、作品の中に過不足なく収まって、与えられた瞬間を程よく生きている。「マリアンヌ」の方は若手の俳優を監督が使いこなしているものの、どの一人も、身についた青春が画面からはみ出したところがどうにも素人くさい。というようなわけで、「必死の逃亡者」の方の批評は誰でも似ていようが、「マリアンヌ」の批評は人によってひどく違って来るだろう。
こんなことでは批評とは言えないが、短い枚数のことだし、むきになってデュヴィヴィエやワイラーを論じる気分にもならないから、余談ばかりした。映画というものは、見た人の一人一人が身銭を切っただけの批評家になればいいもののようだ。
[#地付き](昭和三十一年三月)
西本願寺本三十六人家集
秋雨の小止みなく降る日の午後、すすめられて根津美術館に「西本願寺本三十六人家集」を見に行った。自動車の走る電車道から表門をはいると、美術館までの細くくねった道には、砂利の上に紅葉した木の葉が散り敷いていたし、雨に濡れた石像が黙然とたたずんでいた。それがすでに日本的な情緒である。さらに館内に一歩はいると、明るい電燈の下に、美しい料紙に書かれた美しい歌がとりどりに陳列されている。そこで不意に時間が止り、逆流し、十二世紀のみやびやかな王朝時代に自分が生きているような奇妙な錯覚を覚えた。僕のような素人が、何等の予備知識なしに見てもその美しさに打たれるというのは、そこに一種の凝縮された、渾然たる芸術形式があったからに他ならない。
この「三十六人家集」というのは、藤原公任の選んだ古今集の歌人に、万葉集の人麿、赤人の二人を加えた三十六歌仙の秀歌を、別冊に書き写したものである。貫之集及び能宣集はそれぞれ上下二巻ずつあるから、全部で三十八冊、そのうち既に室町切、石山切として分散して世に知られているものもあり、模写によって補われたものもあるが、その大部分は初め宮中に、後に本願寺に伝えられて、明治二十九年にようやく発見された。十二世紀頃の制作とも思われない程のみずみずしい新鮮さを保っているのは、長い時間を陽の目も見ずに保存されていた証拠であろう。
ここで聯想するのは、たとえば「源氏物語絵巻」である。僕は絵巻物という形式を(中国にその源があるとはいえ)わが国のオリジナルな産物であるとして高く評価する。いったい、文章と絵とを並列させることは、人間の本能的な美的憧憬に基くものだろうから、外国に於ても挿絵本、装飾本という形式は古くからあった。しかしそれらに於ては、文章の飾りとして図案や挿絵がはいっていたのだから、絵巻物のように常に絵が主体であって、読ませるものとしては二義的な意義しかないものとは根本的に異っている。もっとも絵巻物といっても一律ではない。「源氏物語絵巻」では、人口に膾炙《かいしや》した物語の最も特徴的な場面を絵に描き、それに原文の一部分をダイジェスト的に詞書としてつけるという形をとるし、「信貴山縁起」では原文は短篇小説だからその全文が用いられ、また一方「鳥獣戯画」のようにまったく詞書がない、という場合もある。しかしいずれの場合にも、絵巻物の特徴は、絵を描くための材料としての料紙の上に、次々に異った場面を示して、そこに一種の時間的な流れを導き出すという点に見られよう。
こういうものとしては「源氏物語絵巻」が最も古いのだろうが、その「東屋」の中に、宇治の中君が浮舟に物語絵を見せ、右近が詞を読んで聞かせている場面がある。従って物語絵と詞書とが別冊になっていた方が、より古い形式なのだろう。原典を愛してやまなかった身分の高い好事家《アマチユア》が、原典のうちの最も印象深い場面を絵に描かせ、それを幾枚も綴じ合せて本として愛玩する、というのが最初の形態だったように思われる。それが次第に詞書をも加えて、「ことば書かせし絵のまじりたる」(建礼門院右京大夫集)ということになり、やがて絵巻物という形式をとるに至った。絵の部分でも書の部分でも、確かに「源氏物語絵巻」は最高の価値を持つものには違いないが、絵巻物というジャンルの独創性の点から言えば、まだ充分に成熟していない、過渡期の産物であるような気がしないでもない。
絵巻物が王朝末期の日本人の才能を遺憾なく示した芸術形式であることは論を俟たないが、これはあくまで絵画というジャンルに属すべきもの、たとえ詞書がどんなに美しい筆跡で書かれていても、それはあくまで従であって絵巻物の本質をなしていたわけではなかった。ところがこの「三十六人家集」に至っては事情が異って来る。これもまた、「源氏物語絵巻」とほぼ同じ十二世紀の初め頃に、ほぼ同じモチーフ、即ち好事家の愛玩物としての目的のもとに制作された趣味的な美術品だが、さてこれをどういうジャンルに属させたらいいかとなると、はたと困ってしまう。名歌を選んである以上、文学的な価値もあり、単なるダイジェストとは明かに異る。しかも書としての鑑賞にも堪え得る、ということは、歌の文学的内容にもまさって、書かれた文字の線が美術的に美しいという点に重要な目的を持っている。加えるに料紙をも吟味してそこにさまざまの技巧を凝らし、この料紙自体が、歌および書と相俟って、一種の芸術的効果をあらわすように計算されている。文学と美術との混合物で、その美術というのも、書と絵と工芸との混合物なのである。
このうち僕などに一番興味があるのは、この料紙の装飾的方法である。まずいろいろな種類の紙がある。鳥の子のほかに、陸奥紙《みちのくがみ》や雁皮紙《がんぴし》、それに舶来の唐紙《からかみ》も用いられる。それらに色を染めたり塗りつけたり、また透き出しにしたりする。その上に雲母《きらら》や胡粉《ごふん》を使って文様を描く。更に一枚の紙の上に他の紙を貼り合せるという技術を用いる。鋏などで切った切継《きりつぎ》がある。手を使って破いた破継《やぶりつぎ》がある。最も凝っているのは、重継《かさねつぎ》といって薄い紙を五枚重ねて、その切口の僅かに見える色の違いを示した技巧である。赤人集や素性集に見られるこの重継は、五通りの線が或いは太く或いは細く、流れるに従って微妙な変化を形づくっている。さてその上に、更に金銀の箔や雲母を散らし、金泥銀泥やその他の色彩によって絵と文様とが描き加えられる。最後に草仮名の美しい文字が、背景との関連において、適当に書き下される。
一冊の歌集は、数頁にわたるこれらの料紙を粘葉綴《でつちようとじ》によって綴じ合せたものである。その各頁が、同じ料紙、同じ文様を持つわけではない。頁の進むに従って、背景の方もそれにふさわしく変化する。僕は硝子ケースの中の、特定の頁の見開かれたものしか見ていないが、恐らく一冊の歌集を手に取って順繰りにめくって行けば、歌に読まれた季節の変化につれて、背景の方も微妙な四季の移り行きを示すのだろう。そこには、一種の絵巻物的な時間の変化がある筈だ。
料紙に描かれているのは、必ずしも具象的な絵ではない。文様なども或る場合にはアブストラクトである。しかし一般に言って、日本的な風景と景物、――松、梅、波、葦、鳥、蝶などが、描かれている。写実的なものもあれば、様式的なのもある。しかし歌と無関係にあるのではない、必ず歌と補足し合って、一種の音楽的効果をあらわすように予定されていることは明かである。
僕が根津美術館の陳列ケースの前で、茫然と時間を忘れてたたずんでいたのは、十二世紀の貴族たちの、この手数のかかった愛玩物が、芸術の綜合的な美しさを呼吸していたからだった。事情はルネサンス期のイタリア貴族と等しいかもしれない。即ちこういうものを作らせた人は、芸術の好事家であるとともに羽振のいいパトロンであり、多くの芸術家を抱えていたに違いない。三十六人の歌人に従ってそれぞれの歌集をつくらせるという贅沢、それに歌の筆跡を見れば二十手ぐらいにはなるらしいし、更に料紙を装飾した画家たちも(助手を含めて)数多くいたに違いない。そうすればこの「三十六人家集」は、このパトロンの主催した一種のコンクールのようなものではなかったか、と僕は考える。その場合に、歌の書き手は単に筆跡についてのみ責任があったばかりか、受け持った一冊の全部にわたって作者としての責任を持っていただろう。彼はまずさまざまの料紙(既に色彩や文様を施した)を取り揃え、更には画家に特定の景物を描かせた料紙をも、あらかじめ用意した。その上で、原歌の内容にふさわしい料紙を選び取り、それを適当に貼り継ぐことによって、彼自身の主観を出そうとした。つまり近代の画家が絵具を材料とするように、料紙そのものを材料としてそこに個性を発揮しようとしたのではないか。例えば重之集の表紙である。波に千鳥の文様のある料紙の上に、破継で捨小舟に葦を描いた料紙が貼り合せてあるが、これは|後から《ヽヽヽ》描かれた絵ではなく、明かにまず二枚の絵があり、それを作者(即ち歌の書き手)の美的感覚が、いわばモンタージュしたものである。その一枚ずつをとり上げれば、波に千鳥も、舟に葦も、月並と言えないことはない。しかしこの両者を重ね合せ、そこに「えだわかぬはるにあへどもむもれ木はもえもまさらでとしへぬるかな」という歌を書きしるす時に、この作者の独自の個性が最もよく発揮されたと言うことが出来よう。
「三十六人家集」は、従って多くの芸術家の協力によって成ったとはいえ、その一冊ずつに於ては、一人の作者の意志がこれを統一しているように思われる。その時代は王朝末期に当り、恐らくは円熟を過ぎてデカダンスを迎えるに至った芸術的時期なのだろうが、いかにも十二世紀的なこうした芸術作品は、それ以後に到底見られないような凝集力を内部に孕んでいる。僕はこれを見ながら、たまたまポール・ゴーギャンが自筆の原稿を書き綴り、そこに自ら挿絵や図案を加えた「ノアノア」や「マオリの古代信仰」などの書物を聯想した。またゴーギャンが戯れに作った「十一枚のメニュ」をも思い浮べた。このメニュは、我が国の色紙のように、一枚の紙の上に文字と絵とをあわせしるしたものである。僕はこうしたゴーギャンの仕事に、近代の芸術家の孤独を痛感した覚えがある。それらはゴーギャンの天才が試みた一種の綜合的な(文字と絵との両方を生かそうとした)実験だったとしても、結局は遊びにすぎなかった。そして同じ遊びとしてなら、この「西本願寺本三十六人家集」の持つ多らかさの前には、どうにもかなわないような気がする。無名の作者たちの美意識は、苦もなく芸術の綜合をなしとげた。それは古代といったものだろう。しかるにゴーギャンの方は、芸術家の宿命的な息苦しさを、たとえ僕たちがそれを遊びだと承知していても、なお伝えなければやまないのである。
根津美術館をあとにした時には、雨はまだ降り歇まず、夕暮が忍び寄っていた。僕は十二世紀から現代に帰った。多らかな美意識の世界から、芸術家の一人一人が彼の主題と闘い続ける時間の中へと帰って行った。
[#地付き](昭和三十四年十二月)
画家のアフィシュ
両面をひろげた新聞紙。それを縦にしてその上をジンク・ホワイトで塗り潰してあるが、端の方では活字の部分がわざと塗り残したのが見える。その白の上に太い線で空を飛ぶ鳥のかたちが大きく図案化されて描かれている。絵はそれだけ。下は横に区切られて黒く塗られ、白と黒との二つの部分にまたがってG・BRAQUEの文字が小気味よく浮き出ている。
文字の部分を見なくても、この鳥はまさにブラックの鳥でピカソのそれではない。白とか黒とか僕は書いたが、白は薄く緑がかった鼠色で、黒にはどうも赤が少し混っているらしい。そこでこの鳥が、地平線の上をゆっくり羽ばたいて、僕らをブラックの個展へ案内するということになる。遠くからこの鳥を一目見れば、きたない街角に鶴が下り立ったようなもので、道を行く人もおのずから気がせいせいするだろう。気がせいせいしたところで、この芸術作品は単に通行人の眼を愉しませるだけのものではないことに気がつくだろう。よく見れば個展会場のところ番地まで書いてある。
つまり広告である。新聞紙に描いた下図を石版刷にした、ブラック個展のアフィシュである。アフィシュというフランス語は英語で言えばポスターだが、なんとなくアフィシュと呼ばないと感じが出ない。つまりただのポスターではなく、画家が自ら制作した美術的ポスターで、本来のものはちゃんと限定番号がはいっている。このブラック個展のアフィシュは千部限定で、他にアルシュ紙に刷ったのが百部ある。個展の宣伝を兼ねたとはいえ立派な美術品で、町角に貼りつけたり、お客にただでくれたりする代物ではない。油絵とか、水彩画とか、銅版画とかいうように、アフィシュという種類の作品があると考えてもいい。従ってポスターというよりあくまでアフィシュで、少々格式が高くていらせられる。
とは言っても、たかがアフィシュである。何と威張っても広告にすぎない。言わば学者が自ら序文の中でこれは苦心の研究だと言ったり、小説家が心血を注ぎましたと後記に書くようなものだ。ところが学者や小説家は恥ずかしがり屋だから、自分の作品は傑作だと思っても、そうそう自己宣伝をするわけにはいかない。そこでこの頃は、あの帯とか称する厭らしい代物が新刊本の腰に巻きついて、気のいい批評家がその意を体して褒めるということになる。本来は自分の書いたものに自信があれば、誰に遠慮気兼をすることがあるものか、堂々と自画自讃すればよさそうなものだが、文字という奴は如何にも白々しくあからさまなので、神経が図太くない限りなかなかそうは問屋で卸《おろ》さない。たまに意気込んだのがあっても、はたで笑いはしないかとつい腰が挫ける。ところが以前は、文士は自分の本の広告は自分で書いたものらしい。鴎外、漱石、荷風、鏡花なんかみなそれぞれに名文句の広告文を書いている。と言ってもどこまでが本人の手で、どこまでが他人の手なのか、何しろ署名というものがないのだから、むやみと決めるわけにはいかない。この点など、文体に関して直覚の鋭い人が、いろいろ調査をしたらさぞ面白い研究材料になるだろうと思う。良くも悪しくもその本の内容を最もよく知る者は夫子《ふうし》自身だから、誇大妄想に陥らない限りこんな面白くて正確な広告はない筈だ。ちょっと一例をあげておくと、永井荷風の「日和下駄」の広告文に曰く、「著者漸く初老に近し、冷笑に一脈の暖味を蔵し、熱愛に一縷《いちる》の寒意を存す。其の言漸く質実、其の文|益《ますます》円熟。『日和下駄』一巻再読三読を禁じ得ざるもの、豈謂《あにいは》れなしといふべけんや。」
脱線したけれど、画家のアフィシュはその広告目的にいろいろあるとはいえ(外国に於けるフランス絵画の展覧会とか、グループの展覧会とか、本の広告とか、舞踏会の案内とか)、最も主要な目的はその画家の個展のためである。それも単に自分の絵を効果的に描いておけば足りるのだから、学者や文士のように自己宣伝だから面映ゆいなどという心理は不要である。その点は気楽だ。広告には違いないが同時に作品でもある。しかも売物としても通用する。
ところがアフィシュの第二の性格として、遊びということが考えられる。遊びに徹していない限り、そのアフィシュは味がない。真面目ばかりでお手前の作品を褒められたのでは、はたが顰蹙《ひんしゆく》することは学者や文士の場合でも同じである。先ほど引いた荷風の広告文でも、その妙味は作者がにやにやしながら「再読三読」なんて文字をひねくっているのが眼に見える点にある。ブラックのアフィシュでも、新聞紙の上に手軽に鳥を描いたその思いつきが、まさに遊びから出発している。
少し他を見ると、マチスとピカソ、この二人はもともと遊びが好きで、年を取るに従って融通|無碍《むげ》の境地に達した。従ってそのアフィシュも自ら愉しむ類のものだ。マチスは「ジャズ」あたりの切紙細工の方法をアフィシュでも応用しているし、ピカソに至ってはその時々のモチーフ、例えば闘牛、平和の鳩、クロードの顔、等々を、驚くほど数多く制作している。つまり彼の熱中したモチーフが、アフィシュにまで迸《ほとばし》り出て、しかもそれが最も純化したエッセンスとして広告のために用いられたということになる。気楽に作ったとは言っても、フェルナン・ムルロの報告するところによれば、ピカソは一九四六年十月から数ケ月間、アフィシュの制作にすっかり興じて、毎日朝の九時から夜の八時過ぎまで、石版の原画を描きに工場に通ったということだ。一体何がそんなに面白かったのだろう。石版の技術に魅せられたのか。しかし更に考えれば、アフィシュの特徴の一つは、それが絵と文字との組み合せだという点にある。文字は、活字の場合と肉筆の場合とあるが、どっちにしても、普通の絵やデッサンが文字抜きで(署名は別として)出来上っているのに較べれば、ここでは文字が重要な役割を果している。その点、画家にとって遊びの要素が更に加わっているということになろう。
活字を使ったアフィシュでも、その活字の型や色や大きさなどが画面に与える効果は充分に計算される必要があるが、これが肉筆でしるされている場合には、その効果は一層いちじるしい。ピカソがせっせとアフィシュを作っているのは、文字を書くという新しい仕事に夢中になったせいもあったに違いない。このことはあらゆるアフィシュ画家に共通して言えるようである。
アフィシュはごく近代の産物、それもフランスの特産物であろう。まず誰もがすぐに思い浮べるのはムーラン・ルージュのために描いたトゥールーズ=ロートレックのそれや、「ルヴュ・ブランシュ」の表紙を描いたボナールのそれなどである。この二人を先駆者として、ごく最近になって多くの画家がアフィシュに手を染めている。僕がいま見ているのはフェルナン・ムルロ編、アンドレ・ソーレ刊の、「エコール・ド・パリの巨匠たちによるオリジナル・アフィシュ」という画集で、一九五九年の発行である。ブラック、シャガール、マチス、ミロがそれぞれ十点ばかり、ピカソが四十点ばかり、他にデュフィとレジェとが数点ある。共通して言い得ることは、どの画家も遊びの精神が旺盛で、かつ作風がデコラチヴなことであろう。画面が画集の大きさに縮小されているのは是非もないが、本来の一枚刷だったらどんなにか壮観だったろうと思う。
誰のアフィシュも見ていて愉しいが、中でもシャガールが僕の好む幻想的な情緒を漂わせて美しい。裸の恋人たちが肩を組んでいたり、赤いとさかをした鶏が睨んでいたり、女が空を飛び銀色の月がかがやくなど、どの一枚もシャガールの独自の世界を示さないものはない。デッサンに五色か六色くらいを掛けた石版刷で、画家の童心が仄々とこちらに伝わって来る。
一般にアフィシュは広告が主目的なのだから、効果が直接的であることが要求される。文字による説明よりも、まず描かれた絵そのものがぴたりと注意を惹かなければならない。ごたごたと沢山の物が並べられているより、ただ一つのオブジェでもその画家の固有の特徴を発揮したものでなければならない。使用された色彩もおおむね数が少なく、その画家にとって親密な色彩が用いられている。
つまり画家の個性が最も簡潔に、力強く、集注的に、アフィシュにあらわれていると言うことが出来る。題材を見ても、このことは直ぐに気がつく。ブラックでは女の横顔であり飛ぶ鳥である。シャガールでは恋人たちであり町である。デュフィでは海岸や田園の線描きの風景である。レジェは太い線による顔であり輪郭と固まりで自由に置かれた色彩である。マチスは女のデッサンや切紙細工の模様である。ミロは例の如き色と線との遊びである。ピカソはクロードの顔であり鳩である。それぞれ専売特許のオブジェなり技巧なりを駆使して、自分を宣伝する。それは実に無邪気で、見ていてほほえましい。さあこの展覧会へいらっしゃい、この本をお買いなさい。誰がこの誘惑に抵抗しきれるだろう。
ちょっと我が国の方へ眼を移すと、アフィシュというものはまず殆どない。ポスターはなるほど町に氾濫しているが、あまりに商業美術的で画家そのひとの個性を見せたものは少ない。画家が個展のためにアフィシュを作る習慣もないし、石版画の普及もないのだからしかたがないが、肝心の遊びというものが第一に眼の敵である。若い芸術家はむやみと怒ってばかりいるようだし、老人の芸術家は若い者を叱ってばかりいる。これは美術だけに限らず、文学などでもどうもくそ真面目がはやっている。僕なんかも少し遊ぼうと思ってペンネームで探偵小説を一つ二つ書いてみたら、本名で書かないとは怪しからんと匿名批評家に攻撃された。窮屈な話である。
そんなことはどうでもいいが、アフィシュの代用品として認められる我が国の特産は、雑誌の表紙絵であろう。これは画家の自画自讃とは違うが、少くとも広告に遊びを兼ねている。去年まで二年間つづいた「新潮」の東山魁夷氏、「文藝春秋」の杉山寧氏、「小説新潮」の猪熊弦一郎氏なんかはそれぞれ特色があって愉しい。但し残念なことに、すべて絵であってアフィシュではない。文字の部分が絵と調和することがない。これは文字の方が、型も大きさもあらかじめ決定しているためだろうと思うが、一つ思い切って、画家に絵と文字との両方を、つまり表紙の全部分を、勝手にやらせるような雑誌は現れないものだろうか。その文字も、活字ばかりでなく、自由に肉筆で書かせたらどんなにか面白いだろう。
一昨年京都で久しぶりに矢内原伊作に会ったら、彼がフランスから持ち帰ったアフィシュを一枚くれた。ピカソの銅版画の個展のためのもので、「青」の時代特有の、痩せこけた男と女とが食卓に向っている銅版画が、原寸ではいっている。但し限定版ではない。
これはその絵だけを複製で見るのとは、また違った感じのものである。僕はその個展に行ったわけではないから、他にどんな銅版画が並べられていたのか、一切知らない。しかしこのアフィシュを見ていると、他の絵もなんとなく想像のうちに浮んで来るようである。気分が浮き立って、空想の美術館にこれから出掛けようという気持になる。ウェーバーには「舞踏へのお誘い」がある。とすれば一枚のアフィシュは、個展へのお誘いである。たとえ海の彼方でその個展が開かれていようと、またその個展が何年も前のことであろうと、一枚のアフィシュからは音楽のようにその雰囲気が立ちのぼる。僕なんかも、ピカソのこのアフィシュを見ているうちに、その個展にいつか行ったことがあるような、奇妙な夢想の中に沈んで行ってしまうのである。
[#地付き](昭和三十五年二月)
豪奢と静寂と悦楽と
マチスが一九〇五年から一九〇七年にかけて制作した作品のうちに、「豪奢」と題したものがある。原名は Luxe で、贅沢とか奢侈《しやし》とか栄華とかを意味する。これを更に詳しく、「豪奢と静寂と悦楽と」Luxe, calme et volupte と題したものもある。これはボードレールの詩 「旅への誘い」の繰返し句の第二行目を引いたもので、その最初の行には「秩序と美と」ordre et beaute という二つの単語が含まれている。これらの五つの単語は漫然と並べられているように見えるが、アンドレ・ジイドと共に、「芸術作品の完全な定義」をそこに見ることも不可能ではない。あらゆるすぐれた作品は、明かにその中に、秩序と美とを、そして豪奢と静寂と悦楽とを含む。それだけの要素があればすべてを蔽うに足りる。
マチスは彼の作品を、敢て「秩序と美と」とは題さなかった。考えてみると、一九〇五年というのはフォーヴィスムの生れた年であり、マチスもまたその先頭に立って多くの作品を描いた。その同じ時期に、これらの極めて平面的な、視覚のアラベスク化である「豪奢」の連作を見ると、それがもっと後期のものではないかと、つい錯覚しやすい。というのはマチスの全作品を貫く主題は、「秩序と美と」のうちにあると考えられるし、フォーヴィスムの時期がマチスの円熟のための重要な契機をなしていたとはいえ、謂わゆるマチス的とも称すべき作品群は、三十年代から四十年代に属しているからである。
大ざっぱに言って、現代絵画は、秩序化の方向と反秩序化の方向(それもまた広い意味では秩序を目指すものには違いないが)とに分れている。その中でマチスほど、秩序化の方向へとまっしぐらに進んだ画家は他に求められない。彼のタブローは嘗《かつ》て象徴派の詩人たちが「音楽からその美を奪う」ことを目的としたのと同じく、一種の音楽的な雰囲気を漂わせるものである。
マチスの目標としたものが「秩序と美と」にあったことは疑いを容れないとしても、彼は謙虚に、繰返し句の第二行目の方をその題名に採用した。しかしこの方の要素は、|より具体的に《ヽヽヽヽヽヽ》、マチス作品の内容を明示している。マチスは「室内」のテーマを好んだ。すでに一九一四年の「金魚」とか一九一六年の「赤いアトリエ」とかの傑作があり、三十年代から四十年代に掛けては室内を描いた円熟した作品が雲の如くにある。一九〇五年に用いた題名の「豪奢と静寂と悦楽と」は、この時期に至って心行くまで花開いて、僕たちを「絵画への誘い」に導くと言えるだろう。机があり、椅子があり、壺があり、花々があり、果物がある。それらは豪奢《ヽヽ》の名にふさわしい。モデルの女たちは悦楽《ヽヽ》を呼吸している。そして画面には、一般に背景と呼ばれている部分とはもっと意味の違った空間が、重要な役割を占めている。単純な明るい色彩に塗られた床とか壁、それは決して前景のモデルや静物を引き立たせるためのものではない。この平べったい部分こそ、マチスが画面に与えた静寂《ヽヽ》、最も音楽的な機能を果すべきものである。ボードレールがその「ワグナー論」の中で言った「聴衆の想像力によって補われる空隙」は、音楽のみならず、詩に於ても絵画に於ても「存在する」。マチスの画面を見て、豪奢《ヽヽ》と悦楽《ヽヽ》とは直ちに指摘することが出来るが、彼の魅力の隠されたものは、この静寂《ヽヽ》の部分がかたちづくっているのではないか。四十年代の多くの作品に見られるモデルの女の顔を平べったく塗り潰して、そこにわざと眼や鼻や口を描かない技巧も、この静寂《ヽヽ》ということと無関係ではないだろう。
マチスが一九〇五年頃に選んだボードレールの一行は、その意味で彼の全作品を、その切紙絵やヴァンス礼拝堂の壁面に至る迄の長い道程を、予言していた重要な題名であるように考えられる。マチスの上にボードレールの影響があるなどというのはおかしいかもしれないが、詩のちょっとした引用などでも、存外に深い痕跡を精神の上にとどめるものだという、一つの例証にはなるだろうか。
[#地付き](昭和三十五年三月)
好きな絵
人には誰しも好みがあって、例えば絵の場合だが、どんな絵描きのどんな絵でも好きだという人はまずいないだろう。同じ絵描きの作品にも、途方もなく好きなのとまあどうでもいいものとがあるだろう。いくら美術史に名高い画家でも当方の神経にさわるような絵は願い下げだし、名もない素人が描いたものも好きとなればしかたがない。そこのところが理窟どおりにいかない。
私の場合には、好き嫌いの烈しい性分の上に、年によって好みが違って来るということがある。大体私は、絵というのは芸術の中でもごく身近に感じているし、おしなべて好きだと言えるのだが、昔は好きでも、その後ずっと同じように好きなのと、近頃では見るのも厭なのと、両方ある。その例を試みにあげてみよう。
私の学生時代に、確かペリカン叢書というので「現代ドイツ美術」という本が出た。粗末な写真版を混えた安い本だったが、長い間それをポケットに入れて持ち歩いた。寝る前も暫く眺めなければ寝つきが悪かった。それはクレーとカンディンスキイとの絵に惚れ込んだせいである。この二人の画家が、私に一種のロマンチックな幻想を喚び覚まして、私を文学的に刺戟したということもあるだろう。私はその頃詩を書いていたし、あらゆる芸術を、音楽も美術も演劇も、すべて詩に還元することで享受していた。これは一種の廻り道で、絵は絵として生きている筈だが、当時の私には、例えばゴッホやゴーギャンは、た易く理解されても、セザンヌとなると分らなかった。白状すれば、セザンヌのぎりぎりのよさは今になってもまだよく分らないところがある。批評家がそのよさを説明してくれれば、理窟は分りすぎるほど分る。ただ理窟なしで惚れ込むというところにはとても達しない。
クレーとカンディンスキイについて言えば、その後、色つきの複製を見るにつれて、ますます好きになった。カンディンスキイの方はあまりはやらないが、クレーは戦後大はやりで、私たちに多くの原色版画集が供された。こういう画家の場合に、一度も見たことのない新しい複製にお目にかかることは、珍しいとっぴな夢を見て目を覚まし、ああ面白い夢だった、というのに似ている。知られない内部の発見、といったものである。
反対の方の例をあげればサルヴァドル・ダリである。私は大学生の頃超現実主義というのに少々凝ったことがあった。これは文学と美術との両域にわたっているから、私のような慾ばりには誂《あつら》え向きの研究対象だったが、当時ダリの画集というのが容易に手に入らない。広告でたまたま限定版「ナルシスの変貌」の予告を見て、さっそくパリの本屋に注文したら、この本の価格は五百フランだが、あなたは本当に買う気があるのかと問い合せて来た。普通の原書が十五フラン位の時代だから、あっけにとられて断った。そこで雑誌などで少しばかりの複製を見ながら、その全貌たるや如何なる大芸術家ならんと久しく夢想していた。戦後いろいろとお目にかかったが、ただの職人にすぎない。昔惚れ込んで損をしたようなものである。
現代美術は百花|繚乱《りようらん》で選り取り見取りであろう。好きな絵描きは大ぜいいるが、近頃はどうも少しずつ古典の方に好きな絵描きが多くなった。古典となると、これはもう無限の宝庫で、誰をあげようと沽券《こけん》にかかわることもない。この春、ニューヨークのエブラムズ書店から、ダイレクトメールでカタログが来た。名画の直接販売なのだが、絵具の盛り上りまで実物通りの「ニヤ・オリジナルズ」と称する新方法で、額縁、ネームプレート、及び反射燈つきだそうである。一枚わずかの二十九ドル九十五セントで、本物のセザンヌは六十六万ドルですよと威《おど》かしてあるが、どうせ六十六万ドルの方は関係がないから、二十九ドル九十五セントが高いか安いか。反射燈つきというのがどうも臭いようだなんぞと考えて、郵便局へ為替を組みに行くのも億劫だから、ついそのままになっている。だいいちそんな立派な紛い物の複製では、こちらも騙され、人も騙そうという魂胆が見えすいていて、料簡が気にくわない。
そのカタログだが、レンブラントからピカソに至る何十枚という見本の中に、実を言うと私が現在最も好きな絵描きの、最も好きな絵が含まれている。一般に「アトリエの画家」と呼ばれている絵で、作者はフェルメールという十七世紀のオランダの画家である。黄色い本を抱えた青衣の少女を、後ろ姿の画家が絵に描いている室内の光景である。
私はアンドレ・マルローの編輯したプレイヤド美術叢書の「フェルメール」を、自分の持っている画集の中で一番大事にしているが、それには全作品が(といっても四十枚足らずしかないが)原色版ではいっている。こういう時には、私が口を酸っぱくして説明するよりも、小さな複製でも見てもらった方がよっぽど早い。なぜ一番好きなのか、その辺のところは現在の私の精神構造とでも関りがあるのかもしれない。
[#地付き](昭和三十八年九月)
ギュスタヴ・モローと神話の女
私はごく小さな時分から神話というものに興味を持っていた。小学生時代のギリシャ神話に始まって、「ユーカラ」とか「カレワラ」とかいうのは、高等学校から大学に掛けての私の愛読書の筆頭に数えられただろう。「古事記」は、その中に含まれる歌謡に関心があったものの、歌謡はもとより神話そのものと無関係ではないから、散文の部分と詩の部分とのどちらに夢中になっていたかを、区別することは難しい。恐らくは子供の頃に読んだ鈴木三重吉の「古事記物語」の思い出ということもあっただろうと思う。とうとう自分でも「古事記」を現代口語に翻訳し、或いは子供向きに「古事記物語」を書くというようなことをしたが、それは結局自分の中で昔から養い育てていたものを、苅り取ったまでである。
こうした神話への親近性は、果して誰にでも共通なものなのだろうか。それとも私の場合は人一倍強いのだろうか。私は自分に関してこうした傾向を正確に分析することなど出来そうにない。それは浪漫的というよりは超自然的、幻覚的、延《ひ》いては宇宙創造的な興味であり、一面ではポオの「ユリイカ」や近頃はやりのSF小説などへの私の好みにも通じるものがあり、また他面、人間をその原型に於て見ることの興味というふうにも言えると思う。神話に現れる神々や英雄や女たちは、根源のところで闘ったり苦しんだり愛したりする。時間の霧の彼方で、というよりも記憶のおぼろげな薄明の彼方で、彼等は本質的に(従って永遠に)生きている。それが現代人の眼からすると、人間の生の、見失われた核のような気がするのではないだろうか。
私がギュスタヴ・モローという一風変ったフランスの画家を愛するのも、モローの芸術性とか絵画史的立場とかを客観的に踏まえた上でのことと言うよりも、つまりは私自身の好みの問題に帰着する。私はモローが、飽くことなく神話を主題としたことに共感するし、またその主題を描く描きかたも無二のものと思っている。
モローにもパノラマ的な場面を示したものがないわけではないが、彼の最も好んで扱うものは、神話或いはそれに準じる伝説の中の女主人公である。例えばサロメであり、レダであり、ダリラであり、ガラテアである。そしてその描きかたはまさに独特であって、神話というものの本質に迫っている。画面はおおむね暗い。そして暗い画面の中に蒼白く燐光を帯びたような女の裸体が浮びあがる。その裸体は、装飾的な衣裳を纏っていることもあるが、常に緻密な筆さばきで、克明に描かれている。そして私たちの眼が馴れるにつれ、この中心人物の周囲の闇の中に、さまざまの色合を見出し、またさまざまの大道具や小道具を見出すことが出来る。それらは或る時は微細に、しかし多くの場合にはまるで抽象画のように大ざっぱに描かれて、ただ中心の人物の効果をそこなわない程度に、色彩も地味に、そこに一種の異様な雰囲気をつくるように計算されている。そしてこの神話的雰囲気というものが、結局ギュスタヴ・モローの独壇場なのである。
もっともこのような光の照し出すものが、常に女主人公に限るということはない。(例えば「出現」ではヨカナンの首が中心にあって輝き、サロメの姿は傍らにある。)しかし中心にある光と、その光を取り巻く闇というこの対照は、私たちが神話というものについて考える時に、殆ど絶対といってもいいくらい思い当るものである。すべて時間の彼方にあるものについて、私たちの見得るものはごく僅かにすぎず、その僅かのものは、闇によって囲まれているが故にますます明るい。神話の女が美しいのは、彼女がその生のまわりに不可思議な空白を持つからである。それは或る点で近代フランスの象徴主義の美学と通い合うものを持っている。
モローは象徴派詩人たちの同時代者だが、詩人というよりは神秘家であっただろう。そして人間嫌いの変人であったように思われる。いや、それ以上に女嫌いだったように思われる。彼の描いた神話の女たちは、いつも冷たい眼指《まなざし》で暗闇を見詰め、ただ愛されることを知って愛することを知らない官能的な美しさを、空しく蒔き散らしている。私はモローの数多い作品の中でも、特に「ガラテア」を好むが、この海の妖精は、海底の藻草の間に静かに憩い、彼女を愛している一眼巨人ポリュペーモスの大きな眼が悩ましげに彼女を見詰めているのに、ささやかな微笑をもかえそうとしない。そして愛されていることを知る故に、彼女の肉体はいよいよ美しく、その取り澄ました表情はこよなく魅惑的である。暗い海底の水の間に、その金髪は永遠に捉えられぬ女の心のように輝いている。
モローはこの非現実の女を愛することで、彼の現実を乗り越えたように思われる。ガラテアが芸術というものの寓意であるなどと考える必要はない。しかしモローのように一生を同じ主題と同じ手法とにのみ費した芸術家のことを思う時に、彼がなぜ飽きもせずに神話の世界と取り組み、しかも神話の中の美しく冷たい女たちを執念のように描き続けたか、そのわけを知りたいと考えるのは私だけではあるまい。そしてモローは、そのわけを決して明かそうとはしないし、ただ作品によってのみ、それも国家に遺贈して現にモロー美術館に収蔵されている数多い作品によってのみ、私たちに語り掛けるにすぎない。まるで彼自身が一つの神話であり、作品という中心の他は、一切を闇の中に包み隠しているかのように。
私は一般に神話というものを好み、従って神話の画家とも言うべきギュスタヴ・モローを好んでいる。しかしまた、モローのような芸術家の生きかたに、延いてはモローの描いたような女たちにも、関心があることは言うまでもない。
[#地付き](昭和三十九年十一月)
「眼」と「手」
美術の秋という言葉がある。秋になると多くの公募展が開かれるし、また外国から大規模に作品を招来して展覧会を開くことが近年の流行になった。今年もロダンやミロやルソーやヴラマンクなどが相継ぎ、にぎやかなことである。ソビエトの持つ近代絵画の逸品なども展観されるという。そういう展覧会が、いずれも高い入場料を取って大入り満員になるというのは、日本人がこぞって美術趣味を有し、兼ねて高度の審美眼をそなえていることの証拠とも言うべきか。
ところで秋がなぜ美術のシーズンであるかという理由は明かでない。行楽の季節であり食慾の秋であるのはよく分るが、何も秋になったからと言って、同じ絵が美しく見えるわけのものでもなかろう。むしろ私の考えでは、秋は絵を見るのではなく、絵を描きたくなる季節である。天は高く、気は澄み、色はあざやかに、物の影まで透きとおるように眺められる。目にするものが美しければ、それを絵に描いてみようと思うのは自然の情である。一億の人民あげて日曜画家になれば、こんなめでたいことはない。そうすれば何も、足を踏んづけられるのを恐れながら、他人の頭の後ろから天下の名画を見なくても、いながらにして自画自讃の愉しみを得られよう。高価な油絵の材料が手にはいらなければ、鉛筆でもクレヨンでも、要するに愉しめばそれで足りるのである。
そういう点で、理想となすべき画家は税関吏アンリ・ルソーであろう。もともとは素人が好きで描いた絵であり、稚拙であり、素朴である。しかし画品はいささかも一流画家に劣るものでない。夫子自身も自信満々で、これこそリアリズムの極致だと考えていた。植物園に行って毎日観察し、葉っぱの大きさをコンパスで測ったというような噂まである。これは如何にも子供っぽいから、近頃の小学生でも、葉っぱの大きさをそっくり写したのがリアリズムだとは思うまい。しかしルソーは真面目な顔をして、見たままを写すのがリアリズムだと信じていた。そして自然よりほかに師はないと手記に書いていた。
ここには恐らく芸術の最も初歩的な、しかしそれでいて奥底の知れない秘密が潜んでいよう。ルソーは植物園に生えている樹を穴のあくほど眺め、それをカンヴァスの上に忠実に写し取った。彼の「手」は、彼の「眼」が見たところをそっくり再現した。しかし「眼」と「手」との間には画家の本人が意識していない奇妙なからくりがあり、そのために現実は、現実そっくりの或る別の物に変ってしまった。私たちがルソーの作品に見るものは、決してリアリズムではない。それは現実をもっと幻想化し、もっと単純化し、もっと素朴化し、もっと抽象化したものである。現に見る自然ではない別の自然を創造し、ルソーの好むままの人物や動物や建物などを置いたものである。しかし、すべての奇妙な風景、例えばジャングルに取材した異邦的な風景に於ても、たとえそれが幻想そのもののように見えても、彼のリアリズムがそこに無視されているわけではない。彼の「手」は常に「眼」の見るところを写し出すのであり、その眼が穏やかな、人間的な、やさしい眼である以上、彼の描く作品もまたごく親密な雰囲気を伝えて来る。そうした幻想絵画の中に、まさにコンパスで測られたような葉っぱが並んでいるために、薄気味の悪い印象を与えられるほど、ルソーの自然はなまなましい。
しかし考えてみれば、私たちは一枚の葉っぱを入念に眺めたことがあるだろうか。葉っぱは葉っぱであるという先入観によって受け入れられているから、ごく無造作に見過されていはしないだろうか。もし葉っぱの一枚を手に取って、その形、その色、その植物学的特徴などをためつすがめつしたあとで、ふっとそこに、その一枚の小さな葉に、籠っている自然の力というものに思いをいたして、何かしら奇妙な恐ろしさを感じたという経験は、恐らく誰にでもあるに違いない。ただの平凡な一枚の葉っぱでも、見ようによっては気味の悪いもの、神秘的なもの、人間の力の及ばないものである。
税関吏ルソーの見た自然は、そのような自然である。或いは、税関吏ルソーは自然をそのように「見た」のである。もとよりそこにはルソーの画家としての力量の問題もある。「眼」と「手」のうちの「手」、すなわちメチエの問題もある。岡鹿之助さんによれば、ルソーのメチエは決して素人画家などと言ったものではなく、実に巧妙なものだそうである。それは凡百の日曜画家の中から、今日ルソーがその鼻祖として仰がれる以上、当然のことと言わなければならない。「眼」だけあっても「手」が伴わなければ、一流の画家とは言えない。ルソーに於て、両者がほどよく均衡していたからこそ、彼の作品は驚くべき内的世界の迫力を私たちに伝えるのである。
ルソーの後に、原始派とか素朴派とか称される画家たちがいる。はじめ画家以外の職業に従事し、やがて絵に興味を持ち出して描き始めた人たち、アンドレ・ボーシャンとか、ルイ・ヴィヴァンとかいった連中で、私はこういった画家たちも嫌いではない。謂わば日曜画家なのだが、日曜画家というのとは少し違った点がある。それは彼らが共通して、子供っぽいリアリズム、つまりコンパスで葉っぱを測るような手法を用いていることである。つまり彼らは、「手」の方はルソーには及びもつかないが、「眼」の方はルソー並に、自然を師とし、自然に忠実ならんことに努めているように思われる。
私は美術の秋に、一億こぞって日曜画家たらんことをすすめるが、それは「眼」を養うための方法としてすすめるので、作品の出来ばえは問うところではない。眼高手低はすべて芸術家の嘆きである。「手」ばかり発達して「眼」を伴わない作品が(絵に限らず)氾濫している昨今だから、ついこんなことを言いたくなったのかもしれない。
[#地付き](昭和四十一年九月)
ワグナー体験
ベルリン・オペラの日生劇場公演で「さまよえるオランダ人」を見た。三年前に同じ劇場で「トリスタンとイゾルデ」を見たから、私のワグナー体験はこれで二回になったと言えるわけである。
ワグナー体験などというのは少々大袈裟かもしれない。人はその人生にさまざまのことを経験するが、それが体験にまで高まるのはよくよくの場合である。或る種の激しい恋愛によって、その人の魂の方向が決定づけられたというような場合に、或いは死に瀕するような病気をして再び生に甦ったというような場合に、初めて体験という字は用いられるべきかもしれない。しかし芸術作品の鑑賞に於て、例えば私は旧制高等学校の一年の時に、暗い図書室の中で初めて「氷島」を読んだ。これは私の朔太郎体験である。戦争中に倉敷の美術館に行って初めて「かぐわしい大地」を見た。これは私のゴーギャン体験である。しかるに私は、年久しくワグナーに関心を抱いていたが、バイロイトはもとより、異国《とつくに》に出掛けることは一切御免だという億劫がりであるから、レコードの小間切れ以外にワグナーを知ることがなかった。もとより芸術的体験というのは、人から借りた本であろうと、粗悪な複製画であろうと、また磨り切れたレコードであろうと、その時々のこちらの感受性次第で、体験にまで高まることがないとは言えない。しかしオペラという、この劇と色彩と合唱とバレーとオーケストラとその他多くの要素をすべて綯《な》いまぜにした綜合芸術に於ては、台本を読んだとかレコードを聞いたとかいうだけでは、象の背中を撫でたようなものであろう。特にワグナーのように、自身の創作になる詩的イメージが音楽と溶け合った劇形式で表現されている場合には、実物を見ない限り何とも言いようがない。従って私が、つまりこの無精者が、こういう機会を何年も待ち焦れていたあげくいそいそと出掛けて行った以上は、これを見て感激しないという筈はないのである。その点極めて単純である。
この前の「トリスタン」の時も、批評家が偉そうな口を利いて、ヴィーラント・ワグナーの演出がどうのこうのと言っているのを聞いても、私は痛痒《つうよう》を感じなかった。これがワグナーだと分ればいいので、些末な点は問う必要もない。今回の公演も、「トリスタン」の時にマルケ王をやったヨーゼフ・グラインドルが主役のオランダ人をやるのかと愉しみにしていたのに、私が見た十月二十八日はゲルト・フェルトホフの方だった。ゼンタ役もイゾルデの時のグラディス・クフタかと思っていたら、クフタは来ていないらしくて、ナデジダ・クニプロヴァだった。それでがっかりしたかと言えば、少しもそんなことはない。オーケストラが序奏を始めたらもうわくわくして、完全にワグナーの虜《とりこ》になってしまっていた。
「オランダ人」は私のような初心者に向いた明快なオペラで、オランダ人の主題と愛による救済との主題とが代る代る現れ、たいへん分りやすい。「トリスタンとイゾルデ」ほど深く暗く魂の内部に垂直に下降し、また垂直に上昇するといった形而上的感動の点では、どうしても一籌《いつちゆう》を輸する。その代り「水夫の合唱」とか「つむぎ歌」とかいった横へのひろがりが、陶然とした悦びを与えてくれる。この作品が初期のものであるだけに、ワグナーが何処から出発し、如何にして四部作の高みにまで昇って行ったかという秘密が、明かに分るように出来ている。すべての偉大な芸術家と同じく、ワグナーもまた彼の内部に、どうしても形を取らなければやまない主題を持ち、それを彼独自の音楽と劇との結婚という形式によって表現したのだと思う。そしてこのオペラの二人の主人公の持つ極めて簡単な図式、即ち運命によって呪われた男と、その男を救済すべく自ら思い定めた女という恋愛の形は、決して古びることのない人間の情熱の一つであり、このような伝説的な物語の枠の中に、ワグナーが詩人として豊かに注ぎ入れた共感が、異邦人である我々をも激しく感動させたとしても、それは当然のことであろう。
[#地付き](昭和四十一年十一月)
音楽の魔術
音楽は我々にとってどのような意味を持つものだろうか。音楽を天職と心得る人や、天職とまではいかないがとにかく業としている人は、ここには問わない。また音楽なんかまるで必要でないと信じている人も、問題としない。そうすると残りの人たち(それが恐らく人類の大部分ということになろう)にとっては、多かれ少かれ音楽は、他の何ものにも、恐らくは他の如何なるジャンルの芸術にも、較べようのない、一種独特の魔術的なもの、と言うことが出来るようである。なぜならば、それは無くて済ますことが出来ないわけではない。音楽がないからといって、人は格別の痛痒を感じることもなく、忘れていればいるで結構時間は過ぎて行く。しかし或る人々にとっては、音楽を聞くことは幸福の一種の実現であり、また別の或る人々にとっては、それがないことは次第に苦痛として自覚されて行く。音楽のない生活は無意識のうちに人を禁断症状に導くが、その病気に罹っているかどうかは、当の本人にさえよく分らないのである。
私は音楽に関してはまったくの素人で、おたまじゃくしさえ読めない。しかしおたまじゃくしの読める人は音楽が分るのかと言えば、どうもそう簡単にはいかないものがある。音楽とは分るべきものであるかどうか。これはピカソの絵が分るかどうかという問題と同じで、芸術は享受すればいいので必ずしも理解とか解釈とかが目的ではあるまい。音楽の場合に、その構成とか技法とかは勿論大事には違いないが、まず味わうこと、その魅力に打たれることが、あらゆる分析よりも先に来よう。多くの人は、私と同様に、それが美しいから打たれるのであり、その感動が何に由来しているのかと訊かれれば、困ってしまうに違いない。
そこに音楽というものの定義しがたい魅力がある。私のような音痴は、一つのメロディさえも覚えることが出来ず、そういうクイズを出されれば一遍で落第だが、その代り同じ曲を繰返し聞いて、その度に新鮮な魅力を感じる。私はこと音楽に関するだけでなく何についても健忘症で、読んだものも直に忘れる方だが、それを後悔しようとは思わない。特に音楽の場合に、既に聞いた曲を初めて聞くように感じるというのは、こんな得なことはあるまいと思う。要するに私は、音楽に対して怠惰な鑑賞家であることを自任しているが、それでいて音楽なしでは済まされないのである。音について敏感な耳を持っているわけではないから、生まの演奏でなければとか、上等のステレオで聞かなければとか、そんな贅沢は言わない。ただ暫く音楽に遠ざかっていると妙に苛々《いらいら》して来て、魂の一部分が乾からびてしまったように感じる。その時一枚のレコードは沙漠を潤す役目を果してくれる。
従って私の好みというものは、たいへん自分勝手で、その時々の気分によって変る。私は音楽を聞きながら仕事をするようなことは出来ないたちだし、といってステレオの前に陣取って一心に耳を傾けるというのでもない。テレマンでもいいしモツァルトでもいい。ドゥビュッシイでもいいしシベリウスでもいい。しかし大体に於て私の好みは、割合に限られた数名の作曲家で足りるようである。そして大抵は無心に聞いていて、そこから何かを得ようと心掛けているのではない。つまりは私の魂に水を撒いてやるだけである。そして聞いているうちに、ふと、言葉にならない詩想のようなものが閃く。次の瞬間には、それは既に飛び去っている。それでも私の中で羽ばたいたものは、決して消えてしまったわけではない。
私は戦後のかなり長い時期を、サナトリウムで寝て暮した。近頃のように手術や新薬が進歩し、また予防医学が発達すると、結核は大した病気とは思われなくなったらしいが、その頃は絶対安静にまさる療法はなかった。そこで私たち患者の唯一の愉しみは、レシーヴァで聞く枕もとのラジオにあり、誰もが一台ずつのラジオを持って、好みの番組を聞いていた。私はその頃、最も音楽に餓えていたのだろうと思う。クラシックの番組だけでなく、ポピュラーや邦楽の時間まで、漁《あさ》るようにして耳を傾けていた。今のようにFM放送やステレオで生まに近い再生音を聞くわけでもなく、貧弱な器械でか細い音色を愉しんでいただけなのに、その頃の私は怠惰な鑑賞家というものではなかった。今から思えば我ながら哀れになるほど、咽喉の乾いた男が水瓶《みずがめ》を傾けるように、真剣に貪り聴いていた。大袈裟に言えば、私はそれを聴きながら、生きている、今は生きている、と自分に言い聞かせていたような気がする。
今でも私は、時々、好きなレコードを掛けてぼんやりしている時に、そのことを思い出す。音楽の魔法に掛けられて、あの頃から今日まで、長い時間を眠っていたのではないかと、ふと錯覚しながら。
[#地付き](昭和四十一年十二月)
私にとっての音楽
私は音楽については素人だから、専門的なことを論じる資格はまったくない。しかし素人には素人としての一面の見かたということもあろう。音痴であっても音楽が好きだというのは、絵が描けなくても見るのは好きだという人の場合と、ほぼ同じことである。ただ私はここで、単に私が音楽好きだということを言いたいのではない。
一体素人とか玄人とかいうのは、どういう基準に基くのか。私は絵のことに関しては本を二冊ほど書いたが、それなら玄人かと訊かれれば忸怩《じくじ》たらざるを得ない。それでも絵について、いっぱしのことを口にすることは出来る。演劇とか映画とかいったものも、昔は批評家らしい口吻を弄したものである。しかしこと音楽に関しては、楽器一ついじれるわけではなく、曲の技巧、演奏の巧拙をあげつらえるわけでもない。せいぜい音楽会に行ったりレコードを聞いたりする程度である。ということは自分の仕事、つまり玄人でありたいと念願している文学の仕事の余暇に、音楽に耳を傾けるというだけのことである。しかしそれが単なる気晴らしとか暇潰しとかいうのでなくて、私という人間の精神的な関り合いの度合において、他のジャンルの芸術とは比較にならない程の重要な意味を持っているとすれば、私は無関心ではいられない。私がこの分野において批評家になれないことと反比例して、音楽は私の内的生活に密接に結びついているのである。素人である私がどういう点で音楽を必要とするのか、これは特殊なケースに違いあるまいが、一般的な問題をそこから抽き出すことも或いは可能かもしれない。
私は自分の仕事に対して、なるべく少ない量を、なるべく完璧に、しあげたいと望んでいる。これは私が嘗て長い間病気をしていて、今でも身体をいたわることは人間としての美徳だと信じているせいかもしれない。畢竟《ひつきよう》は私が怠け者だということである。私は日がな一日ぶらぶらして(億劫がりだから殆ど外出はしない)寝ころがったまま、或いはたまに机に向って本を拾い読みし、画集なぞをめくり、レコードを掛け、それから墨を磨って下手な字を書いたりする。いやまだ色んなことをする。狭い庭に出て草をむしり、しばしばお茶を飲み、そのついでに摘み食いをし、細君をからかい、新聞の囲碁欄などを熟読する。と言えば如何にも暇人のようだが、その間瞬時たりとも仕事のことを考えていないわけではない。それが言い過ぎなら、如何にして仕事の固定観念から逃れようかというので、次から次へと余計なことをしていると言ってもよい。もっとも私は週に三日、教師として大学に通う義務があるから連日のんびりしているわけではないが、仕事のオブセッションはその間も私を掴んで離さない。最後に諦めて机に向って原稿用紙に字を書くのが、哀れ苦役のようなものである。
こういう平凡な、しかし平凡であってはいけないというコンプレックスが常に働いている生活に於て、私の中には常に眼に見えぬリズムがある。このようなリズムは誰にでもあるに違いない。しかし私の場合に、リズムは或る特定の時間にそなえて、その時間に到達するために、クレッセンドに高まって行かなければならない。その特定の時間が来ると私は自分の内部に沈潜し、周囲には眼もくれず、ひたすら固有の世界を築き上げることに専念する。それは別の次元に属する。
私はこういう制作の時間を、一種の音楽のように感じている。それはまさに表現を生み出す芸術的陶酔であり、その陶酔が上手に醸《かも》されるか否かは、日常のリズムに懸っていると言えないことはない。つまり色々と下らないことをしながら、いずれ取りかかるべき仕事のために、一種のリズムによって精神を洗ったり濯《すす》いだりしているのである。とすればこれらの予備工作のうちで、音楽が最もふさわしいということになる。音楽という媒介によって、私自身の音楽の世界に行く道をひらくことができる。従って手っ取り早く言えば、私は自分の仕事のために音楽を利用する。
この利用という厭な言葉を用いるならば、私は自分の作品のためにしばしば音楽を利用したことを認めないわけにはいかない。例えば「草の花」という小説ではショパンのピアノ協奏曲二番を、「風土」ではベートーヴェンの「月光」ソナタを、「告別」ではマーラーの「大地の歌」を、そして現に書いている「死の島」ではシベリウスを使うつもりでいる。それは単なる小道具としてではなく、作品の構成上しかるべき必然性を持っている筈だが、私のように純粋小説を意図している人間にとって褒めた話でないことは勿論である。私としてもなるべくやめたいと思うのだが、どういうものか一つの小説を音楽的に構成したい(ということは純粋小説という意図と牴触《ていしよく》しないだろう)と考えているうちに、つい具体的な音楽作品がそこに絡まって来てしまうのである。そしてこの「音楽からその富を奪う」ことが、詩に於ても小説に於ても、私の関心を惹いてやまない野心である。
従って具体的な作品を小説の中に引用するのは私の至らない証拠だが、仕事のために音楽を利用すると言っても、必ずしも直接にそのリズムをこちらに取り入れようというのではない。先程も言ったように、私には私のリズムがあり、下らないことをあれこれしている間に、特にレコードを掛けてぼんやりと聞いているような時に、奇妙に私のリズムは促進されるのである。それは決して霊感を求めるためでも精神を集注するためでもなく、寧《むし》ろ音楽の波の中にゆったりと浸って、何も考えないでいる状態の方が多い。私はその音楽のリズムの中で精神を開放させ、一種の体操をやってしこりを解きほぐす。そこで私の選び出すレコードは(と言って自由に選べる程のコレクションを持っているわけではないが)その時の私のリズムにふさわしいものであればいいので、難しいことは言わない。私の好みはごく平凡で、レパートリイもそう沢山はない。同じ曲を繰返して聞くこともある。要はその時の気分次第である。バロック時代のものは概して精神の体操に宜しい。バッハとモツァルトはいずれも偉大だが、その時の気分によってどちらかに傾く。ベートーヴェンとは最早完全に絶縁状態で、ロマン派とも疎遠になった。しかしマーラーやシベリウスあたりはまだ熱が冷めず、フランスの近代もいまだ飽きが来ない。現代音楽となると歯の立たないものが多いが、私は通ぶる必要もなく、古いと言われればそれで結構である。
以上のようなことを言えば、私のは特殊なケースということになろうが、しかし人は誰しも固有のリズムの中に暮しているのだから、音楽が彼のリズムと関り合いを持つことは自然であろう。リズムが外からは見えない以上、必ずしも謹厳な老人がベートーヴェンを愛し、ハイカラな青年がモダン・ジャズを好むとは限らない。それよりも私は、毎晩音楽会が幾つもあり、巷にレコード音楽が溢れ、幼稚園にも行かない赤んぼでもピアノを弾くという風潮が、かえって内心のリズムを損《そこな》いはしないかと心配である。レコードやラジオによって、我々はむやみと沢山の音楽を聞かされ、自分が本当に求めているものと無関係でも、好奇心に駆られて、或いはスノビズムによって、面白そうな顔をすることがある。私はやはり音楽の作用というのは魂に訴え、魂を清浄ならしめるのが第一であると思いたいから、そういう音楽に与《くみ》する。とすればやはり古典ということになろうか。こと芸術に関する限り、現代は衰弱した世紀であるらしいという私のペシミズムは、音楽の場合にも当てはまるようである。
[#地付き](昭和四十二年六月)
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[#小見出し] 日常茶飯
カメラの一ケ月
最初に断っておくが、僕は決して自慢をするつもりはない。だいたい今どき、カメラの自慢なんて古くさくて、あまりに罪がなさすぎる。どうせ自慢をするのなら、もう少しア・ラ・モードなことでも見つけて来て、例えばシャンソンの栄枯盛衰を論じるとか、もう少し正統的に、例えば蝶のコレクションを論じるとかした方がましだ。ところが僕にはさっぱり自慢のたねがないから、どう魔がさしたものか、この一ケ月間カメラに凝った話でも書こう。
先月僕は細君を連れて奥伊豆の方へ気ままな旅行に出掛けたが、その出発の前日に、カメラを一台買うことにきめた。だいたい僕は絵は描くが、写真というのは昔から嫌いだ。写真が芸術でないこと、恰《あたか》も探偵小説が文学でないのと同じだと思っている。しかし探偵小説の方は、文学でない故に、かえって気楽に読めるということもあるが、写真となると、人からあっち向けこっち向けと言われるのがぞっとするほど厭なのだから、況《いわん》や他人を撮影する気にはならない。それが平素の節を屈したというのは、旅行の目的地に波勝《はがち》海岸という人のあまり行かない景勝の地があって、船を借りてでなければ見られない野放しの猿などのいるところだと聞かされたので、これを一つカラーフィルムに収めようという野心を起した。つまり、スケッチなんかする暇はないだろうから、手早く記録するにはカメラも悪くないというわけだ。
「一番安くて、一番扱いやすいカメラを下さい。」
そう勝手な注文をして、二眼レフの六千八百円というずんぐりしたのを買い込み、自分は気恥ずかしいから細君の肩にぶら下げさせた。そこであっちこっちで、白黒の写真をとってみたら、これがどうもそんなに下手でもないのだ。(少し自慢に近くなって来たかな。)しかしお天気がはかばかしくないので、カラーを試みるには至らない。漸く目的地に着いても、依然として曇っている。カラーだけは晴天でなければ無理ですよと念を押されていたから、折角のカラーも使う折がない。その上、僕らの泊っていた子浦《こうら》という港には写真屋が一軒もなくて、使い果した白黒のフィルムを、新しく求めることさえ出来ない。涙を呑んで肉眼で景色を見ただけで戻って来た。猿は現れなかったが、波勝海岸は大そう素晴らしかった。
そこで今月初めのお休み続きに仕事を兼ねて信州へ行き、やっと待望のカラーを二本写した。これがすべて上々の出来で、今までの僕の白黒写真は、子供の遊びにすぎなかったと自分でも認める位だ。これというのも、フィルムが高いから慎重に写したせいなのか、それとも、僕がとると何となく写真の方で芸術的にとれてしまうのか不思議でならない。もっとも友人の白井健三郎に言わせると、マージャンと写真とは最初のうち必ず|つく《ヽヽ》ものだそうで、僕の腕前も一月しか続かないんだそうだ。それかあらぬか、目下の僕はより高級な三五ミリカメラが欲しくなり、カタログなぞをひねくって自ら慰めている。
[#地付き](昭和三十一年五月)
テレヴィの魔力
子供の頃、僕は九州の博多にいたが、あそこの東公園と西公園とで、ラジオの公開放送(とでも言うのだろう)があった。つまり片っ方で放送して、もう片っ方で、市民がそれを聞いて感心する。もちろん僕も大いに不思議がって父親にうるさい質問をあびせかけたに違いない。
その暫く後のこと、父親と僕とは東京に移って、親類の家に足場を求めた。するとこの家に、世にも奇妙なものがあった。片耳にレシーヴァを当て、片手で針のようなものを持って、小さな鉱石をつつく。うまい場所にぶつかると、俄然、耳の中に声が聞えて来る。ところがそれが呼吸もので、いつもいつも聞えるとは限らない。この原始的な鉱石ラジオは、僕をして博多と東京との、文化の相違に思いをいたさせた。と気取るほどのこともないので、可愛い小学生は、いつまでも小さな器械をためつすがめつしていたものだ。
だから今の子供がテレヴィに夢中になるのも、理の当然というところだろう。この前、僕は梅崎春生のところに碁を教わりに行った。茶の間にでんとテレヴィが坐り、小ちゃな坊やが、御飯を食べながら、しげしげと画面を眺めている。箸を持った手の方が、いつもお留守になる始末。ところで第二世の方は無理もないと思うが、かんじんの梅崎二段(と彼は僕に言ったから、敬称の意味でつけておく)は、片目で碁盤を睨み、もう片目でテレヴィの方を睨んでいるのだから驚いた。下手《したて》を相手に余裕|綽々《しやくしやく》といえば通りはいいけど、テレヴィの魔力ここにいたるかと思えば、寒心に堪えない。
帰りがけに、君もぜひテレヴィを買え、と言ってきかない。僕はこの時初めてテレヴィなるものを拝んだぐらいだから、金もなければその気もない。しかし彼はテレヴィに対する熱心さに於ても、これまた優に二段格はあると僕は睨んだ。相手の僕が年に一度か二度しか石を握らない素人なのに。
[#地付き](昭和三十三年一月)
東大仏文研究室の今昔
文学部研究室の三階の廊下から見下すと、大|銀杏《いちよう》が今頃は青々と葉を茂らせている。秋になると枯葉が日ごとに落ちて、図書館の方まで見通しになる。廊下を曲ると突当りが仏文の研究室だが、これが相変らず薄よごれていて、左に教官室、中央に助手室、右に学生室と、昔とちっとも変らない。(多少の変化は、女子学生がいたり、副手に綺麗なお嬢さんがいたりするくらいのものだろう。)そこで大いに昔を思い出す。
僕らが学生のころ、つまり戦争の始まるまでの三年間だが、東大仏文科は、辰野隆教授、鈴木信太郎助教授、渡辺一夫講師、中島健蔵講師、という顔ぶれだった。これを学生が蔭でこっそり「辰野オヤジ」「信太さん」「カッちゃん」「ケンチ」と呼んだ。
何しろ学生の数が少なくて、研究室だかサロンだか分らず、辰野先生が椅子に掛けていられるのに、僕ら学生はテーブルに腰を下して足をぶらぶらさせながら、先生のボードレール研究序説はいつ本論が出るんですか、などと、失礼なことを平気で訊いたりしたものだ。先生はニヤリと笑われる。僕と中村真一郎とは、しょっちゅう研究室の本を持ち出しに行くけど、教室へはさっぱり顔を出さなかったから、とうとう辰野先生から、君らはどんなに試験の点がよくたって、乙だよ。甲はやらないよ、と叱られた。
ところで目下、僕も外来講師として、一週一度研究室に顔を出しているが、こういう学生の気風に至っては、だいぶ昔と違ったようである。まず数が多い。何人いるんだか僕はよく知らないが、それがそろってお行儀がよく、決してテーブルに乗っかって足をぶらぶらさせたりはしない。それに授業にはよく出るし、のんきに乙(近ごろは優良可という点がつくから、良)でも丙(可)でもいいような豪傑はいない。僕らの頃には、とうとうフランス語のABCも覚えずに退学してしまった文士志望の学生が幾人かいたものだが、近ごろはどうして、評論家の村松剛君、小説家の大江健三郎君、みんな学生としても成績優秀である。
目下の布陣は、教授に渡辺一夫、杉捷夫、助教授に井上究一郎(在仏)、小林正、外来講師に中島健蔵、佐藤朔、といった諸先生だが、学生だって昔のように、ねえ渡辺さん、などとは呼ばない。これは何も渡辺先生のお行儀が、辰野先生よりもいいというわけでは決してなく、学生の方が大いに社会人的人格をそなえているからだ。何となればこの春の卒業生コンパで、渡辺さんが「江知勝」の鴨居《かもい》にぶら下って、器械体操の秘義を公開されたところ、鴨居が落ちて全治一週間の負傷をされた。しかし並《なみ》いる学生諸君は、誰一人笑わなかったそうである。
というようなことはあっても、研究室の中は、松室、清水の二助手、および、楚々《そそ》たるお嬢さんながら学生に睨みのきく溝呂木副手を中心にすこぶる愉快な空気に溢れている。それに昔と違って、大学院学生用の図書室が別にできて、僕ら先輩から捲きあげた資金で、蔵書の多きを誇っているから勉強するに不足はない筈である。学生諸君は幸福に思い給え。
しかし何分にも学生の数が多い。昔は鈴木先生の講義が終ると、僕や中村などの不良学生は先生のあとにくっついて行き、必ず「タムラ」でビールをおごってもらったものである。近頃はそんな真似をしたら、手取り二千円弱の僕の安月給では破産する。そこで小林正さんとしめし合せてこっそり二人きりでビールを飲むことにしている。
その「こっそり」がなかなかうまく行かないのも、学生は今も昔もたかるのがうまいということであろうか。
[#地付き](昭和三十三年五月)
紫の背広
初めに断っておかなければならない。私は流行とはちっとも関係のない男である。もっとも今年流行したインフルエンザとは大いに関係があって、あれは一月十九日に発生したのだそうだが、私は二十三日か二十四日ごろには早くも感染した。おまけに流行がすっかり去ったと思われる今日でも、まだ風邪気味が抜け切らず、表に出掛けるわけにはいかない。従って巷に如何なるファッションが行われているのか、私は少しも関知しないのである。
その私に流行色について随筆を書けというのは、恰《あたか》もモグラに空の色を問うようなものである。空といえば、昨年は(それとも一昨年だったかしらん、それほど私は無知なのだが)やたらにブルーがはやって、それもイタリア的とか地中海的とかいう形容詞がくっついていたが、百貨店ごとに形容詞の違っているのが少々滑稽に思われた。今年の流行は、百貨店の合理的共同作戦によって、シャーベット・トーンというのだそうである。ここのところは新聞社の人に教わったが、どうも正体が知れないから、友人|丸井才槌《まるいさいづち》の奥さんが服飾研究家であると聞いたので電話で説明を求めたら、約二十分間にわたって詳細な講義をしてくれた。何でも往年はやったパステル・カラーの、明るくてやわらかいという特徴プラス一脈の冷たさというのだそうである。とても私にはぴんと来ない。いっそアイスクリーム・トーンということで白一色にしたら、はるかにさっぱりするだろうに。
昨年の暮、いち早く「ウエストサイド物語」という大型映画を見物した。こういう見世物的映画はなるべく早く見ておいて、うんあれか、と空うそぶく趣味も私にはあるのだが、私が見た頃はまだ評判になっていず、せっかく指定席券を買ったのに、一階も二階もがらがらでひどく損をしたような気がした。ところが、その後大いに宣伝が行き届いたせいか、ジョージ・チャキリスというプエルトリコ人の団長をやった俳優は、目下人気の絶頂だそうである。それも紫色のシャツを着ているのが、黒い苦み走った顔に似合うというので、わが国の青年たちも紫のシャツを着てツイストを踊るのが、最新の流行だとか聞いた。
私は毎年、夏の間、信濃追分という浅間山のふもとの寒村に閉じこもるが、近くの軽井沢にはせいぜい三回くらいしか出掛けない。そのうちの一回は、九月の初め、目抜きの通りの洋服屋が店仕舞いをする日を狙う。というのは、仮にここに一万円の背広の上着があるとする。九月一日にこれが半値になる。二日には三千円になる。三日には実に二千円になる。その日を待ち構えるのだが、それまでに売れてしまえば元も子もない。
もう五年くらい前のこと、八月の末にウサギ屋という店に(私はよく間違えるので、或いはヒツジ屋かもしれない)素晴らしい紫色の背広を見つけた。一万円は高すぎるから、こっそり唾をつけて、売れないことを天に祈って帰った。店仕舞いの最終日を待って胸をわくわくさせながら出掛けて行ったら、何たる幸いか、これがただの二千円で手にはいった。それが、誂えてもこうは仕立てられまいと思われるほど私にぴったりである。意気揚々とその場で着込み、軽井沢の大通りを練り歩いた。
その紫の背広は(外人向きの品物には違いないが、おしゃれなアメリカ人もさすがに敬遠したのだろう)ちょっと気恥ずかしいような気持をいさぎよく振り切ってしまえば、なに憚《はばか》るところあらんや。私はそれから、春になるとこの背広を着て「ふらんすはあまりに遠し」などと朔太郎の詩句を口ずさみながら、悠然と東京の町を闊歩することにしているが、嘗てほかに紫の背広を着ている男に出会ったためしがない。流行はチャコール・グレーとか称する厭味な色を尊んだ頃も、私はひとり奇をてらった。ただし、この背広ももうくたびれて、今年の春はとても着られないだろう。
流行とは、他人と同じ顔をする趣味である。しかし顔はそれぞれ違うのだから、服装も顔に合わせて自分の色を見つける方が宜しい。もっとも私は偶然に(かつ安く)紫の背広を五年前に手に入れたというだけで、流行色はおやめなさいなどと、つむじまがりのお説教をするつもりは毛頭ありません。
[#地付き](昭和三十七年三月)
私と外国語
語学は私にとって趣味である。但しこの頃のことではない。この頃は趣味が変って、あまり労力を必要としないものの方が宜しい。しかし学生時分から、奇妙に語学に凝るという趣味があり、長いのは二年間、短いのは半年くらい、いちおうメドのつくところまで行って厭きる、ということを繰り返した。
一番初めはロシア語である。これは相当熱心に試みて「罪と罰」でマルメラードフが酔っぱらって管を巻くところまで行った。その辺でやたらにむつかしくなり、日本語で管を巻くのさえうまくないのだから、ロシア語が分らないのも無理はないと思って諦めた。その次はドイツ語、これは何となく熱がはいらなかった。その次がノルウェー語、これはたまたまノルウェーを舞台にしたフランスの小説を、下訳するように先輩から頼まれたので、しかたなしに始めた。アンデルセンは実はアネルセンだとか、キイランドはヒエランだとか、人を煙に巻くのには重宝だった。その次がギリシャ語、これも「アナバシス」やルキアノスあたりならいいが「ギリシャ詞華集」という大望があって、ほんの麓《ふもと》までしか行けなかった。
大学を出て日伊協会というところに勤めたから、イタリア語にも手を出さざるを得なくなった。仏訳と首っ引きで、ダンテ「神曲」の「煉獄」までは辿り着いたが「天国」の門はくぐれなかった。それから、趣味的語学は忘れて行く一方で、ロシア語なんか、作品の名前をそらんじているくらいが精いっぱいである。
結局は無駄である。しかし趣味としては高尚だし、損をしたとは思わない。昨年、一念発起して、今度は古代エジプト語を試みようと決心した。ところが取り寄せた文法書があまりに壮大なので、いつしか昼寝の枕と変ってしまった。
日本語の勉強が最も趣味と実益とを兼ねているようである。
[#地付き](昭和三十七年六月)
蛇の話
巳《み》年に因んで蛇の話を書けという註文である。一体何故であるか、と憤然として註文主のU君に反問した。第一に私は巳年の生れではない。それでは何の年かと言われてもそれは言いたくない。十二支の効用としては、人の年を訊くのに、特に相手が女性の場合には、これはなかなか妙である。何年のお生れかと訊くのは失礼でも、トラですかヒツジですかと出まかせに訊けば、頭のお弱い人なら、あら失礼なヘビですわよと答えて、急ぎ頭の中でこちらが暗算を試みればその人の年が分る寸法である。それも一まわり若く、たとえば四十八歳と推察しても、おや三十六ですかと言えば、自然に株が上ろうというもの。但しこの方法も若い人には通用しない。十二支などをそらんじているのは、まず戦前の生れであることは確実である。
ところで理由の第二、私は蛇の専門家でもないし博覧強記の知識人でもない。雑学者とまでもいかない。蛇について書くことなんか何もありはしない。大体十二支なんてものは旧来の陋習《ろうしゆう》だと信じている位である。ただ迷信に傾かない限り、生活の潤いの一助にはなる。縁起をかつぐのは行き過ぎれば大いに害毒があるが、生れ年の干支《えと》に因んだ玩具を蒐めるなどというのは無邪気でいい。
そこで思い出したが、私の識っているさる夫人は巳年の生れで、ヘビを信仰していらっしゃる。たまたま信濃追分の私の山荘の庭で、私は蛇の脱殻を拾った。半透明でやたらに長くて、決して気持のいい代物ではない。夫人曰く、まあ縁起のいい、これをお持ちになっていれば魔除になります。そこで大事にボール箱にしまっておいたが格別の効果もなかったようである。脱殻ぐらいでは、天井裏で鼠が騒ぐのを防ぐことも出来なかった。
さて理由を申し述べて蛇の話は御免だと言ったら、何ぞ今昔物語ぐらいから面白そうな説話を紹介してくれればいいのだと、事もなげである。ついでに太平広記という宋の時代に出来た説話集まで貸してくれた。
確かに面白そうな話はいろいろあるが、巳年の人が読んで、ヘビ年に生れてよかったと思うほど蛇を善玉に扱ったのはあまりない。八岐《やまた》の大蛇《おろち》以来、とかく退治される方の役割である。大体生れた年は当方の意志とは関りないのだから、サルであろうとイノシシであろうと、何もその動物と縁があるわけではないとしても、ヘビはおよそ可愛げの薄い方の筆頭であろう。タツと較べると一段と格が下である。私は竜と蛇との区別は、要するに蛇に足があるのを竜というのだと思っているが、今昔物語|天竺《てんじく》部を見ると、蛇はれっきとした竜王の娘である。本朝部仏法にも、やはり竜王の娘である可愛い蛇の話がある。巻十六第十五「仕観音人行竜宮得富語」をちょっと紹介しよう。
今は昔、京に観音を信仰する若い男がいた。南山科に寺詣りに行く途中、年五十ばかりの男が、杖の先に一尺ばかりの小さなまだらの蛇をひっかけて歩いているのに出会った。尋ねると、これは自分の生計のためだと答える。どんな生計かと問えば、この男は如意《によい》を造るのが商売で、牛の角をのばすのに蛇の油を使うから、それでつかまえたのだ、と答えた。それを聞いた若い男の言葉がなかなかいい。「現《ゲ》ニ難去《サリガタ》キ身ノ為ノ事ニコソ有《アル》ナレ。」食うためにはそれもいたしかたないでしょう、と言った上で、着ている綿衣とその小蛇とを取り替え、それを捉えたという小さな池に運んで逃してやった。
蛇が水の中にはいったのを心安く見送って、やがてものの二町も来たところで、年の頃十二三の美しい女に出会った。不思議に思っていると、わたしの命を助けて下さったので父母にその由を申しましたら、お礼を言いたいからお連れせよとのこと、こうしてお迎えに参りました、と説明した。さては蛇の化身かとそら恐ろしくなったが、決してお為にならないことはございませんと言われて、池のほとりへ引き返した。眼を閉じている間に「重々ニ微妙《ミメウ》ノ宮殿《クウデン》」に達していた。そこに娘の親、竜王が現れて問答があり、お礼に「如意《ニヨイ》ノ珠《タマ》」をあげたいが「日本ハ人ノ心|悪《ア》シクシテ持《タモ》チ給ハム事|難《カタ》シ。」というので、別の物を持って来させた。塗箱で、その中に金の餅の厚さ三寸ばかりのがはいっている。それを半分に割り、一つは箱にしまい、一つを男に与え、また娘が池まで連れ戻して、その姿は掻き消えた。
家に帰ると、ほんの暫く留守をしたと思っていたのに、既に何年も経っていた。こっそり金の餅を砕いて使ったが、餅は決してなくならなかった。そしてこの男が死ぬと共に、その宝物も消えてしまったという話である。
浦島太郎の説話と較べてみると、亀と蛇との違いはあるが根本はほぼ同じで、末尾はこの方が目出たい。それに竜宮に住む竜王の娘が蛇という点は、こちらの方が合理的である。
報恩という同じ主題で内容がすこぶる中国的なのは、太平広記巻第四百五十八にある広異記から採った「檐生《たんせい》」の話である。
昔一人の書生がいて、たまたま道で小さな蛇を見つけた。拾って帰り養い育てたところ、数ケ月のうちにだんだん大きくなった。毎日その蛇を肩にかついで遊び、それに檐生という名前をつけてやった(檐はカツグ意)。そのうちに大きくなりすぎて、とてもかつげなくなったので、范県《はんけん》の東にある大きな沢に放してやった。四十余年が経ち、その蛇は引繰り返した舟ほどもある巨大なうわばみとなって、沢に紛れ込んだ人間を丸呑みにした。
書生も年老いてこの沢のほとりを通り、人から大蛇が住んでいて人を呑むから、行っては危いと警告された。時は冬のさかりで寒さが厳しかった。書生は、蛇は冬眠するもの故そんな筈はないと言い張って、沢のなかへはいって行った。二十里ばかり行ったところでうわばみが出た。書生はまだその姿を覚えていて、お前は我が檐生ではないか、と遠くから呼び掛けた。蛇は頭を垂れてお辞儀をし、暫く見ていてからいなくなった。
書生は無事に范県に至ったが、県令が、この男は蛇を見て死ななかったのはどうも怪しいと考えて、獄に繋ぎ、死刑を宣告した。書生はひそかに怨んで、檐生よ、お前を養ってやったお蔭でおれは死なねばならん、何とひどい仕打だ、と長嘆息した。ところがその夜、蛇が攻めよせ、一県ことごとく陥没させて湖にしてしまった。ただ牢屋だけが陥没しなかったので、書生は危い命を免がれた。
最後のところは猛烈だが、まずは感心な蛇と言えよう、どうもその他は、日本だねのも中国だねのも、おしなべて蛇は悪役である。道成寺縁起は有名だが、男に化身すると女をさらい、女に化身すると男に惚れる、よく言えば情熱的、悪く言えば執念深い。しかしまあ十二支の他の動物でも、悪口を言えばそれぞれに欠点はあろうから、巳年の人も悔むには当らない。
というわけで、断る筈の雑文を書いてしまったが、実は断る理由の第三を忘れていた。それは私が蛇《じや》、もしくは蛇之助《じやのすけ》と何の関りもないという点である。御承知のように蛇之助略して蛇とは、八岐の大蛇以来の伝統を踏まえた、例えばU君の如き、大酒飲みの謂《いい》である。
[#地付き](昭和三十九年十二月)
絵の話
私が油絵を描き始めたのは、――と書き出したところで早くも註を入れなければならない、こう書けば如何にも私が日曜画家の如くに見え、今でも毎日曜日にイーゼル担いで写生にでも行きそうな気配だが、実のところ一年に一、二作あるかなしかで、現に去年なんかは一枚の油絵も物しなかった。しかし画歴が長いという点でも誇示しなければ話の綾がつかないから、まず私が油絵を描き始めたのは、というところから説き起したいが、なに実は大したことはない。十年ちょっと昔のこと、私がそれまで長らく滞在していた療養所をあとにするに当って、一人の女性が私にお祝いと称して、ルフランの油絵具を六色ほどくれた。それまで私が趣味で描いていたのはパステル画で、これも人前で論じる程のものでないことは勿論である。
そこでせっかく貰った絵具だから、これまた友人の絵描きに講釈をたのみ、相手が得意になって弁舌をふるい御機嫌のよくなったところを見計らって、パレット、筆、油などを掻っぱらった。但し絵具はもともと六色しかないのだし、色かずは少なくても混ぜて使うのが勉強だと教えられたので、決して私がけちなわけではないが、すべて貰い物だけで油絵なるものに取りかかった。この初めての油絵は浅間山を遠望した風景で、本物の浅間山はこんなに低い筈はない、これではまるで筑波山だ、とさる人に批評されたので、哀れ始めた途端に中絶するのやむなきに至った。
つらつら惟《おもんみ》るに、私の道具一式にはイーゼルというものが不足している、それ故写実に徹し切れなかったのではあるまいか、つまり私は記憶による簡単なスケッチをもとに、畳の上で色を塗っていたから、つい浅間山の高さを間違えたものであろうと、反省した。何よりも道具あってこその精神である、とはたと思い当って、私はイーゼルに絵具箱、ついでに和製の絵具をもしこたま仕入れた。そこで意気揚々と出掛ければいいのだが、とても東京の町を、絵描き面して闊歩するほどの度胸はないから、時を待つことにした。言い換えれば、信濃追分の山荘に於て絵筆を揮《ふる》うことにした。
私は療養所を出てから、毎年暇さえあれば信濃追分の山荘に閉じ籠る。格別風流を衒《てら》うのでもなければ、人を嫌うのでもない。教師業と文士業とを兼ねている以上、学校の休みを最大限に利用するためには、最も簡便な方法としてそこを利用するまでである。こうして追分に行く愉しみが一つふえた。原稿用紙にペンで字を書くよりは、カンヴァスの上に絵具を塗っている方が面白いにきまっている。
従って私のは日曜画家というよりは休暇画家なのだが、始めてみると油絵というのはパステルや水彩のように手軽にはいかない。段々によくなる筈のが段々に悪くなることがある。あくまで写生が立て前だが、肝心の目前の風景がちっとも似て来ない。例えばこういうことがあった。
我が家の隣に大きな別荘があり、その庭続きに別荘番のおじいさんが住んでいた。池のほとりにぼけの花が咲いている光景を、イーゼルを立てて描き始めた。ほぼ完成に近づいた頃、小学生が数名、学校の帰りに道草を食いながら通りかかり、目ざとく私を見つけると、忽ちまわりに集まって品評を始めた。うまいもんや、とか、この筆を見ろよ、先生の持っているのより立派だぞ、とか言っているうちは、こちらも平然としていたが、一体あれ何だろう、と一人が疑問を呈するや、みなみなそれに倣《なら》って、首をひねり出している。水草の茂っている澱んだ池で、花盛りのぼけの木が逆さまに映っている。誰が見ても分りそうなものを、この餓鬼どもはことさらに、変だな、とか、きっと地面なんだろ、とかおよそ池を池として認識しようとしない。君等はこれが分らないのか、これは池じゃないか、と大声|疾呼《しつこ》したら、私の剣幕に驚いたものかびっくりして蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
従って戸外で写生するのは、たとえ追分のような田舎にあっても、色々と気恥ずかしいものである。そうなると、せっかく買ったイーゼルには気の毒だが、表に出ようという気がなくなる。室内でやるに越したことはない。そこで桜草を壺に飾って、静物画を一枚物した。それが出来上ったところに、隣の別荘番のおじいさんが遊びに来たからさっそく見せたところ、うまいもんじゃのう、この手前のは火鉢かな、と言われてがっくり来た。それは灰皿以外の何物でもない筈だったのだが。
というようなことを繰返しているから、十年以上の画歴はあっても、ものの五六枚しか作品がないわけである。そこで段々に油絵から遠ざかり、この数年来もっぱら水彩画に格下げした。
水彩は道具立が簡単で、油絵と違ってうまく行かない時には破いてしまえば事は済む。旅行の際も、カメラの代りにポケットに収められる。忙しく歩き廻るような時には、鉛筆でデッサンだけしておき、宿屋に帰ってから、夕食後に記憶を頼りに着色するようなことが出来る。勿論あまりうまくないが、信濃追分の早春の風景を描いた小さな水彩画を、ここにお見せすることにしよう。たかが自分の愉しみで、上手下手は問題ではない。そこが素人の気の強いところである。
しかし私が曲りなりにも絵を描くという評判が立って、或る編輯者が、昨年の暮に、私に一冊の本の装幀を依頼するという椿事が出来《しゆつたい》した。その本は私の友人が書いたものだが、著者にも秘密に、つまり編輯者と私以外には誰にも知らさずに、こっそり悪戯をしようという目論みだから、私は忽ち引き受けて、約一月の間におよそ数十枚の下図を描き、装幀者としてもっともらしいペンネームまで考案した。装幀というのは色かずの制限があり、僅か四色しか先方で許可してくれなかったから、水彩を使って、一種の抽象画を試みることにした。なかなか勇気の要る仕事であり、責任も甚だ重い。装幀が悪いから本が売れなかったなどと言われては、たとえ匿名でも名折れである。原画を渡してからも、出来ばえが気になって寝覚めが悪かった。
本の見本が出来て、編輯者が著者に見せたところ、私の友人であるその著者は立ちどころに、これはどうも福永らしい絵だ、と看破したそうである。せっかくの秘密の愉しみだったのが、一朝にして消滅した。しかし本人の気に入ったらしいのは何よりだった。私がそこばくの装幀料をせしめたのは言うまでもない。
日曜画家の話が堕落して金銭の話となったのは残念だが、この秘密のペンネームは当分の間公開しないつもりである。万一評判がよくて註文が殺到したら、私は忙しくて困るだろうから。
[#地付き](昭和四十年二月)
新撰いろはかるた
私は小学生の頃、というのは昭和四年か五年頃のことだが、小石川の雑司ケ谷にあった二階家に、父と、女中のお玉さんとの三人で住んでいた。その家は玄関の突当りが洋風の応接間になっていて、そこに種々雑多な本を詰め込んだ大きな本箱があり、私は学校から帰るとよくその前に立って、自分の読めそうな本を引張り出しては、貪るように読み耽った。私の記憶力はもうそこにあった本の名前を端から思い出すほど正確ではない。私がしょっちゅう取り出すのは何と言っても漱石全集で、よく分ろうと分るまいとその各巻を易しい方から繰返し読んだ。私はそれを御飯を食べる時にも食卓の横に載せて読んでいたぐらいだから、味噌汁や醤油のしみが頁の上に点々とついていたことを思い出す。それから啄木歌集、これまた大好きな座右の書で、愛誦|措《お》く能わぬものがあった。それから読めると読めないとに拘らず、岡本一平とか、和田垣謙三とか、杉村楚人冠とか、内村鑑三とかの随筆集は、つい手の出る本だった。どうも父の趣味というか教育的配慮というか、その本箱には漱石以外の小説本は殆どなかったように思う。
これでは如何にも私が早熟で生意気な子供だったようだが、その本箱には勿論子供むきの、例えば丸善から出ていた未明童話集のようなものがあった。毎年のクリスマスごとに父が私に一冊ずつ買ってくれた。たしかあの童話集は四巻か五巻ぐらいあった筈で、子供にとっては宝物にも匹敵する財産だった。また私は、菊池寛や芥川龍之介が執筆した小学生全集の揃いと、北原白秋兄弟の主宰した児童文庫のバラ本をも持っていたが、これは応接間の本箱には含まれていず、きっと私は大事そうに自分の机の置いてあるコーナーにでも飾っていたのだろう。
応接間の本箱には、また羽仁もと子著作集の幾冊かがあった。私の母は私が東京に来る前に亡くなっていたから、これは父が買ったものに違いない。私がその中で最も愛読したのは、勿論「子供読本」の筈である。この間私がその話をしたら、婦人之友のMさんがその本を持って来てくれた。昔はたしかクロース装だったように思う。私はその中の「新撰いろはかるた」を見ながら、「ね、寝ていてころんだためしはない」とか、「む、むりむり大将ばか大将」とかいうのを懐かしんで、ふとそれを読んでいた遠い過去の自分に戻って行くような気がした。
[#地付き](昭和四十年七月)
東京の夏
今年の夏は事情があって戦後初めて東京で過した。東京で生活している人間が夏の間の東京を留守にするというのは、如何にも贅沢な身分のように見えるかもしれないが、そういうわけではない。昭和二十年と二十一年とは、たまたま北海道の帯広に疎開していた。二十二年から二十七年までは、清瀬村の東京療養所で病を養っていた。清瀬村も今は町になり、人口|稠密《ちゆうみつ》な都会の一部となったらしいが、私がいた頃はまだ雑木林の多い武蔵野のはずれで、東京に住んでいるという気はしなかった。二十八年の夏は、病が癒えて娑婆の人間になったものの、たまたま堀辰雄全集の編纂委員を仰せつけられて、信濃追分の油屋旅館にカンヅメにさせられた。翌二十九年には加藤道夫の所有していた追分の小さな別荘を譲り受け、それからは毎年、暑を中仙道の古い宿場町に避けることになった。これは一つには健康のため一つには仕事のためであって、贅沢とは縁が遠い。それが今年、実に二十年ぶりぐらいで東京の夏を経験した。
それ迄にも東京以外の夏を知らなかったわけではないが、小学校から大学を出る頃まで、主として小石川の雑司ケ谷界隈で暮していた。それでも特に夏が辛かったというような記憶は何もない。寧《むし》ろ私は夏という季節が大好きで、裸で畳の上に胡座《あぐら》をかいたり、引繰り返って昼寝をしたりしながら、大いに能率よく勉強していたものだ。大学を出て勤めに出ると、たまたま高村光太郎のところへ原稿を貰いに行く役目が廻って来て、原稿依頼はそっちのけで高村さんのアトリエを再々訪れたが、夏の間、高村さんは柔道衣のような白い上っ張りを着て、僕は夏は嫌いだ、暑いと何も出来ない、としきりにこぼされた。しかしやがて季節が秋から冬に及ぶと、相変らずの白い上っ張りで、元気旺盛、冬はいいねえ、君は仕事をしていますか、と来るので、寒がり屋の青年は大いに恥じ入ったものである。というのも私は学生時代から冬は冬眠ときめこんでいて、十二月から二月頃まで、毎日朝は朝寝、夜は早寝、と寝てばかりいる習慣で、殆ど無為徒食で暮していたからだ。学生時代に、学年末試験というと必ず成績が悪かったのも、この冬眠のせいである。
それに引きかえ、夏は快適なシーズンだと思っていた。日中暑ければあとは行儀がいいか悪いかだけの問題である。どんなに暑くても夕方になれば夕立があり、夕立がなくても狭い庭先に打水をすれば涼風立ちどころに起る。夕食後のそぞろ歩き、縁日に割引きの映画、空には星も明るく月も涼しい。朝は朝顔の咲く数をかぞえるのも愉しく、みんみん、つくつく法師、蜩《ひぐらし》と蝉の声を聞き分ければ季節と時間の推移も分る。胡瓜、茄子《なす》、トマトなど、野菜という野菜は味がよく、豆腐は冷奴に限る。と、こんなことを一々書き立てても始まらない。長い夏休みを、たとえ山や海に出掛けなくても、一日一日と日の過ぎて行くのが惜しい程、私は東京の夏を愛していた。
そこで今年である。何から何まで腹が立つが、まず第一に空気が悪い。冬のようにスモッグが天を覆うということはないが、排気ガスの充満した重苦しい大気が、朝からもう街々に充満している。夜になっても、星さえ見えず、徒らにネオンばかり輝いている。空気が悪いから、従って無闇と暑く、したたる汗などと風流じみて言える筋合のものではない、文字通り流れる汗が淋漓《りんり》たる有様である。一体昔もこんなに暑かったのかしらと首を傾げたくなるのも、つまりはそよ風がないからである。これだけ高層建築が立ち並べば、たまに風が吹いても、とても地上までは下りて来ない。その上人口が多すぎて、人間の吐く息だけでも気温が上ろうというものである。朝顔を垣根に見ることもなくなった。だいたい近頃は洋花ばかりはやっているから、あんな素朴な日本的な花は小学生が宿題に植えてみる位のもので、大人は相手にしないのだろう。食い物について言えば、胡瓜もトマトも一年中いつでも手に入るから、特に夏野菜というわけでもないし、何よりも水道の水が消毒薬くさくてまずいから、勢いビール会社ばかりが儲けることになる。これではヴァカンスと称して、誰も彼も東京を逃げ出す筈である。
そこで私は、くすりくさい水を飲み、まずい空気を吸い、流れる汗のために汗疹《あせも》をつくった。子供の頃、私は毎年霜焼ができるたちで、殆ど大学を卒業する頃まで霜焼に悩まされ通しだった。それも私が冬を嫌った理由の一つなのだが、しかし嘗て汗疹というものができたためしはない。ああこの年になって汗疹を知るというのも何たる因果であろうと慨嘆した。
というわけで、私はこの夏、茫然として過したようである。何しろ昼寝という無上の悦びでさえも、どうにも暑すぎて不可能なのだから、一日中ぼうっとした頭でいなければならず、机に向っても頭が廻転すべき筈がない。夜は更に猛然と暑いからとても眠れたものではない。
それならばルームクーラーは如何、と人は言うだろう。この文明の利器は霊験あらたかで高原の涼気を立ちどころに書斎に齎《もたら》すと宣伝文句にある。私もまた大枚を投じて器械を仕入れることは仕入れたのだが、こいつをあまり用いると神経痛になるそうである。私の友人の安吐吐男《あんどつくお》はクーラーを用いて痔になった。それを、彼は詩人変じて痔人になったとか、言偏《ごんべん》の詩人でなくて病垂《やまいだ》れの詩人だとか悪口を言っていた、やはり私の友人の粟手糊雄《あわでのりお》は、これまたクーラーを用いて一日三十枚ずつ翻訳したところ書痙《しよけい》になった。書痙は文人の罹る奇妙な病気で、右手が利かなくなるのである。もっとも粟手に言わせれば、安吐よりは高尚な病気に罹ったので、これは人品の相違でクーラーの相違ではないというのだが、私にしてみれば、上品下品《じようぼんげぼん》の区別なくルームクーラーのたたりを目のあたり見たことになる。そこで恐る恐るつけてみたり消してみたり、立ったり坐ったり、その忙しいこと、かえって汗が出る始末である。従って私はせっかくの文明の利器も、あまり恩恵には浴さなかった。
こういうふうにして、私は今年の夏を過したが、これは私のみのことではなかろう。私は日本の四季を愛することでは人後に落ちないつもりだが、東京に自然の夏がないというのでは寂しい。人工の夏で我慢をするか、しからずんば天然の夏を求めて山や海へ出掛けるか、その何れかになってしまった。東京のような膨脹した都会でも、何とか夏のよさを甦らせたいものである。私は、私の子供の頃よりも味のよくなった西瓜《すいか》をほしいままに食《くら》って、僅かに夏の悦びを感じ取った。しかし西瓜では腹の足しにならないように、折角の夏も大して実のある仕事は出来なかった。この小文は、つまり、約束の仕事が捗らなかったことへの弁解なのである。
[#地付き](昭和四十年九月)
習字
字が下手なのは天性と諦めてしまえばそれまでだが、練習して上手になれるものなら、これに越したことはない。そこで時々決心して手習いを始めるが、およそ一週間と続いたためしがない。三好達治さんは軽妙洒脱な筆さばきで、興いたれば流れるように色紙短冊を物された。生前、どうすれば字がうまくなりますか、とお訊きしたことがある。その返事は、十年間毎日筆を手にして丸を書くこと、雨のふる日は、手にした傘の柄で、或いは右まわりに、或いは左まわりに、丸を書くのだそうである。何でもこれは会津八一直伝の秘訣だそうで、三好さんの発明ではないとのことだったが、三好さんはそれを励行されたものらしい。晴雨にかかわらず丸ばかり書くのでは、私のような怠け者にはとても根気が続くまいと、考えただけで気が遠くなった。
小学生の時分、担任の大村寛康という先生は書がお得意で、習字の時間は特に念入りに一人ずつ手を取って教えてもらった。しかし腕白ざかりは、先生が隣の席へ行ってしまえば、せっかく上げていた肱はついてしまうし、字の薄いところにはペンキ屋を試みる。進歩向上すべき機運は充分に与えられていながら、心掛けが悪いから乙か丙しかもらえなかった。中学生になると、習字の時間はいっそう退屈で、友達と語らってこっそり教室を抜け出し、銃器庫のかげで日向ぼっこばかりしていた。密告者がいて、これがばれてしまい、すんでに停学になるところだった。それから星移り物かわったが、ついぞ硯や墨とは縁がなかった。今ごろ慌てても遅すぎるが、書が東洋芸術の醍醐味であることも、おそまきながら分って来た。
芸ごとはすべて実行と鑑賞との二つに分れるのだから、見ているだけでも心が安まる。しかし古人は問わず、漱石や鴎外の書はただの文人の余技といったものではない。現代の文士は忙しすぎて、鑑賞のみで実行が伴わないというのでは情ない。しかし十年丸を書くのではね。
[#地付き](昭和四十年十二月)
英彦山ガラガラ
十年ぐらい前のことになるが、京都の市内を散歩していて、古道具屋の店先で大きな箱にいっぱいの土鈴を買った。旅先のこと故よく見もしないで捨値で手に入れ、あとで宿屋から自宅に送ってもらったのを畳の上に拡げて、一つ一つ音色をためしてみた。雑多に箱の中に詰っていたので、古いのもあれば新しいのもある。どれが何処の産物なのか、郷土玩具の知識に乏しいから専ら造型的な見地と音色のよさを以て測り、最も気に入ったのを机の上に置いて愉しむことにした。口をぱっくり開いて白い小さな土鈴に朱と藍とがおしるしばかりに塗られている、それが十ほどひとからげにして藁しべでくくってある。
その後、多分これも三、四年ほど前のことだが、同じものを民芸品を売っている店で発見し、これが英彦山《ひこさん》ガラガラと呼ばれていることを知り、さっそく購った。この方は五つほどで一組をなしていて、数が少ないだけに音色は一層かぼそい。人を呼ぶ時の実用には役立たない。自分ひとりで音色を聞くだけである。
私は太宰府のほとりで生れたから、「うそ」が郷土の名産であることは知っていたが、このガラガラが同じ福岡県の郷土玩具であるとは知らなかった。そうと知ると何だか懐かしいような気がする。本来は宗教的な意図から出たものだろうが、神社に参拝してこれを買った人たちは、いそいそと家に持って帰り、子供の土産にしたことだろう。子供たちは藁しべでくくったこの粗末な鈴を鳴らして、そのかすかな音色を悦んで聞いたに違いない。形も、色彩も、材料も、ごく素朴であるだけに、ここには古い日本の民俗的なよさが滲み出ているようである。それを振って音色を聞いている子供の姿が、浮び上るようである。
[#地付き](昭和四十二年六月)
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追記 今年の夏、私の伯父と伯母が金婚式を迎えて、親戚一同が上越の温泉場に集合し、一夕祝宴を張った。伯父は昔から佐世保に住んでいるが、たまたま私がこの英彦山ガラガラの話をしたら、即座に「ひこさんガラガラ、口ばっかり」と称えた。つまりこの諺《ことわざ》のような文句が子供たちの極り文句となるほど、この土鈴は有名なものだったそうである。私は思わず笑ったが、穿《うが》ち得て妙、年寄には物を訊くべきものだ。
[#地付き](昭和四十三年六月)
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前売切符
いささか昔の話だが、一九六一年の秋にウィルヘルム・ケンプが日本に来て、ベートーヴェンのソナタと協奏曲とを連続演奏したことがあった。その前売切符が売り出されたのは確か六月であり、私は十月に開かれる予定の七回連続のソナタ演奏会の切符を、いち早く手に入れた。どういうつもりでそんな先走ったことをしたのか、我がことながらよく覚えていない。というのは私はベートーヴェンがそんなに好きなわけではなかったし、ケンプにしても一番好きなピアニストというわけではない。連続演奏を聞くというのはつまりは当方の勉強に違いないが、今さらベートーヴェンを勉強する程の殊勝な気持を持っていたとは思われない。とすれば、私が浅墓な気持を起したのは、細君がぜひ行きたいと私にせがんで、つい誘いの手に乗ったものであろう。二枚ずつ七回分の切符となれば、とんだ出費である。
私が浅墓な気持といったのは、一寸先は闇の世の中、果して七回もの公演に恙《つつが》なく皆勤できるかどうか、心許なかったからである。それというのも私はもともと虚弱な上、引込み思案の億劫がりと来ているから、四ケ月も先のことは自信が持てない。切符を買ってから、どうも厭な予感がした。
さてその年の十月になって、一回また一回と無事に会場に通っているうちに、物の見事に風邪を引いた。細君の方は皆勤したが、私の方は二回だか三回だか行けなくなって大事な切符を人にまわした。細君はこの七回続きですっかりケンプが気に入ったらしく、とうとうあと二回連続の協奏曲の演奏会まで高い切符を買って出掛けて行った。そこで私は大いに口惜しがり、以後絶対にかかる軽率な振舞には及ばないことを固く決心した。どうもこの時以来、ベートーヴェンに逆怨みを抱いたようである。
さて今年のことだが、イ・ムジチ合奏団が十月に四回ほど公演を持った。その切符を買わないかと知人に言われたのが七月である。私はこの頃バロック音楽に関心があるから、ぜひ行きたいとは思ったが、前売切符は虫が好かない、ケンプの時と同じ轍を踏むのは業腹である。と言うもののイ・ムジチのこの前の公演には行きそびれているから、今度は何としてでも聞きたいと思う。このところ細君の方は健康を害していて行かれそうもないから、行くとすれば私が自主的に行かなければならない。そこで遂に我と我が責任に於て三回分の切符を買うことに極めた。あとの一回はプログラムがだぶっているから、つまりは全曲目を聞こうという魂胆である。ケンプ以来数年を閲《けみ》しているから、少々気がゆるんでいたことは間違いない。
私は夏の間せっせと仕事をし、九月の中旬にやっと一息吐いたところで旅行に出、それから帰って来たところで風邪を引いた。イ・ムジチの演奏会までは半月ばかりあって、そのうちに癒るつもりで高をくくっていたが、どうもすっきりとよくならない。癒りかけるとまた引き直すというようなことを繰返し、とうとう肝心の日が来てしまった。その初日は雨の降っている厭な晩で、大抵なら蒲団にもぐり込んでレコードでも聞いているところだが、せっかくの前売切符だからけちになったとしてもやむを得まい。咳止めドロップを舐め舐め会場に出掛けた。この日はヴィヴァルディの夕べである。演奏はたしかに素晴らしかった。一日おいてモツァルトの夕べで、これは少し落ちた。最後の一回は珍しい曲目が多く、パイシェルロのハープシコード演奏曲などはほとほと感心した。しかし風邪の方も日ましに悪くなって、この最後の時は半分ほどは息を詰めて聴いていたような気がする。
人間は緊張すると咳をしないように出来ているものらしいが、それでも咽喉のあたりがむずむずして、今にも咳が出そうになると、意志の力だけでは抑え切れないものだ。必然的に息を詰めて、楽章の切れ目まで、何を聞いているのか分らないようなことになる。というわけで私はせっかくのイ・ムジチを難行苦行して聞いたから、純粋に愉しんだとは義理にも言えない。
これもすべて前売切符を買ったせいであろう。お蔭で風邪がいよいよ悪化して、大人しく寝ている他はないようになってしまった。自由に咳をしながらレコードを聞いている方が、どうも分《ぶん》にあっているようである。
[#地付き](昭和四十二年十月)
時計の話
原田義人がまだ生きていた頃、私にこういうことを言った。
授業時間の終り近くになると、大学教授はやおらチョッキの胸ポケットから、鎖のついた懐中時計を取り出す。助教授となると、左の腕を折り曲げて、ちらりと横眼で腕時計を眺める。これが講師の身分では、教壇の上から学生たちの方に身を乗り出して、諸君、何時になった、と訊くのだ。自《おのずか》らそこに序列というものがある。
夫子《ふうし》自身はさすがにチョッキは着ていなかったが、上衣の胸ポケットに古風な懐中時計を入れ、それを折返しのボタンホールから紐で吊していた。さては君は教授なみか、と私は笑った。果してその頃の原田が駒場の助教授だったか講師だったかは覚えていない。とにかく死ぬまで教授でなかったことだけは確かである。
それよりも早くもう十年以上も前になるが、縁あって私は腕時計を一つ買った。私の借りていた家の隣が大家さんで、そこに新聞記者が下宿していたが、特派員で朝鮮に行った際にアメリカ軍のPXから安く仕入れて来てくれた。それまで私は和製の懐中時計を愛用していたが、そろそろ寿命が来ていたので、そこで新しいのに乗り換えた。教授から助教授に格下げになったようなものだ。
懐中時計と言えば、それよりも更に以前に或る古道具屋で、大きさはピンポン球よりもやや小さい位の真丸な時計を見たことがある。水晶玉のように透明で、中に綺麗な花模様のついた文字板が見え、反対側を返すと中の機械仕掛がはっきりと見える。飾りの鎖は宝石(だかガラス玉だか)を鏤《ちりば》めていて、その先に捻子《ねじ》を巻くための小さな鍵がくっついている。フランス王朝時代のお姫さまの遺品といった感じのものである。見ていると無闇に欲しくなって、これは動くのかと訊いてみたら、古道具屋の親父が、動くかどうかは請合わない、修理してみなければ分らないと答えた。それで値段は五千円で、負けるわけにはいかないそうだ。実用になるかどうか分りもしない時計を購うのに五千円は大金で、しかも手許不如意と来ていたから、涙を呑んで諦めた。今になってもその懐中時計の姿がありありと眼に浮ぶくらいだから、よほど欲しかったに違いない。これは縁がない方の話である。
時計というのは持主と不思議な関係にあるらしく、私はどうも縁が薄い。朝早く汽車に乗ることがあって、絶対確実な目覚しというのでビッグベンを買ったら、これが肝心の朝、唖の如く黙りこくってとうとう汽車に乗りおくれた。煙草のピースをデザインした男のデザインだという、乾電池で一年はもつという洒落れた置時計を買うと、これが今までにもう二度も壊れて、その度に和製の目覚しなら二つは買えるほどの修理費を取られた。だからもう直しにも出さない。まさか私がピースをやめてアメリカ製フィルターつき煙草にしたのがたたっているわけでもあるまいが。そこで和製の目覚しを代りに買ったら、ストップが利かなくて時ならぬ時にりんりん鳴り出す。止めるためには指で抑えていなければならない。これが捻子《ねじ》を巻くと普通の方とベルの方と一度に巻ける便利な仕掛なのだが、鳴り出せば止らないし、鳴り終れば捻子を巻かなければならないのだから始末に困る。もう一つフランス製の小型の置時計は、物のはずみで硝子が取れ、針がひん曲り、その硝子がどうしても填《はま》らない。だから埃だらけでちくたくいっている。動いているだけでもましな方である。その他、壊れたきりの時計が戸棚の中に幾つ放り込んであるのかよく覚えていない。
そこでさっきの朝鮮帰りの腕時計だが、これは充分に長持ちして十年間は無病息災だった。それが段々に調子がおかしくなった。半年に一度は確実に動かなくなる。そこでまた懐中時計が欲しくなって探しに出掛けたが、こういう古風なものは今どきはやらないと見えて、見つけるのに骨を折った。やっと見つけたのは日めくりもついているし、値段も腕時計の半値で大いに気に入ったから、原田義人のことを思い出しながら胸ポケットに入れ、出したり入れたりしていると、ものの半年も経たぬうちに壊れてしまった。教授なみの顔をしていたから時計の方で反逆したのか、私が安物を買ったのが悪いのか。どっちにしても不便きわまりない。腕時計も懐中時計も代る代る休憩していて、遂には二つとも寝込んでしまった。
時計がないということは時刻が分らないということだから、果して得なのか損なのか。人間は渡り鳥ほどの正確な体内時計は持っていないのだろうが、日常的時間の中では勘が働いているから、ひどい間違いということはない。しかし例えば展覧会の中にいて、順繰りに絵を見ながら歩いていると、どのくらい時間が経ったものか見当がつかなくなる懼《おそ》れはある。私は大体がせっかちな性分だから、絵を見るスピイドはたいへん速いが、気に入った作品で、これはじっくり見ようと思って立ち止るとか、或いはたまたまその絵の前にベンチがあってそこに腰を下すとかすると、さて、時間の感覚はまるで狂ってしまい、現実というものが消えて行くように感じる。しかし実際には大して時間が経っている筈もないのである。
私は教師をしているから、とうとう教室へも時計なしで出てみた。原田義人に教わったように、諸君、何時になった、と訊けばいいところだが、大先生ともあろうものが腕時計も持っていないと思われるのは癪だから、平然と、では今日はこれまでと言ってさっさと研究室に戻って来たら、とんでもなく早すぎたのには驚いた。これなんかは日常的な時間感覚に願望的意志が作用して、私の体内時計が狂ったためである。昔の大教授は一度も時計を見ずにぴたりと時間いっぱいに終ったものらしいが、そんな器用な真似はとても出来そうにない。こちらのスケールが小さい上に、時計を見る習慣がつきすぎているからである。どこでそんな習慣がついたのかと言えば、恐らく昔あまり長い間サナトリウムにいて、やれ安静時間だ、廻診だ、食事だ、消燈だと、時間ばかり気にしていたせいであろう。その上しょっちゅう秒針を睨んで自分の脈をみていた。寝たきりで何の愉しみもない時には、時計は仲のよい伴侶であり、哲学的瞑想の根源でもあった。
というようなことを考えながら、机の前に坐って原稿を書いていても、何となく落ちつかない。時計がないからついテレヴィをつけて時刻を知ろうとする。するとそのままテレヴィを見てしまう、という悪い結果を生じた。やはり新品を一つ購わなければ、表にいても家にいても、時間ばかり気になってしかたがないだろう。文明人というのは実に不便なものである。
[#地付き](昭和四十二年十二月)
たかが金魚
何かお飼いですかと客に訊かれて、いや何も飼っていません、無風流なもので、と威張って答えた。何も威張ることはない。飼いたいのはやまやまだが、借家住まいで家人が久しく病気と来ていれば、犬であろうと猫であろうと、ましてや小鳥の類は、主人自ら手を下してこれをいたわらなければならない。その主人が無精者で、身ひとつを持てあましているとなれば、手のかかる風流は御免こうむる。それだけの余裕を持てないのだからいたしかたがない。
しかし「飼う」という字を字引きで引けば、「餌を与えて養う」と出ている。とすれば、金魚でも飼ううちにははいる道理だから、おずおずと、金魚ならいますと答えた。
ほう、金魚をお飼いですか。どんな種類の――。何か珍しいやつ。
いいや、普通の金魚ですよ。
たくさんいますか。
今は二匹だけ。もっとも二冬越しました。
相手はあいた口がふさがらない。たかが金魚である。二冬越したからといって鯉ほど大きくなったわけではない。一昨年の夏、家の前を通りかかった金魚屋をひやかして、四匹買ったうちの二匹で、値段も如何にも安かった。
相手が歯牙にもかけぬとなれば、おのずから熱がこもるのは人情というものだろう。金魚のために陳弁これつとめた。
たかが金魚ですがね、特技があってね。
何か芸でもしますか。
そうなんだ。このおなかのふくらんだ方ですが、こいつはしょっちゅうひっくり返って、裏返しになるんです。面白いですよ。
それは死にかけているのと違うんですか。
さにあらず、水の底でひっくり返っているんです。だいたい鷹揚にできていて、餌をやっても見向きもしない。あとで沈んだ餌をつつくんです。すると逆立ちの格好になるでしょう。それが次第にしっぽが向うがわに行って、とうとう裏返しということになる。初めのうちは驚きましたよ。さては死んだかと手を入れて掬ってみようとすると、脱兎のごとく逃げ出すんですからね。
へえ。で、もう一匹の特技は――。
こいつは昼寝です。しょっちゅう居眠りをしていて、そのうちにバランスがくずれて横向きになるんです。裏返しまでは行きませんがね。
客の見ている前で、曲芸を演じるとは限らない。主人のように暇にまかせて観察していなければ、裏返しや居眠りを見ることは出来ない。思えば犬や猫は主人に似ると言うが、我が家の金魚もそのようである。胃弱の主人は餌が出てもあまり食が進まない。その代り、深夜、腹がへったと言ってはお勝手を徘徊する。裏返しにはならないが寝相は悪いし、仕事を怠けて昼寝を貪《むさぼ》ること、これにまさる快楽はないと自ら称している。うちの金魚は人が来たから近寄るなどというはしたない真似はしないが、主人とても同じことで、無愛想な点もそっくりだ。冬越しの金魚が珍しいのなら、この主人がしょっちゅう病気をしながら生きているのも不思議である。
というようなことを仏頂づらで喋っているうちに、客はあきれて、大した金魚ですね、とお世辞を言って帰ってしまった。
[#地付き](昭和四十三年四月)
[#改ページ]
[#小見出し] 四つの展覧会
ピカソ・ゴル・妄想
今回のピカソ展に舶来された挿絵本については、マチスの場合ほどに巨匠の全貌を示すことがむつかしいのではないかと、多少の危懼《きく》を持っていたが、或る点までこの推測が当ったような気がする。マチスの場合、中でも「ジャズ」は、単なる挿絵本と言うより寧ろマチスの作品集そのものであり、他の七点でも、「ポルトガルぶみ」、ボードレール、ロンサール、シャルル・ドルレアンの詩集に挿絵したものは、何れもマチス自身の鑑賞と批判とによって選ばれた古典であろうし、挿絵にもそうした共感が充分に表されていたように思う。
勿論ピカソの場合に、原著者に寄せる情熱が不充分だなどというのでは決してない。ただ舶来された六点だけでは、やや一面的で、ピカソの挿絵本に於ける全貌を汲み取りにくいのではないか。例外としてオヴィディウスの「メタモルフォセス」に入れた三十八枚の挿絵のように、二十年代末期のピカソ作品の手法を知る上に重要な鍵となるものもあり、その古典的な線の美しさはちょっと比類がないが、他の五点は何れも四十年代の末に描かれたものだけに(従って最近の作風を知るには打ってつけだが)些かヴァラエティに乏しい気がしないでもない。ピカソのように自由自在に変貌する才能を持つ者は、それぞれの手法を試みるのにそれぞれ適合した原著がある筈だから、マチスのように常に一筋の道を深く窮める型の画家と較べて、やはり慾を言えばもう少したくさんの出品を見たかったと思う。これは望蜀である。
挿絵本六点のうちイワン・ゴルの詩集を少しく詳しく見たので、これについて書いてみたい。「イーペトンガの悲歌《エレジイ》、並びに砂の仮面」パリ、エミスフェール書店版、一九四九年刊行。集中の大部を占める「悲歌」は、第一の歌から第十の歌まで、長短不同の無韻詩で、恰《あたか》もリルケの「ドイノの悲歌」の如くである。附録の「砂の仮面」は詩七篇よりなる。
著者のイワン・ゴルについては詳しく知らないが、一八九一年、アルサスの生れであるからピカソより十歳ほど若い。パリのモンパルナスを舞台として、第一次大戦後のダダイスムから超現実主義への移行時代に、フランス及び諸外国の若い詩人、画家、音楽家たちと交遊した。徹底したコスモポリタンであり、時間空間を飛躍した幻想的な詩風を持つ。詩作の初めは「パナマ運河」(一九一二)の頃だが、一般に「新オルフェ」(一九二三)により知られている。またこの同じ年に詩華集「五大陸」を編纂《へんさん》しているが、これによっても、一種の世界詩人的な立場に立っていたことが分る。
「イーペトンガの悲歌」は、この詩人がその後二十五年経ってアメリカン・インディアンに取材した詩集で、往年のコスモポリタン的風貌は尚ここに鮮かに生きている。イーペトンガとはインディアンの言葉で、ニューヨーク近在の大懸崖(現在のコロンビア・ハイツ)を指すが、詩はニューヨークの過去、インディアンたちが小さな部落をつくって暮していた頃から現在に至る自然の推移を、荒々しい咏嘆的な調子で歌っている。試みに第一の歌の最初の部分を訳してみよう。
イーペトンガの懸崖の上に
黄木《おうぼく》を刻んだトーテムは鳥の眼を開く
イーペトンガの高原にあって
トーテムの群は水牛の鼻面で呼吸する
イーペトンガの干潟の中で
葦は齢《よわい》三万年、痴呆の旗を打振っている
千鳥は水晶の声
無言の劇を刻んでいる
しかし寛容の河波いざようかなた
マンナハッタの岩は燃えたぎる
マンナハッタの猪は寝穴を掘りかえす
ダイアモンドの囁きに泉の囁きに
その腹は硫黄のかたまりに充ち
また青ざめた樫鳥《かしどり》の飢に充ちている
トーテムのこの都市は世紀の三秒間に建設される
火と狂気との眼《まなこ》をもつ塔また塔
文中のマンナハッタはインディアン部落の名で、現在のマンハッタンはそのなまり。詩はこのように歴史の源へと溯《さかのぼ》り、滅び行く自然とインディアンとへの限りない愛情に、往年の華かな詩風とはまた違った、詩人の物寂びた心境を表している。「悲歌」はピカソに捧げられている。
ピカソとゴルとの交友が一九二〇年代に始まっていることは疑いを容れない。二十年代は、超現実主義運動によって、文学と絵画とが最も接近し交流した時代であろう。「新オルフェ」にも誰かの挿絵がはいっていた記憶がある。一般に初版の限定本には挿絵を伴う風潮があった。
ピカソは「悲歌」に四枚のリトグラフィを入れた。何れもピカソ特有のグロテスクな味を持った顔であるが、原始インディアン或いは彼等の崇拝するトーテムの印象が、無限の哀愁と痛憤とを罩《こ》めて、見る者に訴えて来る。ピカソの「青」の時代のヒューマニズムは、「ゲルニカ」時代の憤怒の表情に於て裏返しにして表されているが、「悲歌」の挿絵の中にも、虐げられた土人たちの感情が一種の透明な憤怒として描かれているようである。詩と絵とは、決して直接にではないが、微妙に交感している。
挿絵本というものは、画家が原著者と対等の位置に於て(或いはそれだけの矜持《きようじ》を保って)、原文と不即不離に独自の風景を描くことが望ましい。マチスの「悪の華」、ピカソの「カルメン」、何れも顔のデッサンだけで処理したのは面白いと思う。そしてピカソのようにしょっちゅう画境の変化を見せる画家は、その変化に従っていろいろの挿絵本を空想できる。僕はアラゴンの処女詩集「|悦びの火《フー・ド・ジヨワ》」を持っているが、この一九二〇年の版にはピカソのキュビスム時代の絵がはいっている。もしこういうふうに、例えば、「青」でヴェルハーランを、古典主義でヴァレリを、「ゲルニカ」でロートレアモンを、というような挿絵本があればどんなに面白いか。しかしこれもまた、不可能なるが故に贅沢な、妄想というものであろう。
[#地付き](清瀬・昭和二十六年八月)
ブラックの版画
ブラックの版画を見ると、如何にも熟達した芸術家の、ゆとりのある遊びのようなものが感じられる。遊びと言っても悪い意味ではない。油絵の場合には、キュビスムから最近作に至るまで、常に野心的な情熱が感じられ、「椅子」やその他の作品に見られる砂を使ったマチエールや、「撞球台」の大胆なコンポジシオンや、「海景」に於ける風景の象徴的な処理や、その他にもまだ色々あげられる独特の試みが、次第に、確実に、内部に取り入れられて彼自身の本質と化し、「アトリエ」に見るような、渾然とした大作に落ちついたという印象を受ける。それに対して、版画では、既に取り入れられて本質となったものだけが、ためらうことなく、呈出されているように思われる。
ブラックは、キュビスムの創始者としてピカソと名誉を二分する芸術家だし、その作品の系列には、いまだにアヴァンギャルドの匂いが漂っているが、ピカソのように人の先に立つだけの、早見えのする眼は持っていない。一歩一歩を確かめ、それを自分に納得させなければ前進しない。従って油絵には、多少の苦渋を感じさせるものもある。(舶載された作品に、二十年代、三十年代のものがひどく少ないのは惜しい。)
版画では、その点を安心して見られる。ドライ・ポイントによる初期キュビスム時代のもの、「静物」(一九二二年作)に見る日本の明治時代の石版画の感じのするもの、それらと較べて、四十年代以後の多くの色彩石版とエッチングの、紛れもない美しさはどうだろう。一つには石版や銅版についてのブラックの技術的な確かさ、効果の測定に関する気むずかしい職人気質のようなもの、それに裏打されて、どの一枚もが、複製であって複製でないような、その一枚きりの確実な生命感の上に立っている。
版画には大きさの制限ということもあるから、デコラチヴであることが何等さまたげにならない。油絵の場合には、フォルムが複雑化して行く方向と、色彩が単純化して行く方向との、微妙な調和が、ブラックの関心の一部を占めていると思われるが、版画の場合には、色彩の単純化という点が、そのままデコラチヴな成功の原因になっている。「黒い水差とレモン」などを見ると、白と黒との間に無限のニュアンスがあり、中間の灰白色のトーンに深い色彩を感じさせる。「紅茶注ぎと林檎」の、黒地に浅く流れているコバルトの緑、「黒い紅茶注ぎとレモン」の、鮮かに輪郭をたしかめている白、いずれも心にくい。そして数の少ない色を使って、全体を浮き上らせた量感というものは、幻想や詩に訴えるというのではなく、現実を突きつめたあとの象徴的な味わいなのであり、水差は水差のまま、レモンはレモンのまま、それ自体の奇妙な生命を生きている。それは沈黙した時間、凍りついた時間の美しさのようなものである。
しかし版画という枠の中で、ブラックは決して冒険していないわけではない。「エリオス」の構図は、バックの色を変えてみることで、七点も出品されている、それも三年間かかっている。色によって、確かに一枚一枚が別のもののような印象を受けるから奇妙だ。しかし結局は、白地に黒で済むものなのだろう。「白鳥」は反対に黒地に白で、素晴らしい曲線に凝縮されている。このようなものは、白と黒との間に、内部への凝視と反省とに伴う無韻の詩のような色彩を感じさせ、ためらわずに引かれたマチスのデッサンとはまったく異質的で、簡単に遊びとは言っても、なお冒険への誘いを秘めている。他にも、例えば、「少女の頭」をデッサンした場合、上からニスを塗ってみなければ気の済まないような心の動き。
デコラチヴであり、そのことに何の疑いも持ってはいず、しかも十全の生命感を画面にみなぎらせているというのは、ブラックの通って行ったアブストラクトの観念が、非人間的、幾何学的な場から出発していたのではないことを示しているのだろう。そこにあるのは、やはり一種の地中海的な明るさ、クラルテ、である。神話的な題材への試みを、ブラックも版画で色々やっているが、それはピカソのようなディオニソス的な、デモン的なものを感じさせない、端正優雅なギリシャの神々である。クラルテといっても、特に静物をえがいた版画では、画面を主導するものはたいてい暗色であるし、全体の印象は決して光の射し込むようなものではない。それでいて、統一された画面には、落ちついた、渋い、みやびやかさがある。フランスのごく若いミノーのような画家を見ても、題材の暗さを処理する表現は極めて明るいが、そこにはマチスなどとは違った意味で、ブラックの持つやはりフランス生粋の向日性の影響があるのではないだろうか。
ブラック展の飾り窓の中で、ブラックの「手帖」の中の次の文句を、偶然に読んだ。――「壺は空間に形を与え、音楽は沈黙に形を与える。」壺というのは、恐らくブラックの最も愛するオブジェなのだろうが、オブジェの意味を、このように、音楽との対比に於て捉えている点が、僕には甚だ興味を引いた。ブラックの一枚の色彩版画を見ていると、僕にはそれが、繰返し聴いて無限に飽くことのない、短い音楽であるように思われる。
[#地付き](清瀬・昭和二十七年九月)
ルオー遺作展
一
私は九月末の某日、白水社の本田喜恵さんと一緒に、西洋美術館の倉庫でルオーの遺作を二十点ばかり見た。ルオー遺作展は十月七日から開催される筈だが、それまで待ったのではこの原稿が雑誌に間に合わないというので、ほんの短い時間に慌しく瞥見《べつけん》した。夕刻だったし、私等が美術館に着いた頃から急に雨が降り始め、内も外も暗く、あまり良好な条件で見たわけではない。従って私の印象も、正確であることを保証しがたい。
ルオーは一九四七年に、画商ヴォラールの遺産相続者に向って、自分の未完成作品の返還を求める訴訟を行った。その結果、翌四八年に三百十五点の作品がルオーに返却され、彼はその全部を警察の立会いのもとに焼いてしまったそうである。自分の不満な作品は、これを残すことを潔《いさぎよ》しとしないルオーの頑固ぶりが、目に見えるような挿話である。そのルオーのアトリエに、彼の死後、三百点以上の未完成作品が遺作として残っていたというのは、つまりこちらの方は、ルオーがまだ愛着を抱いていた、もしくは他日の完成を目指していた、ということになるのだろうか。
ルオー遺作展には百二十点ばかり陳列されるらしいが、私がざっと見た範囲でも、必ずしも晩年の作に限られているわけではなく、さまざまの時代のさまざまの作品を含んでいた。例えば油絵やグアシュに限っても、ピエロもいればキリストもいる、娼婦もいれば聖女もいる、月光に照された聖書的風景もあれば、奇怪な異端の風景もある。結局ルオーの全生涯にわたる本質的な仕事は、これらの未完成の作品の中に充分に看て取られるようである。
未完成の、と私は書いたが、果してどれが未完成で、どれが完成したものか、俄には極めがたい。見るからに部分が荒く残されているものは疑問の余地がないが、完成作と似たような構図を持ち、殆どどこがどうと指摘できないほど充足した作品もある。いや充足などと言えば、未完成のものも、やはりそれなりに充足しているのだ。そこにはルオーという画家の、内面的な浸透力といったものが常に感じられる。
一体、詩や絵画などで、完成というのはどの時期を指すのだろうか。一般に完成はフォルムの問題で、作者がその想像のうちに願望している理想的形態が実現すれば、その時期が即ち完成である。しかしそこでまた想像が働けば、理想像は後退し、作者はもう一歩踏み込んで行かなければならない。こういうことを繰返す限り、厳密な意味での完成ということは不可能に近い。韻文詩の場合には、フォルムが整えば、即ち規則が満足させられれば、一応の完成ということは言える。しかし自由詩の場合には、フォルムの制約はそれほど厳しくはないから、詩人は無限に削ったり附け足したりすることも出来るわけだ。絵画の場合でも、フォルムもしくは様式が一定しているような作風の画家では、理想像は比較的近くに見えているだろうし、極端に言えば、描き出す前に既に細部にわたって決定しているような画家も、いないわけではない。モチーフが浮べば、あとはただ描けばいい。
それに対してルオーはまったく別の種類の画家である。モチーフもある、フォルムもある、しかし彼の想像の中の理想像は、彼が自らに対して厳しくあればある程、ますます遠ざかる。彼は自らの理想像と絶えず追い駆けっこをしている。百行を書いて一行を残し、また新しく百行を書いて次の一行を残す自由詩の作者のようなものである。しかし天才が消し去った九十九行もまた霊感の息吹なしに書かれたのではないように、ルオーの未完成の作品は、画家の燃焼する全人格の表明でないことは決してない。未完成の作品さえも面白いというのは天才の証拠に違いないが、ルオーの場合にそれは最もよく当てはまるだろう。
ルオーは「芸術とは熱烈な告白である」と言っている。ルオーの宗教的な作品は、彼の魂の燃焼以外の何ものでもない。彼は罪と苦悩との悲劇的な世界から、次第にステラ・ヴェスペルティーナの照す世界へと歩いて行った。そのような画家にとって、告白は、たとえそれが未完の告白であっても、常に誠実な彼の魂の表現なのである。
ルオーの遺作の中には、彼がある時期の記念として自分のために保存しておいた作品も混っているかもしれない。また、もう一筆補うことによって完成させようと考えながら、遂に果さなかった作品もあるかもしれない。私は専門家でないから、そういう区別はつかない。ただ私は薄暗い美術館の倉庫を出て、暗澹とした夕暮の空を眺め、偉大な芸術家が途切れがちの口調で呟いた、ごくかすかな告白を聞いたような気がした。祈りのようなごくかすかな告白を。
[#地付き](昭和四十三年九月二十九日)
二
今世紀前半の五十年間に、フランス美術の代表的な画家を数えあげるとすれば、人によって好みは違うとしても、そこにジョルジュ・ルオーの名を逸することは出来ない。ルオーは一九五八年に、八十七歳の長寿を全うして死んだが、その作品はルオー以外の何人たりとも果し得ないような、独自の主題と独自の手法とによって貫かれていた。わが国に於ても、地味ではあるが人気の高い画家の一人であり、昭和二十八年に開催されたルオー展は、今なお私の記憶にも明かだが、この画家の全容を示すすぐれた展覧会だった。
ルオーの死後、そのアトリエには数百点の遺作が残されていた。遺族はそれらをフランス国家に寄贈し、昨年ルーヴル美術館に展示されたが、今回百八十一点が選ばれてわが国に齎《もたら》された。私は東京上野の国立西洋美術館で催されたこの遺作展を見て、一種の名状しがたい感動を覚えたが、その感動を分析することは容易ではない。
一般に、アトリエに残された遺作と言えば、未完成の作品を意味する。未完成という言葉からは、それが何かしら不足のある不充分な作品のような印象を受ける。しかしそれは、ことルオーに関する限り、まったく当てはまらない。ここにあるのは昭和二十八年度の展覧会にまさるとも劣らない完全なルオー回顧展で、その初期から晩年までのあらゆる見本が揃っている。好事家が、重箱の隅をせせるようにして面白がるといった類のものではない。
ルオーの独自の主題というのは、初期の頃のサーカスや庶民たちを描いた陰惨な風俗から、晩年の聖書的風景にいたるまで、一貫した魂の呻きのような自己告白である。ルオーにあっては、サーカスのピエロといえども、場末町の娼婦といえども、人間苦の象徴として生きている。それはやがて、キリストのいるさまざまの風景の中に、悲劇的なものとして次第に高まり、遂には一種の浄化された世界に達する。
それらを描く手法もまた、独自のものである。ルオーと言う時に、我々はすぐに浮き彫りのように厚く絵具を塗った画面を思い浮べる。たとえ絵具が薄い場合でも、それは秩序ある美しさ、或いは明快さを、目的としているわけではない。線も、色も、画家の内なる魂を表現するものとしてカンヴァスを走り、線は新しい線を呼び、色は新しい色を呼び、それらはまるで画家の呼吸をそのまま伝えるように動く。そうした複雑な変化の底に、なんという単純素朴な美が、現れ出て来ることだろう。画家は、彼にとって真実と思われるような一本の線も、一筆の色も、画面に附け足すことをしない。彼は常に真実のみを語る。この暗い沈んだ美は、その主題と見事に照応するもので、例えば空を示す深緑や濃紺、キリストをふちどる濃い黄色やオレンジ色は、まさにルオー以外のどんな画家も使えないような色彩なのである。
従ってこの遺作展が、未完成作品すなわち未成熟の習作を集めたという印象を与えないのは、極めて当然である。このような画家にとって、未完成ということはあり得ても、未成熟ということはあり得ない。なるほど遺作の中には、チョークでしるしのついたものもある。それはルオーが、いずれ修正するつもりでいたことを示している。しかも尚、その絵はそれなりに完成し、成熟しているのだ。このような誠実な画家は、制作のいかなる過程においても常に誠実であり、もしそれに更に手を加えれば、それはまた別の絵になるというまでである。人間苦を見詰めて、宗教的世界の静けさにまで達したこの偉大な画家は、絵画というものが魂の表白であることを、この遺作展に於て我々に遺憾なく示しているようである。
[#地付き](昭和四十年十月)
先駆者フジタの道
私が初めて本格的な洋画というものを見たのは、恐らく昭和四年の藤田嗣治の帰朝展覧会の時だったろうと思う。私はその時小学校の上級生で、自分の知らない新しい世界に没入して一種の恍惚状態に陥った。その時のフジタの画集を大事にしていてその後もしげしげと見た筈だから、一九二〇年代の代表的な作品は今でも眼の前に浮んで来る程である。しかし当時の私は、それを日本画と区別して見ていたとは思われない。絵はただ絵であって、日本画と洋画との区別はどうでもよかった。
それから四十年近く経って、この頃は日本画といっても洋画に近いものが多くなった。材質を吟味しない限り、ほとんど区別のつかないものがある。そのことによって、日本画は進歩した筈であり、少くとも旧来の伝統を越えた作品が見られるようになった。一方、洋画の方で日本画に近づいた例もないわけではない。日本人の描く油絵が日本人の感情を呼吸するのは当然だし、そのために技術的に日本画の特徴を採り入れようとするのも、考えてみれば自然な話である。ただ洋画の場合に、新しい分野を切り拓きながらヨーロッパの水準に達するためには、日本画の伝統を振り返るだけの余裕に乏しかったと言えるかもしれない。その点で、フジタの足跡を眺めることは、現在の時点からしてもまだ決して無駄とは言えない。
エコール・ド・パリは、第一次大戦以前に於て、パリを一種の絵画共和国として活躍した、外国生れの画家たちの総称であり、彼等に共通して言えることはその無国籍的性格である。それは彼等にフランス人と呼んでもいいような、あるいはパリジャンと呼んでもいいような、柔軟な性格を与えた。この絵画共和国にはもちろん生粋のフランス人の画家、例えばマチスやドランやルオーなども住んでいたが、それと同じ資格で、スペイン人のピカソも、イタリア人のモジリアーニも、ロシア人のシャガールも、ドイツ人のエルンストも、肩を並べていた。とすればこの絵画共和国の住人たちは、一見して無国籍的である反面、それぞれの画家の母国の伝統を、彼等の血液の中に持っていた筈である。
フジタと呼ばれる画家が、彼等の間に伍して頭角をあらわすためには、何が必要だったのか。油絵の伝統という点から見れば、日本人である彼は他の画家たちよりも比較を絶したハンディキャップを背負っていた。単に天分だけではどうしようもない後れを自認し、その後れを取り戻すためにどれ程の努力と勉強とを重ねたのか、およそ想像も出来ないくらいである。その場合に、油絵にとって異質的と思われる日本画の伝統を生かすほかに、方法がないことは自明だった。それは誰にとっても自明だったに違いない。しかし自明であることと発明することとはまったく別ものである。
フジタの運筆が如何に早かったか、部分から始めて如何にして全体に及んで行ったか、如何に記憶力にすぐれ、そらで描くことが出来たか、――こういう例証は無数にある。そのために彼は職人である、アルチザンであるという批評は昔から附きまとっていた。しかし如何なる芸術家も、アルチザンであることを抜きにしては成立しないのだ。今日出海氏によれば、フジタは貧乏時代に漆画の修復をし、狩野派ふうの花鳥画を描いたそうである。日本画の素養があるというだけでは方便にすぎないが、彼はそれを油絵の上に生かして独特の手法を発明した。乳白色の裸婦の肌と、面相筆による細い墨の線、この発明がフジタをエコール・ド・パリの重要な一員として特徴づけるのに成功したが、それは決して単なる思いつきといったものではなく、死にもの狂いの摸索の結果として生れたものであろう。人前で絵を頼まれて、絵具がなかったために、煙草を水にひたしてその汁で描いたという逸話があるが、これも即興というよりは、日頃の研究の一つの現れのような気がする。勉強家のフジタは、恐らくあらゆる材料を試み、洋画と日本画との枠を越えた彼自身の絵画の可能性をさぐっていたからこそ、あの純白の肌をした裸婦を生み出したのに違いない。それは一九二〇年代の初めである。
しかしフジタを有名にしたのはそれだけではない。当時のパリでのフジタの行動には、人目を惹く奇抜なものが多く、さまざまの挿話に充ちている。それは持って生れた性質ということもあっただろう。しかし芸術家らしいダンディスムが、特にこの時期に、意識的に誇張して表現されたというふうにも考えられる。彼は生活の上にまで彼の芸術を延長したというふうに。そして私は(私個人としては、こういう派手な振舞は好きでないが)フジタの場合にこのダンディスムを肯定する。フジタは絵を売り出すとともに、フジタという名前の一人の人間を売り出したのだ。自分を宣伝することによって、絵そのものに関心が及ぶことを求めようとした。絵画共和国の市民権を手に入れるためには、一切は方便であって、どんなことでも許されると考えたに違いない。私は寧ろフジタの行動に先駆者の苦しみを見たい。フジタのあとからパリに行った画家たちは、絵だけで勝負をすることが出来た。しかし一九二〇年代の日本人は、人間そのもので勝負をする必要があった。パリジャンたちの喝采を浴びてモンパルナスを歩いていた時に、フジタはいつでも得意だったろうか。異邦人の悲しみは彼になかったろうか。
藤田嗣治追悼展は約百三十点の作品を年代順に並べて、近頃になく愉しい展覧会だった。惜しむらくは戦争画を欠いているが、そこを一巡することによって、フジタの歩いた道は明かにあとづけられる。日本画の巧みな応用を指摘するあまり、ヨーロッパ的伝統に対する彼の肉薄ぶりを見落してはなるまい。しかし全体を通じて、私はやはり日本人フジタを強く感じた。細い線、惜しみ惜しみ使われている色彩、そして多くの色彩画が謂わばモノクローム的に処理されている。この一本の道はやがて最晩年のノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁画にまで達する。その間、フジタの描いた女たちや子供たちは、人形のようにまじろぎもしないかすかに悲しげな表情を浮べ、脣には微笑のゆらめきさえもない。彼女たちが大きく見開いた瞳で求めていたものは何だったのか、レオナルド・フジタは遂にその何かを発見したのだろうか、――そのような疑問が、会場を見終ったあとの私を、尚も捉えて離さなかった。
[#地付き](昭和四十三年九月)
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[#小見出し] 四枚の絵
レンブラント「金計量者」
戸を明けてうそ寒い室内に一歩踏み込むと、次第に目が薄くらがりに馴れて来る。慎重にかまえた親方が、右手にペンを持って台帳に記載したあと、今しも、ひざまずいた若い弟子に、ずっしりと重たい金《きん》の袋を手渡すところである。天井から秤《はかり》が下って、それが片側に傾いている。奥のところに、田舎者らしい二人の男がこちらを窺っている。さらに目が馴れると、部屋の壁に、キリスト磔刑の図がかかっている。
これが十七世紀オランダ派の巨匠レンブラントの描いた一枚の銅版画の光景である。「金計量者」という題だが、親方と弟子というより、収入役と小吏なのかもしれない。一六三九年という年代があるから、この悲劇的な画家の初期の作品には違いないが、ここには既にレンブラントらしい特徴は充分に発揮されている。微細な描写は、中心の金のはいった袋、そして二人の人物の顔、机の上の台帳、などから周囲にひろがって行く。その技術は迫真的で、例えば親方の着ている毛皮の上衣のふさふさした感触までが正確に捉えられている。このような光線の魔術が、室内の生活的な感じを出しているとともに、二人の人物の表情を劇的に掴むことに成功している。謹厳なぎょろりとした親方の目玉、恐れ入って畏《かしこ》まっている弟子の横顔。二人の性格とか、感情とか、生活とかが、一種の小説的興味を以て、こちらに想像されるようである。暗い中から室内の光景だけでなく、人物の内部にある隠されたものまでが、仄かな光線のもとに浮び上って来る。
小さな銅版画だから、近くから丹念に眺めることが望ましい。私は一日だけ特別にこの絵を借り受けて、これを愛玩し、熟視し、羨望した。恰もこの弟子が、金の袋を両手の間に捧げ持つ如くであった。弟子が手の中の重さによって愉しんだように、私はただ見ることによって、このレンブラントの一枚の銅版画を所有したのであった。
[#地付き](昭和三十八年二月)
沈黙の支配する町
――ヤン・ファン・デル・ハイデン――
オランダ十七世紀の絵画は、一度それに捉えられると、人を呪縛してやまない魔力を備えている。今回の展覧会を見ても、レンブラント、フェルメールの巨匠を初めとして、ハルスやロイスダールやホッベマやホーホなど、とりどりの魅惑が美しい。しかし私がこの展覧会から選び出した一点は、ヤン・ファン・デル・ハイデンの風景画である。
この画家は、都会の風景を描いた創始者の一人であろう。同じ時期に、かの有名なフェルメールの「デルフトの風景」があるが、このゼーラントのフェーレの町の風景も、その音楽的とも言うべき落ちついた色調に於て、オランダ十七世紀の絵画の特徴を遺憾なく発揮している。
気がつかなければ見過すほどの小さな絵で、フェーレの町の教会が中央に聳《そび》えている。この町は北海に面して、前世紀にはオランダ海軍の基地があって栄えたものの、ハイデンがこの絵を描いた頃には、すでに寂れていた。ノートルダム教会は盛時の面影を残して忠実に描写されているが、その他の建物は画家が空想によって描いたものと言われている。
通行人や犬や馬車などが道の上に見え、町は活気を帯びて息づいていても、それは過去の思い出にすぎない。よく見ると、教会の塔も、壁も、道も、人も、驚くべき細密さで描写され、空の雲は漸く黄ばんで、恐らくは秋の初め、時刻は夕べに近く、物の影が長く尾を引く頃おいである。やや斜めに切られた道の線によって、建物が傾いているように見えるのも、作者の技巧かもしれない。そして絵の全体をこころよい沈黙が支配して、時の流れをこの一瞬にとどめている。
ヤン・ファン・デル・ハイデンはこの一枚によっても、美術史に残るべき画家であると私は思う。
[#地付き](昭和四十三年十月)
幸福の岸辺
――ボナール――
ボナールの空間には光が充ち溢れている。それは室内の情景に於てさえもそうである。況や戸外である場合には、まばゆいばかりの光が、そっくり色彩に移し変えられる。しかしその光は眼に痛いような明るい太陽の光線ではない。人物や風景が内在的に所有している光、花のようにそれ自体が発散している香気のような光である。
私は初期のくすんだボナールも好きだが、色彩が豊かにはずんでいる一九一〇年ごろからあとの作品には一層感動する。例えばこの「少女とかもめ」は一九一七年作の小さな絵である。並んで立つ二人の少女とかもめ、その背後の海と空、それらは等しくやわらかな光に包まれている。少女たちの着ている服は、微妙に混り合った、何の色だか分らないような淡い色彩に塗られている。二人のかぶっている帽子は、右はえんじ色、左は青、本来なら強いコントラストを示すところだが、それがちっともどぎつくなくて、眼にこころよい調和をなしている。これらは謂わば人工的な部分である。それに対して、二人の少女の皮膚の色、特に右手の少女の影になった肌、かもめの白、海の青、こういったものは自然そのままの色彩である。そして人工的な部分と自然の部分とがこの小さな構図の中に収ると、まるで画面の全体がこの世のものでないような、幸福な、やさしい香りを放つ。
モネは「鳥の囀《さえず》るようにえがく」と言ったが、ボナールもまた自由自在にえがく。それは調和の世界が彼の内部に息づいているからであろう。そしてこの絵を見ている私たちに、どこか遠くにある幸福の岸辺に、繰返し打寄せている波の音が聞えて来るような、静かな感情を抱かせるのである。
[#地付き](昭和四十三年三月)
現代の呪術的風景
――フンデルトワッサー――
もしも人間の内部の意識を抽象的な絵模様に譬えるならば、僕らがその深層に沈んで行ったところでは、恐らくはあらゆる光線を反撥する黒色が渦を巻いているに違いない。そしてこの黒色の渦の間から、青や赤や黄の迸《ほとばし》りが、意識のゆらめきにつれて、火花のように流れるだろう。人間の見る夢は、多くの場合に色がないが、たとえ色がついていても、それは部分を強調するだけにすぎない。全領域にわたって着色するためには、夢は人工的に見られなければならない。それは単に本能的な、自然に溢れ出るものとはわけが違う。
フンデルトワッサー氏の作品には強烈な印象があり、一目見ただけで僕たちの足を立ちどまらせ、忽ちに僕らを呪縛し、意識の無明界へと引きずり込んでしまう。それはちょっとアフリカ土人の原始美術の持つ魅力に似ている。氏の作品は、新鮮な樹液の匂いを発散しながらすくすくと成長する。従って、原始的ではあるが、必ずしも呪術とか、恐怖とか、死とかを、生まのままに示すものではない。エネルギイの迸りが、西欧的な、というよりウインナ的ともいうべきエレガンスを伴って、知的な計算を施されている。
「境界」と題された作品は、青に縁取られたほぼ四角な茶色い形の重たさと、その上方の明るい黄色を包んだ青い縞の重なりとが美しい。僕は何も、これを意識と無意識との境界だなんぞと言うつもりはないが、他の三点、強烈な「大きな道」、技巧のこまかい「オーストリアの追憶」、見事な小品「風媒」と較べて、ここに氏の原始的なものと知的なものとが、最も分りやすい形で融合しているように見える。
フンデルトワッサー氏の作品は、現代の呪術的風景とも称すべきものである。僕はこの展覧会で初めて氏の作品を見たのだが、忽ち呪いを掛けられて戦慄した。と言っても決して褒めすぎではないと思う。
[#地付き](昭和三十六年五月)
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追記 むかし書いた文章を再録するに当って、「境界」という右の作品の写真版が、いくら探しても入手できなかった。文章そのものも大して気に入っているわけではないから、よっぽど割愛しようかと思ったが、四枚の絵が揃わなければ他の部分と釣合が取れない。幸いにして同じ展覧会(第三回国際形象展である)に出品された「大きな道」の複製写真があったから、それを別刷アートの方に出す。(「新潮オンラインブックス」版および「新潮オンデマンドブックス」版では別刷アートは割愛した――編集部)
「大きな道」はほぼ正方形の画面に、ほぼ四角な渦が、中心から外側に向って幾重にも重なって、それこそ「強烈な」感じを与えるタブローである。藍色の背景に赤い線が同心円を繰返し、その色彩に多少の変化があるが、おしなべて暗く、力強く、悪夢的である。私がボナールのようなやさしい絵ばかり好きだと思われては困るから、フンデルトワッサーのこの一枚はやはりどうしても必要なものであった。
[#地付き](昭和四十五年六月)
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[#小見出し] 四つの映画
「野いちご」と意識の流れ
映画は御存じのようにスタッフとキャストと、それに大勢の裏方の総力を結集して出来上るものだから、監督一人だけの個性をあげつらうことはむつかしい。幾本かの同じ監督の作品を見た上で、最大公約数的に特徴を抽出して、その監督の個性がどうのこうのと批評家は論じるが、これは文学の上での作家論の悪しき摸倣で、本当は作品論しか出来ないのではあるまいか。原作が別にあり、脚色者が別にいながら、それで監督の個性もないものだ。もしも尚かつ監督がすべてで、原作も脚色もあってなきが如しという作品があれば、その監督は大へん偉い。きっと何人もいないだろう。
ところで「野いちご」は、この一本だけでも監督を論じることの出来る、甚だあくの強い、まず傑作と称するに足りる映画である。イングマル・ベルイマン、僕は不勉強で他の作品は見ていない。しかし高名な「処女の泉」を見ていないからといって、この作品を論じる資格がないという筈はない。映画は一度見そこなえばあとでは仲々お目にかかれないから、いつでもこの一本が問題である。「野いちご」はアート・シアターの十一月公開作品だから少し時期おくれだが、文学の好きな諸君はぜひ御覧なさい。
これはまったく文学的な映画である。といっても文芸映画という怪しげな代物ではない。ベルイマンのオリジナル・シナリオで、その内容と構成とが甚だ文学的に出来上っている。功成り名遂げた七十幾歳かの老医師の、朝から晩まで、つまり朝自宅で目を覚ますところから、自動車をドライヴして出掛け、ルンドの大学で名誉博士号を受け、息子の家で眠りに就くまでの、一日の事件を扱っている。その間に、現実と交錯して、夢とか回想とか幻想とかの場面がはいる。まさに一人称による意識の流れである。(しかもモノローグが目立たない程度に加わる。)
ここに描かれているのは、一人の人間が人生について考えたことの記録である。作者は(と、こういう場合なら、監督をそう呼ぶことが出来よう)人生を彼自身が気づかずに過してきた過失と失敗との歴史であるように見ている。表面的には成功しているこの老人の無残な内面を、その救いようのない孤独を、さまざまの場面で描く。しかし全体としては、作者はこの老人をも、またすべての登場人物をも、赦しているし、それが一種の小春日和の暖かみとなってこちらに通じて来る。
これは心理の映画ではなくて意識の映画である。つまり内的リアリズムである。そして一等驚くべきことは、こんな文学的な内容のものが、実に映画的な映画としか言いようのないものになっていることだ。初めにある針のない時計の夢も凄いし、裁判の幻想場面も凄い。コクトーの「オルフェの遺言」などこれに較べればこけ威《おど》しにすぎない。それは監督が、映画の眼で物を考え、文学の心で考えているのではないからだと思われる。主役の老人を演ずるシェーストレムの彫りの深い顔、それに二人の女優さんが惚れ惚れするような顔をしている。これも監督の個性のうちに含まれている筈である。僕等の小説でも、作中人物がこんな顔をしていてくれるといいのだが。
[#地付き](昭和三十七年十一月)
「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義
「怒りの葡萄」は一九四〇年に製作された映画だから、今頃これを見れば、まず古くさいという印象が与えられる筈である。ところがそうではなかった。なぜか。答は簡単で、こういった種類のシリアスなアメリカ映画が、このところあまりにも少ないからである。つまり戦後のアメリカ映画は娯楽物の全盛で、大きな画面、美しい色つき、明るく愉しく目出たし目出たしという公式に沿って、おおむね作られている。貧しい人間の生活をじっくり描くのでは商売にならないと考えるのも無理はない。
「怒りの葡萄」は、オクラホマの難民たちが、土地を追われてカリフォルニアへ移住し、そこでもまた苦労する話である。従って主題が人道主義的な共感を喚《よ》ぶ上に、描写もまた貧しい小作人たちの生活をなまなましく捉えている。資本主義の国を舞台に、社会主義の原理がやさしく説明されているという一面もある。身銭を切ってでも人に見せたくなるような映画と言える。それがつまり向うの思う壺で、これは本来、立派な商業映画なのだ。一九三九年にジョン・スタインベックの発表した同名の小説がベストセラーになったので、いち早く映画化したものにすぎない。ただその時、監督やキャストが熱っぽいものを持っていたから、月並な文芸映画にはならなかったというまでである。とすれば、この映画でジョン・フォード監督がどんなに褒められても、原作者であるもう一人のジョンを抜きにしては語れないだろう。これはまあ文芸映画の宿命みたいなものと諦めてもらうほかはない。
こうした長篇小説の映画化が、筋を忠実に追うよりも視覚的な造型に主眼を置くのは当然のことで、僕はその意味で、主人公の一家が、故郷を後に、おんぼろトラックに鈴生りになりながら、西部に向って移住して行く途中の描写に、大いに感銘した。違った風景を背景に、違った道路標識を前景にして、トラックが走って行くのは、文学では表現できないものである。この部分を含めて、挿話を幾つも積み重ねて行くこのストーリイの芯になっているものは、アメリカ的な楽天主義ではあるまいかと思う。こんな暗い映画に楽天主義という言葉はそぐわないが、スタインベックもフォードも、より美しい世界を信じ、この不幸な一家の行手に、彼等が人民であることの強さを、その最後の勝利を、確信しているように見受けられた。トラックがひた向きに走るのは、インディアンに追われて駅馬車が走るのと同じ開拓的精神の表れであり、とすると、トラックが何に追われているのか、その実体がもう少し描かれてもよかったような気がする。この映画の主題が、主役の息子とその母親との対話に、つまり母性愛の表現に懸っていて、宣教師の死の意味が少々はぐらかされている点なども、商業映画の弱さといったものであろうか。僕はこの映画より後に、たまたまテレヴィで、徳田秋声・新藤兼人の文芸映画「縮図」を初めて見たが、同じ旧作でも、貧しさを描いている点ではこの方に一層打たれた。つまりはアメリカ的楽天主義より身近だったせいなのだろう。
[#地付き](昭和三十七年十二月)
「太陽はひとりぼっち」と内面的風景
私はミケランジェロ・アントニオーニの作品は「情事」しか見ていなかった。年の暮に「夜」を見に行ったら、大入り満員で入場できなかった。「太陽はひとりぼっち」は正月のお祭り騒ぎも過ぎてから出掛けて行ったがこれまた物凄い満員で、ほとほとアントニオーニの人気の程に感心した。もっともこの映画の主題曲が大流行らしいから、入りがいいのはそのせいもあろう。しかしこの主題曲はタイトルバックだけだし、お客さんがくたびれたような顔もしないで出て来るのを見ると、映画そのものが彼等に満足を与えたことは間違いない。モニカ・ヴィッティとアラン・ドロンの二人の人気も無視するわけにはいくまいが。
どういう満足なのか。アンチロマンの翻訳が二千部と売れない国で、何万という観客がこんな難しい映画を高い入場料を払って見るのだから、つまり映画は文学より本質的に大衆のものだと片づけるべきなのか。「太陽はひとりぼっち」は、もし文学で言うならば、純文学もいいところで、まず実験小説と言ったものである。但し文学と違って、こちらが「読む」という行為によって参加しなくても、映画は向うで勝手に動いてくれる。それでも目をつぶるとか欠伸《あくび》をするとかは当方の自由である以上、終るのが惜しいような気持で見終ったというのは、この監督が確実な芸術性を持っていることの証拠に違いない。
アントニオーニは、私に言わせれば、冒険的で、野心的で、前衛的で、しかも恐ろしく老熟した監督である。私は彼の作品の中に一貫して現れる主題には、さして驚かない。映画批評家がさかしげに「現代人の疎外」だとか「愛の虚妄性」だとか論じているのは、それはそうかもしれないが、大したことではない。問題はその描きかた、つまり読者を参加させるその方法である。ここではフランスの前衛的な小説と同じく、ただ読んだだけ、ただ見ただけでは、為体《えたい》のしれないような現実が描かれる。アントニオーニは風景を描く。人物のいることもあればいないこともある。風景はただの風景にすぎない。しかしそれは内面的な風景、つまり観客の意識の中で何ものかに変質させられた風景でなければならない。或る時は主人公の内面がそこに具象化され、或る時は観客の無意識を一つの方向に定着する。その形はさまざまに動くが、監督は決して計算して、観客の意識に忠実なように、風景を見せるわけではない。そこには何でもない繰返しと、あっという驚きと、映像的美学と、哲学的非条理とが、筋に沿う如く沿わない如くに展開する。つまり彼には文学でいう文体、スタイル、という先天的なものがあり、このスタイルが内面的風景を喚起し、それによって筋らしいものが出来上る。主題はどうにでも解説を許すが、このスタイルは殆ど分析不能であり、見ることによってしか納得できない。こういう風景を描き得る監督はちょっと他には見当らない。一般には、筋のために風景が存在する。
私は殆ど羨望した。映画館が満員だったことに対してではなく、商業映画の中でこんな実験をやり続ける男を。
[#地付き](昭和三十八年一月)
「アラビアのロレンス」と「わんぱく戦争」
甚だ対照の妙を得た二つの映画を続けて見たので、今月は二本立と行く。共に戦争映画である。
一つは近頃はやりの七〇ミリとか称する大型色つき写真で、デヴィッド・リーンの監督した「アラビアのロレンス」である。私は沙漠というものに興味があり(T・E・ロレンスという人物にも勿論興味はあったが)、殆ど沙漠見物のために腰を上げて満員の映画館へこれを見に行った。そしてその点に関しては充分に堪能した。沙漠は実に美しい。その真唯中に私が行けないという事実の前に、沙漠は一層美しくなるようである。映画のごく初めの方で、案内のアラビア人とロレンスの二人が井戸の畔で水を飲んでいると、地平線から一つの黒点が現れるあたりなど、劇的であり印象的である。これは傑作かなと思っているうちに、段々に感動が薄れてしまった。その理由は、沙漠は結局背景にすぎず、芸術家リーン氏はロレンスなる人物まで描こうと、些か野心を燃しすぎたためである。なぜこの男が沙漠に憑かれたのか、それが第一に説明不足である。そのあとのロレンスの複雑な性格を、いくら行動、つまり戦闘場面で見せようとしても、納得のいく説明にはならない。ロレンスは現代人であり、ベン・ハーやモーゼのように単純な英雄として生きているわけではない。しかしこれは一観客の独り言で、題材といい仕掛けといい、日本映画の手にあまる大物であることは保証する。
フランス映画でも、その点、日木映画と似たような事情だろうと思うが、イヴ・ロベールという監督が、およそ大型色つきスペクタクル映画のパロディとも言うべき、金のかかっていない戦争映画を作った。「わんぱく戦争」は、最初のタイトルからして「主役はわんぱく共、附けたり両親」で、フランスでは意外なロングランを続けているそうだ。フランス東部の山間に二つの村があり、A村は共和派、B村は王党派つまりカトリック、ことごとにいがみ合い、子供たちにも及ぶ。両軍の大将のほか、A村の方に、算術につよい参謀、「ボク知ってたら来なかったのに」とじきにベソを掻くちびの兵隊、裏切者のスパイ、紅一点の看護婦兼|兵站部《へいたんぶ》の女士官が登場する。(因に「アラビアのロレンス」はまったくお色気なし、ちらりと看護婦が見える程度。)戦争そのものも、人類の文明が発達する径路を追って、全員まる裸でくしゃみをしながら奇襲する原始時代から、ヒッタイト族の如き騎馬戦術、遂には機械化部隊の襲撃にまで至る。原題は「ボタン戦争」だが、ボタンの一押しで人類全滅の懼《おそ》れのある現代への諷刺というわけではない。
原作はルイ・ペルゴーという今や忘れられた小説家が一九一一年に書いたもので、作者の少年時代である十九世紀末の話を、映画では現代に置き換えてある。つまり時代を抜きにして、誰でも英雄だった少年時代がここでは懐かしく描き出される。T・E・ロレンスのような内省的な英雄よりは、餓鬼大将の英雄の方が安全だから、この映画監督はよほどの平和主義者かとも思うが、これで大いに当てたとはとにかく頭のいい人に違いない。
[#地付き](昭和三十八年二月)
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[#小見出し] 四つの音楽
春の夜のシューベルト
五月の初めは気候も温暖で誰しも浮き浮きした気分になるから、お休み続きとあれば何処かへ出掛けたくなる。私は信濃追分の小さな山荘に骨休みに行くつもりでいたが、乗物が混むだろうとか、食事をどうしようとか考えているうちに、次第に億劫になり、机に向ったりレコードを聞いたりして、漫然と日を過した。
フィリップスから室内楽のシリーズを出すから試みに聞いてほしいと頼まれて、取り敢えず掛けたのがシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」である。およそ行楽の旅に出掛ける代りに、そぞろ自然の趣きを彷彿《ほうふつ》させるには、このレコードくらい打ってつけのものはそうあるまい。私はシューベルトというのは、好きでもなく嫌いでもない作曲家の部類に属していて、恐らく青年の頃に夢中だった反動なのだろうが、久しぶりに聞いてみるとこの若々しい情感は、やはり昔のことどもを想い起させた。弦の上をピアノが軽やかに往復すると、足取りも軽く山道を行き、行手をふさいだ谷川のほとりで、緑の葉蔭に濃い碧藍を湛えた流れを眺めながら、静かに休んでいる自分の姿が浮び上る。それも一人きりでいる自分よりは、親しい友達とお喋りをしながら、汗を拭い、爽かな風に吹かれている自分の姿である。これはピアノの効果であろう。これがただの四重奏曲なら、弦の持つ性質から言ってもっと内省的なものを伴う筈である。ピアノは余分な感情を押し流して、自然と人との無言の交流を、そして人と人との間の閑談といったものを、伝えて来る。
従ってこのレコードはイングリット・ヘブラーのピアノに負うところが多いのだろうと私は思う。私は「ます」のレコードをもう一枚持っているが、その方はさっぱり面白くなかった。ピアノがこれほどの明るい燦きを見せていなかった。録音効果も違うのだろうが、弦の上をピアノが滑るように戯れると、心がはずむ。ヘブラーはモツァルトのピアノ協奏曲でだいぶお馴染になったが、次第にクララ・ハスキルの域に肉薄しているようである。
弦の方に、アルチュール・グリュミオーがヴァイオリンのパートを受け持っているが、私には他の楽器からヴァイオリンだけを区別して上手下手を論じるだけの耳はない。しかしこういう混成部隊で息の合った演奏を聞かせるというのは、何といってもヴァイオリンがしっかりしていて、ヴィオラ、チェロ、コントラバスを引張って行ったからであろう。私はこのグリュミオーが大の御贔屓《ごひいき》で、私の持っているグリュミオー=ハスキルのモツァルトのソナタ集は、聞きすぎて盤が傷んでしまった。私のはモノラル盤だが、ヴァイオリンの音色の美しさは老大家たちに比して遜色がない。と言ってもグリュミオーも四十代でそう若いというのではないが、おばあさんだったハスキルと並べるために、つい今でもごく若いような気がしてならないのである。
モツァルトのヴァイオリン・ソナタは(特にホ短調は)いくら聞いても厭きないものだが、クラリネットの五重奏曲と協奏曲も、共にたいへん深みのある曲で、一人でステレオに掛けて愉しむには絶好である。特に夜更けてから、最晩年の作である五重奏曲に静かに耳を傾けていると、芸術家の運命といったものが惻々《そくそく》と迫って来る気がする。フィリップスの新盤はレジナルド・ケルがクラリネットを独奏しているが、私は他の独奏者の盤と較べて、独奏者の違いはよく分らない。何といっても曲そのものが素晴らしいから、どの盤で聞いても惚れ惚れとする。この盤の裏にはいっているブラームスのクラリネット五重奏曲も、暗鬱な感慨をたたえた傑作で、モツァルトがその暗さを一種の諦念にやわらかく包んで微笑さえ浮べているのに対して、ブラームスはひそめた眉の下から、暗い泉のような瞳でじっとこちらを睨んでいるようである。
私みたいに狭い部屋の中で、安物のステレオによって音楽を聞く人間にとっては、室内楽というジャンルが一番ぴったりしている。オーケストラが轟《とどろ》いたり、ソプラノの肉声が耳をつんざいたりするのは、大きなホールで聞いた方が多分似合うだろう。室内楽は、謂わば狭い部屋を音楽で埋めるものだし、その音楽は室内という名にふさわしい単純な構成である。そして室内楽は作曲者自身の気持を、最もよく語り掛けて来るもののような気がする。私の偏愛するシベリウスに、ただ一曲だけの弦楽四重奏曲で副題を「内心の声」というのがあるが、まさに室内楽というのは作曲者の内心の声を伝えるものであろう。私は今まで、コロムビアの室内楽全集とか、ウエストミンスターの室内楽シリーズとかを時々掛けて、作曲者と対話を交して来た。そういう時に、我々は一人であって一人ではないのである。
私はやはりフィリップスの室内楽シリーズで、ハイドンの弦楽四重奏曲のうち「ひばり」「セレナード」「五度」と、三曲が一枚にはいっているのを聞いた。このイタリア四重奏団というのは素晴らしいと思った。どうもハイドンなんかは子供っぽい気がして敬遠していたから、特にすがすがしい印象を受けたのかもしれない。このシリーズは来月はグリュミオーとラクロワで、ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ全集を出すそうだから、これまた愉しみである。
私はレコードを聞きながら仕事をするという「ながら族」ではないから、よいレコードが次々に出るというのは、時間が取られそうで怖いようでもある。しかし行楽の旅に出掛けてくたびれて帰って来るのと、のんびりと一人で音楽を愉しむのと、そもいずれぞ。
[#地付き](昭和四十二年五月)
夏の夜のヴィヴァルディ
この前、五月の休み続きには家に閉じこもって室内楽を聞くのが宜しいという、宣伝的文章を書かされた。私が出無精なところを見込まれたものか。ついでながらというので、今度はイ・ムジチの演奏するヴィヴァルディについて一文を需《もと》められた。
今は盛夏であって、私は相変らず自宅の一室に閉じこもったなり、山へも行かなければ海へも行かない。庭に出て朝顔に水をやるのが、せいぜいの運動である。しかしこの暑いのに机に向ってばかりもいられないから、レコードだけは聞いている。ところが夏という季節はステレオを聞くにはふさわしくない。何しろ窓を明ければ近所迷惑だろうし、クーラーを掛ければその雑音を消すために、途方もなくヴォリュームを上げなければならない。私の友人|粟手糊雄《あわでのりお》は、一念発起してワグナーの全部のオペラを買い込み、密室でクーラーを掛け、夜ごと耳を傾けるのだと威張っているが、クーラーが壊れはしないかと心配である。私には頼まれてもそんな勇気はない。
夏の夜はイタリア・バロックあたりがいいところだ。それもクーラーは御免で、窓を明けて涼しい夕風がはいって来る中を、音をしぼって聞くのが宜しい。私はローマ合奏団によって入門したから、イ・ムジチは華麗に過ぎるような気がしないでもないが、ヴィヴァルディとなるとイ・ムジチの方がぴったりしているようである。音色が澄んで、アンサンブルが揃っているから、どんな疲れも休まるほど旋律が夜露のように心に沁み込む。
イ・ムジチはレパートリイが広く、バッハもやればメンデルスゾーンもやる。メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲というのを初めて聞いたが、実に鮮かなものであると思った。しかし何と言っても、ヴィヴァルディの「和声と創意の試み」や「調和の幻想」のようなわけにはいかない。そこでは魚が水を得たように自由であり、あのたくさんある協奏曲の一つ一つが、それぞれの楽想を生かして浮彫のように闇の中に浮び上る。「和声と創意の試み」は初めの四曲が有名な「四季」だが、さすがに私もこれには聞き飽きた。つまり描写音楽であることにこだわって(というより、こだわるほど曲を覚えてしまって)、やれ小鳥が鳴くぞとか、もう雷鳴がとどろく筈だとか、余分なことを考えるせいに違いない。そこに行くと残りの八曲は標題のないものが多く、あってもさして気にならず、きらびやかな楽想の戯れに無心に興じることが出来る。ヴィヴァルディとか、またドイツのテレマンとか、似たようで実は違う曲を無数に作った作曲家は、バッハやモツァルトとはまた別の意味で、人を愉しませるために生れて来た天才であろう。
私がイ・ムジチのレコードで早く聞きたいと思っているのは、コレルリの合奏協奏曲作品六の全曲である。恐らくは素晴らしい演奏だろうと思う。もっとも私はこういう曲を、夕涼みの代りに聞くのだが、秋の夜長にこそふさわしいから発売がおくれているのだと言われれば、一言もない。
[#地付き](昭和四十二年七月)
秋の夜のアルビノーニ
レコードを掛けて音楽を聞くのは、ラジオで音楽放送を聞いているのとは、根本的に違ったものである。それはつまり当方の意志によって聞きたい曲を選べるということだ。その場合でも、何でも構わないというので(所有していることで、選択は既になされているのだから)手当り次第にジャケットを手に取る人もいようが、しかしまあ我々は誰でも忙しいのだし、それに我々の精神はそんなに出たらめに出来上っているわけでもないから、やはりその時々の状況に合せて、おのずから聞きたい曲がきまる。買いたてのレコードに手が出るのは蓋しやむを得ない。それを別にすれば、好きな曲は幾度掛けても厭きないし、気に入らないのは一回限りでいつまでもジャケットの中に新品同様で寝ているといったふうになる。そして与えられた時間とか、季節とか、感情とか、精神構造とかに応じて、その人のレパートリイはそれなりに整理されているものである。
私はと言えば、私は気むずかしい方で好きな曲といってもそんなにたくさんある方ではない。特に精神が緊張して能動的な状態にあるのではない時、言い換えればごく開放的な気分で、音楽が波音のように精神を洗っていればよいと思うような受動的な状態にいる時に、私が特に好むのはイタリア・バロックの協奏曲といった類である。
先に例をあげることにすれば、例えばヴィヴァルディの「調和の幻想」「和声と創意の試み」「ラ・チェトラ」、マルチェルロの作品一の協奏曲集、ペルゴレージの小協奏曲集、コレルリの作品六の合奏協奏曲集などである。もっともイタリアとは限らず、テレマンの「ターフェル・ムジーク」とか、ヘンデルの作品六の合奏協奏曲集などもこの分野に属するが、その特徴はすべて幾曲かで(多くは十二曲だが)組になっていることで、一曲一曲の相違がそれほど際立たず、しかも全体として作曲家の一定した雰囲気が私の心になごやかに語り掛けて来る。だからこれがバッハの同種のもの、例えば「管弦楽組曲」とか「ブランデンブルグ協奏曲」などになると、のんきに音楽の波に涵《ひた》っているわけにはいかず、私の精神はすぐさま目覚めてしまうのである。
さてこれだけの前置を置いて、私が初めてアルビノーニの作品九の協奏曲集を聞いて、これまさに私にとっての最良のものだと感嘆したという話になる。何度も言うように、私の精神が一種の陶酔に包まれて、半ば眠っているような、半ば起きているような状態にあり、その時音楽が悦び以外の何ものでもないためには、その音楽は優しく、やわらかく、幾分甘く幾分悲しく、深みがあり、しかもそれが持続することが必要である。この十二曲の協奏曲集は、独奏楽器としてオーボエ、二つのオーボエ、ヴァイオリンのそれぞれを持つ曲から成り、ヴィヴァルディほど派手すぎることもなく、聞けば聞くほど心の琴線に触れて来るものがある。アルビノーニは多くの作品が失われたらしく、オルガンつきのアダジオが復活してから一躍有名になったが、この協奏曲集がイ・ムジチによって全曲録音されたことは、アルビノーニのためにも慶賀にたえない。イ・ムジチの演奏は文句のつけようがないほど美しく、秋の夜長に繰返し聞いて時の経つのを忘れるといったものである。
[#地付き](昭和四十三年八月)
冬の夜のモツァルト
「デイヴェルティメント」は、演奏者も愉しみ、聴く方も愉しむという性格を持っているから、「嬉遊曲」という訳名はなかなか穿《うが》ったものに違いないが、この訳名ではちょっと野外音楽という感じがする。もっとも「デイヴェルティメント」には色々な楽器編成の曲があり、必ずしも室内楽と限っているわけではあるまい。その中に舞踏用の楽章を含んでいればいいので、野外で演奏しようと屋内で演奏しようと、人の心を慰めて浮き浮きさせる作用を持っていれば充分だ。とすれば、モツァルトに「デイヴェルティメント」が沢山あるのも、当然のことと言わなければならない。
ところがこのK五六三のホ長調「嬉遊曲」は、まさに室内楽中の室内楽である。何しろこの曲は弦楽三重奏曲なのだから、メヌエットの楽章がなければ「デイヴェルティメント」と呼ぶ謂われはまったくない。アインシュタインもこの曲を弦楽三重奏曲として四重奏曲や五重奏曲の室内楽と並べて論じている。
モツァルトの曲は、初めて聞いた曲でも何となく聞き覚えのあるような気がするものだが、この三重奏曲にも私はまさにその感を深くした。我が国で初めて発売される曲だそうだから、珍しいものなのだろう。珍しいと言えば、三重奏曲というのがモツァルトにとってこれ一つなのだから、ますます珍しい。そして私のような素人は、この六楽章から成る長い曲を繰返し聞いて、実を言うと、こんな傑作を今まで知らなかったとは情ない、情ないというのがおかしければ儲けものをした、という感じなのである。普通の四楽章形式の曲に、おまけとしてメヌエットが二楽章もついていて、その愉しさは正真正銘の「デイヴェルティメント」である。ただしモツァルトは、一曲一曲に個性があることは勿論だが、どれを取ってもモツァルト以外の何ものでもないから、このK五六三が初めて聞くような気がしないのも不思議ではない。第一楽章のアレグロも、第二楽章のアダジオも、終楽章のロンドも、中間のメヌエットも、これが三つの楽器で奏せられているとは思えないほど、豊かな色彩感に溢れている。私が聞いたのはヴァイオリンがグリュミオー、ヴィオラがヤンツェル、チェロがツァコの三人組が演奏したオランダ・フィリップスの原盤だが、音色のよいことも無類である。三つの楽器の間の対話が、そのままモツァルトの心と我々の心との対話になり、この優しい心の持主は、時々面白い冗談を挟みながら、話を飽かせない。晩年の室内楽としては、K五一五及び五一六の五重奏曲や、K五八一のクラリネット五重奏曲などのような、厳粛な感じを与えるものではない。あくまで明るく、澄み切って、心が晴れ晴れとして来る。
私はこの三重奏曲を初めごく軽い気持で聞き、たちまちにして捉えられた。モツァルトのおびただしくある傑作の中でも、指折り数えられる傑作ではあるまいか。一枚のレコードを引繰り返して聞き続け、寒い冬の夜がいつのまにか更けてしまったと言っても、決して過言ではないのである。
[#地付き](昭和四十二年十二月)
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追記 文士たる者は一度書いたことに対して責任を持たざるを得ない。従ってよくよく考えた上でなければ筆を執ってはならない、という教訓が右の文章である。というのは、私はその文章が雑誌に載ったあとで、たまたま自分のレコードの棚を見ていたら、K五六三の三重奏曲がまさにそこにあった。「何となく聞き覚えがある」段ではない。このことは如何に私がそそっかしいか、如何に音楽的に耳が悪く物覚えが悪いかという証拠のようなもので、我と我が恥を天下に曝したことになろう。さっそく原稿の註文主に電話して、本邦初発売と君は言ったが違うじゃないか、と文句をつけたら、あれはステレオ盤が初めてと言ったのを電話で聞きそこなったのでしょう、と軽くいなされた。こちらの軽率には違いないが、憤懣《ふんまん》やるかたなく、もうこんな広告的文章は一切書かないぞと一方的に宣言して歯軋《はぎし》りした。
[#地付き](昭和四十五年六月)
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掲載紙誌一覧
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旅――
京だより 一、土鈴 「毎日新聞」昭和三十二年五月二十六日附夕刊 二、京の雪 「東京新聞」昭和三十八年一月二十七日附夕刊 三、風流初心 共同通信経由「信濃毎日新聞」 昭和三十八年四月二十七日附朝刊
貝合せ 「ミセス」昭和四十二年五月号
梓湖の秋 「読売新聞」昭和四十二年九月二十五日附夕刊
北海道網走周辺 「ミセス」昭和四十三年八月号
海の想い 「おとなの絵本」八号(昭和四十三年八月)
旅情 ミセス全集第七巻(くらしのセンス=総合編)昭和四十三年十二月刊
心――
失われた青春 共同通信経由「北国新聞」昭和二十九年三月二十九日附朝刊
友情の中の愛 「法政」昭和三十一年一月号
純潔について 「知性」昭和三十一年八月号
美しいもの 「日本経済新聞」昭和三十一年七月三十日附朝刊
人生の学校 共同通信経由「北海道新聞」昭和三十二年四月二日附朝刊
カタルシスについて 人文書院版ギリシア悲劇全集第二巻月報昭和三十五年三月刊
始める前「新婦人」昭和三十八年七月号
眼・耳――
幻想の画家たち 河出書房版現代世界美術全集第七巻月報昭和二十九年四月刊
映画の限界と映画批評の限界 「群像」昭和三十一年五月号
西本願寺本三十六人家集 「芸術新潮」昭和三十五年一月号
画家のアフィシュ 「芸術新潮」昭和三十五年三月号
豪奢と静寂と悦楽と みすず書房版現代美術「マチス」月報昭和三十五年三月刊
好きな絵 「BOOKS」昭和三十八年九・十月号
ギュスタヴ・モローと神話の女 「うえの」昭和三十九年十二月号
「眼」と「手」 「読売新聞」昭和四十一年九月十九日附夕刊
ワグナー体験 「音楽之友」昭和四十一年十二月号
音楽の魔術 「FM fan」昭和四十一年一月十六日号
私にとっての音楽 「音楽之友」昭和四十二年七月号
日常茶飯――
カメラの一ケ月 「読売新聞」昭和三十一年五月二十二日附朝刊
テレヴィの魔力 「東京新聞」昭和三十三年一月十二日附朝刊
東大仏文研究室の今昔 「東京新聞」昭和三十三年六月八日附夕刊
紫の背広 「毎日新聞」昭和三十七年三月二十四日附朝刊
私と外国語 「毎日新聞」昭和三十七年六月十二日附夕刊
蛇の話 「図書」昭和四十年一月号
絵の話 「婦人之友」昭和四十年四月号
新撰いろはかるた 「婦人之友新聞」第二号(昭和四十年八月)
東京の夏 「新潮」昭和四十年十一月号
習字 「毎日新聞」昭和四十年十二月二十日附夕刊
英彦山ガラガラ 鹿島出版会版「日本の郷土玩具」昭和四十二年十月刊
前売切符 「潮」昭和四十二年十二月号
時計の話 「新潮」昭和四十三年二月号
たかが金魚 「東京新聞」昭和四十三年四月八日附夕刊
四つの展覧会――
ピカソ・ゴル・妄想 「美術手帖」昭和二十六年九月臨時増刊ピカソ特輯号
ブラックの版画 「美術手帖」昭和二十七年十一月ブラック特輯号
ルオー遺作展 一、「ふらんす」昭和四十年十一月号 二、共同通信経由「信濃毎日新聞」同年十月十八日附朝刊
先駆者フジタの道 「朝日新聞」昭和四十三年九月十八日附夕刊
四枚の絵――
レンブラント「金計量者」「毎日新聞」昭和三十八年三月五日附夕刊
沈黙の支配する町「読売新聞」昭和四十三年十月三十日附夕刊
幸福の岸辺「毎日新聞」昭和四十三年三月二十二日附夕刊
現代の呪術的風景「毎日新聞」昭和三十六年五月十三日附夕刊
四つの映画――
「野いちご」と意識の流れ 「文芸」昭和三十八年一月号
「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義 「文芸」昭和三十八年二月号
「太陽はひとりぼっち」と内面的風景 「文芸」昭和三十八年三月号
「アラビアのロレンス」と「わんぱく戦争」 未発表
四つの音楽――
春の夜のシューベルト「レコード芸術」昭和四十二年六月号広告頁
夏の夜のヴィヴァルディ「レコード芸術」昭和四十二年九月号広告頁
秋の夜のアルビノーニ「レコード芸術」昭和四十三年十月号広告頁
冬の夜のモツァルト「レコード芸術」昭和四十三年二月号広告頁
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後記
「別れの歌」という随筆集を出してからそろそろ一年近く経つので、もう一冊随筆集を出すことにした。そこで新聞雑誌の切抜を選り分けてしかるべく体裁をととのえたが、御覧のように雑駁《ざつぱく》なものにしかならなかったのは、いたしかたない。古いのは昭和二十六年頃から、新しいので一昨年くらいのところまで、全体を幾つかに分けてその中でほぼ年代順に並ぶように按排した。
初めの「旅」というのは、どうせ無精者の私のことだから大して遠出をするわけではない。「心」は人生論ふうの感想で、こういうのは私の最も不得手の領域である。「眼・耳」は美術と音楽とに関するものだが、これが眼・耳・口とならなかったのは残念だった。およそ食いもの飲みものについては何一つ書いたことがない。次の「日常茶飯」はまあ気軽に書いた随筆らしい随筆ということになるのだろうが、こういうものでも骨折なしで済ませることは出来なかった。そのあとに、展覧会と絵と映画とレコードの四つの分野を、四篇ずつ並べてみた。四つの四重奏と言いたいが、何れもほんの即興である。ただこういうふうな編輯をすることが、本を作るときの愉しみの一つに違いない。
全体の題名をつけるのにむやみと苦労をし、やっとのことで「遠くのこだま」を得た。旅行にしても芸術作品の印象にしても、要するに私の心の中に響いて来た遠くからのこだまを、書き留めようとしただけである。ヴィヴァルディに同じ題の協奏曲があり、またボードレールの詩の一行、
長いこだまの遠くから溶け合うように
と応じ合うものもあるだろう。と言っても、大して難しいことが私の随筆の中に出て来るわけではない。題名はつまり符牒のようなものにすぎない。
私が今までに書いた小品随筆のうちで、文学作品や書物に関するものだけが後に残ったから、いずれ期を見てもう一冊纏めるつもりである。今度の本は写真版なども入れてもらって、我ながら愉しげな本になりそうな予感がしている。(「新潮オンラインブックス」版および「新潮オンデマンドブックス」版では別刷アートは割愛した――編集部)
昭和四十五年六月
[#地付き]福永武彦
この作品は昭和四十五年八月新潮社より刊行された。