福永武彦
廃市・飛ぶ男
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目 次
夜の寂しい顔
影の部分
未来都市
廃市
飛ぶ男
樹
風花
退屈な少年
[#改ページ]
[#小見出し] 夜の寂しい顔
入江も小さかったが、岬《みさき》よりの端に近いコンクリートの白い桟橋も小さかった。それは波止場《はとば》と呼ぶことさえ出来なかった。しかし村の人たちはそれを波止場と呼んでいた。
彼は中学校の制帽をかぶって、ズボンのポケットに両手を入れたまま、その桟橋の突き出た端に立っていた。西風が岬を廻って外海から泡立《あわだ》った波浪を運んで来た。この桟橋は防波堤を兼ねていて、波浪は彼の立っている足許《あしもと》にぶち当り、それをゆすぶろうと懸命に身悶《みもだ》えし、その度《たび》に波の死んで行く荒々しい呼吸を立てた。しかし彼のいる処《ところ》は波の高さよりずっと高かったから、飛沫《ひまつ》が白く舞い上っても、それは彼の足まで跳《は》ね上ることはなかった。況《いわん》や顔や手を濡《ぬ》らすこともなかった。波浪がどんなに繰り返しゆすぶったところで、岩を積み重ねコンクリートで塗り固めたこの桟橋は、びくともする筈《はず》はなかった。これが存在というものだ、と彼は考えた。そして僕に欠けているのは、存在の感情なのだ。この言葉、存在《ヽヽ》という何か重々しい言葉を彼は最近覚えたばかりだった。勿論《もちろん》、前から知ってはいたのだ。それは小学校の国語読本にさえ出ていた。しかし今、痛切にそれを感じているようには、――それを感情と結びつけて、存在の感情というふうに理解したことは、今までになかった。|お前に欠けているのは存在の感情なのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それは外国の偉い詩人の書いたものの中にあった。彼はそれを最近、飜訳《ほんやく》で読んだのだ。彼は中学校の三年生で、もう何でも読むことが出来た。
しかしコンクリートの桟橋はびくともしなかったが、西風は、ポケットに手を入れて立っている彼の身体《からだ》を、時々ぐらつかせた。靴の中の足の爪先《つまさき》があまり力を入れるので痺《しび》れたようになり、靴下が湿って来た。「春になって|ならい《ヽヽヽ》が吹くまでは、」と一郎さんが言った。それまでは、冬の間は、沖風すなわち西の季節風が、毎日のように空で唸《うな》り、白波の立つうねりを岬の向うから浜へと運んで来た。空には鉛色の雲が隙間《すきま》もなく覆《おお》い、水平線のあたりでは水と雲との区別もつかないほど、海は鉛色の空の影を映していた。桟橋には船はなく、右手の浜の側の岩壁に、桟橋の蔭《かげ》になって、小舟が幾つか繋《つな》がれたまま、舳《へさき》とか艫《とも》とかを互いに時々ぶつけ合って身体を暖めていた。機帆船が二|艘《そう》、更にその向う側に錨《いかり》を下していた。そこには乗組員の姿もなく、旗を立てたマストが風に揺《ゆす》られて、赤や白の旗だけが飽きもせずに顫《ふる》えつづけた。沖を通る船もなかったし、振り返ってみても、浜の、僅《わずか》ばかりの砂浜を黄色く濁らせたカーヴの上に、人らしいものの姿はなかった。この小さな漁師村《りようしむら》は、午後の曇り日と、西風の吹き荒れる中に、活気なく死んでいるようだった。
しかし夏はこうじゃなかった、と彼は考えた。夏は何もかもが素晴らしかった。空には陽《ひ》を遮《さえぎ》る雲一つなかったし、もしあっても、それはぎらぎらした眼に痛い入道雲だった。子供たちは裸になって水の中に飛び込んだ。入江の中ほどに飛込台の櫓《やぐら》が立ち、その上に昇ると、コンクリートの桟橋が、岬を背景に、横長の白い影を水の中に落していた。波止場の方に泳いで行ってはいけない、と言われていた。桟橋には必ず機帆船が泊っていて、モーターのぶるぶるいう音が、はしゃぎ廻る子供たちの声に混って聞えて来た。砂浜が焼けた砂で子供たちの肌《はだ》を狐色《きつねいろ》に染め上げた。
しかしこの入江では、避暑地の海水浴場のような賑《にぎや》かさは見られなかった。茶店が出ることもない。いや、避暑客と呼ばれる人たちさえ殆《ほとん》どいなかった。入江に面した漁師の家から、子供たちが裸のまま飛び出して来るばかり、たまに都会から親戚《しんせき》の家に泊りがけで来ている連中が、洒落《しや》れた水着姿で現れるとしても、ビーチパラソルを砂浜に立てることはなかった。土地の人たちは、一人前の男はそれぞれの仕事に忙しかったし、大きくなった娘たちは、昼間から水泳ぎなどをすると嗤《わら》われた。泳ぐのは子供たちに限られていた。女たちは朝早くか、でなければおおかたは夕方に、古風な水着を着て素早く水を浴びた。彼女等は陽の翳《かげ》って来た海をひっそりと泳いでいた。
それでも、夏は活気があった。今みたいじゃなかった、と彼は考えた。彼は夏休みになると、母の実家であるクニ叔父《おじ》さんの家に預けられ、自分と同じ年頃の子供たちと、毎日、のんきに暮したものだ。おばあさんが彼の面倒を見てくれた。母親が一緒の時もあった、が父親は、――もしその人を何とか呼ぶとすれば。しかし彼は、決して小父《おじ》さんともお父さんとも呼びはしない。呼び掛けるような名前をその人は持っていない、――その人だけは決して来なかった。母親も来ると二三日で帰ってしまった。そして彼はけっこう寂しいとも思わなかったのだ。
今は――。冬の西風がこうして吹き荒《すさ》んでいる頃にこの村に来たのは、初めてだった。今は寂しいと思った。しかしそれは、自分がこの正月のお休みに、独《ひと》りでクニ叔父さんの家へ来ているから寂しいのではなかった。存在の感情が僕に欠けているから、それで寂しいのだ。それが彼の論理だった。「我慢することさ、」とおばあさんが言った。何も我慢することなんかありはしない、と彼は考えた。「飽きたかい?」と二郎が訊《き》いた。「冬の間は寒くてつまんねえや、」と三郎が言った。「おこたにはいっておいで、」と叔母《おば》さんが言った。しかし彼は勉強に疲れてしまうと、「何処《どこ》へ行く?」と一緒について来たそうに呼び掛ける三郎に返事もせずに、靴をはいて、「僕、散歩に行って来ます、」と言って、さっさと浜へ出て来てしまった。
「浜も寒いに、」とぽつんとクニ叔父さんが、こたつの中でうたた寝をしながら声を掛けた。もう三日もすれば、お母さんが迎えに来てくれるだろう。
彼は桟橋の上をゆっくりと戻った。コンクリートの上を靴が固い音を立てて叩《たた》いた。彼はごつごつした岩を踏んで、岬の方へ行ってみた。岬へは、渚《なぎさ》づたいに行くことはむつかしい。大きな岩が、外海の波浪に浸蝕《しんしよく》されて、ぎざぎざに尖《とが》ったまま幾つも幾つも転《ころ》がっている。彼はポケットから手を出し、滑《すべ》らぬように用心しながら進んで行った。岩と岩との間に、波がはいり込んだまま捉《とら》えられて、ところどころ小さな水たまりをつくっている。その辺は風が遮られて、水たまりには漣《さざなみ》も立っていなかった。小さな磯物《いそもの》と呼ばれる貝や、黒いうになどが、水の中にこびりついていた。彼は次第に岬の方に近づいた。大きな岩の蔭を、両手で抱くようにしながら廻った。すると急に風が正面から吹きつけて来た。それは或る種の感情のように、彼の心の中を吹き抜けた。存在の感情。彼は水に落ち込みそうな危い岩の麓《ふもと》を、恐る恐る通った。水は蒼《あお》くて如何《いか》にも深そうだった。白い泡が表面で沸騰していた。彼はそこを通り抜けた。風が前よりも強くなり、帽子の庇《ひさし》に当ってさえも音を立てた。しかし帽子は風で飛ぶようなことはなかった。彼はやや広い岩のはざまに出た。小高い丘のように盛り上ったその一番高い岩の上に這《は》い登った。そこからは外海が一眸《いちぼう》の下に見えた。
こんな処まで来たのはこれが初めてだった。夏の間に、此処《ここ》まで来たことがなかったというのが不思議みたいなものだ。浜で入江を見ていた時とはまるで違った、生きている海がそこにあった。波浪は岩に噛《か》みついて、牙《きば》をむき出しにして吠《ほ》えた。まるで彼をおびやかすように。僕は何も怖《こわ》くはない、と彼は考えた。それは嘘《うそ》だ。彼には怖いことが沢山あるのだ。しかし僕は、怖いとは言うまい。海は沖の方まで暗く濁っていた。空と雲との間は見きわめもつかなかった。そして岩の上に、磯釣をしている男たちの姿さえも見ることが出来なかった。雲だけが早く走って行き、走る雲のその上にまた別の雲が覆いかぶさっていた。その風景はじんとするほど寂しかった。或る種の感情のように。しかし僕は寂しいとは言うまい。そしてこの風景も、夜になって彼を訪れる夢の中の見知らぬ顔ほどに寂しくはなかった。
お母さんは僕が邪魔だから、それで僕をクニ叔父さんの家にあずけたのだ、と彼は岩に凭《もた》れながら考えた。お正月の休みを、自分の家ではなく、いくらおばあさんがいるからといって、ひとの家に滞在して過すなんて。勿論、理由はあった。「僕、このお休みにはうんと勉強しなくちゃ、」と彼がつい口にしたのが、そもそもの原因なのだ。高等学校の入学試験を春に控えている以上、冬休みが大事なのは当り前だった。しかし、何も今更くそ勉強をしなければならないほど、自信がなかったわけではない。「そうね、うちだとお正月は、お父さまのお客さまが大勢いらしてうるさいから、クニ叔父さんのとこで勉強したらどう?」とお母さんが甘い声で言った。彼は眼をぱちぱちさせた。「そうよ、それがいいわ。あそこなら気兼もないし、たんと勉強が出来ますわよ。」しかしどうしてそんなにうまく、答が用意されていたのだろう。まるで僕が勉強しなくちゃと言うのを待ってでもいたように。
しかしもし試験に落っこちたらどうだろう、と彼は考えた。波の荒れている、ひと気のない岬の麓では、不安な感情が風のように突き刺った。見上げると、不具《かたわ》なひねこびた松が、岬の上の方で苦しげに身顫《みぶる》いした。斜面にぎっしりと生《は》えた松が、一斉に、風のために屈《かが》んだり伸びたりしていた。雲の間に、太陽のある位置が、そこだけ明るい円形をつくっていた。波の穂が一層高くまで盛り上って、次第に潮が満ちて来るようだった。もし潮が満ちれば、両手で抱くようにして通った岩の足許を、波が洗うようになるだろう。しかし僕は、不安だとは言うまい。試験に落ちてしまえば、僕はうちに毎日いて、お母さんの顔ばかり見て、お話をしたり遊んだり出来るだろう。「恥ずかしいわ、この子は高等学校の試験に落ちましてね、」とお客さまにお母さんは言うだろうか。「どうも頭の悪い子で、」と|あの人《ヽヽヽ》は言うだろう。困ったような顔で。「あなたは大丈夫よ。だって出来るんだもの、」とトシ子さんは言った。ひとりで承知して、まるで何でも自分の思い通りになる、自分が大丈夫と言えば試験官だって満点をくれる、というように眼をぱっちり開いて。トシ子さんがそう言ったって、それはひょっとしたら僕が特別に分けてあげたドイツ製色鉛筆のお礼のつもりかもしれないのだ。トシ子さんは、いつまでも俯向《うつむ》きになって、丹念にその色鉛筆を削っていた。どんなに自信があるからといって、試験に受かるとはきまっていないのだ。それに自信なんて。一体どの位出来たら、それで自信があると言えるだろう。
沖合の遠くを船が一艘走っていた。遠くに、遠くに。その小さな身体が波の間に隠れて見えなくなったかと思うと、次の瞬間には喘《あえ》ぎ喘ぎ空を目指《めざ》して伸び上った。高等学校にはいっても、まだその先に大学というものがある。まだ幾つも試験を受け、何度もびくびくし、少しずつ大人《おとな》になって、それでどうなるのだろう。大人になれば存在の感情を身につけて、もう何も怖いことはなくなるのだろうか。夜訪れて来る見知らぬ女の顔も、もう見ることもなくなって。船は既に小さくなり、波の間にまったく没した。雲の間から、ふと太陽が覗《のぞ》いて、海の面の白い波の穂が明るく輝き出す。顔が潮風にひりひりした。お父さんは死んだ。今僕が此処にいるようにはもういない。
彼は戻った。腰を半分ほど曲げ、岩の上を滑らないように靴をきしませながら、そろそろと進んだ。もう何も考えない、考えたって始まらない。来た時よりも水が一層岩の間に踊り込んで来る。飛沫がかかって靴下が濡れてしまった。両手で抱くようにして大きな岩の廻りを廻った。風が背中を押した。眼の下の、靴の踏む場所のすぐ横に、深淵《しんえん》が青ざめた水を湛《たた》えている。魚たちはきっと沖合|遥《はる》かに逃《のが》れて行ってしまっただろう。魚たちは此処にはいないだろう。生きることはどういうことなのか、僕には分らない。彼はまたコンクリートの桟橋のところまで戻って来た。
彼は岩壁に沿って歩いて行った。誰もいなかった。小船が身体をくっつけ合って暖をとっていた。僕は寒い、僕には誰もいない、と彼は考えた。お父さんはとうに死んだ、お母さんは|あの人《ヽヽヽ》のものだ。夢の中で見た寂しげな女の顔。慰めることもなく、慰められることもなく。
「ほんとにこの子は大人しくて、」とお客さまにお母さんは言った。「でも早熟な子ですわ。」内緒のように小声で附け足した。僕が聞いているのに何が内緒話なものか。二人の女の人は笑った。まるで面白くてたまらないことのように。お母さんは僕が好きじゃないのだ。少くともまた|あの人《ヽヽヽ》と結婚してからは。だからお客さまの前で僕を嗤いものにして、それで平気でいたのだ。機帆船のマストで、旗がものうげに風に靡《なび》いていた。岩壁が尽きて、彼は小さな橋を渡り、砂浜の上に出た。
夏とは違った湿りけを帯びた砂だった。波が烈《はげ》しい勢いで押し寄せては引いた。水の洗って行ったあとの斜面だけが、ところどころに貝殻を残して、夏の日に見るように濡れていた。その他のところはよごれていた。松飾りの余りを切り捨てたらしい松の小枝、沢山の蜜柑《みかん》の皮、硝子《ガラス》や瀬戸物の破片、流木、そして割れた貝殻。花車《きやしや》な桜貝を拾い上げると、その薄い貝は掌《てのひら》の上にくっついて離れなかった。彼はそれをまた足許に振り落し、砂の上をゆっくりと歩いた。お母さんだって、昔は僕を大事にしてくれたのだ、と彼は考えた。まだ僕が小さくて、お父さんがいて、お姉さんがいて、そして僕たちは日曜になると家じゅう揃《そろ》って遊園地に遊びに行ったものだ。「怖いから厭《いや》、」と僕はウオーターシュートの前で駄々《だだ》をこねた、「お馬鹿さんねえ、」とお姉さんが言った。「大丈夫だよ、しっかり掴《つか》まっていれば、」とお父さんが言った。「そんな臆病《おくびよう》な子でどうします?」とお母さんがきつい顔で睨《にら》んだ。お母さんはきっと自分が乗りたかったのだ。だからお父さんが困ったように僕の御機嫌《ごきげん》を取っていた間に、さっさと切符を四枚買って来てしまったのだ。「さあ早く乗りなさい。何も危いことはないよ、」とにこにこした小父さんが、僕の身体を抱き上げてボートの中に乗せてくれながら、みんなに言った。高い、高い。じいんと気が遠くなるほど。ずっと下の方で、池の水に太陽がきらきら映っていた。「大丈夫?」と言って僕はお姉さんの手をぎゅっと握った。池の中まで、レールが一直線に白く光っていた。「弱虫さん、」とお姉さんが言った。「さあ出ますよ。」レールの上のボートは傾いたまま滑り出した。心臓がぎゅっと縮んだ。遠くでの叫び声も笑い声も、みんな聞えなくなった。滑って行く、滑って行く。お母さんの腕が僕の身体を抱きしめた。早く、早く。そしてお腹にぐんとショック、水煙りが宙に舞い上り、ゆっくりゆっくり散って行った。小腰を屈めていた小父さんが、手に竿《さお》を持ってよいしょと立ち上った。ボートは揺れながら水の表に円を描いた。「何でもなかったね、」と僕は言った。「面白かったわねえ、」とお姉さんが言った。お姉さんはまだ小学生だった。そして僕はまだ小学校にもはいっていなかった。お母さんは若々しく笑った。「ね、面白かったでしょう?」
彼は蜜柑の皮を蹴飛《けと》ばした。砂の上に半屈みに屈んだ。西からの風が、彼の足許に飛沫のようなものを撒《ま》き散らした。お姉さんは誰からも好かれていた。ちょっとお澄ましで、威張ったような口を利《き》いて、それなのに優しくて涙もろかったお姉さん。夏になってこの村に来ると、漁師のおかみさんたちが、感に堪《た》えたようにお姉さんを見詰めていた。お姉さんが死んだから、それでがっかりしてお父さんまでが死んだのだ。それから僕たちは、――僕もお母さんも、幸福ではなくなったのだ。誰も僕に対して親切ではなくなったのだ。彼は砂の上に指で字を書いた。それから書いた字を靴の先で消した。僕は段々大人になるだろう。高等学校にはいって、大学にはいって、そして大人になるだろう。僕に欠けているものは存在の感情だ。僕は存在しているのだ。彼の靴を波が試《ため》すように洗った。引いて行く時に、波はかすかな音を立てた。
彼は砂を踏んで波打際《なみうちぎわ》を歩いて行った。途中から折れて道の方に出た。材木の上に腰を下した男が、酔っぱらって歌のようなものを歌っていた。その男は一人きりで、彼の方を血走った眼で睨んだ。睨んだような気がした。通りでは綺麗《きれい》に着飾った女の子たちが羽根を突いていた。どんな着物を着ても、顔はみんな漁師の子供だった。小さな子たちが幾人もくるくる廻って遊んでいた。彼はその群の中に三郎がいるのを見た。三郎は走り寄って来て、彼の背中をぽんと叩いた。
彼は硝子戸をがたごといわせて、土間にはいった。乾魚《ほしうお》の臭《にお》いがしていた。彼は「ただ今、」と言った。
「寒かったろうに。早くおこたにおはいり、」とおばあさんが言った。
叔父さんはもうそこにはいなかった。一郎と二郎とがこたつの中で餅《もち》を食っていた。叔母さんはお勝手でことことやっていた。おばあさんがこたつの側に七輪を置いて餅を焼いていた。一郎が早口に喋《しやべ》っていたが、彼には方言が多すぎてよく意味が掴《つか》めなかった。彼は餅を口に入れ、ぬるいお茶を飲んだ。一郎は汚《よご》れたジャンパーを着て、腕まくりをしていた。しかし部屋の中は寒かった。
彼は土間の端にある殆ど垂直の梯子段《はしごだん》を踏んで、二階に昇った。奥の方の小さな部屋にはいって机の前に坐った。彼は二郎の勉強机を借りて勉強していたが二郎は机を取られても平気だった。二郎は勉強なんかしない。こたつの中で、ちょっとぐらい冬休みの宿題を見ることがあっても、それを直《じき》に投げ出した。「お前もちっとは見ならって勉強せにゃ、」とおばあさんが言った。「漁師の子は漁師だ、」とクニ叔父さんが言った。彼はどんなにか二郎を羨《うらやま》しく思った。村の漁業会が漁船を出す時に、叔父さんと一郎とは機械の係で乗り込んだ。そういう時には二郎も、一役持って網引を手伝うのだ。水揚げの四分は役づきと呼ばれている網元で分けるし、叔父さんもその網元の一人なのだが、残りの六分は諸雑費を差し引いて、漁に協力した人たちの間で等分に分ける。しかし誰でもが、叔父さんや一郎のように、一人前ずつの頭数の中にはいるわけではない。中には大人の漁師でさえその七分や六分しか貰《もら》えないのもいた。二郎はまだ中学の二年生だったが、必らず八分は貰うことが出来た。小柄でほんの子供なのに、先天的に機敏な漁師の才能を持っていた。冬休みの宿題なんか、二郎にとって何ら心配のたねではなかった。彼はそれを羨しく思った。
二郎の勉強机の前に坐って、彼はそういうことを考えた。二郎はいい漁師になるだろう。三郎もまたいい漁師になるだろう。そこには存在というものがある。しかし僕は何になるだろうか。勉強をして、高等学校にはいって、それから何になるだろうか。何一つまだきまってはいないのだ。入学試験の試験官が、僕の答案に八十点をつけるか六十点をつけるかで、僕の運命はどんなふうにでも変ってしまうだろう。僕にはまだ存在というものがない。
部屋の中は薄暗かったから、彼は電燈を点《つ》けた。この奥の部屋は南を向いてはいたが、庭らしい庭もなくて前がすぐ山になっていたから、一日のうちにたとえお天気でも殆ど陽《ひ》の射《さ》すことがなかった。表向きの六畳は海に、すなわち西北に面していた。この二階は冬の間は寒かった。そしてこの漁村が全体として西北の海に面している限り、村の中で暖かい場所というものは何処《どこ》にもなかった。その上この頃は不漁が続いて、村の中には活気がなかった。
彼は初めて冬休みにこの村に来て、そういうことが分った。夏休みに来た時には、ただ遊ぶだけで何にも気がつかなかった。彼はまた、クニ叔父さんを初めおばあさんまでが|その人《ヽヽヽ》に恩義を感じていて、そのために彼を前以上に大事にしてくれるのだということを察した。その人がきっとお金でも貸してあげたのだろう。その人はお金で自分の存在をつくっているのだ。そしてクニ叔父さんや一郎さんや二郎なんかは、漁師で存在をつくっているのだ。
彼はぼんやりと参考書を開いて残りの頁数《ページすう》を確かめた。まだこれだけ読まなくちゃ。死んだお姉さんは、とまた考え始めた。お姉さんは可愛《かわい》らしい綺麗な子というので存在をつくっていた。トシ子さんは、誰にでも親切な少女という存在を段々につくって行き、そのうちに、――トシ子さんはいつか、ファッションモデルになりたいんだと言った。そういうことを今からきめてかかるなんて、僕はおかしいと思う。しかしファッションモデルだってちゃんとした存在なのだ。それからお母さんは、――昔は愛によって存在をつくっていた。
愛。そこで思考が止り、暫《しばら》くの間、参考書の活字の上を眼が往《い》ったり来たりしていた。さっき砂浜の上で指で書いた字。彼はそれを心の中で再び消した。それから一心に本を読み始めた。窓の外が次第に暗くなり、下から魚を焼く臭いが漂って来た。彼は何も考えずに書物の中に没頭した。
「御飯だよう、」と叔母さんが呼んだ。
彼は本の頁を閉じ、その間に色鉛筆を挟《はさ》んだ。トシ子さんはあの色鉛筆を大事にしているだろうか。階段は下りる時の方が一層急で危なかった。彼はもうこの階段にも馴《な》れてしまった。それをとんとんと音を立てて巧みに下りた。
彼は家族の人たちと一緒に茶ぶ台の前に坐った。彼の前にだけまたお刺身がついていた。どんなに彼が恥ずかしく思っても、彼はお客さまだったし、この家ではそれが当然のことのように思われているらしかった。「いいから食べな、」と叔父さんが言った。「何の遠慮することがあるものかね、」とおばあさんが言った。「いい刺身がなくてね、」と叔母さんが弁解した。家族の共通の話題は、入江にはいって来た鰯《いわし》の群のことだった。それはもう少し陸地に近寄って来ない限り、網にかかりそうになかった。彼は昼の間に一郎が何度も、そのあたりだけ黝《くろ》ずんで盛り上って見える海の表面を、眼で追うのを見ていた。「明日はかかるさ、」と一郎が言った。
食事が終ると、叔父さんは役員会があると言って出て行った。一郎はラジオの前に寝転《ねころ》び、二郎は宿題を少しめくっているうちに、眠そうな欠伸《あくび》をした。三郎は膝《ひざ》の上に厭がる猫を抱き上げて遊んでいた。叔母さんは繕い物を始め、おばあさんはラジオを聞いていた。彼はまた急な梯子段《はしごだん》を踏んで二階に上った。
彼は雨戸を締め、机の前に坐り、参考書を開いて読み始めた。意識はすっかり書物の中にはいり込んだ。時々階下で鳴っているラジオが、彼の頭の中に滑《すべ》り込んでは消えて行った。叔母さんが火鉢《ひばち》に炭を足しに来てくれた、「よくそんなに勉強が出来るねえ、」と叔母さんが言った。彼は少し笑った。「今日はお風呂がなくてね、」と叔母さんは言い、彼の背中のところで床を取り始めた。彼が何度も自分でやるからと言ったのに、叔母さんは一晩も承知しなかった。床を取り終ると、おやすみを言って下へおりて行った。
それから彼はまた本を読んだ。隣の部屋に二郎が来て寝支度《ねじたく》をした。小さな声で歌をうたっていた。一郎がその後から来た。この辺では夜寝る時刻は誰も早かった。三郎は階下で叔母さんと一緒に寝た。鉄瓶《てつびん》の湯がたぎり始めた頃には、家の中は静かになり、表側の雨戸を叩《たた》く風の音が、波音と共に、響いているばかりだった。
僕も寝よう、と彼は考えた。そうするとまた寂しい感情が心の中に満ちて来た。昼の間はまだしも我慢が出来た。しかし夜になると、西風の吹きすさぶ音と波の寄せては引いて行く音とが、彼の存在をゆすぶった。今晩もまた、いつもと同じ顔を夢に見るだろう、と彼は考えた。彼はそっと階段を下りて小用に行った。階下でももうひっそりかんとして、土間の電燈が隙間風《すきまかぜ》に少し揺れていた。物の影がその度《たび》に動いた。
彼は寝支度を整えると、少し黴《かび》くさい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。足の先が冷たかった。また同じ顔を夢に見るだろう。怖《こわ》いような愉《たの》しみなような、期待と不安との入り混った気持。彼は電燈を消し忘れたのに気がついて、また蒲団から抜け出してスイッチを捻《ひね》った。暗闇《くらやみ》の中でごそごそと動いた。今日の一日も終った。しあさって位になれば、お母さんが迎えに来てくれるだろう。彼は眠ろうと思い、それから昨晩見た夢のことを思い出した。
彼は何処ともしれない街の中にいた。夜なのか昼なのか、彼にはよく分らなかった。果物屋の前を過ぎた時、彼はつかつかとその店にはいって、少しばかりの蜜柑《みかん》を買った。果物屋の主人は、中学の英語の先生だった。彼はうしろめたいような気持でその店を出た。果物屋の主人は背中から彼の出て行くのを見ていた。彼は小脇《こわき》に蜜柑のはいった紙袋を抱《かか》え、さっさと歩いた。「船が出るよう、」と誰かが言った。それに乗りおくれては大変だ。彼は足を早くしたが、どっちが桟橋なのかは分らなかった。「船が出るよう、」とそれは繰返した。その時、彼は耳許《みみもと》にささやく声を聞いた。「あたしが連れて行ってあげる。」彼は見た。黒い、じっと見詰める瞳《ひとみ》がすぐ側《そば》にあって、唇《くちびる》を少しばかり開いていた。「船のところに連れて行ってあげよう、」と言った。痩《や》せぎすの、眼ばかり大きな少女だった。女といった方がいいのかもしれなかった。幾つ位なのか年のころは彼には見当もつかなかった。ただ黒っぽいものを着ているというほか、顔以外のところはぼうっとしていた。女は彼の手を掴み風のように走り出した。空を飛んでいるように早かった。やがて海が見え、桟橋に人がたくさんいた。一万トン位の大きな船が桟橋に横づけになっていた。「さあ早くお乗り、」と女は言った。彼は切符を出して、船員に鋏《はさみ》を入れてもらった。彼はタラップをあがろうとして振り返った。「君も一緒にお出《い》でよ、」と彼は言った。女はいやいやをした。「お出でよ、でないと僕心細いもの。」女は黒い大きな瞳で彼を見た。「あたしは行けないの、」と女は言った。船はモーターのかしましい音を立てていた。汽笛が鳴り、彼の側を人が駈《か》け上った。「それじゃこれ君にあげる。」彼は手にしていた蜜柑の袋を女に渡した。「あたしはいいの。お船の中で咽喉《のど》が渇《かわ》くわ、」と女は言った。「でもあげる。」女はそれを受け取った。寂しい顔をして彼の方を見た。「さよなら、」と女は言った。その色白の顔が彼の視野の中で次第に小さくなった。その顔は小さく遠ざかって行った……。
誰だったのだろう、と彼は考えた。それはお母さんのようでも、亡《な》くなったお姉さんのようでも、トシ子さんのようでもあった。しかしその誰でもなかった。誰だか知らない顔だった。その顔は寂しげに彼を見詰めていた。
毎晩のようにその女の夢を見た。彼はそのきれぎれの破片を思い出した。或る時は、その女はインディアンたちの手に捕えられていた。これからひどい目に会わされるのだ。彼は助けに行かなければならなかった。しかし樹に縛られた女は、それが映画の中なのか、それとも実際に助けを求めてそこにいるのか、彼には分らなかった。その光景を見ている彼は、空気の中に溶け込んででもいるようだった。太鼓の音が単調に響いた。女は身悶《みもだ》えをした。小さな白い顔。そしてその顔は、やはり空気のように溶けて行った。目が覚《さ》めてから、彼はその女の苛《いじ》められるところを見なかったのを、少し残念に思った。
或る時は、沢山の女たちが踊っている中にその女がいた。その女は彼にお出でお出でをした。女は彼の手を取って高い高い階段を昇った。「この一番上まで行けばそれは面白いのよ、」と女は言った。しかしその階段は無限に続いていた。「上には何がある?」と彼は訊《き》いた。「天国よ、」と女は答えた。女はきらびやかなレヴィユの衣裳《いしよう》を着ていたが、お姉さんのようにも見えた。しかしお姉さんの下ぶくれの顔と違って、もっと痩せぎすで眼が大きかった。「僕もうくたびれた、」と彼は言った。しかし見廻すとそこはもう天国だった。綺麗な羽をした鳥が原っぱの上を無数に飛んだり歩いたりしていた。色んな花が咲き乱れていた。しかし彼は一人きりでその女はもういなかった。「どこにいるの?」と彼は呼んだが、誰も答える者はなかった。「もし君がいないのなら僕は天国に来たってつまらないや、」と彼は言った。
それからまた、彼は学校の教室の中に一人でいた。石膏《せつこう》の首や、大きな地球儀や、フラスコや、実験道具や、瓶《びん》にはいったアルコオル漬《づ》けの動物や、血管と静脈の色を鮮《あざや》かに塗り分けた人体模型や、そういった物が教室の廻りに幾つもあった。彼は一つ一つ見て廻った。お母さんが迎えに来る筈《はず》なのに、いつまで経《た》っても誰も来なかった。彼は厭《あ》きて教室の入口のドアを明けようとした。しかしそれは外から閉っていた。彼は不安になって教室の中を見廻した。その時、石膏のベートーヴェンの首が、眼を開いて彼の方を向いた。その顔は生きていた。赤と青とに塗られた人体模型がゆっくりと歩き出した。アルコオル漬の蛇《へび》が瓶の口から這《は》い出て来た。「お母さん、」と彼は叫んで、ドアを両手で叩《たた》いた。ドアが開き、髪の黒い、唇をきゅっと引き締めた女が急いではいって来た。しかしそれはお母さんではなかった。女は黒板からチョークを取ると、千切ってベートーヴェンの首に投げつけた。首はまた元へ戻り、眼を閉じた。女は何度もチョークを投げつけ、その度に動き出していたものたちは、それぞれ静かになった。「ありがとう。僕どうすればいいかと思ったよ、」と彼は言った。女は憂わしげに彼を見詰め、厳《きび》しい声で言った。「そんな弱虫なことでどうします?」しかしそれはお母さんではなかった。もっと若く、痩せていて、寂しげだった。
幾つも幾つも、同じ顔を夢に見たのだ。どれも見知らぬ女の顔で、しかもそれは同じ顔だった。その女は蒼《あお》ざめた、やるせなげな、そして遠くの方を見詰めるような眼をしていた。彼の手を取った時に、その手は冷たかった。「あたしはもう駄目なのよ、もう走れないのよ、」と息をはずませて言った。「でももっと逃げなくちゃ、」と彼は言った。二人は追いかけられて、やっと此処まで逃げて来た。「あたしは駄目、あなた一人で行って。」彼の眼の中を覗《のぞ》き込んで、早口に言った。「早く。」しかし彼は、その女のわななく手を握りしめた。廻りでは波の音がしていた。「僕はどうしても君と一緒でなくちゃ厭だ、」と彼は言った。「君は僕の存在なのだ、僕は君を置いて行くことは出来ない。」女は感謝に溢《あふ》れた眼で彼を見た。寂しげな顔をしていた。「そうよ、あたしはあなたの存在なのよ、」と女は言った。女は何処からか小さな手鏡を取り出して、そっと化粧を始めた。鏡の中にその女の顔が映り、その側に彼の顔が映った。小さな鏡の中に、二つの顔が――寂しげな二つの顔が映っていた。そしてそれはどちらも同じ顔だった。その女の顔は、彼自身のものだった。「僕?」と彼は言った……。
彼は目を覚ました。暗闇の中だった。ああ僕はいつのまにか眠ってしまった、と彼は考えた。僕は同じ顔を夢に見た。
しかし今や彼には分った。初めて、彼が夢に見ていた見知らぬ顔をした女が誰であるかが分った。僕の本当の存在が毎晩僕を訪れて来るのだ、と彼は呟《つぶや》いた。西風が荒れ狂って、表側の雨戸をごとごといわせていた。波の音も無限に単調に夜の渚《なぎさ》に響いていた。そして暗闇の中でじっと仰向に寝ている少年の顔は、彼が夢の中で毎晩見た女の顔よりも、一層寂しげだった。
[#改ページ]
[#小見出し] 影の部分
ソシテ人間ノ一生ハ何処《ドコ》カラカ既ニキマッテシマッテイルノダ。人ハ運命トイウ。シカシソレヲキメルノハ彼(或《アル》イハ彼女)自身ノ影ノ部分ダ。シカシ誰ガ、何時《イツ》、遅スギズニ、ソノコトニ気ガツクノカ。
もしこれが小説ならば、僕は事実だけを簡潔に語って、現実の持つ醜い恐ろしさをそのまま伝えただろう。その一日の(それは晩春の昼下りで、日射《ひざし》は暖かく、日が暮れても、やはり春らしい、うっとりした気分を感じさせる生暖かい夕べだった)僕の経験が、僕を時間の中に立ち止らせさえしなかったなら、だいいち僕はこんなものを書くことさえもなかっただろう。しかしこれは小説ではない。僕は小説のようにこれを書くことが出来ない。
昼下りの盛り場の雑沓《ざつとう》の中で、不意にそれが僕の心の全部を占めてしまった。衝動、という言葉でそれを表すのだろうか。それは僕であって僕ではない、何か為体《えたい》の知れない生き物が、僕を取り巻いている周囲の現実、つまり子供の手を引いた家族づれとか、ぴったりと寄り添った幸福そうな若い男女とか、急ぎ足で他人の背中を押しのけて行く与太者《よたもの》ふうの若い男とか、ショーウインドウの前で足をとめたがっている中年の婦人とか、そんな連中の間から忽然《こつぜん》と現れ出て、僕の心の内部に守宮《やもり》のようにぴったりとくっつき、僕の眼をその生き物の眼で見せ、僕の心をその生き物の思考で考えさせてしまったと言えるようだった。僕にその衝動を用意する気分が、予《あらかじ》めあったわけでは決してない。僕がそれまで考えていたことといえば、どうして今日はこんなに人が多いのか、そうか日曜日なのだな、春の名残《なごり》の暖かい日射に誘われて、みんな浮かれ出して来たのだ、とそんな埒《らち》もないことで、合《あい》のスプリングを着ているどころか手に持っている人さえ少いとか、上衣《うわぎ》なしの通行人も少くないとか、そんな計算をして、自分でも、久しぶりに外出して、微風が無帽の頭の髪を吹いて行くのを快く感じていたものだ。そこにまったく理由もなく、その生き物が僕をつかまえると、まるで時間のない世界が、深淵《しんえん》のように、ぽっかり口を開いて僕を呑《の》み込んだかのように、僕は人込の間を泳ぐような手つきをしながら、車道の端に身を乗り出して、通りかかったタクシイに合図をした。次の瞬間には、一分前までは思ってもみなかった或る場所を運転手に告げて、車の中に乗り込んでいた。
「どの辺ですか?」と声を掛けられるまで、僕が何を考えていたか、さっぱり覚えがない。繰返して言えば、それは晩春の日射の暖かな日曜日で、自動車の走って行く間じゅうどの通りにも人が多く、若い木の芽の匂《にお》いが明け放した自動車の硝子窓《ガラスまど》からがそりんの厭《いや》な臭《にお》いにまじって鼻をつく(モウ藤ノ花モスッカリ満開ニナッタダロウ)、そんな何とも言えず平和な感じのする昼下りのことなのだ。僕が昼まから酒を飲むような男でないことは、それに、やたらに放心状態になるような、ぼんやりの忘れっぽい人間でないことは、予め断っておいた方がいい。僕は寧《むし》ろ神経質な、せかせかした、一日の仕事は(何という仕事か)一日に済ませるような律儀《りちぎ》なところもある男だ。それが、日曜日を忘れて街へ出て来たと言えば、素性もおおよそ見当がつくだろう。毎日自分の机の上にしがみつく、といっても芸術家だ、自由業だと人に威張れる商売では毛頭ない。机の上で、つまらない挿絵《さしえ》やカットや、それに怪しげな雑誌に怪しげな挿絵まで描きなぐる、それも名前を変えてやる仕事で、どっちにしても自分の満足の行くような絵を、久しく描こうと思ったこともない。油を使ってカンヴァスに向う仕事らしい仕事は、とうの昔に諦《あきら》めた。要するに金を稼《かせ》ぐだけの目的(というほどの稼ぎでもないのだが)、従って僕という人間はつまり rate だ。とここに外国語を用いる のが、僕の精いっぱいの見栄《みえ》だ。ラテ、つまり人生の落伍者《らくごしや》だ。まだ三十代の末なのにもうこんな弱音を吐くようでは情ない、と人は思うだろうが、それが僕の(何時からかの)固定観念なのだから、僕がその時、自動車の中から通りをぶらつく幸福そうな人たちを眺《なが》め、時々かすかに、しかしぷんと強く匂って来る爽《さわや》かな木の芽の匂いに、自分から遠ざかって行ってしまったもの(時間とか理想とか情熱とか)を追い求めるような気分になっていたとしても、心の底にあったのはやはりこの rate という言葉だったに違いない。この言葉が当然|喚《よ》び起すのは、僕の女房が僕と対照的に持っている輝かしい成功者のイメージだが、しかしその時僕はまったく女房のことなんか考えてはいず、寧ろいつも頭の底にこびりついている不愉快な、自分で自分を堕《おと》しめたい気分を払い落していたことは断言できる。その名前を言えば、誰でもが知っていると思われるほど、女房は既にひとかどの閨秀《けいしゆう》画家として名を為《な》してしまい、また確かにそれだけの天分と教養とを持ち(ついでながら、この rate などという洒落《しやれ》た言葉を僕が知っているのも、女房が僕をやっつける時の白《せりふ》を借りたまでだ)、自分の好きな仕事で飯の食える芸術家なのだから、僕が下らない挿絵なんか描くのを眼の仇《かたき》にして、「何もお金に困るわけでもないのに、そんな恥ずかしい仕事は止《や》めて頂戴《ちようだい》、」とか、「昔はあんなに熱心に絵を描いた人が、近頃のざまは何?」とか、「やってみないからいけないのよ、昔はあたしに教えてくれたんじゃないの、どうしてそんなに自信がなくなったものかしら?」とか、口癖に、しかもその実、僕がもう昔の、と言っても戦後間もなくの混乱した時代に、誰でもが見喪《みうしな》っていた情熱を再発見して新しい仕事をしようと張りつめていた頃の、あのみずみずしい活力をとうになくしていることは百も承知で、僕をやっつけることに快感を覚えているような女なのだが、僕は女房にやられて大人しくぺこぺこする人間ではないし、そうなると自分の空想の中に閉じ籠《こも》って現実にはわざと眼をつぶる、その空想の中では僕は自由だし、空想の中で描いた絵ほど美しいものはないと考える癖があり、二人はまったく平行線を歩いているようなものだと思うが、それでも時々気を取り直して、こいつの論理なんてあやふやなものだと感じて、「もう一遍言って御覧、」と訊《き》いてみたりすると、「なにそれ、開き直るの?」と忽《たちま》ち声が高くなるから、「女の理窟《りくつ》は非論理的だよ、」と言い返す、「あなたがぼんやりしていたからよ、人の話を聞きながら、何を考えていたの?」と逆襲されることも度々《たびたび》なのだ、といって、僕は自分を、やっぱりぼんやりな、白昼夢を見るような人間だとは思わない。女房のことをこれ以上説明するのは気が進まないし、これがもし小説ならここらで僕の生活環境を伏線に出しておくのが常道なのだろうが、これは小説ではないのだ。要するに僕は、自分で自分に責任の持てない人間、従って自分が或る瞬間に考えていたことに対しても責任の持てない人間なのだ。しかし人はみな、いつでも、現在の思考に対して分析したり責任を持ったり出来るものだろうか。
そこで自動車から下り、やはり何も考えずに歩き出した。割合に大きな屋敷ばかり並んでいる閑静な道を、如何《いか》にも歩き馴《な》れているようにさっさと歩いたが、もし足が考えると言っておかしくなければ、昔は、空《から》っぽの頭の代りに足が、風景ガヒトリデニコチラニ近ヅイテ来ル、コウイウ感ジヲ持ツ時ニハ彼女ノ御機嫌《ゴキゲン》ガヨクテ、キット肩ノ上ニ手ヲ置クダロウ、と考えていたものだ。しかしこの時も昔と同じであるような錯覚が働き、何やら一種の期待が、最初の衝動からずっと続いてまるで夢の中にでもいるように感じさせ、それが入口の呼鈴を押し、玄関の戸の開かれるのをもどかしげに待ち、ついで戸が開き、自分のよく知っている顔、瓜《うり》二つほどに似ている二つの顔のその一つが(期待していたのがそのどっちであったかがふと忘れられ、自分とその顔との間に一種の幕のようなものが横たわっている感じを持って)自分をじっと見詰めているのを見る時まで持続し、そして不意に、声が、僕の上に、僕がその午後の盛り場の雑沓の中で身を任せた生き物が瞬時に逃げ去ったのを感じ取るよりも早く、落ちて来た。
「死んだのよ、あの子。」
人ハ耐エ忍ビ、待チ、時間ノ過ギテ行クノヲ感ジ、何時カハソノ時間ガ彼(或イハ彼女)ニ酬《ムク》イヲ与エテクレルコトヲ期待シ、ソシテ何処カラカ間違ッテシマッタ、タダ待ツコトノミガ残ッタコトヲ感ジテ、ソレデモマダ待ッテイルノダ。彼女ガ待ッテイタモノガ何デアッタカ僕ハ知ラナイ。彼女ハモウ待ッテナンカイナカッタノカモシレナイシ、耐エ忍ブコトニ疲レタノカモシレナイ。シカシ僕ハ、僕ガ、何処カラカ間違ッタコトヲ知ッテイル。
僕はその薄暗い玄関で、入口の戸をまだ締めきることもせず、午後の日射が松の枝を透して半分ほど背中に射し込んでいるところから、その光りの筋の中に立って、奥の方の影の中にある顔、時間が少しも変質してしまうことが出来ず、短い言葉を口にしたあと、顔の表情をすべて凍りつかせてしまったその丸い、白っぽい、僕の眼がはっきり見定めることも出来ず、ただ間にある薄い幕のようなものによって、これは幾《ちか》ちゃんであって麻《あさ》ちゃんではない、母親の方で娘ではない(ソンナコトハ初メカラ分ッテイタ筈《ハズ》ナノニ)と知っている顔を、昔と、それも一番昔の、といって何時だったのか、十年前なのか二十年前なのか記憶にないほどの昔の顔とごっちゃにして、そうか麻ちゃんという僕の恋人は、つまりは存在しなかったのと同じことなのか、というようなことを考えていたが、次の瞬間に、相手の顔がずっと僕に近づき、その手が僕の肩に触れるというより、その両手が僕の身体《からだ》の上に崩《くず》れかかった感じの中で、僕は彼女を抱きとめ、彼女の方は一息にまた話し始めていた。
「あの子は結局うまく行かなかったのよ、可哀《かわい》そうに、それでも我慢をして、厭なことは何にもわたしに言わないようにして、会えば何時でもにこにこして、……でも親子なのに何も隠すことはなかったのに、麻子は結婚してからすっかり口が重くなって、わたしとも何だかよそよそしい口しか利《き》かなくなっていたけれども、……だからきっとわたしが悪かったのかもしれないわね、帰って来て、蒼《あお》ざめた顔をして、次の日になっても向うへ戻ろうとしない、向うから迎えにも来ない、意地になってわたしも麻子に何時までも泊って行きなさい、いいのよあなたの気の済むまで帰らなくても、そのうちに折れて迎えに来るでしょうよ、と言っていたら、一週間|経《た》って朝起きてみると、……ねえそんなことってあるかしら、あなた分ってあの子の気持が、結局何にも言わないで、あなたのことも言わず、わたしにも事情らしい事情を説明せず、それでひと思いに、……それは冷たい仕打をされたことは分っているし、いくらあの子の意志で嫁に行ったからといって、結局はわたしに責任があることは分っています、あなたが怒るだろうってことも、御免なさい、わたしが気がつかず、ぼんやりで、あの子をみすみす殺しにやったようなものだけど、でもあんなにお嫁に行くといって聞かなかったし、初めは嬉《うれ》しそうな顔もしていたのに、あなたは、あなただって……。」
僕も強情だったし、麻ちゃんも強情だったということか。いや、僕たち二人は何処からか間違っていたのだろう。そんなことはどうでもいい。僕が考えていたのは、いや僕は何も考えてはいなかったのだ。恐らくはそうだ。というのは、それから帰る時までの間に、僕は幾ちゃんの話を聞き、自分でも何か言い、恐らくは食事もした筈なのに、そういうことは何ひとつ覚えていないのだから。事実、つまり最も簡潔で充分な、容赦のない、そして取り返しのつかない事実というものは、覚えている。麻ちゃんは嫁に行き、良人《おつと》やその家族と折合が悪くなり、ひとりで耐え忍び、実家に戻って一週間目に自殺した。僕は彼女が結婚してからというもの一度も彼女に会わず、その良人がどんな人物であるかも知らず、完全な絶交の手段として彼女の母親の家へ行くこともやめ(唯《ただ》一度の例外をのぞいて)、女房が嫉妬深《しつとぶか》い、それも特に麻ちゃんに対して嫉妬深いという口実で、一切の文通さえも禁じた。幾ちゃんに対してさえ禁じたのだ。だから彼女はその娘の死亡通知を僕に出すことさえしなかったのだが、これは彼女もまた誇りが高く強情な女だという証拠なのだろうか、それとも僕の言い出した完全な絶交という言葉の響きが、僕等二人(麻ちゃんと僕)はもう少しも愛し合っていないことを、彼女に見抜かせたせいだろうか。それでもこの母親は娘を愛していたし、娘を愛していた僕をも愛していたに違いないのだ。ソコニ何処カシラ間違ッタモノガアルコトヲ知ラナカッタノダ。しかし今でも彼女は僕が麻ちゃんを愛したことを、誰よりも(恐らくは僕の女房よりも)信じているのだ。
「可哀そうな麻子。」
その声の異様に悲しげな語尾の顫《ふる》えが、急に僕に何かを告げ始めたのだが、それはまるで眼に見えない塊《かたま》りのようなものが、無理にも僕の身体に押し入ろうとして皮膚という皮膚を圧迫し、風のように身体を取り巻いている気配だった。といって、僕自身もまた感動し、涙を流し、絶望的な気持になったということではない、寧《むし》ろ何等《なんら》の感動もない状態、ただ舌の上に残った苦《にが》い後悔の味が、ちょうど僕等が麻ちゃんの部屋にはいって、彼女がその窓を明け、「この部屋に来ると、わたし窓を明けないと息がつまりそう、」と言い、その窓から夜の(もう夜になっていた)生暖かい微風が満開の藤の花の噎《む》せるような匂いと共に吹き込んで来た瞬間から、不意に突き刺すように強烈な意識を目覚《めざ》めさせ、後悔でもなく、絶望でもないもっと別の味に変質し、もっと反対に生きた者どうしの持つ連帯的な磁力となって、僕の口に初めて僕の言葉を喚《よ》び起した。
「可哀そうなのは幾ちゃん、あなただよ。」
その狭い部屋の中を窓から吹き込む藤の花の匂いを持った空気の流れが循環すると、そこに何時のまにか格子縞《こうしじま》のワンピースを着た若い娘、セーラー服を着た女学生、そして花模様の子供服を着た小さな女の子までが、しかも同時に同じ顔、同じ姿態を持ち、というよりもその若さ、烈《はげ》しさ、ひたむきさが或る一人の永遠に同じ少女の像をモンタージュ写真のようにつくりあげて浮び上って来るのだったが、しかし僕がその瞬間に見詰めていたのは、麻ちゃんではない別の女、同じ血による相似が一層その少女の不在を印象づけるような顔、つまり自殺した娘にとっての母親の持つ、時間の停止した、凝然とした、しかし何かを告げようとして最早《もはや》言葉の重みを失ってしまったわななく唇《くちびる》と見開いた眼、そして僕が少しずつ何かを理解し始めて来たこの顔の奥にある神秘な影だった。僕は彼女を抱きかかえ、二人とも重心を失って横ざまに倒れたところに小さなベッドが待っていたが、それが誰のベッドであり、また一つの生命の喪失という重大な事件が演じられたベッドであるかなどということは、後の瞬間まで僕にも幾ちゃんにも考えの中に浮ぶことはなかったし、僕は自分の顔のすぐ下に、この二十年来僕のよく知っている筈の、しかも結局は未知の顔、歳月が刻みつけ、情熱が富ませることもなく忍従と犠牲と沈黙との秒また秒、分《ふん》また分が次第に平静な未亡人として飼い馴《な》らしてしまった顔の、不思議に輝かしい黄昏《たそがれ》のような魅力に恍惚《こうこつ》となりながら、殺してしまった、死んでしまった、と心の中で叫び続けていた。殺してしまった(麻チャンヲ)、死んでしまった(誰ガ? 麻チャンカ、ソレトモ幾チャンカ、ソレトモ僕カ?)と繰返すうちに、死のように抵抗の出来ない力が目前の魅力に呪縛《じゆばく》されて、僕の唇が、「いけないわ、ゆるして、」と叫んでいる、しかし決して厭《いや》でもなく赦《ゆる》しを求める必要もない小さな口を封じ込めた瞬間に、あまりにも遅すぎて、僕は僕の人生を既に選び取ってしまい、彼女は、この僕よりも五つも年上の彼女の方は、更に一層昔から彼女の人生を選び取り、しかもその娘の人生までも選んでやってしまった以上は、こんなことはもう何にもならず、この接吻《せつぷん》が昔へと時間を溯《さかのぼ》らせることも出来ない、と気がつき、同時に、幾ちゃんのまるで別人のような(昔どおりの)若々しい「いけないわ、ゆるして、」と繰返す声の中に、風の吹き込んでいる窓、壁に懸《か》けた風景画、軋《きし》っているベッド、すべてに死んだという娘の亡霊がしんとして見守っている感じを受けて、亡霊を再び殺してしまうかのように、そして幾ちゃんの方も自分が何処《どこ》に横になっているかに気がついて遅まきに抵抗を始めているのを、何かこの二人に(死んだ麻ちゃんと生きている幾ちゃんとの両方に)復讐《ふくしゆう》したいといったような、わけの分らない感情に捉《とら》えられて、僕はあらゆる言葉を封じ込める行為の中に今のこの時間を忘れ去ろうとした。いけなくはない、赦すことは出来ない、とそこだけに褪《さ》めた、白々しい、狂暴な情熱が愛とは違った生き物のように頭を擡《もた》げ、窓から吹き込む微風が廻りじゅうの時間の壁を突き崩《くず》せと僕をせきたてているのに、しかし何かが何処かで間違っていることを僕は少しずつ少しずつ分って行くのだ。人は決して急に、掌《てのひら》を打つように、分ることはない。それはいつでもゆっくりと、しかし確実に、健康な子供の背が伸び体重がふえるように、分って行くのだ。これが小説ならば、この光景の中で、この麻ちゃんの部屋の中で、僕が罪の意識を鈍痛のように感じながら麻ちゃんではない別の女を抱きしめているところで、そしてもしそれが愛ならば愛を分析し、自殺した娘の亡霊が見守っているのならば彼女に自殺の理由を問いただし、僕自身の分析と想像との上に事実そのものの結末の一行を書いてしまえば終りなのだ。小説はそういうふうに終る。しかし本当の現実は、何かが少しずつ分って行き、しかも何の解決もないことそれ自体のうちにあるのではないだろうか。僕の書くものは小説ではない。
人間トイウノハ愚カシイモノダ。何モ知ラズ、何モ分ラズ、ソレデイテ自分デ自分ガ何デモ知ッテイルヨウナ顔ヲシテ、ヤレ哲学ダ運命ダト言ッテイルノダ。僕モソノ一人ダ。シカシ君ニハ分ル、ソレハ君ガ死ンデイルカラダ、人ハ死ヌ瞬間ニハ何デモミンナ分ルノダ。死ヌ時ガ、人ガ自分ノ運命ヲ最後的ニ選ビ取ル大事ナキッカケナノダ。シカシ生キタ人間ハ、無智ト錯乱ト幻影トノ中デ、ソノ意味モ知ラズニ運命ヲツクッテ行ク他《ホカ》ハナイ。ナゼナラ、生キタ人間ハソノ一生ノ展望ヲ、死者ノヨウニ、同ジ平面ニ並ベテ見ルコトハ出来ナイカラ。
その時には、自分がどういう理由を持ってそこへ行くのか、はっきり自覚していたことは断言できる。理由もあり目的もあり、それでいて反面に、昔とは変ってしまった、昔は足が向けば出向いて行くのが当り前で理由や目的のある方がおかしかったと思い較べ、今は僕が内面的に腐敗したことを、澱《よど》んだ腐れ水のような倦怠《けんたい》を彼女のところにぶちまけに行っても、それで僕自身の魂の傷が癒《いや》される筈もないことを、予《あらかじ》め承知していなかったとは言えない。だから足は例によって(一種の衝動を感じれば無意識に足が僕を運んでくれる習慣、それは長い時間の間にいつか本能のように僕に沁《し》みついていたから)僕を彼女の家に運んで行ったけれども、さて彼女の寂しそうな眼許《めもと》、それも玄関であんなに嬉《うれ》しそうに若々しい声で出迎えてくれた表情が、急に老《ふ》けこんだように翳《かげ》ってしまったために、一層近づきにくい寂しさ、つまり娘を嫁にやった母親の一般的表情という奴《やつ》に変貌《へんぼう》したのを眺《なが》めているうちに、僕はふと時間を錯覚し、この日頃の、女房と重苦しい口喧嘩《くちげんか》を続けている無能な亭主としての自分ではない僕、独身時代の、どんな可能性でも持ち、その可能性を少しずつすり減らしながらそれと気がついていなかった頃の、おめでたい僕にもう一度なれるような気がして来るのだ。彼女の口にするのは娘のことばかりで、まるで帰っては来ないしこっちから訪《たず》ねて行くのもとても厭がるという愚痴から始まり、先方の良人《おつと》、両親、妹たち、親戚《しんせき》などの蜘蛛《くも》の巣のように張りめぐらされた関係の中で、古びた因襲と格式と見栄《みえ》との中で、誰にも(母親にも)告げようとしないで|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いている娘の気持を、同情と想像とをまじえながら話しているのを聞いていると、幾ちゃん、苦しんでいるのはあなたじゃないんだよ、とつい僕の口が勝手なことを言いそうになり、それから相手の寂しさと僕自身の倦怠とを思い合せて、同じ麻ちゃんのことでどうして別々の悲しさを感じるのだろうと不思議な気さえして来るのだ。しかし僕が黙ったまま、聞くというよりもただ合槌《あいづち》を打ちながら、馬鹿な女だ、馬鹿な女だ、と呪文《じゆもん》のように心に呟《つぶや》くうちに、彼女がますます娘の代弁者のように見え、遂《つい》にはそこにいるのが幾ちゃんではなく麻ちゃんであるように見えて来るから、
「僕もそんなことはよく知っている。それでちょっとお願いに来たんです。でなきゃ来やしない、」と言った。
「どうして御存じ?」
「手紙が来るんですよ、麻ちゃんから。だいたい麻ちゃんが結婚する時に、僕はあれほどよせと言って、そんなことを言う資格なんかないとやられて絶交した筈じゃないんですかね。あなただって知ってる筈だ。それなのに、今あなたの言ったようなことを彼女が手紙に書いてよこすから、それが女房にばれちまって、僕のところ大変なんですよ。大いに家庭の平和が乱されている。やめてほしいんだ。」
それから僕は、女房の性格や態度や我が家の経済状態や僕の仕事や、つまり洗いざらい僕の目下の平静ならざる精神状態を語り、女房が他の女なら何とも感じないのに、こと麻ちゃんとなれば猛烈な、理由のない嫉妬をすることを力説したが、彼女(幾ちゃん)は少し色の褪《さ》めた顔でいちいち頷《うなず》きながら聞いているので、てっきり僕の境遇に同情しているものと思い、自分の声が愚痴っぽくなって来たことを感じていると、
「あなたにはそんなこと言えないんじゃないの?」とゆっくりと彼女が訊《き》き直した。
「なぜ?」
「女というものは、誰しも理由のない嫉妬をすることがあります。けれども、あなたについては理由があるのよ。当然でしょう、あなたはあの子を愛しているんだもの。」
「僕が?」
「そうよ、あなたよ。あの子が結婚する時に、わたし達は長い間お附合したお友達としてあなたに相談したら、あなたは頭からはねつけて、憤慨したあげくに絶交だとおっしゃった。なぜなの? それから本当に一度もうちへはいらっしゃらなかった。わたしに会いに来ることさえなさらなかった。あなたは麻子を愛していたから、あの子がお嫁に行ったらわたしまで憎くなったのでしょう、違うかしら? それまでは幾ちゃんと麻ちゃんだった。幾ちゃんの方がずっと長くあなたと附き合っているのよ。それなのに麻子が結婚したら、幾ちゃんという者まであなたの眼から見えなくなってしまった。それはあなたがどんなにか麻子を愛していた証拠じゃなくて?」
彼女の少し嗄《しやが》れたような優しい声が、今は少しも咎《とが》めるといった感じではなく、年下の友達に教えるといったふうに話すのを聞いているうちに、確かにその通りで僕は麻ちゃんが結婚してからやけになっているのだと思い、麻ちゃんを他人と結婚させるようにした何かが自分にあったことを、はっきりと分らないながらも探り出したいと思い、自分の心の底に錨《いかり》のようにずんずん沈んで行くのを感じていたが、彼女はとどめを刺すように、
「わたしは昔から知っていたのよ、」と少しばかりの微笑を浮べて言った。
「それじゃ麻ちゃんが?」
「あの子は決して言いやしない。あなたはうちに来れば、わたしたち二人の共通のお友達だった。けれども表で会う時には、麻子だけの恋人だった。そうじゃなかったかしら? プラトニックな恋人、でしょう? わたしがそれを知っているのは、……」
母親だからだ、と僕は思った。
ソレハ幾チャンガ僕ヲ愛シテイタカラダト、ナゼ思ワナカッタカ。愛シテイル女ノ嫉妬カラダト、ナゼ思ワナカッタカ。
結婚ニヨッテ二人ノ人間ガ堕落スルノハ、真ニ二人ノ共有スルモノガ、空《ムナ》シイ幻影ニスギナイカラダ。例《タト》エバ嫉妬、一人ガ一人ニ持ツ実体ヨリモ大キナ愛ノ幻影。例エバ快楽、一人ガ一人ズツ相手ヲ媒介トシテ想像スル性ノ幻影。ソシテ愛トカ理解トカ性トカ経済生活トカノ上ニ、最モ大キナ家庭トイウ蜃気楼《シンキロウ》ガ聳《ソビ》エテイルノダ。
シカシ人ハミナ幻影ヲ求メル。僕モ、麻チャンモ、シカモ別々ニ。僕ハ僕ノ家庭ヲ尊重シ、女房ト喧嘩スルコトヲ恐レ、自分ガ腐敗シテ行クノニ任セル。麻チャンハ母親ニモ告ゲズ、自分ノ苦シミヲ自分ヒトリデ耐エル。ソレナノニナゼ、僕ニ手紙ヲ出シ、ワタシ苦シイト言イ、僕マデモ苦シメルノカ。ソレガ愛カ。愛トハ、ドウニモナラナイコトヲ後ニナッテジタバタスルコトカ。愛トハ後悔ナノカ。
僕の中には仕事という幻影があり、もう一度昔のようにとにかく手いっぱいの絵を描いてみたい、女房は名前だけは売れるようになったがあんなものは絵じゃないという気があって、そこでつい夕方から、何かしら気分を晴らす口実に表に飛び出すようになり、何時のまにか、麻ちゃんと外で会う習慣が出来てしまった。といっても彼女の勤め先に電話を掛け、一緒に食事をしたあとでせめて映画を見るくらいのもので、そのあと僕はひとりで酒を飲み、或いは飲み仲間と下らない議論をして、次第に堕落したのだが、奇妙に麻ちゃんとの短いあいびきが僕を倦怠から、というより下降して行く魂の傾斜から、ふせぎとめていたような気がする。つまりそれは二人だけの秘密で、彼女は幾ちゃんに対してさえも決して告げようとはせず、そのことは彼女が一人前の女性になったことの証拠だと自分で思っているせいだ、と僕は解釈していたが、僕が例えば日曜日などに昼まから彼女の家を訪ねて、母親と娘とを相手につまらない冗談《じようだん》なぞを言い、「麻ちゃん、ジェニファ・ジョーンズの映画見たかい?」「ええ、あたし会社のお友達と見たわ、」などというたちの悪い会話を彼女の母親の前で交《かわ》して、「わたしもそれ見たい、」と言うのに、「幾ちゃんには面白くないわ、若い人むきの映画よ、」と娘が生意気な口を利《き》くのを、僕も合槌《あいづち》を打ちながら聞いていたものだ。共犯者であることが、愛というよりも遊戯のような気持を起させ、あいびきをしても幼稚園や小学校の生徒の頃から知っている相手ではまるで肉体的欲望と結びつかず(と自分に言い聞かせながら)、ただ秘密だけが、「麻ちゃん大丈夫かい、ばれないかい?」とひそひそ声で習慣のように尋ねることだけが、恋愛めかしい空気をつくっていた。僕には女房を裏切る気持はなかったし、彼女は小さい時から母と子との二人きりの生活を送って、幾ちゃん(と僕の呼ぶのを何時のまにか真似《まね》して呼んでいたその母親)を愛していたから、そして年齢からいっても僕と彼女とはどうにもならないほど離れて彼女はやっと成年、僕は分別盛りの「我等が生の半ば」というところだったから、もしも彼女が急にお嫁に行くかもしれないと言い出さなかったならば、僕も自分の中の奥深く隠された気持に気がつかなかったかもしれない。
玄関のベルを鳴らしても、返事も、またそれが中で鳴っている音も聞えて来なかったから、二三度声を出して呼び、それから裏口の方へ廻ってみるとそこには錠が掛っていなかった。そこからはいって大声を出すと、お勝手の電燈が点《つ》き、びっくりしたような顔で幾ちゃんが顔を出した。彼女は慌《あわ》てて詫《わび》を言い、ベルが故障したとか、裏の戸を閉め忘れたのは麻ちゃんの責任だとか、そして僕の方でも、「泥棒でもはいったんじゃないかと心配した、」などと冗談を言って、さて茶の間に通ると、不機嫌《ふきげん》そうに眼を起しただけの麻ちゃんを見、幾ちゃんの方も困ったような落ちつかない表情を浮べているのに気がついたので、
「どうかしたの、二人とも?」と訊いた。
「あたしお嫁に行こうと思うのよ、」と麻ちゃんが眉《まゆ》も動かさず答えた。
僕はあっと驚き、それでもにやにやしながら「年頃だものね、」と呟いたが、幾ちゃんが今度は夢中になって娘の代りにその縁談について話し始めた。麻ちゃんの会社の重役が間に立ってその友人の息子《むすこ》に世話しようという話、それも向うの家柄とか財産とか家族関係とか、話がすこぶる微細に渡るので、今まで表でこっそり麻ちゃんと会っていても、またここへ来て幾ちゃんと世間話をしていても、ついぞこんなことは聞かされたこともないのに、何時のまに話が進行していたのだろうと心外にも思えば口惜《くや》しくもなって、
「幾ちゃんはどうなの? 嫁にやってもいいんですか? あなた一人きりになってしまうじゃないか。」
「お母さんはそしたら再婚すればいいのよ。」
「わたしなんかもう駄目よ。それよりこの話、わたしさっぱり気が進まないんだけど。」
応援を求めるように僕を見た幾ちゃんの、睫毛《まつげ》の長い、憂わしげな表情を、この人はどうして今まで再婚しなかったのだろうと改めて考え、客観的美人という点では幾ちゃんの方が上だとも考え、それから自分の思考がばらばらになって行くような気がして、やたらにこの結婚に反対を称《とな》え始めた。早すぎる。お母さんが可哀《かわい》そうだと思わないのか、どんな男だかよく知らないんだろう、財産なんぞ問題じゃないさ、家族が多すぎる、大学出の少壮実業家と高校卒の女事務員か、何も知らない癖に。
「でもこれはあたしの問題なのよ。幾ちゃんにもあなたにも関係のないことだわ。特にあなたになんか、何にも関係はないわ。」
「結婚なんて、そんな結婚なんて、強盗にはいられて洗いざらい持って行かれるのと同じだよ。強盗に身を任せるのと同じじゃないか。」
「でもあたしが選ぶのよ、あたしの方でその決心をしてお嫁に行くのよ。強盗なんて。なんでそんなひどいことを言い出したの?」
そして麻ちゃんはわっと泣き出した。
ソレハ夢ダッタノカ妄想《モウソウ》ダッタノカ、僕ハ知ラナイ。シカシソレハ僕ノ中ノ秘密ノ夜ダ。何処《ドコ》カラ、ドンナ理由デ、ソンナ忌ワシイ夜ガ生レテ来タノカ。……僕ハ玄関ノベルヲ鳴ラシタ。誰モ出テ来ナカッタカラ、僕ハ裏口ヘ廻リ、錠ノ掛ッテイナイ勝手口カラ中ヘハイリ、マタ声ヲ出シテ呼ビ、ソレカラ茶ノ間ヘ行ッテミタ。ソシテ見タノダ、眼ノクラメクヨウナ驚キノ中デ、部屋ノ中央ニ麻チャンガ両手ヲ後ロ手ニ縛ラレ、手拭《テヌグイ》ノ猿轡《サルグツワ》ヲハメラレ、横ニナッテ倒レテイルノヲ、箪笥《タンス》ノ前ニ、幾チャンガヤハリ自由ヲ奪ワレテ、前屈《マエカガ》ミニナッテ|※[#「足+宛」、unicode8e20]《モガ》イテイルノヲ。幾チャンハ顔ヲ起シ、眼ヲ大キク見開イテ僕ヲ見詰メ、声ニナラナイ声ヲ洩ラスガ、麻チャンノ方ハグッタリト倒レタママ身動キモシナイ。ドチラヲ先ニ助ケレバイイノカ。反射的ニ麻チャンノ身体《カラダ》ニ手ヲ掛ケタノハ、彼女ガ気絶シテイルカラ先ニ介抱シナケレバイケナイト考エタカラカ。僕ハ麻チャンノ手ヲ縛ッタ扱帯《シゴキ》ヲホドキ、猿轡ヲ外《ハズ》シ、急イデオ勝手カラコップニ水ヲ持ッテ来テ、ソノ口ニ含マセタ、ソレヲ幾チャンハ熱ッポイ、燃エルヨウナ眼デ、早クワタシモ、ワタシモホドイテ、ト言イタゲニ見守ッテイルガ、無益ナ努力ノタメニ彼女ノ着物ノ裾《スソ》ハハダケ、驚クホド白イツヤヤカナ脚《アシ》ガ、隠ソウトスレバスルホドアラワニナリ、今ハ太腿《フトモモ》ノアタリマデガ見エル。麻チャンハ正気ニ復《カエ》リ、僕ニシガミツキ、泣キ出シ、ソレカラフト幾チャンガマダ箪笥ノ前ニ縛ラレタママ、惨メナ恰好《カツコウ》ヲシテ呻イテイルノヲ見ル。麻チャンハ助ケニ行コウトシテ立チ上リカケルガ、僕ノ腕ニ引キ止メラレテ力ナク悶エ、不思議ソウニ、彼女ノ身体ヲ抑エツケテイル僕ヲ、僕ノコワバッタ顔ヲ見守ル。僕ノ見テイルノハ、縛ラレタママノ、恥ズカシサニシドケナク悶エテイル幾チャンノ姿態ダ。シカシ麻チャンハ、僕ガ彼女ニ欲望ヲ感ジテイルト思イ、腕ノ中カラ逃《ノガ》レヨウトシテ、恐怖ノ叫ビヲアゲナガラ悶エ始メル。
ソコカラ悪夢ガ一層無残ニ脚色サレル。最早《モハヤ》僕ノ見ル者ハ、傍観者トシテノ僕デハナク行為者トシテノ男ダ。ソノ兇悪《キヨウアク》ナ、獣ノヨウナ男ダ。(シカシオ前ハ決シテ獣ニハナレナイダロウ、無益ナ夜ノ他ニハ。)男ハ二人ノ女ヲ縛リアゲル。彼ハ全能者ダ、彼ハドンナ(善意ノ)意志ニモ従ウ必要ハナク、ドンナ他人ノ意志ヲモ蹂躙《ジユウリン》スルコトガ出来ル。ソコデ彼ハドチラノ女ニ手ヲ出スダロウ。二人トモカ。トスレバドチラニ先ニ手ヲ出スダロウ。夢ノ中ノ論理ハ、モシソレガ僕ナラバ、麻チャンヲ犠牲ニ選ブコトヲ命ジル。僕ハ再ビ僕ヲ、行為者トシテノ僕ヲ見ル。麻チャンノ若々シイ肉体ガ虐《シイタ》ゲラレテ呻ク。シカシソノ間ニ、僕ガ焼ケツクヨウナ情感ヲ以テ吸イツケラレテイルノハ、ソノ肉体デハナク、一瞬モ離サズ見詰メテイル幾チャンノナマメカシイ縛ラレタ身体ナノダ。片肩ヲアラワニサレテコボレソウニナッタ乳房《チブサ》ヤ、ソコダケハ自由ニノタウチ廻ル二本ノ白イ脚ヤ、頬ノ上ニ乱レ落チタ髪ヤ、恐怖ニ見開カレタ眼。シカモ僕ハ決シテ彼女ニ触レヨウトシナイデ、彼女ノ娘ヲ苛《イジ》メルコトニヨッテ、一層彼女ノ身悶エスル姿態ヲ眼ノ鞭《ムチ》デ打チ続ケル……。
コノ孤独ナ夜ハ何処カラ来タノカ。麻チャンガ結婚スルノハ、幾チャンヲモ一種ノ犠牲ニ供エルトイウコトカ。ソレトモ僕ノ復讐《フクシユウ》ナノカ。何ニ対スル復讐ナノカ。隠サレタ欲望ガ復讐ヲ求メルトイウノハ何故《ナゼ》カ。
麻ちゃんがどうしても嫁に行くというその理由が、僕に納得されないままに、たまに(というのは彼女の方がそんなには会えないという口実を直に持ち出すので)二人きりで話の出来る機会があっても、気まずい沈黙と、ちぐはぐな思考と、そっけない別れとが、接吻《せつぷん》ひとつ交《かわ》さないこの奇妙な恋人どうしの間では普通のことだったが、結婚式の日取もきまり、殆《ほとん》ど最後的なあいびきの晩に、僕がそれではもう絶交だと言い出したことから、二人は決定的に破裂した。
「あなたに何の権利があるの?」と麻ちゃんは唇《くちびる》に濡《ぬ》れた口紅の光沢のみが異様に目立つほどの蒼《あお》ざめた表情になって、僕に食ってかかった。「なぜあたしがあなたの言うことを聞いて、この縁談を止《や》めなければならないの? あなたとは関係がないって、前にも言ったじゃないの。それはあなたに言われなくても、あたしその人をちっとも好きじゃない。けれどもあたしの意志がそれを選ぶんだから、勝手にさせて頂戴《ちようだい》。あなたが絶交すると言ってもあたしは厭《いや》よ。」
「権利があるかないかは知らないよ。しかし愛していれば、僕が君を愛していれば、……ね、そんなこと分っている筈じゃないか?」
シカシハッキリト愛シテイルト言ッタコトハ、一度モナカッタノダ。一時ノ興奮デ口ニシタノカ、ナゼ今マデソレヲ口ニシナカッタノカ、誰ニ憚《ハバカ》ッタノカ、女房ニカ、ソシテ今モウ遅スギルト分ッタカラ、ソレデ言イ出シタノカ。
「あなたはあたしなんか愛してはいない、」と平静な声で麻ちゃんは答えた。
愛トイウノハ、心ノ眼ニ見エナイトコロデ少シズツ少シズツ育ッテ行キ、何時《イツ》カ心ノ中ヲ一杯ニシ、ソコデ初メテ愛トシテ自覚サレ、自覚サレタ時ニハ心ノ全部ヲ押シ潰《ツブ》スホドノ重ミヲ持ッテシマウモノダ。
「あなたが愛しているのは、あたしの上に差しているお母さんの影よ、幾ちゃんに似ているあたしの部分よ。あなたはあたしとこっそり会う、けれども決して愛してるなんて言いやしない、あなたが見ているのは、本当のあたしじゃない、幾ちゃんの幻影、実体の方には手も触れられず、神聖な女神《めがみ》のように思って、あたしの上に幻影を追っているだけよ。大丈夫かい、ばれないかい? 秘密? 何が秘密なの、あなたが秘密を愉《たの》しんでいるのは、あなたが幾ちゃんを愛しているからで、あたしは唯《ただ》の道具というだけのこと。それがあたしに分った。あたしはあたしの勝手にする。そこを間違えないで頂戴。あなたに奥さんがあって、それであたしの結婚の邪魔をするエゴイストだなんて、あたしあなたを責めやしない。あなたは奥さんなんか全然愛していないんだから、あたしも愛してない、何時でも幾ちゃんだけを愛している。あたしが憎いのは、幾ちゃんの、お母さんの、取り澄ました、あなたに対して姉さんぶった、そして臆病《おくびよう》な愛しかたよ、あなたの知らぬ振をした、友達ぶった、けれどやっぱり臆病な、プラトニックな愛しかたよ。あなたなんか嫌《きら》い、幾ちゃんなんて大嫌いよ。」
夢ノ中デ、僕ハイツモソノ道ヲ歩イテ行クノダ。何年モ昔カラ(戦争ノ前カラ)通イ馴《ナ》レタ道、ドンナ風景ヲモ知リ尽シ、季節ノドンナ変化デモ素早ク眼ニツク道、イツデモ期待ガアリ、幾チャンハ僕ノ肩ノ上ニ軽ク手ヲ置クダロウ、麻チャンハ僕ノ手ニシガミツイテ来ルダロウト考エナガラ歩イテ行クウチニ、ハット気ガツク、モウ麻チャンハイナイ、嫁ニ行ッテシマッタ、幾チャントモ絶交シテシマッタ、アソコハモウ僕トハ関係ノナイ単ナル場所トイウニスギナイコトヲ。麻チャンノ会社ニ電話ヲ掛ケルコトモナケレバ、夜疲レテソノ家ニオ喋《シヤベ》リシニ出掛ケテ行クコトモナイ。ソシテ僕ハ道ヲ逆戻リシ、悲シミガ胸イッパイニ広ガルノヲ感ジ、君ハ知ラナイト言ッタガ僕ハ君ヲ愛シテイタンダヨ、ト呟《ツブヤ》ク。シカシ誰モ答エナイノダ。オ気ノ毒ニ、ト言ッテ幾チャンガ僕ノ肩ニ手ヲ置クコトサエモナイノダ。ソシテ眼ガ覚メテ、自分ガ夢ヲ見タコトヲ知リ、側《ソバ》デ女房ガスヤスヤト寝息ヲ立テテイル間ニ、暗闇《クラヤミ》ノ中デ大キク眼ヲ見開イタママ、何時マデモ寝ツカレズニ無益ナ想イニ耽《フケ》ッテイルノダ。
しかし僕が結婚すると告げた時の彼女の反応の方はどうだったのか。
「よかったわ、本当におめでとう。あなたも早く身を固めた方がいいのよ、」と幾ちゃんは言った。
「そのかた、例のあなたのお弟子《でし》さんね。いつかあたしたち、銀座の喫茶店で一度会ったことのある? あなたがあんな人と結婚するなんて思いもよらなかったわ、」と麻ちゃんは言った。(こましゃくれた女学生め。)
「まだきめたわけじゃない。しかしあの人には才能があるし、きっと伸びて行くと思うんだ。僕も結婚して家庭を持った方が、二人の才能をそれぞれ育てて行けるような気がするものだから。」
「結婚なんて、才能なんかと関係ないと思うわ。あなたに必要なのは、優しい、世話女房型の、姉さんみたいに気のつく人よ、つまりうちのお母さんみたいな人、それはあのかたはちょっとばかしうちのお母さんに似ている、そと見には冷たそうな、どこか暗い、ロマンチックな翳《かげ》のある人、ところがうちのお母さんは本当は暖かな心を持ち、引っ込み思案だからびくびくして冷たそうに見えるだけ、あのかたは、それは才能があるかもしれないけど、しんから冷たくてお高い人、まるで違う。よしなさい、そんな結婚。」
「麻ちゃんもなかなか言うようになったね。」
「だってあなたが好きだもの。だいたいあなたはスランプで、自分の才能を投げてかかっているのよ、目新しいものばかり眼について、お弟子さんがちょっと変った絵でも描けば、自分なんか天才じゃないと思い込む、けれど大事なのは才能なんかじゃなくて、あなたという人よ、あなたを本当に分っているかどうかということよ、ねえお母さん?」
幾ちゃんは黙ったまま少し微笑した。確かにその微笑のしかたは、僕の結婚しようとする相手に似ていた。しかしもっとずっと静かに、秘密のように。
「お母さんみたいな素敵な人はいないな。あたしお母さんみたいになりたい、」とすっかり脱線して麻ちゃんがはずんだ声で言った。
「よかったわ、おめでたいわ、」と幾ちゃんは繰返した。
ソレハドンナ打撃デモナカッタ。ラジオノニュースノヨウニ、二人ノ耳ヲ通リ過ギタ。麻チャンミタイナ女学生ニハ何デモ文句ヲツケルタネニナルノダシ、幾チャンハ取リ澄マシテオメデトウヲ言ウダケデ、格別ノ感想モ述ベナカッタ。僕ノ予期シタ通リダ。僕ノ人生ヲ設計スル者ハ僕ダ。才能カ。僕ノ才能ガコノ結婚デ伸ビルカドウカハ、僕ダケノ責任ダ。
シカシ、僕ガ結婚スル理由ハ僕自身ニモヨク分ラナイノダ。アノ女ヲ愛シテイルカラカ、三十ニモナレバ平和ナ家庭トイウ奴《ヤツ》ガ誰シモホシクナルカラカ、仕事ニ転機ヲ求メタイカラカ。ソノドレデデモアルダロウ。シカシ決シテコレハ復讐デハナイ。無力ナ自分ヘノ復讐、ソシテ女神ヘノ復讐。イナ、決シテソンナモノデアル筈ガナイ。
殆ど風らしい風もない午後、晩春の暖かな日射《ひざし》がその光線の重みを投げかけて、藤の花房が眼に見えぬかすかさで揺れると共に、優しい匂《にお》いが藤棚《ふじだな》から降り注ぎ、その廻り一面の空気に一種の催眠的な効果をひき起しては広がって行く、その藤棚のあるヴェランダの椅子の上で、いつもここへ来る度《たび》に感じる何とも言えない気安さ、物静かなけだるさを感じながら、僕は向うの芝生《しばふ》の上でひとり大人しくままごと遊びをしている小さな麻ちゃんを見守り、こうした平和な幸福感が何時までも(まるで戦争なんてものはもう決して地上では起らないかのように)続くことを疑わなかった。僕は美術学校の制服を着て椅子の上にかしこまり、時々芝生の方から隣の椅子へと眼を移し、そこにもけだるそうな微笑を浮べて、この若い奥さん、というよりも何時からか僕が友達のように幾ちゃんと呼んでいる未亡人が、しかし未亡人と呼ばれる運命になったことでもう否応《いやおう》なしに一種の憂わしげな翳を刻み込まれてしまった眼で、やはりじっと子供のひとり遊びを見守っているのを、陶酔に似たやはり同じ幸福感の中に見ていた。
「幾ちゃんのそういう横顔、僕いつか絵に描きたいな、」と僕は呟いた。
「わたしなんか駄目よ、もっと素敵な人をお描きなさい。」
「どうして? 他に素敵な人なんかいるものか。あなたのその顔、その眼、うっとりした、夢みるような。」
「いや、そういうこと言うの。」
「口に出して言うとどうしてこんなに月並なんだろう。やっぱり絵で描かなくちゃ、絵でなら幾ちゃんのその感じ、女神のような感じが……。」
「いけないわ、もうゆるして。あなたそんなつまらないこと言いにうちにいらっしゃっては厭《いや》よ。女神だなんて。」
「御免。それじゃ波の泡《あわ》から生れたアフロディテエのような……。」
「やっぱし女神でしょう、それ。本当にもうゆるしてね。」
「でも僕、真剣なんだ。」
「二度とそんなことおっしゃっては厭。」
そして咲き誇った藤の匂いが一層濃くなり、その花房が一斉に頷《うなず》くように垂《た》れ、その薄い紫色の花片《はなびら》という花片がものうい青空の平べったい色調の中に溶けて行くのを感じながら、僕が自分の真剣であることを心の中で誓い直している間に、幾ちゃんは椅子から立ち上り、ゆっくりと芝生の方に歩いて行くと、
「来て、ママ、二人とも来てお客さまになって、」と麻ちゃんが叫ぶ。
そこで僕も立ち上り、その芝生の上まで行くと、ごろんと横になってしまった。
「駄目よ、起きなくちゃ。お客さま、よくいらっしゃいました。こちら奥さまでございますか、よくいらっしゃいました。」
ソレハ未来ニ於テ完成スル絵ダ。ソノ絵ノ中ニハ時間ガナイ。不安モナク影モナイ。僕自身ノ感ジル幸福ノ中デ、ソノ肖像ハ、ソノ切長ノ眼、ソノ少シ開イタ唇《クチビル》、ソノヤサシイ頬カラ頤《アゴ》ニカケテノフクラミハ、永遠ノ時間ノ中ニ定着サレルダロウ。悲シゲナ表情モ消エ、ウットリト、明ルク。女神万歳。僕ハタダ待テバイイノダ。
「はいお客さま、はい奥さま。」
僕は麻ちゃんから小さなブリキの食器を渡され、摘んだ芝草のはいっているそのきらきら光る食器を手に持たされたまま、若い母親を見詰めていたが、子供相手にお行儀よく芝生の上に坐って、暖かい日射を浴びて、おだやかな微笑を浮べながら叮嚀《ていねい》にお辞儀を返している幾ちゃんの横顔が、その時、僕の眼にそのまま一つの絵のようだった。
ソシテ……。
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[#小見出し] 未来都市
1 自殺酒場
僕はそれが何時《いつ》だったのか、また何処《どこ》だったのか、今はもう正確に思い出すことが出来ない。特に、それが何処だったのか、もう僕の記憶では探り出せない。僕の記憶が衰えたのは、そこへ行った時の僕の体験があまりに異常で生ま生ましかったため、細部が確実な印象として残った代りに、周囲の事情が反対に強烈な光線に眼をくらまされて、忘却の中に沈んでしまったからかもしれない。
それに僕は画家だったから多くの旅をした。旅をしたような気がする。そういう点でも、僕の記憶は実に僕に対してそらぞらしいのだ。時々ふっと異国の風景や人の声や馴《な》れない部屋での生活の匂《におい》のようなものが甦《よみがえ》る。しかし、それはほんの暫《しばら》くの放心状態の間だけ続き、次の瞬間にはさっぱりと、頭もなく尻尾《しつぽ》もなく、消えて行ってしまう。僕は喪《うしな》われた記憶に対して、どんなにか口惜しく、後ろ髪を引かれるような気持になる。それはみんな僕の奇妙な体験、そこばかりが太陽のように光り輝いている記憶のせいなのだ。
さて、それは僕の旅の間の出来事だった。僕はその時、たしかヨーロッパの大きな都会にいたような気がする。しかしそれが、パリだったのかローマだったのか、それともロンドンだったのか、それがはっきりしない。もっと小さな都会だったのかもしれぬ。僕は無国籍者のように、あっちこっちを放浪した。僕は|いた《ヽヽ》と言ったが、それはそこに住んでいたということだ。暫くそこに住んで、僕は他の場所にいた時と同じように絶望していた。僕がそうした過去の記憶を殆《ほとん》ど思い出せないのも、僕にはいつも生きようというはっきりした信念もなく、小手先の絵を描きながら、自分の頭脳の内部に閉じこもって、この無意味な、宿命的な、「生」という奴《やつ》と、隠れんぼ遊びのように戯れていたせいかもしれない。「生」が隠れていれば、顔を出すのは「死」だ。どうやら僕は、いつもいつも死に憑《つ》かれて、都会から都会へと放浪していたのかもしれない。
こんな前置きはどうでもいいのだ。要するに或る晩、僕はひどく参った気持で、薄汚《うすぎたな》い盛り場を歩いていた。まったくこうして歩いている自分も惨《みじ》めだったし、行き交《か》う連中もみんな惨めに見えた。陽気にお喋《しやべ》りをして行く若者たちも、物欲しげに街燈の蔭《かげ》に立っている女も、実直そうな会社員も、じだらくな恰好《かつこう》をした遊び人も、みんな生きることの愚劣さを仮面の下に隠していた。僕はやりきれない気持になり、どこかで一杯引っかけようと思い、細い横通りの、とある酒場の前で足をとめた。その時、僕は小さな木製の扉の上に、豆電球が次の文字を綴《つづ》っているのを読んだ。
[#本文より1段階大きな文字] BAR SUICIDE
つまり「自殺酒場」だ。僕がぎょっとして眼を疑ったのも無理はないだろう。その名前はあまりにも奇抜だった。しかし次の瞬間、僕は吸い込まれるようにそのドアを押していた。
中はごく狭くて、薄暗い照明の中に煙草の煙が立ちこめ、場末の安酒場によく見る通りの、不潔な、湿った空気を漂わせていた。客が三四人、とまり木の上に居眠りをしている鳥のように翼を休めていた。僕は端の方の空《あ》いた椅子に自分もよじ登ると、強い酒を注文した。そしてバアテンの顔を見、横にいる客たちの顔を見廻した。
バアテンは相当の年輩の禿頭《はげあたま》の親父《おやじ》で、普通はバアテンという奴はすらりと痩《や》せて、きびきびした動作を見せているものだが、彼はゆっくり、というよりのろのろと動いた。その顔はふくれ上ったボールのようで、無表情な糸のような眼が、どこを見るともなく開かれていた。しかし生気がなかったわけではない。眼を客たちの方に移すと、彼等はすっかり疲れきって酒という人工楽園の中に現世の憂苦を忘れているように見えたが、バアテンの方は生き生きと、それも客たちを催眠術に掛けて眠らせるとんでもないペテン師のように、底深い思慮を隠しているかに見えた。しかしそんなことはどうでもいい。僕は強い酒を一息に傾け、それによって忘却を買い取ろうとした。しかしこのバアテンが、僕の前に、無言で、どこを見るともない眼つきで僕を睨《にら》んでいるような気がして来ると、この沈黙が――というのは客たちは思い思いに瞑想《めいそう》に沈んでいたから――我慢がならなくなって来た。何も「自殺酒場」だからといって、深刻ぶる必要はないだろう。死にたい奴はさっさと死ねばいい。僕の知ったことじゃない。とにかく僕はまだ生きている……。
――しかし君は死にたいのだろう?
急にそう声を掛けられて、僕は巌《いわ》のように自分の前に立っているバアテンが口を利《き》いたのかと思った。しかし口を利いたのは、僕の左隣の、それまで顔を俯向《うつむ》けてグラスの上に屈《かが》み込んでいた客だった。顔を起したのを見ると、それはごく平凡な、眼に狡《ずる》そうな素早い影の動く、身なりのいい若い男で、いきなり早口に喋り出した。
――みんな死にたい奴ばかりだ。どうして近頃はこう死にたい奴が多くなったのか。そういう己《おれ》だって、何も生きているのが面白いわけじゃない。実に退屈きわまりない。ただ自殺するには何かしら動機が必要だし、その動機が己にはまだ見つからないんだ。
――僕には動機はたくさんある、ただ死ぬだけの決心がつかないんです。
そう言った声は、もっと若くて、如何《いか》にも弱々しかった。それは更に左隣にいた客で、見たところまだ学生のようだった。細い声であとを続けた。
――しかし動機なんて、何の役にも立ちませんよ。現代は死ぬための動機に充満しているんです、そういう時代なんです。問題は、生きるための動機を見つけ出すことで、死ぬための動機じゃありません。
――生きるための動機なんかあるものか、と最初の男が怒鳴った。我々は生きてるんじゃない、生き|させられて《ヽヽヽヽヽ》いるんだ。だから死ぬ権利だってある筈《はず》だ。
その声は随分大きく、酒場の中に響き渡ったが、僕の前に黙々と立っているバアテンは顔の筋一つ動かさなかった。それから僕の右隣にいた客も、居眠りしているのか瞑想に耽《ふけ》っているのか、これまたぴくりとも動かなかった。
――そういう偉そうなことを言うものじゃない。
声を出したのは、今まで話し合っていた僕の左側の二人の、更に左手にいる赤ら顔の男だった。
――自殺するだけの動機もないのに、何が死ぬ権利だ。だいたい動機がないというのが不思議だ。この学生さんの言う通り、己たちには死ぬための動機はいやというほどある。お前さんはきっと、酒や女を弄《もてあそ》ぶように論理を弄ぶことの好きな金利生活者《ランチエ》なんだろう。我々働く者の気持なんか分る筈がない。
――働く者? 生きる者と言ってもらいたいね。すべて生きる者は生きることに飽きているのだ。何という人生だ。ねえ君?
そう言って最初の男は、また僕に呼び掛けた。
――僕か。僕にとって人生とは悔恨だ。この世は不安と後悔と失望とに充《み》ち満ちている。しかし死んでしまえば、もうその悔恨さえないのだからな。
――何とかして生きた方がいいんです、と学生が呻《うめ》くように言った。
口に含んだ酒が苦くなった。生きた方がいいだろう、それだから今日まで生きて来たのだろう。僕の中の忌わしい、絶望的な、暗い過去がふくれ上った。死んだ女、別れた女、取り返しのつかないもの、過ぎ去ったもの。生きることへの不満と拒否。こうやって、強い酒が咽喉元《のどもと》を通って行く時だけが、眩暈《げんうん》のように生きているのだ……。
その時だった。塑像のようにじっと僕等の前に立っていたバアテンが、初めて重々しく口を開いた。それは幾分|嗄《しやが》れた、深い地の底から轟《とどろ》いて来るような声だった。
――死にたければ、特別のカクテルをつくりますよ。
僕等は一斉に首を起したに違いない。が、真丸くふくらんだその顔には感情らしいものはつゆほども現れていず、本気なのか冗談《じようだん》なのかさっぱり分らなかった。僕等四人は、急に身近かな気持になって、互いに顔を見合せた。しかしその時でも、僕の右隣の男だけは動かなかった。
――しかしこのカクテルは特別上等だから、私の言う条件を満足させる人でなければ差上げられませんよ。私はメフィストでも悪魔でもないのだから、魂を売れとか影をよこせとかは言いません。ただ、あとで私が迷惑するんじゃ困りますからね。
――どんな条件なのだ? とさっき金利生活者と呼ばれた男が、せっかちに訊《き》いた。
――第一に、係累のない人に限ります。精神的にも肉体的にも孤独な人。私は善良な人間ですから(そう言った時、この男の表情に初めてかすかな微笑のようなものが浮んだ)そのために誰かが泣くようなことがあっては困ります。
僕以外の三人はた易《やす》く頷《うなず》いた。僕一人がとまどっていた。誰が僕のために泣くだろう、ローザか?
――第二に、とバアテンは言葉を続けた。忌わしい、思い出すのもぞっとするような過去を持っている人に限ります。抹殺《まつさつ》しても少しも惜しくないような人生を送った人。
僕は頷いた。それはまさに僕だ。この人生に何の意義があったのか。孤独に押し潰《つぶ》され、愛することにさえ希望を見失った僕。
――第三に、何よりもまず決意です、勇気、未知へ一足踏み込むその勇気のある人に限ります。
――勇気か、と学生が呻いた。
――勇気ですよ。死が終りとは限っていない、それはひょっとしたら初めかもしれないでしょう。それは虚無でなくて希望かもしれませんよ。どっちにしたって勇気さえあればね。
――虚無しかないことは分っている、と金利生活者が叫んだ。
――お前さんのような人間にはそうさ、と赤ら顔の労働者が反対した。お前さんは頭の中で、虚無とか絶望とか、埒《らち》もない観念を弄んでいるのだ。己たちには、死ぬことが一つの希望かもしれないのだ。
――初めということはありませんよ、と学生が叫んだ。もしそれが初めだったら、この人生のあとにまた人生があるだけじゃありませんか。
――現実に絶望した人間が、希望を信じて死ぬというのは矛盾だ、と金利生活者が言った。
――死は希望だっていい筈だ、その方が勇気を持てるのなら、と労働者が叫んだ。
――君は論理を辿《たど》ることが出来ない。君の頭はキャベツ同然だ。
――お前さんこそ思い上っているのだ。
そして彼等は口々に議論を始めたが、それは勇気という三番目の条件が彼等にとって一番の難物だったからだろう。その間に禿頭のバアテンはゆっくりとシェーカーを振り、その中身をグラスの中にあけた。僕はそれを見詰めていた。
――一つだけですよ、とバアテンは言った。
そのグラスの中には、きらきら光る液体が重たげに澱《よど》んでいた。急に沈黙が落ち、客たちの眼はすべてこのグラスに集中した。しかし敢て手を出す者はいなかった。バアテンは紙とペンとを出し、グラスの前に置いた。
――ここに一筆書いて、それから飲んで下さい。
その細く見開かれた眼は、どうやら僕を睨んでいるようだった。僕はもう一度彼の言った条件をおさらいしてみた。確かに僕は、第一、僕のために泣く者はいない、第二、悔恨に充ちた過去を持っている、第三、勇気もある、もしそれが勇気と呼べるならば。それに僕は考えることも出来ないほど疲れているのだ……。
僕は手を延してペンを取り、紙の上に、これは僕の意志だ、と書き、署名した。そしてグラスを掴《つか》んだ。バアテンの眼が僕の眼と会い、ふくれた顔の中の二つの穴に鈍い光が増した。
その時、初めて、僕の右側でそれまで眠ったように動かなかった男が、身を起し、横合から叫んだ。
――待て。
僕はその一瞬に彼を見た。善意に充ちた聡明な瞳《ひとみ》が力強く僕に語りかけていた。しかしもう遅い。僕はグラスを急いで口へ運んだ。その男が叫び、バアテンが叫び、他の客たちが一斉に立ち上った。酒場が揺れてぐるぐると廻り始め、僕は急激に落下するものの中に身を投げ込んでいた。
2 接近
僕の中に意識は尚《なお》も残っていた。僕は結局、あれを飲んだのだろうか、それとも飲まなかったのだろうか。その疑問が夜の霧の中に滲《にじ》み出る燈火のように、単調に繰返し浮び上った。そして夢のように、意識の面の上に、僕のよく知っている一つの顔が浮んだ。明るさの中にかすかな憂いを漂わせたその微笑。ローザ。僕は疲れきって彼女と話していた(昔も、そうやって話したのだ)。
――もう終りだよ。最初から終りなことは分っていたのだ。それを承知で僕たちの愛が始まったのだから、それは終るのが当り前だ。早いも遅いもないのだ。
――わたしは厭《いや》よ、どうして終らなければいけないの。わたしはあなたを愛しているし、あなただって……でしょう?
――それは僕も愛してはいるさ。しかしあなたには秩序というものがある。あなたはちゃんとした政治家の奥さんで、良人《おつと》を愛している、その属している世界も、あなたの家庭も、あなたの子供も、愛している。そして僕をも愛しているという。そんなものは愛じゃない、ただの飾りだ。
――いいえ、ひどいことをおっしゃる。それは違うのよ、一番大事なのはあなたなのよ。わたしの心の自由だけは、良人にだって子供にだって、手を触れられないのだもの。
――あなたは、この恋愛が初めから絶望的だったから、それで僕を愛したのだ。僕だってそうだ。あなたはあなたの秩序の中で、その何でも揃った、何不自由のない、立派な秩序の中で、僕を愛している。僕は僕の孤独の中で、この無一物の、救いのない、暗い孤独の中で、あなたを愛している。あなたはあなたの秩序を棄《す》てることは出来ないし、僕は僕の孤独を棄てることは出来ない……。
ローザは微笑した。彼女はそういう時でも泣くことはなかった。しかしその微笑は歪《ゆが》んだ唇《くちびる》と濡《ぬ》れた眼とでどんなに彼女を美しく見せていたことだろう。僕がいま喪《うしな》うものは、全世界に匹敵するのだ……。そして映像が消え、夜が意識を覆《おお》い、それは絶望を喚《よ》び起した。アンナ、かぼそく優しかった泣き顔のアンナ。お前は死んだ、お前は首をくくって死んだ。なぜだったろう……。夜が意識を覆い、滲み出る燈火のように、疑問が次々と走り流れた。一体僕はあの酒を飲んだのだろうか。もしこれが死とすれば、死とは要するに同じ絶望、同じ悔恨、同じ虚無にすぎないのではないか……。
――あなたは死んではいませんよ。
耳許《みみもと》で呟《つぶや》かれたその明るい声が、僕を現実の意識に引き戻した。僕は硝子窓《ガラスまど》の向うに、夜と、仄《ほの》かに浮んでは流れ去る燈火とを眺《なが》めていた。僕は速度感と細かい振動と轟《とどろ》く車輪の響とを聞いた。僕は汽車の中にいるのだ。僕は窓から顔を引き離し、声のした方を振り向いた。そして僕は狭いコンパルティマンの向いの座席に、あの禿頭《はげあたま》のバアテンを見、僕の横に、あの時、待てと叫んだ男を認めた。その男はにこやかに笑った。
――あなたはあれを飲まなかったんですよ、飲んでたら勿論《もちろん》おしまいでしたがね。
僕の眼はその男からまたバアテンの方に移った。彼は肥《ふと》った身体《からだ》をだらしなく傾けて、ぐっすりと眠っていた。車輪の音に混って彼の鼾声《いびき》が高くなったり低くなったりした。このコンパルティマンの中にいるのは、僕たち三人だけだった。僕はまた隣の男を見た。
――一体これはどうしたんです、僕たちは何処《どこ》へ行くんです、あなたは誰です?
続けさまに僕は疑問をぶちまけた。
――どうしてあのバアテンが一緒なんです? 他《ほか》の連中はどうしたんですか。
相手はゆっくりと頷《うなず》いた。思慮深そうな面持で僕を見詰めながら答えた。
――僕のことはおいおいに分ります。僕は謂《い》わば案内者です。僕たちはこれから未来都市へ行くところです。
彼の口にした「未来都市」という言葉は、耳触《みみざわ》りのよい響を持ち、同時に為体《えたい》のしれない不安を僕に惹《ひ》き起した。
――それは何です? つまり天国とか地獄とかいうことですか。それじゃ僕はやっぱり死んだわけですか。
――大丈夫です、あなたは生きてますよ、と言って、この自称案内者は無邪気な笑いを見せた。あなただってそれはお分りでしょう。つまりあなたは酒場にいた連中の中で最も勇気があった。つまり、最も深く生に絶望していた。そこであの毒酒に手を出したわけです。それを僕が邪魔しました。実際あなたはすんでのところで、この悪党のために地獄へ行くところだったんですよ。
彼はちらっと眠っている禿頭の方を眼で合図した。それが僕にまた疑惑を喚び起した。
――しかしこいつが悪党なら、どうして一緒にいるんです? と僕は訊《き》いた。
――それは僕が、あなた、つまり絶望者と、この男、つまり凶悪な悪党とを、未来都市へ連れて行く使命を持っているからです。こいつはまったくとんでもない悪党なんです。殺人の常習犯で、偽造、詐欺、誘拐《ゆうかい》、何でもござれ、それに催眠術の名人と来ている。目星をつけた男にあの酒場で酒を飲ませて眠らせます。そして死後の世界にいるような錯覚を与えてしまう。この男のつくり出す死後の世界は、単に虚無というだけじゃない、悪と破壊と絶望との世界です。人はそこでは何でも許される、何をしようと勝手次第だ。この男は犠牲者をそうした錯覚の中に陥《おとしい》れて、自分の意のままに悪事の手先にする。最後には殺してしまう。あなたも実際あぶないところでした。
しかし僕には、その危険の実感があまり強烈ではなかった。現にいま、こうして汽車の中で揺られている僕は、危険ではないのだろうか。硝子窓の向うを、夜が飛ぶように走って行く。
――その使命というのはどういうものなんです? と僕は訊いた。何のために僕はそこへ行くんです?
案内者はそれに答えなかった。暫《しばら》くして窓の外を手で指《さ》した。
――御覧なさい。もう夜が明ける。
空が次第に明るみを増し、田園の風景が少しずつ朝靄《あさもや》の中に浮び始めていた。
――僕たちはもうじき目的の停車場に着く。そこからあなたを、この悪党も一緒ですが、未来都市へ御案内します。僕は案内者で解説者じゃありませんから、詳しいことは後で聞いて下さい。ただ決して御心配は要《い》りません。あなたは決して後悔なさることはありません。未来都市はまだ建設中の、大して大きくはない都会ですが、そこには平和と幸福と希望とが輝いているのです。あなたを裏切るようなものは何もありません。そこでは、人類が久しく望んでいた理想の生活が行われています。綺麗《きれい》な町ですよ。海に面して、古くからの歴史のある町です。しかし、この未来都市は今ではもう過去の歴史とは何の関係もありません、それは完全に未来を向いているのです……。
3 衛生委員
僕たちは停車場から自動車に乗って、もう相当長い間、ところどころに小さな畑のある原野を走っていた。灌木《かんぼく》の茂みが見渡す限り続き、白や黄の花々がかたまり合って咲き乱れていた。空は静かに青く晴れ、人けのない原野の上を雲が悠々《ゆうゆう》と流れていた。どうしてこんなに平和な気持なのか、自分でも分らないほど清々《すがすが》しい風が心の中を吹き渡った。悪党と呼ばれた禿頭の肥大漢は、無言のまま、大人しく窓の外の単調な風景を眺めていた。案内者も自動車に乗ってからはもう口を利《き》かなかった。僕たちはいつまでも走り続けた。やがて原野が尽き、よく耕された畑がひらけ、丘の間を道は右に左にうねって、やがて急に、城門に達した。それは古代ローマ風の石のアーチで、そこに鮮《あざや》かに「未来都市」の文字が刻まれていた。そこを越えると、石だたみの広い通りが真直《まつすぐ》に走り、両側には新しく建てられたコンクリートのビルと、古くからの石づくりや煉瓦《れんが》づくりの商店とが、一種の調和を見せて並んでいた。昔ふうの教会もあり、その角を曲ると公園だった。通りにも公園にも、ゆっくりと愉《たの》しみながら散歩している人たちの姿が見られた。
僕たちの車が止ったのは公園からほど近い病院の前だった。それは近代的な、堂々たる建物で、陰気な影は少しもなかった。ただ、それがホテルではな HOTEL-DIEU だったことに僕はちょっとびっくりした。いきなり病院に連れ込むというのは、少し無礼ではないかしらん……。
――いや気を悪くなさらないで下さい、と僕の気持を見抜いたように、案内者は僕と悪党(とでも呼ぶ他はない、何しろ僕はその男の名前を知らないのだから)とを建物の内部に導きながら、言った。これは形式的な問題ですが、この都市の滞在客が万一にでも悪い病菌をお持ちでは困りますからね。
彼は柔和な微笑を見せ、僕等を応接室に案内した。そこに着くまでの間じゅう、僕は壁という壁を壁画で飾られたこの病院が、実に清潔で明るく、だいいち患者らしい人間に一人も出会わなかったのを不思議に思った。数人の女たちが廊下にいたが、恐らく看護婦なのに、それらしい制服も着ず、せかせかと動き廻る様子もなかった。
――僕の役目はここまでで終りです。あとはここの医員からお聞き下さい。では御機嫌《ごきげん》よう。
僕等二人が広い応接室のソファに落ちつくと、案内者はそう言ったなりドアから消えてしまった。部屋の中には僕と悪党と、二人だけが残った。しかし僕は汽車の中でこの男の悪業を聞かされていたにも拘《かかわ》らず、なぜか少しも怖《こわ》いとは思わなかった。
――これは一体どういうことなんだい? 君は何か知ってるの?
僕がそう訊くと、相手は真丸い顔の中の二つの眼を一層細くして、如何《いか》にも不思議そうに僕に答えた。
――それがさっぱり分らないんで。
僕は何だかこの男に急に親しみを覚えた。
――あれは本当なのかい、君がとんでもない悪党で、催眠術をかけて僕を悪事の手先に使おうとしたってのは?
――まさかね、私は決してそんな悪人じゃありませんよ。
しかしそれが嘘《うそ》であることは疑いを容《い》れなかった。案内者は確かに真実を語ったのだし、この大人しそうな、禿頭に手を当てて恐縮している男が、名うての悪党であることは、僕には決して間違いのない事実だった。それなのに、僕の中にこの男への憐憫《れんびん》のようなものが強く湧《わ》き上って来た。それは不思議な感情だった。
――僕はあの時死んだってよかったんだ。
僕はそう呟き、僕がまだ生きていることを少しばかり後悔した。しかしその少しばかりの後悔は、好奇心に取って替った。一体これからどういうことが始まるのだろう。
ドアが開き、中年の、真面目《まじめ》そうな男が二人連立って応接室にはいって来た。
――あなたがたは今日着いた旅行者ですね。形式的にちょっと診断させて頂きますから。
そう言って、僕等をまた廊下の方へ導き出した。悪党はどうやらびくびくしている模様だったが、僕はまったく平気だった。僕と別れる時に(僕等は別々の部屋へ案内されたから)彼は頼《たよ》りなさそうに僕の方をちらっと見た。僕は前よりも狭い、しかし調度のよく整えられた部屋に通された。一緒に来た男は僕に椅子をすすめ、自分も窓際《まどぎわ》の椅子に腰を下した。それはまるで診察室とか病室とかいった感じのものではなかった。事務机も、医療器具も、薬くさい臭《にお》いも、何もなかった。男は白衣を着てはいなかった。看護婦らしからぬ若い女がお茶を運んで来た。部屋の隅《すみ》にラジオがあり、そこから僕の聞いたこともない音楽が響いていた。
――あなたはお医者さんでしょう? 僕の診察はいつ始まるんです?
僕は待ちきれなくなってそう訊いた。
――診察はもう済みました。それに私は医者というわけじゃありません。
僕はあっけに取られた。
――さっき案内してくれた人が……。
――医者が来ると言いましたか。あの悪党の方は医者も必要ですが、あなたの方はいいんです。私は衛生局の衛生委員です。特別命令であなたの接待をするように命じられました。まあ楽にして下さい。煙草はどうです?
僕は煙草をもらってくゆらせ、お茶を飲み、言われた通り暫くの間気を落ちつかせてから、また質問した。
――じゃあの診察というのは嘘だったんですね?
衛生委員はきっぱりと答えた。
――未来都市では人は嘘は吐《つ》きません。これはよく覚えておいて下さい。診断はもう済みました、さっきそう言ったでしょう?
――しかし……いつです?
――あなたが応接室にいた間です。
僕にはさっぱり分らなかった。
――あなたが応接室にいた間に、あなたたち二人の意識内容はすべて記録しました。ここまで案内して来た男が、道々、適当な暗示を与えて来た筈《はず》ですし、この都市に到着してからは、当然あなたたちの意識活動に変化があった筈です。あなたの場合、それは明瞭《めいりよう》に看取されました。あなたはあの悪党に対して恐怖を持たなかった、憐憫を感じた、そして死ななかったことの後悔よりは生きていることの好奇心の方が強かった、そうじゃありませんでしたかね?
――どうしてそれが分ったんです? と僕は驚いて叫んだ。
――あなたの中の悔恨や絶望は、これからもっと減少して行くでしょう。此所《ここ》では Fulguration と呼ばれる一種の緩慢な放射が、常に都市全体に働いていますからね。
――あの男の考えていたことも分ったんですか? と僕は訊いた。
――勿論《もちろん》ですとも。あの悪党は自分は悪人ではないとあなたに嘘を吐いた。その時彼は、前に警察につかまった時に、どういう手を使ってごまかしたかを一生懸命に思い出そうとしていたのです。これはよくない徴候です。彼の記憶がうまく回復しなかった点に、精神|匡正《きようせい》の効果が多少とも認められるが、完全ではありません。彼には強力な Fulguration を与える必要があります。
――僕には何のことかさっぱり分らないんですが、と僕は情ない声で呟いた。
衛生委員は暫く考えていたが、やおら立ち上って僕に呼び掛けた。
――あなたはもうここには用がないのだから、これからホテルへ御案内するわけですが、そんなにあなたが好奇心をお持ちなら、一つ市役所へ出掛けて、そこで説明をお聞きになったらいいでしょう。私にはこれ以上説明する権限はありませんから。
――いや結構です、と僕は答えた。何もそんなに好奇心が強いわけじゃありません。それに僕は疲れているから。
――そうですか、好奇心というのも、実は必ずしもいい徴候とは限りません。本質的な悪を別とすれば、好奇心が異常ノイロンを刺戟《しげき》することもありますからね。
さっきの難しい単語同様に、この「異常ノイロン」という言葉も僕には分らなかった。しかしいずれは分るだろう。僕は衛生委員と一緒に病院を出た。あの悪党の身の上が気にかかったが、彼が危い目に会っているのでないことは確かだった。この未来都市では誰だって安全な筈だ。そういう確信がいつのまにか僕の中に育っていた。
4 新聞記者
通りに出ると、既に夕暮に近い黄ばんだ光が漂い、勤めを終ったらしい会社員や女事務員がビルの入口から流れ出て来た。電車やバスが走り、自動車がせっかちな警笛を鳴らしていて、それはどこの都会でも見られるような風景だった。
――ホテルは近くだから歩いて行きましょう。
衛生委員はそう言うと、僕等はプラタナスの並木のある石甃《いしだたみ》を敷いた人道を、勤め帰りの人たちに追い越されながら、ゆっくりと歩いた。僕はふと思い出して訊《き》いてみた。
――さっきの診察のことですが、身体《からだ》の健康のこともあの時分ったんですか?
――ああそのことですか。ここでは肉体の病は問題じゃないんです。精神の病だけが問題なのです。衛生局としては、地方からの滞在客はまずその精神健康に注意します。肉体の病の方は、発見次第じきに癒《なお》すことが出来ますからね。
――じきにですって? と僕は驚いて叫んだ。
――そうですよ、と衛生委員は自慢げに頷《うなず》いた。未来都市の医学研究は非常に進歩したものです。レプラはもうありません。結核は必ず癒ります。癌《がん》の療法も発見されました。その他の危険な病気には殆《ほとん》ど予防医学が発達しています。しかしその点は、この都市だけでなく、一般に他の国でも次第に研究が進んで行くことでしょう。もしこの都市が特に他の都市よりも未来に進んでいるとしたら、それは精神医学の面です。あなたは文明世界で、最も死亡率の高い病気は何だか知っていますか?
僕は考えてみたが見当がつかなかったので、あっさり降参した。
――それは自殺ですよ、と相手は事もなく答えた。自殺と狂気、これが現代の文明病です。しかるに未来都市には、自殺もなく、狂気もないのです。さあ着きました。
僕等は大きなホテルの入口の前にいた。衛生委員が先に立って帳場で掛け合ってくれ、それから僕等はエレヴェーターで昇って、明るい廊下に行儀よく並んだドアの一つにはいった。それは浴室の附いたこぢんまりした部屋で、ベッドを一目見ると、もう一足動くのも厭《いや》なほどどっと疲れが襲って来た。しかしまだ質問しなければならない肝心なことが残っていた。何しろ五里霧中なのだから。
――それで、僕は一体これから何をするんです?
帰りかけていた衛生委員は、大きな声で笑い出した。
――お好きなことをなさるんですね。たしかあなたは絵かきさんでしょう、それじゃ絵をお描きになるんですな。
僕はその時まで、奇妙に自分の職業のことを忘れていた。絵か、それも僕を絶望させているものの一つだった。しかしこの時、僕は不意に絵が描けそうな予感がした。
――すると僕はまったく自由なんですね?
――勿論です。未来都市では誰だって自由です。何処《どこ》へ行こうと、何をしようとね。私のように勤めを持つ者は、勤務時間に縛られることもありますが、あなたはその点|羨《うらやま》しい。時に、私の勤務時間はもう終りですよ。
そう言って彼はちらっと腕時計を見、ごく善良な、妻子思いの小役人の表情をした。僕はそれ以上、質問で彼を引き止めるわけにはいかなかった。
僕は一人になり、バスを使い、それから食堂に行って食事をした。再び自分の部屋に戻って、ぼんやりとラジオをつけてみた。音楽が聞えて来た。それは病院で聞いたのと同じような、奇妙な旋律を持ったシンフォニイだった。僕が奇妙というのは、その曲はバッハやモツァルトのような古典音楽とそっくりみたいに似ていながら、しかもまったく別のものだったからだ。それは古典音楽を謂《い》わば|合成した《ヽヽヽヽ》、という感じだった。もしも音楽がこんなに他と違っているのなら、絵だってきっと変ったものなのだろう。それは僕の胸を期待でふくらませた。僕の中の芸術家はまだ死んではいない、と僕は呟《つぶや》いた。
僕がまだラジオの音楽に耳を傾けていた時に、ドアがノックされた。知人なんかいる筈《はず》もないから、きっと部屋を間違えたのだろうぐらいに考えながら、ドアを明けてみると、胸ポケットに鉛筆を一本|挿《さ》した男が、大きなカメラを持ったもう一人の男を従えて、挨拶《あいさつ》もなく部屋に飛び込んで来た。
――ちょっと写真を写させてもらいます。
そう言ったかと思うと、フラッシュが僕の眼をくらませた。僕はあっけに取られ、眼をぱちぱちさせ、どもりながら訊いた。
――この都市では一人でいる自由はないんですか? さっき衛生委員の人が、ここでは何でも自由だと言ったばっかしだけど。
――いや気を悪くしないで下さい、と最初の男は胸の鉛筆を引き抜き、左手に手帳を開きながら、言った。怒るのは精神衛生上よくないんですよ。ところで自己紹介がおくれましたが、我々は未来新聞社の者です。あなたのことはたった今、その衛生委員に聞いたばかりです。
――ここには新聞もあるんですか? と僕はちょっとびっくりして訊き直した。
――当り前ですよ、と相手は憐《あわれ》むように僕を見た。当市には未来新聞と理想新聞との二つがあります。僕等は理想新聞の奴等《やつら》を出し抜くんで、ちょっとばかり急いでるんです。
カメラマンがまたフラッシュを焚《た》いたので、僕は今度は怒らずに、平静に相手に訊き返した。
――どうも分らないんですがね、一体僕なんかを写真にとってニュースになるんですか?
――あなたはしかし、当市へは初めてなんでしょう。インターヴュウするだけのことはありますよ。
――ここではそんなにニュースが少いんですか? と僕は精いっぱいの皮肉を言った。僕なんか、大して有名な絵かきじゃありませんよ。
――謙遜《けんそん》は美徳です、しかし自己卑下はよくありません、と新聞記者は言下に答えた。あなたの身分が芸術家なら、一つ芸術的訓練について感想を述べて下さい。
――芸術家か。こいつは僕にとっては苦のたねなんですがね。僕が苦しんでいるのは、芸術家の天分は果してのびるものかどうかということです。天才というものは先天的なものだ、僕は、猛然と描きたい気持になった時にだけ自分の天分を信じるけれども、その他の時には、自分はまったく才能がないと考えて絶望してしまうんです。一体どうすれば成長があるのか、僕はどうにも懐疑的で、目下のところは全然描けない状態が……。
――ちょっと待って下さい。あなたは如何《いか》なる方法によって、その天分という奴を訓練するんですか?
――訓練はただ僕個人の勉強にかかっていますよ。芸術は要するに個人の実力の問題で……。
新聞記者もカメラマンも急に笑い出した。
――古い、古い。それじゃあなたの芸術はただの自己満足でしょう。というより、自己不満があなたを芸術に駆り立てているのでしょう。それじゃ、あなたはこの音楽をどう思います?
彼はそう言って手で僕の注意を促した。それは例のラジオの音楽だった。
――さっきからこれが不思議だと気になっていました。古典音楽のようでまるで違った……。一体誰の作曲ですか?
新聞記者は鉛筆を胸ポケットにしまった。
――これじゃインターヴュウになりませんね。この音楽は、主として当市の芸術大学を卒業した、音楽部員の共同作曲によるものです。合成音楽と呼ばれています。音楽は最高芸術で精神衛生とも関係がありますから、実際には音楽部員だけじゃなく、衛生部員や哲学部員も協力していますが。しかしあなたは、随分旧式な芸術観をお持ちのようですな。いずれもっといろいろ御勉強なさるでしょうが。
新聞記者はカメラマンと共にさっさとドアの方へしりぞいた。出て行きがけに振り向いて言った。
――お疲れのようだから、早くお休みになった方がいいですよ。理想新聞の奴等が来たって起きてやる必要はありませんよ。
僕は彼等を送り出してドアに鍵《かぎ》を掛けた。言われるまでもなく、この上理想新聞の記者にまで苛《いじ》められてはかなわない。僕はラジオのスイッチを捻《ひね》り(どうもこの音楽は虫が好かなかった)、それから着替をしてベッドに横になった。そして僕は直《じき》に眠ってしまった。その晩、僕は夢を見なかった。
5 素人画家
あくる朝、僕は快く目覚《めざ》め、創作慾が身体中《からだじゆう》にみなぎっているのを感じた。僕は朝食を済ませると、モチイフを探《さが》すために街を散歩することにした。
街の描写などは必要ではないだろう。僕は昨日覚えた道順を辿《たど》って公園の方に足を向けた。途中で新聞を買ってポケットに突込み、公園のベンチでそれを読もうと考えた。しかし花壇の横を通って、小石を敷いた道を歩いて行くと、ひとりでに小高い丘へ導かれそこが展望台になっていた。
僕はうっとりとこの都市を眺《なが》めた。特にその場所が高みにあったわけではないが、よく晴れた青い空の下に、古いローマ式の小さな教会が公園の隣にあり、その向うに屋根屋根を越えて、わずかに海が見えた。新式の高層建築と昔ながらの古ぼけた住宅や店舗などが、巧みに調和し、緑の樹々がその間を点々と色づけていた。反対側の方は丘の向うに山があり、その山もゆっくりしたカーヴを空の背景に描いていた。丘に、まぶしいように陽光に照らされて、白い石づくりのロマン様式のカテドラルがこの都市を見下していた。僕はこの未来都市が、古い歴史的な遺跡に充《み》たされているのを不思議なもののように思った。それから、どういう点が新しいのかを知るために新聞を読むことにした。
鉄の細長いベンチが展望台を囲むように並べられ、頭巾《ずきん》をかぶった女が幾人か、編物をしながら腰を下していた。若い恋人どうしというようなのもいた。僕は空《あ》いているベンチに腰を掛け、未来新聞を開いて早目に頁《ページ》を繰った。僕はじきに、びっくり顔で写っている自分の小さな写真を見つけ出し、興味をもってその記事を読んだ。
「……画家***氏は、合成音楽について大いに関心を示し、芸術がここまで到達したことに深い敬意を払うと言った。氏が更に、古代ローマの遺跡と超現代的構成とを共存させた我々の合成建築を見たならば、何と言うであろうか。美術の点に於《おい》ても、氏はまだまだ多くのものを学ばれるであろう。氏はいまだ、芸術は誰のためにあるかという第一命題について、あやまった認識を持たれているようであるが、氏が決意されて当市に移住された以上、必ずや未来芸術のために尽力されることを、我々は確信している……。」
あの新聞記者の奴、と僕は呟いた。勝手なことを書きやがった。しかしこの記事にはどうも引っかかるところが多かった。だいたい僕は「決意して移住」したのだろうか。その辺の記憶が僕にはどうも曖昧《あいまい》だった。僕は新聞の他の頁を読んでみたが、外電の部分が少くて、都市内のニュース(例《たと》えば勤労者住宅の詳細な解説とか、道路修理の予定とか、工場設備の改増築とか、個人的消息とか)、科学記事、教養欄、論説などが大部分を占めていた。広告は割に少かった。論説は一頁全部を埋めた哲学論文で、「理性の進歩」という題がつき、僕にはさっぱり意味がつかめなかった。もし誰にでもこれが読めるのなら、市民の知的水準は恐ろしく高いわけだ。
その時、公園の隣にある小教会から、よく澄んだ鐘の音が空に響き渡った。僕は合成建築とやらを見学しようと思い、ベンチから立ち上って教会へ通じる細い道を下りて行った。すると、一人の男が道の側《そば》に三脚を立てて絵を描いているのが眼にとまった、僕は急に嬉《うれ》しくなり、その絵を後ろから覗《のぞ》き込んだ。
その描きかけの絵は、前景に小道と樹々とがあり、教会の白い石の壁が左端を占め、右にひろがって街の屋根屋根が、そして背景には空と海とが眺《なが》められた。大してうまいとも思わなかったが、部分的には素晴らしいタッチがあった。特に教会の壁のざらざらした物質感は、感動的だった。しかし全体としては、未完成のせいもあるが、ちぐはぐで、構成が常識的な上、画家の個性というものが殆ど感じられなかった。
――壁のところがとてもいいですね、と僕は呟いた。
相手は手に筆を持ったまま、その部分をしげしげと眺めていたが、僕の声に振り返って嬉しそうに叫んだ。
――あなたもそう思いますか? 普通ならここはユトリロで行くところでしょう、私は特にルオー的なテクニックを採用したんだが、これは成功でしたね。
なるほど、ルオーの絵のタッチが、この壁の部分に更生されていた。
――屋根のところはマチスで行くつもりです。海と空はどうしたもんですかね、やっぱり印象派がいいでしょうか、それともぐっと超現実派ふうに処理したもんですか? ボナールのえがいた空も……。
僕は驚いて相手を見ていた。六十をとうに越した老人で、白髪がふさふさと頭を覆《おお》っていたが、顔は若々しく、眼は少年のように無邪気な熱っぽさを湛《たた》えていた。
――それじゃ、これは合成絵画というわけですか、と遅まきながら気がついて、老人のお喋《しやべ》りを遮《さえぎ》った。
相手は怪訝《けげん》そうに僕を見返した。僕は慌《あわ》てて弁解した。
――なにしろ僕は、この都市へ来たばかりなのです、と言って未来新聞の僕に関する記事のところを相手に示した。分らないことだらけでね、少し教えて下さい。
――お安い御用ですとも、と老人は愉快そうに叫んだ。
――あなたは画家ですね、絵画委員とでもいうんですか? と僕は訊いた。
――いやいや、私はただの素人《しろうと》画家ですよ、私はもともと靴屋ですが、息子《むすこ》がそっちのあとを継いでくれたので、暇潰《ひまつぶ》しに好きなことをして暮しています。絵画委員になるには、芸術大学を卒業するか、理論なり作品なりを発表して委員会をパスしなければなりませんのでね。私は建物の壁の部分だけは、あなたもお認めになったように、相当に熟練しているから、ひょっとしたら壁専門というのでパスできるかもしれない。何といっても、委員になれば大したものです。
――するとそれぞれに専門があるわけですか?
――勿論《もちろん》ですとも。風景ならば、海専門とか、樹専門とか、道専門とか、それもデッサン専門とか、地塗り専門とか……。
――全体の構図はどうするんです?
――構図の専門委員は他の人よりも位置が高いのです。
――すると、一枚の絵をそれぞれ分担して描くわけですか?
――あなたは外来者だから、当然、病院で診察があったでしょう? あの病院の壁画を御覧になりませんでしたかね。ここでは、芸術はすべて合作です、その方がいいものが出来上るにきまっていますからね。
――しかし、それなら個性というものはどうなるんです?
――一人の個性よりは、十人の個性を合せた方がはるかに未来的ですよ。
僕はまた、老人の描いている絵の方に眼を移した。それはどう見ても全体的な没個性を、つまりちっとも未来的でない平板さを、示していた。
――ああこれですか、と老人はきまり悪げに言った。私は何しろアマチュア画家ですからね、だからこういう個人的な絵を描いているんですよ。この都市では芸術教育が進んでいて、誰でもこれ位の絵は描きます。
確かに僕たちの傍《かたわ》らを、今までにも何人か散歩しながら通りすぎたが、彼等は老人の絵の方を見向きもしなかった。僕はまた尋ねた。
――壁画のような場合には、誰か中心になって指導する人もあるわけでしょう? 十人の個性と言ったって、それじゃ絵に統一というものがなくなる筈だから。
――それは絵画委員会の委員長の責任です。もし委員長できまらなければ、芸術局の局長が決定します。
――その人は天才というわけですね。なるほど。やっぱり市役所に属しているんですか?
――それはそうです、市役所には、芸術局、科学局、衛生局、生産局、行政局と五つあって、それぞれ多くの委員会を持っています。五人の局長と、「哲学者」と呼ばれる偉大な智慧《ちえ》を持った人との六人で、最高会議を開いて万事を決定する仕組ですよ。
――市長はいないんですか?
――市長は局長たちの一人が兼任します。目下は行政局長の兼任です。
――目下というんでは、その人たちは独裁というわけじゃないんですね。
――すべて選挙です。各々の委員が委員長を、委員長が局長を、局長が市長を、それぞれ選挙するのです。但《ただ》し、哲学者だけは別です。この人はかけがえがありませんからね。
老人はそう言って、指で丘の中腹にある白い壁のカテドラルを指《さ》した。
――哲学者はあそこに住んでいます。あの建物は、市民たちから神殿と呼ばれていますが、未来都市の生命はあそこにあるのです。
僕はその時、不意に異様な印象を受けた。神殿に住む哲学者。偉大な智慧を持つ、かけがえのない人物。終身の最高指揮者。それは未来というよりも、寧《むし》ろ中世的な感じではないだろうか。
――それは宗教と関係があるんですか? と僕は訊いた。
――この都市では、宗教は各人の自由ですがあまり関心はありません。神殿はまったく別のものです。
しかし老人はそれ以上説明しなかった。急に生き生きした声で僕に呼び掛けた。
――どうですか、うちへ来て昼飯でも一緒にやりませんか? そうだ、それよりうちへ来てお泊りなさい。アトリエむきのちょうどいい離れの部屋が空いています。そうなさい。遠慮は要《い》りませんから。
老人は白髪頭を揺すって熱心にすすめたが、これほど善意に充《み》ちた表情を、僕はちょっと記憶の中に思い出すことが出来なかった。
6 生活
僕は靴屋の離れに、老人から一室を貸してもらって、一人の市民として暮すようになった。日は早く過ぎ、僕はどうしてこの都市に来る羽目《はめ》になったのか、次第に思い出すことも少くなった。僕は毎日カンヴァスや三脚を抱《かか》えて、見晴らしのいい高台や、教会や、石づくりの古びた住宅や、そういった僕の興味を惹《ひ》く風景を写生して廻った。靴屋の店も僕のモチイフの一つだったし(この店でつくるような手づくりの高級な靴は、委員クラスの上流階級の履物《はきもの》だった。一般の市民たちは、工場製の品物をデパートで買った)、この靴屋の娘、老人にとっては孫娘に当る少女も、僕が頼めば恥ずかしそうにモデルになってくれた。編物などをしながら、黙りこくって椅子に腰を下したまま、時々僕が話し掛けると首を振って頷《うなず》いた。かぼそい身体《からだ》と、大きく見開いた眼、その眼は母親から叱《しか》られたあとなど、いつまでも涙ぐんでいた。少女の名前はアンナだった。僕の記憶の中で、その名前は奇妙に揺らぎ、お下げの髪も、色白な皮膚も、訴えるような眼指《まなざし》も、どこか彼女の持つ微妙な点に、僕の記憶を促す何かが隠れていた。しかしそれは何だったろう。
僕は昔、やはり今と同じような、薄暗くがらんとした部屋の中で(窓は大きかったが、そのすぐ向い側に建物の壁がふさがっていて、光の射《さ》し込む時間は一日中でもごく僅《わずか》だった)せっせと絵筆を動かしていたものだ。そういう気がする。アンナ、くたびれたかい? と時々いたわりの言葉を掛け、アンナは微笑し、僕はその微笑の影をカンヴァスの上に捉《とら》えることに努力する。しかし彼女の微笑のうちに、暗い無言の訴えがあることを、昔も気がつかなかったように、今も気がつかないでいるのだ。もしその記憶が返って来れば、僕はすべてをもっとよく理解するのだろうが。
そう言えば、こういうおかしなことがあった。或る日、僕は例の悪党と呼ばれた男に出会った。それは意外な場所だった。というのは、僕がたまたま市内電車に乗って、都市のはずれにある博物館へ出掛けて行った時に、彼は僕の前にその電車の車掌として現れた。両肩から前に黒い鞄《かばん》を下げ、手に鋏《はさみ》を持って、ごく職業的な顔つきをしていた。あの禿頭《はげあたま》の(そこに阿弥陀《あみだ》に小さな帽子をかぶっていた)動作ののろのろした肥大漢が、小さな鋏をちょきちょきいわせながら、次は市役所前、乗り降りはお早く、などと真面目《まじめ》な顔で怒鳴るのは、どうにも滑稽《こつけい》でならなかった。僕は彼の肩をぽんと叩《たた》き、元気かね? と親愛の情をこめて訊《き》いた。彼はさっぱりわけの分らぬという顔をした。
――ほら、自殺酒場で、と僕は小声で教えた。
車掌はてんで僕を理解しなかった。それどころか、
――切符を切らせて頂きます、と相変らず地の底から轟《とどろ》くような声で、僕の前にその大きな手を突き出した。
僕は博物館へはよく出掛けて行き、そこに蒐集《しゆうしゆう》された古典的な絵画や彫刻を見ることを愉《たの》しんだが、その途中の電車で、尚も二三度、同じ車掌に切符を切って貰《もら》った。その度《たび》に彼は僕を識《し》っている素振も見せず、いつも僕は、場所柄が場所柄だから知らない振をしているのかと疑った。何といっても海千山千の、危い橋ばかり渡って来た男だ。しかし僕は次第に、彼が本当に僕を覚えていなかった、彼は昔の記憶を喪《うしな》ってしまった、と考えるようになった。それは病院で彼ひとりが別室に呼び込まれ、診察を受けたせいかもしれなかった。しかし僕の方も、次第に記憶力が減退して、自殺酒場での出来事もいつしか忘れ去って行った。僕は新しい生活に次第に順応した。
僕は毎日絵を描き、また市内のあちこちへ行った。博物館の他にも、病院や、市役所や、大学講堂や、芸術局などへ行き、内部を飾った壁画を見て廻った。市役所というのは古い中世の建築をそのまま使ったごく小さな建物で、芸術局や衛生局や生産局などは、それぞれ別の、現代的なビルディングを占めていた。僕は古代建築、特にゴチック式やロマン式の教会へも行き、また劇場や競技場などへも出掛けた。合成絵画や合成建築はなるほど大したもので、そこには一種の個性、つまり人類の個性とでも呼ぶべき、善意と明快と友愛との感情が溢《あふ》れていた。劇場で見た芝居はあまり面白くはなかったが、観客は誰しも感動していた。多くは明るいコメディで、人間性の美しさ、強さ、希望、といった主題を強調するものだった。
僕の描いた絵を老人は嬉《うれ》し気《げ》に批評してくれたが、批評の尺度は常に未来的か否かという点に懸《かか》っていた。そして僕にも次第に分って来たのだが、未来的というのは、芸術は市民に奉仕すべきだということだったらしい。芸術は市民の魂を清める、美しくする、幸福にする、そういう点に目的を持ち、しかもそれは健康で、明るく、翳《かげ》のないものでなければならなかった。僕が老人と議論する度に、老人は自作のタブローを持参して来て僕の絵と比較したが、なるほど老人の作品はどれも完璧《かんぺき》に陽気で明快だった。ただそこには個性がなかった。そして僕の絵は、暗く沈んで、モチイフも色彩も老人の謂《い》わゆる未来的ではなかった。しかし僕にはどうしてもそれ以外には描けなかったのだ。
僕はまたしばしば公園に行き、展望台の鉄のベンチに坐って、遠くの海や、神秘的なカテドラルのある丘などを眺《なが》めていた。確かにその風景は明るく、また都市の公共建築の内部を飾った壁画も、すべて明るさという点で個性的だった。しかしいくらお手本がそのようでも、僕の描くものは、もっと違ったふうに個性的だったのだ。それはまるで僕の絶望的な過去の記憶が次第に薄れて行くのに、僕の手、この絵筆を握る手だけが、僕の過去にそのままつながっているかのようだった。僕の絶望は(生活の上ではもう影をひそめていたが)そこから少しずつ萌《きざ》し始めていた。
――面白い絵ですこと。
僕は樹蔭《こかげ》に三脚を据えたまま、いつものようにやりきれない気持でパレットの上に絵具を溶いていたが、ふと呟《つぶや》かれたその声に思わず振り向いた。若い女がじっと僕の絵を眺めていた。
――面白いとおっしゃるんですか?
女は無言で頷き返し、それから僕の方に眼を移した。晴々とした賢そうな瞳《ひとみ》がきらきらと光った。それは僕の記憶をどこかで促した。
――僕の絵は未来的じゃないんですよ、と僕は自ら嘲《あざけ》るように呟いた。
――でも、この風景の中には、お描きになった人の魂があります。
どこか女学生のような、一本気の感情がその声の中に剥《む》き出しになっていた。顔を少し傾け、短く切った髪が耳許《みみもと》で風にそよいだ。
――暗いんですよ、しかしこの風景はもともと暗いんですからね。
僕が描いていたのは、公園の続きの小教会の墓地だった。墓地の向うに、教会の塔が蒼《あお》ざめて聳《そび》えていた。
――こんなモチイフは本当は選んじゃいけないんでしょうがね。
――でも面白いわ、と女は言った。
――絵画委員に見せたらきっと怒られるでしょう、と僕は附け足した。
――あの人たちには絵が分らないのです。あの人たちは魂のない絵を描くだけです。
――僕はその強い言いかたにびっくりした。僕は市民の一人が委員の悪口を言うのを初めて耳にした。
しかし女の方も言い過ぎたと思ったのだろう、会釈して僕の側《そば》から遠ざかった。僕は自分でも気がつかないうちに彼女を呼びとめていた。
――またお会い出来ますか?
――明日また来ます。
女はそう言い、微笑した。その微笑は僕をひどく幸福な気持にした。僕は遠ざかって行くその後ろ姿を、自分もまた微笑しながらじっと見送っていた。
あくる日、僕は同じ場所に三脚を据えて待っていた。もうこれ以上絵に手を入れる余地がなくなってから、女はやっと風のように現れた。
――僕はもうあなたは来ないのかと思っていました。
――でもお約束しましたもの。
女はハンカチを出して額の汗を拭《ぬぐ》い、わたし走って来ましたのよ、と言った。僕等は草叢《くさむら》の中に並んで腰を下した。僕等はそれから合成音楽や合成絵画の話をした。モツァルトの主題や、ラファエロの技法などを巧妙に写して、そういったものを幾つも組合せて新しい芸術をつくったところで、それは一人の人間の魂の奥底にまで沁《し》み渡るような芸術にはならないだろう、と僕は言った。多くの市民たちはそれで満足するとしても。
――わたしは満足しない一人だとおっしゃるの? と女は訊いた。
――そういう気がします。
――わたしは、もし一つの作品がただ一人の人にしか共感を与えないとしても、その一人が本当に感動するのなら、それも許されると思うんですの。
そうした感動は、愛している場合にだけ起るのではないだろうか。僕はそう考え、それを口にすることを憚《はばか》った。僕はただ冗談《じようだん》を言った。
――そういう個人的な芸術は、つまりたった一人しか救えないような芸術は、どうも未来的じゃありませんね。
女は笑わなかった。思慮深い瞳で僕のカンヴァスを見詰めていた。
――あなたの絵は描き手の孤独を証明しているのですわ。未来都市には、孤独な人はいないのです。
――しかしあなただって孤独なのでしょう?
女は意外にも、じきに首を横に振った。僕等は暫《しばら》く黙ったまま同じ方向を眺めていた。女は立ち上った。
――わたしもう行きます。
――またお会い出来ますか? と僕は昨日と同じことを訊いた。
女は微笑し、でもこの絵はもう完成でしょう、と言った。どこか他《ほか》にいい場所はありませんかね? と訊いた僕に、女はちょっと考え、あそこはどうかしら、と小さな声で呟きながら、船着場に近いその場所を教えてくれた。
――それじゃ明日からそこへ行って描きましょう。来てくれますね?
――ええ、いつか。明日は駄目。
女は謎《なぞ》のような微笑を浮べ、歩き出した。僕はとっさに呼びとめ、彼女は小首を傾《かし》げながら振り返った。
――僕にあなたの名前を教えて下さい。
――ローザ。
その一声がまた僕の記憶の中に波紋を喚《よ》び起し、僕は夕暮の墓地の中で、しきりと僕を揺すぶっているものを甦《よみがえ》らせようとした。さっき僕が、あなただって孤独なのでしょう? と訊いた時に、どうして彼女は首を横に振ったのだろう。それもまた、過去の何かにつながっていた。ローザ、その耳に快い響。そしてその暗い木霊《こだま》。
しかし僕は思い出さなかった。
僕の中に新しい希望が生れ、翌日から僕は船着場の倉庫の蔭に三脚を据えてローザの来るのを待っていた。海は穏かに凪《な》いで、ボートが幾艘《いくそう》も波の上に浮んでいた。ローザはなかなか来なかったので、僕は毎日、絵筆を手にするよりはぼんやり海を見詰めて時を過す方が多かった。靴屋の離れに帰っても、僕は彼女の面影ばかり追っていた。
――どうしましたね、元気がないようだ。
そう老人が訊いても、僕ははかばかしい返事をしなかった。そして老人の孫娘は、その訴えるような瞳で、僕の心の動きを見抜いているようだった。
心の動き、確かに僕の心は今やローザに捉《とら》えられていた。遂《つい》に彼女が船着場のその場所に現れた時に、僕は力を籠《こ》めて言った。
――どんなに僕はあなたを待ったことだろう。
――御免なさい。でもわたし、そんなには抜けられないの。
ローザは思いやりのある、暖い眼指《まなざし》で僕を見ていた。そこには僕の待った長い時間を帳消しにするだけの、ごく親密な感情があった。それが僕に、自然に、次の質問を用意させた。
――どうしてなんです、ローザ? どうして抜けられないんです? 僕はこんなにあなたを必要としているのに。あなたが来なくちゃ、僕はもう絵を描く張合がなくなってしまった。
――あら、そんなお弱いことじゃいけないわ。
――でも此所《ここ》で僕の絵を分ってくれるのは、あなた一人なんですよ。僕はあなたのために描いているんです。一人きりのため、それでも許されるとあなたはおっしゃいましたね。
ローザは黙っていた。立ち上ると、砂浜の方へ下りて行き、足許《あしもと》から小さな貝殻を拾い上げた。微風が彼女のスカートに戯れ、彼女の片手がそれを押えていた。
――僕はあなたと海の向うへ行きたい、と僕は言った。
ローザは僕の方を振り返り、それから黙ったまま指先で、僕の後ろの方の空を指《さ》した。僕はその示す先の方に、丘の上に白く輝くカテドラルを見た。それは屋根屋根の彼方《かなた》に、威圧するように聳えていた。
――あれは神殿でしょう、あれがどうしたんです? あそこには哲学者という不思議な人物が住んでいるんだそうですね。
――哲学者はわたしの良人《おつと》です、とローザは一息に言った。
7 実験
未来都市での僕の生活は、ローザとの時々の短い逢引《あいびき》を中心にして、僕の心にかすかな不満とはっきりしない不安との輪をひろげて行った。僕は表面的にはここの生活に馴《な》れた。靴屋の店では、老人も、靴屋夫婦も、アンナも、みんな僕に親切だった。いな、ここでは市民たちは誰も親切で、善意に充《み》ち、悪意の影も絶望の影もなかった。未来新聞と理想新聞とは、競争のように、難しい論説と新しい都市計画とに頁《ページ》を割《さ》き、科学はあらゆる領域に発展し、芸術はひたすら市民のために奉仕した。その中で僕ひとりがまったく異邦人だった。僕ひとりは、市民たちと同じ笑いを笑い同じ希望を夢みることが出来なかった。
それはローザと僕との間の愛が、その源をなしていたのだろう。ローザには良人《おつと》があり、家庭があり、たとえ僕を愛していると彼女が約束しても、二人は束《つか》の間《ま》に、慌《あわただ》しく出会って、短い言葉を取り交《かわ》すだけにすぎなかった。しかしこの愛が僕の思い通りにならないから、それで僕が不満だったわけではない。何かしら奥深い澱《よど》んだもの、自分が自分でないような不確かな感じ、それが僕に附き纏《まと》っていた。僕はちっとも未来的でない絵を描いていたが、たとえ自分の絵が絵画委員に認められなくても、そんなことはもう苦にならなかった。ローザが僕のただ一人の理解者である限り、そして僕の絵に僕自身が全力を傾けている限り、他人の評価はどうでもよかった。しかしもっと別の、どこかで、何かが間違っているという感じは、次第に僕を悩ませ始めた。ローザは確かに僕を愛していたが、それは彼女にとって良人への愛とはまったく違った、もっと別の種類のもの、何の苦しみも伴わないような愛だった。まるで一種の子供の遊びのような。それは僕を慰めはしたが、それが生命を賭《か》けた愛であるとは思われなかった。生命を賭けると僕は言ったが、この都市では、自殺とか狂気とかいうものはなかった。病気で死ぬ者さえ殆《ほとん》どなかった。多くの市民は天寿を全うして死んだ。生命はここでは安全そのものだった。
あまりにも安全な、それが僕をかえって不安にしていたのかもしれぬ。僕にはもっと不安に充ちた、生きることが常に深淵《しんえん》を覗《のぞ》き込むことであったような、ぼんやりした記憶があった。それなのに僕はそれを思い出すことが出来なかった。なぜなのだろう。僕の記憶は病院で衛生委員と交《かわ》した会話まで溯《さかのぼ》ることが出来、またその病院へ案内者が僕と悪党とを連れて来たところまで溯ることが出来た。しかし何処《どこ》から来たのか、その悪党とは何処で識《し》り合《あ》いになったのか、その点はもう消えてしまった。
僕が一番不思議に思ったのは、ここでは夢を見ることがないということだった。僕はごくたまに、ほんのきれぎれの、じきに忘れてしまうような夢を見たが、それは現在の生活の破片で、過去の僕の記憶とは関係がなかった。アンナに訊《き》いても老人に訊いても、彼等は全然夢なんか見ないらしかった。僕はこの都市に来る前に、たしか長い、陰鬱《いんうつ》な、過去の夢を見たような気がする。多分夜汽車の中ででも見たのだろう。ただそれが何だったのか、僕はもう思い出すことが出来なかった。
僕はローザと時々会い、ローザの幸福そうな顔を見ながら、その心と溶け込まないのをもどかしく感じた。この愛はもっと違ったふうにあるべきだ、と思い、この僕という人間も、もっと違ったふうにあるべきだ、と考えた。そして或る日、僕は決心してもう一度あの衛生委員に会いに行った。彼からもっと詳しく、現在の僕の存在理由を訊き出すために。
僕は病院を訪《たず》ね、そこに目指《めざ》す相手がいなかったので衛生局の建物まで出掛けて行った。この壮大なビルディングは、その一階のロビイの、素晴らしく大きな壁画の中央に、「自由・善意・希望」という標語を浮彫で示していた。僕は受附で来意を告げ、応接室に案内された。ラジオが合成音楽を響かせていた。
――久しぶりですね。此所《ここ》の生活にももうお馴れになったでしょう。
御生委員はばかに愛想がよく、人なつこそうな微笑を浮べていた。
――お蔭《かげ》さまで、と僕は礼を言い、しかし僕の描く絵はどうも未来的じゃないらしいんです、と愚痴をこぼした。
――段々によくなりますよ、と彼は楽観的に言った。どうかゆっくりして下さい、特に御用でいらしたわけではないんでしょう?
彼は呼鈴を押してお茶を運ばせ、煙草をすすめた。どうやら彼は、執務時間中に客が来て時間が潰《つぶ》れるのを悦《よろこ》んでいるらしかった(ところが実際は、僕を観察することは彼にとって重要な職務だったのだ。僕はそれに気がつかなかった)。
――僕は近頃、昔の記憶が全然なくなりましてね、と僕はやっぱり愚痴っぽく言った。恋愛をしても、幸福なことは幸福なんだが、自分が本当の自分でないような気がするんです。
――それが本当のあなたなんですよ、幸福なら結構じゃありませんか。
――しかし、何か違ったものが……。
――大丈夫です。未来都市に生活しているあなたが正真正銘のあなたですよ。あなたのケースは成功でした。我々はいつでも成功します。
――いつでも? 僕は、時々、どうして此所に来ているのか不思議に思うんです。一体どういうわけなんですか?
衛生委員はゆったりと椅子に凭《もた》れ、両手をこね廻していたが、やがて次のように喋《しやべ》り始めた。
――実は今度の改選で、私はひょっとすると委員長に選挙されるかもしれないんです。これは私の功績が大きかったためですが、特にあなたのことに関して、私の実績が認められたせいもあるでしょう。だからお礼心に、一つ私の言っていい範囲だけお教えしましょう。本当はあなたは御存じない方がいいのですが……。この未来都市が未来的なのは、人民が自由・善意・希望に充《み》ち、忌わしい情熱や、罪深い本能や、破壊的な感情に身を委《ゆだ》ねることがない、という点です。あなたもこの点にはじきに気がつかれたでしょうね? あなた御自身だって、絵は別として、次第に未来的になって来ている筈《はず》です。これは人間の頭脳が、そういう傾向を助長するように、絶えず刺戟《しげき》されているからです。
――刺戟ですって? と僕は訊き直した。
――そうですよ。衛生局は病院や研究所を監督して常に衛生管理を行っていますが、この発明は哲学者がなしたものです。原理は極《きわ》めて簡単なのです。人間の頭脳には、大脳だけでも九十億に近い神経細胞があることは御存じでしょう。これはノイロンと名づけられていますが、哲学者はこのノイロンの化学的研究をすすめて、その電波・音波・光波・放射線・宇宙線等による物理的変化をすべて実験してみた結果、異常ノイロンの破壊に遂《つい》に成功したわけです。異常ノイロンと言ってもさまざまの種類があり、一概には行かないのですが、あなたが理解するためには、精神病の治療に用いる電気ショック療法を思い出して頂けば結構です。電気ショックは確かに異常ノイロンの一部を破壊させるが、その代り患者を逆に不安にしたり、パーキンソン型運動障害を起させたりします。我々のはそれとはまったく違う。一般の、健常な人間を治療するのです。いや治療といえば如何《いか》にも患者相手ですが、これは我々すべてを対象としています。哲学者はあらゆる放射について研究した結果、遂に或る種の宇宙線放射が緩慢に行われた場合に、人間の頭脳に変化を及ぼすことを発見して、そこで人工的に、この新しい宇宙線を放射する方法を発明しました。それを我々はライプニッツの用語を借りて、Fulguration と呼んでいます。神性放射とでもいうのですかね。ライプニッツに拠《よ》れば、神は原始的な一《いち》で、すべての創造された派生的な単子《モナド》は、その生産物として神性の不断の Fulguration によって、刻々にそこから生れて来るのです。つまり我々は、この放射によって、常に新しく現在を生きつつあるわけです。
――するとそこには神があるんですか? と僕は煙に巻かれて尋ねた。
――一種の神でしょう。我々はこの発電所(というより宇宙線の発信所ですが)、それのことを神殿と呼んでいます。そこに哲学者の設計になる機械が据えつけられ、そこからこの都市の上に、昼も夜も絶え間なく、微弱な神性放射が行われているのです。この人工宇宙線は人間の五感には感じられないが、しかし我々の頭脳の中の異常ノイロンは、そのために弱められ、滅ぼされ、反対に健常ノイロンの方は一層機能が強められます。時にあなたはもう夢なんか見ないでしょうね?
――そうなんです。それも……。
――健常ノイロンはこの刺戟によって、大脳内|転轍器《てんてつき》の完全な切り換えを行います。睡眠は完全であり、覚醒時《かくせいじ》にはそれは活動的です。もっとも睡眠には、合成音楽も利《き》き目《め》があります。合成音楽が睡眠にいいことが証明されてから、芸術局のうちで音楽委員会の発言権がぐっと高まりました。
僕は合成音楽に対してはどうも虫が好かなかったから、ラジオを聞くことは殆どなかった。そこに、僕がまだ少しは夢を見る理由があったのかもしれない。衛生委員は部屋の隅《すみ》から聞えて来るラジオに、暫《しばら》く耳を澄ませていた。
――我々は、神殿から常に放射されているこの人工宇宙線によって、善に目覚《めざ》め、悪をしりぞけます。我々の中の悪《あ》しき記憶や、悪しき無意識もまた、活動することはありません。ただ、この作用はまだ微弱なので、有効範囲は未来都市の内部だけに限られていますが、これがもっと強力になって、全世界に及ぼすことが出来るようになれば、最早《もはや》世界は戦争ということを知らなくなるでしょう。この仕事には、今や哲学者が懸命に取り組んでいる筈です。科学研究所や衛生大学でも研究していますが、何といっても哲学者は最高の頭脳ですから……。
――その神殿から放射するものの効力は、絶対なんですか、つまり完全に異常ノイロンとやらを破壊できるんですか?
――例外はあります。もし非常に悪質のノイロンが働いていると分った場合には、特に病院で、患者に強力な放射を加えて異常ノイロンを一挙に破壊させます。といっても、精神病の電気ショック療法なんかと違って、全然無害で、レントゲン撮影ほどにも感じないんですよ。市民の中で少しでも思考や行動が普通でないと反省した人間は、みな自分から進んで病院に来て強力な放射を受けます。自発的意志でそうするんです。あなたも御心配なようなら、手配しておきますが。
――いや結構です、と僕は慌《あわ》てて断った。すると僕と一緒に来た悪党が受けたのも、つまりそれだったんですね?
――ほう、あの男にお会いでしたか?
――市内電車の中で二三度ね。しかしあの男は僕が誰だか全然分りませんでしたよ。
――その筈です、あの男は成功でした。しかしあなたの方も、当然忘れていていいのですがね。おかしいな。あの男の過去が悪党だと覚えているのは、人権侵害ですからね。それにあなたはまだ好奇心がお強いですね。やはり一度、病院へいらして……。
――いやそんなことはありません。僕は大人しく絵を描いているだけですから……。
僕は衛生委員に疑われない程度に、早々に引き上げた。僕は或る程度まで、自分の置かれている立場を理解した。しかし、どうして自分が未来都市へ来たのかという疑問は、衛生委員から説明してはもらえなかった。それを尋ねる相手は、僕をこの都市へ連れて来た案内者しかいない筈だ。僕は市役所や交通案内所や自治委員会や(ここでは警察というものはまるで必要がなく、自治委員会がその仕事を代行していた)、あちこちをせっせと歩き廻ったあげく、偶然に道の真中で彼に行き会った。僕は彼と久濶《きゆうかつ》を叙し、近くの喫茶店で話をした。
――僕はあなたを随分|探《さが》しましたよ。あなたはどこにお勤めなんです? そう僕は訊いた。
――行政局の秘書課ですよ。何でまた僕を探したんです?
――僕はね、どうして自分が未来都市にいなければならないのか、そのわけがよく分らなくて。
――厭《いや》なんですか、幸福だと思いませんか?
――何かこう自分が違ってしまった感じがあるんです。わけさえ分れば……。
――弱ったな。あなたは知らない方がいいんですがね。
――しかしあなたは、決して後悔はしない、平和で幸福になる筈だと約束したでしょう? ところがこの点が気になる限り、僕はここの市民になりきることが出来そうにありませんし。
――それじゃ教えましょう。ここだけの話ですよ。未来都市では、放射による有効な頭脳革命が絶えず行われていて、それが成功したために市民の全部が異常ノイロンを喪《うしな》ってしまった。つまり異常ノイロンの実験材料がなくなってしまった。そこで一歩実験をすすめるために、最も異常な悪を持った人間を一人、連れて来てみようという決議が最高会議でなされました。そして僕がその任に当ったわけです。僕はそれらしい適当な人物を探り当てた。しかしその悪党の犠牲にされそうだった人物も、絶望者として、やはり異常ノイロンの持主でした。つまりあなたのことです。それに我々はすべて善意に充ちていますから、僕もあなたを見殺しには出来なかった。放っておけば、あなたは明日にでも自殺しかねなかった。だからあの悪党と、それに僕の一存であなたと、この二人を未来都市に案内した次第です。実験はどちらも成功でした。あなただってそうして元気にしているし、僕も鼻が高いわけです。あなたが後悔なさることは何もないじゃありませんか……。
8 愛
絶望者、明日にでも自殺しかねない絶望者、それがこの都市に来るまでの僕の存在だった。今や僕は単なる実験の一材料として、緩慢な神性放射に曝《さら》されて、一日ずつ過去の記憶を喪《うしな》い、一日ずつ内部の暗い情熱を喪って行き、家畜のように大人しい一市民となるだけなのだ。その日はもうじき来るだろう。あの悪党が市内電車の車掌になったように、僕も未来的な絵を描く尊敬すべき市民として、石ころ専門の絵画委員にでもなるだろう。僕はぞっとなり、自分を取り返すための唯一の方法として、過去の記憶を思い出すことに努めた。異常ノイロンも、神殿からの魔法によって、必ず破壊されるとは限らないのだ。僕にはまだ、僕が僕自身である権利がある筈《はず》だ。その夜、僕は必死になって記憶を探り、案内者と共に過した夜汽車の中で、たしか見た筈の夢を思い出そうとした。そして僕は、遂《つい》に、夢ともなく現《うつつ》ともなく、二つの顔を思い出すことに成功した。
アンナ。その沈んだ眼指《まなざし》。僕がむかし親しくしていた可愛《かわい》い少女。しかしその彼女が、心の奥底でそれほどまで僕を愛していたとは、僕はつゆ知らなかったのだ。彼女はその愛を僕に告げようともせず、ひとりそれに耐え、ひとり決心して首をくくって死んだ。何ということか。どんなにか僕は嘆き悲しみ、返らぬ夢を追った。アンナが死に、それが傷手《いたで》となって祖父も死んだ。僕は二人の人間を、自らの意志ではなく、自らの過失によって(彼女の愛に気づかなかったことも重大な過失に違いないから)殺してしまった。その悔恨が僕の魂を暗く染めた……。
ローザ。その明るい微笑。しかし彼女には良人《おつと》があり、子供があった。どうしても離れられず逃《のが》れられないもの。彼女はその家庭を愛し、同時に僕を愛した。この矛盾、この困難、この絶望の中で、僕は苦しみ、彼女の微笑もいつしか凍りついた。お互いの心への疑惑が信頼をゆるがせ、愛はしばしば傷つけ合った。それは不可能な愛だった。僕等は一緒に逃げることも出来ず死ぬことも出来ず、お互いに愛し合っていることをよく承知していながら、ふと、理由もなく別れてしまった。心の中に、重たい澱《おり》のような愛を持ちながら……。
それが僕の前身、そして僕の回復した記憶の中の二つの顔だった。僕は深い嘆息を洩《も》らしたが、しかし僕の日常の中で、この過去の記憶は何等《なんら》働きかけるものを持っていなかった。靴屋の離れに於《お》ける僕の生活にはいささかの変化もなかった。それは依然として単調だった。老人は僕の絵の批評をし、息子《むすこ》の靴屋はせっせと働き、そのおかみさんは食事をつくり、アンナは訴えるような眼で僕を見た。そして僕には今こそ、この未来都市というものの性格がよく分ったのだ。アンナは永久に訴えるような眼で僕を見守り続けるだろう。そして彼女は、決して首をくくらないだろう。彼女が死ぬこともなく、それが傷手で老人が死ぬこともないだろう。ここでは市民は必ず幸福なのだ。アンナも自殺しないし、僕も自殺しないし、市民は誰一人そんなことを考えたりはしない。ここでは愛は常に充ち足りて、そのために生命を賭《か》けることはあり得ないのだ。そしてローザは……。
次の逢引《あいびき》の時に、僕はこの気持をローザに打明けた。僕等はその時、船着場からボートを出して、沖合から都市の方を眺《なが》めていた。全体が明るくパノラマのようにひろがり、平和な陽光を浴びて、屋根屋根や、塔や、ビルディングの白い壁がきらきら光っていた。丘の上に、神殿がそれだけ孤立して、権威の象徴のように市民たちを見下していた。
――もしあなたが僕を愛しているのなら、一緒にここを逃げよう。ここでは何かしらが本当ではないのだ。あなたは僕を理解してくれたたった一人の人だし、僕もあなたを他の誰よりも、自分よりも、愛している。しかし此所《ここ》にいる限り、僕等は次第に、生ぬるい、幸福な愛の中に溺《おぼ》れて行くだけだ。そんなものは愛じゃない。愛は、苦しみもせずに、こんなふうに都合よく生きて行くことである筈がない。ねえローザ、僕等は何処《どこ》かへ行き、二人だけで暮そう。
――でも、今のままの方がいいのよ。此所を離れたら、あなたはあたしを棄《す》てるかもしれないわ。
――決してそんなことはないよ。けれどもね、いつ棄てられるかもしれないというそういう危険な要素も、愛することの本質の中にはある筈だ。だからこそ愛が真剣なのだ。ところがあなたはいつだって安全だ。ここでは誰だって安全なのだ。僕はそいつが気に食わない、そんなものは生活じゃない。
――まるで駄々《だだ》っ子《こ》みたいね。
ローザはかすかに笑い、それから波を越えて神殿の方を見た。僕はその眼指にさえ嫉妬《しつと》した。
――一体、哲学者はどう思っているんだろう? あなたは僕たちのことを話したことはあるの?
――勿論《もちろん》あの人は知らないわ、わたしはわたしで自由ですもの。それに知ったって、あなたみたいに嫉妬なんかしないことよ。それは未来的な感情じゃないから。
――つまり異常ノイロンか、と僕は悪口を言った。あなたはその人を本当に愛しているんだろうか?
――あの人は人類の未来にとって大事な人なのよ。人類が戦争と狂気とによって滅び去ってしまわないためには、あの人の実験がもっともっと成功しなければならない筈よ。わたしは心からあの人を尊敬しています。
――じゃ僕は? これは愛ではないと言うのかい、これは単なる遊びなのかい、ローザ?
僕等は小刻みに揺れているボートの上で、ひっそりと黙り合っていた。愛し合っていることは分っている。しかしこの沈黙は僕には我慢がならなかった。僕はまだ未来都市の市民じゃない。僕は僕だ。たとえ昔の僕が意志薄弱な、投げやりな、諦《あきら》めやすい人間だったとしても、今の僕は意志的であらねばならぬ。たとえ昔(僕の朧《おぼろ》げな記憶の中で)ローザと僕とが為《な》すこともなく別れたとしても、今の僕はローザと別れることは出来ぬ。僕はどうしても逃げ出すのだ、彼女と一緒に此所から。彼女が僕を選びさえすれば……。
――ローザ、もしあなたが哲学者も尊敬し僕をも愛しているというのなら、僕はそういうのは厭《いや》だ。愛するというのは選ぶことだよ、選ぶために苦しみ、選んだことによって苦しむことだ。そして選んだ以上は、自殺の危険も、発狂の危険もあるそういう血みどろの場所で、心と心とが争い、ぶつかり、そしていたわり合って、少しずつ成長するのじゃないだろうか。僕はひと思いに選んでほしいんだ、あなたの良人か僕か。あなたの良人の側には、めぐまれた地位、暖かい家庭、経済的な豊かさ、それこそ病気も貧乏も知らない未来がある。僕の側には、ここから逃げて行くための冒険、危険と恐怖と不安と、そして喪ったものへの悔恨と、とにかく未来とは違ったもの、現実がある。しかしそこには愛もあるんだ。どっちを選ぶ?
彼女はじっと沖の方を見詰め、それから僕の顔を見、そのまま眼を動かして陸の方、神殿が白く聳《そび》えている未来都市の方を見た。それは渾沌《こんとん》と虚無とを象徴する海と、平和と繁栄とを約束する都市との間で、決心のつかない彼女の心のためらいを示しているようだった。
――わたしにはきめられないわ、と彼女はやはり微笑を含んだ声で言った。
――そうか、それじゃ僕が哲学者に会ってみよう。
不意にローザの顔に素早い動揺が現れた。彼女はすぐさま僕の方を振り返った。
――何のために?
――君には選べない、とすれば僕と哲学者とが、お互いの愛の強さを較《くら》べてみるほかはないじゃないか。決闘だよ。
――そんなことは出来ないわ。
――出来ない筈がない、それがあなたにとっても一番いい証明になるよ。
――いいえ、あの人は、良人は、謂《い》わば全能者なのよ、何ひとつ出来ないということのない人、とても勝負になんかならないわ。そんな馬鹿なことは止《や》めて頂戴《ちようだい》。
――愛することは別だ。僕は決して負けはしないさ。
――でももしや何か危いことが……。
――あなたは此所《ここ》が未来都市で、人は誰しも善意しか持ち合せていないことを忘れているのだ。何の危険もある筈はないじゃないか?
――いいえ、わたしはあなたが負けるのが怖《こわ》いのよ、そしたらあなたは……。
――自殺するか、と僕は呟《つぶや》いた。
長い間忘れていた言葉の、その奇妙な意味。もしもローザを喪うとすれば、それはこの人生をも喪うということなのだ。昔は、僕等は別れ、別れたあとには搾《しぼ》り取ったオレンジのような、乾《ひ》からびた人生しか残らなかった。僕に、そして恐らくはローザにも。喪ったあとになって、喪ったものが如何《いか》に大きかったかを知ったところで、それが何になろう。
――ねえローザ、あなたは思い出さないかい、僕たちは、昔(前世で、と言った方がいいかもしれない)二人とも愛し合い、あなたには良人と子供との幸福な家庭があり、僕は絶望した芸術家だった。そして二人はつまらないことで別れてしまい、それから別々に後悔の重みを量ったのだ。そんなことをもう一遍繰返して何になる? 昔失敗したように、また失敗して何になる? 僕は厭だ。ローザ、あなたにそれが分らないのか?
9 哲学者
僕がローザを説得して、一緒にこの未来都市から逃げ出すことに相談がきまるまでに、尚《なお》も幾日かかかった。僕の熱心さが遂《つい》に彼女の心を動かし、僕等は二人だけの生活を求めて、未来都市の外へ、この神性放射の働く土地の外へと出発することに同意し合った。僕等は会うたびに、城門から出て行くのはどうも危険なような気がするとか、しかし城門以外に出る道はないとかいうことを話し合い、地図を研究して、結局、浜辺《はまべ》に沿って海を行き、未来都市を出はずれたところで陸地に上り、そこから何とか一番近くの汽車の停車場へ行く計画を立てた。それにしても、ボート以外に適当な船便もなく、また人に知られることはローザの身分上、危険なようにも感じられたから、ボートに載せられるだけのほんの身の廻りの品だけしか持って行かないことにした。僕はもともと裸同然でこの都市へ連れて来られたのだし、ローザの方も慾張りではなかった。そして二人が計画を立てている間じゅう、ローザはいつもの明るい瞳《ひとみ》を少しも曇らせることがなかった。子供が遠足にでも行くような、ごく無邪気な、嬉《うれ》しげな表情を浮べて。それが僕の愛に対する信頼を証明するもののように見えた。
その日、僕は朝早く起きた。僕は靴屋の一家にそれと気がつかれないように、身一つで消え失せるつもりでいた。勿論《もちろん》今までの恩恵を思うと、礼も言わずに出発することは良心が咎《とが》めたが、もし僕の出発を彼等が人に洩《も》らすことがあれば、僕はとにかく、ローザは当然引き戻されてしまうだろう。僕は今までに此所《ここ》で描いた幾枚ものカンヴァスが、絵具の乾《かわ》いたのも乾かないのも、乱雑に壁に懸《かか》っているのを一種の感慨を以《もつ》て見詰めた。どれも未来的でない絵だ。老人は首を横に振りながら、きっと塗り潰《つぶ》してしまうだろう。それとも一枚ぐらいは、不思議な旅人の形見として、保存しておいてくれるだろうか。
僕が自分の絵に別れを告げ、住み馴《な》れた薄暗い部屋の戸を開くと、そこにあの小さな、泣き顔のアンナが立っていた。
――行ってしまうの? と彼女は言った。
僕は当然、嘘《うそ》を吐《つ》いて散歩に行くだけだとか何とか口にすべきだった。しかし僕には嘘は吐けなかった。僕は僅《わずか》に首を振って頷《うなず》いた。
――あの人と一緒に?
僕は再び頷いた。どうしてそんなことまで知っているのだろう。アンナは暗い瞳で、少し上向き加減にじっと僕の方を見た。神秘的な影が、その瞳の底で揺らいだ。
――幸福になれるわけでもないのに……。
その言葉はよく聞き取れなかった。僕は素早く考えた。人は幸福になるために愛するのだろうか、それとも、ただ盲滅法に走り出すように愛に飛び込むのだろうか。僕はそっと彼女の細い肩に手を置いた。可愛《かわい》いアンナよ、君には分らないのだ。
――じゃさよなら、アンナ。
――さよなら。
僕はもう振り向かず、石甃《いしだたみ》の細い路地を船着場の方へと急いだ。約束の場所は、ローザが写生にいいといって最初に教えてくれた砂浜だった。建物に遮《さえぎ》られて、そこまでは朝日の落ちない薄暗い路地を突き抜けると、眼に痛いように海と砂とそして太陽の輝く空とが、僕の前に一面にひらけた。僕は食料品を入れた小さな包みをボートの中に積み込み、ボートの日蔭《ひかげ》の側《がわ》に倚《よ》りかかって坐った。そしてローザの来るのを待っていた。
太陽は次第に中天に達し、砂は熱く焼け、東風が頬《ほお》のほてりを冷やすように吹きつけたが、彼女は来なかった。気が変ったのか、それとも哲学者が……。僕は緊張のあまり膝《ひざ》ががくがくするのを覚えた。不安、これは久しく僕の忘れていた感情だった。
午後になってもローザは現れなかった。僕は何度も、屋根屋根の彼方《かなた》に、謎《なぞ》のように聳《そび》えている神殿を眺《なが》めた。そして僕は遂に決心し、砂浜を後にし、タクシイを見つけてそこへ出掛けて行った。
車が次第に街を離れて丘の中腹のうねった道を登って行くにつれて、白い石と褐色《かつしよく》の煉瓦《れんが》とを積み重ねたカテドラルの正面が、僕を威圧するように迫って来た。車はその正面に達すると、横庭に廻って、蔦《つた》の絡《から》んだ、煉瓦づくりの僧院の入口に止った。僕は車から下り、入口で案内を乞《こ》うた。黒っぽい長衣を着た僧侶《そうりよ》ふうの男が、中庭の見える廻廊を通って、僕を夫人の私室に導いた。中庭の空から燕《つばめ》が一羽、礫《つぶて》のように舞い下りて来るのが見えた。
僕は採光の悪い、しかしよく整えられた部屋の中で待たされた。漸《ようや》くローザが姿を見せた時に、彼女は昨日見た時とは別人のようにやつれ、顔色もすっかり蒼《あお》ざめて見えた。しかし、それは彼女の着ていた白いチュニックのせいだったかもしれない。彼女はその唇《くちびる》にいつもの微笑を浮べたが、それは直に凍りついてしまった。
――ローザ、と僕は一言|呟《つぶや》いた。
彼女は僕の胸に倒れかかって来た。
――わたし、やっぱり駄目だった、と彼女は喘《あえ》ぐように言った。どうか怒らないで。
――僕は怒りはしない。しかしどうしてなのだ、どうして気が変ったのだ?
――わたしにはあの人を見棄《みす》てて行くだけの勇気がないの。わたしを愛しているあの人の信頼を裏切ることは出来ないわ。
――問題はあなたの良人《おつと》じゃない、あなただよ。あなたの愛しているのは誰だ? 僕じゃないのか?
ローザは答えなかった。彼女は僕の胸に顔を埋めたまま、小刻みに顫《ふる》えていた。僕はやさしく彼女の背中を撫《な》で、窓の外に、燕が鋭い叫び声を上げて飛び交《か》うのを眺めていた。僕はそっと彼女の身体《からだ》を押し離した。
――どうなさったの? と息を呑《の》んで彼女が訊《き》いた。
――僕は哲学者に会う。
彼女は悲鳴のような声をあげた。しかし僕の決心はゆるがなかった。
哲学者は僧院の一番奥の書斎に、ひとりだけ机に向って腰を下していた。その大きな部屋はあまりにひっそりしていたので、初めは人がいるのかどうかも分らない程だった。おびただしい量の書物が、人類のあらゆる智慧《ちえ》を集めて、周囲の書棚《しよだな》から眼を光らせていた。この書斎には黴《かび》くさい学問の印象はなかった。書物も、人も、潜在的な活動力を隠し持ってひそかに息づいていた。
哲学者は僕の想像していたような老人ではなかった。僕がドアを押して中にはいった時に、彼は机からおもむろに顔を起したが、その眉《まゆ》は濃く、その眼光は鋭かった。
――君は誰だ? と彼は太い声で尋ねた。
――あなたが哲学者ですね、つまりあなたが独裁者ですね? と僕の方も訊いた。
――私は独裁者ではない。私は最高会議のメンバーの一人というだけだ。
――しかしあなたがこの神殿とやらを作ったのでしょう? 緩慢な Fulguration とやらで市民を奴隷《どれい》的精神状態に追いやる発明も?
――奴隷ということはない、市民はすべて自由だ。君は何か誤解している。
――自由じゃありません。僕にはもう自殺する自由も、狂気になる自由もない。
――そんなものは自由ではない。哲学者はそう言うと、かすかに笑った。君は此所の市民ではないな、それでなければ自殺する自由だなどと馬鹿なことを言う筈はない。
――僕は実験材料にこの都市に連れて来られた男ですよ。僕はただ、此所では何か間違っていると言いたいだけです。少くとも僕にはね。僕はこういう善意や自由は信用できない。此所のラジオや新聞や合成絵画などは我慢がならない。
――しかし、人類はこういうふうに進歩して行くのだ。どうして君には分らないのだ、悪のない人間、罪のない人間、余計な自意識や、過去の失敗や、無意味な宗教や、そういうものに煩《わずら》わされず、学問と芸術と日々の生活を愉《たの》しんでいる人間、これが人類の理想なのだ。私がその理想を実現させつつあるのだ。
――つまりあなたが神だと言いたいんだ、思い上った傲慢《ごうまん》な神だ。
――私は一人の科学者、広い意味の哲学者というにすぎない、と相手は冷静に答えた。私は有効な発見と発明とによって、少しでも人類の進歩に役立ちたいと考えているだけだ。私は人類というものを、窮極の善に向って進みつつあるものと考える。私はそれを促進させたいだけだ。
――しかしそれは、人間が一人ずつ、自分自身で解決すべき問題です。悪の部分を機械的に抹殺《まつさつ》して、それで残りが善だとどうして言えます? 人間は善と悪とを弁証法的に繰返して、ほんの少しずつ、善の方に進んで行くものです。
――私はそれをもっと早く、もっと確実に処理しようと思ったのだ。私は宇宙線を初めさまざまの放射線の研究に長い時間を掛けて、遂《つい》に一種の宇宙線が異常ノイロンを破壊せしめ得ることを発見した。異常ノイロンの破壊、これは久しい間の人類の夢だった。宇宙線というものは、久しく謎《なぞ》として扱われて来たが、その中にあらゆる生物の脳細胞を善の方向に向わせる因子がある、また悪い遺伝子を絶滅させる能力があることを、私は発見したのだ。その次の仕事は、人工的にこの宇宙線を作り出すこと、それを放射して人類から一切の異常ノイロンを抹殺することだった。私は人類の夢に奉仕する一人の哲学者として、この都市の人たちを幸福にしてあげた。この都市には、異常ノイロンを持つ人間は一人もいない。
――そんな筈はない。じゃ僕はどうです? 僕は今でも悪を為《な》すことが出来る、自殺することも出来る。
哲学者は笑った。
――君はこの都市にいる限り、決して悪を為すことはない。勿論自殺なんか出来ない。君は病院で強力放射を受けたことがないらしいから、君の異常ノイロンは完全に破壊されてはいない。だから色んなつまらないことも考えるのだろう。それにまだ滞在期間も短いらしいから、Fulguration の方も充分に働いていないかもしれない。しかし君に出来ることは、せいぜい許される範囲内の悪、つまり夢を見たり、過去を思い出そうとしたりすることだけだろう。
僕はそれを聞いているうちに、何だか頭がくらくらして、自分が先生の講義を聞いている幼い中学生に戻ったような気がした。ローザと一緒に逃げようと計画したのは、あれは悪ではなかったのだろうか。しかし、と僕は直に気がついた、その計画は現にまだ実現されてはいないのだと。
――しかし、しかし、と僕は夢中になって反撥《はんぱつ》した。それじゃあなたはどうです、あなたは強力放射を受けたんですか? あなたの異常ノイロンは完全に破壊されているんですか?
――私は強力放射を受ける必要がない。あれは自分自身に対して自信のない人だけが受けるものだ。
――それならあなたには過去の記憶というものがある筈だ。あなたのような偉大な頭脳が過去の記憶を完全に忘れ去る筈がないもの。
――私には忌わしい記憶はない。
――罪の意識もないと言うんですか? それならお訊きしたいけど、あなたは人工宇宙線による異常ノイロンの破壊という発明を、化学的・物理的実験なしに、単なる理論だけでやってのけたんですか? そんな筈はないでしょう。人間の頭脳が研究対象である以上、動物ではない人間が、実験材料に使われた筈だ。え、あなたは僕と一緒に凶悪な人殺しを未来都市に連れて来させた。それも実験のためです。しかしこの実験はまあ無害だった。もっとも僕はそれだって、人格に対する一種の侵害だろうと考えますよ。しかし、もっと以前に、研究が始められた頃に、あなたはどういう実験をなさったんです?
哲学者はそこで初めて沈黙した。
――未来都市では、人は決して嘘を吐《つ》かないと僕は教わりましたが。
哲学者は重々しく口を開いた。
――人類の夢を実現させるためには、多少のことは許されると私は信じた。
――それがあなたの論理なんですか? 神ならば許されるかもしれない。しかし人間には、決して許される筈がありません。
――私はそうは信じない。
――もし人間が理想世界をつくるために、同じ人間を材料にしてまで実験を試みる必要があるのなら、そうしなければ進歩が生れないのなら、僕は永遠に愚昧《ぐまい》な、悪徳と狂気とに充《み》ちた存在のままでいた方がいいのです。
――私はそうは信じない。
哲学者は再び沈黙した。長い時間が経《た》ち、彼はそれまで閉じていた眼を開いた。
――君は何のために私に会いに来たのだ? 何を求めているのだ?
僕は一歩前に進んだ。
――僕はあなたの奥さんを、自分の命を捨てても悔いないほど愛しています。あなたには、あなたの研究がある、あなたの未来都市がある。もしあなたがあの人の幸福をお考えになるのなら、どうか僕と一緒に行かせて下さい。
――それは不幸になるだけだ。ローザは此所で、私と一緒にいる方が遥《はる》かに為合《しあわ》せなのだ。
――しかし僕の方が、あなたよりも深くローザを愛しています。たとえ不幸になったとしても、僕たちはそれでいいのです。愛はもっと真剣な、不安な、絶望的な欲求なのです。
――愛は平和な、静かなものだ。
――しかし僕は彼女のために死ぬことが出来ます。
深い沈黙が、哲学者と僕との間に深淵《しんえん》のように開いた。
――馬鹿げている、とぽつりと哲学者が呟いた。そんな愛が何になる?
――愛は目的なんか持ちません。
哲学者は天井の方を向き、
――ローザの方はどうなのだ? と訊いた。
僕は哲学者が眉間《みけん》に鋭い皺《しわ》を寄せて、じっと眼をつぶっているのを見た。彼は同じ問を繰返したが、それは如何《いか》にも答を待っている者のようだった。
――ローザは僕を愛しています。
しかし沈黙の底知れない深さに、慄然《りつぜん》となって僕が視線を動かした時に、僕はいつの間に来たのか、ローザが白いチュニックを纏《まと》って、幽霊のように書斎の隅《すみ》に立っているのを見た。
――ローザはどうなのだ?
その答は、明るく、強く、部屋の中に響き渡った。
――わたしはこの人を愛しています。わたしを一緒に行かせて下さい。
彼女は塑像のようにびくとも動かず、哲学者の方も身じろぎ一つしなかった。そのうちに哲学者は仰向いていたその顔をゆっくりと俯向《うつむ》かせ、やがてローザと僕との方を見詰めた。その射るような眼指《まなざし》は、彼女と僕とを交《かわ》る交《がわ》る見据えたが、そこに燃えているものが何なのか、如何なる意志なのか、僕には分らなかった。僕は哲学者が何と答えるか、固唾《かたず》をのんで待ち構えていた。やがて彼は重々しく口を開いた。
――それなら行くがよい。もしお前たちがこのことを私に言い出さなかったなら、お前たちの善意は決してお前たちを行かせなかった筈だ。しかし、賽《さい》は投げられた。行け。早く。私に残された少しばかりの悪が私を裏切らないうちに。
10 終曲
大型のボートは船着場を離れると、生き物のように滑《すべ》り出した。僕は必死になって漕《こ》いだ。もしも哲学者の気が変り、彼の異常ノイロンが少しでも働き出せば、僕等二人は直に追手に掴《つか》まってしまうだろう。既に夕暮が近く、太陽の傾いた光線が海の面を赤々と染め始めた。僕が漕ぐたびに、飛沫《しぶき》が舷側《ふなばた》に飛び散り、ローザの髪や頬《ほお》を濡《ぬ》らした。彼女は小さなハンカチで、短く切った髪を拭《ぬぐ》い、心配そうに陸の方を見た。僕も疲れた手を暫《しばら》く休めると、振り返って未来都市の方を眺《なが》めた。山の端《は》に今しも太陽が沈んだところで、丘の上の神殿は血のように赤く染っていた。空は無気味なほど凪《な》ぎ、海の上にもゆるやかなうねりがあるばかりだった。海鳥が奇妙な啼声《なきごえ》を立てて僕等の上を飛んで行った。
僕は方向を変え、陸に沿って更にボートを漕ぎ進めた。ローザの顔に、いつもは見られない不安そうな翳《かげ》が滲《にじ》んでいた。海の表に、漸《ようや》く少しずつ夜がくだり始めた。
その時だった。思わず舟ががくんと揺れたほどの烈《はげ》しい衝撃が、一度、二度、三度、相継いで起った。ローザが悲鳴をあげ、その身体《からだ》が横に倒れ、危く海の中に落ちそうになるのを、僕は声にならない声で呼びながら、とっさにオールを放し、彼女の足許《あしもと》を抑《おさ》えつけた。しかし彼女が悲鳴をあげたのは、自分の危険のためではなかった。彼女のわななく指が、陸の方を指《さ》していた。
そして僕は見た。宙に火を噴《ふ》きあげて、神殿が、あの白いカテドラルが、真二つに割れ、崩《くず》れ落ちて行くのを。それは火を噴きながら丘の傾斜面を転《ころが》り落ち、その麓《ふもと》にある街を、今や火焔《かえん》で包んだ。空高く、黒煙が猛烈な早さで昇《のぼ》って行った。都市全体は騒然たる空気に包まれ、刻々に忍び寄って来る夜の中で、丘と、その周囲の森と、麓の街とが、見る見るうちに火の手をひろげて行った。早くもここまで、物の焼ける臭《にお》いが漂って来た。
――あの人は死んだ、とローザが呟《つぶや》いた。
僕は彼女の身体をしっかと抱き締めてやった。それでも彼女はいつまでも顫《ふる》え続けた。僕等はそうしたまま、ボートが波のまにまに漂うのに任せながら、未来都市の崩壊して行く有様を眺めていた。
哲学者は自ら死を求めたのだ、と僕は考えた。自らの死と共に、彼の愛した未来都市、この人類の夢をも道づれにして。それは彼の中の忌わしい記憶、恐らくは生体実験に関する記憶が、彼に甦《よみがえ》ったせいだろうか(それを甦らせたのは僕だ)、それとも、妻がいなくなってから初めて、喪《うしな》われたものの大きさに彼が絶望したためだろうか(彼女を奪ったのも僕なのだ)。善のために建設された筈《はず》のこの都市が、その発明者の異常ノイロンの中に残っていた僅《わずか》ばかりの記憶、僅ばかりの絶望というこの悪のために、こんなにもあっけなく崩壊してしまうとは。それもこの都市に紛れ込んだ、一人の絶望者の行動と言葉とから。僕がこの時感じたのは、実に何とも言えぬ空《むな》しさだった。この上もないような空しさだった。ローザも、ローザさえも、この僕の感じている空しさを埋めることは出来なかった。
僕はオールを握り、機械的に漕ぎ始めた。ローザは悲しげに首をうなだれていた。夜は完全に海を覆《おお》い、未来都市を燃し続ける火災もいつしか見えなくなり、僕等二人を乗せたボートは、暗い波の上を行方《ゆくえ》も知らず進んで行った。
[#改ページ]
[#小見出し] 廃市《はいし》
……さながら水に浮いた灰色の棺《ひつぎ》である。
北原白秋「おもひで」
木立の間に細い月が懸《かか》って梢《こずえ》や枝を影絵のように黝《くろず》ませていたから、河はただ河明りによってそれと知られるだけだった。僕はしかし河の音がひっきりなしに聞えて来るのを、いまいましい気持で耳にしながら、その方向を見定めていた。夜はもう晩《おそ》く、町は寝しずまって、聞えて来るのは河音ばかり、月があっても此所《ここ》からは水の表に反射する月の光を見ることが出来なかった。僕は舌打ちをしてぼんやりと縁側の欄干に凭《もた》れていた。誰にでもそんな経験はあるだろう。旅に出てその最初の晩に寝つかれないというようなことが。僕の場合にはそれは河の音だった。庭のすぐ向うが大河《おおかわ》で、そのゆるやかな水音は夕方此所に着いた時にはさして気にも留めなかったのだが、枕《まくら》に就《つ》いてからは途方もなく大きく聞えた。初めはそれでも、時々そこを漕《こ》ぎ渡って行く小舟の櫓《ろ》の音などが風流めかしく、ああこれでは直《じき》に眠れるな、疲れてもいるのだから、と思っていた。しかし夜が更《ふ》けるにつれ、頭は一層|冴《さ》えて、とても眠れそうになくなったので、団扇《うちわ》を手に蚊帳《かや》から出て、雨戸を一枚そっと繰り、ぼんやり表を眺《なが》めるということになった。その時、僕は遠くで女の泣声らしいものを聞いたのだ。多分|母屋《おもや》の方でだと思ったが、方角ははっきりとは分らなかった。悲しげに喘《あえ》ぐような声が、細く長く続いてぞっとするような鬼気を感じさせた。まだ若い月を雲が隠したり現したりしながら流れて行った。夜気がしんと降りて暑いとは感じなかった。僕はじっと耳を澄ませていた。
それはもう十年の昔になる。その時僕は大学生で、卒業論文を書くために、一夏をその町のその旧家で過した。勿論《もちろん》初めからそんな遠くの、一度も行ったことのない町なんかに出掛けて行くつもりはなく、安くて静かで勉強の出来そうな宿屋さえ見つかれば何処《どこ》でもよかったのだが、それがそう簡単には見つからなかった。そこにたまたま親戚《しんせき》の者がその町の話をして、識《し》り合いの家があるからと紹介してくれた。僕が叔父《おじ》の話を直に信用して、わざわざ遠くへまで出掛けて行ったのは、叔父の話の中に、その町なり、その家なりについて何か僕を惹《ひ》きつけるものがあったからに違いない。しかし僕はもうそれを忘れてしまった。青春というものは何と早く過ぎ去り記憶を消し去ってしまうものか。毎日忙しい事務を執る身ともなれば、そういちいち昔のことを思い出す必要もなく暇もないのだ。僕がたまたま新聞紙上で、その町が火事になって町並はあらかた焼けたという記事を読まなかったならば、僕は今更こんな古びた記憶を探りさえもしなかっただろう。僕はそれを読みながら、僕がその町で識り合った人たちのことを思い、あの町もとうとう廃市《はいし》となって荒れ果ててしまったのだろうかと考えた。もともと廃墟《はいきよ》のような寂しさのある、ひっそりした田舎《いなか》の町だった。
僕は鞄《かばん》の中に参考書や着替などを詰め込み、ぶらっと汽車に乗ってその町へ出掛けた。その当時は若さが僕にどんな無鉄砲をも許していたし気紛《きまぐ》れな行動を両親が心配することもなかった。僕は叔父から聞いた通りにその町で汽車から降り、かねて教えられた貝原という旧家を訪《たず》ねた。それは夏の初めの日射《ひざし》の強い日の午後で、やっと訪ね当てた時には汗びっしょりになっていた。
いくら僕が無鉄砲でもあらかじめ手紙で先方の意嚮《いこう》は聞いておいたのだが、堂々たる門の中に木深い庭に囲まれたどっしりした昔ふうの建物を見た時には、さすがに少し足がすくんだ。しかし名前を通じると、若い女がすぐに長い廊下を通って離れのようなところへ僕を案内した。僕にあてがわれたのは離れの二階で、縁側から庭を見下すその先に大河が流れていた。風呂にはいって部屋に戻ると、日が落ちて涼しい風が吹き込んでいた。
記憶というものは少し時間が経《た》つと鮮明ではない。僕はこの夏の或る部分は極《きわ》めて鮮《あざや》かに、昨日のことのように覚えているが、しかし全体に渡ってぼんやりと霧の滲《にじ》んだような記憶しか持ち合せていない。例《たと》えば僕が着いたその晩、給仕に出ていたのが誰だったのか、多分女中さんだったとは思うが、しかしひょっとしたら最初の時から安子さんが僕の世話をしてくれたのかもしれない。僕がいま思い出すのは、その最初の晩に僕がいつまでも寝つかれなかったこと、そして夜中にかすかな泣声を聞いたということ、そしてあの細く中空に懸っていた月のことばかりだ。
あくる日から僕は自分に課した日課を、即《すなわ》ち参考書を読みノオトを取る仕事を始めた。この夏のうちに論文の執筆にかかりたいと思っていたし、それにはまだ眼を通さなければならない書物も残っていたから、気楽な気分ではなかった。しかし何といっても夏で、そんなに本ばかり読んではいられない。昼寝をすることもあれば散歩に行くこともある。この離れの二階は確かに風がはいって涼しく、決して凌《しの》ぎにくくはなかったが、それでもやはり厭《あ》きた。そこで昼寝から覚《さ》めて、夕方の涼気が僕を誘うようにすると、僕は夕食前のひと時をぶらりと町中に出掛けて行くのが、いつのまにか日課のようになってしまった。
僕が今でもその夏のことを思い浮べると、真先に眼に浮ぶのは、水の多い、ひっそりした、その町の風景である。水の都というのは古都ヴェニスのことだが、(勿論僕はヴェニスに行ったことはないが)この小さな町も或る意味では水の町と呼んでもよかっただろう。町のほぼ中央に大河《おおかわ》が流れ、それと平行して小《ちい》さ川《がわ》と呼ばれる川が流れ、その両方の間を小さな掘割が通じていて、それらの人工的な運河は町を幾つにも区切っていた。どうしてそんなに沢山の掘割があるのか不思議なほどで、それは両岸を石垣《いしがき》で築かれて、あるかないかのゆるやかな水脚《みずあし》を示していた。その石垣の上に昔ふうの二階家が建っていたり、柳や竹の多い庭があったりして、小舟がその下を漕ぎ渡って行った。夕暮になると、町の人は舟に乗って夕涼みを愉《たの》しむらしかったが、舟は町中の交通にも使われている模様だった。通りを抜けて歩いて行くよりも、舟の方が早くて確実に目的地に着けるということもあったし、荷物などを運ぶにも便利だった。それというのも、この町の道幅はどれもこれもひどく狭くて、自動車が擦《す》れ違うことを許さなかったし、電車というものもなかった。自転車の数も少くて、要するに道というものに、町の人はあまり重要性を認めていなかったのだ。それ位、町の中を掘割が縦横に通じていて、どこの家でも小舟を持っていた。
しかし僕は、足にまかせて夕暮の町を歩いた。何という古びた、しかし美しい町だったろう。戦争の間に一度も空襲を受けたことがないという話だったが、こんな非生産的な、歴史の中に取り残されてしまったような小さな町を、アメリカの飛行機が焼く筈《はず》もなかった。店はどれもひっそりして、そのたたずまいに古風な趣きを残していた。呉服屋や染物屋や経師屋《きようじや》などが多かったが、刀剣や刀の鍔《つば》や骨董《こつとう》などを商う店も少くなかった。寺もいくつかあった。町の全体が一種の歴史博物館の趣きを有し、例えば洋燈《らんぷ》などが日常品のように骨董屋の店先にたくさん飾られていた。僕はそういうのをいちいち覗《のぞ》き込んでは、ふと自分がイギリス文学などを専攻している大学生であることを忘れてしまった。
道は細くてくねくね曲り、またどっちへ曲っても必ず石づくりの橋へ出た。それはまるで初めに川或いは運河があり、それだけでは不便なあまり道をつけたとしか思われなかった。橋の欄干の両側に必ず街燈が立っていてその灯影を水に映していた。そこに電気が点《つ》いていれば、ああもう遅い帰ろうと思って、僕は道を戻り始めるのだ。夕暮には物を焼く匂《におい》が町々を籠《こ》めて、物侘《ものわ》びしい静けさを漂わせた。
町が古いように、僕の泊っていた貝原家のおばあさんも、如何《いか》にも由緒《ゆいしよ》ありげな媼《おうな》だった。僕は着いた日の翌日、母屋の奥まった座敷へと案内され、そのおばあさんに挨拶《あいさつ》をさせられた。大きな仏壇のある、外光の少しも射《さ》さない、陰気な黴《かび》くさい部屋で、仏壇を背に、脇息《きようそく》に凭《もた》れて、まるで古めかしい木彫の人形のように、お年寄が坐っていた。僕はお辞儀をして、そしてしげしげと彫の深いその顔を眺めた。おばあさんから僕の叔父の消息などを訊《き》かれたが、僕はそそっかしくて叔父とこの旧家とにどんな関《かかわ》り合いがあるのか、よく聞いて来なかったので、どうも話がうまく合わなかった。それから僕自身のこと、大学のことや卒業論文のことなどを僕が話す番になったが、この方も多分おばあさんには通じなかっただろう。側《そば》についていた孫娘がしきりに説明を補足したが、彼女はともすれば笑ってしまうので、僕もつい話のとんちんかんなのに吹き出した。おばあさんはこの家に生れ、この町で暮し、町から汽車に乗って何処かへ出掛けるということがなかったらしかった。だから僕が都会の生活をどんなに説明しても、なかなか理解しにくかったわけだ。そして僕はいつの間にか、よく笑う孫娘のほう、つまり安子さんの方に気を奪われていた。
大きな家だったので雇われている女中たちも幾人かいたが、僕の世話をするのは安子さんの役目になっていた。それは二十歳《はたち》そこそこの快活な娘で、この陰気な家には不似合なほど若さを蒔《ま》き散らしていた。彼女は僕の勉強中にもとんとんと軽い跫音《あしおと》を立てて階段を昇って来ると、まず、お邪魔かしら、と訊き、それから用意して来たお茶の道具や果物などを机の上に置いた。この家ではいつもお茶が作法通りに出て、実を言えば僕の方は夏の盛りには冷たい水でも飲ませてもらった方が有難かったのだが、ついかしこまってお茶を頂くということになった。つまり安子さんは気の置けないお嬢さんには違いなかったが、水を下さい、と言うだけの勇気を僕に与えないだけの、どこかつんとした格式張ったものを持っていた。最初の晩のあの女の泣き声が誰であるか、それも僕の敢《あえ》て問いただせなかったことの一つだった。それでも安子さんは色んなお喋《しやべ》りをしてくれたから、僕に大体の見当はついた。
この大きな家はすこぶる無人で、雇人たちを別にすると、おばあさんの他《ほか》に若夫婦と安子さんとが住んでいるだけだった。若夫婦というのは、安子さんの姉である郁代《いくよ》さんと、その連れ合いでこの貝原家に養子に来た直之《なおゆき》さんとを指《さ》していた。しかも不思議なことに、僕はその話を聞くまで、この家の中に若夫婦が住んでいることをちっとも気づかないでいたのだ。いつぞやの泣き声は、その郁代さんの声に違いない、と僕は考えた。その他に心当りの人物はいなかったし、快活な安子さんが泣くなどということは想像も出来なかった。しかし何故《なぜ》だろう。泣くようなどんな理由があるのだろう。僕の関心は自然にそこに向った。
おばあさんの連れ合いは、旧家にふさわしい立派な人であったらしい。しかしその人が死んで息子《むすこ》の、つまり安子さんたちの父の代になると、貝原家の羽振《はぶ》りも昔のようにはいかなくなった。この人は色んな事業に手を出し、結局はどれも成功せずに数年前に亡《な》くなった。従って現在では、直之さんが養子に来てこの家を盛り立てようとしても、手のつけようがない程衰微してしまった。それに直之さん自身も、養子に来た初めの頃の気力を失って、名義ばかりの会社をやっているものの、とかく遊興に耽《ふけ》っているらしい。安子さんも姉夫婦のこととなると、ばかに口が重くなって自分から進んで説明しようとはしなかったし、僕が尋ねてもすぐにはぐらかしてしまった。
「初めの頃は何ということはなかったんですの。お姉さんはわたくしなんかと違ってお雛《ひな》さまのように綺麗《きれい》で、直之さんと並ぶとそれはお似合の御夫婦でした。けれどもねえ。」
けれどもどうなのか、安子さんは言葉を濁してそのあとを続けなかった。
夜おそく寝床に入る前に、僕は雨戸を繰りながら、縁側の手摺《てすり》から母屋の方を窺《うかが》った。そこはいつもひっそりしていて、もう女の泣き声の洩《も》れることもなく、人声一つ聞えなかった。庭の木立がしんとしずまり返り、蛍《ほたる》がすいすいと間を飛び交《か》っていた。大河は仄《ほの》かな河明りを漂わせて休みなく流れていた。どんなに綺麗な人なんだろうか、その郁代さんというお姉さんは。恐らくは物静かな、和服のよく似合う、小づくりな人なのだろう。この古びた町にふさわしく、この旧家にふさわしいような。そして僕は残り惜しげな気持で、雨戸を締め終るのだった。奇妙なことに、僕はその人にも、また直之さんという人にも、決して紹介されなかった。安子さんも決して紹介しようとは言わなかった。
夕方の僕の日課である散歩が、安子さんの気づくところとなって、早くそうおっしゃればいいのに、とたしなめられて、その次の日、僕は安子さんに誘われて小舟で夕涼みに出ることになった。母屋の奥の、庭から石段で大河に降りて行ったところに、陸からも河からも行けるように作られた舟小舎《ふなごや》があり、中に数|艘《そう》の小舟や屋形舟が舫《もや》っていた。若い下男がお伴をして来て櫓を漕いだ。小舟は僕等を乗せてゆらゆらと大河をくだり始めた。
この古びた町の趣きは、舟の上から見るとまた一段とすぐれていた。白い土蔵や白壁が夕陽《ゆうひ》を受けて赤々と輝き、それが蒼黒《あおぐろ》い波に映って見事な調和を示していた。小舟が横にそれて掘割にはいると、水の上に藻《も》がはびこって、その緑色が蒼い水の上に漂うさまが夢のようだった。小舟は明るくなったり暗くなったりする水路をゆるやかに進んで行き、或るところでは柳の枝が水の上に垂《た》れた間を進み、或るところではたくさんの藻が櫓に絡《から》まって白い水滴をしたたらせ、舟の歩みを遅くした。僕等はやがて岸辺《きしべ》に沿って舟をとめ、安子さんと僕とは石段を踏んであがって行ったが、そこは今までに一度も僕の来たことのない公園だった。夕涼みの人たちが幾人か団扇を使ってベンチに腰を下していた。
「僕はこの町がとても気に入った。こんなところで暮して行けたらどんなにいいだろうと思うなあ。」
「あら何処がお気に召して?」と安子さんの方はまぶしげに団扇で夕陽を遮《さえぎ》りながら、尋ねた。
「何処って、何処から何処まで。安子さんはそう思わないんですか。こんな静かな、落ちついた風情《ふぜい》のある町なんて、何処を探《さが》したって見つかりませんよ。」
「そうかしら。こんな死んだ町、わたくし大嫌《だいきら》いだわ。」
「死んだ?」と僕はびっくりして訊《き》いた。
「そうよ、死んでるんですわ、この町。何の活気もない。昔ながらの職業を持った人たちが、昔通りの商売をやって、段々に年を取って死に絶えて行く町。若い人はどんどん飛び出して行きますわ、あとに残ったのはお年寄ばかりよ。」
「安子さんは?」と僕は皮肉でなく訊いたのだが、それは彼女の痛いところを突いた模様だった。
「わたくしたちも死んでいるのよ。小さな町に縛られて、何処へ行く気力もなくなって。」
「あなたのお姉さんは結婚してるから動けないとしても、安子さんは何処へだって行けるわけじゃないですか、」と僕は言った。
「わたくしにそんな元気があるように見えます?」と彼女は答え、暫《しばら》くしてから言葉を続けた。「あなたみたいに、他からいらした方にはわたくしたちの気持はお分りにならないわ。」
僕等は公園の中を一廻りし、また小舟に乗った。既に陽は落ちて、運河の上には黄ばんだ黄昏《たそがれ》の光線がたゆたい、石垣の長い影を浮べていた。小舟がゆるく櫓の音を響かせると、それらの細長い影は澪《みお》の中で細かく打顫《うちふる》えた。群をなした小さな羽虫が水の表を掠《かす》めて飛び、ひぐらしが舟を見送ってけたたましい声をあげた。
「安ちゃん。」
そう呼ぶ声が向うから来る小舟の中から起った。それは白い浴衣《ゆかた》を着た、貴公子然とした若い男で、その馴々《なれなれ》しい呼声に、僕はすぐさま、これは安子さんの恋人なのだな、だから彼女はこの町から離れられないのだな、と直観した。しかし僕の予想は瞬時に破られた。
「あらにいさん、」と彼女は答えた。
彼女の合図で、僕等の小舟を漕いでいた男は、船脚《ふなあし》をとめて向うの小舟の縁に軽く接触させた。彼女は向うの小舟の方に身を屈《かが》めて、何やら早口の方言の多い言葉で、ひそひそ話を始めた。しかしそれも直に一段落すると、僕の方を振り向いて、
「この人わたくしの兄です、」と紹介し、向うにも僕のことを手早く紹介した。
「お世話になっています。まだ御挨拶もしていないで、」と僕はへどもどしながら相手を見たが、この僕より五つ六つ年上らしい青年の方でも意外にびっくりしたらしく、それでも声だけは快活に、
「どうぞ気楽に御滞在になって下さい。私の方へもお遊びにどうぞ。」
と早口に言い捨てると、素早く合図をして、彼を乗せた小舟はもうこちらの船縁《ふなべり》を離れていた。夕闇《ゆうやみ》の濃くなって行く水路を、その舟は見る見る遠ざかり、僕は直之さんの白い浴衣が消えてしまうまで眼で追い、安子さんの方は舳《へさき》に坐って背を向けたまま舟の行手をぼんやり眺めていた。私の方へもどうぞ、という今さっきの言葉が僕の心の中に長い余韻を残していた。僕はあの旧家の大きな建物や庭先で、今までに一度も直之さんに、そして郁代さんに、会ったことがないのだ。私の方というのは、あの人たちがどこか別の処《ところ》にでも住んでいるような口振だった。もしも郁代さんが母屋《おもや》にいるのでなければ、最初の晩に僕の聞いた泣き声は、あれは安子さんの声だったのだろうか。……奇妙な感じに打たれて僕は安子さんの様子を窺《うかが》ったが、彼女は黙然と暮れて行く水の上に眼を落しているばかりだった。
要するに訊《き》いてみればよかったのだが、快活な安子さんの方でそのことについて口が重そうにしているので、僕としてはどうにも切り出せなかった。ただその日の数日後が、安子さんたちの母親の命日に当り、その法要があると聞いていたので、どっちにしてもまた直之さんに会えるだろうし、郁代さんの顔もその時には見られるだろうと僕は想像していた。しかしその日の小舟の上で、夕闇の迫る水の上に眼を落していた安子さんの姿は、いつもの快活さと似ても似つかぬもので、その肩を抱きしめてやりたいような、いじらしい影を漂わせていた。
法要は午後から始まった。僕は例の如《ごと》く離れの二階で勉強していたが、母屋の方から読経《どきよう》の声が絶え間なく長々と聞えて来た。安子さんが、最初から坐っていたのでは、あなたなんかしびれが切れてきっと立てなくなりますわ、と笑って注意してくれていたし、潮時を見て誘いに来るからお線香をあげて下さればいい、と言うので実は心待ちにしていたのだが、昼寝の時刻が過ぎてもいっこうに読経の声は歇《や》まず、待っているだけでもそろそろ痺《しび》れが切れて来た。まさか散歩に出掛けるわけにもいかず、退屈して畳の上に引繰り返っていたが、その間には郁代さんの面影があれこれと想像された。とんとんと階段を踏む跫音が聞えて、慌《あわ》てて起き直ったところへ、黒い絽《ろ》の紋附《もんつき》を着た安子さんが漸《ようや》く誘いに来てくれた。僕は大学の制服を着てそのあとに従い母屋の大座敷に案内されたが、あまりにそこにいる人の数が多いのに思わずびっくりした。こんな無人の家族でも、親戚縁者《しんせきえんじや》ともなればこんなに居並ぶものだろうか。僕は安子さんからどうぞお線香を、と言われて、坐る間もなく仏壇の前に進み出たが、そこに飾られた古ぼけた写真はごく年の若い昔ふうの丸髷《まるまげ》を結った女性を示していて、その臈《ろう》たけたとでも形容する他はない憂い顔の面差しは、やや安子さんに似ているとはいえ、彼女よりも遥《はる》かに美人だった。僕は座に戻って、写真に似通った顔立の女性を探《さが》し求めたが、若い年頃のひとは幾人もいたし、それぞれ伏目がちにかしこまっているために、そのどれが郁代さんであるのか見当がつかなかった。そして直に食事が始まり、僕の前にも黒塗りの膳《ぜん》が出ると今までのしめやかな空気が一変した。陽気なざわめきがあちこちで起り、黒紋附に威儀を正していたおばあさんの姿がまず見えなくなると、若い女性の幾人かがおばあさんに従って一緒に姿を消してしまった。しかし僕はそれに眼をくばっていることも出来ないほど、たちまち左右から盃《さかずき》をすすめられ、あれこれと話し掛けられて、すこぶる手許《てもと》が忙しくなった。そのうち、親しげなにこにこした顔が僕の前に現れたかと思えば、それが直之さんだった。
「どうです、御勉強はおすすみですか、」と銚子《ちようし》を手に彼は僕の側《そば》に坐り込んだ。
「お蔭《かげ》さまで。何だかすっかりこの町が気に入りました、」と僕はお世辞を言った。
「私等みたいなこの町の人間にとっては、ちっともいいところなんかないんですがね。何かといえばこうやって集って酒を飲む。まあここでは旧弊な、因襲的な空気が圧倒的に強いんですね。もうじき三味線が鳴り出しますが、小唄《こうた》とか謡いとか俳諧《はいかい》とか、そういう道楽には誰でもひとかどは通じています。そういう町なんですよ、此所《ここ》は。」
「しかしとても趣きがありますね、水が多くて景色がよくて。」
「掘割ですか。しかし掘割というのは人工的なものでしょう。つまり運河ですね。初めは実用のためだったので、大河が氾濫《はんらん》するからこんな策を講じたんでしょうが、いつの間にか町の人の道楽みたいに縦横に掘りめぐらしてしまいました。だからこれは自然の風景というのとは違うんですよ。謂《い》わば人工的なもの、従ってまた頽廃《たいはい》的なものです。町の人たちも、熱心なのは行事だとか遊芸だとかばかりで、本質的に頽廃しているのです。私が思うにこの町は次第に滅びつつあるんですよ。生気というものがない、あるのは退屈です、倦怠《けんたい》です、無為です。ただ時間を使い果して行くだけです。」
「つまり芸術的なんですね、」と僕は無邪気に訊き返した。直之さんは片手に盃を持って、時々その手を口に運びながら話し続けたが、その話し振も飲み振も実に静かだった。
「さあどうですか。芸術的というのは、芸術上の目的を追っているということでしょう。ところが此所では、そんな目的なんかない、要するに一日一日が耐えがたいほど退屈なので、何かしら憂さ晴らしを求めて、或いは運河に凝り、或いは音曲に凝るというわけです。人間も町も滅びて行くんですね。廃市《はいし》という言葉があるじゃありませんか、つまりそれです。」
三味線の撥音《ばちおと》がして、陽気なざわめきがふっと途絶えると、誰かが小唄を歌い始めたが、その主は恰幅《かつぷく》のいい商家の旦那《だんな》ふうの男だった。三味線を弾《ひ》いているのも女性ではなかった。見渡すといつの間にか女性は一人も姿を見せていなかった。
「いずれ地震があるか火事が起るか、そうすればこんな町は完全に廃市になってしまいますよ。この町は今でももう死んでいるんです。」
僕はそれを聞いて、いつぞや安子さんが言ったのとあまりに口調が似ているのに驚いた。返す言葉もないので僕は黙って盃を口に含んでいたが、その間に歌い手が交替したのを見ると、どうやらこれは順繰りに芸を見せ合っているものらしかった。誰もが渋い咽喉《のど》をしていて、到底|素人《しろうと》の隠し芸なんぞという域でないことは僕にも直に分ったから、こんなところにまごまごしていては飛んだことになると思い、さりげなくその場を抜け出した。
もう夜になっていた。僕は酔を醒《さ》まそうと庭の方に出た。結局郁代さんというのがどの人だったのか、僕には分らないままに過ぎてしまった。暗い木立の間を抜けて行く間にも、丸髷姿の写真の女が、いつか面影に立ち返った。僕は大河を見下す縁まで行き、水に映る月影と対岸の家々の灯影とを眺《なが》めた。蚊がぶんぶんいっていたから、団扇《うちわ》を忘れて来たのが残念だった。僕は河縁《かわべり》に沿って歩いて行き、舟小舎《ふなごや》の方で帰りの舟を出す人の声と、遠くの母屋の方から聞えて来る三味線の撥音と、そして水のひたひたと寄せる囁《ささや》きとを耳にしていた。そこにふと話し声が僕の耳に滑《すべ》り入った。
「私にはどうにもならないんだよ。」
「どうして? あんまりだとお思いにならないの?」
「けれどどうにもならないということもあるものだよ。意志だけでは動かしがたいような、つまりもう初めからそうきまりきっているような、そういうものもあるんだよ。」
「意志ですって? 初めからきまりきっていれば、意志なんて言えないでしょう。わたしには耐えられないわ。」
「しかたがないじゃないか、安ちゃん。」
僕は足をすくませていたが、話し合っている二人が、直之さんと安子さんであることは直ちに推察された。何の話なのだろう、と好奇心というのではないが、話が耳に入るのを塞《ふさ》ぐわけにもいかず、僕は蚊にくわれながらじっと立っていた。
「もしもお姉さんが……。」
そのあとは聞えなかった。舷《ふなばた》が烈《はげ》しく水を打つ音が聞え、舟小舎から小舟が一|艘《そう》、大河の上へと滑った。その上に直之さんらしい姿が見られたが、安子さんはこちらの小舎の蔭に立っているらしくて僕のところからは見えなかった。ゆるやかに櫓《ろ》が軋《きし》み、小舟は水の上でゆらゆらと揺れた。月の影がちりぢりに動いた。そしてひっそりと水音のみ響く大河の上を、その小舟は僕にとっての不可解な謎《なぞ》を乗せて、次第に遠く遠ざかって行った。
法要の行われた日から暫《しばら》く経《た》ってのことだったと思うが、僕は安子さんのお伴をして、彼女の母親のお墓参りに出掛けたことがある。たまたま僕が朝食を済ませて、日課の勉強にかかる前のひと時を、腹ごなしに庭に出てぶらぶらしていたところ、舟小舎の方向から安子さんの声が聞えて来た。それは法要の晩に、僕が彼女と直之さんとの間に謎のような問答を聞いたのと同じ方向だったから、つい機械的に足をそちらへ向けた。見れば、いつも僕等の供をして夕涼みに舟を出してくれる無口な下男が、今しも小舟を出すところで、乗っているのは安子さん一人だった。
「お出掛け?」と僕は訊《き》いてみた。
「ええ、母のお墓参りにお寺へ行くところなんですの、」と彼女は舟の上から答えた。
「お寺って、やっぱり舟で行くんですか?」
「ずっとこの河上です。」
「僕も行ってみたいなあ。」
「宜《よろ》しければどうぞ。でも御勉強がおありでしょう。」
「なに構やしません。」
僕は渡りに舟という言葉通りに、身軽に安子さんの側に乗り移った。この町に対する僕の並々ならぬ好奇心が、こういう機会を逃《のが》さず河上にあるという貝原家の菩提寺《ぼだいじ》を見物したいと思わせたのか、それとも安子さんと行動を共に出来る機会なら、どんな時でも逃さない気持がいつしか僕の裡《うち》に生れて来ていたのか、僕にははっきり言うことが出来ない。夕涼みの時にはいそいそと僕を誘ってくれる安子さんの口振が、この時はひどく重かったのにも僕は気がつかなかった。
「今日は暑くなりますわ、」と彼女は言ったが、それも、忙しい勉強をやめてまで行くほどのことはないと、彼女が暗に僕の気の変るのを予期しての言葉かもしれなかった。しかし僕は、暑いのなんか平気です、と気にもとめなかった。
雲一つなく晴れ渡った空の下を、僕等を乗せた小舟は、夕涼みの時とは見違えるような早いピッチで、大河《おおかわ》を河上の方へ溯《さかのぼ》った。安子さんは白い日傘《ひがさ》を翳《かざ》して舳に坐り、僕の方から顔をそむけるように水の上を眺めていた。両岸の木立の中から湧《わ》き上る蝉《せみ》の声が、舟の進むにつれて僕等を見送るように歌い継いだ。
「この前の法要の時もやっぱりお墓参りに行ったんでしょう?」と僕は尋ねてみた。
「ええ勿論《もちろん》。」
「その時は皆さんも御一緒だったんですか?」
「皆さんて?」と不思議そうに訊き返され、
「直之さんも、」と少しどぎまぎして思いつくままに名前をあげた。
「兄さんは忙しくて。」
「それじゃお姉さんは?」
「あの日はお命日でしたから親戚の者が幾人か参りました。」
それは答にならなかった。思い返してみると、僕が彼女の姉の郁代さんのことを口に出すたびに、何と上手《じようず》に彼女ははぐらかしてしまったことだろう。どうしてなのか。その僕の心の動きを素早く看《み》て取ったとでもいうように、彼女は持ち前の快活な微笑を見せて僕の注意を惹《ひ》いた。
「わたくしは変な癖があって、しょっちゅう母のお墓参りに行きますのよ。他の人が行かないから、それでわたくしが代りに行くみたい。」
「お母さんが好きだったんですね?」
「さあどうかしら。母はまだわたくしの小さな時分に亡《な》くなったんですから、よく覚えていませんわ。でも母はいつでも身近に感じられるんです。わたくしにとって、生きている人と死んでいる人との区別がつかないせいかしら。」
それは奇妙な言いかただった。しかし僕は彼女がさっきちらっと見せた微笑に魅せられて、自分が何を訊こうとしていたのか忘れてしまった。
舟は下男の熟練した櫓さばきで大河をどんどん溯った。やがて郊外に出たが太陽は次第に高く昇り日射《ひざし》は暑くなった。漸《ようや》く舟を泊めて陸へ上ると、今までの河風がなくなり、じりじり射す烈しい直射光に道は白く乾《かわ》いていた。しかし大した道のりでもなくすぐに寺に達した。古びた大きな寺で、山門からすぐに石段になり、小高い丘の上に本堂が控えていた。境内は蝉《せみ》時雨《しぐれ》ばかりで人一人いなかった。安子さんは方丈《ほうじよう》に声を掛け、僕等の供をして来た下男がそこで箒《ほうき》や水桶《みずおけ》を借り受けて、僕等は方丈の横を抜けて裏手の墓地へ進んだ。貝原家の墓所は一区画を限って墓地の一隅にあった。立派な石塔や石碑が幾つも並び、その中では安子さんの母親のお墓は比較的小さな方だった。下男が掃除をする必要もないほど綺麗《きれい》に掃ききよめられていて、炎天に曝《さら》されたお供えの菊の花が萎《しお》れかかっていた。安子さんは長い間その前に額《ぬか》ずき、僕もそのあとからお線香を上げた。細い煙が風のない空に真直に立ち昇った。
その間に、下男は掃除道具を持って先に方丈の方へ帰ってしまったから、このひっそりした墓地の中にいるのは僕と安子さんばかりになった。僕は貝原家の墓を一つずつ見てまわった。年代の古い苔《こけ》むした墓も少くなかった。夏の暑い日射の下で、先祖の亡霊たちが一家の最後の後裔《こうえい》である若い娘をひっそりと見守っているような気がした。
「この町では、チフスとか赤痢《せきり》とかの流行病で死んだ人が少くないんです、」と安子さんが話した。「昔は衛生設備なんかが行き届いていなかったでしょうから、悪い病気がはやるとひとたまりもなかったんでしょうね。こんな水の多い町ですもの、どうしても不潔になって、町の人があらかた死ぬようなことが何度もあったらしいんですの。母だってそれで亡くなったんです。母が生きていれば、わたくしたちだってこんなに苦労はしなかったんでしょうけど。」
僕が飛びついたのは、そのわたくしたちという言葉だった。
「それはあなたとお姉さんということですか?」
「ええ、お姉さんもねえ。」
「一体お姉さんというのはどういう人なんです? 僕はまだ一度もお会いしていないんですよ。何だか変な気がする。まるで……。」
「まるで死んでるみたいだ、とおっしゃりたいんでしょう?」と安子さんは悪戯《いたずら》っぽく微笑した。
「いや、とにかく不思議なんですよ、」と僕はどぎまぎした。
「姉は生きてますわ、大丈夫。ただ人に会いたがらないんです。」
僕等は方丈へ戻り、庭に面した広い座敷で大黒《だいこく》さんからお茶をすすめられた。日射の強い戸外から急に室内にはいったので、そこは如何《いか》にも薄暗くて陰気だったが、ひんやりした畳の上は風が通って気持がよかった。このお寺と貝原家とは遠い縁つづきになっているらしく、大黒さんは安子さんと親しげに話を交《かわ》していた。主人はいまお勤めに参っておりますので、と言われたから、住職は留守らしかった。そのうちに、二人は僕に断って座敷を出て行った。
僕はひとり取り残され、暫くかしこまって待っていたが、そのうちにすっかり退屈した。こんなことなら、お伴なぞせずに大人しく勉強している方がよかったと考えた。安子さんは姿を消したなりいっこう戻って来なかった。広い寺の建物の中は森閑《しんかん》として話し声一つ聞えず、僕ひとりが置きざりにされたようだった。そこで僕は無聊《ぶりよう》のあまり立ち上り、廊下に出て見た。暗くてぎしぎし鳴る廊下を通って行くと、渡り廊下になって本堂に通じていた。そこもしんとして誰もいなかった。僕は本堂の中を見物してまた元へ戻ったが、渡り廊下が裏手の方へも通じているようなので、ついそちらへ足を向けた。そして僕はかすかな話し声を耳にした。
「そんなにわたしを困らせなくてもいいじゃありませんか。」
「そういうつもりじゃないのよ。」
「Aさんだって変にお思いになるわ。」
Aさんというのは僕のことだった。そしてその声の主は、間違いもなく安子さんだったから、急に僕の胸はどきどきし始めた。僕は竦《すく》んだように廊下の片隅《かたすみ》に立っていた。悪いところへ来てしまった。僕はそろそろと退却しかけたが、その時廊下が音を立てて軋《きし》んだ。廊下の向うの離れの入口が明き、安子さんが顔を覗《のぞ》かせた。
「Aさん、まあ。」
「僕ねえ、退屈だもんだから本堂を拝見に行ったんです。そしたらこっちの方へも廊下が通じてるもんだから……。」
その時の僕の慌《あわ》てようといったらなかっただろう。何しろ僕は紳士を以《もつ》て自ら任じていたのだから。
「そんなに恐縮なさらなくてもいいわ、」と安子さんが笑い声で言った。「こうなったらしかたがないわ、こちらへいらっしゃって。」
僕は安子さんに招かれて、離れの中へはいった。その座敷の中に一人の若い女性がつつましく坐っているのを見た。
「お姉さん、あきらめなさい。Aさんがいらっしゃったから、そんなに隠れんぼばかりは出来ないわよ。」
「わたくしが郁代です。」
さてそれが、僕がこの人を、直之さんの妻であり安子さんの姉であるこの郁代さんを見た、まったくの初めだった。安子さんとそっくりに似ていながら、もっと憂い顔でそのために如何《いか》にもお姉さんらしく見えたが、実際にはそんなに年が違ってはいなかっただろう。安子さんよりも細面《ほそおもて》で、どんな人をも思わず振り向かせるような美しさ、それも悲劇的な感じのする古風な美しさがあった。お辞儀一つでも安子さんよりももっと静かでしとやかだった。といっても、安子さんが女らしくないというのではない。ただこうして二人並べると、同じ姉妹といいながら、似ていないところが目立った。
「済みません。僕なにも押し掛けるつもりじゃなかったんですが、」と僕は弁解した。
「いいんですの、お姉さんだって怒ってはいませんわ。ねえ?」
郁代さんは少し笑った。
「わたくし安ちゃんと違ってはにかみ屋なんですの。」
「まるでわたしがあばずれみたいねえ。」
「安ちゃん、そんなこと言わないで。少しわけがあるものですから、Aさんには本当に失礼しました。わたくしがお世話しなければいけないのに、安ちゃんにばかり頼んでしまって。」
僕は返事に困って首ばかり振っていた。
「でもこの人の方がわたくしより何でも上手《じようず》だし、きっとよくやってくれますでしょう。主人にはお会いになりましたわね?」
「ええこの間……。」
「近頃、兄さんは、何だかとても忙しそうよ。それにお祭ももう近いしするから、」と安子さんが不意に口を入れ、それが僕にはちょっと不自然に聞えたが、郁代さんは頷《うなず》いただけだった。
僕はなぜこの人がお寺にいるのかと考えていた。ただ単に遊びに来ているというのではなく、ずっとお寺に引籠《ひきこも》っているというのは穏かでない。しかし僕には勿論《もちろん》、それを敢《あえ》て訊《き》くだけの無躾《ぶしつけ》さはなかった。安子さんが出掛けに何となく渋っているように見えたのも、彼女の目的がお墓参りにあったのではなく、姉と会うことの方にあったのだとすれば当然だった。つまり僕は彼女の邪魔をして、家族が秘密にしていることを発《あば》いてしまったのだ。僕は自分が此所《ここ》にいることを恥入らずにはいられなかった。
やがて昼食の時間になり、僕は姉妹と共に方丈の方へ戻って一緒に食事をした。つまり安子さんが姉さんのために御馳走《ごちそう》を運んで来たことが、それでも証明された。食事の間はみな黙り込んでいた。昼ま町へ帰るには暑すぎるからというので、夕刻まで時間を潰《つぶ》すことになった。その午後の間を、僕はひとり座敷で本を読んだり昼寝をしたりして過したが、安子さんは離れで姉さんと話をしていたらしかった。住職とは遂《つい》に会わずじまいで、大黒さんが僕等を河筋まで見送りに来てくれた。
帰りの舟の中で、安子さんは今までよりも一層うちとけて見えた。秘密が秘密でなくなったために、彼女としても僕に気を許せるようになったのだろう。
「御免なさいね。今まで本当のことをお教えしないで。」
「そんなことはありません。けれどどうしてお姉さんは引籠っちまったんです? 直之さんと喧嘩《けんか》でもしたんですか?」
「喧嘩というわけでもないんですけど、」と安子さんは言葉を濁した。「そういえばさっき、あなたが兄さんのことを言いそうになったので、わたしはらはらしましたわ。」
「いつです?」
「ほら、兄さんに会ったかって姉が訊いたでしょう? 兄さんがうちにいないってこと、姉は知らないんです。」
「僕にはよく分らないけど。」
「兄さんはね、姉がお寺の方へ移ってからよそへ家を持っているんですの。姉はそのことを知らないし、わたしも言わないでいるんです。聞いたらきっと心配しますからね。」
「それじゃ直之さんは誰か他のひとと……。」
そして僕は言い澱《よど》んだが、安子さんはすぐにそれを察した。
「そうなんです。秀《ひで》という女と一緒にいます。もうじきお祭ですからあなたもきっとその女にお会いになるわ。」
僕等を乗せた小舟が滑《すべ》るように夕暮の大河を漕《こ》ぎ進んで行く間に、僕の考えていたのは不幸な夫婦のことだった。由緒《ゆいしよ》ある旧家の若主人は別の女と暮している、美しい妻は寺の中に引籠ってしまう、そして妹ひとりが間に立って心を砕きながら、祖母の世話をして旧家を守っている。それは如何にもありふれた家庭悲劇のように見えたから、僕は後になるまで、この別居生活の隠された意味が何であるかを、そしてそれが真の悲劇にまで発展する可能性を持っていたことを、少しも暁《さと》ることが出来なかったのだ。その上、僕がその日初めて見た郁代さんの美しさが尚《なお》も面影に浮ぶようで、直之さんに対する不満が(何といっても僕は、その頃、正義感に充《み》ちた大学生だったから)夕靄《ゆうもや》のように立ちこめて来るのを、とどめることが出来なかった。
やがて水神様のお祭が来た。それは三日間ほど続いたが、町の中は日と共に活気づき、華《はなや》かな色彩と音響とが掘割という掘割に溢《あふ》れた。ここではお神輿《みこし》の代りに、造花や杉の葉を飾り、沢山の提燈《ちようちん》をぶら下げた大きな屋形船が、掘割を漕ぎめぐった。その船は艫《とも》の幕を張ったところを化粧部屋にし、御簾《みす》を欄干の三方に垂《た》らして船舞台がしつらえられていた。笛や太鼓や三味線の囃子《はやし》が陽気に水の上に木霊《こだま》した。
僕は安子さんと小舟に乗って見物した。町ごとに町内の有志が出て、舞台の上でそれぞれの芸を競い合った。さしもの大河も、見物の小舟で隙間《すきま》もなく充《みた》され、華かな呼び声が囃子にまじって流れた。見物の小舟の間を、物売りの舟が巧みに漕ぎ抜け、幕合になると小舟の中では酒を汲《く》み交《かわ》し芝居の技巧を論じ合った。各々の舟の提燈が水に映り、空では花火が色|鮮《あざや》かな模様を夜空に繰りひろげた。
「これは随分と大したものですね、」と僕はお世辞抜きで安子さんに言った。「こんな素晴らしいお祭は僕は見たことがない。」
「町の人にとっては水神様のお祭は一年中で一番|愉《たの》しい行事なんですわ。この船舞台に出るというのは、謂《い》わば町の人にとっての最高の名誉なんですの。いくらお金を積んでも、それだけの腕があると認められなければ出させてくれません。その代り舞台に出るとなると、衣裳代《いしようだい》からお囃子への附け届けから、大層お金がかかるそうですの。町の人はみんな芸事が好きですけど、この船舞台に出る人はつまり極《きわ》め附《つ》きということになるんでしょう。」
「見物の方も随分と熱心ですね。」
「誰だって自分が出たらと思っている位ですもの、少しでも下手《へた》だったら容赦はありませんわ。」
幕が上ると、それまでのざわめきも途絶え、見物の眼は舞台の上に集注した。掛声もかかれば弥次《やじ》も飛んだ。たしか中《なか》の日の晩だったと思うが、この晩の見せ場は『弁慶上使《べんけいじようし》』で、役者が揃《そろ》っていたせいもあり見物は波を打ったように静かだった。僕は歌舞伎のことはさっぱり分らないから、最初のうちはしのぶという娘役の美しさにばかり眼をみはっていた。しかし次第に舞台に惹《ひ》きつけられて、弁慶の熱演に固唾《かたず》を呑《の》んだが、そのうちに安子さんが僕の方を振り向いて、
「いかが?」と訊いた。
「うまいもんですね。まるで本当の歌舞伎役者みたいじゃありませんか。」
「あの弁慶は親戚《しんせき》の者ですけど、それは評判の道楽者なの、」と言って安子さんはにっこり笑った。「それから針妙《しんみよう》のおわさになっているのは、お分りになりません、兄さんよ。」
そこで僕はあっとばかりに驚いたが、これはまったく隠し芸といった程度のものではなかった。僕は少しもそれと知らずに、劇の進行に夢中になっていたのだから。
「それから娘のしのぶの役、あれが秀です。」
安子さんのその言いかたは冷たくてやや軽んじるようなところがあったが、しかし舞台の上でこの女だけが生地の美しさを見せていた。幕の終るまで、僕が一番熱心に眼を注いでいたのは、このしのぶだった。
最後の晩は、これで祭ともお別れだという名残《なごり》惜しさもあって、人々は船舞台を見るよりもめいめい酒を汲み交す方に忙しかった。その騒がしさの中を、河いっぱいに小舟の並んだ間を縫って、直之さんを乗せた小舟がいつの間にか舷《ふなばた》を並べるように摩《す》り寄って来た。
「如何《いかが》ですか、お祭は?」と親しげな微笑を見せて僕に話し掛けた。
「昨晩お手並を拝見しましたよ。すっかり感心しました。」
「どうです、私の方にいらっして一杯やりませんか? 安ちゃんもどう?」
「わたくしはお酒が飲めないから。Aさんどうぞ兄さんのお相手をしてやって下さい。」
その愛想のないような言いかたは、ひょっとしたらこの秀という女が同席していたせいではないかと、直之さんの小舟に乗り移ってから僕は考えた。その女は黙って僕に会釈し、直之さんも格別紹介しようとはしなかったが、『弁慶上使』のしのぶであることに間違いはなかった。僕等はさっそく酒を汲み交したが、そのうちに直之さんは、河風が涼しいから、うちへ行って飲み直しましょう、と僕を誘った。そして舟は横へ逸《そ》れて暗い掘割の中へ滑《すべ》り込むと、僕の知らない水路を通ってやがて彼の隠れ家へと導いた。
河を見下す二階の窓の近くに座を占めて、僕等は暫《しばら》く歌舞伎の話などをした。といっても僕の方はまったくの素人《しろうと》だから、いっこう話相手にはならなかった。秀というのは無口な女で、僅《わずか》に唇《くちびる》に微笑を含んで酌をしていた。側《そば》で見れば見るほど垢抜《あかぬ》けのした美人だったが、貝原家の姉妹のような気品のある、取り澄ました美しさではなくて、かぼそい、しおらしい、もっとなよなよとした美しさだった。しかし僕の心の中には(若い正義感のために)どうしてもこの女を好きになろうとしない何かが潜んでいた。彼女が階下へ立った時に、恐らく僕も多少酒に酔っていたのだろうが、直之さんにこう切り出した。
「僕この前奥さんにお会いしましたよ。」
「おやそうでしたか。」
「安子さんのお伴をしてお寺へ行ったものですから、その時に。」
「あれは元気でしたか?」
「僕にはよく分りませんでした。」
そこで僕は言いあぐんだ。もっと強い言葉で直之さんを取っちめてやろうと思っていたのだが、当人を眼の前に置いては、如何にも他人の私事に干渉するようでうまい言葉も湧《わ》いて来なかった。直之さんは少し困ったような人のいい表情を浮べて盃《さかずき》を手にしていた。そこへ秀が銚子《ちようし》のお代りを持って現れたから、僕はもう話題を変えてもいいつもりでいた。しかし直之さんの方は、秀が来たのを気にも留めずにその話を続けた。
「Aさん、あなたの言いたいことは私にも分ります。あなたはお若いから、きっと僕のことを飛んでもない悪い奴《やつ》だとお考えなんでしょうね。それからこの秀もね。」
「いやそういうつもりじゃありません、」と僕はたじろいだ。「ただ奥さんが気の毒だと思って。」
「気の毒ですか。そうね、そう見えますかね。」
遠くから三味線の囃子や喊声《かんせい》が、水の上を伝わって聞えて来た。直之さんは持前の静かな声で言葉を続けた。
「郁代はとてもいい女です。あれは私が養子だからといって威張ることもないし、私が外で遊んだからといって嫉妬《しつと》することもありません。あれは本当に善良で真面目《まじめ》なんです。私は、こういうとあなたに対して如何にも弁解じみて聞えるかもしれませんが、私はあれが好きです。愛しているんです。恋女房という言葉がありますが、私たちはまったくそれだったのです。今でも私は、郁代を誰よりも愛しています。」
僕は困って少しもじもじした。何しろ僕等の側には秀がついていたのだから。直之さんはその僕の気持を見抜いたようだった。
「そのことは秀だって知っています。ねえ秀?」
「わたしにはそれでもいいんです。暫くでもこうしてお側にいられればそれでいいんです、」と女は答えた。それは少しも芝居気を感じさせない、ひたむきな、暖かみのある声だった。
「こういうことを秀に訊くというのが、そもそも残酷だとあなたはお考えになるでしょう。しかしまあもう少し聞いて下さい。私は郁代を愛している、ところがあれはそうは思わないのです。そこに間違いのもとがあるのです。それは郁代が他の男を好きだというんじゃないんですよ、郁代も私が好きだし、私もあれが好きだ。それなのにあれは、私の愛しているのは他の女で自分じゃないと固く信じてしまったのです。そして私がどんなに説明してもそれを聞き入れようとせずに、自分から寺の方に逃げて行ってしまいました。つまり私の自由を束縛したくないと言うんですね。あれは気位の高い女です。貝原家の人たちは誰も気位が高い。そのプライドが、ありもしない幻影を呼んで自分で自分を傷つけるんですよ。」
「しかしあなたはこの人と一緒にお暮しなんでしょう?」と僕は反問した。
「それは郁代が家を出たための結果なんですよ。それは勿論、私は前から秀を知ってはいましたがね。郁代がいなくなってから、私はもうどうにもやりきれなくなったんです。それでここに転《ころが》り込んでしまいました。」
「それじゃ、奥さんが家を出た方が先なんですね?」と僕は尋ねた。
「そうです。あれは私があれを誰よりも愛しているということを、どうしても信じなかった。だからその時の私の気持も察して下さい。私はもうすっかり疲れきっていました。会社の方もうまくいかない、家庭のこともうまくいかない。私は安心してゆっくり休めるところが欲しかったんですよ。秀は、秀の前で言うのも何ですけど、家庭的な、母親のような、やさしい女です。私はAさんよりそんなに年上というわけじゃないから、年寄じみた言いかたをするとあなたに嗤《わら》われるかもしれないけど、私はもうすっかり疲れているのです。私は秀と一緒にいれば子供のように甘えて、安心して心を休めることが出来ます。この女は決して気位が高くもなければ、ありもしない幻影を描いたりはしません。今日一日が幸福ならそれで満足なのです。私たちは芝居の稽古《けいこ》を仲よくやりました。こうしていつまでも暮せるものでないことは二人とも知っています。しかしそれでどうして悪いんです?」
「いつかあなたのおっしゃった、時間を使い果して行く、ですか?」
「そうですね、滅びつつあるんですね。」
直之さんは側に坐った秀の片手を自分の膝《ひざ》の上に取って、その小さな掌《てのひら》を愛撫《あいぶ》していた。遠くから響いていた三味線の囃子もいつしか聞えなくなった。時折窓の外を小舟の漕ぎ渡る櫓《ろ》の音のみがひっそりと水音を立てた。
「おかしな話ですね、普通とはまるで逆なんだから、」と独《ひと》り言《ごと》のように直之さんが言った。「私は秀と一緒にいる時に、まるで家庭の中にいるような、安らかな、落ちついた気持でいられるんです。それで心の中では、恋人のように郁代のことを考えているんですからね。」
「しかし奥さんは、あなたがこの人を愛していると思っているわけでしょう?」
「この人?」と直之さんは驚いたような声で、手の中の秀の小さな掌を離した。「いやそうじゃありません。秀じゃありません。あなたはそれを御存じない……?」
そして思わず眼を見開いた僕の顔を、直之さんは悔恨に充《み》ちた眼指《まなざし》でじっと見詰めていた。
過去の記憶というものは、そこに中心をなす事件があれば、後からその事件に与えた解釈に従って都合よく整頓《せいとん》されてしまうものだ。従って必ずしもその当時の、事実の得られた順序を追って、現実の持つもどかしげな、不確かな、不鮮明な印象のままに、今も形づくられているとは限らない。その夏に僕の経験したことどもは、その終り頃に起った事件があまりにも強烈に僕の頭脳に焼きついてしまっているために、ともすれば僕は最初から悲劇を予想していた、僕はその事件の進行に立ち会っていた、とつい思いがちなのだが、それは記憶がすっかり整頓され、僕がすべてを知る者の眼から過去を振り返っているからだろう。水神様のお祭は七月の下旬のことだったし、事件が起ったのは、そろそろ僕がこの町を引き上げる日も間近に迫った、八月の末頃のことだった。夕方の風が秋めいた涼気を送り、無数の赤とんぼが掘割に影を映した鱗雲《うろこぐも》を背景に乱舞し始めていた。しかもこの一月近くの間、僕は何も知らず何も気がつかずに、離れの二階で卒業論文と取り組んで汗を掻《か》いていたのだ。海の彼方《かなた》の詩人が、どのような人生を送りどのような作品を書いていようと、また僕が如何《いか》に独創的に(と信じていた)この詩人を研究していようと、それは僕自身の人生とは関《かかわ》りがなかったし、僕の傍で徐々に形成されつつあった悲劇とも関りがなかった。今の僕から見れば、つまらない論文に熱中していた僕は、何と人生の本質から遠く離れたところにいたことだろう。そして僕は返らぬ後悔のようなものを感じないわけにはいかない。
思えば祭の夜に、僕が直之さんの顔に認めたものは、悔恨に充《み》ちた暗い眼指《まなざし》だった。しかしそれがなぜなのか、僕は知ることが出来なかった。貝原家の菩提寺《ぼだいじ》で、その妻である郁代さんに初めて会った時にも、彼女の物さびしい表情に浮んでいたものは、今となって考えれば、やはり取り返しのつかないものに対する一種の悔恨ではなかったろうか。安子さんも、――彼女の快活な笑い声とはきはきした口振とを通して、やはり彼女は常に何かをためらい、悶《もだ》え、苦しんでいたのではないだろうか。この一夏の印象が、僕にとって一種の頽廃《たいはい》に似た悔恨の色に染められているのは、ただに腐った水の匂《におい》や、人けない掘割に浮ぶ根のない睡蓮《すいれん》のせいばかりではない。
しかしそうした印象はすべて後になって得られたものだ。僕は盛夏の一月を、せっせと机に向い、夕方の街を散歩したり、舟を出して涼んだりした。安子さんの口が少しずつ重くなって行き、僕を避けるような素振がほの見えるのに、僕はいつしか気がついていたが、それは僕の勉強が忙しいのでわざと邪魔をしないようにしているのだと、僕は解釈した。勿論《もちろん》それは僕にとって物足りない気持を起させはした。彼女は魅力のある未婚の女性で、そういう人と同じ家の中に住んでいることに、胸をときめかさない若い男があろうか。ただ青春というものは、常に傲慢《ごうまん》な意志を伴うものだ。僕は卒業論文を書くという掟《おきて》を自分に課していたから、それ以外のものには眼もくれない決心だった。僕の中のロマンチックな性情が、この町や、この貝原家の人たちに惹《ひ》かれていたからといって、この掟を破ることは出来なかった。
夏の一月は極《きわ》めて迅速《じんそく》に過ぎた。その間、僕は毎日安子さんと顔を合せて世間話などをしていたが、彼女は家庭の中の事情を話題にのぼせることがなかった。直之さんがこの家を訪《たず》ねて来ることもなく、ただ彼の会社がいよいよ傾いて来ているらしいと、安子さんが聞かせてくれる位のものだった。郁代さんも決してお寺を出て実家に現れることはなかったし、僕もまた、安子さんのお伴をして、再び大河を溯《さかのぼ》る機会を持たなかった。
例によって僕が離れの二階で机に向っていた午前中のことだった。朝食の終ったすぐあとで、僕が出来上ったノオトブックをめくって仕事の段取などを考えていたところに、母屋《おもや》の方から鋭い女の叫び声が聞えて来た。僕はびっくりして、すぐさまノオトブックを投げ出し、急いで階段を下りた。僕が階段を下りるのと、安子さんが廊下を駆けて来るのとが殆《ほとん》ど同時だった。
「どうしました? 何か声がしたようだけど。」
安子さんは蒼《あお》ざめた顔をして、唇《くちびる》をわななかせながら、しきりに手真似《てまね》でもとの部屋に戻るように僕を押し返した。それが何かひどく重大なことで、廊下で立話などをする性質のものでないことが、僕にもすぐ理解された。僕は階段を再び部屋へと戻ったが、安子さんは僕の身体《からだ》にしがみつくようにして二階まで来ると、僕の手に縋《すが》りついたなり、わっと泣き出した。
「兄さんが、兄さんが。」
僕が嗚咽《おえつ》の中から聞きとめたのは僅《わずか》にそれだけだった。彼女は僕の手を固く握りしめたまま、頽《くず》れるように畳の上に坐り込んだ。
「一体どうしたんです? 安子さんらしくもないな、そんなに泣いたりして。」
彼女は顔を起して無理に笑おうとした。その眼は涙できらきら光っていたが、その口は幼い子供の泣き笑いのように歪《ゆが》んでいた。しかし僕はそれをひどく美しく感じた。
「Aさん、驚かないでね、」と彼女は冷静を取り戻したように念を押し、一息にその驚くべきしらせを吐き出した。「兄さんが死んだの、いま使いが来て。」
「直之さんが? どうしてそんなに急に? 間違いじゃないんですか?」
彼女はゆっくりと首を横に振り、また涙声になって顔を伏せた。
「間違いならいいんだけど。兄さんは自殺したんです。それも秀と一緒に。」
僕は茫然《ぼうぜん》となって、打伏した安子さんの背中を無意識に撫《な》でていた。直之さんが秀と一緒に自殺した。なぜだろう、どうしてそんな早まったことをしたのだろう。部屋の中には明るい午前の光が溢《あふ》れ、俯向《うつむ》きになって泣いている安子さんが何だか夢の中のように感じられた。ああ僕は夢でこんな光景を見たことはなかっただろうか。安子さんを慰めている自分の姿を、一種の願望のように、不可能な現実のように、心の中に隠し持っていたのではないだろうか。僕は彼女の浴衣《ゆかた》の模様がわななくのを見、その背中に置かれた自分の手が汗ばんだ皮膚を浴衣の下に感じているのを知りながら、直之さんの死という現実よりも、離れの二階でこうして二人きり倚《よ》り添っている安子さんのことを、不意に慕わしく感じ始めていた。
安子さんは急に身体を起すと、
「さあ行かなくちゃ、」と言った。「Aさんも一緒に来て下さい。わたし怖《こわ》くて。」
しかしそれは怖いという表情ではなかった。僕が茫然として、この事実をいまだに現実として認識できなかったように、彼女もまた、必死になってこの報《しら》せが間違いかもしれないという僅ばかりの希望にしがみついていたのだ。彼女の眼に浮んだ涙はもう乾《かわ》いていた。今はその眼に新しい光が射《さ》していた。
「わたし取り乱して、」と彼女は唇に自分を嘲《あざけ》る笑いのようなものを浮べながら、僕をせき立てた。彼女はみなりを整え、先になって階段を下りた。
僕は安子さんと共に、小舟に乗って水路を辿《たど》って行った。いつも伴をする下男が、しきりに櫓《ろ》を急がせたが、いつぞやの祭の晩の船脚《ふなあし》に較《くら》べれば、直之さんの住んでいる家は随分と遠く感じられた。安子さんは舳《へさき》に坐ったなり、蒼褪《あおざ》めた顔に唇をぎゅっと噛《か》みしめて、水の上に眼を落したきりだった。
「お姉さんにはしらせたんですか?」と僕は訊《き》いた。
彼女は首を振って否定した。彼女自身がまだそれを信じようとしていないのに、郁代さんにしらせる筈《はず》もなかった。しかし、と僕は考えたのだ、僕でさえも直之さんに暗い頽廃の影を感じていた位だから、安子さんが悲劇の前兆を予感していなかった筈はなかっただろうと。
小舟はやがて狭い掘割にはいって苔《こけ》のむした石垣《いしがき》に着き、僕等はそこから石の段々を踏んで庭へ上った。この前来た時は夜だったから、この瀟洒《しようしや》とした二階家を昼の光の中に見るのはこれが初めてだった。二階の雨戸は鎖《とざ》されたままで、僅に一枚だけが繰られていた。
「安ちゃん、とんだことになったなあ。」
玄関をはいると年輩の男が出会《であ》い頭《がしら》に挨拶《あいさつ》したが、よく見るとそれは舟舞台の時に弁慶を演じた、貝原家の親戚《しんせき》の人だった。僕等は急な階段を二階に昇った。
一枚だけ明いている雨戸の部分から、午前の明るい光線が生ま生ましく射し込んでいた。しかし部屋の中は薄暗く、線香の匂《におい》がぷんと鼻をついた。蒲団《ふとん》が二組並べて敷いてあり、その艶《なま》めかしい図柄が不意に死を身近く感じさせた。
「さっき医者が来たが、手遅れでどうにもならんと言っておった。ゆうべ寝しなに睡眠薬を飲んだのだ。馬鹿なことをしたもんじゃ。」
弁慶さんは苦々しげにそう言ったが、しかしその語尾は顫《ふる》えていた。安子さんは義兄の蒲団の側《そば》に坐ったなり、身動きもしなかった。
「覚悟してやったことで、なあ安ちゃん、今更どうにもならん。」
枕許《まくらもと》の小机の上から、弁慶さんは一通の封書を取り上げて安子さんに手渡した。表には「安子殿」と書かれていた。しかし彼女はそれを受け取っても、うつけたように膝《ひざ》の上に置いたなり中を開いてみようともしなかった。
「三通あってな、一つは親戚一同へ宛《あ》てたもので私が封を切った。後始末を宜《よろ》しく頼むと書いてあった。もう一つは郁代宛てだが、さて郁代に何と言ったものやら。とんだ困ったことになってしまったわ。」
しかし安子さんは黙然と俯向いたきりだった。僕は彼女の細い指が、遺書を持ったまま、膝の上でかすかに痙攣《けいれん》しているのを見ていた。彼女は何を考えていたのだろう。死んだ人たちのことか、姉のことか、それとも自分のことか。沈黙が耐えがたくなったので、僕はそっと階下へ下りた。暫《しばら》くすると弁慶さんも僕のあとを追って来た。
「あなたもとんだところへ巻き込まれて災難でしたなあ。当分は御勉強も出来ませんな。」
「そんなことはどうでもいいんです、」と僕は答えた。
「これで後始末をどうしたもんやら。あなたにも色々と御迷惑を掛けるかもしれません。安子はしっかり者だと思っていたが、何だかぼうっとしてしまったようだ。もっとも誰しも、これを聞かされたら驚きますがね。」
「直之さんは何でまた死ぬ気になったんでしょうね?」と僕は訊いた。
「道楽が昂《こう》じれば死ぬ他《ほか》にはすることもなくなりますよ。」
「しかしそんな年でもない筈なのに。」
「道行《みちゆき》と洒落《しやれ》たんでしょうな。私だって若い頃には、死のうとしたことが二度や三度はありましたからね。」
しかし弁慶さんの冗談《じようだん》めかしたその言いかたは、奥歯に物の挟《はさ》まったようで、僕を納得させるだけのものを欠いていた。直之さんがなぜ死んだのか、それは秀という女と道行と洒落ただけのものである筈がない。そして僕は、祭の夜に彼が洩《も》らした秘密を思い出した。彼は誰かを、秀の他の或る女を、愛していた。少くとも愛していると郁代さんは信じていた。そしてその或る女が誰であるかを、僕はうすうすと勘づいていたのだ。
その一日は多忙だった。いくら内輪に、内密に、とは言っても、聞き伝えて来た親戚や会社関係の人たちが狭い家の中にひしめき合った。直之さんの実家の人たちも駆けつけた。そして会議の末、直之さんの遺体は貝原家に運んで通夜《つや》ということになった。せめて通夜ぐらいは、愛し合った二人を並べてこの家でしたらよかりそうなものだと僕は考えたが、しかし僕から口を切ることは出来なかったし、他に誰一人それを言い出す者はなかった。秀は両親もなく、腰の低い叔父さんという人や、もとの朋輩《ほうばい》たちが悔みに来ているばかりだった。直之さんの遺体は、夕刻、こっそりと貝原家へ運ばれた。
通夜になっても、いつぞやの法事の時に見かけたような賑《にぎや》かさはまるでなかった。広い座敷の周囲に人々は黙然と坐っていた。おばあさんは安子さんに附き添われて席に出ていたが、気丈な人と見えて愚痴一つこぼさなかった。しかしもともと寝たり起きたりの病身だったので、この事件はひどい打撃だったのだろうと思う。座蒲団《ざぶとん》の上に坐ったその身体は小さくかがまって、一握りほどに見えた。僕等はひっそりと座敷の隅《すみ》に散ったまま、お寺から和尚《おしよう》さんと郁代さんとが来るのを待っていた。午後早くにしらせが行った筈なのに、この二人がいっこう現れないのが、何か苛立《いらだ》たしい不安を僕に覚えさせた。
しかしやがて和尚さんが小坊主を従えてはいって来た。その後ろから郁代さんが現れた時に、僕は彼女の悲劇的な美しさを改めて感じた。彼女は僕がこの前見た時よりも百倍も美しかった。まるでこうした通夜の席にこそふさわしいような、翳《かげ》のある憂い顔だった。それでいて、どんな意志の力がそう命じたのか、決して涙ぐんでもいなければ弱々しげでもなかった。彼女は真直《まつすぐ》に棺の前に行って坐った。彼女の横顔にあるものは諦《あきら》めではなかった。寧《むし》ろもっと強い怒りに似た表情だった。
読経《どきよう》が始まり、それは長く続いた。この前この同じ法事の席で、僕は直之さんと、この町は次第に滅びつつあるというような話を交《かわ》したものだ。人間も町も滅びて行くんですね、と彼は言った。その時直之さんは、自分自身が一月あまりのうちに自らも滅びることを予期していたのだろうか。僕は彼がゆっくりと盃《さかずき》を口にふくむ時の、あの静かな動作を思い出した。秀の小さな掌《てのひら》を愛撫《あいぶ》していたその手の動きを思い出した。何だかひどく不思議な気がしたし、それでいて、僕はあの頃からこの事件を無意識のうちに待っていたような、奇妙な錯覚さえ感じていた。
「安ちゃん、」と鋭い声がした。
読経はいつしか歇《や》んでいた。僕はびくっとなって首を起した。
「安ちゃん、直之は秀と一緒に死んだというのは本当なの?」
郁代さんの低い声が意外なほど部屋の中に響き渡った。安子さんは困ったように姉を見、それから弁慶さんの顔を見た。
「郁代に知られたんじゃしようがない。実はそうなんだ。何とも困ったことだが。」
弁慶さんはやむを得ないというようにそう弁解した。しかし郁代さんは見向きもしなかった。
「安ちゃん、あなたは馬鹿よ。秀なんかにあの人を取られて。」
安子さんは蒼褪《あおざ》めた顔を俯向《うつむ》けたまま、ひと言も答えなかった。
「直之はあなたが好きだったのよ。そんなことはあなただって百も承知している筈《はず》でしょう。あの人はわたしと結婚しても、どうしてもあなたを思い切ることが出来なかった。わたしは決して嫉妬《しつと》なんかしなかったし、何とかしてあなたたちを為合《しあわ》せにしてあげたいと思った。安ちゃんのためなら、直之のことを思い切るつもりだった。だからわたしはもう帰って来ないと言ったのよ、尼寺にでもはいったつもりで、じっとお寺で我慢していたのよ。わたしたちのお母さんがあなたの小さい時に亡《な》くなったから、わたしはお母さんの代りに、あなたを大事にして、あなたを幸福にしてあげようと決心したんじゃないの。わたしは直之と結婚するまで、あの人の好きなのがあなただということはちっとも知らなかった。どうしてそれが分らなかったのかしら。もしもわたしが知っていたら。もしも直之が、それともあなたが、わたしにひと言でも言ってくれたら。わたしは罪深いことをした、あなたたちの間を割《さ》いてしまった、そう思ってどんなにかわたしは苦しんだでしょう。どうにも他にしかたがないから、それでお寺に行ったんじゃないの。そうすれば直之とあなたとは幸福になれると、一途《いちず》に考えたからじゃないの。それなのに安ちゃん、このざまはなによ? 直之は死んでしまったわ、それも秀と、秀なんかと。一体これはどういうわけなの? あなたはもう直之が好きじゃなくなったの? 一体どうしてなの、聞かせて頂戴《ちようだい》。なぜ直之が秀なんかと死んだのか、そのわけを聞かせて頂戴。」
「お姉さん、そうじゃないのよ、」と暫《しばら》く経《た》ってから安子さんが答えたが、その声はひどく弱々しく聞えた。「お姉さんは間違っているのよ。兄さんが好きだったのはあなたで、わたしじゃないのよ。」
「またそんなことを。いいえ、わたしである筈がありません。もしもそれがわたしだったらどんなによかったでしょう。わたしはあの人が好きで、それで結婚したんじゃないの。それでも本当のあの人の心のうちを知っていながら、妻である権利を振り廻すようなことがわたしに出来る筈がないじゃないの。どんなにか安ちゃんのためを思っていたのよ。」
「それは有難いと思っています。でも、お姉さんはずうっと間違って来ていたの。結局こんなことになって兄さんが死んでしまったのも、もとはと言えばお姉さんが間違っていたから、御自分が兄さんに好かれていることを決して認めようとなさらなかったからじゃありませんか。」
「安ちゃん、あなた直之が死んだのをわたしのせいにする気?」
「だって姉さんが……。」
しかし安子さんの言葉は顫《ふる》えながら途切れてしまった。弁慶さんや一族の老人たちが二人を引き留めにかかった。何といっても通夜《つや》の席でこうした姉妹《きようだい》喧嘩《げんか》は見苦しい代物《しろもの》に違いなかった。しかし皆が留めれば留める程、郁代さんの眼は怒りで輝いた。彼女は鋭い声で叫んだ。
「それじゃ安ちゃん、直之に訊《き》いてみましょう。一体誰が好きだったのか、わたしなのか安ちゃんなのか、さあこの人に訊いてみましょう。」
郁代さんは棺に縋《すが》って大声に泣いた。
「あなたが、あなたが好きだったのは、一体誰だったのです?」
しかし死人は沈黙して答えなかった。
僕が運河をめぐらした、この滅びたような田舎町《いなかまち》を去る日が来た。卒業論文は完成までには至らなかったけれども、しかしもう目鼻はついていた。僕が鞄《かばん》を小舟の中に積み込んでいるところに、安子さんが停車場まで見送ってくれると言ってくれた。いつもの下男がゆっくりと櫓《ろ》を漕《こ》いだ。汽車の出るまでには時間はたっぷりあったし、この町とのお別れに、僕は水路をもう一度見物するつもりだった。安子さんと一緒に舟に乗って、こうして運河から運河へと漕ぎ渡るのも、これが最後かと思えば感慨が深かった。
既に早い秋が来ていて、水の上に白い雲が影を浮べていた。
「これでわたしたちの家の没落するところを、あなたが御覧になったというわけね。」と安子さんが言った。「あなたも御勉強が出来なくてお気の毒でしたわね。」
彼女はまたいつもの快活さを取り戻していた。ただどこかぎごちなく感じられはしたが。
「お姉さんはまたお寺に行ったきりだし、おばあさんはお加減が悪いし。」
「でも安子さんが元気なんだから。」
「わたしも駄目。わたしなんか本当に駄目なの。」
その原因が直之さんの死にあることは疑いを容《い》れなかったから、僕には気休めの言葉も出て来なかった。
「安子さんは直之さんが好きだったんでしょう?」と僕はやや大胆になって尋ねてみた。
「ええ好きでしたわ。お姉さんもわたしも、二人とも夢中になっていたんですわ。でもね、兄さんが好きだったのはわたしじゃないんです。」
それは通夜の晩の同じ繰返しだった。しかし彼女は、今や、別れて行く僕に対して、心の底の気持を打明けずにはいられなかったらしい。
「Aさんは随分奇妙なことだとお考えになるでしょうね。昔からわたしも兄さんが好きでしたから、お姉さんと結婚するときまって、わたしはとても悦《よろこ》んで、兄さん兄さんと附き纏《まと》っていました。そこがわたしとお姉さんとの性質の違うところなんです。お姉さんは昔ふうで、引込思案で、兄さんと一緒に舟に乗ったりなんかはしません。わたしはおてんばだし、その頃は無邪気だったから、しょっちゅう兄さんと遊びに出掛けたりしていました。すると人の口がうるさくなったんです。こんな町では、誰でもそういうことにはとても敏感なんです。そしてお姉さんがそれに気がついて、そして邪推したんです。」
「邪推というと?」
「わたしたちが軽はずみな冗談《じようだん》なんかを言い合っているのを、お姉さんが聞いたか見たかしたらしいんですの。わたしたち、決して何でもなかったのに、お姉さんは段々にそれが本当だと思い込んでしまったんです。」
「嫉妬したというわけですか?」
「いいえ、お姉さんは嫉妬するような性質じゃなくて、自分が身を引くたちなんです。古いんですわ。それがかえって事をいけなくしたんでしょうね。兄さんがわたしを好きだし、自分がそれを邪魔したと考えてしまって。それでこの夏の初めにお寺なんかに行って、あとは二人でうまくおやりというようなものでしょう。そんなこと出来ませんわ。兄さんは家にいにくくなって秀のところに行くし、急にわたし、ひとりぼっちになってしまって。」
「だけどどうして直之さんはお姉さんを引き留めなかったんでしょうね?」
「それは随分と烈《はげ》しい議論もしたようですわ。けれどお姉さんは、そうした弁解を聞けばますます本当だと思うような人だし、兄さんの方は、直《じき》に面倒くさい、しかたがない、と思うような人なんです。初めに誤解があって、それが段々に大きくなって行ったんです。そして兄さんは、結局何もかも面倒くさくなって、死んでしまう気になったんでしょうね。」
「僕にはよく分りませんねえ、」と僕は正直に答えた。
安子さんはその時、ハンドバッグの中を探って一通の手紙を取り出した。封筒の上書に「安子殿」と書かれていた。
「これを読んで御覧なさい。わたしこれはお姉さんにも見せなかったのだけど、何だかAさんには読んで頂きたいの。」
その遺書は短かった。
私はもう疲れてしまった。つまらぬことは忘れて、ぐっすり眠りたいと思う。私は色んなことをして来たが、どれも失敗した。また、誰をも不幸にしただけだった。安ちゃんが幸福な結婚をして、幸福に暮すことを祈っている。
秀が一緒に行きたいというから連れて行く。この最後の眠りだけは失敗しないつもりだ。
僕はぼんやりと綺麗《きれい》な書体を見詰め、言外に隠された意味を汲《く》み取ろうとした。この男の本心はどこにあったのだろう。僅《わずか》に三十歳くらいで、人生に疲れたなどと言えるものだろうか。その一瞬に僕は、僕の人生を、未知と期待と幻想とに充《み》ちた未来を、真昼の光の中で不意にちらっと覗《のぞ》いたのだ。時間の歯車が瞬時に回転し、それがあまりにも素早かったので、僕は未来の絵模様を明かに認めることが出来なかったけれども。
小舟はゆるやかに運河の上を滑《すべ》り、やがて目的の場所に着いた。下男が鞄を持ってくれて、僕たちは停車場まで歩いて行った。乗客は尠《すくな》く、プラットフォームは閑散としていた。
「これでお別れね、」と安子さんが呟《つぶや》いた。
「僕また来ますよ、」と彼女の手を握りしめて、僕は熱心に言った。
「いいえ、あなたはもういらっしゃらないわ。来年の春は大学を卒業して、お勤めにいらして、結婚をなさって、ね、そしてこんな町のことなんかすっかりお忘れになるわ。」
「そんなことはありません。」
「そうよ、それがあなたの未来なのよ。」
再び時間の歯車が素早く回転した。僕は訊いた。
「じゃあなたの未来は?」
「こんな死んだ町には未来なんかないのよ。」
その時汽車がプラットフォームにはいって来た。僕は鞄を受け取って客車に昇り空席を見つけて窓から首を出した。汽車は直に発車した。
「さよなら、御元気でね、」と安子さんが言った。
「さよなら、お姉さんに宜《よろ》しく。」
彼女の白い顔、打振っている白い手が、次第に遠ざかった。それは記憶のようにはかなく消えてしまった。そして僕は再び考えたのだ。直之さんが愛していたのは、やはり、この安子さんではなかったのだろうか。彼の性質として、結婚した妻を裏切ることは出来なかったから、彼は最後まで、死ぬまで、愛しているのは郁代さんで安子さんではないと言い続けたのではないだろうか。あれほど郁代さんが確信をもって信じたのには、やはり充分の理由があり、安子さんだけがそれに気がつかなかった、或いは気がつこうとしなかったのではないだろうか。
そして僕もまた、今になって、僕が安子さんを愛していたことに気がついたのだった。何と僕は長い間、見たこともない郁代さんの幻影に憑《つ》かれていたし、一度その人に会ってからは、悲劇的な、古風な、その美しさに憑かれてはいたが、しかしその実、僕が心から慕わしく思っていたのは、大して美人でもない、快活で、よく笑って、泣虫だった、この安子さんであることを、僕はどうして今まで知らずにいたのだろう。今、それを知ったからといって何の役にも立たないものを。なぜなら彼女は今も、今となっては尚更、心の中で彼女の「兄さん」を愛し続けているだろうから。そして僕が彼女を愛しているからといって、もう一度この夏を初めからやり直すことは出来はしない……。
僕はまた汽車の窓から首を出してみたが、もう安子さんも見えず、停車場も見えず、あの町ももう遠くに過ぎ去って、汽車は陽《ひ》の照りつける晩夏の原野を喘《あえ》ぎながら走って行くばかりだった。
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[#小見出し] 飛ぶ男
彼は清潔なクリーム色に塗られたエレヴェーターの扉の前に立ち止り、素早く右横にある不透明ガラスで出来たボタンを押す。それにさっと灯が点《つ》く。ボタンは一つしかない。それは此所《ここ》が八階、即《すなわ》ち最上階であることを示している。昇って来るエレヴェーターを呼ぶためで、降りて来るエレヴェーターというものは存在しない。ボタンの灯は点いたまま消えない。彼は眼を起して閉じられた扉の上の、並んだ数字を見る。1の数字の明りが消え、2が点く。続いて明りは3に移る。それは3のところで動かなくなる。
彼は右手を見る。右手には看護室があり、そのドアはしまっている。看護婦たちは配膳室《はいぜんしつ》で後片附をしているのか、それとも看護室で夜勤の看護婦と引継ぎのお喋《しやべ》りをしているのか。もう少し後ろへ退《さが》れば、看護室のガラス戸越しに中を覗《のぞ》き込んで様子を知ることも出来る。しかし彼はそんなことはしない。彼はちらっと仰向く。明りは4に移り、そこで止っている。右手の押ボタンも明りが点いたままになっている。その下に小さな貼紙《はりがみ》がしてある。彼は読む。
「これは自動式エレヴェーターです。
「お乗りになったら御希望の階のボタンを押して下さい。
「ドアは自動的に八秒間開きます。乗り降りは迅速にして下さい。定員を越さないようにして下さい。
「絶対に故障を起すことはありませんから、御安心下さい。」
彼は少し笑う。明りは5に移り、6に移る。エレヴェーターは次第に昇って来る。彼の周囲には誰もいない。後ろには喫煙用のテーブルや長椅子や赤電話がある。しかしそこには見舞客も患者もいない。看護婦は依然として姿を見せない。しかし看護婦は今にも、すぐそこの廊下の蔭《かげ》から、看護室のドアの中から、現れるかもしれない。彼は緊張する。
エレヴェーターの扉が、切り開かれたように、中央から左右に分れる。それは人けのないこの廊下の中で烈《はげ》しい金属的な響きを立てる。中は空《から》っぽだ。誰も降りる者はいない。彼はすっぽりとその中に滑《すべ》り込む。しかしドアはまだしまらない、しまることが出来ない。八秒間。彼は待っている。彼は看護婦が廊下に現れ、彼の姿をエレヴェーターの中に認め、驚き、声をあげて呼び、そして連れ戻すのを待っている。その時間は長い。八秒間。しかしドアは再び金属的な響きと共に閉じ合される。一人だ。そしてエレヴェーターは落ちて行く。撃たれた鳥のように、隕石《いんせき》のように、落ちて行く。
その瞬間に意識が止る。意識が二分される。一つは彼の魂、それは動かない、それは落ちない。それは依然としてあの高さ、八階の高さの空間の中にある。その鳥は依然として空中を飛ぶ。その隕石は依然として宇宙空間の中にある。もう一つは彼の肉体、それは動く、それは落ちて行く。エレヴェーターと共に烈しく落下する。撃たれた鳥のように、隕石のように。その二つとも彼だ。彼の意識は二つに分れ、その距離が見る見るうちに遠ざかる。垂直に。
そこに、最初の位置に、八階のエレヴェーターのあの鎖《とざ》された箱の中に、つまり地上から八階の高さの中にいたのが彼なのだ。本当の彼だ。とすれば落ちて行くのは彼の分身、彼の影、彼の意識のみなのか。いやこの方が本当の彼だ。この素早く、無抵抗に、不可避的に落下して行く物体。彼は上に置いて来た意識を懸命に引き戻し、取り戻し、それと合体しようとする。意識の半分を忘れて来てはならない。意識はすべて十全でなければならない。しかしそれは二つだ。彼は尚《なお》も八階の高さにいる。鎖された金属の箱の中で、ただ一人、閉じこめられている。この箱は動かない、この箱は落ちない。それはいつまでも、それこそ永遠にまで続く現在だ。彼はその中にいる。そして自分の意識が、その半分が、撃たれた鳥のように、隕石のように、落ちて行くのを感じる。どちらが本当なのか、本当の彼なのか。彼は知らない。
僕ハ魂ヲアソコニ置イテ来タ、と彼は呟《つぶや》く。エレヴェーターは落下し続ける。階数を示す灯が点いては消え次第に移動する。やがて1の数字に明りが点く。エレヴェーターは止る。扉が中央からするすると左右に開く。
彼はベッドの上で一人きりだった。身体《からだ》を動かし、右側が下になるようにゆっくりと寝返りを打ち、ドアの方、つまり窓とは反対の方向を向いた。ベッドのスプリングが厭《いや》な音を立てて軋《きし》んだ。彼はいつもは大抵仰向けに寝ていた。そして時々は左側が下になるような形に、窓の方に身体を向けて寝た。肉体的には仰向けに寝るのが一番楽だった。それが一番抵抗が少ない。しかし背中や肩が痛くなって来ると、どうしても横向きにならないわけにはいかない。そして横向きになることは身体に負担を掛けたから、長い時間を横向きのままでいることは出来ない。つまり横向きに寝ることは彼にとって一つの愉《たの》しみだった。
いまや彼は右側を下にして横になった。ドアが見え、その隣に鏡が見え鏡の下に洗面台が見える。但し鏡と洗面台とは床頭台《しようとうだい》の蔭になっているから、半分ほどしか見えない。鏡にはベッドは映らないから従って寝ている彼の姿も映らない。鏡には窓が、ベッドの左手にある窓が、ベッドの上の空間を通り越して映っていた。右手の鏡を見ても、左手の窓が見えるという寸法だ。しかし彼は鏡に映っている窓を見ることを好まない。窓は窓、鏡は鏡だ。鏡に映った窓は単なる虚妄《きよもう》にすぎない。どれほど彼が窓を見るのを好んだとしても、それは実体としての、その先に直接に空を見ることの出来る窓で、虚妄としての窓ではない。しかしそれでも彼は暫《しばら》くの間、その鏡に映っている窓をじっと見詰めていた。
カーテンはまだ開かれている。従って中央で二重に重ねられた窓《まど》硝子《ガラス》の左右に裸の空間を鏡が写し取っている。勿論《もちろん》窓硝子は透明だから、二枚重ねられている部分でも、外側の空間を見ることは出来る。しかしそれは真の空間ではなかった。それは虚妄だ。窓硝子と鏡との二重の操作を経て彼の肉眼に映った空間なんかには、彼は何の関心もない。
開かれた窓の向うに空が見えた。しかし鏡によって切り取られた部分はほんの少しだから、それは全天の何十分の一かにすぎない。そこに少しばかり雲の姿が見える。その雲はまだ明るい。僅《わずか》に赤ばんで蔭になった部分だけが暗い。しかしそれは刻々に赤みを増して行くだろう。その雲は次第に動いて行くだろう。
しかし彼は雲の映った鏡を長い間見てはいなかった。雲が見たいのなら、ゆっくりと向きを変えて、身体の左側を下にして、窓の方を向きさえすればいいのだ。そうすれば裸の空間が、もっと広い視野のもとに、彼の肉眼に映るだろう。今は右側を下に寝ているのだし、それは彼にとっての過去の時間なのだ。彼は自分の極《き》めたことを忠実に守る以外に、愉しみとしての何等の自由をも許されていなかった。右側を下に寝ているのは過去の時間だ。しかし彼はまたドアを見た。意識はそこで尚も現在を揺曳《ようえい》した。
ドアは閉じられていた。さっき看護婦が夕食の食器を下げて行った時に閉じられたままだ。他人から煩《わずら》わされない時間としては、今が一番長い。今は六時半だ。七時半頃になると夜勤の看護婦が様子を見に来るだろう。それまでのこの一時間の間は、医者も、看護婦も、見舞客も、誰一人来る筈《はず》はなかった。この一時間だけは(夜中を別とすれば)彼がまったく一人きりでいられる時間だ。不意を襲われることもない。しかし寝たきりの彼にとって、不意というものがあり得るだろうか。不意にドアが開き、若い看護婦がにこにこして部屋にはいり、彼に話し掛け、彼を慰め、そして風のようにドアから出て行くのは、一種の愉しみではなかっただろうか。いな、彼にとってはそうではなかった。ドアは閉じられたままの方がよかった。
蒼《アオ》ザメタ雲ガ浮ンデイタ。空ガ真蒼《マツサオ》ニ澄ミキッテイタカラ、ソコニ浮ブ雲マデガソノ色ニ染メラレテシマッタカノヨウダッタ。彼ハ仰向ケニ草ノ上ニ横ニナリ、ボンヤリト空ヲ見テイタ。小サナ雲ガ蒼ザメテ幾ツモ幾ツモ漂イ、ソノ全体ガ左側ノ山脈ノ方ニ動イテ行ッタ。ソレラノ小サナ雲ノズット上ノ方ノ空間ニ、モット大キナ、ヒトカタマリノ雲ガ、反対ノ方向ニコレマタユックリト移動シタ。ソノ形ハ機関車ニ似テイタ。小サナ雲ノ群ハ小羊ニ似テイタ。小羊ノ放牧サレタ牧場ノ柵《サク》ノ側《ソバ》ヲ機関車ガ走ッテ行クヨウニ見エタ。シカシ小羊ト機関車以外ノ空間ハ真蒼ダッタ。ソノ部分ハ無限ニ遠ク見エタ。
「何ヲ考エテイルノ?」ト彼女ガ訊《キ》イタ。
彼ハ答エナカッタ。考エテイルノデハナイ、見テイルノダ。タダ見テイルダケダ。アノ無限ニ遠イ空間ヲ。
「ワタシタチ、イツカ結婚デキルワネエ、」ト彼女ハ呟イタ。
ツマリ君ノ考エテイタノハソンナコトナノカ。ツマラナイ考エ。卑小ナ、俗ッポイ考エ。いやその時はもっと真剣だった筈だ。それは鏡の中に映っている窓の外の空だったのだ。しかもそれが実体であるかのように信じていた。ドウシテコノ空ノコノ無限ノ遠サヲ彼女ハ理解シナイノダロウ。
「アソコニ鳥ガイルヨ、」ト彼ハ注意シタ。
一羽ノ鳥ガ、多分アレハ鳶《トンビ》ダロウ、ユックリト二人ノ真上デ旋回シテイタ。ソレハ二人ノイル原ッパヨリハズット上ノ方デ、シカモ小羊ノヨウナチギレ雲ヨリハ比較ニナラヌホド低カッタ。機関車トハ更ニ較《クラ》ベモノニナラナカッタ。シカシソコガ空デアルコトニ変リハナカッタ。人間ドモヲ遥《ハル》カニ見下ス高ミデ、ソノ一羽ノ鳥ガ人間ドモヲ憐《アワレ》ンデイルコトニ間違イハナカッタ。
「アイツハ僕タチヲ見テイルンダ。何ゾ獲物ジャナイカト思ッテ偵察シテイルンダ。」
彼女ハ明ルイ朗カナ声デ笑ッタ。
「可哀《カワイ》ソウニ。ワタシタチジャ食ベルワケニイカナイワネ。」
彼ニハ見ルコトガ出来タ。遥カ下界ノ原ッパノ上ニ仰向ケニナッテ寝テイル幸福ナ恋人タチヲ。鋭イ眼指《マナザシ》デ、ソレガ人間デアリ腐ッタ鼠《ネズミ》ヤ兎《ウサギ》ノ死骸《シガイ》デハナイコトヲ、トウニ見抜イテイタ。コウシテ地ベタニヘバリツイタ人間共ヲ見下シナガラ、彼等ノ上デユックリト輪ヲ描イテ飛ブコトハ、何トイウ愉シミダロウ。彼ハソノ愉シミヲ味ワウコトガ出来タ。ナゼナラ……。
「君ハ夢ノ中デ空ヲ飛ンデイルコトハナイカイ? 僕ハショッチュウ空ヲ飛ブ夢ヲ見ル。僕ハキット前世デ、あんです山脈ニ住ンデイタ禿鷹《ハゲタカ》カ、太平洋ニ住ンデイタ信天翁《アホウドリ》カ、トニカク自分ガ鳥ダッタヨウナ気ガシテイルンダ。君ニハソウイウ前世ノ記憶ノヨウナモノハナイカイ?」
彼女ハビックリシテ、呆《アキ》レタヨウニ彼ノ顔ヲ見タ。
彼の眼の前で金属的な響きを立てて扉が開いて行く。そこに三人の人が待っているのを彼は見る。その三人は急いでエレヴェーターへ乗り込み、すれ違いに出て行く彼の方に注意を向けない。そのうちの二人は看護婦だが彼はその二人を見知ってはいない。もう一人は背広を着た男で、きっと見舞客の一人だろう。規則で定められた患者との面会時間はもう過ぎている。今ごろがこの病院で一番閑散とした時刻なのだ。彼はゆっくりと廊下を歩いて行く。昼の間は外来患者がひしめいている待合所のベンチが、幾つも空《むな》しく待ち侘《わ》びている。それは何の機能も果さない空しい死骸だ。薬局の覗き窓はしまっているし、外来受附の小窓も閉じられたままだ。硝子戸越しに職員の姿が一人二人見える。彼は玄関に出る。そして彼はゆっくりと玄関のドアから戸外に出て行く。
明るい。たとえ夕暮の、残り僅な明るさだとしても、病院の中の人工の明るさと較べれば、これは紛れもない本物の明るさだ。彼は立ち止り、眼で光線を、鼻で空気を、呼吸する。病院の前は広場になり、その先に門がある。広場には樹が植えられ、花壇が飾られている。彼はそれを見ながら門の方へ歩く。地面に不可避的に縛りつけられている植物の類を彼は好まない。従って彼の眼は、冷淡に、無関心に、花々や樹々を見る。それはただ見えるというだけだ。彼は門を通り過ぎて往来に出る。静かな街だ。空車の札を掲げたタクシイが彼を認めてスピイドをおとす。しかし彼はそれに一顧も与えない。彼は通りの向う側の建物を見ている。レストランがある。二階の窓を通して夕食を認《したた》めている客の姿が見える。三階の窓の中は分らない。そこは多分事務所なのだろう。その隣は果物屋で、その隣は雑貨屋で、どっちも二階建だ。その隣は花屋で、その隣は本屋だ。しかし彼の視線は建物の表面を垂直に這《は》い上る。花屋のショウウインドウの中の鮮《あざや》かな切花の模様や、本屋の店先の雑誌のけばけばしい色彩などは、彼の関心を惹《ひ》かない。一階よりは二階、二階よりは屋根、そして屋根の尽きたところに、驚くほどの明るさを持つ、光線をたっぷり含んだ空間が、彼の視線を吸い込む。透明な空気の充《み》ち満ちた空、そしてそこを動くともなく浮遊する雲。そこは無限に遠い。
彼は眼を落す。彼は歩道を歩き始める。
深夜だった。彼は目を覚《さ》まし、暗闇《くらやみ》の中で眼を開いた。右手のドアの上の空気抜けの小窓から、廊下の明りが僅ばかり差し込んでいた。左手の窓にはカーテンが引かれている。手を伸してカーテンの紐《ひも》を引けば、窓を直接に見ることも出来るが、しかしそんなことをしても無駄なことは分っていた。そこにあるのは夜だけだ。鳥たちの眠っている夜、そして人間もまた眠っている長い夜だ。しかし時刻を確かめることは多少の気晴らしになるだろう。彼は枕許《まくらもと》に右手を延した。間違えてはならない。スイッチは二つあり、一つは看護婦を呼ぶためのベルのスイッチで、もう一つは枕許の壁に作りつけになったスタンドのスイッチだ。彼は指先でそれを確かめた。明りが点《つ》いた。彼は左手を顔の前に上げて腕時計を見、二時二十分という時刻を読み、また右手でスイッチを押した。再び暗闇が彼を取り巻いた。朝までは長い。そして彼はなかなか寝つかれないだろう。
天井にある電燈は九時に消される。しかし彼は見舞客でもいない限りそれを点けておくことはなかった。枕許のスタンドだけで、彼一人の生活には充分だからだ。生活、とそれは呼べるのだろうか。要するに寝ているだけだ。それでも生活なのだろうか。病院は規則正しく九時の消燈時間を守り、患者は電燈を消して眠った。眠りは生活の中の重要な部分だった。
いま彼は仰向けに寝ていた。仰向けに寝るのは、彼にとっての現在の時間だ。しかし彼は殆《ほとん》どいつでも仰向けに寝ていたし、それが結局は一番自然な姿勢だった。それに人間の意識は、日常の生活の中で、現在の時間を流れているのが一番自然で当り前のことなのだ。
右側の空気抜けの小窓から仄《ほの》かな明りが差していた。それは過去から差していた。そして左側の窓にはカーテンが下り、未来はまったく暗黒で、しっかりと鎖《とざ》されていた。彼は決してよくならないだろう。彼の身体《からだ》はもう半ば死んでいるのだ。医者のまじろがない、学問的な、そしてやや冷酷な眼指《まなざし》の中に、看護婦のやさしい、同情的な、そしてやや事務的な眼指の中に、彼は自分の未来を読み取っていた筈《はず》だ。意識ノ中ノ或ル部分ガソレヲ読ミ取リ、意識ノ残リノ部分ハ決シテソレヲ許容シナカッタ。看護婦たちは誰も若く、生きることは自然で、日常の生活は現在から未来へと坦々《たんたん》と通じていた。彼女等がこの個室にはいって来るだけで、軋《きし》むベッドの上のこの半ば死んでいる彼の身体を包んでいる意識が、日常の感覚を回復するのだ。しかし彼はそれを好まなかった。それに今は深夜で、看護婦が部屋にはいって来ることもなかった。
暗闇ノ広ガリノ中ニ二ツノ巨大ナ白イ手ノヨウナモノガアッタ。手トイッテモソレハ人間ノ手デハナカッタ。ソノ二ツノ巨大ナ物ハ何カヲシキリニ捏《コ》ネ廻シテ、絶エズ動イテイタ。ソレハ神ノ手ダッタ。神ハイマ新シイ生キ物ヲソノ両手ノ間ニ製作シテイタ。
「神其像《かみそのかたち》の如《ごと》くに人を創造《つくり》たまへり。」ト旧約ニ書カレテイル。シカシ神ノ像トイウモノハナカッタシ、従ッテ人ノ像トイウモノモナカッタ。神ハ宇宙ニ茫漠《ボウバク》ト漂ウ意識ガ一ツニ凝結シタモノニスギナカッタ。ソノ凝結シタ意識ハ既ニ鳥ト獣トヲ創《ツク》リ、魚ト昆虫トヲ創リ、ソレラヲ地上ニ放ッタ。シカシマダ何カガ欠ケテイタシ、彼ニトッテコノ最後ノ生キ物ハ今マデトハ比較ニナラヌホド創ルノガ困難ダッタ。彼ハソレヲ最モ美シク、最モ賢ク、地上ニ於《オ》ケル自分ノ代弁者タラシメヨウト思ッタ。困難デハアルガソレダケ興味モ深カッタ。神ハ一心ニソノ仕事ニ耽《フケ》ッタ。
コノ神ハ動クコトガ出来ナカッタ。彼ハ像《カタチ》ノ無イ物ダッタ。タダスベテヲ見ルコトハ出来タ。地上ニハ夕ベガアリ朝ガアリ、緑ノ草ノ上ヲ獣ガ走リ、青イ水ノ中ヲ魚ガ泳イダ。神ハ彼等ガソノ生ヲ愉《タノ》シミ、生レカツ死ヌノヲ見タ。眼ハ無クトモ見ルコトガ出来、耳ハ無クトモ聞クコトガ出来タ。シカシ神自身ノ存在ハ、虚無ノ果シナイ空間デ、タダ二ツノ巨大ナ手ノヨウナモノトイウニスギナカッタ。空間ノ中ニタダコノ二ツノ手ノミガアッタ。ソレハ新シイ仕事ノタメニセッセトソノ仕事ヲ続ケタ。コノ神ハ宇宙ノ意志ダッタ。
神ハ幾度モ失敗シテハ、ソノ不具ナ物ヲ虚無ノ中ニ投ゲ捨テタ。ソレハ粉々ニ砕ケテ宇宙ノ中ニ四散シタ。神ハ倦《ウ》マズニソノ両手ヲ捏ネ廻シタ。ソノ仕事ニノミ意識ガ存在シタ。ソシテ遂《ツイ》ニ、或ル不思議ナ物ヲ彼ハツクリ上ゲタ。ソレハ鳥トモ違イ獣トモ違ッタ。シカシソレハ飛ブコトモ出来、走ルコトモ出来タ。ソレマデニ神ノ創ッタアラユル生キ物ノウチ、最モ美シイ肉体ト最モ賢イ頭脳トヲ持ッテイタ。シカシソレハ人間デハナカッタ。ナゼナラバソレハ翼ヲ持ッテイタカラ。
神ハソノ生キ物ノ鼻ニ息ヲ吹キ入レテ地上ニ放シタ。更ニソノ肋骨《ロツコツ》カラ女ヲツクリ伴侶《ハンリヨ》トシタ。神ハ満足シ、ソノ間ニ地上ニ新シイ生キ物ノ種属ガ次第ニ繁殖シタ。彼等ハ空ヲ飛ビ交《カ》イ、地ヲ走リ廻ッタ。彼等ハ次第ニ空高ク飛ブヨウニナリ、神ノイルアタリマデ飛翔《ヒシヨウ》シテ来タ。
神ニハ最早《モハヤ》仕事ガナカッタ。ソシテ宇宙ノ意識ハ最早凝結スルコトガ不可能ダッタ。新シイ生キ物ガ、彼等ノ固有ノ意識ヲ持ッテ、易々《ヤスヤス》ト神ノ意識ノ内部ニ飛ビ込ンデ来テハ神ノ思考ヲ妨ゲタ。彼等ハ神ニ等シイ智慧《チエ》ヲ持チ、神ノ持タナイ肉体ヲ持ッタ。彼等ハ即《スナワ》チ小型ノ、シカモ無数ノ神ダッタ。
神ハ嫉妬《シツト》シタ。コレハモトモト妬《ネタ》ミ深イ神ダッタ。彼ハ自分ノ失敗ヲ知ッタ。コノヨウナ新シイ生キ物ヲ彼ハ創造スベキデハナカッタ。モット醜イ、愚カシイ、獣ジミタ存在デ充分ダッタ。ソレナノニ彼等ハ我ガ物顔ノ意識ヲ持チ、幸福ナ微笑ヲ浮ベ、神ノ意識ノ内部ニマデ侵入スル。ソレハアルベカラザル間違イダッタ。
神ハ怒リ、ソノ巨大ナ白イ手ノヨウナモノヲ振リ廻シタ。忽《タチマ》チ永遠ノ闇《ヤミ》ガ訪レ、アラユル存在ハ虚無ト渾沌《コントン》トノ中ニ沈ンダ。最早天モナク地モナク、光モナカッタ。スベテハ元ニ戻ッタ。ソノ虚無ノ中デ、神ハ再ビ天地創造ノ第一日目ノ仕事ニ取リカカッタ……。
彼は暗闇の中にいて無意識に両手を組み合せ、捏ね廻した。その両手は汗っぽく湿っていた。人間ノ無意志的記憶ノ根源ニハ天使ノ記憶ガアル、と彼は呟《つぶや》いた。
彼はビルの谷間を歩いて行く。人通りはなく、車も通らない。あたりは異様なほど静かで、かつ薄暗い。時刻はまだ日没には間があるのに、光は遥《はる》かの高みに揺《ゆら》いでいて、この谷間まで落ちて来ることはない。彼は足を急がせ、眼を起す。垂直に、灰色に、切り取られた壁が、彼の右側と左側とに、圧倒的に聳《そび》えている。その壁には窓がない。盲目の壁が、たとえようもない静けさで、両側から彼の頭の上にのしかかって来る。彼の視線は素早く壁と壁との間を通り抜け、上へ上へとさ迷って行く。壁の終るところに、細長く、異様なほどの蒼《あお》みを持ち透明度を持って、空がすっぽりと嵌《は》め込まれている。そこまで行けば自由なのだ。そこには吹き渡る風と透き通った光とがある。そこには自由がある。彼の足はいつの間にか動くのをやめ、彼の眼はこの細長く区切られた空に集注する。しかし彼はまた歩き出す。何トイウ生キ物ダ、人間トイウ奴《ヤツ》ハ。彼は地面にへばりついている右足を起し、続いて左足を起す。彼はまた歩き始める。ビルの谷間は薄暗く、一種の湿った黴《かび》くさい匂《におい》がする。人は通らない。彼はもう考えない。魂ヲ置イテ来タノダカラモウ考エルコトモナイ。彼は谷間を通り抜け、広い通りに出る。
彼は目を覚ました。部屋の中に薄ぼんやりした光線が漂っていた。彼は左手を蒲団《ふとん》の中から出し、窓の端に下っている紐を探り、それを掴《つか》むと手許《てもと》に手繰り寄せた。それにつれて窓を覆《おお》ったカーテンがするすると引かれた。暁だった。薄明の光が空から次第に夜を追い払いつつあった。透明な天が、雲らしいものの形一つ浮べずに、次第にその蒼ざめた神秘を顕示し始めた。ただ惜しいことに、それは硝子《ガラス》を通して見る天にすぎなかった。窓は締められていたし、彼は自分でそれを開くことが出来なかった。看護婦が朝の検温に来て(五時半になれば。時間の正確なことも病院の規律のうちだった)彼が窓を明けてくれと頼むまでは、それは本物の空間を遮断《しやだん》した。大抵の看護婦は、彼の癖を既に知っていたから、黙っていても直に窓へ行きそれを開いた。そうすると朝の爽《さわや》かな空気と共に虚妄《きよもう》でない蒼空が彼の眼の中に飛び込んで来るのだ。
しかし時刻はまだ早く、彼は硝子ごしに空を見ることで満足した。彼はゆっくりと身体を廻転させ、左側を下にして横になった。彼は窓の方を向いた。それは彼にとっての未来の時間だ。空は刻々にその明るさを増した。
未ダ誰一人空ヲ飛ンダ者ハイナイ。人間ハ地上ヲ這《ハ》ウベク運命ヅケラレテイル。ナルホド人間ハ空飛ブ機械ヲ自分ノモノニシタ。らいと兄弟ノ発明以来、人間ハ飛行機ニ乗ルコトヲオコガマシクモ空ヲ飛ブト称シタ。ソレハ違ウ。飛ンデイルノハ機械デアッテ人間ハタダソレニ乗ッテイルトイウダケダ。機械ガモットモット進歩シ、ロケット操法ガ発達シ、遂ニ人間ハ空気ヲ抜ケ出シテ宇宙空間ヲ飛行シ、月ヤ火星ヘマデ行ケルヨウニナルカモシレナイ。シカシソレハ飛ブコトトハ関係ガナイ。
例外ハアッタ。だいだろすハ捕エラレタくれた島ノ牢獄《ロウゴク》カラ逃《ノガ》レルタメニ、蝋《ロウ》ヅケノ翼ヲ二組ツクッタ。ソノ一ツハ自分ガツケ、他ノ一ツハ息子《ムスコ》ノいかるすガツケ、コノ親子ハ空ヲ飛ンデくれた島カラヒト飛ビニ海ヲ渡ッタ。いかるすハアマリニモ空高ク昇り、翼ヲ固着シタ蝋ガ太陽ノ熱ニ溶ケタタメニ海ニ落チテ溺死《デキシ》シタ。いかるすハ増上慢ノ例トシテアゲラレル。シカシソレナラバ、ナゼだいだろすハ無事ニ助カッタノダロウ。人間ノ思イ上リヲ責メルタメニコノ神話ガアルノナラ、ナゼ失墜シタノハいかるすデ、だいだろすデハナカッタノダロウ。コノだいだろすノ智慧ガ羨望《センボウ》ト嫉妬トヲ人ノ心ニ喚《ヨ》ビ起シタノト同ジホドニ、畏怖《イフ》ノ念ヲモ起サセタカラデハナイノカ。単ナル増上慢ト極メツケルニハ、アマリニモ人類ノ夢ヲ具現シテイタカラデハナイノカ。セイゼイ息子ガ海ニ落チタ程度ノ罰ヲシカ、人間モ、マタおりゅんぽすノ神々モ、コノ人類ノ夢ノ創造者ニ与エルコトガ出来ナカッタ。ソシテだいだろすノ後ニ、我々ハ再ビ彼ヲ持タナイ。
人間ハ次第ニ進歩スル。歩クダケデハ気ガ済マズニ、彼等ハ様々ノ車ヲ発明シ、遂ニハ歩クコトヲ忘レテシマッタ。飛行機ノ進歩ニ伴ッテ、彼自ラ空ヲ飛ンダだいだろすノ夢ヲ忘レテシマッタ。人間ハ次第ニ虚弱ナ生キ物ト化シ、ソノ手ヤ足ヲ用イテ自ラ食物ヲ探《サガ》シ獲物ヲ捉《トラ》エル術《スベ》ヲ知ラナクナッタ。人間ハ、セメテ機械ヲツクルコトデ空《ムナ》シイ反逆ヲ試ミルコトノ他ニハ、タダ甘ンジテ運命ヲ受ケ入レルダケダ。人間ニ対シテ、或イハ人間ヲ創ッタ神ニ対シテ、何ガ出来ルトイウノカ。神ハ恐ラクハ暗闇ノ中ノツレヅレヲ慰メルタメニ、彼ノ人形トシテ人間ヲ創ッタダケダ。ソシテ人間ハ、神ニトッテ不可能ナ方法デアル自殺ニヨッテシカ、神ニ反逆スル術ヲ知ラナイ。シカシ自殺ハ明カナ敗北ナノダ。ソレハ運命ニ対シテ何ノ足シニモナラナイ。
モウ一度、だいだろすノヨウニ、空ヲ飛ブコトヲ試ミタナラ。人間ガ翼アルモノトシテ空中ニ舞イ上リ、神ノ意識ヲオビヤカスコトガ出来タラ。空シイ望ミダ。シカシアラユル望ミハ、ソレガ嘗《カツ》テ空シクナカッタコトガアロウカ。人ハ常ニ嗤《ワラ》ウ。だいだろすモ嗤ワレタダロウシ、らいと兄弟モ嗤ワレタ。モシ人ガイツカ自分ノ翼ヲ持チ、ヤスヤスト大空ヲ翔《カケ》ルコトガ出来ルナドトイッタラ、狂気ダト嘲《アザケ》ラレルノガ落《オチ》ダロウ。シカシ僕ハソウハ思ワナイノダ。
ソレハ何万年モ何億年モ先ノ夢ダ。機械文明ハ限度ニ達シ、人類ハ幾度モ泯《ホロ》ビテハ生キ返リ、最早新シイ発明ナンカ考エルコトモ出来ナクナッタ遠イ先ノコトダ。人間ノ身体ハ次第ニ変化スル。不要ナ器官ハ退化シ、有益ナ器官ハ進化シテ、我々ガ現ニ見ルノトハ違ッタ肉体ヲ持ツヨウニナル。脚《アシ》ハ殆ドナクナリ、ソノ代リニ腕ハ大キク広ガッテ翼ノヨウニナルダロウ。ソノ形ハ滑稽《コツケイ》ダロウカ。イナ、鳥ハ今デモ人間ヨリ百倍モ美シイノダ。人間ハソノ時、翼ト化シタ腕ヲ軽ク動カスダケデ、自由ニ大空ヲ飛ビ廻ルコトガ出来ル。澄ミキッタ大空ヲ人間ガ飛ビ交イ、鳥ト共ニ歌イ愉シムコトガ出来ル。ソノ時、人間ハ天使ダ。イナ人間ハ神ダ。人間ハ腐敗シタ文明カラ、遠ク遥カナ原始ニ、ソレモあだむトえば以前ノ原始ニ、戻ルコトガ出来ル。ソレガ人間ノ新シイ夜明ナノダ。
夜がまったく明け、漲《みなぎ》り渡る光線が窓硝子を通して空に充満した。しかし彼はその空を見詰めることを不意にやめた。彼はゆっくりと身体を動かし、また初めの、仰向けの姿勢に戻った。部屋の中は既に明るくなり、彼の眼は天井の白い電燈の笠《かさ》に注がれた。彼は惨《みじ》めな、生気のない、蒼ざめた表情をしていた。
不意にドアが開き、検温器を幾本も入れた筒を手にして、看護婦が部屋にはいって来た。彼の表情が少し動いた。看護婦は一本の検温器を取って彼に渡し、彼のその同じ手を軽く握って脈を診《み》た。この看護婦はいつも怒ったような顔をしていて、余分な口を利《き》かなかった。それでも彼の脈を取り終って表に記入すると、窓に近づいてそれを開き、それから素早く部屋を出て行った。彼は検温器を口に銜《くわ》えた。
涼しい風が開いた窓から吹き込んだ。直接に朝の空が彼の眼に映った。彼は枕の上で首を横に向けた。
明るい空だったが、透明な、澄みきった蒼空《あおぞら》ではなかった。その空は曇っていた。一面に雲が覆《おお》い、ぼんやりした明るみが空間をふくらませているだけだった。窓に区切られた空間はただ一面の空で、その下の端に、僅《わずか》に、遠くの方の街が見えた。灰色のビルや倉庫や煙突が、靄《もや》のようなものに包まれて霞《かす》んでいた。寝たままで見えるのはそれだけだった。大部分の空と僅ばかりの鉛色の街。
彼は右手を蒲団《ふとん》から出し、首を反対の右側に向け、床頭台の抽出《ひきだし》を明けてそこから小さな手鏡を取り出した。それは彼の玩具みたいなものだ。彼は手鏡を握った右手を、高く自分の顔の上に翳《かざ》した。勿論《もちろん》、自分の顔を見るつもりではなかった。そんなものは見たところで何の役にも立たない。手鏡の面は傾斜し、寝たままでは見られない風景を、卵型のスクリーンの上に生き生きと映し出した。
街を、そして家々の屋根を、まるでその上を掠《かす》め飛ぶ精霊のように、鏡の面が吸収した。朝の目覚《めざ》めた街。小さな開いた窓の中に、小人のような人間の姿を認めることもあった。鏡が更に遠くへと翔《かけ》って行くにつれ、靄《もや》が濃くなり画面が次第に生気を喪《うしな》って単調な灰色となった。やがて鏡は河を映し出した。大きな河が、その手前側は建物の蔭《かげ》に切り取られ向う側は墨絵のように黝《くろ》ずんでいたが、一筋の蒼ざめた帯のように流れていた。彼は鏡の面を更に傾けて河の流れを追って行ったが、やがてそこに懸《かか》る橋のところで、風景は終ってしまった。部屋の中の窓枠《まどわく》が映った。僅に橋の欄干が端の方だけ遠くに見えた。
彼は頭上に翳していた右手を蒲団の上におろした。その手はしびれ、手鏡の把手《とつて》は汗ばんでいた。窓の外の風景も、それが手鏡の中に映し取られた限りでは、虚妄《きよもう》の風景というにすぎなかった。窓の向うに河があり橋がある。しかし彼はそれを肉眼で見たわけではない。ちょうど彼が、未来をその肉眼で見たわけではなかったように。
看護婦がドアを明けて再びはいって来た。彼は口に銜えていた検温器を渡した。看護婦は機械的に頷《うなず》き、ちびた鉛筆で検温表に記入し、片手を振って検温器の温度を下げるとそれを筒の中にしまいこみ、それから滑《すべ》るように部屋を出て行った。
彼はいま広い通りを歩いて行く。夕暮の街のそこここにネオンサインの明りがふえて行く時刻だ。この通りは賑《にぎや》かで、勤め帰りのサラリーマンや女事務員がぞろぞろと歩いている。自動車がひっきりなしに走るし、時々はのろのろと電車も通る。
彼は周囲に眼もくれずに歩く。時を置いて彼の眼は、都会のこの大通りの上に永遠の静けさを湛《たた》えている夕焼空の方に移る。ビルの窓という窓が、夕陽《ゆうひ》を受けて一斉にきらりと光る。しかしいつまでも空を見詰めてはいられない。歩道の上を行き交《か》う人の波が、彼にぶつかり彼を押しのける。ざわめきが彼を包む。夕暮の街は活気に溢《あふ》れている。まるで迫って来る夜にせきたてられてでもいるように。彼もまた、何かにせきたてられてでもいるように、急いで歩く。交叉点《こうさてん》を二度ほど横切る。すると人通りが見る見る少くなる。昔ふうのどっしりした店が多くなり、けばけばしい洋品店や喫茶店や映画館の代りに、呉服屋や汁粉屋や大衆酒場が眼に入る。ビラ屋とか漬物問屋《つけものどんや》とかの古風な店もある。町工場や倉庫などがふえ、街の感じがいつの間にか変って来る。自動車ももうあまり通らない。彼は黙々と歩いて行く。次第に一種の湿っぽい空気が感じられて来る。通りの先がゆるい傾斜をなして登りになっているのが見える。黒っぽい鉄の柱が見えて来る。そこは橋だ。彼は橋に向って歩いて行く。
廻診が終り、医者や看護婦がひとかたまりになって旋風のように部屋から出て行ったあとのドアを、彼はまだ見詰めていた。いつもと同じだった。その診断によって何の新しい発見があるわけでもなく、何の新しい未来が予想されるわけでもない。最後の看護婦が出て行ったあとで、ドアは再び冷酷に鎖《とざ》された。彼は一人だった。部屋の中に明るい午前の光線が充《み》ち溢れても、彼を慰めるものは何もなかった。
砂丘ノ上ニ腰ヲ下シテ、彼ハヒトリ海ノ方ヲ見テイタ。春ラシイノドヤカナ海ガヒロガリ、水平線ノアタリハボンヤリト煙ッテイタ。彼ハマダ小学生デ、生キ生キシタ表情ヲ浮ベ、眠タゲナ海ノ上ヲ眺メ廻シタ。波ハ絶エ間ナク岸ヲ洗イ単調ナ響キヲ繰返シタ。
鴎《カモメ》ガ数十羽モ群ヲナシテ沖デ輪ヲ描イテイタ。ソノ中ノ一羽ガ素早ク波ノ表ヲ掠メルヨウニ下リ、次ノ瞬間ニハ再ビ蒼空高ク舞イ上ッタ。砂浜ノ方ニ近ヅイテ来ルノモイタ。ソウイウ時ニ、彼ハ灰色ヲシタ巨大ナ翼ト尖《トガ》ッタ口トヲ、スグ近クニ見ルコトガ出来タ。翼ガ空気ヲ打ツパタパタトイウ音ヲ聞クコトモ出来タ。鴎ハ、彼ガ砂丘ノ上ニ腰ヲ下シテイルノヲ見ツケルト、驚イタヨウニマタ沖ノ方ヘ引キ返シタ。
彼ハ厭《ア》キモセズニ鴎ノ飛翔《ヒシヨウ》ヲ眺メテイタ。鴎タチハユルヤカナ風ニ乗ッテ、翼ヲ動カサズトモ楽々ト空ヲ飛ビ廻ッテイタ。彼ハ考エタ。ドウシテ鴎ニハ出来テ僕ニハ出来ナイノダロウ。彼ハ立チ上リ、砂丘ノ一番高イ端ノトコロマデ行ッタ。ソコハ小高イ丘ニナッテイテ、大人ノ身ノ丈《タケ》ヲ二ツ重ネタ位ハ砂浜カラ高ク盛リ上ッテイタ。彼ハ眼ヲツブリ、勢イヨク飛ンデミタ。身体《カラダ》ハ横ザマニ傾イテ下ニ落チタ。
彼ハモウ一度繰返シタ。今度ハ両手ヲヒロゲ、ピョント跳《ハ》ネルヨウニシテ飛ンダ。落チタハズミニ身体ガ転倒シ、冷タイ砂ガ頬《ホツ》ペタヤ手ニコビリツイタ。彼ハキョロキョロトアタリヲ見廻シタガ、幸イニ誰モ見テイル人ハイナカッタ。タダ鴎タチガ、異様ナ叫ビ声ヲアゲナガラ、沖ノ方カラ彼ヲ見テ嗤《ワラ》ッテイタ。彼ハ屈辱ヲ感ジタ。ナゼ人間ハ飛ベナイノダロウ。彼ハ両手ヲ擦《ス》リ合セ、ツイデ頬ペタノ砂ヲ払ッタ。イツカハ飛ビカタヲ覚エテヤロウ。覚エテシマエバ、泳グノト同ジクライ簡単ナコトニ違イナイ。
彼ハ毎日砂丘ノ上カラ飛ビカタノ稽古《ケイコ》ヲシタ。彼ハソレヲ誰ニモ告ゲナカッタ。ソレハ彼ヒトリノ幼イ秘密ダッタ。タダ、ソノ秘密ハ決シテ解ケルコトガナカッタ。ソノ秘密ヲ鴎タチハ決シテ彼ニ教エナカッタ。
彼は仰向けに向きを変えた。人はただ歩くだけだ。しかも彼は歩くことさえも出来ないのだ。彼の両脚《りようあし》は、腰から下は、痺《しび》れたまま何の感覚もなかった。勿論、人間は飛ぶことは出来ない。それは人間が必ず死ぬのと同じほどの自明の理だ。部屋は狭く、彼はベッドの上で一人きりだった。昔、まだ小さくて砂丘の上で飛びかたの稽古をする秘密を持っていた頃も、彼はやはり一人きりだった。しかしその頃、彼の窓は未来に向って開かれていたのだ。
彼は自分の身体が揺れるように感じた。彼が現に寝ているこの部屋は、八階建のこの病院の八階にあった。もしも横にひろがったこの建物の空間というものを考えずに、ただ垂直に、彼の身体の占めている部分だけを垂直に切り取るとするならば、彼は何という高さにいることだろう。地上から八階の高さ。もしもこのベッドがなく、このフロアがなく、彼の身体だけが空間に浮いているとしたなら、彼の身体が風に吹かれながら空中に漂う鳥のように揺れているのも当然だった。彼は揺れている自分を感じた。ベッドもなくフロアもなく、周囲の壁や天井もなく、ただ透明な空気の中に漂っているような気がした。しかしそれは錯覚だった。彼の身体を揺り動かしていたものは、大空の爽《さわや》かな大気ではなく、彼の内部にあるこの異様な不安にすぎなかった。
彼は遂《つい》に橋に達する。少しずつ登りになったその橋の上を、手摺《てすり》に沿って、中央部の方へ歩いて行く。ほぼ中央の高みに達して、彼は手摺の上に両手を置き、河下の方を眺める。大きな河だ。河の水はどんよりと濁ったまま、物憂そうにゆっくりと流れている。もう日は殆《ほとん》ど暮れかかり、右手の地平線はるかの屋根屋根の上に、驚くほど巨大な火の球《たま》が、上半分は赤く、下半分は黄色に近い橙色《だいだいいろ》に変色して、最後の耀《かがや》きを迸《ほとばし》らせている。火の見の塔のようなものが、その赤い球の中に埋まっている。夕陽の溜息《ためいき》のような光線が、屋根屋根を越えて、河の水面にきらきらと映る。
河下の遠くに幾|艘《そう》かの船が夕靄の中を漂う。両岸にも舫《もや》っている船が何艘か見える。それらは何《いず》れも小さい。薄《うつ》すらと煙を上げている船も見える。夕陽の射《さ》し込んでいない部分はもう薄暗く翳《かげ》り始めている。電燈の光が滲《にじ》むように幾つか水に映っている。どこかで汽笛が鳴り、続いて他の汽笛がそれに声を合せる。
彼は眼を起し汽笛の方向を探る。河下の方の遠くに、彼は工場らしい灰色の建物と煙を上げている幾本もの煙突とを認める。彼の眼は河岸に沿って、品定めでもするように、一つ一つの建物を見て行く。そして一番背の高いビルのところで動かなくなる。やはりあれだ。実は彼がこの橋に来てこの手摺に手を置いた時に、真先に見つけたのがそのビルだった。そのビルがあることに安心して、彼の眼は、河の流れや、沈んで行く太陽や、沿岸の建物や、船や、遠くの工場の煙突なんかで遊んでいたのだ。そのビルは一目見れば分った。それは病院だった。
今や彼は河沿いの汚れた風景の中で、その建物だけをじっと見詰める。それは清潔で、質素で、重々しくて、墓のように白く塗られている。夕暮の空の中に一際《ひときわ》高く聳《そび》えている。幾つもの窓が縦にも横にもきちんと居並び、まるでそこから生気を吸い込む無数の鼻孔を持つ怪物のように、或いはまた無数の眼を持つ怪物のように、見える。その眼は開かれたのもあればぴったりと閉じられたのもある。それは永遠の不可解な謎《なぞ》を問い掛ける都会のスフィンクスのようにも見える。
彼は何の感情も浮べずに、冷たい手摺の上に両手を置いたまま、いつまでもその建物を見詰めている。撃たれた鳥のように、地に落ちた隕石《いんせき》のように、彼の姿は動かない。
彼は身体の左側を下にして窓の方を見詰めていた。開いた窓の向うに、刻々に暗さを増して行く空が見えた。それは黄昏《たそがれ》の薄明りを雲の襞《ひだ》の間に残して、ゆっくりと動いて行く雲だ。さっきまではまだ赤みが残っていた。今は死んで行くだけだ。そしてもうじき夜勤の看護婦が様子を見に彼の部屋のドアを開き、この窓を締めて行くだろう。
彼は窓の外を見詰めていた眼を室内に移した。明るみに馴《な》れた眼は部屋の中を暗く、そして狭く感じた。鎖された部屋の中で、ベッドの上に固定されたまま、彼は一人だった。彼はぼんやりと壁に出来たしみなどを見ていた。
彼は自分の身体が揺れるように感じた。それはベッドの上で不気味に揺れた。彼は身体の向きを変えて仰向けになってみたが、揺れるのは止まなかった。その時、天井に細い亀裂《きれつ》が走った。その黒い裂目は次の瞬間に見る見る大きくなった。身体が、ベッドごと、放り出されはしないかと思われるほど、がくんと揺れた。天井にも、壁にも、無数の亀裂が走った。
地震だ、と彼は感じたが、しかしそれは地震よりももっと恐ろしい何かであるように思われた。彼の内部の不安な感情が息苦しいほど胸を締めつけた。凄《すさ》まじい音を立てて壁が砕けた。窓《まど》硝子《ガラス》が微塵《みじん》に割れ、窓枠が押し潰《つぶ》されて奇妙な音を立てた。天井が中央から二つに割れ、彼の身体の周囲にコンクリートの細かい破片が音を立てて飛んだ。そして割れた天井に、ぽっかりと空が覗《のぞ》いて見えた。夕暮の、次第に暗闇《くらやみ》を増しつつある空が。
その時、無数の声が湧《わ》き上った。今や彼は遠くでざわめいている一つ一つの叫び声を聞き分けた。
「大変ダ、地球ガ泯《ホロ》ビルンダ。」
「オシマイダ、駄目ダ、ミンナ死ヌンダゾ。」
「地球ガ壊《コワ》レテ行クンダ、引力ガ無クナッテシマッタンダ。」
「助ケテ、身体ガ浮クワ、ドウシタッテイウノ、ミンナ浮ブワ、アアドウシタライイノ?」
彼もまた身体が浮き上るのを感じた。ベッドの上に重たく乗っていた筈の彼の身体が、今やゆっくりと空中に浮んだ。そのあとを追うように、ベッドもまた宙に漂った。彼の身体は、天井の大きな裂目を通って、ふわふわと空中にさ迷い出た。
コレダ、コレガ僕ノ待ッテイタ未来ダ。彼は夢中になって周囲を見廻した。浮いている。あらゆる物が宙に浮いている。壁やコンクリートの破片、柱、鉄のベンチ、ベッド、そして更にはそっくりそのままの家も、壊れかけた建物も、自動車も、無数の人も、樹も、街燈も、みんな空を漂っている。彼は更に眼を下に向けた。何という渾沌だろう。今までは都会だったところに、縦横に亀裂が走り、地面が割れ、引き裂かれ、砕かれて、それらは次第に浮き上りつつある。河もない。水は四散し、火もまた四散して、燃えながら浮き上って来る建物もある。火と塵芥《じんかい》と土とが地球の表面を覆い、すべては刻々に昇って来る。
コレハ終リノ日ダ。終リノ日ニ、引力ハナクナリ、地球ハ粉々ニ砕ケ、宇宙ノ中ノ塵《チリ》トナッテ消エ失セテシマウノダ。ソシテコノ瞬間ニ、人間ハ初メテ空ヲ飛ブコトガ出来ルノダ。何ト自由ニ、ヤスヤスト、身体ガ宙ニ浮クコトダロウ。何トイウ自由ダロウ。
彼は身軽に身体を動かして、右側や左側やまた下界の方を見た。空を漂う人たちは、彼ひとりをのぞいて、みな悲しげに絶叫した。物凄《ものすご》い大音響が下界で轟《とどろ》き、夜の中に火と土と水と物との入り混るアマルガムが四散した。しかし空気もまた、素早く重力の制約を逃《のが》れて、上へ上へと飛び去りつつあった。彼は次第に息苦しさを感じ始めた。コレガ空ヲ飛ブコトノ代償ダッタ。空気のない、冷結した、虚無の空間を、地球のさまざまの破片と共に、彼の死骸《しがい》も漂い流れた。
今や彼は手摺《てすり》に凭《もた》れて病院の無数の窓を眺めている。夜が次第にその窓に這《は》い寄る。閉じられ、カーテンを締めてしまった窓の方が多くなる。河の水に映る灯影《ほかげ》もその数を増す。遠くの河下の方はもう何も見えない。しかし彼の視線はまた病院の建物に戻る。僕ハ魂ヲアソコニ置イテ来タ。彼は何かを期待するかのように、幾つかの窓の一つから眼を離さない。
やがてその窓の一つに、小さな人影が見える。豆粒のように小さな男だ。その男は窓から外を眺め廻す。この橋の上にいる彼の姿が見える筈はない。しかしその男はしげしげとこの橋の方を見ている。その男は窓から身体を乗り出す。ああ次の瞬間に身を投げ出す。
落ちない、しかしその男は落ちない。飛んでいる。軽やかに空中を飛んでいる。それを見ている彼の顔に初めて会心の微笑が浮ぶ。何と気持よさそうにその男は空を飛んでいることか。両手を広げ、次第に橋の方に近づきつつある。口に微笑を浮べ、眼を大きく見開き、空ざまに見上げている彼の方へ、空を飛ぶ男の姿は刻々に大きくなる。
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彼は大きな硝子窓《ガラスまど》の前に一本の樹の幹のように立ち、表の風景を眺《なが》めていた。床から天井までを占めるこの大きな窓は、室内の暖気のためにうっすらと曇って外部の風景を明らさまに見せてはいなかった。外では雨が降り出したらしい。銀杏《いちよう》の並木に面した通りの二階で、窓の外に枯れ枯れの葉の残った銀杏の樹々が黙然と並び、ところどころに燈火が霧雨に煙っていた。それらの燈火は、よく見れば酒場の名前や広告燈の文句を告げていた。しかし彼はさっきからこの窓の前に立ったまま、特に何を見詰めているというわけではなかった。後ろには室内の眩《まぶ》しい光線があり、その光線に照された彼自身の作品が並んでいる筈《はず》だった。しかし今や、彼はそのことさえも信じなかった。眼の前に夜を湛《たた》えた窓があり、その厚い硝子の層が表の通りと彼とを遮断《しやだん》しているように、彼の背後にも、いな彼の周囲にぐるりと、空気さえも通さない透明な、重たい、厚ぼったい層があるに違いなかった。彼はそれに触《さわ》ってみた。冷たいぞっとするような感触が、彼の手に伝わって来る。それは彼の心だったろうか。彼の手が触るとそれはばらばらに崩《くず》れ、音を立てて虚無の底へと沈んで行ってしまった。
客のいない、がらんとした画廊の中だった。彼の作品が三方の壁を埋めて、その一つ一つが窓に立つ彼の姿を見詰めていた。まるでそこにいるのが、自分たちと同じ抽象的な色と線とからなる物体ででもあるかのように。
空気は重苦しく澱《よど》んでいて、彼がひっきりなしに喫《す》っている煙草の煙と、絵具油の噎《む》せるような臭《におい》とが部屋の中に籠《こも》っていたが、彼はそれに気がつかなかった。狭いアパートの一室で、天井の中心から紐《ひも》で引張って片側に寄せられた電燈が、いやに煌々《こうこう》とまぶしく、貧しい部屋の片側だけを照していた。というのは、部屋の隅《すみ》から隅へと紐を張って生乾《なまがわ》きの洗濯物《せんたくもの》がぶら下っていたし、おまけに電燈の笠《かさ》に黒っぽい風呂敷がかぶせられて、部屋を明暗の二色にくっきりと区分していた。明るい方の側には壁に向ってカンヴァスが立て掛けてあり、ミシンもその範囲内にあった。半陰影をなしている部屋の隅には蒲団《ふとん》が敷かれ、子供がもうとうに眠っていた。
それはどの一日と限って違っているわけではない生活の中の平凡な風景だった。彼はこうして台所つきの一間しかないアパートに、妻の信子《のぶこ》と小さな娘のエミ子と共に暮して来た。このアパートに来る前には、妻の両親の家にいたこともあるし、療養所にいたこともある。しかし生活というものは、この狭い部屋の中で、親子三人が幸福に暮すことから始まったような気がする。どの一日も大して違っているわけではなかった。昼の間は彼は或る宣伝社に勤め、ポスターや図案などを描き、レイアウトや割りつけなどをもし、その間に妻はこの部屋で洋裁のミシンを踏み、エミイは表でおてんばをして時々は泣いて帰って来る。夜は夕食のあとで彼は絵を描き、妻は依然として頼まれものの洋裁に精を出す。子供は早く寝る。
もしもその晩、何かがいつもと変っていたとしたなら、それが個展の始まる日の前の晩で、どうしても仕上げなければならない絵と彼が取り組んでいたことだろう。その晩、――と今さらのように振り返ってみるのだが、それはほんの数日前のことにすぎず、またその晩、特に記憶に残るようなことが起ったわけではない。彼自身が如何《いか》に思い出そうとつとめても、その晩の彼の言動にも、また信子の反応にも、格別の意味があったようには思われない。しかし彼女は今朝明かにこう言ったのだ。
「どうしてなのか人に分ってもらえないこともあるんじゃないかしら。個展の始まる日の前の晩だった、その考えがわたしに取り憑《つ》いて離れなくなってしまったのよ。」
その時は彼もまた考えていた。しかしそれはごく単純なことで、殆《ほとん》ど思考の形をなしていなかった。意識は停滞して、一つの中心のまわりを往《い》ったり来たりしながら、恰《あたか》も一つの線で囲まれた物体を塗り込めている色彩が、その輪郭をはみ出して他の色彩と混り合うように、時々中心から泳ぎ出したというにすぎなかった。中心だけは意識の中に鮮《あざや》かな色彩に塗られているが、色の重なり合った部分はもう分析することが出来ない。或る一つのことに熱中している際に、意識がその周辺にさ迷い出るとしても、人はもうその記憶を明かに指折り数えることは出来ないだろう(ほんの数日前のことでも)。しかしそこ、輪郭を外れて色彩の混り合ってしまったその部分こそが、単純化された生活の意識、つまりその人間の内部そのものを形づくっているのだ。
子供が咳《せき》をした。
彼は小さな皿を幾つも膝《ひざ》の前に並べ、今しもその一つに多量の絵具をチューブから搾《しぼ》り出し、油を加えながらペインティングナイフで捏《こ》ねまわしていたが、子供の甲高い咳の音に振り返った。エミイは漸《ようや》く風邪《かぜ》が癒《なお》ったところで、そのことも彼の意識のうちに影を落していた。子供は勢いよく寝返りを打ち、目を覚《さ》ますこともなくまた眠ったらしい。妻がミシン台から立ち、子供の蒲団を直しに行くのを見て、彼は安心して自分の気持に戻った。
「あなたまだおやすみにならない?」
彼は絵具皿の中で丹念にナイフを捏ねていた。カンヴァスを睨《にら》み、ナイフにすくい取った絵具を勢いよく画面に押しつけ、薄く引き延した。
「お茶でもいれましょうか?」
さて、その時彼が考えていたのは何のことだったろう。中心にあるのは彼の眼の前の絵のことだ。しかしそれはカンヴァスのどの部分にどの色を置こうとか、どこをどう変えようとか、乾《かわ》きがどうとかいうような、専門的な関心ではなかった。そういうものは無意識に頭脳に浮んで来るので、もう二十年近くも絵を描いていれば、それは考えるという範囲には属さなかった。彼の描くものが抽象絵画であるように、彼の意識も抽象的な主題をめぐって往ったり来たりした。
幹をなしていたのは、彼の絵が彼という人間に対して持っている意味だった。彼、――彼は学業を中途で止《や》め、好きな絵を描くことに熱中した。その彼がもう二十年近くもこの一筋の道に縋《すが》りつきながら、依然として貧しい無名の画家にすぎず、嘗《かつ》て一枚の絵も売れたことはなく、今までに二度ほど開いた個展も何等《なんら》の反響を呼ばず、常に病気と生活とに追われて苦しんでいるのは何のせいなのだろうか。それは彼が親の意志にそむき、自ら窮乏の道を歩み、性来の人嫌《ひとぎら》いと頑固《がんこ》さとを失わず、進んで人に頭を下げることをしなかったためなのか。彼が一人の若い娘を愛し、結婚し、彼女と子供とのこの生活を大事にしながら、しかも自惚《うぬぼれ》にも近い自信を持って自分の芸術に励んで来た、そこに何等かの矛盾があったのだろうか。しかしそのように僕は出来ている、――そう答えるほかには答えようのないもの、それが常に彼の思考の中心に蹲《うずくま》り、カンヴァスに向って、ここに自分があると言いながらせっせと筆を動かす原動力になっていた筈《はず》だ。
しかし幹から出た最も大きな枝は、彼が明日は個展を開き(たとえ僅《わず》かに五日間の会期しか与えられていないとしても)、そこに出品すべき最後の作品をぎりぎりのこの晩まで描いているという自覚だった。どうせ大した批評家が見に来てくれることもないだろうし、紹介記事が美術雑誌に出ることもないかもしれない。しかしどうしても自分の気の済むだけのもの、せめてこの最後の一枚だけは自分自身に納得の行くものが描き上げられなければならない。そこから枝が拡《ひろ》がって行き、僕という人間に意味がない限り僕の絵にも意味はないのだ、という病葉《わくらば》の残った細い枝々が暗い夜の空間に触れて微《かす》かな音を立てた。僕という人間の意味、それは空間に呑《の》まれてもう返って来ない木霊《こだま》のようなものだ。
「ひどい煙草のにおい、ちょっと窓を明けてもいいでしょう?」
妻がお茶の仕度《したく》を卓袱台《ちやぶだい》の上に置き、窓を明けると、霧のような冷たい空気が室内の澱んだ空気を吹き払った。彼は背伸をして立ち上り、窓の方へ歩いて行き、外を見た。
泣き出しそうな曇った夜空には星一つ見えない。眼の下は狭い空地《あきち》になり、そこから人通りのない小路が透いて見えるが、一つだけ街燈がぽつんと乏しい光を投げ掛けているばかり、その向うには町工場の汚《きたな》らしい壁と屋根とが黒々と蹲っている。何度も見、そのたびに何かが不足していると感じる風景だ。夜と、夜に圧《お》しつぶされたよごれた町。
「あまり窓を明けておくと、この子がまた咳をするわ。」
彼は窓を締め、卓袱台の前に坐った。信子は描きかけのカンヴァスの方を見詰めていた。
「この絵もお出しになるの?」と訊《き》いた。
「ああ。明日の朝持って行くつもりだ。それだけスペースが明けてあるんだ。これが一番新しい作品だし、何しろ数が尠《すくな》いから一点でも多くと思ってね。」
「お勤めと一緒じゃ絵を描く暇もないわねえ。」
「そんなことはしかたがないさ。」
「お勤めの方はどうなの、お休み頂けるの?」
「大抵大丈夫だ。とにかく明日は一日詰めている。お前もエミイをお母さんの家にあずけて来ていておくれ。」
「そうねえ。」
「僕は会期の間じゅう会場に詰めているわけにはいかないから、お前が留守にいてくれると心強いんだ。」
「わたしなんか役に立たないわ。エミイだってまだ風邪がよくなったばかりだし。」
そうした会話の間に彼女は何を考えていたのだろう。もしも誰かがそこにいて二人の会話を聞いていたなら、貧乏な画家が個展の前の晩に気力をふるい立たせていることには気がついても、その妻が心に何を思っていたかは遂《つい》に分らなかったに違いない。夜おそくお茶を飲んでいる二人の夫婦、妻というものは日常の中では空気のように透明なのだ。しかし彼は、それに気がついてもいい筈だった。
「何だか熱がないね?」と彼は言った。
「そういうわけじゃないの。」
信子の微笑には馴《な》れていた。少し寂しそうな翳《かげ》のある微笑、白い歯がちらりと見えた。しかし彼が望んでいたのはもっと明るい、もっと悦《よろこ》ばしい、溢《あふ》れるような同意と期待だった。何と言ってもこれが彼のやっと三度目の個展なのだ。絵を描き出してからもう二十年に近い。結婚してからもう十年が過ぎている。
「君にも苦労を掛けたけど、これで芽が出るかもしれない。」
「苦労なんかどうでもいいのよ。どうせ承知で結婚したんですもの。でも早いものね、もう十年ね。」
「僕もいまそれを考えていた。」
「エミイを生んだのはやっぱり失敗だったわね。」
「馬鹿なことを言っちゃいけない。」
彼は機嫌《きげん》を悪くした。その話題はタブーの筈だった。二人は若く結婚して悪戦苦闘の数年間を過した。そして彼は健康を害し、療養所で三年間暮し、退所してから信子の両親の家に転《ころが》り込んだ。子供が出来たのはその時期だった。一体何が彼を、そして彼女を、そのことに踏み切らせたのだろうか。子供をまじえた平凡なしかし幸福な家庭というものが、それほど魅力的で彼等を誘惑したのか。人並な暮しが出来るだろうという目算があったのか。しかし彼等が独立してこのアパートに移り住んでから、生活は少しも楽になったとはいえず、絵を描く時間さえも次第に失われた。しかしそれは子供のせいである筈はなかった。
「わたしたち、二人きりで散歩したこともないわねえ。」
思い出したように彼女がそんなことを言い出した時に、ふと失われた時間が戻って来た。昔、――例《たと》えば療養所に彼が寝起きしていた頃、或る洋裁店に勤めていた信子がお休みの日になると見舞に来た。手術の予後を養って退所も間近になった頃は、二人はよくこっそりと病室を抜け出し、秋の深まって行く雑木林の間を一緒に散歩したものだ。その頃、信子はこういうふうに暗い顔はしていなかったような気がする。未来の計画を語り合い、新婚時代の夢を繰返し、新しい出発が退所と共に始まるつもりでいた。雑木林を渡る寒い風に、ぴったりと身体《からだ》と身体とを倚《よ》り添わせていたものだ。
「この絵まだ終らないの? もう遅いし。」
「うんもう少しだ。ちょっと仕上げが残っている。お前は先におやすみ。」
「わたし、少し話したいことがあるんだけど……。」
彼は顔を起し、きつい表情になった妻を見た。微笑を浮べれば優しい女らしい顔立になるのに、真面目《まじめ》な表情の時には取りつく島もないような冷たさが漂う。微笑を含んだ顔と、冷たい取り澄ました顔と、どちらが素顔でどちらが仮面なのか、そういう時に彼はふと他人を感じた。
「何だい?」
彼女は例のように微笑した。不可解な微笑、しかしその時は彼に、その微笑が何でもないのよ、つまらないこと、と言っているように見えた。彼は今までに幾度この微笑を見たことだろう。結婚する前にも、結婚してからも。その度《たび》に彼はそこに信頼と尊敬とのあらわれを見た。自分を愛していることの証拠として見た。
「何か大事なこと?」
「ええ、でも明日にしましょう。あなたはまだお仕事でしょう? わたしは先にやすむわ。」
それで終りだ。彼はまたナイフを取り上げカンヴァスに向った。背後で妻がそっと動いている気配を感じながら、彼の意識はこの最後の一枚の仕上げに集注した。それが一本の樹の幹だった。しかし彼が気のつかなかった枝々も、夜の空間の中に手を拡げていたのではなかっただろうか。
彼は大きな硝子窓《ガラスまど》の前に立ち、銀杏《いちよう》の並木のうちの一本が、すぐ眼の前にあるのを見ていた。硝子が曇っていたから、葉の尠い、枯れ枯れとしたその樹の姿を、明かにすべて眼に入れていたわけではない。画廊の中の照明が硝子窓を通してそこに差すばかりで、それは暗い横通りに薄ぼんやりと亡霊のように見えた。しかし彼はそこに、この硝子窓の向うに、この一本の樹に、黙然と立って自己の存在を主張するものを感じないわけにはいかなかった。それは幾本も幾本も並んだ並木の中のたかが一本というにすぎない。都会の道路の端に、邪魔物扱いをされながら、ひねこびて育っている樹。秋の終りに葉は黄ばみ、風が吹くたびに一枚ずつその葉は散り、鋪道《ほどう》に落ちて靴の底に踏まれ、枝は寒々と夜の中に手を差し伸べ、雨に打たれながら、しかもこの威圧する暗黒の天に向って、幹だけはすっくと立っているもの。
枝々。――今や彼は絵のことは考えなかった。問題は幹ではなく枝、絵ではなく妻のこと、個展の始まる前の晩に、何が彼女をその決心に導いたかを知ることだった。一緒にお茶を飲み、平凡な会話を交《かわ》した。その時彼は幸福な気持でいた。夜おそくまでカンヴァスに向い、明日は個展だという意識を持ち、妻がミシンを踏んでいる音を無意識に聞き、エミイの咳《せき》に心配そうに振り返った、――それは幸福、家庭というものの中にあり、しかも自分は芸術家だという自覚をも同時に感じることの出来る幸福だった。その晩は|まだ《ヽヽ》幸福だった。なぜならば彼はまだそれを知らず、信子は微笑してこの時間が既に変色していることを彼に教えなかったから。
枝々。――療養所にいた頃、彼の生活の時間は妻が訪《たず》ねて来るただその瞬間にのみ燃焼した。入口の戸を明け、はにかんだように少し微笑する。娘らしいその動作を見ながら、それが彼の妻であることをどんなにか彼は誇らしく思っただろう。手術の日がきまってそれを彼女にしらせた時に、彼の蒲団の上に身を投げ出していつまでも顫《ふる》えていたその肩。散歩の間の、風に吹かれてそよいでいた頬《ほお》の上の後《おく》れ毛《げ》。「待っているわ、いつまででも待っているわ。」
枝々。――彼の父親がこの結婚には反対だと言ったことを彼女に告げている間じゅう、彼の感じていた不安のようなもの、その中には、もしも彼女を失ったらという危惧《きぐ》と、我々の間を割《さ》くものは何もない筈だという自信と、独立して世の中に出て行くという悲愴感《ひそうかん》のようなものとが混っていた。そして彼女は生真面目《きまじめ》な顔をして聴き、そんな顔立が少女のような彼女の表情に似つかわしくないことをちっとも知らずに、せいいっぱい大人ぶって、「わたし、決心したことを変えるような女じゃないわ、」と言った。
枝々。――彼女をまだ識《し》らなかった昔はどうだったのか。田舎《いなか》で、日暮れがたに、家の外に出て空を見ていた。あれはおじいさんの家にあずけられていた頃、まだ小さな子供の時分だった。太陽が西の山に沈もうとして、空が一面に燃え、鱗雲《うろこぐも》の一片ずつが火花をあげながら流れていた。何という美しい空、気の遠くなるような光と色との微妙な変化。「夕焼小焼で日が暮れて……。」ああその頃でも、彼の心のどこかに既に信子という者が住み、彼と共に思い、彼と共に呼吸していたのではなかったろうか。「夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて」――後にその歌を知って、彼はそれをあの子供の時代から覚えていたような気がしてならなかった。彼の生涯をずっと溯《さかのぼ》っても、彼は信子のために生れ、彼女と暮すためにのみ生きて来たような気がする。
枝々。――しかし何かが、彼がどうしても探り当てることの出来ない何かが、虚無の中にひっそりと枝を延し、揺れ、悶《もだ》えていた。たとえ彼がその時知っていても、最早どうにもならなかったものが。
彼は硝子窓の向うの銀杏の樹をもっとよく見ようとして、一歩近づいた。蒼《あお》ざめた顔が浮んだ。しかしそれは彼自身の顔が硝子に映っているのだ。
もう一つの顔がその顔から分離し、誰かが彼の後ろから声を掛けた。
彼がそのカンヴァスを仕上げ、署名を入れ終った時に、夜がもうひどく遅いことはあたりの静けさからも分った。近くを通っている電車もとうに運転を終り、犬がさみしげに遠くの方で吠《ほ》え続けていた。彼は出来上った絵をしげしげと見詰め、大きな溜息《ためいき》を吐《つ》いた。膝《ひざ》の前に散らばった絵具箱やパレットや皿や筆などを片づけるだけの気力もなかった。これが幹だった。これが彼という人間の根幹から生れ出た作品だった。それに満足しても満足しなくても、彼は絵を描くために生れ、そのために生きて来たのだ。エミイは眠っているだろうし、信子も寝ただろう。しかし彼は起きてこの絵を描き、充足感を覚え、疲労を覚え、彼の張りつめていた意志が柔軟に溶けて行くのを感じて、幸福だった。ここに僕の世界がある、と彼は思った。この色と線とからなる抽象の中に、彼の世界があることを信じることだけが、唯一の意識となって残った。
彼は冷たくなった茶を飲み、手洗いに立ち、着替を済ませ、電燈のスイッチを引いて子供のための薄暗い終夜燈に切り換え、それから蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。眠りはすぐに彼を襲った。明日の朝は早く起きて、会場にこの絵を持参しなければならないと、自分に言い聞かせるまでもなかった。彼は取りとめもない幸福な夢を切れ切れに見ながら、深い眠りの中に沈んだ。
彼が知っていたのはそこまでだ。
彼が知らなかったのは、妻が、――とうに眠っている筈《はず》だと彼が信じていた妻が、それまでもじっと眼を見開いていたこと、彼が眠ってからも尚《なお》も考え、それから寝衣《ねまき》のまま起き上り、卓袱台《ちやぶだい》の前に坐って、頤《あご》を埋めるようにそこに凭《もた》れていたことだった。近くの通りをサイレンを轟《とどろ》かせながら救急車が走り過ぎた。彼女はうなだれていた首を起し、良人《おつと》が描き上げたばかりのカンヴァスをじっと見詰めた。生ま生ましい絵具を鮮《あざや》かに配置したその絵は、睡《ねむ》たげな薄ぼんやりした終夜燈の下で、不可解な暗号のように見えた。彼女はどんな批評家よりも熱の籠《こも》った眼つきで、様々の記号からなるこの平面を眺《なが》めていた。しかし彼女が読み解こうとしていたものは、彼の絵画の秘密ではなかった。それは不可解な彼女自身の心を示すかのように、奇妙に抽象的な存在としてそこにある鏡だった。そこに疲れた獣のような眼をした彼女がいた。そして眼がこの鏡の中に自己を読み取った時に、一しずくの涙が目蓋《まぶた》に浮んでいた。
「やあ君か。」
彼は驚いて相手の顔をまじまじと見た。
「覚えていたかい? 久しく会わなかったね。新聞で君の個展があると知ったものだから、ぜひ見に来ようと思っていたんだが、なかなか暇がなかった。ときに元気かい?」
相手は濡《ぬ》れた傘《かさ》を手にして愉快そうに微笑した。
「奥さんもお元気?」
彼の心の中を、傘から垂《た》れる水滴のようなものが滴《したた》り落ちた。相手は彼の最も古い友人の一人で、高等学校時代に親しくし、彼が信子と結婚する前後に、よく遊びに往《い》ったり来たりしていた間柄だった。療養所にいた頃もよく見舞に来てくれたが、その後は今まで殆《ほとん》ど交渉がなかった。
「よく来てくれた。これっぽっちのものだけど、まあ見てくれ給《たま》え。」
彼は友人を案内して画廊の壁の前をゆっくりと歩いた。友人はあまり口を利《き》かなかったし、彼の方も格別説明しようとは思わなかった。ただ最後に、自分で自分に元気をつけるように、これだけ言った。
「この絵が一番新しいんだ。この個展のためにぎりぎりまでかかって描いた絵だ。つまり今までやって結局これだけのことだよ。」
相手は頷《うなず》き、まだ絵具の乾《かわ》いていないそのカンヴァスを暫《しばら》く見詰めていた。それから部屋の隅《すみ》にある長椅子に二人とも腰を下した。
「どう思う?」と彼は訊《き》いてみた。
「どうって、僕みたいな素人《しろうと》の口を出す幕じゃないよ。」
友人は微笑し、彼にはその微笑の含む意味を知ることが出来なかった。友人はまだ傘を手から離さず、両手をその握りに掛け、その上に頤《あご》を載せていた。この友人は大学を出てから大きな商事会社に就職し、今では有望な地位に就《つ》いている筈だった。オーヴァでも靴でも、凝ったものを身につけていた。
「君はいつ頃から抽象画に変ったんだね? たしか療養所にはいる前ごろは、こういう絵じゃなかったね?」
「そう、段々にこういうことになった。」
「僕は君が奥さんを描いたポルトレエを持っているよ。あれは君たちの新婚の頃だったかね、君は奥さんばかり描いていたじゃないか。」
「君のとこにそんな古い絵があるの?」
それもまた、彼の意識から空間に拡《ひろ》がっている枝の一つだった。彼はその頃どんなに夢中になって信子の肖像ばかり描いていたことだろう。絵に対する情熱と彼女に対する愛とが、何と見事に混り合っていたことだろう。今でも、彼が抽象画を描くようになった今でも、それは失われていない筈だった。少くともそう信じていた、この個展が始まる日までは。
「僕は何も流行に乗って抽象に変ったわけじゃないんだ。絵というのはつまり自分の世界をそこに映し出すことだ。自分というものの中にある様々の混沌《こんとん》とした意識を、その中の夢や純粋さや力や音楽や記憶などの色んな要素に分解して、それを別の次元に組み立てることだ。」
「僕にはそういう難《むずか》しいことは分らない、」と友人は簡単にあやまった。「ただ君の昔の絵はとてもいいものだったよ。モデルの奥さんも綺麗《きれい》だったけど。」
彼の眼を起したところに、彼の描いた最も新しい作品が懸《かか》っていた。それは彼自身の世界だ。しかしその中に信子の姿はない、信子に関係のあるものは何一つない。それは厳密に彼ひとりのもの、彼がひとりで苦労し、発見し、創造した世界だ。それは素人には分らない。批評家にも分らない。信子にも分らない。それならばこの世界とは一体何だろう。
友人は傘を杖《つえ》にして立ち上った。
「もうそろそろ終りなんだろう。久しぶりだからそこらで一杯やらないか?」
「うん、しかしもう少し待ってみよう。悪いけど。」
「そうか。じゃまた会おう。」
友人は入口の階段を下りて会場を出て行った。彼は立ち上り、また大きな硝子窓《ガラスまど》の前まで行き、下の銀杏《いちよう》並木《なみき》を友人の黒い影が素早く過ぎ去るのを見送った。
誰を待っているのか。雨の中をわざわざ見に来る客ももういないだろう。彼もまた帰るべき時刻なのだ、――家庭へ。
銀杏の樹が風に吹かれて枝々をそよがせた。
今朝、食事のあとで信子がその話を始めた時に、彼は全然重大なことだとは考えていなかった。この十年間に彼女がそんな話を切り出したこともなかったし、その平静な表情を見ているとまるで日常茶飯《にちじようさはん》の相談事のようにしか思われなかった。
「わたし、こういうことを言うのはわたしの我儘《わがまま》かもしれないことはよく承知しているのだけど、あなたと暮すことを止《や》めようと思うの。もっと早く気がつかなければいけなかったのに、もうこんなに遅くなって。」
彼はその時、開いた窓の側《そば》に立ってお天気の具合を見ていた。窓を締めると、鉛色に曇って今にも降り出しそうな空は硝子越しに一層その暗さを際立《きわだ》たせた。
「どういう意味、それ?」
「あなたと別れようと思うの。どうかびっくりしないで頂戴《ちようだい》。わたしもよく考えたことなの、あなたも怒らないでよく考えて。」
彼は窓を背に、信子が卓袱台の前に坐って彼の方を見上げているのを、他人のように見た。エミイが彼女の側で大人しく絵本を見ながら、声を出してたどたどしく文字を読んでいた。
「わたしたちはもう十年も一緒に暮して来たわね。昔はわたしも若くて、夢中になってあなたのことを愛したし、そのことを今でも決して後悔はしていない。それは分って頂戴。今だってあなたのことを嫌《きら》いじゃない。ただこうして暮していると、あなたも惨《みじ》めだしわたしも惨めでたまらないの。それを何と言ったらいいのかしら。暮しが貧しいとか、もっと楽をしたいとか、そんなことじゃない。あなたはわたしというものにかまけてお仕事も進まない、しょっちゅう苛々《いらいら》して、絵を描く暇さえない。わたしはそれを見て、やっぱり苛々して、わたし自身の生活というものを持たない。ひょっとしたら、わたしたちは全然間違っていたんじゃないかしら。」
「ママ、これは何という字?」とエミイが訊いた。
「それは犬という字。いい子だからひとりで遊びなさい。」
「犬のなまえはポチといいました。ポチは……。」
エミイが無邪気に絵本を読みつづけて行く間に、彼は自分の顔色が次第に蒼《あお》ざめ、沈黙が抵抗できないもののように二人の間に壁をつくるのを感じていた。壁の向うで、信子は冷たい緊張した表情をし、眼をきらきらと光らせた。その表情は重たい悔恨のように美しかった。
「どうしてなんだ? どんな理由があって急にそんなことを言い出したんだ?」
「どうしてなのか人に分ってもらえないこともあるんじゃないかしら。今さらこんなことを言い出して。結婚して十年も経《た》ち、エミイという子供まであって、きっと人が聞いたらあきれるでしょう。わたし自身にだってはっきり説明することが出来ない。あれはあなたの個展の始まる日の前の晩、つまり一昨々日《さきおととい》の晩だった、その考えがわたしに取り憑《つ》いて離れなくなったのよ。」
「それはどういうことなんだ?」
「分らないのよ、わたしにも。でもこのままではどうにもならない。もっと自分のために生きてもいいと思うのよ。」
「要するに君は僕という者に愛想をつかした、うだつの上らない貧乏絵かきと暮すことに我慢がならなくなったと言うんだね?」
「そんなに怒らないで。決してそうじゃない。あなたは間違いなく立派な芸術家で、いずれはみんながあなたを認めるようになる、わたしはそれを信じています。けれどもあなたが家庭というものに縛られ、わたしとエミイとに責任を持って下さる限り、あなたにはあなたの芸術を延すだけの余裕がない。芸術家というのは貪慾《どんよく》なもので、あたり構わず犠牲にして進まなければいけない筈よ。けれどもあなたは人がよくて、家庭を大事にして下さる、それからわたしという人間は、犠牲になって暮そうとは思わないような意地っ張りなの。」
「しかし、僕たちは今までどんなにか僕たちの家庭のために努力したじゃないか、そうは思わないかい?」
「そうよ、努力をしすぎたのよ、空《むな》しい努力を。考えてみて頂戴、結婚というのは、二人の人間が協力し合って作るものです。もとは他人どうしの二人が、妥協したり譲歩したりして、平和と幸福とを作って行く。けれども一と一とを足して必ずしも二になるとは限っていない。三にも四にもなる夫婦もあるかもしれないけど、足して初めの一にも足りない夫婦もあるのよ。わたしはあなたのことを言いたいのじゃなくて、このわたしがどんどん惨めに、小さくなって行くのが耐えられないの。」
「それは君の考え過しじゃないか。子供だっている、僕たちは貧乏だけれど幸福な家庭を持っているんだよ。」
「いいえ、わたしはそうは思いません。幸福な筈だと自分に言い聞かせて自分を欺いているだけじゃないのかしら。子供があることで勝手な幻影を描く、子供を通して良人を見、妻を見るようになる、そして子供を通して自分を見ているのよ。本当の自分は何処《どこ》にあるんでしょう。わたしはこの前の晩、あなたが眠ってから、あなたが今度の個展のために描いた絵を見ていました。それはあなたのもの、間違いなく自分のものだと確かにあなたが言い切れるものです。しかしわたしのものは何処にあるんでしょう。こんなことを言うのは生意気かもしれない。妻という以上は、良人のために尽しエミイのために良い母であればそれで充分、さとの母だったらそう言うにきまっています。でもわたしは厭《いや》なの、急に厭で厭でたまらなくなったの。」
「しかし、それじゃ君はどうしようって言うんだ?」
「分らないわ。わたしはもう若くもないし。どうして間違ったのか、何処から間違ったのか、ひとりでよく考えてみたいの。」
再び沈黙が落ちた。エミイは雑記帳にクレヨンで絵を描き始めた。
「間違ったと思っているんだね、僕たちの恋愛も結婚も?」
「そうは思わない。わたしたちの結婚を後悔しようとは思わないわ。けれども人間って、結局は間違って生きて行くのよ。」
「もしや、……君は誰か好きな人でも出来たんじゃないか?」と彼は急に臆病《おくびよう》になって訊いた。
「まさか。そんなことじゃないわ。恋人でも出来たのなら何でもないわ、わたしだってもっと救われるでしょう。これは、つまりわたし自身の心の中の病気みたいなものよ。それだからわたしは怖《こわ》いのよ。その病気のために、わたしの成長というものが止り、盲になってしまった。夜中にあなたの絵を見ていながら、わたしには何も理解できなかった、少しも感激しなかったわ。」
「あの作品は結局は大したものじゃなかった。それに抽象画だから君にとっては難しかったんだろう。」
「いいえ、そういうことじゃない。わたしには絵が分らないし、それは昔も今も同じことよ。ただ昔は、あなたの絵だけは分っていた、わたしの心と切っても切り離せないものだった。今はそれが他人の絵のような、ちっとも気持の通じ合わないものになってしまった。それはわたしが、わたし自身を見失ったということじゃないのかしら。わたしはそれをもう一度取り返したいの。もう遅すぎるかもしれない。けれどもわたしがここで妥協したら、もう決して取り返すことは出来ないだろうと思うのよ。」
彼は深い溜息《ためいき》を洩《も》らし、「君の言うことはよく分らない、」と呟《つぶや》いた。
「人には分ってもらえないことなのよ、あなたにだって。強情で、我儘で、自分勝手な女だとあなたはお思いになるでしょうね?」
果してその時彼は何を思っていたのだろうか。身も心も知り尽している筈の妻が、他人よりももっと他人であることを茫然《ぼうぜん》と感じていたのか。それとも、十年前に愛していた頃とは種類の違った美しさを、涙も零《こぼ》さず固い表情を守り続けているこの女の上に、彼の芸術家の眼が認めていたのだろうか。薄暗い部屋の中に、忍びやかな雨の音が聞えて来た。
大きな窓の前に立って、彼は夜が濃くなり雨が一層|烈《はげ》しくなるのを見ていた。この一枚の硝子の向うに、敵意を含んだ現実が彼を待ち受けているのを感じた。客は遂《つい》に来なかった。閉場の時刻は過ぎた。彼はもう帰らなければならない。しかし彼はいつまでもこうしていたかった。画廊の中は暖かで、その沈黙は快かった。
遂に彼は振り向いた。幾つもの絵の鮮《あざや》かな色彩と奇妙な形とが、三方の壁から彼に襲いかかった。彼は眼の眩《くら》めくような敵意を感じた。それらは彼の作ったものであるにも拘《かかわ》らず、今や彼とは無関係にそこに存在していた。客のいないがらんとした画廊の中に、ひとりきり自分の作品と向き合っている画家は鎖につながれたプロメテウスだった。彼は言いようのない無力を感じた。
何処から間違ったのか、どうして間違ったのか。変色した愛、無益な創造、混乱した秩序、すべて彼には嘗《かつ》て想像することの出来なかったものだ。ひるむことなく聳《そび》えていたこの堅牢《けんろう》な幹が、どうして不意にうつろな響きを発するようになったのだろう。根だ。問題は根が張っていなかったことにあるのだ。生成する根、芸術をも愛をもぐんぐん育てて行く純粋な源、夕焼空を見て叫んだ素朴な感動、無限なものへの子供らしい憧憬《どうけい》、愛する時の魂の高まり、――そういうものはいつから失われてしまったのだろう。もっと根源的な、野蛮な力、強靱《きようじん》な発展、夢を生かす空想、一人の女を愛し抜く絶え間ない情熱、それがなかった。自分の抜け殻としての作品だけが、黙々として彼を見詰めている。
彼は古びた外套《がいとう》を着、傘《かさ》を取り、電気ストーヴのスイッチを捻《ひね》り、もう一度部屋の中を見廻して、入口の狭い階段を踏んで降りて行った。信子はどうする気だろう。自分が落ちつくまでエミイは母親に預けると言った。洋裁店にでも勤めて一人で暮すとも言った。しかしひょっとしたら、気を取り直し、或いはさとの両親に意見されて、元通りに暮すことになるかもしれない。夫婦というのはどんな喧嘩《けんか》をしても、結局はもとの鞘《さや》に収まることが多いのだ。子供がいれば尚更だ。もしも愛が少しでも残っていれば。
彼は階段を下りたところで、尚もためらうように入口のドア越しに外の通りを見た。暗い通りを自動車が走り過ぎた。信子と別れるなどとはとても信じられないことだ。今でも愛していると言った。愛していながら別れるというのは矛盾だ。支離滅裂だ。一体彼女は何を恐れているのだろう。
ドアを開くと横なぐりの雨が彼の頬《ほお》を打った。彼は身体《からだ》を横に向け、傘を開いた。ぞっとするような寒さが彼を襲った。彼は歩き出した。二三歩の所で足が無意識に止った。
その樹だ。銀杏並木の中のその一本の樹。彼が画廊の窓からじっと眺めていた樹が、彼が消し忘れた電燈の光を大きな硝子窓越しに受けながら、そこに立っていた。傘をずらすようにして見上げると、つめたい雨が顔の上に降りかかった。大きな樹だ。しかし枝はまばらで、そこに黄ばんだ葉が顫《ふる》えながらしがみついているばかり。貧しい樹だ。
彼は崩《くず》れ落ちて行く自己を感じた。それは一種の陶酔のように彼を襲った。昔はすべての物が周囲から彼の中にはいって来た。今はすべてが彼の中から外へ出て行くのだ。最早《もはや》得るものはない、失うばかりだ。しかし失い続けても人は尚生きて行くのだ。
彼は手を延し、その樹の幹にさわってみた。雨の滴《しずく》が幹を伝わって彼の掌《てのひら》を濡《ぬ》らした。信子はもう帰っては来ないだろう。彼の掌を濡らし続けるその滴は、信子が遂に彼に見せなかった涙のように思われた。
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[#小見出し] 風花《かざはな》
開いた窓の側《そば》の寝台に寝ていた男が、ふとまどろみから覚《さ》めた。彼は明るい夢を見ていた。夢の中で天使たちの合唱がいつまでも歌いやまなかった。いま目が覚めても、その歌声はまだ彼の耳許《みみもと》にやさしい声を響かせていた。何の夢を見ていたのだろう。彼は薄く眼を見開き昼の光をまぶしく感じ、この明るさに一種の残り惜しさを感じた。声は尚《なお》も響いていた。あれは若い看護婦たちが、安静時間を利用して、合唱の稽古《けいこ》をしているのだ。そうと分っても、この一種の心地《ここち》よい感じは抜けなかった。
夜中に覚めた時はこうではない。この男はそれを知りすぎるほどよく知っていた。彼はしばしば深夜に目覚め、眼が冴《さ》えるままにいつまでも木枯《こがらし》の吹きすさぶ音を聞いていたものだ。夜になると武蔵野《むさしの》を吹き渡る寒い風が、療養所の外気小舎《がいきごや》を取囲む松林の梢《こずえ》を渡って、不吉な、咽《むせ》ぶような悲鳴を立てた。病室の中では患者たちが眠り込み、歯軋《はぎし》りや鼾《いびき》の声が風音に合せて高まったり低まったりした。広い病室の中には明り一つなく、ただ廊下の終夜灯が入口の硝子《ガラス》戸越《どご》しに仄《ほの》かな明るみを部屋の中に送っていた。そして彼の脳裏に、取りとめもない暗い想像が次から次へとひろがって行った。
しかし今はあたりが明るく、目覚めたあとの気持は爽快《そうかい》だった。午後の安静時間はまだ終っていなかった。眠ろうと無理に努力する必要もなく、蒲団《ふとん》の中でぼんやり考え込んでいることも愉《たの》しかった。考えることは沢山あり、たとえ何を考えても無駄であるとしても、考えることの他《ほか》に彼に何が出来ただろう。
彼は寒そうに掛蒲団を肩の方に引き寄せた。何やら冷たいものが、先|程《ほど》からはらはらと彼の顔の上に降りかかっていた。眠りから覚めたのも恐らくはそのせいだったに違いない。首を蒲団から引き離して窓の方を向くと、自分の吐く息が白く空中に漂った。その息の向うに、白い細かなものが宙に舞っていた。それはあるかないか分らない程かすかで、ひらひらと飛ぶように舞い下りた。その向うには空があった。鉛色に曇った空がところどころに裂け目を生じて、その間から真蒼《まつさお》な冬の空を覗《のぞ》かせていた。その蒼空《あおぞら》の部分は無限に遠く見えた。かすかな粉のようなものが、次第に広がりつつあるその裂け目から、静やかに下界に降って来た。
「ああ風花《かざはな》か。」
彼は声に出してそう呟《つぶや》いた。そして呟くのと同時に、何かが彼の魂の上を羽ばたいて過ぎた。この風花という言葉を彼はいつ覚えたのだろう。いつでもその言葉は一種の詩的な昂奮《こうふん》を彼に与えた。また実際に、晴れた空から忘れられた夢のように白い雪片が舞い下りて来るのを見るたびに、彼は言いようのない陶酔を感じた。しかしそれを見る機会は、今までにそんなに度々《たびたび》あったようには思われない。殆《ほとん》ど記憶の中に思い当ることもない。それでいて彼の心の中で何かが呼びかけ歌いかけているのだ。彼は嬉《うれ》しげに枕《まくら》から首を浮かし、窓の外を一心に眺《なが》めていた。
その男は窓際《まどぎわ》の寝台に寝ていた。それは大部屋と呼ばれる療養所の病棟の一室で、六つの寝台が三つずつ壁に沿って並べられていた。彼が窓際に陣取っていることは、彼がもう此所《ここ》では相当の古株であることを示していた。そこは午後になると日射《ひざし》が斜めに長く射し込んだし窓の外の風景を(といっても、たかが松林の中に散在する外気小舎にすぎなかったが)広い視野で眺めまわすことが出来た。ただこうした冬の央《さなか》には、開き放しの窓から冷たい風が吹き込んで来た。夜は窓硝子を締めるのが普通だったが、それでも床頭台《しようとうだい》の上の含嗽水《がんそうすい》のコップがこちこちに凍ってしまった。しかし患者たちは、窓際の寝台が明くと、乏しい太陽の光線を求めて争ってそこへ移りたがった。
彼はもうこの療養所に三年ごし病を養っていた。病状はあまり芳《かんば》しくなかった。入所してすぐに手術をしたが、それが漸《ようや》くよくなったところでまたぶりかえした。去年の秋再手術を受け、それから毎日大人しく寝ていた。毎月一回の検痰《けんたん》の結果は手術の効果を裏切っているようだった。そう君みたいにせっかちなことを言うものじゃない、なかなかぴたりと止るというわけにはいかないよ、と心やすい医官が説明した。そういう理窟《りくつ》は彼にも分っていた。しかし理窟だけで割り切れないものも、彼には沢山あったのだ。確かに彼はあせっていた。健康の回復に、自分でも自信の持てないことが多かったし、不吉な空想のみがいつも彼の脳裏を往来した。
彼は北海道の或る町で高等学校の国語の教師をしていた。その町にある療養所では手術の設備がなかったから、そのためにはどうしても上京する必要があった。初めのうちはしげしげと見舞の手紙をくれた生徒たちも、大学にはいったり勤めに出たりして今では便《たよ》りをよこす者も稀《まれ》になった。東京にいる友人たちも、わざわざ電車に乗って郊外のこの療養所まで顔を見せることも少くなった。しかし彼はそういう孤独を寂しいとは思わなかった。ただ、不測の運命のもとに、ささやかな命をいとおしんでいる自分が、時々ひどく惨《みじ》めに感じられた。北海道のその町では、彼の子供が妻の両親の手で育てられている筈《はず》だった。その子がどのように成長しているのか、彼にはもう想像することも出来ない。快活な、やさしい男の子だった。人は自分の運命を諦《あきら》めた時に、無限の可能性を子供の上に托《たく》して、わずかに現在を忘れ去るものだろうか。その子がどう育つか誰も知らないのに、自分の運命が裏返しになって、その子だけはもっと明るい幸福な人生を送る筈だと、人は信じるのだろうか。
彼は父親のことを思い出した。父親は関西にいて何とか暮している筈だった。父親もまた、その挫折《ざせつ》した人生の代償として、息子《むすこ》である彼がもっと明るい人生を歩み、父親の夢を取り返すことを望んでいたに違いない。しかし彼は父親の期待に反して、勝手な結婚をし、北海道に疎開してたかが高等学校の教師になり、しかも身体《からだ》を悪くして療養所の一室に呻吟《しんぎん》する破目《はめ》になってしまった。彼がその病状をしらせても父親からは葉書一枚来なかった。それは父親もまた戦災に遭《あ》ってすっからかんになってしまい、何等《なんら》の援助を与えることが出来ないという意味だったのか。彼は父親が昔から変り者とみなされ、そのために人生の行路の上で損ばかりしていたことをよく知っていた。この父親は彼が大学を出るまで、子供が不憫《ふびん》だからと言って後添《のちぞい》を貰《もら》おうとはしなかった。そして彼が卒業すると共に、お前ももう一本立なのだから好きなようにしろ、と言って、自分も結婚し、それまでの勤め人の生活に終止符を打って、関西に行き商売などを始めた。それが父親の気性に向いていないせいもあり、戦争の打撃ということもあったが、父親と彼とが別々の人生を歩むようになってから、父親は貧乏をし苦労の多い生活を送っているらしかった。しかし葉書の一枚ぐらいくれたっていいだろう、と彼は思った。
彼の妻は、子供を両親に預けたまま、東京で或る出版社に勤めていた。時々彼の許《もと》に見舞に来ると、堰《せき》を切ったように色んなお喋《しやべ》りをして帰って行った。「あなたのお父さんみたいなひどい人は見たことがない、」と彼女は言った。「わたしは何もお金なんかほしいとは思わない、でもわたしがこんなに苦労をしているのに、可哀《かわい》そうだとも言ってくれないなんて。」確かに彼の妻は父親を怨《うら》んでいた。それには結婚の時や出産の時の父親の態度も関係していた。一口に言うならば、父親は息子に対しても嫁に対しても、また孫に対しても、無関心だった。彼が大学を出て一本立になった以上、すべての責任は息子が一人で背負うべきもので自分の与《あずか》り知ったことではない、という意見を頑固《がんこ》に守り通していた。その代り自分がどんなに苦しい生活を送っていても、決して息子に泣言は洩《も》らさなかった。
「親父《おやじ》は筆無精なんだ、」と彼はあやまった。ひとりで考えている時には、無性に父親が憎らしく感じられたが、妻と一緒にこぼしても始まらなかった。何と言っても、不幸の原因は彼ひとりが背負うべきものだった。
妻が主張するのも結局はその点に帰した。彼女はしばしば彼を捉《とら》えてヒステリックに泣き喚《わめ》いた。短い面会の時間に、他の患者の聞いているこうした大部屋の中で、妻から責められるのはたまらなかった。しかしこの頃、つまり彼が去年の秋再手術を受けてから、妻は見舞に来ても割合に明るい顔をしていることが多くなった。時々は快活な笑い声を洩らした。その微妙な変化が何に基くものか、彼には少しずつ分って来た。無邪気な妻は自分の送っている生活をあけすけに物語ったが、その話の中に彼女の男友達の名前がしばしばあげられた。彼はにこにこしてそれを聞いていた。そういうことがあってもしかたがない、というよりも彼女の御機嫌《ごきげん》がそれで直るのなら、我慢するのが当り前だと思っていた。嫉妬《しつと》も感じなかった。孤独の感情に馴《な》れっ子《こ》になってしまい、良人《おつと》というよりも兄のような気持で、妻の話を聞いていた。それが結局は彼の卑怯《ひきよう》なところだったのだろう。妻は別れたいと言い出し始めた。「わたしはもう二十五よ、わたしの青春はもう終ろうとしている。わたしにはこの一度だけの人生をもう一度やり直してみる権利がある筈よ。」そう彼女は主張した。誰にでもその権利はあるだろう。しかし多くの人は、どんなに望んでも、自分の権利を用いられないでいるのだ。人生が選び取られてしまい、あとはただ自分の蒔《ま》いた種子を苅入れることだけが残っているということもあるのだ。彼ももう三十歳だった。彼の進む道がこの後日当りのいい平坦《へいたん》な道であるとは思われなかった。その細い道が何処《どこ》まで通じているのかさえ彼には見定めることが出来なかった。
彼の想像は過去へばかり向った。寝台の中に横になり、咳《せき》や痰に苦しめられ、検査の結果に一喜一憂していれば、現在から未来に向けて愉しい想像をすることなどは不可能だった。ただ時々、現在も過去もない空虚感が彼を襲い、また不可解な理由によって、この空虚感が一挙に埋められ、心の中に激しい陶酔のようなものが充《み》ち溢《あふ》れて来ることがあった。今、風花の降りかかって来る空を眺《なが》めながら、不意に彼を訪れたものもこの理由のない、そして形のない感情、悲しいのか嬉しいのか自分でも分らないような或る充足感だった。彼はそれを文字にして書きとめたいと思い、床頭台の抽出《ひきだ》しから小さな手帳と鉛筆とを取り出した。久しぶりに歌でもつくろう、と彼は思った。昔から、彼は時々短歌のようなものを書くことがあった。たかが悲しい玩具だった。彼は冷たくなった手をまた蒲団の中に突込み、歌の文句をきれぎれに考えた。しかし彼が考えるよりももっと別の力が、彼を過去の方へと押し戻した。幾つかの情景が心の中に浮び上って来た。彼は窓の外を眺めたまま、ぼんやりとそれらの記憶の訪れては消え去るのに任せていた。
風花はまだひらひらと降っている。
薄暗い部屋の中には昼まから電燈が点《つ》いていた。彼はルンペンストーヴの側《そば》に机を置いて、本を読みながらノオトを取っていた。二重《にじゆう》硝子《ガラス》の窓は室内の暖気のためにすっかり曇っていた。それは三年前の四月の初め頃で、内地ならもう桜の蕾《つぼみ》がふくらみそろそろ咲きそめる頃なのに、この北国では冬はまだ猛威をふるっていた。
部屋の中は静かで、ストーヴの燃える音ばかりがごうごうと響いた。彼の机のすぐ向うで、子供が時々ひとり言《ごと》を言いながら、小熊《こぐま》や犬などの玩具《おもちや》で遊んでいた。妻は買物に出掛けて、家の中にいるのは彼と子供ばかりだった。書物を開いていても、意識はそこに集注せずともすれば別のことを考えあぐねていた。この冬、彼は風邪《かぜ》をこじらせて具合が悪くなり、自宅療養を命じられた。近いうちに市外にある療養所にはいって精密検査を受ける手筈《てはず》になっていた。こうして家にいられるのもあと幾日のことか分らなかった。
「チイちゃん、パッパが高い高いをしてやろうか。」
子供は父親に呼ばれて嬉しそうに立ち上った。この子は終戦の年の七月にこの町で生れたから、ちょうど一つ半だった。明るい性質の子で、彼と妻とが諍《いさか》いなどを始めると、大人しく部屋の隅《すみ》に引き下りひとりで遊んでいた。喧嘩《けんか》が烈《はげ》しくなり彼が大声を出すと、困ったようにしくしく泣き始めた。そうするといつでも夫婦喧嘩は中止になり、彼はチイちゃんを肩車に乗せて御機嫌《ごきげん》を取り結ぶのだ。子供はそれが大好きで、直《じき》ににこにこして喚声をあげた。感染したら大変だと言って、彼は決して抱《だ》っ子《こ》をしてやらなかった。
今も彼は両手で子供を後ろ向きに抱きかかえると、やっとばかり肩の上にまたがらせた。子供はきゃあきゃあ言いながら、小さな手で彼の頭を掴《つか》んだ。片手が彼の眼の上を抑《おさ》えたから、そっとその手を額の上の方に持ち上げた。そして子供の両脚《りようあし》を抑えて、部屋の中をくるくると廻った。
子供の体温とその陽気にはしゃいだ気分とが、暖かく彼の身体《からだ》に伝わって来た。これが彼と子供とが一緒に遊ぶ唯一の方法だった。
「ンパ。」
それは|もう一度《ヽヽヽヽ》という意味にも|もう一杯《ヽヽヽヽ》という意味にもなった。子供は言葉を覚えることが面白くてたまらないらしく、同じ単語を器用に幾通りにも使った。「ンパ、ペイペイ」と言えば、|もう一人ペイちゃんが来た《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という意味だった。彼は少しずつ疲労を感じながらまたぐるっと部屋の中を廻った。肩車をして廻るには部屋の中は狭すぎた。
「アッチ、オンモ。」
「オンモは寒いから行かれないんだよ、」と彼は言い聞かせた。
「オンモ、ドージョ。」
子供は同じことを繰返した。彼はしかたなしに窓のところへ行き、片手で子供の身体を支《ささ》えながら空《あ》いた方の手で二重になった硝子窓を明けた。冷たい風がさっと舞い込んだ。
雪の積った中庭が樹々をめぐらしてひっそりと静まり返っていた。その向うに見える通りには人影がなく、雪の降り出しそうな空が重苦しく垂《た》れていた。
「アーポッポ、イナイ。」
「鳩《はと》ぽっぽはいないんだよ、鳩ぽっぽは春にならないと鳴かないんだ。チイちゃん、鳩ぽっぽ何て鳴くか知ってるかい?」
「アーポッポ、チイパッパ、チイパッパ。」
「そうだね。チイパッパって鳴くね。」
春といっても、五月の末頃になると、山鳩《やまばと》や郭公《かつこう》が町を囲む原始林の中で鳴き始め、その澄んだ声を町なかにいても聞くことが出来た。去年はまだ赤んぼだったが、今年の春にはこの子も、山鳩はホウホウと鳴き、郭公はカッコウカッコウと鳴くのを聞いて覚えるに違いない。しかしその頃、彼は郊外の療養所にはいっているだろうし、ひょっとしたら手術を受けるために東京へ出ているかもしれない。
「チイちゃん、パッパ好きかい?」
「パッパ、ヒイ。」
|ヒイ《ヽヽ》というのは、|好き《ヽヽ》と火《ヽ》と|ビタミンC《ヽヽヽヽヽ》とのどれをも表す単語だった。ビタミンBは|ブイ《ヽヽ》だった。小さな子が注射用の薬の名前を知っていることが、父親が療養中のことを示しているのかもしれなかった。
「もう寒いからこれでおしまい、いいね坊や?」
「ネエ、ブウァ。」
子供はそう繰返した。暗澹《あんたん》とした空からいつのまにか雪が降り始めていた。彼はそっと子供を畳の上におろし、窓を締めた。
「パッパ、ヒイ。」
子供がまた嬉しそうに言った。
長い行列で、彼の並んでいるところは停車場の外だった。それでも先頭から二百人目ぐらいで、彼のあとにはもう千人近くの人が行列をつくって待ちあぐねていた。午後はもう遅く、冬の空はどんよりと曇って今にも雨か雪かが降り出しそうに見えた。
それは四年前の終戦の翌年の一月だった。彼は妻と赤んぼとの待っている北海道へ帰るために、こうして朝から停車場に詰めていた。リュックの他《ほか》に手下《てさ》げ鞄《かばん》と風呂敷包みとを持っていたが、風呂敷の中は弁当ばかりで、既に停車場で並んでいる間から弁当を必要とした。夜行列車にうまく乗れたとしても、目的地に到《つ》くまでに幾日かかるか分らなかった。
行列している連中は例外なしに眼ばかりぎょろつかせて血色の悪い顔色をしていた。誰も彼もが不機嫌《ふきげん》で、ところどころに小競合《こぜりあ》いが始まっても留める者はなかった。人はみな疲れ切って、初めのうちは近くにいる者どうしで天皇制や政治や世相について議論を交《かわ》していたがその連中もだんだんに口を噤《つぐ》んでしまった。闇屋《やみや》が時々行列のまわりをうろついた。彼もまた暗い面持でこの行列を眺《なが》めていた。その中の一人一人にたとえどんなささやかな希望があるとしても、この長い列は敗戦後の日本の不満と絶望との象徴であるように見えた。無力に行列のうしろにくっついているだけで、果して汽車に乗れるという確実な目算があるわけではない。しかしただこうやって、いつ降り出すかもしれない曇り空の下で、それぞれの重たい荷物を持ち、時刻の来るまで佇《たたず》んでいることに誰もが馴《な》れ切っていた。
彼は職を求めて東京に来ていた。そして今や何の得るところもなく、疎開先に残した妻子の許《もと》へ帰って行くのだ。単なる偶然によって戦争中に逃《のが》れた土地、そこで馴染《なじ》みのない風土と見も知らぬ人たちとが尚《なお》も彼を苦しめようとして待っている筈《はず》だ。冬は今頃最も厳《きび》しいだろう。零下二十度を下る日が毎日のように続いているだろう。しかし彼は妻を信じ妻を愛していた。そこに身を寄せる他に行くべきところもなかった。彼女はきっと僕のこの気持を分ってくれる、と彼は考えた。結婚してからのこの二年足らずの間に、二人はどんなにか苦労を重ねただろう。じっと眼をつぶると彼女の面影が髣髴《ほうふつ》とした。
行列の中が次第に騒然となり、駅員が何か叫びながら列に沿って向うから歩いて来た。
病院の屋上には寒々とした風が吹いているばかりで、二人の他には誰もいなかった。彼は白衣を着た看護婦に案内されて、通行禁止という張札の出た建築中の新館の廊下を通り、夕暮に近い晩秋の日の午後、初めて屋上に昇った。
それは今から八年も前の、戦争中のことだった。といっても戦況はまだ安定していて、空襲などということはなかった。彼は大学を出て或る陸軍関係の役所に勤めていたが、一月ばかし前に急性盲腸炎を起し、この大きな病院に担《かつ》ぎ込まれた。予後は長引いたが、退院は数日後に予定されていた。
屋上まで歩いて来ても、もう何の疲れも感じなかった。よく晴れた日で、夕陽《ゆうひ》の沈んで行く方角に雪をいただいた富士山が見えていた。東京の街々のひらけた眺望《ちようぼう》の中に、きらきら光る屋根が波のように重なり合った。
「綺麗《きれい》な眺めだね、」と彼は言った。
「でしょう? 素敵でしょう?」と看護婦が張りのある声で叫んだ。
この若々しい声とつぶらな瞳《ひとみ》とを持つ看護婦に、彼は入院中すっかり世話になった。彼女は勤務中には母親じみた、或いは姉さんじみた態度を見せ、非番で遊びに来た時には甘えたような少女らしい口を利《き》いた。この初めての入院生活の間にも(と彼は思い出すのだ)彼は激しい陶酔のようなものをしばしば感じ、詩や歌を作ってはこの看護婦に見せてやったものだ。彼は彼女に茂吉《もきち》や赤彦《あかひこ》などの歌集を貸してやった。親切にしてやることで、彼女の心が次第に自分の方に傾くのを、一種の不安を混えた疼《うず》くような気持で見守っていた。
「遠くの方に山が見えます。」
彼女は手摺《てすり》に凭《もた》れながら、片手を延して横に軽く線を描いた。富士山ばかりではなく、よく見ると低い山脈が屋根屋根の向うに何処までも煙のように靡《なび》いていた。
「あたしの国ではもうすっかり雪よ。」
彼女はその|あたし《ヽヽヽ》というのをいつも|あちし《ヽヽヽ》というふうに発音した。それが彼にはひどく子供っぽく感じられた。
「君の国というのは何処?」
「新潟ですの。寒いところ、雪ばっかり降って。」
彼女は遠くを指さした手を下に垂《た》らしたまま、白衣の裙《すそ》をしっかりと抑《おさ》えていた。夕暮の風の中に、その裙は生きもののようにはためいた。それは彼の心の中でもはためき続けた。遠い雪国で育った少女がひとり東京でこうして働いていることに、無限のいとおしさを感じた。
「帰りたいだろうねえ?」
彼女は僅《わず》かに首を振って頷《うなず》き返した。その眼は次第に暗くなって行く遠い山脈の方を追い続けた。
「もう行こう。」
彼はそっと彼女の肩を抱き寄せたが彼女は逆らわなかった。ただいつもの大きな眼を一層大きく見開いて彼を見詰め、それから眼を落した。
それだけだった、と彼は思い出した。彼はただ彼女の肩を抱いてやっただけ、それもこの時ただ一度だけのことだった。彼はこの看護婦が嫌《きら》いではなかった。彼女が彼を愛していることを心の底で知っていた。しかし彼の心は一種の憐憫《れんびん》と同情とに埋められたまま、愛するまでには至らなかった。それはなぜだったろう。彼の心は空虚で愛を待ち望んでいた筈なのに。
しかしこの晩秋の午後、病院の屋上で彼の魂の上を何かが羽ばたいて過ぎた。彼は数日後に退院し、越路《こしじ》の少女を主題にする三十首ばかりの歌を連作し「別離薄暮」という題をつけた。それは芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》や斎藤茂吉の亜流を行く幼稚な作品だったのだろう。今となっていくら考えても、彼はその一首をだに想い起すことが出来なかった。しかし彼は今でもまざまざと、風の吹き過ぎる広々とした屋上と、遠く連なる山々と、白衣の裙をはためかせていた若い看護婦とを見ることが出来た。そして、無限の可能性を持っていた彼自身の過去をも。
「父ちゃん、あの西田さんて人はいつから歯が抜けているの?」
「あれは昔からだよ。用心して歩かないと泥だらけになるよ。」
「西田さんは歯が抜けているからお蕎麦《そば》が好きなの?」
父親は何かを考え込んでいる様子で返事をしなかった。彼の方も足許《あしもと》に気を取られて、そうそう訊《き》いてばかりはいられなかった。雪どけの泥濘《でいねい》の道が郊外電車の停車場まで通じていた。彼は靴をよごさないように、ぴょんぴょんと飛ぶように歩いた。父親は黒いインバネスを着て下駄を履《は》いていた。彼は片手でしっかと父親につかまっていた。
それはずっと昔のことだ。彼は小学校の五年生くらいで、たまの日曜日に父親に連れられて、郊外にある西田さんの家に遊びに行くのをとても愉《たの》しみにしていた。西田さんは父親の昔の学校友達で、或る専門学校の英語の教師をしていた。変人の父親がどうしてこの人とだけ親しく附き合っているのか、そんなことは考えてみたこともない。きっとこの人も変人の仲間だったのだろう。
西田さんの家ではきまって蕎麦が出た。彼の父親はうどんの方がいいと言うので(父親は九州の方言で|うろん《ヽヽヽ》と発音した)西田さんから田舎者《いなかもの》は困るといって馬鹿にされていた。父親と一緒に外で蕎麦屋にはいる時には、きまって彼もうどんしか与えられなかった。その方がお腹《なか》のためにいいという理由で。
「なに西田だって足利《あしかが》かどっかの百姓の倅《せがれ》だ。あれと二人で初めて蕎麦屋にはいった時なんか、二人ともどうやって|ざる《ヽヽ》を食うんだか分らなくて弱ったもんだよ。」
父親はよく息子《むすこ》にそんな話をした。しかし小さな息子の方は、西田さんのところでしか蕎麦にありつけなかったから、江戸っ子の標本のように西田さんを尊敬した。この人には上の前歯が二本なかったからさっぱり風采《ふうさい》が上らなかったが、鮮《あざや》かな手附と口附とで|ざる《ヽヽ》の二人前を片づけた。
「坊や、よく見ておけよ。まずこう持ち上げる。多すぎても少なすぎてもいけない。それからこう垂《た》れをつける。垂れをこぼしちゃいけない、半分もつければ沢山だ。それから一息にするすると呑《の》み込む。」
感嘆して眺めている子供の前で、箸《はし》にぶら下った蕎麦は前歯のない口の中へと鮮かに吸い込まれた。
「蕎麦は噛《か》むものじゃない、ぐっと呑むんだ。いいね、坊や。」
「駄目だぞ、よく噛まなくちゃ。何でもよく噛みなさい。」
父親がお説教をし、西田さんはからからと笑った。しかし彼が噛もうと呑み込もうと、実際の蕎麦の味よりも西田さんが曲芸のように蕎麦を食う光景の方が、彼にはよっぽど愉しくてたまらなかった。細長く垂れた蕎麦の列が、欠けた前歯の間から消えて行くのはいくら見ていても飽きなかった。
西田さんはまた手品も上手《じようず》だった。
「坊や、このトランプをよく切って御覧。」
彼が下手《へた》くそな手附でカードを切ると、西田さんはその中の一枚を彼に読ませて元の札の中に滑《すべ》り込ませた。スペードの三、スペードの三と彼は忘れないように口の中で言い続けた。西田さんは繰返し繰返し丹念にカードを切った。
「そら、これだろう?」
出された一枚を彼はびっくり顔で見詰めた。
「不思議だなあ。」
「よし、今度は別のやつ。」
西田さんは彼が感心するたびに、からからと大声で笑った。
西田さんは奥さんと二人きりで子供がなかった。だから西田さんが彼のお相手をしてくれず父親と話をしている時には、彼はひとりで本を読んでいた。西田さんは蔵書家で、玄関に至るまで本箱が並んでいた。彼は玄関の壁に凭れながら、あの本この本を引き出して読んだものだ。彼が最も愛読したのは、殆《ほとん》ど揃《そろ》っている黒岩涙香《くろいわるいこう》の縮刷版だった。
帰りの道は、風が吹いて寒かった。午後も遅くなると、泥濘の道に薄氷が張った。靴を汚さないように、また氷で滑らないように、彼はいつも夢中で父親の手にしがみついて歩いた。
広々とした畑の向うにところどころ農家や文化住宅が見えるばかりで、寂しい荒涼とした風景だった。空は蒼《あお》く晴れ、凧《たこ》の唸《うな》る音がひっきりなしに聞えていた。眼を起すと、沁《し》みるような藍色《あいいろ》の中に小さく小さく三つか四つの凧が認められた。その一つはくるくると舞いながら横滑りをしていた。凧を上げている子供たちは畑のずっと向うにいるらしく、凧糸が白く光っているばかりで人の姿は見えなかった。
「あら、父ちゃん何か降って来たよ。」
冷たいものがはらはらと顔に当った。彼は父親に縋《すが》っていた手を離し、空中にかざしてみた。
「お天気なのにおかしいねえ。狐《きつね》の嫁入かしら。」
「雪だよ。これは風花《かざはな》っていうんだ。山の方で降った雪が、風に乗って運ばれて来たのさ。直に止《や》むだろう。」
「僕、こんなの初めてだ。」
彼は嬉しげに声をあげてはしゃぎ、手を宙に振り廻した。雪の小さな粉はあるかないかに降りかかって消えてしまった。
「さあ急いで行こう、」と父親が言った。
子供の心は晴々として豊かだった。西田さんも、凧も、風花も、彼の心の中に溶け込み一種の爽快《そうかい》な感じをつくっていた。夕暮に近い冷たい風ももう冷たいとは感じなかった。
彼はまたうとうとと眠ったらしい。眼を窓の外に移すと、風花はとうに止み、蒼空がまぶしいように晴れ渡って太陽の光線が射《さ》していた。
彼は手帳を枕《まくら》の横から取り上げ、白い頁《ページ》を開き、そこに幾つかの歌を書いた。
風花のはつかにふれる午後の間のひと時を
吾《あ》は眠りたるらし
風花はいづれの空よりふれるならむはつは
つとして夢のごとしも
疲れたる眼に見る空の色遠し風花やみてし
まし蒼き空
いきどほろしきもの心の中にみなぎりてし
はぶきしつつ吾がおもふこと
さだまらぬ夢のかたちよ物みなはたまゆら
にして消え行きにけり
鉛筆の薄い字が休み休みノオトの上を滑った。書き終った時は、手がかじかみ疲労を感じた。しかし一種の満足をも感じていた。どんなにつたないものであろうとも、幾つかの歌はこの時の彼の心の風景を刻んでいるに違いない。そして彼の踏んで来た道のあとには、かすかながら足跡がついているに違いない。父親はむかし彼を、この母親のない子供を、愛してくれた。父親は今も遠くで彼を愛しているだろう。妻は自分を去って他の男と結婚するかもしれない。子供はその男をパッパと呼び、やがて本当のパッパのことを忘れるかもしれない。それでもいい。彼は人を愛し、人に愛された記憶を持ち、ただ自分ひとりの命をいとおしんで生きて行くだろう、――命のある限りは。風花のようにはかなくても、人は自分の選んだ道を踏んで生きて行く他はないだろう。
安静時間は既に終り、病棟が一種の活気を帯びて騒がしくなり始めた。
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[#小見出し] 退屈な少年
1
謙二はまったく退屈していた。この十四歳の少年を退屈から救い出してくれるものは何もなかった。
彼はいま小さな池のほとりにしゃがみ込んでいた。その池は浅くて底が透いて見え、水すましがその表をすいすいと滑《すべ》っていた。池の周囲には雑草が茂り、彼はたんぽぽの花をむしり取っては池の中央に投げ込んでいたが、魚らしいものはいっこうに姿を見せなかった。この池には鮒《ふな》一匹いない、と彼は断定した。そう思うとこの池は(彼は今日初めてこの池を発見したのだが)まったくつまらないものに思われた。もっとも鮒がいたところで、彼が面白がったかどうかは分らない。この退屈した少年にとって、ものの十分間でも意識を集注させるだけのものは、彼がこの村に来てからの一カ月間に容易に見つからなかった。
もちろん都会育ちの謙二の眼に、もの珍しく映ったものがなかったわけではない。牛や山羊《やぎ》や鶏でも珍しいといえば珍しいし、鳥や草花やその他の自然のさまざまの風物が、彼の新鮮な眼を捉《とら》えなかったとは言えない。しかし僕は退屈なのだ、と彼は固く信じていたし、退屈だときめてかかっている以上は、むやみと関心を持たせようと思っても(三沢さんがどんなに努力しても)それは無駄という他《ほか》はなかった。僕はもう子供じゃない、子供ならやれシジミ蝶《ちよう》だとか、やれスミレの花だとか騒ぐだろう。僕が考えているのはもっと別のことだ。
謙二は池のほとりから立ち上り、歩きかけてまた振り向いた。その時霊感が浮び、彼の顔がみるみる緊張し、ひどく大人っぽくなった。よしそれに賭《か》けよう、と彼は呟《つぶや》いた。
この少年は色々のことに熱中していた。寧《むし》ろ憑《つ》かれていたと言ってもよい。そのことと彼の退屈とが格別矛盾しているとは思われない。というのは、熱中はするが持続することがなかった。それに熱中するだけの材料は極《きわ》めて少かったし、あってもそれは精神の領域に属していたから、彼がそのたねを発見しない限りひとりでに彼の気を紛らしてくれるというわけにはいかなかった。例《たと》えば「賭《かけ》」である。
賭について謙二の定義と称するものは次の箇条から成り立っている。
一、賭は一人では成立しない。
二、賭は損をするかもしれない。
三、賭は公平でなければならない。
これはあくまで謙二の独自の考えなのだが、そこにこの退屈な少年の性質が幾分なりとも現れていると思う。第一の、一人では成立しないというのは、実質的には一人でも成立するということだ。なぜなら彼の場合に相手は謂《い》わば運命といったものを指していたから。彼の賭が他人を相手にすることはまずないといっていい。父親や兄さんは見向きもしてくれそうにないし、中学の友達と賭事を争うほど謙二は不良ではない。残るところは家庭教師の三沢さんぐらいのもので、特にこの村に来てからは村の子供たちに識《し》り合いは一人もないのだから、毎日顔を附き合せている三沢さんとでも遊ぶほかはない。しかし彼は、例えば今度の週末に兄さんが来るかお父さんが来るかなどという材料で、三沢さんと賭をする気にはなれない。そんなのは子供の賭だ。彼のはもっと別のもの、つまり彼一人が運命を相手とするような、深刻なものだ。そこで定義の第二、損をするかもしれないことが重要なので、得をする、儲《もう》けるということはその場合あり得ない。そこで第三、絶対公平ということが要求される。運命の方には公平も不公平もないのだから、彼が自らインチキをしないよう心をくばらなければならない。この第三は定義というよりも戒律だが、ついでにもう一つ。
四、賭はその場限りである。
これを説明すれば、例えば、この賭がうまく行ったら今度の試験は成績優秀だなどと考えるのは、賭を冒涜《ぼうとく》するものだ。賭の成否は賭そのものの純粋な行為で終っているので、その結果が何等《なんら》かの前兆になるということはあり得ない。未来に属する事がらと結びつければ、せっかくの賭の面白味が消え失せてしまう。
こういう謙二の遊びは、残念ながら、そうしばしば実行するわけにはいかない。何と言っても材料が不足である。トランプ占いでも一人でやる賭には違いないが、これは第二の損をするという点で引掛る。子供の遊びだ。従って賭けるためのうまい材料を見つけ出すことが、この少年の日常の中で退屈を紛らすための知的冒険の一つに他ならなかった。
いま謙二は池のすぐ側《そば》から正確に五歩遠ざかった。そこで眼をつぶり、ぐるぐると三度ほど身体《からだ》を廻転させた。身体が少しふらふらしたがそれでもしゃんと立っている。それからまた思いきり廻った。公平でなければならない。身体がよろめいてしゃがみ込んだが、決して眼は開かなかった。立ち上った。そこから真直《まつすぐ》に十歩ほど数える。直角に池へ向えば六歩目には池に落ちる筈《はず》だが、少し斜にそれれば十歩はかかるだろう。どっちにしても危険の多い賭だ。
さて歩き始めようとして、ふと気がついた。眼はしっかり閉じているが、目蓋《まぶた》の下の闇《やみ》がぎらぎらする程明るい。そこに綺麗《きれい》な唐草《からくさ》模様が結ばれたりほどけたりしている。ということは太陽の方を向いている証拠だ。太陽は池の少し右よりのところにある筈だ。それに斜左の後ろから鶏のココココと鳴く声が響いて来る。それは鶏小舎のあるところで、池に来る前、彼が暫《しばら》く鶏どもの遊ぶのを観察していた農家の中庭に当る。とすれば、眼をつぶっていても僕は自分の位置をちゃんと承知しているのだから、この賭は公平じゃない。
謙二は眼を開き、まぶしい太陽の光線と向き合って自分の感覚が正しかったことを知った。それから直に走り出した。農家の中庭で、砂浴びをしていた牝鶏《めんどり》たちが驚いて飛び上ったが、見向きもせずに駈《か》け抜けた。畦《あぜ》の間の細道を走り、それからくたびれて足取が少し遅くなったが、道に迷わずに別荘まで帰って来た。
彼はがたごといわせながら裏口から自分の部屋に飛び込んだ。八畳ほどの洋風の板の間で、隅《すみ》にベッドが置いてある。机の抽出《ひきだし》を片《かた》っ端《ぱし》から明けてみたが適当なものがない。廊下を通って浴室へ行き、タオルを失敬してズボンのバンドに挟《はさ》み込んだ。それから三沢さんの部屋の前まで行った。
「謙二さん、何処《どこ》へ行ってたの? おやつも放ったらかして。」
三沢さんの部屋は明るい和室で、読みさしの本を伏せて笑顔《えがお》を見せた。但《ただ》しこういう時の笑顔は曲者《くせもの》だ。お小言の前触であることはちゃんと分っている。機先を制した。
「三沢さん、脱脂綿持ってない? 僕に少しくれない?」
「まあ怪我《けが》でもなさったの?」
「そうじゃない、でもちょっとほしい。」
三沢さんはかすかに赧《あか》い顔をしたようだった。押入を明けて薬箱を出して来た。
「何に使うのかわたしに教えてくれないの?」
「うん、大したことじゃない。」
「秘密?」
「ううん、まあね。」
三沢さんは時々ひどく馴々《なれなれ》しくなる、かと思えばそっけなく遠ざかる。謙二は三沢さんが嫌《きら》いじゃないし、特に病気で寝ていた彼をせっせと看護してくれた時には亡《な》くなった母ちゃんのような気がしたものだ。しかしこの一月の間、こうして二人きりで暮すようになると少しばかり親密さが鼻について来る。初めは三沢さんは家庭教師だった。今では半分はうちの人だ。大学で児童心理学を専攻したんだそうだが、そういう人を自分のためのお相手にしてくれたというのが、そもそも謙二が馴染《なじ》めなかった重要な原因だった。ふん児童心理学か。ふん難《むずか》しい子供か。何の僕が|難しい《ヽヽヽ》ことがあるものか。それに心理学のケース扱いはもうやめてもらいたいな。
「秘密なんて子供っぽいことは言わないで。」
「あら、いけない?」と脱脂綿を渡しながら訊《き》き返した。
「そりゃ誰にだって秘密はあるさ。三沢さんにだってあるだろう? しかしもっと大事なことに使う言葉だよ。脱脂綿の使いみちなんて、秘密のうちにははいらないさ。」
三沢さんはまた赧い顔をした。それを見ると謙二は不思議な気がする。この人は大人で、舜一《しゆんいち》兄さんなんかよりももっと年上で、雪ちゃんなんかよりずっとお姉さんで、それでどうして変に子供っぽいんだろう。雪ちゃんだって大学生ぶりやがって、近頃では照れたり恥ずかしがったりすることはまるでないのに。さては三沢さんには大した秘密があるのかな。
「僕ちょっと出掛けて来る。」
「謙二さん、おやつ前は横になる約束だったんでしょう? とうにおやつが出来ているのに。」
「あとで、あとで。」
こんな面白いことを見つけたのに、おやつなんかに誘惑されてたまるものか。三沢さんの呼びとめる声を聞き流して、一目散に走り出した。コースは前と同じ、畦道を直角に幾度も曲り、鶏どもを蹴散《けち》らして、池のほとりへやって来た。
池の縁から正確に五歩、そこで立ちどまり、呼吸をととのえながら、今まで片手に握り締めていた脱脂綿を細かにちぎって、両方の耳の中にしゃにむに押し込んだ。これ以上ははいらないくらい耳に栓《せん》をして、次に腰からタオルを引き抜くと厳重に眼隠しをした。目蓋の底は暗闇《くらやみ》、耳の中は耳鳴のようにわーんという響き。これなら大丈夫だ、絶対公平だ。
そこでぐるぐると廻った。自分でも数えきれない位|独楽《こま》のように廻転して、ふらふらしながら足に力を入れたが、さあもう方向は分らない。目蓋の底は暗闇、耳の中は耳鳴り。これが公平な(損をするかもしれない)賭というものだ。彼は勇敢に歩き出した。一歩、二歩。
これが謙二は好きなのだ。この気持、この純粋な自我の統一。その時彼は一個の神で、運命という神と相対しているのだ。彼をとどめるものは何もない。四歩、五歩、成功したかな。
不幸にも神は六歩目に神でなくなった。足許がよろめき、ずるずると足を引かれ、平衡を失った上半身を助けようとして、両手がありもしない幻影と格闘するように前方で泳ぐと、いきなり足が、膝《ひざ》が、じんと冷たくなって、すんでで上半身まで横ざまに池の中に転倒するところだった。危く身体を立て直した時には、ズボンの膝までぐっしょりと水の中にはまり込んでしまった。
彼は急いで眼隠しのタオルを取った。周囲の明るさに眼がくらくらし、しきりに目瞬《またた》きしながら池から這《は》い上った。膝に吸いついたびしょびしょのズボンと靴の気持の悪さ。賭はまさに負けだった。損害は大きかった。三沢さんは何と言うだろう。
三沢さんは門のところで張番をしていた。おやつもすっぽかして謙二が飛び出した以上、彼女が心配して様子を見に表まで出て来たのは、彼女の気性として寧ろ当然だった。靴もズボンもびしょ濡れの恰好《かつこう》を三沢さんに見られるなんて、何と不様《ぶざま》なことだろう。三沢さんはぱくぱくと口を明けて何か言った。まるで金魚だ。謙二はおかしくなって笑いかけ、それから耳の中に例の脱脂綿が詰っていたことを思い出した。
「何でもないんだよ。」
そう言った自分の声がまるで自分の声らしくなく響いた。三沢さんがぎゅっと彼の身体を抱きしめた。
2
……謙二さんが今日池へ落っこちました。といっても、先生どうぞ御心配なさらないで下さい。池はまるで小さくて、深さ三〇センチもないほどの浅い池なのです。私も心配なのであとで行ってよく見て来ました。どういうわけで落ちたのかそれは分りません。例によって小哲学者は瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っていたのでしょうか。もっとも何か悪戯《いたずら》を試みたらしくはあります。秘密だなんぞと言ってましたから。三沢さんにも秘密はある? と訊《き》かれてびっくりしました。
足を濡《ぬ》らしたので、さっそくベッドに追いやりました。謙二さんだいぶ不服そうでしたが万一肺炎にでもなったら大変ですからね。幸いに夕方と先程(午後八時)二度ほど検温しましたが発熱した様子はありません。きっともう眠ったでしょう。
私の考えではこの悪戯は寧ろよかったと思っています。謙二さんはこの頃非常に丈夫になり食慾もあるので、午後二時間の安静よりは少し表に出てやんちゃでもする方がいいのです。あの人は内攻性でひとり遊びが好きですから、この村に来てもお友達一人ありません。別荘のお子たちは異分子みたいなもので、仲良くなることは難しいのでしょうし、同じ年頃の子供は昼間はみんな学校に行ってますから、謙二さんが孤立するのも無理はありません。しかし謙二さんは格別人恋いしそうでもなく、お家にいた頃と同じようです。つまり何かを考え込んでいて、時々ぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》を言ってます。私とはうちとけているものの、決して打明けてはくれません。もう少し仲良くなれたらと思うのですけれど、謙二さんはきっとはにかみ屋なのでしょう(先生みたいに)。私はなるべく表に出て遊ぶように、散歩でもするようにとすすめています。早く大人になりたくて背伸をしている、難しい年頃なのでしょうね。
謙二さんの口癖は例によってああ退屈だです。私はそれを聞くと笑ってしまいます。十四歳の退屈な子供なんて本当に滑稽《こつけい》です。何にでも一応は注意し、好奇心を持ち、しばらくは熱中するんですけど、直《じき》に褪《さ》めてしまいます。御本もたくさんあるし、顕微鏡とか双眼鏡とか図鑑とか、勉強する材料もととのっています。それにこうした田舎《いなか》の生活では何でも珍しい筈《はず》です。私なんかも子供の頃に返ったようで、ちっとも退屈じゃありません。
しかし謙二さんが退屈がるのは寂しがるよりも、どれほど私にとって助かるかしれません。病気のあとで転地させたいと先生がおっしゃった時に、私はとても心配でした。家庭教師の役はつとまります。看護婦の役だってどうにかつとまりました。けれどもお子さんと二人きりで暮すことはお母さんの役をつとめるようなもので、経験のない私には大役でした。私は謙二さんは甘えっ子でお父さん子だと思っていたんですが、ここに来てみて、とても芯《しん》のしっかりした、独立心のある、考えの深いお子さんだということが分りました。寂しがることもなく、寧ろ先生の方がよっぽど寂しがり屋です。時々私は謙二さんにもっと甘えてほしいと思うことさえあります。亡《な》くなったお母さんの影響は、あの年頃ならまだ大きい筈なのに、謙二さんはけろりとしています。何だか少し薄情みたいな気がしないでもありません。
先生がいつぞや私におっしゃったことで毎日頭を悩ませています。私には相談する両親もないのですから、結局は一人できめなければなりません。しかし私にきめられるかしら。お母さんの役がつとまるためには、もっともっと謙二さんのことがよく分らなければ怖《こわ》くてなりません。先生のお気持はよく分っています。しかし随分と冒険のような気がいたします。舜一さんは何とおっしゃるでしょう。私と舜一さんとではほんの姉弟ほどの年の違いしかないんですもの。それに謙二さん、やっぱり謙二さんがどう考えるかと思うと、怖くて怖くて、あの人の顔がよく見られない程です。
先生は今頃つまらないことを言ってしまったと思って後悔していらっしゃるのじゃないかしら。それだったらどうぞそうおっしゃって下さい。寧ろその方が私は気が楽なの。あまり考え込んで、頭が痛くなって、ノイローゼになりそうです。私は先生を尊敬しています。愛しています(思い切って恥ずかしいことを書きました)。私は今のままで満足なのです。結婚なんか出来なくたってちっとも構いません。
三沢|早智子《さちこ》はそこまで書いて、ふと考えた。本当にちっとも構わないのだろうか。私も来年はもう三十になる。大学を出て、児童心理研究所の職員になって、仕事が面白くて脇目《わきめ》もふらずに働いているうちに、いつしか婚期を逸しかけてしまった。たまに話があっても平凡な男になんか興味はなかった。私は生意気だったのだろうか。学問の方が面白くて、奥さんに納る人の気が知れなかった。その私がどうして先生と結婚してもいいという気になってしまったのだろう。大学生の息子《むすこ》と中学生の息子とを持つような人の後妻に。
ちっとも構いません。本当にそうだろうか。先生はこれは私のエゴイズムだがとおっしゃった。あなたのような若い人を、ともおっしゃった。私はもう若くはないし、先生のような、心から尊敬の出来る、気立のやさしい人を識《し》ったのはこれが初めてだ。識り合ってからの一年、いつのまにか私の心は先生に惹《ひ》かれていた。私は小娘のようにおどおどしていた。私を見る時の先生の眼指《まなざし》、静かな声、打明けられる前から私は先生のお気持が分っていたに違いない。謙二さんが急性|肋膜炎《ろくまくえん》になった時に、あんなに急に私が決心して、研究所をやめ、病院に謙二さんの附添で行く気になったのも、先生のあの懇願するような話し振り、取り乱した声、謙二さんを思うその心遣《こころや》りに、打たれたというばかりではない。私は何かを無意識に期待していた。謙二さんの病気に同情したというためだけではなかった。その私の心の底にあったのは何だったのか。エゴイストなのは私の方ではなかったろうか。結婚。この別荘に来た初めに、先生と春の浅い山道を散歩しながら、曖昧《あいまい》な口調で先生からそのことを仄《ほの》めかされた時に、私は内心踊り上るほど悦《よろこ》んでいたのではなかったろうか。今になって私がためらうのはどうしたわけだろう。年が違いすぎるとか、前の奥さんのこととか、二人のお子さんのこととか、そういう世俗的な問題が急に喚《よ》び起されたせいか。それとも、愛するということが私に分らないせいなのか……。
三沢早智子は文机《ふづくえ》の上に両肱《りようひじ》を突き両手を組み合せたまま、かすかに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。夜はもう遅く、高原の夜は晩春だというのに冷え冷えとしていた。彼女は火鉢《ひばち》の中の埋火《うずみび》を火箸《ひばし》の先でまさぐった。遠くで梟《ふくろう》が啼《な》いていた。
彼女は書きかけの手紙を読み返し、最後の二行ばかりを丹念に、初めに書いた字が見えなくなるまで、万年筆で抹消《まつしよう》した。
3
麻生《あそう》教授は机の上の片隅《かたすみ》にあるサイフォンを乗せたアルコオルランプに火をつけると、またぞろその細長い封筒の中から幾枚も書かれた便箋《びんせん》を引き出した。彼がこの手紙を読むのはこれでもう三度目だった。
教授は本来はひどく忙しくて気を散らしてはならなかった。この週末に迫っている学会の幹事だったから、そのために用意することが色々あった。講演の草稿も作らなければならないし、業績発表者の研究論文の資料に予《あらかじ》め眼を通しておく必要もあった。彼のデスクの上には書物やタイプ用紙やノオト類が散らばって、一種の乱雑な秩序をつくっていた。
しかし今、三沢早智子の手紙を読み返している人物は、某大学英文科教授としての麻生|肇《はじめ》氏ではなかった。それは一人の男鰥《おとこやもめ》にすぎなかった。
やがてサイフォンが規則正しく熱湯を吹きあげ始め、書斎の中に芳《こうば》しいコーヒーの香を漂わせたが、麻生教授の眼は便箋の最後に近い部分に注がれたまま、放心したように動かなくなった。教室で学生を畏怖《いふ》させる時の鋭い光は微塵《みじん》もなく、暖かい、しみじみとした愛情がその眼の表情に浮んでいた。
「……本当はそんなに考え込むことなんか何もないのかもしれません。先生がそのお話をなさった時に、私の中の無意識なものはとうにうんと言っていたのかもしれません。」
麻生教授はランプの火を消し、それからサイフォンを取ってゆっくりとコーヒーをカップに注いだ。角砂糖を入れミルクをたっぷり加えた。それは彼一人の深夜の行事のようなものだ。妻が生きていた頃(三周忌はとうに済んだ)やはり彼は毎晩のようにこの行事を書斎でひとり取り仕切った。妻がまだ起きているような時には、茶の間まで彼女を呼びに行き、書斎に連れて来て話をすることもあった。妻は眠れないからと言って必ず断り、彼はそれを承知でただ相手ほしさに妻を側《そば》の椅子に坐らせておいたものだ。彼の方から茶の間へ行って話すことはなかった。夕食後の時間は一分一秒といえども彼は書斎の主であり、たまたま妻を呼び寄せることはあっても、子供たちをこの部屋に通して雑談するような習慣は決して見られなかった。
しかし妻が死んでから、彼は子供たちが書斎に出入するのを許すようになった。高校生と小学生だった二人の息子《むすこ》は、もう今までのように母親任せではすまなくなった。親としての責任が彼の肩の上にのしかかって来たから、神聖な書斎も自《おのずか》ら解放せざるを得なくなった。彼は舜一に対しては相談相手の友人という役割を演じようとした。謙二に対しては遊び友達の役をつとめたいと思った。しかし果して成功しただろうか。どうも彼にふさわしい役割とは言えなかったようだ。大学教授としての麻生肇氏は、冷たい仮面のようなものを顔につける習慣を急に廃することは出来なかった。息子たちを愛していたが、机の上に広げられた英文の書物ほどにも彼等の心の中を理解することは出来なかった。二人はどんどん成長し、書斎が解放されたからといって、父親と話をするために気楽に姿を現すよりは、自分たちの部屋に閉じ籠《こも》って、自分自分の生活を持つことを好むようだった。だいたい舜一と謙二とが仲のよい兄弟であるかどうかという点さえ、父親には判然としなかった。格別|喧嘩《けんか》をすることもなさそうだが、そんなのが普通なのだろうか。彼は自分が一人っ子だったために、兄弟の情愛というものがよく分らなかった。時々彼は(妻が死んでから)この広い邸《やしき》の中に三人の人間が別々に住んでいるような気がした。女中はいても女けというものが感じられず、その接着剤がない限り家庭はぴったりとくっつかないとしか思われなかった。
いま彼はコーヒーを飲み、煙草をくゆらせ、自然にまた手紙の文面に視線を向けた。それは一種の女らしい承諾を意味していた。謙二が中学にはいった時、彼は息子のために家庭教師として三沢さんに来て貰《もら》った。三沢さんは充分によく指導してくれたが、彼女の存在は謙二に対してばかりでなく麻生氏に対しても徐々に影響を与えていたのだ。彼がそれを痛感したのは、謙二がこの冬急性の肋膜炎《ろくまくえん》になって病院に入った時のことだ。麻生教授はそういう事態ではまったく無能だった。そして高熱に苦しんでいる息子は、父親の手を握るよりも、三沢さんの手の方をしきりと望んでいた。ベッドの側の椅子に腰を下し、かいがいしく息子を慰めている三沢さんを見詰めながら、彼は自分の中の孤独もまた暖かい手を求めていることを痛感した。彼の日常は書斎と教壇との間に明け暮れて、自分が孤独であることさえも実は忘れかけていたのだ。
彼はその文面から匂《にお》って来る女らしさ、優しさを、それがただ彼ひとりに向けられたものであることを、一種の快感を以《もつ》て味わっていた。これは承諾なのだ。この若い処女は、私のような五十歳に手の届く鰥と結婚することを遂《つい》に肯《がえ》んじたのだ。彼は満ち足りた気持で、綺麗《きれい》な細字で認《したた》められた便箋をめくってみた。ふとその眼が或る一行に落ちた。
「……後悔していらっしゃるのじゃないかしら。」
一体自分が求めているのは何なのだろう、と麻生教授は考えた。家庭生活の復活か、老年の日の伴侶《はんりよ》か、息子たちのための母親か。彼が一月ほど前に、謙二と三沢さんとのために借りた別荘の裏手の林の中の道で、暗示的な言葉を使って自分の気持を打明けた時に、真に彼を動かしていた動機はどのようなものだったのか。病院で息子を看病していた時のやさしい心遣《こころづか》い、赧《あか》らむ頬《ほお》、見開かれた眼、その若々しい肉体、その素早い頭脳の回転、しなやかな手、そういう積り積った魅力に彼が思わず抗《あらが》い得なくなったというのか。それとも孤独な寝室、机の側の空《あ》いた椅子、無口な舜一の眼に浮ぶ光、謙二の時々見せる寂しげな後ろ姿、そういった映像が一時に彼を圧倒したためなのか。それを知ることは彼自身にも出来ない。しかし後悔はしていない、決して。決して?
彼はまたその手紙を一枚一枚めくり、彼が最も異様な衝撃を受けた一行の上に眼を落した。「……愛しています(思い切って恥ずかしいことを書きました)。」そのあとの二行ほどは抹消《まつしよう》されていた。彼は既にその箇所を読み解こうとして無駄に時間を潰《つぶ》していた。彼のその努力は、要するにこの「愛しています」という映画の台辞《せりふ》のような、小説の文句のような表現に、擽《くすぐ》られるような悦びと、同時に甚《はなは》だ異質的な困惑とを感じたからだ。英文学を専攻して今までに数えきれないほどこの表現を横文字で読み、学生の前で講読した経験があっても、直接に彼自身を対象としてこの表現がなされたことは、また反対に彼が誰かにこの表現を用いたことは、ついぞなかった。ただ一度だけ経験した恋愛は片想いにすぎず、その忌わしい記憶はとうに忘却に追いやられてしまった。死んだ妻とは見合結婚だった。麻生教授は実に清廉潔白な、やや古風な、勉強家のかたぶつで通っていた。しかしそれは、今まで、彼の魂の中に告白するに足りるだけの愛が充足していなかったことを意味するのではないだろうか。
私は若者のように愛されているし、若者のように愛している。教授は冷たくなったコーヒーの最後の一口を啜《すす》り、その問題を頭の中から押しのけた。愛などということは苦手だ。愛は、たとえ不足しているとしても、結婚によって促され満されるものだ。亡《な》くなった妻との場合がそれだった。それだけの論理で充分に満足して、彼はその手紙を大事そうに封筒にしまいこみ、デスクの抽出《ひきだし》に入れた。学会の準備をしなければならない。
若者のように、――その言葉が仕事に熱中している筈《はず》の教授の意識の閾《しきみ》に、しばしば明滅し、彼をこの問題の方へ引き戻した。どうして自分はもっと単純に悦び、それこそ若者のように万歳とでも叫ばないのだろう。結婚は一生の(少くとも後半生の)大事だし、学会はただ一年に一度の行事というにすぎない。それに私はこの一カ月というもの、ただこの返事ばかりを待ち兼ねて、そわそわして暮していたのではなかったのか。毎週末、別荘へ出掛けて行くのは、謙二の健康になった顔を見るためよりは、三沢さんの微笑にあこがれて、今度こそは彼女の返事が、承諾の返事が、貰えるかと期待していたからではなかったのか。そのエゴイストの自分が、今になって大して嬉《うれ》しそうな顔もせずに、机にしがみついているというのはおかしいじゃないか。
教授は椅子から立ち上り、書斎の中をぐるぐると歩き廻った。三沢さんに異存がないと分った以上、この問題は舜一や謙二とも相談しなければならない。とにかく舜一がどういう反応を見せるか、それを知ることが第一だ。舜一は息子というよりも相談相手だし、舜一にとっても決して無関係な問題ではないのだから。果して一緒になって悦んでくれるか、それとも軽はずみだと言ってひやかすだろうか。
奇妙に心が臆《おく》して、麻生氏はいつまでも部屋の中を往《い》ったり来たりしていた。それから漸《ようや》く決心し、ドアを明けてひっそりした廊下に出た。二階に昇る玄関わきの階段のところまで来た時に、玄関の戸が軋《きし》みながら開いた。
4
舜一は重い心を抱《いだ》いて俯向《うつむ》き加減に玄関の戸を開いたので、階段の脇《わき》に父が立っているのを見上げた時には思わずぎょっとした。寝しずまった横町を歩きながら、彼の耳は雪ちゃんが別れ際《ぎわ》に言った、くよくよしないでね、という言葉を聞き続けていた。くよくよしたって始まらない。小さなバアで酒を飲み気を霽《は》らそうとしたが、重い気分は自分の家に近づくにつれて一層重くなった。とどのつまりは親父《おやじ》が僕の帰りを待ち受けていると来る。
舜一は大人しく父のあとについて書斎へはいった。ガスストーヴが細目に点《つ》けられていて、部屋の中はむっとするほど生暖かかった。
「何処《どこ》へ行ってたね?」
父は格別|咎《とが》めるつもりで訊《き》いたのではないだろう。舜一は椅子に腰を下し、自分が多少酒気を帯びているのに父が気づかないことを祈った。小言を言われるわけではない。父は放任主義で決して干渉はしない。ただ、自分が今夜酒を飲むような気分になったということが、自分自身に許せないのだ。
「雪ちゃんを送って行って……。」
後の方は曖昧《あいまい》に言葉を濁した。
「そうか、青山では皆さんお元気だったかね?」
舜一はやはり口の中で生返事をし、その時父親がどうやら機械的に質問していることに気がついた。親父何かに気を取られているらしい。とにかく僕のことじゃないらしいな。とすると、他に格別呼びつけられるような用件も思い当らないが。雪ちゃんにでも関係のあることかしらん。舜一は促すように父を見た。
「コーヒーでも入れてあげようか?」
「いやいいです。」
教授は手持|無沙汰《ぶさた》そうに煙草をくゆらせ、漸く本筋にはいった。
「実はお前に相談したいことがあってね。」
相談か。親父の相談というのはいつも結論を押しつけられるだけなんだが。
「三沢さんのことだが……。」
舜一は顔を起した。こればかりは見当もつかなかった。父親は机に片肱《かたひじ》を突き、彼の方に横顔を見せていた。
「あの人も家に来てからもう随分になるからお前も気心は分っているだろう? 優しい人だし、謙二もよくなついているようだ。うちの人と言ってもいいくらい今までにも随分と世話になった。そこでまあ私は考えたんだが、……私と較《くら》べれば年もずっと若い人なのだが……。」
そうか。舜一は思わず微笑を浮べそうになり、急いで口を挟《はさ》んだ。
「つまりお父さんは、三沢さんと結婚したいというわけでしょう?」
父はびっくりしたように向き直った。
「どうして分った?」
「それは見当がつきますよ。お父さん何だか恥ずかしそうだから。」
「で、お前はどう思う? 賛成かね?」
その時不意に彼の心の中がきりきりと痛んだ。父親の真剣な表情が、彼自身の真剣な問題を喚《よ》び覚《さ》ました。
「賛成も不賛成もないじゃありませんか、これはお父さんの問題だもの、僕とは関係がないよ。」
それは多少よそよそしく聞えた。父親は熱心に弁明した。
「いやいや大事なことだ。お母さんが死んでからもう三年になる。私はもう二度と結婚するつもりはなかったのだが、しかし今みたいでは家庭とも言えないからね。お前は来年は大学を出るし、そうなればいずれは結婚することになるだろう。しかし謙二はまだなかなかだ。今年一年は休学するとしたら、これからのち女手なしで育てて行くのは私の手にあまるんだよ。あれは身体《からだ》も弱いし、だいいち私という人間が、お母さんがいなくなってからは自分の身の始末さえさっぱりつかない位なのだ。それでついこういうことを考えた。本来はお前が結婚するまで待つべきだと思うのだが……。」
「何も遠慮することなんかありませんよ、お父さん。いい人が見つかったら、お母さんのことなんか考えずに、自分本位におやりなさい。だいたいお父さんがそうやって独《ひと》りでいるのは、僕等から見ても痛々しいよ。三沢さんがお父さんと結婚したくなるのは無理もないさ。」
「いやまだそうきめたわけじゃないんだよ、」と麻生氏は急に逃げ腰になって口を入れた。「まずお前に話を聞いてもらって、と思ってね。」
「僕なんかに聞くことはありませんよ。」
「それに謙二だって。」
「謙二か。謙二もびっくりするだろうな。まだ知らないんでしょう?」
「勿論《もちろん》。いずれ話さなければならん。ただ私はこの週末は学会があるので向うへ行けないんだ。」
麻生氏は乱雑に本やノオトの散らばった机の上を一瞥《いちべつ》した。
「じゃ僕これで。」
「ああもう遅いしね。」
舜一が書斎のドアを開いた時に、彼は父親から呼び留められた。
「そういうわけでこの週末は私は行けないんだが、お前が代りに行ってくれないかね?」
「謙二のとこですか?」
「そう。」
「そうだなあ、何とかしましょう。このところだいぶあいつに会ってないから。それで三沢さんに親父が嬉しがって僕に相談したと言っとけばいいんでしょう?」
「そんなお前、そういうつもりじゃない。余計なことを言ってはいかん。」
麻生氏の狼狽《ろうばい》ぶりは寧《むし》ろ滑稽《こつけい》なくらいだった。舜一はそういう父親に日頃にない親しみを覚え、何かもう少しひやかしてみたくなった。その時不意に、心の中がまたきりきりと痛んだ。
「思い出した。お父さん、ひょっとしたら僕行けなくなるかもしれないんです。実は井口の奴《やつ》がね。」
「井口君?」
「例の療養所にいる井口ですがね。今日学校で午後の四時限が潰《つぶ》れたので見舞に行って来てやったんですが。」
「ああ井口君、どんな具合かね?」
「悪いんですよ。時間の問題だと医者は言ってました。だから万一の時は……。」
「分った。」
「ではお休みなさい。」
舜一はドアを締め、廊下を通り、二階へ行く階段をそっと昇った。その一段ごとに心はまた重くなった。
彼は自分の部屋にはいり、電燈を点け、机の抽出からウィスキイの小瓶《こびん》を引張り出した。電燈に透して中身の量を調べ、グラスに注いだ。いつからこんな癖がついてしまったのだろう。グラスを一息に傾け、陶酔が身体の中に沈んで行くのを味わいながら、そこで廻転椅子にどしんと腰を下した。それからグラスをまた満たした。軽薄だ、と呟《つぶや》いた。
どうしてさっきはそのことをすっかり忘れていたのだろう。親父が再婚するという、確かにほほえましいニュースだった。これで親父も幸福だし三沢さんもきっと幸福だろう。人には幸福になる権利がある筈だ。それなのに僕たちはどうしてこんなに身動きもならず行き詰ってしまったのだろう。一体誰の責任なのだろう。
舜一は居心地《いごこち》が悪そうに椅子の中で身体をよじった。グラスをまた傾け、ぐったりとなって眼をつぶった。そうすると井口の痩《や》せ衰えた顔が鮮《あざや》かに浮び上った。再び眼を見開いても、その蒼《あお》ざめた面影は消えようとしなかった。
――ありがたい、僕はこれで満足だ。君にも雪子さんにも本当に世話になった。
――気の弱いことを言うなよ。
――愛というのは人生の時間を永遠に変えてしまうのだ。僕はもう無限に長く生きたような気がする。
そう言って井口は、実に澄んだ、汚れのない瞳《ひとみ》で彼を見詰めた。狭い個室の中の消毒薬くさい臭《にお》いに包まれて、舜一は寝台のすぐ側の丸椅子に腰を下したまま、友人の血の気のない顔を定まらない焦点のうちに見ていたのだ。愛か。何とその時、彼は苦い煎薬《せんやく》のようにこの言葉を呑《の》み込んだことだろう。彼を信頼し、無邪気に感謝してくれるこの友人の前で、自分を罪人のように感じたことだろう。みんな間違っている、これは嘘《うそ》だ、これは芝居だ、となぜその時彼は大声で叫び出さなかったのか。
舜一は頭を伏せた。雪ちゃん、僕にはとても耐えられそうにない、と彼は小さな声で呟いた。
5
謙二は例によって退屈していた。三沢さんが一緒に見てくれたあと、今まで机に向ってせっせと勉強していたのだが、時計を見てそろそろ十時になるのを知ると、窓の外が気になるので椅子をその側《そば》に運んで行き、表を見張ることにした。毎日一回、郵便屋さんが朝の十時過ぎに配達に来る。それが午前中のせめてもの愉《たの》しみだった。お父さんがまた何か面白い玩具とか本とかを送ってくれたかもしれない。中学の友達が手紙をくれたかもしれない。それにたとえ郵便屋さんに振られたとしたところで、本を読むよりは漫然と晴れ渡った空でも見ている方が、そして考えごとでもしている方が、ましだった。本というものは、彼の知らないことは書いてあるが、彼の知りたいことは書いてないのだ。
謙二は決して勉強が嫌《きら》いではなかった。この冬から学校を休んでしまったが、三沢さんがついているからけっこう中学二年の教科書もやっている。ただ彼の関心はともすれば自分勝手な空想の方へ走って行ってしまう。子供用のものでは間に合わず、小百科とか科学の事典とかを送ってもらい熱心に調べるのだが、肝腎《かんじん》のことはちっとも出ていない。
近頃謙二が熱中しているのは、すべてものの「原型」ということだ。一般に子供は玩具をあてがわれると、いじくり廻しているうちに壊《こわ》してしまう。それはどういう仕掛なのか、どういう構造、どういう原理なのか。時計でもラジオでも万年筆でも、分解してばらばらにしなければ気がすまない。それは子供から大人になりかけの年頃までに共通した、本能的な探求心だと言えるだろう。ところが謙二の場合にはそれがもっと抽象的なのだ。
例《たと》えば謙二は「はじめに言《ことば》ありき」ということを知っている。その言《ことば》とは何だろうかと考える。ロゴスなんていうギリシャ語まで覚えているが、初めにあったのはギリシャ語でも英語でも日本語でもない或る一つの言葉だ。さあそれが何なのか気になってならない。それは最も単純で、万国共通で、しかも意味があって、美しい言葉でなければならない。
それは或いは音楽と関係があるのかもしれない。最も単純な、美しい旋律、そのぎりぎりの最も短い形式、これも興味ある代物《しろもの》だ。音楽でなくて、ただの音でもいい。最も原始的な、最も古い、そういう音、それは何だろう。
謙二がこの春別荘へ来てから一番熱心に調べているのは鳥の声だ。季節が進むにつれて裏手の林には色んな野鳥が来て鳴く。鶯《うぐいす》や百舌《もず》や|あかげら《ヽヽヽヽ》や雉子《きじ》や小綬鶏《こじゆけい》や雀《から》族の小鳥どもや、それにそろそろ十一《じゆういち》や郭公《かつこう》や山鳩《やまばと》なども鳴き始めている。謙二は野鳥図鑑を調べ、双眼鏡で木の梢《こずえ》を覗《のぞ》きまわっているが、彼の目的は何よりもその鳴声、そして鳴声の最大公約数である原始音を見つけ出すことだ。「ジューイチ」とか「ホーホケキョウ」とか「チョットコイ」とか、鳥の鳴声のくせにその意味が日本語としても通じるものがある。それが謙二には不思議だし、ひょっとしたら鳥の言葉は万国それぞれに自分の国ふうの発音で聞かれているのじゃないかと思う。鶯なんか、謙二に言わせれば「ホーホケキョウ」と鳴くよりは「ホードッコイショ」と鳴くように聞える。そう三沢さんに言ったら三沢さんはお腹《なか》を抱《かか》えて笑った。謙二はこうした鳥の鳴声を英語で何と言うか教えて下さいと、お父さんに手紙で質問したのだが、その返事も今日あたり来るだろう。
そこにバイクの音が木立の向うから聞え出した。謙二は椅子から立ち上り、玄関の方に飛んで行く。靴をつっかけ、急いで門の方へ出て行くと、バイクの音がやんで、郵便屋さんが今しも車から降りるところだった。
「おはよう、郵便屋さん。」
「おはよう、坊っちゃん。今日はこれだけ。」
手渡されたのは葉書が一枚、宛名《あてな》は三沢さんだがどうやらお父さんの字らしい。
「僕のとこへは来なかった?」
「残念だったね。」
「なあんだ。」
郵便屋さんは眼鏡を光らせながらにっこり笑い、バイクに飛び乗って爆音も高く行ってしまった。謙二は葉書を手に、ぐずぐずと玄関の方へ戻った。ああ今日も退屈な日だ。
「お手紙来まして?」
三沢さんが玄関まで出ていた。三沢さんにもきっと待ち遠しい手紙があるに違いない。いつもなら謙二の勉強を見終ったあとは、自分の部屋に閉じこもって研究とやらをしている筈なのだから。
「三沢さんに葉書が一枚、僕のとこへは来なかった。」
三沢さんは受け取った葉書を裏返してまじまじと見ていた。暗い玄関の中でその顔色が蒼白《あおじろ》く冴《さ》えていた。
「お父さんは今度の土曜日にはいらっしゃれないのですって。」
「へえ、どうしてなんだろう?」
「学会がおありになるのよ。舜一さんが代りに来る筈だけど、それもひょっとしたら差支《さしつか》えがあるかもしれないって書いてあるわ。」
「それから?」
「それだけよ。」
「ちぇ、馬鹿にしてるな。」
謙二は同感を求めるように三沢さんの顔を見たが、相手はちょっと頷《うなず》いたきり、すうっと背を向けて行ってしまった。謙二はまた自分の部屋へ戻った。三沢さんはきっと児童心理学のレポートでも書いていて忙しいのだろう。手伝いに村の小母さんが昼間だけ来ているが、お料理もする謙二の監督もするそれに自分の研究とやらもあるんだからな。あんなに忙しくては退屈する暇はないだろうな。
ところが謙二の方は、お昼御飯までは自由時間なのだが、これといってしたいこともない。散歩に行ったところで格別珍しい鳥が見つかる筈もないだろうし(朝夕をのぞけば、今頃の時間は鶯と雀《から》族ばかりだ)、近いところは探険ずみだし、遠出をするには時間がないし、そうかといって学校の勉強は御免だし。
彼は机の上の勉強道具を片づけ、本箱から一冊の本を取り出して開いた。その頁《ページ》はすっかり癖がついていて直に開く。レオナルド・ダ・ヴィンチの人体図。縦横に引かれた直線と曲線との中に浮び上る裸体の男。これが何度見ても見飽きることのない「原型」の人間なのだ。
謙二だってそろそろ女の裸体画にも興味がある。中学生たちは仲間うちで猥褻《わいせつ》な話をする。しかしどっちかと言えば謙二は裸体そのものに魅せられるので、男とか女とかいう区別はそれほど大事ではない。彼は勿論《もちろん》はにかみ屋だから、裸体に覚えている興味を人に洩《も》らすことはないし、ひとりでこっそり百科事典や画集を見ているだけだ。しかし彼が最も熱心に見詰めるもので、このレオナルドの人体図にまさるものはない。どうしてそれが面白いのか、説明のつかないものがその中に隠されている。
暫《しばら》く見ていて、やがて別のことに考えが移った。これも彼が不断から熱中していることの一つだが、「暗号」というものがある。それは「原型」とも関係がないわけではない。
文字の場合に、その原型が何だろうかという疑問。日本語の片仮名や平仮名がその母体に漢字を持っていることは彼も知っている。その漢字は物の形を写した図形から始まっている。それが象形文字だ。絵から文字を生じるのは多分原始的な方法だったのだろう。しかし一方に、単なる記号としての文字、アルファベットのようなものもある。それは昔の形態に較《くら》べれば次第に簡単な形で済ませられるようになった。昔はアルファベットを覚えるだけでもとても大変だっただろう。ギリシャ語とかロシア語というのは今でも難しい。漢字だって略字が多くなって次第に易《やさ》しくなって来ている。そうすると、すべての文字は、原型に於《おい》て簡単で、そのあと人間が進化するにつれて難しくなり(文字を解する階級が別に発達したということも理由になる)、それから現代ではまた簡素化して行きつつある、ということになる。
謙二が目下発明中なのは、最も簡単な文字ということだ。片仮名はほんの僅《わず》かの線だけで出来ているけれど、それでも無駄な線が多いような気がする。もしも斜の線が要《い》らなくて、縦の線と横の線とだけで文字が構成されているのなら、よっぽど簡単になる筈だ。モールス符号はトンとツウとで出来ているが五個も組合せなければならない。謙二は縦の二本の線と横の二本の線とをうまく組合せただけで、新しい片仮名を発明するつもりでいる。この暗号が出来上ったら、それで日記をつけようと思う。何なら雪ちゃんに手紙を書いて、大学生ぶって威張っている従姉《いとこ》をあっと驚かしてやろうという魂胆もある。いつぞや彼が、特別を以《もつ》て雪ちゃんに彼の計画を洩らしたら、あら物好きね、と一笑に附された。
謙二は机の上に紙をひろげてせっせと記号を書きしるしていたが、そのうちにまた退屈になった。どうも四本の直線だけではうまく行きそうにない。どうも頭が集注しない。お父さんは学会で来られないのか。舜一兄さんにはどんな用事があるんだろう。つまらないな。馬鹿にしてるな。いっそのこと……。
謙二はそこで眼を輝かした。そうだ、うまい思いつきだ。これは面白いぞ、退屈がふっ飛ぶぞ。お父さんや兄さんはさぞかしびっくりするだろう。三沢さんだって、たまにはびっくりして、子供のお守《もり》みたいなつもりでいるのをやめた方がいいんだ。少なくともみんなの退屈がふっ飛ぶような面白いことなんだから、よく考えて実行してみるだけのことはある。
すっかり子供に返った生き生きした表情で、謙二は椅子の上から踊り上った。
6
三沢早智子が謙二がいないことに気がついたのは、おやつの時間がだいぶ過ぎたあとだった。謙二の部屋へ行ってみると横になったような形跡もないから、また安静時間を無視して表に出掛けたことが分った。この間池に落ちたくせに、幸い風邪《かぜ》も引かなかったのをいいことに、またまた池の方へ悪戯《いたずら》をしに行ったのかもしれない。そこで池のあたりまで様子を見に行ったがどこにも姿が見えなかった。
加勢の小母さんを相手に夕食の支度《したく》をしているうちに、少しずつ心配になって来た。お昼御飯の時までは確かにいたのだが、そのあとそれぞれの部屋へ引籠《ひきこも》ってからは一度も会っていない。小母さんに断って裏山の方へ探《さが》しに行くことにした。
草の匂《におい》のする道を次第に登って行った。林の中で鶯が綺麗《きれい》な声で鳴き交《かわ》している。先生と初めてこのあたりを歩いた頃は、鶯はこんなにたくさんいなかったと思う。郭公も遠くで鳴いている。郭公もいなかった。それに私は鳥の声なんか気に留めていなかったに違いない。
「謙二さん、謙二さあん……。」
鶯が、ホードッコイショ、と答えて、飛び立って行った。郭公が林の中と村の方とで互いに掛け合って鳴いている。彼女は急に寂しくなった。今朝先生から葉書が来て、この週末はお見えにならないと分ってから、心の片隅《かたすみ》で何か訴えどころのない寂しさが次第に大きくなっていた。この前の手紙の返事らしいものは一行も書いてない、無愛想な、事務的な葉書だった。こうして山道を歩いていると、いつぞやの先生の言葉が今も耳許《みみもと》に響いて来るような気がする。その時は、先生は決して無愛想でも事務的でもなかった。
――私はね、時々こういう埒《らち》もないことを考えるんです。人生というのは、地面に穴を掘って、そしてそれを埋めることじゃないかってね。若い時には、一心不乱に、目的も何も分らずに、せっせと掘って行く。自分の廻りに掘った土が堆《うずたか》く積み重なる。そして何処《どこ》からか、何時《いつ》からか、今度はその土を穴の中に投げ込んでそれを埋めて行く。自分の掘った土ばかりじゃなく、他人の掘った土までもシャベルですくって穴の中に入れる。そして結局は初めと同じです、平坦《へいたん》な地面があるばかりだ。しかし人間には死ぬ時までそれが分らないのでしょう。地面を掘ることに何かしら意味があるかと思う、死ぬ時になって、自分は穴ひとつ掘ったともいえないし埋めたともいえない、地面は結局は平かだったことが分るわけです。その平坦な地面の上を風が吹き渡って、人間のした仕事なんてものはみんな忘れられてしまうのです。
――でも先生、何かしら意味があると思うからこそ、そんなことをするのでしょう? 単なる本能じゃないんでしょう? それに穴を掘るのと、埋めるのと、そこにどんな違いがあるんでしょうか?
――私にだってよくは言えない。一生掘り続ける人だってあるに違いない。若いうちは誰でもそうです。あなたなんかだってそうです。意味がある、有意義な仕事だと思うから学問をやっているわけでしょう。しかし私はもうそうじゃない。私は自分の掘った穴を何とか埋めたい、私の一生にそれだけの時間があるかどうか分らないのが心配なくらいです。つまり私は、人生というのは平坦な地面である、平坦であるのが一番いい、とやっと気がついたわけです。
――何時からそういうふうに、掘る方から埋める方に、お変りになったんですか?
――さあ何時からとも言えないな。これは老境にはいった証拠でしょうかね。私はとうに学問というものに失望し、自分にその才能がないことが分った。日本という国で英文学なんかやっていればみんなはかない気持になりますよ。良心がありさえすればね。私は若い頃イギリスに留学して、それでもう諦《あきら》めてしまったのかな。それとも大学の教師として偉そうな顔をするのが、ほとほと厭《いや》になって来た頃から、こんな心持になったのかしらん。
――奥さんが亡《な》くなられたのは?
――それよりも以前からですよ。しかし家内が死んでから、その分の地面も埋めてやらなくちゃと思いますよ。
――わたしもお手伝いをしたいと思いますわ。
彼女は自分の言った言葉を思い出した。お手伝い、それがあの時の散歩の間に、先生と彼女との心が一層親密になり、先生が遠廻しに自分の孤独を訴え、彼女が遠廻しに同情と同意とを洩らすようになったきっかけだった。しかし彼女にどれだけのことが分っていたのだろうか。彼女の心は先生の低いささやくような声を聞いているうちに、甘美な陶酔に誘われ、この尊敬する学者と結婚してもいいという気持が湧然《ゆうぜん》と起ったのだ。それは果して愛だったのだろうか。
「謙二さあん……。」
夕暮の近くなった林の中に、彼女の呼声が木霊《こだま》し、遠くで返事らしいものが聞えたように思った。三沢早智子はその方角に身体《からだ》をよじり、と同時に石に足を取られてその場に転倒した。
その短い瞬間に、彼女の日常の意識が消え、穴というイメージと愛という観念とが、重なり合って彼女の上にのしかかった。私は深い深い穴の中に、暗闇《くらやみ》の中に、二度とそこから戻れない虚無の中に、いま落ちて行くのだ。そしてこの穴に落ちて行く以前の自分も、やはり暗い穴の中に住んでいたし、それ以前には、更に上方の、更に大きな、暗い穴の中に住んでいた。暗い穴の中に住んでいる人間がその穴の中の別の穴に更に落ち込んでしまった記憶、それを今彼女は思い出し、そして今、またまた新しい穴の中へ、より暗い穴の中へ、絶望的に転《ころが》り込むのを感じ、そしてその穴の底には愛などというものの微塵《みじん》も存在しない凍りついた孤独のみがあり、今自分は一切の人間的なものの場から離れて、底知れずこの愛の絶滅した状態のただ中へと行きつつあるのだと感じた。それと同時に、こうして落ちて行くことは生きながらの死であり、人生が平坦な地面でそこを風が吹き渡っているというその遥《はる》か上の方の地面に憧《あこが》れ、その地面にどうしても戻りたいと思い、その地面の上を吹く風こそは人間の愛であると思い、落ちたくない、穴の中へなんか決して落ちたくない、地面へ戻りそこの風に吹かれたいと、必死になって、祈りつづけた。
それはほんの一瞬の暗闇、意識の領域のほんの小さな穴にすぎなかった。三沢早智子は倒れた身体を起し、身体についた埃《ほこり》を払い、いま倒れながら自分が何を見ていたか、何を考えていたかをもう忘れた。夕暮が彼女の周囲で次第に色濃くなりつつあり、見はるかす限り彼女は一人きりで、自分の影だけが道の上に長く尾を引いているのを茫然《ぼうぜん》と見詰めていた。
7
雪子は我が家にいるのと同じ気楽さで、舜一の部屋で腰を下したり、応接間でレコードを聞いたり、お勝手で女中と世間話をしたりしながら、舜一の帰宅するのを待っていた。子供の頃から遊びに来馴《きな》れていた家だったが、ここの伯母《おば》さんが亡《な》くなってからは不思議と足が遠くなり、それに一昨年彼女が女子大学に入学してからは、高校生の頃のように気楽に足を運ぶには心の中の何かが邪魔をしていた。それは大好きだった伯母さんがいないためでも、三沢さんと気が合わないためでもなくて、まったく別の理由、つまり理由にならない理由のためだった。彼女は舜一と表で会うことにしていた。
久しぶりに、それもどうしても急に会いたいような気分になって、学校の帰りに麻生家を訪れてみると、舜一もいず伯父《おじ》さんもまだ帰っては来ず、広い邸《やしき》の中はがらんとして応接間に花ひとつ活《い》けてない有様。女中さんには悪いけど、女けのない家なんて寂しいものだと思うと、この前の晩別れた時の舜一の表情がまざまざと思い起された。
玄関の呼鈴が鳴った時に、彼女は電話で花屋から届けさせたありあわせの花を活けていたが、さっそく花鋏《はなばさみ》を放り出して玄関に飛んで出た。
「ただ今。」
「あらあら、謙二君か。」
「なあんだ、雪ちゃんか。」
二人とも一緒に名前を呼び合って思わず笑い出した。
「謙二君は別荘を借りてそっちに行ってるんじゃなかったの、三沢さんと?」
「そうだよ。」
「そうだよって?」
「僕ちょっと帰って来たんだよ。そんなに通せんぼしていないで通してくれたっていいじゃないか。お父さんは?」
「伯父さんはまだよ。じゃ応接間に通んなさい。あたしがお相手してあげる。」
雪子がまた花鋏をちょきちょきいわせている間に、謙二はお勝手に駈《か》けて行って水でも飲んで来たらしく、口のまわりを手で拭《ふ》きながら戻って来た。
「謙二君、それで荷物も何もないの?」
「うん。」
「何でまた帰って来たのよ、三沢さんと喧嘩《けんか》でもしたの?」
「喧嘩なんかしないさ。退屈だったからさ。」
「退屈? 生意気ねえ。」
謙二は従姉が花を活ける手附を見ていたが、面白そうに口を挟《はさ》んだ。
「雪ちゃんも花嫁修行がだいぶ進んだと見えて、なかなかうまいんだね。」
「生《なま》おっしゃい。だいたいその雪ちゃんなんてのが生意気よ。あたしは大学の三年生よ、謙二君は中学の二年生じゃないの、身分が違いますよ。」
「僕はまだ一年生なんだ。病気なんかしちゃったからね、」としょげたような顔をしたが、すぐに元気を取り戻して、
「じゃ何と呼べばいい?」
「雪子さんとかお姉さんとかおっしゃい。」
「雪子さんなんておかしいや。雪ちゃんが兄さんのお嫁さんにでもなれば、その時はお姉さんと呼んでやってもいいけど。」
「まああきれた。」
雪子は暫《しばら》く謙二を睨《にら》んでいたが、話題を変えて攻勢に出た。
「どうして別荘で大人しくしてないの? 向うの方が面白いことは沢山あるでしょうに。」
「だから退屈だって言っただろう。」
「贅沢《ぜいたく》よ、そんなの。田舎《いなか》の空気の方が哲学には向いてるのよ、そうじゃない、哲学者君?」
「何処《どこ》にいたって退屈だよ、僕。」
「そうかなあ。謙二君には学校なんかより田舎にでもいる方がよっぽど向いていそうに思えるけどな。三沢さんはお伴で気の毒だけど。」
そこで不意に気がついた。
「三沢さんは知ってるんでしょうね?」
「何を?」
「何をって謙二君がこっちに来たことを。」
「知らないさ。僕はお昼御飯を食べたあとで、そっと抜け出して来たんだ。三沢さんだって退屈だろうから、たまにはびっくりした方がいいんだ。そう言えば僕もうお腹がぺこぺこさ。」
「あきれたわねえ。三沢さんは責任感|旺盛《おうせい》だから、今頃は死にそうなくらい心配してるわよ。さっそく電報を打たなくちゃ。」
雪子が電話器にしがみついている側《そば》を、謙二は夕食の催促にでも行くらしくお勝手の方へ姿を消した。
雪子は舜一と話をしたら夕食前に帰ろうと思っていたが、謙二が無理に引き留めるのでとうとうゆっくりすることにした。伯父は帰って来なかったし、舜一は弟の出来心にちっとも小言を言わなかったから、夕食の間も謙二はひとりではしゃいでいた。雪子は舜一が暗い気分でいることを知っていたし、その気分は彼女にも伝わって来ていたが、謙二に調子を合せて強《し》いて自分を陽気に振舞っていた。夕食後暫くして、一人旅に疲れたらしい謙二が入浴をすませるともう寝ると言って引き下ってしまったから、彼女は舜一の部屋で初めて彼と二人きりになった。そうすると気づまりな程二人の間に沈黙の深い淵《ふち》が横たわった。
舜一は雪子にとって従兄《いとこ》だった。いとこどうしなんてものは、兄妹《きようだい》と似たようなもので、愛し合っているとしても当り前のことだと彼女は考えていた。それは小さい時分からの習慣のようなものだった。
その時間はごく自然で断絶することがなく、日常の中を無色透明に、無意識的に流れていた。その時間が何時《いつ》からか変色し、透明なものと不透明なものとに分れ、永遠の破片としての燃え上る瞬間と無意味な忘却としての冷たい流れとの二種類に分類された。その変化は彼女ひとりに起ったのではなく、舜一もまたそれを自覚し、この共通のものを所有することによって新しい時間が、――刻々に何ものかを生み出し創《つく》り出す時間が、二人の魂の中に共通に流れ始めた。それは若々しく、希望に彩《いろど》られていた筈《はず》なのに、誰ひとりそれを知っている者がないということのために何処《どこ》かしら秘密めいた影を持ち、その影が二人の愛を一層鋭く、強く、官能的にした。
しかしその間はまだよかった。時間は秘密な幸福に充《み》ちていた。しかしその時間が異臭を放ち、夜のように不吉になり、日常の時間にもその影響を投げ掛けるようなただ一種類のものになったのは、明かに井口が、この舜一の親友が、二人の間に登場して来てから後のことだ。井口はこの二人、自分の最も親しい友人とその従妹との間に、秘密があるとは露ほども勘づかなかった。田舎から上京して学資が続かなくなった井口は、無理なアルバイトを重ね、そのために結核に冒され、一年ほど休学した。そのあと完全に恢復《かいふく》したわけでもないのに更に身体《からだ》を酷使したので、再発して倒れた時には取り返しのつかないほど悪化しているのが発見され、すぐさま或る療養所に送られた。そしてその時はもう遅すぎて手術の出来るような段階は過ぎていたし、新しい薬の効果も及ばなかった。本人自身が助からないことを自覚してしまったために、医者の努力もいっこうに報いられなかった。それは貧しい学生の、野心と現実との間の挫折《ざせつ》を示す一つのケースとも言えた。
雪子は無邪気に時たま療養所に見舞に行ったが、それは前からの識《し》り合いであるからというだけで、井口がどんな気持でいるのかは気がついていなかった。舜一の方はしばしば井口を訪れた。二人が一緒に行ったこともあったが、大抵は時間の都合で二人は別々に訪問した。そして井口が告白した時に、雪子は雪子として自分を欺き、舜一は舜一として自分を欺いたのだ。二人は二人ながらそのことに対して責任があった。二人の時間はその時から完全に変質した。
雪子は井口から彼女を愛していることを告げられて、驚きのあまりはかばかしく返事をすることも出来なかった。井口は彼が愛していることを言ったばかりか、彼女が療養所に見舞に来てくれるのは、彼女の方も彼を愛している無言の証拠であろうと錯覚していた。それが言葉の端に感じられた。その時雪子の心を揺すぶったものは、この死期を自覚した若い不幸な男性に対する同情と憐憫《れんびん》だったのだろうか。自分が愛していると言ったところで、その嘘は自分に対して何の負い目にもならず、ただ相手を慰め、勇気づけるだけだと考えたのだろうか。彼女ははっきり肯定したわけではない。曖昧《あいまい》に微笑し、そのことによって結局は井口に彼女の愛を確信させてしまった。しかし一つの嘘はその周囲に変質した時間を、その時間の亡骸《なきがら》を、積み重ねさせた。
舜一が井口から雪子を愛している、そして雪子もまた井口を愛していると告げられた時に、彼は友人の幸福そうな、満ち足りた表情を眺《なが》めながら、驚きを憐憫で覆《おお》い、自分の感情を押し殺した。彼は嘘をついたわけではなかった。彼は何も言わず、よかったね、と呟《つぶや》いただけだ。しかし実質的には彼は嘘以上のものをつき、相手を欺くと共に自分をも欺いたのだった。それまでは雪子との間に共通した時間が流れていたのに、今や別々の、孤独な、死んだ時間しか存在しなかった。
沈黙が長びき、二人がそれに馴《な》れ、それから漸《ようや》くぎごちなく感じ始めてからやはり押し黙ったままで暫く過ぎて、やっと雪子が口を開いた。
「どうしたの、舜一さん? 何を考えているの?」
舜一は顔を起した。
「何を……って、どうしてこんなことになったのか、どうしてもそのことを考えないわけにはいかないんだ。僕は君を咎《とが》める気はないよ、僕だってやっぱし卑怯《ひきよう》だったんだから。けれど君はなぜ最初の時、井口がそれを言い出した時、あいつを愛していると言ったんだい?」
「言ったわけじゃないのよ、ただ井口さんにそう思われてしまっただけ。もう何度も説明したじゃないの。」
「じゃ、なぜそう思われるようなふうに君がなったんだい、それが聞きたいんだ。」
「そうね、なぜかしら。つまり井口さんの痩《や》せこけた顔を見ているうちに、いつのまにかそういう気持に、愛してあげなければいけないような気持に、なってしまったんでしょうね。舜一さんは?」
「僕もそうかもしれない。僕にだって分らない。そんな筈がないことを二人ともちゃんと承知していながら、物のはずみで、こういう重大なことが起ってしまうものだろうか。しかしね、ここには一つだけ、僕等をそういうふうにさせてしまったはっきりした理由がある。それは井口が死にかけている、しかもそれを僕等が知っているということだ。死にかけた人間は、絶対だ神聖だという迷信じみたものが、僕等の中に、つまり人間一般の心の中に隠されていて、それに逆らってはいけないという気持が何処かで働くのだ。しかし死んで行く人間というのはそんなに絶対なんだろうか?」
「井口さんのこと、そんなふうに言っちゃ悪いんじゃない?」
「そんなふうって、死にかけてるってことかい? しかしそれは真実なんだよ。現に今この瞬間に、あいつは死んでるかもしれない。君がそう言って遠慮深くなることが、既に死んで行く人間を絶対だと見ることの一つの証拠みたいなものだ。」
「でもそれでいいんじゃないの? 死んで行く人は気の毒だと思って、……」
「嘘をつくことがかい? そんな筈はないだろう。死んで行くというのは現に井口が生きていることだし、僕等が生きているのはいずれは死ぬということじゃないか。死んだ人間は神聖かもしれない。しかし現に生きている限り、あいつと僕等との間にけじめはない筈だ。反対に言えば、僕もまた死んで行く人間の一人なのだ。僕が明日死なないとどうして言える?」
「気持の悪いこと言わないで頂戴《ちようだい》!」
「何も気持の悪いことはないさ。」
雪子は議論の蒸し返しに来たのではなかった。彼女はもっと簡単に、楽天的に、考えていた。彼女はただ舜一のことを心配し、くよくよ考えたって始まらない、井口さんが死んだら(そういう仮定は許すべからざるものだと思いながら)また元通りになると、舜一に説明して、元気を出させようと訪問したまでだった。本質的に何の変ったこともない筈だ。あたしは舜一さんが好きだし、舜一さんはあたしが好きなのだから。
「もうよしましょうよ、この話。あたしが好きなのはいつだって舜一さんだけよ。」
雪子は立って舜一の椅子の側へ行き、その片手を取ってそっと自分の頬《ほお》に当てた。舜一は何か言いそうになって口籠《くちごも》った。
「雪ちゃん。」
不意にそう叫んで舜一が自分の手を引き、そのはずみに雪子の身体は相手の手を握った両手ごと椅子の上の舜一の方へ倒れかかった。彼女は危く膝《ひざ》をついて身体を立て直した。舜一は狂暴に彼女の頭を抱きしめ、両手で支《ささ》えるようにその顔を持ち上げた。
雪子は眼を閉じたが、その接吻《せつぷん》は海の潮のように鹹《から》く感じられた。なぜかそれは罪の味のような気がした。
8
何でもないと自分に言い聞かせながら、不吉な空想に自分自身を苦しめていたから、夜遅く、やっと懐《なつか》しい麻生家の玄関の呼鈴を鳴らした時に、三沢早智子の気持は今にも頽《くず》れそうだった。玄関の電燈は初めから点《つ》いたままで、その戸は待ってでもいたように直《じき》に開いた。その戸を開いたのは麻生教授だった。
「先生。」
そう呟《つぶや》くのと同時に、眼の前がぼうっと潤《うる》んで来た。
「謙二はもう寝ています。どうも心配を掛けて済みませんでしたね。さあ私の部屋にいらっしゃい。」
廊下を教授のあとからついて行きながら、ここでは万事が日常の通りで、女中はもう寝《やす》み、舜一さんは二階で勉強し、謙二さんは眠ってしまい、一人で心配していた自分だけが異分子であるような、拍子抜けのした印象を受けた。しかし書斎に通って、夕食はと教授に訊《き》かれ、駅弁で済ませましたと答え、それならコーヒーでもと、教授が愛用のサイフォンをいじくっているのを見詰めているうちに、彼女の不安もだんだんに霽《は》れて来た。書斎の中には煙草の煙が垂《た》れ込め、それが高原の澄んだ空気に馴《な》れている身には息苦しく感じられ、しかも次第にそれを懐しく、親しいものに思い始めていた。コーヒーを立てるのは麻生氏個人の神聖な行事で、それをよく弁《わきま》えていたので彼女は無言のまま相手が口を利《き》くのを待っていた。
「私も今晩は遅く帰ったものだから、実は謙二と話はしていないんですがね。ちょうど雪子が来合せていたそうで、さっそくあなたに電報を打ったからよかった。とんだ心配をしたでしょう?」
「わたしの心配はいいんですけど、どういう訣《わけ》なのか訣が分らなくて。」
答えるうちまた眼が潤みそうになった。サイフォンが規則的な音を立て始めた。
「舜一に様子を聞いてみたら、本人はけろりとして、退屈だったからなんぞと言っているようですよ。あまり深刻に考えないで下さい。ああいう年頃の子は気紛《きまぐ》れでね。これはあなたの方の専門だが。」
「何かわたしに不満でもあったんじゃないでしょうか?」
「そんなもののある道理がない。今週は私が行けない、舜一も行けるかどうか分らない、それを知ったから自分の方で来る気になったと言ったそうです。」
「でも、わたしに何にも言わないで来てしまうなんて。」
そこでもう涙が溢《あふ》れて来てしまった。泣いてはいけない、先生が困るだけだと自分に言い聞かせ、必死に抑《おさ》えようとしたが、今までの苦心がみんな水の泡《あわ》になってしまったような気がして、無性《むしよう》に悲しくなった。今までに一度だって泣いたことはなかったのに。
「さあそんなに真剣に考えるほどの問題じゃない。まあコーヒーでもお上んなさい。」
三沢早智子は手許《てもと》のバッグからハンカチを出して涙を拭《ふ》き、少しばかり微笑した。ぶきっちょな手附で教授の入れてくれたコーヒーが、暖かそうな湯気を上げている。多分その通りだろう、謙二さんの気紛れで意地悪からではなかったのだろう。私が泣いたのは、謙二さんのせいよりも、先生のあの短い葉書のせいだったかもしれない。彼女はゆっくりとコーヒーを啜《すす》った。
沈黙の間で、教授は二度ほど何か言い出しそうになって止《や》めた。それからぽつりと言った。
「お手紙をありがとう。」
彼女はかすかに赧《あか》くなった。先生の方はちょっと身じろぎした。
「私は嬉《うれ》しかった。返事を書こうと思ったが、どうも手紙は不得手でしてね。」
彼女は頷《うなず》いた。急に不安がまったく去って行き、心の空が明るく霽れ渡るのを感じた。
「舜一にも話してみました。あれも悦んでくれた。謙二には明日にも話してみましょう。何だか私にばかり都合がいいようで心苦しい。あなたは本当にそれでいいと思うんですか?」
彼女はまた頷いた。
「わたしにだって都合がいいんですわ。」
安心して彼女は如何《いか》にも若さに溢れた微笑を見せた。しかし彼女の頭脳は素早く廻転し、いま聞いた言葉の中に一箇所だけ不安のたねを見つけ出した。
「でも、明日謙二さんが何と言うかしら?」
「謙二は大丈夫、あれはあなたのことが大好きですよ。」
「でも今度みたいなことがあったんでは。」
「いやいや、あなたはどうも少し気にしすぎているようだ。単なる子供らしい気紛れですよ。あの子の気持は私には何でも分っています。」
その自信のある口調に気分はすっかり落ちついた。
「わたし謙二さんの寝顔を見て安心したいんですの、」と甘えるように言った。
三沢早智子は謙二の寝ている寝台の側《そば》へ行ってその顔を覗《のぞ》き込んだ。部屋の電燈の明りを点けたために、目が覚《さ》めはしないかと心配したが、そんなこともなくすやすやと眠り続けていた。彼女が蒲団《ふとん》を直してやった時に、小さな唸《うな》り声《ごえ》を立てて横向に寝返りを打った。
「よく寝ています、」とあとからついて来た教授の方を振り返って、彼女は小声で呟《つぶや》いた。
二人が入口まで戻って、壁際《かべぎわ》のスイッチを消した時だった。謙二が明かに寝言を言った。
「母ちゃん、母ちゃん……。」
二度ほど、幼い声で。
暗い部屋の中に片足を残し、廊下の明りに半身を照し出されながら、彼女は再び暗黒の穴の中にまっしぐらに落ち込んで行く自分を感じた。矢のように、はてしもなく……。先生の手が背中の上をやさしく撫《な》でているのを、鉛の手のように重たく不気味に感じていた。
9
謙二は片手にバスケットを持ち、山道をずんずん登って行った。山道といっても、林の中を抜けるだらだら坂で、山までは遠かったし勿論《もちろん》山まで行くつもりはなかった。三沢さんが一緒に行きましょうかと言ったのだが、僕ひとりだって大丈夫だよと言うと、奇妙なほど言いなりになって、おやつをバスケットに詰め込み、水筒を持たせてくれた。何だかひどく優しくしてくれるので、気味が悪いくらいだった。
しかしその理由は謙二にはちゃんと分っていた。つまり三沢さんはお父さんのお嫁さんになろうというわけだ。だから僕に対して御機嫌《ごきげん》を取らないわけにはいかないのだ。一人で黙って汽車に乗って家へ帰った時、お父さんに叱《しか》られはしないかと実はびくびくしていた。あの晩夜中に厭《いや》な怖《こわ》い夢を見たのはそのためだ。しかし明くる朝、お父さんはちっとも僕を叱らなかった。これからは何でも三沢さんと相談してからでなければいけないよ、と言っただけだった。お父さんはきっときまりが悪かったんだ。あの時お父さんは何と言ったっけ。
――謙二、今までだって三沢さんはうちの人みたいだったね、三沢さんに本当にうちの人になってもらうとしたらお前どう思う?
うちの人というのはよく分らなかった。雪ちゃんだってうちの人じゃないか、僕のことをつかまえて謙二君だとか哲学者君なんぞと言うんだもの。
――つまりお父さんはね、お母さんが亡《な》くなってから色々と不自由だから、今度ね三沢さんにうちの人になってもらおうと思うんだよ。
うちの人ってのはやっぱり分らない。
――つまりお母さんの代りになってもらうのさ。
それは分る。今だってそうじゃないか。
――いや、つまりお前のお母さんに、新しいお母さんになってもらうのさ。
お母さんとお母さんの代りというのとでは違うんじゃないだろうか。しかし僕は黙っていた。
――謙二、お前の考えを言って御覧。お前は三沢さんが好きだろう?
――好きでも嫌《きら》いでもないや。
実際そうなんだもの、他《ほか》に答えようがない。
――三沢さんにうちの人に、つまりお前のお母さんになってもらってもいいかい? 決してお前の厭なようなことを、お父さんは無理にしようとは思わないんだよ。
――僕はどっちでもいいや。
――もっと真剣に答えなさい。
――だからさ、僕はどっちでもいいんだよ。お父さんや三沢さんの好きなようにすればいいじゃないの。
大人たちは煮えきらないものだ、と謙二は考えた。何も僕に遠慮する必要なんかないのに。三沢さんは僕の御機嫌を取って、おやつを詰めてくれたり、行ってらっしゃいと言ったり。それ位なら、わたし謙二さんのお母さんの代りになってあげるから、あなたもわたしをお母さんの代りに好きになって、とか何とか直接に言ってくれればいいのに。その方がよっぽどさっぱりしているのに。
しかし謙二は愉快でならなかった。それはこの前の無断外出が格別叱られないで済んだためでも、今日三沢さんが快く遠出を許してくれたためでもなかった。それも多少は関係があるけれど、愉快のたねはこのバスケット、馬鹿に重たくて、しょっちゅう手を持ち替えているバスケットの中にあった。その中にあるのはおやつのサンドイッチばかりではない。三沢さんのつゆ知らない秘密、というよりも誰ひとり知らない秘密の品物が、このバスケットの中にこっそり隠されているのだ。謙二は今、珍しく退屈ではなかった。いな、三沢さんと一緒にここの別荘に戻って来てからは全然退屈ではなかった。彼の無断外出、彼の小旅行は、素晴らしい収穫を齎《もたら》していた。
彼は小一時間以上歩いた。だらだら坂でも登りは登りだから相当にくたびれた。これまでの山道で誰にも会わなかった位だから、もう大丈夫だろう。彼は汗を拭きながら道の左右にひろがっている落葉松《からまつ》と赤松との雑木林を見廻した。それから左側の方へ、林の間を抜けてどんどんはいって行った。
林の中には陽《ひ》の光が枝々の間から射《さ》し込み、草いきれの匂《におい》が鼻をついた。生れたばかりの蝉《せみ》の子が樹々の梢《こずえ》でジーッとうるさい程鳴き続けていた。一番高い枝で日雀《ひがら》がツッピン、ツッピンと鳴いていた。謙二は花の散ったあとの、新緑の美しい大きな辛夷《こぶし》の樹の蔭に腰を下した。爽《さわや》かな風が吹いて枝々の葉をそよがせ、彼のほてった頬《ほお》を冷《さ》ました。もう晩春というよりは初夏に近い気持のよい午後だった。
謙二はまず水筒のお茶を飲んだ。バスケットを開いておやつのサンドイッチを食べたが、そのバスケットの底にこそ彼の秘密が隠されていた。しかし彼はおやつを食べ終るまで待てと自分に言い聞かせた。何かの目的があり、それを期待しつつある時間というものは、彼にとって最も愉快な、少くとも退屈を忘れさせてくれる貴重な時間に他《ほか》ならなかった。そして彼が今、日頃の退屈を忘れているのには、この秘密の品物への期待がきっかけとなっていたが、同時に現に彼がいるこの位置、この状況、この精神的|雰囲気《ふんいき》というものも、作用していたに違いなかった。
ここで謙二の退屈の領域というか射程というか、その限界である二つの極について説明しておこう。これは謙二自身の表現なのだが、一方の極には「石」があった。他方の極には「風」があった。
石は彼にとって恐怖の象徴のようなものだ。この石は具体的な、現実の石を指《さ》すのではない。意識が凝固して、あらゆる思考がそのエネルギイを失い続け、次第に小さく次第に冷たくなり、遂《つい》には一点に集注して生命のない単なる塊《かたま》りと化してしまう。それが石だ。魂の化石した状態、そこに何の自由も、何の行動も、何の想像も許されない状態、それ自身が冷たい死んだ塊りにすぎず、呼ぶことも叫ぶことも出来ず、もうこれからは退屈だなんぞと贅沢《ぜいたく》なことは言わない、どんなに退屈だって我慢すると誓っても、もう退屈なんか微塵《みじん》も存在せず、いな考えることさえも存在せず、僕はいま石になりつつある、もう石になってしまった、もう駄目だ、という固定した意識、恐怖と不安との他に何もなく、しかもこの石の重たさのみがひしひしと感じられる状態、――それが石だ。
それはごくたまに日常の時間の中で彼を訪れることもある。しかし多くは夜、夢の中で彼は石となる。無断で上京した晩も、彼はくたびれて早く寝た。そして夢の中で彼は何を見たのだろうか。彼はもうそれをはっきり思い出すことが出来ない。何かうごめいているものが沢山いた。その中には三沢さんや雪ちゃんや兄さんなんかもいた。みんなで隠れんぼ遊びをして、いなくなった彼を探《さが》しているようだった。そして不意に彼は自分が石になったことに気がついたのだ。彼の周囲を、うごめいている物が幾つも幾つも通り過ぎた。しかし彼は身動き一つ出来ず、自分の呼吸している空気が次第に濃厚になり、それが気体から次第に液体状の粘液質のものに変り、次いで次第に固定化して、自分の身体をも含めて一個の石と化しつつあることを、鋭敏になった意識の全域で感じ取っていたのだ。恐怖のあまり彼は叫んだ。母ちゃん、母ちゃん。しかし声は出ず、たとえ母ちゃんがその声を聞いたところで、どうして彼だと気がつくだろう。そこに謙二がいるわけでもなく、ただ一個の小さな冷たい石があるばかりなのに。彼は暗闇《くらやみ》の中で目を覚《さ》まし、自分が石ではなかったことを知り、深い溜息《ためいき》を洩《も》らしたが、その瞬間でも恐怖はまだすっかり抜けきったわけではなく、石から完全に人間に戻ったのではないような気がしていた。いつまた石になるかもしれない恐怖が、尚《なお》も彼の呼吸を早くしていた。
一方の極には「石」があり、そこから意識の領域がひろがり、「賭《かけ》」とか「原型」とか「暗号」とかの精神の昂揚《こうよう》が退屈の中に渦をつくり、それから退屈が最も純粋に自然と同化した状態に「風」があった。
例えば彼は今|辛夷《こぶし》の樹の下で何を考えるともなく鳥の声や風の音を聞いていた。風の音、それは不思議なものだ。風そのものには姿もなく形もない、況《いわん》や音もない。しかし風が吹き過ぎて行く時に、あらゆる物と触れ合ってそこに微妙な音を生じる。そういう物たち、樹とか建物とか電線とか草原とかがないところでも、人間の耳は、もし訓練されるならば、もし魂が完全に風と同化するならば、そこに風の固有の音を聞くことが出来るかもしれない。それがひょっとしたら原始音なのかもしれない。彼は新緑の小さな沢山の葉群《はむれ》の間から洩れて来る陽光を浴びながら、自分の意識が少しずつ少しずつ溶けて行き、広がり、稀薄《きはく》になり、空気の中に混り合い、遂には風と共に遠くへ遠くへと運ばれて行くように感じた。それが風だ。最も幸福な、平和な、満ち足りた気持。その時不安はまったく存在せず、魂は暖かく、肉体は忘れられて、うっとりするような時間のみが無限に続く。
しかしそれは無限には続かない。そうした陶酔はやがて醒《さ》めるし、またそうしばしば彼を訪れるわけでもない。彼は大抵は退屈していて、その状態の中で色々なことに興味を持ち、そして直にそれに厭《あ》きるが、ただその両極にはいつでも石と風とがある。石になるか風になるか、それはいよいよのその時まで、彼自身にも分らないのだ。
今や謙二は急に意識を取り戻し(これほど熱心に待ち望んでいた瞬間が来ていながら、おやつのあとでいつかけろりと忘れていたのは不思議でならなかったが)、胸をどきどきさせながらバスケットの箱を開いた。無造作にその中から重たい品物を取り出した。それは一個の拳銃《けんじゆう》だった。
それは魔法の品物のように彼の眼の前に、彼の掌《てのひら》の上に現れた。その蒼味《あおみ》を帯びた鈍い光沢の銃身、ぎざぎざの附いた握り、弾丸のはいる中心部の弾倉のふくらみ、どこからどこまでうっとりするような一個の芸術品だ。彼はその武器を掌の上で撫《な》でまわした。その重みを量った。
謙二がそれを発見したのは、父親の書斎の中でだった。一晩泊ったあくる朝、彼は父親に書斎に呼ばれ、叱られる代りに予想外のニュースを聞かされ、どっちでもいいやと答えた。父親はよく考えてみなくちゃいけないとさとして、大学に講義をしに行ってしまった。兄さんも学校へ行き、三沢さんは暫《しばら》くぶりに研究所へ出掛け、女中は近所へ買物に行って皆が留守になった隙《すき》に、もう一度書斎の中に忍び込む気になった。それは謙二が例によって退屈だったせいだろうか。それとも父親に叱られなかったので少々図に乗ったというのだろうか。
決して悪気で探しものをしたのではない。初めは英語の鳥類図鑑を探しに行ったのだ。英語では鳥が何と鳴くか、それをお父さんがなかなか教えてくれないから、自分で図鑑を調べてみる気を起した。本棚《ほんだな》を探し廻ったが本がたくさんありすぎてとても手に負えなかった。そこで退屈半分、整理|箪笥《だんす》の抽出を明けてみたり、椅子に乗って天袋を開いてみたりしているうちに、たまたまその箱を見つけ出した。菓子折くらいの、もっと深さのあるモザイクの箱で、その上に留学記念と書かれた小さな紙が貼《は》ってあった。謙二はそれを抱《かか》えて床の上に坐り込み、鍵《かぎ》の掛っている箱をかたかたいわせているうちに、やがてぱたんと蓋《ふた》が開いた。まるで玉手箱だった。外国の郷土人形みたいなものや、文鎮や、ナイフや、指輪や、鍵や、メダルや、切符や、束ねた手紙類や、ごたごたと種々様々なものが詰め込まれていた。こんな面白いものがあったのにどうしてお父さんは僕にくれなかったのかな、と少々|怨《うら》みに思いながら、大事そうに一つ一つ取り上げてみた。その中にこの拳銃がはいっていた。
それは六連発の、蓮根《れんこん》型の弾倉を持ったレヴォルヴァだった。なぜそんなものがあるのかは考えなかった。ただもう夢中になっていじくり廻し、安全装置に気がつき、弾倉を開く仕掛をも発見した。弾倉の中はからだった。別に黄色い麻の袋に小石のようなごろごろしたものがはいっていた。それがこの拳銃の弾丸らしかった。
誘惑はあまりに強烈だった。拳銃と弾丸。六連発。一発撃つたびに弾倉がくるっと動いて、次の一発が用意されるのだ。もしも別荘の裏の林の中でこれを撃ってみたらどんなだろう。あの辺には誰もいないし、危険なことは何もないし。それにお父さんはこんな箱のことをすっかり忘れているらしいから、そうっと返しておけば気がつく筈もないし……。
いま謙二の掌の上で拳銃は太陽の光線を受けて誘惑するようにきらりと光った。彼は有頂天になっていた。黄色い袋の中から弾丸を一発だけ取り出し、装填《そうてん》した。その瞬間からこの拳銃はもう生き物だった。死と生とのすべての可能性を孕《はら》む魔物だった。彼はそれを右手に握りしめ、左手でその右手の肱《ひじ》を支《ささ》え、構えたままぐるっと自分の周囲を見た。
あたりは静かだった。日雀《ひがら》が朗かな声で鳴き交《かわ》し、蝉の子はジーッと唸《うな》り、そして微風は木の葉をそよがせてかすかな音を立てていた。彼は構えた手が顫《ふる》えるのを感じた。もし僕がこの引金を引けば、その瞬間に一切のものがこの一発の銃声に支配されるだろう。鳥は飛び立ち、蝉は鳴きやみ、風もまた吹くのをやめるだろう。僕がこの人差指にちょっと力を入れさえすれば。しかし何を狙《ねら》うのか。ただ無闇《むやみ》とぶっ放すだけでは物足りないような気がする。彼は手を休めてだらんと垂《た》らした。何を撃とうかと考えながらあたりを物色した。
偶然が彼に飛んでもなくうってつけの獲物を教えた。ほんの側《そば》の背の高い赤松の樹を見上げた時に、そのひょろ高い樹の幹に、彼は一羽の啄木鳥《きつつき》が垂直にとまっているのを認めた。腹のあたりが赤かったからきっと|あかげら《ヽヽヽヽ》なんだろう。キョッキョッと鳴きながら(そういえばさっきからその声が聞えていたのを思い出した)、幹を伝わって跳《は》ねるようにすいすいと攀《よ》じ登って行く。と、てっぺんまで登るとひらりと舞い下りて来て、またキョッキョッと鳴きながら同じ動作を繰返す。よし、あれにきめた。
謙二は右手を持ち上げ、左手でその肱をしっかりと支えた。何も啄木鳥を撃つ気はないんだから、たとえ当らなくても構わないんだ。絵を描く時にモデルが要《い》るように、ピストルを撃つ時には目標が要るというだけのことだ。
拳銃は高く持ち上った。鳥の動作につれてそれは少しずつ動いた。今だ、指がぐっと引金を握りしめた。
猛烈な音がして、反動で身体が思わず倒れそうになった。凄《すご》い、と叫んだ。
しかし偶然は更に驚くべき作用をした。松の幹から、その啄木鳥が音を立ててばさっと草の上に落ちて来た。彼の撃った弾丸が命中したらしい。木霊《こだま》よりも早く、その鳥は彼のすぐ側に落ちた。
「ああっ。」
謙二のその声は鳥の悲鳴のように迸《ほとばし》り出た。次の瞬間彼は拳銃を手から滑《すべ》り落し、その拳銃も、獲物も、バスケットも、水筒も、すべてを置き忘れたまま、後をも見ずに逸散に走り出していた。
10
麻生教授が留学記念と書かれた紙の貼《は》ってあるモザイクの箱を取り出す気になったのは、三沢さんに何か贈物をしようと思い立ったからだった。教授はこのところ多忙で贈物を探《さが》しに町へ行くだけの時間がなかった。しかし三沢さんと結婚するつもりになり、彼女の方もそれを承諾し、二人の間だけでもこうした約束が取り交《かわ》された以上、何か特に記念になるものを彼女に贈りたいと思った。そして彼は気がせくままに、久しく忘れていた、そしてそのことを思い出さないように無意識に努めていた、このモザイクの箱に思い当った。
彼はあちらこちら探し廻り、やっと天袋の中に目的のものを見つけ出した。この中にあるのは青春の形見のようなもの、とうに役に立たなくなったものだ。しかし何かしら若い娘を悦ばせるようなものがそこに見つかるかもしれない。箱はスタンドの灯に照されて机の上に据えられた。しかし鍵《かぎ》は果して何処《どこ》にあったやら。彼は考え込み、それからためしに蓋《ふた》を明けてみた。蓋はすぐに明いた。
そのことを疑うよりも早く、教授は中の品物を一つ一つ取り出していた。細々《こまごま》とした品物が、古びた時間の中から幾つも甦《よみがえ》って来た。若い娘の気に入りそうな人形とかメダルとか蝋燭立《ろうそくたて》とか宝石の細工物とかが現れた。それと同時に坂の多いオクスフォードの石甃《いしだたみ》の道が、蔦《つた》の絡《から》まった教会堂が、チャペルの鐘の音が、ゴチック式の塔が、古い酒場の看板が、蒼白《あおじろ》い光を漂わせた街路燈が、彼の眼の前に浮び、彼の耳許《みみもと》に響いた。早口の綺麗《きれい》な英語を喋《しやべ》るイギリス娘の声が、チャペルの鐘の音に重なり合い、その金髪が奇妙な笠《かさ》をかぶった街路燈の淡い光の中にきらきらと光った。彼は暫《しばら》くの間|茫然《ぼうぜん》として現実を忘れていた。どの一つの品物も、はにかみ屋で臆病《おくびよう》だったその頃の彼の自画像を、初めは愉《たの》しく後には苦しかった彼の恋愛を、彼の魂の状態を、示さないものはなかった。そして彼は溜息《ためいき》をついて現実に復《かえ》り、三沢さんのためにどれか一つ品物を選ぼうとした。
教授が気がついたのはその時だった。最も秘密の品、最も彼が忘れ去りたいと望んでいた品、それがなかった。拳銃《けんじゆう》もなく弾丸を入れた黄色い麻袋もなかった。彼は箱の中のすべての品物を机の上に取り出した。記憶違いで他の場所に入れたのではないかと思い、さんざん考えた。しかしその拳銃こそ、留学記念の名にふさわしい最も重要な、最も不吉な記念品として、絶対にこの中になければならなかった。
彼は大学を出てオクスフォードに留学した。その頃は彼の両親も存命で、心置きなく息子《むすこ》の外遊を許すだけに裕福でもあった。彼は異郷にあって勉学にいそしみ同時にまたよく遊んだ。若いイギリス娘との恋愛も、初めはのんきな附き合いにすぎなかったのに、いつしか真剣な悲劇的なものに変っていた。彼は苦しみ抜き、遂《つい》には自殺しようとまで決心した。彼がそれを実行しなかったのは、年老いた両親が日本で待っていることを思い出したためだったのか、それとも結局は彼が臆病で卑怯《ひきよう》だったということなのか。彼は幾度か拳銃を握りしめ、その度《たび》にそれを放り出し、ベッドの上に倒れて泣いた。彼は彼の外遊の記念物を、実らなかった恋愛の記念物を、そして彼の敗北の記念物を、モザイクの箱に詰め込んで日本に帰って来た。彼は平凡な見合結婚をした。しかしこの留学の三年間に彼の人生観は変ってしまった。
もしあの時に死んでいたら、と彼は空想した。そうしたら彼は結婚もせず、子供たちも生れず、ただ浅い穴を掘ったというだけで、それを埋めることにも気がつかなかっただろう。しかしそれでもよかったのだ。それもまた一つの充実した人生だった筈《はず》だ。死んだ方がよかったのか生きている方がよかったのか、それは誰にも分らない……。
麻生氏は自分に復り、空《から》っぽの箱と机の上にひろげられたくさぐさの品物とを眺《なが》めて、現実的な不吉な空想におびやかされた。舜一のしたことではないかと疑った。この頃の舜一の何を考えているのか分らない暗い表情、沈んだ眼つき、重い口ぶり、そうしたものが一時に思い合された。彼はすぐにも舜一を呼びつけて問いただすつもりで、出した品物を大急ぎで箱の中に片づけ始めた。そしてふと、これは舜一ではない、謙二かもしれないと思いついた。謙二はこの前私が出掛けたあとで、この部屋にはいったかもしれない。この箱を見つけ出し、鍵を明け、ピストルを発見して、面白半分に別荘に持って行ったかもしれない。子供を疑うのは親として恥ずかしいが、しかし面白半分にいじり廻せば……。
面白半分に? そこで教授の想像ははたと止り、それからめまぐるしく廻転した。ひょっとすれば。そうだ、ひょっとして謙二が死ぬ気でないと誰が言えよう。最も危険な年頃の子供、母親のない内攻性の子供、その子供に、父親が再婚したいという深刻な事情を伝えたばかりなのだ。
教授は机の上に手をつき、それから椅子の上に崩《くず》れるように腰を下した。彼は今まざまざと先日の晩の謙二の寝言を思い出した。母ちゃん、母ちゃん。そして同時に三沢さんの凍りついたような表情をも。謙二は三沢さんが好きでも嫌《きら》いでもないと言った。我々の結婚をどうでもいいやと言った。そういう言葉の裏には、あの子が亡《な》くなった母親を今でも思いつめ、この新しい状況に死ぬほどのショックを受けたことが、裏返しになって隠されているのかもしれない。まさかそれ程のことはないと思うが……。
麻生教授は今二つの選択を迫られている自分を感じた。三沢さんと結婚するか、それとも謙二のためにそれを諦《あきら》めるか。もしこの結婚が息子の死を招くようなことがあったら、それはとうてい許せない。息子を不幸にするようなことは出来ない。
彼の眼の前に深淵《しんえん》があり、そこに落ち窪《くぼ》んだ眼つきをした自分の顔が浮んでいた。彼は三沢さんを愛していることを今やはっきりと暁《さと》った。もし自分が三沢さんと結婚できなければ、この後の生涯は黴《かび》くさい書斎と埃《ほこり》っぽい教室との間の空《むな》しい往復にすぎないだろう。自分に与えられた唯《ただ》一度のチャンスなのだ。しかし彼はまた、小さい息子をも深く愛していたのだ。
教授は決心した。想像を玩《もてあそ》んだところでしかたがない。まず確かめることだ。彼は急いで二階へ行き、舜一を書斎へと伴って来た。舜一は蒼い顔をしていた。
「お前この箱を明けたことはないかい?」
「いいえ。」
「この箱の中に実はむかし私が手に入れたピストルがはいっていたのだが。」
「さあ知りません。」
ピストルと聞いた時舜一の顔は一層蒼くなった。しかし嘘《うそ》をついている様子はなかった。
「そうか、やっぱりね。」
「一体どうしたんです、それがなくなったんですか?」
教授は手早く彼の臆測《おくそく》を説明した。
「そんなに気にすることはありませんよ、お父さん。謙二の奴《やつ》、面白そうだからちょっと拝借して行っただけですよ。」
「しかし実弾も一緒なのだ。」
沈黙が落ちた。舜一の眼がきらりと光った。
「それじゃ明日の朝、僕が向うへ行ってみましょう。お父さんは忙しいんでしょう?」
「そうしてくれると有難い。私も行きたいが明日の学会はどうしても欠席できないから。」
「なにお父さんが行ったらあいつがびっくりする。僕がうまく言ってやります。」
教授は放心したように何度も頷《うなず》いた。そう頷くことで、謙二が少しでも危険から遠ざかることが出来るかのように。
11
謙二はまた昨日と同じ場所に来ていた。
三沢さんになぜバスケットと水筒とを置き忘れて来たのか、その説明をするのが骨だった。びっくりしたからだとでも言えば、何に驚いたのかを言わなければならない。そして実際にそれがなぜだったのか、なぜ飛ぶように逃げ帰って来たのか、自分でもうまく説明が出来ない。拳銃の発射が予想した以上の轟音《ごうおん》を発したためか、啄木鳥《きつつき》が転《ころ》げ落ちて来たためか。とにかくその時は何かが怖《こわ》かったのだが、別荘まで帰り着いてみると綺麗に忘れてしまっていた。それで今日、とにかく何とか三沢さんを説き伏せて、お昼御飯を早めにしてもらって、また昨日の場所へ舞い戻った。三沢さんにその場所を説明し、近いんだから直に戻る、一人でも大丈夫、と昨日と同じようなことを言い、今日はおやつなしで出発した。とにかく一刻も早く大事な品物を取り返さなくちゃならない。
拳銃は林の中の草叢《くさむら》の上にちゃんと落ちていた。バスケットも弾丸のはいった黄色い袋ごと、辛夷《こぶし》の樹の根元にあった。そして赤松の幹のそばには|あかげら《ヽヽヽヽ》の屍《しかばね》が冷たくなっていた。謙二はその屍を両手の上にそっと抱きあげようとして、直に手を放した。それは何だか気味が悪かった。僕はお前を撃つ気じゃなかったんだよ、と彼は詫《わび》を言った。
彼は昨日と同じく辛夷の樹の蔭《かげ》に腰を下した。あとはもう帰るだけだ。此所《ここ》ですることはもう何もない。しかし彼はそこでいつまでもぼんやりしていた。
天気はやはりよく晴れ、微風が葉群《はむれ》をそよがせ、梢《こずえ》では日雀《ひがら》が鳴き交していた。しかし謙二にとって何かが昨日とは違っていた。彼は退屈だった。彼はもう風になることが出来なかった。風は彼の周囲を、彼と無関係に、吹き過ぎていた。別荘に戻って来てからの、いなお父さんの書斎でピストルを見つけ出した時からの、期待に充《み》ちた精神の昂揚感《こうようかん》は、昨日の一発を限りにゴム風船のようにしぼんでしまった。心の中は空虚で、何かが死んでしまったようだった。
なぜあんなにびっくりしたのだろう、と彼はまた考えた。そして意外にとっさにその答に思い当った。それはあの撃たれた鳥が、撃たれた瞬間に、石になってしまったからだ。それまでは僕は風の中にいた。僕の魂は無限にひろがって、風も、樹も、草も、鳥も、蝉も、みんな僕の魂の中にはいって来た。風は僕だったし、鳥も僕だった。それが不意に、みんな石になってしまったのだ。あの啄木鳥は石になって樹の幹から転《ころが》り落ちて来た。それを見た僕も、今にも石になりそうだった。だから僕は怖くなって、一目散に逃げ出したのだ。
「僕はもう風にはなれないだろう。」
悲しそうに彼はそう呟いた。ごろりと草叢に寝ころび、幾重にも重なった葉群が濃く暗く緑を透き通らせているのを眺めていた。それから起き上り、バスケットの中にしまおうとして拳銃を取り上げた。それは焔硝《えんしよう》くさい臭《にお》いがした。彼は弾倉を開いてそれをくるくると廻してみた。
その時、一つの思いつきが彼の心に浮んだ。そういう思いつきが浮ぶというのも、彼が退屈していた証拠に違いない。しかしそれは暇潰《ひまつぶ》しというにはあまりにもぞっとするほど面白い考えだった。
彼は黄色い袋を開き、一発だけ弾丸を取り出し、それを弾倉の一つに填《つ》めた。あとの五つの弾倉はからのままだ。それから銃身をもとに直し、くるくると弾倉を廻転させた。絶対公平でなければならない。不正があってはならない。彼は丹念に、幾度も幾度も、それを廻した。要するに、この六発のうちの一発だけが実弾なのだ。賭《かけ》は六分の一だ。
それは「賭」だった。まさに彼の退屈の所産だった。彼は亡《な》くなった母親が恋しかったわけでも、三沢さんが新しいお母さんになるのが不服だったわけでもない。そんなことはどうでもよかった。啄木鳥を撃ったことに罪を感じたわけでもない。それこそ本当に何でもなかった。ただ彼は途方もなく愉快な、謂《い》わば本格的な、賭を思いついたというだけだ。それはあらゆる条件を満足させた。賭は一人では成立しない、――相手は運命そのものだった。賭は損をするかもしれない、――まさに負ければ死ぬわけだ。賭は公平でなければならない、――五対一というのは少し分《ぶ》がいいかな。
万一の場合に死ぬのが怖いということは勿論《もちろん》あった。単なる無鉄砲ではなかった。死とは、恐らく、決定的に石になることだろう。冷たい固まりになって、物も言えず、手足も動かない状態が永遠に続くことだろう。それはぞっとするほど厭《いや》だ。しかしこの賭に勝てば、そこにはきっと風がある筈だ。僕の魂はまたのびのびとひろがって、自由に風の中にはいって行ける筈だ。死を恐れるようでは自由な人間とは言えない。僕が死を恐れるような人間かそうでないか、自由な人間かそうでないか、どっちにしたって試《ため》してみるだけのことはある。
謙二は拳銃を右手に握り、立ち上った。こういう時に坐っていて撃つものではないと知っていた。足が少しふらふらしたから、足幅を開いて、充分に踏まえた。そこでもう一度弾倉をくるくると廻転させた。六発のうちの一発だ。
彼は右手を持ち上げ、銃身の先を右の耳のところに当てた。それはやりにくくて、直角に耳に当てるためには拳銃を握った右手を少し遠ざける必要があった。準備は完了した。
彼は眼をつぶり、神経を右手の人差指に集注させた。
彼は引金を引いた。
12
「まあ舜一さん、どうして急にいらっしゃったの? さあお上んなさい。」
「謙二はいますか?」
びっくりしたせいか顔を赧《あか》らめている三沢さんに、玄関で靴も脱がずに舜一は単刀直入に訊《き》いた。
「謙二さんはついさっき山の方へ行きましたけど。謙二さんがどうかしたんですの?」
「いや、ちょっと会いたいものだから。それで行った場所は分っていますか?」
三沢さんは心配そうに顔を翳《かげ》らせ、山へ登るだらだら坂を小一時間も行った左側で、原っぱの尽きたあたりの落葉松《からまつ》と赤松との雑木林だとさっき謙二から聞いた通りを繰返した。
「昨日そこへ遊びに行って、おやつのバスケットを忘れて来たものだから、それを取りに行くと言ってきかなかったんですの。」
「じゃ昨日も行ったんですね。一人で?」
「ええ。一人で出しちゃいけなかったかしら?」
「いやいや、そういうわけじゃないんです。そう心配しないで下さい。ちょっと一走り行って来ます。」
「わたしも御一緒に参りましょう。」
「いや待っていて下さい。僕ひとりの方が足が早いから。」
「一体何があったんですの?」
三沢さんは気落ちしたような、怨《えん》じるような眼つきで舜一を見たが、舜一は心がせいていたので相手の気持までは考えなかった。
「帰ってから説明します。多分何でもないんですよ。親父の取越苦労が僕にうつっただけです。直に戻りますから。」
多分何でもない、そう自分に言い聞かせながら、足だけは奇妙に急いだ。春の終りの暖かい日射《ひざし》で、だらだら坂を登って行くにつれて薄すらと額に汗が滲《にじ》んだ。人騒がせな奴《やつ》だと思い、時々それでも銃声が聞えはしないかと耳を澄ませた。あたりは静かで、雲雀《ひばり》の鳴声に混って何処《どこ》か麓《ふもと》の方の遠くで汽車の響きがしていた。歩きながら、彼は次第に弟のことよりも自分たちのこと、自分と雪子と井口のことを考え始めていた。
今この瞬間にも井口は息を引き取りつつあるかもしれない。井口は幸福そうな微笑を浮べながら死ぬだろう。彼は最後の瞬間まで雪ちゃんに愛されていると思い、それを親友の僕が祝福していると思い込んで、その誤解の中にあって何一つ疑わず、人間の善意を信じながら死んで行くだろう。井口は確かに雪ちゃんを愛しているし、それは彼の自由だから僕の知ったことじゃない。僕は井口を嫉妬《しつと》しているわけじゃない。
しかし彼が愛されていると思うのは間違いなのだ、虚偽なのだ。雪ちゃんがそれを僕に誓うのだから。
しかしそれを信じていいのか。雪ちゃんは僕ひとりを昔もそして今も愛していて、井口へはただ同情からお芝居をしているだけだと、そう信じてもいいものか。人は芝居で愛することは出来ない。純粋に同情だけでその中に愛がないということはあり得ない。雪ちゃんがくよくよするなと言い、雪ちゃん自身は井口に対する同情と僕に対する愛とを割り切って考えていると言っても、僕はそれを信じる気にはなれない。少くとも僕にはそういうことは出来ない。雪ちゃんは愛しているのだ、井口も、僕も。たとえ井口が死んでも、二つに分裂した雪ちゃんの気持がもとに戻ることはあり得ないのだ……。
舜一は心が不吉な冷たさの中に沈んで行くのを感じた。井口はまだ死んだわけではない。それなのにまるでもう死人のように扱っている。井口は僕の一番の仲良しで、彼が生き続けることが出来るためならば、僕は何ひとつ惜しむべきではない筈《はず》なのに。そして舜一は、瀕死《ひんし》の友人の側《そば》を離れて、自分が今、こんな日当りのいい山道を歩いているのを不思議なことに感じた。
しかし謙二もまた、今頃死にかけているかもしれないのだ。
道は草原を過ぎて林の中にはいった。山雀《やまがら》や日雀《ひがら》が朗かに鳴いていて、風が涼しく頬《ほお》に吹きつけた。舜一は左手の林のなかを注意しながら道を歩いた。時々立ち止って、大声で弟の名を呼んだ。その度《たび》に小鳥が鳴きやみ、木霊《こだま》が返って来た。確かにそれが落葉松と赤松との混った雑木林だと分ると、舜一は道をそれて林の中へはいって行った。
林といっても若草の茂る原に樹はまばらに生《は》えていて、割合に見通しはよかった。舜一は道から離れないようにしながら草を踏んで歩いた。時々、弟の名を呼んだ。心の中では謙二が拳銃《けんじゆう》を持ち出したのはほんの遊び半分だと思っていたから、こんもりと茂った樹の蔭《かげ》に、ぐんにゃりと倒れている人間を(それが謙二であることは直観的に分った)認めた時には、足がよろめき、心臓がぎゅっと引締った。
舜一はすぐに駈《か》け出した。駈け出してから謙二の肩に手を掛けるまでの間、思考にならない思考、映像にならない映像が、素晴らしい早さで廻転した。謙二が死ぬなんてそんな筈はない。何もかも間違っている、何もかも嘘《うそ》だ、と心の中で叫び続けた。
彼は謙二の身体《からだ》をその肩を持ってぐいと抱き起した。
その瞬間、謙二は眼を開いたようだった。
「兄ちゃん、」と声を出した。
舜一は尚《なお》も弟の身体を揺すぶり続けた。見たところ何処にも傷らしいものはなかった。謙二は眼をぱちぱちさせ、ひょろひょろと起き上った。
「兄ちゃん、どうして此所《ここ》にいるの?」
「おい気がついたか、一体どうしたんだ?」
「本当に僕どうしたんだろう?」
舜一は二人の足許《あしもと》のすぐ側に拳銃が落ちているのに気づいた。それを取り上げた時、謙二が我に復《かえ》ったような声で叫んだ。
「兄ちゃん危いよ。それ弾丸《たま》がはいっているよ、多分。」
舜一は急いで弾倉を開いてみた。確かに一発だけ弾丸がはいっていた。彼はそれを抜き取ってポケットにしまった。
「まあ此所にお坐り。一体どうしたんだか兄さんに話してくれよ。」
「それがね、僕にもよく分らないんだよ。」
二人は辛夷《こぶし》の樹の根元に仲良く並んで坐った。林の中では蝉《せみ》の子が一斉に鳴き始めていた。
「僕ね、引金を引いたとたんにきっと気絶しちまったんだね。あんまり緊張したもんだから、本当に弾丸が出たと思ったのかしらん?」
「しかし弾丸ははいっていたんだろう?」
「うん、でも一発だけだし、その一発が必ず飛び出すとは限っていないんだ。僕は賭《かけ》をやっていたんだ。」
「賭だって?」
「そうだよ、賭だよ。」
「誰と?」
「そりゃ何て言うかな、運命って言うかな、分るだろう、兄さん。」
舜一は笑い出した。その笑い声は少し気違いじみていた。
「そんなにおかしなことじゃないよ、」と謙二は抗議した。
「御免御免、もうちっと詳しく説明してくれないかな。笑ったのは兄さんが悪かった。」
謙二が父の書斎から拳銃を無断借用して来たことや、昨日偶然に啄木鳥《きつつき》を撃ってしまったことなどを話して聞かせている間に、舜一は運命という言葉について考えていた。運命は一度や二度は勝を譲ってくれるだろう、それも弟のようなまだ年端《としは》も行かない無邪気な少年に対しては。しかし三度目には、運命は決して容赦をしないだろう。挑戦して来た人間を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に叩《たた》き潰《つぶ》すだろう。
「その鳥はどうしたんだい?」
「そこにいるよ。僕気味が悪くて。」
舜一は立って指《ゆび》さされた松のところへ行き、両手に乗るほどの鳥の屍《しかばね》を調べてみた。腹のあたりの羽は赤かったので血はあまり目立たなかった。彼はそれを草の上にそっとおろした。
「この鳥を埋葬してやろうじゃないか。このままじゃ可哀《かわい》そうだろう?」
「うん。」
「こいつはお前の身代りかもしれないよ。」
地面を掘る道具がなかったので、二人は木の小枝を取って来てせっせと赤松の根元を掘り始めた。草の下には小石が多く、脆弱《ぜいじやく》な木の枝では仕事はなかなか捗取《はかど》らなかったが、謙二は汗をかきながら熱心に掘り続けた。
「さあもういいだろう、」と兄が言った。
彼はあたりの草をちぎり取って穴の中に褥《しとね》をつくり、その上に啄木鳥の屍を乗せた。その上にまた草をちぎって投げ入れた。弟もそれに倣《なら》い、それから二人して掘っただけの土を穴の中に埋めた。そこが平かになるまで両手で抑《おさ》えつけた。舜一は近くから手頃の石を取って来て、その墓の上に置いた。
「兄さん、石はやめてよ。」
「どうして?」
「どうしてって、僕は石は嫌《きら》いさ。」
舜一は逆らわずにその石を遠くへ投げた。弟は汚れた両手の掌《てのひら》をこすり合せながら、このままの方がいいや、と言った。二人はまた辛夷《こぶし》の樹のところへ戻り、舜一がバスケットの中に拳銃をしまった。
「これは僕が預って行くけどいいね?」
「うん。」
「お父さんがとても心配したんだぞ。」
「僕お父さんに叱《しか》られるね、黙って持って来たんだから?」
「お目玉を食うさ。覚悟してろよ。」
二人は一緒に笑い、あたりを見廻して忘れ物がないかどうかを確かめた。弟が肩から水筒を下げ兄がバスケットを持って、もとの道の方へ戻った。
「それじゃお前は全然死ぬ気なんかなかったんだね?」と兄が訊《き》いた。
「なかったよ。」
けろりとしているのが面憎《つらにく》いようだった。
「お前はお父さんから、お父さんが三沢さんと結婚するって話を聞いたんだろう?」
「うん、うちの人になってもらうって。」
「どうでもいいって言ったんだって?」
「うん。だって僕がおめでとうなんて言ったら、お父さんきっと生意気だって怒るよ。」
「それじゃ厭じゃないんだね、三沢さんがお父さんと結婚するの?」
「厭じゃないさ。どうでもいいんだよ、僕には。」
暫《しばら》く坂道をくだって行ったあとで、謙二がまた言った。
「でもね、どうせうちの人になるんなら、僕は雪ちゃんの方がいいな。」
舜一は答えなかった。
「僕ね、雪ちゃんが兄さんのお嫁さんになってうちの人になってくれる方がずっと嬉《うれ》しいよ。そりゃ三沢さんだっていい人だけど、雪ちゃんの方がずっといいもの。」
舜一は答えなかった。彼は今こう考えていた。井口は死ぬだろう。しかし井口が死んでも、雪ちゃんの心の中の微妙に変化したもの、虚偽によって生れ今やしっかりと根を張ってしまったものは、もう決して消えてしまいはしないだろう。僕と雪ちゃんとがどんなに愛し合い、結婚したところで、井口の幻はいつでも二人に附き纏《まと》い、二人の心の中に住み、あの善良な、あの幸福そうな微笑で、二人の心に暗い翳《かげ》を落すだろう。
「しかし僕は雪ちゃんとは結婚できないよ、」と舜一は答えた。
「でもね兄さん、兄ちゃん、兄ちゃんは雪ちゃんが好きだろう?」
その質問は彼の傷口に触れた。
「ね、好きだろう?」と弟は繰返した。
「ああ好きだよ。」
弟は嬉しげに叫んだ。
「僕も好きだよ。僕も雪ちゃんが大好きさ。だって雪ちゃんは亡《な》くなった母ちゃんに似ているもの。」
雲雀《ひばり》の鳴いている晩春の高原を、二人の兄弟は次第に村の方へと下りて行った。
★この作品は昭和三十五年七月『廃市』と題されて
新潮社より刊行されたものに三篇を加えて、
昭和四十六年六月新潮文庫版が刊行された。