終戦のローレライ(下)
福井晴敏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大湊《おおみなと》三吉《さんきち》は思いきり
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)〈|伊507《イゴマルナナ》〉問題に関して、
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ドイツ語のウムラウトは:で、エスツェットはssで代用した。
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主要登場人物
絹見《まさみ》真一 戦利潜水艦〈伊507〉艦長。日本海軍少佐。43歳。
高須成美 同艦先任将校兼水雷長。大尉。36歳。
田口徳太郎 同艦掌砲長。兵曹長。42歳。
折笠|征人《ゆきと》 同艦乗務員。上等工作兵。17歳。
清永喜久雄 同艦乗務員。上等工作兵。17歳。
岩村七五郎 同艦機関長。機関大尉。51歳。
木崎茂房 同艦航海長。大尉。37歳。
小松秀彦 同艦甲板士官。少尉。24歳。
時岡 纏《まとい》 同艦軍医長。軍医大尉。38歳。
フリッツ・
S・エブナー 元ドイツ親衛隊士官。21歳。
ジェフリー・
ワイズ 米海軍情報部中佐。38歳。
ダニエル・
ボケット 米海軍准将。第三八任務部隊特別混成群司令。53歳。
マーティン・
オブライエン 米空母〈タイコンデロガ〉艦長。48歳。
おケイ 広島の料亭の内芸者。30歳。
大湊三吉 軍令部第三部第五課長。大佐。45歳。
中村政之助 海軍大尉。35歳。
天本徹二 海軍少尉。24歳。
土谷 佑 海軍技術中佐。38歳。
鹿島惣吉 ウェーク島根拠地隊司令。大佐。47歳。
浅倉良橘 軍令部第一部第一課長。大佐。45歳。
米内光政 海軍大臣。65歳。
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第 四 章
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1
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玄関を出ると、真夏の暴力的な日差しが正面から振りかかり、寝不足の目を痛ませた。大湊《おおみなと》三吉《さんきち》は思いきり顔をしかめ、軍帽の鍔《つば》を心持ち前に傾けて歩き始めた。
半年前の空襲で向かいの家屋が焼け、影になるものがなくなってからは、朝陽が直接玄関に差し込んでくるようになった。昭和二十年、八月五日。町が焼かれようが、国が滅びの淵《ふち》に立とうが、陽は関わりなく昇ってこの身を照らし続ける。感心半分、自嘲半分で内心に呟き、大湊は迎えのサイドカーが待っているはずの通りに向かった。
向丘の地名通り、高台の上にあるこのあたりからは、東京は本郷《ほんごう》の町並みを一望することができる。二月二十五日、二週間後の大空襲を予感させる大規模爆撃で焼き払われた本郷は、焼け焦げた瓦礫《がれき》の山も、露出した地面も、その合間を通る人も等しく真夏の太陽に炙《あぶ》られて、どこか白々と揺らめいて見えた。帝大の敷地内にある安田講堂の時計台だけが、ひどく平坦になった町にぽつんと突き立っており、無人の構内に長い影を落としているのが悲しかった。
ほとんど炭化した電柱が佇《たたず》む角を曲がり、蝉《せみ》の声を聞きながら坂を下る。送迎の車は玄関先まで回るのが普通だが、坂の多い入り組んだ通りにわざわざ来させる必要はないと思い、大湊は坂を下りきった大通りで待たせるようにしている。成り上がり将校の貧乏性と陰口を叩かれたのは二年前までで、石油の一滴は血の一滴≠ネどという標語が巷間《こうかん》に流布し、車の代わりにサイドカーが迎えに来る時勢になると、それらの声はぴたりと収まった。いつものように坂道を下り、大通りに出た大湊は、しかし常ならぬ光景をそこで目にして、しばし立ち止まってしまった。
サイドカーの陸王《りくおう》ではなく、黒塗りのベンツの脇に立って敬礼したのは、二種軍装の白い詰襟《つめえり》で身を固めた中村《なかむら》政之助《まさのすけ》大尉だった。柱島《はしらじま》の調査行以来、すっかり打ち解けた感のある部下の顔を眺め、最近では将官の送迎にのみ使われるベンツの車体を眺めた大湊は、答礼もそこそこ、「どういう風の吹き回しだ?」と口を開いた。
「空きの公用車がありましたので、お出迎えにあがりました」
口もとに微笑を浮かべ、眼鏡の下の目には一抹の緊張を漂わせた中村の顔を見て、大湊はなるほどと得心した。今日、軍令部でなにが話し合われ、なにが決まるかを知っていれば、中村も他人事とかまえてはいられない。ひとり敵地に乗り込むこちらの身を慮《おもんぱか》り、せめて車を回してくれたというわけか。
中村に鞄《かばん》を渡し、「昨夜は泊まり込みだったのだろう? さっさと帰って寝ればいいものを」と言いながらも、思いがけず人の情に触れられた嬉しさは隠しがたく、大湊は相好《そうごう》を崩したまま後部座席に乗り込んだ。続いて中村も運転席に収まり、ベンツは重い排気音を噴《ふ》かして粉塵《ふんじん》の堆積《たいせき》する道路を走り始めた。
本郷通りから日比谷通りに入り、皇居を右手に見ながら直進すれば、軍令部のある霞ケ関《かすみがせき》までは十分と少しで行ける。市電の線路は爆撃でところどころ寸断され、通るものと言えば軍用のトラックか、荷物を山盛りにした大八車《だいはちぐるま》しかない。ベンツが走るには寂しすぎる道路に目をやるうち、再び鬱々《うつうつ》とした気分に襲われた大湊は、「庶務がよく許したもんだな」と努めて明るい声を出し、清掃の行き届いた車内に視線を戻した。
「総長も列席される重要会議の資料を運搬すると申告しましたら、あっさり貸してくれました」
中村は飄々《ひょうひょう》と言う。大湊は「物は言いようだな」と苦笑した。
「事実でありましょう? 例の調査書類、昨夜も自宅にお持ちになっていたのですから」
助手席に置いた鞄をちらと見てから、中村は室内鏡ごしの視線を大湊に寄越した。帰京して五日、柱島で収集した調査資料を肌身離さず持ち歩いでいるのは、勤務時間だけでは足らず、帰宅してからも報告書を書く必要があってのことだが、そればかりではない。浅倉《あさくら》の失踪と〈|伊507《イゴマルナナ》〉問題に関して、軍令部は明らかに興味を失っており、追跡調査を訴える大湊への風当たりは日に日に強くなっている。うっかり調査資料を置き去りにしようものなら、意図的な紛失事故さえ起こりかねない空気が部内にはめった。
各地の敵性外国人収容所に特別扱い≠ナ分散収容された〈UF4〉の乗員たちへの接見も、一言のもとに却下された。当初から真相追究に乗り気ではなく、適当なところで茶を濁《にご》すつもりでいた軍令部にとって、大湊がかき集めた調査結果が予想外の脅威になったのだろうことは想像にかたくない。こちらにとっては予想通りの反応で、自粛《じしゅく》を促す部課長らの横槍《よこやり》を風と受け流し、軍令部総長を上座に置く今日の報告会議を目前にしたわけだが、多勢に無勢の現実が簡単に覆《くつがえ》るとは思えなかった。
行きがかり上とはいえ、無勢の側についた中村もそれは承知している。大湊は、「重要になるかどうかは、今日の会議次第だがな」と言っておいた。
「重要になってもらわなくては困ります。我々だって伊達《だて》や酔狂で一週間も柱島にこもっていたわけでは……」
急ブレーキの音とともにベンツの車体ががくんと揺れ、続く言葉を打ち消した。路地から不意に飛び出してきた大八車が、ベンツの行く手を塞《ふさ》いだのだった。中村が警笛を鳴らすと、焼け焦げた木片を満載した大八車が少しうしろに傾き、国民帽を斜にかぶった引き手の男がじろりと睨《にら》む目を向けた。
生気がまったく感じられない二つの眼がこちらを直視し、謝るでもなく、文句を言うでもなく、卑屈に腰を屈めてその場から退散してゆく。焼け跡から燃料用の木材を拾い集めてきたのだろう。最近では、燃料の炭や薪《まき》の配給も乏しくなってきている。窮乏を極めた人間が最初に失うのは、自尊心と礼節の心、か。再び走り出した車の中、大湊は「人心も荒廃の極みか」と独りごちた。
「東条《とうじょう》内閣が倒れて以来、国民の目も変わりましたからね。これまでの締めつけの反動と言うべきか……。報道を規制したぐらいで、どうにかなるものではありません」
「この光景を見れば、それはそうなるな」
かつての華やかさは微塵《みじん》もなく、見渡す限りの焼け野原と化した銀座に視線を注いで、大湊はため息混じりに応じた。国民ははっきり敗戦の二文字を読み取っている。敗け方を知らない軍部より先に、敗北を受け入れる心構えもできているのかもしれない。
ポツダム宣言に対する政府の対応は、実際お粗末なものだった。新聞に発表された黙殺する≠ニの見解は、断固拒否の声明を発表しなければ士気に関わると訴える軍部と、戦争継続が不可能になった国情との間で板挟みになった鈴木内閣が、苦し紛《まぎ》れに吐いた中庸《ちゅうよう》の弁だが、欧米人にそのあたりの微妙な感覚が伝わるとは思えない。黙殺は無視、すなわち否定、拒絶と翻訳され、日本に対する心証を決定づける言葉となって世界に発信される。
迅速かつ十分なる壊滅≠ェもたらされる日は近い。巨大な廃材置き場となった銀座から目を逸らし、大湊は陽光を映してきらめくお堀と、その向こうの皇居を見遣《みや》った。この五月の空襲で多少の焼夷弾を浴びたとはいえ、宮城《きゅうじょう》は以前と変わらない豊かな緑に包まれている。東京で唯一、被害を受けていない場所がここだが、迅速かつ十分なる壊滅≠ニいう言葉には、この緑さえ消し去ってしまうような無慈悲な響きがあった。
「ご気分でも?」
中村の声で我に返り、室内鏡に目をやると、信じられないほど青ざめた自分の顔がそこに映っていた。「いや……」と言葉を濁し、大湊は額を濡らす嫌な汗を拭《ぬぐ》った。
「軍令部の一課長ともあろう者が、戦利潜水艦を勝手に出撃させた挙句、艦ともども行方不明……。できる限り内部処理に収めたとしても、部が本腰をあげて調査を開始すれば、事件は否応なく外部に漏れ伝わる。また軍の評判を落とす結果にしかならんのではないかと、気になってな」
「だからこそですよ。国民が不信感を抱き始めているからこそ、部内で起こった問題はきっちり裁いて、公明正大な軍を証明する必要があります。戦局がどうであれ、自分は最後まで戦う覚悟を固めていますし、帝海の将兵の大部分もそれは同じです。自分たちが命を預けた組織が、自己総括もできないというのでは情けなさすぎます。それは国民を裏切り、前線で苦労している兵たちを裏切る行為です。靖国《やすくに》の英霊たちにも顔向けができません」
久しぶりにまっとうな正論を聞かされて、腑抜《ふぬ》けた頭に喝《かつ》を入れられた思いだった。どんな状況であっても、若く健《すこ》やかな精神は絶えず希望を見出し、前に進むことだけを考えようとする。大湊は、「そうだったな……」と応えた。
「自分は、引き続き通信隊の方を探ってみます。大和田《おおわだ》に詰めてる後輩から聞いたんですが、ここ最近、一部無電にストリップ方式に似た暗号が使われてるらしいんです」
こちらの心情を知ってか知らずか、中村は実務面の話を持ち出してきた。自重を促した大湊の言葉も馬耳東風《ばじとうふう》で、中村は帰京してからも単独で調査を行っている。大湊は、「米軍が使ってるあれか。解読に成功したという話は聞いてないが」と相手をした。
「数学者や語学者が総がかりで、三年研究しても解けなかった暗号方式ですからね。そう簡単に解読できたとも思えませんが……。仮に研究班の誰かが解読の糸口をつかんだとして、報告せずに黙っていたとしたら、内密の通信を行うのに格好の道具になるとは思いませんか?」
日本の海外通信の発受信は、すべて埼玉にある大和田通信隊で賄われている。外洋に出た〈伊507〉と連絡を取ろうとすれば、そこを使う以外に方法はない。
「〈伊507〉への無電連絡に使われているということか?」
「確証はありませんが。柱島に残った関係者の証言を聞く限り、浅倉大佐が直接〈伊507〉に乗り込んだとは思えません。となれば、外部から連絡を取り合うなんらかの手段を講じているはずです。事前にどんな因果を含まされていたにしても、出撃したらそれっきり音信不通なんて話はあり得ませんから」
「しかし未登用の暗号方式で無電を打てば、却って周囲の不審を買うだろう。記録だって残る」
「通信隊の参謀あたりが謀議に与《くみ》していれば、記録の粉飾はそう難しい話ではないでしょう。外国語専攻の予備学生はとっくの昔に戦地に送られて、いまは女子学生が無電の傍受と発信を手伝わされていると聞きます。参謀の立場なら、なにも知らない俄《にわ》か通信兵を抱き込み、他言無用を念押しして発信を行わせることも……」
「なるほど。灯台もと暗しか」
想像以上に根深い事件への戦慄《せんりつ》は隠して、大湊は平静を装った声で言った。「いくら浅倉大佐でも、念力で〈伊507〉と通信するわけにはいかないでしょうからね」と続けた中村は、他の可能性はないと確信している声だった。
「脈はあるのか?」
「後輩に目を光らせるよう言ってあります。こっちでも通信隊にいる参謀の経歴を洗ってますから、二、三日中にはもっとはっきりしたことがわかると思います」
危険だ。単に中村の考課に傷がつくというだけではない、もっと実際的な不安が渦を巻いたが、なぜそう思ったのかはわからなかった。まっとうな正論を聞かされた後では制止の言葉も思いつかず、大湊は「ん。慎重にな」と言い、革張りの座席に身を預けるしかなかった。
どだい、今日の報告会議の結果|如何《いかん》で状況も変わってくる。いまはやれることをひとつひとつやってゆくだけだと思い、大湊は目を閉じた。中村ほどの若さと熱意はなくても、浅倉という男を他人よりよく知る自分には、今回の事態に対する、ほとんど恐怖に近い危機感がある。柱島で調査に費やした一週間、帰京して報告書をまとめ上げた五日間は、それを再確認する作業に他ならなかった。
この思いを率直に伝えれば、あるいは泰山《たいざん》も動くかもしれない――。そんなことを徒然《つれづれ》に考えるうち、ベンツは内堀通りを抜けて霞ケ関に入った。
海軍省の赤煉瓦《あかれんが》の建物の一画、三階の西側一帯が軍令部にあてがわれている。天皇の統帥《とうすい》大権を輔弼《ほひつ》し、帝国海軍の軍令を司《つかさど》る機関の居城にしては、ひどく手狭な場所だ。車寄せに停車したベンツから降り、調査資料の詰まった鞄を中村から受け取った大湊は、海軍省の玄関をくぐろうとしたところで、カチカチという懐《なつ》かしい音を耳にした。
厄《やく》よけの火打石。妻が子供をつれて実家に疎開《そかい》してからは、とんと聞かなくなった音だった。振り返り、両手に火打石を持った中村を見つめた大湊は、「女房から借りてきたんです」と言った中村の声を、呆気《あっけ》に取られた顔で聞いた。
「疎開中の奥様になり代わりまして、ご武運をお祈り申し上げます」
眼鏡面に少年のような笑みを浮かべて、中村は踵《かかと》をそろえた。気恥しいやら、ありがたいやらの複雑な気分を味わった大湊は、「借り物の多い朝だな」と苦笑して中村に背を向けた。
最敬礼で迎えた警衛に答礼しつつ、玄関をくぐる。正面の階段を昇れば、魑魅魍魎《ちみもうりょう》が待ち受ける軍令部はすぐだった。
海軍省の建物に間借りしている身とはいえ、軍令部は海軍省の傘下《さんか》組織というわけではない。海軍省は軍政、すなわち軍の編制と維持管理を司り、軍令部は文字通り軍令、すなわち軍の指揮運用を司る。どちらが上位ということはなく、帝国海軍の組織機構における両者の関係は、あくまでも並列だ。
実際には、軍政と軍令の境界線は明確に区切れるものではなく、本来なら軍令部が司るべき統帥権――実戦部隊の指揮運用に、海軍省の長である海軍大臣が関わることも少なくない。その道はあり得ないという意味では、軍令部は海軍省より劣位にあると言えたが、作戦の指導要綱を取り決め、海軍全将兵の命運を直接的に左右する力は、厳然として軍令部にある。その力を体現する幹部が一堂に会し、重い空気を張り詰めさせる作戦会議室で、大湊はひと通りの調査報告を終えた。
部屋の大半を占める長机を取り囲み、報告書の写しを前にする将校たちの数は十七人。上座に軍令部総長を務める大川内《おおこうち》大将がつき、次長の富岡中将、第一部長の長谷川少将を始めとする第二、第三、第四部の各部長、さらに第一課から第十課までの各課長が階位順に並ぶ。第五課長の大湊は報告者として下座につき、それぞれ腕を組み、頭を抱え、報告書をめくり直す軍令部幹部たちの姿に、観察の目を注いでいた。
軍令部の権限は作戦指導に限られ、実際の用兵は連合艦隊司令長官を長に置く海軍総隊が行う。浅倉はその段取りをすっ飛ばし、軍令部の直接命令という形で〈伊507〉を出撃させたわけだが、これは果たして単独でなし得る行為であるのか――。大湊が投じた一石が化学反応を引き起こし、部課長らの能面には各々微妙な変化が生じている。眉根に皺《しわ》を寄せたしかめっ面は同じでも、軍令部全体、海軍全体の体面を一義とする富岡次長は、単に不快だという顔。浅倉の直接の上官であり、引責の二文字を視野に入れているらしい長谷川第一部長は、もっと深刻な表情を浅黒い肌に刻む。浅倉に代わって急きょ第一課長に補職された山口大佐は、まだ右も左もわからぬ頼りなさを落ち着かない視線に現し、その隣で額に当てた手を動かさない第二課長の財津大佐は、心持ち血の気の失せた顔を報告書に向けたままだ。
〈伊507〉の出撃に関与した各部署長の名簿の中に、縁のある将校の名を見つけたのだろう。かつての上官、部下、同期、縁戚関係者。海兵(海軍兵学校)出身であることが出世の条件となる海軍では、一定以上の地位に就く者は全員、なんらかの形で顔見知りになる。それが仲間意識を生み、場合によっては姻戚《いんせき》関係を生み、絶対的縦割り社会に横の繋がりを構築する。名簿に掲載された名前は、その者と関係の深い幹部にとっては爆弾となり、彼が浅倉の謀議に与したか否かの事実より、事実確認が行われるか否かが幹部たちの懸案事項になる。
いや――それどころか、この中にも浅倉に直接協力した者がいるかもしれない。灯火管制用の厚いカーテンが下ろされた会議室な見渡し、大湊はあらためて一同の顔ひとつひとつを注視した。これといった野心も出世欲も持たず、時の艦隊参謀の娘との見合いも辞して、下宿先で知り合ったいまの女房と結婚。人材の喪失《そうしつ》でやむなく軍令部に引き上げられただけで、エリート街道とは無縁な自分には想像の及ばないしがらみ、測り知れない重力がここにはある。
「つまり、浅倉大佐の目的は『断号作戦』の貫徹にあるというのが、貴官の意見か?」
沈黙を破り、富岡次長が重い口を開く。問題をはぐらかした上に、まったく見当外れなつまり=Bいったいなにを聞いていたんだといら立つ胸を抑え、大湊は「結諭するのは時期|尚早《しょうそう》であると申し上げました」と静かに応えた。
「確かに浅倉大佐の行動は、『断号作戦』の初期展開案をなぞったもののように見えます。長期行動を可能にする燃料と糧秣、補修整備に必要な資材と人材。〈伊507〉の出撃に要する物資が短期間で調達できたのも、これらがもともと作戦用に準備されていたからであります。しかし浅倉大佐は、肝心の乗務員については独自に選定をしている。作戦用に選抜された者を一部流用はしておりますが、艦長を始めとする将校全員と、兵曹以下の乗務員のほぼ半数を新規に選抜し直しているのです。単に『断号作戦』の再開を目論《もくろ》んだだけなのだとしたら、これは明らかにいらぬ手間です」
「作戦に完璧を期すために、大佐の目に適《かな》った者を選び直したのではないか?」
「それはあり得んでしょう。新規に召集された将兵は、なにかしら考課に問題がある者が多い。特に艦長の絹見《まさみ》少佐などは、一線を退いて長いロートル将校だ。満足に部隊の指揮を執れるかどうかも怪しい」
軍備・動員計画を担当する第二部長が口を挟む。退いたのではなく、退かされたのだ。帝海に蔓延《まんえん》するしがらみに搦《から》め取《と》られ、組織から排斥《はいせき》されていった男――絹見|真一《しんいち》少佐の履歴を思い返し、内心に修正した大湊は、「時期の問題もあります」と押しかぶせた。
「時期?」
「速やかにすぎるのです。〈UF4〉が、特殊探知兵器の譲渡《じょうと》と引き換えに、乗員の保護を申し出てきたのが五月十三日。ドイツが無条件降伏してから五日後のことです。ペナン経由で暗号無電を受け取り、我が方の潜水母艦が初めて〈UF4〉に接触したのが五月十八日。補給を施すとともに、特殊探知兵器の実在が確かめられた時点で、〈UF4〉の受け入れは正式に決定されました。そしてその特殊探知兵器、ローレライの特性を活かして、『断号作戦』が起案されたのが五月三十一日。聖上《おかみ》の裁可が下り、作戦準備が本格的に始まったのが六月六日。しかし〈UF4〉が五島列島沖にて米潜と会敵し、ローレライの器である特殊潜航艇〈ナーバル〉を喪失したとの報せが届くと、作戦は中止との決断が下されました。それが七月十五日。〈ナーバル〉喪失の一報が届いてから、わずか数時間後のことです」
「そんなことはわかっとる。なにが言いたいのか」
海外情報を所掌する第三部長、大湊の直接の上官に当たる源田少将が、将官の時間を無駄にするなとでも言いたげに顔をしかめる。大湊は無視して、「〈UF4〉が柱島に入港したのがその翌日」と続けた。
「本来は戦利潜水艦として第六艦像に編入され、修理と補給が済み次第、新乗務員の手で出撃する予定だった〈UF4〉……〈伊507〉は、艦籍登録もされずに柱島に放置された。ドイツ海軍の乗員の保護、艦の譲渡に関する最低限の引き継ぎは行われましたが、後は誰も目を向ける者もなく――」
「当たり前だ。『断号作戦』は、特殊探知兵器の能力を前提に起案されたもの。それを途中で落としてきたというのでは、話にもならん」
「ローレライのない〈伊507〉は、図体ばかり大きくて使い勝手の悪い旧式の潜水艦だ。人も物資も窮乏している帝海に面倒を見る余裕はない。人道上の問題がなければ、ドイツ海軍の連中ともども放り出していたところだ。今後、第三国に亡命させてやるにしても、それまでの世話はこちらで見るしかないのだからな」
軍令部の花形、作戦指導を所掌する第一部長であり、浅倉の直属の上官でもある長谷川少将が吐き捨てるように言う。人道上の問題ときたか。部下の不始末で引責辞任が確定した男の遠吠えとはいえ、あまりにも厚顔無恥な一部長の言動に大湊は呆れた。では〈UF4〉に最低限の補給しかせず、敵潜の包囲網を突破しなければならないよう仕向けて、ローレライの能力を測ろうとした行為には、人道上の問題はなかったのか?
「わたしが申し上げたいのは、浅倉大佐はわずか一日で謀議《ぼうぎ》を企《くわだ》て、実行に移しているのだということです。作戦中止命令が出た翌日、〈伊507〉が柱島に入港した七月十六日には、浅倉大佐の作成した命令書が各地に出回っている。ドイツ海軍の引き継ぎを受けた新乗務員の中には、彼の選定した将校がすでに混じっていたのです。『断号作戦』の書類を流用したにしても、一日ですべての準備が整えられたとは考えられない。浅倉大佐は、作戦中止命令が出る前から準備を進めてきたと見るのが自然です。『断号作戦』が中止になることを見越して、部内各所への根回しをひそかに推し進めていた。そして中止命令が出ると同時に、謀議に与する者たちに決起を促したと……」
「ちょっと待て。謀議に与する者たちというのはなんだ」
「〈伊507〉を出撃させたのは浅倉大佐の独断だ。他の者は、規定の事務処理に従って命令を下達させただけのはずだ」
まがりなりにも保たれてきた平静の被膜が破れ、色めき立った一同の視線が大湊を射る。いちばん口にしてはならない言葉を口走ってしまったと後悔したが、いまさら後に退けるものではなく、「それにしては、命令の伝達に不自然な点があります」と、大湊は動揺を押し殺した声で重ねた。
「ひとつの艦を出撃させるために、どれほどの人と金が動くかはご存じでありましょう。命令書が正規の書式に則《のっと》ったものであっても、軍令部を埒外《らちがい》にしてすべてが進むというのは異常です。各部署の責任者が意図的に隠しでもしない限り……」
「バカげとるよ。浅倉大佐が広範な人脈を持っていることは承知だが、しょせんは一軍人だ。そうそう彼に協力する将兵がいるとは信じられん」
「海軍全体の信用に関わる問題だ。推測で言っていいことではないぞ」
自分の尻にも火がつくとわかれば、幹部たちの抗弁はとどまる気配を知らない。辛抱の一語を胸に抱き、「いまは推測を重ねるしかないのです」と大湊は続けた。
「浅倉大佐がどこに潜伏していて、〈伊507〉はどの海を航行中なのか。そもそも独断で〈伊507〉を出撃させ、ローレライを回収した浅倉大佐の目的はなんなのか。なにもかもが不明であるなら、手の届く範囲から調査を進めるほかありません」
「浅倉大佐は『断号作戦』に固執していた。だから当初の予定通り〈伊507〉を出撃させた。それだけだ」
「陸軍の目もある。下手に浮き足だった行動に出て、身内の不始末を外部に喧伝《けんでん》するような真似は避けねばならん。各部署の責任者を容疑者扱いして、部内を総点検するなどもってのほかだ」
「各鎮守府と根拠地隊には、浅倉大佐を見かけたら一報を入れるよう通達してある。現時点でできるのはそこまでだ」
「それでは不十分です! 全軍に触れを出して、浅倉大佐の捜索を行うべきです」
「仮にも軍令部の一課長であった将校だぞ。それを指名手配扱いにして、全国に帝海の恥をさらせと言うのか?」
「ここで断固とした対応を打ち出さねば、事は浅倉大佐の思惑《おもわく》通りに進んでしまいます。浅倉大佐の身柄を拘束し、その協力者を検挙して、一刻も早く〈伊507〉の所在をつかむ。彼の謀叛《むほん》はいまもって進行中なのだということを……」
「言葉が過ぎるぞ、大湊大佐」
「貴官の任務は情報収集だ。判断決定の権限はない。迂闊《うかつ》に謀叛だの決起だのと口にするものでは……」
不毛な論争を断ち切る咳払いの音が上座から発し、会議室は途端に静寂に包まれた。「大湊大佐」という低い声が続いて届き、大湊は反射的に姿勢を正した。
ボードに貼られた作戦海図を背に、大川内軍令部総長がこちらを直視していた。それまで黙して語らなかった軍令部の長は、周囲から向けられる畏怖《いふ》の視線を淡々と受け止め、「貴官は、浅倉大佐とは同期だったな」と質した。
「は……」
「では、ひとつだけ聞きたい。あれ[#「あれ」に傍点]以来、浅倉は狂っていたと思うか?」
会議室の空気が一斉に震え、冷たい戦慄が一同の間を走り抜けた。あれ[#「あれ」に傍点]という言葉がなにを示すかを知り、そこに含まれる毒の存在を知る者たちの戦慄が、その瞬間に共振したようだった。意志も感情も読み取れない大川内の目に射竦《いすく》められ、無意識に顔をうつむけた大湊は、「……わかりません」と搾《しぼ》り出した。
「しかし、以前の浅倉大佐とは違ってしまったように思います」
「どう違ったと思うか?」
「うまく説明できませんが、刀に譬《たと》えるなら、あまりにも斬れすぎて鞘《さや》まで割ってしまうような……。もともと研ぎ澄まされた男ではありましたが、あれ[#「あれ」に傍点]以来、浅倉は箍《たが》が外れてしまったとでも言うのか、ある種の妖気さえ漂わせるようになったかと」
浅倉の異常に整った顔貌、あれ[#「あれ」に傍点]以来、日々若返っていたとしか思えない白い横顔が脳裏に浮かび、大湊は鳥肌が立つのを自覚した。「妖刀か。あの男に似つかわしい表現だな」と、大川内は苦笑らしき表情をちらりと口もとに刻んだ。
「戦利潜水艦〈伊507〉を、テニアン島近海に配置。特殊兵器ローレライを駆使し、同島に近づく米艦艇はことごとくこれを沈めて、海上輸送路を遮断《しゃだん》する。もって同島に運び込まれる公算の高い新型爆弾の輸送を阻《はば》む。……それが『断号作戦』の骨子だったな」
瞬時に無表情に戻った大川内が続ける。大湊は相手の真意を探りつつ、「は」と傾重に応えた。
「浅倉は、作戦の中止を先から予期していたという貴官の意見だが。その根拠は?」
「は。新型爆弾がテニアン島に運搬されるとの情報、また新型爆弾の存在そのものについて、懐疑的な見方が大勢を占めていたからであります。輸送先をテニアン島と限定したのは、我が方の諜報《ちょうほう》網が獲得した情報と、陸軍特情部が探知した不審機の情報を総合した結果ですが、部隊を動かすほどの確証はないというのが部内の判断でした」
いら立たしげにタバコを吹かす源田第三部長を横目に、大湊はひと息に説明した。日本が米国内に張り巡らせた諜報網は、開戦と同時にほとんどが根絶されたが、第三国を中継して情報を買う手段はまだ残っている。米国が新型爆弾の開発に成功したという情報は、ワシントンに残留するイタリア系の情報組織がつかみ、中立国を媒介とする複雑な経路をたどって日本にもたらされた。
ほぼ同時期、特情部――陸軍中央特殊情報部は、連日不審な行動を取るテニアン島所属のB−29を探知している。当然、二つの事態の関連性が疑われ、新型爆弾がテニアン島に配備されるとの推測が立てられたものの、海軍が積極的な対応に動くことはなかった。推測はどこまでいっても推測でしかなく、情報の裏付けを取る術《すべ》がなかったからだ。
だが大湊には確信があった。開戦前には駐米武官の補佐を務め、その経歴を買われて対米情報課長に就任した身には、新型爆弾を製造し得る米国の技術力、日本では考えられない巨大な開発体制のありようが、実感としてわかっていた。自分より長く米国に滞在し、流暢《りゅうちょう》な英語を操る浅倉にしても、それは同じだった。
半ば伝統と化した陸軍と海軍の不仲に悩まされながらも、大湊は陸軍との正式な情報交換の場を設けるべく奔走し、浅倉は残存する潜水艦をテニアン島に配置、新型爆弾の輸送を阻む作戦を第一部長に進言した。しかし作戦案は一蹴《いっしゅう》され、陸軍との協議もついに実現しなかった。
強固な責任感の裏に、己の職責に埋没し、自分のわかる範囲でしか物事を見ようとしない頑迷《がんめい》さ、視野の狭さを併《あわ》せ持つ。結果、情報戦を軽視し、自由な技術開発を抑圧する体質を根づかせて、他国に遅れを取ることにもなる。軍部――日本という国家そのものが根底に含有する悪癖《あくへき》が、ここでも発揮された形だった。その後、ローレライ譲渡の話が天佑《てんゆう》のごとく舞い込み、『断号作戦』の実施が裁可されたのだったが、もとより戦力外の戦利潜水艦と怪しげな特殊兵器、無駄にしても責任問題にはならぬと、軍人の判断というより、官吏《かんり》一流の算盤《そろばん》勘定が働いた結果という方が正しい。事実、ローレライの喪失が報告され、『断号作戦』が中止の憂き目にあってからは、陸軍との情報交換も完全に途絶した。特情部の連中は、いまだに新型爆弾の存在すら知らないのではないだろうか?
新型爆弾――迅速かつ十分な壊滅≠もたらすもの。気を抜けば震え出しそうな指先をきつく握りしめた大湊は、「新型爆弾の存在についても、噂が仇《あだ》になって実在を疑問視されてきた経緯があります」と説明を続けた。
「噂?」
「ウラン鉱石を利用した新型爆弾の開発は、海軍でも三年前から進められています。内外の専門家を集めて物理懇談会が組織され、鉱石からウラニウムを抽出《ちゅうしゅつ》する変換装置も完成したと聞き及んでおります。しかし我が国にはウラン原鉱石の埋蔵がなく、抽出技術も未熟であるために、開発にはまだまだ時間がかかる。先んじて研究に着手していたドイツも、ついに確たる成果を挙げることができませんでした。理論上は可能でも、現実には開発の目算が立たないという意味では、殺人光線と同じくらい空想的で、非現実的な兵器。それが新型爆弾に対する海軍の認識です。そこに物理懇談会から漏れたのであろう噂が重なり……」
「マッチ箱程度の大きさで、戦艦も吹き飛ばせる爆弾があるというあれだな」
「そうです。『マッチ箱』の噂は、尾ひれがついて全国に広まり、いまでは幽霊話程度に思われています。それが非現実的であるという認識に拍車をかけ、今次情報についても、色眼鏡をかけて見る風潮を促《うなが》したのではないかと」
源田第三部長が、言いすぎであろうという目を向けていたが、大湊は気づかぬ振りで大川内総長を見つめ続けた。電波の反射を利用して敵の位置を探る電波探信儀――レーダーにしても、海軍技研の中に早くから注目する者がいたにもかかわらず、『敵を前にして自ら電波を発するなど、闇夜に提灯《ちょうちん》を灯《とも》して己の位置を知らしめるも同じ』と、いま思えば笑止としか言いようのない理屈で研究を中断し、開発を遅れさせてしまった経緯がある。自分を含め、総じて保守的で想像力が乏しい軍人が主導する下では、革新的な技術開発も、正確な情報鑑定も、望みようがないということだ。
苦虫を噛《か》み潰《つぶ》した顔の幹部たちをよそに、ひとり泰然の表情を崩さない軍令部総長は、「なるほど。よくわかった」と言って大湊から視線を外した。
「そんな状態では、軍が『断号作戦』に本腰を入れるはずもない。実際、〈UF4〉が〈ナーバル〉の喪失を報告してくると、軍令部は待っていましたとばかりに作戦の中止を決定した」決まり悪そうに顔をうつむける部課長らを見渡し、大川内は続けた。「仮に〈UF4〉がローレライを落とさずに持ってきたとしても、どこかで邪魔は入る。浅倉はそれを見越して、作戦を再開する準備を進めてきたと?」
「はい」
「だが一方で、浅倉の真意は『断号作戦』とは別のところにあるという。これについては?」
「ご指摘の通り、まだ推測の域を出るものではありません。しかし今回の謀議が周到であればあるほど、浅倉大佐は以前からこの時を待っていたように思えてならないのです。〈伊507〉の受け入れが決まり、『断号作戦』が起案されるずっと前から、浅倉はなにごとかを胸に秘めて機会を窺っていた。〈伊507〉……ローレライの存在が、あるいはそのなにごとかに火をつけてしまったのかもしれません」
「ずっと前……。あれ[#「あれ」に傍点]以来ということか?」
大川内の鋭い眼差しに、他の者たちの詰問《きつもん》の視線が相乗する。無意識に結論を避けていた心中を眺め、大湊はもう一度「わかりません」と答えた。
「それを探るには、人員を増強してより踏み込んだ調査を行う必要があります」
他に言うべき言葉もなく、大湊はすべてを吐き出した口を閉じた。大川内は太い息を吐いて顔を伏せ、沈思とも呆けているとも取れる無表情な目を一点に注いだ後、おもむろにこちらを見遣った。
「結論を言う。本事案に関して、これ以上の調査人員を割《さ》くことはできん。浅倉大佐の捜索は続けるが、追跡隊を組織して積極的に追うというわけにはいかん。現在の軍令部、帝国海軍にはその余裕がない。関係部署の各長の聴取については、直属の上官が個別に行い、大湊大佐のもとに報告書を提出することとする。以上」
ほっと安堵する十数人の気配が流れ、張り詰めた会議室の空気を弛緩《しかん》させた。予期した通りの展開と平静に受け止めながらも、「小官による直接聴取は認められないのでありましょうか?」と出した大湊の声は、無様《ぶざま》に震えた。
「貴官にも五課長の職責がある。いつまでも補佐に座を温めさせておくわけにはいかんだろう」
金刺繍《きんししゅう》の割合がもっとも多い大将の肩章を両肩に侍《はべ》らせ、軍令部総長の目には硬質な光があった。真相を追う道筋が絶たれ、形ばかりの報告書に埋もれる日々が来ることを予測して、大湊は大川内と正対する顔を悄然《しょうぜん》と伏せた。
「ドイツの無条件降伏で、極秘裏に進められてきた終戦工作は灰燼《かいじん》に帰《き》した。そこに今度のポツダム宣言だ。政府はソ連を介して引き延ばしにかかっているが、当てにできるものではない。日本は未曾有《みぞう》の困難に直面しておる。元寇《げんこう》以来……いや、神々がこの大八洲《おおやしま》を造りたもうて以来、初めて迎える民族消滅の危機だ」
大川内はそう言って、緩みかけた会議室の空気を再び引き締めた。どこか言い訳めいた口調に聞こえたことが気になり、大湊は伏せた顔を心持ち上げた。
「国体の護持と皇室の御安泰が保証されぬ限り、ポツダム宣言は断じて受諾できん。だがドイツにさえ無条件降伏を呑ませた敵は、あくまで無条件での受諾を要求してくるだろう。そうなれば本土決戦だ。国内に残った将兵は言うに及ばず、女子供にも竹槍《たけやり》を持たせての総力戦になる。標語にある通りの一億玉砕――殲滅《せんめつ》戦だ。かかる時局に、帝国海軍が内輪もめの醜態をさらしてどう見る。陸軍も含めたところで、軍は一枚岩を堅持してゆかねばならん。実情がどうであれ、な」
自分に言い聞かせるように続けると、大川内は席を立ってカーテンの下ろされた窓際に近づいた。純白の軍装に覆われた背中に色濃い疲労が滲《にじ》み、大湊はふと虚をつかれる思いを味わった。
あれ[#「あれ」に傍点]以来、一度は中央から外れた浅倉が軍令部に引き上げられ、第一課長の要職に収まったのは、大川内総長の内外への働きかけがあったればこそのことだった。華族や財閥《ざいばつ》筋に繋《つな》がる人脈を重宝したのではなく、軍人として、武人として傑出した浅倉の才能を愛し、その破滅的なまでの純粋さを憐れんだ男には、この事件に対する特別の感慨があるのかもしれない。そう思うと、海軍の威信を体現するはずの背中が、自分以上に孤立した存在に見えてきて、大湊は我知らず居住まいを正していた。
「南方戦線における戦闘は局地戦に過ぎず、陸上部隊の主力はいまだ動いていないとする陸軍の見解もある」そんな感情の綾《あや》には委細かまわぬ調子で、尻馬に乗った富岡次長が続ける。「我々帝海とて、特殊潜航艇を中心とする特攻戦備に抜かりはない。あと十万の兵力を増強し、関東への上陸を目論む敵を水際で阻止すれば、敵は九州に上陸するしかなくなる。九州なら複雑な地形を活かし、各地に散在する陣地に引き寄せて敵を叩くことができるだろう。その間に外交交渉を続けて、有利な終戦協定を結ぶのも不可能ではない。陸海軍が連携《れんけい》し、国民全員が英霊となる覚悟で戦いさえすれば、勝機はまだあると……」
「だが人は死ぬ」
ぽつりと放られた言葉が、富岡次長の口を凍らせ、会議室の空気も凍らせた。
「数万の将兵と、数百万の国民。大日本帝国の礎《いしずえ》である無辜《むこ》の民が死ぬ。国家の看板を支えきれなくなるほどに……」
大川内総長は、少しだけ顔をこちらに向けた。カーテンの隙間から差し込む光が、その眉間に刻まれた皺をひどく明瞭に浮かび上がらせた。
「『マッチ箱』が実在しようとしまいと、国土は蹂躙《じゅうりん》される。人命に限らず、資材国富も根こそぎ失われるだろう。次長は国民全員が英霊になる覚悟でと言ったが、民が死に絶えた国家になんの意味がある。畏《おそ》れ多くも陛下は、松代《まつしろ》への御動座をお断わりになって宮城に留まっておられる。これは我々とともに討ち死にされるご覚悟のように見えるが、そうではない。殲滅戦を回避せよとの御意志だ。帝都に留まられることで、我々軍人に翻意を促されておられるのだと自分は考える。いま我々がなすべきは、陛下の身をお守りし、殲滅戦を回避することだ。陸軍の主戦論者を封じ込め、皇軍全体が戦争終結に足並みをそろえることだ。一枚岩を堅持せよとは、そういう意味で言った」
憮然と腕を組んだ富岡次長の傍らで、第二部長は感に堪えないといった顔をうつむける。彼らの頭ごしに大湊を見、「だからだ」と重ねられた総長の声は、湿り気を含んで響いた。
「いま、海軍部内で起こった問題をあからさまに騒ぎ立ててはならん。それは陸軍の強硬派に付け入る隙を与え、米内《よない》海相の立場をも危うくする。大事の前の小事と心得て、行動は慎んでもらいたい」
かつては総理の大任に就き、終戦工作の先頭に立ってきた海軍大臣の名まで出されれば、一将校の身に反駁《はんばく》の余地はなかった。「は」と頭を垂れ、肩を震わせる何人かの幹部たちを横目に捉えながら、大湊は急速にしらけてゆく胸の内を自覚した。
一年前なら敗北主義と断罪されたであろう言葉を、軍令部総長の立場にある者が公然と口にする。言った側も言われた側も、血を吐く思いであることに変わりはないが、ではどうするのか。全面降伏か、徹底抗戦の末の全滅かという二つの選択肢しかない現状について、総長は結論をぼかしている。陛下をお守りし、その御意志に従うという言葉は、軍人の所信表明ではあっても決断ではない。強硬派を押さえ、戦争終結に足並みをそろえる。曖昧な言葉の羅列からは、終戦に至る具体的な道筋がなにひとつ見えてこない。
開戦の是非をいまさら問うても始まるまい。だが西欧列強に押し潰されるかもしれないと恐怖した時、勝てない戦争に活路を求め、さらなる国難を呼び込んでしまった責任は、自分を含めたすべての軍人に――その風潮を受け入れ、助長もしたという点においては、すべての日本人の肩に等しくある。にもかかわらず、ぎりぎりまで追い詰められれば陛下の御意志≠ノすがり、思考も責任も放棄して、ただ実直である己に免罪符を求めようとする。これは形こそ違え、一億玉砕を謳《うた》って恥じない強硬派と同じ無恥であり、無分別であり、罪ではないのか。
肩を震わせる者、憮然とした顔をうつむける者。見事に二つに色分けされた会議室の風景を眺めて、大湊はひっそりと嘆息した。部下も国民も殺すだけ殺しておいて、まだ殺し足らないとわめく者もいれば、あっさり宗旨替えして感傷に浸る者もいる。ようはそれだけのことだと思い、ではどうするのかとあらためて己に問いかけてみたが、どちらの側にもつけず、宙吊りの立場で傍観を決め込む我が身の不実が再確認されるばかりで、答と呼べそうなものは見つからなかった。
あるいは――浅倉は、この宙吊りの立場から抜け出す方法を見出し、その実践のために謀議を企てたのか? 不意に黒々とした直感がわき出し、全身を痺《しび》れさせたが、続いて訪れた無力感の方がはるかに強かった。湿った空気に埋もれたまま、大湊は紙屑《かみくず》同然になった報告書に所在ない目を落とし続けた。
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スコールが去った彼の空は、不気味なほどの快晴だった。青一色に染まった空が大気の厚みを実感させ、水平線上に連なる入道雲は、次のスコールを予感させて濃い陰影を浮かび上がらせる。
太陽は真上にあり、椰子《やし》の木と、この戦争が持ち込んだガラクタが散在するばかりの痩《や》せた島に、南洋の凶暴な日差しを容赦なく降り注いでいる。ここに来て五日、あと一週間もいたら脳味噌まで溶けてしまう。じりじりと肌を焼く太陽を見上げるのをやめて、土谷《つちや》佑《たすく》は足もとの滑走路に目をやった。
スコールがもたらした水はたちまち蒸発して、ところどころひび割れた滑走路は白く乾ききっている。周囲には爆撃で破壊され、原形を留めないほど変形した石油タンクの残骸と、赤錆《あかさ》びたドラム缶の列。機銃|掃射《そうしゃ》の弾痕も生々しい倉庫。その壁に寄りかかって座り、ぼんやり空を見上げる非番の兵の脳味噌は、とうの昔に溶けてしまったのだろう。司令本部や兵舎の建物はここからは見えなかったが、林立する椰子の木の向こうに、しおれた日の丸の旗を窺《うかが》うことはできる。どれも開戦と同時にこのウェーク本島に持ち込まれ、いまではまったく役に立たなくなったガラクタだった。
「やはり被弾しているようです。右エンジンが煙を噴いてます」
傍《かたわ》らで双眼鏡を手にする渕田《ふちだ》少佐が口を開き、土谷は前方の空に視線を戻した。青空に浮かぶ点でしかなかった物体は、少し目を離した隙に染みと呼べる程度の大きさになり、その後に引く黒い煙の尾も明瞭に見えるようになっていた。「消火班を待機させろ。滑走路付近の機体はすべて待避」と応じた声は、渕田の背後に立つ鹿島《かしま》大佐の口から発せられた。
滑走路付近の機体といっても、ここには戦闘機が三機と偵察機が一機あるのみだ。零式艦上戦闘機、いわゆる零戦が二機と、九七式二号艦上攻撃機と二式艦上偵察機が一機ずつ。どれも滑走路脇の林に隠され、敵機の目を避けて椰子の葉で機体を覆《おお》ってあるが、燃料も整備部品も行き渡らず、飛べるかどうかさえ怪しい。フロートを装備した水上機も残らず港に沈み、このウェーク島根拠地隊の航空戦力は実質ゼロと言って差し支えなかった。
中部太平洋の片隅にぽつねんと位置するウェーク島は、日本本土からは三千キロ近く離れている。制海権も制空権も失われたいま、補給線は完全に絶たれ、字義通りの孤島に居残る根拠地隊の生活は自給自足が原則。敵からも味方からも忘れられた島には来客もなく、五日前、自分を置いてすぐに飛び去った二式陸上偵察機を除けば、滑走路はもう半年以上も使われていないらしい。滑走路脇に生える椰子の木陰からわらわらと這い出し、葉で隠した機体を移動させる兵たちは、このところの頻繁《ひんぱん》な来客を少しは怪しんでいるのか、それともその程度の思考能力も失っているのか。ふと考えかけ、詮《せん》ないことだと思い直した土谷は、次第に大きくなる機影にあらためて目を凝らした。
青空に噴煙の薄墨を流し、やや右に傾きながら高度を下げる機体は、一式陸上攻撃機のものと知れた。全長二十メートル、全幅二十五メートル。海軍の発注を受けて三菱が製造した爆撃機で、太い胴体に大型の爆弾倉を抱え、航続距離は四千二百キロを超える。飛行性能も申し分なく、開戦当初の活躍は華々しかったが、長大な航続距離に見合う燃料を翼に収める構造――インテグラル式の燃料タンクが災いして、開戦翌年以降は敵機の恰好の的にされた。燃料を充填《じゅうてん》した翼は、わずかの被弾で簡単に火を噴き、機体を誘爆させてしまうのだ。
昨年から耐弾性を向上させた改良機が出回り始めたと聞くが、空母を失い、敵地への爆撃が不可能になったいまとなっては、後の祭りとしか言いようがない。すべてについて防御より性能向上を優先させ、一気|呵成《かせい》に米国を攻め落とせると信じたこの国の連中は、徹底的に無知で傲慢《ごうまん》だったということだ。胸中に吐き捨て、その一員になりきった己の姿を自嘲した土谷は、傾いた機体を立て直せず、まっすぐこちらに突っ込んでくる一式陸攻の様子に、不意にひやりとした感触を覚えた。
目前の一式陸攻が旧型機であれ改良機であれ、被弾している事実に変わりはない。右エンジンのプロペラは止まっているように見える。トラック諸島沖を流す米機動艦隊の艦載機か、クェゼリン島に駐留する航空隊にでもやられたのだろう。どこを経由してここまでたどり着いたのかは定かでないが、翼内のタンクに少しでも燃料が残っていれば、機体は不時着と同時に爆発、炎上する。海水を使って消火に努めたとしても、搭乗者の生存は絶望的になる――。
これはとんだ大番狂わせになるかもしれない。よろよろと降下する一式陸攻を眺め、土谷はそうなった場合のことを考えてみた。あの男がここであっさり死んだ時、この計画を企て、自分をここに送り込んだ者たちは、いかなる代替手段を講じるのか。湿気を吸った略帽をぬぎ、まだ馴染《なじ》まない短い頭髪に手をやった土谷は、どうにもできないという結論を得てにやと嗤《わら》った。
国家規模の遠大な計画が、ひとりの男の生き死にに致命的に左右される。その意外な杜撰《ずさん》さが可笑しかったというより、もともとそのような計画だったと思い至り、だからこそ自分に白羽の矢が立てられたのだと再確認して、自虐的な笑みが滲《にじ》み出てきたのだった。
滑走路は長さ千八百メートル、幅百五十メートルの小振りなものだが、全長五キロに満たないウェーク本島では、それでも最大の人工建造物に当たる。一式陸攻は爆撃による陥没の少ない東側から進入し、まずは右の着陸脚を滑走路につけた。右エンジン下部から下ろされた車輪が滑走路を打ち、大きく機体を跳ね上がらせると、今度は左側の車輪が路上に押しつけられる。機体の重量と速度、反動の力を一身に受けた左側の車輪が軋み、溶けたタイヤのゴムを滑走路にのばしたのは一瞬だった。すぐに支持脚が折れ、プロペラをひしゃげさせながら左エンジンを接地させた一式陸攻は、滑走路を削《けず》る轟音《ごうおん》を立てて滑り始めた。
粉塵と黒煙に包まれた機体がみるみる大きくなり、続いて弾け飛んだ右側の車輪が、ドラム缶をなぎ倒して椰子林に突っ込んでゆく。警報が鳴り響き、「待避!」と叫ぶ誰かの声を聞くまでもなく、滑走路付近にいた兵たちが一斉に走り出す。土谷も倒壊した指揮所の陰に避難し、七トンを超える鋼鉄の塊《かたまり》が滑走路を抉《えぐ》る音と振動を全身に浴びた。一式陸攻はガラス張りの機首をこすりつけるようにして滑走路を滑り、盛大な噴煙の尾を後に残して、滑走路の西端まで二百メートルというところでようやく止まる気配を見せた。
「消火急げ! 搭乗者の救出が最優先だ」
声を限りに叫んだ鹿島大佐は、しかし自分は指揮所の残骸から出ようとしない。海水を積んだポンプ車が走り出し、何人かの兵が後に続くのを確かめた土谷は、黒煙の中に揺らめく橙色《だいだいいろ》の炎も確かめて小さく舌打ちした。対向する風がなくなった分、エンジンを舐《な》める火の勢いが強くなっている。機体の爆発を予期した土谷は、次の一瞬には訓練された本能に従い、墜落同然のありさまで横たわる一式陸攻との距離を目測した。
手前に転がる水平舵の大きさから判断して、距離は約百メートル。安全距離とはいえ、燃料の残量次第では破片が飛散してこないとも限らない。消火に駆けつけた連中には気の毒だが、自分の身は自分で守るしかないものだ。連合軍の対日反攻作戦からも除外され、長く実戦から遠ざかっているこのウェーク根拠地隊の連中は、どだい危機感がなさすざる。よそ者の自分が気にすべきことではないと思い、瓦礫の陰に身を沈めかけた土谷は、予想外の光景を視界に入れてぎょっと硬直した。
一式陸攻の機体側面に描かれた日の丸が内側から開き、円形の乗降扉から白い人影がゆらりと立ち上がったのだった。もうもうと立ちこめる黒煙を気にする素振《そぶ》りもなく、ガラス片やひしゃげた外板が散らばる地面に降り立つと、軍帽を正す余裕さえ見せてゆっくり機体から離れる。殺到する消火班を軽く挙げた手で制し、こちらに近づいてくる人影は、たなびく黒煙が途切れた刹那《せつな》、呆然と立ち尽くす土谷をまっすぐに見据えた。
小指の先ほどにしか見えなくても、その人影の視線は明瞭に感じ取れた。土谷は我知らず立ち上がり、瓦礫の陰から抜け出した。鹿島大佐と渕田少佐も後に続き、三人の男は吸い寄せられるように滑走路へと進み出た。
片手に鞄を下げた人影は、一定の速度を保って歩いてくる。二種軍装の白い詰襟服、抱《だ》き茗荷《みょうが》の帽章が露《あらわ》になった時には、その下の白い顔貌《がんぼう》も窺《うかが》えるようになり、土谷は思わずその場に立ち止まってしまった。
白い能面に浮き立つ赤い唇が、それだけ別の生き物のごとくひきつれ、笑みの形を作っている。なにを嗤うことがある? 三十メートルの距離にまで近づいた人影を見つめ、血の色に染まった唇に問いかけた土谷の目前で、一式陸攻の機体は唐突に大爆発を起こした。
湿気を含んだ重い大気を揺るがし、紅蓮《ぐれん》の炎が十数メートルの高さにまで噴き上がる。「ひっ……!」という鹿島大佐の短い悲鳴が背後に響き、五臓を共振させる轟音と爆風がそれをかき消す。火のついた破片が四方に飛び散り、土谷は夢中で地面に伏せた。熱波が頭上を行き過ぎ、破片が散らばる音、兵たちの怒号が、ごうごうと爆ぜる炎の音の中に聞こえた。
瓦礫の陰にいればよかったものを、おれはなぜ抜け出したりした? つんと鼻をつく異臭に正気を促され、土谷は慎重に顔を上げた。焼《や》け火箸《ひばし》と化した一式陸攻の機体と、それを遮《さえぎ》って立つ白いエナメル靴の足が一時に目に入り、考える間もなく立ち上がっていた。
すぐ目の前に立つ白い詰襟姿は、もう嗤っていなかった。大佐を示す肩章の横で、いっさいの感情を消し去った能面が土谷を直視する。あれだけの強行着陸をして怪我ひとつないばかりか、軍装には目立った汚れすらない。整いすぎた顔を呆然と見返した土谷をよそに、男の視線は土谷の背後に注がれた。
「どうかしたか?」
頭を抱え、地面に伏せていた鹿島と渕田は、そのひと言でばね仕掛けのごとく立ち上がり、「はっ! 申しわけありません。ウェーク根拠地隊司令、鹿島海軍大佐であります」「同じく参謀長の渕田少佐であります!」と踵をそろえた。男は答礼はせずに、「浅倉大佐。厄介になる」と言うと、再び土谷と視線を交えた。
燃え盛る炎を背後に従え、男の目には熱暑とは無縁の冷たい光があった。この男が浅倉|良橘《りょうきつ》。自分をこの地に導いた帝国海軍将校。我が祖国と契約を交わした日本の男――。軍装についた汚れを払った土谷は、「土谷技術中佐であります。お待ち申しておりました」と挙手敬礼をした。
わずかに頬を緩め、微笑を形作った細面が答礼の代わりだった。体温さえ感じさせない能面が、ただそれだけの動きで青年の瑞々《みずみず》しさを湛《たた》えるようになり、土谷は周囲の空間がぐにゃりと歪むような違和感を覚えた。
資料には四十五歳とあったから、自分より七つは年上のはずだが、この笑顔はどうしたことだ。驚きを通り越し、いっそ畏怖を感じ始めた頭で背後に目をやると、鹿島も渕田も直立不動のまま、蛇《へび》に睨《にら》まれた蛙《かえる》の体《てい》で硬直していた。同じ大佐でも、軍令部一課長と根拠地隊司令との立場の差は歴然だが、浅倉が彼らに与える威圧感は、明らかに階位とは別のものだった。
「お怪我はございませんか? すぐに……」
おずおずと口を開いた鹿島を手で封じ、浅倉は炎上する一式陸攻に目を転じた。土谷は、浅倉の手が他人の血で汚れていることにいまさら気づいた。
「よい操縦士だった。弔《とむら》いは丁重に頼む」
消火作業も虚しく、火勢の衰えない一式陸攻の操縦席を見つめて浅倉は言う。その横顔は部下の死を悼《いた》む軍人以外の何者でもなく、土谷は再度めくらましされた気分を味わった。「は……」と間の抜けた返事をした鹿島には目もくれず、浅倉は燃え盛る炎を見つめ続けた。
鳥瞰《ちょうかん》すればVの字の形に見えるウェーク島は、大小三つの島から成る環状|珊瑚《さんご》島だ。もっとも大きいのが、一辺が五キロのVの字を大海に浮かべるウェーク本島。百メートルと開かずに連なる二つの小島、ウィルクス島とピール島は、Vの字の左右の辺の延長線上に位置し、二キロ足らずの細長い地形を本島に付け足していた。
滑走路に隣接する根拠地隊司令本部は、Vの字の辺が合わさる交点にある。二キロ四方の椰子畑を伐採《ばっさい》した跡に、司令本部を始めとして兵舎、工場、発電施設、弾薬庫や通信所が設けられ、約四百人の兵員が駐留する。もっとも補給線が絶たれてからは、食糧と水の確保が兵たちの最大の懸案事項になり、前線基地としての機能は失われて久しい。日に一度は訪れるスコールが水源のない島に潤《うるお》いをもたらし、魚や椰子の実、基地の一画に耕されたサツマイモで最低限の飢えはしのげるとはいえ、四百人分の食糧を得るには、一日の大半を漁と耕作に費やす必要があった。
南方の孤島に進出した日本の前線基地のほとんどがそうであるように、ウェーク根拠地隊司令本部の建物も粗末なバラック造りで、電気こそ通っているものの、建材はすべて現地調達の木材という代物だった。『ウェーキ[#「キ」に傍点]根拠地隊司令本部』と筆書きされた木板がなければ、土着民の村長の住居と言ってもおかしくない。大東亜共栄圏という壮大なる大義を掲げ、遠く故国を離れた無人島で農漁民に成り果てた武人たちには、相応しいたたずまいの司令本部といったところか。釣《つ》り竿《ざお》を担いだ半裸の兵がとろとろと窓の外を通り過ぎるのを見ながら、土谷は小さく苦笑していた。
「勝者の笑みか?」
いきなり背後から声を振りかけられ、土谷はぞっとする思いを隠して窓際から離れた。振り返り、司令本部と棟続きの司令公務室を視界に収めると、籐椅子に腰かけた浅倉が無言で茶を啜《すす》る姿があった。その前にはバラック小屋には不似合いな応接用のテーブルがあり、飾りのついたシガレットケースと灰皿が置かれている。執務机の上にはラジオと、提出先のない書類、手作りらしい木彫りの動物の置物。壁に張られた作戦海図が、辛うじてここが軍施設であることを思い出させる。テーブル脇に置かれた扇風機が室内の空気をかき回していたが、そんなものなどなくても、十分に冷ややかな気配が浅倉の周囲には満ちていた。
「見ての通り、粗末な小屋だ。君たちが残していったものとは較べものにならない」
窓の外に見える通信所の建物を見遣り、浅倉は口もとに皮相な笑みを浮かべた。「我が軍が占領して以来、この島は実に四年ぶりに本来の主を迎え入れたことになる。凱旋《がいせん》の記念すべき第一歩を記して、感慨も一入《ひとしお》なのではないかと思ってね」
かつては米潜水艦の前線基地として機能していたウェーク島は、あの真珠湾攻撃からわずか三日の後、日本海軍の攻略目標とされた。夜襲上陸をかけた日本軍に対し、カニンガム中佐率いるウェーク島守備隊はよく抵抗したが、延べ百機以上の艦載機による爆撃と、三個中隊の陸戦隊の猛攻を受け、十二日後には陥落《かんらく》した。約四百五十人の守備隊員、千人を下らない建設作業員たちの大半は死に、残りは南方の捕虜収容所に送られたという。
コンクリート造りの通信所は米軍の建築物だし、他にも発電施設、倉庫の一部などが日本軍に接収されて現在も使われている。滑走路にしても、対日戦争を現実視し始めた米軍が急きょ建設したものだ。乗っ取った米軍施設の合間に掘っ立て小屋を建て、細々と農漁に明け暮れる日本人という構図は、諧謔的《かいぎゃく》気分を刺激するところではあったが、いまの自分の立場を思えば危機感の方が先に立った。
鹿島司令を始め、参謀格の何人かは真相を心得ているが、自分はこの地ではあくまでも土谷海軍技術中佐。戦局も押し迫ったこの時期に、南海の孤島に追いやられた不運な技術将校だ。腹を空かせた四百人もの日本兵がいる中で、己の出自を詳《つまび》らかにする会話を交わすのはあまり楽しいことではない。窓枠のつっかえ棒を外し、木製の枠に簾《すだれ》を張った窓を閉じた土谷は、「お休みにならなくてもよろしいので?」と返して、皮肉にしても悪意のありすぎる浅倉の言葉を無視した。
「あれだけ機銃弾を浴びせかけられれば、日も醒《さ》める」
浅倉は無表情に応じる。日本海軍|要衝《ようしょう》の地・呉《くれ》にとどめを刺す米海軍の大空襲に乗じて、浅倉が日本を離れたのは十一旦別。連合軍の反攻作戦から除外された南方の基地を転々と渡り歩き、九死に一生を得て目的地にたどり着いた身のはずだが、土谷の目に映るのは、およそ疲れとは無縁な白い能面だった。
この男は本当に生きた人間なのか。不審を新たにしつつ、土谷は、「なにもかも都合よくというわけにはいきません。ご容赦を」と軽く頭を下げておいた。
「〈伊507〉……〈シーゴースト〉を特務潜水艦に追わせていることもか?」
手にした茶碗をテーブルに戻し、浅倉は射疎める目をこちらに据えた。鍛《きた》えられた神経で無表情を装ったものの、頬がぴくりと痙攣《けいれん》するのを土谷は自覚した。
「呉では、柱島に向かう途上で乗員が襲われたと聞いている。わざわざ軍装を解いて、民間の浚渫《しゅんせつ》船に乗せた乗員たちがだ。その後も米潜にしつこく追いすがられて、回収作戦はかなり手間どった」
逃亡の最中でも、情報を把握する算段は整えていたらしい。本国を発って以来、問題の潜水艦の動向については知る由がなかった土谷は、「ほう?」と聞き役に徹した。
「確実と思える乗員選定をしていなかったら、その時点で沈んでいたかもしれん。……いずれ手に入るとわかっているものを、なぜ沈めようとする?」
まずは初顔合わせの挨拶程度と思っていたら、いきなりそんな話だった。間合いを取ろうと執務机の前まで歩き、木彫りの置物を手にした土谷は、「言ったでしょう? そう都合よくはいかないと」と、慎重に自分の側の話を切り出した。
「海軍情報部《ONI》と戦略情報事務局《OSS》の中でも、一部の者しか知らないのがこの密約です。〈伊507〉だろうが〈シーゴースト〉だろうが、敵国の旗を掲げた艦艇であるなら、全軍にとっては攻撃の対象になる。特別扱いをするわけにはいきません。大佐のお乗りになっていた機が攻撃された件にしても同様。残念ながら、我々にはそこまでの力はない。米軍は巨大なのです」
「だったら、こんな余計な手間などかけずに、このちっぽけな島ごと力ずくで奪ってしまえばいい」
浅倉の視線を避けて、土谷は「あまりいじめないでください」と苦笑の表情を作った。
「上陸作戦がどれだけ軍に損耗《そんもう》を強いるか、ご存じでしょう? 硫黄島《いおうじま》やテニアン島では、いまだに洞窟《どうくつ》にこもった日本兵が抵抗を続けています。沖縄も前線基地に確保できたというのに、本土から隔《へだ》たったこんな南の孤島の攻略作戦が認可されるはずはない」
「それでなにが手に入るかを考えれば、決して高くない買い物だと思うが?」
「まだはっきりそうとわかったわけでは……」
そこまで答えて、語るに落ちた我が身に思い至った土谷は、今度は本心からこみ上げた苦笑に唇を歪めた。
「人が悪いですな」と負けを認め、木彫りをもとの場所に戻してから、あらためて浅倉の泰然とした顔と向き合った。
「確かにこういう言い方もできます。その程度で壊されるようなものなら、始めからいらないのだ、とね。なにしろ大きな取引です。交換を済ます前に、大佐の持つカードがどれほどの力を持つものなのか、品定めをする必要があった。……あるいは良心の呵責《かしゃく》か」
「良心?」
「あなたの計画通りに事が進めば、合衆国はナチ以上の虐殺を為した者として、歴史に断罪されるかもしれないのです。臆病になるのは当然でしょう?」
実際、この計画がどういう経路で認可され、誰が責任者の立場にあるのか、土谷は知らない。日系二世という十字架を逆手に取り、ONIで小間使いをしているだけの男に、ワシントンがその深部を開陳《かいちん》するはずもないのは道理だが、それにしても極端につかみどころがなく、関係者さえ実在を確信できないほど隠微《いんび》な空気に包まれているのが、この計画――浅倉との取引だった。
確実なのは一点。それだけ慎重を要する重みを含み、口にするのも憚《はばか》られる内容の取引であるということ。こちらが差し出すものの大きさを思えば、多少強引な信用調査をしても文句を言われる筋合いはないというのが、見えざる合衆国の意志≠セった。
「ローレライは欲しい。しかしその実力が不明瞭とあっては、人と金はかけられない。綱渡りの取引もできればしたくない」
本音を吐かせて溜飲《りゅういん》を下げたのか、浅倉は詠《うた》うように言う。土谷はローレライという言葉を口中にくり返し、前代未聞の取引には見合わない語感だなと再確認した。
「だから戦力外の特務潜水艦を使って試験を行い、あわよくば取引を反故にしてローレライをかすめ取ろうとした。……巨大な軍隊はやることも豪気だな。真珠湾の時といい、囮《おとり》でも出し惜しみするということがない」
国を挙げて日本との開戦に踏み切るべく、ルーズベルトは沈んでも惜しくない戦艦や駆逐艦を敢えて真珠湾に集めた――。ONIで一時|流行《はや》った笑えない冗談だった。「よくない噂も耳にしていますからね。ローレライに関しては」とやり返して、土谷はその話題を取り合うことは避けた。
「君の言う良心の呵責≠ノ敏感な兵器である、ということか?」
にやと口もとを歪めた浅倉に、土谷は探る一瞥《いちべつ》を投げた。互いに現物は見ていないはずだが、浅倉はローレライの実情をどこまで把握しているのか。こちらと同等の知識を有しているのだとしたら、情報源《ソース》は取引の窓口になったアメリカの友人たち≠ゥ、あるいは例の黄色いSS≠ゥ。浅倉は歪めたままの口もとで疑問の数々を受け流し、「使いようだよ」と続けた。
「扱う人間次第でどうとでもなる。それが技術というものだ」
「……確かに。扱いようによっては、文明を消し去る力だって発揮する」
形のよい眉がそれとわからない程度に震え、今度は浅倉の探る目がこちらを射た。ひと太刀《たち》返せた満足感を抱いて、土谷は涼やかにその瞳を見返した。
「そちらの方は順調なのか?」
「そのはずです」
「逝去《せいきょ》された前大統領閣下は、あれの使用にあまり積極的でないと風の噂に聞いたが?」
どこから吹いてきた風だか。ソースは中立国、もしくはワシントン近辺≠ニ頭のメモに書きつけ、土谷は「ポーズですよ」と気にせぬ素振りの声を返しておいた。
「人類史上、始まって以来の大量|殺戮《さつりく》兵器を使おうというのです。後世の歴史書に自分の名が載ることを思えば、上辺《うわべ》だけでも取《と》り繕《つくろ》っておく必要がある。本意ではないあれの使用は、一回限り。前大統領はハイド・パークでチャーチルにそう明言したし、現大統領もポツダムでそのように発言した。記録にはそう記されます」
「その方が合衆国の国益に適《かな》うというわけか」
「後世のね。現在は違います。日本人を百万人殺すことで、十万の米軍兵士が助かるのなら、それは断じて行うべきである。……それがいま現在の合衆国の国益です」
「正直な物言いだな」
「戦時下の国家は正直なものですよ。積極的に嘘をつくのは平時のときです」
そこで会話が途切れ、扇風機の回転する音だけがバラック小屋に残された。土谷は窓際に歩み寄り、簾の隙間ごしに外の風景を眺めた。日米双方の血を吸ってきたウェーク島の大地が、昼下がりの陽光を浴びて白く乾ききっていた。
「明日、ひとつ目が落ちます」
自分で言ったにもかかわらず、なにひとつ実感の伴わない言葉だった。とめどなく血を流し続ける世界に、止血を促す残酷な荒療治。浅倉は気配さえ感じさせず、沈黙を返事にした。
「ご存じとは思いますが、それを機にスターリンもヤルタの密約を果たします。そうなれば、大佐の国はこのちっぽけな孤島以上に孤立した存在になる。二つ目、三つ目が落ちるまで、もちますかね?」
「もつさ」
即座に返ってきた声は、ぎくりとするほど近くから発せられた。振り返った土谷の目に、すぐ背後に立つ浅倉の顔が映った。
「断固抗戦を訴える軍部を抑え、誰に詰め腹を切らせるか決めるだけで、一週間や十日はあっという間に過ぎる。そういう連中だ。君は自分の仕事の心配をしていればそれでいい」
耳元に囁《ささや》きかけるように言うと、浅倉は土谷の横に立って窓を開けた。染《し》みひとつない白い横顔が陽光に照らし出され、土谷は無意識に半歩退いた。
「ローレライの実力が証明されたからといって、君たちには全軍を挙げて奪いにくることはできない。いまは共通の敵を前に結束しているが、連合国はしょせん史上最大の寄り合い所帯だ。目立つ真似をして、他国にローレライの存在を気取られるわけにはいかんだろう。次の仮想敵を視野に入れているからには、なおのことだ」
身動きひとつできず、土谷は目前で蠢《うごめ》く赤い口腔《こうこう》を凝視した。目を逸らせば、その瞬間に呑み込まれるという理由のない確信があった。
「太平洋の戦《いくさ》が終息しても、戦争は終わらんよ。この取引が成立したこと自体、それを証明している。人種、民族に対する偏見と差別。思想、宗教の対立……。君には肌でわかっていることだろうが」
肌、という一語に胸をひと突きされ、土谷は反射的にわき出た怒りを視線に託した。浅倉は寸毫《すんごう》も意に介さず、「そこに良心の呵責など存在しない。あるのは生理的な嫌悪感だけだ」と重ねた。
「だから、あれも落とせる……。他の理屈はない」
「わかっていながら、後押しをなさる?」
ようやく思いついた反論は、人間離れした艶《つや》を宿す横顔に弾かれ、窓の外に落ちて南洋の陽に焼かれた。土谷などはなから目に入っていない様子で、浅倉は入道雲のわき立つ空に視線を転じた。
「ナチスドイツから解放されたユダヤ人は、今度こそ自分たちの国を造ろうとするだろうな。おそらくは彼らの聖地に」
まったく方向違いのところから放られた石に、土谷はわずかに眉をひそめた。
「厄介な場所だ。そこを聖地とあがめる民族は他にもいる。無理に建国すれば衝突が起こるのは必至。だが連合国はそれを認める。正確には、連合国の中枢をなす英米両国が認める。認めねばならんのだ。ユダヤの血が両国の財界に通い、彼らの後押しを受ける者たちが政界にいる限り、ユダヤの祖国は彼の地に建設される。大国の懐《ふところ》に入り込んだ同族たちの庇護《ひご》のもとに……」
パレスチナという、訪れたことも、これから訪れることもないだろう土地の名前を引っ張り出し、あり得るのかと考えかけた土谷は、「大和民族……日本人にはそれがない」と続いた浅倉の声に、先の思考を止められた。
「孤独なのだよ、日本人は。いまも昔も」
そう言い、司令本部の前を通りかかった若い兵を見遣った浅倉の目には、それまでとは別人の哀惜《あいせき》の色が宿っているのだった。土谷は、体の奥底がぐらりと揺さぶられるのを知覚した。
「それゆえ、強化される必要がある。この残酷な世界で生き残ってゆくために……」
それが祖国に背を向け、合衆国にこの取引を持ちかけた理由か。そんな疑問が渦を巻いたが、確かめる気にはなれなかった。奥底を揺さぶられた余韻《よいん》を抱き、土谷は彼岸《ひがん》を見渡す浅倉の横顔を眺め続けた。
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「異常な能力が付与されたというより、人間がもともと持っている潜在的な力が、なにかのきっかけで覚醒したんじゃないですかな?」
コップにヤカンの水を注ぎながら言った時岡《ときおか》纏《まとい》軍医長に、高須《たかす》成美《なるみ》は「潜在的な力?」と片方の眉をひそめてみせる。絹見真一はタバコをくわえ、士官室係の水兵が皿を片付け終えるのを待ってマッチを擦った。
八月五日、午後六時。夕陽に染まる太平洋上を航走する〈伊507〉艦内は、夕食後のつかの間の弛緩が許された時間だった。士官食堂に集まった各科の責任者たちも、この時ばかりは食後の充足感に浸りきった顔で、緩慢な時間を漂っていた。
岩村《いわむら》七五郎《しちごろう》機関長は、食事を終えると機械室にとんぼ返りしてしまい、甲板士官の小松《こまつ》秀彦《ひでひこ》も艦内巡検の準備のために早々と出ていった。六畳ほどの空間に長机を二つ押し込んだ士官食堂で、馴染みの顔を突き合わせているのは絹見と高須、時岡、それに航海長の木崎《きざき》茂房《しげふさ》の四人。各部の修理状況や乗員の行状に関する話が尽きれば、ローレライをめぐる話題が一同の口に上るようになり、その核《ケルン》≠ナあるパウラ・A・エブナーの千里眼能力について、時岡が余人には想像外の持論を披瀝《ひれき》したところだった。
「人類に限らず、地球上のすべての生命は海で誕生したものです。水に溶けた有機物がいくつか混ざり合って、コアセルベートという原始生命の素《もと》になり、永い年月をかけて現在の生物相にまで進化してきた。いまでこそ万物の霊長みたいな顔をしてのさばってますが、我々人間だってもとはちっぽけな単細胞生物だったのです。このコップ一杯にも満たない単細胞生物たちが、海の中で進化をくり返し、陸上に進出して、現在の二十億人類の先祖になったわけです」
そう言うと、時岡は片手に掲げたコップの水をごくごくと飲み干し、「わたしの腹の中では、大腸菌になるのがせいぜいですな」と満面の笑みで続けた。ひきつった愛想笑いを返した高須の横で、木崎はげんなりした顔を時岡に向ける。
「わたしもみなさんも、格好の良し悪しを別にすれば同じ姿形をしとりますが、これは遺伝子という設計図が人間の形を伝えとるからです。この遺伝子には、父祖のみならず、単細胞生物から人間に至るまでの進化の歴史が詰まっている。何億年も漫然と海中を漂《ただよ》っとった頃の記憶が、細胞の一片にまで記録されとるのです。見通しの効かない広大な海中で餌《えさ》を取り、外敵から身を守り、結合する同族を見つけるのは難儀なことだったでしょうなあ。おそらくは特殊な感覚器官が発達していて、進化の過程で退化してしまったんでしょう。パウラ嬢の水中千里眼は、単細胞生物だった頃のそういう力が人間大に拡大して、爆発的に甦《よみがえ》ったものなのでは?」
帝大で生物学を専攻していた経歴が言わしめる高説か、はたまた生来の空想好きの夢想か。丸眼鏡の底の目を輝かせる時岡の顔からは判断がつかなかったが、なにかしら胸に残る話ではあるなと絹見は素直に感心した。
「レーベンスボルンの投薬実験が引き金になったということか?」と身を乗り出した高須も、本気で話を聞く気になった様子だった。
「左様。南米のインディオなどは、キノコから抽出《ちゅうしゅつ》した秘薬を使って祖先の記憶をたどると言います。実証は困難ですが、それと似たような効果で潜在能力が覚醒した可能性はあります」
「誰の中にも眠っている力、か……」と木崎。高須は「まるで『ドグラ・マグラ』だな」と混ぜっ返す。
「先任もお読みになりましたか。胎児の夢というやつですな。人は母親の胎内に宿っている問に、遺伝子に記された進化の歴史をなぞる。卵細胞から分裂をくり返して、魚になり、両生類になり、獣になり、十ヵ月かかってついに人間の形になる。その間、胎児は夢の中で祖先の記憶を追体験するが、生まれた瞬間に忘れてしまう……。まあ確かめようもない話ですが、パウラ嬢の能力を目《ま》の当《あ》たりにすると、科学の不明を痛感しますなあ。人間はまだ進化の途中段階にいるのではないかと、そんな気もしてきます」
いつになく神妙な顔つきで締《し》め括《くく》った時岡に、高須はどう思うかと問いたげな目をこちらに寄越す。ロートルの潜水艦《ドンガメ》乗りには考えもつかない壮大な話だったが、実際にローレライを預かり、運用してゆく立場としては、単純におもしろがってもいられない。絹見は、「問題はそこだ」と話の流れを変える声を出した。
「フリッツ少尉も言っていたが、パウラの能力は確かに人智を超えたものだ。ナチスドイツも、ついに第二のパウラを作り出すことはできなかった。当代随一の頭脳を結集した『リンドビュルム計画』でさえお手上げだったのだから、日本でローレライを量産することはまず不可能だろう」
タバコを煙草盆に押しつけ、絹見は続けた。「一度に複数の敵とは戦えない構造上の欠陥もある。仮にリーバマン新薬とやらを使って、そのへんの不備は補えたとしてもだ。たったひとつでは戦局を動かすほどの兵器にはならない。軍令部は強力な決戦兵器であるかのような口ぶりだったが……」
日本民族の滅亡を回避し、この国にあるべき終戦の形をもたらす。そういう力がローレライにはある――。そう言った時の浅倉の赤い口腔が鮮明によみがえり、絹見は無意識に眉根に皺を寄せた。
「なにも知らないだけに、過分な期待を抱いているのではありませんか? 軍令部は、ローレライの根本が一少女の千里眼であることも知らないのでしょう?」
ドンガメ乗りらしからぬ浅黒い顔をしかめ、木崎が言う。「そのはずだがな」としか絹見は答えられなかった。
「この時期に本土ではなく、ウェーク島に運ばせることといい、どうにも腑《ふ》に落ちん。帝海はローレライをどう使うつもりでいるのか。軍医長、なにかいい推測はないか?」
「わたしはそちらの方面には不案内です。そのあたりの事情は、フリッツ少尉の方が詳しいのでは?」
顔の前でぱたぱたと手を振ってから、時岡は高須に救いを求める目を向けた。高須はため息混じりに、「ここにも誘ってはいるんだがね……」と頭を掻《か》く。
「相変わらず蟄居《ちっきょ》生活ですか」
「ああ。修理の手伝いはよくやってくれるんだが、終わるとすぐ収監室に逆戻りだ。頑固というか、偏屈というか……」
時岡に答えると、高須はあらたまった顔で絹見を見た。「ただ、まだなにかを隠しているとは思えません。少尉も軍令部の意図については知らんのでしょう」
異論はなかった。鍵のかかっていない収監室に留まり続ける一方、フリッツ・エブナーは自発的に艦の修理に携わり、ローレライの運用に必要な知識の伝授に努めている。脆《もろ》さと硬さが同居する横顔を思い出し、不器用な我が身をそこに重ね合わせた絹見は、「そうだな」と応じて堂々巡りの議論を打ち切った。
〈しつこいアメリカ人〉との戦闘からまる六日。〈伊507〉は傷ついた船体の修理を急ぎつつ、ウェーク島を目指して太平洋の只中《ただなか》にあった。
無理に無理を重ねた船体の損耗は激しく、特に主機の修理は予想以上に難航して、四昼夜の時間を費やさねばならなかった。その間は距離にして千キロも進めず、ウェーク島までの行程はまだ三分の一を消化したに過ぎない。これから巡航速度で航走を続け、あと四日で到着できるかどうかというところだった。
唯一の救いは、ローレライが戦力に加わり、敵のいない航路を選んで航行できるお陰で、日中でも堂々と水上を走れるようになったことだ。結果、船体の修理作業は大いにはかどり、疲れきった乗員の英気を養うこともできた。この六日間で潜航したのは、わずか三回。いずれも対空電探が敵機を探知したか、荒れた天候から逃れるためで、他に危機らしい危機に見舞われたためしはない。〈しつこいアメリカ人〉に代わる追手に悩まされることもなく、平穏そのものの航海が続いていた。
これを激闘の未に勝ち取った一時の安寧《あんねい》と取るか、嵐の前の静けさと受け取るべきか――。そんなことを考え、どちらとも決めかねたままで絹見は発令所の水密戸をくぐった。当直士官らが敬礼して迎える傍らで、コロセウムは淡い緑色の微光を発しており、ローレライの正常稼働を伝えていた。
発令所に戻った際は異状の有無を質《ただ》すのが常だが、最近は口より先に目が動き、まずはコロセウムを確かめるのが習慣になっている。最大望遠に設定されたコロセウムの前に立ち、絹見は砂鉄で再現された半径百キロの海の箱庭を俯瞰した。直径一メートルのガラスの球体の中心に、針の頭ほどの大きさの〈伊507〉が浮かび、なだらかに隆起する海底地形がその下に広がる。先刻と変わりのない光景の中、球体の縁から約二十センチのところに四つの砂粒が浮かび、一列に並んでいるのが絹見の目に止まった。
水上艦船だろう。方位は南南西、距離はおおよそ六十五、六キロというところか。
「これは?」
「十五分前の定時感知から映るようになりました。隊形から見て輸送船団かと思われます」
当直士官の唐木《からき》水測長が答える。ローレライの性質上――正確にはパウラの健康上――、連続稼働には限界があるので、通常航海時は三時間ごとの定時感知に留め、必要時にのみ機器系統を稼働させる態勢を取っている。受信された状況図はコロセウム内に固定され、定時感知のたびに逐次《ちくじ》更新される仕組みだ。
前回の定時感知は七時だったから、いまコロセウムに再現されている光景は十五分ほど過去のものということになる。現在ただいまの状況を絶えず把握しておきたいのは山々だが、たかだか三時間の間に海の状況が激変するものでもない。最大戦速で航行中の駆逐艦《くちくかん》とでもかち合えば話は別だが、〈伊507〉には通常の水中聴音器もあれば、艦橋に常時見張りを立ててもいる。あまりローレライにばかり頼っていては、ドンガメ乗りの名が廃《すた》るというものだった。
いまの日本には、輸送船団を太平洋に送り出す力はない。感知された輸送船団は、連合国の所属と見てまず間違いなかった。マリアナ諸島と米本土を結ぶ定期便か? なんにせよ、四杯のうち一、二杯は護衛の駆逐艦だろう。戦果としては申し分ないとドンガメ乗りの頭で判断を下し、絹見は無精髭《ぶしょうひげ》の浮いた顎に手をやった。
「針路を一二〇に取って増速すれば、一時間弱で船団の鼻先を押さえられます。やりますか?」
鼻息荒く言った唐木の背後で、デバイダーを手にした海図長も準備万端といった顔をこちらに向ける。もう航路の設定まで終えているらしい。さほどの回り道にはならないし、ローレライを稼働させれば確実な奇襲攻撃が期待できる。水浸しになった主砲は使用不能でも、魚雷はまだ十本以上の備蓄《びちく》があった。複数目標に一時に狙いをつけてしまえば、撃沈後にローレライが途絶しても問題はない――。考える必要はなかろうと言っている唐木たちの顔を見、コロセウムに浮かぶ敵輸送船団の影に視線を戻した絹見は、しかしもうひとつ、淡く輝く球体の奥に別のものを幻視して、顎《あご》をさする手を止めた。直立不動の唐木を見遣り、絹見は「やめておこう」と結論を伝えた。
「ローレライの輸送が先決だ。寄り道している暇はない」
即座に抗弁の口を開きかけた唐木を艦長の目で封じ、絹見は発令所要員の顔をひとりずつ見渡していった。海図長は仕方がないというふうにデバイダーで頬を掻き、縦舵・横舵の操舵員たちは慌てて各々の舵輪に顔を戻す。落胆一色に染まった空気は、「惜しいなあ……」と子供のように口をとがらせた唐木に押し流され、苦笑した一同の気配が発令所を和ませた。
内心に安堵の息を吐きながら、絹見は無表情を維持して各計器の目盛りに視線を走らせた。みすみす宝の山を見逃したからには、もっと論理的な理由付けが必要なのは承知だが、よもや本当の理由を部下たちに明かすわけにもいかない。ここは取りつく島のない鉄面皮の艦長に徹して、絹見はコロセウムの奥底に幻視したものを胸から追い出した。
死者たちの怨念に苛《さいな》まれ、血の涙を流して悶絶《もんぜつ》する少女。無用の流血で彼女を苦しませたくないなどと、誰が口にできる。無敵の戦力になるべき探知兵器に、情け心を植えつけられるとは。絹見はひっそりと嘆息し、慣れ親しんだ感慨を引き寄せた。
歳を取った……。
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「まだでありますか?」
河野《こうの》二等水兵の囁《ささや》き声は、狭い交通筒をくぐり抜けて床のハッチから飛び出し、〈ナーバル〉の気密室に立つ折笠《おりかさ》征人《ゆきと》の耳に届いた。八月六日、午前七時五十分。懐中時計に確かめた征人は、気密室と艇内を隔てる円形の水密戸に顔を寄せた。
五分前集合が海軍の伝統だから、八時の当直交代に間に合うにはそろそろ急がなければならない。水密戸をノックし、「まだか?」と声をかけると、返事の代わりに把手《とって》のハンドルが回り、施錠が解除される音が気密室に響いた。
開いた水密戸の向こうに立っていたのは、帝国海軍の作業衣を身につけたパウラ・A・エブナーだった。煙管服とも呼ばれる白い繋《つな》ぎにゴム底靴、頭には錨《いかり》の帽章が入った略帽。もともと短めの髪は略帽の中に収めているので、ぱっと見には若年の水兵と見えなくもなかった。
征人より小柄な河野から借りたものだが、だぶついた感じは否めず、それが却って少女らしい華奢《きゃしゃ》な肉体を征人に意識させた。略帽を目深《まぶか》にかぶり、「どう?」と不安げな声を出したパウラから目を逸らし、「こんなもんだよ、うん」と何度も頷いた征人は、赤くなった顔を床のハッチに向けた。交通筒の下で待っている河野に「いいぞ」と小声で呼びかけ、上がってくるよう手招きする。
交通筒の梯子《ラッタル》を昇り、ハッチから七厘刈りの頭を突き出した河野も、帝海の水兵になりきったパウラに如実な反応を示した。一瞬、丸くなった目と口がふにゃりと歪《ゆが》み、うっとりとした表情になるのを見た征人は、河野の襟首《えりくび》をつかんで気密室に引きずり上げた。
そのまま艇内に続くハッチをくぐらせ、入れ替わりにパウラをこちらに招き寄せる。名残り惜しそうにハッチから顔を出した河野の前に立ち塞がり、「なにかあったら、ここの上部ハッチを開けて合図するんだぞ」と気密室の天井を指さした征人は、それでも首をのばしてパウラを見ようとする河野に対抗して、体を小刻みに左右に揺らした。
「了解でありますが、こんな面倒なことしなくたって、上部ハッチを開ければ外には……」
「機銃甲板の見張りにすぐ見つかってしまうだろ? こうするしか方法がないんだ」
いまさら臆病風に吹かれて、心変わりされてはたまらない。ひと息に押しかぶせた征人は、「二時間だ。じっとしてろよ」と重ねて水密戸に手をかけた。閉じる間際、「カルピス、忘れないでくださいよ」と言った河野は、半ばふて腐《くさ》れた声だった。
「カルピス?」
半畳もない広さの気密室にパウラの声がこもる。ハンドルを回して水密戸を施錠しつつ、征人は「衣装借り代と、身代わり代。特配でもらったやつがまだ残ってるんだ」と教えてやった。
「清永《きよなが》さんと二人でもらったんでしょう? 勝手にあげちゃっていいの?」
「あいつもグルだよ。……行こう」
ラッタルを下り、〈ナーバル〉から〈伊507〉艦内に降りる。後に続くパウラが〈ナーバル〉側のハッチを閉じる間に、最初の障害が艦首側の水密戸をくぐり、交通筒区画に入ってくるのが見えた。征人は咄嗟《とっさ》に踵《かかと》をそろえ、兵員室《パート》に戻るところらしい烹炊長《ほうすいちょう》に「おはようございます」と軽く頭を下げた。
ラッタルを降りたパウラも略帽の鍔《つば》に手をやり、無言で頭を下げる。帝海の潜水艦では、報告の時以外は堅苦しい敬礼はなしと教えてある。「おう」と返し、烹炊長はろくに顔も合わさずに通りすぎるように見えたが、
「折笠上工。姫のご機嫌はどうだ?」
衛生観念皆無の汚れたシャツ姿が立ち止まり、そんな声を征人にかけてきた。〈しつこいアメリカ人〉との戦闘以来、二直|哨兵《しょうへい》として艦の当直態勢に組み入れられた征人には、ローレライ整備担当係という暗黙の肩書きも与えられている。冷やかし半分の声をかけられるのも慣れっことはいえ、当のローレライをこっそり連れ出す最中とあっては事情が変わってくる。烹炊長に他意はないとわかっても、「じょ、上々ですよ」と答えた征人の声は、見事にうわずってしまっていた。
烹炊長の顔から笑みが消え、すっと細まった目がパウラの背中を凝視した。いきなりこれか。汗ばんだ拳を握り、己の不運を呪った征人は、「ん? そっちの奴……」という烹炊長の声を聞くに至って、観念した。
ぎりぎりまでしらを切るか、先に謝っておくか。考えかけた途端、「烹炊長!」と馴染《なじ》みのある大声が割って入り、張り詰めた空気を吹き散らした。
「探しておりました。折り入ってお話したいことがあります」
艦尾側の隔壁《かくへき》から現れた清永|喜久雄《きくお》が、大兵《だいひょう》の体躯《たいく》を烹炊長の前に直立させる。真剣そのものの表情に気圧《けお》されたのか、今度は烹炊長が「な、なんだ」と、どもった声を出した。
「食事の献立についてであります。主食が豆の缶詰から米に変わったのは喜ばしいことでありますが、せっかくの白米をバタ漬けにするのはいかがなものでありましょうか」
「なにがいかんのだ。バタライスはドンガメ乗りの標準食だぞ。高カロリーなんだから、貴様の図体にはちょうどいいだろうが」
「たまにならバタライスも結構ですが、毎日となるとくどいのであります。しかもおかずは塩漬けキャベツに洋風肉ジャガ」
「ザワークラウトとアイントプフだ」
「くどいのです。くどすぎるのであります。せめて朝食には白い飯にお新香、味噌汁などを食いたいのであります」
ぴんと背筋をのばして主張しながら、清永はちらとこちらに視線を寄越す。ひとつ借りだと目で応じた征人は、パウラを促してその場を離れた。
早川《はやかわ》艇長が戦死してしばらく、ぼんやり物思いにふけることが多かった清永も、最近ではすっかりもとの元気を取り戻している。水葬の時に思いきり涙を流して、ふっきれたところがあるのかもしれない。「このくどさは、いずれ艦の士気|阻喪《そそう》を招くかと思われます」「くどいくどい言うな。調味料がドイツのものしかないんだから、しょうがないだろうが」と続く終わりのない論争を背に、征人とパウラは艦首側の水密戸をくぐった。
中央補助室を抜け、烹炊所と聴音室の前を通り過ぎた先には、最大の難関、発令所がある。パウラに先んじて水密戸をくぐった征人は、まずは絹見艦長の不在を確かめ、少しだけ安堵の息を漏らした。
昨夜は徹夜で発令所に詰めていたようだから、艦長室で仮眠を取っているのだろう。いま発令所にいるのは先任将校の高須大尉と当直士官、操舵長ら発令所要員、それに甲板士官の小松少尉。「次はいつ潜《もぐ》るかって?」と呆れた声を出した高須と向き合う小松は、いまにも倒れそうな青白い顔色だった。
「もう一週間も水上航走が続いております。少しは潜航もしないと、乗員の勘が鈍るのではないかと」
「会敵すれば嫌でも潜るようになるんだ。洋上にいた方が修理もはかどるし、乗員の健康にもいい。なにもない時くらい、〈伊507〉にも日光浴をさせてやりたいじゃないか」
「ですが、揺れが……」
「なに?」
船酔いに弱い体質ゆえ、潜航中はほとんど動揺しない潜水艦に回された小松の事情を、高須は知っているのかいないのか。耳に手を当てる仕種《しぐさ》をした先任将校に、小松は甲板士官の意地を辛《かろ》うじて繋ぎ止めた顔をうつむけ、「……いえ。なんでもありません」と蚊《か》の鳴く声を重ねた。
「いい揺れじゃないか。船はやっぱり海に浮かんでこそだ」
ゆったりとくり返す|縦揺れ《ピッチング》を味わうかのように、高須は腕を組んで目を閉じる。倍加した吐き気を押さえ込むのに必死らしい小松は、「なんだなんだ、顔色が悪いぞ。甲板士官ならしゃんとしろ」と続けた高須に背中を叩かれ、よろよろとたたらを踏んだ。
ピッチングで傾斜した床に足を取られ、そのまま征人の脇をすり抜けてゆく。まずいと思った時には、すぐうしろを歩くパウラが小松の体を受け止める格好になり、小柄な煙管服姿が二、三歩よろけてしまっていた。
男にしては華奢すぎる感触に気づいたのか、小松の目の焦点が不意に合い、寄りかかった相手の横顔を凝視する。パウラはすぐに顔を背けたが、その拍子に略帽がずれ、襟足《えりあし》に後れ毛がこぼれるのが征人にも見えた。眉をひそめた小松の手がパウラの略帽にのび、今度こそ観念した征人は、「甲板士官」という落ち着き払った声を聞いて、閉じかけた目を見開いた。
ネクタイを外し、第一ボタンも外したワイシャツ姿のフリッツが、小松の肩に手をかけていた。最近は髑髏《どくろ》の徽章《きしょう》が輝く制帽も、ナチス親衛隊《SS》の黒い上着もとんと見かけず、機関兵らとともに油にまみれていることが多いフリッツだが、感情を拭《ぬぐ》い去った無表情は以前と変わるところがない。この時も振り返った小松の顔を眺め、「船酔いなら、治すいい方法がある」と言った声には、なんの感情も読み取れなかった。
日頃の対立意識を投げ捨てて、小松は「どうすればいい?」と藁《わら》にもすがる顔を向ける。フリッツは鼻に手をやり、
「鼻をつまんで三回右に回り、両方の耳を思いきり横に引っ張る。最後に軽くジャンプする」
「鼻をつまむ……?」
「平衡《へいこう》神経が刺激されて酔いが収まる。ドイツ海軍では常識だ」
ぽっかり口を開けてフリッツを見返した小松は、半信半疑の顔で鼻をつまみ、両耳を引っ張ってみてから、「……かたじけない」と言い残してその場を離れた。しきりに首を傾げる小松の背中を見送り、肩をこわ張らせるパウラを見下ろしたフリッツは、略帽の鍔ごしにちらと見返した妹と目を合わせたのも一瞬、立ち去る足を踏み出した。
自分とは目を合わせようとしなかった長髪のうしろ姿が、無言の威圧感を放っていた。急にいたたまれない気分に駆られ、征人は「あの、少尉」とフリッツを呼び止めた。なにを話していいのかわからないまま、「本当に効くんですか? 鼻をつまんで……」と、どうでもいいことを尋ねると、にこりともしない顔が「知らん」と即答を返した。
呆気に取られたこちらをよそに、フリッツは艦尾側の隔壁をくぐって発令所を後にする。「ああいうところ、子供の時から全然変わってない」と耳打ちしたパウラに曖昧《あいまい》に頷き、征人は発令所の中ほどにある連絡筒のラッタルに足をかけた。
三階分の高さがある連絡筒を昇り詰めると、艦橋《かんきょう》の屋上部である艦橋甲板にたどり着く。開放されたハッチから清涼な風が吹き込み、目のくらむ光が差し込んでくる連絡筒を、征人は逸《はや》る胸を抑えて慎重に昇った。ゴールは間近。この一週間、ひたすら実現の機会を窺ってきた目的がついに達成される。最後の方は息をするのも忘れ、艦橋甲板に這い上がった征人は、そこに立つ人の姿を捉えてぎょっと硬直した。
双眼鏡《メガネ》を手に、彼方の水平線を見渡すずんぐりした背中は、田口《たぐち》徳太郎《とくたろう》兵曹長のものに違いなかった。いまは一直哨兵の当直だから、ここには見張り長がいるはずなのに。予想外の事態に混乱しながらも、いまさら戻るわけにはいかないと最低限の理性を働かせた征人は、とにかくパウラと並んで艦橋甲板上に立った。気配を察した田口が振り返るより先に、踵をそろえて挙手敬礼をする。
「二直哨兵、折笠以下二名。交代にまいりました」
艦橋甲板は縦四メートル、幅一・五メートルの楕円形で、腰の高さの遮浪壁《しゃろうへき》に沿って羅針儀や探照燈が設置され、二本の潜望鏡と特殊充電装置の柱が床から屹立《きつりつ》しているので、人の立てる空間は必然的に限られる。のばした手が届く距離に立つ田口は、「おう、ご苦労……」と言いかけた口を閉じ、略帽を目深にかぶる見慣れない水兵をじろと注視した。
頭からつま先まで素早く目を走らせてから、険を含んだ視線を征人に移す。見張り長の一等兵曹は常にメガネを手放さず、交代の報告をしてもこちらを振り返りもしない男だが、田口は違う。いつ殴られてもおかしくない恐怖より、ここまで来てあきらめなければならない悔しさに胸を塞がれ、征人は敬礼を解いた手のひらをぎゅっと握りしめた。奥底まで貫き通す目で征人を睨み、うつむけた顔を上げられないパウラを再び見遣った田口は、しかしなにも言わずに背を向け、手にしたメガネを目に当て直していた。
狐につままれた思いでその背中を見つめると、マンホールに似た連絡筒のハッチから見張り長が顔を出し、艦橋甲板に這い上がってきた。突っ立ったままの征人たちを一瞥した後、「すみません、交代します」と田口に敬礼した見張り長は、留守を頼んで用を足しにでも行っていたらしい。田口が見張り長にメガネを渡す隙に、征人はパウラを連れて所定の配置先に向かった。艦橋甲板から一階分下るラッタルに足をかけ、二基の対空機銃が設置された機銃甲板を眼下にした途端、「折笠」とドスの効いた声に心臓をわしづかみにされた。
「帽子はぬがせるなよ」
こめかみのあたりを指でとんとんと叩き、田口はパウラに顎をしゃくってみせた。反射的に顔を引き締め、「はっ!」と姿勢を正した征人を尻目に、田口は連絡筒を下って艦内に戻っていった。
口径二十五ミリの単装機銃が鎮座《ちんざ》する機銃甲板では、一直哨兵の水兵二人が交代の到着を待っていた。潜水艦の見張り員は四人でひと組を作り、三組が四時間ごとに交代するものだが、〈伊507〉では二人ひと組で計六組を作り、日中は二時間ごと、夜間は四時間ごとの当直態勢を敷いている。ローレライの目が半径百キロの海を監視しているいま、波間に浮かぶ敵潜の潜望鏡や、水平線上に見える敵艦船のマストに目を光らせる必要はなく、見張り員の役目は半ば形骸化した状態にある。敵機にしても、肉眼より先に対空電探が発見してくれるとなれば、見張りの数を減らし、そのぶん修理や人手不足の部署に回した方がいいのが道理だった。
交代後に遅い朝食にありつく一直哨兵たちは、敬礼のやりとりもそこそこに機銃甲板を離れた。艦橋甲板上の見張り長は前方監視に専念するので、後方の機銃甲板が見下ろされる心配はまずない。ようやくすべての障害を突破したと確認した征人は、まだ落ち着かない様子のパウラを手すりの前に立たせ、視界を遮《さえざ》る略帽の鍔をそっと上げてやった。
茫漠《ぼうばく》と広がる海原《うなばら》、水平線から離れたばかりの太陽、入道雲をわき立たせた青い空。ひとつひとつが鮮烈に輝く世界を一時に目に入れ、陽の光から隔絶されてきた横顔から感嘆の息が漏《も》れた。それですべての苦労が報われた気になった征人は、呆然と立ち尽くすパウラから少し離れて、艦首方向から吹き寄せる風に全身をさらした。陸地を遠く離れた外洋に潮の匂いは薄く、甘く濃厚な大気が細胞の隅々にまで染《し》み渡《わた》り、汚れた体を洗ってくれるようだった。
修理のなったディーゼル主機の音は快調で、〈伊507〉は十五ノットの速度で凪《な》いだ海面を裂き、白い引き波を立てて南東へと進む。水中排水量四千四百トンの巨体が風を切る音を聞き、はるか後方にまで伸びる航跡を見つめた征人は、「どうだい?」とパウラに話しかけてみた。「目が痛い」と素っ気ないひと言が返ってきて、いささか拍子抜けの気分を味わうことになった。
「すぐに慣れるよ。おれも最初はそうだった」
そう言ってから、征人は「やっと目的を果たせた」と独りごちた。パウラは目をこするのをやめて、まぶしそうにこちらを見た。
「この間、〈しつこいアメリカ人〉を沈めた後に、ちょっとだけ外に出て新陽を見たって言ったろ? 君にも見せたかったけど、目を覚まさなくってさ」
その時に見た空の色、朝陽に染まった絹見艦長の顔を思い出しつつ、征人は後部甲板上に接合された〈ナーバル〉を見下ろした。
「あれ以来、艦は昼間でも水上航走できるようになったけど、君は夜しか外に出してもらえなかっただろ? 万一、敵に目撃されたら面倒なことになるからって。だから、なんとか外に出して、ゆっくり日の光を浴びさせる方法はないかって、いろいろ考えてたんだ。河野や清永が協力してくれて助かったよ」
「掌砲長《しょうほうちょう》さんも」
田口が立っていた艦橋甲板を見上げ、パウラはぽってりした唇を微笑の形にした。「フリッツ少尉もね」と続けて、征人も微笑を返した。胸のあたりがほんのり温かくなり、「ありがとう」と呟《つぶや》かれたパウラの声がさらなる熱を灯《とも》して、風に流れていった。
「もう、これでいつ死んでもいい……」
思いも寄らない言葉がそこに重なり、征人は瞬時にこわ張った顔をパウラに向けた。一心に海と空を眺める横顔はなんの屈託もなく、自分がなにを言ったのかも忘れている様子だった。
ウェーク島に到着すれば、〈伊507〉は正式に潜水艦隊に編入される。その装備のひとつとして、自らも連合艦隊の資産になる現実を、パウラは空気を吸うかのごとく自然に受け入れているのだろう。確かにこの間の戦闘では、記憶や感情を消し去ってしまう薬を飲まずに済んだ。ナチスドイツの艦だった頃より、行動の自由も多少は増えた。しかしそれがこれからも続くという保証はどこにもなく、パウラの立場はなにひとつ変わってはいない。彼女は依然、兵器として認識されるなにものかだった。それも窮状を極め、特攻戦備を最後の砦《とりで》とする国の軍隊に属する……。
自分にできることと言えば、見張り当直の間のたった二時間、外の空気を吸わせてやるのがせいぜい。これまでも、これからも、彼女を救うことはできない。補修跡が目立つ手すりの鎖を握りしめ、征人は流れる海面に目を落とした。太陽も空も海も、すべてが色褪《いろあ》せ、世界の輝度《きど》が下がってゆくのが感じられた。
「ね、見て。海の中の泡、青く見える。やっぱり海の水って青いんだね」
舷側《げんがわ》に当たり、水面下で泡を弾けさせる引き波を指さして、パウラはなんの含みもない笑顔で言う。征人は「……よせよ」とかすれ声で呟いた。
「え?」
「もう死んでもいいなんて……。そんなこと言うの、よせよ」
笑みを消し、こちらに体の向きを変えるパウラの気配が伝わった。艦尾にひるがえる旭日旗《きょくじつき》を見つめて、征人はその顔を振り返る勇気は持てなかった。
「そりゃ、いまはしょうがないのかもしれないけど……。戦争だって、この先ずっと続くってわけじゃない。いつかは終わる時がくる。いまあるものがすべてじゃないんだ」
搾り出した端《はし》から言葉は力を失い、風の中に残滓《ざんし》を散らしてゆく。征人は手すりの鎖を握る拳に力を込め、眼下に横たわる〈ナーバル〉を視界から追い出した。
「あんな棺桶《かんおけ》みたいな潜航艇に乗って戦うのだけが、君のすべてじゃないだろう? なりたい自分になれよ……」
それ以上は重ねる言葉もなく、征人は吹きつける風に背中をさらし、熱した頭が冷えるのを待った。ディーゼルと波の音だけが耳朶《じだ》を打つ数秒が過ぎ、不意にパウラが隣に立ったかと思うと、その手が刺青《いれずみ》を隠した包帯とともに視界の隅に映った。
「私の名前、パウラ・A・エブナーつて、真ん中にAが入ってるでしょ? これ、お祖母《ばあ》さんが付けてくれたの」
否定も肯定もせず、パウラはそんな口を開いて征人の言葉に応えた。征人は、まだ熱を帯びたままの頭でその横顔を見つめた。
「アツコ。それが私のもうひとつの名前」
艦尾方向の水平線に遠い目を向け、パウラは悪戯《いたずら》を告白する子供のような笑みを口もとに刻んだ。「アツコ……」とくり返し、ひどく艶《なまめ》かしい語感に赤面した征人は、気づかれる前にパウラから視線を逸らした。
「お祖母さん、日本のこといろいろ話してくれた。とても美しい自然があって、それが季節ごとに違った表情を見せてくれる。お寺とか神社とか、古い伝統のある建物があちこちに残っているけど、それはヨーロッパの建物みたいに、人間が自然を征服した証というわけじゃない。自然と調和するのが日本人の心……和の心で、人も、自然も、文化も、全部がそれぞれを補いあっているのが日本という国なんだって」
北西の水平線を見据えるパウラの目には、千キロの彼方に横たわる日本列島ではなく、とうの昔に消え去った幻が映っているのだろう。「……なんだか、よその国の話を聞いてるみたいだ」と言った征人に、パウラは「違うの?」と微かに顔を曇らせた。
「お祖母さんのいた頃はそうだったのかもしれないけど、いまはどこもかしこも焼け跡だらけさ。ひもじくて、息苦しくて……。和の心より、大和魂って言葉の方が大事にされてる。撃ちてし止まん、断じて行えば鬼神もこれを避くってね」
「難しい言葉……」
「簡単だよ。死ぬまで頑張れってことさ」
そうして血を流し続け、真実の破滅を目前にした現状はいまさら振り返るまでもなく、征人はあらゆる意味で遠くなった故国を水平線の向こうに捜した。フリッツは前に言っていた。国を亡くした兵士の気分を、おまえたちもじきに味わうことになる≠ニ。確かにいつかは戦争も終わるだろう。この航海を生き延びさえすれば、再び日本の土を踏む機会もあるかもしれない。だがどういう帰結を迎えるにせよ、その時、日本が帰れる国として存在しているかどうかは、誰にもわかることではなく――。
「いまがすべてじゃないんでしょう?」
横面をはたくような声音に、征人はうつむけた顔を上げた。
「私、いつか日本で暮らしてみたい。この戦争が終わったら」
水平線に目を向けたまま、パウラははっきりそう言った。落ちる一方だった気分が上昇気流に吹き上げられ、「それならさ、うちの田舎に来るといいよ」と、征人は考えなしに口にしていた。
「そんなにたいしたとこじゃないけど、海はきれいだよ。山も、川もある。おれ、石切りうまいんだぜ」
その瞬間は息苦しさも居心地の悪さも感じず、征人はひと息にまくし立てた。石切りの仕種をして見せた征人を見つめ、無言の時間を漂ったパウラは、「征人の田舎に行って、私はなにをするの?」と真顔で尋ねてきた。
自分がなにを言ったのか、思い知らされるには十分な声だった。「なにって、その……」と返した顔がみるみる赤くなり、征人は後悔の塊《かたまり》になった体をパウラから背けた。
「歌でもうたってりゃいいよ。うまいんだから」
「歌……?」
パウラは怪訝《けげん》そうに聞き返す。消えてなくなりたい衝動に駆られた征人は、「名も知らぬ遠き島より……」と、聞こえぬ振りの大声で歌を口ずさんだ。
調子外れの旋律に、「流れ寄る椰子《やし》の実ひとつ」とパウラの澄んだ声が重なる。つい十日ほど前までは忘れていた日本の歌、懐かしい旋律が全身に染み渡り、そう、いまがすべてではないのだと、征人は懲《こ》りずに楽天的な気分に浸ってみた。
嫌悪しか抱けなかった故郷の風景が、パウラと二人で帰ると考えた途端、薔薇色《ばらいろ》の世界に見えたりもする。帰るべき国、故郷は、そうして自分の手で造ってゆくものなのかもしれない。心の中の日本を喪《うしな》わず、想いを孫に託したパウラの祖母のように……。
風と波、〈伊507〉の息吹きに紛れて、征人とパウラは歌い続けた。蓋《ふた》の開いた伝声管がすぐそばにあることは、完全に失念していた。
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故郷の岸を離れて
汝《なれ》はそも波に幾月
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夢とも現《うつつ》ともつかない歌声に耳をくすぐられ、絹見は浅い眠りから立ち返った。
ラジオの音か? 寝台に横たわったまま、光除けにした略帽を少しだけ持ち上げて、殺風景な艦長室には場違いな歌声に耳を澄ます。空気をさざめかせるやわらかな声と、生硬く、一本調子な声が混ざり合って紡《つむ》ぐ歌声。壁に設置された伝声管を音の出所と確かめ、あいつらかと納得した絹見は、やれやれ……と内心に呟いた。
規律が乱れる、と艦長の頭が覚醒を促す一方で、体はもう少しこの歌を聞いていようと訴える。しばらく考えた末、絹見は体の欲求に従うことにした。
なにか問題があれば、高須たちが収めてくれるだろう。一から十まで自分でやらねば気の済まなかった自分が、他人に下駄を預けて眠ることができる。少し前には想像もしなかった心境の変化に苦笑しつつ、絹見は略帽で覆い直した目を閉じた。
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旧《もと》の樹は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
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無数のピストンが絶え間なく上下する音と、二軸のスクリユー軸が回転する音。がちゃがちゃ、ごうごうと轟《とどろ》く〈伊507〉の鼓動をかいくぐって、その歌声は機械室にも降り注いだ。「なんだ、ラジオか?」と天井を仰ぐ一等機関兵曹に背を向け、清永はわけ知り顔をにんまりとさせた。
うまいことやりやがって。この艦にたったひとりの女の声と、親友の声が混ざり合って奏でる歌に耳を傾け、旋律に合わせて鼻唄を歌った清永は、不意に冷たい風が胸を吹き抜けるのを感じて、ピストンに油を注す手を止めた。
胸ポケットに収めた御守りを取り出し、眺《なが》めてみる。早川艇長から託された御守りは、この時も男女の繋がりの重さを教え、まだその片鱗《へんりん》も知らない身の切なさを実感させて、手のひらにあった。
なにくそ、と清永は口の中に呟いた。いつかはおれも、きっと。そう思い、他のことは考えないようにして、清永は「我もまた渚《なぎさ》を枕……」と歌に合わせて口を動かした。「独り身の浮き寝の旅ぞ」と複数の声が後に続き、機械室に反響した。
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実を取りて 胸にあつれば
新《あらた》なり 流離の憂い
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伝声管から漏れ聞こえる歌声は、いつしか艦内のあちこちに唱和する歌声を生み、冷蔵室前の通路にも『椰子の実』の歌詞と旋律を溢《あふ》れさせた。フリッツ直伝《じきでん》の船酔い治療運動にいそしんでいた小松は、耳を引っ張るのをやめて周囲を見回した。
なんたる体《てい》たらく。軍歌ならまだしも、陛下からお預かりした艦で歌謡曲を合唱するとは。ぼうっと熱を持った後頭部の不快感も忘れ、小松はまず、艦長はご存じなのかと考えた。乗員が勝手にやっていることなら即座にやめさせねばならない。もともと規律を重んじる精神が欠けているところに、ローレライが万全の索敵を保証するようになって、乗員の風紀はとかく緩みがちな傾向にある。前後に続く通路を交互に見渡し、どこから手をつけようかと艦内配置図を頭に呼び出した小松は、「新なり流離の憂い、か」と、鼻唄とともに近づいてくる人の気配に気づいて、目標を捉えた狙撃手の目を背後に向けた。
水密戸をくぐり抜けたばかりの高須の、さっぱりとした顔がそこにあった。「おう、甲板士官。体操か?」と言うと、鼻唄混じりに二甲板に続くラッタルを下ってゆく。喉まで出かけた叱責の声が喉に張りつき、小松は狙撃手の目を水密戸に向けたまま、鼻唄と足音が遠ざかる音を聞いた。
先任将校が承知しているなら、まあいいか。そう納得した途端、船酔いの悪寒がぶり返し、小松は慌てて中断していた船酔い治療運動を再開した。鼻をつまんで右回りに回転し、余計にひどくなった不快感にふらふらしながら、日本人とドイツ人とでは体の作りが違うのだろうかと考えた。
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海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
[#ここで字下げ終わり]
伝声管が奏でる遠い歌声は、乗員たちの唱和する声と渾然一体になり、どれが誰の声か聞き分けることはできなくなっていた。すっかり目に馴染んだ収監室の壁を見つめ、フリッツは歌声の核にある肉親の声に意識を凝らした。
かつては自分だけに向けられていた歌声が――自分の他に頼る者を持たなかった妹の歌声が、いまは複数の他人たちの歌声とともにある。遠からず滅びる国の一兵士、なんの力も持ち合わせていない折笠征人が、その媒介《ばいかい》の役を果たして妹のそばにいる。その事実がこれからどう発展してゆくのか、本気で考えるにはまだ時期尚早であるにしても、少なくともまたひとつ、予測とは異なる方向に事態が動いたという実感がフリッツにはあった。
ずっと背負ってきた荷物が取り払われる安堵感と、あったものがなくなる一抹の寂しさ。その二つを合わせても、まだ足らないほどの困惑。困惑の中身は、この艦にある種の居心地のよさを感じている自分と、事態がどう動こうとも冷徹に対処しなければならない自分との二律背反だが、いまは突き詰める必要はなく、甘美で力強い歌声に身を委ねていればいい時間だった。祖母の家で何度も聞いた旋律に耳を澄まし、フリッツは「思いやる八重の潮々……」と声に出して歌ってみた。
最後に歌を歌ったのはいつか、もう記憶の中にも残ってはいなかった。失われたもの、これから失われるものを胸に、フリッツは無心で口を動かし続けた。
[#ここから2字下げ]
いずれの日にか国に帰らん……
[#ここで字下げ終わり]
七十五人の乗員がひとり残らず歌い、艦内中の空気を振動させている感じだった。パートで非番の体を横たえる者たちも歌声を響かせる中、田口は腕枕に頭を載せ、ひとり口を閉じた顔を天井に向けていた。
中段のベッドからは天井は直接見えず、目に入るのは上段のベッドの裏と、その縁から覗く照明灯の光だけだった。遠く近くに聞こえる歌声、陰ごしに差し込む光。あの洞窟《どうくつ》の中とそっくりだと思いつき、田口は眉間に微かな皺を刻んだ。
ごつごつした岩肌ごしに月の光が差し込み、奥の方からはいまにも絶えそうな歌声が聞こえてくる。血を吐くような、耳を塞ぎたくなるような歌声だが、誰もやめろとは言えないし、彼自身もやめることはできない。歌声が尽きた時、彼は自分がこの世から消滅することを知っているから。考えられる限り、もっとも残酷な形で消滅することを知っているから……。
ねえ、掌砲長殿。うちの田舎にいい温泉があるんです。日本に帰ったら行きましょう。潜水艦の乗員には、入湯上陸ってのがあるんでしょう?
彼は――手榴弾《しゅりゅうだん》で右膝から下を飛ばされ、瀕死《ひんし》の体を横たえる若い一等兵は、田口が介抱に赴《おもむ》くとそんな話をした。薬も、代えの包帯も尽きて久しく、水筒に溜めた湧水《わきみず》を飲ませるぐらいしかできなかったが、一等兵は人と話ができるだけで嬉しいらしく、なにかと話しかけては田口を引き止めようとするのだった。
好きな温泉に行けるってわけじゃねえよ。軍の保養所に行けるってだけだ。
そんなのかまわないじゃないですか。来てくださいよ。鯉《こい》の洗いが美味《うま》いんです。地酒だっていいのがありますよ。芸者もきれいどころがそろってる……。
バカ。まだろくに女も知らないくせに、生意気言うな。
蠅《はえ》の羽音が立ちこめる洞窟内で、一等兵は血の気の失せた顔に微笑を浮かべる。田口はその目脂《めやに》にたかる蠅を払い、小さく舌打ちする。クソ、もう喰い尽くしたかと思ってたのに、まだ蛆《うじ》が残っていやがる……。
一等兵の切断された右膝を見ると、案の定、血で真っ黒に汚れた包帯に何匹かの蛆が這《は》っている。田口はそれをつまみ、親指でぷちりと潰《つぶ》してから口に含む。乾ききり、感覚のないボロ雑巾《ぞうきん》になった舌がわずかに潤い、久々の栄養に驚いた胃袋が収縮してきりりと痛む。味はわからない。体に吸収された粘液が、蛆の体液なのか、一等兵の血なのかさえ判然としない。明確なのは、体がそれを求めているということ。もっと多く、たとえ己を形作る血と肉と同じものであっても。
『喰え』
聞き知った声が洞窟の中に反響する。体力が完全に失われる前に。壊疽《えそ》の毒が一等兵の体を腐らせる前に。これまでにもやってきたことではないか。田口は、蛆を拾う指先を硬直させる。
『喰え』
今度は複数の声がそう言い、足音も近づいてくる。田口は耳を塞ぎ、頭を抱えて地面に額をこすりつけた。
『喰え。喰え。喰え。喰え……!』
やめろ、やめてくれ。声にならない声で叫んでも、喰えと命じる声は途絶えず、足音も止まる気配はない。やがてガチャリと金属の音が間近に発し、恐る恐る顔を上げた田口は、目の前に小銃が転がっていることに気づく。田口は夢中でそれを手にし、薬室に初弾を装填《そうてん》して構える。最初は足音の主たちを追い払うために。途中からは、すべてをかなぐり捨ててでも聞かずにはいられない、いまもっとも必要な命令に従うために。
磁石に吸い寄せられるかのように、小銃の銃口が血を流して横たわる一等兵の方を向く。あばらの浮き出た腹を激しく上下させ、一等兵は歯を食いしばって恐怖に耐える。信じていた者が鬼≠ノなる、その極限の絶望が紡ぐ恐怖に。
『お母ちゃん……』
食いしばった歯の隙間からそんな声が漏れ、目脂の溜まった目尻から雫《しずく》がこぼれ落ちる。田口は目を閉じ、絶叫と同時に引き金にかけた指を――。
「ええな。若い連中は」
唐突に長閑《のどか》な声がかけられ、田口はぎょっと目を見開いた。岩村機関長がベッド脇の通路に立ち、歌声に聞き入る姿があった。
いつからそこに立っていたのか。泰然とした機械室の主《ぬし》から咄嗟に目を逸らし、顔中に噴き出た汗を拭った田口は、「まったく、しょうがない奴らです」と相手をしつつ、まだ暗い想念を引きずったままの体をベッドから立たせようとした。将校を前にした時の反射行動だったが、岩村はそのままでいいというふうに手を動かし、「掌砲長は歌わんのかね?」と穏やかに話しかけてきた。
「機関長こそ」と言い返すと、岩村はにたりと笑い、「お互い、柄じゃないわな」と応じてベッドの縁にどっこいしょと腰かけた。岩村が用もないのに機械室から出てきたことも意外なら、同じ目線で話しかけられたことも意外な田口は、戸惑う目を痩身短躯《そうしんたんく》の機関長に向けた。
「こう長いこと戦場にいると、歌ひとつにもつまらん思い出がつきまとうもんでな。この歌聞いとると、テニアンにおった頃を思い出すよ」
「テニアン島ですか。いらっしゃったんですか」
グアム島、サイパン島と並んでマリアナ諸島を構成するテニアン島は、昨年の八月に米軍に攻略され、駐留する日本の守備隊は玉砕した。いまでは他の二島とともにB−29の発進基地と化し、本土空襲の重要拠点になっている。田目は上半身を起こし、皺の一本にまで機械油を染み込ませた岩村の横顔を見つめた。
「前に乗務してた艦で、モグラ輸送をやってな。着いた途端に敵機の銃撃を食らって、十日ほど身動きできなくなったことがある。まだ敵の上陸が始まる前でな。守備隊の連中は飛行場の建設をやらされとったが、暇を見つけちゃわしらんとこに来て、本土の話を聞かせろっちゅうて……。でも艦長も守備隊の司令も、わしらが近づきあうのをあまりよく思っとらんかった。なにせ守備隊の連中は腹を減らしとったし、本土に帰りたがってたからな。下手に里心がついちゃ面倒だし、悪くすりや艦の糧秣《りょうまつ》が盗まれるかもしれんって、まあ疑心暗鬼っちゅうやつじゃ」
嫌な話になりそうだった。田口は無意識に視線を泳がせ、目の動揺を読み取られないようにした。
「だけんど、ひとりまだ子供みたいな兵隊がおってな。つい可哀相になって、こっそり饅頭《まんじゅう》を手渡してやった。そしたらそいつ、お礼だっちゅうて、テニアンで一等眺めのいい場所にわしを案内してくれた。
二本椰子っちゅうて、名前の通り椰子の木が二本立っとるんじゃが、その下から泉がわき出しとってな。そこから見る夕日は本当に絶景じゃった。そこでそいつが歌ったんが、この『椰子の実』だ。そいつ、歌ってるうちにぼろぼろ泣き出しよってな。しまいにはどうしても故郷《くに》に帰りたい、機関長殿お願いしますって泣きついてきて……。汚水の中でも燃料タンクの中でも我慢します、こっそり乗っけてくださいなんて言われて、まいったわ。わしらも無事に本土に着けるかわからんし、見つかったら軍法会議じゃぞって脅《おど》しても聞かんでな。しゃあないから、皇軍の兵士がそんなことでどうする、おまえなんぞもう知らんちゅうて、わしゃ艦に逃げ帰った。あん時は辛《つら》かった……」
痩身が萎《しぼ》みきってしまうのではないかと思わせる長い嘆息の後、岩村は、「それからひと月もせんで、敵の上陸作戦が始まった」と重ねた。
「軍属は全員玉砕して、在留邦人も大半は自決したと聞くが……。この歌聞くと、いまでもあいつの顔を思い出すよ。せめて苦しまずに末期《まつご》を迎えてくれていたらいいんじゃが」
洞窟内に漂う腐臭、蠅の羽音を思い出し、汗まみれの拳を握りしめた田口は、「生き残った人間にできることといえば、そうして冥福《めいふく》を祈ることぐらいだ」と続いた岩村の声に、顔を上げた。
「無闇《むやみ》に思い煩《わずら》ってもしゃあない。せっかく生きとるのに、それこそ死んだ人間に申しわけが立たんちゅうもんじゃ。なあ?」
笑いかけた岩村の顔を見て、少しひやりとした。自分にまつわる噂話を聞き及んでのことか、あるいは日頃の態度や目つきから察するところがあったのか。いずれにせよ、岩村は周囲を取り巻く歌声に唱和できず、ひとり仰向けになる男の心中を見抜いている。その上でこんな話を持ちかけたのだとすれば、それは自分に対する気づかい以外のなにものでもなかった。
およそ人間には興味がないという顔の機械室の主が、思いも寄らない観察眼で人を見、予想外の心遣いを示しもする。己の眼識のなさを恥じ、田口は「痛み入ります」と率直に頭を下げた。
余計な口は開かず、岩村はぽんと肩を叩いてその場を立ち去った。終わらない歌声の中に取り残された田口は、再び横になって無言の顔を上段のベッドに向けた。
確かにそうなのだろう。思い煩ってどうにかなることではないとわかっている。しかしそう言う岩村自身、いまだに『椰子の実』を歌えずにいる。おそらく一生、この曲を聞くたびにテニアンでの思い出を呼び覚まされ、胸を締めつけられる痛みを味わい続ける。それは不遇の死を遂げた者に対して、生き残った人間が背負わねばならない負債だ。
まだいい。それならまだ耐えられると、田口は不遜《ふそん》を承知で胸中に呟いた。生きていること、ただそれだけで罪になる自分よりはいい。この血、この肉が等しく罪によって成り立ち、心臓が鼓動するたびに告発される苦しみに較べれば。田口は寝返りを打ち、眠れそうもない目を閉じた。
その罪を贖《あがな》い、自分の肉体と心を取り戻すために、いまという時間がある。どんな結果を呼び込むにせよ、この艦に乗り組むと決まった時から覚悟はできているはずだった。田口はいっさいの思考を打ち消し、やむことのない歌声に身を浸した。時勢がどうあれ、生まれるべきところに人の絆《きずな》は生まれ、ばらばらな集団を結束させるように働く。同じ艦に乗り、同じ修羅場《しゅらば》を越え、同じ感情を共有する歌声を耳に、田口が感じるのは希望と絶望の両方だった。
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同刻。一九四五年八月六日、午前八時十分。
一機のB−29が、高度三万八千フィート(約一万千五百メートル)の高空から本州上空に侵入しつつあった。
機外の温度は、高度が五百フィート増すごとに摂氏《せっし》一度ずつ低下する。炎天下の地上とは別世界の冷気の中、機長のフィル・チベッツ大佐ら十二名の搭乗員たちはじっと押し黙り、各々の配置場所でその時が来るのを待っていた。その時とは、彼らの乗るB−29が目標上空に到達する瞬間であり、爆弾倉に抱えた荷物≠投下する瞬間だった。
結局、終始待つのが仕事だった――。この計画のためにのみ編制された第五〇九混成部隊の指揮を任され、観測任務に明け暮れるようになってから三ヵ月あまり。すべての仕上げを目前に控えて、チベッツにはそんな感慨があった。本国の暫定《ざんてい》委員会が指定する場所に飛び、風量、湿度、気温、天候などのデータを詳細に集め、現地の航空写真を撮影する。その間、機は高射砲弾が遠く及ばない高空で旋回を続け、観測データが集まるのを待つ。データはワシントンに直送され、莫大な資金と人材を投じた計画の戦略的な理論実証の場――つまりは目標の選定に役立てられるわけだが、これがなかなか決まらない。ここは地形的には申し分ないが文化遺産が多すぎる、あそこは軍事的な価値は認めるが効果測定がしにくいと、目標選定会議は揉《も》めに揉め、最終的に四ヵ所の目標に絞りこまれたのは二ヵ月前。グアム島の戦略爆撃司令部から、正式な実行命令が下るまでにはさらにひと月半の時間がかかり、チベッツたちはその間じゅう、ひたすら待たねばならなかった。
約五時間半前、午前二時四十五分にテニアン島を離陸してからも、先行した三機の気象偵察機が現地の天候を伝えるのを待ち、午前七時二十五分、ようやく最終的な目標が決まった。雲量、全高度を通じて十分の三以下。第一目標を勧める。第一目標に先行した気象偵察機〈ストレート・フラッシュ〉の機長が無線ごしに寄越《よこ》した声は、いまもチベッツの耳に残っている。雲量が十分の三以下なら、目標上空はほぼ快晴と見てよい。チベッツは予定通り機を第一目標へと向け――機体が目標の直上に差しかかるまでの間、またしても待つ時間を過ごしているのだった。
が、チベッツがそれを格別不満に感じることはなかった。この計画に携《たずさ》わった者の中には、もっと長い時間を待ち続けた者がいくらでもいる。二十億ドル以上の資金、カナダにまでまたがる計三十七ヵ所の研究開発施設、十二万人にも及ぶ人員を投入した未曾有の兵器開発計画――マンハッタン計画が、所期の目的を達成するまでに三年以上の歳月が費された。その最後の局面に関わっただけの自分たちなど、待ったうちに入らない。極秘裏に進められてきた計画の内容が次第に明らかになり、その尋常ならぬ規模が実感できてからは、チベッツはそう考えるようにしていた。
それでも、退屈極まりない観測任務から解放され、通常任務に戻れる安堵感は大きい。離陸前に映画班と写真班の連中に取り囲まれ、ハリウッドスター並みの扱いでカメラの放列の前に立たされると、安堵感は積極的な歓喜に変わった。歴史のひとコマに名前と顔を残せる軍人は、そう多くはいない。部下たちも同感らしく、離陸直後の機内には華やいだ空気さえあった。これで日本人《ジャップ》を降参させ、故郷に帰れるという気分が大勢を占めていたから、なおのことだった。しかし夜明けの光が凍てついたコクピットに差し込み、最終目標が決定される頃になると、寡黙《かもく》な空気が機内を支配した。冗談好きの爆撃手、フィヤビー少佐までが黙り込み、四発のエンジンの轟音《ごうおん》ばかりがコクピットの空気をかき回すようになった。まるで見えないなにかが乗員たちの背中に覆《おお》いかぶさり、休も口も重くしているかのようだった。
敵地に乗り込む緊張感ではない。高空から侵入するB−29に対して、日本の戦闘機や高射砲はまったく用をなさず、パイロットたちから敵地侵入の緊張感がなくなって久しい。革のジャケットを着ていても忍び込んでくる冷気が、体に堪《こた》えているというわけでもなかった。チベッツを含め、乗員たちが無言の重圧を感じているのは、やはり爆弾倉に積んだ荷物=\―|チビ公《リトルボーイ》の影響だろう。それがどのような原理で作動し、どれほどの破壊力を発揮するものなのか、実験データの数値を見せられただけではぴんと来ないが、なにか致命的な力を秘めていることはわかる……いや、感じると言った方が正しいかもしれない。実際にリトルボーイを預かり、飛んでみるまでは想像もつかなかったが、嫌な物を運んでいるという生理的な嫌悪感は、搭乗員全員の中に間違いなくあった。
途中で事故に遭ったらとか、爆発に巻き込まれたらとか、そんなことではない。もっと根源的な恐怖に隣接している嫌悪感――。チベッツは軽く頭を振り、操縦|桿《かん》をしっかりと握り直した。大丈夫。このB−29とともにある限り、どんなことがあろうとうまくいく。栄誉ある特別任務機を命名する時、迷うことなく母の名前が思い浮かんだのは、おそらくこうなることをどこかで予期していたからだろう。おまえは大丈夫。人生の中でどんなことが起こっても大丈夫。母はよくそう自分に言い聞かせてくれた。そう、大丈夫だ。コクピットのすぐ脇、機首の側面には、その母の名前がペンキで記してある。〈エノラ・ゲイ〉。チベツツには幸運しかもたらさないその名が、このB−29の愛称だった。
午前八時十二分、〈エノラ・ゲイ〉は目標地点への最終アプローチに入り、高度を二万八千フィート(約八千五百メートル)まで落とした。科学観測機器を搭載した〈グレート・アーチスト〉、撮影班を乗せた九十一号機の二機が、V字隊形を取って後に続く。迷彩塗装さえしていない銀むくの機体は、敵地の空を飛ぶには賑《にぎ》やかに過ぎたが、快晴の空には迎撃《げいげき》の火線のひとつも上がらなかった。三機のB−29は敵地上空を悠然と飛び、間もなく市内を縦走《じゅうそう》する川と、そこに架かるT字型の橋を爆撃用ファインダーの中に捉えた。
アイオイ・ブリッジ。投下地点だ。(|捕まえた《ガッチャ》……!)と呻くフィヤビーの声を聞いたチベッツは、リトルボーイの投下準備を令すると同時に、濃いポラロイドのサングラスをかけた。
日本陸海軍の輸送船団の拠点にして、二万五千の兵力を傘下に置く地方陸軍司令部を擁《よう》する目標――ヒロシマは、朝の平穏な空気を湛えてチベッツの眼下にあった。
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酒の残らない朝は、心と体を軽くするものだ。その日、いつもより一時間早く目覚めたおケイは、八時前には朝の支度を終えて裏庭の離れに向かった。
ぎらと照りつける太陽の光を浴びて、庭の植木は煮染《にし》められたような濃い緑色だった。まだ賄《まかな》い方の仕込みが始まらない料亭内はしんとしていて、母屋の縁側に吊した風鈴《ふうりん》も一向に鳴る気配がない。焼き下駄をつっかけ、蝉《せみ》の声だけを聞きながら離れに向かおうとしたおケイは、低いところから見上げる視線に気づいて足を止めた。植木の陰から、五分刈りの小さな頭がこちらの様子を窺っているのが見えた。
誰、と出しかけた声が喉に張りついてしまったのは、五分刈り頭の下に見知った顔を見つけたからだった。「あら、俊子《としこ》ちゃんじゃないの」と努めて穏やかな声を出すと、俊子は少し迷った仕種を見せた後、もんぺ姿を植木の陰から現した。今年小学校に上がったばかりの、出入りの便利屋の娘だったが、つやつやとしていたおかっぱの髪を刈られ、男児と見分けのつかない五分刈りにされた頭は、不似合いを通り越して異様に映った。
どこかもじもじとした素振りに、本人も気後れを感じている様子を察したおケイは、「ひとりか? お母ちゃんはどした」と自然な調子で訊いてみた。俊子が口を開くより先に、「俊子、勝手に入ったらいかん言うてるやろ」と賑やかな関西弁が発して、勝手口の方から化粧気のない女の顔が覗いた。
このあたりでは便利屋の菊《きく》ちゃん≠ナ通っている近在の八百屋の女将《おかみ》だった。出征中の夫に代わり、店を切り盛りしていたのは一年前までで、配給制が常態になり、農家も市場も闇価格での取引が当たり前になってからは、八百屋を廃業して便利屋に徹している。顧客の注文に応じ、大福一個から砂糖一貫、日用品から化粧道具に至るまで、どこからか調達してくるのがその仕事だ。
戦時下に芸者稼業をやっていれば、なにかと不足も生じるもので、重宝している芸者の数は多い。菊自身、かっては大阪の曾根崎《そねざき》で芸者をしていたらしく、いちど帯締めを注文すると、おケイの好みにぴったりの代物が出てきて驚かされた。入手経路については笑って教えてくれなかったが、好きあった男と駆け落ちし、身寄りのない広島で一軒家を構えるまでになった女には、闇市場との駆け引きも生きる知恵のひとつ、ということのようだった。
顔を合わせたおケイに「すんませんなあ」と頭を下げた菊は、背中の乳飲み子を抱え直しつつ、「今日は早いね」と続けた。官憲の目をごまかすためか、得意先を回る時は常に子連れの菊だが、俊子を連れて来たのは半年ぶりになる。「どうしたん、俊子ちゃん。疎開《そかい》に行ったんと違うの?」と尋ねたおケイに、菊は母親らしいふくよかな頬をぷっと膨らませた。
「それがひどい話でな、こないだ差し入れ持って会いに行ったら、頭シラミだらけになっとるんよ。痒《かゆ》い痒い言うて掻くもんやさかい、そこらじゅうおできだらけになっててな。なんぼなんでもひどい思て、家に連れて帰ってきたんよ」
母親の足にまとわりつく俊子の頭には、確かに掻き潰した跡が目立って見えた。親元から引き離され、食事や風呂にも事欠く環境でシラミに襲われ、挙句《あげく》に髪まで刈られた経験は、子供心にも深い傷を残したろう。おケイは腰を屈め、「辛かったなあ」と俊子の目線に合わせて話しかけた。頭に手をやってこちらを見遣った俊子は、すぐに母親の足に抱きついてしまった。
「こっちもいつ空襲あるかわからんけど、あすこに置いとくよりはなんぼかマシや思て……。同じ苦しい思いすんなら、一緒におった方がええもんな」
最後の言葉は、足に抱きついて離れない娘に向けられていた。母親になった女だけが浮かべられる笑顔を見、ふと取り残されたような寂しさを感じたおケイは、「このところ静かじゃし、大丈夫じゃろ」と言って視線を逸らした。もう壊すものもなくなったのか、連日|呉《くれ》の軍港を襲った空襲もなりを潜め、最近は空襲警報を聞くこともあまりなくなっていた。
「あんた、御用伺いに行くんじゃろ? この子、うちが見とってやろうか?」
今日は三味線《しゃみせん》の稽古《けいこ》は午後からなので、午前中は身仕度を整える他はすることもない。菊のためと言うより、その頭ではあまり出歩きたくないだろう俊子の身を慮《おもんぱか》って言うと、「そら助かるわあ」と菊は一も二もなく返事を寄越した。
「ほな昼前には戻るさかい、あんじょう頼みます」すかさず頭を下げてから、「俊子、おとなしゅう待っとるんやで。おケイ姉さんの言うことちゃんと聞いてな」と菊はまだ傷が治りきらない娘の頭をそっとなでた。俊子はいかにも不安げな顔つきだったが、「俊子ちゃんは利口じゃけえ、わかるもんねえ」と言ったおケイに、頷いてみせる分別は働かせた。
むずかり出した背中の子をあやしあやし、菊はそそくさと裏庭を後にした。母親の姿を目で追い、ぽつねんと立ちつくす小さな背中に、おケイは「なにして遊ぼうかぁ」と声をかけた。俊子のぱっちりとした二重の瞼がこちらを向き、「レコード聞きたい」と舌ったらずの声が発して、虚をつかれた。
赤盤《あかばん》指定から外れたレコードは、昼日中の来客中でもかけっ放しにしていることがある。俊子が耳にする機会もあったのだろうが、それにしても予想外の返答だった。「俊子ちゃんが聞けるようなんはないよ」と苦笑混じりに返すと、「外国の歌、聞かせてえな」とねだる声を重ねられて、おケイは二度びっくりした。
一心にこちらを見上げる俊子の瞳には、光があった。シラミに髪の毛を奪われ、継《つ》ぎだらけのもんぺを着させられていても、色褪《いろあ》せない光。そうか、わかるのか。こんな子供でもわかるものなのか。そう思った途端、不意にまったく別の顔が脳裏をよぎって、すっかり埋もれていた記憶をおケイに思い出させた。
半月ほど前、この裏庭に迷い込んできた若い水兵の目にも、同じ光があった。ボームの曲を懐かしいと言い、離れの縁側に腰かけてじっと聞き入る横顔には、帝国海軍の制服がひどく窮屈そうに見えた。こうして時間を置いて思い返し、いままた俊子の瞳の中に同じ光が宿るのを見ると、あの時に感じた思いが錯覚でないことがよくわかる。彼は確かに同じ目をしていた。大量のレコードを形見に遺し、自分の前から消えていったあの男《ひと》と――。
「人気じゃね、赤盤は」
誰にも顧《かえり》みられず、墓の所在さえ定かでない男の面差《おもざ》しを思い浮かべて、独りごちてみた。怪訝な顔になった俊子の頭をなで、「ええよ、待っときんさい」と言い置いてから、おケイは鼻唄混じりに離れに向かった。かけるべきレコードは、その鼻唄があらかじめ教えてくれていた。
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夜のごとく静かに 海のごとく深く
君の愛かくあれかし
我 君を愛するごとく 君 我を愛せば
君がものとならん
鋼《はがね》のように熱く 石のごとく固く
君の愛かくあれかし かくあれかし
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蓄音器から流れるソプラノの歌声を、俊子は縁側に座って黙って聞く。ドイツ語の歌詞の意味がわからないのはお互いさまにしても、ゆったりと過ぎる調べは子供には退屈そうなものだが、しんと動かない背中からは、それなりに鑑賞している気配が伝わってくる。生意気に、と苦笑しつつ、おケイは鏡台の前に座って髪を結う作業に専念した。
うしろに束ねた髪をほどき、絞《しぼ》り上げて銀杏《いちょう》の形に結う。もう目を閉じてでもできる夜会巻きを整えながら、こんなふうに子供の姿を鏡の端に捉え、化粧をする生活というのもあり得るのだろうかと、おケイはまったく無責任に考えてみた。子供が欲しいと芯《しん》から思えたのはたった一度、このレコードを遺《のこ》した男との将来を夢見た時だけだが、いまなら違う心持ちで子を産み、育てることもできるのではないかと思う。
この曲を聞くたびになにかしら後ろ髪を引かれ、操《みさお》を立てるとまではいかなくとも、旦那がつきそうになると無条件に身をかわしてきた自分だが、そうしていたずらに歳を重ね、生腐りしてゆく女の姿こそ、あの男《ひと》は見たくないだろうという思いが、今日という日に限って突然頭をもたげてきたのだった。それを不実とは考えずに、おケイは贔屓《ひいき》という以上に自分に目をかけ、店にもなにかと便宜《べんぎ》をはかってくれている海軍将校の顔を思い浮かべた。一週間前、同期の大佐を泊まらせてやってほしいと電話があったきりだが、どうしているのだろうか……。
「おケイ姉ちゃん」
間近に声をかけられ、驚いた拍子に海軍将校の顔は消えた。いつの間にか縁側から上がってきた俊子が、鏡の中のおケイをじっと覗き込んでいた。
「うちも、姉ちゃんみたいにきれいな髪に結いたいなあ」
夜会巻きにした頭をしげしげと眺め、俊子は絵本のお姫様でも見るように言う。抱きしめて思いきり頭をなで回したい衝動を抑えて、おケイは「そうか?」と笑顔を返した。
「うちにもできる?」
「そりゃできるよ。俊子ちゃんは器量がいいけえ、きっと似合うじゃろ」
にんまりとほころんだ俊子の顔は、五分刈りの頭に手をやるとみるみる曇りがちになり、鏡から視線を逸らすとおケイと背中合わせに座り込んでしまった。「はよ髪のびるとええなあ……」と呟かれた声が湿るのを察したおケイは、本降りになる前に座布団から立ち上がった。
母屋の支度部屋にまだ飴羊羹《あめようかん》が残っているはずだ。「ええもんあげる。ちょっと待っときんさい」と座り込んだままの俊子に声をかけ、おケイは焼き下駄をつっかけて母屋に向かった。いきなり浴びた陽光があまりにも眩《まぶ》しく、手をかざして裏庭を横切ろうとした瞬間、ふっと日が陰るのが感じられた。
ごう……という遠い唸りが、それに続く。飛行機が通ることなど珍しくもないが、微かでありながら、耳について離れない粘着質な音であったことが興味を引いた。
おケイは快晴の空を見上げ、レコードの音色を通り抜けて伝わる不協和音の源を探した。
青空の天辺で、銀色の硬質な光が瞬き、風鈴が思い出したようにチンと鳴った。
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午前八時十五分十七秒。〈エノラ・ゲイ〉の爆弾倉が開き、リトルボーイは投下された。
巨大なドラム缶に尾鰭《おひれ》をつけたという格好のリトルボーイは、同じマンハッタン計画の所産である|デブ公《ファットマン》より小型とはいえ、全長は三メートル、重量は四トンを超える。投下の衝撃で〈エノラ・ゲイ〉の機体は数メートルも跳ね上がり、チベッツ大佐は操縦桿を押さえ込むと、百五十五度の急角度で機体を旋回させ、一気に離脱態勢に入った。
重力に引っ張られ、リトルボーイは高度八千五百メートルの高みから、太田川と元安川の分岐点に跨《またが》るT字形の橋――相生《あいおい》橋を目がけて落下を開始した。気流と空気抵抗に押し流され、落下コースは東南方向にずれていったが、もたらされる結果からすれば無視してかまわない程度の誤差だった。リトルボーイは落下を続け、〈エノラ・ゲイ〉から離れて四十三秒後、午前八時十六分ちょうどに起爆した。高度五百七十六メートル、相生橋から東南に二百四十メートル離れた島医院の上空でのことだった。
通電した起爆装置が内蔵火薬に発火を促し、爆発を生じさせる。通常爆弾の爆破過程は、リトルボーイにとっては作動手順の最初のひとつに過ぎない。リトルボーイの弾頭内で起爆した通常火薬は、その爆発のエネルギーを内側に凝縮させ、ウラニウム225と呼ばれる特殊な物質に変化を促した。圧縮され、物質が現状を維持できる臨界量を突破したウラニウム235は、ウラニウム236に変貌を遂げた。そして極めて不安定な物質であるウラニウム236は、瞬時に核分裂を起こし、原子核に封じ込められた膨大なエネルギーを解放していった。
分裂した原子核は中性子を生み、中性子は他の原子核に衝突して分裂を促す。連鎖的に起こった核分裂反応がTNT火薬二万トンに相当するエネルギーを生み出し、リトルボーイの弾頭を蒸散させると、小型の太陽が広島の上空に現出した。
穏やかな朝の陽光を吹き散らし、唐突に顕現《けんげん》した二つ目の太陽を見上げた人々に、己の死を知覚する間は与えられなかった。誕生した瞬間、摂氏数百万度の熱を放った火球は、三秒後には千七百度と急速に冷却したが、その間に発した紫外線、可視光線、赤外線の入り混じった熱線は、広島市を焼き尽くすのに十分な威力を示した。熱された空気は膨脹し、爆心地は数十万気圧の超高圧にさらされ、爆風と衝撃波を市内に押し拡げた。半径二キロ以内にあった木造家屋はたちどころに炎に包まれ、音速に達した爆風に吹き飛ばされて、地上からその痕跡を消し去ってゆく。高圧空気に押し潰され、衝撃波で粉微塵に粉砕された鉄筋建築物も、市電や自動車だった鉄の残骸と一緒くたになり、灼熱《しゃくねつ》する大気の中で霧散した。
沸騰し、荒れ狂う太田川の横で、川原の草木はたちどころに水分を蒸発させて火柱になり、生物という生物、物質という物質が煉獄《れんごく》の炎に焼かれ、衝撃波に引きちぎられて無へと還元する。人類がその史上において獲得した最大の力は、そうしてまず、同族を虐殺《ぎゃくさつ》する道具として行使され、想像をはるかに超える破壊力を証明してみせた。
爆心地から二百メートルと離れていない場所にいたおケイも、その光と熱を浴びた。最初の閃光が頭上に発した時、縁側の庇《ひさし》が陰になったために、網膜《もうまく》が焼かれずに済んだのは彼女の不幸だった。死が訪れるまでの数瞬の間、おケイは青空が溶けた鉄の色になるのを見、庭の植木が一斉に燃え、離れの屋根に炎が走るのを見た。
すべてが火の色に染まった視界の中、離れの縁側に座る俊子が目と口をいっぱいに開き、どうしていいのかわからないという顔をこちらに向けた。髪を短くされたその頭は、松明《たいまつ》さながら炎に包まれていた。早く消さなければと、それだけを考えておケイは母屋の縁側を飛び降り、ほんの数歩でたどり着ける離れへ走った。その数歩でおケイの体にも火がつき、結ったばかりの髪から炎をなびかせていたのだが、苦痛を苦痛と感じる余裕はなかった。
ほとんど火だるまになりながら、おケイは離れに飛び込み、炭化して焼け火箸《ひばし》になった腕で俊子を抱きしめた。母親と引き離してしまった、悪いことをしたと漸愧《ざんき》の念に駆られ、小さな体を全身でかばう一方で、逃れようのない死を実感する意識の底では、これであの男《ひと》のそばに行ける……という一縷《いちる》の安息が渦を巻いた。しかし天を覆って降り注ぐ熱と光には、そんな微かな思いも押しひしげ、消滅させる強圧さがあった。
魂魄《こんぱく》さえ焼き尽くし、成仏《じょうぶつ》することすら許さない。この世を構成するあらゆるものを滅し、原初の形に戻す。取りつく島のない、堅く激しい力があった。
おケイと俊子の生命は、その灼熱の混沌に呑み込まれて無に立ち返り、一拍遅れて届いた衝撃波が、骨まで炭化した遺骸を粉々に吹き飛ばした。離れも、料亭の母屋も根こそぎ地面から引きはがされ、そこに在ったいくつかの生命ともども、熱の奔流の中で蒸発していった。爆心地から半径二キロ以内の場所にあった者と物は、ことごとく同様の運命をたどり、末路という言葉も当てはまらない虚無に吸い込まれて消えた。
広島上空に顕現した小型の太陽は、地上から噴き上がる灰燼に覆われて見えなくなり、一秒後には直径二百八十メートルの火球となって上空に押し上げられた。今後、六時間にわたって十三平方キロに及ぶ土地を焼き、即死できなかった数万の命を悶死《もんし》させる炎が、上昇気流を生んだ結果だった。噴き上がった爆煙は、三分後には高度一万メートルに達した。次第に熱を失い、白濁《はくだく》した爆煙の塊と化した火球を頭に戴《いただ》くそれは、遠望すればとてつもなく巨大なキノコに見えた。
チベッツ大佐ら〈エノラ・ゲイ〉の搭乗員は、機内からその凶々《まがまが》しいキノコを目撃した。爆発の瞬間、ストロボの発光に似た閃光が窓という窓を塗り潰し、濃いサングラスごしにも目を痛ませたために、彼らが通常の視覚を取り戻すには若干の間があった。誰もが言葉を失い、チベッツたちは視界を覆うキノコ雲を呆然と眺めた。原子爆弾――後に核兵器と総称されるようになる大規模破壊兵器を投下し、実戦においてその破壊力を目にする最初の人類となった彼らに、歴史の一ページに名を残す興奮はすでになかった。予想を遠く上回る威力に呆れ、畏《おそ》れながら、チベッツは数分前にも見下ろした広島の街を見下ろした。
投下目標のアイオイ・ブリッジはある。市内を縦走するオオタ・リバーの川筋も、中州《なかす》の地形も先刻見た時と変わらない。だがその表面に張りつき、人の住む街であることを教えていた無数の屋根は、そこにはなかった。
一面が白茶け、霞《かすみ》のかかった地面に散在するのは、辛うじて建物の名残りと判別できるコンクリートの塊。家屋ごと抉り取られ、地肌をむき出しにした大地を網目状に走る舗装道路。他にはなにもなく、アイオイ・ブリッジの直近に位置する産業奨励館が、ドーム状の屋根を吹き飛ばされながらも、ほぼそのままの形で残っているのが質《たち》の悪い冗談に思えた。
(爆弾なんてものじゃないじゃないか……)
無線機に流れたその声が、誰のものなのかはわからなかった。だが(最後の審判だよ)と震える声で呟いたのが、尾部砲手であることはチベッツには判別がついた。
草木一本残さずに消失した爆心地の外縁は、見渡す限り火炎に包まれている。放射状に広がる炎熱地獄を見下ろし、さらに成長を続けるキノコ雲を見据えたチベッツは、少なくともこれで日本との戦争は終わる――いや、艦艇を並べ、戦闘機を飛ばし、戦車や歩兵を戦地に送り込む旧来の戦争そのものが終わり、軍事力の在り方が根底から覆る時が来たのだと軍人の頭で考え、感傷的に過ぎる尾部砲手の弁を退けた。そして、自分がその程度の考えに終始していられる軍人であることを、ひそかに感謝した。
この破壊力の前に既存の軍事力が意味を失い、一発の原子爆弾が戦局を左右する時代が来れば、友軍の損耗は著しく軽減されるだろう。もういちど原子爆弾を投下せよと命じられたら、従うのが自分の役目だ。その覚悟はある。が、それをどこに、どれだけ落とすのかを決める仕事は、自分にはできそうもないとチベッツは思う。
焼けるものすべてが灰になった光景を目の当たりにした後では、あまりにも荷が重すぎる。これは破壊という表現では足らない、世界の相を揺るがす行為だとわかるから……。
チベッツは操縦桿を倒し、彼の母親の名を冠した爆撃機を爆心地から遠ざけた。二機の観測機、〈グレート・アーチスト〉と九十一号機も、爆心地のデータを採り、航空写真を撮影した後、〈エノラ・ゲイ〉に続いて広島上空から離れた。キノコ雲が太陽を隠し、地上の火災を引き移した空が血の色に染まっていたものの、広島の空は依然、快晴と呼べる天候だった。火災の熱が雨雲を呼び集め、高空に噴き上げられた灰燼が雨になって地上に帰る――いわゆる黒い雨が広島を濡らすのは、もう少し先の話だった。
そこに含まれた毒があらゆる生体を侵し、じわじわと細胞を破壊して、直接的な破壊に倍する死をもたらす。原爆の落とし子、放射能という名の脅威が人々に実感されるのは、さらに先のことになる。いまはただ天を裂いて屹立するキノコ雲が残り、飛び去る三機のB−29を見送るのみだった。
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「急速潜航!」
反射的に怒鳴った声で、仮眠を引きずった頭がぴしりと引き締まった。その時には寝台から跳ね起き、艦長室を飛び出していた絹見は、警報ベルが鳴り響く中、一甲板に通じるラッタルをひと息に駆け上がった。
一列になって通路を走り、艦首に向かう重石《おもし》役の乗員たちをやり過ごしてから、発令所の水密戸をくぐる。「両舷停止」「深さ十八」と次々あがる声に続いて、連絡筒を転げ落ちるように降りてきた見張り長が「ハッチよし!」と叫ぶ。条件反射で操舵員たちの舵《かじ》さばきを確かめ、各種計器に目を走らせた絹見は、ツンとした痛みを耳に感じて鼻に手をやった。
まだディーゼルが停止しきらないうちにハッチを閉じたために、艦内の空気が機械室に吸引され、気圧が一時的に下がったのだ。艦首側に二十度傾いた床に足を踏んばり、耳抜きを済ました絹見は、同じく鼻に手をやる高須と目を合わせた。
「なんだと思う?」
「わかりません。しかし折笠たちは確かに見たと言っています。警戒する必要はあります」
急な事態への戸惑いは額の汗に留め、高須は伝声管で一報を告げてきた時と同様、冷静な声で答えた。絹見は間を置かずに見張り長の方を見やり、「折笠上工とパウラ・エブナーはどうした?」と質した。
「は? パウラ……」と呆気に取られた顔の見張り長を見て、内心しまったと舌打ちした。艦橋甲板にいた見張り長には、艦内中に響き渡った歌声が聞こえなかったらしい。黙認していたことを公表するわけにもいかず、絹見は「いや、いい」と言って見張り長から視線を外した。「後部見張り員なら、上甲板から直接〈ナーバル〉に移乗しました」と、高須がすかさず補う声を差し挟む。
パウラが〈ナーバル〉に戻ったのなら、現在ただいまの索敵状況を確かめられる。まだ引き締まりきらない頭を軽く叩き、コロセウムに目をやった絹見は、艦尾側の水密戸から飛び込んできたフリッツに視界を遮られた。
当直士官の運用長を押し退け、飛びかかる勢いでコロセウムに取りついたフリッツは、手早く機器を操作しつつ、「状況は?」とこちらに視線を流した。口のきき方はともかく、よく馴染んだものだと、絹見は奇妙な感心をしてしまった。
「見張り員が艦尾方向、北西の水平線上に光を視認した。正体はわからん」
高須が答える。「光?」とフリッツは眉をひそめた。
「このあたりなら、マリアナを根城《ねじろ》にする敵機が飛来することだってあり得る。大事を取って潜航したんだが……。なにかわかるか?」
「いや。感知範囲内に異状はない」
レバーを押し上げ、最大望遠に設定したコロセウムを凝視するフリッツに並んで、絹見も砂鉄の箱庭を見下ろしてみた。〈伊507〉を表す砂粒から約四十センチ、実際距離にして八十キロほど東に水上艦船を表す砂粒が浮かんでいたが、他にはなにもない。北西方向は百キロにわたって引き波ひとつ立たず、少なくとも海上に光源の正体と思しき物体は見当たらなかった。高須の言う通り、航空機か、あるいは目の錯覚か。
「……日本のある方向だな」
コロセウムで見渡せる距離の十倍、千キロ以上の彼方に横たわる日本列島を思い浮かべて、絹見はなにげなく口にした。直後に息を呑む気配が発し、振り向くと、こわ張った顔で立ち尽くす高須の姿がすぐ背後にあった。
こちらの視線に気づく様子もなく、コロセウムを一心に見つめている。その顔から血の気が失せているような気がしたのは、コロセウムの反射光のためか? 微かな異物が思考の歯車に引っかかり、高須の顔色に目を凝《こ》らそうとした途端、「発令所より〈ナーバル〉。折笠、パウラの状態は?」とフリッツの声が飛んだ。絹見は正面に向き直り、艦内スピーカーに意識を集中した。
(感知態勢に入っています。機器正常、注水率六十パーセント)
「光を見たと言ったな。どんな光だ。窓の反射か、それともライトの光か?」
(そんなんじゃありません。もっとぎらぎらしていて、あれは探照燈の光なんかじゃない。ほんの一瞬の小さな光でしたけど、あれは……そう、あれは太陽の光に近いものです)
興奮冷めやらずといった征人の声に、なぜかざらりとした悪寒が背中を走った。「太陽の光……」と呟き、絶句したフリッツと顔を見合わせた絹見は、もういちど高須を振り返った。
コロセウムを見つめたまま、高須は相変わらずこちらを見返そうともしない。どこか一点に向けられた瞳に思い詰めた色が宿り、闊達《かったつ》な先任将校の横顔をひどく重くしていた。
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(太陽の光がなにかに反射したんじゃないのか?)
スピーカーを震わすフリッツの声は、要領を得ない説明にいら立ちを隠そうとしなかった。「違いますよ!」と、征人も負けずにいら立った声を返す。
「強く光って、すぐに消えたんです。反射の光がちらっと見えたという感じではないんです」
針の先ほどの大きさでも、網膜を貫き、脳髄に直接突き刺さるような硬い光。絶対に反射光ではない、と征人は胸中にくり返した。艦尾方向に広がる水平線を見渡し、いつしか声をそろえて歌っていた自分とパウラの眼前で、それは一秒の何分の一かの時間、確かに顕現した。歌声を消し去り、漫然と漂う穏やかな空気を打ち破るだけの高圧さをもって。
海面や艦艇のマスト、飛行機の風防がきらめいたというのとは違う。太陽のごとく自ら輝き、それでいて自然にまったく馴染まない硬質な光だった。征人は即座に見張り長に知らせ、見張り長はメガネで確認しようとしたのも一瞬、すぐに発令所に中継した。ほどなく急速潜航が令され、征人とパウラは露天甲板から〈ナーバル〉に乗り込み、目を白黒させる河野を追い出して感知態勢に入った。
パウラの判断でブルスト・ニーボー――最大望遠の設定がなされ、発令所と連絡を取り合う間もなく注水ポンプが作動した。通常は膝の高さを保っている艇内の水位は、いまは前部座席に座るパウラの胸に達しつつある。見間違いではないという確信はあっても、自分ひとりの報告でフリッツたちを納得させる自信はなく、征人は後部座席の上で縮こまったまま、ヘルツォーク・クローネに覆われたパウラの後頭部に救いを求める目を落とした。
感知に没入し、煙管服に包まれた体を水に浸すパウラは、無論なんの言葉も発さない。最大望遠でローレライ系統が稼働している時は、話しかけるのはもちろん、艇内の水に素肌を浸けるのも厳禁。必然、潜水服に着替える間のなかった征人は、水面まで引き上げた後部座席の上に追いやられ、床に足を下ろすこともできずにいた。ゴムで密閉された潜水服でもなければ、感知の妨《さまた》げになる雑念を完全に遮断する術《すべ》はないからだ。
なりたい自分になれ、などと偉そうなことを言ったそばから、パウラの能力に頼り、自分自身はなにもできずに身を小さくしている。ため息を吐き、注水の度合いを側壁の目盛りに確かめようとした刹那、微かな呻き声が注水ポンプの音に混ざった。クローネをかぶったパウラの頭が揺れ、何本ものコードが水の中でうねるのを見た征人は、前部座席の背もたれに手をついて身を乗り出した。
ぎゅっと閉じた瞼の上で、きれいな線を描く眉が苦悶の形に寄っていた。水面下に沈んだ手のひらも小刻みに震えており、「どうした、なにか感じるのか?」と思わず呼びかけてしまった征人は、袖口から露出するパウラの腕を見てぎょっとなった。
鳥肌がびっしり浮き立っている。感知の妨げになるという意識がその拍子に飛び、征人は軍袴《ぐんか》をはいた足を水に濡らした。正面に回り、「パウラ、どうしたんだよ」と顔を寄せると、閉じた瞼の下で瞳が慌ただしく動き、「Was ist das...?」という呻きがパウラの唇から漏れた。
「百人とか、千人とか、そんなものじゃない……。これは……」
敵艦を沈めた時の、高圧電流に触れたような激しさではなかった。いまにも絶えそうな微弱な電流がとりとめなく流れ、じわじわ責め立てられる感じ――。軍袴を通して足に触れる水が蠕動《ぜんどう》し、そんな感触を征人に伝えた。自分も鳥肌を立てながら、征人は「人が死んだのか?」と震える声で確かめた。
「そんなにたくさんの人が、どこでどうやって……」
痙攣するパウラの手のひらが、水の中でゆっくりと握りしめられる。感知することを拒み、それでも流れ込んでくる何百、何千、何万かもしれない怨嗟《えんさ》の渦《うず》に身を浸して、パウラははっきりとした日本語で言った。
「なにか、恐ろしいことが起きたんだと思う。想像もできないほど、恐ろしいことが……」
なんの誇張もなく、ただ事実を伝える声音が艇内にこもり、水面を揺らした。どこかで艦船が沈んだなどという話ではない、もっと取り返しのつかないことが起こったのだと想像はしても、北西の水平線に現れた一瞬の光と、その想像を繋げて考える思考回路は征人にはなかった。なす術のない無力をこの時も痛感しながら、征人はいっさいの色をなくしたパウラの横顔を見守り続けた。
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その背中を見つけられたのは、当直に就く兵たちに所在を尋ね回り、椰子林の中を十分以上も歩いた末のことだった。攻略戦の際に破壊された五インチ砲台の残骸を通り過ぎ、鬱蒼《うっそう》と茂る椰子林を抜けた先の砂浜に、ひとり佇む浅倉|良橘《りょうきつ》の背中はあった。
ピーコック岬《みさき》と呼ばれるこの海岸は、ウェーク島の最南端にあたり、俯瞰《ふかん》すればVの字に見える島の先端部分に位置する。浅倉は海側に突き出した海岸線の頂点に立ち、じき正午に差しかかる太陽には背を向けて、北西方向の水平線を見つめているのだった。三十メートルほど後方からその端正な立ち姿を眺め、額の汗を拭った土谷《つちや》佑《たすく》は、それを最後に己の気配を消した。浅倉の背中を意識の外にし、目の焦点も合わせないようにしてから、おもむろに近づく足を踏み出した。
こんなところで海軍情報部《ONI》の特殊技能を実践する気になったのは、超然としたあの顔をいちど驚かせてやりたいという悪戯心が半分、あとの半分はいざという時に備え、相手の能力を見極めておこうとする職業意識だったが、数メートルと歩かないうちにその目論見《もくろみ》は潰《つい》えることになった。軍帽をかぶった浅倉の頭がわずかに動き、殺気のひとつも感じさせない冷たい視線が、ぽんと土谷に放られてきたからだ。
背中に目をつけろ、とは戦場に出れば必ず言われることだが、本当についている奴は初めて見た。ここは素直に負けを認め、土谷は「捜しましたよ」と手を上げて残りの距離を歩いた。浅倉は無言で水平線に視線を戻し、一見無防備な背中をこちらに向け直した。
潮を渡って吹き寄せる風が、焼けた肌に心地好かった。湿気と貧窮にまみれたゴミ溜めのようなこの島にも、時おり思い出したようにいい風が吹く。土谷は浅倉の隣に立ち、その視線の先を追って北西の水平線を見渡してみた。切れ長の瞳はなにかしら焦点を結び、一心に対象物を見つめている風情だったが、土谷の目には、霞《かす》んで見える水平線と幾筋かの雲、茫漠と広がる海と空が映るばかりだった。
「予定通りか?」
彼にだけ見えるなにかを見据えたまま、浅倉が口を開いた。自分がここに来た理由を察し――いや、来ることをあらかじめ予期していた声だった。ちらと白い横顔に目をやった後、土谷は「はい。すべて」と静かに答えた。
「無電内容を信じるなら、広島は消滅しました」
「そうか」と応じた浅倉の横顔からは、なんの感情も読み取れなかった。はなから期待していなかった土谷は、「これでひとつ目……」と独白混じりに呟き、足もとに転がる小石を拾い上げた。
「三日後には二つ目が落ちる。それまで大佐の国が持ち堪えればの話ですが」
草野球をするのにも、体格の異なる白人たちと渡り合わなければならない。子供の時分からそういう環境で揉まれていれば、肩も自ずと鍛《きた》えられる。水平線に向かって投げた小石は、辛うじて目で追える距離まで飛んでゆき、波のうねりに呑まれて消えた。変わらず無表情の浅倉を横目で窺った土谷は、「まあ、どちらに転んでも損はない」と続けて次の小石を拾い上げた。
「これで日本が早々に降伏してくれれば、ヤルタの密約は事実上、意味を失う。スターリンはさぞ悔しがるでしょう。火事場泥棒の準備を万端整えていたところに、押し入る先の家が完全に焼け落ちてしまうという話ですからね」
小石の感触を手のひらに馴染ませ、重さを十分に計ってから、今度は十五、六メートル離れたところに転がる椰子の実を目がけて投げ込む。ごつっと鈍い音が波音をすり抜けて耳に届き、小石が椰子の実にめり込んだことを伝えた。
大人になってからは、白人の中でもとりわけ屈強な連中と渡り合ってきた。その気になれば、人の頭蓋《ずがい》にだってめり込ませられる。土谷は三つ目の小石を拾い、「しかし大佐は、そうはならないとおっしゃる」と重ねて浅倉の背中を振り返った。
「日本は降伏しない。ヤルタの密約は果たされ、スターリンは日本に牙を剥《む》く。米国は新しい敵との戦いに本腰を入れなければならなくなり、大佐と我々の利害が一致して……」
「独りにしておいてくれないか?」
だしぬけにそんな言葉に遮られ、土谷は軽く放り投げた小石をつかみ損ねた。抑揚のない声同様、こちらを見た浅倉の顔は先刻から変わらない無表情だったが、土谷には、その瞳孔《どうこう》の奥に閃《ひらめ》く暗い光が明瞭に見えてしまった。
殺意とさえ呼べないそれは、手慣れた業者がこれから解体する家畜を見下ろすような、人が人に向けるものでなければ、向けられるものでもない、徹底的に怜悧《れいり》で酷薄ななにかだった。この男と二人でいることに本能的な恐怖を覚えた土谷は、「……いいでしょう」と返して砂浜に落ちた小石を拾った。
「時間は、まだある」
数歩離れてから、振り向きざまに小石を投げる。浅倉の頭上をかすめ、北西方向の海に飛んだ小石は、しかし思ったより距離がのびず、白い波頭に当たって見えなくなった。
浅倉はそよとも動かず、北西の水平線を見据え続ける。その三千キロ先に彼の故国が存在することを、土谷は去り際になってようやく思いついた。
抗堪性《こうたんせい》を優先した造りのために、通信所の建物は窓が少なく、通気の悪い屋内には絶えず湿った熱気が充満している。建物の中枢にある電信室はとりわけひどく、天井の扇風機がゆるゆる回転する室内に足を踏み入れると、三組の送受信機が発する熱が問答無用で毛穴に入り込んできた。
通常、二十四時間態勢で当直に就く通信兵たちの姿はなく、無線機の前には上家《かみいえ》清《きよし》のまっすぐのびた背中がある。傍らでは鹿島根拠地隊司令が略帽を団扇《うちわ》代わりにしており、腰巾着《こしぎんちゃく》の渕田参謀長が落ち着かない目線を漂わせていたが、土谷は上家の背中のみを視界に入れてそちらに近づいていった。反感と警戒の入り混じった鹿島たちの視線を無視して、ヘッドフォンをかぶった上家の頭に「How's it going?(どうだ?)」と呼びかける。
「As expected. In fourteen hours, the President will announce the bombing of Hiroshima.(予定通りです。いまから十四時間後、ヒロシマの件について大統領声明が発表されます)」
英文に翻訳したばかりの暗号電文を差し出して、上家は眉ひとつ動かさずに答える。上家という珍しい名字は本名なのか、それとも海軍情報部《ONI》にあてがわれた偽名なのか。ふと考えかけ、別にどちらでもいいと判じた土谷は無言で紙片を受け取った。他にも三人いる部下たち同様、日系人の容姿と言語能力を買われ、中国戦線で対日工作に従事していた上家の経歴は、自分のそれとたいして変わるところがない。互いにうしろめたい過去を持つ者同士、任務に必要な能力の有無さえ確認できれば、相手のことを詮索する趣味は土谷にはなかった。電文に目を通し、「The declaration comes after being monitored by the Japs and Russkies. This is the speech that will prove the threat was fully effective.(日本《ジャップ》と|ソ連《ルスキ》に傍受されることをあらかじめ含んだ上での声明だ。たっぷり脅しの効いた演説になるだろうな)」と独りごちた土谷は、渕田が鹿島に耳打ちするのを見て微かにいら立った。
略帽を扇《あお》ぐ手を止めて、鹿島はぼそぼそと通訳する渕田の弁に聞き入っている。あてつけというより、単に無神経なのだろう。こちらの言動を監視する用心深さを示す一方で、通訳がなければ英語を解せない、己の無知をさらしていることには気づいていない。ウェーク島を計画の拠点にできたのは、浅倉に心酔する鹿島たちの存在があったればこそだが、この連中からは負け犬の饐《す》えた臭いが漂ってくる。故郷《コロニー》で嗅いだのと同じ、みじめで卑屈な人間が発する臭気。封印した記憶が頭をもたげ、肌を粟立てるのを感じた土谷は、「じきに、日本もアトミック・ボムという言葉を知ることになる」と聞こえよがしに言ってやった。
「アトミック……?」
「原子爆弾という呼び名で、日本でも研究が進められていたと聞いておりますが。ご存じありませんか?」
ぽかんと開けた口を閉じ、鹿島はむっと押し黙った顔をこちらに向けた。この南洋の孤島に繋がれて久しい負け犬に、本土の情報を知る術があるはずもない。土谷は苦笑を浮かべ、「ま、過ぎたことです」と冷めた一瞥を投げた。
「これでソ連の尻にも火がつく。ヤルタの密約が無効にならないよう、スターリンがどんな事を打ってくるか …。ゆっくり見物させてもらうことにしましょう」
「まるで我が国を蚊帳《かや》の外に置いた物言いだな」
低く押し殺した鹿島の声音に険が宿り、土谷はおやと思った。大本営には叛《そむ》いても、愛国心に変わりはないということか? 自分にはない感情のゆらめきが理解できず、気色《けしき》ばんだ鹿島の顔を見返す間に、上家の細い目がすっと鹿島に注がれた。
殺気を含んだ視線が鹿島との間合いを測り、腰に吊り下げられた拳銃を見据える。ぎょっと気圧《けお》された鹿島がわずかにあとずさり、その手が拳銃の銃把《じゅうは》に置かれるのを見た土谷は、すかさず両者の間に割って入った。
上家がその気になれば、鹿島と渕田はものの数秒で首の骨を折られることになる。全身をバネにした上家をちらと見遣り、いまは抑えろと目配せした土谷は、「お気に障《さわ》ったのなら謝ります」と鹿島に両腕を開いてみせた。
「しかし、大変な破壊力を持つ兵器です。日本を恫喝《どうかつ》して、ポツダム宣言を呑ませるのも重要な目的ではありますが、それだけではない。我が国が原子爆弾の使用に踏み切ったのは、ソ連を牽制《けんせい》するというもうひとつの目的があったからです。ドイツ陥落後、確実に勢力圏を拡大しつつある東の大国。その主義の相違ゆえに、我が国との対立を宿命づけられている一大社会主義国家をね」
ことにトルーマン大統領には、前大統領がヤルタ会談で犯した失策を挽回《ばんかい》したいという焦りがある。鉛《なまり》を呑み込んだ顔の鹿島から目を逸らし、土谷はほとんど喜劇と言っていいヤルタ会談の経緯を反芻《はんすう》した。
今年の二月、米英ソの三首脳が顔をそろえたヤルタ会談では、数ヵ月後には崩壊するドイツの分割統治問題、新設される国際連合――国連における世界安全保障機構、対日戦争の終結問題などが主な議題として話し合われたが、その対日戦争問題に関して、前大統領ルーズベルトは実に愚かな秘密協定をソ連との間に結んでくれた。ドイツ降伏後、三ヵ月以内に対日参戦を表明すれば、見返りに千島列島や樺太《からふと》南部をソ連領土として復帰させ、満洲における権益についても譲渡すると約束したのだ。
日本との中立条約を破棄し、対日宣戦を布告せんとするソ連の意志は、一昨年のテヘラン会談ですでに確認されている。にもかかわらず、ルーズベルトが大盤振舞《おおばんぶるまい》の報奨でソ連の機嫌を取り、早期の対日参戦を求めたのは、まだ息があるうちに対日戦争終結の報せを聞き、安らかに眠りたいという個人の感情が働いていたからなのかもしれない。実際、ヤルタ会談に出席した頃のルーズベルトは、脳動脈硬化症が悪化し、座っているのがやっとのありさまだった。彼は結局、ナチスドイツ降伏の報せも聞けず二ヵ月後に他界し、副大統領のトルーマンが後任の座に就いた。戦後の仮想敵国に極東の権益を与え、対ソ戦略に禍根《かこん》を残したヤルタでの失策も、併せてトルーマンに引き継がれた。
唯一、マンハッタン計画が所期の目的を達成しつつあることだけが、トルーマンにとっての幸運だった。米英両首脳間に結ばれたハイド・パーク協定により、同盟国にさえ開発計画の存在を秘匿《ひとく》されてきた原子爆弾は、強力な対ソ外交手段としても機能し得る。アラモゴードでの実験が成功する三ヵ月も前から、トルーマンは原子爆弾の攻撃目標を日本国内と定め、投下先の選定を急がせた。原子爆弾の威力を知らしめ、日本にポツダム宣言の受諾を促すとともに、ソ連に威嚇《いかく》の楔《くさび》を打ち込む。日本が早期に降伏すれば、八月十五日に対日参戦を予定していたソ連も拳の下ろし場所を失い、極東の権益をむざむざ引き渡さずに済む利点もあった。たった一発の爆弾が、現在の敵を葬り、将来の敵の勢力圏拡大も食い止めてくれる。広島に聳立《しょうりつ》した原子雲は、ヤルタの失策を補ってあまりある効能を合衆国にもたらすはずだった。
が、浅倉はそうはならないと言う。目前に立つ無知で頑迷な男の顔を見るまでもなく、土谷もその見解に異論はなかった。脅威は、それを脅威と感じる知性があって初めて成立する。自分がどれほどの深手を負わされたのか、日本が理解するまでに数日はかかり、対応を決めるまでにはさらに多くの時間が費やされる。国全体が正確な情報から隔絶され、軍部が政治の枢要を占める国家のありようは、アメリカ人の頭で量《はか》れるものではない。
日本はまだ降伏しない。そしてスターリンは、ヤルタの密約が無効になることを恐れるソ連の首相は、その間に間違いなく対日宣戦を布告する。八月十一日に予定していた参戦を早めて、早ければ三日以内にソ連極東軍が日本になだれ込む。二発目の原子爆弾が投下されるのが先か、ソ連が行動を起こすのが先か。いずれにせよ――。
「いずれにしろ、日本の頭ごしに事が進んでいることに変わりはない」
両の拳を握りしめた鹿島が口を開き、土谷は物思いを中断した。「気に入りませんか?」と言うと、脂ぎった髭面《ひげづら》が「当たり前だ」と吐き捨てて視線を背けた。
「故国が当て馬に使われるとわかって、喜んでいられるバカがどこにいる。……広島には、親類だって住んでおったんだ」
うつむいた鹿島を見遣り、渕田もおどおどした目を床に落とす。二人から視線を外し、無線機に向き直った上家の顔に冷笑の色を見つけながら、土谷は「その犠牲を無駄にしないために、この計画があるのでしょう?」と無表情に返した。
「戦後の国際情勢に鑑みれば、我が国にとっても有益な取引です。だからわたしがここにいるのです。互いによりよい未来を引き寄せるためにね」
「どちらに転んでも、損のないようにするためではないのか?」
その時だけはぴたりとこちらを睨み据えて、鹿島は言った。無能であるがゆえに、身にかかる利害には特別な嗅覚を発揮する。凡人の怖いところだと思いつつ、土谷は微笑を返事にした。鹿島はふんと鼻息を漏らし、測田を引き連れて電信室を後にした。
「Should we let it be at that?(よろしいのですか?)」
その背中を見送りもせず、上家が言う。「I guess so.(かまわんさ)」と土谷は肩をすくめた。
「All that's necessary now is to leave them to Colonel Asakura. They think of him as a kind of god. Better to just let them go until the dealings progress. I'm guessing that we all want the same outcome anyway.(連中のことは浅倉大佐に任せておけばいい。得体の知れん男だが、連中には神にも等しい存在らしい。取引が済むまでは好きにさせておくのが得策だ。我々と利害が一致していることは、間違いないのだしな)」
微かに眉をひそめて、上家は問う目をこちらに向けた。「Right?(そうだろ?)」と土谷は押しかぶせた。
「lt'd be better for United States if the Japanese population were reduced.(日本の人口は減ってくれた方が、合衆国にとってはありがたい)」
ああ、と微苦笑した上家の顔には、自分と同じ辛酸《しんさん》を舐《な》めた者の陰惨な影があった。土谷も微かに口もとを緩め、
「それと、気をつけろよ。これからは、作戦が終了するまで日本語を厳守だ」
「心得ております」
澱《よど》みのない発声で応じた上家に頷き、土谷は壁時計に目をやった。二時間の時差を無視して日本時間を刻み続ける時計は、午前十時を回りつつある。無慈悲に時を刻む秒針の音が、この時は心地好く土谷の耳に響いた。
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「本当ですよ。それまでよく晴れていたのに、昼頃になったら急に曇ってきたんです。富士山も靄《もや》がかかったみたいに見えなくなってしまって。あれは絶対に新型爆弾の影響ですよ」
九四式自動貨車の運転席で、天本《あまもと》徹二《てつじ》は鼻息荒く言う。海軍兵学校を卒業して四年、艦隊勤務でそれなりにしごかれ、マリアナ沖海戦では九死に一生を得る経験を重ねてきた天本だが、生来の話好きは以前と変わるところはない。中村政之助は「本当かね」と苦笑混じりに応じて、助手席側の窓の外を眺めた。
三階建ての隊本部の建物ごしに、朝陽を浴びて鈍い光沢を放つ巨大な鉄塔が見える。八月九日、午前八時。隊本部の中では、そろそろ夜間当直者との引き継ぎが始まる頃合だろう。不寝番《ふしんばん》はどこの基地にもいるものだが、この大和田通信隊ほど夜間当直の多い施設も珍しい。帝国海軍の無線の発受信を一手に賄《まかな》うだけでなく、外国無電の傍受《ぼうじゅ》、方位測定も行う。二十四時間、世界のどこかしらで夜が明け、電波が発信されているのだから、傍受する側も昼夜の区別なく対応しなければならないのが道理だった。
激動に激動を重ねたこの数日、日本を驚嘆させ、放心状態に追いやった外電の数々は、思えばすべてここを経由して伝えられたわけだが、当の通信隊本部は林立する鉄塔の足もとにちんと構え、平素と変わらぬ朝を迎えているように見える。滅亡の瀬戸際に立たされた国にも朝陽は昇り、人がいる限り日々の業務も続けられる。中村はふと、自分が恐ろしく長い悪夢の中にいる感覚に囚《とら》われた。
「本当ですよ。他に考えられませんよ」
「しかしな、広島と東京がどれぐらい離れてると思うんだ? 新型爆弾がどんなに強力でも、爆発の煙が何百キロも流れてくるなんてあり得んだろう」
「そこはそれ、原子の核が破裂するっていう高性能爆弾ですから。爆心地にいた連中、骨まで溶かされたって話じゃないですか」
どこから情報を仕入れてきたのか、天本はひどく簡単に言う。乗務する艦を失って以来、内地で燻《くすぶ》っている少尉風情が知っていていいことではなく、不謹慎だとも思ったが、中村はたしなめる気にはなれなかった。
天本が原子爆弾の仕組みを理解しているとは思えないし、自分自身、広島の惨状を実感として捉えられずにいる。柱島の調査行の帰り道、広島にひと晩滞在したのは十日ほど前だが、それだけに、たった一発の爆弾であの街がまるごと破壊されたとは信じられない。世話になった料亭の女将や仲居、艶《つや》っぽかった内芸者たちが骨まで溶かされ=Aひとり残らず消滅したという話は、想像の範疇《はんちゅう》を超えているとしか言いようがなかった。
昨八月六日午前八時すぎ、B−29少数機が広島市に侵入、少数の爆弾を投下した。これにより、市内には相当数の家屋の倒壊とともに、各所に火災が発生した――。大本営が各報道機関に向けてそう発表したのは、八月七日の午後になってからのことだ。壊滅的被害を被害軽微≠ニ言い換えるのを当たり前にしてきた大本営が、相当数の被害≠ニ認めたのだから、実態は推《お》して知るべしと言える。その間、物理懇談会の学者連を招集しての対策会議、被害把握のために現地に派遣する人選と、軍令部は上を下への大騒ぎになった。広島市の惨状も、万単位で膨れ上がってゆく被害者数も、霞ケ関で右往左往する軍令部員たちには実感する術がなく、痛みが痛みとして認識されるより先に、さらなる衝撃が日本を襲った。
昨日、八月八日。在モスクワの日本大便は、ソ連外相から対日宣戦布告文を手渡された。この四月に日ソ中立条約の破棄を言い渡されていたとはいえ、破棄通告後一年間は有効という条約の一文を信じ、ソ連を仲介しての和平交渉に望みをかけてきた日本大使にとっては、あまりにも突然、あまりにも理不尽なソ連の宣戦布告だった。一報を受け取った大本営は、その瞬間、文字通り凍りついた。
それからわずか十三時間後、九日午前零時には、ソ連極東軍は満洲の国境沿いに展開。東部国境、西部国境、北部国境の三ヵ所から一斉に攻め込み、吉林《きつりん》、ハルビン、新京《しんきょう》、奉天《ほうてん》など各都市への侵攻が開始された。現地には日本陸軍の精鋭、関東軍が駐留しているが、その実態は中国戦線から急きょ呼び寄せた四個師団の他に、満洲在住の民間人から動員した十五万名、在郷《ざいごう》軍人二十五万名を加えた寄せ集めでしかない。戦闘の帰趨《きすう》は、過ぎるほどに明白だった。
満洲は数日中にソ連の手に陥ちる。現地に移住した百六十万の邦人は、ソ連兵の影に怯え、飢餓と疲労に苛《さいな》まれて、大陸をさまよう長い刻苦を味わうことになる。原子爆弾の一撃を食らったところに、背中にも刃《やいば》を突きつけられた大本営は呆然と立ち尽くし、昨日一日、霞ケ閨一帯は奇妙に森閑《しんかん》とした空気に包まれた。
その後、恐慌状態に陥ることなく、とにかくも平静が保たれたのは、各人が腹を括《くく》ったからではないだろう。驚きに馴れた、あるいは麻痺したというのとも違う。大本営に参画する陸海軍の首脳たちは、驚くのに飽きたのだ。どうにもならない事態を直視して慌てるより、目の前の仕事に向き合い、ひとつひとつ片付けてゆくしかないという心境に至った。それは腹を括った人の姿にも見えるが、ようは皇軍が敗北するという不条理と向き合うのを避け、各々の仕事に逃げ込んだのだった。
自分もそのひとりだと、中村は自覚していた。違うところがあるとすれば、いま直面している仕事が特殊なもので、軍令部の組織的な保証はなく、個人的に進めねばならない点だが、仕事であることに変わりはない。昨日の夜、大和田通信隊に勤務する後輩と連絡を取り、問題の参謀が夜間当直に入ることを確かめた中村は、予定より早い実行を決めた。
その時になったら海兵教官時代の教え子、天本に協力させるつもりでいたが、彼がたまたま非番であったことも後押しになった。大湊の名前で九四式自動貨車を借り受け、朝一番で東京を出発した中村は、七時過ぎには大和田通信隊の鉄塔群を目前にした。適当な言い訳で警衛を煙に巻き、敷地内に車を乗り入れてからは、刑事よろしく、隊本部の前で張り込みを続けているのだった。
問題の参謀――村瀬《むらせ》雅則《まさのり》大佐が、素直に浅倉大佐に加担している事実を認めるとは思えない。有無を言わせぬ決定的な証拠があるわけでもない。本来ならもっと時間をかけ、確証をつかんだ上で大湊に報告し、多少なりと態勢を整えてから聴取に踏み切るつもりでいた。平《ひら》の軍令部員と、通信隊参謀とでは力の差は歴然としている。いたずらに事を急げば、真相に繋がる線が切れてしまうだけでなく、更迭《こうてつ》などの処罰を食らう結果にもなりかねなかったが、今日しかないという思いはそれ以上に強く、中村を行動に駆り立てていた。
どうかしている、と中村は自分を嗤《わら》った。しかし今日しかないと思い、目の前の仕事に追われているのは自分だけではないだろう。もう今日と同じ明日が来る保証はどこにもない。朝陽は昇っても、それを浴びる人の生活が存在するかどうかはわからない。こんな時にまったく正気でいられるとしたら、その方がどうかしている。
「……また、落ちますかね」
天本がぽつりと漏らした。愛敬者で通っていた海兵時代とは別人の、二十代半ばにしては老けすぎの瞳と目を合わせた中村は、無言を返事にした。
気休めを言っても始まらない。高空から飛来するB−29を迎撃できなければ、原子爆弾の投下を防ぐ手立てがあるはずもない。防空総本部は『新型爆弾への対策』と題して、白衣を着て横穴|壕《ごう》へ退避しろ、火傷《やけど》の手当を心得ておけと、国民向けの手引書を作成しているようだが、それこそ気休め以前の笑止だった。
今日しかない。胸中にくり返し、中村は腕時計を見た。八時三分。村瀬は当直参謀への引き継ぎを終え、参謀室に引き上げた頃か。あくびを噛み殺す天本に「そろそろ行くか」と告げて、中村は助手席のドアを開けた。
途端に大きくなった蝉の声に押され、昨夜から一睡もしていない体が少しよろけた。今日も暑くなりそうだった。
参謀室に押しかけた中村と天本を、村瀬通信隊参謀は存外平静に受け入れた。徹夜明けの顔には脂《あぶら》が浮き、四十七歳の年齢相応にくたびれて見えたが、ぴんとのびた背筋には、海軍以外の生活を知らずに齢を重ねてきた男の剛直さがある。机と書棚、いくつかの賞状の他には見るべきものもない、殺風景なこの部屋の住人に相応《ふさわ》しいたたずまいだった。
天本は指示通り口を閉じ、直立不動の姿勢を取って、軍令部の密使然とした顔で壁際に立っている。机の向こうに落ち着いた村瀬と相対した中村は、まず所在不明の戦利潜水艦の話から始めた。七月二十四日に柱島を出港して以来、〈伊507〉の消息は途絶えたままだが、外部との交信をいっさい絶っての行動とは考えにくいこと。軍令部による各通信所の内偵が実施され、この大和田通信隊にて不明瞭な暗号無電が発受されている形跡をつかんだこと。
それは米軍の暗号方式、ストリップ式暗号に酷似したもので、国内で解読に成功したという報告はまだ上がっていない。必然、〈伊507〉との関連が疑われ、さらに綿密な内偵が行われた結果、件《くだん》の暗号無電の発受信は特定の参謀が一括管理しており、電信兵にはあらかじめ暗号化された電文が渡され、受信したものについては未翻訳の状態で参謀に提出されていることが判明した。
その参謀は、かつては帝国海軍初の無線傍受機関、軍令部第四課別室に籍を置き、開戦後はドイツから購入した暗号印字機の研究にも携わっている。米輸送船団が使用する多表式換字暗号の解読の立て役者でもあり、ストリップ式暗号に対する造詣《ぞうけい》も深く――。
「軍令部総長が、貴官を寄越したと理解していいのか?」
腕を組み、無表情にこちらを凝視していた村瀬は、そこで初めて遮る口を開いた。顔面神経を総動員した能面で、中村は「は。結構であります」と答えた。
「表には憲兵も待機しております。しかし村瀬参謀の過去の功績を尊重し、名誉を傷つけてはならぬとの通達が出ておりますので、自分がお話を伺いにまいりました」
三階にあるこの部屋からは、敷地内に停めた九四貨車を見下ろすことができる。わざわざ六輪の大型車を借り出したのは、幌《ほろ》付きの荷台に憲兵が乗っているよう見せかけるためだ。相手は軍令部直轄勤務の経験者、そう簡単には動かない部内の体質も承知のことだろうが、ここははったりで押し通すほかない。正面に向けた顔を微動だにさせず、中村は村瀬の反応を待った。濃緑色の第三種軍装に包んだ体を椅子に預け、目の底まで貫き通す視線を注いだ村瀬は、やがて太い息を吐いてわずかに顔を伏せた。
無表情な横顔に影が差し、どこか投げやりになった目が床の日だまりに注がれた。そうして虚脱した時間をしばらく漂った後、村瀬は不意に顔を上げ、「聞きたいこととは、新式暗号の話か?」と中村を直視した。
「それとも自分と浅倉大佐との関係か?」
この部屋に入ってから、浅倉の名前はまだ一度も出していない。途端に跳ね上がった胸の鼓動を隠し、中村は「……両方であります」と、どうにか答えた。
「率直だな」
そう言って、村瀬はにやと口もとを歪めた。もはや今後の身の処し方に思いを巡らせる必要はなく、我々には今日しかないのだということを心得ている笑みだった。この男も同類かと実感した中村は、達成感が徒労感に相殺《そうさい》され、無感動になった面持ちで村瀬を見返した。
追い、追われる立場の違いはあっても、今日のうちに片付けられるものは片付けておきたい、その心境に変わりはないということだろう。そして仮に部内に根づいた病巣を摘出できたとしても、明日には帝国海軍そのものがなくなり、すべてが無駄になるかもしれないと知った上で、それでもおれたちは互いの役割を演じねばならんのかと、村瀬は嗤ったのに違いなかった。しょせんは観客のいない茶番劇でしかないのに、と。
しかし、どうせ発たねばならぬのなら、後を濁さずに発とうとこだわる鳥がいて悪いことはあるまい。正すべきは正し、心身ともに健やかな状態で末期を迎えさせる。己の一生を託した組織に、その程度のことを要求する権利はあるはずだった。浅倉がなにを考え、〈伊507〉がどこに向かったのか、仕事を差し引いても知りたいと訴える胸中を確かめ、無駄ではないと自分に言い聞かせた中村は、嗤わずに村瀬の視線を受け止めた。村瀬も笑みを消し、納得したとも、どうでもいいとも取れる顔を再びうつむけると、腰を屈めて机の下段の引き出しに手をのばした。
なにを取り出すのか確かめようとした矢先、「現物を見た方が早かろう」と村瀬が口を開き、中村は慌てて視線を前に戻した。
「つきあえ、大尉」
引き出しから出したものをズボンのポケットに入れ、机に置いた略帽をしっかりとかぶる。濃緑色のネクタイを正し、机から離れた村瀬に咄嗟に道を開けた中村は、「どちらへ?」と尋ねた。
「地下の保管庫だ。〈伊507〉との通信記録もそこにある」
あっさり答えた村瀬は、直立不動の天本の脇をすり抜けて部屋の扉を開けた。なにひとつ事情がわからず、おろおろするばかりの天本に小さく頷き、中村もその後に続いた。
地上の建物は事務室と隊員の居室に過ぎず、大和田通信隊の本拠は地下にある。直接戦闘に関わることはなくとも、通信そのものは絶えず実戦の緊張下にあり、隊員たちは許可がなくては外出も許されない。広大な地下室には数十人の通信兵や電信兵が詰め、それぞれの受信装置の前でヘッドフォンを耳に当て、乱数表をめくり、モールス信号を打つ姿があったが、ほとんどが中学を出て間もない少年たちがずらりと並ぶ光景は、軍施設というより学校のそれに近い雰囲気を漂わせていた。
村瀬は通信室の前では足を止めず、さらに地下に下る階段を降りていった。保管庫に続く廊下はじめじめと薄暗く、打ちっぱなしの壁と床には水の染み出した跡が目立った。
「ソ連は満洲の国境線を越えたな」
鉄扉が並ぶ無人の廊下を歩きつつ、村瀬が世間話のような口調で言った。迂闊に相づちを打てる話ではなく、中村は背後を歩く天本とちらと顔を見合わせた。
「向こうには弟の家族が行っている。海軍将校になっても事務畑を歩いてきた自分と違って、冒険心に富んだ男でね。新天地でひと旗あげると息巻いて、女房子供を引き連れて大陸に渡っていった」
定間隔に灯る裸電球に、何匹かの蛾《が》がたかっていた。村瀬は歩調を変えずに続けた。
「子供らは、いちばん上が十歳になった頃か……。まあ助からんだろうな」
不気味なほど淡々とした声音だった。この期《ご》に及んでそんな話をする村瀬の意図がわからず、中村は「お察しします」と言うのに留めた。
「なにをだ?」
突然、立ち止まった村瀬がこちらを向いた。機械仕掛けの人形を思わせる無機質な動作だった。反射的に体を引いた中村は、背中にぶつかった天本に押されて一歩前に出てしまった。
「夢の新天地で女房子供を嬲《なぶ》り殺しにされる弟の心情をか? 二言目には聖上《おかみ》の御意志、聖上の判断で、誰もこうなった責任を取ろうとしない。狡猾《こうかつ》な茶坊主の集団に顎で使われて、肉親ひとり救えないおれの腹の中身か?」
淡々とした声音は変わらなかったが、息がかかる距離まで顔を近づけ、こちらを睨み上げた村瀬の目は、それまでの自嘲的な男のものではなくなっていた。もはや目とも思えない、奈落に通じる二つの暗黒に直視され、中村は総毛立つのを感じた。
「なあ、軍令部員殿。我々にはなにも察することはできんのだよ。聖上に頭をなでられれば満足の忠犬には、人間の痛みは察せられん。国を動かすことも、ましてや世界を相手に戦《いくさ》をすることなど到底できんよ。なにせ犬なのだからな」
「大尉……」と天本が震えた声を差し挟む。血の気を失ったその顔は、村瀬の右手を凝視して動かなかった。いつの間に取り出したのか、九七式|手榴弾《しゅりゅうだん》が村瀬の手に握りしめられていた。
「おれは人間だ」
安全ピンの鉄輪とつながった紐《ひも》に親指をかけ、村瀬は手榴弾をゆっくり顔の前に掲げた。狂ったのではない。最初から――自分たちが訪れるずっと前から、村瀬は覚悟を固めていたのだろう。そうでなければ、自決用の手榴弾を事務机の引き出しに入れておいたりはしない。落ち着き払った物腰も、自嘲的な態度も、すべてここに来るための芝居だったと理解した中村は、恐怖より強い悔しさに胸を塞がれ、ゆっくりあとずさる村瀬の顔を睨み据えた。
「人間は、自分の頭で考える。いまなにをすべきか。この国を真実の破滅から救うために、すべきことはなにか。決して他人任せにはしない。責任はすべて自分で取る」
九七式手榴弾を前面に突き出し、じりじりと後退する村瀬の足が止まり、左手が鉄扉のノブをつかむ。そのまま中で爆死されたら電信記録も吹き飛び、最悪、保管庫そのものが落磐《らくばん》で埋もれかねない。とりあえずそれだけのことを考えた中村は、「それが、浅倉大佐の謀反に協力した理由ですか」と夢中で搾り出した。
「謀反……?」
おうむ返しにした村瀬は、言われるまで考えもしなかったという顔つきだった。ぞっとする胸を抑え、中村は「目的はなんです。〈伊507〉の現在位置は?」とたたみかけた。
距離は三メートル弱。村瀬が考える隙を少しでも見せれば、飛びかかって押さえ込める。そう踏んで時機を窺う中村をよそに、村瀬は話にもならないという苦笑を浮かべた。「彼は純粋な男だよ」と応じた声には、憐れみの響きさえあった。
「……そして、人を超えた者だ」
真顔になった村瀬の目に理性の光が戻り、背筋に一本柱が通ったように見えた。刹那、この男は違うという直観が全身を貫き、中村は棒立ちになった。
ただ追い詰められて自決をするのではない。この男には見えている。今日を生きるしかない自分たちには見えないもの――この国が迎えるべき明日が見えている。原子爆弾、本土決戦、一億玉砕。それらの言葉を乗り越えた先にある明日、この国の未来がはっきりと見えていて、そのために殉死《じゅんし》しようとしているのだ。多くの軍人がそうしてきたように。
人を超えた者、浅倉が指し示した未来。それはなんだと自問した体が硬直し、その間に、素早く鉄扉を開いた村瀬の体が保管庫の中に滑り込んだ。考えるより先に体が動き、中村は床を蹴って村瀬の後を追った。
「大尉……!」と叫ぶ天本に、「人を呼べ! 早く」と怒鳴り返し、電気の消えた保管庫に踏み込む。戸口から差し込む光が鉄製の棚を照らし、その上に重ねられた無数の紙|綴《つづ》りと、段ボール箱をぼんやり浮かび上がらせる。一対の目が闇の奥でぬらりと輝くのを見た中村は、なにも考えずにそちらに飛びかかった。
恐怖はなかった。知りたいという衝動が体の全部を支配し、中村を跳躍《ちょうやく》させた。紙の束が落ちる音、村瀬の息づかいが耳元をかすめ、鋭い衝撃が肩に走る。電信記録の山を蹴散らし、床に転がった中村は、腕をすり抜けた村瀬が戸口の方に走るのを見た。
紙束を脇に抱え、手榴弾を掲げた村瀬の影が廊下の逆光に浮き立つ。安全ピンの鉄輪が弾け飛び、床に落ちる音が中村の耳朶《じだ》を刺激した。
「日本民族、万歳!」
天皇陛下とは言わずに、村瀬はそう絶叫した。たとえようのない違和感が中村の胸中にわだかまり、直後に発した閃光がそれを永遠に吹き散らした。
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「死んだ……?」
受話器がぐんと重みを増し、取り落とさないよう、もう一方の手を添えなければならなくなった。続く電話の声はことごとく頭の中を素通りし、すべてを重くする重力だけが、軍令部第五課室の課長席に収まる大湊に残された。
中村が死んだ。実りの少ない調査行に随行し、自分以上によく働いてくれたあの男が。まだ若い心で軍令部の硬直を嘆き、自分以上の情熱をもって浅倉を追っていた中村が、死んでしまった。戦場ですらない内地で。敵弾を受けたのではなく、味方の将校の自決に巻き込まれて――。四日前、ベンツに乗って現れた時のいたずらっ子のような顔、火打石を打って送り出してくれた時の生真面目な顔が思い出され、なぜ、どうしてと大湊は自問した。
なぜ止められなかった。どうして自分ではなく、中村が犠牲になった。睡眠不足で鈍った頭にくり返し唱える間、天本と名乗った電話の相手は喋り続け、自分は応援を求めに現場を離れたから助かったこと、天井が崩れて保管庫がめちゃくちゃになったことなどを大湊に伝えた。千々《ちぢ》に乱れた思考が話についてゆけず、理解しようと思う先から新たな言葉が流れ込んできて、窒息の恐怖を覚えた大湊は、「ちょっと待て」と遮る声を出した。
「地下室が崩れたという話はわからん。村瀬大佐は手榴弾を持っていたのか?」
電話の向こうに集中した意識に、「五課長!」と別の声が押し入ってくる。同室の課員が目の前に立っていたが、大湊は手で制して天本の声だけを聞くようにした。急用だとわかっても、飽和寸前の頭にこれ以上のものを詰め込む自信はなかった。
「それで他に負傷者は? 火は出たのか? 電文の記録はどうなった。すべて焼失したということはないはずだ」
そのために中村が死なねばならなかったのなら、切れ端のひとつでもいいから見つけ出し、調査活動を引き継がねばならない。そうしないと申しわけが立たないという思いに駆られ、こめかみの痛みを堪《こら》えて耳を傾ける横で、「五課長、長崎が……!」と制止を無視した課員の大声が重なる。ぎりぎり保ってきた理性の糸がその拍子に切れ、大湊は「少し待て!」と怒鳴ってしまった。
「原子爆弾です!」
それよりも大きい声で課員が怒鳴り返し、大湊の頭蓋を根底から揺さぶった。電話の声が急に遠くなり、代わりに扇風機の音が奇妙に大きく響いた。
「今度は長崎がやられました。たったいま報告が……」
五課室で立ち働く全員が凍りつき、慄然《りつぜん》と立ちつくす中、その課員は青ざめた声で続けた。大湊は、ガタンと足もとに鳴った音を聞いて微かに肩を震わせた。
手から滑り落ちた受話器が、床に落ちた音だった。拾わなければと思いつき、床に目を向けた途端、床の木板が猛烈な勢いで迫ってきた。咄嗟に押さえようとした時には遅く、大湊は椅子から転げ落ちた体を床に倒れ込ませていた。
「五課長!」「お気を確かに」と課員たちの声が遠くに響く。大丈夫だ、という声は声にならず、大湊は指一本動かせない身を床に投げ出した。
最初の原子爆弾投下以来、二時間と続けて寝ていない体が、ここに来てついに反乱を起こしたようだった。海軍将校ともあろう者が情けないと叱咤《しった》しても、断線した神経が回復する兆《きざ》しはなく、うつ伏せになった体は無様をさらし続けた。
「医者だ! 誰か手を貸せ」という声も、複数の足音も次第に遠くなり、あらゆる感覚が闇に溶融《ようゆう》してゆく一方、大湊はここには存在しないはずの顔を見、聞こえるはずのない声を聞いた。闇の底からわき出してきたそれは、いつしか現実の知覚との境界線を失い、捜し求めていた白い顔貌を克明に結実させる。あれはいつ、どこでのことだったろう? 眼前に現れた顔をなんの不思議もなく見つめ、大湊は考えてみた。
酒と肴《さかな》を並べた膳を挟み、自分は彼と向き合っていた。絶対死を乗り越え、より妖しくなったように見えるあの男が、避けられざる日本の死について語るのを聞いた。それを乗り越えた先にある未来――あるべき終戦の形≠ノついて語るのを、確かに聞いた。
――無能は人を殺す。そうだろう?
むざむざ中村を死なせた自分、二発目の原子爆弾を防げなかった日本を嗤い、赤い口腔が蠢《うごめ》く。すぐ目の前にありながら、彼岸から見下す男の顔に手をのばし、大湊はわずかに残った意識で絶叫した。
浅倉、貴様はいまどこに――。
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スコールの近い空は、手をのばせば届きそうな雲に覆われていた。灰色に鈍った海はろくに波も立たず、遠い遠雷の轟《とどろ》きがねっとり湿った空気をかき回す。
八月十日、午前六時十五分。海図と昨晩の天測の結果、それにコロセウムの立体画像が確かなら、〈伊507〉はウェーク島まであと数キロの位置まで来ている。そろそろ水平線上に島影が見える頃合だが、二時間ほど前から立ちこめ始めた靄《もや》のせいで、視界は一キロと効かない。絹見は艦橋甲板備え付けの十二センチ望遠鏡から目を離し、主砲ごしに前部甲板を見下ろしてみた。
十人ばかりの乗員たちが、全裸に近い格好で集まっている姿がある。南洋名物のスコールで垢《あか》を落とそうという連中だ。洗面器一杯の水で洗顔から歯磨き、一日の生括に必要なすべての水を賄《まかな》わなければならない潜水艦では、入浴は夢のまた夢。こすり取った垢の量を競い合う日々を送っている乗員たちは、雨が降れば石鹸《せっけん》を体に塗りたくり、交替で露天甲板に上がってくる。どこの潜水艦でもやっていることだった。
スコールは降雨時間が短いので、一時に全員というわけにはいかない。これまで五回スコールの下を通ったが、ようやく一巡したかしないかだろう。この時ばかりは日頃の規律第一主義を捨て、裸集団の一端に加わっている小松少尉。がっしりした背中にも古傷をこしらえた田口兵曹長。早くも泡まみれになっている清永上工。折笠上工は〈ナーバル〉にいるパウラのことが気になるのか、時おり艦尾方向に窺う目を向けている。裸の男が十数人、いかつい連装砲を背にしてスコールの到来を待ち侘びる光景は、微笑ましいやら、情けないやらだったが、少なくとも彼らは生きている。この中の誰も失うことなく、無事に目的地にたどり着けたのだから、艦長の立場としてはひと安心というのが絹見の本音だった。
乗艦前に呉で戦死した十一人と、〈しつこいアメリカ人〉との戦闘で死んだ三人の乗員たちの遺族への手紙は、暇を見てはぽつぽつ書き続けている。艦長の義務というわけではないし、各科の責任者が個別にしたためた手紙もあるのだが、最初に艦長職を拝命した時から、絹見は自艦の戦死者の遺族には必ず手紙を書くようにしていた。人としての礼儀……と言えば格好もつくが、実際には、精神的にもっともしんどい作業を己に科し、次の戦闘への教訓にしていると言った方が正しい。
戦争では、人の死も事態のひとつと受け入れるよりないが、部下を失うしんどさを骨身に染み込ませておけば、戦闘中に誤った判断をしないで済む。軍人の本能に支配され、退き時を見失う愚を犯さずに済む。三年あまりの教官生活ですっかり干からびたつもりでいても、いざ海に戻れば、考える前にそんなことを実践している自分がいる。どうやらおれは根っからのドンガメ乗りらしい、とため息混じりに認め、絹見はひとつひとつが黄金に値する部下たちの背中から視線を逸らした。
もう、誰も失いたくないものだ――。どんより曇った空を見上げ、この数日見かけない亡霊の顔を思い浮かべた時、通信室に出向いていた高須がハッチから顔を覗かせた。手ぶらで戻った先任将校に結果を予期しつつも、絹見は「どうだ?」と一応尋ねた。
「だめです。来ていません」
案の定の答を寄越し、高須は絹見の隣に立った。最後の定時連絡があってから、じきまる一日。本来なら八時間ごとに送られるはずの軍令部からの無電連絡は、昨日の十六時以降完全に途絶えている。こちらからの発信にも応答はなし。念のため通信装置の試験を行い、配線を徹底的に調べてもみたが、異常は認められなかった。
たとえ解読不可能の暗号と太鼓判を押されていても、敵に傍受され、位置を気取《けど》られるのはおもしろくない。これで最後の因果を含め、連絡請ウの暗号電文を打ったのは一時間前だが、入電は依然なしのつぶてだった。
「こちらの通信装置に問題はないのだから、やはり向こうでなにかあったと見るべきだな」
「大和田通信所が爆撃されたんですかね?」
「一時にすべての機能を失ったとは考えにくいが……。先日の光といい、気にはなるな」
結局、正体のつかめなかった発光現象の件を持ち出すと、高須は微かに顔をこわ張らせた。しばらく沈黙した後、「艦長も、『マッチ箱』が日本で使われたとお考えですか?」とためらいがちに口を開いた顔は、乳白色の靄を見据えたままだった。
「考えたくはないが、もしそうだとしたら、軍令部が我々を本土から遠ざけた理由は説明がつく」
「ローレライの安全確保……」
「そうだ。軍令部が『マッチ箱』の使用を予期していたらの話だが」
ローレライ系統を構成する大規模な自動計算機――コンピュータとかいう技術の結晶を目の当たりにした身には、『マッチ箱』も決して絵空事の話ではない。高須は、「たまりませんね」と漏らして遮浪壁に両手をついた。
「そうまでして秘密兵器を守っても、肝心の日本が焼け野原になってしまうというのでは……」
遠雷が轟き、靄に煙った水平線に細糸のような稲妻《いなずま》が閃いた。返す言葉もなく、絹見は正面に目を戻した。
スコールが間近に迫ったのか、生暖かい風が頬をねぶった。陸地が近いことを教える、潮の生臭さを含んだ風だった。
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どん、どろどろ……と腹に響く遠雷の音は、呉で聞いた爆撃の音に似ていなくもなかったが、それよりは柔らかく、大気全体に染み入る広い響きがある。子供の頃の習い性でむき出しの臍《へそ》に手をやり、周囲の目を気にしてすぐに離した征人は、ふと〈ナーバル〉の中にいるパウラの顔を思い出した。
あれ以来、あの不思議な光は二度と現れず、正体不明の感知波に苦しめられることもなかった。歌声が艦内中に響き渡っていた、と清永から聞かされた時にはさすがに冷汗が出たが、それも黙認された気配があれば、今度は水浴びを……と新たな野望がわいて来るのだから、我ながら現金なものだった。
海水が自由に使える分、思ったより衛生事情は良好なようだが、真水で体を洗える気持ちよさとは比較にならないだろう。あれこれ思案を巡らせてみたが、よもや裸の男に混ざってスコールを待つというわけにもいかない。ならせめて艦内に降りる自由は与えられないものかと、田口にそれとなく相談してみたものの、『おまえひとりであの娘の安全を守りきれるのか? ここには七十四人の男がいるんだぞ』と言われれば、あきらめるしかなかった。
パウラは以前と変わらず、〈ナーバル〉で缶詰の日々を過ごしている。いまも前部座席に身を横たえ、耐圧殻ごしに遠雷の音を聞いているだろう。雷、怖くはないだろうか? ドイツには雷様の言い伝えはないんだろうか? もっとも怖いかと尋ねたところで、『別に。あなたは?』と無表情に返されるのがオチだけど。
「来たれ、スコールよ!」
そんなこちらの思いをよそに、両手を天に広げた清永が朗々と叫ぶ。艦の舳先《へさき》に立ち、灰色の海と低く垂れこめた雲を背景に叫ぶ姿は、さながら西洋の預言者といったところだが、石鹸の泡が背中にまだら模様を作り、お灸《きゅう》の跡が目立つ尻を丸出しにしているのだから、どうにもしまらない。正面から見たさまはもっと壮絶だろう。いま〈伊507〉を発見した敵艦がいたとしても、気味悪がっておいそれとは攻撃してこないに違いない。
もしおれがスコールの立場なら、絶対に避けて通る。そう思った途端、スコール直前の強風に煽《あお》られた海面が騒ぎ出し、前方から雨の幕を垂らした低い雲がゆっくり近づいてきて、征人は呆れた。スコールには美的感覚というものがないらしい。
スコールは三十秒と待たずに通り過ぎることもある。全員が驟雨《しゅうう》を逃すまいと身構える中、征人は石鹸の所在を探して周囲を見回した。全員に一個ずつというわけにはいかず、石鹸は五人で一個を回すようにしている。早くしないと、順番が回ってくる前にスコールが行ってしまう。腰に手を当てて湿った風に鼻をひくつかせる田口、がぶり始めた波のせいで船酔いに拍車がかかったのか、青い顔で二十・三センチ砲の砲塔に手をついた小松。裸になれば階級もなにもない男たちの顔を順々に眺め、河野の手に石鹸が握られているのを確かめた征人は、「あ、なんだなんだ、おい。どこ行くつもりだ?」と悲鳴に近い清永の声を聞いて、艦首側に目を戻した。
艦首から百メートルの場所にまで近づいた雨の幕が、風に押されて左の方に流れてゆく。「そっちじやない、こっちだこっち!」と清永が怒鳴り、地団駄を踏んでも、いったん逸れたコースが元に戻るものではなかった。慈雨をもたらす低い雲は〈伊507〉の直前でぷいとそっぽを向き、左舷側の海を滑って艦から遠ざかっていった。ザーッという魅惑的な雨の音と、触れるだけで水滴がつきそうな湿った風が、待《ま》ち惚《ぼう》けを食った十数人の男たちに残された。
やはりスコールにも見る目はあるということか。気紛《きまぐ》れな女に肘鉄《ひじてつ》を食らわされた面持ちで、一同は互いの顔を見合わせ、それからなぜか一斉に清永に振り返った。当の清永は泡を散らしながら甲板上を走り、左舷側の手すりに乗り出せるだけ乗り出して、世にも情けない顔で遠ざかるスコールを見送る。
「取り舵一杯! 〈伊507〉、スコールを追え!」
左舷を指さし、大真面目にがなる姿に、全員ががっくりと肩を落として視線を逸らす気配が伝わった。放っておけば海に飛び込みかねない勢いの清永に、征人は「無茶言うなよ」と言っておいた。
「なにが無茶だ! この泡、どう始末をつけてくれるんだ」
清永が泡まみれの手をのばしてきたのと、「見えたぞっ!」という声が頭上に発したのは、同時だった。
二本の砲身ごしに、艦橋上に立つ見張り長が前方を指さしているのが見えた。隣では絹見艦長が双眼鏡《メガネ》を構えており、そのレンズが強い光を一瞬反射させると、不意にじりじりと背中を焼く陽光が艦首側から差し込んだ。
雲が急速に流れ、曇天《どんてん》一色だった空が切れ切れに鮮烈な青を覗かせる。雲の切れ間から差し込んだ陽光が海面を照らし、それまでの鈍った色が嘘のような明るさを取り戻した先に、忽然《こつぜん》とひと塊の陸地が横たわっていた。
それが目指す目的地だと理解できる頃には、スコールが残した霧に陽光がからみつき、七色の虹の被膜が〈伊507〉と島の間の海を飾った。手のひらほどの大きさに見える島は、忘れて久しい樹木の緑を湛え、決して動かない影を水平線上にへばりつかせている。「ウェーク島か?」と最初に口を開いたのは、泡まみれの手を額にかざした清永だった。
「あんなに小さいのか」「えらく平べったいな」と他の乗員たちが次々に口を開く。「文句言うな。久々に陸《おか》で眠れるんだぞ」と言ったのは田口だが、その声のどれもが、ようやく目的地に到着した安堵より、不安とも畏怖ともつかない感情を滲ませていた。
それほどに小さく、人の立ち入りを拒むなにかを発している島。砂漠でオアシスを見つけたかのごとく、「陸……」と呟き、よろよろと手をのばした小松を背に、征人は行く手に立ち塞がる絶海の孤島を凝視した。
「ウェーク島……。あれが」
南洋の太陽に馴染んだ緑の色は黒々と深く、征人の胸にも正体の定まらない不安をしこらせた。
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『チョンヌケ、チョンヌケ、よあさで、えいや……』
とりすました三味線の音色に混じって、そんなお囃子《はやし》の声が聞こえてくる。どこかの座敷で拳《けん》をやっているらしい。お囃子に合わせて客と芸者が拳を出し合い、負けた方が着物を一枚ずつ脱いでゆく。淫靡《いんび》で、他愛ない遊び。艦隊勤務の頃は、自分も上官の命令でよくやらされたものだった。どっとわき起こった哄笑《こうしょう》に女たちの嬌声《きょうせい》がかぶさり、当時の甘苦い記憶を噛み締めた大湊は、しかしすぐに眉をひそめた。
かかる時局に不謹慎な……と思うそばから、つい先日も同じような場面に遭遇した、あれはどこだったろうと疑問が立ち上がり、広島という地名をぽつんと記憶の桶に浮かび上がらせる。そう、ひと晩世話になったあの料亭でも、灯火管制用のカーテンの奥でこんな騒ぎが繰り広げられていた。その記憶は、次に原子爆弾という重い言葉を思い出させ、大湊を暗黒の淵《ふち》に追いやった。
この嬌声も、それを不謹慎と感じる自分も、自分にそう感じさせるこの国の状況も、原子爆弾は等しく消し去ってしまう。何人死んだ? あの晩、自分をいら立たせた哄笑と嬌声の主は、残らず地上から消滅してしまったのか? ひとりでもいい、生き残っていてくれ。不謹慎だろうがなんだろうが、すべてが無になるよりはいい。人肌の温もりが感じられるのなら、それだけで愛しいと思える。騒げ、もっと騒げ。聞かせてくれ、人の声を。
そう叫ぶ一方で、大湊は、それが叶わぬ願いであることを知っていた。原子爆弾は広島を焼いた。国を守る軍人でありながら、自分はそれを防げなかった。これからも防げないだろう。国が次々焼かれてゆくさまを、指をくわえて見つめるしかない。
なぜだ?
『始めから勝ち目のない戦《いくさ》だった』
無能は人を殺す、と言った声と同じ声が答える。そうだろう、と大湊は認めた。そんなことはわかっている。でもやらなければならなかった。やりようはあると信じた。大日本帝国の威信と主権を守り抜くためには、他に――。
『それは、容認できる。尊厳を持った人の意志として、また人情として了解できる。だが我々は軍人だ』
闇からわき出る声が重力を生み、大湊の意識を一点に引き寄せる。三味線の音色とお囃子の声が明瞭になり、立ち働く仲居の気配が襖ごしに感じ取れるようになると、ぼやけた視界が急速に像を結び始めた。まだ焦点の定まりきらない目で、大湊は床の間に生けられた花を見、声の主の顔貌を正面に捉えた。
『日本にあって、国際人たれと教育を受けてきた海軍将校だ。それがなぜやすやすと時勢に流された? 大衆はもとより、それぞれに知恵を持つ知識層までが無意味な精神論に走り、勝てない戦争を勝てると信じ込んだのはなぜだ?』
膳に並んだ酒や肴にはいっさい手をつけず、浅倉良橘は昏《くら》い目で問う。手にした猪口《ちょこ》を口に持っていく機会を失い、大湊は黙ってその顔を見返した。
『思想統制の結果だけではこうはならない。押しつけられれば、どこなりと逃げ道を探るのが人の質だ。こうもやすやすと軍政を受け入れ、勝てない戦に一丸となって突入したのは、そうさせる下地が日本人にあったからだ。八百万《やおよろず》の神がおわす国、不滅の神州、畏《かしこ》くも天皇陛下が治められる国……。自分たちは特別だと信じる中身のない高慢と、それを支える精神的な柱。その根元に寄り添ってさえいれば、安心して生き、死んでゆける。己の尊厳を仮託するものがこの国にはあるからだ。拠《よ》って立つものの存在が、日本人の正当な知の発動を妨げていたからだよ』
集団制裁の悪しき因襲に真っ向から挑み、先輩たちの食事に下剤を混ぜた海軍兵学校の異端児。着々と海軍エリートの道を歩みながら、海兵時代の破滅的なまでの純粋さ――凶暴とも思える衝動を内に秘めた純粋さを失わず、縦割り社会に波紋を巻き起こしてきた華族出身の逸材。そこにいるのは大湊の知る浅倉良橘であり、またそうではない誰かだった。あれ[#「あれ」に傍点]以来、深い部分でなにかが変わり、近しい者にも本心を見せなくなった未知の存在。強《し》いて言うなら、浅倉の生皮をかぶった何者かが、芸者を下がらせた料亭の一室で大湊を直視しているのだった。
誰もがその死を疑わなかった南方の地獄から、奇跡的に生還して半年が経っていた。見た目には障害もなく、大川内軍令部総長の口添えで軍令部への栄転を果たした浅倉だが、大湊には、それが以前の浅倉とは思えなかった。鋭く冴えた脳の働きはそのままでも、それはもう海兵時代の溌剌《はつらつ》とした精神に支えられたものではない。軍令部という機構の中で一定以上の立場を維持するべく、徹底して己を押し殺す機械のような能面と、昏い目で軍部や政府への憎悪を吐露《とろ》する顔。以前はもっとスマートに使い分けていた二つの顔を、それとわかるほど露骨に表す男になってしまった。そうなったことについて言い訳もしなければ、誰にも意見をさせない。同じ人間と捉えるのも困難な、冷たい空気の層を身にまとった男になってしまった。
病苦に倒れた前任者に代わり、第一課長に補職されたばかりの浅倉を呼び出したのは、純粋に昇進祝いの一席を設けたかったというのがひとつ、そんな男の腹の中身を確かめておきたいというのがもうひとつだが、いざ差しで向き合えば、己の力不足を実感せざるを得ない。当たり前の頭しか持ち合わせていない身には想像外の発想、言葉の渦に呑み込まれ、溺《おぼ》れないようにするのが精一杯……というのが、大湊の偽らざる心境だった。
『そういう生き方が許された時代もあった。しかしいまは違う。日本の理念が国際社会では通用しない現実を、この戦争は我々に思い知らせた。にもかかわらず、もはや無力と証明された精神論を振りかざし、視野|狭窄《きょうさく》な作戦から生み出される戦略的|齟齬《そご》をごまかし、己の無能を隠蔽《いんぺい》し続けている奴らがいまも存在する。それは度しがたい。もし日本が戦後に生まれ変われるのなら、この精神論の根本、拠って立つものを完膚《かんぷ》なきまでに叩き潰した方がいいのかもしれん。現人神《あらひとがみ》も、八百万の神も存在しない。日本列島は資源の乏しいただの島でしかない。己の行動の論拠は、己自身で立てるよりないのだとわからせるために』
浅倉の唇がにやと蠢き、微笑らしき表情を作ったものの、笑ったのかどうかは判然としなかった。軍令部勤務の将校とはいえ、憲兵か特高の耳に入ったらただでは済まない発言だったが、浅倉はさざ波ひとつ立たない静かな目をこちらに注いでいる。絶対死を乗り越え、恐怖を恐怖と感じ取るのをやめた男には、人間社会のしがらみなど取り合う価値もない、と教えるように。
温まってしまった冷や酒を呷《あお》り、ざわざわと騒ぐ胸を落ち着かせたつもりになった大湊は、『しかしな、それでは日本人ではなくなってしまうよ』と無理に浮かべた苦笑で応じた。
『上意下達の徹底、分限、奉公の美徳。日本人を日本人たらしめている美風の根本は、目上の者に対する信頼であり、尊敬だ。それは実体のないものかもしれんし、ともすれば自分で考える頭をなくさせかねんものだが、みんなその中で最善を尽くしている。律儀《りちぎ》であろうとすることに誇りを持っている。それを否定して、全員に個人において責任を持てというのは、酷だよ。日本のいいところがなくなってしまう』
言いながら、海兵での一件しかり、思えば浅倉にはもとより日本人的な部分が希薄だったな、と大湊は納得する。その反面、誰よりも律儀であろうと努め、国の将来を憂える思いも人一倍だったからこそ、決まりきったエリート街道から逸脱していった経緯は、帝国海軍に浅倉を使いこなす力量が――その自由な発想を取り込み、才能を活かす柔軟さがなかったことの証明なのだろう。
そして、その結果が口にすることも憚《はばか》られる地獄を彼に経験させた時、浅倉のような男には、余人には見えない敵≠フありようが見えてしまった。米国という物理的な敵ではなく、人心に巣食い、国を誤らせる敵の存在が見えてしまった、ということなのかもしれない。考え出せば深みにはまりかねない直感に背を向け、大湊は自分の猪口に手酌《てじゃく》で酒を注いだ。浅倉にも勧めようとしたが、乾杯の酒にもいまだ口をつける様子はなく、大湊は仕方なく苦笑を消した顔を正面に向け直した。
『民族が生き延びるための通過儀礼。……そうは考えられないか?』
あぐらをかいた膝に両手を載せ、垂直に立てた背筋をぴくりとも動かさずに浅倉が言う。大湊は、その前に並ぶ魚の煮付けがいつの間にかなくなり、洗ったようにきれいな皿だけが残されていることに気づいた。
『精神論を捨て、現実的な実践主義者《プラグマティスト》として再生を期す。日本民族が滅亡を避け、苛酷な国際社会で生き残るためにはそうするしかない。このまま連合国に降《くだ》って、米国に占領されてみろ。日本人は己の虚無と向き合い、新しい自我を確立する機会を永遠に失ったまま、連中の物量経済に呑み込まれる。国体の見えない資本主義経済の恐ろしさを、貴様は想像したことがあるか?』
即答できる設問ではなく、大湊はタバコをくわえて時間を稼いだ。顔をうつむけ、マッチの火をタバコの先に近づけると、浅倉の手が素早く膳の上を走り、茶わん蒸しをわしづかみにする光景が視界の隅をよぎった。
ぞっとした。できれば上げたくない顔を上げ、ちらと浅倉の様子を窺った目に、茶わん蒸しを直接口につけ、ほとんど音も立てずに啜《すす》る姿が焼きついた。ひと息に啜った茶わん蒸しを噛まずに呑み下し、赤い舌で茶碗の内側を舐め拭くさまは、貪欲な爬虫類《はちゅうるい》か、餓鬼の姿を大湊に連想させた。
名誉、尊厳、人間性までが剥奪《はくだつ》される地獄で、絶対死を乗り越える経験をすればこうなる。喰うという利己的な行為の重さ、汚さを染み込ませた体は、人にその様子を見られる恥辱を忌避《きひ》する。一片も残すまいと茶碗を舐め尽くす一方、不意にこちらを見た浅倉の目がそう語り、大湊は慌てて視線を伏せた。燃えつきる寸前のマッチの火をタバコに近づけ、しばらくは無心に煙を肺に吸い込んだ。
『分限をわきまえない企業活動、その下僕となって消費に踊らされる大衆……。最低限の道徳も失った混沌が日本を支配する。唯一、それを律せられるのは、道徳観念を基点に置いた国民性だ。国家という総体が示し得る正義だ』
続けた浅倉の顔に、下卑《げび》た餓鬼の面影は微塵《みじん》もなかった。先刻の光景は幻かと疑わせる整った能面の前で、きれいに拭《ぬぐ》われた茶わん蒸しの碗がぽつねんと置かれていた。
『その点、多民族国家の米国はぎりぎりの線を保っている。個々の自由と権利を謳いながら、開拓者精神、自治の美徳で総体の正義を語り、それを維持するための個の犠牲は英雄視される。日本人がこの強《したた》かさを手に入れ、個と全のよりよい協調関係を築くには、いまある幻を打ち砕かねばならん。拠《よ》って立つものを自らの手で壊し、自分の足で立つことから始める必要がある。新しい国民性を確立するための代償がいるんだよ。……つまり、国家としての切腹を断行せねばならんということだ』
『国家としての、切腹……』
思いもよらない言葉に呆れ、おののきながら、大湊は以前より皮膚の色素が抜け落ち、その分赤みを増した浅倉の唇を見つめた。同じ絶対死にさらされた者のほとんどは髪が抜け落ち、肌がくぼみ、曲がった腰が元に戻らない障害に苦しんでいるのに、この男はなぜこうも健康で――いや、それどころか得体の知れない艶まで放っていられるのか。血の色に染まった口腔が蠢き、その秘密を語ろうとした刹那、視界がぐにゃりと歪んだ。
『この国が迎えるべき終戦の形だよ』
五体の感覚が遊離し、浅倉の声も、三味線の音色も曖昧《あいまい》になってゆく。ちょっと待て、まだ聞きたいことがあるんだ。叫んだ言葉は底深い闇に呑み込まれ、つかまるものを求めて虚無をまさぐった大湊は、布の感触を指先に捉えて微かに体を震わせた。
そこから、現実の知覚が徐々に全身に拡がっていった。大湊は重い瞼を開け、明るい陽の差し込む天井を見た。消毒薬の臭いを嗅ぎ、ベッドに横たえられた体の状態を確かめてから、すぐ脇に立つ看護婦らしい背中に視線を移した。
「……いま、何時だ?」
しわがれた声を搾り出すと、ぎょっと振り向いた看護婦と目と目が合った。交換したばかりの点滴の瓶《びん》がその手から滑り落ち、ガラスの割れる鋭い音が大湊の聴覚を刺激した。
過労という、至極簡単で面白味のない診断結果を告げた医師は、まだ当分は休んでいた方がいい、とお決まりの文句を付け加えて病室から離れた。年齢を考えずに酷使してきた自覚はあるとはいえ、かかる時にまる一日も寝ていられるとは。己の肉体の無神経さに恥じ入った大湊は、その日――八月十日の午前中いっぱいを来訪者との面会に費やし、失われた一日の状況把握に努めた。
広島にはようやく調査団が到着したが、長崎の方はまったくの手付かず。ただ県知事からの一報を信じるなら、被害は広島のそれに較べれば軽微であったらしい。ソ連軍は満洲のみならず、朝鮮半島と南樺太にも侵攻を開始し、その戦況を受けてのことか、中国共産党の毛沢東は『抗日戦は最終段階に入った』との声明を発表した。八路軍《はちろぐん》に進軍命令が下るのは時間の問題と見られ、大本営は新京の関東軍司令部に南満洲への後退を指示。一方、海軍省では早朝から米内海相、大川内軍令部総長らの出入りが激しく、国体|護持《ごじ》を条件にポツダム宣言受諾の聖断が下ったのではないかとの推測もあるが、真偽のほどは不明。原子爆弾を投入しても、米軍は通常爆撃をやめる気はないらしく、長崎の被爆と前後して東北、北海道方面に米艦載機群が大挙来襲し、甚大《じんだい》な被害をもたらした――。
五課長補佐を務める中佐から聞いた、それが九日から十日にかけての事態の推移だった。出血多量で死にかけているところに、新たに二、三ヵ所斬りつけられたという程度で、大湊はどの報《しら》せも思ったより平然と受け止めることができた。唯一、ポツダム宣言受諾の一語には心臓が跳ね上がったが、まだ推測の域を出るものではなく、国体護持という条件の具体的な中身もわからないのでは、続報を待つより他にないと思えた。
「問題は原子爆弾の次の目標です。無差別ですからね、連中。長崎には捕虜収容所だってあったのに……」
感情を排して報告の言葉を並べた中佐は、そう言った時だけ下唇を微かに噛んだ。嘆息を相槌《あいづち》にした大湊は、不意にまったく別のことを思い出してベッドの上の体を硬くした。
長崎の捕虜収容所と言えば、福岡|俘虜《ふりょ》収容所第十四分所。〈UF4〉乗員一時受入先の一覧に、確かにその名があった。艦長のカール・ヤニングス少佐も、そこに送られたのではなかったか? すでに移動した可能性もなくはないが、彼らが亡命して以後の日本の状況を思えば、足止めされたままと見てまず間違いなかった。
ローレライという魔物を携《たずさ》え、滅亡した祖国を逃れて枢軸国《すうじくこく》に身を寄せた彼らに、自らの末路を自覚する時間はあったのだろうか。あったとしたら、あまりにも残酷すぎる。これでまた手練《たぐ》れる線がひとつ消えたという思いは別にして、せめてなにもわからずに即死していてもらいたいと、同じ軍人として、男として、大湊は願わずにいられなかった。
属する国家を亡くすという、軍人にとってもっとも苛烈な刻苦に魂を焦がした者たちが、ただ生き長らえるために身を寄せた異国で、最期は骨まで焼き尽くされる肉体の苦痛に身悶えする――。
「……明日は我が身か」
自然に、その言葉が口をついて出た。「は?」と聞き返した中佐の顔は見ず、大湊は今日の夜には軍令部に戻ると告げた。
少しの間、独りになりたかった。無理をなさらぬように、と言い残した中佐が軍令部にとんぼ返りすると、上半身を起こしているのも億劫《おっくう》なほどの脱力感に見舞われたが、横になる時間も、独りになる時間も、大湊には与えられなかった。
中佐と入れ替わりに、天本と名乗る若い少尉が病室を訪れたからだった。看護婦は休養を挟み、午後からの面会にしてくださいと言ってきたが、意識を失う直前、電話ごしに聞いた声をはっきり覚えていた大湊は、看護婦の訴えを退けて天本と会うことにした。
中村に協力を請われて大和田通信隊に同行し、惨事を目の当たりにする羽目になった天本は、海軍兵学校の教官だった中村の思い出話を差し挟みながら、ことのなりゆきを訥々《とつとつ》と語った。話すうちに声を詰まらせ、涙を溢れさせる天本の顔を見つつ、中村の死を追体験するのは拷問《ごうもん》以外のなにものでもなかったが、これも巻き込んでしまった者のせめてもの贖罪《しょくざい》と思い、大湊は細大もらさず村瀬大佐が自決に至った経緯を聞いた。先刻、五課長補佐から聞かされた軍令部の恣意《しい》的な調査結果――大和田通信隊の地下記録保管庫で落磐事故が起こり、二名の海軍将校が巻き添えになった――については、とても話す気にはなれなかった。
「軍令部の特命を帯びてきたという顔で、口を閉じて立っていればいいと……。自分は、それだけしか聞かされていないのです」
ひと通りの経過説明の後に、天本はそんな言葉を加えた。昂《たかぶ》った感情もひとまず収まったらしく、落ち着いた声音だった。
「伺ってよいことではないと、承知しています。しかし……どうしても納得がいかんのです。なぜ内地で、味方の自決に巻き込まれるような最期を、中村大尉は迎えなければならなかったのか……。どうしても納得がいかんのです」
それは自分も同じだ。喉まで出かけた声を押し留め、大湊は顔を伏せた。当たり前のことを当たり前にしようとした男の誠意に応えもせず、その死を事故と粉飾し、忘れ去ろうとする組織の醜悪さを眼前にして、納得しろという方がどうかしている。帝国海軍の面子、陸軍と歩調を合わせるための体面の維持、そんなものはどうだっていい。中村の直属の上官として、無為な死を招いた張本人として、自分はどの面《つら》を下げて遺族に会いに行けばいいんだ……?
「ですから、少しでもいいから知りたいのです。決して口外しないと天地神明に賭けてお約束します。大佐殿が教えていいと思う範囲でかまいませんから、話してはいただけませんか? 浅倉大佐という人物が何者で、なにをやろうとしているのか……」
「わたしの同期だった男だ」
考えるより先に、口が動いていた。ふつふつと煮えたぎる胸に立場や階級といったものを放り込み、多少は軽くなった体の姿勢を正して、大湊はまだ少年の面差しが残る天本の顔を見上げた。
「誰よりも優秀で、聡明で、すべてにおいて卓越していた。海兵卒業時には恩賜《おんし》の軍刀を賜《たまわ》り、海軍大学校も首席で卒業した。そのまま順当に進めば、将来の海軍大臣になってしかるべき男だった。そんな男が、あるとき突然、南方の激戦地へ転属を願い出た。ミッドウェーの敗北が伝えられたその日に、陸戦隊に混じって南方に渡る決意を固めたんだ。海軍は当然、引き止めようとした。彼の親族も必死に翻意を促した。だが彼は、自分を行かせるか、自刃《じじん》させるかの二つにひとつだと言い放って、無理に南方へと発った。そしてぷっつりと消息は途絶えた。……そういう男の心理が、君には想像できるか?」
「……わかりません」うつむき、視線を床に落とした天本は、すぐに力のある日を大湊に向け直した。「ですが、純粋な方だと拝察いたします」
「そうだな。純粋だ……。発つ前、わたしにひと言だけ教えてくれたことがある。確かめたいのだ、とな。なにを確かめたいのかは教えてくれなかった。そうして一年が過ぎ、誰もがその名前を忘れかけていた頃、彼はひょっこり日本に戻ってきた。夜陰に紛れて、こっそり島に近づいた艦艇に回収されてな。どういう状態だったかは、想像がつくだろう?」
瞬時にこわ張った天本の顔が、返事だった。大湊は顔を正面の壁に向け、先刻の夢で再会した旧友の面影を追った。
「海軍将校の総覧からも抹消されて、エリート街道に戻れる当てもないはずだったが、彼の才能に期待する者は多くてね。内地に生還してから間もなく、軍令部の要職に引き上げられた。傍目《はため》にはなにも変わっていない。むしろ以前より頭の回転が早くなり、外見も若返ったように見える。だがわたしには、あの男が以前の浅倉でないことがわかっていた。尋ねたわけではないが、彼は言った通り、向こうでなにかを確かめてきたんだ。それを腹にしまって、発散する機会を窺っているのではないかと……。いまになって思えば、そう感じていたんだろうな」
「機会……でありますか?」
「そうだ。それからさらに一年が過ぎて、あの男はついにそれを見つけた。そして姿を消した。これが浅倉について教えられることのすべてだ」
自分でも曖昧|模糊《もこ》としていた思考が、言葉に縁取られて形になる感覚があった。沈黙する天本をよそに、大湊は枕許の水差しで口を湿らせた。
「内地に戻って、軍令部に勤務した一年あまりの間に、あの男が海軍部内にどんな種を蒔《ま》き、発芽させたのか……。彼が起こした行動は、それらの後援があってこそ実現したものだ。中村大尉には、その芽をひとつひとつ調べて、根っ子を引きずり出す仕事を手伝ってもらっていた。それを……」
不意に激情の塊がこみ上げ、それ以上の言葉を封じた。膝上に組んだ拳を握りしめ、全身の震えが収まるのを待つ間に、「今後も、お続けになるのですか?」という声が大湊の耳朶を打った。
感傷も同情もない、ただ確かめる声だった。顔を上げ、まっすぐこちらを見つめる天本の瞳を見返した大湊は、「無論だ」と即答した。若い眼差しを無遠慮に注ぎ、なにかしらの納得を得たらしい天本は、「では、これをお預けいたします」と続けて足もとの鞄を持ち上げた。
「自分が瓦礫《がれき》の中から拾い集めて、持ち出してきたものです。なにかの参考にしていただければ幸いです」
年季の入った革鞄の中には、一見で電信記録とわかる紙束が詰まっていた。ところどころ破れ、焼け焦げた藁半紙《わらばんし》の束をめくった大湊は、丸くしたままの目を天本に向けた。
「考えたのであります。なぜ村瀬大佐は記録を焼かずに、保管庫の片隅に隠していたのか」
まず間違いなく無断で持ち出してきたのだろう記録の束を見下ろし、天本は冷静に続けた。ひやりとした感触を背中に覚えつつ、大湊も黒い染みが付着する紙束に視線を落とした。
「単なる犯罪行為に加担したのであれば、証拠は隠滅《いんめつ》するのが常道です。それをしなかったのは、これがもっと大きな事件……うまく言えませんが、成功の暁《あかつき》には記録の存在自体が価値を持ち、村瀬大佐の立場を保証するような、つまり将来を見据えた上でのなにかだったからであろうと考えたのです」
指で削《けず》ると、黒い染みは細かい粒になって紙から剥がれ落ちた。中村の血か、村瀬大佐の血かと考えてしまった大湊は、目を閉じて天本の声に意識を集中した。
「それほど大きい事件なら、中村大尉が究明の途中で斃《たお》れたことも納得できる。同時に、誰にこれを渡すべきか考えるのが、自分の次の課題になりました」
ぴんと張り詰めた天本の瞳を、大湊はあらためて覗き込んだ。航空隊の勤務を抜けてきたと言ったが、天本は大和田通信隊での一件を上官はもちろん、周囲の誰にも話さずにいるのだろう。事件直後、現場に散らばった電信記録を混乱に紛れて拾い集め、軍令部の調査が入る前に大和田を後にした。自分に中村の死を一報してからは、なに食わぬ顔で自隊に戻り、平常の勤務に就いていたのに違いなかった。
事件を事故と処理した軍令部が、目撃者の天本を自由に出歩かせているのは、その存在を知らないからに他ならない。危険を承知でここに訪れた天本に試され、合格の証にこの記録用紙を受け取ったのだと理解した大湊は、我知らず太い息を吐いた。航空隊での勤務内容がぜんなものであれ、同年齢か、それ以下の者たちが特攻機で出撃する姿を見送る日々は、軍人|勅諭《ちょくゆ》の言葉づらだけで支えられるものではないだろう。尽くすに値する人、組織、国のありようを肌身で感じてこそ、命に替えても義務をまっとうしようとする心根が育つのであり、それがないところで強要される死は真に暗黒でしかない。命を預けた人の集団が不正を抱え持ち、それを正せぬ腐敗を目の当たりにしたなら、預けた命を賭けてでもその根は抉り出す必要がある。天本も中村と同じ結論に達したのだと理解した大湊は、「大尉が君を助手に選んだ理由がわかるな」と言って了解の意を伝えた。もう脱力感はなく、受け取ったものをどう活かし、どう打って出るかと、ゆっくり回転する頭が思考を紡ぎ始めていた。
張り詰めた瞳を多少やわらげ、安堵の気配を示した天本は、「それと、通信隊に勤務する大尉の後輩から気になることを聞きました」と、緊張した面持ちを崩さずに重ねた。
「問題の電文の送信先ですが、村瀬大佐が電信兵に暗号文を渡す際、ウェークの通信設備がどうとか言うのを小耳に挟んだとか」
「ウェーク? ウェーク島か?」
「わかりません。すぐに憲兵隊が到着して、ろくに話す間もなく退散してきたものですから」
忘れて久しい島の名前だった。開戦|劈頭《へきとう》、陸軍の力を借りずに帝海が独力で攻略した南洋の孤島。以後、補給基地として機能するも、南方の島々を飛び石伝いに北上する米軍の反攻作戦から除外され、いまは敵からも味方からも忘れ去られた島。「ウェーク島……」とくり返し、頭の中の海図で位置を確認しようとした大湊は、瞬間、ざわと鳥肌を立てた。
「……地図だ」
理由はなかった。ただ意識の底をよぎった直感を逃がしたくない一心で、大湊は「地図、太平洋の海図を持ってきてくれ」と天本に振り返った。
「病院にも地図くらいあるだろう。急ぐんだ」
気迫に呑まれた天本が病室を飛び出し、どこから手配してきたのか、大判の世界地図を持って戻ってくるまでの数分間、大湊はじりじりと待った。「こんなものしかありませんで……」と差し出された地図をひったくるように受け取り、ベッドの上に広げてからは、安静を促す看護婦の声も聞かずに地図上に目を走らせた。
北緯二〇度、東経一六六度。なぜそうするのか自分でもわからないまま、ウェーク島の上にひとさし指を置き、ゆっくり地図上をなぞってゆく。右に動かせば、ほぼ同じ緯度上にハワイ諸島。下に動かせばクェゼリン島に突き当たり、さらに下にはマキン島、タラワ島からなるギルバート諸島がある。これではない。自分が捜しているもの、一瞬だけ浮かび上がった直感が指し示すものは他にある。大湊は緯線に沿って指を左に動かし、小笠原諸島と硫黄島《いおうじま》の下、小粒な島が点々と連なるマリアナ諸島のところで止めた。
サイパン、テニアン、グアム。昨年の夏にまとめて米軍の反攻にさらされ、守備隊が玉砕の憂き目にあった三島を凝視し、肌を粟立てた直感の名残りを意識の中に追う。ウェーク島周辺の海図を頭に呼び出した時に、視野の片隅に映ったなにか。それが暗示する凶々しいもの。凶々しいと言えば、いまはどの島も米軍の飛行基地として機能し、本土空襲の拠点になっているのだから、これほど凶々しい場所も他にない。特にテニアンは、例の原子爆弾を投下したB−29の発進基地で――。
『拠って立つものを破壊する』
先刻より明瞭に鳥肌が立ち、地図を押さえる指が震えた。〈伊507〉。海中を自在に見通す特殊兵器ローレライ。原子爆弾の輸送を阻む『断号作戦』に組み込まれるはずだった艦が、浅倉の独断で出撃させられ、いまはウェーク島にある。米軍の勢力圏内に取り残された南の孤島に。
『国家としての切腹を断行する』
その間、原子爆弾は広島と長崎を焼き、ソ連は電撃的に対日宣戦を布告した。赤い旗がひるがえる大国。その主義の相違ゆえ、米国の将来の敵となることを約束された国。両国の戦いはもう始まっているのかもしれない。ソ連の侵攻は、米国に対する明らかな牽制だ。米国が乗り込んでくる前に、極東の陣地を少しでも多く確保しておく。原子爆弾の連続投下は、牽制に対する牽制? だとしたら、米国の目に日本はもう映っていない。
『この国が迎えるべき終戦の形だよ』
浅倉が嗤っていた。すでに米国の敵でさえなくなった日本。対ソ戦略の最前線基地の役を負わされる日本。しかし日本民族は生き延びねばならない。米国の属国に成り下がり、精神的絶滅を迎える前に、代償を支払ってでも生き延びねばならない――。
「まさか……」
指から這い上がった震えが全身に拡がり、大湊はベッドの上に座り込んだ。血の気が音を立てて引いてゆくのがわかったが、今度は気絶の闇に救われることはなかった。失神も許されない絶望と向き合いながら、大湊は地図上の点でしかないウェーク島に目を落とし続けた。
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目的地が肉眼で確認され、半舷《はんげん》上陸の具体的な時間までが知らされるようになれば、乗員たちは例外なく心ここにあらずの体《てい》になる。〈伊507〉の場合、初めての係留作業を行わねばならない緊張感も手伝って、艦内全体が熱病患者のそれに似た躁《そう》状態を呈する結果になった。
「島ったってさ、水も湧かない無人島らしいんだぜ?」
「そんなのどうだっていいじゃないか。陸《おか》なんだぜ、陸。地べたの感触が味わえるだけでもありがたいってもんだ」
まだ経験の浅い若い水兵たちは、喜色の滲んだ声を弾ませながら通路を歩いてゆく。一方、艦艇勤務の実際を知る練達の兵曹や水兵はもっと現実的で、
「でもよ、慰安所ひとつありゃしねえんだろ? せっかく上陸しても味気ないよな」
「補給線も絶たれて久しいんだ。ろくな食い物もなくて、下手すりゃ持ち出しかもしれないぜ」
「うへ、陸に上がってもバタライスかよ」
「そんなこと、根拠地隊の連中の前で言ったら袋叩きにされるぞ。連中、米なんかもう何ヵ月も食ってないんだろうから……」
主砲の修理に勤《いそ》しむ合間にも、互いの経験から島の実情を予測しあってかまびすしい。ではまったく期待していないのかと言うとそうではなく、これまでに幾度も失望を味わってきた習い性で、放っておけば膨らむ一方の期待感を牽制しているらしい。その証拠に、言葉とは裏腹にどの声にも奇妙な張りがある。垢と汗と油にまみれ、悪臭漂う鉄管で二十日間近く過ごしてきた乗員たちの心に、上陸の二文字はそれほどの重みをもって作用する。
「貴様らっ! 物見遊山《ものみゆさん》で来てるんじゃないんだ。主砲の修理は今日一日で終わらせるぞ。早く上陸したかったら、喋《しゃべ》ってる間に手ぇ動かせ!」
ふわふわと落ち着きのない空気を吹き散らし、そんな怒声を張り上げるのは田口だ。この人だけは、いかなる状況でも変わるということがない。水中発射の際に流入した海水の拭き取りが終わり、ようやく修理に手がつけられるようになった二十・三センチ砲の砲塔内で、征人はその田口の背中を目前にしていた。
「しかし、必要な備品が手に入るんですかね?」
砲術科の兵たちが慌てて口を閉じるのを横目に、射手を務める上等兵曹が田口に耳打ちする。砲塔内部は幅三メートル、奥行き五メートル弱の空間で、前面から突き出す左右の砲身の駆動機構が大部分を占め、給弾筒、旋回操作装置などがぎっしり詰め込まれているので、六人もの人間が中にいるいまは正に立錐《りっすい》の余地もない。「もとは潜水艦の補給基地だったところだ。魚雷や消耗品は多少残ってるだろう」と答えた田口の声は、熱と人いきれで澱んだ空気を貫いて征人の耳にも届いた。
「動揺の少ない湾内で主砲の修理ができるんだ。それだけでもありがたいと思わんとな」
この航海で頬を覆い尽くした無精髭をごしりと撫で、田口はいきなり「で、なんだ?」とこちらを振り返る。こちらのことなど忘れた様子で怒鳴り、指示を飛ばす田口の背中とにらめっこをしていた征人は、急に向けられた視線に慌てて姿勢を正した。
「は、はい。パウラ・エブナーの件でありますが、右舷直、左舷直のどちらに属するのか、お伺いできればと思って参りました」
艦艇に乗務する兵曹以下の乗員には番号が付けられ、奇数が右舷直員、偶数が左舷直員と呼ばれる。右舷直と左舷直が交替で艦を離れ、上陸を許されるのが半舷上陸で、今回は右舷直員が先に上陸することになっていたが、問題は、パウラにはそもそも兵員番号がないという点だった。
ウェーク島との距離が縮まり、緑や大地の鮮烈な色が実感できるようになると、鉛色に鈍った艦内がたまらなく味気ないものに見え、どうしてもパウラを地面の上に連れ出したい――いや、連れ出さねばならないという思いが征人の頭を支配した。ウェーク島に到着後、パウラがどのように扱われるのかは皆目《かいもく》不明だが、だからこそ、決定が下るまでは自由に出歩かせてやりたい。根拠地隊の兵員の目があれば、艦内に留めておいた方が安全なのは道理であっても、それについては自分が不寝番でもなんでもやる覚悟で、征人は兵曹以下のまとめ役である田口の面前に立ったのだった。
「ああ? なんで貴様が気にするんだよ」
片方の眉をひそめ、田口はぎろりと征人を睨み据える。多少は慣れたといっても、この目に睨まれると自動的に口が動かなくなる。あとずさりたいのを我慢して、征人は必死に言葉を探した。
「ローレライは艦の装備品であって、乗員ではない。よってどちらにも属さないというのでは、不服か?」
事前の覚悟も虚しく、「いえ……」と顔をうつむけてしまった征人をまじまじと見下ろし、田口は不意ににたりと笑ってみせた。
「心配するな。ローレライにも休養は必要だという軍医長の意見を、艦長もちゃんと考慮してくださってる。上陸はできるよ」
視線を合わせずに背中を向けた田口は、「貴様と同じ右舷直だ。しっかり警護しろ」と言った時だけ、ちらとこちらを振り返った。汗まみれの岩石といった無法松の頭に後光が差したように思い、征人は「はっ!」と砲塔中に響き渡る声を出した。
「こいつ、艦の装備品の見張りがそんなにうれしいか」
脇で話を聞いていた上等兵曹が、苦笑混じりに小突いてくる。直立不動の体が呆気なく揺らぎ、たたらを踏んだ征人は、その拍子に床のハッチから顔を出したフリッツと目を合わせた。
砲塔の旋回軸でもある連絡筒を昇り、艦内から砲塔に上がってきたフリッツが、いつからそこにいたのかはわからなかった。ただ合わせた目をすぐに伏せ、無言でラッタルを下ってゆく長髪の頭を見下ろし、なぜかちくりとした痛みが征人の胸に残った。
「煙管服を着せて、根拠地隊の連中には間違っても女だと気取《けど》られるな。下手すりゃ暴動になるぞ」
フリッツの消えたハッチに目をやり、征人に視線を戻した田口は、もう笑っていなかった。「は」と背筋をのばしてから、征人も砲塔を後にした。
|引き波《ウェーキ》という名前の由来通り、ウェーク島は航走する艦船が立てるV字形の波に似た地形を持つ。正しい英語の発音はウェーキで、文書にはいまだにウェーキ島と表記されるが、攻略以降の四年間で日本の語感に馴染んだせいか、いまではほとんどの者がウェーク島と呼びならわすようになった。
もとは米潜水艦の補給に使われていた港湾施設は、Vの字の内側、細長い二つの地形が交じりあう湾内に位置する。午前八時、〈伊507〉は二隻の哨戒艇に導かれ、ウィルクス島を右手に見つつ湾内に入った。征人は河野とともに見張り当直に就き、間近に迫った椰子林を機銃甲板から見つめていた。
前方にはウェーク本島の平坦な地形が見渡す限り続き、左手には湾を挟んでピール島が隆起する。陽光のきらめく海面は透明で、青というより緑色に近い。南方の海は透明度が高いので、かなり深く潜らないと敵機に発見されると噂話に聞いたが、さもありなんと思える光景だった。
陸地の熱を孕《はら》んだ風はねっとりと湿っており、日本の風土に馴染んだ体に嫌でも異国を意識させる。空も、海も、木々の緑も、ここではすべてが原色に近い光彩を放ち、油断すれば呑み込まれるような存在感を際立たせている。唯一、沿岸特有の潮の生臭さは日本と変わらなかったが、その理由はすぐに明らかになった。艦が湾奥《わんおう》に進入し、ウェーク本島の腕《かいな》に包み込まれると、海岸のそこここで干物《ひもの》の台が見受けられるようになったのだ。
日本では食用に上《のぼ》りそうにもない形の魚が干される脇で、あばらの浮き出た半裸の男がなにごとか作業をしている。無人島と先に聞かされていなければ、原住民と見紛《みまが》う姿だった。征人たちが手を振っても応じる気配はなく、男は目前を行き過ぎる異形《いぎょう》の潜水艦をぼんやりと眺める。南洋ボケというやつか? 哨戒艇《しょうかいてい》の乗員たちも、信号のやりとりこそ普通に交わしたものの、手を振っての挨拶にはろくに応じてくれなかったが……。
「本土との通交も絶たれて、四年もここに張りついてりゃおかしくもなりますよ」
海岸の男から目を逸らして、河野がため息混じりに言う。「哨戒艇ったって、ありゃまるで漁船じゃないですか」
後部甲板に投網《とあみ》らしきものを載せた哨戒艇は、前部に装備した機銃がなければ確かに漁船に見えた。〈伊507〉を先導する二隻の老朽艇を見やり、「もともと漁船だったのを徴用したんだろ? 仕方ないよ」と、意味もなくかばう言葉を並べた征人は、艦橋から降りてくる人の姿に気づいて口を閉じた。
フリッツだった。艦橋で操艦指揮を執る絹見艦長と二言三言交わし、機銃甲板に続くラッタルを下ってくる。特に用があるという風情でもなく、長髪に手をやって通りすぎようとする横顔を、征人は咄嗟《とっさ》に「少尉」と呼び止めた。
そのまま露天甲板まで下りかけた足を止めて、フリッツはこちらに顔を向けた。これからどうなるのかわからないのだから、感情のしこりは片付けられる時に片付けておいた方がいい。気圧されそうになる体に言い聞かせ、征人は河野に背を向けてフリッツに歩み寄った。
「すみません。出過ぎた真似とお感じになったのなら、謝ります」
「なんの話だ」
「さっき、少尉も同じことを考えて掌砲長のところに来たのではないかと、そう思ったものですから……」
あの場で感じた間《ま》の悪い空気を説明するのに、他の言葉はなかった。気にしなければならない相手を共有していれば、互いの気づかいがかち合うことだってある。結果が同じなら、どちらが先でもかまわないという理屈もあったが、家族の間に割って入ってしまった引け目は拭いがたく征人の中にあった。もう一度「すみません」と頭を下げ、征人は目の前に立つ長身の反応を待った。べたついた風が勢いを増し、フリッツのワイシャツをばたばたとはためかせて、ディーゼル機関の唸りに微かな不協和音を投じた。
「直らんな。口癖」
否定も肯定もせず、フリッツはそんな言葉を返してきた。性懲りなく「すみ……」と言いかけ、征人は慌てて口を噤《つぐ》んだ。フリッツの無表情が見えるか見えないか程度に緩み、目の奥が笑うのが感じられた。
意外な反応に虚をつかれ、征人は機銃甲板の手すりに手をついたフリッツを呆然と眺めた。長髪を風になびかせ、手すりに体重を預けた背中は、常にない隙を覗かせているように見えた。
ふと、わざとそう見せているのではないかと思いついた征人は、「これから、どうなると思われますか?」と話しかけてみた。フリッツは振り向きもせず、「さあな」と素っ気ない返事を寄越した。
「別に変わらんだろう。こんな南の孤島に連れてきて、本気でローレライを研究するつもりがあるとは思えない。帝国海軍は、〈伊507〉を即戦力と見なしているということだ。ここで補給と休養を済ませて、なんらかの作戦に従事する。それだけだ」
期待すればしたで、こちらの感情を逆なでする上《うわ》っ面《つら》の言葉が返ってくる。やっぱり黒服だと内心に悪態をつきつつ、征人は「ずいぶん簡単におっしゃるんですね」と硬い声で応じた。いかにもぬるそうな湾内の海面に目を落とし、フリッツはなにも言わなかった。
「特攻任務でも、黙って従われるんですか?」
腹立ち紛れに言ってしまってから、言葉の重さに自分自身、押し潰される思いを味わった。嘆息ともつかない吐息に続き、「人のことは言えんな」と呟かれたフリッツの声が征人の耳をくすぐった。
「難しいことを簡単に訊《き》く」
ようやくこちらを向いたフリッツの目には、苦笑の色があった。底に焦りやいら立ちを敷き詰めた刺々《とげとげ》しい苦笑ではなく、沈着に事態を見据える眼差しを秘めた苦笑。この人はこんなに大人だったかと驚き、フリッツはこの航海でなにかを学んだのだと気づかされた征人は、では自分は? と自問して少し暗澹《あんたん》となった。
目の前の事ごとに追われ、焦る気持ちばかりが先に立って、落ち着いてものを考える心持ちひとつ手に入れられない。いまも神経を逆なでする不用意な発言をしていたのは、自分の方ではなかったか。そう思うと、またしても「……すみません」の一語が口からこぼれ落ち、ひと思いに海に飛び込みたい衝動に駆られた。
フリッツはなにも言わずに征人から視線を外し、「いまは待つしかない。が……」と言い澱む声を流れる海面に放った。
「妹を、未来のない国に委《ゆだ》ねるつもりはない」
そう続けた時の横顔は、初めて会った頃のフリッツ・エブナーに戻っていた。胸がざわと騒ぎ、征人は「……どういう意味ですか?」と尋ねた。「言葉通りだ」と返して、フリッツはその場を離れる足を踏み出した。
「少尉には、日本のお名前はないんですか?」
なぜそんな質問をする気になったのか、自分でもわからなかった。このまま行かせてはまずいと訴える胸に押され、征人は立ち止まったフリッツに一歩近づいた。
「パ……妹さんから聞いたんです。アツコって、お祖母《ばあ》さんにつけてもらった名前があるって。少尉にも……」
「ない」
それ以上の接近を拒む冷たい声に遮られ、征人は口を閉じた。
「立ち入りすぎるな。おれたちとおまえは違う」
視線が刃物の鋭さを持って喉元に突きつけられ、繋がりかけたなにかも切り落とした。もう呼び止める言葉もなく、征人は露天甲板に下りるフリッツの背中を見送った。自分は徹底的に迂闊な人間らしいという自覚が足もとから這い上がり、全身を浸してゆくのが感じられた。
(錨鎖《びょうさ》、下ろせ!)
伝声管がくぐもった声を伝えると、艦首の錨が海面に叩きつけられる重い音が隔壁ごしに届き、錨鎖が放出される地鳴りに似た音が微かに甲板を震えさせる。(半舷入湯上陸。上陸する右舷直員は後部甲板から上陸)と伝える先任将校の声は、艦内スピーカーから聞こえた。
午前九時。十五分前には艦橋格納庫に集合し、上陸に関する注意事項を田口から下達された右舷直員たちは、格納庫の扉が開くのをいまや遅しと待ち構えている。征人も一食分の糧食《りょうしょく》を収めた雑嚢《ざつのう》を肩にかけ、清永や河野らとともに列の最後尾についていた。
略帽を目深にかぶり、煙管服の肩幅を余らせたパウラは、征人の左隣にいる。反対側には河野が立ち、正面には清永が立つ。列が動き出せば、パウラに倍する面積を持つ清永が前面の楯《たて》になり、征人と河野が左右を守って移動する――清永言うところのローレライ密集防御陣≠ェ形成される算段だ。四人が固まって移動したら、却って目立つ気がしないでもないが、他の妙案が征人にあるわけでもなかった。
「いいな、おれたちは難攻不落の城塞《じょうさい》だ。陣形を崩すんじゃねえぞ」
指揮官気取りで征人と河野を交互に睨みつけた清永は、打って変わった柔和な顔をパウラに振り向け、「ちゃんと着いてきてね」と猫なで声を出す。一年以上のつきあいでも聞いたためしのない声色に、征人はひそかに寒気を覚えた。
「了解」素直に微笑を返したパウラは、征人に体を近づけ、「お弁当持ってくなんて、ピクニックみたい」と小声で囁《ささや》いた。缶詰の入った雑嚢に手をやり、「そうだね」と応じた征人は、少し胸苦しい気分に駆られた。
そんな呑気な状況でないことは、パウラも承知している。糧食を携《たずさ》えての上陸になったのは、ウェーク根拠地隊には余剰食料が皆無で、まともな歓待が期待できないからに過ぎない。駐留する将兵はその日の飢えを満たすだけで精一杯らしく、上陸後は単独行動を控え、特に食事を摂る際は必ず一ヵ所に集まるようにとの達しも出ていた。腹を空かせた兵に襲われ、糧食を奪われる可能性もないとは言えないからだ。
それでもピクニックなどという言葉を持ち出すのは、自分たちに対するパウラの気づかいであり、また強さの証明でもあるのだろう。〈ナーバル〉に押し込められ、想像を絶する刻苦に耐えてきた心と体は、自分よりはるかに頑健《がんけん》なのかもしれない。そう認めるのは男としては屈辱以外のなにものでもなく、おまえとおれたちは違う≠ニフリッツに言われたことと併せて、疎外感とも言いきれない複雑な思いを征人に残した。
間もなく格納庫の半球状の扉が開き、動き出した列に従って征人たちは歩き始めた。円形の戸口を抜けた途端、先刻よりさらに激しくなった日差しがまともに降りかかり、こってりと味の濃い空気が肺に染み渡った。デイーゼルの排気煙や、日に灼《や》けたコンクリートの匂いが潮の香りと一緒くたになり、熱で膨脹した大気に入り混じったそれは、紛れもなく真夏の港の匂いだった。征人とパウラは期せずして同時に立ち止まり、思いきり深呼吸をした。
湾の最奥部にあたる入り江の一部をコンクリートで塗り固め、埠頭《バース》を二本用意しただけといった港は、〈伊507〉の他には二隻の哨戒艇と内火艇《ランチ》、手漕ぎの短艇《カッター》が何|艘《そう》か舫《もや》われるばかりで、寂《さび》れた漁村の印象を呈していた。岸壁に沿って並ぶ倉庫棟、荷揚げ用のクレーンが辛うじて軍港を思い出させたが、それもほとんど空襲で破壊され、使用に耐えそうなものは片手の指でも余った。
〈伊507〉が横付けしたバースも、そこここに亀裂が目立つ。繋留《けいりゅう》索具を巻きつけたボラードは、艦尾側の方が少し傾いており、嵐に揉まれれば引っこ抜けるのではないかと思わせた。露天甲板とバースの間に掛けた係船桁《けいせんけた》も、崩れ残った場所を見つけてなんとか掛けたという感じで、乗員たちはおっかなびっくりの風情で木製の係船桁を渡ってゆく。いまにも崩れ落ちそうなバースでも、陸地と繋がった安心感はなにものにも代えられないのだろう。歩くたびにがたがたと鳴る係船桁を渡り終え、バースに足を着けた乗員たちは、一様に安堵の表情を見せた。
「おい、陣形を崩すなよ」と口をとがらせた清永に促され、征人は止めていた足を動かした。周囲に油断なく目を配りつつ、三角の防御陣を維持して係船桁の前まで移動する。繋留作業に立ち働く兵曹も、倉庫から遠巻きにこちらを眺める将校も、パウラに注目している様子はない。ちらとこちらを振り返った清永と目で頷《うなず》きあい、まずは清永が係船桁に足をかけた。係船桁は人ひとりが通れる幅しかないので、ここは単縦陣《たんじゅうじん》で移動するしかない。「上陸札、持ってるよな?」と囁きかけ、こっくり頷くパウラの横顔を見やった征人は、いったん立ち止まってパウラを先に行かせた。
上陸の際には、兵曹以下の全乗員に渡された上陸札を舷門に提出しなければならない。パウラの上陸札は、戦死した水雷科の水兵の分を拝借したものだ。最初に清永が係船桁を渡りきり、バースに仮設された舷門に立つ上等兵曹に上陸札を差し出す。パウラがそれに続こうとしたが、あと一歩でバースに着くというところでその足が止まり、〈伊507〉の方にあとずさり始めた。
門衛の上等兵曹が誰何《すいか》するのを無視して、中佐の肩章を目立たせた男が係船桁の前に立ち塞がったのだった。そのまま無遠慮に足を進め、パウラを押し戻すようにして〈伊507〉に乗り込んでくる。口もとに薄い笑みを張りつけ、軍帽の鍔《つば》から上目遣《うわめづか》いの目を覗かせる中佐は、征人でも河野でもなく、パウラだけを直視して〈伊507〉の甲板に足を着けた。
中肉中背の二種軍装姿にこれといった特徴はなかったが、整った顔立ちと、絶えず上目遣いに人を窺うような眼差しが、どこかちぐはぐな印象を与える男だった。自動的に踵を合わせ、敬礼をした征人と河野には目もくれず、中佐は粘《ねば》ついた視線をパウラに送り続ける。怯えを押し留めたパウラの横顔に険が宿り、いら立ちを示した唇がきゅっと引き締まった刹那、無造作に動いた男の手がパウラの前に差し出された。
「君がローレライ……。太平洋の魔女だね?」
征人の心臓が高鳴ったのと、パウラの目が見開かれたのは同時だった。握手を求める手を見下ろし、薄い笑みを消さない男の顔をあらためて見上げて、パウラの横顔から急速に血の気が失せてゆく。両の拳を硬く握りしめ、一歩後退したパウラは、戦闘の最中でも見せたことのない怯えた表情になっていた。
なにを怖がっているんだ? 挙手敬礼をしたままパウラの横顔を窺い、軍帽の鍔に半ば隠れた男の目を窺った征人は、「乗艦を許可した覚えはないが?」と発した声を頭上に聞いで敬礼を解いた。艦橋から機銃甲板に下りてきた絹見艦長が、中佐の肩章を持つ男に咎《とが》める視線を注いでいた。
「これは失礼」パウラに差し出した右の手のひらを額に掲げ、男は流れるような所作で絹見に体を向けた。「土谷技術中佐です。ローレライ検分のため、軍令部より派遣されました」
「〈伊507〉艦長、絹見です」露天甲板に下り、土谷と名乗った男と相対した絹見が答礼する。上位の者に対する礼儀は最低限に留め、不信感と警戒感を前面に出した慇懃《いんぎん》無礼な目と声だった。「軍令部から?」
「ええ。なにせ前代未聞の兵器ですからね。一刻も早い報告をとせっつかれているのです。〈UF4〉の乗員で、ローレライに習熟している元ドイツ将校がいると聞き及んでおりますが」
絹見の背後に居並ぶ高須や木崎の顔を見渡し、薄い笑みを張りつかせた土谷の顔が言う。中佐と言えばこの中では最上級者に当たるとはいえ、兵科にあらずんば人にあらずの不文律があれば、絹見たちと土谷の関係は単純に階級の上下で割り切れるものではない。土谷の物言いは明らかにそれを意識していたが、全身から発散する尊大な気配は、それこそ階級のしがらみとは無縁ななにかだった。
正面に向けた鉄面皮を動かさず、「フリッツ少尉を」と言った絹見の目に微かな動揺が宿り、「は」と応じた高須が土谷に視線を残しつつその場を去る。一同の敵意を風と受け流し、土谷は「まだ上陸していないならちょうどいい」と唇の端を吊り上げた。
「見せていただけませんか? ローレライの実際を。こうして部下も連れてきておりますんで」
土谷が目で示した先に、舷門の脇に立つ四人の男の姿があった。尉官と兵曹が二人ずつ。階級はばらばらだが、じっとりとまとわりつく視線には共通した暗い色がある。門衛の上等兵曹が困惑顔で立ち尽くすそばで、じっと様子を窺う清永と視線を合わせた征人は、「せっかくですが、それはできません」と言った絹見の声の強さに、ぎょっと背筋をのばした。
「パウラ・エブナーには上陸許可を与えました。左舷直員との交替時間までお待ちいただきたい」
以後の議論はない、と伝える艦長の声音に、土谷の目から笑みが消えた。「妙なことをおっしゃる」と呟いた口もとだけが、よりいっそう皮相な笑みを際立たせる。
「ローレライ……パウラ・エブナーは帝国海軍の装備品であって、兵員ではない。軍籍も持たない者に、上陸のなんのという話はおかしくありませんか?」
「おかしいとは思いません。軍籍があろうがなかろうが、パウラ・エブナーはこの艦の乗員です。自分の部下です。艦長として、休息を与える権限があります」
言い放った絹見の背後に、高須に伴われたフリッツが並ぶ。きな臭い空気を本能的に察知したのか、土谷を見るその目はいつも以上に鋭利だった。一枚岩になった視線の壁に守られ、パウラも怯えを払った顔を土谷に向け直す。征人は、土谷が口中に舌打ちする音を聞いたような気がした。
「まいりましたね……。これは、浅倉大佐に直接口をきいてもらうよりなさそうだ」
「浅倉大佐が? ここにおられるのですか」
はっきりと動揺を現した絹見の声に、土谷の唇がにやと歪んだ。「ええ。〈伊507〉の到着を首を長くして待っておられます」と答えた土谷から目を逸らし、あらぬ方に顔を向けた艦長の姿に気づいた征人は、ふと胸騒ぎを覚えた。
必要なら海軍大臣にでも意見するだろう艦長を、こうも揺さぶる将校とは何者なのか。浅倉大佐と胸中にくり返す間に、「では使いをやりますので……」と土谷が余裕たっぷりに口を開き、「必要ない」と強く遮った絹見の声が征人の鼓膜を貫いた。「自分が直接お伺いします」と続け、大股で歩き出した艦長は、もう他のなにも目に入っていない横顔だった。
係船桁に片足を載せたところでいったん立ち止まり、「後を頼む」と高須に振り向く。それを唯一の理性にして、絹見は脇目も振らずに艦を離れていった。係船桁を踏み鳴らして遠ざかる艦長の背中を見送り、戸惑いの色を隠せない高須たちに目を戻した征人は、これで土谷に押し切られるとわかって絶望した。
大黒柱を失った乗員たちを悠然と見据え、土谷は軽く手を上げる。四人の部下が係船桁を渡って甲板に上がってくると、事態は目に見えて決定的になった。そういうことだ、と言っている土谷の顔を見返し、嘆息ひとつでなりゆきを受け入れたらしい高須は、パウラに視線を移した。
「すまないが……」
本当にすまなそうな先任将校の声に、目を伏せ、握った拳をぴくりと震わせてから、パウラは顔を上げた。しっかり背筋をのばし、高須たちのもとに歩いてゆく背中を、征人は「パウラ……」と呼び止めた。
どうにもできず、なにも思いつけずに、ただかけてしまった声だった。次の言葉を見つけられない征人に振り返り、視線を絡《から》ませたパウラは、「大丈夫。行って」と微かに笑みを浮かべた。
「後から行くから」
おれも残る――喉まで出かかった言葉は、将校たちが居並ぶ重い空気に押し戻され、胸の痛みに姿を変えた。パウラは高須や木崎とともに艦橋格納庫の中に戻り、土谷と四人の部下がそれに続く。大人たちの背中が露天甲板上にひしめき、少女の細い背中を征人の目から隠していった。
フリッツもその列に加わろうとして、最後にちらと征人に視線を流した。表面をよぎった憐れみと嘲《あざけ》りの色はすぐに見えなくなり、感情を排した冷たいガラス玉がこちらを直視する。すべてから遠ざけられ、敗北感の塊になった征人を残して、立ち入る隙のないフリッツの背中も格納庫の薄閣に消えた。
「おい、行こうぜ」
バースにぽつねんと立つ清永が、口に手を当てて呼びかけていた。いまはしょうがないだろう、と諭《さと》す同期の冷静な目を見、誰もいなくなった甲板を見渡した征人は、重い足を動かして係船桁の前に立った。
足裏が甲板を離れた時、もうこれで〈伊507〉には戻れないかもしれないという直感が胸を埋めたが、なぜそう思ったのかはわからなかった。河野に急《せ》かされ、征人は振り返る間もなく〈伊507〉を後にした。
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なにもかもなげうつようにしてきてしまった。そう自覚できたのは、根拠地隊司令部に到着し、渕田参謀長と対面した時だった。
入港に伴う手続きや、修理・補給に関する各種の届け。そもそも土谷をどう扱い、パウラの上陸をどうするのかという問題にしても、すべて決定を下さずに艦を後にしてきたのだ。挙句、司令の鹿島大佐は港に向かったと渕田から聞かされれば、傍若無人、非常識きわまりない己の行為を痛感するよりなかったが、だからと言って引き返すつもりは絹見にはなかった。
ここに浅倉がいるなら、すぐにでも会わねばならない。港から司令部まで約一キロ、車が走れる程度に整地された道を歩き、陽炎《かげろう》のわき立つ滑走路を横断する間じゅう、その衝動は寸分も緩まず絹見の頭を支配し続け、いまも張り裂けんばかりに全身を締めつけている。わざわざ迎えに出た司令をほっぽり出し、手続きいっさいを無視して司令部に乗り込んだ非礼をひとまず脇に置いて、絹見は浅倉への接見を渕田に願い出た。南洋焼けした顔に事務屋然とした雰囲気を漂わせる司令付参謀長は、こちらの心情を察するところがあるのか、あるいは汗みずくで飛び込んできた勢いに単純に気圧《けお》されたのか、ろくに質《ただ》しもせずに浅倉に取り次いでくれた。
数棟のバラック小屋を寄せ集めた司令部は、各々の小屋の間に廊下代わりの橋が渡されており、浅倉がいるという会議室はいちばん南寄りにあった。司令部付きの水兵の案内で湿気を吸った渡り廊下を歩き、会議室とは名ばかりの掘っ立て小屋を目前にした絹見は、陶磁器を思わせる白い肌と三週間ぶりの対面を果たした。
「よくぞたどり着いてくれた、とは言わんよ。貴官なら必ず来てくれると信じていた」
長机の一端に腰を落ち着け、壁に貼られた世界地図を背にする浅倉が、開口いちばん言ったのがそのセリフだった。やわらかな笑みを浮かべる顔に気勢をそがれ、絹見は「は……」と応じるしかなくなった。
最初に会った時と同じ――。一から十まで不可解な任務を押しつけ、謎めいた言葉を残して去った赤い唇は、この時も意図不明の微笑を形作って絹見を幻惑した。「まあ座ってくれ。いま水を持ってこさせる」と動いた唇に促され、手前の椅子の背を引いた絹見は、粗末なバラックには不似合いな純白の詰襟姿をあらためて凝視した。
「まさか、直接お出でになっていたとは……」
「遠出には慣れている。軍令部に補職される前は、南方で陸戦の指揮を執っていたこともあるのでね」
部屋の大半を占める長机の向こうで、簾ごしの陽光に浮かび上がる浅倉の顔が言う。軍令部一課長を任じられるほどのエリート将校が、陸戦隊を率いて前線に出る。こんな南の孤島に忽然《こつぜん》と姿を現したことと同様、俄《にわ》かには信じがたい話だった。「南方に?」と聞き返した絹見に、なにが可笑《おか》しいのか、浅倉は低い笑い声を返した。
「あそこに較べればここは天国のようなものだ。上等とは言えないが、人が喰うに値するものは獲《と》れる」
細まった浅倉の目の奥に鈍い光が宿り、「失礼します!」と響いた水兵の声がそれを消した。水兵からコップを受け取り、思ったより冷たい水で渇いた喉を湿らせた絹見は、多少はすっきりした頭に目下の懸案事項を列挙した。
なぜ本土ではなく、ウェーク島にローレライを運ばせたのか。土谷はパウラの存在を知悉《ちしつ》していたようだが、軍令部はローレライの本質をどこまで理解しているのか。今後のローレライの運用について、具体的な目算はあるのか――。
「土谷中佐の件については許してやって欲しい」
水兵が退出するのを待って、先手を取る浅倉の声が流れた。またしても不意をつかれ、絹見は無防備に顔を上げた。
「次の作戦では彼らも〈伊507〉に乗務する。出撃前に、少しでもローレライに慣れておきたいのだろう」
コップを握る手が微かに震えたのは、土谷が乗員に加わると聞かされたからではなく、彼らが急《せ》いて艦に乗り込んできた理由が察せられたからだった。絹見は「出撃は、いつでありますか?」と確かめた。
「翌未明だ」
「翌……!? 明日ですか」
帝国海軍潜水艦部の定めるところによれば、二ヵ月以上の作戦行動に従事した大型潜水艦の休養期間は整備・訓練期間を含めて四十日。三週間の作戦行動でも十日から二週間の休養が義務づけられている。人も艦もそれだけ苛酷な損耗を強いられるからで、半分の期間短縮ならまだしも、二十四時間未満で再出撃せよというのでは話にもならない。絹見は、不可能という禁句を危うく呑み込んだ。
「規定の休養期間にまるで足りません。補給にしても……」
「やってもらうしかない。補給については、潜水母艦の〈長鯨《ちょうげい》〉を回す。乗員の休養もそこで済ませてもらいたい」
ぴしゃりと遮り、浅倉はおもむろに立ち上がった。首から上が日陰に入り、その表情を見えにくくした。
「堪《こら》えてくれ。貴官がおらん間に内地ではいろいろとあった。事態は逼迫《ひっぱく》している。これ以上はないというほどに」
ゆっくり窓際に歩み寄り、再び陽光に照らし出された浅倉の横顔は、すでに笑いを消していた。連合国からの最後|通牒《つうちょう》であるポツダム宣言。それが脅しでないことを実証した原子爆弾。崩れ落ちる極東から権益をもぎ取るべく、満洲になだれ込んだソ連軍。淡々と事実を告げ始めた浅倉の声を、絹見も黙々と受け止めた。
驚愕も絶望も感じなかった。義弟の言う通りに事態が進んだという納得だけがあった。小さく敗けるか、大きく敗けるかの選択肢しかないこの戦争において、日本は最悪の道をひた走っている=B三年ぶりにその言葉を噛み締め、よそ見をしている間に事が進み、手足をもぎ取られる痛みを直《じか》に感じずに済んだのは幸運だったと、不実を承知で奇妙な安堵感を覚えたりもした。
単に対米戦争の幕が閉じるのではない。大陸で始まり、太平洋で決着を見た戦いの終焉《しゅうえん》。足掛け十五年に及ぶ戦争の時代、大日本帝国の歴史の終わり――。
「来るところまで来たというわけだ。おそらく今日中には大本営の回答が連合国に発せられる。条件付きでポツダム宣言を受諾するとの回答がな」
浅倉の声には他人事の響きがあった。思えば浅倉と出会った時、最初に問われたのが日本はなぜ敗けたんだと思う?≠セった。もとより大本営を批判して譲らなかった男には、いまさら故国の末期《まつご》に抱く感慨もないということか。とうの昔に打ち捨てられた南方の孤島で、あらかじめ国に絶望していた男から祖国の最期を告げられる。帝海の規格外品には似合いの一幕だと思い、絹見は小さく息を吐いた。
「条件の中身は、国体護持。連合国の一時的支配を被る際、陛下の主権までもが剥奪《はくだつ》され、連合国の支配下に置かれると謳った条文の削除だ。陛下の統帥権さえ認められれば、連合国に降るのもやむなしと……。原子爆弾の威力を目の当たりにして、大本営もようやく折れる気になったというところだろう。だがまだ十分ではない」
たわんだ床をみしりと鳴らし、浅倉の体がこちらを向く。本題はこれからだと言い放つ目の光に、絹見は反射的に姿勢を正した。
「連合国はこれを認めない。あくまでも無条件での受諾を突きつけてくる。それはそうだろう。彼らは大日本帝国を解体したがっている。大和民族の血を洗いざらいぶちまけて、新しい血を注ぎたがっているのだ。いまも昔も、戦争で敵を降すというのはそういうことだ。禍根が残らぬよう、相手の血筋を絶つ」
ひんやりした冷気が、いつか聞いたフリッツの声とともに絹見の胸に降りた。アメリカは日本を消しにかかってくる。ナチがユダヤ人を消そうとしたのと同じように。肉体的絶滅ではなく、もつと確実で効率のいいやり方で……。
「戦国の世では当たり前にやっていたことだが、大本営が自分の立場をどこまで自覚しているかは怪しい。しょせんは実戦で成り上がったのではなく、官僚制に則《のっと》って将官の地位に就いただけの連中だ。この期《ご》に及んで、まだ条件などと言っていられる神経の太さには呆れる。米国はさぞ笑い転げるだろう。壁際に追い詰められた瀕死《ひんし》のネズミが、尻尾だけなら食わしてやってもよいと啖呵《たんか》を切っているのだからな」
苦笑混じりに吐き捨てた浅倉は、一抹の寂蓼《せきりょう》を含んだ顔を再び簾に向けた。前回、江田島《えたじま》で会った際には決して窺えなかった表情に、ふと浅倉の本質が覗いたような気がしたが、それも一瞬だった。
「あまつさえ、後の国家の存立を考えずに一億玉砕を唱える者もいる。連合国が条件付き受諾を蹴れば、一度はなりを潜めた徹底抗戦論が息を吹き返す。敗北が確定した戦争で、犠牲者の屍《しかばね》ばかりが無駄に積み上げられることになる。……これは避けたい。避けるにはどうしたらいいと思うか? 絹見少佐」
唐突に話を振られ、「ポツダム宣言を無条件受諾せよ、と?」の返答が自動的に口から滑り出た。凡庸《ぼんよう》以下、思考放棄に近い答だと思ったが、「及第点の解答だな」と応じた浅倉は、満足げな笑みを口もとに浮かべた。
「必死に戦ってきた将兵に申しわけが立たぬのなんのと、感傷で時間を無駄にしなかったことは評価に値する。だが満点ではない。無条件受諾は断じて承服できん。日本民族が生き長らえるには、どうあっても条件付き受諾を認めさせる必要がある。すなわち、それもやむなしと相手に思わせる力を示すことが肝要だ」
漫然と漂っていた冷気が凝縮し、いきなり胸を貫いてきた感じだった。力――ローレライ。「わかるだろう?」と微笑した浅倉に追い打ちをかけられ、絹見は思わず立ち上がっていた。
「しかし、〈伊507〉単独では限界があります。大佐は、ローレライが量産のきかない兵器であることを……」
「確かに。ローレライがいかに傑出した兵装であろうと、米軍の圧倒的物量を前にしては無意味だ。日本近海に布陣して本土防衛線を張ったところで、いずれは沈められる。複数の敵と一時に戦えない構造的欠陥もあるようだしな」
やはり、なにもかも知っている。険しくなった絹見の視線を受け流し、浅倉は「だが使いようはある」と涼しく付け加えた。
「我が帝国海軍が得意とする戦法と組み合わせれば、目的達成も決して不可能ではない」
「目的……?」
「命令。絹見少佐」
なんの緊張も感じさせない声でも、命令と聞いた体は勝手に踵を合わせ、背筋をのばして、直立不動の姿勢を取ってしまう。いったん背を向け、席に戻った浅倉は、金縛りになった絹見に感情を消した目を据えた。
「翌未明、〈伊507〉はウェーク島を出撃。太平洋上にて連合艦隊残存艦艇と合流し、米本土に向けて進撃。米西海岸一帯に奇襲攻撃を敢行《かんこう》せよ」
返事が喉に詰まり、棒立ちになった体がぐらと揺れた。咄嗟に足を踏んばり、「米本土への、奇襲……」と痺れた頭に反芻《はんすう》した絹見は、正気を確かめる目を浅倉に注いだ。
「過去、米本土に対して直接攻撃を行った事例がないわけではない。〈伊17〉によるウルウッド軍事油田施設への砲撃。〈伊25〉搭載の水上偵察機によるオレゴン州森林地帯への爆撃。戦果は未確認だが、ジェット気流を利用した風船爆弾も打ち上げられている」
背後の地図を指して無表情に続けた浅倉は、「だがどれも米国の屋台骨を揺るがすには至っていない。多少の嫌がらせにはなったが」と言った時だけ微かに口もとを緩めた。からかわれているという疑念を払拭《ふっしょく》できず、絹見は浅倉の顔だけを見つめ続けた。
「しかし〈伊507〉は違う。ローレライを駆使して敵の防衛網を突破、強力な主砲で沿岸地帯を反復攻撃できる。敵がいかに防備を強化しようとも、沿岸全域を艦艇で覆い尽くすことは不可能な話だ。〈伊507〉は敵の死角をついて何度でも砲撃を行い、沿岸を焼くことができる」
一応の筋道は通っている。確認した時にはサンフランシスコ、ロサンジェルス、サンジェゴと並ぶ米西海岸の主要都市名が頭に浮かび、周辺の海図も呼び出していた絹見は、「無論、それをして戦局の好転を期待するものではない」と重ねられた浅倉の声に頬を叩かれ、我に返った。
「が、本土が攻撃にさらされることに慣れていない米国は、ちょっとした恐慌状態に陥る。先代大統領が逝去《せいきょ》してまだ日が浅い。見えない敵に対して有効な対策を打ち出せなければ、現政権の維持も困難になる。原子爆弾をもってしても日本は屈伏せず、それどころかドイツの忘れ形見であるローレライを駆使して、乾坤一擲《けんこんいってき》の本土攻撃を仕掛けてきた。少なくとも彼らは、帝国海軍の底力を思い知る。ポツダム宣言の条件付き受諾を認めるか否か、再考せざるを得ない程度には思い知る……」
地図上の北米大陸を見据える浅倉は、本気なのだろう。そうなると確信しているのではなく、そうならねばならぬと祈りにも似た想いを抱いて、この作戦を立案したのだろう。日本にあるべき終戦の形をもたらす。ローレライにはそういう力がある≠ニ言った言葉の意味。米本土進撃を視野に入れてのウェーク島行き。すべての答を得た絹見は、瞼を閉じた。
別に異常だとは思わない。この国の軍人は、ほとんどが同じ想いで作戦を立て、戦場に赴《おもむ》き、部下を、同期を、自らを死なせてきた。なにを言っても、浅倉もまたそんな日本人のひとりだったということでしかなく、自分自身、軍人としてやり甲斐のある仕事を得たと感じる胸中に偽りはない。米本土奇襲とは、帝国海軍の最期を飾るに相応《ふさわ》しい壮挙。万年教官のまま朽ち果てるはずだった自分には、身に余る光栄――だが、それで全部か? 半月前までは存在もしなかったもうひとりの自分に問われ、即答できずにいる自分に、絹見は戸惑うものを感じた。
この三週間の航海で培《つちか》われたなにか。いつの間にか心の奥底に根づき、思考回路まで左右するようになったなにか。言葉にするなら、それは〈伊507〉という鉄屑《てつくず》に対する愛着であり、そこにわいた錆《さび》同士の連帯感であり、そうして人肌の温もりを知ってこそ見えてくる世界、新たな地平への渇望であるのだが、現実を前にすればひどく脆く、軍人の職分とは終局|相容《あいい》れぬものだということが、いまこの場で証明されたのだった。「当然、限界はある」と続いた浅倉の声に、絹見は瞼を開いて現実を直視した。
「〈長鯨〉を始め、随伴する艦艇は〈伊507〉を援護するためだけに存在する。米本土にたどり着くまでに可能な限り補給を施し、護衛に万全を尽くすが、生きて米本土の灯を見る機会はあるまい。おそらくはすべての艦が沈むことになろう。以後、〈伊507〉は孤立無援となる。補給の当てはなく、燃料と武器弾薬が尽きるまで単独での戦闘を強いられる。そしていずれは……」
めずらしく言い渡んだ浅倉に、これが真実、帝国海軍最後の艦隊特攻になることを確信した絹見は、再び目を閉じて心持ち顔を伏せた。
怖れはない。尽忠報国《じんちゅうほうこく》、一死奉公の順番がいよいよ自分に回ってきた。ようはそれだけのことだと自分に言い聞かせ、死に花を咲かせるに相応しい舞台だと思いながらも、一緒に連れてゆかねばならない乗員たちの顔、自分にいまいちど人と関わる喜びを教え、その先にある豊饒《ほうじょう》を垣間見《かいまみ》せてくれた顔たちが、そう簡単に脳裏から消えるものではなかった。高須、田口、折笠、フリッツ、パウラ。歳だな……といつもの感慨を招き寄せたところで、入れ替わり立ち替わり現れる顔の印象は拭えず、〈伊507〉に乗り込みさえしなければこうはならなかったものをと、子供じみた悪態を吐きたくもなった。
それと、もう一点――まだ目前の男を信用しきれず、その言葉を怪しむ自分もいる。目を開け、バラックの薄闇に浮き立つ白い能面を視野に収めた絹見は、いいのか? と胸中に問うた。
この艦隊特攻で米国の、連合国の日本に対する目が変わり得るものなのか。さらなる原子爆弾の投下を促すだけではないのか。第一、〈伊507〉が米本土にたどり着くまで日本がもつのか。もったとしても、いったいどれだけの期間持ち堪え、沿岸攻撃を続ければ、浅倉の思惑通りの結果が招来するものなのか。
なにひとつわからない。わからずともやらねばならない、それは承知している。いまの日本には、敗け方を選ぶことしかできない。もとより敗北の定まった戦争を始めてしまった国にも、その程度の意地と権利は認められてしかるべきだろう。だが始めた時と同様、自国の理屈を他国に当てはめ、勝算の見えない作戦を仕掛けて、それであなたはいいのか? 日本を井の中の蛭《かわず》と嗤ったあなたが、先人の轍《てつ》を踏むだけで気が済むのか? 大本営への罵言雑言《ばりぞうごん》は近親憎悪に過ぎず、あなたも不明な日本人のひとりでしかなかった。そういう理解でいいのか……?
恐ろしいほどに整った白い顔は、内面はおろか、体温すら感じさせない。絹見は、確かめられるたったひとつの言葉を口にした。
「ローレライをして米本土に奇襲を掛け、帝国海軍の健在を知らしめる。陛下の御在位を死守し、国体を護持した上で降伏する。……それが、大佐の望まれる終戦の形ですか?」
「そうだ」
寸刻の躊躇もなく、浅倉は答えた。最後の糸が切れ、奈落に落ち込む絶望を感じたのも一瞬、前に進むよりなくなった己を自覚した絹見は、「では、任務を遂行する上でお願いがあります」と実務向きの声を重ねた。
「魚雷、弾薬などの補給作業に、根拠地隊の兵員をお貸しいただきたいのです。修理・当直など最低限の人員を残して、艦は出港ぎりぎりまで全舷上陸とします」
わずか一日で再出撃しなければならない乗員の労苦を思えば、その程度のことはなんでもない。浅倉は、「認めよう。鹿島司令にはわたしから伝えておく」と即答してくれた。
「それと、もうひとつ……」
間を置かずに続けてしまってから、絹見は先の言葉を呑み込んだ。あまりにも感傷的、個人的にすぎる。艦長の立場で下していい決断ではない。そう自戒する一方、それぐらいの勝手はいい、そうでなければあまりにも無為だと胸は叫び続け、絹見は結局、最後のわがままを押し通すことに決めた。
特に理由も尋ねず、浅倉は絹見の要望を認めた。なにかしら察するところがあったからか、端《はな》から興味がないからか、それは判断がつかなかった。
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「よーし、いいぞ。回せ」
砲術科員の上等兵曹が伝声管に怒鳴ると、固定器具が解除される音と振動が足もとに発し、耳障りな警報が三回、等間隔に鳴り響いた。続いてギアが噛み合い、鉄と鉄がこすれ合う地鳴りのような音が、〈伊507〉の露天甲板を微震させる。
間もなく、小高い丘のように盛り上がる艦橋構造部がぐらと動き、バースに横付けされた船体がわずかに横揺れした。二十・三センチ砲の砲塔がゆっくり左に転回し、長さ五メートルを超す二本の砲身が舷側を向いて、九十度回頭したところでぴたりと止まる。通常、艦橋構造部と完全に一体化している主砲は、こうして旋回させてみないと砲塔としての規模がわかり辛《づら》い。艦橋構造部の三分の一を占める構造物が動き、長大な連装砲身を中空に向ける光景は、〈伊507〉に乗り慣れた者の目にも奇異に映る。根拠地隊の兵員たちに至っては目を丸くして、潜水艦にあるまじき巨大な主砲を見つめていた。
午後になって全舷上陸が令され、当直要員を除くすべての乗員がウェーク島に上陸してからは、艦に残るのは主砲の修理に追われる砲術科員だけになった。目に見える損傷箇所の修復を終え、砲塔の稼働試験を見分するフリッツらの背後では、根拠地隊の兵員が魚雷の補給作業を行っている。前部甲板に架設したデリックを用い、ワイヤーで吊り下げた魚雷を斜めに搭載口に滑り込ませる作業は、ドイツ艦でも日本艦でも変わるところがない。九五式酸素魚雷ともども、島には魚雷積み込み作業の手順を知る兵が何人か残っており、彼らに任せておけば問題はないはずだったが、日々実戦をくり返してきたフリッツたちには手際の悪さばかりが目についた。旋回した砲塔に注意をそがれたのか、いまも金属がぶつかり合う派手な音が背後に発し、フリッツは思わず体を硬直させた。
四百キロの高性能炸薬のみならず、可燃性の純粋酸素を三百八十三リットルも溜め込んだ九五式魚雷は、ちょっとした衝撃でも誤爆する危険性がある。「てめえらっ! よそ見しながらやれるほど慣れてるのかよ!」とすかさず怒声を張り上げたのは、田口だ。
「どうだ?」
「いいと思える。思ったより損傷は少なかったようだ」
への字に結んだ口を主砲に向け直した田口に、フリッツも憮然とした顔で答える。旋回時の音を聞く限りでは、主砲の駆動機構に特に障害は認められない。返事代わりに鼻息を吐き、機械油まみれの腕を組んだ田口は、「例のやつ、やってみせろ」と、伝声管の前に立つ上等兵曹に顎をしゃくった。
「砲口蓋《ほうこうぶた》、開放」
伝声管に吹き込まれた上等兵曹の声に合わせて、主砲の砲口蓋が二門ともせり上がり、直径二十・三センチの砲口が露《あらわ》になった。砲身に沿って設置された可動シャフトで遠隔操作する仕組みだが、開放速度は以前より明らかに向上している。「閉鎖」と上等兵曹が再び伝声管に口を寄せると、開放時と同じ勢いで砲口蓋が閉じ、フリッツは「速いな」と素直に感嘆の声を漏らした。
「駆動機構に簡単な改良を施して、閉鎖の時もバネが働くようにしたんです」
小脇に抱えた図面を差し出し、上等兵曹は得意そうに鼻の下を掻いた。前回、非常用の爆砕ボルトを使って砕け散った砲口蓋の代わりに、予備の砲口蓋が取り付けられたのは一週間も前だが、駆動機構が改良されたという話は今日初めて聞かされた。フリッツは図面を受け取り、ところどころ日本語の書き込みが加えられた主砲の青写真に目を走らせた。
「艦橋部のみの浮上なら、約三十秒で再潜航が可能です。水中では砲塔は旋回させられないから、目標の軸線上に艦首を持ってく必要はありますがね」
「なるほど。浮上前にあらかた照準の目安をつけておけば、ヒット・アンド・アウェイができるな」
「ヒッタン……?」と顔をしかめた田口に、「一撃離脱ということですね?」と上等兵曹。フランスで建造された当時、約二分半かかった浮上から初弾発射までの所要時間は、ドイツで改造された際に一分弱にまで短縮されたが、この開閉機構なら即時砲撃も不可能ではない。無論、測距《そっきょ》に要する時間を無視しての話とはいえ、ローレライの索敵能力と連動させれば、当てずっぽうでもかなりの効果が期待できる――たとえば敵艦の真横に浮上し、その舷側に砲弾を叩き込んだら即再潜航するというような、まったく新しい戦法が可能になるのだった。
ローレライを開発し、使ってきた当事者たちには思いもよらなかった発想で、つまりはこれが日本人の器用さなのだろう。無から有を産み出す力は劣るが、有るものを模倣し、改良して、効率よく使ってゆく能力は欧米にも勝る。自分にも同じ力が備わっているのだろうかと考え、べたついた感情が胸の底にわだかまるのを感じたフリッツは、それが頭をもたげる前に思考を中断した。図面を上等兵曹に返し、保つのが困難になってきた無表情を主砲に向けた。
「ローレライをうまく使えば、潜航中でも水上目標の当たりはつけられるでしょう。あとは掌砲長の腕次第、と」
にっかり笑った上等兵曹に、「余計な心配すんな」と返した田口は、フリッツを一瞥して手拭いで顔の汗を拭った。
「使えるとわかればいいんだ。残りの作業は当直で足りるから、貴様もさっさと上陸しろ。十六時間後には出港するんだからな」
「は。……しかし、無茶ですね。主砲の損傷が軽かったからいいようなものの」
「命令だ。やむを得ん」
背を向けて断じた田口は、上等兵曹が立ち去るのを待って足もとの一斗缶を持ち上げた。「少尉も、いまのうちに陸の感触を味わっといた方がいいぞ」と目を合わさずに言い、機械油の入った一斗缶を両手に艦内に戻ろうとする。垢と疲労を溜め込んだ背中が凶暴な日差しの中に浮き立ち、フリッツはつい「あんたはいいのか?」と尋ねてしまった。
「風呂は〈長鯨〉で入れる。こいつらがヘマしないよう見張っとかにゃならんしな」
魚雷の積み込み作業を続ける兵たちをちらと見遣り、にこりともしない顔をこちらに向ける。声をかけたことを後悔していたので、フリッツは無視して主砲を見上げ続けた。田口はそのまま艦内に降りるハッチに足を向けたが、不意に立ち止まり、「……連中、まだローレライをいじり回してんのか」と探る声を投げかけてきた。
パウラを〈ナーバル〉に乗せてのローレライ実地検分は、昼に三十分の小休止を取った他は休みなく続けられている。今頃は高須が説明役に回り、パウラを物扱いして恥じない土谷技術中佐の相手をしているだろう。フリッツが主砲の稼働試験に出向かされたのも、このままでは土谷と衝突しかねないと懸念した高須の配慮だ。
配慮か……と胸中にくり返し、フリッツは鉄板を張った二重装甲の甲板に視線を落とした。あくまでもローレライと呼び、パウラという名前は決して口にしない田口だが、その健康をそれとなく気遣ってくれていることはわかる。隙間なく閉じた胸の暗幕が揺らぎ、一度は静めた感情が再び身じろぎするのを嫌ったフリッツは、「ああ」と意識して素っ気ない声を出した。「そうか」と応じて、田口は一斗缶の把手を握り直した。
「辛《つれ》ぇな、いろいろ責任のある身は」
ぽつりと置き去られた言葉が糸を引き、田口らしくないという印象をフリッツに残した。思わず振り向いたフリッツをよそに、田口はずんぐりした背中をハッチの中に沈めてゆく。ひとり露天甲板に取り残されたフリッツは、真上から降り注ぐ南洋の太陽に目を細め、もやもやと滞留する感情が蒸発するのを待った。
迷いを感じる必要はない。もとの状態に戻る、ただそれだけのことだ。自分と妹が置かれた立場も、自分という男も、三週間前となにひとつ変わってはいないし、ナチが消滅した時から始まった賭《か》けもまだ終わってはいない。正体不明の発光現象が観測された頃からちらつき始め、いまでは疑いなく胸に根づいた思いを確かめて、フリッツもその場を離れた。上陸している暇などない。出港まであと十六時間、少しでも有利なカードを手元にそろえておくために、やっておくべきことは山ほど残っていた。
機械室をねぐらと定めた岩村機関長までが上陸し、艦内にほとんど人気がないのは幸運だった。最下層の第三甲板に降りたフリッツは、通路の天井近くに定間隔に設置してある整流器の蓋を開け、配線をいじる作業に没頭した。
〈ナーバル〉から送られてくるパウラの脳波――電気信号の流れを整え、発令所のコロセウムに中継する整流器は、システム稼働時にはある種の計算機械の役割を果たす。システムが円滑に稼働するよう、注排水を微調整して船体の均衡を保つ機能も備えており、その部分に細工を施すのが作業の主眼だった。髪の毛ほどの電気コードをかき分け、システムの主要部分に影響を与えない範囲で基盤の配線を変える。艦首から艦尾まで、三つの甲板にまたがって十二個存在する整流器に、ひとつひとつ細工を施してゆくのは楽な仕事ではなかった。熱帯の海に浸かった艦内の気温はうなぎ登りに上昇し、滴り落ちる汗に何度も目をしばたきながら、これは背信か? とフリッツはいつしか自問していた。
違うだろう。日本本土の方向に見えた謎の光。土谷たちが体現するこの島の不穏な空気。直接ここまで出向いた浅倉の存在と、あまりにも急な再出撃命令。ひとつでは意味を成さないばらばらな断片も、繋げて考えれば一枚の大きな絵を描き出す。祖国の敗戦をいちど経験している身には、その絵になにが描かれつつあるのかがわかる。そこにどんな悲惨が潜み、どんな残酷が横たわっているのか、本能で感じ取ることができる。
日本は敗ける――それも、当初考えていたよりずっと早く。再出撃の目的はいまだ発表されていないが、生還を期したものではあるまい。〈伊507〉とローレライは特攻戦備に組み入れられる。勝つためにではなく、敗北の仕方を調整するための人身御供《ひとみごくう》にされる。それが浅倉の言うあるべき終戦の形≠ノ繋がるのだとしても、自分とパウラに心中する義理はない。それがフリッツの下した結論であり、こうして行動を起こすに至った論拠だった。
だから、これは背信ではない。属する国も民族も持たない者が、生き残るために発揮する正当な知恵。これまでも、これからも、こうして生きてきたと再確認する作業でしかない。SSの黒い制服をぬぎ捨てた十日間、一蓮托生《いちれんたくしょう》という日本語を胸に抱いて過ごした十日間が重石になり、もやもやとした感情をわだかまらせているのは承知だが、何度も経験してきたことだ。祖母やルツカの存在がそうだったように、あったものがなくなり、もとに戻る。それだけの話に過ぎない。ひとつ配線を終えるたびに胸に痛みが走り、大事ななにかがすり抜けてゆく感覚に襲われるのは、単に疲れているからだと断じて、フリッツは無意味な自問に蓋をした。絹見の寡黙な背中、田口の無骨な横顔、征人の朴訥《ぼくとつ》な瞳。まとわりついて離れない数々の残像を意識の外にして、黙々と孤独な作業を続けた。
「精が出るね」
四つ分の配線変えが終わり、五つ目の整流器の蓋を開いた時、出し抜けにそんな声が振りかけられた。作業に没頭していても周囲に気を張り巡らせていたフリッツは、唐突にわき起こった人の気配に身を硬くした。
昼夜の区別なく薄暗い通路に、こちらを見上げる土谷の姿があった。口もとに皮相な笑みを浮かべ、相変わらず窺う視線を投げかける技術将校を脚立《きゃたつ》の上から見下ろし、気配に気づかなかったのはつまらない物思いのせいか、気配を消して近づかれたからかと考えたフリッツは、すぐに思考を無にして整流器に向き直った。
傍目には通常の整備作業に見えるはずだが、もし土谷に気配を消す技能が備わっているなら、下手に考えを巡らせると気取《けど》られる恐れがある。SS時代に培《つちか》った神経で無表情を装い、フリッツは「時間がありませんから」と突き放す声を返した。
「それは、整流器《グライヒリヒター》とか言うんだろう?」
委細《いさい》かまわずといった調子で、土谷はゆっくりこちらに歩を進めてくる。距離が縮まるごとに空気がぴりぴりと震え、フリッツの肌を鳥肌立たせた。
「ローレライは素晴らしい。予想以上だ。わざわざこんな南の孤島まで来た甲斐があったよ」
率直に興奮を滲ませた声――そう相手に思わせる声が耳朶を打ち、配線を繰る手元を誤らせた。案内も付けずにひとりで下層甲板に降りてきた不自然な行動といい、作為に満ちた物腰といい、その中身を確かめたい衝動に駆られたフリッツは、危険を覚悟で土谷と視線を交わらせた。予想以上に間合を詰めていた眼差しが、息が触れ合うほどのところからフリッツを凝視した。
「その顔……。まるで日本人だな」
感嘆と畏怖、ほんの微かな憐れみがないまぜになった瞳が、視界いっぱいに拡がる。わけもなくぞっとなり、フリッツは無意識に体を引いた。
「君も、妹さんも……。ドイツではさぞ苦労したことだろうね。お察しするよ」
見上げる顔に卑屈な陰が差し、こんな顔をどこかで見たことがあると思いついた刹那、土谷はフリッツから離れる足を踏み出した。艦尾側の隔壁の前で立ち止まり、「これから長いつきあいになる。よろしくな、エブナー少尉」と言い残すと、猫を思わせるしなやかな動作で水密戸をくぐる。エブナー少尉という耳慣れない言葉の響きが耳に残り、フリッツ少尉だと内心に訂正したフリッツは、最初に会った時から匂っていたきな臭さが凝集し、明瞭な危機感に変化するのを自覚した。
事態はより早く、より取り返しのつかない方向に向かって走り出している。もう一刻の猶予もならないと自分に言い聞かせ、フリッツは残りの作業に専念した。必要と感じれば感情は速やかに消え去り、すべきことを体が行ってくれる。結局はSSでの訓練が役立つのかと思うと、少しだけ面映《おもはゆ》かった。
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太陽が椰子林の葉陰に隠れ、青一色だった空が色褪せる気配を見せると、日本で見るより濃い色の夕焼けが西の空から押し寄せてきた。なにもかもが原色の南の島では、昼と夜の境目でも物の輪郭《りんかく》がぼやけるということがない。傘を広げた葉の形に逆光を浴びる椰子も、三本の銃身を虚空《こくう》に向ける九六式三連装機銃も、長い影を地面に落としてその存在をくっきりと印象づける。
そこに休みなく蠢く無数の人影が折り重なり、肩を組んで胴間声《どうまごえ》を張り上げる者、手拍子を取る者、酌《しゃく》を傾ける者それぞれの形を地面に刻んで、この地にへばりついて生きる人の息吹きを原色の風景に添える。午後六時、日中の気が狂いそうな猛暑もいくぶんなりを潜め、島全体がひと息ついた風情を漂わせる中、根拠地隊司令部の周辺だけは昼とは種類の違う熱気が漲っていた。二百人からの男たちが集い、笑い、酒を酌《く》み交《か》わして、複数できた車座から軍歌や民謡の歌声、手拍子の音が間断なく聞こえてくる。二十人単位が寄り集まる車座の中心では焚《た》き火《び》が燃え盛り、吹き渡る海風が炎を爆《は》ぜらせるたび、破顔した誰かの顔を薄闇に浮かび上がらせた。
歓迎会兼壮行会という奇妙な名目で、司令部の屋外に酒席が設けられてそろそろ一時間半。根拠地隊がなけなしの酒と干物を供出すれば、〈伊507〉は備蓄の缶詰を放出するといった具合で、なんとかそれらしい体裁《ていさい》は整えることができた。島の近辺で捕れる魚は小骨ばかり多くて身が少なく、平べったい上に口の部分が奇妙にとがっていて、およそ食欲をそそらない外観を呈していたが、塩を強めにきかせてあるので食えないことはない。まわりが海だから塩だけはふんだんに採れるのだ、と説明した根拠地隊の上等水兵は、干物と芋しか口に入れられなくなって久しいのだろう。征人たちには食傷気味だったドイツ製の缶詰をいたく気に入り、〈伊507〉の乗員たちに酌をして回っては、ちゃっかりおすそわけに与《あず》かったりしていた。艦隊勤務はいいなぁ、と言いながら缶詰を貪《むさぼ》る顔は、涙を浮かべてさえいた。
最初は明るかった空も次第に輝度を下げ、いまでは焚き火の炎の方が強い光を放っている。米軍の反攻作戦でも無視された孤島とはいえ、敵勢力圏のただ中に存在する根拠地隊であることに変わりはない。さすがに不用心ではないかと征人は気になったが、
「この三ヵ月、機銃弾一発撃ってきやしねえんだ。こんな離れ小島に爆撃したってしょうがねえって、アメ公も割り切ってんのよ」
呂律《ろれつ》の回らない声で応じた年配の兵曹長は、それきり空《から》の一升瓶を抱いて横になってしまった。その向こうでは時岡と小松、根拠地隊の上等兵曹が肩を組み、体を揺らして『同期の桜』を歌う光景がある。万感こみ上げるといった顔の上等兵曹、歌詞とは無関係に満面の笑みの時岡に挟まれ、小松は海にいる時よりひどい酔いに苛《さいな》まれているらしい。酒でへたばった体を無理やり担ぎ上げられ、歌に合わせて左右に揺さぶられて、その顔は蒼白を通り越して白くなりつつある。隣の車座では「よせっ!」「汚いだろうが!」と岩村機関長らの悲鳴が上がっていたが、これは十八番の腹踊りを披露した清永が、ついに褌《ふんどし》に手をかけようとしたからだ。
ほんの一時間前まではこうではなかった。呼びかけに応じて集まりはしたものの、〈伊507〉と根拠地隊の面々はそれぞれ別に車座を組み、互いに交わろうともしなかった。貴重な糧秣《りょうまつ》をなんでよそ者にくれてやらねばならんのかと、反感のこもった目を相手に向け合い、警戒し合って、通夜《つや》のように重苦しい空気が場を支配していたのだ。
最後まで艦に残っていた田口も途中から加わり、根拠地隊の先任兵曹長と儀礼的に酌を交わしてもみたが、焼け石に水だった。一日未満の休養、再出撃。急な事態の変転が、一同の胸を重くしていたということもある。艦長と先任将校に至っては顔も出さず、司令部で作戦の打ち合わせ中という状況下で、陽気に呑めや歌えやという気分になれるはずもない。全員がちびちび酒をすすり、隣の者と酌をしあい、とがった口が文句を言っているような魚の干物を齧《かじ》る。征人は征人で、艦に居残るパウラの顔を頭に思い描き、あの陰険そうな技術中佐の印象にそれをかき消されては、一向に減らない酒にため息を吹きかける時間を過ごしていた。
たった半日でも、大の字になって地面の感触を確かめた体は本来の調子を取り戻していたし、ドラム缶の湯船は溜まりに溜まった疲れを洗い流してくれた。交替で薪《まき》を燃やし、湯を入れ替える作業はそれなりに重労働だったが、陸地で行う作業には艦内では味わえない爽《さわ》やかさがあった。一時間、いや、三十分でもいい。パウラにこの気分を味わわせてやりたい。人が人らしく生きられる場所で、心地好いと思える時間を過ごさせてやりたい。考えれば考えるほど、翌未明には出港という現実が重くのしかかり、半ば自棄《やけ》になって手にした酒を呷《あお》った時、「……なにやら辛気臭《しんきくさ》いですなあ」
聞き覚えのある口調が、もっとも言ってはいけない言葉をぽつりと漏らした。ぎょっと凝り固まる一同の気配が伝わり、征人は口に含んだばかりの酒を危うく吹き出しそうになった。全員が恐る恐る視線を振り向けた先には、ひとり黙々と酒を傾ける時岡軍医長の姿があり、三分の二ほど空になった一升瓶があった。丸眼鏡に燃え盛る焚き火の炎を反射させ、その顔は初めて見る真剣な表情に塗り固められていた。
何杯呑んだんだ、いったい。一同に共通の戦慄が走った瞬間、一升瓶を手にした時岡がやおら立ち上がり、征人たちはすかさず顔を伏せて目を合わせないようにした。周囲をじろりと睨《ね》め回し、「甲板士官!」と怒鳴った時岡の声が最初の犠牲者の存在を伝えて、征人は逃げ遅れたらしい小松に一瞬の黙祷《もくとう》を捧げた。
「そんなちまちました呑み方では示しがつきませんぞ。ささ、皇軍兵士ならぐいっといきなさい。ほれ、ぐいーっと」
小松のコップになみなみと酒を注ぎ足し、時岡は完全に据わった目をぴたりと甲板士官に向けた。「あ、いや、自分は不調法《ぶちょうほう》ですし、まだ体調が……」と怯《おび》えた声を出した小松は、「この時岡の酒が呑めんと言うのですか!」と一喝した軍医長の気迫に押され、迂闊にもひと息にコップを空けてしまっていた。時岡はにんまり相好を崩し、「酒は万薬の長。気分よくなってきたでしょうが」などと言いながら、首が据わらなくなった小松にさらに酌を重ねた。凍りついた空気を蹴飛ばす笑い声が時岡の口から弾け、調子外れの『ラバウル小唄』が流れ出すまでに、さほどの時間はかからなかった。
それがきっかけになった。散発的な手拍子が起こり、戸惑い気味に合唱の声が追随するうちに、少しずつ空気がなごみ始めた。「こうしちゃいられねえ」と手早く酌を呷った清永が、丸く突き出た腹に炭で目鼻を描き、車座の中心に勇躍飛び出したのも効果的だった。歌に合わせて出っ張ったり、引っ込んだりする腹が変幻自在に表情を作り出し、本気で感動した時岡が「素晴らしい! ブラボー、ハラショー!」と真顔で拍手|喝采《かっさい》すると、「腹ショウでござーい」と調子に乗った清永が隣の車座に乱入してゆく。どっと哄笑がわき起こり、他の車座でも歌と手拍子が聞こえるようになって、一升瓶を片手に車座を渡り歩く者の姿も珍しくなくなった。
絶海の孤島に置き去りにされ、長く身動きできずにいる根拠地隊の兵たちには、内地の情報を聞きたいという欲求もあったのだろう。いちど端緒が開けば、座に割り込んでくるのにも腐躇がなかった。明るい話題などなにひとつなくても、しんみりすれば呑もう、呑もうと誰かしら酒を掲げるといった具合で、いつ果てるともない四方山話《よもやまばなし》があちこちで続く。征人も数人の兵たちに囲まれたが、心ここにあらずの身が満足な受け答えをできるはずもなく、がっかりした顔はひとつ、二つと減っていって、酔い潰れた上等兵曹の寝顔だけが後に残されたのだった。
いっそ自分も潰れてしまえば楽になるのに。美味いとも不味《まず》いとも思えない酒に目を落とし、今度こそひと息に呷ろうとした刹那、「来ねえな、パウラちゃん」と清永の声がすぐ近くに発した。少しは酔いが醒めたのか、踊り疲れてだるくなったのか、征人の傍らに腰を下ろしてごろんと仰向けになる。上下する腹の動きに合わせ、汗で滲んだ腹の顔が表情を変えるのを眺めながら、征人は「うん……」と返してコップの酒をちびりと舐めた。相変わらず、美味くも不味くもない酒だった。
「今日着いたばっかりで明日出撃なんてさ。人使いが荒いよな、まったく。今度はどこに行けってんだろ」
欠伸《あくび》を噛み殺した声で清永が続ける。茜色《あかねいろ》に染まった空を見上げる目は、もう酔ってはいなかった。無闇に陽気になる者、感傷的になる者、自分のように内にこもる者。不安の紛らわし方は人それぞれだなと思いつつ、征人は「さあね。でもそんなに遠くにはならないよ」と気楽な声を出しておいた。
「なんでわかるんだよ」
「糧秣の放出の仕方さ。長期行動になるなら、こんなに気前よく出さないだろ。燃料だってたいして補給できなかったみたいだし」
思いつくままに喋ると、「一丁前の口をききよる……」と苦笑を含んだ声がかけられ、征人は口を噤んだ。一升瓶を手にした田口の姿が、焚き火の明かりに浮き立って大きく見えた。
「少しはそれらしくなったな。ええ? 折笠上工」
背後の椰子林から抜け出てきた赤鬼、と言っても通用する風体がよっこらとあぐらをかき、征人のコップに酒を注ぎ足す。慌てて上体を起こした清永に、「おまえも呑め。その腹の顔と二人分だ」と酌をした田口は、手酌で自分のコップも満たし、「いただきます」と声をそろえた征人たちに微かに杯を掲げてみせた。
それきり、無言で焚き火の炎を見つめる。思えばこの顔に殴り飛ばされ、『貴様、目が早いな』と意味不明の褒め言葉を投げかけられて、〈伊507〉での乗務が始まったのだったと、征人は不意に甘苦い感慨にとらわれた。自分が本当に『それらしくなった』のかは判然としないが、少なくともいまは、そう言われても型に嵌《は》められる重苦しさを感じることはなくなった。〈伊507〉を構成する機械としか思えなかった田口を、ひとりの人間として認識できるようにもなった。軍に限らず、そうした個人が集まって成り立っているのが社会だとわかれば、その一画に組み込まれ、なんとかやっていけそうな自分を受け入れて、より向上を目指そうという心持ちにもなれた。
自分は確かにそれらしくなったのだろう、と征人は認めた。慣れたというだけではなく、たった三週間で見事に頭の中身を入れ替えられた。報国の理念は相変わらず実感できそうにないが、仲間のためと言葉を置き換えれば、いまならどんな任務でも了解できると思う。そしてそう思える理由を突き詰めて考えると、必然的にここにはいない少女の顔に突き当たり、征人は堂々巡りの思考に心底|辟易《へきえき》した。味のわからない酒を呷り、大きく息を吐いて、いつかはアルコールにも慣れるのだろうかと漫然と考えた。
「だがな、気をつけろ」
焚き火を見つめたまま田口が口を開き、征人は顔を上げた。こわもての横顔に疲れとも寂しさともつかない影が差し、髭を剃《そ》った頬の古傷がひどく痛々しく見えて、どういう傷なのかといまさらの疑問が胸の底をよぎった。
銃弾が擦過《さっか》した、斬りつけられたというのとは違う。新しい皮膚が張りつき、そこだけ微かに窪《くぼ》んでいる親指大の傷痕は、まるで無理に抉り取ったような――。
「目が早いだけではだめだ。見えたものの裏側になにがあるのか、いつも想像を働かせておくんだ」
傷口を凝視してしまった征人とは目を合わせず、田口は静かに続けた。「裏側……ですか」と返して、征人も顔を正面に向けた。なにかひっかかる手触りの言葉だった。
「なにごとも決めつけるのは危険だってことだ」
ひと日酒を呷ってから、田口は「もっとも……」と吐息混じりに付け足した。
「わかったからと言って、どうにもならんこともあるがな」
頭より先に体が反応し、心臓がどくんと鳴った。思わず顔を見返した征人をよそに、田口は無言でコップを傾け、風に揺らぐ焚き火を見つめ続ける。糧秣を放出したからには次の目的地は遠くない、その推測には致命的な落とし穴がある。否応《いやおう》なく気づかされた頭が真っ白になり、『どうにもならん』と言った言葉の重みが全身にのしかかってきた瞬間、「折笠と清永はいるか?」と別の声が遠くに発した。
司令部のバラックがある方向から、高須が歩いてくるのが見えた。「先任、お待ちしてましたぞ!」と両手を振る時岡に、「おう、やっとるな」と軽く手を挙げて応えると、咄嗟に立ち上がった征人たちを目敏《めざと》く見つける。地べたに座り込んで談笑する兵たちの間をすり抜け、まっすぐこちらに歩み寄る高須の顔には、なにかを呑み込んだこわ張りがあった。
「おまえたち、艦長がお呼びだ。ご苦労だが、すぐ港の方に行ってくれ」
「艦長が……でありますか?」
「ああ」目を逸らして頷いた高須は、清永の腹に描かれた顔をちらと見遣り、微かに口もとを緩めた。「服は着ていけよ」
無理に笑って見せたという感じだった。時岡たちのもとに歩いてゆく高須の背中を見送り、清永と顔を見合わせた征人は、無意識に田口の方を振り返った。どっかり地に足を着けた無法松の顔を見れば、折り重なった不安も多少は紛れると期待したのかもしれなかったが、田口の姿はすでにそこにはなかった。
湿った風が吹き抜け、焚き火の炎がごうと揺れた。大事なものが失われる予感を抱いて、征人は絹見が待つ港へと向かった。
消える直前の太陽が、湾内の海を橙色に輝かせている時だった。〈伊507〉が繋留された埠頭《バース》を遠くに眺め、絹見は港の外れにある岬で征人たちの到着を待っていた。
他に人の姿はなく、波のさざめきばかりが聞こえる岬で、絹見は簡潔に用件を伝えた。寝耳に水の話のはずだったが、征人には予感した通りという思いがあった。理由はわからない。ただウェーク島に着いた時から――土谷中佐という外部の人間が〈伊507〉に乗り込み、入れ替わるように艦を離れた時から、自分はこうなることをどこかで予感していたらしいのだ。
「退艦……」
だからだろう。あらためて言葉にしてみても、さほどの衝撃はなかった。不思議なほど冷静でいられた。清永はそういうわけにはいかず、「ど、どうしてでありますか!?」と一拍置いて絹見に詰め寄った時には、小刻みに体を震わせていた。
「貴様たちは回収作戦要員だ。作戦が終了したいま、艦に乗せておく理由はない」
「しかし、当直だって割り当てられております! もう補欠ではありません」
胸倉《むなぐら》をつかまんばかりの勢いで、清永はさらに一歩前に出る。絹見は動じず、半分が夕陽の色に染まった無表情もそのままに、「隊司令の承認は取ってある」と静かに重ねた。
「二人とも、現時点をもって〈伊507〉乗務の任を解く。以後はウェーク根拠地隊の指揮下に入り……」
「艦長!」絶叫に近い清永の声が弾け、先の言葉を封じた。「命令だ」と絹見は即座に押しかぶせたが、その時、両の拳がぎゅっと握りしめられるのを征人は見逃さなかった。
「……特攻、なんですね」
意識しないうちに口が動き、そんな言葉がこぼれ落ちた。ぽかんとこちらを振り返った清永と、微かに体を硬直させた絹見を同時に視界に収めた征人は、やはりそういうことかと唇を噛み締めた。
糧秣と燃料の備蓄が少なければ長期の作戦行動はない、そう決めつけるのは無条件に往復分で計算する頭があるからで、はなから片道切符を想定しているなら事情は変わってくる。わざわざウェーク島まで出張らせ、技術将校と合流までさせておいて、いまさら本土への帰還命令が出るとも思えない。往路分の糧秣と燃料しか持たない〈伊507〉は、武器弾薬が底をつくまで戦い続け、戦場で討ち死にせよとの因果を含まされて、ウェーク島を出港しようとしているのだった。帰路の燃料を持たずに沖縄に突貫《とっかん》し、たどり着けずに轟沈《ごうちん》した戦艦〈大和〉のように。
目が早いだけではだめだ。物事の裏を見ろ。わかったからと言ってどうにもならんこともある。先刻の田口の言葉をいちいち思い出しながら、どうにもならないことは本当にあるんだと征人は胸中に呟いた。乗員全員が特攻要員にされた〈伊507〉も。ローレライひとつでは救いようのない日本の窮状も。生まれ育った祖国の手で鉄の棺桶《かんおけ》に閉じ込められ、そこから一歩も出られないまま、もうひとつの祖国に殺されるパウラも。呆気なくお払い箱にされ、助け出すことはおろか、もうそばにいることもできなくなった自分も……。
「だったら、だったら自分もお供します! 一緒に連れていってください」
否定しない絹見に、ますます切羽詰《せっぱつ》まった清永の声が叩きつけられる。絹見はわずかに顔を背《そむ》けたものの、うしろに退がろうとはしなかった。
「人員は足りてないはずです。なんでもしますから、お供させてください。置き去りなんてあんまりですよ……!」
「技術将校らの同乗で人員は足りる。必要のない人間を乗せておく余裕は、〈伊507〉にはない」
目を伏せて言いきってから、絹見は艦長の目を清永に向けた。さすがに気圧され、よろけたように一歩引き下がった清水は、しかし両足に力を入れてなんとか踏み留まり、煙管服の胸ポケットを慌ただしくまさぐった。取り出した御守り袋をぐいと絹見に突き出し、「これ、早川艇長が最後に自分に預けたんです」と搾《しぼ》り出した清永の背中から、征人は耐えきれずに日を逸らした。
「恥ずかしいことはできないんです。艇長の分も、自分が頑張んなきゃいけないんです。だから……!」
「だから、だ」
落ち着いた、やさしいとさえ思える声音が征人の耳朶を打ち、薄暮の空気を揺らした。御守りをつかんだ清永の手に自分の手のひらを覆いかぶせ、絹見の目は清永だけを直視した。
「早川艇長の代わりに、貴様がこれを日本に持って帰るんだ」
清永の肩が激しく上下し、御守りをつかんだその拳がゆっくり下がってゆく。絹見の手のひらも併せて下がっていったが、唐突に動いた清永の拳がそれを振り払い、しゃくり上げる息づかいひとつを残すと、清永はなにも言わずに駆け出していた。
びしょびしょになったまる顔を伏せ、嗚咽《おえつ》を噛み殺して征人の傍らを駆け抜ける。振り払われた手のひらをぐっと握りしめ、やや顔をうつむけた絹見は、それを潮《しお》に走り去る清永に背を向けた。澄んだ紺色にいくらかの星をまぶした東の空を見据え、大きく深呼吸する背中にどうしようもない悲哀の色が滲み、征人は我知らず「どうして……」と呟いた。
誰になにを問いかけているのか、自分でも判然としなかった。なぜ自分と清永だけなのかと問うたところで、同じ返答しか得られないことはわかっている。じわりと滲み出してくる悲痛から目を逸らし、絶望の到着を少しでも遅らせようと、体が無意識に繰り出した言葉なのかもしれない。小さく息を吐き、ここからはひとさし指の大きさに見える〈伊507〉を見遣った征人は、「楽ではないが、暮らせる」と言った絹見の低い声に、びくりと体を震わせた。
「この島にいれば、いつかは生きて日本に帰れる。少なくともその可能性はある」
爆発寸前の感情を糸一本で繋ぎ止めたような、血を吐くような声がほとばしり、絹見の目がまっすぐこちらを見下ろした。日頃は表情を窺わせない瞳の底で、熾火《おきび》に似た光が瞬くのが征人には見えた。
「……この戦争では、すでに多すぎる数の人が死んでいる。だから、その分も生きていく人間が必要なんだ」
湾を吹き抜ける風が、背後に広がる椰子林をざわざわと騒がせた。人手不足を押してまで不正規乗員二名を乗務から外し、自らは〈伊507〉を率いて帰らぬ航海に発つ。征人はふと、家に置き去られた古びた蓄音器と、大量のレコードが醸《かも》し出《だ》す空気を絹見に重ね合わせた。
条理と不条理、律儀と身勝手を混在させ、数々の矛盾を情という曖昧なもので包んで、容易には越えられない壁の権威を保っている。馴染みのない感情が渦を巻き、絹見から目を逸らした征人は、その脈絡のない思いを胸の中に呟いてみた。
父親とは、きっとこういうものなのだろう。
東の空から押し寄せてきた紺色が茜色を追いやり、日の名残りが島陰に隠れきった頃には、足もともおぼつかない闇が湾内に降りた。絹見と別れ、清永を捜しに港に向かった征人は、何艘かのカッターを舫《もや》った桟橋《さんばし》の上にその背中を見つけた。
あぐらをかき、丸い背中をさらに丸くして、うなだれた頭はぴくりとも動かない。近づいても顔を上げようとせず、征人は仕方なく無言で清永の傍らに腰を下ろした。岸壁から突き出したバースと、そこに舫われた二隻の哨戒艇が三十メートルほど向こうに見え、その船橋とマストごしに、隣のバースに巨体を休める〈伊507〉を窺うことができた。
半ば闇に溶け込んだ船体を探照燈が照らし、時おり閃《ひらめ》く溶接の火花が巨大な連装砲を浮かび上がらせる。補給作業が終わり、外板の修理が本格的に始まったのだろう。修理は航行中にも行われたが、停泊中でなければ手をつけられない損傷箇所はけっこうある。左舷の潜舵のへこみは直せたのか? ぼんやりと思いついた征人は、これが停泊中に修理できる最後の機会なのだから……と続きそうになった思考を、危うく退けた。
弧を描いて海面に吸い込まれる溶接の火花から目を逸らし、目の前に浮かぶカッターを見つめる。湾内の漁に使われるらしいカッターは、錆び止め塗装の剥げかけた船体にオールや銛《もり》、投網が積み込まれ、漁師船そのものといった風情だった。闇の中では南洋の毒々しいまでの原色もなりをひそめ、苔《こけ》やフジツボが付着した桟橋も、濃厚に漂う磯臭さも、故郷の近くにあった漁村となにひとつ変わるところがない。故郷を嫌って海軍に足を踏み入れたはずが、巡り巡って結局は似たような場所にたどり着く。皮肉だな、と苦笑しかけて、すでにここを終着駅と認め始めている自分に気づいた征人は、少し愕然とした。
清冽《せいれつ》な星空の下、椰子林は闇を凝集して黒々と横たわり、寄せては返す波音が果てることなく単調な調べを奏でる。本当に、ここでしばらく暮らすのだろうか。空《から》になった頭にそんな言葉が浮かんだ時、「……艦から降ろされるのが、悔しいんじゃねえんだ」と、低くかすれた声が傍らに流れた。
「親父に顔向けできないとか、艇長に申しわけがないとか……。そういうんじゃねえんだよ」
涙で腫《は》れた目を暗い海面に向け、清永は途切れ途切れに続けた。征人は黙ってその横顔を見つめた。
「本当はもっと悔しいし、情けないはずなのに……。おれ、ちょっとほっとしちまったんだ。生きて日本に帰れるかもしれない。そう思ったら、なんか嬉しくなっちまって……。父ちゃんや母ちゃんに会える。おれのために御守りを作ってくれる女もできるかもしれないって、そう……。ほんのちょっとの時間で考えちまったんだ」
新たにわき出てきた雫を拭い、清永は鼻をすすった勢いで顔を正面に向けた。遠い溶接の火花がその顔を朧《おぼろ》に照らし、硬い怒りの表情を征人に見せつけた。
「おれはそんなだらしない男じゃない。皇国の大恩に報いるためなら、いつだって死ねる。一時の気の迷いだって証明したいけど、だめなんだよ。だってそうだろ? もうその方法がねえんだ。こんな島に取り残されて、なにもできずにおめおめ生き残って……。それが、それが情けなくて、悔しい……」
食いしばった歯の隙間から荒い呼吸を漏らし、清永は抱えた膝の間に顔を埋めてしまった。小刻みに震える肩を見ながら、自分は不誠実な人間なのかもしれない、と征人は想像した。
純粋に皇軍兵士の矜持《きょうじ》を持ち続けようとする清永と、生かせる命は生かそうとする絹見。現れ方こそ対極だが、どちらも等しく置かれた状況と真正面から向き合っている。あくまでも己の信念に忠実であろうとする。では自分は? 両者とも正しいとしか思えず、戦争や国の行く末に思いを巡らせることもない。個人の感情に振り回され、こうしているいまもひとりの少女の顔が頭から離れない自分は、いったいなんなのだ?
「……偉いよ。清永は」
他に言葉がなかった。少しだけ頭を動かした清永を見てから、征人は〈伊507〉に視線を飛ばした。
「おれはなにも考えられなかった。ただ寂しいって思うだけで……」
花火に似た溶接の光が、後部甲板に接合された〈ナーバル〉の形を浮き彫りにする。その光景が心のどこかに穴を開けたのか、突然、激情の塊がこみ上げてきて、息ができなくなった。たまらずに顔を上に向けると、まだ夜になりきらない空に浮かぶ満天の星が滲んで見え、征人は目を閉じて灼熱《しゃくねつ》する体が冷えるのを待った。
そのためなら命を投げ出してもいいと思えるなにか。やっと見つけたかけがえのないなにかが、永遠に消え去ってしまう。守れなかった。なにもしてやれなかった。日本を、おれの故郷を見せてやることができなかった――。
「……おれこそ、情けないよ」
無様《ぶざま》にうわずった声が、さらに体を熱くした。滲んだ視界に流れ星が尾を引き、ひと筋の雫が一緒に頬を滑り落ちた。
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極度の集中の後の放散が、体を重くしていた。こめかみの痛みを伴う全身のだるさは、感知試験が終わった時に必ず感じる精神と肉体の疲弊《ひへい》だ。
水を抜いた〈ナーバル〉の艇内は、耐圧殻ごしに届く溶接の音もどこか乾いて聞こえる。いっぱいに倒した前部座席に横たわり、パウラは天井の照明灯を漫然と見上げていた。空腹も睡魔も覚えず、ただひたすらだるいと訴える体をもてあまして、寝返りを打つのも億劫《おっくう》な虚脱の中にいた。
感知半径を矢継ぎ早に変え、感知される対象物を遠望したり、細部を窺える距離にまで近づいたりする感知試験は、全身の神経にかなりの負担をもたらす。感知を目視に当てはめれば、無理やり望遠鏡に目を押しつけられ、遠近の対象物を交互に見させられて、他人の手ででたらめに焦点をいじられる感覚に近い。フリッツはそのあたりを心得ていて、感知半径を変更する際には段々に慣らしてゆくように調節してくれるのだが、土谷技術中佐にはそんな配慮はなかった。
新しい玩具《おもちゃ》を与えられた子供さながら、一日ぶっ通しでシステムをいじり回し、パウラは目まぐるしく変転する感知野を捉え続けなければならなかった。視覚なら目を閉じて休むこともできるが、水中感知ではそれもできず、午後の試験では昼間に食べたものをすべて戻してしまった。それでも試験が中断されることはなく、軍令部の実地検分という名の拷問からパウラが解放されたのは、午後七時を回った頃――ほんの一時間前のことだった。
技術屋としての興味とか、己の扱う兵器の性能限界を知っておきたいとする軍人気質とか、そういうものではない。もっと功利的で、陰湿で、それだけに執拗ななにかに衝《つ》き動かされている。絶えず相手の反応を窺う眼差し、ふとした弾みに見せる凶暴で我慢のない所作から、パウラは土谷の本質《たち》をそのように洞察していた。職務を大義に嵩《かさ》にかかり、下位の者を苛んで抑圧された思いを発散する大人。軍隊という、支配と従属によって成り立つ組織が育てがちな人の質とはいえ、一見では物わかりのいい優男《やさおとこ》に見える土谷の歪み方は、それよりも根深い。一日つきあわされて、パウラには最初に会った時の印象通りという感触だけがあった。
己の存在価値を示し、生き残るためには、他人を切り刻む罪悪感を忘却の彼方に追いやった人の姿。「白い家」の薮医者《クワックサルバー》と同じ臭いがする男……。
水密戸を叩く音が艇内に反響し、パウラはいつの間にか閉じていた瞼《まぶた》を開けた。符牒《ふちょう》通りのノックだったので、重い手足を動かし、上体を起こすのに留めて、パウラは警戒せずに兄が入ってくるのを待った。が、円形の水密戸が開き、髑髏《どくろ》の徽章《きしょう》を目立たせた軍帽がぬっと戸口をくぐるのを見れば、全身をこわ張らせずにはいられなくなった。
SSの黒い制服に身を包んだフリッツは、目深にかぶった軍帽の鍔でこちらの視線を遮ったのも一瞬、すぐに硬い意志を漲らせた焦げ茶の瞳を向けてきた。ご飯と味噌汁の載った盆を無言で押しつけ、ヤカンの水をコップに注いで、床に膝をついて缶詰の蓋を開けにかかる。いつもより寡黙になり、やるべきことはきちんとやりながらも、その目はどこか別の場所を見据えている。子供の時から変わらない、祖母に隠れてケンカに行く時の態度だとわかったパウラは、機械的に缶切りを動かす兄の横顔を黙って見つめた。
「Vor dem Angriff gibt es eine Einweisung durch das strategische Kommando. Ich muss mich entsprechend anziehen.(出撃前に、作戦指揮官の訓示があるらしい。それなりの格好をしておかないとな)」
この二週間、収監室に置き去りになっていた黒い制服の上で、目を合わそうとしない横顔が問わず語りに言う。嘘と断定する代わりに、「Dein Kragen ist knitterig.(襟、皺になってる)」と指摘して、パウラは蓋の開いた缶詰を受け取った。フリッツは襟に手をやり、決まり悪そうに顔を背けてから、後部座席にどすんと腰を下ろした。
遠く近くに聞こえる溶接の音と、食器が触れ合う微かな音。互いに切り出す言葉を失った静寂に、そんな音だけが降り積もり、張り詰めた空気を震わせる時間が流れた。米がバター漬けになっていないのは、自分の体調を気づかった兄が烹炊長にかけ合ってくれたからだろう。そう思いつきはしても、いまこの時期に再びSSの制服を身に帯びた兄の心情、これからなにをするつもりなのかを問いただす勇気は持てず、パウラはひたすら箸を動かすことに努めた。迂闊に口を開けば、曲がりなりにも保たれている平穏が破け、以前の暗黒に引き戻されてしまう。明日、未明には出撃すると高須から聞かされ、直後にSSの制服で身も心も包んだ兄を目前にして、その不安は確実にパウラの中で育っていた。
弱くなっている。〈伊507〉で人との関係の中に身を置くようになってから、自分は脆くなっていたのかもしれない。以前はこうではなかったと自覚すると、それではいけないと焦る心理が自動的に働いて、パウラはようやく後部座席の兄の顔を振り返る気になった。いつからかこちらを見つめていたフリッツと直に目を合わせ、互いに顔を背けてから、「Das hat es lange nicht mehr gegeben.(久しぶりだね。こういうの)」と口を開いた。
耐圧殻ごしに溶接の音を聞きながら、食事を運んできてくれた兄と二人、疲れきった体を狭い艇内で寄せ合う。キール軍港のブンカーで、一方は感知試験に明け暮れ、一方はSSに馴染む努力を重ねていた頃の再現だった。懐かしいという以上に忌まわしい過去を持ち出したのも、当時と同じ目に戻ってしまっている兄の反応を探るためだったが、フリッツはなんの返事も寄越さなかった。止めていた箸を仕方なく動かしたパウラは、その途端、「In der letzten Zeit schein Orikasa ha:ufiger hier gewesen zu sein.(この頃は、折笠の方がよく出入りしていたようだからな)」と不意に発した兄の声に、危うくむせそうになった。
無表情を装っていても、基本的に一直線のフリッツの人柄は、どう隠しても感情を表に滲ませてしまう。嫉妬というほど明瞭ではないが、多少はおもしろくないのだぞと伝える肉親の声音に、パウラは「そう?」と、わざと日本語を使って応えた。心配されるような間柄でないと教えて、ごく普通の感情を示した兄を安心させるのは、なにかもったいない気がした。
「だがそれももう終わりだ」
一転して硬い声が背後に発し、ほのかに甘い空気を霧散させた。終わりという日本語が重く胸にのしかかり、パウラは「どういうこと?」とフリッツを振り返った。
「おれたちはドイツ人ではない。そして日本人でもない。そういうことだ」
パイプとバルブに埋められた内壁を見据え、はっきりと言いきったフリッツは、パウラの顔を見ることなく立ち上がった。「Fritz...(兄さん……)」と無意識に呼びかけ、パウラも食事の盆を脇によけて席を立とうとした。
一日座りっぱなしだった足腰に力が入らず、転びそうになったところをフリッツの手に支えられた。ぐいと引き上げられた拍子に一回転し、兄の顔を正面に見上げる形になったパウラは、絶望を意志の力で覆い隠した瞳の色に、びくりと肩を震わせた。
「Ich sag Bescheid, wenn's soweit ist. Mach dich bereit.(その時が来たら教える。心の準備はしておけ)」
ぎゅっと肩をつかんで震えを封じ込め、フリッツは囁くように言った。軍帽の鍔の下で輝く眼が揺れ、他にどうにもできない自らの不明を詫びると、フリッツはパウラから離れて艇を後にした。
呼び止める言葉も、思い留まらせる論旨も思いつけずに、パウラは水密戸をくぐる兄の背中を見送った。フリッツも、自分も、自分たちが歩く道も、すべてもとの通り。なにかが失われたのではなく、なにかを得たという錯覚が消え去ったのだと理解して、パウラは前部座席に座り込んだ。
アルミの器の中で、味噌汁が冷めた色をしていた。じきに見られなくなる、祖母の国が育んできたスープの色だった。
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「気をつけ!」
複数の踵が合わさる音が暁闇《ぎょうあん》に吸い込まれ、湿った大気を微かに振動させる。バースに整列した乗員たちを正面に捉えながら、絹見は続いて「頭《かしら》、中! 浅倉大佐に対し、敬礼!」と令した。
さっと上がった七十数人の手を横目に、絹見も左向け左をして浅倉に向き直り、挙手敬礼をする。探照燈に照らし出された〈伊507〉の艦橋構造部を背に、浅倉は慣れた様子で答礼を返し、ずらりと居並ぶ乗員たちを左から右に見渡してゆく。海軍のしきたりを足蹴《あしげ》にして恥じない男も、これから死地に赴く兵たちの前ではさすがにしおらしい。奇妙な感心にとらわれる間に、浅倉の手が下がり、絹見は一拍遅れて敬礼を解いた。一同が倣《なら》う気配が暗がりの中でさざめき、湾内にこもる波音がひそやかにそれを包み込む。
八月十一日、午前三時四十五分。一時間後の出港を控え、全乗員が〈伊507〉の停泊するバースに集合したのは、浅倉の訓示を拝聴するためだった。作戦会議では広範な知識を披露し、文武に秀でた英才ぶりを高須たちにも見せつけた浅倉は、この時もエリート将校然とした顔を一同に向けている。いささか物足りないと感じてしまうのは、これまでの言動にさんざん振り回されてきた恨みがあるからだろう。ふと思いついた絹見は、不審の念がわだかまりそうになる頭を空にして、白い能面が口を開くのを待った。月も姿を隠した暗闇の下、四列横隊に並んだ複数の視線を正面に受け止めた浅倉は、「浅倉大佐である」とそつなく第一声をあげた。
「貴官らの働きによって、ローレライは無事回収された。この〈伊507〉ともども、今後は帝国海軍の貴重な戦力として存分に力を発揮するだろう。まずはその殊勲《しゅくん》を褒《ほ》め讃《たた》えるとともに、軍令部に籍を置く者として、また一個人としても礼を言いたい」
日没前から宴会を始め、夜になる頃には眠りについた乗員たちは、存外さっぱりとした顔つきで浅倉の弁を聞いている。この作戦の趣旨がどういうものであるかを知った上で、涼やかな無表情を正面に向ける高須。浅黒い顔に一抹の緊張を忍ばせた木崎航海長。お偉いさんの口上を聞くのも仕事のうち、と割り切った顔の岩村機関長の背後で、唐木たち新任の少尉はがちがちに硬くなった顔を隠そうとしない。例外は小松で、大虎になった時岡に嫌というほど呑まされたらしい彼は、二日酔いでふらつく体を前後左右に微動させている。当の時岡は、快調そのものといった眼鏡面で浅倉の言葉に聞き入っているのだが。
「しかし、その舌の根も乾かぬうちに新しい任務を与え、満足に休養も取らせぬまま貴官らを送り出さねばならんのが、自分の立場だ。多少なりとも気が晴れるのなら、恨んでくれていい。この顔を張り飛ばしても一向にかまわん。が、その後は黙って任務に全力を尽くしてもらいたい。皇国をめぐる情勢はそれほどに逼迫している」
将校の背後には兵曹以下の乗員が並び、彼らにとっては雲上人《うんじょうびと》の浅倉を畏怖半分、物珍しさ半分の面持ちで見つめている。田口だけが心持ち目を伏せ、心を別の場所に飛ばしているように見えるのは気のせいか? 掌砲長らしからぬ態度に、絹見はわずかに眉をひそめた。
作戦内容をいっさい知らされてなくとも、古参の兵曹長にはなにかしら察するものがあるのだろうが、それにしても奇妙に目を引く姿だった。これでは、変に勘のいいところがある折笠上工にも不安が伝播《でんぱ》しているかもしれない。まったく自然にそう思い、まずはいつも一緒にいる清永上工の大柄を捜そうとした絹見は、すぐに己の間抜けさ加減に突き当たり、人知れず嘆息を漏らした。
「作戦の詳細については、出港後にあらためて艦長から説明があるだろう。いま自分が言えることはひとつ、本作戦の成否が皇国の明暗を分け、今後の国家の存立を左右するであろうということだ。これは誇張ではない」
置き去りなんてあんまりですよ。そう叫んだ清永の声は、いまも耳の奥にこびりついている。パウラに好意以上の感情を寄せる折笠征人が、どういう思いで退艦を受け入れたのかも想像がつく。無理に降ろす必要はなかったのではないかと問われれば、そうだろうとしか答えようがない。軍務とは関係ないし、誰の得にもならない話だ。自分を納得させるためだけに職権を利用し、浅倉に二人の退艦を認めさせたという自覚だってある。わかっているのだ、なにが救われるわけでもないということは。
しかしそれでも、自分はあの二人を艦から降ろさずにはいられなかった。征人に亡霊の面影を重ねたからとか、そんな理由ではない。乗務から外す大義名分があれば誰でもよかった。正規の乗員ではないというあやふやな理屈でも、征人と清永にはそれがあった。だから降ろした。身勝手と言わば言え。流されるまま戦争という大河を下り続け、ついには死に通じる滝壺《たきつぼ》を目前にした自分だ。ひとりでも多く、一分一秒でも長く生きられる命を残そうとしてなにが悪い。この航海で得た人の絆《きずな》、よりよく生きようとする想いが異なる者同士を結びつけ、先の世界に希望をもたらすと信じられるのなら、萌芽《ほうが》のひとつを残す行為にも意味がある。死神に魅入られた国家の軍人にも、それぐらいの権利は認められてしかるべきだ――。腹の中で荒れ狂う絶叫を噛み殺し、絹見はひとつとして同じものはない乗員たちの顔を見つめ続けた。
「貴官らの名前は、帝国海軍初の壮挙を為《な》し遂《と》げた者として、永く歴史に語られることになる。無論、困難かつ苛酷な任務である。万全の準備ができたとも言いがたい。尾羽打《おはう》ち枯《か》らした帝国海軍の現状は貴官らも察していようし、自分も率直に認めるものである」
視線に気づいたのか、乗員のひとりがちらとこちらを見返す。その顔が亡き弟のものであっても、絹見は特に驚かなかった。亡霊が、性懲りもなく嗤いにきたか。睨み返した途端、忠輝《ただてる》の顔は消え、浅倉を注視する潜航士官の顔が後に残った。舌打ちする気力もなく、絹見は乗員たちから視線を外した。
「だがそのような状況下、〈伊507〉とローレライがもたらされ、卓抜《たくばつ》なる勇気と技能を備えた貴官らの手によって、その威力が最大限に発揮されることが証明された。これは天佑《てんゆう》と言っていい。本艦とその乗務員は、天が我が国に遣《つか》わされた最後の希望であると自分は確信するものである」
そうすると、今度は列の外れに立つフリッツの姿が視界に入り、絹見は再び眉をひそめなければならなくなった。ぬぎ捨てたSSの制服をいまいちど引っ張り出してきたのは、訓示を拝聴するための配慮というわけではあるまい。一分の隙もない黒い制服も、生硬い無表情も、肌をひりつかせる焦燥感をまとって周囲から浮き立って見える。どだい、この出撃の意味を悟れば、フリッツが以前の信条を取り戻したとしても不思議ではなかった。
恐怖を克服するには、自らが恐怖になるしかない。原子爆弾にせよ、戦後の対米政策を見据えて満洲になだれ込んだソ連にせよ、米本土への艦隊特攻に一縷の望みを託すしかない自分たちにせよ。世界中が他者への恐怖で発狂しているいま、結局はその論理が正鵠《せいこく》を射《い》ていたということか。否定できなかった敗北感を抱き、腹に一物を抱えた長髪の横顔を窺った絹見は、不意にぞくりとした悪寒を背中に感じた。
ちらと横に流した目に、高須の隣に並び立つ土谷の顔が映った。口もとに薄い笑みを浮かべた技術将校は、目が合っても慌てることなく、つかみどころのない視線をゆったりと正面に戻す。この男は、今回の出撃がどういう類《たぐ》いのものか理解しているのか? いまという時に冷笑を浮かべていられる神経がわからず、心中を見透かされるような不快感も覚えた絹見は、今度こそ考えるのをやめて浅倉だけを視界に収めた。それはそれで不可知の権化だったが、うすら寒い土谷の顔を見るよりはましと思えた。
「過去、幾度も使われてきた言葉であるが、いまの貴官らに手向《たむ》けるに足りる言葉は他にはない。敢《あ》えて言おう。皇国の興廃《こうはい》、この一戦にありと」
適度に謙虚、適度に大言壮語。ありきたりの訓示を締め括るに相応しい決まり文句を吐いて、浅倉は威儀を正した。「以上だ。健闘を祈る」と続いた声に、これで真実、前に進むしかなくなったと実感した絹見は、あらためて乗員たちの顔を見渡した。
浅倉の顔を注視しながら、乗員たちの意識は明らかに艦長に向けられている。やり遂げるしかない。このすべてを死に至らしめる出撃であっても、そうする以外に我々は己を示す術を知らない。その思いをしっかりと抱き直し、絹見は迷いを振り切る声を腹から搾り出した。
「気をつけ!」
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軍令部から出向してきたという大佐の訓示が終わり、乗員たちが一斉に艦内に乗り込むと、夜明け前の闇に覆われた港は俄かに活況を呈し始めた。舫い作業を行う掌帆長らが露天甲板に現れ、その合間を主計士官が慌ただしく駆け抜けてゆく。いつ何時も変わらない、出港直前の喧噪《けんそう》だった。
甲板上を錯綜《さくそう》する舫い索を引き込むために、障害物の有無を確認する掌帆長らの周辺では、書類を手にした根拠地隊の将校がひっきりなしに出入りする姿もある。寄港から一日と置かない出港で、規定の事務処理を行う間がなかったのだろう。探照燈の光がそれらの影を甲板上に交錯させ、深夜の工事現場といった雰囲気を醸《かも》し出す中、征人はバケツに一杯の水を携えて係船桁を渡った。
重いバケツを抱えての乗艦は、嫌でも人目につく。荷物を取りに戻る用事があるとはいえ、バケツを持ち込む理由を質されたらどうしようかと内心ひやひやしたが、舷門を守る上等兵曹はなにも言わずに征人を通してくれた。自分と清永が艦を降りることはすでに知れ渡っているらしい。ほっとする一方、どこか他人行儀の上等兵曹に寂しさも募らせた征人は、バケツの重さだけを感じるようにして〈伊507〉の甲板に足を着けた。
パウラを呼び出すのは、それほど難しいことではなかった。露天甲板から直接〈ナーバル〉の船体に取りつき、符牒通りに外板を叩けば、ぐるりと首を巡らした潜望鏡がこちらを見つけてくれた。出てこいよ、というふうに手招きしてから、征人は艦橋格納庫の前まで後退してパウラを待った。半球形の水防扉は開放しており、探照燈の光を遮っていたので、人目を引かずに会うにはちょうどいい場所と思えた。
二分と経たずに、小柄な煙管服が艦内に通じる昇降口を駆け昇ってきた。例によって略帽を目深にかぶり、通りかかった根拠地隊の中尉をそつのない敬礼でやり過ごすと、赤色灯が照らす格納庫を足早に歩いてくる。ぼんやり見惚《みと》れてしまった征人は、略帽の鍔を持ち上げ、「ごめん。待たせて」と口もとを緩めたパウラと不用意に目を合わせて、わけもなくどぎまぎした。薄闇の中でぱっと輝いた微笑から目を逸らし、「いや……」と詰まった声を出すのが精一杯になった。
まるで逢引《あいびき》じゃないか――その思いは、別の時、別の場所で出会っていたらという虚しい仮定を招き寄せ、正面から向き合ったが最後、平常心ではいられなくなる。ひと晩かけて激情を組み伏せ、涙を流しきった意味がなくなってしまう。男だろ、しっかりやってみせろと自分を叱咤した征人は、腹に力を込めてやや上気したパウラの顔を見返した。まっすぐに見つめる鳶色《とびいろ》の瞳に胸をひと突きされ、すぐに顔をうつむけながらも、自分と清永が艦を降りることになった経緯を簡潔に伝えた。
特に驚きもせず、パウラは黙って征人の話を聞いた。先刻、絹見艦長から全艦に発表があったのだという。しばらくはこの島で勤務する、飢えない程度の食料は獲《と》れるから心配ない、漁では素潜りの腕が活かせそうだ。征人は思いつくままに喋り、パウラは淡々と頷いていたが、互いに下に向けた目線が合うことはなかった。
他に言うべき言葉があるはずなのに、切り出せない。核心に触れるのを恐れて同じところをぐるぐると回り、ふと訪れた沈黙の間に口を開きかけては、どちらからともなく目を逸らし、また当たり障りのない話に逃げ場を求める。そんな間の悪い時間が流れていった。
「少しだけど、根拠地隊の人に頼んで分けてもらったんだ。結局、風呂にも入れなかったし……」
いよいよ話の種が尽きた頃、征人は足もとに置いたバケツの水のことを説明した。風呂とまではいかないまでも、行水《ぎょうずい》の真似事ならできる量の真水。最後にしてやれることはなにかと考え、唯一思いついたのがバケツ一杯の水、というのも情けない話ではあるが、水源を持たないウェーク島ではこれでも貴重品だった。年季の入ったブリキのバケツを見下ろし、パウラは「征人は入れたの?」と尋ねる声を返してきた。
「五右衛門風呂《ごえもんぶろ》だけどね。ドラム缶に水を張って、下から火で灸《あぶ》るやつ。みんなで交替で入った」
「なんか、おっかなそう」微かに笑みを浮かべ、征人と視線を交わらせたパウラは、「でも、ちょっと楽しそう」と続けてまた顔を伏せた。ぎりと締めつけられた胸の痛みを堪《こら》えて、征人も目のやり場を甲板に求めた。
再び訪れた沈黙の時間が、潮時という言葉を意識させた。バケツの把手《とって》をつかみ、自分の側に引き寄せたパウラが、「ありがとう。大事に使う」と言ったのも後押しになった。〈ナーバル〉まではおれが運ぶよ、と出しかけた声を喉に詰まらせ、いま言わなければならない、それを言うためにここまできた言葉と向き合った征人は、両の拳を固く握りしめた。
さよなら。元気で――。そう動かしたはずの口から、「……怪我、すんなよ」という言葉がこぼれ落ち、征人は絶望的な気分になった。うつむいたパウラの顔がわずかに上がり、鳶色の瞳が長いまつ毛の下に覗いた。
「なるたけ水から出るようにして、苦しくなったら我慢しないでちゃんと言えよ。艦長だって、軍医長だって、フリッツ少尉だっているんだから……」
「征人、お母さんみたい」
無為に垂れ流れる言葉をやさしく遮り、パウラはやわらかな笑みを浮かべた。なんて顔で笑う。なんてことを言う。なにもかも心得た瞳が視界いっぱいに広がり、続ける声を失った征人は、握りしめた無力な拳をただ震わせた。
「逆だよな、こんなの」
ひと晩がかりで静めた激情があっさり息を吹き返し、もう蒸発しきったと思った体内の水が懲りずに噴きこぼれて、胸を潰した。きつく瞼を閉じ、それでもこぼれ落ちる雫をせき止められずに、征人は体を震わせ続けた。
「普通、女が男に言うことなのに……。おれには、もう、君を守ってやることが……」
こみ上げる感情が喉を塞ぎ、先の言葉を流れる雫に変えた。この手も足も、命だってくれてやる。フリッツに逃亡の算段があるなら、逆賊《ぎゃくぞく》の謗《そし》りを受けてでも手伝う。守ってくれ。死なせないでやってくれ――。沸騰する胸の中に絶叫し、征人は震えを抑え込もうと歯を食いしばった。こんなじゃいけない。男が人前で涙なんか見せるもんじゃない。糊《のり》でくっついてしまったかのような瞼をぎゅっと閉じ、滴り落ちる雫を振り搾ってから押し開けると、絆創膏《ばんそうこう》の目立つパウラの手のひらがゆっくりと持ち上がり、なにかをつかもうと揺らめくのが滲んで見えた。
おずおずと差し出された手のひらが、震える征人の拳に触れようとして、ためらいがちに指をのばす。こわ張った腕をほんの少し動かし、征人もパウラの指先を手の甲で受け止めるようにした。冷たくやわらかい感触が肌に触れ、手のひら全体がパウラの体温を征人の拳に伝えかけた時、ブリキのバケツが蹴り飛ばされる派手な音が間近に響き渡った。
思わず互いの手を引っ込めた直後、まき散らされた水がじわりと甲板に拡がり、征人とパウラの足を濡らした。頭が真っ白になり、充血した目を忘れて顔を上げた征人は、主計士官の驚き顔と、体をやや前屈みにした土谷技術中佐の無表情を、一時に視界に入れた。
格納庫を通って艦内に戻るところだったのだろう。空になって転がるバケツの横で、その軍袴《ぐんか》の膝には跳びはねた水が染みを作っている。ぶつかった拍子に落としたのか、水溜まりに万年筆が浸かっているのも見え、つまずいただけだ、わざとやったことではないと征人は自分に言い聞かせた。が、そんな理性は「出撃前だぞ」という冷たい声に一蹴され、霧散するまでのことだった。
「いらんものを甲板に置いておくな。すぐに片付けろ」
道端の石ころを見下ろす目が征人を直視し、靴の爪先がバケツを軽く蹴った。その間の抜けた音が体の奥でなにかを弾けさせ、征人は土谷をまっすぐ睨み上げた。
許せない。かっと熱くなった頭から他の思考が消し飛び、征人は頭ひとつ大きい土谷の前に立ち塞がった。たとえ将校でも――いや、将校だからこそ許せない。この水の大切さがわからないような男に、パウラは任せられない。皇国臣民ですらない少女に死を強要しておきながら、敬意のひとつも払おうとしない。そんな人間に、パウラの命を預かる資格はない。征人は土谷を睨《にら》み、土谷も征人を睨み返した。互いに引っ込みのつかない視線が格納庫の薄闇で火花を散らし、唐突に割って入ったパウラの体がそれを打ち消した。
水溜まりに落ちた万年筆を拾い上げ、ちらとこちらを一瞥する。落ち着きなさい、と言っている瞳に頭を冷やされ、征人が息を呑み込む間に、パウラは水に濡れた万年筆を土谷に突きつけた。虚をつかれた顔になった後、蔑《さげす》む目を征人に向け直した土谷は、おもむろに万年筆に手をのばした。濡れたパウラの指先が土谷の手のひらに触れ、瞬間、煙管服に包まれた華奢な肩がぶるりと痙攣した。
棒立ちになったパウラをよそに、土谷は征人に視線を残してその場を離れた。万年筆をポケットに戻し、主計士官とともに昇降口を下ってゆく背中を見送ってから、征人は正面に回ってパウラの顔を覗き込んだ。目を見開き、薄く開いた唇を微かに震わせるパウラは、征人と視線を合わせてもなんの反応も示さなかった。
「どうしたんだよ?」と声をかけると、やっと焦点を結んだ鳶色の瞳がこちらを見た。瞼をしばたき、土谷が下っていった昇降口に目を戻したパウラは、「あの人……」とかすれた声を搾り出した。
「あの人、征人のことをジャップって言った」
まだ半分心が飛んだ面持ちで、パウラはぽつりと言った。まったく想像外の言葉に頭を強打され、征人はぎょっと昇降口の方を振り返ったが、そこにはもう土谷の気配さえ残っていなかった。
「そんな……」
聞き違いじゃないのか? 立ち尽くすパウラに詰め寄ろうとして、床に拡がる水溜まりに足をつけた征人は、小さく息を呑んだ。聞き違えるはずはない。パウラは聞いたのではなく、感じたのだ。黒々とした不安が胸の底に溜まり、どうすることもできずに征人は床に視線を落とした。暗い赤色灯を映して、足もとの水溜まりが血の色に見えた。
兵員室《パート》に入るなり、三段ベッドのそこここから見慣れた乗員たちの顔が突き出し、「降りるんだって?」「本当なのかよ」と口々に出てくる声に迎えられた。ひとつ言われるたびに退艦という現実が湿り気を帯び、重みを増すのを感じた征人は、はい、ええ、お世話になりましたと受け流す言葉を並べて、それぞれに感慨を含んだ視線とは目を合わさないようにした。
手早く自分の荷物をまとめてから、下段のベッドに押し込まれた清永の風呂敷包みを引き寄せる。港で別れたきり、艦にも根拠地隊の兵舎にも戻らなかった清永の消息は、昨夜から完全に途絶えている。二人分の荷物を背負い、ベッドを空にしてしまえば、もう自分たちが〈伊507〉にいた痕跡すらかき消え、よそ者の所在なさが征人の胸を埋めた。
「寂しくなります」と上段のベッドから声をかけてきた河野をきっかけに、「達者でな」「南洋ボケすんなよ」と続いた兵曹たちの声が追い打ちをかけた。ひとつひとつに挨拶を返し、何人かから内地に出す手紙も預かって、征人はパートを離れた。水密戸をくぐり抜けた途端、アンモニアと油、人いきれの折り重なった匂いに馴染んだ肌に外気が刺さり、骨身を冷たくしたが、無視して通路を歩き始めた。
〈ナーバル〉に続くハッチを見上げないようにして、交通筒区画を通り抜ける。中央補助室を抜け、烹炊所の前に差しかかったところで、ラッタルを降りてきた田口とかち合った。征人は咄嗟に敬礼をし、潜水艦ではそういうのはなしだと言った田口も、つられた風情で律儀に答礼を返してきた。
会っておかなければならないような、会わずに済むならその方がいいような顔と顔を突き合わせ、互いに取《と》り繕《つくろ》う言葉も出せない数秒が流れた。なにもかもが中途半端でありすぎる、その思いを内奥に押し込めて、征人は「お世話になりました」と略帽をぬいだ頭を深く垂れた。田口は咳払《せきばら》いでそれに応じ、「清永、まだ見つからんのか」と取りすました声を寄越した。
「はい。一升瓶が一本なくなっていたので、多分どこかで酔い潰れてるのではないかと」
「しょうがないやつだな。見つけたら……」
すぐにおれのところに連れてこい。そう続くはずだった言葉を呑み下し、田口は「いや、いい。達者で暮らせよ」と続けた。目を合わせるのを避け、立ち去ろうとする背中に身近な空気を感じ取った征人は、「あの、掌砲長」と思いきって声をかけた。
「土谷中佐も、同乗されるのですよね?」
「それがどうした」
不意に険しくなった目に射られ、どくんと心臓が跳ねた。「パウラが気になることを言っていたので、お伝えして……」としどろもどろに続けた征人は、「おまえはもう〈伊507〉の乗員じゃない」と発した硬い声に頬を張られ、口を噤んだ。
「艦のことに口出しする権利はない。荷物を待ったらさっさと降りろ。じき出港だ」
「ですが……」
「聞こえなかったか?」
瞳の底に冷たい光が灯り、人を殺したことのある目、という忘れかけていた印象が腹の底で身じろぎした。絶句した征人を残し、田口は足早に艦尾に続く通路を歩いていった。
遠ざかってゆく背中が、自分と〈伊507〉との距離を象徴していた。すべてから切り離された実感を背負い直し、征人は露天甲板に向かうラッタルに足をかけた。
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微かな人の気配が空気を騒がし、体を包み込む夜気の布団が引きはがされた。清永はうっすら瞼を開き、唇の端を汚していた涎《よだれ》の筋をすすり上げた。
クッションが焼け落ちて台座だけになった副操縦士席と、無残に焼け焦げ、煤《すす》の塊と化した主計器板。風防という風防が割れ、網の目の窓枠のみが残った天井から星の光が差し込み、それらの光景を闇の中にぼんやり浮かび上がらせる。大破した一式陸上攻撃機の操縦席に沈み込み、空の一升瓶を抱えている我が身の現在を確かめた清永は、落胆の息を漏らして目を閉じた。
ついさっきまで、両親や弟妹たちと食卓を囲み、鍋にいっぱいのアンコを目前にしていたのだ。あと一秒目が覚めるのが遅かったら食べられたのに。口腔に溜まった唾を飲み下し、せめて香りだけでも思い出そうとしてみたが、酒臭い自分の息が鼻腔に絡みつくばかりで、甘くふくよかなアンコの記憶は呼び戻せなかった。ウェーク特産熱帯魚干物の生臭さも手伝い、うんざりするほどの悪臭に意識をはっきりとさせた清永は、途端にぎょっと目を見開いた。
いまは何時で、自分はいつの間に寝入ってしまったのか。星の光が頼りの闇では腕時計の針も読み取れず、清永は必死に記憶の泥を手繰り寄せた。港で征人と別れた後、一度は酒席に戻ろうとしたのだが、じきに別れる乗員たちの顔を見るのが辛く、こっそり一升瓶を失敬してひとりになれる場所を探した。暗い椰子林の中を歩くうちに飛行場に突き当たり、滑走路の端に置き去られた一式陸攻の残骸を見つけて、飛行機好きの血に導かれるまま機体に潜り込み……それからどうなった?
腹に抱きかかえた一升瓶は空になっており、自分の痛飲ぶりを教えている。月が完全に消えた空はどこまでも暗く、少なくとも真夜中以降と当たりをつけた清永は、近づいてくる人の足音に意識を凝らした。誰であれ、自分を捜しにきたのかもしれない。行き先を告げず、許可も取らずに失踪。見方によっては脱走罪に問われてもおかしくない身を自覚し、息を殺して気配を窺う間に、「……まだ片付けられんのか」と聞き覚えのある声が流れた。
「備蓄燃料をだいぶ回してしまいましたからね」相手をする別の声が、足もとから這い上がってくる。「車輌を動かす余分がないのです。必要なら人力でどかしますが」
「いいだろう。もうこの滑走路が千客万来になるということもあるまい」
もういちど聞き覚えのある声が発し、酒席が催される前に簡単な挨拶をした、ウェーク根拠地隊司令の髭面を清永の胸に思い起こさせた。名前は確か鹿島。日に焼けた顔に口髭を蓄え、一見どっしりとして見えるものの、ぎょろりとした目は絶えずなにかを疑っているのではないかと思わせる大佐だ。もうひとりの声はわからないが、口のきき方からして参謀格か? いずれにせよ、隊司令が自ら捜索に出向くはずはないと推測を繋げた清永は、多少ほっとして体の緊張を解いた。一式陸攻の操縦席は二階分の高さのところにあるので、捜すつもりがなければ自分の存在が気取られる心配はない。実際、巨大な障害物となって滑走路に横たわる機体を見上げ、どかすどかさないの話をする二人の将校は、余人の存在を毛ほども想像していないくつろいだ声音だった。
「迎えの飛行機が来た時、邪魔になるやもしれませんが」
「空からということはないだろう。来るとしたら船だ。おそらくはな」
「港に乗りつけたら、兵たちが怪しみませんか?」
「だからな、我々が内火艇《ランチ》で沖合に出るんだ。そこで向こうの艦艇に拾ってもらう。そうすれば問題なかろう」
なにかの作戦の話らしい。聞いてはいけないと思いつつ耳を澄まし、すぐに興味が続かなくなった清永は、焼けたクッションがこびりつく操縦席に体を沈め直した。風防の窓枠ごしに満天の星空を見上げ、もう〈伊507〉は出港したのだろうかとなんとはなしに想像した。
と、塞がりかけた傷口がじわりと開き、滲み出した忿懣《ふんまん》が喉元までこみ上げてくる。どうでもいい、おれにはもう関係ない話だ。じくじくと痛む胸から目を背け、清永は夢で見た大量のアンコを思い描こうとした。鍋いっぱいのアンコ。母親が苦労して作ってくれたアンコ。浜名《はまな》海兵団を退団し、一時帰宅を許された日の夜、自分は確かにそれを食べた。明日は横須賀突撃隊に配属され、特攻戦備の一環に組み入れられる息子のためにと、母親が用意してくれた精一杯の贈り物だった。
家族みんなで配給品を節約したのだと言っていたが、それぐらいで鍋いっぱいのアンコが作れるはずはない。材料は闇で買い集めたに違いなく、着物の一枚や二枚を売ったにしても、とびきり貴重品の砂糖や小豆を手に入れる苦労は想像を絶した。おまえ、子供の頃から饅頭《まんじゅう》を食べるたんびに、中のアンコだけ丼《どんぶり》で食べられたらどんなに幸せかって言ってたでしょう。喜ぶより呆然となった清永に、母はそれ以上の説明をしようとはしなかった。その襟足《えりあし》に白い後れ毛を見つけた清永も、多くは言わずにアンコを頬ばった。腹より先に胸がいっぱいになり、せっかくの甘い味にしょっぱさが混じったが、これまででいちばん美味いアンコだった。
隣近所に匂いが漏れると後が面倒なので、家中の窓を締め切っての食事になった。アンコだアンコだとはしゃぐ弟妹たちも、よそに知れると憲兵さんが捕まえにくるよ、と母親に脅されると静かになり、アンコを囲んでの食卓はともすれば湿っぽくなりがちだったが、父だけは例外だった。後方で製造・整備に当たるべき工作兵が、前線の特攻部隊に配属された。その経緯を出世と信じて疑わない父は、特殊潜航艇の操艇員がどれだけ立派な仕事か、弟妹たちに喧伝《けんでん》するのに余念がなかった。
図体に似合わず、昔から手先が器用な奴だったからな。そう言う父は、無論、それだけ人材が払底した海軍の窮状を察していたのだろうが、そのことはおくびにも出さなかった。いつかはお父さんの仕事を継いでくれると思ってたんだけどねえ、と母が声を詰まらせた時だけ、国へのご奉公とつまらん家業を一緒にするつもりか、と大声で怒鳴ったが、後は終始機嫌がよかった。ただ食事が終わり、修理中の時計が並ぶ仕事場に清永を呼び出すと、父は急に寡黙になった。お国のためにしっかり働いてくるんだぞ。清永が以前から欲しがっていた腕時計を手渡し、寸法は合うはずだ、と続けた父の目には、うっすらと光るものがあった。
家を離れたくない。戦争になんか行きたくない。そう思ったのは、その時が最初で最後だった。この家族たちを守るための戦い、そのための護国と思い直し、清永は出征の途についた。他に考えることはなかった。やらねばならないことが目の前にあり、自分にはそれをやりおおせる力がある。勝つか負けるか、役に立つか立たないかは二の次の話で、他にやれることがないのだから、命と引き替えにしてでもそれをやり遂げる。この国の男たちは、みんなそうして力を尽くし、男ぶりを示してきたのだ。自分もそのひとりと認められ、英霊よと褒め讃えられると考えるのは、ひょっとしたらアンコよりも甘く、頭の芯が痺れるほど刺激的な想像だった。
それが〈伊507〉に乗り組み、早川艇長から御守りを託された時から、少し事情が変わり始めた。硫酸蒸気が吹き荒れる蓄電池室に飛び込み、全身を爛《ただ》れさせながら修理をやり遂げた早川艇長。敵に特攻して華と散る、それ以外の想定をしていなかった清永には、地味に、孤独に、じわじわと死に至った早川の最期が容認できなかった。戦場で人が死ぬということの実相を教え、真実の勇気を身をもって示してくれた早川が、本当の勝利≠ニ言い残した言葉も耳に残っていた。
戦争は非道。言われるまま他人を殺し、自分を殺して得た勝利など勝利ではない。本当の勝利とはもっと尊く、手に入れた本人にしかわからないようななにかだ――。その言葉が一死奉公の論理しかなかった頭に疑義を差し挟み、託された御守りが生への未練を清永に教えた。自分に御守りをくれる女を手に入れたい、それまでは死にたくないという思いが、勃然《ぼつぜん》と頭をもたげてきたのだ。そうして生きていく重さ、喜びを十分に知った上で、なお命を犠牲にしてでも手に入れる価値のあるもの。あるいはそれこそが早川の言う本当の勝利で、どうせ戦って死ぬなら、そういうもののために命を使えということなのかもしれなかったが、だとしたら、これはとんでもなく複雑で面倒な話だった。
余計な荷物を背負わされた。戦争の最中にそんな暇があるものかと思いながらも、いったん走り始めた思考は簡単には止まってくれなかった。報国という言葉だけではすべてが充当できなくなり、英霊の一端に加わる憧れも色褪せて、単純だった世界が複雑になったという感触が清永に残された。
退艦命令を聞いた時に安堵を感じてしまったのは、だからだった。中途半端な状態で死なずに済む、考えられる時間が手に入ると胸をなで下ろし、すぐに猛烈な自己嫌悪に襲われた。
なんと不実で、自分勝手で、だらしない男になってしまったのか。これでは本当の勝利はおろか、まがい物の勝利だって手に入れられない。アンコを作ってくれた母親に申しわけない。涙を呑んで送り出してくれた父親に向ける顔がない。無闇に焦り、一時の気の迷いだと証明しようとして、こんな孤島に取り残されては、もうその方法もないのだと気づかされた。
敵からも味方からも忘れられた島。ここで畑仕事と漁に明け暮れていれば、とりあえず生きてゆくことはできるだろう。本当の勝利とはなにか、なんのために戦って死ぬべきか、考える時間も手に入るだろう。だがいくら考えたところで、実践の機会が永遠に失われてしまったらなんの意味がある。男を証明できないまま、敗北感にまみれて生き長らえる。それでは生き地獄だ。硫酸蒸気を浴びて、ゆっくり悶死《もんし》するのとたいして変わらないと思う。
「どいつもこいつも、勝手だよ……」
お国のために死ぬのが男子の本懐《ほんかい》と言う者もいれば、戦って死ぬ理由は自分で見つけろと言う者、はたまた生き残るのがおまえの務めだと言う者もいる。どうすりゃいいんだと口中に吐き捨て、清永は空の一升瓶を抱き寄せた。時間だけはたっぷりある。どうにでもなれと嘆息を吐き、再び眠りの底に沈みかけて、「〈伊507〉と同じ要領だよ」と発した鹿島隊司令の声に強引に引き戻された。
「海のど真ん中でなにが起ころうと、気にする者は誰もいない。大本営にとって、この離れ小島がなんの意味も持たないようにな」
毒を含んだ声音だった。「問題は、〈伊507〉がおとなしく従うかですが…」と参謀らしい男の声が続き、清永はじっと耳をそばだてた。
「従うだろうさ。そういう連中を集めたと聞いている」
「絹見艦長は硬そうな男に見えましたが?」
「そういう手合いに限って、ひと皮剥けば不満を溜め込んでいるものだ。いまは浅倉大佐の眼識を信じるほかないな」
言葉のひとつひとつが不穏な空気をまとい、肌をぴりぴりとさせた。聞いてはいけない話を聞いているという理解を抱きしめ、清永は息をひそめて足もとの会話に聞き入った。
「気に入らんのか?」
「はあ……。浅倉大佐が卓抜した人物であることに異論はありませんが、信じられる相手かと言うと、やや……」
「君は、まだ大佐と直には話をしとらんのだったな。聞けば納得するよ。あの人はたいしたものだ。海軍が生んだ石原《いしはら》莞爾《かんじ》……いや、そんなものではないな。軍人の範疇《はんちゅう》で語られるべき人物ではない。滅亡に瀕した皇国が生み落とした救世主。そのやろうとしていることは、政策や軍略などといったものではない。黙示録《もくしろく》だよ」
「黙示録? 聖書ですか」
「信者ではないし、斜め読みだから偉そうなことは言えんがね。この世の末期に世界を焼く業火《ごうか》というものがあるなら、それはいまの日本にこそ相応しい。旧弊《きゅうへい》を一掃して、一からの民族再生を期す。押しつけではない、大和民族が自ら勝ち取る再生をな。我ら敗者たちの黙示録といったところだ」
重苦しい沈黙が流れ、代わりに生温い風が椰子の葉をざわざわと騒がせた。「そう案ずるな。まだ南洋ボケにはやられとらん。わたしは正気だよ」と苦笑混じりに言った鹿島の声を、清永は信用する気になれなかった。
「自分が心配しているのは、そういうことではないのです。浅倉大佐の理論には敬服します。焦土《しょうど》に蒔《ま》かれる種として、我らの存在がある。そのために敵国で雌伏《しふく》の時を過ごせという話も、有志一同納得しております。問題は、実行能力の如何についてです。軍令部は、すでに浅倉大佐の捕捉に動き出しています。大佐を発見次第、一報せよとの至急電は我が隊にも届いております」
「通信兵が騒いででもいるのか?」
「いえ……」
「なら問題はない。体面を気にして、表立って更迭令も出せん連中のやることだ。恐れる必要はない」
「しかし浅倉大佐が……いえ、あの土谷という男が到着して以来、兵も不審な空気を感じ取っているように思います。たとえ将来の救国を期した行動であっても、いま我々のやっていることは明らかに反逆行為です。司令は、本当に浅倉大佐の言う通りに事が運ぶと信じておられるのですか?」
反逆行為。その一語でわからない言葉の数々が現実の重みを持ち、同時に汗でぬるついた手のひらから一升瓶がすっぽ扱けた。床に落ちる直前につかみ直し、胸にしっかり抱きしめた清永は、「こんなところに呼び出して、なにかと思えば……」と応じた鹿島の含み笑いにぞっと肌を粟立てた。
「笑い事ではありません。浅倉大佐の足跡が調べられないという保証はないのです。万一、ここにいることが判明したら、軍令部は間違いなくウェーク島を押さえにかかってきます。内地から憲兵が飛んでくるまでには時間がかかるでしょうが、兵たちが知ったら厄介になります。有志の数だけでは抑えきれません」
「だろうな」
「軍令部がここに目星をつけるまでに、本当に戦争は終わるものなのか。終戦後、我々の身柄がどのように扱われるのかについても不安は残ります。はっきり申し上げれば、浅倉大佐が我々を利用して、自分だけ逃げおおせる可能性も……」
「君がそう思うなら、大佐はそうするかもしれん。しかし君が大佐を信用すれば、あの人は裏切るような真似はしない」
ぴしゃりと言い放った鹿島の声音に、マッチを擦る小さな音が続いた。「浅倉良橘とはそういう男だ。相手次第で、仏にもなれば鬼にもなる」という声は、紫煙を吐き出す気配を伴って一式陸攻の操縦席に届いた。
「いま問題にすべきはな、〈伊507〉の方だ。あれがおとなしく米艦隊に拿捕《だほ》されれば、浅倉大佐の筋書き通りに事は運ぶ。無論、簡単にはいかんだろうがな。友軍艦隊と合流したつもりが、敵艦隊の真っ只中に乗り込む羽目になるのだから、なにも知らん乗員たちはさぞ慌てふためくだろう。多少の砲火を交えねば収まらんかもしれん」
血の気が引くのが、自分でもはっきりとわかった。米艦隊。拿捕。窓枠から身を乗り出したい衝動を堪え、清永は息を詰めて鹿島の声に神経を集中した。
「が、そうならんよう策も講じてある。明日の朝、〈伊507〉が予定会合地点に到着した時が山場だ。米艦隊に取り囲まれた状況下で、連中が浅倉大佐の説得をどう受け止めるか。無線中継の手はずは整っているな?」
「は。ランチと哨戒艇を定間隔に並べて、八十キロ圏内の通信は補助できますが……」
「それでいい。足りない分は米艦艇が中継してくれる。開戦後初の日米協同作戦というわけだ」
乾いた笑い声がねっとりとした夜気を押し退け、煙管服の隙間から入り込んできた。清永は頬を思いきりつねり、これが悪夢の類いでないことを確認して絶望した。
「わたしは、〈伊507〉は浅倉大佐の説得に応じると見ている。十二日の朝にはすべてが終わっているよ」
「なぜ、そこまで信じられるのです?」
「わたし自身、少し前まではあの絹見という艦長と同じ立場にあった。だからだ。君にも覚えがあるだろう?」
タバコを投げ捨て、足でもみ消す鹿島の気配が伝わった。最後に立ち昇った煙が微かに鼻をくすぐり、清永は一升瓶を抱く両手にぐっと力を込めた。
「どだい、こんな孤島に部隊を進駐《しんちゅう》させたのがそもそもの間違いだ。このウェーク島はまだしも、戦略的に価値のない島にまで守備隊を置き、滑走路を作り、戦力を無駄に分散させて……。挙句《あげく》、制海権を奪《と》られて内地との交通がままならなくなってからは、体《てい》のいい流刑地にされた」
落ち着き払った隊司令の面が割れ、鬱屈した本性をさらけ出したような鹿島の声音だった。清永は唾を飲み込み、参謀らしい男もぞくりと身を引く気配が闇の中に伝わった。
「三年……もう三年だ。ミッドウェーでおめおめ生き残り、この島に流されてから……。あの時、大本営にミッドウェーの敗北を認める勇気があれば、自分が口封じのために島流しにされることはなかった。自分だけではない。ミッドウェーで生き残った者の大半は、帰国を許されずに南方戦線にばらまかれた。無様な負け戦を国民に知らせないために」
そんな話があるのか? 恐怖が一時的に薄れ、清永は声が入ってくる風防の窓枠に顔を向けた。操縦席のやや後方、主翼の付け根あたりにいる鹿島たちの姿は見えず、プロペラを失ったエンジンナセルの膨らみが星明かりに浮かび上がっていた。
「気持ちはわからんじゃない。好きこのんで負け戦を喧伝する者がどこにいる。黙っていろと言われれば、生涯口を閉ざしていたものを……。大本営の小役人どもは、十把《じっぱ》ひとからげに自分たちを島流しにした。一事が万事、そういう連中がいまの日本を牛耳っている。市井上がりの官僚どもが、陛下の統帥大権をいいようにいじり回しているんだ。そんな奴らに顎で使われて、日々部下が死んでゆくさまを見せられて、ついでに国が破滅するところまで立ち合わされる。これで不満を抱かん指揮官などおるまい? あの絹見とかいう艦長にしても……」
ガチャン、とガラスの割れる大きな音が鼓膜をつんざき、鹿島の声を止めた。一升瓶が滑り落ち、床に当たって砕けたのだと気づくより先に、「誰だ!?」と鋭い誰何《すいか》の声が上がり、清永は反射的に操縦席から腰を浮かせた。
「誰だと聞いているんだ!」
殺気を孕んだ鹿島の声が操縦席に反響する。同時に参謀らしい男が素早く主翼によじ登り、腰を屈めてこちらに近づいてくるのが窓枠の向こうに見えた。
濃い闇の塊がぎしぎしと主翼の外板を軋ませ、操縦席の気配を探りつつ慎重に這い進む。星の微光が右手に握られた拳銃をぼんやり照らし出し、銃口の硬い質感を伝えるのも見た清永は、タヌキ寝入りでごまかせるか? という安易な幻想を早々に捨てた。
殺される――問答無用で。そう理解した頭が真っ白になり、体が勝手に行動を開始していた。操縦席を蹴り、後方の一段低い場所にある偵察席に頭から飛び込むと、身をよじって機首の方へと進む。計器板や床がぶつかるたびに大きな音を立て、「動くな!」「誰だ、出てこい!」と怒声が連続したが、かまってはいられなかった。
一式陸攻の機首は、爆撃手用にガラス張り構造になっている。墜落の衝撃で風防が割れ、蜂の巣状の窓枠も歪んで、人が出入りできる程度の隙間があることは先刻確かめていた。清永は夢中で手足を動かし、燃《も》え滓《かす》になった航法士席を乗り越えて機首にたどり着いた。滑走路に半ばめり込み、ぐしゃぐしゃにひしゃげた窓枠の隙間に体を押し入れる。びりっと煙管服のどこかが破れる音を聞きながら、ひと息に機体の外に転がり出た後は、右手の椰子林を目指して一目散に駆けた。
「貴様、誰だ!」「おい待て!」と続く声がより切迫さを増し、直後にパン、と間の抜けた音が響いた。青白い光が目前の椰子林を照らし、全身の毛が逆立ったが、怖いと思ったら体が動かなくなるとわかっていた。清永はなにも考えずに走り、鬱蒼《うっそう》と闇を茂らせる椰子林の中に飛び込んだ。すぐに倒木につまずき、湿った土に顔面をこすりつける羽目になったが、痛みを感じる前に立ち上がってとにかく走った。
「あの軍衣、うちのものではない。警報を鳴らせ」と鹿島隊司令の声が追いかけてくる。「警報……?」「理由はなんでもいい。総力をあげて奴を……敵スパイを捕らえろ」と続く会話が遠ざかり、荒い自分の呼吸が聞こえるもののすべてになった頃、清永はようやく、どうする? と自問した。閉じていた思考が開き、百もの不安と恐怖を叫び立てて、満足な答が得られる状態ではなかったが、それでもたったひとつ、他にはない行き先と目的を求めて、体は休まずに走り続けた。
征人に、〈伊507〉のみんなに知らせなければ。何度も転び、何度も木の幹に体を打ちつけつつ、その思いだけが清永を正気に留めた。
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「帽ふれー!」
号令一下、バースに集まった将兵たちが一斉に略帽をぬぎ、頭上にかざして左右に振り始める。軍艦が出港する時の見慣れた光景だったが、探照燈に照らし出された見送りの列はどこかもの悲しく、夜の帳《とばり》に閉ざされた海の膨大な暗黒を際立《きわだ》たせて、勇ましさや晴れがましさとはほど遠い、虚無という言葉を見る者に思い起こさせた。
港の一画に浮かび上がった見送りの影法師を背に、〈伊507〉は粛々と闇の海面を滑ってゆく。出港ラッパの音はとうに途絶え、甲板員も艦内に引っ込んで、航海灯のひとつも点けない船体は次第に闇と溶融しつつある。ウェーク島の湾口は広く、比較的なだらかな海底には座礁《ざしょう》の危険がある岩礁もないとはいえ、水先案内のいない出港風景はやはりうら寂しい。〈伊507〉に備蓄燃料を回したので、哨戒艇を水先案内につける余裕がないからだと聞かされていては、なおさらだった。
正式な艦籍登録も持たない、歴史にも戦史にも残らない潜水艦には似合いの船出――田口ならきっとそう言う。ふと思いつき、もうそれも確かめようがないと続けて考えた征人は、ため息と一緒に未練を追い出した。何艘かのカッターが舫われるばかりの桟橋にひとり佇《たたず》み、見送りの列が並ぶバースを遠くに望んで、耳に馴染んだ機関音が遠ざかるのを黙して聞いた。
腕と同じくらいの長さに見える〈伊507〉の艦影は、背景に横たわる島陰に半ば溶け込んでいたが、艦橋で豆粒ほどの大きさの人が蠢く様子は辛うじて判別できる。絹見艦長と先任将校たちだろう。機銃甲板に立つ見張り員は、当直の順番から行けば西村上水と岡一水。出港配備になっているから違うかもしれない。艦影を飾る凹凸のひとつひとつをそんなふうに納得し、最後に後部甲板に接合された膨らみに目を移した征人は、ずきりと痛む胸を堪えて〈ナーバル〉を直視した。
結局、バケツ一杯の水も渡せなかった。別離の言葉もちゃんと言えなかった。本当に、本当に、なにもしてやれなかった――。せめて目を逸らさず、見えなくなるまで見送るのが務めだと心得て、征人は〈ナーバル〉だけを見つめるようにした。だからその上部ハッチが開き、小さな人影が上半身を覗かせた時も、見過ごさずに目で追うことができた。
ハッチの縁に手をつき、艦尾方向を見遣った豆粒以下の人影は、他の人影より明らかにか細い。上体を伸び上がらせて一点を見つめる姿は、見送りの列に目を凝らしているのだとわかる。〈ナーバル〉から勝手に出ることは禁じられているのに、許可は取ったのか? そっちじゃない、ここだ。おれはここだ。ここでちゃんと見てるんだから――。熱くなった胸に喉を塞がれ、声にならない声で叫びながら、征人は桟橋の突端に向かって歩き出していた。
こっちを見ろ、おれはここにいる。奥底から噴出する衝動に突き上げられ、パウラ、と塞がった喉から搾り出そうとした刹那、「征人ぉ……」という低い声が足もとに絡みついた。
しわぶきともつかない呻き声だったので、名前を呼ばれたとすぐにはわからなかった。瞬時に体が凍りつき、無人のはずの桟橋を恐る恐る見回した征人は、カッターを舫った木材をぎっと軋ませ、白い塊がむっくり桟橋の下から這い出るのを見て、思わず背後に飛び退いた。
靴の踵が木板の継ぎ目に引っかかり、尻もちをついてしまった時には、白い塊もずるりと桟橋から滑り落ちていた。そのまま暗い海面に引きずり込まれかけて、咄嗟にのびた手のひらが辛うじて木板をつかむ。波|飛沫《しぶき》の微かな音に人の息遣いが混ざり、見知ったまる顔がもういちど桟橋の下から這い出してくるのを見た征人は、打ちつけた尻の痛みを忘れた。
「清永……なにやってんだよ!?」
白い煙管服が闇の中でうごめき、清永はなんとか桟橋に這い上ろうとする。征人はその腕をつかみ、たっぷり水を吸った煙管服の分、さらに重くなった同期の巨体を桟橋の上に引き上げようとした。手のひらにぬるりとした感触が伝わり、清永が小さく呻く声が耳朶を打ったが、かまわずに全身に力を込める。清永の上体が桟橋の上に持ち上がり、その背中にこしらえた裂傷を闇の中に浮かび上がらせて、征人は危うく腕を離しそうになった。
衣服ごと引き裂かれたと見える背中の傷は、海水に濡れて薄い血の色を滲ませていた。ぼろぼろに裂けた袖の下にも無数の引っかき傷や切り傷があり、手のひらのぬるつきは出血だとわかった征人は、うつ伏せになった清永の顔を慌てて覗き込んだ。湿気でたわんだ木板に頬を押しつけた清永は、全身で息をするばかりで目を開けようともしない。酔っ払って、岩場から海に転落でもしたのか。考えても始まらず、征人はとりあえず五十メートルほど離れたバースに目を向けた。
見送りの列はほどけ、探照燈に照らされた人影は三々五々バースから離れつつある。まずは助けがいると判断して、征人は「待ってろ」と清永に言い置いて立ち上がった。ぴくりとも動かなかった清永がわずかに身じろぎし、「……行くな」と征人の足首をつかんだのは、その時だった。
「行ったら、殺される。ここは謀反人《むほんにん》の巣窟《そうくつ》だ……」
切れ切れの息で搾り出し、清永は足首をつかむ腕の力を強くした。切迫した目の光が闇を突き抜けて征人の網膜に刺さり、征人は棒立ちになった。
「謀反人……?」
「おれ、聞いちゃったんだ。〈伊507〉はアメリカに売られたんだ。浅倉って大佐が売ったんだ」
ひと息に喋ってから、自分自身の言葉にあらためて恐怖したかのように、清永は両手で征人の足をつかんだ。
「味方の艦隊と合流するって話は嘘なんだ。会合場所には米艦隊が待ち受けてるんだって、隊司令が……」
征人の足を支えに上体を起こし、「嘘じゃねえ、本当だよ」と続けた清永は、半分涙声だった。想像外の言葉の数々に混乱し、飽和した頭がすっと冷たくなり、征人は自分でもわからずに漆黒《しっこく》の海に視線を移した。
〈伊507〉の艦影は濃い闇の中に溶けきり、〈ナーバル〉の形も、その上にいるパウラの姿も、重厚な暗幕に閉ざされて完全に見えなくなっている。あの人、征人のことをジャップって言った――水溜まりに落ちた万年筆、奥底に嘲笑を秘めた土谷技術中佐の上目遣い、呆然と呟いた時のパウラの横顔。それらが順々に脳裏をよぎり、冷たい感触をより明瞭にすると、知っていた、わかっていたんだという思いが征人の頭を埋めた。
事態のすべてが理解できたわけではない。だが想像のしようがなく、表現する術もなく曖昧に渦巻いていた不安が、清永の言葉によって輪郭《りんかく》を与えられ、形になったという実感は間違いなかった。フリッツが隠し持った拳銃で〈海龍〉を乗っ取った時といい、自分はどうしていつも取り返しがつかなくなるまで頭が働かず、見聞きしたことを上手に、伝えるべき他人に伝えられないのか。目が早いだけではだめだ、と言った田口の言葉も思い出した征人は、先を促す目を清永に向けた。どこでそんな話を聞いたのかという当然の疑問を脇に除けて、どう失地を回復するかという思いだけがあった。
「この島の連中もグルなんだ。おれたち、騙されてたんだ。どうしよう、征人。おれ撃たれそうになって、必死で走って……」
のばした手の先も見えない闇の中、椰子林を駆け抜け、岩場だらけの海を泳いできたのだろう体を震わせて、清永は考えることをやめた目でこちらを見返すのみだった。征人は足にしがみついて離れないその体を引き剥がし、「清永、落ち着け」と肩を揺さぶってから、襟首をつかんで顔を近づけた。
「米艦隊はどこで待ち受けてるんだ? いつ接触する?」
「わからねえよ。明日……十二日の朝にはすべて終わるって、それだけしか……」
目の焦点が合い、多少は落ち着きを取り戻したらしい清永が答える。十二日の朝となれば、いまから二十四時間以上先のこと。〈伊507〉の船脚なら四、五百キロは進んでしまう。南に下ればクェゼリン島、北東に上ればミッドウェー島を目前にするが、それ以外のどの方位に進んでも陸地は存在しない。いずれにせよ、〈伊507〉にとってはすべてから切り離された孤立無援の海域になる。
「本当なんだよ。あの土谷って中佐も仲間なんだ。もうじき、みんなしておれを捕まえにくるよ。どうしよう、こんなちっこい島じゃすぐに……」
痴呆のように同じ言葉をくり返す清永に背を向け、征人はもういちど闇の海原に目を凝らした。冷たいと自覚したが、自分よりよほど肝《きも》が太いはずの戦友が取り乱し、どうしようと唱えるしかない姿と向き合い続けて、冷静な頭を維持できる自信はなかった。
時刻は間もなく午前五時。じき曙光《しょこう》に吹き散らされる運命を知ってか知らずか、夜の帳《とばり》は必要以上に厚く、〈伊507〉の位置は微細な闇の濃淡の差から推し量るしかない。泳いで追いつける距離ではないと判断した征人は、桟橋に舫われたカッターを見下ろした。全長九メートル、基準排水量一・五トン。十人がかりで漕ぐのが基本のカッターは、二人で漕ぐには重すぎる。どだい、すでに原速に達している〈伊507〉に、人力で追いすがれる道理はない。
なにかないか、なにか。征人は探照燈が灯るバースと、それより約二十メートル手前にあるバースを視界に入れて、そこに停泊する二隻の哨戒艇に観察の目を走らせた。徴用漁船とはいえ、排水量二百トンを超える艦艇を二人で乗っ取る? だめだ、できるはずがない。もっと手頃ななにか、二人でも運用可能な発動機付きの船艇が……。
あった。哨戒艇の前にちんまりと舫われたそれを見て、やれるか? と考えたのは一瞬だった。内奥から溢れ出る衝動に体を操られ、征人は座り込んだままの清永に向き直った。襟首をつかみ、「な、なんだよ……」と戸惑う巨体を引っ張り上げようとして、出し抜けに鳴り響いた警報の音に動きを止めた。
椰子林の向こう、根拠地隊司令部の方から聞こえてくる警報の音色は低く、生理を脅かす不穏な空気を孕んで、湾内を包み込んでいった。バースに集まった兵たちがそろって身を固くした後、わらわらと駆け出すのを見た征人は、「おれを捜してるんだ……」と呟いた清永の声を聞くまでもなく、事態がより深刻度を増したことを知った。清永の話が真実なら、謀議に与《くみ》する者たちはどんな手段を使ってでも事実の漏洩《ろうえい》を防ごうとする。謀議という言葉が呼び覚ます身の竦《すく》むような恐怖を意識の外にした征人は、強引に清永を立ち上がらせた。
「行こう。いまなら間に合う」
「どこへ……」と目をしばたかせる清永の顔は見ず、岸壁に向かって走り出す。「おい、待ってくれよ」と、ふらつきながらも追いすがろうとする清永に、征人は立ち止まらずに叫んだ。
「行くんだ。〈伊507〉へ!」
ぽかんと呆けた顔になった清永は、みるみる鼻の穴を膨らませ、怒りの形相を露にすると、征人に負けない勢いで走り始めた。清永とともに岸壁を走りつつ、征人は無人のバースに繋留されたそれをあらためて凝視した。
木造のランチは、全長十メートル強の船体をひっそりと闇に沈み込ませ、征人たちの到着を待ってくれていた。
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低く長い警報の音色は、風に乗って〈伊507〉の艦橋にも届いた。絹見は首にかけた双眼鏡《メガネ》を目に押し当て、艦尾方向に広がる港を見渡してみた。
先刻まで見送りの列が並ぶバースにだけ探照燈が灯り、他は闇に塗り潰されていた港が、いまは複数の光を慌ただしく瞬かせている。すでに二キロ近く離れていては、喧噪の具体的な中身は知る由もないが、そこここで散発的に瞬く光は、敵襲のそれとは異なる隠微な緊張感を醸し出していた。
艦橋で操艦指揮を取る木崎も、同様の感触を抱いたのだろう。隣に並び、「騒々しいですね」と言った声に差し迫った緊迫感はなかった。高須はすかさず伝声管に取りつき、「電探! 異状はないか?」と状況を督促《とくそく》する。
(対空電探より艦橋、範囲内に感なし。異状ありません)
案の定の返答を得て、高須は一抹の困惑をまぶした顔をこちらに向けた。メガネに目を当て直した絹見は、探照燈の光軸が闇をかき回し、捕り物の風情を呈している港をあらためて観察した。
けし粒にも満たない人影が時おり照らし出され、懐中電灯を手に岸壁を走る兵たちの様子が伝われば、捕り物の印象はますます濃くなった。米本土奇襲作戦、通称『羅号作戦』を支援する味方艦隊との会合海域は、ウェーク島東北東四百キロ。会合予定時刻は明|〇六〇〇《マルロクマルマル》だから、時間的余裕がないこともない。いったん減速して情勢を窺うべきか、大事の前の小事と心得て先を急ぐか。根拠地隊司令部と連絡を取る前にこちらの腹積もりを決めておこうと、メガネをゆっくり振りつつ考えを巡らせた絹見は、錯綜する探照燈がちらりと映し出したものを見て、メガネの動きを止めた。
「空襲ではないとすると……」と呟いた高須を「待て」と遮り、一瞬、それが浮かび上がった闇を凝視する。再び探照燈の光が差し込み、微かに泡立った海面を照らしたが、それはもう闇の中に紛れ込んでしまっていた。
「ランチが出港したように見えたが……」
停泊する哨戒艇の舷側をかすめ、白い飛沫を蹴立てて航走するランチ。網膜に焼きついた光景を反芻して、絹見は独自混じりに言った。「ランチですか?」と、木崎も遮浪壁から身を乗り出して自前のメガネを持ち上げる。
「忘れ物を届けにでも来るのか……?」
冗談ともつかない木崎の声音に続いて、小さく息を呑む気配が絹見の背中を打った。機関の振動や風の唸りを突き抜けて伝わった気配が気になり、背後に目を転じると、艦内に通じる連絡筒に半ば身を沈めた高須の姿があった。
いまの息を呑む気配――単に驚いたというのではない、もっと硬質な、殺気と言ってもいい気配を発したのは高須か? 思わずその顔を凝視したものの、「司令部と連絡を取ってみます」と言った先任将校の声には屈託がなく、「頼む」と応じた絹見は拍子抜けした顔を正面に戻した。思い過ごし、か。肉眼でランチを見つけた場所の見当をつけ、メガネを持ち上げようとして、「艦長」とかけられた声にもういちど背後を振り返った。
闇に塗り潰された艦橋甲板の中で、高須の白目が奇妙に浮き立って見えた。じっと見上げる視線に常にない生生しさを感じ取った絹見は、体全部を振り向けて高須に対した。なにかを言いかけた口を閉じ、すぐに目を伏せた高須は、「……すみません。後ほど」と言い置いて、連絡筒を下っていった。
わけもなく、突き放されたような心もとなさに襲われた。絹見は艦尾方向に体を向け、眼下の後部甲板に視線を落とした。旋回式発射管を隠して盛り上がる〈ナーバル〉の船体と、機銃甲板で見張りにつく二人の水兵の頭が見え、最後に中佐の肩章をつけた白い開襟シャツの背中が視野に入った。
土谷だった。港の異変に注意を奪われた水兵たちの背後で、ゆったりと腕を組み、高みの見物といった風情を隠しもせずに瞬く光を眺めている。つい先刻まではいなかった。艦内にはまだ港の変事は伝わっていないはずだが、なにか察するところでもあったのか。目敏《めざと》い男だと睨みつけた途端、不意に顔を上げた土谷と目が合ってしまい、絹見はぞくりとした寒気を覚えた。
微かに目を見開いてから、軍帽の鍔に手をやり、勝手に行動してすまない、とでも言いたげに口もとに微笑を浮かべる。その仕種もたたずまいも、すべてが芝居がかったうすら寒さを放っており、絹見は憮然とした顔を土谷から逸らした。兵科と技術科では養成課程も信条も異なるとはいえ、土谷が身にまとう空気は帝海軍人としては異質でありすぎる。フリッツたちの方がよほど帝海軍人らしいと内心に吐き捨て、今度こそメガネを目に当て直そうとした時、(発令所より艦橋)と緊迫した声が伝声管から流れた。
(ウェーク根拠地隊より入電。敵|間諜《かんちょう》がランチを奪って逃走、爆弾を携えて特攻を仕掛ける恐れあり。至急対処されたい、です)
電文を読み上げる高須の声は、動揺を押し隠して硬く響いた。つかの間の沈黙を挟み、「間諜……?」と呆れ果てた声を出した木崎をよそに、絹見は素早くメガネに目を押し当てた。
当てどなく錯綜していた探照燈の光軸は、いまは海面に狙いを定めており、黒い海面には夜光虫に似た光の輪が無数に乱舞する光景がある。哨戒艇の艦橋構造部に設置された探照燈も瞬き始め、わずかに残った航跡の筋をたどって光の輪が移動すると、こちらに向かって驀進する小さな船影が一刹那、逆光の中にはっきり浮かび上がるのが見えた。
即座に舵を切り、海面を跳ねるようにして光の輪から逃れた小振りな船影は、間違いなくランチのものだとわかった。十・五メートル級、排水量四・五トン。船体前部に後方開放式の操舵室を備え、オープンデッキにはベンチ式の腰かけがある。艦艇同士の行き来や、沖合に錨泊した際の交通に用いられる標準的な木造ランチ――。港に舫ってあった船型を頭に呼び出し、敵間諜、爆弾、特攻という言葉をそこに重ね合わせた絹見は、あまりにも唐突、あまりにも不条理な事態への困惑を一時保留にして、雷撃戦で仕留めるべき相手ではない、と最初の判断を下した。
ああも小型では狙いがつけにくいし、魚雷を調定する時間もない。主砲を使うほどの目標でもないとなれば、方法はひとつ。「総員、戦闘配備!」と令して、絹見は伝声管を握りしめた。
「目標、後方より接近する小型艇。対空機銃、射撃用意」
警報が鳴り響き、暗闇に沈んだ木崎の横顔に緊張が走る。木造のランチが相手なら、機銃甲板に装備した二挺の二十五ミリ単装機銃で事は足りる。合戦とも呼べない一方的な戦いだが、敵スパイの存在が事実なら、禍根は早めに絶っておく必要があった。数秒と経たずに艦橋構造部側面の防水扉が開き、砲術科の射撃員が二人、機銃甲板に上がってくるのを見届けた絹見は、「ローレライ、起動準備」と続けて伝声管に吹き込んだ。
「コロセウムの索敵状況を逐次機銃甲板に知らせ。対空電探、敵機が密偵の援護に現れる可能性もある。警戒を厳となせ」
思いつく限りのことを言ってから、絹見は機銃甲板に目を戻した。相手が上級将校だろうとかまわず、土谷と見張りの水兵を一緒くたに押し退けた射撃員たちは、前後に二挺並ぶ単装機銃にそれぞれ取りつき、手早く砲口蓋を外してゆく。艦尾側の二番機銃の交換器レバーを引き、いち早く銃口を後方に向けた射撃員は田口だ。
掌砲長が直接、射撃員を務めてくれる。多少安心して、絹見はメガネを顔の前に掲げた。「探照燈で照らしますか?」と木崎が気の回る声をかけてくる。
「いや。その前に一応、停船信号を送る。飛び道具を仕込んでいるかもしれんから、増速をかけて間合を取りつつだ。ローレライが起動するまでは大事を取る」
「は」と応じた木崎は、すでに艦首方向に向き直って従羅針儀を覗き込んでいた。その背中に「操艦は任せる」と付け足して、絹見はメガネの視界にランチの船影を求めた。
探照燈の捜索範囲を抜けて、闇と一体化したランチは確実にこちらに近づいてくる。艇首にわき立つ白い飛沫がその所在を伝え、悲しいほど貧弱な船体を朧《おぼろ》に確かめた絹見は、これは現実なのか? と胸中に呟いた。
あれに乗っているのが本当に敵のスパイなら、いつ、なんの目的でこんな孤島の根拠地隊に潜り込んだのか。ローレライ収奪のために送り込まれたのだとして、この小さな島のどこに隠れ、いかなる手段で爆弾まで入手することができたのか。考え出すときりがなく、信号員が艦橋に上がってきたのを潮にメガネから目を離した絹見は、その拍子に再び土谷と視線を絡ませた。
戦闘配備もどこ吹く風といった体で機銃甲板に留まり、いつからかこちらを見上げていた土谷は、お手並み拝見と嗤う目を逸らそうとしなかった。ほとんど同時に「射撃用意よし!」と田口の声が弾け、舌打ちと一緒に迷いを捨てた絹見は、敵を見る眼差しを艦尾方向の海に据えた。
「目標を捕捉次第、威嚇射撃始め。停船信号に従わない場合、本艦に接近する前に撃沈する」
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V字形の環礁を形作るウェーク本島の島陰が過ぎ去り、ウィルクス島とピール島の島陰が左右に広がるようになった頃から、船体が小刻みに上下に揺れ始めた。〈伊507〉の巻き起こす引き波に乗り上げ、ランチの船体が海面を跳ねているのだ。
ザッ、ザッと船底が海水を切る音が連続し、三百メートル前後まで近づいた〈伊507〉の艦影が、飛び散る水飛沫の向こうで激しく上下する。艦橋で瞬く信号探照燈も上下に震え、先刻から送られてきているモールス信号の翻訳を難しくしたが、外を見る余裕のない征人にはどのみち関係のない話だった。
投網や魚籠などの漁具が積み込まれ、漁船として使われているのは他の船と同じで、このランチは信号燈ひとつ搭載していないのだ。操舵室の天井に両色燈があるにはあるが、これは船の所在を示す灯火に過ぎず、モールス信号のように短間隔で点滅させることはできない。〈伊507〉にこちらの接近の意図を伝えるためには、配線をいじって直接点滅させるしかなく、征人は操舵席の下に潜り込み、計器板の底蓋を開けて配線を探し出す作業に没頭していた。
ランチの接近を確認してから、〈伊507〉は明らかに船脚を早めている。波の穏やかな湾内ならまだしも、外洋に出られてしまっては引き離される一方になる。発光信号の送信は急ぐ必要があったが、それとは別に、早急にこちらの意図をわからせなければ、まずいことになるという予感も征人にはあった。
「停まれって言ってるみたいだぜ!」
隣の操舵席で舵輪を握る清永が、前方で瞬く小さな光を見据えて言わずもがなのことを叫ぶ。後方開放式の操舵室は風と波、機関の轟音が直《じか》に入ってくるので、大声を出さなければ会話は成り立たない。「こっちも発光信号、送れないのかよ!?」
「いまやってるよ……!」と怒鳴り返した途端、大きく跳ねた船体が海面に叩きつけられ、征人は計器板にしたたか額を打ちつける羽目になった。じんと痺れる痛みを堪え、目星をつけた配線を引きずり出して、両色燈のスイッチを入れて正面の窓を窺う。天井からこぼれ落ちる赤と縁の光が、配線を切って消えたら当たり。消えなかったらまた別の配線を探すしかない。窓を注視しつつ、道具箱にあったペンチを配線に噛ませた征人は、目の端をよぎった光に気づいて手の動きを止めた。
艦橋で瞬く信号探照燈とは別に、〈伊507〉の艦影の中腹で青白い光が爆ぜたのだった。一拍遅れて細い水柱が立て続けに噴き上がり、ランチの行く手を塞ぐようにすると、内臓を揺さぶる銃声が湾内中に響き渡ってゆく。「撃ってきた……!」と叫んだ清永が咄嗟に舵を切り、急速に窓の風景が左に流れた直後、今度は風を切り裂く鋭い音がすぐ頭上を行き過ぎた。
二十五ミリ弾の火線が操舵室の天井をかすめ、木板が砕ける衝撃音が鼓膜を聾《ろう》する。ランチの船体がぐらと傾き、〈伊507〉からのびる二条の火線が左舷側の窓に閃《ひらめ》く。再び無数の水柱が屹立し、単装機銃の銃声が遅れて轟くのを聞いた征人は、悪い予感が的中したと思ったのも一瞬、船体の動揺にもてあそばれて操舵室の床に転がった。
根拠地隊の言い分を鵜呑みにして、こちらを敵と信じ込んだのでなければ、船脚を早めていたずらに間合を取ったりはしない。曳光弾《えいこうだん》を含んだ火線が橙色《だいだいいろ》の放物線を闇に描き、ランチの頭ごしに右舷の海面に突き刺さるのを見た征人は、夢中で起き上がって計器板から垂れ下がる配線に手をのばした。
両色燈の光が恰好の的になっているのは承知だが、ここで消灯すれば確実に敵と断定される。配線を探り当てて、このまま発光信号を送るしかない。向こうもまだ確信を持てずにいるのだ。当てるつもりなら、もう当てているはずだと自分を納得させた征人は、「威嚇《いかく》だ! 停まるな」と怒鳴って、手放してしまった配線を手繰り直した。
「いったん停まろうぜ! このままじゃ……!」
窓の外を擦過する火線に首をすくめつつ、清永が銃声に負けない声で抗弁する。「ダメだ! 追手が来る」と返して、征人は配線の特定を急いだ。口から出任せではなく、港を出る時、哨戒艇に乗員たちが乗り込むのを確かに見ていた。
「でもよ……!」と清永。征人は「当たらなければいい!」と声を荒らげ、「無茶言うなっ!」と清永が倍する怒声を張り上げた瞬間、木材を叩き割る音が連続して背後に弾け、閃いた火花が視界を真っ白に染めた。
機銃弾がランチのオープンデッキを直撃し、右舷のデッキサイドを抉ったのだった。デッキサイドの一端が粉々に砕け、穴だらけのベンチから煙がたなびくのを視野に入れた征人は、全身を総毛立たせる一方、引っかかるものを感じて眉をひそめた。
「当てる気だ。狙いが正確になってきてる……!」
反射的に舵輪を回し、回避運動を取りながら清永が呻く。そう、正確すぎると征人は胸中にくり返した。まるで糸で繋がっているかのごとく、二十五ミリ弾の奔流は執拗にランチに追いすがり、灼熱した曳光弾の筋を船体の表皮に触れさせてくる。両色燈を的にしているのだとしても、紙一枚の差で機関への直撃を避ける射撃が、この距離、この暗闇の中で実施できるとは思えない。
「……ローレライを起動させたんだ」
銃火がチカチカと瞬《またた》き、空気の裂ける音、操舵室の天井が砕ける音に続いて、機銃の連射音を轟かせた。間違いない、ローレライが作動している。パウラがこの海を感じている。征人は立ち上がり、火線の切れ目を待って操舵室の外に飛び出した。
「征人……!?」と怒鳴った清永の声は、吹き荒れた銃声にかき消され、砕け散った木材の破片がオープンデッキにばらまかれる音が後に続いた。頭を低くして直撃を避けた征人は、デッキサイドに腹這いになり、猛烈な勢いで流れる海面に左手を浸した。
前方を航走する〈伊507〉の艦影から新たな火線がのび、ヒュン、と凶暴な風鳴りが耳元をなでる。機関車が頭上を走り抜けるような圧迫感に襲われ、吹きつける風に引き剥がされそうになりながらも、征人はデッキサイドにしがみついて手のひらに海水を感じ続けた。きっとわかる。きっと伝わる。いまのおれには、他に考えることなどなにもないのだから。
「パウラ……!」
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「征人……?」
その自分の声に五官を刺激され、パウラは目を開けた。
感知野が閉じ、赤色灯の陰鬱な明かりがぼんやり視野を染める。同時にぐんと手足が重くなり、頭の血が押し下げられて、意志とは関わりなしに呻き声が漏れた。感知野に没入していた意識が肉体に収斂《しゅうれん》する時、必ず襲ってくる猛烈な虚脱感に耐えながら、パウラは、まだ口の中に残っている人の名前を反芻した。
水深の浅い湾内にゆったりと拡げた意識に、不意に熱い感情の針が突き立ち、意識が一気に肉体に引き戻された――そんな感じだった。機銃の雨に蹴散らされ、右に左に舵を切りつつも、〈伊507〉を追って離れようとしない小さなボート。その航跡と、降り注ぐ機銃弾が騒がせる海面に、出し抜けに入り込んできた人の思惟。それは確かに自分の名前を呼んでおり、だから自分も彼の名前を呼んだのだと、パウラは順々に思い出していった。
でも、なぜ? 征人は島に残ったはずなのに。ボートに乗っているのは敵のスパイだと聞かされたのに。そこまで思考を働かせたパウラは、いきなり再開した機銃の音にびくりと肩を震わせ、胸まで水面に浸かった上体を引き起こした。
銃撃の嵐が〈ナーバル〉の頭上をかすめ、暴力的な轟音が容赦なく耐圧殻を叩く。艇内の空気が震え、水面を蠕動《ぜんどう》させて、後頭部のあたりにしまいこんだ感覚が脳全体に浸透してゆく。押し開かれた感知野が五官の狭間に滑り込み、知っている人の息遣いを明瞭に感知したパウラは、考えるのをやめた。
いつでも自分を気にしてくれていた手のひらが、いまもすぐ近くから差し出されている。シャーベットの甘さを、日の光の温かさを、バケツ一杯の水を運んできてくれた手のひらが、自分の名前を叫んで追いかけてくる。貧弱なボートにしがみつき、機銃の火線にさらされてもあきらめずに――。パウラは鉛のように重たい腕を水面から引き上げ、艦内電話装置の受話器をつかんだ。
「〈ナーバル〉よりコマンド。射撃をやめてください。ボートに乗っているのは征人……折笠上等兵です」
側壁に片手をついて体を支え、まだ神経が通いきらない喉から搾り出す。(発令所、〈ナーバル〉。確かか?)とフリッツの声が応答した途端、なにもかも引き裂く強圧的な銃声が頭上に轟き、パウラはたまらずに絶叫していた。
「Ja! Sorg sofort dafu:r, dass das Schiessen[#エスツェットはssで代用] aufho:rt!(確かよ! 早く撃つのをやめさせて!)」
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闇夜の機銃射撃は一長一短だった。日中より眩しく見える銃火が視界を妨げる一方、途切れなく撃ち出される曳光弾の筋は鮮明に見えるので、着弾点の見当がつけやすくなる。
二十五ミリ単装機銃の銃火は激しく、銃口からほとばしる青白い炎は幅一メートルの光の壁になり、照準器は事実上使い物にならなくなる。曳光弾の光条がそれ以上に強い光を放って闇を引き裂き、緩い弧を描く弾道が目標に吸い込まれてゆく。発射の反動で激震するハンドルを握りしめ、頭蓋から背骨にまで突き通る轟音を全身に浴びながら、田口は銃火の向こうに見え隠れする目標を凝視していた。無防備に面色燈を点灯させ、被弾の火花を時おり爆ぜらせつつ、なおこちらに追いすがってくる目標。ドジが、なんだって灯火なんて点けた。これじゃあ当ててくれって言ってるようなもんじゃねえか。腹の底に罵り、それでも発射|釦《ボタン》から指を離せない我が身を呪って、先刻から溢れ続けている言葉を奥歯で噛み潰した。
来るな、来るな、来るな――。
「目標、六時の方向! 距離二百八十、速度変わらず」
弾倉が空になり、銃声が途絶えるわずかな隙を見計らって、一番機銃を担当する機銃長が叫ぶ。ランチが〈伊507〉の真後ろにぴたりと張りつき、艦首側に設置された一番機銃の死角に入ってからは、発令所が伝える観測結果を中継するのが彼の仕事になっていた。コロなんとか言うローレライ監視装置は、相変わらずの正確さでランチの位置を教えてくる。「見えてるよ……!」と不機嫌に応じて、田口は新しい弾倉を機銃に叩き込んだ。怪しまれない程度にゆっくりした動作で交換器のレバーを引き、照準器を覗き込む。
こちらの心中をよそに、両色燈の光との距離は一向に開く気配がない。多少、直撃を受けたぐらいではあきらめないということらしい。日頃は虫も殺せないような顔が、いざという時には頑固の塊になる。艦長にさえ食ってかかった生硬い横顔を思い出し、やはりあいつか……とあらためて確認した田口は、目を閉じて機銃の発射釦を押し込んだ。
銃撃が再開され、轟音と反動が骨身を揺さぶる。敵のスパイがランチを奪った? 爆弾を抱えて〈伊507〉に特攻してくる? とんだお笑いだ、と田口は激震の中で自嘲した。根拠地隊司令部が虚偽の連絡を寄越してきたのは、〈伊507〉とランチが接触するのを防ぎたいからに他ならない。彼らにとっては障害となるなにか、計画を覆しかねないなにかが、あのランチには乗っている。事ここに至って心変わりする者が出たのか、計画の内容を聞き知った第三者か。なりふりかまわないランチの動きを見れば、おそらくは後者であろうということも、田口には想像がついていた。
どんなドジを踏んでそうなったのかは定かでないが、第三者に計画が漏れた。その第三者がランチを奪い、〈伊507〉を追跡しているのだと見て間違いなかった。〈伊507〉に今次出撃の真の意味を伝えるために。根拠地隊を敵に回し、銃撃にさらされても怯《ひる》まずに。そうまでして〈伊507〉を救う義理のある者は、根拠地隊の兵員の中にはいない。
バカだ、貴様は。おとなしく島に残っていればよかったものを。田口は目を開け、闇に溶け込みつつある港の灯と、そのずっと手前で揺れるランチの両色燈を見据えた。威嚇射撃で茶を濁せるのはそろそろ限界だ。これ以上、弾を無駄にはできない。致命傷を与えてみせなければならないが、どうやる? 相手がこうも小さいと、機関を直撃せずに足を止めるのは不可能だ。そして機関を撃てば、ランチは確実に乗員もろとも爆沈する――。
いったん銃撃をやめ、額の汗を手早く拭ってから、背後に立つ機銃長が不審を感じる前に親指を発射釦に戻す。近づけるわけにはいかない、と田口は胸中に呟いた。いま計画の内容を暴露されるわけにはいかない。これまでに呑み込んできた苦渋、痛み、無念。そのすべてが無為なものになってしまう。他人の血を取り込んでまで生き長らえた命、その果たすべき義務が果たせなくなってしまう。田口は親指に力を込め、今度は目を閉じずに弾道の光条を追った。
銃火が後部甲板の〈ナーバル〉の外板を白く染め、二発に一発の割合で仕込まれた曳光弾が細い光の筋を刻むと、ランチの船影を微かに浮かび上がらせる。少しハンドルをずらせば、海面に吸い込まれる光条はその船影を直撃する。田口はハンドルをぐっと握りしめ、ひどく重く感じられる銃身を動かそうと力を込めた。
轟音と閃光が五官を塞ぎ、頭が真っ白になってゆくのがわかる。そう、この瞬間だ。もう考える必要はない。犠牲を無駄にするな。義務を果たせ。自分で自分に命じ、機銃の銃身がぐらと身じろぎした刹那、ぽんと叩かれる感触が肩に走った。
「打ち方やめです! 打ち方やめ!」
機銃長の怒声が、バカになりかけた鼓膜を震わせる。発射釦から親指を離し、だしぬけに静寂が戻ると、「打ち方やめ! 打ち方やめだ!」と叫ぶ声が頭から振りかかってきて、田口は呆気に取られた顔を背後に振り向けた。高さ五メートルはある艦橋から身を乗り出し、「ランチの臨検を行う!」と続けた絹見艦長の顔が、銃火でかすんだ視界にぼんやり映った。
「射撃員は、目標を照準しつつ待機」
はっきりと厳命した絹見は、奥に引っ込んで木崎航海長となにごとか話し始めた。信号探照燈の光が顔を寄せ合う二人の背中を照らし、隠しきれない動揺を機銃甲板にも伝えたが、なにが起こったのか推測する気力はなかった。「どういうんでしょう?」と怪訝《けげん》な顔の機銃長を無視して、田口は焼けた銃口から硝煙をたなびかせる機銃に向き直った。じつとり汗ばんだ手でハンドルを握り、溜まりに溜まった息を吐き出して、こわ張りきった肩の力を抜いた。
助かった。どっしりした疲労を抱え込んだ頭に、その思いがぽつりと浮かび上がった。ランチと接触されてはまずいと考えはしたものの、手を下さずに済んだ安堵の方が大きく、田口は虚脱した顔を面色燈の光に向けた。
つくづく悪運の強い奴。あるいはローレライがあいつの気配を察したのか? 眼前に横たわる〈ナーバル〉の船体を見下ろし、ようやくそんなことを思いつく頭を取り戻した時、背後の信号燈の光が不意に陰った。
すっと背筋が冷たくなった。振り返り、案の定、すぐうしろに忽然と立っていた土谷と目を合わせた田口は、なにひとつ助かってはいない自分の状況を理解した。
「機銃長。後はいい」
田口を見据えたまま、土谷は一番機銃の前に立った機銃長に呼びかけた。「は?」と土谷の肩ごしに顔を出した機銃長の視線を、田口は反射的に避けた。
「艦内に戻っていい。真後ろにつけられては、一番機銃はどのみち使えんだろう」
そう続けながら、土谷の目は、わかっているな? と田口に重圧をかけてくる。戸惑いと不満が伯仲《はくちゅう》した機銃長の顔を見遣り、薄い笑みを湛えた土谷の唇も視野に入れた田口は、「言われた通りにしろ。ここは自分だけでいい」と伝えて目を伏せた。「しかし、艦長が……」と言いかけた機銃長を、「いいから!」と怒鳴りつけて、単装機銃の銃架に体を向けた。
不承不承といった体で機銃長が機銃から離れ、ラッタルを降りてゆく足音が機関の唸りに混ざるのを待って、土谷は「わざと当てなかったな?」と口を開いた。すべて見透かされていた恨みを呑み下し、田口は「……どういうつもりだ」とだけ言った。
「仕事をやり遂げてもらう。撃て。兵曹長」
覚悟していても、肩が震えるのをどうにもできなかった。「艦長命令に逆らえと言うのか? いまここで面倒を起こしたら……」
「あのランチを沈めなければもっと面倒なことになる。撃て」
降ってわいた騒動の真相について、田口と同じ推測を得ていたのだろう。土谷は冷厳に重ねた。日本人の顔を持ち、日本の言葉を話しながら、異なる価値観、異なる行動律に支配された男。存在そのものがまやかしめいた土谷の声を聞き、あの人の意志を代弁する声、と受け止めた田口は、無言で機銃の銃架と向き合った。
結局、こういう星廻りか。目を閉じ、すべての発端になった洞窟の闇を思い描いて、そこに蠢く赤い口腔を幻視しようとした。
「暴発ということにすればいい。撃つんだ」
赤い口腔は像を結ぶ前に消え去り、代わりにまだ幼さを残す横顔が記憶の底から浮かび上がってくる。失った右足から血を流し、蛆《うじ》に肌を食い破られながら、暗い洞窟に歌声を響かせ続けたあの一等兵の横顔だった。別にこれが初めてというわけではない。寄せられた信頼を裏切り、自分自身の心を裏切り、引き金にかけた指にほんの少しの力を込めればいい。田口は険を押し開き、照準器の向こうで揺れ動くランチの灯火を見つめた。
「いまさら途中退場は認められないぞ? 田口兵曹長」
言われるまでもない。田口はハンドルを握り、発射釦に親指をかけた。最初からわかっていた。時がくればこうなると――いや、違う。本当はもっと簡単に済むはずだった。目的に至る一行程と割り切り、自分は〈伊507〉に乗り組んだのだ。その中で得たものなど、目的の達成とともに消える副産物でしかない。身勝手であろうが、不実であろうが、そうするだけの価値がこの計画にはある。他に罪を贖《あがな》い、己を活かす道はないと信じて、そのように行動してきた……はずだった。
そうなら、なぜ胸が痛む。なぜ身を引き裂くほどの激痛が胸を締めつける。じっとり滲んだ汗も拭えずに自問した田口は、いま照準に捉えたものが単なる副産物ではなく、折笠征人という唯一無二の命だからだと自答して、心底絶望的な気分を味わった。
まったく、最後の最後まで手を焼かせる――。
「撃て」
土谷が言う。田口には、それが喰え≠ニ言っているように聞こえた。
「撃たないか……!」
喰え、喰え、喰え。耳について離れない複数の声音が反響し、田口は汗ばむ手にハンドルの感触を確かめた。許せ、小僧。両色燈の光点を睨み据え、内心に絶叫した勢いで発射釦を押し込んだ。
瞬間、重い衝撃が背中に走った。田口は機銃に寄りかかる格好で前のめりになり、同時にぐんと上を向いた銃口から短く銃火がほとばしった。排出された空薬莢が甲板に当たって金属の音を響かせ、「Bitch!」と呻いた土谷の声がそれを吹き消す。か細い息遣いも聞いたと思った田口は、ハンドルを支えに体勢を立て直し、背後を振り返った。殺気を立ち昇らせた土谷の背中と、その腕から逃れようともがき、暴れる小柄な体を一時に目に入れ、開いた口が塞がらなくなった。
土谷につかまれた手首を必死に引き戻そうとしながら、パウラ・A・エブナーも一瞬こちらを見返した。強い怒りを孕んだ眼差しが澱んだ胸に突き通り、田口は呆然とその場に立ち尽くした。
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短く詰まった銃声が轟き、木崎と二人、艦橋甲板に立つ体をそろって硬直させた。暴発か、と考えた時には艦橋から身を乗り出し、「打ち方やめと言ったぞ!」と怒鳴っていた絹見は、機銃甲板の光景を見て絶句した。
「パウラ・エブナーか……!?」
同じく機銃甲板を見下ろしつつ、木崎が呻く。間違いなかった。温熱器を仕込んだ専用のゴム服に身を包んだ肢体が、一番機銃と二番機銃の狭間で土谷と揉み合うようにしている。ひと回り体の大きい土谷に両の手首をつかまれ、身をよじって抵抗するパウラの背後で、田口はなにもせずに棒立ちになったままだ。
なにがどうなっている。パウラはいつ〈ナーバル〉から出た。ランチの搭乗員は折笠征人だとの報告を受け、半信半疑の思いで射撃中止を令してからまだ二分と経っていない。ランチに臨検を行う旨を伝える信号文の作成も、臨検要員の選定も頭から吹き飛び、絹見は首にかけたメガネを木崎に押しつけるや、機銃甲板に続くラッタルをひと息に駆け降りていった。
こちらの気配に気づいたのか、土谷の注意がわずかにそがれ、パウラはその隙を見逃さずに土谷の股間を蹴り上げる。力の抜けた腕を振り払い、棒立ちの田口に近づこうとするが、土谷は素早く体勢を立て直してパウラの髪をわしづかみにする。ぐいとうしろに引っ張られたパウラの体が手すりに叩きつけられ、苦悶の吐息が漏れる間に、田口に向き直った土谷が「撃て!」と叫ぶ。血の気の引いた田口の顔が歪み、それより先に反応したパウラが土谷に体当たりを試みたが、電撃的に動いた土谷の腕に搦《から》め取《と》られると、再び手すりに叩きつけられてしまっていた。
ちょうどラッタルを降りきった時だった。なんとか起き上がろうとしたパウラを手すりに押しつけ、もう一方の拳を振り上げた土谷の顔が無表情になる。やめろ、と口を開きかけた刹那、横合いから音もなく滑り込んできた影が土谷の背後に回り、絹見はぎょっと体を凍りつかせた。
暁闇《ぎょうあん》が凝集し、人の形になって土谷を取り込んだかのようだった。手すりを乗り越え、露天甲板から上がってきたその黒い影は、振り下ろされる寸前の土谷の腕を取り、後ろ手に捻り上げ、喉元にナイフを突きつけるまでの一連の動作を、瞬きする間にやってのけた。帝海のものより嵩《かさ》のある軍帽が甲板に落ち、風に広がった長髪が土谷の背後でなびくのを見た絹見は、ほっと息をついて髑髏の徽章が目立つ軍帽を拾い上げた。
「妹に手を上げれば殺す」
低く言ったフリッツに、土谷が返したのは呻き声だけだった。SS仕込みの体術を目《ま》の当たりにするのは初めてだが、ナイフの切っ先をぴたりと頸動脈《けいどうみゃく》に当てられ、後ろ手に捻られて爪先立ちになった土谷の姿勢を見れば、ほんの少しの力で骨がへし折れるのだろうことは想像がついた。手すりを支えに立ち上がったパウラを見遣り、目立った怪我がないことを確かめた絹見は、彼女にフリッツの軍帽を手渡して背後に退がらせた。じっと立ち尽くすばかりの田口、屈辱と苦痛を皮一枚下に押し留め、開き直ったとも取れる目を向ける土谷。それぞれ隠微な空気をまとった男たちを順々に見つめ、最後に、冷たい目の底に怒りを封じ込めたフリッツと視線を交わらせた。
「フリッツ少尉、中佐を放せ」
フリッツの目がすっと細まり、端正な顔に敵意に近い色が浮かぶ。「どういう事情があっても、上官に手を出す行為を見過ごすわけにはいかん」と続けた絹見は、にやと口もとをひきつらせた土谷の顔を、間を置かず睨み据えた。
「上官に手を出す不届き者はひとりでいい。艦長の役目を奪《と》るな」
皮相な笑みは速やかに消え、土谷の顔からいっさいの表情が消える。まんざら冗談ではなかった。先刻の状況から、土谷が田口を焚きつけ、ランチの撃沈を目論《もくろ》んだ事実は疑いようがない。肉眼でランチの存在を確かめようとしたのか、〈ナーバル〉の外に出ていたパウラが制止に入らなかったら、ランチはいまごろ粉微塵にされていただろう。艦内では絶対の重みを持つ艦長命令に逆らってまで、ランチの撃沈にこだわった腹の中身はなにか。絹見は土谷の無表情に詰問の目を注いだ。
取ってつけたようなスパイ騒動。帝海の規格外品の目から見ても、海軍軍人らしからぬ土谷の所作。あまりにも慌ただしい出撃と、いまひとつ現実感の乏しい米本土奇襲作戦。煎《せん》じ詰《つ》めればローレライを巡る帝海の動き、浅倉という男にまでたどり着く疑念の数々が、その腹の中身を暴くことで明かされるという予感があった。感情のないガラス玉になった土谷の目を覗き込み、「どういうことだ?」と口火を切った絹見は、「ランチより発光信号!」と弾けた木崎の声に、続く声を呑み込んだ。
三百メートル弱の距離を開けて追走するランチの両色燈が、不規則に点滅しているのが見えた。メガネを手に取ろうとして、木崎に預けてきたことを思い出した絹見は、灯台さながら信号探照燈を輝かせる艦橋を振り仰いだ。読め、と命じるより先に、「折笠と清永上工です!」とメガネをかまえた木崎が叫び、パウラのみならず、フリッツと田口も息を呑む気配が伝わった。
「コ、ン、ジ……今次、作戦は……浅倉、大佐が……策した……罠。土谷、中佐と、その一党は……スパイ、の疑いあり。予定、会合海域に参集せる、は……友軍艦艇に、非ず……」
即時翻訳のたどたどしさで一文字一文字を読み上げた木崎は、そこで絶句してメガネを顔から離した。肉眼で直接、両色燈の点滅を確かめ、もう一度メガネに目を押しつけると、口の中でぶつぶつと翻訳文を確かめる。間違いないと確かめたのか、蒼白になった顔をこちらに向け、「予定会合海域に参集せるは友軍艦艇に非ず、米艦隊なり、です」と付け足した声は、瘧《おこり》にかかったように震えて聞こえた。
流れ込んでくる言葉のひとつひとつが爆雷になり、次々に起爆して、神経という神経を断線させた感じだった。先のこと、次のこと、いまのことさえ考えられず、絹見は空になった頭で木崎を見返した。浅倉、罠、米艦隊。ばらばらに飛び散った言葉の欠片を拾い集め、売られたのか? という自問ひとつが固まったが、まだ実感するには遠く、どう捉えていいのかもわからずに数秒が過ぎた。
「放す必要はなくなったらしいな」
フリッツが口を開き、苦痛を押し殺した土谷の吐息が続く。後ろ手に捻り上げた腕の力を強くしたのだろう。口調こそ冷静だが、フリッツの目も先刻までの冷静さを失っている。対して土谷は能面をぴくりとも動かさず、感情を消し去ったガラス玉の目に茫々《ぼうぼう》とした闇を映すばかりで、スパイと名指しされた言葉を否定も肯定もせずに呑み込んだという顔つきだった。
事実、か。そう理解した頭がようやく働き出し、絹見はいまだ点滅を続けるランチの両色燈を見つめた。折笠と清永がいかなる経緯で事の真相を知るに至ったのかはわからず、事の全容もまだ皆目《かいもく》不明と言っていいが、ようは帝海の潜水艦一杯をまるごと手玉に取ろうという謀議だ。浅倉がすべて単独で行ったということはあるまい。部内に複数の共謀者がいると見て間違いなく、浅倉が自ら足を運んだことを思えば、ウェーク根拠地隊司令部が謀議の拠点になっているとの推測も成り立つ。鹿島隊司令とはろくに話す時間もなかったが、補給の手配にしろ、作戦会議に同席した時の態度にしろ、妙に気の回るところが引っかかつてはいた。孤島に取り残された隊司令が、久々の大きな作戦で張りきったというのとは違う。そつがなさすぎたのだ。あれは腹に一物隠し持つがゆえの態度――いや、滞りなく〈伊507〉を送り出すという任務≠遂行するべく、積極的にこちらを騙す芝居ではなかったか。
いまさらながら震えが這い上がってきた。全員ではないにしても、司令にそのような意図があるなら、根拠地隊全体が浅倉の手足になり得る。軍令部一課長の肩書きに圧倒され、明らかに不自然な浅倉の命令に唯々諾々《いいだくだく》と従った自分といい、そんな不明な艦長に率いられてここまで来た乗員たちといい、軍人には上官の命令を疑う思考回路はない。疑い出せば軍事行動が不可能になる、という絶対の了解事項があるから、命令に個人の疑問や知恵を差し挟むのを本能的に拒否する。スパイがランチを奪って逃走したと隊司令が言えば、根拠地隊の兵員は一も二もなくランチを追い、沈めにかかってくるだろう。どこからスパイが入り込んだのか、本当にスパイがいたのかなどの議論は、撃沈した後にすればいいことだ。絹見は両色燈の背後に広がる闇に目を凝らし、水平線に半ば隠れた港の光の中から、追手の船影を見分けようとした。
ランチを追って哨戒艇が出港したことは、発令所からの報告で確かめている。灯火を消した哨戒艇の船影は見つけられなかったが、そう簡単に追跡をあきらめるはずもない。やるべきことを頭の中に列挙し、直観で優先順位を定めた絹見は、手すりに沿って設置された伝声管に顔を寄せた。
「こちら艦長。両舷停止。ランチと接舷して乗員を回収する。甲板員は配置につけ。横付け作業用意」
まずは折笠たちの回収。続いて哨戒艇の位置確認。〈伊507〉とランチが接触する素振りを見せれば、砲撃を加えてくる可能性もあるから、最悪、牽制射撃で追い払える態勢を整えておく必要がある。そして土谷が引き連れてきた四人の技術科員の身柄拘束。無用の混乱を避けるためにも、最少の人数で速やかに行わなければならない――。そこまで考えを巡らせてから、絹見は伝声管に背を向けて土谷に振り返った。
間諜の訓練を受けている男なら、どこか陰にこもったその態度も納得がゆく。売国奴か、そもそも日本人ですらないのか。相変わらずの無表情を見据え、喋らせるには時間がかかりそうだと覚悟した時、土谷の唇がにたりと吊り上がり、ガラス玉だった目に意志の光が宿った。
酷薄で傲慢な光が、蛙《かえる》を呑み込もうとする蛇の目を連想させた。なぜかしら寒気を覚え、すぐにその理由に思い当たった絹見は、背後の伝声管にぎょっと目を走らせた。
復誦が返ってこない。艦の速度が落ちる気配も一向にない。ずしりと重くなった胃袋を感じつつ、絹見は「復誦はどうした。聞こえないのか」と伝声管に吹き込んだ。ひどく長い数秒の後、(聞こえています)と高須の声が応答した。
(しかし、従うわけにはまいりません)
くぐもった声が、感情を押し殺して抑揚なく続けた。胃袋が破け、胃液が内臓を爛《ただ》れさせるような痛みを感じはしたものの、絹見は特に驚かなかった。むしろ先刻、なにかを言いかけて言えなかった高須の横顔を思い出し、来るべきものが来たらしいと曖昧に絶望して、「先任……」とかすれた声を搾り出した。
(従えないのです。現在、本艦は浅倉大佐の指揮下にあります)
目の前がすっと暗くなり、腰の力が抜けた。喇叭《らっぱ》型の伝声管をつかみ、くずおれそうな体を支えながら、絹見は錯乱した頭がなぜと絶叫するのを聞いた。無意味な問いかけであることは百も承知で、出血の止まらない胸になぜとくり返し、ぐらぐらする視界に黒い海面を捉え続けた。
帝海の規格外品ばかり集めて、軍令部は我々になにをさせるつもりなんでしょう? 出航二日目の夜、高須は自分にそう尋ねた。その後も折につけ、この航海の不自然さを冗談混じりにあげつらい、こちらの疑念を煽《あお》り立《た》てる発言をくり返してきた。それが彼の仕事だったのかもしれない。艦長が事態をどう捉えているのか探りを入れ、疑惑を感じる節《ふし》があれば、しこりになる前に吐き出させる。それもこれもおとなしく操艦に専念させるためで、得がたい先任将校を得たと喜び、互いにあうんの呼吸が完成したと信じたのは、こちらの勝手な思い込みに過ぎず……。
「掌砲長……!」
悲鳴に近いパウラの声に頭を蹴飛ばされ、絹見は咄嗟に田口の方を見た。いまのいままで田口がそばにいたことさえ忘れていた。まさかという思いが走り、その不安の中身を確かめるより先に、鈍く光る拳銃の銃口が絹見の目に入った。
いつ、どこから取り出したのかはわからない。だが田口の手には紛れもなく南部式の自動拳銃が握られ、艦橋からこぼれる光に浮かび上がった目は、明瞭な殺気を放って銃口の先にあるもの――フリッツのこめかみを直視していた。両手保持された拳銃の筒先は微塵も揺らがず、黒い碁石《ごいし》を思わせる瞳も一点を凝視して動かない。必要なら引き金を引く、と無言のうちに宣言した田口の立ち姿に圧倒され、絹見は声ひとつ出せない体を凍りつかせた。
「少尉。土谷中佐を解放しろ」
田口が低く言う。土谷の肩ごしに覗くフリッツの口もとが微かに歪み、ナイフの切っ先がより深く土谷の頸動脈に食い込む。田口の太い眉がぴくりと動き、次の瞬間、フリッツのこめかみを離れた銃口がパウラに突きつけられた。
躊躇のない所作だった。棒立ちになったパウラを銃口と一体化した視線で見据え、田口は「早く……!」と硬い声を重ねる。本気を感じ取ったのか、フリッツの頬に緊張が走り、「従った方がいい。ローレライを失うのは互いに損失だ」と土谷が追い打ちをかける。眉間にぎゅっと皺を寄せ、苦悶の滲む目を伏せたフリッツは、それを最後に土谷の腕を放し、首筋に当てたナイフを外した。
一挙に自由を取り戻した土谷は、流れるような身のこなしでフリッツから離れた。軽く左足を持ち上げて軍袴の裾に手をやり、体を捻ってフリッツと正対した時には、小型の自動拳銃がその手に握られていた。足首に特殊な拳銃吊りが仕込んであるらしい。絹見が目を瞠《みは》る間に、土谷はフリッツの眉間にぴたりと銃口を向け、ちらと流した目でナイフを捨てるよう要求した。
甲板に落ちて乾いた音を立てたナイフを即座に蹴り飛ばし、土谷は両手を頭のうしろに組ませたフリッツの体を手早く探ってゆく。他にも三本、袖口やベルトに隠し持っていた細身のナイフを取り上げると、「いい心がけだ」と嘲笑《わら》って海に投げ捨てる。その挙動には一分の隙もなく、付け入る余地はないと判断した絹見は、目だけ動かして艦橋の様子を確かめた。
艦橋からは機銃甲板が一望できる。木崎がこの光景を目にしていれば、なんらかの行動を起こしてくれるはずだったが、その期待はあっさり裏切られた。背後から拳銃を突きつけられ、木崎は両手を挙げてこちらを見下ろしているところだった。
信号探照燈が逆光になって、木崎の後頭部に銃口を当てる男は影しかわからない。土谷の一党がすでに動き出している――しかしいつの間に? ランチの発光信号が観測されてから、土谷が部下に呼びかける間はなかった。彼らはなぜ正体が露見したと気づき、行動を開始できたのか。恐慌寸前の頭で考えの枝をのばした絹見は、それまでの無表情を吹き消し、にたりと唇を吊り上げた時の土谷の顔を思い出して、愕然とした。
艦の進行を止め、ランチの乗員を回収すると伝声管に吹き込んだあの瞬間。それだけで、土谷の配下たちは正体が露見したと察したのか。それほどに機知に富み、訓練された一団が艦内に潜り込んでいるのか。海戦しか知らない自分にはまったく想像外の敵、思考回路に絹見は絶句し、「艦長……」と足もとから這い上がってきた声が、泥沼に落ち込んだ体をさらに深く沈ませた。
機銃甲板の手すりの下、艦橋格納庫脇の狭い通路に立ち尽くす小松が、船酔いとは違う理由で青くなった顔をこちらに向けていた。ランチの接舷作業で露天甲板に上がってきたのだろう。そのうしろには技術科の袖章をつけた一等兵曹が立ち、手にした拳銃を小松の背中に押し当てている。他の甲板員はどうした? と口を開きかけて、聞くまでもないと思い直した絹見は、小刻みに震える小松から悄然と目を逸らした。
艦内では、特別な場合を除いて武器の携行が認められていない。小人数とはいえ、武装した集団に一気に行動を起こされれば、武器庫に収められた拳銃や小銃を取り出す間もなかっただろう。土谷の配下だけでも四人。先任将校と掌砲長がそうであるなら、他の乗員の中にも一派が潜んでいると見るのが正しい。未知数、それも艦内を知り尽くした者たちの叛乱――。
乗員が、〈伊507〉そのものが人質に取られた。認めたくない現実を認め、絹見は顔を上げた。いつからかこちらを見つめていた土谷は、「そういうことだ」と薄い唇を笑みで歪めた。
「作戦は予定通り実施してもらう。艦長」
絹見にではなく、フリッツに銃口を向けて土谷は言い放った。その方が要求を通しやすいと心得た所作だった。猛然とわき起こった憤怒《ふんぬ》をどうにか呑み下し、絹見は無言の顔をうつむけた。自分が冷静であり続けられるか否かに、全乗員の命がかかっている。その理解がもたらした最低限の理性だった。
土谷の合図で、木崎と小松は艦内に戻された。パウラとフリッツも手拭いで後ろ手に縛られ、田口に連行されてゆく。「ローレライのシステムはもう学んだ。抵抗をしたら少尉は殺せ」と吐き捨てた土谷が本気か、はったりでそう言ったのかは定かでなかったが、フリッツの背中を見据える粘着質な視線に、警戒より強い憎悪が含まれていることは確かだった。
田口はなにも応えず、背中に押しつけた銃口でフリッツに前進を促した。絹見は「掌砲長」とその頑なな背中を呼び止めた。
「先任将校に掌砲長……。他には?」
田口の歩みが止まり、太い首が微かに蠢く。「答える必要はない」と口を挟んだ土谷を無視して、絹見は「最初からなのか?」とたたみかけた。
「貴様も先任も、最初からこうするつもりでこの艦に乗り込んだのか。それだけは答えろ」
聞いたからどうなるというものではない。ただこの〈伊507〉に乗り組んでから、自分はなにかが変わった。滅亡を目前にした国家の軍隊、刀折れ矢尽きた海軍からも見放され、生きる目的も、これまで生きてきた意義も見失っていた体が、再び前を見て歩くことを覚え始めた。戦争という巨大な災厄の一端に身を置きながら、なお至誠に悖《もと》らぬ生き方があるのではないかと考えるようにもなった。それが自分ひとりの勝手な信心でしかないのか、せめて確かめたい衝動に駆られて、絹見は寡黙な背中を直視した。岩山を思わせる体躯をじっと闇に沈め、重い無言の時間を漂った田口は、やがて心持ち動かした顔をこちらに向けた。
「自分と浅倉大佐は、因縁で結ばれております」
予想外の、それでいて納得せざるを得ない響きを含んだ言葉だった。「因縁……」と自分の口で語感を確かめ、わずかに振り向けられた田口の横顔を見つめた絹見は、そうとしか表現できない関係があるのだろうと唐突に理解した。
右頬に日立つ、傷というより肉を抉り取った痕《あと》。撃たれたり斬られたりして残ったものではない。南方に出た兵たちの多くが苦しめられたという熱帯性|潰瘍《かいよう》――雑菌と蛆の巣になり、ぼろぼろに腐った肉を摘出した痕だ。昨日、浅倉は言っていた。あそこに較べればここは天国のようなものだ、人が喰うに値するものは獲れる、と。そう、浅倉もまた南方で陸戦の指揮を執った経験がある。本土から遠く離れた南方の島で。痛苦と飢餓に苛まれ、傷口にわいた蛆までが栄養源と見なされる地獄で。二人はそこで出会い、そして生きて帰ってきた。ひとりは後ろ暗い噂を引きずり、ひとりは同じ人間と捉えるのも困難な冷たい空気をまとって……。
「日本的な言い回しだな」
土谷が揶揄するように言う。田口はなにも言わなかった。フリッツの背中を銃口で小突き、再び歩き始めたその背中に、絹見は「もうひとつ聞きたい」と重ねた。
「それは、この〈伊507〉で得たものより深い因縁か?」
立ち止まり、猪首《いくび》を巡らせかけて、田口は結局は無言を返事にした。もうかける言葉もなく、絹見はなにも見えていなかった目を艦尾側の海に泳がせた。
ウィルクス島とピール島も後方に過ぎ去り、ウェーク島の島陰が濃い闇を作って水平線に横たわっていた。接近するランチの両色燈では到底照らしきれない、底なしの暗黒だった。
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闇一色だった海と空の境目が見分けやすくなり、それで空が明るみ始めたとわかるようになった頃。〈伊507〉はその巨体を海上に静止させた。
湾をとっくに抜けきり、後方の視界を端から端まで埋めていたウェーク島の島陰は、いまはひと塊の闇になって遠ざかりつつある。実も益もなく、ただそこに在り続けるだけの黒い塊。人の営みを支えるにはあまりにも貧しい、陸とも呼べない脆弱《ぜいじゃく》な吹き溜まり。追手の有無を確かめる際、ついでに視界に入れたウェーク島の印象はそんなものだった。湾口付近で引き返した哨戒艇の船影はすでに島陰に溶け込み、脱け出せたという安堵感をあらためて噛み締めた征人は、見慣れた艦影が待ち受ける正面の海に目を戻した。貴船ノ到着ヲ待ツ≠ニ寄越した発光信号の通り、〈伊507〉は静かにランチの到着を待ってくれているように見えた。
配線をいじるのではなく、両色燈の光を直接、布で遮って点滅させる方法を思いついたのは清永だった。両色燈は両の手のひらで覆える程度の大きさなので、光を遮るのはそれほど難しくない。征人はさっそく操舵室の天蓋に登り、両色燈を上衣で覆って発光信号を送った。機銃攻撃が収まったからできたことで、再開したらひとたまりもないと覚悟しながらも、必死に上衣を上げ下げして信号文を送り続けた。パウラが気づいてくれた――その思い込みを唯一の武器にして、上半身裸の身を天蓋の上にさらして数分。〈伊507〉の艦橋で瞬く信号探照燈が返信の点滅を寄越し、征人と清永の帰艦を認めると伝えてきたのだった。
肩を抱き合って万歳三唱したのもつかの間、いざ自分たちの言い分が通り、洋上に静止した〈伊507〉の姿を目の当たりにすれば、ではどうするのかという不安が否応なく立ち上がってきて、二人の口数を少なくさせた。次第に大きくなる艦影を見据え、清永がぽつりぽつりと口にしたのは、「艦長たち、もうスパイをとっ捕まえたかな?」「朝飯、おれたちのぶん残ってるかな?」「おれたち、褒められるよな?」の三つだけで、征人はそのどれにも「うん……」と生返事しか返せなかった。
本当に気にすべきはこれから先、帝国海軍が事態をどう受け止め、〈伊507〉がどう扱われるかだが、一工作兵が推量できる問題ではないし、絹見艦長たちにしても立場は同じかもしれないという予測が、互いの口を重くしているようだった。日本は遠く、その力は臨終間近の老人のごとく弱り衰えて久しい。属する国の支援を期待できず、従うべき命令も失ったのだとしたら、〈伊507〉はこれからどこに向かい、なにを行えばいいのか――。実際、未明の空に浮かび上がる黒い艦影は、広大な海を背景にひどく小さく、連装砲を虚空《こくう》に向けた船体はしんと静まり返っていて、舵を失った難破船を想起させないでもなかった。
艦との距離が縮まり、後部旋回魚雷発射管の細部が見て取れるようになると、静かすぎるという感触はますます強く、不安を感じさせるほどになった。艦橋に人の姿がない。機銃甲板にも誰もいない。ランチを横付けするつもりなら、とうの昔に甲板員が係船準備を始めているはずだが、その姿も見当たらない。露天甲板に立つ人影は二つ。絹見艦長と、田口掌砲長の二人だけだ。
絹見も田口も、互いの表情が窺える距離に近づいてもなんの反応も示さない。敬礼にも答えず、ややこわ張った無表情をじっとこちらに向けている。どちらも愛想とは縁遠い男たちとはいえ、石の硬さで立ち尽くす様子は尋常ではなく、征人は思わず清永と顔を見合わせた。「怒ってんのかな」「さあ……」と首を捻りながらも、格納庫脇の通路から下ろされた舷梯《げんてい》を頼りに、減速させたランチを艦の右舷に近づけていった。
斜めに近づいたランチの艇首が〈伊507〉の舷側に当たり、緩衝材がぎゅっと軋む音を立てる。征人が艇首側の係船索を持って先に舷梯に取りつき、露天甲板上のボラードに舫い結びで結びつける間に、清永も艇尾側の索を持って甲板に上がってきた。二人で力を合わせて索を引っ張り、ランチの艇尾を舷側に密着させる。「なんで誰も手伝いにこねえんだよ?」「知らないよ」と言い合いつつ、どうにか横付け作業を終わらせて、後部甲板にいる絹見と田口のもとに向かった。
鷲《わし》の嘴《くちばし》に似た〈ナーバル〉の艇首の脇で、二人は相変わらず無言の視線を投げかけていた。格納庫脇の通路を出たところで立ち止まり、清永と並んであらためて挙手敬礼をしようとした征人は、〈ナーバル〉の陰からふらりと現れた人影に気づいて、掲げかけた手のひらを硬直させた。
心持ち顔を伏せ、上目遣いに人を窺う眼差しを注いで、絹見と田口の傍らにゆっくり歩み寄る。薄い笑みを張りつかせた土谷の顔を呆然と見返し、無意識にあとずさった征人は、黙って並び立つ艦長と掌砲長の顔を交互に見つめた。耐えきれんというふうに目を伏せた絹見の隣で、田口はどこか一点に注いだ目をぴくりとも動かさなかった。
「掌砲長、こ、こいつ、土谷中佐は……」
土谷と田口を忙《せわ》しなく見較べ、清永が叫ぶように言う。土谷が冷笑を濃くしたのと、田口がずいと前に進み出たのは同時だった。その太い腕が素早く腰に回り、軍袴に差し挟んでいた黒い塊をぐいとこちらに突き出す。清永が息を呑む気配が伝わり、征人も絶句してまた一歩あとずさった。
南部式拳銃の銃口には、そうさせるだけの威圧感があった。ぴたりと据えられた銃口の暗い穴の向こうで、底深い闇を湛えた穴がもう二つ、田口の眼窩《がんか》から征人と清永を直視した。
「二人とも艦内に入れ。別命あるまでパートで待機。現在、この艦は土谷中佐の指揮下にある」
湿った風が吹き抜け、遠い雷の音が耳朶を打った。理解する間もなく浴びせかけられた言葉の群れが、微動だにしない銃口と田口の顔を見つめるうちに、じわじわと意味を放って体を浸食してゆく。土谷のことを注進しようとした時の不自然な態度。人を殺したことのある目。浮かんでは消える記憶の泡は、昨夜、焚き火の前で聞いた言葉に突き当たって弾け、征人は虚《うつ》ろな目を田口ひとりに投げかけた。
見えたものの裏側になにがあるのか、いつも想像を働かせておくんだ――。
「……冗談、ですよね?」
夢の中で喋っているみたいに、自分の声が遠くに聞こえた。田口は合わせた視線を逸らさず、硬い表情も崩さなかったが、目の底の膜がすっと上がり、内奥に隠した感情の火種をちらりと覗かせて、一瞬、いつもの掌砲長の目に戻るのが征人にはわかった。
そう、この目だ。殺気を常態にした瞳の底に、やさしい光を蓄えた瞳。〈ナーバル〉を捜しに夜の海に潜らなければならなくなった時、この目が送り出してくれたから怖さを忘れられた。パウラが薬を飲まされそうになった時だって、他の誰よりも立派だった。軍人として、大人として、一歩も退かずに節を通そうとした。それが田口だ。艦内中に睨みをきかしている掌砲長の目だ。
無関心な振りをして、絶えずパウラの身柄を気遣っている目。怒鳴りつける一方、部下の顔色を目敏く察し、ひとりひとりに気を配るのを忘れない目。おれに見えていたのはそういう目だ。反発しながら学ばされ、嫌いながら近づこうとしていた、一人前という言葉の先にある目。男として手本にできると信じた目だ。人殺しの目なんかじゃない。裏側になにがあるのかなんて、考えられるわけないじゃないか……。
「おい、なんだよこれ。どうなってるんだよ」
この場の空気にまったくそぐわない、間が抜けているとさえ思える声音が傍らに発して、征人は我に返った。目前に並ぶ三人の男を次々に見回し、焦点の合わなくなった清永の瞳が震えていた。
「おれたちの言い分が通ったから艦は止まったんだろ? なんで銃なんか向けられるんだよ。なあ征人、説明してくれよ。おれわかんないよ」
征人の肩を揺さぶり、清永は本当に不思議そうにした顔を近づけてきた。思考を放棄した――いや、現実を受け入れるのをやめた瞳に覗き込まれ、「清永……」と戸惑う声を返した征人は、それ以上続けられる言葉もなく視線を逸らした。「わかんないよ!」と声を荒らげ、清永は揺さぶった勢いで征人を突き放した。
「どうなってんだよ。ねえ、掌砲長殿。これはいったいどういうことですか? なんでそんなもの向けるんです。自分は〈伊507〉がアメリカに売られるって、この作戦が罠だって話を確かに聞いたんです。それで折笠上工と一緒に戻ってきたんですよ。そんなもの向けるなんてひどいじゃないですか……!」
銃口に指を突っ込みかねない勢いで、清永は田口ににじり寄る。田口は油断なく間合いを取っていたが、その顔には先刻までなかった動揺の色があった。絹見も明らかに異常な清永の態度に気づいた顔で、田口の挙動と清永の横顔に注意の視線を走らせる。
「向ける相手が違いますよ。スパイは土谷中佐たちなんですよ。自分たちは〈伊507〉を救うために……」
「よく喋る……」と無遠慮に差しはさまれた冷たい声に遮られ、清永は口を閉じた。左手を軽く腰に当て、土谷が汚物を見る目を清永に注いでいた。
「貴様たちのお陰でだいぶ予定が狂った。いい加減、おとなしくしてもらいたいものだな」
蔑《さげす》む価値もないという顔で、土谷は続けた。清永の横顔が血の気を失い、ふっと表情がかき消えるのを見た征人は、だめだ、と内心に絶叫した。
異変に気づいた絹見が足を踏み出す。田口も抑えにかかろうと手をのばしたが、清永が甲板を蹴る方が早かった。ひと晩ですべてがひっくり返された恨み、恐怖、混乱。その捌《は》け口を見出した体が土谷に飛びかかり、直後、乾いた銃声が甲板上に響き渡った。
静止した後、清永の丸い背中がぐらりと揺れ、硝煙の細く白い筋がその肩ごしに立ち昇った。征人は棒立ちになり、硝煙の向こうに冷然と立つ土谷と目を合わせた。
「貴様……!」
裂帛《れっぱく》の怒声が腹を揺さぶり、土谷と絡ませた視線がほどけると、初めて感情を露にした艦長の横顔が征人の視界に入った。土谷の胸倉に手をのばしかけた絹見は、咄嗟に間に入った田口に押さえられる。堪えてくれ、と全身で訴える田口をよそに、土谷は単に不快だという顔を隠しもしない。清永はそんな大人たちからよろよろとあとずさり、征人に背中を押し当てると、そのまま体重全部を預けて倒れ込んでいった。
ずっしり重い大兵を支えきれず、手すり際まで後退した末に、征人も手すりに背中をぶつけて尻もちをついた。胸に抱える格好になった清永の呼吸は意外に穏やかで、「征人……」と呼びかける声もはっきり聞こえたが、左胸には赤黒い染みが咲いており、それは鼓動するたびに確実に面積を拡げていた。
「こんなのってねえよ。嫌だよ、おれ。味方の格好した奴に撃たれたなんて……父ちゃんたちに言えないよ」
うろうろと動く目が征人を探し、震える手が虚空をまさぐる。なにも考えられない頭でも、征人はその手をしっかりとつかんでやった。清永はどきりとするほどの力で征人の手を握り返し、もう一方の手で胸のポケットをまさぐった。
少し血を吸った御守りを取り出し、途方に暮れた顔で見つめる。こちらを見上げ、「どうしよう……」と呟いた途端、清永の手から力が抜け、体重がずんと重みを増した。
者が、物になった重さ。それが骨身を軋ませ、胸を潰した。清永、と呼びかけた声は声にならず、甲板にこぼれ落ちた御守りを拾うこともできずに、征人は同期の――この世に二人といない親友の死に顔を、ただ見下ろした。
スコールの到来を予感させる風が吹き渡り、御守りを手すりの外に飛ばした。未明の空はまだ暗く、海に落ちた御守りはすぐに見えなくなってしまった。
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機関の振動が途絶え、人の行き来もなくなった艦内は、空気までがどこかよそよそしい風情だった。ラッタルを下る自分の足音も嫌に大きく聞こえ、異物は去れと言うように鼓膜に刺さってくる。
幾重にも錆止《さびど》めペンキが塗られたラッタルを下り終え、最下層に位置する第三甲板に足をつけたところで、「誰が来たって変わらんわ!」と弾けた怒声が無人の通路に響き渡った。田口は思わず立ち止まり、腰に差した南部式小型拳銃に手をのばしかけた。
「わしゃここを動かん! 絶対に動かんぞ」
聞き覚えのあるだみ声が、薄く開いた機械室の扉ごしに続く。予定より大幅に早まり、なし崩しに始まらざるを得なかったにしては、迅速かつ無血≠ニいう当初の計画をほぼ達成できた艦内の制圧だが、いくつかの例外は存在する。田口はひとつ息を吐いてから機械室に足を向けた。
「いい加減にしてください! 我々だって冗談やってるわけじゃないんだ」「当たり前じゃ! 冗談で艦を乗っ取られてたまるか」と続く怒声の応酬を耳にしながら、機械室の扉を開ける。三八式小銃を構えた空気長の青ざめた顔と、岩村機関長の紅潮した顔が一斉に振り返り、田口は空気長の迂闊な挙動に内心舌打ちした。人に銃を突きつけている時に簡単に目を逸らして、不用心もはなはだしい。もっとも岩村も、壁に手をついて立たされている五人の機関員たちも、あんぐり口を開けてこちらを見返すばかりで、銃を奪って反撃するという頭は持ち合わせていないようだった。
無理もない。味方が敵になった事実を受け入れ、戦闘に即応する警戒心が互いの中に育つには、まだ過ぎた時間は短すぎる。制圧開始から一時間弱、自身、整理がついたとは言いがたい心中を押し隠して、田口は岩村の目を正面に見返した。
困惑を敷き詰めた岩村の瞳が揺れ、硬直した顔面がなにかを訴えかけて、すぐに差し込んだあきらめの翳《かげ》りが表情を消し去ってゆく。信頼の大きさが裏切られた痛みに変わり、怒ることさえできない人の顔を見るのは、これが初めてではなかった。露天甲板で、烹炊所で、前部魚雷発射管室で、もう何度もこんな顔を見てきた。別にどうということはない。それ以前、この艦に乗り組むずっと前から、裏切りはすでに始まっていた。下腹に力を込め、絶望に塞がれた機関長の痩身を直視した田口は、「……おまえさんもか」と搾り出された声を全身で受け止めた。
「わかったでしょう。我々は……」と余計な口を開きかけた空気長を手で制し、岩村との間に割って入る。自分と高須の他に、通信長、工作長、信号長、空気長。艦の制圧に動いた六人の伏せ手≠フ中でも、空気長の榛原《はいばら》一等兵曹は二十七歳といちばん若く、実戦の経験も浅い。伏せ手がひとりもいない機械室の制圧を任せるには、どだい無理があった。気密性が命の潜水艦内では、やむを得ない場合を除いて発砲は禁ずるという決まり文句にも特別の重さが漂う。いまがそのやむを得ない場合だと断じて疑わない榛原の横顔を見、これ以上、岩村と対面させておくべきではないと判断した田口は、榛原の視界を塞ぐようにして岩村を見下ろした。
「先任将校から通達があったはずです。ただちに兵員室《パート》に移動してください」
背筋をのばして上官に対する敬意を表しながらも、有無を言わせぬつもりで田口は言った。本来、各科に万遍なく配置する予定だった伏せ手が、呉の空襲で乗艦前に半分近く戦死してしまい、残った人員で全艦の制圧を行わなければならなかった事情もある。別科の人間に指図されるいわれはないと、銃を突きつけても指示に従わない者は思ったより多く、田口が直接説得に出向いたのはこれで三ヵ所目。兵曹以下の乗員を束ねる先任兵曹長の肩書きが物を言い、これまではなんとか事態を穏便に収めることができたが、〈伊507〉最長老の機関長が簡単に説得に応じるとは思えなかった。案の定、岩村はじろりと田口を睨め上げ、「わしらを追い出して、ここをどうするつもりだ」と探る声を投げかけてきた。
「我々で運用します」
「我々っちゅうのはなんだ。貴様らは帝国海軍の軍人じゃないのか。目的はいったいなんだ」
「後で説明があります。いまは指示に従ってください」
岩村は動かず、聞く気はないという目をこちらに向け続ける。壁際に立つ機関員たちもちらと視線を寄越し、まだこれが生死に関わる問題とは想像できない、話せば通じると考えている彼らの心中を感じ取った田口は、背後に控える榛原に目配せをした。
狭い艦内で使用する都合上、銃剣を装備していない三八式小銃の銃身が上がり、ぴたりと岩村に据えられる。機関員たちは息を呑み、岩村が顔をひきつらせたのは一瞬だった。ピストンとシリンダーが整然と並ぶディーゼル主機に振り返り、睨む目を田口に向け直した岩村は、十二気筒、六千二百馬力と化け物じみた出力を誇る主機を背にして、じりじりあとずさり始めた。
「……撃てるもんなら撃ってみい。艦に乗ってる限り、この主機はわしの女房と一緒だ。わし以外に扱える者なんかおらん。貴様らに寝盗られるぐらいなら、一緒に心中してやるわい」
左右に一基ずつ、機械室の大半を占めて横たわる〈伊507〉の心臓――ゲルマニウム式ディーゼル改のひとつに背を当てて、岩村は機械油で汚れた顔を不敵に歪ませてみせた。ディーゼル主機は小銃弾一発で壊れるほどやわなものではないが、寝床まで機械室に持ち込む機関長のこと、主機のもっとも脆い部分の前に立ち、本気で心中を図るぐらいのことはやりかねない。感情を排した頭で咄嗟に判断した田口は、榛原に小銃の着剣を指示するより、腰の拳銃吊りから南部式小型拳銃《ベビーナンブ》を引き抜く方を選んだ。
安全装置を外し、岩村の額に突きつける。「本気ですか……!」と発した機関員の悲鳴は、榛原が小銃の銃口を向けると収まり、耳が痛くなるほどの静寂が機械室を支配した。不慣れな榛原に銃剣を使わせるなら、小銃より貫通力の低い拳銃で片を付けた方がいい。ここで事をこじらせて、土谷たちに介入の隙を与えるわけにはいかない。田口はそこだけ汚れていない岩村の目を見つめ、岩村も充血しているだろう田口の目を覗き込んだ。
「……部下の手は汚させんか。おまえさんらしいな」
一抹の寂しさを含んだ声音が岩村の口からこぼれ、さすがに銃を持つ手が震えた。艦内制圧の主導権が土谷に渡れば、さらなる流血は免れない。岩村ひとりの命で事が収まるなら――。硬い石になった機関長の瞳に自分の顔を映し、銃口を額に押し当てて震えをごまかした田口は、「おい、勝手に歩くな!」と唐突に発した声に、危うく引き金を引きそうになった。
反射的に身を翻《ひるがえ》し、岩村と、機械室の扉を同時に視界に入れられる位置に移動する。つんのめるようにして戸口に手をついた時岡軍医長に続いて、小銃を手にした工作長が機械室に飛び込んでくるのを見た田口は、時岡の眼鏡面には銃口を向け、工作長には詰問の目を向けた。
「申しわけありません、どうしても掌砲長と話をさせろと……」
「掌砲長! あんた、清永上工の遺体をどうするつもりですか!」
工作長の鈴木一等兵曹の弁を遮り、丸眼鏡の底の目を吊り上げた時岡が叫ぶ。田口が舌打ちした時には、岩村の目が険しさを増し、「清永が……?」「死んだのか」と機関員たちの動揺の声がわき上がっていた。「勝手に喋るな!」と榛原の怒声がそれに続く。
パートや士官室など、艦の運行に影響のない区画に分散収容された乗員のほとんどは、死者が出た事実をまだ知らない。土谷は公表して恫喝の材料にすべきと主張したが、田口は無用の動揺と反感を生むだけだと反対して、遺体の収容も制圧が完了するまで保留にしておいたのだった。その後、露天甲板に置き去られた清永の遺体がどう扱われたのかはわからず、死亡確認に赴いた時岡が怒鳴り込んできた理由もわからない田口は、「どうするつもりとは?」と静かに聞き返した。
「あんたらの仲間が、ちゃんと水葬もせんで海に投げ捨てようとしとるのです! すぐにやめさせなさい。医務室に運ばせるのです」
「死んだ者を医務室に運ばせてどうする……」と言いかけた鈴木は、「たとえ死んでも人間は人間です!」と爆発した怒声と唾を顔いっぱいに浴び、口を閉じた。日頃のとぼけた顔を拭い去り、全身から湯気を立ち昇らせる時岡に射竦められた田口は、ベビーナンブを前に突き出して牽制せずにはいられなくなった。
「ゴミみたいに捨てていいって法はないでしょうが! 清永上工だって帝海軍人です。艦内で亡くなったんなら、ちゃんと英霊として葬ってやらにゃなりません。この時岡、どんな事情があろうと人の命を粗末に扱う者は許しませんぞ……!」
銃口など目に入っていない様子で、時岡はずいと眼鏡面を近づける。計画の遂行に携わる伏せ手の他は、海軍部内でも問題視されている者か、召集されて日が浅い者を選んで乗務させる。恭順させやすいことを念頭に定められた選抜規定において、後者の条件に合致した時岡は、まだ戦場で人が死ぬ光景に慣れていない。だからこうも正論をぶてる、と思いついた頭がすっと冷たくなり、田口は時岡の顔をまっすぐ睨み据えた。
もっと粗末に死んでいった者たちもいる。薬も包帯も食料もなく、わき水を啜り、傷にわく蛆を食い、壊疽《えそ》の毒に脳を溶かされるまで苦しんだ者もいる。まともに葬ってもらうことはおろか、牛や豚のように解体された者もいる。この体、この血の中に取り込まれ、彼らはいまだに成仏できずにいる。
「……そう。いまは粗末に死んでゆく人間が多い」
だからこそ、現在の自分があり、この行動がある。田口は時岡の前から離れ、壁際に立つ一等機関兵のこめかみにベビーナンブの銃口を押し当てた。
清永と同年代の機関兵の顔が恐怖でこわ張り、岩村と時岡がそろって息を呑む気配が伝わった。引き金に指をかけ、田口は「遺体は艦内に収容します」と時岡に振り返った。
「お引き取りを。……機関長も」
脅しではなかった。いまならなにも考えずに引き金を引けるという冷めた実感があった。蒼白になった時岡の横で、両の拳を握りしめ、ぐっと口を閉じた顔をうつむけた岩村は、無言でディーゼル主機から離れる一歩を踏み出した。最悪の事態を免れた安堵感も、そもそもなにが最悪なのかと判断する頭も持てないまま、田口は機械的に機関兵のこめかみから銃口を離した。呆然と突っ立っている榛原と鈴木に額をしゃくり、一同を連行するよう促す。
榛原が通路に出て小銃を構え、悄然とうなだれた時岡を先頭に、五人の機関員たちが機械室の戸口をくぐってゆく。傍らを通りすぎる時、「残念だ」と言い捨てた岩村の顔は見ずに、田口は陰鬱な複数の足音が遠ざかるのを待った。黒光りするベビーナンブを眺め、本当に引き金を引けたのかと自問するのをやめて、安全装置をかけたそれを腰に戻した。
こちらの顔色を窺う素振りを見せつつ、鈴木工作長も一同に続いて機械室を後にする。右足をやや引きずって歩く姿が目立つのは、栄養失調で罹《かか》った脚気《かっけ》が治りきらないからだろう。自分のように五体満足な者は希《まれ》で、あの島で極限の飢餓を味わった者たちは、ほとんどが一生の障害を背負って内地への生還を果たした。黙って立ち去ろうとする旧知の部下を呼び止めた田口は、「誰が遺体を捨てろと言った?」と質した。
「土谷中佐です。一緒に来た上家とかいう一曹も……」
「やめさせろ。中佐にはおれから話しておく。遺体はとりあえず冷蔵室に運んでおけ」
空調が働いていても、この湿気と暑さではすぐに腐敗が始まる。鈴木は「は……」と曖昧に返事をした。
「しかし、聞きますかね? 中佐の部下たちはどうも話が通じにくくて」
土谷が本国から連れてきた部下は、上家と名乗る一等兵曹ら四人。名前も階級もこの場限りのでっちあげで、おそらくは横文字の本名があるのだろうが、尋ねる気にもなれない。日本語を話し、日本人の風貌を持っていながら、中身は決定的に違うという感覚が終始つきまとう点は、土谷と同じ類の男たちと言えた。
予定より早く艦内の制圧が始まって、その違和感はますます強まった観がある。当たり前の軍人でしかない自分たちとは異なり、特殊な訓練を受けているらしい彼らは、所作ひとつひとつに躊躇というものがない。堂に入ったと言えば聞こえはいいが、ようは容赦がなさすぎるのだ。敵地の只中にいる緊張感がさせていることだとしても、並の兵隊ではこうはいかない。間諜――つまりは忍びのような知識と体術を身に付けた者たちなのだろう。艦内の制圧も、彼らはたった四人で初動をかけ、七十人に達する乗員たちから行動の自由を奪ってみせた。おとなしく指示に従え、と全艦放送で呼びかけた高須の声が乗員たちの楔《くさび》になったのだとしても、その手際は尋常ではなかった。
制圧作業の残りは田口たちに引き継ぎ、いまは露天甲板上で見張りの任に就いている彼らだが、いったん主導権を握られれば、今度はひとりや二人の犠牲では済まないという予感は間違いなくあった。田口は「聞かせるんだ」と鈴木に押しかぶせた。
「連中だけではこの艦は動かせん。こっちの方が立場が上って顔をしてろ。先任からも話を通してもらう」
そうできる確証などなにひとつなかったが、「は」と鈴木が素直に応じてくれたので、田口は口を閉じて無人の機械室に向き直ることができた。もう引き返せない場所にまで来てしまったのだから、いまさらなにを心配しても始まらない。鈴木が退出する足音を背に、ともかくも艦内の制圧は完了した、計画の第一段階は終わったと自分を納得させて、他の思考を頭の中から追い出した。
後は中隊長≠フ説得ひとつ、絹見艦長の返答ひとつにすべてがかかっている。この状況下で絹見が説得に応じるか、清永の死を目撃した時の反応を思えば希望的観測は持てなかったが、それもいま考えるべきことではないし、自分の立場で想像できる問題でもなかった。真実、無人になった機械室を見渡し、船体を弄《もてあそ》ぶ波音さえ聞こえてきそうな静寂に身を浸して、田口の中では手を汚した後のいつもの感慨が立ち上がっていった。
やってしまえばどうということはない。魂の消えてしまった折笠の横顔も、落胆を呑み下した絹見の頼も。岩村や時岡、小松、フリッツ、パウラ。それぞれに怒り、嘆き、恐怖に歪んだ顔たちも、絶望に沈んだ清永の目ですらも、いまは過ぎ去った断片として目の奥に残るのみ。罪を意識させることはなく、これでよかったのかと問いかけてくることもない。罪を罪と感じるのは行為の外にいる時であって、渦中にいる間は目先の事々、たとえば清永の遺体の始末をどうつけるかといった現実的な問題に振り回され、罪悪感が介入してくる余地はなくなる。そしてそれらの問題を解決してしまえば、切り抜けられた安心感が疲労とともにやってきて、疲れた体をどこで休めようかと考えるので頭がいっぱいになる。手が血で汚れているなら、まずは手を洗うことだけを考えるのだ。
今回もそうだろう。罪を感じるのはこれから先、すべてが終わり、まだ自分が生きていたとして、清永と似た背格好の若者を不意に見かけた時。それがどこの誰であれ、歩き、食べ、笑い、泣く姿を見た時に、自分はきっと罪を思い知らされる。清永はもう歩きも笑いもしない。人生に用意された喜びも悲しみも知ることはなく、その想いが子に引き継がれることもない。一個の人間に与えられた可能性、その一切合切を奪ってしまった罪が実感となってのしかかり、いまだ生き続ける体を身悶《みもだ》えさせる。償《つぐな》いようのない罪の重さに押し潰され、それでも鼓動する心臓の音にいら立ち、餓えを訴える胃袋の浅ましさを呪って、精神と肉体のあまりの乖離《かいり》に絶望させられるのだ。
折笠征人に別人の面影を重ね合わせ、不必要に肩入れをした自覚のある自分には、それがわかる。計画の一手順と割り切ったつもりが、いつしか〈伊507〉を包む人の輪の中に立ち入り、乗員ひとりひとりを人として捉えていた自分。そのきっかけになったのが、空襲の最中、仲田大尉を援護しようと機銃に取りついた折笠征人の存在だった。
鉄拳制裁《アゴ》を食らってもめげず、軍律を無視して生意気な口を叩き続け、何度も危険を引き寄せながらも、健やかな生命力で死を退けてきた上等工作兵。薄暗い洞窟で歌い続けた一等兵の横顔をそこに重ね、その動向に気を取られることがなかったら。あの一等兵の分も生き、彼がつかめなかったものをつかみ取ってもらいたいと、無意識の情動に取《と》り憑《つ》かれることがなかったら、自分はもっと楽に現在という時を受け入れていただろう。信頼がなければ背信もあり得ず、麻痺した胸が痛みを覚えることもなかっただろう。これを自分の迂闊さとは認めたくなかった。なにもかも自分で裁量しているつもりでいて、外からのちょっとした干渉で根本から狂ってしまう。人の生など、しょせんその程度のものなのだから……。
そうでなければ、帝国海軍に叛《そむ》き、無人の機械室に佇むいまの自分もまた存在しなかった。もともと深く物事を考える質《たち》ではないし、それほど複雑でもないのが田口徳太郎という男の人生だったはずなのだ。勉学も不得手なら、特別に秀でた才能があったわけでもない。腕っぷしだけが自慢の農家の長男坊が、家計を助けるのが半分、男を試す気持ちが半分で海軍に志願……というのは入隊時の面接試験でついた嘘で、真相は、とある事件がもとで故郷にいられなくなり、海軍に逃げ込んだという方が正しい。事件の中身もお笑い種で、地主の息子であることを鼻にかけ、いばり散らしていた同級生を殴り倒したのが原因なのだから、どうにもしまらない話だった。
英米に押しつけられた保有艦艇の上限枠は、満洲事変を皮切りに始まった軍国体制の中で有名無実と化し、海軍は日々増強の只中にある時だったので、実直が取り柄の無学な男でもなんとか雇ってもらえた。それほど悪い場所ではなかった。甲板掃除で走り回り、カッターの引き揚げで手の皮をすり剥き、その合間に慣れない国語や算数の勉強をして、下士官への道である普通科練習生を目指す。そうして普練の課程を終えた後は、艦隊勤務と術科学校入学を交互にくり返し、艦を内側から支える屋台骨、兵曹長に至る階段を昇ってゆく。特に潜水艦と出会ってからは、権威主義が鼻につく大型艦艇にはない自由な気質が気に入り、砲術の技能習得にもいっそう身が入るようになった。
楽ではないが、努力すれば報われる場所――それが田口にとっての海軍だった。地主に平身低頭する故郷の生活を思えば、無能な将校が押しつけてくる多少の理不尽は我慢できる。生まれついての朴念仁《ぼくねんじん》、ひと月と陸《おか》に居着かない生活が仇《あだ》になり、何度かあった結婚の機会を逃す羽目になったものの、不自由を感じるほどのこともなかった。田口は海軍を愛し、海軍も一兵士が充足するのに十分な大義をもってそれに応えた。やがて巨大な戦争への突入を余儀なくされると、その大義はあまねく国民に敷衍《ふえん》され、田口たちには先兵たる自尊心と義務感も付与された。
大陸への進出を支えた大東亜共栄圏の理想も、皇国の大恩に報いるという発想もぴんと来なかったが、始まったからにはやり遂げねばならない。自分たちはこの時のために雇われ、教育を与えられてきたのだし、求められた場所で力を奮《ふる》えるなら、男の生に必要なものなど他にないという思いもあった。しかもいま目前にあるのは故国の危機であり、国民全員の期待が自分たちに向けられているらしいのだ。
かくも晴れがましい檜舞台《ひのきぶたい》が自分に与えられるとは夢にも想像しておらず、それは軍に食いぶちを求めてやってきた他の仲間たちにしても同じだった。死力を尽くそう、互いの骨を拾おうと誓い合って、田口たちは戦争に臨んだ。死は厳然たる恐怖ではあったが、ここで男ぶりを示せず、大義も果たせずに、おめおめと生き長らえる方がよほど恐ろしいという思いにも、なんら偽りはなかった。
そんな単純で、特に記すべきものもない一軍人の人生を覆したのが、あの南方の島で体験した惨劇だった。ミッドウェーの大敗から四ヵ月、田口の乗務する潜水艦は補給物資輸送のためにあの島に赴き、沿岸で敵機の襲撃を受けて沈んだ。生き残った十数名の乗員たちはほうほうの体で島に上陸し、生き地獄という言葉通りの光景を見、体験して――中隊長≠ニ出会った。
ミッドウェーで虎の子の空母を四隻も沈められた帝国海軍は、当時、すでにのびきった戦線を支えられなくなっていた。空母がなければ航空機による支援も展開できず、補給物資を積んだ輸送船団の護衛もおぼつかなくなる。結果、いちばん割を食ったのが、南方に進出した守備隊や設営隊の面々だった。
補給を絶たれたところに、破竹の勢いで上陸してきた連合軍の攻撃を受けたのだから、その惨状はあらためて言及するまでもない。占領して一年と少ししか経たない陣地を奪い取られ、早々に全滅した部隊は、まだ幸運だったと言える。悲惨なのは、密林が生い茂る島の奥地に敗走し、弾薬も糧食も底をついた状態で持久戦に突入する羽目になった部隊だ。彼らの敵はもはや連合軍の兵士ではなく、苛酷な密林の環境であり、飢餓であり、痩せ衰えた体にたかる蟻や蛆、蠅、蚊であり、それらがもたらす熱病だった。
軍医はいても医薬品はなく、小銃はあっても弾薬はない。密林の肥やしになるしかない彼らは、それでも遠く大本営から伝えられる転進命令に従い、錆びた銃剣で蔦《つた》を払いつつ島の中をさまよい続けた。陸海軍あげての奪還作戦に合流する、というのがその行動の論拠だったが、幾度か実施された反撃はいずれも失敗に終わり、飢えた人の口だけを島に増やす結果になった。その間、大本営は補給路の確保に知恵を絞り、夜陰に紛れて駆逐艦で補給物資を運ぶネズミ輸送≠ナ糊口《ここう》をしのごうとしたものの、電探を本格的に導入し始めた敵を前に、夜の闇はもう姿を隠す役には立ってくれなかった。潜水艦に物資を積んだ運荷筒を牽引させるモグラ輸送≠ヘ、そうした状況下で案出された最後の手段だった。
潜航して島の沿岸まで近づき、夜を待って浮上。艦内と運荷筒に満載した補給物資を陸揚《りくあ》げし、海岸で待ち受ける兵たちに引き渡す。敵の目をかいくぐって物資を受け取りにきた兵たちは、各部隊から選ばれた比較的健康な者だと言うが、田口たちには信じられない話だった。誰もがあばらを浮き立たせ、垢と無精髭にまみれた顔を惚けさせて、目玉だけが夜陰の中で異様な光を放つ。到底、正常な人間には見えなかったし、彼らがまともに口を開くところも見た覚えがなかった。礼儀のなってない連中、こちらも命を張って物資を運んで来てやってるのに、などと陰口を叩いたのは最初の頃までで、何度かモグラ輸送を重ねるうち、そうせざるを得ない彼らの状況が次第にわかってきた。
彼らにとっては一挙手一投足、声帯ひとつ震わせる行為が命を削り、死に近づく結果になって返ってくるのだ。ここで指一本よぶんに動かしたら、もう重い荷物を背負って密林を歩けなくなる。頬の筋肉を少し動かしたことが、あとで立ち上がる力を奪ってしまうかもしれない。その自戒が彼らを寡黙にし、表情を弛緩させていたのだった。
昭和十七年末までに、その島に上陸した日本兵の数は二万七千。うち戦死者約八千、戦闘に耐え得る兵の数約八百。この数字の矛盾が、あの島の惨状を暗黙に物語っている。戦力にも戦死者にも数えられない、一万八千二百人がどんな地獄をさまよい、どんな辛酸を舐めたか。艦を失った田口たちは、否応なく体験しなければならなくなった。最初の洗礼は、艦が沈んだその夜のうちにやってきた。海上にばらまかれた物資を回収できるだけ回収し、敵の追撃を避けて密林に逃げ込んだまではよかったが、本当の恐怖は密林の中に潜んでいた。補給物資の到着をどこからともなく聞きつけ、生い茂る木々の陰に伏せっていた連中が、糧食を奪い取ろうと一斉に襲いかかってきたのだ。
初めは敵兵かと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。錆びた軍刀や銃剣を手に躍りかかり、抵抗すれば容赦なく刃を振り下ろしてくる複数の影は、人間の形をしていなかった。髪は抜け落ち、背骨は曲がり、浮き出たあばらの間で腹は醜く膨れている。なにより月明かりに浮かび上がる形相は、骨格自体が変形したとしか思えないほどに歪んでおり、鬼の顔を田口に連想させた。
ただの鬼ではなく、子供の頃、近所の寺の屏風絵《びょうぶえ》で見た餓鬼の顔。膿《うみ》と脂《やに》で塞《ふさ》がりかけた眼窩の奥で、人にも獣にもなれない、怯えと利己心に凝り固まった目玉が蠢き、田口は頭が真っ白になるのを感じた。しかも餓鬼たちは『寄越せ』と日本語を口走り、その腰には革袴の成れの果てらしい布切れを垂らしているのだ。遊兵、棄兵、そんなものじゃない。こいつらは餓鬼だ。屍肉《しにく》を貪《むさぼ》る餓鬼だ。艦が沈んだ時よりはるかに強い恐怖がのしかかり、ぬかるんだ地面に沈み込んだ足が、それきり動かなくなった。
悲鳴と怒号が入り混じり、軍刀が一閃《いっせん》して、誰かの指がばらっと弾け飛ぶ。奪い取った南京袋を曲がった背中に担いだ餓鬼が、地面に落ちた指を拾い集めてポケットにしまう。田口は尻もちをつき、呆然とその光景を見つめた。背中に負った南京袋と、重油と海水をたっぷり吸った煙管服が重石になっていたせいもあるが、腰が抜けて足に力が入らないのだった。餓鬼の群れは次から次に現れ、守備隊の兵も艦の乗員も関係なく襲いかかり、糧食をもぎ取ってゆく。一緒に艦を脱出した水兵が首から血を噴き出す向こうで、餓鬼の一匹が醜悪な顔をこちらに振り向ける。刹那、一発の銃声が密林の闇を引き裂いて轟き、田口はすんでのところで我に返った。
続いて『捨てろ! ぜんぶ捨てて走れ!』と誰かの声が響き渡り、田口は咄嗟に南京袋を捨てて立ち上がった。蔦をつかみ、ぬかるんだ斜面を夢中で這い上がり、声のした方を目指す。他の者もそれにならい、二十人あまりが追いすがる餓鬼を背に走り始めた。餓鬼たちのどよめきが後方に流れ去り、時おり断末魔の絶叫がわき起こって背中を打つ。糧食を奪い合う餓鬼の共喰いか、逃げ遅れた者の悲鳴か。考える余裕もなく走り、転び続けるうちに、恐怖を感じる気力も最後の一滴まで搾り出され、臑《すね》まで泥に沈んだ足が持ち上がらなくなってきた。もういい、もう楽になりたい。艦とともに沈んだ大勢の見知った顔が脳裏をよぎり、いっさいの意識が消し飛ぼうとした時、横合いからのびた腕が倒れかけた田口の体を支えた。
『死ぬな。ここには死に値する大義はない』
耳元にそんな声が吹き込まれ、田口は横っ面を張られた思いで顔を上げた。餓鬼が徘徊する闇の密林には似合わない、端正な横顔が目の前にあった。
大義。そのために多くの兵士が命をなげうってきたもの。ちっぽけな人間の生に意味を与え、恥じぬ一生であったと証明してくれるもの――そう、恥だ。ここには恥しかない。死に値する大義はない。ここで負けたら、死んでいった艦長たちに笑われる。部下たちに顔向けもできない。
大義がなければ、死ねない。
げっそりそげ落ちた頬に飢えの刻苦を忍ばせながらも、毅然と前を見つめる男の横顔に力づけられ、田口は泥に根づいてしまった足を持ち上げた。蔦を拳に巻きつけ、ぐいと引き寄せる勢いで一歩を踏み出す。闇に慣れた目で足場を確保してからは、木の根の上を選んで歩くよう心がけた。男はそれを確かめると、支えになっていた腕を離し、ぽんと田口の肩を叩いて先頭を歩き始めた。月の光が折り重なる枝ごしに差し込み、海軍陸戦隊の野戦服に包まれた背中を白く照らして、指針を失った男たちに進むべき方向を教えてくれるようだった。
それが中隊長≠ニの出会いだった。彼は田口たちを引き連れ、夜明け前には指揮下の部隊が野営する無人の村落に戻った。部隊と言っても、陸海軍の生き残りが混在する二十人足らずの寄せ集めに過ぎなかったが、現地住民が残していった畑を耕したり、川の魚を獲る仕掛けを作ったりして、餓死を免れる程度の生活は維持していた。補給物資を取りにきて、そのまま同行する形になった別部隊の兵たちは、この島にこんな統制の取れた部隊があるのかと目を丸くした。餓鬼と化した棄兵を目の当たりにした田口たちにしても驚きは同じだったが、中隊長≠ヘ涼やかに笑い、生残のみに主眼を置けば活路は見出せるものだと語った。
『大本営はいまだにこの島の奪回にこだわっているが、海上交通路が絶たれたいまとなっては不可能な話だ。前線のことをなにも知らん連中が転進、転進とくり返すのを鵜呑《うの》みにして、無闇《むやみ》に動き回るから損耗も激しくなる。命令には絶対服従、その一点に固執して、陛下からお預かりした兵を無駄に死なせるのでは本末転倒だ。軍人としての責任を放棄していると言ってもいい。勝ち目のない戦場からは速やかに退き、次の戦闘に備える。それが戦理の鉄則だ。国家を守る前衛、軍人の本分に立ち返って考えればわかりそうなものだが……。とかくいまは、指揮官も兵卒も死にたがる者が多い。全滅のための全滅をくり返したところで国は守れんし、大義に殉じたとも認められんのだがな』
精一杯やったのだから勘弁してほしい、というのは子供の運動会の理屈だ。我々軍人に安易な感傷や敗北は許されない。将に逆らっても国に添う。それが皇軍兵士の矜持《きょうじ》であるべきだ――。そうも付け加えた中隊長≠ノ、率直に心服したと言えば嘘になる。ただ敵弾に斃《たお》れるならともかく、病や飢えで死ぬのは皇軍兵士として容認できないという思いは、餓鬼どもの跳梁《ちょうりょう》を見た後では実感になって体に根づいていた。田口は中隊長≠フ指揮下に入り、いつか下される撤退命令を待ち、迎えの艦艇が到着するのを待つことに決めた。生き残った乗員たちも同意し、別部隊の兵たちもここに置いてほしいと願い出た。中隊長≠ヘそれを認め、一気に倍の数に膨れ上がった口を養うために、その日のうちに漁や耕作の分担を取り決め、増えた人員を利用して糧食の確保を倍増する計画を立てた。
空恐ろしくなるほど頭脳明晰な男だった。陸戦隊の頃から彼に付き従う大尉の話によれば、海大卒のエリート中佐で、本来は前線で泥にまみれる人材ではないのだという。四ヵ月前、海軍特別陸戦隊一個大隊とともにこの島に上陸。飛行場を建設する海軍設営隊を防備するのが目的だったが、到着してひと月と経たずに連合軍の総攻撃を受け、密林への敗退を余儀なくされた。その後、二回にわたって行われた陸海協同の奪回作戦に呼応し、飛行場に突撃を試みるも、戦車まで上陸させた敵を相手に、気迫だけの銃剣突撃が役に立つはずもない。どう足掻《あが》いたところで飛行場の奪還は叶わず、陸戦隊が全滅する結果にしかならないと判断した中隊長≠ヘ、早期の撤退を隊司令に具申した。命令内容は突撃後解散なのだから、突撃の素振りを見せ、陽動を果たした後に密林に撤退すれば命令違反にはならない。しかしあくまで正面突破にこだわる隊司令はこれを無視し、三百名の部下を率いて敵の十字砲火の只中に飛び込んでいった。陸戦隊は全滅の憂き目に遭い、中隊長≠ニ、彼に同調して早々に戦線を離脱した有志だけが生き残った。
皇軍の常識に当てはめれば、命令を言葉通り実行した隊司令の方に正義があり、中隊長≠ヘ卑怯者ということになる。飢餓とマラリアに苛まれ、戦闘での死を望んだ隊司令の気持ちも同じ軍人として理解できる。だがそれは大義ある死だったのか。絶対服従の四文字で思考を停止させ、多くの部下を死に至らしめた隊司令に対して、中隊長≠ヘ汚名を着ても生き残り、再起を期そうとした。それは卑怯か? 敵前逃亡と言うなら、隊司令こそいたずらに死に急ぎ、結果的に密林地獄からの脱出を果たしたとも考えられる。どちらが正しく、どちらが卑怯なのか。あるいは両方とも正しく、両方とも卑怯なのか。
大義なき死の暗黒を垣間見《かいまみ》たいま、田口はもう以前のように単純に物事を割り切ることができなくなっていた。そもそも、海大卒のエリートがなぜこんな島に送られてきたのか。司令付参謀ならともかく、尉官級の将校が務めるべき中隊長の任を与えられ、一兵卒とともに駆け回る羽目になったのは、内地でなんらかの問題を起こしたからではないのか。堂々巡りの思考に疲れると、そんな勘ぐりが頭をもたげてきたが、中隊長≠ヘそれは違うと否定した。彼は自ら南方戦線への転出を願い出たのだという。それもミッドウェーの敗退から間もなく、連合軍の進攻が確実になったとわかったその日に。参謀としてではなく、現場の一指揮官として配置されることを条件にして。
『なぜです?』
『ミッドウェーを境に、戦局は確実に厳しくなる。内地で地図を眺めているだけでは、有機的な作戦は立てられないと考えた。……確かめたいこともあったしな』
『確かめたいこと……でありますか?』
『人は、どれだけ人でいられるのか。知性や道徳と呼ばれるものの強度を調べて、後の参考にするといったところかな。十年先……いや、百年先の日本の将来のために』
変わり者だな、というのが正直な感想だった。少なくとも自分とは頭の中身が徹底的に違う。いわゆる天才、学者肌の男なのかもしれなかったが、中隊長≠フ物腰を見れば、学問と研究だけで充足できる人でないことも察しがついた。
可能なことと不可能なことを瞬時に見極め、なにごとも論理的に裁定する一方で、より高みを目指そうとする熱情家の顔を随所に覗かせる。闇雲に覇《は》を争うのではなく、現実を率直に受け止め、なお理想を引き寄せるために活用されるのが武の力、機械化時代を生きる武人に課せられた使命と信じ、実践の努力を怠らない男。それが中隊長≠ニいう指揮官だった。将来の海軍大臣、いや総理大臣にもなり得る人物の指揮下にあるという実感は、惨めな敗残兵の集団にも活気を与え、陰惨になりがちな野営生活を規律あるものにした。小さな芋と小魚、南方春菊しか口に入るものがなくても、餓鬼に成り下がった棄兵どもとは違うという自尊心が一同の腹を満たした。自己に厳しく、他者には寛容な中隊長≠フ人柄を、田口も敬愛の念で見上げるようになっていた。
しかし二ヵ月が経ち、年が変わっても撤退命令が下されることはなかった。毎夜、交代で海岸の偵察に出向いてもみたが、迎えの艦艇はおろか、モグラ輸送の潜水艦さえ姿を現さない。代わりに激しさを増したのが敵の掃討《そうとう》作戦で、昭和十八年の正月を迎えて数日後、ついに野営地が敵の偵察機に発見された。
間を置かず始まった砲撃に追い立てられ、田口たちはろくに食糧を集める暇もなく村落を後にした。立ち止まればたちまち群がってくる蠅や蚊に悩まされ、一度張りついたらなかなか剥がれない山蛭《やまびる》に血を吸われながら、敵兵はもちろん、餓鬼どもの影にも警戒して密林を這い進む。惨めで苛酷な逃避行は、その日から始まった。
昼でも暗い密林はどろどろにぬかるみ、陽の当たる地面はぱさぱさに乾ききっている。中庸というものがなく、すべてが極端な南方の島で、人間はおそらくもっとも無力な生き物だった。最初の数日間は小川に沿って進み、手づかみで魚を捕まえることもできた。だが栄養不足で目がかすみ、手が震えるようになると、南方春菊をむしるのもおぼつかなくなった。靴底はたちまち破け、肉のそげ落ちた踵は一歩踏み出すたびに痛みを訴える。倦怠感が全身を蝕《むしば》み、誰もが小銃を杖《つえ》代わりにしなければ歩けなくなったが、長い時間休むわけにはいかなかった。迂闊に座り込んだら蠅や蚊の餌食になり、マラリア原虫と蛆の巣にされるばかりか、二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。それは川岸に無造作に転がる、蛆の山に埋もれた腐乱死体を見ればわかることだった。
川にたどり着いた安心感のせいだろう。どの死体もちょっと休むといった姿勢で事切れていた。厄介なのは、たまに解体されたとしか思えない白骨死体と行き当たることで、そんな時は互いに目を背けあい、見なかった振りをするのが常だった。餓鬼の仕業と嫌悪し、恐れたのではない。嫌悪が薄れかけている自分自身を恐れたのだ。蛆と山蛭を滋養にする日々を十日も過ごし、塩をひと舐めさせてもらえるなら指の一、二本はくれてやってもいいという心理の下で、なにかを嫌悪する感情を維持するのは難しい。ひもじさが内臓を締め上げるたびに自尊心も薄れ、背筋をのばせなくなった体は次第に規律という言葉を忘れてゆく。なにかが、大事ななにかが壊れつつある中、先頭を歩く中隊長≠フ背中だけが田口たちを正気に留めていたが、その背中もぎりぎりの淵をさまよっているのだと知ったのは、陸戦隊の大尉がぽつりとある言葉を漏らした時だった。
『あ、白ブタが飛んでく』銀色の腹を見せて頭上を行き過ぎる敵機を見上げ、大尉は痴呆のようにそう口走った。それを聞いた瞬間、中隊長≠ヘなにも言わずに大尉を殴りつけた。中隊長≠ェ部下に手を上げたのは、後にも先にもその一度きりだった。後日、白ブタが白人を指す隠語――それも特別な意味を持つ隠語だと知って、田口は殴らずにいられなかった中隊長≠フ気持ちを理解した。
人はだめだが、白ブタや黒ブタなら喰ってもいい。そういう命令がひそかに浸透している部隊もあったらしい。最初に聞いた時にはぞっとしたものの、白ブタという言葉には空っぽの胃の腑《ふ》を突き上げる響きがあるのは事実で、それからは敵機の音を聞きつけると胃が痛むようになった。なにを連想して痛むのか、その頃には突き詰めて考える頭も持てなくなっていた。
敵とかち合わなかったのは、二重の意味で幸運と言えた。到底、戦える状況ではなかったし、もし敵がパンのひと切れでも掲げて降伏を促せば、殺されるとわかっても応じていたかもしれないからだ。何度か村落を見つけたが、どれも他の部隊に収奪され尽くした後で、畑には芋のひと欠片も残っていない。がっくり肩を落とし、その拍子に力尽きてしまう者も少なくなく、中には鶏を見たと叫んで密林に飛び込んだきり、行方知れずになる者もいた。そして村落の周辺には必ず餓鬼も潜んでいるもので、わずかに残った実包と体力は、もっぱらかつての友軍兵士たちを追い払うために用いられた。
とりわけ最後の小競《こぜ》り合いはひどく、田口は後に熱帯性潰瘍の原因になる傷を頬に負った。餓鬼の一匹が手榴弾を使ったせいで、十八歳になったばかりの一等兵も右膝から下をなくす大怪我をした。除隊したら映画俳優になると広言し、天真爛漫《てんしんらんまん》な性格が部隊の潤滑油になってくれていた一等兵だった。彼はなんのために片足を失い、自分たちはいったいなにと戦っているのか。瀕死《ひんし》の一等兵を背負って走りながら、田口は泣いた。水分の摂取には事欠かなかったとはいえ、まだ涙を流す機能が自分に残っていたとは驚きだった。
密林をでたらめに走り回り、偶然見つけた洞窟《どうくつ》の前で小休止を取った時には、人数は十六人に減っていた。最初の村落を発ってから二週間あまり、実に半数以上の人間が死んだ計算になる。残った者たちにしても半数がマラリアと熱帯性潰瘍に冒されており、とても行軍を続けられる状態ではないと判断したのか、中隊長≠ヘ洞窟に留まることを決めた。入口こそ小さいが、奥行きは三十メートル近くあり、じめついた空気を我慢すれば通気も悪くない。一時避難するには適当な場所とわかれば、田口たちにはなんの文句もなかった。もうまともな村落が見つけられるとは思えないし、一等兵に最低限の手当を施す必要もある。田口たちは最後の気力で洞窟の入口に枯れ枝をかぶせ、なけなしの包帯と医薬品で一等兵の手当を済ませてから、泥のように倒れ込んだ。亡者が収まるべき墓穴を見つけ、蓋をして中にこもったという感じだった。
事実、そのまま目を覚まさなかった者もいた。次の日も、そのまた次の日も、死者はひとり、二人と増え続けた。いずれも朝、気がついてみると心臓が止まっているのだった。一等兵は奇跡的に持ちこたえてくれたが、薬は残り少なく、やがて始まる壊疽を止める手立てもない。苦しみを長引かせる結果にしかならないのかと思うと、ひと思いに楽に……という考えが頭をよぎらないでもなかったが、彼は毎朝、田口と顔を合わせるたびに笑顔を見せた。
掌砲長殿、今日もお会いできましたね。刻々と足が腐敗する激痛に苦悶の汗を浮かべ、ほとんど白くなった髪の毛を日々減らしながら、彼はそう言って笑顔を浮かべた。まだ生きている。互いに顔を見つめ、その体温を感じることもできる。それだけで嬉しい、それで十分だというふうに。田口はあたりめえだよと答え、昨夜はどんな夢を見たんだと訊くのが日課だった。一等兵は山盛りの白飯を目の前にした夢や、出征前に母親を温泉に連れて行った時の夢などを楽しげに話した。そうして生きようとする肉体を力づけ、洞窟内に立ちこめる死の臭いを遠ざけようとしているようだった。
しかし死は確実に忍び寄り、洞窟に立てこもった命を次々さらってゆく。遺体を放置しておくわけにはいかないし、薬を手に入れる必要もあった。まだ動ける者たちで仕事の分担を取り決めた田口たちは、四日ぶりに洞窟の外に這い出た。食糧は無理でも、薬ならわけてもらえるかもしれないという一縷《いちる》の望みにかけて、田口は中隊長≠ニともに別部隊の捜索に出向いた。結果がどうであれ、二日後には洞窟に戻る予定の探索行だった。そしてその二日の空白の間に、事件は起こるべくして起こった。
まともな部隊とはついに接触できず、血止めに使えそうな草を採って帰路についた時だった。洞窟のある方角から、微かに懐かしい匂いが漂ってきた。香ばしさの中に脂が溶け込み、こってり鼻腔に絡みつく匂い――。田口と中隊長≠ヘ同時に立ち止まり、顔を見合わせ、次の瞬間には全力で走り出していた。
誰かが肉を煮ている。ここには肉など存在しないのに。手元もおぼつかない人間に、捕まえられる間抜けな動物がいるはずもないのに。ボロ布を巻きつけただけの踵に小石や枝が食い込むのもかまわず、田口と中隊長≠ヘひたすらに走った。足を前に出すだけで目まいを覚える肉体が、どこにこんな力を蓄えていたのかと我ながら不思議だった。内奥《ないおう》から溢れ出す熱が全身を駆け巡る感覚があったが、その行為を制止しなければと昂《たかぶ》る理性の熱なのか、滋養を求める胃袋が発する熱なのかは、判断がつかなかった。
洞窟を行き過ぎ、さらに五十メートル弱進んだところで、鍋代わりの鉄帽を火にかけるひとりの男を見つけた。遺体の埋葬を任され、洞窟に残った陸戦隊の大尉だった。四方を藪に囲まれた窪地にひとり腰を下ろし、時おり枯れ枝を火にくべては、沸騰する鍋をじっと見下ろしている。当たり前の煮炊きの光景としか見えなかったが、藪を割って押し入ったこちらを振り返り、中隊長≠ニ目を合わせた大尉の反応を前にすれば、想像通りのことが起こったのだと認めざるを得なくなった。
驚き、怯え、腰を抜かしてあとずさる。まるで鬼と出くわしたかのような大尉の様子は、しかし恐怖を感じているというのとは少し違っていた。地面に這いつくばり、両手で顔を覆った大尉は、ただ恥じていた。己の行為を恥じ、人ではないなにかに成り下がった己自身を恥じて、他人にその姿を見られた痛みに身を竦ませていた。将校の威厳も、人間の尊厳さえもかなぐり捨てて震える大尉を、田口は見下す気にも憐れむ気にもなれなかった。
むしろ、ひどく人間らしい姿という印象があった。骨と皮になった手で毛髪の抜け落ちた頭を抱え、痩せ衰えた体を震わせるさまは哀れな餓鬼そのものなのに、ごく普通の人間の姿としか感じられないのだった。田口は沸騰する鍋に視線を移した。異常に灰汁《あく》が多く、中で煮えている肉塊は見えなかったが、牛とも豚とも違う、細くて鋭利な骨片がちらと覗くのは見えた。
あれを腹に入れれば、体が力を取り戻す。密林を踏破して別部隊を捜し出し、薬を手に入れることだってできる。なんの抵抗もなくそう思った途端、鍋が蹴り飛ばされ、中隊長≠フ背中が這いつくばる大尉の姿を隠した。杖代わりの小銃は弾が尽きて久しいが、腰の拳銃にはまだ一発実包が残っている。白ブタ、と大尉が口にした時の反応を思い起こした田口は、咄嗟に両者の間に入ろうとした。土下座してでも大尉の許しを乞うつもりだったが、中隊長≠ヘ拳銃に手をのばしはしなかった。
その場に膝をつき、震える大尉の肩に手を置いて、中隊長≠ヘ微かに顔をうつむけた。赦《ゆる》す――無言の背中からその一語が浮かび上がり、田口もその場に腰を落とした。憤怒、悲哀、やり場のないあらゆる感情を呑み下し、諦念の底に膝をついた中隊長≠フ背中と、誰にも責められない罪にまみれ、伏して許しを乞う大尉の姿。二つの人影に木漏れ日がかかり、こういう絵を見たことがあるとぼんやり思い出した。子供の頃、街頭伝道をしにきたキリスト教徒の男が見せてくれた、聖書の中の挿し絵。ひれ伏した女に手をさしのべ、じっと瞑目《めいもく》する髭面の男は、いまの中隊長%ッ様、どこか寂しい肩をしていた。キリストの心境は想像する由もないが、中隊長≠フ気持ちは朧に理解できる。いまこの瞬間、彼は確かめるべきを確かめたのだと、田口はなんの根拠もなく確信した。
人は、どこまで人でいられるか――そうではない。人は、人をやめても人なのだと。餓鬼道に身を堕とすのも人の行為のひとつでしかなく、人は終生、人であることをやめられない。だからこそ苦しみ、もがき続けなければならない生き物なのだと……。
嗚咽《おえつ》する大尉を残し、中隊長≠ヘ密林の奥に姿を消した。以後、その消息は忽然と途絶えた。誰もが動揺したが、捜そうと言い出す者はいなかった。必ず帰ってくる、いまは時間が必要なのだと、全員が無条件に理解している気配があった。田口たちは暗い穴ぐらに引きこもり、待つ時間を過ごした。中隊長≠フ帰還を待つのではなく、自分たちの運命が根底から変わるのを予感して、その時が来るのを待ち続けた。
何度かスコールが降り注ぎ、何度か遠い砲声が聞こえた。三日後、中隊長≠ヘふらりと洞窟に帰ってきた。逐電《ちくでん》の理由はいっさい説明しなかったし、誰も尋ねようともしなかった。昏い目に苦悩の限りを尽くした疲れを漂わせ、中隊長≠ヘ『……これは始まりに過ぎない』と低く、だがはっきりと最初の言葉を発した。
『いちど線を踏み越えれば、もう後戻りはできない。地獄の釜が開く。我々はひとり残らず、重い荷物を背負わされる。腹は満たされても、魂は永遠に飢え続ける宿業をもたされる。その飢えを慰めるために、残りの一生をすべて費やすことになる。
辛いぞ。修羅の道だ。あの時、死んでおけばよかったと後悔するかもしれん。だが我々は生きて日本に帰らねばならない。どんな理想も大義も、飢えの前には無力。人としての尊厳など、ひと粒の米の重さほどの価値もないと知ったいまは、石にかじりついてでも帰らねばならない。この地獄が内地に押し寄せる前に。一億の民が残らず餓鬼と化し、互いの肉を貪りあう前に。我々は帰り、そして見つけねばならない。
空前の飢餓に耐え、なお人であり続けられる尊厳の在《あ》り処《か》を。日本民族を百年先まで生き長らえさせる方法を』
その言葉を正確に理解できた者は、おそらくひとりもいなかったろう。しかし飢えきった肉体に、中隊長≠フ声は砂漠に降る雨のごとく染み渡り、各人の内奥でそれぞれ結実して、その後の行く末を決定づける呪縛になった。田口たちはほとんど選択の余地なく、地獄の釜が開くという言葉の本当の意味も知らないまま、生き延びるための行動≠実行に移した。
まだ埋葬していない遺体の中から比較的腐敗の少ないものを選び、蛆のたかっていない箇所を切り取る。焼いたら固くなったという大尉の言葉を参考に、まずは煮込む方法が試された。全員、消化器官が弱りきっているので、いきなり固形物を呑み込んだら吐くか、最悪ショック死を起こす場合だってあり得る。最初に煮汁で胃袋を慣らし、それから数ヵ月ぶりの肉が全員に配られた。
味を確かめる余裕はなかった。ひと口呑み下すごとに全身の倦怠感が薄れ、頭痛や腹痛が徐々にやわらいでゆく過程は、喰うというより傷口に薬を塗る感覚だった。ただわずかにニコチンの臭いが口の中に残り、タバコを喫《す》う奴だったかと思いついた時だけ、喰ったものをすべてぶちまけたい衝動に駆られたものの、実際に胃が逆流することはなかった。体は貪欲に、脂の一滴も残さずに滋養を取り込んだ。新しい血が注ぎ込まれ、血管という血管が脈動して、体が内側から熱を放ち始めるのがわかる。生まれ変わったという表現は比喩ではなく、この瞬間に田口徳太郎という人間は死んだ。代わりに負い目を血肉とし、満たされぬ空虚を骨とする未知の生き物が、田口の皮の下で産声《うぶごえ》をあげたのだった。
もっとも、当時はそこまで冷静に己の変化を見定める目は持てなかった。生き残った者の数は十二人。限られた肉をどう調理し、どう分け、どう保存するかといった問題は、罪悪感を切り離して取り組まねばならない現実だった。さまざまな方法が考え出され、最終的に干して燻製《くんせい》にするという結論に落ち着いた。美味い、不味いという言い方はしなかったが、燻《いぶ》す時間をあれこれ試し、こうした方が喰いやすい、これでは喰いにくいというようなことは、みんなが真剣に話し合った。
他の兵に匂いを嗅ぎつけられるとまずいので、肉を燻す間は交代で見張りに立った。滋養の効能は覿面《てきめん》で、偵察班を作って密林内の探索を再開する一方、海岸にも定期的に人を送り、島を巡る状況の把握に努められるようになった。田口も何度となく偵察に出かけ、まだ統制を失っていない五人ばかりの小隊と接触した時には、薬をわけてもらうこともできた。できる限り平静に振る舞い、丁重に頼んだつもりだが、こちらの気配になにか察するものがあったのだろう。終始緊張を崩さなかった彼らは、薬を寄越すと逃げるように立ち去っていった。
なにも知らずに洞窟の奥で横たわる一等兵にしても、周囲の空気の変化に気づかなかったわけはあるまい。運ばれてくる肉の正体も察していたのだろうが、彼は野豚を捕まえたという田口の嘘を信じ、黙って肉を口に入れた。薬でどうにかもたせてあっても、壊疽は確実にその体を蝕みつつある。快方に向かうはずもない己の肉体を知り、すべてを承知で肉を喰ってみせた一等兵は、あるいは同じ罪を背負うことで、自分たちの罪を軽くしようとしてくれたのかもしれなかった。美味いです。野豚は偉いです。三階級特進ものです。大真面目に言う一等兵の目は澄んでおり、洞窟の低い天井ではなく、はるかな高みを見据えているように田口には思えた。
が、本当の地獄はそれから二週間が過ぎた頃にやってきた。肉が残り少なくなり、どう節約してもあと一週間はもたないという段になって、田口たちは単純な真理と直面させられた。肉が喰える以上、誰も死なない。そして誰も死ななければ、肉は喰えなくなる――。
最初に予測されてしかるべき二律背反だった。これを解決するにはよそから遺体を調達してくるよりないが、行き倒れた兵は三日もすれば蛆と昆虫の苗床《なえどこ》になり、密林の肥料に解体されてしまう。新鮮な遺体が都合よく手に入るはずもなく、遺体捜しに疲れた一同の目は、自ずと洞窟の内側に向けられるようになった。
いちど線を踏み越えれば、もう後戻りはできない。中隊長≠ヘこれを恐れていたのだとわかり、田口は慄然とした。はっきり口には出さないが、誰もが同じ思いで洞窟の奥に窺う目を向け始めた。あいつの具合はどうだ? それまでなにげなくかけられてきた言葉が特別な重みを持ち、田口の返答に全員が聞き耳を立てる気配が、洞窟内の温度を下げた。一等兵がかすれた声で歌を歌い始めたのも、この頃からだった。
昼も夜もなく、意識がある間は休みなく歌い続け、疲れて眠ったかと思うと、数時間と置かずにまた歌い始める。誰もやめろとは言えなかった。生きている、まだ生きていると喉が潰れるまで歌い、なおすり切れた歌声を搾り出す一等兵に歌うなと命じるのは、鼓動を止めろと言うのと同義だった。田口は歌声が自然にやむことを願った。死が彼の魂を救ってくれるのを期待した。だがその時には壊疽の毒が体中に回り、一等兵の遺体は遺体以上の意味を持たなくなるとわかっていた。
沈黙を守っていた中隊長≠ェ口を開いたのは、最後の肉を喰ってから二日が過ぎた時だった。……殺される感覚というのは、きっと犯される屈辱を百倍もひどくしたものだろう。一方的に押しひしがれ、征服され、全存在を否定されるのだから。挙句に喰われるのだとしたら……その絶望と恐怖は想像を絶する。感情も意志も通じあう相手……同じ人間に喰われるなら、特に。
洞窟の入口近くに腰を下ろし、中隊長≠ヘ降りしきるスコールを見つめて訥々《とつとつ》と語った。一同は正気を疑う目を向けたが、田口にはその言葉の裏に横たわる暗黒が感じ取れた。誰の顔も見ようとしない中隊長≠ェ、自分に話しかけているのだということも想像がついた。雨音と歌声が静かに押し寄せる中、中隊長≠ヘおもむろに立ち上がり、傍らに立てかけた小銃を手にした。
『掌砲長。貴様がやってくれ。それで彼が納得するとは言わないが、せめてもの慈悲だ』
地獄の釜が開いた瞬間だった。垢と疲労で黒ずんだ全員の目がこちらを向き、田口は無言でひどく重い三八式歩兵銃を受け取った。着剣されておらず、実包が一発だけ装填されているのを確かめて、微かに安堵を覚えた。刺すのは辛い。お互い、一瞬でことが済んだ方が楽なのだから……。
『生き延びねばならない。我々は生きて日本に帰らなければならない』
自身の言葉にすがるように中隊長≠ェ続ける。田口はその顔をぼんやり見返した。
『そうでなければ、これまで生き延びた意味がなくなる。魂を殺して戦友の骸《むくろ》を血肉に変えたことが無駄になる』
暗い洞窟にうずくまる複数の目が、じっとりと熱を孕んでこちらを直視した。哀れな戦友を見る目でもなければ、懇願する目でもない。殺気を含んだ粘っこい目だった。
『無駄にしてはならない。無駄にはしない。この屈辱、この無念を背負って、我々は真の救国を果たす。これは大義ある死だ』
無精髭を割って蠢く中隊長≠フ口腔が、この時は血を吸ったかのごとく赤く見えた。大義ある死――なら、自分が甘受してもいいのではないか? 田口は自問し、否、と帰ってきた内奥の声の激しさにびくりと肩を震わせた。
死に逃げ込んで楽をするつもりか。おまえは皇軍兵士の義務に背を向けるのか。
義務? これが皇軍兵士の義務? 自分を慕う兵を殺して腹に収めることが?
最初からわかっていたはずだ。後戻りはできないと聞かされていたはずだ。おまえは喰った。
そう、おれは喰った。でもそれは――。
言い訳はよせ。喰ったからには義務を果たさなければならない。
義務を果たす? そのために殺す?
残りの命を大義に捧げなければならない。
そのために喰う……?
おまえはもう、生きることも死ぬことも自分の意志では決められない。
喰え。
喰う? おれが喰う。
喰え。喰え。喰え。喰え。喰え……!
ジャキッと硬い金属の音が洞窟内に響いた。自分の腕が小銃の遊底《ゆうてい》を引いた音だった。しんと静かになった頭が空になり、田口は小銃を肩に洞窟の奥に向かった。
下腹に力を込め、行動に必要な頭だけを働かせて、必要なもののみ視界に入れるようにする。以後、裏切るという行為に臨むたびに体が自動的にそうなったが、意識したのはこの時が最初だった。いまさらどうにもならない。彼はどうせ死ぬ。同じ死ぬなら、大義ある死を迎えさせてやった方がいい。機械的にくり返す何者かの声に耳を傾け、さらに底深い泥沼に足を踏み入れる感覚からは目を背けて、絶えない歌声がさんざめく洞窟を進んだ。
せめて一等兵が己の死を甘受してくれたら。いいんです、楽にしてくださいと笑みを浮かべてくれたら。ぬけぬけとそう思い、そう思う自分を恥じる正気さえなくして、田口は横たわる一等兵の前に立った。歌うのをやめ、一等兵は半ば塞がりかけた瞼の下の瞳をこちらに向けた。
いつものように笑みの形になりかけた唇がこわ張り、微かに見開かれた目に緊張が走る。言ってくれ、と田口は内心に絶叫した。やってください、お役に立ててください、掌砲長殿なら本望です。嘘でもいいから言ってくれ。頼む、たったひと言でいいんだ。
おれを、このおれを赦すと言ってくれ。
一等兵の目にじわりと涙が浮かび、こみ上げる嗚咽が腹を小刻みに上下させた。視線を低い天井に戻し、彼は田口の願いとはまったく逆の、一生忘れられない言葉を口にした。
――お母ちゃん――と。
それから二週間後。ようやく撤退命令が下り、田口は迎えの艦艇に回収されて島を離れた。
撤退作戦は三回に分けて実施され、敵の目を盗んでひそかに来航した艦艇が一万弱の兵を引き揚げた。中隊長≠フ部下で最終的に生き残ったのは、田口を含めて八人。一等兵を差し引いてもさらに二人少ない数だが、そのうちのひとりは脱出行の途中でマラリアが悪化し、道半ばで倒れた。あとのひとりは……あらためて説明する必要はあるまい。地獄の釜は開いたのだ。
なにもない密林でよく生き延びた、皇軍兵士の鑑《かがみ》だ。声を詰まらせて話しかけてきた艦の乗員に、言葉を返す者はいなかった。死者二万の内訳は、戦死者は五千に過ぎず、残りの一万数千はすべて病死、もしくは餓死。そんな惨状を生き延びた一万人の男たちは、誰もが軍衣も靴も失い、ぼろ切れになった軍袴に飯盒《はんごう》をぶら下げて、互いの暗い目を合わそうとしない。内地に帰れる安堵も喜びもなく、いっさいの感情が飽和した顔で一点を見つめ続ける。彼らの何人が自分と同じ罪を背負い、物乞い以下の姿で日本に帰ろうとしているのか、詮索《せんさく》するつもりは田口にはなかった。二万の屍《しかばね》を呑み込んだ島が遠ざかるのを眺め、中隊長%ッ様、自分もあそこでなにかを確かめたのだという思いだけがあった。
自分に限らず、あの島で地獄を見た多くの兵が己の限界を思い知らされ、日本という国家の限界を思い知らされた。大事なものを裏切り、裏切られて、密林の奥、蛆の山の下に魂を置き去りにしてきた。そうして魂が腐り果てても、肉体は平然と与えられた塩粥《しおがゆ》を啜り、数ヵ月ぶりの安眠を貪れば回復もする。明日に思いを巡らせ、己を窒息させる記憶などは忘れ去ろうと努める。大義も理想も人倫も飢餓の前では力を失い、人は魂をなくしてでも生きてしまう生き物だと、我が身をもって確かめたのだ。
その痛みが敗戦の確定した日本の未来に重ね合わされ、空前の物的・精神的飢餓を迎える一億の民に重ね合わされる――この時、すでに醸成されていたのだろう中隊長≠フ理念を知るのは、まだ先の話になる。日本にたどり着くまでの間、中隊長≠ヘ黙して語らなかった。頬の熱帯性潰瘍を抉り取られた田口も、否応なく沈黙を強いられた。寝ては起きをくり返し、ひからびた体が元に戻るのを他人事の思いで傍観する。敵と接触することもなく、半分は眠って過ごした静かな航海で記憶に残ったことと言えば、ある晩、露天甲板で見かけた将校の風変わりな背中ぐらいだ。
後部甲板の手すり際に佇み、じっと夜の海を見つめるその大尉の背中には、飛び込むという自発意志すら失い、海に吸い込まれるのをただ待っているような危うさがあった。およそ生気というものが感じられず、引き揚げ兵のひとりと言っても違和感のない背中の持ち主が、この艦の水雷長であったことも注意を引いた。空疎を引きずった者同士、共鳴しあうところがあったのかもしれない。田口が見るともなしの視線を送ると、大尉も透明な瞳でこちらを見返してきた。
多くは語らなかったものの、かつての乗務艦がこの海で沈み、ひとり生き残った大尉の経緯は朧げに察せられた。炎に包まれた艦上で存在しない生存者を幻視し、それを免罪符にして生き延びた大尉が味わった絶望――自己への不信と喪失感は、種類の違いこそあれ、田口が味わったそれと変わらないのだろう。そんな大尉が、確かめる≠スめに撤退作戦に臨んだのだと告白した声も、田口の耳に長く残ることになった。
『自分の艦は、あの島の奪還を目指して戦い、沈んだ。その島に撤退命令が下されたのであれば、ひとりでも多くの兵を引き揚げるのが自分の役目だと……。だがな、それでなにかが取り戻せると期待していたわけではないんだ。なにをやっても取り返しのつかないことだとわかっている。むしろそれを確かめて、堕ちるところまで堕ちた時に、見えてくるものもあるんじゃないかって、そう期待していたのかもしれん。必死に生き延びた兵曹長たちには、申しわけのない話だがな……』
その言葉を聞いた瞬間、この男は他人ではない、因縁があるという直観が胸をざわめかせたが、それが実証されるには二年以上の時間を待たねばならなかった。当時は高須成美という名前さえ知らず、中隊長≠ェ彼に接触し、同志に引き込んだなりゆきについても、田口には蚊帳の外の出来事だった。
内地への帰還を果たし、新たに潜水艦に配置された田口は、それからの二年あまりを以前にも増して寡黙に、実直に過ごした。贖罪《しょくざい》の意識が働いたからではない。思考を滅し、己を滅したのは保身の手段に過ぎず、それが不言実行の軍人という評価に結びついたのは、結果論である以上に皮肉と言えた。あの島で数ヵ月の飢餓を生き延びた経歴が知れ渡り、尾ひれがついて乗員たちを畏《おそ》れさせたということもある。仲田《なかた》大尉を始め、戦場の実態を心得た数人の古参兵を除けば会話も成り立たず、腫《は》れ物として扱われる日々が続いた。その方が楽だった。
敗北に敗北を重ね、艦も人員も冗談のように次々失われてゆく。特攻戦備が本格化し、右も左もわからない徴用兵が戦場に駆り出される。どこを向いても貧困と窮乏しかない状況下で、その行き着く先を知っている自分がなにを言える。死んで護国の鬼となる、その熱狂と陶酔でぎりぎり精神を支える若者たちに、生きながら鬼になった身の無残を語ってなんの意味がある。いたずらに相手を萎縮《いしゅく》させるぐらいなら黙っていた方がいい。いずれ死に別れる命なら最初から知り合わない方がいい。そうして殻に閉じこもり、外面《そとづら》だけ調子を合わせる生き方も人にはできる。腐らせる魂をはなから持ち合わせない自分には、外気いっさいを遮断した世過ぎも苦痛にはならない。大義も理想もなく、食うためだけに働く人生もあり得ると確かめ、それはそれで楽なのだと知れば、腫れ物扱いはむしろ望むところでもあった。
だからこの五月、二年ぶりに中隊長≠ゥら連絡があった時には、少なからず驚かされた。ドイツからもたらされる戦利潜水艦、特殊探知兵器、米国との取引。想像外の言葉を並べ、目がくらむほど遠大な計画を披瀝《ひれき》した中隊長≠ヘ、あの島での約束を果たすべく、田口に協力を呼びかけてきたのだ。
我々は見つけなければならない。空前の飢餓に耐え、なお人であり続けられる尊厳の在り処を。日本民族を百年先まで生き長らえさせる方法を――。二年と少し前、最初の肉を口にする直前に聞いた言葉。そうとでも言わなければ収まりがつかなかった、自分を納得させ、部下を納得させるために吐いた言葉だけの言葉。それをあるべき終戦の形≠ニ具体化し、本気で真実の救国に乗り出した中隊長≠フ執念深さに、田口は呆れた。軍令部の要職に引き上げられて一年あまり、ひたすら実現の機会を窺ってきたと聞かされるに至っては、その正気を疑いもした。そしてそう感じる一方、約束の言葉を一字一句正確に記憶していた自分にも気づかされ、奥底に封じ込めた餓えが身じろぎするのを知覚した。
強制はせず、中隊長≠ヘ静かに田口の返答を待った。大佐に昇進した身を二種軍装の詰襟で包み、白い細面《ほそおもて》に紅を引いたような赤い唇を張りつかせて、その姿は明らかに二年前より若返っていた。同じ男にも妖艶という言葉を思いつかせる風貌だったが、恐怖は感じなかった。むしろ中隊長≠ヘ十分以上に苦しんだのだとわかって、田口は余分な肉を蓄えてしまった自分の体を恥じた。
体に取り込んだ罪を脂肪に沈殿させ、逼塞《ひっそく》することしか知らなかった自分とは異なり、中隊長≠ヘこの二年を立ち止まらずに歩いてきた。あの肉を消化したのではなく、力として取り込んで、絶えず発散する方向に己を仕向けてきた。確かめた℃メの義務を果たすために。忘れようとしても忘れられず、血の一滴、細胞の一片にまで溶け込んだ罪に追い立てられ、帳尻を合わせろと迫られて。そこまで理解した時、自分がいかに己を殺し、不実を演じ、鬱屈を溜め込んできたのかが実感され、骨身を軋ませる痛みに田口は身悶えした。麻痺した神経に電気が走り、腐りかけた体に血が通う痛みだった。中隊長≠ヘ狂っていない。ただ約束を守り、義務を果たそうとしている。背を向けてはならない、と命じる内奥の声が響き渡り、他の思考は頭から消し飛んだ。
本当に可能なことなのかどうかは、どうでもよかった。行動の過程でより多くの人命が失われ、背信の汚名をかぶらなければならないことも承知できた。あの一等兵をこの手にかけた時から、すでに背信は始まっている。この二年、自分はその罪を背負いながらも普通に食い、飲み、排便をし、眠りを貪ってきた。人間はしょせん、その程度の愚鈍な生き物だと割り切れば、もうひとつや二つ、新たに罪を背負ったところで壊れはしない。やってしまえばどうということはない――。そう自分に言い聞かせ、田口は中隊長≠フ顔を見返した。
中隊長≠ヘあの島で見せたのと同じ、聖書の挿し絵を想起させる微笑を浮かべて頷いた。生き残った者に人としての尊厳を、死者たちには大義ある死を。現在に干渉し、この国の過去と未来を一時に救う中隊長≠フ計画に、田口はこの瞬間から身を投じた。
中隊長≠ェ海軍部内にどれほどの数の人間を抱き込み、どんな魔法を使って米国との取引を実現したのか、それは定かではない。一度、米国側の窓口はいったい何者なのかと尋ねると、『東部エスタブリッシュメントの皮をかぶった魔物』という意味不明な答が返ってきた。どだい、山本《やまもと》五十六《いそろく》長官に随行してロンドンの軍縮予備交渉に赴いたり、開戦前には米国で駐在武官を務めたりと、エリート海軍将校の王道を走ってきた中隊長≠フ人脈が、一兵曹長の頭で想像できるものでもない。二ヵ月後、中隊長≠ェ言った通りに配転が下知され、計画の根幹を成す戦利潜水艦への乗務が決まれば、田口にはもう考えることはなかった。
日本に到着する直前、〈ナーバル〉が海底に投棄されるという事故が起こったために、計画はスタート段階から波乱含みの様相を呈した。柱島《はしらじま》に集合する際、乗員たちに軍衣の着用を禁じたのは、帝海の日を欺《あざむ》くという以上に、国内に浸透する米国間諜組織の目を欺く必要があったからだ。実際、米国は取引を反故《ほご》にしてローレライの横取りを画策し、〈しつこいアメリカ人〉を送り込んできた。どこで情報を察知したのか、呉の空襲にかこつけて移動中の乗員を狙い、〈伊507〉の出足をくじこうともした。満身|創痍《そうい》でウェーク島にたどり着いた〈伊507〉を、涼しい顔で出迎えた米国の密使――土谷の厚顔無恥には閉口させられたが、それが中隊長≠フ言う国際社会の現実というものなのだろう。
間もなく敗戦を迎える日本に、その苛酷な現実に対してゆく力を備えさせる。いまある幻想を破壊し、精神的・物理的飢餓に耐え得る民族意識の確立を目指す。中隊長≠ェ策定した計画の目的はそこにあり、自分たちはその実現に失われた大義を見出した。あの島でともに飢餓地獄をさまよった鈴木工作長、大島信号長、笠井通信長。それぞれ別の場所で死の淵に立ち、己の極限を覗いた榛原空気長と高須。誰もがいちばん大切なものを失い、なにもなくなったと感じた時にこの計画に参加した。このまま屍同然に生き長らえるより、自分の人生の帳尻合わせに残りの命を使おうと決意して、この艦に乗り組んだ。
そう、帳尻合わせだ。正しいという確信はないし、罪が消えるとも思っていない。いつか高須も言っていたではないか、これでなにかが取り戻せると期待しているわけではない、と。自分と〈伊507〉との関係はそうして始まった。最初から真実はない。信頼もなければ裏切りもなく、ただ通りすぎる関係でしかなかった……。
区画ごとに隔壁で隔てられた潜水艦内は、前後の水密戸を閉鎖すればどこでも牢獄に様変わりする。二甲板は艦長室と士官室区画が、一甲板はパート区画が乗員たちの収監場所に使われ、各々の区画の前で土谷の配下が張り番をする光景があった。乗員の見張りは伏せ手の仕事のはずだが、榛原や鈴木たちは露天甲板にでも回されたのか? 形だけ真似た帝海の軍衣に、機関銃を携えた男たちに尋ねる気にはなれず、田口は口をへの字に結んで彼らの前を通りすぎた。
土谷の指示だろう。艦内の制圧が終了すれば、いつまでも日本人の手を借りる気はないということらしい。銃床が折りたたみ式の金属の棒で形成され、拳銃と見紛うほどに小型化された米国製の機関銃にちらと目を走らせた田口は、おれの艦にそんなもの持ち込みやがって、と口中に毒づきつつ発令所に向かった。
通常の潜水艦より広めの空間に、二本の潜望鏡と千里眼鏡の柱が並び立ち、巨大な電球のごときローレライ監視装置が淡い光を放つ。パウラがパートに収監されたいま、監視装置は現在の状況を伝えることはなく、電球の中の砂模型は一時間前の状態で固定したままだ。その前には、やはり静止して動かない絹見艦長がおり、木崎航海長や唐木水測長ら発令所要員がいる。彼らが視線を注ぐ先で、無線装置の準備に勤《いそ》しむのは高須と笠井通信長だが、作業に専念する二人の背中も動く気配がない。いっさいの時間が止まった発令所で、唯一動きを示したのはこちらに気づいた土谷の表情だった。
部下の上家が油断なく拳銃を構える横で、土谷はご苦労とでも言いたげににやと口もとを歪める。無視して視線を逸らした田口は、連絡筒のラッタルの前で立ち尽くす折笠征人の横顔を見てしまい、ちくりと針が刺す痛みを胸に覚えた。
絹見とともに艦内に連行されたきり、存在さえ忘れられて発令所の片隅に置き去られた工作兵は、それも当然と思えるほど物になりきっていた。ラッタルに寄りかかって虚脱した顔をうつむけ、光を失った瞳はこちらの視線に気づこうともしない。
今度も赦してもらえそうにはない、か。田口は小さく息を吐き、清永の血がこびりついた征人の煙管服から視線を外した。
操舵長の頭ごしに、海図台の面した壁に設置されたスピーカーを見上げる。じきに中隊長≠フ――浅倉大佐の声がそこから流れ出す。田口は姿勢を正し、その時を待った。確信はない。永遠に赦されることもない。それでも大義に殉ずると決めた体が、自動的に行った所作だった。
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通信室と艦内放送の配線を直結し、発令所で無線交信が行えるよう指示したのは土谷だった。捕虜は一ヵ所に集めておいた方が管理しやすいと考えたのか、衆目の中で浅倉と対話をさせ、艦長が服従させられるさまを公開するつもりなのか。確かめる気にはなれなかったし、その隙も絹見には与えられなかった。
まるで緊張が感じられなくとも、土谷は発令所にいる全員の挙動を視野に収めている。一定の距離を置いて並び立つ上家とかいう一等兵曹が、土谷の目配せひとつで拳銃の引き金を引くだろうことも予想がつく。彼らと自分の他に、いま入ってきた田口を合わせれば十一人。狭い発令所にそれだけの人間がいるにもかかわらず、土谷は艦首側の隔壁に背中を当て、半径二メートル以内に人を近づけようとしない。つかず離れず、場慣れした目で一同を睥睨《へいげい》する姿は、こうした仕事を行うために作られた精密機械のようだった。
飛びかかったら即座に射殺されるのが落ちだが、気密性が命の潜水艦内、それもローレライ系統の中枢とあっては、彼らも無闇に発砲はできまい。いっそローレライ系統を道連れにして、死ぬ前にひと暴れしてやるか? 微光を発するコロセウムを見遣った絹見は、べとついた手のひらを握りしめてその衝動を諫《いさ》めた。
汗ではない。清永の遺体に触れた時についた血が、手のひらに染み込んで凝固しきれずにいるのだった。この一時間、あとさき考えない衝動にとらわれるたびに、そのべとついた感触に頭を冷やされてきた。もう誰も失いたくない。ここで短気を起こして、乗員を犠牲にする愚は避けねばならない。理性の紐を結わえ直し、絹見は無線の準備を進める笠井通信長の背中に視線を戻した。浅倉と直に話せるなら、すべての真相を問い質したい。腹の底で渦巻く欲求も、暴挙を踏み留まらせる一助になっていた。
神経質そうな細面が、常に人目に怯えているのではないかと思わせる笠井の横で、高須もヘッドフォンを耳に当てて受信調整に余念がない。その姿はいつもの先任将校のものとしか見えなかったが、腰に巻いた銃帯も、たすき掛けにした十四年式拳銃のケースも、本物の質感を放って絹見の眼前にあった。もし乗員が抵抗したら、貴様はそれを抜くのか? 土谷が清永を殺したように撃てるのか? スピーカーを見上げて動かない田口の横顔も見据え、ぎりと奥歯を噛み鳴らしたところで、「準備よし。感度良好」とヘッドフォンに片手を当てた高須がこちらに振り返った。
よし、と思わず言いそうになった刹那、「結構だ」と背後に発した土谷の声に冷や水をかけられた。口の中に広がる苦味を噛み締めた絹見は、「では艦長。どうぞ」と顎をしゃくった土谷に促され、無線と繋がった艦内放送装置の前に立った。
頬をこわ張らせながらも、高須は目を逸らさずにヘッドフォンとマイクを差し出した。飄々《ひょうひょう》とした優男《やさおとこ》の皮の下に、余人を寄せつけない強情さを秘めている。やはりいつもの先任だと再確認しつつ、絹見はマイクだけを受け取った。笠井を押し退けて放送装置の制御盤に手をのばし、全艦一斉放送のスイッチに指を載せる。
どうせなら全艦に中継してやる。スイッチを捻って艦内各所のスピーカーに音声を繋ごうとすると、高須の手がやんわり絹見の手を押し留めた。
「まずは艦長がお話しになった方がよろしいかと」
背後で目を光らせる土谷を一瞥してから、高須は低く耳元に囁いた。絹見は「なぜだ?」と無表情に返した。
「いまの乗員たちには動揺が大きすぎます。言葉を正確に理解できなければ、浅倉大佐の声は毒になります。皆には後ほど、艦長の口から説明をしていただければと思います」
「まるで宗教家と話すようだな」
「似たようなものかもしれません」と応じた高須は真顔だった。絹見はその視線を受け止めたまま、全艦一斉放送のスイッチを捻った。
「残念ながら、わたしもそれほど冷静ではない。艦の命運を左右する話なら、全員に聞く権利がある。自分の艦の乗員に隠し事をする必要もないのでな」
女々しい皮肉だと自分でも嫌になったが、言わずにはいられなかった。微かに頬をひきつらせた高須は、「それだけの価値のあることです」と押し殺した声を搾り出した。
「浅倉大佐とお話しになれば、理解していただけるものと信じます」
「そうだな。わからせてもらおう。部下の命と釣り合うだけの価値のある話だと」
「清永上工のことは、あれは事故です。我々は――」
「よせ。それ以上話すと、君を嫌わなければならなくなる」
口を閉じ、自分からは逸らそうとしなかった目を伏せて、高須は叱られた子供の体《てい》でその場に立ち尽くした。「寂しいものだ、それはな」と重ねて、絹見は放送装置の制御盤に向き直った。
「艦長の口から、そんな言葉が聞けるとは……」
「同感だ。ローレライの毒気に当てられたのかもしれん。互いに……というわけにはいかなかったが」
こぼれる端から言葉が砂になり、ざらついた感じが口の中に残った。なにかを言いかけ、果たせずに一歩うしろに下がった高須を背に、絹見はマイクを顔の前に持ち上げた。
万年教官に世界を見つめ直すきっかけを与え、直後に奈落の底に突き落としてくれた男。スピーカーの網の目を白い顔貌に見立て、聞かせてもらうぞと睨みつけた絹見は、送信釦を押したマイクに第一声を吹き込んだ。
「〈伊507〉艦長、絹見少佐です」
(浅倉だ)
低くも高くもない、落ち着いた声音がスピーカーを震わせ、覚悟していても体が揺れた。発令所全体に広がる動揺の気配を背に、絹見は腹に力を込めてスピーカーを凝視した。
(まずは詫《わ》びたい。こちらの不手際で、双方にとって不愉快な事態になってしまった)
送信の途切れる雑音が入り、スピーカーはしばし沈黙した。気にしないでいただきたい、とでも応じろと言うのか? 間の悪さを感じつつも、絹見は無言で送信が再開されるのを待った。
(本来、〈伊507〉が予定海域に達するのを待ち、米艦隊と接触したのを機に発表するつもりだった。そうすれば落ち着いて話ができようし、無用な流血も避けられたはずなのだが……。残念だ)
「それは同意いたしかねます。彼我兵力の差が圧倒的であっても、会敵すれば我々は戦います。不穏分子が策動する間もなく、本艦は戦闘に突入して討ち死にしていたかもしれません。落ち着いて大佐の話を聞く時間があったとは思えません」
本当に残念そうな声が癇《かん》に障り、絹見は喋りすぎを承知でひと息にまくし立てた。(昂るな)と応じた声に苦笑の色が混ざり、十キロあまりの距離を隔て、ウェーク島の通信所でマイクを手にしている浅倉の余裕を伝えた。
(そういう無能な指揮官であるなら、貴官を艦長に据えることはしなかった。いかなる状況下でも冷静さを失わず、最善を尽くして生残への道を切り開く。それが絹見少佐だ)
「状況によります。売国奴の謗《そし》りを受けてまで、艦の生残に固執する気はない。部下たちにしても同様です。敵艦隊に包囲されればおとなしく話を聞くだろうと想像するのは、ご自身の弱い心が思わせていることだと指摘させていただく」
(その言い分には誤解がある。力で締め上げて従わせる気は毛頭なかった。それで従うような者は、今次計画にはどのみち不要だ。米艦隊との接触まで発表を控えたのは、その方が事実が伝わりやすいと考えたからだ。米国はもはや敵ではなく、真実の敵は後方にいるのだという事実をな)
売国奴の言い分、と言下に退けつつも、真実の敵という言葉が深く食い込んでくる感触があった。絹見は「後方の……敵?」と我知らず聞き返してしまった。
(そうだ。艦長、昨日詰をしたな。ポツダム宣言……連合国が突きつける無条件降伏要求に対して、日本がなすべきはなにか。刀折れ矢尽きたところに、原子爆弾のようなものまで落とされれば、全滅か降伏かの二つの選択肢しかないことは子供にでもわかる。だが日本は、大本営はそれをわかろうとしない)
ポツダム宣言も、原子爆弾の存在も寝耳に水の木崎たちが、ざわと浮き立つ気配が背中に伝わった。絹見は、血でべとついた手のひらに汗が滲むのを感じた。
(天皇在権、国体護持は譲れないとして、懐柔《かいじゅう》策を見出そうとする者もいれば、一億玉砕を実践して徹底抗戦を訴える者もいる。それが可能だと信じている無知|蒙昧《もうまい》な輩《やから》は、まだ罪が軽い。許せんのは、腹の底では不可能だと知っていながら、なおとりあえずの打開策にすがりついている者たちだ。ぎりぎりまで追い詰められれば陛下の御意志に従うと言い、涙を流し、腹を切ってみせればそれで済むと思っている。忠良、律儀な己を示すのに終始して、後の国の存立には目を向けようともしない連中だ。
ローレライを駆使しての米本土奇襲作戦……。そういう連中が思いつきそうなことだろう? 〈伊507〉が帝海の戦備に加えられていたら、間違いなくその手の作戦が実施されていたはずだ。そうしたところで米国に翻意を促すことなど不可能。むしろ国民感情を刺激して、原子爆弾のさらなる投下を誘発するかもしれないと承知していながら、だ。それを軍人の本分と信じ、事の後に本当に腹を切って詫びると言うなら許せる。そうとしか生きられなかった人のありようを認め、その下で死にゆかねばならない我が身の不幸もあきらめがつく。だがな、絹見艦長。わたしは、大本営の人間がそろって自刃するとは信じていない。
何人かはするだろう。戦後処理を終えるまでは生き長らえ、後に責任を取る者もいるだろう。しかし大半の者たちは生き続ける。陛下の御意志を金科玉条にして、場当たりの対策で茶を濁してきた者たちは、降伏の聖断が下されればそれに従う。昨日まで一億玉砕を唱えていた者たちが、陛下の御意志に従い、国の再興をなすのが我が身の務めとあっさり宗旨替えをする。ある者は開き直り、ある者は逼塞して、やれるだけのことはやったと自分を騙してゆく。皇国軍人として立派に戦ったという思いを宝にして、のうのうと生き長らえるんだ。そして死んでいった幾万の兵たちの無念を美談に封じ込め、かつての武勲を都合よく語り伝える。どうしようもなかった、その一語で戦死者たちの屍も、勝てぬ戦に身を投じた日本の状況も……いや、この戦争自体がなんの総括もされずに歴史の闇に葬られ、不幸な過去と判を押されて棚の奥にしまわれる。いま我々が対している敵は、そうした歴史の必然であり、それを助長する人の――平気で他人を騙し、己を騙す人のありようだよ。米国との戦争には敗けたが、我々はこれには勝たねばならない。百年先の日本民族の存続を期して、どんな犠牲を払ってでも勝たねばならない……)
送信の途切れる雑音を潮に、浅倉の声はようやく止まった。しわぶきのひとつ、吐息のひとつも聞こえない静寂が発令所に降り、絹見は目だけ動かして周囲の様子を窺った。
誰もが呆然とスピーカーを見上げ、宙吊りにされた不安の色をその顔に浮かべている。想像外の、しかし否定もしきれない言葉の洪水に溺れ、この場にいる全員が平衡感覚を失ったという面持ちだった。
精神論では凌《しの》ぎきれない現実を知り、軍部という組織が個人に示す悪意、欺瞞《ぎまん》を目の当たりにした身には、浅倉の言わんとしていることが本能的に理解できる。帝海の規格外品ばかりを乗員に選定した真意は、これか。べとついた手のひらにマイクをしっかり握り直し、清永の血の感触を確かめた絹見は、「ご意見、確かに拝聴しました」と反論の口を開いた。
「すべて机上の空論、大佐の独善的な思い込みでしかないというのが自分の感想です。それで帝国海軍に叛き、〈伊507〉を米国に引き渡すと言うなら、まったく承服できません。この言語道断な利敵行為が、百年先の日本民族の存続とどう繋がるのか。要点を手短にお願いします」
相手の術中に陥《おちい》ったら最後という自戒が、必要以上に語気を硬くした。スピーカーから低い笑い声が漏れ、人いきれで蒸した発令所の空気を冷やすと、冷たい滴になって絹見の背中を伝わった。
(……すまない。こうも見込んだ通りの男であったかと思うと嬉しくてね。よろしい。話を短く済ますために、単刀直入に訊く。
絹見艦長。このままなにもせずに日本が敗戦を迎えたら、どうなると思う? なんの総括もせずに大本営が忽然と消えた後、飢え、疲れ、寄る辺《べ》をなくした日本人が、いきなり米国の支配下に置かれたらどうなる? 最後のひとりまで竹槍を手に戦うと思うか?)
考えたこともない――いや、どこかで考えるのを避けていた質問だった。乗員の動揺がはっきりと伝わり、絹見は咄嗟に送信釦を押して時間を稼ごうとしたが、それより先に(わたしはそうは思わない)と浅倉の声が重ねられた。
(なぜなら米国は、アメリカ合衆国は圧倒的に豊かで、日本人は肉体的にも精神的にも飢えきっているからだ。奉公の精神、律儀さと勤勉さ、武人たらんとする男、大和撫子《やまとなでしこ》たらんとする女……。本来、個々人が持ち得ていた美徳や道徳観念を、義務として押しつけられた瞬間から、日本人は精神の豊かさを失った。我々はとっくの昔に窒息していたんだよ。その箍《たが》が外れ、米国の物量経済が真空地帯になだれ込んだら……日本人は呆れるほど簡単に米国に尻尾を振るようになるだろう。指針を失った人心は形《なり》だけ真似た経済至上主義に飛びつき、まやかしの自由を謳《うた》って飢えを満たそうとする。そして義務化された美徳や道徳観念は否定され、急速に人の心から消えてゆく。その先にあるものは……復興に名を借りた欲望の暴走。狡猾、打算、成算。東洋の敗戦国を基地化し、植民地主義に変わる政治的支配の実験場として、ありとあらゆる試みを国家規模で押しつける勝者の傲慢。それを勝者の正義として受け入れる、敗者たる日本人の卑屈さ。
日本という土地が歪み、捩れ、八百万《やおよろず》の神々はことごとく消え去る。……いや、最初からそんなものは存在していなかった。いま我々がなさねばならないのは、その現実を骨身に染みて理解することだ。神州など存在しない。現人神《あらひとがみ》も存在しない。日本人の精神をぎりぎり支えてきた柱……幻想をこの手で打ち砕き、冷徹な現実を見据える目で己とはなにかを問いかけることだ)
圧倒的な言葉の力に頭を押さえつけられ、口も開けられない無力感が体を痺れさせた。絹見は、マイクを持つ自分の手がだらりと下がっていることに気づいた。
(見つけられぬ者もいるだろう。あくまで幻にすがろうとする者もいるだろう。だがそんな人間はこれから先の日本、空前の精神的侵略に耐えなければならない日本にはもとより不要。真実の己を見出し、血と肉の通った美徳と道徳観念を取り戻してこそ、目本民族は再興し得る。民族としての尊厳をもって物量経済を御《ぎょ》し、世界に比肩《ひけん》する国家になり得るんだ。
わかるだろう、絹見艦長。米国に犯される前に、我々は舌を噛んでみせなければならんのだよ。だが軍部も政府も、目先の事態に振り回されてこの真理に気づこうともしない。欧米列強に黄色い猿の底力を見せてやると息巻いていた連中が、いまや蛮勇を振りかざすばかりで真実、猿に成り果てている。だからわたしは舌を噛む手伝いを……いや、日本という国家に切腹をさせるべく独自の行動を起こした。〈伊507〉とローレライは、その介添え役といったところだ)
国家の切腹。刺激的な言葉が脳髄を直撃し、絹見は反射的にマイクを持ち上げた。「たとえ日本が敗戦を迎えたとしても、そう簡単に日本人の精神が消滅するとは思えない」と叫ぶように言い、スピーカーに向かって無意識の一歩を踏み出した。
「どこまで行っても机上の空論です。大佐の独善という思いも覆《くつがえ》りません。ここにいる不穏分子たちにはともかく、自分には考慮の価値がある話とは思えない」
(貴官は、極限の飢餓を味わったことがないからそう言える)
それまで一定の調子を保ってきた声が不意に低くなり、踏み出したばかりの足を瞬時に凍りつかせた。田口がぴくりと肩を震わせるのが目の端に映り、「南無……」と首を竦ませた笠井通信長の怯えきった声が、絹見の耳朶を打った。
(飢えを前にすれば、人間はしょせんは獣だということがよくよく実感できる。人を人たらしめる道徳観念、自ら打ち立てた美徳で己を律しなければ、人は簡単に餓鬼道に転ぶものだということがわかる。一億玉砕などという愚かな施策を、やすやすと受け入れた日本人の脆さを見ろ。国家が、国民の生存権を保証するためにあるという基本的な了解事項があれば、国民全部を犠牲にしてでも国家を守れという命令の矛盾に気づいたはずだ。この無定見な従属を、日本民族が持つ律儀さ、美風と混同して考えるべきではない。
これは無責任だ。自己の裁定下にあるべき権利を放棄し、考えることを他人任せにした無責任の結果だ。自ら考える力を取り戻し、かつ我欲にとらわれない国体としての道徳、正義を打ち立てる。このままじわじわ追い込まれて、なし崩しに米国の占領を受ければ、日本はその最後の機会を失う。誰も彼もが我欲を追う獣になり果てて、百年もすれば日本という国の名前も忘れた肉の塊になる。拠って立つものを自らの手で壊す。東京と、そこにあるすべてのものを根こそぎ地上から消し去らない限り、日本に未来はない)
東京と、そこにあるすべてのもの――いまは焼け野原と化した銀座のビル街、浅草の猥雑《わいざつ》な喧噪、海軍省の赤煉瓦の建物が構える霞ケ関の取りすました空気。混乱した頭にそれらの印象が現れては消え、最後に苔むした石垣と、濃緑色の藻《も》に覆われた外濠《そとぼり》の光景に行き着いた絹見は、不意に足もとの床がなくなる感覚を味わった。
春には満開の桜を、夏には眩しいほどの緑を湛え、東京市の中心にしんと静謐《せいひつ》なたたずまいを広げるそこは、連日連夜の空襲でもいまだ大きな被害を受けていないと聞く。あれだけ徹底的な破壊をもたらした米軍にさえ、攻撃を躊躇させる場所。日本が最後に守るべき砦《とりで》であり、そこを失ったらすべての国民が発狂すると信じられている場所。日本人にこの絶望的な戦争を耐えさせ、精神を支えてきた源――浅倉がその存在を否定した、現人神の住まう場所。
(明日、原子爆弾を搭載したB−29がテニアンを発つ)
浅倉が静かに続ける。絹見は放送装置の制御盤に手をつき、どうにか体を支えた。
(当初の目標は小倉の陸軍兵器廠だったが、そこへは向かわない。協定に従って、B−29は一路東京を目指す。そして三発目の原子爆弾を東京上空で投下する)
発令所のみならず、〈伊507〉全体が動揺したと感じたのは錯覚ではなかった。「……協定、とは?」と搾り出した絹見に、(貴官らだ)と即答した浅倉の声は、ひどく素っ気なく響いた。
(〈伊507〉……正確にはローレライを米軍に供与し、代価として三発目の原子爆弾の投下目標を小倉から東京に変更してもらう。それが我々と米政府との間に結ばれた協定だ。ポツダム宣言を発布した手前、その交渉窓口たる日本の首府を壊滅せしめるのは道理に悖るのだがね。それについては、条件付き受諾を打診する一方で、〈伊507〉を米本土に向かわせ、奇襲攻撃を画策した日本軍の卑劣な行為によって償却される)
狂人の世迷言《よまいごと》という最後の逃げ道も絶たれ、マイクを口から遠ざけた絹見は、(ローレライにはそれだけの価値がある)と続いた浅倉の声を、なす術なく受け止めた。
(この世界大戦が終結した後、脅威となり得る軍事力を保持できる国家は米国と英国、それにソ連だけだ。そして米英とソ連は、国の根本を成す主義の相違から宿命的に対立する運命にある。広島と長崎に投下された原子爆弾は、日本への恫喝を目的としたものではない。戦後の対ソ戦略を見据えた牽制球だ。日本はもはや敵たり得ず、米国はソ連との戦争を視野に入れて行動を開始している。ソ連の対日宣戦布告にしても、その目的は日本が降伏する前に極東に軍を進め、利権と陣地を少しでも多く確保することにある。死に体の日本を蚊帳の外に、次の戦争はすでに始まっているのだよ。
即時同質の対抗を欲する戦理の本質から、ソ連も間を置かず原子爆弾を完成させるだろう。問題はその次だ。今次大戦は、原子爆弾の他にもいくつかの技術革新を人類にもたらした。その技術を応用すれば、爆弾を投下目標まで運搬する手段はもはや航空機とは限らない)
世界規模の文明開化――ふとそんな言葉を思い出し、絹見は以前、同じようなことを話し合った高須に視線を流した。すべてを知った上で浅倉に与したのだろう高須は、傍目には平静な顔をスピーカーに向けていた。
(ドイツのV1ロケットのように、爆弾それ自体に飛行能力を持たせ、迎撃不可能となる目標近接点……すなわち当該敵国の沿岸から射出する。電探に探知されることなく、隠密裡に敵国に近接できる潜水艦こそが、その運搬に用いられるようになる。つまり次代の戦争は、原子爆弾を搭載した潜水艦が決戦兵器となり得る。海中を自在に見通せる探知機械を備えた国家が、世界の覇権を握ることになるわけだ。多少の犠牲を支払おうと、米国がローレライを欲しがる道理だよ。
先刻、わたしは〈伊507〉を天が我が国に遣《つか》わした最後の希望だと言った。あれは嘘ではない。米国との取引が成立したのは、ドイツの落ち武者どもがローレライをもたらしてくれたお陰だ。ドイツの伝説に語られるライン川の魔女――ローレライが、八百万の神に代わってあるべき終戦の形を日本にもたらす。思えば皮肉な話ではあるな……)
後に続いた笑い声は、しかし、どれほど道理が通っていようと狂人のものとしか思えなかった。浅倉と利用しあう関係の土谷はともかく、高須や田口たちはこの狂気をどう納得し、どう腹に収めていったのか。乾いた笑い声が渦巻く中、一様に青ざめた乗員たちを見渡した絹見は、ではこの世界のどこに正気がある、自分は正気と言えるのかと自問し、答を得られずに両の拳を握りしめた。
国家の切腹を目論む浅倉が狂気なら、国民皆兵を叫び、特攻を最後の戦備とした国家もまた狂気。浅倉も、彼とともに南方で飢餓地獄を体験したらしい田口も、燃え盛る炎の中で幻に踊らされた高須も。生還を期さずに米本土奇襲作戦を承り、乗員すべてを死出の航海に誘った自分にしても、すべては狂気の一部。それぞれの信じるところに従い、自己完結を果たそうとしているのに過ぎない。違うのは、規格外品なりに帝国軍人の枠内に留まっていられた絹見に対し、浅倉たちは留まれなくなってしまったということ。理性も人倫も吹き飛ぶ地獄を目の当たりにして、皇軍の論理では償却しきれない悔恨と怨念を抱え込んだことにあった。
これまで身を捧げてきた信条と大義では、罪に汚れ、無様に生き長らえた己を肯定できなくなり、狂気の中で生まれた浅倉の狂気が新たな大義になり代わった。国家の自決から始まる日本民族の再生。国体護持のためには一億玉砕もやむなしとする論理とは正反対の、一面では建設的とも思える論理。そこには命を賭けるに値する大義がある。目的も、信じるものも見失い、虚無に取り残された心と体を充足させる大義がある。それに殉じることができれば、もういちど自分を取り戻せる。義に生き、忠に尽くす。欲も得もなく、ただひたすら律儀であった頃の自分を取り戻せる……。
狂気か正気かは問題ではない。虚無という恐怖から逃れるために、彼らは別の恐怖に自らを委《ゆだ》ねたのだ。恐怖による恐怖の克服――終局、そこに行き着くのかと思い至った絹見は、敗北感に塗り潰される前にマイクを持ち直した。
「……陛下を喪《うしな》えば、徹底抗戦派を抑えるものはなにもなくなる。いっさいの降伏勧告を無視して、彼らは日本全土が焦土と化すまで戦闘を継続するぞ。それでもかまわないと言われるのか?」
(そうなるかもしれん。四発、五発目の原子爆弾が投下されて、国民の半数……いや、それ以上に多くの者が死に絶えるかもしれない。だが全滅ではない)
反論の間を与えず、浅倉は落ち着いた声で続けた。
(修羅を乗り越えて生き残る者もいよう。国家の体をなさないほどの少数であっても、結果として米国の一州に加えられる運命をたどろうとも、そうして生き残った者たちこそ至宝。次代の日本を担うべく漉《こ》し取《と》られたひと握りの種だ)
それでは一億玉砕と同じではないか。喉元までこみ上げた反論は、この設問自体がそもそも無意味だったという理解に押し流され、絹見は無言でマイクを口もとから遠ざけた。浅倉は徹底抗戦派の思潮を否定していない。このまま日本が降伏し、米国の支配を受け入れることをこそ危惧している。東京に原子爆弾を落とすのは、一億玉砕を叫んでおきながら、いざその場に立てば尻尾を巻こうとする者たちの退路を断つ――陛下の御意志という免罪符を奪い、日本を本土決戦に突入させるための手段に他ならない。
精神的な柱を失い、大本営という頭すらも失ったところで、日本人が自らの力で再生するのを待つ。戦勝国に押しつけられた指針ではなく、自ら打ち立てた指針で己を律し、考える力を取り戻すのを待つ。次代の日本を担うべく漉し取られたひと握りの種……先の世界に希望をもたらす萌芽《ほうが》。動機こそ違え、自分は昨日、似た想いを抱いて折笠と清永を艦から降ろし、生きて日本に帰ってくれと望んだのではなかったか? ふと思いつき、そうではない、似て非なる想いだと否定しようとした絹見は、敵意が萎《な》えてゆく自分を発見して慄然とした。
(被支配と忍従の刻苦を経て、彼らは必ず日本民族を再興させる。いつの日か同胞の血の染み込んだ大地を取り戻し、最後まで戦い散っていった英霊たちの魂を糧《かて》に、美しく誇りある日本国を再建するだろう。絹見艦長、これはけじめなんだよ。貴官とて、無為無策で前線の兵を死に絶えさせた中央の者たちが、このままぬくぬくと終戦を迎えるのを座視はできまい? いま彼らがすべきは浅薄な終戦工作ではない。死して後世に範を垂れることだ。一死奉公、尽忠報国……彼らが義務化した日本の美徳に従ってな)
そうかもしれない。否定の論拠を出し尽くした頭がそんな言葉を囁き、絹見は慌てて乗員たちを見回した。
青ざめ、押し黙った顔はそのままでも、若い唐木の目には先刻とは異なる意志の光がある。木崎の顔にももはや反感の色は見えない。田口に次ぐベテラン兵曹の海図長でさえ、まっすぐスピーカーを見つめて次の言葉を待っている。(これまで戦い抜き、いままた死を覚悟して〈伊507〉に乗り組んでいる諸官らは、ここで失われるべき人材ではない)と追い打ちをかける声が全員の鼓膜に突き通り、誰かの頭が頷くのがはっきりと見えた。
(身柄の安全は保障する。未来の日本のため、いまはこのまま艦を進めて米海軍と合流し、拿捕を甘受して生きのびてはもらえまいか。それは決して恥ではない。いまの諸官らが示し得る最大の勇気だ)
そこで送信が途切れ、静寂が発令所に戻った。それぞれに受け取った言葉を咀嚼《そしゃく》し、己の先行きを見定める沈黙の時間が訪れ、絹見もマイクを握る手をゆっくり下ろしていった。
墓石のごとく無言で立ち尽くす乗員たちの向こうには、拳銃を手にした上家がおり、冷笑を消した土谷がいる。拒否は即、乗員たちの死に――それも無為な死に繋がる。浅倉の言葉に従って生き延びるか、あくまで抵抗して殉じる道を選ぶか。とりあえずその二つに選択の的を絞ろうとした絹見は、しかしすぐにわき出た別の疑問に思考を中断され、途方に暮れた顔をうつむけた。
殉じると言っても、いったいなにに? 帝国海軍か? 日本国家か? そんなものはあと数日でなくなるかもしれない……いや、自分はとうの昔にそれを見失っている。義弟が死に、帝海の組織に飼い殺された時から、自分はすでにまっとうな軍人ではなくなっていた。ただ高須や田口たちほど純粋ではなかったから、自堕落な教官生活を続けていられただけだ。
他の乗員たちも事情は変わらない。徴用された新兵たちに至っては、軍への忠誠など言葉づら以上の重みはないだろう。だから浅倉に選ばれた。この奇妙な潜水艦に乗る羽目になった。心のどこかで、自分は浅倉のような存在との出会いを望んでいたのではないか? 悔いなく燃焼できる機会を待っていたのではなかったか? 国家の指導者が誤った道を選んだなら、それを正せるのが軍人。そのために支払われる犠牲が真実の殉国であり、報国。忠輝が言い遺した通り、至誠に悖らない生き方を求めて――。
「……でも、東京にいる人はみんな死ぬ」
不意に発した声が静寂を破り、その場にいる全員がぎょっと顔を上げた。絹見も声の主を求めて顔を振り向け、連絡筒のラッタルの脇に見慣れた亡霊の顔を見つけていた。
ゆらりとラッタルを離れた忠輝は、次の瞬間には血で黒ずんだ煙管服を身にまとい、折笠征人の顔になって、まっすぐスピーカーを睨み上げた。征人が発令所にいたことすら忘れていた絹見は、呆然とその顔を見つめた。
「偉い人たちだけじゃなく、そこで暮らしている人たちも一緒に。なにもわからないまま、同じ日本人の手にかかって殺される。清永みたいに……」
「動いていいとは言っていないぞ」と目付きを険しくした土谷に続いて、上家が南部式より口径の大きいコルト社製の拳銃を掲げる。征人は無視して乗員たちの人垣に割って入り、こちらに歩み寄ってきた。当たり前すぎる言葉に頭を一撃された絹見は、その手が力任せにマイクを奪い取り、自分を押し退けるようにしても、黙ってやらせてしまっていた。
高須が止めに入ろうと身を乗り出す。咄嗟に手を上げてそれを制しつつ、絹見はスピーカーと対峙した征人の横顔を見据えた。峻烈《しゅんれつ》な怒りを湛えて、その瞳は米国でも後方の敵でもなく、浅倉こそが真実の敵だと教えて動じなかった。
「あんたたち大人が始めたくだらない戦争で、これ以上人が死ぬのはまっぴらだ……!」
口もとに引き寄せたマイクに吹き込み、征人はまっすぐスピーカーを睨み据えた。凛《りん》と響いた声が発令所に立ちこめる澱んだ空気を祓《はら》い、体に染み込んだ毒が瞬時に解毒されるのを感じた絹見は、夢から醒めた思いで征人の視線を追った。
スピーカーの網の目の向こうで、浅倉の白い顔貌が急速に色褪《いろあ》せ、ただの中年男になってゆくのが感じられた。
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その言葉がどれほどの刻苦と辛酸をくぐり抜け、紡《つむ》がれたものなのかは知らない。話の内容自体、半分も理解できていないと自覚している。それでも征人には、自分が間違ったことは口にしていないという確信があった。
軍袴にへばりついて固まりかけた清永の血が、耳に残る仲田大尉の声が、おれたちの代わりに言ってくれと叫んでいる。艦内のどこかでこの放送を聞いているはずのパウラが、それでいいと背中を支えてくれている。全身の血液が猛然と沸騰し、閉じていた感覚が外界に開かれてゆくのを感じながら、征人は握りしめたマイクに言葉を継いだ。
「あなたの言ってることが正しいのかどうかはわからない。でもこれだけは言える。東京がなくなろうが、大本営が焼かれようが、その程度で人の心が変わるなんてことはあり得ない。あなたのやろうとしてることは、パウラを薬で白人にしようとしたナチスのバカな科学者と同じだ。頭でっかちで、自分の都合のいいようにしか物事を見ようとしない。自分が魂を売ったからって、他人もそうするって勝手に決め込んでる偏屈な臆病者だ……!」
誰かの腕が背後から絡みつき、引っ張られた拍子に指が送信釦から離れると、(貴様、誰か……?)という低い声がスピーカーから流れた。もぎ取られそうなマイクを抱え込み、羽交い締めに抗ってスピーカーににじり寄った征人は、「パウラは逃げなかった!」と全身を声にした。
「清永だって、艇長だって、逃げなかった。最後まで恥ずかしくなく生きようとして、それで死んでいったんだぞ! 辛いことや悲しいことを我慢して、これでいいのかなんてろくに考える暇もなくて、やれることをやって死ぬしかなかったんだぞ! それを無知だって見下げるのか!? そんなふうにしか生きられない大勢の人を殺して、国の将来のためだって言うのか!? 冗談じゃない。そんな理由で清永を殺したのなら、おれはあなたを許さない。絶対に、絶対に許さないぞ……!」
「思い上がるな!」
耳元に怒声が弾け、同時にこめかみを鋭い痛みが突き抜けた。一瞬、視界が真っ暗になり、手からマイクがすっぽ抜けたと感じた時には、征人は側壁に背中を叩きつけられていた。
「なにもわかってないんだ、おまえは……!」
バルブが肩に食い込んだ激痛に呻く間もなく、襟首をつかんだ腕に前後に揺さぶられた。がくがくと揺れる視界に青ざめた高須の顔が映り、底なしの虚無に繋がる二つの穴と目を合わせた征人は、直後に左の頬を拳で打ちすえられて床に転がった。
「恐怖に心を喰われるってのがどういうことか、おまえにわかるのか? 自分自身が信じられなくなる、許せなくなるってのがどういうことか……!」
「よせ、先任!」と絹見艦長が身を乗り出し、土谷の部下がすかさず自動拳銃の筒先をそちらに向ける。じわりと拡がる錆びた味を口中に噛み締め、征人は眼前にそそり立つ高須を見上げた。肩を上下に波立たせ、常に余裕を失わなかった目は醜く充血していたが、間違いなく先任将校の姿だった。
体の芯が冷え、あちこちで脈動する痛みが激しさを増すのを感じながら、征人は歯を食いしばって自分を見下ろす暗い穴を見据えた。目を逸らせば穴に引きずり込まれ、二度と口を開けなくなってしまう。本能的な確信に身を硬くした途端、高須の腕に襟首をわしづかみにされ、上体がぐいと引きずり上げられた。
「そうなっちまったら後は闇、真っ暗闇の虚無だ。生きてるのか死んでるのかもわからない、生ける屍だ。じきに日本人全部がそうなる。その前に自分で自分を裁き、新しい価値観を築く糸口を作り出さなきゃならんのだ。まだ本当の恐怖も味わったことのない貴様に、意見される謂《いわ》れはないんだよ……!」
息が吹きかかるほどの距離に高須の顔が迫り、両目に穿たれた暗い穴が視界いっぱいに広がる。虚無という言葉通りの闇にぞっとする一方、その底に押し殺した怯えの色が滞留するのも見た征人は、「……そうやって、自分が信じられないから他人も信じられなくなる」と搾り出した。
「自分が許せなくて、自分の命を大事に思えないから、他人の命も平気で奪えるようになるんだ。どんな目的があったとしても、そのために何十万人もの同胞を殺せるような人が、どうして国の将来を考えられると思うんです。そんな犠牲の上に立った未来に、どれだけの価値があるって言うんです。そんなことしたって、なくしたものが取り戻せるはずはないのに……!」
「黙れよっ!」
紙のように白くなった高須の顔がひきつり、もうひとつ別の穴が征人に突きつけられた。冷たく硬い銃口の感触が額にめり込み、安全装置の外れる音が鼓膜を刺激する。意志とは無関係に体が硬直し、恐怖に押さえつけられた頭はなにも考えられなくなったが、征人は高須の目から視線を外すことだけはしなかった。
「先任……!」と絹見の絶叫が発令所にこもる。高須はこちらを直視する瞳を動かさず、押し当てた銃口も動かさなかった。同じ死ぬのでも、これは理由もわからないまま敵機に撃ち殺されたり、海底でひとり窒息死するのとは違う。間違っていないという思い、自分を知ってくれている存在がすぐそばにあるのだから、耐えられる。怖がっては負けなんだと自分を叱咤して、征人は目の前に広がる虚無を見据えた。絶叫したい衝動を懸命に堪え、気力とは裏腹に痺れてゆく四肢を情けなく感じながら、とにかく目を開け続けた。
「……もう、よしましょう」
低い、しわがれた声が近くに発し、額に押し当てられた銃口がぴくりと震えた。高須の目が征人から外され、他の者も一斉に声の発した方に振り返る。一同が注目する中、人垣を割って前に出てきた声の主は、高須の視線を静かに受け止めた。
「もういい。もうよしましょうや、先任。大人げないですぜ」
南部式小型拳銃を握った手をだらりと下げ、田口はしわがれた声を重ねた。疲れきった声音でも、立ち尽くす体は不動の石の存在感を放っており、高須を見つめる目にも底堅い意志の光がある。「掌砲長……」と呟いた高須の声はかすれて響いた。
額に銃口を押しつけられたまま、征人は田口を見つめた。常に殺気を孕んだ瞳が、この時はさまざまな感情を封じ込めた脆い袋に見えた。人を殺したことのある目。その肉を喰ったのかもしれない目。他人以上に自分を殺してきた目――。どう捉えていいのかわからず、いかつい顔に埋め込まれた一対の瞳を凝視した征人は、「いちど裏切った者は、終生裏切り続けるようになる」と割って入った冷たい声に、心臓を跳ね上がらせた。
「いま弱気を見せれば、それを身をもって証明することになるぞ。田口兵曹長」
ざわと揺れた人垣の向こうで、隔壁を背にした土谷が田口を直視していた。この場での決別がなにを意味するか、無言のうちに教える能面の横では、上家と呼ばれた兵曹が米国製の拳銃を構えてもいる。裏切りという言葉にわずかに顔を上げたものの、田口は土谷の相手をしようとはせず、黙した眼差しを征人に向けた。
よくよく世話を焼かせる。感情を封じ込めた袋が破け、そんな言葉を投げかけると、悲哀に縁取られた瞳の底からやわらかな光が浮き上がってくる。鬼になりきれなかった目に滲んだそれが視界の中で揺れ、征人を包み込むようにした。
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「……だめじゃ、よう聞こえん」
伝声管に耳を当てていた岩村が、渋面を作って言う。「年中ディーゼルの音ばっかり聞いてるから、耳がバカになってんのと違いますか!?」と、鼻息荒く口を挟んだのは時岡だ。
「替わってください。この時岡が地獄耳で……」
岩村を押し退けて伝声管に耳を当てた時岡は、しかし数秒と経たずに丸眼鏡の顔を曇らせ、注目する一同に決まりの要そうな目を向けた。「どうだ?」と冷たく確かめた岩村に、「……機関長の聴覚は正常です」と時岡。岩村が嘆息すると、パートにすし詰めにされた三十数人の乗員も一様に肩を落とし、張り詰めた緊張は落胆の空気に呑み込まれていった。
浅倉に正面きって挑みかかった征人の怒声を最後に、艦内スピーカーは沈黙している。なんとか発令所の状況を探ろうと思えば、伝声管から漏れ伝わる音に耳を澄ますしかなかったが、そう都合よく人の話し声が聞こえてくれるはずもない。微かに高須の声が聞き取れたものの、それだけで、征人の安否も、〈伊507〉の先行きも確かめられない時間が続いていた。
ある者は床にうずくまり、ある者はずらりと並んだ三段ベッドから頭を出して、乗員たちはあきらめきれない顔を伝声管に向ける。浅倉の声を聞いていた時の夢遊病者の面持ちはなく、誰もが憔悴《しょうすい》を滲ませ、怒りと落胆が入り混じった顔で伝声管を睨みつけるのは、そこに征人の姿を重ね合わせているからだろう。理路整然、付け入る隙のない浅倉の言葉に対し、がむしゃらに感情をぶつけてみせた征人の声は、聞く者全員の胸になにかしらの波紋を残した。実に単純な言葉で一方に傾きかけた振り子を押し戻し、半ば催眠状態に陥っていた乗員たちの頬をはたいて――それきり、いっさいの音信が途絶えてしまったのだった。
銃声でも聞こえてこない限り、とりあえず心配はない。そんなことを考え、いつの間にか伝声管を注視していた自分に気づいたフリッツは、多少気まずい思いで隣に座るパウラを見やった。ベッドの隙間に並んで収まった妹は、こちらの視線に感づく気配もなく、抱えた膝に押し当てた顔を上げようともしない。二の腕をぎゅっとつかんだ手のひらがその絶望の深さを伝えており、フリッツはなにも言えない顔を正面に戻した。
「バカだ。バカなんだよ、あいつは……!」
通路にうずくまった小松が、床に拳を打ちつけて呻いた。ここからではその表情を窺うことはできなかったが、異論はないとフリッツは内心に同意した。装うということを知らず、思ったこと、感じたことを率直に口に出してしまう折笠征人。間違っても利口ではないし、優秀な兵隊でもない。ありがとうございます、すみませんの口癖もついに直らなかった。謝罪は相手を優位に立たせるだけだと教えると、そんな生き方は寂しいなどと臆面もなく反論してきた。大規模な侵略にさらされた歴史を持たなければ、他者という言葉が含有する恐怖も知らない、狭い島国で馴れ合うことだけを覚えた典型的な日本人……。
だが、とフリッツは思う。それだけではないのだろう。あいつの強さの本質は、立場の優劣で人を隔てないところだ。誰をも理解しようと努め、傷ついても向かってくる愚直さだ。だから簡単に謝れる。相手が優位に立とうと頓着《とんちゃく》せず、その者の本質を見極め、臆することなく迫る勇気があるから、己を無防備にできる。やさしさは弱さの裏返しという定理は、折笠征人に関しては成立しない。あいつの無責任なまでのやさしさは、傷つくことを恐れない強さに裏打ちされたもの。それはそれで、日本という島国が培った特殊な力なのかもしれない。
浅倉は違う。あの男の本質は自分により近い。国際社会の現実、人間の本質を知り抜き、自らが生き残るにはどうすべきかを突き詰めた上で、一世一代の賭けに打って出た。見てきた地獄の種類は異なっても、その経緯はフリッツと変わるところがない。違う点があるとすれば、フリッツが個人単位の生存を勝ち取るために始めた賭けを、浅倉は国家規模で行おうとしていること。それゆえ、大義などと大仰な言葉を持ち出さねばならないことだ。近視眼的な視野しか持てない大本営が、浅倉を使いこなせなかったのは当然の帰結であるし、そんな男がアメリカとの共謀に活路を見出したことも、フリッツにはどこかで予測の範疇にあった事柄だった。
高性能の水中探知装置と説明するのに留めて、軍令部にはローレライの根本はいっさい明かさなかったにもかかわらず、浅倉はあらかじめパウラの存在を知悉していた。情報源となる第三者と接触したとしか考えられず、土谷がその手先とまでは見抜けなかったものの、ウェーク島では第三者の介在を仄《ほの》めかす不穏な空気を感じてもいた。ローレライの正体を知り、なお大規模な諜報作戦を展開できる第三者となれば、考えられる相手はひとつ。今次大戦の勝者、アメリカ合衆国をおいて他にない。
呉の空襲に紛れて襲ってきた戦闘機、〈しつこいアメリカ人〉を始めとする追撃の潜水艦。物量に任せて攻めてこようとはせず、余剰戦力を回したかのような散発的な攻撃も、そう考えれば納得がゆく。浅倉との取引を進める一方、かねてからの〈シーゴースト〉捕獲作戦も継続させ、可能なら独力でローレライを入手しようと目論んだ。他の連合国には内密で行う作戦であるがために、小規模に限定された追撃部隊は、ローレライの実力を測る当て馬としても適当な存在になり得た。そうして買いつける商品の品定めをしつつ、予定通り土谷をウェーク島に送り、浅倉と接触させたアメリカ。日本を脱出した浅倉がその懐《ふところ》に飛び込まず、わざわざウェーク島という中継点を設定したのは、二枚舌も処世のひとつと割り切る取引相手への牽制策だろう。
取引が完了するまではつかず離れず、日本本土に潜伏する同志を介して〈伊507〉を操り、取引の主導権は手元に残しておく。絹見のような男を艦長に選定したことも、浅倉の用心深さを物語っている。まずは〈伊507〉の生残を最優先に考え、自分の息のかかっていない将校であっても、確実に米軍の追撃を切り抜けてくれる人材を艦長に据えた。監視役に数人の配下を送り込むだけでよしとしたのは、時が来れば絹見を恭順させる自信があったからかもしれない。実際、あとひと押しで折れるところまで絹見は追い込まれた。体のいい運び屋の役をやらされた恨みも忘れて、他の乗員たちも浅倉の声に耳を傾けていた。折笠征人が割って入るまでは……。
もっと早くにわかってしかるべきだった――いや、わかっていた。土谷の目に澱む近親憎悪的な光、なにより浅倉と最初に出会った時から、なにかが捩《ねじ》れてゆく予感がフリッツにはあった。突き詰めて考えなかったのは、日本軍の内紛などどうでもいいと決め込んでいたからで、それはいまも変わってはいない。最終的に〈ナーバル〉を奪い、パウラを連れて逃亡できればそれでいい。事態がどう動こうとも、進むべき道はひとつと考える胸に偽りはなかった。
そのための準備はすでに済ませてある。こういう状況になるとは想定していなかったが、パウラを〈ナーバル〉に戻しさえすれば、脱出の機会はいくらでも得られる。いまは土谷の指示に従っておいて、米艦隊に拿捕される前に適当なところで艦を離脱する。その後に〈伊507〉がどうなろうと知ったことではないし、日本の首府に原子爆弾が落ちようが落ちまいが、自分には関係がない。まして戦後日本の先行きなど、フリッツには遠い話でしかなかった。
だから、当初の予定通りにやる。浅倉たちがそうであるように、自分の賭けもまだ終わってはいない。そこまで考えを組み立てて、必死に言い訳をしている気分に襲われたフリッツは、胸にわだかまるもうひとつの本音としぶしぶ向き合った。
パウラが無事に救出され、人として扱われるのを見た頃から、もやもやと胸中にわだかまり始めたなにか。いまでは胸の底にへばりつき、簡単には切り捨てられなくなったなにかが、もう一面の本音を形成して思考を鈍らせている。それは〈UF4〉と呼ばれていた時には存在しなかった重力になり、世界のどこにも居場所はないと決めた体に働きかけて、進むべき道はひとつではないとフリッツに訴えているのだった。
冗談じゃない。口中に呟き、フリッツは床に置いたSSの制帽を拾い上げた。髑髏の徽章に目を落とし、胸の底にへばりつく複数の人の顔を忘れようとした。恐怖になることで恐怖を克服し、他人を憎み続けてきた自分を取り戻そうとした。
――自分が魂を売ったからって、他人もそうするって勝手に決め込んでる偏屈な臆病者……!
先刻聞いた征人の声が不意によみがえり、重力がずんと肩にのしかかってくると、虚しい努力を霧散させた。口ではなんとでも言える、と内心に毒づいてもみたが、髑髏とのにらめっこに飽きている自分を発見しただけで、重力が軽減する気配はなかった。一蓮托生という言葉も思い出してしまったフリッツは、傍らでうずくまるパウラに目のやり場を求めた。
飾りを知らない黒髪は子供の頃と変わらなくても、うなじから肩に至る繊細な線には、もう容易には触れられないと思える女の色が滲んでいた。そういう歳かと単純に感じ入り、戸惑った後、唐突に記憶の中の女たちの横顔を思い出したフリッツは、最後にもう一度、賭けをするつもりになった。
なぜそうする気になったのかはわからない。ただ男が頭で考えて決めたことなど、女が本能で下した決断にはどうせかなわないと女たちに笑われ、そうなのだろうと素直に敗北を認めた瞬間、ひどくさっぱりした心持ちになれたことは事実だった。ルツカや祖母、これまでも岐路に居合わせた女たちの横顔を妹に重ね合わせたフリッツは、「……パウラ」と静かに呼びかけた。
「Liebst du ihn...? Orikasa meine ich.(あいつが……折笠が好きか?)」
膝の間に埋めた頭をぴくりと動かし、パウラはゆっくり顔を上げた。やや充血した目は驚きを隠そうとせず、唇は呆気に取られたというふうに薄く開かれていたが、それもフリッツと目を合わせるまでのことだった。
こちらの目を覗き込み、戯《たわむ》れに訊いたのではない、と確かめた表情がみるみる引き締まってゆく。いったん目を逸らし、専用スーツに覆われた膝頭に視線を落としたパウラは、「...Ich weiss[#エスツェットはssで代用] es nicht.(……わからない)」とかすれた声を搾り出した。
「Aber seit ich Yukito begegnet bin erinnere ich mich wieder an viele Dinge, die ich fast vergessen hatte.(でも、私……征人に会ってから、忘れかけていたことをたくさん思い出すことができた)An so viele Dinge aus der Zeit, als dieses Boot noch das deutsche U-Boot〈UF4〉war, die ich komplett vergessen hatte.(この艦がドイツの……〈UF4〉って呼ばれてた頃には、すっかり忘れていたたくさんのことを)」
ひと言ひと言、言葉の輪郭を確かめるようにしてパウラは答えた。絆創膏を巻いた手のひらがぎゅっと握りしめられるのを見たフリッツは、「Dinge, die du vergessen hattest?(忘れていたこと?)」と聞き返した。
「Die blendende Helligkeit der Sonne und ihre Wa:rme. Die Form der Wolken, die Farbe des Himmels. Der Name Atsuko, den Oma mir gegeben hatte...(太陽の眩しさや温かさ、雲の形、空の色。おばあちゃんがつけてくれたアツコって名前……)Zum ersten mal, seit ich in das〈weisse[#エスツェットはssで代用] Haus〉gebracht worden und Lorelei genannt worden war, fand ich es scho:n zu leben.(『白い家』に入れられて、ローレライって呼ばれるようになってからは初めて……生きててよかったって思うことができた)」
最後の方は声を詰まらせ、言葉になりきらない思いを目の縁の雫に変えながらも、パウラは無理に浮かべた微笑をこちらに向けてくれた。賭けの結果を知るには、それで十分だった。「……わかった」と日本語で応じたフリッツは、しかしこれは自分にとって勝利なのか、敗北なのかと自問し、どちらとも判断のつかない顔を髑髏の徽章に向けた。
風化した恐怖を暗い眼窩にこびりつかせて、髑髏はなにも語ろうとはしなかった。答は自分の力で引き寄せるしかない、か。苦笑したフリッツは、今度こそ本当にお別れだ……と胸中に呟き、SSの制帽を床に放った。
ついでに上着もぬぎ捨て、ネクタイをほどいて立ち上がる。通路に座り込んだ乗員たちの間をすり抜け、艦首側の隔壁に近づいたフリッツは、天井から壁に沿って設置された伝声管に顔を寄せた。
「土谷中佐、こちらはフリッツ・エブナー少尉だ。聞こえるか」
ぎょっと顔を上げた時岡や岩村たちに背を向け、ワイシャツの第一ボタンを外す。しばらくの間を挟み、(なにか)といら立った声を返して寄越した土谷に、フリッツは「浅倉大佐の話は了解した」と冷静に重ねた。
「自分と妹はあんたたちに同調する。ここから出せ。至急、会って話したいことがある」
(後にしろ。いまは取り込み中だ)
「おれと妹はあんたたちに協力すると言ったんだ。ここにいたら他の乗員になにをされるかわからん。いいのか? ローレライを人質に取られたら面倒だぞ」
ざわと揺れたパートの空気は無視して、フリッツははだけたワイシャツの胸元に風を入れた。すべてを信用はしなくても、パウラをここに拘置した迂闊さには気づいたはずだ。絶えず見る側に回り、見られる側に回るのを極度に嫌う土谷のような手合いは、ミスを指摘されると過敏に反応する。沈黙する伝声管を見上げて数秒、案の定、(少し待て)と拍子抜けするほど素直な応対が返ってきて、フリッツは小さく息を吐いた。
ここからは少々忙しくなる。フリッツは室内に体を向け、一斉に突き刺さってくる三十数人分の視線を受け止めた。ある者は戸惑い、ある者は怒り、総じて険悪な空気が充満する中、「少尉……」と砲術科の一等兵曹が呻いたのを皮切りに、「本気か?」「裏切るつもりかよ……!」とあちこちから声があがる。無言であぐらをかく岩村を見下ろし、常にない生真面目な顔の時岡とも目を合わせてから、フリッツは三段ベッドの隙間に覗くパウラの表情を窺った。
いいの? とパウラは目で尋ねてきた。フリッツは小さく、しかし目を見てはっきりと頷き、パートの中央に足を向けた。じっとりと追いすがる複数の視線を尻目に、ベッドに足をかけ、天井近くに設置された艦内スピーカーに手をのばす。防音用の緩衝材《コルク》を引き剥がし、スピーカーと壁の間に手を差し入れると、「フ、フリッツ少尉……!」とうわずった声を張り上げた小松が、意を決したように立ち上がった。
「貴様、恥ずかしくないのか!? 折笠みたいな一兵卒でも意地をみせたっていうのに……。そりゃ国は違うのかもしれんが、おれは貴様を少しは信用する気になってたんだ。それを……」
ひょろりとした体躯をこわ張らせ、段々と声の調子を落としていった小松は、最後は握りしめた両の拳を震わせるばかりになった。フリッツは、「だったら」と感情を打ち消す声を出し、スピーカーの裏からコルクまみれの道具を取り出した。
「自分の判断に肚《はら》をくくれ。黙っておれを信用しろ」
使い慣れたワルサー・モデルPPの感触を手のひらに確かめ、小松の顔の前で遊底を引く。ガチリと確実な作動音とともに初弾が装填され、咄嗟にあとずさった小松が尻もちをつくと、一同の驚きの目が小型の自動拳銃に集中した。無論、他にもいくつか隠してある。この艦に乗り組んで以来、ひたすら脱出の機会を窺ってきた執念は伊達ではない。フリッツはワルサーをズボンの背に挟み、ベッドから枕ひとつを取り上げて隔壁の前に戻った。
枕を水密戸の脇に立てかけたのと、水密戸の施錠が解除される音が響き渡ったのは、ほとんど同時だった。一歩うしろに退がったフリッツの目前で、円形の水密戸の中心に据えられたハンドルが回り、分厚い金属の扉が薄く開かれる。「全員、うしろに下がれ」と発した低い声に続いて、M3らしいサブマシンガンの細い銃身が扉の隙間から差し入れられ、パート内の空気を瞬時に凍りつかせた。
ヨーロッパの対独レジスタンス活動支援で、米国の戦略情報事務局《OSS》がよく用いた高性能のサブマシンガン。やはりそういう手合いかとフリッツが納得する間に、全員がじりじりと艦尾側に後退し、すし詰めの度合いがさらにひどくなった。間もなく水密戸が開ききり、戸口の向こうから顔を覗かせた男は、戸口に頭を突っ込むようなヘマはせず、隔壁から一メートルの距離を置いて中腰になり、M3の銃口と一体化した視線をパート内に走らせた。指も引き金にかかっており、それなり以上の訓練を受けた相手だとわかったが、背後に増援の人影がなかったことが、フリッツの癇に障った。
なめられたものだ。内心に吐き捨てた刹那、「フリッツ・エブナーとパウラ・エブナーは前へ」と硬い声が重ねられ、フリッツはパウラとともに水密戸の前に進み出た。「止まれ。両手を頭にのせろ」と続いた指示に従い、扉の一メートル手前で立ち止まる。
「ひとりずつこちらに来い。おかしな真似をしたら撃つ」
円筒形の本体から突き出た細い銃身が、注射器の針を想起させるM3の銃口を向けて、技術中尉は「まずはパウラ・エブナーからだ」と命じた。フリッツが頷くまでもなく、両手を頭の上で組んだパウラが先に水密戸をくぐり、隔壁の向こうで壁に向き合わされる気配が伝わった。パウラと、ややうしろに退がった技術中尉の位置関係を把握したフリッツは、「次、フリッツ・エブナー」と発した声に応じ、慎重に水密戸に近づいた。
両手を頭にのせたまま、腰を低くして水密戸をくぐる。その時、片足を戸口に引っかけた振りで、フリッツは体勢を崩してみせた。右手で水密戸を、左手で戸口をつかんで転倒を防ぐと、「手は頭だ」と技術中尉が即座にとがった声を飛ばす。フリッツは右手を頭にのせ直し、左手には扉の脇に立てかけた枕をつかんだ。
水密戸をくぐりきると同時に床を蹴り、左手の枕を技術中尉の顔に押しつける。M3の銃身を肩で押し上げ、右手をズボンの背に走らせたフリッツは、技術中尉が背後に転倒するより早く、ワルサーの銃口を枕にめり込ませた。
枕が消音器の役割を果たし、ワルサーはたいした音も立てずに遊底をスライドさせ、焼けた薬莢《やっきょう》を排出した。技術中尉は頭から床に倒れ、一瞬、硬直した四肢をだらりと弛緩させたのを潮に、いっさいの動きを止めた。通路に飛び散った血と脳漿《のうしょう》は見ず、余熱を帯びた技術中尉の手からM3をもぎ取ったフリッツは、水密戸の脇に立ち尽くすパウラに振り返った。
血の気を失った唇をきつく結んで、パウラは枕を顔にのせた技術中尉の遺体から目を逸らさなかった。フリッツはその肩に手を置き、手のひらで震えを吸い取ってやるようにしてから、パウラの視線を避けてパートの中に戻った。
艦尾側に寄せた体をさらにあとずさらせて、呆然となった三十数人の顔がフリッツを出迎える。目も口も丸く開けた小松。すでに飛び出す準備を整えながらも、油断なく警戒の視線を寄越す岩村。意外に落ち着いた顔の時岡。見知った顔たちをひとつひとつ眺め、味方でも同志でもなく、仲間という言葉を思い出したフリッツは、天を仰ぎたい気分に駆られた。
じきに滅びる国家の軍人――いや、その故国からも顧みられることのない、はぐれ者の集団。とんだ貧乏|籤《くじ》をひかされたものだが、仕方がない。賭けの結果はこう出たのだ。フリッツはM3の安全装置をかけ、日本軍が使用する小銃とは十年分の技術格差があるだろうそれを、小松の方に放った。
慌てて受け取り、重さに引きずられてたたらを踏んだ小松は、まだ状況をつかみきれない顔をこちらに向けた。「ぼやぼやするな」と一喝して、フリッツは全員の顔を見渡した。
「おれたちの艦を取り戻すぞ」
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「捨てる神あれば拾う神あり、だ。この艦には節操のない人間が多いな? 艦長」
同調の意志を伝えたフリッツ、動かぬ石になった田口の両方を揶揄して、苦笑混じりに言った土谷の声が発令所の空気を冷たくする。絹見は無言だったが、それは返す言葉がないからではなく、なにも言う必要がないからだと征人にはわかっていた。
上辺《うわべ》の言動の下に隠れた本音を察し、言葉にしなくとも、互いに支え合う人の関係が〈伊507〉にはある。フリッツが変節を宣言したのは、なにか考えがあってのことだ。額に押し当てた銃口を動かさない高須だって、本気で引き金を引けるとは考えていない。見えたものの裏側になにがあるのか、いつも想像を働かせておくっていうのはそういうことのはずだ――。高須が突きつける銃口の暗い穴より強く、体の奥底まで染み透ってくる田口の視線を受け止め、征人も全身を突き上げる叫びを視線に込めた。
(戦友の屍肉を喰ってでも生き残り、真実の救国を果たそうと誓い合った)
胸を底冷えさせる声が、スピーカーから流れ出す。への字に結ばれた田口の口もとが歪み、太い眉の下の瞳が苦痛に揺れた。
(あの時の約束を忘れたか? 掌砲長)
土谷が状況を知らせたのだとしても、まるでこの場を直接視界に収めているかのような浅倉大佐の声に、田口の拳が白くなるほど握りしめられる。「……違う」という呻き声とともに、その瞼がぎゅっと閉じられるのが征人に見えた。
「そうじゃない。喰われていたのは、おれたちの方だ。こんなことをしたって、おれたちの……死んでいった連中の気が済むわけはないし、国が救われることもないってわかってたのに、自分で自分を騙していた。手をのばせば届くところにあるものに、目を向けようともしねえで……」
きつく閉じていた瞼を押し開き、田口はもういちど征人を見下ろした。痛みと恥辱に悶える瞳の底に、自分ではない、他の誰かを見つめる視線を感じながら、征人はふと、初めてパウラの歌を聞いた時の感触が体を包むのを知覚した。
真の闇に覆われた海の底に独り取り残され、押し寄せる死に身を震わせながら聞いた歌。まだ助かる道はあると教え、あきらめるなと頭蓋の奥に突き通った『椰子の実』の歌声は、手の届かない海上からではなく、足もとに横たわる〈ナーバル〉から聞こえてきた。父が残した赤盤の旋律は覚えていても、日本の歌は忘れていた自分に、おまえの故郷にもやさしい歌があるのだと伝えて鳴り響いた。ありもしない希望≠竍豊かさ≠幻視し、飢え苦しんでいた浅はかな心根は、きっとその瞬間から現実を受け入れ、地に足を着けて歩くことを覚えたのだと、征人はぼんやりと体を包む温もりの中で思い出していった。
本当の救いはすぐそばに、手をのばせば届くところに――望みさえすれば自分の中にだって見つけられるのに、人はそれを見つめようとしない。田口の言葉を反芻し、征人は銃口の向こうにある高須の目を見返した。破壊の後の再生などはあり得ない。いまある物を組み直し、やり直そうとする心根の中に希望≠竍豊かさ≠ヘ訪れる。そう信じ、信じられる自分を信じて、征人はもう臆することなく虚無に繋がる穴を凝視した。
「撃て、先任将校」
微かに動揺を滲ませた土谷の声が響く。虚無の底からなにかがゆっくり浮き上がってくると、それは高須という人のありようを表す瞳になり、虚無ではなくなった人間の瞳が征人の眼前で揺れた。その瞳を力なく泳がせ、高須は黙然と立ち尽くす田口に救いを求める。無言で受け止めた田口の目が、もういい、とくり返すのを征人は聞いた。
もうおれたちがとやかく言う時じゃない。任せましょうや。寂しげに微笑んだ田口の目がそう語り、額に突きつけられた銃口がぶるりと震えるのを征人は感じた。南部十四年式拳銃の筒先が徐々に持ち上がり、きつく瞼を閉じた高須の顔を露にして、そこから滴り落ちた汗とも涙ともつかない雫が征人の顔を濡らす。床に押し当てた銃口を支えにして、高須は征人から離れた体をゆらりと立ち上がらせたが、それは高須がそうしたと言うより、見えない力に押し上げられたように征人には見えた。
艦内に充満する空気――この〈伊507〉で培われ、なりゆきであっても他人同士を結びつけている空気が、高須の体を征人から引き離した。呆けきった高須の表情と、その背後でわずかに愁眉《しゅうび》を開き、先任、と唇を動かした絹見の顔を見れば、他に思いつく表現は征人にはなかった。木崎航海長や海図長たちも安堵の息を吐く前で、高須は目を閉じた顔をうつむけ続ける。こわ張った手足をなんとか動かし、上体を起こした征人は、無遠慮に響いた舌打ちの音に再び体を硬直させた。
全員の視線を浴びて、土谷は隔壁に寄せていた体を一歩前に踏み出した。「思った通りだ」と嘲笑混じりに吐き捨て、その目は高須の横顔だけを直視した。
「貴様たちはいつもそうなんだよ。その場の感情に流されて、やれ切腹だ、特攻だ、玉砕だなどと」
人垣を押し退け、高須の耳元に浴びせかけた土谷は、次に床に座り込んだ征人を睨み下ろした。光さえねじ曲げる暗い澱みに見下ろされ、思わず身を退いた時には、躊躇なく動いた土谷の腕が征人の襟首をつかみ上げていた。
「戦場で情に溺れてなにができる。追い詰められれば全滅覚悟で突撃をして、自分の功名に走ることしかしない。それで武士道だと? 大和魂だと? 笑わせるな。黄色い猿が、世界中でどれだけ忌み嫌われているか知っているのか。貴様たちと同じ血を持って合衆国に生まれた人間が、パールハーバー以来どれだけ惨めな思いをさせられてきたか……!」
見かけによらない強力《ごうりき》で引き上げられ、振りほどく間もなく壁に押しつけられる。何度も壁に後頭部を打ちつけられ、攪拌《かくはん》された脳髄から飛び散ったような涙と唾液が土谷の顔を汚すと、さらに逆上した土谷の腕が征人の体をめちゃくちゃに揺さぶった。がくがくとぶれる視界に絹見や田口、高須たちの気圧《けお》された顔が映り、彼らに拳銃を向ける上家の横顔が映る。抜かりなく警戒の視線を飛ばしながらも、上家の目に常軌を逸した土谷への戸惑いが浮かぶのを見た征人は、夢中で両手を動かした。
万力《まんりき》と思える土谷の手首をつかみ、足を踏んばって体の揺れを止める。瞬間、土谷の片方の手が呆気なく襟首から外れ、冷たい感触が顎の下に押し入ってきた。撃鉄の上がる音が発し、鬼ほどの体温も感じさせない目が征人を見据えた。
「艦長。艦を予定会合海域に向かわせろ。これは最後通牒だ」
筒先まで遊底に覆われた米国製の拳銃が、ごりと征人の顎を押し上げる。「従わねば乗員をひとりずつ殺してゆく」と宣言した土谷の声は、感情を殺して詰まって聞こえた。
「まずはこの小僧からだ」
体中の体液が下にさがり、股間の栓に荷重がかかる感覚があった。失禁する無様はさらしたくないと最後の理性が叫び、征人は目を閉じ、拳を握りしめた。「待て……!」と絹見の声が響き渡り、腰の力が抜けそうになった時、大量の空気が管を駆け抜ける甲高い音が頭上に轟いた。
ごぼごぼと海水を引き込む音が続いて足もとから這い上がり、天井を這う送水管の束を震わせる。直後に床が傾き、征人は土谷にのしかかる格好で壁から引き離された。
「Shit...!」と歯の隙間から搾り出し、尻もちをついた土谷に並んで、手をつくこともできずに傾いた床に転がる。絹見や田口たちも一斉に体勢を崩し、壁や潜望鏡に背中を打ちつける光景が傾いた視界に映り、征人は床にしがみつくので精一杯になった。
体内の不純物を吐き出そうと、〈伊507〉が身を捩《ねじ》ったかのようだった。計器を脈動させ、パイプという血管をたぎらせて、巨艦が意志あるもののごとく蠢く。床についた腕に力を込めながら、征人は〈伊507〉の咆哮《ほうこう》を全身で聞いた。
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四十五度も艦尾側に傾き、艦首を海上にさらした〈伊507〉は、傍から見れば転覆《てんぷく》するように見えただろう。実際、あと少し後部ツリムタンクへの注水を続けたら、〈伊507〉は前後の均衡を完全に失い、後部甲板に背負った〈ナーバル〉の重みに引きずられて転覆していたかもしれなかった。
無理な体勢を続けて、機関やバッテリーを浸水させるわけにはいかない。水平計が仰角四十度に差しかかろうとしたところで、フリッツは〈ナーバル〉の排水ポンプを止めた。〈伊507〉の気蓄器から圧搾《あっさく》空気が放出され、後部ツリムタンクの排水を開始したが、慣性のかかった船体の傾斜はすぐには止まらない。〈伊507〉は水平計の針が四十五度に達するまで傾き、それから猛然と艦尾を持ち上げ始めた。船体の復元力が反動になって作用し、今度は艦首側に大きく傾いてゆく。
仕掛けは単純だった。〈ナーバル〉艇内を水で満たすローレライ・システムの都合上、〈ナーバル〉と〈伊507〉の注排水装置は電気的に連動している。基本は手動で調整されるものの、船体の姿勢を自動的に制御する機構が備えつけられており、それは注排水によって〈ナーバル〉の重量が変動すると、後部ツリムタンクに同量の注排水を行わせて艦を水平に保つよう働く。無論、〈ナーバル〉の最大注水量に合わせて上限は設定してあるが、電気的な仕掛けは電気的な細工で欺瞞《ぎまん》することができる。フリッツは整流器《グライヒリヒター》の配線を部分的に組み替え、一定の出力で〈ナーバル〉の排水装置を作動させれば、後部ツリムタンクに無制限に海水が流入するよう細工を施したのだった。
〈伊507〉を一時的に無力化し、パウラとともに〈ナーバル〉で離脱する機会をつかむ――本来の目的はこれで果たせなくなり、同じ手も二度とは使えない。艦と心中するよりなくなったわけだが、結果の善し悪しに思いを巡らせる暇はなかった。事態を察した土谷に発令所に立てこもられ、人質にでも取られたら厄介なことになる。フリッツは船体が復元する勢いを借りて〈ナーバル〉の操艇席を離れ、艦内に続く交通筒に滑り込んだ。
通路に半身をさらした途端、艦首側から走ってきた伏せ手のひとり、鈴木工作長と鉢合《はちあ》わせする羽目になり、九九式小銃の筒先がこちらに向けられたが、激しく動揺する艦内でまともな射撃ができるはずもない。三八式歩兵銃より威力の大きい九九式小銃が火を噴き、ラッタルの支持棒を直撃した七・七ミリ弾がラッタルをびりびりと振動させる。発射の反動と床の傾斜に引っ張られ、鈴木が体勢を崩すのを見たフリッツは、懸垂《けんすい》の要領で交通筒のハッチにぶら下がり、艦の傾斜に合わせて大きく体を振った。
体が前に振れた一瞬にハッチから手を放し、小銃を構え直した鈴木に体当たりをかける。斜めに飛んだフリッツの体を受け止め、尻もちをついた拍子に九九式小銃を手放しながらも、鈴木はすかさず腰のベビーナンブを引き抜き、間合いを取って立ち上がる手練ぶりを見せた。フリッツは身を低くして鈴木の懐《ふところ》に入り込み、ベビーナンブを構える両手を下からすくい上げるようにして、がら空きになった鈴木の顎に右の拳を一閃させた。
ひとさし指と中指の先を親指で押さえ、親指の頭を薬指と小指で軽く包む。突き出したひとさし指と中指の関節が凶器になり、顔の砕ける鈍い音を通路に響かせる。鈴木が頭から床に落ちたのと、岩村たちが艦尾側の隔壁から顔を覗かせたのは同時だった。昏倒した鈴木を見下ろし、化け物を見る目をこちらに注いだ機関兵曹とは顔を合わせず、フリッツは「他の連中は?」と岩村に尋ねた。
「軍医長と甲板士官は三甲板を経由して艦首発射管室に回った。ベテランの兵曹どもがついとるから心配はいらん。運用長と水測長は部下を連れて士官室を奪還。パウラ嬢は食料庫の隔壁を閉鎖したら、残りの連中と一緒にわしらと合流する手筈じゃ」
通路に転がった九九式小銃とベビーナンブを機関兵曹に拾わせつつ、岩村は必要な情報を最低限の言葉で伝えた。パートを出る時にひとり、〈ナーバル〉に乗り込むまでにひとりを倒したから、土谷の配下は残り二人。そのうちのひとりはおそらく土谷とともに発令所におり、艦内の見張りは榛原空気長ら伏せ手がほとんどとなれば、白兵戦には不慣れな乗員同士、数の力で圧倒できるだろう。床下やベッドの裏など、パートに隠匿《いんとく》しておいた銃器は残らず引き渡し、腕に覚えのある者には武装もさせてあるのだ。
艦が姿勢を崩した隙に、一気|呵成《かせい》に見張りを倒す。今頃は予定通り、艦内のあちこちで乗員が行動を起こしているはずだと信じ、しても始まらない心配に蓋をしたフリッツは、「了解した」と返して岩村から離れた。鈴木の拘束は機関兵曹に任せ、交通筒区画と中央補助室を隔てる隔壁の水密戸を開く。無人の中央補助室を抜けた先には烹炊所があり、さらにその向こうに発令所がある。腰に差したワルサーを引き抜き、中央補助室に足を踏み入れようとした矢先、「少尉」と岩村の声が追いかけてきた。
「艦首に回った連中と発令所を挟み撃ちにするって作戦は了解だが、後の連中が来たらわしは機械室に戻るぞ」
「なぜだ?」
「決まっとるだろうが。機関は〈伊507〉の心臓で、わしはその心臓の主だぞ。頭を押さえても、心臓が働かんでは話に……」
そこまで聞いて、岩村の肩ごしに人影が蠢くのを察知したフリッツは、咄嗟に岩村を引き倒してワルサーの引き金を搾った。
乾いた轟音を発して吐き出された九ミリ弾が二発、二甲板に通じるラッタルの手すりに当たって火花を爆ぜらせる。昇降口に覗いた人影は怯んだものの、すぐに身を屈《かが》めて応射の弾幕を張り、腹に響く機関銃の連射音を狭い通路に響かせた。
銃火が断続的に通路を白く染め、M3サブマシンガンの銃口からのびる弾道が床の上をうねる。うしろから膝を射抜かれた機関兵曹が宙を蹴るようにして倒れ、昏倒する鈴木工作長の上に折り重なるのを見たフリッツは、ワルサーの引き金を搾りつつ通路に飛び出し、仰向けになった機関兵曹の足首をつかんだ。
隔壁の手前にせり出した備品倉庫の壁に隠れ、岩村もベビーナンブで応戦する。なんとか機関兵曹の体を引き寄せ、備品倉庫の陰にもぐり込んだものの、M3の火線は容赦なく壁を削り、背後の隔壁にも着弾の火花を閃かせた。毎秒六発の連射速度を誇るM3に対して、こちらは弾切れ寸前の拳銃が二挺のみ。勝ち目もなければ、中央補助室に逃げ込む隙も得られないと判断したフリッツは、仕方なく備品倉庫の棚に手をのばした。
フレルナ≠フ張り紙が剥がされて久しいローレライ整備用具のケースを開け、二重底の下から黒い鋼鉄の塊を取り出す。三十二発の九ミリ弾が装填された長い弾倉を装着し、鉄製の骨組みだけの貧相な銃把を取りつければ、それは終戦間際にドイツで量産されたサブマシンガン、MP3008になった。グレート・ミュンスターなどと大層な名前がついてはいるが、実際のところは人も物資も窮乏したナチスドイツが、老人と子供で組織された人民突撃隊にあてがった簡易量産品。〈UF4〉が出港する直前に、フリッツがひそかに艦内に持ち込んだ銃器のひとつだった。
これを渡せば、艦内に隠匿した銃器はなくなる。虎の子のMP3008を見つめ、いいのか? と自問したフリッツは、自答する前にそれを岩村に差し出した。呆気に取られた顔でフリッツを見返したのも一瞬、じろりと睨む目を寄越した岩村は、「もう他にはないだろうな?」と確かめる口を開いた。
注排水装置に仕掛けた細工に、艦内各所に隠匿した銃器まで目の当たりにすれば、岩村でなくともこちらの腹のうちを疑いたくなる。M3の銃声が途切れるのを待って、「これで打ち止めだ」とフリッツは答えた。ふんと鼻を鳴らした岩村は、慣れた手つきでMP3008のボルトを引き、初弾を薬主に送り込んだ。
「無闇に撃ちまくって、わしの艦を傷つけるなよ」
その言葉が終わらないうちに、岩村はMP3008の引き金を搾った。連射速度ではM3に勝るグレート・ミュンスターの銃口が火を噴き、うねる火線が昇降口に無数の火花を閃かせる。言われるまでもない、と内心に応じたフリッツは、予備の弾倉二本を岩村の足もとに放り、敵が圧倒されている間に中央補助室の隔壁をくぐった。
耐圧殻を鳴動させる轟音を背に、烹炊所に続く水密戸のハンドルに手をかける。この音は発令所にも届いている。土谷が反撃の態勢を整えていればそれまでだが、絹見や征人たちがなんらかの行動を起こしてくれたはずだと信じて、フリッツはハンドルにかける手に力を込めていった。
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突然、あらぬ方に働いた重力に引き寄せられ、千里眼鏡《ヘルゼリッシュ・スコープ》に背中を叩きつけられながらも、絹見は本能的になにが起こったのかを察していた。異変が始まる直前に響き渡った音――注水弁が開放し、大量の海水がタンクに流入する音が、ドンガメ乗りの神経に引っかかったのだ。
誰が、なにを意図して謀《はか》ったことか、詮索は二の次だった。潜水艦に乗り慣れない土谷は、事態を読めずにただ混乱している。パイプにつかまって体を支えるのに必死で、上家も手にしたコルト拳銃を構えるのを忘れている。木崎たち乗員が咄嗟に手近なものをつかみ、計器や舵輪に探る目を飛ばす中、この二人だけが体勢を整えられずにいるのだ。好機、と判断した頭から他の思考が消し飛び、絹見は床の傾斜を利用して土谷の背中に飛びかかった。
肩から体当たりをかけ、怯《ひる》んだ隙に拳銃を奪う腹づもりだったが、土谷はそう簡単にやらせてはくれない。動物的な勘で気配を察し、すかさず身を翻した土谷の背中が視界から消え、目標を失った体が床に激突しそうになる。絹見は夢中で手を動かし、左腕を土谷の腰に巻きつけた。
土谷を引きずり倒しつつ、肩から床に落下する。そのまま傾斜に従って艦尾方向に転がり、自分の体がどうなっているのかもわからないまま、コルト拳銃を奪い取ろうと土谷の右手首をつかむ。払いのけようとした土谷の手からコルトがすっぽ抜け、床に転がる音が奇妙に大きく響くのを聞いた絹見は、土谷の腰に食らいついた状態で音の発した方に目を走らせた。
コロセウムの土台に引っかかったコルトの向こうで、床に這いつくばった折笠征人が頭を上げるのが見えた。呆然とこちらを見返した征人と目を合わせ、コルトに視線を戻した絹見は、起き上がろうとする土谷を押さえ込んで「取れ!」と叫んだ。
絹見の視線を追い、床に転がる拳銃を見つけた征人の顔が瞬時にこわ張り、反射的に動いた足が床を蹴る。同時に壁に手をついた上家が足を踏んばり、片手保持したコルトを振り上げる。自分の声が注意を引きつけてしまったらしい、と後悔した時には、床の拳銃しか見えていない征人の体が宙を飛び、狙いを定めた上家の銃口が征人の背中に向けられていた。
第一潜望鏡にしがみつく高須がぎょっとした顔を振り向け、中腰になった木崎が慌てて上家に飛びかかろうとする。間に合わん、と予感した全身が硬直した瞬間、機関車の蒸気音に似た轟音が発令所を駆け抜け、絹見は思わず天井を見上げた。
送気管が圧搾空気の噴出を伝えてびりびりと震え、後部ツリムタンクの注水量を示す計器の針が急速に左に触れる。天に向かって吃立した艦首が糸が切れたかのごとく下がり始め、艦尾がぐんと持ち上げられて、発令所にいる人間はひっくり返された砂時計の砂さながら、今度は反動で艦首側に傾いた床に足を取られる羽目になった。木崎は尻もちをつき、高須はしがみついた潜望鏡から離れられなくなり、征人は拾い上げた拳銃を構える間もなく床の上を滑る。うしろによろけて射撃の機会を逸したものの、壁のパイプをつかんで即座に体勢を立て直した上家は、しかし手にしたコルトの引き金を搾ることはできなかった。床の傾斜に合わせて突進してきた大柄な人影が、その腹に頭突きを食らわせたからだ。
よろけてそうなったとも、故意にやったとも取れる動きだった。ずんぐりした体躯を正面に受け止めた上家の体が吹き飛び、艦首側の隔壁に叩きつけられると、「押さえろ!」と怒鳴った木崎たちが一斉に飛びかかる。田口はそれには加わらず、上家を弾き飛ばした頭をつるりとなでて、肩ごしの視線をこちらに寄越した。
虚をつかれた思いでその顔を見返す間に、「動くな!」という声が頭上に発し、土谷の体がびくりと震えるのが絹見の手のひらに伝わった。
「両手を挙げて、艦長から離れろ」
肩をいからせ、銃口の震えを押さえ込んだ征人が精一杯の声を張り上げる。土谷の体から力が抜けるのを感じ取った絹見は、慎重に腰に回した腕を離し、隔壁に手をついてふらつく体を立ち上がらせた。次にどう転ぶかわからない緊張を肌に感じ、大震災の直後のような発令所に目を走らせたが、危険を感じさせるものはすでになくなっていた。
高須は十四年式拳銃を握った手をだらりと下げ、笠井通信長は転輪羅針儀を背に座り込んで動かない。背中ごしにこちらの様子を窺う田口の向こうでは、五人がかりで取り押さえられ、拳銃を取り上げられた上家が頬を腫れ上がらせている。水平に戻った床の感触も確かめた絹見は、唇の端を伝う血を拭って土谷に視線を戻した。両手を頭上に掲げて膝立ちになり、コルト拳銃を突きつける征人をじっと見上げる横顔は、不気味なほど落ち着いているように見えた。
「撃たんのか、小僧。おれは戦友の仇《かたき》だぞ」
顔色ひとつ変えず、土谷が言う。対照的に張り詰めた征人の顔が微かに歪み、銃口がほんのわずかに震えた。
「やれよ。やれる時にやっておかないと、あとで痛い目を見るぞ。冷凍室で肉と一緒に冷たくなってる戦友と、枕を並べて寝ることになるかもしれん」
土谷の薄い唇が笑みの形に吊り上がり、征人の瞼が怒りを示して見開かれた。まだ土谷には聞かなければならないことがあるし、私的制裁を認めるわけにもいかない。コルトを握る征人の腕がぐっとこわ張り、絹見は思わず身を乗り出しかけたが、「……あんたは捕虜だ」と呻くように言った征人は、引き金にかけた指を動かそうとしなかった。
「喋っていいとは言ってない。黙って口を閉じていろ」
まっすぐ土谷を見据えて、もう少年とは呼べない、一人前の兵士然とした征人の横顔が言いきっていた。土谷の能面がひび割れ、一瞬の驚愕が走り抜けた瞳に昏《くら》い怨嗟《えんさ》の火が宿るのを見た絹見は、ざわと肌が粟立つのを感じた。
「……小僧が。銃を持つことの意味を知りもせんで」
吐き捨てられた声が絹見の耳朶に絡みつき、まともに取り合った征人の眉がひそめられる。刹那、電撃的に動いた土谷の手が横殴りに征人の腕を払った。
左手でコルトを上からわしづかみにし、立ち上がりざまの膝を征人の鳩尾《みぞおち》に叩き込む。征人の体が背後のコロセウムに激突し、田口がこちらに体を向けるより先に、土谷の手に収まったコルトの銃口が絹見を直視した。咄嗟に身を屈め、体当たりを試みた絹見は、体を軽くうしろに逸らした土谷にあっさり受け流され、次の瞬間には手首をつかまれて、逆手に捻り上げられた勢いで苦もなく放り投げられていた。
一回転した体が背中から床に落ち、骨がばらばらになる衝撃が脳天に突き抜けた。見かけからは想像もつかない腕力――合気道かなにかの類いか? 体中の骨と筋肉が剥離《はくり》したと思える痛みに耐え、歯を食いしばって上体を起こした絹見は、眼前に広がる黒い銃口を見て動きを止めた。「忠告はしたはずだ」と言い放った土谷は、左手にも小型拳銃を構え、片膝をついた征人に狙いを定めていた。
ほんの数動作、瞬きするほどの間の出来事だった。足首に隠した小型拳銃をいつ抜いたのかもわからず、絹見は土谷の底暗い目を呆然と見つめた。左右に構えた拳銃で同時に二つの標的を捉え、なお発令所にいる全員の挙動も捉えて、その目には寸分の隙もない。息を詰めて見守る木崎や田口らとの間合を読み、自分と征人を射殺した後の反応を予測して、すでに次に殺す相手の物色を始めているかのようだった。
「やめろ! 土谷中佐、こいつを撃つぞ!」
木崎の怒声が、上家を人質に取ったことを伝えて発令所内にこもる。土谷は振り向こうともせず、絹見と征人に突きつけられた銃口もそよとも動かさなかった。殺意の塊になった目がこちらを見下ろし、喜色さえ滲ませるのを見た絹見は、無駄だと内心に独りごちた。
この男は屈辱をそそぐことにしか興味がない。もうローレライ系統が破壊されようとかまわず、場合によっては拳銃二挺の弾丸を撃ち尽くし、ここにいる人間を皆殺しにしてでも活路を開こうとする。部下ひとりの命に斟酌《しんしゃく》して、膝を屈するようなタマではない。「いったん銃を手にしたら、ためらうな。殺せ」という声が頭上から振りかかり、絹見は傲然とそそり立つ土谷に睨む目を向けた。
「やらなければやられる。それがこの世界の掟だ」
苦渋を呑み込んだ顔の征人を見下ろし、土谷は裂けるような笑みを浮かべた。そうなのだろうと無条件に認める一方、本能的に反感を抱いている自分にも気づかされた絹見は、不意に目の前の幕が取り払われる感覚を味わった。
それは土谷の国の論理、西欧文明が育《はぐく》んだ力の論理。明治の昔に日本が取り入れ、現在の破滅を招き寄せた論理ではなかったか。海に、山に、数多《あまた》の日本人の屍《しかばね》の山を築き、浅倉のような男を産み出した論理でしかないのではないか。西欧の植民地主義に呑み込まれまいと独立自治を目指したはずが、いつの間にか力の論理に取り込まれ、同じ土俵に立たされていた。富国強兵を叫び、大陸に進出し、欧米列強に対抗し得る大東亜共栄圏の建設を夢見た瞬間から、自分を見失ってしまった国家の無残を体現する論理。浅倉の論理は、しょせんそれを前提としたものに過ぎないのではないか。
確かに迂闊《うかつ》だった。ためらわずに土谷を射殺していたら、こうはならなかっただろう。だが部下を助けるという発想もなく、力の論理を謳って恥じない下衆《げす》をのさばらせて、恐怖と戦うために恐怖になることを強いられる力の論理に従って、そこに未来はあるのか? 少なくとも折笠は、そんなものよりもっと大事ななにかに触れている。ローレライという兵器ではなく、パウラという人間を守るために命をかけた〈伊507〉の乗員たちは、理屈を超えたなにかをつかみかけている。だから恐れてはならない。目を閉じてはいけない。断じて異議を唱え続ける必要がある。戦史にも残らない鉄屑《てつくず》、そこにわいた錆《さび》であっても、我々は……。
隔壁の向こうで銃声が轟き、絹見は我に返った。床下の第二甲板からもくぐもった怒声が発し、複数の入り乱れた足音が聞こえてくる。艦の動揺に乗じて、他の区画でも騒ぎが起こっているらしい。後部タンクに細工を施した誰か、おそらくはフリッツが音頭を取って行動を開始したのだろう。
木崎や海図長たちがそろって中腰になり、田口がぴくりと肩を震わせる中、土谷は眉ひとつ動かさず、こちらに向けた銃口も微塵も揺らがせない。なにが起ころうと、目前の状況が終了するまで他のことは考えない、か。たいしたものだと口中に呟き、閉じないと決めた目でその顔を見据えた絹見は、不意に瞳を動かし、表情をこわ張らせた土谷の異変に、わけもなく心臓を跳ね上がらせた。
「なんの真似だ、大尉」
刃物の鋭さを持った視線と声が、絹見の前をすり抜けて艦首方向に向けられる。凍りついた空気が硬さを増すのを感じつつ、絹見は土谷の視線を追った。第一潜望鏡の柱からふらりと離れた高須が、ゆっくりこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「止まれ。近づけば敵と見なす」
右手にぶら下げた十四年式拳銃を見、高須の顔に目を戻した土谷が低く言う。高須はなにも言わず、足を止めようともしなかった。土谷が発する殺気をかき分け、踏みしだきながら、その顔はひどく恬淡《てんたん》としていた。いままで座を空けていた先任将校が、自分の傍らにひょっこり帰ってきたような感触に、絹見は全身がそそけ立つのを感じた。
よせ――。
「止まれと言っている」
土谷の声にいら立ちが滲む。十四年式拳銃を構えるでもなく、高須は無警戒にこちらとの距離を縮める。無意識に首を横に振り、絹見はよせとくり返した。いいんだ、そんなやり方で埋め合わせをしてくれなくてもいい。声にならない絶叫が喉元までこみ上げ、思わず腰を浮かしかけた時、眼前に突きつけられた銃口がすっと高須の方を向いた。
大口径のコルト拳銃に相応しい、重い銃声が発令所の中で膨れ上がり、高須の背後に立ち尽くす笠井の顔がぱっと血飛沫で汚れた。高須の胸を貫いた弾丸が、背中から抜ける際に飛散させた血だった。見えない力に突き飛ばされ、大きくうしろによろけながらも、高須は歯を食いしばって上体を前に屈め、足を左右に開いて倒れるのを防いだ。顔を上げ、なおも前進を続ける高須に、土谷は続けて左手の小型拳銃を向けた。
先刻よりは軽い発射音が爆ぜ、高須の胸に二つ目の血の華が咲く。高須は体をのけぞらせたが、床に着けた足はほとんど動かさなかった。口腔に溢れた血を呑み下し、それさえも体を前進させる力に変えて、見開かれた瞳が土谷を見据えた。すぐに絹見と征人に銃口を戻した土谷の目に怯えが走り、その体が微かにあとずさる。一歩、さらに一歩。足を前に出すごとに血を垂れ流し、命の力も流し尽くした高須は、絹見に向けた体を前のめりに倒れ込ませた。
頭を絹見の肩に預け、くずおれた膝を床につける。ひゅうひゅうと鳴る呼吸の風を耳元に聞き、高須の体を支えようと脇腹に手をのばしかけた絹見は、ゆらと動いた高須の腕にそれを阻《はば》まれた。十四年式拳銃の硬い銃把を絹見の手のひらに押しつけ、高須はほっとしたというふうに全身の力を抜いた。
「愚直に、過ぎましたかね……?」
微笑を含んだ声音で、高須は最後にそう言った。この艦に乗り合わせて間もない頃、勝てない戦に挑み、滅亡を間近にした日本を総括して絹見が言った言葉だった。そうだな、という返事が口の中で溶け、絹見は銃把と一緒に高須の手のひらも握りしめた。
愚直に過ぎた。こんなやり方でしか、君は自分の節を通せなかったのか? まだお互いの生まれも知らない。酒を酌み交わしてもいない。帰ってきた途端にまた行ってしまうなんて、あんまり水臭いじゃないか。話したいことがたくさんあった。本当にたくさんあったんだ、君とは……。
肩に寄りかかった高須の頭ががくんと重くなり、手渡された十四年式拳銃の重みも増した。〈伊507〉の先任将校、高須という人間の命の重さだった。腹の底から突き上げる慟哭《どうこく》を押し隠し、絹見は高須の背中に回した左手に力を込めた。
半分は哀惜の念、半分は土谷の目から手元の拳銃を隠すためだった。コルトを手に腰を浮かした木崎、静かな怒りを目に湛えた田口の反応を警戒して、土谷はこちらへの注意を半減させている。殺気を読み取られないよう目を伏せ、十四年式拳銃の銃把をしっかり握りしめた絹見は、最後にもう一度、高須を抱き留める腕の力を強くした。
もらうぞ、先任。沸騰する胸の底に呟いたのを潮に、高須の体を突き放す。同時にまっすぐ右腕をのばし、絹見は土谷がこちらを向くのを待たずに引き金を搾った。
放たれた銃弾が土谷の右肩を抉り、反射的に引き金が引かれたコルトが轟音を発した。銃弾が絹見の頭上をかすめ、背後の壁に当たると同時に、反動を押さえる力を失った土谷の右手から拳銃がすっぽ抜ける。大きくよろめいた土谷の顔に憤怒の形相が浮かび、左手の小型拳銃をこちらに向けたが、征人が横合いから飛びかかる方が早かった。
全身をバネにした征人の体当たりを受け、土谷は引き金を引く間もなく隔壁に叩きつけられる。征人はすかさず拳銃をもぎ取ろうとしたものの、肩を撃たれた程度で土谷の力が半減するものではなかった。鋭い肘打ちが征人の横面に炸裂《さくれつ》し、その体が海図台に跳ね返って床に転がる。絹見は即座に十四年式拳銃の狙いをつけ直したが、それより先に小型拳銃がこちらに向けられ、でたらめに引き金を搾って床に伏せるよりなくなった。土谷は狙いをつける間を惜しんで小型拳銃を一射し、排出された薬莢が床に落ちる前に、硝煙のたなびく銃口を征人に据えた。
「土谷ぁっ!」
瞬間、裂帛の気合いとともに、田口がベビーナンブの銃口を持ち上げる。征人から注意を逸らすべく放たれた叫びは、しかし結果的に土谷に反撃の隙を与えることになった。田口を見返しもせず、猿のような身軽さで床に転がった土谷は、田口の懐に飛び込みざま小型拳銃を撃った。
腹に銃弾を受け止めた大柄がぐらりと揺れ、肩ごしに硝煙の白い筋が立ち昇った。土谷は前のめりになった田口の体を受け止め、その脇の下から小型拳銃を差し出して連射した。
鈴なりになったベント開閉ハンドルに銃弾が弾け、跳弾が計器のガラスを割る。田口の体を楯にした土谷を撃つことはできず、小型拳銃の装弾数もわからずに、絹見はコロセウムの陰に退避して銃撃の切れ目を待った。木崎も上家から奪ったコルトを手に、舵手席の陰に隠れた体を縮こまらせる。密閉された発令所をはね回る跳弾が銃弾の数を倍加させ、銃声が途切れた一瞬を狙って反撃を試みると、その一瞬で新しい弾倉を装填した土谷が銃撃を再開する。銃声と金属がぶつかりあう音の中に誰かの呻き声が混ざり、絹見は血の滲む唇を噛んだ。
一撃で仕留めてさえいれば。汗ばむ手のひらに十四年式拳銃を握りしめた絹見は、水密戸が開放する重い音を聞いて背後に首をめぐらせた。円形の戸口にフリッツの顔が覗き、息を呑む間も与えず、戸口から突き出された拳銃が連続して火を噴いた。
瞬時に発令所の状況を確認したのか、恐ろしく正確な射撃が土谷の足もとに着弾の火花を爆ぜらせ、土谷は素速く田口の体を水密戸の方に向けた。こちらに横腹を見せた土谷の体ががら空きになり、絹見は機を逃さず十四年式拳銃を構えた。
が、その時には田口を突き放し、艦橋に通じる連絡筒のラッタルに飛びついた土谷は、一秒とかからずに発令所から姿を消していた。糸で吊り上げでもしたかのような、目を疑いたくなるほどの早さで、絹見は唖然と連絡筒を見上げた。フリッツは即座に戸口を蹴って発令所に飛び込み、征人も床に落ちたコルトを拾って土谷の後を追おうとする。だが最初に連絡筒のラッタルに取りついたのは、海図長らを振り払って突進してきた上家だった。
「この……!」と唸った木崎が、その背中にコルトの銃口を向ける。フリッツもワルサー拳銃を構えたが、どちらの銃口も火を噴くことはなかった。ラッタルを昇ろうとした途端、連絡筒の中で銃声が轟き、上家の額に小さな穴が開いたからだった。
上家はラッタルをつかんだまま硬直し、ぐらついた頭の重さに引きずられて二、三歩あとずさったかと思うと、壊れた人形さながら仰向けに倒れた。きょとんとした死に顔は、あまりの理不尽に呆れ返ったという表情だった。
連絡筒にワルサーを握った拳を差し入れ、フリッツが当てずっぽうの引き金を搾る。応射はなく、弾丸がハッチに当たって潰れる音だけが筒の中にこだました。土谷はすでに艦橋甲板に抜けたらしい。絹見が舌打ちする間に、「くそ……!」と呻いた征人が転がるように発令所を飛び出してゆき、コルトを片手にした木崎も後に続こうとする。「かまうな! 艦の損傷確認と各部の状況把握が先だ」と一喝して、絹見はうつ伏せに倒れた田口の傍らに腰を落とした。
「は? は!」と応じた木崎の顔は見ず、絹見は田口の体を仰向けにして血に染まった左の脇腹を見た。急所は外れているし、弾丸も貫通してくれたようだが、出血が続けば長くはもたない。脂汗を浮かべた顔をわずかに動かし、「艦長……自分はもう……」と搾り出した田口を、「黙ってろ」と睨みつけ、絹見は腰の手拭いを傷口に当てた。たちまち手拭いを湿らせてゆく血の量にひやりとしつつ、「軍医長と早く連絡を取れ」と四方を見渡す。
「一斉放送で呼びかけろ。それから各部と連絡。総員、乙武装。土谷一党を拘束して、各部署の復旧に努める。上甲板のハッチを閉鎖して土谷の侵入を警戒させろ」
足に流れ弾を受けた潜航士官に肩を貸した木崎が、「は!」と条件反射の返事をする。まがりなりにも指揮権を取り戻せたと実感できる声音に、体の節々が思い出したように痛みを訴え始めたが、まだ息をつける時ではなかった。発令所を見回し、各種計器の数値、コロセウムやヘルゼリッシュ・スコープの無事を確かめた絹見は、転輪羅針儀の前に仰臥《ぎょうが》する高須の遺体も視界に入れてしまい、胸にずきりとした鈍痛が走るのを覚えた。
「パートと士官室は奪還した。艦首発射管室が手間どってるようだが、抵抗しているのは空気長と信号長だ。時間の問題だろう。土谷の部下は全員片付いた」
木崎と並んで各部と連絡を取り合っていたフリッツが、艦内電話の受話器を戻しつつ言う。その足もとには、高須の血で汚れた顔を拭うことも忘れ、精も魂も尽き果てたという風情で座り込む笠井通信長の姿があった。時間の問題というフリッツの言葉を納得し、その手に握られたワルサー拳銃の出元を詮索するのは保留にした絹見は、「すまない。来るのが少し遅れた」と続いた声に、田口の方に戻しかけた顔を上げた。
フリッツの視線の先で、白い略装を血に染めた高須が静かに横たわっていた。「いや……」と言葉を濁すのに留めて、絹見は感傷的な気分と向き合うのを避けた。
「それより土谷を追ってくれ。上甲板に出たからにはランチで逃亡する手もあるが、このままおとなしく尻尾を巻くとも思えん。危険な男だ。油断するな」
「了解だ」と応じて、フリッツは艦尾方向の水密戸をくぐっていった。頭に血を昇らせて飛び出していった征人のこともある。不安や懸念は言い出せばきりがなかったが、迷いのないフリッツの背中を見送り、任せてもいいという気になれた絹見は、もういちど高須の死に顔に目を向けた。
瞼を閉じ、口もとを緩めた顔は眠っているように見えた。安寧《あんねい》という言葉を思い起こさせる、穏やかな死に顔だった。
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下辺を水平線に触れさせた太陽が、早くも湿った大気に熱を滞留させ始めていた。あと半時もすれば夜気は蒸発し尽くし、脳味噌まで蕩《とろ》かす南洋の日差しが肌を焼くようになる。このいまいましい熱気、神経を侵《おか》す熱気が自分を狂わせ、物事を狂わせる元凶だ。予備の弾倉も使いきったコルト・ムスタングを捨て、ずきずきと脈動する肩の傷を押さえた土谷は、まとわりつく熱気を振り払うようにして艦橋甲板から離れた。
肩をかばいながらラッタルを下り、機銃甲板に足を着ける。機銃弾を浴びてあちこち損傷したランチがすぐ横に見えたが、離脱した途端に沈められるのは明白だし、ウェーク島に逃げ帰って浅倉に嗤われるつもりも土谷にはなかった。二ヵ月前、上海で任務に就いていた自分を呼び出し、作戦概要を説明した海軍情報部《ONI》の担当士官《ケースオフィサー》は、これを成功させれば人生が変わると言った。それはつまり、失敗したら二度とチャンスは与えられないということだ。
あの国で生きる者、特に自分のような立場の人間にとって、チャンスを失うことは永遠の敗残を意味する。なんの成果も得られないままでは帰れない。土谷は後部甲板に接合された〈ナーバル〉を見、機銃甲板の手すりに引っかかっていた空薬莢を拾ってから、露天甲板に下りた。
艦橋で見張りについていた信号長が、艦が大揺れした際に慌てて艦内に戻ったせいだろう。艦橋構造部の側面にある水密戸は施錠されていなかった。艦内各所に散らばった部下や伏せ手の生死、交戦状況は推測するよりないが、フリッツが艦尾側の隔壁から発令所に殴り込んできた経緯からして、兵員室から発令所に至る後部区画はすべて奪還されたと見るのが正しい。となれば、乗員たちの注意は前部区画の奪還に向いており、すでに奪還した後部の警戒は手薄になっているはずだ。都合がよすぎる推測であっても、土谷は迷わず水密戸をくぐり、格納庫に通じる薄暗い通路を進み始めた。
突き当たりにある扉を開け、格納庫の無人を確認してから中に滑り込む。攻める意志さえ失わなければ、勝機は必ずつかめる。自分の運を信じて第一甲板に続くラッタルに向かった土谷は、昇降口からひょいと現れた人影に舌打ちした。
ドイツ軍の制式拳銃、ワルサーP38を手にラッタルを昇ってきた兵曹は、土谷より一拍遅れて顔をひきつらせた。ラッタルの鉄柵ごしに銃口を向け、こちらが丸腰だと見て取ると、引き金を引かずに「う、動くな!」とうわずった声を出す。その対応のまずさも、土谷には舌打ちの対象になった。両手を挙げ、兵曹がラッタルを昇りきるのを待った土谷は、格納庫内に目を走らせた兵曹の注意が自分から離れた一瞬、左手を一閃させた。
スナップをきかせた手のひらから機銃の空薬莢が放たれ、空気を裂いて兵曹の額を直撃する。拳銃のそれより三回りは大きい二十五ミリ機銃の空薬莢は、くぐもった音を立てて兵曹の頭蓋にめり込んだ。兵曹は白目を剥き、かくんと開いた顎から舌をこぼれさせると、棒切れのごとく背後に倒れていった。
子供の頃から草野球で鍛え、ONIの訓練キャンプで補強された投擲《とうてき》力は、左右両腕ともコントロールも万全。歳とともに衰えはしても、いまでもメジャー級の投手と張り合える自信はある。「ためらうなと言ったろう」と独りごち、額の割れた兵曹の手からワルサーをもぎ取った土谷は、不意に薄暗い思いに取り憑かれた。
生来の強肩を活かして、メジャーの球場で喝采《かっさい》を浴びる。そういうチャンスは自分には与えられなかったという感慨が、まだ二十代になって間もないと見える兵曹の死に顔を眺めるうち、漠然と頭をもたげてきたのだった。チャンスは自分でつかみ取るもので、与えられるものではないという理屈は、白人種にのみ適用される幻想だ。黒人やメキシコ人、アジア人――特に開戦以来、国内の資産を凍結され、収容所で受刑者同然の扱いを受けている日系人には、幻想を持つことすら許されない。万人が自由と平等、チャンスを手に入れられる国だと信じ、移民を決行した父の想いとは裏腹に、アメリカは人種差別の戒律が隠然と機能する国だった。多くの日系移民同様、土谷の家族は合衆国が規定する万人≠フ中には入れてもらえず、臆病な奴隷として過ごすことを強いられた。
実際、開戦以前から日系移民のコロニーは貧しく、他のどの国のコロニーよりもみすぼらしかった。そんな中、父は全財産と引き換えにカリフォルニアの一画に荒れ地を購入し、唐黍《とうきび》畑を耕して、爪に灯をともすようにして家族を養ってきた。次男として生まれた土谷が物心がつく頃には、ほとんど話せなかった英語も日常に困らない程度には上達し、土地の風習にも馴染んだが、腹黒い地主の奸計《かんけい》を看破できるほどではなかった。言葉巧みに農地の拡大を勧めた地主は、父が蓄えをはたいて土地を手に入れると、すっかり開墾《かいこん》が終わった頃にそれを取り上げた。契約書の末尾に記された条文を楯に、契約違反を訴えて土地返還の訴訟を起こしたのだ。どう考えても理不尽な条文だったが、地元の裁判官は地主の言い分だけを聞き入れた。裁判で身も心もぼろぼろになった父は病に倒れ、それまであった畑の経営もおぼつかなくなった。母は働きに出るようになり、土谷もハイスクールへの進学をあきらめて職に就いた。
町に二軒しかない洗濯屋で、朝から晩まで汚れ物に埋まって働くのが土谷の得た仕事だった。教会の神父に頼まれてしぶしぶ土谷を雇った店主は、客が寄りつかなくなるという理由で土谷を店先には出さず、もっぱら屋内の作業場に閉じ込めた。プレス機械とアイロンの熱気が立ちこめる作業場にこもり、洗剤で手の皮をすりむけさせて最低の賃金を得る。控え目に言っても家畜並みの生活は、一年が過ぎようとする頃に終わりを迎えた。その日、店主が放って寄越した労賃が、いつもより五十セント少なかったことが、以後の土谷の人生を根底から変えた。
ちゃんと渡した、てめえがくすねたんだろうと店主は悪びれもせずに言った。それは許せた。だが『薄汚い日本猿が。てめえが洗うとなんでも黄ばむんだよ』と罵《ののし》られた時、熱気にうだる頭の中でなにかが切れた。土谷は店主がアイロン台の上に置いたコーラの瓶を握りしめ、店主が踵《きびす》を返した瞬間に投げつけた。瓶底が後頭部にめり込み、瓶の割れる音と頭蓋が砕ける音を相乗させて、でっぷり肥えた店主は床に倒れた。即死だった。店主の女房の通報で警察が駆けつけ、土谷は逮捕された。情状はいっさい酌量《しゃくりょう》されず、ただ未成年者という一点を考慮されて、州の少年刑務所に送られた。
土谷はそこで、洗濯屋で味わった屈辱などはものの数にも入らない、本物の家畜並みの扱いを受けた。力には力で対抗するしかない世界の摂理を学び、黄色い肌が不利益しかもたらさないことを十分に学んだ。生き残るためには、勝ち続けなければならない。勤勉実直な父の生き方では、臆病な奴隷で一生を終えるしかないと悟り、出所後は二度と故郷に戻らなかった。
金も学識もない、移民特有の用心深さと我慢強さが財産の前科者に、できる仕事は限られている。日系人は同じ東洋人の間でも嫌われていたが、土谷は実力で中国系犯罪組織の信用を勝ち取り、組織の末端で汚れ仕事専門の下請《したう》け屋になった。脅せと命じられた相手を脅し、殺せと命じられた相手を殺す。相手がどんな人種であれ、土谷は躊躇なく仕事をこなした。自分を差別した者に対する怒りなどは持つ暇がなく、力を示し続けなければ潰されるという思いだけがあった。もともとそういう才能があったのか、土谷は次第に組織の中で頭角を現していった。必然、出世争いにも巻き込まれた。中には泥沼化する日中戦争を引き合いに出し、日本人は信用できないと広言して、露骨に追い落としを狙う者も出てくる始末だった。土谷はそんな空気に嫌気が差し、汚れ仕事にもいい加減うんざりし始めた時に、思いも寄らない場所から声をかけられたのだ。
日本との関係が悪化の一途をたどれば、日本人の顔を持ち、日本語を操れるアメリカ人≠ヘ、特別な価値を持つようになる。ONIは対日工作員の養成を焦り、土谷も急場でかき集められた候補のひとり――極めて実戦的な経歴を持ち、彼らが必要とする資質を兼ね備えていると思われる特待生――になった。選択の余地はなかった。ONIは、警察よりよほど完璧に土谷の人となりを調べ尽くしている。申し出を断れば、その資料はそのままFBIに送付されるというのがONIのやり方だった。簡単な適性試験と面接を受けた後、土谷は訓練キャンプで徹底的な訓練を受けた。鍵の開け方、尾行術、格闘術、銃器爆薬の取扱い。それまで独学で学んだことを系統だてて教育され、三ヵ月後には上海の租界《そかい》に送り出された。現地の日本人社会に浸透し、情報を集めるのが任務だった。
雇い主が犯罪組織から国家に変わっただけで、仕事の内容はさほど変わらない。もとより愛国心も忠誠心も持ち得ない身でも、つまらないマフィアのお先棒を担ぐよりはおもしろいし、それなりの充足感もあった。間もなくパールハーバーに零戦の群れが襲いかかり、日系移民は以前にも増して冷たい目を注がれるようになったが、土谷の存在価値は反対により高められた。これまで不利益しかもたらさなかった日本人の血が、千載一遇のチャンスを呼び込んだのだ。チャンスを上手にものにしていけば、奴隷の立場から抜け出し、人間らしい生活を手に入れることもできる。人生が変わるとケースオフィサーが言った今回の任務は、その最大にして最後の機会になるはずだった。日本の降伏が秒読み段階に入ったいま、これを逃したら殊勲《しゅくん》を挙げる機会はなくなる。日本の軍服を着込み、大陸で鹵獲《ろかく》された日本軍の偵察機に乗り込んだ土谷は、その思いを抱いてウェーク島に降り立ったのだ。
熱気のせいだ。島にべったりとへばりつき、いまもこの艦に沈殿する熱気を肌に感じて、土谷はそう結論した。洗濯屋の店主を殺したのもこんな熱気の中だった。熱気はあの頃の惨めな記憶を呼び覚ます。神経をいらつかせ、判断力を鈍らせる。そうでなければ、フリッツの術中に嵌《は》まる愚は犯さなかった――。ずきりと痛んだ肩の傷を押さえ、ワルサー社の刻印が入ったピストルを握りしめた土谷は、まるで呼応するかのごとく、(達する。こちらフリッツ少尉)と艦内スピーカーが騒ぎ立てるのを聞いた。
(土谷中佐は艦内に潜伏しているものと思われる。武器を持った者は、二人ひと組で捜索に当たれ。発見したら発令所に一報を入れて、迂闊な交戦は避けろ)
一方的に喋るスピーカーの声音に、不意に足もとをすくわれた気がした。あの男が中心になって自分を追っている。自分同様、黄色い肌を呪われ、虐《しいた》げられてきた男が、日本軍人そのものの口調で命令を下している。なんだ? と呆れ、裏切られたという感触ひとつを確かめた土谷は、自分でもそうと意識しないうちに冷笑を浮かべていた。
元SS士官の経歴に同類の臭いを嗅ぎ取り、どれほどの男かと期待してみれば、なんのことはない。奴もジャップだということだ。狭いところに寄り集まり、ご奉公に血道を上げ、地に這いつくばってでも報われるのを待つ。成熟を知らない惨めったらしい民族の一匹ということだ。それならそれでいい。艦長や小僧では物足りないが、貴様なら吠《ほ》え面《づら》のかかせ甲斐がある。全身を押し包む熱気がじわりと肌に染み込み、頭の芯が自ら熱を放つのを感じながら、土谷は体を低くしてラッタルの昇降口を覗き込み、第一甲板の様子を窺った。
「上甲板に逃げたんだろう?」「いないから捜してるんだ! 魚雷の搭載口から発射管室に入って、立てこもってる連中と合流したのかもしれん」と言い合いつつ、南部十四年式拳銃を手にした兵曹たちが慌ただしく通路を駆けてゆく。やはり人手は大部分が艦首の方に集中しているらしい。部下たちの状況が気にならないではなかったが、迂闊に自分の後に続こうとした上家しかり、生死を分けるのは彼ら自身の運と実力だと割り切って、土谷は音を立てずにラッタルを下った。
ワルサーP38の銃口と一体化させた視線を通路の前後に振り、一気に中央補助室を駆け抜ける。その先には交通筒区画があり、〈ナーバル〉に続くラッタルがある。自分が逃亡しか考えていないと見くびり、ローレライの中枢をがら空きにしてくれた乗員たちの間抜けさ加減に、土谷は感謝と侮蔑の両方を送った。
そういうバカどもとつるむと言うなら、好きにしろ。だが勝ち続けなければ潰されるのが、おれたちの生きる世界の鉄則だ。わかっているだろう、エブナー少尉? 忘れたなら思い出させてやるよ。もうひとりのエブナーと一緒に。
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(全部のハッチに鍵をかけておけ。いいと言うまでおまえはそこを動くな)
艦内電話の受話器から聞こえるフリッツの声は、耳の隙間をすり抜けて〈ナーバル〉艇内にも響いた。「でも……!」と抗弁したパウラを遮って、(状況は逐次知らせる)と聞く耳を持たない声が押しかぶせられる。
(ウェーク島から増援が来ないとも限らん。感知態勢に入って敵襲に備えろ)
慌ただしく付け加えると、返事を待たずに電話は切れた。先刻、フリッツが〈ナーバル〉の排水装置を作動させたために、艇内には一滴の水も残っていない。注水するには〈伊507〉の喫水《きっすい》を下げ、〈ナーバル〉のタンクに海水を補給する必要があるのだが、そこまでは頭が回らないという兄の声音だった。沈着冷静、すべてに達観したような顔をしていながら、ひとつことに集中すると他のなにも目に入らなくなる。子供の頃から変わらない兄の単細胞ぶりに呆れ、「Soll ich etwa Wasser scho:pfen... obwohl es gar keins gibt?(水もないのに……! バケツで汲《く》んでこいとでも言うの)」と乱暴に受話器を戻したパウラは、前部座席を離れて艇首側の水密戸に手をかけた。
艦内で戦闘が始まった直後に〈ナーバル〉に押し込められ、そろそろ十分。露天甲板に逃亡した土谷の侵入を警戒し、上部ハッチは間違いなく施錠したが、艦内に通じる下部ハッチを施錠したかどうかは自信がなかった。水密戸から顔を出して気密室の下部ハッチを見下ろし、ハンドルの位置が開放状態になっているのを確かめたパウラは、半身を乗り出してハンドルに手をのばした。
ハンドルに触れた途端、人の気配を感じた。顔を上げようとした時には遅く、ごわとした手のひらが口を塞ぎ、もう一方の腕が脇の下を抱え込んで、パウラは抵抗する間もなく気密室に引きずり出された。天井から注ぐ赤色灯の光が目の前に近づき、冷たい鉄の感触が頬の下に食い込んだ。
「すまない、ミス・エブナー。つきあってもらうよ」
生暖かい吐息が耳元に吹きかけられ、全身の毛穴が開くのがわかった。夢中で口を押さえる腕をつかみ、宙に吊り上げられた足を動かしたが、鋳型《いがた》のごとく体を密着させ、こちらの力点を完全に奪った相手はびくとも動かない。銃口がぐりと顎骨にめり込み、声にならない苦痛の呻きを漏らしたパウラは、次の瞬間には突き飛ばされ、あっという間に艇内に押し戻された。
濡れた床に背中から倒れ込み、前部座席に手をついてなんとか身を起こす。水密戸から突き出された銃口がすかさず視界を埋め、パウラは息を呑んだ体を凍りつかせた。
「〈ナーバル〉を発進させろ。すぐにだ」
銃口の向こうで、気密室の赤色灯に顔を塗り込められた土谷が口を開く。右肩はどす黒い血の色に染まり、半袖シャツから覗く二の腕にも血を滴らせていたが、こちらを見る銃口は微動だにしない。いつの間に艦内に戻り、気密室に侵入したのか。壁から染み出てきたような土谷を水密戸の戸口ごしに見上げ、こみ上げる恐怖を必死に抑えつけたパウラは、「母艦が浮上しているのに、できるはずないでしょう……!」と精一杯の剣幕で言い返した。
「なら潜航してもらうさ。君が頼めば、艦長やお兄さんはきっと聞いてくれるよ」
「……発進してどこに行けと言うの。アメリカ?」
〈ナーバル〉の航続距離ではハワイにもたどり着けない。震える声でも、パウラは揶揄する口調で言ってやったが、「ウェーク島でいい」と応じた土谷は冷静だった。
「根拠地隊と接触して艦隊に増援を要請する。魔女のいない〈伊507〉を沈めるのは造作もない」
「艦《ふね》に残ってる仲間はどうするの。全員は乗りきらないけど」
ぴくりと痙攣してしまった頬をわずかに背け、パウラはなおも重ねた。壁面の非常警報装置に目を走らせ、前部座席に置いた手をゆっくり動かそうとして、だしぬけに喉を鳴らし始めた土谷にぎょっと目を戻した。
低い笑い声は、やがて乾いた哄笑に変わり、肌を粟立たせる寒々しい音を艇内に反響させた。呆然と土谷の顔を凝視したパウラは、「仲間、か」と降ってきた声に思わず顎を引いた。
「日本語の用法が間違っているな。仲間など連れてきた覚えはないよ、ミス・エブナー」
「でも、部下でしょう? 軍人なら……」
「おれは独りだ」
土谷の顔面から笑みが霧散し、パウラは我知らず上体をうしろに逸らした。
「仲間を持ったことはないし、部下も任務遂行上の道具と思うようにしている。……座れ」
前部座席に顎をしゃくり、土谷はワルサーP38の銃口をずいとパウラの鼻先に押しつけた。瞳に微かないら立ちが滲み、冷徹な面の底が割れたと感じられたが、確かめる余裕はなかった。言われた通り前部座席に腰かけたパウラは、「……アメリカにもナチがいるとは知らなかったわ」と憎まれ口を返した。
「この世界では誰もが独りだよ。特別な力を持ったせいで、ドイツでは少々甘やかされてきたようだな」
冷笑を取り戻した土谷が応じる。パウラは思わずその顔を睨み返した。
誰もが独り。そんなの当たり前ではないか。独りだから凛と立ち、甘えるのでもなく、支配するのでもなく、支えあうための存在として他者を求めるのではないか。少なくともルツカはそうしていた。コルビオ艦長も決して泣き言を言わなかった。この男は二人の足もとにも及ばない。それぞれに懸命に生きてきた人の血にまみれ、無念を吸い尽くしたローレライの器に、足を踏み入れる資格はない。すっと胸の底が冷たくなり、パウラは側壁の操作盤に手をのばした。
この男を〈ナーバル〉に入れるわけにはいかない。自分でも意外なほどの怒りに衝き上げられ、目の前の銃口を意識の外にさせた。水密戸をくぐろうと土谷が腰を屈めた刹那、パウラは気密室の排水装置を作動させた。
排水ポンプが空回りの音を立てるとともに、気密室の送気管から圧搾空気が放出される。室内に充満した水を圧迫、排水させる圧搾空気は、気密室に水がないいまは、高密度の空気の塊になって土谷を直撃した。背後を振り返った土谷は、噴出する空気をまともに顔面に浴びて体勢を崩した。
同時に非常警報装置を作動させ、パウラは座席の下に手をのばした。蛇腹《じゃばら》式の昇降装置をまさぐり、座席の底面に隠したワルサーPPKをつかみ出して、遊底を引くと即座に引き金を搾る。一発、二発。ろくに狙いもつけずに発射された弾丸が隔壁に当たって爆ぜ、水密戸から引っ込んだ土谷の体が見えなくなる。パウラは床を蹴って気密室に飛び込み、下部ハッチのハンドルをつかんだ。
施錠されていないハッチは、ひと回しで開けることができる。けたたましい警報が耳をつんざく中、無我夢中でハンドルを回したパウラは、横合いからのびた土谷の手に髪をつかまれ、ハッチから引き剥がされた。その拍子にワルサーを手放してしまいながらも、歯を食いしばってハンドルを回しきる。ハッチが開き、交通筒の向こうに第一甲板が覗くのを見たパウラは、足をめちゃくちゃに蹴り出して土谷から逃れようとした。
狭い気密室では身をかわす術もなく、顔面で靴底を受け止めた土谷の手から力が抜ける。蹴った勢いで交通筒に飛び込み、パウラは三メートル下の第一甲板に真っ逆様に滑り落ちた。
途中でラッタルをつかみ、体を捻って頭から落下するのを防ぐ。咄嗟に体を柔らかくしても、右肩から腰に鋭い衝撃が走り、息が一瞬できなくなった。壁に爪を立て、床に押しつけた額を支えにして、パウラは上下左右の感覚を失った体をどうにか立ち上がらせた。中央補助室に通じる水密戸を視界に捉え、ハンドルに手をのばしたところで、襟首をつかんだ腕に強引に引き戻された。
「たいしたものだ。強い女は好きだよ、ローレライ」
喉に突きつけた銃口に抑えきれない怒りを込め、土谷は荒い息を押し殺して囁いた。その体温も、あくまで冷静を装う浅薄な自尊心も、怖気《おぞけ》をふるうほどの嫌悪感になって背筋を突き抜けた。「Nenn mich nicht so...!(気安く呼ぶな……!)」と全身を声にして、パウラは首に巻きついた土谷の腕をつかんだ。
「Es ist genau so wie Yukito sagt, du lastest deine eigene Schwa:che den anderen an.(ローレライの力がなくたってわかる。あなたは臆病で卑怯なだけの人よ。征人が言う通り、自分の弱さを勝手に他人に押しつけてるだけ)Du hast weder den Mut von Lucca, noch die Entschlossenheit Kapita:n Colbios, du bist nur ein vo:llig inhaltsloser Mann...!(ルツカみたいな勇気もなければ、コルビオ艦長みたいな覚悟もない、中身のなんにもない空っぽな男……!)Jemandem wie dir werde ich die Kraft der Lorelei nicht ausliefern. Im Namen derer, die wegen Lorelei gestorben sind, erlaube dir nicht einmal, ihren Namen auszusprechen...(そんな人にローレライの力は渡さない。その名を口にすることも許さない。ローレライの犠牲になった人たちの命に賭けて、絶対に……!)」
喉を締めつける土谷の腕に力が入り、息ができなくなると、滲んだ視界にぼんやり霞《かすみ》がかかり始めた。「すまんが、ドイツ語は不得手でね。〈ナーバル〉に戻ってゆっくり聞かせてもらおうか」と言った声が遠くに聞こえ、もつれた足の裏に床を引きずられる感覚が伝わる。ごめん、ルツカ。もうだめみたい。汗とは違う温度の雫が頬を伝わり、目を閉じかけたパウラは、「自分の絶望を他人に押しつけるなと言ったんだ」と響いた声に、微かに瞼を開いた。
五メートルほど離れた先、パート区画に至る隔壁を背にしてフリッツが立っていた。酸欠の頭でぼんやり眺めた途端、こわ張った土谷の腕が喉輪《のどわ》からずれ、酸素が気管に流れ込んできた。薄暗い照明灯の下、異様な殺気を放ってこちらを見据える兄の姿が明瞭になり、パウラは自由のきかない体を身じろぎさせた。
警報を聞きつけ、第二甲板を経由してきたのだろう。土谷は首に回した腕をぐいと上げ、パウラの体全部を楯にしてフリッツに対した。銃口がいっそう強く喉にめり込み、苦悶の息を漏らしたパウラは、「やめておけ」と言ったフリッツの声の冷静さにひやりとした。
「ローレライをなくしたら元も子もないぞ」
冷静を装っているのではなく、度を超えた怒りが表現の方法をなくしているのだと、無表情な目が教えていた。ワルサーPPの銃口を動かさないフリッツに、土谷は「どうかな」と返して一歩後退した。
「最悪、他国の手に渡らなければ合衆国の国益は保たれる。目的の半分は果たせるさ」
「だが貴様は確実に死ぬ。いいのか? 国益とやらと心中して」
中央補助室側の隔壁に背を当てた土谷を見据え、フリッツも一歩足を前に出す。「動くな」と土谷の硬い声が弾け、銃口がパウラの耳のうしろに移動した。
「殺さずとも、二目《ふため》と見られん姿にしてやることもできる。銃は捨てろ」
冷たい銃口が耳たぶに当たり、それまでとは種類の違う戦慄が体中を這い回った。フリッツの瞳に微かな動揺が走り、その手がゆっくり下がってゆく。ごとっと鉄のぶつかる音が頭上の警報に混ざり、床に放られたワルサーPPを見たパウラは、絶望した目を閉じた。
「なあ、エブナー少尉。物は考えようだ。ジャップは敗ける。この艦もいずれ沈むか、どこぞの国に接収される。君らにはどのみち自由はないんだ」
蹴って寄越させたワルサーPPを靴底で受け止めつつ、土谷は中央補助室に抜ける水密戸を片手で施錠した。フリッツは無言の目を向けるばかりだった。
「それなら勝ち馬に乗った方が得だとは考えんか? お察しの通り、おれも合衆国に忠誠を誓っている身ではない。この肌の色を利用されて、汚れ仕事をやらされているだけだ。だがローレライを手に入れれば、立場を対等に……いや、逆転できるかもしれない」
「なにが言いたい」
焦《じ》れたフリッツの声に、パウラを拘束する腕を心持ち弛《ゆる》めた土谷は、「おれと組まないか?」と身を乗り出すようにした。
「おれが持っている人脈と、SSで培った君の人脈。これにローレライが加わればできないことはない。合衆国とロシアの戦争はもう始まっているんだ。うまくすれば小国を買い取れるぐらいは儲けられるぞ。祖国を持たない者同士、力を合わせてこの世界を……」
低い笑い声が、その先の言葉を封じた。土谷だけでなく、自分を嗤い、自分たちを産み出した世界まで嗤うような、寂しさを含んだ失笑だった。虚をつかれ、パウラの首に回した腕を弛めきった土谷に、フリッツは「知ってるか?」と笑みの残る顔を向けた。
「日本では、それを餓鬼の道と言うんだ」
その瞬間、フリッツの瞳から笑みの残り香が消え、伏せろと命じる視線がパウラを射た。反射的に腰を屈め、土谷が気づくより早くその腕をすり抜けたパウラは、間を置かず姿勢を低くしたフリッツと、その背後に立つ折笠征人をいっぺんに視界に入れた。
フリッツよりひと回り小さい体を隠れさせていた征人が、コルト・ガバメントの銃口を持ち上げつつ土谷と正対する。がら空きになった身を伏せさせる間もなく、ワルサーP38を咄嗟に構え直そうとした土谷に向けて、征人の指が躊躇なくコルトの引き金を搾った。
轟音が交通筒区画を圧し、一閃した銃火が爆発的に膨らむ。排出された薬莢が側壁に当たり、右胸から血を噴き上がらせた土谷が隔壁に激突する。床を蹴ったフリッツがパウラに覆いかぶさり、ワルサーPPを拾い上げた時には、二発目の轟音が狭い通路に響き渡っていた。
コルトの銃口から放たれた弾丸は、しかし土谷には当たらず、隔壁にぶつかって無為に火花を生じさせた。隔壁に叩きつけられた勢いを借りて、土谷は征人に向かって突進していたのだった。憤怒に狂い、人のものとは思えない唸り声をあげた土谷が、頭を低くして征人に飛びかかる。三発目の引き金を搾る間は与えられず、征人は土谷の体当たりを受けて側壁に押しつけられた。鳩尾に頭突きを食らった征人の口から唾が飛び、土谷の左手に締めつけられた右手首がコルトを取り落とす。
「大人のやることに、口を挟んだツケは……!」
血の塊と一緒にそう吐き出し、土谷はワルサーP38の銃口を征人の喉元に押し当てた。パウラに覆いかぶさったまま、フリッツがすかさずワルサーPPを構えたが、間に合わないとパウラにはわかってしまった。征人の目が恐怖に見開かれ、引き金にかかった土谷の指に力が入る。パウラは目を閉じ――最後の銃声が轟くのをなす術なく聞いた。
警報も途絶え、だしぬけに静寂が舞い戻った交通筒区画に、次に響いたのは金属が床を打つ乾いた音だった。パウラは目を開け、床に転がるワルサーP38を見た。土谷の足がそれを踏みつけ、よろよろと征人からあとずさると、背中をべったり血で濡らした体がぐらりと床に倒れてゆく。その向こうに、硝煙のたなびくベビーナンブを構え、パート側の水密戸から顔を出した人の姿があった。
水密戸の戸口に寄りかかり、脂汗を浮かべた顔をこちらに向けた田口は、小さく笑いかけたようだった。パウラが呆然と見返す間に、その腕からベビーナンブが転げ落ち、左手で血の滲む腹を押さえた田口も床に転がった。「掌砲長……!」と叫んだ征人の声が耳朶を打ち、フリッツが田口に駆け寄るのを見たパウラは、伏せていた体をゆっくり起こしていった。
立ち上がろうとして、足に力が入らずに尻もちをついた。硝煙の臭いに混じって血の生臭さが立ちこめ、感知野に捉えるのとは種類の異なる痛みを胸に刻み込んだ。ローレライの罪がまた加算されたことを知らせる臭いに、パウラはただその場に座り込み続けた。
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(……あっという間でした。急に小銃を収めたと思ったら、そのまま口にくわえて……)
小松の声が震えて聞こえるのは、伝声管のせいではないだろう。ようやく籠城を解き、恭順の意志を示したかに見えた空気長が、自ら頭を撃ち砕く光景を目の当たりにしたのだから無理もない。幽閉した乗員たちを人質に取り、艦首魚雷発射管室に立てこもっていた空気長と信号長の抵抗は、空気長の自決という形で幕が下りた。多くの犠牲を呑み込んだ艦の争奪劇が、終幕と引き換えに欲した最後の流血だった。
絹見は榛原という空気長の名前を頭に呼び出し、顔も思い起こそうとしてみたが、ぼやけた輪郭からは人となりを想像させる手がかりは得られなかった。代わりに後任候補の顔をひとつ二つ思い浮かべてしまい、少しうしろめたい気分に駆られながら、「わかった。信号長は無事なんだな?」と伝声管に吹き込んだ。
(は、はい。武装解除して、取り押さえております)
「よし。とりあえず収監室に連行しろ。あとで訊問を行う。見張りの人選は任せる」
そうした仕事を安心して任せられる掌砲長もいない。目を離した隙に発令所を這い出し、腹の怪我を押して土谷を仕留めた田口は、いまは医務室で生死の境をさまよっている。頼り甲斐があるとは言いがたい小松の復誦を聞き、嘆息を堪えて伝声管の前を離れた絹見は、まだ火薬の刺激臭が抜けない発令所を見渡した。
遺体はすでに運び出され、最低限の損傷確認も終わった発令所は、応急修理と掃除がそろそろ本格化し始める頃合だった。唐木水測長が懐中電灯でパイプの隙間を照らす横で、海図長は散乱した計器のガラス片をちりとりに集め、河野二水はモップで血を拭き取る作業に余念がない。通風弁の他に連絡筒のハッチも開放され、血と硝煙の臭いが沈殿する空気の入れ換えも行われていたが、片付ければ元通りになるという状況でもなかった。目の前の仕事に没頭し、先のことを意識して考えないようにしている複数の背中を眺めて、絹見は堪えきれずに嘆息を漏らした。
先のこと――〈伊507〉のこれからの行動。どこから手をつけていいのかもわからない問題の山ではあるが、たったひとつ、やるべきことだけは定まっている。そのために必要な情報をどう入手するか、八方塞がりの頭を働かせようとしたところで、艦内の見回りに出ていた木崎航海長が発令所に戻ってきた。絹見は脂の浮いた顔をこすり、「どうだ?」と艦長の声で質した。
「土谷の配下の遺体は四名とも確認しました。こちらの被害は戦死者四名、負傷者十名。うち二名は重傷です。空気長の一件はお聞きになりましたか?」
戦死という言葉を強調して、木崎も努めて事務的な口調を返す。そう、戦死だ。清永にしろ高須にしろ、艦を守って命を落とした。相手が誰であるとか、途中の経緯であるとかはいっさい関係ない。絹見は頷き、「工作長と通信長は?」と重ねた。
「話は聞けそうにありません。それぞれ別の理由で口をきけんのです」
「別の理由?」
「通信長は人事不省。工作長はフリッツ少尉に顎を割られておりまして……」
筆談という手もある、と言いかけて、顔に浴びた高須の血を拭いもせず、床にうずくまっていた笠井通信長の姿を思い出した絹見は、口を噤んだ。工作長からも満足な話は聞けまい。彼らはある意味、燃え尽きた。自決できずに生き長らえたことを後悔はしても、協力を望める状態ではない。いずれ、こちらが必要とする情報を彼らが知っているとも思えなかった。
となれば、やはりあの男に吐いてもらうしかない。そう覚悟した途端、「無線の方は、沈黙したままですか?」と木崎が探る声を投げかけて、絹見は通信室の無線機と繋がった艦内放送装置に目を向けた。艦内放送を使用する都合上、送信機は土谷が発令所を離れた直後に止めたが、受信機の電源は入れっ放しにしてある。浅倉は田口に呼びかけたのを最後に、なんの送信もしてこない。
「送信が途切れてかなり経つ。浅倉のことだから、こちらの状況は察していると見た方がいい」
「追撃が来ますか?」
「わからんが、出航は急ぐ。根拠地隊はともかく、ローレライを手に入れ損ねた米軍が追ってくる可能性は高い」
艦の喫水を下げて〈ナーバル〉に注水しないことには、ローレライの起動も望めない。とにかく艦を動かすのが先決と納得したのか、木崎は針路も尋ねずに「は」と応じてくれた。力強い声にほっと息をつき、発令所を離れてもいいという気になれた絹見は、「少し離れるぞ」と言って艦尾側の隔壁に足を向けた。
「交通筒区画にいる。後は先任に……」
ほとんど決まり文句になった言葉が口をついて出てしまい、唐木たちが思わず硬直する気配が背中に伝わった。間が悪そうに視線を逸らした木崎の顔を見、自分の頭を殴りたい衝動に駆られた絹見は、「すまん。任せる」と言い直して水密戸をくぐった。
「はっ!」と必要以上に気合いを込めた木崎の返事が、耳に痛かった。
人を現世に留めるのは気力であって、肉体はそれに追従する機関でしかないのかもしれない。交通筒区画に仰臥し、いまだ呼吸を続ける土谷と目を合わせて、絹見が感じたのはその一事だった。
征人とパウラ、フリッツが黙然と見下ろす中、土谷は敏感に絹見の気配を察し、こちらの目を見返して血まみれの唇を歪めさえした。右肩と右胸、さらに脇腹の傷口から血を垂れ流し、顔は血の気のない状態を通り越して青黒く変色していたが、そこに刻まれた表情は明らかな嘲笑だった。
せいぜい苦しめ、もう手遅れだ――。自分を嗤うためだけに呼吸を続け、ぼろぼろの肉体にしがみつく執念を感じ取った絹見は、気圧される心中を隠して土谷に近づいた。
血溜りに膝をつけ、軍衣を返り血で汚しながら応急手当を続けていた時岡軍医長が、手の施しようがないというふうに首を横に振る。絹見は頷き、時岡と入れ替わりに土谷の傍らに腰を落とした。無駄だと告げるフリッツの視線を背に、「ひとつ訊きたい」とできる限り静かに話しかけた。
「原子爆弾を搭載したB−29は、明日テニアンを発つと浅倉は言った。その正確な発進予定時刻を知りたい」
現状、こちらが唯一必要とする情報の提供を求めて、絹見は土谷の顔を凝視した。常識的には末端の人間が知り得るべきことではないが、少なくとも土谷は、田口たちよりは米本国の意志に近い場所にいる。時機が重要視される計画の性質上、最終期限となる原子爆弾の投下日時を知らされている可能性はあった。フリッツを見遣り、「どいつも、こいつも、同じことを……」と唇の端に血の筋を重ねた土谷は、にやと嗤った目を再び絹見と合わせた。
「聞いて……どうする」
決まっている。無言を返事にした絹見に、土谷は血の泡を浮かべた唇をぐいと吊り上げてみせた。じきに尽きる己の命を知り、沈黙を最後の武器にした男の凄惨な笑みだった。もはや失うものも恐れるものもなく、現世から退場しかけた男には、こちらの無力もよく透けて見えるということか。フリッツと目を見交わした絹見は、ため込んだ息を吐き出した。
やはり無理か。内心に呟き、あと半時ともたないだろう土谷の顔を見下ろそうとした時、不意にパウラのすらりとした肢体が視界に割って入った。こちらを押し退けんばかりの勢いに、絹見はぎょっと上体をうしろに反らせた。
「パウラ……!」と戸惑う声を出した征人を無視して、パウラは土谷の前に腰を下ろした。硬い意志を秘めた横顔が息を詰めると、その手のひらが躊躇なく土谷の胸に触れ、溢れる鮮血を馴染ませるように傷口に密着していった。
土谷の顔から笑みが消え、充血した目が見開かれる。同時にパウラの横顔も苦悶に歪み、閉じた瞼がびりびりと痙攣して、小刻みに震える手のひらが鳥肌を浮き立たせる。血、すなわち液体。咄嗟に理解し、初めて見る感知≠フ実態に息を呑んだ絹見の前で、パウラは雷に打たれたかのごとく体をのけぞらせてゆく。支えようと前に出た征人を手で制し、フリッツも押し殺した顔で静観する中、ぴんと張ったパウラの額に縦皺が寄り、喘ぎに近い声がその唇からこぼれ落ちた。
「……八月、十二日……現地時間、午前九時……三十分……」
土谷の血と臓物の中に分け入り、憎悪や悪意を一身に受け止めた体がそう搾り出し、直後に血滑りに浸していた手のひらが引き上げられた。ぐったりとなったパウラの体がうしろに倒れ、慌てて支えに入った征人の手がそれを抱きとめた。
半分呆然とした顔で、絹見は土谷に視線を戻し、パウラの感知が正確であることを確信した。失うものを持たないはずの男が、魂の底を暴かれた恐怖と恥辱に打ち震えている。哀れと思えるほどの怯えの色を湛えて、パウラを見据える土谷の目にはぎらついた光があった。
「悪魔め……」
薄目を開けたパウラの顔がわずかにこわ張り、征人が怒りを孕んだ目を向ける。土谷はにたりと口もとを歪めかけたが、それはもう嘲笑を形作ることはなかった。最後の息を吸い込んだ腹がぴたりと止まり、散大する瞳孔がぎらついた光を呑み込んで、土谷は二度と動かなくなった。
しばらくはなにも考えられず、絹見は土谷の絶命を確認する時岡の背中を眺めた。八月十二日、テニアン時間午前九時三十分。胸中にくり返し、肩で息をするパウラを見つめてから、ようやくその日時が示す絶望的な現実に気づいて腕時計に目を走らせた。日本時間に合わせた腕時計の時刻は、午前五時二十五分。テニアン時間はプラス一時間の時差だから、原子爆弾搭載機が離陸するまで――。
「あと二十七時間と少し」
先回りをしたフリッツの声が重く響き、征人とパウラ、時岡の視線が一斉にこちらを向いた。早すぎる、と動揺する胸中を押し隠し、絹見は太平洋の海図を頭に呼び出した。サイパン、テニアン、グアムと並ぶマリアナ諸島の位置、ウェーク島の位置、さらに現在の〈伊507〉の位置。これらに艦の性能要目の数値を重ね、概算しつつゆっくりと立ち上がる。
ウェーク島からテニアン島まで、直線距離にしてざっと千百キロ。〈伊507〉が水上航走で出し得る最大速度は二十五ノット。海流の影響、連続稼働によって生じる機関の不具合を足し引きし、平均二十三ノットで計算した場合、二十七時間で移動できる距離は……千百九十キロ。
「ぎりぎりだな。最大戦速で直進すれば間に合わん時間ではない。だが……」
それは、敵防衛網の存在を考慮の外にしての話だ。テニアン島を含むマリアナ沖一帯には、おそらく相当規模の米機動艦隊が展開している。二十七時間以内にテニアン島に到達し、艦砲射撃で滑走路を破壊してB−29の離陸を阻止するには、敵の防衛網を正面突破してみせなければならない。ローレライを駆使して敵の防衛網をくぐり抜け、時間内に主砲の射程距離までテニアン島に近接する――すべてを単独で行う分、米本土奇襲よりも勝算の低い作戦と言えた。
ローレライの取得に失敗した米軍が防備を固めれば、奇襲さえ成り立たなくなる。到底、できる相談ではない。固唾《かたず》を飲んで見守る征人たちから視線を逸らした絹見は、「ローレライがこちらの手にある以上、浅倉大佐と米国の取引は成立しない」と別の話をした。
「原子爆弾の投下は取りやめになる可能性もある。まずは内地との通信を回復させて、軍令部に……正真正銘の軍令部に現状を伝える。後のことはそれからだ」
「仮に連絡がついたとして、対策が打てると思うのか? いまの日本に」
フリッツが容赦なく言い放ち、絹見は絶句した。
「まともに戦える艦艇もないし、戦闘機を現地に送り込む空母もない。人間魚雷ではB−29の発進は阻止できないぞ。時間内に現場にたどり着いて、滑走路に打撃を与えることができる艦艇はただ一隻。この〈伊507〉だけだ」
まっすぐな視線が、決断を迫る針になって胸を貫いた。征人とパウラの視線も受け止めた絹見は、じっとり汗ばんだ拳を握りしめた。艦内スピーカーが唐突に雑音を弾けさせ、空電の低い唸りを流し始めたのはその時だった。
(〈伊507〉乗組員に告げる。こちら浅倉だ)
先刻と同じ、落ち着き払った声音が交通筒区画を満たしてゆく。途方に暮れたこちらを見透かし、嘲笑うような間合の送信だった。フリッツと視線を交わらせたのも一瞬、絹見はなにも言わずに発令所に向かって駆け出していた。
(これだけ待って連絡がないということは、そのように事態が動いたのだろう。はなはだ遺憾ではあるが、いい報せもある)
まだ調子が戻らない様子のパウラを支え、征人も後に続く。(たったいま届いたばかりの最新情報だ)と重ねた浅倉の声に喜悦が混ざり、絹見は粟立つ肌をごまかすようにして通路を走った。
(連合国は、日本政府が提示したポツダム宣言の条件付き受諾を無視。あらためて無条件受諾を要求した。予想通りの展開だよ。閣議と御前会議をくり返して、大本営が最終決断を下せるのはいつになることやら……。いずれにせよ、連合国は日本の傲岸不遜《ごうがんふそん》な態度に不審を新たにしている。三撃目の雷を落とす大義名分は整ったということだ)
思わず足が止まった。(わかるだろう? 絹見艦長)と続いた浅倉の声を、絹見は全身で聞いた。
(ローレライを手に入れようが入れまいが、彼らは間違いなく原子爆弾を東京に落とす。もはや歴史は確定した)
歴史の確定という言葉が、覆しようのない勝利宣言になって頭蓋を直撃した。力の論理の勝利。恐怖で恐怖を克服しようとする者の勝利――。体液という体液が沸騰し、萎縮した体に熱を漲《みなぎ》らせて、絹見は再び走り出していた。
(この場を逃げおおせたところで、補給の続かない〈伊507〉は早晩、米軍に拿捕される。日本に回航したとしても結果は同じだ)
戸口の上方にある把手をつかみ、足から発令所の水密戸に飛び込む。青ざめた顔でスピーカーを見上げる唐木たちの頭ごしに、艦内放送装置の前に立つ木崎の背中が見え、絹見は血でべたついた床を蹴ってそちらに向かった。
(その時、貴官らの身柄が捕虜と扱われる保証はない。戦犯として処罰されるか、ローレライ機密保持の一環として闇から闇に葬られるか……。無論、このまま予定会合海域に向かって、日本民族再興のために生き長らえる道もある。すべては貴官ら自身が決めることだ)
乗員に動揺を与えまいとしたのか、木崎は艦内一斉放送の回線を切ろうとしているところだった。絹見はそれを制し、マイクをつかんで送信機の電源を入れるよう指示した。
(日本はあるべき終戦の形≠手にした。ここからすべてが始まる。原子の力が旧弊を一掃し、陣痛の中から新たな日本民族の歴史が始まる。貴官らはその礎《いしずえ》たる者だ。あたら有為な命を散らせる真似は……)
「否《いな》っ!」
その声は、声帯とは異なる、もっと深いところにある器官から発せられた。送信釦を押したマイクを握りしめ、絹見は艦内スピーカーに真実の敵の姿を見据えた。
「それはあなたが望む終戦だ。我々が望む終戦でもなければ、日本が望む終戦でもない。あなたが言っていることは書生論、それも暴力を伴った危険な空論だ。人の本質を見極めたようなことを言っておきながら、近づきもしていない。寂しい男が腹立ち紛れに紡いだ独善、それだけだ。
我々はそのようなものには決して膝を折らない。日本がこの先どうなろうとも、かくも卑しく狭い想念によって国の未来が穢《けが》される事態は、断固として阻止する!」
言いきってしまってから、指揮官ともあろう者が軽率に過ぎるという自戒が腹の底を冷やしたが、ふつふつとたぎる熱を冷ますほどのものではなかった。ここには部下たちがいる。軍務や国籍といった結びつきでは表しきれない、出会うべくして出会った人の輪が自分の背中を支えている。生きる者も、死んだ者も。命を賭けて誤りだと証明した力の論理を鎮《しず》め、恐怖の連鎖を断ち切れと訴えて。高須の血を吸った床を踏みしめた絹見は、応答を寄越さない浅倉に静かに続けた。
「これより〈伊507〉は、一個人の怨念が歪めた歴史を――日本国の未来を修正するために行動を起こします」
並んで立つ征人とパウラの背後に、苦笑を浮かべる亡霊の顔があった。笑いたければ笑え、これがおれなりの至誠だ。忠輝に言い放ち、まっすぐな瞳をこちらに向けるパウラに視線を移した絹見は、そこに魔女でも兵器でもない、ひとりの人間としての光を確かめて、浅倉に宣戦布告の言葉を投げかけた。
「ローレライは、あなたが望む終戦のためには歌わない」
浅倉は無言だった。もうその言葉を必要とする者もいなかった。絹見はマイクを置き、無線装置の電源を切った。
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第 五 章
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地球上でもっとも進んだ文明国の首都といえども、気候まで自由に操るというわけにはいかない。八月十一日の早朝、ワシントンDCは早くも熱暑の気配を漂わせ始めていた。ゴシック式とモダニズムが混在するビル群――そのひとつひとつに三権を司る者たちを住まわせ、巨大な国家の行く末を定める楼閣《ろうかく》の群れが、昇って間もない朝陽を窓という窓に反射させ、道中を覆ったアスファルトは澱んだ地熱を滞留させる。それは植樹と芝生の上を這い、ポトマック河を望む東ポトマック公園にも入り込んで、都市特有のささくれだった熱気を広大な河面に垂れ流す。
河岸《かし》にしつらえられたベンチのひとつに腰を下ろし、老人はその熱気を小柄な体に受け止めていた。齢《よわい》七十を越え、世の芥《あくた》を吸いきった精神は不感症になっていても、肉体は相変わらず暑さ寒さに反応し、ひもじさを訴えて日々の糧《かて》にありつこうとする。それを生身の人の救われなさと感じる心理は、いまはなかった。ただ隣に座る男の様子を気にして、老人はちらと右に目を走らせた。
ブルックス・ブラザーズの仕立てのいいスーツに身を包み、ジョンストン&マーフィの革靴を履いた足をゆったりと組んで、エルメスのハンケチでしきりに顔を扇《あお》いでいる。五十代も後半に差しかかった横顔は相応に枯れ、縁がかった瞳は年月に醸成された分別の色を帯びていたが、老人には、まだ十分に精気を溜め込んだ男の生臭さが直《じか》に感じ取れた。より快適な暮らしを実現するために、いつでもより多くのものを求める。肉体の欲求に率直で、人には欲望を充足させる権利があると定め、その思潮を世界に押し広げることを文明化と呼んで疑わない。洗練された服飾品をそつなく着こなし、それが嫌味にならない立居振る舞いもしっかり学んで、欲得ずくの内面はちらりとも表に出さない――早い話、この国の支配階層《エスタブリッシュメント》のありようを体現しているのが、老人の隣に腰かける男だった。
対して老人は、全体的に野暮ったい格好をしている。スーツはサビル・ローの一級品だが、老け込んで肉が落ちる前に仕立てたものなので、上着もズボンもだぶついた印象は否めない。度の強い老眼鏡は、しわくちゃの顔に埋め込まれた目玉を異様に大きく見せ、両手を置いた杖《つえ》の柄はすり減って久しい。すべてを新調する財力はあっても、老人はじき柩《ひつぎ》に入る体を無闇に飾り立てる気にはなれなかった。唯一、右手の薬指に大粒のダイヤの指輪をはめているが、これは飾りではなく、生命保険の一種と言った方が正しい。
たとえば暴漢に襲われた時、このダイヤを投げて暴漢たちの気を逸らせば、その隙に逃げおおせることができる。無論、老人は暴漢が出没しそうな場所にひとりで出かけることはない。いまも拳銃を携えた護衛が近くに待機しており、老人に危害が加えられる気配があれば即座に行動を起こす。だが老人は――老人と同じ民族の血を引く者たちは、自分の身は自分で守るしかないと幼少期から教え込まれて育つ。高価な宝飾品は絶えず身に帯び、蓄財の隠し場所は家族にさえ教えるなと教育される。洗練されたエスタブリッシュメントたちの中に身を置き、敬虔《けいけん》なカソリックの信者を装っていても、身に染みついた保険教育だけは捨て去ることができない。老人の民族は、そうして危険を分散する方法を体得し、二千年に及ぶ侵略と迫害の歴史を生き抜いてきたのだ。
実際、暴漢はどこにでもいる。ついこの間も、ナチスドイツという暴漢に襲われて数百万の同胞が命を落とした。ナチは潰《つい》え去ったが、それで迫害の歴史が幕を閉じたわけではない。たとえ約束の地に新たな国家が建設されたとしても、同胞たちの苦難は果てることなく続く。だから互助組織≠フようなものが作られ、その一端に名を連ねる自分の存在が重要にもなる……。
老人は、小さく息を吐いた。ずっと昔、リョウにその話をした時、彼は『大和民族には望めない話です』と応えて微笑した。ひどく寂しげな微笑だった。あの微笑を覚えていなかったら、自分は彼が持ちかけた取引を黙殺していただろう。あんなふうに腹蔵《ふくぞう》なく感情を示せる民族性を愛し、憐れまなかったら、ワシントンに巣食う魑魅魍魎《ちみもうりょう》への橋渡しに骨を折ることもなかっただろう。隠居同然の身をポトマックの河岸に運び、このベンチで再び魑魅魍魎の一匹と話をすることも――。
「夢を見ていたんでしょうな、きっと」
ハンケチを煽る手の動きが止まり、男の目が静かにこちらに向けられた。彼とこのベンチに並んで座るのは、これが初めてではない。ニューヨーク株式市場が大暴落した時も、ナチスドイツがポーランドに侵攻した時も、日本のゼロ・ファイターがパールハーバーに押し寄せた時も。老人と男は決まってこのベンチに座り、大統領執務室《オーバル・ルーム》や外交会議の場では話せないことを話し、決められないことを決めてきた。どちらかが頼み事をし、どちらかが便宜《べんぎ》を図り、その結果が国を、世界を動かすさまを幾度も目撃してきた。
いま、老人が互助組織≠フ一員として果たす役割は終わり、悲願の新国家をパレスチナに建設する仕事――政財界への根回しや下工作といった汚れ仕事は、老人の後進たちに託されている。老人はニューヨークの住まいからほとんど動かず、男と向き合うのも三年ぶりのことだったが、昨晩、電話で急きょ面会を申し入れた老人の事情を、男が察していないはずはなかった。
そうでなければ、分刻みのスケジュールをやり繰りしてまで、男が朝一番の面会を了承する道理はない。事態は逼迫《ひっぱく》しており、男はそれを承知している。この数ヵ月、太平洋の片隅でひそかに暗闘がくり広げられてきたことも、それがどんな幕切れを迎えつつあるかも、すべて知った上でここに座っている。
老人は河面に目を落としたまま、「十何年も昔の話です」と言葉を継いだ。
「ひとりの日本人と知り合いました。駐在武官としてこの地に派遣されていた海軍将校です。とても聡明で、学習意欲の強い若者でしてな。こちらの文物や考え方を取り入れて、自国の発展に役立てようと余念がありませんでした。いまにして思えば、彼には見えていたんでしょう。遠からずこの国と自分の国が戦火を交えることが。その帰結も含めて……」
とうの昔に調査済みのことでも、男は「ほう?」と鷹揚《おうよう》に相槌《あいづち》を打ってみせた。持ちつ持たれつの関係をよそに、男が高みから見下ろす態度を取るのは珍しくないが、この時は完全に見下されているという感覚が老人にはあった。別にどうということはない。ここは親交を温める場ではなく、互いの利害を調整する場。すり合わせられる利害が存在するなら、相手を心底憎んでいても手は結び合える。老人は淡々と述懐を続けた。
「彼の家はエンペラーの血筋を引く名家で、満洲や上海にも事業の手を広げておりましてな。現地のユダヤ・コミュニティにも知己《ちき》があるようで、その縁で彼はよくわたしの家に遊びにきました。学びにきた、と言った方が正確かもしれません。彼に尋ねられるまま、わたしはわたしの民族の話をしました。生き延びるために我々が培ってきた矜持《きょうじ》、世界観、人生観。自己の安全を確保するだけで、収入の大部分が消し飛んでしまう現実。台風一過という言葉に象徴されるように、彼の国には苦難はいつか過ぎ去るものという考え方がありますが、我々にはそれがない。遠い昔に国を喪《うしな》い、流浪を定められた民族にとって、苦難は一過性のものではなく、常に向き合っていかざるを得ない現実なのだと……。まあそういった話です。
彼には少なからぬ驚きだったでしょう。日本は他国や他民族に侵略された歴史を持たない。独裁者の圧政に苦しんだこともなければ、国を亡くす絶望も知らない。蒙古《もうこ》の襲来といっても、あれは我々の感覚で言えば小競《こぜ》り合いです。百年に及ぶ戦国の歴史も、侵略と略奪に明け暮れた中世ヨーロッパに較べれば長閑《のどか》なもの……。あの国は本当に世間知らずで、なんの苦労もなく育ってきた良家の子息みたいなものなのです。それゆえにおおらかで、研鑚《けんさん》に励む心根も人一倍ですが、国を揺るがす大事に出くわすと生真面目に思い詰めてしまう。一億玉砕は、わたしに言わせれば狂気なんかじゃありません。日本人の生真面目さの現れです。民族が死に絶えて、国体の護持もなにもあったものじゃない。『死すとも固守』せねばならんものなぞ、この世にありはしないのに、真剣に思い詰めていられるというのはそれだけ平和な証拠です。その意味で……そう、あのリョウという青年は、紛れもなく日本人でした」
男は肩をすくめ、公園の端に聳《そび》えるジェファーソン記念館に視線を移した。半分も理解していないし、するつもりもないという横顔だった。先住民の虐殺をもって始まり、独立戦争、南北戦争を経て形成されたこの国の歴史は、勝利し続けることを要求する国是《こくぜ》を育み、自己犠牲の尊さは説いても、敵の身になって考えるという思潮は封殺してきた節がある。自分やリョウが各々の民族の性《さが》を引きずっているように、この男もアメリカ人でしかないということか。老人は嘆息を堪《こら》え、気《け》だるそうに泳ぐ水鳥を河面に見つめた。
「彼がわたしからなにを学び、自国に持ち帰ったのかは定かでありません。リョウとの音信はそれきり途絶えました。彼が再びわたしに接触してきたのは、一年ほど前のことです。日本国内のユダヤ・コミュニティを介し、彼がわたしに送って寄越した手紙には、あるべき終戦の形≠模索しているのだと書かれていました」
「あるべき終戦の形……」
「そう。そしてそのために力を貸してほしい。まだ具体的な方策は見つからないが、その機会は必ず見つけられると……。わたしは伝《つて》を頼って、彼の近況を調べさせました。信じがたい話ですが、彼は十数年の間、ずっと思い詰めてきたようでした。ミッドウェーの惨敗で敗色が濃くなってからは、エリートの道を蹴って激戦地に赴き、戦場の空気を肌で感じ取ろうともしていた。彼はそこで祖国の行く末を見定め、日本人が国を喪うことを予見したのでしょう。ユダヤの民同様、亡国の民になった日本人が苛酷な世界で生き延びるには、自らを強化する必要がある。そのために、終戦は国家の切腹をもって迎えられねばならぬ……。なんとも気宇壮大《きうそうだい》な話で、おいそれと返事ができるような内容ではありませんでした」
「だがあなたは彼に協力をした」本題に入る前のひと呼吸を与えず、男の鋭い目と声が間髪入れずに老人を射抜いた。「なぜです?」
「彼が条件を整えてきたからです。戦後の世界情勢を決し得る高感度水中ソナー……ローレライの譲渡と引き換えに、原子爆弾の投下地点を帝都に定めさせる」
「〈シーゴースト〉に関しては、我々も以前から存在をつかんでいましたよ。内密に捕獲部隊を組織して、行方を追わせてもいた。ドイツが無条件降伏をした後は、開発計画の最高責任者であるSS長官の言質《げんち》も……」
「しかし捕獲の目途《めど》は一向に立たなかった。それを原子爆弾の投下地点を変更するだけで提供してくれるというのです。最小の労力で最大の見返りを受けられる、誰の目にも有利な取引でした。現に少し後押しをしただけで、計画は自然に転がり始めた。ワシントンでは、黄禍論《こうかろん》が生きているのではないかと思えるほどに」
黄色人種の興起を西洋文明とキリスト教文化を脅かす禍《わざわい》≠ニ捉え、ヨーロッパ諸国は団結して対抗すべしと説いたのはドイツ皇帝、ウィルヘルム二世だが、同様の差別主義者《レイシスト》は現在の合衆国にも――特に国粋主義者と呼ばれる者たちの中に掃《は》いて捨てるほどいる。作戦本部や海軍情報部《ONI》、原子爆弾の投下地点を定める目標選定委員会に加わる軍人たち。彼らと切ってもきれない関係にある軍需産業のオーナーたち。さらには数人の議員、官僚たちにもその気《け》≠ェなければ、今回の計画は端《はな》から動かなかっただろう。老人の皮肉混じりの声に、男は「それは誤解です」と微かに語気を荒らげた。
「我々は肌の色でいたずらに民族を蔑視したりはしない。日本を降《くだ》し、話し合う余地が持てるのなら、それに越したことはない。あなたの後押しを受けた者たちが計画を進める一方で、実力によるローレライの収奪を継続させたのはだからこそです。無闇《むやみ》に日本の首府を潰して、日本全土を発狂させるのは我々の本意ではない」
そうなら、計画を白日のもとにさらして潰すこともできたはずではないか? 老人の冷たい視線に気づいたのか、男は決まり悪げな目を対岸に逃がした。
「……確かに、容認の気配はホワイトハウスにもなきにしもあらずでした。個人的な感情を言わせてもらえれば、わたしだってあの黄色い猿どもは地上から根絶したい。成熟を知らず、理想を解そうとしない蛮族どもですからね。しかしそれと、アメリカ合衆国の国是は別です。一個人の思惑で世界を裁量できると信じるのは、傲慢以外のなにものでもない」
それはそうだ、と老人は認めた。自分には、この国有数と認められる財力があり、金融市場に影響力を持つ知人が数多くいる。欧州各国の金融界に根づいた互助組織≠フ同胞たちと連絡を取れば、国家の枠組みを超え、それぞれの支配階層に働きかけることもできる。一方、男には国を動かす権力があり、両者が座るこのベンチではいくつかの重要な決定が――国際情勢すら左右する決定が下されてきたが、それは世界の奔流に少しだけ干渉し、双方に有益な結果を導き出す行為であって、流れそのものが変えられたわけではない。目の前に横たわるポトマック河の流れ同様、世界の奔流はあらかじめ決まった道筋を流れており、誰にも止められないし、河筋を変えることもできないものだ。神の啓示を受け、紅海を真っ二つに割ってみせたモーセでさえ、その後のユダヤの衰亡を食い止められなかったのだから。
「わたしが知りたいことはひとつ。これがあなた自身の個人的感情から発したことなのか、あなたの民族の意志に端を発することなのかということです。かつてあなた方は、現地の同胞を使ってロシア革命を誘導し、ソ連という一大共産圏国家の創出に加担した。アメリカ一国が強大化するのを嫌い、対抗馬を創って力の均衡を図ったのでしょうが……」
男が言う。まったく無関係な話であっても、なにを言わんとしているのかは明白だった。老人は、「壮大な推理をなさる」と苦笑を返しておいた。
「レーニンの本名はウリヤーノフ。トロツキーはブロンスタイン。他にもいますよ。ロシア革命の立て役者は、すべてロシア名を騙《かた》るロシア系ユダヤ人です。ついでに言うなら、弱小国家の日本に膨大な戦費を提供して、日露戦争を勝利に導いたのはヤコブ・シフ。あなたの同胞にして、クーン・ロエブ商会の支配人だ」
シフは、互助組織≠フ順列においては老人の先輩格に当たる。決して表には現れず、明確な意志統制の場も持たない互助組織≠セが、ひとつ事を前にした時、どこからともなく進むべき道筋が示されるのは、民族の血と言う他はない結束力のなさしめる業だった。老人は黙して男の言葉を受け止めた。
「日露戦争に敗れたロシアは凋落《ちょうらく》の道をたどり始め、ロシア革命は見事な成功を収めた。しかし日本を不必要に増長させたのはまずかったですな。ロシアに勝利した時から、日本は己を過信し、傲慢になり、大陸への進出を本格化させた。第一次世界大戦がもたらした好況も追い風になって、日本は着実に力を溜め込んでいった。これはあなた方にとっては明らかに誤算であり、失策だ。それゆえ、あなたは今回の計画に加担しなければならなかった。あなたの民族の失策を帳消しにするために、日本という国家のハラキリに手を貸す必要があったのではありませんか?」
リョウの計画をワシントンに持ちかけたのは自分の意志だが、それ自体、互助組織≠フ意向だと言われても否定はできない。彼らの黙認を受けての行動という自覚も、老人の中には絶えずあった。腹の底に冷たいさざ波が立つのを感じつつ、老人は「それを言うなら、原子爆弾の投下もルーズベルトの失策を挽回するための方便でしょう」とやり返した。
「ヤルタの密約がなければ、実際に原子爆弾を投下する必要はなかった。実験映像の公開で事が済んだものを、ソ連が極東に進出する前に日本を降伏させたい一心で、あなた方は原子爆弾の投下を強行した。違いますか?」
男は口を噤《つぐ》み、目を逸らした。同じ穴の狢《むじな》同士、水掛け論で時間を無駄にする気はないらしい。老人も矛《ほこ》を収める息をつき、「侮《あなど》れない相手なのですよ」と静かに続けた。
「あの国には隣り百姓という言葉がある。隣の農家に合わせて種を蒔《ま》き、肥料をやり、刈り入れをする。すべて隣のやることに合わせて生き方を定めるという意味です。これを自主性の欠如と思ってはいけない。隣のやることを規範とし、それに従うというのはひとつの自主性です。春夏秋冬に合わせて一斉に種を蒔き、刈り入れをする。そうしなければ麦ひとつ実らないという切迫感は、我々遊牧民族にはないメンタリティだ。彼らはその気候風土ゆえに、一致団結して事を行う訓練を千数百年にわたって積んでいる。資源のひとつも持たない弱小国家が、四年の長きにわたってアメリカと対し得たのもその証左。この力が経済活動に振り向けられた時……果たしてアメリカ合衆国は、世界一の大国の名を維持できますかな?」
「世界を平準化して、かつての栄華を取り戻そうとする民にとっても障害になると?」
薄い笑みを浮かべて、男はようやく見つけたのだろう反論を口にした。さすがはアメリカ人、細部の意味合いを無視してわかりやすい言葉で括《くく》ってくれる。老人は否定する気にもなれず、「三発目の原子爆弾を投下せずとも、日本は無条件降伏を受け入れるでしょう」と、こちらもわかりやすい話をしてやった。
「ソ連がいくら火事場泥棒を狙ったところで、日本はアメリカの占領下に置かれます。反共の最前線基地にすることも不可能ではありますまい。しかし完全に植民地化し、アメリカの一州に加えることはできない。なぜなら日本には一億近い民がいる。人口の三分の一が黄色い猿になる事態を、アメリカ合衆国は受け入れられない。必然、戦力を解体した後は日本を手放し、表向きは独立を認めるしかなくなる。そこにソ連の付け入る隙が生まれ、極東の島国は二大国の間を揺れ動くことになる」
男は無言だった。「しかし三発目の原子爆弾が帝都を焼き、エンペラーを失った日本国民が発狂の憂き目に遭ったらどうなるか」と押しかぶせて、老人は男の横顔を直視した。
「統制を失った彼らは、最後まで戦い続けるかもしれない。合衆国は原子爆弾の投下を続けざるを得なくなり、日本の人口は半分以下に……いや、さらにその半分にまで減って、アメリカの一州に加えても問題はない程度に減少するかもしれない」
「だがユダヤ並みに強固な民族意識が育まれる可能性もある。あなたの友人の目論見《もくろみ》通り、日本民族は強化されるというわけだ。そして世界の経済秩序が黄色い猿に脅かされる心配もなくなる」
老人が言及を避けた部分を言葉にして、男は苦笑を刻んだ顔をこちらに向けた。「承知しておりますよ。ただ後始末を頼むために、あなたはわたしをここに呼び出したのではない」と続いた声に、老人は年甲斐もなく杖を握る手を震えさせてしまった。
「あなたと、あなたの日本の友人の思惑。それに合衆国の利益。それぞれ微妙な違いはあっても、根底では三者の利害は一致している。最後の局面でちょっとした手違いがあろうと、いまさら後戻りをするべきではない。そうおっしゃりたいのでしょう?」
「ご賢察です」
「なら心配はご無用。原子爆弾の帝都への投下は軍の決定事項です。誰にも変えられません。あなたの推測通りに事が運ぼうが運ぶまいが、我々はトーキョーを焼く。ローレライの入手にも全力を挙げる。これまでのような手加減はしない」
体を押し包む熱気が剥がれ、冷たい空気の膜が足もとから這い上がってくるのが感じられた。「あくまでも合衆国の意志として実行される作戦です」と重ねて、男はベンチから立ち上がった。
「あなたとその日本の将校との間にどんな約束事があろうが、我々には関係ない。誤算は、誤算があったという事実そのものを含めて根こそぎ抹消します」
頭を左右に振って肩の凝りをほぐし、両腕を軽く振り回しながら、男は簡単に結論を言った。すでにあらゆる可能性を検討し、すべてに対応できる態勢を整えた声だった。自分よりよほど早く、男はウェーク島での顛末《てんまつ》を聞き及んでいたのだろう。不躾《ぶしつけ》なまでに精気を発散させる男の肉体を見るのは辛く、老人は「……いいでしょう」と目を伏せるよりなかった。
「夢を見たとおっしゃいましたね」
周囲に散った警護官たちに目配せしつつ、男はぽつりと問いかけた。老人は、虚をつかれた思いでその顔を見上げた。
「亡国の民となった日本人が強化されれば、同じ痛みを持つ者同士、いつの日か盟友として手を結べる時がくるかもしれない。……それがあなたの見た夢ですか?」
だしぬけに問われて、最初に思い出したのはやはりリョウの寂しげな微笑だった。リョウ……リョウキツ・アサクラ。生真面目な日本の青年。自分は、自分の民族は、あんな無防備な顔を他人には向けられない。おそらく現在の君もそうだろう。すべての人間があの頃の君のように笑うには、この世界はあまりにも苛酷で複雑すぎる。あれは君の若さ、日本民族の未熟さが紡《つむ》いだ清冽な笑みだった。
だがいまは、あの笑顔をもういちど見たいと思う。刻苦を乗り越え、成熟を迎えた時に得られる笑顔もあるはずだと信じたい。利害の駆け引きが前提であっても、なにもかもが損得勘定の産物だとは思わないで欲しい。心に鍵をかけ、周囲に城壁を張り巡らさなければ生きていけない我々だからこそ、本音で語りあえる友人が欲しくなることもある。どれほど律しようとも、しょせん生き続ける限りは飢え、わずかな寒暖の変化にどうしようもなく左右される生身の人間なのだから……。
もっとも、それもこの歳になってみて感じることだ。まだ精気に溢れ、肉体の欲求を満たすのに余念のない男には、話したところで伝わるまい。老人は、「疲れていたのでしょう」と自嘲混じりに答えた。
「だから夢を見る……。我々にとって、夢は疲労の最中につかの間訪れる幻でしかありません」
男は目の光をやわらげ、さもあらんと納得した顔を見せてから、待ち受ける警護官たちの方に歩いていった。老人はその背中を見送らず、ポトマックの流れにしばらく目を注ぎ続けた。
世界の奔流はあらかじめ決している。君もわたしも、その流れに運ばれる塵《ちり》のひとつに過ぎない。流れの果てになにが待っていようと、もう会えまいな。リョウ――。粛々と流れる河面を見つめながら、老人は、自分は彼ではなく、自分自身を憐れんだのだろうと思いついていた。
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一睡もせず、半ば熱に浮かされて書いた文字の列は、我ながら判読に苦労する代物だった。線を引いた箇所を拾い読みし、ところどころ修正の筆を走らせつつ、大湊《おおみなと》三吉《さんきち》は十分だけだ≠ニ言った同期の言葉を反芻《はんすう》していた。
十分。それがこれから会う人物との面談に許された時間だ。首席秘書官を務める同期の口利きが効いたにしても、相手の置かれた立場を思えば、いまこの時期に時間を取ってもらえたのは奇跡に近い。まだ体の節々にだるさが残り、頭の芯がぼうっとする感覚も抜けきらなかったが、千載一遇の機会を無駄にするなと命じる声が、大湊に徹夜でまとめた文書の確認を続けさせた。病み上がりの体を突き上げるその声は、いまだ死に顔を拝んでいない中村《なかむら》の声であったり、危険を承知で通信記録を持ち出してきた天本《あまもと》の声であったり、すれ違う程度にしか会っていない広島の芸者の声であったりした。
それとは別に、部屋の外から聞こえてくる複数の人のざわめき、押し殺した息づかいも大湊は感じ取っていた。玄関にたむろし、海軍省の最奥に位置するこの部屋の主が現れるのをじっと待っているのは、黒潮会(海軍省詰め記者クラブ)の新聞記者たちだろう。秘書官に困まれて登庁する部屋の主に近づく術《すべ》はなくとも、彼らは部屋の主の表情ひとつ、歩き方ひとつから最高戦争指導会議のなりゆきを推測し、お定まりの記者会見では窺えない真実を見極めようとする。『戦局最悪、最後の一線国体護持』と情報局総裁が談話を発表し、『死中活あるを信ず』と陸軍大臣が徹底抗戦を呼びかける一方で、この部屋の主はなにを考え、どんな手に打って出るつもりでいるのか。寡黙な横顔から真意を探り出し、混迷の渦中にあるこの国の先行きを見通そうと、鵜《う》の目|鷹《たか》の目で待ち受けているのに違いなかった。
昨日、八月十日未明。ポツダム宣言受諾の是非をめぐる御前会議で、この部屋の主が示した手腕は鮮やかなものだった。燃料も糧食も尽き果てたところに、原子爆弾の脅威を二度まで見せられては、もはや戦争の継続はあり得ない。国体護持、すなわち天皇の統帥大権存続を条件に、ポツダム宣言受諾の方向で戦争指導会議は進捗《しんちょく》したものの、陸相と陸軍参謀総長、軍令部総長の三人はさらに複数の留保条件を付け加え、これらがすべて入れられなければ受諾は不可能と譲らなかった。国体護持一本に的を絞る首相と外相、部屋の主ら三人と意見が真っ二つにわかれ、御前会議で天皇の裁断を仰ぐことになったのだが、この時、部屋の主はあえて決を取らず、指導会譲の混乱をそのまま御前会議に持ち込むよう首相に提案した。
多数決で終戦を決めると、陸軍が必ず騒ぎ出す。下手をすれば中堅将校らがクーデターを起こしかねない。そこで陛下の前でそれぞれの意見を述べさせ、天皇の聖断をもって指導会議の結論とするべしと訴えたのだった。首相はこれに賛成した。部屋の主の予想通り、天皇は国体護持のみを条件とした受諾の聖断を下され、それは誰にも抗えない決定事項となって抗戦派の口を封じた。ポツダム宣言条件付き受諾の回答はスイス、スウェーデンを通じて米英支ソ四国に伝えられ、海外放送でも発信された。この瞬間、日本は敗戦という現実に向けて最初の一歩を踏み出した。
もっとも、連合国がそれを受け入れる保証はない――むしろまったくないと言った方が正しい。まだ連合国からの返信はないが、彼らは日本がようやく捻出《ねんしゅつ》した条件付き受諾になど目もくれず、間違いなく再度の無条件受諾を突きつけてくる。そうなれば徹底抗戦派が息を吹き返し、終戦への道筋は振り出しに戻る。無条件受諾をめぐって議論が延々戦わされ、その間に三発目の原子爆弾が投下される可能性も……。
手が震え、鉛筆の芯が紙に穴を開けた。十分、十分だ。その時間内にすべてを伝えきり、部屋の主の了解を取りつけなければならない。大湊は余念を払い、大和田《おおわだ》通信隊の通信記録の抜き書きと、自分の推測をまとめた文書に意識を集中した。無条件受諾の要求が突きつけられた時、首相や外相と組んで徹底抗戦派を封じ込められるのは、この部屋の主を置いて他にない。記者たちの注目が集まるのは道理だが、大湊には彼らよりよほど切迫した事情があった。
国家の切腹、あるべき終戦の形。謎めいた言葉の数々と、中村の命と引き替えになった通信記録。それらが指し示す恐怖の正体をつかんだいまは、もうなりふりかまってはいられなかった。隠蔽《いんぺい》しか頭にない軍令部に話を通す時間も惜しい。たとえ更迭《こうてつ》されることになっても、帝国海軍の頂点を――この部屋の主を直撃して、迅速な対応を期待するよりない。大きく深呼吸をし、汗ばんだ手に鉛筆を握り直した大湊は、ざわと揺れた外の空気を感じて咄嗟《とっさ》に腰を浮かせた。
来た。応接用のソファから立ち上がり、直立不動になって数秒。樫《かし》の頑丈な木材で作られた扉が開き、この部屋の主が大湊の目前に現れた。階下から響く記者たちの喧噪を背に、ちんと立ち尽くした米内《よない》光政《みつまさ》海軍大臣と向き合った大湊は、とにかく脱帽敬礼をした。
御年六十五歳。一度は内閣総理大臣の座に就きながらも、対英米協調を旨とする平和的政策が世の風潮に受け入れられず、わずか半年で退陣。昨年、東条内閣の崩壊とともに海軍大臣に返り咲いてからは、降伏などあり得ないという空気の中、終戦工作を先頭に立って進めてきた。首尾一貫して戦争抑止の立場を取り続ける米内海相は、連日の激務で疲れきっているという同期の言葉をよそに、思いのほか血色のいい顔で大湊に答礼を返した。泰然《たいぜん》とした表情は猛々しさとは無縁で、大将の肩章がなければ事務屋と見過ごしかねない。短く刈り整えられた髪は黒々としており、歳より十は若く見えたが、厚ぼったい瞼《まぶた》の下から覗く眼光は鋭いと大湊には感じられた。
ひとつ心証を害すれば、もう浅倉を追う手立てはなくなる。大湊は慎重に米内の目を見返した。後から入室した首席秘書官の同期が扉を閉め、紹介の口を開きかけたようだったが、米内はかまわずに大湊に歩み寄り、「待たせてすまない」と口を開いた。
「よければさっそく始めてくれ。浅倉大佐の一件、わたしも気にしていた」
真摯《しんし》な光を両方の瞳に宿し、米内は同じ目線からそう言ってくれた。一気に緊張がほぐれ、大湊は「はっ……」と応じた声を詰まらせてしまった。
米内は浅倉の履歴はもちろん、事件の概要についても知悉《ちしつ》していた。一報があった時点で、軍令部には調査の徹底を下如し、必要なら随時調査人員を回すとまで通達しておいたのだという。しかし大川内《おおこうち》軍令部総長は、部内の問題として内密に処理することにこだわり、通り一遍の調査報告を上げると海軍省の干渉を黙殺した。大湊が提出した報告書も、一部が抜粋されて送られただけという体《てい》たらくだった。
「問題はローレライだよ。あれが宙に浮いたままだという事実を、軍令部は軽く見すぎている。一個人の変節、一戦利潜水艦の行方を云々するより、すべてはローレライありきの事態だということに着目する必要がある」
そんな言葉で軍令部の事件への対応を一蹴《いっしゅう》した米内は、「任せきりにしておいて、いまさら言えたことでもないが……」と付け加えるのを忘れなかった。終戦に向けて足並みをそろえよと言っていた大川内軍令部総長が、九日の戦争指導合議で米内と袂《たもと》を分かち、結果的に抗戦派に与《くみ》することになったのは、そうした軋轢《あつれき》とも無関係ではなかったのかもしれない。いずれ、一年にわたる終戦工作をポツダム宣言と原子爆弾で吹き飛ばされ、海軍部内の意志統制もままならなくなった現実を前にして、もう削《けず》れる骨身もないというのが米内の本音だろう。この状況下に自己を省《かえり》みる言葉が出てくるだけでも驚きで、大湊はひたすら恐縮しつつ、事件に関する持論を簡潔に説明していった。
浅倉大佐は部内の協力者と結託して〈|伊507《イゴマルナナ》〉を出撃させ、五島列島沖に沈むローレライを回収した後、ウェーク島へと向かわせた。その目的は、ローレライを米軍に提供し、見返りに彼の望む終戦の形を引き出すことにある。それはおそらく、原子爆弾による帝都――宮城《きゅうじょう》の破壊をもって完遂《かんすい》する、日本という国家の切腹。精神の拠《よ》りどころを自ら破壊し、己の虚無と向き合い、国際社会の現実に対し得る民族性の獲得を目指す。すなわち日本民族を強化、再生させるための通過儀礼。
「仮説ですらない、直観での物言いであることは承知しておりますが、浅倉大佐が〈伊507〉をウェーク島に差し向けた事実は見逃せません。ウェーク島は、米軍の勢力圏内に取り残された孤島であります。我が方の根拠地隊が駐留してはおりますが、通交が途絶えて久しく、基地としての機能はすでに失われております。さらに本土空襲の前線基地であるサイパン、テニアン、グアムとつかず離れずの位置関係にあり、現存する陣地としては米本土にもっとも近い。米軍との取引を行うのに、これ以上の適地はないかと」
「浅倉大佐もウェークにいるというのが、君の推測か?」
執務机の向こうで紫煙をくゆらせていた米内は、そう確かめて短くなったタバコを灰皿に押しつけた。もう約束の十分が終わるまで間がない。午前九時に差しかかりつつある腕時計に目を落とした大湊は、「は。司令、参謀らを抱き込み、すでに米軍と接触の算段を整えているものと思われます」と応じ、書類を小脇に挟んで姿勢を正した。
「この上は直接ウェーク島に乗り込み、浅倉大佐を始めとする謀反人《むほんにん》を一斉に検挙。〈伊507〉を総隊の指揮下に帰順させるよりないというのが、小官の判断であります。お許しいただけるなら、小官が自ら部隊を率いて同地に赴《おもむ》く覚悟であります。閣下のご采配《さいはい》を仰ぎ、ウェーク島に向かう航空機の手配、及び臨時部隊の編制をお願いしたく、ここに参った次第であります」
言いきってから、大湊は上体を前に傾けて頭を下げた。脱帽敬礼というより、頭《こうべ》を垂れての請願《せいがん》だった。これで本当に最後。ここで退けられたら、浅倉に繋がる線は永遠に断ち切られる。帝海は汚辱にまみれたまま末期を迎えねばならなくなり、中村の死も無駄になってしまう。壁時計の秒針の音が嫌に大きく聞こえる静寂の中、大湊は頭を上げずに米内の返答を待った。やがて卓上ライターの点火する音が響き渡り、「軽率だな」という声が十五畳ほどある大臣室の空間を満たした。
「以前、浅倉大佐が口にした言葉と、通信記録に残ったウェーク島の名前。それだけの根拠で、君はウェークに部隊を差し向けろと言うのか? なけなしの燃料を輸送機に食わせて」
煙と一緒に吐き出した米内は、疑念に満ちた目をこちらに向けた。至極当然、予想した通りの反応だった。無体ははなから承知、この程度のことであきらめるつもりはない。大湊は拳を握りしめ、「失礼ながら、閣下はこれがローレライありきの事態であると申されました」と搾《しぼ》り出した。
「小官も同意見であります。原子爆弾が現実に完成し、広島と長崎を焼いたいまでは、ローレライが次代の戦争を決する兵器になり得るとわかります」
ちらと時計に目を走らせながらも、米内は先を促すようにゆっくりタバコを口に近づけた。詰め寄りたい衝動を堪《こら》えて、大湊は静かに続けた。
「小官が海兵の門を叩いた頃、海戦の雌雄は艦艇同士の砲撃戦で決するのが当たり前で、航空機が海戦の主力になる時代が来るとは考えもつきませんでした。ディーゼル機関がこれほど早く国産されるとは思っておりませんでしたし、電探についても同様であります。ましてロケット兵器やジェット戦闘機、原子爆弾など……。それらを前提にした戦場のありようは、小官の頭ではもう想像がつきませんが、新技術に即応した戦術や戦略といったものはあると思えます。おそらく米軍にはそれが見えているのでしょう。ローレライについても、米国は我々には想像外の運用方法を案出していると考えるのが妥当です。次の戦争でも勝利を収めるために」
「次の戦争……か」ぽつりと呟き、米内は顔を伏せた。原子爆弾の投下はソ連に対する牽制に過ぎず、日本の頭ごしに対ソ戦略を推し進める米国の思惑を、とうの昔に察している男の声だった。
「そのような重大な兵器を手にした時、浅倉ならなにを考えるか。小官の考えはその一点に根ざしております。天才であるがゆえに、あの男は過程を省いて結論に達します。小官のごとき凡俗に説明をし、同意を得る手間を惜しんで、結果だけを示そうとします。ある意味、この機械化時代に誰よりも即応した人間かもしれません。そんな男と対するには、こちらも直観に頼って行動するしかない。たとえ軍規違反を問われても、通常の手続きを無視した対応をしてみせなければ、浅倉大佐に追いつくことはできないと判断いたしました。軍令部の頭ごしに閣下への拝謁《はいえつ》を願ったのは、それゆえであります。認められないとおっしゃるのであれば、どのような処分であってもお受けします。ただウェーク根拠地隊に調査の目を向けられますよう、なにとぞご配慮のほどを……」
大湊はもう一度、今度は深々と頭を垂れた。海軍将校としてではなく、この国に生きるひとりの人間としての行動だった。不安も緊張も溶けて流れ、限りなく無心に近づいてゆく胸のうちを不思議に思いながら、結論が下される時を待った。
「君は、海兵の成績は何番だった?」
どれほどそうしていたのか、米内が不意に口を開いたのを潮に大湊は頭を上げた。「……二十八番であります」と答えると、米内は微かに口もとをほころばせた。
「三十番以内ならたいしたものだ。わたしは百二十五人中六十八番。中の下だった」
まだ半分も喫っていないタバコをもみ消し、米内は続けた。
「国に大事が重ならなければ、おそらく誰の目にも止まらずに退官の日を迎えていただろう。この通り、口も下手だし、押し出しも強くない。頭の回転だって決して早い方じゃない。君が凡俗なら、わたしも凡俗中の凡俗だ」
その声は笑っていたが、厚い瞼の下の目には奥底まで突き通る光があった。口中の唾を飲み下すこともできず、大湊は米内の視線を受け止め続けた。
「だが凡俗だからこそ見えてくるものもある。人より慎重に歩き、周囲の変化に臆病でいられるから、機を逃さずに動けることもある。凡俗ゆえに、力およばぬことも多いが……」
伏せた視線に、遅きに失した終戦工作への悔恨を滲ませたかと思うと、米内は机の引き出しから一片の紙を取り出した。「今朝早く、大和田通信隊に奇妙な入電があった」と続けた時には、鋭い光がその瞳に戻っていた。
「発、〈伊507〉。宛、軍令部。三発目の原子爆弾を搭載した敵機は翌十二日にテニアンを発進。投下目標は帝都東京。対処を急がれたし。……すべて平文だ」
全身の血が沸騰して、一瞬、体の制御ができなくなった。つかみかかってメモをひったくる衝動はどうにか堪えたものの、大湊は無意識に一歩前に踏み出し、「返信は、なんと?」と、海相への礼儀を完全に失した声を発していた。
「打てるはずなかろう。帝国海軍には〈伊507〉という艦艇は存在せんのだ。地下室の落磐《らくばん》事故で死んだ村瀬大佐を除けば、大和田にはその艦籍を知る者はいない。敵の攪乱《かくらん》工作か、いたずら程度に思われて黙殺されるところだった。村瀬大佐の一件で隊司令が神経質になっていなかったら、わたしの耳にも届かなかっただろう」
敢えて事故という語句を強調して、米内は吐き捨てるように続けた。「わたしの一存で返信はできる。だがそうすれば〈伊507〉の存在を認め、入電内容も事実と認めることになる。それはできない。帝都に原子爆弾が落ちると知っても、我々には防ぐ手立てがなにひとつない。高空から攻め寄せるB−29に高射砲の弾はまるで届かんし、迎撃できる戦闘機もない。テニアンに仕掛けられる艦隊もなければ、燃料すらない。知らせたところでどうにもできんのなら、騒ぎ立てても無益だ。恐慌を引き起こさんためにも、口は閉じていた方がいい」
「しかし警報を発令して、市内に避難命令を出すことはできるはずです。陛下にも松代《まつしろ》に御動座していただいて――」
「それを御前会議でどう説明する? ローレライの件、浅倉大佐の謀反、〈伊507〉。すべてを説明しなくては、避難命令の発令はもとより、御動座をお勧めすることもできん。そしてすべてを明かせば、陸軍の徹底抗戦派は必ず決起する。そうなったらもう誰にも抑えられん。閣内の海軍関係者は残らず更迭されて、日本は本土決戦にまっしぐらだ」
ひと息に言いきった米内は、「……それに、陛下はおそらく御動座をお断わりになるよ。そういうお方だ」と付け足して瞑目《めいもく》した。〈回天〉を搭載した潜水艦が数杯、外洋で特攻作戦に従事中ではあるが、いまからテニアン島に差し向けられないか? 大湊はあきらめきれずに思考を働かせ、すぐにだめだと結論して暗澹《あんたん》となった。到底、間に合わないし、潜水艦にはB−29の離陸を阻止する手段がない。どうにもできんという海相の言葉が鉛になって胸に落ち、大湊はすっかり興奮の醒めた顔を足もとの絨毯《じゅうたん》に向けた。
「君の推測は正しい。浅倉という男、確かに天才だ。今頃はウェーク島で、我々凡俗が自分で自分の首を絞めているさまを嗤《わら》っているだろう。いっそ彼の思惑通りに事が進んだ方が、この国はさっぱりするのかもしれん」
自嘲混じりの声音に、思わず睨《にら》む目を米内に向けてしまった大湊は、先刻と同じ、鋭い光がその瞳に宿っているのを見て息を呑んだ。「だがな。ひとつおもしろい話がある」と重ねて、米内はおもむろに椅子から立ち上がった。
「〈伊507〉から発せられた無電だが、方位測定の結果では、ウェーク島より南にずれた方向から発信されている。仮に米本土に向かう途中なら北寄りから発信されるはずだし、そもそも日本に警告を発する理由もない」
壁に貼られた太平洋の海図の前に立ち、米内はウェーク島に当てた指先を西南西の方向に滑らせた。
「君に倣《なら》って、直観で推測するとだ。わたしは、〈伊507〉はテニアンに向かっているのだと思う。浅倉の手を離れて、原子爆弾搭載機の発進を防ぐためにな。都合のよすぎる解釈だが、凡俗の頭には他の推測は思いつかん」
テニアン島に達した指先をぴたりと止め、米内はにやと笑った顔をこちらに向けた。二十・三センチ砲――〈伊507〉に装備された、潜水艦にあるまじき強力な備砲。あり得るのかと考えるより先に、彼らならできる、その可能性はあると叫んだ頭が白熱して、大湊は「その後、〈伊507〉からの無電は?」と勢い込んだ。
「ない。一回きりだ。敵に傍受されて、位置を気取《けど》られるのを防ぐためだろう。やる気だよ、彼らは」
米内は笑みを吹き消し、苦味を含んだ顔を海図に戻した。たとえその通りであったとしても、増援ひとつ、補給ひとつ〈伊507〉に回してやれないもどかしさを、皮一枚下に押し留めた表情だった。興奮と落胆が刻々と入れ替わる胸を抱き、濃緑の三種軍装に包まれた米内の背中を見つめた大湊は、「大湊大佐」と唐突に発した声の強さに、咄嗟に踵《かかと》を合わせた。
「君の推測が的を射たものであっても、ウェークに人はやれん。理由はいま説明した通りだ」
海図の前を離れてゆっくり窓際に移動した米内は、「だがそれは正規の手続きに従った場合の話だ」と続け、灯火管制用の分厚いカーテンを開けた。真夏の陽光がテープで補強された窓ガラスごしに差し込み、強い光の奔流が大湊の全身を貫いた。
「君自身、逆賊の謗《そし》りを受ける覚悟でウェークに赴くというなら、横紙破りの方法がないわけでもない。どうだ、軍令部五課長の職を蹴って、逆賊になる覚悟はあるか?」
光の奔流を真正面に受け止め、米内は心の奥底まで質す目をこちらに向けた。大湊は「無論です」と即答した。米内は直立不動の大湊をじっと見据え、不意に顔を窓の方に向けた。
「よろしい。必要な手配はしよう。総長にはわたしの方からそれとなく話しておく」
ひどく素《そ》っ気《け》ない声で米内は言った。自ら軍規を破りはしても、海軍大臣の職責に背を向けるつもりはないという頑《かたく》なな物言いだった。大湊は大湊で、所期の目的を達成できた安堵感は胸の底にしまい、逆賊という言葉の重みだけを確かめて、「ありがとうございます」のひと言を慎重に口にした。
「あと数日で日本帝国も消えてなくなる。勝てば官軍……。今日の逆賊が、明日の国家を支えるということもあろう」
しばらくの沈黙を挟み、米内はそんな口を開いた。自嘲を通り越して軽妙な声だったが、大湊の耳には悲痛に響いた。
「さっき、凡俗だからこそ見えるものもあると言ったな。あれは全部は正しくない。見えるものがあっても、見て見ぬふりができるのが凡俗だ。都合の悪い時には目をつむり、見たいと思うものしか目に入れようとしない。日本をここまで追い込んだのも、浅倉の暴走を止められなかったのも、すべてその凡俗の行いが招いた結果なのかもしれん。……だが、だからと言って理に勝ちすぎる男に凡俗の一掃を許してしまっては、この世は闇になる。
凡俗には、凡俗なりの戦い方がある。最後にもう一度、わたしは自分の思うところに従って目をつむる。存分にやってきてくれ。我々の恥を濯《そそ》ぎ、〈伊507〉の意志に応えるために」
そう締めくくると、米内は迷いのない目をこちらに振り向けた。「はっ!」と背筋をのばし、大湊は陽光に縁取られた大将の肩章が金色に輝くのを見つめた。
数日後にはその肩章も価値を失い、帝国海軍は七十余年にわたる歴史を閉じるのだろう。最後の海軍大臣として帝海の臨終に立ち会う米内が、以後、連合国にどのように扱われ、歴史にどんな裁定を下されるのか。それはその時になってみなければわからない。
いまはただ、米内のような男に看取《みと》ってもらえるなら、帝海も幸いであろうという思いが大湊の胸を埋めた。約束の十分はとうに過ぎており、秘書官が次の予定を伝えにきたが、米内はウェーク島行きに必要な案件を聞き終えるまで大臣室を離れなかった。
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「……そりゃあな、最初に聞いた時は冗談だと思った。だが現実に艦隊は動き出しているんだ。虎の子の重巡を二隻も供出させられて、一群司令のウィンストンは嫌味の電文まで送ってきおった。信じるしかあるまい?」
ダニエル・ボケット准将《じゅんしょう》は赤ら顔をにたりと歪め、士官室係が運んできたばかりのコーヒーに口をつける。塩を効かせた海軍式のコーヒーも、この男の口に入ると甘ったるく澱んでしまいそうだった。マーティン・オブライエンは自分もコーヒーを飲み、相槌《あいづち》を打って体力を浪費する愚を避けた。
それでなくとも、今日は朝から変事続きで疲れることが多い。母港のサンディエゴを離れて三ヵ月、陸《おか》の感触を忘れた体に疲労は常態になって久しいが、自分の艦にお荷物≠迎え入れる作業には、戦闘とは違う種類の消耗を強いられた。挙句、そのお荷物≠ェ噂通りの俗物らしいとわかれば、さっさと放り出してしまいたいというのが正直な心境だったが、一艦艇の指揮官でしかない大佐に、それは口にも態度にも表せない本音だった。
お荷物=\―ダニエル・ボケット准将は第三八任務部隊・第三群を指揮する群司令で、オブライエンはその傘下に加わる航空母艦のひとつ、〈タイコンデロガ〉の艦長。この上下関係は、合衆国海軍に身を置く限りは絶対の効力を発揮する。相手が俗物だろうと無能だろうと群司令として奉《たてまつ》っておかなければならない。
「第三八任務部隊特別混成群は、我々三群を中核として編制される。一群、二群、四群から回される艦艇は、すべて我が三群の指揮下に入る。その栄《は》えある旗艦《きかん》がこの〈タイコンデロガ〉になるんだ。これは名誉なことだよ、艦長」
こちらの思いをよそに、ボケットはほんの一時間前までは空室だった司令官室を見渡し、「絵の一枚も持ってくるんだったな」などと独りごちる。司令部区画《フラッグ・クォーターズ》の一画にある司令官室は、床は深紅のウール敷き、家具調度もホテル並みにそろっていて、ちょっとした邸宅の居間に匹敵するほどの広さがある。海軍に多い自己陶酔型《アイ・ラブ・ミー》の将官を地でゆくボケットのこと、本来の旗艦である〈エセックス〉の司令官室は、さぞかし立派な絵画で飾り立てていたのだろう。オブライエンは嘆息を堪え、「光栄ではありますが、なぜ〈エセックス〉ではいけないのです?」と返した。
ボケットが座乗艦《ざじょうかん》の〈エセックス〉を離れ、この〈タイコンデロガ〉に移乗すると言ってきたのは三時間ほど前、現地時間にしで午前八時。四つの艦隊群を束ねる第三八任務部隊司令からの至急電を受け、三群の全艦艇がテニアン島に向けて移動を開始した矢先のことだった。群司令が移乗してくるということは、この〈タイコンデロガ〉が第三群の旗艦になるということでもある。旗艦が大破でもしたのならともかく、司令が航海途中に座乗艦を変えるなどという話は聞いたためしがない。オブライエン始め、〈タイコンデロガ〉の乗員は狐につままれた面持ちだったが、ボケットは司令付参謀やら作戦士官やらを引き連れ、午前九時には〈タイコンデロガ〉に乗り込んできた。
サイドパイプを鳴らし、将官旗を掲げ、堵列兵《とれつへい》を並べてとにかく迎え入れたものの、釈然としない空気は〈タイコンデロガ〉のみならず、三群の全艦艇の間に流れている。マリアナ海の哨戒任務を切り上げ、テニアン沖に集結せよという任務部隊司令の命令自体、唐突で理解に苦しむ代物なのだ。
四つの艦隊群から艦艇を選り抜き、三群を中核に特別混成群を編制、テニアン沖に配置する。さながらパールハーバーの再現に備えるかのごとき集中配備は、いったいなにを警戒してのものか――。
「〈エセックス〉に恨まれるのが心配かね?」
ボケットは相変わらずの上機嫌で、見当外れの反間を寄越す。恨まれるどころか、〈エセックス〉の艦長は厄介払いができるとばかり、喜々として引き継ぎ事項の申し送りを済ませた。艦長にとって最大の悪夢は、一番は艦の喪失。二番目は気の合わない司令を自分の艦に座乗させることだ。「そういう話では……」と精一杯抑えた声で応じたオブライエンは、「艦長がおられるから、旗艦を〈タイコンデロガ〉にするのです」と割って入った涼やかな声に、口を閉じた。
傍らに座るジェフリー・ワイズ中佐が、コーヒーカップをテーブルに戻したところだった。ボケットが〈エセックス〉から引き連れてきた参謀のひとりだが、所属は海軍情報部《ONI》で、一般の艦乗りとは信条も指揮命令系統もまったく異なる。太平洋艦隊司令部のお墨付きでボケットに従っているらしい、お荷物≠ェ持ち込んだもうひとつのお荷物≠セ。
三十八歳の年齢より若く見える眼鏡面は、軍人というより官吏《かんり》のそれで、この司令官室の不必要に豪華な調度と奇妙に似合って見えた。天井を這うパイプやダクトがなければ、ここがワシントンのオフィスの一室に思えてくる。群司令と艦長の会話に立ち入る面の皮の厚さといい、好きにはなれない男と判定を下したオブライエンは、眉根に皺を寄せてワイズを一瞥した。
「太平洋艦隊司令部は、艦長が研究に携わった新しい対潜戦術理論を高く評価しています。特別混成群の編制に当たって、三群を中核とする決定が下されたのもそのためです」
冷淡なワイズの声音に続いて、「そう。例のDZ探知法とかいう索敵法をな」とボケットが付け加える。明らかに自身の立場をなくす物言いだが、ボケットは気づいていないようだったし、ワイズもロイド眼鏡の下の目を微動だにさせなかった。「CZ。音束収斂帯《コンパージェンズ・ゾーン》探知法です」と訂正しながら、オブライエンは予想外の言葉にざわとした悪寒を感じた。
「まだ制式採用もされていない索敵法ですが?」
「だからだよ。権威である君に他の艦艇の手ほどきをしてもらいたい。この〈タイコンデロガ〉を中心に、混成群の艦艇が総力を挙げて鉄壁の探知網を作り上げるんだ。指揮系統を混乱させんためにも、旗艦ということにしておいた方が都合がよかろう? わたしも勉強させてもらいたいしな」
「そうまで警戒しなければならない敵とはいったいなんです。ジャップの人間魚雷が大挙して押し寄せるとでも?」
コーヒーを口に運ぶ手が止まり、ボケットの視線が傍らのワイズに注がれる。ワイズは目で頷き、持参したアタッシェケースを膝の上に載せたが、それは促されたというより、お伺いを立てたボケットに応えてやっているというふうに見えた。その一瞬、主従の関係が逆転し、悪寒がより明瞭になるのを知覚したオブライエンは、手渡された書類ばさみを多少ぞんざいに受け取った。
一読して、顔色が変わるのが自分でもわかった。フランス製の潜水艦、口径二十・三センチの連装砲、ナチスドイツ開発の高性能水中探知装置。そこに記されていたのは、ジャップの人間魚雷という冗談もあながち的外れではない、それ以上に非常識で突拍子もない敵≠ノ関する情報だった。
「確実な情報です」と言ったワイズの顔を、オブライエンは半開きの口を閉じるのも忘れて見返した。
「明朝までに間違いなくテニアンに仕掛けてきます。三八任務部隊特別混成群の任務は、その日本海軍の潜水艦〈イ507〉の侵攻を阻止し、可能なら無傷で拿捕《だほ》することにあります」
「君のCZ探知法が入り用になるわけだ」
ボケットが重ねる。深く考えるなと言っているその目を無視して、オブライエンはあらためてタイプ打ちされた文書に目を落とした。排水量から兵装、出力に至るまで詳述された〈イ507〉の性能要目にしても、PsMB1と呼ばれる水中探知装置の信じがたい性能に関して、十ページにわたって記されたレポートにしても、あまりにも詳細でありすぎる。内容がどうこうという以前に、気に入らないとオブライエンは感じた。
気に入るか、気に入らないか。その直観で己の行動を定め、今日まで生き延びてきたという思いは、艦長として三千人を超える乗員の命を預かる現在、単なる縁起担《えんぎかつ》ぎでは済まされない重みをもって体の中に根づいている。オブライエンは書類ばさみをテーブルの上に置き、「謎めいてますね」と努めて軽い口調で言った。
「大口径の連装砲と、高性能水中探知装置を装備した旧ドイツの潜水艦……。まるで〈シーゴースト〉を思い出させる」
ボケットより先にワイズの表情が固くなり、「そういうコード名は合衆国海軍には存在しません」という反論がすぐに返ってきた。やはりと呟《つぶや》く内心を隠し、オブライエンは「そうかい?」とワイズの眼鏡面を直視した。
「知り合いに目撃した者もいるんだがね。巨大な連装砲を備えた潜水艦が海に潜《もぐ》ってゆくところを」
ワイズは口を噤んだ。自分が吐いてしまった言葉に退路を絶たれ、後にも先にも行けなくなったという顔だった。オブライエンは「たいしたものだな」と重ねた。
「これだけ詳細な情報を入手するには、さぞかし時間がかかっただろう。ONIはいつからこいつの情報をつかんでいたんだ?」
「今朝入ったばかりの情報です」
「これがか? 書き写すだけでもひと晩はかかるぞ」
二十枚に及ぶ書類を顎でしゃくり、オブライエンは言ってやった。艦隊を特別編制してまで備える敵――特攻を目論む日本海軍の潜水艦の資料は、一年ほど前、世界中の海を騒がせ、文字通り幽霊のごとく消えた国籍不明の潜水艦を嫌でも想起させるが、気に入らないのは資料のあまりの詳細さ、軍の対応の素早さの方だった。
ボケットのワイズに対する態度からして、ONIが作戦指揮系統に深く食い込んでいるのは間違いない。海軍がその存在を否定した〈シーゴースト〉と、ドイツから日本に渡ったという戦利潜水艦の類似性。その詳細な資料を先から隠し持っていたONIが、今次作戦の背景に控える現実をどう見るか。オブライエンは一気にたたみかけた。
「しかも、マリアナ沖にたまたまCZ探知法を使える艦長がいるから、そいつの尻を叩いて無傷で拿捕しろという。急な情報をもとに立てた作戦にしてはできすぎだな。まるで以前から準備していたみたいじゃないか?」
「情報活動の成果を信頼して、軍が迅速に動いた結果です。問題があるとは思えませんが」
「問題は大ありだよ、ワイズ中佐。その情報活動の成果によると、原子爆弾の使用は二発でけりがつくはずだったな?」
ワイズの薄い緑色の瞳に、今度ははっきりと動揺が走った。この資料を見せられるまでもなく、テニアン沖に集結と開いた時から予感はしていた。オブライエンは続けた。
「ワシントンは三発目を落とすつもりなんだろう? ジャップはそれを知って、今度こそ阻止しようとしている。この時期、この場所に特攻を仕掛けるからには、他の理由は考えられん」
「……自分に答えられる内容の話ではありません」
「知りませんと言わなかっただけ、正直と褒《ほ》めてやりたいところだがな。事はそんな言葉遊びではすまされないぞ。今朝になって、いきなりすべての情報が入ってきましたなんて話はあり得んのだ。この敵潜……〈イ507〉か? ONIは以前から情報をつかんでいたはずだ」
鈍い振動が天井を走り、プロペラ・エンジンが行き過ぎる音、鋼鉄のワイヤーのしなる音が司令官室を満たした。着艦する艦載機がアレスチング・ワイヤーに着艦フックを引っかけ、飛行甲板に繋ぎ止められた音だった。背景にどんな事情があれ、作戦はすでに動き出している。それぞれに帰りを待つ家族のいる数千、数万の将兵が、出所不明の情報に従って敵の矢面《やおもて》に立とうとしている。その息吹きが腹の底に響き渡った途端、漠とした疑念や懸念が明確な怒りに転化し、オブライエンはほとんどワイズを怒鳴りつけていた。
「いまになってそれを公開して、我々に狩りをさせるというのはどういう了見だ? ONIがなにを画策しようと知った話ではないが、ヘマをやらかして後始末を押しつけるからには、無用な隠し立てはなしにしてもらいたいな」
「やめたまえ、艦長」
それまで黙っていたボケットが不意に口を開き、オブライエンは浮かしかけた腰をソファに戻した。微かに息をついたワイズの横で、ボケットはいかにも叩き上げの将官らしい、我慢強さを処世にした目をこちらに向けてきた。
「知らぬ方が幸いということもある。原子爆弾の効果について読み違いがあったのは事実だが、なにせ相手が相手だ。人の皮をかぶった獣かもしれん連中なんだから、我々の常識で行動を予測できると思ってはいかん。今後はワシントンも考えをあらためるだろう」
俗物の上に差別主義者《レイシスト》か。ボケットの言いように、オブライエンは天を仰ぎたい気分に駆られた。人道主義を声高に叫ぶつもりはないが、敵に回すからには、たとえジャップであってもいたずらに蔑視《べっし》したり、憎んだりするべきではない。そうした感情や先入観は状況を見誤らせ、冷静な判断を阻害するもとになる。
ジャップを侮っている以上、ボケットの状況判断には信用がおけない。頭のメモに刻みつけたオブライエンは、またひとつ暗澹とした気分を味わった。
「それよりもな。我が混成群がテニアン島に集中配備されるために、マリアナ沖の防備は一時的に手薄になるわけだが、それについては第五艦隊麾下の五八任務部隊が進出して、穴埋めをするのだという。これがどういうことかわかるか?」
そんな憂慮は毛ほどにも意に介さず、ボケットはにやりと口もとを歪める。オブライエンは「いえ」と硬い声を返した。
「マッケーン中将の一存で決められる話ではない。艦隊の枠を超えて配置が決定されたからには、この作戦には太平洋艦隊司令部が肩入れをしていると見ていい。直接の指揮官はマッケーン中将だが、そのうしろにはニミッツ提督《ていとく》がついているということだ。ドイツ製の高性能ソナーがどれほど優れていようと、ジャップの戦力などたかが知れている。ここでCZ探知法の有効性を実証して、問題の潜水艦をみごと捕えてみろ。星の数が増えるだけじゃない。君の名前は太平洋艦隊司令官の覚えもめでたく、任地や仕事を好きに選べるようになる」
「わたしは現在の艦長職で十分に満足しております」
「戦艦の方が性に合っているのだろう? この任務をきっちりやりおおせれば、その程度の願いは簡単に叶えられる。もっともわたしは勧めんがね。いまや海戦の主役は空母で、戦艦は時代遅れの代物だ。ミッチャー中将の談話は聞いたかね? ジャップの戦艦〈ヤマト〉の不甲斐《ふがい》ない最期と言ったら……」
楽しそうに喉を鳴らすボケットからは、他の群司令を出し抜き、特別混成群の司令を仰せつかった喜色しか感じられなかった。もう相手をする気にもなれず、オブライエンは「……そういうものでありますか」と溜まった嘆息を吐き出した。
「そうだよ。三発目の原子爆弾を食らえば、ジャップも降参する。長かった戦争もこれで終わりだ。いまのうちに手柄を立てておくことだ。平時の軍隊で出世するのは難しいぞ」
そう言い、戦後の処世に思いを馳《は》せるボケットの隣で、ワイズは潮の匂いがまったく感じられない能面を書類に向け、とりすました仕種《しぐさ》でコーヒーを啜《すす》る。平時の軍隊がこういう連中に牛耳られるのなら、平和なんぞクソ食らえというものだった。「覚えておきましょう」と言い捨てて、オブライエンは席を立った。
司令官室を出ると、暗灰色に塗り込められた通路、機関の振動を伝えるパイプやダクトが、軍艦内にいることを否応なく思い出させる。オブライエンは急傾斜のラッタルをひと息に駆け上がり、〈タイコンデロガ〉の艦橋構造部《アイランド》に向かった。
海軍兵学校《アナポリス》時代も含めれば、海軍に籍を置いてまる三十年。とうの昔に体力の曲がり角を折り返した四十八歳の体も、節制を忘れず、気力を保ち続ければまだ十分に役立ってくれる。オブライエンはほとんど呼吸を乱さずに三層分のラッタルを昇り、アイランドの中程にある艦橋区画《フラッグ・ブリッジ》にたどり着くことができた。追い風、追い波を受けて航走する船体は動揺も少なく、百六十フィート(約五十メートル)下の海面からは波を切る心地いい音が伝わってくる。オブライエンは深呼吸をし、ささくれ立った気分を多少なりとやわらげてから、フラッグ・ブリッジに続く最後のラッタルに足をかけた。
「艦長、上がられます!」と当直兵曹が張り上げる号令を背に、フラッグ・ブリッジに入る。幅三十フィート(約九メートル)、奥行き十七フィート弱(約五メートル)の空間に操舵器、転輪羅針儀《ジャイロコンパス》、速力通信器などの航海装置が配置され、その合間に航海長や当直士官、操舵員、記録員らが並ぶ。艦がどれほど巨大になっても、機関がスクリュープロペラを回し、舵で方向を制御する船の基本構造は変わりようがなく、空母の運航を司る場といっても特別なことはなにもない。艦長として初めて乗り組んだ駆逐艦《くちくかん》と変わるところのない、〈タイコンデロガ〉のブリッジの光景だった。
もっとも、最近では戦闇情報指揮所《CIC》なる区画がアイランド内奥に設けられ、戦闘中はその穴蔵に潜って指揮を執るのが当たり前になりつつあるから、艦の中枢はブリッジにありと一律には括れない。潮風の代わりに計算機械の排気を浴び、砲声の代わりに無線装置のやりとりを聞きながら、海図に置かれた敵艦の指標を眺めるのが現代の海戦というわけだ。ボケットとワイズが並んで座る光景を思い出し、クソでも食らえと再び内心に罵《ののし》ったオブライエンは、せっかくの深呼吸も虚しく、憮然とした顔でブリッジ要員の敬礼に答えた。
副長はボケットお付きの参謀らとともにCICに降り、混成群編制に関する雑務の詰めを行っている。操艦を任された航海長は、現状を報告した後、物問いたげな視線をこちらに寄越したが、異常な作戦内容を冷静に説明する自信はまだなかった。オブライエンは気づかぬふりで航海長の脇をすり抜け、フラッグ・ブリッジの外縁に設けられた|張り出し《ウイング》に避難した。
刺さるような南洋の日差しが降り注ぎ、湿気を含んだ潮風が開襟《かいきん》制服の襟をはためかせる。見張りの水兵ががちがちの敬礼をするのに答えつつ、オブライエンは手すりに両手をついて新鮮な風を肺に取り込んだ。左舷側のウイングからは眼下の飛行甲板と、その向こうに広がる海原《うなばら》を一望することができる。全長八百八十二フィート(約二百六十七メートル)、最大幅百四十八フィート(約四十五メートル)の飛行甲板には、翼を折りたたんだF4Uコルセアが十二機、後部側に固まってずらりと並んでおり、それぞれ増槽《ぞうそう》を装備した機体の周囲で立ち働く整備員の姿が、ここからは指の先ほどの大きさに見えた。左舷中央のエレベーターに載せられ、舷側の格納庫開口部に向かって下降中なのはカーチスSB2Cヘルダイバー。アイランドの真横でエンジンをアイドリングさせ、いままさに発艦しようとしている機体はF6Fヘルキャット。主翼にカメラとレーダーを装備し、偵察機に改造された3P型だ。
これら航空機を輸送する格納庫を海に浮かべ、飛び立たせるための滑走路を天井に張りつけて、まがりなりにも船の形に仕立て上げたもの。簡単に言ってしまえば、それが航空母艦の概要だった。平らな飛行甲板の右舷中央に孤島《アイランド》のごとく聳《そび》える艦橋構造部は、操艦指揮所であるとともに管制塔の役割を果たし、格納庫が大部分を占める艦内には約百機の艦載機が翼を休める。ひとたび発艦すれば、それらは百の砲弾と魚雷が一斉に襲いかかるのと同等の脅威を敵に与え、艦砲射撃より正確に、迅速に敵艦を葬ってくれる。操艦技量の見せ所などあろうはずもなく、実用一点張りのデザインに艦艇の優美さは望むべくもないが、空母が現代海戦の主役であることは認めざるを得ない。オブライエンは長大な飛行甲板を見下ろすのをやめて、真っ青に輝く海原に視線を飛ばした。
五マイル(約八キロメートル)の距離を空けて並進する平べったい艦影は、〈タイコンデロガ〉と同型のエセックス級空母の一番艦、〈エセックス〉。こちらにお荷物の群司令を預けて、今頃は清々しているだろう三群の元旗艦だ。ここからは見えないが、左舷側にも同じエセックス級の七番艦〈ランドルフ〉が並進しており、先刻から艦載機の発着をくり返している。前方に目を向ければ、戦艦〈ワシントン〉と〈マサチューセッツ〉の艦影が、やはり五マイル先で蒸気タービンの排煙をたなびかせているのが見え、後方には〈アラバマ〉と〈サウスダコタ〉のいかにも戦艦らしい無骨な艦影。そのさらにうしろに軽巡洋艦〈バーミンガム〉と〈サンタフェ〉がつき、これらの艦隊をぐるりと取り囲んで、〈コッテン〉〈カッシンヤング〉などからなる駆逐艦群が、広大な円陣を形成して航走する。
総計三百機の艦載機を搭載する三隻の空母を中心に、戦艦四、軽巡四、駆逐艦十四が護衛の隊列を組む。これが第三八任務部隊・第三群の全戦力のありようだった。他の一、二、四群の戦力もほぼ同様であり、三八任務部隊だけで一国の海軍戦力を賄《まかな》えそうなものだが、合衆国海軍が保有する戦力の、これらはほんの一端に過ぎない。同等か、それ以上の戦力を持つ任務部隊が、太平洋戦域に限っても複数稼働しており、いまも日本本土への空襲や南方基地への攻撃を展開している。第三八任務部隊にしても、つい三週間前に日本海軍の本拠地・クレにとどめを刺す作戦に参加し、補給のためにマリアナ諸島に立ち寄った身の上だった。
開戦前にはわずか七隻だった空母は、いまやエセックス級空母十七隻、軽空母九隻を数えるまでになり、小型の護衛空母に至っては百隻あまりに膨れ上がった。この戦争を通して、アメリカ合衆国軍は人類史上最大・最強の軍隊になりつつある。その一端に身を置く自分は、新しい対潜索敵法の研究論文を物した他は、特に見るべき経歴もない当たり前の海軍士官。装備・戦略の急激な進化に戸惑いを覚え、数万の民間人を一撃で殺傷する兵器などは外道《げどう》だと思いはしても、一艦長として軍務に忠実であろうとする矜持に変わりはない。与えられた任務は実行するまでだが、異常を異常と感じる神経を麻痺させる気はなく、それをすれば勝てる戦も勝てなくなるという確信に疑いはなかった。
ナチスドイツを降《くだ》し、日本の海軍戦力を壊滅《かいめつ》せしめた現在、もはやアメリカに比肩《ひけん》し得る戦力を持つ敵性国家は存在しない。人間魚雷やゼロ・ファイターが特攻を仕掛けようと、合衆国海軍にとっては戦略的脅威に値せず、原子爆弾の投下で日本の降伏は秒読み段階に入ったはずだった。にもかかわらず、合衆国政府は三発目の原子爆弾の使用を決定した。太平洋艦隊司令部は、その発進基地であるテニアン島を防備すべく、第三八任務部隊に特別混成群の編制を命じた。
まだ水平線に隠れて見えないが、テニアン島には一、二、四群から選り抜かれた艦艇が集結し、三群艦艇と合流して一大艦隊を形成する。一群からは重巡洋艦〈ボストン〉〈チェスター〉の他に、軽巡一と駆逐艦三。二群は軽巡〈マイアミ〉と駆逐艦三、四群は〈ニコルソン〉を始めとする五隻の駆逐艦を供出し、最終的には四十隻の艦艇がテニアン沖に集結することになる。空母三隻に対して、三十七隻の戦艦・駆逐艦群が勢ぞろいする光景は、さぞかし壮観だろう。空母が存在しなかった時代、砲撃と雷撃戦で雌雄を決した頃を彷彿《ほうふつ》とさせるものになるだろう。そうまでして待ち構える敵が、たった一隻の潜水艦であることを除けば。
「ローレライ、か……」
資料にあった高性能水中探知装置――PsMB1のもうひとつのコード名。口にしてみて、気に入らない語感だなとオブライエンはあらためて確かめた。
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奇妙な感触だった。形自体は馴染みのあるものにもかかわらず、なにか現実感が伴わない。騙し絵を見ているような感覚、とでも言ったらいいか。形は正常なのに、大きさが周囲の物と釣り合わない気持ちの悪さ――。
「フィヤビー少佐の話じゃ、投下の瞬間、機体が三メートルも跳ね上がったそうです」
ジョン・ビガー少佐が、運搬架台に載せられたそれを凝視しながら言う。気楽を装った声だったが、語尾が微かにかすれるのが感じ取れた。静かだからだろう。発動機の低い唸り、油圧装置の駆動音を圧倒して、この格納庫《ハンガー》には張り詰めた密やかな空気が流れている。「四トンを超える代物だ。そりゃそうなるだろうな」と応じて、ギャビン・レイシー中佐も目前の物体を凝視し続けた。
寸づまりの野球バットといった形状の本体と、尾部に装備した整流用のフィン。通常の投下爆弾と変わらない形のそれは、しかし全長は十フィート(約三メートル)に及び、重量も魚雷の比ではない。四発の十八気筒エンジンを備えた|超空の要塞《スーパーフォートレス》、B−29爆撃機といえども、搭載爆弾量の半分近くがその物体で占められることになる。投下時の衝撃で機体が跳ね上がるのは当然。一回目≠フ爆撃手を務めたフィヤビーに、あらためて言われるまでもない話だ。レイシーは鼻の頭についた汗の水滴を拭い、いままさに物体を抱え込もうとしている自機を見上げてみた。
全長百フィート(約三十メートル)、翼長百四十三フィート(約四十三メートル)。それだけでハンガーの大半を占める銀むくの巨人機は、腹の爆弾倉を開き、複数の整備員に取り囲まれて、四発のプロペラを吊り下げた翼を休めている。コクピットの脇、機体側面には犬橇《いぬぞり》に乗ったブロンド娘の絵が描かれ、機体後部に屹立《きつりつ》する垂直尾翼には、このテニアン島に拠点を置く第五〇九混成飛行群の所属機であることを示すマーク。黒い矢に貫かれた黒い円というデザインは、海軍航空部隊の中でもとりわけ特異な部類に入る。マンハッタン計画の実行部隊として特別編制された部隊に相応しい、見る者に不吉な印象を喚起させるマークだ。
八月六日、同じマークを尾翼に記した〈エノラ・ゲイ〉が一回目≠フ計画を実施し、八月九日には〈ボックス・カー〉が二回目≠成功させた。明日、八月十二日に三回目≠実行するのが、この〈ドッグ・スレー〉。オマハの工場でロールアウトして以来、レイシーが機長を務めてきたB−29だった。
明首の昼、投下地点上空で爆弾倉が開き、放出された物体が所期の性能を発揮すれば、先の二機同様、〈ドッグ・スレー〉の名前も歴史に刻み込まれる。組み立てが完了したばかりの物体――原子爆弾の搭載作業を前に、副機長のビガーが声をかすれさせる道理だったが、ハンガー内に漂う張り詰めた空気が、緊張の一語で説明しきれるものではなかった。
「〈ボックス・カー〉が落とした奴は、これよりもでかかったんだろう?」
「あっちはプルトニウムで、こいつはウラニウムだ。ヒロシマに落としたのと同じだよ。原理が違うんだ」
爆撃手を務めるエッカート大尉の声に、レーダー員のラッセル大尉がひそひそと応じる。二人とも半袖・半ズボンの防暑服姿で、片手にはコーラの瓶《びん》。原子爆弾の搭載作業に立ち合うにしてはラフすぎる格好だが、高温多湿、日中は摂氏三十度を下らないテニアン島では、責める筋合いの問題ではない。通気の悪いハンガーにこもっていればなおさらで、機体の周辺に大型扇風機が仮設してあるものの、お世辞にも快適な環境とは言えなかった。なにしろ出入口は完全に密閉され、機体の搬出入口も巨大な戸板で塞がれているのだ。
ヒロシマに一回目≠実行した翌日、大統領から声明が発表されるまで、原子爆弾の呼称はレイシーたちにさえ明確には知らされなかった。計画の只中にいながらなにも知らされず、新型爆弾の存在を噂しあうしかなかった五〇九混成群の面々が、それまでの反動のように情報を漁《あさ》り始めたとしても無理はない。レイシーは部下たちの会話を聞き流したが、ビガーは「おい」とたしなめる口を開いていた。
「一応は軍機だぞ。口のきき方に気をつけろ」
生真面目な副機長の声に、エッカートとラッセルはそろって「は」と唱和する。いまさらという気もするし、こんな南の孤島で神経質になっても始まらないと思うのだが、五〇九混成群司令のチベッツ大佐は、原子爆弾という呼称は解禁しても、その威力や性能に関する情報はいまだ軍機と扱って譲らない。その頑《かたく》ななまでの生真面目さは、〈エノラ・ゲイ〉の機長として直接ヒロシマを焼き払って以来、より取りつく島がなくなったという感触があった。
一徹な軍人を演じることで、免罪符を得ようとしている。それだけの精神的負荷を与える光景が、原子爆弾投下後のヒロシマにはあったということだろう。だとしたら、それはまさに堅物《かたぶつ》のチベッツらしい反応であって、自分ならもう少し器用に立ち回れるはずだとレイシーは思う。器用人を自認する気はないが、少なくとも自分には、史上初の原子爆弾搭載機に母親の名を冠するチベッツのような生真面目さはない。正面から取り組まず、斜《しゃ》にかまえるぐらいでちょうどいい時というのはあるものだ。原子爆弾を投下してジャップを降せば、戦争も終わり、この蒸し暑いテニアンを離れて帰国することができる。それで十分ではないか。
堅物という点ではチベッツに引けをとらないビガーも、同種の負荷を事前に感じ取っている節がある。部下たちが不必要に萎縮する気配を察したレイシーは、コーラの残りをあおって努めて軽い声を出した。
「ま、|痩せっぽちのおじさん《スキニーアンクル》ってコード名はいただけないが、機体の負担が少ないのは結構なことだ。〈ボックス・カー〉みたいに、|デブ公《ファットマン》の重みに引きずられてオキナワに不時着、なんて目に遭わずに済む」
架台に載せられたウラニウム原子爆弾――スキニーアンクルを顎でしゃくって、レイシーは言ってやった。〈エノラ・ゲイ〉がヒロシマに落とした|チビ公《リトルボーイ》と同型のスキニーアンクルは、〈ボックス・カー〉がナガサキに落としたファットマンより小型で、重量も小さい。そのせいというわけでもないのだが、〈ボックス・カー〉の爆撃行が散々だったのは事実だ。
本来、キューシューのコクラにある陸軍|造兵廠《ぞうへいしょう》に投下する予定が、厚い雲のために断念せざるを得なくなり、第二目標のナガサキに向かった。が、そこも雲で覆われており、切れ間を見つけてどうにか投下はしたものの、目標地点から五キロも外れる結果になった。挙句、投下までに時間を費やしすぎたのが災いして、テニアンに帰投《きとう》する燃料がなくなり、オキナワに不時着同然の着陸をする羽目になったのが、〈ボックス・カー〉の爆撃行の顛末《てんまつ》だった。
さらに悪いことには、ファットマン投下の直前、イギリスとオランダの捕虜がナガサキの捕虜収容所に移送され、相当数の連合軍兵士が巻き添えを食ったらしいのだが、これについては公表は差し控えられている。
ナガサキに捕虜収容所があることは事前にわかっていたはずで、原子爆弾の投下都市を決定する目標選定委員会は、それを承知でナガサキを候補に選んだのだ。付帯的損害の範疇《はんちゅう》ということなのだろうが、現場に立つ身にはたまらない話だった。
「〈エノラ・ゲイ〉はばっちりだったのにな」
「ファットマンの方が、リトルボーイより威力は六割増しって話ですがね」
ほっとした顔になったエッカートとラッセルが、茶飲み話の気楽さを取り戻して言う。それでいい。いまから深刻に思い詰めていては、本番の時にぶっ倒れてしまう。「あの破壊力だ。落とした方も落とされた方も、威力の違いなんぞ実感できんさ」と、こちらも気楽に返したレイシーは、「まあ、そうでしょうが……」と応じた吐息混じりの声に、微かに眉をひそめた。
ビガーだった。軽く睨みつけたこちらの目を見返し、「来てませんね、撮影の連中」と、自分にだけ聞こえる声で続けたビガーに、レイシーはひやりとしたものを感じた。
一回目≠フ時も二回目≠フ時も、映画班と写真班の連中が機体と乗員に張りつき、爆弾の搭載から離陸まで逐一記録を取っていたのだが、三回目≠フ今回はいない。作業のひとつひとつが密やかに進み、〈ドッグ・スレー〉の周辺に張り詰めた空気が漂うように感じられるのは、それが原因でもあった。
レイシーは、「三度目だからな。もうニュース種にもならんのだろう」と応えておいたが、ビガーは納得する気配はなく、自分自身にしてもそれは同じだった。
「妙だと思いませんか? 三発目を落とすなら、〈ボックス・カー〉が仕損じたコクラを狙うのが本当のはずです。トーキョーは、選定委員会の候補都市にも挙げられていなかったんですよ」
その話はレイシーも知っていた。目標選定委員会が決定した投下目標候補は、コクラ、ヒロシマ、ニーガタ、ナガサキの四都市。いずれも日本陸海軍の要衝地、もしくは軍備に直結する工業地帯を有する都市で、これまで大規模な爆撃を受けていない点からも、原子爆弾の目標としては適当と判断された。破壊されていないまっさらな場所の方が、原子爆弾の威力を観測しやすいからだ。
当初はキョートも候補に挙げられていたというが、土壇場《どたんば》でナガサキに変更された。日本の古代の首都にして、宗教的に重要な都市を破壊するべきではないというのがその理由だが、実際には、選定委員のひとりである陸軍長官が強硬に反対したからだと言われている。彼はかつてキョートを訪れた際、日本の古代文化とやらに痛く感銘を受けたらしいのだ。事実なら笑止千万ではあるが、後の占領政策の潤滑剤として、文化財保護という観点は忘れるべきではないとする意見は、レイシーにも納得できるものだった。
そんな噂話が錯綜《さくそう》する中での、あまりにも唐突な新目標都市の出現だった。日本の首都、トーキョー。明日、〈ドッグ・スレー〉はそこに行き、三回目≠実施する。リトルボーイがヒロシマを、ファットマンがナガサキを焼いたように、スキニーアンクルが日本最大の都市を焼き払う。ジャップにとってはもっとも偉大で、もっとも大切なものとともに――。
「イチガヤの陸軍参謀本部が目標って話は、わからんじゃありません。でもトーキョーはすでに空襲で何度も焼かれています。空襲被害の少ない場所を選ぶっていう選定条件から外れているし、イチガヤの近辺にはテンノーの城もある。こいつにリトルボーイと同じ破壊力があるなら、テンノーの城は跡形もなく吹き飛ぶでしょう。選定委員会はなんだっていきなりそんな……」
「言われた場所に行ってこいつを落とすのが我々の任務だ。どこに落とすのか、なぜそこに落とすのかを考える必要はない」
胸に染み出した暗黒を封じ込めようとして、その声はひどく硬いものになった。口を噤んだビガー、ぎょっとこちらを見たエッカートたちから視線を逸らしたレイシーは、「なんにせよ、これで終わるさ」と静かに続けた。
「トーキョーは平野だ。目標地点にどんぴしゃで落とせば、こいつはカスミガセキの官庁街まできれいに焼き払ってくれる。頭をもぎ取られたら、いくらジャップでも降参するしかないだろう」
「頭をなくすってことは、理性も失うってことですよ」
テンノーの居城には言及しなかったこちらの心中を見透かし、ビガーは容赦なく言った。「噂ですがね。次の爆弾は、もう製造ラインに乗ってるって話です」と続けた副機長の顔を、レイシーは見返すことができなかった。
「ワシントンは、こいつを日本上陸作戦の露払《つゆはら》いにするつもりでいるって想像は、突飛《とっぴ》ですかね?」
思わずビガーに振り向きかけた途端、油圧装置の駆動音がひときわ高くなり、一同の目が〈ドッグ・スレー〉の方に注がれた。部下たちに絶句した顔を見られずに済んだレイシーは、内心の動揺を隠して腕を組んだ。
昇降装置に押し上げられ、スキニーアンクルが爆弾倉の扉の陰に隠れてゆく。爆弾|懸吊架《けんちょうか》から垂らされたワイヤーがそれを抱え込み、前後の弾体押さえ金具との接合が終われば、〈ドッグ・スレー〉は史上三番目の原子爆弾搭載機として、離陸を待つだけになる。胸の暗黒が膨れ上がり、暑さとは別の理由で汗が滲むのを感じながら、レイシーはあり得るのかと自問した。
テンノーを喪って発狂する日本国民。降伏という選択肢は政府の消滅とともになくなり、連合軍の本土上陸作戦が開始される。統率機関もなく、各個に抵抗する陸海軍人たち。四発目、五発目の原子爆弾が投下され、焦土と化した日本でいつ果てるともない殲滅《せんめつ》戦がくり広げられる――。
「……まさかな」
日本の完全支配。対ソ戦略のための極東基地化。胸の暗黒が囁き続けるのを無視して、レイシーは独りごちた。スキニーアンクルが爆弾倉に収まり、金属の噛み合う音をハンガー内に響かせたために、その声は自分の耳にも届かなかった。
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「……アシーガ岬からマサログ崎にかかるこの一帯は、岩場と言っても断崖絶壁じゃありません。サイパン水道からアシーガ湾に入って、このウネダンクロのあたりにつければ南北の飛行場を狙えるでしょう。〈伊507〉の主砲なら射程距離も十分。お釣りがくるってもんです」
油紙に印刷されたテニアン島の概要図に指を走らせ、岩村《いわむら》機関長は澱みなく説明する。背後ではずらりと並んだピストンが休みなく上下動をくり返し、ディーゼル機関の騒音を機械室にこもらせていたが、岩村の声が聞き取りにくいということはなかった。声が大きいのではなく、機械音に紛《まぎ》れない発声法を体得しているのだ。
本当は士官室に来てもらい、他の乗員を交えて説明させた方が手間が省けるのだが、機械室の主を迂闊《うかつ》に呼び出して、全速稼働中の機関から目を離させるわけにはいかない。時間内にテニアン島にたどり着けるか否かは、一にも二にも機関の調子にかかっている。こちらは普通の声の出し方しか知らない絹見《まさみ》は、機関に負けない大声で「深さは?」と質した。
「このあたりなら三十ってとこです。ローレライで岩礁《がんしょう》を避けながら進めば、ぎりぎりまで潜っていけます」
「だが飛行機からはまる見えだな?」
「テニアン近海にはわりと魚がいましてね。魚の餌になるプランクトンも多いんで、南方にしちゃ海水の透明度が低いんです。そう簡単には見つけられんでしょう」
輸送任務でテニアン島に赴き、数日滞在したこともあるという岩村の弁は明確だった。帝海作製のテニアン島概要図には、飛行場や砲台敷地、農区などの位置が細かに記載されており、等高線から土地の高低も推《お》し量《はか》れるのだが、実際に見た者の言葉に勝るものはない。「問題は、どの飛行場が発進基地になっているかだな」と口にしつつ、絹見は概要図の空白部分にメモを書き足していった。
歪んだ平行四辺形といった形のテニアン島は、南北の長さが十七キロ、東西は最大八キロ強で、中央南寄りの上段高地を除けば土地の起伏はほとんどない。バナナや砂糖黍《さとうきび》を育てる農区が各地に広がり、牛車用の道路の他、汽車の線路も縦横に敷設されていたが、この概要図はテニアンが日本領であった頃に作製されたものなので、それらの施設が現在も使用されているかどうかは怪しい。米軍の砲爆撃で大部分が破壊され、島の様相は一変したと考えておいた方がいいだろう。
ただ港や飛行場の位置は動かしようがなく、帝海が建設したものがそのまま使われていると見て間違いない。テニアン島には三つの飛行場があり、もっとも面積が大きいのが北端のハゴイ地区にある第一飛行場。新湊《しんみなと》農区に隣接する第二飛行場は西にあり、第三飛行場は南端のカロリナス農区の上、ソンソン湾に面したテニアン港にいちばん近い場所にある。本土空襲の最前線飛行基地である以上、三つの飛行場すべてがB−29の巣になっているはずだが、〈伊507〉が狙うべき目標はただひとつ、原子爆弾の搭載機だった。
島の東面に接するアシーガ湾からは、南北の飛行場が見渡せる。上段高地を挟んだ向こうにある第二飛行場にしても、概要図をもとに照準を定めることはできる。測距射程十一キロの二十・三センチ砲なら、すべての飛行場を砲撃するのも不可能でないとはいえ、原子爆弾搭載機の離陸を確実に阻止するためには、的を絞って重点的に砲弾の雨を降らせる必要があった。
「その原子爆弾とやらが海上輸送されてきたなら、港に近い第三飛行場に運びそうなもんですが……」岩村は、油で黒ずんだ指を南から北に滑らせた。「わたしゃ北の第一飛行場だと思いますね」
「根拠は?」
「第三飛行場は、B−29が離着陸するには狭すぎる。汽車の線路に挟まれてるから、米軍が占領した後も拡張されたとは思えません。こっちの第二飛行場は、上段高地から風が吹き下ろしてくるんで、飛行機乗りには不評だと聞いた憶えがあります。大事な爆弾を積んで飛ばすなら、第一飛行場がいちばんでしょう。地図にはありませんが、自分がテニアンで足止めを食っていた時には、第一飛行場の隣に第四飛行場の建設も始まっとりました。米軍が完成させていれば、規模も相当なものになってるはずです」
淡々と説明する機関長の声を聞くうち、なぜか笑いがこみ上げてきて、堪えようとした時には口もとが緩んでしまっていた。片方の眉をひそめた岩村に、「すまない」と詫びた絹見は、それでも笑いの収まらない顔を微かにうつむけた。
「運が向く時というのはこういうものかと思うと、可笑《おか》しくてな。機関長がテニアンを知っていたことといい、〈伊507〉に連装砲なんてものが装備されていたことといい……。これなら作戦も成功しそうだ」
「そりゃ成功してもらわにゃ困ります。軍令部がなんの返信も寄越さんからには、わしらがやるしかないんですから」
痩身短躯《そうしんたんく》から見上げる機関長の目が、しっかりなさいと叱っていた。どこかで弱気が巣くっている胸のうちを見透かされ、笑みを吹き消した絹見に、岩村は「さっき、折笠《おりかさ》上工が話しとったんですがね」と続けた。
「前に、空母は特攻で沈められても、島から飛んでくるB−29は防ぎようがないって言うと、清永《きよなが》上工が言ってたそうです。だったらその島に行って、滑走路をめちゃめちゃに壊してやりゃいい、とね。だからこの作戦は必ず成功する、清永のためにも成功させにゃならんのだって……。わたしには、国家百年の計がどうこうって浅倉《あさくら》大佐の話はわかりませんが、そういう若僧の気概は信じたいし、信じてもいいんじゃないかと思ってます。成功しますよ」
最後は油で汚れた顔の皺《しわ》を深くして、岩村はそう締め括った。年長者の鷹揚《おうよう》さを含んだ眼差《まなざ》しが痛く、忸怩《じくじ》たるものを感じた絹見は、「無論だ」と硬い声を返して島の概要図に目を戻した。
「砲弾は六百発ある。第一飛行場を重点的に叩くとして、他の飛行場も二日や三日は使用不能にしてやることができる。日本が降伏するまでの時間ぐらい、稼いでみせるさ」
敵地の真っ只中で、六百発の砲弾を撃ち尽くすまで海上に留まっていられるものかどうか。子供でも思いつく疑問は意識の外にして、絹見は自分の腹を引き締めるために言いきった。事がそう簡単でないことは百も承知だろうが、岩村も「できますか?」と調子を合わせる苦笑を顔に刻んだ。
「できるよ。機関長が息切れさせずに〈伊507〉を走らせて、時間内に間に合わせてくれればな」
がちゃがちゃと騒がしいピストンの放列を顎《あご》でしゃくって言うと、岩村は「そいつは任してください」と鼻の下をこすった。
「この時季なら北赤道海流も後押ししてくれます。曳航《えいこう》してるランチを切り離せば、対地速度で二十五はいけます」
ランチという一語に、ちくりと胸が疼《うず》いた。折笠と清永がウェーク島から乗ってきたランチは、曳航索に繋がれていまも〈伊507〉のうしろを走っている。本来なら放棄して然るべきところを、絹見が曳航するよう命じたからだ。
先を急ぐ〈伊507〉にとっては、足枷《あしかせ》でしかない代物だとわかっている。口を噤んだ絹見に、岩村は「そろそろじゃありませんか?」と窺う目を寄越した。
「ランチの航続距離を考えれば、ここいらが限界でしょう。ウェーク島に戻れるのは……」
なにもかもお見通しか。やれやれという思いを隠し、絹見は曖昧に頷いた。腕時計を眺め、確かに頃合だなと認めてから、概要図を丸めて機械室を後にした。
午前九時二十二分。ウェーク島西南西およそ百キロ、茫漠《ぼうばく》と広がる太平洋の只中で〈伊507〉は停止した。
テニアンを目指して六時半に出航して以来、戦死者の水葬を執り行う間もなく、ひたすら水上航走を続けてきた〈伊507〉が、初めて船脚を止めた瞬間だった。銃撃戦で損傷した箇所の応急修理が急がれる中、発令所に戻って機関停止を下令した絹見は、戸惑い顔の木崎《きざき》航海長らを背に艦内放送装置のマイクを手にした。
軍令部宛てに無電を打ってから、そろそろ三時間。なんの返信もないからには、やはり我々だけですべてを行わなければならない。絹見にすれば予想通りの結果で、大多数の乗員も覚悟は同じだと信じたいのだが、七十余名の他人が顔を突き合わせている現実は現実だった。
人それぞれに信条があり、従うべき規範があり、つけなければならないけじめがある。事情がどうであれ、これからの行動が帝国海軍の認可を受けたものでない以上、軍律によって結びつけられた人の関係はいったん御破算にして、各人に選択を促すのが筋だと絹見は決めていた。
自分の首を絞める行為であることは自覚している。しかし他者への不信が恐怖を生み、歪んだ権力志向を育て、世界を間違わせたらしいと知ったいまは、強権の発動から外れたところにある人の繋がりを求めたい。お仕着せの論理ではなく、個々人が発揮する美徳こそが事態を突破し得るという想いに、迷いはなかった。絹見は全艦一斉放送のスイッチを入れ、握りしめたマイクに始まりの一声を吹き込んだ。
「達する。こちら艦長」
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(本艦は、これより米機動艦隊の防衛網を突破してテニアンに突撃。同基地の滑走路を破壊せしめ、特殊爆弾を搭載した爆撃機の離陸を阻止する作戦を敢行する)
落ち着きの中に、一点の熱情を滲《にじ》ませた声音が艦内スビーカーから流れ、折笠|征人《ゆきと》は修理の手を休めて顔を上げた。
もっとも激しい銃撃戦があった烹炊所《ほうすいじょ》前の通路では、他にも河野二水らが金槌《かなづち》を手に修理に勤《いそ》しんでいる。パイプの弾痕にぼろ切れを当て、杭《くい》を打ち込んで穴を塞ぐ作業を中断して、河野も艦内スピーカーに注視の目を向けた。その顔はわずか三週間のうちにすっかり引き締まり、どこかおどおどしていた瞳には、どきりとするほど大人びた光が宿っているように見えた。
自分はどうなのだろう? 切断した配線コードを持つ自分の拳を見つめてから、征人は艦尾側の隔壁に視線を移した。開放した水密戸の向こうには交通筒区画があり、〈ナーバル〉に続くハッチがある。艇内でローレライ系統の点検を行うパウラも、いまは艦長の声を聞いているはずだった。
この艦に乗り組むまでは見つけられなかったなにか。命と引き替えにしてもいいと思えるだけのなにかが、いまの自分にはある。それだけは間違いないと征人は確かめた。明日、自分がどうなっているかは皆目《かいもく》わからず、そこから先の思考は紡ぎようがなかったが、それはこれまでの五里霧中という感覚とは違っていた。
むしろ、すべてがはっきりと見える。明日をも知れない状況で、なにが見えるのかと問われれば即答はできないが、生まれて初めて、最高に目覚めているという気分があった。息を止めて流されるのではなく、水面から顔を出し、肺に大気を取り込んで、自分の腕で流れを掻き分けてゆく。いいんだよな、これで? 首にかけた手拭いを握りしめ、征人はそっと問いかけてみた。
汗と油が染みついた手拭いは、兵員室《パート》に遺された清永の私物のひとつだった。形見分けのつもりで持ち出したそれを耳に当てて、征人は清永と一緒に艦長の声を聞いた。
本当、エラい艦に乗り込んじまった。微かに残った親友の匂いが、苦笑いの声音を征人に届けた。
(諸君らも知っての通り、これは帝国海軍から受領した命令ではない。三発目の原子爆弾がもたらす惨禍《さんか》から日本本土を守るべく、本艦有志の者が独自に起こす行動だ。であるから、諸君らは帝国海軍軍人として、この作戦を拒絶する権利を有している)
その声は、膝の高さまで張った水面を震わせて〈ナーバル〉艇内にも届いた。パウラは頭にかぶっていたヘルツォーク・クローネを外し、後部座席で機器を点検するフリッツと顔を見合わせた。
一瞬、きょとんとしたフリッツは、すぐに顔をしかめ、「律儀《りちぎ》すぎるんだ、あの艦長は……」と独り言ともつかない声を漏らした。ランチを放棄せずに曳航してきたのは、このためか。納得した胸が締めつけられ、パウラは無言で正面に顔を戻した。
〈伊507〉がテニアンに向かうことは、浅倉大佐も承知している。ローレライ・システムの資料ともども、いま頃はすべての情報が米海軍に伝えられ、テニアンは鉄壁の守りで固められつつあるに違いない。〈伊507〉を拿捕、もしくは撃沈するために。取引が反故《ほご》になったいま、〈しつこいアメリカ人〉の時のように戦力の出し惜しみはせず、彼らは総力で仕掛けてくる。そしてローレライを手に入れ、日本の首都を原子爆弾で焼く――。
苦しい戦いになる。〈シュルクーフ〉と呼ばれた頃から悪運の強さで鳴らしたこの艦も、今度こそ年貢《ねんぐ》の納め時かもしれない。だがそれでも、兄はもうここから逃げ出そうとは言わないだろう。祖母の国、もうひとつの祖国になんの思い入れも持てなくても、〈伊507〉と生死をともにする決意を固めているのだろう。他に行き場がないからではなく、ここを家と認めたから。祖母の家を失って以来、初めて見つけた自分たちの家だと信じているから。
その気持ちは自分も変わらない。膝上に置いたヘルツォーク・クローネに手のひらを押し当て、パウラは天井からぶら下がる潜望鏡を見上げた。あんな機械に頼らなくても、自分は外界の状況を感知できる。海中を自在に見通す目≠ニなり、〈伊507〉が死中に活を見出す手助けをしてやれる。何百という断末魔に心を押し潰され、意識を失ってしまわない限りは……。
それを防ぐ方法はある。逡巡の底からそのひと言を取り出し、やれるの? とパウラは自問した。やれないわけがない、と自答の声がすぐに浮かび上がってきた。昔から、家を守るのは男ではなく、女の仕事なのだから。パウラは瞼を閉じ、這い上がってくる震えを堪《こら》えて絹見の声に耳を傾けた。
(おそらく数日のうちに戦争は終わるだろう。その後、浅倉大佐の語った人心の荒廃、亡国が現実のものになるのか否かは、自分にはわからない。ただそうなる可能性が十分にあることは認めている。にもかかわらず、浅倉大佐の救国の理念を阻害しようとする我々は、あるいは亡国の片棒を担いだ国賊の謗《そし》りを後世の歴史から受けるかもしれない。
だが、それでもなお、自分は何十万の同胞が死にゆくさまを座視することはできない。我々は軍人だ。国を守り、国民の生命と生活を守るために雇《やと》われている軍人だ。たとえ日本が亡国に向かおうとも……いや、だからこそ、最後の日本軍人として、やれることが残っているのではないかと自分は信じる)
言葉のひとつひとつが鈍麻した神経を刺激し、包帯に覆われた腹の傷を疼《うず》かせるようだった。慣れ親しんだ固いベッドの感触を背中に感じながら、田口《たぐち》もパートに響き渡る絹見の声を聞いていた。
傍らでは時岡《ときおか》軍医長が黙々と枕の位置を整え、膝の下に布団を差し入れて、腹に風穴を作った田口が寝やすいようにしてくれている。気絶の間に輸血されたらしく、全身の血管が塞がってゆくような窒息感は消えていたが、鉛《なまり》になった手足はほとんど動かすことができず、麻酔の抜けない腹に至ってはまったく力が入らない。まるで泥にでもなった気分だった。
いや、泥以下だ。泥は裏切らないし、傷つけない。無様に生き長らえて他人に迷惑をかけることもない。顔じゅうに噴き出た汗を拭き取り、水差しを差し出そうとした時岡に、田口は「もう、いいですよ」とかすれた声を搾り出した。
「医務室に戻って、他の患者を看《み》てやってください。おれなんかに軍医長の手を煩《わずら》わせちゃ、もったいねえ……」
どだい、のうのうと生き残ってしまったのが間違いだ。土谷を仕留めた、それで罪の何百分の一でも償《つぐな》えたと信じて、そのままくたばっていればよかったものを、自分はよくよく悪い星の下に生まれついているらしい。パートに移してくれと頼んだのは、自分なんぞが医務室のベッドを専有しているのが耐えられず、捨て置いてくれという思いを暗に伝えたかったからだが、時岡は担架《たんか》を担いだ看護兵たちに同行して、パートでも治療ができる態勢を整えるのに余念がない。泥以下の人間を手当してなんの意味がある。田口は時岡の眼鏡面を睨みつけたつもりだったが、丸眼鏡の下のくりっとした目は、一歩も退かずに逆にこちらを睨み返してきた。
気圧《けお》された刹那、時岡の腕が田口の右手首をつかみ上げ、胸の上にぐいと押しつけた。驚きに跳ねた心臓の鼓動が手のひらに伝わり、田口は呆然と軍医長の顔を見返した。
「感じるでしょう? 心臓がどっくんどっくん脈打っとるのが。これはまだあんたさんが生きてる証拠です。心が捨《す》て鉢《ばち》になってても、体は生きよう生きようと頑張っとるのです」
丸眼鏡の底にある目を血走らせ、時岡は「それをもったいないとはなにごとですか」と低く怒鳴った。
「だらしない心ですみませんって、自分の体に謝りなさい。そして養生に専念するのです。怪我人は医者の言うことを聞くもんですぞ」
そう言うと、時岡はほれと水差しを突き出した。返す言葉もなく、田口は吸い口を口に含んだ。清涼な水が全身に染み渡り、生きることの重さと厄介さ、ありがたさを田口に伝えた。
(自分は、このまま終戦を迎えることで日本人の心がすべて失われるとは思っていない。どんなに荒れ果てた大地にも、目を凝らせば必ず小さな芽の息吹きを見つけることはできる。儚《はかな》い希望であっても、いつかはその新芽が大地に広がり、より豊かで強い草原を枯渇《こかつ》した国土にもたらすかもしれない。軍人として……ひとりの日本人として、やれることをすべてやって、自分はその希望を未来の日本に託したいと思う。
それが、海軍将校としてこの戦争に加担してきた自分のけじめだ。誰にも強制はしない。もとより正規の艦籍も与えられていない本艦だ。その乗員には、それぞれにけじめのつけ方があってしかるべきだと思っている。退艦を希望する者は、いまならランチを使ってウェーク島に戻ることができる。残るにしろ降りるにしろ、自分で考え、自分で決めろ。……以上だ)
ぶつりと途切れた艦内スピーカーの声音が、士官室に出し抜けに静寂を呼び戻した。暗号長や電探長、主計長らが黙然と顔を突き合わせる中、小松《こまつ》は膝上に置いた拳を握りしめ、全身の震えを抑え込むのに必死だった。
怖くて仕方がなかった。恐怖の対象を明文化できずに、本能的に怖いと感じる心と体がただ震え続ける。確か以前にも同じような恐怖を体験したことがあった。そう、あれはまだ学校にも上がらない頃、家族で海水浴に行った時だ。
初めて見た海は圧倒的な質量を感じさせ、浜辺に押し寄せる波はすべてを呑み込み、虚無に追いやる触媒《しょくばい》に見えた。父と、五つ年上の兄がその中に分け入り、沖に向かって泳いでゆく光景は、幼い小松には正気の沙汰とも思えなかった。二人が帰ってこなかったらどうしよう、自分は男だから捜しに行かなくてはならないのだろうかと、母や妹たちの脇で真剣に悩んだ。それはできそうにないから、頼むから無事に帰ってきてほしいと一心に祈り続けた。
その時は無事に帰ってきてくれた父と兄は、しかし十数年後、浜辺からは見渡せないほど遠い海で命を落とした。司令付参謀のひとりだった父は珊瑚《さんご》海海戦で、飛行機乗りだった兄はミッドウェーで散った。ひと月と間を置かず、続けざまに飛び込んできた父と兄の計報《ふほう》を、小松は江田島《えたじま》の海軍兵学校で受け取った。怒りや悲しみを感じるより先に、途方に暮れたというのが正直な心境だった。小松家に遺された最後の男子として、皇国の大恩に報いる役目が自分ひとりの身に背負わされた。ついに帰ってこなかった父と兄を追って、遠い海に乗り出す時がめぐってきたのだ。
無論、いまは海で泳ぐこともできる。大部分の男たち同様、身命を賭《と》して救国のために起たねばという思いもある。だが子供の頃から神経質で、休も丈夫とは言えない自分が、父や兄のようにやれるのかという不安は絶えずあった。潜在的な海への恐怖のせいか、海兵で鍛えられても船酔いは克服できなかった。遠泳の時は何度か意識を失いそうになり、同じ班の同期に助けられてなんとか岸にたどり着いた。そんな自分が、戦場の海で人並みに戦えるのか? 小松は誰にも相談できずに思い悩み、唯一の解決策として、皇軍兵士の倫理と義務感で自分を縛り上げた。
臆病で軟弱な自分が言うことには耳を貸さない。感じることも無視する。皇軍兵士ならどう言い、どう感じるべきか。自分の中に皇軍兵士の思考回路を設定し、そこを経由してすべての事象を受け取り、判断するよう仕向けていったのだった。皇軍兵士としての自分を念頭に置いておけば、無様に怖がらずに済む。くよくよ思い悩んだりせずに、間違いのない対処ができる。誰でも多かれ少なかれやっていることだろうが、小松は人いちばい厳密に、些細《ささい》な違反も許さず皇軍兵士の規範を実践した。それは盤石《ばんじゃく》の足場となって小松を支え、陸《おか》を遠く離れた海の上でも、もう虚無に呑み込まれる恐怖に脅《おびや》かされることはなくなった。
体の方までは律しきれず、船酔いでさんざん苦しんだ挙句に海防艦乗務を外されたものの、小松はこの〈伊507〉でも最善を尽くしてきた。規則を規則とも思わない乗員たちにいら立ちながら、甲板士官の役目を忠実に果たそうと努めた。魚雷の爆発音を間近に聞き、みしみしと軋《きし》む船体が海の圧倒的な質量を思い出させても、皇軍兵士として振る舞うのを忘れず、恐怖に泣き叫ぶ醜態はさらさなかった。そうできる自分に自信が持てるようになれば、虚勢にも実らしきものが入り、〈伊507〉と生死をともにする覚悟だってできていたはずなのだ。
それが、いまはどうしようもなく怖い。盤石と信じた足場がひび割れ、虚無に呑み込まれる恐怖。初めて海を見た時と同じ恐怖が、小松の全身を萎《な》えさせているのだった。
先刻、浅倉大佐の言葉を聞いた時は、混乱するばかりで恐怖を感じる暇はなかった。その後、折笠上工のひと声がきっかけで艦奪還の気運が盛り上がり、フリッツ少尉の先導で白兵戦が始まった経緯についても、自分でなにかを判断した覚えはない。反逆者と敵|間諜《かんちょう》は排撃すべき、と最低限の理性は働かせても、ただ勢いに乗って行動したと言った方が正しい。それがどんな結果を招き寄せるかまでは頭が回らず、皇軍兵士の規範では判定できない事態に直面させられるなど、まったく想像もしていなかった。
米国の新型爆弾が、宮城や政府施設が集中する東京に投下されるのを防ぐ。これは正しい。皇軍兵士なら命を賭けてでもやり遂げねばならない任務だ。だが帝国海軍は、そのような軍令を出していない。この行動は〈伊507〉の独断であるという。陛下からお預かりした艦艇を独断で用いるとは、万死に値する。皇軍兵士としてあるまじき行為だ。本当に必要な行動であったら、軍令部から正式な命令が下ってしかるべきではないか。
が、いくら待っても命令は届かない。〈伊507〉は浅倉大佐が独断で出撃させたもので、艦籍も未登録の存在しない艦≠ネのだから、その言い分が海軍省や軍令部に届く道理もない。まずは内地に帰り、正常な指揮系統に組み入れられるのを待つのが筋だが、そんなことをしている間に米国の新型爆弾が――。
皇軍兵士の思考回路は、そこで破綻《はたん》をきたす。そしてそれを迂回《うかい》し、自分の頭で判断しようとすると、とてつもない恐怖が腹の底から這い上がってくるのだ。
特攻せよと命じられれば、従う覚悟はある。それが義務であるなら、父や兄同様、皇国が末代まで栄誉を讃えてくれるなら、皇軍兵士として死も甘受する。なぜ艦長は命令しない。これが陛下の意志、軍令部の決定事項だとなぜ言ってくれない。嘘でもいい、この行動が皇軍の大義の実践であると保証してくれたら、それだけで自分は〈伊507〉と行動をともにできるのに。
自分で考え、自分で決めろ? 無理だ、そんなの……。
すっと空気が流れ、小松は顔を上げた。潜航士官の少尉が、静止した士官室の空気を破って立ち上がったところだった。銃弾が擦過《さっか》した足の傷をかばいつつ、潜航士官は誰とも目を合わさず黙って扉の方に歩いてゆく。唐木《からき》水測長が「おい……」と声をかけた時だけ、立ち止まって微かに頭を動かしたが、その顔がこちらに振り向けられることはなかった。潜航士官は無言のまま戸口をくぐり、片足を引きずりながら士官室を後にした。
続いて暗号長の中尉が席を立ち、長椅子に座る小松たちの背後をすり抜けて扉へと向かった。その背中が戸口をくぐり終えるより先に、主計長の少尉も立ち上がり、一同の視線を避けて暗号長に追随する。士官室には小松と唐木水測長、電探長の中尉が残されたが、唐木も電探長もじっと押し黙り、長机に向けた顔を上げようとはしなかった。
なぜ引き止めないんだ? 二人の顔を交互に見つめ、小松は不意に猛烈な焦燥感に駆られた。急がないと置き去りにされる。恐怖が波のように足もとに押し寄せ、唐木たちがなにか言ってくれるのを待ったが、残ると決めた彼らにしても、他人にかまう余裕はないといった顔つきに変わりはなく、互いに目を合わすのを避けているように見えた。
ここにも磐石の足場はない。すべてを呑み込む虚無の大波が眼前に迫り、息ができなくなる恐怖に駆られた小松は、咄嗟に立ち上がってしまっていた。
長椅子をまたいで、つんのめりながら戸口をくぐる。通路を歩く暗号長らの背中は、一甲板に通じるラッタルに差しかかろうとしていた。いったんパートに戻って、荷物を取ってくるつもりなのだろう。小松はゆったり|横揺れ《ローリング》する通路を夢中で走り、一行の最後尾についた。
全員が一斉にこちらを振り向き、小松はなにか言うべきかと迷ったが、一様に無表情の彼らは、すぐに顔を前に戻してラッタルを昇り始めた。黙々と歩く四人の男たちの中で、「これだけか?」と最初に口を開いたのは、潜航士官に肩を貸す主計長だった。
「他にもいるだろう」と潜航士官。「ランチに乗りきれるんだろうな」と返した主計長に、「足りなかったら、艦に搭載してある短艇《カッター》を出せばいい。とにかくここを離れるんだ」と語気を荒くしたのは、この中では最上級将校の暗号長だ。
「こうなりゃ、命あっての物種《ものだね》だからな」
ぼそりと付け足し、暗号長は顔を背けた。小松は、それは違う、そういうことじゃないんだと怒鳴りたかったが、自分でも整理のつかない想いを口にできる自信はなく、言ったところでなんの意味もないことはわかっていた。他にもひとり、二人とパートに向かう乗員たちの気配を背中に、小松はただ機械的に足を動かした。
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結局、十八名の乗員が退艦を希望し、〈伊507〉を離れることになった。
将校六名、兵曹以下十二名。事件以来、ひと言も口をきかなかった笠井通信長を始め、浅倉の謀議に与《くみ》した工作長と信号長も退艦者の列に加わった。人数にせよ、将校と兵曹以下の比率にせよ、そんなものだろうと思える範囲内ではあったが、ひとりの退艦者も出ないことをどこかで期待していた身には、やはり応える数字だった。横付けされたランチに続々と乗り込んでゆく彼らの姿を、絹見はひとり艦橋甲板から見送った。
ランチにはウェーク島に到達するまでに必要な燃料と、一週間分の糧食を人数分積み込ませた。遅くとも夕刻までにはウェーク島にたどり着けるはずだが、根拠地隊が彼らを快く迎え入れる保証はない。浅倉には彼らの受け入れを拒む理由はないし、その支配が根拠地隊全体に及んでいるわけでもないとはいえ、十八名の食いぶちを引き受ける根拠地隊の負担は、別の問題として残る。ランチの積載量ぎりぎりまで糧食を積んだのは、退艦者への餞別《せんべつ》という以上に、ウェーク根拠地隊に対する最低限の礼節だった。
あとは、退艦者が抜けた分の穴埋めをどうするかだ。昨晩からの戦死者と十八名の退艦者を差し引いて、〈伊507〉に残った全乗員の数は五十三名。うち一名は重傷だから、五十二人で艦を切り盛りしていかなければならない。正規の必要人員のほぼ半数しかいない計算になるが、明日一日を乗りきればいいのだと思えば、それほど絶望的な数でもなかった。
明日一日、か。そこから先は闇に包まれている艦の先行きをふと考え、暗い感慨に囚《とら》われかけた時、退艦者の列の中からひとりの乗員がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。南京袋《なんきんぶくろ》を放って機銃甲板に這い昇り、艦橋甲板に続くラッタルに取りついた小松少尉の顔を、絹見は虚をつかれた思いで見返した。
歯を食いしばり、いまにも泣き出しそうな顔を紅潮させて、小松は艦橋甲板に昇ってきた。「し、死を恐れるわけでは、ないのです」と荒い息で吐き出した小松の顔を、絹見は静かに見下ろした。
「海軍が死ねと言えば、いつでも死ぬ覚悟はできています。しかしこの作戦は、軍令部が決定したものではなく……。わからないんです。どうしようもなく頭が混乱していて、怖いんです。艦長は、自分で考えて自分で決めろとおっしゃった。しかし自分は……」
いかにも神経質そうな細面と、ぽろぽろ涙をこぼす純朴な瞳が、甲板士官の葛藤の深さを伝えていた。「これを臆病とは思わないでいただきたいのです。ただ自分は……」と声を詰まらせ、両手を握りしめた小松に、絹見は「わかっている」と返した。
「人の暮らしには、君のように考えて行動する人間も必要だ。これまでよく〈伊507〉に尽くしてくれた」
その場しのぎの言葉ではなく、本音を伝えたつもりだった。艦尾から吹きつける風に横面をなぶられ、頬の雫を引きちぎられながら、小松は無言で肩を震わせ続けた。これまでも、これからも、この純粋さと脆さが日本人を生かし、また殺しもするのだろう。ふとそんなことを思いつき、絶望も嫌悪もしていない自分の胸のうちを確かめた絹見は、小松の肩を軽く叩いてランチに戻るよう促した。
うなだれた小松が乗り込むのを待って、ランチの舫《もや》いが解かれた。触れ合わせていた舷をゆっくりと離し、〈伊507〉の十分の一もない船体が大海に漕ぎ出してゆく。ほどなく機関がひときわ大きな唸りを上げ、海原に白い航跡を刻んで回頭したランチは、ウェーク島のある方位に向けて前進を開始した。
見送る者もなければ、帽ふれの号令も聞こえない。風と波、機関の音だけが響き渡る寂しい船出だった。無遠慮な陽光が去る者、残る者に等しく降り注ぎ、肩を寄せあってランチの甲板にうずくまる男たちと、黙然と立ち尽くす〈伊507〉の甲板員たちを照らし出す。蔑《さげす》むことも、開き直ることもできず、ただ顔を背けあうしかない両者の空気を感じ取った絹見は、機関始動を命じるべく伝声管に顔を寄せた。定員いっぱいに詰め込まれたランチの人垣が動き、ひょろりとした人影が立ち上がったのはその時だった。
暗号長や水雷科の兵曹がぎょっと振り返るのをよそに、小松はひとりランチの甲板に立ち、頭上に掲げた略帽を左右に振った。なにか叫んでいるようだったが、声は聞こえなかった。溢れる感情に衝き動かされて略帽を振る小松に、やがて三、四人の男たちが同調し、彼らの顔が小指の先より小さくなった頃には、七人分の略帽がランチの上でちらちらと舞うようになった。
〈ナーバル〉の脇に立つ甲板員と、機銃甲板上の見張り員がそれに気づき、各々に帽ふれを返す。絹見も略帽をぬぎ、頭上に掲げて大きく左右に振った。果てしなく広がる海と空を背景に、あまりにも小さいランチの船体が遠ざかってゆく。太平洋の蒼茫《そうぼう》がその船影を溶かしきるまで、絹見は艦橋を離れなかった。
全速運転する機関の排煙をたなびかせ、〈伊507〉の巨体が航走を再開して十五分。艦橋に上がってきた木崎に、「代わります。少しお休みになってください」と声をかけられ、絹見は艦内に降りる気になった。
直径二百キロ圏内の海上・海中を隈《くま》なく見渡せるローレライの目も、空には及ばない。のきなみ千キロ、二千キロを超える敵機の航続距離を思えば、付近に敵空母や飛行基地がないからといって安心はできず、休んでなどいられないと脳は訴えていたが、それこそ空腹と睡眠不足がもたらす強迫観念でしかなかった。艦橋甲板には双眼鏡と一体化した見張り長がいるし、機銃甲板でも二人の見張り員が哨戒《しょうかい》を続けている。無骨者なりに精一杯の配慮を示し、高須が抜けた穴を埋めようとする木崎の気づかいも感じ取った絹見は、おとなしく発令所に続く連絡筒にもぐり込んだ。
ラッタルに足をかけた時、先任なら軽口のひとつも叩き、張り詰めた気分をやわらげてくれただろうと思いついてしまい、罪悪感と喪失感の入り混じった嘆息が口をついて出た。疲れるとろくなことを考えない。食事を摂るついでに、小一時間ほど仮眠しようと決めて連絡筒を降り始めたが、発令所に足を着ければ着けたで、別の面倒が絹見を待ち受けていた。
「冗談じゃない! いったいどういうつもりだよ!?」
だしぬけに怒声が弾け、絹見はラッタルから離しかけた体を硬直させた。操舵長と二人の操舵員もそろってぎょっとした顔を振り向ける中、拳を握りしめ、ヘルゼリッシュ・スコープの傍らに突き立つ折笠征人の背中が見えた。
その視線の先には、すらりと長い手足をゴム服に包んだパウラの姿がある。前回の定時感知の結果を表示するコロセウムの微光が、常になく硬い殻で覆われたパウラの表情を浮かび上がらせており、絹見は声をかけるのも忘れて二人の姿を見比べた。
「みんなと同じよ。自分にやれることをやるだけ」
取りつく島のない口調で言い返すと、パウラは征人の背後に立つフリッツに視線を移した。腕を組み、寡黙な顔を妹に向けるフリッツの横では、時岡が落ち着かない様子で三者の顔色を窺っている。ただでさえ人員が減ったところに、交替で休息を取るよう通達してあるので、発令所には運用に必要な最低限の要員しかいない。機関の音ばかりが大きく響き渡る発令所を見渡し、固唾を飲んで見守る一同の気配を察した絹見は、時岡の背中に近づいて「なにごとだ?」と質した。
「は、その……。パウラ嬢が、例のリーバマン新薬を飲むと言い出しまして」
こわ張らせた顔をわずかに動かし、時岡が小声で答える。すっかり忘れていたリーバマン新薬という響きに、絹見は思わずパウラの顔を凝視した。ローレライ系統の唯一最大の欠陥――同時に複数敵とは戦えない欠陥を克服するために、リンドビュルム計画の主任博士が開発したという薬。システムの核《ケルン》であるパウラの脳に干渉し、人間的な情動を消し去り、ローレライの稼働のみを支える情報処理機械に変える。いちど服用したら最後、記憶も感情もなくした廃人になり、以後の回復は望めない。人間を兵器化するという歪んだ研究が必然的に生み出した、心≠破壊する薬……。
二杯の敵潜に挟み撃ちにされ、パウラが自らリーバマン新薬の存在を明かしたのは十二日前。思えばそれを彼女に飲ませることを拒み、全乗員が一丸となって危機に挑んだ時から〈伊507〉の結束も固まったのだったが、あの頃といまとでは根本的に状況が異なる。すべてがひっくり返る一夜を過ごし、四分の一の乗員が艦を去ったいま、再び薬を飲むと言い出したパウラの言葉には以前とは別の重さがあった。「兄さん」とフリッツに呼びかけ、一歩前に踏み出したパウラの横顔を、絹見は声もなく見つめた。
フリッツは無言のまま、組んだ腕をほどこうともしない。「パウラ……!」と怒鳴った征人が割って入ったが、「もう決めたことよ。邪魔しないで」と返したパウラは、フリッツに据えた視線を動かさなかった。
「勝手すぎるよ、そんなの! それじゃこの間の苦労はなんだったんだよ。みんな、君を機械にしたくないから頑張ったんだぞ。戦死した早川艇長たちだって……」
「だからよ。これが最後の戦いになるなら、後悔するようなことはしたくないの」
つかみかかる勢いの征人をぴたりと見据え、パウラは遮《さえぎ》る言葉を放った。余人には想像外の刻苦を耐え抜いてきた強固な意志が、鳶色《とびいろ》の瞳を碁石《ごいし》のように硬くしていた。
「これまでみたいなわけにはいかない。米軍は〈伊507〉がテニアンに向かうことを知っている。たくさんの艦隊で待ち伏せをして、本気で掛かってくるわ。ローレライで敵のソナーを避けながら進んでも、見つからずにテニアンにたどり着くなんて無理……。必ず戦闘になって、敵艦を沈めなければならなくなる。その時、最初の一隻を沈めただけでローレライが使い物にならなくなったら、後はどうするの? 誰が爆撃機の発進を止めるの?」
最後の問いは、征人ではなく絹見に向けられていた。一応の対策は考えてあるが、硬い碁石の瞳を押し返せるほど確信のあるものではなく、絹見はまっすぐなパウラの視線から目を逸らした。
「いまためらえば、みんなが犬死にになってしまうかもしれない。それは、私には心を失うより辛いこと……」
絶句した口を虚しく動かす征人をよそに、パウラはフリッツに右手を差し出した。シャツの折り返しに薬が隠してあることは、前回の時に見て知っている。時岡が唇を噛み締めてうつむき、発令所にいる全員もぐっと堪えた顔をパウラから逸らす。皹《あかぎれ》の治りきらないパウラの手のひらを見つめ、本当にそれしかないのか? と自問した絹見は、不意にわき起こった笑い声にぴくりと肩を震わせた。
低く喉を鳴らす笑い声は、その場の空気を無遠慮に踏みつけて発令所に広がっていった。一同が唖然と注視する中、肩を揺すって笑い続けたフリッツは、「どうも、まいったな」と言って笑みの残る目をパウラに向けた。
「こんなことになるなら、おまえには教えておくんだった」
ひやりとした冷気が胸に落ち、絹見はフリッツに体を向けた。シャツの折り返しからひと粒の丸薬を取り出したフリッツは、ひとさし指と親指に挟んだそれをパウラの面前に突き出した。
「心を消してローレライの一部になる……。そんな便利な薬が、本当にあると思ってたのか?」
え? とパウラが唇を開きかけた時には、フリッツは指に挟んだ丸薬を無造作に口に放り込んでいた。呆気に取られた顔の征人と時岡の前で、薬を飲み下したフリッツの喉がごくりと鳴った。
「この通りだ。リーバマン新薬など嘘っぱち。ローレライを高く売りつけるために、おれがでっち上げた大ボラだ」
「……嘘。だってキールを出港する時に藪医者《クワックザルバー》が手渡して……」
「あのとき受け取ったのは、新開発の栄養剤だ。おまえが誤解してるみたいなんで、それらしい作り話をした」
硬い碁石の瞳が溶け、突けば崩れるような脆さが鳶色の瞳を覆った。顔の色を失い、ゆっくり腕を下ろしたパウラに、「敵を騙すには、まず味方からと言うだろう?」とフリッツは悪びれもせずに続けた。
「祖母《ばあ》さんも言ってたろう、おまえは嘘が顔に出る質《たち》だって。ローレライで商売をしようと思えば、欠陥は改善できると相手に思わせておくのが肝要だ。現にここの連中はみんな騙された。この間は、我ながら迫真の演技だったしな」
まだ状況が呑み込めない発令所要員たちの顔を見回し、「だいたい、もし本当にそんな薬があったら、とうの昔におれが始末して……」と重ねられたフリッツの声は、頬を打つ鋭い音に中断された。フリッツの頬を張った手のひらを握りしめ、大きく肩を上下させたパウラは、目の縁に滲んだ雫《しずく》が溢れ落ちる寸前、背を向けて艦尾側の隔壁へと走り去っていった。
細い背中が、水密戸を抜けて発令所を飛び出してゆく。「パウラ……!」と叫んで後を追おうとした征人を、フリッツは「放っておけ」と一喝《いっかつ》した。
「責任はおれにある。いまはひとりにしておいた方がいい」
妹の平手を受け止めた頬を軽くさすり、「そういうわけだ。すまないな、艦長」とフリッツはこちらに振り返った。頷きはしたものの、取りすました顔色といい、らしからぬ饒舌《じょうぜつ》といい、絹見はフリッツの言葉を額面通りに受け取る気はなかった。
「だがな、可能性がないわけじゃない。この前、折笠が一緒に〈ナーバル〉に乗った時、パウラはいつもより早く意識を取り戻した。敵艦を撃沈してから、三時間と少し。これはいままでローレライを扱ってきた中では最短記録だ」
パウラがくぐった水密戸から目を離そうとしない征人に、フリッツはまったく別の話を持ちかけた。「どういうことです?」と征人は振り向きつつ眉をひそめる。
「おまえという人間の体温を間近に感じていられたことが、あいつの精神を落ち着かせたのかもしれん。そうだったな? 軍医長」
いきなり話を振られた戸惑いを滲ませながらも、「状況から見て、他に考えられません」と応じた時岡の声は冷静だった。
「少尉に過去の記録を見せてもらいましたが、リンドビュルム計画に携わった医者どもは確かに藪《やぶ》ぞろいですな。水温とか回路の伝達速度とか、外側の条件にばっかり気を取られていて、肝心のパウラ嬢についても体調との因果関係にしか目を向けとらんのです。健康状態も重要な要素ではありますが、ローレライはパウラ嬢の精神状態……つまり気分ですな。それと密接に関係しとるというのが自分の所見です。
前に艦長にもお話ししましたが、パウラ嬢の千里眼能力は人工的に植えつけられたものではなく、人間がもともと持っている力の発露であると自分は信じます。だとしたら、その制御は薬物投与のような科学的方法よりも、人の心によってなされるのが当然でしょう。折笠上工の存在が、パウラ嬢の回復を早めた可能性は十分にあるでしょうな」
「自分の存在が……でありますか?」と聞き返した征人は、半信半疑の顔つきだった。時岡は丸眼鏡に手をやり、
「古今東西、人間の心の成り立ちについて書かれた書物はごまんとありますが、科学的な考察ですべてを解明できた事例など皆無です。心には心。もっとふっくらした考え方をしなければいけません。楽しいことがあれば早く起きたいと思うし、逆に苦しいことしかなければ、いつまでも眠りの中に逃げ込んでいたいと思う。意外とそんなものなんじゃありませんかな?」
聞きようによっては空想家の真骨頂と言える話でも、時岡の穏やかな声音には、それ以上の真実は必要ないと思わせるやさしさがあった。心には心、そんなものであってほしい。これからどれほど科学技術が進んだとしても。内心に呟いた絹見は、「そういうことだ」と続けたフリッツが、征人の正面に立つのを見た。
「勝機はある。おまえが体を張って実証すればいいことだ」
そう言い、フリッツは征人の肩に手を置いた。攻撃のためでも、相手の自由を奪うためでもなく、ただ他人と肌を触れ合わせたフリッツの挙動に、征人はもちろん、絹見も息を呑み込んでいた。
「妹を頼む」
そのひと言で未練を断ち切り、自らの背中を押し出すようにして、フリッツは発令所から出ていった。険のそげ落ちた長髪の背中が水密戸をくぐり、艦尾に続く通路を独りたどってゆく。呆気にとられた顔の征人を残し、絹見も発令所を後にした。
まだ真上に差しかかる前の太陽が照らす海は、外洋の只中とは思えないほど穏やかだった。凪《な》いだ海面には三角波も立たず、〈伊507〉が巻き起こす引き波ばかりがどうどうと飛沫《しぶき》を上げる。
二十五ノット――キロに換算すれば時速五十近い速度で進んでいても、対比物のない海上では移動の感覚がつかめない。艦首方向から吹きつける風と、舷側を洗う波飛沫だけが、艦が確実にある一点に向けて進んでいることを教えてくれる。艦橋構造部脇の水密戸を開け、横殴りの風に目を細めた絹見は、主砲後部に張り出した測距儀の下、舷側と艦橋構造部に挟まれた細い通路の一端に、手すりにもたれかかったフリッツの姿を見つけていた。
吹き寄せる風に長髪を流されながら、海と空が溶け合う界面に遠い目を飛ばす横顔は、口からなにかを吐き捨てた時だけ下に向けられた。唾と一緒に捨てられた丸薬が引き波の飛沫に呑み込まれ、フリッツはそれを見届けずに水平線に視線を戻す。絹見は、「栄養剤なら吐き出すことはなかろう?」と声をかけつつ、風にはためくワイシャツの背中に近づいていった。
「風邪薬だ」わずかに頭を動かし、先刻から気配を察していたのだろうフリッツの声が応じた。「形が似てるんで、こういう時のために取っておいた」
案の定だった。先の戦闘の際、リーバマン新薬を飲むと言い出したパウラに示した態度が演技であるはずはない。それほど器用な男なら、いまだにこの艦で顔を突き合わせていることもなかった。小細工なし、大胆にすぎる嘘で煙に巻いたつもりだろうが、絹見に言わせれば、フリッツこそ嘘が顔に出る男だ。「食えないな。なにもかもお見通しか」と苦笑したフリッツに、絹見は「本物は?」と無表情に重ねた。
ワイシャツの第三ボタンを開けたフリッツは、折り返しの縫い目から三錠の丸薬を取り出してみせた。それぞれ白、灰色、薄緑色に塗り分けられた丸薬は、三つそろって所期の効能を発揮するということらしい。絹見は無言でそれを受け取り、海に向かって力いっぱい放り投げた。
四メートルほど下で沸き立つ波飛沫を飛び越え、引き波がうねらせる海面に落ちたリーバマン新薬は、着水の痕跡も残さず視界から消えた。SSの制服同様、捨てるに捨てられなかったのだろう悪夢の残滓《ざんし》を見送り、フリッツの横顔には清々としたような、多少は心もとないような、複雑な陰影が浮かんでいた。
その隣に並んで、絹見もはるかな水平線に視線を飛ばした。しばらくの沈黙の後、「いいんだぞ。降りたければそうしても」と口を開くと、フリッツは微かに視線を伏せた。
「これは我々がつけねばならんけじめだ。君たち兄妹につきあう義理はないし、つきあわせる権利も我々にはない」
艦内各所に隠してあった大量の銃器を見るまでもなく、フリッツが脱走の意志を持ち続けていたことは疑う余地がない。仮に米本土奇襲作戦が実施されたとしたら、フリッツは早々に行動を起こし、パウラを連れて〈伊507〉から脱出していたに違いなかった。
その体を流れる血の四分の一を占めようとも、二人にとって日本は無縁な国。責めることはできないし、それはこうなったいまも変わらない。無論、ローレライなしでは作戦の成功は望めず、拘束してでも二人に協力させなければならないのが絹見の立場だが、無関係の者を犠牲にして原子爆弾の投下を阻止したところで、それは結局は力の論理――恐怖で恐怖を克服する餓鬼道の再現でしかない。理想主義と笑われようが、独善と罵られようが、そうした部分にこだわってみせねば浅倉には勝てないし、その怨念も鎮《しず》められないという想いは、確実に絹見の中に根づいていた。
「テニアンの手前で離脱すれば、〈ナーバル〉の航続距離ならトラック諸島ぐらいにはたどり着ける。まだ連合軍は上陸していない場所だ。ウェーク島より規模の大きい根拠地隊が駐留しているが、君ならうまく立ち回れるだろう」
「律儀な男だな、あんたも」
苦笑の皺を深くして、フリッツは半ば呆れた口調で言った。褒《ほ》め言葉とは思えなかったので、絹見は「性分だ。笑っていい」と憮然と返した。フリッツは目を伏せ、本当に喉を鳴らして笑った。
「そうしたくても、パウラが聞かないさ。あの通り、強情な妹なんでね」
風になびく長髪ごしに、細められた目がひどくやさしく見えた。絹見は、「君はどうしたいんだ?」と問いを重ねた。
「妹さんはもう大人だ。いつまでも君の庇護《ひご》が必要なわけでもあるまい」
フリッツの横顔から笑みが消え、遠くを見据える眼差しが瞳に戻ってきた。妹を頼む、と言った時の血を吐くような声音をそこに重ねながら、「君の重荷であり続けることは、妹さんも望んでいないだろう」と絹見は続けた。
「そろそろ自分のことを考えてもいいんじゃないか?」
はるかな水平線を見つめて、フリッツはなにも答えようとはしなかった。答えられないのだろう。筋金入りの高等遊民か、本物の世捨て人でもなければ、自分のことを考えろと言われて即答できる男などいない。国家、大義、家族。対象がなんであれ、男は自分以外の存在に生の意義を仮託しようとする。妹を守るという義務感で己を縛り上げなければ、恐怖が支配する世界で生き抜いて来られなかったフリッツしかり。逼塞《ひっそく》した三年を過ごして抜け殻になり果てていたはずが、〈伊507〉を与えられた途端に熱情を取り戻し、再び人と関わることを覚え始めた自分しかり……。
ごとん、と固い物がぶつかる音が機関と波の音に混ざり、絹見とフリッツは同時に足もとを見下ろした。舷側を洗う波飛沫の中から人の頭ほどの大きさの物が浮かび上がり、引き波のうねりに押されて後方に流れ去るのが見えた。
椰子《やし》の実だ。堅い表皮を舷側にぶつけて、〈伊507〉の傍らをすり抜けてゆく。波濤《はとう》に揉《も》まれ、浮きつ沈みつをくり返しながらも、それは決して海中に没することはなかった。むしろ海面を隆起させる引き波に乗り、その勢いを借りるようにして、広漠と横たわる大洋をゆらゆらと流れた。
どこから来て、どこへ行くのか。「名も知らぬ遠き島より……か」と我知らず口ずさみ、絹見は身ひとつで大海を渡る椰子の実を目で追った。そこに自らの姿を重ね合わせる人の心情など知らぬげに、小さな種子はあてどなく波間を漂い、引き波に追いやられてすぐに遠ざかっていってしまった。
「……人間なんてものは、あの椰子の実みたいなものかもしれない」
ぽつりと呟かれた言葉が、風に乗って絹見の耳朶を打った。遠くを見つめるフリッツの眼差しが、艦尾方向に流れ去る椰子の実に注がれていた。
「生まれ落ちて、自分の意志に関わりなく流され続けて……」
「いつか、どこかの島に流れ着く」
フリッツの後を引き取り、絹見は続けた。「そこで根を張り、そこを自分の居場所と信じ込んで、同じく流れ着いた仲間たちと新しい実をみのらせる」
「そして死んでゆく。……国とか民族とかってのは、そんないい加減な理由で結びついているだけなんだろう。椰子の実は椰子の実。こうして海を渡っているうちは、どこに行くのも自由だとわかっているはずなのに……」
国家、民族という言葉の持つ負の力が、人の魂を搦《から》め取り、圧殺することもあると知り抜いた者の言葉だった。絹見は「だがそれでは寂しすぎるし、長くは生きられない」と、もうひとつの現実を口にした。
「だから互いに寄り添い、流れ着いた島で森を造る。椰子の実と人間が違うのは、そうして寄り添った時から団結心が生まれ、法が生まれ、自分たち以外の者に対して警戒心を持ってしまうことだ。もとは同じ海を漂っていた平和な頃を忘れて、な……」
そうして闘争の歴史を積み重ねる一方、海を渡る術を覚え、空を飛ぶことさえ可能にした人類が、戦争を地球規模にまで拡大させてしまったのが今次大戦――いまや終戦の戸口に立った第二次世界大戦。だがこれは始まりに過ぎないのだろう。電探の発達、ロケットやジェットエンジンの登場、さらには一撃でひとつの都市を消滅させ得る原子爆弾。今次大戦が産み落とした機械技術が世界中に敷衍《ふえん》し、他者への恐怖が紡ぎ出す闘争の歴史と結託した時、恐怖はさらなる恐怖を呼び、人は本当に共食いを始めて、この星はまるごと餓鬼道に堕ちてゆくのかもしれない。
真実の終戦は永遠に訪れず、亡国の日本はそれに対してなにもできないまま、緩慢な死への道をたどる。浅倉の計画が予定通りに運ぼうが運ぶまいが、破滅に至る歴史はすでに確定しているということなのだろう。だとしたら、この行為にどれだけの意味がある? 奥底に巣くう弱気がそんな問いを発し、ふと息苦しさを覚えた絹見は、「だがそれだけじゃない」とかけられた声に顔を上げた。
「この広い海に心を通わせて、互いの心を触れ合わせることもできる。……そういう力だって、人間にはある」
椰子の実の消えた方向に広がる水平線を見つめて、フリッツは静かに、しかしはっきりと言った。
「たとえそれが奇跡の力で、ほとんどの人間には触れられない力であっても、可能性だけは確かに示された。ちょっとしたきっかけ……ほんの少しわかりあおうとしただけで、世界なんて簡単に変わるものだってことが」
フリッツは、水平線を映していた瞳を空へ向けた。失意も恨みもなく、透明な被膜にはるかな高みを映す瞳は、恐怖以外のなにかで恐怖を克服する術を覚えた者の瞳。絶望に塗り込められた世界を憎むのをやめ、自らが希望を生み出すことを覚え始めた男の瞳だった。胸に差し込んだ光が弱気を散らし、ほんのり体を温めるのを感じながら、「それが君の希望か?」と絹見は確かめた。
「あんたと同じ、儚《はかな》い希望だがな」
照れ隠しの苦笑を浮かべ、フリッツは視線を伏せた。「しかし、その可能性は目の前にある」と続けて、絹見はその横顔を正面に見つめた。
「そうだ。……だから、おれはもう少しここにいる必要がある。自分で考えて、自分で決めたことだ」
フリッツもこちらを見返し、苦みの抜けた、清々とした笑みを浮かべた。過去の辛酸を洗い流し、翳りのない未来の在り処を伝える顔に、絹見も含むところのない微笑を返した。
広漠たる大海を渡る鉄屑《てつくず》の上で、そこにわいた錆《さび》同士が腹蔵なく笑いあう。それだけのことに過ぎないが、それだけでいまという瞬間には価値がある。この一瞬の安息が与えてくれる豊かさを信じ、まだ見ぬ未来へと繋げられるなら、確定した歴史に抗う愚挙にもなにがしかの意味はあるはずだった。絹見は遠くテニアンの方角から吹きつける風を浴び、平穏な顔を見せる海原に視線を投じた。椰子の実は彼方に流され、すでに見えなくなっていた。
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「異例ではあるが、これより艦内時計をテニアン時間に合わせる。各自が所有する時計もこれに合わせろ」
絹見艦長に続いて、「時間合わせ!」と木崎航海長が令する。テニアン時間は、日本時間よりプラス一時間の時差。帝国海軍の規定通り、常に日本時間に合わせられた壁時計に取りついた唐木水測長を横目に、征人も煙管服のポケットから懐中時計を取り出した。竜頭《りゅうず》を回して針を一時間分進め、号令を待つ。
「二一〇〇に合わせる。十秒前……五秒前……用意、てっ!」
海軍では、時機を合わせる際にはなにごとも用意、撃て≠フ号令が用いられる。短く詰まった木崎の声に、征人は竜頭を押し込んで秒針が時を刻み始めるのを確認した。八月十一日、午後九時。原子爆弾搭載機が離陸するX時――翌午前九時三十分まで、マイナス12・5時。以後、艦内の時間軸はすべてX時を中心に回る。そのしょっぱなに一時間も針を進めて、征人の中には損をしたような、目の前の崖っぷちに大股で踏み出したような気分が残されたが、それはこの士官室に集まった誰もが感じていることだろう。
新たに先任将校に就任した木崎航海長。退艦した小松少尉に代わって甲板士官を兼任する唐木水測長。砲術長代行に任命されて間もないフリッツ少尉。会議ではいつも眠そうな顔の岩村機関長までが、機械油の染み込んだ肌に一抹の緊張感を漂わせる。ローレライ整備担当係補佐という正体不明の肩書きをもらい、各科責任者が参集する作戦会議に出席した征人に至っては、下腹に力を入れなければ膝が震え出す始末だった。
場違いなところに呼び出された緊張に、目前に迫った決戦への恐怖が相乗してのことだが、そればかりではない。せっかく与えられた肩書きを反故にしかねない事情が、いまの征人にはある。早いうちに報告しなければならないが、いつ、どのように説明すればいいものか。押し黙った十人の男たちの顔を窺ううち、「それでは会議を始める。まずは本艦の航行状況について伝える。航……先任将校」と絹見が口を開き、「は」と応じた木崎が起立して、最終作戦会議は始まってしまった。
航行状況は概して良好と言えた。十分前の観測によれば、〈伊507〉の現在位置は東経百五十八度二分、北緯十七度四分。付近に目印となる島が存在しない太平洋のどまんなかでは、コロセウムも位置測定機械の役には立たず、現在位置の把握には六分儀による天測が用いられる。一ノットの速度で流れる北赤道海流の後押しを受け、機関全速で飛ばしに飛ばして十五時間近く。航路も中間地点を過ぎ、テニアン島まであと五百キロという位置だ。現在の速度を維持すればX−1ないし2時、つまり一、二時間は余裕をもって目的地に到着できる。目下のところ機関に不備はなく、潜航時に必要な電力も十分に充電できた……と木崎は結んだ。
続いて艦内の修理状況、燃料及び武器弾薬の残量についての説明が各科責任者からなされた。今朝の銃撃戦であちこち傷ついたとはいえ、機能に支障をきたす致命的な損傷は特になし。応急修理は現在も続いており、X−9時には完了する予定。燃料に関しては、もともと米本土まで向かえる量をウェーク島で補給している。原速なら無補給で地球を一周できるだけの航続距離を誇る〈伊507〉のこと、全速航行でテニアンを目指したとしても、燃料タンクの目盛りは五分の一も減らない。武器弾薬も補給したばかりなので、九五式酸素魚雷が十七本、二十・三センチ砲弾が六百発とフル装備状態。ただウェーク島で補給した魚雷は信頼度に疑問があり、不良品が混ざっている可能性は否定できないと、これは高須に代わって水雷長に昇進した水雷士からの報告だった。
どだい、魚雷がすべて駛走《しそう》してくれたとしても、勝算の低い作戦であることに変わりはない。米軍が攻撃を予期しているなら、テニアン沿岸はかなりの数の艦艇で固められている。まだローレライの感知圏外なので推測する他ないが、駆逐艦が二、三杯というような通常の警備隊の規模ではないだろう。必然、いかに探知されずに接敵するかが勝敗の分かれ目になり、メモを取る一同の目が艦長に注がれる中、いよいよ絹見の口から作戦の概要が説明された。
ローレライを稼働させて敵の防備の薄い箇所を突き、強行突破。テニアン島の東面に位置するアシーガ湾を目指し、到達した時点で浮上。主砲による連続砲撃で、島内に点在する三ヵ所の飛行場を潰す。最重要攻撃目標は北端の第一飛行場。連続斉射で絨毯爆撃と同等の損害を滑走路に与え、原子爆弾を搭載したB−29の離陸を阻止する。他の二飛行場にも数日間は使用不能にするだけの砲弾を撃ち込み、日本が降伏するまでの時間を稼ぐ――。
正面突破と言えば聞こえはいいが、ようは小細工なし、当たって砕けろが基本の力押し作戦だった。呆気に取られた一同の視線を受け止め、絹見は壁に貼り出した海図を前に淡々と説明を続けた。
「テニアンを含むマリアナ諸島の東方にはマリアナ海溝がある。最大水深一万メートル以上、世界でもっとも深い海溝だ。この図の通り、南北に弓状に張り出しており、テニアンからは百キロ以上の沖合いに位置する。だが細い亀裂が東西にも走っていて、そのうちのひとつは次第に幅を狭めながら、テニアンの十数キロ手前まで続いている。大河から分岐した支流といったところだ。我々はこの支流に沿って航走し、テニアン沖五十キロの海域で潜航。以後、水中航走で敵の防衛網を突破する」
北端のパハロス島を筆頭に、パガン、サイパン、テニアン、グアム……と飛び石状に続くマリアナ諸島の東面に、そこだけ抉《えぐ》ったような深い亀裂を南北にのばすマリアナ海溝。その中ほどからテニアンに通じるひび割れの一本――八百万分の一の縮尺の海図では、髪の毛ほどにしか見えない亀裂に指を当てて絹見は続けた。細いと言っても、枝分かれした直後の亀裂の幅は優に三十キロ。先端のもっとも細い箇所でも二、三キロはある。
「海溝に沿って進む理由はひとつ。敵の水中探信儀による探知を防ぐことにある。我々が層深以下の深度を取ることは予測しているはずだから、敵は海底反射を利用して探信儀を打ってくるものと思われる。おそらくは複数艦による探信音波の網の目が張り巡らされているだろう。ローレライを駆使すれば回避して進むのも不可能ではないが、すべての探信音波を回避するのは至難の業であるし、それで時間と電池を無駄にするのも得策ではない」
水中探信儀は、海中に音波を放ち、反射波の有無から目標物を探知する仕組みだが、温度や密度、海流や潮流が複雑に入り混じる海中にあっては、音波が跳ね返されたり、ねじ曲がったりといった具合で、一律に伝播《でんぱ》しない。たとえば水上艦艇から探信儀を放った場合、音波は深度数十メートルのところにある温度逆転層――水温が極端に変化する層にぶつかって反射してしまう。温度逆転層にぶつかった音波は、はね返って海面に上昇し、またはね返されて温度逆転層にぶつかり……と、深度数十メートルの間をじぐざぐに進むことになる。従ってこの領域内にいる水中目標は探知できるが、それ以下の不惑帯領域――波度逆転層の下に広がる層深を潜航する目標に対しては、まったく役立たずになる。
そこで超音波を下方に打ち、海底と海面に交互に反射させて、層深以下に潜む目標を探知するのが海底反射法。深度百から二百メートル付近で音波の伝播速度が急変するため、反射波が聞こえない不感帯は生じるものの、海底が平坦な場所であればかなり正確な探知結果が得られる。テニアンを防衛する敵艦隊が、海底反射で探信儀を打ってくるだろうことは考えるまでもなかった。
「その点、海溝に沿って進めば敵の探信儀は事実上使用不能になる」と続く絹見の説明を、征人は全身を耳にして聞いた。
「海底反射が使えるのは深度三千メートルが限界だ。それ以上の深さになると、海水の密度変化で探信音波がねじ曲げられて、音波が海底に届かなくなる。テニアンに至るこの亀裂の深度は、浅いところでも五千メートル。つまり海溝に沿って層深以下の深度で進む限り、故に探知される恐れはなくなる」
「敵の死角をつく抜け道というわけですね?」
木崎が合の手を入れる。わかりやすい言葉で一同の理解を促す気づかいは、先任将校になる前の木崎にはなかったものだ。「そういうことだ」と絹見は微かに口もとを緩める。
「あとは、敵艦隊の配備の薄い場所を抜けてアシーガ湾に直進する。ローレライがあればそれができる」
そう締め括った絹見の視線がこちらに注がれ、征人は思わず下を向いてしまった。そのローレライに、ちょっとした問題が発生している。かしこまった会議の場で言うには抵抗があるが、いまのうちに報告しておくか? 自問する間に、「しかし、海溝を抜けた先は二百足らずの深度です」と岩村が疑義を挟んで、征人は開きかけた口を慌てて閉じた。
「アシーガ湾に至っては三十前後。敵の目を完全にくらますのは無理かと思えますが、これについては?」
「当然、戦闘は避けられないだろう。砲撃の時間を稼ぐために、敵艦隊にある程度の損害を与えておく必要もある」
「ですが、敵艦を沈めるとローレライが……」
「対策はある」岩村の懸念を遮り、絹見はにやと笑った。「準備が完了した時点であらためて通達する。間に合うな? 水雷長」
「は! 日付が変わるまでには終了します」と胸を張った水雷長に続いて、「ローレライには折笠上工もついてますしな」と木崎が冗談混じりに言う。失笑を含んだ一同の視線が毒に突き刺さり、征人はうつむけ気味の顔をますます下に向けた。
みんな、自分の存在がパウラの精神を安定させ、敵艦撃沈時の衝撃をやわらげるというフリッツの推測を鵜呑《うの》みにしている。ローレライ整備担当補佐という肩書きを頂戴したのもそのせいだが、現実は、周囲の期待とは逆の方向に進みつつある。膝上の拳を握りしめ、説明の言葉を探した征人は、「折笠上工。どうかしたのか?」と発した絹見の声に、反射的に席を蹴った。「は、実はその……」としどろもどろの口を開くと、「どうした。報告は明瞭にせんか」と木崎の叱責が飛んできて、噴き出した汗を拭うこともできないまま、観念して事の次第を話した。
「〈ナーバル〉に入れてもらえない?」
おうむ返しにした絹見が目をしばたかせる横で、木崎もきょとんとした顔をこちらに向ける。呆れて物も言えないといった沈黙が士官室を支配する中、征人は「は……」と蚊の鳴く声で応じた。
「どういうことだ?」
「はい。それが……例の、リーバマン新薬の一件以来、なんて言いますか、その……」
「ヘソを曲げた、か?」
言いにくいことをずばりと言ったフリッツが、無表情にこちらを見る。「は……」と征人が蚊の鳴く声をくり返した途端、誰かが失笑の鼻息を漏らし、苦笑のさざ波が士官室の空気を揺らした。
「なにかと思えば……」「先が思いやられるな。ええ? 折笠」と野次を飛ばす唐木たちは、潜水艦内で痴話喧嘩《ちわげんか》が見られるとは思わなかった、とでも言いたげな表情を隠そうともしない。そんなものではないと反論したくても、自分自身、頑なに干渉を拒むパウラの心情を理解しているとは言えず、征人は赤くなった顔をうつむけるしかなかった。
最初はすぐに機嫌が直ると思った。騙されていたことに怒り、必死の決意を無下《むげ》にされたことに怒りはしても、そうするしかなかったフリッツの立場を斟酌《しんしゃく》して、水に流した顔を見せてくれるものと信じた。だがパウラは、あれきり〈ナーバル〉に閉じこもってしまった。ローレライの機器は正常に作動しており、システムの運用に必要な受け答えはするが、それ以外の口はいっさい開こうとしない。食事を運んでいっても顔を見せず、有線電話ごしに何度も呼びかけてみたが、閉ざされた水密戸は一向に開く気配がなかった。
作戦会議が始まるまでになんとかせねばと思い、あれこれ説得の言葉を並べてみたものの、なんの効果も挙げられぬまま会議に出席する羽目になった。まったく、おれにまで当たることないだろうに。内心に罵り、一同の冷やかしを甘受した征人は、「冗談事ではないぞ」と発した絹見の声に顔を上げた。
「今次作戦の成否はローレライにかかっている。その整備担当がそばにも近づけんでどうする」
真剣な艦長の声音に、苦笑の波がぴたりと静まる。征人は「は……」と恐縮しつつ、フリッツの顔色を盗み見た。こうなる原因を作った張本人は、我関せずといった無表情で手元の書類をめくっていた。
「フリッツ少尉には、掌砲長に代わって砲科の指揮を執ってもらわねばならん。機器の操作は引き続き行うが、ローレライの精神面における管理は貴様の仕事だ」
征人の視線に気づいた絹見が言う。簡単に言ってくれる……と胸中にぼやく間もなく、「作戦が始まるまでに万全の態勢を整えておけ。これは命令だ」と艦長の声が続き、征人は「は!」と条件反射の背筋をのばした。
「頑張れよ」
顔の筋肉ひとつ動かさずに、フリッツが重ねる。征人は脱力した体を椅子に沈み込ませた。
交通筒を昇りきると、お吸い物の微かな芳香が鼻をくすぐった。鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》の缶詰が夕食に出されたのにあわせて、烹炊長が腕によりをかけて作ったお吸い物は、白飯を盛った茶碗ともども、手付かずの状態で気密室の片隅に置き去られている。もう湯気ひとつ立たないお椀《わん》の中身を確かめ、嘆息を漏らした征人は、内側から施錠された水密戸を拳で叩いてみた。
金属を叩く鈍い音が気密室に響くだけで、〈ナーバル〉に蓋をしている円形の扉はなんの返答も寄越さない。まったく、いつまで意地を張ってるつもりなんだ。腹の中に毒づきつつ、昇ったばかりのラッタルを降りた征人は、交通筒区画の壁に設置された有線電話の受話器を手にした。
「パウラ、おれだよ。まだ食べてないのか?」
取り上げれば〈ナーバル〉艇内のスピーカーに直結する有線電話は、この時も無言を返すのみだった。「体に毒だぜ。少しは食べとかないと」と続けた声が交通筒区画に反響し、足もとから伝わる機関の振動に虚しく呑み込まれた。
「艦長が奮発して鰻缶を出してくれたんだ。そりゃ本物の鰻重ってわけにはいかないけどさ。うまいんだぜ。ドイツでは鰻なんて食べたことないだろ?」
そう言う征人自身、鰻を食べたことなど数えるほどしかない。昔、母が遊郭に勤めていた頃、明日には足抜けをするという遊女が仲間に大盤振舞をしたことがあって、その時に相伴《しょうばん》にあずかったのが最初。この世にこんなうまいものがあったのかと感動したが、次に口に入れられたのはそれから十年近く後、海軍工廠工員養成所に出立する前日に、母がお祝いにと食べさせてくれた時だった。
遊郭をやめ、近在の農家を手伝って糊口をしのいでいた母にとっては、辛い出費だったろう。その日のためになけなしの貯金をはたいたに違いないが、故郷を捨てるつもりで海軍という進路を定め、母ともろくに口をきかなくなっていた自分は、満足に礼を言うこともできなかった。うまくてもうまいと言えず、黙々と箸を動かし、気づまりな時間を早く終わらせようとするだけだった。
あの頃は、なにをあんなにいら立っていたんだろう。母さんは元気にしているんだろうか? 日本から何千キロも離れた海の上で人生三度目の鰻を食い、おそらく四度目の機会はめぐってこない。あと数時間で生還の見込みのない戦闘に望む息子のことを、たまには思い出したりするのだろうか……? ふとそんなことを考え、意識が遊離しかけた時、水密戸の施錠の外れる音が頭上に響いた。
慌てて受話器を置いて、征人は交通筒のラッタルを昇った。水密戸から差し込む光を背に、夕食の盆を両手にしたパウラの上半身が見えたと思った刹那、「Komm nicht na:her!」と耳をつんざく怒声が気密室内に弾けた。
言葉の意味はわからなくても、来るなと言われたらしいと直観した体が自動的に動き、征人は気密室の床に出した頭を引っ込めた。「烹炊長に頼んでさ、温め直してもらおうか?」と咄嗟に口にすると、即座に閉じかけた水密戸の隙間から、「いらない」とつっけんどんな声が返ってきた。
「いい加減、機嫌なおせよ。大事な作戦前なんだぜ?」
「任務は果たしてます。征人こそ、他にやることあるでしょ?」
「これが仕事なんだよ。フリッツ少尉は砲科の指揮を執んなきゃならないから、おれが……」
そこで口を噤んだ時には、あとの祭りだった。「ふーん。仕事で機嫌を取りに来たんだ?」と険悪な声に続いて、閉じてゆく水密戸がギッと軋む音を気密室に鳴らした。「ま、待てよ!」と交通筒のハッチから身を乗り出して、征人はほとんど閉じかけた水密戸にすがりついた。
「そうじゃなくて、心配なんだよ。今度の作戦ではローレライが要《かなめ》なんだ。君が不機嫌なままじゃ、機械だってうまく作動しないかもしれないだろ?」
「ご心配なく。任務はきちんとやり遂げます。敵艦を沈めた後のことまでは保証できないけど」
「薬のことだったら、フリッツ少尉だって悪かったって思ってるよ、きっと。だいたい、そんな薬がなくてよかったじゃないか。みんな、いまのままの君の方がいいって思ってるんだ。ローレライがどうこうとか、作戦とは別の話なんだよ、それは」
一瞬の沈黙の後、「私だってそうよ!」と怒鳴り返した声が気密室を揺らし、水密戸が勢いよく開かれた。押されて尻もちをついた征人は、一方の手を水密戸のハンドルに手をかけ、もう一方の手を戸口の縁にかけたパウラの顔を、正面に見つめた。
「〈伊507〉は大事だし、作戦も成功させたいと思ってる。でもどんなに頑張っても、敵艦が沈んだら私は意識を失う。わかる? 敵艦に囲まれた中でローレライが使い物にならなくなって、〈伊507〉は袋叩きにされるのよ。まるっきり役立たずじゃない、そんなの。ローレライなんてものがあるからこんなことになったのに、私にはなにもできない。助けられるばっかりで、誰も助けられない。こんな情けない話……」
声が震え、戸口の縁をつかむ手のひらにぐっと力が込もるのがわかった。うつむいた顔に影が差し、余人には立ち入れない暗黒を征人の眼前に広げたが、そんなものは端《はな》から承知、パウラはパウラなんだという思いを萎えさせるほどのものではなかった。「だからさ、おれが一緒に〈ナーバル〉に乗って……」と身を起こしかけた征人は、「来るなって言ってんでしょ!」と吹き荒れた怒声に押し戻され、再び尻もちをついてしまっていた。
「ほっといてよ。仕事でご機嫌とりに来る人の顔なんて見たくないんだから」
「そういうことじゃないって言ってるだろ!」
「わかるもんですか。艦長に言われて来たんでしょ、しっかり管理しとけって」
「いい加減にしろよ! ここは軍艦の中なんだぞ。ドイツじゃどうか知らないけど、女だからってわがままを言っていい場所じゃないんだ。日本の女だったらもっと素直に人の話を聞くぞ」
図星を刺された頭に血が昇り、最悪の失言をしたらしいと気づいたのは、パウラの目がすっと細まった瞬間だった。全身の血が凍りつく間に、「じゃ、日本の女の心配をしてたら」と冷たい声が振りかけられ、水密戸がごとりと重い音を鳴らして閉鎖される。「あ、いや、いまのは……」と取りすがった征人に応じたのは、水密戸が内側から施錠される硬質な音のみだった。
またしても玉砕――いや、自滅か。もはや嘆息する気力もなく、征人は交通筒のラッタルを下った。艦内に戻った途端、「まずいですねえ」と揶揄する声が背後に発し、もう一度〈ナーバル〉の気密室に逃げ込みたい気分に駆られた。
いつの間にやら交通筒区画に集まり、にやにやこちらを見上げていたのは河野二水と烹炊長だ。ハッチを開放したまま気密室で怒鳴り合っていれば、声は艦内に筒抜けだったらしい。「せっかく天の岩戸が開いたってのに、怒らせちまったんじゃあな」「ねえ?」と肘をつつきあう二人の相手をする気にはなれず、征人は重い足を引きずってパート区画に向かった。
夜間用の赤色灯火で塗り込められたパートは、空きのベッドが目立って閑散としていた。哨戒《しょうかい》配備で半分の乗員が当直に出ている上に、ごっそり退艦者が抜けたせいだろう。いつもならひとつや二つは聞こえる仮眠のいびきもなく、機関の唸《うな》りだけが静まり返った空気をかき回し続ける。横になった者はぼんやりの視線を天井に注ぐか、うつ伏せになって本を読んだり、なにごとか書き物をしたりで、寝ている者の姿はほとんど見当たらない。突いたら弾けそうな張り詰めた気配が漂っており、征人は足音を忍ばせて自分のベッドに戻った。
時刻は午後十時四十分。次の当直まで二時間以上あったが、眠れる自信はなかった。中段にある自分のベッドに寄りかかり、顔を押しつけた征人は、溜め込んだ息を吐き出して下段のベッドを見下ろした。布団も私物も片付けられたベッドには、底敷きのマットレスのみが残されている。清永の痕跡を拭い去ったベッドを軽くつま先で蹴飛ばし、どうしよう、と内心に呼びかけた。
わがままなんかじゃない。人一倍の責任感が、パウラを塞ぎ込ませているのだとわかる。でもわかるからってなにも言えないのでは、おれこそ役立たずだ。慰められるものならそうしたいし、少しでも苦痛を取り除けるのなら、一緒に〈ナーバル〉に乗って見守っていてやりたい。任務だからではなく、パウラのためにそうしたいと思うのに、余計なことばかり言って怒らせてしまう。こんな時、おまえならどうする? 腹踊りの芸当でも教えてもらっていれば、あるいは天の岩戸をこじ開けることもできたか……。
鼻息とも笑い声ともつかない音が背後に発し、征人は顔を上げた。清永が笑いにきたのかと思い、一気に冷たい汗が噴き出したが、そうでないことはすぐにわかった。通路を挟んで向かい合うベッドの下段から、田口がこちらを見上げていたからだった。
ベッドの脇に垂らされた埃《ほこり》よけのシーツを太い指でめくり、鬼瓦《おにがわら》の面相に埋め込まれた瞳がじっとこちらを注視する。どうにか一命を取り留めたことは知っていたし、医務室からパートに移されたことも承知はしていたが、時岡が往診に来る時以外、特別に垂らされた埃よけがめくられたためしはなく、自分でめくって顔色を確かめる勇気も征人には持てなかった。忙しさに逃げ込み、なんとか顔を合わせるのを避けてきたというのが、正直なところだった。
乗員たちの信頼を裏切り、欺《あざむ》き、それでいながら命の恩人でもある男。ひと晩でめまぐるしく変転した男の顔を直視するには、まだ過ぎた時間はあまりにも短すぎた。不意に向けられた視線をどう受け止めていいのかわからず、全身を硬直させた征人をよそに、田口は穏やかな顔でこちらを見上げ続けた。赤色灯の下では顔色の判別はつかなかったが、目の光はしっかりしており、モルヒネで意識が混濁している気配はない。いつでもへの字の形に結ばれた唇は、この時はうっすら緩んで笑みの形を刻み、張り詰めたものが溶けたようなやわらかな表情を作り出していた。
そんな顔を見るのは初めてのはずなのに、驚きはなかった。むしろ、自分の中の印象通りの掌砲長と向き合っているという感覚があった。棒立ちになって見下ろすしかない征人と見つめあった後、田口は包帯に巻かれた腹をわずかに波打たせ、もういちど低い笑い声を漏らした。
「……小僧が、女の扱い方も知らんで」
這い上がる苦痛を皮一枚下に押し留めて、にやと笑った口もとが言う。その声は、やはり世のありようを教える先輩の声と征人には聞こえた。
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(発令所より〈ナーバル〉。パウラ・エブナー、二甲板艦首倉庫へ。至急)
食事を終えてそろそろ三十分。座席を倒し、次の定時感知に備えて体を休めようとしたところで、絹見艦長の声が艇内に響いた。
壁面に設置されたスピーカーを睨み上げて、最初に思いついたのは、征人め……という悪態だった。あいつ、自分では手に負えなくなって艦長に泣きついたに違いない。テニアンまであと四百五十キロを切り、敵の偵察を警戒して定時感知の間隔が短くなっているという時に、わざわざ自分を呼び出す理由は他に考えられない。座席の足かけに載せていた踵を勢いよく水面に下ろし、ぱさついた前髪をかき上げつつ立ち上がったパウラは、膝の高さまで張った水を蹴飛ばすようにして前部隔壁に向かった。
水密戸をくぐり、気密室の壁にかけた手拭いで足の水滴を拭き取ってから、交通筒のラッタルに足をかける。征人がいたら思いきり無視してやろうと思ったが、交通筒区画に人の姿はなかった。艦長と一緒に倉庫で待ち受けようという魂胆《こんたん》か。こうなったら徹底的に困らせてやると心に決めて、パウラは第二甲板に続くラッタルをひと息に駆け降りていった。
久々に〈ナーバル〉にこもりきりの一日を過ごしたせいか、ゴム底の踵に当たる床の感触が心地好く感じられた。実のところ、出る時機を失して困っていたという気分もないではない。無論、リーバマン新薬の一件を腹に収められたわけではなく、思い出すといまでも胸と目の周りが熱くなってくる。騙された悔しさではなく、それがどれだけ自分の心の重石《おもし》になっていたかを考えもせずに、薬が存在すると思わせ続けた兄の無神経さへの腹立ち。そんなものなくてよかったではないかと片付けて、こちらの心情は想像もしない征人の鈍感さ。そういうもの全部が嫌になり、誰の顔も見たくなくなったのだったが、艦の命運を決する作戦を明日に控えて、いつまでも個人の感傷を振りかざしていられる時ではない。早々に気分を直して作戦の準備を始めるつもりでいたのだが、いちいち神経に障《さわ》る言葉をぶつけてくる征人のために、〈ナーバル〉に閉じこもり続ける羽目になったのだ。
とはいえ、それも自分を甘えさせてくれる空気が流れていればこその話で、ひとしきり征人にわがままをぶつけ、多少は気が楽になったという自覚もパウラにはあった。誰にも気がねせず、好き放題にわがままを言えたのは何年ぶり……いや、初めての経験かもしれない。「白い家」に収容される以前、祖母の元に引き取られた時から、パウラは意識的にも無意識的にもわがままを封じてきた。そんなものは生命の安全を保障されている者の贅沢で、一歩外に出れば敵意の目に囲まれ、家の中では寡黙《かもく》に耐え抜く祖母と兄に囲まれて、わがままを言える余地などあろうはずもなかった。感知能力に目覚めてからは少し事情が異なり、自分を実験動物か、機械の一部としか考えない大人を相手に身勝手に振る舞うこともあったが、それはわがままというより、生存条件をもぎ取るための交渉術と言った方が正しい。相手の顔色を窺いつつ、押すべきは押し、引くべきは引く。計算ずくめのわがままは神経をすり減らしこそすれ、およそ気晴らしになるものではなかった。
そんな自分がわがままを言えた。現在の〈伊507〉に流れる空気――最期かもしれない時を間近に控え、互いをいたわりあおうとするやさしい空気が、それを容認したのだろう。なんの感慨もなくそう思い、魚雷格納庫の前に差しかかったパウラは、第一甲板から降りてきた水雷科の兵曹に気づいて足を止めた。
こちらより一瞬早く気づいた兵曹は、ぱっと通路の脇に避けてパウラを通そうとしてくれた。軍人らしいきびきびとした所作は、まるで上官とすれ違う時のようだったが、不自然に顔を上げ、無理に目を合わせまいとする態度には、緊張のひと言では表しきれない朴訥《ぼくとつ》な照れがある。パウラは軽く会釈して兵曹の前を通り過ぎた。少し顔を前に出して鼻をひくつかせ、なにやらうっとりした面持ちになった兵曹は、振り返ったパウラと目を合わせると慌てて通路を走り去っていった。
頭上の艦首魚雷発射管室からは、ウインチを巻き上げる音や鉄のこすれあう音に混じって、水雷科員たちの威勢のいい声が聞こえてくる。この人たちを守る力は、自分にはない。あらためて実感した胸が重苦しくなり、パウラは小さく息を吐いた。
あと数時間後には穏やかな時間も終わり、〈伊507〉は敵防衛網に単独で突入する。絹見艦長のこと、きっとなにかしら対策を立てているのだろうが、勝ち目があるとは思えなかった。数多《あまた》の怨霊になぜ≠ニ問われ続けて、己の消滅を恐れる心理は麻痺して久しいが、〈伊507〉もともに消滅すると覚悟するのは辛い。ようやく見つけた自分の家、生き続ける意味を教えてくれた人たちの艦《ふね》だから、余計に辛い……。
靴底を打つ床の感触が気を重くするだけのものになり、わがままを続ける気分すらなくなったところで、パウラは艦首倉庫の扉を目前にした。せめて背筋をのばし、下腹に力を込めて「パウラ・エブナー、参りました」と日本式の申告をすると、開いた扉の隙間からひょいと征人が顔を出した。
通路の前後を見渡してから、「入れよ」と手招きをする。気安いなと少しいら立ちつつ、パウラは倉庫内に足を踏み入れた。魚雷格納庫と空気タンク室に挟まれた艦首倉庫は、フランス海軍時代にはワイン倉として使用されていた空間で、いまは缶詰や工具の収納場所になっている。天井まで積み上げられた段ボールや木箱が縄で壁に固定され、黴臭《かびくさ》いにおいを滞留させる部屋には、征人の他に人の姿はなかった。ただ四隅を木箱に囲まれた小さな空間に、底の浅い大きな桶《おけ》が置かれており、水を張ったバケツが三つ、その脇に並べてあるのがパウラの注意を引いた。
それらを指し示して、作り笑いを浮かべた征人が「ビッテ!」とこちらを見る。しばらく無言で向き合い、Bitte(どうぞ)のことかと思いついたパウラは、「艦長は?」と無表情に尋ねた。その時には作り笑いをひきつらせ、額に脂汗を浮かべていた征人は、あらぬ方に動かした視線を返事にした。パウラはひとつ鼻息をつき、なにも言わずに征人に背を向けた。
なにが「どうぞ」なのか、気にならないではなかったが、また騙されたという腹立ちは紛らわしようがなかった。扉に手をかけて倉庫を出ようとすると、「待てよ……!」と征人の慌てた声が背後から追いすがってきた。
「ああでもしなけりゃ、来てくれなかったろ?」
「征人も艦長もよっぽど暇なのね。もうじき作戦が始まるっていうのに……!」
思わず怒鳴り、睨みつけたパウラに、征人は「だからだよ」とひどく落ち着いた声を返した。
「これで最後かもしれないから、君に風呂に入ってもらおうと思ったんだ」
「フロ……?」
予想外の響きが日本語に翻訳されるより先に、パウラは直径一メートルはあろう桶を振り返った。祖母が似たような容器を洗濯に使っていて、日本語ではタライと呼ぶのだと教わったことがある。手洗い、が詰まってタライ。日本ではギョーズイ、つまり水浴びにも使われる大きな桶――。
「ウェーク島では結局、入れずじまいだったろ? 根拠地隊でもらった水もこぼしちまったし……」
征人は屈託なく続ける。どうやら本気の話らしいとわかり、パウラはバケツに張った水に目を向けた。照明灯の光をぼんやり映すバケツの中の水は、〈ナーバル〉艇内に張った海水とは質が異なる。底の方まで澄み通って覗き込む者の心を落ち着かせる、静かで透明な塊《かたまり》に見えた。「苦労したんだぜ、これだけ真水を集めてくんのは」と重ねた征人は、立ち尽くすばかりのパウラにずいと石鹸を差し出してみせた。
懐かしい生活の香りに鼻腔をくすぐられ、石鹸に顔を近づけたパウラは、ちらちら横目で窺う征人に気づいて一歩身を退いた。あっさり屈伏してしまっては負けだと思いながらも、潮でべとついた体を洗える誘惑には耐えがたく、半ばひったくるようにして石鹸を受け取った。
鼻の下をこすった征人の顔は見ずに、バケツに張った水に手を差し入れる。海水に慣れきった肌に、真水は少し硬く、さらりとした感触を指先に伝えた。我知らず吐息を漏らしたパウラは、うしろから覗き込む征人の視線も感じて、「いつまでそこにいる気?」と睨む目を肩ごしに向けた。
「あ、いや……。たらいの使い方わかるかなと思って」
あとずさった征人に「わかります」と押しかぶせて、パウラは扉まで征人を追いやった。
「日本ではどうか知らないけど、ドイツの女はお風呂にはひとりで入るの。外に出てて」
「わ、わかったよ」気迫に押されて何度も頷いた征人は、自主的に扉を開けて通路に出た。「そこで見張っててよ?」と付け足して、パウラは返事を待たずに扉を閉めた。
ほっと息をつき、扉に背中を預ける。洗面器一杯の水で一日の生活を賄わなければならない潜水艦では、コップ一杯の水が万金に値する。明日以降の当てのない〈伊507〉であっても、これだけの真水を集める苦労は並大抵のものではなかったろう。いくらなんでも冷たすぎたか? 礼ひとつ言っていないといまさらの後悔に駆られ、扉ごしに征人の気配を窺った途端、「パウラ」と発した声がくぐもりながら耳朶を打った。
「最後かもしれないって言ったけど、本当はおれ、そう思ってないんだ」
気負いのない、落ち着いた声音だった。わけもなく胸が高鳴り、パウラは扉ごしに耳を傾けた。
「なんとかなる。一念、岩をも通すって言うだろ? 作戦は必ず成功するし、〈伊507〉も沈まない。みんなで必ず日本に帰れるんだって、そう……信じるようにしている」
パウラは目を伏せた。おれだって怖い、こんな時に恐怖を感じない人などいない。そう伝える声が頭蓋から背骨に突き通り、ひとりでなにもかも背負ったつもりになっていた体を揺らして、いたたまれないという感触ひとつを胸に残した。
「フリッツ少尉が言ってた。おれが一緒に〈ナーバル〉に乗った時、君はいつもより早く意識を取り戻したんだって。理由なんかわからないけど、そういうこともあるんだって思ったら、なんでもできそうな気がしてきたんだ。だからおれ、約束するよ。いつか君を日本の温泉に連れてってやる。そんなたらいなんかじゃなくて、たくさんお湯が使える温泉に」
ひとつひとつが胸に染み入り、ふわと体を浮かせる言葉を、これ以上受け止められる自信はなかった。「日本にだって、混浴じゃない温泉はあるんだぜ?」と続いた声を、パウラは「征人」と遮った。
「ありがとう」
他に言葉もなく、パウラはスーツのファスナーに手をやりつつタライの方に向かった。無言の間を漂った征人は、やがて口笛を吹き始めた。調子外れのかすれた口笛を聞きながら、自分は幸福なのだろうと考えたのはほんの数秒で、あとは汚れた水はどこに流せばいいのかという疑問がパウラの頭をいっぱいにした。
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人員の減ったパートの空気が、索漠とせず、どこか澄んでいると感じられるのは、いまの〈伊507〉に流れる空気がそのようなものだからだろう。兵曹以下の全乗員が寝泊まりするパートは、発令所や機械室よりも端的に艦の気分を引き移す。田口が医務室を嫌い、パートに移してくれと時岡に頼み込んだのも、〈伊507〉の気≠感じ取っていたかったからなのかもしれない。
もっとも、そんな感傷的な気配は露ほども感じさせず、実直・硬骨な単純漢の皮をまとって、決して本音を表に漏らさないのが田口という男だった。この時も、顔を合わすなり「艦長……。こんなところに」と驚いた声を出したものの、こちらの視線を避けて即座に伏せられた目は、やはりおいでなすったかと語っている。この目の表情を見過ごしてきたから、これまで田口という男の正体と向き合えなかったのだろう。包帯に巻かれた上体を起こそうとする田口を手で制し、こみ上げる苦い自覚も制した絹見は、まずは「具合はどうだ?」と尋ねて相手の出方を窺った。
「せいせいした気分でさ。……どてっ腹に風穴が開いてくれたお陰で、中に詰まってた毒気が抜けたのかもしれねえ」
当たり障りのない返答を予期していたこちらの意表をつき、田口はいきなりそんな言葉を返してきた。苦笑を刻んだ顔といい、「いささか過すぎましたがね」と付け足された言葉といい、強がりではなかろうと絹見は判断した。間断ない痛みに脂汗を浮かべながらも、田口は確かにさっぱりした顔つきをしている。憑《つ》き物《もの》が落ちた――あるいはなにかを乗り越えたといったところか。
問題は、それが自棄と表裏一体の顔にも見える点で、乗り越えた先にあるものから故意に目を逸らし、己の消滅のみを願うような危うさが、いまの田口の目にはある。三段ベッドの最下段に横たわり、表面上はおとなしい傷病兵を演じている田口に、絹見は「どんな魔法を使ったんだ?」と重ねた。
「折笠とパウラのことだ。さっき、二人そろって〈ナーバル〉から連絡を寄越してきた」
いまという時に田口と向き合う気になれたのは、その一件があったからだった。ローレライ整備担当補佐という職務への責任感で凝り固まり、素直にパウラと対せなくなっていた征人が、急に懐柔策を思いついたという話はできすぎている。各科の責任者に頭を下げて回り、真水をかき集めた涙ぐましい努力は誰に示唆されてのものか。木崎と首を捻りあっていると、掌砲長だろう、とフリッツがさも当然といった口を挟んで、絹見は完全に虚をつかれた。
フリッツには、征人に自力でパウラとの関係を修復させ、作戦前に万全の協調態勢を整えておこうという腹づもりもあったらしい。目論見通り、雨降って地固まるの結果を征人とパウラは手に入れられたわけだが、それよりも、背景に田口がいたという事実の方が絹見には重要だった。
兵曹以下の乗員を取りまとめる先任兵曹長。まだ死んではいないその瞳を見つめ、問うた絹見に、田口は「簡単です」とあっさり口を開いた。
「ヘソを曲げた女の機嫌は、贈り物でとれって言ったんです。まさか風呂とは思いつきませんでしたが……」
低く笑ったのも一瞬、すぐに苦痛に顔を歪めた田口は、傷をかばいながら枕許に手をのばそうとした。のろのろと持ち上がった手に水差しを持たせてやった絹見は、田口が礼を言うより早く、「掌砲長」と呼びかけた。
「もう一度、〈伊507〉のために働く気はないか?」
水差しを持つ手がぴくりと止まり、太い眉の下の目が微かに細められた。絹見は言葉を継いだ。
「本作戦では正確な砲撃が要求される。いまのところ、主砲の射撃指揮はフリッツ少尉が代行することになっているが、慣れた者にやってもらうのがいちばんだ。それに……」
中空を見据える田口の日がこちらを向き、先を促すのを待ってから絹見は続けた。「乗員のことを、誰よりも把握しているのは君だ」
止めていた手を動かし、田口はゆっくり水差しの水を口に含んだ。しばらくの沈黙の後、「いいんですかい?」というかすれた声が、その口からこぼれた。
「いちど裏切った者は、何度でも裏切るって言いますぜ」
まだ耳に残っている土谷のセリフを口にして、田口は自嘲の頬を歪めた。絹見は答えなかった。答えられないからではなく、答える必要がないと思ったからだった。血と体液と軟膏《なんこう》でごわごわになった腹の包帯を上下させ、おれをなじってくれと懇願する瞳を無視して、絹見は無言の目を田口に向け続けた。肉の苦痛に脂汗を浮かべる額の下で、心の痛みに震える瞼がつかの間伏せられると、田口は遠くを見る瞳を中段のベッドの裏に向け直した。
「……兵隊なんてのは、哀れなもんです」
視界を塞ぐベッドの裏側に、十数年分の刻苦を重ね合わせた顔がぽつりと呟く。絹見は無言を通した。
「意味のないことだとわかっていても、それをまっとうすることで甲斐を見つけようとする……。みんなそうだった。特にわたしらみたいに、食いぶちを求めて軍に集まってきたような連中はね。みんな海軍にでも入ってなけりゃ、うだつの上がらない小作人か、ヤクザにでもなってただろうって連中だ。それが救国の先兵だなんておだてられて、晴れがましい檜舞台《ひのきぶたい》に担ぎ出されたんです。自分たちの手に皇国の興廃がかかってる、国民の期待を一身に背負ってるんだって、みんな祭りを前にしたガキみたいに気張ってた。世界情勢がどうとか、大東亜共栄圏がこうとかって難しい話はどうでもいい。勝ち敗けさえ二の次だったのかもしれねえ。同じ思いを抱いて戦う何十万の友軍兵士、帰りを待つ家族たち。彼らの役に立って死ねるなら、自分の死が無駄じゃなかったと信じられるなら、それでいい。一死に値する大義があれば、末期も楽に迎え入れられるもんだって、そう……。むしろね、そういう場を与えられずに、平々凡々と生き長らえちまう方が、男にとっちゃ辛いことなんじゃねえかって、あの頃は本気で考えてたもんです。
それが……帝海の軍人として、いや、人間として踏み越えちゃいけねえ線を越えちまった時から、わたしゃ甲斐をなくしちまった。なんのために生きて、なんのために死ぬのか。そもそも自分って人間はいったい何者なのか。先任……高須大尉もきっと同じでしょう。だから、あの華族上がりのぼんぼんに手を貸す気になった。彼のやろうとしていることに、自分なりの甲斐を見出そうとした。それがあってるのか間違ってるのか、本当にできるのかできないのかなんて話は、例によって二の次で……」
そこでもういちど自嘲の頬を歪め、田口は「バカな話です」と続けた。
「この世にオギャアと生まれた時から、自分は自分以外の何者でもねえ。生き甲斐も、てめえの価値も、自分自身で決めていくしかねえってのに……。わたしら男は、とかく大義ってやつに自分の命を賭けたがる。てめえの手に負えないくらいでっかくて、目に見えねえほど立派な大義に……」
ベッドの裏側を見据える田口の目が、暗黒に通じる深い穴に見えた。自分の中にも――いや、すべての男の中にある暗黒を見下ろして、そうなのだろうと絹見は認めた。本質的に自堕落で、脆弱《ぜいじゃく》で、子種を提供する他は生物学的に存在価値もない。大義や責任といった言葉で己をがんじがらめにしない限り、男という性は人の世に関われないのかもしれない。
だから夢のような目標を掲げて革命を訴え、思想を叫び、対立する相手を力ずくでねじ伏せようとする。他に己を充足させる術を知らず、存在を誇示する術も持たないから、富の獲得やあらゆる発明に血道を上げる。戦争だって起こす……。
「しかしね、先任の死に顔を見りゃあ、そんなもんにどれだけの意味があるんだっていう気にもなります。穏やかな、いい顔をしてらっしゃった。艦長をお助けして、最後の一瞬に自分を許すことができたからでしょう。ああいう顔で死ねる場所を探して、わたしらは生きているのかもしれません」
そう述懐する田口は、自分自身はまだ己を許せず、死に場所も見つけられずに、途方に暮れているという顔つきだった。「それが守るに値するものなら、一死奉公も人の本懐……」と我知らず独りごち、絹見は一点を見つめて動かない田口から視線を逸らした。
「それを押しつけられるのは地獄だし、見つけられぬもまた地獄、か……」
命じられて死ぬのも、なんの目的もなく生き長らえるのも、人にとっては等しく苦痛になる。生きる理由、死ぬ理由のどちらにせよ、見つけられた者こそが幸いであるなら、それは田口の言う通り、正誤など二の次の話であるのに違いなかった。独善的な日本民族再生の理念に殉じることで、餓鬼道に堕ちた免罪符を得ようとした浅倉にしても。その予見する未来を否定しきれないまま、テニアンに向けて疾走する〈伊507〉にしても。「いまのわたしらは、ひょっとしたらそいつを見つけられたのかもしれません」と続けて、田口はようやく絹見の顔を見上げた。
「ですが……。だからって、ここでまたあっさり宗旨替えをしちまったんじゃ、あまりにも尻が軽いし、自分ってもんがなさすぎだ。そう思いませんか?」
絶句した絹見から視線を外し、ふっと苦笑した田口の顔が、「わたしゃ、もう死体なんです」と言っていた。「ここで、このまま血ぃ垂れ流してんのが分相応です。勝手な言いぐさだとは思いますが……」
目を閉じた田口は、「空気の無駄と思うんなら、海に放り出してくださって一向にかまいません」と付け足したのを最後に口も閉じた。その律儀でまっすぐな性分は、やはり〈伊507〉が必要とする人の資質だと絹見は再確認したが、裏切った代償を流した血の量で支払い、再び無に立ち返ったのだろう男を相手に、説得の言葉が意味を持たないこともわかっていた。テコでも動かない風情の横顔を見下ろし、引き下がる息を吐いた絹見は、最後にもういちど田口の目を直視した。
「だが掌砲長は、命がけで折笠上工とパウラを救った。彼らはまだ生きているし、これからも生き続ける。そのことに対する責任は誰が取るんだ?」
責任の一語に、田口の目が微かに見開かれた。「知っての通り、本艦は人手不足だ。わたしも操艦で忙しい。他人の分の責任も取っている余裕はない」と突き放して、絹見は腰を上げた。
「実際がどうであれ、彼ら乗員たちにとって掌砲長は掌砲長だ。軍人の模範を示し、人の規範を示してきた男だ。ひとり勝手に朽ち果てて、乗員を失望させる権利はない。……誰だって、独りで生きているわけではないんだ」
暗黒を湛えた田口の瞳が揺れ、奥底で仄《ほの》かな光が瞬くと、目の縁からこぼれ落ちた雫が筋を作った。個人をまっとうするための生がある一方で、他者との関係の中から紡がれる生もある。独りでは、生きることも死ぬこともできない――。への字に結んだ唇を震わせ、嗚咽を噛み殺す掌砲長から離れた絹見は、埃よけのシーツを下ろしてパートを後にした。
森閑《しんかん》とした通路に、機関の振動と波を切る音が果てることなく続いていた。脆さゆえに力を求め、己を仮託するなにものかを求めて、他の生身を圧倒するために作り上げた道具の息吹き。それでいながら生身のやさしさを忘れられず、その庇護者になることでしか生き続ける理由を見出せない。そんな人の性が、守るべきを守るために作り上げた機械の律動だった。不意に腹の心張り棒が外れ、どうしようもない心細さが喉元まで這い上がってきて、絹見は通路の壁に手をついた。
田口の目に結露した雫が、きつく締めた感情の蓋を緩めてしまったかのようだった。つけるべきけじめ、守るべき未来。間違いはないと確信できても、自分には未来の価値を実感し得る対象がない。未来を託せる存在、人の絆《きずな》を持たない。その空疎感が胸を裂き、噴き出した孤独の渦に呑まれて、窒息しそうになった体が、忠輝! と亡霊の名を絶叫していた。
おれは、おれという男は、もっと妻を愛しておくのだった。土下座してでも実家から連れ戻すのだった。そして、是が非でも子をなしておくのだった……。
機関の唸りが間断なく通路を揺らし、食いしばった歯の隙間から漏れる呻きをかき消してくれた。吐き出しきった弱音も押し流し、決戦の地へと驀進《ばくしん》する〈伊507〉の足音だった。
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その音は、甲高《かんだか》い残響の尾を引いてマーティン・オブライエンの耳に届いていた。最大出力で海底に放射された水中探信儀《アクティブ・ソナー》の超音波が、水圧にねじ曲げられ、巨大な曲線を描きながら拡散と収縮をくり返して、百マイル(約百六十キロメートル)以上彼方の目標に反射する音。ヘッドフォン型のレシーバーに、それは鉄琴を叩く高いソプラノ音になって聞こえる。水を打った静けさの戦闘情報指揮所《CIC》で、オブライエンは水中聴音器《パッシブ・ソナー》が拾うその昔にぞくりとした寒気を覚えた。
「キャビテーション・ノイズが聞こえるというわけではないのだな」
傍らで同じくヘッドフォンに耳を当てるダニエル・ボケット准将が、さもがっかりしたという口調で呟く。百マイル以上離れた敵の|スクリュー音《キャビテーション・ノイズ》を、どうしたら聞き取れるというんだ。内心に罵りながらも、この一日でボケットの無神経な言動にもある程度の耐性ができているオブライエンは、あらためて音束収斂帯《CZ》探知法のなんたるかを説明する愚は犯さなかった。レシーバーを当直のソナー員に返し、「その調子だ」と軽く肩を叩いてやってから、CICの中央に置かれた状況指示盤《プロッティング・ボード》の方に向かった。
〈タイコンデロガ〉のCICは、艦橋《フラッグ・ブリッジ》の真下に四十フィート(約十二メートル)四方の空間をかまえている。窓がひとつもない穴蔵にあるのは、レーダー、ソナー、通信などの各種機器と、攻撃兵器を統括する管制盤。赤や緑の作動灯が薄闇の中で瞬き、管制盤に向き合うCIC要員の顔をぼんやり浮かび上がらせる。プロッティング・ボードはテーブル大のボックスの上に置かれ、備え付けのデスクライトがそこだけ煌々《こうこう》とした明かりを照らしていた。
マリアナ諸島を中心とした海図の上に、〈タイコンデロガ〉を始め、第三八任務部隊特別混成群麾下《きか》の艦艇を示す指標《プロット》がずらりと並び、それらとは色も形も異なるプロットがたったひとつ、マリアナ海溝の東端にぽつんと孤立する。三十分ほど前にCZ探知の網≠ノかかって以来、テニアン島に向けて直進し続けている目標を示すプロット。わずか一隻でテニアン島に突出せんとする日本海軍の潜水艦、〈イ507〉の現在位置を示すプロットだった。マリアナ海溝の直上に差しかかると同時に網にかかった〈イ507〉は、すでにテニアン島東海岸から百二十五マイル(約二百キロメートル)の位置にまで肉迫している。最新の観測結果をボードに記し、「速度、変わりませんね」と小声で言った副長に軽く頷いたオブライエンは、プロッティング・ボードに視線を固定したまま、「通信士官」と声を張り上げた。
「〈ワッズワース〉〈カミングス〉は二マイル前進。〈アークィン〉〈ロウズ〉〈プリチェット〉の三艦は、横一列で本艦の前方三マイルに配置。各艦の間隔はこれまで通り」
通信装置の前に座る通信士官が復誦し、各艦に命令を伝達し始めるのを待ってから、オブライエンは移動を命じた艦艇のプロットを自分の手で動かした。艦隊集結から十時間あまり、〈タイコンデロガ〉の作戦会議室でみっちり速成教育を受けた各艦艇の艦長と水測長たちは、CZ探知法の取り扱い要領を心得ている。指示を受けた艦艇が指定海域に到達し、網≠展開するまでに十分とはかからないだろう。オブライエンはプロッティング・ボードにデバイダーを当て、移動した艦艇と〈イ507〉のプロットとの位置関係、予測侵攻航路に対する角度などを測っていった。
マリアナ海溝からテニアン沖までのびる巨大な亀裂の上に、扇状に展開する特別混成群の艦艇数は四十。やはり扇形に広げた網≠ヘ半径百二十五マイル、円弧は二十五マイル(約四十キロメートル)に及ぶが、敵がまっすぐ猪突するのであれば、網≠フ面積を狭めて観測密度を高めた方がいい。五分の一まで円弧の狭まった扇形を計算式の中に確かめ、あと三十分経っても敵が直進を続けるようなら、さらに半分にするかと胸算用をした。
従来の海底反射法による水中索敵では、深度が三千メートルを超えると探信音波が水圧にねじ曲げられ、海底に届かなくなるために、深々度の海域では無効とされてきた。CZ探知法とは、その探信音波の屈折を逆手に取り、深々度の海域を利用してより遠方の敵を探知する索敵法だ。
深度五千メートルの海底では、下方に放射されたアクティブ・ソナーの探信音波は、海水の温度と密度によって方向を曲げられ、長大な弧を描いて上方へと向かう。拡散しながら海底に向かった探信音波の音束は、上方にねじ曲げられた時点で収斂《しゅうれん》に転じ、海面に到達する頃には音束収斂帯《コンパージェンズ・ゾーン》――CZと呼ばれる定点を形成する。最初のCZが形成されるのは、探信音波の発信源から約四十マイル(約六十五キロメートル)の海面付近。そこに目標が存在すれば、音束の流れが遮断されて反射音が観測されるわけで、この反射音をパッシブ・ソナーで聞き取り、目標の位置を捕捉するというのが、CZ探知法の基本的な概念だった。
いったん海上に達した音波は、海面に弾かれて再び下方に向かい、さらに四十マイル彼方に第二のCZを形成する……といった具合に、大蛇のように海底と海面の間をうねり、最終的に三つのCZを海上に現出する。発信源からもっとも離れた第三CZは百二十マイル以上の彼方に形成され、艦艇は動かずして遠距離の敵を探知することができる。研究は以前から進められており、オブライエンが論文にまとめたのは運用理論に過ぎないのだが、ボケットはオブライエンこそCZ探知法のパイオニアと思い込んでいるらしい。運用できる人間がいれば誰でもいいのだろう。探知網形成のために艦隊を動かす権限を譲り渡し、手持ち無沙汰にプロッティング・ボードを覗き込む群司令は、なにがどうなっているのか理解するのをとうにあきらめた顔だった。
「艦長。いま艦を移動させた理由は?」
それでも、群司令の威厳を失うまいとボケットはそんなことを尋ねてくる。ボードに向けた顔を動かさず、オブライエンは「探知範囲を狭めます」と教えてやった。
「敵を捕捉した以上、予測侵攻航路に探知を集中させた方がよろしいかと」
「了解だが……。これが本当に〈イ507〉だという保証はあるのか?」
一艦が形成し得るCZは三つ、すなわち総計百二十の観測定点がひしめくボードを見下ろし、ボケットは懲《こ》りずに質問を重ねる。保証ときたか。副長とうんざりした顔を見合わせたオブライエンは、「この海域に出張っている友軍艦艇はいないのでしょう?」と反問を返した。
「ああ……」
「輸送船の立ち入りも制限されている。第一、輸送船が護衛もつけずに一隻でこのあたりを航行するなどあり得ない」
「そうだ」
「なら、〈イ507〉ですよ。この通り、まっすぐテニアンに向かってきている」
目標を示すプロットを指し示して、オブライエンは断言した。推定速度二十六ノット、おそらくは機関全速で水上航走中の〈イ507〉は、予想を上回る早さでテニアンに接近しつつある。海軍情報部《ONI》の寄越した資料が確かなら、まだPsMB1――ローレライ・システムは索敵圏外。向こうにはこちらの陣容を知る術はないとはいえ、脇目も振らない猪突ぶりは尋常なものではない。あらためて寒気を覚えたオブライエンの前で、ボケットもたるんだ頬を心持ち青ざめさせ、「カミカゼ戦術……」と呟《つぶや》かれた別の声が、こわ張った空気に拍車をかけた。
ロイド眼鏡にデスクライトの光を映し、〈イ507〉のプロットを凝視するのはジェフリー・ワイズ中佐だった。ボケットはその泰然とした顔を睨みつけ、
「カミカゼだのギョクサイだの、戦術とは呼べんのだよ。人間以下の連中のやることだろうが……!」
ボケットの怒声を風と受け流し、ワイズは眼鏡面を武器管制盤の方に向けた。CZ探知法の運用概念も素早く理解し、CIC機器の操作もあらかた暗記してしまった様子のONI士官は、この時もボケットよりよほど司令然とした態度で状況を見据えているように見えた。ボケットのお守《も》りを副長に任せて、オブライエンはワイズの背中にさりげなく近づいた。
「中佐。この距離なら艦載機でも楽に往復できる。夜間で視界が取れないのは敵も同じだ。爆撃機隊を出してみる価値はあると思えるがな」
「群司令殿はあちらですよ?」副長を相手に、ジャップがいかに蛮族であるかを力説するボケットをちらと見やり、ワイズは皮相な笑みを口もとに刻んだ。「時間を無駄にしたくないから言ってるんだ」とオブライエンが重ねると、薄いレンズの下の目がぴくりと逸らされた。
「……下手につついて、潜航して逃げられでもしたら面倒でしょう。CZ探知法は層深以下の目標も探知できるようですが、我々が探知していることに気づけば、敵も警戒して直進は避けるはずです。探知網から外れてしまっては再発見は困難ですよ?」
「連中はぎりぎりのスケジュールで行動しているんだ。大回りして時間を潰す余裕はないと思うが?」
「リスクであることに変わりはありません。せっかく網にかかったのですから、ここはじっくり腰を据えておびき寄せるのが得策と考えます」
理路整然と語る細面に、苦し紛れの動揺があった。「誰にとっての得策やら……」と吐き捨てて、オブライエンはワシントンと太いパイプで繋がっているらしい男の横顔を見据えた。
「マリアナ海溝で沈めてしまっては、ローレライの回収もおぼつかなくなる。テニアンまで引き寄せて包囲、拿捕する。その方が都合がいいというより、そうしてもらわなければ困るのだろう?」
一瞥を寄越しただけで、ワイズは無言を返事にした。「なら、せめて原子爆弾搭載機の発進は早められんのか?」とオブライエンはなおも重ねた。
「敵と待ち合わせの約束をしているわけでもあるまい。予定時刻にこだわらずに、さっさと離陸させたらどうなんだ?」
「無理です。正式な投下命令が出てから、まだ二十四時間と経っていない。機体の点検やら投下目標の観測やらで、どんなに急いでも予定時刻までかかります。それこそ、ぎりぎりのスケジュールというやつです」
その言葉は嘘ではなさそうだった。航空母艦の艦長を務めていれば、高々度から正確に敵地を爆撃する作業が、膨大な事前準備を伴うものであろうことは想像がつく。舌打ちを噛み殺したオブライエンに、ワイズは「そう警戒する必要もありますまい」と、皮相な笑みを取り戻して言った。
「相手は時代遅れの潜水艦が一隻です。ローレライの性能は侮れませんが、艦長が張りめぐらせたCZの網が、こうして敵影を捉えてもいる。勝利は確定したも同然かと思いますが?」
「情報屋は気楽だな。この〈タイコンデロガ〉がいかに巨大でも、魚雷の一発も食らえば沈むのだぞ。ここで沈んだら、二万五千フィート(約七千六百メートル)の海底に真っ逆様だ。死体はぺしゃんこになって、魚もまたいで通るありさまになる」
思わずというふうに足もとに目を向け、靴裏で床の感触を確かめるようにしたワイズは、にやと笑ったこちらの視線に気づくと憮然と頬をこわ張らせた。「なにが問題なのです」といら立たしげに質したONI士官に、オブライエンは「勘だよ」と返した。
「敵の出足がな……。特攻を覚悟しているのだとしても、あまりにも迷いがなさすぎる。この分では、〇八〇〇の時報を待たずにテニアンに到着するだろう」
「それで?」
「向こうはこちらに探知されているとは気づいていない。闇雲に強行突破を目指すなら、時間いっぱいまで到着を遅らせて奇襲を狙うはずだ。ところが〈イ507〉は、ある程度の時間的余裕をもってこちらの防衛網と触接しようとしている」
怪訝な顔のワイズに、オブライエンは「自信があるんだよ」と続けた。
「単なるカミカゼではない。奴には自信がある。一時間かそこらで我々の力を殺《そ》いで、飛行場への砲撃を成功させる自信がな」
「まさか……」と呟いたワイズの顔は、見なかった。オブライエンはワイズに背を向け、プロッティング・ボードに視線を戻した。
「ローレライなんてわけのわからんものを相手にするんだ。力押しで殲滅《せんめつ》できると考えるのは危険だな」
こうしている間にも各艦から刻々と探知情報が入り、〈イ507〉を示すプロットは着実に相対距離を狭めてゆく。そう、力押しは危険だとオブライエンは胸中にくり返した。奴らは頭に血が昇った蛮族ではない。なにか策がある。同時に複数敵とは戦えないという欠陥を抱えている以上、ローレライ・システムをいたずらに過大評価するべきではないが、それについてもなんらかの対策を講じていないとも限らない。魔女狩りは慎重に行う必要がある……。
「なんであれ、我々の勝利は動きません」
落ち着き払った声が耳朶を打ち、オブライエンは背後を振り返った。泰然とした顔を取り戻したワイズが、含んだ目をこちらに向けていた。
「万一、本艦隊の布陣が崩されるようなことがあっても、後詰めの部隊が控えていますから」
初耳だった。「後詰めの部隊……?」とおうむ返しにしたオブライエンに、ワイズは「幽霊艦隊《ゴースト・フリート》とでも呼びましょうか。群司令にはもうお伝えしてあります」と涼やかに続けた。
「ゴーストにはゴースト。……ま、彼らが必要になるような事態は万が一にもないと信じますが」
その言葉は、〈イ507〉の不明瞭な履歴を暗に仄めかすものだったが、追求するつもりはなかった。相手がゴーストであれ魔女であれ、あと数時間後には嫌でも対面することになる。でき得る限りの歓待をしてやるまでだ、とオブライエンはざわめく胸中に独りごちた。戦争もじき終わる。現役の艦長として実戦に加われるのは、これが最後かもしれないのだから。
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日没と同時に吹き始めた風は、夜も折り返しを過ぎたこの時間になっても一向にやむ気配がなかった。太平洋の荒波に揉まれ続け、ようやくウェーク湾内にたどり着いたランチは、そこでも風と波にもてあそばれ、小振りな船体を右に左にと揺らしていた。
むき出しの甲板にすし詰めになった十八人の男たちは、一様に青ざめた顔でうずくまり、幽鬼さながら虚《うつ》ろな目をどこか一点に注いでいる。目と鼻の先に港があるにもかかわらず、湾内で足止めを食らってすでに六時間以上。排水量四トン少々のランチで海流に逆らい、向かい風に逆らい、転覆するのではないかと思えるうねりにさらされながら、どうにか外洋を渡りきった挙句が、洋上でひと晩を過ごす羽目になったのだ。吹きやまない風に揺さぶられ、胃液の一滴まで搾り取られた一同は、攪拌《かくはん》され通しの脳も溶けて流れたという面持ちだった。
ランチの傍らには哨戒艇が接舷《せつげん》しており、全長五十メートルあまりの船体が風除けになってくれていたが、さして役に立つものではない。むしろ船が揺れるたびに舫い索が軋み、防舷物のゴム材が哨戒艇の乾舷に押しつけられて、ぎしぎしと鳴る音が全員の神経を苛《さいな》んでいる。砕かれた顎が痛むのか、朦朧とした意識で唸り声をあげ続ける工作長の存在も厄介だった。体の抵抗力が落ち込んだところに、船酔いの発熱が加わって痛みがぶり返したのだろう。潜航士官も銃撃戦で負った足の傷が痛むらしく、血の気の失せた顔にべったり脂汗を張りつかせていた。
|横揺れ《ローリング》する甲板から身動きできず、眠ることもかなわずに、潮と胃液の酸臭が入り混じった臭いを嗅ぎ、地の底から染み出してくるような呻き声を聞く。そんな責め苦の中で、しかし小松はまったく船酔いしていない自分に気づいていた。いつもならとうの昔にひっくり返り、中身を洗いざらいぶちまけているはずの胃袋が、この時に限ってぴくりとも騒がない。熱を宿してぐるぐると回転するはずの頭も、しんと静まって動かない。悪臭も呻き声も気にならず、膝を抱えて甲板の片隅にうずくまるのみだった。
不思議だった。ウェーク島にたどり着くまでの間、何度も大波にがぶられ、他の者たちが嘔吐《おうと》する光景を目の前にしてきたのだが、船酔いの兆候は一向に訪れなかった。無反応なのは体ばかりではない。生来の怖がりが、海流と向かい風に押し流され、太平洋の只中で日没を迎えた時も怖いと感じなかった。月明かりの下にウェーク島の島陰が見えた時も、臨検に出向いてきた哨戒艇に停船を命じられた時も、安心したり不安になったりする神経は静止したままだった。上陸が認められず、湾に足止めされても絶望を感じることはなく、なるようになるという奇妙な諦念だけがあった。
最初は、全身の神経が断線したのかと思った。伝わるべき情報が頭に伝わっていないのではないかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。神経は正常だが、頭が空っぽだからなにも感じないのだ。これまでは、任務をこなすために考えなければならないことがたくさんあった。甲板士官として、神経も絶えず張り詰めさせておかなければならなかった。だから怖さも感じたし、船酔いにもさんざん苦しめられた。
でもいまは違う。〈伊507〉を離れた瞬間から、自分は頭が空になった。考えることがなくなり、神経を張り詰めさせる必要がなくなった。空っぽの頭は、どんなに船が揺さぶられても酔うことはない。恐怖や不安に苛まれることもない。なぜもっと早くこうなれなかったのだろう? こんな簡単なことで船酔いが克服できるのなら、潜水艦勤務に回されずに済んだのに。怖くてたまらなくなって、〈伊507〉を逃げ出さずに済んだかもしれないのに――。
「いつまで待たせるんだ! こっちには怪我人もいるんだぞ!」
いきなり怒声が弾けて、小松はのろのろと頭を持ち上げた。ランチの舳先《へさき》に立ち、哨戒艇の乗員を睨みつけているのは暗号長の中尉だった。「照会中だ。もう少し待て」と乾舷の上から応じた乗員の顔は、探照燈の逆光になって見えなかった。
「もう六時間以上だぞ! 上陸は待つから、せめてそっちに移らせてくれ。軍医ぐらいいるんだろう!?」
「だめだと言ったろう。貴様たちが脱走兵でないと確認できるまでは……」
「だから何度も説明しているだろう! おれたちは海軍の命令を破って、艦長の独断で出航した〈伊507〉から脱出してきたんだ。脱走したのは〈伊507〉の方で、おれたちは海軍の指揮下に入るためにウェークに戻ってきたんだ」
そうだ。空っぽの頭の奥で同意する声が発し、小松は三メートル頭上にある哨戒艇の露天甲板を見上げた。逃げ出してきたのではない。命令に従って行動するという軍人の哲理に基づいて、自分たちは〈伊507〉を離れる選択をしたのだ。正しい選択をした者を、帝国海軍が見捨てるはずはない。すぐに正規の命令に組み入れられるに決まっている。小松は煌々《こうこう》と照りつける探照燈の光に目を凝らし、その光を背にして立つ黒い人影を見つめた。名前も顔も知らない、しかし間違いなく自分と同じ帝海軍人である何者かが、皇軍兵士に相応しい規律ある対応をするのを待った。だが返ってきたのは、「だからその確認をしているのだと言ってるだろうが!」という抑制を欠いた蛮声だった。
「自分の艦を捨ててきた連中の言うことを、そう簡単に信じられるわけないだろう」
別の声が尻馬に乗って続ける。「いま言った奴! 顔は覚えておくからな」と暗号長が怒鳴り散らせば、先刻からの不毛な言い合いが再開するのは目に見えていた。小松は哨戒艇を見上げるのをやめて、反対側に広がる夜の海に視線を投じた。
ここからは湾口を形成するウィルクス島とピール島の陰は見えず、刺さるような星の光に埋め尽くされた空と、月明かりが銀色の粉を散らす黒い海が、遠く水平線で触れ合う光景が一望できた。ここにも盤石の足場はない。身命を託せる帝国海軍の組織体は、もはやこの広大な世界のどこにも存在しない。わかっていたことだ……と呟いた頭が再び空になってゆき、小松は瞼を閉じた。
少し眠ろう。空っぽの頭なら、起きていても寝ていても同じことだ。そう思い、膝頭に顎を乗せようとした途端、「名も知らぬ、遠き島より……」と誰かの歌声が波音に混ざった。
笠井通信長だった。艦の占拠が失敗に終わって以来、言葉を忘れ、目の焦点も定まったためしのない通信長は、この時も夢遊病者の顔つきは変わらず、口だけが動くさまは壊れた人形を思わせた。ぎょっとするほどの元気もなく、緩慢な動作で通信長を振り返った一同は、すぐにどうでもいいと言いたげな顔をもとの場所に戻した。「流れ寄る椰子の実ひとつ……」と誰かが歌声を童ね、「故郷《ふるさと》の岸を離れて……」と続いた時には、四、五人分の歌声が発していた。
しわがれ、かすれて、風の音にかき消されてしまいそうな寂しい歌声だった。前にみんなで歌った時はこんなではなかったと思いつつ、小松は今度こそ目を閉じた。
あの時も自分は歌わなかった。帝海の艦艇で、軍歌でもない歌を勤務中に歌うなどもってのほかと、ひどく腹を立てたのを覚えている。ちょうどフリッツ少尉に教わった船酔い治療運動の最中で……昨日からぜんぜん船酔いしないのは、あれが今頃になって効いたからなのかもしれない。
みんなは、〈伊507〉はどうしただろう。艦内の巡検は誰が代行したのだろうか? 空っぽの頭に一点、そんな思考が浮かび上がり、それは胸を締めつける痛みを伴って小松の全身に広がっていった。「汝《なれ》はそも波に幾月……」と続く歌声が痛みを倍加させ、目を背けてきたものを突きつけて、最後にどうしようもない喪失感の所在を小松に教えた。
急に息苦しくなり、寒気が這い上がってきた。小松はたまらずに口を開き、「旧《もと》の樹は、生いや茂れる……」と声を合わせた。合わせながら、どうしてこの間はあんなに腹を立てたのだろうと自分に問うた。どうして〈伊507〉を捨ててきてしまったのだろうと、答がないのを承知で問い続けた。自分はなにか大事なものをあそこに置き去りにしてきた。そこにいる時は大事だとは気づかずに、ありもしない救いを求めて逃げ出してしまった。救ってくれる者など誰もいない。〈伊507〉に居続けさえすれば、自分で自分を救えたかもしれないのに。
どうして自分は、みんなと一緒に歌えなかったんだろう……?
もの悲しい調べが骨身に染み渡り、空っぽの頭を熱くした。抱きしめた膝に頭を埋めて、小松は声を殺して泣いた。
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「いいではないか。上陸させてやれ」
この数時間、行方をくらませていた浅倉|良橘《りょうきつ》が、最初に答えたのがその言葉だった。鹿島《かしま》惣吉《そうきち》は渕田参謀長と顔を見合わせ、「は、ですが……」と声を濁らせた。
「じき迎えが来る。兵たちを疑心暗鬼にさせないためにも、いまは落ち着いて行動することだ」
そう続けて、浅倉は軍帽を机の上に放り、軍人としては少々長いと思える髪をうしろに撫でつけた。バラック作りの司令公務室を照らすランプの明かりの下で、その黒い髪は油を塗ったような艶を放っていたが、一、二本の後れ毛がぱらりと額にかかると、不意に焦燥という言葉が鹿島の脳裏に浮かび上がった。
浅倉には無縁なはずの言葉だった。昨日までは、浅倉にそんな言葉が当てはまる隙があるとは想像もしていなかった。やはり、間違った船に乗ってしまったのか? 自分は五厘《ごりん》刈りのゴマ塩頭をつるりと撫で、鹿島は昨夜から頭をもたげ始めた不安を胸中に確かめた。
明言はできない。だが昨夜、〈伊507〉に対する説得が失敗に終わった時から、浅倉はどこかが変わった。外見は相変わらず妖気を放つ刀だが、ふとした光の加減で刃こぼれが見つかり、やや凄味《すごみ》に欠けるようになったとでも言うべきか。それがはっきり鹿島の目に映ったのは、素姓のわからない乗員が無線通信に割って入り、絹見艦長に代わって直言をぶつけてきた瞬間だ。
背後で通信を傍聴する鹿島には、子供じみた癇癪《かんしゃく》としか聞こえなかったが、あの時、浅倉の背中は間違いなく凍りついていた。短い間だが言葉を失い、直後に艦内で戦闘が始まったらしいとわかっても、こちらから積極的に働きかけようとはしなかった。無論、相手が海上にいては手の出しようがなかったろう。間を置かず米国との交渉窓口である間諜組織から緊急電が入り、その対応に追われたという事情もあるが、それにしても浅倉らしからぬ無為無策ぶりではあった。
米国間諜組織からの緊急電は、大本営がポツダム宣言の条件付き受諾を連合国に打診したことを報せるものだった。その時点で三発目の原子爆弾の投下を確実視したらしい浅倉は、〈伊507〉に恫喝とも取れる最後の説得を試みた。しかし〈伊507〉はそれさえも一蹴し、浅倉に決別の言葉を残して太平洋に乗り出していった。そしてこれからの行動は独断で行うことであるからと、同調しない一部の乗員を送って寄越したのだ。
袖《そで》にされた女に、思い出の品にと割れ鏡を押しつけられたようなものだった。下手に受け取れば破片が指に刺さり、思わぬ怪我をする可能性もある。とりあえず乗員たちを乗せたランチを湾内に足止めし、鹿島は対応策を練るべく浅倉のもとに向かったのだが、今朝から米国の間諜組織と連絡を取り始め、昼過ぎまで通信所に詰めっきりだった浅倉は、それを最後に忽然《こつぜん》と姿を消していた。
行く先を告げずに姿を消すのは初めてのことではないが、時期が時期だった。よもやひとりで逃亡したのではないかと、根拠地隊内の同志が総出で島中を捜索し、なんの手がかりもつかめずにいったん司令部に戻ったのは、つい先刻のこと。こちらの苦労を尻目に、浅倉はなにごともなかった顔で司令部に舞い戻り、〈伊507〉が送って寄越した乗員の受け入れを即断した――。
どこにいたのかは問うまい。後れ毛を撫でつけた浅倉の目の色を窺い、鹿島は内心に呟いた。じき迎えが来る≠ニ言った言葉通り、米国との取引は浅倉の存在があってのものだ。ここまで来た以上、信じてついてゆくしかない。大方、ひとりの時間を求めて海岸を散策でもしていたのだろう。つい先日も同じようなことがあったし、そうした浮世離れの仕方こそが浅倉の浅倉たる所以《ゆえん》であり、天才の片鱗であることにも疑いはない。が、それは一面的に過ぎる見方ではなかったか。
意外に脆い男なのではないか? 昨夜から感じ続けている不安を言葉にしてみて、鹿島は脇の下に冷たい汗が流れるのを感じた。強打者はえてして打たれ弱い。〈伊507〉が手綱《たづな》を断ち切って走り出した現実が、浅倉に予想以上の衝撃を与えた可能性は否定できなかった。もしそうなら、自分のみならず、この男に与した同志全員がとんでもない泥舟に乗り込んだことに……。
「しかし、〈伊507〉から脱出してきた兵たちは、大佐のお言葉を耳にしております」
際限のない疑念をこねくり回す間に、渕田が口を開いていた。思えばこの男に飛行場に呼び出され、〈伊507〉の乗員に話を立ち聞きされてしまったことが、計画の段取りをつまずかせる端緒になった。のうのうと浅倉に意見できる立場ではないはずだったが、臆病であるがゆえに危険に敏感な渕田の性質は、先の目算が立たないこういう時には役に立つ。鹿島は渕田に好きに喋らせて、浅倉の反応に観察の目を向けた。
「彼らが根拠地隊の兵員に話を吹聴《ふいちょう》すれば、それこそ面倒の種です。我々の離脱後に軍令部に無電でも打たれたら……」
「なら、皆殺しにするか?」
渕田を射竦める浅倉の目が、覚悟がないなら無駄な心配はするなと言っていた。蒼白になった渕田に、「案ずるな」と続けて、浅倉は本来は鹿島のものである執務机の椅子に腰を下ろした。鹿島が手慰《てなぐさ》みに作った木彫りの熊を手に取り、「器用なものだな」と微笑を見せてから、渕田に視線を据え直す。
「いくら無電を打ったところで、受け取るべき軍令部が東京ごと消滅してしまえば意味はなくなる。絹見艦長もそれを見越して、我々に乗員を預ける気になったんだろう。その程度には、我々の理性を信頼してくれているということだ。期待を裏切るべきではない」
木彫りの熊を見つめる瞳には、意地ともつかない情念の揺らめきがあった。やはり、この男は変わった。ざわざわとした悪寒が背筋を這い上り、鹿島は「……本当に、原子爆弾の投下は実行されるのでしょうか?」と口にしてしまっていた。
瞬時に鋭くなった視線が突きつけられ、悪寒より明瞭な殺気が鹿島の全身を貫いた。「つ、つまり、〈伊507〉を引き渡すという取引条件が満たされなかった以上、米軍が約束を履行《りこう》する保証はどこにも……」と、しどろもどろに付け足すと、「やるよ、彼らは」と即答した浅倉の声が奇妙にはっきりと響いた。
「米国が今回の取引に応じたのは、連合軍のメスが入る前にローレライを日本から引き上げ、独占するためにあるという一面の理由はある。だがもう一面では……彼らはもともと、日本人の血を根絶したがっているんだよ」
木彫りの熊を机に戻し、浅倉はゆらりと立ち上がった。揺らめくランプの灯が、壁に刻まれたその影を大きく見せた。
「他の種より優れているという意識を潜在させる一方で、すべての人類に自由と独立をと唱える国家の美徳も維持しなくてはならない。これは米国の支配層が一生抱え続ける矛盾だ。だから日本に対しても、牙を抜いた上で、いずれは自治権を返さねばならんのが彼らの立場だが……。彼らはいま、ソ連という次の敵との戦争の準備を開始している。そして日本列島は地政学的に対ソ戦の要衝の地となる。面倒な占領政策で日本を反共の砦《とりで》に仕立てるなら、いっそ五十一番目の州に付け加えて、完全に基地化したいというのが彼らの本音だ。現状では不可能だが、白人種の優位を脅かさない程度まで日本の人口が減り、国家としての体《てい》をなさなくなれば、吸収は不可能ではない。色のついた猿は、列島から消えてくれた方がなにかと都合がいいというわけだ。それを実現できるかもしれない取引を、彼らが進んで反故にすることはあり得ない」
壁の世界地図を背に語る浅倉は、その瞬間には人を超えた存在に立ち返っていた。鹿島は我知らず踵を合わせ、繰り出される一語一句を全身に受け止めた。
「だが我々は生き延びる。協力者として米国に渡り、万民在権という彼らの理想の中で生き延びさせてもらう。東京の消滅から始まる煉獄《れんごく》の炎が、無能を焼き、有能を鍛《きた》えて、民族を強化するまでに十年……。彼らが自らの足で立ち上がり、日本民族再生の狼煙《のろし》を上げた時、我々も雌伏を終えて彼らと合流する。新しい日本国家の独立のために」
流刑同然に南の孤島に赴任させられた恨み、無為な数年を過ごすうちに溜め込んだ忿懣《ふんまん》は、その言葉によって浄化され、目的を与えられる。自分を島流しにした者たちを煉獄の炎で焼き払い、清浄な国土を再建するという目的。一年前、ウェーク島に寄港した輸送艦の艦長が携えてきた親書を皮切りに、文書で、無電で、たびたび同じ言葉を聞かされた。この言葉との出会いがなかったら、自分はとうの昔に発狂するか、自刃していたかもしれない。鹿島は渕田とともに「は」と声をそろえ、疑念を消した目を浅倉に向けた。
「〈伊507〉に関する情報はすべて引き渡した。ローレライは間違いなく米軍の手に落ちる。結果が同じなら、過程の違いに大した意味はない」
なぜか目を逸らして続けた浅倉は、背後の世界地図を振り返った。ウェーク島に当てた指をマリアナ諸島にまで滑らせ、テニアン島の上で止めた横顔には、底暗い喜悦の歪みがあった。
「じき、帝国海軍最後の艦隊特攻が始まる……」
そう呟く声にも、愛憎半ばの暗い澱みがあり、鹿島はいったんは消し去った疑念が腹の底に広がるのを感じた。原子爆弾がこれ以上の惨禍をもたらすのを防ぐ、ただその一点にかけて自ら死地に飛び込もうと意志する〈伊507〉。近視眼的な行為であっても、そこに再生を期すべき日本民族の資質を見出しているのだとしたら、昨夜からの浅倉らしからぬ態度にも合点がゆく。
生き残るべき資質を持つ者たちが、滅びるべき者たちを守るために自分に逆らい、死に赴きつつあるという皮肉。理念の根幹を揺るがす絶望的な皮肉を突きつけられ、さすがの浅倉も心中穏やかではないということなのかもしれなかったが、それ以上深く考えるつもりは鹿島にはなかった。
計画が予定通りに進むのなら、なにも問題はない。地図を見つめて動かない浅倉の横顔を窺い、米軍はいつ迎えを寄越すのかと考えた鹿島は、向こうには米を食う習慣はあるのだろうかとぼんやり想像した。ずっとパン食というのは勘弁してもらいたい。あれは腹もちがしないから……。
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「Wir beginnen mit dem turnusma:ssigen[#エスツェットはssで代用] Scan. Maximale Vergro:sserung[#エスツェットはssで代用].」
フリッツの声が発令所に響き渡ると同時に、コロセウムのレバーが押し下げられ、透明の半球の中に浮かび上がる砂鉄の砂模型が瞬時に崩れ去る。目盛り計がぱたぱたと入れ替わり、最大望遠用の目盛り計が表示されると、渦巻く砂鉄が次第に寄り集まり、半径百キロ圏内の海中をコロセウムの中に再現し始めた。
それを背に、征人は発令所の壁面に設置されたローレライ監視盤に目を走らせた。ずらりと並んだ赤や縁、黄色の作動灯がそれぞれなにを表し、一斉に針を振れさせる計器類がなんの数値を示すのかは、あらかた頭に入っている。ローレライ整備担当補佐に任命されたからには、ただ〈ナーバル〉に同乗していればいいというものではなかった。フリッツに習ったばかりの操作手順を反芻しつつ、征人は「現在、注水率百パーセント。電圧、制御弁、すべて正常」と報告した。「よし」と応じたフリッツは、コロセウムに向けた顔をぴくりとも動かさない。
絹見や木崎たち発令所要員も、微光を放つコロセウムをじっと凝視している。X−4・5時――八月十二日、テニアン時間午前五時。テニアン島まで残り百キロあまり、今回の定時感知で初めてテニアン沿岸が感知圏内に捉えられる。〈伊507〉の襲撃に備えて、米海軍がどれほどの艦艇をテニアン沿岸に配置し、防衛態勢を整えているか。征人もコロセウムを囲む人垣に加わり、唐木水測長の肩ごしに砂鉄の箱庭を見下ろした。
半球ガラスの底に二つに裂けた地面が形成され、マリアナ海溝の亀裂が再現されると、外縁部ぎりぎりのところに砂鉄の山が盛り上がり、テニアン島東海岸の地形を象《かたど》ってゆく。亀裂の直上に位置する〈伊507〉が二、三粒の砂鉄で表されるのを見、テニアン沿岸部に視線を移そうとした途端、「なんだ、これは……!?」と木崎が呻き声を漏らして、ぐっと前に乗り出した唐木の肩が征人の視界を塞いだ。
すかさず〈ナーバル〉に通じるマイクを握り直し、「Das Zentrum hat sich 80 Kilometer nach vorne bewegt. Vergro:ssern[#エスツェットはssで代用].」と吹き込んだフリッツが、こちらを見て「拡大だ」と重ねる。硬い声と表情に気圧され、征人はコロセウムの前を離れて監視盤に向き直った。作動灯の瞬きを確認し、部分拡大に対応して動く計器の数値を読み取るうち、一同が驚嘆の息を漏らす気配が背後に伝わり、征人はたまらずに人垣の中に飛び込んだ。全身をこわ張らせた唐木らをかき分け、なんとかコロセウムを視界に入れる。
一見して、絶句した。中心点を現在位置より八十キロ前方に取り、直径十キロの海域を捉えたコロセウムが映し出したものは、無数の細長い物体だった。さまざまな大きさ、形状を持つそれらが、マリアナ海港の亀裂の終焉部《しゅうえんぶ》あたりにびっしりと浮かび、コロセウムの半球の底面をほとんど埋め尽くしている。ひとつひとつが一、二センチの大きさの物体は、すべて水上艦艇の喫水線より下の部分を再現したものであり、それぞれ探信音波を示す砂粒の波紋を定期的に飛ばして、蠕動《ぜんどう》する網の目を海面下に構築しているようだった。
これが、すべて敵艦――。待ち伏せは覚悟していても、警備隊が増強される程度の予測しか持てなかった征人は、まだ状況を呑み込みきれない目を周囲に転じた。誰もがそろって押し黙り、テニアン沖を埋め尽くす大艦隊を呆然と見下ろす中、「どうした。数を読み上げろ」と絹見ひとりが冷静な声を出す。「は? は……」と一歩前に出た木崎は、震える手で鉛筆を握り、海軍|用箋《ようせん》を挟んだ厚紙のボードをもう一方の手に掲げた。
「えー、戦艦、もしくは空母級が六……もとい七。巡洋艦級が……九。駆逐艦級は……」鉛筆の先を動かして何度か数え直してから、木崎はかすれた声で続けた。「駆逐艦級は、二十四……」
ほう、と一斉に吐かれた息が発令所の空気を重くし、温度を下げた。たった一杯の潜水艦に対して、総計四十杯の艦艇。それがローレライに対する米軍の評価であり、〈伊507〉が打ち破らねばならない敵のありようということだった。木崎や唐木たちは蒼白な顔を緑色の微光に浮かび上がらせ、フリッツも頬をこわ張らせてコロセウムを見つめる。絹見は無表情のままだったが、その口が「なんて数だ……」と漏らすのを、征人は聞き逃さなかった。
それほどまでにローレライを欲し、また危険視もしている米国という国家――浅倉大佐との取引に応じ、日本を地上から抹殺しようと目論む人々。狂気の沙汰としか思えない大艦隊の砂模型から妖気が立ち昇り、征人は恐怖よりも強い怒りを感じた。
この艦隊の背後に、世界をねじ曲げ、間違わせる思惟の存在がある。その知覚が呼び覚ました静かな怒りだった。
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X−3・5時、テニアン時間午前六時。〈伊507〉は潜航を開始した。
夜明けとともに強くなった風に押し出され、全長百十メートルの巨体が海面を泡立てつつ喫水を深める。渦巻く波が露天甲板を隠し、二十・三センチ砲の砲身を隠すと、後部甲板に接合する〈ナーバル〉の船体も海水をかぶり、白い航跡の尾を引きずった鋼鉄の塊が海底に沈降してゆく。水中排水量四千四百トンの質量に押し入られた海水が悲鳴をあげ、爆発的に発生した気泡の被膜を突き破って、〈伊507〉の暗灰色の船体が薄明の世界に溶け込んでいった。
主機はすでに停止しており、連続六十時間の潜航を保証する八十基の大型蓄電池がモーターを動かし、二基のスクリュープロペラを轟然《ごうぜん》と回転させる。次に浮上する時は、テニアン島を主砲の射程距離に捉えた時――。背もたれを傾斜させた〈ナーバル〉の前部座席に身を沈め、その時は本当に来るのか? と考えてしまったパウラは、閉じた瞼にぐっと力を込めて雑念を消し去った。
次第に増してゆく水圧の力を感知野に捉え、十五ノットの最大水中速度で前進する船体の律動は鈍った五官に捉えて、意識を海中に拡げるよう努める。水に浸けた手のひらから自分という存在が滲《にじ》み出《だ》し、〈ナーバル〉の注排水弁をすり抜けるのを感じたパウラは、海中を驀進する〈伊507〉の舳先に立ち、艦の目≠ノなる自分の姿を心象の中に描いた。折り重なる水圧の層、引っかき傷のような軌跡を描く魚の群れを見渡してから、舳先を蹴ってより遠くに意識を飛翔させる。
眼下には、幅数キロの巨大な亀裂が口を広げるマリアナ海溝の深淵。地球に海が誕生して以来、もう数十億年間も光を浴びていない深淵は、重く冷たい手触りの海水を八千メートル以上も堆積《たいせき》させ、覗くことさえためらわせる暗黒の層を横たえている。その亀裂に沿って滑り、テニアン沖にまで意識を飛ばした先にあるのは、無数の艦艇の喫水下の影と、ゆらゆらと蠢《うごめ》く広大な網の目。それぞれの艦底に設置されたアクティブ・ソナー装置が、内蔵する振動板を震わせて探信音波を放つ。指向性の高い短波長の音波が錯綜し、絡《から》みあい、海面下数十メートルにまで張り巡らせた探知の網の目だった。
(深度、六十メートル)
(敵艦隊、移動中の指標三番と四番が停止。方位三二五、指標十三番の後方約二キロ)
発令所からの放送が艇内のスピーカーを震わせ、半ば麻痺《まひ》した聴覚を刺激する。後部座席には潜水服を着込んだ征人がおり、発令所が伝えるコロセウムの監視状況を逐次《ちくじ》メモしているはずだが、いまはそれも夢の中の印象程度にしか捉えられなかった。ぶつかりあう探信音波の網の目に意識を凝《こ》らし、さらに遠方へと飛ぼうとしたパウラは、その瞬間、ひやりと冷たい流れを感知して身を固くした。
水温の問題ではなかった。感知野では水温の変化までは捉えられない。冷たいとしか表現しようのない流れが海溝の底からわき上がり、〈伊507〉と自分の意識を打って拡散した――密度の違う海水が蛇のごとく体に絡みつき、冷たい舌を背筋に這《は》わせたかのようだった。なんだ? と周囲を見回し、なにも異状を感知できなかったパウラは、ぞっと粟立《あわだ》った肌を遠くに感じながら意識を前方に向け直した。
最前衛の艦艇は前方約三十キロ、亀裂の終焉部付近に位置しており、そこからテニアン島に至るまでの二十キロの海域に、四十隻の水上艦艇が扇形の隊形を取って展開する。東側の沿岸に集中しているのは、海溝に沿って侵入するこちらの意図を読んでのことだろう。各々《おのおの》の艦艇が垂らす探信音波の網は水深五十メートルに及び、それより下、探信音波を跳ね返す層深以下の領域には、海底反射の超音波が断続的に振り下ろされる。深度二百メートルの海底に当たり、弧を描いて海面に上昇する探信音波は、しかし非探知領域の方がはるかに大きい。自分の目≠ェあれば、〈伊507〉の巨体でも回避して進むのは容易だと再確認して、パウラはテニアン島沿岸部に感知野を集中した。
島に近づくに従って水深は次第に浅くなり、浮上地点のアシーガ湾に至っては三十メートルほどになる。ソナーの非探知領域が完全になくなるその海域では、網の下をくぐり抜けるという芸当はできない。錯綜する探信音波の只中《ただなか》に飛び込まねばならないが、そこにも抜け道は存在した。
陣の中央から前方にかけて艦艇が集中しているために、後方に行くほど艦の数は少ない。そこに到達するまでに沈める自信があるのか、湾口を塞ぐ最後尾の防衛線には三隻の艦艇しかいないありさまだった。小まめに移動して配備の薄さを補ってはいるものの、各々が打ち放つ探信音波は網を形成するには至らず、ことに湾口の南側にはかなり大きな死角が生じる。層深を這い進み、その網のほころびをうまく通り抜けられれば、発見されずにアシーガ湾に到達するのも不可能ではない。敵艦隊の後方に浮上して、最後尾の三隻を不意打ちで撃破。慌てた敵が殺到してくる前に、ありったけの砲弾を飛行場に撃ち込む――。
無論、頭で考えるほど簡単なことではないが、そこに至るまでの道筋に問題はないはずだ。パウラはそう自分に言い聞かせ、肌にまとわりつく悪寒を忘れようとしたが、蛇の舌の冷たい感触は変わらず首筋を舐め、背筋にまとわりつき続けた。潜航開始から一時間、最前衛の敵艦との相対距離が三キロを切っても、全神経を押し包む不快の束はなくならない。(ただいま、X−2・5時)(指標三十七番から三十九番、方位〇八五へ向けて移動中)とスピーカーの声音が騒ぎ立て、このまま進んではまずい、と自分の直観が叫ぶのも聞いたパウラは、たまらずに目を見開いた。
へばりついた瞼が引きはがされる痛みとともに、照明灯に照らされた艇内の光景がぼんやり見えてくる。こわ張った手のひらを片方だけ水面から引き上げ、パウラは額に浮き出た汗を拭った。鳥肌を浮き立たせた手の甲がざらりと額をこすり、あらためてぞっとしたところで、「どうした?」と背後から征人の声が発した。
「わからない。……でも、誰かに見られている気がする」
しわがれた声で言葉にしてみて、確かにそうだとパウラは自分自身納得した。見られている。誰が、どんな手段を用いてかは定かでないが、他にこの悪寒の正体を説明する言葉はなかった。征人は身を乗り出し、「探知されているってことか?」と硬い声を出す。
「そんなはずはないけど……」と言葉を濁して、パウラは感知野に意識を戻し、脈動するような不快の束の源を捜そうとした。じっと黙り込む征人の気配が遠のき、再び五官に麻痺の被膜がかかりかけた時、艦内電話の受話器が取り上げられる音が耳朶を打った。
「〈ナーバル〉より発令所。敵に探知されている可能性があります。変針して様子を見るべきかと思います」
ためらいのない征人の声が艇内に反響する。いくらなんでも早計すぎると思い、パウラがだるい体を動かして背後を振り返ったのと、(どういうことだ?)と絹見艦長の声が応じたのはほぼ同時だった。
「確証はありません。しかしパウラがなにかを感じています。コロセウムに変化はありませんか?」
(特に変わったところはないようだが)と、戸惑いを滲ませた絹見の声がスピーカーごしに伝わる。「征人……」と諫《いさ》める口を開いたパウラは、「敵の動きも不自然だと思えます」と続けた征人の声と表情に、先の言葉を呑み込んだ。
「そろそろこちらが到着することは敵も予測しているはずです。もっと広範囲に動き回って警戒を強化しそうなものですが、敵艦隊はさっきからほとんど動いていません。この落ち着き方は妙です」
手元のメモを見据えつつ、征人は潜水服の分厚い手袋でつかんだ受話器に吹き込んでゆく。緊張を湛《たた》えながらも、その目と声音は落ち着いており、任せてもいいらしいと判断したパウラは、正面に顔を戻して感知に意識を集中した。
ついこの間まではおどおどするばかりだったのに、この落ち着きぶりはなんだろう? 気にならないではなかったが、正体不明の悪寒に対する懸念の方が強く、微かな疑問はすぐに押し流された。背中を預けられる人がいるという安心感が、パウラをより深く感知に没入させていった。
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(敵の罠だと言うのか?)
(わかりません。しかし警戒する必要はあると思います)
戦闘配備中の通話は全艦一斉放送を介して行われるので、発令所と〈ナーバル〉のやりとりは兵員室《パート》のスピーカーをも震わせた。征人と絹見の声を交互に聞きながら、田口も藁半紙《わらばんし》に書き殴ったメモを凝視していた。
発令所が伝えるローレライの感知状況を頼りに自作した、敵艦隊の大まかな配置図。新たな動きが伝えられるたびに書き加えていった結果、看護兵にもらった藁半紙の束はたちまち半分を使いきってしまった。時系列順に束ねたメモをくり返しめくり、敵に探知されている可能性∞罠≠ニいった言葉を反芻した田口は、ベッドに横たえた体がじわりと汗ばむのを感じた。
×印と数字で表した敵艦の指標をひとつひとつ眺め、全体の配置の変動を時刻順に検証していくと、ある時を境に各艦艇の行動様態が根本から変化した気配が窺える。それまであった規則性が崩れ、陣形そのものが様変わりしつつあるのだとわかる。扇形の外枠は変わらないが、内側の配置が徐々に変わり続け、ひどく不自然な陣形に移行しようとしているのだ。その兆《きざ》しが最初に現れたのは、いまから一時間と少し前――〈伊507〉が潜航を開始した時刻。
高度な『だるまさんが転んだ』だ。複数の敵がそれとわからぬ程度の忍び足で近づき、気がついた時には手遅れ。すっかり取り囲まれて、鬼は身動きひとつ取れなくなる。ローレライがなにを感じたのかは知らないが、少なくとも征人はそれに気づいている。生来の目の早さと勘のよさで、自分と同じ不穏な気配を感じ取っている。艦内スピーカーの声に耳を澄まして、絹見の反応を窺った田口は、(だが敵の探信儀はこちらを捉えていない)と発した艦長の声に、我知らず舌打ちした。
(こちらを探知する術はないはずだ。いまここで下手に動けば、敵の聴音に引っかかる危険もある)
まずい。そう感じた体が勝手に動き、田口はベッドの枠をつかんで上体を引き起こした。血と軟膏で固まった腹の包帯がめりめりと音を立て、吐き気を催すほどの痛みと無力感が這い上がってくる。腰から下に力が入らず、腕の力だけでなんとか上体を起こしきると、棒になった足をベッドの下に放るように降ろした。
踵が固い床に当たり、過敏になった神経が脳天まで突き抜ける激痛を訴える。大丈夫、この程度では死なない。たちまち汗みずくになった体に言い聞かせ、田口は痛みを無視して足に体重をかけていった。ベッドの梯子《はしご》をつかんだ腕に力を込め、ゆっくり体を立ち上がらせてゆく。みしりと全身の骨が軋み、踵の肉がすり潰されるような痛みに苦悶の呻きを漏らした刹那、「掌砲長! なにやっとるんですか」と鋭い怒声が振りかけられた。
救急箱を手にした時岡軍医長が、閉鎖した水密戸を開いてパートに足を踏み入れたところだった。丸眼鏡と同じ形に見開かれた時岡の目を見、「ああ、軍医長。ちょうどいい」と応じた田口は、梯子にしがみついた体をそちらに向けた。
「すんませんが、ちぃと肩貸してください」
「なにを……」
「発令所に行くんですよ。さあ」
その言葉を最後に、田口は梯子から離れて時岡に覆いかぶさった。慌てて受け止めた時岡の肩にすがりつき、神経がむき出しになっていると思える足裏を床に押し当てて、艦首側の隔壁に向かって体を移動させる。
「なにをバカなこと言っとるんです! 傷口が開いてしまいますぞ」
巨体に押されてたたらを踏みながらも、時岡は血相を変えて抗弁の口を開いた。言われるまでもない、腹に力を入れようとすると、それだけで血が滲み出てくる。血ばかりか、体に残った命の力が刻々と垂れ流れてゆくのがわかる。おれはなんだってこんなことをしてるんだ? ふと冷静になった頭が呟き、いったい自分は誰に義理立てするつもりなのかと田口は自問した。艦長に? 折笠に? 帝国海軍、日本という国家に? それともあの一等兵に……?
違う。ここであきらめたくないと感じているのは、他の誰でもない、自分だ。まだ生きている意味、生かされている意味、そんなものはわからないし、わかる必要もない。ただ目の前にやるべきことがあるなら、最後までやり通す。バカでも単純でも、それが田口徳太郎という男だ。おれは自分に義理立てしているのだと納得して、田口は不意に体が軽くなるのを感じた。時岡の肩につかまり直し、「……バカは承知でさぁ」と返してから、多少は力が入るようになった足を床に踏んばらせた。
「バカじゃなけりゃ、たった一匹で大艦隊にケンカをふっかけるような艦に居残りゃしねえ。軍医長だってそうでしょうが」
「それはまあ……」と素直に応じてしまう時岡も、徹底的に単純で、悲しいくらい人のいい男だった。「だったらバカついでだ」と押しかぶせて、田口は時岡の背中に体重を預けた。
「発令所まで駆け足! ほれ、わっしょい、わっしょい」
痛みが脈動する腹を時岡の背中に押し当て、裸足の足を蹴り出す。意外な腰の強さで田口の体を支えた時岡は、「わ、わっしょい、わっしょい」とつられて足を動かし始めた。戦闘配備で閉鎖された水密戸をいちいち開き、発令所にたどり着くのは容易なことではないが、歩いて縮まらない距離はない。数年ぶりに足が地に着いたような安息感に支えられて、田口は一歩一歩が本来の自分に近づく足を動かし続けた。
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(しかしパウラは間違いなくなにかを感じています。これまでにはなかったことです)
マリアナ海溝の亀裂も終焉に差しかかり、前衛の敵艦が打ち放つ探信音波の真下をくぐり抜けて、まずは侵入に成功……と思った矢先の〈ナーバル〉からの連絡だった。いつになく強情な征人の声音に、絹見は何度目かの視線をコロセウムに注いだ。
総計四十杯の敵艦艇と、眼下に張り巡らされた探信音波の網。そのさらに下の海中をうねる海底反射の超音波。異状と言えば、この状況下にたった一艦で飛び込むこと自体が異常だが、それを除けば変わった点は見受けられない。探信音波は深度六十メートルを潜航する〈伊507〉には届かず、海底反射の超音波も海溝の深淵に吸い込まれて、すでに懐《ふところ》に入り込んだこちらの船体をかすりもしない。残る懸案事項は敵の聴音器だが、海溝に吹き下ろす海底潮流の音が聴音状況を悪くしているはずだし、もしこちらのスクリュー音を探知したのなら、いつまでもあらぬ方向に探信音波を打ってはいないだろう。むしろ、ここでいたずらに変針した方が聴音に引っかかる危険性は高い。深度六十の水圧下では、わずかな動きでも船体が思わぬ軋み音をあげることがある。
確かに敵艦隊は一ヵ所に固まりすぎている。征人が言う通り、散開して哨戒《しょうかい》の目を光らせるべきなのに、どの艦艇も奇妙に動かないのだ。罠という可能性を前提にしてみれば、アシーガ湾の入口に生じた死角も意図的なものに見えてくるが、それこそ疑心暗鬼がもたらす危険な思い込みではないのか。
これが罠だと仮定して、敵はこちらの動向を以前から――陣中に分け入るかなり前から察知していたことになるが、海底反射法も効かない海溝に沿って航走してきた〈伊507〉を、どうしたら探知できたというのか。敵の偵察機に気づかぬうちに捕捉されたのだとしても、層深以下の深度に潜航したこちらの位置を、継続して把握できたとは考えられない。
罠である可能性を満たす要件はなにひとつない。コロセウムを凝視するのをやめて、絹見は背後に立つフリッツに振り返った。パウラが感じているなにか≠ノついて、なんらかの推測があるのではないかと期待したが、長髪の下の端正な顔は無言のまま、小さく首を横に振るのみだった。
時刻はX−2・4時。午前七時七分を指す腕時計の針を見つめ、じっと様子を窺う木崎らの視線を振り払った絹見は、汗ばんだ手にマイクを握り直した。送信釦を押し、「ここで変針して、時間を無駄にするわけにはいかない」と迷いを消した声を吹き込んだ。
「このまま直進する。パウラの状態に引き続き注意して……」
「ちょっと待ってください!」
その声は、低くかすれていながら、どっしりした重量感をもって発令所の空気を揺さぶった。絹見は艦尾側の隔壁に目を向け、水密戸をくぐったばかりの田口を視界に入れて絶句した。
一同が呆然と注視する中、時岡に担がれるようにして発令所に足を踏み入れた田口は、説明の口を開こうとする時岡を制して絹見の顔を直視した。時岡の手を振り払い、よろけた体を排水用ポンプに手をついて支えて、こちらに近づこうとさらに裸足を前に出す。コロセウムに取りつこうとして届かず、床にくずおれそうになった体を素早く支えたのは、咄嗟に前に出たフリッツだった。
一瞬、目をしばたいてフリッツの横顔を見つめた田口は、すぐにこちらに視線を戻し、「こいつを見てください」と右手にわしづかみにした藁半紙の束をぐいと突き出した。絹見は、前後の事情を忘れて藁半紙の束を受け取ってしまった。
「この三時間の敵の動きです。こちらが潜航を開始した一時間ぐらい前から、急に動きが活発になってます。前衛が後退して、中央に布陣する艦がそろって左右に移動して……」
鉛筆で書き殴った敵艦隊の配置図は十枚以上あり、発令所の放送に逐一耳をそばだて、敵情の分析と把握に努めてきた田口の数時間を想像させた。ちらと目を上げて顔色を窺った絹見には気づく様子もなく、田口はもっとも新しい配置図に鉛筆で線を入れてゆく。
「こうしてみると、扇形に展開した艦隊の真ん中に一本線が引ける。南北に分かれてるんです。そしてこの線をたどった先にあるのがアシーガ湾。湾口に配置された指標三十一番と三十二番の間は、この通り不自然に離れている。包囲網に破れ目を作って、我々を誘い込んでるんですよ」
四十の×印がひしめく配置図に震える線を引き、田口は苦痛を押し殺した顔をこちらに据えた。絹見は三時間前から現在に至るまでの配置図を立て続けにめくり、じっとりした不安が腹の底に溜まってゆく感覚を味わった。
「そうだとしても、敵にはこちらを探知する術はないはずでしょうが。いくら罠を張ったところで……」
田口に次ぐベテラン海曹の海図長が、その場にいる全員の思いを代弁して言う。絹見はそれを制し、「どう思う? 掌砲長」と田口の目を見返した。
「わたしゃ、折笠の勘を信じます」
即答して、田口は無精髭の浮いた頬を微かに緩めた。「いい目をしてますよ。さすが見込んだだけのことはある……」
そう言う間、田口の目は発令所の隔壁をすり抜け、六十メートルの海水をすり抜けた先にあるはるかな高みを見上げているようで、絹見はふと、高須が末期《まつご》の際に寄越した視線をそこに重ね合わせた。自らの命と引き替えに罪を贖《あがな》った高須という男も、末期の際にこんな目で、こんな顔で笑いかけてきた。あれは田口の言う通り、望む死に場所を得られた安息が紡ぐ笑みだったのだろうが、いま再び同じ目で微笑む男を前にして、それだけではないという理解が絹見の胸中に固まった。
肉体の痛みに喘ぎながらも、その顔には溌剌《はつらつ》とした張りがあり、充血した白目に浮かぶ睦も清冽な光を放ち続ける。これが死を目前にした男の顔であるものか。これは生き直そうとする者の顔だ。一分、たとえ一秒だってかまわない。残された時間を精一杯に生き直し、己に率直であろうとする者の目の光だ。絹見は無言で藁半紙の束を田口に突き返した。淡い緑色の光に包まれたコロセウムを見やり、この先の行動を頭の中で組み立ててから、「針路変更、一九〇。取り舵一杯」と、操舵長の方に向き直って令した。
ぽかんと口を開いたのもつかの間、操舵長は慌てて二人の操舵員に向き直り、「と、取り舵一杯、ようそろ」と復誦を返した。縦舵を受け持つ操舵員がレバーを傾け、水圧をかき分けて転舵した船体がわずかに左に傾斜する。フリッツに支えられながら姿勢を正した田口は見ずに、絹見はコロセウムに確認の目を注いだ。
〈伊507〉の砂模型が回頭し、敵艦隊の布陣から抜け出すべく南西方向に移動を開始する。とんでもない大回りになると実感したのか、「艦長……」と顔を寄せてきた木崎に、絹見は「指標二十番の後方を抜けたところで二七〇に転舵」と無表情に押しかぶせた。
「敵艦隊を迂回して南からアシーガ湾に突入する。先任は所要時間を至急割り出して……」
「右舷後方より魚雷らしきもの! 急速に近づく!」
運用長が唐突に怒声を張り上げ、絹見はぎょっとコロセウムに視線を戻した。指標三番――つい先刻、真下をくぐり抜けたばかりの敵艦の砂模型から、数粒の砂鉄で形成された魚雷の砂模型が放たれ、〈伊507〉の砂模型に猛然と接近するのが見えた。
艦底の形、大きさから推測して、各指標の艦種はあらかた割り出してある。指標三番は駆逐艦、おそらくはベンソン級かリバモア級で、どちらにせよ水上魚雷発射管を二基装備している。そのうちの一基から魚雷が射出され、深度を下げつつまっすぐこちらに向かってくる。探信音波の網とは無関係に、さながらこちらの位置を従前把握していたかのように――。
「方位〇四〇。右舷正横を通過する模様……あっ、指標十五番も魚雷を発射! 正面です!」
コロセウムを監視する運用長が、さらに怒声を重ねる。絹見は舌打ちする間もなく、魚雷の予測針路を読み、〈伊507〉が取り得る回避運動を頭に描いた。
指標十番の駆逐艦から放たれた魚雷は、三番が放った魚雷とほぼ同じ潜入角で〈伊507〉に接近している。挟み撃ちの格好だが、ここで下手に深度を上に取ると、探信音波の網に引っかかる羽目になる。それよりも回頭中の身を活かし、回頭速度を早めて水平に回避。しかる後に深度を下げて次の攻撃に備える。一秒未満の時間で判断を下し、正確すぎる敵の雷撃に対する疑問を一時保留にした絹見は、「右舷前進一杯、左舷後進一杯、急速回頭!」と運用長に負けない声を張り上げた。続いて「深度……」と指示を出しかけたが、「指標十六、八番からも魚雷!」と、運用長が悲鳴に近い声を搾り出す方が早かった。
「左舷後方と右舷前方から急速に近づく!」
「聴音! 距離と方位は!?」と木崎。正確な方位と距離の測定には、コロセウムより水中聴音器の方が通している。すでに聴音器室でヘッドフォンをかぶり、方向測定つまみに手を載せている唐木水測長は、「右三十八度、左百九十二度! ともに感度四」の返答を水密戸の向こうから寄越した。
感度四なら、距離は二千メートルを割っている。絹見はコロセウムに目を向け、四方から押し寄せる魚雷の軌跡を網膜に焼きつけた。それぞれ微妙に潜入角を変えた八番と十六番の魚雷は、あと二十秒足らずで〈伊507〉の下方を交差する。こちらが潜降して回避するのを見越して、退路を塞《ふさ》ぐ肚《はら》だ。〈伊507〉の針路と深度、速度を読み、未来位置を計算しなければできることではない。
「見えているのか……?」
フリッツが呟く。そう、見えている。聴音器の観測だけではこうはいかない。冷たい腹の底に呟き、青ざめた乗員たちの顔に目を走らせた絹見は、「メインタンク、ブロー! 潜航上げ一杯、深さ二十」と、一同の頭をどやしつける大声を出した。
復誦が上がり、気蓄器から圧縮空気が放出される音が頭上を行き過ぎる。「艦長、それでは敵の探信儀に……」と耳元に囁いた木崎に、「敵は魚雷を深々度に調定している。深度を取ればやられる」と返しながら、絹見は腹に溜まった不安の塊がずんと重みを増すのを感じた。
いかなる手段を用いてか、とにかく敵は〈伊507〉を探知している。探信音波の網を気にして深々度に逃げ込めば、それこそ敵の思う壺《つぼ》になる。下は水圧の壁、上は魚雷に阻《はば》まれて、次第に身動きが取れなくなるのが自明の理。かつて〈しつこいアメリカ人〉にやられたのと同じ手だ。しかも今回は、爆雷を搭載した水上艦艇がびっしり頭上を覆っている。
罠。認めたくない一語を引っ張り出し、しかしなぜこちらを探知できた? と内心に叫んだ途端、「魚雷、右舷を通過します!」と弾けた運用長の声が絹見の鼓膜を貫いた。
足もとに伝わるモーターの振動音の中から、ピッチの早い魚雷の駛走音が立ち上がってくる。神経を逆撫でし、気管を萎縮させるような甲高いスクリュー音が右舷の耐圧殻を震わせ、絹見はこわ張った首をめぐらせてコロセウムを注視した。魚雷を示す砂鉄の塊が、〈伊507〉の砂模型から数ミリと離れていない空間を通過する。実際の尺度では二、三十メートルというところか。微かに安堵し、次の魚雷に目を向けようとした刹那、〈伊507〉に接近した砂鉄の塊がぱっと四散した。
直後、船体が横に弾かれ、発令所の床が大きく右に滑った。続いて五官を痺れさせる大音響が覆いかぶさり、絹見は体勢を崩した体を左舷側の内壁に打ちつけた。
パイプ管がびりびりと震え、塗装片とコルク材の粉が振りかかってくる。動揺の呻きと悲鳴が爆発音の余韻をかき回し、「近接信管か……!」と吐き捨てた誰かの声が奇妙にはっきりと聞こえた。絹見は打ちつけた肩の痛みを堪えて、コロセウムに駆け寄った。
いまの爆発が近接信管によるものなら、敵の魚雷の磁気爆発尖はとんでもなく敏感に設定されている。数十メートルも離れた場所の金属を探知し、信管を作動させて自爆する魚雷。と言うことは、魚雷同士が交差しただけで――。
三方から迫る魚雷の砂模型が、〈伊507〉の砂模型の真下に滑り込んでゆく。また来るぞ、と絹見が声にするより先に、魚雷の砂模型が粉々に砕け、今度は下から突き上げる衝撃波が〈伊507〉を襲った。
二本の魚雷が同時に爆発し、衝撃に押し固められた海水の塊が前後から艦底に叩きつけられ、〈伊507〉の巨体を押し上げる。瞬間、発令所の床が数メートルも跳ね上がり、乗員たちは例外なく倍加した重力に引き倒された。艦底を支える竜骨《キール》がぎりぎりと軋み、照明灯が激しく明滅する。潜望鏡にしがみついてうつ伏せになった木崎、ヘルゼリッシュ・スコープに手をついていち早く膝立ちになったフリッツ。仰向けに倒れた田口と、その腹の傷の上に咄嗟に覆いかぶさったらしい時岡。それらの光景が現れては消え、艦尾方向で起爆した四本目の魚雷が、いっさいを闇に塗り込めた。
衝撃波が艦尾から艦首にまで突き抜け、真の闇に包まれた発令所を揺さぶる。自分の体がどうなっているのかわからないまま、絹見はとにかく「予備電源つけろ!」と叫び、つかまる物を捜して手を動かした。なにかの開閉ハンドルが指先に当たり、夢中でそれをつかんで上体を持ち上げると、復旧した照明灯が刺さるような光を発令所にもたらした。
「損傷報告!」と、潜望鏡を支えに立ち上がった木崎が怒鳴る。操舵員までが操舵席から投げ出され、床に這いつくばっている惨状を横目に、絹見はまずは浸水の有無を確かめ、「深度は!?」と声を荒らげた。「二十八メートル!」と返ってきた声を受け止め、雷撃可能深度まであと八メートル……と反射的に考えた時、それを打ち消す耳障りな金属音が響き渡った。
船体を打ち据える探信音波の音。キーン、キーンと高い波長を連続させる探信音波は、四方八方から〈伊507〉を取り囲み、目標を掌中に捉えた喜悦にわき立っているようだった。一秒の何分の一かの間、なにも考えられなくなった目を木崎と見交わし、コロセウムに振り返った絹見は、そこに映し出された光景を見て息を呑んだ。
〈伊507〉の砂模型の斜め上、直上から百メートルと離れていない海面に砂鉄が寄り集まり、塊にならない無数の砂粒を沈降させ始めたのだった。直径四、五十メートルの円形を拡散させつつ、そこだけ雨でも降り出したかのように。
「爆雷投下した! 右舷前方、感度五!」
ヘッドフォンに手を当てた唐木が、水密戸の向こうで絶叫する。時岡の肩を借りてコロセウムを覗き込んだ田口が、「これが爆雷だと……?」と呻き声を重ね、絹見はなにもない海面に忽然と出現した砂粒の群れに呆然の目を向けた。爆雷と言えば水上艦艇の艦尾から投下されるか、投射機によって一発ずつ投擲されるものと決めつけた頭に、その光景が現実として取り込まれるには数秒の時間を要した。
「広範囲に渡って散布、数えきれない! 通常の爆雷ではありません」
どこかに打ちつけたのか、額の出血を片手で押さえた運用長が叫ぶ。その声で我に返ると、「ヘッジホッグだ」と呟いたフリッツの声が間を置かず絹見の背中を打った。
「一発でも当たれば連鎖して爆発する。避けろ」
〈伊507〉の右前方に降り注ぐ無数の砂粒を見据えて、焦燥を露にしたフリッツの声が続ける。それはなにかと考える愚は犯さず、爆雷群との距離、沈降速度をドンガメ乗りの目で見て取った絹見は、「ベント開け! メインバラスト注水、深さ六十」と、再度の潜降を令した。
潜ったところで、深度を調定した魚雷に追い立てられる。下は水圧の壁、上は新式爆雷の雨に挟まれ、早くも四面楚歌《しめんそか》といったところだが、こちらの位置が割れている以上、無音潜航で海中に留まり、時間を浪費することこそ愚かだった。
ここは小細工を排して正面突破を目指す。テニアン島まであと二十キロ足らず、ローレライの水中感知能力と、〈伊507〉の図体に似合わぬ機動性があれば、決して不可能なことではない。絹見は、腹の底から声を搾り出した。
「針路、二七〇に取れ。両舷、最大戦速!」
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それはもう魔女狩りですらない、狐狩りの光景だった。深度を下げつつ前進する〈伊507〉を追って、第三八任務部隊特別混成群の艦艇は一斉に行動を開始した。
前衛の駆逐艦隊が反転し、眼下をすり抜けていった〈伊507〉を追撃する一方、陣の中央に位置する艦艇群もそれぞれに移動して、扇形の陣形の真ん中に作り出した死角――〈伊507〉を誘い込むべく、意図的に配備を薄くした水路――を埋めてゆく。各々三隻ずつに分かれた小隊のうち、最初に〈伊507〉に仕掛けたのはリバモア級駆逐艦〈ニコルソン〉を中心とする|B部隊《チーム・ブラボー》と、クリーブランド級軽巡洋艦〈バーミンガム〉を小隊旗艦に置く|L部隊《チーム・リマ》で、両部隊は逆V字隊形を取り、目標を網で包み込むようにしながら、〈伊507〉をある一点に向けて追い立てていった。
やり方は単純かつ効果的、大量生産・大量消費が身上の大国の艦隊ならではのものだった。〈伊507〉がアクティブ・ソナーが届かない層深に潜ると、すかさず各艦艇から魚雷が放たれる。アクティブ・ソナーの探知網で目標の動きを逐一把握していれば、失探した位置から大まかな未来位置を算出するのはさほど難しいことではない。無論、それだけでは目標への直撃は望めないが、調定深度は六十メートル以下、磁気爆発尖は三十メートルで作動するよう設定された魚雷は、言わばダイナマイト漁におけるダイナマイトであり、もとより正確な雷撃を期待するものではなかった。
放たれたMk23魚雷は、〈伊507〉の周囲三十メートルの海中で爆発尖を作動させ、弾頭に詰め込まれた二百九十キロもの炸薬《さくやく》を起爆させる。爆発の閃光と同時に発生した衝撃波は、海上には水柱を、海中には荒れ狂う気泡を生じさせ、爆圧で圧縮された水の塊を〈伊507〉に叩きつける。さらに二撃、三撃目の雷撃に艦底を突き上げられ、〈伊507〉がたまらずに浮上をかけると、今度はヘッジホッグの雨が頭上から降りかかるという寸法だった。
ヘッジホッグ用の対潜弾は弾頭部と尾管、尾翼と翼車からなり、野球バットに似た形状をしていて、従来のドラム缶型の爆雷とは大きく印象が異なる。|ヤマアラシ《ヘッジホッグ》という名前の由来通り、対潜弾は四列六本ある投射機の装填軸に垂直に装填され、ひとたび発射信号を受け取ると、コンマ二秒に二発ずつの割合で逆立てた針を海上に投射する。全弾投射まで三秒未満、発射艦より二百メートルもの距離を飛んだ二十四発の対潜弾は、直径約四十メートルの円を描いて海面に着水し、海中に潜む目標めがけて沈降する。触発式の信管は非常に敏感で、一発の起爆で他の全弾も起爆するよう設定されているために、通常の爆雷よりはるかに破壊力が大きく、また命中率も高い代物だった。
チーム・ブラボーとリマが放つ魚雷が海中で閃光を発し、衝撃波に押し上げられた〈伊507〉が深度を上げた途端、左右前方に待ち構える|E部隊《チーム・エコー》や|K部隊《チーム・キロ》の艦艇が距離を詰めて、露天甲板上のヘッジホッグを投射する。弧を描いて落下する対潜弾が海面を円形に泡立て、大気をひきちぎるような大音響を鼻先で轟かせて、沸騰した海水を船体に叩きつける。通常の潜水艦なら、数分と保ちはしない地獄の道行きだったが、〈伊507〉は衰えを見せずに海中をかき分け続けた。
浮上と潜降をくり返し、ヘッジホッグの雨を紙一枚の差でかわして、全長百十メートルの巨体がめまぐるしい三次元運動を展開する。ローレライの目で降り注ぐ爆雷の狭間に活路を見出し、大出力のモーターで荒れ狂う海水を蹴り出して、〈伊507〉の船体が怪魚のごとく戦場の海を疾走した。
しかしそれは、目標の反応を見越した上で仕掛けられた攻撃でもあった。魚雷は決して致命傷を与えることはなく、ヘッジホッグも完全に退路を塞ぐことはない。そこにはむしろ、意図的に隙《すき》を作り出し、〈伊507〉を誘導する作為すら働いていた。
CZ探知の網に搦《から》め取《と》られ、陣中深く誘い込まれた〈伊507〉は、米艦艇にとっては依然として虜《とりこ》の狐なのだった。アクティブ・ソナーの発信音と爆発の轟音に弾かれ、〈伊507〉は確実にある一点へと――海底岩礁が連なるテニアン島南東面の海域へと追いやられていった。
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「面舵《おもかじ》、七度。両舷半速。前部ツリムに移水、百」
旋回把手に右腕を巻きつけ、天井から吊り下げられた接眼装置に顔を押し当てる艦長の姿は、この艦ではあまり見られない潜水艦然とした光景だった。もっともいま絹見が覗いているのは潜望鏡ではなく、ローレライの感知像を主観的に再現する千里眼鏡《ヘルゼリッシュ・スコープ》であり、そこに映し出されるのはコロセウム同様、蠢く砂鉄で再現された海中状況ではあったが。
送水管に水が通う下水のような音が発令所の床を駆け抜け、減速した船体が微かに前のめりに傾く。足を踏んばりつつ、フリッツは縮尺五千分の一に設定されたコロセウムをちらと見下ろした。
ヘッジホッグから射出された対潜弾の雨がそこここから降り注ぎ、砂鉄の粒が霧のごとく立ちこめる海中を、やや艦首を下げた〈伊507〉の砂模型が突き進む。船体を右に捻《ひね》り、正面に垂れ下がった対潜弾の幕を僅差《きんさ》で回避すると、慣性で流れた船体が幕と幕の間に生じた隙間を巧みにすり抜ける。海上では大小取り混ぜた水上艦艇の艦底が波をかき分け、〈伊507〉の頭上すれすれのところまで探信音波の網をのばしており、時おり放たれる魚雷が海中を斜めに横切ってゆく。ほとんど当てずっぽうに等しい雷撃だったが、いま、前方に位置する二隻の艦艇から放たれた魚雷は、左右から挟み込む夾叉《きょうさ》のコースを取って〈伊507〉に直進してきた。
「指標二十二番と二十四番より魚雷! 正面から近づく」
運用長が叫ぶ。絹見は方位を尋ねようともせず、ただヘルゼリッシュ・スコープをぐるりとめぐらせて、「メインバラストちょいブロー、深さ五十五。両舷全速。後部ツリムに移水百五十」
落ち着き払った声に応じて復誦が上がり、今度は圧縮空気が送気管を通り抜ける音が発令所を満たす。バラスト内の水を吐き出した船体がふわりと浮き上がり、ぐんと速度を増した〈伊507〉の砂模型が魚雷に向かって突進する。二本の魚雷は爆発尖が作動しないぎりぎりの距離を――〈伊507〉の艦底から三十メートルの海中を走り、後方に抜けていった。
「すごい……」
思わず閉じた目を恐る恐るというふうに見開き、運用長が呻く。こちらもこわ張った肩の力を抜こうとしたフリッツは、「爆雷防御!」と弾けた絹見の一喝《いっかつ》に再び全身を張り詰めさせた。
どん、と腹を揺さぶる重低音が艦尾方向に発し、衝撃波に蹴り上げられた船体が前方に傾く。交差した魚雷が互いの爆発尖を作動させ、さらに周囲の対潜弾も誘爆させたのだ。マシンガンを乱射する音に似た破裂音が連続し、跳ね上がった床に弾き飛ばされた運用長が内壁に叩きつけられる。海図長は散乱するデバイダーやコンパスもろとも床の上を転がり、しがみついた転輪羅針儀から引きはがされた田口もコロセウムの台座に後頭部を打ちつける。パイプというパイプがたわみ、内壁という内壁が激震する中、ヘルゼリッシュ・スコープに取りついて離れない絹見だけが、「右三十度に新たな爆雷。舵戻せ。メインバラスト注水、深さ六十。ダウン五度」と冷静に指示を飛ばし続けた。
その背中は飛び散った塗装片とコルク屑《くず》の粉塵《ふんじん》も寄せ付けず、見えない力を放って発令所の中央に突き立っている。鬼気迫るという表現はもはや当てはまらず、いまの絹見は人間的な情動とは無縁の場所にいる。重油と機関を血肉とし、潜横舵を手足として、爆雷と魚雷の軌跡が描き出す三次元の幾何学模様を冷徹に観察、分析する。そこにいるのは艦長ではなく、〈伊507〉のメカニズムと一体化した何物かだった。乗員たちはその指示を細大もらさず聞き取り、絹見という自動計算機がはじき出した結果に従うほかない。
が、それで一対四十の彼我兵力差が埋められるものか? 運用長や田口の無事を無意識に確認しつつ、フリッツは床についた膝を上げてコロセウムを注視した。でたらめに投射されているようで、ヘッジホッグの雨は一定の間隔をあけて海中に降り注いでいる。目標の三十メートル前後で近接信管を作動させる魚雷にしても、空振りの確率が少ない代わりに、目標に致命的な損傷を与えはしない。先刻から聴音魚雷が一発も使用されないのは、味方を誤射する危険性を考慮してだけのことではないとフリッツは判断した。敵には最初からこちらを撃沈するつもりがない。槍《やり》の切っ先で小突き回して、目標を追い立てるのに留めている。こちらがローレライを駆使して攻撃を避けることを念頭に置いて、〈伊507〉をある一点へ誘導しようとしているのだ。
「敵もローレライを装備してるなんて冗談はないんだろうな。ええ、少尉殿?」
コロセウムの台座に寄りかかり、どうにか腰を持ち上げた田口が言う。時岡は怪我人の手当に飛び出していったきりなので、ここには田口の体を支えてやれる者はいない。やせ我慢の脂汗《あぶらあせ》を滲ませたいかつい顔から目を逸らし、フリッツはコロセウムの感知像に視線を戻した。確かに当初からこちらの位置を捕捉していなければ、ここまで狙いすました追撃は行えない。敵が新しい水中索敵法なり探知装置なりを完成させ、これまでにない波動を海中に放散していたのだとしたら、パウラが感じたなにか≠フ気配も説明がつく。フリッツは田口の脇をすり抜け、海図台の横にある航跡自画装置《DRT》のカーソルに見入った。
方位信号と速力信号を解析し、艦の航跡を図板上に刻んでゆくDRTのカーソルは、敵の攻撃が始まって以来の縦横無尽な操艦を引き移して、じぐざぐの曲線を図板上に描いていた。そこに海図を重ね合わせれば、当初の航路より大きく南寄りに外れた〈伊507〉の現在位置と、そのような攻撃の仕方をする敵の意図が見えてくる。魚雷と爆雷に追い立てられ、このまま進んだ先にあるのはマルポ崎。アシーガ湾より南東に十キロも下った、峨々《がが》とした海底岩礁が連なる浅海域だった。
深度二十メートル前後の岩礁地帯に追い詰められた潜水艦など、浜に打ち上げられた魚に等しい。摂氏三十二度の気温に関わりなく体の芯が冷え、ひんやりした汗が皮膚に張りつくのを感じたフリッツは、ヘルゼリッシュ・スコープに取りついたきり、他のなにも目に入らない風情の絹見の背中を見据えた。
「舵取り機室の浸水、状況はどうか!?」と木崎が叫び、(機械室より発令所! 補機室に工作班を寄越してください)とスピーカーごしにがなる岩村機関長の声を聞きながら、絹見の背後に体を寄せる。艦長、と呼びかけるより先に、接眼装置に顔を押し当てた絹見の後頭部が、「わかっている」と口を開いた。
「このままでは浅瀬に追い込まれて一巻の終わりだ。敵はどうしてもローレライをあきらめきれんらしい」
こちらを行動不能にした上で拿捕。敵の目論見など先刻承知といった絹見の声に気圧され、一歩あとずさったフリッツは、「そろそろだな」とこちらを振り返った絹見と目を合わせて、ざわと肌を粟立てた。
「きつい肘鉄《ひじてつ》を食らわせてやるか」
鍔をうしろに回した略帽の下で、絹見の目が笑っていた。遠くで発した魚雷の起爆音が腹を揺さぶり、「合戦準備!」と張り上げられた声音がそれを圧倒して、一同のぎょっとした目が艦長に振り向けられた。
「発射管注水、外扉開け。一番から十番まで、全発射管使用。調定は事前の通達どおり」
復誦を待たずに、絹見はコロセウムに目を走らせた。後方から包み込むように接近する六隻の艦と、横合いから急速に押し出してくる三隻の敵艦。包囲網が狭まる一方、各艦艇の相対距離は二百を割り込んで、さらに近づきつつある。恣意《しい》的な攻撃を当たり前にしすぎて、各艦とも間合いを取るのを忘れているのだ。
この時を待っていたか。すかさずコロセウムの倍率を上げたフリッツには目もくれず、ヘルゼリッシュ・スコープに向き直った絹見は、「指標三番と二十二番を狙う」と指示を重ねた。
「後部発射管旋回角、右九十度。魚雷一番と七番、発射用意。深さ二十まで急速浮上、面舵一杯」
ずいと床がせり上がり、同時に作用した慣性の力が、汗と重油の臭いにまみれた艦内の空気を左側に押し流した。旋回しつつ浮上に転じた〈伊507〉が爆雷の切れ間を泳ぎ、右舷から迫る敵艦に艦首を向けると、艦尾の旋回式発射管が後方の敵にぴたりと狙いを定める。それらの動きをコロセウムの感知像に確かめ、やれるのか? とフリッツは絹見の背中を睨み据えた。
ローレライを眠らせずに敵艦を無力化する、その方法はすでに説明を受けている。過去にどんな潜水艦も行ったためしのない、強風の中で針の穴に糸を通せと言うのに等しい無謀な戦法。こと賭けに関しては自分も理解のある方だが、この男のやる賭けは一事が万事、常識を外れている。物言わぬ背中を凝視し、ぐっしょり濡れた手のひらを握りしめたフリッツは、「一蓮托生……」という声を背後に聞いて、小さくぴくりと肩を震わせた。
「そう怖ぇ顔しなさんな。男がいっぺん信じると決めたんだ。任せておきゃあいい」
コロセウムのガラス面にもたれかかり、田口はフリッツにだけ聞こえる声でそう言った。ああ、と無条件に応じそうになったフリッツは、田口から顔を背けた。熱が滞留する頬は見られないようにして、田口の体をコロセウムから引きはがし、その体重を自分の肩に引き受けた。
きょとんとした田口の目が、すぐ横でしばたかれる。「邪魔なんだ」と吐き捨てて、フリッツは視線を合わせるのを避けた。
「そんなとこに寄っかかっていられたら、コロセウムが見えなくなる。怪我人はさっさとパートに戻ったらどうなんだ」
「なにを、この……!」と口をとがらせた田口の声は、「深度二十メートル!」「舵戻せ」と続いた声にかき消された。フリッツと田口は同時に正面に向き直り、絹見の背中を注視した。
「一番、開口角二度。用意……てっ!」
肩をつかむ田口の手がぎゅっとこわ張り、ごとん、と重い金属が落ちる音が艦首方向に発した。命運を託すにしてはいささか間が抜けている、魚雷の射出される音だった。
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右舷一番発射管から射出された九五式酸素魚雷は、圧縮空気の気泡を引き裂いて目標に直進した。二百メートル少々の駛走距離では海流の影響もなきに等しく、まっすぐ、正確に目標に近接した酸素魚雷は、雷速が五十ノットに差しかかろうとした直後、その弾頭を目標に激突させた。
目標――チーム・エコーに所属するフレッチャー級駆逐艦〈コッテン〉は、瞬間、下から突き上げる衝撃に見舞われた。浅瀬の海底岩礁に艦底をこすりつけた衝撃に似ていたが、実際には、より深刻な被害が〈コッテン〉の艦底に刻まれていた。キロに換算すれば時速九十を超える速度で〈コッテン〉の艦底に触接した魚雷は、まずは左舷側のスクリュープロペラに衝突し、プロペラを支えるシャフトブラケットを支持架ごとひしゃげさせた。プロペラシャフトがねじ曲がり、艦内機関室で減速機が火花を吹き上げる一方、魚雷の体当たりで引きちぎれたプロペラの羽根《ブレード》は、隣接する右舷側のプロペラに巻き込まれて被害を倍加させた。
最大速力三十七ノット、六万馬力を誇る蒸気タービンエンジンの回転力に引き込まれ、右舷側のプロペラにぶつかったブレードが鋼鉄の悲鳴をあげる。右舷側のプロペラも三枚のブレードのうち一枚を弾けさせ、二軸・六枚のプロペラブレードで海水をかき分けていた〈コッテン〉は、一挙に三分の二のブレードを散らして推進力を失うことになった。左舷側のプロペラを直撃した魚雷は斜め後方に抜け、さらに右舷側の舵を破壊した後、全長七・一五メートルの本体を破砕させていった。
同様の被害は、チーム・ブラボーのリーダー艦である〈ニコルソン〉にももたらされた。一番魚雷の射出から数秒と置かず、後部旋回式発射管から射出された魚雷は、〈伊507〉の舷側を背にして〈ニコルソン〉に直進した。それは〈ニコルソン〉の艦底をこすり、スケグの膨らみに沿って艦尾に滑ると、二軸のスクリュープロペラが海水を吸引する力を我が物にして、その弾頭を回転するプロペラにめり込ませた。
ブレードが弾け飛ぶと同時に、弾頭のひしゃげた魚雷が右舷側の舵の基部に激突する。舵角調整軸が折れ曲がり、それを支点に大きく振れた魚雷の尾部が、今度は左舷側の舵をも破壊してゆく。〈ニコルソン〉は舵を二枚とも失い、全長百十四・八メートルの巨体を制御する術《すべ》をなくした。そしてその前方には、両舷のプロペラと片舷の舵を失い、慣性力の虜になって漂流する〈コッテン〉が滑り込みつつあった。
互いに操舵不能を知らせる信号旗が掲げられ、発光信号と無電が慌ただしく交錯したが、ほぼ直角に交差する両艦の相対距離はあまりにも短く、また速度も出過ぎていた。後進をかけて行き足を止めることも、舵を切ることもできない両艦の距離が次第に狭まり、衝突警報の音色が絶叫のごとく響き渡る。ウイングで懸命に手旗信号を振る信号員の水兵が退避し、鉄帽と救命胴衣で身を固めた艦長たちが艦橋に伏せた直後、〈ニコルソン〉の艦首が〈コッテン〉の左舷側に激突した。
排水量二千五十トンの鋼鉄の塊同士がぶつかり、船体がたわみ、外板がひしゃげる音を太平洋上に響き渡らせる。その舳先で〈コッテン〉の乾舷を削りながら、〈ニコルソン〉は徐々に動きを止めた。横腹に僚艦の頭突きを食らった〈コッテン〉も止まり、上構を彩る艦橋構造部やマスト、二本の煙突や五基の砲塔はまったく無事なまま、二隻の駆逐艦は沈黙した。〈ニコルソン〉も〈コッテン〉も、搭載した魚雷と爆雷を持て余し、味方艦艇に曳航《えいこう》されるまで戦場の海を漂う末路しか残されていなかった。
次の標的になったのはチーム・リマのリーダー艦、クリーブランド級軽巡洋艦〈バーミンガム〉だった。全長百八十六メートル、排水量一万トンの図体が舵を失い、その質量の大きさに比例する慣性の力に引っ張られた結果は、追撃部隊の針路を遮ることになった。十基の砲塔と二十八門もの機銃を装備し、後部甲板には艦載機の発着カタパルトまで備えた〈バーミンガム〉の巨躯《きょく》が目前にせり出してきて、|G部隊《チーム・ゴルフ》に所属する駆逐艦〈ロウズ〉は急きょ後進をかけた。二条の爆雷投下軌条を備えた艦尾で波飛沫を蹴立て、〈ロウズ〉は辛うじて〈バーミンガム〉の五十数メートル手前に留まったが、単縦陣《たんじゅうじん》を形成して後続する同型艦の〈ガトリング〉が、すでに片舷の舵とプロペラを失っていることには気づかなかった。
錯綜する無電と信号旗のやりとりは、この時も悲鳴の役にしか立たなかった。三十ノットで航走していた〈ガトリング〉は、その速度と質量を引き受けた惰性の力で海上を滑り、〈ロウズ〉の艦尾に追突した。排水量二千五十トンの質量に蹴飛ばされた〈ロウズ〉は、後進中であったために前には押し出されず、追突された艦尾を大きく右に振った。そこには同じチーム・ゴルフに所属する駆逐艦〈ロングショー〉がおり――〈バーミンガム〉との衝突を避けるべく、やはり後進の最中にあった〈ロングショー〉は、唐突に振り出されてきた〈ロウズ〉を回避することができず、両艦の艦尾は暗灰色の塗粧片を散らして衝突していった。
互いの艦尾をこすり合わせて立ち往生した二隻の僚艦を尻目に、舵を失った〈ガトリング〉はまっすぐ〈バーミンガム〉へと直進する。片舷の舵を駆使して正面衝突は避けたものの、〈ガトリング〉と〈バーミンガム〉は舷側を接触させ、長く尾を引く衝突の轟音をテニアン沖の海に押し広げた。
満を持して始まった〈伊507〉の反撃の、これは初動に過ぎなかった。ローレライの目で敵艦の舵とプロペラを狙いすまし、雷管を外した魚雷を槍《やり》に見立てて突き壊す。放たれた魚雷は目標に体当たりを食らわせ、起爆せずにその足をもぎ取る。乗員を喪《うしな》うことも、恐怖や憎悪を海中にまき散らすこともないまま、敵艦は無力化されてゆく。
雷撃可能深度に浮き上がっては魚雷を放ち、即座に潜降しては次の標的を捜す〈伊507〉に対して、米艦艇は魚雷とヘッジホッグの波状攻撃で応酬を試みた。だが海中を俊敏に動き回る敵艦を仕留めるには至らず、気がついた時には撃ち込まれている魚雷を回避する術もなかった。変幻自在に動き回る旋回式魚雷発射管が、進行方向に関わりなく魚雷を撃ち放ってくることも、彼らの混乱に拍車をかけた。海中で旋回角度を変える魚雷発射管は、通常の発射管に較べれば故障|頻度《ひんど》も高く、整備も困難になる。マス・プロダクツが身上の軍隊にとっては不合理極まりない産物で、その存在を想定したこともなかったがために、米艦艇は必要以上に戸惑う羽目に陥ったのだった。
彼らが取り得る対処行動と言えば、艦同士の間隔を空け、万一に備えて舷側に緩衝材を垂らすことぐらいだった。立ち往生を余儀なくされた艦艇も、さらなる追突を警戒して緩衝材の設置を開始した。艦尾に二度も追突を食らい、機関に支障を来した〈ロウズ〉でも、露天甲板に上がった乗員たちの手で緩衝材が設置された。
作業に取りかかった乗員たちは、しかし周囲で展開される光景に息を呑み、手の動きを止めるのもたびたびだった。晴れ上がった空の下、見える範囲だけでも駆逐艦三隻と軽巡一隻が漂流しており、時おり彼方で魚雷や爆雷が起爆すると、噴き上がった水柱に続いて轟音が大気を震わせる。狂気のように連続する水柱と轟音は、その派手な見てくれに相応《ふさわ》しい効果は得られず、ほとんど音を立てない、見えもしない敵の雷撃ばかりが、続々と味方艦の足を奪ってゆく。海中でくぐもる激突音と、艦尾にごぼごぼとわき上がる気泡の膜。それが無血撃沈≠ウれたことを示す印だった。印を受けたが最後、その艦は強力な兵装も最新のレーダーも宝の持ち腐れとなり、海上を漂うスクラップになる。表面上は無傷でも、自力では一インチも進めない生ける屍と化す。
百十メートルの巨体をめぐらせて、毒矢を放つ魔物となった〈伊507〉が艦隊の眼下を疾走する。雷撃を終えた船体を潜降させ、黒い艦影が〈ロウズ〉の艦底を横切るのを、露天甲板に集まった乗員たちははっきり目撃した。
「〈シーゴースト〉だ……」
索具を手にしたまま、最先任兵曹長《CPO》の掌帆長《しょうほちょう》が呆然と呟いた。笑う者も否定する者もなく、〈ロウズ〉の乗員たちは足もとを駆け抜ける怪物の影を見送った。
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(発射管室、右舷連管の次発装填はまだか!?)
(艦の動揺が激しくて手間どってます。あと五分ください!)
先任将校になって間もない木崎航海長の怒声に、やはり水雷長になったばかりの水雷士が怒鳴り返す。その背後で、(ほれ、もっと腰を入れんか!)(丁寧に扱うんだよ! 雷管が外れてるからって気ぃ抜くな!)とがなっているのは、掌水雷長を務める兵曹長に違いなかった。
魚雷の再装填はもっぱら人力で行われる。炸薬の重量を含めれば二トンを下らない九五式酸素魚雷を魚雷架から引き出し、鎖で装填軌道に吊り下げる。発射管の尾栓を開け、衝撃に極めて弱い魚雷を慎重に、迅速に、数人がかりで収めてゆく。艦が縦横に揺れ続けていれば、次発装填作業はそれだけ困難になる。艦首魚雷発射管室はいまごろ地獄の騒ぎだろう。思う間に、(後部旋回発射管、左二十五度)(九番、発射用意)とスピーカーがわめき、(てっ!)の号令とともに発射の震動が艦首から伝わってきた。〈ナーバル〉の後部座席に身を沈めて、征人はスピーカーが伝える複数の声にじっと耳をすました。
(命中まで十五秒)
(新針路四十八度、一分後に射点)
(後部左舷発射管、準備よろし!)
(命中! 九番魚雷、指標三十一番の舵を直撃)
鈍い衝撃音が遠くに発し、モーターと逆巻《さかま》く海流の音に呑まれてすぐに聞こえなくなった。艦が潜降に転じ、軋む音を立てながら艦首方向に傾斜すると、船体を打つ探信音波の音も急速に遠ざかってゆく。最大水位まで張った艇内の水が傾斜に合わせて騒ぎ出し、前部操舵席のパウラに振りかかるのに気づいた征人は、分厚い手袋の手でパウラの顔を覆い、気管に水が入るのを防いだ。代わりに自分の顔で跳びはねた水を受け止めながらも、咳《せ》き込《こ》むのを堪え、感知に集中するパウラを見つめ続けた。
背もたれを倒し、腰まで水に浸かったパウラの顔は、ヘルツォーク・クローネの鉄輪に隠れて半分しか見えない。だが飛び散った海水とも汗ともつかない水滴を張りつかせた顔が、苦しそうにしかめられていることはわかったし、薄く開いた唇から漏れる微かな呟き声も、征人にははっきりと聞き取ることができた。
ドイツ語で呟かれる言葉の内容は不明だが、「Entschuldigen Sie...」と何度か呟かれた言葉には、聞き覚えがあった。以前、フリッツに口癖を揶揄された時に聞いたことがある。すみません、という意味のドイツの言葉――。
敵に対して……ではないだろう。敵艦が撃沈されない限り、死に至る敵兵の怨念がパウラに感知されることはない。いまパウラが感じているのは、そうさせないために苦闘する〈伊507〉の現在であり、必然的に訪れる破滅的な未来であり、それをどうすることもできない無力な自分へのいら立ちだった。
だから詫びるしかない。神がかった操艦で敵艦の足をもぎ取り続ける絹見に対して。重たい魚雷と格闘する水雷科員たちに対して。灼熱する機械室を駆けずり回る機関科員たちに対して。そうして敵艦を無力化し続けても、魚雷の数は十七本きり。先刻からの雷撃で、もう残りは十発を切っている。撃沈しない限り、敵に対して決定的な威嚇にはならず、遠からず追い詰められるだろう〈伊507〉に対して。
いつもこうだ。再び浮上を開始した艦の動きを体感しつつ、征人は〈ナーバル〉の低い天井を見上げた。なにもできずに、自分はここにこうして座っているだけ。パウラの苦悶を見守り、艦長たちの死闘をスピーカーごしに聞くしかない。〈伊507〉に初めて乗り組んだ時から少しも変わらない、まるっきり役立たずの傍観者。一人前が聞いて呆れる、と征人は口中に罵った。清永たちの分もやってみせなければならないのに。命を賭けてもいいと思えるものが、目の前にあるというのに……。
(右舷連管、準備よろし!)
(よし。発令所からの発射管制の具合がよくない。次の発射管制はそちらから行え)
(はっ。艦首魚雷、発射管制こちらで行います)
(号令と同時にただちに発射だ。一瞬たりとも遅れるな。一発の魚雷も無駄にするわけにはいかんのだからな)
絹見の声が続いていた。征人は、握りしめた手袋がぎゅっと鳴る音を聞いた。
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「|J部隊《チーム・ジュリエット》、〈アラバマ〉より入電。『我、操舵不能』です」
戦闘開始から、そろそろ一時間。ヘッドフォンに手を当てて振り返った通信士官の声は、震えていた。「これで九隻……」と呻き、状況指示盤《プロッティング・ボード》の台座に両手をついたボケット准将は、もはや怒鳴る気力も失せたというところか。青ざめ、暗い瞳をボードに泳がせる群司令と顔を合わせる愚は犯さず、オブライエンは無数の作動灯が点滅する管制盤に向きあい続けた。通信の対応に追われるCIC要員たちの背中を見つめ、漏れ聞こえる情報から〈イ507〉の動向を探るのに専念した。
「くすしき魔が歌、唄うローレライ……か」
|B《ブラボー》から|M《マイク》までの各部隊からの報告と、上空より戦闘海域を俯瞰《ふかん》する偵察機からの報告。そのどれもが目標の鬼神のごとき戦いぶりを伝え、歌にうたわれた通りのローレライの魔力を伝えて、アシーガ湾内に待機する〈タイコンデロガ〉のCICを騒がせ続ける。現在までの被害は駆逐艦が七と軽巡が一、いまの〈アラバマ〉からの一報で新たに戦艦が一隻加わった。全長二百七・三メートル、基準排水量三万五千トンのサウスダコタ級戦艦は、舵の大きさも軽巡や駆逐艦とは比較にならない。付け根のみを正確に狙いすまし、至近距離から魚雷を叩き込んだのだろう。
たいしたものだ、とオブライエンは認めた。ローレライの性能をうまく利用しているという以上に、〈イ507〉の艦長は艦船の特質を知り抜いている。どれほど大きく、どれほど強力な火器を携えていようと、しょせん船は船。スクリュープロペラを回し、舵で方向を変える基本構造は漁船も戦艦も変わりようがなく、それらを失ってしまえば等しく無力になる。一艦で|A部隊《チーム・アルファ》を名乗る〈タイコンデロガ〉にしても、あのとんでもなく正確な雷撃に襲いかかられたらひとたまりもない。なす術なく無力化されるのが自明の理だが、オブライエンはいたずらに焦るつもりはなかった。
時刻はテニアン時間にして午前八時。原子爆弾搭載機の離陸まであと一時間半足らず。それまでに戦闘が終わり、拿捕するなり撃沈するなり、迎えるべき帰結を迎えるだろうという確信があった。刻々と入ってくる各部隊からの通信がそれを証明している。こうも甚大な損害を受けていながら、味方の動きはまったく鈍っていない。旗艦からの指令を受け取るまでもなく、積極的に態勢を立て直して目標を追撃するさまは、むしろ以前より士気が高揚しているのではないかと思わせる。魚雷と爆雷を使って目標を追い立てる手際にしても、コツを覚えて確実に上達しつつある。
「指標《プロット》はそのままでいい! 撃沈されたわけじゃないんだ。どの艦も兵装は無傷なんだからな……!」
ボケットにはそれがわからないらしい。無力化された艦艇のプロットを移動させようとした副長を怒鳴りつけ、なにも見えていない目をボードに落とし続ける群司令は、完全に冷静な判断力を失っている。栄《は》えある特別混成群司令から一転、たった一隻の潜水艦に九隻もの艦艇を無力化された哀れな司令に成り下がったのだから、無理もなかった。この作戦を出世の好機と捉えた職業軍人の頭は速やかに冷え、第三八任務部隊司令にはもちろん、太平洋艦隊司令官にも言い訳を考えておかなければならないのが、いまのボケットの立場だった。
軽蔑も同情もなく、オブライエンは檻《おり》の中の動物を見る目をちらとボケットに向けた。彼が極端に無能だったのではない。ローレライの脅威評価は事前になされていたはずで、太平洋艦隊司令部はこうなることを承知で三八任務部隊に作戦を任せ、任務部隊司令もきな臭さを感じ取った上でボケットを群司令に据えたのだ。CZ探知法とセットで作戦の中核に組み入れられた自分にせよ、今後の考課に傷がつくことに変わりはなく、ボケットも自分も、ようはババを押しつけられたのだと納得したオブライエンは、何杯目かのコーヒーに口をつけた。塩をきかせたブラックのコーヒーが、この時はひどく苦い後味を舌に残した。
「落ち着いておられますね」
そんな声をかけてくるのは、ババを押しつけた連中の側に立つワイズ中佐だった。ロイド眼鏡に作動灯の瞬きを映し、背後から近づいてくる細面には冷笑が張りついている。「君もな」と応じて、オブライエンは眼鏡面から視線を逸らした。
「それはそうです。こうなると戦闘というよりはゲームですからね。魚雷が当たっても艦は沈まないし、誰も死なない。すべての戦争がこういう形で決着がつくなら、地球ももう少し住みやすい星になるのでしょうが……」
多少の感傷を滲ませた声音が気になり、オブライエンは横に並び立ったワイズの顔色を窺った。遠い眼差しを管制盤に注いで、その冷笑は自分自身に向けられたもののように見えた。「意外にロマンチストなんだな」と言ってやると、「情報屋には情報屋なりの修羅がありましてね」と、ワイズは冷笑を苦笑に変えた顔を微かにうつむけた。
「この大戦で、合衆国は人類史上最強の軍事力を手に入れたんです。今後はなにもかもが変わっていくでしょう。頭の中身は石器人の頃からたいした進歩はしていないのに、道具ばかりが強力に発達してしまって……。情報部なんぞに務めたお陰で、政治の裏舞台に首を突っ込んでおりますとね、見えてくることがあるんですよ。この力を使いこなす叡知《えいち》は、人類にはない。我々は、破滅に至る道を突き進んでいるのではないかとね」
腹の底がすっと冷たくなり、思わずワイズの緑がかった瞳を凝視したが、正体をつかまえる前にその感触は消えた。「……そら恐ろしい話だな」と返して管制盤に向き直ったオブライエンは、現実的な思考を引き寄せて不穏な感触を忘れようと努めた。
ワイズの捉え方は間違っていない。まだ轟沈した艦はないという事実――敵に殺傷の意志がないという単純な事実が、味方から恐怖を取り除き、戦意のみを高揚させる結果になって戦場に作用している。殺されはしないという心理的余裕が、小賢《こざか》しい戦法を使う敵への対抗心を煽《あお》り、ある種のゲーム感覚を戦闘に持ち込んでいるのだ。
軽い失望があった。並大抵の操艦技術でないことは認めるが、切り札と呼ぶにしては、雷管を外した魚雷で舵とプロペラを狙い撃つ戦法は底が割れている。魚雷の数には自《おの》ずと限界がある。時間稼ぎにはなっても、多勢に無勢を覆《くつがえ》すには至るまい。
ローレライ・システムがどのような原理で作動するのかは不明だが、撃沈のたびに一定の冷却時間を置かなければならない構造的欠陥は、複数敵を相手にした時点であらかじめ敗北が決定づけられている。つまらんな……と呟く胸中を覗き込み、オブライエンは苦笑した。もっと歯ごたえのある敵をどこかで期待していた自分も、我れ先に目標に追いすがる味方艦艇も、闘争本能という意味では確かに石器人並み。ワイズが絶望するのももっともというわけか。奇妙な納得を噛み締めつつ、オブライエンは「あと一時間はもつまい」と独りごちた。
「ローレライの稼働のためには、無血を絶対条件にしなければならないのが〈イ507〉だが、こちらにとって無傷での捕獲は絶対条件ではない」
じろりと白い目を向けたワイズから目を逸らし、オブライエンは続けた。「向こうが魚雷を撃ち尽くした時がチェックメイト……。そろそろ後詰めの部隊とやらを出動させるよう、群司令に具申しておいた方がいいぞ」
「なぜです? 勝利が確定しているなら……」
「窮鼠《きゅうそ》、猫を噛むと言ってな。死神はこういう時に滑り込んでくるものだ。勝てる戦《いくさ》であればこそ、力を出し惜しみするべきではない。打てる手はすべて打っておくのが無難だ」
「実戦を経験してこられた艦長の勘ですか?」
「真理だよ。石器人並みの頭しか持っていない人間のな」
怪訝な視線を寄越したのも一瞬、ワイズは踵《きびす》を返してボケットの方に歩いていった。オブライエンは飲み干したコーヒーのマグカップを片手に、いまだ孤軍奮闘を続ける〈イ507〉の姿を錯綜する通信の向こうに幻視した。
仮にローレライ・システムが量産される時代が到来したとしても、戦争が無血化することはあり得ない。原子爆弾のようなものまで開発してみせた合衆国の技術力は、遠からずローレライの欠陥を克服し、完全無欠の探知装置を作り上げるだろう。あるいは〈イ507〉は、石器人なりにそうした道具の進化を怪しみ、本能的に拒絶したからこそ無謀な戦いを挑んできたのかもしれないが、オブライエンには関係のない話だった。
ワイズが言った通り、人には職分に応じた義務があり、修羅がある。軍人である自分の義務は、いかなる戦闘にも勝利すること。自他ともに流される血は、義務に伴う修羅として我が身に収めるしかない。
「……戦うには、ローレライの魔女はやさしすぎたな」
ひとりの人間が引き受けるには、人類や世界の先行きは重すぎる。いまの自分が〈イ507〉に手向《たむ》けられる唯一の言葉を、オブライエンは口にした。
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第三八任務部隊特別混成群に加わる艦艇の艦長たちは、確かにある種のコツをつかみつつあった。午前八時十三分、|D部隊《チーム・デルタ》のリーダー艦を務めるエセックス級空母〈ランドルフ〉の艦長は、現在の部隊編制を部分的に改編し、戦艦と重巡洋艦からなる重量級部隊を前面に押し立てるよう提案。チーム・アルファの〈タイコンデロガ〉に座乗する群司令はこれを認め、戦艦三隻と重巡三隻からなる臨時編制部隊『Z』が、目標の追撃を開始した。
ノースカロライナ級戦艦〈ワシントン〉を筆頭に、サウスダコタ級戦艦〈サウスダコタ〉〈マサチューセッツ〉、ノーザンプトン級重巡〈チェスター〉、バルチモア級重巡〈ボストン〉〈スプリングフィールド〉の計六隻が、後退する駆逐艦群に代わって目標を包囲してゆく。本来、対潜水艦戦闘は駆逐艦が得意とするものであって、小回りのきかない戦艦や重巡が積極的に行うべきことではない。どれもが全長二百メートルに及ばんとする重量級艦艇たちは、それゆえ後方で探知網の形成に専念していたのだが、戦艦〈アラバマ〉が無血撃沈≠ウれた時の経緯が、彼らに目標が駆使する戦法の弱点を気づかせたのだった。
すなわち、図体の大きい戦艦や重巡の舵はそれだけ大きく、スクリュープロペラも四軸と駆逐艦の倍の数を装備している。雷管を外した魚雷で狙い撃つ場合、駆逐艦の舵とプロペラなら一発で破壊することが可能だが、戦艦級となるとそうはいかない。実際、目標は〈アラバマ〉を無力化するために二本の魚雷を消費した。そして以後、軽巡級以上の艦艇には仕掛けようとせず、一撃で仕留められる小物のみを狙って血路を開こうとしているのだ。
が、戦艦と重巡の分厚い壁で取り囲んでしまえば、目標も選り好みはできなくなる。退路を得るには貴重な魚雷を大量に消費しなければならず、対して米艦艇は少ない犠牲で敵の牙を抜き取ることができる。すべての戦艦が無力化されたとしても、魚雷を使い果たした目標を追い詰めるには駆逐艦で十分――。『Z』と名づけられた部隊名は、通常ならズールーと発音されるはずだが、この重量級艦艇たちにはズユースの読み方があてがわれた。最高神を意味する部隊名が、特別混成群の絶対的な自信と、彼らの間に沈殿する無意識のゲーム感覚を表していた。
目標――〈伊507〉にとって、しかしそれはゲームではなかった。自らの戦法の弱点を知り抜き、戦艦と重巡を前面に立てた敵の意図に気づいた〈伊507〉は、次の手に打って出た。四方からじわじわと攻め寄せる六つの重量級艦艇のうち、〈伊507〉にもっとも接近していた戦艦〈マサチューセッツ〉が、その最初の標的に選ばれた。
全長二百七・三メートル、基準排水量三万五千トンの〈マサチューセッツ〉に対して、百十メートル、四千四百トンの船体を海中でひるがえした〈伊507〉が、真正面から突撃してゆく。浮上しつつ前進する船体が雷撃可能深度に達し、舵とプロペラを狙える絶好の位置に差しかかったが、艦首発射管が魚雷を放出することはなかった。〈伊507〉はそのまま浮上を続け、〈マサチューセッツ〉の左舷前方、距離三百七十メートルのところで、防潜網切器が屹立《きつりつ》するその艦首を海上に突き出した。
続いて艦橋が海面を割り、二十・三センチ砲の砲身が引き波を裂いて持ち上がる。〈マサチューセッツ〉の艦橋脇|張り出し《ウイング》に立つ見張り員は、唐突に海上に出現した異形の目標に肝《きも》を潰し、即座に艦橋《ブリッジ》内の航海長らに報告した。航海長は足もとのCICと連絡を取り、艦長に事の次第を告げようとしたが、すべてを伝え終える前に報告は途切れた。〈伊507〉の二十・三センチ砲が閃き、〈マサチューセッツ〉のブリッジを吹き飛ばしたからだった。
ローレライの目で敵艦の方位と姿勢を見定め、浮上と同時に測距儀で目標を計測、照準器の十字線に捉える。方位と距離があらかじめわかっていれば、砲身の上下角を設定するだけでよく、三百メートル程度の至近距離なら風力などの不確定要素を観測する必要もなかった。砲口蓋《ほうこうぶた》が開くと同時に放たれた砲弾は、二十階建てのビルに相当する〈マサチューセッツ〉の艦橋構造部の中腹、そこだけガラス張りになっているブリッジ前面に突き刺さり、航海長や操舵員、信号長らの体を衝撃波で引き裂きつつ、ブリッジ後部の倉庫の壁まで貫通して起爆した。炎がガラスというガラスを砕《くだ》いて溢れ出し、黄土色の爆煙をブリッジから噴き上げて、不意打ちを食らった〈マサチューセッツ〉の巨体が海上に棒立ちになった。
改良された砲口蓋の開閉機構によって可能になった、一撃離脱戦法。雷管を外した魚雷とともに、〈伊507〉が隠し持っていたもうひとつの切り札だった。たなびく排煙を断ち切って砲口蓋が閉まり、〈伊507〉は再び潜航を開始する。前部甲板に海水をかぶったまま、砲身のみを突き出していた船体が、海中に姿を隠すまでにさほどの時間はかからない。〈マサチューセッツ〉では間を置かず応急操舵に切り替えられ、四十・六センチの口径を持つ三連装砲と数十の機銃が慌ただしく砲身を巡らせたが、その時には〈伊507〉は海上から姿を消し、〈マサチューセッツ〉の艦底をくぐり抜けて海中に脱していた。急速潜航で探信音波の網を逃れ、再度浮上に転じた先には、〈マサチューセッツ〉よりさらにひと回り大きい戦艦〈ワシントン〉の艦底があった。
が、二度目の砲撃は一度目よりずっと不利な状況下で行わなければならなかった。突然の砲撃が〈マサチューセッツ〉を襲い、この戦闘で初めて死者が出たという事実は、衝撃になって特別混成群の間を駆け抜け、すべての兵員に二つの感情を喚起させた。大口径の連装砲を持つ敵潜水艦への畏怖と、いかにも日本人《ジャップ》らしい卑怯な奇襲戦術への怒り。そこには、依然として撃沈には踏みきれない目標に対する侮《あなど》りも内在しており、結果的に特別混成群の艦艇はことごとく猛り狂い、先鋒たるチーム・ズユースをより逸《はや》らせることになった。チーム・ズユースの各艦は競って魚雷と爆雷を放出し、増速をかけ、層深からいぶり出された目標を包囲すべく円陣の形成を急いだ。
そうとは知らず、〈伊507〉は〈ワシントン〉の左舷前方から接敵し、相対距離が五百メートルを割ったところで浮上をかけた。砲身が浮上するまでに彼我《ひが》の距離は三百に縮まり、〈伊507〉は移動し続ける標的のほぼ真横に定位した。全長二百二十二・二メートル、最大幅三十三メートルの巨体に城塞《じょうさい》のような艦橋構造部を構え、三基の三連装主砲、十基の連装高角砲でごてごてと飾り立てられた〈ワシントン〉の威容が、動く壁となって〈伊507〉の眼前を行き過ぎる。バネ仕掛けで跳ね上がった砲口蓋が水飛沫を散らし、照準器の十字線がブリッジの窓の放列を捉えたが、この時、〈ワシントン〉が不意に速度を上げ、想定以上の速さで〈伊507〉の前を通りすぎたことが、二十・三センチ砲の発射時機を見誤らせる結果になった。
一拍遅れて放たれた砲弾は、〈ワシントン〉の艦橋構造部の後方、前後に二本並ぶ煙突のひとつを直撃した。蒸気タービンの排煙をたなびかせていた煙突は、炎と爆煙を噴き上げる火柱と化した。雨覆金具は粉微塵に吹き飛び、粉砕された破片が内筒に落ちて煙路を塞いだが、〈ワシントン〉にとっては決して甚大《じんだい》な損傷とは言えなかった。半ば潜航した状態では砲塔を巡らせて狙いを付け直すことはできず、長く海上に留まってもいられない〈伊507〉は、やむなく砲口蓋を閉じて潜航に転じた。
焼けた砲身が波飛沫を浴びて水蒸気の尾を引き、後部甲板に〈ナーバル〉を載せた船体が前進しながら海中に没してゆく。逆巻く波が二十秒後には艦橋を隠し、〈伊507〉は〈ワシントン〉の艦底をこするようにして右舷側に抜けた。
刹那、〈ワシントン〉の右舷側が無数の閃光の瞬きで覆われ、吐き出された硝煙が黒い膜になって巨艦を包み隠した。俯角が取れない三連装主砲や高角砲は無用の長物でも、片舷だけで三十門ある機銃は別だった。七基の四連装機銃と一基の二連装機銃が立て続けに吠《ほ》え、四十ミリ弾が海中に白い弾道の筋を刻んで〈伊507〉に降り注ぐ。半ば統制を失った状態で放たれた機銃の豪雨は、海中を十メートルも進めば破壊力を減殺《げんさい》させるものの、二重装甲の表面にかすり傷を負わせる程度の威力はあった。〈伊507〉より脆弱《ぜいじゃく》な外板しか持たない〈ナーバル〉に至っては、当たりどころが悪ければ貫通する恐れがあり、〈伊507〉は最大俯角で潜航を急ぐしかなくなった。
その行く手にヘッジホッグの弾幕が張られ、足もとで起爆する魚雷が船体を押し上げる。それらを回避して進むのが〈伊507〉の精一杯になり、チーム・ズユースの重量級艦艇たちは着実に包囲の輪を狭め、逃げ回る狐を取り囲む円陣を形成した。六隻の巨艦が直径二キロの円を周回し、その外側にはいまだ二十を下らない軽巡、駆逐艦の群れ。深度を下げれば八方から撃ち込まれる魚雷に突き上げられ、上げればヘッジホッグの洗礼に頭を押さえつけられる。浮上して再度の砲撃を試みようものなら、数十の砲弾で袋叩きにされるのは必至。死角はあるにはあるが、その先には海底岩礁の連なる浅海域が口を広げている現実が、〈伊507〉を包囲網の中で立ち竦ませた。
魚雷を無駄に消耗する結果になっても、円陣を組む巨艦群を突き崩して血路を開く。〈伊507〉に残された道は他にはなかった。連続する海中衝撃波に揺さぶられる艦内で、絹見たち乗員もそれを決意した。が――。
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カンカンと外板を打ち据える機銃弾の豪雨が遠ざかった後は、再び海中を伝播《でんぱ》して伝わる衝撃波の連打だった。何度味わっても慣れない衝撃波が耐圧殻を揺さぶり、乗員たちの骨身を軋ませ、全身の血を足もとまで押し下げてゆく。
(一次電池室の火災、その後の状況はどうか!?)
(発泡剤消火器が足らんのです! 応急班を早く……)
(ガスマスクは全員に行き渡る分だけないんだ。早く火元を探せってんだよ)
(発令所! 医務室だけでは怪我人を収容しきれません。士官寝室の使用許可を!)
スピーカーと伝声管が休みなく伝える声は、報告というより悲鳴と怒号のやりとりに近い。その間にも新たな震動が艦を揺らし、つんと目鼻をつく刺激臭がさらに濃度を増す。火災の煙に硫酸ガスが混じり、通風管を通って発令所に入り込んでいるらしい。震動で蓄電池室の換気装置がいかれたのか、無理な操艦で電池が水をかぶったのか。白熱した頭の片隅で考えながら、絹見はヘルゼリッシュ・スコープの接眼装置から目を離し、汗を拭うついでにちらと腕時計を見やった。
自動懸吊装置を使って限界深度ぎりぎりの海中に静止、応急修理に専念するという頭は、X−1・3時――午前八時二十分の時刻を確かめた途端、速やかに消えてなくなった。到底、そんな時間的余裕はないし、頭上を回遊する敵艦がそれを見逃すはずもない。舌打ちひとつを残して接眼装置に目を戻した絹見は、魚雷と爆雷、艦の航跡が錯綜する海中にひと筋の活路を見出すべく、旋回把手に右腕を絡めてヘルゼリッシュ・スコープを一周させた。
直径二キロ前後の円陣を組み、完全に〈伊507〉を包囲している戦艦と重巡の群れが見える。サウスダコタ級とバルチモア級が二隻ずつに、ノースカロライナ級が一隻。もう一隻は艦底の形からしてノーザンプトン級だろう。それらが放つヘッジホッグが定期的に弾幕を降ろし、次第に包囲の輪を狭めてくる。円陣の外側にいる駆逐艦群も一時も休まずに魚雷を撃ち放ち、磁気爆発尖を作動させては起爆して、衝撃波で〈伊507〉を小突き回すのを忘れない。よくもまあこれだけ撃ち込んでくるものだと呆れるが、駆逐艦一杯に搭載する魚雷の数が平均十五本と見積もっても、艦隊が保有する魚雷の総量は六百本。軽巡級以上の艦艇の搭載数はそれより上だろうから、まだ全体の五分の一を消費したかどうかというところかもしれない。とにかく動き回り、攻撃の切れ目に反撃の機会を窺う以外、〈伊507〉に生き残る術はなかった。
(発令所、もういちど浮上をかけられないのか!?)
射撃指揮所で主砲の操作に回っているフリッツが、スピーカーごしに叫ぶ。「だめだ」と怒鳴り返した声は、浸水箇所の修理に追われる木崎の口から発せられた。
「十字火線の真っ只中にいるんだ。いま浮上すれば確実に敵の集中砲火を浴びる。それより雷撃で突破口を開く」
(相手は重量級だぞ。魚雷はもう六本しか……)
そこでフリッツが口を噤んだのは、交話が艦内に筒抜けになっていることを思い出したからだろう。そう、魚雷は残り六本きり。四軸の重量級を無力化するには、最低でもそのうちの二本を使わなければならない――。破損したパイプにコルクを打ち込む音がぴたりと止まり、発令所にいる全員の目がこちらに集中するのを感じた絹見は、接眼装置から離した顔を一同に向けた。不安と疲労を溜め込んだ複数の眼に応える言葉もなく、旋回把手を握りしめる手に無意味に力を込めた。
「ヒッタン戦法も打ち止めか……」
汗と油で包帯を汚した田口が、コロセウムに寄りかかってぽつりと呟く。砲口蓋開閉機構の改良によって可能になった一撃離脱戦法《ヒット・アンド・アウェイ》だが、しょせんは少ない魚雷を補うための気休め。撃沈に踏み切れない限り、敵にとって決定的な脅威にはならない。むしろ艦橋に的を絞って砲撃を敢行したことで、どうあっても撃沈はできないこちらの弱みを、敵に再認識させる結果になってしまったのではないかという危惧が絹見にはあった。
田口もそれを感じ取っている。口には出さないが、木崎の目にもこれまでにない焦りがある。乗員たちの絶望を吸った空気がじっとり重くなり、皮膚にへばりつくのを知覚した絹見は、「指標十七番を狙う!」と澱んだ空気を払う大声を出した。
「魚雷三番と四番、発射用意。面舵二十度、両舷前進全速。潜舵上げ五度、深さ二十」
とにかく走り続けていれば、恐怖に押し潰されずに済む。一斉に動き出した乗員たちの気配を背に、絹見はヘルゼリッシュ・スコープに視線を戻した。船体がぐいと横に引っ張られ、スコープの視界が右に流れると、一キロ前方を航走するバルチモア級の艦底が十字線に捉えられる。「三十秒後に射点!」と叫ぶ運用長の声を聞きながら、絹見は倍率調節つまみを回してバルチモア級の艦尾を拡大し、十字線の中心に捉え直した。
〈伊507〉の十倍に相当する十二万馬力の機関出力を受け、四軸のスクリュープロペラが轟然と回転する。砂鉄の砂模型で再現されたバルチモア級の艦底を見据えた絹見は、舵を潰した方が確実だと判断を下した。
手前の右舵の付け根に一発を撃ち込み、続くもう一発を左舵の可動板にぶち当てる。二本も使うのは業腹《ごうはら》だが、あれを無力化すれば包囲陣から抜け出せる。他の艦艇が押し寄せる前に層深に潜り、アシーガ湾に至る活路を見出すことができる。希望的観測で思考を麻痺させ、残り四本になる魚雷の残弾数も、敵に弱みを見透かされている事実も頭から消し去った絹見は、その瞬間には〈伊507〉と同化していた。「発射時機近づく!」と発した運用長の声を背後に聞き、間近に迫ったバルチモア級の舵をスコープの視野に見定めて、腹の底から搾り出した。
「三番、てっ!」
ごとん、と耳に馴染《なじ》んだ射出音が微かに船体を揺らす。続いて四番の発射を令しようとして、異変を察した全身が考えるより先に硬直した。
駛走音がしない。「三番、スクリュー音なし!」と唐木水測長のうわずった声が弾け、絹見はその場に棒立ちになった。内燃機関が故障をきたしたのか、魚雷のプロペラが動作不良を起こした。一撃必中のこの局面に、よりにもよって不発魚雷に当たってしまったのだった。
圧搾空気で射出はされたものの、自力で駛走できない魚雷は目標のはるか手前で海底に落下してゆく。声にならない乗員たちの驚愕と絶望がざわざわと立ち上がり、血の気の失せた体を押し包むと、ウェーク島で補給した魚雷は信頼が置けない、と言っていた水雷長の言葉ひとつを絹見の胸中に浮かび上がらせた。これまで不発に当たらなかったのは、むしろ幸運だったということか? しかしそれにしてもなぜ、一本の魚雷に艦の命運を託さなければならないいまという時に、なぜ……!
「爆雷投下した!」
空白になった頭に運用長の怒声が突き刺さり、絹見はヘルゼリッシュ・スコープに意識を戻した。致命的な空白の間に次発魚雷の発射時機は失われ、いまスコープの視界に移るのは、バルチモア級から射出されたヘッジホッグの雨だった。まだ衝撃の抜けきらない頭が自動的に回避運動を組み立て、「取り舵一杯、潜舵下げ一杯! 深さ七十」と吠えた絹見は、スコープのシャフトにしがみついて艦の動揺に備えた。
左に旋回して艦首を下げ、バルチモア級から慌てて遠ざかる〈伊507〉の姿がコロセウムに映し出される。円陣の外から放たれた魚雷がその眼下で起爆し、海中を伝播した衝撃波がヘッジホッグをも誘爆させる。上下からの衝撃に挟まれ、身悶えする〈伊507〉の艦内で、絹見もスコープから引き剥がされて床と天井の間を跳ね飛んだ。
照明灯が明滅し、乗員の呻き声と悲鳴が折り重なる。(二次電池室、ショート!)(前部補助室に浸水!)とスビーカーががなり立てる音を聞きながら、絹見は背中を強打した痛みに呻き、夢中でヘルゼリッシュ・スコープの旋回把手をつかんだ。爆圧の嵐を抜けきったことを確かめ、コロセウムに現在位置を確かめてから、発令所の状況を素早く見渡す。床に突っ伏した乗員たちがなんとか立ち上がり、持ち場に戻ろうとするのが見えたが、損傷報告、と出しかけた声は口の中で溶け、次の瞬間にはなにを言おうとしていたのかもわからない空白が絹見を支配した。
ぞっとした。いくら考えようとしても頭が働かない。なにも考えられなくなった頭に焦燥《しょうそう》だけが募り、絹見は旋回把手を握り直して体を支えた。
不発魚雷の衝撃が、張り詰めた弦を切ってしまったかのようだった。落ち着け、と自分に言い聞かせて、絹見は接眼装置に額を押し当てた。これで魚雷は残り五発、もはや打つ手も思いつかないが、ここであきらめてどうなる。勝ち目のない戦は端から承知だったはずではないか。千里眼を持っていても、敵艦を撃沈することはできないのだから……。
ふと、リーバマン新薬という名前が思い出された。パウラの心を破壊して、ローレライを完全無欠な兵器にする薬。そんなものを容認する力の論理に対抗しようとして、自分の手で海に投げ捨ててしまった薬。そうして意地を張り、我を貫いた結果を目前に突きつけられて、言いようのない敗北感が絹見の胸を埋めた。
「ツケは高くついたな……」
思わず呟き、接眼装置に頭を叩きつけた。鈍い音と痛みが走り、「三番、次発装填急げよ!」と怒鳴った木崎の声がそこに重なる。とりあえず言ったものの、次にどうしたらいいのかわからない顔の木崎と目を合わせ、こちらを注視する他の者たちの視線も受け止めた絹見は、依然空白のままの体をなす術なく佇《たたず》ませた。
誰も動こうとしない発令所で、ひとり田口だけが背を向け、艦尾側の隔壁によろよろと歩いてゆく。水密戸の戸口をつかみ、這うようにして通路に出ていった包帯の背中が、不意に訪れた静寂をゆっくりかき回した。
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(発令所、機械室! こっちは煙で前も見えん状況です。特電を上げて補気できませんか)
(気蓄器の残量も限界です! 排水ポンプを作動させるためにも、一分でいいから補気を!)
スピーカーごしにもくぐもって聞こえる声は、ガスマスクの下から発せられたものだろう。たび重なる衝撃で〈ナーバル〉の電池もショートし、いまは予備電源が作動している。フル稼働中に三度、四度と激震を食らったモーターや蓄電池室が、どんな状況にあるかは想像に難くない。〈ナーバル〉にいてはわからないが、艦内は硫酸ガス混じりの煤煙《ばいえん》が渦巻く地獄に違いなかった。
(いま浮き上がれば、十字火線にさらされる。もう少し堪えろ。いまはまだ……)
喘ぐような木崎の声は、頭上からのしかかった衝撃にかき消された。〈ナーバル〉の耐圧殻を支える鉄輪がぎしぎしと軋み、錆《さび》カスと塗装片がぱっと飛び散る。艇内に張った水がそれらを呑み込んで荒れ狂い、防水加工された内壁の機器にも飛沫がかかるのを見た征人は、咄嗟に立ち上がってパウラの顔の前に手をかざした。
跳びはねる水が鼻や口に入らないよう留意しつつ、各種計器に目を走らせる。漏電の有無を確かめ、システムの正常運転を確認して後部座席に戻ろうとしたが、なぜかそうする気になれず、前部座席に身を乗り出した格好で動けなくなってしまった。
こんなところに座っていていいのか、すべきことがあるのではないか。先刻から鬱々《うつうつ》と抱き続けてきた自責の袋が破れ、体の自由を奪ったかのようだった。気配を察したのか、パウラがうっすら目を開いたことも後押しになった。長いまつ毛から一瞬目を逸らし、ぼんやりした心地の瞳をあらためて見下ろした征人は、「……おれ、行かなくちゃ」と我知らず口にしていた。
「必ず戻るよ。いいね?」
半分感知野に没入したままと思える瞳がわずかに揺れ、やわらかな光を宿すと、ヘルツォーク・クローネの下の顔がはっきり頷いてみせた。もう、会えないかもしれない。その予感が全身を貫き、息苦しいような、目の前に横たわる命をなにもかもかなぐり捨てて抱きしめたいような、正視するのも困難な情動の塊を爆発させたが、それに流されては男ではなくなる、という思いが辛うじて実行を踏み留まらせた。こちらも頷き返し、征人は腰の高さまで張った水をかき分けて前部隔壁に向かった。振り返りたい衝動を堪えて水密戸を開け、こぼれ出た海水と一緒に気密室に出た。
水密戸を閉め、ハンドルをしっかり締結してから排水装置を作動させる。排水ポンプが作動し、圧搾空気が噴き出すのを頭上に感じながら、まずは潜水服の手袋を外しにかかった。錘《おもり》は外してあるとはいえ、ごつい潜水服を着て艦内を動き回るわけにはいかない。とりあえず舵取り機室の浸水修理に回り、ガスマスクの手配がつくようなら機械室に向かう。スピーカーごしに聞いた艦内の状況を反芻し、これからの行動の手順を立てたところで、あらかた排水の終わった床のハッチに手をのばした。
交通筒のラッタルを下り、艦側のハッチを開ける。溜まった水が滴り落ちた先に、煙でかすんだ通路が見えた。鼻腔と喉に絡みつく刺激臭にぞっとしながらも、通路に続くラッタルに足をかけた途端、ぬっと現れた人影が下から征人を睨み上げた。
「誰が配置を離れていいと言った!」
頭蓋を揺さぶる怒声を張り上げて、田口の腕がぐいと征人の踵を押し上げる。怪我を想像させない強力《ごうりき》に持ち上げられ、わけもわからず交通筒に押し戻された征人は、「このままじゃ艦が……!」と必死に抗弁した。「バカもんがっ!」とさらなる怒声が耳をつんざき、交通筒に留まる体が無条件に硬直した。
「あの娘っ子についていてやれ。それが貴様の仕事だ」
最後は言い聞かせる色を瞳に宿らせて、田口は有無を言わさずハッチを閉めた。包帯に巻かれた腹には黒ずんだ染みが浮き出ていたが、それが油なのか血なのか確認する間もない、一瞬の出来事だった。征人は呆然と交通筒内に佇み、それから気密室に戻った。田口の勢いに呑まれた頭が正常に働かず、出てきたばかりの水密戸を振り返った時、その向こうからくぐもった声音が流れ始めた。
(掌砲長より艦長、聞こえますか。いまローレライの整備担当補佐と話しました。次の雷撃は、雷管を取りつけて撃ってください。目の前の重量級を撃沈するんです)
分厚い水室戸ごしにも、撃沈の一語は明瞭に聞き取れた。征人は反射的に床のハッチを閉め、艇内に続く水密戸のハンドルに手をかけていた。
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「正気か、掌砲長!? そんなことをしたら……」
マイクをひっつかんで怒鳴った木崎を、なぜ止める気になったのかはわからなかった。無意識のうちに挙げていた制止の手を下ろし、呆気に取られた顔の木崎に背を向けた絹見は、(わかってます)と落ち着いた声がスピーカーから流れるのを聞いた。
(ローレライは途絶して、我々はいよいよにっちもさっちも行かなくなる。ですがね、そいつは機械の理屈ですよ。ローレライは機械じゃなくて人間だ。人間には、そんな理屈を超えられるだけの力があるはずだと自分は信じます)
その言葉が忘れかけていたなにかを思い出させ、空白になった頭に色をつけてゆく。澱んだ思考に鮮烈な光が差し込み、浅倉の赤い口腔、高須の涼やかな笑みといったものを次々に浮かび上がらせて、絹見は悪夢から立ち返った顔を上げた。
そう、だから我々はここにいる。自分の絶望を他人に押しつけようとする者、恐怖で恐怖を克服しようとする者たちに、命がけで否《いな》と唱えるために。理屈ではない――旋回把手を握る手にどうどうと力が注ぎ込み、絹見はヘルゼリッシュ・スコープに向き直った。活路がなければ、自力でつかみ取るまでのこと。スピーカーから流れ続ける声に耳を傾ける一方、接眼装置に当てた目はこれまで通り、三次元に輻輳《ふくそう》する魚雷や爆雷の軌跡を読み、次の操艦の目算を立て始めた。
(お嬢さん、聞こえるかい? 急な話でびっくりさせちまってすまねえ……)
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(あんたがしてきた苦労がどういうもんか、わかるとは言わねえよ。勝手な言いぐさだってことは百も承知だ。だが耐えてくれ。人が人を殺す……おれたち大人が始めたしょうもない戦争の痛みを全身で受け止めて、行く道を示してもらいてえんだ)
時にかすれ、聞き取りにくくなる声が、スピーカーの性能のせいでないことはわかっていた。傷ついた体が必死に搾り出す声に覚醒を促され、パウラは聴覚と胸を騒がせる掌砲長の言葉を体中で聞き取った。
(何百何千って人の悲鳴を、間近で聞かなきゃならねえんだ。死ぬほど辛ぇことだってわかってる。でもここでおれたちが踏んばれるかどうかってのは、戦争の勝ち負けがどうこうって小さい話じゃねえ。もつと大きいもんに勝てるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》なんだ。だから耐えてくれ。いつか悲鳴の聞こえない海を取り戻すために、哀れな大人どもの末期をしっかり記憶するんだ。おれたちのために心を捨てようとしてくれた、あんたにならきっとできる……!)
不意にじわりと温かい波動に押し包まれ、茫漠と広がる感知野を漂う神経に人肌の温もりを思い出させると、それは人の手のひらの形に収斂《しゅうれん》してパウラの二の腕に触れた。体温というだけではない、人の血と知を構成する物質が共振し、さんざめいて放つ熱が防水スーツの被膜を透過して伝わり、パウラは自分の血肉も共振させる熱の塊にそっと手をのばした。
ふやけて感覚の失せかけた指先に、生硬い、まだ成熟しきらない皮膚が発する熱が触れる。征人だ、と思った途端、(そうだ。いまのおまえにならできる)と、まるでこの場を見ていたかのようなフリッツの声が割って入り、パウラは重い瞼を押し開いた。
(折笠を感じるんだ。彼がおまえを守ってくれる)
手袋を外し、己のすべてをさらけ出した征人の手にぐっと力が入り、パウラもそこに重ねた自分の手のひらに微かに力を込めた。応じた征人の手のひらがパウラの指の一本一本を搦め取り、二つの手のひらがしっかり握り合わされる。皹で荒れた手のひらに触れられるのは恥ずかしく、いたたまれない心地がしたが、互いの熱が相乗し、細胞という細胞が響きあう圧倒的な安心感に、そんな感情はたちまち溶けて流れ去った。
大海を漂う単細胞生物が、結合すべき同族と結びあい、互いの感覚を拡大させる至福感。二つの個がひとつになり、新たな個を形成する――産み出す――瞬間の、数億年にわたる種の連鎖に組み込まれるおののきと、自分という刹那も永遠の一部なのだと識《し》る高揚感。そういったものが次々に訪れ、感知野にのばした神経の隅々まで響き渡って、兄の言葉は正しいとパウラに確信させた。
この知覚を感得し、共有するための自分の能力、力。(できるな、折笠?)とフリッツの声が続き、パウラは征人の手を握りしめたまま、座席に横たえた体をゆっくり起こしていった。
「できます」
迷いのない声が後部座席から発して、手のひらに伝わる熱量が増した。パウラはその波動を支えに上体を起こしきり、征人が握りしめる艦内電話の受話器にもう一方の手をのばした。
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(わかりました。受け止めてみせます。敵艦を沈めてください)
細い、しかし決然とした声が発令所に響き渡り、硫酸ガスと煤煙が入り混じった空気を一掃したようだった。代わりに湿り気を帯びた空気が熱くなった胸を包み込み、目の縁に雫を結露させるのを嫌った絹見は、「左舷連管、次発装填は雷管を装着!」と、それらを追い払う大声で令した。
「指標十七番を狙う。装着終わり次第、三番と四番発射用意」
復誦の声を張り上げ、呆然と立ち尽くしていた乗員たちが弾かれたように動き出す。その顔のどれもがなにかを受け止め、呑み込んだ色を放っていたが、絹見はかまわずにヘルゼリッシュ・スコープに意識を集中した。先刻、撃ち損じたバルチモア級の艦底を照準の十字線に捉え、倍率調節つまみを回す。
淡い緑色の光を背景に、蠢く砂鉄が重巡の巨大な腹を形作る。艦尾ではなく、機関があるはずの船体中央に十字線を据えて、絹見は千数百人の乗員を詰め込んだ鋼鉄の袋を凝視した。
雷管を装備した魚雷をそこに直撃させれば、船体を支える竜骨《キール》は瞬時にへし折れ、機関は誘爆をして、バルチモア級は確実に轟沈する。轟音が水中聴音器を殺し、まき散らされる破片と気泡が探信儀も殺すから、崩壊する船体の下をくぐり抜けることで敵の目からも逃れられるだろう。無論、こちらもローレライの目を失う危険にさらされるわけだが、その時はその時と自分を納得させて、絹見はバルチモア級の艦底を見据え続けた。
鋼鉄の袋はじきに引き裂かれ、中に詰まった千数百の命はことごとく死の海に投げ出される。それぞれ人生に希望を持ち、帰りを待つ家族を持ち、十分に生きたと言える者などひとりもいない命たちが、容赦なく死に呑み込まれることになる。目を逸らすまい、と絹見は余熱の燻《くすぶ》る内心に呟いた。それでパウラの苦痛がわかちあえるとは思わないし、死にゆく者たちの赦《ゆる》しを得られるとも思わない。だがしょうもない戦争≠ノ加担してきた大人のひとりとして、千数百の命が揉み潰される光景は瞼に焼きつけておこう。仕方がなかったとは口が裂けても言わない。力の論理を鎮《しず》め、その先にある沃野《よくや》にたどり着くために、恐怖も哀しみもそのまま我が身に引き受けてみせよう。
それが、武の力を手にした者の義務。そういうことだな? と義弟の亡霊に問いかけ、絹見は小さく苦笑した。答えなくてもいい、いまは理屈屋のおまえの相手をしている時間はない。ただ確かに言えることは、いまのおれは海軍五省を唱えられる。人に恥じず、己に恥じず、心から唱えることができる。いまは血塗られた道であっても、己の一挙手一投足がより善き未来に近づき、切《き》り拓《ひら》いてゆくためのものだと信じられるから……。
言行に恥ずるなかりしか。
「魚雷二本、雷管の装着よろし!」
気力に缺《か》くるなかりしか。
「左舷連管、準備よし!」
努力に憾《うら》みなかりしか。
「面舵一杯、深さ二十」
不精に亘《わた》るなかりしか。
「深度二十メートル。発射時機近づく」
至誠に悖《もと》るなかりしか――。
「三番、てぇっ!」
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魚雷は艦首左舷三番発射管から射出され、全速航走する〈伊507〉の推進力も受けて海中を疾走した。続いて四番発射管が魚雷を吐き出し、二本の九五式酸素魚雷が指標十七番――バルチモア級重巡〈スプリングフィールド〉をめがけて雷速を上げていった。
丸みを帯びた弾頭が水圧の層を引き裂き、直径五十三・三センチ、全長七・一五メートルの円筒形が〈スプリングフィールド〉に直進する。雷撃可能深度ぎりぎりから撃ち出された魚雷は、ヘッジホッグの弾幕をかいくぐって斜め下から目標に近づき、〈スプリングフィールド〉の右舷真横、鰭《ひれ》のように張り出したビルジキールの付け根に突き刺さった。
爆発尖が雷管を介して導火薬に起爆を促し、弾頭に仕込まれた四百キロの炸薬が爆発するのは一瞬だった。刹那、音速に近い爆発の衝撃波が三重の艦底を突き破り、バラストタンクの水を蒸発させて機関区画を荒れ狂った。それぞれボイラーとタービンからなる四つの機関区画のうち、右外機室が最初にその直撃を受け、瞬時になぎ倒されたボイラーから灼熱する蒸気がまき散らされてゆく。艦底に穿《うが》たれた巨大な破孔は血塊のごとく大量の気泡を吐き出し、それを押し退けて二本目の魚雷が艦底のほぼ中央を打ち据えると、船体の背骨に当たるキールの砕ける音が、爆発の轟音の中にも明瞭に響き渡った。
合計八百キロの炸薬に機関の誘爆が相乗して、爆圧に押し上げられた船体が数メートルも浮き上がる。両舷から噴き上がった水柱の被膜が艦橋構造部を包み隠し、大地を支える柱が折れたかのような音が大気を震わせ、前部甲板を這う錨鎖、信号旗や空中線の揚降索《ようこうさく》を吊り下げたマスト、船体を補強する装甲板という装甲板が不気味に鳴動する。〈スプリングフィールド〉に乗り組む千七百名の乗員たちに、事態に対処する間は与えられなかった。彼らは跳ね上がった船体の上で一様に転げ回り、艦が根底から瓦解《がかい》してゆく音をなす術なく受け止めた。直撃を受けた機関区画にいた乗員たちは大半が即死し、中には焼《や》け爛《ただ》れた皮膚に無数の破片を食い込ませ、なお息のある者もいたが、それもどうどうと流入する海水に押し流されて苦痛から解放されていった。
爆発の衝撃で持ち上げられた船体が、反動で沈降に転じるまでにさほどの時間はかからなかった。キールの折れた船体は反動の勢いで倍加した自重を支えきれず、艦底に穿たれた破孔は一気に倍の大きさに押し拡げられ、流入する海水の重さも受けて、船体を真っ二つにするほどの亀裂を舷側にも走らせる。三基の三連装主砲と六基の連装砲、堅牢な艦橋構造部を備えた上構の重量も亀裂にのしかかり、前後に並ぶ二本の煙突が互いに内側に倒れると、全長二百五・七メートルの巨体が中央からへし折れ、重油の血糊《ちのり》が波紋状に海を汚してゆく。艦内から漏れ出た誘爆の炎がそれらに引火し、黒々とした爆煙を立ち昇らせて、折れ曲がった〈スプリングフィールド〉の船体が徐々に沈没を開始した。
鋼鉄のひしゃげる音、大量の気泡が弾ける音を絶叫にして、排水量一万三千七百トンの鉄塊が海底へと落下する。〈伊507〉は機関全速を維持したまま、沈降する〈スプリングフィールド〉の真下に突っ込んでいった。降り注ぐ破片を全身に浴び、煮え立つ海水をスクリュープロペラでかき回しながら、その船体は水泡の嵐に溶け込んでたちまち見えなくなっていた。
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全身の毛穴を塞ぎ、臓腑《ぞうふ》を共振させる轟音が弾けたかと思うと、数百の鋼板が一斉に引き裂け、ぶつかりあう音が聞こえるもののすべてになった。次第に大きくなる音響が艇内に張った水をざわざわと震わせる中、征人は汗ばんだ手にパウラの手のひらを握りしめ、いまにも〈ナーバル〉を押し潰すのではないかと思える震動に耐え続けた。
その間にも鋼鉄のざわめきは激しさを増し、細かな破片が船体を打つ音も間近に響かせて、次には巨大な鉄片が天井を突き破ってくるという想像が体中の皮膚を粟立てる。まるで土砂崩れの中を突き進んでいるかのようだった。敵艦を構成していた鉄骨や鉄板が粉々に砕けて降り注ぎ、〈伊507〉の数倍に相当する質量が見えない圧迫になって頭を押さえつける。喉元まで出かかった悲鳴を必死に噛み殺し、征人は小刻みに痙攣するパウラの手のひらだけを感じようと努めた。
魚雷命中の衝撃が伝わる一瞬前、前部座席に横たえた体をのけぞらせ、満腔を開いて声にならない絶叫を搾り出したパウラは、いまも全身を苛む苦痛と戦っている。ヘルツォーク・クローネの庇《ひさし》に隠れた表情は見えなくとも、震え、のたうつ肉体の律動が、握りしめた手のひらから一刻も休まずに伝わってくる。時に信じられないほどの力で暴れ回る手首は、無理に押さえつけると折れてしまうのではないかと不安になったが、パウラは征人の手を決して離そうとしなかった。その爪が手の甲の皮膚に食い込み、血を滲ませる痛みに耐えて、征人もパウラの手をしっかりと握り返した。
そんな痛みはなんでもない。敵艦の残骸に混ざって降り注ぐ敵兵の骸《むくろ》――ちぎれた手足、焼けて鋼板にへばりついた臓物、重油に巻かれて炭になった無数の肉片を全身で感じ取り、その苦痛を追体験する痛みが少しでもやわらぐなら、手の一本や二本はどうなったっていい。征人は後部座席から身を乗り出し、命に替えても守るべき価値のあるものを、前部座席の背もたれごと抱きしめた。
ひときわ大きな破片が当たったのか、ごんと重い震動が艇内を貫き、照明灯を明滅させた。次の瞬間に耐圧殻が破れ、降り注ぐ破片が自分を押し潰したとしても、この手だけは絶対に離さない。死んで護国の鬼となる、そう謳《うた》い、実践した者たちの話が真実なら、おれはこの腕の中にある命ひとつのために鬼になろう。そうした想いが連なって国を支え、世界を支えるのだと信じて、胸を張って己の衝動に殉じよう――。再び鋭い衝撃が船体に走り、パウラが腕の中で身を捩《よじ》るのを感じた征人は、全身を声にして叫んでいた。
「パウラ、おれを感じろ……!」
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二つに割れた〈スプリングフィールド〉の船体は、艦内に残った空気が減少するにつれてその沈降速度を徐々に早めた。天を覆って落下する巨大な鉄塊の下、〈伊507〉は降りしきる無数の破片を浴びながら最大速力で駆け抜けた。
砲塔ごと外れた十二・七センチ連装砲が舷側をこすり、手すりの鎖を引きちぎって深度二百メートルの海底に呑み込まれる。激震に見舞われた〈伊507〉の船体が右に傾き、へし折れた煙突がその皮一枚横を矢のようにすり抜けてゆく。艦内の空気残量がある程度にまで下がれば、二つに割れた〈スプリングフィールド〉は完全に鉄塊と化し、沈降速度は一気に跳ね上がることになる。途絶寸前のローレライの目で降り注ぐ破片の雨を見据え、〈伊507〉は全力で海中を突き進んだ。真っ二つに裂けた敵艦の沈降速度を見定めて深度を下げつつ、その細い船体が落下する鉄塊の真下に差しかかった時、誘爆で根元から外れかかっていた〈スプリングフィールド〉の三連装主砲が、ごそりと抜け落ちた。
そこから大量の海水が流れ込み、艦首側の沈降速度が途端に数倍になる。裂けた断面を下に落下する船体が〈伊507〉の頭上に迫り、第一潜望鏡の収納筒が〈スプリングフィールド〉の艦底に激突した。
これまでに倍する激震に襲われ、〈伊507〉の船体がそれとわかるほどに身震いした。第一潜望鏡の収納筒はあっさりへし折れ、第二潜望鏡と短波檣《たんぱしょう》の収納筒が続いてぐにゃりと折れ曲がる。最後に特殊充電給排気筒《シュノーケル》がぶち当たり、〈伊507〉は艦橋から突き出たシュノーケルで鉄塊の底を削《けず》りながら、沈降する〈スプリングフィールド〉の下をくぐり抜けた。鋼鉄の奔流は間もなく後方に過ぎ去り、やがて爆発的に発した砂煙と気泡の渦が〈伊507〉を包み込んでいった。
〈スプリングフィールド〉の艦首側の鉄塊が海底に落下し、直後に艦尾側も沈底して、噴き上がった砂煙と、瓦解《がかい》した船体から吐き出された気泡を一緒くたにまき散らしたのだった。常闇《とこやみ》の海底をさらに暗くして広がった暗黒の渦は、直径数百メートルの規模に達して海面をも騒がせた。濁り、泡立つ波紋の中に重油の筋と木片、いくつかの浮環がぽつぽつと浮かび上がり、テニアン沖十キロの海上に〈スプリングフィールド〉の墓標を刻みつけた。
ごうごうと渦巻く砂煙を割って、〈伊507〉はその深度をゆっくり上げていった。牙を剥《む》いた結果をあるがままに受け止め、満身創痍の船体は不気味に沈黙しているように見えた。
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パイプとダクトが錯綜する内壁は、臓物の色を映して濃緑色とも暗い赤とも取れない色に変わっていた。てらてらと照り輝く血膿《ちうみ》には複数の顔が浮かび上がり、すでに腐り始めた眼球が物問いたげな視線をこちらに寄越す。脊髄《せきずい》を貫通する激痛に耐え、手のひらに伝わる温もりを唯一の支えにして、パウラはもう気負うことなくそれらの視線を受け止めた。
まだ自分が死んだという事実にも気づいていない亡者たちは、焼かれ、引きちぎられ、溺死させられた苦痛をパウラの肉体に投影して、言葉にならない声を伝えようとする。千をはるかに超える声たちは、この時もたったひとつの問いかけをパウラに突きつけた。
『なぜ』
これまでも数えきれないほど聞かされ、一度も答えられなかったなぜ=B無名の肉塊となった兵士たちの目からどろりと血の雫が滴り、パウラは自分と繋がったもうひとつの命――征人の手に絡めた指の力を強くした。
『なぜ』
そこから温かな波動が流れ込み、苦痛がほんの少し緩和されると、無名の兵士たちは崩れかけた顔貌を変え、見知った者たちの顔がパウラの眼前に浮かび上がった。ルツカのものであり、コルビオ艦長のものであり、祖母のものである顔たちは、次の瞬間にはフリッツになり、絹見になり、田口になって、最後に征人の顔貌を血膿の中に結実させた。
『なぜ』
砕けた頭蓋から脳漿《のうしょう》を覗かせて、征人の顔を持つ亡者がじっとこちらを凝視する。敵も味方もなく、すべてが等質である命の重みを受け止めて、パウラもまっすぐ亡者の瞳を見返した。
『なぜ』
いまはそれができる。なにもかもひとりで引き受けるのではなく、支えあい、必要としあう人の温もりを知ったいまだからこそ、自分の行為を正面から受け止められる。誰かを支え、誰かに必要とされていた命を奪う行為に加担してきたことの意味を、我が身の痛みとして捉えることができる。死にゆく命も、死に至らしめた己の命も、どれもが永遠を構成する一刹那。自らも命を産み出す種子であり、連綿と連なる種の連鎖の一部だと識ったいまは――。
『なぜ』
それを断ち切り、揉み消してしまう行為に終わりがないのは、生き物とはそのようなものだから? 病や天災で足りなければ、戦を起こして口減らしをするのも人の生物としての本能? こんなに痛くて苦しいのに。いつかは無に収斂《しゅうれん》する破壊でしかないのに。高められるものもなく、鍛えられるものもなく、力で力をねじ伏せる痛みしかないというのに。
そんなふうに潰しあい、淘汰《とうた》しあい、とぐろを巻くだけの種の連鎖なら、なぜこうも胸が痛む。なぜ人は希望の所在を追い求め続ける。生物の業《ごう》に支配されていても、人の血と知は新たな地平を求めている。生きたくても生きられなかった人々の声が、いまだ鼓動を続ける自分の心臓が、等しく同じ言葉を叫んでいる。
『なぜ』
それを感じ取り、聞くための自分の力。犠牲を犠牲として終わらせず、悲鳴の聞こえない未来に繋げるための力。決してつかまえられなかった答、亡者たちの問いかけに対する答が不意に頭をかすめ、パウラは夢中でその断片を手繰り寄せた。
『なぜ』
終わらせるために。
この世界の戦をあまねく鎮《しず》めるために、いまは私は魔女になる。船乗りたちに死をもたらす魔女ではなく、すべての戦に終わりを告げる終戦のローレライに……。
血膿の底から光が発し、白く透明な輝きが〈ナーバル〉艇内を染め、パウラの全身を染め上げた。どこが光源とも判別できない、圧倒的で夥《おびただ》しい光の奔流だった。それは亡者たちの肉片を消し去り、なぜ≠ニ問う無数の声もかき消して、パウラの視界を白く塗り潰していった。
苦痛の氷柱が溶け、こわ張った全身が急速に弛緩してゆく。ふわりと意識が遊離する感触があったが、ただ一点、背後から自分を抱きすくめる腕の熱さを遠くに感じて、パウラは無重力を漂う意識をそちらへと向けた。雑駁《ざっぱく》でとりとめのない、しかし自分という存在を間違いなく必要としている思惟の源を目指して、真っ白な闇をひたすらにかき分けた――。
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鈍くくぐもっていながら、鼓膜をひっかくような鋭さも秘めた音は、CICの穴蔵にこもっていても聞き取ることができた。いまも大気をびりびりと振動させ続けるその音は、一万数千排水トンの巨躯を持つ艦艇が、海中に呑み込まれる音。〈イ507〉の魚雷を食らった〈スプリングフィールド〉の断末魔だ。
「……窮鼠が虎を噛んだか」
冷たい汗を不快に感じつつ、オブライエンは独りごちた。その間にも大量の通信が飛び交い、「目標、失探《ロスト》!」「チーム・ズユースは散開、散開だ!」と、通信兵たちの怒号がいつ果てるともなく続く。〈イ507〉は、轟沈した〈スプリングフィールド〉がまき散らす音と破片の只中に突っ込み、隠《かく》れ蓑《みの》に利用したらしい。パッシブ・ソナーが本来の聴力を取り戻し、布陣の乱れた艦隊がアクティブ・ソナーの探知網を再構成するまでに、どれだけの時間がかかるか。なんにせよ、これまでのように一方的に追い立てることはできない。相手が牙を持つ猛獣だと知れた以上、迂闊に手を出せば〈スプリングフィールド〉の二の舞になる。
「救助を急がせろ! 〈カッシンヤング〉と〈キャラハン〉なら、五分以内に現場海域に到達できるはずだ。偵察機も回せ。チーム・ズユースの各艦は引き続き目標の捜索に当たらせろ」
たるんだ頬をひきつらせてわめいたボケット群司令は、プロッティング・ボードにがっくり両腕をつき、「|畜生めが《ガッデム》……」と呟いたきり静かになった。無駄だと呟く胸中を隠し、オブライエンは小さく嘆息した。ローレライの目で機関部を狙い撃たれた〈スプリングフィールド〉は、誘爆によってものの数秒と経たずに沈没したに違いない。たとえ直前に艦の外に脱出できた者がいたとしても、巨艦の沈没が巻き起こす大渦は人間の体など簡単に呑み込む。生存者の数は片手にあまると見るのが正しかった。
「……しかし、これで終わりだ。彼らはローレライの目を失った」
そう言い、ずり落ちたロイド眼鏡に手をやったワイズの目には、自分自身に言い聞かせる焦燥《しょうそう》の色があった。理屈ではそうなるが、一撃離脱戦法といい、常になにかしらの秘策をうしろ手に隠して斬りかかってくる〈イ507〉が、ただ追い詰められて雷管付きの魚雷を撃ったとは思えない。「希望的観測だな」と応じて、オブライエンはワイズに顔を振り向けた。
「幽霊艦隊《ゴースト・フリート》、出動準備だろう?」
一瞬、抗弁の口を開きかけたワイズは、すぐに背を向けて小走りにボケットの方に近づいていった。もはやなにを取《と》り繕《つくろ》う余裕もなくなったONI士官の背中を見送り、ゴースト・フリートか、と口中に呟いたオブライエンは、苦笑しようとして果たせず、憮然とした顔を作動灯の放列に戻した。
合衆国海軍の艦籍から抹消されたゴーストたち。彼らはテニアン島東側沿岸に連なる岩礁海域に伏せり、出動命令がかかるのをじっと待っている。第三八任務部隊特別混成群が編制されるずっと以前――おそらくは目標が〈シーゴースト〉と呼ばれていた頃に編制され、密かに活動を続けてきたのだろうONIの懐刀《ふところがたな》が、無様をさらした我々に代わってどんな手際を見せてくれるか。まずはお手並み拝見というところだった。
太平洋艦隊司令部の肝煎《きもい》りか、あるいはもっと上からの指示によるものか。いずれ、ONIがそのような部隊を独自に動かしてきたこと自体、〈イ507〉とローレライの存在が数年も前から認識され、この作戦そのものが欺瞞《ぎまん》の上に成り立ったものであることの証明なのだが、いまはそれをとやかく言うつもりはオブライエンにはなかった。石器人の頃からひとつも進歩していないらしい腹の中身は、強力な敵への闘志と好奇心で煮え立っている。許されるならこのCICを飛び出し、戦艦か駆逐艦に飛び乗って思う存分、敵と渡り合ってみたい心境だった。
いまは姿を隠しおおせた〈イ507〉だが、原子爆弾搭載機の離陸時刻という死線があれば、いつまでも身を潜《ひそ》めているわけにはいかないだろう。奴は必ずここに来る。敵と見《まみ》える機会はある、とオブライエンは沸《わ》き立《た》つ胸中に呟いた。〈イ507〉がゴースト・フリートの迎撃をかわし、アシーガ湾にその姿を現すことがあったら、その時は……。
その時は、おれがこの手で沈めてやる。湿った手のひらを握りしめて、オブライエンはようやく苦笑を浮かべることができた。
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直径十キロの海域を再現する砂鉄の箱庭は、半球のガラス面の一端にテニアン島の複雑な入り江の形をへばりつかせている。そこから急な傾斜を描いて沖にのびる斜面に、大小さまざまな海底岩礁を連ねているさまは、頂上の切り取られた峻厳《しゅんげん》な岩山という風情だった。いま、その砂鉄の岩山にところどころ亀裂が入り、箱庭全体が風にちぎられるように蠢くのを、絹見は声もなく凝視していた。
真っ二つに割れて沈底した重巡の残骸も、その頭上で探信音波を放ちつつ走り回る無数の敵艦も、指の先ほどの大きさの砂鉄の塊を不安定に蠕動させ、一時も形が定まるということがない。深度八十メートルの海中に無音潜航した〈伊507〉も例外ではなく、いまにも瓦解しそうな砂模型を中空に浮かべ、船体を形成する砂鉄の粒を散らせたり、また吸い寄せたりのくり返しだった。
これら砂鉄を操る磁力が途絶え、すべてがひと塊の砂山に帰した時、〈伊507〉はローレライの目を失う。探信儀で無明の世界を探り、聴音器で敵の気配を探る当たり前の潜水艦になり果てて、以後の作戦遂行はほとんど絶望的になる。発令所に戻ったフリッツと田口も、木崎や海図長たちも、息を呑んでコロセウムを見つめており、いっさいの機関が静止した静寂の中、〈伊507〉もこの瞬間に己の先行きが決まると知っているのか、内壁に冷たい汗を滴《したた》らせる。深度八十メートルの海水に冷やされた耐圧殻が、人いきれと機械の発熱で熱された空気を結露させただけのことだが、そんなふうに感じられる張り詰めた時間――。
やがて蠕動の振幅が小さくなり、生まれては消える亀裂も確実に数が減り始めて、時おり細部がぎざぎざと乱れるのを除けば、コロセウムの感知像はほぼ元の状態を取り戻した。まだそれがローレライの健在を示すことなのか判断がつかず、下手に口を開けば感知像が崩れるのではないかと思える緊張の中で、最初に行動を起こしたのはフリッツだった。
マイクをつかみ取り、「発令所、〈ナーバル〉! パウラ、無事か!?」と叫ぶように吹き込む。ひどく長い数秒が過ぎた後、(……当たり前でしょ)と、かすれた、しかし悪戯《いたずら》な笑みを含んだ声音がスピーカーから発した。
(〈ナーバル〉より発令所。パウラ・エブナー健在。各種機器正常です)
続いて折笠征人の声がスピーカーを震わせる。どっと肩の力を抜き、「こちらも正常だ」と返したフリッツの声を潮《しお》に、絹見も深い息を吐き出した。
木崎たちも一斉に緊張を解き、艦内全体の空気が瞬間、ぱっと華やぐのが感じられた。無音潜航の最中とあっては快哉《かいさい》を叫ぶとまではいかなかったが、なにかに打ち勝ったと実感する胸は誰もが変わりなく、万歳のひとつも叫びたい心境であるのに違いなかった。
もはや使い物にならなくなった第二潜望鏡の柱に寄りかかり、田口は「いい女だなぁ……」などと呟いてスピーカーを見上げている。じろりと白い目を向けたフリッツの横をすり抜け、「機械室、特電筒からの浸水は止められそうか」と伝声管に質《ただ》した絹見は、(なんとかします)と岩村機関長の張りのある返答を聞いてから、ヘルゼリッシュ・スコープに向き直った。
仰角《ぎょうかく》を一杯に取り、旋回把手に体重を預けてぐるりと頭上の海面を見渡す。うるさいほど探信音波を打ち放ち、執拗にこちらを追い回してきた敵艦たちは、いまはそろって一定の距離を取り、地雷を探るような慎重さで微速航行している。魚雷は残り三本。いまだ三十を下らない敵艦すべてを相手にできるはずはなく、パウラが再度の撃沈に耐えられる保証もないが、この敵の動揺に付け込まない手はない、と絹見は冷酷に判断を下した。
たとえこちらの魚雷の総数を把握していても、何発使われたか正確に数える術は敵にはあるまい。あと一、二杯の敵艦に雷管付きを叩き込んで、敵が怯《ひる》みきった隙にアシーガ湾に直進する。勝てる、という喜悦が腹の底からこみ上げてきて、絹見は接眼装置の下の口もとをにやりと歪めた。「なんだ、これは……!?」と運用長がひきつった声を搾り出したのは、その時だった。
「方位二七〇、海底より影らしきもの! う、浮かび上がってきます……!」
「影……?」とフリッツ。「コロセウムの故障じゃないのか」と木崎が割って入る間に、「方位一九〇からも影! 二四〇からも来ます!」と運用長の悲鳴が重なる。突拍子のない報告に頭が働かないまま、絹見はすかさずコロセウムに駆け寄ったフリッツの背中を見、海底岩礁の狭間をちらと横切った影を見た。
テニアン沿岸の海底岩礁からゆらりとわき出し、ゆっくり移動をし始めたそれを、他に表現する言葉はなかった。駆逐艦の砂模型をひと回り小さくした塊を凝視した刹那、「二二〇からも影!」と運用長が叫び、「Geben Sie uns noch fu:nf, nein, drei Minuten.(中心点を五キロ前方に移動、拡大)」とフリッツがマイクに吹き込んだ。コロセウムの砂模型がいったん崩れ去り、テニアン沿岸を拡大した感知像を再形成するまでに数秒。倍の大きさになった影がその形状を明瞭に伝え、絹見は呑み込んだ息を吐き出せなくなった。
ナイフを思わせる細身の船体と、瘤《こぶ》のように突き出た司令塔。間違いなくガトー級潜水艦だった。マルポ崎沿岸の浅海城から二つ。北方のポンタノタークル沿岸から二つ。マサログ崎からもひとつ。総計五杯のガトー級が海底からわき出して――いや、それらは初めから海底岩礁の狭間に沈座していた。これまでは微動だにせず、岩礁の隆起のひとつになっていた敵潜たちが、一斉に浮上して集結を開始したのだ。
「まだこんな伏兵が残っていたか……」
木崎が呻く。南北から出現したガトー級は海岸沿いに進み、テニアン東海岸の中腹、そこだけ幅四キロにわたって抉《えぐ》られたアシーガ湾の湾口に集結してゆく。まだこちらの位置を確認していなくても、目的地だけは先刻承知というわけか。湾内に控える空母らしい艦影を見据え、となればあれが旗艦《きかん》……と直観した絹見の眼前で、ガトー級は不意に奇妙な行動を始めた。
南のマルポ崎から現れた二杯のガトー級が並び、一杯は深度二十メートル前後に、もう一杯は海底すれすれの深度八十メートル前後に位置して、互いに探信音波を打ち放つ。上方に陣取るガトー級は斜め下に、下方に陣取るガトー級は斜め上に。両艦から放たれる探信音波がぶつかり合い、上下に展開したガトー級の間に探信音波の網を作り出す。「こいつら……」と田口がかすれた声で呟き、絹見は無意識に一歩あとずさっていた。
上下から挟み込み、下方の艦が目標を封じ込める間に、雷撃可能深度に位置する上方の艦が魚雷を撃ち込む。二週間ほど前、硫黄島《いおうじま》沖でさんざん〈伊507〉を苦しめた戦法の再現だった。こいつらは仕込まれている。〈UF4〉と呼ばれていた頃からこの艦を尾《つ》け回し、幾度か砲火を交えたガトー級潜水艦が編み出した戦術を。視界のきかない水中で、三次元に展開して敵潜水艦を追い込む水中戦闘技術を。
「……〈しつこいアメリカ人〉の亡霊か」
見せつけるかのように探信音波をぶつけあうガトー級を見下ろし、フリッツが吐き捨てた。しかも五杯の敵に対して、魚雷の残数はわずか三本――。内心に付け足した絹見は、こちらに振り向き、「懲りない連中だ」と重ねたフリッツの不敵な目の光に、横面を張られる気分を味わった。
やるしかない。そう言っている目に押されて、絹見はうしろ前を逆にした略帽をしっかりかぶり直した。時刻は午前八時三十二分、もうX−1時を切っている。無音潜航で茶を濁す時間はないし、息をひそめて敵をやり過ごすなど、ローレライという女神を乗せた〈伊507〉には似合わない。
そう、あんな少女が試練を克服したというのに、いい大人がおたおたしていてどうなる。半分は虚勢、半分は内側から染み出る熱で己を奮い立たせ、絹見はその場にいる全員の顔をざっと見渡した。田口、木崎、運用長や海図長、操舵長。ひとつひとつの目の中に同意の光を見出し、艦長の命令を待って静まり返る空気を感じ取ってから、「機関始動!」と令した。
「針路二七〇。最大戦速で敵潜防衛網を突破する」
復誦の声が上がり、モーターの始動する音が足もとから這い上がってくる。轟然と回転する二軸のスクリュープロペラが海水を蹴り、手負いの巨体を最大戦速に持っていく律動を全身に感じながら、絹見はふと、機関始動を命じるのはこれが最後かもしれないと思いついていた。
以後、〈伊507〉の機関は止まることなく、おそらく作戦終了まで回り続ける。そしてその後は――。そこから先は暗幕に閉ざされている思考の片隅に、なんの前触れもなく二つの若い顔が浮かび上がったが、なぜと考える頭はいまの絹見にはなかった。ヘルゼリッシュ・スコープの旋回把手に腕を絡め、〈伊507〉と一体化した目が自動的に敵潜の姿を追い求めた。
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三菱製のエンジン『火星』が四発、巨大なプロペラを回転させる轟音も、三時間以上聞き続ければいい加減耳に馴染んでくる。内壁に沿って設置された長椅子に腰かけ、知らぬ間にまどろんでいた大湊は、微かな不協和音に気づいて瞼を開けた。
向かい合う長椅子に座る男が、編み上げ靴の靴裏を銃剣の背でこする音だった。泥を削り落としているようだが、使い込まれた編み上げ靴に泥汚れの跡はなく、黒錆染《くろさびぞめ》の銃剣は虚しく靴裏の上を行き来していた。それでも男は憑かれたように銃剣を握った手を動かし、靴裏をひっかくひそやかな音をエンジン音に相乗させる。
今朝未明に初めて顔を合わせたばかりで、隊員の顔と名前はまだ覚えきれていなかったが、濃緑の陸戦隊服の襟章《えりしょう》から、彼が兵曹長であることはわかった。声をかけるのも忘れて男の昏《くら》い目に見入った大湊は、不意に顔を上げた男と視線を交わらせてしまった。
ここがどこか、自分が誰だかもわからないといった顔でこちらを凝視した後、男は出し抜けに黄色い歯を見せて嗤い、すぐに無表情に立ち返ると、痴呆めいた二つの眼が大湊の前に残された。再び銃剣を動かし始めた時には、外界を遮断した昏い色がその眼球に戻っており、男は黙々と自分にしか見えない泥を削り落とす作業に専念した。
隣に座る上等兵曹も、その隣の一等兵曹も、上官の奇行に気づかないはずはなかったが、無表情な顔は隣を見ようともしない。じっと押し黙り、なにかを一心に見つめるような、実はなにも見えていないような目を正面に向けている。彼らに限らず、機内にこもる三十人あまりの兵がみな似たり寄ったりだった。ある者は眠り、ある者は暗く硬直した面持ちを一点に向けて、誰ひとり口を開こうとしない。希望もなければ絶望もない、緊張するのも体力の無駄と割りきった放散した時間。そこに銃剣が靴裏をこする音が降り積もり、煮詰まった静寂をさわさわと振動させる。
無理もない、と大湊は思った。彼らは移動しているのではなく、運ばれている。いま帝海軍人と呼べるのは操縦士や航法士、この二式飛行艇を飛ばす乗員たちだけで、無力という点では、この男たちは糧食《りょうしょく》や銃器などの輸送物資と変わるところがない。いっさいの人格を剥奪《はくだつ》され、戦力とひと括りにされて目的地に運ばれる無機的な何物かだ。
この飛行艇が敵機に撃墜されれば、そのまま海に沈むほかなく、運よく目的地にたどり着けたとしても、命令次第で右へ左へと転戦させられ、自分の意志ではなにひとつ決められない。命じられる通りに行進し、掩体《えんたい》を掘り、小銃の引き金を搾り、倍する敵の火線にさらされて地面にうずくまる。生き残るか、殺されるか、突撃して玉砕するかは、その場の運ひとつ、下される命令ひとつにかかっており、それまでは空き腹を抱えて掩蓋《えんがい》の下にうずくまり、何時間も、何日間も、自分を蚊帳の外にして進む事態の変転を待つ。南方戦線でそんな日々を過ごしたに違いない目の前の男は、だから靴の泥を削り続けるのだろう。少しずつ死んでゆく正気を保ち、際限のない宙吊りの時間を潰すために。もはや正気はなく、削り落とす泥もなくなっていたとしても。
無論、これから赴く先は南方の激戦地ではない。敵からも味方からも忘れられた孤島とはいえ、一応は友軍の根拠地隊が存続するウェーク島に行くのであり、目的はと言えば、そこに潜伏する叛乱分子の鎮圧と拘束。極秘の因果を含まされた任務であっても、その程度の概要は全員に通達してあるし、長期戦になる類いの任務でないことは誰もが承知している。ウェーク根拠地隊の全兵員が叛乱行為に加担したわけではない以上、そもそも戦闘が行われる可能性すら低いことも承知のはずだったが、ただ運ばれるしかない彼らには、味方の叛乱分子を拘束するという隠微な任務も、玉砕覚悟で南方の島に送り出されるのも、等しく狂気には変わりがないということなのかもしれなかった。
自覚的に戦いに乗り出していったのは一部の職業軍人だけで、大部分の日本人はこんなふうに戦地に運ばれ、自分の意志に関わりなく消費されてきたのだろう。いまさらながらの感慨を抱いて、自分はどうかと大湊は自問した。海軍大臣の掌中で隠密に部隊が編制され、こうしてウェーク島行きが実現したのは他ならぬ自分の直訴があってのことだが、すべて自覚的にやったことかと問われれば自信がない。紆余曲折《うよきょくせつ》の折々に意志を働かせた覚えはあるものの、大枠の流れはあらかじめ決まっており、運ばれてここまで来ただけのような気もする。流れに従うしかないのも凡俗の定め――いや、浅倉にしても見えない力に流され、運ばれただけのことではないのか。日本が、世界が、巨大な奔流に押し流されてその様相を変えつつあるいま、しょせんは人ひとりの力で流れに逆らうなど……。
「神経ですかね?」
不意に耳打ちされ、大湊は詮《せん》ない物思いを閉じて傍らを振り返った。これも奇妙な成り行きで事態に巻き込まれ、ウェーク島に同行する羽目になった天本少尉が、見えない泥をこそぎ落とす兵曹長に盗み見る目を向けていた。
まだ二十代も半ばの天本の歳では、無視が情《なさけ》になることもある世の機微がわからなくとも無理はない。畏怖とも嫌悪ともつかない色を湛えた横顔を見、たしなめるべきか迷ううちに、「指揮官席に移られますか?」と気を遣《つか》う声を重ねられて、大湊は機首側に続く通路に首をめぐらせた。
幅四メートル弱の通路には無線機などの機器が張り出し、通信士と機関士の席が置かれていて、その向こうに補助航法士の頭が見え隠れする。操縦席は一メートルほどの段差の上にあり、ここからは正副二人の操縦士の背中は見えなかったが、風防から差し込む燦々《さんさん》とした日差しを窺うことはできた。
二式飛行艇は全長二十八メートル、翼長三十八メートルにも及ぶ大型機で、航続距離も七千キロを軽く超える。搭載機銃は八挺を数え、爆弾と魚雷も一・六トンまで搭載可能だが、いまは機銃の予備弾薬の搭載に留めて、爆弾類はいっさい装備していない。代わりに三十人の兵員を乗せたためと、内地とウェーク島を往復するのにぎりぎりの燃料を、できる限り節約するためだ。
帝海の現状からすれば、往復分の燃料が確保できただけでも驚嘆すべきことで、これはもっぱら米内海相の尽力によるものだった。一日足らずの間に陸戦経験者をかき集め、とにかく鎮圧部隊の体裁《ていさい》を整えられるに至っては、単に海相の権力という一語では説明のつかない、米内個人の才覚の発露と言えたが、自らを凡俗と称した海相に、大湊が礼を述べる機会は与えられなかった。
臨時部隊の編制と飛行艇の手配が整った後は、部内の目を気にしてか一刻も早い出発を急《せ》かされた。訓示も作戦説明もする暇がなく、二式飛行艇に飛び乗って横須賀鎮守府《よこすかちんじゅふ》を後にしてきた経緯は、まるで夜逃げのようなうしろめたさだった。そうしてひと段落がつき、あらためて臨時部隊の面々と顔を合わせてみると、いずれもひと癖《くせ》もふた癖もありそうな顔つきの連中ばかりで、なるほど、軍令部五課長の席を蹴って逆賊になる覚悟はあるかと米内が尋ねたのはこういう意味かと、大湊は奇妙に納得もさせられていた。
過去の戦闘で神経を病んだ者、素行良好とは言いがたい者、若い……というよりいっそ幼いという表現がぴたりとくる者。この時局に各部隊が供出に応じたのも当然と思える兵たちは、十五年に及ぶ戦争で疲弊《ひへい》しきった帝海が吐き出した嘆息のようなものであり、内地に帰還したとしても居場所はないという一点において、間違いなく大湊の同類だった。司令らしく操縦席の後方にある指揮官席に収まって、同類たちとの間に無用な線を引きたくはない。どだい、浅倉の計画通りに事が運び、霞ケ関や宮城《きゅうじょう》が東京ごと消滅してしまえば、其の出来も不出来もあったものではなくなるのだ。
原子爆弾。〈伊507〉が送って寄越した無電が確かなら、それは今日中に東京を焼き払う。顔が青ざめるのを自覚した大湊は、「いや」と目を合わさずに天本に返し、「君こそいいのか?」と重ねた。
それなりに鼻っ柱の強そうな天本だが、饐《す》えた空気を漂わせる男たちの中に置くと、刑場の中に紛れ込んだ堅気《かたぎ》の学生に見えてくる。平静を装って言った大湊に、天本は「平気です」と苦笑してみせた。
「いまはどこの部隊も同じようなものです。自分も厄介払いされた口でありますし」
厄介払いという言葉に胸をひと突きされながら、大湊は天本の横顔を見つめた。その名前を臨時編制部隊の名簿の中に見た時点で、予想していた話ではあったが、あらためて本人の口から聞かされる重みはまた別のものだった。
中村大尉とともに大和田通信隊に赴いた天本が、村瀬大佐の自決現場に居合わせた事実。まして混乱に乗じて通信記録を持ち出し、自分と接触した事実は、軍令部には知られていない。米内と接見した際にも、大湊は通信記録の出元については巧妙にぼかしたつもりだったが、大和田通信隊の出入記録には天本の名前が残っていたのだろう。いまだ部内に潜む浅倉の同調者の目を気にして、米内が彼を内地から遠ざけようとしたのは当然だった。
放っておけば、天本は事態の隠蔽を目論む何者かに寝首をかかれるか、早々に特攻戦備の前線に立たされていたということだ。あと数刻で東京に原子爆弾が投下される可能性を考慮すれば、内地を離れられてよかったとする見方もあるが、それで巻き込んでしまった罪が帳消しになるものでもない。大湊は「……すまないな」と嘆息した。「おっしゃらないでください」と、天本は若い肌に刻んだ苦笑の皺を深くした。
「内地にいたって、特攻機を毎日毎日送り出して、いずれ自分の順番が回ってくるのを待つだけです。不謹慎ではありますが、行き場のない思いでじりじりしているぐらいなら、こうして体を動かしていた方がいいという気分はあります。やることが憲兵の真似事でも、中村大尉の無念がいくらかでも果たせるのだと思えば……」
乗務艦が沈んで以来、航空隊で事務仕事に甘んじてきた天本の声には、どこかさばけた響きさえあった。行き場がないのは誰もが同じか、こうなるずっと前から自分も行き場をなくしていたのかと思い至った大湊は、だから自分は浅倉を追い続けたのだとも理解して、ふと暗澹《あんたん》とした気分にとらわれた。
軍令部の意向に逆らってまで浅倉の影を追い求めたのは、帝海の恥を濯《そそ》ぐためでも、中村の仇《かたき》を討《う》つためでも、国家の切腹という言葉にきな臭さを嗅ぎ取ったためでもない。なんでもよかった。滅亡の際《きわ》に立った日本をなす術なく眺める日々から抜け出し、ひたひたと押し寄せる敗残の惨《みじ》めさを一時でも忘れることができるなら、なんでも。部内に潜む浅倉の同調者たちは、そうして引き返せない一線を踏み越えたに違いなく、逆賊になってでも後を追うと決めた自分にしても、ある意味その中のひとりでしかなかったのかもしれない。浅倉に魅入られ、誘われた同調者のひとり。目の前で見えない泥を削り落とす男同様、行き場のない窒息感をごまかしたいだけの、それぞれ勝手な思惑を抱いた同調者のひとり……。
だとしたら、あの男は孤独だ。どうしようもなく独りだ。同期として、海兵では下剤騒動の片棒だって担いだ友として、自分には浅倉にもっとかけるべき言葉があったのではないか。南方の地獄から生還した時も、つまらぬ遠慮などせずに胸のうちを問い質しておけば、後の展開も少しは違っていたのではないか。料亭で向き合ったあの夜、その言葉を性根を据えて受け止め、殴りつけてでも翻意を促していれば、あるいは。いまさらの悔恨に胸を塞がれ、膝上の拳を握りしめた大湊は、「大佐」とかけられた声に顔を上げた。航空服姿の通信士が、すぐ目の前に立って脱帽敬礼をしていた。
「米艦隊の無電を傍受《ぼうじゅ》しました。マリアナ方面にかなりの数が集結している模様です。ほとんど暗号ですが、SOS連送の緊急電波もいくつか傍受しました」
耳元に囁くようにした通信士の報告に、胸の奥がざわと騒いだ。「SOS……?」と聞き返した大湊に、通信士は「潜水艦の攻撃を受けたと言っています」と、さらに小さくした声で応じた。
「複数の艦艇が損害を被《こうむ》っているようです。横鎮《よこちん》(横須賀鎮守府)に一報を入れておきますか?」
他の兵の目を気にしつつ、通信士は押し殺した声を重ねてきたが、大湊はもう聞いてはいなかった。マリアナ方面に集結した米艦隊。攻撃中の潜水艦。それらの言葉がぐるぐると頭の中を回り、唯一考えられる推測を押し広げて、他のなにも考えられなくなっていたからだった。
「〈回天〉攻撃隊が仕掛けてるんでしょうか?」
横で聞いていた天本の声がひどく明瞭に響き渡り、それまで微動だにしなかった兵たちの頭が一斉にこちらに向けられた。特攻と同義である〈回天〉という言葉が、電流になって一同の間を走り抜けたようだった。
正面の兵曹長も銃剣を動かす手を止め、先刻とは異なる、昏さの奥になにがしかの意志を秘めた目をこちらに向ける。否定も肯定もできず、内心にだけ違うと呟いて、大湊は機内の空気から一歩引き下がった。
〈回天〉を搭載した潜水艦《ドンガメ》はいまも数杯が展開中だが、洋上攻撃に的を絞って沖縄とマリアナ諸島の間を流しているはずで、マリアナ沖まで進出した艦がいるとは思えない。艦隊戦があり得なくなったいまという時期に、米艦隊がマリアナ方面に集結したわけ。〈伊507〉はテニアンに向かったとする米内海相の推理。間違いないと再確認した大湊は、ちらと腕時計を見やった。
午前七時三十五分。横須賀を発って三時間あまり、小笠原諸島は後方に過ぎ去り、マリアナ諸島とほぼ同じ経度上に差しかかっているから、現地時間に合わせれば午前八時三十五分。ここから南に千キロほど下った海で、〈伊507〉はいまこの瞬間にも戦っている。原子爆弾搭載機の離陸を防ぐために――。大湊はたまらずに立ち上がった。
一同の視線を無視して右側の側方窓に歩み寄り、三十センチ四方の小さな風防ごしに眼下の海を見下ろす。
「大佐、横鎮への通報は……」と追いかけてきた通信士の声に、大湊は「いや、いい」と背中で答えた。
「敵制空圏の真っ只中だ。下手に無電を打って、こちらの位置を敵に気取《けど》られるわけにはいかん。ウェーク島への無事到着が最優先事項だ」
仮に増援を要請したところで、足の遅い潜水艦がいまから現場海域に向かってなにができる。こちらの暗号無電を解読されて、敵に待ち伏せされるのがオチだ。第一、存在しないことになっている潜水艦の増援を誰が認めるというのか。爆発寸前の忿懣は胸に留め、努めて無表情に言いきった大湊は、「は」と脱帽敬礼した通信士が踵を返すのを見届けてから、窓に顔を戻した。二十四トンの巨体を時速四百キロで飛翔させるプロペラの回転と、着水用の浮材の脚を吊り下げた翼。南洋の陽光を浴びて発光する海を背景に、それらの形が黒い影になって網膜に焼きついた。
白熱する光の粉をまぶして、遠く南の水平線にまで連なる海。この燃え立つような海の彼方に〈伊507〉がいる。そう思うといてもたってもいられず、せめて戦闘を遠望できるところまで機を寄せたい衝動に駆られたが、ぎりぎりの燃料しか積んでいない飛行艇にできる相談ではなかった。ウェーク島まであと五時間、ただ運ばれるだけの息苦しい時間はまだ当分続く。大湊は目を閉じ、強すぎる光を視界から追いやった。
あるいは〈伊507〉は、流れに抗おうとしているのかもしれない。滅亡の深い穴に流れ込む奔流の中に踏み留まり、流れを変える石になろうとしているのかもしれない。そんな直感が薄闇の中で弾け、大湊はもういちど目を開けて窓外を見つめた。光の絨毯《じゅうたん》になって横たわる海は穏やかで、千キロ彼方で繰り広げられる死闘を想像させようともしなかった。
結局、なにひとつできなかった。遅すぎた――すべてが。押し潰された胸から吐き出される呟きも光に呑み込まれ、大海を前にすれば一点の影でしかない二式飛行艇の羽ばたきが、いつ果てるともなく大湊の鼓膜を震わせ続けた。
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風が鳴りやんだ後は、潮騒も途絶えたかのような静寂だった。熱帯の太陽は島中を白熱させて動かず、縁の葉を輝かせる椰子の樹も、乾いた地面にぽつんと置き去られたひしゃげた鉄帽も、濃い黒い影を落としてそよとも動かない。なにもかもが静止した世界で、地虫の声だけが低く空気を伝わり、惚《ほう》けきった男たちの毛穴に染《し》み込んでゆく。
コンクリートで塗り固められた倉庫は薄暗く、搬入口から差し込んでくる光がうっすらひびの入った壁を照らし、赤錆の浮き出た鉄骨の柱を照らし、だらしなく床に座り込んだ男たちを照らす。誰も片付けようとしない空の缶詰がその周囲に転がり、一匹の蠅《はえ》が蓋の上に止まったかと思うと、微かな羽音を立ててすぐに飛び去ってゆく。白熱の炎天下に飛び出していった蠅は、仲間を呼びにいったのか、ここにはなにもないとあきらめたのか。ぼんやり考えた小松は、やはり空き缶を片付ける気にはなれず、倉庫の片隅にうずくまったまま地虫の唸りを聞いた。
〈伊507〉を後にしてきた十八人の男たちが、根拠地隊の外れにあるこの倉庫に押し込められ、拘束されるでもなく、訊問されるでもなく、ただ漫然と捨て置かれているのは、ウェーク根拠地隊司令部の思考放棄の結果だった。とりあえず上陸は許可したものの、その身柄をどう扱い、どう受け入れたらいいのかわからない。浅倉大佐という爆弾を抱え込む司令部にとって、〈伊507〉の元乗員はいつ爆《は》ぜるか知れない火種なのだろう。根拠地隊の兵員がその存在を知っている以上、口を封じるというわけにもいかず、中庸《ちゅうよう》の策として一ヵ所に幽閉するしかなかった。あまり強圧的に接すると暴発を促し、その日からどんな混乱の種がまき散らされるか知れないから、適度に行動の自由を残しつつ。付かず離れず、腫れ物を扱うようにして……。
鈍く冴えた頭がそんなふうに現状を分析し、昨日まで考えもしなかったことを考えながら、小松は待つ時間を過ごしていた。なにを待っているのかはわからない。強いて言うなら、〈伊507〉を捨ててきた自分の判断の正誤が判定され、このどうしようもない虚しさから救い出される瞬間だが、ここでこうしている限り、いつまで待ってもなにも変わらないこともわかりかけていた。
自分は、ここでいったいなにをしているんだろう? もう三十時間以上眠っていない頭が何度目かの自問を紡ぎ、四角い搬出入口から流れ込む外界の光に目をやった時、ふらりと現れた人影が黒い染みになって浮かび上がった。目が慣れると、それは二期先輩の主計長の姿になり、その手に抱え持ったいくつかの缶詰が床に投げ出される音が、続いて小松の鼓膜を刺激した。
「どうだった?」と暗号長の中尉。横になっていた者も起き出し、一斉に注視の目を向けるのをよそに、主計長は「だめです」と返して倉庫の中程に座り込んだ。
「一昨日《おととい》の宴会で気の合った奴がいたんで、声をかけてみたんですが……。通信所は司令たちが独占していて、いまは誰も入れないんだそうです。ただ一時間前まで当直に就《つ》いてた奴の話によると、マリアナ方面でかなりの数の無電が傍受されて、大規模な海戦が行われているようだったとか」
全員が息を呑み、互いの目に共通の想像を確かめ合う沈黙が降りた。やがて「……本当にやってやがんのか」と水雷科の上等兵曹が呟き、「それで、戦況は?」と勢い込む誰かの声が上がった。
「わかりませんよ。暗号で、しかも切れ切れに入ってくるだけだって言うんですから……」
「問題は、どうやって内地と連絡を取るかだ。通信所の他に、通信設備が置いてあるところはないのか?」
脱出組のまとめ役になった暗号長が、ざわついた空気を制して大きめの声を出す。「わかりません」と主計長が答えると、「調べるんだ」とたたみかける声が即座に発した。
「おおっぴらに嗅ぎ回ると司令部に睨まれるから、慎重に、信用できる奴から話を聞いてな。そのためなら缶詰を何個くれてやってもいい」
「しかし、相手に浅倉大佐の息がかかってるかどうかなんて、ちょっと話したぐらいじゃわかりませんよ」
人好きのする容貌藍を買われて斥候《せっこう》役を任じられた主計長は、言うのはタダだと言わんばかりに頬を膨らませる。「いっそ根拠地隊中に触れ回って、浅倉大佐は逆賊だ、司令たちは叛乱分子だってぶちまけたらどうです?」と口を挟んだのは、通信科の一等兵曹だ。
「根拠地隊の兵隊を味方につければ、司令や参謀どもを引きずり下ろすことだって……」
「バカ。よそ者の言うことを、そう簡単に信用するものかよ。下手に騒げば、おれたちの身が危うくなるんだぞ」
うわずった声で遮ってから、暗号長は一同の視線を避けるように顔を伏せた。「それができないとわかっているから、司令部はおれたちを放し飼いにしてるんだ。その辺の按配《あんばい》を無視して騒ぎ立てたら、連中は多少の無理をしてでもおれたちの口を封じようとする。司令部の目を盗んで内地と連絡を取り、憲兵なりなんなりの派遣を要請する。他にどうしようもないんだ」
再び沈黙が訪れ、地虫の低い唸り声が倉庫に流れた。誰もが口を閉ざしてうつむく中、「……帝海は応援を寄越すかな」と水雷科の上曹が独りごち、一同の目がはっとそちらに向けられた。
「本土との通交が断たれて何年もほっぽられてる島ですぜ? 仮に連絡が取れても、すぐに応援部隊が駆けつけるとは思えませんがね」
「東京に原子爆弾とかが落とされたら、無電を受け取る奴だっていなくなる」
電探科の三等兵曹が尻馬に乗って言う。どちらも将校に対する口のきき方ではなく、「……だったらどうしろって言うんだ」と応じた暗号長の声も、部下に対する威厳を忘れていた。
「戦争が終わるまでここでじっとしてるのか? 東京に原子爆弾が落ちるのを黙って見ていろと言うのか? 陛下だっておられるんだぞ。帝都なんだぞ」
「焦ったって始まりませんよ」
暗号長の声を柳に風と受け流し、上曹はごろんとその場に横になった。「なるようにしかならねえ……。自分は、あの浅倉大佐の言うことも一理あるような気がしますね」
全員の顔がぎょっとこわ張り、包帯で顎を支えた工作長も横たえていた上体を起こした。腕枕をした上曹は気にする素振りもなく、強《こわ》い髭《ひげ》を蓄えた顔を倉庫の天井に向け続けた。
「皇軍、皇軍って言ったって、おれたち下っ端の兵隊だけがさんざん殺されて、上の連中はのうのうと終戦を迎えるなんて納得がいかねえ。本土決戦、結構じゃありませんか。こうなったら行くとこまで行って、さっぱりしちまった方がいい」
「貴様……! それが皇軍兵士の言うことか」
気色《けしき》ばんで中腰になった暗号長は、「暗号長も、そう思うから艦を抜けてきたんじゃないんですかい?」と顔だけ上げた上曹の目に射竦《いすく》められ、それきり動けなくなった。
「そうでなけりゃ、〈伊507〉に残って一緒に戦ってたはずだ。それともまさか、命が惜しくなって逃げ出してきたんで?」
「バカを言うなっ! おれは、帝海軍人として正しい行動をしたまでだ。艦長の独断につきあって、成功の見込みのない作戦に殉じてどうなる。それこそ犬死にだろうが」
「だったら司令部の按配《あんばい》なんぞ気にせずに、根拠地隊の連中に真相をぶちまければいいでしょうが。こうしてる間に、原子爆弾が宮城に落っことされるかもしれないんですぜ」
蒼白な顔で握った拳を震わせ、暗号長は上曹に向けた目をゆっくり伏せていった。艦を離れる間際、『こうなりゃ命あっての物種だからな』と漏らした時と同じ、頑《かたく》なでありながら落ち着きのない目だった。暗号長は空気が抜けたように座り込み、上曹は腕枕に頭を押しつけた。低い振動になって伝わる地虫の声が盛り返し、饐えた静寂が倉庫を埋めた。
そうして刻々と空気が悪くなってゆく中、「おい、一個足りないぞ」と声を上げたのは潜航士官で、主計長が持ち帰った缶詰を拾い集めていた彼は、それらを両手に主計長に詰め寄った。「パイナップルがあったはずだろう。あれはどうした?」
「話を聞かせてくれた奴にあげてしまいましたが」
「あれは数がないんだぞ。その程度の情報と引き替えじゃ割に合わんだろうが」
「しかし、それがいいと言うものですから……」
「これはおれたちの財産だ。いまの状態が続く限り、こいつを食いつないでくしかないんだ。あんまり気前よくするんじゃない。……根拠地隊の連中が噂を聞きつけたら、ここに奪いにくるかもしれないぞ」
ケケケ、と上曹が神経に障る嗤い声を飛ばす。「最後は腹を空かせた味方とやりあって、缶詰と心中か。てえした皇軍兵士だ」
「黙らんか……!」と暗号長。その声には覇気《はき》の欠片《かけら》もなく、上曹はニヤニヤ嗤いをやめない。他の者も互いた目を背け合い、暗い眼差しを砂埃《すなぼこり》の溜まった床に向けている。まるで全員が全員を軽蔑し合い、嫌い合うかのように。自分の殻《から》に閉じこもっても安息は訪れず、ついには自分自身も軽蔑し、嫌って、すっかり途方に暮れたかのように。
指針を失った人心は欲望を暴走させ、義務化された美徳や道徳観念は急速に失われてゆく――。〈伊507〉で聞いた浅倉大佐の言葉が忽然《こつぜん》と浮かび上がり、小松は倦《う》んだ目で周囲を見渡した。暗号長も、潜航士官も、昨日まではもっと立派な存在に見えた。ヤクザ気質《かたぎ》ではあっても、上曹も決して皇軍を愚弄《ぐろう》するような口をきく男ではなかった。実直、勤勉な当たり前の下士官のひとりだった。内面はわからないが、少なくとも傍《はた》からはそう見えていた。
それが変わったのは、艦を捨ててもう気を張る必要がなくなったというのがひとつ。心の中に浅倉大佐の言葉が入り込み、なにがしかの化学変化を起こしたというのがひとつ。なにがしかの中身は人それぞれだろうが、確かなことは、いまここにあるのは烏合《うごう》の衆でしかないという事実だった。
ここにいても仕方がない。いくら待っても訪れる救いはない。小松は意識する前に立ち上がり、搬出入口に向けて歩き出していた。「どこに行くんだ?」と誰かの声が背中にかけられたが、それだけだった。もう自分に命令を与える者はいない。引き止める何物もここにはない。小松は倉庫の薄闇から抜け出して、乾いた地面に一歩を踏み出した。
倉庫の周辺は、太陽に煮染《にし》められた緑と、焼け焦げたドラム缶がぽつぽつと横たわるばかりの荒れ地だった。その中にぽつんと通信長の背中が立ち尽くしており、昨日からひと言もまともな口をきいたためしのない通信長は、この時も頭上に広がる椰子の葉を漫然と見上げ、薄く開いた唇から意味不明の呟きを垂れ流していた。声をかけようかと思ったが、すでに脳が溶け始めている男に日射病の心配をしても始まらないと思い直して、小松は無言で通信長の背後を通り抜けた。
強烈な日差しが寝不足の目を射り、肌を焼いたが、冷めきった体に響くほどのものではなかった。蒸し暑い艦内で、フリッツ少尉が黒服でも涼しい顔をしていられたのは、あるいはこんな気分だったからかもしれない。ふと思いつきながら、小松はもう何年も自分の意志では歩いていなかったような気がする足を動かし、根拠地隊本部に続く道路へと歩いていった。
ローラー車で踏み固められた道路に出ると、折り重なる椰子の葉の向こうに通信所の建物が見えた。かつて米軍がこの島に建設した通信所の建物には、いまは旭日旗《きょくじつき》が掲げられ、帝国海軍の拠点であることを示していたが、風がなくては白地に赤の鮮烈な図柄も確認できず、しおたれた旗は立ち竦んで小松を見下ろすばかりだった。
待っていても仕方がないなら、自分の足で近づいてゆくしかない。教えてくれる者がいないなら、自分の目で確かめなければならない。なにが誤りで、なにが正しいのか――。小松は知らず知らず、通信所を目指して歩き始めていた。
あそこに根拠地隊の司令がいる。浅倉大佐もいる。だからどうという思考は働かないまま、自動的に動く足が小松を根拠地隊本部のある島の中腹へと運んだ。すべてが静止した世界で、黙々と歩くその体が唯一の動くものになり、地面を踏みしめる足がたったひとつの音を響かせた。
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無線受信機の前に座り、ヘッドフォンを耳に当てて鉛筆を動かす背中は、もう三十分以上もそのままなのだった。鹿島は渕田参謀長と何度も横目を見交わし、ヘッドフォンから漏れ聞こえるモールス信号の音に耳を澄ましていた。
無論、すべては聞き取れず、米軍のストリップ方式で送られてくる暗号電文を解読する術もないが、その内容|如何《いかん》で自分たちの運命が定まると思えば、耳の鼓膜に自ずと神経が集中した。トントンツートントン。トントントンツーツーツートントン。日頃は常時三人の当直が就く電信室にひそやかな信号音が流れ、分厚いコンクリートの壁に跳ね返って行き場なく滞留する。その間にも鉛筆が紙の上をさらさらと滑り、ヘッドフォンをかぶった頭が微かに揺れたと思った刹那、信号音は出し抜けに途絶えた。
鉛筆を机の上に転がして、浅倉良橘はヘッドフォンを外した。信号を直訳した紙を手に取り、備え付けの暗号書はもちろん、手帳のメモひとつ開かずに目を通してゆく。難易度の高さでは史上最高と言われる複雑な暗号方式を、この男はすべて記憶しているのか? 呆気に取られた鹿島の眼前で、浅倉は不意に赤い唇を歪め、端正な横顔に笑みを浮かべた。
生唾を飲み下した渕田を横目に、鹿島は「……米軍は、なんと?」と恐る恐る口を開いた。浅倉は無言で暗号の羅列に目を走らせ続け、終《しま》いまで読み通したらしい紙片を机に戻してから、おもむろにこちらを見返した。
「〈伊507〉が戦っている」
笑みを湛えた唇が発したのは、そのひと言だった。米軍がいつどのような方法で迎えを寄越すか、最大の懸案事項からまったくかけ離れた返答に、鹿島はもういちど渕田と顔を見合わせた。
「我が方は押しているよ」
付け加えると、浅倉は再び無線機に向き直った。ヘッドフォンをかぶり、やはり空《そら》で返信の暗号電文を打ち始める。我が方≠ニいった言葉が米艦隊か、〈伊507〉を指すのかすら判断がつかず、鹿島はひやりとしたものを胸に浅倉の背中を見つめた。
泥舟に乗り込んでしまったのかもしれない。
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(指標〈ロ〉より魚雷! 左後方より急速に近づく!)
スピーカーの声音が麻痺しかけた聴覚を刺激し、雷跡の筋を曳《ひ》いて接近する魚雷がより明瞭に感知野を刺激する。末梢神経が外界の変化を捉え、電気信号に変換して脳に伝えるかのごとく、それは危機を喚起する鋭い針になってパウラを貫いた。
接近する魚雷は三つ。水虫聴音器《パッシブ・ソナー》で当たりをつけ、それぞれ射角を変えて立て続けに放たれた米国製の魚雷が、扇状の雷跡《らいせき》を描いて〈伊507〉に殺到する。猛烈な圧迫が神経という神経をざわめかせ、半ば弛緩した体を思わず右に寄せた途端、まるでパウラの運動神経と連動しているかのように船体が右に傾き、最初に接近した魚雷が艦首をかすめて遠ざかっていった。続く二本目は艦尾をすり抜け、三本日が〈伊507〉の左舷側をめがけて突進してきたが、その時には開放したベントが海水を取り込み、重くなった〈伊507〉の船体が急速に潜降を開始していた。
四十ノットの高速で海中を突き進む魚雷が、〈伊507〉の頭上二十メートルを行き過ぎる。自分という目が捉えた事象に、絹見の操艦技術という手足が確実に応えてくれている。もはや単なる機械ではなく、一個の有機体として機能する〈伊507〉に微かな安堵を覚えたのもつかの間、パウラは頭上を行き過ぎたはずの魚雷が唐突に起爆するのを感知した。
爆発的な閃光が感知野の根幹で膨れ上がり、知覚神経細胞の役割を果たす海水を押しひしげて、脳を攪拌《かくはん》する不快な振動がパウラに襲いかかる。続いて物理的な激震が〈伊507〉を襲い、衝撃に押しつけられた船体が一気に数メートルも沈降すると、艦底を支える竜骨《キール》がぎりぎりと鋼鉄の悲鳴をほとばしらせた。
衝撃波がまともに振りかかり、機銃甲板の手すりが瞬時に引きちぎられる。二挺の単装機銃も止め具が外れてくるくると銃身を回転させ、艦尾側の二番機銃は土台ごともぎ取られて海底に落下してゆく。激震の中、(機械室、速度が落ちてるぞ! なにをやってる!)と怒鳴った絹見は、魚雷の磁気爆発尖が反応するより前に艦を避退させるつもりだったのだろう。(やってます!)と、岩村機関長もスピーカーごしに負けずに怒鳴り返す。
(あっちこっちガタが来てて、モーターは火を吹く寸前なんです。これ以上無理をさせたら本当に焼き切れちまいますぞ!)
(かまうな! あと三十分もてばいい。機関は全速を維持だ)
殺気だったやりとりを遠くに聞きながら、パウラは感知に意識を集中する。〈ナーバル〉艇内の水も震動で荒れ狂っていたが、体の安全は背後にいる征人に任せておけばよかった。顔の前に手をかざして跳びはねる飛沫を防ぎ、「〈ナーバル〉より発令所、第四整流器の電圧が下がってます。遮断して予備に切り替えます」と艦内電話に吹き込んだ征人は、その間にも片方の手を動かし、目を走らせて、艇内の損傷確認に余念がない。獣《けもの》のようにまっすぐで透明なその思惟に触れ、自分を守る確固とした肉体の息吹きを感じ取ったパウラは、他のすべてを忘れて感知野という小宇宙に没入していった。
海水に伝わる力≠ノよって内側から支えられた小宇宙は、内部に存在するさまざまな物体や生命の形、色、運動が間断なく知覚神経を刺激し、電気信号になって駆け巡る脳の巨大な映し絵だった。いま、パウラの意識の大部分は小宇宙の根幹――〈伊507〉を中心とする半径数キロの空間に集中しており、アシーガ湾の湾口付近に位置するそこでは、五隻の敵潜水艦が入り乱れて海水をかき回し、小宇宙を満たす流体を不穏に揺らめかせていた。
指標〈イ〉〈ロ〉〈ハ〉〈ニ〉〈ホ〉と命名された敵潜のうち、四隻が交互に水中探信儀《アクティブ・ソナー》を打ち合い、探信音波の網を海中に張り巡らせて、四方から〈伊507〉を包囲する。残る一隻は雷撃可能深度に留まり、探信音波を避けて潜航するこちらの足音をパッシブ・ソナーで捉えるや、磁気爆発尖を装備した魚雷を次々に撃ち込んでくる。起爆した方位と距離から〈伊507〉の位置を割り出し、ぴたりと張りついて探信音波を打ち放つのが四隻の包囲艦の役目で、彼らは同士討ちにならないよう互いの位置を確かめ、一定の距離を取ることも忘れない。
〈伊507〉がどう動こうとも、水中戦闘術を完全に習得した敵潜群の隊形は崩れず、魚雷の狙いは刻々と正確になってゆく――。
その眼下に広がるのは、複雑に隆起する海底岩礁の群れ。深度百数十メートルから次第に浅くなってゆき、やがてはテニアン島の陸地に至る斜面の中腹だ。海水に通わせた知覚神経で岩礁の形を確かめつつ、パウラは斜面を昇りきった先にある浅海域に意識を飛ばした。
アシーガ湾と呼ばれるそこまでの距離は、約五キロ。湾内に浮かぶ旗艦とおぼしき大型艦艇は、他の水上艦艇ともども静観を決め込み、戦場の海をただ睥睨《へいげい》しているように見える。一対五の彼我兵力差、しかもこちらには手持ちの魚雷が残り三本しかないとなれば、ここまでたどり着けはしないとたかを括っているのか。あと三十分と言った絹見の言葉が脳裏をよぎり、〈ナーバル〉の中に横たわる体が奥歯を噛み締めるのを知覚したパウラは、深度二十メートルに留まる指標〈ロ〉から新たな魚雷が射出されるのを感知した。
間を置かず二本目の魚雷が射出され、右に転回中の〈伊507〉に向かって直進する。進行方向に味方艦はなく、狙いは極めて正確。一撃必殺を狙った魚雷――おそらくは触接信管を装備した魚雷が感知野を鳴動させ、全身をこわ張らせたパウラは、不意にふわりと浮遊する感覚を味わった。
転回中の〈伊507〉が急速浮上に移り、殺到する魚雷に対して艦首を向けたのだった。急激に働いた慣性の力に引きずられ、座席からずり落ちそうになったパウラの体を、素早く動いた征人の手がしっかりと支える。その手のひらの熱が防水スーツごしに伝わり、轟然と浮上する〈伊507〉の機関の熱と相乗して、船体からむらと立ち昇る波動の存在をパウラに感知させた。
艦内に在る五十三名の人の意志がひとつに合わさり、一斉に否と叫んだかのようなその波動は、周囲を取り巻く敵潜を一喝し、戦場を睥睨する冷たい視線も吹き飛ばすと、浮上する〈伊507〉を後押しさえしたのではないかと思わせた。磁気爆発尖ではないという可能性に賭け、接近する魚雷にこちらから突撃を開始した〈伊507〉の船体が、水圧の抵抗を受けてぎしぎしと軋む。高速で駛走する魚雷との距離が縮まり、一本目の魚雷が艦底のわずか数メートル下をすり抜けてゆく。続く二本目の魚雷は右舷側をかすめ、その巻き起こす引き波が〈ナーバル〉の耐圧殻をぶるりと震わせた時、(一番、てっ!)という号令がパウラの鼓膜に突き立った。
艦首一番発射管から射出された魚雷が、反撃の火蓋《ひぶた》を切って指標〈ロ〉に突進する。敵の雷跡を引き裂いて海中を疾駆《しっく》したそれは、慌てて回避しようとした指標〈ロ〉の左舷側にぶち当たり、直径五十三センチの弾頭で外殻を突き破った。
雷管を外した魚雷の銛《もり》が、巨大な鮫《さめ》の横腹を射ぬいた瞬間だった。破孔から大量の海水がバラストタンクに流れ込み、たちまち左舷側に傾いたガトー級の船体は、姿勢を制御する術もなく徐々に深度を下げてゆく。傾いた船体から魚雷がごそりと抜け落ち、血の色に似た重油の筋を曳いたが、鋼鉄の棺桶《かんおけ》と化した艦内に閉じ込められた百人の無念と絶望が、海中に染み出すことはなかった。指標〈ロ〉は左に傾いたまま、水中排水量二千四百トンあまりの船体を百メートル下の海底に沈めていった。
これで、魚雷は残り二発。倍する数の敵潜が即座に隊形を組み直し、四方から〈伊507〉を押し包む気配を感じ取ったパウラは、水に浸けた手のひらを軽く握りしめた。焼き切れる寸前のモーターが唸りを上げ、再度転回した〈伊507〉の巨体がアシーガ湾を目指す。四隻のガトー級が血に飢えたシャチになってその後を追い、指標〈ロ〉に代わって上方につけた〈ハ〉が、調定深度を深く設定した魚雷を撃ち放ち始めた。
斜めから振り下ろされた魚雷が〈伊507〉の側面をかすめ、海底岩礁に激突して起爆する。噴き上がる粉塵と水泡の嵐の中に分け入り、〈伊507〉はさらに深度を下げて岩礁の狭間《はざま》に船体を沈める。ローレライの目で乱立する岩礁を避け、海底に艦底をこすりつけるようにして、右へ左へと旋回する船体が狭い峡谷《きょうこく》を駆け抜けた。
アクティブ・ソナーが岩礁に乱反射して使用不能になったのか、指標〈イ〉〈ニ〉〈ホ〉の三艦は包囲陣を解き、そろって深度を上げ始めた。そして〈イ〉〈ニ〉の二艦が速度を上げて〈伊507〉を追い抜くと、並んで雷撃可能深度に位置した〈ハ〉と〈ホ〉の二艦が〈伊507〉の後方につき、眼下の海底岩礁に向けて無差別雷撃を開始した。
四本、五本と振り下ろされる雷撃が岩礁を砕き、海底を揺るがせ、深度百メートルの常闇を白い閃光で浮かび上がらせる。半ばでたらめな雷撃であっても、崩落は崩落を呼び、〈伊507〉の周囲の岩礁も連鎖的に瓦解させた。土色に濁った海水が船体を包み込み、直径十数メートルもの岩塊が行く手に落下する。直前で減速、浮上した船体が岩礁をこすり、激震が艦内を襲う。跳ね上がった座席から放り出され、パウラは水の中に叩き落とされた。
気管に入り込んだ水が肺を灼熱させ、激しく咳き込んだ拍子に視野が戻った。継ぎ目から外れ、水をほとばしらせる天井の送水管が最初に見え、後部隔壁際でバルブを締結する征人の背中が続いて視界に入る。「大丈夫か!?」と振り向きざまに放たれた声は、落磐《らくばん》と浸水の音にほとんどかき消された。パウラはまだ神経の通いきらない重い手足を動かし、どうにか座席に這い上がった。
感知に意識を集中しようと焦る間に、(〈ナーバル〉、感知像が不明瞭になってるぞ! なにがあった!?)とフリッツの怒声が飛び、(前部補助室、浸水止められません!)と誰かの悲鳴が飛び、(隔壁閉鎖だ!)と木崎の指示が飛ぶ。他にも火災と浸水を告げる報告が飛びかう中、(河野二水が、隔壁の向こうに取り残されて……!)と誰かが叫ぶのを、パウラははっきり聞き取った。
「河野が……?」と呟き、一瞬手を止めた征人の気配が背後に伝わった。河野二等水兵。征人と同年代の小柄な少年兵。征人に露天甲板に連れ出してもらった時、入れ替わりに〈ナーバル〉に残ってくれた童顔の印象が胸を埋め、まずいと思った時には遅かった。水面の下からゆらりと河野の顔が浮かび上がり、冷たい海水に肺を潰された苦悶も露《あらわ》に、パウラの目を覗き込んできた。
帰りたい。消滅する寸前に吐き出された河野の思惟が毛穴に入り込み、パウラの精神と肉体を硬直させた。苦しい、助けて、母ちゃんが待ってるのに。とりとめのない思惟が錯綜し、水面下をたゆたう河野に無意識に手をのばしかけたパウラは、背後から肩をつかんだ手にそれを止められた。
ぐっと力の込められた手のひらから熱が滲み出し、河野の思惟を薄れさせた。なんでだ、と絶叫する胸を必死に押し殺した征人の内面を感じ取り、河野の顔を見返したパウラは、ごめんね、まだすることがあるから……と告げて目を伏せた。頬を伝った雫が水面に落ち、河野の顔を消し去るのを待ってから、感知の目を見開いて現状に対処する顔を上げた。
行く手に布陣する〈イ〉と〈ニ〉の二艦は、〈伊507〉が雷撃に耐えかねて岩礁から抜け出すのを待ち構えているのか、漆黒の船体を雷撃可能深度に浮かべて虎視眈々《こしたんたん》の風情だった。〈ハ〉と〈ホ〉の二艦は絨毯爆撃を展開しながら前進しており、二手に分かれたガトー級は次第に互いの距離を狭めてゆく。四隻の敵潜が、深度をそろえて一ヵ所に集まりつつある――絹見がなにを考えて岩礁の狭間に潜り込んだのかがわかり、感心するより呆気に取られたパウラは、何度目かの雷撃を感知してぎゅっと身を固くした。
起爆の閃光と衝撃波が岩礁を打ち砕き、激烈な水流が岩礁の狭間を駆け抜ける。その勢いに乗って〈伊507〉の船体が浮き上がり、岩塊と土くれに埋まりかけた艦首を突き上げて、指標〈イ〉を目がけて猛然と突進していった。
崩落の轟音はスクリュー音を隠し、舞い上がる粉塵はアクティブ・ソナーを無効にしてくれる。指標〈イ〉が右斜め下から急接近する〈伊507〉を探知したのは、相対距離が五十メートルを切ってからのことだったろう。(六番、てっ!)と絹見の声が弾け、左舷後部の側面発射管から射出された九五式酸素魚雷が、指標〈イ〉の艦尾をすれ違いざまに蹴り飛ばす形で直撃した。
右舷側のスクリュー軸をへし折り、艦底に張り出したスケグにめり込んだ魚雷は、その時点で指標〈イ〉の戦闘能力を奪い去ったも同然だった。メインタンクの損傷は免れたものの、片舷の推進力を失った上に艦尾に大穴を開けた指標〈イ〉は、ほうほうの体で浮上するのが精一杯になった。〈伊507〉はその脇をすり抜け、アシーガ湾に向けて速力を上げる。残る三隻のガトー級は雷撃可能深度を維持したまま、最大戦速で〈伊507〉の後を追った。
残り一発――。三隻のガトー級が引きずられるように互いの距離を狭め、アクティブ・ソナーを打ち放つ姿を感知して、パウラは絹見の思惑通りに事が運んでいることを確信した。僚艦二隻を失い、なお敵艦を仕留める絶好の位置に占位した三隻のガトー級は、我先に〈伊507〉を沈めようとしている。散開して隊形を組み直さずに、各々が独自に雷撃態勢に入ったのだ。
有効な射点を得ようとすれば、三隻の相対距離は必然的に縮まってゆく。中央の一隻を雷管付きの魚雷で撃沈すれば、他の二艦も巻き添えを食らって行動不能になるほどに。悪魔的な絹見の操艦技量にぞっとしながらも、パウラは〈ハ〉〈ニ〉〈ホ〉の三艦の動きに意識を凝らした。それぞれ六門の艦首魚雷発射管を開放して、徐々に互いの距離を詰める三隻のガトー級。横一列に並んだ艦影の間隔は、六十メートル、五十五メートル、五十、四十……。
よし、いま。一点に集中した意識が叫んだ瞬間、真下から突き上げる衝撃が感知野をぐにゃりと歪め、パウラの根幹を直撃した。
なにが起こったのかわからなかった。感知野がどす黒い血の色に染まり、三隻のガトー級も、粉塵の漂う海底も見えなくなってゆく。続いて脊髄《せきずい》を突き抜ける激痛が這い上がり、パウラは大きく体をのけぞらせた。
百もの怨念と呪詛《じゅそ》が皮膚の下で蠢き、神経をぶちぶちと切断してゆく。乗り越えたつもりでも、不意打ちを受けた精神は千々に引き裂かれ、肉体はあられもなく痙攣し続けた。こんな時に……! と叫ぶ内奥《ないおう》の声を最後に、パウラの意識は闇に呑み込まれた。
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「どうしたっ!?」
一瞬前まで三杯のガトー級を映し出していたヘルゼリッシュ・スコープは、いまは形象をなさない砂鉄が乱舞するばかりだった。思わず怒鳴り散らして背後を振り返った絹見は、フリッツの肩ごしにコロセウムを見て絶句した。
スコープ同様、コロセウムの半球ガラスの中でも砂嵐が吹き荒れ、海中状況を現す砂模型はことごとく瓦解していた。ローレライ、停止――最悪の言葉を噛み締めた絹見の目前で、フリッツは運用長を押し退けて倍率調整レバーを動かし、台座まわりのスイッチやつまみを矢継ぎ早に操作する。砂模型が回復する兆しは一向になく、「指標〈ロ〉だ」と吐き捨てられたフリッツの声が、硬直した発令所の空気をかき回した。
「沈底に失敗して、岩礁に頭から突っ込んだらしい。艦がへし折れるのがちらっと見えた」
コロセウムの台座に拳を打ちつけて、フリッツは周囲の視線を避けるように顔を伏せた。最初に仕留めたガトー級――横腹に突き立った魚雷とともに海底に沈んでいった指標〈ロ〉が、岩礁に激突して大破した。瓦解する船体に押し潰され、溺死してゆく乗員たちの絶叫が海中に染み出して、なんの前触れもなくパウラを直撃したのだった。ドジが、と大破した敵艦と自分の両方を罵り、絹見はスコープの旋回把手を握りしめた。
肉を斬らせてようやくつかみ取った逆転の目、敵潜三杯を一挙に仕留める射点を前にして、ローレライの目を失うとは。対処しろ、と訴える理性を圧して悔恨の念が膨れ上がり、思考も体も棒立ちになった絹見は、「方位二七〇より高速スクリュー音!」と発した唐木水測長の怒声に、ぎょっと顔を上げた。
「雷数三、距離一二〇〇。急速に近づく!」
聴音室にこもりきりの唐木が、ヘッドフォンと一体化した頭をちらと艦尾側の水密戸に覗かせる。こちらにとっての絶好の射点は、敵にとっても同様になる。当たり前の事実を失念していたことに舌打ちする間もなく、絹見は「面舵一杯!」と条件反射の指示を飛ばした。
「左舷前進一杯、右舷後進一杯! 潜舵下げ十度、深さ八十」
やはり条件反射の復誦を返し、船体の動揺に備えて手近なものにつかまる木崎たちの気配を背に、絹見は無駄を承知でコロセウムに視線を流した。八十メートルは岩礁にぶつからないぎりぎりの深度だが、接近する魚雷に磁気爆発尖が装備されていたら厄介なことになる。起爆の衝撃で下に押し流され、岩礁に叩きつけられるのは必至。最悪、艦底に大穴が開いて一巻の終わりだ。
吹き荒れる砂嵐を映すだけで、コロセウムはなにも教えてはくれない。これまでこちらに利していた条件のすべてが、ローレライを失った途端に脅威になる、か。海水を押しひしげて艦首を大きく右に振り、同時に降下を開始した〈伊507〉の動きを床の傾斜に確かめながら、絹見はヘルゼリッシュ・スコープの柱に巻きつけた腕の力を強くした。甲高い魚雷の駛走音が探信音波の反射音を割って近づき、「新たなスクリュー音、二つ!」と、唐木の無情な報告がそこに重なった。
こちらの回避運動を読んで、深々度に調定した魚雷で追い討ちをかける。〈しつこいアメリカ人〉の亡霊らしい、抜かりのない攻撃要領だった。第二潜望鏡にしがみつく木崎と目を見交わし、出せる言葉もなく顔をうつむけた絹見は、間に合わんか……と口中に呟いた。「コロセウム、回復!」と運用長の声が背後で弾けたのは、その直後のことだった。
自動的に目が動き、絹見は直径五キロの海中状況を再現するコロセウムを注視した。まだ細部は固まりきらず、薄い砂嵐が全体を覆ってはいるが、〈伊507〉と三杯の敵潜、接近する五本の魚雷の位置関係は十分に判別できる。即座に艦内放送装置のもとに駆け寄ったフリッツを横目に、絹見は魚雷の方位と速度、潜降する〈伊507〉の眼下に広がる岩礁の地形を、貪《むさぼ》るように読み取った。
不ぞろいの剣山のごとく密生する岩礁地帯の中には、海底潮流に長年さらされ、浸食されてできた潮流の抜け道がいくつか存在する。潜降する〈伊507〉の砂模型の下にそのひとつを見出し、艦の大きさと回頭速度を咄嗟に目算した絹見は、「両舷前進半速、深さ九十!」と怒鳴ってコロセウムにへばりついた。
屹立する奇岩群を皮一枚で避けて、〈伊507〉の砂模型が幅十四、五メートルの隘路《あいろ》に滑り込む。水平に撃ち出された三本の魚雷がその上を行き過ぎ、遠ざかる駛走音を耐圧殻ごしに響かせる。斜め下に撃ち出された後続の二本は、一本が〈伊507〉から百メートル以上離れた岩礁に向かって落ち、残る一本はまっすぐこちらに振り下ろされてきた。艦橋から十メートルと離れていないところをかすめたそれは、〈伊507〉の後方に聳《そび》える岩礁の向こうに落着すると、起爆の衝撃波を四方に押し拡げた。
岩礁を象《かたど》る砂模型がぱっと砕け、鈍い震動が艦内を突き抜けた。岩礁の狭間を吹き抜けた衝撃波が船体を前に押し出したが、致命傷を与えるほどのものではなかった。遠雷に似た落磐の音、船体に当たる細かな砂礫《されき》の音がしばらくは続き、発令所の全員が黙して嵐の過ぎ去るのを待つ。「パウラ、無事か!?」とマイクに叫んだフリッツの声がその中に混ざり、絹見はコロセウムに釘付《くぎづ》けになっていた目を微かに動かした。
あと数秒ローレライの回復が遅れていたら、〈伊507〉は魚雷の直撃を食らっていた。誰もがスピーカーを注視する中、(……大丈夫。すみません)と細い声が発して、ほっと息をつく気配が発令所を満たした。
(各種計器、正常値に回復)と征人の声が続く。木崎と海図長がそろって肩の力を抜く横で、フリッツも額の汗を拭う。絹見は目を閉じ、それとわからぬ程度に息をついてから、すぐさま取り戻した無表情でヘルゼリッシュ・スコープに向き直った。
倍率を調節し、旋回把手に体重を預けてぐるりと一巡する。水上艦艇群は五キロ後方に待機して動かず、前方のアシーガ湾には旗艦らしき大型艦艇が一杯のみ。艦底の形状からエセックス級空母と判定できる旗艦は、目標海域に傲然と居座って眼下の戦闘を見物している――いや、聴音器で聞き耳を立てていると言うべきか。全長も全幅も〈伊507〉の倍ではきかない巨艦を睨みつけ、吠えづらをかくなよと胸中に吐き捨てた絹見は、その前に立ち塞がる三杯のガトー級に焦点を合わせた。
雷撃が空振りに終わったことを知ってか、三杯の敵潜は隊列を組み直し、互いの位置を探信音波で確認しながら散開しつつある。指標〈ハ〉は雷撃可能深度に留まり、〈ニ〉と〈ホ〉は交互に距離を取って深度を下げ、眼下の岩礁に探信音波を打ち放つ。罠に嵌《は》まりかけたことを察したのだろう。用心深いその動きを見れば、一挙に三杯の敵潜を葬る千載一遇の機会を、もういちど作り出せる自信は絹見にもなかった。
残る魚雷は艦首二番発射管に装填された一発きり。時刻は午前九時三分――X−0・5時。いつの間にかガラスにひびの入った腕時計を見、しわぶきひとつ立たない発令所を見渡した絹見は、ヘルゼリッシュ・スコープの前から離れた。視線を合わせずにフリッツからマイクをもぎ取り、「掌砲長」とできる限り冷静な声を吹き込む。「例の手でいく。準備はどうか?」
艦首魚雷発射管室で待機している田口は、(いつでも行けます)と返事を寄越した。水中砲撃に優るとも劣らないでたらめな手だが、もう手段を選んではいられない。発案者である田口の気合いの入った声を聞き、その突拍子もない中身を思い描いた絹見は、やれるのか? と自問する頭を無視して「よし」と応じた。
「時機がすべてだ。遅れるなよ」
(了解であります)と応じた声は、少ししわがれて響いた。怪我はいいのかと口に出しかけて、詮ないことと思い直した絹見は、木崎にマイクを押しつけてヘルゼリッシュ・スコープの前に戻った。
いいも悪いもない。あと三十分未満でなにもかも決着がつく。その後は――。ふと考えた途端、これまで無意識に対面を避けてきた思考が浮かび上がり、ぴっちり閉ざされていた暗幕が不意に開いて、すでにできあがっている答を絹見の脳裏に閃かせた。
作戦前から頭にあったらしいその答は、多少の驚きと困惑を伴って胸の底に落ち、絹見はほんの一瞬、戦場にいる自分を忘れた。そして欠落していたなにかが埋まり、感じたことのない充足を感じて、こわ張った頬が緩むのを自覚した。
その後どうなるか、なにを行うべきか。間違いはないと確信できても、守るべき未来の価値を実感し得ない寄る辺のなさは、その答の前に霧散した。この手で触れ、感じることのできる未来がここにはある。自分たちが生き、戦ったことが無駄ではないと実感できる対象……未来を託せる存在が、ここにはある。絹見はコロセウムに振り返り、立ちはだかる三杯のガトー級を見据えた。その四キロ後方に浮かぶ敵旗艦の巨躯を視野に入れつつ、「指標〈ニ〉を狙う」と艦長の声で令した。
「雷撃以上に厳密な操艦が要求される。各員、気を引き締めてかかれ。寸分たりとも操作を遅らせるな」
「はっ!」と唱和した木崎たちに背を向け、絹見はヘルゼリッシュ・スコープの旋回把手を握りしめた。「前進半速」と令したが最後、漫然とした歓喜や充足感は速やかに消え、彼我の艦が描き出す三次元運動の幾何学模様が頭を支配したが、それを哀しいと感じる神経はなかった。絹見は接眼装置に顔を押し当て、〈伊507〉の一部になった視線を前方に注いだ。
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岩礁の狭間に潜む巨体がゆらりと前進し、露天甲板に降り積もった砂礫をふるい落とすと、弾丸や破片を浴びてぼこぼこになった二重装甲の表面が露になる。〈伊507〉はへし折れた手すりを岩礁にこすりつけながら這い進み、その行く手に潜航する三隻のガトー級潜水艦――〈ラガート〉〈バルヘッド〉〈アルバコア〉は、互いに五百メートルの間隔を空けつつ、斜め一線に展開してアクティブ・ソナーの探知網を形成した。
僚艦の〈バーベル〉は撃沈され、〈キート〉は大破して航行能力を失った。だがこれまでに〈伊507〉と闘い、正真正銘のゴーストになった数々の潜水艦――〈トリガー〉や〈ボーンフィッシュ〉〈スヌーク〉などの戦闘記録を知悉《ちしつ》するゴースト・フリートの各艦が、無闇に焦ったり怯えたりすることはなかった。アクティブ・ソナーとパッシブ・ソナーを併用して互いの位置を確かめ、岩礁の間を流れる潮流音の中に敵艦の機関音を聞き分けて、三方から〈伊507〉を追い詰めてゆく。雷撃可能深度を潜航する〈アルバコア〉艦内では、磁気爆発尖装備ではない通常の信管が魚雷に取りつけられ、艦長らが一撃必殺の覚悟を固めていた。
無論、そう簡単な敵ではない。〈伊507〉は岩礁からいきなり飛び出し、すれ違いざまに魚雷を撃ち込む戦法で打って出るだろう。彼らはかつてそのやり方で〈ボーンフィッシュ〉を沈め、つい先刻も〈キート〉を仕留めた。通常のソナーしか持たないガトー級では防ぎようがなく、今度もいずれかの艦が餌食《えじき》にされるのかもしれなかったが、ゴースト・フリートの艦長たちにとって、それは二義的な問題でしかなかった。重要な事実はひとつ、おそらく〈伊507〉にはあと一発の魚雷しか残っていないということだ。
奇襲を防ぐ手立てはなくとも、〈伊507〉が魚雷を撃ち尽くした時が最後。どの艦が犠牲になるにせよ、他の二艦が残っていれば確実に敵を仕留めることができる。そのために、三隻のガトー級は互いの位置を厳密に測定し続けた。〈伊507〉が襲いかかってきたら、僚艦ごと雷撃してもよいという暗黙の了解が、三艦の間で成り立っているからだった。
その時は意外に早く訪れた。〈バルヘッド〉のパッシブ・ソナーが岩礁の狭間で発した突発音を捉え、探知を告げるアクティブ・ソナーの信号が他の二艦に放たれた時には、〈伊507〉の船体が浮上を開始していた。
粉塵と水泡を裂いて上昇する巨体が、〈バルヘッド〉に急接近する。そこから五百メートルの距離を置いて潜航する〈アルバコア〉は、最後の雷撃を行うはずの〈伊507〉にソナーの聞き耳を立て、不運な僚艦を巻き込んでの雷撃準備に入った。雷撃可能深度まで緊急浮上した〈ラガート〉もそれに倣い、敵潜が完全に無防備になる瞬間を待つ一方、〈バルヘッド〉は増速をかけてなんとか〈伊507〉を回避しようとする。しかしそれより早く、ガトー級の倍以上の質量を持つ〈伊507〉の船体が浮かび上がり、両艦は互いの舷をこすり合わせるようにして交差した。
雷管を抜いた魚雷を撃ち込むにしても、あまりにも近すぎる距離。〈バルヘッド〉の乗員たちは一様に凍りつき、続いて耳慣れない音を耐圧殻の向こうに聞いた。じゃらじゃらと金属のこすれ合う音が頭上から振りかかり、重い衝撃が艦内を突き抜けると、船体を削られるような鈍い振動が司令塔を揺らす。ついで金属が激突する轟音が司令塔の前面で弾け、〈バルヘッド〉の乗員たちは例外なく床に転がった。
直後に船体がぐいと上に引っ張られ、〈バルヘッド〉の艦首が一気に三十度も持ち上げられた。乗員たちは立ち上がる間もなく床の上を滑り、艦尾側の隔壁に折り重なってゆく。艦長は艦を水平に戻すべく矢継ぎ早に指示を飛ばしたが、いくら注水と排水をくり返したところで、船体が水平に回復することはなかった。〈バルヘッド〉は正体不明の力に引っ張られ、ほとんど横倒しの状態で海中を流れた。
艦首からのびた錨鎖《びょうさ》で〈バルヘッド〉を牽引《けんいん》しつつ、〈伊507〉はモーターの出力を最大に上げていった。ローレライの目で互いの位置を読み、一瞬の時機を逃さずに艦首右舷から放たれた錨《いかり》は、鎖鎌《くさりがま》のごとく海中を走って〈バルヘッド〉の司令塔を直撃した。それだけで三トンの重量を持つホールス型の錨は、釣針《つりばり》の役目を果たして〈バルヘッド〉の司令塔にがっしりと食い込み、全長百メートルの錨鎖が二艦の間にぴんと展張する。ひとつのリングが二十五センチの大きさを持つ錨鎖は、四千馬力の水中出力で牽引されてもちぎれはせず、〈バルヘッド〉は釣り上げられた魚さながら、〈伊507〉に引きずられるばかりになった。
その行く手にいる〈ラガート〉は、金属が激突する原因不明の音は聞き取ったものの、〈バルヘッド〉になにが起こったのか理解できず、雷撃の機会も見失って立ち竦んでいた。〈伊507〉はその間に〈ラガート〉との距離を詰め、〈ラガート〉の潜航深度よりやや上に深度を取ると、〈バルヘッド〉を牽引したまま〈ラガート〉の横腹に突進した。
上方を通過してすぐさま潜降に転じ、牽引する〈バルヘッド〉を〈ラガート〉の横腹に叩きつける――かつて〈トリガー〉に特殊潜航艇の〈海龍〉を衝突させ、潜航能力を奪い去った時の再現だった。一発の魚雷も使わずに二隻の敵潜を仕留める、ローレライの魔力を得た艦ならではの戦法は、しかし〈バルヘッド〉の必死の抵抗に妨げられることになった。潜横舵を駆使して辛うじて体勢を立て直した〈バルヘッド〉は、二軸のスクリュープロペラの回転速度を上げ、釣針から逃れるべく反対方向に前進し始めたのだ。
四千四百トンの質量と四千馬力の水中出力を誇る〈伊507〉に対して、〈バルヘッド〉の水中排水量は二千四百十五トン、出力は二千七百四十馬力。力の差は歴然だったが、〈バルヘッド〉の抵抗は無駄ではなかった。各所に損傷を受けている上、連続稼働で疲弊《ひへい》しきった〈伊507〉のモーターは、その異常な負荷に対してついにショートの火花を吹き上げた。出力が一気に半減し、〈伊507〉のプロペラの回転速度が目に見えて落ちた。そこに〈バルヘッド〉の巻き返しを受け、〈伊507〉はその艦首を大きく傾けた。
〈ラガート〉と〈アルバコア〉は、事態を把握できず、近接する二艦のどちらが敵かも判別できずに、〈伊507〉と〈バルヘッド〉が取っ組み合うさまをただ傍観するのみだった。ぴんと張りきった錨鎖が軋み、互いのモーターが白熱して、伯仲《はくちゅう》する力が二艦の外板を震えさせる。海戦史上初にしておそらく最後の、潜水艦同士の格闘戦がテニアンの海を沸騰させた。
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(押されてるぞ! 機関出力はこっちの方が上のはずだ。出し惜しみするな!)
錨鎖庫の天井に絹見の声が響き渡ったのと、艦首がぐいと引っ張られたのは同時だった。田口は受け身も取れずに床に転がり、壁に後頭部を打ちつけた。
目の前ではキャプスタンとクラッチ、鎖車からなる揚錨機《ようびょうき》が、直径一メートル強のドラム缶に似た形をぎりぎりと震わせている。鎖車に巻きついた錨鎖は数千トンの重みを引き止めており、触れれば火傷しそうな鉄輪の連なりがホースパイプに続いていた。田口は痛みを無視して起き上がり、揚錨機の頭頂部にあるクラッチハンドルに取りついた。キャプスタンに押しつけた傷口がずきりと痛み、無視しきれない激痛が爆発した腹に、(もう限界だ!)と岩村機関長の声が突き通る。
(これ以上無茶すると本当にモーターが爆発しちまう! 錨鎖を切って離脱してください。ここで沈んじまったら話にならんのでしょうが……!)
いよいよ土俵際か。鉄の味が拡がる口中に独りごち、田口はクラッチハンドルを握る自分の手のひらを見つめた。艦首魚雷発射管室の真下にある錨鎖庫は、その名の通り錨鎖を収納するためだけにある空間だが、整備用に小さな照明灯が設置されているので物の形は判別できる。時が来ればこのクラッチハンドルを回し、制鎖機のハンドルも全開にして、錨鎖を繋ぎ止めるブレーキを外すのが自分の役目だが、いま錨鎖を切り離してどうなる。粘《ねば》ついた唾液を吐き出した田口は、一進一退をくり返す〈伊507〉と敵潜の姿を耐圧殻ごしに幻視した。
とりあえずこの場を逃れることはできても、せっかく錨を打ち込んだ指標〈ニ〉は仕留められない。指標〈ホ〉にぶつけるのはあきらめるにしても、せめて〈ニ〉は行動不能にする必要がある。魚雷は残り一発。錨戦法もこれで打ち止めとなれば、もう〈伊507〉には後がない――。不気味に鳴動する揚錨機から離れて、田口は一歩踏み出すたびに激痛の這い上がる体を艦尾方向の壁際に運んだ。設置された梯子をつかみ、天井の跳ね上げ式の扉を開ける。
艦首発射管室は、すでに吊す魚雷のなくなった懸架レールがみしみしとたわみ、部品という部品がこすれ合ってざわめく鋼鉄の森だった。それぞれ固定物につかまって震動に耐える六人の水雷科員のうち、最初に田口に気づいたのは掌水雷長を務める兵曹長で、彼は床の扉から顔を出したこちらと目を合わせると、口を半開きにして棒立ちになった。
かなりホトケさんに近い顔つきになってきたらしい。慌てて駆け寄った掌水雷長の手を借り、なんとか発射管室の床に這い上がった田口は、「……マイクを」と搾り出して水雷長の少尉を見上げた。「掌砲長……」と呆然とした目を向けるばかりの水雷長に、「早く……!」と押しかぶせて、溢れてきた唾液を手の甲で拭う。ぬるりと赤黒い液体が手の甲を汚したのにかまわず、水雷長の手からマイクをもぎ取った田口は、「発令所、掌砲長より艦長」と吹き込んだ。
「まだ、手はあります。ディーゼルを回すんだ」
水雷長たちのみならず、絹見も絶句する気配を感じながら田口は続けた。「ディーゼルなら両舷合わせて一万二千四百馬力。アメ公の潜水艦なんざ簡単にうっちゃれますぜ」
(冗談じゃない!)と応じたのは、全艦放送の交話を聞いていた岩村だった。(水中でディーゼルを動かしてみろ。あっという間に艦内の気圧が下がって、全員お陀仏《だぶつ》だぞ!)
重油を燃やしてピストンを動かし、クランク軸《じく》で回転運動に変えるディーゼル機関は、稼働時に大量の空気を消費する。水上航走中ならふんだんに外気を取り入れられるが、潜航中はそうはいかない。特殊充電給排気筒がへし折れてしまったいま、ディーゼルの稼働には艦内の空気を回すしかなく、密閉状態で空気を消費した結果は気圧の急激な低下を引き起こす。鼓膜の痛みと頭痛、呼吸困難から始まって、限界を超えれば眼球が飛び出して一巻の終わり。艦内の乗員は残らず即死だ。
「そうすぐに気圧が下がりきるもんでもないでしょう。ほんの何秒かでいいんです。敵潜をひっくり返せりゃなんとかなる。このままじゃ苦労損だ」
(ダメだ! あんただってわかっとるだろう。たとえ二、三秒でもディーゼルがどれだけ空気を吸うか……)
(いや、待て)岩村の弁を遮り、絹見の声が雑音混じりにスピーカーから発した。(ディーゼルを回すと同時に気蓄器の空気を艦内に放出する。そうすれば気圧の低下は最低限に抑えられる)
気蓄器は、海水を排出する際にタンク内に空気を送り込む装置で、〈伊507〉には十二基のメインタンク用気蓄器の他、予備のボンベも数本ある。これらの空気を放出してディーゼルに食わせれば、艦内気圧の低下はある程度防げるはずだった。
が、危険な行為であることに変わりはない。(しかし、残存気蓄量は……)と言った岩村の声は、(やるんだ)と重ねられた艦長の声に遮られ、後には海獣の唸りのような船体の軋み音が残された。田口はもう話すことのなくなったマイクを水雷長に返し、ずるずると床に座り込んだ。
瞬間、力の拮抗《きっこう》が崩れて艦首が大きく右に引っ張られ、田口は床に尻をつけることなく前のめりに倒れた。床下で揚錨機が悲鳴をあげる音に混ざって、べりっとなにかの破れる音が間近に発する。なんだ? 思わず周囲を見渡した田口は、(総員! 聞いての通りだ)と弾けた木崎の声を多少うわのそらで聞いた。
(これよりディーゼル機関を回す。艦内気圧は八百前後に保つようにするが、鼓膜に痛みがくるはずだ。耳抜きなどして備えろ)
現在の艦内気圧は千百ミリバール。八百に下がっても命に別状はないが、鼓膜やこめかみの痛みはかなりのものになる。水筒科員たちは蒼白になった顔を見合わせ、「びびるな! そう長い間のことじゃない」と掌水雷長が檄《げき》を飛ばす。そう、あと少し。あと少しで決着がつく。田口は魚雷発射管の内扉に手をつき、膝に力を込めた。そのまま立ち上がろうとして、腹にまったく力が入らずにすとんと尻餅をついた。
これまでに倍する激痛が腹から這い昇り、生ぬるい鉄の味を口の中に拡げた。ごぼっという音が喉の奥で鳴り、田口は血の塊ひとつを吐き出して床に頬を押しつけた。「掌砲長、気を確かに!」と叫んだ掌水雷長の声がくぐもって聞こえ、駆け寄ってくる複数の靴が横倒しになった視界に映った。
指一本動かせず、田口は掌水雷長の腕に支えられて仰向けに寝かされた。視界は急速に暗くなっていたが、腹の傷を見下ろし、「おい、軍医長を」と背後の上等兵に言いつけた掌水雷長の表情は、辛うじて見て取ることができた。さっきのなにかが破れた音は、腹の傷口が裂けた音だったらしい。動揺を押し隠した掌水雷長の顔を見上げ、ここまでか……と内心に呟いた田口は、ほどなく伝わり始めたディーゼルの律動を背中で受け止めた。
重い震動が床を突き上げ、つんとした痛みが鼓膜に走る。その場にいる全員が顔を伏せ、鼻をつまんで、耐えようのない不快な痛みに眉根の皺を寄せる中、田口は激痛を通り越した体が空《から》になってゆくのを感じた。絹見や木崎、折笠、パウラ、フリッツ。〈伊507〉の全乗員が戦ってるってのに、このだらしない体はひとりで楽になろうとしていやがる。その悔しさと情けなさを噛み締めて、最後の意識が絶叫していた。
おれたちが吸う空気までくれてやるんだ。負けたら承知しねえからな、〈伊507〉……!
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三倍以上に跳ね上がった出力が〈伊507〉を身震いさせ、スクリュープロペラの回転速度を猛然と早めた。拮抗《きっこう》していた力関係があっさり覆《くつがえ》され、〈バルヘッド〉の全長九十五メートルの船体が、一気に〈伊507〉に引き寄せられていった。
水圧を裂いて引きずられる船体がたわみ、強大な負荷にさらされたキールが重低音の悲鳴をあげる。完全に横倒しになった〈バルヘッド〉は、深度を下げつつ前進する〈伊507〉によってほとんど逆さまになり、天地がひっくり返った艦内は混乱の極みに包まれた。乗員たちは内壁から天井に転がり、固定されていないありとあらゆる物が跳ね回り、バラストタンク内の海水が暴れて艦の重心をさらに狂わせる。中でも致命的だったのは、バッテリー室のバッテリーがすべて倒れ落ち、いくつかが破裂して艦内に電解液をぶちまけたことだった。
〈バルヘッド〉の出力はたちまち低下し、電解液から発せられる希硫酸《きりゅうさん》ガスが艦内に充満し始めた。戦闘能力も潜航能力も失い、〈バルヘッド〉は直径八メートル強の長細い鉄管に過ぎなくなった。艦長は艦の姿勢を立て直そうと、悲鳴と怒号が渦巻く司令塔で指示を出し続けたが、〈バルヘッド〉を襲った不幸はそれだけに留まらなかった。
〈伊507〉がディーゼル運転をやめ、牽引力が出し抜けに弱まったために、〈バルヘッド〉は半ば逆さまになった状態で海中を漂った。その際、複殻《ふくこく》構造内の海水と重油が慣性の力に引きずられて一方に片寄り、船体の復元力が急激に働いた結果、〈バルヘッド〉の船体は傾いた方向とは逆の方向に復元した――つまり海中で一回転する羽目になったのだ。
必然的に〈伊507〉の錨鎖も船体を一周し、〈バルヘッド〉はその船体を太い鎖で縛られる形になった。モーターはその機能を失い、希硫酸ガスが充満する艦内の換気もままならない〈バルヘッド〉には、戦列を離れて浮上する道しか残されていなかった。
〈伊507〉では、掌水雷長の手によって揚錨機のクラッチハンドルが回され、鎖車から解放された錨鎖が艦首から切り離されていった。〈ラガート〉と〈アルバコア〉が我を取り戻し、超長波無線で海上と連絡を取り合うまでに、その船体は再び岩礁の狭間に消えた。
後には、〈伊507〉の錨鎖を船体に巻きつけ、のろのろと浮上してゆく〈バルヘッド〉だけが海中に残された。足枷《あしかせ》を引きずる囚人のごとく、その動きはひどく緩慢で、みじめなものに見えた。
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諧謔的《かいぎゃく》な気分を誘う光景だった。錨鎖でがんじがらめにされた船体を、やっとの思いで浮上させたガトー級潜水艦。生残する二艦からの報告が確かなら〈バルヘッド〉だろう。その三百メートルほど向こうには、スクリュープロペラと舵機を破壊され、海上を漂う棒になった〈キート〉の姿もある。からりと晴れ渡った空の下、無力をさらすゴースト・フリートの潜水艦二隻。直径五キロの円を作ってそれを遠巻きに眺めるのは、第三八任務部隊特別混成群の艦艇たち。たった一隻の敵潜にいいように振り回され、呆然と立ち尽くす合衆国海軍の精鋭――。
CICの穴蔵を出て、ブリッジ脇のウイングから直接それを見物する気になったのは、現状を正確に把握するという以上に、野次馬根性が働いたからだった。錨鎖でぐるぐる巻きにされた潜水艦なぞ、他のどんな戦場でお目にかかれるというのだ? 内心に自嘲して、オブライエンはウイング据え付けの双眼鏡から離れた。代わりに見張り員を双眼鏡の前に立たせようとして、つい突き飛ばすようにしてしまい、自分で思うほど冷静ではないらしいと自覚する。
海上から百七十フィート(約五十メートル)以上の高みに位置する〈タイコンデロガ〉のウイングからは、肉眼でも〈バルヘッド〉と〈キート〉の無様《ぶざま》を窺うことができる。飛行甲板にも三々五々人が集まり、白い光の粉をまぶした海上に、黒い染みになって浮かぶ二隻の潜水艦を遠望する姿があったが、その背中はどれも硬直したように動かなかった。最先任兵曹長《CPO》までが棒立ちになっているのを見、まずいな……と口中に呟いたオブライエンは、「化け物か……」と傍《かたわ》らで発した呻き声に、小さく舌打ちした。
一緒にCICを抜け出してきたボケット群司令は、自前の双眼鏡を手に青ざめた顔だった。この男は士気の阻喪《そそう》という言葉を知らないのか。ボケットのたるんだ頬をちらと一瞥したオブライエンは、背後に立つワイズに視線を移した。
ONIの虎の子、ゴースト・フリートの半数以上が無力化された事実を前に、ワイズの眼鏡面も顔色を失っていたが、いまは他にまともに話のできそうな人間はいない。周囲の兵にも聞こえる声で、オブライエンは「中佐。これまでにやられた僚艦の数は?」とワイズに質した。
こちらを見たワイズは、焦点の定まらない目を泳がせたのも一瞬、「操舵不能になったのが駆逐艦八、戦艦と軽巡がそれぞれ一と、潜水艦が二。砲撃による中破が戦艦二。撃沈が重巡一と潜水艦一……」と、情報士官の名に恥じない記憶力を披露した。オブライエンはふんと鼻息で応じ、思案の腕組みをした。
「砲撃と錨をぶつけられた分は除外するとして、雷撃で仕留められた艦艇は十二。そのうち、軽巡クラス以上の艦艇には二発撃ち込んでいるから、単純計算でプラス三。つまり総計十五発」
先刻から諳《そらん》じている計算結果を口にして、オブライエンは海上に目を戻した。「〈イ507〉の魚雷搭載数は、十七本と資料にはあったな?」
ワイズの薄い眉がぴくりと跳ね、ボケットも倦んだ目をこちらに向けてきた。「となれば、残り二発。だがすべての魚雷が滞《とどこお》りなく稼働したという保証はない。先刻からの敵の動きを見るに、あと一発しか残っていない方におれは賭ける」と続けて、オブライエンはウイングの手すりにもたれかかった。
「勝利は動かんよ。もっとも、たった一隻の敵潜に十六隻もの艦艇が辛酸《しんさん》を舐《な》めさせられた、合衆国海軍始まって以来の無様を勝利と呼べるならの話だがな」
最後のひと言は、簡単に愁眉《しゅうび》を開いたボケットに向けたつもりだった。口もとをひん曲げ、司令付参謀らを引き連れてCICに引き返すボケットを背中で見送り、オブライエンはいまだ〈イ507〉が潜む海面をじっくりと見渡した。
奴の狙いはわかっている。すべての飛行場を砲撃するには、このアシーガ湾に浮上するしかない。このあたりの深度は五十メートル前後。湾口でソナーの聞き耳を立てる〈タイコンデロガ〉を出し抜いて、湾内に浮上して砲撃を行う? あり得ない。浮上したが最後、〈イ507〉は集中砲火を浴びる。一発の砲弾も撃てずに袋叩きにされ、アシーガ湾に沈むことになる。そこまで考えて、オブライエンは冷たい戦慄が胸に落ちるのを感じた。
なんてことだ。おれは、〈イ507〉がゴースト・フリートを突破することを前提に物を考えている。たとえ魚雷が残り一発でも、想像外の方法で勝ち抜いてくると信じている。敵を侮るのは兵法の外道《げどう》だが、抑えてもこみ上げてくるある種の期待感は、慎重さとは別物の感慨だった。
まずいな……と胸中にくり返して、鋭い陽光を反射させる腕時計の文字盤に目をやる。現地時間に合わせた時計の針は、午前九時十分に差しかかろうとしていた。原子爆弾搭載機の離陸まで、あと二十分。だからどうという感想は持てないまま、オブライエンは背後を振り返り、右舷側に横たわるテニアン島をブリッジの窓ごしに見つめた。
ごつごつした岩肌の上に熱帯樹林の緑を実らせた南洋の島は、平素と変わりない朝の陽光の下にあった。
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すべては速やかに、極力なにげないふうを装って進められた。B−29〈ドッグ・スレー〉は、平素の爆撃行と変わらない段取りでハンガーから引き出され、銀むくの機体をテニアン第一飛行場の誘導路に現した。
三機の気象偵察機はすでに三時間も前に離陸しており、誘導路上には〈ドッグ・スレー〉と、観測機を務める〈モンスーン〉の二機の姿しかない。気象偵察機が先行して離陸するのは当然にしても、三時間も先というのは少々早すぎる、とギャビン・レイシーは思っていた。その名の通り、気象偵察機は複数ある投下目標の気象条件を観測し、もっとも良好な目標を爆撃機に伝えるのが任務だ。報告を受けた爆撃機が即座に当該目標地点に到達できなければ、気象偵察の意味がなくなる。その時は快晴でも、三時間後には厚い雨雲に覆われているかもしれないのだから。
(ポーズなんですよ。一応、コクラが第二目標に挙げられちゃいますがね。今回の爆撃については、投下目標はトーキョーでなければ意味がない。気象偵察機なんてのはお飾りで、上の連中はどうあっても今日中にトーキョーを焼くつもりなんでしょう)
エンジン始動前のチェックリストをこなす間に、副機長のジョン・ビガー少佐が冷めた口を開く。右隣の副操縦士席に座るビガーの顔は目と鼻の先にあり、まだ酸素マスクを装着していないので唇の動きも見えるが、声は咽喉マイクを通じてイヤホンに響いてくる。通信系統を操作するジャックボックスのセレクターに目をやり、交話が他の乗員に聞こえていないことを確かめたレイシーは、「なんのためにだ?」と相手をした。
(さあ。今回の投下がもっと大きな作戦の一環に組み込まれていて、タイムスケジュール的に動かせないからじゃありませんか?)
「テンノーを喪《うしな》ったジャップが発狂するのを見越して、日本本土上陸作戦が準備されているということか?」
(わかりませんがね。とにかくうしろめたい空気です)
そこまで言ったところで、ビガーはジャックボックスのセレクターを全機指令に切り替え、(各搭乗員、報告)と副機長の声を咽喉マイクに吹き込んだ。(爆撃手、よし)(航法士、よし)(機関士、よし)と次々返ってくる報告を聞きながら、レイシーもターボ過給機のノブをゼロ値に合わせ、一番から四番までのプロペラ制御スイッチを押してゆく。
昨日から同じ話のくり返し――。機首全体がガラス張りの風防になっているB−29のコクピットは、計器盤と操縦装置に固まれていても息苦しいということはなく、むしろこれから空に飛び立つ解放感と高揚感を呼び覚ましてくれるものだが、今日ばかりはどうにも気が乗らない。(全機、エンジン始動準備よし)と報告したビガーに「了解」と機械的に応じて、レイシーは側面ハッチから左手を突き出し、地上で待機する整備長に手信号を送った。
ついでに機体の周辺をぐるりと見渡すと、陽光で灼《や》けついた誘導路にいるのは消火器を持った整備員ぐらいで、撮影班はもちろん、離陸を見送る将官らの姿もない。チベッツ司令も管制塔に引っ込んでしまったのか、ハンガーの周辺にすら人の姿はなかった。まるで基地中の人間が〈ドッグ・スレー〉と関わりあいになるのを避け、機体が飛び去るのを息をひそめて待っているかのように。これがこれから敵国の首都に赴き、十万の人間を瞬時に焼き殺す任務を帯びた者に対する態度か。レイシーは舌打ちを堪えて、重苦しい空気が立ちこめる機内に顔を戻した。
二度目までは歴史で、三度目からは日常になる。そう自分をごまかせたのも今朝までのことで、今回の原子爆弾投下作戦にまとわりつく歪《いびつ》な空気は、ビガーが指摘する通り、うしろめたいの一語に尽きた。隠密作戦というのならまだ納得もゆくが、問題は、不自然なものを自然に見せようとする意図が随所に見え隠れする点で、気象偵察機の早すぎる離陸などはその典型と言える。チベッツ司令の訓示も型通りという以上に空々しく、レイシーたちはほとんど他の兵員たちから隔離された状態で、最終ブリーフィングから機体に搭乗するまでの時間を過ごしたのだ。
実験的性格の濃かった前回までとは異なり、今回の投下はより大きな作戦――日本本土上陸作戦の一角を成す、初の戦略的な爆撃となる。ビガーの推測は的を射ており、乗員たちも薄々それに気づいている。敵を脅して降すための破壊ではなく、味方にもさらなる損耗を強いる破壊のための破壊。レイシーは「エンジン始動、スタンバイ」と大きめの声で令し、ハッチを勢いよく閉めて不毛な思考を消し去った。
(油圧よし)とビガー。レイシーは右手を上げ、コクピット後方に陣取る機関士に見えるようひとさし指を突き出した。(第一エンジン、始動)と機関士が応じて間もなく、ライト社製のR3350−23型エンジンが覚醒の唸りをあげ、二千二百馬力の鼓動が機体をびりびりと振動させ始めた。レイシーは続いて中指も突き出し、第二エンジンの始動を促す。
そうして四基のエンジンが滞りなく始動し、暖機運転が終了すれば、あとは車止めを外して誘導路を前進。滑走路上で離陸許可を待つのみになる。全備重量四十トンを超える機体を飛翔させるエンジン音が高まる中、(音、聞こえなくなりましたね)とビガーが呟き、レイシーは「ん……」と生返事を返した。一時間ほど前から風に乗って届くようになり、飛行場を覆う熱気を緩慢に震わせていた遠雷に似た音は、確かにいまは聞こえなかった。
マリアナ守備艦隊が演習でもしているのだろう。管制塔がなにも言ってこないからには、離陸に影響はないと見て間違いない。現時刻はテニアン時間午前九時十二分。タイムスケジュール的に動かせない≠轤オい離陸時刻まで、あと十八分。「おおかた、ジャップの人間魚雷と派手にやりあってたんだろうさ」と気晴らしの軽口を叩くと、ビガーはこの朝初めて頬を緩めてみせた。
「なあ、ジョン。賭けをしないか?」
その表情をちらと窺い、レイシーは無線が全機指令にセットされているのを承知で気楽な声をかけた。(なんの賭けです)と、ビガーはきょとんとした顔をこちらに振り向ける。
「貴様は、今度の爆撃行が日本上陸作戦の露払《つゆはら》いになると言った。ならおれはその逆に賭ける。この爆撃で戦争は終わる。明後日《あさって》か明々後日《しあさって》にはジャップは白旗を揚《あ》げるってな」
目をしばたき、蜂の巣状の格子に嵌め込まれた正面の風防に顔を戻したビガーは、(明後日か明々後日か……具体的ですね)と神妙な顔つきになった。(最新のレートでは八月の三週目が一番人気ですよ)とすかさず口を挟んだのは、操縦席の前方に座る爆撃手のエッカート。レーダー員のラッセルも、(大穴狙いの十月も人気だって話だ)と浮き立った声を出す。
咄嗟の思いつきでも、多少は機内の空気が軽くなってくれたことに安堵して、レイシーは「どうだ?」と重ねた。かなわないというふうに首を振り、苦笑した顔をうつむけたビガーは、(いいでしょう。なにを賭けます?)と心得た返答を寄越した。
「十ドルと冷えたビール。ひと晩無制限」
十人の乗員が一斉に歓声をあげ、誰かの吹いた口笛がエンジン音の中に混ざった。(了解です)と差し出されたビガーの手のひらを軽く拳で打ってから、レイシーは操縦輪を握り直した。
これでいい。賭けに勝ったら終戦祝いだ。ビガーの奢《おご》りでせいぜい呑んだくれてやる。敗けたら……その時はその時。少々の出費は補って余りある特別手当が軍から支給されることだろう。これからもくり返しくり返し、原子爆弾を抱えて日本とテニアンを往復する羽目になるのだから。
「……これで終わるさ」
その思いは胸の奥に押し込んで、レイシーは独りごちた。滑走路脇のエプロンに駐機したB−29の放列が、激しい日差しを浴びて刃《やいば》のように輝いていた。
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艦内気圧が千ミリまで回復しても、しばらくは鼓膜の痛みが収まらず、頭痛もこめかみのあたりを締めつけ続けた。体の節々も痛んだが、これは大揺れする艦内であちこち打ちつけた痛み。頭の芯に響く耳鳴りは、連続する轟音で耳がバカになったせいだ。
それでも、定間隔に船体を打ち据える甲高い金属音は、明瞭に聞き取ることができる。アクティブ・ソナーの音。直径一キロの円を描いて周回する指標〈ハ〉と〈ホ〉が、円の中心に〈伊507〉を捉えたことを告げる音だった。半数以上の戦力を失っても退く気配を見せないとは、さすが〈しつこいアメリカ人〉の亡霊といったところか。フリッツは床に溜まった油混じりの海水を踏みつけ、若干光量が落ちたと思えるコロセウムに顔を近づけた。
テニアン島まで七キロ、目標のアシーガ湾までは四キロ少々のこのあたりは、隠れられるほどの大きさの岩礁はほとんどない。指標〈ニ〉に錨鎖を巻きつけて離脱した直後、手近な岩礁の狭間に身を潜めた〈伊507〉の船体は、艦首も艦尾も岩礁の切れ目からはみ出している。敵はこちらを探知しており、いまは出方を窺っているのだと見て間違いなかった。
時刻は午前九時十三分。ここから先は岩礁の間を這い進むこともできないし、もう持久戦を演じていられる時間もない。思わず舌打ちしたフリッツは、「残存気蓄量は?」という落ち着いた声音に顔を上げた。疲れきり、立っているのがやっとの乗員たちをよそに、絹見の背中だけがぴんと発令所の床に突き立っていた。
「メインタンク用、ボンベ合わせて二十五トン」と木崎が答える。絹見は「電力は?」と重ね、「予備電源も含めて百キロワット」の返答を得ると、無言でヘルゼリッシュ・スコープに向き直った。
ローレライ・システムの消費分も計算に入れれば、あと三十分動けるかどうかの数値だった。刻限まで十七分、それだけ潜航できれば問題ないとはいえ、あらためて限界を突きつけられた衝撃は重く、一同の目は自然と絹見の背中に注がれた。考えもつかない奇策が開陳《かいちん》され、艦長がこちらを振り向くのを待つ数秒が流れたが、絹見はヘルゼリッシュ・スコープに向きあったまま、その口はなにも語ろうとはしなかった。
ハゲタカのごとく回遊する二隻の敵潜がコロセウムの中を巡り、アクティブ・ソナーの反射音が発令所に響き渡る。「奴ら、時間までこっちを足止めしようって肚だな……」と海図長が沈黙を破り、フリッツは握りしめていた拳《こぶし》を多少緩めた。
「嫌味な連中だ、さっさと掛かってくりゃいいものを……。こっちにはあと一発しか魚雷がないってことぐらい、とっくに気づいてるんだろうに」
「だからだよ。どうせ勝てる相手なんだから、下手に手を出して怪我をしたらつまらんと考えているんだ。それなら、時間までここに足止めしておいた方が利口だってな」
「なら、強行突破だ。こっちが最後の一発を撃たない限り、敵潜も積極的には攻めてこられない。威嚇しながら湾に向かえば……」
「無駄だ。こちらが動き出せば、連中も腹を据えて掛かってくる。威嚇の通用する相手じゃない」
操舵長の弁を遮って、フリッツは一同の顔を見渡した。「仮に湾内にたどり着けたとしても、このまま浮上すれば確実に総攻撃を食らう。敵潜二隻を撃沈して、その爆音と衝撃波で水上艦のソナーをくらます。その上でこのデカブツの死角に浮上する以外、砲撃の時間は稼げない」
しかし魚雷は一発きり――話す側も聞く側も結局はそこに突き当たり、ではどうするのかと自問して、三々五々絹見の背中に視線を戻してゆく。その中のひとりになり、ただ期待しているだけの自分に気づいたフリッツは、「Verdammt...!(クソ……!)」と呻いてコロセウムの台座を蹴りつけた。
「あと一発、あと一発でいい。魚雷があれば……」
ぎょっとする一同の気配を背に、フリッツはコロセウムの半球ガラスについた両手を握りしめた。そのためなら悪魔にだって魂を売ってやる。すでに一度ナチに売り渡した自分の魂でも、まだ多少の価値は残っているはずだ。無神論者の頭が半ば本気でそんなことをわめき散らした刹那、「ある」という声が耳に飛び込んできて、フリッツの心臓をわしづかみにした。
「魚雷ならある」
もう一度くり返すと、絹見はフリッツだけを注視した。他の全員の目もこちらに注がれ、頭の中でなにかが爆発する感覚を味わったフリッツは、「そうか……!」と発した木崎の大声を聞いても驚かなかった。
「〈ナーバル〉だ。〈ナーバル〉には非常用の魚雷が二本外装されている。そうだったな、少尉!?」
興奮して詰め寄る木崎の肩ごしに、寝耳に水の顔でぽかんと口を開ける乗員たちの顔が見えた。そう、確かに〈ナーバル〉には魚雷が装備されている。フリッツは絹見と合わせた視線を逸らさず、完全に失念していた魚雷の存在を脳裏に呼び起こした。外装式発射管内に収められた二本の五十三・三センチ魚雷。〈ナーバル〉の左右両舷に装備されたそれは、小型潜航艇《ミゼットサブ》としても運用可能な船体に唯一施された武装で、母艦と接合中は拘束具に挟まれて外からは見えず、これまで実際に使用されたこともない。ローレライの器にとっては無意味な装備だが、整備は定期的に行っており、つい二週間ほど前、回収作戦が済んだ後にも稼働を確認していた。
無用の長物としか認識していなかったから、いまのいままで忘れていた……のではない。無意識に避けていたのだと自覚して、フリッツは木崎を押し退けて絹見に一歩近づいた。
それを使うということは、つまり――。「だがそれを使うには、〈ナーバル〉と〈伊507〉の接合を解かなければならない」と勝手に口が動き、フリッツは無言の絹見に詰め寄った。
「ローレライ・システムを遮断しなければならなくなるんだ。曳航ケーブルに通した回線で連絡は取り合えるが、もうコロセウムもヘルゼリッシュ・スコープも使えなくなる。それに……」
最大の懸念が言葉になるより早く、「わかっている」と言った絹見の目が肌身に食い込み、フリッツは反射的に口を閉じた。
「いつまでも子供の手を借りるわけにもいくまい。あとは我々の力だけで十分だ」
そうだろう? と問い返す絹見の目はフリッツだけを直視していた。この男はいつからその覚悟を固めていたのか、いつから自分の逡巡を見抜いていたのか。身も世もなく動揺する胸を怒りともつかない激情が突き上げ、もう一度コロセウムを蹴りつけたい衝動に駆られたが、それは男のすることではないという正体不明の意地にがんじ絡めにされて、フリッツは結局、ひと言も返せないまま絹見に背中を向けた。
すでにわかっていたことだ。そうできればいいと望んでさえいたことだ。何度も自分に言い聞かせ、そのたびに重みを増す胸に辟易《へきえき》しながらも、時間がない、行動しろと己に命じて、フリッツはようやく最初の一歩を踏み出した。事情を悟った顔、まだ理解できない顔が半々の乗員たちをかき分け、急ぎ足で発令所を後にした。
木崎がなにか声をかけたようだったが、聞く余裕はなかった。感情を呑み込んだ胸がじんじんと重く、動いていなければ押し潰されそうな恐怖感があった。ところどころ照明灯の割れた薄暗い通路を走り、フリッツは〈ナーバル〉へ向かった。浸水で濡れた床が飛沫の音を立て、荒くなった呼吸を聞こえにくくしてくれるのがありがたかった。
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「……基本的な操作は、〈海龍〉とたいして変わらない。ただ機関出力と船体質量は倍以上だから、慣れるまでは電圧計と回転計から目を離すな。出力は〈海龍〉の三倍増しでも、機動性は半分以下だと思え」
説明を続ける兄のうしろ姿は股下まで水に浸かっており、前部座席から見えるのは肩までかかった黒い髪と、汗と油で汚れたワイシャツの背中だけだった。「はい」と応じた征人の顔も見えず、蚊帳の外に置かれた所在なさを感じながら、パウラは五官の認識と感知野が混在する薄明《はくめい》を漂っていた。
〈ナーバル〉を〈伊507〉から切り離して、外装発射管に装備した魚雷を使う。日本語で言うところの灯台もと暗し≠ネ戦法を実施するには、征人が〈ナーバル〉の操艇を行わなければならない。後部補助席は母艦が破壊された場合、感知に投入するパウラに代わってSS将校が〈ナーバル〉に乗り込み、ローレライ・システムを戦線から離脱させるために設置されたもので、前部座席の操舵管制を移管すれば艇を一元操作することができる。もともとミゼットサブの操艇要員だった征人なら任せても問題はなく、フリッツの説明もあくまで補足的なものだったが、パウラが引っかかるのは、艇内に乗り込んで以来、一度も自分と目を合わせようとしない頑《かたく》なな背中の方だった。
原子爆弾搭載機の離陸まで、残り十五分。少ない時間ですべてを伝えきろうと思えば、他に気を回す余裕がなくなるのは当然だが、取りつく島のない兄の背中がそれだけで説明できるとは思えない。航走中に〈ナーバル〉と〈伊507〉との接合を解くという前代未聞の行為にしても、ひとつ重大な懸念がパウラにはあった。
「肩の力を抜け。〈伊507〉とケーブルで繋がっているんだ。母艦の機動を感じ取って、流れに逆らわずに舵を取ればいい。清永並みにやってみせろとは言わんが、奴に笑われるようなヘマだけはするなよ」
肩を軽く小突いたフリッツに、「もちろんです」と生真面目に応えた征人からは、やりおおせてみせるという気負いが伝わってくるばかりだ。いくつかのスイッチを鳴らし、後部補助操舵装置に主管制を移すフリッツの気配を傍らに感じつつ、パウラは兄の内面にそっと感知の意識を凝らしてみた。
ズボン程度の薄い生地は感知の妨げにならない。自分と同じ血で構成された肉体に知覚の触手を這わせ、堅い障壁の奥で胎動する熱い昂《たかぶ》りを微かに感知した時、フリッツの目が不意にこちらに向けられた。パウラはどきりと心臓を跳ね上がらせ、薄く開けていた目を慌てて閉じた。
「分離後はローレライ・システムが使えなくなる。魚雷発射と退避の号令は、おまえが口頭で伝えるんだ」
部下に命じるような硬い口調は、やはりなにかを隠している時のものと思えた。「できるな?」と重ねたフリッツには答えず、パウラは先刻から胸を騒がせる唯一最大の懸念を口にした。
「でも、分離後の再接合はどうするの? 潜航中に接合する訓練なんて、私だって受けてないわ。だいたいそんな時間……」
「ケーブルを巻き込んで強制的に接合する。やるのはこれが初めてだが、それほど難しいことじゃない」
ぴしゃりと答える、というより遮ったフリッツは、「心配するな。おれがおまえを置き去りにするわけがない」と重ねてパウラの肩に手を置いた。兄とは思えない口数の多さに胸がしんと冷え、嘘という一語を内奥に結実させたが、肩に触れた手のひらが、心配するなという言葉通りの温かさを放っていることは事実だった。どう捉えていいのかわからず、パウラはたったひとりの肉親の顔を見上げた。
祖父譲りの濃い眉の下で、常に自分だけを見つめてきた二つの瞳が揺れていた。感知野の海より深い、あらゆるものを受容してじっと横たわる瞳の海に見下ろされ、ああ、こんなやさしい目ができるようになったのかと感嘆したパウラは、喜びと一緒に寂しさが身じろぎする胸を感じた。
兄という存在が一歩遠ざかり、これまで不可分だったなにかが永遠に断ち切れるような、それぞれに積み重ねてきた人格という名の壁の向こうで、兄がフリッツ・エブナーという近しい他人に姿を変えたような。これまでにも幾度かあった驚きと寂しさのないまぜが、この時は胸を突き上げる不安になって全身を騒がせ、パウラは水面から引き上げた手をフリッツのそれに重ねようとした。フリッツはその少し前に肩から手を離し、追いすがるパウラの視線を無視して背中を向けた。
開きっぱなしの水密戸をくぐる時、なにかを言おうとしてこちらに振り向き、ぎゅっと唇を結び直したのが最後の表情だった。フリッツの背中が水密戸をくぐりきり、兄さん、と胸中で呼びかけたパウラを拒否して、鋼鉄の扉が重い閉鎖の音をあげた。
間もなく排水ポンプが作動して、気密室の水を外に押し出す音を隔壁ごしに響かせた。その音に兄の慟哭《どうこく》が混ざり、艇内の水をひと揺れさせたと思ったのは、気のせいだろうか? 気密室の排水が終わるとともにそれは消えてなくなり、パウラは我知らず座席から身を起こし、足を床に着けた。「どうしたんだ?」と征人に声をかけられなければ、隔壁に駆け寄って水密戸を押し開けていたかもしれなかった。
身を引き裂く慟哭はすでになく、艇内を満たすのは小犬のようにまっすぐな征人の思惟のみだった。「……なんでもない」と応えて、パウラは座席に腰を下ろした。排水ポンプの音は途絶えており、兄の存在も思惟も、もう手の届くところにはなかった。
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(準備完了。いつでも切り離しできます)
フリッツの声はいつも以上に硬く、押し殺したものの大きさを伝えて発令所に届いた。こちらも感情を消した声で、絹見は「了解した」と応えた。
「拘束具の操作は電気長に任せる。少尉は射撃指揮所で砲撃の準備に回れ。掌砲長を連れてな」
(掌砲長を……?)
「艦首発射管室で軍医長の治療を受けている。迎えに行ってやれ」
多くを説明する必要はなかった。(……わかった)と、規律も気負いも忘れたフリッツの声音を聞いてから、絹見は全艦一斉放送装置にマイクを戻した。続いて機械室に通じる伝声管に近寄り、喇叭《らっぱ》型の送話口に顔を寄せる。
「機械室、こちら艦長。モーターの具合はどうか」
(なんとでもしますよ。背中の荷物を下ろしていいんなら、この艦はまだまだ走れますぜ)
〈ナーバル〉の水中排水量は四十五トン。艇内に注水した海水や積載燃料の重量も含めれば、〈伊507〉の機関に多大な負担を与えていたことに間違いはないが、岩村機関長の言いようは物の重さのことを言っているのではないと思えた。〈ナーバル〉には通じていない伝声管を握りしめ、「その荷物のことだが……」と続けた絹見は、(わかっとります)と返ってきただみ声に口を閉じた。
(艦長、わたしゃ前からやってみたかったことがあるんです。〈ナーバル〉も魚雷も取っ外して、空荷にしたところで〈伊507〉を思うぞんぶん走らせてみたい。このゲルマニウム改が最高速度何ノットを叩き出すか、いっぺんこの目で確かめたいと思うとったんですよ。どうやら、最後の最後で望みが叶いそうですな)
やはりお見通しか。いかにも機械室の主らしい言い分に苦笑した後、絹見は「そうだな。その時は頼む」と言った。(任しといてください)と応じた声を伝声管の向こうに聞き、ひとつ大きな深呼吸をしてから、発令所に残った一同の顔を順々に見てゆく。
木崎を始め、運用長、海図長、操舵長と二人の操舵員たち。聴音室からヘッドフォン付きの頭を覗かせた唐木水測長。彼らもまた気づいている。これからの行動が意味するところを察し、その結果がなにをもたらすのか十分に心得ている――いや、あきらめてくれているのだと絹見は内心に修正した。あきらめと言っても、それはうしろ向きなものではなく、ここまではやりきったと言える自信に裏打ちされて、初めて紡ぎ出せる諦念《ていねん》だ。
その証拠に、ここには気づまりな悲愴感や惨めさはなかった。どの顔も疲れきり、汗と油のまだら模様を作っているのに、その目もとや口もとには苦笑の皺があった。恐怖を忘れるための強がりが半分と、失われるものと残るものを天秤《てんびん》にかけて、まあこんなものかと思える程度の納得を得た安堵が半分の苦笑。高須が死に際に見せたのと同じ、穏やかで、どこかあっけらかんとした苦笑……。
戦死を讃《たた》える国家は明日にも消えてなくなり、軍人としての名誉という最低限の保証も失った自分たちが、なにかをやり遂げつつあるのだという感覚。この戦場という泥沼でかけがえのないなにかをつかみ取り、それだけはこれからも地上に残り、大海を渡り、大地に根を張ってゆくのだと思える充足感は、自分ひとりのものではないのだろうと絹見は信じた。健康な成年男子は誰もが戦死することを前提とする国家で生まれ――いや、いつの時代のどこの国に生まれ育ったとしても、人の生に他のどんな甲斐が要るというのか。
「海図長。〈ナーバル〉の分離と同時にローレライ系統は途絶する。DRTを逐次監視して艦の位置把握に努めろ」
それゆえ、絹見はいま必要な指示だけを飛ばすことに専念した。海図長は「はっ!」と背筋をのばす。
「運用長は操舵指揮を逐一メモして、海図長とともに位置把握を確実にしろ。水測長は〈ナーバル〉からの口頭報告を補って、敵潜の現況を逐次報告。〈ナーバル〉分離後は艦の重量が軽くなる。操舵長と操舵員は、そのつもりで舵の操作を行え」
ひとりひとりの顔を見、返事を聞いて、絹見は「先任」と木崎を見据えた。最後の土壇場に女房役を務めてくれた航海長は、この時も実直一途な目をこちらに向けてきた。
「指標三十三番……敵旗艦までの最短航路を設定しろ。途中にある岩礁の深度測定も忘れずにな」
コロセウムの一端、アシーガ湾内に浮かぶ大型艦艇を指さして言うと、「はっ!」と応じた木崎の顔に不敵な笑みが灯った。こちらもにやと口もとを歪めてから、絹見はヘルゼリッシュ・スコープに向き直った。
残り十三分。一銭の釣《つ》りもなく、きれいに勘定を支払ってやる。四キロ先の海上に浮かぶ敵旗艦の艦底を十字線に捉え、絹見は歪めたままの唇に舌を這わせた。
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遅かった――咄嗟にそう思わせるほど、田口の顔からは血の気が失せていた。艦首発射管室の寝棚に寝かされた体はぴくりとも動かず、幾重にも巻かれた腹の包帯は血と重油で汚れきっていて、白い部分が見当たらない。しかしその包帯巻きの腹はゆっくり上下に動いており、横に広い鼻の穴もしぶとく空気を吸い込み続けて、そう簡単に死ねない肉体の刻苦を見る者に示しているようだった。
傍らには掌水雷長と時岡軍医長がおり、こちらに気づいた掌水雷長が顔を上げると、時岡も振り返って憔悴《しょうすい》した眼鏡面をフリッツに向けた。どうだ? と目で尋ねると、微かにうつむけた顔を横に振ってみせる。藪《やぶ》か名医かはついに判然としなかった時岡だが、人命救助にかける熱意が並みの医者の比でないことは知っている。時岡がだめと言うなら、それは――。そう判断した途端、自分でも理解不能な怒りに駆られて、フリッツは「立て。掌砲長」と一歩前に踏み出していた。
閉じた瞼がぴくりと開いて、まだ生気の残る田口の目が左右に動くのが見えた。「フリッツ少尉……!」と時岡が止めに入るのもかまわず、フリッツは「あんたにはまだ大事な仕事が残ってるんだ」と声を荒らげた。
「ここで死なれるわけにはいかない。立て!」
田口の眉間にぎゅっと皺が寄り、ゆらりと持ち上がった腕が手がかりをまさぐる。命令を受け止めた兵士の反射神経が、半ば死んでいる肉体を動かして、田口はじりじりと上半身を起こしていった。「無茶ですぞ……!」と抑えにかかった時岡を押し退け、フリッツはなぜそうするのかわからないまま、必死に立ち上がろうとする田口の腕をつかんで一気に引き寄せた。
太い腕を首のうしろに回し、脇を支えて立ち上がらせる。体重のほとんどをフリッツに預けながらも、田口はなんとか自分の足で床の上に立った。「行くぞ」とかけた声に呻き声を返した田口は、もつれそうな足を一歩、また一歩と前に進める。呆然と見つめる掌水雷長の視線をよそに、フリッツは重い体を背負い直して水密戸をくぐろうとした。「少尉! 勝手は許しませんぞ」と怒声を張り上げて、時岡がその前に立ちはだかる。
必死の形相だった。無数の患者の返り血を浴びた軍衣も視界に入れたフリッツは、「すまない。軍医長」と目を逸らさずに詫びた。
「最後に悔いのないようにしたいのは、みんな同じだ。おれたちにはおれたちの仕事がある。軍医長も医務室に戻ってくれ。治療を待ってる患者は他にもいるんだろう?」
丸眼鏡の分厚いレンズの底で、曇りのない瞳が揺れるのがはっきりと見えた。「へへ……。黒服もたまにゃいいこと言いやがる」と田口もかすれた声を搾り出して、時岡はなにかを言いかけた口を閉じた。黙って道を開けた軍医長の脇をすり抜け、フリッツは水密戸をくぐり抜けた。
「無茶はいけませんぞ。たとえあと一分の命でも、命は命です」
最後にそれだけ言うと、時岡は水蜜戸の戸口ごしに挙手敬礼をしてみせた。つられて掌水雷長が直立不動になるほど、堂に入った敬礼だった。フリッツは無言で答礼し、田口の体を支えて通路を歩き始めた。
「……ドイツ野郎の肩を借りることになるとはな」
艦首発射管室に隣接する医務室は、火傷や骨折の痛みを堪える負傷兵が通路にまで溢れ出し、ほとんど地獄の様相を呈していた。ぽつりと漏らした田口を無視して、フリッツは黙々と歩き続けた。次第に冷めてゆく体温も、言葉とは裏腹なやわらかい口調も、すべてが骨身に沁《し》みて痛かった。
「おれはな、最初に会った時からてめえが気に食わなかったんだ。女みてえに髪のばして、人を見下す冷てえ目つきしやがって……」
「同感だ。おれもあんたが気に入らなかった。なんて不細工で頭の悪そうな下士官だと思った。日本人の血が流れている自分をますます呪いたくなった」
「ぬかせ。おれはその百倍も気に食わなかったんだ。……それがよ、本格的にでえっ嫌ぇになったのはあん時だよ。覚えてるか? おれが洋式便所の使い方聞きに言った時」
「いや……」
「大の男がよ、便所の使い方教えてくださいって、頭下げにいったんだぜ? 気持ちを酌《く》んでやんのが武士の情けってもんじゃねえか。それをおめえ、虫ケラ見るような目で見下しやがって、なんて言ったと思う? 『使いたいように使え』だぞ」
思わず苦笑が漏れた。「笑いごとじゃねえよ」と田口は厚ぼったい唇をとがらせる。
「使いたいように使って、おれはひでえ目にあったんだ」
「どんな目だ?」
「聞くんじゃねえよ」と応じた声は半分笑っていた。「お陰さんで煙管服がまっ黄っ黄……」と続けた声は途中で笑いに呑み込まれ、田口はくっくと低く喉を鳴らした。
フリッツも一緒に笑った。重い体を何度か背負い直すうち、腹にわだかまった最後のしこりも溶けて流れて、どうやら自分はもうひとつの道を歩き出したらしい、という鈍い実感を確かめた。ローレライの器に入れた妹を引きずって歩く道ではなく、赤の他人の体重をこの体に受け止め、笑いあいながら歩く道。どちらも体力を必要とするという点では変わりがなく、行く先になにがあるのかも不明確だが、一歩一歩が苦にならない、自分を無防備にさらけ出していられる心地好さはいったいなんだろう。
これが仲間意識というやつか。面倒だが魅かれずにはいられない、一蓮托生という言葉の中身か。人はこうした感覚の中で育ち、故郷を、祖国を、自分が属する人の集団を大事に思うものなのか。フリッツは笑い疲れた顔をうつむけ、昨日、絹見と並んで見た椰子の実の姿を脳裏に思い浮かべた。
ひとりでは生きられず、仲間と寄り添って慈《いつく》しみあうのも人間なら、そのために他の集団に警戒心を抱き、場合によっては恐怖と憎悪を抱くのも人間。環境によっていくらでも変わるし、その気になればどこに行っても生きられるのが人間なのに。恐怖にならずとも恐怖を克服する術《すべ》が、誰の中にもあるというのに。
恐怖で恐怖を克服する……そう口にした時から、この〈伊507〉の連中に寄ってたかって違う≠ニ言われ続けて、たどり着いたのがここというわけか。主砲の旋回軸を通り過ぎ、射撃指揮所に続くラッタルを目前にして、フリッツは再び苦笑した。終着点と認めるにはみすぼらしい場所だが、新しい出発を見送る場所としては悪くない。〈ナーバル〉の気密室では流しきれなかった未練を流しきり、フリッツは先にラッタルを昇るよう田口に促した。「そう急《せ》くなよ」と呻いた大柄に続いて手すりをつかみながら、「……シンヤだ」と小さく口にしていた。
「なに?」
「シンヤだ。……おれの、もうひとつの名前」
これまでは、その名を思い起こすだけで胸がむかつき、誰か口にする者がいれば殺意を向けてきた名前。いまはさざ波ひとつ立たず、むしろすっきりしている胸のうちを眺めて、フリッツはぽかんと口を開けた田口を見返した。
「シンヤ……か」顎をさすり、よろけそうな体を手すりに手をついて支えた田口は、そのまま体勢を崩してラッタルから落ちそうになった。咄嗟に支えに入ったフリッツにつかまると、「……すまねえな、シンヤ」と言ってもういちど手すりに手をのばす。
「すまねえついでに、もうひとつ頼む。もしおれが途中で気ぃ失うようなことがあったら、遠慮はいらねえ。思いっきり頭どついて起こしてくれ。いいな?」
にやりと笑いかけた顔には、もう自責の影も敵意も見えなかった。「了解だ」と返して、フリッツは田口の尻を押し上げた。艦内スピーカーが(両舷、前進半速)と絹見の声を伝え、前進を開始した〈伊507〉の律動が足もとを震わせた。
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「目標、動き出しました」
背後の防水扉を開け、フラッグ・ブリッジから報告の声を張り上げたのは航海長だった。オブライエンはウイングの手すりにもたれかかったまま、きらめく海面に向けた顔も動かさずに、「そうか」とだけ応じておいた。
CICに降りた方がよいのでは? そう言っている航海長の視線は、扉の閉まる音とともにブリッジに引っ込み、艦橋構造部《アイランド》を吹き抜ける風鳴りのみがウイングに残された。CICに戻ったところで、ソナーや見張り員からの報告をただ待つしかない。どうせなにもできないのなら、薄暗い穴蔵より晴天下にいた方が精神衛生上好ましいし、ひょっとしたら敵の顔を拝めるかもしれないという期待もオブライエンにはあった。
ゴースト・フリートの追撃を振り切った〈イ507〉が、アシーガ湾に浮上した時。その時、この〈タイコンデロガ〉は旗艦の役目から解放され、一艦艇として〈イ507〉と渡り合うことができる。来いよ、とオブライエンは眼下に広がる海に呼びかけた。群司令やONIに余計な口は挟ませない。無明の石器人同士、着けるべき決着を着けようじゃないか――。
風鳴りが強くなり、マストから吊り下げられた空中線や旗旒《きりゅう》信号索がざわざわと騒いだ。オブライエンは救命胴衣の襟元に手をやり、三角波が目立ち始めた海面を凝視し続けた。
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深度百メートルを切った海底で、浮上・前進を開始した〈伊507〉の動きはすぐに探知された。〈伊507〉を中心に時計回りの円を描いていた〈アルバコア〉と〈ラガート〉は、即座に周回を中止して隊列を組み直し、〈伊507〉を斜めに挟み込む包囲隊形を構築していった。
〈アルバコア〉が〈伊507〉の左前方五百メートルの位置につき、六百メートルの距離をあけて右後方に〈ラガート〉がつく。海底を這い進む〈伊507〉の速力は、モーターの不調を引き移して十二ノットにまで落ちていたが、最大でも十ノットの水中速力がやっとのガトー級潜水艦には、それでも振り切られかねない速度には違いなかった。あと三キロも進めば深度は五十メートル前後になり、水中戦闘を展開するには手狭になる。〈アルバコア〉と〈ラガート〉は探信音波の符牒《ふちょう》で連絡を取りあい、そろって雷撃可能深度に船体を定位させた。
先制攻撃で敵の足を乱し、反撃を誘って最後の魚雷を使わせる。前後に位置する二艦のどちらかが犠牲になったとしても、魚雷を撃ち尽くした〈伊507〉は張り子の虎になり、残る一艦の手で確実に仕留められる。そんな計算が両艦の間で成り立ち、小細工を抜きにした雷撃を決意させたのだった。〈アルバコア〉と〈ラガート〉は、ソナーを用いて可能な限り正確に〈伊507〉の位置を計測し、その針路と速度、潜航深度を割り出した。それらの数値から照準線と方位角を仮定し、未来位置を予測して、基準射線を中心とする魚雷の散布帯を決定する――ようするに通常の雷撃手順を水中標的に当てはめ、数に頼らず、一発必中を期して魚雷の調定に取りかかったのだ。
差し迫った時間に追われて、一直線にアシーガ湾を目指す敵の動きが予測しやすいこと。もはや反撃は一回しかあり得ないという優越感と、どうせならこれ以上の犠牲は出したくないという意地がないまぜになって、敵に対する警戒心を一時的に弱めたこと。それらの要因が重なり合い、まず後方につく〈ラガート〉が最初に仕掛けた。艦首に六門ある魚雷発射管が順番に魚雷を吐き出し、六本のMk26魚雷が航跡の筋を引いて目標を目指した。
続いて〈アルバコア〉の艦尾発射管が圧搾空気の気泡を噴き、それを突き破って四本のMk26魚雷が〈伊507〉に殺到する。基準射線に沿って放たれた一本を中心に、上下左右に少しずつ射角を変えて撃ち出された魚雷群は、各々十メートル以上の間隔を空けて円陣を組み、深度を下げつつ五百メートルあまりの距離を突き進んだ。もっとも先行した魚雷が〈伊507〉の艦首をかすめ、三十メートルほど離れた海底に突き刺さると、起爆の閃光が〈伊507〉の艦底を青白く染め上げ、ついで発した轟音と衝撃が海底地盤を打ち砕いた。水圧を押しひしげて水中爆発の気泡が膨《ふく》れ上がり、噴き上がった岩の破片と土くれが〈伊507〉の船体を呑み込んでいった。
薄明の海底にどす黒い染みが広がり、その中に飛び込んでゆく魚雷が二つ、三つと起爆の光を閃《ひらめ》かせて、砕けた岩盤と粉塵からなる染みをさらに拡大させる。装填炸薬量四百八キロのMk26魚雷が総計十本、四トンを超える炸薬が一斉に起爆した結果は、主に石灰岩からなるテニアン沿岸の海底地盤を粉砕し、抉《えぐ》り取《と》って、噴き上げられた粉塵は海面にまで達した。超音波と化した衝撃波が上方にそれを押し上げ、一瞬、霧状の靄《もや》に包まれた海面は、次の瞬間には土色に濁った水柱を盛大に屹立《きつりつ》させた。
轟音と衝撃が渦巻く海中では、〈アルバコア〉が減速して後進に転じる一方、〈ラガート〉は逆に速度を上げて、それぞれ前後に移動する両艦が互いの位置を入れ替えつつあった。〈アルバコア〉は目標の左後方に移動し、〈ラガート〉は右前方に移動して、〈アルバコア〉は撃ち尽くした艦尾発射管の代わりに艦首発射管を、〈ラガート〉は艦尾発射管を目標に向ける。そうして次の雷撃に備えるとともに、空になった発射管に次発装填する時間を稼ぐという寸法だった。
魚雷は確実に敵潜への直撃コースに乗り、その散布帯は敵影を完全に包み込んだ。常識的には撃沈と判断すべき観測結果が得られていたのだが、〈アルバコア〉も
〈ラガート〉も、目前の敵を常識の通用する相手と判断するほど愚かではなかった。艦底に設置されたハイドロフォン・マイクの耳を澄まし、QCMソナーが打ち出す探信音波で闇をまさぐって、彼らは消失した敵影を捜した。戦闘はまだ終わっていない。奴は生きている。粉塵の嵐に巨体を紛れ込ませ、落磐と爆発の轟音に機関音を忍ばせて、じっと反撃の機会を窺っている。慎重に慎重を重ねた〈アルバコア〉と〈ラガート〉の判断は正しく、また間違ってもいた。
前後に移動する両艦が、荒れ狂う粉塵の塊を挟んでほぼ平行に並んだ時だった。気泡と砂礫の嵐の中から暗灰色の船体が姿を現し、連鎖する崩落音に紛れて浮上を開始した。旋回式発射管を備えた艦尾が粉塵を裂いて後進すると、後部甲板に横たわる〈ナーバル〉が薄明の中に浮かび上がり、そこここに擦過傷やへこみをこしらえた艦橋構造部、二十・三センチ砲の連装砲身が噴煙を割ってせり上がってゆく。雷撃可能深度まで上昇した〈伊507〉にとって、前方を並進する〈アルバコア〉と〈ラガート〉は射的場の的も同然だった。後進をかけていたスクリュープロペラが逆回りに転じ、その巨体が猛然と前進し始めると同時に、〈伊507〉は最後の魚雷を装填した艦首二番発射管の外扉を開放した。
魚雷が敵潜から射出された直後、〈伊507〉は後進全速で急制動をかけ、鼻先で起爆した魚雷の勢いも借りて一気に後退していたのだった。そうとは知らずに爆心地にソナーを集中させ、後方の警戒を忘れた〈アルバコア〉と〈ラガート〉は、背後で唐突に発した〈伊507〉の機関音に自らの失策を悟った。両艦は急きょ回避行動に移り、艦尾発射管に魚雷を装填している〈ラガート〉は、当てずっぽうを承知で雷撃準備に入った。パッシブ・ソナーの観測結果を頼りに魚雷を撃ち放ち、態勢を立て直す時間を稼ぐつもりだったが、その挙動が〈ラガート〉の命運を決することになった。
回避行動に専念した〈アルバコア〉に対し、雷撃を企図した〈ラガート〉は必然的に動きが鈍り、〈伊507〉はそのわずかな遅れを見逃さなかった。全速航走する〈伊507〉の艦首から九五式酸素魚雷が撃ち出され、それは急速に加速して最高雷速四十ノットに達した瞬間、〈ラガート〉の艦尾に激突した。
左舷の横舵を弾き飛ばし、スクリュープロペラに弾頭をめり込ませた魚雷は、スクリュー軸を支えるシャフトブラケットを根元からへし折り、飛び散った破片が右舷のプロペラにも致命傷を与えた。ねじ曲がったスクリュー軸は、付け根であるエディプレートの膨らみを抉り取るように暴れ回り、艦内では減速機がたちまち火花を噴き上げた。推進力を失った〈ラガート〉はみるみる速度を落とし、浮き沈みする鉄管に成り果てた体を海中に立ち竦ませた。
その目と鼻の先を、〈伊507〉が通り抜けてゆく。巨体が巻き起こす乱流に揺さぶられ、制御を失った船体をぐらつかせる〈ラガート〉をよそに、〈アルバコア〉が増速をかけて〈伊507〉の追撃を開始した。
旗艦〈タイコンデロガ〉が待ちかまえるアシーガ湾まで、あと三キロ弱。これまで後方で待機していた水上艦艇部隊も、アシーガ湾に集結しつつある。仮に追いつけなくとも、湾内に追い詰めて挟み撃ちにすることは容易だが、〈アルバコア〉は最大戦速を緩めずに〈伊507〉に猪突した。もう一発の魚雷も残っていない〈伊507〉に対して、〈アルバコア〉の魚雷残量は十本。湾内にたどり着くまでに独力で撃沈する――ゴースト・フリート最後の一艦の意地が海中に渦巻き、〈伊507〉を追った。
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横舵とスクリュープロペラの羽根を散らして、指標〈ホ〉の砂模型が海上に退避してゆく。その一方、〈伊507〉の砂模型を挟んだ反対方向でゆらりと転舵し、猛り狂ったかのごとく接近してくる指標〈ハ〉の砂模型を、絹見はろくに視界に入れなかった。
「拘束具解除! 〈ナーバル〉発進」
マイクに吹き込み、最後にもう一度ヘルゼリッシュ・スコープに取りつく。接近する〈ハ〉の方位と距離。海底の地形。湾の入口に待機する敵旗艦までの距離と、周辺の海底岩礁の形。急速に湾に集結しつつある水上艦艇の群れ――総計十七杯の艦種と到達予想時間。それらを瞬時に網膜に焼きつけ、脳裏に刻み込むまでに、(〈ナーバル〉、発進します!)と征人の生硬い声がスピーカーから流れ、鈍い衝撃が艦尾方向に発した。船体が海水を裂く音、機関の唸りの中に別の振動音が混ざり、それが次第に大きくなってゆく。
〈ナーバル〉の機関が始動した音。絹見はヘルゼリッシュ・スコープをめぐらし、倍率を等倍に設定して〈伊507〉の後部甲板を見下ろした。拘束具の鉄輪が観音開《かんのんびら》きに外れ、猛禽《もうきん》の嘴《くちばし》に似た〈ナーバル〉の艇首が身じろぎすると、後部甲板に半ば埋まった船体がごとりと交通筒から外れる。途端に砂嵐が視野を覆い、精緻な砂鉄の模型がさらさらと崩れ去って、背景の緑色の微光までが闇に塗り潰された。
背後のコロセウムに振り返る。すでに微光は消え、流れ落ちる砂鉄の最後の筋が透明な球体の底に見えた。〈ナーバル〉と〈伊507〉を繋ぐ配線が切り離され、ローレライ系統のすべてが遮断した――。微かに重力が増したような感覚に襲われ、もうあの幻想的な砂模型を見ることもないか……と内心に呟いたのを最後に、絹見はコロセウムに背を向けた。マイクを取り、「発令所、〈ナーバル〉。聞こえるか」と努めて冷静な声を吹き込む。
(聞こえます。感度良好)
「よし。作戦は先に伝えた通りだ。敵潜は本艦の左舷から接近しつつある。〈ナーバル〉は艦体を楯《たて》にして、艦の右舷側を並進。敵の探信儀に気取《けど》られるな。敵潜の位置と艦の変針は逐次知らせるから、それに従って艦にぴたりと張りつくんだ」
(了解であります)と征人。「パウラ・エブナーもよろしいな?」と続けた絹見は、(はい。やれます)と返ってきた澄んだ声を聞いてから、「水測!」と聴音室に呼びかけた。「敵スクリュー音、方位一五二。距離六百!」と応じた唐木の肉声がスピーカーからも伝わり、ようやくわずかに息をつくことができた。
あとは折笠征人の操艇技量と勘、パウラとの連携《れんけい》がうまくいくことに賭けるしかない。絹見は「面舵、二十度」と令し、使わなくなって久しいストップウォッチを懐から取り出した。魚雷がなくては役に立たない代物だが、ローレライの目を失い、当たり前の潜水艦になった〈伊507〉を操る立場としては、心もとなさを慰める小道具のひとつも欲しいところだった。
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(変針用意。面舵三十度、五秒前)
縦舵の舵輪を握り直した直後、(四、三……用意、てっ)と絹見の声が続き、征人は舵輪の脇に設置された方位計の針を見据えつつ、慎重に舵輪を回していった。右に転舵した船体の慣性を感じ、速力計と回転計の目盛りを確かめようとすると、下から突き上げる衝撃が〈ナーバル〉を揺らした。
艇内に注水した十トンあまりの海水が騒ぎ、重心の狂った船体が後方に傾斜する。こちらの速度に合わせて減速していても、〈伊507〉の巨体が巻き起こす乱流は生半可なものではない。母艦にへばりついて並進する〈ナーバル〉は簡単に制御を失い、征人は横舵を操作するフットペダルを踏み込み、潜舵の操作レバーを引いて、排水ポンプを数秒間だけ作動させた。同時にモーターの回転を一杯に上げ、水平計がゼロ値になるのを待って出力を下げる。
「頭、ちょい出てる。深度を下げて」とパウラ。聴音器も探信儀もなく、ほとんど目隠しで操艇を強いられている身には、その声が外界の状況を知る唯一の手がかりになる。「了解」と応じて、征人は艇内注水レバーを心持ち押し下げ、深度計の目盛りがゆっくり下がるのを待った。敵の探信儀に分離を気取られないためには、〈伊507〉の陰に隠れ続けなければならない。一刻も早く深度を下げ、陰からはみ出してしまった船体を隠したいところだが、ここで慌てた操艇をすると〈伊507〉と接触する危険性がある。艇内に感知用の水を溜め込んだ〈ナーバル〉は、バラストタンクを空にしてどうにか浮力を保っている状態で、〈伊507〉との相対距離は約十メートルしかないのだ。曳航索が双方を結びつけていれば、それがスクリューに絡まないよう留意する必要もあった。
焦りは禁物。何度目かの呟きを呑み下して、征人は深度計の目盛りを読み、艇内注水レバーを定位置に戻した。額をしたたる汗とも海水ともつかない水滴を素早く拭い、縦舵の舵輪を握り直す。
(敵潜、方位一一〇。距離六百)
唐木水測長の報告を、「面舵で回頭中。本艦の左舷真横に出ます」とパウラが補足する。前部座席の背もたれごしに見えるその頭は、システムの遮断とともにヘルツォーク・クローネをぬぎ捨てているので、形のよい頭を包むやわらかな髪が直《じか》に目に入ってくる。そこだけ生身の質感を浮き立たせたパウラの後頭部を見つめ、なぜかずしりとした重みが肩にのしかかるのを感じた征人は、〈伊507〉と〈ナーバル〉、指標〈ハ〉の位置関係を思い描くことに集中した。
指標〈ハ〉を引きつけながら次第に減速し、小刻みに舵を切って右に回頭した〈伊507〉は、いまはアシーガ湾に横腹を向ける形で潜航している。対して指標〈ハ〉は減速せずに〈伊507〉を追い抜き、アシーガ湾の手前で大きく弧を描いて、その艦首をこちらに向けつつあった。雷撃で確実に相手を仕留めるには、敵艦の真横に回るのが基本。減速して横腹を見せた〈伊507〉は、〈ハ〉に理想的な射点を与えたことになる。反撃される心配がない以上、できる限り接近してこちらを仕留めようとするはずだった。
アシーガ湾の入口に待機する敵旗艦を背にして、指標〈ハ〉が必殺の魚雷を撃ち込んでくる瞬間が、勝負の分かれ目になる。(舵戻せ。前進微速)と発した絹見の声に、征人はモーターの出力を下げて〈ナーバル〉を並進させた。曳航索が引っ張られるぎゅっという軋みが艇底に伝わり、「下げすぎ。速度を上げて。増速一」とパウラがすかさず指示を出す。
くそ、フリッツ少尉は母艦の動きを感じ取れって言ったけど、なんにもわかりゃしない。目が早いのなんのと言われても、肝心な時はいつも五里霧中だ。(敵潜、方位一〇〇。距離五百五十)とスピーカーから流れる声も数字の羅列としか聞こえず、征人はじりじりする思いで舵輪を握りしめた。モーターの振動で小刻みに蠕動する水面を見下ろし、天井から降り注ぐ結露の水滴を見上げた時、「来た……!」と短く詰まったパウラの声が耳朶を打った。
「敵潜、魚雷発射。雷数二……四」
前部座席から発したパウラの声に、(スクリュー音複数! 方位〇九五より急速に近づく)と唐木の声が重なり、征人は反射的に排水ポンプの作動スイッチに手をのばした。思ったより早い。動揺を抑える間もなく、「上昇して!」とパウラの指示が飛び、勝手に動いた手足が排水ポンプのスイッチを入れ、横舵のフットペダルを踏み込んでいた。
(距離五百!)
深度計の針が五メートルほど上昇する。それまで遠かった探信音波の金属音が途端に大きくなり、征人は全身が粟立つのを感じた。〈伊507〉の陰から浮上した〈ナーバル〉に、敵潜の探信音波がまともに当たるようになったのだ。風よけが取り払われ、荒れ狂う暴風に生身をさらしたような感覚。これまで重ねてきた犠牲、やってきたことのすべてがこの手にかかっている、そう思えば思うほど手足がこわ張り、状況判断の頭が働かなくなって、不安と緊張ばかりが膨れ上がってゆく。連続する探信音波に殺気を感じ取りはしても、目前に迫った魚雷の気配はまったくつかめず、征人は絶望的な気分になった。〈伊507〉との位置関係も、敵潜の位置も頭から消し飛び、まるで見当がつかない。
どうする、清永。こんな状態でおれにやれるのか? 「取り舵二十!」と叱るようなパウラの声が飛んで、征人は機械的に舵輪を動かした。左に回頭した〈ナーバル〉の船体が〈伊507〉と直角に向き合い、殺到する魚雷群と正対したはずだが、やはり計器の針が動いたという感触しか得られなかった。二ノットの微速で進む〈伊507〉の針路、指標〈ハ〉の方位、〈ナーバル〉の回頭角度。ひとつひとつを頭に捉え直すうち、予想より早く方位計の針が動いてしまい、「止めて」と発した鋭い声に慌てて舵を戻した。
落ち着け、しっかりしろ。汗のしたたる瞼をきつく閉じ、開く。(距離四百!)とスピーカーがわめき、征人は舵輪のすぐ上に見えるパウラの頭を覗き込んだ。ここからは表情は窺えず、「敵潜、取り舵で回頭中」という硬い声だけが狭い艇内に響く。感知の最中にある体は微動だにせず、征人はふと、独り取り残された時の苦い感覚を思い出した。
子供の頃、寂しさに耐えかねて母の勤める遊郭に赴くたび、何度も見た背中。もう大きいんだから、独りで帰れるわね? そう言い、勤めに戻ってゆく母の背中。すっかり忘れたつもりでいた背中が目前の少女に重なり、征人は唾棄《だき》したい衝動に駆られた。こんな時に、冗談じゃない。吐き捨てた勢いで魚雷の発射|釦《ボタン》に手をかけ、無意味な記憶を脇に押し退けた。
(距離三百!)
悲鳴に近い唐木水測長の声が響き、甲高い魚雷の駛走音が探信音波の反響音に混ざる。発射釦を押したい衝動を堪えて、征人はもう一度パウラを覗き込んだ。ぎゅっと閉じられた瞼が前髪ごしにちらりと見え、がちがちにこわ張った肩の先で、水に浸けられた両手が小刻みに震えているのが見えた。これから始まる苦痛――百もの怨霊《おんりょう》を身ひとつで受け止める、耐えて耐えきれるものではない苦痛を予期して、じっと備えるかのように。
(距離二百!)
猛烈な羞恥心《しゅうちしん》が喉元までこみ上げ、スピーカーの声も、魚雷の駛走音も頭の中から消えた。なにをやってるんだ、おれは。この期《ご》に及んでいつまで救われるのを待つ気だ。本当に救いが必要なのは、自分に向けられた背中の方――遊郭の玄関に吸い込まれる母の背中であり、目の前で震えるパウラの背中の方なのに。征人は左手を魚雷の発射釦にかけたまま、右手で水面下のパウラの手のひらを引き寄せた。哀しいほど冷たい手のひらを握りしめ、ずしりと肩にのしかかってくる重みをいまいちど確かめた。
ひとりの人間の生をまるごと受け止め、背負い込んだ重み。骨身に沁み渡ったそれが細胞という細胞を活性化させ、パウラが感じているものを征人に伝えた。指先の震えが魚雷の航跡を教え、密着した肌が敵潜の所在を教えて、征人はしっかり握り返してきたパウラの手のひらを全身で感知≠オた。
(距離百!)
耐圧殻を揺さぶる駛走音を突き抜けて、唐木の怒声が轟く。「発射時機、近づく」と口にしたパウラの意志を、征人は言葉になるより早く察知した。
横一線に広がって殺到する魚雷は三本。遅れてさらに一本。すべて直撃コースだ。その向こうで、指標〈ハ〉は次の射点に移動するべく艦首をめぐらせ、こちらに横腹を向けつつある。「用意……」と言ったパウラの声が駛走音の中に混ざり、征人は魚雷発射釦に載せた指に意識を集中した。
「撃てっ!」
瞬間、パウラの思惟が征人の肉体に流れ込み、発射釦にかけた指に信号を送ったようだった。そう意識する前に征人は発射釦を押し、外装発射管が弾け飛ぶ震動を足もとに感じた。
魚雷の起動によって前扉が吹き飛び、外装発射管が両舷の懸架から抜け落ちると、ドイツ製のTV魚雷が〈ナーバル〉を背に飛び出してゆく。三百二十馬力のモーターが全長七・一八メートルの雷筒を駛走させ、敵魚雷群と交差するまでに、全身を声にしたパウラの号令が艇内に響き渡った。
「全艦離脱!」
〈伊507〉のスクリュープロペラが轟然と回転速度を上げ、百十メートルの船体が脱兎のごとく前進を開始する。征人もパウラの手のひらを離し、〈ナーバル〉の機関を最大出力に上げていった。
接近する魚雷の駛走音が極限まで膨れ上がり、耐圧殻を叩く。最大戦速で離脱する〈伊507〉と、曳航索に繋がれて後を追う〈ナーバル〉の間を最初の魚雷がすり抜け、二発、三発目の魚雷が左右に広がって後に続いた。直後に起爆の轟音と衝撃が弾け――征人の五感を白一色に染め上げた。
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青白い閃光が海面下で二、三度瞬き、ふわっとわき上がった霧がそれをかき消した。直径三百フィート(約九十メートル)近く海面を覆った霧は、次の瞬間には中央から巨大な水柱を聳立《しょうりつ》させ、その純白の幹をみるみる成長させていった。
一拍遅れて、大気を揺さぶる重低音が轟き、世界に穴が開くような大音響をテニアン沖の海上に響き渡らせる。〈タイコンデロガ〉の巨体までもが揺さぶられる錯覚に襲われ、オブライエンは無意識にウイングの手すりを握りしめた。半マイル(約八百メートル)と離れていない海上に現出した水柱は、先刻噴き上がった土砂混じりのものとは異なり、夾雑物《きょうざつぶつ》のない白色の柱を数百フィートの高さに押し上げ、ゆっくり崩れ去ってゆく。飛行甲板の整備兵たちが呆然とそれを見つめる中、フラッグ・ブリッジからも数人の士官が飛び出してきて、ウイングから身を乗り出して水柱が崩落するさまを見守った。航海長もオブライエンの隣に並び立ち、霧に姿を変えて消失する水柱を声もなく凝視する。
「……敵でしょうか?」
折から吹き始めた南風に霧が押し流され、泡立つ海面にぽつぽつと残骸の影が見えるようになった頃、航海長がようやく口を開いた。オブライエンは南東の方角に顎をしゃくり、「奴には残り一本の魚雷しかなかった」と応じた。
「その一本はあれに使われている」
五分ほど前、〈タイコンデロガ〉より南東に一マイル半(約二・五キロメートル)ほど離れたところに浮上した〈ラガート〉は、盛大に噴き上がった水柱をよそに低い艦影を沈黙させていた。例によって雷管抜きの魚雷を艦尾に食らい、舵機とスクリューを破壊されたらしい。自力では航行できず、〈バルヘッド〉や〈キート〉ともども曳航するよりないが、実施されるのはまだ当分先だろう。自隊の艦艇の救難|目途《めど》も立っていない第三八任務部隊特別混成群に、ゴースト・フリートの面倒をみる余裕はない。
「では……」と日焼けした顔に喜色を滲ませかけた航海長は、こちらと顔を合わせると途端に戸惑う顔つきになった。「多分な」と返した自分の声が、いかにも不服な胸のうちを露にしていることを自覚して、オブライエンはその場を離れた。
最後の魚雷が〈ラガート〉に使われた以上、〈イ507〉に敵を撃沈する能力はない。その状況下で艦の爆沈を示す水柱が噴き上がったとなれば、それは〈イ507〉が沈められた証《あかし》に他ならず、ゴースト・フリートの最後の一艦〈アルバコア〉との通信が回復し次第、作戦の終了が全部隊に下知されるはずだった。そのこと自体に疑いはなく――いや、疑いがなければないほど膨れ上がってくる不満を抱いて、オブライエンはフラッグ・ブリッジに続く防水扉をくぐり抜けた。
肩すかしを通り越して、いっそ裏切られたと憤《いきどお》っている感情の出所は判然としないまま、足早にブリッジを通り過ぎる。通路に下るラッタルに足をかけたところでワイズと出くわし、オブライエンは咄嗟に「群司令は?」と声をかけた。常に平静を装う艦長の反射神経がさせたことだが、ワイズは気にする素振りもなくロイド眼鏡に手をかざした。
「下でソナーをせっついてます。回復まで二、三分はかかるという話ですが」
水中爆発の轟音はパッシブ・ソナーを潰し、まき散らされた破片と水泡はアクティブ・ソナーの観測も困難にする。いらいらとソナーの回復を待つボケットの様子を思い浮かべつつ、「さっそく回収の準備というわけか」とオブライエンは独りごちた。敵の撃沈が間違いのないものになれば、ローレライ・システムの破片のひとつでも回収するのがボケットの仕事になる。
「お気に召さないので?」
その仕事を押しつけたONIの使いは、意外に落ち着いた顔で窺う目を向けてきた。オブライエンは、「いや。ただ……」と応じてブリッジの窓外に目を向けた。
「会ってみたかったのだがな」
海上を漂う霧はここからは見えず、窓から差し込む陽光が操舵長や信号員の横顔を照らしていた。眉をひそめたワイズの視線を避けて、オブライエンはひと息にラッタルを下った。
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爆発で引きちぎれた無数の破片が海流に流され、ゆっくり沈んでゆく一方、飛び散った重油の塊やコルク材、布の切れ端などの浮遊物は、ある物は海中をあてどなく漂い、ある物は光射す海面を目指して浮かび上がる。その中を粛々《しゅくしゅく》と進む〈伊507〉は、ぼろぼろの船体に折れた手すりを引きずっており、傍目には大きめの残骸としか見えないに違いなかった。
片方の潜舵がへし折れた艦首に浮遊物のひとつが当たり、ごとんと鈍い音を艦内に響かせる。身じろぎもせずにその音を受け止め、発令所にいる男たちは息を詰めて待っていた。時刻は午前九時二十二分。あと八分の残り時間を確かめ、最低限の損傷確認、DRTによる現在位置確定、それをもとにした最終航路の設定などの作業を進めながら、艦内スピーカーが声を発するのを待つ。口には出さなくとも、誰もが低く唸る雑音に耳をすまし、曳航索具で繋がった通信相手の無事を祈る時間が続いた。
一秒が一分にも思える数秒が過ぎ、スピーカーが通信回復を告げる断続的な雑音を発した。発令所要員たちは一斉に顔を上げ、絹見も内壁に設置されたスピーカーの筐《はこ》を見上げた。
(〈ナーバル〉より発令所。敵潜、撃沈せり。我、損傷軽微なり)
ほっと全員の口から漏れた安堵の吐息は、敵潜の撃沈が確かめられたことにではなく、無事が確認できた〈ナーバル〉に向けられたものだった。自分も小さく息を漏らしつつ、絹見は「パウラ・エブナーは?」とマイクに吹き込んだ。
(……平気です。針路上に敵影なし。後方より水上艦艇部隊が接近中。湾内にいる敵旗艦に特別な動きは認められず)
芯のある細い声が、感知能力の健在も伝えてすぐに返事を寄越した。スピーカーごしにも苦しげな息づかいが伝わってくる声音だったが、意識を失っていないのなら問題はない。そう自分を納得させ、「ご苦労。よくやってくれた」と応じた絹見は、(回収を望みます)と即座に続いた征人の声に虚をつかれた。我知らず周囲を見回し、こちらを注視する発令所要員たちの表情を順に確かめていった。
木崎が曖昧な苦笑を浮かべる横で、運用長は真剣な面持ちで頷き、操舵長もいいでしょうというふうに何度も首を縦に振る。この中ではいちばん年嵩《としかさ》の海図長は、時間がない、早くしてやってくれと言いたげに腕時計とスビーカーを交互に見遣《みや》り、水密戸の向こうでは唐木水測長が納得ずくの顔を覗《のぞ》かせていた。
それらの視線に背中を押され、最後の一歩を踏み出そうとしている我が身を自覚して、絹見はひとつ大きな息を吸い、吐いた。マイクをしっかりと握り直し、「回収はしない」と出した声が全艦に響き渡るのを聞いた。
「現時点をもって〈ナーバル〉は廃棄する。〈ナーバル〉乗組員は自力で戦場を離脱し、以後、自らの判断によって生存の道を探ること。……以上だ」
自分でも驚くほど静かな胸で言いきり、絹見は発信釦から指を離した。返信はなかった。誰もひと言も話さず、時間の止まった静寂が〈伊507〉艦内を包み込んだ。
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一度止まった心臓が、猛烈な勢いで鼓動を始めたようだった。前部座席に横たわっていたパウラが起き上がり、呆然とした顔をこちらに向けたが、目を合わせる余裕もなかった。征人は艦内電話の受話器を握りしめ、「どういう……ことでありますか?」と、かすれた声を搾り出した。
(もう〈ナーバル〉と接合してローレライ系統を復旧させる時間はない。その必要もない。後は我々だけで作戦は完遂《かんすい》できる。おまえたちは生き延びるために最善を尽くせ)
受話器とスピーカーの両方から流れる絹見の声は、下令する時の有無を言わさぬ口調だった。用意しておいたような言葉だと思った途端、いままでなにを考えていたのかもわからない空白が頭の中で広がり、征人は前部座席の背もたれから覗くパウラの顔を見た。先刻までこちらに向けられていた顔は、いまは横を向いてうつむいており、鳶色の瞳がぱらりと垂れ下がった前髪ごしに見えた。
長いまつ毛の下で、虚脱の昏さを湛えた瞳が揺れていた。なぜそんな顔をする。なにをあきらめることがある。艇内の水がひやりと冷たくなり、征人は両手で受話器を抱え込んだ。〈ナーバル〉の底が抜け、独り深海に沈んでゆく恐怖に胸を圧迫されながら、「しょ、承服できません!」と夢中で叫んでいた。
「自分だって〈伊507〉の乗員です! 最後までつきあいます。ここで置き去りなんてないですよ……!」
絹見は返信を寄越さず、パウラもうつむけた顔を上げようとしない。自身、無駄だと呟く胸中を無視して、征人はとにかく言葉を継ぎ続けた。
「接合の時間がないなら、このまま曳航していけばいいんです。口頭で感知結果は伝えられるんですから。……そうだよな?」
咄嗟にパウラに受話器を押しつけたのは、噴きこぼれそうな感情をこれ以上抑える自信がなかったからだった。微かに顔を上げたパウラは、「私は……」と呟いた声を詰まらせ、受話器を当てた顔を再びうつむけていった。
「この艦《ふね》が、家なんです。他に帰れるところなんてない。だから、いいんです。一緒に行きます。そうするのが、私の……」
(いまの自分が全部じゃない。……そうだろう?)
濡れた述懐を遮って、スピーカーから届いたのはフリッツの声音だった。潤《うる》んだ目を見開いたパウラとともに、征人は(パウラ)と重ねられた声を悄然《しょうぜん》と受け止めた。
(おれたちは、祖国を失う哀しみを知っている。根無し草として生きなければならない辛さも知っている。そしていまは……その気にさえなれば、帰るべき家や国はどこにだって見つけられることも知っている。血とか民族とか、そんなものは関係ないんだ。自分たちの未来を賭けてもいいと思える場所……そこがおれたちの祖国になり、故郷になる。
決まっていることなんかなにひとつない。なりたい自分になれ)
前に自分が言ったことだ。空白になった頭がそう呟き、征人はなにも見えていない目を水面に落とした。妹を頼む、と言った時の横顔。わざと自分の言葉を引用して妹に語りかけ、それで察しろと仄《ほの》めかす不器用な態度。それらが渾然一体となって渦巻き、勝手だ、という思いひとつを胸の底に結実させた。
勝手だ。いつだってそうなんだ、あなたは……。その思いが雫になり、うつむけた顔からしたたり落ちると、水面にひとつ小さな波紋を作る。体を包む水がまたしんと冷たくなるのを感じながら、征人は両の拳をただ握りしめた。
(そうだ、帰る家なんてのは、男ならてめえの腕ひとつで作ってかなきゃなんねえもんなんだからな)
田口の声が続いて割って入り、征人はのろのろと顔を上げた。パウラも前部座席の背もたれに押し当てた顔を上げ、内壁のスピーカーに腫れた目を向けた。
(水と空気とお天道さん、それにちょっぴり栄養のある土があれば、人間どこでだって生きていける。好きな場所で、好きな女と暮らして、子供を育てろ。たくさんの人と交わって、子供に誇れる世の中を作るにゃどうしたらいいか、じっくり考えるんだ。
貴様は目が早い。おれが見込んだ男なんだから、なにをやったってうまくいくはずだ。せっかく手に入れた自由を腐らせるんじゃねえぞ。……お嬢さん、いろいろ面倒かけると思うけど、性根のやさしい、いい男だ。よろしく頼む……な……)
途切れがちになった音声が、田口の体力の限界を伝えているのか、通信機器の不備のせいなのかは判然としなかった。増速をかけ、回転数の上がった〈伊507〉のスクリュー音が海中を伝播して耐圧殻を叩き、征人は慌てて舵輪を握りしめた。
速度調整のレバーに手をかけ、フットペダルを踏んで横舵を水平に戻す。〈ナーバル〉の機関出力が〈伊507〉と段違いなのは承知だが、関係なかった。たとえ追いつけなくても、アシーガ湾までくっついて行ってやる。レバーを引き倒そうとした征人は、(そこまでだ)と発した鋭い声に止められた。
(ついてくれば敵前逃亡とみなして、〈ナーバル〉を沈める)
こちらの挙動を見ていたかのような艦長の声に、レバーにかけた手の力が萎えた。「敵前……逃亡?」と呟いた声を圧して、(脅しではない。魚雷はなくても、体当たりで動けなくするぐらいのことはできる)と絹見の硬い声が続いた。
(我々の仕事はこれで終わる。これから長い戦いに臨まなければならないのは、おまえたちの方だ。……健闘を祈る)
最後のひと言は、のびきった曳航索が切り離される音に半ばかき消された。「艦長……!」と呼びかけた声は狭い艇内に行き場なく滞留し、遠ざかる〈伊507〉のスクリュー音がそれを千々《ちぢ》に散らしていった。
細い肩を震わせ、嗚咽を押し殺すパウラの息づかいが後に残された。征人は、ひどく重く感じられる受話器を艦内電話装置に戻した。掛け金に引っかけたつもりが、滑り落ちて水面に飛沫を上げたが、拾おうという神経は働かなかった。もうそこから命令が届くことはない。助けを求めることもできない。自分を縛りつけ、叱り、教え導いてもくれた艦は、呆気なく行ってしまった。必死に抗《あらが》い、息苦しさを覚えながら、いつしか自分のすべてになっていた場所。その一切合切が自分たちを取り残し、去ってゆくのだという実感が徐々に胸を埋めて、どうする? と征人は自問した。
命令する者も、教えを請《こ》える者もいない。反発してがむしゃらに食ってかかる相手すらいない。文句を言う間に自分で考え、自分で行動し、自分で結果を出す。これからはそうしなければならないのだと、水面下に転がる受話器を見つめてぼんやり思いついた。生きるも死ぬも、すべて自分の考えひとつ。パウラの生死も、〈伊507〉の男たちの意志を生かすも殺すも、なにもかも自分の行動次第。すべてが自分の責任――。
手のひらに触れる水の冷たさが骨身に沁み渡り、パウラの低い嗚咽が肩に重くのしかかった。自由を腐らせるな、健闘を祈る。二度とは聞けない男たちの声を手繰《たぐ》り寄せ、のしかかる重みを振り払った征人は、「泣くなっ!」と一喝して顔を上げた。
「これより本艇は、絹見艦長最後の命令を実行に移す。敵影感知、できるな?」
反射的に背筋をのばし、涙で腫れた目を二、三度しばたいたパウラは、「……はい」と気圧《けお》された様子で頷いた。自分も腫れている目を逸らして、征人は「面舵一杯!」と声を張り上げた。
「敵の探信儀を回避しつつ、最大戦速で戦場を離脱する。前席は感知|怠《おこた》るな。新針路〇二〇!」
舵輪を握り、転輪羅針儀に目をやる。性懲りもなくこぼれてくる涙が視界をぼやけさせ、艇内に張った海水で思いきり顔を洗ってから速力調節レバーに手をかけた。ともかくも感知態勢に入り、「針路上に敵影なし。北東から南南東にかけて敵艦多数接近中」と告げたパウラの声に、征人はレバーを一杯に引き上げた。
モーターの回転が上がり、右に転舵した〈ナーバル〉の船体が前進を開始する。八ノット、九ノットと上昇してゆく速力計を見、ごうごうと唸る海流を耐圧殻ごしに聞けば、なにをどうしていいのかわからない不安も後方に流れ去り、まずは当面の危機を回避するという思考が征人の頭を埋めた。後のことは後になって考えればいい。たとえ一生後悔することになったとしても、いまこの瞬間にも腹の底を突き上げ、前へ進めと訴える熱情の塊は、他の誰でもない自分自身のものなのだから。
なにがなんでも、生きてやる――。衰《おとろ》える気配のない熱情に衝《つ》き動かされ、征人は舵輪を握り続けた。〈伊507〉のスクリュー音はもう聞こえず、〈ナーバル〉のモーター音が行く当てのない命二つを押し包んだ。
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午前九時三十分。定刻ちょうどに離陸許可が下り、〈ドッグ・スレー〉は滑走路を前進し始めた。
フットペダルを踏んでブレーキを解除するまでに、窓とハッチの閉鎖を確かめ、ターボ過給器のノブを八の位置にセット。プロペラ速度調整スイッチを入れ、プロペラの回転速度を最大rpmにまで高める。ほとんど体が覚えている手順をこなした後は、離陸直前の加速に身を委《ゆだ》ねるだけだった。レイシーは四本並んだスロットルレバーに左手をかけ、すべてのレバーをゆっくり開いていった。
風向きは二百八十五度、風速六ノット。管制塔が伝えてきた数値を反芻しつつ、後方に流れてゆく滑走路と速度計を交互に注視する。通常の離陸速度は計器速度《IAS》九十五マイルだが、今日の〈ドッグ・スレー〉はスキニーアンクルという珍客を腹に抱えている。痩せっぽちという名前とは裏腹に、超重量級の原子爆弾を抱えて飛ぶには、IASを百以上に持ってゆく必要があった。レイシーはいつもより早めにスロットルを全開にして、IAS百十マイルに達した時点で操縦輪を手前に引いた。
二十五度まで下げられた両翼のフラップが風を孕《はら》み、B−29の巨体がふわりと浮き上がる。機体が重い、と感じられたのは最初の数秒で、滑走路のラインが眼下に沈み、滑走路の端にあるクラッシュ・バリアー、第一飛行場のフェンスを飛び越えると、東ハゴイ農区の緑が風防の下半分を流れるようになった。レイシーはペダルを踏んで着陸脚にブレーキをかけ、「着陸脚、収納」と副機長のビガーに命じた。プロペラの轟音に油圧駆動の振動音が混ざり、着陸脚位置警告灯が消えた頃には、機の高度は四百フィート(約百二十メートル)に達していた。
(尾部砲手より報告。〈モンスーン〉も滑走を開始しました)
操縦席脇のアクセスハッチを開け、着陸脚の収納を目視で確かめたビガーが言う。機長が操縦に専念する間、各搭乗員から上がってくる報告をより分け、中継するのも副機長の仕事のひとつになる。レイシーは「了解した」と応じ、なんとはなしに〈モンスーン〉の機長の顔を思い出した。自分より二年早く中佐になったノーラン機長。ナガサキを爆撃した〈ボックス・カー〉の機長、スイーニー中佐の同期で、序列からすれば今回の爆撃を任されてもおかしくないのだが、訓練成績の結果から〈ドッグ・スレー〉にその役を譲り、自らは観測機の機長を務めることになった。もっとも本人は、チベッツ司令と折り合いが悪いのが原因で、腕のせいではないと広言していると聞く。
「望む者に栄誉は与えられず、か……」
この任務が栄誉と呼べるならの話だが。内心に付け足したレイシーは、(は?)と怪訝な視線を寄越したビガーに多少慌てた。ほんのわずかな呟きでも、咽喉マイクはしっかり音を拾ってしまったらしい。「いや」と応じて、レイシーは正面に顔を固定した。
全神経を総動員しなければならない離陸時に、余計な雑念が入り込んでくる。よくない兆候だった。腹に抱えた魔物の毒気に当てられたか? そんなことを考え、高度計が五百フィートに差しかかる瞬間を見逃したレイシーは、舌打ちを堪えて「フラップ収納」と命じた。
最低高度五百フィート、IAS百六十マイルに達したら即座にフラップを収納。初歩中の初歩でつまずきかけた動揺は腹に収め、レイシーは前面の風防を彩るテニアン島の景観を見据えた。農区の緑は二キロも進むと見えなくなり、その先にはサイパン水道に面したポンタノタークルの岸壁。ごつごつした岩肌を境に広がる太平洋の蒼茫《そうぼう》は、南洋の日差しを反射して一面に光の粒を散らしており、すべてを跳ね返すような硬質な印象を見る者に与えた。
数キロと離れていないサイパン島は黒々と横たわり、長大な弧を描く水平線は彼方で空と溶けあって、それより先にあるものを見せようとしない。だがトーキョーは――細長い列島のくびれた部分に築かれた日本の首都は、あの水平線の先に間違いなく存在する。離陸直前に管制塔から受け取った報告では、目標上空は快晴。投下作戦の実施になんら問題はないと言う。いまから五時間後、日本時間午後一時三十分前後に、スキニーアンクルは確実に投下されるだろう。三発目の原子爆弾がキノコ雲を噴き上げ、ジャップの頭を根こそぎ吹き飛ばすだろう。以後どうなるか、ビガーとの賭けの結果がどう出るかは、その時が来てみなければわからない。
さっさと終わらせるだけだ。左右の砲手からフラップ収納確認の報告が上がってきたのを潮に、レイシーは物思いをやめた。往復十時間以上の長いフライトになる。余分な思考は切り捨て、いかなる事態にも対応できる平常心を保っておく。それが機体を構成するもっとも高価な部品――パイロットの役目だった。
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「時間だな」
そう言ってにやと笑いかけたボケット群司令に、オブライエンはすぐには応じることができなかった。なんの話をしているのか、CICに戻ったばかりの身には判断がつきかねたからだ。
午前九時半ちょうどを指している腕時計を見て、ようやく合点がいった。「はあ」と生返事を返すと、ボケットは片方の眉をひそめたのも一瞬、すぐに笑みを取り戻してプロッティング・ボードに向き直った。敵の目論見が無為に終わったと確認できて、戦力の四分の一以上を無力化された恨みも多少は晴れたというところか。こちらは溜飲《りゅういん》のひとつも下げられず、むしろより明瞭になったいら立ちを抱えて、オブライエンはソナー員が陣取る管制盤の一画に近づいていった。
「どうだ?」
「まだ気泡の音が収まりません。接近中の味方艦艇のスクリュー音も錯綜していて、聴音はほとんどきかない状態です。左舷のハイドロフォンの増幅器が、過負荷で不調をきたしたせいもありますが」
戦闘配備が令されて以来、片時も休まずにソナー席にかじりついていたベテランの大尉は、傍らに座る部下に促して予備のヘッドフォンを用意させた。オブライエンはそれを受け取りながら、「ハイドロフォンが?」と聞き返した。
ハイドロフォン――パッシブ・ソナー用の水中高性能マイクは、艦底の左右両舷に八基ずつ装備されており、機関音などが探知された場合、それぞれのマイクが拾った音の強弱から音源の方位を測定する。拾った音は増幅器と高域|濾波《ろは》器を介してソナー員の耳に届く仕掛けだが、その増幅器が不調をきたせば、ヘッドフォンからは下水の音に似た海流音が流れるだけになる。
つまり現在の〈タイコンデロガ〉は、ただでさえ音を取りにくい状況下で片方の耳を塞がれた状態にある。不意にぞくりとした悪寒が走り、オブライエンは大尉の顔を正面に見つめた。
「至近距離でまともに爆音を浴びたんです。音量は絞《しぼ》っていたのですが、増幅器の方は負荷に耐えられなかったようです。なにしろハイドロフォンの角度は敵潜に合わせていましたから」
つい睨みつけてしまったからか、大尉は言い訳のように説明した。なにかはわからない。だがCICを離れてウイングで見物を決め込んだ数分間、この目で敵の姿を確かめたいという妄執《もうしゅう》に囚われ、艦の指揮を人任せにした数分間に、致命的な見落としをしていたのではないかという疑念が膨れ上がり、オブライエンはヘッドフォンを持つ手をこわ張らせた。艦の間近で屹立した水柱。至近距離で爆音を受け止め、過負荷にさらされたハイドロフォンの増幅器。いまだつかめない海中状況……。
「まったく、最後の最後まで面倒をかけてくれる」
ボケットが背後から口を挟み、オブライエンはわけもなく心臓を跳ね上がらせた。
「湾の手前でぐるぐる追いかけっこをしとったと思ったら、よりにもよって本艦に最接近したところで撃沈されおった。お陰でソナーは当分役に立たん。こちらに接近中の駆逐艦に捜させた方が早いかもしれんな」
長閑《のどか》な群司令の声音をよそに、繋がったという直観が胸中を駆け抜けた。わざわざ〈タイコンデロガ〉の直近で撃沈された〈イ507〉――いや、それが〈イ507〉であるという保証はまだどこにもない。「なんにせよ、これで艦長のCZ探知法の方が優《まさ》っていたと実証されたわけだ。ローレライなどという怪しげな兵器は……」と続いたボケットの弁を遮り、オブライエンは「アクティブ・ソナーは使えるか?」と大尉の肩をつかんだ。
「は……。気泡や岩礁に乱反射して正確な探知はできませんが」
「かまわん。打て」
戸惑い顔の大尉を無視して、オブライエンはヘッドフォンをかぶった。ただならぬ気配を感じ取ったのか、ポケットが傍らに並び立って問う目を向けてきたが、視線を合わせる余裕もなかった。その間に大尉がアクティブ・ソナーを作動させ、艦底に張り出したソナー装置に電圧がかかると、装置内に並べられたランジュバンの振動板が金属のソプラノ音を奏でた。
ドーム型のソナー装置から発せられた音波は、毎秒五千フィート(約一・五キロメートル)の速度で海中を伝播し、探知物に当たると同じ速度で戻ってくる。最初のソプラノ音が奏でられてから、反射波を浴びたランジュバンの振動板が再びソプラノを奏でるまでの秒数。これに五千をかけ、二で割った数字が探知物との距離になるわけだが、この時は秒数を計測する間は与えられなかった。大尉がストップウォッチを押した瞬間と、反射波が観測された瞬間がほとんど同時だったからだ。
残響さえ引かず、立て続けに鳴った金属音に、CICにいる全員が息を呑む音が重なったような気がした。
「なにかが本艦の下にいます」と大尉が青ざめた顔を振り向け、「スクリュー音! 味方のものではありません」と、パッシブ・ソナーの観測を続けていた上等兵曹が叫ぶ。「距離は!?」と勢い込んだボケットの横顔からもみるみる血の気が失せてゆき、オブライエンはしばし棒立ちになった。
「すぐ下、本艦の真下です!」
大尉の返答は絶叫だった。やられた。無条件に実感したオブライエンの体を揺さぶり、CICの床がずるりと滑った。
波浪とは明らかに種類の異なる衝撃だった。見えない力にうしろから蹴り飛ばされ、〈タイコンデロガ〉の巨体が数メートルも弾かれる。動揺の声を圧して金属のこすれあう不快な音が艦尾から這い上がり、なにかが弾け飛ぶ音が響き渡ると、今度は右舷から突き上げられた船体が大きく左に傾斜した。
魚雷や砲弾を食らったというのとは違う、岩礁に乗り上げた時に似た鈍い衝撃が艦底を押し上げ、基準排水量二万七千百トンの船体が傾いてゆく。ボケットはソナー席の背もたれをつかみきれずに尻もちをつき、プロッティング・ボード上のデバイダーやペンが床にばらまかれる。みしみしと金属がたわむ音にけたたましい警報が重なり、オブライエンはヘッドフォンをぬぎ捨てると同時に走り出していた。
傾斜した床に足を取られながらも、通路に出る戸口に取りつく。「ブリッジに行く! 状況確認、急げ!」と怒鳴ったのを最後に、オブライエンはフラッグ・ブリッジに続くラッタルに直進した。CICにいるべきと艦長の理性は訴えていたが、想像通りの事態ならこの目で確かめないわけにはいかない。副長に任せておけばいいと最低限の判断をして、衝動に命じられるまま一気にラッタルを駆け上がった。
艦底を突き上げる衝撃はすぐに収まったが、いったん始まった|横揺れ《ローリング》は簡単には収まらず、何度も手すりにぶつかり、ラッタルから振り落とされそうになった。踊り場に這いつくばった兵曹の背中を飛び越え、フラッグ・ブリッジの戸口をくぐったオブライエンは、脇目も振らずに右舷側のウイングに通じる防水扉に向かった。航海長がぎょっとした顔を振り向け、作図台にしがみついたワイズが口を開きかけたようだったが、かまわずに防水扉を押し開けた。
手すりから身を乗り出し、百七十フィート(約五十メートル)下の海面を見下ろす。〈タイコンデロガ〉の船体と艦橋構造部《アイランド》が陽光を遮り、そこだけ影に覆われた海面の一画に、ひときわ濃い影がゆらりと滲み出してくるのが見えた。
喫水線に接した海面が白く泡立ち、煮え立つような飛沫が〈タイコンデロガ〉の乾舷を洗う。艦底の下をくぐり抜けてきたその影は、沸騰する海面を割って楕円形の艦橋甲板を突き出すと、大型の測距儀を備えた奇妙な形状の艦橋構造部を海上に現出させた。続いて巡洋艦の主砲と見紛うばかりの連装砲の砲身が現れ、片方の潜舵を失った艦首が波を裂いた頃には、傷だらけの露天甲板がオブライエンの目に飛び込んできた。
「〈イ507〉……!」
舷と舷がぶつかり合い、鈍い震動がウイングの手すりにも伝わる。見張り員が血相を変えてブリッジに報告するのをよそに、オブライエンは暗灰色の船体を凝視した。艦首の防潜網切器は根元からへし折れ、外板はへこみと擦過傷でぼろぼろのありさまだったが、そこにあるのは間違いなく〈イ507〉。ナチスドイツの遺産・ローレライを装備する魔性の艦にして、たった一隻で第三八任務部隊特別混成群と渡りあった日本海軍の潜水艦――。
なぜ、いまこの時に姿をさらすような真似をする? 最後に隠し持っていた魚雷で〈アルバコア〉を仕留め、爆音と飛散物で〈タイコンデロガ〉のソナーも潰す。こちらが油断した隙に、足もとをくぐり抜けて浮上してきた。それはいい。確かにこうも至近距離に浮上されれば、こちらは手も足も出せない。飛行甲板上の連装砲も、乾舷に張り出した四連装機銃も、横腹にへばりついた敵潜を狙うには俯角が足らない。僚艦や艦載機で包囲したとしても、下手に攻撃して爆沈でもさせようものなら、〈タイコンデロガ〉も致命的な損傷を被る羽目になる。だが身動きが取れなくなるのは、貴様も同じはずではないか。
こちらが移動して引き離せば、むしろ形勢は〈イ507〉の方が圧倒的に不利になる。目的はなんだ? もう約束の時間は過ぎた。いまから飛行場を砲撃したところで、原子爆弾を搭載したB−29はすでに飛び発った後だ。敵と刺し違えて作戦失敗を贖うつもりか? 逃げきれないと判断して、せめて目標海域に日本の旗を掲げようとでもいうのか? 我々をこうまでてこずらせた敵が、それほど単純な……。
ごう、と微かなエンジン音が風に乗って届き、ほんの二、三秒の間に紡がれた思考を中断させた。オブライエンは顔を上げ、目前に横たわるテニアン島を見据えた。低く、間断なくアシーガ湾の大気を震わせるその音は、明らかに島の方から聞こえてくる。航空機、それも艦載機とは桁違《けたちが》いの重いエンジン音。北西の方向から次第に近づいてくる、おそらくは北の第一飛行場を発したB−29のエンジン音。
どくんと脈打った心臓が凍りつき、全身が硬直した。まだ終わっていない。真っ白になった頭がそう理解した刹那、足もとで小さな爆発音が弾けた。〈イ507〉の二本の砲身から煙の筋がたなびき、焼けた金属の塊が前部甲板に転がっているのが見えた。防水用の砲口蓋が、爆砕ボルトで弾け飛んだ? オブライエンがそれを凝視する間に、つんと刺激的な硝煙の臭いが潮の香りに混ざり、〈イ507〉の連装主砲が油圧駆動の音を立てて旋回を開始した。
艦橋構造部の三分の一を占める砲塔が左に転回し、約四十五度の角度で停止すると、ずいと持ち上がった砲身がぴたりと北西の空に向けられる。二門の大口径砲門が見据える先にあるのは、アシーガ岬の切り立った断崖。そのさらに向こうはポンタノタークルの岸壁があり、第一飛行場を発したB−29は必ずそこを通る。オブライエンは両目を見開き、硬直した手のひらを無理やり手すりから引きはがした。
とにかく機関を始動して〈イ507〉から離脱、それから攻撃。間に合わないと呟く胸を無視して、ウイングを離れようとした時だった。〈イ507〉の艦橋甲板のハッチが開き、薄汚れた白い軍服の背中が現れた。
艦長らしいその男は、損傷著しい艦橋甲板の設備をぐるりと見渡してから、おもむろにこちらを見上げた。間違いなく東洋人とわかる能面に埋め込まれた目と目を合わせ、長時間の戦闘をくぐり抜けた疲れも、自艦の十倍の体積を持つ敵空母に対する畏怖も感じられない、ただあるものを見るといった視線を受け止めたオブライエンは、今度こそなにも考えられなくなった。
笑ってやがる――。涼やかな笑みが能面に刻まれるのを見て、ようやく見えた敵への興味は瞬時に吹き飛ばされた。いっさいの思考が途絶した頭にどす黒い恐怖がわき上がり、オブライエンは硬直した体を動かすことも、目を逸らすことも許されずに、ウイングに立ち尽くし続けた。
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半日ぶりに吸った大気は甘く、熱気と臭気で汚れきった全身の細胞がほっと息をつくと、節々に溜まった疲れがたちまち溶けて流れてゆくようだった。空はどこまでも澄み渡り、低い天井を見慣れた目には恐ろしいほどの高さ、広がりをもって頭上を覆っている。遮るものがないというのはいい、と絹見は思った。惜しむらくはすぐ隣にそそり立ち、陽光を遮る巨大な壁の存在だが、これはこれで役に立ってくれるのだから文句も言えない。いずれ、そう長い間のことではないと思い直して、首からぶら下げた双眼鏡《メガネ》を目に押し当てた。
二十・三センチ砲の砲門が見据える先、北西方向に三キロほど離れたところにある切り立った断崖は、アシーガ岬。その向こうに広がるポンタノタークルの岸壁は、海抜十二、三メートルの艦橋甲板からは窺えないが、次第に大きくなるB−29のエンジン音ははっきり聞き取ることができる。音の伝わり方からして、機数は二。間もなく銀むくの機体が無防備な腹を見せ、岬の向こうに姿を現すだろう。絹見はメガネから目を離し、爆圧と破片の擦過でひしゃげた遮浪壁《しゃろうへき》に両手をついた。
(射撃用意よし。目標、間もなく射界に入る)
やはりひしゃげている伝声管から田口の声が届き、絹見は艦橋の正面にある大型測距儀に目を向けた。基線長四メートルの測距儀はT字形をしており、横棒の部分に三眼の広角レンズを備え、可動軸となる縦棒の中に射撃指揮所が設けられている。測距儀の視界は艦橋甲板のそれと大差ないが、対空電探が捉えた目標の方位と速度が逐次伝達されるので、おおよその目安はつけられる。潜望鏡も短波マストもごっそりへし折られた中、ホーン型の電探アンテナが折れずに残ってくれたのは不幸中の幸いだった。
問題は、射撃指揮所にこもる田口の体力と集中力がどれだけ保《も》つかだ。(風向き二八五度、風速六ノット。船体傾斜角修正範囲内)と、射撃を補佐するフリッツの冷静な声を聞いた絹見は、まだ海水を滴らせる伝声管に顔を近づけた。
「目標が射界を横切る時間は二十秒とない。連射は六回が限度だ。頼むぞ、掌砲長」
(任しといてください。ようやくまともに主砲をぶっ放せるんだ。外《はず》しゃしません)
「フリッツ少尉も補佐をしっかり頼む。わかってるだろうが……」
いざという時には、田口に代わって射撃指揮を――。喉まで出かけた声を諫めて、(心配ない)とフリッツの穏やかな声が絹見の耳朶を打った。
(掌砲長はやたらと頑丈《がんじょう》だ。そう簡単にくたばりはしない)
(褒め言葉と受け取っとくぜ)と田口の声が応じる。絹見は、それ以上余計な口を挟まずに伝声管から離れた。結局、最後の最後まで部下に助けられ通しか。甘苦い感傷を腹に収めて、背後にそそり立つ巨大な壁を見上げた。
全長二百七十メートル、海面から艦橋構造部までの高さは五十メートル以上。舷を触れあわせる距離に浮かぶエセックス級空母は、壁というより山だった。〈伊507〉がその乾舷に張りついているさまは、さしずめ丸太の横に浮かぶ貧相な枝といったところか。搭載する砲熕《ほうこう》兵器は対空用の高角機銃、もしくは遠距離の敵を狙う連装砲だから、真横にへばりついた〈伊507〉を攻撃する術はない。喫水下だけで二万七千トンを超える図体は、主砲連射の強烈な反動を抑える役にも立ってくれるだろうが、それもエセックス級がここに留まっている間の話だ。
いったん引き離されたら最後、〈伊507〉は袋叩きの憂き目にあう。集中砲火を浴びるまでもなく、動き出した巨艦の質量に弾き飛ばされ、そのまま転覆《てんぷく》しないとも限らない。艦底をくぐり抜ける際に舵に体当たりを食らわせ、艦首でスクリュープロペラを弾いてやったとはいえ、しょせんはローレライの目を失った中での当てずっぽう。激突の衝撃で外殻に亀裂が入り、〈伊507〉は再潜航が不可能になったが、エセックス級がどれほどの損傷を被《こうむ》ったかは定かでなかった。
が、それでもいい。あと一分、いや三十秒この状態が続いてくれたら、事は足りる。絹見はエセックス級の城塞のような艦橋構造部を振り仰ぎ、艦橋脇の張り出しからこちらを見下ろす複数の米兵の顔を見据えた。豆粒ほどの大きさにしか見えなかったが、どの顔も青ざめ、棒立ちになっている様子が伝わってくる。見張り員らしいまだ若い水兵。事務屋然とした眼鏡面の将校。将官と思しき太り|肉《じし》の男は、艦橋の方に振り返ってなにごとか怒鳴り散らしている。艦を早く引き離せ、通訳を呼んで降伏勧告を流せ。あるいは小銃を持ってこい、おれが撃ち殺してやる、とでもわめいているのか。その中、ひとり冷めた面持ちの将校と視線が合い、絹見は無意識に体をそちらに向けた。
艦橋甲板に上がった時、最初に目にした男だった。このエセックス級の艦長かもしれないと思いついたのは、敵国とはいえ海軍という共通根で括られるたたずまい、他の乗員との立ち位置の違いといった、漠然とした印象がもたらす直観だったが、絹見が引きつけられたのはそれが理由ではなかった。無駄だ、できるはずないと言っている目。内心の動揺を押し殺し、高みから見下ろす男の視線が、絹見には浅倉のそれと重なって見えていた。
言われるまでもない、無謀な賭けは百も承知だと、絹見は見知らぬ米軍将校の目の奥にいる浅倉に語りかけた。たとえ成功したとしても、米軍は即座に四発目の原子爆弾を用意するかもしれない。それまでに大本営が降伏の道筋を立てられる保証もない。我々の行為はまったくの無駄で、貴様の望む通りの結果が招来されることだってあるだろう。またそうはならずとも、貴様が予言した通りの未来が日本を押し潰す可能性もあるだろう。
復興に名を借りた欲望の暴走。誰も彼もが我欲を追う獣に成り果てて、百年もすれば日本という国の名前も忘れた肉の塊になる――貴様はそう言った。だから再生のための死を、国家としての切腹を断行するのだと言った。我々とは出来の違う頭には、すべてが自明のことなのだろう。地獄の深淵を覗いた目には、人という無定見な存在の本質が見えているのだろう。だがそうして高みから見下ろすばかりで、貴様はその本質に触れようとしなかった。すべて理屈で割り切って、理屈を超えたところにある人の本当の力を信じようとしなかった。無定見こそが人の本質であり、本質を定義して固定することこそ自らの首を絞め、未来を閉ざす行為であるという単純な事実に、最後まで気づこうとしなかったのだ。
我々はそれを知っている。無定見であるがゆえに、無限の可能性を秘めた人の未来を信じられる。これからも血は流れるだろう。同じ過ちが幾度もくり返されるだろう。だが我々は何度でも立ち上がる。血反吐《ちへど》を吐き、苦しみ悶《もだ》えながら何度でも立ち上がる。いまここで我々の命が断たれても、その力は若い二つの命に受け継がれた。貴様の見通した未来が訪れようと訪れまいと、彼らは歩き続ける。確定した破滅さえも乗り越えて、貴様や我々にはたどり着けない未来に向けて歩いてゆく。
この充足、魂の安息は、貴様には永遠に得られまい――。絹見は浅倉の影に背を向け、二本の砲身が指し示す空に視線を据えた。複数のプロペラがどよもす唸りが急激に高まり、アシーガ岬の上空にぎらと輝く物体が姿を現したのは、メガネに手をかけようとした時だった。
指の先ほどの大きさに見える銀色の機体が、両翼に陽光を映えさせて北西の空を飛ぶ。(射界に入った!)と田口の声が伝声管から噴き出した途端、二機目のB−29が岬の陰から姿を現し、絹見は全身を声にして叫んでいた。
「打ち方始め!」
二十・三センチ砲の砲身が小刻みに角度を調節し、砲塔が油圧駆動の音を立てて数度右に傾く。(発射用意……てっ!)と発した田口の声は、直後に轟いた砲声にかき消された。
大気の引き裂ける音が鼓膜を聾《ろう》し、重低音が腹を殴りつける。閃光と同時に熱風が押し寄せ、砲身から噴出した黒煙が視界を覆ったが、絹見は遮浪壁にしっかり両手をつき、足を踏んばって顔を正面に向け続けた。秒速九百メートルの初速で撃ち出された砲弾の弾道は見えず、黒煙の切れ目に高度を上げるB−29の機体を窺いながら、たったひとつの言葉を胸中に念じた。
当たれよ……!
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(なんですかね、あれ)
風防の下半分を埋めていた陸地が後方に過ぎ去り、機がサイパン水道上空に差しかかった時、ビガーが不意に口を開いた。側面の窓を覗き込むその視線を追って、レイシーもちらと右側に顔を向けた。
アシーガ岬の切り立った断崖の先に、エセックス級の空母が浮かんでいるのが見えた。距離は五マイル(約八キロメートル)弱。合衆国海軍が誇る巨大空母も、ここからはひとさし指程度の大きさにしか見えない。水深の浅いアシーガ湾に空母がいるのはめずらしいことで、訓練中にせよ錨泊《びょうはく》中にせよ、中途半端な位置だとレイシーは思ったが、ビガーに不審を感じさせたのはそれとは別のものだった。
エセックス級の右舷に横付けしている、奇妙な形の艦。全長はエセックス級の半分足らず、幅に至っては五分の一もなく、巨大な空母の陰にほとんど隠れてしまっているが、甲板上に据えられた連装砲の形は辛うじて識別できる。船体に比して不釣り合いに大きい主砲――全体の印象は潜水艦だが、新型の駆逐艦かなにかか? いずれ、その不釣り合いな主砲がこちらを向き、威嚇するように二門の砲門を持ち上げていたことが、レイシーの癇《かん》に障った。
訓練にしても、島側に砲門を向けるのはおかしい。(新鋭の潜水艦かなにかですかね)と言ったビガーに、「ああ……」と生返事を返して、レイシーはアシーガ湾の向こうに広がる太平洋に目をやった。南洋の太陽が照りつける下、航跡の筋を曳いて疾駆する無数の艦艇が見え、胸騒ぎに拍車がかかった。
青い海面に白いV字の引き波を刻み、アシーガ湾に殺到する艦艇の数は三十を下らない。戦艦や重巡、空母の艦影も混ざっており、マリアナ中の警備艦艇を総動員したとしても、これほどの規模にはならないと思える大艦隊だった。爆撃手席に座るエッカートが身を乗り出し、(なんだ、海戦でもおっ始めようってのか?)と呆れた声で呟くのを聞きながら、レイシーはアシーガ湾に浮かぶ正体不明の艦に目を戻した。エセックス級と接舷している以上、味方艦であることに間違いはないが、先刻、飛行場にまで聞こえた遠雷に似た爆発音は……。
ちかっとなにかが閃き、白い光が網膜に焼きついた。こちらを向く二門の砲門から黒煙がたなびくのが見え、全身に鳥肌が立った瞬間、機体を揺さぶる衝撃波が後方に発した。
(〈モンスーン〉が……!)と誰かが叫ぶ声がイヤホンをつんざく。レイシーは咄嗟に側面の窓に振り返り、斜め後方を飛ぶ〈モンスーン〉の機体がぐらりと傾き、みるみる高度を下げるのを見た。制御を失った機体が横倒しになり、右主翼の付け根に穿たれた破孔を露にすると、あっさりねじ曲がった右主翼が機体からもぎ取られてゆく。木の葉さながら気流に舞った右主翼は、瞬く間に二つのエンジンナセルから炎を膨れ上がらせ、一拍遅れて爆発した〈モンスーン〉の機体ともども、灼熱した破片をサイパン水道上空にまき散らしていった。
なにが起こったとは考えなかった。パイロットの反射神経が自動的に働き、レイシーは操縦輪を左に倒した。上昇渦中にある機体にさせていい機動ではなかったが、まっすぐ飛んでいるとやられると本能が叫んでいた。〈ドッグ・スレー〉の巨体が急激に旋回《バンク》し、限界機動を超えた機体がぎしぎしと軋む。(クソッタレ!)と呻いたビガーの声がイヤホンを流れた刹那、先刻とは比較にならない強烈な衝撃が後方で弾け、操縦席ががくんと跳ね上がった。
(被弾! 尾翼に直撃……)と発した声は雑音の嵐に呑み込まれ、激震に上下する視界の中で無数の警告灯が残像の尾を引いた。レイシーはフラップを下ろし、機体の制御を取り戻そうと操縦輪を引き続けた。ザッ! と風防の前の空気が斜めに裂け、蜃気楼に似たゆらめきの筋が青空に一本の線を描く。空気の破れ目――砲弾の弾道。正確すぎる、と絶叫した胸を押しひしげて、二発目の直撃弾が〈ドッグ・スレー〉の機首に突き刺さった。
右斜め下からコクピットに進入した砲弾は、操縦席の斜め前にある爆撃手席を吹き飛ばし、エッカートの上半身を引きちぎって左上方に貫通した。ぶわんと空気がたわみ、風防という風防が砕け散る大音響が、レイシーが耳にした最後の音だった。一斉に流れ込んできた気流に気管を塞がれながら、レイシーはそれでも機の姿勢を保とうと操縦輪を引いた。尾翼を失った機体が右にバンクして、アシーガ湾の海面がぐしゃぐしゃになった窓枠ごしに広がる。吹きつける気流に抗って瞼を押し開き、レイシーはそこにいるはずの敵≠フ姿を見届けようとした。
首から上がなくなっているのに、奇妙に姿勢よく副操縦士席に収まったビガーの向こう、エセックス級の平らな飛行甲板に半ば隠れて、それはまっすぐこちらを見返してきた。不釣り合いに大きい連装砲の砲門がひと組の目となり、再び白い光を瞬かせると、噴き出した黒煙が黒い涙になって風に流れる。レイシーは死神の目と思えるそれを直視した後、真っ白な閃光に包まれて意識のすべてを霧散させた。
音速に近い速度で〈ドッグ・スレー〉のコクピットを貫いた二十・三センチ砲弾は、操縦席ごとレイシーの肉体を四散させ、天井に突き刺さると同時に爆発した。機内を吹き抜けた鉄片の嵐は機関士と航法士の体を引き裂き、前部燃料タンクに突き刺さって誘爆を促した。〈ドッグ・スレー〉は内側から爆発を起こし、続いて左主翼を直撃した砲弾がエンジンを吹き飛ばすと、翼長四十三メートルの巨人機は炎の塊と化した。
胴体が破裂するや、左右に散った主翼が間を置かず爆発する。紅蓮《ぐれん》の光輪が大気を圧して膨脹し、千々にまき散らされた破片が黒煙の尾を引いて海上に落下してゆく。その中、ひときわ大きい塊が黒煙の尾を引き、いち早く海面に飛沫を打ち立てたのだが、上空の爆発に較べれば些細《ささい》な現象でしかなかった。
海中に没したスキニーアンクルは、自身を巡って繰り広げられた騒動を知ることなく、誰の目も届かない海底に没していった。
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二度目の爆発は一度目のそれより激しく、広がった爆炎は太陽の光さえ圧したのではないかと思わせた。遅れて届いた爆発音も重く大気を震わせ、瞬きさえ忘れて上空を凝視していたオブライエンは、我に返った思いで眼下に目を戻した。
焼けた砲身から黒煙をたなびかせて、〈イ507〉は泰然《たいぜん》と暗灰色の船体を横たえていた。艦橋甲板に立つ男も微動だにせず、煤《すす》で汚れた顔を四散したB−29に向けている。本当にやりやがった。顔の筋肉が意志とは関わりなく動き、オブライエンは笑っているらしい自分に気づかされた。
我ながら呆れた。二機のB−29が撃墜され、二十人以上の合衆国兵士が即死した光景を目前にして、にやついていられる神経とはなんなのか。緩んだ頬を引き締め、眼下の敵を睨みつけてもみたが、腹の底から突き上げる可笑《おか》しさを封じることはできず、オブライエンは不謹慎を承知で失笑の鼻息を漏らした。これだけの艦艇を並べておきながら、まんまと出し抜かれた合衆国海軍。脇目も振らずにやることをやり、すました顔で佇んでいる敵潜。すべてが可笑しく、鬱屈《うっくつ》した数時間の反動のように血を沸き立たせて、なにかしら晴れ晴れとした気分を胸に残した。
そうして判断停止の時間を過ごしているのは、オブライエンだけではなかった。隣に並び立つ見張り員は口をあんぐりと開け、航海長も呆然とした顔を中空に向け続ける。駆けつけた警衛兵たちも似たり寄ったりのありさまで、手すりから身を乗り出し、M1941ライフルの銃口を眼下の敵に向けてはいるが、顔はそろって落下してゆくB−29に向けられている。彼らを招集したボケット群司令は棒立ちになったまま、いまにも倒れそうな体を手すりについた手で支えており、その横に立つワイズも先刻からぴくりとも動かない。鉄帽をぬぎ、蒸れた頭に潮風を入れたオブライエンは、「中佐」とその細面に呼びかけた。
「機体が撃墜されたからといって、原子爆弾が誘爆することはないな?」
「は?」と眼鏡の下の目をしばたいたワイズに続いて、ぎょっとなった一同の顔がこちらに振り向けられた。そんなことにすら気が回らなかったのだろう一同の顔を見回し、いつもの怜悧な目の光を取り戻したワイズは、「そのはずです」とかすれた声を搾り出した。オブライエンは頷き、鉄帽を頭に載せ直した。
「ならいい」
艦長の指示を待つ複数の視線に背を向け、うっすら黒煙が流れる青空を見上げる。やるべきこと、確認すべきことは山ほどあったが、いまはなにも言う気になれなかった。ただひたすら頭を空にして、清々とした敗北感を噛み締めていたいという思いがあった。海軍に籍を置いて三十年、初めて味わう気分に戸惑いを覚え、オブライエンは〈イ507〉に視線を移した。頭上に並んだライフルの銃口に気づいているのかいないのか、艦橋甲板に立つ男の背中は相変わらず動く気配がなかった。
歪んだ遮浪壁に手をつき、ぴんと背筋をのばして正面を見据えている。貴様の目にはいったいなにが映っているんだ? 我知らず手すりから乗り出し、その視線の先を追おうとした時、「とにかく、降伏勧告だ」とボケットの声が背後に流れた。邪魔されたいら立ちを皮一枚下に押し留め、オブライエンはウイングに居並ぶ十数人の顔に振り返った。
「じきに僚艦も追いつく。奴を包囲するまでの時間が稼げればいい。包囲が完了次第、本艦は離脱。できるな?」
艦底に体当たりを食らった〈タイコンデロガ〉は、右舷が折れ曲がり、四軸あるスクリューも一軸がプロペラを破壊されている。睨みつけるようなボケットの視線に、航海長は「原速航行は可能です。複雑な操舵はできませんが」と姿勢を正して答えた。
「それでいい。降伏勧告に素直に応じる相手とも思えん。本鑑が離脱すると同時に、一斉砲撃を開始する」
オブライエンが微かに目を細めたのと、ワイズが頬をひきつらせたのは同時だった。ローレライの回収を一義とするONI士官に向き直り、「このあたりの水深は浅い。沈んでも後で回収はできる」と続けたボケットの顔には、処世に長《た》けた叩き上げ将官の表情が戻っていた。
「機関への直撃は避けて、可能な限り傷をつけずに拿捕する。奴はもう満足に動けんはずだ。あのいまいましい主砲さえ潰せば、なんとでもなる」
言葉通りの敵意を目に宿して、ボケットは手すりごしに〈イ507〉を見下ろした。警衛兵たちもライフルを構え直し、複数の銃口が艦長らしい男の背中に向けられる。清々とした気分に影が差し込むのを感じながら、オブライエンも〈イ507〉に目を戻した。
自分と同年代と思える男の背中は、やはり動かなかった。余人には見えないなにかを見つめて、その顔はアシーガ岬の向こうにある水平線に向けられていた。方角は北――千三百マイル(約二千キロメートル)もの海を隔てて、男の故国がある方角。ふと思いついた瞬間、拡声器から流れ始めた異国の言葉がオブライエンの耳朶を打った。ひとつひとつの音が鼓膜にひっかかる日本語の堅い語感が、この時はなぜかもの悲しく感じられた。
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(ニッポンの兵隊のみなさん、もう抵抗は無駄です。降伏しなさい。我々はあなた方を受け入れます)
頭上から降り注いでくる声は、思ったよりしっかりした発音の日本語だった。土谷のような男まで飼っている軍隊なら、特に驚くべきことでもないか。壁になってそそり立つエセックス級の乾舷を振り仰ぎ、なにを受け入れたいんだか、と内心に苦笑した絹見は、艦橋の張り出しに立つ将校と目を合わせた。
あからさまに敵意を向ける太り肉の将官や、ずらりと並んだ小銃の銃口をよそに、その男の目にはなにかを問いかける色があった。もうそこに浅倉の影を重ねることもなく、見知らぬ米軍将校の顔を見返した絹見は、別に答えられるようなことはなにもない、ただやれることをやっただけだ、と目で応じておいた。多少は伝わったのか、男が手すりからわずかに身を退くのを見てから、いまだ硝煙が立ちこめる正面に目を戻した。
連続射撃の熱を滞留させた砲身と、あちこち傷つき、鞭打《むちう》たれた獣の皮膚を想起させる前部甲板。その向こうに空と海が接する水平線の広がりがある。さて、これで終わった。すっきりと澄み渡った胸中に確かめ、伝声管に顔を近づけた絹見は、「艦長より達する」といつも通りの無表情な声を吹き込んだ。
「作戦終了。本艦はこれより帰還の途につく。機関始動」
復誦の声が返って間もなく、傾いた排気筒が咳き込む音を立てて排煙を吐き出し、息を吹き返したディーゼルの鼓動が足もとに伝わった。どこへ帰るのかを言う必要はなかった。帰るべき場所は〈伊507〉が知っている。乗員ひとりひとりの胸の中にそれは用意されている。目を閉じ、慣れ親しんだ潮風を肺にいっぱい吸い込んだ絹見は、〈伊507〉艦長として最後の命令を下した。
「両舷前進全速。……さあ、帰るぞ」
ブォン、とディーゼル機関の雄叫《おたけ》びをあげ、〈伊507〉の船体がゆっくり前進を開始する。舷と舷がこすれ合い、金属の悲鳴が耳を聾《ろう》したのは数秒のことで、エセックス級から離れた船体はみるみる速度を上げていった。機関長がはりきっているらしい。風に飛ばされそうな略帽を押さえ、加速に備えて足を踏んばった絹見は、間近に起こった衝撃音にびくりと首をすくめた。
散発的な銃声が機関音と風音に混ざり、遮浪壁の一角に着弾の火花が上がる。エセックス級の艦橋で小銃を構える警衛たちが、おとなしく出航を見送ってくれる道理はなかった。明らかにこちらに狙いを付けた銃弾が艦橋甲板に爆ぜ、空気の裂ける音を耳元に響かせる。当たったらそれまでのことと心得て、絹見は頭を低くすることもせず、遠ざかるエセックス級の艦橋を振り返ってみた。
ちかちかと筒先を閃かせる小銃の列の向こうに、あの将校の顔があった。ちょっとした悪戯心が頭をもたげ、絹見は略帽をぬいで右手に掲げると、これ見よがしに大きく左右に振ってやった。
豆粒以下の大きさであっても、思わず目を見開き、反射的に敬礼を返しそうになった男の挙動が見えるようだった。エセックス級の艦尾に抜けるとそれは見えなくなり、銃声も聞こえなくなった。絹見は略帽をかぶり直し、遮浪壁にしっかり両手をついて体を支えた。〈伊507〉は大きく右に舵を切り、エセックス級の艦尾をかすめて西南西に針路を取った。
テニアン島を背にして、アシーガ湾の先に広がる太平洋に乗り出す。これまでエセックス級の陰に隠れていた外洋の光景が露になり、絹見は小さく息を呑んだ。一時の方向、五百メートルと離れていないところにリバモア級駆逐艦。十時、十一時の方向には同じくリバモア級と、アトランタ級軽巡洋艦。正面十二時には空母や戦艦と思しき艦影があり、そろって白波を蹴立て、蒸気の筋をたなびかせてこちらに向かってくる。見える範囲だけで十九……いや二十。無力化した艦艇の数を差し引いても、あと四、五杯はいるだろう。
やれやれ、こいつらを突破するのは骨だな。のんびり潮風に当たれるのもこれが最後と覚悟して、絹見は正面から吹き寄せる風を思いきり吸い込んだ。新鮮な空気が肺から全身に行き渡り、体に溜まった毒を瞬時に分解してゆくのがわかる。迷いという名の毒。怖れという名の毒。罪悪感という名の毒。戦争にかかずらわるうちに少しずつ溜まり、生きるという言葉と同義語になったありとあらゆる種類の毒……。
いい気分だ。こんなに体が軽くなったのはいつ以来だろう? 周囲を取り巻く敵意も、無数に群がる敵艦も意識の外にして、浮き立った体はいつしか鼻唄を歌い始めていた。
ひどく懐かしい旋律が自然に漏れ出し、やさしい歌詞を思い出させてくれる。「名も知らぬ、遠き島より……」と唇が勝手に動き、ずんと腹に響く砲声がそこに重なった。数メートルと離れていない海面が白い水柱を噴き上げ、降りかかった飛沫が絹見の顔を濡らした。
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「撃沈しろ? なぜだ」
フラッグ・ブリッジの右舷寄りにある司令席に収まり、ボケットは噛みつかんばかりの目を向けてきた。予想通りの反応だったので、オブライエンは眉ひとつ動かさず、「危険だからです」と冷静に返した。
「〈イ507〉にはまだ砲撃能力がある。潜航不能というのも外見からの判断で、実際の確認が取れたわけではありません。総力を挙げて沈めるべきです」
「だが奴は包囲網の真っ只中に突き進んでいるんだ。尾羽《おは》打ち枯らして、ギョクサイしようというだけのことだ。砲撃で小突き回してやれば、そのうち息が切れる。撃沈などと……」
原子爆弾搭載機を守りきれなかった以上、せめてローレライ・システムを入手しなければ、第三八任務部隊にも太平洋艦隊司令部にも合わせる顔がない。どことなく歯切れの悪いボケットの言葉を本音に訳すと、そういうことになる。「だからこそです」とオブライエンは容赦なくたたみかけた。
「追い詰められた敵はなにをしでかすかわからない。〈スプリングフィールド〉の犠牲をくり返してもいいのですか?」
千七百名の乗員とともに沈んだ重巡洋艦の名前に、航海長たちの目が一斉にこちらを向く。「しかし……。湾内ならともかく、〈イ507〉はもう外洋に出ている。沈んだら回収は不可能だ。この上、ローレライも押さえられなかったというのでは……」と本音を漏らし、渋面をうつむけたボケットに、オブライエンはとどめの言葉を投げかけた。
「CZ探知法があります」
じろと目だけ動かしたボケットの横で、ワイズも眼鏡ごしに鋭い視線を向けてくる。「ローレライなどという怪しげな兵器より、我々が開発した索敵法の方が優っていた。それでいいのではありませんか?」と続けて、オブライエンはボケットの返答を待った。
「しかしな……」と呻き、ボケットは露骨に救いを求める目をワイズに向けた。これ以上の損失は避けたい、ローレライを沈めて責任は取りたくないの板ばさみから逃れるには、司令部と直結したONI士官の言質《げんち》を取りつけるしかない。これも予想通りの成り行きで、先刻からボケットにではなく、ワイズに聞かせるつもりで話をしていたオブライエンは、ボケットに視線を固定したまま、注意深くワイズの反応を窺った。
しばらくの沈黙の後、ふっと息を吐く気配が流れ、「自分も艦長の意見に賛成であります」と取りすましたワイズの声が発した。
「ナチスの置き土産より、合衆国海軍の技術の方が優れていた。テニアン島防衛という当初の目的は果たされませんでしたが、CZ探知法の有用性を実証した点については、ローレライ・システムの確保に匹敵する戦果と考えてよいのではないかと」
その線で口裏を合わせておくのが、この場にいる誰にとっても好ましい。露骨に仄めかしたワイズは、艦長にのせられたわけではありませんよ? というふうな目をこちらに向けるのを忘れなかった。本音を見透かされる覚悟はしていても、あっさりなびいてくれるとは想像していなかったオブライエンは、どういう風の吹き回しだと問う視線を返した。視線を避け、思案顔の群司令にも背を向けたワイズは、左舷側の窓に遠くを見る目を据えたようだった。
頭の中身は石器人のまま、道具ばかり強力に発達させてしまった我々は、破滅に至る道を突き進んでいるのではないか――。そう語った時の虚無的な横顔がそこに重なり、なるほどとオブライエンは納得した。この男にもわかっているというわけか。〈イ507〉が自ら〈タイコンデロガ〉を離れ、敵艦が待ち受ける西南西の海に向かっていった理由が。オブライエンはワイズとともに左舷側の窓を見やり、時おり響く遠い砲声に耳を澄ました。
ギョクサイなどではない。〈イ507〉が取った針路の先には、マリアナ海溝がある。奴はローレライ・システムを深海に葬り去るべく、あえて包囲網の只中に踏み込んでいったのだ。敵に機密が渡るのを阻止するためではなく、同じ兵器が二度と造られないようにするために。石器人並みの頭で、技術ばかりを進化させてしまった人間に対する嫌悪感――いや、そんな人間をいとおしむからこそ、あの男は原子爆弾を搭載したB−29を葬《ほうむ》り、ローレライを葬ると決めた。誰よりも石器人的な資質を自覚せざるを得ない軍人として、石器人なりに節《せつ》を通そうとしたのに違いなかった。遠い水平線を見据える彼の目には、単に故国が映じていただけではなく、いまだ自分たちには見えない未来が映じていたのかもしれない。
それゆえ、今回は手を貸そうとオブライエンは思う。同じ海軍軍人として、尊敬に値する判断力、度胸、操艦能力。それらに免じて、今回だけは貴様の背中を見送ってやろう。だがそれは、いまの文明社会、その前衛たるアメリカ合衆国という国家に背を向ける行為ではない。貴様が自分の信じる未来に向かって歩くように、我々もまた歩き続ける。CZ探知法も、原子爆弾も、より完全に仕立て上げて、合衆国の力を揺るぎのないものにしてみせよう。
もう後戻りはできない。棍棒《こんぼう》の代わりに世界を滅ぼす道具を手にしてしまったというのなら、それもいいだろう。我々はその力を使いこなし、信じる理想に従って絶えることのない文明の灯をともす。煌々《こうこう》と輝く光で世界中を照らし、闇という闇が一掃されるまで戦い続ける。たとえ血塗られた道であっても、それが合衆国海軍の軍人たる自分が通すべき節なのだから……。
司令席に肥えた体を沈み込ませて、ボケットはまだ頭の中の振り子が定まらない顔つきだった。死に体の〈イ507〉が砲撃で嬲《なぶ》られ、航行能力を失うまでもう間がない。オブライエンは一歩進み出て、ボケットの顔を正面に睨み据えた。
「あれは沈めるべきです。我々の未来のために」
気迫に押されたのか、ボケットは呆気に取られた様子で何度も目をしばたいた。その目に映じた未来は、CZ探知法の有用性を実戦で証明した艦長と群司令の、戦後の軍での栄達――そんなところだろう。これから平時の軍隊に身を置くからには、こういうことにも慣れていかなければならない。子供じみた抵抗感はなく、それなりに覚悟を固めた胸中を確かめて、オブライエンは黙してボケットの返答を待った。
「……まだ、かなりの数の砲弾を溜め込んでいるようだしな」
気まずそうに顔を逸らし、ボケットはぼそりと呟いた。それで十分だった。オブライエンは一艦長の節度をわきまえ、群司令の前から身を退いた。ちらりと視線を寄越したワイズに軽く頷き、左舷側の窓に近づいていった。
複数の艦影が重なり、航跡の白い筋がいくつもの引っかき傷を海面に刻んで、散発的な砲声と黒煙が太平洋の海を汚していた。その渦中を突き進む〈イ507〉の姿を探して、オブライエンは飽かずに窓外の光景に目を凝らし続けた。
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敵潜水艦への対処方針の変更は、速《すみ》やかに各艦に伝達された。それまで直撃を避けていた砲撃が急に正確になり、無数の砲弾が〈伊507〉めがけて撃ち出されるようになった。
第三八任務部隊特別混成群の艦艇にとっては、轟沈した〈スプリングフィールド〉の弔《とむら》い合戦であり、さんざん翻弄《ほんろう》された恨みを晴らす格好の機会でもあった。戦艦二隻、巡洋艦七隻、駆逐艦十六隻。戦闘航行が可能な二十五隻の艦艇が〈伊507〉を追い、三隻の航空母艦からは爆雷を搭載した艦載爆撃機が飛び立つ。どの艦艇も突進する敵に対してあらん限りの砲撃を行い、すれ違った後は回頭して攻撃を続行した。
片方だけ残った潜舵がもぎ取られ、直撃を受けた機銃甲板が根こそぎ打ち砕かれる。間近で破裂した砲弾の破片を満身に浴び、重油の筋を血のように垂れ流しながら、〈伊507〉は走り続けた。連続して屹立する水柱がその船体を包み隠し、砕け散った飛沫が艦橋甲板に立つ人影に襲いかかったが、彫像さながら固まった人影が揺らぐことはなく、艦の船脚が緩むこともなかった。一万二千四百馬力のディーゼル機関が咆哮をあげ、背負うもののなくなった船体をどこまでも走らせた。
潜航能力を失った潜水艦には、艦内を密閉する必然性もなかった。すべてのハッチが開放され、艦内に新鮮な空気が送り込まれる一方、開いたハッチからは複数の歌声が漏れ出してもいた。
砲声と爆発音に半ばかき消され、ひとつ、二つと歌声の数を少なくしていきながら、『椰子の実』の歌はいつ果てるともなく艦内から溢《あふ》れ続けた。哀切を含んだ旋律であっても、それは決して哀しいだけのものではなく、朗々と澄み渡った歌声を砲火の轟く海に響き渡らせた。
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名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
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いつ、誰が歌い始めたのかわからなかった。開放した水密戸、錯綜するパイプとダクトの継ぎ目、ありとあらゆる隙間から歌声は流れ出し、ふと気がつくと、木崎自身も口を動かしているのだった。
傍らでは海図長が胴間声《どうまごえ》を張り上げ、内殻の亀裂にぼろ切れと杭を打ち込みながら、操舵長も口を動かすのをやめない。聴音室では唐木水測長が意外な美声を響かせていたが、頭上にある機銃甲板が吹き飛ばされ、天井が崩れ落ちる轟音が発して以来、その歌声は聞こえなくなっていた。
歌声の合間に、(艦首発射管室浸水!)(二次電池室で火災!)といった怒声が差し挟まれ、砲弾が空を切る音、爆発の音、外板がひしゃげる音がそれらをかき消す。しかし歌声は一向にやむ気配がなく、艦内に充満する煤煙やガスに喉《のど》を潰され、咳き込む声を交えて『椰子の実』の合唱は続いた。それは歌という以上に鼓動であり、呼吸であり、一瞬後に訪れる死を予感しつつも、なお生きることをやめない人間たちが奏でる肉体の交響楽だった。
砲弾が飛来する甲高い音がひときわ高くなり、木崎の耳を聾した。来るな、と覚悟して身構えた直後、熱い塊が天井を突き破って床に抜け、熱風と衝撃波が発令所に吹き荒れた。右舷側の内壁に取りついて浸水を食い止めていた木崎は、数メートルもはね飛ばされて反対側の内壁に激突した。鋭い痛みが背中に走り、全身がぐっと硬直したかと思うと、それきり息ができなくなった。
瓦解したパイプとダクトがばらばらと降り注ぎ、立ちこめた粉塵と黒煙が視界を遮ってゆく。ガラスの割れる派手な音がその中に混ざり、木崎は唯一動かせる目を左右に振った。送気管に押し潰され、舵輪に突っ伏して動かない二人の操舵員の背中。折り重なったパイプの下敷きになった海図長。死屍累々《ししるいるい》の光景が明滅する照明に浮かび上がり、半ば瓦礫《がれき》に埋もれたコロセウムを照らし出す。ローレライ・システムの監視装置は台座ごと傾き、パイプが突き刺さった半球の透明ガラスは粉々に砕け散っていた。
なんと呆気《あっけ》ない。その横で火花を吹き上げるヘルゼリッシュ・スコープも視界に入れ、木崎は微かに苦笑した。思えばこいつがなにもかも見通してしまうせいで、ドンガメ乗りの腕の見せ場はほとんどなかった。自分はまだなにもしていない。せっかく先任将校になったのに、まだなにも。木崎はなんとか体を起こそうとして、感覚の失せた腕で床をまさぐった。操舵不能を艦長に報告しなければ。壁に張りついて動かない体に力を込め、歯を食いしばったところで、腹から突き出ている細いパイプに気づいた。
背中から腹に貫通したパイプは、血と脂でぬらりと濡れていた。畜生、これからなのにな……。目を閉じ、口の中に呟いた瞬間、二発目の直撃弾が発令所を襲った。床下で爆発した砲弾が木崎の肉体を吹き飛ばし、炎と爆風の渦が発令所を打ち砕いた。
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故郷《ふるさと》の岸を離れて
汝《なれ》はそも波に幾月
[#ここで字下げ終わり]
休みなく上下運動をくり返す無数のピストンは、歌声に合わせてリズムを取っているようだった。もうその旋律《せんりつ》に底暗い記憶を呼び覚まされることはなく、声を合わせることにも抵抗はなかったが、岩村は歌っていなかった。
全力稼働するディーゼル機関の機嫌を窺い、増減をくり返す速度計の針に一喜一憂していれば、そんな暇はなかった。内殻の亀裂から流れ込む海水は踝《くるぶし》の高さにまで達し、引火した塗装片が降り注ぐたびにじゅっと沸騰の音を立てたが、機関を止めるという発想はなかった。もっと行け、もっと飛ばせと一心に念じつつ、岩村は海水をかき出す作業に専念した。すでに排水ポンプは壊れており、通路にかき出した水は逆流するばかりだったが、かまわずにバケツを振るった。そうすることで少しでも艦の負担が減り、速度が上がると信じて、機関科員総出の排水作業は休みなく続けられた。
〈ナーバル〉を降ろし、魚雷も使い果たして身軽になった〈伊507〉の速度は、尋常なものではなかった。性能要目にあった水上最高速度はとっくに飛び越え、速度計の針は二十七ノットに達してまだ上昇を続けた。そしてついに針が三十ノットに近づこうとした時、岩村は感極まって快哉を叫び、手にしたバケツを放り出した。
見ろ、三十を叩き出せるドンガメが他にあるか? 細身の艦体に一万二千四百馬力。わしゃこいつならやるとずっと前から思うとった。これなら駆逐艦にも負けやせん。たいしたもんだ、まったくたいしたもんだ、この機関は……。
そう言って右舷機の外板に頬擦《ほおず》りした岩村に、相づちを打つ者はいなかった。機関科員は大半がすでに息絶え、残った者も火災の消火に出たきり音信が途絶えていた。機械室にいるのは岩村と三人の兵曹だけで、彼らにしてもバケツを持ったままうずくまっていたり、水面に顔を浸して倒れていたりで、岩村の相手をできる者はひとりもいないのだった。
なんじゃ、みんな寝ちまったのか。つまらん……。ぼやいた体からも急速に力が抜けてゆき、岩村は右舷機にもたれかかるようにして床に膝をついた。先刻、爆発で飛び散った無数の破片を背中で受け止めたせいか、ひどく体が冷えていた。少し休むかと思い、岩村は目を閉じた。機関の余熱を滞留させた外板がその体をやさしく受け止め、もう長く会っていない妻の体温を思い出させた。
こんなところまで迎えにきよったか、と岩村は笑った。機関が女房だっちゅうても、本当の女房はおまえだけだ。他の女に気を移すはずもあるまいに……。冷えきった手で温もりをまさぐり、懐かしい体温の源を引き寄せようとした途端、肌に触れる温もりが灼熱に変わった。
耐圧殻を突き破って落下してきた砲弾が、右舷機を内側から爆発させたのだった。岩村の肉体は瞬時に消し飛び、膨れ上がる炎と爆風が通路にも溢れた。出力を半減させながらも、辛うじて生き残った左舷機だけがビストンを動かし続け、主《あるじ》のいなくなった機械室に変わらぬリズムを響かせた。
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旧《もと》の樹は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
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医務室では、歌声はどことなく弱々しく、呻き声も混じって聞き取りにくいものになった。時岡は通路にまで溢れた怪我人の治療に駆けずり回り、〈伊507〉に乗り組んで以来、いちばん目まぐるしい時間を過ごしていた。
怪我の重い順から診る段階はとうに過ぎて、いまは助けられそうな者を優先的に治療せねばならない時だった。片腕のちぎれかけた者、火傷で皮膚のほとんどが炭化した者。大病院でも匙《さじ》を投げる患者ばかりでも、生きている限りは痛みに苛まれ、喉の渇きを訴えてくる。時岡はできる限りの治療を施した。猫の手も借りたい忙しさとはこのことだと思ったが、助手を務める看護兵は三甲板に怪我人を引き取りに行ったきり、帰ってくる気配がなかった。
医務室に常備してある医薬品はすぐに底をつき、二甲板の倉庫に予備を取りに行こうとした時、もういいですよ、と呼びかける声が床から這い上がってきた。包帯で顔半分を覆い、通路に座り込んでいる電探長の中尉だった。そんなに長く続く道行きじゃない。ここでおとなしく迎えを待ちましょうや。軍医長がいくら頑張ったって、もう……。
無駄だ。先の言葉を呑み込んだ電探長を、時岡は怒鳴りつけた。なにをバカなこと言っとるんです。もういいかどうかは医者が決めることです。治療が必要な人間がこれだけいるのに、途中でやめられますか。
そんな顔してないで笑ってなさい、歌ってなさい。生きてるってことを無駄にしちゃいけません、最後の一秒まで。爆発の激震より深く、重く、艦内の空気を震わせる歌声を振り仰いで、時岡は煤で汚れた丸眼鏡を外した。レンズを袖口で拭いてかけ直したが、じわりと滲んだ視界は改善されなかった。この大事な時に。もういちど眼鏡を外し、目頭をごしごしこすってからかけ直すと、ドシンと重いものが落下する音が頭上に弾けた。
医務室前の通路の天井が裂け、亀裂の向こうに覗く青空がはっきり見えた。潜水艦の艦内にいて青空が見られるとは。時岡は唐突に現れた空の色に目を瞠《みは》り、美しい! と内心に叫んだ。
そう、こんなこともあるから人生は捨てたものじゃない。人の体を治し、長らえさせる手伝いをする自分の仕事にも意義がある。この感動を心に伝え、ひとつでも多くの充実感を味わうためには、肉体の存在が不可欠なのだから――。
一秒の何分の一にも満たない思考だった。前部甲板を突き破って第一甲板に着弾した砲弾は、次の瞬間には時岡と数人の患者ごと通路を粉砕した。青空を覗かせた天井の亀裂は、酸素を求めて暴れ回る炎の抜け道になり、渦を巻く炎が二重装甲をめくり上げて前部甲板に噴出していった。
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我もまた渚《なぎさ》を枕
独り身の浮き寝の旅ぞ
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狭苦しい射撃指揮所に押し込まれていても、間断なく降り注ぐ砲弾の飛来音は明瞭《めいりょう》に聞き取れたし、何発かの直撃弾が船体に致命傷を与えたことも想像がついた。機械室の方で爆発音が発して以来、船脚は格段に遅くなっている。いよいよ限界か。額に滲んだ血と汗を一緒に拭ったフリッツは、しかしよくここまでもってくれたものだと、〈伊507〉の堅牢《けんろう》な船体にひそかに感謝した。
フランス海軍による元の造りがよかったのか、ナチスドイツが施した大改修がきいているのか。あるいは日本海軍の乗員たち――この〈伊507〉の乗員たちのあきらめの悪い性分が、こんなところでも発揮されているのか。いずれにせよ、テニアンを離れてもう十数分が経過した。そろそろマリアナ海溝の上に差しかかる頃合だ。どうやら自分で手を下す必要はなくなったと判じて、フリッツは射撃指揮所の壁に背中を預けた。本当は座り込みたかったが、直径二メートルの円筒形の中ではできない相談だった。
パウラや〈ナーバル〉がなくても、〈伊507〉に残った機器からローレライの原理を逆算し、模倣《もほう》することは決して不可能ではない。アメリカの国力と技術力なら、第二のパウラを作り出さないとも限らず、海底に没した〈伊507〉の回収にも金と手間を惜しまないだろう。二百メートルやそこらの深度に沈めた程度では安心できるものではなく、いざという時は主砲を暴発させて筒内爆発を引き起こし、艦に爆沈を促す腹づもりだったが、マリアナ海溝までたどり着ければ問題はない。五千メートルの厚みを持つ海水がカーテンになり、金属さえねじ曲げる水圧がすべてに片をつけてくれる。システムの機密がぎっしり詰まった船体も、このおれの体も。
目の前の砲座に座る田口は、正面の管制盤に頭を預けて眠っている。先刻まで切れ切れに漏らしていた歌声も途絶え、その背中はぴくりとも動かない。こんな狭い場所で寝ていられたらうっとうしい。言われた通り、頭をどやしつけて起こしてやろうかと思ったが、ひどく穏やかな寝顔を見ればそれもためらわれた。
への字の口もとをやわらげ、田口は満足げに微笑んでいた。すべてを赦《ゆる》し、また赦された人間の顔に見えた。薄く開いたその瞼を完全に閉じてやってから、フリッツは潜望鏡に似た照準スコープを覗いてみた。ひび割れたレンズを通して、前部甲板からもうもうと噴き上がる黒煙と、その向こうに広がる青空を見ることができた。
陰影のない雲の筋を流して、空は驚くほど明るく、一色に塗りそろえられた青色は壁のようでありながら、その実どこまでも透き通っているのだった。こういう色だったか? あまりにも鮮明な青に戸惑い、フリッツは記憶の中にある空の色を思い浮かべようとした。曇り空の陰鬱な薄灰色や、ほとんど世界中を回った海の色はすぐに思い出せたが、晴れ渡った空の色はまったく思い出せなかった。昨日の記憶でさえ、残っているのは海の印象ばかりで、水平線から上はそこだけ靄《もや》のかかった空白だった。
私、征人に会ってから、忘れていたたくさんのことを思い出すことができた。太陽の眩《まぶ》しさや温かさ、雲の形、空の色。おばあちゃんが付けてくれたアツコって名前――。妹の声が記憶の桶《おけ》を緩慢にかき回し、そうだったなとフリッツは苦笑した。おれたちはずいぶんたくさんのことを忘れていた。空とはこういう色だったんだ。パウラ、もう二度とこの色を忘れるな。この空の下で、大地に両足を着けて存分に生きろ。
おれたちを縛りつけるものは、もうなにもないのだから……。
照準スコープに映る青空がふっと陰り、ひび割れたレンズが粉微塵《こなみじん》に砕けた。直後に膨れ上がった炎の色を、フリッツ・シンヤ・エブナーは見なかった。
直撃を受けた二十・三センチ砲は、丸みを帯びた装甲板をはね飛ばして爆発し、射撃指揮所も炎と爆風に呑み込まれた。それは弾薬庫の誘爆も招き、左右の舷を引き裂いて炎の塊を吐き出した〈伊507〉は、ゆっくり沈没を開始した。
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実を取りて 胸にあつれば
新なり 流離の憂い
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主砲の爆発が艦底にまで届き、船体を支える竜骨《キール》を叩き折ったようだった。両舷の破孔がみるみる広がり、二つに裂けつつある船体に大量の海水がなだれ込んでゆく。金属の悲鳴をさんざめかせ、徐々に沈み始めた〈伊507〉の艦橋で、絹見はいまだ絶えない歌声を聞いていた。
前部甲板に左右から波が押し寄せ、百もの弦楽器が一斉に低音をかき鳴らした音が足もとを震わせる。泡立つ海面が粉砕した主砲を呑み込み、艦橋に向かってせり上がってきたが、歌声に混ざって聞こえるのは川のせせらぎに似た音だった。艦に海水が流入する音か、無数の破片に切り裂かれた体から噴き出る血の音か。少し考え、どちらでもいいと結論した絹見は、艦橋甲板に膝をつき、遮浪壁にもたれかかって体の力を抜いた。
もういいだろう? いまはなにも考えずに歌を聞いていたい。これぐらいのわがままは、許せ……。艦から振り落とされないよう、背中を支えてくれていた義弟に呼びかけて、絹見は腰に縛りつけた索に手をやった。艦が沈んだ後、自分の体ひとつが浮かび上がるという光景はいただけない。伝声管に結んだ索の感触を確かめ、大丈夫、一緒に行けると自分を納得させてから、耳の奥で響く歌声に身を委《ゆだ》ねていった。
フリッツが、田口が、木崎がうたう歌。岩村や時岡、清永、高須らが奏でる『椰子の実』の旋律――。それは吹きつける水煙になって絹見の体を洗い、高波のうねりになって艦橋甲板に流れ込むと、無数の粒立った飛沫になって頭上を覆った。盛り上がったうねりが敵の艦影をかき消し、〈伊507〉を包み込むように渦を巻いて、艦橋を呑み尽くす最後の瀑布《ばくふ》がどうどうと押し寄せてくる。暗くも明るくもない海面が眼前に迫り、他のすべてを見えなくする直前、絹見は海中を駆け抜けるひと筋の光を目撃した。
鮮烈な光の軌跡を描いて、それは闇の海中を一直線に走ってゆく。〈伊507〉が産み落としたひと粒の種子、若い二つの命を乗せた椰子の実が、いくつもの海を超え、時間すらも超えて、どこまでものび続ける輝きの軌跡だった。そうだ、それでいい。走れ。絹見の思惟が叫び、流れる軌跡を追ってともに海中を疾駆した。
走れ、もっと走れ。その光で深淵を照らし、その力を未来に繋げろ。立ち止まるな。振り向くな。走り続けた先に、きっと望む朝が来ると信じろ。
地上の戦があまねく根絶され、この世界が永遠の終戦を迎える朝が、必ず――。降り注ぐ瀑布に視界を塞がれ、無に還るまでの一瞬、絹見は確かに彼の子供たちとともに走り、押し出した背中が遠ざかるのを見送った。
渦巻き、泡立つ海面は〈伊507〉の巨体を呑み下し、徐々に平素の顔を取り戻すと、微かに残った重油の筋だけが戦闘の痕跡を伝えた。それさえもすぐに風に吹き散らされ、後にはぽつぽつと散らばった漂流物と、複数の米艦艇からわき上がる歓声ばかりが海上に残された。
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海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
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艦首を真下に向けて沈降する〈伊507〉は、寿命をまっとうした巨鯨《きょげい》に見えなくもなかった。その下にはマリアナ海溝から分岐した亀裂があり、この星の根源に通じているのではないかと思わせる深遠な裂け目が、西方に横たわるマリアナ海溝に向かって海底を走っていた。
〈伊507〉は金属の軋みをあげながら亀裂の中に分け入り、切り立った断面を背景に暗黒の底へと滑り落ちた。やがて水圧に耐えかねた船体がひしゃげ、二つに裂けると、艦内に残っていたわずかな空気が気泡になってわき出し、中に在った命たちの魂魄《こんぱく》を散らせるかのごとく、〈伊507〉を取り巻いていった。
それらは重なりあい、溶けあい、傷ついた船体をいたわるように〈伊507〉を包んだ。そして渦を巻いてひとつになり、鈍く天を覆う海上の光を目指して飛んだ。
昇天した気泡たちを見送った〈伊507〉は、もはや原形を留めない、いくつかの鋼鉄の連なりだった。太平洋の腕《かいな》が海底潮流の指を搦《から》め、その骸《むくろ》を還るべき場所に運び去るのは、さほど困難なことではなかった。
かつて〈伊507〉だった残骸の連なりが、深い闇と静寂の淵に溶けてゆく。それは海溝の底に身を横たえ、微生物の骸とともに悠久の時を経て、この星の一部に還ってゆくのかもしれなかった。
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思いやる八重《やえ》の潮々
いずれの日にか国に帰らん……
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その後、事態がどのような帰結を迎えたのか定かではなかった。いや、定かにしたくないから、事実を受け止めるのを拒んでいたと言うべきか。
海上に墜落したB−29らしき航空機の残骸。アシーガ湾を離れてマリアナ海溝に向かった〈伊507〉。目の色を変えて追撃を開始した米艦隊――。パウラの伝える感知状況が事態の帰結を教えていても、まだすべてを受け止められる自信はない。受け止めれば前に進めなくなるという予感があり、米艦隊の砲撃が始まったと聞いたのを最後に、征人は感知状況を聞くのをやめにしていた。
〈伊507〉に砲弾の雨を降らせることに狂奔して、米艦隊は足もとを通り過ぎた潜航艇の存在には気づいていない。それさえ確認できれば、〈ナーバル〉の舵を取る上でとりあえずの不都合はなかった。深度は七十メートル、速度は八ノットで、水中で出し得る最大速度でマリアナ海を北上する〈ナーバル〉は、確実に戦場から遠ざかりつつある。隔壁ひとつ挟んだ向こうでビュッシング社製のモーターが唸り、言葉の絶えた静寂を低く震わせる中、征人は無心で操艇に専念した。未練と後悔の予感で張り裂けそうな胸に背を向け、引き返せと訴える衝動を意識の外にして、とにかく舵輪を握りしめ続けた。
前部座席に身を横たえたパウラも、先刻から無言で感知に専念している。倒した背もたれごしに見える頭はぴくりとも動かず、その表情を窺うことはできなかったが、座席の両側から水面に差し入れられた手のひらがこわ張り、小刻みに震える様子は、胸を突く針になって征人の視界に映じていた。
自分には見えないもの――見ないで済ませられるものが、彼女には見えてしまっている。自分が目を背けた現実が、雪崩《なだれ》になって彼女に注ぎ込んでいる。征人は潜水服の襟口から懐中時計を取り出し、午前十時二分の時刻を確かめた。航走開始から三十分少々、アシーガ湾からはもう八キロ近く離れられた。
「パウラ……。もういいよ」
針路上に敵影はなく、浅瀬や岩礁などの障害物も見当たらないと確認している。感知を中断しても問題はないと思い、征人はパウラの顔を覗き込んだ。閉じた目を開こうとはせず、パウラは「……いいの」と呟いた唇を微笑の形にした。
「みんなの歌声を、もう少し聞いていたいから……」
閉じあわされた長いまつ毛が震え、ひと筋の雫を頬に流した。否応《いやおう》なく突きつけられた現実が胸にのしかかり、予想以上の重さに絶句した征人は、よろけるように後部座席に座り込んだ。飛沫の音がひそやかに艇内に広がり、間断なく続くモーターの音がすぐにそれをかき消した。
二時間後。テニアン時間に合わせた時計が正午を告げた頃、〈ナーバル〉は浮上した。
テニアン島の北、約三十五キロ。右手にあったサイパン島も後方に過ぎ去り、周囲には島陰ひとつ見えない。潜望鏡を上げ、海上の安全を十分に確認してから、征人は〈ナーバル〉の小振りな船体を浮上させた。パウラは半径三十キロ圏内に敵影はないと保証したが、敵機が捜索に飛んでこないとも限らない。まずは自分が先に外に出て、慎重の上にも慎重を期すことにした。
気密室のハッチを開けると、刺さるのではないかと思える光が肌を焼き、むわっと吹き込んでくる大気が肺をいっぱいにした。長く息苦しさを常態にしてきた体には、芳醇《ほうじゅん》すぎる大気だった。しばらくはなにも考えられずに空気を貪り、目が光に慣れるのを待った征人は、筒形の曲面を描く〈ナーバル〉の船体の上に立ち上がってみた。周囲三百六十度を覆う水平線をぐるりと見渡し、風音以外に聞こえるものはないと確かめてから、艇内で待っているパウラに上がってくるよう呼びかけた。
乾舷がなく、船体の表面をわずかに表出させただけの〈ナーバル〉の上に立つと、海面の上に直接立っているような錯覚に襲われる。〈伊507〉の露天甲板から見下ろした時と違って、そこから見える海は索漠とした荒野、人の生存を拒絶する虚無の原としか感じられず、征人はちょっと臓腑《ぞうふ》が引き締められる思いで靴底の感触を確かめた。潜水靴が船体を叩き、金属の触れ合う鈍い音を立てたが、その音も〈ナーバル〉の質量に準じた軽い音に聞こえて、足場の不確かさを再認識するのに終わった。
パウラもどことなく所在ない面持ちで、茫漠と広がる大洋と空を見つめている。見渡す限り陸地はなく、通りかかる船影もない。〈伊507〉では艦自体が発散する人の生活の匂いが感じられたが、〈ナーバル〉ではそれすら感じられないのだった。カモメの一羽、トビウオの一尾も姿を見せず、いっさいの人間の匂い、いっさいの生物の気配を拭い去った世界。湿った風が鼓膜を叩くぼうぼうという音、凪いだ海面が船体を洗う微かな波音以外は、なにも聞こえない世界。寂しさや心細さを通り越し、一種異様な感覚にとらわれた征人は、ここはいったいなんだ? と胸の底に自問した。
ここには敵も味方もいない。命令も服従もなく、戦争も平和も存在し得ない。それらすべてをひっくるめて、ただそこに在り続けるだけの世界が眼前に横たわっている。自由≠ニいう言葉がぽつりと浮かび上がり、そういうことなのだろうかと征人は自問を重ねた。いまだその意味を実感できない頭に、自由の二文字は目の前の世界同様、捉えどころのない漠とした印象を残した。
喜びより大きい所在なさと、希望と等量の不安を内包した言葉、世界――。
「……どこへ行きたい?」
自分に問うたのか、パウラに尋ねたのか判然としなかった。こちらに振り返ったパウラの視線を感じつつ、征人は彼方の水平線を見つめて続けた。
「艦長も、掌砲長も、フリッツ少尉も……。みんな、どこに行くのも自由だと言った。君はどこに行きたい?」
パウラは無言の顔を海原に向けた。じりじりと照りつける太陽の音が聞こえそうな沈黙が訪れ、不意に吹き寄せた強風がそれを破った。低い上構に風を受けた〈ナーバル〉の船体が横に揺れ、征人は慌ててパウラの体を支えた。二の腕をしっかりとつかみ、征人の胸に顔を埋める形になったパウラは、くくっと低く喉を鳴らしたようだった。
不安定な足場を楽しんでいるような笑い声に、征人は虚をつかれてその顔を見返した。征人に半ば体重を預けて、パウラは微笑に染めた顔をふっと上げた。
「私、征人の生まれた場所を見てみたい」
ひどく簡単にパウラは言った。心臓がどきりと高鳴り、自分はこの答を望んでいたらしいと自覚したが、歓喜はそれと意識する前に胸の底に沈殿して、自責ともつかない重苦しさが胸を潰した。征人は咄嗟に目を逸らし、パウラの肩から手を離した。
「……なんにもないところだぜ。これからは、もっとなんにもなくなるかもしれない。それでもいいのか?」
狡《ずる》い質問だと承知しながらも、征人は北方の水平線を――二千キロの彼方にある日本を見据えて尋ねた。日本に行きたいとパウラが言ったのはこれで二度目だし、いつか温泉に連れてゆくと約束したことも覚えている。他に帰れる場所はないという思いにも疑いはなかったが、敗戦という言葉の先にある現実は現実だった。
飢え、疲れ、寄る辺をなくした国民。連合国という他者の占領下に置かれ、根底から解体される国体。浅倉大佐の予見した未来図を脇に避けたとしても、そこにあるのは想像を絶する虚無であり、暗黒であり、終わりの見えない混沌《こんとん》だった。大本営が降伏の道筋を立てられるという保証さえなく、もし国内での戦闘が継続されれば、さらなる破壊と荒廃が国土を……。
「なんにもない方が、いいんじゃない?」
出口のない繰《く》り言《ごと》を断ち切って、パウラはそんな言葉を返してきた。腰のうしろで手を組み、〈ナーバル〉の舳先に進み出たパウラの背中が水平線に重なり、征人は目をしばたいてすらりとしたうしろ姿を見つめた。
「必要なものは、これから私たちが作ってゆけばいいんだから……」
そう言って振り向いたパウラの微笑は、風になびく髪に遮られて半分見えなかった。征人はその屈託のない笑顔に驚き、自分にはないたくましさに呆れる一方、背は自分の方が高いのだなと、まったく別のことを考えてもいた。
征人はパウラの隣に並び立ち、長大な弧を描く水平線をあらためて見据えた。パウラより少しだけ高い場所から見たそこには、戦時下の息苦しさに喘ぐ土地もなければ、敗戦を迎えて滅びゆく国家もなかった。傍らで息づく命とともに、生き、暮らしてゆくために必要な大地。人の生活の礎《いしずえ》となり、身を寄せるには十分な広さと豊かさに恵まれた大地が、蜃気楼《しんきろう》のごとく二人の眼前に横たわっているのだった。
水と空気とお天道さん、それにちょっぴり栄養のある土があれば、人間どこでだって生きていける――。そう教えてくれた人の声が風音に混じり、いま必要なたったひとつの決意を固めた征人は、まずは懐中時計を取り出して針を一時間分戻した。再び日本時間を刻むようになった時計の作動を確かめ、もういちど深呼吸をしてから、パウラを促して艇内に戻った。
出航の前に糧食や水、燃料の搭載量を調べ、海流状況も調べて入念な航海計画を練らねばならない。二千キロの距離は、〈ナーバル〉にはかなり苛酷《かこく》な行程になるはずだった。
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通底音のように響いていた地虫の声が不意に途絶え、小松は目を開けた。
低い灌木《かんぼく》の茂みと、その向こうに見えるコンクリートの壁。暑さでぼうっとした頭がそれらの光景を捉え、小松は顔中に噴き出た冷たい汗を拭った。眠ってしまったらしい。ウェーク根拠地隊司令部にたどり着いて、通信所の前まで来て……それからどうなった? ゆるゆると回転し始めた思考をまさぐりつつ、小松は背中を預けていた木の幹から離れた。疲れの抜けきらない関節がみしりと痛み、湿った土の上に片膝をついたところで、周囲の異様なまでの静けさに気づかされた。
風が絶え、草ずれの音ひとつ聞こえないのは今朝から同じだが、耳が痛くなるほどの静寂は異常の度を超している。まるで島中が息をひそめ、時間すら静止させてしまったかのようだった。耳がバカになったのかと不安になり、小松は自分の頬を軽くはたいてみた。ぺたぺたと間の抜けた音が聞こえ、残響も引かずに静寂に呑み込まれると、慌ただしい人の足音が茂みの向こうで発した。
「おい、持ち場を離れていいのかよ」
「それどころじゃないだろう……! 司令や参謀だって 逃げ出す準備をしてるんだ」
あの見張りの中尉だ。足音に続いて発した低い怒声に、小松は先刻、通信所の入口前で見た三十年配の中尉の顔を思い出した。根拠地隊の中だというのに、前線に立つ歩哨《ほしょう》さながら、緊張した面持ちで着剣した三八式小銃を携えていた中尉。警衛なら兵曹以下の者がやりそうなものだが、他に人の姿は見当たらなかった。
そう、その中尉は通信所に近づく小松を見咎《みとが》め、誰何《すいか》の声と一緒に銃口を振り向けてきたのだ。ここはいま立入禁止だ、近づくな、と。官姓名を名乗り、司令閣下にお会いしてお話したいことがある、と告げても耳を貸そうとしなかった。むしろこちらの素姓を知るとますます警戒を強めた様子で、〈伊507〉の乗員がここでなにをしているのか、すぐに立ち去れ、と銃剣の切っ先をずいと突き出してきさえした。食い下がれば本当に刺し殺されかねない勢いに、小松はやむなくその場を退散した。それでも他に行く当てもなく、通信所の入口が見渡せる茂みに身を潜めて……いつの間にか寝入ってしまったのだった。
内地を離れた時からいじっていない腕時計の針は、十一時七分を指している。いったいどれくらい寝ていたんだ? まだぼうっとした感じが抜けない頭を軽く叩いた途端、「作戦は失敗したんだ」と中尉の吐き捨てる声が流れた。小松は反射的に姿勢を低くして、茂みの隙間ごしに通信所の入口を窺った。
「司令と浅倉大佐はトラック守備隊と合流して、態勢を立て直す構えだ。ぐずぐずしてると置いてきぼりを食らうぞ」
「トラック諸島でか? 行けるのかよ」
「哨戒艇にありったけの燃料を積めば、片道ぐらいはなんとかなる。行くしかないだろう」
「敵艦とかち合ったらどうする」
「その時は、浅倉大佐が話をつけてくれるさ。……おい、急げよ。兵どもが怪しむ前に支度をするんだ」
焦《じ》れた声が走り出し、慌てて追いすがる足音が後に続いた。乾いた土を踏む音が建物の角を曲がり、すっかり聞こえなくなるのを待ってから、小松は茂みを鳴らして立ち上がった。
いまの会話がなにを意味し、見張りの中尉ともうひとりの男がどこに行ったのか、小松にはどうでもいい話だった。昨日から今朝まで考え続けて、自分の頭では混乱するだけだとわかっている。いま必要なのは、問いではなく答だ。なにが正しく、なにが誤りなのかを判定することだ。小松は首をのばして通信所の入口を窺い、人の姿がないことを確かめて茂みから這い出した。
バラックの寄せ集めといった観のある司令部の中で、唯一コンクリート造りの異彩を放つ通信所は、三階建ての屋上に巨大な鉄塔を聳《そび》えさせている。そよとも揺らがない椰子の葉陰ごしにそれを見上げ、やはり萎《しお》れている旭日旗を確かめた小松は、軍袴についた葉や土を落とし、軍衣の襟元を正して歩き始めた。
陽光は建物の反対側を照らし、こちら側は影に包まれている。そのせいか、壁にぽっかり口を開けた通信所の入口は、防空壕か洞窟に通じる闇の戸口に見えた。生来の臆病風が脇の下を冷たくしたが、この奥に答があると訴える直観は止まることを許さず、小松は闇の中に分け入っていった。
入口をくぐった直後、ごう……と地鳴りに似た音が遠くに聞こえ、それまで静止していた木々がざわざわと騒ぎ出すのが感じられたが、もういちど戻って確かめようという気にはなれなかった。この建物のどこかに根拠地隊司令がいる。浅倉大佐もいる。小松はかまわずに通信所の奥に進み、答を持つ者の姿を捜し始めた。
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やはり、とんでもない泥舟だったのだ。電信員席から立ち上がり、微かによろめいた浅倉の背中を見た時、鹿島惣吉の頭に浮かんだのはそのひと言だった。
立ち上がったというより、それは自分で自分の吊紐《つりひも》を引っ張った操り人形といった方が正確で、鹿島にとっては薄々感じていた疑念が現実になり、絶望させられた瞬間になった。我々が救世主と崇《あが》めてきたこの男は、実は脆い。いまも落ち着き払った外面の下で、内面は自分の体を支えられないほど動揺している。もう再起の志などはなく、このまま朽ちてゆくしかない男なのだ――と。
原子爆弾搭載機が撃墜され、〈伊507〉がローレライ系統ともども、深海に沈んだと伝えられたのが二時間ほど前。その際、浅倉と米軍との間に交わされた暗号電文の内容は不明だが、米軍にとっては取引を御破算にされた上、相当数の戦力の損耗を強いられ、なお得るものはなにひとつなかったのだから、好意的内容であったはずはあるまい。事実、米軍との通信回線はそれを最後に切れた。以後の通信は途絶え、しばらくは途方に暮れた沈黙が電信室に降りた。
浅倉はなにも語ろうとしなかった。鹿島はあまりにも呆気ない幕切れが信じられず、渕田参謀長はなにをどう考えていいのかわからない顔つきだったが、我々は捨てられたのだということは全員が理解していた。ここまで不手際を重ねた以上、米国政府内の協力者も浅倉に見切りをつけたに違いなく、米軍は取引から完全に手を引いた。もう迎えの手が差し伸べられることはない。国家の切腹も、あるべき終戦の形≠焉A日本民族再生計画も、すべてが水泡に帰した。いまさら帝国海軍に帰順することは叶わず、振り上げた拳の落としどころも見つけられずに、鹿島たちはこのウェーク島に取り残される羽目になったのだ。
無論、承服できる話ではなかった。なんら行動を起こそうとしない浅倉に代わって、鹿島は米軍との通信再開を試みた。ストリップ方式の暗号作成書はこちらにもあるし、英語は渕田が多少は話せる。浅倉が使っていた周波数の記録を頼りに、鹿島と渕田は所在も定かでない通信相手に電文を送った。一向に返信がなくとも、連絡請うの電文をくり返し送信し続けた。
その間、浅倉は取り乱すでもなく、虚脱するでもなく、平素と変わらぬ白い能面を電信室の壁に向けていた。必死に米軍に呼びかける鹿島たちをよそに、姿勢よく椅子に座った体を微動だにさせなかったが、たまに目が合うと、そこには侮蔑するのも億劫だと言いたげな酷薄《こくはく》な光があり、鹿島は何度となく舌打ちしたい衝動を堪えなければならなかった。
冗談ではない。華族のボンボンが、もっともらしい理念を掲げて好き放題をやった挙句がこれだ。当人にはあきらめもつくのだろうが、のせられた自分たちはどうなる。皇軍に唾して逆賊に成り下がり、やったことと言えばこの男の言う通りに動いていただけ。自分はまだなにもしていない。決意の重さに見合う甲斐を、自分たちはまだなにひとつ手にしていないではないか。
ここでは終われない。自分や渕田たちにはもちろん、浅倉の中にもその思いはあるはずだ。鹿島は米軍に電文を送る一方、根拠地隊内の同志と連絡を取り合い、ひそかにウェーク島を脱出する準備を進めた。二千キロ南東に下ったトラック諸島の守備隊に、拠点を移す。敵制海圏を横断する無謀な航海になることは承知だが、危険はウェーク島に留まっていても変わらない。軍令部もそろそろ動き出す頃合とあっては、一刻も早くこの場を離れるのが肝要だった。
敵艦に発見された時は、浅倉を間に立てて一時的に捕虜の身に甘んじてもいい。この男さえいれば、米軍との再交渉もまだやりようがある。とりあえずそれだけの考えをまとめ上げ、浅倉にどう切り出すか思案を巡らせている時だった。浅倉がなんの前ぶれもなく立ち上がり、すっかり箔《はく》のはがれた背中を鹿島に見せつけたのだ。
泥舟。いまや現実となった言葉を胸中にくり返し、足もとの床がずぶずぶ沈んでゆく感覚を味わう間に、浅倉はおぼつかない足取りで部屋の出口に向かった。モールス信号を打つのを中断して、「どこに行かれるのです?」と渕田が中腰になる。立ち止まり、生気のない顔をわずかに振り向けた浅倉は、「もう気が済んだだろう」と自嘲混じりのかすれた声を寄越した。
「宴《うたげ》は終わりだ。こんな狭苦しい場所にこもっていても仕方あるまい。せめて往生際《おうじょうぎわ》はよくしないと、〈伊507〉の連中にも笑われようからな」
乾いた唇を微笑の形に歪め、浅倉は部屋の扉を開けた。朽ちてゆく己を悟りきった背中が戸口をくぐる直前、鹿島は「お待ちください!」と声を荒らげて立ち上がっていた。
超然とした言動、他人を見下した目つき。これまで感じてきた嫌悪感を含めて、こんな男に……という怒りが膨らむのを抑えることができなかった。足を止めた浅倉の正面に回り、「まだ終わってはいません」とたたみかけた鹿島は、微笑を吹き消した白い能面を臆さずに見据えた。
「米軍にとっても今回の事態は不祥事です。あなたはその真相をすべて知っている。米国政府の中枢と通じてもいる。再起は可能……いや、起《た》ってもらわねばなりません」
浅倉の目が細まり、殺気を孕んだ視線が鹿島の目を射た。いつもなら身の毛がよだち、ひと言もなくなるところだったが、箔が剥がれたいまはただの視線に過ぎなかった。鹿島は目を逸らさずに視線を受け止め、「トラックに移りましょう」と硬い声を重ねた。
「向こうの守備隊には自分の同期もおります。本土との通交が絶たれて、冷や飯食いをさせられているのは彼らも同じだ。あなたが呼びかければきっと恭順《きょうじゅん》する者もいる。行きましょう」
「行ってどうする。もう米軍との取引材料はなにもないぞ」
「あなたがいます。あなたの頭の中に詰まっている情報は、米国政府にとっては原子爆弾に匹敵する火種になるはずだ。うまく立ち回れば、我々の受け入れを認めさせるぐらい……」
そこで口を噤んだのは、浅倉の表情に苦笑が浮かぶのを見たからだった。ようは人質に使うという話で、正直に喋り過ぎたかと微かに自戒はしたものの、鹿島は後悔は感じていなかった。
泥舟だろうがなんだろうが、ここまでの計画を立ち上げ、大勢の者を巻き込んで走ってきたのだ。最後まで責任は取ってもらう。そう簡単に沈んでもらっては困るという思いに変わりはなく、鹿島は浅倉の顔を直視し続けた。浅倉はふっと吐息を漏らし、「たくましいことだ」と呟いた。
「そのなりふりかまわぬたくましさが、日本を亡国に導きもするか……」
目を伏せ、苦笑の唇を吊り上げた浅倉の背後で、渕田が怪訝な顔つきになる。鹿島は表情を変えなかった。もう能書きや皮肉はいい。いま必要なのは実践的な行動だ。「船の手配は済んでおります」と結んで、鹿島は一歩下がって浅倉に道を開けた。
腰の拳銃吊りにさりげなく手を置き、渕田に背後につくよう目配せする。連行という言葉を浅倉が思いついたかは、定かでなかった。苦笑を消した顔を正面に向け、浅倉は意外にしっかりした足取りで歩き始めた。鹿島と渕田が並んでその背後につき、三人分の足音が電気を落とした薄暗い廊下に響き渡った。
階下に下り、電源室の角を曲がったところで、廊下の向こうから歩いてくる人影と出くわした。見覚えのない顔、三種軍装、襟章は少尉。長年の習性でそれらを一挙に判じた鹿島は、「誰か!」と誰何の声を飛ばした。ぼんやり弛緩した少尉の顔が瞬時に引き締まり、ぴんと背筋をのばした体が一本の棒になった。
「は! 〈伊507〉潜所属、甲板士官を任じられております小松少尉であります」
浅倉の眉がぴくりと痙攣し、その横顔に電流が走ったような気がした。「〈伊507〉だと……?」と思わず呟き、鹿島は小松と名乗った少尉を頭からつま先まで見下ろした。
直立不動の体を包む軍装は薄汚れ、ネズミとも青びょうたんとも取れる面相には血の気がない。なによりも特徴的なのは目で、薄暗がりの中でもぎらぎらと光って見える双眼は、なにかを一心に見つめるようでありながら、実は焦点が定まっていないのではないかとも思わせた。
〈伊507〉から脱出してきた乗員たちは、港に近い倉庫にまとめて軟禁してある。この小松とかいう少尉が勝手に通信所に入り込めた理由がわからず、鹿島は渕田と顔を見合わせた。面倒だ、関わりにならない方がいいと言っているその目に頷き、もういちど小松の顔を見遣ってから、浅倉を促して再び歩き始めた。
「ど、どこに向かわれるのでありましょうか?」
小松はすかさず横に移動して、傍らを通り過ぎようとした鹿島たちの行く手を阻んだ。緊張というだけでは説明できない、常軌を逸した目の色が間近に迫り、鹿島はぞっとするものを感じて立ち止まった。「どこでもいい、そこをどけ」と一喝し、目を見ないようにして押し通ろうとしたが、ひょろりとした体は頑として動こうとしなかった。
「貴様……! どけと言っているのがわからんか」
渕田が怒声を張り上げる。小松の襟首をつかみ上げようとしたその動きは、しかしすっと持ち上がった浅倉の腕に制された。浅倉は鹿島の体も押し退けて小松の前に立った。呆気に取られた鹿島をよそに、浅倉は「〈伊507〉の乗員と言ったか?」と小松を見下ろし、小松は「はっ!」と威儀を正した。
「なら余計な説明はいるまい。貴様と同じだ。我々は尻に帆をかけて逃げ出そうとしているのだよ」
余計なことを。笑みさえ浮かべて言う浅倉の横顔を睨みつけた途端、「自分は、逃げ出したのではありません!」と小松が全身を声にして叫び、鹿島はぎょっとその顔に視線を戻した。
「自分はただ、帝国海軍軍人として、正規の認証を得ない命令に従うわけにはいかないと……」
「帝国海軍はもう存在しない」
静かに言いきった浅倉の顔には、こちらの胸をも凍りつかせる冷笑があった。ひきつっていた小松の顔がぽかんとなり、肩から力が抜けるのが鹿島にも伝わった。
「じきに存在しなくなる、と言った方が正確か。いずれにせよ、あと数日のことだ。ついでに日本という国家もなくなる。大本営に刃《やいば》を向けたわたしも、自分の艦を捨ててきた貴様も、軍人としてはともに外道というわけだ」
血の気のない小松の顔が紙のように白くなり、焦点の合わないガラス玉の目が一点に固定して動かなくなった。鹿島は浅倉の肘《ひじ》をつついて歩くよう促したが、浅倉も小松の顔を覗き込んで動こうとしなかった。
「〈伊507〉も沈んだ。ありもしない大義に忠節を尽くす振りをしたところで、いまさらどうにもなるまい。自分の尻ぐらい、自分で拭けるようになるのだな」
最後のひと言は、ちくりと胸を刺す毒針になって鹿島の中にも飛び込んできた。若僧を相手になにを言い出すかと思えば、こちらへの当てつけのつもりか。大人気《おとなげ》ない……と鼻白むうちに、言うだけ言った浅倉はさっさと歩き出していた。
小松は浅倉の顔があった空間を見つめたまま、じっと立ち尽くしている。渕田と目を見交わし、泥舟の泥舟たる所以《ゆえん》を再確認してから、鹿島も浅倉の後に続いた。この調子ではトラック守備隊の連中を恭順させ、抱き込むことはできそうにない。箔の剥がれたエセ救世主を連れて、これからいったいどうしたものか。いっそ白旗を掲げて、クェゼリンの米軍基地にでも駆け込むか? そんなことを徒然《つれづれ》に考え、ふと背後を振り返ると、そこにあるはずの小松の背中がなかった。
刹那、腰のあたりに衝撃が走り、鹿島は受け身を取る間もなく床に転がった。棒立ちになった渕田の顔が見え、それを突き飛ばして小松が廊下の中央に仁王立ちになる。鹿島は咄嵯に腰に手をのばしたが、南部式拳銃の銃把《じゅうは》はつかめず、空の拳銃吊りの感触だけが手のひらに当たった。その中身は小松の両手に握られており――銃口の先には、浅倉の背中があった。
「天誅《てんちゅう》っ!」
絶叫が弾け、閃光と轟音が廊下を圧した。南部式拳銃から放たれた八ミリ弾は、振り向きかけた浅倉の右後頭部に突き刺さり、頭蓋の三分の一近くを吹き飛ばして額に抜けた。血と脳漿がぱっと壁にまき散らされ、浅倉の体が棒切れのように倒れると同時に、新たな銃声が一発、二発と通信所の廊下に轟いた。
渕田の放った銃弾が小松の背中にめり込み、衝撃で半回転したところに三発、四発目の銃弾が撃ち込まれる。至近距離から放たれた銃弾は痩せぎすの体を壁に叩きつけ、小松はがっくり垂れた頭を上げることなく、血まみれの体をずるずると床に沈み込ませていった。鹿島はその手に握られた南部式拳銃を蹴り飛ばし、つんのめるようにして床に伏した浅倉のもとに駆け寄った。
血と硝煙の臭いが立ちこめる中、音もなく拡がってゆく血溜まりに頭を浸し、うつ伏せに倒れている浅倉良橘。壁に飛び散った脳漿の紫がかった色も、廊下に点々と散らばる頭蓋片の血に汚れた白色も、すぐには現実のものとは信じられず、鹿島は間違いなく即死した浅倉の顔を呆然と見下ろした。無事な方の顔を上に向けて、見開かれた目はまだ生きているのではないかと思える光彩を放ち、微かに吊り上がった唇の端には皮相な笑みの表情があった。
この期に及んで誰を嗤うつもりだ。目を閉じてやる気にもなれず、鹿島は血溜まりに手をついて立ち上がった。壁に寄りかかり、まだ硝煙をたなびかせる南部式拳銃を握った渕田と所在のない目を合わせて、どちらからともなく床に座り込んだ小松に視線を移した。
上体を折り曲げ、四肢を床に投げ出した小松も、やはり間違いなく即死していた。何者だ? という自問には意味がなく、小石だったのだ、という本能的な理解が鹿島の胸を埋めた。
浅倉を蹴つまずかせ、自分たちをも蹴つまずかせた道端の小石。〈伊507〉の怨念かもしれないという推測もあったが、考え出せば発狂しそうな予感にとらわれて、鹿島は小松の亡骸《なきがら》から目を逸らした。
「司令……」
渕田が震えた声を出す。鹿島は無視してこれからのことを考えようとした。だが出てくるのは、どうしよう、どうしたらいいものか、という言葉の羅列で、まともな思考はなにひとつまとまりそうになかった。
「司令、この音は……!」と神経に障る声が重なり、鹿島は思わず渕田を睨み据えた。うるさい、貴様も少しは自分で考えたらどうなんだ。鬱積した忿懣が捌《は》け口を見出し、怒声になって吐き出される寸前、ごう……と空気の震動する音が耳朶を打った。
いま聞こえ始めた音ではない。先刻から聞こえていた通底音が、意識に引っかかる程度の音量になって響くようになったのだ。そう気づいた時には、その音は壁や床をびりびりと共振させ、神経を圧迫する轟音になって頭上から降りかかってきた。サイレンの不穏な音色がそこに相乗して、鹿島は意味なく天井を見上げた。
複数の発動機がプロペラを回転させ、気流を引き裂く音は間違いなかった。「敵機来襲!」と誰かが叫ぶ声が遠くに聞こえ、鹿島は渕田と顔を見合わせた。迎えが来てくれた……? 互いの目の底に浮かんだ推測は、ある意味では正しく、また間違ってもいた。
ほとんど頭上を覆い尽くしたと思える震動音の中に、空気を裂く甲高い音が混じる。それは急速に大きくなり、鹿島は天井に目を釘付けにしたまま、無意識に一歩あとずさった。ずんと衝撃が突き抜け、通信所が激震したのはその直後のことだった。
打ちっ放しのコンクリートの壁に亀裂が走り、天井が抜けて瓦礫と鉄骨が降り注いだ。渕田はその下敷きになり、次いで落下してきた梁《はり》が鹿島の頭蓋を粉砕した。
爆弾はさらに休みなく投下され、通信所の建物を根底から打ち崩し、屋上の鉄塔を瓦解させた。灼熱した鉄骨の山が椰子の木をなぎ倒して地上に降り注ぎ、盛り上がる土くれと黒煙がウェーク島の一画から噴き上がってゆく。それは虐殺《ぎゃくさつ》の始まりを告げる狼煙《のろし》になり、どす黒い噴煙の塊を青空に浮かび上がらせた。
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日本時間午後一時。予定時刻より三十分ほど遅れて、大湊たちを乗せた二式飛行艇はウェーク島に到着した。
離着水時の凌波性を保証すべく、二式飛行艇の機体底面は艦船の船底に酷似した設計になっている。その形状からカツオブシとも俗称される機体が海面に触れ、二十四トンの重量に押しひしがれた海面が白波を蹴立てると、旋回しつつ減速する機体が島の内海に白い航跡の弧を描いてゆく。それは鳥瞰《ちょうかん》すれば、V字形に連なる島の形とおそろいに見えなくもなかったが、仮に上空から見下ろす者がいたとしても、湾内に着水した二式飛行艇の航跡を見通すことはできなかったろう。
島のほぼ全域から立ち昇る黒煙は、それほどに濃く、厚く、太陽の光も陰らせる層を成して島全体を覆っている。飛行艇に搭載した短艇《カッター》を降ろし、さっそく上陸準備にかかった大湊たちは、湾内に立ちこめる煙の量と臭気にまずは絶句させられた。煤混じりの煙は濃霧のように視界を遮り、こげ臭いにおいを滞留させて、百メートルと離れていない港の様子すら満足に窺うことを許さない。煙の塊に覆われたウェーク島を視認して以来、ある程度の覚悟は固めていたつもりだったが、実際に肌身で感じ取った惨状は上空から見下ろした時の比ではなかった。
遅かった――終始つきまとい続ける鈍い敗北感をこの時も感じつつ、大湊はカッターに乗り込んだ。叛乱分子の検挙のはずが、生存者の捜索と救援活動になるかもしれない。その予感は天本少尉を始め、小銃と軍刀で武装した全隊員の胸のうちにあるようだったが、誰も口に出す者はいなかった。煙の靄に包まれた湾内は潮騒《しおさい》もろくに響かず、三艘のカッターは凪いだ海面を粛々と進んだ。
もともと貧相な港湾施設は徹底的に破壊し尽くされ、岸壁も桟橋《さんばし》もほとんど粉々に打ち壊されていた。惨劇はほんの一、二時間前のことらしく、瓦礫の山と化した倉庫群は余熱を放ち、椰子の木立《こだち》も一部に火を残して白い煙を燻《くゆ》らせている。大破して沈底した哨戒艇の脇にカッターを舫《もや》い、とにもかくにも島への上陸を果たした大湊は、総勢三十人の部隊を三班に分けるよう最初の指示を出した。
ウィルクス島に連なる島の西岸地帯に一班、ピール島に連なる東岸地帯に一班。残る一班はこのまま前進して、ウェーク本島の内奥にある根拠地隊司令部を捜索する。大湊は本島の捜索に回り、二人ずつの小班を横一列に並べて前進を開始した。生存者が発見されたとしても、それが浅倉に与した叛乱分子かそうでないかは、取り調べてみないことにはわからない。生存者は絶無であろうと予測する内心は隠し、警戒を怠らぬよう全隊に命じてから、自らも天本とともに焼け野原に足を踏み入れた。
白濁した煙の靄が蔓延《まんえん》する中、焼け焦げて炭になりかかった椰子が無数に立ち尽くすさまは、冥土《めいど》の光景もかくやと思わせる侘《わび》しさだった。ぱちぱちと生木の爆ぜる音の他はなにも聞こえず、緩慢に流れる煙は空の色を隠して、いっさいの色彩を忘れた世界が見渡す限り続く。それは一キロも歩くと唐突に途絶え、司令部に隣接する飛行場の滑走路を大湊の眼前に広げて、地獄に迷い込んだ感覚をより確かなものにした。
鉄板の上に砕いた珊瑚《さんご》を敷き詰めた滑走路は、そこらじゅうが陥没してあたりに土砂をまき散らし、離陸する暇もなく破壊された戦闘機の残骸がその合間に横たわる。椰子林を切り拓《ひら》いて造られた飛行場は徹底的に破壊され、土に還る途中の無残なありさまを呈していたが、散らばった残骸が鉄やコンクリートの欠片《かけら》に留まらない点が、港とは比較にならない惨《むご》たらしさを見る者に感じさせるのだった。穴だらけの滑走路に転がる無数の、百を超えるだろう死体。ある者は噴き上がった土砂に半ば埋もれ、ある者は四肢を引きちぎられた姿で、どの死体も痩せこけ、中には裸足の者もいるのが大湊の注意を引いた。
本土との通交を絶たれて数年が経ち、自給自足で糊口をしのいできたのだ。反撃らしい反撃などできたはずもなく、ただひたすら逃げ惑い、出し抜けに訪れた最期を実感する間もなく死んでいったのだろう。大湊は近くに転がる死体を二、三あらため、いずれも火傷や窒息ではなく、体にめり込んだ機銃弾で命を絶たれていることを確かめた。焼夷弾《しょういだん》で椰子林に火を放ち、逃げられないようにした上で、上空からの機銃掃射で皆殺しにする。この破壊をもたらした者たちの意図は、唖然とさせられるほどに明白だった。
「こんなの戦争のやり方じゃない。虐殺《ぎゃくさつ》じゃないか……」
累々《るいるい》と横たわる死体を前に、手で鼻と口を覆った天本がくぐもった声を出す。反駁《はんばく》の余地はなかった。孤島の根拠地隊、それも戦略的に無意味な島を攻撃するにしては、この破壊と殺戮は念が入りすぎている。大湊は、「司令部には待避壕《たいひごう》がある。生存者もいるかもしれん。行ってみよう」と一同を促し、肩の三八式歩兵銃を担ぎ直してその場を離れた。
本気の言葉ではなかった。米軍が実施した大規模爆撃は、ウェーク島の地表をほとんどまるごと削り取った。それだけの量の爆弾が投下され、地表を打ち砕き、木々を焼き払い、地形を変えるほどの破壊がもたらされたのだ。待避壕も含めて、人間が建設した施設は塵《ちり》に等しい。ましてその中に逃げ込んだ人間の命など……。
へし折れた椰子の木をまたぎ、点々と散らばる死体を横目にしながら歩き続けて、十分あまり。かつての根拠地隊司令部の痕跡を目の当たりにして、大湊の予測は裏づけられた。バラック造りの司令部は焼け焦げた炭の塊になり、コンクリートの建築物は形を留めぬ瓦礫と化して、その中にやはり炭化した遺体と木片が散乱する。地面はいまだ灼熱地獄の余韻《よいん》を漂わせ、吹き上げられた熱気が澱《よど》んだ風を生んで、肉と木の焦げた臭いを廃墟に還流させていた。
待避壕はどれも狙ったような集中爆撃にさらされ、入口部分が完全に瓦礫と土砂で埋まっており、重機でもなければ掘り出すのは不可能と思われた。逃げ込んだ者がいたとしても、落磐で押し潰されたか、窒息死したかのどちらかだろうが、大湊はできる限り瓦礫の山をどかし、生存者の捜索を徹底するように命じた。万にひとつの可能性を信じてのことではなかった。じっとしていれば虚無に呑み下されそうな強迫観念があり、それを紛《まぎ》らわすために、なにか体を動かす理由が欲しかったのだ。
天本たちも同じ思いだったのかもしれない。全員が積極的に動き、手分けして瓦礫を掘り返す作業が開始された。大湊もその中のひとりになり、煤と粉塵にまみれながら瓦礫をどかした。間に合わなかった、米軍はすべてを消し去った。そう呟く胸から目を逸らし、機械的に体を動かし続けたが、溢れ出る汗とは裏腹に、腹の底の虚しさは一向に減じる気配がなかった。
これでなにもかもが闇に葬られた。浅倉の謀反《むほん》も、三発目の原子爆弾も、〈伊507〉の存在も、後世の歴史に語られることはあるまい。米国は、それを望んで浅倉ごとウェーク島を焼き払った。すべてを隠密裡に処理したという点では、軍令部も米国の後始末≠ノ協力をした。互いにあずかり知らぬこととはいえ、それぞれ身内の不始末を抱えた敵国同士が同じ結論に至り、協力するかのごとく隠蔽工作を進めてきたという構図は、奇妙ななりゆきと呼ぶにはあまりにも愚かしく、醜悪な話ではあった。
後の禍根《かこん》を断つべく、封じられる口はすべて封じておく。日本や米国に限らず、古今東西の軍隊がやってきたことだ。米国がうしろめたい取引の痕跡を消したとしても驚くには当たらないが、この迅速《じんそく》で周到な幕の引き方は、これから始まる新しい戦争に即したものなのかもしれない。ひとつの情報が大艦隊に匹敵する威力を発揮する戦争。互いを滅ぼしかねない総力戦の代わりに、見えない場所、当事国には関わりのないところで繰り広げられる戦争。対立が宿命づけられている二大国が先導して展開する、日本も無関係ではいられないだろう冷たい戦争――。その最初の瞬間に立ちあった自分は、なにもかもなげうって真相を追い、正道に基づく事態の収拾を目指しながら、結局なにひとつできなかった。すべてが遅きに失した無能者の見本だが、それでもたったひとつ、救いになる事実を大湊は知っていた。
ウェーク島に到着する直前、横須賀鎮守府の航空戦隊と連絡が取り合えたという事実。無論、それをして東京が無事であるとは断言できず、これから原子爆弾が投下される可能性もあったが、テニアン沖で米艦隊がSOSを発信していた事実――。〈伊507〉が戦っていたのだという推測に免じて、大湊は原子爆弾の投下は防がれたと楽観する自分を許していた。
そうとでも考えなければ、あまりにも虚しすぎる。どうせなにもできないのなら、事実を突きつけられるまでは楽観主義を貫こうと決めて、大湊は瓦礫をどかす作業に専念した。病み上がりの身には堪える力仕事だったが、そうしていられる自分の体力が、この時ほどありがたく感じられたことはなかった。
浅倉らしい遺体が発見されたとの一報が入ったのは、それから四時間後。いまだひとりの生存者も発見できぬまま、東岸と西岸に出向いた班と合流した直後のことだった。
帝海作製の地図によれば、通信所の建物があった場所で見つかったのだという。浅倉の顔写真は全隊員に閲覧《えつらん》させてあったとはいえ、この惨禍の中で顔の判別ができる遺体が残っていたとは思えない。大湊は半信半疑で司令部の南端にある通信所に向かった。かつて米軍が建設した通信所は、いまは堆《うずたか》く積もった瓦礫に姿を変えており、小振りな岩山に見えるその中腹あたりに、天本ら数人の兵が立ち尽くす姿があった。
苦労して瓦礫を這い昇るこちらに気づく様子もなく、天本たちはじっと足もとを見下ろしている。大湊は人垣の間に割って入り、息を整える間も惜しんで彼らの視線の先にあるものを見た。重なりあう瓦礫が段差を作り、ちょうど人ひとりが横たわれる程度の隙間が生じたところに、うつ伏せに倒れた人の背中が見えた。
瓦礫に押しつけた顔を左に向け、両手両足をまっすぐ下にのばして、見開かれた瞳はどこか一点を見つめて動かない。首が不自然に下がって見えるのは、頭蓋の上半分が砕けているからだろうか? いずれ、無事な方の顔を上に向けて倒れているので、その死に顔は一見ひどくきれいなものに見えた。大湊は我知らず段差の下に降り、物言わぬ横顔の傍らに腰を落とした。
段差の上に倒れかかった別の瓦礫が、柩《ひつぎ》の蓋の役目を果たしたからだろう。二種軍装の白い詰襟をまとった体に火傷や損傷は認められず、端正な横顔もほとんど汚れていなかった。いつも身ぎれいな貴様らしいな、浅倉? ようやく再会した旧友の顔を見た途端、この数週間の刻苦は瞬時に溶けて流れて、そんな言葉が胸をいっぱいにした。大湊は目を閉じ、ここで自分を待っていたのだろう浅倉に手を合わせた。
すまない、遅くなって。いま手向《たむ》けられる唯一の言葉を胸に、大湊は合掌を解いた。遺体を仰向けにして手を合わせてやりたいと思ったが、顔の半分がぐしゃぐしゃに崩れた姿を衆目にさらす気にはなれなかった。せめて瞼を閉じてやろうと思い、無事な方の顔に手をのばすと、不意に動いた浅倉の瞳が大湊を射た。
ぎょっと手を止めた大湊を見て、ぐいと吊り上がった唇が笑みを刻む。どっちだ? と浅倉は嗤った。ここで葬られたのは過去か、それとも未来か……? 蠢《うごめ》く赤い口腔に問いを突きつけられ、答えを持たない頭が真っ白になった瞬間、「大佐」という声が背後で弾けた。
振り返った先に、怪訝そうな天本の顔があった。「どうなされたのです? 浅倉大佐なのですか?」と重ねられた声に応じる余裕はなく、大湊は正面に目を戻した。見開かれた瞳はどこか一点を見つめ、薄く開いた唇は赤みを失っている。ただの死体に戻った浅倉の横顔が、白日夢に終わりを告げた。
周囲には粉塵漂う瓦磯の山があり、焼け焦げた椰子林があり、疲れ果てた兵たちの顔がある。帰る場所はあっても、帰れる国はないかもしれない兵たちと、焼け野原と化した緑なす孤島。そこに故国のありようを重ねるまでもなく、過去も未来もない、あるのは現在だけだと大湊は断じた。
預言者も救世主も必要ない。我々凡俗が醜態をさらし、過ちをくり返し、それでも一縷《いちる》の希望を抱いて生きる世界がこれからも続く。同期の友の瞼を閉じてやってから、大湊は立ち上がった。帰ろう、日本に。我々の故郷に。「戦死者をできる限り荼毘《だび》に付して、遺骨を集める。それと遺品の回収だ」と天本らに命じつつ、大湊は浅倉の柩《ひつぎ》になった段差を後にした。
「それが終わり次第、内地に帰還する。今夜は野営になる。手分けして作業を進めろ。かかれ」
「は」と姿勢を正したどの顔にも、国に帰れる安堵や喜びはなかった。帰る頃には、日本という国家そのものが遺骸になっているのではないか? そう問いかける複数の目に、答えられる言葉があるわけでもなかった。大湊は無言で一同に背を向け、瓦礫の山から下りた。そのまま作業に戻る気にはなれず、外洋に面した海岸に向けて無意識に歩き出していた。
煙の霧はだいぶ収まり、傾きかけた太陽の光が炭化した椰子林に差し込み始めた。ぽつぽつと転がる死体を二つ、三つと数えながら、大湊はV字形の島の突端を目指して歩いた。理由などなかった。ただ独りになれる場所を求めて、足が勝手に動いているという感じだった。途中、資材置き場らしい倉庫の残骸に突き当たり、十数人の兵が固まって死んでいる光景を目にしたが、消し炭になった遺体をいちいち検分する気力はなかった。遺体のひとつが缶詰の山を抱きかかえ、そのまま絶命している奇妙な光景を記憶に留めて、椰子林が尽きた先にある海岸へと向かった。
南から吹き寄せる風のせいだろう。外洋に面した海岸に出ると、白濁した煙はきれいに消え去り、穏やかな表情を見せる太平洋が大湊の視界いっぱいに広がった。夕刻に差しかかりつつある空は黄金色に輝き、水平線との距離を縮め始めた太陽は柔らかな光を砂浜に投げかけている。火事場の臭気で麻痺しかけた嗅覚を潮の香りがくすぐり、大湊は波打ち際に駆け寄って透き通った海水をすくい上げた。軍衣が濡れるのもかまわずに膝をつき、すくい上げた水で何度も顔を洗って、鼻腔や毛穴にこびりついた煤を洗い流した。
そうするうち、海水とは異なる生暖かい雫が頬を伝うようになって、大湊はなぜ独りになりたかったのかを理解した。この事件が始まってから――いや、そのずっと以前から溜め込んできた忿懣、絶望、悲哀、疲労。それらが雫になって次から次へと溢れ出し、なにもかもが遅かったのだと大湊は慨嘆した。自分も、浅倉も、日本という国家も。すべてが愚直なまでに現実と向き合い、その重みに抗しきれずに押し潰された。あと一日、あと一年早く気づいていたら、あるいは……。あらかじめ確定した世界の流れに搦め取られ、行くところまで行き着いた我が身を顧みて、噴きこぼれる涙は休みなく溢れ続けた。
皮が剥《む》けるほど顔を洗い、滲んだ目をくり返し拭って、ようやく深呼吸ができる程度の落ち着きを取り戻した。太陽は先刻よりさらに水平線に近づき、茜色《あかねいろ》がかった光線を海岸に投げかけており、波打ち際に転がる一個の椰子の実を砂浜に浮かび上がらせていた。
寄せては返す波に洗われて、長い航海を経てきたのだろう椰子の実は、疲れを訴えるでもなく、未来への不安を訴えるでもなく、生命の詰まった殻《から》を漫然と波打ち際に遊ばせているように見えた。大湊はそれを拾い上げ、「名も知らぬ、遠き島より……」と、何年か前に流行《はや》った歌の一節を口ずさんでみた。やさしく哀しい旋律を全身に受け止め、失われたものの大きさを噛み締めてから、濡れた椰子の実を抱えて椰子林の方へと引き返した。
戦争という愚行を受け止めた土地であっても、土にはまだいくらかの栄養が残っている。林の中に置いておけば、いつかは根づくことだってあるだろう。もとの緑が焦土を甦《よみがえ》らせる日を夢見て、大湊は椰子の実を土の上に置いた。それはこの事件の渦中で、大湊がなし得たたったひとつの善行だった。
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体中がだるく、重みを増した体液が臓腑を押し下げるようにしているのに、どこかで冴え渡った意識が覚醒を促し続ける。まだ寝ていたいのに……と思ったのは一瞬だった。内殻を震わせる重い振動音が圧迫になって迫り、パウラは瞼を押し開いた。
鳴動する空気が腹の底まで揺さぶり、取り付けの緩んだパイプがかたかたと鳴る。耐圧殻の向こうから接近する巨大な質量が〈ナーバル〉を震わせ、パウラは咄嗟に座席の昇降レバーを倒した。座席が水面下に沈むより早く、艇内に張った海水に両手を差し入れ、開けた感知野の中に圧迫の源を探る。船、いや艦か? 全長二百メートルは下らない船底の形状を確かめる間に、四軸のスクリュープロペラの回転する音が頭上に迫り、すさまじい乱流が襲いかかってきた。
眼前を横切る艦船との相対距離は三十メートル。右舷前方から接近する〈ナーバル〉は、艦船のスクリューが巻き起こす乱流に引き寄せられて、深度二十メートルから徐々に浮き上がりつつある。潜降は間に合わない。あと十秒未満で艇首が巨大なスクリューの切っ先に激突して――。
「後席! 正面に大型船。取り舵一杯!」
全身の毛穴が一斉に開き、自動的に動いた口が叫ぶ。反応はない。パウラは水面から手を引き抜き、途端に戻った五感に目眩《めまい》を感じながら、「征人、取り舵!」と叫び直した。「う? あ……!」と呻き声が発して、後部座席に沈み込んでいた征人の上体がばね仕掛けの勢いで起き上がった。
舵輪が回され、縦舵を左に倒した〈ナーバル〉の船体が急速回頭する。慣性の力に押されて波立つ水面に手を突っ込み、パウラは艦船と〈ナーバル〉との位置関係を探った。乱流に抗《あらが》って旋回した小振りな船体が、直径十メートルはあろうスクリュープロペラの真下を通過する。瀑布に似た轟音が耐圧殻に叩きつけられ、乱流に弾かれた〈ナーバル〉が前後左右に揺さぶられると、巨大な圧迫が次第に遠ざかってゆく。コーンと甲高い探信音波の音が直後に響いたが、それは〈ナーバル〉を打つことなく、海水をわずかに蠕動させて海底に呑み込まれていった。
「見つかったか……?」
船体の姿勢を制御しつつ深度を下げ、口もとの涎《よだれ》を拭った征人が押し殺した声を出す。居眠りの拍子にフットペダルを踏み込みでもしたのか、仰角を向いた横舵が艇の深度を引き上げていたらしい。スクリューをかすめる程度の深さを通過した以上、甲板上の見張りに発見されていないとも限らず、パウラは遠ざかる艦船の動向を注意深く窺った。四軸のスクリュープロペラの回転速度は変わらず、二枚の舵も正面を向いて動かない。そのまま一分近く観察を続け、引き返してくる気配はないと確かめてから、「平気。行ったわ」と応じて水面から手を引き抜いた。
座席の背もたれに寄りかかり、溜め込んだ息を吐き出す。安堵より重く疲労がのしかかっていた。この頃は少しの感知でもひどく疲れる。額に浮き出た汗を拭い、パウラは腰の高さまで達した海水を両手ですくい上げた。
冷たい水が飲みたい。手のひらの中の海水を見て痛切に思った時、「他に艦影は?」と征人の声が背後に発した。
「北東の方角、約三十キロに駆逐艦らしき艦影が七つ。巡洋艦か護衛空母らしい艦影が二つ。南西の方にも複数。いまぶつかりそうになったのは重巡だと思う。一キロ後方に同航する艦影が二つ」
「増えてるな……」
「それだけ日本に近づいたということ?」
「ああ、どんどん集まってるみたいだ。本土上陸作戦が始まるわけじゃないって思いたいけど……」
激しく咳《せ》き込《こ》む音が続く言葉を遮り、パウラは背もたれに手をついて立ち上がった。征人の額に手を当て、予想以上の熱を感じた手のひらを自分の額に当てる。ひやりと冷たい感触が、昨夜より上がっている征人の熱を伝えた。
「……すまない。油断した」
もういちど額に当てたパウラの手をやんわり払いのけ、征人は舵輪を握り直した。鼻水をすすり、もう居眠りなどしないという顔を正面に向けたが、熱で倦《う》んだ瞳はいつもの艶《つや》やかさを失っているように見えた。パウラは「不思議ね」と別のことを言いつつ、座席の下から防水仕様の物入れを引き出した。
「なにが?」
「船同士が衝突したって話を聞くたびに、この広い海でそんなことがあるのかと思ってたけど。本当にあるんだなって」
「ああ……。航路なんてだいたい決まってるからな。その下を横切ってるんだから、たまにはかち合うこともあるさ」
ゴムでパッキングされた物入れの蓋を開け、救急キットの中から風邪薬を取り出す。真水タンクの水を移し替えた水筒を振り、わずかに残った中身を確かめて差し出そうとすると、征人は「いいよ」と硬い声を出して顔を背けた。
「その薬は眠くなる。それにまだ水を飲む時間じゃない」
「そんなこと言ってる時じゃないでしょう。汗だってこんなにかいてるんだから」
「大丈夫だ。君こそ休んでろよ」
「征人……!」
「平気だよ」
こわ張った頬を不意に緩め、征人は苦笑を浮かべた目でパウラを見返してきた。頼りない同年代の少年の顔が、たったそれだけのことで包容力を感じさせる男のものになる。この数日間で以前より身近になった男の顔を見つめ、次に続く言葉を呑み込んでいる自分に気づいたパウラは、差し出した水筒と薬を多少乱暴に引っ込めた。なぜこうも不安を感じるのか、いつから自分はこんなに弱気になったのか。己の変わりようが理解できず、「知らないからね」と捨てゼリフを吐いて前部座席に座り込んだ。
状況がわからなさすぎる。だから不安になるんだと自分を納得させて、パウラは小さく息を吐いた。外界と完全に切り離され、半ば漂流するように太平洋を渡り続けて、もう何日。電源を入れっぱなしにしてある無線がたまに電波を拾い、米軍の交話やラジオ放送の音を届けてくれるものの、その後の戦況を推《お》し量《はか》る縁《よすが》にはならない。いま世界がどうなっているのか、これから赴く日本がどういう状況にあるのか、皆目《かいもく》つかみようがなかった。
どこでもいい、根を張れる大地を探せ。そう言った兄や掌砲長たちに背中を押され、行くことを決めた日本。自分の体の四分の一を占めるもうひとつの故国。いまだ抗戦を続けているのだろうか? 硫黄島沖に差しかかった頃から急に増え始めた米艦艇は、本土攻撃の準備のために集まってきたのだろうか? あるいはあの後、すぐに四発目の原子爆弾が用意されて、日本はすでに国家としての機能を失ってしまったのだろうか?
日本にたどり着いた時、もし戦闘に巻き込まれそうになったら、〈ナーバル〉を自沈させて脱出しよう。それだけは取り決めてあるが、以後のことはなにも考えていない。考えられない、というのが正直なところだった。不安は、重い足をさらに重くする。〈伊507〉という足場がなくなったいま、自分たちはとにかく前に進み続けなければならないのだから……。
「そろそろ電池も限界だ。適当なところで浮上しよう。艇内の水を抜いて体を乾かせば、風邪なんてすぐに治るよ」
黙り込んだこちらを気にしてか、征人は気楽を装った声を出す。パウラは答えなかった。征人は洟《はな》をすすり、咳払いをしたかと思うと、鼻唄をうたい始めた。
お互い、知る限りの歌はうたい尽くしている。鼻唄が奏《かな》でる旋律は、ボームの『夜のごとく静かに』。ドイツの曲だが、征人は父親が残していったレコードを聞いて知ったのだという。秘めたる愛の熱情を歌った曲も、洟をすすり、咳を交えての鼻唄では情緒もなにもあったものではなく、パウラはふっと気が抜けるのを感じた。
希望も絶望も通り越して、ただあっけらかんとした空気を運んでくる鼻唄。征人は頑丈だ。笑って聞いていられる私も頑丈だ。パウラは苦笑した顔をうつむけ、堪えきれずに小さく喉を鳴らした。
「なんだよ?」
「その曲、いつも鼻唄だから」
「しょうがないよ。ドイツ語の歌詞なんだから」
「そうだけど……」
「日本に帰ったら、もう一度ちゃんと聞いて歌えるようになるさ」
「レコード、残っているの?」
「家のはどうなったかわからないけど、同じレコードを持ってる人を知ってる。広島にいるんだ」
「ヒロシマ……」
「戦争が終わったら行ってみよう。いいところだよ」
なぜか目を逸らして言った征人は、鼻の下をこすって鼻唄の続きを再開した。ヒロシマ。日本の地名のことなどなにひとつわからないが、その名前はパウラの記憶の中に残っていた。血を噴き出す土谷中佐の傷口に手のひらを押し当て、彼の内面に押し入った時。ヒロシマという地名は、原子爆弾と同義に括られて土谷の意識の中にあった……。
それが意味するところは限られていたが、言っても詮ないことだった。パウラは「そうね」と応じて、その話題を終わりにした。
真上に昇り詰めた太陽が、じき正午に差しかかる陽光を海面に投げかける頃。〈ナーバル〉は太平洋の真っ只中に浮上した。
半径五十キロ圏内に艦影はなし。もちろん陸地もなし。例によって潜望鏡で敵機の有無を確認し、〈ナーバル〉を浮上させた征人は、それを最後に後部座席に倒れ込んだ。ごわごわした潜水服を着込んだ体が弛緩して、寝息が聞こえ始めたのはすぐだった。パウラは後部座席の背もたれを倒し、下がらない熱を確かめてから、潜水服をぬがせにかかった。
浮上中は艇内の水位が膝の高さにまで下がるので、座席の昇降装置を引き上げれば体が濡れずに済む。刺しても起きそうにない体から潜水服を引き剥がし、シャツと軍袴一丁の姿にしてやるのはちょっとした重労働だった。十分ほどかけて潜水服をぬがし終え、乾いた手拭いで全身の汗を拭き取ったパウラは、艇内の海水で濡らした手拭いを征人の額に載せた。気休めだが、潜航中に艇内に引き込んだ水は、太陽に灸《あぶ》られた海面近くの水より若干水温が低い。意識を取り戻さないまでも、眉間の皺が消えた征人の寝顔に安堵して、パウラは〈ナーバル〉の機関を始動させた。
前部座席に操艇管制を移行させ、転輪羅針儀に方位を確かめる。速度計と回転計の針に注視しつつ、ゆっくり機関出力を引き上げてゆく。隔壁の向こうでディーゼル・エンジンが騒ぎ始めるのを待って、パウラは舵輪を握りしめた。波間に揺れていた〈ナーバル〉の船体が前進に転じ、十二ノットの速度で移動を開始すると、通風管から吹き込む空気が微かに潮の匂いを伝えるようになった。
同時に潜望鏡を顔前に引き下ろし、敵機の有無を再度確認する。延々と続く海原と、水平線上にわき立つ入道雲。敵機はおろか、鳥の一羽も見つけられない真夏の空だったが、油断は禁物だった。潜望鏡をのばしたところで、低い上構から確保できる視界は限られているし、〈ナーバル〉には対空電探などという気のきいた装備もない。米軍が制海権を掌握《しょうあく》する太平洋を横断しようと思えば、昼間は潜航し、夜間のみ浮上する通常の潜水艦行動に倣うべきなのだが、いまはそれもできなくなっていた。
硫黄島沖を通過する際、集結した敵艦のあまりの多さに夜間も浮上できず、まる一日の潜航を強いられたのがその原因だった。連続稼働でバッテリーはすっかり干上がってしまい、一次電源の回路がショートまで引き起こして、以後の連続潜航は困難になった。修理をしようにも部品はなく、上空を往来する敵機の数は次第に増えている。まだ米軍の手の及んでいない小笠原諸島のいずれかに逃げ込み、様子を窺う手も考えられたが、それは征人の知るひと月近く前の戦況を前提にしての話だ。この一ヵ月の間に米軍が版図を広げ、小笠原まで進攻した可能性を考えると、迂闊に島に近づくことはためらわれた。
結局、敵機の問題は運を天に任せて、付近に艦艇のいない海域では昼間でも浮上し、水上航走で日本を目指すことになった。危険を押してでもそうしたのには、乗員二名の体力の問題もあった。がたが来ているのは〈ナーバル〉のみならず、パウラと征人の身体にしても同様だった。
日本に向かって移動し始めた時点で、艇内に備蓄してあった携行食糧の総量は六食分。二人で消費しても、節約して食べていけば三日や四日はもたせられる量だが、問題は水の方だった。真水タンクに五十リットル近い水を積んでいたのだが、マリアナ諸島を離れた直後、不意に襲いかかってきた台風が、そのほとんどを奪っていってしまったのだ。
充電の途中だったために潜航して退避することができず、荒波に揉まれて舵を失い、艇がひっくり返るほどの衝撃に揉まれるうちに、タンクの弁が開いて水が流出していたのだった。気づいた時には遅く、タンク内には五リットル少々の水しか残っていなかった。人体が一日に必要とする水分は二リットル、まして摂氏三十度を超える酷暑の中では、流れ出る汗の量も多くなる。極限まで渇きを堪え、放っておけば一日でなくなる量の水を切り詰めて使うには、多大な忍耐力と精神力が要求された。そしてその代償として、肉体は注意力や体力の著しい低下を訴え始めた。
体力の低下が感知能力に与える影響は、「白い家」での実験に限らず、五島列島沖に置き去りにされた時にも嫌というほど体感している。感知範囲は目に見えて縮まり、五十キロも離れた海域に意識を凝らすと、頭痛や吐き気に襲われるようになった。それでも体を騙し騙し、許される限り睡眠を取ってなんとかもたせてきたのだが、そこに征人が熱を出すという事態が重なった。
渇きの苦痛と疲労、睡眠不足で弱っているところに、水に浸かりっぱなしの毎日で体が冷えてしまったのだろう。パウラの防水スーツには体温調節機構が施されているが、征人の潜水服にはそれがない。体が不調を来すのは当然で、これまで無理を重ねてきた分、病魔はしつこく征人の肉体に居座り続けた。体を乾かして温めるには、艇内注水率を下げるしかなく、注水率を下げるには浮上するしかない。戦闘中にバラストタンクに損傷を負ったため、〈ナーバル〉は艇内への注水量で浮沈を調節していたから、潜航中の注水率は八十パーセント以下には下げられないのだった。
必然、可能な限り水上航走で進まねばならなくなり、パウラは索敵と操舵を同時に行うことが多くなった。時おり感知の目を飛ばし、進めば進むほど増えてくる敵艦の配置を確かめては、その哨戒網の合間を縫って〈ナーバル〉を走らせる。大回りで回避できればそれに越したことはないが、日本は遠く、〈ナーバル〉の積載燃料は限られている。水と食糧の問題もあれば、最短距離を走破する以外、〈ナーバル〉が日本にたどり着く術はなかった。
征人は平気だ、大丈夫だとくり返し、潜航中は操舵を引き受けてくれるのだが、先刻のようなことがあるから安心して眠ってもいられない。パウラ自身、気を抜けば意識が膝朧《もうろう》となり、すぐ目前まで迫った艦艇の存在にひやりとさせられることもあった。なにより耐えがたいのは、そうして感知に没入している時、不意に肌をひりつかせる人の悲鳴が伝わってくることで、こればかりは我慢してしきれる問題ではなかった。
この太平洋のどこかで、いまだ戦闘は続いているのだろう。〈ナーバル〉の三分の一にも満たない、土管としか形容しようのない人間魚雷に押し込められた人が、敵艦に体当たりして四散する刹那、海中に放散させる末期の慟哭《どうこく》。国のため、家族のためと張り詰めた意志がその瞬間に弾け飛び、満たされなかった生への哀惜《あいせき》、悔恨を爆発させる。他の多くの死者たちと同じく、彼らもまた『なぜ』と問うていた。恐怖や怒りを飽和させ、あらゆるしがらみから解放された一個の魂が、消滅の間際に初めて口にできた『なぜ』。それは人間魚雷の直撃によって海中に投げ出された数十、数百の命の中に溶融し、すぐに見分けがつかなくなってしまうのだった。
そんな時は、辛さを通り越して捨《す》て鉢《ばち》な気分に襲われるもので、一度はつかまえたはずの答が見えなくなることもあった。なぜ自分は生きているのか。こんなに苦しい思いをしてまで、どうして生き続けなければならないのか――。
征人にも感じるところはあったのだろう。こちらが塞ぎ込む気配を察すると、鼻唄をうたい出したり、日本の名所と呼ばれる土地の紹介を始めたりと、不器用なりに精一杯の気づかいを示した。もっともニッコーやキョート、アサクサなど、自分も行ったことがないのだろう土地の話は、きれいらしい、楽しいらしいと聞いたような説明ばかりで、パウラが実景として思い描くことができたのは、サガミ湾に面しているという故郷の話だけだった。
とはいえ、生来の口下手が熱に浮かされて喋る話だから、要領を得ないこと夥《おびただ》しい。どんな場所なのかと尋ねると、『山と川と海がある』。どれくらいの高さの山なのかと訊くと、『頂上の杉に登ると相模湾が見渡せる』。川は大きいのかと尋ねると、『おれは石切りが得意だ』といった調子で、熱で脳がやられたのかと本気で不安になったが、征人は喋れないのではなく、喋りたくなかったのだ。征人が意識的にも無意識的にも心を開き、記憶の中にある故郷の思い出を伝えようとしてくれた時、パウラはそれを理解した。
貧困、疎外、羞恥心。母親に対する愛情と相克《そうこく》。顔も知らない父親への憧憬《しょうけい》と忿懣。物心がついた時にはすでにあった戦争に対する息苦しさと、周囲に同化できない、あるいはさせてもらえなかったいら立ち。その二律背反が故郷を捨てさせ、自ら息苦しさの只中に分け入っていった孤独感――。征人の心が直に語る故郷の記憶は、決して甘いものではなかった。ただ木造の漁師小屋と小さな漁船が点在する砂浜の記憶は、軍港の風景しか知らないパウラにはひどくやさしく感じられた。炭置き小屋のくすんだ壁の色、修繕の跡が目立つ障子ごしに見る光、すり減った上がり框《かまち》。脈絡のない映像の羅列が伝える家の印象も、めずらしいというより馴染みのあるものという感覚の方が強く、祖母の記憶がなんらかの形で受け継がれているということなのかもしれなかったが、いまとなっては確かめようのない話だった。
もっとも、その感触をして暮らせそうだとは思わない。まだそこまで思いきる自信はパウラにはなかった。が、征人も辛かったのだな……という理解が、自分を見守る視線ひとつ、さしのべられる手のひらひとつを切ないと感じさせ、世界と自分を繋ぐ唯一の実体と感じられるようになったのは、確かだった。
逆に言えば、自分はその程度のことも知らないで征人という人間を受け入れ、一緒に彼の故郷に行こうとまでしていたわけで、状況が状況とはいえ、自分の神経の雑さ加減に多少|慄然《りつぜん》とする思いもないではなかった。
本能的にわかりあえていたのだからいい、という言い方は、もっと穏やかに知りあい、恋愛を楽しめる状況において出てくる妄言《もうげん》であって、こういう状況であればこそ、自分は女として迂闊だったのではないかと気づかされた……と言うべきか。しかしそうした自戒も後から組み立てたものに過ぎず、いまはそれでいい、それでよかったのだと再確認する思いもパウラにはあった。
そんなふうに、雑な部分で繋がっているのが人同士の関係なのだろうし、奇妙な能力を与えられた自分にしても、その点ではあたりまえの人でしかなかったということなのだから、それでいい。潮流に削られた海底岩礁がひとつひとつ異なる凹凸を持つように、人それぞれにも決して重ね合わせられない断層がある。だから互いを補い合えるのだし、広がりだって生まれる。かくあるべしと理想の型を定め、個々人の凹凸を殺《そ》ぎ取《と》っていった先には、きっと硬直と頽廃《たいはい》しか生まれない。重なり合って身動きが取れなくなり、自分の重みに耐えかねて、いつかは奈落の底に堕ちてゆくのに違いなかった。純粋アーリア人の子孫繁栄を企図したレーベンスボルンが、不具の子供たちしか誕生させられなかったように。
しかしその一方で、あの浅倉大佐が警告した通り、個性の尊重が我欲さえも正当化し、放埒《ほうらつ》に走って手がつけられなくなるのも人間の本質なのだろう。押さえつければ硬直し、目を離せば自堕落に転ぶ。振り切っては戻り、振り切っては戻りのくり返し。そのたびに何万、何百万の同族を殺してきた人間――。
でも、それでも兄は、〈伊507〉の人たちは、自分と征人に希望を託した。日本に住む何千万の人々、顔も知らない他人たちが築いてゆく未来に望みを繋いだ。いつかそうしたように二人で『椰子の実』を歌い、渇きと空腹を紛らわせながら、自分たちが生きている不思議さをあらためて実感させられることもあった。
渇ききった喉から搾り出される歌声は、いまでも耳に残る絹見の歌声に重なり、田口の歌声に重なり、〈伊507〉の乗員すべての歌声に重なって、大海を漂う心もとなさを忘れさせてくれた。生きろ、生き続けろと励ます歌声が胸を温め、疲労と不安で立ちすくみそうな体を少しだけ元気にしてくれるのだ。
守るべきもの、希望を託すに足りるもの。その時々の立脚点によって揺れ動く、明日もそうであるという保証はなにもない曖昧なもののために命を賭け、死んでいった人たち。
底抜けにお人好しで、大雑把で、だからこそ最後の一線では律儀であろうとする。その潔さと勇気がある限り、人が地上からいなくなることはないとパウラは思う。
どれほど踏みつけにされても、同じ過ちを何度くり返したとしても。そう、あの恐ろしい原子爆弾が世界中に蔓延する時代が来たとしても、必ず……。
正午が近づくにつれて、太陽の熱と光は激しさを増し、艇内は蒸し風呂同然のありさまになった。風通しをよくしようと、急速潜航の妨げになるのを承知で気密室のハッチを開け、前部隔壁の水密戸を開放してもみたが、湿って熱を帯びた風が艇内の空気をかき回すばかりで、気温が下がる様子は一向になかった。
温度計の目盛りは三十三度を超え、なお上昇し続けている。その数字さえも汗で滲んで見えにくくなり、パウラは海水で何度も顔を洗った。それでも視界の滲みは取れず、火照《ほて》った顔の熱も収まらない。騒がしいディーゼルの音が頭に響き渡り、吐き気までこみ上げてくるのを感じたパウラは、思いきって機関を止めた。
がちゃがちゃと騒いでいたピストンが静かになり、惰性で十数メートルも前進した後、〈ナーバル〉は船脚を止めていった。パウラは水筒の水をひと口だけ含み、ゆっくり呑み下してから、虚脱した体を座席に沈み込ませた。
いちばん近い艦影からも三十キロは離れている。こちらに近づいてくる艦は感知圏内にはいないから、三十分やそこらは停泊していられるだろう。ずっと働き通しでは、〈ナーバル〉だって可哀相だから……。そう自分を納得させて――いや、幼児のように思考をゆらめかせて、パウラは開け放した水密戸から差し込む陽光をぼんやりと眺めた。
あれから何日が経ったのだろう? 波の音、ぼうぼうと鼓膜を圧する大気の音を漫然と聞きながら、パウラは乾いたスポンジになった頭で考えてみる。もう一週間も経ったような気がするし、まだ二、三日しか経っていないような気もする。本当に日本に近づいているんだろうか? 征人は夜ごとの天測を欠かさず、薙針儀も正常に稼働してはいるが、こう同じ光景ばかりでは移動したという実感すら持てない。どこまで行っても海と空が続き、前方に横たわる水平線には永遠に追いつけない日々。海の真ん中で自分の位置を探るにはどうしたらいいんだっけ? 六分儀の使い方は習ったけれど、ほとんど忘れてしまった。何年も艦《ふね》で生活していたのに、私は航海術もろくに知らなかったんだ……。
昨晩、硫黄島沖を通り過ぎた時点で、日本までの航路は折り返し地点を過ぎたと征人は言った。いままでと同じ距離を走破すれば、日本にたどり着けるわけだ。そう考えると多少の活力がわいてきたが、まだ半分かと囁く弱気も抜きがたく存在しており、パウラは結局どちらともつかない空白を漂ったまま、後部座席に横たわる征人に視線を移した。
眠っている……というより、疲労で意識を失っている征人は、座席からはみ出した右手を所在なく宙に浮かべていた。パウラはその傍らに近づき、手を座席の上に戻してやりながら、自分の頬を征人の腹に押し当てた。
ふっくらと温かい他人の体温が、気休めになると思えるのはなぜだろう? パウラは考えようとして、やめた。
少し、眠ろうと思う。本当に日本にたどり着けるのか、このまま漂流し続けて干からびてしまうのではないか。とめどなく溢れてくる不安と弱気も、寝て起きて少し元気になれば忘れられる。数日間の漂流生活で得た、それは唯一最大の教訓だった。
微かな波音を枕に、ゆったり横揺れする〈ナーバル〉に抱かれて眠る。ふかふかのベッドやたくさんの枕、太陽の熱に温められたシーツの山にもぐり込むのもいいけど、これはこれで悪くない。そう思い、眠りの渦に身を委ねようとした時だった。電源を入れっぱなしにしてある無線機が唐突に雑音を奏で始め、パウラは閉じたばかりの目を開けた。
また米軍の無線かラジオの電波を傍受したらしい。放っておこうかとも思ったが、戦況のひとつもわかるかもしれないと考え直して、パウラはだるい手で周波数の調節つまみを回した。大きくなったり小さくなったりする雑音に耳を傾け、底を流れる人の声に意識を集中しようとした。
(……朕《ちん》、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑《かんが》み、非常の措置をもって時局を収拾せむと欲し、忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり……)
日本語。そう理解した頭が一気に覚醒し、パウラは無線機の音量を最大にした。雑音が大きくなり、底を流れる人の声もわずかに大きくなったが、明瞭とは言いがたい。受信状況の問題だけではなかった。もともとの日本語がひどく難解で、意味が取りづらいのだ。
ただ、硬い言葉の羅列とは裏腹に、その声音《こわね》にはやさしいと思える響きがあった。頭に抜けるような軍人の声ではなく、訥々《とつとつ》と語るということを知っている初老の人の声。少なくとも軍関係の通信ではないと直観して、パウラは征人の体を揺さぶった。
「ね、これ誰の声?」
びくりと頭を起こし、充血した目をしばたいた征人は、頭に手をやりつつ無線の声に耳を傾けた。(朕は帝国とともに終始、東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾《いかん》の意を表せざるを……)と続く声は、征人にも難解な言葉と聞こえたのだろう。渋面を作り、しばらくして寄越した返事は、「さあ……。知らないな」だった。
「どっかの偉い人だろ?」
気だるそうに付け足すと、征人はひとつ大きなあくびをして背もたれに頭を押しつけた。すぐに再開した寝息をよそに、パウラは無線機から流れる声に耳を傾けた。
意味はわからない。だがそれが日本人の語る、日本の言葉であるという事実が、パウラには重要だった。
日本語の放送が聞こえるなら、日本はそう遠くないところにあるのだろう。なんの確証もない思いつきだったが、そう思える自分に安心をして、パウラは健やかに上下する征人の腹に頬を当て直した。静かな潮騒とやさしい声音が混ざりあい、つかの間の眠りを引き寄せるまでに、そう長い時間はかからなかった。
一九四五年、八月十五日。正午。
日本は、ポツダム宣言受諾の意志を連合国に表し、終戦を迎えた。
[#改丁]
[#ここから9字下げ]
終 章
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
しんと凍てついた空気が、冷たさを感じさせるのか?
内奥の空虚が外に染み出して、空気を凍てつかせるのか?
そんなことを考え、ふと胸が締めつけられるような圧迫感を覚えた時には、なにを考えていたのかも思い出せない空白が「彼女」を支配した。
ひどく重い手を持ち上げて、右隣に面した窓に触れてみる。熱いと感じるのは、皺《しわ》だらけの薄紙のような皮膚にまだ神経が通っている証拠だろう。真っ白な陽光が浮かび上がらせる自分の手のひらを、温子《あつこ》は不思議なものを見る思いで眺めた。それからようやく、クーラーが効きすぎなのだと思いついたが、窓を開けようという気にはなれなかった。
帰省ラッシュは終わっていても、国道二二六号を走る車の量は少なくない。いまも対向車線を車がひっきりなしに走り抜けており、道路沿いに面した日向灘《ひゅうがなだ》の海は、その隙間に辛《かろ》うじて見えるというありさまだった。排気ガスにまみれた熱気を車中に入れたくはなかったし、慇懃無礼《いんぎんぶれい》に通りすぎる車の騒音を直に聞きたくもない。なにより同乗者たちが嫌がるだろうと思い、それは面倒だと感じる思考の働きが、温子に窓を開けさせることをしなかった。
運転席でハンドルを握り、サングラスをかけた鼻の頭に汗をかいている真史《しんじ》。子供の頃から変わらない長頭気味の頭に白いものが混ざり、歳相応の貫禄《かんろく》を漂わせるうしろ姿が、この時の温子にはやはり不思議なものに見えた。傍らの助手席では嫁の佑子《ゆうこ》が気だるそうにハンカチで顔を扇いでおり、その子供たちである弥生《やよい》と健人《けんと》は、後部座席に収まって先刻からひと言も口をきこうとしない。弥生は十七歳、健人は十四歳になったのだったか? 親といる時間が気づまりな年頃があるとすれば、この二人はまさにその真っ只中というところだろうが、外の風景をろくに眺めもせず、携帯電話の小さな液晶画面をそろって凝視している姿は、我が孫ながらちょっと近寄りがたいと言うか、同じ人間と捉えるのも困難な異生物といった雰囲気があった。
クーラーを弱くしてほしいと頼んで、佑子の眉間に皺が寄るのを見るのも億劫なことだったので、温子は肩にかけたショールをかけ合わせて寒さ凌《しの》ぎにした。次々と走り抜ける対向車を見つめ、お盆だから車が多いのかと考えてみようとしたが、日頃の交通量を知らない身には無意味な設問とすぐに思い直した。
九州の南端にほど近い、日向灘に面した宮崎の海岸。ここを訪ねるのは必ずこの時期、八月十五日前後と決まっている。いつもより車の量が多いと感じられるのは、海外行きを急きょ取りやめにした人々が、国内旅行に切り替えたせいなのかもしれなかったが、そんな推測も根拠のない当てずっぽうでしかない。
最後にここを訪れてから、もう十年以上の月日が流れている。当時はできて間もなかったシーガイアとかいう大型遊園地も、いまは閉鎖されて久しい。バブル崩壊という言葉が耳新しかった時代から、不況が常態になった現在に至るまでの十数年、ついぞこの海を顧《かえり》みることはなく、東京の自宅を離れもしなかった自分が、いつもより≠ネどと言えた義理ではなかった。たとえそこが、自分たちにとってかけがえのない思い出の地でも。
(……依然として緊張状態が続いているペルシャ湾情勢ですが、日本時間昨夜未明、クウェートの国境付近で警戒に当たっていたアメリカ陸軍のヘリコプターが、イラク空軍の戦闘機に撃墜され、搭乗していたアメリカ兵三十五人の死亡が確認されました。これは先月二十七日、ペルシャ湾でイラク軍の攻撃を受け、八十三人の死傷者を出した強襲揚陸艦〈キアサージ〉に次ぐ大きな被害で、アメリカとイラクの全面衝突はもはや避けられないとの見方が大勢《たいせい》を占めています。すでに相当数の特殊部隊がイラク国内に潜伏しているとの未確認情報もあり、撃墜されたヘリコプターはその輸送任務に当たっていたとも考えられますが、詳細は不明です。またこれを受けて寺西総理大臣は、『テロ特措法の法的な枠組みの延長線上で支援活動を行う』との当初の見解をあらためて述べ……)
無味乾燥なアナウンサーの声がラジオから流れ、温子は車内に目を戻した。一昨年の世界貿易センタービルの崩壊をきっかけに、対テロリズムを合言葉にして始まったアメリカの新しい戦争≠ヘ、ここにきてイラクとの全面衝突というひとつの山場を迎えつつある。新しい新しいと騒ぎ立てても、結局最後は大量|殺戮《さつりく》兵器のうしろ楯《だて》を持つ者同士、戦艦や戦闘機を並べての殺し合い。新しかったものと言えば、旅客機を爆弾に見立てたテロリストの頭の中身ぐらいだが、そうして身の回りの道具がある日突然凶器と化すさまを目《ま》の当たりにして、自分たちはどうやらとんでもない世界に住んでいるらしいと気づかされた、そのことをもって新しい≠ニ言うのなら、これは確かに新しい戦争なのだろう。
発達した道具や技術が人の心性を歪め、野心を育てて、世界規模の壊乱《かいらん》を引き起こす。いまも昔も変わらない――いや、きっとあの時を境に人は、世界は変わったのだ。あれから幾度か大きな戦争が起こったが、そのたびに人はなにかしら新しい要素をそこに加え、その後始末に奔走させられてきた。冷戦下における原子爆弾……核兵器の蔓延。枯葉剤《かれはざい》に代表される化学兵器が、敵味方を問わず深い傷痕を残したベトナム戦争。絶対に的を外さない爆弾で、敵の中枢《ちゅうすう》のみを狙い撃つというピンポイント爆撃――今回の旅客機テロの原形となったそれは、湾岸戦争で初めて一般の耳目に触れた。そう、あれは最後にあの人とここに訪れた時のことだ。この道路を走りながら聞いたラジオのニュースは、いまと同じようにアメリカとイラクの戦争を伝えていた。当時は多国籍軍という言い方がされていたのだったか……。
「終戦記念日だってのに、やだねえ」
真史の長閑《のどか》な声に、温子は我に返った思いで顔を上げた。「他の局にしたら?」と面倒げに言った佑子はともかく、「いまはどこもこればっかりだろ」とラジオのチューナーをまさぐる真史は、学生時代、ギターをかき鳴らして反戦歌をうたっていた頃の情熱など、ニキビと一緒に消え去ったというところか。上滑《うわすべ》りする歌詞を熱唱していた生硬い青年の横顔を思い出し、お尻の重いおじさんになった現在の姿に重ね合わせた温子は、ひっそり苦笑を噛み殺した。真史は母親の含み笑いに気づく様子もなく、「これ、どうやるんだ?」とチューナーをまさぐっては、電動式の灰皿をスライドさせたりしている。「レンタカー屋さんでちゃんと聞かないから……」と応じた佑子の声は、あくまでも冷淡だ。
彼女が不機嫌なのには理由がある。例年、夏休みは佑子の実家がある那須で過ごすはずが、今年に限って宮崎への家族旅行になったのが気に入らないのだ。近ごろ格段に弱った老母を気づかい、真史が発案してくれたことなのだが、ろくに相談もせず、勝手に決めてしまった真史の粗忽《そこつ》さが、佑子の逆鱗《げきりん》に触れることになった。
佑子の実家は、地元ではそれなりに名のある家と聞く。毎夏の帰省は、将来の財産分与を視野に入れた上のご機嫌伺いという側面もあるので、佑子にしてみればそうそう予定を変えてもらっては困るという本音があるのだろう。二世帯住宅の境界線をきっちり守り、息子夫婦とはつかず離れずを身上にしている温子にとって、そうした諍《いさか》いの種になるのは心外なことなのだが、今回ばかりは息子の厚意に甘えて、佑子に恨まれてでも宮崎に連れていってもらうことにした。もうひとりで出歩ける歳ではないし、これを逃せばもう行く機会はない、という確信に近い予測があったからだ。
六十を過ぎた時に痛めた腰は、歳を追うごとに症状が悪化して、いまでは近所に買い物に出かけるのも難儀《なんぎ》になっている。食が極端に細くなり、げっそり肉が落ちた自覚もあれば、最後にもう一度あの海を見ておくことは、人生を仕舞う上での義務にも思えた。
限界をさまよう己の肉体を傍観し、可能なことと不可能なことを選り分けて、いま取れる最善の行動を選択する。若い頃の習い性かと思うと可笑《おか》しかったが、一抹の無常観も漂う胸のうちは、当時とは根本が異なる荒涼とした砂漠だった。休息と滋養を得たら元気になれたあの頃と違って、老いには回復がない。ある一点に向けて転がり落ち続ける感覚は、十分に生きたという思いがあっても、やはり寂しいものだった。
「どう、母さん? 久しぶりの宮崎は」
ラジオをいじるのをあきらめた真史が、ルームミラーごしに薄いサングラスの視線を寄越す。ともすれば沈みがちな空気を盛り上げようと必死なのだろう。空港に着いた時に一回、車が走り出した時に一回、海が見えた時にも一回。暑さとは別の理由で汗をかいている息子の顔を確かめて、温子は「ああ、いいねえ」と、四度目の同じ答を返した。
「あんたも懐かしいでしょう」
「懐かしすぎて、ほとんど覚えてないよ。前に来たのは三十年以上も前だからな。毎年泊まってたあの旅館、もうつぶれちゃったんだろう?」
「父さんと最後に来た時は、もうなかったわねえ」
「お義父《とう》さんがご存命の頃は、毎年来ていたんでしょう? よっぽどいい思い出があるんでしょうね」
来てしまったからには楽しもうと割り切ったのか、佑子が多少は気を取り直した声を挟《はさ》む。「そりゃ、親父との出会いの地だもんな」と真史。
「お義父さん、若い頃は素敵だったんでしょうね。どういうふうに出会ったんです?」
「話すようなことはなにも……」
答えた口もとが自然にほころんだのは、照れなどといった可愛げのあるものではなく、本当の話をしたら真史と佑子はどんな顔をするだろう? という隠微な想像が胸を埋めたからだった。真史は、「徳子《のりこ》も来ればよかったのにな」と言いながら、禁煙用のガムを口に放り込む。
「宮崎はあいつの方がお気に入りだったんだ。親父と一緒に一日中、浜で遊んでさ。よく真っ赤に日焼けして、その晩は痛くてうんうん唸ってたもんだ」
「いまはそれどころじゃないんでしょう? まだ裁判の決着もついてないんだから」
「裁判所だって盆休みだろ」
「気が休まらないわよ。自分の子供と引き離されるかどうかって時に、のんびり海水浴ってわけにいかないでしょ」
真史より二つ下の徳子が、二十年連れ添った夫と別れたと言ってきたのは半年ほど前。結婚した時と同様、事前になんの相談もなく、結果だけを伝えにきたところは、昔から癇《かん》の強い娘だった徳子らしいやり方と言えた。いまは親権問題をめぐって裁判が続いているが、詳細は温子も知らない。弁護士を立てる費用にしろなんにしろ、徳子はすべてひとりで賄《まかな》って、親兄弟にも決して頼ってこようとしないからだ。
強く育てすぎたのかもしれない。そう思うと、大人たちの話を聞いているのかいないのか、携帯電話と一体化した弥生と健人の顔が自《おの》ずと目に入り、子供に聞かせていい話ではないという常識が働いた。別の話題を持ち出そうと考えをめぐらせた温子は、「情報が古いんだよな」と不意に口を開いた健人に、ぎょっと心臓を跳ね上がらせた。
「はあ?」と弥生。佑子と真史もぎくりとした様子で、ルームミラーごしの視線を健人に向ける。健人は手にした携帯電話をぐいと姉に突き出し、
「ニュースで言ってることだよ。特殊部隊が潜伏してるって言うけど、戦闘はとっくの昔に始まってるんだ。イラクの方がよっぽど被害は拡大してる。墜落したヘリは非武装地帯の町を攻撃しようとしたやつで、イラク機もやられてるんだ」
「どこのサイト?」
「ちゃんとした軍事研究機関のサイトだよ。イラクで空爆の被害にあってる人の書き込みなんだ」
大人たちがぽかんと見守る中、弥生はちらと健人の携帯の画面を覗き込み、「わかったようなこと言ってんじゃないの」と、それを健人に押し返していた。
「なにがさ」
「研究機関ったって、オタクの集まりでしょ? その書き込みにしても、本当にイラクの人のものかどうかわかんないじゃない。戦争中は誰だって相手のこと悪く言うに決まってるんだから、いちいち真《ま》に受けるんじゃないの」
「そうやって真実を認めようとしないから、ニュースだっていい加減な情報しか流さないんだろ?」
「あのね。ケータイで真実がわかれば世の中苦労はないの。イラクなんて、日本から見たら地球の裏側みたいなとこにあんだよ? 向こうの人がどういう生活してるかとか、どんな草が生えてて、どこに川が流れてるかとか、あんたなにも知らないでしょ。そういうとこで起こってることを、出所の怪しい書き込み読んだだけでわかった気になるなって言ってんの。ネットなんて点と点を結んでるだけで、地球の大きさは昔っから変わんないんだから」
真史と佑子は、自分たちにはわからない話らしいと了解して視線を正面に戻す。温子にしても、パソコンやインターネットのことなどなにもわからないのだが、弥生の感じ方は正しいと直観する部分はあって、しばし呆然とした目を孫娘に注いだ。
技術がもたらす大量の情報から、その裏側に横たわる世界の大きさを感知≠キる。弥生にはそういうことができる能力が備わっている。このように広く物事を捉えられるなら、この娘はなにがあっても間違いのない選択をしていけるだろう――と。
「ニュースみたいに、言ったことに責任がかかってくるとこの情報の方が、まだ確実ってこと。そんなもん覗いて電話代無駄にするんだったら、テロ特措法の勉強でもしてなさい。それはあたしたちに直接関係してくることなんだから」
「メールばっかやってて、偉そうなこと言うなよな」
「情報交換してんの。ちゃんと顔を知ってる相手とね」
「屁理屈……! どうせくだらないお喋りだろ?」
「うるさい」
健人の頭を押しやった弥生は、その拍子にこちらと目を合わせた。温子が肩にかけたショールに視線を落としたかと思うと、健人を肘でつついて、「クーラー、ちょっと弱くしてよ」と言う。文句の口を開きかけたのも一瞬、弥生の視線を追って温子と視線を合わせた健人は、なにも言わずに腰を浮かして運転席と助手席の隙間に手を差し入れた。
クーラーの設定温度を上げて、無言のまま席に戻る。「暑いわよ」と文句を言った佑子に、「うしろは冷えるの」と返して、弥生はほんの少し口もとを緩めてみせた。温子も微笑を返し、ショールを重ね合わせる手を離したが、その時には弥生の顔は窓の方に向けられていた。
間に挟まれた健人は、なおも携帯電話から目を離そうとしない。口をとがらせ、意地になって操作ボタンを押し続ける横顔を見ていると、取りつく島のない異生物の雰囲気も溶けて流れて、横顔はあの人に生き写しだなと思えてくる。白いきめの細かい肌は、あるいは兄の血を受け継いだのか? そんなことを漫然と考え、自分の感覚のいい加減さに苦笑した温子は、窓外の風景を見つめる弥生の横顔をつくづく眺めた。
男はやさしく、女は強いのがうちの家系か。宮崎行きが決まったのも、弥生の鶴のひと声で決まったようなものだと聞く。もっとも当人は、那須は知ってる人ばかりで気づまりなのよね、とぽつりと漏らしただけで、ことさら温子に寄り添うことはしない。祖母であっても馴《な》れ合《あ》おうとしない態度は、その年頃の少女の身の処し方として、温子には好ましく映っていた。
あの頃は自分もそうだった。感情を素直に表すのは敗北だと信じて、つっけんどんな態度を取るのを当たり前にしていた。ちょうど弥生と同じ歳の時だったろうか? 〈伊507〉とともに闘い、この国の土を初めて踏んだのは。そう言えば、弥生はパウラと呼ばれていた頃の自分によく似ている……。
歳を取ったわけだ。骨ばった自分の手のひらをさすり、折笠《おりかさ》温子は五十八年前に見たのと同じ海を窓外に見つめた。七十五年の生を重ねた目に、その蒼《あお》はあまりにも濃く、眩《まぶ》しく映《は》えた。
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赤いリンゴに唇よせて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど
リンゴの気持は よくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
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『リンゴの歌』。終戦を迎えたあの年の暮れから、日本中で流行った歌だ。温子――パウラにとっても、この曲は戦後という言葉とひとそろいになって胸の中にある。
明るい曲だなあ、と征人は感心したように言っていた。急に差し込んできた茫々《ぼうぼう》とした光に、驚くのも忘れて立ち尽くしたといった面持ちだった。実際、大方の日本人にとって、この歌は混乱と貧困の彼方にある自由≠象徴する光になった。時局向きの国民歌や軍歌とはまるで違う、他愛のない、ちょっと異国の香りも漂ってくる歌。押さえつけられていたものがぽんと弾けたような、長いトンネルを抜けて久しぶりに背伸びと深呼吸をしたような、これからはなんだってできるのだと思わせてくれる歌。底抜けに明るい、というのがこの歌を評する時に出てくる言葉だが、パウラには、この歌のメロディが明るいとはどうしても思えなかった。
寄る辺のない不安が底に流れているというか、同じ明るさでも、いまにも消えそうな蝋燭《ろうそく》が風に揺れている感じというか。あの頃は日本人と自分の感性が違うのだろうと思っていたが、いまではそうでないことがよくわかる。当時の日本人には、どこか哀しいこの歌のメロディさえ眩しかった。二百万に及ぶ人命と国富の四割を失い、敗戦という現実に打ちのめされた人心は、仄暗《ほのぐら》い明るさから始めなければ光を窺うことができなかったのだ。
敗残した軍人たちは言うに及ばず、軍国教育の渦中《かちゅう》でいきなり宙に放り出された少年たちも、良人《おっと》を戦地に送り出した女たちも。宮城《きゅうじょう》の前で自刃した人、親を亡くした孤児、子供を失った老人、すべてひっくるめて、日本の人々はまずなによりも悲しかったのであり、安堵や解放感は後からついてくるものでしかなかった。日本が正しい戦争をしたのかなどはどうでもよく、「一億総|懺悔《ざんげ》」という言葉も言葉以上の意味は持たず、敗けた、悲しい、どうしようという思いが大多数の国民を立ち竦ませた。戦争に敗けることに慣れていなかった――そう、思えば日本はこの時、史上初めて外国との戦争に敗れたのだ――日本人の絶望的な落胆ぶりは、外人≠ナあったパウラの目にこそ鮮明に映じたものだった。
とはいえ、それほど冷静に物事を観察する余裕があったわけではない。とにかく生きるために奔走し、その場その場の反射神経で動いていたというのが正直なところで、いまにしてみればぞっとするような綱渡りの連続だったにもかかわらず、恐怖も絶望も不思議なくらい感じなかったのがあの頃のパウラだった。征人も同様だったらしく、あの頃は必死で考えてるようでいて、実はなんにも考えてなかったんだよな、などと言っては笑ったものだが、確かに後になって振り返ってみると、自分たちは本当に前しか見ていなかったと痛感させられる日々ではあった。
水や糧食《りょうしょく》はもちろん、燃料すら底をつきかけていた〈ナーバル〉は、宮崎の南那珂郡《みなみなかぐん》にある岬のひとつに漂着した。燃料を節約するために海流を利用しつつ、沿岸を取り巻く米艦艇の哨戒網を回避した結果で、選択の余地がなかったという意味では文字通りの漂着だった。敷設機雷を避け、防潜網《ぼうせんもう》をすり抜け、夜陰に紛れて海岸にたどり着いた後は、〈ナーバル〉を一刻も早く処分するのがパウラたちの急務になった。とりあえず海蝕洞《かいしょくどう》に船体を隠し、ローレライに関連する機器はすべて破壊したが、必要な道具も設備も望めない状況下、空腹で倒れる寸前の二人にやれたのはそこまでだった。
結局、船体そのものの解体はあきらめて、艇底のキングス弁を抜いて自沈させることにした。米軍に発見されたら面倒なことになるとわかっていたが、とにかくローレライ・システムだけは完全に破壊できた、いつかまた様子を見にくればいいと互いに納得し合って、早々にその場を後にした。すべて月明かりが頼りの真夜中に行ったことだったので、ほぼ四年間、自分と一心同体であった〈ナーバル〉の最期を、パウラはろくに看取《みと》ることができなかった。
その後、どうやって列車に乗り込み、征人の故郷にまでたどり着いたのか、いまとなっては断片的な記憶しかない。明瞭に憶えているのは、〈ナーバル〉を離れて野宿をした翌朝、征人がぼろ切れに包んで持ってきた夏ミカンの鮮やかな色。膝《ひざ》に継ぎの入った、もんぺと呼ばれる奇妙な着物の柔らかな手触り。食料が無上の価値を誇っていたあの頃、どこの奇特な農家が交換に応じてくれたのかは定かでないが、〈ナーバル〉から持ち出した工具や部品などが、夏ミカンと幾らかの現金、パウラの着替えに姿を変えたのだった。熟れた夏ミカンは気が遠くなるほど甘く、みずみずしく、パウラと征人は皮まで食べる勢いで数日ぶりの滋養を取り込んだ。そして九州を北上し、関門《かんもん》海峡を渡り、本州を東へと進む長い旅に乗り出した。
虚脱した混沌。漫然とした悲哀の底で燻《くすぶ》る無秩序の萌芽《ほうが》。満員という表現では足らない、窓や屋根にまで人が溢れ出した汽車の中で感じ続けた日本の印象は、征人の故郷に来ても変わらなかった。当時、外地には三百五十万の未帰還兵がおり、本格的な復員が始まるのはまだ先のことだったから、征人の突然の帰郷は村の人々には少なからぬ驚きだったのだろう。戦地に送り出した夫や息子の安否を知りたがる女たち。これから進駐《しんちゅう》する米軍の実態を少しでも知っておこうとする老人たち。戦場での武勇伝を聞きたがる子供たち。彼らはたちまち征人を取り囲み、我先《われさき》にと質問を繰り出してきた。中には在郷《ざいごう》軍人の村長のように、おめおめ生きて帰りおってと冷たい目を向ける者もいたが、征人は誰とも口をきかずに自分の家へ向かった。母親が亡くなったと聞かされた時から、その目には他のなにも入っていないようだった。
征人が出征して間もなく、軍需工場に働きに出るようになり、そこで空襲に巻き込まれたのだという。村人たちの好奇の視線を背に、征人はパウラを家に招き入れた。家は荒れ放題に荒れていたが、家財道具はきちんと整頓《せいとん》されており、父親が残していった蓄音器とレコードも押し入れの奥にちゃんとしまってあった。
長く使われていなかったのだろう。ハンドルを巻いても動かない蓄音器を、征人は小一時間かけて直した。その間、ひと言も喋ろうとはせず、パウラも話しかけようとはしなかった。ようやく直った蓄音器が奏で始めたのは、『夜のごとく静かに』だった。戦時中は赤盤と呼ばれ、聞くだけで取り締まりの対象になるレコードだったそうだが、いまは関係のない話だった。誰はばかることなく鳴り響く歌声を聞きながら、これで本当になにもなくなった……と征人は口を開いた。
おれが出征する時、母さんは見送りにこなかった。女郎上がりの子って、おれがバカにされていたのを知ってるから……。村長は、その方がいいだろうってわけ知り顔で言った。おれは唾を吐きかけてやりたかった。誰も生きて帰れるなんて思ってない。これで最後なんだぜ? 誰に、なにを遠慮することがあるっていうんだよ。なのにおれは……おれは、村長になにも言い返せなかった。母さんもこの玄関より先に出てきてくれなかった。本当に見送りにきてもらいたかったのは、母さんだけだったのに。
でも、いいんだ。そんなことはもういい。生きて帰ってこられたんだ。なにもかも一から始めればいい。いまならそれができる。おれが母さんを背負って、この玄関から出ていくことができる。そうしたら君と、母さんと一緒に……。合わせたかったなぁ。君に、母さんと……会ってもらいたかった……。
うっすら埃の積もった畳にぽたぽた涙を落として、征人は肩を震わせた。パウラはなんと言ってよいのかわからず、自分もただ涙を落とし続けたのだったが、その一方で腹の底が冷え、なにか異物が臓腑に差し挟まれる心地を味わってもいた。
いまにして思えば、あれはパウラ・アツコ・エブナーという人間が消え去り、代わりに折笠温子という人間が生まれるのだという予感――十七歳の小娘なりに己の行き方を定め、覚悟を呑み込んだ瞬間だったのだろう。それは本音を言うなら、吐き出してしまいたいほど重く、体が震え出すほど冷たい覚悟だったのだが、征人の涙を見るうちに吐き出すタイミングを失ったというか、理性とは別の知性が作動して、打算も感情もひと括りに素早く決断してしまったというか。とにかく自分の意志とはほど遠い、恋愛感情とも呼べない、女がある局面で固める妥協《だきょう》に近い覚悟が、パウラに今後の身の処し方を決めさせたのは確かだった。
もっとも、その覚悟が現実になるのは数年先のことになる。征人が母親のことを口にしたのは、この時が最初で最後だった。荒れ果てた家でひと晩を過ごした二人は、翌日、夜明けてともに村を出た。
農地改革が始まるのはまだ数ヵ月先のことだったが、それまでの小作農が自作農に改まり、地主に統括されていた人心が四方八方に飛び散る予兆は、破壊された国体や権威といったものを苗床《なえどこ》にして着実に育ちつつあった。故郷を離れて何年も経つ自分がいまさら根づけるものではない、というのが征人の判断で、それはすなわち、パウラという素姓の知れない娘が受け入れられる土地ではない、ということでもあった。
二人は朝一番の汽車に乗り、もう訪れることのない村を離れた。行く当てなどなにひとつなかったが、大勢の人間に紛れ込み、素姓の知れない者でも生きてゆける土地は限られていた。自分たちの新しい家を手に入れるために、パウラと征人は日本でいちばん人の多い場所――東京へ向かった。
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東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
海を渡りひびくは 東京ブギウギ
ブギの踊りは 世界の踊り
二人の夢の あの歌
口笛吹こう 恋とブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵《こよい》も月の下で
東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世紀の歌 心の歌 東京ブギウギ
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そんなからっとした歌声が、パウラの心にも光明を呼び込んだのは終戦から四年後のこと。東京で生活する目途《めど》が立ち、多少は周囲を見回す余裕ができてからの話だ。それまでは、その日の食物の確保に一日が明け暮れる、戦後のもっとも困難な局面を生き抜く苛酷な日々が続いた。
後に日比谷に移転する連合国総司令部《GHQ》は、横浜に最初の拠点を築いた。東京湾に寄港した戦艦〈ミズーリ〉の甲板上で降伏文書への調印が執り行われ、七年に及ぶ占領時代は幕を開けた。陸海軍が解体され、治安維持法が廃止されて政治犯が釈放される一方、入れ替わりに平和に対する罪≠問われた人々、いわゆる戦争犯罪人の逮捕が開始された。
翌年の五月から始まった東京裁判の一部始終は、後に記録フィルムを通してパウラも目にする機会があったが、被告の誰もがちょっとぽかんとしていて、なんで自分がここに座っているのかわからん、という面持ちだったことが印象に残っている。平和に対する罪≠ネどと言われても、なにひとつ実感の持ちようがないかつての将軍たち。自分たちの流儀で戦争を裁き、日本を裁いて、目に見える決着を一刻も早くつけたがっているGHQの司法関係者たち。裁く側も裁かれる側も、等しく滑稽で哀しく見えた。あらかじめ筋書きの定まったアメリカの裁判ごっこに、いい歳をした男たちがしぶしぶつきあわされているようだったから……。
が、それも周囲を見回せるようになってからの感慨で、前しか見えない、見ることを許されなかった当時は、他人の悲哀に目を向けている余裕などはなかった。東京は一面の焦土《しょうど》と化しており、街には家を失った人々が溢れ、闇市《やみいち》では横流しの軍需物資が法外な値段で取引されていた。特に終戦の年は相次ぐ冷害と風水害で農家はどこも大凶作に見舞われ、一千万人が餓死するという噂まで流れた。結局、それは噂だけで済んだのだが、いっさいの闇物資を断ち、配給生活を守り通した判事が栄養失調で死亡する、そういう容赦のない時代であったことは事実だった。
敗残のみじめさと飢餓感がぐつぐつと煮えたぎり、抑圧の反動で剥き出しになった人間の本性が湯気になって立ちこめる空間。それが闇市というところだった。金さえ出せば大抵のものは手に入り、一日で富を築くこともできるが、翌日、死体になって道端《みちばた》に転がっていないという保証はどこにもない。そこを行き交うのは特攻隊の生き残りであり、南方からの引揚兵《ひきあげへい》であり、戦災孤児であり、復員しても働き口のない者たちで、彼らは進駐軍の残飯が入っているかもしれない水団《すいとん》で飢えを慰《なぐさ》め、昏《くら》い目を鷹《たか》のように鋭くして互いに威嚇《いかく》し合い、利用できる相手と害になる相手、蹴落とせる相手と従うべき相手を峻別してゆく。GHQが財閥解体と農地改革を進める一方で、彼らはいち早く自由経済市場の原理を実践していたのだったが、飢餓と怨念を原動力にしたそれはあまりにも性急で、バイタリティと呼ぶには陰惨に過ぎ、かつて艦内スピーカーごしに聞いた男の声をパウラに思い出させた。
欲望の暴走、狡猾、打算、成算、卑屈……。あの浅倉という男が予言した世界の萌芽が、そこにはあった。終戦直後は進駐軍と刺し違えると息巻いていた大人たちが、米兵《GI》が投げ与えるガムやチョコレートを拾う子供たちを黙認し、あまつさえもっともらってこいと言う。それは生き続ける限りは食わねばならない人の性《さが》であり、矛盾を矛盾と感じる前に呑み下し、まるごと消化してしまう忘却の淵《ふち》が、日本人の深層で刻々と広がっているということでもあった。
パウラと征人にしても例外ではなかったのだろう。無知の怖いもの知らずとはいえ、新橋に立った最大の闇市に分け入っていけたのは、自分たちも生き延びねばという貪欲《どんよく》な意志があったからに他ならない。征人はそこで頬に傷のある朝鮮人の業者に渡りをつけ、パウラの戸籍《こせき》を手に入れた。
戦災で戸籍簿が焼け、隣組単位の自己申告で再登録を受け付けていた当時の戸籍制度には、パウラのようなよそ者でも戸籍を入手できる隙《すき》があった。おそらくは空襲で亡くなったのだろう、須崎温子という少女の戸籍がパウラにあてがわれた。パウラよりは二つ年下で、同い年の少女の戸籍もあったのだが、アツコというもうひとつの本名を生かせる僥倖《ぎょうこう》を選んで、征人は須崎温子の戸籍の方を買ったのだそうだ。お陰でパウラは、戸籍上は実年齢より二歳若返ることになった。それを得と感じられるようになるには、まだまだ歳を重ねなければならなかったが。
そんなことができるようになったのも、住居と職を得て、東京での暮らしが軌道に乗り始めたからで、これは半分以上は運の賜物《たまもの》だった。汗と土埃と煤にまみれ、浮浪児同然の体で東京駅に降り立った二人が、とりあえず足を向けた場所。住所だけは聞いたことがあるという征人の記憶を頼りに、墨田区菊川町にある清永家を訪ねたことが、以後の二人の運命を決定づけた。
三月の大空襲でもっとも大きな被害を受けた地区らしく、墨田区一帯は焼け焦げた木材が林立する焼け野原と化していて、遮るものなく見渡せる地平線の向こうには、富士山の頂《いただき》さえ眺望できるありさまだった。方々尋ね回って捜し当てた清永家も焼け落ちており、かつての家屋の敷地内に掘っ立て小屋が建てられ、清永の両親と弟妹たちが肩を寄せ合うようにして暮らしていた。
征人が清永の戦死を報告すると、母親はその場に泣き崩れた。職と住居を得るのに、なにか役に立つ情報が得られるのではないかというひそかな期待は、その慟哭を聞いた瞬間にかき消えた。パウラと征人は一礼して来た道を戻ろうとしたが、清永の父親がそれを呼び止めた。
清永は、家に宛てた手紙によく征人のことを書いていたらしい。父親は征人とパウラを家に招き入れ、息子の代わりにと食事まで振る舞ってくれた。カーバイド灯と蝋燭《ろうそく》の灯が照らし出す食卓に並んだのは、魚の缶詰と豆の油煎《あぶらい》り、カボチャの煮付け、それに芋入り飯。二人は日本に来て初めてまともな食事にありつき、征人には配給品の酒も振る舞われた。だが清永が戦死した時の様子を尋ねられると、久しぶりの食事も急に喉を通りづらくなった。
艦籍のない〈伊507〉がどのように扱われ、乗員たちの死がどう処理されたのか、帝国海軍そのものが消滅したいまとなっては確かめようがない。各地から集められた乗員は呉《くれ》の空襲で死亡したと認定され、〈伊507〉は存在自体が抹消されたと見るのが自然だが、血を分けた息子、兄を失った人々に、そんな国家の不実を語っても無意味だった。敵艦に特攻して散華《さんげ》されました、と征人は答えた。立派な最期でした。ご子息の活躍がなければ、自分はいまここにいなかったかもしれません。征人がこうもはっきりと嘘をつけるとは思っていなかったパウラは、ちらとその横顔を窺った。清永の父親の目を直視して、征人の瞳は微かに滲んで見えた。清永の父親は、そうか、ありがとうと応じて、征人の茶碗に酒を注ぎ足した。なにかを察した目を伏せる父親の傍らで、嗚咽を堪《こら》える母親の肩が蝋燭の明かりに浮き立った。
故郷に帰ったものの、働き口も身寄りもなく、許婚《いいなずけ》を連れて東京に出てきたという征人の嘘が、全面的に信用されたわけではないだろう。しかし清永の父親は、家の敷地の隅に、二人が住む掘っ立て小屋を建ててもいいと言ってくれた。家を建て直すまでという条件付きだったが、二人には願ってもない話だった。征人はさっそくリヤカーを借りて東京中を駆け回り、使えそうなトタンや焼け焦げた木材を集めてきた。
黒焦げの柱の炭の部分をカンナで削《けず》り、トタンを貼り合わせて壁と天井を作り、焦げた板の上に筵《むしろ》を敷いて床にする。二日後に完成した三メートル四方の小屋が、二人が作った初めての家≠ノなった。征人はそこを拠点に職安に通う一方、時計店の再開を目指す清永の父親を手伝うようになり、パウラは母親の方を手伝って家事一般の手ほどきを受けた。
子供の頃に祖母にしつけられた記憶があるとはいえ、家事とは無縁な生活を五年以上も続けてきたのだ。日本の料理の味付けは一から覚える必要があったし、風俗習慣を学ぶ上でもいろいろ役立つことは多かった。貧困と空腹がついて回る生活の中でも、清永の母親はパウラを娘のように扱ってくれた。征人も機械いじりの才能を清永の父親から認められ、それは後に大手時計メーカーの工場に就職する契機にもなった。
二つの掘っ立て小屋が並ぶ敷地にはドラム缶が置かれ、いわゆる五右衛門風呂《ごえもんぶろ》になっており、征人とパウラも二日置きに使わせてもらった。周囲は板切れで囲いがしてあったが、屋根はなく、青天井から月と星空を眺めることができた。
ぽっかり浮かんだ満月に、湯船から立ち昇る湯気が靄《もや》のようにかかり、足もとで爆ぜる焚き火の音だけが森閑とした夜気を震わせる。約束、ちゃんと守ったね。うしろで火の面倒を見てくれている征人に、パウラは言ったことがあった。温泉、連れてきてくれた……と。征人はしばらく黙った後、まだまだ、こんなもんじゃないさ、と返して竹筒に息を吹き込んだ。ごうと火の勢いが増し、流れ星がひとつ、靄の向こうを走っていった。
苦しくとも幸せな……とは言うまい。インフレと食糧不足は依然として日本の首を絞め続けていたし、なにより人の情けにすがり、自分で生きる道が定まらないというのは辛いものだ。だが間もなく始まった朝鮮戦争が特需をもたらし、高度経済成長へと繋がってゆく時代の怒濤《どとう》を振り返る時、征人といちばん多くの時間を共有できた、あの頃の日々が懐かしく思い出されるのは事実だった。
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月がとっても青いから
遠まわりして帰ろう
あの鈴懸《すずかけ》の並木路は
想い出の小径《こみち》よ
腕をやさしく組み合って
二人っきりで サ帰ろう
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終戦から五年後、北朝鮮が三十八度線を割って韓国に攻め込み、以《もっ》て勃発《ぼっぱつ》した朝鮮戦争は、共産主義の封じ込めを企図したアメリカのトルーマン・ドクトリン宣言、中華人民共和国の成立、ソ連の原子爆弾保有と、着々と整備されてきた冷戦構造の枠組みが、最初に吐き出した腐敗ガスだった。以後、ベトナム戦争にも受け継がれる東西陣営の代理戦争は、日本を反共の防波堤とするアメリカの方針をより強固なものに変え、自由陣営の一員として日本に再び銃を取ることを要求した。
主権在民・象徴天皇・戦争放棄を規定した日本国憲法を押しつけ、おまえらはもう戦争はするな、と厳命した舌の根も乾かぬうちの出来事だった。パウラたちにしてみれば、米ソの対立は自明のことでしかなく、「戦争の放棄」という憲法の言葉自体に疑問を感じていたから、日本の再軍備は至極当然のことという印象しかなかった。戦争は一国では成立せず、必ず相手がいるものなのに、軍備を放棄すれば戦争も放棄できる、と短絡できる人の思考回路とはなんなのだろう? むしろこれを契機に、戦争の痛みを経た日本ならではの軍事に対する考え方、戦争を鎮《しず》めるための武力の在り方が追求され、憲法に謳《うた》われる通りの平和国家の指針が世界に発信されることを期待したのだが、結果は、警察予備隊なる珍妙な名前の武装組織が発足するのに留まった。
現実の要請と憲法をすり合わせたにしても、言葉遊びに等しい言い逃れという感触は拭えなかった。以後、日本の国防政策は「言葉遊びで問題をはぐらかす」術《すべ》を学び、戦争は忘却の淵に呑み込まれ、形骸化した言葉のみが本質から離れた議論を重ねるようになった。日本人の思考が閉じてゆくのではないかと思わせる気配は、百年もすれば国の名前も忘れた肉の塊になる……と言った男の言葉を否応なく思い出させ、パウラたちにはちょっとショックな出来事だったのだが、だからといってなにができるわけでもなかった。その頃には征人は錦糸町《きんしちょう》にある工場の宿舎に、パウラは清永家に近いアパートの一室に移り住み、それぞれ働き通しの毎日だったので、ゆっくり話す間も作れないでいた。特に征人は朝鮮特需の増産態勢に追われて、ほとんど寝る間もない様子だった。
三年続いた朝鮮戦争の間、日本はアメリカの兵站《へいたん》基地の役割を果たしつつ、後の高度経済成長時代を呼び込む経済力と技術力を着実に培《つちか》っていった。一方で在日米軍の駐留などを盛り込んだ日米安保条約が発効し、講和条約が結ばれて、日本はGHQの占領から解放された。日本は民主主義国として再び主権を取り戻したが、反共の防波堤という頸木《くびき》はしっかり首にかかっており、それを快く思わないもう一方の大国の存在もあってか、国内では左翼陣営による武装闘争が相次いだ。
征人が突然結婚を申し込んできたのは、そんな時だった。このところの好景気で給料が上がった、賞与も出た、二間のアパートくらい借りられるから一緒に暮らそう、というのがプロポーズの言葉で、いかにも征人らしい事の進め方に、パウラは思わず吹き出してしまったものだった。女と男では覚悟の固め方も違うということだろうか? こちらはとっくの昔、もう七年も前に覚悟を固めていたのに。
その年の暮れ、二人は正式に夫婦になり、パウラは折笠温子になった。式は行わなかったが、仲人《なこうど》を務めてくれた清永夫妻の好意で、新装なった清永時計店で簡単な披露宴は開いた。
前を見て夢中で走ってきた時期は終わり、そろそろ周囲を見回してもいいという心境になったのは、征人も同じだったのだろう。結婚祝いで工場からまとまった休みをもらった征人は、旅行に行こうと言い出した。新婚旅行などという呑気な話でないことは、パウラもすぐに察しがついた。一週間足らずの休みの間に、宮崎まで往復するのはかなりの強行軍だったが、これを逃せば次の機会はないかもしれない。二人は夜行列車を乗り継ぎ、七年ぶりに南那珂郡の海岸に向かった。
七年前に上陸した時は真夜中だったのでわからなかったが、宮崎市と日南《にちなん》市のほぼ中間、伊比井《いびい》より五キロほど下ったところにある松森岬は、景観もよく、海の水もきれいで、冬場でもぽかぽかとした陽光が降り注ぐ美しい場所だった。二人そろって久しぶりに潮の匂いを嗅《か》ぎ、一面に広がる水平線を見渡した時間は、なにを言っても新婚旅行のそれであり、松森岬は二重の意味で二人の思い出の場所になった。ただ海蝕洞に沈めた〈ナーバル〉は跡形もなく消えており、そのことが一点の染みになって胸に残った。
大戦末期、帝国海軍は本土決戦に備えて多くの潜航艇を洞窟陣地などに隠し、GHQはそれらを残らず接収、もしくは海没処分にしたと聞く。〈ナーバル〉もそのひとつとして引き揚げられ、解体処分されたと考えるべきだが、見る者が見れば、それが普通の潜航艇でないことは判別がつくはずだった。
奇妙な潜航艇の発見が報告され、ローレライ収奪に関わった米軍関係者の耳に入ったらどうなるか。帝海の人事記録を手繰り、〈伊507〉の乗員をリストアップするのは、さほど困難なことではないだろう。その中からいまだ生存している者を捜し出すのも、参謀本部第二部《G2》のような諜報・保安組織を擁するGHQなら不可能ではない。この七年、そういう事態もあり得ると覚悟して、できる範囲で注意もしてきたつもりだが、いまだにそれらしい影が片鱗《へんりん》も見えないのはなぜか。〈ナーバル〉はどこに消えたのか――。
その答は、それから二年後、意外な形で明らかにされた。どうしても観たいという征人につきあわされ、上野の映画館で『ゴジラ』を観た帰り道。アメ横をぶらぶら散歩している時に、ひとりの男が声をかけてきた。
三十がらみのその男は、天本《あまもと》と名乗って名刺を差し出した。天本某の名前の横には、防衛庁広報課の文字があった。警察予備隊、保安隊と名前を変えてきた国防組織が、この年の六月に自衛隊とあらためられ、併《あわ》せて防衛庁が設置されたことは新聞で読んで知っていた。来るべきものがきた? すぐには判断がつかず、顔をこわ張らせて立ち尽くした二人を誘って、天本は近くの喫茶店に入った。
あなた方の身柄は安全です。それが本題に入った天本の第一声だった。なぜそう断言できるのかはお教えできません。その名刺は本物ですが、広報課≠ニいう肩書きは名前通りのものではない、ということでお察しください。本当なら、あなた方に声をかけるべきではなかったのですが……。今日、わたしの上司が、旧軍時代からわたしの上官であった人物が亡くなりました。あなた方の存在をいち早く知り、陰から見守ってきた人です。一時は戦犯として巣鴨《すがも》に拘置されていましたが、その前に……いや、拘置所に入ってからも、あらゆる伝《つて》を使ってあなた方の身を守ろうとした人です。
彼らに手を出したら、貴様たちも泥にまみれることになる。こちらにはそういう準備がある。戦勝国を相手にはったりを仕掛けて、神経をぼろぼろに磨り減らして……。米内海相も亡くなるまで協力されていたようですが、あの人が断固とした姿勢を取り続けてくれたお陰で、広報課≠フような組織が生まれる素地ができた。あなた方の安全も守られてきたのです。誰かにそれを知っておいてほしいと思って、つい……。
そう語る天本の目は、微かに充血していた。帝国海軍に残されたローレライの資料、〈伊507〉との通信記録、浅倉の捜索記録。使いようによっては米軍の謀議を間接的に立証する醜聞種を武器にして、天本の上官はアメリカの手から自分たちを守ってきた。単純に推測すればそういうことだが、そう簡単な話ではないのだろう。
『ゴジラ』がアメリカの水爆実験で被曝《ひばく》した第五福竜丸の暗喩《あんゆ》であるように、原爆――核兵器を御神体とする東西冷戦は、世界を滅ぼしかねない恐怖を孕《はら》んで進行している。その最前線として機能する日本の地政学的な位置づけと、東西両陣営がそれぞれ張り巡らせた闇の手。日米安保に寄り添って創設されながら、内に広報課≠ネる非公然組織を飼う防衛庁、自衛隊の存在。忘却の淵が広がる日本の地下で、冷たい戦争≠ヘいまも続いており、その隠微な力学がローレライの封印を決定した……ということなのかもしれない。
その時は、そこまで明文化して事態を捉える余裕はなく、自分たちはとんでもなく危険な綱渡りをしていたらしいと曖昧《あいまい》に納得して、パウラは背筋に冷たい汗が流れるのを感じ続けた。征人は、その方のお名前をお聞きしてはいけないのでしょうか? とだけ尋ねた。天本はおしぼりで顔を拭い、目の縁の雫を消し去ってから、微笑を返事にした。
わたしもね、行ったんですよ。ウェーク島に。あの人は、間に合わなかったことをずいぶん悔いておられた。しかしあなた方が生き残っていると知って、あの人はまだ間に合うものがあると信じた。きっと生き甲斐になったんだと思います。あなた方を守ることが、〈伊507〉の乗員たちに対するせめてもの恩返しだと……。
征人は膝に置いた拳を握りしめ、なにかを堪えてぎゅっと唇を噛み締めた。まるで見えない重石《おもし》がその肩にのしかかったかのようだった。天本は、すみませんでした、もうお会いすることはないでしょうと短く言って、伝票を手に席を立った。
それだけだった。以来、天本は二度と二人の前に現れることはなかった。パウラと征人はそれまでと同じように日々を暮らし、やがて子を儲《もう》けた。
もはや戦後ではない≠ニいう言葉が聞かれるようになり、日ソ国交が回復し、南極には昭和基地が開設された。ソ連は大陸間弾道弾に続いて史上初の人工衛星を打ち上げ、冷戦が宇宙開発に持ち越される間に、日本では高度経済成長の追い風を受けて、所得倍増計画という景気のいい政策が打ち出された。
三十代に入り、二歳下の戸籍年齢を得だと感じ始めた頃、パウラと征人は広島駅に降り立った。宮崎に行った帰り道だった。原爆が投下された直後は、もう草も生えないだろうと言われた広島は、見た目にはすっかり復興しているように見えた。三歳になったばかりの真史と乳飲み子の徳子、パウラを駅の近くの食堂に待たせて、征人はひとり広島市街に出かけていった。
ボームのレコードを持つ知り合いに会いにいったのだろう。市内に住んでいた人なら生存は絶望的といってよく、当時の町並みが残っているとも思えなかったが、三時間ほどして帰ってきた征人はさっぱりした顔つきだった。どういう知り合いだったのかは、結局教えてもらえなかった。
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こんにちは こんにちは 西のくにから
こんにちは こんにちは 東のくにから
こんにちは こんにちは 世界のひとが
こんにちは こんにちは さくらの国で
一九七〇年のこんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう
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日本万国博覧会、万博のテーマソングになったその歌の明るさは、ちょっと筆舌《ひつぜつ》に尽くしがたい。戦争や飢餓の暗さはもちろん、陰影というものをいっさい消し去った白痴的な明るさというか、日本中が躁《そう》状態に陥り、工事現場の騒音までが未来を呼び込む希望の音色に聞こえた、そんな時代の突き抜けた明るさというか。キューバ危機が浮かび上がらせた全面核戦争の恐怖、ベトナム戦争、公害問題。周囲を見渡せばいくらでもあった闇は脇に除けられ、末期の際《きわ》を迎えつつあった左翼闘争も尻目にして、とにかくある一時期、ほとんど暴力的なまでの明るさが日本を席捲《せっけん》したのだった。
復興は発展という言葉に取って替わられ、働けば働くほど企業の業績は上がり、生活も向上するという実感に疑いはなかった。東京の人口は一千万を超え、押しも押されもせぬ世界最大の都市になり、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通して、ふと気がついてみると、日本の国民総生産は世界第二位の規模に膨れ上がっていた。
都市の過密化、住居の閉塞化がもたらす人間関係の荒廃。動植物を毒液に浸し、人体を破壊し、海と空の色まで澱ませる公害。後に喉元まで食い込んでくる諸問題は、まだ発展に伴う許容範囲の歪みでしかなく、初めて手にする物質的な豊かさ≠ノ酔《よ》い痴《し》れ、発展一途の未来に根拠のない希望≠抱いていられる時が、当分のあいだ続いた。
本格化するベトナム戦争においては、朝鮮戦争の時と同様に兵站基地の役割を果たし、企業の多くは戦争の混乱を契機に東南アジアに進出してゆく。反戦を訴える市民団体にしても、個人に還元すればベトナム特需の恩恵から無縁ではいられず、「戦争放棄」に似た無力感を漂わせる「反戦」という日本語が象徴する通り、こと戦争に関しては、日本が完全に語る言葉を持てなくなったのもこの頃からだった。
洗濯機などの家電製品が普及し始めた頃に生まれ、カラーテレビ・クーラー・カーの3Cが三種の神器と呼ばれた年にそれぞれ十歳、八歳になった真史と徳子は、まさに時代の子だった。物心がついた時には家にテレビがあり、兄妹そろってだっこちゃん人形を欲しがり、夕飯が食べられなくなってもおやつに即席ラーメンを食べたがる。テレビに映るのは皇太子の結婚パレードであったり、『鉄腕アトム』であったり、あさま山荘事件の実況中継であったりで、アポロ十一号が月面に着陸した時には、眠い目をこすりこすりテレビに釘付けになっていたものだった。『ウルトラマン』に夢中だった真史は、中学に入ると『巨人の星』に影響されて野球を始め、早々に挫折《ざせつ》したかと思うと次はギター。徳子はどこで覚えてきたのか、十歳になるかならないうちにプライバシーなどと言い始め、部屋には西城秀樹やら沢田研二やらのポスターがべたべた……。
それはもう育て方とか、個人の嗜好《しこう》とかいう問題ではなく、かつて軍国日本が軍国少年を作り出したように、経済大国日本が消費世代を作り出したということであり、止めようと思っても止まらない、渦中にいる間は止める必然性さえ思いつかない時代の流れだった。そして子供たちに時代に乗れる環境を与えたという意味では、パウラと征人も時代にどっぷり浸かっていたのだ。
月賦《げっぷ》がクレジットと言い換えられて、抵抗感が減ったからというわけでもないが、大概の家電製品は買いそろえていたし、征人が工場の主任に昇進した時は、長期ローンを組んで一戸建ての家も購入した。都内と言っても陸の孤島と揶揄《やゆ》される墨田区の片隅、猫の額ほどの土地に建つ小さな家だが、二十年前、掘っ立て小屋から始めた二人にしてみれば、ついに自分たちの家≠手に入れられたという感慨があった。
帰る家なんてのは、男ならてめえの腕ひとつで作ってかなきゃなんねえもんだ――。掌砲長からもらった宿題が片付いたと思い、よかったね、征人、とパウラは引っ越しした最初の日に言った。子供ができてからはお父さんと呼ぶようにしていた自分が、久しぶりに出したパウラ・エブナーの声のつもりだった。征人はびっくりしたようにこちらを見た後、照れ臭そうに笑って頭をかいた。それからなぜか、急に口もとを引き締めて眉根に皺を寄せ、どこか苦しげな顔つきになった。
その時はローン返済のことでも考えたのかと思ったが、そうでなかったことは、それからも何度か同じ表情を目にするうちに理解していった。真史が結婚した日、徳子が婚約者を家に連れてきた夜。他にも工場長への就任が内定した時、初孫の顔を見た帰り道と、いまにして思えば、征人は幸福に触れるたびに苦しみ、肩の重石がまたひとつ増える思いを味わっていたのだろう。
万博景気でピークを迎えた高度経済成長は、あのテーマソングを葬送曲にして終焉へと向かった。成長を支えた猛烈<Tラリーマンたちは、企業を巨大化させる代償に家庭内での地位を失い、ノイローゼと各種の職業病が世に蔓延した。光化学スモッグやヘドロは無視できない量に達し、左翼闘争の敗北で理想を語る虚しさだけを学んだ若者たちは、青臭い厭世観《えんせいかん》をシラケという言葉に変えてファッションにした。このファッションはいつしか体に染みつき、社会に参画することを嫌う心性を育てて、後に痴呆とオタクに二分されるような若者観の素地になった。終戦を知らずに密林に潜み続け、二十八年ぶりに復員を果たした日本兵≠フ存在など、彼らには冗談の種にしかならなかった。
過密と過疎を同時に解消すべく、地方部への工業再配置、交通網の整備を推進した列島改造論は、結果的に公害を日本中にばらまき、バブル経済の土壌となる土地ブームを引き起こした。工事現場の騒音は騒音でしかなくなり、改造論をぶち上げた元総理がロッキード疑獄で逮捕され、金権政治の構造が明るみになるに至って、誰もがある種の行き詰まりを感じ始めた。政治が国民と直結し、経済と科学の発達が生活を向上させると信じられた時代は、その時点で終わりを迎えた。それでも地方の開発事業は止まらず、企業は成長し続けることを至上命題とし、疑鉄事件は飽かずにくり返された。
地方の開発が雇用をもたらし、成長の意志が企業を存続させ、権益の確保が次の選挙の勝敗を決める政治の現実がある以上、それらをやめることは戦後日本を否定するのと同義だった。一九九九年の滅亡を説くノストラダムスの予言詩がもてはやされたのも、滅亡という響きに解放と解決を見出す無意識があってのことかもしれない。かつて国家の切腹を目論んだ男のように……。
そこに豊かさはあったのか。自由の喜びはあったのか。本当に豊かになったのなら、なぜ際限なく成長を求め続けるのか。本当に自由になったのなら、なぜ息苦しさがいつまでもなくならないのか。確かに見た目の豊かさは手に入れた。だが飽食の時代という言葉とは裏腹に、日本はいまだに飢えている。利己主義、貪欲、猜疑心《さいぎしん》。闇市で馬脚《ばきゃく》を現した本性に操られ、我々はなにか大事なことを学び忘れたまま、ここまで来てしまったのではないか。経済という言葉で欲望を粉飾し、正当化して、闇市の頃よりタチの悪い社会を作り上げてしまったのではなかったか。
恐怖に対抗するために、自らが恐怖になることを強いられる力の論理。組織と個人、全体と個のあり方。あの戦争が残したのは、戦争は悲惨だなどというバカでもわかる教訓だけではない。もっと学ぶべきことがあったはずだ。にもかかわらず、我々はすべてを忘却の淵に沈めてきた。愛国がだめなら愛社だとばかり、帰属の対象を国家から企業に移し、国という大元の共同体を無視して企業エゴを加速させてきた。お陰でエコノミック・アニマルと呼ばれるほどの経済力は身につけたが、国力そのものは、石油の価格が高騰しただけで慌てふためく脆弱《ぜいじゃく》さをさらした。経済力を軍事力と置き換えれば、そっくり同じ歴史をくり返しているとなぜ気づかないのか。気づいてもやめられない、もう後戻りできないところまで日本は再び来てしまったのか――。
そんな思いが渦巻き、幸福を得るたびに肩の重石が増える思いを味わってきたのも、自分がただ生きているのではなく、生かされている身であることを征人が自覚していたからだろう。そして時おり苦しそうな横顔を見せる他は、愚痴らしい愚痴も漏らさず、黙々と家と工場を往復して、一家を支える大黒柱でいられるのも征人という男だった。
日本の自動車生産台数が世界一位になり、日米自動車摩擦が起きる一方、ソ連はアフガニスタンに侵攻し、国内では少年犯罪の凶悪化、物価上昇による生活のレベルダウンと、八〇年代前半は相変わらず暗い影が日本を覆った。真史の結婚、弥生の誕生と、パウラと征人には明るい報せが続いたその時期は、日本にとっては後に始まる狂乱の潜伏期間になった。
バブル経済と呼ばれる狂乱は、円高ドル安でいよいよ追い詰められた経済大国日本が、起死回生をかけて仕掛けた真珠湾攻撃のようなものだった。本来の業務が低迷したために、余資を財テクに回して効率的に運用するようになった各企業の動向。預貯金金利の低下によって、一斉に市場に出回り始めた個人預金。複合的な状況が積み重なり、国、企業、銀行、果ては一般個人までが一丸となって、土地投機と株式投機に狂奔する時代が到来した。
地価と株価は天井知らずの高値が続き、各企業はアメリカの企業や不動産まで買収の対象にして、日本は未曾有《みぞう》の好景気に沸いた。リクルート疑惑も、天安門事件も、マネーゲームの狂奏曲の前ではさして大きな音にも響かず、パウラがベルリンの壁崩壊の中継を息を詰めて見守っていた時も、お膳《ぜん》の上にはどこだかの証券会社が持ってきた投資案内が置いてあった。
ぱらぱらと頁《ページ》を繰《く》って拾い読みした投資の仕組みは、祖国統一のニュースより信じがたい内容で、ようするに土地を担保にして金を借り、それを投資しろという。投資先はさまざまな企業だが、それらにしても土地を転がして銀行から金を借り、そのまま別口に投資するというくり返しで、まるっきりネズミ講ではないかというのがパウラの印象だった。
違うのは、土地という確かな実体があることだが、その価格が永遠に高騰し続けるとは到底思えない。誰もそんなには持っていない、見たこともない大金が亡霊のごとく市場を回遊して、豪壮なビルやらマンションやら、テーマパークやら遊園地やら、百万円の貴金属を惜しげもなくプレゼントし、高級ホテルでデートする学生やらの、空疎《くうそ》な幻を日本のあちこちに現しているのかと思うと、これはもう胡散臭《うさんくさ》いという以前に身の毛のよだつ話だと思えた。
あらかじめ破綻《はたん》が確定している大型景気――あらかじめ敗北の確定している戦争。私たちは本当になにかを学び忘れたのだ……と内心に慨嘆する間もなく、八〇年代最後の年にバブル崩壊という言葉が囁かれ始めた。
異常な高値を更新していた地価と株価は、徐々に下落の傾向をたどった。二度目の敗戦は、一度目のそれと違ってじわじわと押し寄せ、終わりのない不況を日本にもたらすのだが、その痛みが実感されるのはまだ先の話だった。九〇年に入っても証券会社のセールスマンはたびたび家に訪れ、損失|補填《ほてん》がどうのと調子のよい話をしては、新しいパンフレットを置いていった。
子供たちが独立し、還暦を過ぎた夫婦がひっそり残るだけの家は、彼らには見込みのある顧客予備軍なのだろう。バカにした話だと思いはしても、もういちいち腹を立てる気にもなれず、毎日決まった時間に征人を送り出し、たまに顔を見せてくれる孫と遊ぶ時間を宝にして、日々|灰汁《あく》が抜けてゆく己の心身を傍観していた頃のこと。仕事を終えて帰宅した征人が突然、倒れた。
近ごろ食が細くなってはいたが、特に体の不調を訴えることもなく、何年か前に患った腎炎《じんえん》も、経過は良好だと聞かされた矢先の出来事だった。あの冷たい海の底で、〈ナーバル〉に侵入してきた潜水服に銃口を向けた時から四十五年。いつでも傍らにあった征人の体が床に伏し、いくら揺すっても動かない現実を前にして、想像以上の心細さがパウラの胸を潰した。
還暦も過ぎれば、いつかはこういうこともある。どこかで固めていた覚悟も虚しく、その瞬間に脳裏をよぎったのは、怨霊の中から救い上げてくれた手のひらの温もりや、太平洋を漂流しながら歌った『椰子の実』の旋律、五右衛門風呂から見上げた満月の光といった記憶の奔流で、パウラは身も世もなく慌てた。とにかく一一九番だと思いつき、受話器を手にしたものの、口をついて出たのは半世紀近く話していなかったドイツ語で、これには応対に出た消防署の職員より、本人の方が面食らった。
征人は意識不明のまま救急車で運ばれた。パウラは骨ばったその手を握りしめ、集中治療室に運び込まれるまで離さなかった。昭和天皇が崩御してから一年、翌年にはソ連が崩壊するという年のことだった。
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知らず知らず 歩いて来た
細く長い この道
振り返れば 遥か遠く
故郷が 見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく
空が黄昏《たそがれ》に 染まるだけ
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美空ひばりという歌手の歌声を初めて聞いたのは、ラジオでのこと。『悲しき口笛』という大人びた歌をうたっているのが、まだ十歳そこそこの少女だったとは、映画館の前でポスターを見るまで信じられなかった。『鞍馬天狗・角兵衛獅子』で杉作を演じたのを見て以来、パウラも征人もすっかりファンになり、生活が落ち着いてからは何度かコンサートに行ったこともある。昭和が終わった年、後を追うように逝った美空が遺《のこ》したこの歌は、浅薄で不遜《ふそん》な言葉ばかりが聞こえてくる当時の世相にあって、パウラたちの世代の耳にもやさしく響いたものだった。
東西に分断されていたドイツが統一された平成二年、イラクのクウェート侵攻によって湾岸戦争が始まり、アメリカを中心とする多国籍軍が組織される中、日本国内でも自衛隊の海外派遣をめぐって激しい議論が戦わされた。現実には、自衛隊の装備は国内での運用を想定して整えられており、熱砂の戦場で使用に耐えられるものはひとつもなかったそうだが、そういったことをいっさい蚊帳の外に置いて、議論のための議論がマスコミを騒がせ続けた。それは政治家、官僚、識者がそれぞれの面子《メンツ》をぶつけあっているのに過ぎず、国際貢献という言葉からは遠く、経済観念でなければ作動しなくなった日本人の悟性を、あらためて証明するものでしかなかった。
ずいぶん難しい話をしてるんだなあ。タクシーのラジオから流れてくる専門用語の羅列を聞いて、征人はぽつりと漏らした。宮崎空港から松森岬に向かう途中のことだった。いつもなら新幹線で博多まで向かい、そこからは在来線を使ってのんびり九州を南下するのだが、その時の征人には、もう長く列車に乗っていられる体力はなかった。
征人に下された診断結果は、癌《がん》というものだった。手術で患部は取り除けますが、再発する可能性はあると憶えておいてください。そう言った医者は、助かるという言葉は最後まで使わなかった。征人は胃を半分切り取られ、ひと月あまりの入院生活を経て家に戻ってきた。本人は翌日からでも勤めに出るつもりでいたが、すっかり老け込み、ひと回り小さくなった背中を見れば、そんな余力が残っているとは思えなかった。
真史と徳子の目にも、征人の弱りようは瞭然《りょうぜん》だったのだろう。退院して三ヵ月、今年の夏も宮崎に行くと言い出した父親を止めようとはせず、飛行機のチケット代をパウラに握らせたのは、これが最後になるという予感があったからに違いない。パウラもその思いに変わりはなく、一年前に痛めた腰が気にならないではなかったが、同行するとも言ってくれた真史たちを断って二人で出かけることにした。心配しきりといった真史の顔をよそに、お熱いのね? と同性の笑みを浮かべた徳子の顔が、何年ぶりかで気恥しいという感情を思い出させた。
湾岸戦争の影響を受けてか、株価が急落していると続けたラジオの声を聞き終わらずに、タクシーは松森岬に到着した。パウラと征人は、毎年そうしているように石段を下り、岩場に挟まれた小さな砂浜に出た。四十五年前、日本人として生きる最初の一歩を踏み出した砂浜は、いつもと変わらぬ顔で二人を出迎えてくれた。
かつて〈ナーバル〉を隠した海蝕洞は、何年か前の地震で落磐して以来、立入禁止のロープがかけられたままになっていたが、他は初めて訪れた時とほとんど変わらない。海蝕洞の傍らに張り出した岬の岩肌も、その下で白い波飛沫に洗われる大小の岩も、島陰ひとつなく広がる太平洋も。国定公園に指定された一帯には、国土再開発の牙も立てようがなく、バブルの亡霊も近づけなかったというところか。ただ目に染みるほど蒼かった海は全体的に色調が落ち、波飛沫の白さも以前の鮮烈さを失ったように見える。青空と入道雲のコントラストもどことなくぼやけて見え、太陽の輝度《きど》が下がったのではないかと思えたが、それが環境破壊によるものなのか、老いた視力が思わせることなのかは、判然としなかった。
地元の人にさえ忘れられた場所であっても、訪れる人はいるのだろう。砂浜には花火の残滓《ざんし》が点々と散らばり、転がる空き缶の数もひとつや二つではなかった。パウラはそれを拾い集め、用意してきたビニール袋にまとめた。その間、征人は砂浜に座り込んで動かず、黙って海を見つめていた。
せっかく与えられた自由を、腐らせてしまったのかもしれんな……。
青空が白々と色褪《いろあ》せ、太陽が水平線に近づき始めた頃、そんな呟きが潮騒に混ざって響いた。征人の傍らに腰を下ろしていたパウラは、あえてその横顔を見なかった。
働いてきた。多くの者がそうしたように、ただ夢中で働いてきた。真面目しか取るところのない男にできたことと言えば、それぐらいだ。極端な失敗も成功もなく、会社を支えて、家族が食うに困らない程度の稼ぎを手にして……。お陰で、まがりなりにも自分の家と呼べる土地と家屋を手に入れられた。孫の顔を見ることもできた。自分にしては上出来……いや、人が人生でつかめる喜びに、多分これ以上のものはないだろう。
だがな、それだけでよかったのか? 家が建った時、君はよかったと言ってくれたな。あれは、掌砲長の言葉を憶えていたからだろう。帰る家は自分で作れ。好きな女と暮らして、子供を育てろ……。その約束は確かに果たせた。でも果たせなかった約束もある。子に誇れる国を造れ、自由を腐らせるな……。それだけは、おれには果たすことができなかった。
政治家になる才能も、学者になる頭もありはしない。革命家になる度胸もなかった。自分という人間がいようがいまいが、この国にはなんの影響もなかった。目の前の仕事に追われて、雑事に振り回されて、それだけで精一杯だった。自由が腐ってゆくのを、指をくわえて見ているだけだった。
こんなちっぽけな人間を生き延びさせるために、艦長たちは死んでいったのか? 君の兄さんや掌砲長、機関長、軍医長たちは死んだのか? そうだとしたら、あんまりにも間尺《まじゃく》が合わなさすぎる。清永や河野たちに、〈伊507〉のみんなに、おれはなんと言って詫びたらいいんだ……?
見えない重石が痩せ衰えた体にのしかかり、もう耐えきれないというふうに征人は背中を丸めた。握った拳を震わせ、唇を噛み締めて、四十五年間ため込んできた涙を流した。パウラはその拳に手のひらを重ね、詫びることなんかないじゃない、と言った。
あなたがずっと感じてきた痛みも、いま流している涙も。そういうことも全部ふくめて、いま私たちは生きている。きっとね、それが大事なことなのよ。
私だって同じ。死んでいったたくさんの人たちが『なぜ』と尋ねているのに、いまだにきちんとした答はつかまえられない。悲鳴の聞こえない海も取り戻せなかった。
でもあなたが救い出してくれたお陰で、私はもういちど生きることができた。それどころか、自分の命を未来に繋げることさえできた。私たちが果たせなくても、孫やその子供、そのまた孫が果たしてくれるかもしれない。私たちはみんな、ひとりひとりが希望の種なんじゃないかしら。
私とあなたは、この岬に流れ着いて根を張り、木になって、新しい実をみのらせた。それがまた木になり、実をみのらせて、そのひとつがいつかまた大海に飛び出していって……。私たちには想像もつかないような世界にたどり着くかもしれない。
考えただけでも楽しいじゃない。ね……?
固い石になっていた征人の拳がふっとやわらぎ、確かな温もりを持った指先がパウラの手のひらを包んだ。
「名も知らぬ、遠き島より……」と嗄《しわが》れた歌声が耳朶を打ち、潮騒に抱かれて、遮るもののない海と空に吸い込まれていった。
「流れ寄る椰子の実ひとつ……」と、パウラも細い歌声を重ねた。二人で歌うのは、この岬に流れ着いてから初めてのことだった。そしてその半年後に、征人は逝った。
享年、六十二歳。最近の人の寿命に照らし合わせれば、早い死であったと言えなくもないだろう。だが征人は十分に生きた≠ニ知っているパウラは、むやみに悲しむことはしなかった。
いまでも時々、その笑顔を夢で見かけることがある。そこでは征人は十七歳の少年兵で、田口や清永に小突かれながら酒を酌《く》み交《か》わしているのだ。
少し離れたところには絹見と高須がおり、木崎が酌をする横では、小松の首根っこを押さえた時岡が胴間声を張り上げている。岩村や河野、唐木たちが無責任に囃《はや》し立てるのをよそに、フリッツはひとり離れた場所で手酌酒《てじゃくざけ》。まったく、いつまでたっても進歩がないんだから。パウラが仕方なくそちらに行こうとすると、兄はひょいと顔を上げて、わかったよ、心配するな……というふうに苦笑を浮かべるのだった。
だからパウラは、それ以上先には進めず、そこで立ち止まってしまう。兄の背中がみんなの輪の中に加わるのを確かめて、昇りかけたラッタルをひとり引き返す。昇りきってしまえ、と思う時もあるのだが、それをすれば征人に怒られるとわかっているから、みんなの歌声を背に引き返すのだ。
多少の寂しさは我慢しなくてはなるまい。私はローレライ。魔女は長生きするものと、昔から相場が決まっている。
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名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実ひとつ
故郷《ふるさと》の岸を離れて
汝《なれ》はそも波に幾月
旧《もと》の樹は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
我もまた渚《なぎさ》を枕
独り身の浮き寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂い
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
思いやる八重の潮々
いずれの日にか 国に帰らん……
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特別な思い入れでもなければ、長くいて間がもつ場所ではない。ゴミ集めを手伝った後、真史と佑子は早々に砂浜を離れ、路肩に停めた車に戻っていった。健人の姿もいつの間にやら見当たらなくなり、そろそろ夕刻に差しかかる松森岬には、折笠温子と弥生の二人だけが残された。
少し離れた場所でサンダルをぬぎ、寄せては返す波に足を浸した弥生は、こちらを意識の外にして一心に海を見つめている。砂浜に長い影を落とす肢体は本当にすらりとしていて、ジーンズに包まれた足の形などは東洋人とは思えない、と温子はあらためて感心した。この半世紀で日本人の体型もだいぶ変わったとはいえ、ほぼ八頭身に近いスタイルの良さは、ここにきて白人種の血が息を吹き返したかと疑いたくなるほどだ。
姿勢がいいから、特にそう見えるのかもしれない。漫然と潮風に身をさらしているようでいて、弥生はすっとのばした背筋をぴくりとも動かさない。しなやかな足が砂浜に突き立ち、流されまいとする体の左右を風が吹き抜けてゆく。若者らしい率直な光を湛えた目、すっきりとした鼻筋、ぷっくりとしているのに、潔癖そうに引き締められた唇。そのどれもが内面の気性の激しさを伝え、それをどう表現していいのかわからない思い詰めた色も浮かび上がらせて、水平線に挑みかかるような視線を向けている。ぴん、という音が聞こえてきそうな張り詰めように、やれやれ……と温子は何度目かの苦笑をした。
バブルの幻を忘れられず、景気が悪いを常奪句《じょうとうく》にした社会で育ち、ものを考えられる歳になった頃には阪神大震災、新興宗教団体の地下鉄テロ事件。それが弥生の世代が通ってきた道だ。崩壊、終焉の文字が連日新聞を飾り、ワイドショー化した政治はもはや形骸化した言葉すら喋らず、バカバカしい比喩や白痴的な言葉を垂れ流しては、マスコミに取り上げられる回数を競う。護送船団から放り出された金融機関は次々沈没し、企業の終身雇用制度が崩壊して、ある意味では真の自由競争社会が誕生したにもかかわらず、目につくのは癒《いや》されたいばかりで、自分からはなにもしようとしない大人たち……。
二度目の敗戦から、世紀の変わり目を挟んで十年と少し。自由≠使いこなす能力はないと証明した日本社会を見上げ、麻薬さながら携帯電話漬けにされた同世代の者たちを見下ろして、弥生のような気性の少女には、それでも前に進まなければという本能的な渇望があるのだろう。絶望なんかしている暇はない、と全身の細胞が叫び、とにかく走り出そうとする不遜なまでのエネルギー。それはかつて征人を衝き上げ、パウラと呼ばれていた頃の温子を衝き上げた。浅倉大佐という名の死の誘惑を断ち切り、〈伊507〉を前進させた人の根源的な力だ。
もう少し肩の力を抜き、ゆったりとかまえておいた方がいいと思うのだが、いまの弥生に言っても聞かないに違いない。自分や征人だって、あの頃は聞きはしなかった。でたらめに走り回って、あちこちにぶつかって、痛いとしゃがみ込んだ時に声をかけてやればいい。そんなことを考え、あんたはいったいいくつまで生きるつもりなの? と自分を嗤《わら》った温子は、腰に負担をかけないよう、ゆっくり時間をかけて立ち上がった。
黄金色だった空は水平線の方から赤みがかり、海も蒼色を捨てて紺色に染まりつつある。陽が落ちる前に戻らないと、真史たちが心配するだろう。弥生の方をちらと窺い、まだ海に見入っている横顔を確かめた温子は、ここを離れるしめくくりに、最後の恒例行事をやるつもりになった。
靴をぬぎ、真夏の余韻《よいん》に温められた海水に素足を浸ける。踝《くるぶし》のあたりがじんと痺《しび》れ、毛穴が開く感じがすると、懐かしい感応が足もとから這い上がってくるのはすぐだった。温子は波が膝を洗うところまで進み、太平洋の一画に感知≠フ網を広げた。
河川から流れ込む毒の水、汚れた土に埋もれた海底岩礁、年々減ってゆく魚たち。悲しい事々が山積する沿岸の海を離れ、水平線の向こうに感知野を凝らす。歳を取るに従って感知範囲が狭まり、黒い染みが虫食いのように感知野を汚すようになったが、温子には、海の奥底から届く風鳴りに似た波動を感じ取ることができた。
原爆で焼き尽くされた人の悲鳴を感じた時と同じ、感知範囲をはるかに凌駕《りょうが》する場所から届く波動。地球の裏側で、いまこの瞬間にも続いている戦争――これから幾百、幾千の命の絶叫を受け止め、血と重油と硝煙にまみれるかもしれない海が、死の予感に怯《おび》えて発する悲鳴だった。ぞよぞよと不快な波動が肌にまとわりつき、またか……と温子は嘆息した。
悲鳴の聞こえない海はまだ遠い。いつまで聞き続けなければならないのだろう? いつになったら力の論理が鎮まり、目を背けるのでもなく、闇雲《やみくも》に反対するのでもなく、叡知《えいち》をもって争いを抑止する術を人は学ぶのだろう? その設問は、私はいつまで生き続けるのだろう? という自問も連れてきて、体が溶けるような疲労を温子に感じさせた。
もういいよ、パウラ。
いつか聞いた征人の声が遠くに響く。あれはいつだったろう? そう、〈ナーバル〉に乗って〈伊507〉を離れた直後のことだ。すべての乗員が死に絶え、二つに裂けて沈んでゆく〈伊507〉を感知する私に、征人はそう言ってくれた。あの時、私はなんと答えたのだったっけ? 温子は記憶をまさぐろうとして、不意に鮮烈な意志の波動が流れ込んでくるのを知覚した。
それは肌をひりつかせる不快な波動を祓《はら》い、疲れで濁った心を激しく揺り動かして、ほんの一瞬、世界の悲鳴さえ封じ込めてしまったようだった。なんて無遠慮で、生硬で、怖いもの知らずな意志。温子は驚くより呆れて、自分と同じ肌合いを感じさせる意志の源に目を向けた。朧《おぼろ》に戻った視野に弥生の立ち姿が映り、その足首を洗う波が引くと、若い波動もすっと途絶えて潮騒に紛れていった。
戦争や飢餓の闇を知らなければ、敗戦のみじめさも、戦後の澱みも知らない。忘却の淵をあらかじめ持たない若い世代の、このまっさらであっけらかんとした息吹《いぶ》きはどうだろう。未来に絶望し、過去を懐かしむだけの旧の樹を押し退けて、大海に乗り出していこうとする椰子の実の、なんと元気なこと。
そう、絶望している暇なんてない。瓦礫の山の中から使えるものを拾い出し、必要なものを作り直してゆく子供たちの旅が、もうすぐ始まろうとしているのだから。返事を待つ征人に、いいの、と温子は応えた。
子供たちの歌声を、もう少し聞いていたいから……。
征人はなにも言わなかった。温子は両の手のひらで海水をすくい上げ、茜色に染まる空に思いきりよく散らしてみた。飛び散った雫のひとつひとつが太陽の光を受け、清冽な輝きを放って、水平線いっぱいに広がっていった。
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※
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沖を行く貨物船の小さな影を追って、左の方に首をめぐらせた時だった。膝まで海に浸かった祖母の姿が目に入り、折笠弥生はぎょっとなった。
このところ弱ってきてはいるが、老人ボケにかかるような祖母ではない。自殺、の二文字が反射的に浮かび上がり、弥生は思わずそちらに足を向けた。しかし一歩を踏み出したきり、その足が前に進むことはなかった。
腰をのばすのもおぼつかないはずの祖母が、その時はひどく若々しく、すっくと立っていることに気づいたからだ。両手ですくった海水を茜色の空に散らし、楽しげに微笑む祖母の姿を、弥生はしばし棒立ちになって見つめた。
きらきらと光る水滴が全身を包み込み、今日の終わりを告げる光線が凛《りん》とした横顔を黄金色に染めてゆく。弥生の目に、その時の祖母は十七歳の少女のように見えた。
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主要参考文献
世界の艦船増刊 ナチスUボート
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日本潜水艦史
第2次大戦のアメリカ軍艦
第2次大戦のフランス軍艦[#地付き]以上 海人社
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ファイティングシップ・シリーズ13・14
アメリカ海軍潜水艦(1)(2)[#地付き]以上 デルタ出版
連合艦隊 日米開戦編
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水雷戦隊編[#地付き]以上 世界文化社
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日本海軍軍用機集 野原茂
大図解 世界の潜水艦 坂本明[#地付き]以上 グリーンアロー出版社
図説・太平洋戦争 池田清・編
地図で読む世界の歴史・ヒトラーと第三帝国 リチャード・オウヴァリー[#地付き]以上 河出書房新社
戦争の世界史 A・L・サッチャー[#地付き]祥伝社
潜水艦隊 井浦祥二郎[#地付き]朝日ソノラマ
日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン[#地付き]角川書店
伊号三八潜水艦 花井文一[#地付き]元就出版社
日本海軍指揮官総覧 妹尾作太男ほか[#地付き]新人物往来社
潜水艦伊16号通信兵の日誌 石川幸太郎[#地付き]草思社
図解・帝国海軍連合艦隊(改訂版) 橋本純・林譲治
図解・日本陸軍(歩兵編) 田中正人[#地付き]以上 並木書房
第二次大戦海戦事典 福田誠[#地付き]コーエー
壊滅テニアン戦 伊藤孝治[#地付き]旺史社
太平洋戦史シリーズ17 伊号潜水艦[#地付き]学研
日本の海軍兵備再考 兵頭二十八・宗像和広[#地付き]銀河出版
戦後五十年日本の死角 宇野正美[#地付き]光文社
苦難に満ちた工作兵 櫻井光夫[#地付き]ラ・テール出版局
米軍が記録した日本空襲 平塚柾緒[#地付き]草思社
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底本
単行本 講談社刊
二〇〇二年一二月一〇日 第一刷