終戦のローレライ(上)
福井晴敏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)しんと凍《い》てついた空気が、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)〈|海の幽霊《シーゴースト》〉と仇名される
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
ドイツ語のウムラウトは:で、エスツェットはssで代用した。
本文中の《》は〈〉で代用した。
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主要登場人物
絹見《まさみ》真一    戦利潜水艦〈伊507〉艦長。日本海軍少佐。43歳。
高須成美    同艦先任将校兼水雷長。大尉。36歳。
田口徳太郎   同艦掌砲長。兵曹長。42歳。
折笠|征人《ゆきと》    同艦乗務員。上等工作兵。17歳。
清永喜久雄   同艦乗務員。上等工作兵。17歳。
岩村七五郎   同艦機関長。機関大尉。51歳。
木崎茂房    同艦航海長。大尉。37歳。
早川芳栄    同艦乗務員。特殊潜航艇〈海龍〉艇長。中尉。33歳。
小松秀彦    同艦甲板士官。少尉。24歳。
時岡 纏《まとい》    同艦軍医長。軍医大尉。38歳。
フリッツ・
S・エブナー 元ドイツ親衛隊士官。21歳。
カール・
ヤニングス  独潜水艦〈UF4〉艦長。43歳。
スコット・
キャンベル  米潜水艦〈トリガー〉艦長。42歳。
エドワード・
ファレル   同艦副長。35歳。
おケイ     広島の料亭の内芸者。30歳。
大湊三吉    軍令部第三部第五課長。大佐。45歳。
中村政之助   海軍大尉。35歳。
浅倉良橘    軍令部第一部第一課長。大佐。45歳。
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それほど遠くない昔
まだこの国が戦争≠忘れていなかった頃――――
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序 章
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しんと凍《い》てついた空気が、冷たさを感じさせるのか?
内奥《ないおう》の空虚が外に染《し》み出して、空気を凍てつかせるのか?
そんなことを考え、思考中枢がちりちりと圧迫されるのを知覚した時には、なにを考えていたのかも思い出せない空白が「彼女」を支配した。
ずっしりと押し包む水圧をかき分けて、周囲を見回してみる。切り立った岩礁《がんしょう》が前後左右にそそり立ち、粉雪に似た微生物の死骸がその狭間《はざま》に降り積もってゆく。直径十メートルから二十メートル程度、高さは三、四十メートルに及ぶ岩礁の群れは、ひとつとして同じもののない奇怪な形を十重二十重《とえはたえ》に連ね、不ぞろいな針山の地形を闇の底に広げている。数十億の年月をかけて岩肌を撫《な》で、岩礁の形を削り出してきた潮流は、そこここで響きあって乱流を生じさせているのだろう。場所によっては微生物の死骸が音もなく渦《うず》を巻き、吹雪《ふぶき》のように水圧の層をかき回す光景があった。
知らない海だ。岩礁にひっそりと息づくサンゴやイソギンチャク、時おり行き過ぎる魚の動きから、「彼女」はそう再確認した。分厚い海水の被膜が地上の光線を遮《さえぎ》り、すべてを常闇《とこやみ》に溶かし込んだ海底であっても、「彼女」は正確に周囲の事物を観察することができた。深さによって異なる水温は色の違いになって認識され、生物の息吹《いぶ》きは透明な呟《つぶや》きになって感知野《かんちや》を騒がせる。それは気候や海流、海底地形のありようひとつで異なる相を示し、世界中どこへ行っても飽きなかったが、いま「彼女」が感じているのは新しい環境に対する興味ではなく、既視感ともつかないある種の懐《なつ》かしさだった。
触れれば切れそうな岩礁の岩肌も、温暖な海流が流れ込む海面近くの層も、なにかしら馴染《なじ》んだ感触を抱かせてやまない。知らない海のはずなのに、なぜだろう? 考えようとして、再び圧迫される感覚を味わった「彼女」は、じっと留まっているからいけないのだ、と微《かす》かにいら立った。
岩礁の狭間に身をひそめ、息を殺し始めてから数時間。停滞は、己を包む闇と静けさを否応《いやおう》なく意識させる。日頃は無視している冷たさを思い出させて、無為な思考ばかりを加速させる。一刻も早くここを抜け出し、自由に泳ぎ回りたいという衝動が全身を貰いたが、それは「彼女」の意志でどうにかできる問題ではなかった。自分で自分の行く先を定める術《すべ》は「彼女」にはなく、たとえできたとしても、いまは身をひそめていなければならない理由があった。
岩礁の上をゆったりと回遊する、黒い二つの影。二軸のスクリュープロペラで無遠慮に潮をかき乱し、全長九十メートルを超える巨体を推進させる二つの物体が、「彼女」を岩礁の狭間に押し留めている理由だった。細身の魚と見えなくもないそれらは、互いに一定の距離を取り、大きな円を描いて、岩礁に腹をこすりつけないぎりぎりの深さを泳ぎ回っている。キーン、キーンと甲高《かんだか》い音を立てる金属の鳴き声はやみ、いまは鋼鉄の皮膚の内側で振動する機関の音、プロペラが水を切る音を響かせるのみだが、抜け目なく聞き耳を立てる気配は伝わってくる。外敵を警戒する海棲生物たちが発するものとは異なる、もっと雑で傲慢《ごうまん》な殺気は、この常闇の世界にいるべきではない生き物――人間と、彼らが造り出した機械≠ェ発する独特のものだ。
それは頭上をかすめるたびに「彼女」を緊張させ、恐怖を呼び起こしさえするのだが、長年の経験で身に備わった神経が反応しているだけのことで、「彼女」の意識の全部を支配するほどのものではなかった。こちらを捜し回る二つの物体の動きを注意深く観察する一方、「彼女」は感知≠フ腕をのばして、物体の硬い殻《から》にそっと触れてみた。
無数の注排水口を穿《うが》った滑《なめ》らかな外板の下に、重油や真水を収めたタンクがあり、耐圧殻《たいあつこく》がある。その内側では、きっと百人を下らない人間たちが息づいており、彼らはそれぞれ与えられた仕事をこなし、この巨大な機械を操《あやつ》っている。誰もが見えない敵≠ヨの恐怖を押し隠して、人が覗《のぞ》くにはあまりにも溟《くら》く、あまりにも静かなこの海の底を、手探りで這《は》い進んでいるのに違いなかった。
そう意識するのは辛く、苦痛という封印した言葉をよみがえらせもしたが、「彼女」は物体の中にある人の存在を意識し続けた。無意味であっても、そうすることが己を維持することに繋《つな》がる。意識するのをやめた瞬間、自分はこの溟い虚無に呑み込まれ、真実の空虚に帰するだろうという本能的な怖れがあった。
もしくは、人の造った機械と同じ存在……無心に水をかくスクリュープロペラや、金属のソプラノを奏でる探信儀と同等の存在に成り果ててしまう。それは恐ろしいし、申しわけないことだと感じる思考の揺らぎが、「彼女」に物体の中の命を意識させるのだった。
誰に、なにに対して申しわけないと感じるのか? いつもの自問にとらわれかけて、圧迫が勢いを増すのを知覚した「彼女」は、思考を閉じた。
意識せずとも、じきに訪れる嫌な時間がすべてを明らかにする。物体の中に在る命も、なにもできない己の無力も。その瞬間の恐怖と刻苦を予感して、「彼女」は息を吐いた。
冷たい空気を白く濁らせた吐息は、潮の流れを重く揺らめかせ、「彼女」の手のうちにある二つの物体――敵艦と規定された潜水艦に吹きかかった。事実がどうであれ、「彼女」にはそのように知覚された。
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不意に冷たい息を耳元に吹きかけられ、ハーブ・アディは思わずレシーバーに手をやった。
墓穴の下で死者がため息をついたような、毒蛇が威嚇《いかく》の声を上げたような、全身を粟立《あわだ》たせずにはおかない吐息――いや、音か? 水中聴音器《パッシブ・ソナー》と繋がったヘッドフォン型のレシーバーを持ち上げ、耳にへばりついた不快な感触を払おうとしたアディは、傍《かたわ》らに立つ水測長が身じろぎする気配を察して凍りついた。
水中探信儀《アクティブ・ソナー》の管制盤に毛むくじゃらの腕を預けて、水測長はじろりとアディを睨《にら》みつけてきた。赤色灯の陰鬱《いんうつ》な光とあいまって、鬼兵曹《おにへいそう》の典型と言えるこわもてがほとんど地獄の使者の様相を帯び、アディは慌ててレシーバーから手を離した。水測長はなおもこちらを睨《にら》みつけていたが、アディが聴音に意識を集中するよう努めると、ふんと鼻息をついて方位指示盤に目を戻した。
年齢も体積もアディの倍近い水測長は、予備のレシーバーをつけてパッシブ・ソナーが拾う音に聞き入り、新米ソナー員の一挙手一投足に目を光らせている。アディが聞こえてしかるべき音を聞き逃しでもしたら、この場では無事に済んでも、後で嫌というほど尻を蹴飛《けと》ばされる羽目になるのは必至。まして任務の途中にレシーバーを外したらどうなるか、想像するだにおぞましい話だった。〈ボーンフィッシュ〉に乗務する水兵が怖れるものはいくつかあるが、水測長の悪魔的に鋭いつま先は二番目に恐ろしい。一番目はもちろん、背後で魚雷発射管制盤の計器を注視している最先任上等兵曹《チーフ》の、ほうれんそうを食ったポパイ並みに硬い拳《こぶし》だ。
それに較べれば、耳元にへばりつく不快な感触などどうということはない。アディはパッシブ・ソナーが捉《とら》える音に耳を澄まし、せせらぎというより、壁ごしに聞く配水管の音に近い海流音の中に敵の気配を探った。ここでミスを犯せば、チーフたちを怖いと感じることすらできなくなる。宗教に近い厳格さで艦内の規律に盲従する日々、それ自体が消えてなくなる結果になりかねない。実戦――それもとりわけ厄介《やっかい》な敵を相手にしている艦の現状を噛《か》み締《し》め、全身を耳にして外界の状況を探ろうとしたが、音とも吐息ともつかない感触はいつまでも耳元にこびりつき、神経をざわめかせ続けた。
いったいなんだったのだろう。水測長には聞こえなかったのだろうか? 空耳にしては生々しすぎる、奇妙に立体的な音。ひょっとしたら、足もとにひそんでいる魔物の囁《ささや》き声が……。
「ソナー。〈トリガー〉に動きは?」
低く押し殺した声が司令塔の空気を揺らし、アディは顔を上げた。奥行き二十フィート(約六メートル)少し、幅に至っては七フィート(約二メートル)もない司令塔には、チーフや水測長の他にも航海長、副長を務める水雷長らが立錐《りっすい》の余地もなく立っている。声の主は狭苦しいトンネルにも似た空間の中ほどに立ち、カーキ色の制服の背中に赤色灯の明かりを受けていた。
落ち着いた声音とは裏腹に、艦長の背中には焦《あせ》りといら立ちの色がある。微動だにしないうしろ姿を見、一斉にこちらを注視した副長らの視線を受け止めたアディは、「変わりません」と少しうわずった声で答えた。
「方位二四一ないし二四二。距離、速度変わらず」
その声は、内殻《ないこく》の形状に沿って弧を描く天井に跳ね返り、操舵室に繋がる床のハッチに抜けて、無音潜航を厳命された艦内中に響き渡ったのではないかと思えた。緊張を常態にした副長らの無表情がわずかに揺らぎ、赤色灯に染まった目が右舷《うげん》側の壁に向けられる。内殻の壁をすり抜けた先には、外殻《がいこく》の鉄皮があり、艦を包む分厚い海水の膜があり、約二マイル(三・二キロメートル)の距離をあけて潜航する〈トリガー〉の姿がある。もっとも、仮に窓があったとしても、深度百七十フィート(約五十メートル)の海中で僚艦《りょうかん》の姿を見つけるのは難しい。潜航中は目を塞《ふさ》がれた状態になる潜水艦にとって、外界の状況を探る感覚器官はソナーをおいて他にない。海水と艦内の気温差で汗をかいた内殻の壁と、その表面に密生するパイプやダクト、各種バルブの放列。いくら目を凝《こ》らしたところで、司令塔で望める風景はその程度のものだ。
他に見えるものと言えば、狭い空間をさらに圧迫して詰め込まれた索敵《さくてき》、攻撃、通信に関する各種装置。床から天井を貫《つらぬ》き、柱のように屹立《きつりつ》する二本の潜望鏡《ペリスコープ》――艦首側にあるのが攻撃用スコープで、約五十センチ後方に並び立つのが夜間及び航行用スコープ。使用時には油圧駆動によって上昇し、艦長の目の高さに接眼部《アイピース》を静止させるペリスコープは、海面下百七十フィートを潜航中のいまは無用の長物でしかなく、ひと抱えもある銀色の心軸《シャフト》に赤色灯の輝きを反射させるばかりだ。その中、艦長は攻撃用スコープのシャフトに手をつき、大小のバルブやボタン、錯綜《さくそう》するパイプ類に覆われた前方の壁をじっと見つめており、副長らも汗と垢《あか》にまみれた顔をどこか一点に向けて、この拷問《ごうもん》に等しい時間が過ぎるのをただ待っている。チーフや水測長の顔にも疲労と焦りが沁《し》み出して、突けば破裂しそうな空気が司令塔に充満していた。
ほんの数時間前まではこうではなかった。二十歳に満たない新米水測員の気を引き締め、身を委《ゆだ》ねていればよいと思わせる士気の高揚《こうよう》が艦内にはあった。新米を一人前に育て上げるには、ベテランのやるべき仕事をやらせるしかない。その期待に全力で応えるのが自分たち新米水兵の役目で、新米がドジを踏む不安に耐え、うしろで目を光らせるのがチーフたち下士官の役目。そして下士官の判断を信じ、たとえ取り返しのつかない事態になったとしても、甘受《かんじゅ》してみせるのが艦長たち士官の役目。合衆国海軍の伝統を墨守《ぼくしゅ》し、初の実戦配置に抜擢《ばってき》されたアディを受け入れる余裕があった。
敵艦に袋叩きにされ、艦隊司令部から戦没と誤認されるほどの痛手を被《こうむ》りながらも、九死に一生を得て戦線に復帰することができた。合衆国海軍太平洋艦隊潜水部隊所属、ガトー級潜水艦SS−223〈ボーンフィッシュ〉には、他の艦に勝るとも劣らない強い結束力がある。死の淵《ふち》から生還した自信、どんな困難にも打ち勝てる精神力が備わっている……はずだった。
それが四時間ほど前、確実に追い詰めたと思われた敵≠見失い、この持久戦が開始された時から、なにかが狂い始めた。誰もがいら立ちを露《あらわ》にし、内面の焦りを表情に滲《にじ》ませるようになった。バッテリーの節約で空調に電力が回らず、艦内温度が摂氏三十度を軽く超えているからではない。空気中の炭酸ガス濃度が刻々と上がり、息苦しさが喉輪《のどわ》を締めつけているせいでもなかった。その程度の苦しみは、ひと月前の戦闘でまる三日間海底に閉じ込められ、窒息の恐怖にさらされた絶望に較べればなんでもない。いま〈ボーンフィッシュ〉を支配しているのは、その時とは種類の異なる恐怖。常識では推《お》し量《はか》れない現実、想像の及ばない未知との対峙《たいじ》がもたらす、もっと根源的な恐怖だ。
仇名《あだな》のせいだ、とアディは内心に毒づいた。あんな仇名で呼ばれる敵≠ェ、煙のように姿を消したという話はできすぎている。〈トリガー〉の連中はどう思っているのだろう? アディはレシーバーの海流書に意識を凝らし、微《かす》かな不協和音になって聞こえる僚艦のスクリュー音を聞き取ろうとした。〈ボーンフィッシュ〉同様、ガトー級に分類される〈トリガー〉は、直径二マイルの円を描いて粛々《しゅくしゅく》と潜航している。同じ円周上を走る〈ボーンフィッシュ〉とともに、円内の捜索海域にパッシブ・ソナーの聞き耳を立て、敵≠ェ現れたら即座に挟撃《きょうげき》態勢に入る構えだった。
噂では、〈トリガー〉も一度は戦没認定が下された艦だという。単独での隠密行動が基本の上、当たりどころが悪ければ簡単に沈没してしまう潜水艦は、交信が数日間途絶えただけで戦没と認定されることがある。当然、誤認される場合もあり、〈トリガー〉も後から戦没認定を覆《くつがえ》されたのだろうが、だとしたら、この不可解な作戦に参加した潜水艦は、どちらも一度は死んだ′o験を持つ艦ということに……。
冗談じゃない。敵≠ノ冠された仇名をその事実に重ね合わせたアディは、ふと浮かび上がった想像を慌てて退けた。いくらなんでもバカげている。〈ボーンフィッシュ〉がこの作戦に加えられたのは、たまたま近くの海域にいたからに過ぎない。たとえ未知の兵装を備えていても、敵≠烽オょせんは潜水艦。決して魔物というわけではない。さっさと片付けて、今度こそ母港のパールハーバーに帰るだけだ。二ヵ月近く踏みしめていない大地の感触、草木の匂いを記憶の中にまさぐり、アディはつかの間、悪臭と熱気が立ちこめる司令塔から心を遊離させた。
帰港したら、真っ先にポートランドにいる母に手紙を出そう。母さん、戦死したはずの息子から手紙が届いたら、きっと飛び上がって喜ぶ……いや、あまり心臓が丈夫じゃないから、驚きすぎてどうにかなってしまうかもしれない。やっぱり休暇申請を出して直接会いにいった方がいい。この戦争もじきに終わるから、一週間ぐらいの休暇はもらえるだろう。そうしたらしばらくぶりに本土へ、ポートランドへ帰ろう。その頃、オレゴン州の雄大な自然は秋の黄金《こがね》色に包まれていて――。
「……どこに消えやがった」
ぽつりと漏《も》れた艦長の呟きが、アディの心を汗臭い肉体に引き戻した。副長と航海長がぎょっとした顔を振り向け、チーフもすっと細くした目を艦長に向ける。一同の視線に気づく様子もなく、じっと正面を見据えて動かない艦長の背中を確かめたアディは、水測長の顔に目を移した。気にするな、というふうに軽く肩をすくめた水測長は、一瞬だけレシーバーを外し、短く刈り込んだ灰色の頭をごしりとタオルで拭《ぬぐ》ってから、表情を消した顔を前方に向け直した。まずいな……と語っているその目に、アディは胸の重石《おもし》がまたひとつ増える感覚を味わった。
「大方、沈底してがたがた震えとるんでしょう」
軽く咳払《せきばら》いした副長が、ささくれ立った空気を和《なご》ませるのどかな口調で言う。「〈トリガー〉のキャンベル艦長も、いま頃はさぞ焦《じ》れているでしょうな」
艦長の不安と焦りは、船体上面に瘤《こぶ》のように突き出ているこの司令塔だけでなく、出入りの伝令の口を媒介《ばいかい》にして艦内中に伝染する危険性がある。冗談めかした副長の声に、失言を諫《いさ》める雰囲気を感じ取ったらしい艦長は、苦笑ともつかない顔をわずかに振り向けたが、
「しかし、このあたりは岩礁地帯です。敵≠ェ沈底できたとは思えません」
航海長が生真面目に疑義を挟み、その顔から笑みを拭《ぬぐ》い去った。副長が反論の口を開くより先に、「自殺行為ですよ。潜水艦でこの岩礁の中に入り込むなんて」と航海長は重ねる。
「目隠しで剣の林の中を進むようなものです。アクティブ・ソナーを全開にしたって、岩礁の間の平地にもぐり込めるとは思えない。第一、敵≠ヘまだ一度もアクティブ・ソナーを打っていないんですよ?」
「なら海中に留まって、無音潜航しているのかもしれん。機関を停止してな。日本海軍《ジャップ》の潜水艦には、そういう機能を備えた艦もあると聞く」
潜航中の潜水艦は、絶えず行足《ゆきあし》(慣性)の力を借りて船体のバランスを維持する。前後左右の重量を完全に均一化しない限り、静止した途端に一方の重みに引きずられて転覆《てんぷく》してしまうからで、海中で完全に静止するためには、各部タンクの注排水を自動的に行う装置が不可欠になる。ジャップにそんな技術があるとは初耳だったが、副長が口から出任せを言ったとも思えなかった。
「では、敵≠ヘジャップだと?」と返した航海長の横顔を、アディは息を詰めて見守った。
「わからん。だが可能性はある。よもやナチの亡霊が太平洋をうろついているということもあるまい」
艦長が代わりに答える。亡霊という一語が胸に突き立ち、アディはびくりと体を震わせてしまった。副長が小さく息を呑み、艦長自身も口もとをしかめる中、「……わかりませんよ」と誰にともなく呟いた航海長は、昏《くら》い目を壁の一点に向けた。
「相手は幽霊《ゴースト》≠セって言うんですから」
艦長の拳がぐっと握りしめられ、硬い怒りの色が目に宿ったが、それだけだった。艦長は再び背を向け、副長は鼻息をついて腕を組む。航海長は一点に固定した目を動かさず、さらに重くなった空気に耐えかねたのか、天井に結露した滴《しずく》がぽとりと床に垂れた。
チーフと水測長は、無言でそれぞれの管制盤に向き合っている。こういう時、彼ら下士官は迂闊《うかつ》に士官の間に割って入ることはしない。兵員室や食堂では率先して野卑《やひ》な言葉を吐き出す口を真一文字に引き締め、士官と下士官を隔てる見えない線から一歩さがって、それが義務であるかのように沈黙を守り通すものだが、いま彼らが口を塞いでいるのは、下士官としての礼節からではなかった。ゴースト≠ニいう言葉が重圧になり、その肩にのしかかっている。士官より豊富な経験を持つ彼らにさえ理解できない現実、未知の敵≠ノ対する妄想が膨《ふく》らんで、息をひそめずにはいられないのに違いなかった。
そう、いまは息をひそめ、沈黙を守るのが肝要だ。アディは自分に言い聞かせて、胸中の不安を脇に押し退けた。アクティブ・ソナーを作動させ、探信音波を四方に放射すれば、反射波の計測から敵≠フ位置を割り出せるかもしれない。しかしそれは、敵≠ノより早くこちらの所在を教える結果になってしまう。敵≠ェこちらより有利な射点に位置していたら、問答無用で魚雷を叩き込まれる可能性だってある。一分、一秒でも長く沈黙に耐えられた方が勝つ。潜水艦における持久戦の、それが鉄則だった。
だが――そう理性が断じる一方で、不安は際限なく染み出してくる。これはそういった通常の戦訓が通用する事態ではない。敵≠ヘ、きっとすでにこちらの位置を割り出している。岩礁の底に身を横たえ、その鋭い牙で〈ボーンフィッシュ〉を噛み砕く時期を窺っているのだ。たとえアクティブ・ソナーを使っても、探信音波はその体をすり抜けてしまうだろう。なぜなら敵≠ヘこの世の存在ではないからだ。
愚かな妄想だとわかっている。しかしそうでなければ敵≠ヘ、〈|海の幽霊《シーゴースト》〉と仇名される敵潜水艦は、いったいどうやってその姿を隠しおおせたというのだ……?
――連中は、腐った魚の死体から出るガスを燃料にしてんだ。いちいち面倒な補給なんかする必要ないんだよ。
――魚雷や弾薬はどうする?
――沈めた艦から奪うんだろ。連中にとっ捕まりそうになって、命からがら逃げ出してきたオランダの船員の話じゃ、乗組員はみんな骸骨《がいこつ》だったって言うぜ。潜舵《せんだ》はクジラのヒレみたいにぬめぬめしてて、手すりとか細かい艤装《ぎそう》部品も、みんな骨でできてたんだってよ……。
水雷科員のジャックからそんな与太話《よたばなし》を聞いたのは、いつのことだったろう? 少なくとも、太平洋艦隊司令部から新任務を受領《じゅりょう》した後であることは間違いない。
――本艦はパールハーバーへの帰港を延期し、ツシマ沖にて潜伏待機。東シナ海で作戦行動中のSS−237〈トリガー〉と連携《れんけい》し、特殊任務を実施する。任務内容は〈シーゴースト〉の追尾、拿捕《だほ》。不可能な場合は殲滅《せんめつ》することにある。
六日前、艦長の口から任務内容が通達されると、〈ボーンフィッシュ〉の乗員たちの反応ははっきり二種顔にわかれた。開いた口が塞がらないという顔をする者と、唇の端に皮相な笑みを浮かべ、顔をうつむける者。アデイは前者だった。その後、待ち望んでいた帰港がお預けになった不満と絶望を呑み込み、それぞれの腹の中で消化する沈黙の時間が訪れ、冗談だろう? と誰かの吐き捨てた声が奇妙に大きく響いた。
まったくだ、とアディも思った。水上艦艇より複雑巧緻な潜水艦の操作には、各分野の専門家が求められる。だから召集兵はいないし、被る危険に見合うかどうかは別にして、給料も他の兵科より高い。ここにいるのは全員、胸の潜水艦徽章《ドルフィン・マーク》を手に入れるために数次の筆記試験、口頭試験をくぐり抜けてきた者たちで、そのぶん自分の仕事に誇りも持っている。半年前にドルフィン・マークを受け取ったアディも、どんな任務でも文句を言わずにやり遂げる覚悟でいたが、今度の任務はあまりにも度を越していた。
今回の出撃のそもそもの目的は、日本海の海上交通路を破壊することにあった。機雷原で南北の入口ががっちり閉ざされた日本海に侵入し、おおいに暴れ回って、もはや庭先の泡も安全ではなくなった現実を日本軍に知らしめようというものだ。
とうの昔にまともな艦隊戦力を失い、太平洋における覇権《はけん》を喪失した日本にとって、日本海は満洲と朝鮮を繋ぐ貴重な海上交通路だ。そこを遮断すれば、日本は海外物資の輸入がいっさいできなくなる。つまり兵糧《ひょうろう》攻めで日本の喉頸《のどくび》を締め上げ、降伏に導くというのが作戦の主旨だった。
今年、一九四五年の五月にドイツが無条件降伏して以来、連合軍が戦うべき相手は極東の島国ひとつに限定された。その戦略は、すでに「どう戦うか」から「どう勝つか」に転換している。事実、日本の物資窮乏は後がないところまできており、日本海においては筏《いかだ》に物資を載せ、海流を利用して輸送するなどという方法が大真面目に考えられているのだという。到底、戦争を継続できる状態ではなかった。
――ジャップはなんで降参しないんだ?
バーネイ作戦と名づけられた今回の日本海侵入作戦が、ようはほとんどだめ押しに近い兵糧攻めだと知ると、〈ボーンフィッシュ〉の乗員たちは一様にそんな疑問を口にした。無論、答えられる者は誰もいなかった。勝ち目のない戦《いくさ》であっても、捕虜《ほりょ》になることを拒み、餓死するまで戦い、カミカゼ・アタックを仕掛け、軍民一体となって一億玉砕を叫ぶ。物理的な距離以上の隔《へだ》たりが、日本人とアメリカ人の間にはあるらしいと想像するのがせいぜいだった。わからないことを考えても始まらないとばかり、「日本は何月何日に降伏するか」を当てる賭けが催《もよお》され、アディは自分の誕生日の九月八日に一ドルを賭けた。もっとも人気が集中したのは七月で、大穴は十二月だった。
掃海《そうかい》作業用のFMソナーを搭載した〈ボーンフィッシュ〉は、五月三十日、〈タニイ〉〈スケート〉とともにパールハーバーを出港。他にも三隻からなる戦隊二つがバーネイ作戦に参加し、六月四日の早朝には、合計九隻の合衆国海軍潜水艦が日本海への侵入を果たした。機雷原が敷設《ふせつ》されたツシマ海峡さえ無事に突破すれば、そこはシーズン真っ盛りの猟場も同然だった。三つの戦隊はおのおのの担当海区で一斉に攻撃を開始し、〈ボーンフィッシュ〉の戦隊は合わせて十四隻もの商船を沈めた。
百隻を超える合衆国海軍の潜水艦の中にあって、二十二位の撃沈数を誇る〈ボーンフィッシュ〉としては、まずまずの戦果と言えた。後は所定の海区で再集合を果たし、来た時とは反対にソーヤ海峡を抜けて、北回りのコースでパールハーバーに帰投《きとう》すれば作戦は終了。アディたちの懸案事項は、誰が賭け金をものにするかということだけになった。が、不運はそういう時にこそ襲いかかってくる。
六月十八日、トヤマ湾で五千トン級の貨物船を撃沈した〈ボーンフィッシュ〉は、日本海軍の海防艦三隻に発見され、袋叩きの憂き目にあった。ニーガタ、マイゾルに並ぶ主要商業港であるトヤマ湾は、日本の中央からフックのように突き出たノト半島の内側にあり、そのフックの付け根の部分に追い込まれた〈ボーンフィッシュ〉は、まる二日にわたって爆雷攻撃の洗礼を浴びることになったのだ。
船体が致命傷を受けずに済んだのは、奇跡という他なかった。日本の海防艦のソナーがお粗末な代物《しろもの》だったことも、〈ボーンフィッシュ〉の生残に一役買ってくれた。〈ボーンフィッシュ〉は、そうした状況に陥った潜水艦が必ず考えること――燃料タンクから重油を流し、備品や毛布などを魚雷管から射出して、沈没したように見せかける――をやり、二日二晩、冷たい海の底で息をひそめて、どうにか難を逃れた。
頭上を騒がせる海防艦が撃沈を確信して去っていった時、〈ボーンフィッシュ〉は全長三百十フィート(約九五メートル)、幅三十フィート(約九メートル)足らずのただの鉄管になっていた。これに元通り潜水艦の機能を復活させるには、恐ろしいほどの忍耐と体力が要求される修理作業が不可欠だった。窒息と浸水の恐怖にさらされ続けた三日間の後、〈ボーンフィッシュ〉は辛《かろ》うじて浮上するだけの力を取り戻した。乗員たちを頭痛で苛《さいな》んできた炭酸ガスが吐き出され、代わりに新鮮な空気が艦内に入ってくると、誰もが酸欠気味の魚さながら口をぱくぱくさせ、一片でも余分な酸素を肺に取り込もうとしたものだった。
ほぼ一週間ぶりに外気の匂いを嗅《か》いだアディも、思うぞんぶん深呼吸をした。生まれて初めて、真剣に神に感謝の言葉を捧げもした。そんな騒ぎにひとり背を向けたのはチーフで、ともすれば絶望にとらわれて身動きできなくなる七十五人の乗員を叱咤《しった》し、勇気づけ、先頭になって修理作業を指揮し続けた下士官の長は、艦の浮上を確かめるとトイレにこもってしまっていた。
ポンプの故障で排泄物が溜《たま》りっぱなしになったトイレは、油とアンモニア臭にまみれた艦内でも、もっとも空気の汚れている場所だった。気になったアディは、艦橋《かんきょう》に上がって外気に当たる順番待ちをする間に、こっそりトイレの前に近づいてみた。低い、押し殺した嗚咽《おえつ》がドアごしに聞こえ、思わず息を呑んだ途端、ドアが開いてチーフと正面から顔を合わせた。
いかつい髭面《ひげづら》はいつもと変わらず、怒鳴るのを商売にしている男の無愛想を張りつかせていたが、赤く充血した目には見たことのない脆《もろ》い光があった。どやされると覚悟したアディを見下ろし、メタンでな、と充血した目を指さしたチーフは、アディの肩をぽんと叩いて司令塔の方に歩いていった。その瞬間、意志とは関わりなく涙が溢《あふ》れ出し、今度はアディがトイレの中で嗚咽を噛み殺さなければならなくなった。
僚艦が先に脱出した以上、ソーヤ海峡はすでに張られている可能性が高いので、日本海を南下してツシマ海峡を抜ける針路が選ばれた。内海同然の日本海を荒らされた日本軍の衝撃は大きかったらしく、なけなしの偵察機と海防艦が総出で哨戒《しょうかい》活動を行っていたために、〈ボーンフィッシュ〉は夜間、バッテリーの充電で浮上する以外はひたすら潜航を強いられた。敵艦のパトロールを警戒しつつ、這うような速度でじぐざぐに進んだ結果、ツシマ海峡を抜けるまでに三週間近くの時間が経過していた。
再び東シナ海を目前にした日は、全乗員にケーキが振る舞われた。烹炊所《ほうすいじょ》備え付けのケーキ・オーブンで焼かれた、烹炊長自慢の一品だった。ほどなく逆探を恐れて封鎖中だった無線連絡も再開され、この三週間の間に、〈ボーンフィッシュ〉は司令部から戦没認定を下されていたことが明らかになった。みんなは笑ったが、アディは複雑な気分だった。戦死の報《しら》せを受け取った母の気持ちを思うと、ショックで寝込んだりしてはいないかと気が気でなかった。夫を病気で失い、長男も戦争で失った母にとって、残された家族は自分しかいないのだから……。
だが苛酷《かこく》な数週間の反動のように笑い、冗談を飛ばしあう仲間たちの中にいれば、ここで心配してもしょうがないという気分になれた。「死んだはずの夫が帰ってきて困惑する妻と、彼女の新しいボーイフレンドのやりとり」を一人芝居で演じたジャックの姿に、アディも久しぶりに腹の底から笑った。艦隊司令部から下された新任務は、その寸劇のクライマックスを中断する格好で通達された。
冷や水をかけられる、とはこのことだった。しかもその内容は、〈シーゴースト〉の拿捕、もしくは殲滅だという。九死に一生という表現ではまだ足らない、極限の危機を脱したばかりの〈ボーンフィッシュ〉の乗員たちは、艦隊司令部の正気を疑い、驚き、呆れ、怒りを噛み殺した。そして記憶の底に埋もれかかった〈シーゴースト〉という名前を引っ張り出し、各人が聞き知った噂を付け合わせて、不可解な任務の真意を推測しあった。
〈シーゴースト〉の名が初めて海軍機関紙に掲載されたのは、一九四三年の暮れ。『潜水戦艦あらわる?』の見出しの下に、モロッコからアメリカ本土に向かう途中、大西洋上で全滅した輸送船団の経緯が記され、文中に一ヵ所だけシーゴーストという言葉が使われていた。一面では日本の支配下にあったマキン島、タラワ島の奪還が報道され、前年から始まった対日攻勢の戦果を華々しく伝える一方、二面ではソ連軍にキエフを奪還されたドイツ軍の動向が取り上げられて、ヨーロッパ戦線で敗退を重ねるナチの消耗《しょうもう》ぶりが風刺画を交えて伝えられる。そんな時期の機関紙に、紙面の穴埋めのように載せられた小さな記事だった。
一時の勢いはなくなったとはいえ、大西洋にはドイツ海軍のUボートが多数潜伏している。輸送船団襲撃の報道はさほど珍しいものではなかったが、船団護衛に就《つ》いていた駆逐艦の生き残り乗員の証言が、報道班の耳目《じもく》を集めることになった。曰《いわ》く、『海の中から戦艦が現れた』というのだ。
魚雷の攻撃を受けたかと思うと、巡洋艦《じゅんようかん》のそれに匹敵する巨大な連装砲を備えた艦が海中から現れ、至近距離からの砲撃で船団にとどめを刺した。虐殺《ぎゃくさつ》を終えた艦は悠々とその場を離れ、闇夜の海面にその姿を沈めていった。灼《や》けた二門の砲身は、波を割って海面下に没する時、じゅっと白い水蒸気を立ち昇らせた――。
この突拍子もない目撃談が、ひとりではなく、複数の人間から取れたことが、〈シーゴースト〉の存在に信憑性《しんぴょうせい》を与えた。巨大な主砲を備えた国籍不明の潜水戦艦=B無論、連合国側にそのような艦艇は存在せず、ドイツや日本を見渡しても該当する潜水艦は確認されていない。過去、イギリスやフランスの潜水艦の中には、大口径の備砲が施された艦もあったそうだが、それらは大艦巨砲主義の終焉《しゅうえん》とともに戦場から消え去り、いまは往時の写真と図面が残るのみだという。
電波探信儀《レーダー》とソナーの発達によって接敵が困難になり、水上砲戦が事実上不可能になった昨今、いったいどこの国の何者が、近代海戦の常識を無視した異形《いぎょう》の潜水艦を造り上げ、操《あやつ》っているのか。しかもそれは、ソナーや爆雷などの対潜装備を充実させた駆逐艦の防御網を打ち破り、雷撃と砲撃の二段構えで、三隻の駆逐艦を含む輸送船団をまるごと海の藻屑《もくず》に変えたのだ。
その後、世界中の海で同様の事件が三度、四度と重なり、ついに海軍作戦本部長が調査を開始するとの談話を発表した。ドイツにしろ日本にしろ、大洋を隔《へだ》てた国家を相手に戦争をする以上、大規模兵力の移動と補給物資の輸送は艦艇に頼らざるを得ない。海中深く忍び寄り、どこからともなく必殺の魚雷を放ってくる潜水艦は、その艦艇にとって最大の脅威となる。大戦|劈頭《へきとう》、大西洋の海上交通路をさんざんUボートに荒らされた合衆国海軍は、その経験から潜水艦対策に重きを置き、対潜戦闘分野においてかなりの自信を抱くまでになっていたから、〈シーゴースト〉の一件に蟻《あり》の一穴《いっけつ》に似た恐怖を感じたのだろう。まして当時は、ドイツ本土への直接進攻を目指すオーバーロード作戦を間近に控え、中部太平洋を主攻軸とする対日戦も佳境《かきょう》に入っていた時だ。
アディたちにしてみれば、そうした上層部の思惑《おもわく》は酒のつまみ程度の価値しかなく、今度はインド洋で〈シーゴースト〉が目撃された、深海探査艇を用いて〈シーゴースト〉に沈められた艦船の調査が行われた……等々の報道を面白半分に読み、尾ひれのついた噂話を吹聴《ふいちょう》しあっては、好き勝手に憶測を並べるだけだった。一時は一般紙も取り上げる騒ぎになったが、ノルマンディ上陸を皮切りにドイツ本土攻略戦が本格化すると、どの新聞も謎の潜水艦に紙面を割《さ》く余裕はなくなった。作戦本部の調査活動も遅々として進まなかった。〈シーゴースト〉の他にも日独の潜水艦が暴れ回り、輸送船団襲撃の火の手をあちこちに上げていた当時、実在も怪しい潜水艦の動向を調査せよというのは、どだい無理な注文だった。
そして一九四四年十一月、マリアナ諸島から発進したB−29がトーキョーを初空襲した日、〈シーゴースト〉の存在は公式に否定された。これまでの調査から実在を信じるに足りる証拠は得られず……と続く海軍作戦本部長の談話を、アディはろくに読みもしなかった。その頃には〈シーゴースト〉の話題はすっかり賞味期限が切れ、兵員室の寝物語にもならなくなっていたからだ。よもや半年後、自分たちが〈シーゴースト〉討伐《とうばつ》の任に就くなど想像もしていなかったし、実際に命令を受領した後も、まったく現実味が感じられないというのが本当のところだった。
とはいえ、与えられた命令は遂行《すいこう》するのが軍人の務めであることに変わりはない。文句のある奴はおれに言え、と暗黙のうちに語ったチーフの目を前に、逆らう勇気のある者もいなかった。結局、誰ひとり司令部の真意を理解できないまま、〈ボーンフィッシュ〉の乗員たちは新任務の準備に取りかかった。
残り三発しかない魚雷を、確実に駛走《しそう》させるための整備――アメリカ海軍の魚雷の故障頻度の高さには定評がある。射出した魚雷が戻ってきて自艦を破壊した例もあるほどだ――、バッテリーの交換。水と糧食《りょうしょく》、燃料はパールハーバーに帰港できるだけの量は残っているので、グアムか、最悪でもイオウ島にたどり着ける分を確保しておけば、まだ短期間の戦闘を行うのに十分な余裕があった。
単調で退屈な整備作業を続けるうち、乗員も次第に平常心を取り戻して、奇妙な特別任務に対して当然抱くべき好奇心を抱き始めた。特に若い水兵たちにとって、「幽霊潜水艦の拿捕」という言葉は無条件に冒険心をくすぐった。他方、海軍組織の実態を知るベテラン乗員たちにとっては、この任務は依然として不可解かつ不穏なものであり、〈ボーンフィッシュ〉は期待と不安が拮抗《きっこう》する数日をツシマ沖で過ごした。
司令部は四日後の会合を予定していたが、実際には命令受領から五日後、七月十四日に〈トリガー〉からの第一報は届いた。幾度か失探しそうになりながらも、〈トリガー〉は執念深く〈シーゴースト〉の影を捉え続けていた。司令塔で交わされた艦長と副長の会話から憶測するに、〈トリガー〉は『奴は焦っている』と打電してきたらしい。補給を受けられず、〈トリガー〉に頭を押さえられてろくに浮上もできなかったために、〈シーゴースト〉は長期の持久戦を行う体力を失っている――。数ヵ月にわたって〈シーゴースト〉の影を追い求めてきた〈トリガー〉には、それなりの確信があるようだった。いま挟撃戦を仕掛ければ、必ず仕留められるという〈トリガー〉の主張に従い、〈ボーンフィッシュ〉は南南西に転舵して〈シーゴースト〉を待ち伏せた。
キューシューの西端、中小の島が飛び石のように連なる五島列島沖に到達したのが、翌十五日の早朝。現地時間に照らせば夕刻も終わりの頃で、司令塔でソナーにへばりつくアディには確かめようもなかったが、おそらくは夕陽が水平線に溶け込み、夜が訪れる直前の幻想的な光景が見られる時間帯のはずだった。岩礁が林立する五島列島沖は、待ち伏せ作戦を実施するには最適のポイントとはいえ、事前調査を綿密に行わなければこちらの命取りにもなりかねない。水測長注視のもと、アディは音響測深儀で海底地形を探り、岩礁の分布状況の計測を急いだ。艦首下部に設置された水中マイク《ハイドロフォン》が、合衆国海軍の潜水艦とは回転周期《ピッチ》の異なるプロペラ音をキャッチしたのは、その時だった。
目標探知! と実戦で叫んだのは、それが初めてだった。即座に急速潜航が令され、〈ボーンフィッシュ〉は岩礁すれすれの深度百七十フィートに潜航した。片舷のスクリュー軸になんらかの損傷を負っており、プロペラ音に独特のノイズが混じる――間違いなく、〈トリガー〉から報告のあった〈シーゴースト〉のプロペラ音だった。岩礁状況を探りきれなかったのは残念だが、その条件は敵も変わらない。袋のネズミだ、と言った艦長の言葉を、アディは強がりとは聞かなかった。
水中では、空気中より音の伝達距離ははるかに長い。こちらが発した音響測深儀の探信音波を、〈シーゴースト〉が探知している可能性はあったが、もしそうなら、敵は待ち伏せを警戒して必ず探信音波を打ってくる。岩礁を走り抜ける海流音が聴音を困難にするこの海域で、無音潜航したこちらをパッシブ・ソナーで探知するのは不可能だ。〈ボーンフィッシュ〉はここで潜伏し、〈トリガー〉との挟み撃ちに備えて牙を研《と》いでいればよく、敵が探信音波を打ってきた場合は、ただちに前進して音源に魚雷を叩き込んでやればいい。どちらに転んでも、勝利は確定したも同然だった。
〈シーゴースト〉は沈黙したまま、まっすぐこちらに近づいてきた。段々と大きくなるプロペラ音は、得体の知れない幽霊潜水艦が、実体を持った敵艦に変貌してゆく音だった。数分後には、〈シーゴースト〉を背後から追い立てる〈トリガー〉のプロペラ音も聞こえるようになり、〈ボーンフィッシュ〉は雷撃戦の準備を整えて攻撃の時を待った。一撃必殺。拿捕の二文字は、すでに艦長たちの頭の中から消え失せているようだった。そしてそう感じた瞬間、アディはふと、この任務の決定的な異常性に気づいた。
潜水艦に潜水艦を拿捕させるなど、どだい無茶な話だ。潜水艦同士の戦闘でさえ、大戦中数えるほどしか行われていない。〈シーゴースト〉を本気で捕らえたいなら、少なくとも駆逐艦と対潜哨戒機の手助けがいる。太平洋艦隊司令部には、それを手配するだけの機動力と時間があったはずだ。にもかかわらず……なぜここには自分たちしかいないんだ?
――目標|失探《ロスト》!
その声が司令塔に響き渡り、アディは我に返った。それが自分の声だと気づくまでに、数秒の時間を要した。些細《ささい》な異変にも反応するよう鍛えられている聴覚が、脳の判定を待たずに報告の声を出させた感じだった。
ロスト時の方位、プロペラ・ピッチから推測される敵速を続けざまに報告しつつ、アディはレシーバーに意識を集中した。〈シーゴースト〉のプロペラ音は、幻のように完全に消失していた。グリニッジ標準時に合わせた腕時計の針が、五時三十七分を指した時のことだった。
その腕時計は、いまは九時四十五分を回ろうとしている。
〈シーゴースト〉との持久戦が開始されてから、もう四時間以上。その間、〈ボーンフィッシュ〉と〈トリガー〉はひたすら潜航し続け、互いの尻を追うように周回コースを巡ってきた。プロペラ音がいっさい探知されない以上、包囲の輪の中に目標がひそんでいることは間違いないが、アディは、徒労という言葉がゆっくりと全身を蝕《むしば》んでゆくのを止められずにいた。
もう〈シーゴースト〉はこの海にはいない。ジャックの言う通り、そのぬめぬめとした潜舵をひらめかして、音も立てずに泳ぎ去ってしまったに違いない。いや、もともと〈シーゴースト〉なんでものは存在していなくて、自分たちは幻を追いかけているのかもしれない。〈ボーンフィッシュ〉も〈トリガー〉も、一度は死んだ♀ヘ。幽霊が幽霊を追いかけるとは、まったくお笑い種《ぐさ》だ。本当はトヤマ湾の海の底に沈んでいる〈ボーンフィッシュ〉が、地獄の手前で続ける終わらない追いかけっこ……。
ゴトッ。耳に馴染んだ海流音に微かな不協和音が混ざり、アディは一気に現実に引き戻された。
先刻の冷たい息とは異なる、明確に物理的な音。ほんの一瞬、海流の浸食で岩が傾いた程度の微小な音だったが、四時間以上同じ音を聞き続けた耳は、たとえ針一本であっても混入した異物の音を聞き逃さなかった。
「なにか聞こえます。突発音。方位二八〇ないし二八二」
「真横か……」と航海長が呟く間に、振り返った艦長の目がアディをすり抜けて水測長を見据えた。若僧の耳は確かか? と問う目に、予備のレシーバーをかぶる水測長がはっきり頷《うなず》く。非常灯の光で黒く見えるグリーンの瞳を伏せ、なにごとか唇を動かした艦長は、「〈トリガー〉の位置は?」と今度はアディの顔を見て言った。
「方位三三二ないし三三三。速度二ノット」
〈トリガー〉のいる方向と、突発音が聞こえた方向は明らかに異なる。先刻までの濁《にご》った空気が霧散し、アディは全神経をレシーバーに集中させた。突発音は聞こえない。しかしなにかが違って聞こえる気がするのは、神経が昂《たかぶ》っているからか? 一定だった海流の音がわずかに転調した――いや、別の周波の音がそこに重なり、音全体が前よりも太さを増したような……。
「なんだと思う、水測長」
「わかりません。しかし金属音に聞こえました。岩が崩れ落ちた音ならもっと後を引くはず……」
レシーバーの外に聞こえる水測長の声がそこまで言った時、本当の異変は始まった。
最初は大量の泡が弾けるぷつぷつという音。続いて、世界最悪のチェリストが調弦を始めたかのごとき騒音が重なり、ひとり、またひとりと奏者が増えて――。
「船体の軋《きし》み音!」アディが叫んだのと、水測長が叫んだのはほぼ同時だった。「方位二八一。急速接近中!」
「|まさか《ジーザス》……!」と叫んだ副長の声は、続く艦長の声にかき消された。「両舷前進強速、速力十ノット。取り舵一杯」
機関、操舵の復誦《ふくしょう》が終わらないうちに、足もとから鈍い振動が這い上がってくる。無音潜航をかなぐり捨てた〈ボーンフィッシュ〉が、モーター機関の出力を最大に引き上げた瞬間だった。急速回頭に転じた船体が左に傾き、フルパワーで回転する自艦のプロペラが聴音を困難にする。よろけそうになった体を水測長に支えられながら、なんて運の悪い、とアディは内心に罵《ののし》っていた。
船体の軋み音が意味するところは、ひとつしかない。〈シーゴースト〉が浮上を開始したのだ。水圧の変化に外殻をぎりぎりと軋ませつつ、〈シーゴースト〉は機関を停止させたまま浮き上がろうとしている。こともあろうに、〈ボーンフィッシュ〉の真下から。最初に聞こえた微かな突発音は、排水弁を開く音――もしくは沈底していた船体が海底から離れる音だったのだろう。
無論、〈シーゴースト〉は〈ボーンフィッシュ〉を狙いすまして浮上してきたわけではない。深度百七十フィートで潜水艦同士が衝突すればどうなるか、それがわからないほど向こうも愚かではあるまい。どだい、アクティブ・ソナーを作動させていない〈シーゴースト〉には、〈ボーンフィッシュ〉の位置を知る術《すべ》はなかった。たまたま浮上したところに、たまたま敵艦がいたという百万にひとつの偶然が起こったのだ。
今頃はフル回転するこちらのプロペラ音を探知して、向こうも恐慌状態に陥っているに違いない。〈シーゴースト〉に乗っているのが、同じ人間ならの話だが――。
「探信音波、打て」
ペリスコープのシャフトにしがみつき、傾いた床の上で体重を支えた艦長が命じる。敵の方位はハイドロフォンの音感差から割り出せるが、相対距離は探信音波を放ち、反射波の返ってくる時間を測らなければ測定できない。アディはアクティブ・ソナーの作動ボタンを夢中で押し、一緒に左手に握りしめたストップウォッチの計測ボタンを押した。
頭頂部を刺激するような金属のソプラノ音が鳴り響き、司令塔にこだまする。この場合、探信音波の音は、相手に衝突回避を促すクラクションの役目も果たしていた。思ったよりずっと早く反射波が返ってさて、アディは押したばかりのストップウォッチのボタンを押すと、「距離、百七十ヤード(約百五十五メートル)。方位変わらず、直進中」と機械的に報告した。
その数字が実感を伴ったのは、音を立てて凍りついた司令塔の空気を肌で感じ取ってからだった。百七十ヤード――目と鼻の先に、〈シーゴースト〉がいる。隣に立つチーフが生唾を飲み込む音が聞こえ、「舵戻せ! 針路〇二〇」と、ややうわずった艦長の声が響き渡った。
機関を停止し、浮力のみを利用して浮上する〈シーゴースト〉は、言うなれば風呂の底から浮き上がろうとしている風船に等しい。自ら浮上を止める力はなく、衝突回避はもっぱら〈ボーンフィッシュ〉が稼ぎ得る距離にかかってくる。探信音波の反射速度に比例して心臓の鼓動が早まり、アディは必死に相対距離を読み上げ続けた。
百五十、百三十、八十五、五十……。もはや探信音波と反射波の時間差がなくなり、耳障《みみざわ》りな金属音が非常ベルさながら連続する。アディは五まで数えたところでぎゅっと目を閉じ――その後、少しずつ、しかし確実に、反射波の返ってくる間隔が長くなってゆくのを聞いた。
十、二十、三十。敵艦との距離が再び離れ、水測長がほっと息をつく気配が背後に伝わった。おそらくは数ヤードもない、手をのばせば相手の船体に触れられるくらいすれすれのところで、〈ボーンフィッシュ〉は〈シーゴースト〉との衝突を回避したのだった。アディは腹の底から息を吐き出し、額に手をやってぐっしょりの汗を拭った。その場にいる誰もが肩の力を抜き、緊張の後の弛緩が司令塔に訪れた。チーフは小さく十字を切り、航海長は目を閉じて顔を天井に向けた。
ただひとり動かないのは艦長で、彼はペリスコープのシャフトに片手をついた姿勢を崩さず、「ソナー、報告は」と顔を少しだけこちらに振り向けた。水測長ではなく、自分の目を見て言った艦長の声には親しみの色があり、アディはふと、これが一人前になるということかもしれないと思いついた。
雷撃戦に備えて敵艦の位置を捕捉《ほそく》し続け、同時に〈トリガー〉の位置も確認して、向こうが現状を把握しているか否かを調べる。対〈シーゴースト〉戦の本番は、これからだった。感慨に浸っていられる時ではなく、アデイはレシーバーに反射波の音を聞き、ストップウォッチに目を落とした。
が、一人前と認められたソナー員の、記念すべき最初の報告は、予想もしない言葉になってアディの口からこぼれ出た。
「高速スクリュー音探知! 方位二〇〇、向かってきます!」
あり得ない。司令塔にいる全員の顔がそう言い、アデイ自身、自分の言葉が信じられなかったが、レシーバーが伝える音は紛《まぎ》れもなく現実だった。小刻みで甲高いプロペラ・ピッチ――すなわち、魚雷の駛走音。
回避しようのない距離、信じがたい早さで、〈シーゴースト〉が魚雷を撃ってきたのだ。
「取り舵一杯!」と艦長の怒声が響き、同時にアディは背後からつき飛ばされた。たたらを踏みつつ振り返った時には、補助役をかなぐり捨てた水測長が管制盤に取りつき、「雷数一、急速に接近中! 間違いありません」と叫んでいた。
「衝突警報! 全艦、隔壁《かくへき》閉鎖」
「総員、対衝撃防御!」
チーフと水雷長が矢継《やつ》ぎ早《ばや》に艦内放送のマイクに吹き込む。警報が三回鳴り響き、乗員たちが駆け出す音、隔壁や水密戸《すいみつど》を閉める音が床下に伝わる。一瞬でひっくり返った事態についてゆけず、わめき合う士官たちを呆然と見つめたアディは、なにが起こったのか考えようとした。仕事を奪われ、再び新米水兵に引き戻されたアディには、そうするだけの時間が与えられていた。
〈シーゴースト〉が魚雷を撃ってきた、これは議論の余地がない。雷撃可能深度まで浮上するや、すれ違いざま……そう、すれ違いざまに撃ってきたのだ。まるでこちらの位置がわかっているかのような、比類のない正確さで。アクティブ・ソナーを逆探したとでもいうのだろうか?
「魚雷音さらに一! 〈トリガー〉に向かうようです」
「当てずっぽうだ。奴に魚雷を調定する時間はなかった……!」
悲鳴に近い水測長の声に続いて、副長が呻《うめ》いていた。そうだ、とアディも思った。敵の方位と距離、速度、潮流を測定し、それに合わせて発射角度、駛走距離、駛走速度を調定する。その作業が完全でなければ、魚雷は敵に命中しない。〈シーゴースト〉はでたらめに撃ってきたに決まっている。
しかし、いつ魚雷発射管を開放したのか。パッシブ・ソナーが捉えたのは船体の軋む音だけで、少なくとも浮上中の〈シーゴースト〉からは、魚雷発射管開放時の突発音は観測されなかった。水測長もそれを確認している。ということは、〈シーゴースト〉はあらかじめ発射管を開放してから浮上を開始したのだ。最初に聞こえた突発音は、魚雷発射管開放の音……?
「魚雷衝突まであと六十……五十」
岩礁の底に身を潜めていても、〈シーゴースト〉には〈ボーンフィッシュ〉が見えていた。アクティブ・ソナーも使わずにこちらの位置を把握し、頭上に差しかかるのを待って浮上した。こちらの回避運動を計算に入れて、すれ違った瞬間に魚雷を叩き込むつもりで。
「四十……三十」
なぜそんなことができる? 奴には目がついているのか?
「二十……衝突します」
水測長が言い終わると、「幸運な糞野郎め《ラッキー・サノバビッチ》……!」と搾り出された艦長の声が司令塔に響き渡った。アディは、違うと胸の中に訂正した。
幸運ではない。奴には、〈シーゴースト〉には、なにもかもが見えているのだ。アディは天井を見上げ、内殻の向こうに常闇の海を幻視した。〈シーゴースト〉が巨大な海蛇のごとくとぐろを巻き、まがまがしい赤い目をかっと見開いて、〈ボーンフィッシュ〉を噛み砕こうとする姿をはっきりと見た。
「|すまないな《ソーリー》、坊主《サン》」
すぐ傍らに声が発し、アディはぼんやりそちらの方に振り返った。赤く充血したチーフの目がそこにあった。メタンでな、と言った時と同じ目だった。アディと視線を絡《から》ませたのもつかの間、チーフはすぐに瞼《まぶた》を閉じ、汗まみれの髭面を天井に向けた。「ジュリア……」という小さな囁きが、その唇から漏れた。
それを聞いた途端、これで死ぬらしいと理解したアディは、唐突に訪れた死のあまりの素っ気なさに呆然となり、慌ててガールフレンドの顔のひとつも思い出そうとした。だが浮かんできたのはパールハーバーの補給処ですれ違った女性事務官や、もう輪郭《りんかく》も定かではないハイスクール時代の同級生の顔だけで、こういう時に名前を呼ぶに相応《ふさわ》しい女性の顔はついに見つけられなかった。
そんな相手を見つけるには、短すぎる人生だった。まだやり残したことがたくさんある。こうなるとわかっていたら、もっと有意義に時間を使っていたのに。アディは絶望し、それさえも時間の無駄と気づいて、この死になにかしらの意義を見出そうと努めた。潜水艦乗りの矜持《きょうじ》、祖国への想い。どれもしっくりとはせず、代わりに、そのようにしか生きられなかった自分の不実を詫《わ》び、懺悔《ざんげ》しなければならない唯一の人の顔が胸の奥で像を結んだ。
ああ、母さん。ぼくはあなたに孫を抱かせてあげることができなかった……。
ポートランドの農園の風景、焼き立てのクッキーの香りを思い出したのを最後に、ハーブ・アディは肺いっぱいに空気を吸い込み、考えるのをやめた。
直後、衝撃と轟音《ごうおん》がすべての感覚器官を圧倒して、せっかく肺にため込んだ空気を吐き出させた。網膜を焼く真っ白な光が司令塔を満たし、アディの肉体と意識をその中に溶かし込んでいった。
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爆発の衝撃に自艦が巻き込まれるのを防ぐため、大きく弧を描いて駛走するよう調定された酸素魚雷は、寸分たがわぬ正確さで目標に到達した。全長五・五メートル、直径五十三センチの魚雷が司令塔に突き刺さり、その外殻と内殻を突き破って起爆すると、弾頭の炸薬《さくやく》が艦内の空気を残らず消費しつつ燃え拡がり、黒く細長い鉄の塊《かたまり》――ガトー級潜水艦を内部から誘爆させた。
膨脹した耐圧殻が補強材の鉄輪を次々に弾き飛ばし、全長九十五メートルの船体がバナナの皮のように呆気《あっけ》なく裂ける。爆発の光球がそれを呑み込んで膨れ上がったが、水圧に押し戻されてすぐに収縮に転じる水中爆発は、空気中で起こるそれよりはずっと地味で、もの悲しささえ感じさせた。一|刹那《せつな》の閃光《せんこう》が海底の奇岩群を浮かび上がらせ、後は地球創成の時から変わりのない常闇が海底に舞い戻った。ガトー級潜水艦の痕跡《こんせき》を示すものは、海面に向かって上昇する嵐のような気泡と、岩礁に降りつもる無数の破片――焼け焦げた艦の構造材や、蒸発を免れた肉の欠片《かけら》――だけになった。
爆発の衝撃波が到達するよりずっと早く、「彼女」はそれを感知≠オた。正確には、物理的に観測される現象以上のものが「彼女」の中に入り込み、五官にへばりつき、膿《う》み、腐敗して、「彼女」の神経の系という系を苛《さいな》んでいた。
大半は、全身の表皮を焼き剥《は》がされる痛み、構造材に押し潰《つぶ》される苦しみを訴える悲鳴であり、残りは人の名前、特に女性の名前を呼ぶ声が多い。母親の名を呼ぶ声も少なくはなく、これはどこの国の艦《ふね》でも同じだ……と、「彼女」は苦痛に組み敷かれた肉体の奥で思考を紡《つむ》いだ。
脱却レバーを引き、水面から体を抜くことさえできれば、この苦痛から逃れられる。藪医者《クワックサルバー》″は簡単に言っていたが、実際はそう都合よくいくものではない。苦痛は素早く、あらゆる物理法則を無視して殺到し、体の奥深くに分け入ってくる。散乱する肉と内臓を網膜に焼きつけ、呪詛《じゅそ》の声を聞かせて、鼻腔《びこう》と口腔の中まで血で汚れた舌で舐《な》め回す。さらには、長い火かき棒を脳髄《のうずい》から背骨の奥にまで差し込み、ごりごりとかき回すような激しい痛みで肉体を屈伏させる。
艇内を照らす非常灯が赤みを増し、|胸の高さ《ブルスト・ニボー》に水位を設定された水がどす黒い血の色になった。これは現実ではない。血の池に浮かぶ眼球や骨から目を背《そむ》け、「彼女」は痙攣《けいれん》する腕をなんとか動かして、座席の脇にある脱却レバーをつかもうとした。だが、つかみ上げることができたのは、まだそこここに肉のこびりついた人の腕の骨だけだった。
引きずられて水面に浮かび上がった男の顔が、『なぜ』と問うていた。縮《ちぢ》れた金髪を血で濡らした、まだ二十歳に満たない若者の顔だった。これまでに何十回となく問いかけられ、まだ一度も答えられずにいる「彼女」は、この時も黙って彼の目を見返すよりなかった。若者は問う目を残したまま顔を逸らし、大穴の開いた後頭部を「彼女」の方に向けた。
脳漿《のうしょう》がすっかり流れ落ち、空洞になった頭蓋の裏側には、生光りするフジツボの突起がびっしり張りついていた。それを見た瞬間、「彼女」の意識を維持する最後の線がショートした。
激しく痙攣する指先が硬直し、その後、弛緩した。たゆたう水にもてあそばれ、皹《あかぎれ》の目立つ「彼女」の手のひらが花弁のように水中を舞った。
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「Dieser nutzlose Schrott!(この役立たずのポンコツが!)」
発令所に響き渡ったカール・ヤニングス艦長の蛮声《ばんせい》は、勢いよく定位置に戻された左右の把手《グリフ》の金属音で余韻《よいん》を絶たれた。代わりに失望と落胆の吐息がさざ波のようにわき起こり、疲れきった顔で立ちつくす十人あまりの男たらと、赤色灯の鬱々とした光をさらに暗く沈み込ませてゆく。
魔法の時間の終わり――そんな感じだった。グリフが折りたたまれた千里眼鏡《ヘルゼリッシュ・スコープ》は単なる柱と化し、淡い光を放っていた千里眼監視装置《ヘルゼリッシュ・アプフォーラ》も、システムがダウンしたいまは奇怪なオブジェとしてのみそこにある。まるで午前零時の時報を聞いたシンデレラだ。ふと思いつき、発令所にいる面々の顔を見渡したフリッツ・S・エブナーは、その場違いな連想に苦笑を噛み殺した。
陽光を忘れて久しい青白い肌に、垢と無精髭を蓄《たくわ》えた顔、顔、顔。ガラスの靴を残して走り去るには、ここにいる連中はあまりにもむさ苦しすぎる。童話になぞらえるなら、悪鬼か怪物。やはり〈|海の幽霊《ゼーガイスト》〉というあだ名がいちばん相応《ふさわ》しい。種も仕掛けもある魔法で自分を恐ろしく見せかけ、それを失えばこそこそ逃げ隠れするしかない〈ゼーガイスト〉。連合国側がどこまで見透かしているのかは定かでないが、この艦にはぴったりの名前ではないか。
「Auftauchen stopp, Ventile schliessen[#エスツェットはssで代用]. Tiefe 40 Meter. Beide Maschinen halbe Fahrt.(浮上中止、排水弁閉鎖。深度四十メートル。両舷半速)」
ヘルゼリッシュ・スコープのシャフトを背に、ヤニングスが澱《よど》んだ空気を振り払う大声で令した。艦長然とした落ち着きを取り戻した声と聞こえたが、この二ヵ月のみじめったらしい航海で節制を忘れ、だらしなく肥満したヤニングスの声に以前の鋭さはない。復誦する潜航長らの声も職業軍人が持つべき余裕を失っており、魔法の時間が終わった心細さだけではない、もっと大きなものが終わった喪失感と徒労感を根底に抱え、生き長らえているこの艦の現状を暗に伝えた。
自分はどうなのだろう? 乗員たちを苛む喪失感の中身、祖国の終焉という言葉を胸の奥に眺めて、フリッツは自問してみる。一九三三年以降、国家社会主義労働者《ナチ》党が権力の座についてからは、畏怖《いふ》と憎悪を込めてナチスドイツとも呼ばれた祖国の終焉。首都ベルリンは完膚《かんぷ》なきまでに破壊し尽くされ、総統《フューラー》と崇《あが》められていた髭の小男は早々に自殺を遂げた。第三帝国建設の大博打《おおばくち》はあえなく敗れ、支払いきれない負債が国民の双肩に残された……。
関係ない。いつもと同じ結論に達して、フリッツは黒い制服の袖口に付着した埃《ほこり》を指先で弾いた。鉤十字《かぎじゅうじ》の紋章も、優生学理論も、こけ脅《おど》しの宣伝工作も。頽廃《たいはい》趣味が人心に与える悪影響を説きながら、自らが大いなる頽廃であった国家が滅ぶべくして滅んだ。ただそれだけのことだ。いまのおれには、おれたち[#「おれたち」に傍点]には関係がない。髑髏《どくろ》の徽章《きしょう》が輝く制帽をぬぎ、この航海で肩まで届くようになった長髪に風を入れてから、フリッツは無意味な物思いに蓋《ふた》をした。
いまはただ生き延びることを考えていればいい。魔法の力を失っても、この艦の悪運の強さは折り紙つきだ。ここでおれたちと心中したくなかったら、どこまででも逃げ延びてみせろ――。壁と天井を埋める無数のパイプを血管に見立て、全長百十メートルに達する鋼《はがね》の巨魚に呼びかけた途端、潜航時でも四千馬力を確保するモーターが唸《うな》りをあげ、二軸のスクリュー軸を回転させる振動が足もとに伝わった。
腹に響く船体の軋み音が艦首から艦尾までを駆け抜け、前方に傾いていた傾斜がじわじわ回復する。機関を停め、自然の浮力に任せて浮き上がりつつあった鋼鉄の管が、Uボート本来の機能を取り戻して前進を開始したのだった。四時間ぶりに聞くモーター音に微かな安堵《あんど》を覚えたのも一瞬、フリッツは、先刻から神経に障る金属音を響かせている探信音波に耳を澄ました。
この二ヵ月の間、呆れるほどの執念深さでこちらを追尾し続けたガトー級潜水艦、〈しつこいアメリカ人〉が打ち鳴らすアクティブ・ソナーの音。すれ違いざまの奇襲で新手《あらて》のガトー級を沈めることはできたが、〈しつこいアメリカ人〉はいまだ生残している。一撃で仕留めるには距離が開きすぎていた魚雷をかわし、嫌がらせのように探信音波を打ち続ける〈しつこいアメリカ人〉にとって、岩礁から抜け出たこちらは格好の獲物と映っているはずだった。
魔法の箔《はく》が剥がれてしまった以上、この艦が選択し得る対処行動は、ひたすら逃げることしかない。フリッツは腕を組み、艦尾側の隔壁に背中を預けて、慌ただしく動き回る乗員たちの姿を漫然と眺めた。カーキ色の制服に汗の染みを浮かべた水雷長がちらとこちらを見、ひとり冷めた面持ちの黒い制服に恨みがましい目を向けたが、文句を口に出しはしなかった。奥行き八メートル、幅五メートルはあるこの艦の発令所は、他国の潜水艦に較べてもかなり大きいので、持ち場のない人間が突っ立っていてもさほどの害にはならない。体臭と二酸化炭素をまき散らし、各々の持ち場に就《つ》くカーキ色の制服たちを視界から消したフリッツは、剥がれ落ちた魔法の残滓《ざんし》に視線を集中させた。
第一、第二潜望鏡とほぼ同じ外観を持つヘルゼリッシュ・スコープと、その斜め前方、転輪羅針儀《ジャイロコンパス》と並んで設置されたヘルゼリッシュ・アプフォーラ。コロセウムの通り名で呼ばれるヘルゼリッシュ・アプフォーラは、透明素材で一体成型された直径一メートルの球体と、各種制御装置を収めたドラム缶大の円柱からなる精密機械装置だ。円柱の上に半分めり込む形で鎮座《ちんざ》する球体は、下半分が無数の電極とコードで覆われており、鉢植えにされた巨大な球根といった体《てい》をなしていた。
種も仕掛けもある魔法――|PsMB1《ペーエスエムベー・アインツ》の一方の要《かなめ》となる二つの装置は、システムの停止とともに完全に沈黙し、無用の長物となって発令所の片隅に鎮座している。フリッツはさりげなく体の位置を動かし、赤色灯を映して鈍く輝く透明な球体に目を走らせた。底に溜まった砂鉄が静止しているのを確かめて、それとわからぬほどに安堵の息をついた。
「彼女」の苦痛は終わった。次は視力を失い、聴力だけを頼りに行動しなければならなくなった、この〈UF4〉の乗員たちが苦痛を味わう番だ……。
「Was macht der.〈za:he Ami〉?(〈しつこいアメリカ人〉は?)」
ヤニングスのだみ声が飛ぶ。フリッツは、多少慌ててコロセウムから視線を外した。
「Sein Kurs a:ndert sich sta:ndig. 338 Grad, 339 Grad, 341 Grad. Geschwindigkeit unbekannt.(距離、三五〇〇。方位は急速に変更中。現在三三八、三三九、三四一。速力不明)」
艦尾側の隔壁に穿たれた円形の水密戸の向こうで、水測員がヤニングスに負けない大声を返す。「Wegen des Rauschens der Meeresstro:mung la:sst sich so gutwie nichts ho:ren.(海流音の影響でほとんど聴音がききません)」
「Unser Gegner hat das gleiche Handikap. Machen Sie alle 10 Grad Meldung u:ber seine Position.(条件は向こうも同じだ。十度ごとに敵方位を逐次知らせ)」
一喝《いっかつ》したヤニングスは、油と脂で薄黄色に汚れた制帽をかぶり直すと、なにか言おうとした潜航長を無視して海図台に取りついた。備え付けの蛍光灯を引き寄せ、海図に目を落としたその横顔にいら立ちの色を見出したフリッツは、まずいなと感じた。
条件が同じであるはずはない。最新のグループ聴音装置を装備しているとはいえ、PsMB1の魔力に馴《な》れ、ソナーを補助機械程度にしか捉えていなかった〈UF4〉。対して〈しつこいアメリカ人〉は、ソナーだけを頼りに二ヵ月間の追跡行を実施し、潜水艦乗りなら誰でも味わう不自由に耐えてきた。便利に馴れた艦と、不便を克服した艦の技量の差は、状況が苛酷であるほど如実に現れる。流速二ノット近い海流音が聴音を妨げている状況は、一方的に〈しつこいアメリカ人〉を利する結果になりかねない。
ヤニングスはそれに気づいており、いら立っている。ほぼ地球を半周したこの二ヵ月あまりの航海中、〈しつこいアメリカ人〉につきまとわれ続けてきたいら立ち。目的地を目の前にして、足止めを食らわされたいら立ち。それを突破すべく仕掛けた奇襲が、さらなる窮状を呼び込んでしまったいら立ち――。様々ないら立ちが汗でよれよれになった制服の肩から染み出し、強《こわ》い髭を蓄えた横顔をひどく無表情にしている。あとひと押しで理性の線が切れ、致命的な判断ミスを犯すのではないかと思わせる危うさが、いまのヤニングスにはあった。
「Angesichts unserer Mano:vrierfa:higkeit, wird der〈za:he Ami〉uns nicht leichtsinnig angreifen.(いまの我々の手際を見れば、〈しつこいアメリカ人〉も迂闊に手出しはできんでしょう)」
「Wenn wir es in das Japanische Meer schaffen, sollten wir sie abschu:tteln ko:nnen.(連中もろくに補給を受けていない。このまま日本海に逃げ込めば、迫撃を振り切れるはずです)」
ただちに反転して、〈しつこいアメリカ人〉との決着をつける。いちばん恐ろしいのは、艦長がそう言い出すことだと心得ている水雷長と航海長の物言いは、端的だった。近頃のヤニングスは、それでなくとも堪《こら》え性《しょう》がなくなってきている。持久戦を放棄し、二隻の敵艦を同時に仕留めるという賭《かけ》に近い奇襲を強行したのも、彼が以前の辛抱強さを失ってしまった証明と言えた。
自暴自棄になるのは勝手だが、巻き添えを食ってはたまらない。フリッツは腕組みをしたまま、ヤニングスの反応を注意深く窺《うかが》った。もし短気を起こすようなら、実力に訴えてでも艦長の座から引きずり下ろさなければならない。
「Aber das andere Boot der Gato ist aus dem Japanischen Meer gekommen. Also hat Japan die die Seeherrschaft verloren.(しかし、新手のガトー級は日本海から現れた。あの国は、もう膝元の制海権さえ失っているんだ)」
ぽつりと呟かれた声が奇妙に大きく響き、水雷長たちはぎょっとそちらに振り返った。そげ落ちた頬が貧相に拍車をかけている潜航長の顔が、赤色灯の下で浮き立って見えた。
「Wenn uns die Japanische Marine besser versorgt ha:tte, ha:tten wir auf einen gorssen[#エスツェットはssで代用] Umweg ins Japanische Meer laufen und den〈za:he Ami〉abha:ngen ko:nnen...(だいたい、日本海軍がもっとマシな補給をしてくれていたら、大回りで日本海に進入することができた。〈しつこいアメリカ人〉を振り切ることだって……)」
バカが。内心に罵ったフリッツは、考えるより先に一歩を踏み出していた。日本海軍がもっとマシな補給をしてくれていたら。あと百トンの重油、五百リットルの水の貯蔵があれば。そんな仮定の話は思考を閉塞させ、絶望を募《つの》らせる結果しかもたらさない。「Wir ko:nnen nirgends entkommen. Also warden wir hier...(もうどこにも逃げ場はないんだ。だったらここで……)」と続いた潜航長の声を、フリッツは「Nein.(それは違う)」と遮った。
「Die japanische Marine will wissen, was PsMB1 wirklich kann, deshalb hat sie uns nur so wenig gegeben.(日本海軍はPsMB1の実力を確かめたがっている。だから故意に補給を限定した)Sie wollen, dass wir nicht lange unter Wasser operieren ko:nnen und den Gegner direkt schlagen mu:ssen, um das Japanische Meer zu erreichen.(長期の潜伏行動ができないようにして、正面の敵を突破しなければ日本にたどり着けないよう仕組んだんだ)」
潜航長はもちろん、その場にいる全員が一斉に気色《けしき》ばんだ目玉を向ける。黒い制服も、そこから覗《のぞ》く肌の色も、二十一歳という年齢も。二ヵ月前から鋏《はさみ》を入れるのをやめた長髪さえも、彼らにとっては嫌悪と侮蔑《ぶべつ》の対象になる。いつものことなので、フリッツは誰とも目を合わさず、ヤニングスの背中だけを見るようにした。
「Wenn wir das nicht schaffen, wu:rde der Besitzt des PsMB1 sich aus ihrer Sicht von Anfang an nicht gelohnt haben.(それで潰れるようなものなら、最初から手に入れる価値はないと思っている。連中にとって、国を亡くしてまで生き延びている我々は恥知らずの穀潰《ごくつぶ》しだ)Ob wir sterben oder leben, ist ihnen vo:llig gleichgu:ltig. Uns bleibt nichts anderes u:brig, als selbst dafu:r zu sorgen, dass uns nichts passiert.(死のうと生きようとたいした問題じゃない。自分の身は自分で守るしかないのが、我々の立場だ)」
頭を冷やせ、と伝えたつもりだった。〈しつこいアメリカ人〉にかかずらわって消耗《しょうもう》している余裕はない。無傷で日本にたどり着き、連中にPsMB1の価値を知らしめるのがいまは肝要だ。逃げることだけを考えろ。
支払うべき負債を踏み倒し、新しい人生を手に入れるには、それなりの度胸と計算が必要になる。おまえたちがどうなろうと知ったことではないが、巻き添えになるのはご免だ。おれたち[#「おれたち」に傍点]の邪魔をするな……。
無言の重圧をかける探信音波の音と、敵針を告げる水測員の声だけが降り積もる沈黙の時間が訪れ、呻き声に近い吐息を漏らしたヤニングスが海図から顔を上げた。階級を無視した物言いに苦虫を噛み潰しながらも、いくらかは歴戦のUボート艦長らしい知性を取り戻した顔つきだった。小さく息をつき、その場から一歩さがろうとしたフリッツは、不意に耳元で囁かれた失笑混じりの声を聞いた。
「Ist das Ihr Stil, Shinya?(それが貴様の国のやり口かい、シンヤ?)」
無視しろ。常に冷静なもうひとりの自分が警告した時には、フリッツは潜航長のにやけ顔を視界に入れ、その首筋に左手を走らせていた。親指とひとさし指で左右の頸動脈を押えつけ、ぐいと前に突き出すと同時に、よろけた足の間に自分の左足を差し入れる。
痩せぎすとはいえ、フリッツより拳ひとつ分は大きい潜航長の体がバランスを崩し、壁に叩きつけられる。予想外に大きい音が発令所に響き、天井の送水管に結露した滴がぽたぽたと床に落ちた。その場にいる全員が凍りつく気配を背中に感じながら、フリッツは潜航長のぎょろりとした目を見据えた。
「Wenn Sie mich noch einmal so nennen, bringe ich Sie um.(今度その名前でおれを呼んだら、貴様を殺す)」
|はい《ヤー》とも|いいえ《ナイン》ともつかない呻き声が潜航長の口から漏れたのは、頸動脈を圧迫されているからではなく、押し当てたナイフの切っ先を股間に感じているからだろう。小動物のように怯《おび》え、震える瞳を落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の奥に見ながら、フリッツはふと、まったく別の感慨にとらわれていた。
自分より高いところにある頭、幅の広い肩、赤色灯を受けて紫がかって見える青い瞳。自分とは違う色の肌が醸《かも》し出す体臭までが正体不明の劣等感を呼び起こし、引け目に近い感情を腹の底に結実させる。そのように教え込まれ、忘れるには深すぎる部分で根を張った国是《こくぜ》という名の偏見。五年の狂った歳月によって醸成されたなにものかが、全身の力を萎《な》えさせて――。
「Es reicht, Leutnant Ebner.(そこまでだ、エブナー少尉)」
怒気を孕《はら》んだ低い声が振りかけられ、フリッツは我に返った。敵意を漲《みなぎ》らせた複数の目に混じって、ヤニングスの肉厚の顔がこちらを見ていた。
「Ich weiss[#エスツェットはssで代用], dass die SS ka:mpfen kann. Wir mo:gen zwar zur Marine eines untergegangenen Reiches geho:ren, trotzdem erwarte ich, dass Sie ein Mindestmass[#エスツェットはssで代用] an Disziplin einhalten.(親衛隊《SS》の体術が伊達ではないことはわかった。すぐに手を放せ。滅び去った国の軍とはいえ、最低限の規律は守ってもらう)」
言われるまでもなかった。フリッツは右手につかんだナイフを下げ、首筋をつかんだ左手からゆっくり力を抜いていった。ちらとこちらを見た操舵員の目は、自分の顔ではなく、制帽の髑髏の徽章に注がれているようだった。
「Die SS, der Sie Ihre Sonderbehandlung zu verdanken hatten, gibt es nicht mehr.(口のきき方もあらためろ。貴様の特別待遇は、それを保証していたSSの消滅と同時に失効している)Sie sind jetzt nichts weiter, als der fu:r die Wartung des Lorelei-Systems verantwortliche Offizier.(いまの貴様にあるのは、ローレライ・システムの整備担当士官という肩書きだけだ)」
「Feind auf 000 Grad.(敵針、〇〇〇)」と水測員の声が弾け、フリッツは喉元までこみ上げた抗議の言葉を呑み込んだ。ローレライ――PsMB1のコード名。海軍の連中が使っていた俗称を、将官たちへの追従《ついしょう》を仕事の半分にする藪医者《クワックザルバー》≠ェ無理やり正式コードに変えた。本質をつきすぎるという理由でフリッツが反対すると、クワックザルバーは逆におもしろがり、長官に直訴《じきそ》してまでコード名を変更させた……。
「Das Lorelei-System taugt auch zu nichts. Wenn es nicht unser Lotse in die japanischen Gewa:sser wa:re, wu:rde ich es u:ber Bord werfen.(そのローレライも、この通りの役立たずときている。日本への水先案内人の役目がなければ、艦から放り出しているところだ)」
フリッツがその呼び方を嫌うことを知ってか、ヤニングスはここぞとばかりにローレライと連発する。頭の芯《しん》がすっと冷たくなり、フリッツは無意識に唇の端に苦笑を浮かべた。
「Das Lorelei-System la:sst sich nur ein mal, in einem Kampf einsetzen. Das haben Sie doch gewusst, als Sie es haben einbauen lassen, oder?(ローレライを使えるのは、一回の戦闘で一度きり。それを承知で仕掛けたんだろう?)」
ヤニングスの表情がこわ張り、太い首がごくりと喉を鳴らす。もはや止める術はなく、フリッツは冷笑を湛《たた》えた目で艦長の顔を睨み据えた。
「Wenn Sie nicht bereit waren zu verlieren, ha:tten Sie besser gar nicht erst wetten sollen.(八つ当たりはやめてくれ。覚悟がないなら、最初から賭けなんぞしなければいいんだ)」
一度は細まったヤニングスの目が見開かれ、そこに残っていた知性が霧散するのがわかった。これで元の木阿弥《もくあみ》。バカはおれだ。苦い自覚を噛み締め、「Dieser gelbe SS-Hund...(黄色いSSが……)」と罵る誰かの声を甘受したフリッツは、「Kapita:n, schnelle Schraubengera:usche aus 002 Grad!(艦長、高速スクリュー音を探知! 方位〇〇二)」と弾けた水測員の報告に一瞬、棒立ちになった。
「Sie sind Torpedos. Zwei. Sie kommen schnell na:her. Entfernung... weniger als 1000 Meter!(魚雷です。雷数二。急速に接近中。距離……一〇〇〇を切りました!)」
「Ruder Backbord! Kurs 002 Grad.(取り舵一杯! 針路〇〇二)」
咄嗟《とっさ》に令したヤニングスの声が響き渡る。頭より先に体が動き、フリッツは魚雷管制盤と状況指示盤の豆ランプが放列をなす左側の壁に、ぴたりと体を寄せた。
手の空いている者がそれに倣《なら》い、体当たりでもするかのように左側の壁に駆け寄る。いま頃は艦内のすべての区画で同様の光景が展開しているはずだった。バカバカしいほど原始的な手段だが、乗員たちの体重移動が艦の回頭をコンマ一秒でも早めるのは事実で、雷撃戦ではそのコンマ一秒が生死を分ける。数秒前の不和は跡形もなく消え去り、誰もがひきつった顔で壁に張りつき、接近する敵魚雷の音に耳を澄ました。
〈しつこいアメリカ人〉が撃ってきた魚雷は二本。おそらくは夾叉《きょうさ》だ。敵艦の左右に魚雷を撃ち込み、どちらにも逃げられなくしたところで、本命の魚雷をど真ん中に叩き込む。そうそう当たるものではないとはいえ、二ヵ月にわたる追撃戦で水中戦闘の実際を学び、独自の魚雷調定法を確立しつつある〈しつこいアメリカ人〉の実力は、決して侮《あなど》れない。千メートルを切るまで魚雷音が探知できなかったのは、海流音に妨害されていたからか……? フリッツは小さく舌打ちした。
〈しつこいアメリカ人〉は、こちらの弱点に気づいている。囮《おとり》になるために配置されたかのような新手のガトー級、十分に狙いを絞ってから放たれた魚雷、逃げ場のない暗礁海域。罠《わな》の一語に集約される状況を反芻《はんすう》し、どう転んでも有利とはいえない我の立場を再確認したフリッツは、「Tiefenruder 10 Grad. Wir gehen auf 60 Meter.(潜舵十度下げ。深度六十メートル)」と発したヤニングスの声に、思わず顔を上げた。
正気の沙汰ではない。フリッツが振り返るより早く、「Das ist zu gefa:hrlich!(危険です!)」と水雷長の叫び声が復誦《ふくしょう》の代わりに響いた。
「Unterhalb von 50 Metern gibt es hier Felsenriffe. Ohne das Lorelei-System zu tauchen, ist Selbstmord.(五十メートルより下は岩礁の森です。ローレライなしで潜るのは自殺行為です)」
その通りだった。PsMB1の助けがなければ、林立する岩礁の間を抜けることはできない。岩礁の切っ先に艦底を抉《えぐ》られるか、悪くすれば艦首から正面衝突して一巻の終わりだ。水雷長の声は全員の危惧を代弁していたが、ヤニングスは戸惑う素振りもなく、「Im Kolosseum hat das Riff eben aber sehr flach ausgesehen.(先刻のコロセウムの観測では、このあたりの岩礁は背丈が低かった)」と静かに返した。
そうだな? というふうなヤニングスの視線に、航海長が慌てて手書きの地形図に目をやる。PsMB1のダウンに備えて、コロセウムに表示された海底地形を描き取っておいたものだ。無論、大まかな概略図でしかなく、自艦の正確な位置がわからないのではなんの保証にもならない。再び一同の不審の目を受け止めたヤニングスは、しかし眉ひとつ動かさず、操舵長に「Wir tauchen.(やるんだ)」とくり返した。
「Kapita:n...!(艦長……!)」
「Wenn wir uns in keine vorteilhaftere Position bringen, ko:nnen wir den〈za:he Ami〉nicht versenken.(もういちど岩礁を楯に使う。少しでも有利な立場に立たなければ、〈しつこいアメリカ人〉は沈められん)」
ぴしゃりと言い放ってから、ヤニングスはなぜかフリッツと視線を合わせた。「Wir mu:ssen sie vernichten. Solange wir das Lorelei-System... PsMB1 an Bord haben, wu:den sie uns ansonsten bis in die Ho:lle verfolgen.(倒さねばならんのだ。ローレライ……PsMB1を持っている限り、連中は地獄の果てまで我々を追いかけてくる)」
わざわざPsMB1と言い直したのは、自分が正気であることを伝えたかったからか。老練な瞳の奥に一点、すがるような色がちらつくのを見て取ったフリッツは、ヤニングスから目を逸らした。
冗談じゃない。腹立たしさと無力感が滞留する胸中に吐き捨て、フリッツは艦の前傾に備えて足を踏んばった。中断していた復誦の声が上がり、「Ich ho:re wieder Torpedos, es sind zwei! Der erste na:hert sich mit grosser[#エスツェットはssで代用] Geschwindigkeit.(新たな魚雷音、二つ! 第一陣、急速に近接します)」と悲鳴に近い水測員の報告がそこに重なった。
左側の傾斜に前方への傾斜が加わり、艦首を下に向けた〈UF4〉の動きが踏んばった足に伝わる。深度、針路、敵針、すべての数値が刻一刻と変わり、それらを読み上げる乗員の声、船体の軋み音、モーターの振動音に混ざって、ピッチの早いスクリュー音が次第にその音量を増してゆく。艦乗りなら誰でも恐れる音。いちど聞いたら忘れられない、魚雷の駛走音だ。
四十ノット以上の高速で近づく魚雷のスクリュー音が、外殻と内殻を貫いて鼓膜を刺激する。雷撃可能深度ぎりぎりから撃ち込まれた二本の魚雷は、〈UF4〉が魚雷の進行方向に艦首を向けつつあるいま、船体の左右をすり抜けて終わるはずだが、回頭が間に合うとは限らず、また敵がそれを見越して魚雷を調定している可能性も否定できない。潜航長が奥歯を噛み鳴らす音がはっきりと聞こえ、すぐ隣に立つ水雷長の荒い鼻息が耳元にかかる。フリッツは聴覚に全神経を集中し、駛走音の高低から魚雷の進行コースを予測するよう努めた。肌を粟立てる甲高いスクリュー音が壁のすぐ向こうに近づき――その後、遠ざかっていった。
「Der erste hat uns verpasst.(魚雷、通過)」
水測員の声に、十人あまりのほっと息をつく気配が応じる。張り詰めた発令所の空気がわずかに緩んだが、それも水測員が、「Der zweite na:hert sich noch immer.(第二陣、続いて近接します)」と無情に重ねるまでのことだった。
次が本命。片腕を第二潜望鏡のシャフトに巻きつけたヤニングスが、「Wie ist sein Kurs?(現在の針路は?)」と問う。「Er la:uft auf 004 Grad an uns vorbei.(〇〇四を通過)」とジャイロコンパスの前に陣取った操舵長が答えた。
「Gut, bereitmachen zum Fluten der hinteren Trimm-Tanks. Torpedorohre 1 bis 4 zum Abschuss.(よし。次の魚雷が通過するのを待って、雷撃可能深度まで浮上する。雷撃戦準備。発射雷数四。一番から四番まで用意)」
復誦の声、艦首魚雷発射管室に命令を伝える水雷長の声が、接近する魚雷の駛走音を一時的に聞こえなくさせた。先刻の雷撃は艦尾側の旋回式発射管から行ったので、艦首発射管には四本の魚雷がまるまる装填《そうてん》されている。射角を調定し、横一線に並ぶ形で撃ち出してやれば、まぐれ当たりぐらいは期待できるかもしれない。そう考え、死の恐怖を一時的に忘れている自分に気づいたフリッツは、何度目かの苦笑を口もとに刻んだ。
己自身が死を与える者になる。それが、抵抗不可能な恐怖に対する唯一無二の処方箋《しょほうせん》だ。恐怖を克服するには、自らが恐怖になってみせるしかない。いつもの感慨を結んで、フリッツは駛走音に耳を澄ました。右舷上方……かなり遠い。「Der feindliche Torpedo la:uft auf Steuerbord an uns vorbei.(右舷、魚雷通過)」と叫んだ水測員の声が、フリッツの聴覚の正しさを証明した。
続いて左舷。これも上方に寄っている。〈しつこいアメリカ人〉も、〈UF4〉がよもや再び岩礁に身を隠すとは考えていなかったのだろう。外れたことを確信して、フリッツは反撃準備の進む発令所に意識を戻した。
「Backbord... Torpedo...(左舷、魚雷……)」と重ねられた水測員の報告を背中に聞き、壁の傾斜計に目をやりかけた時、間近で起こった衝撃が船体を激震させた。
床が大きくスライドし、内殻の隙間に埋め込まれたコルク材が粉雪さながら散らばると、海図台の上のペンやデバイダー、固定されていないあらゆる物がまき散らされる。パイプの一本にしがみつき、辛うじて転倒を免れたフリッツは、巨大ななにかが左側の外殻を立て続けに叩き、引っかく音を聞いた。直後に箍《たが》の弛んだ送水管から盛大に水が噴き出し、赤色灯が消えて視界が闇に塞がれた。
魚雷が直撃したのならとうの昔に死んでいる。なんだ? と思考を巡らせる間に、懐中電灯の光の筋があちこちで瞬き、よりいっそう死人に近づいた乗員たちの顔を断続的に浮かび上がらせた。電気コードの焼ける独特の異臭が鼻をつき、さすがにぞっとしたフリッツは、「Schadensmeldung!(損害報告!)」と叫んだヤニングスの姿を闇の中に探した。
「Wassereinbruch im hinteren Mannschaftsquartier!(後部兵員室、浸水!)」「Feuer im Maschinenraum!(バッテリー室、損傷! 火災発生)」と伝声管が次々にわめき立てる。やはり魚雷が直撃したのではない。磁気爆発|尖《せん》を装備した魚雷が〈UF4〉の船体に反応し、直近で爆発したというのとも違う。船体を打ちつけ、引っかくような耳障りなあの音は、船が座礁《ざしょう》した時にあげる悲鳴だったとフリッツは思い出した。おそらく敵魚雷が岩礁を直撃して、その破片と衝撃波がまともに船体に振りかかってきたのだ。
岩礁が楯になってくれたのを幸運と考えるべきか、よりにもよって破砕した岩礁の間近にいた不運を嘆くべきか。どうでもいいことを考え、折り紙つきの悪運の強さがまた発揮されただけだと結論した時、「Lo:scht das Feuer, schnell! Wo bleibt der Notstrom?!(消火作業、急がせろ! 非常用電源はまだか)」と再びヤニングスの怒声が飛んで、フリッツは真の闇に包まれた発令所を見渡した。慌ただしく錯綜《さくそう》する懐中電灯の光の筋が、額を押さえてうずくまる操舵長の姿を照らし出し、指の隙間から溢れ出るどす黒い血の色が、赤色灯に慣れきっていた目に鮮烈な印象を残した。
なにかに頭を打ちつけたのだろう。ふと「彼女」の印象が脳裏をよぎり、フリッツは当惑した。限られた時間以外は意識の外に置くようにしている印象が、こんな時、こんな場所で浮かび上がってきたのも意外なら、それが胃を締めつける重い不安を喚起したのも予想外のことだった。
「Wir sinken. Wir sind schon auf 68 Meter.(深度、下がっています。現在六十八メートル)」
「Schafft das Wasser aus dem Boot, schnell! Ist der Wassereinbruch im hinteren Mannschaftsquartier noch immer nicht gestoppt?(排水急げ! 後部兵員室の浸水はまだ止められんのか)」
非常用電源が立ち上がり、再び赤色灯が照らすようになった発令所でヤニングスががなる。「Geben Sie uns noch fu:nf, nein, drei Minuten.(あと五分、いや三分ください)」と返ってきた声を聞きながら、フリッツは形なく滞留する不安が徐々に固まってゆく感触を味わった。
パイプの漏水で済んだ発令所の浸水は、金槌《かなづち》とコルク、ぼろ切れを手に修理に励む兵曹たちに任せておけばいい。バッテリー室の火災も、消火作業にさほど手間どることはないはずだ。だが後部兵員室の浸水は? まだ詳細な報告はないが、被害程度が深刻なら厄介なことになる。バッテリーの故障で排水弁が働かず、操艦もままならない〈UF4〉にとって、浸水は一方的に重石《おもし》を乗せられ続けるようなものだ。しかも周囲は、切り立った岩礁が林立する暗礁海域……。
手動でポンプを動かして、排水作業の手助けをするか? 何枚かの隔壁を隔てて届く兵員室の混乱を背中に聞き、フリッツは足を動かしかけたが、刻々と増大する不安の塊《かたまり》は、発令所を離れるべきではないと警告していた。自分でもどうしてそうするのかわからないまま、フリッツはヤニングスの横顔を凝視した。周囲の喧噪も聞こえない様子でじっと腕を組み、一点を凝視する艦長の表情の険しさに、不安の中身がわかりかけた刹那、その通りの言葉が髭に覆われた唇から吐き出された。
「Uns bleibt keine Wahl. Wir werfen den〈Narwal〉ab.(やむをえん。〈ナーバル〉を廃棄する)」
直前の覚悟も虚しく、全身の血流が止まり、手足が痺れて、呼吸さえ満足にできなくなった。「Bereitmachen zum Lo:sen der Andockklammern.(固縛装置、解除用意)」と間を置かず令したヤニングスに、フリッツは「Warten Sie...!(待ってくれ……!)」と夢中で搾り出した。
「Sie wissen wohl nicht mehr, was Sie tun, Kapita:n? Wollen Sie etwa das PsMB1 u:ber Bord werfen?(艦長、あんたは自分がなにをしようとしているのかわかっていない。PsMB1を捨てるということなんだぞ、それは)」
〈UF4〉の後部甲板に、小判鮫《こばんざめ》よろしく接合された小型潜水艇《ミゼットサブ》、〈ナーバル〉。廃棄という一語が頭の中で反響し、フリッツは声がうわずるのを自覚した。それをPsMB1に対する単純な執着と受け取ったのか、ヤニングスは静かに「Ich weiss[#エスツェットはssで代用], was ich tue.(わかっている)」と答えた。
「Aber wir haben keine andere Wahl. Wenn wir den〈Narwal〉abwerfen, werden wir 50 Tonnen leichter. Das ist der einzige Weg, nicht noch weiter zu sinken.(だが他に手はない。〈ナーバル〉を捨てれば艦は五十トンは軽くなる。これ以上の沈降を防ぐためにはやむをえん)」
「Wie wollen Sie das der Japanischen Marine erkla:ren? Das PsMB1 ist der einzige Grund, weshalb sie uns aufnehmen. Ohne Gegenleistung, glaube ich kaum, dass sie uns diesen Gefallen tun werden...(日本海軍にはなんて言いわけするつもりだ。PsMB1があるからこそ、連中はおれたちの身柄を引き受ける気になったんだ。代価も支払わずに恩恵に与《あず》かろうなんて虫のいい話、連中に通用するはずが……)」
「Wir fahren gerade vo:llig blind durch dieses Riff!(いまこの艦は目隠しで岩礁の中を進んでいるんだぞ!)」
我慢も限界といったヤニングスの怒声が、唾と一緒にフリッツの顔面を叩いた。「Wenn wir nichts unternehmen, Werden wir vielleicht auf das Riff prallen und zerquetscht werden.(しかも深度はどんどん落ちている。こうしている間にも、岩礁に叩きつけられて艦がぺしゃんこになるかもしれんのだ)Was interessiert mich da eine Gegenleistung.(百人の乗員が死ぬか生きるかという時に、代価もクソもあるか)」
ひと息にまくし立てると、ヤニングスは「Gut. Werft den〈Narwal〉ab.(かまわん。廃棄だ)」とくり返した。反駁の余地を見つける間もなく、フリッツは「Warten Sie!(待て!)」とヤニングスの肩をつかんだ。
「Geben Sie mir drei Minuten. Nein, eine reicht! Im〈Narwal〉...(三分、いや一分でいい! 〈ナーバル〉の中には……)」
そこまで言ったところで、背後からのびた腕に襟首《えりくび》をつかまれ、フリッツはヤニングスから引き剥がされた。引っ張られた勢いで壁に叩きつけられ、酸素計のメーターにしたたか背中をぶつけたフリッツの耳に、「Muss das sein?!(いい加減にせんか!)」と水雷長の叱責《しっせき》が突き通った。
巨体を仁王立ちにさせた水雷長は、フリッツが一歩でも動けば叩きのめす構えだった。図体のでかさは勝敗を分ける重要な要素であっても、決定要因ではない。子供の頃から肌の色をあげつらわれ、自分より体の大きい相手とケンカするのを当たり前にしてきた身に、水雷長を倒すのはそれほど難しいことではなかったが、今は一秒でも時間を無駄にするわけにはいかなかった。フリッツは床を蹴り、反射的につかみかかろうとした水雷長の脇をすり抜けて、艦尾側の隔壁に走った。
「Leutnant...!(少尉……!)」と呼び止める声を背中に、円形の水密戸をくぐる。水測室と電信室に挟まれた幅一メートル弱の通路を走り、烹炊所を抜けて次の隔壁へ。戦闘中は閉鎖が義務づけられている水密戸に手をかけ、開放しようとすると、誰かが制止の声をかけてきた。無視して把手《とって》を回し、「Schliessen[#エスツェットはssで代用] Sie das Luk!(閉めとけ!)」の声ひとつを残して、フリッツは開いた水密戸の向こうに飛び込んだ。
まだ煙が立ちこめる中央補助室、備品室を通り抜けた先に、目的の場所――PsMB1の整備室がある。ただでさえ少ない酸素は、一層下のバッテリー室で起こった火災に吸われていよいよ少なくなり、百人分の体臭と油の臭いで汚れきった空気は、火事場の臭気と入り混じって耐えがたいほど澱んでいる。少し走っただけで体がだるくなり、吐き気がこみ上げてきたが、フリッツはかまわずに足を動かし続けた。もとはフランス海軍の手によって造られたこの艦の巨体ぶりが、これほど疎《うと》ましく感じられたことはなかった。
復旧作業に追われる乗員たちを突き飛ばすようにして、備品室に続く水密戸を開ける。備品室には工作長と三人の水兵がおり、PsMB1の整備室に繋がる水密戸を閉鎖して、ハンドル状の把手を締結位置に回したところだった。「Warten Sie! Schliessen[#エスツェットはssで代用] Sie die Luke noch nicht.(待て! まだ閉めるな)」と一喝したフリッツは、棒立ちになった水兵を押し退けて水密戸の把手に手をかけた。
二メートル四方のPsMB1整備室には、名称とは裏腹に機械らしい機械はない。改修される前は下士官室として使われていた空間で、かつての寝棚に専用の整備キットを収めたケースが置かれ、ベルトで固定されていたが、その中身もPsMB1の管理を任されたSS士官――フリッツ以外に知る者はなかった。部屋の中央、床と天井を繋ぐ梯子《ラッタル》に取りついたフリッツは、ぬげた制帽を見向きもせずにラッタルを昇った。
天井にある直径一メートルほどの円形ハッチ、〈UF4〉と〈ナーバル〉とを繋ぐ交通筒のハッチに手をかける。これを開ければ〈ナーバル〉の艇内に入り、PsMB1の核《ケルン》≠取り出すことができる。「Was haben Sie vor?(なにをする気です!)」「Wir haben den Befehl, das Ding abzuwerfen.(廃棄命令が出てるんですよ!)」と足もとで騒ぐ声を無視して、フリッツはハッチの把手を回す腕に力を込めた。「Sind Sie noch bei Verstand, Leutnant?!(少尉、気を確かに!)」と絶叫に近い水兵の声が弾け、直後に腰をつかみ、ぐいと引っ張る力がフリッツの体勢を崩した。
把手につかまって抵抗したが、三人の水兵が相手では限界があった。ラッタルから引きずり下ろされたフリッツは、床に叩きつけられた衝撃を受け身で緩和したのもつかの間、即座に立ち上がってラッタルにしがみついた。「Worauf wartet ihr noch? Nehmt fest!(なにしてる、取り押さえろ!)」と工作長が叫び、再び三人がかりの力で床に押し倒されて、どさくさ紛れに繰り出された誰かのつま先に、思いきり脇腹を蹴られる羽目になった。
それでも必死に手を動かし、フリッツはラッタルの柱を右手でつかんだ。考えてしたことではなかった。交通筒のハッチを開けた先にあるもの、他の誰も知らないPsMB1のケルン≠フなんたるかを知り、その価値を知り抜いている肉体が自動的に動いているのだった。骨身に染みる脇腹の痛みも、三人分の体重にのしかかられた息苦しさも問題ではなく、フリッツは渾身《こんしん》の力でラックルをつかみ続け――ゴトン、と船体を震わせた金属音を聞くに至って、指先の力を萎えさせた。
拘束具が解除された音。〈ナーバル〉が廃棄されたことを告げる音だった。〈UF4〉から離れた〈ナーバル〉は、全長十八メートルと少しの船体を海流に任せ、遠ざかる母艦をよそに海底に沈んでゆく。フリッツはその光景を思い描き、うつ伏せのまま交通筒のハッチを見上げた。バルブの把手を備えた円形のハッチは変わらぬ姿でそこにあったが、それはもうなんの意味も持たない、無味乾燥な金属の蓋でしかなかった。
力の失せた体からひとり、またひとりと、のしかかっていた体重が剥がれ落ちるのを感じながら、フリッツはまず、かまわずにハッチを開けてしまいたい衝動を理性で封じ込めた。ゆっくりと身を起こし、まだ大丈夫だ、チャンスはあると自分に言い聞かせて、事態に対処する方策をひとつひとつ頭の中に列記していった。
そうしていないと気が狂うと、本能が理解していた。
「白い家」にいた時も、この薄汚れた鉄の棺桶に押し込められているいまも。狂気に満ちたこの五年間を支え、唯一光を投げかけてくれた存在と切り離された心細さ、切なさを紛らわすには、取り戻せると信じるしかない。立ち止まらずに歩き続けて、感情の波から一歩でも遠ざかるしかない。目を閉じ、沸騰する全身の細胞が落ち着きを取り戻すのを待ったフリッツは、それでもこみ上げてくる塊を抑えられず、全身を声にして叫んでいた。
「必ず迎えにくる! それまであきらめるな……!」
久しぶりに発した異国の言葉は、慣れ親しんだドイツ語より柔らかく、しっとりと体に馴染むような、それでいて重く胸に響くような感触があって、意外にも感情の波を静める効果をもたらした。もういちど交通筒のハッチを見上げ、いつもの無表情を取り戻したフリッツは、なにごともなかった素振《そぶ》りで踵《きびす》を返した。
わけがわからずに顔を見合わせる工作長たちを一瞥し、どけと目で伝えると、彼らは反射的に一歩さがって道を開けた。口中に残る日本語《ヤパーニッシュ》の感触を確かめたフリッツは、その言葉を現実に繋げるため、いまは振り返らずにPsMB1整備室を後にした。
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かつて味わったどんな衝撃とも違う、ひそやかだが抗いようのない衝撃に刺激されて、「彼女」は微かに意識を覚醒させた。
しんと聳《そび》え立つ岩礁の群れが足もとを流れ、浸食に浸食を重ねた頂の形が次第にせり上がってくる。急速に深度が下がっているらしい。ぼんやりと考え、その後、そこにあるべきものがなくなっていることに気づいた「彼女」は、軽い恐慌状態に陥った。
なぜの羅列が思考を塞ぎ、ぎりぎり維持している正気が失われる前に、「彼女」は幾重にも折り重なる水圧の壁に意識を凝らした。まだ血の色を引きずった感知野はろくに焦点が定まらなかったが、二軸のスクリュープロペラが残す航跡の筋と、その先にある巨大な質量の影を捉えることはできた。
魚を模した流線型の船体、二門の砲身を触覚のように突き出した艦橋構造。そこにあるべきもの――母艦の見慣れた形が水圧の壁を引き裂き、確実に遠ざかってゆく姿を感知して、「彼女」が最初に感じたのは恐怖でも失望でもなく、茫洋《ぼうよう》とした安堵感だった。続いて訪れたのは危機感で、「彼女」は下がる一方の深度をまずは止めるべく、自分の腕を動かすことに努めた。痛めつけられた神経系が接触不良を起こし、指一本動かすだけでも大変な努力を要したが、「彼女」はなんとか右腕を水面から引き上げた。
電流計の計器、バッテリーメーターのボックスを震える指先で順々に確かめ、舵輪の奥にあるレバーを探り当てると、渾身の力でそれを引き倒す。ふやけきった手のひらの皮がその拍子に裂け、新たな皹《あかぎれ》を作る鋭い痛みを走らせると同時に、モーターの駆動する鈍い音が狭い空間内でくぐもった。
自動|懸吊《けんちょう》装置のギアが噛み合う音がそれに続き、岩礁のせり上がる速度が徐々に緩和されて、艇が自律運動に入ったことを伝えた。気を抜けば途切れてしまいそうな意識を必死に凝らして、次に「彼女」は周囲の岩礁の形状を把握する作業に集中した。身を隠すのに適当な障害物を可能な限り捜索し、沈底、もしくは無音潜航に徹して救援を待つ。故意にせよ不可抗力にせよ、それが母艦と離れてしまった際に取る所定の行動だった。
はるか昔の海底地震で崩れたのか、伸のよい夫婦のように一方が一方にもたれかかり、そのまま一体化している岩礁の頂《いただき》が、ちょうどいい潜伏場所になりそうだった。「彼女」は背の低い方の岩礁の頂に近づき、それより四、五メートルは高い、隣の岩礁の陰に艇を沈座させた。
ごつごつした頂は不安定ではあるが、艇の自重を支えるには十分な頑丈さを持っていた。岩肌に触れた船底がわずかにたわみ、船体を微震させた途端、まだ回復しきらない精神と肉体が限界に達して、猛烈な睡魔が襲いかかってきた。当面の危機を脱したことに安心して、「彼女」は意識を凝らすのをやめた。後のことは、目が覚めてから考えればいい。そう思い、最後の力で脱却レバーを引き、上昇する座席の律動に身を任せた。
両の手のひらにひんやりとした空気が触れ、体が水面から抜け出たのだとわかった。感知野に像を結んでいたものが溶けてなくなり、真の闇が瞼の裏に戻ってくる。安堵感――母艦とはぐれたと知った時と同じ感情が全身を包み、なぜ自分がそう感じたのか、「彼女」は薄れる意識の中で理解した。
これでしばらくは悲鳴を聞かずに済む。血の海に沈むことも、答えようのない問いに苦しめられることもなく、静かに眠ることができる。たとえ目覚めない眠りになったとしても、いまはもう……。
ふと、歌が聞こえた。遠く近くに聞こえるその歌声が、自分の口から発しているものだと気づくのに数秒かかった。やさしい、しかしどこかもの悲しいメロディが自然に溢れ出てきて、「彼女」はそれを懐かしいと感じている自分を訝《いぶか》った。
いつ、どこで聞いたのか思い出せない、故郷の言葉ではない歌詞で綴《つづ》られた歌。それなのにたまらなく懐かしい。なぜだろう。もうずっと歌っていないメロディ、言語野から消去されたはずの異国の言葉が勝手に唇を震わせ、冷えきった心と体を温めてゆく。その歌を生み出した人の心、その歌を育んだ風土が、もうひとつの故郷だと教えるように――。
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名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子《やし》の実ひとつ
故郷《ふるさと》の岸を離れて
汝《なれ》はそも 波に幾月
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艇内の半分を満たす冷たい海水とは異なる、内側から滲み出る熱い雫《しずく》が閉じた瞼を濡らし、頼を伝った。眠りに引き込まれるまでの短い間、「彼女」の歌声がやむことはなかった。
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第 一 章
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ぴんと張り詰めた意識に、微《かす》かなせせらぎの音が流れ込んでくる。他にはなにも聞こえない静謐《せいひつ》の中、しんしんと頭蓋《ずがい》の奥に響き渡るのは、水圧という絶対力が囁《ささや》きかける声だ。
聞くのではなく、感じることでのみ捉《とら》えられる水の囁きに感覚を澄まし、折笠《おりかさ》征人《ゆきと》はいつものように他のいっさいを忘れていた。膨《ふく》らみきって石になった肺も、酸素を求めて悲鳴を上げる全身の細胞も。しんしん、ちりちりと頭の中で鳴り響く音に身を委《ゆだ》ねていれば、無視できる程度の雑音でしかなかった。
すぐ隣で巨体をすぼめ、じっと息を詰めている敵≠ノはそんな余裕はない。感覚を少しだけ振り向けて、征人は敵≠フ動静を窺《うかが》ってみた。肺に貯蔵した空気をとうの昔に使い果たし、食いしばった歯の隙間からひとつ、ふたつと水泡が漏《も》れ出している音が聞こえる。そろそろ限界だなと思った途端、肌をなでる水流が不自然にざわめき、勢いよく水面を破る音が頭上に弾けて、敵≠ェ緊急浮上をする気配が伝わった。
自然に緩んだ口もとを勝利宣言にしながらも、征人はまだ浮き上がる気にはなれず、膝を抱えて水中に留まり続けた。別に敵≠徹底的にへこませてやろうというのではない。水の囁きをもっと感じていたかったのだ。こうしている間は、すべてを忘れていられる。地上に蔓延《まんえん》するしがらみ、強制、息苦しさから逃れて、一個の人間として世界を受け入れることができる。
あるいは、受け入れてもらうことも――。そんな思いが頭の片隅をよぎった瞬間、不意に首根っこをつかまれ、征人は抵抗する間もなく水面に引きずり出された。
真昼の陽光を浴びてきらめく飛沫《しぶき》が視界いっぱいに広がり、続いて入道雲の沸き立つ青空、なだらかな稜線《りょうせん》を描く山の緑、真夏の太陽を乱反射させる川面が順々に目に入ってくる。川岸では五人の子供たちが土手を背にたむろしており、征人は視界を滲《にじ》ませる水滴を払ってそちらの方を見た。真っ黒に日焼けした体に、そろってあつらえたようなボロのランニングをまとった彼らは、ある者は満面の笑顔で手を叩き、ある者はつまらなそうに手もとの石を放って、腰まで川に浸かった征人を見返してきた。
賭《か》けでもしていたのか? 思いつく間に、勝ち組の少年が勢いよく立ち上がり、「痩《や》せの兄ちゃんの勝ち!」と行司《ぎょうじ》さながら片手を上げる。素潜《すもぐ》りした後の常で、ぼんやり呆けた顔で十歳前後の少年の顔を見返した征人は、五分刈りの頭をがっしりとつかまれ、無理やり横に振り向かせられた。
「おまえは河童《かっぱ》か」
そう言うと、清永《きよなが》喜久雄《きくお》は半ばつき飛ばすように征人の頭を放した。本気で呆《あき》れきっているまる顔が可笑《おか》しく、征人は笑顔を返事の代わりにした。
勝負を持ちかけてきたのは、清永の方だ。呉《くれ》に行く前に広島まで足をのばし、ついでに羽根ものばそうというのは当初からの計画だったが、羽根をのばすのに必要な金をどちらか一方が払うようにしよう、と清永が言い出したのは一時間ほど前。尾道《おのみち》から一駅離れた糸崎《いとさき》で、乗り換えの汽車を待っている間のことだった。ようは退屈しのぎになにかしたいだけだろうと察しながらも、自分自身、横須賀から揺られ通しの汽車の旅に飽き飽きしていた征人は、その勝負を受けてやるつもりになった。
年を追うごとに悪化する食糧事情をよそに、身長五尺七寸(約百七十センチ)、体重二十三貫(約八十六キログラム)の巨体を維持する清永に対して、征人はあくまでも標準体型。標準と呼べるようになったのも、ここ数年の日本人の平均体重が下がってくれたからで、どちらかと言えば小兵《こひょう》の部類に入る。当然、相撲などの力勝負は成り立たず、かと言ってこの炎天下では頭を使ってどうこうという気にもならない。とりあえず糸崎駅を離れ、夏草が蒸れる畦道《あぜみち》を考えなしにぶらついているうちに、幅五間(約九メートル)ほどの小川が目について……というのが、素潜り我慢くらべの発端だった。
こと素潜りに関しては征人も自信がある。それを知っている清永は汚い、卑怯だとさんざん渋ったが、汽車の煤煙《ばいえん》と汗にまみれた体に、涼しげに流れる川の水は抗しがたい魅力を放っていた。なんならハンデをつけてやってもいい、と言った征人の言葉も効果的だった。生来の負けん気に火がついたのか、清永はあっという間に褌《ふんどし》一丁の格好になり、地元の子供らが釣りの真似事をしているのを尻目にざぶんと川に飛び込んで、早く来いと征人を睨《にら》みつけてきた。魚が逃げるじゃろうがと不満の声を上げた子供たちも、おまえらは審判だ、こいつがズルしないようによく見とけと、逆に清永に怒鳴り返されると静かになった。征人はおもむろに服をぬぎ、清永が待ち受ける川に入って――予定通り、勝利を納めたのだった。
気が引けないではなかったが、広島市内で自由に過ごせるのはせいぜい数時間。限られた時間で、十七歳の若僧二人ができる遊びなどたかが知れている。こうでもしなければ十円の餞別《せんべつ》は余らせてしまうに決まっているし、別の機会までとっておこう、という選択肢が許される身の上でもなかった。餞別をまるまる無駄にする役を引き受けただけだと納得して、征人は木陰においた荷物の脇に腰を下ろした。これも生来の後腐《あとくさ》れのなさで、清永は勝負のことなどすっかり忘れた様子で子供らとじゃれあい、征人の方に賭けた子供を川に放り込んだりしていた。
川の水に冷やされた肌に、真昼の日差しが心地好かった。連日の猛暑にさらされ、土手の草は煮染《にし》められたような濃い緑だったが、鉄とコンクリートのくすんだ色に慣らされた目には、そんなものでも新鮮で貴重に感じられた。熱に膨脹しきった空気が澱《よど》む横須賀《よこすか》港と違って、ここには夏本来の爽《さわ》やかな暑気がある。蝉《せみ》の声、羽虫の音、子供たちの歓声を遠くに聞きながら、征人は対岸に広がる田圃《たんぼ》の絨毯《じゅうたん》を眺め、入道雲を背負って連なる山々の縁を眺めた。草いきれと土の匂いを嗅ぎ、川から漂ってくる水の甘い香りを肺いっぱいに吸い込んだ。
毎年めぐってくる夏の、きっとはるか昔から変わらない眺めと匂い。物心がついてから何度も味わってきたはずなのに、ひどく懐かしく感じられる。そう言えば、去年の夏はこんなふうにゆったりと自然を感じる時間は持てなかった。一昨年も、その前の年も。少しずつ、しかし確実に迫ってくるなにか≠ノ追い立てられて、季節ごとに変わる空の色や、風の匂いを感じ取る余裕をなくしてしまっていた。それは征人だけでなく、この国に住むほとんどの人が失っている感覚だった。
ここには、まだそのなにか≠フ力は及んでいない。征人はもういちど深呼吸をして、夏の匂いを嗅いだ。自分という存在が消えた後も、この匂いは毎年めぐってくるのだろう。ふと思いつき、それは寂しいな……と思った途端、冷たい感触が顔に弾けた。
膝まで川に浸かった清永が、にやにやこちらを見下ろしていた。「なにぼけっとしてんだよ。そろそろ行くぞ」の言葉が終わらないうちに、そのまま土俵に上がれそうな褌姿を屈《かが》め、再び川の水を引っかけようとする。飛んできた水を軽く上体を逸らしてかわし、征人は懐中時計に時間を確かめた。十三時四十分。次の汽車が到着するのは十四時五分だから、あと三十分もない。清永に手拭《てぬぐ》いを投げつけて、征人は急いで自分の荷物を引き寄せた。
濡れたままの褌が気持ち悪かったが、我慢して上からズボンをはいた。「がさつな奴だな」と白い目を向けた清永は、自分は褌をほどいて素っ裸になり、人の手拭いで股のあたりをごしごしやっているところだった。征人は「急ぐんだろ?」と応じて、おまえにだけは言われたくないという思いは胸の中に留めておいた。清永は意に介する気配もなく替えの褌を締め、先刻まで着ていた七分丈の着物を雑嚢《ざつのう》に突っ込むと、代わりに風呂敷の包みに手をのばした。
ほどいた風呂敷から「大日本帝國海軍」の金文字が目立つ軍帽を取り出し、鼻唄まじりで夏用の兵軍衣に袖を通す。水遊びにいそしんでいた褌姿から、みるみる帝海(帝国海軍)の水兵になってゆく清永を、征人は半ば呆然の思いで見つめた。
「……なにやってんだ?」
「なにってなんだよ。おまえもさっさと着ろよ」と口を尖《とが》らせると、清永は真新しい上等工作兵の袖章を右腕に確かめ、にんまりと相好《そうごう》を崩す。征人は、「だって、軍服は着るなって命令だろ?」と言い返した。
三日前に横須賀|鎮守府《ちんじゅふ》で転属命令を受けた際、行き先の次に聞かされたのが、『目的地に到着するまで軍服の着用を禁ず』という一文だった。理由は明かされなかったが、そのために民間人用の旅行許可証まで用意した軍の意図は、軍属と悟られないようにして任地に向かわせることにある、と見て間違いなかった。
赴任先には軍装で赴《おもむ》くのが普通で、汽車の切符を買うのにも許可証が必要な昨今、民間人の格好をしていればそれだけ余分な面倒もかかる。将校ならまだしも、一介の水兵を転属させるにしては手間がかかりすぎているし、いったい誰に悟られないようにするのかと気になったが、命令は受け取るもの、服従するものと心得ている征人は、それを平然と反故《ほご》にする清永の行動に呆れた目を向け続けた。スカーフを結ぶ手を止めずにこちらを見返し、清永は「わかってねえなあ……」と露骨に顔をしかめた。
「この方が安くつくし、サービスもよくなるんだよ」
「サービス?」
意味もなく左右を見回し、清永は小指を立てた右腕をさっとかざしてみせた。心臓がひとつ大きな脈を打ち、征人はわけもなく顔が紅潮するのを自覚した。
「広島で羽根をのばすって、そういうことなの……!?」
「大きな声を出すな!」その方がよほど大きい声で遮《さえぎ》ってから、清永は一斉に振り向いた子供たちから視線を逸らし、小声で付け足した。「当たり前だろうが。他になにすることがあるんだよ」
「映画でも観るのかと思ってた」
「アホ。なにが悲しくて、娑婆《しゃば》での最後の時間をおまえと映画観て過ごさにゃならんのだ」
ぴしゃりと言い放ち、清永は征人の風呂敷を顎《あご》でしゃくった。はいたばかりの国民服のズボンをぬぎ、しぶしぶ自分の兵軍衣を取り出した征人は、「……でも、命令違反はまずいだろ。やっぱり」と詮《せん》ない抗弁をした。
「広島を出るとき私服に着替えりゃいいんだよ。早くしねえと汽車が……」
「なんじゃ、兄ちゃんらは兵隊さんか」という声が不意に振りかけられて、清永は口を噤《つぐ》んだ。その声のあまりの硬さに、征人もズボンをはく手を止めて背後を振り返った。
そろって笑顔を消した子供たちを背に、いちばん年嵩《としかさ》と見える十歳前後の少年がこちらを見つめていた。素潜り勝負で征人の勝ちを宣言した子だと気づいたが、真っ黒に日焼けした顔に先刻までの親しみはなく、白く目立つ両の眼には非難の色があって、征人はなにかしら気圧《けお》されるものを感じた。
「兵隊さんが、なんでこんなとこで遊んどるんじゃ」
からみつく口調だった。清永と戸惑い顔を見合わせた後、征人は「新しい任地に行く途中だよ」と答えた。
「嘘じゃ!」と叫んだ少年の顔がますます険《けわ》しさを際立たせた。
「ほんならなんでさっきは軍服着とらんかった」
両の拳をぎゅっと握りしめ、そうしていなければ倒れてしまうかのように足を踏んばった少年から、ふとなにか≠フ気配が立ち昇った気がした。相手は子供、軍機だのひと言で片付けられると思う一方、出し抜けに現れたなにか≠フ臭気に胸を塞《ふさ》がれて、征人はただ少年と向き合い続けることしかできなかった。その間に「脱走兵なんじゃろ」と少年が重ねて、「バカ言え!」と怒鳴り返した清永の声が耳元に弾けた。
思わず肩を震わせた少年を睨みつけ、清永の巨体がずいと前に出る。よそ者二人が隠し持っていた軍服をちらつかせれば、少年が邪推するのも無理はなかったが、大股で少年に歩み寄ってゆく清永には笑い話で済ますつもりはないようだった。あとずさりたいのを必死に堪《こら》え、「わしの兄ちゃんは、ラバウルで名誉の戦死をしたんじゃ!」と叫んだ少年の声が、棒立ちになった征人の体を小さく揺らした。
「天皇陛下のために戦って、護国の鬼になったんじゃ! おまえら、脱走なんかして恥ずかしゅうないんか!」
「このガキ、なに勝手に決めつけてやがる……!」
ランニングの襟《えり》をつかみ上げ、清永は拳骨で少年の丸刈り頭を小突《こづ》いた。軽くやったように見えても、長年弟たちのしつけを任されてきた清永の拳骨は伊達《だて》ではなく、やられた方はひどく痛い。案の定、少年は頭を押さえてその場にうずくまってしまった。
固唾《かたず》を飲んで見守っていた他の子供たちが、おそるおそる少年を取り囲む。気が済んだのか、清永が苦笑顔をこちらに振り向けたが、征人は笑い返すことができなかった。名誉の戦死、護国の鬼。少年の言葉が慣れ親しんだ息苦しさに変わるのを感じ取りながら、征人は無言で兵軍衣に袖を通し、襟のスカーフの形を整えた。
「……憲兵に言いつけちゃる」
暗い声が背中に当たり、征人は再び指先を硬直させた。同じく凍りついた清永の肩ごしに、ゆらりと立ち上がった少年の顔が見えた。
頭のこぶを押さえたまま、その目はより強くなった憎悪を湛《たた》えてこちらを睨《ね》めつけている。まずいと思った時には、「てめえ、まだわかんねえのか!」と吠《ほ》えた清永が少年につかみかかり、慌てて飛びすさった少年が、「死刑じゃ! 銃殺じゃぞ!」と叫んで土手を駆け上がり始めた。
ろくに電柱も見当たらない田舎のこと、すぐに憲兵が飛んでくるとも思えないが、少年が親や駐在《ちゅうざい》に事の次第を話せば面倒なことになる。清永と視線を交わしたのも一瞬、征人は少年の後を追って土手を駆け上った。「おい、待てよ。話を……」と呼びかけ、夢中で逃げる半ズボンの裾《すそ》をつかみかけた刹那《せつな》、急に振り返った少年の恐怖に見開かれた目が征人の顔を直視した。
白い閃光《せんこう》が瞬《またた》き、同時に鈍い音が発した。反射的に額を押さえ、征人は土手の斜面に膝をついた。少年が、振り向きざまに石を投げつけてきたのだとわかったのは、ぬるりとした感触が手のひらに伝わってからだった。
逃げるのも忘れた様子で、少年はじっとこちらを見下ろしている。当てるつもりはなかったのだろう。怒るより先に情けなくなり、征人はひりつく額の痛みを堪えて立ち上がった。今にも泣き出しそうな日焼け顔を見返し、大丈夫だと伝えようとした時、「てめえ……!」という怒声が土手の下で弾けた。
ひと息に土手を駆け上がってきた清永は、制止する間もなく少年の胸倉《むなぐら》をつかみ、斜面に突き倒した。咄嗟《とっさ》に起き上がろうとした少年を草地に押さえつけ、「そんなに知りたきゃ教えてやる!」と怒鳴った声の激しさに、征人は額の痛みが増すのを感じた。
「おれたちは横須賀突撃隊っていってな、毎日毎日土管みてえにちっこい潜水艇に乗って、敵艦に体当たりする訓練やってんだ。特攻部隊なんだ。今は呉鎮守府に向かう途中で、向こうにつくまでは軍服着るなって命令されてんだ。わかったか!?」
清永の腕を外そうともがいていた少年の力が抜け、恐怖と驚きの入り混じった視線が征人の方を見た。ポケットのハンカチで額の傷を押さえ、征人は目を合わさないようにした。
「おれもこいつも、死ぬ時は敵艦を道連れにするって決まってるんだ。この体が、本土決戦のための武器弾薬になるんだ! おめえみてえなガキに、傷物にされる謂《いわ》れはねえんだよ……!」
複数のしゃくり上げる声が川のせせらぎに混じり、ひとりが泣き出すと、それはつぎつぎ他の子供にも伝染していった。別に清永を怖がっているわけでも、これから死にゆく二人の兵士に同情しているわけでもない。疎開《そかい》、罹災《りさい》、肉親との死別。空腹を空腹と呼ぶのも億劫《おっくう》な食糧不足。日頃は直視を避けている痛み、子供の身にも確実にのしかかっているなにか≠ェ不意に形になり、やりきれない息苦しさをまともに受け止めた心が、処理の仕方を知らずに涙を流させたのに違いなかった。唇を噛み、嗚咽《おえつ》を堪える少年の顔を見下ろした征人は、「もういい、もうよせよ」と清永の肩に手を置いた。
「だけどよ……」
「おれなら平気だから。早く行こう」
血に染まったハンカチを外し、凝固し始めた傷口に軽く触れてから、征人は返事を待たずに土手を下った。子供たちの泣き声を背に手早く荷物をまとめ、雑嚢を肩にかけると、不承不承の顔を隠しもしない清永が後に続いた。
少年は土手の斜面に仰臥《ぎょうが》したまま、ぴくりとも動かずに空を見上げていた。明るい青空を映しているにもかかわらず、ひどく暗い少年の瞳が征人の印象に残った。
それからはほとんど交わす言葉もなく、征人は清永と並んで駅への道をたどった。太陽はいよいよ激しく、水田の稲を青々と輝かせていたが、それを貴重と感じる神経はすでに途絶していた。
木造の駅舎が見えてくると、息苦しい感覚はいっそう確かなものになった。国民服に身を包んだ老人、畑仕事を抜け出してきたらしい野良着姿の中年の男、つぎを当てたもんぺをはいた婦人と、その周囲にまとわりつく子供たち。二十人は下らない人々が駅の前に集まり、手に手に日の丸の旗を掲げて、出征兵士を送る幟旗《のぼりばた》の下、直立不動になっている三十がらみの男を囲む光景があった。
在郷《ざいごう》軍人らしい年配の男が、「石井郁雄君の征途を祝して……」と喋《しゃべ》っている声が微かに聞こえた。枯草色の国民服に白いたすきをかけ、どこか一点を見つめる三十がらみの男は、しかし年配の男の演説など聞いていないだろう。その目に妻を、両親を、いるなら子供の顔を焼きつけるのに精一杯で、他の人の顔はいっさい見えていない。大切な人に自分の姿を見てもらえるのは、これが最後かもしれないと知っているから――。
万歳三唱がわき起こり、白く乾いた真昼の空気を揺らした。征人と清永も、その場に留まって敬礼をした。若い水兵二人の姿に気づくと、三十がらみの男は怪訝《けげん》そうな顔になり、すぐに慣れない挙手敬礼をして少し顔をほころばせた。
なにか=\―戦争は、ここにも確実に力を及ぼしている。男が改札をくぐるのを見届けてから、征人は真夏の陽光が降りそそぐ青空に目をやった。
昭和二十年、七月二十三日。戦争に呑み尽くされようとしているこの国の大地をよそに、空はどこまでも明るく、穏やかに澄み渡っていた。
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「全員、教本は閉じろ。今日はこれについて話をする」
そう言って、絹見《まさみ》真一《しんいち》は整然と居並ぶ学生たちに背を向け、黒板の中央に一連の文字を書き始めた。しばらくは黒板に叩きつけられる白墨《はくぼく》の音だけが教室内に響き渡り、書き終える頃になると、それぞれ顔を見合わせ、動揺の吐息を漏らす二十数人分の気配が背中を打つようになった。
いつもの反応だったので、絹見は手をはたいて白墨の汚れを落とし、涼しい顔で学生たちに向き直った。広島県、大竹市にある海軍潜水学校の教室の窓ガラスは、昨今の家屋のほとんどがそうしているように、米印に交差させた紙テープが内側に貼ってある。空襲の際にガラス片が飛び散るのを防ぐための措置で、お陰で教室は昼間にもかかわらず薄暗かったが、今日はいつも以上に学生たちの表情が見え辛《づら》かったことが、絹見を少し不安にさせた。
また目が悪くなったのか? 不衛生極まりない鉄の棺桶《かんおけ》にこもり、時には半月も日の目を見られない生活のツケが今ごろ祟《たた》ったのか、このところ視力が衰《おとろ》えてきているのは自覚していたが、まだ眼鏡が必要になるほどではないはずだ。窓の外に夏の日差しを確かめ、目頭を揉《も》んでから、絹見はどこかぼやけて映る学生たちの顔をあらためて見渡していった。
潜水学校と言えば、かつては大尉《だいい》の初年、すなわち中堅の将校が入学するものと決まっていたが、開戦後間もなく実施された教育体系の改変により、今では兵学校を出て間もない若手将校が机を並べるようになっている。この普通科学生教程では特にそれが顕著で、各々の机の上に抱き茗荷《みょうが》の帽章を頂く軍帽が置かれていなければ、高等学校の教室と言ってもなんの違和感もない。絹見は目を凝らし、中央あたりの列に座っている学生の顔に焦点を合わせてみた。白い詰襟《つめえり》の第二種軍装に少尉を示す肩章をつけ、いかにも居心地恵そうにしている赤ら顔が明瞭になり、内心ほっと息をついた。
「今日と明日で座学は終《しま》いになる。練習艦における乗艦訓練も残り数回で終わり、諸君らは晴れて帝国海軍潜水艦の乗組み将校となる。潜水艦の構造、操艦に必要な基礎知識はもう十分に学んだだろう。あと知っておかなければならないのは、これだ」
軽く黒板を叩いた拍子に、『帝国海軍潜水艦戦備の誤り』と書かれた文字から白墨の粉が散った。上官が白と言ったら、黒いものでも白。兵学校に入学して以来、徹底した上意下達《じょういかたつ》に慣らされている学生たちは、顔をうつむける無作法な真似こそしなかったものの、その目は頑《かたく》なに『誤り』の二文字を映すことを拒んでいる。ぴんと背筋をのばして固まった学生たちの顔を順々に眺め、居心地の悪そうな赤ら顔に視線を戻した絹見は、「日野少尉。一例をあげてみろ」と間髪入れずに指名した。「は、は……!」とあわてて立ち上がった赤ら顔から、みるみる血の気が退いてゆくのがわかった。
「自分は、その……。特に誤りと呼べるものはありません」
「ほう。では完璧か?」
意地悪な質問であることは先刻承知だが、三年以上の長きにわたって軍隊式の思考回路を植えつけられ、半ば硬直している学生の頭をほぐすには多少のコツが要求される。「いえ、完璧というわけでは……」と、困り果てた声を出した赤ら顔に「座ってよし」と言ってから、絹見は戦々恐々の面持ちで座る学生たちに口を開いた。
「この世に完璧なものはそうそう存在しない。そして完璧でない限り、必ずどこかに誤りがあるものだ。近頃は精神主義が横溢《おういつ》しすぎて、多少の誤りは気力で補えというような風潮もあるが、これから諸君らが乗り込む潜水艦は精密な機械装置の塊だ。ピン一本の故障が致命傷になる。精神主義が割り込む余地のない、融通のきかない物理法則だけが支配する世界だということは、これまでの学習で諸君らも承知しているだろう。そこで生き抜くためには、現実を見据える冷徹な視線を養う必要がある」
無論、普通科学生の座学課程には、『海軍戦備ノ誤リヲ学生ニ指摘セシムル』などという講義は含まれていない。他の教官に見つかったらただではすまないこともわかっていたが、絹見は、座学の修了に際しては必ずこの講義を行うのを常にしていた。海軍潜水学校の教官を拝命してじき三年、三ヵ月単位で入れ替わる学生たちを相手に、もう十回以上同じ話をした計算になるが、この講義が外部に漏れて問題になったためしもない。どだい、潜水艦《ドンガメ》乗りとしてはとっくに寿命が尽きている四十三歳のロートル将校に、気にしなければならない他人の目があるわけでもなかった。
「いずれ諸君らは艦長になるだろう。その時、どれだけ正確に現状を把握し、冷静に指揮を執《と》ることができるか。百人からなる乗員たちを生かすも殺すも、その一事にかかっていると言っていい。命令には絶対服従で応えねばならんが、全体を見る目を持ち、可能なことと不可能なことの見極めがつけられれば、少なくとも犬死にする事態は回避できる。誤りと書いたが、これは帝海に対する批判を目的としたものではない。事実を見据え、問題点を拾い出し、可能なら改善の方法を探る。一種の訓練だと思え。出世も打ち止めの本官と違って、将来の潜水艦部長になる道も開けている諸君らには、ぜひ活発な問題提示を期待したい」
微かに座が沸《わ》き、学生たちの顔から警戒の被膜が一枚はがれ落ちるのが伝わった。今回はなかなか食いつきがいいと思う間に、窓側の席に座っている学生が「はい」と手を上げ、絹見は「板橋少尉」とその学生の発言を促した。
「では恐れながら申し上げます。その潜水艦部ですが、なぜ部なのでしょう」直立不動の体に緊張を漲《みなぎ》らせながらも、その学生はまっすぐ絹見の日を見返して続けた。「水中に潜《もぐ》って戦う潜水艦は、水上艦艇とは運用方法が根本的に異なります。航空部隊が航空本部の指揮下に置かれているように、潜水艦隊も独立した本部を中央に設けた方が、より有効な戦策を打ち立てることができます。潜水艦部はその考えに従って急きょ発足した部局ですが、本部より扱いが一段下になる部として発足したのは、いかにも間に合わせの中庸《ちゅうよう》策という印象が拭えません。官制の変革には多大な手間と時間がかかるのでありましょうが、士気にも影響することですから、今後の改善が望ましいと考えます」
「そうだな」と応じた絹見は、最初にしては少々重い問題提示をした学生の目を見続けることができず、無意識に顎を引いて視線を逸らしていた。今後の改善、か。いまの我々に、今後という言葉があり得るのか?
「他には?」
「初期の用兵思想に固執《こしつ》して、潜水艦戦備の方針転換が後手後手に回ってしまったことがあげられます」
ぽつぽつ上がり始めた手のひとつを指すと、起立した長身の学生がやや上ずった声で言った。「開戦前、潜水艦はその隠密性と機動性を利して、日本に侵攻する米艦隊を迎撃追尾し、反復攻撃を加えて、その艦隊戦力を漸減《ぜんげん》せしむるよう期待されていました。しかし実際には、足の遅い潜水艦で敵艦隊を追尾するのは極めて困難であります。また艦橋《かんきょう》が低く、視界の狭い潜水艦を前線に配置したところで、敵情を事前に偵知するのは不可能に近く……」
「明確な方針が打ち出せないまま、我が方の潜水艦は日々激しくなる米海軍の対潜攻撃の餌食《えじき》にされてきました。そしてようやく海上交通破壊を主体とする新戦備が施《ほどこ》された頃には、戦局は悪化の一途をたどり、潜水艦の出番と言えばモグラ輸送が主流になっていた。前線で孤立する部隊に補給物資を届けるのは、たしかに尊い任務です。しかしより多くの物資を積むために魚雷発射管まで外してしまって、これでは酒屋の御用聞きと同じです。我々は運送屋になろうと思って海軍に志願したのではありません」
間違った意見もある。若さゆえの思い込み、言うは易《やす》しの性急な理論もある。堰《せき》を切ったように話し出した学生たちの声を冷静に受け止めつつ、しかし絹見はこれでいいと思っていた。
不満は吐き出してしまった方がいい。人並み以上に優秀な頭を持つ海兵(海軍兵学校)卒の若者なら、いまの海軍の潜水艦戦備には不満を抱くのが当然だ。ここでなにもかもぶちまけて、すっきりしておくのがいい。なぜなら君たちには、今後二度と不満を口にする機会が与えられないからだ。
これから赴《おもむ》く戦場で、君たちは数えきれないほどの理不尽と直面する。明らかに間違った命令に従い、みじめな気分を味わうこともある。だがどんなに非合理な立場に立たされても、将校は平然としていなければならない。愚痴はもちろん、態度や表情に内心の忿懣《ふんまん》を出すことも許されない。兵たちは常に将校の顔を見ている。将校の不安と不満は悪質な流行病となって、すぐに艦内中に広まる。そしてその艦の寿命を縮める結果をもたらす。
だからここで不満を言い合って、同じ思いを抱く仲間がいることを励みにして、後は口を閉ざしていろ。言ってもどうにもならないことだと、賢明な君たちならいずれ嫌でもわかる時がくる。そういう時代、そういう国の軍隊に君たちは雇《やと》われたんだ。
どうせ理不尽な命令に従うしかないのなら、寝た子を起こすような真似はせず、精神主義に浸《ひた》しておいてくれた方がよかったと思う者もいるかもしれない。しかし君たちは将校だ。残酷かもしれないが、すべてを了解した上で理不尽と向き合わなければならない。いちばん恐ろしいのは、理不尽を理不尽とも感じなくなる神経の麻痺《まひ》だ。同じ命令に従っていても、君たちの自覚|如何《いかん》でひとりでも多くの兵が死なずに済む。それぐらいしかできないんだ。勝つことも、負けることもできない戦争に与《くみ》している我々には――。
言葉が言葉を呼び、いつしか教室は自由討論の場になっていた。そろそろ締《し》め時だなと心得て、制止の口を開きかけた絹見は、「いいではありませんか」という聞き知った声を耳にして、その場に棒立ちになった。
薄暗い教室の片隅、ひときわ濃い影に覆《おお》われた廊下側の最後列の席で、見覚えのある顔がこちらを見ていた。おもむろに立ち上がり、闇を引きずって近づいてくる白い詰襟姿を、絹見は声を失ってただ見つめ返した。
「たしかに海軍は潜水艦戦備を誤った。しかしそれは潜水艦に限ったことではないし、海軍に限ったことでもない」
絹見|忠輝《ただてる》は、「そうでしょう? 兄さん」と付け加えて教壇の手前で立ち止まった。最後に見た時と少しも変わらない、浅黒い肌に人懐《ひとなつ》っこい笑みを浮かべる弟の顔を前に、絹見は指一本動かすことができなかった。
「だいたい、もうそんな些細《ささい》な誤りに気を煩《わずら》わせる必要もない。山積する問題を一挙に解決する、すばらしい妙案を帝国海軍は編み出したじゃありませんか。特殊潜航艇や、〈回天《かいてん》〉を中心とする新たな戦備……特攻という名の戦備を、ね」
蝉の声も、昼下がりの陽光も消えてなくなり、血の色に似た暗い夕陽が窓から差し込んでいた。ガラスに貼られた紙テープが忠輝の顔に影を落とし、なにかを責め立てる目の光だけが絹見の眼前で揺れた。
「残存する大型潜水艦は〈回天〉の母艦となり、特殊潜航艇は本土防衛の特攻兵器として沿岸に配置される。滅多なことでは狙いを外さない人間魚雷が、この国を侵略の魔の手から守るんです。ここにいる学生たちの何人がその射手になり、何人が自ら魚雷に乗り込むことになるんでしょうね? 七生報国《しちしょうほうこく》、ひとえに母国の弥栄《いやさか》を願う武士の魂が、精密機械装置の一部となって敵艦に体当たりする。……おかしいな。精神主義の入り込む余地がないはずの潜水艦が、結局は精神主義に頼るしかなくなるなんて」
笑った唇から覗《のぞ》く歯の色が、火葬場で拾った時の骨の色を思い出させた。絹見は唯一動かせる目を動かして、しわぶきひとつ立てずに着席している学生たちに救いを求めた。教室はいよいよ薄暗く、学生たちの表情を判別することさえできなかった。
「兄さんこそ、彼らに本当の誤りを教えてやったらどうです。木を見て森を見ずみたいな話で茶を濁《にご》しても、これから死ぬ人間には慰めにならない。慰められるのは兄さん、あなたのちっぽけな良心だけですよ」
教壇に上がり、すぐ横に立った忠輝の体から、線香の匂いが立ち昇ったような気がした。絹見は相変わらず身じろぎもできず、「諸君!」と弾けた忠輝の声を聞いても、顔の見えない学生たちに向き合ったままだった。
「いちばんの誤りは、この戦争を始めてしまったこと。勝ち目のない戦争を仕掛けて、国を滅ぼしたことだ」
忠輝の声が教室いっぱいに広がり、棒になって動かない体の芯《しん》を打って、絹見は唐突に体の自由を取り戻した。ぎしぎしと軋《きし》む首の痛みを無視し、忠輝の方に振り返ると、白い軍装に包まれた背中はすでに教室の戸口をくぐり抜けようとしていた。
忠輝、と絹見はその背中に呼びかけた。声にはならなかったが、立ち止まった忠輝は少しこちらに顔を向け、「あなたにもそれはわかっている」と低く呟いた。
「わかっていながら、いつまで茶番を続けるつもりなのか……」
悲しげに響いたその声が、間違いなく歳の離れた弟のものだったことが、絹見の芯をもういちど揺さぶった。ではどうしろと言うんだ。なにをすればおまえはおれを許すんだ。声にならない声で叫び、絹見は教室を出た忠輝の背中を追った。
教室同様、窓から差し込む暗い赤が廊下を包んでいた。紙テープの影が木造の廊下に幾何学模様を織り成し、忠輝の軍靴《ぐんか》がその上を音もなく歩いてゆく。ひどく重たい足を懸命に動かし、絹見は次第に遠ざかる弟の背中に追いすがろうとした。忠輝は振り向く気配も見せずに廊下を歩き、階段を下りて、海軍五省を収めた額が見下ろす一階の玄関口に足をつけた。
至誠に悖《もと》るなかりしか。言行に恥ずるなかりしか。気力に缺《力》くるなかりしか。努力に憾《うら》みなかりしか。不精に亘《わた》るなかりしか。兵学校で毎日欠かさず唱えさせられ、今では生理の一部になっている五省の文句。ある時を境に、胸をつく針になって体の奥底に根づくようになった言葉が、この時も重い痛みを伴って胸を貫いた。思わず立ち止まった絹見を尻目に、忠輝は玄関脇にある庶務課の扉をくぐってしまい、閉じられた扉の音が玄関口に響き渡った。
絹見も扉を開け、庶務課の部屋に足を踏み入れた。きちんと整頓《せいとん》された事務机が並ぶいつもの光景はなく、暗く湿った畳部屋が扉の向こうに広がっていた。仏壇、卓袱台《ちゃぶだい》、箪笥《たんす》。閉め切った雨戸から差し込む光がぼんやりそれらを浮かび上がらせ、振り子が刻む秒針の音が湿った空気をゆっくりかき回す。父が買ってきた壁時計、ドイツ製の壁時計の音だ。ここは東京の実家だとなんの違和感もなく理解した絹見は、最後に部屋の中央に立ちつくす忠輝の背中を視界に入れた。
開け放たれた襖《ふすま》、積み上げられた本、梁《はり》にかけられた腰巻の紐《ひも》と、それを手に本の上に立っている忠輝の背中を見るのは、これで何度目か。見たはずがないのに、細部に至るまで鮮明にくり返される光景を前にして、絹見は無駄とわかっても走り出していた。卓袱台を蹴倒し、手をのばせば届きそうな、それでいて無限の彼方にある背中に飛びかかる。忠輝の足が踏み台代わりの本から離れ――人ひとりの体重を支えた梁の軋む音と、畳の上に散らばった本の乾いた音が、絹見の鼓膜に突き通った。
「将校殿、落ちよりましたが」
しわがれた声が耳元に響き、絹見は目を開けた。
最初に戻った感覚は、脇《わき》の下を湿らせる汗の冷たさだった。ここがどこか、自分がなにをしているのか咄嗟に判断がつかず、とにかく顔を上げると、捩《ねじ》りはち巻きをしたゴマ塩頭がすぐ目の前にあった。
風の音に波を切る音が相乗し、蒸気エンジンの長閑《のどか》な音も加わって三重奏を奏でている。むっとした熱気の中に、魚臭と石炭臭の入り混じった饐《す》えた臭いを嗅いだ絹見は、あらためて正面に立つゴマ塩頭の船長と目を合わせた。石炭運搬船に便乗し、江田島《えたじま》に向かっている我が身の所在を思い出して、ようやく船長が差し出す本を受け取った。
『戦争指導の実際』と表紙に刷られた本は、大竹本校の図書室から借りてきたものだ。江田島に着くまでの暇潰《ひまつぶ》しのつもりが、いつの間にか寝入ってしまったらしい。人生の大半を海で過ごしてきたと見えるゴマ塩頭の船長は、「さすが将校殿、難しい本を読んじょられますなあ」などと言っていたが、別に離しくはない、つまらないだけだと思った絹見は、苦笑顔で無愛想な装丁の本を鞄《かばん》に戻した。海軍中将が著《あらわ》した本ということで、同僚教官たちが話題にしていたから手にしたまでで、本気で読み込むつもりは毛頭なかった。
「あと十分くらいで着きますけえ」と言い置いて、船長は操船台の方に戻っていった。軍帽をぬぎ、顔いっぱいに噴《ふ》き出していた汗を拭った絹見は、外の空気を吸おうと思い立って腰を上げた。口中に溜まった唾の苦味に、歳相応に古びた肉体の衰えを実感しつつ、船室とは名ばかりの物置部屋を後にした。
海軍兵学校が居を構える江田島を筆頭に、大小の島々が点在する広島湾の海は、昼過ぎの閑散とした空気を引き移したように凪《な》いでいた。船首から船尾まで二十メートルもない石炭船の乾舷《かんげん》は低く、遠方までは見渡せなかったが、左舷側に横たわる広|航空廠《こうくうしょう》の灰色の連なりが、全体的に焼け焦《こ》げた色になっているのを確かめることはできた。二ヵ月前の空襲の惨状を思い出し、鼻腔《びこう》に絡《から》みつく火事場の臭いも思い出してしまった絹見は、右舷側に回って潮の香りを嗅ぐのに専念した。
潮と油を吸ってぶよぶよになった木造の甲板は、歩くたびに軋む音がした。潮の香りに触れても思ったほどの解放感は得られず、絹見は仕方なく真夏の猛威を振るう太陽を見上げてみた。目に染みる青空、水平線を彩る入道雲、穏やかな緑を湛《たた》えた江田島。順々に視線をめぐらすうち、先刻の悪夢の余韻《よいん》も徐々になりを潜《ひそ》めてゆくかに思えたが、ふと視界の端に入った黒い物体が、再び暗澹《あんたん》とした思いを絹見の胸中にしこらせた。
呉の南東に隆起する休山《やすみやま》の稜線を背景に、全長二百メートルを超す小島のような巨体を浮かべているのは、戦艦〈日向《ひゅうが》〉の威容だった。十五階建ての建築物に相当する艦橋構造部、ちょっとした邸宅ほどの大きさがある三十六センチ砲の砲台を甲板に連ね、船体のうしろ三分の一には平らな飛行甲板が広がる。ミッドウェー海戦でほとんどが失われた航空母艦の代用品として、航空戦艦という珍妙な肩書きに改装された〈日向〉の艦影は、五キロ以上離れた場所からでも十分識別することができた。
竣工当初は連合艦隊の旗艦《きかん》を務めた戦艦も、このところはフィリピン方面への軍需品輸送任務にかかりきりで、かつての精彩は望むべくもない。ケシ粒のように見える曳船《えいせん》が数隻、〈日向〉の前方を航行している姿を見れば、うらぶれた印象はますます強くなった。甲板でなにごとか作業をしていた二人の船員が、「あ、〈日向〉じゃ」と興奮した声を上げるのを背に、絹見は薄い靄《もや》をかぶる鋼《はがね》の船体を視界から外した。
「立派なもんじゃ」「国の誉《ほま》れじゃのお」と口々に言う船員たちが、本気でそう思っているのか、便乗者の海軍将校に気を遣《つか》って言ったのかは定かでなかったが、少なくとも事実とは遠い表現だなと絹見は思った。先導する曳船の存在が示す通り、いまの〈日向〉には自力で航行する力もない。燃料がないのだ。呉軍港が備蓄する重油をすべて回せば、一回ぐらい腹を満たすことはできるだろう。が、そうまでして出陣させたとしても、制海権を完全に喪失したいま、太平洋に出た途端に米軍の餌食にされるのは目に見えていた。
残る使い道と言えば、ごてごてと装備された大量の対空火器を活かし、呉軍港の防空砲台になってもらうしかない。つまり〈日向〉はもう戦艦とは呼べず、同型艦の〈伊勢〉らとともに浮き砲台になるべく、米軍爆撃機の侵入路沿いに配置されようとしているのだった。それも曳船に引っ張ってもらって。
仕方がなかった。ミッドウェーの大敗以降、帝国海軍はソロモン、レイテと敗退を続けてきた。この四月には、沖縄防衛のために出動した戦艦〈大和〉までが沈み、連合艦隊は事実上壊滅。日本は、近代海戦を遂行する能力を完全に喪失した。
あの〈日向〉にしても、次に空襲があれば確実に沈むことになる。六月二十二日の大空襲から、今日でちょうど一ヵ月と一日。盛大に上がった炎と爆煙のせいで完全に破壊し損ねた呉軍港を、米軍がこのまま放っておく道理はない。そろそろ次の空襲があってもおかしくなく――〈回天〉を始めとする特攻兵器がどれだけ敵の空母を沈めたところで、沖縄やグアム、テニアンから日々飛来する爆撃機を食い止められないことも、絹見には自明以前の話だった。
それでもやめられない戦い。勝利も敗北も、あらかじめ選択肢から外された戦争。茶番、と言った夢の中の声が不意によみがえり、絹見は江田島の陰に入りつつある〈日向〉にもういちど目をやった。真夏の太陽を受けて黒光りする戦艦は、その建造にかかった膨大な費用、国家単位でしか供出できない圧倒的な労働力を暗黙に誇示して、凪いだ海面を音もなく滑《すべ》っていた。
茶番と括《くく》るには重すぎる。軍帽の鍔《つば》を心持ち傾け、絹見は夢の中の声を退けた。
海軍兵学校は、将来の海軍将校を育成する高等訓練機関だ。中学校四年程度の学力を持つ青少年の中から、頭脳明晰、身体強健な者を選抜し、海軍生徒の肩書きを与えて徹底的な教育を施す。陸戦教練、短艇《カッター》運用、信号教練などの術科教育は言うに及ばず、倫理学から心理学、哲学概論、法制経済大意に至るまでの普通学も充実させているが、これは海軍将校に必要な学識を持たせるという以上に、人間修養の拡充を意図しての措置だった。
軍曹の待遇で学ぶ陸軍士官学校と異なり、海軍兵学校では入校と同時に准士官の位が与えられる。結果、術科の教員を務める下士官より、生徒の方が上位に就《つ》く格好になり、校内でこそ生徒が先に教員に敬礼をするが、いったん外に出れば、教員の方が生徒に敬礼をするという奇妙な光景が展開されることにもなる。もっともその程度で気後《きおく》れしているようでは、卒業とともに少尉候補生に任官され、海千山千の下士官たちを束《たば》ねる重責にはどのみち耐えられない。軍組織の徹底した階級機構を尊重しながらも、時々に本音と建て前を使い分け、臨機応変な人間的対応と、命令には絶対服従を強いる将校のこわもてを両立させる。そんな人材を育てるには、手間と時間をかけるしかないというのが海兵の教育方針だった。
絹見は海兵五十二期で、この赤煉瓦《あかれんが》の校舎を卒業してからもう二十年以上の月日が経つ。これで順調に艦艇勤務をこなし、海軍の最高学府である海軍大学校への入学を果たしていれば、今頃は大佐に昇進して艦隊参謀ぐらいにはなっていたろう。一時期は駐独武官を任ぜられていた父の跡を継ぎ、エリート海軍将校の道を歩んでいたのかもしれないが、現実はそうはならなかった。
いまの絹見は潜水学校の一教官で、軍装の肩章も少佐のまま、一向に変わる気配がない。生き残りの同期が中佐、大佐に駒《こま》を進める中、自分ひとりがほとんど落ちこぼれの身分に甘んじているのは、半分は自発的に選んだ必然、半分は外的要因がもたらした偶然だが、それを不幸と感じる神経も三年半前に断線したきり、回復する兆《きざ》しはついぞなかった。
どだい、勤務すべき艦隊がすでに存在していないのでは、参謀になったところで始まらない。石炭船を降り、兵学校の校門をくぐった絹見は、午後の教練の最中にもかかわらず、校舎が異常な静寂に支配されていることに気づいていた。遠くに銃剣道のかけ声は聞こえるが、それだけで、「気をつけ」「敬礼」「歩調とれ」と、日ごろ必ず聞こえてくる団体教練の号令も響いてこない。蝉の声ばかりが、プラタナスの植樹に覆われた校舎に響き渡っている。まるで盆休みの風情だなと思いついた絹見は、いささか皮肉の効きすぎた冗談に緩めかけた口もとを引き締めた。
江田島に限ったことではない。先月の終わりから、海軍の教育機関はことごとく長い夏休みに入った。現任者に専修教育を施す術科学校も在校生を繰り上げ卒業させ、ほとんどが一時閉鎖。いまは教官、学生、練習生の区別なく戦場に駆り出されており、残っているのは飛行機や潜水艦など、特裸技能を前提とする兵器に関わる一部の教育機関のみだった。
水雷学校も辛うじて門戸を開いているが、魚雷の取り扱いや射法を教える本来の役目ではなく、自分自身が魚雷になる方法――特殊潜航艇に乗り込む特攻要員の育成が行われているのだから、教育というには少々|語弊《ごへい》がある。沖縄が陥《お》ち、連合軍の本土上陸作戦が時間の問題になれば、教育熱心で知られる海軍も宗旨変えはやむなし、といったところか。いずれ、窮乏《きゅうぼう》によって最初に削られたのが教育だったというのも、なにかと暗喩《あんゆ》に満ちた話ではあった。
終わる当てのない、長い長い夏休み。その先になにが待つにせよ、自分が居合わせることはないだろうと思い、絹見は暗い物思いをやめた。遠からず潜水学校が閉鎖された時、自分に再び大型潜水艦の艦長の座が回ってくるとは到底思えない。特攻要員のひとりとなって、大きめの魚雷としか形容のしようのない特殊潜航艇に乗り込み、窮屈な思いを我慢して道連れにする敵艦を捜す。それがせいぜいだろう。願わくば〈回天〉ではなく、多少なりとも雷撃戦能力のある〈蛟龍《こうりゅう》〉か〈海龍《かいりゅう》〉に乗り込みたいものだ。潜水学校で三年も教鞭《きょうべん》を執《と》っていた者が、新兵と同じ戦果しか挙げられないというのではいかにも情けない。雷撃戦で一隻でも多く沈めて、それから特攻。これなら格好がつく……。
その時は、存外早くやってくるかもしれない。今日、かつての母校に足を向けた理由を思い出して、絹見は今度こそ無駄な思考を追い払った。
昨晩、なんの前触れもなくかかってきた一本の電話。今期卒業の学生たちの考課表を仕上げるべく、ひとりで居残っていた絹見を狙いすましたかのように、教官室にかかってきた一本の電話が、絹見が江田島に体を運んだ理由だった。
軍令部員を名乗る電話の主の声には、聞き覚えがあった。作戦指導を所掌する第一部において、演習、教育訓練の策定を任務とする第二課長の声だ。教育機関の衰退に伴い、軍令部内でも有名無実に成り果てた第二課ではあるが、術科学校の一教官にしてみれば、組織図のもっとも上位に位置する機関であることに変わりはない。その課長じきじきの電話に絹見は恐縮したが、相手は自分が第二課長であるとは名乗ろうとせず、ただ非常に高位な人物が貴官に会いたがっているから、明日の昼、江田島でその人物と会ってほしい、と押し殺した調子で伝えてきた。
天皇の統帥《とうすい》大権を輔弼《ほひつ》する軍令機関、すなわち海軍にとっての大本営である軍令部は、軍政を司《つかさど》る海軍省と並ぶ海軍の最高機関。受け取った命令の遂行者である現場の将兵にとっては、海軍そのものとも言える雲上人の集団だった。その一員、しかも課長級の将校が高位な人物≠ニ呼ぶ相手とはいったい何者なのか。吹けば飛ぶような万年教官になんの用があるというのか。山ほどの疑問をぶつける間もなく、第二課長は待ち合わせの時間と場所を告げると早々に電話を切ってしまった。他の者には決して話すなという指示を守り、なに食わぬ顔で通常の授業を終えて石炭船に飛び乗った絹見は、静まり返った兵学校の片隅でその答を目前にしている身だった。
正規の命令であるなら、直属の上官である潜水学校校長を通じて下命すればよいし、特殊任務をこなすお鉢《はち》が自分に回ってくるとも思えない。高位な人物≠ェなにを考え、秘密めいたやり方で自分を呼びつけたのかは見当もつかなかったが、ひとつだけ確かなのは、これでこの三年間の判断停止の時間が終わる、という根拠のない予感が胸を支配していることだった。
意義も目的も見出せずに教官役に収まり、若者たちを戦場に送り出す。三年あまりの不実から逃れられるなら、なんでもいい。新型特攻兵器の試験乗員の役だって受けてやる。そう思い、それ以上のことは考えないようにして、絹見は待ち合わせ場所の教育参考館を目前にした。
建築に使用された煉瓦はすべて英国からの輸入品で、建物の造りも西洋風に統一されている。明治の昔からハイカラで鳴らした海軍兵学校だが、この教育参考館の建物は中でも群を抜いていた。正面に並ぶ六本の円柱と、玄関を抜けた先に続く赤絨毯。天窓から差し込む陽光に照らし出された屋内はギリシア様式で統一され、アーチ型にくり抜かれた壁も、装飾彫刻の施された三角屋根も、古代神殿そのままといった風情を醸《かも》し出《だ》す。名称が示す通り、海軍関係の史料を展示した一種の博物館に過ぎないのだが、それだけでは済まされない重みと風格が教育参考館にはあった。
その源は、正面階段を昇りきった先、アーチ状の入口をくぐったところにある小部屋に存在している。床から四方の壁まですべて大理石で造られた小部屋に入ると、まずは正面の壁からせり出した三角屋根と、それを支える二本の円柱が目に入り、その中央に分厚いブロンズ製の扉が構えているのが見える。造りこそギリシア様式だが、どこか御本尊という言葉を思い出させるその構造物の中には、大日本帝国海軍最大の英雄、東郷《とうごう》平八郎《へいはちろう》の遺髪が収められていた。
明治三十八年、日本海|対馬《つしま》沖において、旗艦〈三笠《みかさ》〉を中心とする四十余隻の連合艦隊を指揮し、世界最強と謳《うた》われたロシアのバルチック艦隊を打ち破った男。機先を制すの精神で彼我《ひが》兵力の差を埋め合わせ、世に言う日本海大海戦を世界海戦史上例を見ない大勝利で飾った東郷の存在は、四十年後の現在に至るも帝国海軍の伝説だった。絹見はいつも通り、軍帽をぬいで小脇に挟み、一礼してから森閑《しんかん》とした建物内に入った。
昭和十一年に完成した参考館は、兵学校の建物の中ではいちばん新しく、展示品を収めたガラスケースも新品のように輝いていた。人手は払底《ふってい》していても、掃除だけはきちんと行き届いているらしい。高位な人物≠ェここを待ち合わせ場所に選んだ理由は想像する他ないが、密談をしようというならなかなか気のきいた選択だと絹見は思った。教育参考館というより、東郷|元帥《げんすい》の霊廟《れいびょう》といった方がしっくりくるこの建物に、好きこのんで近づく者はそうそういない。日頃から先輩や教官にうるさくしつけられている生徒はもちろん、教官たちでさえも、ことさら厳《おごそ》かな空気が流れる参考館で休憩時間を潰そうとは考えないものだ。掃除の時か、心を静めたくなるような気分になった時がせいぜい。潜水学校に赴任して以来、会議などで江田島を訪れることが多くなった自分にしても、足を運んだのはこれで二度目だった。
厳重に封印されたブロンズの扉には、在《あ》りし日の東郷の姿を描いた六枚の肖像が浮き彫りにされている。明治神宮に参拝する東郷、〈三笠〉のマストを背に立つ東郷、負傷した敵将を見舞う東郷。手を合わせ、短い黙祷《もくとう》を捧げた絹見は、それほどに畏《おそ》れられ、神聖視されている男の顔を眺めて、ふと複雑な感慨にとらわれた。
機先を制せよというその格言を守り、真珠湾に電光石火の奇襲を仕掛けたまではよかったが、後が続かなかった。日本海大海戦の勝利を規範においた海軍の戦略は、この大東亜戦争ではほとんどが裏目に出た。慌てて方針転換を試みた時には、リメンバー・パールハーバーを合い言葉にした米軍の一大反攻作戦が始まり、すべては後の祭り。この分厚いブロンズの扉の奥で、東郷はどんな思いでそれらの経緯を見つめてきたのか。多くの将兵と艦艇を失い、壊滅寸前にまで追い込まれた帝国海軍の現在を、どんな思いで見つめているのか……。
「中を見たことがあるか?」
不意にかけられた声が高い天井に反響し、絹見は心臓が跳ね上がる音を聞いた。ゆっくり振り向くと、赤絨毯の敷かれた階段の途中に、自分と同じ、白い軍装の男が忽然《こつぜん》と立っているのが見えた。
海軍らしからぬ色白の細面《ほそおもて》は、女形の歌舞伎役者と見紛《みまが》うほどの端正さで、口もとにうっすら浮かべた笑みは艶《なまめ》かしくさえあった。小さく息を呑んでしまった後、男の肩に大佐の肩章を認めた絹見は、反射的に脱帽敬礼をした。
どこから現れたのか、この男が自分を呼び出した張本人なのかと疑問が渦を巻いたが、まずは長年|培《つちか》われた規律遵守の精神に従い、絹見は男が答礼するのを待った。男は気にする素振《そぶ》りもなく残りの階段を昇り、絹見の前を横切る時、もういいというふうに手のひらをひらりと泳がせてみせた。
いきなり目くらましされたような、足もとに唾を吐きかけられたような不快感が拡がり、胸の底を騒がせた。どうにか無表情を維持して頭を上げた絹見は、遺髪の保管庫と向き合った男が、「わたしは見た」と続けるのを聞いた。
「海軍省の事務屋が年に一回、中の掃除をするのに無理やり同行してね。なかなか見物《みもの》だったよ。まず元帥の座乗艦《ざじょうかん》だった〈三笠〉の真鍮《しんちゅう》から鋳造《ちゅうぞう》した球形の入れ物があって、その中に同じく〈三笠〉の木材を削《けず》って作った木箱が入っている。さらにその中には、元帥ゆかりのコップを溶かして作ったガラスの容器が入っていて……そこでようやく、元帥の遺髪が拝めるという寸法だ」
悪戯《いたずら》を告白する子供の笑みがその横顔に浮かび、この男を嫌いになるつもりでいた絹見は、なにかはぐらかされるものを感じた。大佐というからには四十は超えているはずだが、笑った時の男の顔はどう見ても三十代半ばのそれだった。すっかり調子を崩された頭で、絹見は「……開けて、ご覧になったのですか?」とバカ正直に聞き返した。
「ああ。事務屋は青くなっていたがね。なんのことはない、ただの毛だったよ。鰯《いわし》の頭も信心からとはよく言ったものだ」
さもがっかりしたと言わんばかりに、男は東郷の肖像から目を逸《そ》らした。まるで外国映画の俳優を思わせる大仰《おおぎょう》な仕種だったが、暗く光る目に表情はなかった。年齢も肩書きも態度も、存在そのものが不均衡な男の姿に、絹見はひたすら見入ってしまった。
「あの後、山本|五十六《いそろく》の遺髪も収められたと聞くが、同じ扱いというわけにはいかないだろうな。東郷元帥は日露戦争の英雄だが、山本元帥は敗軍の将だ」
そう言い、男はにやと口もとを歪めた。一度は脇に除けた不快感が頭をもたげ、絹見は男の顔を正面に見返した。
こうしている間にも前線で兵が戦っているいま、たとえ自明のことであっても敗の一字は口に出すべきではない。まして先々代の連合艦隊司令長官を敗軍の将呼ばわりし、過去の英霊を貶《おとし》めるなどもってのほかだった。反論の口を開きかけた絹見は、その瞬間、唐突に笑みをかき消した男に土壇場《どたんば》で待ったをかけられた。
「浅倉《あさくら》良橘《りょうきつ》大佐。軍令部第一部、一課長を任ぜられている」
生まれてこの方、笑ったことなどないという能面に表情を切り換えて、先刻とは別人の厳格な口調がそう言った。戦争指導全般、作戦立案を所掌する軍令部第一部にあって、第一課は編制、戦力配備、補給総合計画などを受け持つ花形の部署として知られる。その長と対面した驚きより、一瞬で別人になり変わった変貌ぶりについてゆけず、絹見はまた目くらましされた思いで浅倉の顔を見つめた。この男が自分を呼び出した高位な人物≠轤オいと最低限の納得をして、「……絹見真一少佐。潜水学校大竹本校にて教官を務めております」と、再び脱帽敬礼をするよりなかった。
今度は素直に答礼を返した浅倉は、「考課は見せてもらった」と微動だにしない瞳で続けた。
「海兵第五十二期。成績は上位。始めの数年を除いて潜水艦畑を歩み、ドイツの技術供与によって実現した遠洋作戦用潜水艦、いわゆる巡潜型の一番艦である〈伊1〉に乗務。現在の潜水艦隊の基礎を築いたひとりというわけだ。その後、大尉昇進の際に海大(海軍大学校)の受験資格を手にするが、十分合格するだけの学力を持ちながらこれを辞退。理由は……ありきたりの出世より、潜水艦をいじってゆける方が望ましいと答えたとあるが、事実か?」
思いがけず自分の半生を聞かされて、最初に感じたのは他人の話を聞かされているような所在なさ、もはや繋《つな》げて捉えるのも億劫な過去と現在の隔絶感だった。海大への進学を蹴《け》ってまで現場に留まろうとしたあの頃の自分と、唯々諾々《いいだくだく》と万年教官を務めている現在の自分。返答を待つ浅倉に、絹見は「事実であります」と、なんとか答えた。
「少佐に昇進して間もなく、〈伊16〉の艦長を拝命。我が国初の潜水艦隊、第六艦隊を構成する一艦として真珠湾攻撃に参加。これも我が国では初の、特殊潜航艇〈甲標的〉を用いた偵察任務を実施した。ドンガメ乗りとしては申し分ない――いや、海軍将校としても輝かしい経歴だが……」続けた浅倉は、そこでいったん言葉を切り、感情のない目を絹見に向け直した。「真珠湾から凱旋《がいせん》した直後に〈伊16〉の艦長を解任され、半年後に現在の教官職に回された。それからまる三年間、異動はなし。昇進もなし」
ついでに妻子もなし、だ。無遠慮に入り込んでくる浅倉の視線を受け止め、絹見は内心に付け足してみた。離縁こそしていないものの、潜水学校に赴任する際に実家に戻した妻からは、この三年なんの便りもない。ある事件を契機にひっくり返った夫の人生を見つめ直し、修復の機会を見定める時期はとっくの昔に終わっていて、いまは新しい生活に目を向け始めているのだろう。子宝に恵まれていれば別の展開もあったかもしれないが、ひっくり返った人生を受け止め損ね、いまだ漂泊を続ける頭が考えられることと言えば、それが関の山だった。
そんなことをとりとめなく思い出し、ふと我に返ってみると、浅倉は相変わらず絹見を直視しているのだった。いったいこの男は自分になんの用があるのか。東京は霞《かすみ》ケ関《せき》にある軍令部を抜け出し、わざわざ江田島まで足を運んできたのはなぜか。こちらから問《と》い質《ただ》してくれようかと思った途端、「ひとつ聞きたい」という言葉が浅倉の口から飛び出し、絹見は開きかけた口を閉じた。
「なぜ我々は負けたのだと思う?」
およそ表情と呼ばれるものをすべて取り払った能面の声に、絹見は反感を抱くより先に呆れた。「……自分は、まだ敗北が確定したとは考えておりません」と模範解答を返すと、「では勝てると思うのか?」との問いが即座に重ねられて、絹見は思わず体を硬直させた。
この男は単に考課を暗記してきただけではない。自分のことをなにもかも調べ尽くした上で、ここに立っている。「事実を見据える冷徹な視線を養え。……そうだろう?」と付け加えられた浅倉のだめ押しに、絹見は舌打ちしたい衝動を堪えるので精一杯になった。
「彼らも聞いている。忌憚《きたん》のないところをな」
両元帥の遺髪を収めた保管庫を顎でしゃくり、そう続けた浅倉の口もとは、いつの間にか取り戻した艶《あで》やかな笑みの形だった。よもや万年教官をいびり倒すために出向いてきたとも思えないが、反逆的と取られてもやむを得ない講義内容を知られている以上、こちらの身柄は浅倉の腹次第で好きに処理できることは間違いない。どうにでもなれ、と胸中に呟いた絹見は、軽く息を吸い込み、開いたためしのない胸のバルブをじりじりと開いていった。
「……本来、短期決戦で決着をつけなければならなかった戦闘を、四年の長きにわたらせてしまったこと。時間が経過すればするほど、米国はその圧倒的な国力を戦争に振り向ける態勢を整え、連合国と歩調を合わせた反攻作戦を展開。南方諸島にまで進出した我が方の拠点をひとつずつ奪回し、本土侵攻の足場を確実に固めてきました。対して我が方はのびきった戦線を支えきれず、無理に無理を積み重ねて、消耗《しょうもう》の度合いを濃くする一方でした」
いちど弛《ゆる》めれば、ため込んでいたものの圧力に押されてバルブが自然に開いてゆき、自分でも驚くほどの滑《なめ》らかさで言葉が出てきた。浅倉は微笑を崩さず、鋭さを増す目の光だけが絹見に喋り続けるよう要求した。
「海軍に関して言えば、艦隊決戦思想を偏重しすぎて、航空戦力を中心とする新たな枠組み作りが遅れてしまったこと。これは日露戦争の際、数的に優勢であったロシアのバルチック艦隊に挑《いど》み、東郷元帥の卓抜《たくばつ》なる指揮によって勝利を収めた故事に寄りかかり、海軍が時代の変化に対応し損ねた結果です。
南方作戦についても、太平洋をまたいで広がる戦線をどう支えるか、補給線をどう維持してゆくかという問題に関して、考察が甘かったように見受けられます。言葉も通じなければ、気候も風土も異なる。現地調達という発想が通用しない南方の島々において、拠点を構築するという行為がどれほどの負担をもたらすものか。狭い国土内での戦闘しか経験していない日本人には、本質的に想像が及ばなかったのだと思います。その結果、前線は孤立し、大量の餓死者を生み出すに至って……」
「井の中の蛙《かわず》」
出し抜けに発せられた声が大理石の壁に反響し、絹見の言葉を霧散させた。微笑を消し、初めて絹見から視線を逸らした浅倉は、頭上の天窓に整った顔を向けた。
「大和魂、滅私奉公。民族精神を鼓舞《こぶ》する美辞麗句で近視眼的体質を糊塗《こと》し、近代戦争のやり方などひとつも知らないくせに開戦に踏み切ってしまった傲慢。なぜ負けたかなどと問うのはお門違《かどちが》いで、そもそもが勝てない戦争だった。水が高いところから低いところに流れるように、この国は当然の帰結として戦争に負けたんだよ」
天窓から差し込む午後の陽光を浴び、目を細めた浅倉の顔は、そういう形の彫像であるかのように現実味を欠いていた。絹見は呆然とその姿を見つめ、不意にこちらを見た浅倉と視線を合わせて、意味もなくどきりとした。
「しかしそれでも、自分はこの戦争には意義があったと信じている。問題は、この期《ご》に及んでも現実を直視しようとせず、精神主義を唱《とな》えて、場当たりの施策しか打ち出せない大本営の体質だよ。軍も内閣も、精神主義で勝ち得るものはなにもないとわかっているにもかかわらず、一人一殺、一億玉砕を謳って国民を欺《あざむ》き続けている。それが日本の国体を守り、民族の独立を守る唯一の方策と信じているからではない。天皇の大権にすがり、すでに決まった約束事を守っていれば、それで責任が果たせたと思っている。目の前に迫った危機を承知しながら、既存の価値観にしがみついてなにも行動しようとしない。日本海大海戦の勝利に固執して、機構改革の時期を逸した海軍同様、変化を嫌う役人根性がさせていることだ」
一気にたたみかける声が大理石の壁に反響し、四方から体を圧迫した。暗い光を湛えた浅倉の目が引力を放ち、絹見の視線はそこに吸い寄せられて動けなくなった。
「戦場の臭いを嗅いだことのない彼らには、一億玉砕という言葉が持つ重みも痛みもわからない。すべての国民が斃《たお》れて、この戦争にいったいなんの意味がある。かつて勝てない戦争を始め、ひとり残らず滅んでいった愚かな民族がいた。未来の歴史書にそう綴《と》じられて終わるだけだ。ひとりでも生き残ってみせなければ、日本民族を守るべく為《な》されたこの戦争の意味がない。自らの行為に責任を持ち、変わることを恐れずに己の誇りを守り通す。生き残るに値する日本人を、ひとりでも多く残さなくてはな……」
言葉の洪水はそこでぴたりと止まり、遠くに聞こえる蝉の声がじわじわ音量を上げて、時間の停止した参考館の空気をゆっくりかき回した。表情のない浅倉の目が微かに揺れ、窺う色を宿し始めたことに気づいた絹見は、不意に夢から醒《さ》める気分を味わった。
そういうことか。この男にしてみれば、自分も同類の不満分子に見えるというわけだ。そう見られても仕方のない引け目を自覚しながらも、なめられた、という思いはごまかしようがなく、絹見はむらと怒りがわき起こるのを感じた。まっすぐのばした指先を腿《もも》に当て直し、背筋ものばした絹見は、「失礼を承知で申し上げます」と呪縛を断ち切る大きな声を搾り出した。
「大佐はなぜ、本日この場所に自分を呼び出されたのでありましょうか?」
軍令部一課長のお忍び来訪、人目をはばかる密談、話し合われる内容が大本営への不平不満とくれば、一線を離れて久しい万年教官の頭にもぴんとくるものはある。叛乱謀議《はんらんぼうぎ》と即断するのは性急に過ぎるが、少なくとも、まっとうな軍人を相手にする類《たぐ》いの話でないことは間違いなく、絹見は直立不動の姿勢で浅倉を見据えた。浅倉は眉ひとつ動かさず、こちらを見つめる視線も微動だにさせなかった。
「自分の考課上の汚点に鑑《かんが》み、そのようなお話をなさっているのだとしたら、恐れながら筋違いであるとしか申し上げようがありません。愚弟の不始末によって艦隊勤務から外されたのは事実ですが、そのことと、帝海の一軍人である自分のありようとはいっさい無関係です。特攻せよとの勅命《ちょくめい》が下れば、死んでみせるのが自分の仕事です。報国の念にはいささかの揺らぎもございません」
「もはや勝てない戦……無駄死にだとわかっていてもか?」
「それは重要ではありません。自分は、戦争を遂行するために雇われている軍人だということです。一将校の身で、それ以上のことをとやかく言うのは不遠《ふそん》であるとも考えます」
悪夢に苛まれる日々も、若者を死地に送り出し続けてきた鬱積《うっせき》もはね除《の》けて、率直な怒りが熱を発していた。三年の間に少しずつ削り取られ、今ではすっかりなくなったと思っていた熱の源に、まだこんな余熱が残っていたのは意外なことだった。絹見は浅倉を直視し、浅倉も絹見を直視した。互いの目の底を覗《のぞ》きあう数秒が過ぎ、やがて「なるほど。よくわかった」と言った浅倉が、先に視線を外した。
「そういう貴官だからこそ、託したい任務がある」
いったん顔を伏せ、再び絹見と正対した浅倉の表情は、無機質な能面でも、腹に一物を抱えた皮相な笑みでもない、実直という言葉が似合うなにものかだった。振り上げた拳の下ろし場所を見失った思いで、絹見はわずかに顎を引いた。浅倉は頷《うなず》き、合格だと目で伝えてから、絹見の肩ごしに視線を飛ばした。
唐突にわき起こった人の気配が、いつの間にか背後に近づいていた第三者の存在を絹見に教えた。思わず振り返り、部屋の戸口に立つ青年と不用意に目を合わせた絹見は、今度こそ開いた口が塞がらなくなった。
膝までの黒い長靴《ちょうか》と、漆黒《しっこく》に統一された軍服に身を固めて、まだ二十代と見えるその青年は静かに絹見を見返していた。上着の上から締められたベルトはエナメルの光沢を発し、金刺繍《きんししゅう》が施された襟章、銀色の鷲《わし》が羽根を広げる袖章と合わせて、黒ずくめの軍服にどこかきらびやかな印象を与えている。軍帽にも鉤十字《かぎじゅうじ》の紋章を抱く鷲の帽章が輝いていたが、それより目を引くのは、鍔《つば》のすぐ上で暗い眼窩《がんか》をこちらに向ける髑髏《どくろ》の徽章《きしょう》だった。
悪趣味としか言いようのないその徽章は、いちど写真で見たことがある。ナチス親衛隊《SS》の一員を示す徽章だ。ナチスの論理に盲従し、それに反する者を排斥《はいせき》するためには、あらゆる暴力の行使をためらわない組織。自国の民にさえ嫌悪されつつ、ヒットラー政権を陰から支え続けた精鋭部隊。純粋アーリア人種の中から選抜され、他民族の血は一滴たりとも混入させない鉄の掟《おきて》を、頑《かたく》なに守り通した優性思想の権化。それを戴《いただ》くことと、優良白人種であることが同質とされる髑髏の徽章の下で――しかし絹見を見上げているのは、黒い一組の瞳だった。
「フリッツ・S・エブナー少尉。見た通り、元ドイツ親衛隊の士官だ」
あまりにも簡単な浅倉の説明を背中に聞きながら、絹見は悪夢の続きを見る思いで青年の黒い瞳を凝視した。黒いのは瞳だけではない。意志の強さを窺わせる濃い眉も、女性さながら肩までのびた髪も、等しく黒い。ほとんど全身黒ずくめの中、唯一違う色を見つけられるのは、胸元に覗く白いワイシャツと、やはり女性的に整った色白の顔だが、それにしても白人種が持つ透けるような白い肌ではなかった。遠目にも潤《うるお》いを感じさせる肌は、若さの張りというだけでは説明できない、黄色人種特有のきめ細かさだ。つまり絹見の目前に立つSS隊員は、鼻筋の通り具合に多少のバタ臭さはあるものの、ほぼ完璧に東洋人の外観を呈《てい》しているのだった。
「着替えるよう勧めたんだが、日本の軍服は気に召さないようでね。ここまで連れてくるのに苦労した」
なんの補足にもなっていない浅倉の説明が背中を打つ。フリッツと呼ばれた青年は無言のままこちらに近づき、表情を消した黒い瞳でやや絹見を見下ろすようにすると、ザッと勢いよく踵《かかと》を合わせて直立不動の姿勢を取った。
「フリッツ・エブナーです」
正確な発音の日本語の後、フリッツは無造作に手を差し出してみせた。敬礼されるものとばかり思っていた絹見は、虚をつかれた思いでその手を握った。「……絹見少佐だ」と応じた声に目で頷き、握り返す手にぎゅっと力を込めたのも一瞬、フリッツはすぐに握手を解いて一歩うしろに退がった。この暑さにもかかわらず、少しも汗ばんでいない手のひらの感触が印象に残り、単に略したというのではない、意図的にS≠省いたと思わせる生硬い自己紹介の声が、いつまでも耳の奥で鳴り続けた。
「貴官の指揮する艦《かん》に一緒に乗り組んでもらう。かつてのドイツで精鋭としての訓練を受けていた男だ。役に立つだろう」
淡々とした浅倉の声が、その余韻をかき消してくれた。貴官の指揮する艦、と胸中にくり返し、その意味を咀嚼《そしゃく》しようとした絹見は、「命令を伝える。絹見少佐」と、有無を言わさぬ上官口調の浅倉の声に頭を蹴飛ばされ、考える間もなく姿勢を正した。
「ただいまをもって、潜水学校教官の任を解く。翌未明、柱島《はしらじま》に入渠《にゅうきょ》中の戦利潜水艦〈|伊507《イゴマルナナ》〉に赴き、艦長として同艦を受領。出港準備が整い次第、ただちに出撃し、五島列島沖に沈む特殊兵器回収の任に当たれ」
「は!」と応じたものの、頭に残ったのはとっかかりのない言葉の羅列で、命令の具体的な中身はまったく像を結ばなかった。とりあえず艦長という懐かしい響きを反芻《はんすう》した絹見は、戦利潜水艦、〈伊507〉、五島列島沖といった言葉をひとつひとつ拾い集め、なんとか命令内容を理解しようと努めた。だがそれも、最後のひとつにつき当たったところで頓挫《とんざ》した。
特殊兵器回収。なにひとつ絵の浮かばない、それでいて異様なきな臭さを放つ言葉だった。「特殊兵器……」と無意識に口にした途端、「ローレライだ」と浅倉の声が応じて、絹見は思わず顔を上げた。
「ローレライ……?」
ライン川の魔女を唄った有名なドイツ民謡の、軽やかな旋律と陰惨な歌詞が頭の片隅によみがえり、同時にしわぶきともつかない微かな息づかいが背後に発した。振り返った絹見の目に、不自然に顔を背《そむ》け、頑なに視線を逸らすフリッツの横顔が映った。
SSの黒い制服にローレライという言葉を重ね合わせ、ドイツという共通根を見出してみたが、それでなにがわかるものでもなかった。そもそもこれは現実なのか、悪夢の続きなのかと疑った絹見は、もう取《と》り繕《つくろ》う気にもなれない困惑顔を浅倉に向けた。
「希望だよ、少佐。いまの我々に残されたたったひとつの希望。それがローレライだ」
確信めいた浅倉の声が耳朶《じだ》を打ち、絹見は我知らず表情を引き締めた。不意に背中を向け、ただの毛と評した遺髪の保管庫を前にした浅倉には、そうさせるだけの静かな緊張感があった。
「それゆえ、今次回収作戦はなんとしても成功させる必要がある。命令に従うしか能のない者や、精神主義に冒《おか》された凡俗の将校には任せられない。冷徹な観察力と判断力を備え、かつ実直な軍人たらんとする者こそ適任だ。部内でも極秘裡に進められる作戦であるから、なにかと不便を強いることにはなると思うが。ひとつ骨を折ってはもらえまいか?」
またずいぶんと持ち上げられたなと冷静に感想を結ぶ一方、引け目を自覚する胸は忸怩《じくじ》たるものを感じ続けて、絹見は振り返った浅倉の目を直視することができなかった。ただぼんやり像を結び始めた事態に多少の安心を得て、「なぜ、部内においても極秘なのでしょう?」と、最初に思いついた疑問を口にした。
「その力の大きさゆえに……とだけいまは説明しておく。日本民族の滅亡を回避し、この国にあるべき終戦の形をもたらす。ローレライにはそういう力がある」
まっすぐ目を見て答えた浅倉の言葉に、つかの間の安心は呆気なく打ち砕かれた。「詳細は追ってエブナー少尉に説明させる」と付け足して、浅倉は説明の口を閉じた。
フリッツは休めの姿勢を崩さず、無表情も崩さずにじっと二点を見据えている。小さく嘆息した絹見は、しかし錆《さ》びついていたピストンがゆっくり動き出し、ギアを回転させる音を腹の底に聞いていた。
なんであれ、三年あまりの判断停止の時間はこれで終わる。再び回り始めた人生の歯車の音を聞きながら、絹見は官舎の私物をまとめる手筈《てはず》を考えていた。
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[#ここで字下げ終わり]
広島駅に着いた時には、真夏の太陽もややなりを潜め、駅舎の時計塔が広場に長い影を落とす時間になっていた。大柄と小柄の水兵服姿を並べて、折笠征人と清永喜久雄は広島の町に繰り出した。
軍服を着ていれば汽車の旅も多少は楽になる、という清永の目論《もくろ》みは見事に外れた。行李《こうり》に山ほどの野菜を詰め込んだ農婦、国民服の肘《ひじ》に継ぎを当てた暗い目の男、反物《たんもの》の束を風呂敷にくるんだ老婆。雑多な客を乗せた列車は二等と三等の区別もなく混みあっており、中には出張帰りらしい海軍将校の姿もあったが、誰も彼に席を譲ろうとはしなかった。
今月に入って、主食の配給は一割減になっている。わずかな配給で生活を支えられるはずもなく、闇行商や物々交換で飢えを凌《しの》いでいる人々にしてみれば、将校の肩章もただの飾りにしか見えないのだろう。一水兵の征人たちに至っては物の数にも入れてもらえず、むしろ軍服を着た分、将校の目を意識しなければならなくなり、糸崎からの汽車旅は以前よりも窮屈なものになった。
その将校はずっと立ち通しで、一度、目の前の座席が空いたのだが、網棚から荷物を下ろす間に、横から割り込んできた労働者風の男に席を取られてしまっていた。軍人は敬えと子供の頃から言い聞かされてきた身には信じられない無礼な行為と映ったが、将校は即座に狸寝入《たぬきねい》りを決め込んだ男を叱《しか》るでもなく、下ろしかけた荷物を網棚に戻して、所在なく立ち尽くすばかりだった。征人と目を合わせると、気まずそうに顔をしかめたのも一瞬、照れ隠しともつかない苦笑がその顔に浮かんで、寂しげな目の印象を征人に残した。
中国地方の中心都市である広島市は、太田川から分岐する六本の支流が町中を走り、それぞれの川に無数の橋が架かって、水の都と呼ぶに相応しい景観を誇っている。いつの間に手配したのか、横突《よことつ》(横須賀突撃隊)の先輩に地図を書いてもらったという清永に従って、征人は市内を錯綜する路面電車に乗り込んだ。地図と通りを交互に眺め、遊郭《ゆうかく》の所在を探すのに余念のない清永に道案内を任せて、征人は町の風景にぼんやり見物の目を泳がせた。
通行人も、革の数も少ない。すれ違う車と言えば、軍の輸送トラックか市バスぐらい。歩道の敷石はほとんどが剥《は》がされ、むき出しになった地面に木枠で作った待避壕《たいひごう》の入口が点在している。その上を歩いているのは、行李を背負った行商人のもんぺ姿と、山盛りの家財道具を積んだリヤカーを引く男の疲れきった国民服だ。
前方に目を向ければ、ドーム型の天井が目立つ産業奨励館が見え、その向こうに元安川と本川、二つの川の合流地点に架かる相生《あいおい》橋の変わった形を窺うこともできる。広島と西広島を結ぶ一方、二本の川に挟まれた中島町の突端にも橋桁《はしげた》をのばす相生橋は、上から望めばT字形に見える特異な橋梁《きょうりょう》だ。右手には西日を浴びて輝く広島城の天守閣が聳《そび》え、知らない土地にきた興奮を征人に思い出させたが、そこが中国軍管区司令部として使われている事実を思うと、単純に旅情を楽しむ心境にはなれなかった。
結局、どこに行っても戦争の影からは逃れられない。土地の情緒が仇《あだ》になり、却《かえ》って殺伐《さつばつ》とした空気を際立《きわだ》たせる広島の風景から視線を外し、征人は頬被《ほおかぶ》りをした行商人ばかりが目立つ車内に顔を向けた。先刻からしきりとこちらを気にしている、くたびれた陸軍将校の軍服を着込んだ初老の男と目が合いそうになって、慌てて窓外に視線を戻さなければならなくなった。
在郷軍人だろう。退役将校が軍装を身につけるのは勝手だが、中身まで現役のつもりでいる者もいるからタチが悪い。将校の肩章に物を言わせてずかずか他人の家に上がり込み、徴兵保険に入れだの、鍋やフライパンを供出しろだのとまくし立てる大人。人にもよるのだろうが、それが征人の知っている在郷軍人だった。
斜め前に座る男も、肉厚の顔に口髭《くちひげ》を蓄《たくわ》え、品定めでもするような目付きでこちらを注視している。上官風を吹かされて、精神訓話でも食らった日にはたまらない。征人は窓に顔を押しつけて、男と目を合わさないよう努めた。
相生橋を渡ると、鉄筋コンクリートの建物の合間に木造の家屋が目立つようになった。長いあいだ木戸を開けた様子のない食堂や服飾店、本屋、時計店などが窓の外を流れ、『進め一億火の玉だ』『石油の一滴は血の一滴だ』と書かれたポスターが、『本日売切れ』の張り紙とともに商店の軒先《のきさき》を飾る。どの家屋の窓ガラスにも補強用の紙テープが米印の形に貼られており、寄木細工の模様を見ているような錯覚を征人に与えた。
横須賀を発つ際に一日分の糧食《りょうしょく》を受け取ってはいるものの、できるなら闇の食堂を見つけ、温かい飯を食おうというのも計画のうちだった。カレーとは言わないまでも、せめて雑炊《ぞうすい》ぐらいにはありつきたいものだと思い、征人は持てる嗅覚を総動員して風の匂いを嗅いだ。すぐ近くを流れる川の匂いが微かに感じられ、すれ違った軍用トラックの排気ガスがそれをかき消すと、独特の焦げ臭い匂いが鼻腔にからみついた。思わず鼻を押さえた征人は、それから百メートルほど進んだところで臭いの元と対面した。
窓ガラスが割れ、全体に煤《すす》けた家屋が五軒ばかり続いた後に、黒々とした地面の連なりが十軒以上にわたって広がる光景があった。砕け散った瓦《かわら》、熱で折れ曲がったトタンなどを敷き詰めた更地《さらち》に、焼け焦げた柱がぽつぽつと生えている。もとは箪笥だったらしい木の枠組み、煤で真っ黒になった台所の流しが、かつてそこに人の生活があったことを忍ばせ、その隣で地面に突き刺さったままになっているバトン大の鉄筒が、火災の原因を暗に物語ってもいた。
焼夷弾《しょういだん》――筒の太さからして、おそらく油脂焼夷弾だろう。落下と同時に粘着質の油脂を飛び散らせ、付着したすべてのものを燃え上がらせる油脂焼夷弾。浜名《はまな》海兵団にいた頃、米軍の大型爆撃機・B−29の群れが銀色の腹を見せ、焼夷弾の雨を降らす現場を目撃している目には、爆撃の規模もおおよその判断がついた。この程度の被害で済んだのは、消火活動が功を奏したからではない。投下された焼夷弾の数がもともと少なかったのだ。
広島港に隣接する広航空廠は二ヵ月前に手ひどい空襲を受け、ほぼ壊滅したと噂に聞いたが、広島市内に空襲があったという話は聞いていない。在郷軍人の目も忘れて、征人は炭になった木材が折り重なる爆撃跡を見つめた。高熱の焼夷弾はガラスをも溶かし、火災によって生じた熱風は、トタン板さえ木の葉同然に吹き飛ばす。窓ガラスに紙テープを貼ったところで気休めにもならないのだが、焼け落ちた家財道具が渾然《こんぜん》一体となった火事場の臭いは、そんなものでも頼らずにはいられない生活の重さの証明だった。
「落としたっていうより、捨ててったんだな。浜松と一緒だよ」
同じく窓に顔を向けていた清永が、ぽつりと呟く。浜名海兵団の教班長の口ぶりを思い出して、征人は爆撃にしては延焼範囲の狭い焼け跡から目を離した。浜名にほど近い浜松には飛行機工場があり、米軍の爆撃目標のひとつに数えられていたが、大規模爆撃とは別に、時おりごく小規模な爆弾の洗礼を浴びることがあった。破壊を目的としたものではなく、機体を軽くするために残った爆弾を「捨てている」のだと、教班長は浜松に火の手が上がるたびにぼやいていた。浜松は米爆撃機にとっては体《てい》のいいゴミ箱に過ぎず、この中途半端な爆撃跡にしても、不要になった爆弾を受け止めた結果と見てまず間違いなかった。
「ま、いまに見てろってんだ。おれが戦場に出たら、日本に近づく敵空母は片っ端から沈めて、二度と爆撃なんかできねえようにしてやっから」
車内に立ちこめる焦げ臭さを吹き散らして、清永が鼻息荒く言う。在郷軍人が行商の老婆と話し込んでいるのを横目で確かめてから、征人は小声で反論した。
「でもB−29はサイパンとかから飛んでくるんだぜ? 空母だけ沈めたって……」
「夢がないねえ、おまえは。だったらその島に行って、滑走路をめちゃめちゃにぶっ壊《こわ》してやりゃいいんだ。仮にも帝海軍人なら気概《きがい》を持て、気概を」
無意味にでかい清永の声に、在郷軍人の耳がぴくりと動くのがはっきり伝わった。気概と聞けば黙っておれぬと言わんばかりの目がこちらを見、まずいと覚悟した瞬間、電車がブレーキを軋ませて停車した。
窓の外に停留所名を確かめ、「おし、ここだ」と清永が勢いよく立ち上がる。ほっと胸をなで下ろしつつ、征人は清永の背中を押すようにしてさっさと電車を降りた。新兵二人に大和魂のなんたるかを説き損ね、残念しきりといった在郷軍人の視線を車内に残し、征人たちは足早に停留所を離れた。
広島の遊郭は東西二つに分かれており、明治の昔からある老舗《しにせ》街が畳屋《たたみや》町の西遊郭。軍需施設の急増に伴って発展した新興の東遊郭は、弥生《やよい》町にある。横突の先輩が昔お世話になったのは西遊郭の方で、精度の怪しい地図に惑わされ、狭い路地をさんざん行ったり来たりさせられた二人は、西の空が黄色く染まりかけた頃、ようやく目的の店にたどり着くことができた。
旅館というには小さく、民家というには大きい木造家屋に「聚楽樓」の看板を掲《かか》げた遊郭だった。幅二|間《けん》ほどの路地には他にも複数の遊郭が軒を連ね、客引きのばあさん、襟白粉《えりおしろい》を塗った女たちが、各々《おのおの》の軒先で客の争奪戦を繰り広げている。どこかくたびれた様子の軍人がぽつぽついるばかりで、お世辞にも活況を呈しているとは言えなかったが、軍衣を着ている以上、上官を見つけるたびに直立不動になり、目が合えば敬礼しなければならない征人たちにしてみれば、それでも多すぎる人の数だった。
「軍服なんて、着てこない方がよかったじゃないか……!」
「軍人は半額になるんだから文句を言うな。だいたいまだ日も暮れねえうちから私服で遊郭なんぞに来てみろ。虫の居所の悪い兵隊にはり倒されるか、勤労動員の募集班にとっ捕まって強制労働させられんのがオチだ」
父親のような年齢の陸軍下士官が行き過ぎるのを待ってから、清永は地図の文字と聚楽樓の看板を照らし合わせ、「うん、ここだ。間違いねえ」などと呟きつつ店の玄関に向かった。暖簾《のれん》の前に立つ客引きのばあさんがすかさずその姿を捉え、「ありゃまあ、可愛らしい兵隊さんじゃねえ。うちは新兵がそろってるけえ、寄っていきんさい」と呼び込みをかけてくる。だらしなく相好を崩し、「可愛い、だって」と自分を指さした清永の顔を前に、征人はその場に立ち尽くしたままだった。
白粉と体臭が入り混じったむせ返るような匂い、店の奥から漂ってくるお香と、それより強い消毒液の刺激的な臭い。子供の頃から何度も嗅いできた匂いが見えない壁になり、それ以上の立ち入りを拒んだようだった。ずんずん歩いてゆく清永の肘を引っ張り、征人は「本当に行くの?」と虚しい抵抗をした。
「あたりめえだろ。これを逃したら後はないかもしれないんだぞ。集合時間が半日ずれたのに、隊長が知らない振りで予定通り出発させてくれたのは、なんのためだと思う」
「……赴任する前に、広島で羽根をのばす時間を与えるため」
「その通り。これから死地に赴《おもむ》くであろう我々に、最後に潤《うるお》いの時間を与えてくださろうというありがたい温情だ。これを無下《むげ》にすることは武人の道に反する。つまりこれは任務なのだ。よいな、折笠上等兵?」
それはそれで反論の余地がない清永の言葉に気圧されていると、太い腕が征人の首根っこをつかんで連行を開始した。強力に引きずられながら、征人は「行ったことあるのか?」と、なおも抵抗を示した。
「おれ?」躊躇《ちゅうちょ》なく動いていた清永の足が止まり、その視線が不自然に征人を避けた。「……あるよ」
「いつ?」
「この間の、春季皇霊祭の時」
「行ったらどうすればいいんだ?」
「どうするって、おまえ……。そんなの行ったらわかるんだよ」
「どうして。指導官でもいるのか?」
「いるか、そんなもん!」思わずというふうに怒鳴ってから、清永は怪訝《けげん》な顔の客引きばあさんに背を向け、征人の耳元に低い声を吹き込んだ。「いちいちうるさい奴だな。とにかく店に入って、座敷で順番待ってりゃいいんだよ。美人《ナイス》に当たりますようにって拝みながらな」
「選べないのか……!?」
子供の時分からその手の店に出入りし、遊郭という空間に特別な興味を抱いたことのない頭は、そんな基本的な事実さえ知らないのだった。つい大声を出してしまった征人に、清永も「当然だろ!」と再び声を荒らげた。
「財閥のお坊っちゃんが芸者を水揚《みずあ》げしようってんじゃねえんだぞ」
「おれは別の店にする」
「なんで」
「もし混んでたら、おまえの相手した人が、次におれの相手をするってことだってあるんだろ?」
「それがどうした」
「なんか嫌だ。一生忘れられない思い出になりそうな気がする。悪い意味で」
これ以上は一歩も進まない覚悟で立ち止まった征人を呆れ顔で眺め、変わった生き物を見る目を頭からつま先まで走らせた清永は、「……小難しいこと考えんだよねえ、おまえは」という感想ひとつを漏らし、大仰なため息をついてみせた。
「わかったわかった、好きにしろ。おれはここにするから、おまえはどこでも好きなとこ行け」
ほっとした。「そうする。じゃ、終わったら駅前で待ち合わせでいいな?」
「おう。遅れんなよ」と言った清永に「そっちこそ」と返し、その場を離れようとした征人は、「征人」とかけられた声に足を止めた。ひどく真面目な顔で、清永が気をつけをしているのが見えた。
「健闘を祈る」
さっと挙手敬礼をした後、にんまり笑ってみせる。少しでも角《かど》が立てば、こうして丸める気配りを怠《おこた》らないのが清永の美点だった。よく言えば豪放磊落《ごうほうらいらく》、悪く言えば単純漢の表皮の下に、繊細な神経と他人への深い配慮を隠し持っている。余計な疑問や過分な期待は抱かず、軍隊生活にも抵抗なく馴染《なじ》んでいる男には、馴染めずに戸惑っているこちらの心根も透けて見えるのだろうが、それを口や態度に表さないのも清永だった。
引きずられているようでいて、実は自分の方が清永に気を遣《つか》わせているのかもしれない。征人は、多少の負い目とともに答礼と苦笑を返した。それを待って回れ右をした清永は、右手と右足を一緒に前に出すぎこちない行進で聚楽樓に向かい、客引きのばあさんの前で直立不動になると、「お世話になります!」と上官に報告する時の声を出した。やはり清永も遊郭は初めてだったらしい。
清永の背中が暖簾の向こうに消えると、不意に冷たい風が胸の中を吹き抜けた。征人は逃げるようにその場を後にした。
とはいえ、他に行く当てがあるはずもない。最初はそこいらを歩き回り、闇食堂のひとつも見つけ出そうとしたのだが、白粉と消毒液、それに小便臭さが地面にまで染み込んだ遊郭街に、長く留まる気にはなれなかった。体の奥底に沈殿する毒素が活性化し、暗い記憶を呼び覚ます気配を感じ取った征人は、とにかく西遊郭から離れようと決めた。
客引きの声に追い立てられ、見知らぬ路地をでたらめに歩くうちに、遊郭の匂いは後方に消え去り、代わって芋を蒸《ふ》かす匂いがどこからともなく漂ってきた。懐中時計に午後五時の時間を確かめ、夕飯時か……と独りごちた征人は、もう闇屋を探す気力もなく、休めるところを求めて周囲を見回した。
防火用の砂袋と火叩き、バケツを軒先に備えた木造家屋が路地に沿って並び、それぞれの窓からラジオの音、なにかを刻む包丁の音を密やかに奏《かな》でている。迷い込んだよそ者が長居できる場所ではなく、慣れ親しんだ疎外感を噛み締めた征人は、風に乗って聞こえてくる蒸気機関の音に誘われて歩き出した。
五分と歩かずに家屋の列は途切れ、市内を縦走する川のひとつが目に飛び込んできた。横突の先輩の地図を信じるなら、おそらく天満《てんま》川だろう。傾いた陽の光を映す川面《かわも》は黄金色の奔流《ほんりゅう》になり、七、八十メートル彼方の対岸を背景に、材木を曳《ひ》いた小型の蒸気船がゆったり滑ってゆく。堤防下には船着き場があり、上流側に少し歩いたところにある川原がちょうどいい休息場になった。無人の川原に腰を下ろした征人は、雑嚢から水筒と缶詰の赤飯を取り出し、独りの夕食を摂《と》った。横須賀を出る前に湯煎《ゆせん》しておいた赤飯は固くなりかけていて、注意して食べないとすぐ喉につかえた。
二十二時八分の列車で広島を発《た》てば、予定集合時刻には十分間に合う。呉鎮守府に直接赴くのではなく、二つ手前の吉浦《よしうら》駅で下車して所定の場所で待機。迎えの部隊と合流し、以後はその指揮下に入る。部隊到着予定時刻は、午前零時より未明までのいずれか。軍服の着用はこれを禁じ、敬礼などの基本動作及び着任報告は、部隊長の指示があるまで省略することとする――。奇妙を通り越し、いっそ後ろめたい空気さえ漂ってくるが、それが征人たちに通達された集合要領なのだった。
集合時刻も二転三転し、七月二十四日零時と最終的な通達が届いたのは、横須賀を出発するわずか二時間前。連絡を受け取った突撃隊の隊長が行き違いを装い、半日早く征人たちを出発させてくれたのは、清永の言う通り、最年少隊員の二人に羽根をのばす機会を与えようとしたからだが、裏を返せば、それぐらい尋常《じんじょう》ではないなにかが今回の転属にはあるということだ。食事を終えてしまえばすることもなく、せっかく与えられた時間を無為にしている罪悪感がのしかかってきて、征人は売るほど余った時間をどう処理するか考えてみた。これといった良策は思いつかず、手慰《てなぐさ》みにいじっていた川原の石をなんとはなしに物色すると、川面を相手に石切りを始めていた。
三回、四回と水面を切って飛ぶ石の行方を追い、平らな石を拾い上げては次々に投げる。手の届く範囲にある平らな石はすぐになくなってしまい、飛びそうな石を求めて川原をうろうろした征人は、八回の記録を打ち立てた時点でふと我に返り、やる気をなくした。子供の頃、いまとまったく同じことをしていたと気づいたからだった。
留守番の寂しさに耐えかね、「来てはいけない」ときつく言い含められていた母の仕事場を訪ねて、いつでももっと寂しい思いを抱いて帰ることになった日々。それでも誰もいない家に戻る気にはなれず、石切りをして時間を潰す方法を覚えてからは、仕事場の近くで母の仕事が終わるのを待ち続けた日々――。久しぶりに嗅いだ遊郭の匂いに誘われたのか、その時の痛切をそっくり再現している自分に気づいた証人は、十年以上を経てなにひとつ変わっていない、我が身の進歩のなさにしばし呆然となった。
征人がこの世に生を受けた時、家には母親の姿しかなく、懐中時計や蓄音器など、わずかに残った私物がかつて父親が存在した名残りを留めていた。一時はそこに根を下ろすつもりで運び込まれたのだろう私物の数々は、父と母の関係が決して行きずりのものではなく、母がそれなりの覚悟を決めて自分を生んだことの証明でもあったが、結局、父はそれらの私物を置いて姿を消した。木造のあばら家には乳飲み子を抱えた母だけが残され、近在の農家に働きに出、細々と得られる収入だけが、家の生計を辛うじて支えることになった。
それまでの荒《すさ》んだ生活を捨て、どうにかまっとうな暮らしを立て直そうとしていた母の努力は、しかし数年とは続かなかった。征人がようやく歩けるようになった頃、海の向こうで吹き荒れた世界恐慌の嵐は、神奈川の寒村にも有形無形の影響を与えた。頬りにしていた農家が離散し、働き口を失った母は、いつしか元の仕事場――遊郭に戻っていった。
母の勤める遊郭は山ひとつ隔てた先の町にあり、子供の足で往復するにはかなりの覚悟がいったが、無人の家で隙間風の音に怯《おび》えているよりはましだった。来てはいけないという言いつけを破って、征人は何度も母のもとを訪ねた。そこに漂う匂いも空気も、意味を知らない子供にとっては風景のひとつでしかなく、手の空いた女郎がいる時は遊んでもらえたりもしたので、征人の目に遊郭は楽しい場所と映っていた。ただ一度、ガキがちょろちょろしてると客に里心がつくだろうがと、虫の居所の悪かった店の主人に蹴飛ばされた時、抗議の言葉を持てず、ただ困り果てた顔をするしかない母の目を見て、自分はここに来てはいけないらしいと朧《おぼろ》げながら悟った。それからは遊郭の中には入らず、近くの川原で石切りをして時間を潰し、母の仕事が終わるのを待つのが征人の日課になった。
友達でも作れればまた違っていたのだろうが、親の言葉を引き移し、女郎の子、父《てて》なし子と自分を蔑《さげす》む連中を相手に、謙《へりくだ》ってみせるつもりは毛頭なかった。遊郭の近くを遊び場にする子供時代を終え、そこがどういう場所かわかる年頃になってからは、相模《さがみ》湾を一望する高台や、漁師小屋が点在する海岸が征人の遊び場になった。学校を終えるとどちらかの場所に直行し、独り木登りと素潜りに明け暮れていたのだが、それは楽しんでいるというより、ただ時間を潰しているといった方が正しかった。征人にとって、時間とは過ごすものではなく、いつでも潰すために存在するものだったのだ。
そうして友達も作らず、母との間にも距離を置くようになった少年時代を経て、十四歳になった征人は海軍工廠工員養成所見習科への入学を決意した。世間は真珠湾攻撃の大戦果に浮かれている時だったが、別に愛国心に駆《か》り立てられたわけではなく、養成所の寄宿舎に入ってしまえば故郷から離れられる、同じ軍隊でも陸より海の方が相性がよさそうだと、それだけの理由で定めた進路だった。故郷を故郷とも思えなかった征人に、周囲の大人たちが盛んに口にする愛国精神、大和魂という言葉は、概念はわかっても、自分の中に取り込むにはいまひとつぴんとこないものだった。
学業成績は上位を維持していたので、合格通知はあっさり届いた。大日本帝国軍は連戦連勝を続け、南方の島々にも破竹《はちく》の勢いで進撃を続けており、その先兵に加わらんと闘志を燃やす同年代の少年たちに紛《まぎ》れて、征人は巨大な海軍組織の一端に加わった。一、教育に関する勅語を奉体し精神の修養に務むべし。二、礼儀を正しくし品性の向上に務むべし。三、見習工員たる本分を自覚精励、努力もってその責務をまっとうすべし。四、強力一致、将来海軍技術廠の柱石《ちゅうせき》たらんことを期すべし……。起床、巡検、消灯とラッパの音に追い立てられ、油断すれば容赦なくアゴ(拳骨)が飛んでくる生活は楽ではなかったが、学費支給の上、月給までくれるのだからなんの文句もなかった。努力次第では東京帝大工学部の特待生にもなれ、高等官や技師になる道も開けている。海軍技術者の養成にかける国家の意気込み――それだけ焦っていた証明だが――を肌身に感じながらも、征人は大望を抱くでもなく、周りに遅れを取らずを唯一の信条にして、日々の学科と実習をこなした。
二年の養成期間を終えるまでに、帝国陸海軍は初期の勢いを失い、戦況は少しずつ悪化の一途をたどっていった。連日「占領」「大勝利」の文字が躍っていた新聞の一面は、いつしか「転進」「玉砕」といった文字に埋められるようになった。新聞自体、タブロイド判と呼ばれる二回り小さい判型のものに変わった。敗退を転進と言い替え、壊滅的被害を損傷軽微と粉飾して、大本営は帝国の勝利を謳い続けたが、物資の窮乏だけは隠しようがなかった。卒業後は民間の工場に就職するつもりでいた征人は、日々の食糧にも事欠く世間の実情に押し返され、半ば自動的に海軍予備補習生に採用された。海軍工作庁の傘下《さんか》で工員の職を得、特殊潜航艇のモーターを造る日々の始まりだった。
予備補習生は徴兵検査は免除されたものの、海兵団での訓練が義務づけられていたので、結局は海軍に入ったのと同じ格好になった。将校を養成する江田島の海軍兵学校と異なり、徴募新兵の教育を行う海兵団は全国各地に設営されており、征人が入団したのは静岡の浜名海兵団。米国との埋めようのない彼我兵力差を縮めるべく、海軍はひとりでも多くの兵を欲していたが、教班長たちの顔色を窺っていれば、退団しても乗務する艦艇がもはやないことは征人にも察しがついた。実際、海兵団にはボカ沈(撃沈)を食って艦艇から放り出され、重油の海の中から奇跡的に救助された兵たちが行き場なく溢《あふ》れ返っており、うかうかしていると食事にもありつけないありさまだった。訓練の傍《かたわ》ら、征人たちも付近の山に高角砲台を構築する作業を手伝わされたり、塹壕《ざんごう》掘りに駆り出されたりして、海軍とは名ばかりの泥まみれの三ヵ月を過ごした。
退団間際の今年三月に東京が大空襲を受けた時は、東京湾方面の夜空がほんのり赤く染まるのを見た。四月には帝国海軍の象徴である戦艦〈大和〉が沈み、沖縄の陥落が伝えられて、本土決戦という言葉がいよいよ実感になって胸に迫ってきた。三年半の間、大和魂や軍人精神といった言葉で注意を逸らされてきたものを、ここに来てついに直視せざるを得なくなったという感じだった。大型艦艇を建造する工業力と時間を失った海軍は、特攻戦備を中心に本土防衛の方針を固め、体当たり攻撃を目的とする特殊潜航艇と戦闘機の増産に入った。退団と同時に上等工作兵に任官された征人と清永には、それぞれ工廠で兵器生産に携《たずさ》わる仕事が待っているはずだったが、受け取った辞令には横須賀突撃隊への転属を命ずるとあった。
特殊潜航艇〈海龍〉十二隻からなる横須賀突撃隊は、本土決戦の際は東京湾に布陣し、接近する米軍艦艇を迎撃、特攻するために編制された部隊だ。兵器の部品作りは勤労学徒と女子|挺身隊《ていしんたい》で足りるから、兵籍に入ったおまえらは動かす側に回れ、というのが海軍省の意向のようだった。
まだ「マル三金物」の略称で呼ばれていた頃から〈海龍〉の部品作りに携わり、モーターの性能から外板の設置具合まで熟知している身に、〈海龍〉の操艇はさほどの難題ではなかった。特に海軍航空技術廠で見習工員をしていた清永は、航空機の操縦装置を転用した〈海龍〉との相性がよく、正規の訓練を受けた士官たちを唸《うな》らせるほどの操艇能力を発揮した。どだい、自分で造った潜航艇に乗り、自分で特攻しろというのだから、これほど手間いらずな話もなかった。
おそらくは今年中に始まる米軍の上陸作戦に備え、土管程度の直径しかない〈海龍〉に体を押し込み、操艇訓練に明け暮れる毎日。そんな矢先に舞い込んだ呉鎮守府への転属命令が、自分になにを求め、なにをもたらすのかは想像するよりなかったが、なんであれ、特攻を前提とした任務であることに変わりはないだろう。これといった意志も目的も持ったためしがなく、七回生まれ変わっても国の恩に報いようという風潮にも乗れず、ただ流れに任せてここまで来てしまった自分。死を従容《しょうよう》と受け止める心境はまだ遠く、思い残すことがないようにと一時の自由を与えられても、なにをしたらいいのかわからない。十年一日、石切りをして時間を潰している。来年の正月は迎えられないとわかっていながら、相変わらず過ごす℃條ヤを持てず、潰す℃條ヤを送っている……。
なんだ、それ。最後の石を放ってから、征人は自分で自分にケチをつけ、呆然の時間を終わりにした。このまま時間を潰しきってしまっては、いくらなんでももったいなさすぎる。なにかあるはずだと思考を巡らせ、さんざん考えた末に映画を観ようと思いついて、懐中時計の針に目を落とした。
午後五時半、急げば最終回には間に合う。途中で見かけた映画館に、たしか嵐《あらし》寛寿郎《かんじゅうろう》の鞍馬天狗《くらまてんぐ》が掛かっていたと思い出しつつ、征人は川面に背を向けて雑嚢を背負い直した。そのまま堤防を駆け上がろうとして、ふと耳慣れた音楽の音色に足を止めた。
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Still wie die Nacht,
tief wie das Meer...
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ピアノの独奏が微かに空気をさざめかせ、相乗する高い女性の歌声が暮色に染まった川原に降り積もってゆく。昔、何度も聞いた曲。顔も知らない父親が残していった蓄音器が、レコードがすり切れるくらい奏で続けた曲を耳にして、征人はまず、幻聴の類いではないかと疑い、続いていまだに歌詞を暗記している自分の頭に驚いた。それからようやく、きょうびこの歌を聞くのはいったい誰かと考えた。
ラジオ放送でないことばわかっていた。友邦であるドイツの歌曲は禁止されていないが、このレコード、この歌手には放送をためらわせる他の事情がある。節《ふし》ののばし方、ピアノの伴奏の聞こえ具合に、家にあったのと同じレコードだと確信して、征人はひと息に堤防を駆け上がった。材木屋や旅館の看板を掲げた家屋の列を見渡し、黒板塀に囲まれた料亭を曲の出所と見定めて、なにも考えずにそちらに近づいていった。
百坪あまりの土地に、三階建てのどっしりとした家屋を構えている料亭は、開店前の静けさに包まれていた。征人は表門から玉砂利が敷き詰められた内庭を覗き、内庭の方から聞こえてくる曲に耳をそばだてて、吸い寄せられるように裏庭に面した通りに向かった。黒板塀に沿って歩くうち、塀の一画に設けられた勝手口に行き当たり、半分開いた木戸の隙間から中を覗き込んでみた。
塀と家屋の間に人が通り抜けられるほどの隙間があり、道にまで張り出した松の木の幹ごしに、内庭の様子を確かめることができた。正面の潜《くぐ》り戸《ど》から厨房の喧噪が漏れ聞こえたが、裏庭の方から聞こえてくるレコードの音は鼓膜を震わせ続け、征人は知らず知らず目を閉じ、異国語の歌詞を唇でなぞっていた。
故郷のあばら家の情景が思い浮かび、天井の隙間からこぼれ落ちる陽の光に照らされ、ゆるゆるとレコードを回転させる蓄音器の形が、どこか荘厳な光景になって像を結んだ。極貧の中で唯一奏でられた豊かさ≠フ音色。当時もいまも望むべくもなかった希望≠フ所在を教える歌声。そう、父が残していった蓄音器にレコードをかける時、時間は潰す≠烽フから過ごす≠烽フに変わって――。
ふと我に返ると、捩《ねじ》りはち巻きをした老人の顔が目の前にあった。氷を積んだリヤカーを引いて、氷屋らしいその老人は配達先の勝手口を塞いで立つ水兵に不審の目を注いでいた。思わず頬を紅潮させた後、征人は咄嗟に威儀を正し、そうするのが当然というふうに勝手口をくぐった。違うだろう、と内心に毒づきながらも、いまさら外に出るわけにもいかず、氷屋の視線に押される形で内庭に足を踏み入れてしまった。
厨房の壁が途切れた先は、ししおどしの添水《そうず》と、きれいに刈り込まれた植木が作り出す高級料亭の内庭そのものだった。濡れ縁と磨《みが》き抜かれた廊下、青々とした畳の客室に骨董品らしき壺《つぼ》と掛《か》け軸《じく》が飾られているのが見え、無縁な世界に立ち入った緊張感が全身を包んだが、庭の奥から流れる歌声は相変わらず征人の鼓膜を震わせ、心を震わせ続けた。こうなりゃ自棄《やけ》だと内心に呟き、征人は内庭を横切って裏庭の方に回った。ぱちぱちと弾けるレコードの雑音が聞こえるようになり、物置とも薪《たきぎ》小屋ともつかない小さな離れの中で、蓄音器の前に座る女の着物姿が見えた。
白地に紫の鮮やかなよろけ縞《じま》は、仲居でも遊女でもない、芸者が着る着物だとすぐにわかった。夜会巻きに結い上げた髪の下に白いうなじが覗き、遊郭では微塵《みじん》も感じなかった衝動が体を駆け抜けて、征人は無意識に余分な一歩を踏み出していた。
乾ききった枯葉を踏み砕く音が大きく響き、針の飛ぶ耳障りな音とともに曲が途切れた。女の細い肩がこわ張り、わずかに動いた頭が「誰?」と詰問口調を寄越《よこ》した。
「あ、あの……すいません。歌が聞こえてきたもんで、その……」
なにを取り繕う余裕もなく、征人は答えた。三年あまりの軍隊生活も虚しく、不明瞭で上ずった声しか出せなかった。切れ長の鋭い瞳がこちらに向けられ、怒りと警戒を露《あらわ》にしたのも一瞬、女はすぐ意外そうに目を見開いてみせた。「びっくりした」と発した声は、言葉と裏腹に長閑《のどか》な感じがした。
「水兵さん、将校さんのお供?」
髪に手をやって居住まいを正しつつ、女は征人の頭からつま先まで素早く目を走らせる。征人は「いえ……」と目を下に向けた。
「ここは若い人が入れるようなお店じゃないけえ、うろうろしちょると目ん玉飛び出るようなお金取られるよ」
警戒が解ければ、女は辛辣《しんらつ》な口調でたたみかけてきた。大事な時間を邪魔してしまったらしいとわかった征人は、「遊ぶんなら弥生町か畳屋町に……」と続いた女の声を、「あの、謝ります」と、少し大きくした声で遮った。
「歌が聞こえたので……。それ『夜のごとく静かに』でしょう? ……その、ロシアの歌手が唄っている」
さっさと退散しろと訴える胸のうちを無視して、最後の方は含んだ声で征人は言った。小さく息を呑んだ女の目に、再び警戒の色が宿るのが感じられた。
「うちにも昔、同じレコードがあって……子供の頃、よく聞いてたんです。それで懐かしくって、つい……」
ロシア――つまり共産主義圏で吹き込まれたばかりに赤盤《あかばん》に指定され、発禁処分を受けたのは十年以上も前のことだが、同時に周囲から急速に失われていったなにか、希望≠竍豊かさ≠ニいったものの片鱗《へんりん》を甘美な音色の中に見出して、飽かず蓄音器を回していたのも征人の子供時代の思い出のひとつだった。
それと同じレコードを聞いている人なら……と淡い期待を抱いてはみたものの、口にしてしまえば自己嫌悪の苦みが胸の中を吹き抜けた。軍帽を取り、「すみませんでした」と腰を折り曲げた征人は、女の顔を見ずに回れ右をした。「待ちんさい」と言った女が立ち上がり、離れの縁側から身を乗り出す気配が背中に伝わった。
「変わった子じゃね、あんたぁ。海軍さんのくせに、赤盤なんか聞いちょったの?」
はっきり赤盤と口にして、女は微笑を浮かべた。艶《あで》やかな笑みから女盛りの色香が立ち昇り、殺風景な裏庭をぱっと華やがせて、征人はごくりと飲み込んだ生唾を返事にした。
「たぶん、風のせいじゃね。いつもは表には聞こえんし、店の方は準備で騒がしいけえ、この時間だけは安心してかけていられるんじゃけど」
そう言うと、女は馴れた手つきで蓄音器のハンドルを回し、レコード盤の上にそっと針を落とした。静かなピアノの前奏が流れ、再び空気をさざめかせ始めた。
「そんなとこ突っ立っとらんと、座って聞いたらええが。お茶ぐらいご馳走するけえ」
離れの濡れ縁を指さし、女はにっこりと笑った。聞く人が聞けば憲兵に突き出され、最悪、思想犯の嫌疑で特高(特別高等警察)に取り調べられることだってあり得る。征人はどう応えていいのかわからない顔を女に向けた。女はかまう様子もなく焼き下駄をつっかけ、母屋《おもや》の縁側に上がると内庭に続く廊下をぱたぱたと歩いていってしまった。
征人は仕方なく離れの濡れ縁に腰を下ろした。四畳半の空間には箪笥や鏡台、小さなお膳《ぜん》が置かれ、征人の家にあったものより新しい型の蓄音器が、幾枚かのレコードを収めた小棚の上に鎮座《ちんざ》していた。料亭が専属で雇い入れている内芸者の支度部屋かと想像した征人は、女の部屋を覗き見している気恥しさに駆られて、慌てて顔を庭の方に戻した。
やっぱり帰ろうか。そう思う頭とは裏腹に、体はのびやかなソプラノの声に圧倒され、立ち上がることを拒否して、この国から失われた歌声を征人に聞かせ続けた。
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夜のごとく静かに 海のごとく深く
君の愛かくあれかし
我 君を愛するごとく 君 我を愛せば
君がものとならん
鋼《はがね》のように熱く 石のごとく固く
君の愛かくあれかし かくあれかし
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家にあったレコード盤のカバーに、そんな訳詞が手書きで綴《つづ》られていたことを思い出しながら、征人は、あれは父親の筆跡だったのだろうかと十年遅れの疑問を抱き、子供の頃は記号としか感じられなかった詞の中身を今さら反芻《はんすう》して、あまりにも率直なその言葉の連なりに戸惑いを覚えた。それはなんの印象も感慨も持てなかった父という存在に色をつけ、母との間に積み重ねられたのだろう男女の歴史を想像させて、しまいには、そういった事々とはいっさい無縁のまま、明日には死にゆくかもしれない体ひとつの虚しさになって返ってきた。
死ぬ時はどんななんだろう? 生死を超越して任務を遂行せよと説く戦陣訓、勝利も敗北も関係なく、国を守るために命を捧げ、尽くすことこそ男子の本懐《ほんかい》と教える論理には、死地に赴かせるまでの効力はあっても、実際に五体を引き裂かれ、肉体と魂が切断される痛みを救う力があるとは思えない。その瞬間の痛みを緩和するのが、肉親や恋人、この世に自分が生きていたことを証明し、その生存と引き替えに自らの死を容認できる他者の顔なのだろうが、そういう顔をひとつも描き出せない自分は、敵艦に激突する刹那になにを見るのか。とりあえずの義務感に押されて土管のような潜航艇に乗り込み、特攻すべき敵艦を目前にした時、なにを支えに死に繋がる道程を縮めてゆけばいいのか……。
「おケイ姉さん、女将《おかみ》さんが竹宮様のお着きはいつ頃かって」と甲高《かんだか》い女の声が母屋から聞こえ、征人は顔を上げた。「東京のお偉方《えらがた》と会議があるって言うちょったけえ、遅れるんじゃないかねえ」と応じたのは、このレコードの持ち主の声だった。
「あんた、ちょっと呉に電話して聞いてみりゃええのに。竹宮大佐殿はいつごろ会議終わられますかっちゅうて」
「そんな……! 憲兵に連れてかれてまうがね」
本気で怯える甲高い声を背に、おケイと呼ばれた女が廊下を歩いてくるのが見えた。急須《きゅうす》と湯飲み茶碗、それに菓子の皿を載せた盆を手にする鮮やかな着物姿は、窮乏が当たり前になった外界とは別次元の贅沢な光景で、征人はいよいよ場違いなところにいる居心地の悪さを感じた。それを察したのか、おケイは如才《じょさい》のない笑みで「海軍さんにもらったお土産」と言い、征人が取りやすいように盆を差し出してくれた。
皿に盛られた飴羊羹《あめようかん》を見、この店を贔屓《ひいき》にする某大佐の横流し品かと当たりをつけてから、征人は「ありがとうございます。いただきます」と応じて、直径一寸(約三センチ)ほどの飴羊羹を手に取った。爪楊枝《つまようじ》でつつくと表面のゴムが剥がれ、飴玉状の羊羹が出てくる飴羊羹は、キャラメルと並んで海軍が大量購入している菓子だった。
おケイも隣に座り、飴羊羹を手にした。ちらりと見えた長襦袢《ながじゅばん》の朱鷺色《ときいろ》は、三十を越えた芸者が使う色だったが、無心に飴羊羹の皮を剥《む》く横顔はまるで少女のようだった。おそらくは一流どころの芸者と並んで座っていることも、外国の歌を聞きながらお茶を飲んでいることも信じられず、征人は極力、体を動かさないようにして飴羊羹を頬ばり、茶を啜《すす》った。「船乗りさん? それとも内地でお勤め?」とおケイが口を開いたのは、二個目の飴羊羹に手をのばした時だった。
「……まだわかりません。これから転属するところなんです」
「へえ。どこから来たんね?」
答えに詰まったのは、茶を口に運びかけていたからではなく、ほとんど隠密行動に近い転属命令の中身を思い出したからだった。おケイの目が伏せられ、「悪い癖じゃ」と苦笑混じりに発した声がピアノの音色に重なった。
「軍人には喋れんことがあるけえ、余計なこと聞くなちゅうて、いつも叱られちょるのに……」
「あの、生まれは鎌倉の近くです」
なにやら申しわけない気分に押されて、征人は付け足した。横須賀鎮守府から来たと白状したも同然だったが、おケイは気づかぬ振りの微笑で、「ええとこじゃね」と返した。
「鎌倉に住んじょって、ボームのレコード聞いて育って……。きっと、分限者《ぶげんしゃ》んとこの子なんじゃね」
「いえ……。レコードは、父親の形見だから取ってあったんです。赤盤に指定されてからは、お袋は全然聞こうとしなかったけど」
涼やかな横顔が俄《にわ》かに曇り、「お父さん、戦死?」と尋ねる声が耳朶を打った。嘘の痛みが胸に波紋を広げるより早く、征人は「いえ。自分が生まれてすぐに……」と答えた。「そう……」と呟いたおケイの声が、茶の味をひときわ苦くした。
それきり、蓄音器の奏でる音色だけが流れる時間が過ぎた。話せないこと、話したくないことの重みに、せっかくの穏やかな空気が押し潰されてしまった感じだった。茶の残りをひと息に飲み下し、これ以上の嘘を重ねる前に立ち去ろうとした征人は、「このレコードもな、形見じゃけ」と、不意に口を開いたおケイに先の行動を封じられた。
「昔、うちのこと好いてくれた人がおってな。ええ人じゃったけど、お国の考えとは反対のこと考えちょる人でな。思想犯じゃ言われて、特高に連れてかれてしもうたわ」
人相の判別もつかなくなるほど殴られるのは序の口、それでも口を割らない者には爪の間に針を刺し込みもする。特高の取り調べの苛烈《かれつ》さは、征人も噂話で聞いていた。「じゃ……」と言いかけて、征人は口を噤《つぐ》んでおケイの横顔を見た。
「その人がうちに預けていったんじゃ。家に置いとって、うちまでお縄になったら困るけえ、ここに内緒で置かせてもらっちょるんじゃけどな」
小さく笑うと、「……もう四年になるわ」と付け加えておケイも口を噤んだ。それからも芸者として座敷に出、海軍将校の相手を務め、帰らぬ男が残していったレコードを聞き続けた歳月の重みが紡ぎ出す沈黙と思えた。思想犯と断罪された男への想いも、その上で海軍将校の男と繋がれる心境にも想像が及ばず、征人は考えるより前に、「辛《つら》くないんですか?」と口を開いてしまった。
「その……これ聞いてると、思い出すんじゃないかって……」
意外そうに目をしばたかせた後、「やさしいんじゃね、あんたぁ」と笑って、おケイは母屋の屋根ごしに夕闇の迫る空を見上げた。
「思い出すよ、そら。なに言うちょるのかさっぱりわからんとこなんか、特に。あの人、よく言論の自由がどうとか話しちょったけど、うちには半分もわからんかったけん……。じゃけんど、これ聞いてると、なんか心が体から離れて、ふわふわ遠いとこに飛んでくような……。普通にしとったら見えんものが、ぼんやり見えるような心持ちになれるけえ、つい聞いてしまうんよ」
自分の心の中を言い当てられたようで、征人は意味もなく動揺し、なにも入っていない湯飲み茶碗に目のやり場を求めた。
「日本はいま暗いトンネルの中を走っとるけど、目の前にあるものがすべてじゃない。トンネルはいつか必ず終わる時がくる。自分はその出口を見つけるために闘うんじゃって……。あの人の口癖じゃったわ」
さえざえとしたおケイの声に、征人が感じたのは、そういう人もいるのかという単純な驚きだった。それはすぐに、自分にもその男と同じ意見を唱え、同じ行動を取れるだろうかという自問に変わり、どろりとした敗北感の塊《かたまり》になって胸の中に落ちた。
「この歌を聞いとる間だけ、うちもトンネルから出られたような気になるのかもしれんねえ。……こんなこと、兵隊さんに言うたら怒られるかもしれんけど、うち、あの人は戦死したんじゃって思うようにしとる」
「戦死……?」
「そう。合うとるか間違うとるかはわからんけど、誰に言われたんでもなく、自分で見つけたなにかのために闘うて、ほいで死んだんじゃけえ……。戦死じゃろ?」
夕陽に染まった頬に晴れやかな笑みが浮かび、このレコードを残していった男の想いを十分に受け止め、充足しているおケイの心を伝えたようだった。自分がひどく卑小な人間に思えてきて、征人は再び視線を逸らした。
「ごめんな。これから戦地にいかにゃいけん水兵さんに、縁起でもない話じゃったわ」
征人の背中をぽんぽんと軽く叩き、おケイはからっとした声で言った。触れられた背中が熱くなるのを感じながら、征人は「自分は……」と搾り出した。
「自分は、皇国を守るためには、いまは国民全員が協力しなきゃいけない時だと思うから……。だから、戦います」
口に出る端から言葉が上滑りするのがわかったが、言いようのない敗北感を慰める手立ては他になかった。
「立派じゃね」と言ったおケイの微笑にわずかな影が差し、繋がっていたなにかが切れて落ちるのが感じられた。
「それが男子の本懐じゃけえ、頑張りんさい」
そう言って、暮色の空を見上げたおケイの顔を、征人は見続けることができなかった。託されたレコードを守り、帰らぬ男を待ち続けると決めた女の覚悟を前に、いたずらに流され、目前に迫った死を他人事の面持ちで眺める自分は、軽佻浮薄《けいちょうふはく》という言葉ではまだ足りない。いまここで消えてなくなっても誰も困らない、徹底的に無明ななにかだと思った。
レコードの演奏は終わっていた。征人は丁重に礼を言ってその場を辞した。残った飴羊羹を新聞紙に包み、手渡してくれたおケイの寂しげな笑顔が、瞼《まぶた》に焼きついてなかなか離れなかった。
川原で国民服に着替えてから一時間ほど市内をぶらつき、さらに一時間かけて広島駅に戻った時には、満天の星空が空を埋める頃合になっていた。灯火管制の敷かれた町は闇に沈んでおり、電柱に据えられた裸電球の赤茶けた光だけが、駅舎の入口を陰鬱に浮かび上がらせているのが見えた。
汽車の時間までまだ二時間以上ある。待合室で仮眠を取るつもりで駅舎に向かった征人は、電球の光の下、肩をすぼめて立っている大柄な人影に気づいて足を止めた。こちらに気づき、「遅いぞ」と口を尖らせたまる顔は清永のものだった。
七分丈の絣《かすり》の着物に下駄を履き、頭には鳥打帽《とりうちぼう》をかぶっている。寸法の合う国民服の調達を早々にあきらめた清永の私服姿は、丁稚奉公《でっちぼうこう》の小僧が一時帰郷するという風情だった。まだ来ていないとばかり思っていた征人は、「早かったんだな」と応じてそちらに近づいた。清永は恨めしげな一瞥をちらと走らせたきり、うなだれた横顔を上げようとはしなかった。
「なにかあったのか?」と尋ねても「聞くな」。「望みは果たしたんだろ?」と重ねると、地の底からわき出るようなため息を吐き、清永は真剣そのものの顔で征人に向き直った。
「……征人。おまえの言ったことは正しい。相手を選べるかどうかってのは、重要な問題だ」
そう言い、清永は無言で駅舎の入口に向かう。笑い飛ばすには悲愴すぎる背中に、征人は「……そんなにすごかったのか?」と、遠慮がちの声をかけた。「別に」と返ってきた声は、意外に素っ気なかった。
「一応、女には見えたぞ。お袋より老けちゃいたがな」
それでもすることはしてしまったらしい後悔の念が、平静を装った口調から滲み出ていた。征人は思わず立ち止まり、唇を噛んで吹き出しそうになるのを堪えた。清永は不意に振り返り、「おまえはどうだったんだよ?」と詰問の目を寄越してきた。
瞼に焼きついたままになっている寂しげな笑顔、鮮やかなよろけ縞の着物が自然に浮かび上がり、征人は「すごい美人だった」と言ってみた。ぐっと息を呑み、「……嘘つけ」と言った清永は、余裕の笑みを絶やさない征人を確かめてから、クソ! と町中に響き渡る大声を出した。
「いいか、おまえの運はここで使い果たされたぞ。後でどうなったって、おれはもう知らないからな」
「大げさだな」
「なにが大げさだ! ひとりでちゃっかり羽根のばしやがって。のばした羽根をむしられた方の立場になってみろってんだ」
本気で怒り、地団駄を踏む清永を「わかったわかった」といなしつつ、征人は少し気が軽くなる自分を発見していた。外界と隔絶された料亭の空気、そこで食べた飴羊羹の味は、懐かしい異国の歌声ともども、金では買えない貴重な経験であることに間違いはなかった。しかもそれは、誰かに段取られたわけでも、強制されたわけでもなく、自分で行動した結果が偶然引き当てた時間なのだ。
ちょっとした勇気と気まぐれが、思いもよらない世界を引き寄せることもある。流れに身を任すしか能のない頭に新鮮な空気が吹き込まれると、体に沈殿した鬱屈もいくらか溶けて流れて、瞼に残るおケイの笑顔も素直に見返せるようになった。いつか機会があったらまた来よう。同じ時間、同じ場所で、ピアノの前奏が聞こえるのを待ってみよう。万にひとつもない可能性だとわかっていても、そう思える自分に満足して、征人は先刻より明るく見える星空に目をやった。
星のひとつが流れ、漆黒《しっこく》の空に銀色の尾を引くのが見えた。
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降るような星空からこぼれ落ちたその流れ星は、瞬《まばた》きする間も与えず夜空に消えた。
これまで世界中の海から夜空を見上げ、場所によって星の配置が違うことを確かめてきたが、この国の星空には不思議と肌に馴染むものがある。ここに来てまだ一週間と経っていないのに……と思い、血の記憶という言葉をふと連想したフリッツ・S・エブナーは、そう感じる自分を嫌悪した。
夜空は夜空、太陽が出ていない空というだけのことだ。そう断じて、フリッツは広島湾の天井を覆う無数の光点から目を逸らした。前方には夜陰に馴染んだ暗黒の海面と、その中にひときわ濃い闇を作る大小の島影が点在しており、もっとも大きな影になって横たわる柱島《はしらじま》が、船の動きに合わせてゆっくり上下するのが見えた。
江田島から三十キロほど南下したところにある柱島は、連合艦隊泊地として名を知られた場所だという。差し渡し三キロ少々の本島に小柱島《こばしらじま》、続島《つづきじま》を従え、かつては巨大な空母や戦艦が所狭しと錨《いかり》を下ろす光景があったらしいが、いまは排水量千トンにも満たない海防艦や、老朽化した駆潜艇《くせんてい》がぽつぽつ錨泊《びょうはく》するばかりで、灯火管制が徹底された沿岸の繋留《けいりゅう》設備も暗く静まり返っている。戦時下の緊張感をとうの昔に超え、すでに終末感を漂わせる闇と静寂は、この浚渫船《しゅんせつせん》がいくら波を蹴立てようと微塵《みじん》も揺らがない、圧倒的としか言いようのない虚無の被膜だった。
――早ければ今秋……遅くとも来春までには、連合軍の本土上陸作戦が始まるだろう。
頬をなぶる風の音に、数時間前に聞いた浅倉良橘の声が混ざった。フリッツは目を閉じ、その風貌を頭に描こうとしたが、思い出せたのは暗い瞳の印象だけだった。
――一億玉砕を叫ぶ裏で、終戦工作も密かに進められてはいる。だが現状では、連合軍は無条件降伏以外の選択肢を我々に与えないだろう。それを覆《くつがえ》し、少しでも有利な終戦を日本に迎えさせるためには、ローレライをもって帝国海軍の底力を米国に示すしかない。これは一時的な勝利を期待するものではなく、その先の未来――日本という国家の未来を左右する作戦であることを、肝に銘じておいてもらいたい。
むしろ、浅倉の弁を真摯《しんし》に受け止め、直立不動の姿勢を終始崩さなかった絹見真一という男の顔の方が、より鮮明に脳裏に焼きついている。それなり以上に物覚えがよく、冷静な視点と広範な知識を併せ持つ一方で、無条件にこの国の軍人でもある男。あの後、彼が艦長を務めることになる潜水艦と、ローレライ――PsMB1に関して最低限の説明を行ったフリッツは、絹見の印象をそう分析していた。
その潜水艦の出自より、日本海軍の備品で整備は可能なのか、いつ出撃の目途《めど》が立つのかを気にし、PsMB1に関しても、その兵器的特性より回収作業に必要な情報――どの程度の大きさか、何メートルの海底に沈んでいるのか――を優先して訊いてくる。任務の遂行に必要なことさえわかれば、あとは実行あるのみ。軍人の鑑《かがみ》とでも呼ぶべき実直さと怜悧《れいり》さは、フリッツにしてみれば鼻につくところではあったが、〈|海の幽霊《ゼーガイスト》〉の新艦長としては合格の部類に入ると思っていた。もっとも優秀な軍人≠ェ優秀であるのは、属する国家が健在である期間に限られるから、先はどうなるかわかったものではないが。
ともあれ、浅倉が吟味《ぎんみ》を重ねて選び出した新艦長との接見を終え、日没とともに江田島を離れたフリッツは、いまは第三陣の新乗組員を運ぶ浚渫船に便乗している。柱島に入港して以来、ひたすら艦の修理と整備に明け暮れた身に、江田島行きはこの国の風物に触れる最初で最後の機会だったが、残った印象は静まり返った兵学校の校舎や灯の消えた家々、肌に絡みつく湿気とやかましい蝉の声くらいで、お世辞にも充実した時間だったとは言えない。子供の歓声も若者の声も聞こえず、老人のため息のみが支配する風景に、祖母が寝物語に聞かせてくれた、四季に恵まれた豊かな国の姿はなかった。
陥落《かんらく》直前のベルリンも、あるいはこんなふうだったのかもしれない。全世界があまねく発狂しているいま、どこに行っても結局は同じ。血の記憶が聞いて呆れると自嘲しつつ、フリッツは甲板にうずくまる男たちに目を走らせた。海底に溜まる土砂を取り除き、港湾施設の深度を一定に保つのが役目の浚渫船は、全長二十メートルあまりの船体そのものが泥桶のようなもので、操船台を除けば人の入れる空間はほとんどない。二十六名もの新乗組員たちが船内に収まるはずもなく、彼らは吹きさらしの狭い甲板で肩を寄せあい、寡黙《かもく》な顔を月明かりに浮かび上がらせていた。
第一陣、第二陣がそうだったように、この第三陣の新乗組員たちも玉石混交。自分と同年代の者から、明らかに一線を退いたと思える者まで、それぞれ国民服や労務者風の出で立ちに身を包んだ男たちは、海軍軍人というより旦雇い労働者の集団に見える。自分たちがどこに配属されるのか、これからどんな任務に就くのか、まだろくに知らされていない男たちの顔は一様にこわ張っており、一週間前、難民さながらの体たらくで艦を離れていったカール・ヤニングスたちの顔をフリッツに思い出させた。
艦の引き渡しに関する雑務を慌ただしく終えるや、迎えにきた軍令部員の指示に従い、逃げるように柱島を後にした〈UF4〉の乗員たち。ドイツ国籍を捨て、これまでの人生も捨ててとりあえずの自由を手にした彼らは、おそらくは第三国への出国を希望するのだろうが、それが叶うかどうかは日本側の対応ひとつにかかっている。少なくともいますぐ国外に出るのは難しい。しばらくは在留外国人として、日本国内に留まることになるのだろう。
属する国家を失った軍人は、その優秀さに比例して凋落《ちょうらく》の度合いもひどくなる。保証期間の切れた優秀な軍人≠ナあるヤニングスらを見送った時、あらゆる主義、あらゆる国家に馴染めなかった身が感じたことと言えば、その程度のものだった。この三年あまり、狭い艦内で角《つの》を突き合わせ、ネジやボルトのごとく、彼らが少しずつ錆び、緩み、しまいには壊れてゆくさまを目撃してきたわけだが、それはまさに艦を構成する部品として見ていたのであって、個人的な感想を持ったことは一度もない。支払うべき負債を踏み倒して逃げおおせた彼らが、真実の自由を手にするのか、みじめにのたれ死んでゆくのか。どちらの運命をたどろうと興味はなく、日本国内にはドイツを逃れてきたユダヤ人も少なからずいる、と言っていた浅倉の言葉だけを思い出したフリッツは、その言葉の皮肉にいまさら気づいて小さく苦笑した。在日ユダヤのコミュニティに紛れ込み、第三国への出国を待つ元ナチスドイツの軍人たち。冗談にしても気が利きすぎている……。
ふと視線を感じ、フリッツは顔を上げた。荷物を抱えてじっと甲板にうずくまる男たちの中、丸眼鏡をかけた四十がらみの男がこちらを注視しているのが見えた。目が合うと、なんの腹蔵《ふくぞう》もない顔が満面の笑みになり、話好きの口が躊躇なく声をかける時の形になる。またかと内心に毒づいたフリッツは、急いで苦笑を消し、黒い海に目のやり場を求めた。
時岡《ときおか》纏《まとい》軍医大尉。軍医長として艦に乗り組むことになる彼は、もともと軍属ではないらしく、東京の医大に勤務していたところを召集されたのだという。聞いてもいないのに自分の来歴をさんざん話した挙句《あげく》、「ドイツではそういう髪型が流行なんですかな?」「日本語はどこで習ったんですかな?」「潜水艦に乗るのは初めてですが、窓がひとつもないなんて息苦しいもんでしょうなあ」などと長閑な質問をくり返して、黙るということを知らない。最初は適当に相手をしていたフリッツも、一時間も続くといい加減|辟易《へきえき》してきて、答えるのをやめにしていた。時岡はしぶしぶ黙ったものの、少しでも目を合わせれば、また話しかけてくるのではないかという緊張感はそのままだった。
時岡ほど能天気でなくとも、新乗組員は多かれ少なかれフリッツに好奇の目を向け、中には敵意に近い目をちらちらと送ってくる者もいる。長髪が気に入らないのか、ナチス親衛隊《SS》の制服が癇《かん》に障るのか、もしくはこちらが抱く敵意と侮蔑を感じ取っているからか。そんなことをぼんやりと考え、なるほど、ナチス式の洗脳教育も伊達ではなかった、おれも一端《いっぱし》の人種差別主義者になっているようだと、これもぼんやりと結論したフリッツは、不意に足もとの甲板が沈み込むような心もとなさを感じた。
体を流れる四分の三の血に存在を否定され、残る四分の一の血の只中に身を置いてみれば、そこにも同化できないと思い知らされる。はなからその気はないとはいえ、広大な世界のどこにも身の置き場がないと確認するのは、やはり楽しいことではない。自分と同じ肌の色を持つ男たちに背を向け、フリッツはこれから自分がなすべきことに思考を巡らせた。
あれからもう一週間と一日。時間切れ≠ノなるまであと三日……ぎりぎり見積もっても四日というところだろう。なんとか回収に成功したとしても、そこから先は不確定な要素があまりにも多く、現段階では具体的な行動計画は立てようがなかったが、それは別に初めての経験ではなかった。
どれほど周到に計画を立てても、いざ始めれば克服しなければならない問題は山と出てくる。これまでもそうして次々に発生する問題に対処し、なんとか生き延びてきた。今度もきっとうまくいく。目的さえはっきり設定されていれば、問題の突破口は必ずどこかに見出せるものだ。内心に呟き、いたずらに焦る胸をなだめてから、フリッツは正面に視線を据えた。小柱島の影を抜けると、柱島の沿岸で瞬く白い光点が見えるようになり、〈ゼーガイスト〉――〈UF4〉の修理が夜を徹して続けられていることをフリッツに教えた。
錨泊《びょうはく》に適した深度と底質、広島湾の入口という位置関係から泊地に使われているだけで、柱島自体に大規模な軍施設があるわけではない。中型以下の艦艇が横付けできる桟橋《さんばし》が数本と、備品用の倉庫が月明かりに照らされるばかりの港は、遠目に見た時の印象と変わらないうらぶれようだった。
第三陣の新乗組員を迎え入れるべく、桟橋で待ち構えていた小松《こまつ》秀彦《ひでひこ》少尉らに後を任せて、フリッツは舫《もや》い作業が終わらないうちに浚渫船を降りた。海軍兵学校を卒業してようやく二年、潜水学校を卒業してからはまだ二ヵ月も経っていないという小松は、艦内の風紀係とも言うべき甲板士官を任じられた新米士官だ。
備品の整理がなっていないと言っては担当の兵曹を呼びつけて雷を落とし、整備兵が鼻唄でも歌おうものなら容赦なく鉄拳を浴びせかける。興がのってくると「かしこくも天皇陛下におかれては……」と、この任務がいかに重大で尊いものであるかをこんこんと説く始末で、作業の遅滞を招いたのも一度や二度ではない。「かしこくも」の枕詞《まくらことば》を聞いた途端、薬物反応のように直立不動になり、顎を引いて傾聴する兵たちの様子と併せて、この国の洗脳教育にもそれなりの効果があると実証している男だが、フリッツから見れば無能の一語で片付けられる軍人でしかなかった。
神経質そうな瓜実顔《うりざねがお》に不審の念を露にしつつ、桟橋に降り立った元ナチス親衛隊員に形ばかりの敬礼をした小松に、こちらも同じくらい空虚な敬礼を返したフリッツは、足早に〈UF4〉の繋留《けいりゅう》されているバースへ向かった。
入港時に待機していた第一陣、その二日後に到着した第二陣を合わせた四十二名に、この第三陣を足して六十四名。明日到着する予定の最終第四陣で、ようやく八十八名の新乗組員が全員そろうことになる。三直交替で人員を回すには百名は欲しいところだが、そこは人手不足の日本海軍のこと、ないものねだりをしても始まらないとフリッツはあきらめていた。〈UF4〉の引き渡しを打診して二ヵ月と少し、短期間にこれだけの人員をかき集め、まがりなりにも修理と補給の態勢を整えられたのだから、むしろ感心すべきという思いもないではなかった。
海岸に突き出た巨大な切り出し石、といった風情の貧弱なバースに横づけにされ、潮に汚れた暗灰色の船体を夜空にさらす〈UF4〉は、キール軍港の潜水艦繋留設備《ブンカー》に身を休めていた時と違って、ひどく心もとなさそうに見えた。上甲板の大部分はカモフラージュ用の天幕で覆われ、艦橋構造部に設置された二基の対空機銃、潜水艦の備砲としては桁外《けたはず》れに大きい二門の砲身も隠されてはいるものの、気休めになるとすら思えない。この一週間、一瞬たりとも休まずに響き渡っている鉄を打つ音、クレーンの稼働音や作業員の喧噪はともかく、全長百十メートルの船体に二十数人もの整備兵や工作兵が群がり、間断なく高温切断器の焔《ほのお》を閃《ひらめ》かせているのだ。見張り員が居眠りでもしていない限り、高々度飛行中の偵察機からでも容易に発見することができる。頭隠して尻隠さず、とは祖母に習ったこの国の諺《ことわざ》のひとつだが、そのへんの危機感の希薄さというか、どこか一本抜けたところは、人員や物資の窮乏とは関係なく、この国が歴史的に培ってきた国民性の問題で、やはりあきらめるしかないものとフリッツは認識していた。
四方を海に守られ、他国と接する国境線もなく、大規模な侵略を受けた経験もない。他国∞他民族≠ニいう言葉が持つ本当の意味から隔離されてきた国民は、人の立ち入らない入り江に棲《す》む魚と同じで、ある日突然、銛《もり》に突き刺されて血を流す時まで、他者との間に横たわる断絶の深さ、不可知の恐怖を想像できないのだろう。停泊中の潜水艦を空襲から守るべく、分厚いコンクリートで天蓋《てんがい》を覆ったブンカーを造るという発想は、他国に蹂躙《じゅうりん》される痛みを知らない者たちには最初から持ちようがなかったに違いない。
国境と民族の軋轢《あつれき》に絶えずさらされ続けた結果、他者はどこまでいっても他者と断定するようになった大陸諸国の感性も、自らの優位性を保障する究極的な手段として、優生学という愚かな学問を利用した国家の思考回路も、日本人は永遠に理解することはない。その行き着く先にある真実の狂気――種の完全統一≠目論んだ科学者たちの腐った頭も、この島国の住人たちにとっては無縁の事柄でしかなく……。
鋭い笛の音が発し、フリッツは遊離しかけた意識を現実に引き戻した。「控《ひか》え索《さく》、離せ!」の号令が続いて響き渡ると、バースに架設された荷物揚げ降ろし用のクレーンが唸りを上げ、〈UF4〉の隣に横づけされた物体をゆっくり引き上げてゆく。そこだけ独立構造になっている艦尾旋回式魚雷発射管ごしに、魚雷にしては大きすぎる円筒形の物体が姿を現し、フリッツは不意に胸苦しい感覚にとらわれた。
全長十七メートル強、直径一・三メートルの円筒は、一方の先端が円錐《えんすい》状に尖っており、もう一方には二枚の縦舵とプロペラが備わっている。左右に生えた長さ一メートルの横舵は、船体の比率からするとひどく大きく、潜望鏡を備えたセイルが上方に盛り上がっていなければ、ロケットの類いではないかという印象さえ与える。これが噂の特殊潜航艇〈海龍〉か。クレーンに持ち上げられ、海水を滴《したた》らせつつ〈UF4〉の後部甲板上に移動したその船体を、フリッツはしばらく黙って見つめ続けた。後部甲板上に待機する整備兵曹が艇に巻きついた索を取り、「もうちょい右! よし、そこだ」とがなる声を聞いて、ようやくそちらに近づくつもりになった。
船体の左右に一発限りの魚雷発射管を外装した〈海龍〉は、姿形こそ敗戦間際にドイツで量産された小型潜航艇《ミゼットサブ》、〈ゼーフント〉や〈ヘヒト〉に似ているものの、その運用思想は大きく異なる。大型艦より建造や保守の手間がかからず、低コストで量産が効くという開発の発想は同じだが、乗員の帰還を前提とするドイツのミゼットサブに対して、〈海龍〉を始めとする日本の特殊潜航艇は、最終的にはそれ自体が魚雷になるよう想定されている。いわゆる特攻兵器と呼称される潜航艇で、いま目の前にある〈海龍〉も、円錐状の艇首に炸薬《さくやく》が装填されているのかもしれなかったが、フリッツに胸苦しさを味わわせるのはそれとは別の事柄だった。
本当なら〈ナーバル〉が収まるべき場所に、日本の特攻兵器が収まろうとしている。幼稚でバカげた妄想だと自覚しながらも、自分と「彼女」だけの聖域が汚されたような不快感は拭いがたく、フリッツは眉間に微かな皺を寄せた。
クレーンに吊り下げられ、慎重に後部甲板の固縛装置上に置かれた〈海龍〉のセイルには、後から設置したとわかる探照燈が取りつけられており、船体側面にはやはり溶接の跡も生々しい把手《とって》、給気ケーブル用の接続口がついている。回収作戦用に急きょ改造されたのだとわかったフリッツは、確実に前進はしている事態に一応の納得をして、多少冷静になった目で〈海龍〉の固定作業を眺めた。
ドイツ本国でも不可能だったPsMB1の量産を、この極東の島国が実現できるとも思えないが、少なくともその兵器としての価値に着目した日本海軍は、PsMB1の確保に本腰で乗り出してきた。ドイツ降伏後、帰る国を失った〈UF4〉を受け入れ、百名あまりの乗組員たちの身柄引き受けを了承して、日本にたどり着けるよう、なけなしの燃料と糧食を補給してもくれた。そして日本に到着する直前、〈UF4〉がよりにもよってPsMB1を落っことして≠ォたと知れば、即座に回収の算段を整えもしたのだ。
その回収作戦に〈UF4〉自らを当たらせるのが、窮乏極まった軍の台所事情によるものか、「自分の失敗は自分で贖《あがな》えというお国柄なのかは定かでないが、PsMB1担当技術士官として、引き続き〈UF4〉への乗務を認められたのだから、よしとしなければならない。せいぜい利用させてもらうさと内心に呟き、両の拳を軽く握りしめた瞬間、「フリッツ少尉!」とすぐ近くで声が弾けた。振り向いた先に、バースの上に立つ高須《たかす》成美《なるみ》大尉の姿を認めたフリッツは、内心の不快を押し隠して敬礼をした。
姓が名より先にくる日本人の先入観がそうさせたのか、エブナーではなく、フリッツと呼ばれるのが通例になってしまったのは、PsMB1をローレライと呼ぶことと併せて、現在の〈UF4〉に根づいている好ましからざる風潮だった。いちいち訂正するのも億劫なのでそのままにしているが、なれなれしい感じには抵抗を抱き続けている。憮然の表情を崩さずに近づくと、高須はよっと言わんばかりにもういちど手をかざして、フリッツの神経をさらに逆なでした。
先任将校、すなわち副長の地位を任ぜられている高須は、優男《やさおとこ》の顔貌に張りつけた微笑でフリッツの不満顔を受け流し、〈海龍〉の固縛作業に目を戻した。日本軍人らしからぬ洒脱《しゃだつ》な印象の男で、人受けがよく、艦長よりひと足早い着任を無駄にはせずに、寄せ集めの乗員たちのまとめ役をこなしている。「艦長を父親、副長を母親と思え」とは、どこの国の潜水艦でも言われることだが、額面通りにその言葉を解釈するなら、高須はまさに副長になるために生まれてきたような男だった。
他の乗員と分《わ》け隔《へだ》てなく接してくれるという点では、フリッツにとっても悪い相手ではないのだが、別に親睦を深めるためにここで面《つら》を突き合わせているわけでもない。フリッツは黙して高須の言葉を待った。〈海龍〉の船体に取りつき、固縛装置の鉄輪をいじっている整備兵曹に「どうだ!?」と呼びかけた高須は、「ダメです、やっぱり動きません!」と返ってきた声に手を上げて応じてから、おもむろにフリッツに振り返った。
「交通筒の規格は一緒なんだが、船体の大きさが違うんでな。拘束具の噛み合わせがうまくいかなくてまいってる。固縛装置の手引書を見ると、拘束具の可動範囲を変更できるようなんだが…:。いかんせん、ドイツ語で書かれてるんでな」
固縛装置は〈ナーバル〉の大きさに合わせて設定されているから、二回りは小さい〈海龍〉と規格が合わないのは当然だった。訳せ、と言外に伝えた高須の意思を汲《く》み取《と》ったフリッツは、「わかった。見てみます」と応じてその場を離れた。魚雷発射管から機関、果ては便所に至るまで、ドイツ語で表記された器具の文字を日本語に訳し、艦内各所に訳語を記した紙を貼りつけるのは、フリッツの仕事になっている。「フリッツ少尉が見てくれる! 手引書を用意しとけ」と整備兵曹に怒鳴る高須の声を背に、フリッツは艦とバースを繋ぐ係船桁《けいせんけた》に足をかけた。
「空襲が始まれば、出撃はさらに早まるかもしれん。少尉の指示に従って、作業は正確かつ迅速にな」
「そんな……! まだ水密試験もろくに済んでないんです。これ以上の時間短縮なんて冗談じゃありません」
「冗談で戦争ができるか! 無理でもやるんだ。出撃もせんうちに沈められたんじゃ、〈伊507〉に申しわけが立たんだろうが」
〈伊507〉という一語が脳に引っかかり、フリッツは思わず足を止めた。すっかり忘れていた言葉の違和感を噛み締めると同時に、「少尉」と声をかけた高須が、含んだ目をこちらに向けてきた。
「どうだった、艦長との接見は」
「ああ……。優秀な艦長のようです。ドイツ語も多少はわかるらしいので助かりました」
回収後に取るべき行動を思えば、ドイツ語を解する者が艦内にいるのはあまりありがたくないのだが、フリッツはそう返しておいた。不眠不休の一週間を顎の無精髭に忍ばせ、「そうか」と素直に応じた高須は、「いよいよだな」と続けて、上甲板の中央に盛り上がる艦橋構造部の方に視線を移した。
係船桁に足をかけたまま、フリッツも楕円《だえん》の柱になって聳える艦橋を見上げた。高さ十メートルほどの艦橋には梯子《はしご》がかけられ、ペンキ缶を持った整備兵がそこを下っているところだった。梯子の上に残った兵が「剥がすぞ!」と大声を出し、艦橋の脇に貼ってあった塗粧《とそう》用の型枠紙が勢いよく剥がされる。長方形の黒地に「イ507」と記された白ペンキの文字が露になり、艦橋付近でわき起こった小さな歓声と柏手が、作業の喧噪に混じってひそやかに響き渡った。
戦利潜水艦――降伏した他国の海軍から接収した潜水艦――の艦名は、伊五百番台で統一され、現在、日本海軍には〈伊501〉から、〈伊506〉までの六隻の戦利潜水艦が艦籍に編入されているのだという。すべてシンガポールやジャカルタに在泊していたドイツ海軍のUボートで、降伏後、自動的に枢軸国《すうじくこく》である日本海軍に接収された。その経緯に準《なぞら》えれば、ドイツから日本に艦籍を移し、七番目の戦利潜水艦となった〈UF4〉が〈伊507〉と改名されたのは当然のなりゆきだったが、四年あまり寝食を共にし、家%ッ然になっていた艦の名前が変わるというのは、さっぱりするような、なにかしら心もとないような、複雑な気分ではあった。
とにかく、これで名実ともに日帝海軍の艦艇になった〈ゼーガイスト〉を見渡し、〈UF4〉と呼ばれた頃にこの艦が浴びてきた血飛沫《ちしぶき》、重油の量を思い描いたフリッツは、ついでにその中で自分が味わった刻苦の数々も呼び出して、まとめて頭から追い払った。その時、その場所に合わせて刻々と名前を変え、変転の道をたどってきた潜水艦。おれたち[#「おれたち」に傍点]には似合いの艦だと思い、止めていた足を動かした。
「出世魚って言葉、知ってるか?」
高須の言葉が振りかけられ、フリッツは再び足を止めた。この国で生まれ育った祖母の影響で、ほぼ完璧に日本語は理解できているつもりでも、諺《ことわざ》や熟語となるとまだまだわからない言葉もある。フリッツは首を横に振った。
「成長するに従って呼び名の変わる魚のことだ。ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリってな。当然、大きくなった方が値が張るようになるし、脂がのって美味《うま》くもなる。こいつも同じだと思わんか? 〈シュルクーフ〉から始まって、〈ゼーガイスト〉こと〈UF4〉、それに〈伊507〉だ」
言葉の意味はわかっても、そんな話題を持ちかけてきた高須の意図はわからず、フリッツは無言を返した。高須はなぜだか苦笑し、「笑えよ」と腰に両手を当てた。
「脂ののった戦いぶりを見せてやるって言ってんだ」
清々とした笑みが、白い開襟《かいきん》シャツの略装をスマートに見せていた。どういうわけか、〈伊507〉に集められた乗組員にはこの種の能天気な手合いが多い。微妙に調子を狂わされた頭で、フリッツは「ああ……」と歯切れ悪く頷いた。
「期待しています」
なんであれ、おれに関係のあることではない。フリッツは今度こそ係船桁をひと息に渡りきった。
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ひと晩かかって多少は冷やされた空気が、朝露になって葉を濡らす頃だった。遠くから聞こえてくる車のエンジン音に、征人は浅い眠りから引き戻された。
朝露で湿った道をじりじりと這うタイヤの音、切り替えられたギアの音が早朝の静寂を破り、次第に速度を落として近づいてくる車の気配を伝える。咄嗟に懐中時計を取り出し、午前五時半の時間を確かめた征人は、顔に張りついた朝露を拭って周囲を見回した。天井に近い明かり取りから夜明けを告げる光が差し込み、眠りに落ちる前は闇一色だった薪小屋をぼんやり浮かび上がらせている。交代で睡眠を取ろうと言い出して五時間あまり、二度目の当直についているはずの清永を振り返ると、まるい背中は征人に寄りかかったまま、目を覚ます気配もなかった。
肘でつっつき、「おい、起きろよ」と呼びかけても反応はない。その間に車の音が間近に迫り、征人は仕方なく清永を放って立ち上がった。支えを失って頭を床にぶつけ、「アテッ」と呻《うめ》いた清永の声を背に、仮の宿に使わせてもらった薪小屋から外に飛び出した。
海が近いせいか、朝の空気は思ったより冷たかった。線路沿いに生える棚代わりの藪《やぶ》を踏み越え、駅舎の方に向かった征人は、線路と並走する一本道の上に二台のトラックを見つけて、急いで薪小屋に引き返した。寝ぼけ眼《まなこ》ながらも、すでに荷物をまとめ終えていた清永から自分の雑嚢を受け取り、慌てて駅舎の前に戻った。
車体のあちこちを泥で汚した、軍用ですらない大型トラックが徐々に近づいてくる。呉の二つ手前の駅、吉浦で下車したのが昨夜の十一時。事前の指示に従って駅舎周辺で待ちの態勢に入ったものの、密行任務とあっては待合室に居座るわけにもいかず、藪蚊《やぶか》に追い立てられ、駅の薪小屋で浅い眠りを貪《むさぼ》った征人たちにしてみれば、少々頼りないと思える迎えの姿だった。「あれか?」と言う清永に、「多分……」と応じて、征人は踏み固めた畦道《あぜみち》を走るトラックを見つめた。線路の反対側は一面の田圃《たんぼ》で、電線の上に数羽のスズメがいる以外、動くものはなかった。
先頭のトラックが目の前まで近づき、征人は道端に一歩あとずさった。運転席に座る三十がらみの男と目が合ったが、それだけで、トラックは減速もせずに走り去ってしまった。排気ガスの残り香の中、拍子抜けした顔を清永と見合わせた征人は、二台目のトラックがいきなりブレーキを軋ませる音を聞いて、意味もなくひやりとした。
ハンドルを握る痩せぎすの男が、ろくに目も合わさずに片手を突き出し、親指でぐいとうしろを指す。国民服を着ていても、その物腰に漂う特殊な緊張感は疑いようがなく、征人は小さく会釈をして幌《ほろ》のかかった荷台に向かった。幌をめくる音、ざっと土を踏む音がエンジンの震動に混ざり、ずんぐりした男が荷台の陰から姿を現したのは、その時だった。
薄汚れたシャツに紺のはっぴを羽織り、片手を腹巻にかけている。ごま塩頭に捩りはち巻きまで巻いている姿は、建築屋の棟梁《とうりょう》そのものと見えたが、肉厚の顔に埋め込まれた目の鋭さは尋常ではなかった。殺気を孕《はら》んだ目に頭からつま先までを睨みつけられ、征人と清永は期せずして同時に立ち止まった。
「折笠と清永だな?」
野太い、しかし押し殺した声が男の口から発し、反射的に踵を合わせそうになった征人は、敬礼も報告も略すること、という命令の一文を思い出して危うく踏みとどまった。「……はい」と頷くと、「はっ! 清永……であります」と、思い出すのが少々遅れたらしい清永の声が後に続き、ぎろと動いた男の目が鋭さを増した。
人を殺した目だ。無条件に直観した体が硬直して、征人は太い眉の下で光る男の双眸《そうぼう》を正面から覗き込む羽目になった。清永が凍りつく気配が背中に伝わり、なんの理屈もなく、この場で殺されるのではないかという恐怖が全身を走ったが、それも男が視線を逸らすと解消した。「乗れ」と荷台を顎でしゃくった男の右頬に、火傷《やけど》とも刀傷ともつかない傷痕を見つけた征人は、一も二もなく男の脇をすり抜けた。
荷台に上がると、ずらりと並んだゲートルや長靴の足が左右に見え、ついで十数人の視線が一斉に突き刺さってきた。国民服を着た三十代半ばの男、工事現場から抜け出てきた風情の地下足袋《じかたび》の中年男、ボタンの取れたシャツの胸元を掻いている二十代前半の男。年齢も服装もばらばらな男たちの視線が一様に値踏みする光を孕み、新入り二人の全身を隈《くま》なく精査する。どう反応していいのかわからず、砂埃《すなぼこり》の溜まった床に手をついて立ち上がった征人は、「あ、あの、お邪魔します」と、とにかく頭を下げた。
我ながらマヌケな挨拶だと思う間に、男たちは興味を失ったように目を逸らし、それぞれ寡黙な顔をうつむけていった。ただ右奥に座る四十がらみの作業着姿の男だけが、くたびれた帽子の鍔ごしにじっとこちらを見つめ続けており、征人もやり場のない視線をつかの間そちらに求めた。
疲労に一抹の緊張を宿し、なにかを噛み殺した顔をうつむける男たちの中で、その男は泰然と、どこか投げやりとも思える目を征人に向けていた。軍人精神を説く教班長らの血走った目でもなければ、はっぴを羽織った男の殺気立った目でもない。期待も不安もなく、受光した対象物を淡々と受け止める目。居心地の悪さなどとうの昔に払拭《ふっしょく》して、ただそこにあり続ける無造作な目だった。ざわざわと胸が騒ぎ、男の目をもっとよく見ようとした刹那、清永に続いて荷台に上がってきたはっぴの男が幌を閉ざし、急に訪れた闇が征人の視界を覆った。
誰かの拳が運転席を叩いたのを合図に、トラックは急発進した。体勢を崩したところを、すぐ背後に立っていた清永に危うく支えられた征人は、「ここ、座れ」とかけられた声の方に振り向いた。やはり四十がらみと見える地下足袋の男が席をつめ、長椅子の表面をぽんぽんと叩いていた。痩せてはいるが、骨太な印象を与えるその男に頭を下げて、征人は清永と並んで左側の長椅子のいちばん端に収まった。暗闇に目が慣れた頃を見計らい、右奥に陣取る作業着の男をもういちど窺ってみたが、彼はもう目を合わそうとはせず、組んだ手のひらに顎をのせて、風を孕んではためく幌をどうでもいいというふうに眺めるばかりだった。
はっぴの男はずんぐりとした体を向かいの席の中央に収め、腕を組んで瞑目《めいもく》している。彼がこの集団の長らしいと納得して、在人は態度も体もでかい男に観察の目を注いだ。目を閉じると、馬鈴薯《ばれいしょ》を思わせるその横顔には愛敬がないこともなく、映画で観た『無法松の一生』の主人公の姿が自然に重なって見えた。
博打《ばくち》好きで喧嘩っ早い、だが根は純情な無法松と、正体不明の集団を率いる帝海軍人。思いのほかぴたりと重なった印象が可笑《おか》しく、清永にも教えてやりたかったが、しわぶきひとつ立てない男たちの様子を見れば、口を開くのはためらわれた。
車のエンジン音がいやに大きく足もとに響き、タイヤが石に乗り上げるたびに堅い長椅子が尻を打った。これからどこへ行き、なにをさせられるのか。この男たちはいったい何者なのか。静止した時間の重みが疑念と一緒に胃液を染み出させ、昨夜、清永と分け合った飴羊羹を入れたきりの腹を痛くさせたが、無法松に話しかける勇気を喚起するほどではなかった。清永も同じ思いらしく、「……なあ、本当にこれで間違いねえんだよな?」と小声で囁きかけてきたが、「誰もなにも喋るな」と目を閉じたまま言った無法松に遮られて、慌てて顔を正面に戻していた。
わかるもんか、と内心に言い返して、征人も無言の顔を正面に向けた。そもそも、なぜ転属させられたのかさえ皆目《かいもく》わからないのだ。この四月に大幅な組織改革が行われ、それまで連合艦隊を始めとする外戦部隊と、各鎮守府からなる内戦部隊とに分かれていた海軍の編制が、海軍総隊の指揮下に統合されたというが、横須賀鎮守府所属の水兵を呉鎮守府に異動させる、その余分な手間暇の説明がそれでつくとは思えない。管轄の垣根がある程度取り払われたといっても、いくらでも替えのきく水兵なら現地で調達するのが道理だ。なにかしらの特殊技能を見込まれたというならわかるが、〈海龍〉の扱いに長《た》けている清永はまだしも、自分が他人より飛び抜けていることといえば素潜りぐらい。それでなにがやれるというのか。海に潜って艦底の修理? 引き揚げ作業? そんなもの、専門職の兵がいくらだっている……。
これまで意図的に無視してきたさまざまな疑問が押し寄せ、征人は膝上においた手のひらをきつく握りしめた。指先の痺《しび》れをごまかし、腹に力を入れるためだったが、あまり効果はなかった。と、横合いからのびてきた手に不意に手首をつかまれ、驚く間もなく裏に返されるや、小石大の黒い塊が手のひらの上に載せられた。ぎょっと隣を振り返った征人は、骨張った頬を微笑の形に緩めた男と目を合わせた。
「チョコレート。甘いぞ」
そう言った地下足袋の男は、足もとに置いた雑嚢からもうひと欠片《かけら》チョコレートを取り出し、清永にも手渡した。飴羊羹より二回りも大きい黒い塊は、戦争が始まってからはまったく見かけなくなった貴重品だった。先刻までの情けない顔が、見たこともない歓喜の表情になった清永を背に、征人は地下足袋の男の横顔を見、次いで無法松の様子を窺った。目を閉じていても、無法松は眠っているわけではない。宝石と等価の重みを手のひらに感じながらも、礼を言えずにまごまごしていると、先に地下足袋の男が「仲田《なかた》だ」と口を開いた。
「よろしくな」
小声で付け足し、仲田と名乗った男は顔を前に戻した。征人も「ありがとうございます。折笠です」と小声で返した。「ろうも、清永れふ」と続いた声は、すでにチョコレートを頬ばっている様子だった。
話せる相手が見つかった安堵に、つい言葉を重ねようとして、いつの間にか片目を開けていた無法松と目が合ってしまった。口を噤み、目を逸らした征人の隣で、仲田は涼しい顔で唇に指を当て、わかっていると言わんばかりに無法松に頷いてみせた。肉厚の顔を歪め、決まり悪そうに仲田から視線を外した無法松が、再び両方の瞼を閉じるのを征人は横目で確かめた。
無法松を最上級者と思い込んでいたこちらをよそに、もう少し複雑な事情がこの集団にはあるらしい。さらに膨らむ疑念をいったん脇によけて、征人はごつごつしたチョコレートをかじってみた。飴羊羹とは較べものにならない芳醇《ほうじゅん》な甘みが口の中に広がり、思わず涙腺が弛みそうになった。
草いきれは後方に過ぎ去り、沿岸地域特有の湿った空気が幌の隙間から嗅ぎ取れるようになった頃、二台のトラックは停車した。十五分ほど走った未に到着した先は、鉄とコンクリートに塗り固められた呉軍港の真っ只中だった。
呉鎮守府や海軍工廠、航空廠が集中するだけでなく、目と鼻の先にある江田島には海軍兵学校もある。帝国海軍の最重要拠点のひとつであり、〈大和〉を始めとする戦艦たちの母港でもあった呉は、同時に米軍の最重要攻撃目標のひとつにも数えられている。すでに数回の空襲を受けた港は、焼け焦げた鉄骨と瓦礫《がれき》が散乱する廃墟と化しており、征人と清永は、自らが所属する組織の中枢との初対面を、無残な破壊の光景の中で果たすことになった。
海軍工廠の衛門をくぐってすぐに停車したトラックを降り、一行は無法松の先導に従って工廠の奥へと向かった。最後の空襲があったのはひと月も前だというが、さまざまなものが焼け落ち、渾然一体となった火事場の悪臭は、いまも潮の香りより強く漂ってくる。屋根が落ちて芝居の書き割りのようになった工場棟の焦げた壁も、爆風で吹き飛ばされたトタンがからみつき、奇怪な芸術品めいた姿をさらす鉄塔も。広島市内で見た空襲跡とは規模の違う、徹底的な破壊の濁流に呑み込まれ、辛うじて形を留める建築物の残滓《ざんし》は、平衡感覚を狂わせる毒々しい瘴気《しょうき》を放っていた。征人はなるたけ周囲を見ないようにして足を動かした。
深夜の墓場を歩く足取りで、大柄を縮こまらせた清永が後に続く。無法松と仲田は気にする素振りもなく黙々と歩き、作業着の男に至っては、足もとに転がる瓦礫を蹴り飛ばしたりしながら歩いている。瘴気に耐性があるのか、神経がバカになっているのか。どちらにせよ、足手まといにだけはなりたくないという思いを唯一の力にして、征人も顔をまっすぐ前に向けて歩いた。新兵の気負いをよそに、男たちはおよそ軍隊らしからぬばらばらな足並みで歩き続け、工廠を抜けた先にある桟橋を自指した。
港が近づくにつれ、湿気と潮の香りが勢いを増し、造船用の乾《かん》ドックを囲む鉄骨の林が目立つようになった。かつては大型艦艇の建造と補修に使われていた乾ドックも、いまは長さ二百メートル、幅五十メートルは下らない広大な空間を持て余しており、それほど破壊された様子のないドックのひとつを覗き込むと、十数メートル掘り下げられた床面に、無数の特殊潜航艇がずらりと並んでいるのが征人の目に入った。
〈蛟龍〉型や〈甲標的〉型。ドックの端から端まで隙間なく並べられた特殊潜航艇は、数えてみると十五隻の列が六列もあった。整備する者も乗り手もなく、鈍色《にびいろ》の船体に黙然と朝日を反射させる潜航艇の群れは、格納されているというより野ざらしになっているという方が正しく、魚の死骸を征人に連想させた。隣に並んでドックを見下ろし、「魚市場みてえだな」と冗談めかした清永の目は、笑っていなかった。あのうちのひとつに乗り、遠からず特攻しなければならない身に、その光景はあまりにも貧しく、惨めでありすぎた。
ドックを抜ける頃には、太陽も真夏本来の力を遺憾《いかん》なく発揮し始めた。晴天下に広がる呉港の海は、場違いな青さを湛えて征人たちを迎えた。停泊する艦艇の姿がほとんど見当たらず、閑散としているのも海の青さを引き立たせる一因だった。戦艦〈榛名《はるな》〉だけが、全長二百二十メートルの巨体を真正面の桟橋《さんばし》に舫っていたが、それにしても偽装網が施され、対空砲台としてその場に固定されたものと知れた。
黒光りする巨大な艦橋構造部は、真横から見ると両腕のない人の上半身に見えないこともなく、征人はふと、昨日広島で出会った芸者の姿勢のよい立ち姿を思い出した。無骨極まりない戦艦の艦橋に、おケイのふっくらした横顔を重ねるのは失礼な気もしたが、マストや機銃の複雑な凹凸が醸し出す陰影は、どこかで女の造作に通底する、無条件に男を扇情《せんじょう》するなにものかではあった。作業着の男が、例の遠い眼差しで〈榛名〉を見つめるのを横目に、征人は仲田の後について港の端にある桟橋に向かった。潜水艦はまだ何杯か残っていると聞いたが、出払った後なのか、空襲を警戒して海底に沈座しているのか、見える範囲にその姿はなかった。
途中ですれ違った何人かの士官や水兵は、一行を港湾労働者とでも思い込んでいるのか、ろくに顔を合わせもしなかった。「ご苦労さんです」と頭を下げる無法松も、各個に会釈する男たちも、それを平然と受け流して敬礼の素振りも見せない。密行任務にしても、軍施設の中に入ってまで民間人を装い続ける理由の見当がつかず、征人は次第に足が重たくなるのを感じた。これでいいのか? と訴える不安と疑念は歩くたびに膨らみ、目的の桟橋に舫ってあった船を目にするに至って、いよいよ抑えようのないものになった。
なんの変哲もない浚渫船が、曳船や小型の油槽船に混じって桟橋に横づけされている。振り向きもせずに乗り込んだ無法松に続いて、年齢も服装もまちまちな男たちがぞろぞろ係船桁を渡ってゆく姿は、現場に向かう労務者集団以外のなにものでもなかった。「おい、やっぱり違うんじゃねえか、これ」と清永が情けない声を出すのを聞きながら、征人もさすがに立ち止まって仲田に助けを求めた。「あの……」と声をかけようとしたものの、うしろからきた別の男に「ぐずぐずするな」と頭を小突かれ、仲田も無言で浚渫船に乗り込んでしまえば、後に従うしかなくなった。
全員が乗船したところで係船桁が外され、舫いも解かれて、浚渫船は一段と強まった蒸気機関の音とともに桟橋を離れた。操船台にいる船長を除けば船員は二人しかおらず、出港に伴う雑事は全員が分担して行わなければならなかった。征人と清永には、予備補習生時代から嫌というほど教え込まれた、舫い綱の仕舞い方が割り当てられた。しばらくはひたすら作業に没頭する時間が続き、その間に浚渫船は凪いだ海面を割って湾内に乗り出していった。作業を終えて後方を振り返った時には、同じ桟橋に横づけする曳船が小指の先ほどの大きさに見えた。
二十数人が一時に乗り込めば、浚渫用機械が船体の大部分を占める船に居場所はほとんどなく、甲板に雑然とたむろする一同の末席につき、最年少の身を小さくするのが征人と清永の次の仕事になった。無法松は出航と同時に操船台に行ったきり戻ってこず、仲田は額に手をかざして照りつける太陽に目を細めている。早々に自分の居場所を確保した作業着の男は、幌に覆われた船尾の浚渫機械の脇にあぐらをかき、なにごとにも無関心といった顔を沖合いに向けていた。
無法松は日雇い仕事の手配師で、仲田と作業着の男は馴染みの労務者。明るい陽光の下で見ると、男たちの誰も彼もが生活に疲れきった労務者としか思えず、征人は穏やかな海面にのびる白い航跡に目のやり場を求めた。唯一の安心材料は、無法松は間違いなく自分たちの名前を知っていたということだが、陸地がいよいよ遠ざかり、港の後方に横たわる休山の全景が見えてくるにつれ、そんな気休めも効力を失ってきた。
「おれら、もしかして人買いに売られちゃったのかなあ。海軍の台所を助けるためにさ……」
もはや考えるのをやめたのか、清永があきらめきった声を出す。ぞっとしながらも、「バカ言え……!」と返した征人は、「みんな聞け!」と出し抜けに轟《とどろ》いた大声に思わず首をすくめた。
いつの間にか操船台から戻ってきた無法松が、掘削《くっさく》用クレーンの柱を背に一同を見下ろしていた。最初に見た時と同じ、生々しい殺気がその目に宿るのを感じ取り、征人は無意識に姿勢を正した。
「自分は田口《たぐち》徳太郎《とくたろう》兵曹長だ。この中には将校もおられるが、この第四陣の引率は小官に一任されている。現地に到着するまでの間は、引き続き自分を指揮官と思ってもらいたい」
互いに半開きになった口を清永と向け合った後、征人は手配師から一転、歴戦の兵曹長になった無法松を見た。何人かは動揺の気配を見せたが、何人かは先刻承知といった風情で、田口という名前を明かした無法松の顔を注目している。仲田と、作業着の男は後者の方だった。
田口と仲田との間にあった無言の交感、微妙な力関係を窺わせたやりとりを思い出し、おそらくは将校であるのだろう仲田の横顔を盗み見た征人は、にやと笑い、こちらを振り返った仲田と目を合わせて、顔が紅潮するのを自覚した。不安を見透かされていた恥ずかしさを内側に押し込め、呆けきった表情をなんとか引き締めてから、口を閉じて田口に注目し直した。
「我々はこれより柱島に赴き、同地に在泊中の戦利潜水艦〈伊507〉に乗務。以後、軍令部直属の独立戦隊として同艦艦長の指揮下に入り、特別任務に就く。なお本作戦は極秘を要することであるから、出撃後は友軍との交渉も最低限に控え、隠密行動を第一としなければならない。諸君らに軍装の着用を禁じたのもそのためだ。我々の行動内容と所属は、帝国海軍の中でもほんのひと握りの人間しか知らない。諸君らの所属原隊にさえ、現在の諸君らの所在は伝えられていない。そのことを肝に銘じ、柱島に着いた後は同地で作業中の造船技師、整備兵らとの接触は極力避けること。任務内容の詳細は〈伊507〉に乗艦後、艦長からあらためて……」
低く、重いサイレンの音色が風に乗って届き、どすの利いた田口の声を遮った。
雪崩《なだれ》のように流れ込んでくる情報を整理すべく、全力稼働していた脳の働きを中断させるのに十分な音だった。一定の調子を保ち、鳴りやまずに鼓膜を刺激するサイレンは、これまでに何度も耳にしてきた音色。敵機の来襲――空襲の始まりを告げる音だ。
仲田の表情が微かにこわ張り、作業着の男が顔を上げる。全員の肩に緊張が走り、素早く身をひるがえした田口が操船台に走ってゆく。まだ早いと知りつつも、征人は南の空を仰ぎ、じき編隊で押し寄せてくる敵機の姿を捜した。入道雲が沸き立つ空には塵《ちり》ひとつなく、江田島の緑を浮かべた水平線は平穏そのもので、これから始まる破壊の予兆は欠片も見つけることはできなかった。
「あんだけぶっ壊しといて、まだやるのかよ……」
清永がかすれた声で呟く。証人は不謹慎を承知で、空襲から逃れられた幸運にとりあえず胸をなで下ろした。出港があと一時間ずれていたら、まともに空襲にさらされていたかもしれない。これから待ち受ける特殊任務、〈伊507〉という潜水艦が実施する作戦がどんなものであれ、いま現在の命が助かった安堵に変わりはなく、空襲で死ぬより、敵艦の一隻と相討ちになって死ぬ方がよいと思える程度には、征人も軍人という生き方に馴染んでいた。
が、仲田の表情にそんな安堵の気配はない。作業着の男もじっと甲板に座り込んだまま、事態がどう動こうと即応できる態勢を整えているように見える。自軍の港が攻撃されるという時に、のんびりしていられる者もいないだろうが、彼らの間に走る共通の戦慄《せんりつ》はもっと鋭く、確かな危機感を喚起して、征人の胸を共振させた。
「まずいな……」
サイレンが滞留する灰色の港を見渡し、ぽつりと呟かれた仲田の言葉が、蒸気機関と波の音をかいくぐって征人の耳朶を打った。なにがまずいのか聞きたかったが、自分の倍も生き、まだ想像の及ばない戦場の臭いを嗅いできた大人の横顔は堅く、声をかける勇気は持てなかった。
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それは、すでに死に体になった老人の腕から、支えの杖をも奪い取る作戦だった。J・S・マッケーン中将率いる第三八任務部隊の航空母艦群は、日本近海に布陣するや、総数八百七十機に及ぶ艦載機を呉軍港に向けて飛び立たせた。その目的は、軍港と瀬戸内海各所に在泊する艦艇をすべて叩き潰し、事実上壊滅状態にある日本海軍を、物理的にも完全に破壊することにあった。
第三八任務部隊は、十隻の空母と六隻の軽空母からなり、もっとも早く瀬戸内海に到達したのは第一群に所属する空母、〈ベニントン〉と〈レキシントン〉から飛び立った艦載機部隊だった。それぞれ七十機を超えるF6FヘルキャットとF4Uコルセア、それに六十機のTBFアベンジャー雷爆撃機が西側から瀬戸内海上空に侵攻し、情島《なさけじま》北面に錨泊していた戦艦〈日向〉と最初の戦端を開いた。
艦載機がなくては、船体のうしろ三分の一に設置された飛行甲板は無用の長物でしかなく、そのぶん兵装をそぎ落とした〈日向〉は不利といえたが、それはたいした問題ではなかった。前後に二基ずつ備えた主砲、三十六センチ砲が航空機に対してはまったく無力であることは、これまでの海戦で実証されている。あとは船体各所に十六門装備した十二・七センチ高角砲と、五十七梃もの二十五ミリ機銃だが、縦横に飛び回る敵機を高角砲で墜《お》とすには僥倖《ぎょうこう》を待つよりなく、機銃は敵機が肉迫攻撃をかけてこない限り、射程が届かないありさまだった。つまり〈日向〉は、航空戦力が雌雄を決する近代海戦においては時代遅れの艦であり、燃料を失って動けずにいるいまは、どのみち標的艦程度の役にしか立たない代物だったのだ。
それでも、〈日向〉は持てる火力を尽くして敵機の迎撃に当たり、防空砲台の役目を果敢に果たそうとした。レイテ沖海戦の最中、延べ五百三十機の敵機による波状攻撃をくぐり抜け、無事呉に帰投した実績を持つ〈日向〉の乗組員には、自分たちの艦は簡単には沈まないという自負もあった。しかし、六月二十二日以来の大規模空襲となる今回の攻撃は、決して簡単なものではなく――打ち上げられた高角砲弾が無数の黒雲を青空に咲かせ、機銃の火線が四方に撃ち散らされる中、空を覆って〈日向〉に接近した大編隊は、各々の腹に抱えた爆弾を容赦なく投下し始めた。
空気を裂いて落下する四百五十四キロ爆弾が立て続けに水柱を打ち立て、沸騰した海水が〈日向〉の船体に降りかかる。弾幕をかいくぐって肉迫したコルセアが両翼の十二・七ミリ機銃を閃かせ、銃座についた砲手の体を千々に引き裂く。水風船をぶつけた跡のような血溜まりが甲板のそこここを濡らし、直近で炸裂《さくれつ》した爆弾が船体を揺らすと、瀑布《ばくふ》さながら押し寄せた水飛沫が散らばった肉片を洗い流す。戦闘開始から約三十分、日本陸軍航空部隊の戦闘機・鍾馗《しょうき》が応援に駆けつけ、米戦闘機に対して迎撃の火線を張ったが、事態を好転させるには至らなかった。雲霞《うんか》のごとく押し寄せるヘルキャットの群れに包囲され、火だるまになった鍾馗がつぎつぎ翼を散らせる下で、ついにアベンジャー雷爆撃機の猛爆が〈日向〉の巨体に襲いかかった。
投下された爆弾の数は、約二百発。このうち至近弾を三十発、直撃弾を十発|被《こうむ》った〈日向〉は、その瞬間、水柱と爆煙に覆われて見えなくなった。艦籠を直撃した爆弾は、艇長らの肉体とともに艦橋構造を引きちぎり、左半面をごっそり持っていかれた艦橋構造部は火の柱と化した。機首に四メートルを超す大直径プロペラを備え、艦載機としては破格の出力と性能を誇るコルセアがその上空を行き過ぎ、だめ押しに投下された爆弾が後部主砲を根こそぎ吹き飛ばしてゆく。じわじわ傾き始めた〈日向〉の巨躯《きょく》が鋼鉄の軋みを広島湾中に響かせ、裂けた船体からなだれ込む海水が逃げ遅れた兵を溺死させる一方、機関室と弾薬庫で上がった火の手は艦内を灼熱《しゃくねつ》する竃《かまど》に変えた。焼けた鉄板と化した水密戸が鍋蓋《なべぶた》の役割を果たし、ある者は酸欠で倒れ、ある者は荒れ狂う炎に全身を巻かれて、多くの将兵が蒸し焼きにされていった。
昭和二十年、七月二十四日。後に呉沖海戦とも呼ばれる大空襲の始まりだった。二日の時間をかけて沈底、擱座《かくざ》することになる〈日向〉を尻目に、米艦載機部隊は次の獲物に襲いかかった。
柱島に錨泊する海防艦と駆逐艦は、物の数にも入らなかった。呉港内には戦艦〈榛名〉がおり、空母の〈葛城《かつらぎ》〉と〈天城《あまぎ》〉も在泊している。港外の音戸瀬戸《おんどのせと》には、〈日向〉の姉妹艦である〈伊勢〉の姿もあったが、それは東側から侵攻してきた第二群の獲物になるはずだった。第一群は呉に直進し、燃料も艦載機も持たない空母に爆弾の雨を降らせた。
過去数回にわたって無差別爆撃を受け、軍港、都市ともども破壊し尽くされている呉も、さらなる爆撃にさらされた。わずかに残った工廠の建物はしらみ潰しに破壊され、乾ドックの隔壁にも亀裂が入って、〈蛟龍〉型の特殊潜航艇を百三十隻格納する第四ドックには海水が流入した。何人かの工作兵がドック内に降り、整備途中の〈蛟龍〉を濁流から守ろうと試みたが、続いて降り注いだ爆弾が側壁を瓦解させ、造船架台の鉄骨を倒壊させると、一様に瓦礫に押し潰される運命をたどった。
爆撃の震動が軍港そのものを揺さぶり、わき上がった粉塵《ふんじん》が桟橋をも包み込む。どの工場も夜勤番と日勤番の交替が行われている時で、近在の主婦と女生徒たちからなる女子挺身隊の女たちは、地下壕に待避する間もなく惨禍《さんか》に巻き込まれた。崩れ落ちた煙突が工場の屋根を突き破り、鉄骨とコンクリートの雨が工場内に降り注ぐ。引率教師の指示で一ヵ所に固まっていた少女たちがその直撃を受け、もうもうと立ちこめる白い粉塵に微かな鮮血の色が混ざる。根元からちぎれ飛んだ細い腕が宙を舞い、作業台に引っかかって指さすような仕種《しぐさ》を見せた先で、爆煙を噴き上げる大日本帝国海軍最大の拠点は、断末魔の叫びをあげていた。
「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉に始まった対日反攻作戦の、これはひとつの総決算ともいえた。この空襲によって、米軍は所期の目的通り、日本海軍から戦争遂行能力を完全に奪い取ることに成功した。米太平洋艦隊の拠点である真珠湾への奇襲で幕を開けた日米海戦史は、連合艦隊の母港である呉への攻撃をもって、表面的にはその幕を閉じようとしていたのだった。
そして――殲滅《せんめつ》戦という以外に表現しようのない凄惨《せいさん》な空襲の片隅で、もうひとつ、まったく別の作戦がひそかに始動していた。周囲で繰り広げられている戦闘に較べれば、極めて小規模なその作戦を遂行すべく、三機のコルセアが独自の行動に入った。
そのコルセアを駆るパイロットたちは、第三群の旗艦を務める空母〈エセックス〉の飛行小隊の面々だった。彼らは前夜、最終|作戦説明《ブリーフィング》に出席した直後に第三群司令に呼び出されて、はなはだ不可思議な任務の遂行を命じられた。それは譬《たと》えるなら、目の前に並んだ最高級のごちそうを無視して、安っぽいスナック菓子を食えと言われたようなもので、三人のパイロットたちはつまらない任務を割り当てられた我が身の不幸を呪った。が、そのつまらない任務を言い渡したのが海軍情報部《ONI》の士官で、ブリーフィングに立ち合った群司令が黙して語らない様子を見れば、これが質問も失敗も許されない類いの任務であることは承知していた。
他の僚機《りょうき》とともに〈エセックス〉の飛行甲板から飛び立ち、東側のコースをたどって瀬戸内海上空に侵攻した三機のコルセアは、呉の南方、江田島と並んで大きな面積を誇る倉橋島を視界に入れたところで、編隊から離れた。僚機が戦艦や空母といったごちそうに群がる中、三機のコルセアが彼らだけに与えられた安っぽいスナック菓子――|標的《ターゲット》を発見するのに、さほどの時間はかからなかった。戦場の海を渡るにはあまりにも頼りないその浚渫船は、幼児さながら拙《つたな》い船脚《ふなあし》で、広島湾の海面を一路南下しつつあった。
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気配に最初に気づいたのは、軍港の方角で巨大な黒煙がわき起こり、腹を揺する轟音が湾内に響き渡った時だった。
空中で炸裂した高角砲弾が黒い染みになって青空を汚す下、それらを吹き散らして立ち昇った黒煙は、また新たに艦が轟沈したことを教えていた。空襲開始から一時間弱、港から二十キロ近く離れ、東能美島《ひがしのうみじま》と倉橋島に挟まれた早瀬ノ瀬戸を抜けたばかりの浚渫船からは、友軍の被害状況は噴き上がった黒煙の数から想像する他ない。「〈榛名〉かな……」と、なんの実感も持てない声で呟いた清永を隣に感じながら、徒人はそれよりも重く鋭い、神経を脅かす気配の存在を五官に捉えていた。
幌を被せた船尾の浚渫機械の脇に腰を下ろし、眠っているかのごとく瞑目《めいもく》していた作業着の男が、俄かに瞼を開く。手すりの縄をつかむ仲田の拳に力が入り、その肩がわずかにこわ張る。その正体も中身もわからないまま、征人は確実に迫ってくる気配の源を探して周囲を見回した。左右に横たわる倉橋島と東能美島の島陰ごしに、いくつもの爆煙が立ち昇り、灰色に煙った空を数えきれない数の敵機が横切ってゆく。百ものプロペラが回転する地鳴りのような音は、耳に馴染んで久しく、間断なく轟く爆発音と同様、直接的な脅威を覚えさせるものではなくなっていたが、それに相乗して次第に大きくなる不協和音が、征人の肌をひりつかせた。
操船台の扉を開け、ずんぐりした巨体に似合わぬ軽い身のこなしで甲板に降り立った田口が、清永を押し退けて手すりから身を乗り出す。肉厚の頬に傷を拵《こしら》えた横顔がゆっくり空を見渡し、くぐもった舌打ちの音をその口から漏らした。
「情報が漏れたか……」
そう呟き、田口が手すりを離れようとした刹那、倉橋島の島陰から不意に三機の戦闘機が姿を現した。
ごうごうと鳴り続ける爆音の地鳴りから離れ、まっすぐ浚渫船に近づいてきた不協和音の源は、内側に反《そ》った主翼の形から征人にも機種の判別がついた。ヴォート社製のF4Uコルセア。陸上発進機と同等の性能を保証する巨大なプロペラを備えており、そのために必要な着陸脚の長さを獲得するべく、弓状に反った両翼が斜め下から胴体を持ち上げる形状になっている。たしか逆ガル翼というのだったか……?
特徴的なその機体が、島をかすめるほどの低高度でこちらに接近してくる。どうにかそれだけの状況を理解した頭が真っ白になり、征人はその場に棒立ちになった。複数の息を呑む気配が周囲で起こり、緊張のさざ波が甲板に広がった刹那、コルセアの翼の前面で小さな光が瞬いた。
ヒュン、と空気の裂ける音が一瞬遅れて伝わり、隣に立つ二十代半ばの男が出し抜けにうしろに弾け飛んだ。背後にあるクレーンの支柱にぶつかり、うつ伏せに倒れ込んだ男の頭は、上半分が粉々に砕けてなくなっていた。
割れたスイカみたいだ。なにが起こったのか理解するより早く、そんな感想が自然と胸中に固まり、その間にバケツをひっくり返したように流れ出した血が甲板を汚した。暗い血の色が足もとを濡らし、真っ白になった頭が恐慌に塗り込められる直前、「伏せろっ!」と叫んだ仲田に引き倒され、征人は血溜りに顔を押しつけた。
機銃の音、暴力的なプロペラの爆音が頭上を通り過ぎ、バラバラと大量の小石が金属にぶつかる音、木の折れる音が甲板のあちこちで連続する。銃弾が当たった音だとわかったのは、指先からほんの数センチのところにある甲板に穴が開き、白い硝煙《しょうえん》をたなびかせるのを見た時だった。
思わず腕を引っ込め、夢中で起き上がろうとしたが、背中にのしかかった仲田がそれを許さなかった。「爆弾がくる、備えろっ!」と怒鳴った田口の声が間近に弾け、征人は咄嗟に両手で目と耳を押さえ、口をいっぱいに開いて血溜りに体を押しつけ直した。そうすれば爆風で眼球が飛び出すことも、鼓膜が破れることもないと教え込まれた体が、自動的に行ったことだった。
船体が大きく傾き、次いで五官を圧殺する大音響が左舷側の海面で轟いた。手足を踏んばって船体の傾きに耐えた征人は、反動で反対側に沈み込んだ船体の動揺にもてあそばれ、続いて津波のごとく降りかかってきた海水に全身を洗われた。爆弾によって噴き上げられた水柱が砕け、数トンもの海水を浚渫船に叩きつけたのだった。何人かの男がまともに海水を受け止め、船外に放り出されていったが、助けられる余裕は誰にもなかった。
全員が自分の五体をさすって怪我の有無を確かめ、右舷側に抜けた敵機の影を目で追う中、征人は腹這いになったまま清永の姿を探した。クレーンの根元にうずくまっていた清永は、頭を両手で覆い隠し、めくれ上がった七分丈の着物から丸い尻を覗かせて、有名な諺を体現しているところだった。声をかけようとしたが、恐怖で麻痺した声帯はかすれ声ひとつ出せず、代わりに「応戦準備!」と響き渡った田口の怒声が征人の頭を蹴飛ばすようにした。
武装はもちろん、鉄砲の一挺もないこの浚渫船でなにをどう応戦しろというのか。征人は思わず顔を上げ、田口の方に振り返った。前後左右に激しく揺れる視界に、ずぶ濡れのはっぴをひるがえして船尾に走る田口の背中が映り、浚渫機械の脇に伏せていた作業着の男が、入れ替わりに操船台へと駆け出すのが見えた。
「砲術長、頼みます!」
浚渫機械に被《かぶ》せた幌に手をかけた田口が、腹から声を出す。「はいな!」と応じた声がすぐ耳元で聞こえ、征人はびくりと体を震わせた。仲田の声だとわかるより先に、背中に覆いかぶさっていた体重がすっと軽くなり、厚い手のひらの感触が両肩に触れた。
「死ぬんじゃないぞ」
強く、短く揺さぶられた肩が熱くなり、ぶれていた視界がぴたりと一点に定まった。素早く立ち上がった仲田は、なんとか上半身を起こした征人を待たず、甲板に横たわる死体をまたいで船尾へ走ってゆく。手早く固定索をほどき、幌を取り去ろうとした田口を「待った」と制して、仲田はわずかにまくり上げた幌の中にするりと入り込んだ。
「このままだ。びっくり箱といこうや」
幌の合わせ目から顔を出した仲田の目が、旋回中の敵機に据えられる。にやと応じた田口の顔が、二人の関係をなにより雄弁に物語っていた。間髪入れずに腰を落とし、幌の隙間からハンドルを回し始めた田口の動きに合わせて、小振りなテントに似た幌の形が右に転回する。同時に真上近くを向いていたテントの頂点が下に動き、旋回を終えた敵機の方に向く。風で幌がめくれ、甲板に固定された三点支持脚がちらと覗くのも見た征人は、もうそれを浚渫機械の類いとは思わなかった。
機銃――それも銃身部分の膨らみ具合から判断して、おそらくは二連装の高角機銃だ。制海権のない外洋を渡る商船の中には、旧式の大砲などで応急武装が施されたものもあるが、港湾作業に使われる浚渫船に機銃が搭載されたとは聞いたことがない。本土決戦用に準備されたものか、なにからなにまで秘密づくしのこの作戦のために、わざわざ設置されたものか。考えかけて、再び接近を開始した敵機の爆音に中断させられた征人は、清永に倣《なら》ってクレーンの陰に身を潜めた。
両翼に六挺の機銃を内蔵した三機のコルセアが、X字隊形を取って急接近する。こちらが武装しているとは想像もしていないだろう敵機を見据え、仲田が目測で幌に覆われた機銃の角度を整える。みるみる大きくなる敵機の形と、まだ転回の終わらない機銃を一時に視野に入れ、びっくり箱≠ニ言った仲田の言葉を反芻した征人は、間に合わない、と直観した。
理屈ではなかった。ただ敵機の接近速度と、機銃の旋回速度から、こちらが射撃態勢を整えるより前に、敵機が浚渫船を射程圏内に捉えると予測できたのだ。
「伏せてっ!」
無意識に発した声のあまりの大きさに、自分自身驚かされた。思わず中腰になり、ぎょっと振り向いた男たちの向こうで、咄嗟に従った田口と仲田が機銃の陰にうつ伏せになる。直後に敵機の機銃掃射が始まり、十数本の火線が浚渫船の甲板上を暴れ回った。中腰になった男たちが冗談のようにばたばた倒れてゆく中、征人はクレーンに背中を押しつけて手足を縮こまらせた。
わずかに顔を上げた田口が、きょとんとした顔でこちらを見るのがわかったが、かまってはいられなかった。銃弾を浴びたクレーンの衝撃が背中に伝わり、直上を通過するプロペラの爆音が頭蓋《ずがい》を揺さぶる。ゴトッとなにがが外れる音がその中に混ざり、閉じていた瞼を開けると、翼下に吊り下げられた爆弾を投下し、急上昇するコルセアが遠ざかってゆくのが見えた。
しんと冴え渡った視界に、目の前の海面に落下する爆弾の形は細部まではっきり見て取れた。近すぎる、と理解した体が凍りつき、征人は目を閉じることもできないまま、起爆すれば確実に自分の体を引き裂く爆弾を凝視した。尾部の整流翼を上に、信管を備えた弾頭を下にして、四百五十四キロのTNT爆薬を詰め込んだ爆弾が奇妙にゆっくり落下する。海面との距離が十メートルを切った時、不意に唸りを高めた蒸気機関が甲板を震わせ、鈍重なはずの浚渫船がぐいと針路を変えた。
それまで眠っていたものが目を覚ましたかのような、劇的な転舵《てんだ》だった。船体が大きく傾き、征人はうずくまって動かない清永にのしかかる格好になった。急激に流れ出した視界の片隅で、海面に叩きつけられた爆弾が水柱を打ち立てる。膨大な量の海水が噴き上げられ、炸裂した爆弾の破片が灼熱する刃《やいば》になってまき散らされたが、浚渫船は惰力と推力を巧みに利用してじぐざぐに動き、船体が致命傷を受けるのを防いでみせた。
気を抜けば振り落とされかねない動揺に翻弄《ほんろう》されながら、征人はクレーンの柱ごしに操船台の様子を窺った。先刻まで舵《かじ》を取っていた船長に代わり、古びた作業着の背中が舵輪を握る姿があった。
落ち着き払ったその背中と、投げやりな目の印象がすぐには繋がらず、呆然と見つめる間に、空気を引き裂く大音響が船尾でわき起こった。機銃の反撃が始まったのだ。幌を破って撃ち出された火線が大きな放物線を描き、最後尾のコルセアをかすめる。上昇渦中の機体がぐらりと傾き、その翼から黒い煙の筋がのびる。すでに旋回の途上にあった他の二機は、僚機の被弾を確かめると散開し、前後から挟み撃つ形で浚渫船に襲いかかってきた。
田口が、銃弾の擦過《さっか》で火のついた幌を取り払う。十三・二ミリ口径の銃身二本を備えた九三式連装機銃の姿が露になり、機銃座につく仲田が後方から迫る敵機を狙い撃つ。作業着の男は舵輪を勢いよく右に回して、前方の敵機に対して横腹を向けようとする。進行方向にしか銃撃できない戦闘機の限界をつき、射線からいち早く逃れるつもりなのだろうが、作業着の男の操船技術についていくには、浚渫船はやはり鈍重に過ぎた。右方向への回頭が終わらないうちにコルセアの機銃が火を吹き、海面に細かな水柱を上げて走る火線が、浚渫船の甲板を斜めに舐《な》めてゆく。手すりのロープが切れ、甲板の木板に呆気なく大穴が穿《うが》たれ、顧《かえり》みる者もなく横たわる死体を弾丸の針で甲板に縫いつける。生き残った者は体を小さくして頭を抱えるしかなく、その中のひとりの頭に、クレーンに弾けた跳弾《ちょうだん》が突き刺さるのを征人は見てしまった。
両手で耳を塞ぎ、甲板に顔を押しつけたその男は、後頭部に弾丸が刺さってもぴくりとも動かなかった。顔の下から流れ出した血を甲板に広げ、生きていた時とそっくり同じ姿勢で死んだ。あれでは、自分が死んだということもわからなかったのではないか? 砲声と爆音で痺れた神経にその思いが突き立ち、征人は肌を粟立《あわだ》たせた。なぜ、いつの間に死んだのかもわからず、この世から消えてなくなる。特攻という自発行為の結果で死ぬならまだしも、それには耐えられないと思い、いまさらながら膨れ上がった恐怖が全身を硬直させた。
――死んで護国の鬼になったんじゃぞ!
糸崎の川原で会った少年の声が、額に残る痛みとともに脳裏をかすめた。こんなふうに死ぬことが、か? 不意に冷静になった頭で、征人は血と硝煙《しょうえん》にまみれた甲板を見渡した。
脇に控える田口が弾倉を交換するのを待って、仲田は機銃の発射|釦《ボタン》を押し続ける。大出力の発動機を備えたコルセアの機体が高度を取り、火線を回避する一方、船首方向から近づくコルセアは低空を直進しつつ、すれ違いざまに爆弾を投下する。間近で起こった爆発が転覆《てんぷく》させる勢いで船体を持ち上げ、「畜生ぉっ!」と叫ぶ清永の声が、バカになりかけた征人の聴覚を刺激した。
「こんなのってねえよ! おれはまだなにもしてないんだぞ……!」
甲板に額をこすりつけて、丸刈りの頭を覆う清永の手のひらが小刻みに震えていた。まだなにもしてない。ちゃんと生きてさえいない。自分よりよほど軍人気質に馴染み、死ぬ時は敵艦を道連れにしてやると息巻いていたのに、清永は軍服も着れずにただうずくまっている。尻を出した情けない格好《かっこう》のまま、抗《あらが》う術のない機銃掃射で嬲《なぶ》り殺しにされようとしている――。
自分はどうだ? と征人は自問した。大望もなく、報国の理念も概念としてしか捉えられず、目の前に恐怖を突きつけられなければ、生への執着さえも持てなかった。これといった目的を持ったためしのない身には、清永のように無為な死を悔しがることもできない。戦場で死ぬというのはこういうことなんだろう、と冷めた意識が納得する一方で、恐怖に取《と》り憑《つ》かれた体はだらしなく震えるだけだ。
征人は己の虚無に呆れ、嘆き、しまいには腹を立てた。正体不明の作戦のために呼ばれて、任地にもたどりつけずに死ぬ。いくらなんでも無意味じゃないか。こんなことになるなら、無理をしてでも遊郭に入っておけばよかった。まやかしでもいい、女と肌をふれあわす歓びを知っておけば、それだけで怖さを紛らわせられたかもしれない。その温もりを宝にして、無為な死にもなにがしかの意味を見出せたかもしれない。おケイさんの横顔も、レコードの音色も、死に震える体を慰めるには曖昧すぎる。
確かなものが欲しい。そのためなら死を受け入れてもいいと思える、確かななにかが……!
三枚刃のプロペラを猛然と回転させ、太陽を背に近づく敵機の形が死の輪郭《りんかく》になり、一秒未満の間に紡がれた思考を霧散させた。両翼の前面がちかちかと瞬き、うねる火線が水柱の列を並べて、死神の足跡を海面に刻む。その瞬間には恐怖もなく、一瞬後には引き裂かれる自分の体を他人事のように予測して、征人は漫然とした目をコルセアに向けた。
音とも衝撃ともつかない、重い響きが足もとで発したのは、その時だった。
機銃の瞬きがやみ、太陽を隠すコルセアの機影が唐突に上昇に転じる。いきなり目を射た陽光の眩しさと、怯えた小鳥を思わせるコルセアの不自然な動きに、わずかばかりの正気を取り戻した征人は、機関の振動や爆撃の衝撃とは異なる、小刻みな律動を知覚した。
周囲の海がざわざわと騒ぎ、波に持ち上げられて垂直に動いた船体が、泡立つ海面の上で不安定に揺れる。体勢を崩し、倒れそうになった体を手すりをつかんで支えた征人は、その拍子に巨大な物体が海底を泳ぎ、浚渫船の真下を通過するのを目撃した。
青い海に黒い影を滲《にじ》ませて、圧倒的な質量を持つなにかが船底をかすめるように移動してゆく。先端の尖った細長い形はサメの類いを想像させたが、その大きさは生物の尺度で測れる規模ではなかった。甲板に膝をつき、口を半開きにした征人の眼前で、ひときわ隆起した海面が二つに割れ、明らかに人工物とわかる楕円形の柱が浮上を開始した。
十メートルと離れていない場所に現れ、遠ざかりながら浮上を続ける暗灰色の柱が、太陽の光を隠して海上に屹立《きつりつ》する。その根元に丸みを帯びて膨らむ構造物が浮かび上がった時には、網切鋸《あみきりのこぎり》を備えた艦首が白波を分けて立ち上がり、鰭《ひれ》さながら両舷に生える潜舵の形を陽光の下に露にした。
警戒したコルセアがそろって高度を取り、プロペラの唸りが一時的に遠のく中、仲田も、田口も、作業着の男までもが、驚愕《きょうがく》を顔に張りつかせて浮上を終えた物体を見つめる。物体の巻き起こす引き波が浚渫船を翻弄し、動揺の収まらない甲板に両手をついた征人は、目の前に聳える楕円の柱――艦橋の側面に、「イ507」の文字を読み取っていた。
「〈伊507〉……」
これが、自分たちをこの海に引き寄せた潜水艦。甲板に這いつくばったまま、征人は忽然《こつぜん》と出現した〈伊507〉の船体を網膜に焼きつけた。
百メートルを優に超える細身の船体、その中央にそそり立つ楕円形の艦橋と、艦橋の後方に設置された二挺の単装機銃。おそらくは発令所と水上偵察機の格納庫を収めた、露天甲板の三分の一を占めて盛り上がる艦橋構造部。後甲板には特殊潜航艇の〈海龍〉が固縛装置によって固定され、親亀の背中に孫亀が乗ってという体《てい》をなしている。基本的な船体構造は、帝国海軍の伊号潜水艦と大差ないように見えたが、異様なのは艦橋構造部の先端に突き出た二門の砲身だった。
「潜水……戦艦?」
呆然と呟く清永を背に、征人は艦橋構造部と一体化した連装砲に観察の目を集中させた。口径は、どう見積もっても二十センチ以上。機銃に毛が生えた程度の潜水艦の備砲とは根本的に異なる、巡洋艦の主砲と同等の規模を誇る二門の大砲が、この潜水艦に異常な印象をもたらしている。目の前にしていても現実感に乏しく、開きっぱなしの口を向けるしかない征人をよそに、〈伊507〉は海獣の咆哮《ほうこう》に似た機関音を上げ、その巨体を転回させ始めた。
両舷にずらりと並んだ排水口から海水が吐き出され、巻き起こった引き波が浚渫船を揺らす。船体の動揺に合わせて大きく上下する視界に、吸音ゴムで塗粧され、ざらざらした質感を持つ潜水艦の装甲が迫り、〈伊507〉は浚渫船と舷を触れ合わせる位置に定位した。
助けにきてくれた……? 浚渫船を守るかのように横づけされた暗灰色の船体を見上げ、ようやく思いついた途端、態勢を立て直したコルセアが艦橋の直上を通過し、撃ち散らされた機銃弾が〈伊507〉と浚渫船に降り注いだ。咄嗟に伏せた征人は、〈伊507〉の露天甲板が機銃弾の直撃を受け、火花を弾けさせるのを目撃した。
鋼鉄の船体に木製の甲板を張った普通の潜水艦なら、銃弾は甲板を砕くだけで、火花を爆《は》ぜさせることはない。〈伊507〉は甲板も鋼鉄でできている――つまり二重の装甲で船体が防御されているのだ。いったいどういう潜水艦なんだと驚き、呆れる征人の神経を寸断して、爆弾の水柱が〈伊507〉の向こうで上がり、傾いた〈伊507〉の船体が浚渫船を押しひしげた。
征人は再び仰向けに倒れ、機銃の引き金を引き続ける仲田の堅い横顔と、その傍らで弾倉の束を抱える田口の背中を、傾いた視野に捉えた。とうの昔に驚きから立ち直っているらしい二人は、〈伊507〉の船体を防壁に利用し、敵機を狙撃する戦法を編み出していた。焼けた砲口からのびる火線が〈伊507〉の艦橋をかすめ、コルセアの腹を引き裂く。黒煙を噴き出した機体が揚力《ようりょく》を失い、海面に叩きつけられる光景が〈伊507〉の後甲板ごしに見えた。
爆発の閃光が後甲板に鎮座する〈海龍〉を白く染め、一拍置いて黒い爆煙が立ち昇る。「やった……!?」と叫んだ清永が中腰になった瞬間、「乗り移れ、早く!」という怒声が頭上に発し、征人は三階分の高さはある〈伊507〉の艦橋を振り仰いだ。二本の潜望鏡が並び立つ艦橋甲板の遮浪壁《しゃろうへき》から身を乗り出し、しきりに手を振る海軍将校が、逆光を背にこちらを見下ろしていた。
全体に丸みを帯びた艦橋構造部の後部、半球状にせり出した格納扉が開くと、中から飛び出してきた数人の水兵が舷側に複数の縄梯子《なわばしご》を垂れ下げる。天上から垂れる蜘蛛《くも》の糸を見た思いで、征人は血でぬるついた甲板を掻《か》くようにして上半身を起こした。他の者も慌てて立ち上がり、累々《るいるい》と横たわる死体をまたいで、〈伊507〉が接舷する左舷側の甲板に殺到する。一刻も早く地獄から逃れようと、何本もの腕が縄梯子を求めて突き出され、背後で吹き荒れた機銃弾の雨がそれらを粉砕していった。
ある者は開いた手のひらを硬直させ、ある者は空だけをつかんで、いくつもの腕が縄梯子をつかめずに萎《しお》れてゆく。暗灰色の船体に大量の血が降りかかり、砕けた頭から飛び散った脳漿《のうしょう》が紫色の汚物になってその上にへばりつく。立ち上がりかけた膝が笑い、征人はその場にへたり込んだ。いったんは遠ざかったと思った死に足もとをすくわれ、抗う間もなくのしかかられて、ぎりぎり保ってきた正気が吹き飛んだようだった。
〈伊507〉の甲板上で水兵が必死に手招きし、艦橋の上に立つ将校もなにか叫んでいたが、もう指一本動かせなかった。視覚も聴覚も曖昧《あいまい》になり、夢の被膜ごしに見る風景さながら、すべてが現実味を失ってゆく。甲板を削って走る銃弾がクレーンにぶち当たり、飛び散った鉄片が目の前をかすめても、尻もちをついた体は微動だにしない。これで死ぬという感慨すらなく、飛び交う銃弾の只中に静止した征人は、ダン! と勢いよく甲板を踏み鳴らす足音を聞いて、目の焦点を取り戻した。
爆音と砲声が轟く中、その昔が明瞭に聞こえたのは不思議なことだった。すぐ目の前の甲板を踏み鳴らしたゴム長靴の足を見、顔を上げた征人が次に見たのは、雑嚢をたすき掛けにした作業着の男が、銃弾をかい潜《くぐ》って〈伊507〉に飛び移る姿だった。
縄梯子に取りつき、男はこちらを振り返った。投げやりでも無造作でもない、明確な意志を宿した強い目の光が、まっすぐ征人の瞳孔《どうこう》を捉えた。
「来いっ! 水兵ども!」
裂帛《れっぱく》の声が頭に突き刺さり、五官を覆う夢の被膜が破けた。命令を受け取った体が無条件に反応し、征人は機械的に雑嚢を拾い上げると作業着の男に続いた。清永も風呂敷を首にくくりつけて立ち上がり、銃撃に怯えて動けなくなっていた男たちも、わらわらと舷側に集まり出した。
つぎつぎ縄梯子に取りつき、男たちは我先《われさき》に〈伊507〉への移乗を開始する。なめし革を思わせる船体の感触を確かめつつ、征人も縄梯子を昇った。仲田が援護の弾幕を張り、ここぞとばかりに狙い撃ってくる敵機を牽制《けんせい》したが、身動きの取れない機銃座ひとつでは自《おの》ずと限界があった。コルセア二機の執拗な銃撃が〈伊507〉の舷から甲板を舐め、鉄と鉄のぶつかりあう音が連続する。無駄とわかっても首をすくめ、縄梯子にしがみつく体を小さくした征人は、隣の縄梯子を握りしめる清永が、「クソ、なんでこっちの大砲は撃ち返さねえんだ!」と叫ぶのを聞いた。
大口径の砲身二本を並べる主砲も、艦橋上の単装機銃も、確かに一向に火を噴く気配はない。目と鼻の距離で咲いた火花に首をすくめた征人は、「無理だよ!」と怒鳴り返した。
「浮上してすぐに撃てるほど、便利なもんじゃないはずだ」
主砲の砲身に沿って設置された支持棒と、その先端に取りつけられた遠隔操作式の砲口蓋《ほうこうぶた》を見れば、防水問題が簡単でないことは想像がついた。水上艦艇の砲熕《ほうこう》兵器のように即時射撃が可能とは思えず、一刻も早く救助を終えてこの場を離脱したい〈伊507〉が、潜航を遅らせてまで砲門を開くことはないと予測できたが、清永は同意も反論も寄越さなかった。代わりに「早く昇れ!」と足もとで発した声が、征人の相手をした。
同じ縄梯子にぶら下がる田口の目が、ぐずぐずしてるとひっぺがして海に放り込むぞ、と言っていた。征人は思わず浚渫船の方を振り返り、船尾の機銃座を見た。ひとり残った仲田が、縦横に飛び回る敵機を相手に火線を打ち上げる姿を確かめて、ひやりとした感触が胸に走るのを感じた。
田口に追い立てられて一気に縄梯子を昇りきり、征人は〈伊507〉の後甲板に足をつけた。他の者も続々と流線型の船体表面を覆う甲板に昇り、最大でも幅五メートル足らずの鋼鉄製甲板は、十数人の男たちでごった返すことになった。仲田の撃ち放つ機銃がコルセアを追い散らす隙に、待機していた水兵が艦橋構造部の格納庫に一同を誘導する。本来、水上偵察機を収納する格納庫は、備品の箱が無造作に置かれるだけのがらんどうになっており、とりあえずの待避場所としては十分な広さがあった。
上空からの銃撃にさらされ続けた身に、屋根の下に隠れられる安堵感はなにものにも替えがたい。誘導されるまでもなく、男たちは円形の格納扉に飛び込んでゆく。征人も清永に続いて格納扉をくぐろうとしたが、一同から離れ、鎖を張った手すりの前に立ち尽くす二つの背中を目の端に捉えて、自分でもわからずに足を止めてしまっていた。
作業着の男と田口だった。二人の視線の先には、弾幕を絶やさない機銃があり、孤軍奮闘する仲田の姿がある。ひやりとした感触が確実な不安に変わり、征人も銃座から離れる気配のない仲田を見つめた。〈伊507〉に近づこうとするコルセアを牽制し、銃座をこちらに転回させた仲田は、自分を見下ろす三つの視線に気づいたのだろう。敵機が射界から外れるわずかな時間に、発射釦を押し続けていた右手を額に掲げ、年季の入った挙手敬礼をしてみせた。
背筋をぴんとのばし、作業着の男と田口が答礼する。仲田は笑顔らしき表情を浮かべ、征人と視線を交わらせたのも一瞬、すぐに発射釦に手を戻し、旋回を終えた敵機の牽制を再開した。左手でハンドルを回して銃座を転回させ、弾幕を張るこわ張った顔には、もう笑顔の片鱗も見つけられなかった。
敬礼を解くや、作業着の男と田口は格納庫に待避した。征人はその場に留まり、〈伊507〉を退避させるべく、独り浚渫船に居残った男を見つめ続けた。網膜に焼きついて離れない一瞬の笑顔を、黙々と機銃を撃ち放つ堅い顔に重ね合わせ、無意識にズボンのポケットに手を差し入れた。溶けかけたチョコレートの感触を指先に確かめ、あの笑顔は前にもいちど見たことがある、と思い出していた。
糸崎駅で見かけた出征兵士。家族や隣人に見送られ、生きて帰れる見込みのない戦場に出立しようとしていた男も、あんな笑顔を通りすがりの征人たちに寄越した。なぜだろう。なぜ笑えるのだろう。仲田も、あの出征兵士も、自分と違って死を受け入れるに足りるなにかを持っているからか? 守るべき家族、妻子。帝国軍人としての尊厳。そうしたものを胸に抱いていれば、死も笑って甘受できるということか? 軍人の本懐を果たし、英霊の一端に加わる己の命を了解できるのか……?
わからなかった。わかるのは、その笑みがひどく寂しげだったということ。チョコレート、甘いぞ。そう言った時の声と、死ぬんじゃないぞ、と言った時の仲田の声が、まったく同じ調子だったこと。チョコレート甘いぞ、若いんだからおまえ食え。死ぬんじゃないぞ、若いんだからおまえは生きろ。その瞬間には報国の理念も一死奉公の精神も関係なく、ただ当たり前の大人として口にされたのだろう言葉が、爆音を押し退けて頭の中に反響した。腹の底が熱くなり、征人は無意識に両の拳を握りしめた。
いいのか、それで? 途切れる寸前の理性に最後にそう問いかけられ、答える代わりに征人は走り出していた。「おい、貴様も早く入れ!」と怒鳴る水兵の声を背中に、格納扉の横をすり抜け、艦橋構造部の壁面に設置されたラッタルに手をかけた。
艦橋の後部、格納庫の真上にある二挺の単装機銃。あれなら、砲口蓋も手で簡単に外せるはずだ。敵機は残り二機で、一機はすでに被弾して翼から煙を吹いている。勝算はないこともない、と根拠のない判断を信じた体が勝手に動き、征人はラッタルを手繰《たぐ》って艦橋構造部の上によじ登った。人とすれ違うのがやっとの狭い機銃甲板に、砲口を上に向けて二挺の単装機銃が並んでいるのを確かめ、手前の機銃にしがみついた。
日本製ではないようだったが、基本構造は帝海が採用する九六式高角機銃と変わらない。飛行機の操縦|桿《かん》さながら突き出た二本の握り棒を見、海兵団で習った扱い要領を頭に呼び出した征人は、まずは砲口蓋を取り外しにかかった。内側に張ったゴムで二十五ミリ径の砲口を塞ぎ、海水の流入を阻《はば》む砲口蓋に手をかけた途端、首筋に鈍い衝撃が走った。
抵抗する間もなくうしろに引っ張られ、砲口蓋にかけた手が離れた。たたらを踏み、足を踏んばったところで、甲板が艦首方向に傾斜し始めていることに気づいたが、血の昇りきった頭にはその意味も理解できなかった。手すりをつかんで体勢を立て直し、振り返りもせず機銃に手をのばした征人は、今度は背後から羽交《はが》い締《じ》めにされて強引に機銃から引き剥がされた。
鍛えられた胸筋が背中に当たり、さらりとした長髪の感触が頬をくすぐった。ちぐはぐな感触にいくらかの正気を呼び戻され、背後を振り返った征人は、風になびく長髪と、その隙間に覗く鋭い目を同時に視界に入れた。目深《まぶか》にかぶった軍帽の鍔に隠れて片目しか見えず、鍔の上で鈍く輝く髑髏の徽章が、そのぶん征人を睨み返してきた。
「ぐずぐずするな。死にたいのか」
整った細面からは想像できない強力《ごうりき》で、長髪の男は征人を艦橋の方に引っ張ってゆく。遠ざかる機銃の向こうに、押し寄せる波飛沫に洗われる後甲板が見え、〈伊507〉が急速潜航に入りつつあることを伝えたが、征人の目は次第に距離を開ける浚渫船を追いかけ続けた。舵を取る者もなく、海上にぽつねんと置き去られた浚渫船から、仲田の打ち上げる機銃の号音が虚しく届く。〈伊507〉を追おうとして火線に阻まれ、いら立ちを露にした二機のコルセアが、獲物にたかるハゲタカのごとく機銃弾の嘴で浚渫船をついばむ。男の手を放そうともがき、征人は「援護しないと……!」と叫んだ。上部指揮所に続くラッタルに征人を叩きつけ、「あきらめろ」と低く怒鳴った男の目が、征人の視界いっぱいに広がった。
「おまえには、まだ死なれるわけにはいかない」
明らかに帝国海軍のものではない黒い制服の上で、濡れた瞳が有無を言わせぬ力を放つ。端正な無表情とは不釣り合いな、切迫した目の色に追い立てられた征人は、我知らず鉄筋のラッタルに手をかけていた。
艦橋の頂上に楕円形の空間を確保する艦橋甲板は、二本の潜望鏡がマストのように並び立つ他、従羅針儀、伝声管、探照燈などを備え、水上航行時の指揮を執るのに必要な機能をそろえている。五メートルあまりのラッタルを昇るうち、沸騰する海面がみるみる船体を押し包んでゆき、艦橋甲板を囲む遮浪壁に手をかけた時には、機銃甲板も白い飛沫に覆われるようになった。跳びはねる水がゲートルを濡らすのを感じつつ、ラッタルを昇りきった征人は、すでに百メートル近く離れた浚渫船にもういちど目を向けた。
機銃からのびる硝煙の筋が、〈伊507〉の離脱を一義に弾幕を張る仲田の行動を教えた。被弾した方のコルセアに背後から銃撃を加えられても、機銃は〈伊507〉に近づこうとする敵機の牽制をやめようとしない。自らの防御を後回しにして放たれた火線がコルセアの接近を阻み、直後に被弾機から降り注いだ機銃の雨が浚渫船を打ちのめす。細かな水柱が無数に上がり、機関に銃弾が当たったのか、ぼろぼろになった船体を橙色《だいだいいろ》の炎が舐め、たなびく黒煙が機銃座を隠してゆく。思わず身を乗り出した征人は、後から上がってきた長髪の男に突き飛ばされ、艦橋甲板に穿たれた円形の水密ハッチに押し込まれた。
煙突の中に突き落とされた気分だった。三階分の高さはある連絡筒のラッタルを半ば転がり落ちるように下った征人は、尻から先に着地する羽目になった。ラッタル両脇の支柱に手足を添え、器用に滑り降りてきた長髪の男が後に続く。征人の眼前に降り立ち、視界を塞いだ長身が即座に右に移動すると、さらにひと塊の海水が連絡筒から降りかかってきた。
まともに顔に浴びた海水が気管に入り込み、征人は周囲を見回す余裕もなくむせ返った。咳き込み、荒い呼吸を整えるうちに、喉や鼻腔を刺激する海水の塩辛さは勢いを弱め、人いきれと油、魚の生臭さが渾然一体となった澱んだ空気が、徐々に知覚されるようになった。床についた手のひらにモーターの微かな唸りが伝わり、「深度、二十メートル」「前後水平、縦舵中央」「総員、持ち場に戻れ」と、抑揚のない声が連続するのを聞いた征人は、ようやく顔を上げる気になった。
すらりとした長身を黒い制服に包んだ長髪の男が、すぐ隣でじっとこちらを見下ろしていた。髑髏の徽章の上に羽根を広げた銀鷲の帽章を見つけ、ドイツ軍の制服だと思いついた征人は、次いで天井を這う何本もの配管に目を奪われた。一分の隙もなく天井を埋めつくした配管の蔦《つた》に、赤い開閉ハンドルの花が定間隔に並び、半円を描く正面の隔壁には、これもまた無数の配管と、ひと抱えもある通風開閉ハンドル、速力通信器や舵角計の計器。水密戸の丸いハッチは閉まっており、その手前にある転輪羅針儀らしき円柱状の機械の隣に、同じ大きさほどの奇妙な物体が鎮座しているのが、征人の注意を引いた。
円柱の上に半球状のガラスを載せたその物体は、巨大な裸電球を逆さにしたといった形状で、およそ航海装置の類いには見えなかった。暗く沈み込んだガラスの表面には紙片が貼りつけてあり、目を凝らすとロヲレライカンシバン≠フ文字が、お世辞にも上手とはいえない字で記してあるのが読めた。
ローレライ。軍艦内部で見かけるにはやわらかすぎる文字の連なりに、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなり、征人はあらためて〈伊507〉の発令所であるはずの空間を見回した。幅五メートル、奥行き八メートルほどの蒲鉾型の空間の各所に、同様の紙片が貼りつけてある。サンソ∞ベント一∞主バラスト≠ネどなど。側壁にある潜舵、横舵の前にはそれぞれ操舵員が座り、先刻、艦橋の上から乗り移れと手を振っていた将校――大尉の襟章をつけている――がその背後に立つ。隔壁の水密戸を開放する田口の横で、「潜望鏡、上げ」と令したのは作業着の男だ。
発令所の中央、前後に三本並ぶ柱の一本が油圧駆動の音を立てて上に滑り、床下に収納されていた潜望鏡が男の目の位置で静止する。左右に開いた旋回把手を一方の手でつかみ、もう一方の腕をからめて体重を預けた作業着の男は、そのままぐるりと潜望鏡を一回転させてみせた。素人目にも堂に入っているとわかる所作に、この人が艦長なのかと考えかけた征人は、重い鐘《かね》の音に似た衝撃音に思考を中断された。
海中を渡って艦内に届いたその音は、金属がひしゃげる悲鳴に似た音を伴って発令所を揺らし、その場にいる全員の胸も揺らした。なんの音かは考えるまでもなく、征人は震える膝を律して立ち上がった。
旋回把手を収納位置に戻し、潜望鏡から目を離した作業着の男が「潜望鏡、下げ」と言うそばで、大尉と田口が確かめる目を注ぐ。「轟沈した」と短く答えて、男は下降する潜望鏡に背中を向けた。
感情の失せた声が、却って沈鬱な空気に拍車をかけた。心持ち姿勢を正し、黙祷《もくとう》をする田口を横目に、征人はポケットに手を差し入れた。溶けかけたチョコレートの感触を頬りに、仲田の顔を思い浮かべようとしたところで、「先任。損害は?」と冷たく響いた声に吹き散らされた。
作業着の男だった。銃火の中で見せた明確な意志の光を消し、投げやりに戻っているその目は、仲田たちの死すら無造作に受け止めて、すでに消化してしまった風情だった。「各部、異状なし」と、先任と呼ばれた大尉が応じる。
「よし。敵機が増援を呼ぶ前に湾を抜ける。針路そのまま、深さ三十」
復誦の声が上がり、発令所に再び活気が舞い戻った。同時に開放された水密戸から複数の水兵が入ってきて、発令所を通り抜けて艦尾側の隔壁をくぐってゆく。急速潜航の一助となるべく、艦首に集まって重石役を務めていた乗員たちだろう。各々の持ち場に戻る彼らのせいで、ただでさえ狭い発令所がますます狭くなり、配管とハンドルに埋め尽くされた壁に背中を押し当てた征人は、所在なさを紛らわす目を長髪の男に向けた。
長髪の男はちらと一瞥をくれただけで、なにも言わずに征人の前から離れていってしまった。黒い制服が視界から消えると、その背後で殺気を孕んだ目を寄越す田口の顔が露になり、征人は反射的に直立不動になった。
爆発寸前の怒りをため込んで、より強くなった険を湛えた目がこちらを直視する。そういう目を向けられても当然の行為をした己を自覚して、征人は観念しつつ目を閉じた。
左の頬に食い込んだ田口の拳は、鉄拳という表現では足らない、顔の間近で手榴弾《しゅりゅうだん》でも炸裂したかのような衝撃だった。覚悟していても受け止めきれるものではなく、征人は文字通り吹き飛ばされた。誰かの体にぶつかり、倒れそうになったところをぐいと引き起こされて、再び田口の面前に突き出される。ぐらぐらする頭を首に力を入れて支え、征人はなんとか直立不動の姿勢を取った。
潜航してから一時間と少し。心配された爆雷搭載機の追撃もなく、無事に広島湾を抜けつつある〈伊507〉の艦内は、張り詰めた緊張の糸が心持ち緩んだ時だった。総出で行われた水漏れ点検も一段落すれば、着任早々に独断専行をした新兵に一同の目は注がれ、至極当然の鉄拳制裁が征人に見舞われることになった。まだ殴り足らないと言わんばかりの田口の目を正面に受け止め、この一時間ずっとそうしてきたように、気をつけの姿勢を維持し続けなければならないのが征人の立場だった。
「貴様、自分のしたことがどういうことかわかっているのか」
はっぴをぬぎ、白い煙管服《えんかんふく》(作業着)に着替えた田口の太い声が、発令所の澱んだ空気をかき回す。口調こそ兵曹以下の乗員を取りまとめる先任兵曹長だが、内側に容赦なく斬り込んでくる強い目の光は、ヤクザ者の手配師に見えていた時となんら変わっていない。口中に血の味を確かめ、征人は「はい」と搾り出した。
「貴様はこの艦の乗員、全員の命を危険にさらしたんだ! 貴様ひとりのために潜航が遅れて、機銃の一発が艦の装甲を貫通していたらどうなったと思う。そこから重油の筋が漏れ出して、艦の位置を敵に教えることになる。どんなに潜《もぐ》っても追い詰められて、いずれは沈められていたかもしれんのだ。それがわかるから、仲田大尉は浚渫船に残られた。敵機を牽制して、艦が無事に潜航できるようにしてくれたんだ。貴様の行動は、大尉の犠牲を無駄にするところだったんだぞ……!」
胸倉をつかまれ、前後に激しく揺さぶられて、滲んだ涙と鼻水が飛び散った。悔しさと情けなさに胸を塞がれながら、征人はせめて声だけは漏らすまいと歯を食いしばった。「もういいだろう、掌砲長《しょうほうちょう》」と差し挟まれた声が攪拌《かくはん》された脳に届き、田口が突き放すように手を離しても、しばらくは体の揺れを止めることができなかった。
先任――艦長の着任までは、この艦の指揮を執っていた先任将校の高須成美大尉が、一歩前に出て征人を見下ろす。「相手は新兵だ。それくらいで勘弁してやれ」と続けた高須に、田口は睨んだ目を動かさずに征人から離れた。
「だがな、折笠上工(上等工作兵)。これだけは覚えておけ。本来なら、貴様は軍法会議にかけられても文句の言えない立場だ。厳罰に処さねばならんところだが、本艦は人手不足であるし、貴様には大任を果たしてもらわねばならんから、今回は大目に見てやる。次はないものと心得ろ」
優男の外見に相応しい、厳しさの中に一抹《いちまつ》の情をまぶした声音にそう言われて、殴られた頬の痛みが増した気がした。大任という言葉に、まだ死なれるわけにはいかない、と言った長髪の男の声を不意に思い出しつつ、征人は「……はい」とかすれた声を返した。
「そうでなければ、貴様ひとりのために艦が潜航を遅らせるなんてことは金輪際《こんりんざい》ないんだ」
その場の空気を無視して、蒸し返す言葉を吐いたのは艦内の風紀係、甲板士官の小松少尉だ。海兵卒の若手将校らしいが、型にはまりきった物腰と喋り方は、とても年の近い男のものとは思えない。のっぺりした瓜実顔は、ベテラン将校に混じって新兵を小突き回すのも仕事のうち、と信じて疑わない様子だった。
「フリッツ少尉に感謝するんだな。少尉が飛び出していかなければ、貴様はいまごろ土左衛門《どざえもん》になっとったんだから」
刺《とげ》を隠さない小松の声に促《うなが》されて、征人はフリッツと呼ばれた長髪の男に目をやった。そこを自分の居場所と心得ているように、一同から離れて艦尾側の隔壁に背中を預けるフリッツは、視線を避けて微かに顔をうつむけた。
「作戦に必要な道具だと思うから、取りにいっただけだ。礼を言われる筋合いはない」
組んだ腕をほどかずに吐き捨てたフリッツに、小松のみならず、田口も険悪な視線を向ける。どう見ても日本人にしか見えない顔で、流暢《りゅうちょう》な日本語を操る旧ドイツ軍士官は、奇異の目を通り越して反感を向けられるのが常態になっているらしい。いっさいの感情を消し去った横顔に、戸惑い気味の目を凝らした征人は、「以上だ」と割って入った高須に顔を戻した。
「兵員室《パート》で軍服に着替えろ。掌砲長、後は任せる」
「は!」と応じてから、田口はへの字に固めた口をこちらに向け、ぐいと顎をしゃくった。よりにもよって無法松が直属の上官か……と嘆息する内心を隠し、征人は高須に脱帽敬礼をした。そのまま右向け右をして発令所を離れようとした時、ふと背中に視線が突き刺さるのを感じた。
作業着の男――いまは第三種軍装の白い開襟シャツに、少佐の襟章を際立たせる絹見真一艦長が、物言いたげな目をこちらに向けていた。視線を合わせると、なにかを言い澱んで揺れた瞳がすぐに逸らされ、絹見は高須の方に向き直った。「先任、さっきの急速潜航にかかった時間は?」と事務的に言った横顔に、一瞬前の奇妙な交感の気配は微塵もなかった。
「五分三十秒です」
「ひどいものだな……」小さく寄せた眉間の皺《しわ》を唯一の感情にして、絹見は発令所の片隅にある海図台に近づいていった。「せめて三分に縮めたい。湾を抜け次第、潜航訓練をやる」
そう重ねた背中は、自分はもちろん、もう仲田のことさえ意識の外にしている。〈伊507〉という戦闘単位の中枢になり、艦の運営を司る精密機械になりきった背中と征人には見えた。
各種装置に埋められた壁を見据え、背筋をのばして操舵席に座る兵曹たちも、海図に三角儀を当てて鉛筆を走らせる高須も、ロヲレライ≠ニ記された奇怪な装置に感情のない目を向けるフリッツも。いまだ受け身の立場でしか戦争を捉えられない身に、発令所の一部になった彼らの姿は同じ人間のものとは思えず、征人はあらためて未知の硬質な世界に放り込まれた己を実感した。午前十時を回った懐中時計にちらと目を落とし、この数時間の目まぐるしい変転を思い返す間もなく、田口の背について発令所を後にした。
発令所を出た先には聴音器室があり、ねっとり湿った空気の中、水測長らしい若い将校がじっとレシーバーに耳を傾ける姿があった。一応、空調は作動中のようだが、蓄電池の節約のためか、もともと性能が悪いのか、壁に設置された温度計の目盛りは摂氏三十度を超えている。水測長の額には玉の汗が浮かんでおり、それは目の前を歩く田口にしても、血と海水にまみれ、一向に乾く気配のない国民服の気持ち悪さに耐える征人にしても、同じことだった。
おまけにこの圧迫感。円筒形の耐圧殻内部に造られた艦内は、壁も天井も丸みを帯びていて、気を抜けば天井を這う配管や壁が覆いかぶさってくるような錯覚に襲われる。まるでトンネルの中――いや、臭いと湿気からすれば下水管の中と表現した方が正しい。横須賀で日々〈海龍〉の狭い操縦席に押し込まれていれば、閉所空間には耐性があるつもりだったが、なまじ身動きが取れる程度の広さがあり、最低限居住できそうな環境が整っているばかりに、どっちつかずの状態に置かれた感覚が軽い恐慌をきたしているのかもしれなかった。
下着のシャツ一枚に鉢巻きという格好で、狭い通路をひっきりなしに往来する乗員たちは、すでにこの環境に慣れているのだろう。缶詰や備品の入った箱を手に手に抱え、ろくに準備も整わないまま出撃してきたらしい艦内を行き来する彼らは、通路を塞いで歩く田口の脇を巧みにすり抜けてゆく。両手の塞がった者は無論のこと、手ぶらの者も軽く頭を下げる程度で、堅苦しい敬礼のやりとりもない。どだい、下着姿では相手の階級も判別のしようがなく、最初はいちいち敬礼をしていた征人も、「ここではそういうのはなしだ」と田口に言われるに至って、会釈するのに留めるようにした。
潜水艦では海軍のしきたりは二の次、水上艦艇とは比較にならない劣悪な環境に鑑み、可能な限り乗員の負担軽減が考慮される――噂は本当らしいとぼんやり思いつつ、征人は行き交う乗員の中に清永の姿を探した。まだ艦橋構造部内の格納庫にいるのか、あるいは下層甲板にでも降りているのか、浚渫船に同乗していた男たちともども、その姿を見つけることはできなかった。
烹炊所《ほうすいじょ》を抜け、機関室の直上に位置する中央補助室に入ると、通路も多少は広くなり、圧迫感もややなりをひそめた。各種制御盤と配電盤が埋め込まれた壁には、スピーカーや艦内電話の受話器も目立つ。日本の潜水艦より格段に発達した通信設備を見、これなら伝令も必要なさそうだと思った征人は、前を歩く田口の背中をあらためて見つめた。
田口は略帽をぬぎ、煙管服の胸元をはだけて風を入れたりしている。この艦で、自分はいったいなんの任務に就かされるのか。先任将校が言う大任≠ニはなんなのか。無言の問いを投げかけた刹那、「特別に命令がなければ、帽子はかぶらんでいいからな」と、こちらを振り向きもしない田口が不意に口を開いた。その声の意外なやわらかさに、征人は返事を一拍遅らせてしまった。
「貴様、目が早いな」
中央補助室の隔壁をくぐったところで、前触れなく立ち止まった田口が続けた。「は……?」と咄嗟に応じてから、こちらを見下ろす田口の目を直視した征人は、あとずさりたい衝動を堪えるので精一杯になった。
「自分と仲田大尉が機銃を旋回させていた時、敵機が先に撃ってくるのを読んだろう。それにさっきは、浮上してすぐに砲撃はできないこの艦の性能も言い当てた。なぜわかった?」
「それは……。あんな大きな砲ですから、防水は深刻な問題だとわかりますし、砲口が遠隔操作式の蓋で塞がれてるのも見えましたから。その、簡単には撃てないのではないかと……」
直観を言葉で説明するのは難しかったが、下手な返答をすればもう一発殴られそうな危機感に押されて、征人は必死に言葉を並べた。碁石《ごいし》のような黒い瞳をじっとこちらに注いだ田口は、「それを目が早いと言うんだ」と言って再び歩き出した。
「慣れたり鍛えたりで手に入れられるもんじゃない。大事にしろ。戦場では、その目が生死を分けることもある」
険が凝固した黒い瞳に、いくばくかの人間味を漂わせて田口は続けた。どう応えたらいいのかわからず、征人はとりあえず「はい」と返した。褒《ほ》められたらしいとわかっても、喜ぶ気にはなれず、むしろ型に嵌《は》められた息苦しさが胸の中に滞留した。
天井を見上げれば、そこには円形のハッチがあった。上甲板に搭載した〈海龍〉に乗り移る交通筒のハッチだろう。前後の隔壁に挟まれ、二メートル四方の広さしかないその区画は、左右に三段式のベッドが備えつけられ、布団の代わりに金属製の長櫃《ながびつ》が置いてある。ロヲレライ セイビドヲグ≠ニ書かれた紙がその上に貼られ、末尾にはフレルナ≠フ文字が記されていた。
異質な言葉を再び目にして、なんなのか確かめたい思いが頭をもたげたが、先を歩く田口の背中を見ればそれも萎《な》えた。艦内の風景に馴染み、その部品となって機能する未知の背中を見つめ、自分もそうなってゆくのだろうかと漫然と考えてから、征人はもういちど交通筒のハッチを見上げてみた。
外界に繋がるハッチを見れば、息苦しさも少しは紛れるかと期待したが、得られた感触は分厚い装甲の冷たさと、その向こうに三十メートルの厚みをもってのしかかる海水の質量――逃げ場のない現実の重みだけだった。初めて経験した実戦の恐怖も、これから始まる任務への不安も、まだなにひとつ消化できない我が身の頼りなさを痛感して、征人は田口の背中を追った。
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ポケットをまさぐると、一本だけ残ったタバコの感触が指先に伝わった。口にくわえ、金鵄《きんし》の銘柄が印刷された包み紙をくしゃくしゃに丸めた大湊《おおみなと》三吉《さんきち》は、視界の端に白い影が蠢《うごめ》くのを捉えてぎょっとなった。
ライターを取り出しかけた腕の動きを止め、赤煉瓦が目に鮮やかな生徒館の建物を見上げる。二階の窓に、白い詰襟に身を包んだ細身の青年の姿があった。短く刈り整えられた髪と、透けて見えるような白い肌。薄い唇は笑みの形に裂けており、端整な鼻梁を挟んで輝く切れ長の目も、冷たい笑いを含んで大湊を見下ろしていた。
浅倉……? 無意識に動いた口からタバコが落ち、一歩前に出た足でそれを踏み潰してしまった時には、青年の姿はすでになかった。白いカーテンがふわりと風にそよぎ、枯れ尾花より素っ気ない幻影の正体を大湊に伝えた。
長旅の疲れが出たらしい。東京は新橋駅から列車に乗り、呉市内にたどり着くまでにまる一日。空襲の影響で列車が止まり、呉駅より三つ手前の仁方《にがた》駅で降ろされた後、江田島に行く船便をどうにか確保して、この海軍兵学校の門をくぐるまでにさらに半日。出発前に霞ケ関で雑務にかかずらわっていた時間も合わせれば、もうまる三日間まともな睡眠を取っていない。幻覚のひとつも見ようというものだと考え、まずは気を落ち着かせることに専念した大湊は、続いて、あれはいったい何歳の頃の浅倉良橘だったろうと詮ない自問をした。姿形は十代の終わり頃、この校舎で机を並べていた時の浅倉だったが、陶器を連想させる白い肌と、昏い目の光は最近の浅倉――あれ[#「あれ」に傍点]以来、ある種の妖艶ささえ漂わすようになった、軍令部一課長の浅倉大佐のものだったのではないか?
いや、と大湊は思い直した。あの男の年齢を外見で判断するのは難しい。四十五の歳相応、腹まわりに余分な肉を蓄え、顔にも皺《しわ》を刻み込んだ自分と違って、浅倉は三十代の時から少しも変わっていない。特にあれ[#「あれ」に傍点]からは、むしろ日に日に若返っているのではないかと思わされることもある。華族出のぼんぼんと揶揄《やゆ》されるのをなによりも嫌い、実務も座学も人一倍真剣にこなしていた学生時代の頃とは別人の、それは二十年来の知己である大湊さえ震撼《しんかん》させる変貌ぶりで……。
背後に聞こえた足音に、大湊は物思いを中断された。夕陽に染まった生徒館を後に、玄関前の階段を下りてくる白い詰襟の軍服姿は、中村《なかむら》政之助《まさのすけ》大尉のものだった。霞ケ関の軍令部を発ってからこっち、強行軍の道連れを務めてくれている男だが、いつになく重い足取りが長旅の疲れのせいとは思えなかった。収穫はなしか、と内心に嘆息した大湊は、「どうだ?」と一応聞いてみた。
「昨日の午後二時頃、生徒館の会議室で目撃されたのが最後の消息です。人払いをして会議室を借りたそうですが、夜になってもなんの連絡もないので係の者が様子を見にいくと、すでにもぬけの殻になっていたそうで……」
はきはきとした口調にも一縷《いちる》の疲労を滲ませ、中村は答えた。「あいつらしいな」と我知らず呟き、大湊は生徒館の前に広がる練兵場に視線を飛ばした。
浅倉とはそういう男だ。以前にも、あの男は大胆不敵なやり方で海兵(海軍兵学校)の悪しき伝統を覆し、教官や上級生らの硬直した頭を蹴飛ばしたことがあった。海兵の新入生は、皆一様に上級生たちの暴力制裁にさらされるものだが、中でもとりわけひどいのは総員制裁と呼ばれる集団暴行だ。夜の予習時間後に一年生全員が練兵場に連れ出され、最上級の三年生に入れかわり立ちかわり殴られた挙句、無意味な説教を延々と聞かされる。娑婆《しゃば》っけ抜き≠標榜《ひょうぼう》して毎年くり返される、これは海兵が公然と段取りしたいじめの因習で、当然、大湊たちも新入生当時は標的にされたのだが、その年ばかりは集団制裁は事実上立ち消えとなった。浅倉が医務室から下剤を盗み出し、三年生の夕食に仕込んだからだ。
効果は覿面《てきめん》だった。その夜、一年生は指示通り練兵場に集合したが、三年生はいつまで待っても姿を現さなかった。這うようにしてやってきた数人の者たちも、拳にまったく力が入らず、すぐに便所に駆け込むありさまで、集団制裁は所期の目的を果たせずにお開きとなった。翌日、医務室に備蓄してある下剤がすべて消えていることが判明し、創立以来の不祥事に海兵は上を下への大騒ぎになったが、犯人は挙げられないまま騒動は終息した。アリバイまで準備していた浅倉の周到さが功を奏したせいもあるが、事が公になり、海兵の伝統に傷がつくのを恐れた校長が、事件を闇に葬《ほうむ》ったのがいちばんの理由だった。
それから、もう二十数年。学年一位の成績を維持し続け、首席卒業生として恩賜《おんし》の軍刀も賜《たま》わった浅倉は、海大(海軍大学校)でも抜群の成績を修めてエリート海軍将校の道を歩み、どうにか三十位以内の成績で海兵を卒業した大湊は、同期の活躍をまぶしく思いながら地道に海軍組織の屋台骨を支えてきた。大佐に昇進したのは、浅倉に遅れること二年。さまざまな職務を経て軍令部勤務を命ぜられ、開戦前に駐米武官の補佐を務めた経歴を見込まれたのか、対米情報を所掌する第三部第五課長に就任したのは、いまから半年ほど前のことだった。
実直しか取るところのない男に大役が回ってきたのも、本来その職に就くべき同期が残らず英霊となり、ひと足先に冥土《めいど》に旅立ってしまったからで、大湊自身は帝海の人材の払底ぶりを証明する人事でしかない、と自覚している。そんな自分が、一時は将来の海軍大臣とも謳われた浅倉の所在を追い求め、海兵の校舎でその幻影に惑わされているのだから、四半世紀の流転の結果にしても皮肉に過ぎる話ではあった。
軍令部総長が重い腰を上げ、浅倉の更迭《こうてつ》命令を出したのが三日前。その時には霞ケ関から姿を消していた浅倉は、この江田島で目撃されたのを最後に消息を絶った。警察はもちろん、憲兵隊にも事の次第を明かすわけにはいかず、横の繋がりを通じて情報を集めるしかないとあっては、以後の行方をつかむのは不可能に近い。昨年まで海兵の教官だった中村の人脈がなければ、ここでの目撃情報すら得られなかったかもしれないのだ。
眼鏡面にまだ三十代半ばの生硬さを窺わせる中村は、江田島までのばした足が無駄に終わりそうな気配に、落胆を隠そうとしない。柱島を現地調査するのが主な目的で、ここで浅倉の所在をつかめるとは最初から考えていなかった大湊は、「同行者は?」と無表情に重ねた。
「海軍少佐が一名。この暑い盛りにマントを羽織った長髪の青年を見た、という者もひとりだけおりました」
見える範囲に人影はなくとも、中村は声をひそめるのを忘れなかった。今回の事件の核心、一週間前までは〈UF4〉と呼ばれていた潜水艦の乗員の写真の中に、確かにそういう風貌の青年の顔があった。逃亡中の身にもかかわらず、目立つ長髪の男を引き連れて堂々と海兵の校門をくぐる。浅倉のやりそうなことだと思いながら、大湊は「例の混血児か」と独りごちた。「おそらく」と中村。
「その、海軍少佐の方は?」
「わかりません。とりあえず呉鎮《くれちん》に照合しようと思ったのですが、まだ電話線も復旧していない様子で……」
「そうか。そうだろうな……」
仮に電話線が復旧したところで、電話を受け取る相手がいるとは限らない。大湊はなだらかな稜線を描く古鷹山《ふるたかやま》を生徒館ごしに見上げ、その向こうに立ち昇る黒煙の筋に目を細めた。
軍港を焼き尽くした火の手は、いまだ鎮火していないらしい。あるいは港に在泊中の艦艇が燃えているのか? 江田島に渡る途中に遭遇した光景――舷窓《げんそう》という舷窓から黒煙を噴き上げ、船体を前傾させつつあった戦艦〈伊勢〉の悲壮な姿を思い出し、大湊はひっそり嘆息した。
艦もあれほど巨大になると、沈底するまでに二、三日はかかる。深度の浅い沿岸に舫われていた〈伊勢〉は、艦底を海底に押しつけても完全に水没することはなく、醜く焼け焦げた艦橋を海上にさらし続けるのだろう。
「ひさかたの、光のどけき春の日に……か」と口中に呟いた大湊は、中村の怪訝な顔は見ずに、無人の生徒館に目のやり場を求めた。
しず心なく花の散るらん――。鮮やかに咲いて鮮やかに散る、桜の花に託して大和魂の本質を説き、身命を捨てて皇国に尽くす軍人精神のありようを教える歌の響きは、巨大な屍《しかばね》をさらす戦艦たちに手向《たむ》けるには辛すぎる。ひと息に死ぬこともできず、手足をもがれた体を持て余して、じわじわ滅してゆく己を傍観する。まるで現在の大日本帝国そのものではないか。早朝から午前中にかけて呉を襲った大空襲が、どれほどの損害をもたらしたのかはまだ定かでないが、おそらく無事な艦艇は残っていまい。そして残っていたとしても、これからも反復して行われるだろう米軍の空襲にさらされ、最後の一隻まで沈められることは、多少なりとも米国の思考回路を解する大湊には自明以前の話だった。
名古屋、大阪、神戸などの六大工業都市はすでに破壊し尽くされ、過去数回にわたって無差別爆撃を受けている呉も、軍港・都市ともども潰滅《かいめつ》状態にある。艦隊と呼べる戦力も、燃料すらもない日本軍に対して、わずかな残存艦艇をもしらみ潰しにする作戦が実行された背景には、戦略という観点だけでは推《お》し量《はか》れない、米国が持つ日本への根深い不信と憎悪があるのだろう。宣戦布告という、戦争を遂行する上で最低限遵守されるべきルールを破り、真珠湾にだまし討ちを仕掛けた日本の行動は、在米日本大使館の怠慢《たいまん》が原因であったとしても、米国民に日本人への激しい憎悪を植えつけた。
非武装の民間人を殺傷する都市爆撃が常套《じょうとう》手段になった近代戦争の風潮。工場のみならず、町場の家内工業も兵器生産に携わっている日本の国内事情。それら複合的な要因によって、憎悪は論理的に裏打ちされ、米国は人口密集地帯への無差別爆撃に踏みきった。神風《かみかぜ》特攻に象徴される日本軍人のなりふりかまわぬ戦いぶり、生残を恥辱と捉える精神性も、彼らには脅威と映ったに違いない。降伏という選択肢を持たず、道義もルールも通用しない蛮族《ばんぞく》を屈伏させるには、こちらもルールを無視した制裁を加えるしかない。戦略上、無駄としか言いようのない今回の殲滅作戦が実行されたのは、手足をすべてもぎ取らなければ終結の目途が立たない、強迫観念に近い米国の対日戦争観があるからに違いなかった。
この海軍兵学校も、次の空襲ではどうなるかわかったものではない。本土上陸作戦に向けて、米国は最終的な準備段階に入ったと見るのが正しい。そのために特殊な爆弾≠ェ開発され、すでに完成したとの情報も五課では入手している。切れ切れの断片であっても、その程度の情報収集能力は軍令部にもあったし、その情報をもとに海軍部内で独自に終戦工作が進行中との噂も聞く。もっとも天皇在権、国体護持を第一条件とする和平工作案は、ドイツが無条件降伏したいま、連合国側に笑止と一蹴《いっしゅう》されるのは必至だ。本土決戦に活路を見出そうとする主戦論者の目もあれば、実現の可能性は皆無と言っても過言ではなかった。
情報は集めただけでは意味がなく、どう活用するかに能力の如何が問われるのだが、その点、日本は――中でも天皇の統帥大権を輔弼《ほひつ》する軍政機関、大本営は――いまも昔も絶望的な状態にある。大本営海軍部の別称を持つ軍令部に籍を置く者として、大湊はそれを承知していたし、自分などよりよほど純粋に国を愛し、憂えてもいた浅倉が、単に承知する以上の痛みを抱えていただろうことも想像がつく。此度《こたび》の事件が、その痛みを下敷きにしたものであることは疑う余地がないが、いまこの時期に行動を起こした浅倉の真意はどこにあるのか。あれ以来、冷笑の下に他人には窺えないなにかを隠し持つようになった男が、いま見つめるものはいったいなんなのか……。
「消火と救助作業で、生徒たちも大部分駆り出されています。一段落したら、また新しい情報も得られるでしょう」
押し黙ったこちらを気にしてか、中村が明るさを取り繕う声で言った。「ならいいが」と応じて、大湊は軍帽の鍔ごしに眼鏡面の部下を見返した。
「この空襲は、浅倉にとってはまたとない好機になったはずだ。呉にはまだ何機か飛行艇が残っていたが、たとえばそのうちの一機が消えてなくなっていたとして、空襲で破壊されたのか、何処《いずこ》かに飛び去ったのか……。確認が取れるようになるまで数日はかかる」
大きな浮材の脚を海面に浸した九七式飛行艇が二機、軍港に舫われていた光景を思い出しつつ、大湊は言った。遠目には破壊を免れたように見えたが、実際には機銃掃射でぼろぼろになっているに違いない。すぐ側には、沈没して翼端だけ海上に覗かせる二式飛行艇の姿もあった。中村は「まさか」と微かに苦笑した。
「あの空襲の中を無事に突破できたとは……」
「常識的に考えればあり得ん話だ。海軍省と軍令部の目を欺いて、〈伊507〉を勝手に出撃させたのと同じように、な」
瞬時にこわ張った中村の顔から、苦笑が消えた。崩壊した枢軸国が遺《のこ》した種から発芽し、一度は徒花《あだばな》として散る予定だった艦。いまだ艦籍未登録の艦名を胸中にくり返して、大湊は続けた。
「『断号作戦』が流れて以来、誰も本気で目を向けようとしなかった艦だ。膨大な事務処理の過程にひとりふたりのシンパを配置して、書類上の不備さえなくしておけば、整備と補給を済ますことは不可能ではない。奴の立場なら、乗員を入れ替える細工だってできただろう。ついでに飛行艇の一機を持ち出すくらい、造作もないこととは思わんか?」
反論の口を開きかけた中村に背を向け、大湊は練兵場に視線を据えた。数多《あまた》の士官候補生たちの汗と涙を吸い取ってきたグラウンドは、この時は動くものひとつなく静まり返っていた。
「浅倉は海軍の……いや、大本営の弱点を知り抜いているんだ。確証がなければ指一本動かせない、自分の体を探ることさえできない、いまの大本営の弱点をな。ほんの数日の時間があれば、奴は大陸でも南方でも好きなところに逃げおおせられる。そして表立って行動できん我々には、奴の所在をつかむ術はない」
あの集団制裁の時も――浅倉は、すべて心得た上で行動を起こした。事件は有耶無耶《うやむや》に処理され、下剤を盗み出した犯人捜しも放棄されたが、全員とは言わないまでも、ほとんどの新入生は犯人が誰であるかを察していた。軍人とはこれすなわち武人《もののふ》。指導とはいえ、武人の頭に手を上げる無礼を公然と認め、学校ぐるみで奨励《しょうれい》するとは言語道断、士道不覚悟の謗《そし》りを受けても返す言葉はない。浅倉がそう吹聴するのを聞いた者は少なくなかったし、同部屋の大湊に至っては、事前に本人から計画を聞かされてもいたのだ。
早くに親を亡くし、苦学して海兵に入学した大湊は、自分にとばっちりがくるのを恐れる気持ちもあって、必死に翻意を促した。もし事が露見しで放校処分にでもなったら元も子もない、ひと晩我慢すれば済むことなのだから、と。しかし浅倉は頑として聞き入れなかった。ばれるようなヘマはやらないし、体面を重んじる海兵は事件が表沙汰になるのを好まない。結果がどうあれ事件は隠蔽《いんぺい》され、犯人の追及がなされることもない。自信満々の顔で言われると、そうに違いないという気分になってくるから不思議だった。自国の恥ずべき因襲に唯々諾々《いいだくだく》と従って、国際人を自任する海軍将校が務まるものか。まっすぐな目でたたみかける迫力に押され、大湊は結局、浅倉のアリバイ工作に加担して事件の片棒を担ぐ羽目になった。そして事件は浅倉が予言した通りの帰結を迎え――一部の同期生たちから尊敬と畏怖を勝ち得た彼は、以後、二度と華族出のぼんぼんと揶揄されることはなくなった。
規模こそ違え、今回の事件からも似た臭いが漂ってくる。祖国降伏後、行き場を失ったドイツ海軍の秘密実験艦を日本国内に受け入れ、同艦が搭載する特殊兵器の技術供与と引き替えに、乗員たちの保護、もしくは第三国への脱出の手筈を整える。二ヵ月前、ペナンで受信された暗号無電を皮切りに始まった『断号作戦』は、その最初の段階を終えた時点で中止命令が下されたはずだった。だが部内の繁雑な事務処理過程を逆手《さかて》に取り、巧みな欺瞞《ぎまん》工作で関係部員に作戦の再開を信じさせた浅倉は、なけなしの燃料と補給物資をそのドイツ艦に回させ、戦利潜水艦〈伊507〉として独断で出撃させてしまった。
『断号作戦』が中止に至ったのは、日本に到着する前に特殊兵器を紛失≠キるという、ドイツ側の信じがたい失態があったからだが、それが理由のすべてではない。中央の目の届かないところで一個中隊に匹敵する人員を動かし、艦の出撃準備を短期間で整えさせた浅倉は、作戦の中止を先から予測していたのだろう。一度は破棄された書類を拾い出し、それぞれの監督部署に回して正規の決裁手続きを得る。軍令部一課長の肩書きが功を奏し、〈伊507〉の補給と整備は通常業務の皮をかぶったまま、誰の注目も浴びずに遅滞なく進められていった。決裁書類に判を押した責任者の中の何人が単純に騙《だま》され、何人が彼のシンパだったのか。軍令部、海軍省、各鎮守府や根拠地隊の司令たち。膨大な数の将校のうち何人があの瞳に魅入られ、悪魔的な弁舌に引き込まれて、彼の行動に加担したのか。下手に追及すればどんな混乱が起こるかわからず、体面を重んじる♀C軍組織になり代わって、毒にも薬にもならない対米情報課長が捜索の矢面に立つ形になった――。
「ですが……。よしんばそれが事実だとしても、敵の制空圏を無事に突破できるとは思えません」
たまたま捜索行の道連れに選ばれただけで、まだ浅倉の人となりも、その謀反《むほん》の大きさも実感できないでいる中村が言う。たしかにそうだと大湊は思った。だがあの男は一度、絶対死の状況を免れている。理性も倫理観も尊厳も、すべて失ってしかるべき地獄を乗り超え、消耗するどころか、以前より強靭《きょうじん》になって帰ってきた。あれ[#「あれ」に傍点]以来、浅倉は変わった。いま自分が捜し求めているのは、海兵の因襲を笑いのめした男ではなく、この国を根底から覆《くつがえ》しかねない人間離れした何者かだ。「そうだが……」と呟いて、大湊は夕闇の迫る東の空を見上げた。
「矢は、放たれたな」
なんの抵抗もなく、その言葉がこぼれ落ちた。それがすでに日本本土にはいないのだろう浅倉を指しているのか、所在も行き先も定かでない〈伊507〉を指しているのかは、大湊にもわからなかった。
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パートとも呼ばれる兵員室は、艦尾にほど近い場所にある。幅五メートル、奥行十メートル近い広さは、機械室に次ぐ面積を確保していたが、通路の左右に二列ずつ押し込まれた三段ベッドが、他と変わらない圧迫感を征人に感じさせた。
兵科に所属する約六十人の乗員のうち、四十八人がここで眠り、残りは前部魚雷発射管室で眠る。将校には発令所の下にある士官寝室があてがわれ、機関科、技術科員の寝床は機械室。機関が四六時中唸りを上げる中で眠れというのも酷な話だが、環境の悪さはこのパートも変わらない。予備の魚雷倉庫と空気タンクを挟んで、二本のスクリュー軸《じく》が轟然と回転する振動が絶えず床を鳴らし、同じ区画内に設置された便所からは、目をひりつかせるアンモニアの悪臭が漂ってくる。田口は「専用の寝棚がもらえるなんぞ、贅沢な話なんだぞ。普通はひとつの寝棚を何人かで共有するもんなんだからな」などと自慢げに言っていたが、なにより征人を落胆させたのは、ここには下士官室が存在しないという事実だった。
水上艦艇には先任兵曹室があり、田口のような古参の兵曹はそこで眠るものなのだが、限られた空間を最大限活用しなければならない潜水艦には、そんな気の利いた設備はないらしい。非番の時も寝る時も、無法松から離れられないというわけか。嘆息を堪え、指定されたベッドで荷物をほどく間に、田口はパートの奥にある食糧庫に行ってしまった。入れ替わりに清永が水密戸から顔を覗かせ、征人と視線を合わせると、汗だくの顔を手拭いでぬぐいつつこちらに近づいてきた。
ベッドに背中を押し当てて腹を引っ込め、木箱を担いで通る水兵たちを器用にやり過ごす。早くも艦内の環境に馴染み始めている清永は、痣《あざ》の浮き出た征人の顔を見るや、「平気か?」と神妙な声を出した。見知らぬ場所で見知らぬ大人たちに囲まれていれば、それだけでも胸を熱くするのに十分で、征人はまた目が滲みそうになるのを堪えて頷いた。清永はまじまじとこちらの表情を窺ってから、突然ぷっと吹き出し、「バッカだなあ、おめえは」と遠慮なく破顔してみせた。
まったくありがたい親友だった。ケタケタと笑う清永に応じる気力もなく、征人は国民服をぬいで雉嚢から煙管服を取り出した。他の荷物ともどもびしょびしょに濡れていたが、血で汚れていないだけましと思えた。
「でもよ、見直したよ。おまえにあんな根性があったとはな」
鉢巻きの下でほころび続ける清永の顔は、初めて体験した実戦の恐怖も忘却の彼方という感じだった。清永の神経が特別太いのか、自分が考えすぎなのか。どちらかわからず、とりあえず清永を睨み返そうとした途端、「おい! 無駄口たたいとらんで手を動かせ」と兵曹の怒声が飛んだ。「は!」とすかさず踵を合わせた清永は、兵曹が食糧庫に消えるのを待って、「へへ、エラい艦に乗り込んじまったな」と征人の耳元に囁きかけた。
「だいたいさ、艦が出撃する時ってのは、軍楽隊がパンパカパーンって派手に送り出してくれるもんだろ? それが敵機の機銃に追い立てられて、そのまんま出航だもんな。ついてねえったら……」
(達する。こちら艦長)と艦内スピーカーが騒ぎ出し、清永の声を遮った。煙管服の袖に通しかけた手を止めて、征人は緩く湾曲する壁に設置されたスピーカーを見上げた。
(本艦はこれより五島列島沖に赴き、特別任務を実行する。内容は、海中に投棄された特殊兵器の回収とだけ説明しておく。関係各員には各部責任者を通じて後ほど詳細を伝えるが、その前に本艦は、錬度向上を目的とする各種訓練を実施する。残念ながら、現在の本艦は帝海潜水艦として規定の錬度に達しているとは言えない。今後は会敵も予想されるが、現状では到底実戦には耐えられないだろう。よって、五島列島沖に到着するまでの間、各員が最善の働きができるよう集中訓練を行う。ついてこれん者は早めにそう言え。空気の節約のために海に放り出す。ひとりひとりが〈伊507〉の重要な部品であることを自覚し、帝海軍人の名に恥じぬ働きを示してもらいたい。以上)
ぶつりと鳴った雑音の素っ気なさが、絹見艦長の無造作な目を思い起こさせた。艦内の空気が俄かに引き締まり、通路を歩く水兵の肩に緊張が浮かび上がる中、征人も無意識に着替える速度を早めた。そうさせるなにかが、絹見の声音にはあった。
「……本当、エラい艦に乗り込んじまった」
ぼそりと呟いた清永も、もう笑ってはいなかった。わずかに細められた目が別人の光を帯び、ひとつの実戦をくぐり抜け、それなりに化学変化を起こしている親友の内面を伝えたが、清永は確かめる間を与えず作業に戻っていってしまった。
煙管服に着替え終わったところで、通りかかった兵曹に医務室の整理を手伝うよう命じられた。医務室は艦首魚雷発射管室のすぐ後方にある。来た道を戻り、艦首側に向かおうとした征人は、通路の真ん中に立ち尽くす黒い制服に気づいて立ち止まった。
交通筒のハッチの真下だった。長髪を流した横顔を天井のハッチに向けて、フリッツ少尉は彫像のごとく静止していた。なにかを必死に押し留めた瞳に鋭い光が宿り、征人は思わず隔壁の陰に身を隠した。
フリッツはハッチを見上げるのをやめると、背後の棚に置かれた金属の長櫃《ながびつ》に向き直った。ロヲレライ セイビドヲグ≠ニ書かれた紙をめくり、鍵穴に鍵を差し込んで、開いた長櫃の中から黒い塊を取り出す。そうすることで気を落ち着かせるかのように、その手触りを確かめ、手のひらに馴染ませたフリッツは、艦首側から歩いてくる人の気配を察して、すぐに黒い塊を箱に戻した。
拳銃……? ちらりと見えた塊の形に、征人がそう自問した時には、長櫃に鍵をかけ直したフリッツが離れる足を踏み出していた。水密戸をくぐり、「やあ、少尉。いよいよ出航ですなあ」と声をかけた丸眼鏡の将校を無視して、フリッツは足早に艦首方向へ去ってゆく。黒い長靴が網格子の床を叩く音を耳に、金属の長櫃に視線を飛ばした征人は、「君が医務室の手伝いをしてくれる水兵さんですかな?」とかけられた間延びした声に、慌てて正面に立つ丸眼鏡の士官を見返した。
「わたし……いや、自分は時岡軍医大尉。潜水艦勤務は初めてなので、なにぶんよろしく」
将校らしからぬというより、いっそ軍人らしからぬ温厚すぎる物腰に、不穏な想像も中和された。また変な大人が出てきた……という思いは胸に隠し、征人は「折笠上工です。自分も艦艇勤務は初めてであります」と敬礼を返した。
さまになってないこと甚《はなは》だしい答礼を返し、「じゃあ初めて同士ですな」と無意味に笑った時岡に続いて、征人は医務室に向かった。長櫃の横を通る時、フレルナ≠ニ書かれた紙の文字が目に入り、なぜだか胃が重たくなるのを感じた。
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第 二 章
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厚く、重く、オペラの暗幕のように優雅な襞《ひだ》を描いて折り重なる水圧の壁は、ちょっとした海流の影響で揺らめき、刻々と異なる表情を見せてくれる。流れ込む暖流が海水の温度を変え、感知濃度を薄くしたり、濃くしたりするために起こる現象だ。水中を漂う油膜さながら、気まぐれに形を変える温度層の揺らめきは美しく、感知していて飽きなかったが、一週間もすると一定の規則性が窺《うかが》えてきて、「彼女」をひどく落胆させた。
岩礁《がんしょう》の浸食具合、海上の天候次第で微妙に流れを変える海流も、巨視的に捉《とら》えれば何通りかのパターンのくり返し。投与する薬剤の増減で別の結果を導き出す化学実験と同じで、ある程度の規則性が読めてしまう。水と大地、風、熱。膨大な因子が複雑に作用しあってさまざまな相を紡《つむ》ぐ、この世界そのものが巨大な試験管のようなものなのかもしれない。では自分はなんだろう? 鋼鉄の棺桶《かんおけ》に閉じ込められ、暗く冷たい水の底で世界の相を見上げ続ける自分の存在は、この世界の中でどういう意味があるのだろう……? 答のない問いに捕らわれた「彼女」は、感知野の端に一群の魚がよぎるのを捉え、重く鈍った頭が少しだけ明瞭になるのを感じた。
|キンメダイ《アルフォンジーノ》だろう。水圧に馴染《なじ》んだ平べったい体をそよがせ、十数尾のアルフォンジーノが引っかき傷のような航跡を感知野に刻む。そう、生き物というやつの動きだけは予測不可能だと思いつき、「彼女」はなにかしら溜飲《りゅういん》を下げた気分になった。それぞれの習性に従って日々の営みをくり返していても、その泳ぐ道筋は一度として重なることはなく、ほんの少しの環境の変化にも敏感に反応して、次の行動を予測させない。それは単純な力学では割り切れない、自らの意志を持つ生き物のみが紡ぎ出せる混沌の軌跡だ。
永劫《えいごう》の時をかけて整然と循環する世界は、精緻《せいち》で安定した美に包まれているが、それだけでは寂しすぎる。生き物という混沌《こんとん》が介在し、彩りを添えるからこそ、くり返す世界にはいくらかの価値がある。そう考えると、ここでこうしている自分の存在にもなにかしら意味があるような気がして、「彼女」は艇《てい》のすぐ脇をすり抜けるアルフォンジーノの群れに意識を凝らした。命を漲《みなぎ》らせた尾鰭《おひれ》の動きを心地好く感知しながら、そのまま群れに合流して意識を解き放ってみようとしたが、百メートルと進まないうちに頭が重くなり、吐き気がこみ上げてきて、不自由な肉体に引き戻されてしまった。
体力の低下に伴い、感知野が狭まっている。肉体の疲労が感知野に与える影響は、「白い家」で行われた実験である程度実証済みだが、ここまで追い込まれた状態のデータは取ったことがない。あと三日が限度だな、と「彼女」は混濁《こんだく》した意識の片隅で判断した。水と食糧は底を尽きかけているし、酸素放出器の計器もレッドゾーンに差しかかりつつある。携帯用の空気清浄器を使えばまだ呼吸はできるが、その前にバッテリーが切れ、艇内の気圧を保つ圧搾《あっさく》機械が停止したり、スーツの内側に仕込まれた温熱器が作動しなくなれば、抵抗力の衰えた体は早晩心停止を起こすか、凍死を免れないだろう。
どのみち、ゆっくり死ぬ結果には変わりがないということか。それは嫌だなと思い、そもそも自分はどうして生き続けているんだろう? と続けて考えた「彼女」は、まだ死んでいないからだ、と味もそっけもない結論を出して、天井の赤色灯をぼんやり見上げた。一瞬に訪れる死を望むなら、それを叶える道具はある。こんな状況に陥るずっと前から、その機会は幾度も「彼女」のそばをかすめ、通り過ぎていった。しかし「彼女」が、自ら進んで死を受け入れようとしたことは一度もなく――深度五十メートルの海底に沈められ、冷たく汚濁した空気に身を浸しているいまも、そうする気にはなれずにいるのだった。
もはや存在しない祖国への忠誠心、与えられた任務への責任感、どれも違う。ただ、いまはそれをすべき時ではないと感じる。ひと息に死ねば楽になると考えるのは、苦しさに負けている自分だ。それは本当の自分ではない。よしんば死を選択しなければならない状況になっても、その時は自分の意志で実行したい。まともにものを考えられる時、そうするだけの意義があると判断できる時でなければ、自発的な死は選ぶべきではない――。この鉄の棺桶に封じ込められた瞬間から……いや、「白い家」に収容された時から、それを支えに命を長らえてきた信条を胸に抱き直し、「彼女」は思考を閉じた。艇内を満たす冷たい海水から指先を引き上げ、短い眠りにつこうとしたが、不意に巨大ななにかが感知野に押し入るのを知覚して、咄嗟《とっさ》に手のひらを水に浸けた。
水圧の襞を押し分け、ずるりと感知野内の海に入り込んできたのは、ガトー級の潜水艦だった。米海軍が所有する潜水艦の中でもっとも数が多く、二百隻あまりが就航している主力潜水艦。だが「彼女」には、船体表面の修理跡とプロペラ音の癖から、それが馴染みの艦であることがわかっていた。二ヵ月以上ものあいだ自分たちを追い回し、ここ一週間は獲物を捜しあぐねる猟犬よろしく、周辺の海底をソナーの鼻で探り続けている。母艦の人たちが〈しつこいアメリカ人〉と仇名《あだな》する、ガトー級潜水艦だ。
昨日から姿が見えなかったのは、別の海域で補給を受けるためだったらしい。艦首から放たれたアクティブ・ソナーの探信音波が波紋を広げ、岩礁に反射して複雑な幾何学模様を描くさまを感知野に捉えつつ、「彼女」はひっそり息をついた。三キロ以上離れた〈しつこいアメリカ人〉の航跡も、的外れな場所に打ち放たれる探信音波も、直接的な危機を感じさせるものではなく、むしろ徒労という言葉を思い出させる。それは来るはずのない救援を待ち、海底で息を潜める身のやりきれなさも実感させて、「彼女」は今度こそ水中から手のひらを引き抜いていた。
同じ生き物でも、人間の所業には可愛げがない。こんな彩りならない方がましだと思い、「彼女」は目を閉じた。視野も感知野も閉ざされた真実の闇に身を置き、ふやけきった指先で座席の端を軽く叩き、リズムを取りながら歌を唄った。
そうでもしないと眠れそうになかった。とっくの昔に唄い尽くしてしまった知っている歌の中から、「彼女」はいたずら心半分でドイツ民謡を選んだ。
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こぎゆく舟人 歌にあこがれ
岩根も見やらず 仰げばやがて
波間に沈むる 人も舟も
くすしき魔が歌 唄うローレライ
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〈しつこいアメリカ人〉が、どの程度の情報をもとに捜索を行っているのかはわからない。だが多少なりともこちらに関する知識があるなら、この歌を聞けば震え上がるはずだ――。唇の端に微笑を刻み、「彼女」は唄い続けた。かすれ声しか出せないのでは、万一にも敵のパッシブ・ソナーに探知されることはない。そう呟く理性を無視して、狭い艇内にこだまする自分の歌声に耳を澄ました。
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(急速潜航!)
伝声管の号令一下、警報ベルが艦内に鳴り響き、ディーゼル機関の唸りが止まる。代わって蓄電池の電力がモーターを動かし、スクリュー軸を回し始める中、パートで待機していた兵員たちが一斉に走り出した。
狭い通路を一列になって走り、中央補助室、烹炊《ほうすい》所を抜けて艦首へ。発令所に差しかかると、艦橋《かんきょう》上にいた見張り員が次々ラッタルを滑り降りてくるのが見え、最後のひとりが「ハッチよし!」と叫ぶ声が耳をつんざいた。「ベント開け。深さ十八」と令した絹見《まさみ》艦長は潜望鏡に取りついて動かず、先任将校の高須《たかす》はストップウォッチを片手に、発令所要員の動作ひとつひとつに観察の目を飛ばす。フリッツひとりが艦尾側の隔壁《かくへき》に背中を預け、我関せずといった顔で発令所の喧噪《けんそう》を眺めるのを横目にしつつ、征人《ゆきと》は発令所を抜けて冷蔵室の区画に飛び込んだ。
二十度の俯角《ふかく》を取って潜航しつつある〈|伊507《イゴマルナナ》〉の艦内は、すでに艦首側に傾いている。水密戸の戸口の上端をつかみ、兵員たちは懸垂《けんすい》の要領で足から先に円形の戸口をくぐってゆく。征人も艦の傾きを利用して素早く水密戸をくぐり、先を走る兵曹に続いて艦首魚雷発射管室を目指したが、「全隊、止まれぇっ!」
列の先頭を走る田口《たぐち》の怒声が通路に響き渡り、慌てて足を止めた時には遅かった。すぐうしろから突進してきた清永《きよなが》に体当たりされ、兵曹の背中に思いきり顔をぶつけると、兵曹も体勢を崩して前の水兵の背中を押す形になった。将棋倒《しょうぎだお》しの悲鳴と怒号が通路に渦巻き、最後に細かい金属がばらまかれる音、「バカもんがぁ!」とがなる田口の声が征人の鼓膜《こまく》を震わせた。
生鮮食料を貯蔵する冷蔵室の先にある区画は、〈伊507〉の特色を如実に現している。上甲板に聳《そび》える二十・三センチ砲の旋回軸が、上層甲板から下層甲板までを貫き、直径三メートルの柱で通路を塞いでいるのだ。必然、艦首側に抜けるには左右どちらかの隙間を通らねばならず、艦内ではいかなる場合も左側を通行するよう厳命されていた。それぞれが好き勝手な方を選んで走り抜けると、合流したところで正面衝突しかねないからだ。
背後の人垣に押されて旋回軸の前まできた征人は、旋回軸の型に沿って湾曲した左側通路の途中に、尻もちをついた田口と、床に散らばった大量のネジやスパナなどの工具、それらが入っていたのだろう工具箱を同時に視界に入れた。
「いやあ、すまん。前回は左じゃったから、今度は右回りかと思っとったんだが……」
その前で略帽をのせた頭を掻《か》き、そそくさと工具箱を脇に避けているのは、機関長の岩村《いわむら》七五郎《しちごろう》機関大尉だった。海機(海軍機関学校)卒で、〈伊507〉の乗員の中では最年長の五十一歳。通路のど真ん中に工具箱を置きっぱなしにしていたらしい機関長は、痩身小躯《そうしんしょうく》に隠居然とした貫禄を漂わせ、口調とは裏腹に『避けられなかったおまえが悪い』とでも言いたげな目で田口を見下ろしている。旋回軸の柱に太い腕をついて立ち上がり、「艦尾から艦首に行く時はこっち! その逆があっちです!」と田口が怒鳴り返しても、機械油の染みついた煙管服《えんかんふく》姿は少しも動じなかった。
「左側通行厳守。陸《おか》にいる時と同じでしょうが」
「しかしな、ここは海の上じゃからして、行き合い船とかちあった時には右に転舵《てんだ》するのが常識……」
「艦内は陸の交通事情に準ずるのです!」岩村の屁理屈を遮《さえぎ》って田口が再び声を荒らげた時、「や、掌砲長。怪我をしとりますな?」と、さらに事態をややこしくする長閑《のどか》な声が発して、征人は目を覆《おお》いたい気分に駆《か》られた。擦りむいた田口の膝小僧を見、丸眼鏡ごしの目をらんらんと輝かせて近づいてきたのは、時岡《ときおか》纏《まとい》軍医長だった。
召集に応じて初めて乗り組んだのが〈伊507〉で、それまでは東京帝大医学部で医局員を勤めていたという三十八歳。およそ運動とは無線の生活を送ってきた体は余分な脂を蓄《たくわ》え、丸眼鏡が似合いすぎる顔も歳以上に老けて見えるが、黒目がちの目は絶えず子供のような好奇心を湛《たた》えているので、全体的には年齢不詳の印象を醸《かも》し出している。帝大医学部勤務の経歴は瞠目《どうもく》に値するものの、多分に空想家的な性格と厚かましいまでの好奇心を疎《うと》まれ、召集を好機に体よく追い払われたのだろうことは、医務室の整理を手伝う間じゅう、時岡のお喋《しゃべ》りにつきあわされた征人には想像がついていた。もっとも本人は、医局中が悲しんだと言い張っているが。
「ちょうどいい。すぐに手当しましょう。潜水艦は不衛生だから病人も多いと聞いていたのに、誰も医務室に来ないからがっかりしとったのです。さあさあ、いざ医務室に」
玩具を前にした子供よろしく、鼻息を荒くした時岡がまくしたてる。「結構です!」と叫んだ田口の背中から憤怒《ふんぬ》の熱気が立ち昇り、ただでさえ蒸し暑い艦内の温度を上昇させたが、それも(達する。こちら先任)と艦内スピーカーの声音が響くまでのことだった。
(ただいまの所要時間、四分二十三秒。前回より三十秒遅れだ。これが訓練でなかったら、本艦はいまごろ間違いなく爆雷攻撃を浴びて沈んでる。沈むのが仕事の潜水艦でも、また浮き上がれなけりゃ話にならんのだがな)
がっくりうなだれた田口の背中から、不発に終わった怒りの蒸気が漏《も》れてゆく。〈伊507〉が搭載する対空電探(電波探信儀)の最大有効半径は、約十キロ。探知された敵機が艦の直上に達するまでの時間は約三分だから、その間に潜航できなければ爆弾の直撃を食らうのが道理だった。(浮上後、再訓練。総員ただちに配置に戻れ)と、もう何度聞いたかわからない高須の声を耳に、征人も何度吐いたかわからないため息をこっそり吐いた。
「……聞こえたろ。さっさと戻れ」
低く呟いた田口に促《うなが》され、重石《おもし》役の乗員たちがぞろぞろ艦尾へ引き返し始める。水中排水量四千四百トンの潜水艦に対して、たかだか二十数人分の体重移動がどれほどの効果をもたらすのかは疑問だが、艦首への移動が速くなればなるほど、潜航時間が比例して短縮されるのは事実なのだという。いずれ、正規の配置を持たない身には他に仕事もなく、征人は汗でびっしょりの清永の背中に続いて艦尾側に戻った。
「あの、手当は……」
平然と工具を拾い集める岩村の横で、時岡がもじもじと言う。「軍医長も早く医務室に戻ってください!」と怒鳴った田口の声が、澱《よど》んだ空気を震わせた。
「潜航やめ。メインタンク、ブロー」
淡々と下令した絹見に復誦の声が追従し、注排水弁の開閉ハンドルを回す軋《きし》み音、気蓄器が圧縮空気を送り出すため息のような音が連続する。バラストタンクとも呼ばれるメインタンクは艦の前後にあり、潜航時はこれに海水を入れて船体を重くする。逆に浮上する時は、気蓄器から放出される圧縮空気でタンク内の海水を排水し、船体を軽くする。簡単に言ってしまえば、それが潜水艦の基本的な機構だ。
〈伊507〉は複殻《ふくこく》構造と呼ばれる船体構造を採用している。これは円筒形の耐圧殻《たいあつこく》(内殻《ないこく》)と、それを包む船体の外板(外殻《がいこく》)から成るもので、メインタンクを始め、ツリムタンク、真水タンク、重油タンクなどの各種タンクは、内殻と外殻の隙間の空間にある。必然、機銃弾の一発でも外板を貫通すれば、隣接するタンクにも穴が開き、艦は重油の漏出や生活水の喪失などの事態に襲われる結果になる。さらに深刻なのはメインタンクに損傷を受けた場合で、タンクが損傷した状態で潜航をすると、損傷箇所から空気が漏れ出て海水の流入を止められなくなり、釣り合いの取れなくなった船体が横転、転覆《てんぷく》する――最悪、沈んだきり二度と浮上できなくなってしまう。つまり潜水艦は、当たりどころが悪ければ機銃弾一発の被弾で潜航能力を失い、沈没する可能性があるというわけだ。
敵機の発見から直上に到達するまでの三分間に、急速潜航できるか否かが重要課題になる理由だった。甲板に鉄鋼を張った二重装甲とはいえ、〈伊507〉も損傷に弱い潜水艦であることに変わりはない。出航二日目、九州の南端・大隅《おおすみ》海峡を通過中の〈伊507〉は、急速潜航三分の壁を破るべく特訓をくり返しており、征人たちは振り子の玉さながら、艦首と艦尾を行ったり来たりさせられているところだった。
目的海域の五島列島沖には関門海峡《かんもんかいきょう》を抜け、北回りの航路をたどるのが早道なのだが、〈伊507〉は南回りの航路の途上にある。九州をほぼ半周する遠回りの道程になるものの、北回りの航路には敵が潜んでいる可能性もあり、狭い関門海峡で待ち伏せされればひとたまりもないとの判断から、あえて南回りの航路が選択されたのだった。「軍令部直命の特殊兵器回収作戦」と聞かされただけで、作戦の具体的な中身も、なにを回収するのかもいまだ不明ではあったが、少なくとも米軍は〈伊507〉の動向に目を光らせている。それぐらい重大ななにかが、五島列島沖の海底には沈んでいる。そうでなければ浚渫船《しゅんせつせん》が襲撃された理由は説明がつかず、用心に越したことはないという自覚は、敵機の襲撃を目の当たりにした征人たちはもちろん、すべての乗員の心の中にあった。
どだい、現状の錬度《れんど》では実戦もおぼつかない。乗員の搬送は四回に分けて行われ、六十人からの乗員が第四陣の征人たちより先に着任していたのだが、彼らにしてもこの一週間でかき集められ、右も左もわからないまま艦の整備を行ってきたのだという。作戦前に最低限の訓練期間を設け、寄り合い所帯を少しは戦闘部隊らしくするという意味も含めて、絹見艦長は遠回りの航路を選んだのかもしれなかった。
パートに戻った時には、船体を洗う波飛沫《なみしぶき》の音がモーターの振動に混ざり、艦尾側に傾いていた床が水平になって、海面に浮上した〈伊507〉の現状を艦内に伝えた。(電探室。準備でき次第探知始め)(総員、戦闘配備。見張り員は艦橋へ上がれ)と、伝声管と艦内スピーカーが交互に騒ぎ立てる。制海権も制空権も失い、領海という言葉が事実上死語になった現在、訓練も敵の目を警戒しつつ行わなければならない。浮上と同時に艦内の空気が引き締まるのは毎度のことだったが、急速潜航の重石役以外に仕事のない征人は、周囲の緊張が肌の表面を上滑《うわすべ》りしてゆくのを感じていた。
必要に応じて随時、各部署の補助に入る。当直配置からも外された予備要員――ようは補欠というのが、征人と清永に与えられた艦内での肩書きだ。重石役を務める他の乗員たちには、急速潜航が終わればそれぞれ戻るべき所定の配置があるが、征人と清永にはそれがない。邪魔にならないよう身を小さくして、お呼びがかかるまでひたすら待機するしかない。高須やフリッツが言う大任≠果たす時がくるまでは、なにをやらせる必要もないというところなのだろうが、こうも放っておかれると所在なさばかりが先に立つ。工員養成所時代から日々の課業に追われてきた体には、こき使われている方がまだ楽という本音があった。
狭い通路に留まっていると、田口たち兵曹にがなられる羽目になる。三段ベッドの中段にある自分のベッドにもぐり込んだ征人は、次の急速潜航が始まるまでの間、横になって艦内応急設備の仕様書を暗記することに努めた。万年|手空《てす》き要員としては、せめて消火設備の使い方や、漏水《ろうすい》の応急処置法を知っておく必要がある。腹這いになって藁半紙《わらばんし》の束をめくる姿は物臭《ものぐさ》の見本のようだが、仕事がなければ極力横になり、空気の節約に努めよというのも、潜水艦勤務の極意のひとつだった。
「……だいたいよ、潜水艦に旋回式の主砲がくっついてるってのが間違ってんだよな」
下段のベッドでぼそりと呟いた清永には、そういう殊勝な気持ちはないらしい。使い勝手のいい下段ベッドは兵曹が使うのが暗黙の掟《おきて》だが、清永には特例で通路側の下段ベッドが当てがわれている。大任≠果たす特別要員に対する敬意からではなく、その巨体ゆえ、中段以上のベッドに寝かせると寝棚全体が軋《きし》むからだ。「そういうものでありますか?」と相手をしたのは、上段ベッドに収まる河野《こうの》二水(二等水兵)の声だった。
「そういうもんだよ。通路のど真ん中に砲台の旋回軸があるから、急速潜航の時間だって短くなんねえんだ。整備もやたら面倒らしいし。格好ばっかで実がねえっていうのか、ま、フランスっぽい艦だよな」
「ドイツではないのですか?」
「バーカ、知らねえのか? この〈伊507〉は、一応ドイツから譲渡された戦利潜水艦ってことになっちゃいるがな、もともとはフランスの潜水艦なんだ。それが三、四年前にドイツ海軍に拿捕《だほ》されて、流転の運命の果てに我らが大日本帝国の艦になったってわけよ」
さも古参の兵然とした声で、清永は得意げに説明する。横須賀突撃隊には自分より下の階級の者がいなかったから、初めて先輩風を吹かせる相手ができて嬉しいのだろう。年齢こそ征人たちより二つ上の河野二水だが、徴兵召集で海兵団に入り、退団後間もなく〈伊507〉に配属された経歴は、まさに新兵と呼ぶに相応《ふさわ》しい。自他ともに認める新兵のつもりでいても、中堅どころがほとんど英霊となってしまったいま、予備補習生時代を合わせれば三年も海軍の飯を食っている自分たちは、思えばもうベテランの部類に入るのだった。〈伊507〉に配属され、本物の新兵を見るまでは気づかなかったことで、おもはゆいような、心細いような複雑な気分を征人は味わっていた。まだベテランと呼ばれるに値する能力は身につけていないし、三十代も終わりに近い古参兵と、新兵ばかりが目立つ〈伊507〉の乗員編制は、中核戦力を喪失した帝海の窮状をそのまま引き移したものにも感じられるのだ。
〈伊507〉が、もとはフランス海軍の潜水艦だという話はすでに聞かされていた。十年ほど前に建造された時は世界最大の潜水艦で、フランス海軍を象徴する潜水艦としてそれなりに名を馳せていたらしい。搭載された旋回式二十・三センチ砲が示す通り、かなり革新的な発想で建造された試験艦だったが、一隻が完成したきり、同型艦は結局造られなかった。すなわちこの〈伊507〉は、建造国からも失敗作の烙印《らくいん》を押された異形《いぎょう》の潜水艦というわけだ。
それが、紆余曲折《うよきょくせつ》を経てドイツ海軍の手に渡り、最終的には日本に身を寄せることになった。そのまま移管された備品や缶詰の木箱に記してある〈UF4〉の記号は、ドイツ海軍当時のこの艦の名称で、フランスから接収した四番目の戦利Uボートを意味する。……というのが、昨日一日で清永が収集してきた情報だった。
大らかというか厚かましいというか、とにかく自分にはない資質で誰かれとなく話しかけ、どこに行ってもすぐに事情通になる清永は、この状況下では頼もしい存在に違いない。征人は酸素放出器の取扱要領を読むのをやめて、清永の声に耳をそばだてた。
「魚雷発射管室の下には、ぶどう酒倉まであったって言うぜ。そういういい加減な国の連中が造った艦だから、いろいろ扱いづらいんだよ。茹《ゆ》で麺《めん》ばっか食ってるからやることが間延びしてんだ」
「茹で麺?」
「あんだろ、ほら。ナポリさんとかいう人の名前みたいな……」
「ナポリタンでありますか?」と河野二水が困惑した声を出す。征人は、「そりゃイタリアだろ?」と口を挟んでおいた。
「うるせえな。外国には変わらねえじゃねえか。ま、唯一の取り柄っていったら、毛唐《けとう》の大きさに合わせて造ってあるから、広いってことぐらいだな」
「いくら広くても、貴様らが無駄口を叩けるほど空気に余裕があるわけじゃないぞ」
不意に別の声が割り込んできて、征人はぎょっと通路の方を振り返った。第二種軍装の白い詰襟《つめえり》で身を固め、面長の顔に汗の粒を張りつかせた小松《こまつ》少尉が、ベッドのすぐ脇に立っていた。
「その図体で、ただでさえ余計に酸素を消費しとるんだ。無駄口たたかんでじっとしてろ」
すかさずベッドから飛び出し、直立不動になった三人を順々に睨《にら》みつけた小松は、流れ落ちる汗に目をしばたきながらも、清永の額を指で弾くのを忘れなかった。海兵卒業後、艦隊での実地教育半ばで〈伊507〉に転属になり、将校としてようやくひとり立ちしたばかりの小松は、甲板士官の職務遂行に熱心なのか、あるいはもとからそういう性格なのか、せかせか艦内を歩き回っては乗員の立居振る舞いに目を配り、小言をぶつのを命にしている。ベッドの整頓《せいとん》が乱れている、敬礼の形がなってない、無駄口で空気を浪費するな。水上艦艇での規律ある行動への憧憬《しょうけい》捨てがたく、ひとり奮闘する姿は帝海軍人の鑑《かがみ》だが、同じ将校たちから半ば呆れ顔で見下ろされ、兵曹たちからは『あれこそ空気の無駄』と陰口を叩かれる、空回りの人でもあった。
潜水艦、それも〈伊507〉のような寄り合い所帯に配置されたがゆえの悲劇だが、清永が収集してきた情報によると、小松が潜水艦に配置されたのは必然だったらしい。仕事熱心、尽忠報国《じんちゅうほうこく》の念も申し分ない小松少尉の唯一の泣きどころは、極端に船酔いに弱い体質で、波に常時がぶられる水上艦艇の勤務にはとても耐えられなかった。潜航中は動揺のなくなる潜水艦に勤務する以外、小松少尉の生きる道はなかったというのだ。
水上航走中は普通の艦艇同様、〈伊507〉も波に揉《も》まれる。青ざめた顔に脂汗を滲《にじ》ませる小松を見るのは珍しくなかったが、いま征人たちの目前で垂れ流す尋常でない量の汗は、船酔いによるものでないことは明らかだった。横目で様子を窺っていた田口もそれに気づいたらしく、「……少尉。略装はどうなすったので?」と、遠慮がちの声を差し挟んできた。
「洗濯中だ」
硬い顔と声で、小松は田口の目を見ずに答える。重油と真水が等価値の潜水艦では、衣類の洗濯はぎりぎりまで――艦内衛生に支障をきたすほど汚れ、悪臭を放つようになるまで――我慢するのが常識。一日に洗面器一杯の水しか与えられない生活では、特配の水でももらわない限り誰もやろうとしない賛沢な行為だ。出航二日目でそれほど軍装が汚れるはずもなく、「洗濯?」と聞き返した田口は片方の眉《まゆ》を吊り上げた顔になった。
田口の視線を避け、うつむいた小松の口が「昨日の潜航訓練で便所の……」と、くぐもった声を出す。「は?」と重ねて、田口はますます小松の顔を覗き込んだ。
「昨日の潜航訓練で便所の缶が倒れて、その上で足を滑らせてしまったんだ!」
察しろ、と言わんばかりの怒声がパート中に響き渡り、その場にいる全員の目が小松を射た。空調も虚しく摂氏三十度を越えっぱなしの艦内で、長袖、詰襟の二種軍装を律儀《りちぎ》に着込んだ顔が真っ赤に茹で上がり、征人たちは唇を噛み締めて笑いを堪《こら》えなければならなくなった。「でしたら、せめて上着をおぬぎになったら……」と言った田口も、への字の唇の端を微妙に歪めていた。
「自分は甲板士官だぞ! 率先して風紀を乱すような真似ができるか。潜水艦勤務では特例が出とるから、貴様らがだらしない格好でいるのも我慢してるが、本当は全員軍装を着せてきちんと……」
ひと息にまくし立てた小松の顔からみるみる血の気が失せ、膝《ひざ》ががっくり折れると、慌てて前に出た田口の両手がその体を支えた。「こりゃいかん、誰か軍医長を」と一同に顔を向けた田口を制して、「なんの……帝国軍人がこれしき……」と小松が搾《しぼ》り出した瞬間、(急速潜航!)の号令が艦内スピーカーから発した。
貧血を起こした甲板士官の存在は速やかに忘れ去られ、今度こそ三分以内、の宿願が全員の頭を支配する。
「駆け足!」と一喝《いっかつ》した田口が小松を放り捨てて艦首側の隔壁に突進し、ベッドから飛び出した乗員たちが一斉に後に続く。征人も反射的に動いた足に引きずられ、円形の水密戸を目指した。
結果から言えば、この時の急速潜航は最悪の記録を更新した。通路にのびた小松の体につまずき、パートを出る前に大部分の乗員が将棋倒しになってしまったからだ。艦内が嘆息に包まれる中、ひとり喜んだのは時岡軍医長で、医務室に運び込まれた小松は以後、夕食の時間になっても帰ってこなかった。
ただでさえ配置人員が足りないところに、乗艦前に戦死した者も十人を下らないとなれば、予備要員の出番は思いのほか多かった。所定の成果を挙げられないまま急速潜航訓練は午前で終わり、魚雷発射訓練が始まったその日の午後。征人と清永は、工作兵出身の経歴を買われて機械室の整備に回された。
艦内は上下三段に仕切られていて、上から順番に第一甲板、第二甲板、第三甲板と呼ばれる。もっともすべての甲板を等分に使う水上艦艇と異なり、円筒形の内殻の形状に合わせて艦内設計がなされている潜水艦では、発令所やパート、魚雷発射管室など主要な設備は第一甲板に集中しており、第二、第三甲板にあるのは倉庫や機械室、蓄電池室など、文字通り縁の下を支える設備ばかり。甲板というより床下収納庫といった観が強い。巨体を誇る〈伊507〉では二甲板に士官室と士官食堂が設けられ、水上艦艇に近いゆとりが感じられたが、蓄電池から発生する硫酸《りゅうさん》蒸気が染《し》みつき、硫黄《いおう》の悪臭が滞留する二、三甲板は、、一甲板とはまた違った種類の空気の悪さだった。
機械室は第三甲板上、中央よりやや艦尾寄りに近い場所にある。二甲板をぶち抜いた高い天井、二十メートル近い奥行きを確保した空間は、艦内最大の区画と言って間違いない。重油を燃やし、ずらりと並んだピストンを回転させるディーゼル機関が二基、左右対称に鎮座して、給排気弁とクランク軸、はずみ車や減速歯車などからなる複雑な形を、機械油と煤《すす》にまみれさせている。水上航走中は休みなく回転運動を続けるピストンも、潜航中のいまは沈黙しており、征人は岩村機関長の指示のもと、調子の悪い冷却水ポンプを分解して一から点検していった。
「いろいろ改良が加えられとるが、基本は艦本式《かんほんしき》二十二号と変わらん。わしにとっちゃ女房より扱い慣れとる機関だ」
自慢げに言う岩村は、この泊まみれの穴蔵にこもり、用がなければ一歩も外に出ようとしない、自他ともに認める機械室の主《ぬし》だ。機関大尉であるからには士官室が使用できるのだが、振動がなければ眠れないタチだと主張し、布団まで持ち込んでディーゼル機関に添い寝しているらしい。女房より扱い慣れとる……という言い方も伊達ではなく、変人ぞろいの〈伊507〉乗員の中でも個性を際立《きわだ》たせていたが、征人にとっては話しやすい相手だった。
趣味と職能を一致させ、なお己の仕事に盤石《ばんじゃく》の自信を持てる人の姿は、見ていて好ましいし、うらやましいとも思う。三年以上、海軍工兵になるべく機械をいじる生活を送っておきながら、ついに人並みの興味も抱けなかった自分だが、どんな質問にも的確に、喜々として答えてくれる岩村と一緒に整備をしていれば、機械いじりもけっこうおもしろいと思えてくるのだから、人間の感覚などいい加減なものだった。
時計店を営む父親の影響で機械に興味を持ち、工作兵養成所に入ったという清永の気分は、ひょっとしたらこういうものなのかもしれない。そんなことを考え、普通の家に育った子供は、そうして父親の嗜好《しこう》を通じて世界への興味を広げ、自分の道を見出す縁《よすが》にするのだろうと思いついた征人は、自分にはそれが決定的に欠如していたのだな……と、場違いな感慨にとらわれもした。
強いて挙げれば、家に残された大量のレコードに父の嗜好《しこう》を見出せないでもないが、あれは世界への興味を広げるというより、むしろ逃避させるなにかだと征人は断定した。捉えどころのない希望≠竄辯豊かさ≠竄轤感じさせて、現実の居心地の悪さだけが後に残る。顔も知らない父にしろ、あの芸者にレコードを預けていった男にしろ、残すならもっと実際的ななにかを残せばよかったんだ。おケイさんには、芸者稼業から足抜けできる程度の金。自分には、もう少しいまの世の中に馴染めそうなもの――工作の道具とか、船や飛行機の図鑑とか。自分に音楽の才能でもあったならともかく……。
「日本とドイツは昔から技術交流が盛んだったからな。こいつにも日本の技術が入っとるんだろう。もっともモーターの馬力は桁違《けたちが》いで、まだまだ勉強せにゃならんことが山積みだ。早いとこ仕様書をぜんぶ翻訳《ほんやく》してもらわんと」
一号ディーゼルのクラッチの噛み具合を点検する岩村が口を開いて、征人は我に返った。飛躍した思考が紡いだ言葉が澱《おり》になって沈殿し、頭の中でぼんやり熱を放っているようだった。思いもよらない心境の変化に我ながら戸惑い、澱んだ空気を吸い続けたせいか、それとも周囲の大人の毒気にあてられたのかと考え、結論を得られずに軽く頭を振った征人は、岩村の背後に見覚えのある筆跡の文字を見つけて、小さく息を呑んだ。
燃料管や配電盤が埋める機械室の側壁に、電路筐《でんろばこ》のように見える金属の筐が設置され、ロヲレライ セツゾクバコ#七≠ニ書かれた紙が蓋《ふた》に貼りつけてある。これで見るのは何度目だろうと思いつつ、征人は「あの、ローレライって書いてあるのは……」と金属の筐を指さした。岩村は途端に顔をしかめ、「ありゃわしにもわからん」と不機嫌な声を返してきた。
「一種の整流器みたいに見えるんだがな。二甲板の通路に同じ型の機械が並んどって、交通筒から延びた大量の電線を発令所の方に経由させとる。専用の電池がついとるから、電源を入れてみりゃなにかわかるかと思うんじゃが……。いかんせん、あれの管理は例のあいのこに一任されとるから、わしらには触ることもできん」
「あいのこ……?」
「フリッツ少尉のことだろうが。あの通り愛想のない男だから、なに聞いてもなしのつぶてだ。使い方のわからんものが艦内にあるっちゅうのは、どうにも気色悪くていかん」
最初に思い出したのは、同じ紙が貼られた金属の長櫃《ながびつ》と、そこから拳銃らしきものを取り出した長髪の横顔だった。日系ドイツ人というには、あまりにも日本人的な顔立ちでありすぎる元ナチス親衛隊員《SS》。誰もがその身なりと態度に反感を抱き、同じくらい興味も抱いていながら、詳細な情報を知る者は征人の周りにはいない。清永でさえも、『元〈UF4〉の乗員で、いまは絹見艦長らから意見番と目《もく》されている生意気な野郎』という情報を集めてくるのがせいぜいだった。
黒い制服と長靴でぴっちり身を固め、なお汗ひとつかかない隙のない横顔は、SSという、切れ者、冷酷といった言葉を無条件に連想させる出自とあいまって、同じ人間と捉えるのも困難な壁で隔《へだ》てられている。交通筒のハッチを見上げる思い詰めた瞳の色が忘れられず、その時のことを誰にも話せずにいた征人は、迷う目を岩村の背中に注いだ。
長櫃の中に入っているものについて、将校たちは承知しているのか否か。下手に報告すれば余分な面倒に巻き込まれないとも限らず、逡巡《しゅんじゅん》の末、「その、フリッツ少尉ですが……」と思いきって口を開いた征人は、「配食用意よろし!」と割り込んできた声に先の言葉を呑み込んだ。
清永だった。缶詰の入った籠《かご》を抱えた清永が水密戸をくぐると、ヤカンや食器類を手にした機関兵が後に続く。「おう、ご苦労」と応じ、「ちょっくら休憩だ」とこちらに振り返った岩村の顔を見れば、あらためて言い直す気にはなれなかった。手早く工具類を片付けて、征人は配膳の手伝いに回った。
潜水艦には、兵曹以下の乗員が使用できる食堂はない。戦闘配備中はもちろん、通常航海直の時でもそれぞれの配置先で食事を摂るのが普通だ。隣のモーター室にいた機関兵曹らも三々五々集まり出し、腸詰《ちょうづ》め肉を載せた皿や豆の缶詰、味噌汁と茶を入れた湯飲み茶碗を受け取ると、空いた床に腰を下ろす。腸詰め肉は〈UF4〉当時から冷蔵室に吊してあったもので、豆の缶詰もドイツ海軍の備蓄品。航海が始まってしばらくは、野菜など傷みやすい生鮮食品から先に食卓に上るはずだが、この艦では期待できない話だった。空襲で予定より出港が早まったため、生鮮食料を積む暇がなかったからで、タクアンと白菜の漬け物がひと切れずつ、せめてもの埋め合わせという感じで添えられているのが、むしろ侘《わび》しかった。
甘辛く煮染《にし》められた缶詰の豆は、不味《まず》いというほどではないにしろ、腸詰めと一緒に食べるには味が濃すぎる。苛酷《かこく》な環境に耐える乗員の健康を維持すべく、潜水艦では食糧事情が優遇されると聞いていたが、〈伊507〉の食事で優れているのは高カロリーの一点のみだ。トマト味の豆を箸《はし》でつまみ、「昨日も豆。今日も豆。明日も豆かな……」と呟いた清永の声は、切なく機械室に響いた。
「肉を食えるんだ、賛沢言うな。内地の人たちはもっとひどい食料事情に耐えてるんだぞ」
耳聡《みみざと》く捉えた機関兵曹が、黙々と箸を動かしつつ言う。「は」と応じながらも、清永は「内地にいる時は、戦地の兵隊さんの苦労を思えって言われてたのに」と、隣に座る征人にだけ聞こえる声で言うのを忘れなかった。「なんか言ったか?」と機関兵曹。
「いえ。食糧庫に運び込んだ赤飯とかお稲荷《いなり》さんとかの缶詰は、いつごろ支給されるのかと思いまして」
こと食い物の問題になると、清永も負けていない。上官に対してきいていい口ではなく、征人は鉄拳制裁を予期してひやりとなったが、誰も気にとめた様子はなかった。「作戦がどれくらい長引くかわからんのだ」と、当の機関兵曹も涼しい顔で返す。
「もともと積んであったドイツ製の缶詰を先に片付けて、日本の缶詰はその後だ。……心配するな、貴様らが特攻する時には鰻缶と蟹缶を開けて、盛大に送り出してやるから」
ひどく簡単に言った機関兵曹の声に、征人は思わず箸を止めた。同じく箸を止めた清永と顔を見合わせ、間の悪い沈黙の時間を漂ったが、他の兵員たちは相変わらず腸詰めを頬ばり、味噌汁をすするのに余念がなかった。いち早く食事を終え、茶で胃薬を流し込んだ岩村が「あー、苦」と顔をしかめ、間の悪さに拍車をかけた。
潜航中はディーゼル機関を止め、蓄電池の力でモーターの発電機を稼働させるので、その消費分は充電で補わなければならない。蓄電池の充電には発電機を使うしかなく、発電機の稼働にはディーゼル機関が必要となれば、どこかで浮上し、充電のための水上航走を余儀なくされるのが潜水艦の宿命だった。
結果、日中はひたすら潜航を続け、夜間は浮上して充電を行うのが、潜水艦の一般的な航海態様になる。〈伊507〉にはシュノーケルと呼ばれる特殊充電装置が装備され、浅深度であれば潜航中でもディーゼルを稼働させられたが、これは長期潜航を強いられる場合に使われるべき装置だ。航海二日目も終わりに近いその日の夜、〈伊507〉は昨晩と同様に日没を待って浮上し、艦橋構造部に大砲を備えた特異な姿を海上に浮かべた。
夜間は訓練もなく、艦内休息は総員戦闘配置の甲法から半分配置の乙法に切り換わるので、二十二時を回る頃にはパートも寝座本来の静けさを取り戻す。明日の作戦開始に備え、残飯や汚物、機械室ビルジ(艦底に溜まった汚水)の廃棄作業が終われば、当直配置のない非常要員に手伝える仕事はなく、征人も非番の乗員らとともにベッドに横たわった。伝声管が(二直|哨兵《しょうへい》、艦橋へ上がれ)とくぐもった声を伝えるのを聞き、緩い弧《こ》を描く天井に設置された赤色灯が、暗い光を放つのを漫然と眺め続けた。
なかなか寝つけなかった。昨日の潜航訓練で便所の缶が倒れて以来、パート中に漂うアンモニアの臭いのせいではない。狭い艦内を駆けずり回り、経験したことのない疲れを溜め込んだ体が、節々《ふしぶし》の痛みを訴えるからというわけでもなかった。機関兵曹がなにげなく口にした言葉――特攻という言葉が頭の中に滞留し、これまでにない生々しい実感を放って、眠りに落ちようとする意識を引き止めているのだった。
ふと気づくと、蚕棚《かいこだな》さながら並んだベッドのそこここから、いびきが漏れ聞こえるようになっていた。何度目かの寝返りを打ったついでに、征人は下段のベッドを覗き込んでみた。やはり寝つけないでいたらしい清永と目が合ってしまい、いったん顔を引っ込めてから、もう一度まんじりともせずにいるまる顔と視線を合わせた。
「……なあ。おれたち、なにやらされるんだろうな」
河野二水は当直に出ているので上段のベッドは空だし、斜め横の下段ベッドを占有する田口の姿もない。周囲の寝息を乱さない程度の声で問いかけると、「ああ? なんだよ急に」と小声で応じた清永も、やや上半身を起こした。口調とは裏腹に、話しかけられるのを待っていた態度だった。
「明日にはわかるんじゃねえの? 作戦海域に到着したら詳細は伝えるって、艦長も言ってたじゃねえか」
「特攻任務かな?」
果たすべき大任≠ノ備えて、当直配置からも外す。それはつまり、自分たちは〈伊507〉の運用にはあらかじめ不要な人員だからで――魚雷や砲弾と同じく、使用する時まで一時的に艦に搭載する消耗品と目されているのに違いない。操艇能力に長けた横突《よことつ》出身者を抜擢《ばってき》」、なお後部上甲板に〈海龍〉を搭載しているとなれば、征人には他の推測はなかった。
帝国の現状に鑑《かんが》みれば、そうするしかないのだろうと理性ではわかるし、それなりに覚悟を固めてもきた。しかし機銃弾でずたずたにされた肉体を間近に見、『死ぬんじゃないぞ』と言ってくれた人の声を聞いて、いままた死ぬ準備をしなければならない立場の不可思議さを、理性で割り切れというのは難しい話だった。清永はどう受け止めているのか、確かめるために敢《あ》えて口にすると、「今回は違うだろ」とあっさりした声が返ってきた。
「特殊兵器を回収するとかなんとか言ってたし。〈海龍〉にはそのための特別装備もついてるみたいだから、潜《もぐ》って取ってこいってんじゃないの?」
「どうやって。〈海龍〉に手足が付いてるわけじゃないんだぜ?」
「おれが知るかよ」
それきり、清永は黙ってしまった。征人は下段ベッドを覗き込むのをやめて、薄い枕に頭を戻した。
ゆったり|横揺れ《ローリング》する艦内が、海上にいることをいまさらのように思い出させた。もうまる二日近く海の上にいるのに、潮の香りはおろか、太陽の光も見ていない。見張りの当直につけば艦橋に上がり、外の空気も吸えるのだろうが、当直配置を持たない予備要員には、上官が配慮でもしてくれない限り叶《かな》わないことだった。一向に上がらない錬度に誰もがぴりぴりしている状況で、そんな気遣《きづか》いができる上官がこの艦にいるとも思えない。
次に太陽を見られるのはいつだろう。〈海龍〉に乗り込む時か? いや、交通筒を伝って艇内に入ってしまえばその機会もなくなる。バカでかい鉄管から小振りな鉄管に乗り移り、外の空気も吸えず、太陽の光も拝めないまま、はなから生還を度外視している任務に就《つ》く――。
たまらないな。胸中に浮かんだその一語にすべての懊悩《おうのう》を預け、寝返りを打とうとした時、「……怖いのか?」と探る声が下から聞こえた。「そっちこそどうなのさ」と返して、征人は清永の反応を待った。
「おれ? ……別に」
「嘘つけ」
「嘘じゃねえよ」どすんと突き上げる震動が背中の下に発し、ベッドを軋ませた。清永が殴りつけたのだろう。無視して腕枕をした征人は、数秒後、「……そりゃ、少しはな」と漏らした清永の声を聞いて、あらためて下段のベッドを覗き込んだ。
「変な感じだもんな、この艦。将校も兵曹も、なんか風変わりなのが多いし。想像してたのとだいぶ違うよ。もっとさ、しっかりした将校がいっぱいいてさ、特攻する時はこう、『お先に行ってまいります』っておれが言うと、『後のことは任せろ、お国のために華と散ってこい』って、艦長が涙声で送り出してくれるっていう、そういうの期待してたんだよな」
身振り手振りを交えて熱演した清永は、そこで脱力したように肩を落とし、一段と低くした声で続けた。「でもうちの艦長だと、『了解した』とか冷たいひと言で済ましちまいそうだし。他の士官や兵曹は、『後のことは任せろ』って言われても、なんか信用できない感じだしな」
同感だった。なにを考えているのかさっぱりわからない艦長に、得体の知れない元ナチス士官。協調性皆無の機関長と楽天家すぎる軍医長、頼りないことこの上ない甲板士官。ここまで変人がそろうと、人材が払底《ふってい》した帝海の窮状を嘆くより先に、いっそ何者かの悪意さえ感じさせる。田口にしても……と思いかけて、「そういや無法松の噂、聞いたか?」と清永が重ねるのを聞いた征人は、少し驚いてその顔を見返した。
「前に、南方戦線のどっかの孤島に取り残されてさ。補給《ほきゅう》も絶たれて、食いもんもなくなって……。草の根っ子も木の皮もみんな食い尽くして、いよいよ飢え死にするしかねえって状態で、二ヵ月以上も生き延びたんだと。なに食ってたんだと思う?」
血の色に似た赤色灯の光が、清永の顔に常にない陰惨な影を作っていた。その手の噂話は軍の寝物語の定番とはいえ、田口の人となりを間近で見た後では、でたらめと片付けられない重みがある。征人は「……よせよ」とわずかに身を引いた。
「無法松、仲田大尉と一緒にずっと潜水艦で備砲を扱ってたって話じゃないか。陸戦隊でもないのに、孤島に取り残されるなんてあり得ないよ」
「輸送任務の途中にボカ沈食って、命からがら島にたどり着いたって聞いたぜ。考えられねえことじゃねえだろ」
清永は真顔で続ける。そう聞けば殺気を孕《はら》んだ目も、頬に傷を蓄《たくわ》えた顔も、なにかを溜め込んだかのようなずんぐりした体も、内奥《ないおう》に取り込んだ他者の血肉が毒素となり、中毒を引き起こした顕《あらわ》れなのではないかと思えてくる。極限の飢餓を経験した者は、その反動で節制を失い、肥満傾向に陥りがちになる――海兵団の誰かが言っていたことを思い出し、がっしり組み上がった体躯《たいく》に、脂を巻いた田口の姿も思い出してしまった征人は、「そんなことより、おれたちがなにをさせられるのかって話だよ」と言って、鳥肌の立つ両腕を軽くこすった。
「周りがみんな立派な帝海軍人で、清永が期待する通りの艦だったら、特攻すんの平気なのか?」
「そりゃそうだろ。そのために訓練してきたんだから」
即座に答えてから、清永はじっと注視する征人から決まり悪げに目を逸らし、「……まあ、全然平気ってわけでもねえけど」と小さく付け足した。
「でもしょうがないだろ。ヤンキーの大軍が本土に攻め込んできてさ、母ちゃんや父ちゃん、弟や妹が嬲《なぶ》り殺しにされるなんて冗談じゃねえからな。おれにやれることって言ったら、敵艦に特攻して敵の数を減らすぐらいしかねえもん。おれが英霊の仲間入りしたら、父ちゃんたちも鼻が高いだろうしな」
そう言う清永は、その瞬間には本当に不安も恐怖も払拭《ふっしょく》した顔つきだった。結局は家族、死んだ後も自分のことを覚えていてくれる人、その生存のために自らの死を容認できる他者の存在……か。いつもの結論を得て、征人はベッドに仰向けになった。
戦死しても遺骨が回収される見込みのない海軍では、靖国神社は東京の九段《くだん》にあるだけでなく、死を迎えるいずれの場所にも存在すると教えるが、それは軍人としての帰結、皇国への帰属意識を受け止め、安息させるものだ。誰かの父であり、夫であり、息子である身の無念が、国や天皇といった彼岸《ひがん》の存在への思慕で慰《なぐさ》めきれるとは思えない。一個の人間に命を投げ出す覚悟をさせるのは、やはり故郷に残してきた愛する誰かの存在なのだろう。清永にとっては両親と、七人もいるという弟妹たち。自分にとっては……。
「『マッチ箱』みたいな爆弾の話を聞かされりゃ、怖い怖いなんて言ってられねえよ」
予想外の言葉に、暗い穴に落ち込む一歩手前で意識が現実に引き戻された。征人は「『マッチ箱』?」と聞き返した。
「さっき、軍医長たちが噂してんの聞いたんだ。マッチ箱ぐらいの大きさで、富士山も吹っ飛ばす爆弾がアメリカにはあるんだって」
壮大な爆弾もあったものだった。征人は「なんだよ、それ……」と呆れきった声を返した。
「軍医長の話だろ? あの人、いい加減だから当てになんないよ」
「まあな」素直に認めた後、清永はにたりと笑ってみせた。「でもよ、作戦って特殊兵器の回収なんだろ? 案外、『マッチ箱』を拾わされにいくのかもしんないぜ、おれたち」
いまからあれこれ考えたって始まらない。そう教える笑顔だった。「じゃあさ、途中で爆発させないように気をつけような」と応じて、征人も口もとを緩めた。
「ああ。そういう死に方だけはごめんだ……」
もぞもぞ布団を手繰《たぐ》り寄せる気配を最後に、清永は静かになった。死に値するなにものも見出せなくても、少なくとも自分には本音を話せる人との繋《つな》がりがある。いくぶん軽くなった胸を感じて、征人も短い眠りに落ちた。
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潜水艦で唯一、個室が与えられるのは艦長の特権だが、四畳弱の空間は部屋というより隙間と表現した方が相応しい。図体の大きさでは駆逐艦に匹敵する〈伊507〉も、その辺の事情は変わるところがなく、あるのは据え付け式の書棚と小机、固い寝台、予備の椅子が一脚のみ。船体側の壁は内殻の形状に合わせて緩く弧を描き、通路側の壁には扉さえなく、湿気を吸ってよれよれになったカーテンが仕切り代わりに吊り下げられている。
士官室を挟んだ向こうにある機械室では機関が唸りを上げ、床下の蓄電池室からは絶えず不快な熱気が伝わってくる。夜間水上航行に切り替えて多少下がったとはいえ、気温は二十八度。湿度計は百パーセントを指したまま動く気配がない。湿気と悪臭が滞留する穴倉で、絹見|真一《しんいち》は小机を前に座っていた。予備の椅子に姿勢よく座り、薄い笑みを浮かべる男の顔を見つめて、どこに行こうと逃れられないのだろうとあきらめていた。
「狭い部屋ですね」
左右の壁を交互に見て、絹見|忠輝《ただてる》は屈託なく言う。二人いるとな、と返そうとして、例によって声が出せなくなっている自分に気づいた絹見は、無言で弟の顔を見つめ続けた。
「ひどいことになりましたね。またこんな大きな艦《ふね》を預かる羽目になるなんて……。〈蛟龍《こうりゅう》〉や〈海龍《かいりゅう》〉の艇長になっていれば、せいぜい二、三人の犠牲で済んだものを、八十人からの帝海軍人が兄さんの不実につきあわされるというわけだ」
不実? ぴくりと動かした眉で応じた絹見に、忠輝は「そうでしょう?」と言った唇を笑みの形に吊り上げてみせた。
「新兵を相手に学校で教鞭《きょうべん》を振るうのとは違う。もう帝国海軍に……いや、日本という国家そのものに価値を見出せなくなっている人間が、実戦の指揮を執《と》ろうというんですからね。付き従う部下にとってはたまらない話だ」
軍人としての責務を果たすことに異論はない。任務と、個人の感情は別のものだ。石膏《せっこう》で固められたような口の奥で反論すると、忠輝は視線を逸らし、絹見の頭ごしに士官室側の仕切り壁を見上げた。
「あれ、この艦《ふね》が〈シュルクーフ〉と呼ばれていた頃の傷ですね」
壁に刻まれた弾痕《だんこん》を見据えてから、忠輝は絹見に視線を戻した。振り向けなくても、そこだけ補修されずに残った壁の傷を思い出すことはできたし、忠輝がなにを言わんとしているのかも絹見には見当がついた。仕切り壁の中程にある黒ずんだ小さなへこみは、かつては〈シュルクーフ〉と呼ばれたこの艦に対して、当時の乗員たちが示した忠節の証。ナチスドイツが狂わせたヨーロッパの歯車に対して、一艦艇、一軍人の身が抵抗を試みた結果、艦内で起こった銃撃戦の記憶を現在に伝える傷だった。
一九四〇年七月。大戦勃発後、わずか十ヵ月でフランスがドイツの軍門に降《くだ》ると、英国はフランス海軍の艦艇がドイツに接収されるのを恐れて、フランス艦隊の接収を決定した。「艦隊は決してドイツに渡さない」と明言した時のフランス提督《ていとく》を無視し、英国はポーツマスとプリマスに寄港中のフランス艦艇を強制的に接収。開戦後、初めて組織された輸送船団を護衛しつつ、ブレストから脱出してきた〈シュルクーフ〉も、その中の一隻だった。
〈シュルクーフ〉の乗員たちは、英国海軍の接収に必死の抵抗を示した。艦内に立て籠もった乗員と、接収に赴いた英国海軍との間で銃撃戦が起こり、双方合わせて五人もの死者を出した末に、〈シュルクーフ〉の乗員はようやく白旗を揚げた。〈シュルクーフ〉は英国海軍に抑留され、乗員は陸上に隔離されたが、その後、ド・ゴール将軍を中心に自由フランス委員会が樹立され、ジブラルタルで自由フランス海軍の旗揚げがなされると、英国政府は同盟の証として〈シュルクーフ〉の返還を認めた。乏しい物資をやり繰りして修復を終え、〈シュルクーフ〉が北大西洋一帯の哨戒《しょうかい》任務に復帰したのは、それから一年後のこと。しかし一九四二年二月、メキシコ湾内で米商船〈トンプソン・レイクス〉と衝突事故を起こした〈シュルクーフ〉は、かくたる戦果も挙げられないまま、乗員ともども海中に没する運命をたどった。
海戦史に刻まれた〈シュルクーフ〉の記録は、そこで幕を閉じる。だがそれは表面上の記録の終焉《しゅうえん》であって、商船と衝突した後、沈没をぎりぎり免れて浮上したこの艦は、以後、非公式という枕詞《まくらことば》の下に記録を継続させてゆくことになる。漂流中にドイツ海軍のUボートに拿捕され、〈UF4〉と名を改めた時から始まるこの艦の裏面史は、〈|海の幽霊《ゼーガイスト》〉の仇名《あだな》が暗黙に伝える通り、真に血塗られていると言っていい。秘密の多いナチス親衛隊の中でも、とりわけ秘中の秘とされた『リンドビュルム計画』。その所産である『ローレライ』の依代《よりしろ》として、数多《あまた》の連合国艦艇を沈めてきた実験艦――。浅倉《あさくら》から託された資料と、フリッツの寡黙な説明から浮かび上がるこの艦の来歴は、だいたいそのようなものだった。
それがナチスの崩壊を境に日本の戦利潜水艦となり、過去の亡霊に頭を侵《おか》されたロートル艦長の指揮下に入った経緯は、まさに波乱万丈。この大戦が真実、世界規模のものであったことを証明する好例だが、弾痕を見つめる忠輝の思いが別にあることはわかっていた。絹見は然して、もう現世にはいない弟が口を開くのを待った。
「英国の接収に抗い、自らの国籍に殉じて艦を守ろうとした着たち。〈シュルクーフ〉の乗員たちは、命じられてそうしたわけじゃない。海軍軍人として、ひとりの人間としての尊厳に従って、起こすべき行動を起こした。勝ち目のない戦《いくさ》とわかっても、最後まで自らの信念に従おうとしたのです。それがわかるから、ナチスもこの傷を修復せずにおいたのでしょう。礼をもって義に尽くす。存在を抹消された秘密実験艦であっても、人の真理は不変でしょうから」
予想通りの言葉が忠輝の口から流れ出し、絹見は唯一動かせる瞼《まぶた》を閉じた。いつもより明瞭に像を結んだ弟の勝ち気な顔は、それでも消えずに視野にまとわりついてきた。
「いまの兄さんに、それができますか? そうするだけの熱意が、己と、己を取り巻くものへの誠意がありますか? 目を閉じ、考えるのをやめて、屍《しかばね》同然の身を長らえてきたあなたに」
逃げ出したおまえに言われる筋合いはない。思わず瞼を見開き、絹見は口中に呻いた。
正誤を質《ただ》すつもりはない。心から信じたことであれば、どんな考えを持とうとかまわないと思っていた。だがそれが国と相容《あいい》れず、否定されたからといって、おまえは世間に背を向ける道を選んだ。自分で自分を殺し、人が一生かかって果たすべき責任から逃げ出したんだ。
相容れなかったのは絹見家の家風で、否定したのは他ならぬ自分自身――。内奥から染み出してくる声に蓋をして、絹見は忠輝の反駁《はんばく》を待ち受けた。事の後に慌てて組み立てた自己弁護の論理を蹴散らし、不感症になり果てた良心を容赦なく苛《さいな》んでくれるのを望んだが、返ってきたのは「そう、確かにぼくは逃げ出した」という寂しげな声だった。
「そして兄さんも逃げ出そうとしている。盲従を美徳と呼び、諦念を処世と呼ぶ狭い価値観の中に。その行き着く先には、ぼくが逃げ込んだのと同じ場所しかないと知っていながら……」
なるほど、そうきたか。理論家らしい忠輝の攻め口に納得する一方、痛点を突かれた胸は無様《ぶざま》に動揺し、絹見は金縛りの体が粟立《あわだ》つのを感じた。「至誠に悖《もと》るなかりしか」と重ね、正面からこちらを見据えた忠輝の目は、失望を湛《たた》えて暗く沈んで見えた。
「背を向けているのは兄さん、あなたの方だ。自分自身の心に」
ゆらりと立ち上がり、軍帽をかぶり直した白い詰襟姿が、足音も立てずに艦長室を後にしてゆく。またか、もういい加減にしてくれ。性懲《しょうこ》りもなく後を追い、天井からぶら下がる弟を目撃させられる我が身を予測して、絹見は胸中に罵《ののし》った。
そう、重荷だ。否定はしない。報国の念も海軍魂もとうの昔に色褪せさせ、用済みになった体の処理をどうつけようかと考えあぐねていた男に、この潜水艦はあまりにも重い。七十七人の乗員ひとりひとりを同じ人として捉え、その命を預かる重責を受け止めるには、いまの自分は空虚でありすぎる。百も承知だ。
だから必要以上の鉄面皮で己を隠し、周囲を隔てて、すべからく任務遂行の機械であるべしと説く。それを不実と呼ぶなら好きにしろ。おれはもうおまえの後を追いかけたりはしないぞ。何度でも首を括《くく》って、妻を、母を泣かせるがいい。その慟哭《どうこく》でおれの胸が裂けるのをくり返し眺めるがいい。おれはここから一歩も動かん。至誠に悖ろうが心に背を向けようが、このバカでかい潜水艦で鉄面皮の艦長をやり通す。おれには、おまえのように安易に楽になるつもりは毛頭ないんだ……!
昂《たかぶ》った感情が神経を誤作動させたのか、勝手に動いた右手が机の上を滑り、茶碗の倒れる音が遠くに聞こえた。悪夢の終わりを告げる音だった。「艦長」と呼びかける声も聞いた絹見は、嘆息とも深呼吸ともつかない吐息を合図に、ずんとのしかかってくる現実の感覚を受け入れた。
椅子に座ったまま、眠りこけていた肉体に最初にやらせるべきことは、時間の確認だった。零時五分を指す腕時計の針を見、二十分弱の居眠りを確かめたところで、「先任将校であります」という声がカーテンの向こうに聞こえた。何度も呼ばれていたのか? 咄嗟に不安になりながらも、「入れ」と応じた声が思ったよりしわがれなかったことに安堵して、絹見は脂汗の浮き出た顔と首筋を手早く拭った。
汚れが目立たないよう茶色の生地で織られたカーテンを開け、艦長室に入ってきた高須|成美《なるみ》は、軽く敬礼したのも一瞬、机の上に転がった茶碗に目敏《めざと》く視線を走らせた。絹見はなにごともなかった顔で倒れた茶碗をもとに戻し、わずかにこぼれた飲み残しは手のひらで散らしておいた。
「お休みのところ失礼します。軍令部より定時連絡です」
平静を装う艦長の努力には気づかない振りで、高須は一枚の紙片を絹見に差し出す。軍令部という言葉の響きに多少威儀を正された思いで、絹見は通信兵が書き殴った暗号電文の翻訳に目を落とした。通常、潜水艦への下令は第六艦隊司令部を通して行われるが、今次作戦においては、軍令部と〈伊507〉との間に直通の命令系統が設けられている。電文の最初に記された『発・軍令部、宛・〈伊507〉』の文字は、六艦司令部とのやりとりしか知らないドンガメ艦長の目に、眩《まぶ》しいような、気が重くなるような複雑な印象を残すのが常だった。
定時連絡は、零時を皮切りに一日三回、八時間ごとに行われる。超長波が使われているので、水上航走中の夜間はもちろん、潜航中の昼間でも、深度二十メートル程度なら受信できるのがありがたかった。発信元は帝海の無線発受信を一手に取りしきる大和田《おおわだ》通信隊で、こちらからの発信は原則として不可。暗号方式は、外国通信の研究――ようは敵の暗号解読――を所掌する軍令部第四部第十課が開発した新式の多表式換字暗号。新しい暗号に切り替える端から米軍に解読されている状況で、どれだけ秘匿性《ひとくせい》が維持できるのかは怪しかったが、米海軍の暗号方式を応用し、より難易度を高くしたと説明した浅倉には、それなりの自信があるようだった。
つかみどころがなく、およそ好感を抱く気にもなれないのが浅倉という男だが、その用心深さだけは信用に値すると絹見は踏んでいた。〈伊507〉の乗員召集に関して、柱島に到着するまで軍服の着用を禁じ、移動には民間から徴発した浚渫船を用いる徹底した機密措置も、大げさすぎるという軍令部の反対意見を尻目に、浅倉が強引に押し通したものらしい。そしてそこまで慎重を期しても、米軍は間違いなく浚渫船を狙って攻撃を仕掛けてきたのだ。
その浅倉が太鼓判を押す暗号方式によって送信され、千キロあまりの距離を飛んで受信された電文には、作戦ニ変更認ムルヲナシ≠ゥら始まるお決まりの文句が書かれてあった。受信から五分が経過した時刻をもういちど腕時計に確かめ、絹見は「翻訳に時間がかかりすぎだな」と言った。
「これが初の実地運用になる新方式の暗号ですから。通信員も苦労しているようで……」
「慣れさせろ。これでは即応行動に支障をきたす」
ぴしゃりと遮《さえざ》り、絹見は机の上に置いた人員配置表に視線を移した。亡霊と対面した直後の顔を、長く他人に見られたくないという無意識がさせたことだった。「は」と応じ、高須は退出の足を踏み出しかけたが、その直前、なにかを言い渡む間《ま》の悪い気配が漂うのを絹見は感じ取った。
高須が部下をかばう口を開くのは初めてではないし、絹見がそれを遮るのも何度目かのことだが、粘《ねば》ついた余韻《よいん》が残ったのはこれが初めてだった。悪夢の名残りがそう思わせたのかと疑ったのも一瞬、絹見は「先任」と高須の背中を呼び止めていた。
「いまの当直士官は誰だ?」
「唐木《からき》少尉であります」
用意していたような高須の返答に、絹見は唐木の名前と顔を頭に呼び出してみた。甲板士官の小松に次いで若い水測長。なにかあれば数秒で戻れるとはいえ、艦長と先任将校がそろって発令所を空けるという時に、舵を預けっぱなしにして安心できる相手ではない。絹見は「任せられるのか?」と確かめた。
「田口兵曹長が発令所に入ってます。大丈夫でしょう」
それなら問題はない。経験のある兵曹が将校を支えるのは海軍の伝統で、田口は〈伊507〉の兵曹の中では最先任の古兵に当たる。どだい、多少の不安要素を我慢して仕事を任せなければ、若手が育ってくれるものでもなかった。十分や二十分はいいだろうと判断した絹見は、「そうか」と素っ気なく応じて机の引き出しからタバコを取り出した。
「喫《す》うか?」
吸い口つきの朝日を見、「いただきます」と相好を崩した高須は、こうなる展開をあらかじめ予測していた顔だった。術中に嵌《ま》まったかと思うと癪《しゃく》だったが、作戦開始まであと半日、そろそろ互いに腹を割って話すべき時であることに間違いはない。「上に行きますか?」と如才《じょさい》なく言った高須に、「いや、ここでいい」と返して、絹見は予備の椅子に座るよう目で促した。
潜水艦内の喫煙は原則的に禁止されている。タバコが吸えるのは喫煙許可が令された時、場所は艦橋か上甲板と決まっていたが、開戦後間もなく、不便に耐えかねた愛煙家の参謀が制度変更を上申してくれたお陰で、以後は各艦長の個人裁量に任されるようになった。だいたい、艦内禁煙の遵守はガソリン機関を使用していた時代の名残りで、ディーゼル機関が主流になったいま、潜航中でない限り喫煙が艦内に悪影響をもたらすものではなかった。
艦長室を含む士官室区画は弾薬庫と機械室の間にあり、空気の流通も悪くないので、煙を出しても特に支障はない。艦橋でうまい空気を吸いながら……と思わないでもなかったが、夜間は敵の目を警戒して、手でタバコの火種を隠し続ける必要がある。腹に一物を抱えた男が二人、いじいじ火種を隠してタバコを吹かす図というのも、あまりみっともいいものではなかった。煙缶代わりにアルミ製の筆立てを出し、マッチを擦った絹見は、自分と高須がくわえるタバコに順々に火をつけた。
「戦争がもたらした唯一の功徳《くどく》ですね。艦内でこいつが喫えるようになったのは」
目を細め、高須は至福といった表情で紫煙を吐き出す。艦内禁煙が徹底されていた開戦前は、喫煙札なんてものもあったなと思い出しつつ、絹見は「違いない」と同意した。艦橋当直のない機関科や整備科で喫煙を希望する者は、非番時に喫煙札と呼ばれる木札を首にかけ、艦橋や上甲板で一服つけることが許されていた。窓ひとつない艦内に押し込められていれば、愛煙家でなくとも外の空気を吸いたくなるのが人情だが、非番者が誰彼なく外甲板に上がってしまっては急速潜航時の障害になる。どこの艦の発令所にも四枚用意されていた喫煙札は、艦橋当直者と非番者の区別をつけるという以上に、外甲板に上がれる乗員の数を限定するための代物だった。
ガソリン機関の時代から続く因襲を頑《かたく》なに守り、大の大人が木札を首にぶら下げてタバコを喫う姿は、傍目《はため》には悲しくなるほど牧歌的な光景と映っただろう。帝国海軍にとっては墨守《ぼくしゅ》すべき伝統、唯一無二の価値観と倫理観が、他国からは取るに足らない狭隘《きょうあい》な観念、ある種の狂気に見えもする。結局、この国はそうした客観性を持てないまま戦争に突入し、現実に打ちのめされてもなお自らの妄執を捨て去れずに、自分の首を絞めてしまったのだ。絹見は煙と一緒に嘆息を吐いた。せいせいとした中にも硬骨を忍ばせる高須の顔を見、三十六歳にしては若いなとぼんやり考えた時には、忠輝が生きていれば今頃……という連想がするりと滑り込んできて、舌打ちしたい衝動に駆られた。
まだ悪夢の残滓《ざんし》が頭の底にへばりついている。腹を割って話すには最悪の状態だったが、思えば高須と話す気になれたのは、その悪夢が鉄面皮を少しだけ引き剥がしたからなのかもしれない。なにやら忸怩《じくじ》たる思いに胸を塞《ふさ》がれ、無意味に煙ばかり吹かした絹見は、「あれ、目立ちますね」と先に口を開いた高須につられ、背後を振り返ってしまった。
壁に刻まれた弾痕を見て、さすがに苦笑が漏れた。すべては悪夢の掌中のこと、か。「なにか?」と怪訝《けげん》な顔をする高須に「いや……」と答えて、絹見は艦長の目を高須に向け直した。
「補修の進捗《しんちょく》状況は?」
「機械室の排水管詰まりと、パートの便所のポンプが直れば一応終了です。明日の作戦開始前には完了予定です。急場でかき込んだ糧秣《りょうまつ》の詰め替えも、操艦に支障が出ない程度にはできました」
重量の釣り合いが艦の運動性を左右する潜水艦では、糧秣――米袋や缶詰の箱ひとつの積載にも、微妙な計算が要求される。そのために主計士官がいて、重量の釣り合いに配慮した備品の積み込みが行われるのだが、空襲に追い立てられ、あるだけの備品を積んで緊急出撃した〈伊507〉にはその余裕がなかった。適当に放り込まれた糧秣が左右の釣り合いを微妙に崩し、昨日まで水平計の針は零値を指したためしがなかったのだ。
絹見は「それはよかった」と返し、「問題は乗員の錬成だな」と続けた。
「急場でかき集めた寄り合い所帯にしては、よくやっている方でしょう。いまはどこの艦も似たような状況だと聞きます。かつては潜水艦乗りといえば、専門技能を備えたベテランと相場が決まっていましたが……。いまは新兵に筒(特殊潜航艇)を預けにゃならん時勢ですからね」
高須が渋面を作ったのは、煙が目に染みたからだけではないだろう。絹見も同感だった。〈海龍〉に搭乗し、今次回収作戦の要を務める清永上等工作兵は、弱冠十七歳。同乗する将校が艇長を務めるとはいえ、実際の操艇は、横須賀突撃隊随一の腕前と目される清永が行うことになる。特殊潜航艇の操艇には潜水艦艦長と同等の技量が要求されるのだから、正規の艇長講習を受けたわけでもない新兵に〈海龍〉を託して、涼しい顔でいろというのも難しい。清永とともに横須賀から配属されてきた折笠《おりかさ》上等工作兵に至っては、さらに苛酷な任務――いまだかつて誰も行ったことのない、危険な任務をまっとうしてもらわなければならないのだ。
着任早々、独断専行の代償に田口の鉄拳を浴び、それでも決して周囲から目を逸らそうとしなかった折笠征人。まだ子供の匂いが抜けない顔を思い描き、先刻の幻影を自然とそこに重ね合わせた絹見は、予想外の印象の一致にひやりとしたものを感じた。あの一途な瞳のせいで、忠輝の幻影はより確固なものになって現れたのか……?
「ま、それにしてもこの艦には一風変わった人材が集まってますが。まるで帝海の規格外品ばかり選んだようで」
高須が苦笑まじりに呟き、絹見は現実に立ち返った顔を上げた。失言に気づいたのか、「申しわけありません」と付け足した高須は、俄《にわ》かに表情を引き締めてみせた。
「うまいタバコのせいで、つい口が緩んでしまったようです」
そのくせ、目には挑戦的な光が宿り続けているのだった。本題に入るべき時と心得た絹見は、タバコをもみ消しかけた高須に「先任」とあらたまった声をかけた。
「昨日、な。敵機がいるのを承知で、なぜ浮上をかけた?」
煙缶代わりの筆立てにのばした手を止め、高須は心持ち視線を伏せた。中程まで燃えつきたタバコを口に戻し、ひと息に煙を吸い込んだ顔は、来ると覚悟していた質問を正面に受け止めた様子だった。
「空襲が始まれば、爆撃を警戒して即座に柱島を離れる決断を下した君だ。我々を迎えにきたのだとしても、敵機に襲われている最中とわかれば、取るべき行動はわかっていただろう。あの場合、我々を見捨てて避退するのが指揮官として正しい判断だ」
いかに装甲が厚い〈伊507〉でも、当たりどころが悪ければあの時点で沈没は免れなかった。お陰で自分を含む何人かの命が救われたとはいえ、それは偶然の結果に過ぎず、艦の浮沈と秤《はかり》にかけていいほど重要な結果でもない。明らかにすべきは、自殺行為に等しい浮上を強行した高須が、〈伊507〉の先任将校に値する軍人か否かの判定だった。
まる二日、短い仮眠時間を除けば片時も離れずに行動を共にして、高須が人並み以上に勘の鋭い、用心深い男であることは承知している。「……艦長も回収要員もいないのでは、作戦の成功は見込めませんから」と目を合わさずに言った高須の返答を、絹見は本音とは聞かなかった。
「代わりの人材は他にもいる。しかし〈伊507〉は沈んでしまえばそれまでだ。艦の安全を確保した上で、軍令部にあらためて指示を仰ぐべきだった。違うか?」
すぐにでも確かめなければならない問題にもかかわらず、いままで問えずにいたのは、高須の人となりを自分なりに判断してから、という思いがあったのがひとつ。あとのひとつは、鉄面皮の艦長をやり通すと決めた以上、乗員を人として認識するのにためらいがあったから……なのかもしれない。もしそうなら、自分にも艦長たる資格はないという引け目は隠して、絹見は黙々と煙を吹かす高須の顔を見つめた。根元まで喫いきったタバコを筆立てに押しつけ、最後の煙を吐き出した高須は、「昔の自分なら、迷わずそうしていたかもしれません」と観念したように口を開いた。
「ここに来るまでは内地で燻《くすぶ》ってましたが、その前は駆遂艦《くちくかん》の〈夕立《ゆうだち》〉に乗務していました」
ようやく目を合わせた高須は、世間話でもする時の声音に戻っていた。自分もタバコを消し、絹見は聞く準備があることを伝えた。
「考課はご覧になったでしょう? 自分も潜水艦に関してはまだ素人同然なんです。潜水学校でひと通りのことを習いはしましたが、実際に乗務した潜水艦はこれが二杯目。しかも最初に乗務したドンガメは、半年かそこらで停泊中に空襲を食らいましてね。こっちが入湯上陸してる間にオシャカです。先任を張れるほどの実務経験なんてありゃあせんのです」
飄々《ひょうひょう》とした口調とは別に、目前の顔には暗い影が差していた。過去の述懐を始めた高須の真意を探りつつ、絹見は「〈夕立〉は、たしかソロモンで轟沈したはずだったな」と相手をした。
ガダルカナル島をめぐって、三度にわたる艦隊戦が繰り広げられたソロモン海戦。ミッドウェー海戦圧勝の勢いに乗り、一大反攻作戦を展開し始めた米軍は、ガダルカナル島を含むソロモン海方面の奪回を最初の目標に選び、同島に建設された日本軍の飛行場はたちまち敵の手に陥《お》ちた。帝国海軍は空海両面にわたって反撃に出、夜戦能力を存分に発揮した第一次ソロモン海戦では敵艦隊に大打撃を与えたものの、第二次海戦では劣勢に転じ、〈夕立〉が沈んだ第三次海戦は完全な負け戦《いくさ》に終わった。特に第三次ソロモン海戦は、電探による艦砲射撃で帝海の夜戦戦法が無力化し、連合艦隊が初めて戦艦を喪失した海戦としても知られている。
「ひどいものでした」と呟いた高須の声は、その場に居令わせた者だけが出せる凄味を含んで響いた。
「その頃には、ガ島は制空権も制海権も米軍の手に渡っていて、補給を絶たれた上陸部隊の連中は飢え苦しんでいた。夜間に駆逐艦でこっそり物資を運ぶネズミ輸送やら、潜水艦を使ったモグラ輸送やらで、乏しいながら補給は続けてたそうですが、そんなものは焼け石に水です。とにかく米軍の飛行場を潰して、補給物資を積んだ輸送船団を通す血路を開かなけりゃならない。それで、飛行場の攻撃命令が第三艦隊に下された。十一戦隊の〈比叡《ひえい》〉と〈霧島《きりしま》〉を主力とする挺身攻撃隊です。〈夕立〉もその中に含まれてました。
敵の懐《ふところ》に殴り込むんです。誰も生還は期待してませんでした。むしろ、国難に殉じる千載一遇の好機に恵まれたと思ってましてね。強がりも半分あったんでしょうが、みんな興奮してました。ミッドウェー海戦で、大勢の同期を亡くして間もない頃でしたからね。自分も、後に続く覚悟で作戦に臨みました。その結果は、ご存じの通りです。〈比叡〉は轟沈。僚艦《りょうかん》の〈暁《あかつき》〉も沈んで、〈天津風《あまつかぜ》〉と〈雷《いかずち》〉も打撃を被った。〈夕立〉も、単独で敵艦隊の真っ只中に斬り込んで、砲撃と魚雷で相手を浮き足立たせたまではよかったんですが、魚雷を再|装填《そうてん》するんで一時離脱しようとした時に、目いっぱい砲撃を食らいましてね。あっという間に航行不能に陥って、艦は炎に包まれました。零時近く……真夜中のことです。
最初に機関がやられて、水上発射管が動かなくなりました。なんとか復旧させようと機械室に向かったんですが、中はもう火の海で……。鋼板の天井は熱で真っ赤だわ、燃えたペンキは落ちてくるわで、消火なんかできるものじゃない。そのうち弾薬庫が直撃を食らうと、黄色い煙の塊《かたまり》がすごい勢いで通路を走ってきましてね。自分は運よく物陰に退避できたんですが、あとで通路を見ると、ばらばらになった兵の体がそこら中に吹き溜まってて、ひどい光景でした。人間の体なんて単純なもんで、全体に衝撃を受けると、細くて脆《もろ》い部分……首や手首、足首とか、とにかく首って名前のつく部分からもげてくんです。中には全部なくなっちまった奴もいて、ちょうど着せ替え人形の紙の服みたいに見えました」
薄く笑う高須は、先刻の亡霊と同じくらい現実味のない、自分自身が紙人形であるかのような無機質な顔だった。冷えてゆく腹の底を感じながら、絹見はその顔を凝視した。
「艦橋もやられたのか、そのうち総員退避の号令も聞こえなくなりました。ふと気がつくと、回りは死体だらけで生きてる奴はひとりもいない。上甲板も死体が転がってるだけで、いくら呼びかけても誰も返事をしない。煙に巻かれて声も出せなくなって、自分はその場に座り込みました。海に飛び込めば助かるかもしれないと思いましたが、そうする気はありませんでした。ひとりでは絶対に逃げたくなかったんです。他の誰か、たとえひとりでも生存者がいれば同行してもいいが、自分ひとりで生き恥をさらすつもりはない。それなら艦と運命を共にした方がいいと思ったんです。皇国の軍人として、大義に殉じられたという満足感と自尊心は、命と引き換えにしてでも手に入れる価値がある。そんなふうに考えていたのかも……いや、その時は疑いなくそう信じていました。
しかし、死ぬってのは想像以上に苦しいし、恐ろしい。一瞬に吹っ飛ばされるんならまだしも、死ぬまでになまじ時間があるっていうのは、実際たまらんもんがあります。炎と煙で酸欠になって、気を失えればよかったんでしょうがね。朦朧《もうろう》としかけたところに火の粉が降ってきて、皮膚を焼かれる痛みでまた起こされるってくり返しで……。なんべん、海に飛び込もうかって思ったかしれません。そんな時、煙の向こうを一|艘《そう》の短艇《カッター》が横切るのが見えました。その上でこう、三人の将校が手を振ってるのが炎の照り返しで見えましてね。早くこっちに来いって呼びかける声も、はっきり聞こえたんです。自分は夢中で舷側まで這っていって、海に飛び込みました。生き残ってもいいって免罪符ができたんです。この生き地獄から逃れられるのが嬉しくて、重油が浮く海を夢中で泳ぎきって、どうにかカッターにたどり着きました。
そこから先のことは、よく覚えてません。記憶にあるのは、艦尾側に傾いて沈んでゆく〈夕立〉の姿と、必死にオールを漕《こ》いで擦りむけた手のひらの痛みです。そのままいつの間にか眠りこけて、気がついた時には夜が明けてました。周りに見えるのは海ばかりで、敵も味方も、艦影はひとつも見つけられませんでした。そして……一緒にカッターに乗っていたはずの三人の将校も、消えてなくなっていました」
言葉を切った高須は、微かに眉をひそめた絹見を正面に見つめ、「幻だったんですよ」と無表情に付け足した。
「辛い、苦しい、死にたくない。その思いが、自分に幻を見せたんです。最初から存在していない生存者の幻を……」
能面がひび割れ、自嘲の笑みが高須の顔を埋めた。絹見は返す言葉を見つけられなかった。
「三日間漂流した後、自分は運よく味方の艦に拾われました。よく生きていたと褒《ほ》められましたが、自分にはそういう実感はありませんでした。大事ななにか……魂は〈夕立〉と一緒に沈んでしまって、体だけ生き延びることができた。そんなふうに感じたものです。生存本能のなせる業《わざ》とはいえ、ありもしないものを見、聞いて、生き残るための言い訳を捏造《ねつぞう》したんですからね。自分で自分を騙《だま》したんです。もうこの目も耳も信用できない。自分という人間も信じられなければ、なにを信じていいのかもわからない。皇国の大義も、それに殉じると決めた自分も、あの三人の将校と同じ、あやふやな幻としか感じられなくなって……」
「なぜ、そんな話を?」
最後まで聞かずに、絹見は冷たく遮った。部屋に充満する闇が体に染み込み、自分自身の闇を共鳴させるのを感じ取ったからだった。高須は無表情を崩さず、静かにこちらを見つめ続けた。
「危険を承知で、艦を浮上させた理由を尋ねたはずだが」
はぐらかしたのではなく、正確に答えようとしたからこそ、高須は自らの闇を披瀝《ひれき》してみせたのだとわかっていたが、察すればそれでいい問題ではなかった。そうした経験に頭の中身を作り替えられ、軍人の哲理に懐疑を投げかけられたのだとしたら、むしろいよいよ高須には先任将校を任せられない。絹見は高須の双眸《そうぼう》をまっすぐに捉えた。のばした背筋をそよともさせず、高須は「逆にお尋ねしたいのです」と芯のある声を返してきた。
「皇国のために死ぬ。己を滅却《めつきゃく》し、戦って戦い抜いて、一死をもって国の弥栄《いやさか》に尽くす。それで本当にすべてが……一個の人間として生を受け、これまで生きてきたすべてが贖《あがな》えると、艦長は疑いなく信じておられますか?」
不意に核心をつかれ、絹見は返事に窮《きゅう》した。いまは挙国一致の時勢、信じるも信じないもないと迂回《うかい》するのは易かったが、それをすれば、今度はこちらが失格の烙印《らくいん》を押されるのは明らかだった。
そんなおためごかしはわかりきった上で、高須は問いかけている。死を前にすれば、無様《ぶざま》なまでに生に執着する肉体の慟哭を知っているから。七生報国《しちしょうほうこく》の理念も大和魂も、個人の心においては自尊心と責任感で支えるしかなく、ふとしたきっかけにあっさり手折《たお》られることもある。そうして迎える孤独な死は、真実の恐怖と絶望に塗り込められると知っているから――。「先任将校として、艦長の履歴はある程度承知しております」と続いた声に追い打ちをかけられ、絹見はタバコの箱に手をのばした。
「だからどうとは申しません。操艦の技量については、現在の帝海では右に出る者はいないと信じています。しかし着任なさってからの艦長を見ていますと、あまりにも張り詰めすぎているというか、取りつく島がなさすぎて不安になるのです。他人にも己にも厳しい艦長というのは、それはめずらしくありません。ですが絹見艦長の張り詰めようは、不躾《ぶしつけ》な言い方ですが、なにかから目を逸らそうとしているような……。ご自分の迷いを消すためにそうしているのではないかと思えるのです。短時間で艦の錬成を終え、作戦を成功に導くには、個人の感情を云々していられる時でないのは承知ですが……。いくら己《おのれ》を律したつもりでも、最後にはどうしようもなく感情に左右される。ぎりぎりまで張り詰めた糸は、むしろ切れやすいものだということを、自分は先の海戦で学びました」
返す刀で斬られた感じだった。なにもかも見透かされていたか……と苦笑を噛み殺しつつ、絹見はタバコをくわえ、高須にももう一本勧めた。
「もしそうだと言ったら、どうするつもりだ?」
一礼して受け取ったタバコを指に挟んだまま、高須は無言を返事にした。空襲の只中に艦を浮上させたのも、理性と感情をすり合わせ、それなりに計算を働かせた末の決断で、高須は決して短慮でも、情緒的に脆《もろ》い男でもないのだろう。長の資質を問われているのは自分の方だと理解した絹見は、三年と少し前に空き家にして以来、荒れ放題になっている己の内面にそっと手を触れてみた。
潜水艦をいじってさえいれば幸せだった、帝国海軍が人生の基点だった頃の自分にまずは突き当たり、世界恐慌以来、二・二六事件、支那事変と、ある一点に向けて転がり始めたこの国の変転、不穏と狂騒がないまぜになった空気が思い出されて、事情は高須のそれとほとんど変わらないな、と絹見は納得した。蹴つまずいた石の種類が違うだけで、寄りかかっていた価値観をひっくり返され、置き場のない身と心を持てあますようになった経緯は変わらない。あるいは忠輝も同じだったのかもしれないが、寄《よ》る辺《べ》なく漂う自分と異なり、腹違いの弟が早々に己の人生に決着をつけてしまったのは、彼が蹴つまずいた石――自分という身内に見限られ、見限った絶望が、それくらいタチの悪いものだったからなのだろう。そこまで内面を探りきった絹見は、まだ冷静でいられる自分の頭を確かめて、さらに奥へと手をのばしていった。
開戦の是非を問うのは、いまも昔も不毛なことだと絹見は思う。支那事変以降の陸軍の暴走によって、戦争が引き起こされたと結論するのは短絡的で、問題はそう単純ではなかった。米英蘭三国の要求を受け入れ、日本が満洲と支那から全面撤退さえしていれば、石油禁輸措置は解除され、とりあえず当面の危機は脱せられたとする論理は正しい。だがそれには、大陸から締め出された結果、目本は唯一残された外貨収入の場を失い、やがては石油を買う経済力も失って、遠からず大国の経済支配下に置かれたであろうもうひとつの危機への予測が、抜け落ちている。
植民地政策を拡充する以外、資源を持たない日本が大国列強の狭間《はざま》で独立を維持するのは、どのみち不可能な話だった。圧倒的な国力を誇る米国でさえ、ハワイやパナマ、フィリピンを植民地化し、日本が造りあげた満洲にまで割り込もうと企《くわだ》てていた事実、海外市場の奪いあいを戦争に見立てれば、戦争を始めたのは米国の方だとする論理も成り立つ。そしてその論理を前面に押し立て、我々は挑戦を受けて立った側だと主張して、勝算の薄い戦であっても、米国に噛みついてみせる必要があるとしたのが、四年前の日本――二・二六事件以後、腫《は》れ物を触る態度で軍部に接してきた内閣の弱腰と、必然的に節度をなくした軍部によって誘導された、日本外交の下した結論だった。
石油が底をつき、軍事力が解体される前に、我屈せずの意気を世界に知らしめる。多くの国民もそれを望んでいた。民族の誇りと純潔を守るために、日本は最高の代価を――同胞の血という、もっとも高価な代償を支払うよう要求され、いささかバカ正直とさえ思える率直さで応じてみせたのだった。
太平洋を挟んだ彼方にある米国に戦いを挑めば、必然的に海軍に先鋒の鉢《はち》が回されることになり、部内では日夜、対米戦積極推進派と慎重派の論議が戦わされたものだった。あくまで前進、米本土に殴り込みをかける勢いの積極派に対して、国力の差に鑑みれば長期戦になった時点で日本が敗北するのは明白、となれば大規模な作戦展開は避け、錐《きり》の戦法で要所を狙い撃ち、早期に有利な講和を結ぶのが得策と、最低限の理性を働かせていたのが慎重派。絹見は後者の側だったが、対米戦が不可避であることは了承していたし、国難に殉じてみせるのが軍人の務めという確信にも揺らぎはなかった。これまでは机上のものでしかなかった戦術を実践し、長年面倒を見てきた潜水艦の実力を発揮できることに、わき立つ思いを感じるところもあった。
昭和十六年十一月十日、連合艦隊作戦命令が伝達され、攻撃目標がハワイの真珠湾だと知らされると、感じたためしのない興奮が腹の底で渦を巻いた。当時は特型格納筒の暗号名で呼ばれた特殊潜航艇、〈甲標的〉を搭載する特別攻撃隊の大任を与えられ、〈伊16〉で内地を後にした時には、乗員ともども万歳を三唱し、日米戦史の最初のページを飾れる栄光を祝した。そして十二月八日、真珠湾奇襲が圧倒的勝利を飾る裏側で、偵察に出撃した〈甲標的〉がすべて未帰還に終わった時は、乗員の冥福《めいふく》を祈りつつ、いずれ後に続かんとする我が身の決意を血涙で記した。
怒濤《どとう》の進撃で南洋諸島にまで領土を拡張した友軍の活躍ぶりを耳に、補給基地のあるクェゼリン島に入港したのは、十二月二十日。すぐにでも再出撃を願うこちらの思いをよそに、〈伊16〉には内地への帰還命令が下された。特殊潜航艇を実地運用した経験を活かし、後進の訓練指導に当たらせたいのだという。生きて日本に帰れる安堵感なぞは小指の先ほどしかなく、ろくな戦果も挙げられないまま、僚艦《りょうかん》の手柄を指をくわえて眺めるしかないのかと、やり場のない悔しさが乗員たちの胸を埋めた。艦長の立場上、平静を装い続けた絹見も、魚雷六本を除くすべての武器弾薬を潜水母艦に引き渡し、のこのこ帰途につく〈伊16〉の現状を実感させられた日は、さすがにたまらない気分になった。その夜は基地の振る舞い酒を飲んで珍しく荒れ、第六艦隊司令につっかかりそうになったところを、先任将校にあわてて引き止められる一幕もあった。
そんなありきたりの、特に見るべきものもない帝海将校の人生を蹴つまずかせたのが、弟の逮捕劇だった。忠輝が反帝国主義運動の秘密集合に参加し、特高の手入れを受けて逮捕された後、憲兵隊に引き渡されたという報《しら》せは、〈伊16〉が呉《くれ》に帰港して間もなく絹見のもとに届いた。
十も歳の離れた忠輝は、病死した母に代わって父が招き入れた後妻の子で、妹しか持たない絹見が初めて得た弟だった。絹見と七つ違いの後妻はもとは料亭に勤めていて、嫁いだ時にはすでに身重とくれば、事情は推して知るべしだが、忠輝は口さがない周囲の偏見をものともせず、幼少の頃から天性の英才ぶりを発揮した。絹見家の伝統に従い、海軍兵学校に入学すると、その温厚な人柄と優秀な頭脳は、後の海軍を背負って立つ大器と目されるようになった。海兵卒業十年目にして、海軍大学校甲種学生に進んだ順調すぎる出世は、大器の風評を裏づけてあまりあるものがあった。
父が死んでからは、兄である以上に父親代わりを務めてきた自覚のある絹見は、忠輝の出世を我がことのように喜び、陰ながら支えてきた。弟が参謀《さんぼう》への道を歩み、絹見家の面目を果たしてくれれば、自分は現場に留まって潜水艦に乗っていられる……という思いもないではなかったが、腹違いの兄を慕う、一片の曇りもない忠輝の顔を見ていると、その程度の打算も罪に思えてくる。むしろ自分に好きな仕事をさせるために、忠輝は必要以上にエリートたらんとしているのではないかと、そう思わされることも度々だった。
絹見自身、子宝に恵まれなかったせいもあるのだろう。いつか忠輝が海軍の枢要《すうよう》を占め、自分を使いこなす将官になってくれることが、絹見の夢になった。海軍省軍務局長の娘を妻に娶《めと》り、着実に足場を固めてゆく弟の姿を見れば、夢の実現もそう遠い日のことではないように思えた。その忠輝が、よりにもよって軍政排撃を狙う集団に加わり、憲兵隊にて拘束中と聞かされたのだから、絹見にとっては青天の霹靂《へきれき》以外のなにものでもなかった。
絹見家の名前が多少は物を言ったのか、軍務局長の義父が手を回したからか、忠輝は数日で釈放された。開戦準備で慌ただしくなってからは、ほとんど会う暇のなかった弟は、急きょ東京の実家に戻った絹見と顔を合わせても、詫《わ》びの言葉ひとつ寄越さなかった。泣くしかない嫁と母に背を向け、うなだれるでもなく、絹見の目をまっすぐに見返してきた。
恥ずべきことはしていない。帝海軍人として、日本国を守る軍人として、最善と思われるべきことをしたまでです。なぜこんなことをと問うた絹見に対する、それが忠輝の返答だった。
慎重論は敗北主義と断罪され、主戦論者が軍の大勢を占めるようになれば、折りを見ての講和条約締結などは不可能。多方面に進出し、のびきった戦線を支えるので手一杯になりつつある軍は、大きく負けるか、小さく負けるかの二つしかないこの戦争において、最悪の選択肢の上をひた走っている。確定した破滅から目を背け、国難に殉じることこそ男子の道と説き、愛国心を国威宣揚の惹《ひ》き句《く》にして恥じない大本営は、軍人の本分を履き違えているとしか思えない。国家を守るべく雇われた軍人であるなら、勝ち目のない戦の回避にこそ全力を傾注すべきではなかったか。帝海で学んだ知識、海軍精神は、そのために存在するのではないか。自分は帝海最高の知識と学問を授かる立場に恵まれたが、現在の軍部内に身を置いていては、その智恵を正しく行使する機会はあり得ないと思い知った。だから帝海の傘の下から抜け出し、外部からの改革に一縷《いちる》の希望を繋いだ――。
戦争に勝つべく雇われているのが軍人だ、と絹見は反論した。おまえは内地で安穏としていたからそう言える。搭乗員たちの顔をひとつひとつ思い出しながら、帰らぬ特殊潜航艇を待ち続ける。その時間の痛みと重みを知らないから、頭でっかちの屁理屈を並べていられる、と。忠輝は、その勇気と美徳を正しい方向に導くのが人の智恵だと言い、自分たちに与えられた役目のはずだと言いきった。
戦いをやめるために発揮する勇気、それが本当の勇気だ。国民全員にそうした気概があれば、列強大国の狭間にあっても主権は維持される。争いに血をたぎらせ、益荒男《ますらお》ぶりを競う生き方は、過去の武人には許されても現代の軍人には許されない。なぜなら我々が扱う兵器の威力はあまりにも大きい。民百姓、女子供をも容易に殺傷するがゆえに、その扱いを任された我々は、戦闘においては誰よりも冷静な職能集団であらねばならない。指導者が誤った道を選んだなら、それを正し、自制できるのが軍人。そのために支払われる犠牲が真実の殉国であり、報国だ。
あなたにもそれはわかっている。わかっていながら狂奔に身を任せ、生死のやりとりにとりあえずの充足を見出して、この国の未来には目を向けようとしない。ぼくには、いまの兄さんたちが海軍五省を土足で踏みにじっているように見える。至誠に悖るなかりしか。言行に恥ずるなかりしか。気力に缺《か》くるなかりしか。努力に憾《うら》みなかりしか。不精に亘《わた》るなかりしか。兄さん、あなたは心から唱えられますか? 持つべき気力、すべき努力、尽くすべき誠が、この国の未来にとって善きものだと断言できますか……?
いまになって振り返れば、あれは、己の出自に密かに劣等感を抱き、我慢を処世にしてこなければならなかった忠輝が、生まれて初めて通そうとした我《が》だったのだろうと思いつく。その矛先《ほこさき》が絹見に向けられたのも、唯一自分を偽らずに対せる、兄であり父親である男への信頬の証《あかし》だったのかもしれないが、その時の絹見は戦場の臭いを嗅いで間もない身だった。忠輝流の言い方をすれば、生死のやりとりに初めて軍人としての充足を見出し、一刻も早い戦線への復帰を願っている時だった。忠輝の言い分を理解はしても、走っている最中に横槍《よこやり》を刺された不快感、裏切られたという思いは拭えず、海軍五省のひとつ――言行に恥ずるなかりしか――を、もっとも悪辣《あくらつ》な形で冒涜《ぼうとく》する結果になってしまった。
妾腹《しょうふく》の子の分際で、生意気な口を叩くな。おまえは絹見家の名に泥を塗った。家族を貶《おとし》め、死んだ父を貶め、自分自身をも辱《はずかし》めたんだ。悪いと思う気持ちがあるなら、いますぐ原隊に戻って御祓《みそぎ》に努めろ。あくまでも考えを変えんなら、この家を出ていけ。もう絹見の名を名乗ることは許さん――。
それこそ自分を辱めるような言葉が、なぜ口をついて出たのか。忠輝の弁がそれだけ正鵠《せいこく》を射ていて、身も世もなく動揺したからというのが半分。もう半分は、唐突に重い荷物を背負えと強いられ、咄嗟に退こうとした体の反射行動だったのだろう。
海軍エリートの道を疑いなく歩んできたように見える弟が、実は内面に葛藤を抱え込んでいた事実。それでもなにも言わずに敷かれた線路の上を歩き続けたのは、肉親への情愛というだけでは割りきれない、ある種の自己犠牲の賜物《たまもの》であったことを暗に悟らされ、海軍式の竹を割った思考回路しか持たない男には、生身の人の重みを受け止める胆力もまた持てなかった……というところか。ともかく、忠輝は絹見の言葉を然して聞いた。真実の絶望に塞がれ、いっさいの光をなくした眼を背に、絹見もその足で呉に戻った。そして翌日、忠輝が自ら命を絶ったとの報せを義母から受け取った。
遺書にはただひと言、「至誠に悖るなかりしか」と記されていたのだという。なんてことをしてくれた、というのが絹見の偽らざる感想だった。忠輝を死に追いやった事実より、この先、一生下ろせない荷物を背負わされた我が身の不幸に呆然となり、自分がいかに醜悪な利己主義者であったかにも気づかされて、ただただ絶句した。葬式の間も涙の一滴も出ず、それは三年半後の現在に至っても同じだった。
最大の不幸は、戦場に出れば忘れられると思えるほどバカにはなれないし、利己主義を徹底もさせられなかった中途半端な愚かさ加減だ。自己破壊願望に取り憑かれたかもしれない身で、陛下から艦と兵をお預かりするわけにはいかないと、これも中途半端な分別を働かせた絹見は、艦長職解任の辞令を当然のなりゆきとして受け止めた。もっとも、人目を憚《はばか》るように潜水学校に赴任させ、朽ち果てるのを待つかのごとく、それきり絹見を通常の人事枠から外した海軍の意図は、単に臭いものには蓋ということでしかなかった。この場合の臭いものとは、一エリート海軍将校が造反の末に自決した事件そのものより、彼の縁戚に海軍省軍務局長が名を連ねている背後関係の方で――英霊に仕立て上げるのでもなく、絹見の名前を帝国海軍将校総覧からただ消し去ろうとした悪意の源は、他ならぬ軍務局長であったらしいことも、後に風聞で耳にした。忠輝の葬儀にも顔を出さず、ひと言の挨拶もなく娘を引き取っていった軍務局長には、確かに腹癒《はらい》せの人事でもやりかねない陰湿な影があった。
いずれ、明治の創立以来、四代にわたって帝国海軍に責献してきた一族を蔑《ないがし》ろにし、一個人の悪意に満ちた人事を容認する組織構造が、現在の海軍にはあるということだった。至誠に悖っていたのはいったい誰か、尽くすべき誠とはなにか。明白だったすべての事柄が曖昧になり、絹見はそれからの三年半を寡黙な教官として過ごした。ミッドウェーの大敗で航空戦力を大部分失ったのを皮切りに、敗北の道をひた走り始めた日本の窮状を横目にしつつ、日々若返り、数が減ってゆく学生たちに潜水艦のなんたるかを教え続けた。もはや己を仮託するに値しない海軍精神の伝授は他の教官に任せ、その根本から間違っていた日本の潜水艦戦備の範疇《はんちゅう》で、これから戦場に出る学生たちがひとりでも多く、一秒でも長く生きられる方法の伝授に努めてきた。
そうしてちっぽけな自分の良心を慰め、至誠の二文字が形骸と化すのを眺めた三年半。忠輝が予言した通り、日本はとてつもなく大きな敗北を目前にした。主義も理想もその力を失い、全国民が最後のひとりまで戦う覚悟を持たなければ、日本国家が地上から抹殺されてしまうという危機感、沖縄陥落によって現実味を帯びた強迫観念が国土を覆っている。自分に〈伊507〉を預け、ローレライなる兵器の回収を命じた浅倉の狙いがなんであれ、一特殊兵器の存在で戦局が好転することなどあり得ない。石油も、糧食も、人命も尽きかけようとしている日本が立つ破滅の淵は、それほどに深い。
弟の亡霊に説教されるまでもなく、わかりきった話だった。尽くすべき誠を見出せないまま、再び多くの将兵の命を預かった自分の不実も。正体も意義も不明な回収作戦のために、すでに十名からの乗員を死なせてしまった事実の重さも。任務遂行の機械に徹し、鉄面皮の艦長を演じきることでしか贖《あがな》う術《すべ》を知らない、十年一日の我が身の至らなさも。
「……我々は、愚直に過ぎたのかもしれんな」
指先で弄《もてあそ》んでいたタバコを口にくわえ、絹見は内省の時間を終わりにした。高須は無言でマッチの火を差し出してくれた。
「圧倒的な国力の差を知りながら、米国に仕掛けた軍。時局に鑑みて、やむを得ない開戦だったと断じた政府。神州不滅を哀しいまでに信じた国民……。すべてが愚直でありすぎた」
天井をつかの間たゆたい、通路の通風孔に吸い込まれていった紫煙を見上げて、ぴったりしすぎる表現だなと絹見は少し哀しくなった。愚昧《ぐまい》でも蒙昧《もうまい》でもない、愚直。意志して悪を為そうとした者、国を滅ぼそうとした者などひとりもいない。愚直に己の節を通さんと欲し、刀折れ矢尽きても退く術を知らず、引き返せないところにまで来てしまったこの国の人々――。「しかし、いまの我々はそれを否定も肯定もできない立場にいる」と重ねて、絹見は喫って間もないタバコを筆立てに押しつけた。
「だから、ただやり通す。それだけだ。そうすることでしか、我々は次の世代に己を示す術を知らない」
その言葉で、絹見はなにを変える気もない、変えられもしない自分の現在を伝えたつもりだった。目をしばたかせ、呆れた表情でまじまじと絹見を見返した高須は、やがてゆっくり顔をうつむけ、まいったというふうな苦笑を口もとに浮かべた。
「自分も艦長も、どうやら帝海軍人としては規格外品のようだ」
あっけらかんとした声に、つられて苦笑が漏れた。この男とならやっていけそうだと思い、この艦に乗り組んで以来、初めて気分が軽くなるのを感じた絹見は、「そんな規格外品ばかり集めて、軍令部は我々になにをやらせようとしているんでしょう?」と続いた高須の声に、緩めかけた頬を引き締めた。
「一応、〈伊507〉なんて艦名がつけられてはいますが、本艦の艦籍はおそらく未登録のままです。隠密作戦にしても、連合艦隊《GF》はおろか、六艦司令部からの認証もないなんてあり得ませんからね。まだ戦利潜水艦として艦隊に正式登録されていないと見て、間違いないでしょう」
そう言う高須は、先任将校の目と声に戻っていた。絹見は無言で肯定した。
「おまけに無線機は特別仕様の代物で、通信は独自に用意された専用回線を使えという。秘密兵器の回収にしても、少々大げさすぎると思いませんか? 燃料と食糧にしても、無補給で太平洋を横断できるだけの量が回されてます。長くても一週間で終わる回収作戦に、それほどの補給を施せる余裕はいまの帝海にはないはずです」
隠密作戦という言葉で無条件に思考が停止しているだけで、少々頭を働かせれば、確かに腑《ふ》に落ちないことが山ほどあるのがこの回収作戦だった。そもそも隠密という前提自体、すでに有名無実と化した可能性が高い。浚渫船を急襲した敵機が示す通り、米軍は〈伊507〉の存在を知っており、その行動目的もつかんでいると見るのが正しい。ローレライの回収を急ぐなら、隠密の壁を取り払い、海軍を挙げての作戦に切り替えた方が得策にもかかわらず、軍令部はあくまで単艦での任務遂行にこだわっているように見える。これまでも初期方針に固執し、対応の誤りをくり返してきた帝国海軍だが、今回のこだわりようにはそれとは異なる臭いがあった。
「最初から存在していない潜水艦に、規格外品の乗員。……我々に〈|海の幽霊《ゼーガイスト》〉を襲名させる気ででもいるんですかね。あの浅倉大佐は」
軽口めいた口調とは裏腹に、高須の目は笑っていなかった。山ほどの疑問の元をただせば、結局はあの白い細面《ほそおもて》に突き当たる。絹見は浅倉の顔貌を頭に呼び出そうとしてみたが、思い出せたのは、血を吸ったように赤い口腔の印象だけだった。なぜだか肌が粟立ち、絹見は膝の上に置いた拳を小さく握りしめていた。
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限りなく黒に近い赤銅色《しゃくどういろ》の船体は、夕暮れのこの時間になると海面との境目を見つけ辛くなる。特に三角波すら立たない凪《な》ぎの時は、重油のように黒い海面と船体の色が同化し、引き波の白い筋だけが見えるもののすべてになるのだ。
全長九十四メートルの船体の中程にそそり立つ艦橋から、艦首方向の水平線を見渡すスコット・キャンベル少佐は、しかし上甲板に染みついた潮の筋、そこだけ新しい色を目立たせる手すりの補修跡から、船体の形状を正確に把握することができた。総計二百隻を下らないアメリカ海軍主力潜水艦、ガトー級の中の一隻とはいえ、このSS−237〈トリガー〉は唯一無二の存在感を示して海上に在る。長い航海と数次にわたる戦闘に鍛《きた》えられ、そこここに古傷を拵《こしら》えた船体は、マス・プロダクツを身上とする国家の量産兵器が、時間と経験を積み重ねて獲得した個性――潜水艦の場合、それは操艦者たる艦長《スキッパー》の個性とイコールで繋がる――そのものだった。
この充足感、莫大な国家予算の所産を自分の色に染め上げる征服感は、陸《おか》で安穏としていては味わえまい。切れ切れの光の筋になった太陽が水平線に隠れきる一瞬、そう思うことができたキャンベルは、それをなんの成果もなく終わった一日の慰めにして、双眼鏡から目を離した。
公式には存在を否定されている敵艦の落とし物≠、すでにこの世に存在しないはずの潜水艦に乗って捜し求める。そんな因果な仕事をしていれば、些細《ささい》な幸運や思いつきを糧《かて》に変え、日々の鬱憤《うっぷん》を紛らわす処世法も自ずと身につく。キャンベルは背後を振り返り、艦橋甲板上に佇立《ちょりつ》する二本の潜望鏡とSJ電探の柱、双眼鏡を手に艦尾方向を監視する見張り員の立ち姿を、順々に視界に入れた。光の加減のせいか、いまだ終わる当てのない長期航海の疲れのせいか、まだ年若い水兵の横顔は自分と同じくらいくたびれ、歳を食っているように見えた。
彼の家族や恋人は、二ヵ月前に舞い込んだ彼の戦死報告を嘆き悲しみ、今頃はようやく立ち直りかけたところかもしれない。このさき無事に帰郷できたとして、彼はすんなりと受け入れられ、元の生活に戻れるのか。ふと考え、自分には無理だなと続けて考えてしまったキャンベルは、小さく息を吐いて視線を艦首側に戻した。
ポーツマスの士官クラブで出会い、一時の熱病に浮かされるまま、周囲の反対を押しきって結婚した妻のアシュレーは、自分の戦死報告を聞くまでもなく、次の男を家に招き入れているだろう。ろくに女を知らずに四十路《よそじ》を迎えた潜水艦乗りには、あまりにも若く、奔放《ほんぽう》でありすぎた妻。香水と体臭が入り混じった甘い髪の匂いを思い出し、まだ未練を捨てきれずにいる自分に辟易《へきえき》した時、(受信!)と勢いよく弾けた声が伝声管を震わせた。
グリニッジ標準時十時八分、現地時間十九時八分。定時より八分遅れの時刻を腕時計に確かめつつ、キャンベルは「潜航準備」と伝声管に吹き込んだ。夜半までの水中航走を保証する補気、充電は完了している。〈トリガー〉に因果な仕事を押しつけた張本人――海軍情報部《ONI》からの定時連絡さえ受信すれば、海上に留まる理由はなかった。見張り員に先に艦内に降りるよう促し、自分も後に続こうとしたキャンベルは、最後にもういちど昼と夜がせめぎあう空の色を見上げてみた。
日本の領海内であっても、制海権も制空権も完全にもぎ取った現在、〈トリガー〉が海中に身を潜《ひそ》め続ける必要はない。夜間は水上航走に徹し、艦内の換気と乗員の休息に当てても問題はなかったが、キャンベルには寸刻たりと無駄にしたくないという思いがあった。〈|海の幽霊《シーゴースト》〉は、五島列島沖と呼ばれるこの海域のどこか――黒々と横たわる海原の底に『魔法の杖』を落としていったのだ。その発見が〈トリガー〉に与えられた任務であるなら、補気と充電で浮上する他は、ひたすら潜航して海底の探索を行うのが筋だ。のんびり空の下を航行していられる時ではなかった。
ギルバート諸島沖で戦没と誤認されるほどの大打撃を受けて以来、太平洋艦隊から除籍され、通常の海軍艦艇とは異なる道を歩み出した〈トリガー〉には、それだけの期待と重圧がかけられている。ONI傘下の特別任務部隊として、〈シーゴースト〉の追跡を開始してから二ヵ月と少し。キャンベルはその確信に基づいて〈トリガー〉の艦長を務めてきた。日本国内に逃げ込んだ〈シーゴースト〉の追跡が断念され、『魔法の杖』の捜索に任務が移行してからも、手綱《たづな》を握る手を緩めるつもりはなかった。
こういう実直、生真面目でありすぎる性格が、周囲の人間を遠ざけ、妻との間にも溝を作ったのかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎったが、考えてどうなる話でもなかった。この空の下には、自分の求めるものは存在しない。キャンベルは慣れ親しんだ艦内に身を滑り込ませた。
下水道に隙間なく機械を詰め込んだという風情の司令塔は、潜航準備の下令に応じ、各要員が忙《せわ》しく機器を操作している時だった。「主誘導、閉鎖」「制御盤、オールグリーン」「潜航準備よろし」と続く声を聞きながら、キャンベルは通信兵が差し出す暗号無電の翻訳文を受け取った。
定時連絡や位置発信には簡単な略語通信が使われるのが普通だが、ONIは常に難易度の高いストリップ方式で電信を寄越す。始めのうちこそ翻訳に時間がかかったものの、いまではほとんど同時通訳が可能なほど通信兵の錬度は向上している。いつもの定時連絡より文字数の多い文面を読み、我知らず口もとを緩めたキャンベルは、「悪いニュースからお願いします」とかけられた声に、おもむろに振り返った。
副長兼水雷長のエドワード・ファレル大尉だった。藁《わら》の山から針を探し出すに等しい、『魔法の杖』の捜索任務に就くようになってからこっち、生来の皮肉屋気質を加速させたファレルは、厚ぼったい瞼《まぶた》の下に表情のない眼を光らせ、なにを聞いても驚かないという顔をこちらに向けている。キャンベルは、「今晩はついてるぞ、エディ。いいニュースが二つだ」と、緩めたままの口もとで教えてやった。
「増援がくる。SS−279〈スヌーク〉。三ヵ月前に戦没認定されたばかりの新顔だ」
ファレルは無表情を崩さず、「気の毒に」とだけ反応した。二週間ほど前、SS−223〈ボーンフィッシュ〉が増援にくると聞かされた時も、ファレルはまったく同じ言葉を返し、〈ボーンフィッシュ〉はその予言通り気の毒な結末を迎えた。ファレルの声が嘆息混じりになるのも無理からぬところだったが、キャンベルは意に介さずに「そうでもないさ」と重ねた。
「奴が帰ってくる」
ファレルの目がわずかに見開かれ、ここ数日忘れていた緊張が眠たげな能面に戻ったようだった。奴――〈シーゴースト〉が日本海軍の基地を発し、キューシュー沿いに南下するコースをたどり始めたのなら、目的はひとつしかない。電文の紙片をファレルに押しつけたキャンベルは、「宝探しは終わりだ。漁に戻るぞ」と宣言した。
退屈で当てのない捜索任務を続けるよりは、〈シーゴースト〉を相手にする方がはるかに刺激的で、やり甲斐もある。こちらの思いをよそに、電文にくり返し目を走らせるファレルの顔からは、緊張と不安の色しか見出せなかった。彼――あるいはすべての乗員にとって、本当にいいニュースは作戦中止と帰還命令ぐらいなものなのだろう。〈シーゴースト〉がこの海域に戻ってくると知って、無条件に気分を浮き立たせる自分は、白鯨《はくげい》を追い求めるエイハブ船長の轍《てつ》を踏んでいるのではないか? 不意に自省の念に取り憑かれたキャンベルは、それを振り払って司令塔内に向き直った。
「両舷前進半遠。深度百八十フィート」
艦長の声で令すると、司令塔要員は速やかに各々の仕事に専念した。これでいい、とキャンベルは思う。水上艦艇と違って、潜水艦は針路の微調整から攻撃時機に至るまで、すべて艦長の判断が直接的に反映される。乗員は艦長の決定を実施する部品として機能すべく、そこに存在しているのだから。
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「素潜りで回収……でありますか?」
思わず聞き返した征人に、絹見はちらと視線を寄越し、高須は苦笑を浮かべてみせた。フリッツは聞いているのかいないのか、壁に背を預けて腕を組んだ姿勢を動かそうとしない。
七月二十六日、午前八時。払暁《ふつぎょう》とともに潜航した〈伊507〉は、薩摩《さつま》半島の西にある甑島《こしきじま》列島を通過し、作戦海域まであと百キロと少しの位置に達している。約十二時間後に開始される回収作戦を前に、ひとり士官室への出頭を命じられた征人は、艦長と先任将校、それに元ナチス親衛隊員の三者に囲まれ、大任≠フ突拍子もない中身を聞かされたところだった。
「なにも褌《ふんどし》一丁で取ってこいというんじゃない。ドイツの最新式潜水装具がある。〈海龍〉で現場近くまで運ぶから、貴様はそれを着て目標に接触。緊急浮上装置を作動させればいい」
そう言われて安心できるものでもなく、それ以前になにひとつ実感のわかない胸中を眺めて、征人は「はぁ……」と生返事を高須に返した。六畳程度の広さしかない士官室は、大半が長机に占められ、内殻の形に沿って丸みを帯びた壁を背に絹見と高須が座り、フリッツは艦長室を隔てる仕切り壁にもたれかかっている。泰然自若、寡黙が身上の絹見とフリッツがそろって空気を重くする中、高須の口からこぼれるのは、本気とも冗談ともつかない任務内容。逃げ場はどこにもなく、背筋をのばして椅子に座り続けるよりないのが征人の立場だった。
「目標は、〈ナーバル〉と呼称される特殊潜航艇。ドイツ式の言い方ではミゼットサブだ。排水量四十五トン、長さ十八メートルだから、〈海龍〉より二回りは大きい計算になる。もともとこの艦に搭載されていたが、戦闘中、母艦の安全を確保するためにやむなく廃棄された。場所は五島列島、福江島より南西に約二十キロ。東経百二十八度三十二分、北緯三十二度二十分。ただし潜航中に計測した数値だから、若干の誤差はある。水深は八十というところだが、岩礁地帯なので途中の岩に引っかかった公算が大きい。おおむね水深五十メートル前後で沈座しているものと思われる」
潜航中の潜水艦は、大まかにしか自艦の現在位置を測れない。速度、 時間、方位を計測し、艦のたどった航跡を海図に逐次記入していても、浮上してみたらまったく違う海域にいたなどということもある。小まめな転舵が要求される戦闘の最中では、正確な位置の把握はまず不可能だ。「つまり、潜って捜すしかない」と付け足した高須に、征人は内心ため息をついた。
「〈海龍〉には特別に探照燈を装備させた。一応、覗き窓もついているが、視界は狭いし、岩礁の中では艇の動きもかなり制限される。人間が泳いで捜すのがいちばん手っ取り早い。〈ナーバル〉に取りつき、浮上装置を作動させるのにも人間の手は必要だ」
そこまで聞けば、征人にもこれが本気の話――回収作戦という硬い言葉で表現される、軍事行動の説明らしいという実感が朧《おぼろ》にわいてきた。海底に沈んだ特殊兵器を〈海龍〉で捜しに行き、回収する。昨夜、清永と冗談混じりに推測した通りだが、発見できたとしても、手足のない〈海龍〉でどうやって特殊兵器を持ち帰るのか。その疑問の解答を、他ならぬ自分が人力で務めるという話で、機械を使うなりなんなり、もう少し込み入った方策が取られるものと想像していた征人は、不安を通り越して脱力するのを感じた。
〈ナーバル〉がどのような特殊兵器であれ、潜航艇の形と機能を有しているなら、浮上装置を作動させるだけで事は足りる。それほど厄介な仕事ではないと思い、他の要素から目を背けようとした征人は、「問題は、五十メートルの水深の方でな」と続いた高須の声に、否応《いやおう》なく現実の直視を迫られた。
「横突(横須賀突撃隊)でも習っただろうが、水中では絶えず圧力が作用する。水深十メートルで地上の二倍、二十メートルで三倍。いわゆる水圧ってやつだ。当然、水深五十メートルでは地上の六倍の圧力がかかる。空気も圧縮されて密度が変わるから、地上と同じ空気を吸っていたのでは人体に悪影響が出る。純粋酸素を使う従来の潜水装具では、水深三十を超えると酸素中毒になる危険性があったんだが、ドイツが開発した混合ガスは……ええと、なにとなにを混ぜ合わせたんだったかな?」
「酸素と窒素」フリッツが面倒臭げに応じる。「大気中の空気組成より酸素を低めに混合してある。ついでに言えば、開発したのはフランス海軍。ドイツは盗んだだけだ」
不意に冷たい空気が流れたように思い、征人は目を動かしてフリッツの顔色を窺った。軍帽を目深にかぶった顔はなにも語ろうとせず、「……その混合ガスを使えば、三十の壁は破れる」と咳払いしつつ続けた高須が、間の悪い沈黙を取り繕った。
「混合ガスのタンクは〈海龍〉に搭載してある。そこから管で貴様の潜水装具に空気を送り込む仕掛けだ。タンクの空気は〈海龍〉のモーターの余熱で温められるから、長時間、海中に留まっても低体温症はある程度避けられる。ただ厄介なのは潜水病だ。水圧で圧縮された空気が血液に溶け込むと、溶解しきらない窒素が体内に蓄積される。長く、深く潜るほど、蓄積される窒素の量は多くなる。……わかるか?」
いいえと即答するわけにもいかず、征人は言葉の出ない唇を無意味に動かした。泳がせた視線が絹見のそれとぶつかってしまい、気まずく目を伏せたところで、「気にするな。言ってるおれも実はよくわかっとらんのだ」と、微笑混じりに言った高須に救われた。
「ようは、水深五十で長時間の捜索活動を行えば、体に深刻な支障をきたす恐れがある。減圧潜水と言って、窒素を体の外に出しながら、ゆっくり浮上する方法はあるらしいんだがな。残念ながら、詳しい資料は帝海にもドイツにもない。正確に言えば世界中のどこにもないんだ。なにせ前代未聞だからな、五十メートルの海底で潜水作業を行うなんてのは」
あくまでも明朗であろうとする高須の弁が、却って不安をあおり立てた。結局は特攻任務か……と心持ち顔を伏せた征人は、「貴様が選ばれた理由は、そこにある」と重ねられた高須の声に、思わず姿勢を正した。
「以前、訓練中に上官の乗る〈海龍〉が味方の防潜網に引っかかって、身動きが取れなくなる事故があったそうだな。貴様はその時、網に絡《から》まった〈海龍〉を助け出そうと、素潜りで三十メートルの海底に潜った」
横須賀突撃隊に配属されて間もない頃のことだった。季節外れの台風で防潜網が訓練海域に流されてきて、隊長の乗る〈海龍〉を搦《から》め取《と》ってしまった。敵潜水艦の侵入を防ぐべく湾口に設置される防潜網は、その用途に見合うだけの頑丈さで〈海龍〉に絡みつき、身動きの取れなくなった〈海龍〉は、そのまま三十メートルの海底に沈座する羽目に陥った。
救援要請の無電が打たれたものの、〈海龍〉を引き揚げる機材や人材が即座に用意できるとは思えなかった。誰もが呆然とする中、防潜網の浮標が波間に漂うのを見た征人は、素潜りで〈海龍〉の様子を見てくると志願した。浮標にくくりつけられた防潜網を手繰ってゆけば、海底に沈座した艇に近づける。可能なら絡みついた網を外し、〈海龍〉を救い出す腹づもりだった。征人は夢中で防潜網を手繰り、耳抜きをくり返しつつ海底を目指した。やがて〈海龍〉の船体に手が届いたが、予想以上に複雑に絡まった防潜網を素手で外す術はなかった。金槌《かなづち》で船体を叩き、隊長の存命を確かめるのが精一杯で、すぐに息が続かなくなって海上に戻った――。
「〈海龍〉の空気残量はわずかで、助けが到着するのを待つ余裕はなかった。そこで近くでアワビ漁をしていた漁船から潜水器を借りて、貴様が再び救助に向かった。ふいごを踏んで、潜水夫のヘルメットに船上から圧縮空気を送り込むやつだ。貴様は三時間かけて防潜網を切断して、無事〈海龍〉を浮上させた」
数時間ぶりに〈海龍〉から這い出した隊長は、酸欠でふらつく体を律して征人の前に歩み寄り、『ひとつ借りだ』と言って手を握った。呉への異動命令が出た際、隊長が集合時刻の変更を無視して征人たちを早めに送り出し、広島で羽根をのばす時間をくれたのは、その時の借りを返す意味合いもあったのだろう。征人にしてみれば言われるまで忘れていた程度の事件でしかなく、高須の言葉に当時の様子をいちいち思い出しながら、軍の考課はそんな枝葉末節《しようまっせつ》の事柄まで記録するのかと、感心しきりというのが率直な感想だった。
「その間、必要な道具を取りに何度か海面に上がり、すぐにまた潜るのをくり返した。確かか?」
「はい。夢中でしたので……」
なにやら悪いことをしたような気分に駆られて、征人は消え入るような声で答えた。高須はちらと絹見を振り返り、絹見は目で頷いてからフリッツを見た。フリッツは気づかぬ振りで壁にもたれかかっていたが、三者の間に共通の確認がなされた気配は明らかだった。
「結論から言う。他の人間が同じことをすれば、間違いなく潜水病にかかつていた。貴様がその後、なんの後遺症もなく無事でいられたのは僥倖《ぎょうこう》と言っていい」
高須があらたまった口を開き、征人はわけがわからずに目をしばたかせた。
「水深三十は酸素中毒にかからないぎりぎりの深さだが、窒素は間違いなく体に蓄積される。連続潜水時間は三十分がいいところだ。体内の窒素を抜いて、もういちど同じ時間だけ作業をしようと思えば、半日は休まなけりゃならん。窒素を溜めた状態で海上と海底を行き来していた貴様は、本来なら死んでいてもおかしくなかったということだ」
「だがそうはならなかった」咀嚼《そしゃく》する間を与えず、フリッツが続ける。「窒素の耐性にはかなりの個人差がある。簡単に言ってしまえば、おまえは潜水病にかかりにくい体質の持ち主だ。今回の作戦には打ってつけの人材と言える」
「まだその手の知識が不足しているんで、調べれば他にもいるのかもしれんがな。少なくとも現在の考課を見渡す限り、貴様と同じ体質の兵は帝海には見当たらない」
根拠があるのかないのか、いまひとつ判然としない話だった。まだ整理のつかない頭で、征人は「……そういうものでありますか」とだけ応じた。
「そういうものだ……と言うより、そうだと信じるしかない。他に〈ナーバル〉を回収する方策もないんでな」
正直にすぎる言葉を寄越した後、「潜水装具の取り扱いなど、詳細はフリッツ少尉の方から説明がある」と続けて、高須は顎を引いた。そこから先は自分の領分ではない、と線が一本引かれたようで、征人は独り虚空《こくう》に取り残された心もとなさを味わった。「なにか質問は?」と付け足された声は、ひどく事務的に響いた。
「はい。その〈ナーバル〉ですが、浮上装置を作動させるにしても、海中でハッチを開けられるものなのでしょうか?」
水深五十メートルの水圧がハッチを押しつけているはずだし、開放できたとしても、艇内が水浸しになってしまっては浮上もおぼつかなくなる。山ほどの疑問の中から、とりあえず最初に思いついたことを言うと、「艇内に入る必要はない」と間髪入れずに答えたフリッツが、初めて征人を直視した。
「緊急浮上装置は船体外郭に装備してある。艇内には入るな」
なぜと思う余裕もなく、征人は慌ててフリッツから視線を逸らした。微かに鋭くなった絹見の目がフリッツを射る横で、平静を装った高須が「他には?」と重ねる。
「その……〈ナーバル〉が特殊兵器ということなら、揺らしたら爆発する、なんてことは……」
我ながら間抜けな質問だと思ったが、『マッチ箱』と言った清永の声を忘れることはできず、征人はためらいがちに確かめてみた。高須の顔が苦笑でほころび、やはり杞憂《きゆう》かと胸を撫でおろしかけたが、
「心がけ次第だ」
にこりともしないフリッツが横から口を挟み、高須の顔から苦笑が消えると同時に、重い不安の塊を征人の胸に残した。特攻任務の方がいくらかマシかもしれない。胸の奥に再確認して、征人は席を立った。
通路に出ると、見覚えのある背中が慌てて士官室の前から離れ、不自然な挙動で何歩か歩いた後、これも不自然な回れ右をして、さも偶然顔を合わせたというような表情を作ってみせた。「や、折笠上工」と白々しい声をかけてきた小松少尉に、征人は嘆息を堪《こら》えて敬礼をした。
答礼した小松の仕種《しぐさ》がどこかぎこちないのは、盗み聞きを悟られた動揺のせいではなく、生乾きの軍衣が体にへばりついているからだろう。べったり湿った袖口をつまみ、「一応、風通しのいい機械室に干しておいたんだがな」と意味もなく言い訳をした小松は、すぐに甲板士官の威厳を取り繕い、「大任、ご苦労であるな」としかつめらしく胸を張った。
「貴様のような若年兵に殊勲《しゅくん》を譲るのは悔しいが……。ま、こればかりは仕方がない。大君《たいくん》の大恩に報いる時と心得て、しつかり大任を果たしてくれ」
まったく悔しそうでない声で並べ立てながら、小松は征人の肩を軽く叩いてひきつった笑みを浮かべた。代われるものなら代わりたいよと呟く内心をよそに、征人は「は。頑張ります」と踵《かかと》をそろえた。
「うん。後のことは任せろ」と満足げに言い、そそくさと立ち去る小松を背に、征人もパートに引き返す道をたどった。清永の言う通り、なにひとつ心に響くところのない「後は任せろ」だった。
パートに戻るなり、その清永に捕まった。「おもしろいもん見せてやる」と言う清永に腕をつかまれ、征人はパートの入口脇にある便所に連行された。
「ついさっきポンプの修理が終わったんだ。おまえ、まだ使ったことないだろ」
悪臭の立ちこめる便所の扉を開け、清永はおまるを連想させる洋式便器を得意げに示す。座って使うらしいことはわかっても、どちらを前にして座るのかなかなか結論が出ず、兵曹たちがさんざん口論の種にした曰《いわ》くつきの代物だ。昨日までは便所缶を代用していたから問題はなかったが、ポンプが直るなら使用法を確かめておかなければならないと、田口が恥を忍んでフリッツに使い方を教わりにいったのは、今朝早くのことだった。
「いま、ここにはおれがひり出したばかりのクソが入ってる……おい待てよ、そう足早に去るなよ。人の話は最後まで聞けって」
回れ右をした征人の襟首をつかみ、強引に引き戻した清永は、便器の脇にしゃがみ込んで側壁のバルブに手をのばした。鼻をつまんでうんざりするこちらをよそに、「発射雷数一、開口角一度! 発射管注水、外扉開け」と、魚雷発射の段取りを大真面目に再現しつつ、便器側のバルブを閉鎖する。
「一番、用意よろし。……てっ!」
続いて汚物タンクのバルブを開放すると、ポンプの作動する音が床下に響き、魚雷発射のそれに似ていなくもない振動音が遠くに響いた。海中を驀進する〈伊507〉の船体から、清永の排泄物が圧縮空気によって放出された音だった。
「おもしろいだろ?」
「くだらないよ」
笑顔満面の清永に言い捨てて、征人は今度こそ便所の前から離れた。「そう辛気臭《しんきくさ》い顔すんなよ」と押しかぶせた清永の巨体に追いすがられ、すぐ立ち止まらなければならなくなった。
「聞いたんだろ、回収作戦実施要領。〈海龍〉の操艇はやっぱりおれだってさ」
自分が士官室に呼ばれている間に、清永は清永で作戦の説明を受けたのだろう。清永も回収要員であることをすっかり失念していた征人は、虚をつかれた思いでまる顔を見返した。
「なんだかよくわかんねえけどさ。おまえならできるよ、うん。おれがきっちり目標の近くに落としてやるから、心配すんなって」
「当てにしてるよ」と応じて、征人はまる顔から目を逸らした。清永なりに気を遣った言葉とわかっても、気分がささくれだつのをどうにもできなかった。
「ドイツ製の最新型潜水服だってあるんだろ? 大丈夫だって。なんかおれたちが作戦の中心って感じで、気分いいじゃねえか」
「簡単に言うなよ。これからその潜水装具の取り扱い訓練だって受けなきゃならないんだ。フリッツ少尉に個人指導されるなんて、それだけで気が滅入ってくる」
「いいんじゃない、日独親善でさ。話してみりゃ、あの黒服も意外といい奴かもしんないぜ」
他人事の気楽さで言った清永は、便所の扉に貼られたヘンジヨ≠フ文字を振り返って、「字は下手だけどな」と口に手を当てた。
「知ってるか? 艦内のあちこちに貼ってあるこの紙、みんなあの黒服が書いたんだって。あいのこだってんだから、まあしょうがないけどさ。これはないよな、このヘンジョは。学校行ってたのかって感じだよ」
言いたい放題の仕上げに、清永はけたけたと笑う。征人は笑わなかった。清永の背後にフリッツが立っていたからだ。
征人の表情を察したのか、笑いを消し、すぐうしろに立つフリッツと顔を合わせた清永は、見たことのない真剣な表情で動揺を押し隠すと、敬礼すべき右手をなぜかまっすぐ前に突き出した。
「ハ、ハイル・ヒットラー!」
冷たい沈黙が舞い降り、ナチス式の敬礼をしたまま凍りついた清永と、天を仰ぎたい気分に駆られた征人を包み込んだ。フリッツは能面をぴくりとも動かさず、道端の石ころを見下ろす目で清永を一瞥した後、征人に視線を移して「始めるぞ」と短く言った。
「艦橋の格納庫に来い」
返事を待たずに踵《きびす》を返そうとして、ヘンジヨ≠フ紙をちらりと眺めたフリッツは、去り際、それを剥《は》がしてくしゃくしゃに丸めるのを忘れなかった。とにかく、これでますますやりにくくなった。何度目かの嘆息を吐き、征人は長身の背中が水密戸をくぐるのを見送った。敬礼を解き、ほっと肩の力を抜いた清永とばつの悪い顔を見合わせ、いったん自分のベッドに戻ろうとしたところで、不意に通路に立ち塞がった人影とぶつかりそうになった。
「ドイツ野郎なんかに負けるな」
腕を組んで仁王立ちする田口の目は、遠ざかるフリッツの背中だけを睨みつけていた。征人は「は……?」と聞き返してしまった。
「てめえにも同じ血が混じってるくせに、日本人は劣等人種だって見下してやがるような若僧に負けるな、と言ってるんだ。日本男児の根性を見せてやれ」
兵曹の鑑と言うべきベテラン下士官と、なにごとにも斜にかまえた長髪の元ナチス士官。反《そ》りが合うはずもない二人だったが、田口の口調には常にない敵意が漂っていた。おおかた、便所の使用法を教授してもらう時にひと悶着《もんちゃく》あったのだろう。「は」と背筋をのばして、征人はひとつ釦《ボタン》を押せば爆発しそうな田口の脇をすり抜けた。ありとあらゆる部品が軋み、がたがた不協和音を奏でる艦内の空気が、肌に刺さってくるようだった。
ほぼ球形のヘルメットはブロンズ製で、円形の覗き窓が前面、上部、左右の四ヵ所に設置されている。右の覗き窓の下にある突起は空気量を調節する排気弁、後頭部に二つ並ぶ突起は空気供給と通信のケーブル接続器。錆《さ》び止めのメッキは黄金色に輝いていたが、数度の使用に耐えた形跡は拭いがたく、全体的には使い込まれたヤカンという印象があった。
硫化天然ゴム製の潜水服は、外側と内側が緬綾織《めんあやおり》の羅紗《らしゃ》層になっていて、麻とも、なめし革ともつかない感触だった。ごわごわとだぶついているところは、海軍工廠にいた頃に写真で見た高高度飛行用の与圧服――実際には着用できない試作品だったが――を思い出させたが、違うのは、西洋|甲冑《かっちゅう》を想起させる肩金が胸から肩を覆っている点だ。ヘルメットと接合する肩金はやはりブロンズ製で、これに腰に巻く浮沈調節錘《バラスト》のベルト、底と先端に分厚い鉄板が入った潜水靴、さらにヘルメット自体の重さを足すと、総重量は二十五貫(約九十キログラム)を軽く超える。艦橋構造部内の格納庫に赴き、フリッツの指導を受け始めてから七時間あまり。間に昼食を挟んだ他は休みなく潜水作業の実際を教え込まれ、最後の仕上げに送気式潜水装具を身に付けさせられた征人は、自力で歩くこともできないその重さにまずは閉口させられた。
閉塞感もすさまじい。「閉所恐怖の気はないな?」との問いに、はいと答えたものの、開閉式のヘルメット前面の覗き窓を閉じ、ネジでしっかり固定されると、閉所恐怖症でなくても呼吸が苦しくなってくる。窓のガラス面には耐衝撃用の金具が格子状に張ってあるので、視界も著しく不良。これで前代未聞の深海作業をやれというのは、ほとんど拷問《ごうもん》に近い。窒素に強いんだか潜水病にかかりにくいんだか知らないが、因果な体質に生んでくれたものだと、親を恨みたい気持ちにもなった。
潜水装具を着ているというより、中に閉じ込められていると言った方が正しい征人の周りをぐるりと歩き、各部の点検をしたフリッツは、数分ぶりにネジを外し、前面の覗き窓を開けてくれた。「なにか問題は?」と言った無表情に、征人は「少し重いようですが……」と、多少の皮肉を込めて言ってやった。
「水中では浮力が働くから楽になる。潜水するまでは補助員が支えるから心配はいらない」
微塵《みじん》の同情も寄せずに言いきったフリッツは、ヘルメットと肩金の接合を解き、続いて天井からぶら下がる巻上機の釦を押した。巻上機が作動し、鎖で繋がったヘルメットがゆっくり吊り上げられる。征人は腹の底から息を吐き、分厚い手袋に覆われた手で顔を流れ落ちる汗を拭った。艦橋の後部に円筒形の空間をかまえる格納庫は、壁際に固定された備品の木箱が点在するだけのがらんどうで、征人とフリッツの他に人の姿はない。もともと水上偵察機の格納庫として設計されたのだが、後部甲板に潜航艇を搭載した都合上、偵察機の出し入れができなくなり、ドイツに接収されてからは備品倉庫に使われているという話だった。
なんにせよ、その潜航艇――〈ナーバル〉と呼ばれる特殊兵器を引き揚げるために、自分はこんな格好をさせられている。なぜ大事な特殊兵器を落っことすような羽目になったのか、〈UF4〉と呼ばれていた頃のこの艦にはどんな事情があったのか、そもそも〈ナーバル〉とはなんなのか。軍機の一語で封印したはずの好奇心が頭をもたげ、征人はすべての解答を知っているのだろうフリッツをそれとなく注視した。めずらしく軍帽をぬぎ、長髪をうしろで一本に束ねたフリッツは、この七時間ずっとそうであったように、こちらを意識の外にして各種備品に点検の目を走らせている。とても話しかけられる雰囲気ではなく、征人は均整の取れた黒い制服の背中を視線の外にした。
「虫歯はないな?」
送気ケーブルを点検していたフリッツが出し抜けに振り向き、征人はわけもなくどぎまぎした。真水が貴重品の潜水艦では歯磨きも海水で済ますので、しばらくすると歯のエナメル質が溶け、虫歯になりやすくなると言うが、三日やそこらの乗艦で影響を受けるものでもない。
「はい。海兵団に入る時に直しました」と答えると、フリッツはケーブルの束を置いて征人の面前に立った。
「どの歯だ?」
「右の奥歯ですが」
電撃的に動いたフリッツの左手に顎の付け根をつかまれ、征人は抵抗する間もなく口を開かされた。「耐えろ」という低い声が耳元に弾け、視界の端をナイフの切っ先がよぎったと思った刹那《せつな》、鋭い痛みが口腔《こうこう》から頭蓋につき抜けた。
ガチッという嫌な音が響き、血の味が口の中に広がる。腰に巻いたバラストの重みもあって、征人はその場に膝をついて口を押さえた。折りたたみ式のナイフをポケットにしまったフリッツは、取り外した歯の詰め物を平然と手のひらの上でもてあそんでいた。
「深く潜れば、それだけ体内の隙間……中耳内の空気や胃腸のガスも圧縮される。歯と詰め物との間にあるわずかな隙間も影響を受けて、激痛や出血、悪くすれば詰め物が割れることだってある。問題は事前に取り除いておいた方がいい」
淡々と言ったフリッツは、血と唾液にまみれた詰め物を征人に手渡し、「あとでまた詰めてもらえ」と続けた。せめてやる前に説明しろよと思いつつ、征人は「……そんなに大変なことだとは知りませんでした」と搾り出した。
「気圧の変動ということで言えば、水深五メートルから水面に浮上するだけで、地上から富士山の頂上に登ったほどの変化がある。これから作戦が始まるまでは米や芋を食うのは控えろ。中耳の痛みは耳抜きがうまくできれば対処できるが、他の痛みはどうしようもない。痛みでまいって、途中で使い物にならなくなるというのでは困るんでな」
ここまで物扱いされれば、いっそあきらめもつくというものだった。「……気をつけます」と返して、征人は手袋を固定するベルトを外しにかかった。
「窒素酔いにかかる可能性だってある。潜水中は〈海龍〉と有線電話で話せるから、異常があったらすぐに言え。症状は集中力の低下と筋肉の弛緩、場合によっては精神錯乱。酒に酔った状態と同じと思えばいい。まれに意識不明に陥ることもあるが」
一個につき一貫(約三・七五キログラム)以上の重さのバラストが連なる腰のベルトを外し、征人が立ち上がるのに手を貸しながらフリッツは続けた。「浮上する際は排出される呼気の泡より遅く、体を慣らしつつ海面に上がること。浮力任せにはするな。水面近くになったら、九、六、三メートルの位置で一定時間留まり、体内の残留窒素を放出させる。前回なんともなかったからといって、今度も大丈夫という保証はどこにもない」
少しはこちらの体を気にかけてくれているらしい言葉に、征人は今度は素直にはいと言いかけたが、
「放出しきらない窒素が体内で気泡化した場合、まず細い血管が破裂して皮膚に赤い染みが浮き出る。痛みは火傷程度。気泡が関節組織に溶け込んだ場合は関節部の麻痺が起こり、後に激痛に変わる。これが脳に行くと脳性麻痺、半身不随などの症状が……」
「あの、了解しました」と大きめの声で遮り、征人は自力で立ち上がってみせた。フリッツは二、三度目をしばたかせてから、バラスト・ベルトを抱えて征人の前を離れた。
「それと、浮上する時は絶対に息を止めるな。肺に溜まった空気が膨脹して肺が破ける恐れがある。肺が破れると、漏れ出した空気が首の付け根に溜まって、血管を圧迫……」
「この間は、ありがとうございました」
さらに余計な説明を付け足すフリッツを黙らせるために、征人は咄嗟に言ってしまっていた。少し気圧された様子のフリッツは、「……その、助けていただいて」と続けた言葉を聞くと、みるみる顔の筋肉をこわ張らせていった。
「理由は説明した。同じことを二度言うつもりはない」
バラスト・ベルトを抱え直し、フリッツは取りつく島のない背中を向ける。征人は「それでも」と強く押しかぶせた。
「それでも……ありがとうございました」
振り向いたフリッツの目が細まり、殺気を孕んだ鋭い視線が征人を刺した。自分でも理解できない意地に押され、征人もフリッツをまっすぐに見つめ返した。睨みあいは数秒間続き、吐息を漏らし、バラスト・ベルトを床に下ろしたフリッツが先に視線を外した。
意外だった。堅い壁にひびが入るのを感じ取った征人は、「あの、日本語お上手なんですね」と、もうひと押しをしてみた。
「お身内に日本人の方がいらっしゃるとか。ご両親のどちらかなんですか?」
「おまえには関係ない」
床に膝をつき、バラストの取りつけ具合を確認する背中が応じる。征人はあきらめずに、こちらと目を合わせようとしないフリッツを凝視した。モーターの振動がいやに大きく聞こえる沈黙が格納庫を包み、やがて「祖母だ」という小さな声が、束ねた長髪の向こうから発した。壁のひびがますます大きくなるのを感じつつ、征人は「ああ……」と自然な応対をしておいた。
「それで、日本語がお達者なんですね。まだご存命で……」
「死んだ」
それ以上の立ち入りを拒む冷たい声に、征人は続ける言葉をなくした。ろくに人との接し方を知らない身が、なまじ他人に興味を持つからこうなる。後悔の泥沼の中から「……すみませんでした」の一語を取り出し、征人は構造材が露出した格納庫の壁に目をやった。
「口癖か?」
不意に冷たい声が振りかけられ、征人は「え?」と無防備に聞き返してしまった。わずかに顔を振り向けたフリッツの目が、ぴたりとこちらに据えられていた。
「はい、すみません、ありがとうございます。おまえが二言目に言うセリフは、そのうちのどれかだ」
意地悪というのではない、単に変わったものを見つめる眼差しだった。急所を突かれた体が熱くなり、征人は「いけませんか?」と硬い声を返した。
「別に。それが日本人の礼儀なんだろう」
「国なんて関係ありません。人ならみんな一緒だと思います」
無感情な瞳に侮蔑の色が差し込み、口もとに皮相な笑みが浮かんだ。無意識に拳を握りしめた征人から視線を外し、長身を立ち上がらせたフリッツは、「Entshludigen Sie... すみません、ていうのは自分の非を認めることだ。つまり相手を優位に立たせる」と詠《うた》うように呟いた。
「その瞬間に潰されるかもしれない。そういう危機感とは無縁な人間だけが、簡単に口にできるセリフだ」
そう言った時のフリッツは、自分とはまったく異なる世界を生き、想像の及ばない思考回路を育んできた未知の塊――日本語を話し、日本人の容姿を持ちながら、外国人としか表現しようのない何者かだった。征人は、「ではフリッツ少尉は、自分が悪いと思っても絶対に謝らないのですか?」と反論した。
「おれは無神論者だし、どこの国の道徳にも敬意は払ってない。善悪の判定は個人の主観の問題だと思ってる。自分がいいと思ったことが、他人にとってはそうでない場合があるし、逆もまたしかりだ。となれば、いいと思ったことも悪いと思ったことも、自分の胸にしまっておけばいい。それをわざわざ他人にひけらかすのは、自分に対する言い訳でしかない」
ひと息に並べ立てると、フリッツはすぐに征人から顔を背け、潜水装具の点検に戻った。多く喋りすぎた自分に腹を立てている背中だった。肌をひりつかせる不和、逃げ場のない閉塞感が勢いを増し、征人も無言で潜水作業靴のベルトを緩めにかかった。
「……でも、それでは寂しいですよ」
虚しい胸のうちを眺めて、征人は呟いた。金属のふれあう音がふと止まり、振り向いたフリッツの能面にほんの一瞬、途方に暮れたような表情がよぎった。予想外の反応に、征人もフリッツの顔を見返した。引き締まった唇が不自然に動き、なにかの言葉を紡ぎかけた刹那、(こちら先任。回収要員、発令所。至急)と伝声管が無遠慮に騒ぎ立てた。
フリッツは瞬時に緊張を取り戻し、床に広げた装具を手早く片付け始めた。いつ敵と遭遇するかわからない潜水艦では、無音潜航を妨げる要因――床を転がって音を立てる道具類は、常に整頓しておく必要がある。長年の習性に従って装具をまとめるフリッツを横目に、征人も急いで潜水服をぬいだ。急な集合の理由を推測するのでいっぱいの頭から、なにかを言いかけたフリッツの顔が消え去るのはすぐだった。
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「エンキ……?」
あまりにも想像外の言葉だったので、延期という日本語に翻訳され、言語中枢に取り込まれるまでに多少の時間がかかった。「やむを得んな」と応じた高須の声を、フリッツはまだ整理のつかない頭で受け止めた。
「明らかに探信音波だ。まだ機関音が捉えられる距離ではないので、種別はわからんが。少なくとも帝海の艦艇はこの付近には展開していない。つまり我々ではない誰か……敵艦が作戦海域をうろついているということだ」
高須が続ける。いまこの時期に五島列島近海に展開し、待ち伏せするかのように行く手に立ち塞がった敵艦。ゆっくり回転し始めた思考の渦の中から、考えられる唯一の可能性が立ち上がってきて、フリッツは動揺を悟られる前に高須から顔を背《そむ》けた。
〈しつこいアメリカ人〉だ。日本を目指す二ヵ月あまりの航海中、〈UF4〉を追尾し続けた米海軍のガトー級潜水艦。〈UF4〉が敗走中に〈ナーバル〉を投棄したことを察知して、付近の海底を嗅ぎ回っているのだろう。待ち伏せは予測していても、こうもあからさまにやられるとは想像していなかったフリッツは、密かに積み上げてきたものが一気に崩れる感覚を味わった。頬から血の気が引くのを自覚しつつ、フリッツは発令所に集合した面々にさりげなく目を走らせた。
高須に説明役を任せて腕を組んでいる絹見と、各々の配置場所でじっと耳をそばだてる運用長や航海長、操舵長を始めとする発令所要員たち。〈海龍〉の艇長を務める早川《はやかわ》芳栄《よしえ》中尉は、陸戦隊上がりの経歴を彷彿《ほうふつ》とさせる鋭い眼差しを正面に向け、その隣で休めの姿勢を取る折笠上等工作兵は、右も左もわからない頼りなげな顔つきながら、必死に状況把握に努めているように見える。千里眼鏡《ヘルゼリッシュ・スコープ》の柱の前には田口兵曹長の姿もあったが、降ってわいた敵艦情報を把握するのに手一杯で、目の敵のナチス士官の顔色に注意を向ける余裕はない風情だった。
種類は違っても、動揺は他の者たちにも等しく訪れている。フリッツは小さく息を吐き、平静の皮をかぶり直したが、それで腹の底の重みが軽減されるものではなかった。
「海底岩礁に乱反射した探信音波を、たまたまこちらの聴音で拾うことができた。敵潜を警戒するにしてはおかしな打ち方だし、海底反射を利用して層深(探知不能領域)以下の目標を探知するなら、音波が乱反射する岩礁地帯は避けるのが普通だ。つまり向こうは敵潜ではなく、海底を探索するために探信儀を打っているものと思われる」
「我々と同じものを捜しているのでしょうか?」と問うた早川に、「そう見るのが自然だ」と高須。やはり〈しつこいアメリカ人〉だと確信して、フリッツは暗澹《あんたん》となると同時に呆れた。まる十日間、仇名《あだな》通りのしつこさで五島列島沖に留まり、〈ナーバル〉の探索を続けてきた妄執《もうしゅう》ぶりはともかくとして、あたりかまわず探信音波を打ち放ち、自らの存在を誇示する潜水艦にあるまじき行為は、常軌を逸しているとしか言いようがない。長い航海で艦内の硫黄毒素が頭に回ったのか、それともPsMB1という魔力を失った〈ゼーガイスト〉――〈伊507〉は、恐るるに足らずと高を括《くく》っているのか。いずれ、これでこちらの計画はおろか、回収作戦そのものの実施も絶望的になってしまった。日本時間に設定された壁時計を見遣《みや》り、午後四時過ぎの時刻を確かめたフリッツは、沸騰する感情を呑み下すために人知れず深呼吸をした。
「敵はまだこちらの存在に気づいていないが、このまま前進すれば確実に探知される。作戦情報が漏洩《ろうえい》しているなら、待ち伏せの可能性も無視はできん。ここは回収作戦を一時延期して、状勢を窺うというのが艦長の決定だ」
作戦海域まであと三十五キロ、回収作戦開始までX−4(四時間前)弱。引き返して作戦を練り直すには現場に近づきすぎ、万一の可能性に賭けて前進するには考える余裕が――慎重かつ臆病になる時間が――ありすぎる。フリッツは「どれくらい延期するのです」と硬い声を高須にぶつけた。
「最低でも一日」気圧《けお》された様子の高須をおいて、鉄面皮をそよとも動かさない絹見が答える。「場合によっては二、三日。敵の行動周期を確認して、必要なら増援を要請する」
「幸い、燃料と食糧には余裕がある。一週間やそこらの待機は――」
「それでは間に合わない……!」
二、三日、一週間という言葉が胸を潰す重石になり、フリッツは耐えきれずに叫んでしまった。高須が思わず口を閉じる横で、絹見の眼光が鋭さを増し、ぎょっと振り向いた操舵員たちの視線が一斉に突き刺さってくる。ぽかんと口を開けた折笠征人と目を合わせ、いたたまれない気分に駆られたフリッツは、「……可及的|速《すみ》やかな目標の回収が、軍令部の意思であるはずです」と言って絹見を正面に見据えた。
「のんびり待機していれば、敵に目標を奪われてしまうかもしれない。まだこちらが探知されていないなら、むしろ奇襲を仕掛けることを考えるべきだ」
「現在の乗員の錬度で実戦が可能かどうか、わからん君ではあるまい。先に目標を発見できたとしても、持ち帰る艦が沈んでしまったのでは話にならない」
一歩も退かない絹見の目に逆に射返され、フリッツは早々に顔を背けなければならなくなった。
「作戦は延期する。これは決定だ。変更はない」
「軍令部の意向は無視するつもりですか?」
この艦の特性を誰よりも知悉する者として、意見番の因果を含まされて乗務している自分には、そういう口のきき方もある程度は許される。フリッツは最後の切り札を持ち出したつもりだったが、「決定と言ったはずだぞ?」とくり返した絹見は、そんなものにはおかまいなしの冷厳な口調だった。
艦内においては、艦長の決定がいかなる法にも勝る。無言のうちに付け足された言葉を察し、フリッツはやり場のない目を床に落とした。「別に腐るもんでもあるまいし、なにをそう焦ってるんだか……」と、独白混じりに呟いた田口が追い打ちをかける。
「ドイツの特殊兵器が生モノだってんなら、話は別ですがね」
高須に睨まれ、田口はとぼけ顔をあらぬ方に逸らした。横にいた空気手の一等水兵は吹き出すのを堪えてうつむき、二人の操舵《せんだ》員の背後に立つ操舵長の兵曹長は、嫌悪と冷笑がないまぜになった一瞥を寄越す。周囲の空気がしんと冷え、自分という異物を排斥するのを感じ取ったフリッツは、その慣れ親しんだ感覚を最後に心を遮断した。頭に昇った血がすっと下がり、冷静になってゆく自分を確かめつつ、もはや対話では解決のつかなくなった事態を了解した。
あれから十日。一刻一秒の遅れが致命的な結果を招きかねないいま、逡巡して時間を無駄にすることこそ愚かだった。残された時間は少なく、やらなければならないことは山ほどある。確実に時を刻む秒針の音を胸に、フリッツはひとり発令所を後にした。
聴音器室の脇を素通りし、烹炊所の区画へ。腰を屈めて円形の水密戸をくぐったところで、艦尾方向から歩いてきた小松少尉とすれ違った。フリッツは視線を合わさずにすり抜けようとしたが、反射的に道を開けた小松の目に、やはり嫌悪の色が浮かぶのを視界の端に捉えてしまった。
二甲板から上がってきた一等機関兵曹と上等機関兵も、軽い会釈をして通りすぎた後、互いの肘をつつきあって、冷やかしともつかない目をちらとこちらに振り向ける。女みたいに髪をのばしやがって、いけ好かねえ野郎だ。後生大事にナチスの制服着てるけど、暑くないんですかね。毛唐のあいのこだからな、おれたちと体の作りが違うんだろうよ……。
悪臭と湿気が充満する狭い通路にそんな囁きが反響し、フリッツは苦笑した。劣等人種の子と罵《ののし》られ、悪童どもから石を投げられる子供時代は、フリッツに反骨精神と、それを支える体力と精神力とを培《つちか》った。祖母の死後、「白い家」に引き取られて以降は、その資質はより実際的な戦闘能力と躊躇のない決断力に転化され、純粋アーリア人のみで構成される親衛隊《SS》への入隊に結びついたのだったが、それは能力に見合った居場所を獲得したというより、切れ落ちそうなロープから、もう少し頑丈なロープに飛び移ったと表現した方が正しい。そうして次から次へと命綱を持ち替え、なりゆきから己の血の四分の一を占める劣等民族の国――日本に身を寄せてみれば、そこでも異物と白い眼を向けられる。ドイツ人か、日本人かという色分けは問題ではなくて、自分の存在自体が世界から浮き上がっているのだと思うと、寄《よ》る辺《べ》のない孤独感などは端《はな》から感じる余地がなく、いっそすがすがしいというところだった。
中央補助室と烹炊所を仕切る隔壁をくぐろうとして、表面のガラスが割れた温度計の計器が目に入った。隣の湿度計のガラスにもひびが入り、その上の気圧計は、なにかで叩きつけられたように一端がへこんでいる。ひと月半ほど前、スパナを振り回して暴れたハンス・バスナー大尉の顔がそこに重なり、フリッツは苦笑を消して立ち止まった。
『リンドビュルム計画』の一員として、フリッツとともに〈UF4〉に派遣されていたバスナー大尉。アドルフ・ヒットラー幹部学校《シューレ》出のエリートSS士官は、〈しつこいアメリカ人〉との持久戦の最中に正気を失った。無音潜航の静寂を破って唐突に奇声をあげ、発令所を飛び出すや、スパナで隔壁を手当り次第に叩いて暴れ回り、止めに入った副長にも重傷を負わせたのだった。
ブロンドに覆われた長頭と明確な線を描く顎、がっしり組み上がった体躯から見下ろす水色の瞳。三代まで遡《さかのぼ》る血の純潔を入隊時に保証され、実際にアーリア系ドイツ人の見本のような容姿を持つバスナーは、多くのSS隊員同様、強者のために弱者を一掃する自然の人間の理論=\―ナチズムの概念を信奉し、その前衛であるSSに忠誠を誓って疑わない男だった。傲慢、強圧的な態度で乗員たちの上に君臨し、フリッツには虫けらを見る目を向けた。
優性種が劣性種を凌駕《りょうが》するというナチスの優生学理論は、少なくともフリッツの体内においては否定されている。全体の血の四分の三を占める白人種の遺伝的特質と言えば、高い鼻梁《びりょう》と、黄色人種にしては比較的高い身長、白い肌の色がせいぜい。他の部分は残り四分の一を占める血の支配下にあり、瞳も眉も髪も、重苦しい黒に染め上げられている。優性とされる遺伝情報はことごとく駆逐され、劣性とされる異人種の血が幅をきかせているのだから、その点でもバスナーにはおもしろくない例外と映ったのだろう。ダンツィヒの部局からキール軍港に赴任してきた日、専用のブンカーに巨体を休める〈UF4〉の前で、バスナーは対面したばかりのフリッツに言い放ったものだ。
貴様がSSの制服を着ていられるのは、あの化け物……PsMB1を制御できる唯一の人間だからだ。あくまで便宜上の措置で、貴様は断じてSS士官でもなければドイツ軍人でもない。ユダヤ人やジプシーと同じ、収容所に隔離されるべき寄生民族だ。ゆめゆめわたしを上官とは思うな。ここはリンドビュルム計画の拠点であると同時に、貴様にとっては収容所だ。その所長たるわたしと貴様の関係は、階級の上下ではなく、支配者と被支配者のそれだということを忘れるな――。
それから二年。祖国の崩壊に足並みをそろえて精神の均衡を崩し、個室に閉じこもりがちになっていたバスナーが、〈しつこいアメリカ人〉との戦闘をきっかけに恐慌をきたしたのは、あるいは自然のなりゆきだったのかもしれない。その時、フリッツが率先してバスナーの首の骨を折ったのは、積年の恨みを晴らすためではなかった。バスナーの暴れる音が敵のソナーに捉えられるのを防ぎ、極度の疲労と緊張にさらされている乗員が、連鎖的に発狂するのを防ぐためだった。頸骨《けいこつ》の砕けるくぐもった音とともに目的は果たされ、〈UF4〉は無事に窮地を脱した。乗員たちの反感と恐怖心をフリッツが一身に集めることで、以後の士気も辛《かろ》うじて維持された。しかし目に見えないところで緩み、捩《ねじ》れてゆく人心の壊乱《かいらん》を、完全に阻止するのはどだい不可能な話だった。
カール・ヤニングス艦長は、それまでの規律正しい食生活を捨てて暴飲暴食に走った。お陰でただでさえ太りやすい体は急速に肥満化し、頭の中身も鈍って浅慮な判断が目立つようになった。航海長は髭《ひげ》を剃《そ》るのをやめ、甲板士官は日に二度は行っていた巡検を一度しかやらなくなった。艦内の空気は日を経るごとに澱み、各種要具の収め方もどことなく乱雑になって、ゴミの目立つ兵員室には腐敗臭が漂い始めた。それは忠誠を尽くす祖国を失った喪失感のせいというより、ナチスという狂った飼い主に従属するうち、自らも正気を失っていた人々が、懺悔も心中も叶わずに思考停止に陥った結果と言った方が正しかった。
フリッツが髪を切るのをやめたのも、そうした風潮が背景にあってのことだが、いたずらに頽廃《たいはい》に流された他の乗員たちと違い、フリッツにはひとつの明確な覚悟があった。大量殺戮の罪、神への冒涜《ぼうとく》、良心の呵責《かしゃく》。そんなものは、全世界が一斉に発狂したこの大戦下、考えたところで始まらない。間膚は、ナチスドイツが一世一代の賭けに敗れ、支払いきれない莫大な負債を抱え込んだという事実。第三帝国建設の夢が破れたいま、指導者も国民も兵隊も、ドイツ国籍を持つ者はみな一様に、なんらかの形で負債を支払ってゆく宿命を背負わされた。総統と崇《あが》められていたあの髭の小男が、ベルリンの地下壕で自分の頭をぶち抜いたように。優生学理論を実践し、地球上からアーリア人以外の人種を根絶しようと目論《もくろ》んだ親衛隊長官が、収容先の牢獄で哀れな犯罪者さながら服毒自殺を遂げたように。〈UF4〉だけが負債から逃れられるなどという都合のいい話は、金輪際あり得なかった。
日本への亡命を提案し、実際に段取りをしたのはフリッツ自身だ。一九四三年以降、日本海軍とドイツ海軍はインド洋上で協同戦線を張り、日本の潜水艦基地であるペナンに互いの潜水艦を舫い、人材・技術交流を積極的に行ってきた。〈UF4〉がその交流に加わることはさすがになかったが、フリッツは幾度か通訳に駆り出され、日本海軍参謀を知己に得てもいたから、日本側との回線を開くのはさほど困難な話ではなかった。日本到着までの補給の手配、亡命後の乗員の安全確保。最初は半信半疑だったヤニングスたちも、亡命の算段が具体化するに従って翻意し、しまいには他に生き残る術はないと理解するに至った。
PsMB1――ローレライの魔性を呑み込んだ〈ゼーガイスト〉の乗員に、連合国側への投降という選択肢はあり得ない。共通の敵を前に結束する一方で、戦後の情勢を視野に入れて互いの腹を探り合っている連合各国は、PsMB1を目前にすれば必ず独占しようと目論む。その際、自分たちの身柄がどのように扱われるか、想像できる程度の思考能力はヤニングスたちにも残っていた。
いっさいの責任、いっさいの尊厳をかなぐり捨て、〈UF4〉はただ生き延びるためだけに日本に――本心では軽蔑しきっている東洋の島国に逃げ込んだ。ナチスドイツの切り札と嘱望《しょくぼう》されながら、その期待に応えられずに終わったPsMB1を手土産に、文化の運び手≠ナしかないと規定された劣性民族のお情けにすがった。PsMB1と引き替えに日本に負債を肩代わりしてもらい、自由の身になって新しい生活を手に入れる。その後、ヤニングスたちがどうなったのかは想像するよりないが、本気でそうできると夢想していたのだとしたら、まったくお笑《わら》い種《ぐさ》だった。
そんな他力本願では負債から逃れられない。負債を帳消しにする方法は二つ、バスナーのように発狂して楽になるか、それなりの度胸と計算をもって負債を踏み倒すか、だ。後者を選んだ場合、冷徹な観察力と判断力、状況次第では友人さえも裏切れる決断力――自分にこの黒い制服と髑髏の徽章《きしょう》を与えた組織と同じ狡猾《こうかつ》さ、冷徹さが必須となる。だからおれは、このいまいましい黒い制服を着続け、髑髏の徽章が輝く陳腐《ちんぷ》な軍帽をかぶり続けると決めた。あらゆる法、あらゆる倫理を超越し、おれたち[#「たち」に傍点]が生きてゆける世界を手に入れるために、賭けを続けようと決めた。
絶えず危険が伴うことは承知している。切れそうなロープからもう少し頑丈なロープへ飛び移る、そのくり返しが延々続くばかりで、安住できる世界など存在しないのだろうことも覚悟はしている。しかしすでに賭けは始まっており、手元には貧弱なワンペアのカードしかない。有り金全部が賭場に上がっている以上、はったりで押し通すか、袖口に忍ばせたカードでイカサマを仕掛ける他なく、どちらにせよフリッツは躊躇するつもりはなかった。
中央補助室を抜け、フリッツはPsMB1整備室に足を踏み入れた。天井に交通筒のハッチを備えた二メートル四方の空間は、この時は通りかかる乗員もなく無人だった。壁にしつらえられた寝台の前に立ち、その上に横たわる金属のケースを見下ろしたフリッツは、ポケットの鍵を鍵穴に差し込んだ。ロヲレライ セイビドヲグ≠フ文字がのたくる紙を引き剥がし、周囲の無人を再確認してからケースの蓋を開けた。
錠剤の入った小瓶、各種アンプルと注射器のセットに、飲料水、缶詰、毛布など。整備道具というより、医者の往診道具と言った方が正しいケースの中身をまさぐり、折りたたんだ毛布の中からいま必要な道具を取り出す。ずしりとした重みを手のひらに確かめ、フリッツは頭上の交通筒ハッチを見上げた。
円形のハッチの向こうには、いま〈海龍〉が接合されている。発令所には早川艇長の姿しかなかったから、操艇担当の兵は艇内で待機しているのだろう。名前を思い出そうとして、清永と探り当てるまでに数秒かかったフリッツは、結局、その程度の関係だったと納得して道具に目を戻した。
〈UF4〉の乗員同様、対話も交流も成り立たない他人たち。密閉された艦内で顔を突き合わせていても、彼らと自分はそれぞれ別の世界を生きている。一方は皇国の大義や軍人精神といった理念を基底に置く、忍従を美徳と呼ぶ義務に縛られた世界。一方は従うべき主義も祖国も持たず、生存をもぎ取るためならすべての罪が容赦される、単純かつ効率的な論理が支配する世界……。
でも、それでは寂しいですよ。不意に折笠征人の声が明瞭によみがえり、フリッツは戸惑った。気を抜けばするりと内側に入り込んでくる焦《こ》げ茶《ちゃ》色の瞳が脳裏をよぎり、なぜこんな時に思い出すのか、なにを寂しいと呼ぶのかと咄嗟に考えたフリッツは、そう考えてしまう自分になにより腹を立てた。やるべきことを、やる。胸中に呟いて雑念を追い払い、掌中の道具にもう片方の手を添えた。
引かれた遊底《ゆうてい》が元に戻る乾いた金属音が響き、ワルサー・モデルPPの薬室に初弾が装填《そうてん》されたことを伝えた。
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舵輪はなく、船体左右の水中翼を操作する操縦桿が足の間からのびている。左手にあるレバーは速力調整用で、横舵は足もとのペダルで操作する。タンクの注排水は前面計器盤のレバー三本で行うが、そこは本来、爆弾投下用レバーの設置場所だったので、見た目にはひどくそぐわない感じがする。しかし試作製造段階から実際の運用まで、海軍生活の大部分を〈海龍〉とともに過ごしてきた清永には、すべてが目に馴染んだ光景だった。
全長十七・二八メートル、直径一・三メートルの細長い船体の中に、ディーゼル機関や蓄電池、燃料タンクがぎっしり詰め込まれ、搭乗員二名は気蓄器と低圧タンクの隙間に乗り込む。自他ともに認める大兵、それも操艇員として前部座席に着く清永は、艇に出入りするだけでかなりの苦労を要した。上部ハッチを使うにしても下部ハッチを使うにしても、後部座席をいっぱいに倒さなければならず、艇長に先に乗り降りしてもらうのは当たり前。長期行動時に糧食を搭載する際には、まず清永が先に乗り込まないと中で身動きが取れなくなってしまう。
「おまえと組むと空気が早く減る」と、横須賀突撃隊の上官たちは真顔で言っていたが、だからといって清永と同乗するのを渋る者はなかった。清永の操艇の腕前は横突の全隊員が認めるところであり、過潜入や主機停止前の給気筒閉鎖など、訓練中の事故が多発していた状況下では、清永と組みたがる者の方が多いくらいだったのだ。
爆撃機・銀河の航空機部品をそのまま転用した操縦装置や、外装式離脱魚雷発射管を始めとする革新的な設計。本土決戦用に緊急増産されたため、機構が単純化され、ブロック工法による量産が可能になった反面、信頬性においては低下を余儀なくされた船体構造。〈海龍〉を特徴づけるそれらの要因が、清永にはすべて良好に働いた。もともと海軍航空|工廠《こうしょう》に籍を置いていた身に、航空機用の操縦装置はむしろ親しみやすかったというのがひとつ。単純なブロック工法の船体は経験の浅い工員でも扱いが容易で、工員時代から試作段階の〈海龍〉をいじっていたというのがひとつ。従来の特殊潜航艇に慣れていた上官たちと異なり、〈海龍〉しか知らない清永は、余分な先入観にとらわれて戸惑わずに済んだということもある。子供の時分は戦闘機乗りになると決めていた清永にとって、航空工廠工員養成所への入学は、理想と現実をすり合わせた結果に過ぎなかったのだが、それが「航空機のような特殊潜航艇」の名操舵手という地位を引き当てたのだから、幸運と言えば幸運、皮肉と言えば皮肉な話ではあった。
潜航の役割を果たす水中翼で予備浮力を保っているので、急速潜航にかかる時間はわずか十五秒。水上での運動性能が劣悪なのは他の特殊潜航艇と変わらないが、水中では面積の大きい水中翼がものを言い、航空機さながらの機動性を発揮する。換縦桿とレバーでそれを操作するのだから、気分は戦闘機乗りと変わらない。設計段階で期待されたほど速力が上がらず、航行艦襲撃には不向きと判定され、拠点防衛用の防禦兵器に甘んじている〈海龍〉だが、自分の腕なら敵航空母艦だって沈められる。この〈伊507〉に配属されたのも、海軍が自分の実力を認めてくれたからに違いない。清永はそう信じ、それ以上のことに思いを巡らせる気はなかった。
もっとも、特攻用の爆薬ではなく、通常の予備燃料タンクが艇首に装備されているところを見ると、今回の作戦は純粋に回収を目的としたものらしい。ぼんやりと考えた清永は、それにしても遅いなと胸中に罵《ののし》りつつ、大日本時計社製の腕時計に時間を確かめた。時計店を営む父が出征前夜にくれたもので、文字盤には開戦前の社名であるシチズンの英字が刻印されている。十六時二十五分、艇長の早川中尉が発令所に出向いてからもう三十分以上が経つ。作戦直前の緊急集合は、延期か中止の通達と相場が決まっているから、おそらく今晩の出撃はないだろう。
どっちでもいいから、早いところこの油臭い土管から出してもらいたいもんだ。固い椅子に押し当てっぱなしの尻が痛み、何度目かの身じろぎをした時、不意に船底のハッチが開放される音が艇内を揺らした。
反射的に姿勢を正し、顔の表情も引き締めた清永は、「どうでした?」と尋ねつつ背後を振り返った。早川中尉の角張った顔の代わりに髑髏の徽章が目に入り、驚く間もなく冷たい感触が首筋に押し当てられた。
「正面を向いて動くな。ひと言でも喋ったら、引き金を引く」
撃鉄《げきてつ》の上がる音が耳元に響き、小振りな自動拳銃と、それをかまえるフリッツ少尉の顔が清永の目に映った。殺気を放つその瞳に射抜かれた瞬間、清永はなにも考えられなくなっていた。
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人手不足はどこの部署も同じだが、いちばん割を食っているのは乗員の食事を賄う烹炊長だ。待機を命じられてパートに引き返す途中、その烹炊長につかまった征人は、他の部署の応援に回された当番兵に代わって、夕食の準備を手伝う羽目になった。
作戦前には赤飯のひとつも出るかと期待したが、ずらりと並んだアルミ製の皿には、缶詰の豆と漬け物が少々、茹《ゆ》でた腸詰め肉が横たわるばかり。あと三日同じ献立が続いたら暴動が起きるだろうなと思いつつ、缶詰の豆を皿に盛りつけている時、烹炊所の前を駆け抜ける複数の足音が耳に入った。
敵艦の探信音波を捕捉すべく、機関を止めて自動|懸吊《けんちょう》装置による静止潜航を行っている艦内に、慌ただしい足音の群れはひどく大きく響いた。作業を中断して戸口の方を振り返ると、血相を変えて走る早川中尉の横顔がちらりと見え、時岡軍医長がどたどたとその後に続くのが見えた。のんびり屋の時岡まで慌てさせる事態とはなにか、考えるより先に田口兵曹長の姿が烹炊所の戸口を横切り、征人はひやりとした。
殺気立った横顔を見たからではない。田口の腰に、拳銃帯が巻かれているのが見えたからだった。味噌汁の鍋をかき混ぜるのをやめ、「なにごとだ?」と振り向いた烹炊長の相手をする余裕もなく、征人は通路に出た。発令所の方から走ってきた小松少尉にぶつかりそうになり、咄嗟に身を引いて避けると、勝手に足をもつれさせた小松の痩身が向かいの壁に激突していた。
いつもなら八つ当たりの罵声《ばせい》を浴びせかける小松が、文句も言わずに再び走り出したのも異常なことだった。
「なにかあったんですか?」と思いきって声をかけた征人は、「叛乱《はんらん》だ!」と返ってきた声を聞いて、身を凍りつかせた。
「叛乱……?」
「黒服だ。〈海龍〉が乗っ取られて……」
切迫した声が言い終わらないうちに、小松の背中が中央補助室に続く水密戸を抜けてゆく。長櫃《ながびつ》から拳銃らしき黒い塊を取り出す長髪の横顔が像を結び、次に〈海龍〉で待機しているはずの清永の顔が思い浮かんだ。なにごとか呼びかける烹炊長の声を背に、征人は交通筒区画へと走り出していた。
「こちら艦長だ。要求を聞こう」
抑揚なく言う絹見艦長の姿は、人垣に隠れて見えなかった。目の前には小松がおり、時岡がおり、陸戦隊用の鉄帽をかぶった上等兵曹を挟んで、腰の拳銃吊りに手を置いた田口がいる。交通筒区画に集まった乗員の数は十数人に及び、中央補助室にまで溢れ返った列の最後尾についた征人は、(要求は三つ)と答えたフリッツの声をスピーカーごしに聞いた。
(ひとつ、〈伊507〉を作戦海域の手前十キロまで前進させること。ひとつ、〈海龍〉の拘束具を解き、本艇の発進を認めること。ひとつ、折笠上等工作兵に潜水装具を着装させ、本艇に同道させること。以上)
〈海龍〉と、〈伊507〉を繋ぐ交通筒のハッチを見上げていた複数の目が、一斉に征人に集中する。共犯者にされたような居心地の悪さを感じる間に、人垣の隙間から顔を出した高須に手招きされ、征人は一同の視線を浴びながら交通筒の真下に移動した。壁に設置された艦内電話の受話器を手に、絹見は「従わなかった場合は?」と冷静に返す。
(人質を殺す……というだけでは話にならないだろうな)
双方向通信回線を介して、フリッツも落ち着き払った声を出す。やはり清永が人質に取られているとわかり、征人は固く閉ざされたハッチを見上げた。〈海龍〉側から施錠する機構があるのかは定かでないが、仮になかったとしても、ハッチを開ける気配があればフリッツは容赦なく行動を起こす。端々に刃物の鋭さを覗かせる元ナチス士官の所作を思い出し、生唾を飲み下した征人は、「まあ、そうだな」と応じた絹見の無表情を横目で窺った。
(なら、このまま〈海龍〉の魚雷を発射するというのはどうだ?)
受話器を握る絹見の手がぴくりとこわ張り、険しさを増した高須の目が壁のスピーカーを射る横で、田口も慄然《りつぜん》とした顔をハッチに向け直す。接合された状態で〈海龍〉が魚雷を発射すれば、正面に位置する艦橋構造部がまともに直撃を食らう結果になる。人質に取られたのは清永のみならず、〈伊507〉そのもの――。動揺の気配が一同の間を走り、「もうひとつだな」と冷たく言い放った絹見の声がそれを遮った。
「外装発射管が拘束具に引っかかれば、魚雷は発射管の中で暴発する。〈海龍〉は粉微塵に吹き飛ぶぞ」
(〈伊507〉も致命傷を負う。結果は同じだ)
すべて計算済みと言わんばかりの声音がスピーカーを震わせ、絹見は口を閉じた。以前から――おそらくは最初に会った時から、フリッツはこうなることを視野に入れていた。誰とも交わろうとしない頑《かたく》なな横顔、回収作戦延期の決定に執拗に食い下がったらしからぬ態度。ばらばらな印象の断片が現れては消え、なぜもっと早く気づかなかったのか、なぜ拳銃の存在を誰かに報告しておかなかったのかという後悔が征人の胸を埋めた。絹見は受話器を左手に持ち変え、「そうまでして早期回収にこだわる理由というのは、いったいなんだ?」と質問を重ねる。
(知ったところで、あんたは同じ結論を下す)
「なぜそう思う?」
(それなりに優秀な軍人だと認めているからだろう。艦あっての乗員、艦あっての作戦。くだらん精神論で事態を打開できるとは考えていない。得られる結果と釣り合わなければ、危険を冒《おか》す価値はないと割り切っている)
それとわからない程度の苦味が絹見の横顔に刻まれ、冷たい鉄の表面に、ふと人肌の温もりが宿ったような違和感を征人は覚えた。(指揮官の資質としては正しい。こちらの利害とは一致しなかったが)とフリッツが続けた時には、絹見はもとの鉄面皮を取り戻し、冷徹な艦長の顔をスピーカーに向け直していた。
「……つまり軍とは関係のない、君個人の事情ということか?」
(冒す危険に見合うだけの結果はある)
「いま作戦海域に向かえば、確実に敵に発見される。拙速に事を進めて、取り返しのつかない事態になってもかまわないと?」
(危険に見合う結果はある、と言ったはずだ)
交渉の余地はないと教える声だった。息を吐き、片手に持つ受話器を顔から離した絹見は、身じろぎひとつしない数秒の後、不意にもう一方の手で受話器の送話口を押さえた。そのまま背後を振り返り、「蓄電池のみに頼るとして、〈海龍〉のモーターが起動するのにかかる所要時間は?」と直立不動の早川に尋ねる。
「巡航速度に達するまで約一分というところです」
唐突な質問でも即座に答えた〈海龍〉艇長から視線を外し、絹見は再び沈黙した。ぴんと張り詰めた空気に不穏な気配が混ざり、征人は動悸《どうき》が早まるのを感じた。じっと一点を見据えていた絹見は、やがて高須に視線を移し、「現行深度を維持したまま、〈海龍〉の拘束具を外す」と無造作に言った。
「同時に最大戦速で離脱。海中に投げ出された〈海龍〉が体勢を立て直す前に、後部発射管から魚雷を叩き込む。直撃は難しくても、磁気爆発|尖《せん》を装填しておけば至近距離で爆発はさせられる。致命傷は与えられるだろう」
なんだ、いったい。淡々と放られた絹見の言葉に、征人は驚くより呆れた。「〈海龍〉を、沈めるのですか……?」と確かめた高須も、さすがに眉をひそめた顔だった。
「作戦海域への接近は確かに危険ですが、敵の目が海底探索に集中しているなら、十キロはぎりぎり安全圏内です。いっそ望み通り行かせてやった方が、被害は最小限で済むのでは……」
「だが〈海龍〉は確実に敵に探知される。こちらも回収作戦を企図していると知れば、敵は現場海域の警戒を厳にして特殊兵器の揚収を急ぐ。今後の回収作戦の実施は、まず不可能になると見て間違いない」
言葉を切り、絹見は開いた口が塞がらない征人をちらと見下ろした。「それに、〈海龍〉と操艇員はまた新しく用意することができるが、潜水要員の代替えはない。回収作戦の成功と本艦の安全を期すれば、〈海龍〉は沈めるしか……」
(か、艦長! こんな奴の言うこと聞く必要ありません!)
聞き慣れた声がスピーカーからこぼれ出し、征人は体を硬直させた。その場にいる全員を凍りつかせるのに十分な、清永の声だった。
(自分が、舌噛み切って死ねば済む話なんです。征人は、折笠上工は寄越さないでやってください! 犬死にすんのはひとりだけで十分なんですから……!)
布のこすれ合う音、なにかがぶつかるくぐもった音が響き、清永の声は途切れた。しばらくの間を置き、(返答は急いでもらいたい)と流れたフリッツの声は、微かに息が上がっていた。
(これ以上、空気を無駄にしたくない。あと一分で結論を出せ。我々を行かせるか、艦ともども心中するか)
交通筒のハッチを見上げる田口の顔が歪み、腰の拳銃にかけた腕に力が入る。拳銃帯が革のこすれる乾いた音を立てたが、それだけだった。誰もなにも話そうとはせず、饐《す》えた静寂が交通筒区画を満たしていった。
清永の声も聞こえない。殴られて気絶したのか、猿ぐつわでも噛《か》まされたのか。あるいは声を殺して泣いているのかもしれない。初めて会った時もそうだったと思い出し、征人は薄汚れた壁に取りつけられたスピーカーの箱を見つめた。昨年の暮れ、浜名海兵団に入って間もない頃のこと。入団式を明日に控え、被服、半靴などの官給品が初めて手渡されたのだが、人一倍大きい清永に合う被服はなかなか見つからず、あれこれ試着させるうちに教班長も次第にいらいらしてきて、しまいには服に体を合わせろと怒鳴り出した。ぴんと背筋をのばし、はい、合わせます! と応えた清永のバカ正直さに、周囲の者は失笑を漏らしたが、征人は笑わなかった。清永の目に、屈辱が雫《しずく》になって張りついているのがわかったからだった。
結局、特注の被服が取り寄せられることになり、清永には代償として一週間のバス当番(風呂掃除)が命ぜられた。余分な仕事をする被服工場の苦労に体で報《むく》いろ、というのが教班長たちの理屈だったが、ようは憂さ晴らしの仕打ちだった。夜、ひとり黙々とモップを動かす清永は、時おり止まっては握り拳で目のあたりを拭っていた。同室のよしみというだけではない感情が働き、征人は時間が許す限りバス当番の手伝いをした。清永は遠慮するでも礼を言うでもなく、ある晩ただひと言、おまえはなんで笑わなかったんだ? と尋ねてきた。可笑《おか》しくなかったからだと征人は答えた。清永はふうんと応じたきり、後はなにも言わなかった。
清永は、だからいま声を出したのだろう。おそらくは銃口を突きつけられた状況下で、折笠は寄越すなと叫んでくれたのだろう。すでに見捨てられた自分の立場も知らず、ただ同期の友を巻き添えにしたくない一心で。仲田大尉と同様、その瞬間には報国の理念も軍人精神も関係ない、当たり前の人間の感情に従って。胸に滞留する熱が喉元までこみ上げ、征人は絹見をまっすぐに見据えた。
鉄面皮に埋め込まれた黒い瞳がこちらを見返し、すぐに逸らされた。「先任」と高須に呼びかけ、絹見は征人の視線を遮断するように背を向けた。
「後部旋回式発射管、七番から十番まで磁気爆発尖を装填。急げ」
息を呑んだのも一瞬、高須は先任将校の声で「は」と応じる。即座に艦尾側に向かおうとする高須を、征人は咄嗟に「待ってください!」と呼び止めた。
「本当に、〈海龍〉を沈めるのでありますか?」
高須の足が止まり、田口ら兵曹たちの目が一斉に突き刺さってくる。拳を握りしめ、征人は絹見の背中だけを見つめ続けた。怒鳴られようが殴られようがかまわない、徹底的に食い下がってやるという思いに迷いはなかったが、誰も諫《いさ》める者はなく、襟首がつかみ上げられることもなかった。
田口は黙して動かず、小松も周囲の顔色を窺って口を閉ざしている。絹見だけが背中ごしに一瞥を寄越し、征人と視線を絡ませたが、その唇は引き締められたままだった。正面から向き合おうとしない瞳が微かに揺れ、無言のうちに逸らされるのを見た征人は、肩透かしを食らったような気分を味わった。
なんの確信もありはしない。軍人だから、戦争だからという理屈に従っているだけで、ここにいる大人たちは、自分の行動になにひとつ確信を持てずにいるのではないか? 任務に対する忠誠心、職責をまっとうする責任感。課せられた義務を果たそうとする意志は強固でも、そのためにすべてを犠牲にしてよいのかと詰め寄られれば、全面的には肯定しきれない。その脆《もろ》さを隠す方便に、義務と責任という言葉を使っているだけなのではないか? 自分が順応できないだけで、日本という国家にも、帝国海軍にも、それを支える大人たちにも、もっと揺るぎのない確信があるものと想像していた征人は、その意外な脆さに戸惑い、同時に腹を立てた。
だったら、仲田大尉はなぜ死んだのか。なぜ清永は〈海龍〉もろとも沈められなければならないのか。ここにいるのがとんでもなくバカらしいことに思えてきて、征人は頭の片隅がしんと冷たくなるのを自覚した。これまで息苦しさや違和感を覚えることはあったが、バカらしいと感じたのは初めてだった。
「なにをしている。急げ」
動きの止まった高須に絹見が言う。もうなにを遠慮する気にもなれず、征人は「回収作戦を成功させればよいのですね?」と一歩前に進み出た。
「生意気を言うな!」我を取り戻したのか、小松が人垣を押し退けて間に入る。胸倉をつかみ上げられながらも、「窒素に耐性のある兵が少ないのは、敵も同じだと思います」と一気に喋り、征人は絹見の顔を凝視した。
「そうでなければ、とっくに回収を終えているはずです。敵はまだ特殊兵器を発見することも、回収することもできずにいる。その間隙《かんげき》をつけば、こちらが先に回収するのもできない話では……」
「黙らんか!」
瓜実顔を真っ赤に染め、小松が拳を振り上げる。征人は反射的に歯を食いしばり、目を閉じた。衝撃に備えて足も踏んばったが、いつまで待っても頬を打つ痛みは訪れなかった。うっすら瞼を開けると、小松の肩を押さえた絹見の顔がすぐ目の前にあった。
「自分がなにを言っているのか、わかっているな?」
やんわりと小松を退がらせ、初めて正面から顔を合わせた絹見が問う。やや灰色がかった瞳に見下ろされれば、根拠のない自信はなりを潜め、じわりと弱気が染み出してきたが、いまさら後に引けるものではなかった。征人は「はい」と目を逸らさずに答えた。
「なにがあろうと、本艦は作戦海域の手前十キロから動かん。艦を離れたら最後、〈ナーバル〉を回収して自力で帰艦する以外に道はないぞ」
絹見の目と言葉は、自分に息苦しさと違和感を与え続けるなにか――戦争と、戦争を中心に回る人の処世、傲岸《ごうがん》で一方的な論理の権化だった。バカらしいと思えたところで否定する論拠は持てず、弱気だけが勢いを増すのを感じた征人は、心持ち顔をうつむけて絹見の視線を避けた。
敵艦が待ち伏せる海域で回収作戦を強行、自力で帰艦する。限りなく分の悪い、無謀な行為であることは百も承知だが、他に清永を救い出す術もない。やってみる価値はあるはずだ、と征人は噛み締めた歯の奥に呟いた。いずれ特攻任務で果てる命なら、皇国という自分にとっては曖昧な対象より、目の前の親友のために使った方がわかりやすい。少しは納得して死ねそうだ。征人は顔を上げ、そうすると決めた目を絹見に向けた。
「いいんだな?」
絹見が問いを重ねる。征人は「はい」とはっきり答えた。しばらく目の底を覗き込んだ後、不意に視線を外した絹見は、握り直した受話器に「わかった。要求は呑む」と短く吹き込んだ。
(結構。ただちに準備してもらいたい)感情を消したフリッツの声が応じる。(言っておくが、こちらは魚雷発射釦に指をかけている。おかしな真似は考えんことだ)
回線の切れる雑音がスピーカーから発し、絹見が受話器を置く音がそれに続いた。「艦長……」と確かめる目を注いだ高須を、「一理ある、とは言わん」と遮って、絹見は一同に振り返った。
「だが〈海龍〉を潰した上、魚雷も無駄にするというのでは、軍令部に面目が立たんという考え方もある。同じ無駄になるなら、可能性のある無駄に賭けて悪いことはない」
征人を顎でしゃくり、絹見は言った。〈海龍〉の撃沈を避けたい気持ちと、一工作兵の言葉で決定を覆した艦長への不安とで板ばさみになったのか、高須は複雑な表情をこちらに向ける。その横で小松は疑心に満ちた顔を隠しもせず、田口は意外にさっぱりした顔で腕を組んでいる。時岡は事情を理解しているとは思えない無意味な愛想笑いを浮かべており、征人はふと、それまであった風よけがなくなり、虚空《こくう》に投げ出された我が身を痛感した。
いま周囲にあるのは、行きがかり上とはいえ、艦長に意見し、艦の死活に関わる問題に立ち入った者を見る眼差し。自分と同等と認めた者に向けられるべき視線だった。範を垂れる者はいないし、もう大目にも見てもらえない。やると言ったからには自分でやってみせなければならない。征人は、独り見知らぬ他人たちの中に立ち尽くした。
三時間後、十九時四十三分。夜の帳《とばり》が降りきって間もない太平洋上に、〈伊507〉は浮上した。
東経一二八度四〇分、北緯三二度一六分。五島列島の南端、福江島沖約三十キロの海は、周辺に見える陸地もなく、三百六十度の視界を覆う闇の海面を、満天の星空が蓋をするばかりだった。格納庫の扉から上甲板に出た征人は、三日ぶりに吸う外気が全身の細胞に染み渡り、頭がすっきりする感覚を味わいながらも、太陽の光が望めなかったことをひそかに残念に思った。
分厚い潜水服を身につけていれば、ブロンズ製のヘルメット前面に穿《うが》たれた直径七寸(約二十センチ)ほどの覗き窓が、外気を取り入れる唯一の窓になる。ねっとり湿っていても、湿度百パーセントの艦内に較べれば涼風と言っていい外気をたっぷり吸い込んでから、征人は甲板にへばりついてしまったかのような左足を持ち上げた。底に重石の入った潜水靴がごとりと甲板を打ち鳴らし、腰に巻いたバラストの重みにつられて、体が思った以上に前に引っ張られる。両脇を支える田口と早川がすかさず支えに入り、挫《くじ》けそうな膝をなんとか立て直したところで、今度は右足を前に出す。長さ三十メートルの送気ケーブルと通信ケーブルをそれぞれ抱え、二人の兵曹がその後に続く。
浜に打ち上げられた鯨《くじら》さながら、甲板に横たわる〈海龍〉は半ば闇に溶け込んでいたが、翼のついた潜水艦といった船体の形状と、その上に立つ人の姿は識別することができた。セイルの真上にある上部ハッチから半身を乗り出し、フリッツは拳銃を片手に抜け目なくこちらの動向を窺っている。降りてきて手伝え、と内心に悪態をつきつつ、征人は総重量二十五貫(約九十キログラム)の潜水装具の重みを全身で受け止め、一歩一歩〈海龍〉との距離を縮めていった。格納庫の扉から〈海龍〉の艇首まで約三メートル、セイル後方のケーブル接続口までは十二メートル。目と鼻の先でしかない距離が、この時は百メートルにも感じられた。
今次回収作戦用に改修された〈海龍〉は、ランプ部分に耐圧ガラスを採用した探照燈をセイルに備え、艇内からリモートコントロールで操作するケーブル用のリール、送気用と通信用のケーブル接続口を船体上部に装備している。リールの後方には自転車のハンドルに似た握り棒が突き出しており、潜水要員はこれと両舷の足場を使って船体に体を固定する。文字通り角を握って龍にまたがる神代《かみよ》の武士《もののふ》の格好だったが、肝心の龍は土管に短い翼が生えた不細工な代物、武士の方はヤカンもどきのヘルメットから二本のケーブルを垂らし、数人がかりで押し上げてもらって船体にまたがっているありさまなのだから、お世辞にも見栄《みば》えがするとは言えなかった。
海は凪いでいたが、船体の細い潜水艦は|横揺れ《ローリング》に翻弄されやすい。右に左に傾く甲板上でどうにか〈海龍〉にまたがり、ケーブルのリールへの巻きつけ、船体への接続作業が終了したところで、「補助員はそこまでだ」と言ったフリッツが銃口を田口たちに向けた。田口は臆する様子もなく睨み返し、鼻息を返事の代わりにしてから、ヘルメットの窓から様子を窺うしかない征人に向き直った。
「最後まであきらめるな。生き延びる道は必ずある。自分の目を信用しろ」
頬に傷を拵えたこわもてが月明かりに浮かび上がり、思いのほかやさしい目が征人を直視した。これが無法松の目かと驚き、声を詰まらせる間に窓は閉じられてしまい、止め具を固定する音がヘルメットの中に響いた。
田口たちが艦内に入り、格納庫の扉が閉じて間もなく、〈伊507〉は徐々に潜航を開始した。搭載潜航艇が海面に定位するぎりぎりまで船体を沈め、それから固縛装置を解放するのが特殊潜航艇の発進要領だ。潜水装具を身につけていても、黒い海水が甲板を覆ってゆくのを見るのは気持ちのいいことではなく、征人は握り棒をしっかり握り、前方に立つ〈海龍〉のセイルから目を離さないようにした。(通信テストだ。なにか喋れ)と、艇内に戻ったフリッツの声がヘルメット内に響く。
「考え直す気、ありませんか?」
(テスト良好。足場にしっかり踵《かかと》をつけて、握り棒を離すな)
フリッツの応答はにべもない。征人は観念して〈海龍〉の船体に体を押しつけた。
泡立つ海水が〈伊507〉の甲板を隠し終え、〈海龍〉の翼にまで達すると、鈍い振動が足もとから伝わった。固縛装置が作動し、左右から〈海龍〉を押さえつける拘束具の鉄輪が外れたのだった。母艦が巻き起こす引き波に揉《も》まれ、〈海龍〉の小振りな船体が前後左右に激しく揺れる。足もとの地面がなくなるような恐怖と不安に駆られ、生唾をひとつ飲み下した征人を置いて、〈伊507〉の艦橋はみるみる遠ざかっていった。
ほどなく〈海龍〉の主機が唸りを上げ、減速に転じた〈伊507〉を背に艇尾のプロペラを回し始めた。各種特別装備を搭載している分、船体は通常より沈みがちだったが、セイル後方でしがみつく潜水要員を濡らすほどではなかった。水中翼の浮力を得て船体を安定させた〈海龍〉は、約七ノットの速度で水上航走を開始した。作戦海域に到着するまで一時間弱、先んじて〈ナーバル〉の捜索を行っているらしい敵艦は、まだ影すらも見えない。円形の窓から見えるのは、清冽《せいれつ》な星々の輝きと下弦《かげん》の月、それらの光を宿し、夜との界面を水平線に浮き立たせる暗い海ばかりだった。
(……すまねえ、征人)
五分が過ぎ、モーターと波の音がすっかり耳に馴染んだ頃、消沈しきった清永の声がヘルメット内でくぐもった。「いいよ。しょうがないよ」と応じると、(殊勝《しゅしょう》だな)とフリッツが冷笑混じりの口を挟む。征人は思わず、「謝ってもらいたい人は、他にいますから」とやり返していた。
「悪いと思っても謝らないのを主義にしている人だから、無駄だとは思いますが」
(威勢がよくて結構だ)
それきり、フリッツは会話を打ち切ってしまった。息の詰まる静寂が戻り、身じろぎひとつできない閉塞感が増殖するのを感じた征人は、「だいたい、なんで早期回収にこんなにこだわるんです?」と、皮肉が返ってくるのを承知で尋ねてみた。
「こんなことして、たとえ無事に〈ナーバル〉を回収できたとしても、帰艦したらただじゃ済みませんよ」
「こっちにはこっちの考えがある。おまえは黙って〈ナーバル〉を捜せばそれでいい)
「その〈ナーバル〉っていったいなんなんです。どんな特殊兵器なんです?」
(ローレライだ)
返答を期待していなかった頭に想像外の言葉が突き立ち、征人はつかの間言葉をなくした。艦内にある無数の使途不明の機器、ロヲレライ≠ニ書かれた文字が脳裏をよぎり、「ローレライ……?」と聞き返すと、(正式名称は|PsMB1《ペーエスエムベー・アインツ》だが……おまえたちの頭ではその方が覚えやすいんだろう)と、遠くを見つめるようなフリッツの声が相手をした。
「ペー……なんです?」
(いまにわかる)
それ以上の立ち入りを拒む声音で、フリッツは今度こそ会話を打ち切った。再び沈黙の帳《とばり》が降り、(……この拳銃さえなきゃあな)と呟いた清永がそれを破った。
(こんな野郎、すぐに首の骨へし折ってやるのに)
(舌を噛み切る度胸もない奴が、たいそうな口を叩くじゃないか)
冷淡な声が、重い静寂を呼び戻した。間を取り繕う言葉を探した征人は、(そう気にするな。人間は、恐怖を前にすればそんなものだ)と先に嘯《うそぶ》いたフリッツの声を聞き、わけもなくどきりとした。
(恐怖を克服するには、自分自身が恐怖になるしかない)
ぽつりと置き去られた言葉が胸を騒がせ、征人はフリッツがいるはずのセイルの付け根を凝視した。意外に脆い人なのかもしれない。そんな直観がざわめく胸の中に立ち上がり、なぜそう思えるのか考えようとした時、(それでそんなチンドン屋みたいな格好をしてんのかよ)と清永が噛みつく声を出した。
(そうだな。滅び去った国の遺骸に過ぎなくとも、このユニフォームには人を威圧する力がある。このピストルも人を殺す力を失ったわけじゃない)
銃口を強く押し当てられたのだろう。小さな呻《うめ》き声が清永の口から漏れた後、(おれはな……!)と弾けた怒声が征人の耳をつんざいた。
(おれは、死ぬのが怖くておまえの言いなりになってんじゃない。こんなことで犬死にするのが嫌なだけだ!)
(死に方に種類があるとは知らなかった)
(毛唐にはわかんねえんだ。こんなところで撃ち殺されたんじゃ、皇国の大恩に報いることができないだろうが。親や兄弟に申しわけが立たないし、靖国の先輩たちにだって笑われらぁ。だったらおれは、なにがなんでも回収作戦を成功させる。大手を振って艦に戻って、てめえをぶっ飛ばせるって可能性に賭ける。だからいまは言う通りにしてやってんだ……!)
強がりや負け惜しみだけで言っているのでない。そう考えられるのが清永なのだと征人にはわかったが、フリッツは(なるほど、賭けか)と、背伸びする子供を見下す苦笑を返した。
(優秀な兵隊だな)
ここまで憎まれ口を叩かれると腹を立てる気にもなれず、征人は「あなただって兵隊でしょう?」と呆れ半分の口を挟んだ。
「親衛隊って、ドイツではエリートの兵隊しか入れないって聞いてますけど」
(さてな……。兵隊は、仕える国を亡くせばこうなるってことだろう。じきにおまえたちにもわかる)
(ドイツと一緒にすんな。日本が敗けるものかよ!)
これまででいちばん大きい清永の声がヘルメット内で爆発し、許容量を超えたレシーバーが雑音を発した。(無駄に怒鳴るな。空気が減る)と冷静に返すフリッツの声を聞きながら、征人はそうなのだろうかと自問した。
日本が敗ける。あり得ないとも、至極当然とも言える仮定。そうなる前に死が予定されている身には、本気で考える必要さえなかった未来。いざ言葉にしてみれば、そこには想像を絶する暗い淵があるらしいとわかる。いまあるものをすべて呑み込み、溶かしきって、その場所になにがあったのかも不明にしてしまう。物《もの》の怪《け》のような暗い淵が……。
(あと二十分ほど走ったら潜航する。くだらんお喋りはやめて、いまのうちに休んでおけ)
フリッツの言葉を最後に通信は途絶えた。暗夜にひとり取り残され、征人は耐衝撃用の金具を張ったガラスごしに星空を見上げた。鋭すぎる月と星の光が、潜水服を貫いて体に刺さってくるようだった。
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「確かか?」
グリニッジ標準時十二時二分、現地時間二十時十二分。報告の声をあげた水測長に、スコット・キャンベル艦長は間を置かずに問うていた。
「魚雷にしては速度が遅すぎますし、潜水艦にしては|スクリューの発する雑音《キャビテーション・ノイズ》が小さすぎます。Xタイプです」
水中聴音器《パッシブ・ソナー》のレシーバーを耳に当てたまま、水測長はわずかに顔を振り向けて答える。Xタイプ――すなわち小型潜航艇。海底に向けて打った測深儀の音波が岩礁に乱反射し、忍び足で近づくXタイプを打つ僥倖がなければ、その存在がこうも早く探知されることはなかった。日没後に浮上してからも測深儀を打ち、海底探索を行ってきた〈トリガー〉の謹厳実直さが、思わぬ幸運を引き当てたわけだ。キャンベルは我知らず口もとを緩めた。
「カミカゼ……?」
副長のファレルが、いつもの眠たげな顔に一抹の緊張を漂わせて呟く。日本近海で小型潜航艇が探知されれば、世界中でもっとも利口《スマート》な魚雷――人間魚雷の接近を疑うのが普通だったが、キャンベルには別の予測があった。「違うな」と言って、キャンベルは潜望鏡《ペリスコープ》の柱に片手を預けた。
「人間魚雷は水上艦船を標的にしている。それも航走中の艦を狙うのでは成功確率が低いので、もっぱら泊地攻撃に用いられると聞いている。たとえこちらを探知したとしても、潜水艦を攻撃するのに人間魚雷を持ち出すバカはいない」
パッシブ・ソナーの能力を最大限上げるため、〈トリガー〉は測深儀の発信も機関も停止して、無音航行を実施している。大きめの声で司令塔にいるすべての乗員に聞こえるよう説明したキャンベルは、「奴だよ」と締めくくってファレルに振り返った。
「落とし物を捜すために、まずは猟犬を出してきたのだろう。〈シーゴースト〉はすぐ近くまで来ている。幸運なことにな」
幸運の一語に、ファレルは正気を確かめる目を向けてきた。キャンベルは「わからんか?」と付け足した。
「落とし物を見つけるには、落とした本人の記憶をたどるのがいちばんの早道だ」
虚をつかれたという顔のファレルは見ずに、キャンベルは「Xの聴音に全力を傾けろ」と司令塔に響き渡る声で言った。
「絶対に見失うな。Xの停止したポイントに『魔法の杖』がある」
潜航中、それも敗走の最中とあっては、自艦の位置把握もままならなかったと見るのが正しい。『魔法の杖』をどこで投棄したか、〈シーゴースト〉に正確な記録があるとは思えなかったが、おおよその見当がついていなければ、小型潜航艇を斥候《せっこう》に出すこともないはずだった。「増援の〈スヌーク〉は無駄足になりますかな」と、お愛想を言ったファレルを無視して、キャンベルは残るもうひとつの幸運を内心に噛み締めた。
間延びした宝捜しの時間はこれで終わり、〈トリガー〉は本来の任務に戻る。〈シーゴースト〉は、『魔法の杖』を取り戻したい一心でこの海域に飛び込んでくるだろう。魔力を失い、手探りで海底の闇を探るしかない〈シーゴースト〉に対し、こちらはある程度その行動を予測することができる。Xが『魔法の杖』の所在を教えてくれれば、〈シーゴースト〉を待ち伏せる――いや、おびき出すことも不可能ではなかった。
そう、おびき出せる。その際、『魔法の杖』が巻き添えを食って破壊されたとしても、たいした問題ではない。〈シーゴースト〉の追尾、撃滅。それが〈トリガー〉に与えられた任務だ。『魔法の杖』の捜索で横道に逸れたが、潜水艦の本分は敵の殲滅にこそある。海軍情報部《ONI》がなにを言おうと、海の上では艦長の判断が優先される。その権限に見合う能力はある、とキャンベルは自負していた。
ジャップの手に渡った〈シーゴースト〉、まずはお手並み拝見といくか。胸中に独りごち、キャンベルは潜航の号令を下す頃合を見計らった。
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月の光を揺らめかせる海面が頭上に遠ざかると、真実の闇が周囲を覆った。ゆっくり潜降する〈海龍〉の船体は、すぐに闇と同化してしまい、粉雪さながら、ヘルメットの窓に当たる微生物の死骸が見えるもののすべてになった。
闇に目が慣れれば、夜空から降る微細な明かりがぼんやり海中を照らし、光の幕を一定の深さまで垂らしているのがわかったが、それより下、足もとに広がるのは底なしの闇。広漠無辺という以外に表現のしようがない、徹底的な虚無の世界だった。大口を開けて迫る狂暴なサメ、〈海龍〉をひと呑みにする巨大なクジラ、奇怪な触手を振るう大ダコ。なにが出てきてもおかしくはなく、ぬめぬめとした皮膚、魂のない目玉が現実的な質感を帯びて頭の中をちらつき、征人は動悸が早まるのを自覚した。全身の筋肉がこわ張り、耳抜きのために飲み込んだ唾が何度も喉に引っかかった。
地上に蔓延《まんえん》する息苦しさから逃れようと、機会があれば逃げ込むように海や川に潜っていた自分だが、いま置かれた状況はそれとは根本的に異なる。身動きできない閉塞感は無力感を増幅させ、のばした手の先も見えない闇は、息苦しさを通り越した果てに訪れる静寂――死を想起させる。羅針盤も深度計も手元にはなく、どこをどう進んでいるのかも皆目わからない。本当に〈ナーバル〉はこの海の底に眠っているのか。まったく見当違いの場所をうろついた挙句、空気切れになって最期を迎える羽目になるのではないか。恐慌に陥るのを食い止めるので精一杯な分、他の感情を抑える理性の箍《たが》が緩んで、征人は質問とも文句ともつかない言葉を際限なくフリッツにぶつけた。おまえたちが考える以上に〈ナーバル〉の所在は絞り込まれている、というのがフリッツの返答だった。
「DRT?」
(航跡自画装置とでも訳すか。艦の動きを方位信号と速力信号に置き換えて数値化、情報処理機を介して図に表示する。図に表れた航跡を海図に引き写せば、潜航中でも自艦の正確な位置を把握することができる。まだ不完全な代物だが、人力に願った推測航行よりは信頼できる)
それゆえ、〈ナーバル〉の投棄座標も百メートル単位の誤差で把握できている。海流や他の要素を計算に入れても、それほど離れた場所に沈座したとは考えられないから、捜索範囲はせいぜい半径三百メートルで済む。冷静なフリッツの声に多少は気分を落ち着かせつつ、征人は「そんなものがあるとは知りませんでした」と返した。
(教えていないからな。艦長だって知らんだろう。だがそういう手品を満載しているのがU……〈伊507〉だ)
吐き捨てられたフリッツの声には、自嘲の色があった。〈UF4〉もその乗員も、ある種の実験台にされていたのだろうと推測する一方、当初から〈伊507〉を出し抜き、〈ナーバル〉を専有するつもりでいたらしいフリッツの底意を再確認した征人は、「ローレライも、その手品のひとつというわけですか?」と皮肉を返してやった。無言の数秒を挟み、フリッツは(絶対に握り棒を離すな)と話題を変えた。
(ケーブルの強度は潜水装具の重量にも耐えられるはずだが、岩礁に引っかかればどうなるかわからん。送気ケーブルが切れたら、装具内の空気は五分しかもたんのだからな)
言われるまでもない。グローブのように分厚い手袋の生地を通し、征人は握り棒の感触を手のひらに確かめた。〈海龍〉から振り落とされれば、この底なしの闇に呑まれて二度と浮き上がれなくなる。腰のバラストをすべて捨てても、ヘルメットと潜永靴の重量だけで浮力は打ち消されてしまう。それさえもぬぎ捨てれば浮かび上がることはできるが、肺に空気が溜まっていれば気圧変化で膨脹して肺が破裂。空気を吐き出しきった状態で浮上するには、海面までの距離はあまりにも遠い。〈海龍〉にしがみつく以外、生還の確率は万にひとつもないのが征人の立場だった。
潜航を開始して五分も過ぎると、海面の揺らめきは完全に見えなくなり、ぎょっとするほど冷たい海流が潜水服を包んだ。徐々に変わるのではなく、ある深度から唐突に低下する水温の流れは、温度逆転層と呼ばれる海中の断層だった。ぬるま湯からいきなり氷水に放り込まれた体を慣らす暇もなく、水温はさらに低下の一途をたどり、汗でぐっしょり濡れた下着を冷やしてゆく。〈海龍〉のモーターの余熱に温められたはずの空気も、送気ケーブルを通る間に冷やされてしまい、征人は詰め物を抜かれた奥歯ががちがち鳴るのを止められなくなっていった。
(慎重に降ろせ。生身の人間を外に積んでるんだってことを忘れるな)
フリッツが言った途端、〈海龍〉の船体ががくりと沈み込んだ。征人は咄嗟に腕の力を強くして、〈海龍〉から浮き上がりそうになる体を押さえた。急激な気圧の変化に耳抜きが追いつかず、針で刺されたような痛みを訴える内耳に、(なにをやってる……!)とフリッツの怒声が響き渡る。
(海底潮流だよ! 水温が違えば水の密度も変わって、潜る速さも一定じゃなくなるんだ。……大丈夫か、征人?)
素早く体勢を立て直し、船体を水平に戻したらしい清永が呼びかける。何度も唾を飲み込み、中耳の空気を入れ替えた征人は、「……なんとか」と搾り出した。耳抜きが済んでも頭痛は完全には収まらず、こめかみを締めつけられる感覚もそのままだった。
(現在、深度五十メートル。おれが知る限り、生身でこの深さまで潜った人間はおまえが初めてだ)
勇気づけるつもりなのか、フリッツが言う。喜べとでも言うのかと怒鳴りたいのを我慢して、征人は無言を通した。
(耳抜きは順調か? 手足の震えや視覚異常、酒に酔ったような感覚は?)
「視覚は真っ暗でなにも見えませんし、酒はたしなまないのでわかりません」
(いまなにがしたい?)
「清永と同じです。少尉をぶん殴りたい」
日頃からは考えもつかない攻撃的な言葉が口をつき、征人はこれが窒素酔いかと不安になったが、フリッツは(正常らしいな)と涼しい声を返してきた。
(現行深度を維持。方位〇二八に進め)
八十馬力のモーターが唸り、船底に二基の外装式魚雷発射管を抱えた〈海龍〉の船体が前進する。七ノットの船足に、対向する海流の流速が加算され、台風なみの水流が正面から押し寄せてくる。セイルが風よけになるよう姿勢を低くして、征人は船体にしがみつき直した。
こめかみの痛みと寒さに耐え、〈海龍〉にしがみつき続けてさらに五分。吹きつける水流の勢いが弱まり、(これより捜索を始める)と言ったフリッツの声がヘルメット内に響いた。(ライトをつける。目をかばえ)と続いた声に、征人は瞼を閉じ、セイル脇の探照燈から顔を背けた。
音が出るような強烈な光が、閉じた瞼ごしに網膜を射る。征人はゆっくり顔を探照燈の方に戻し、光に慣れるのを待って徐々に目を開けた。セイル脇に架設された探照燈の背部からまばゆい白色光が滲み出し、皆既日蝕《かいきにっしょく》を思わせる丸い光の輪を作っていた。闇に慣れきった目にはまぶしすぎる光で、征人は思わず片手をヘルメットの前にかざした。
(かなり強力なライトだ。ランプを直接見るな。照らされた岩礁だけを見るようにするんだ)
「了解です」と返し、征人は慎重に足場から潜水靴を離した。握り棒を支えにして船体の上に立ち、セイル脇の架台、その上に設置された直径六十センチ強の探照燈と、順々に手の置き場所を変えてゆく。こわ張った筋肉が悲鳴を上げ、思ったより強い浮力のために体が浮き上がりそうになりながらも、征人はどうにか探照燈の背面に張り出す把手をつかむことができた。
痛む目を堪え、探照燈が照らし出す先を見渡す。海底から突き出す無数の岩礁が光輪の中に浮かび上がり、征人は耳抜きとは別の理由で生唾を呑み込んだ。
海流になめされた岩肌をさらし、剣山《けんざん》のごとく海底を覆う岩礁の群れは、まるでバカでかいフジツボの群生だった。地上の岩山に似た形のものもあれば、ほぼ柱状のもの、膨らんだ頂《いただき》を細長い柱で支える土筆《つくし》に似た形のものもある。無造作で無機的、しかしどこか艶《なまめ》かしく、生物的である光景。探照燈を左右に振り、見渡す限り同じ光景が続いているのを確かめた征人は、おさまった冷汗が再び噴き出すのを感じた。
ここは人間が足を踏み入れるべき場所ではない。悪寒と一緒にそんな思いが立ち上がった時、(どうだ、見えるか)とフリッツの声が響いた。「視界、良好」とひきつった喉で応答すると、(微速で進む。些細なものも見落とすな)という声がすぐに返ってきた。腹に力を入れ、征人は爬虫類《はちゅうるい》の皮膚を連想させる岩肌に目を凝らした。
奇怪な岩の群れを数メートル下に見つつ、両舷に翼を備えた〈海龍〉が三ノットの微速で前進する。下に向けた探照燈をゆっくり回し、照らし出した岩礁の頂を凝視する征人の横で、セイルから伸びた潜望鏡も左右に首を振る。レンズ仰角を最低にして、フリッツも探索の目を飛ばしているのだろう。少しでもそれらしい影が見えれば即座に報告し、征人が探照燈の光を当てて固定する。潜望鏡で確認したフリッツが方位を指示し、清永の巧みな操艇を受けた〈海龍〉が、峡谷《きょうこく》を縫って飛ぶ飛行機のごとくそちらに向かう。ほぼ十メートル間隔に並ぶ岩礁を相手に、半径三百メートルの捜索範囲は予想以上に広く、根気と体力だけが無為に消耗する時間が過ぎた。
海底までの深さは約八十メートルと聞いていたが、探照燈の光も底までは届かず、岩礁と岩礁の狭間には無限の淵と思える暗闇が横たわっている。〈ナーバル〉は岩礁には引っかからず、この奈落の底に落ち込んで圧潰《あっかい》したのではないか? 捜索開始から四十分、なんの進展も見えない事態にいら立ち、愚痴半分のつもりでこぼした征人は、(それはない)と否定したフリッツの声の硬さにびくりとした。
(〈ナーバル〉は必ず沈座可能な岩礁に身を潜めている。そのように設計されている)
(それもドイツ謹製の手品のひとつかよ?)と清永。フリッツはなにも答えなかった。思い詰めた空気がケーブルを介して肌に伝わり、自分が悪者になったような気分に駆られた征人は、無言で岩礁の捜索を再開した。
十分、二十分の時が積み重なるうち、こめかみの痛みが頭全体に広がり始め、体がだるくなってきた。探照燈を振る腕の動きも鈍く、ともすれば自分がどこにいるのか、なにを捜しているのかも忘れそうになる。(征人、気分はどうだ?)と清永が声をかけてきたのは、探照燈を一点に据えたまま、流れる岩礁をぼんやり見つめている時だった。
「少し……頭が重い」と答え、征人はのろのろと探照燈の把手を握り直した。しばらく黙った後、清永は、(いったん浮上して休憩した方がいいんじゃないか?)と心配そうな声を寄越した。
(まだだ。〈ナーバル〉は必ずこの近くにいる)
フリッツが言下に却下する。(征人を殺す気かよ……!)と怒鳴った清永の声が頭に突き刺さり、征人は微かに顔をしかめた。
(もう一時間以上も潜ってんだぞ。潜水服用の送気タンクを増設してる分、こっちの空気量だって限界があるんだ。給気してからまた続けりゃいいだろうが)
(そんな余裕はない。敵艦はすでにこちらを探知しているはずだ。いま浮上すれば確実に攻撃を受ける)
議論に割って入る気力もなく、征人は探照燈を動かし、岩礁の観察に専念した。とにかく見つければいい、〈ナーバル〉を見つけさえすれば問題は解決する。半ば思考を放棄した頭にくり返し呟さ、探照燈を二時の方向に向けた瞬間、鈍く輝くなにかが光輪の中に浮き立った。
心臓が跳ね上がり、頭の靄《もや》が瞬時に消し飛んだ。征人は探照燈を固定し、光が届くぎりぎりのところにあるそれを注視した。距離は三十メートル……もっと遠くか? 遠い昔に崩落したのか、根元から折れ、隣の岩にもたれかかってそのまま一体化したらしい岩礁の頂に、光を反射するなにかがある。二つの頂が重なる段差部分に沈座し、人工的な曲線を描く艦首をわずかに覗かせて――。
艇首。無意識に形になった言葉に驚き、征人は息を呑んだ。(短時間に浮上と潜水をくり返せば、折笠の体にかかる負担も大きくなる。一気に片付けた方が……)と続くフリッツの声を、「あれ、違いますか?」と遮り、〈海龍〉の動きに合わせて探照燈をじりじりと回転させる。艇首と思われる部分の後方で再び反射光が瞬き、征人は期待を膨らませた。
位置関係から推測して、潜望鏡のレンズではないか。もしそうなら、実にうまい場所に引っかかってくれたものだと征人は感心した。背の高い方の岩礁の頂が艇の上に張り出し、船体を隠しているから、海上から探信音波を当てただけでは見つかりようがない。海中から捜したとしても、複数の角度から探信音波を当てて精査しない限り、岩礁の一部と判断されただろう。まるで誰かが意図的に隠そうとしたかのようだ……。
〈海龍〉の潜望鏡で確認したのか、(よくわからん。もっと寄せろ)と、フリッツは打って変わって押し殺した声を出す。艇尾の横舵が魚のひれのように向きを変え、〈海龍〉の船体が問題の岩礁との距離を縮める。船体がわずかに傾き、体勢を崩した征人は、ずらしてしまった探照燈の光を慌てて岩礁に向け直そうとした。焦りと興奮で手元が狂い、あらぬ方を照らし出した探照燈を引き戻しかけて、不意にひやりとした緊張が背筋を走った。
理由はわからない。だが無視してはならないと叫ぶ本能につき動かされ、征人はなにもない闇の海に探照燈の光を飛ばした。舞い散るプランクトンの死骸が光輪を横切るだけで、自分を緊張させたなにか、視界を一刹那よぎったはずのなにかは見当たらない。(なにをやってる。岩礁を照らせ)と言ったフリッツを、「静かに」と黙らせた征人は、その瞬間、自分を緊張させているものの正体に思い当たった。
見たのではない、聞いたのだ。〈海龍〉のモーター音に紛れ込んでいるその昔は、次第に周波を高め、こちらに迫りつつある。艇内からは聞き取れなくとも、生身に近い体を海中にさらしている征人には、空気中の四倍の速度で伝わる音がはっきりと聞こえる。水を裂く音。ピッチの早いスクリュープロペラの音。(なんだ、どうしたんだ?)と長閑な声を出す清永を無視し、探照燈の光を左から右に移動させた征人は、光輪の中にそれが浮かび上がるのを見た。
水泡の尾を引いて、それは斜め上方からまっすぐこちらに猪突《ちょとつ》してきた。小指の先ほどの大きさがみるみる拳大になり、鋼《はがね》の弾頭の形を明瞭にする。距離は……三十メートルとない。
「魚雷だ! 三時の方向、上!」
(魚雷……?)と清永が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出し、(回避しろ!)とフリッツが叫んだ時には、全長六メートル強の空気式魚雷が征人の目前を通過していた。
右上から左下に抜けた魚雷と〈海龍〉との距離は、五メートルと離れていなかった。魚雷の巻き起こす緩衝波《かんしょうは》が突風のごとく吹き荒れ、〈海龍〉の船体が大きく右に傾く。征人は探照燈にしがみついて振り落とされるのを防ぎ、清永とフリッツの動揺の声をヘルメットの中に聞いた。消失した上下の感覚を取り戻そうと、目まぐるしく動く探照燈の光を追いかけようとして、唐突にわき起こった凄まじい閃光《せんこう》に視界を塞がれた。
直後に天地を鳴動させる大音響が鼓膜を聾し、沸騰する水流が押し寄せてくる。〈海龍〉が木の葉のように弾き飛ばされる衝撃の中で、人ひとりの体は塵《ちり》ほどの重みも持たなかった。見えない巨大な手にわしづかみにされ、息ができなくなったかと思うと、征人はあっさり〈海龍〉から引き剥がされた。
探照燈の光線が、錐揉《きりも》みする〈海龍〉に合わせて闇の中をでたらめに照らし、船体からのびる二本のケーブルと、それを隠して膨れ上がる砂塵《さじん》を浮かび上がらせる。付近の岩礁に魚雷が直撃したらしいとわかったが、まともにものを考えられたのはそこまでで、後は奈落に引きずり込まれる恐怖が征人を支配した。ケーブルが切れれば、沈降を食い止める術はなくなる。途切れ途切れに聞こえる清永の悲鳴を頼りに、征人は文字通り命綱となった二本のケーブルをつかみ、夢中で手繰り寄せた。
(折笠、応答しろ!)
なにも見えない闇の中に、フリッツの声が響く。征人は「聞こえます! 落ちましたが、無事です!」と全身を声にした。
(よく聞け。もし我々が沈んで、おまえだけ〈ナーバル〉に取りつけたら……浮上装置は作動……るな。いま浮き上がれば敵に捕捉……れる)
通信装置が不調なのか、通信ケーブルが切れかかっているのか。後者でないことを祈りつつ、征人は「通信不明瞭! くり返してください」と叫んだ。
(……で待機……。……に任せればいい。……を制御下に置く暗号がある。パウラ、だ)
「パウラ……?」
飽和した頭でも、その言葉は深く征人の内奥に染み渡った。(必ず……えろ)と、ぶつ切れになったフリッツの声が続ける。
(そうしない限り、ローレライは自壊するよう……ている)
なにを言ってるんだ、いったい。口中に罵り、征人は聞き返す手間を惜しんでケーブルを手繰った。
砂塵に覆われてしまったのか、〈海龍〉の探照燈はどこにも見当たらず、ケーブルも自分の腕も見えないありさまだったが、ケーブルを引っ張る手応えは間違いなくある。それが正気を保つ唯一の方策と心得て、征人はひたすらに手を動かした。腰に巻いたバラスト・ベルトを外した方がいいかと考えたが、たとえ一瞬でもケーブルから手を離す気にはなれなかった。ごうごうと唸る地鳴りに似た音、自分の呼吸の音に別の音が相乗したのは、その時だった。
魚雷の駛走音《しそうおん》と気づいてから、再度の閃光が発するまでに一秒の間はなかった。岩塊を含んだ水泡が爆発的に弾け、悲鳴と雑音をわめき立てたレシーバーがぶちっと嫌な音を立てた。閃光が十メートルと離れていない〈海龍〉をつかの間照らし、一拍早く衝撃波に呑まれた船体から、円形の物体が弾け飛ぶのを征人は見てしまった。
それがケーブルのリールだと気づくより先に、岩礁を粉砕して余りある爆発の力が襲いかかってきた。全身をもみしだく衝撃波が五官を塞ぎ、鉄と鉄がぶつかりあう激しい音が後頭部に響き渡る。視界の暗闇より暗い昏倒の闇がじわりとわき出し、征人の意識を包み込んでいった。
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雷撃可能深度ぎりぎりの水深六十フィート(約二十メートル)から、航走深度を百七十に調定した魚雷を発射して、三分と少し。遠雷に似た断続的な崩落音は、パッシブ・ソナーを介さずとも聞き取ることができた。「わからんのか?」と水測長をせき立てるファレルに、キャンベルは虫を見下す一瞥をくれた。
「爆発の衝撃で連鎖的に崩落が始まっているようです。Xの微小なキャビテーション・ノイズを探知するのは当分、不可能です」
アメリカ製魚雷の性能の悪さは定評のあるところだが、動かない岩礁に当たって起爆する程度のことはできる。弾頭に二百九十三キロの炸薬を装填したMk14魚雷が二基、さほど離れていない場所で立て続けに爆発すれば、浸食の進んだ岩礁は衝撃波だけで崩落するのが道理だった。パッシブ・ソナーが使用不能になるのは覚悟の上だったので、キャンベルは非難がましい目を向けるファレルの相手はせず、「かまわん。前進だ」と無表情に言った。
ファレルのみならず、航海長もぎょっとした顔をこちらに振り向けたが、無表滴を崩さない艦長を確かめると、すぐにあきらめた目を逸らしていった。対〈シーゴースト〉戦でキャンベルが培った勘を、彼らは理解も無視もできないものとして受け入れている。復誦が司令塔から操舵室に行き渡るのを待ってから、キャンベルは「それでいい」と独りごちた。
Xが沈んだという保証はどこにもなく、魚雷を装備している可能性も否定はできない。パッシブ・ソナーが使えない状況で迂闊《うかつ》に前進するのは、自殺行為に等しい。〈シーゴースト〉が接近するまでは息を潜め、ソナーが回復するのを待つ。それが常識的な判断であることは承知している。だが〈シーゴースト〉は、常識的な判断で対処できるような相手ではない。
奴は必ずこの爆発に吸い寄せられてくる。魔力の源である『魔法の杖』が破壊される前に、危険を承知でこの海域に飛び込んでくる。理屈ではなく、それが〈シーゴースト〉との戦いで培ったキャンベルの勘だった。その勘が働いたからこそ、〈トリガー〉はぎりぎりの死地を幾度も免れ、僚艦を沈められてもなお生残してきたのだ。
待ちの態勢では奴は沈められない。待ち伏せるのではなく、先に『魔法の杖』の近くにまで前進し、人質に取ったように見せかけておびき寄せる。艦の基本性能に開きがある以上、敵を焦らせ、逸《はや》らせない限り、確実な勝機はつかめないとキャンベルは判断していた。それ一本で家が買えるほど高価な魚雷を、何本使おうともかまわない。そうするだけの価値はある。勘定は、この任務を押しつけた海軍情報部《ONI》が払ってくれよう。
こちらには、十日間の海底探索で得た岩礁地形の詳細な資料もある。今次大戦において、潜水艦同士が戦闘を行った例は数えるほどしかなく、水中戦闘に至ってはわずか三例のみ。〈シーゴースト〉はそのうちの二つに関わり、いずれも勝利を収めているが、それは『魔法の杖』があったればこその話だ。いまや条件は対等――いや、この海域の地形特質を知り抜き、自力で学んだ水中戦闘のノウハウを持つこちらの方が、圧倒的に有利だと言える。今度は勝てると内心に呟いたキャンベルは、ふとちくりとした痛みが胸を刺すのを感じた。
戦闘に取り憑かれている。〈シーゴースト〉がどう出るかを確かめたくて、藪《やぶ》をつつくような真似をしているのではないか? 〈スヌーク〉が合流する前に〈シーゴースト〉を沈め、自分の実力を誇示するために。だとしたら、自分は艦長失格ということになるが、功名心なくして勝利はないという考え方もある。藪をつつかなければ事態は進展しないものだと思い直し、キャンベルは短い内省の時間を終わりにした。
なにも知らない〈スヌーク〉が増援に来たところで、足手まといになるのは自明。自分と〈シーゴースト〉との間には、ONIや太平洋艦隊司令部はもちろん、ファレルたち乗員も介入できない特殊な力場《フィールド》が形成されている。いまさら外野に横槍《よこやり》を入れられる筋合いはない。この充足感を求めて、自分は潜水艦に生涯を捧げてきたのだ。キャンベルはそう結論し、そのために犠牲にした陸《おか》での生活を脳裏から追い出すと、「水雷長、報告」と令した。
「三番から六番、準備よし。一番二番、再装填作業継続中」
「よし。崩落が収まるのを待って三番、四番を射出する。ソナーは〈シーゴースト〉の探知に全力をあげろ。『魔法の杖』が破壊されると知れば、奴は必ず出てくる。ジャップの手に落ちても、その足音は変わっていないはずだからな」
言ってから、キャンベルはファレルを横目で窺った。愛想笑いひとつ浮かべず、ファレルは疲れきった顔を背けた。別にかまわないと思い、キャンベルも背を向けた。
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『……いいのかい?』
その声は、白く塗り潰された世界から滲み出し、混濁した頭の中に広がっていった。誰だろうと思ったのも一瞬、腐葉土《ふようど》の懐かしい匂いを嗅ぎ、紙テープの補修跡が目立つ玄関の曇りガラス、下駄箱の前に置かれたヤツデの植木鉢を視界に入れた征人は、そこにいる自分をなんの違和感もなく受け止めた。いいとかよくないとか、そういうことじゃない。あなたはどうしたいんだ、母さん? 瞬時に全身を支配した胸苦しさを押し隠し、『いいよ』と答えていた。
『それじゃあ、ここで……』
『うん』
ゲートルを巻き終え、征人は玄関の上がり框《がまち》に座る母を振り返る。期せずして同時に立ち上がり、向き合ってみたが、互いに交わす言葉はなかった。父が残していったという懐中時計はすでに受け取っていたし、世の母親が出征する息子に投げかけるだろう言葉も、昨夜のうちにあらかた聞いてしまっている。十四の春に家を出て以来、数えるくらいしか会っていない母との間に、言葉はいらないと言えるほど感情の繋がりがあるわけでもない。互いの距離を埋めるには短すぎ、ただ顔を突き合わせ続けるには長すぎる時間が、母との問に降り積もってゆくだけだった。
玄関の外では、出征を見送る村の人たちが待ち受けている。『おまえのお袋さんには昔、よく世話になったからな』が口癖の村長。言葉の本当の意味に気づいたのは国民学校を卒業する少し前だが、猥雑《わいざつ》な笑い方は子供の時分から癇《かん》にさわった。『女郎の子』『父《てて》なし子』と、さんざん悪態をついてきた同級生たち。にこやかに挨拶を交わした後、決まって好奇と侮蔑の入り混じった目を向け、口さがない噂話に花を咲かせていた隣組の主婦たち。有形無形に干渉し、差別し、徹底的な引け目を母に植えつけた故郷の大人たち。そうして常に顔をうつむけ、息子の出征を見送ることさえためらうようになった母は、自分に恥をかかせまいとしてここで見送ると言ったのか、単に人前に出たくないだけなのか。征人にはその程度のこともわからず、すべて『いいよ』で済ませ、きちんと母と向き合おうとしなかった我が身の不実も含めて、気まずい沈黙を甘受するしかなかった。
『行ってまいります。お達者で』
だから征人は、敬礼をして他人に向けるべき声を出した。驚いたように顔を上げた後、母はなにかを言おうと口を動かしかけたが、言葉が出るより先に目が伏せられ、あきらめとも自責とも取れるいつもの表情がその顔を覆った。そう、いつでもあとひとつの言葉が出てこない。自分を責めるばかりで、立ち向かおうとしない。最初からあきらめているんだ。あなたはそれでいいのかもしれないけど、子供の方はたまらないよ。どうしてうつむいているんだ? なぜ闘おうとしないんだ? 母さんが胸を張ってさえいたら、ぼくはいつまででもここに残って背中を支えてあげられたのに……。
この三年で自分より背丈の低くなった母は、深々と頭を下げたきり動かなかった。征人は回れ右をして家を出た。
在郷《ざいごう》軍人の村長は、この時も陸軍の軍衣を身につけていた。『お袋さんは来んのか?』と言った村長に、征人は『はい』と答えた。村長はだらしなくたるんだ顎をさすり、『うん……。その方がいいだろうな』と、わけ知り顔で呟いた。征人は、その軍靴に唾を吐きかけてやりたかったが、我慢して行列の先頭に立った。
駅につくと、村長が長々と祝詞《しゅくし》を述べた。『かかる決戦下の時局においては、もはや勝敗の帰趨《きすう》は問題ではなく、国民ひとりひとりがどれだけ皇国のために尽くせるかが問われているのであり、我が小村から折笠征人君が出征されることは……』と続く演説を聞き流し、征人は揺らめく幟旗《のぼりばた》の向こうに視線を飛ばした。手に手に国旗を握り、退屈そうな顔を隠しもしない他人たちが居並ぶ人垣に、母の姿を見つけることはできなかった。
汽車に乗ってからも、見慣れた畦道《あぜみち》や、小川に架《か》かる橋の上に母のもんぺ姿が立っているような気がして、征人は飽かずに窓の外を眺め続けた。それだけでなにかが報われる、恐れずに死ねるのではないかと根拠のない期待を抱き、そんなふうに考える自分に嫌気がさした頃、周囲の乗客が次々に窓を閉め始めた。トンネルが近い証拠だった。トンネルにこもった煤煙《ばいえん》が客車に入らないよう、征人も窓を閉めた。
トンネルに入った途端、視界が真っ暗になった。なにも見えない、自分がどこに座っているのかもわからなくなる無明の闇だった。汽車の音も聞こえなくなり、征人は慌てて周囲を見回そうとしたが、指ひとつ思い通りには動かなかった。自分の肉体が存在しているのかどうかもあやふやになり、どす黒い恐慌の波に胸を覆い尽くされる刹那、聞き覚えのある調べが遠くから聞こえてきた。
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名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子《やし》の実ひとつ
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かぼそく、いまにも絶えてしまいそうでありながら、芯に肉感的な強さを宿した女の歌声。ラジオで何度か聞いたことがある唄……たしか『椰子の実』だ。どこから聞こえるんだろう? 誰が唄っているんだろう? 征人は耳を澄まし、遠い、それでいて身近に響く歌声に意識を集中した。体中の細胞が唄の旋律に共鳴し、生を主張して、あやふやだった肉体の存在を確固にしてゆく。やさしく、懐かしい、そして哀切に満ちた旋律だった。
『最後まであきらめるな。自分の目を信用しろ』
弛緩した脳に野太い声が突き刺さり、征人はぎょっとなった。出所不明の光源に照らされて、暗闇の中に田口の姿が浮き立っていた。咄嗟にあとずさろうとした足が空を切り、征人は虚空に投げ出された。猛烈な落下の感覚が襲いかかり、直後に重い粘液の膜が全身を包み込んでいった。
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故郷《ふるさと》の岸を離れて
汝《なれ》はそも波に幾月
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限りなく黒に近い紺色が、耐衝撃金具の格子ごしをぼんやり浮かび上がらせる。目を閉じ、本当の闇と較べてみなければわからない程度の微かな色だった。無法松め、目を信用しろって言ったって、これじゃどうにもならないじゃないか。夢と現実の界面を漂う田口の顔に毒づき、征人は遠い歌声に身を預けた。
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旧《もと》の樹は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
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二番があったんだ。ラジオではいつも一番しか放送しなかった……いや、この何年かは軍歌ばかりで、こういう普通の唄はほとんど流さなくなっていたんだっけ。
「枝はなお影をやなせる……か」と呟き、なるほど、これが窒素中毒か、酒に酔った感じとはこういうことを言うのかと、他人事の思いで納得した征人は、その瞬間、ぼやけた頭に電気が走るのを感じた。
同時に、間断なく鼓膜を震わせる音が意識に滑り込んでくる。巨岩がぶつかりあう重い音と、大小の岩が斜面を転げ落ちる乾いた音。重苦しい水圧を通して聞こえてくるそれは、海底岩礁の崩落する音だ。回収作戦、〈海龍〉、魚雷、閃光、衝撃。記憶の断片が現れては消え、征人は本能的に五体の無事を確かめた。どこにいるのかわからないまま上半身を起こし、分厚い手袋で両腕と両足をさすって、最後にヘルメットの後頭部に手を回す。ケーブルをつかむはずの手が空をつかみ、全身の血が音を立てて引いた。
潜水服内部の空気がもつのは五分。何分気絶していた? ここはどこだ? 〈海龍〉は無事なのか? 恐慌に陥った頭が矢継《やつ》ぎ早《ばや》に疑問を繰り出し、征人は夢中で周囲を見回した。暗黒に多少の紺色を混ぜた世界がまるい窓の外を流れ、闇を凝縮した黒い影の輪郭が視界をよぎる。岩にしては妙に直線的で、滑らかな輪郭。右の方に見えた影に近づこうと、征人は両手をついて立ち上がった。海底とも岩礁の頂とも違う平板な感触が手のひらに伝わり、鉄板を金槌で叩く音が足もとに発して、どきりとした。
潜水靴の底の金具が立てた音だった。地面を踏んだ音ではないとわかった途端、なにも考えられなくなり、征人は這うように影を目指した。鉄板を張った甲板に手袋を這わせ、内包する耐圧殻の形を引き移した舷の曲線、上部ハッチのハンドルの感触をひとつひとつなぞってゆく。事前に見た図面を頭に呼び出し、黒い輪郭――平べったいセイルと、そこからのびる潜望鏡の形もなぞり終えた征人は、腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。
「〈ナーバル〉……?」
全長十八・三メートル、排水量四十五トン。魚雷に潜望鏡をつけただけの日本の特殊潜航艇と異なり、大型潜水艦をそのまま縮小した形状を持つ船体。〈海龍〉の二倍に相当する体積の船体に、特殊兵器を内蔵したドイツ海軍の特殊潜航艇《ミゼットサブ》――。捜し求めていた目標、〈ナーバル〉の上に自分はいる。無意識に発した声が喉に引っかかり、征人は咳《せ》き込《こ》んだ。反射的に息を吸い込んだ口から喘《あえ》ぎ声が漏れ、頭の芯がぼうっと熱くなる。萎《しぼ》んだ肺が元に戻れず、鋭い痛みを発するのを知覚した征人は、忘れかけていた恐怖をぶり返させた。
空気がなくなりかけている。急がなければという思いが固まり、なにを急ぐんだと自問した征人は、肺の痛みを堪えて〈海龍〉の姿を捜した。濃紺一色の視界に探照燈の光を見つけることはできず、爆発の衝撃で吹き飛ばされた時の様子が脳裏に浮かんで、すぐに捜すのをあきらめていた。
もうフリッツも清永もいない。自分で判断し、行動しなければならない。気を抜けば染み出してくる恐怖と後悔を押し留め、征人は手探りで〈ナーバル〉の上を移動した。まずはセイルの脇にある整備用ハッチを開け、緊急浮上装置のレバーを目前にする。左からA、B、C、D、Eと並ぶ五本のレバーをD、B、C、A、Eの順番で倒せば、緊急浮上装置が作動して排水が始まり、〈ナーバル〉は自動的に浮上を開始する。簡単な話だ。腰のバラスト・ベルトを外し、セイルの上に這い上がった征人は、記憶の中の図面と照らし合わせてセイル側面をまさぐった。ハッチの把手が手袋に覆われた指先に当たり、迷わず開けようとして、土壇場《どたんば》で手の動きを止めた。
いま浮上すれば敵艦に捕捉される。フリッツが残した言葉を思い出すまでもなく、明らかなことだった。それは避けなければならない。たとえここで死んでも、〈ナーバル〉を敵に渡すわけにはいかない。無条件にそう考え、なぜだ? と再び自問した征人は、そうまでして生き延びても意味がない、それは卑怯者のすることだと自答して、うんざりした。文句を言ってるわりには、おれもしっかり軍人気質に染まってるんじゃないか……。
でもこれは不公平だ。浅く、忙《せわ》しない自分の呼吸を聞きながら、征人は〈ナーバル〉の船体を力なく殴りつけた。このまま窒息するまで苦しんで、胸をかきむしって死ぬなんて辛すぎる。これなら敵に撃たれたり、特攻で死んだりする方がはるかにましだ。清永が広島で言ってたっけ、おまえの運はここで使い果たされたって。まったくその通りになった。よりにもよって最悪の死に方を引き当ててしまった。使い果たしたって思えるくらい、いいことがあったわけじゃないのに。ただおケイさんと会って、飴羊羹をもらって、レコードを聞かせてもらって――。
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我もまた渚《なぎさ》を枕
独り身の浮寝の旅ぞ
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違う、その唄じゃない。おケイさんと一緒に聞いたのは……。朦朧《もうろう》とした意識で呟いてから、征人は目を見開いた。
いつの間にかうつ伏せになっていた体を起こし、ヘルメットを船体から離す。かぼそい女の歌声はぴたりとやみ、収まりかけた崩落の音が鼓膜を震わせた。もう一度、今度は慎重にヘルメットを船体につける。歌声とも息づかいともつかない音がヘルメットに伝播《でんぱ》し、『椰子の実』の旋律を奏でて、征人は慌てて上半身を起こした。
あり得ない。窒素中毒、あるいは酸素不足がもたらす幻聴と結論づけた理性を無視して、本能に支配された体は勝手に動き出していた。征人は全力で〈ナーバル〉の上を這い、前部甲板にある上部ハッチのハンドルに手をかけた。
本当に人がいるのか、それが誰なのかはどうでもよかった。〈ナーバル〉の中には空気がある。ハッチの上に吹き溜まった土砂を払いのけ、征人は残る酸素を消費し尽くす勢いでハンドルを回した。ハッチを押さえつけているはずの水圧の力も、開けた途端に艇内が水浸しになる可能性も、完全に意識の外だった。
腰に力を入れて持ち上げると、ハッチはあっさり口を開いた。気圧差が存在しない――すなわちハッチの下も海水で満たされていたのだった。ひとつかみの気泡が嘲笑《あざわら》うように漏れ出し、上昇していったが、征人はあきらめなかった。おれは、『椰子の実』の二番の歌詞を知らない。幻聴を否定する唯一の論拠を酸欠気味の頭で反芻《はんすう》し、まるい口を開けるハッチの中に飛び込んだ。
ハッチの下はまったくの闇だったが、前後左右が隔壁で隔てられ、そこだけ独立した区画になっていることは手探りでもわかった。前後の隔壁には艇内に通じる水密戸が設けられ、左右の隔壁には各種バルブやレバー、計器が並ぶ。人ひとり入るのがやっとの広さで、身動きするたびヘルメットを隔壁にぶつけつつ、だいたいの様子を手探りでつかんだ征人は、次に片っ端からバルブを回し、レバーを上げ下げしてみた。
壁の非常灯が唐突に瞬き、あまりのまぶしさに征人は目を覆った。薄暗い赤色灯でも、暗闇に慣れすぎた目には直射日光に等しい強い光だった。点滅する赤色灯に注意を喚起され、征人は開けっぱなしにしていた上部ハッチを閉めた。赤色灯の点滅が止まり、鈍い振動が艇内に走ると、ポンプの作動する音が足もとに響き始めた。
室内の水位が急激に下がり、甲高い注気の音が頭上を騒がせる。水位が首の位置まで下がりきるのを待たず、征人はヘルメットを外しにかかった。送気ケーブルが切断した後、自動的に閉鎖した吸気弁の栓を開けて徐々に空気を送り込み、潜水服内の減圧された空気を排気弁から逃がす。フリッツからさんざん聞かされた潜水病の恐怖が、すぐにでもヘルメットをぬぎ捨て、空気を貪《むさぼ》り吸いたい衝動に歯止めをかけていた。
新鮮な空気が流れ込んで肺を潤し、こわ張った体を弛緩させる一方、急激な気圧の変化に内耳は悲鳴をあげ続けた。涸《か》れるほど唾を飲み下して耳抜きに励み、その合間にわずかな空気を貪って、ともかくもヘルメットを外せたのは何分後のことだったか。気がついた時には四つん這いになり、征人は全身で息をしていた。室内の水は完全に排出されており、とめどなくしたたる汗と涎《よだれ》、鼻水と涙が、海水に代わって排水口を流れ落ちていった。
どうにか呼吸を整え、涙と鼻水を拭いきった征人は、そのまま横になりたい体を律して、ここと艇内とを隔《へだ》てる水密戸を見つめた。暗い赤色灯に照らされ、なんの変哲もない円形の水密戸が封印の重みを放っていた。
問題はこれから、だ。征人は手袋を外し、そのハンドルに手をかけた。まだ海水を滴らせるハンドルは、驚くほど冷たかった。
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十字線に区切られた視界に、岩礁とは質感の異なる黒い物体がよぎる。旋回把手をぎゅっと握りしめ、「そこだ。止めろ」とフリッツは素早く言ったが、次の瞬間には黒い物体は下方に流れ、舞い散る微生物の死骸だけが潜望鏡のレンズを埋めた。
「止めろと言ったろう」
照射角度を調整する潜水要員がいなくなり、探照燈は右下を向いたままになっている。潜望鏡の狭い視野に特定の目標――〈ナーバル〉を収めようと思えば、〈海龍〉の船体角度を調整するしかない。潜望鏡の接眼部から目を離し、前部座席に収まる清永に文句を言うと、「無理言うな!」という怒声が即座に返ってきた。
「舵がきくだけめっけもんなんだ。お望みのところでぴたりと止まるなんて芸当、できるかよ」
「そんなにひどいのか?」
「モーターは不調、水平計はパー、水中翼はひん曲がって船体の姿勢維持は困難。蓄電池の硫酸ガスが漏れなくておめでとうってところだ」
いら立たしげに答える間にも、清永の目は操縦装置と各計器を忙しなく行き来し、操縦桿とペダルを操る四肢も休みなく動き続ける。五体をばらばらに引き裂くような衝撃の中でも舵を取り、注水による加重で船体の姿勢を制御した清永の機転がなければ、〈海龍〉は岩礁に叩きつけられて沈没していた。操艇はこの男に任せておけばいいと思い、〈海龍〉が損傷していることすら忘れていたフリッツは、自分の気の弛みように少し愕然《がくぜん》とした。
ドイツにいる時は、こんなことはあり得なかった。このおれが他人に背中を預けるなんて……。
「で、どうなんだよ」
清永がぶすっとした声を寄越し、無意味な自問を打ち消したフリッツは、「よくわからん」と負けずに無愛想な声で応じた。
「さっき見た時は、〈ナーバル〉の上に折笠らしい姿が見えたんだが」
〈ナーバル〉が沈座する岩礁の頂は、林立する周辺の岩礁にねじ曲げられ、複雑にうねる海流を受け止める位置にある。岩礁のただ中で魚雷が起爆すれば、衝撃波の水流も海流と同じ経緯をたどり、流された岩の破片や土砂が吹き溜まったとしてもおかしくはない。折笠も例外ではなく、先刻まで〈ナーバル〉の上に仰臥《ぎょうが》する潜水服姿があったのだが、不調を訴える船体を押して再び近づいてみれば、その姿は忽然《こつぜん》と消失していた。
「目を覚ました拍子に、海の底まで滑り落ちちまったのかな……」
清永が言う。はるか昔に倒壊した岩礁同士がくっつきあい、他の岩礁より広い面積を持つ頂も、全長十八メートル、最大幅二メートル強の〈ナーバル〉が沈座すれば、残された余地はほとんどない。なにかの弾みで〈ナーバル〉から滑り落ちた折笠が、そのまま海底に転げ落ちた可能性は十分にある。フリッツは、「かもしれん」と同意した。
「あるいは……」
艇内に入った可能性もある――。口を閉じ、そうだった場合の事態の推移を予測しかけて、「なんだよ?」と焦《じ》れた声を出した清永に思考を中断させられた。「いや」と言葉を濁し、フリッツは動揺を読み取られる前に潜望鏡に顔を当て直した。
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水密戸は思いのほか簡単に開いた。微かに軋んだ音を立てて円形の扉が開き、ひどく明度の低い赤色灯の明かりが戸口からこぼれる。中の広さも、物の輪郭をつかむのもおぼつかない頼りなげな明かりで、戸口に顔を突っ込んで様子を窺おうとした征人は、不意に頭痛と吐き気を覚えて戸口の縁に手をついた。
長らく閉鎖された坑道に、不用意に足を踏み入れた感じだった。酸素が希薄なのだと直観して、征人は反射的に鼻と口を手で覆った。そのままゆっくり息を吸い、吐いて、耐えられないほどのものではないと確かめてから、潜水靴に覆われた足を慎重に戸口に差し入れる。靴底が床を打つ乾いた音の代わりに、水面を割る密やかな音が狭い艇内にこもった。
浸水している? 咄嗟に足を引こうとして、潜水靴の重みに逆に引っ張られてしまい、征人は戸口の縁に尻餅をついた。体勢を立て直す間もなく艇内にずり落ち、闖入者《ちんにゅうしゃ》の体積を受け止めた水がざわざわと騒ぐ。膝までの深さであっても、暗闇で冷たい水を浴びせかけられた恐怖は尋常なものではなく、征人は隔壁を支えにして夢中で立ち上がった。直後に後頭部に鋭い衝撃が走り、天井にぶつけた頭を抱えて、その場にうずくまる羽目になった。
じんじんと痛む後頭部を押さえ、食いしばった歯の隙間から落ち着け、落ち着けと搾り出し、きつく閉じた目を恐る恐る開けてみる。多少は闇に慣れた目に、艇尾側の隔壁に設置された赤色灯、鈴なりのバルブや錯綜《さくそう》するパイプに覆われた壁、天井から吊り下がる小振りな潜望鏡といったものが映り、同時に幅五尺(約一・五メートル)強、奥行き四間(約七・二メートル)ほどの艇内の造作が、しんとした冷気とともに征人の神経に知覚された。
天井は内殻の形状に沿って丸みを帯び、その下で赤色灯の光を映す水面が揺らめいている。船体の傾斜のせいで水位は右側が深く、左側が心持ち浅くなっており、水面から露出した左側の壁に、目盛りらしき線と数字が記してあるのが辛うじて見えた。水上艦船の喫水線《きっすいせん》に記す喫水標とそっくり同じ図柄で、よく見れば基準線を境に壁の色が塗り分けられているのがわかる。赤色灯の下では色の識別は難しいが、基準線の下、すなわち常時喫水が前提の壁は、ざらついたペンキで幾度も塗り重ねられた形跡があった。床も含めて、おそらく錆《さ》び止《ど》め塗粧《とそう》が施されているのだろう。
つまり、浸水ではない。膝の高さまで張ったこの水は、意図的に艇内に導かれたものらしい。前後の隔壁の脇には注排水用のポンプ装置が二台置かれ、壁面の各種計器、レバーも防水用の囲いで覆われている。右側の壁に寄る形で配置された複座式の操舵席も、ちょうど水面の上に出る高さに調節されて――。
勝手に動いた自分の体が水面を騒がせ、赤色灯の反射光をかき乱した。光の波紋が低い天井を走り、蓄電池の整流筐《せいりゅうばこ》や舵角計《だかくけい》の計器を浮かび上がらせ、それらに囲まれた前部座席をつかの間映し出す。背もたれをいっぱいに倒し、半ばベッドと化した座席を凝視したまま、征人はずるずると座り込んでいった。
潜航操作機のレバーと舵輪《だりん》ごしに、周囲のいかつい金属とは異質の華奢《きゃしゃ》な足が見え、すらりと伸びた腿《もも》、ふっくらした曲線を描く腰を経て、生硬い膨らみを湛《たた》えた胸の形に視線がたどり着く。首から下を隙間なく包むゴムに似た材質の服は、潜水服のように着用者の体型を隠すことはなく、内側に何重にも張られた生地の分厚さを想像させながらも、着用者の性別を判断させるだけの一体感がある。腰に巻いたベルトはバックル部分が機械装置になっており、調節用のつまみと計器の隣に、コードの差し込み口らしき穴が開いていた。同様の差し込み口は肘当てと膝当てにもあり、艇内装置の一部であるかのごとき無骨さと、生々しい胸の膨らみとの落差に、征人はいよいよ混乱する自分を自覚した。
ぐったり座席に仰臥したその人の形は、腹の上に平べったい箱を載せ、ゴムに覆われていない両の手のひらでそれを抱えるようにしている。壁側を向いた顔は見えなかったが、鼻から口を覆うマスクが耳にかかった髪の隙間に覗き、箱からのびたゴムホースと繋がっているのが窺えた。空気清浄器だろう。箱に内蔵された苛性《かせい》ソーダで炭酸ガスを取り除き、長期潜航時の空気不足を補う個人用応急設備。壁にいくつか設置された非常用酸素放出器を見、零を指して動かない圧力計の日盛りも確かめた征人は、慎重に身を起こした。
理由はわからない。しかし目前に横たわる人の形が、恐ろしく長い時間、艇内で死と闘い続けてきたことは疑う余地がなかった。同じ人間らしいという理解が安心になって胸に落ち、征人はゆっくり水面から体を抜くと、微動だにしない人の形に顔を近づけた。ゴム服の上からでは呼吸の有無も確認できず、しばらく迷った後、壁側を向いた顔に手をのばした。
ぴったりしたゴム服が手首も首筋も隠していれば、マスクを外して直接、息を確かめるよりない。指先に触れた髪の感触のやわらかさにどきりとしつつ、プラスチック製のマスクに触れようとした刹那、ぐらりと首が動き、マスクをした人の顔がこちらを向いた。外れかけていたマスクがその拍子にずり落ち、その者の素顔を間近に捉えた征人は、瞬時にすべての思考を忘れた。
予想外にぽってりとした唇、高くはないが整った鼻梁、形のよい眉の下で、閉じられた瞼を飾る長いまつ毛。それらの印象が視界の中で爆発し、渦を巻いて、征人の頭を白熱させた。女――それも明らかに東洋人と見える、自分と同年代の少女。無防備な額にぱらりと前髪が落ちると、まだ幼さを残す貌《かお》に得体の知れない艶《つや》が宿り、征人は慌てて少女から顔を離した。緊張や恐怖とは別の情動にぎりりと胸を締めつけられ、声をあげて逃げ出したいような、ずっと目を離したくないような、なにをどうしたらいいのかわからない忘我の境地を漂った。
瞬間、少女の瞼が割れ、ぬらと輝く二つの眼球が征人を見た。
透き通った瞳の奥で瞳孔が収縮し、自分の顔がそこに映ったと思った時には、冷たく硬い感触が喉元に突きつけられていた。銃口に顎を押し上げられ、征人はなす術なく一歩退いた。
「Ha:nde hoch. Keine Bewegung.」
硬質な異国の言葉とともに、少女の上半身がゆらりと起き上がる。空気清浄器が滑り落ち、派手な水飛沫を立てたが、喉に突きつけられた銃口はぴくりとも動かなかった。「Halt!」と重ねた少女の勢いに押され、征人は反射的に両手を上げた。
「Welche Nationalita:t hast du? Wie ist dein Name?」
撃鉄の上がるガチリという音が間近に響き、一瞬前の忘我の名残りを霧散させた。少女の目がすっと細まり、引き金を引くだけの覚悟はあると伝えるのを見た。征人は、抵抗という選択肢が指の間をすり抜けてゆくのを感じた。征人は小刻みに首を横に振り、せめて言葉がわからないと伝えようとした。「Antwortet! Das〈UF4〉Wo!」と続けた少女は、銃口を押し当てる力をますます強くしてきた。
喉が詰まり、どう頑張っても声が出なかった。征人はひたすら首を横に振り、敵じゃない、助けに来た、日本軍だと目で訴え続けた。虚しく口を動かし、殺意の塊になった少女の瞳を見返すうち、こわ張りきった少女の肩が心持ち緩み、喉にめり込む銃口の力が少しだけ弱まった。
伝わった……のか? 征人はあらためて少女と目を合わせ、すぐに違うと直観した。殺気の消えた少女の双眸は、虚脱という言い方ではまだ足りない、なんの感情も読み取れないガラス玉になっていた。ざわとした悪寒が走るより早く、征人の喉からすっと銃口が離れ、少女は無造作に自分の喉に自動拳銃の筒先を押し当てた。
両手でしっかりと銃把《じゅうは》を保持し、確実に脳天を貫く顎骨の間に銃口を当てる。やや上を向き、瞼を閉じた少女の顔を見た征人は、理屈もなにもなく、『ローレライは自壊する』と言ったフリッツの最後の言葉を思い出した。
他者のみならず、自分に対しても蹟躇なく引き金を引けるのだろう少女の指先が、安全輪から引き金に移る。ローレライを制御下に置く暗号、聞いたはずだ。異常事態の連続に混乱し、錯綜する記憶の中身をまさぐり、奇妙に耳に残るその言葉を拾い出した征人は、確かめる間を惜しんで腹に力を込めた。
「パ、パウラッ!」
久しぶりに出した声が頭蓋を揺さぶり、水面をも微かに揺らした。引き金にかかった少女の指がぴくりと震え、その瞼が開かれる。意志のないガラス主に疑念と当惑の色が浮かぶのを見た征人は、「パウラ……」ともう一度くり返した。
少女は黙って征人を見返している。パウラという語感を口の中で転がし、人の名前――この少女の名前だろうかと考えかけた時、素早く動いた少女の手が壁面にのびた。スイッチの音が響くと、爆発的な閃光が天井から降り注ぎ、征人は思わず手で目を覆った。
痛みを堪えて瞼をこじ開け、光の源《みなもと》を見ないようにしつつ、指の隙間ごしに外の様子を窺う。太陽より眩《まぶ》しく感じられる照明灯の下、錆び止めペンキで塗られた床面の赤銅色と、壁面から天井、各種装置を彩るくすんだ黒鉄色が、鮮やかな対比をなして征人の視界に飛び込んできた。
パイプとバルブが生《お》い茂《しげ》る、潜航装置に埋め尽くされた鋼の小部屋が露《あらわ》になり、〈伊507〉とは較べ物にならない閉塞感と圧迫感に征人は絶句した。船体の大きさから判断して、艇尾側の隔壁の向こうは主機や各種タンク、蓄電池を収めた機械室と見て間違いなく、ある程度の長期航行に耐えられる機関と燃料が搭載されているのだろうが、実際にこの穴蔵で一週間、一ヵ月を暮らすというのは想像外の行為だった。短時間、特殊潜航艇に乗って特攻するならまだしも、自分にはとても耐えられそうにない。征人は小さく身震いし、この穴蔵の主である少女に視線を移した。
ドイツ製の自動拳銃を片手にかまえ、少女は黙然と征人を見下ろしている。頭の小さい、均整の取れた肢体は一見長身に見えるが、実際には征人より拳ひとつ分は小さいらしい。背筋を伸ばして立っていても、少女の頭はぎりぎり天井にぶつからずに済んでいた。紐《ひも》とバンドで固定された長靴、黒いゴム服に包まれた足、そこだけ群青色《ぐんじょういろ》に塗り分けられた胸と肩を順々に見上げ、最後に少女と目を合わせた征人は、我知らず息を呑んだ。
長くマスクを当てていたせいだろう。警戒を示してきつく閉じられた唇の上で、鼻の頭がほんのり赤く染まっているのが痛々しく、どこか扇情的でもあった。瞳孔の引き締まった瞳は美しい鳶色《とびいろ》で、きめの細かい白い肌、肩の少し上でそろえた黒髪と絶妙に調和している。時も場合も関係なく、きれいだな……という単純な感想が征人の胸に立ち上がった。
少女はそんな場違いな感心に気づく様子もなく、子供のような仕種で鼻の下をこすり、虚をつかれた思いの征人にずいと身を近づけた。腰を屈め、肩の高さに掲げたままの征人の右手をひっつかむと、無言で床を満たす水に浸けようとする。咄嗟に抵抗しようとした途端、銃口の暗い穴が眼前に突きつけられ、「Keine Bewegung. Ha:nde in das Wasser.」と少女が命令口調の口を開いた。手首をつかんだ少女の左手に無数の皹《あかぎれ》を見つけ、ぎょっとなった征人の顔は見ずに、少女は征人の右手を水面下へと導いた。
冷たい水の感触が手に伝わって間もなく、なにかに凝視される感覚が背中を走った。暗闇を歩いている時にふと感じる、振り向くことさえためらわせる、五官以外の器官が捉える実体のない気配だった。肌が音を立てて粟立ち、征人は少女の手を振り払おうとしたが、硬直した少女の腕は簡単には外れなかった。顔を伏せ、閉じた瞼の下で忙しなく瞳を動かす少女は、そういう形の石であるかのごとく凝固し、いっさいの干渉を拒絶して水の中にあった。
そこから広がった波動が艇内に溜まった水に伝播し、ぞよぞよと蠕動《ぜんどう》した水が、それ自体の意志を持って体に絡みついてくる。潜水服を透過した水が毛穴に入り込み、肌の下を這い回る錯覚にとらわれた征人は、力任せに少女の手を振りほどき、水から逃れようと立ち上がった。勢い余って壁に嫌というほど頭を打ちつける結果になったが、痛みを気にする余裕もなかった。いつの間にか噴き出していた汗を拭い、征人は荒い息で少女を見下ろした。
「日本人?」
水中にうずくまったまま、少女がぽつりと言った。あまりにも自然に発音された日本語がすぐには耳に馴染まず、征人は「え?」と聞き返してしまった。
「エブナー……フリッツ・エブナーを知っているわね」
額に垂れた前髪をかきわけ、少女は断定に近い問いを重ねた。どうにか頷いた征人をまっすぐに見据え、「いまどこにいるの?」と続けられた声の調子は、完璧な発音の東京弁だった。
「……わからない。〈海龍〉に乗っていて、さっきまで一緒にいたんだけど、魚雷が爆発して……」
天井を向いていた銃口が唐突にこちらを向き、征人は口を噤んだ。
目を閉じ、顔も伏せた少女の体がこわ張り、水に浸した左手の指が不自然に開いてゆく。いきなり蚊帳《かや》の外に追い出されたようで、征人は「あの……」と遠慮がちの声をかけた。「黙って」と一喝し、少女は目を閉じた状態でもぐいと拳銃を突き出してみせた。
再び凝固した少女の体から波紋が生じ、水面に幾重もの輪を拡げる。征人はびくりと身を退き、壁に背中を押し当て直した。足もとから拡がった波紋が少女の波紋とぶつかりあい、緩衝しあって、複雑な幾何学模様を水面に刻む。いったいなにが起こっているのか、この少女は何者なのか。闇雲《やみくも》に考え、気触《きぶ》り者、神通力という無縁な言葉の数々につき当たったところで、見開かれた少女の目が征人を直視した。
「魚雷が来る。姿勢を低くして、その椅子につかまって」
なにを言われたのか、すぐにはわからなかった。「え?」と聞き返した征人に「急いで!」と怒鳴り、少女は前部座席にしがみついた。やはり気触りかと少女の奇行を見下ろし、ここは相手をしておくべきだろうかと迷った征人は、直後、甲高いスクリューの音を聞いてその場に棒立ちになった。
魚雷の駛走音、と理解した体が無条件に壁から離れ、後部座席の背もたれにしがみついたのは、先刻、生身で魚雷の爆発を味わった経験の賜物《たまもの》だった。小刻みなプロペラ・ピッチの音が頭上を行き過ぎ、ズン、と重低音が遠くで轟《とどろ》く。「来る……」と呻いた少女の声が傍《かたわ》らに発し、征人がその顔を覗き込もうとした瞬間、すさまじい震動が艇内を突き上げ始めた。
直下型の地震さながら、真下からわき起こる震動が艇内の水をざわめかせ、壁や天井に固定されたパイプ類と各種装置ががたがたと軋む。座席も激しく振動し、征人は背もたれにしがみつく腕の力を強くした。波打つ水面の音を間近に聞きながら、今度の魚雷はかなり遠くで起爆したようだと密かに安堵したが、それは続く横殴りの衝撃波にさらされるまでのことだった。
起爆から数秒の間を空けて到達した衝撃波は、〈ナーバル〉の左舷側を直撃し、岩礁の頂に沈座する船体をつかの間、浮き上がらせた。爆圧に歪められた海水の塊をまともに浴び、ぎしぎしと悲鳴を上げる船体が岩礁の段差に押しつけられると、飛散した岩盤の破片や土砂が一斉に襲いかかってくる。照明が明滅する艇内は大きく右に傾き、慣性の力に操られた水が床から壁に押し寄せて、征人は塩辛い海水をたっぷり飲まされる羽目になった。砕けた岩盤が外板を打つ音が立て続けに鼓膜を聾《ろう》し、艇内を荒れ狂う水が頭からも降りかかる。艇内のありとあらゆる備品が固定具から逃れようと暴れ、不協和音を奏でる中、「Der〈za;he Ami〉...!」と叫んだ少女の声が相乗し、さらに不吉な重低音が底の方に流れた。
魚雷の起爆音。「また来るぞ!」と怒鳴り、征人は後部座席の背もたれを抱え直した。肘《ひじ》でレバーを倒しでもしたのか、背もたれが後ろにそり返り、つられた体が水面に叩きつけられる。慌てて起き上がり、上から背もたれを抱えこもうとした時、二発目の衝撃波が〈ナーバル〉を襲った。
ふわりとした浮遊感の後、これまでに倍する激震が船底を突き上げ、続いて鋼鉄の折れ曲がる嫌な音が艇内に響き渡った。今度は左側に傾斜した船体にひきずられ、数トンはあろう艇内の水が左舷側の壁を洗い、その重みがますます船体を左に傾ける。背もたれをつかみ損ね、水と一緒に壁に叩きつけられた征人は、引き戻そうと手をのばしてくれた少女と視線を絡ませ、同時にゴリ、となにかを踏み砕く音を足もとに聞いた。
それが始まりだった。床がずるりと横滑りし、征人は少女の手をつかみ返す間もなく倒れ込んだ。船底が岩を削る音が間断なく艇内を揺らし、征人は夢中で床を蹴った。少女をまたいで前部座席の上に乗り、驚き顔の少女を抱き起こして右舷側の壁に背中を密着させる。離れようと暴れる少女を「落ちるぞ!」と怒鳴りつけ、背中から肩に回した腕にぎゅっと力を入れた。
そうしたところで、たいした役に立たないことはわかっている。たび重なる衝撃で船体を支えていた岩が崩れ、〈ナーバル〉は岩礁の頂からずり落ちつつあるのだ。人間二人分の体重移動で、船体の滑落《かつらく》が止まるはずもない。垂直に切り立った岩礁から落下すれば、浮力がゼロの〈ナーバル〉は海底に激突する結果になる。八十メートル前後の海底深度は安全潜航範囲内だろうが、問題は、三十メートルの高さから海底に叩きつけられる衝撃の方だった。
艇首から海底に突っ込んで耐圧殻がばらばらになるか、浸水や、漏出した蓄電池の硫酸ガスに巻かれて悶死《もんし》するか――。征人は目を閉じ、船体が滑落する地鳴りのような音に意識を集中した。抵抗をやめてじっと抱かれるままになっている少女の感触も、その手のひらが自分の手首を握りしめていることも、厚い緊張の被膜ごしに朧な印象をつかむのがせいぜいだった。
ひどく長い数秒が過ぎ、岩の削れる音がやんだ。魚雷の直撃を受けた岩礁の崩落音は続いていたが、遠くから伝わるその音は、直接的な恐怖を感じさせるものではなかった。溜まった息を吐き出したいのを我慢して、征人は周囲の気配を探った。小石ひとつで頂に踏み留まったのかもしれない船体を思えば、体を動かすのはもちろん、ため息を吐くことさえためらわれた。
背中全部を征人に預けて、少女も息をひそめている。狂乱の後の静寂が重くのしかかり、征人は「なんだってんだ、まったく……」と小さく罵った。敵艦の狙いがなんであるにせよ、四本もの魚雷を当てずっぽうに撃ち放ち、無駄に岩礁を破壊する戦い方は正気の沙汰とは思えない。だいたい、向こうも〈ナーバル〉の回収を目論んでいるのではなかったか。なにもかも破壊するような真似をして、敵艦にいったいどんな得があるというのか――。
「母艦をおびき寄せるつもりだわ」
少女が言う。「〈伊507〉をか?」と確かめた途端、少女が腕の中で身じろぎし、いつまでそうしているつもりだと無言の抗議をした。ごわついたゴム服の感触が急に肉体の温もりを放つようになり、征人はばね仕掛けの人形さながら両手を離した。
「……だとしたら、魚雷の無駄遣いもいいとこだ」
酸欠の息苦しさの奥で、初めての温もりと匂いに触れた体が微熱を放っていた。少女は尻の位置を心持ちずらし、吐き捨てた征人に怪訝な視線を寄越した。
「艦長は、艦の安全を最優先に考える人だ。いくらこっちを攻撃したって助けになんか来るもんか」
「PsMB1の価値を知っていても?」
「ペー……? ああ、ローレライのことか」
少女の肩がぴくりと動き、視線が不自然に逸らされた。なんだ? と思いはしたものの、脳裏に浮かんだ絹見の鉄面皮に対するいら立ちの方が大きく、征人は尖った声で、「なんだろうと同じだよ。石頭の軍人でさ」と続けた。
「あなただって軍人でしょう?」
「そうだけど……」
フリッツの叛乱と絹見の軍人的判断、それに自分の意地が化学変化を起こし、この歪《いびつ》な回収作戦が強行されるに至った複雑な経緯を、一から少女に説明する気力はなかった。呆れたと言わんばかりの少女から顔を背けた征人は、その拍子にぐらりと傾いた船体に突き上げられ、少女とともに座席から転げ落ちた。
頭から水面に落ち、左舷側の壁に背中が打ちつけられる。ガラゴロと岩の崩れる音が船底から這い上がり、耐衝撃用の金網に覆われた照明灯が不気味に明滅する。さらに一歩、奈落に近づいた現状を噛み締めた征人は、「この船、動かせないのか?」と水面から顔を出すなり叫んだ。
「このままじゃ落っこちる。とにかく移動しないと」
「バッテリーを充電しないと無理よ」
「浮くことはできるだろう? 緊急浮上装置が……」
「緊急浮上をかければ、船は自律制御で海上に出てしまう。いま海上に出れば格好の的になるだけよ。あるいは捕獲されるか」
「だったらどうするんだ! 岩礁から叩き落とされたら、船体だってもたないぞ」
明滅をくり返していた照明灯が出し抜けに切れ、赤色灯が頼りの薄闇が艇内に舞い戻った。少女の顔が影で塗り込められ、「……生きて虜囚《りょしゅう》の辱めを受けず」と、低く押し殺した声が征人の傍らに流れた。
「あなたの国の軍隊で教えることでしょ?」
簡単に言うと、少女は顔をこちらに向けた。赤色灯を映して、その瞳はガラス玉に戻っているように見えた。なんてことを言うんだと驚き、呆れ、しまいには腹を立てながらも、つい先刻は自分も考えたことだと思い直した征人は、悄然《しょうぜん》と少女から顔を逸らした。
敵に〈ナーバル〉を渡してはならない、卑怯者になってまで生き延びたくない。意義も価値も判然としない義務感に縛られ、緊急浮上装置を作動させなかった自分。それが、いまは同じ行動を取ろうとしている少女に驚き、憤《いきどお》ってさえいる。なぜだと自問し、国籍も、得体の知れない神通力も関係なく、少女が少女にしか見えないからだ、と単純な結論に達した征人は、しかしそれだけではない、ほとんど本能的と言っていい反発心の存在を知覚して、体がざわめくのを感じた。
まだ言葉にもなっていない、どこに矛先《ほこさき》を向けたらいいのかもわからない反発心。仲田たちの死にざまを見、戦争遂行の機械になりきった絹見たちの処世に触れるうち、少しずつ育っていったそれが、ふと塊になって喉元を突き上げた。征人は、「……ひとりならいいさ」と口を開いた。
「軍人らしく死んでみせろっていうなら、そうするよ。でも君みたいな女の子ひとり助けられないで、なにが軍人だよ……!」
吐き出してしまえば、それはひどく当たり前の言葉になって征人を失望させた。床を殴りつけたいのを堪えて、征人は水に浸けた拳をきつく握りしめた。少女がこちらを振り向き、注視する気配が伝わったが、顔を伏せて目を合わせないようにした。
高い波長の金属音が艇内に響き渡り、気まずい沈黙を破った。征人は顔を上げ、少女と視線を絡ませて、いよいよ最期が近づいたことを確認しあった。
二つ、三つと続く探信音波が、秒読みのように船体を打つ。魚雷の到来を告げる前奏曲を耳に、敵艦はこちらの位置を特定したのかと考えかけた征人は、それがまったく無意味な設問であることに気づいて唇を噛んだ。今度付近で魚雷が起爆すれば、〈ナーバル〉は確実に海底に叩きつけられる。敵艦に所在を知られていようといまいと、もはや関係なかった。
この三日間、空襲にさらされ、魚雷に吹き飛ばされ、窒息の恐怖を味わって、しまいには自分をここに誘《いざな》った源――特殊兵器ローレライと、その搭載艇である〈ナーバル〉と心中するわけだ。結局、ローレライがなんであるのかもわからなかったが、戦場での死とはそうしたものなのかもしれない。征人は目を閉じ、死ぬなら速やかに、苦しみを長引かせないでくれと腹の底に念じた。そして、たとえ物《もの》の怪《け》でもかまわない、もういちど少女の手に触れてみたいと思いついたところで、「待って」と押し殺した少女の声に目を開いた。
「なにかが来る。……あなたが乗ってきたミゼットサブ?」
そう言った少女は左手を水に浸し、閉じた瞼の下の瞳をめまぐるしく動かしていた。もうその力≠疑う気にはなれず、征人は「〈海龍〉か? わかるのか」と少女に顔を近づけた。
「〈ナーバル〉の前に……。囮《おとり》になる気だわ」
不意に開かれた少女の瞳に不安の影が差し込み、征人は少しぞっとした。脳裏をよぎった清永とフリッツの顔が、読み取られたような気がしたからだった。
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岩礁を抜けると、船体を打つ探信音波の音がよりはっきり聞こえるようになった。もう探照燈は暗い海中しか照らし出さない。フリッツは潜望鏡を収納位置に押し上げ、正面を見据えた。
丸刈りにした清永の後頭部に、汗が滴っている。舵もモーターも不調なところに、魚雷の起爆で歪められた海流にもてあそばれれば、船体の姿勢を保つだけでも相当な技量が要求されるのだろう。しかし不利な条件を呑み、危険を承知で囮役を買って出たのが清永の方である以上、フリッツにはなにも言うつもりはなかった。
岩礁の崩落で聴音装置が使えない敵艦は、探信音波による探索に頼るしかない。〈ナーバル〉と同程度の大きさの〈海龍〉が動き回れば、敵艦はこちらを〈ナーバル〉と勘違いする……というのが、清永の立てた囮作戦の論拠だった。
「こんど魚雷が来たら、同じ方向にこっちも撃ち返してやる。連中、この深度から魚雷が飛んで来たら泡食うぞ」
船体を叩く探信音波に負けない声で、清永が言う。圧縮空気で発射管から射出される魚雷は、水圧の高い深々度では発射することができない。通常、雷撃可能深度は二十メートル前後が限界だが、〈海龍〉の外装式発射管は例外だった。船体両舷の懸架《けんか》に装備された外装式発射管は、魚雷の起動と同時に前扉が吹き飛び、直後に発射管自体が後退して懸架から抜け落ちる仕組みになっている。発射管というよりカバーに近い構造のため、雷撃深度に限界がないのだ。
問題は数の方で、雷数二の〈海龍〉に対して、〈しつこいアメリカ人〉――ガトー級潜水艦の魚雷発射管は、艦首に六門、艦尾に四門。これまでに撃った四本を差し引いても、まだ即時発射可能な魚雷が六本ある計算になる。当然、再装填作業は進んでいるだろうし、探信音波で逐次こちらの位置を把握もしているだろう。〈海龍〉にはろくな探知装備もない。フリッツは、「その前にこちらが沈められなければな」と現実を言っておいた。
「水中の標的にそうそう当たるもんじゃねえよ。万一やられたとしても、敵潜の一杯も道連れにすりゃ申しわけが立つってもんだ」
その場の勢いで言っているのではない。機会があれば、清永は特攻を掛けてでも敵艦を沈めようとする。〈ナーバル〉を無事に脱出させる目的は同じでも、清永の面目につきあって心中する気は毛頭ないフリッツは、「彼我《ひが》兵力が違いすぎる。特攻は無意味だ」と冷や水をかけた。
「囮になって逃げ回っていればそれでいい。下手な色気は出すな。特攻が失敗に終われば、それこそ犬死にになるぞ」
「征人は、〈ナーバル〉の中に入ったかもしれねえんだろ?」
ひどく静かな声で問い返され、フリッツは口を閉じた。操縦桿を握る手を間断なく動かしながらも、清永は太い首を巡らして、初めてこちらを振り向いてみせた。曇りのない瞳に直視され、フリッツはわけもなく鼓動を高鳴らせた。
「逃げ回るったって限界はある。おれたちが沈めば、〈ナーバル〉は間違いなく敵の手に落ちるんだ。だったら、万一の可能性に賭けて敵を沈めに掛かった方がいい。他に征人を助ける方法がないんだったらな」
計器とレバーの放列が埋める正面に向き直り、清永は憮然とした声で続けた。「あいつは、おれを助けるために命を張ってくれたんだ。今度はこっちが恩を返す番だろうが。……戦友を助けて死ぬんなら、それは犬死にだとはおれは思わない」
首にかけた手拭いで勢いよく顔と頭を拭い、清永は後は操艇に専念した。フリッツは、その背中を嗤《わら》う気にはなれなかった。
そのために死ぬという生き方、そのような死の了解の仕方がある。自分には縁もゆかりもない感情を孕み、〈海龍〉を前進させる背中を前に、嗤われるべきは自分の方か……という自嘲の念が渦を巻いた。もはや修復不可能なまでに乱れ、最悪の方向に振り切った計画が、こんな形で締めくくられる。思ったほどの痛恨はなく、さりとて仕方がないと達観もできないまま、フリッツはいま言えるたったひとつの言葉を口にした。
「Stirb nicht, Paula...(生き延びろ、パウラ……)」
探信音波がひときわ大きく鳴り響き、フリッツの独白をかき消してくれた。
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「Nein...!」
短い悲鳴が艇内に響き渡り、水の弾ける音がそれに続いた。征人が振り返ったのと、中腰の少女の体がぐらりとくずおれたのは、ほとんど同時だった。
そのまま壁に寄りかかり、少女は小刻みに肩を上下させる。呼吸が浅いのは征人も同じだが、喘ぎに近い吐息をくり返す少女は、酸素不足というだけでは説明のつかない消耗ぶりだった。「おい、大丈夫か」と呼びかけ、征人は壁際にうずくまる少女に近づいた。
「〈海龍〉はどうなった。敵艦は?」
「離れてゆく……。敵もそれを追って……射点を……」
瞼の下の瞳が悪夢を見ているように縦横に動き、長いまつ毛の生え際がじわりと湿った。跳ね上がった胸の鼓動につられ、征人は、「なぜ……」と呟いた。まつ毛を濡らした雫のわけを尋ねたつもりだったが、少女は、「私たちが、ここにいると……知っているから」と別の答えを呻いた。
「あれに乗っているのがフリッツ・エブナーなら……。兄さんなら、そうする」
「兄さん……?」
思いもよらない言葉だった。思わずおうむ返しにした征人の前で、少女はびくりと体をのけぞらせ、瞼の下の瞳の動きを激しくした。ここではないどこかを見、感じている肉体の苦痛を想像する術はなく、少女にのばしかけた手を下ろした征人は、瞬間、再び誰かに見られている♀エ覚を味わった。
ぞよぞよと蠕動する水が、水面に浸した手を伝って毛穴に入り込んでくる。水が媒介になっている? ふやけ、皹にまみれた少女の手のひらを見、征人は慌てて自分の手を水面から引き抜いた。五官以外のなにかが感知する見られている♀エ覚が消え、「……大きいものが、来る」と呻いた少女の声が、代わりに聴覚を刺激した。
「南南東から……深さは五十から六十」
大きいもの――潜水艦。少女の力≠詮索《せんさく》するのを後回しにして、征人は「敵の増援か?」と問いただした。素早く動いた少女の瞳がぴたりと止まり、その瞼が見開かれると、薄く開いた唇からしわぶきともとれない呟きが漏れた。
「〈SEEGEIST〉...」
目尻に溜まった雫がこぼれ、少女の頬を伝った。征人には、その異国の言葉が奇妙に耳に馴染んで聞こえた。
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「高速スクリュー音、探知!」
裏返る寸前の声音で唐木水測長が報告する。「方位は?」と、絹見は意識して落ち着いた声を返した。
「方位三五五、距離一八〇〇、速力四十。雷数、二」
「突発音! 敵潜、潜航します。方位三五六、距離一八〇〇」
唐木に続いて、聴音手の上等水兵もうわずった声を出す。ここまでは、予測通りの展開。だが間に合うか? 綱渡りもはなはだしい行動への逡巡を押し隠し、綿見は発令所の片隅にある海図台を振り返った。海図長の兵曹長が定規とコンパスを海図に当て、自艦と敵潜水艦の位置を逐次記入する横で、高須は手にしたストップウォッチから目を離そうとしない。絹見は、敵潜が射出した二本の魚雷が海中を驀進《ばくしん》し、岩礁に当たって起爆するさまを思い描いた。
先刻の雷撃における射出と起爆の時間差は、約三十秒。今回もその前後と仮定して、あと十五、六秒といぅたところか? 〈海龍〉と〈ナーバル〉がいると想定される位置と、敵潜水艦の位置、〈伊507〉の位置。線で結べばほぼ二等辺三角形を描く三者の位置関係を頭に呼び出し、吉と出るか、凶と出るかと口中に呟いた時、ストップウォッチを凝視する高須の手がすっと上がった。
「十秒前」と言った高須の声が発令所に響き渡り、潜舵、横舵、各タンクのバルブに取りつく乗員たちの背中が緊張でこわ張る。「五、四、三、二、一、いまです」と、こちらを見返した高須に小さく頷き、絹見は下令の口を開いた。
「メインタンク、ブロー。深さ二十まで急速浮上」
気蓄器から放出された圧縮空気がメインタンクに送り込まれ、タンク内の海水が勢いよく排出される。蒸気機関車が間近で吠えたような噴射音が発令所に響き渡り、一秒と置かずに、魚雷の起爆を告げる重低音が耐圧殻ごしに轟いた。
よし、吉と出た。これで十中八九、こちらの発した音は魚雷の起爆音にかき消される。後は浮上する船体が岩礁にぶつからないことを祈るだけだが、この数時間、船体幅と十メートルも違わない岩礁と岩礁の狭間をすり抜け、五キロ以上の距離を這《は》い進んできた身が、いまさら心配する話でもなかった。言い出せばきりのない不安に蓋をした絹見は、艦首を上に向け、岩礁の間から浮上を開始した〈伊507〉の律動に身を任せた。
海底潮流や温度逆転層の分布などを記した作戦海域周辺の海図。岩礁地帯の詳細なスケッチ。〈UF4〉時代に作成された資料の存在と、航跡自画装置の機構が解明されたことが、絹見にこの救出作戦の断行を決意させた。資料とスケッチは先から渡されていたが、航跡自画装置は技術将校が総出で機構を調べ上げ、独力で使えるよぅにしたものだ。方位信号と速力信号から艦の航跡を図示し、潜航中であっても自艦の位置把握を可能にする。DRTと表記された航跡自画装置は、それまではロヲレライ≠フ貼り紙で封印され、他のローレライ関連の機械同様、手出し無用が厳命されていたが、外観と概略を見れば航法装置の一種であることぐらいはわかる。腹に一物を抱えたフリッツの態度にきな臭さを感じ、内密に装置を調査させた絹見の判断が、ここにきて思わぬ手駒《てごま》に転じた形だった。
かつてこの海域で持久戦を行った際に、〈UF4〉の乗員が描いたらしい岩礁のスケッチは、肉眼で直接確かめたのではないかと思えるほど精密なもので、これと航跡自画装置を連動させれば、林立する岩礁の狭間をすり抜けることは決して不可能ではなかった。探信音波をはね返す温度逆転層の下を通り、岩礁の間を吹き抜ける海流音に紛れ、敵潜の背後に忍び寄って一撃を加える。ほとんど狂気の沙汰と言って間違いない作戦のために、スケッチを頼りに艦が通れる道を探り、敵に探知されないよう高周波に限定した探信音波を打ち、手探りで岩礁の中を這い進んできた。航跡自画装置は潮流の影響は考慮されないので、艦の速度に流速を足し引きし、随時修正することも忘れてはならない。速力五で五十四秒進んだ後、方位を三度右にずらして三十五秒前進、次は左に八度転針――。秒単位、メートル単位の操艦を強いられ、乗員は疲弊《ひへい》の極みに達していたが、本当の勝負はこれからだった。
岩礁から浮上した〈伊507〉は、遠からず敵潜に探知される。もう身を隠す温度逆転層もない。「四十五、四十四……」と深度を読み上げる潜航士官の声を横に、絹見は「合戦準備!」と大きめの声で令した。
「一番から四番まで、発射雷数四。雷速五十、開口角一度。発射管注水、外扉開け」
復誦の声に、発射管の管体に補水タンクから水が注がれる音、外扉の開放するぎりぎりという鈍い金属音が続く。本来なら先任将校兼水雷長の高須が襲撃運動盤の前に立ち、距離、敵針、敵速を読み上げた後、射角と雷走時間が算出されるところだが、今回に限ってその必要はなかった。
相手は潜航中の潜水艦。潜望鏡を使って水上艦艇を攻撃するのとはわけが違う。敵潜の位置は、水中探信儀と聴音器からおおまかに算出するしかない。目隠しされた状態で的を射抜くには、できるだけ的に近づき、事前に定めた方向にぴたりと矢じりを向け、時機を逃さず弓弦《ゆみづる》を手放すことだ――。「発射管ようそろ、外扉ようそろ」の声に、「深さ二十」の声が重なり、絹見は「ベント開け。メインバラスト注水」と即座に指示を飛ばした。
「敵針と距離は?」
「方位三五四、距離一六〇〇。依然、潜航中」
魚雷を撃った後は、速やかに射点から移動するのが潜水艦戦術の基本だ。岩礁に向けて魚雷を撃つような敵潜艦長にも、その程度の常識はあるらしい。潜航を開始した敵潜は雷撃可能深度より下に潜り、入れ替わりに〈伊507〉が雷撃可能深度――深度二十メートルに浮上する。岩礁の中から突然現れた敵に慌てふためいた敵潜が、再浮上をかけようとしても手遅れだった。下方に働く慣性の力と、万有引力の影響下にある船体は、すぐには沈降を止められない。
常識が命取りになることもあれば、非常識が活路を見出すこともある。戦争だな……と脈絡のない感慨を結んだ絹見は、「前部ツリムタンク注水、後部ツリムタンクちょいブロー」と矢継ぎ早に令した。艦長は攻撃に専念し、操艦は先任将校に任すのが攻撃時の潜水艦の常道だが、そもそもが常道を無視した作戦だ。外道《げどう》には外道のやり方があると断じた絹見は、「先任、水平計を読み上げろ」と短く言った。
前部ツリムタンクに水が入り、後部ツリムタンクを排水した〈伊507〉は、艦首を上に向けた状態から徐々に水平に戻り、やがて艦尾を持ち上げた姿勢になる。「は」と応じ、水平計に張りついた高須と視線を合わせた絹見は、その顔に一抹《いちまつ》の不審がよぎるのを見て、胸の奥にちくりと針が刺さるのを感じた。
高須の不審は当然だった。古来、このようなやり方で潜水艦が潜水艦を攻撃した例はない。絹見自身、潜水学校の生徒が机上訓練で同じ解答を出してきたら、迷わず零点をつけるだろう。だが〈ナーバル〉回収任務を完遂するためには、こうするより他なかった。敵潜が〈ナーバル〉回収を二の次にし、岩礁への雷撃を始めた瞬間から、〈伊507〉が選択できる行動の幅は極端に狭まった。〈ナーバル〉回収の機会を永遠に失うか、決死の単艦突撃を仕掛けるか。その二つの選択肢しか残されていなかったのだ。
いや――と絹見は思い直した。その言い方はすべては正しくない。〈海龍〉を放出した後、本艦はこれ以上先には進まないと言った前言を撤回し、作戦海域の五キロ手前にまで進出していなければ、敵潜の雷撃を知って浮き足立つことはなかった。いまから急行しても間に合わないとあきらめ、〈海龍〉の喪失を軍令部に報告した後は、次の指示があるまでその場に留まっていたはずだった。畢竟《ひっきょう》、自分は最初からこうするつもりで艦を前に進めたということか? 正体も意義も不明な任務に、乗員の命を賭けさせるわけにはいかないと思う一方で、あくまでも回収作戦の完遂に固執していたということか? だとしたら、その頑迷《がんめい》な意志の源はいったいなにか。軍人としての本能、潜水艦乗りとしての自尊心。廃《すた》れて久しい名誉欲が頭をもたげでもしたか、あるいは……。
「仰角五……二、一。ただいま零度。前後水平」
水平計を読み上げる高須の声が続いていた。水平に戻った発令所の床が、今度は艦首側にゆっくり傾き始める。足を踏んばり、「俯角《ふかく》一、二……」と続ける高須の報告を聞き、敵潜の動きを思い描いた絹見は、「四……」と言った時機に合わせて、「一番、てっ!」と腹から声を出した。
ゴトッとなにかが落ちる間の抜けた音を残して、艦首一番発射管に装填された九五式酸素魚雷が射出される。潜望鏡の柱につかまり、傾斜を深める艦に備えた絹見は、「八、九……」と続く高須の声に合わせ、「二番、てっ!」と令した。
「十二、十三……」
「三番、てっ!」
「十九、二十……」
「四番、てっ!」
その一本だけ駛走深度を調定した四番発射管の魚雷が射出され、とりあえずの人事は尽くされた。後は運を天に任すのみ。潜望鏡の柱に片手を巻きつけたまま、絹見は「機関全速一杯! 取り舵二十、深さ五十」と叫んだ。今度はこちらが常識に従い、射点から離脱するべき時だった。
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圧縮空気によって艦首魚雷発射管から射出された九五式酸素魚雷は、内蔵する横型二気筒原動機の力で二重反転プロペラを回し、海中を疾駆《しっく》し始めた。他国海軍が採用する空気魚雷と異なり、気室に液体酸素を充填《じゅうてん》した酸素魚雷は、燃料を燃焼させる際に窒素の泡を発生させることもない。四本の魚雷は、ほとんど航跡を引かずに敵潜水艦――〈トリガー〉へと殺到した。
通常、魚雷は調定された速度と深度に従って目標を目指す。発射艦は自艦の位置と敵艦の現在位置、未来位置――魚雷到達までに敵艦が移動する距離――を結んだ三角形から射角を割り出し、調定された魚雷を扇状《おうぎじょう》に散布するのだが、それには目標の潜望鏡による視認が前提条件になる。海上を滑るだけの水上艦艇ではなく、水中を三次元移動する潜航中の潜水艦を狙うために、〈伊507〉の取った雷撃方法は前代未聞なものだった。駛走深度を調定せず、速度のみ最大に調定した魚雷を、自艦の艦首角度を変えつつ連続射出したのだ。
どのような角度で射出されようと、自律航走を開始した魚雷は調定深度に従って駛走するが、一定の距離までは発射管から押し出された勢いに乗って直進する。駛走深度が未調定であれば直進距離は長くなり、〈伊507〉と〈トリガー〉との相対距離、約千六百メートルは直進距離の範囲内だった。必然、艦首を数度ずつ下に傾けて射出された〈伊507〉の魚雷は、射出時の艦の俯角《ふかく》を引き移して斜めに海中を直進した。各々の射出角度に従い、徐々に互いの距離を開けてゆく四本の魚雷は、目標に到達する頃には巨大な扇形の軌跡を海中に描き出す。本来は横一線に拡がる魚雷の散布帯が、縦一線に拡がる――すなわち〈伊507〉は、射角を上下に取ることによって、刻々と深度を変える水中の目標に対したのだった。
直径五十三・三センチ、全長七・一五メートルの九五式酸素魚雷が、四十九ノットの最大雷速で闇の海中を突き進む。当然、〈トリガー〉はこれを探知した。キャンベル艦長は、岩礁の狭間から唐突に出現した〈シーゴースト〉に肝《きも》を潰しながらも、慌てて浮上に転じる愚は犯さなかった。こちらが潜航した途端、頭を押さえる形で雷撃可能深度に浮上した〈シーゴースト〉だが、『魔法の杖』がない以上、彼らには〈トリガー〉の正確な所在をつかむ術はない。接近中の魚雷は未調定の当てずっぽうだろう。ここで下手に浮上をかければ、その当てずっぽうの射線に身をさらす結果になりかねない。現在深度に留まって魚雷をやり過ごし、それから浮上をかけて反撃を期する。キャンベルは、深度計が百二十フィート(約三十七メートル)を指した時点で前進を命じた。
〈シーゴースト〉の背後に回り、艦尾魚雷発射管から魚雷を叩き込む。常識的には正しいキャンベルの判断は、この時は裏目に出た。頭上を行き過ぎるかと思われた魚雷は、斜め上から下に抜けるようにして、〈トリガー〉の船体をかすめたのだ。二発目はさらに近く、船体から手が届くほどのところをかすめ、あり得ない事態が起こったことをキャンベルに知らしめた。
敵は、縦一線に射角を取って魚雷を撃ってきている。〈トリガー〉の真正面に位置し、少しずつ俯角を変えて魚雷を散布したのだ。このまま前進すれば、直撃を受ける危険性がある。回頭して射線に横腹をさらし、迂闊に被雷面積を拡げるわけにもいかない。急速浮上をかけるしかないか? キャンベルは瞬時に思考を巡らせ、当たり前すぎる対処行動だと結論を下した。
それこそ〈シーゴースト〉の思う壺になる。奴は海底に向けて魚雷を散布し、こちらが息せき切って浮上するのを待ち構えているに違いない。艦尾に旋回式魚雷発射管を装備する〈シーゴースト〉は、敵艦がどこに出現しようと、任意の方向に魚雷散布帯を作ることができる。浮上したところで魚雷を水平に撒《ま》かれれば、〈トリガー〉は確実に沈められる。キャンベルは、現行深度を維持するよう命じた。敵の裏をかき、その場で魚雷をやり過ご」てから回頭、浮上。こちらに有利な射点を取って〈シーゴースト〉を狙う腹づもりだった。
裏は読めても、裏の裏までは読めないキャンベルの常識的な奇策≠ェ、〈伊507〉の目論見《もくろみ》通りの結果を招来した。速度を落とし、深度を下げた〈トリガー〉は、三本目の魚雷は回避することができた。しかし最後の四本目――その一本だけ駛走深度を調定した魚雷が、他の三本より急角度で海底を目指し、岩礁のひとつを直撃した時、〈トリガー〉は慣性の法則に引きずられるまま、荒れ狂う爆圧と衝撃波の嵐に船体を突入させる羽目になった。
岩礁の頂に激突した九五式酸素魚雷は岩盤を打ち砕き、噴き上がった土煙と岩の破片を四方にまき散らした。〈トリガー〉はその只中に突っ込み、機銃弾さながら飛び散る岩石を艦底に浴び、五百五十キロの炸薬が生み出した衝撃波を全身に受け止めた。耐圧殻が悲鳴をあげ、外板に無数の傷が刻まれる。艦底に設置された水中聴音器《パッシブ・ソナー》のハイドロフォン・マイクも損傷し、〈トリガー〉の索敵能力は半減したが、キャンベルたちがそれを知るのは後になってからのことだった。いまは衝撃で歪み、破損した船体各所から流入する海水を食い止めるのが先決で――その間に〈伊507〉は、再び岩礁の狭間に身を隠していった。
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「損傷報告!」
ファレルの絶叫が司令塔内に響き渡り、同時に予備電源が非常灯を回復させた。まき散らされた海図、漏水の止まらないパイプ、床に這いつくばった水測員の背中が赤色灯に照らし出され、キャンベルは潜望鏡《ペリスコープ》の柱にしがみついたまま、大地震の直後のような司令塔の様子を呆然と眺めた。
(電気室で火災発生!)とスピーカーがわめき出したのを皮切りに、(ポンプ室で漏水!)(機関室、シャフト・シールより水が流入中。ビルジの許容量を超えます)と、艦内各所からの報告が連続する。「応急員は電気室に急げ」と指示し、パイプから噴出する水を睨み上げたファレルは、「漏水を早く止めるんだ!」と一喝してからこちらを振り返った。
魚雷が当たったわけではない。進路上の岩礁が魚雷の直撃を受けて砕け、その爆圧と破片が〈トリガー〉を襲ったのだ。臓腑《ぞうふ》を突き上げる激震で千々に乱れ、いまだ混乱の収まらない頭にあり得ない≠フ一語が浮かび上がり、キャンベルはその場に座り込みたい衝動に駆られた。言わんことじゃない、と無言で語るファレルの視線を避け、ペリスコープの柱に額を押しつけた。
あり得ない。〈シーゴースト〉は魔力を失っている。これは偶然だ。否定の言葉を並べれば並べるほど、圧倒的優勢を一撃で覆された屈辱感、嵌《は》められたと訴える胸がじくじくと疼《うず》き、その耐えがたい痛みにキャンベルは小さく呻き声を漏らした。偶然ではない。敵はこちらの行動をすべて読んでいた。〈トリガー〉が裏をかいて現行深度に留まることを予測し、一本だけ急俯角で魚雷を撃ってきた。見えない敵を魚雷で直撃できるとは最初から考えず、岩礁を爆破して煙に巻き、追撃を断念させる二段がまえの作戦――そう、やはり〈シーゴースト〉はまだ魔力を取り戻してはいない。通常の潜水艦の能力の範疇《はんちゅう》で奇抜な作戦を立て、たまたまそれを成功させたのだ。純粋に潜水艦乗りとしての技量が試され、敵は勝ち、自分は敗けた。ただそれだけのことだ。
あり得ない。もう一度くり返し、キャンベルはペリスコープの柱から額を離した。〈シーゴースト〉の探知、追撃。それが不可能なら『魔法の杖』を完全に破壊して、次の会戦に望みを繋ぐ。艦の応急処置、現在位置の確認、魚雷再装填作業の進捗状況。艦長の思考回路を取り戻し、督促《とくそく》の口を開きかけたキャンベルは、「外板が破損している可能性もあります」と言い、ずいと歩み寄ったファレルに視界を塞がれた。
「後退しましょう。〈スヌーク〉と合流して作戦を立て直すべきです」
厚ぼったい瞼の下で、ファレルの目は殺気を宿していた。背後に立つ航海長が同様の視線を寄越し、先任兵曹長《チーフ》もちらと様子を窺う目を寄越す。船体も、そのもっとも高価な部品である乗員も。なにもかもが機能不全を起こし、制御下を離れつつある現実を伝えて、敗北の烙印《らくいん》を否応なく胸に刻みつけてゆく。キャンベルは神を罵り、ペリスコープの柱に額を打ちつけた。
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最後の起爆音が轟いてから、十分弱。ごつごつした岩礁の縁に引っかかり、辛うじて頂に留まった〈ナーバル〉の中は、この二、三時間の狂乱の反動のような静けさだった。力なく壁に寄りかかり、浅い呼吸を重ねる少女は、それでもなにかを感じ続けているのか、瞼の下の瞳を休ませようとしない。冷たい水に浸かった左手の白さを痛々しく思いながら、征人は「どうなんだ?」とためらいがちの声をかけた。
「わからない。敵はかなりの痛手を負ったようだけど……」
「〈伊507〉は?」
「動かない。ここから三キロぐらいのところで、岩礁の間に隠れている。ミゼットサブ……〈カイリュー〉も無事みたい」
目を閉じたまま、少女は慎重にひと言ひと言を搾り出した。耐圧殻と外板の向こう、閻の海中で息をひそめる彼我艦艇の姿が朧に浮かび上がり、それをなんの不思議もなく受け入れている自分に、征人はあらためて戸惑うものを感じた。少女はごく自然に、必要な情報だけを最小限の言葉で伝えてくる。簡単に思えるが、それなりに訓練を積み、経験を重ねた者でなければこうはいかない。つまりこの少女は物の怪でも気触り者でもなく、自分と同じ、軍属の人間なのだろうと征人は想像した。
だとしたら……と結論を出しかけた頭が鈍痛を訴え、征人は思考を中断した。自分の目では確かめようがないのだから、彼女の言うことをすべて事実と鵜呑《うの》みにするのは危険だ。確かに魚雷の飛来は予知したが、自分より先に駛走音を聞きつけただけかもしれない。水が蠕動して、体の中に入り込んできたような気がしたのも、自分の感じすぎではなかったのか? どだい、〈伊507〉が救援に来てくれたとは信じられず、まだ断定するのは早いと思い直した征人は、壁に体重を預け、腰まで水に浸かった体をさらに沈み込ませた。この数分で一段と酸素が減り、艇内の空気はかなり悪くなっている。根を詰めて思考を紡ぐ気力は、どのみちなかった。
しんとした冷気が降り積もり、ずぶ濡れの頭と顔をぱりぱりにこわ張らせてゆく。この季節なら海面近くの水温は二十度を下らないはずだが、太陽の届かない深度五十メートル、それも冷たい海底潮流が吹きつける岩礁の頂にいれば、艇内は氷室《ひむろ》になったも同然だった。こんな中で、彼女はどれくらいの間ひとりでいたのか。食事や排泄は? ゴム服の内側になにか仕込んであるようだが、寒くはないのか? だいたいどこの国の人間なんだ。やはりドイツ――日系のドイツ人? そう言えば先刻、フリッツのことを『兄さん』と呼んでいたが……。
少女の力≠ヨの疑問を保留にした分、他の素朴な疑問がひとつ、二つと鈍った頭にわき上がり、征人は横目で少女の顔色を窺った。多少は落ち着きを取り戻したらしい横顔を確かめ、「あの……」と身を乗り出しかけた途端、「静かに」という低い叱責《しっせき》に遮られた。
反射的に体を硬直させ、そのままの姿勢で十数秒が経過した頃、静まり返った艇内の水が俄かにざわめき始めた。岩礁から小石が転がり落ちる音が壁の向こうに聞こえ、低周波の重い唸りが次第に近づいてくる。それはスクリュープロペラが水を切る音、巨大な質量に押しひしげられ、ごうごうと悲鳴を上げる水圧の音を引き連れて、征人たちの頭上に差しかかった。
岩礁に腹をこすりつけるようにして、潜水艦――まず間違いなく敵のものであろう潜水艦が、〈ナーバル〉の直上を通過する。探信音波こそ打ってこないものの、聴音器が聞き耳を立てていないとも限らない。征人は生唾を飲み込むのも我慢して、低い天井を上目使いに見上げた。
敵潜の機関の振動が天井を這うパイプを共振させ、結露した雫を水面に降らせる。小石の転がるぱらぱらという音が間近に響き、微妙な均衡を保って頂に留まる船体が微震すると、落下の恐怖がじわりと胃《い》の腑《ふ》を締めつける。征人は目を閉じ、歯を食いしばって、敵潜が行き過ぎるのを待った。スクリューに攪拌《かくはん》された水の音がひときわ高くなり、〈ナーバル〉の船体をみしみしと軋ませた後、圧倒的な質量の奔流は徐々に遠ざかっていった。
パイプから滴る雫が水面に落ちる音を耳に、征人はそっと目を開けた。両手を水面に浸し、眉根に小さく皺を寄せていた少女の表情が緩み、緊張が去ったことを暗黙のうちに伝えた。やはり、見えている。水に片手を差し入れ、ぞろりとした蠕動の感触も再確認した征人は、もう疑う余地のなくなった日を少女に向け直した。
間違いない。彼女にはすべてが見えている。水を媒介に、海中の様子を見通す力≠ェ彼女にはある。実感した刹那、一度は保留にした結論が抗いようのない勢いでこみ上げ、疑問の形を取って征人の中に固まった。
〈ナーバル〉の中に収められているという特殊兵器。この娘が、ローレライ……?
「そうよ」
出し抜けに少女が口を開き、征人の心臓を跳ね上がらせた。瞼の下から二つの瞳が現れ、凍りついた征人を視界に入れると、少女は口もとに皮相な笑みを浮かべてみせた。
「正確には音響兵装PsMB1。その核になるのが私で、〈ナーバル〉はそれを収める器」
言葉を切った口もとから笑みを消し、少女は少しいら立たしげに続けた。「……理由なんかわからない。ある時を境に、そういうことができるようになっただけ」
くるくると変転する少女の表情を見、確実に胸中の疑問を埋めてゆく的確な声を聞いて、冷たい戦慄が征人の背中を走った。それさえも読み取ったのか、少女はあからさまに不機嫌な顔になり、口を半開きにした征人から目を逸らした。
「読まれるのがイヤなら、手袋をするか、水から手を出していて。素肌でなければ伝わらないから」
吐き捨てるように言ってから、少女は口と一緒に瞼を閉じた。征人は水に浸した自分の右手を見下ろした。ぷつぷつと毛穴に染み込む水の感触におぞけをふるいつつも、ここで退《ひ》いたら負けだという正体不明の意地に押され、「……別にいいよ」と口をとがらせた。
「読まれて困ることなんか考えてないから」
抜くに抜けなくなった右手をそのままに、床にあぐらをかく。我ながら男らしい態度だったと思った後、それも読み取られてしまうのかと気づき、ひとりどぎまぎした征人は、「邪魔なのよ」と冷淡に言った少女にじろと一瞥された。
「近くで雑音を出されると、感知野がぼやけるの。手は外に出しておいて」
すぐにまた目を閉じ、少女はこちらを拒絶するように顔を背けた。取り残された征人は、不承不承の思いで水面から右手を引き抜き、「意外と不便なんだ」と負け惜しみを言った。
「三日間、水しか飲んでなければ多少は衰えるわ」
ぴしゃりと言い放った少女の眉間に再び皺が寄り、もう黙っていてという無言の要求が征人に突きつけられた。三日間と胸中にくり返し、それより長い時間、艇内でひとり生き抜いてきたのだろう少女を見つめた征人は、驚異的なその生命力に感嘆し、同時に、狂いもせずにいられた強勒《きょうじん》な精神力に、ある種の引け目を覚えた。自分なら耐えられないという予想が紡ぐ引け目は、なぜ耐えなければならないのかという疑問を呼び起こし、戦争だから、と至極当然な解答にたどり着いて、むらとした反発心を立ち上がらせた。
戦争。もう原因を正確に説明できる人も少ない、誰ひとり自信も確信も持てないまま行われている戦争。その一端に加わり、回収作戦に担ぎ出されて、絵空事としか思えない特殊兵器の正体と向き合っている自分は、目前の少女ほどの覚悟も持てず、かといって逃げ出そうという気にもなれずに、漫然と軍籍に身を置く何者かだが、戦争だからという論理ですべてが償却《しょうきゃく》されるとは思わない。死ぬのは仕方のないこととあきらめられても、そうするのが決まりだからという惰性には従いたくない。戦う理由、死ぬ理由は、自分で考えて自分で決めたい。この少女だって、自ら望んでローレライと呼ばれているわけではないはずだ――。混濁した意識の中でつらつらと思考を紡ぎ、征人は無意識に「パウラ……」と呟いた。
少女の肩がわずかに震え、鳶色の瞳が久しぶりにこちらを見た。ローレライを制御下に置き、自壊≠停止させる暗号。「もしかして、君の名前?」と続けた征人には答えず、少女はふいと顔を背けた。
「人に名前を聞く時は、自分から名乗ったらどう?」
「わかってるんだろ? その……」
千里眼、読心術と言葉を探す間に、「自分で言ったでしょ。そう便利なものじゃないのよ」と少女が先に口を開いた。
「強い意志で念じなければ、ばらばらな言葉の断片や映像が感知されるだけ。チューニングの合わないラジオみたいにね。恐怖で混乱している人の心は、特にそう」
ざっくり傷つけられた自尊心より、機械の仕様を説明するかのような少女の声の方が痛かった征人は「……ごめん」と口を動かした。「なんで謝るのよ」と問うた少女にうまく説明できる自信はなく、意志が伝わるならと水面に手を入れかけたが、憐れみと受け取られても困るのでやめておいた。
冷えきった沈黙が降り、征人はやり場のない手を頭のうしろに組んで壁にもたれかかった。少女も壁に背中を預け、両手を水中に投げ出して感知を続けている。まだ敵潜は付近をうろついているのかと尋ねたかったが、いないのなら少女が緊急浮上装置を作動させるだろうし、怯えていると思われるのも癪《しゃく》だという二つの理由から、声をかけるのはためらわれた。
瞼が重くなり、目の前が暗くなってくる。赤色灯の明度が下がったわけではなく、血中の酸素が不足して神経の伝達を鈍らせているのだった。あとどれくらいもつかと考え、結局こうなるのかと嘆息した征人は、ふと自分を艇内に誘《いざな》った旋律を思い出し、「名も知らぬ、遠き島より……」と、かすれ声で口ずさんでみた。
少女の瞼がうっすら開き、征人を見た。そろそろ限界――いや、限界をとっくに超え、気力のみで意識を保っている目と目を合わせ、征人は「唄ってたの、君だろ?」と小さく笑いかけた。
「二番があるなんて、知らなくてさ……。お陰で幻じゃないってわかったんだ」
「それがどうかしたの?」
「どうもしないよ。ただの話さ」
酸素の無駄だから黙れと叱られるかと思ったが、少女はなにも言わなかった。征人は目を閉じ、やさしさと哀切の狭間を漂う歌声を反芻した。
魚雷に吹き飛ばされ、〈ナーバル〉の上で目覚めた時に聞いた歌声。あの時、夢を見ていたような気がするけど、どんな内容だったろう? 思い出したくもないような、もういちど胸に抱きしめたいような、苦くて懐かしい匂いのする夢……。
「三番も、あるわ」
少女の声に軽く頭を小突《こづ》かれ、眠りに落ちかけた意識が引き戻された。少しはにかんだ声は、いままででいちばんやさしい、少女に相応しい声音だった。聞きたいな……と無条件に浮き上がってきた思考を抱きしめ、征人はゆっくり水中に手を差し入れた。
冷たい感触が手のひらに伝わったが、すぐに茫洋《ぼうよう》とした眠りの波に呑まれて、暗闇がすっと上からのしかかってきた。このまま、もう目覚めないかもしれない。そう思い、それでもいいと体の力を抜きかけた時、遠い歌声が征人の耳朶《じだ》を打った。
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実を取りて 胸にあつれば
新なり 流離の憂い
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
思いやる八重の潮々
いずれの日にか 国に帰らん
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歌声に搦《から》め取《と》られ、引き上げられた魂が肉体に戻り、水の冷たさや息苦しさ、四肢のだるさを思い出させると、だからこそ聞き、感じ、心も震わせられる生の実感が、確かな力をもって征人に受け止められた。「……不思議だな」と呟き、征人は滲んでゆく目を天に向けた。
「家で聞いたレコード……外国の唄はずっと覚えていたのに……。日本にこんなやさしい唄があることは……忘れていた……」
こぼれ落ちた雫が頬を伝わり、冷気でかじかんだ肌を温めた。おれはなぜ泣いているんだろう。なにに対しての涙なんだろう。征人は考え、答えを見出す間もなく、「……行ったわ。敵艦」と呟かれた少女の声を聞いた。
それから十分と少し後、〈ナーバル〉は緊急浮上装置を作動させ、同じく浮上した〈伊507〉、〈海龍〉と合流した。五島列島沖の海はまだ夜の闇をまとっており、征人と少女――パウラ・A・エブナーは、太陽の光を見ることなく〈伊507〉に収容された。
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第 三 章
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夜明け前の海は、月の姿も見えない闇一色の世界だった。天を覆って広がる星空が海との接点で長大な弧を描き、水平線の所在を辛《かろ》うじて教えてくれる。
あと半時もすれば東の空が払暁《ふつぎょう》の色に染まり、水平線から昇る今日の太陽が、海上を漂う〈|伊507《イゴマルナナ》〉の巨体を否応なく照らし出す。午前四時の時刻を腕時計に確かめ、焦っても始まらんかと内心に呟いた絹見《まさみ》は、吐き馴れたため息を吐いて顔を正面に戻した。
艦橋格納庫から漏《も》れる微かな光を浴び、猛禽類《もうきんるい》の嘴《くちばし》に似た艦首をこちらに向けて横たわる〈ナーバル〉は、陸揚げされた鯨《くじら》かなにかのように見える。とりあえず後部甲板に接合する作業は終わったが、交通筒の水密試験、各種配線の接続と、やることはまだ山ほどある。乗員たちが忙《せわ》しなく上甲板と艦内を行き来し、二十メートルほど離れた海面に浮かぶ〈海龍〉では、曳航《えいこう》用索具の取りつけと修理作業が並行して行われてもいた。
艦橋上に設置された探照燈、溶接の火花が闇の中で閃《ひらめ》き、工事現場の喧噪《けんそう》を闇の海上に持ち込んでいるのだから、いまさら敵の目を警戒したところでどうにもならない。できるならこの海域を早々に離れ、友軍の援護を受けられる場所で接合作業を行いたかったのだが、〈海龍《かいりゅう》〉も〈ナーバル〉も燃料が底を尽き、自力では一メートルも進めない状態となれば、この場で作業を強行するしかないのが〈伊507〉の立場だった。待つしかないと覚悟して、絹見はどこか生物的な形状を持つ〈ナーバル〉に観察の目を注いだ。災難続きの回収作戦の末、曲がりなりにも引き揚げられたナチスドイツの遺産は、その想像を絶する中身≠フ正体ともども、依然不可思議の塊《かたまり》として絹見の眼前にあった。
「割れ鍋に閉《と》じ蓋《ぶた》、ですね」
隣で同様に〈ナーバル〉を注視する高須《たかす》が、気楽を装った声で言う。うまい譬《たと》えだと絹見は素直に感心した。そのためにあつらえられた拘束具の鉄輪にくわえ込まれ、両舷に外装魚雷を備えた船底を半ば後部甲板に埋めている。〈海龍〉接合時には余っていた甲板の接合レールは、通常の特殊潜航艇より二回りは太い船体の下にすっぽり収まっており、形状といい色合いといい、〈伊507〉を構成する部品と言っても差し支えない一体感が、〈ナーバル〉にはある。特殊潜航艇を搭載《とうさい》したのではなく、接合した状態こそが完全と思える形】――。それは逆に、これまでの〈伊507〉が不完全な状態であったことを意味してもいた。
「〈海龍〉の修理状況は?」
受領して間もないとはいえ、自分の操ってきた艦が不完全品で、まだ未知の領域があると知らされるのは楽しいことではない。絹見は溶接の火花を瞬《またた》かせる〈海龍〉に目を移した。〈ナーバル〉に居場所を奪われた〈海龍〉は、以後、無人のまま索具で〈伊507〉の艦尾に繋《つな》がれ、金魚の糞《ふん》よろしく曳航されることになる。艇内のタンクに一定の水を入れて浮力を抑え、水上と水中を往来する〈伊507〉の動きに追随できるよう設定する。ようは南方戦線への輸送任務で用いられた運荷筒《うんかとう》――潜水艦用の曳航コンテナ――と同じ要領だが、ドイツ製の索具は中に電線ケーブルが通してあるので、接続次第で簡単な遠隔操作を行うこともできた。無論、どこにでもあるという代物ではなく、〈ナーバル〉との接合にも用いられている特製の索具だ。
「あと一時間はかかります。相当ひどく損傷していたようですからね。あれでよく持ちこたえたもんだって、機関長も早川《はやかわ》艇長も呆れてたぐらいです」
考課に謳《うた》われた通りの技量で〈海龍〉を操《あやつ》り、無事に生還を果たした清永《きよなが》上等工作兵の勲功《くんこう》をさり気なく伝えて、高須はちらと窺《うかが》う視線を寄越した。気づかぬ振りで、絹見は「急がせろ」と重ねた。
「夜明け前には潜航して、この海域を離れたい」
そう命じたところで、高須は徹夜の戦闘で疲労した兵たちを無闇《むやみ》に急《せ》き立《た》てたりはしないだろう。絹見は生温《なまぬる》い空気が滞留する漆黒《しっこく》の海面に目を向けた。「は」と淡々と応じた高須の口もとが微かに緩んだのは、清永たちへの褒賞《ほうしょう》を考え始めたこちらの胸のうちを、見透かしているからに違いなかった。
「追って来ますかね、敵潜」
それでも、格好の海上標的になっている艦の現状を忘れず、高須は慎重な声を出す。「来るな」と答えて、絹見は〈ナーバル〉に一歩足を近づけた。
「ローレライの回収を二の次にしてでも、我々をおびき出そうとしたような敵だ。おそらく〈UF4〉時代からの因縁があるんだろう。それに……」
〈ナーバル〉の外板に付着した水苔《みずごけ》を片手で軽く払い、絹見は続けた。「もし自分が同じやられ方をしたら、悔しくて眠れん。不眠不休で追いかけているよ」
にやと口もとを歪《ゆが》めて言うと、「確かに」と返した高須の顔にも苦笑が刻まれた。右舷側の舷梯《げんてい》に手をかけ、絹見は〈ナーバル〉の船体に昇った。
開け放たれたままの上部ハッチをくぐり、下に降りた先は、前後が隔壁《かくへき》で仕切られた小空間だった。「折笠《おりかさ》上工はここから中に入ったそうです」と言った高須の声を頭上に、絹見は赤色灯に照らされた周囲の壁を見回した。
前後の隔壁に円形の水密戸。床の溝は注排水口で、天井から側壁に垂れ下がるパイプは空気タンクの送気弁だろう。「潜水夫の出入り室というところか」と独りごち、絹見は艇内に続く水密戸を開放した。
ひんやりとした冷気が顔に当たり、同時に悪臭ともつかない澱《よど》んだ空気が鼻と口を塞《ふさ》いだ。換気はしているはずだが、まだ酸素の巡りは十分ではないらしい。後に続いた高須が鼻を押さえ、「こりゃひどい……」と呻《うめ》くのをよそに、絹見は艇内に足を踏み入れた。
艇内に張ってあったという水はすでに抜かれ、天井からぶら下がる小型の潜望鏡、壁を覆う各種パイプや潜航装置が、照明灯の光を浴びて六畳ほどの空間にびっしり収まっている。座席は前後に並ぶ複座式で、床との設置面に蛇腹《じゃばら》式の昇降装置が備えられ、背もたれも可動式になっているのが特徴的だった。他に目立つものと言えば、側壁に記された喫水標《きっすいひょう》と、後部座席の横に張り出した用途不明の機械装置。大量のコード差し込み口が整然と並ぶその装置の下には、これも用途不明の金属の物体がぽつんと置かれていた。
艇尾側の機械室に続く水密戸は開いており、小型のディーゼル機関が鎮座《ちんざ》する脇に、洋式の便器が無造作に据えられているのが絹見の注意を引いた。長期航行を前提とした艇ならあって当然で、〈ナーバル〉の構造自体、潜航艇の概念から極端に外れるものではないのだが、絹見の神経は艇内に漂う独特の臭気――違和感を感知していた。五官をざわつかせる違和感の源を探ろうと、機械室の中を覗き込んだ絹見は、便器のうしろに吊り下げられた麻袋に気づき、考えなしに中を探ってみた。
ゴミ箱代わりに使っていたのだろう。きちんと重ねられた缶詰の空き缶をまさぐるうち、ごわごわした綿の塊が指先に当たった。赤黒い血を吸った脱脂綿《だっしめん》を取り出し、すぐに袋に戻した絹見は、特種仕様の座席でも用途不明の機械でもなく、女の臭いが自分に違和感を覚えさせていたのだとわかって、顔をしかめた。
「こんな場所で十日以上も……」
確かに人の――まだ女になっていくらも経たないであろう少女の――生活の痕跡を留める艇内を見回し、高須が呆然と呟《つぶや》く。絹見は袋をもとの場所に戻し、その少女が座っていたという座席に近づいた。
「娘が着ていたゴム服は、内側に温熱器のようなものが仕込んであったそうだ。最低限の生命維持は考慮されていたのだろうが……」
酷《むご》いことに変わりはない。続く言葉を呑み込んで、絹見は座席の脇に置かれた金属の物体を拾い上げた。西洋の冑《かぶと》に似ていなくもないが、側頭部を一周する鉄輪と、頭から後頭部に至る半円の鉄輪が頭を覆うだけなので、防具の役には立ちそうもない。額に当たる部分には〈ナーバル〉の艇首同様、猛禽の嘴を想起させる金属が帽子の鍔《つば》のように張り出し、その左右から頬を覆う金属板が顎《あご》の曲線に沿って伸びている。装飾品と言っても通用する優美な形が印象的とはいえ、鉄輪の内側に電極らしい突起がびっしり取りつけられ、そこから垂れ下がったコードが側壁の機械に繋《つな》がっているさまは、興ざめという表現ではまだ足らない。本能的な恐怖を呼び覚まさずにはおかない、奇怪で狂いじみた代物だった。
「かぶるんですかね?」と高須。絹見が手渡すと、おずおずと受け取り、試しに頭に当てようとした高須の動きが途中でぴたりと止まった。鉄輪の裏側に並ぶ無数の突起に気づいたのだろう。西洋の拷問《ごうもん》道具でも連想したのか、「……ぞっとしませんね」と言って物体を座席の脇に戻した高須は、もうそちらを振り向こうともしない。絹見は小さく息を吐き、操縦装置に隣接する艦内電話の装置に目を落とした。
KOMMANDO ZENTRALE(発令所)∞MASCHINENRAUM(機械室)≠ニいった文字が記された釦《ボタン》を指でたどり、KRANKENSTATION(医務室)≠ニ書かれた釦を押す。〈ナーバル〉の下部ハッチ周辺には膨大な量の配線差し込み口があり、〈伊507〉の交通筒から伸びる無数のコードがそれに対応している。配線がすべて完了したとは思えないが、電話ぐらいは使えるかもしれない。絹見は受話器を取り上げ、耳に当ててみた。呼び出し音が二回鳴った後、(こちら医務室、時岡《ときおか》軍医長であります)と長閑《のどか》な声が返ってきた。
「なるほど。割れ鍋に閉じ蓋だ」
感心半分、嫌悪感半分で吐き捨てた絹見は、(はあ?)と素っ頓狂な声を出した時岡を咳払いでごまかし、「こちら艦長だ」と受話器を持ち直した。「折笠上工とパウラ・エブナーの容態は?」
(折笠上工は問題ありません。診断でも窒素中毒の兆候はありませんでした。パウラ嬢の方は少し心配ですなあ。疲労と栄養失調で衰弱がひどいのです。いまのところ、ブドウ糖の点滴を続けておりますが)
「了解した。なにかあったらすぐに連絡をくれ」
まずはひと安心と気が緩んだせいか、あるいは時岡ののんびり口調に緊張を溶かされたからか。受話器を置いた途端、溜まりに溜まった疲れが一気にのしかかってきて、絹見はそのまま艦内電話装置に両手をついてしまった。
ひどく長い一日。まる一ヵ月の緊張を強いられた真珠湾奇襲作戦の時でさえ、これほどの疲労を感じたことはなかった。しょぼついた目頭を揉《も》み、ついでに顔に浮き出た脂をこすり取って、歳《とし》だな……と感慨を結んだ絹見は、「艦長」とあらたまった声を出した高須に振り返った。
「艦長は、ご存じだったのですか? ローレライが、その……」
口ごもり、視線を泳がせた高須の顔を見て、自然に苦笑が漏れた。絹見は「まさかな」と答えてやった。
「既存の原理を超越した高感度水中探索装置。ローレライについて自分が教えられたことと言えば、その程度だ。もっとも、聞かされていたとしても信じなかっただろうがな。ローレライが生身の少女であるなどと……」
鋼鉄と機械油の匂い、それに少女の生活の匂いが渾然一体となった空気に、担架《たんか》で運び出されたパウラ・エブナーの横顔を重ね合わせた絹見は、苦笑を消して艇内を見渡した。既存の原理を超越、とはよく言った。ここにある未知の装置群――航海装置とも医療器具ともつかない機械の数々は、発令所にある正体不明の装置群と一脈通じるところがある。半球状の透明ガラスに覆われ、逆さにした裸電球といった形を鎮座させるヘルゼリッシュ・アプフォーラ。第一と第二潜望鏡に続き、三本目の柱を発令所に佇立《ちょりつ》させるヘルゼリッシュ・スコープ。ヘルゼリッシュとは、確か千里眼という意味ではなかったか? パウラの能力がどの程度のものなのかは想像するよりないが、少なくとも千里眼≠ニいう言葉に見合うだけの力が、ローレライにはあるということなのかもしれない。
――日本民族の滅亡を回避し、あるべき終戦の形をもたらす。ローレライにはそういう力がある。
江田島《えたじま》の教育参考館で聞いた浅倉《あさくら》の言葉が、赤い口腔《こうこう》の印象とともに脳裏に浮かんできた。ローレライがどれほど驚異的な水中探索装置だとしても、劣勢も窮《きわ》まった戦局がそれひとつで覆《くつがえ》せるとは到底思えないが、浅倉は妙に確信ありげだった。新兵器、新技術という言葉を過大評価し、すぐに勝利、逆転と短絡《たんらく》する将校も少なくはないが、浅倉はその手の将校とは正反対の男だ。むしろそうした無責任な楽天的思考を嫌い、切り捨てたからこそ、自分のような規格外品に〈伊507〉を預けたのではなかったか――。
「なぜ軍令部はすべてを教えなかったのでしょう。結果的にこうなったからよかったようなものの、もし我々が敵潜を警戒して数日待機を続けていたら、彼女は間違いなく……」
衰弱死していた。高須の弁に、〈海龍〉を乗っ取ったフリッツの切迫した声を思い出した絹見は、「さてな」と言葉を濁した。
「軍令部も知らなかったと見るのが正しいのかもしれん。特殊兵器の実体が一少女の神通力であると知った上で、帝海が〈UF4〉の受け入れに応じたとも思えん」
「知らぬが仏……ということですか?」
「そうでなければ、この時期に一部隊を動かして回収作戦を行うこともしなかったろう。いかに規格外品の寄せ集めとはいえ、な」
絹見の軽口には応じず、高須は、「しかし、〈UF4〉の乗員は軍令部に収容されたのです」と反論の口を開いた。
「百人からの乗員が全員、口を拭《ぬぐ》っていられるとは思えません。どこかで秘密が漏れて……」
「彼らもまた知らなかったのではないか? ローレライの正体を知る者は、その管理責任者であるフリッツ・エブナーひとり。他の乗員は、ローレライをただの機械装置と信じ込まされていた」
絶句した高額に、絹見は「考えられん話じゃない」と続けた。
「ナチスドイツにとって、あの兄妹はあらゆる意味で異端だ。特にパウラ・エブナーの能力……神通力は、彼らの基本理念を根底から覆しかねない」
「例の優生学理論ですか」
「だが、その能力は軍事的に利用価値がある。だから機械装置に閉じ込めて、兄であるフリッツ少尉に管理を一任した。SSに入れたのは、彼の立場を保証する便宜上の措置といったところだろう。SSが管理権を握っていれば、乗員は誰もローレライに近づけない」
言いながら、お上のやることはどこも同じだな、と絹見は苦い実感を噛み締めた。黄色い肌を疎《うと》まれて潜水艦に閉じ込められた兄妹もいれば、長年の勲功と身内の不始末を相殺《そうさい》され、万年教官の立場に甘んじさせられてきた男もいる。その根源にあるのは、組織の体面という名の厚顔無恥だ。
「信じがたい話です」と呟いた高須の顔は、蒼白だった。「同感だが……」と返して、絹見は艇内を離れる一歩を踏み出した。
「高精度の電探やロケット兵器が次々登場して、挙句《あげく》に『マッチ箱』のような新型爆弾の噂だ。時代は変わりつつあるのかもしれん」
「世界規模の文明開化が起こっている、と?」
「そうだな。この戦争にはそういう側面がある。よくも悪くもな」
艇首側の隔壁を抜け、出入り室の床にある下部ハッチに手をかける。このような気密空間が設けてあるのも、艇内に水を入れる都合があるからだろうと絹見は思いつく。操艇室と出入り室を隔壁で区分けしておけば、艦内に続く下部ハッチを開放した時、操艇室の水が艦内に流れ込まずに済む。つまり〈ナーバル〉は、艇内を常時水で満たすことを前提に設計されているのだ。
常に浸水した狭苦しい艇内で、一日を過ごす。まったく胸糞《むなくそ》の悪くなる話だと内心に吐き捨て、絹見は下部ハッチを開放した。ハンドルの回転する鉄の軋みに、「しかし……」と呟かれた高須の声が混ざる。
「あの少女は航海中、ずっとここに閉じ込められていたんです。発達した文明が人に苦痛を強《し》いるという話は、容認したくありません。それは発達ではなく、暴走ですよ」
饐《す》えた空気が充満する艇内を振り返った高須は、小さく身震いしたようだった。絹見は無言で交通筒のラッタルに足をかけ、艦内に降りた。人いきれと機械油で汚れきっているはずの艦内の空気が、この時はひどくさわやかに感じられた。
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肉を打つ鈍い音は、ディーゼルの低い唸《うな》りを割ってはっきり耳に届いた。続いてなにかが倒れ、床を擦《こす》る音が、艦橋格納庫のがらんどうに奇妙に大きく響く。
ラッタルを昇って格納庫に上がった征人《ゆきと》は、昇降口にまで溢《あふ》れ返った乗員たちの肩ごしに音の正体を確かめた。肩を小さく上下させる清永の丸い背中と、その向こうで床に倒れ込んでいるフリッツの黒い制服姿。それぞれの仕事の合間に格納庫に集まってきたのか、兵曹以下の乗員たちが二人を十重二十重《とえはたえ》に取り囲み、制止するでもなく、囃《はや》し立てるでもなく、殴った男と殴られた男を黙然と見つめていた。
時岡の診断から解放されたばかりの征人は、その儀式ばった硬い空気に口を塞がれ、なにをどう捉えていいのかわからないまま見物の列に加わった。どの乗員も押し黙っている。腕を組んで仁王立《におうだ》ちになった田口も、当然のことと認めているかのように二人を注視する。大手を振って艦内に戻り、てめえをぶっ飛ばせるって可能性に賭ける――フリッツに銃口を突きつけられている間、そう言い続けることで心の均衡を保ってきた清永にとって、これは確かに済まさなければならない儀式なのかもしれなかった。
口もとを汚した血を拭い、フリッツが立ち上がる。微動だにしない長身の顔めがけて、清永がさらに一発拳を振う。再び肉を打つ鈍い音が響き、思わず目を閉じた征人は、「なにをやっとるか!」と背後に響き渡った怒鳴り声に、ぎょっと振り返った。
足音高くラッタルを駆け上がり、征人を押し退けて人垣に飛び込んできたのは、小松《こまつ》少尉のいつもの姿だった。頬を腫《は》らして床に座り込む少尉と、両の拳を握りしめた上等工作兵。軍規を完全に無視した光景を前に、潔癖な甲板士官がなにを思うかは想像するまでもない。案の定、小松は血相を変えて清永とフリッツの間に割って入ろうとした。
「自分が責任を取ります。ここはご容赦を」
その肩をつかんで、田口が有無を言わせぬ口調で言う。やんわりとつかんだようでありながら、田口の腕は万力《まんりき》さながら小松を押さえ込んでいるのだろう。振り払おうともがき、びくともしない腕力に恐怖を覚えたらしい小松は、親に言い訳をする子供の顔を田口に向けた。
「しかし、仮にも将校の立場にある者を、一工作兵の分際で……」
「男同士の問題です。階級は関係ありません」
新米将校が、おれをなめるなよ。言葉より雄弁に語った田口の目に睨《にら》まれ、小松の肩からみるみる力が抜けてゆく。なにか言おうと口を開きかけ、声を出せずに田口の前から引き下がった小松は、一同の視線を避けて人垣の中に埋もれていった。
百もの文句を溜《た》め込《こ》んだ目で乗員たちをかき分け、列の最後尾につく征人と視線を合わせると、決まり悪そうに顔を逸らす。「私刑じゃないか、こんなの……」と低く呟いた小松の声を聞きながら、でもこれは必要なことなのだろうと征人は納得した。
今後、どのような裁きが下されるにせよ、フリッツが〈伊507〉にとって不可欠な乗員であることに変わりはない。だから軍規上の裁きは別にして、吐き出すものは吐き出させておく。清永はもちろん、フリッツの謀反《むほん》に引きずられ、窮地にさらされた乗員たち全員の腹を収めるためにも、フリッツは殴られてみせなければならないのだろう、と……。
「立てよ」
清永が低く呟く。片膝をつき、ふらつく体を立ち上がらせたフリッツは、両足をしっかり踏んばって顔を正面に向けた。そうするのが自分の務めと心得た所作だった。感情を押し隠した二つの眼に見据えられ、清永が少し腰を引く気配が伝わった。
「……なんだよ、なにか言いたいことがあるなら言ってみろよ」
「すまなかった」
無表情を崩さず、フリッツはそれだけ言った。その瞳にほんのわずかな感情の灯がともり、征人の胸を締めつけた。
謝罪は自分の心を慰める行為に過ぎない。そう断じて恥じなかった男の精一杯の言葉。バカにされたと解釈したのか、三度日の拳を振り上げる清永の挙動を察した征人は、たまらずに人垣をかき分けていた。
田口の脇をすり扱け、つんのめるようにして清永の背中に飛びつく。たたらを踏んだ清永の腰にしがみつき、征人は「もうよせよ、十分だろう……!」と腹から搾《しぼ》り出した。
「十分なもんかよ! おまえもおれも、こいつのせいで死ぬ目にあったんだぞ。悔しくねえのかよ!?」
体勢を立て直し、清永は力任せに征人を振り払おうとする。大兵《だいひょう》の体躯《たいく》に振り回されながら、征人は「妹だったんだよ!」と全身を声にした。
清永の動きがぴたりと止まり、その場にいる全員が息を呑む気配が背中を打った。「妹……?」と呆然と聞き返した清永に頷き、征人は太い腰から手を離した。
「パウラって、〈ナーバル〉の中にいた女の子。……そうなんでしょう?」
確かめた征人から目を逸らし、フリッツは無言を返事にした。
「おれは、兄弟がいないからよくわからないけど……。もしフリッツ少尉の立場になったら、同じことをしていたかもしれない。清永だって、そうだろう?」
憮然とした表情とは裏腹に、清永の肩からは力が抜けていた。立ち尽くすばかりのフリッツを見、じっと静観する田口も視界の端に入れた征人は、「だからさ……」と吐息混じりに続けた。
「みんな無事だったんだ。もういいじゃないか」
清永は太い息を吐き、丸刈りの頭をごりごりと掻《か》いた。後は重ねる言葉もなく、人垣の中に戻ろうとした征人は、不意に格納庫に上がってきた絹見と高須の姿に気づき、咄嗟《とっさ》に踵《かかと》を合わせた。
直立不動になった征人に続いて、他の一同も即座に威儀を正す。緊張と気まずさが入り混じる中、小松ひとりが喜色を浮かべ、いそいそと二人に近づく素振《そぶ》りを見せたが、絹見も高須もそちらに振り返ろうとはしなかった。特にどうということもない顔で格納庫を見渡し、だいたいの状況を察したらしい絹見は、「哨戒《しょうかい》配備は継続中だぞ。全員、持ち場に戻れ」とだけ言った。
呆気に取られた顔の小松を残し、一同はぞろぞろと格納庫を引き上げてゆく。後に続こうとして、絹見と視線を合わせてしまった征人は、なぜそうするのか自分でもわからないまま、その場に留まって背筋をのばした。
表情を消した瞳をぴくりともさせず、絹見も無言でこちらを凝視する。いまなら話せる、話しておけ。胸を突き上げる正体不明の衝動に押され、征人は「申しわけありませんでした」と腰を折り曲げた。
「勝手を言って〈海龍〉に同道したにもかかわらず、なにもできませんでした。むしろ、救援作戦で余計な手間を取らせてしまって……。この責任は――」
「思い上がるな」
しどろもどろの弁を遮《さえぎ》り、絹見が言う。頭を下げたきり、征人はその顔を見返すことができなかった。
「救援のために艦が動いたという事実はない。気づかれずに接敵する手段があった。だから特殊兵器回収の任務を実施した。それだけだ。貴様が助かったのは偶然にすぎん」
硬質な言葉にいちいち頭を蹴飛ばされながら、バカなことを言ったという後悔が胸を埋めた。こういう人だとわかっていたはずなのに、なぜわざわざ話しかけたりしたんだ? 〈伊507〉という集団の一員として、自分なりにけじめをつけようと思ったから? 自分を見つめる絹見の目に、軍人という尺度では量《はか》りきれない、身近な光を見出したような気がしたから……? 答を探しあぐねる間に、「掌砲長《しょうほうちょう》」と言った絹見の視線が田口に向けられた。
「フリッツ少尉を三甲板の収監室へ連行しろ。見張りの人選と配置は任せる」
「はっ!」と姿勢を正した田口を背に、絹見は格納庫を後にした。フリッツが収監されるという当たり前の現実を失念していた征人は、虚をつかれた思いでその背中を見送った。
またひとつ、己の迂闊《うかつ》さを痛感させられた思いだった。こうして生きていられるのは確かに偶然の賜物《たまもの》でしかない、自分は徹底的に半人前の人間らしいと恥じ入った征人は、その瞬間には息苦しさも反感もなく、ただ一人前になりたいと念じている自分を自覚して、少しの驚きを味わった。
工員養成所や横須賀突撃隊にいた時はもとより、〈伊507〉に乗り組んでからもこんな気持ちになったことはなかった。周囲に遅れを取らなければいいを身上に、型に嵌《は》められるのをむしろ拒んでいた自分が、いまは一人前という言葉にこだわっている。理由を考えようとした途端、〈ナーバル〉の中で聞いた甘美な歌声、いまは医務室のベッドに横たわる華奢《きゃしゃ》な体が唐突に脳裏に浮かび、征人は耳たぶがほんのり熱を帯びるのを感じた。
一人前になってみせなければ、彼女を守ることができない。それが理由……か?
ぽんと肩に置かれた手が、出口のない内省の時間を終わりにした。すぐ傍らに立つ高須が、「あんまり考えるな」と言っていた。
「終わりよければすべてよしって言うだろ」
にっと笑い、高須はラッタルを軽快に下ってゆく。その余裕も、一人前になってこそ持てるものなのだろう。同じ一人前でも艦長や無法松になるのはご免だが、先任将校のような一人前にならなってみたい。なにかしら救われた思いで高須を見送った征人は、「折笠」とかけられた野太い声にぎくりとした。
「その、ローレライの娘っ子な……。いま意識はあるのか?」
頬の傷痕を小指で掻きつつ、田口はいつになく神妙な顔つきだった。その場に残った清永とフリッツの顔を交互に見較べてから、征人は「はあ……」と頷いた。
第一甲板に降り、艦首魚雷発射管室に隣接する医務室の前に来ると、上等兵曹と二人の水兵が医務室の扉にへばりつく光景があった。肩を寄せ合い、扉の鍵穴を交互に覗く彼らの姿は、またたびに群がる猫を連想させた。
帝国海軍の潜水艦にあるまじき珍客≠フ存在は、すでに艦内中に知れ渡っている。男ばかりが七十数人、狭苦しい鉄管に詰め込まれていれば、珍客≠フ出自や正体はひとまずおいて、とにかくその姿をひと目見ようとするのも無理はない。「貴様ら、なにやっとるか!」と田口に一喝《いっかつ》され、慌てふためいて退散するさまは、水をぶっかけられて逃げ出す野良猫そのものだった。
彼女がここにいる限り、こういうことにも気をつけなければならない。これはますます自分がしっかりせねばと、ひとり顔を引き締めた征人をよそに、田口が医務室の扉の前に立ち、フリッツと清永がそれに続く。殿《しんがり》についた征人は、フリッツの腰から両手首に回された捕縛の縄を見遣《みや》り、ナチス親衛隊の制服に荒縄は似合わないなと、どうでもいいことを考えた。
田口が扉を叩くと、時岡がすぐに顔を出し、「やあ、砲術長殿」と例によって意味もなく満面の笑みを浮かべた。「掌砲長です」と、ぶすっと応じた田口は、「面会人を連れてまいりました」と続けてフリッツの背中を押し出すようにした。
手首に巻かれた荒縄をしげしげと見、「ほお、面会人ですか」と丸眼鏡に手をやった時岡は、いいのか? と問いたげな目を田口に向けた。田口は目を合わそうとせず、無言で医務室の壁を見つめている。無論、いいはずはない。収監室に連行する前に医務室に立ち寄り、フリッツに妹と対面する機会を与えたのは田口の独断だ。そんな温情は微塵《みじん》も想像させない顔で沈黙する田口の横で、征人もさも当然といった顔をするよう心がけた。
察しているのかいないのか、「ほおほお、なるほど」などと言いながら時岡が道を開けるのを待って、田口はフリッツを医務室の中に通した。内心ほっと息をつき、征人は横目で田口の表情を窺った。「五分だけだ」と念を押し、戸口から一歩さがった時には、田口の手はさりげなく腰の拳銃に置かれていた。
油断のない目を注ぐ田口の隣に立ち、征人も医務室の中を覗き込んだ。時岡とフリッツの背中ごしに、ベッドに横たわるパウラ・エブナーの姿がちらとだけ見えた。
「パウラさん、お客さんが来ましたぞ」と言った時岡の声に反応し、うっすら目を開けたパウラは、まだ普通の部屋の明るさに慣れないらしい目を細めたのも一瞬、瞼《まぶた》をいっぱいに見開いてフリッツの顔を見上げた。
鳶色《とびいろ》の瞳が小刻みに震え、言葉を紡《つむ》ぎかけた唇をきゅっと結んで、視界からフリッツを消そうとするかのように顔を天井に向ける。感情の振幅を必死に押し留めた横顔が、そうすることで絶望との直面を避け、生き長らえるのを処世にしてきた者の頑《かたく》なさを伝えて、征人の胸をずきりと痛ませた。
「……無事か?」
フリッツが日本語を使うのは、田口に不審を抱かせないためだろう。万感のこもったひと言に、パウラは天井を見つめたまま何度も頷《うなず》いてみせる。目の縁《ふち》に滲《にじ》んだ雫がこぼれ落ちない程度の、ひどく小さな頷きだった。
「どうなのです?」
パウラの腕に差し込まれた点滴の管を見つつ、フリッツが時岡に問いかける。「いやあ、若いから大丈夫でしょう」と答えた時岡は、相も変わらず無意味な笑顔だった。
「あと半日も安静にしていたら、物を食べられる体力もつくでしょう。そうしたら烹炊長《ほうすいちょう》にかけあって、時岡自慢のお粥《かゆ》でも作って差し上げましょうかな」
その場の空気を無視した能天気な言葉に、パウラの眉が心持ちひそめられた。包帯に覆われた手で目を拭い、「Ist er vielleicht ein Quacksalber?」と小声で囁いたパウラに、「Hoffentlich nicht.」とフリッツ。「は? クワック……?」と首を傾げた時岡には答えず、フリッツは捕縛された両手をそっとパウラに差し伸べた。
五本の指すべてに絆創膏《ばんそうこう》を巻いたパウラの手のひらが、それを握り返す。他にはなにもする必要のない、言葉さえいらない穏やかな静寂が流れ、「なあ、征人」と背中をつついた清永の小声が、遠慮がちに征人の耳に響いた。
「おれ、なにがなんだかさっぱりなんだけど。おまえはわかってんのか?」
手を握りあうフリッツとパウラを訝《いぶか》しげに眺めて、清永は困惑しきりという顔だった。二人が何者で、なぜこうなるに至ったのか。問われればまったくわかっていない自分に気づかされながらも、漫然と漂う幸福な空気に思考を押し流され、征人は初めて見るパウラの微笑を飽かずに見つめ続けた。
「わかんないけど、いいんじゃない?」
適当な言葉で茶を濁すと、清永は「いいのか」と意外にあっさり納得してくれた。
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それから約四時間後、午前八時六分。水平線を離れ、真夏の猛威を振い始めた太陽に追い立てられるかのように、〈伊507〉は潜航を開始した。
鋸《のこぎり》の刃に似た防潜網切器を備えた艦首が波を割り、全長百十メートルの船体が徐々に海面下に沈んでゆく。索具に繋がれた〈海龍〉が三十メートルの距離をおいて続き、〈伊507〉の質量と速度に引っ張られて、水中翼を生やした船体を航跡の白い泡の中に沈める。〈ナーバル〉の搭載と〈海龍〉の曳航で操艦に影響が出ることを考慮し、常にない慎重な潜航を行った〈伊507〉は、五分の時間をかけて海上から姿を消していった。
艦が潜望鏡深度――深度十八メートルに達し、十五度の俯角《ふかく》が水平に戻ったところで、絹見は夜間・航海用の第二潜望鏡を上げるよう令した。敵に捕捉されるのを防ぐべく、洋上に出る露頂部《ろちょうぶ》の外筒径を細くした攻撃用の第一潜望鏡と異なり、大型の対物レンズを装備した第二潜望鏡の視界は広く、仰角《ぎょうかく》もかなり自由度が効く。旋回把手に右腕を巻きつけ、体重を預けるようにしてぐるりと潜望鏡を固した絹見は、一回転し終えてから半周前に戻し、艦尾側に広がる南の空にレンズを向けた。
変倍把手を回し、倍率を十倍に変える。先刻、艦橋上から見た時にも目立った積乱雲《せきらんうん》が、さらに大きくなって水平線にへばりついているのが見えた。朝陽の余韻を残して白々と輝く空を背景に、立体感を際立たせる積乱雲の根元には灰色の陰りがある。風が吹き始めたのか、海面は三角波が高い。
やはり荒れそうな気配だ。潜航前より一段と悪化の予兆を強めた天候を確かめ、絹見は潜望鏡から目を離した。航海長の木崎《きざき》大尉が艦長の顔色を敏感に察し、「荒れますか?」と声をかけてくる。
「ん……。この調子では、夕方までには嵐に追いつかれるな」
「いまのうちに水上航走して、距離を稼いでおきますか?」
夜を待って浮上した途端、嵐の真っ只中というのはぞっとしない。潜航中はほとんど揺れない潜水艦に慣れた乗員は、総じて船酔いに弱いものだ。木崎の提案を保留にして、絹見は機械室に通じる伝声管に口を寄せた。
「機械室、こちら艦長。補気と充電の具合はどうか?」
(だましだまし、というところです。特電〈特殊充電装置〉で賄《まかな》ってはおりますが、昼過ぎには空調を止めにゃなりませんな)
誇張も気休めもない、岩村《いわむら》機関長の淡々とした返事が伝声管を震わせる。特殊充電装置は、二本の潜望鏡とともに艦橋に並び立つ給排気筒で、それを使えば潜航中でも発電用ディーゼルを回し、蓄電池の充電を行うことができる。ひと晩がかりの戦闘でほとんど電力を使い果たし、充電時間もろくに取れなかったとなれば、特電に頼るよりないのが道理だが、しょせんは煙突《えんとつ》でしかない特電は、波が高くなると給排気弁に水が流入する危険性がある。直結する発電用ディーゼルに水が入り、故障するような羽目になっては目も当てられない。嘆息を堪《こら》え、絹見は「了解した」と応じた。
「荒れそうな気配だ。特電も使えなくなる恐れがある。空調はただいまをもって遮断《しゃだん》しろ。ただし医務室の空調だけは残しておく」
(医務室だけ……でありますか?)
「病人がいる。やむを得んだろう」
一方的に会話を打ち切り、木崎に振り返った絹見は、「水上航走したいのはやまやまだが、敵潜が増援を呼んだ可能性もある」と言って略帽をかぶり直した。
「呉《くれ》を襲った空母がまだ付近にいるはずだ。航空部隊に出張られて、空から狙われたらたまらん。急速潜航に四分もかかる状態では、間違いなく袋叩きにされるからな」
「やれやれ……。今日は猛暑になりそうですな」
七十七人分の呼気と体温がこもる密閉空間で、空調を止めた結果がどんな環境をもたらすかは、経験者でなければ想像できない。潜水艦畑一筋の男らしい木崎の物言いに苦笑した絹見は、「艦長……」とかけられた低い声に背後を振り返った。
高須だった。軍令部からの暗号無電を翻訳した紙片を握り、なにかを呑み込んだ顔で立ち尽くしている。回収作戦成功の暗号を打電してから初の定時連絡、お褒《ほ》めの言葉のひとつもあろうかと、足取り軽く通信室に出向いていったのが数分前。その時とは別人の高須の顔色に、読み上げろと出しかけた声が喉《のど》に張りついた。無言の高須から電文を受け取り、絹見は通信長が書き殴った文字に素早く目を走らせた。
一読して、自分の顔色も変わるのがわかった。紙片を握り潰したい衝動を堪え、絹見は「航海長」と木崎に呼びかけた。
「針路変更だ。航路の設定を頼む」
「は」と応じ、絹見が差し出した紙片に目を通した木崎の顔からも、見る間に血の気が失せてゆく。「これは、しかし……」と呻いた木崎に背を向けた絹見は、それ一枚ですべてを覆し、〈伊507〉の先行きに暗幕を垂らした紙片の文字を、あらためて反芻《はんすう》した。
発・軍令部、宛・〈伊507〉。〈伊507〉はただちに変針、可及的|速《すみ》やかにウェーク島に向かうこと。同島根拠地隊に回収した特殊兵器を引き渡し、以後、同島根拠地隊司令部の傘下《さんか》にて別命あるまで待機のこと――。
「……なんにせよ、これで謎のひとつは解けた」
高須がぽつりと口を開く。絹見は、その顔を見返す気力が持てなかった。
「無補給で太平洋を横断できるだけの燃料と糧食……。本土から三千キロも離れたウェーク島に行けと言うのなら、確かに必要です」
つまりは、最初から予定されていたこと――。高須と顔を合わせられないまま、絹見はウェーク島という忘れかけていた地名を記憶の底から引き出してみた。
ミッドウェーとサイパンのほぼ中間、太平洋のただ中にぽつねんと浮かぶ孤島。環状|珊瑚《さんご》島で水脈もなく、辛うじて飛行場が造れる程度の小島だが、かつては米潜水艦隊の前進基地だったこともあり、戦略的価値は高いとされていた。開戦|劈頭《へきとう》、延《の》べ百機以上の艦載機と三個中隊の陸戦隊が進攻し、五百名もの戦死者を出した挙句に攻略に成功したが、以後、ウェーク島の名が戦史で語られたためしはない。米軍の反攻作戦からも外され、いまは敵も味方も振り返る者はなく、攻略当初に進駐した根拠地隊が細々と運営されているだけの島……。
言わば、僻地《へきち》中の僻地。国の命運を左右するという特殊兵器を携《たずさ》えて向かうには、場違いとしか言いようのない場所だった。燃料と糧食の蓄えはあるとはいえ、錬成《れんせい》もままならない〈伊507〉一艦で、敵艦が多数遊弋《ゆうよく》する海をどう突破しろというのか。ふつふつと煮えたぎる腹の底にぶちまけ、不意に浅倉の白い細面に突き当たった絹見は、ぞろりとした悪寒を感じた。
その背後に軍令部という全体を見たからか、あくまでも浅倉という個人に喚起《かんき》された悪寒なのかは、判断がつかなかった。それよりも、いまは他に確かめなければならないことがある。絹見は顔を上げ、「当直士官」と転輪羅針儀《てんりんらしんぎ》の隣に立つ運用長を呼びつけた。
「しばらく発令所を離れる。航路の設定が終わり次第、新針路に舵を取れ。なにかあったらすぐに連絡しろ」
運用長を務める三十前の中尉も、ただならぬ気配を察したのだろう。「は……」という戸惑い気味の返事を背に、絹見は高須に目で合図をして艦首側の隔壁に向かった。
「艦長……?」
「命令に従うことに異論はない。だがわからんことがあまりにも多すぎる」
水密戸をくぐり、通路に出る。慌てて後に続いた高須に「ローレライだ」と重ねて、絹見は大股で通路を歩いた。
「そのなんたるかがわからん限り、軍令部の意図を推《お》し量《はか》ることはできん」
微かに息を呑み、立ち止まった高須を残して、絹見は下層甲板に続くラッタルに足をかけた。第二甲板に降り、装薬室脇の昇降口から第三甲板に降れば、収監室は目の前だった。
捕虜収監室などという設備を備えた潜水艦は、古今東西〈シュルクーフ〉ぐらいなものだろう。建造当時は世界最大と謳《うた》われた艦ならではの設備で、〈UF4〉時代は倉庫に使われ、〈伊507〉と呼ばれるようになってからも備品の置き場に使用されていた。本来の目的に沿って使われ始めたのは、数時間前――フリッツ・エブナーを拘置してからのことだった。
四畳半もない室内にあるものは、硬い寝台と毛布が一枚、汲《く》み置《お》き式の便器がひとつ。管理責任者の田口に鍵を開けさせ、高須とともに室内に足を踏み入れた絹見は、裸電球がぶら下がる天井から薄汚れた床を見回し、「狭い部屋だな」とまずは言った。寝台に座り、組んだ手のひらに顎を載せているフリッツは、なにも言わずに目を伏せた。
落ち着いたな、というのがフリッツを見た絹見の印象だった。無感情を装った冷たい目の色は変わらないが、奥底で絶えず蠢《うごめ》いていた狂暴ないら立ち、対する者の肌をひりつかせる焦燥感《しょうそうかん》のようなものはなくなった。そうしてちんと座っている姿は当たり前の青年でしかなく、一分《いちぶ》の隙《すき》もなかった親衛隊の制服もどこかくたびれて見えて、絹見はなにかしらほっとするものを感じた。
「気分はどうだ?」
「……少々暑いが、他は問題ない」
ぼそりと答えて、フリッツは額にかかった前髪をうっとうしそうにかき上げた。空調遮断の影響で、艦内気温はうなぎ登りの上昇を続けている。絹見は、「昨夜の騒ぎでろくに充電ができなかったのでな」と相手をした。
「いまは電力の節約で空調を止めている。我慢してもらうしかない」
「立場は承知している。空調を止められたぐらいで文句を言うつもりはない」
「止めたのはここだけじゃない。いまは全艦の空調が停止中だ。医務室を除いてな」
うなじをさする手の動きが止まり、無表情にひびが入りかけたが、一瞬のことに過ぎなかった。素早く動揺を隠したフリッツは、代わりに薄い笑みを端正な口もとに浮かべた。
「苦労して回収した特殊兵器だ。せいぜい大事にするといい」
「そんな話は知らん。彼女は〈ナーバル〉の中にいた生存者だ。我々はそれを保護したのに過ぎない。あくまでも人間として扱い、手当をするだけだ」
形だけの笑みを消し、フリッツは再び顔を背けた。その横顔があの少女――パウラ・エブナーに重なり、絹見はいまさらながら胸を衝《つ》かれる思いを味わった。
「危険に見合う結果はある。……そう言っていたな」
じわりと染み出した湿った感情を隠して、絹見は続けた。フリッツは微かに頬を痙攣《けいれん》させた。
「君にとって、危険に見合う結果とはなんだ? ローレライの回収か? それとも妹さんの救出か?」
「……なにが言いたい」
「我々を出し抜いて、ローレライ……パウラ・エブナーと〈ナーバル〉を手中に収め、無事に逃げられたとしてもだ。その後はどうする? 戻るべき祖国は存在しない。体《てい》よく利用された日本は君たちの敵にこそなれ、もう安住の地にはなり得ない。ローレライの獲得に執心している米国もしかり。そんな状態で、君はいったいどこに逃げるつもりだった? なにが目的なんだ?」
結局はひとりの人間の特殊能力でしかないローレライの正体について、フリッツがあくまで口を閉ざし続けていたのは、真実を明かしたところで絹見の判断が変わらないと断定した――実際、変わらなかっただろうが――せいもあるが、そればかりではない。回収後、頃合を見て〈伊507〉から脱走するには、〈ナーバル〉を無人の機械と思わせておいた方が都合がいい。日本への亡命を企《くわだ》てた時から、フリッツはパウラを連れて逃亡するつもりでいたのだろう。日本にたどり着く寸前に米潜の攻撃を受け、〈ナーバル〉とパウラを海底に投棄する羽目になったものの、フリッツの逃亡の意志は変わらなかった。誰も信じず、頼らず、必要なら他人の血を流すことも厭《いと》わずに。
問題は、そうまでして逃げた後、どこに行き、どう生きる当てがあったのかということだ。おそらくはそこにローレライの核心に迫る鍵があると踏み、絹見は慎重に質問を重ねた。
「〈ナーバル〉の燃料を満タンにすれば、大陸あたりに逃げ込むことはできたろう。だがその後は?」
フリッツはじっと一点を見据えている。江田島で会った時から変わらない、感情を否定した暗い瞳だった。
「大陸を経由してヨーロッパに渡り、ナチスの残党と合流する手はずでもあったのか? 祖国を再興するために……」
「あの国を祖国と思ったことは一度もない。滅んで当然の狂った国だ。戻る気は金輪際《こんりんざい》ない」
初めて荒らげられたフリッツの声音が収監室にこもり、隣に立つ高須だけでなく、戸口から様子を窺う田口も身じろぎする気配が伝わった。まっすぐこちらを直視したフリッツの目を見返し、絹見は「では、なぜ君はその制服をぬごうとしない」とたたみかけた。
「忌み嫌う祖国……いや、祖国とすら思えない国家の遺骸《がい》を身にまとい続けて、それになんの意味がある」
感情のない瞳が揺れ、歳相応の生硬い光が生まれたかに見えたが、確かめる間を与えずフリッツは目を逸らした。どんよりとした沈黙が降り、「……恐怖を克服するには、自らが恐怖になるしかない」という低い呟きが、しばらくの間をおいて収監室に響いた。
「狂気の世界を生き抜くには、自分もまた狂ってみせなければならない。……だからだ」
ただの言葉ではない、告発の声音がフリッツの唇を震わせ、絹見の頭蓋と五臓を揺さぶった。物心がつく前から狂い始め、その一角に参加した時には戦争まみれになっていた世界。勝手に争い、血を流し、なんの責任も果たさずに国を滅ぼした大人たち。あらゆる選択肢を奪われ、荒廃しきった世界を一方的に押しつけられた者が、奪い、押しつけた者に対して叩きつけた告発の声音――。あとずさりたい衝動を堪え、その場に踏み留まった絹見は、「終わりはどこにある?」と質《ただ》し続けた。
「狂気を身にまとって、狂った世界を渡り続けて……。君はどこに行くつもりだ」
「あんたには関係ない」
「そうもいかん。我々はすでに一蓮托生《いちれんたくしょう》なんでな」
わずかに顔を上げ、フリッツは絹見を見据えた。「つい先刻、軍令部から新命令を受領した。我々はこのままウェーク島に向かう」と伝えると、その目が驚愕《きょうがく》を示して見開かれた。
「理由はどうあれ、我々は君に――君たちに関わったことで、引き返せない道に足を踏み入れた。単独で敵制海権を突破して、ウェーク島にたどり着けというのは困難……いや、ほとんど死ねと言われたのに等しい。その回収のために一部隊を動員しておきながら、本土に運び込もうとはせず、あまつさえ敵地にさらすような命令を出す軍令部。この支離滅裂の根本にあるのが、ローレライという代物だ」
不意にフリッツの肩から力が抜け、興味をなくしたというふうに目が逸らされた。絹見は無表情に戻ったフリッツに一歩近づいた。
「教えてもらいたい。ローレライとはなんなのか。君の……我々の行き着く先にはなにがあるのか」
唇の端が歪み、うつむいた横顔が嘲笑の形にひきつれた。「一蓮托生……あんたの国らしい言い回しだな」と呟き、フリッツはおもむろに上着のボタンを外しにかかった。
高須と田口が呆然と見守る中、腰の銃帯を抜き、上着をぬぎ捨てて、ワイシャツの右袖をまくり上げる。「だがおれは信じない」と言い放ったフリッツは、露《あらわ》になった右腕を裸電球の明かりにさらしてみせた。
「おれが一連托生と呼べるのは、この烙印《らくいん》を押された者……パウラ・エブナーだけだ」
薄暗い電球の光に照らされ、一連の数字の刺青《いれずみ》が絹見の目に飛び込んできた。手首の少し下に彫られたそれは、111721−01と読めた。絶句する大人たちを見上げて、フリッツは嗤った。絹見には、しかしその目が泣いているように見えた。
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絶対安静と言っておきながら、あれこれ他愛のないお喋りをやめなかった時岡軍医長が姿を消すと、医務室は急に静かになった。一時間ほどまどろんだ後、喉の渇きを覚えて目を醒《さ》ましたパウラ・A・エブナーは、水差しの水をひと口含んで再び横になった。
乾ききったスポンジになった体に、点滴のブドウ糖が染み渡っているのがはっきり感じられた。まだだるいが、吐き気や頭痛はだいぶ収まった。絶え間ない疼痛《とうつう》の果てに感覚が失せかけていた両手も、ぽかぽかと温かい。なによりありがたいのは、体を包む真新しいシーツと布団の感触。いま身につけているのは日本海軍の夏用制服――半袖のシャツと、熱帯仕様のものらしい七分丈のズボン――なので、布の心地好い肌触りを手足で直接まさぐることができる。うっすら糊《のり》のきいたシーツに踵を滑《すべ》らせ、さらりとした布団の感触を足全体で確かめたパウラは、息を吐いて目を閉じた。フリッツはどうしているのか、〈UF4〉から〈伊507〉と名を変えたこの艦はどこに向かい、自分をどう扱うつもりでいるのか。考えるべきさまざまなことを一時保留にして、布団を額のあたりまで手繰《たぐ》り寄せた。
たくさんの枕と何枚もの布団に埋もれ、暗闇の中でまどろむ。子供の頃からパウラの密かな愉《たの》しみのひとつだった。こんなふうに頭まで布団をかぶっていられるのは、どれくらいぶりだろう? 「白い家」にいた時はそんな心の余裕は持てなかった。薮医者《クワックザルバー》――リーバマン博士や看護婦たちの足音に聞き耳を立て、いつでも毛布から顔を出していた。〈UF4〉に乗り組んでからは、布団もベッドもそもそも与えられなかった。一日に一度、交通筒区画を閉め切って〈ナーバル〉から降ろしてもらい、毛布にくるまって休息するのがせいぜい。あとはひたすら〈ナーバル〉艇内にこもり、背もたれを倒した操舵席をベッドにする日々が続いた。
では、祖母の家にいた時以来か? 十年ほど前に父がスペインで戦死した後、それまで住んでいたベルリンを離れて移り住んだ祖母の家。バスも市電も自動車も走っていない、ザクセン郊外にある小さな農村で、パウラとフリッツは祖母の手ひとつで育てられた。
地元の農家から譲り受けたというモルタル塗の木造家屋は、祖父の死後、都会暮らしを捨てた祖母が住まうに相応《ふさわ》しい質素なものだった。庭には数種類の野菜と果物が植えられ、祖母はそれを市場で売って稼いだ金と、祖父が遺《のこ》したわずかな資産で細々と生計を立てていた。ベルリンの家にあったふかふかのベッドや、たくさんの枕は望むべくもなかったが、祖母はパウラの愉しみを知っていて、洗濯物を取り込むとすぐにはたたまず、もぐって遊べるよう、日当たりのいいソファに重ねて置いておいてくれた。
太陽の熱に温められたシーツの山にもぐり込むのは、ベッドで布団にくるまるのとは別の心地好さがあった。祖父が遺した書物を読んで知恵をつけたのか、フリッツは胎内回帰願望だなどと言ってからかったが、当時のパウラにはその言葉の意味がわからなかった。体の弱かった母はパウラを産み落として間もなく亡くなり、軍人だった父も戦死して、世間との関わりを絶ったような祖母に引き取られたフリッツは、一刻も早く大人になろうと焦《あせ》っていたのかもしれない。貪欲《どんよく》に知識を吸収し、大人びた口をきく兄の姿は、時に滑稽《こっけい》で、時に痛々しくもあった。
その一方、フリッツはよく近在の子供らと立ち回りを演じては、生傷を拵《こしら》えて帰ってきた。祖母に見つかると心配をかけるので、庭の裏木戸からこっそり帰宅する兄を迎え、怪我の手当をしてやるのはパウラの役目だった。無論、祖母は気づいていたのだろうが、叱ったり、無駄に悲しむ素振りを見せたりはしなかった。喧嘩の原因がなんであるかを察し、それについては闘い続けるしかないことを、自分が重ねてきた苦労に引き寄せて理解していたからだ。
日本《ヤーパン》という極東の島国で生まれ育った女が、機関技師として同地に招聘《しょうへい》されていた異国の男に見初《みそ》められ、家の反対を押し切ってドイツへと渡った。帰化人として四十数年をドイツで暮らした祖母の個人史は、壁にかけられた黄ばんだ写真から憶測することができる。ステッキを片手に、シルクハットの下の顔をこわ張らせた祖父の隣で、足首まで届く長いスカート――ハカマと呼ぶそうだが――をはき、腰までのばした黒髪を一本に束ねた女学生服姿の祖母。祖父の親類縁者らしい大勢の人たちに囲まれ、ひとり小柄な体を際立《きわだ》たせる結婚式の時の祖母。祖父の目と髪の色を受け継いだ父を抱き、ふっくらした頬に、母親になって間もない充足感を漂わせている祖母。中でも印象的なのは、どこかの野原で撮られたピクニックの様子を写し出した写真だ。
パフスリーブのドレスで着飾ったドイツ婦人らとともに、日傘を差して慎《つつ》ましげに微笑む祖母。そういうことが許される時代だったのだ、と祖母はいつだかため息混じりに言っていた。異なる肌、異なる民族の者同士が、なんの含みもない笑顔で一葉の写真に収まる。いまではあり得なくなった光景は、二十世紀の開幕と同時に世界を襲った激動、無秩序と貧困の果てに狂気を受け入れたこの国の近代史を挟んで、パウラには千年も昔のもののように見えた。
隣国のオーストリアで起こった大公暗殺事件を火種に、瞬く間に燃え拡がった第一次世界大戦の時はまだよかった。日本とドイツが戦火を交えた不幸を不幸と呼び、国同士の諍《いさか》いを、個人の関係にまで持ち込まずにおこうとする余裕が誰にもあった。しかしドイツが屈辱的な敗北を喫し、連合国側が科した巨額の賠償請求が国民の肩にのしかかると、事情は少しずつ変わり始めた。
未曾有《みぞう》のインフレによる経済危機は大量の失業者を生み出し、終わりのない困窮《こんきゅう》は戦勝国に対する歪んだ怨念、極度に先鋭化した国粋主義をドイツ国民の心中に根づかせた。ウォール街の株式市場崩壊を皮切りに、世界中を経済危機に陥れた大恐慌がその傾向に拍車をかけた。貧困に対するやり場のない怒り、失意と敵意は、改善策を見出せない議会政府へ向けられ、人々は新しい指導者の登場を熱望した。もう一度強いドイツ≠取り戻す改革者、揺るぎない価値観と自尊心を提示してくれる英雄の存在を待《ま》ち侘《わ》びた。そして火のような大言壮語で人々の不満を煽《あお》り、ドイツ帝国の復権を狂信的に唱え続けたひとりの男が、その役に就くことになった。
パウラが生まれた時、国家社会主義労働者《ナチ》党は国内に多くある不満分子の一集団に過ぎなかった。だがそれからわずか二年後の一九三〇年、ナチ党は国民議会に百七の議席を得て、その年の暮れにはチューリンゲンを支配下に置いた。後にドイツ国土を覆い尽くす独裁政治、教育と文化に対する徹底的な調整≠ニ追放≠ェこの地で行われたが、世界恐慌の荒波の中、保身と生活の維持に忙しいインテリ層や宗教家はこれを見過ごし、そればかりか称揚《しょうよう》さえした。さらに三年後、失業者数が六百万を超えた一九三三年には、ナチ党は二百三十もの議席を手に入れ、党首であるアドルフ・ヒットラーがドイツ首相の座についた。共和国国旗の代わりに鉤十字《ハーケンクロイツ》の旗がひるがえり、議会政治を捨てた全国民が総統《フューラー》の支配下に入る、ナチスドイツが産声《うぶごえ》をあげた瞬間だった。
ヒットラーとその参謀たちが振りまいた狂信と暴力は多岐にわたるが、自信を喪失した多くの国民が熱狂し、新生ドイツ帝国の礎《いしずえ》として受け入れたのは、支配民族の理論だった。強者のために弱者を一掃する自然の人間として、かつて征服者は種族全体、国民全体を一掃する権利を持っていたという確信。後に反ユダヤ主義に集約されるその狂信的概念――ナチズムは、人種・民族を優性種と劣等種に区分けし、差別することによって、ナチスとそれに付き従う着たちの正統性と優越性を保証した。
ブロンドで大柄、はっきりした顎としっかりした細い鼻を持ち、明るい色の目と白い肌に恵まれたアーリア人が文化の創り手で、残る劣等人種は文化の運び手、あるいは壊し手でしかない。世界を統治する資格を持つのはアーリア系ドイツ人だけで、他の民族はドイツに奉仕する下積み労働者としての価値しか認められない――。
一九三五年、ユダヤ人と、先祖にユダヤの血を持つすべての人から市民権と参政権を奪い、ドイツ人との婚姻も禁じたニュールンベルク法が発布され、人種・民族差別は法律として実体化した。強制収容所に送り込み、何百万人ものユダヤ人を組織的に殺害するホロコーストはまだ先の話だったが、異人種に向けられる憎悪に近い偏見と差別は、パウラが物心ついた時にはあまねく人心を支配していた。日独伊三国同盟が緩衝《かんしょう》材になり、枢軸国《すうじくこく》の人間として人権は認められていても、パウラたちは依然、文化の運び手≠ニ規定された民族であり、蔑《さげす》まれてしかるべき劣等人種だった。フリッツが日々拵えてくる生傷は、そうした大人社会の差別と偏見が子供の世界にも敷衍《ふえん》し、謂《いわ》れのない誹謗中傷《ひぼうちゅうしょう》にさらされた体が、自身の尊厳を守り抜くために支払った代償なのだった。
パウラ自身、身を切られるほどの冷たい視線にさらされてきた。仲のよかった友達がある日を境に態度を豹変させたり、通りがかりにいきなり唾を吐きかけられたり。ヒットラー青少年団《ユーゲント》の連中に家中のガラスを割られ、庭の畑を荒らされたことも一度や二度ではない。そんな時、祖母は泣くしかないパウラに安易な慰めの言葉はかけず、むしろ叱咤して、自分たちは決して劣った人間ではないと言い聞かせた。
人に優劣はない、という言い方はしなかった。優劣はある。そして劣った者ほど、自分の弱さを隠すために他人を攻撃し、ちっぽけな自尊心を満たそうとする。本当に優れた人は、劣った人々の言動に付和雷同せず、自分に恥じない誠実な生き方をするものだ。祖母はそう語り、パウラとフリッツに日本の言葉と文化を教え込んだ。その精神と歴史を説き、二人の体を流れる四分の一の血の在《あ》り処《か》を伝えて、二つの国の血を受けた自分に誇りを持てとくり返し唱えた。
週に二日、日本語しか話してはいけない日を設け、家にいる間は徹底させた。その日はザワークラウトの代わりにキャベツのお新香が、アイントプフの代わりに肉ジャガが食卓に並び、寝る前には日本の唄のレコードを聞かせてくれた。結婚後もたびたび訪日していた祖父が、土産に買ってきたものだった。お陰でパウラとフリッツは、ドイツ語と日本語をほぼ同等に話せるようになった。漢字の混ざった読み書きはさすがに覚えきれなかったが、片仮名なら長い手紙を書くことだってできた。
隔世遺伝という名の悪戯《いたずら》が作用し、自らの血を直接受け継いでしまった二人の孫に対して、祖母はそうするしかなかったのだろうし、ナチズムへのささやかな抵抗という意味合いもあったのかもしれない。ニュールンベルク法が発布されて間もなく、父に前線への転出命令が下った時間的な符合は、劣等人種の血を排さんとしたナチスの悪意を露骨に物語っている。ドイツを捨てて日本に帰る選択肢もなくはなかったが、なにもかもなげうつよぅにしてドイツに渡った祖母にとって、日本は帰る≠ニいう言葉を使うのもためらわれるほど遠く、縁のない場所になっていた。それよりも、半世紀近い歳月を過ごし、もはや故郷以上の故郷となったドイツに骨を埋め、狂った風潮にできる限り異議を唱え続ける。それが祖母の自分に恥じない誠実な生き方=\―祖母自身は明治女の気骨と言っていたが――だった。
気丈で賢く、決して人に弱みを見せない祖母だったが、一度だけ泣いているのを見たことがある。二人の孫が寝静まった夜、揺り椅子に腰かけ、蓄音器から流れる日本の唄に耳を傾けて、祖母は声を出さずに涙を流していた。曲は、祖父が最後に日本に渡った時に買ってきた『椰子《やし》の実』。なかなか寝つけず、階下から聞こえるレコードの音色に誘われて起き出したパウラは、その横顔を声をかけるのも忘れて見つめた。父の葬式の時にも泣かなかった祖母が初めて見せた涙、『椰子の実』の哀感のこもった旋律が一体になって空気を震わせ、祖母が生きてきた時間の重さ、自分には窺い知れない遠大な世界の輪郭を伝えて、圧倒された体が立《た》ち疎《すく》んでしまったかのようだった。
思えばあれが、祖母と兄、三人で暮らした平穏な生活の最後の夜だった。翌日から見知らぬ男たちが家に出入りし、入れ替わり立ち替わり納屋《なや》に泊まるようになった。時には明け方まで蝋燭《ろうそく》の灯をともし、地図や書類を前になにごとか話し合っていた彼らが、反ナチ運動のレジスタンスだと知ったのは後になってから――秘密警察《ゲシュタポ》の手入れに抵抗した祖母が呆気《あっけ》なく射殺され、残されたフリッツともども、「白い家」に収容されてからのことだった。
あの涙はなにに向けられたものだったのだろう? あれから五年、十七歳になったいまも瞼に焼きついて離れない祖母の泣き顔と向き合い、パウラは時々考えてみる。『椰子の実』の歌詞と音色が流させた望郷の涙? 狂気にまみれた二つ目の祖国への慙愧《ざんき》の念が流させた涙? それに抗《あらが》い、遠からずこの世を去るだろう我が身を予感した体が、遺《のこ》してゆく孫たちに向けた謝罪の涙……?
ノックの音が響き、遠慮がちに開けられる扉の音がそれに続いた。「……起きてる?」とかけられた声に、パウラは物思いを消して布団から顔を出した。
医務室の扉を後ろ手に閉め、折笠征人が一歩こちらに近づくのが見えた。上体を起こして迎えようとしたパウラは、後ろ手になにかを隠し持った不自然な格好より、その顔から滴《したた》る大量の汗に少し驚かされた。
「すごい汗……」
「ん? いや、走ってきたもんだから」
征人は目を逸らして答える。世の中の人間がこれくらいわかりやすかったら、戦争なんてものはなくなるだろうなと冷静に思いつつ、パウラは借り物のシャツの襟を正した。防水スーツのぴっちりした感触に馴れた体に、日本海軍の将校用開襟シャツはすうすうして心もとない。布団をたくし上げて頼りない感じを紛《まぎ》らわそうとすると、不意に征人の隠し持っていた皿が目前に差し出された。
「軍医長が、食べられるようなら食べていいって」
溶けかけの雪に似た白い氷が、箸《はし》と一緒にアルミの皿の上に載っていた。「アイスクリーム。特配でもらったカルピスを冷凍庫で凍らせておいたんだ」と説明する声を聞きながら、パウラは戸惑う目を征人に向け直した。
『劣等人種の子』と蔑まれる生活を当たり前にしていれば、隙を見せてはいけないという意識が先に立って、昔から他人になにか物をもらうのには抵抗がある。軍医長にわざわざ伺いを立てたからには、これは正規の食事ではなく、征人が自分の意志で持ってきたのに違いない。一度は生死をともにした間柄とはいえ、この男はなぜ自分に無意味な好意を示すのか。そうするのが日本の礼儀だから? だとしたらもらうのが礼儀なのか、遠慮するのが礼儀なのか。祖母は男尊女卑という悪習が日本にはあると言っていたが、それとこれとは関係あるのか。なにひとつ考えがまとまらず、受け取るべきかどうか迷う間に、「食べなよ。甘いんだぜ」と言った征人がぐいと皿を突き出してきた。汁がこぼれそうになるのを見たパウラは、つい両手で皿を受け取ってしまった。
「トクハイって?」
「特別配給。回収作戦を成功させたご褒美《ほうび》だよ。おれと清永……清永ってのは潜航艇を操縦してた奴だけど、二人で一本もらったんだ。滅多にない大盤振舞だから、君にもおすそ分けしようと思って」
オオバンブルマイ、オスソワケと口の中に反芻し、前後の文脈からだいたいの意味を汲み取ったパウラは、あらためて皿に目を落とした。見るからに甘そうな氷の色艶が、奥底にしまい込み、あることさえ忘れていたなにかを思い出させて、ぼんやり胸が温かくなるのが感じられた。箸を取り、思いきってひとつまみの氷を口に運んでみる。冷たい刺激が口の中に拡がり、ほのかな甘みをじわりと舌に染み込ませた後、ゆっくり体に落ちていった。
思わず吐息が漏れそうになった。顔をうつむけて堪えたパウラに、征人は「気分、悪いの?」と心配げな声を寄越した。
「……平気。でもこれ、アイスクリームじゃないわ。シャーベットよ」
咄嗟に思いついた言葉を並べてから、まだ礼を言っていないと気づいたが、いまさら口にするのはためらわれた。「ふうん。ドイツではそう言うんだ」と屈託《くったく》なく応じた征人は、黙々と箸を動かすしかないパウラの心中をよそに、ベッド脇の椅子に腰かけた。
「こんなところにいていいの? 仕事あるんでしょう」
「おれと清永は回収作戦要員だから、艦内では補欠みたいなもんなんだ。しばらく休んでろって言われたし、大丈夫だよ」
呑気な調子で言ったかと思うと、「……それとも、出てった方がいいかな?」と、急に不安を露にした顔が訊いてくる。パウラは、「別に。どっちでもいい」と思った通りのことを答えた。少し口をとがらせながらも、征人は椅子から立とうとはしなかった。
将校による正式な聴取、経過説明、なにひとつなされていない。敵になるか味方になるかさえ判然としない状況で、一兵卒がいきなりデザートの差し入れにくるのも異常なら、そのシャーベットもどきを言われるまま口にする自分も間が抜けていたが、悪い気はしなかった。そこはかとなく漂う安心感に包まれて、パウラは箸を動かすのに専念した。
「箸、使えるんだね」
半分ほど食べたところで、征人がそんな口を開いた。難なく箸を握っている自分の手を注視したパウラは、「やっぱり、お祖母さんに習ったの?」と続いた声に、ぎょっと征人の顔を見返した。
「フリッツ少尉……君のお兄さんに聞いたんだ。日本語、お祖母さんに習ったって」
よほどすごい目で睨んでしまったのか、征人は慌てて説明を付け足す。あの兄が、他人に自分の過去を話す。考えられないことだと断定する一方、彼にならあるいは……と納得している自分にも気づいたパウラは、皿に残った溶けかけのシャーベットに目を戻した。
冷たく暗い場所では硬く凝り固まっている氷も、明るい場所で温められれば本来の水の姿を取り戻す。意識の外にするよう努めていた肉親の面影がそこに重なり、パウラはシャーベットを意味もなく箸で突き崩し、皿の上にならすようにした。
「……いま、どうしてるの?」
自分の救出を急いだ兄がなにをし、どんな立場にあるのかは察しがつく。しても始まらない詮索だと自覚しつつ、パウラは尋ねた。即座に顔を覆った当惑の色を隠し、「普通に働いてる。元気だよ」と、征人はあらぬ方を見ながら答えた。
ここまでわかりやすいと、余計な嘘をつかせたこちらの方が悪いという気になってくる。居心地の悪そうな征人の態度に苦笑を誘われ、少し胸が軽くなるのを覚えたパウラは、「この艦《ふね》、どこに向かってるのかしら」と話題を変えた。
「呉《くれ》に向かってるはずだ。帝国海軍の本拠地だよ。空襲でだいぶやられちまったけど……」
「さっき、変針したようだったけれど?」
航海が常態の生活を二年も送れば、ちょっとした空気の流れから艦が転舵したことぐらいはわかる。三十分ほど前、ほぼ百八十度に近い大幅な変針が感じ取れたのだが、征人は「そう? 気づかなかったな」と頭を掻くばかりだった。
「水がなくても、外の様子ってわかるのか?」
なんの気なしに発せられた問いだとわかっても、体がこわ張り、箸を動かす手が止まってしまうのをどうにもできなかった。「ごめん。その……」と口ごもる征人の顔は見ず、「いいのよ。気になるのが当然だから」と返したパウラは、残りのシャーベットをひと息に飲み下した。つんと冷たい刺激が甘みに変わり、口中の苦味を忘れさせてくれるのを待った。
征人は顔を伏せ、じっと口を噤《つぐ》んでいる。そんな話をするために来たんじゃないと言いたくても、さらに誤解を重ねてしまうのが怖くて、なにも言い出せない顔。感知野を介さずとも容易に読み取れる征人の表情を見、湿った空気が肌にまとわりつくのを感じたパウラは、わざと音を立てて皿を枕許に置いた。手の甲から手首までを覆う包帯をほどき、顔を上げた征人に右腕を突き出してみせた。
111721−02。手首に彫られた刺青の数字を見ると、征人が息を呑む気配が伝わった。1は純粋アーリア人、7は日本系東洋人、2はウエストファリア種の混ざったアーリア人。曾祖父母、祖父母、父母の属性を簡略な数字で表し、その者の血統を一見で分類できるようにする。「白い家」に収容された子供であることを示す登録番号――烙印だった。
「実験だったの」
右腕を布団の下に隠し、パウラは絶句した征人に教えた。
「なんの……?」
「人種を作り変える実験。その途中でたまたまおかしな力が身についた。それで、その力を兵器に転用する方法が考え出された。〈ナーバル〉と、この艦《ふね》に搭載された機械を使って、海の中を自由に見通すソナー装置の開発。それが『リンドビュルム計画』。その最初で最後の成果が、PsMB1……ローレライ・システム」
口を半開きにした征人は、チンプンカンプンという日本語はこういう時に使うのだろうという顔だった。「人種を作り変えるって……」と声をかすれさせた征人から視線を外し、パウラは水差しの水を口に含んだ。
「優生学って聞いたことある?」
「いや……」
「ナチスの基本理念は?」
「さあ」
「劣等人種って言葉は?」
「なんかで聞いたような……」
最後は消え入るような声で、征人は答えた。「なんにも知らないのね」とため息を吐き、パウラはだるくなった体を横たえた。
「じゃあヒムラーって人の名前は?」
「ヒットラーなら知ってるけど……」
「どういう人?」
「ナチスドイツのいちばん偉い人……総統だろう? 絵本とかニュース映画で見たよ。チョビ髭はやしててさ。苦学して偉くなって、ドイツのために骨身を削ってがんばった人だって紹介されてた。計報《ふほう》が届いた時は、みんなしょげてたな。頼りにしてた人が亡くなった、これでいよいよ日本も大変になるって……」
無知や意識の差も、ここまでくるといっそお笑《わら》い種《ぐさ》だった。「そんなものか……」と自嘲気味に呟いたパウラは、「違うのかい?」と言った征人に答える言葉もなく、頭まで布団をかぶった。
説明のしようがなかった。見てきたもの、経験してきたことがあまりにも違いすぎる。『人は敗戦で滅びることはないが、純血≠失えば永遠に内的な幸福を失う』。そう断言した独裁者の狂信も、理想と定められたものと違う≠ニいう、ただそれだけで罪人のごとく扱われ、生きながら切り刻まれていった者たちの無念も、この純朴な日本兵には想像外。純血の優性種≠保護育成する「|生命の泉《レーベンスボルン》」も、違う≠アとを一種の遺伝性疾患と見なし、治療≠行うために開設された「白い家」も、すべてが遠い無縁な世界の出来事でしかない。ふと虚空《こくう》に取り残されたような所在なさを覚えたパウラは、目を閉じてシーツに顔を押しつけた。布団の中で縮こまり、外にある現実を意識から追い出した。
五官を遮断し、閉塞《へいそく》した意識の底に降りて、血と肉と骨によって構成される自分の肉体――存在を、内側から手探りで確かめてゆく。〈ナーバル〉で感知野に没入する時と同じだった。水という媒介物があれば、意識を取り囲む肉体の壁は速やかに溶けてなくなり、遮るなにものもない中、意識をどこまででも飛ばすことができる。水圧と水温が複雑に折り重なり、鮮やかな色の階層が横たわる海中の神秘的な美しさ。大小さまざまな魚たちがそこに生命の軌跡を刻み、二度と再現できない一瞬の絵画を感知野に描き出す。もし感知野に遊ぶということを覚えていなかったら、〈ナーバル〉に閉じ込められた自分は早々に発狂していただろう。広い海に自分の意識を解き放ち、感覚を拡大させる……それは五官では味わえない贅沢だ。少なくともその間は、肉体の刻苦を忘れていられる。
辛いのは、ローレライが本来の目的に供される時。海中に投げ出され、痛い、怖い、息ができないともがき苦しむ大量の人の想念が、一時に飛び込んでくるあの瞬間だ。全身の生皮を剥《は》がされ、むき出しになった神経を鉄の棒でめった打ちにされるような苦痛は、耐えて耐えきれるものではない。そしてその後、幻と呼ぶには生々しすぎる死者たちの顔が、〈ナーバル〉艇内の海水を血の色に染めて浮かび上がる。
容赦のない死をもたらした魔女《ローレライ》を見据え、彼らは一様に同じ言葉を叫ぶ。やさしかったコルビオ艦長も、オランダ商船の髭面の機関士も、アメリカ潜水艦の見知らぬ少年兵も。ある者は血まみれの顔を、ある者は眼球のない眼窩《がんか》をこちらに向けて、ただひと言――。
「なぜ……」
聴覚を刺激する現実の声が布団の外に発し、底に沈んでいた意識が一気に引き戻された。パウラはそろそろと布団をずらし、外の様子を窺ってみた。
「なぜ、君は耐えられるんだ?」
両の手のひらをしっかりと握り合わせ、先刻とは別人の暗い顔で征人が言う。いら立ちとも悲しみともつかない色がその目に宿り、パウラはわけもなく胸が痛むのを感じた。
「そりゃ、普通の人にはない力を持っているんだろうけど、それは別に君が望んだことじゃないだろう? なのに、あんな潜航艇に閉じ込められてさ。戦争の手伝いをさせられて、何日も海底に置き去りにされて、敵に機密が渡るぐらいなら死を選ぶって……。立派すぎるよ。並の兵隊にできることじゃない」
白くなるほど握り合わされた手のひらが、それを確かめたくてここに来た征人の心中を表現していた。生、死、戦い、犠牲、責任、義務、恐怖。それらの言葉が錯綜し、せめぎあい、なぜ≠ニ問い続ける征人の内面は、〈ナーバル〉で身を寄せあった時から感知している。「なぜ……か」と呟き、パウラはパイプが密生する天井を見上げた。
「みんな、同じことを聞くのね」
時には英語で、時には仏語で、時には蘭語で。何度も、数えきれないほど突きつけられてきたなぜ=Bパウラは壁側に寝返りを打ち、怪訝《けけげん》な顔の征人から顔を背けた。
「国のため?」
征人の問いが追いかけてくる。パウラは答えられなかった。
「家族……お兄さんのため?」
「……あなたは?」
壁と向きあったまま、パウラは問い返してみた。「あなただって、〈ナーバル〉の回収で死ぬ思いをした。戦友を人質に取られて、やむなくやったことなのかもしれないけど……。もともとカミカゼなんでしょう? 〈ナーバル〉よりもっと小さいミゼットサブに乗って、敵艦に体当たりをする」
時岡から聞いた話に、〈ナーバル〉内で感知した征人の内面を総合すると、そういうことになる。「あなたがそうするのは、なぜ?」と重ねて、パウラは少しだけ征人の方に顔を向けた。
「国のため? それが軍人の務めだから?」
思わずというふうに顔を上げ、なにかを言いかけてから、征人は結局ひと言もなく再び顔をうつむけた。床下に響く機関の音ばかりが聞こえる数秒が過ぎ、やがて「……わからない」というくぐもった声が、パウラの背中を打った。
紛《まぎ》らわすことも取《と》り繕《つくろ》うことも知らない、心底正直な声音だった。なぜだかほっとして、パウラは「私も同じ。わからない」と小さく微笑んだ。
「わからないから……わかるまで、そうするんだと思う」
「わかるまで……?」
「逃げ出すことはいつだってできるもの。自分を消してしまうのは簡単。そうでしょ?」
征人が〈ナーバル〉に乗り込んできた時、あと一拍『パウラ』と叫ぶのが遅れていたら、自分はいまここにはいなかった。その瞬間には希望も絶望もない、それまで在ったものがなくなるというだけの死が自分にも訪れていた。よかったとも残念だったとも感じられない自分を確かめたパウラは、「でも、いまはそれはしたくない」と続けて壁側に顔を戻した。
「生きたくても生きられなかった人たちの顔を、たくさん覚えているいまは……」
思想も祖国愛も持ちようがなく、数多《あまた》の死に立ち会ってきた不実。身も心もずたずたに引き裂かれる苦痛に苛《さいな》まれながら、いまだ兵器に成り下がった命を生き長らえさせている不可思議を、他に説明する言葉はなかった。声をなくした征人の気配を背中に、パウラは鈍い光沢を放つ鋼鉄の壁を見つめた。
数日後、あるいは数時間後。衰弱した体が最低限回復したら、自分は再びこの艦の一部になる。〈ナーバル〉に乗り込み、相手がなんであれ、敵と規定されたものと戦わなければならなくなる。なんの感想もなく、それまで少し眠っておこうと瞼を閉じた途端、無遠慮なノックの音が医務室に響いた。
返事を待たずに扉が開かれ、征人と同年代と見える大柄な男が医務室に入ってきた。「ひゃあ、ここは天国だな」などと言いつつ頭に巻いた手拭いを外し、まる顔に浮き出た大量の汗をごしごしと拭う。清永とかいうもうひとりの回収要員か、とパウラが思いついた時には、「なんだよ……!」といら立たしげに応じた征人が椅子を立ち、開けっぱなしの扉を急いで閉めていた。
扉に煽られた外の空気が、風になって医務室に入り込む。むっとした熱気に顔を打たれたパウラは、思わず上半身を起こした。
「なんだよとはなんだよ。こんなところで油売りやがって。機関長が呼んでるから早く来い」
「機関長が?」
「昨夜の戦闘であっちこっちガタがきてんだ。補欠の工作兵も修理を手伝えってんだろ」
仮眠中に叩き起されたらしい清永は、「急げよ」と重ねてあくびを噛み殺す。短く刈った頭を掻き、未練がましい一瞥をこちらに寄越した征人は、「じゃ、また後で」と言って扉に手をかけた。パウラは「待って」とその背中を呼び止めた。
「空調が入ってるの、この部屋だけなの?」
「そうだよ」口ごもった征人の代わりに、清永が答えた。「昨夜は潜りっぱなしで充電できなかったから、空調まで電力が回らねえんだ。お陰で暑いのなんのって」
「余計なこと言うなよ」と遮った征人は、「なにが余計なんだよ」と口をとがらせた清永を無視し、言葉のないパウラにひどく真剣な顔を振り向けた。「君はまだ体が衰弱してるんだ。余分な心配はしないでいい」
「でも……」
「いいから。寝てなよ」
扉を開けた征人は、「そうそう。病人は大事にしなきゃ」と、にんまり笑った清永の背中を押し出すようにして部屋を出た。油と体臭で澱《よど》んだ熱気が医務室に流れ込み、他の区画を犠牲にして維持された空調が、それをすぐに払っていった。
しばらくはなにも考えをまとめられず、パウラは閉じた扉をただ見つめた。それから包帯と絆創膏に覆われた手のひらを眺め、なるほど、確かにこれは故障した機械にすることではない、自分は病人として扱われているらしいと曖昧に納得してから、枕許に置き去られたアルミの皿に視線を移した。
溶けたシャーベットが、二、三粒の白い水滴になって皿の表面に張りついていた。結局、礼を言えなかった。ぽつんと浮き上がったその思いを抱きしめ、パウラは硬いベッドに身を横たえた。
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一九三四年、ドイツ大統領が死去し、首相だったアドルフ・ヒットラーが大統領をも兼務すると、ドイツ全土はナチスの支配下に置かれた。帝政時代の強いドイツ≠求める国民の声を味方に、ナチスドイツが手始めに行ったのは、国際連盟からの脱退と、ベルサイユ条約――第一次世界大戦終結時、ドイツに戦争犯罪国の汚名を着せた連合国によって科せられた、軍備制限と賠償に関する屈辱的な条約――を破棄し、徴兵制を始めとする軍備の増強を開始することだった。
十分な戦力を得たナチスドイツは、まずはフランスとの非武装緩衝地帯であるラインラントに進駐《しんちゅう》。続いてオーストリア、チェコスロバキアに足をのばし、ほぼ無血でこれらの領土の獲得に成功する。ヒットラーの弁を借りるなら、これは侵略ではなく、もともとドイツ帝国が有していた領土を回復≠ウせたのに過ぎなかった。
他にも日本軍の満洲征服、イタリア軍のエチオピア侵攻と、同時多発的に起こった危機に対して、米英ら連合国はなにひとつ有効な対策を打ち出せなかった。大恐慌の痛手は依然として深く、巨額の費用を要する軍事力の行使をためらわせ続けた。第一次世界大戦の終結以来、敗戦国に対して取ってきた宥和《ゆうわ》政策も足枷《あしかせ》になっていた。その間にヒットラーはソビエト連邦と不可侵条約を結び、ポーランドに侵攻した。あらゆる不運、あらゆる打算、あらゆる無定見の重なりが招いた、第二次世界大戦の始まりだった。
その翌年、一九四〇年にドイツはイタリア・日本と三国同盟を結び、世界は新しい勢力圏に分断された。ノルウェーとフランスを降《くだ》したナチスドイツは、便宜的に結んだソ連との同盟を破棄し、一九四一年には対ソ侵攻作戦にも乗り出した。ヨーロッパ大陸は事実上、ナチスの支配下に置かれた。極東の枢軸国が仕掛けたパールハーバーへの奇襲を横目に、ナチスドイツは第三帝国の建設に向けて着々と駒を進め始めた。
その一方、ナチスは国内においても独裁体制を強め、彼らの基本理念である人種闘争――ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの指導者を謳い、アーリア人種至上主義を根幹とする血の純化≠推し進める。すべてのユダヤ人から人権を奪い、ドイツ人との婚梱を禁じたニュールンベルク法は、そうした思想に根ざした一種の優生保護法だが、これだけでは不十分であることを、ヒットラーとナチスの高官たちは理解していた。
大きな問題は三点。破竹《はちく》の勢いで近隣諸国を占領してきた結果が、ドイツ国内の人的損失、特に男子の人口減少を著しくしたこと。東方の国々に較べ、ドイツの人口増加率が明らかに劣っていたこと。十年にわたる調査の結果、純粋アーリア人と呼べるのは、北部に住むごく一部の国民しかいないと判明したこと――。
「総統にしろ親衛隊《SS》長官にしろ、少なくとも二代前の先祖には異民族の血、それも彼らが忌み嫌うユダヤや、モンゴルの血が混ざっている。ナチスが望む優良種は、とうの昔に希少価値になっていたというわけだ」
苦笑混じりに吐き捨ててから、フリッツは目前に立つ男たちの顔色を窺った。SS部内でも秘中の秘、口外が死に直結する爆弾発言をぶつけたつもりだったが、絹見も、高須も、田口も、顔に浮かべているのは狐につままれた表情だけだった。
ナチスが狂奔し、全ヨーロッパを呻吟《しんぎん》させた血の呪縛も、単一民族の歴史しか知らない島国の住人からすれば、それがどうしたというところか。抱きなれた徒労感を胸に、フリッツは収監室の汚れた床に視線を落とした。
「とにかく総統は、純粋アーリア人をひとりでも多く増やしたかった。それで、その保護と育成を組織的に行うことを思いついた。アーリア種と他の種の混血を防ぎ、純粋アーリア種の血を持つ子供を生産、提供する組織。SS長官のハインリッヒ・ヒムラーがこの課題に取り組み、総統の願いを叶える機関を試験的に創立させた。それが『|生命の泉《レーベンスボルン》』。一九三六年……あんたらの国では、二・二六事件とやらが起こった年のことだ」
ひ弱で、臆病で、そういう自分を見透かされるのをなにより恐れていたヒムラー。ヒットラーも呆れるほど神秘学《オカルティズム》に傾倒し、SSの精神を騎士道に準《なぞら》え、新規入隊者をヴェーベルスブルク城に呼び寄せては、魔術めいた入隊儀式を執り行っていた眼鏡面《めがねづら》の小男は、この狂気の計画の責任者としては打ってつけの人材だった。ヒットラーの全権委任を受けたヒムラーは、二年後の一九三八年にはレーベンスボルンをSSの一部として登録、自らの直轄に置く。その日的は、入隊時に血の純潔を保証されたSS隊員にできるだけ多くの子供を持たせ、良き血の母親と子供を助けて、未来のエリートとして育成すること。表向きは福祉団体の体裁を取り、戦死したSS隊員の妻子を保護すると謳っていたが、レーベンスボルンの活動はそれに留まるものではなかった。
「『男はもはや猿の後裔《こうえい》ではなく、SSの子孫となるであろう。彼らはひとりのボスを持つ。総統である。ひとつの国を持つ。帝国である。ひとつの宗教を持つ。血である』……。ヒムラーが吐いた言葉だ。優秀なドイツ人を数多く、自然の出生を待たずに組織的に生ませる。多産の勧めは、戦時中の国家ならどこでも謳うことだろうが、レーベンスボルンのそれは普通じゃなかった」
女性は既婚・未婚を問わず、三十五歳までに、四人の子供を純血なドイツ人男性との間に作ることを義務とする。その際、男性が妻帯者であるかどうかは問題ではなく、また、すでに四人の子供を持つ家庭は、男をこの活動に差し出さなくてはならない。SSの男と、ドイツ女子会から選ばれた若い女が、相手を選択する余地もなく、本人たちの感情ともまったく無関係に、ただ子供を生産≠キるためだけにかけ合わされる。男たちと女たちの間に事後の接触は認められない。レーベンスボルンの保穫を受けて生まれた子供たちも同様。彼らは赤子のうちに母親から引き離され、「子供の家」に送られる。そして母親は再び見知らぬ男と交わり、第三帝国の未来を築く子供の生産≠ノ励む――。
「未来のエリートの育成機関であり、SS隊員のための淫売宿でもあった場所。すべての尊厳を奪われ、家畜と同等に堕《お》ちた人間を飼育する生産工場。それがレーベンスボルンだった」
絹見の顔には、畏怖《いふ》や驚愕より強い怒りの表情があった。こちらはすでになんの感慨も抱けなくなっている無表情で、フリッツは淡々と続けた。
「やがてヒムラーは、種付けから収穫まで十ヵ月かかる生産業務だけでは飽きたらなくなった。子供らが育ち、どうにか一人前の兵士になるのに最低でも十六、七年。第三帝国の領土は日々拡張しているというのに、そんなには待てない。そこで、占領下に置いた近隣諸国から有価値児童――純粋アーリア種と思われる子供を誘拐し、『子供の家』で管理飼育するという新業務がレーベンスボルンに加わった。対象とする子供の年齢は六歳から十歳。おれが知るだけでも、略奪された子供の数は十万を超えていた。無論、いちいち血統を調べてから連れてくるわけじゃない。金髪で肌の白い、アーリア種の特徴を備えた子供を片っ端からさらってきただけだ」
「さらった後で、違うとわかったらどうするんだ」
勢い込んだ田口は、艦長を差し置いて口を挟む無礼にも気づいていないようだった。「奴隷として使役《しえき》するか、始末する。無価値の子供を養っておくほどナチスは寛容じゃない」と答えて、フリッツは拳を握りしめた田口から目を逸らした。
「『選別された子供たちはドイツに送られ、以後ドイツ名を与えられてドイツ人として過ごす。これを十年続ければ、周辺国には価値の低い、ドイツに奉仕するための劣等人種しかいなくなる』。ヒムラーは総統にそう報告した。総統はこの計画を正しいと認めた。今後百年で、劣等人種を地球上から淘汰《とうた》できるというのが連中の考えだった。
だが一九四〇年になって、レーベンスボルン初期の子供たちが二、三歳に達した頃、思ってもない問題が振りかかってきた。二親の優れた遺伝子を受け継ぎ、あらかじめ優良種であることを保証されているはずの子供たちに、明らかな知能や体力の後退が認められたんだ。三歳でまだ歩けない子供、喋れない子供、体の一部が欠損した状態で生まれてくる子供……。『弱者は淘汰され、強い民族が歴史を作る』と豪語してきたナチスが、自らの後継者たらんことを望んで生産≠オた子供たちが、だ。弱り果てたヒムラーは、遺伝学に問題の解決手段を求めた。障害を持って生まれてきた子供たちの欠陥原因を明らかにして、可能ならその原因を受胎の段階で除去する。薮医者《クワックザルバー》――ドクトル・リーバマンは、『遺伝子治療』という言葉を使っていた。ナチスの天下になったお陰で、それまでさえなかった遺伝学が脚光を浴びるようになって、分不相応な地位を手に入れた男だ。その言葉がどれほど当てになるのかは怪しいものだったが、遺伝子治療という言葉を耳にしたヒムラーの中では、もう別の妄想が膨れ上がっていた。
人種の改良。スラブ種やウェストファリア種、バルチック種、ディナル種……ヨーロッパだけの話じゃない。アジア圏のモンゴル人種、アフリカの黒人種をもアーリア人種に改良しようって計画だ」
「人種の改良……?」
呆然と呟いた高須のうしろで、「稲じゃあるめえし……」と田口も太い眉をひそめる。無理もなかった。異人種を人類の業病《ごうびょう》と考える差別主義者《シオニスト》でもなければ、この妄想にはついてこれない。無言の絹見をちらと見上げてから、フリッツは言葉を次いだ。
「アーリア人が異人種より優れているのは、人類の遺伝子を正確に受け継いだからに他ならない。となれば、他の劣等人種は遺伝的な欠陥を持って生まれた亜種。肌が黒かったり黄色かったり、髪の毛が縮れていたりするのは、すべて遺伝的疾患に起因するものであろう。医学に遺伝子治療という可能性があるなら、異人種をアーリア人種に作り替えて、あるべき形に戻すことができるはずだ――。ヒムラーはそう考え、劣等人種の子供を使って治療実験を行うよう、早速リーバマンに依頼した。レーベンスボルンの管理生産に行き詰まっていたヒムラーにも、遺伝子治療の成果をあげられなかったリーバマンにも、この計画は自身の失態を覆す最後の機会だった。
ヒムラー直轄の学術機関、祖国遺産協会の協力も受けて、東プロイセンのケーニヒスベルクに『|白い家《ヴァイセス・ハウス》』と呼ばれる研究施設が作られた。一応、レーベンスボルンの姉妹機関という肩書きだが、その存在を知る者はSSの中にもほとんどいなかった。そこにありとあらゆる人種の子供が集められて、人種改良実験が始まった。子供が実験材料に選ばれたのは、成長過程にある子供の方が改良を受けやすいと考えられたからだ。対象となる子供の条件は三つ。十五歳未満であること。ユダヤ人ではないこと。四代まで遡《さかのぼ》った親族に、純粋アーリア人が含まれていること。まったくの異人種から始めるより、一滴でもアーリア人の血が混ざっている方が治療の余地があるって理屈だ。つまりはその程度の当て推量が罷《まか》り通る、なんの根拠もない実験でしかなかった」
「君と妹さんも、その中にいたというわけか」
絹見が言う。フリッツは無意識にシャツの袖に手をやり、手首の刺青を隠した。
「……母方にウェストファリアの血が混じってはいるが、基本的にアーリア種の家系。それが、父方の祖母が日本人だったために、この通りモンゴル種の特徴ばかりが目立つ姿で生まれた。連中にとっては興味深い実験材料だったんだろう。妹は十二歳、おれは十六歳で、おれの方は年齢制限を超えていたが、特例で収容が認められた」
初めは、なんの施設なのかすらわからなかった。ユダヤ人が強制収容所に送られているという話は聞いていても、実情が公式に報道されることはなく、後に始まる大量虐殺など想像もつかなかった頃のこと。祖母をゲシュタポに殺され、弔《とむら》いの間も与えられずにケーニヒスベルクへ送られたフリッツたちの目に、「白い家」は孤児院かなにかの類いに見えていた。レーベンスボルンにしても、戦災遺族の保護施設という程度の認識しかなかったのだから、無理からぬことではあった。
ケーニヒスベルクは海沿いにある町だが、「白い家」は海岸から離れた森の中にあった。町いちばんの金持ちだったユダヤ人から没収した、バイエルン風の広大な屋敷で、中はまるで病院のように作り替えられていた。ひとつの部屋に五つ六つのベッドがあり、子供たちは一日の大半をその上で過ごす。強制されていたわけではない。誰もが理由もわからないまま薬漬けにされ、大半の者が足腰も立たない状態だったので、動きたくても動けなかったのだ。
中にはなんらかの外科手術を施された者もおり、そこここのベッドから漏れ聞こえる呻き声は一日中、絶えることがない。狂ったような笑い声や、屋敷中に響く悲鳴も日に何度となく上がり、そういう時はリーバマンと看護婦たちの慌ただしい足音が必ず後に続いて、また誰かが死んだのだとわかる。心霊狂いのヒムラーがうしろについているだけあって、実験に使われる薬物はさまざまだった。「白い家」で調合された薬から、アフリカの未開種族から収集した秘薬、アンデスの高地で採れるキノコから抽出《ちゅうしゅつ》したエキス、さらには麻薬の類いまで。大人であっても発狂しそうなものだが、リーバマンらは根拠なき投薬実験をくり返した。生き残れるかどうかは運しかなかった。脱走を試みた子供はひとり残らずSSに捕えられ、さらに過激な投薬実験にさらされるか、外科的治療≠フ実験台にされていった。
「おれと妹はその中を生き抜いた。黄色い肌が白に、黒い髪がブロンドにならないかと、やきもきするリーバマンどもの玩具《おもちゃ》にされて、それでも正気を保って生きてきた。もちろん実験はなんの成果ももたらさなかった。たったひとつ……想像もつかない副産物を生み出したこと以外は」
「……ローレライ」
言葉を切った数秒の間に、絹見が断定する口調で言った。苦笑しようとして果たせず、フリッツは床に視線を戻した。
「『白い家』に収容されて、ひと月も経った頃だ。妹に……パウラに変化の兆しが現れた……」
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始まりは、ごく些細《ささい》な出来事。看護婦長のシュルマイヤーがうっかり落とした水差しを拾おうと、床に散らばった水に指先を浸した時のことだった。
刹那《せつな》、指先がちりちりと痺《しび》れ、かわいそうな娘≠ニいう声がパウラの中で響いた。声というより、頭蓋を共振させる振動といった方が正しいそれは、続いてこの娘はまだ大丈夫∞ルツカはもうだめだ∞ああ、いつまでこんなことが続くんだろう≠ニいう声を結実させ、あとは苦しい生活への恨み言、出征中の夫の安否、病気で半身麻痺になって以来、すっかり依怙地《いこじ》になった義父へのいら立ちなどの思い≠、切れ切れに、音飛びするレコードのごとくパウラに聞かせた。
ぎょっと手を引き上げると、声は出し抜けに消え、水差しを拾い上げたシュルマイヤー婦長と目が合った。大柄で化粧気がなく、子供たちから「看守」と陰口を叩かれている無愛想な看護婦長は、その時もむっつりと唇を引き締め、にこりともしない顔をパウラに向けてきた。水差しをベッド脇の物入れの上に戻し、そのまま立ち去ろうとしたシュルマイヤー婦長に、パウラは『ルツカは死んでしまうのですか?』と尋ねた。
相部屋の五人の少女たちは、ベッドの脇で直立不動の姿勢を取り、全身を耳にしてなりゆきを見守っている。看護婦長が入室した時にはそうするのが決まりで、ベッドから起き上がれない治療段階三∴ネ上の者は免除されるが、この部屋には入所して一ヵ月足らずの治療段階一≠フ者しかいないので、検温が終わるまで全員が立っていなければならない。立ち止まり、『どうしてそんなことを言うんだい、この子は』と振り向いたシュルマイヤー婦長の顔は、少し青ざめているように見えた。
『ここは遺伝病という難しい病気を治すための施設だよ。みんなよくなろうと思ってここにいるんだ。死ぬなんて軽々しく口にするもんじゃない』
『だっていま、婦長様がおっしゃいました。ルツカはもうだめだって。婦長様のお義父さまと同じに体が麻痺して、じきに息ができなくなるって』
シュルマイヤー婦長がその瞬間に浮かべた表情は、五年経ったいまでも明瞭に思い出せる。未知のものへの畏怖と、咄嗟に喚起された卑屈さを、本能的な憎悪で中和したというような表情。以後、会う人のほとんどすべてから向けられることになる表情を前に、パウラはまずいと直感したが、あとの祭りだった。シュルマイヤー婦長は朝の検温を中断してその場を立ち去り、相部屋の少女たちの好奇の目と、床を濡らす水たまりだけがパウラに残された。
考えなしに質問をしてしまったのには訳がある。一週間ほど前、この西棟から東棟に移ったルツカは、「白い家」でパウラが唯一、友達と呼べる相手だったからだ。生まれはポーランドのロズで、十四歳になったばかり。パウラより二桁《けた》少ない4313−01の刺青は、戦災で戸籍が焼かれ、祖父の代までしか血筋をたどれないロズの事情と、主にスラブ系である彼女の血統を物語っていたが、そうした数字の意味を教えてくれたのもルツカだった。黒い瞳にブルネットの髪は、パウラ同様、ドイツ化≠ノ適さない無価値児童の典型とはいえ、ルツカほど好奇心に溢《あふ》れ、それに見合う賢さも兼ね備えた少女をパウラは見たことがない。自分よりひと月早く入所しただけにもかかわらず、「白い家」の施設内を熟知し、医師や看護婦の性格や動向も詳しく把握しており、相部屋の連中はもちろん、他の病室の少女たちも彼女を頼りにしていた。入所早々、なぜかルツカに気に入られたパウラは、その周到かつ破天荒な行状につきあわされ、何度も冷汗をかいたものだった。
建物周辺で警備に当たるSSのサイドカーに細工を施し、走り出した途端に側車が外れるようにしたり、元の家主が作った地下の遊戯場に忍び込み、仲間たちと夜明けまでパーティーを開いたり。広間に飾ってあった鉤十字《ハーケンクロイツ》の旗を引きずり下ろし、旗で隠されていたビクトリア朝の絵画を見せてくれたこともある。無論、「白い家」の大人たちはかんかんになって犯人を捜したが、密告を国家への奉仕と考える数人の子供らでさえ、ルツカを敵に回す愚は犯さなかった。鉄の規律が支配するナチスドイツも、結局は個人の集まりであることに違いはなく、個人は遠大な理想や権威より、目先の利害に左右されるものだということを、ルツカはその歳ですでに見抜いている節《ふし》があった。
男子棟の子供と連絡を取り合い、フリッツと会える算段を整えてくれたのもルツカだ。パウラはその時、兄が初めて人に礼を言うところを見た。くすぐったそうにしていたルツカは、兄に好意以上の感情を抱いた様子だったが、確かめる機会はなく、すぐに男勝りの顔を取り戻したルツカが、、べたついた空気を長引かせることもなかった。その後、ルツカがパウラを北棟に連れ出したのは、自分でも説明できない感情を他人に読まれるのを嫌ったからか、ここでの生活も悪くないと感じ始めたこちらの気分を察したからか。いずれパウラは、治療段階三≠フ子供たちを収容する北棟に誘われ、そこで「白い家」の正体を目《ま》の当《あ》たりにすることになった。
屋敷を「白い家」に改装する際に増築された北棟は、竣工から一年と経っていないのにくたびれ、築百年の建物のように陰鬱で寒々とした空気を漂わせていた。腐葉土の中から生え出たのではないかと思わせる建物の裏手に回り、焼却炉に直結する地下トンネルに忍び込んだルツカは、他の棟より多い医師や看護婦らの目をかすめ、パウラに治療段階三≠フ子供たちを見せて回った。
そこは、控え目に表現しても見世物小屋――ありていに言うなら化け物屋敷だった。消毒液の臭いが立ちこめる病室は他の棟より細かく区切られ、たいていは二人部屋だったが、中には個室もあった。個室は壁の一面がガラス張りで、殺菌室を通らねば中には入れず、心拍測定装置や酸素吸入器、他にも見たこともない機械がぎっしり詰め込まれており、そこから伸びた点滴の管やらコードやらが、部屋の中央にあるベッドを放射線状に取り囲んでいる。ベッドの上に横たわるのはあらゆる人種、肌の色の子供たちだが、彼らにはそれぞれ明白な個性≠ェあった。
黒い肌に大小の毒々しい白い斑点を浮き上がらせ、色の狂ったキリンを想起させる黒人の少年。ルツカの話では、肌の色素を抜く薬を投与された結果だと言う。他にも瞳のない黒髪の少女や、ひたすら笑い続ける少年。包帯で巻かれた全身のそこここに、血の染みを目立たせる性別不明の子供。ひとりだけ正常な姿の少女がいて、髪を剃られた頭に包帯を巻いたその少女は、ベッドの上に腰かけて足をぶらぶらさせていた。こちらに気づくとにっこり笑いかけてきたが、パウラは笑い返すことができなかった。微笑を浮かべたのは顔の右半分だけで、左半分は死人のごとく弛緩《しかん》し、あらぬ方を向いた目の下で、唇から涎《よだれ》の糸を垂らしていたからだ。
すべて薮医者《クワックザルバー》のやったことだ、とルツカは言った。ここにいる連中も、あたしたちも病人なんかじゃない。みんなクワックザルバーの実験台になるために集められてきたんだ。おとなしく従っていたら、いつかここで狂い死にする羽目になる――。
『ナチの軍隊が村に攻め込んできた時、あたしは家族と一緒に山を越えて逃げようとした。でも途中で見つかって、機関銃で撃たれて、あたしだけが生き残った。奴らに連れていかれる道すがら、あたしは兵隊たちが話してるのを聞いたんだ。「このガキにはアーリア人の血が混ざってると思うのか?」「そうだと思うしかないだろう。ガキ殺しはおれもごめんだ」って。だからあたしは嘘をついた。父親の人種なんて確かめたこともなかったけど、アーリア人だったってね。それでここに送られた。この「白い家」は、いろんな人種の子供をアーリア人に作り変える実験場なんだ。だから少しでもアーリア人の血が混ざってる子供が選別されて、送り込まれてくる。ちゃんと確かめる方法なんかありゃしない。あんたみたいにドイツで生まれた子はともかく、よその国からさらわれてきた連中はみんなあたしと同じようなもんだよ。生き残りたい一心で、アーリア人との混血だって言ってるだけなんだ。
わかるかい? それぐらい適当で、いい加減な実験だってことさ。遺伝治療だかなんだか知らないけど、目や肌の色がそう簡単に変わったりなんかするもんか。長官にせっつかれて、首を切られたくないクワックザルバーはめちゃくちゃな実験をやってるんだ。言われた通りにつきあってると、半年もすればここの連中みたいになっちまう。治療段階≠チてのは、よくなるって意味じゃない。それだけ死人に近づいたってことなんだ。
だからいいかい、あんたもなるたけ薬は飲まないようにするんだ。看護婦の奴らはけっこういい加減だから、錠剤なら舌の下に隠しておけばわかりゃしない。後で吐き出して、庭に埋めちまうんだ。あたしはそうしてる。少しでも長く生き延びて、必ずここを抜け出してやる。その時はあんたと兄さんも一緒だ。それまでは絶対に死ぬんじゃないよ』
そう言ったルツカは、しかし数日後には治療段階二≠ニ診断され、東棟に移っていった。
順当な診断の結果か、反動的な行動が露見して過剰な薬物投与を受けた結果か、それはわからない。ただ頼りのガキ大将が消え、西棟の誰もが世界から切り離されたような心細さを味わっている時だったから、ルツカの安否に関わる話には無関心でいられなかった。シュルマイヤー婦長の発した言葉が、聴覚で捉えられる音≠ナはなく、未知の感覚器官によって感知された声≠ナあったことさえ、パウラには気づきようがなかったのだ。
それからまる一日、なんの動きもなかったのは、己の正気を疑い、職を失うのを恐れたシュルマイヤー婦長が、上への報告を怠《おこた》っていたからだろう。翌朝、クワックザルバーのリーバマンを先頭に、慌ただしく病室に入ってきた医師や看護婦たちの足音とともに、目まぐるしい事態の変転は始まった。後に「リンドビュルム計画」と呼ばれることになるその変転は、最初のうち、パウラに少しばかりの幸運と不運の両方をもたらした。
幸運は、六人部屋から個室に移され、相部屋の少女たちの寝言やいびき、夜通しすすり泣く声に悩まされずに済むようになったこと。投薬が中断され、食事が大幅に改善されたこと。不運は――行動の自由が完全に失われたこと。採血、採尿の回数が倍に増えたこと。心拍や脳波の測定器を取りつける際に塗られる膏薬《こうやく》が肌に合わず、関節の節々と頭の皮膚がかぶれてしまったこと。ドクトル・リーバマンを始め、大勢のクワックザルバーたちと一日中顔を突き合わせ、父親の好きだった食べ物から祖母の罹病《りびょう》歴に至るまで、根掘り葉掘り審問を受けねばならないこと……。
彼らは、貴重な研究対象に向ける冷徹さと、腫れ物にさわる丁重さを併せ持ってパウラに接した。遺伝子治療による人種改良実験の失敗が、大量の無価値児童≠フ犠牲をもって実証されつつあった当時、唐突に発現したパウラの能力≠ヘ、リーバマンらには唯一最良の延命策と受け止められたのだろう。あらゆる試行錯誤の果てに、彼らはパウラの千里眼的能力《ヘルゼリッシュ・バガーブン》の発現には水の媒介が不可欠であるとの結論に達した。大きな水槽を用いての感知実験は、やがてプールを用いるようになり、川、湖とその規模を拡大していった。プール内で行われた実験では、入水した者の表層的な思考透視のみならず、水中に置かれた物体の形状、位置把握も可能であることが明らかになり、湖における実験では、肉体と水との接触面積と感知領域の拡大に相関関係があること――つまり水に浸かる体の面積が大きいほど、より広大な感知野が得られる――が実証された。
大勢の医師とSS士官が見守る中、パウラは水着一枚で湖水に浸かり、十数キロ離れた対岸から入水した者の思考、物体の形状と位置を感知し続けた。無線が(正解《リヒティヒ》)と伝えるたび、リーバマンらは得意げに胸をそらし、半信半疑のSS士官たちからどよめきの声があがる。まるで安手の見世物興行だったが、実験の規模が大きくなるにつれ、見物人のSSの数は増え、その階級も士官より将官の方が目立つようになった。それまで医学と神秘学の狭間《はざま》を漂っていた実験は、そうして次第に軍事的側面を持ち始めた。
腰をベルトで縛った黒い軍用ジャケットを身につけ、髑髏《どくろ》の徽章《きしょう》が目立つ軍帽の下で物を見る目を注ぐSSの男たちは、すでにパウラの能力≠兵器と同一視していたのだろう。軍人の習性として、彼らは目前にある未知の兵器の性能限界を知りたがり、リーバマンは小狡《こずる》いセールスマンさながらその要望に応えた。たとえばバルト海に流れ込むプレーゲル川に入り、百キロ以上離れた港を往来する船舶の数と形状を感知する実験。数ヵ所を中継する無線連絡の不備もあって、実験は夜更《よふ》けまでかかった。バルト海そのものは暖流が流れ込む温暖な海とはいえ、東プロイセンの内陸深く、山中から湧き出すプレーゲル川の清水に浸かるパウラには、救いになる話ではない。探照燈が照らす下、冷たい川の水に身を浸し、歯の根の合わない数時間を過ごしたパウラは、半径百十三キロの感知限界距離を実証すると同時に、意識を失って倒れた。
次に目が覚めた時、最初に視界に入ったのは眼鏡をかけた温厚そうな男の顔だった。それが新聞でよく見かける男の顔だとわかるより先に、眼鏡の奥の目に憎悪とも怯《おび》えともつかない冷ややかな光が差し、『瞳も黒いのか』という罵《ののし》り声がパウラに振りかかってきた。プレーゲル川の水よりまだ冷たい声に、パウラは全身の血が凍りつき、頭からつま先までが硬直する恐怖を味わった。
『残念ながら……』と追従するリーバマンの声が聞こえた時には、左の頬に古傷をこしらえた男の顔が消え、蛍光灯の光だけが視界に残された。『第三帝国に革命的勝利をもたらす神の子の肌が、黄色く汚れているとは』と続いた声が遠ざかり、ドアの閉まる音がその余韻《よいん》を断ち切った。
瞳孔《どうこう》にライトを当て、脈と血圧を計るシュルマイヤー婦長の動きを他人事の思いで捉えながら、パウラは、男の顔にハインリッヒ・ヒムラーSS長官の顔を重ね、慌てて後を追おうとするリーバマンの足音に耳を澄ました。でっぷり肥えたクワックザルバーに相応しい、どすどすという滑稽な足音は、『いまは行かない方がいい』と言った第三者の声に止められた。『しかし……』と抗弁したリーバマンに、『長官は言い訳をなによりも嫌う』と言い放った声は、ヒムラーの参謀を務めるSS士官のものと知れた。
『言い訳などと……! わたしはリンドビュルム計画の責任者として最善を尽くして……』
『しかし|02《ヌル・ツヴァイ》と同じ能力を持つ子供は、まだ現れていない。おまけに昨晩の実験では、唯一無二の標本である02を危うく肺炎で死なすところだった。現段階で彼女を失えばどうなっていたか……。自分の幸運を神に感謝することだ』
『すぐに成果が出るような計画でないことは、長官もご存じのはずだ。現在、新しく入所した者はもちろん、治療段階一≠フ児童すべてに、1721−02に施したのとまったく同じ投薬を行っております。しかし遺伝特質から体調に至るまで、なにがどう作用して能力の発現に結びつくのかがわからない。血縁関係にある1721−0l……02の兄に当たる十六歳の男子ですが、彼に同様の投薬を試みても効果は現れんのです。研究はまだ始まったばかりで、なんらかの成果を得るには時間が……』
いくら時間をかけても無駄だ、とパウラは混濁した意識の中で思った。ルツカに言われて以来、自分はできる限り薬を飲まないようにしてきた。どの薬を飲んでどの薬を捨てたか、自分でも覚えていない。この能力≠ェ複合的な薬物効果によって開花したものなら、それは二度とは再現できない、偶然の配合がもたらした産物でしかないのだから。『問題は、02の外見的特徴だ』と冷たく遮ったSS士官の声に、パウラは考えるのをやめて意識を集中した。
『昨晩までの実験経過は、ほどなくベルリンにも届く。総統が正式に認可を下されれば、リンドビュルム計画は本格的に始動するだろう。実際、02の能力はすさまじい。能力《バガーブン》≠ニいう以上に力《マハト》≠セ。その力≠ヘ既存のソナー機器をことごとく過去のものにする。海水の厚いベールに覆われた海中をガラス張りの空間に変え、海戦の様態を根本から変革し得る。02と同等の能力を持つ子供を量産して、我が海軍が誇るUボート部隊に搭載してみろ。通商破壊作戦などは児戯《じぎ》に等しい。各国海軍の艦艇は無力化され、連合国の海上交通路は難なく破壊される。日本の参戦も時間の問題だ。海上の補給路を断たれたところに、日本の動きにも目を配らなければならないとなれば、英米は確実に疲弊《ひへい》する。結果、第三帝国に輝かしい勝利がもたらされることになる』
『わかっています。02と同等の能力を持つ子供たちは、現代によみがえった少年十字軍となる。リンドビュルム計画は是が非でも成功させる必要があります。お許しをいただけるなら、02を生体解剖にかけ、脳髄を取り出してでもその力の秘密を……』
『ドクトル、あなたは事の本質がまったくわかっていない。我々軍人は、なによりも実践的であることが求められる。いつ成果が出るかわからない量産計画を、ただ指をくわえて待っているわけにはいかないということだ。量産が思うに任せんと言うなら、現存する02だけでも戦線に投入したい。キールでは、02の力をソナー兵装に定着させる研究がすでに始まっている。02を収める機械の器の研究がな』
『器……ですか』
『外見が問題だと言ったろう。現在の我々が問題とするべき事実は、たったひとつ。02がモンゴル人種にしか見えんという一点だ。第三帝国に勝利をもたらす神の子が、純粋アーリア人からではなく、劣等人種から生まれた事実とどう折り合いをつけるか。02にアーリアの血が入っているのは不幸中の幸いだが、本質的な問題の解決にはならない。人はまず外見で物事を判断する。無知|蒙昧《もうまい》な大衆は、特にな。それゆえ、すべては隠される必要がある。もし事が明るみに出れば、アーリア人種至上主義を説く党の理論に、致命的な矛盾が生じる。純粋アーリア人以外の人種から、超人が生まれるべきではないのだ。
よって、我々は02……パウラ・A・エブナーという人間≠フ存在を否定する。その力≠ヘ我が第三帝国が生み出した偉大な発明の産物、機械≠ニして認識される。全軍は言うに及ばず、実地運用に当たる海軍兵士たちにとっても同様だ。02の保守は、Uボートに同乗するSS士官が専従して行う。艦長以下、すべての乗員は02に近づけず、その姿も目にすることはない』
『可能なのですか……? そんなことが』と問い返したリーバマンの声は、震えていた。『可能にするしかあるまい』と、SS士官はため息混じりに答えた。
『神の力が東洋人の顔を持つ少女にしか与えられなかった絶望と、それひとつでも戦局を左右する兵器になり得る希望。この二律背反を解決する方法は、目下ほかに見当たらない。ドクトルが02と同じ能力を持つアーリア人を生み出してくれん限りはな』
霜焼《しもや》けになったパウラの手を包帯で巻くのもそこそこに、シュルマイヤー婦長が足早に部屋を出てゆく気配が伝わった。聞くべきではない話を聞き続ける恐怖に、耐えかねたのかもしれない。パウラは目を閉じたまま、看護婦の退室を見送ったSS士官が、『それと、な。ドクトル』とおもむろに口を開くのを聞いた。
『02の能力についてだが……。今後、精神感知能力については報告を控えてもらいたい。02の能力は、水中における対物感知能力に限定して研究を進めるように』
『なぜでしょう?』
『たとえば、長官の頬の傷。若かりし頃に決闘でこしらえた傷ということになっているが、嘘だ。貫禄をつけたくて、友人と決闘の真似事をしてつけてもらった傷らしい。02の精神感知能力は、そういった人の心が隠し持つ闇を表にさらし、無用の混乱を引き起こす恐れがある』
湿った冷気が降り、毛布をじわりと重くするのが感じられた。パウラは両手を握りしめ、耳を塞ぎたい衝動を堪えた。
『いま、わたしが長官の名誉を傷つける発言をしたということもな。人間など、ひと皮剥けばなにを考えているかわかったもんじゃない。秘め事が持てなくなれば、人の集団は簡単に崩壊するよ。鉄の規律を公言する我が党であっても……いや、だからこそ恐ろしいというのがわたしの本音だ。反動分子や捕虜の尋問には打ってつけの能力だが、いまの我々には少々荷が勝ちすぎる。両刃《もろは》の剣《つるぎ》は鞘《さや》に収めておく方が利口だ』
『それは、長官も賛同されていることなので?』
付け入る隙《すき》を見つけたとでも思ったのか、リーバマンの声がやや居丈高《いたけだか》になる。『いちばん恐れているのは長官ご自身だ』と返したSS士官の声は、愚鈍な獣《けもの》に走らせる鞭《むち》のように冷厳だった。
『気をつけた方がいい。わたしはドクトルを信用しているから、こういう話し方をした。この話が外部に漏れれば、わたしはドクトルが吹聴《ふいちょう》したものと判断してあなたを殺す。成功するにせよ失敗するにせよ、リンドビュルム計画に関わった者は、必要最低限の人員を残して口を封じよとの命令も出ている。生き残れるか否かは、心配りひとつ、口のきき方ひとつで決まる。いまはとりわけ人が死にやすい時代だからな』
『……心得ます』
リーバマンの声は言葉ではなく、鞭に打ち据えられた獣が漏らす屈伏の吐息だった。SS士官はもうなにも話そうとはせず、機械仕掛けを思わせる規則的な足音を響かせて、医務室を後にした。
以来、感知実験はより細分化された。各地から参集した軍事技術者、科学者が入れ替わり立ち替わりパウラの前に現れ、能力≠ヘその発祥原因もメカニズムも不明なまま、表面的な事象の部分において数値化されていった。入水体面積と感知領域の相関グラフ。あらゆる状況下における感知時の体温、血流、心拍、脳波の測定、髄液《ずいえき》採取による分泌物質の調査。排卵などの体調変化が感知能力に及ぼす影響。感知対象物の質量と脳波変動の比較等々。集められた資料は武装SSの手でキール軍港に運ばれ、専用の潜水艦繋留設備《ブンカー》で研究を続ける技術班は、そこから得た情報を彼ら自身の仕事――感知能力発揮時の肉体反応を電気的に取り出し、監視盤《アプフォーラ》などの機械に連動させるシステムの開発――に反映させる。膨大な量の資料と書簡が、ケーニヒスベルクとキールを往復した。「白い家」は、もはやレーベンスボルンから分岐した人種改良実験施設ではなかった。総統の全権委任を受けたヒムラー長官のもと、SSと海軍が協同で進める革命的水中探知装置の開発計画――リンドビュルム計画の一方の拠点だった。
ある時は実験動物のように、ある時は世界にただひとつの宝石のように扱われながら、パウラは自分の存在が国家事業と同化してゆく日々を漫然と過ごした。恐怖や苦痛は感じなかった。恐怖は心の深い部分で凝固し、痂《かさぶた》さながらへばりついて、無理に剥がそうとすれば痛みを訴えるが、放っておけば表面に浮かび上がってくることもない。苦痛は、苦痛を感じない時があるから苦痛と感じるのであって、それが常態の時は苦痛という表現は当てはまらない。リンドビュルム計画が本格的に始動し、新たに増設された研究棟にこもるようになってから三ヵ月あまり。祖母の家はもちろん、西棟の病室にいた頃の記憶も曖昧になり、時おり耳に入ってくる兄の消息のみが、パウラに自分がパウラという人間であることを思い出させた。
断片的な話を総合すると、兄は――フリッツは、感知能力こそ発現しなかったものの、パウラとは別の意味で特別な存在になりつつあった。きっかけは、「白い家」に急きょ増設された警備網が招いた事故。それまでも敷地全体を有刺鉄線で囲い、犬を連れたSS隊員が常に周辺を巡回していたのだが、リンドビュルム計画の拠点になってからは、これに加えて地雷が埋設《まいせつ》されるようになった。敷地内にも埋められた地雷は、侵入者のみならず、脱走者の防止にもひと役買っており、警備のSS隊員は不定期に変更される地雷の位置を図に確かめ、巡回を行うのが常だった。入所して間もない六歳の少女が不用意に敷地内を歩き回り、地雷のひとつを踏み当ててしまったその事故は、起こるべくして起こったものと言えた。
少女の姿を見咎《みとが》めたSS隊員が制止の声をかけた時、彼女の小さな足はすでに地雷の圧力盤にかかっていた。圧力減退型地雷は、踏んだ足を上げない限り起爆することはないが、怯え、泣きわめくしかない少女を前に、解体作業を断行する勇気を持てる者はいなかった。いずれは生体実験で切り刻まれる劣等人種の少女を、命がけで救出しても始まらないという打算もあったのだろう。動くな、じっとしていろと呼びかけるばかりで、誰もが少女に近づけずにいた中、フリッツは躊躇なく彼女のそばに歩み寄り、SS隊員の指示を仰ぎつつ地雷を解体してみせたのだった。
視察に来ていた武装SSの中将が一部始終を見ており、彼は不甲斐ないSS隊員たちを叱り飛ばすと、少女をおぶって戻ってきたフリッツに握手を求めた。猛者《もさ》ぞろいの武装SSの中将が、劣等人種の少年と握手を交わしたことも事件なら、彼には騎士道精神がある、と公言したことも事件だった。中将は、騎士には騎士に相応しい待遇を与えるべきであろうと、クワックザルバーたちに意見した。SSには珍しい感情過多で知られる中将の、その場限りの思いつきであるとわかっても、リーバマンはこの意見を無視することはできなかった。協議の結果、フリッツは治療≠ゥら外され、「白い家」児童自治団の団長という立場に収まった。中将を納得させるためだけにでっち上げられた団体の、なんの実体もない団長役だったが、フリッツは許される範囲で積極的に仕事に取り組み、施設内で起こる問題は確実に低下の傾向にあった。
新たに入所した子供たちにナチの理論を説き、選ばれた子供として誇りを持てと教え、おとなしく治療≠受けるよう仕向ける。まるでヒムラー長官が乗り移ったかのような態度に、黄色いSS≠ニ揶揄《やゆ》する者もいるほどだという。実際、フリッツは警備で常駐するSS隊員とも親しくなり、機械いじりの才覚を発揮して、彼らのサイドカーを修理してやることもたびたび……というのが、パウラが聞き知ったここ最近のフリッツの動向だった。
国是《こくぜ》となった差別と偏見に抗い、何度打ちのめされても歯向かうことをやめなかった兄が、ナチスのお先棒を担ぐ。考えられない話だとパウラは思ったが、それが事実であることはすぐに証明された。フリッツに微かな思慕を寄せていたらしいルツカまでが、『あいつは確かに変わった』と噂を肯定したのだ。
『喋り方や歩き方までSSを真似て、この頃は目つきまでSSっぽくなってきやがった。あそこまでいくと気味が悪いよ。そのうちホルスト・ベッセル(ナチ党の党歌)でも歌い出すよ、あれは』
そう言うルツカも、最後に会った時とは別人と言っていい姿になっていた。黒く潤っていた髪はぱさぱさに乾ききり、白髪も目立つ。施設内を縦横に駆け巡るすばしこい足は、左の膝から下が真鍮《しんちゅう》の金具で固定され、歩くたびにかちゃかちゃと音を立てた。ルツカはもうだめだ≠ニいうシュルマイヤー婦長の声を感知し、すべてが始まったのが半年前。死んだものとあきらめていた友人と再会したパウラは、僥倖《ぎょうこう》を喜ぶより先に、治療≠ノ蝕《むしば》まれたルツカの変貌ぶりにまずは絶句させられた。
当のルツカはさほどまいった素振りも見せず、そう簡単にくたばってたまるもんか、と歯を覗かせた。フリッツの変心を語る言葉にも深刻さはなく、『まあ、覚悟の上でやってるんだろうけどさ』と意味深な笑みを浮かべさえした。
『どういうこと?』
『あんたの兄さんも、自分なりのやり方で戦ってるんだってことさ。あたしがここに来たのと同じようにね』
研究棟内に作られたプールの水面が、ひどく大人びて見える微笑にまだら模様を作っていた。フリッツも、フリッツに対するルツカの視線も、根本の部分は変わっていないと安心しながらも、兄の心情を理解しきった口をきく横顔には予想外の艶があり、パウラは鳩尾《みぞおち》のあたりが微かに痛むのを覚えた。監視の目を盗んで会っている緊張感と、能力#ュ現の兆候ありと認められ、この研究棟に移ってきたルツカの先行きへの不安。それらが感じさせるものとは別の、嫉妬《しっと》に近い感情が醸《かも》し出す痛みだった。
いままでも何人かの子供が送り込まれてきたが、いずれも所定の透視試験に合格できずに去っていった。リンドビュルム計画にかけられた秘密保全措置を考えると、彼らがそのまま元の病棟に戻されたとは考えにくい。ルツカはそれを承知でここに来たのか。最初に心配すべき問題を口にしたパウラに、ルツカは案の定、通性検査でペテンを働いたことを告白した。その上で、明日の透視試験を乗りきるために手を貸してほしい、と言ってきた。
『内容はだいたいわかってる。透視試験に使う標的を見せてくれればいいんだ。急場で作った施設だから、そう何種類もあるわけじゃないんだろ? ひとつでも当たれば、可能性ありってことで首がつながる。中に潜り込めさえすりゃ、後はなんとでもするからさ』
『無理よ。そんな簡単なものじゃないし、ここに来たっていいことなんかなにもないよ。検査でズルしたって言って、いまのうちに戻してもらった方がいいわ。試験の前なら、クワックザルバーたちもなにもしないはずだから』
『それでまた薬漬けになれっての? ごめんだね。あたしはなにをしてでもこっちに移る。能力≠ェあるって思わせれば、投薬はなくなるんだ。外に出られる機会も多くなる。うまくすれば逃げ出すことだってできるかもしれない』
『一個中隊の武装SSがいつも周りを取り囲んでるのよ? その足でどうやって……』
最悪の失言に気づき、言葉を呑んだパウラから目を逸らしたルツカは、『……だからだよ』と呟いた。
『あたしはもう走れない。ここを抜け出せるのは、ナチが戦争に負けた時だけだ。でもその前にきっと薬で殺される。正気をなくして、北棟の連中みたいにクソと小便まみれで死んでいくんだ。それは……あたしには耐えられない』
無言の隙間に、そんな姿はフリッツに見せたくない、という声が流れた気がした。フリッツが「白い家」の大人たちの信頼を得ているなら、彼に守ってもらうことはできないものか。パウラの提案を苦笑でいなし、ルツカは答えた。あんた、千里眼を持ってるらしいのに鈍感だね。あいつがどうしてあんなことしてるのか、わかんないのかい? あたしにはわかるよ。だから邪魔はしたくない。あたしもあたしのやり方で戦うんだ。
『戦うって……』
『生き延びるんだ。一分でも、一秒でも長くね。ゴキブリみたいにしぶとく生きて、劣等人種の子孫でこの国をいっぱいにしてやる。十人も百人も子供を産んで、その子供がまた子供を産んで……。そうすりゃいつかはナチも、ナチみたいなもんを作り出した人間のダメさ加減も、地球上からきれいさっぱりなくなるってもんさ。それがあたしの戦いだ』
自分には考えもつかない壮大な発想に、パウラはひたすら面食らい、ルツカの横顔をまじまじと見つめてしまった。二つしか歳の離れていない少女の横顔は、やはり十も大人びた色艶を宿しており、これが恋を知った者の強さか、ルツカは女になったのだろうかと、下世話な想像に駆られもした。
捨てられる薬は捨てていても、ルツカの心身が限界に達しつつあることは傍目にも明らかだった。このまま病棟に返しても事態が好転するとは思えず、ルツカの熱意に反駁《はんばく》の余地も持てなかったパウラは、透視試験の段取りから標的の種類、クワックザルバーたちが興味を示す返答の仕方まで、自分が知る限りの知識をルツカに伝えた。
その程度でごまかしきれる試験ではないはずだったが、どんな機転を働かせたのか、ルツカは的中率八割の好成績で試験を合格した。リンドビュルム計画の新たな被験体となったルツカは、正式に研究棟に迎え入れられた。リーバマンに連れられ、片足を引きずって歩くルツカは神妙な顔つきを崩さなかったが、パウラの横を通りすぎる時、親指を立ててにやと笑ってみせるのを忘れなかった。
彼女の戦いが最初の、小さな勝利を得たことを告げる笑みだった。胸に詰まっていた石が取り除かれ、久しぶりに楽に呼吸ができたような気がして、パウラも研究棟に移ってから初めての笑みを浮かべた。そしてそれが、自分の意志で歩き、笑うルツカを見た最後の瞬間になった。
同じ立場になれば会う機会も増えるかと思ったが、二人の被験体は完全に隔離され、ルツカの以後の消息は途絶えた。それとなく探りを入れても、リーバマンも看護婦も決して口を開こうとはしない。パウラがルツカのその後を知るには、例によって些細な偶然が起きるのを待つよりなかった。
ルツカはもうだめだ=\―いつかと同じ言葉が感知野を揺らしたのは、プールから上がった直後、タオルを受け取る拍子に濡れた手で看護婦の腕に触れた時だ。手のひらについた水滴が肌に食い込み、全身に寒気が走る感覚を我慢して、パウラはその場ではどうにか平静を装った。無論、夜になったら病室を抜け出し、ルツカに会いに行くつもりだった。
建物の外周は厳重な警備下に置かれているが、屋内は玄関に見張りがいるだけなので、看護婦の巡回時間さえ頭に入れておけば抜け出すのは容易だった。音を立てないよう素足になったパウラは、湿気と消毒薬の臭いがこもる薄暗い廊下を歩き、ルツカがいる三階の病室に向かった。コンクリートの床が素足に冷たく、嫌でも早足になった。
廊下の左右に並ぶドアはどれも同じ形で、標札の一枚も出ていない。ひとつひとつ確かめる覚悟で人気《ひとけ》の絶えた三階に降りると、常夜灯とは別の微かな光が目に入った。ひと部屋だけ電気のついた部屋があって、鍵穴とドアの隙間から光を漏らしているのだった。パウラは慎重にそのドアに歩み寄り、鍵穴を覗き込んでみた。
診察用の事務机に向き合い、なにか書き物をしているリーバマンの背中と、その隣に置かれた椅子にちょこんと座るルツカの横顔が見えた。リーバマンはいつもの白衣姿で、ルツカは寝巻き姿の上に奇妙な形の帽子をかぶっている。自由に動く右足をぶらぶらさせ、上体をゆっくり前後に揺するルツカは、深夜の問診に退屈しきりという風情だったが、それがルツカの自発的な意思によるものなのか、単純な肉体の反応なのかは、パウラには判断がつかなかった。
髪をきれいに剃り落とされたルツカがかぶる帽子は、鍔《つば》の部分が銀色の金属製で、左右三本ずつの支柱が肩に嵌められた台座と繋がり、首の動きを固定している。ひどくぺったりとした頭を覆うのは紫陽花《ホルテンジェ》に似た薄紫色の布で、遠目には彩色した羽毛か花弁の飾りに見えたが、事実は、それは帽子ではなく、切り取られた頭蓋から覗くルツカの脳髄《のうずい》なのだった。
光の加減で淡い紫にも、白灰色にも見えるルツカの脳には何本かの電極が刺さり、机の脇に山積みされた機械装置とコードで結ばれている。機器を操作するもうひとりの医師がオシロスコープを覗き、その下のつまみを動かすたびに、ルツカの顔はぐにゃりと歪み、喜怒哀楽のどれとも違う、表情という言葉も当てはまらない顔貌を作り出す。オシロスコープを流れる脳波の線と同様、それは純粋に電気的な反応であり、精神と分離した肉体のデスマスクでしかないはずだったが、パウラは、ルツカの瞳が間違いなくこちらを見、なにかを語りかけるのをはっきり感じ取ってしまった。
ドジったよ。そう呟いた黒い瞳は、一心に考え込んでいるようでもあり、弛緩しきった痴呆者のようでもあった。鼓動が早まり、こわ張った全身が小刻みに震え始めて、パウラは自分でもわからないうちにその場に座り込んでいた。早くここを離れなければと思ったが、手も足も腰も、思い通りに動いてくれる気配はなかった。
胸の奥底で凝り固まった痂が破け、流れ出た膿汁《のうじゅう》が体中を冒《おか》してゆく。正視を避けてきた恐怖が腹の底からこみ上げ、喉を塞いで、呼吸のできなくなった体を冷たく灼熱《しゃくねつ》させた。嫌だ、嫌だ、嫌だ。体内に充満した膿汁が口腔に溢《あふ》れ、悲鳴になって吐き出される直前、不意に背後からのびた腕がパウラの口を塞ぎ、ぐいとうしろに引っ張った。
咄嗟にふりほどこうとして、『オチツケ』と耳元に囁かれた声に止められた。久しぶりに聞いた祖母の国の言葉が、落ち着け≠ニ頭の中で翻訳される間に、パウラはドアの前から引き離され、階段脇にある物置に連れ込まれた。音を立てずにドアが閉められると、外の気配をじっと窺う息づかいが頭上を流れ、口を塞いでいた手の力がゆっくり緩められた。すべての神経が飽和し、ずるずると腰を落としたパウラは、黙然と立ちつくす人影に虚《うつ》ろな目を向けた。
鉄格子の嵌《は》まった窓から差し込む月の光が、フリッツの顔を闇に浮き立たせていた。すぐには現実の光景と受け入れることができず、パウラは夢を見る面持ちで兄の顔を見上げた。収容児童が着用する病院服ではなく、太い格子縞のシャツに吊りズボンという出で立ちのフリッツは、半年前より明らかに背が伸び、肩幅も広くなっていた。労働者の典型と言っていい姿に、兄にまつわる風説の数々を重ね合わせた途端、『時間がない』という日本語が空気を震わせ、頭上にあったフリッツの目がパウラの目前に降りてきた。
『よく聞け。おまえはじきにキールに移される。能力≠機械と連動させるシステムの雛形《ひながた》が完成したんで、その稼働試験をやらせるつもりだ。システムの開発には、ありとあらゆる学術分野の天才と、一級の技術者が集められたと聞いている。多分、実験は成功するだろう』
なにを言われているのか、わからなかった。ただ瞬きひとつせず、無遠慮に押し入ってくるひと組の眼を見つめて、これは違う、兄さんはこんな目で人を見なかったと思いついたパウラは、冷え冷えとしたものが体に拡がってゆくのを感じた。……あいつ、目付きまでSSっぽくなってきやがった……。
『おまえはそれに協力する。だが途中で能力≠封じて、なにも感知できない振りをするんだ。精神面の動揺が能力≠ノ影響することは、クワックザルバーたちも知っている。調子が悪いふうに装えば、連中は必ず焦っておまえの機嫌を取ろうとする。そうしたら、おれに会いたいと言うんだ。おれを自分の世話役に付けてほしい、と』
言葉のひとつひとつが刺《とげ》になり、胸に刺さってくる感じだった。半ば麻痺した神経で受け止めつつ、パウラは兄のものとは思えない声を聞き、瞳を見つめ続けた。
『無論、すぐには受け入れられない。初めは脅《おど》しをかけてくるだろう。だが連中は、おれにもおまえにも手を出すことができない。能力≠持つ者はひとりしかいないと実証されたいま、連中は絶対におまえを失うまいとする。たいていの要求は呑むはずだ』
ひとりしかいない、実証されたという言葉が、鍵穴ごしに見たルツカの瞳を思い出させ、鈍麻した知覚をちくりと刺激した。ルツカが……と口を開きかけたパウラは、フリッツのシャツの襟元に金色のバッジを見つけて、出すべき声をなくした。
月額最低一マルクで、誰でも会員になれる「SS友の会」のバッジ。権益を期待して会員になる企業家もいれば、流行のバッジを手に入れたいだけの一般会員もいるが、どちらもナチズムの信奉者という点では共通している。自分たち劣等人種≠ノとっては災厄の印、害をなす大人かそうでないかを見分ける指標になるバッジを前に、パウラは正気を疑う目を兄に向けた。指先でバッジに触れ、微かに苦味の走った瞳を逸らしたフリッツは、『おれはSSに入ってみせる』と低く、しかしはっきりと宣言した。
『そのためにいろいろ準備してきた。地雷騒ぎでSS中将の気を引いたのも、病棟で看守の真似事をしてるのも、みんな奴らに取り入るために打った芝居だ。あとはおまえの協力があれば……』
肩を抱こうとするフリッツの挙動を察して、パウラは反射的に身を退いた。ルツカの頭を生きながら切り開いた組織への恐怖と、それに与《くみ》する者への嫌悪を染み込ませた体が、自動的にしたことだった。のばしかけた腕を止め、動揺を押し隠した顔をうつむけたフリッツは、握りしめた拳をゆっくり床に下ろした。『……他におれたちが生き延びる道はない』という呟きが、物置の黴臭《かびくさ》い空気を緩慢にかきまぜた。
『誇りも、信念も、本当の恐怖の前には無力だ。抗って抗いきれるもんじゃない。少しでも隙を見せれば、容赦なく体の中に入り込んできて、人であることをやめさせてしまう。恐怖が支配する世界で生きてゆくためには、まず恐怖を味方につけること……。自分自身が恐怖になるしかないんだと、おれはここで学んだ』
雲が月を隠したのか、真実の闇が物置に舞い降りた。刺をなくし、闇の中で立ち往生する兄の声を、パウラは黙って聞いた。
『奴らのように考え、奴らのように行動し、奴らの一部になる。人種改良計画は失敗したが、取らと同じになるのはそう難しいことじゃない。自分を嫌えばいい。この体に流れる血を呪い、黄色い肌を呪えばいい。弱者は淘汰される、歴史は強者によって作られる。単純で傲慢な力への信奉を取り込んで、奴らの狡猾《こうかつ》さと容赦のなさを手に入れればいい。奴らの狂気を自分のものにすれば、恐怖は恐怖でなくなる。奴らの力を手に入れれば、どんな状況になっても生き残ることができる。奴らから逃れて、おれたちが生きてゆける世界にたどり着くには、この力がどうしても必要なんだ』
再び月明かりが差し込み、こちらを見つめる二つの瞳を浮かび上がらせた。それがフリッツなりのやり方≠ネのだろうと納得しながらも、すがる色を湛えた瞳を正視するのは辛く、パウラは顔を伏せてフリッツの視線を避けた。奴ら≠欺《あざむ》き、少しでも長く生きて未来に希望を繋ごうとしたルツカと、奴ら≠フ一部になり、現在と戦う力を手に入れようとするフリッツ。どちらが正しいということではなく、ルツカは女、兄は男だからそう考えるのだと曖昧に理解して、どっちつかずの目を床に逃がすしかなかった。
なにもかもが静止した闇の中、流れる雲が月の光を隠しては現し、現しては隠して、動き続ける世界の現実を伝えた。冷たいコンクリートの床を見るとはなしに眺め、そろそろ戻らなくては……とぼんやり考えついた時、透明な雫がひとつ、二つと床に落ち、小さな黒い染《し》みを床に滲ませ始めた。『……怖い。どうしようもなく怖いんだ』という濡れた声も聞いたパウラは、顔を上げてフリッツを正面に捉えた。
『ルツカは……おれに花をくれた』
冷淡を装う被膜が溶け、水になって流れ落ちていった。ああ、やっぱり兄さんの目だ。そう思った途端、フリッツの懊悩《おうのう》も、邪魔はしたくない≠ニ言っていたルツカの想いも、身近で切ない匂いを放つようになって、自分でも驚くほど簡単に涙が溢れてきた。床に押しつけられたフリッツの拳に、パウラは自分の手のひらを重ねた。
『どんなに罵られようが、百万の怨霊に祟《たた》られようが、かまわない。おまえがあんなふうに……ルツカみたいにされるよりは……』
ここで一生分の涙を流しきると決めたかのように、フリッツは全身を震わせ、声を忍ばせて泣いた。パウラはその首に両腕を回し、涙を流すごとに冷えてゆく体をしっかり抱きしめた。父に似た体臭が鼻をくすぐり、この世でたったひとつの絆《きずな》の重さをパウラに刻み込んだ。
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「実の妹をダシに出世したってわけだ」
田口の言葉は辛辣《しんらつ》だった。本心で言ったのではなく、感情に引きずられるのを防ぎ、収監室に充満する恐怖を牽制《けんせい》するために吐いた言葉であることは、傍らで聞く絹見にも想像がついた。「どうとでも」と返して、フリッツは仄暗《ほのぐら》い瞳を一同から背ける。
「単一民族の歴史しか知らないあんたたちには、どのみち理解の及ばない話だ。リンドビュルム計画が始まって一年と少し、四一年の半ばには、民族浄化はさらに極端に推し進められるようになった。ユダヤ人に対してナチがどんな施策を行ったか、日本に情報は入ってきているのか?」
「強制収容所に送られている、とは聞いたが」
ドイツ大使館から伝わる移住∞隔離≠ニいった言葉の裏を読んで、絹見は言った。まだ腫れのひかない頬を歪め、「訳が間違っているな。正しくは絶滅収容所だ」と返事を寄越したフリッツは、絶句したこちらに嘲笑の一瞥を投げた。
「対ソ戦で勝利できると確信した総統は、もうヨーロッパにはドイツを抑止するどんな勢力も残っていないと判断した。最後の箍《たが》が外れたというわけだ。それで、ユダヤ人問題に対する最終的解決策が実行された。密閉したトレーラーに裸に剥いたユダヤ人を押し込んで、化学薬品で処理≠キる実験から始まって、より合理的な根絶方法が考え出された。人目を引かない場所に収容所を造り、工場で肉や機械を解体するみたいに、一時に大量のユダヤ人を処理≠キる。アウシュビッツ、ビルケナウ、トレブリンカ。どの収容所も確かに工場だった。風呂場に似たガス室と、死体を加工して石鹸を作る施設まで整った最新設備だ。子供から老人まで、何百万人殺されたか見当もつかない。SSの一端に加わった余禄《よろく》で、おれは処理≠フ現場を何度か見学させられた。山と積み上げられた人間が燃やされるのを見て、生焼けの死体の臭いを嗅いだ。ハンバーグを焼いた匂いとそっくりの、胸がむかつく忘れられない臭いだ」
べったり湿った空気を肌に感じる一方、体の奥は急速に冷え、乾いてゆく。絹見は、彼が汗をかかない理由がわかったような気がした。
「百万単位の人間を殺すっていうのは、これはもう殺すって言葉も当てはまらない。作業だ。罪悪感なんか感じている暇もない、重労働なんだ。相手は人の形をした下等生物、害虫だと割り切ってしまえばどうということはない。人間は、その気になればどこまでも残酷になれる生き物だと、おれはその時に確かめた。リンドビュルム計画が失敗に終われば、おれも妹もあの死体の山の中のひとつになる。妹の場合は解剖台で切り刻まれて、脳味噌ぐらいは研究標本に残されるかもしれんがな」
だからフリッツは、SSに入ってみせなければならなかった。ナチのように考え、行動し、リンドビュルム計画を成功に導く必要があった。「恐怖が支配する世界で生きてゆくためには、自分自身が恐怖になるしかない……か」と呟き、その言葉の重さも十分に確かめた絹見は、ぴくりと動いたフリッツの眉を正面に見つめた。
「ローレライと、その管理責任者たるSS士官の地位。ナチの道具になることが君たち兄妹の命綱になった。……皮肉だな」
フリッツの顔から嘲笑が消え、攻撃に備える硬い表情が戻ってきた。絹見はかまわずに続けた。
「自分の血を呪《のろ》ってまで同化しようとした恐怖、ナチスドイツは呆気なく滅びた。総統は死に、ヒムラーSS長官も拘留先で自決したと聞く。リンドビュルム計画の関係者は、連合軍が踏み込む前に残らず始末されたと見るのが自然だが……。ひとりや二人は生き延びて、捕虜になった可能性は否定できない。現に米国はこの艦を尾《つ》け回している。彼らは間違いなくローレライの存在を知り、その捕獲か抹消を目論んでいる」
敗戦間際には総統との蜜月関係も破綻《はたん》し、次期総統の座をデーニッツ海軍元帥に奪われたらしいヒムラーが、秘密を守って潔く自決したという保証もない。フリッツは否定も肯定もせず、黙って絹見の顔を見つめていた。
「君たち〈UF4〉の乗組員に残された選択肢は限られていた。ドイツには戻れない。米国に降ったところで、捕虜として遇されるという保証はない。米国がローレライの独占を意図した場合、秘密を知る君たちは邪魔者でしかなくなる。特にSSの君は真っ先に処分されるだろう。米国の政財界にいるユダヤ人の数は少なくない。絶滅収容所の話が本当なら、その黒い制服は彼らにとって憎悪の対象になる。挙句、〈UF4〉と〈ナーバル〉は彼らの手で調べ尽くされ、妹さんは実験動物の扱いを受ける……。帰るべき国も、降伏という選択肢も失った君たちは、枢軸国の日本に身を寄せる他なかった。さんざん呪ってきた血の源が、君たちの新しい引き受け先になったというわけだ」
腹を立てたフリッツが、冷静さを失って本音を語り出したら吉。却って塞ぎ込んでしまったら凶。危険な賭けであることは従前承知で、絹見はフリッツの反応を注意深く窺った。瞳に宿りかけた怒りはすぐに勢いをなくし、ただ疲れたというふうにうつむいたフリッツは、「……皮肉か」と呟いて再び嘲笑を顔に刻んだ。どこか頼りなげな嘲笑は、他の誰でもない、自分自身に向けられたもののように見えた。
「このいまいましい黄色い肌を持って、ナチス政権下のドイツに生まれたこと自体が皮肉だ。いまさらどうという気にもならんが……。察しの通り、おれには日本に身を預ける気は最初からなかった。折りを見て妹と一緒に逃げ出すつもりだった。できれば〈ナーバル〉を奪って……いや、どんな方法でもいい。とにかく日本から離れようと決めていた。いずれアメリカの手に陥ちる国にいても、いいことはないからな」
むらと怒りを立ち昇らせ、一歩前に出ようとした田口を目で制して、絹見は「それで?」と先を促した。
「みそっかす扱いでも、三年もSSにいればそれなりの伝《つて》はできる。本国が崩壊したからといって、各国に張り巡らせた諜報網《ちょうほうもう》が即座に消えるものでもないしな。とりあえず大陸にでも渡って、現地に伏せってる諜報員と接触する。連中の力を借りて、中古の潜水艦なりミゼットサブなりを手に入れる。負け戦《いくさ》で接収されたものの、乗り手がいないで放置されてる艦は少なくない。蛇の道は蛇で、横流し品を手に入れるのはそう難しいことじゃないだろう。そいつにローレライ・システムを取りつけて、新しい〈|海の幽霊《ゼーガイスト》〉を造る。どこの国家にも属さない、本物の幽霊艦を」
意外というより、いっそ子供じみていると言った方が相応しいフリッツの弁に、絹見は思わず高須と顔を見合わせた。
「この艦も〈ナーバル〉も、しょせんは容れ物だ。パウラさえいればローレライ・システムは何度でも造り直せる。新しい〈ゼーガイスト〉で、おれたちは商売を始める。海賊になるのも悪くないが、それでは武器の補給が難しい。現実的には傭兵《ようへい》稼業しかないだろう。金次第で誰の側にもつく傭兵艦。攻めるによし、守るにもよし。この戦争まみれの時代にぴったりの新商売だ。国籍も主義も持たず、民族や肌の色にもとらわれない。差別されることも、利用されることもなく、すべておれたちで考え、おれたちで決めて……」
「だが、兵器として利用されることに変わりはない」
最後まで聞くに耐えず、絹見は遮った。子供じみた考えという感想はすでになかった。そのような商売が成立すると思わせてしまう世界の混沌、その申し子であるフリッツの荒涼とした発想、否定しきれない己の無力。我々はいったいなにをやってきたのか、我々が彼ら若者に示してきたものはなんだったのかと、つかみどころのない自責の念が胸を埋めた。
至誠に悖《もと》るなかりしか。馴れ親しんだ亡霊の声までが不意によみがえり、絹見は無意識に舌打ちした。「そんな生き方を選べば、妹さんは一生あの鉄の棺桶《かんおけ》から表に出られなくなるぞ」と割って入った高須の声が、その小さな音をかき消してくれた。
「それでいいのか? 戦争のない、静かに暮らせる場所に彼女を連れていってやるのが、君の……」
「この世界のいったいどこに、戦争のない国があるっていうんだ?」
狙いすました言葉の矢に射抜かれ、高須は口を閉じた。「おれはそこまで楽天的になれない」と続けて、フリッツは声をなくした大人たちから顔を逸らした。
「艦長の言う通り、この黒服はいまや世界中の憎悪の対象だ。ぬぎ捨てたところで、ユダヤ人は臭いを嗅ぎつけて必ず追いかけてくる。ローレライを手に入れたいアメリカの連中もな。ドイツは一世一代の賭けに負けて、百年かかっても払いきれない負債をおれたちに残したんだ。絶対に逃げきれはしない。負債を踏み倒すには、賭けを続けるしかない。こいつを彫った奴らから学んだ方法でな」
袖をまくり上げ、腕の刺青をかざしたフリッツから、今度はこちらが目を逸らす番だった。そこに若者特有の性急さがあったとしても、フリッツはすべての現実を見、考慮した上で、自分と妹が生きてゆくにはそうするしかないと結論した。腐った土壌に根を張るより、根なし草であり続ける虚無を選択したのだ。信じるなにものも見出せず、軍人という以外に自らを規定する言葉を持たない自分と同様に。目を伏せた絹見は、「……あんたたちもな。明日は我が身だぞ」と重ねられたフリッツの声に、微かに顔を上げた。
「パールハーバーの恨みを、アメリカ人は決して忘れない。日本兵が何万人死のうが、空襲で町という町が破壊し尽くされようが、いきなり不意打ちを食らわした日本はナチと同じ悪役だ。他の事情は関係ない。アメリカは日本を消しにかかってくる。ナチがユダヤ人を消そうとしたのと同じように」
「根絶やしにするということか」
「ああ。ただそれがどういうやり方になるかはわからない。ナチがやろうとした肉体的絶滅は、いろいろな意味で犠牲が大きすぎる。もっと確実で効率のいい方法を選ぶはずだ」
事実を淡々と話す口調だった。絹見は黙して、フリッツの目を凝視した。
「同じ民族が、ちっぽけな土地をめぐって権力争いをするのとは違う。歴史も文化も、考え方もまったく異なる民族を相手に戦うっていうのは、そういうことだ。日本の統率機関……大本営か? 彼らがどこまでそれを覚悟して戦争を始めたのかは知らんが、話を聞く限り、現状への対処能力は皆無と言っていい。民族消滅という言葉を本気で受け止めているのは、浅倉大佐ぐらいなものだろう」
白く透き通った肌と、赤い口腔の印象が瞬時に脳裏に固まり、心臓を一拍跳ね上がらせた。「浅倉大佐が……」とおうむ返しにした絹見をよそに、床に注がれたフリッツの目に沈思の色が浮かんだ。
「だが大佐が言うあるべき終戦の形≠ェどういうものなのかは、おれにも想像がつかない。ローレライひとつで戦局が変えられるものでないことは、大佐も承知しているはずだ。ローレライの致命的な欠陥を知らなかったにしても、あの口ぶりは……」
そこで口を噤んだフリッツの顔に、めずらしく動揺の気配が浮かんだ。「致命的な欠陥?」と聞き返した高須の顔は見ず、フリッツは艦尾側の壁に視線を泳がした。
「……話した通りだ。器は作れても、パウラはひとりしかいない。量産ができないというのでは、兵器としては失格だ」
それはそれで筋の通った答えを聞きながら、絹見はなにかを隠し持ったフリッツの横顔に探る目を向けた。ちらと視線を絡ませたフリッツは、「おれが知っているのは、これで全部だ」と押しかぶせ、対話を打ち切る素振《そぶ》りを見せた。
「ウェーク島行きの理由は見当もつかない。おれには興味のない話だ。行ってみればわかるだろう。たどり着けようが着けまいが、優秀な軍人としては行くしかないんだろうからな」
長口上の無理が祟《たた》ったのか、憎まれ口は途中でかすれ、咳《せ》き込《こ》む音が収監室内にこもった。収監室用にあてがわれたヤカンの水をコップに注ぎ、田口が無言でフリッツに差し出す。虚をつかれた表情で田口を見返したフリッツは、少しためらった後、ひどく神妙な顔つきになってコップを受け取った。絹見は、「最後にもう一度、聞きたい」と言って、コップから目を上げたフリッツを直視した。
「終わりはどこにある?」
国から国へと渡り歩き、兵器として戦い続ける未来しか描けないフリッツと、確実に死ぬとわかっている絶望的な航海に、部下を誘《いざな》わなければならない自分。二つの不毛を重ね合わせ、絹見は問うた。空になったコップを両手で握りしめ、じっと絹見の目の底を覗き込んだフリッツは、「言ったろう? おれたちにも、あんたたちにも、そうする道しか残されていないと」と答え、数秒前とは打って変わった老成した光を瞳に宿した。
「だったら、道の先になにがあるか、終わりがどこにあるかなんて考えるのは無意味だ。ただ歩き続けるしかない。幸い、世界は争いに満ちている。ドイツと日本が世界地図から消されて、この大戦が終わったとしてもだ。人が考え、自我を持ち、自他を統《す》べるために神や思想を求め続ける限り、この地上から対立が消えることはない。〈ゼーガイスト〉を欲しがる国はごまんとある。あんたが言う通り、おれは自分の血を呪ってナチと同化し、戦う力を手に入れてきたつもりだったがな。そのナチがなくなってくれたお陰で、あらためてわかったことがひとつある。
国家や主義、信じるものや守るものがなくても、人間は戦い続けることができる。自分以外のすべてを憎んでさえいれば」
こちらに据えた視線を微動だにさせず、フリッツは言いきった。もはや互いに確かめることもなく、対話の時間の終わりを悟った絹見は、正直な思いを口にした。
「……それは、餓鬼の道だよ」
フリッツはなにも言わなかった。略帽を目深にかぶり直し、絹見は収監室を後にした。
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兄が言った通り、パウラは一九四〇年の半ばには「白い家」を離れ、キール軍港へと移された。前年にポーランドを降したドイツは、ナチ政権下で蓄えた軍事力と民意の高揚を一気に爆発させ、西ヨーロッパへの総攻撃を開始。オランダ軍降伏、ベルギー国王亡命、バリ無血占拠と、ラジオや新聞が連日の勝利を華々しく伝えている時だった。
リンドビュルム計画に割り当てられた潜水艦繋留設備《ブンカー》は、軍港の中でもいちばん奥まったところにあり、民間の港湾施設とは完全に隔《へだ》てられていた。ブンカー内には魚雷倉庫から発電室、クレーンなどの設備の他に、兵員の生活を賄《まかな》う宿舎や事務所も設けられ、リンドビュルム計画が一応の成果を挙げるまでの三年間、関係者はほとんど缶詰の状態で研究に没頭させられた。最奥の乾《かん》ドックから、緩いスロープを描いて埠頭《ふとう》に続く引き上げ船台、海側に四角く口を開けた出入口。直撃弾でも貫通しない分厚い天井と、鋼材とコンクリートの壁がそれらをすっぽりと覆い、さながらバカでかい下水道といった体をなすブンカーが、パウラの新しい檻《おり》になった。
出入口に目を向ければ、反対側の埠頭に建つブンカーの集合住宅のような無愛想な形、陽光を受けて鈍く輝く海面を見ることもできたが、いつでもというわけにはいかなかった。保秘に万全を期すべく、リンドビュルム計画のブンカーは他の施設との隔離が徹底されており、出入口のシャッターは常に閉鎖されていたからだ。時おり漂ってくる酒瓶《さかびん》やぼろぼろの布切れ、生活排水に汚れてぎとついた海面が、外界の存在を伝える唯一のものだった。隣接する港町から流れ込むそれらの汚濁が、いまでは遠くなった日常――人の生活の匂いをパウラに思い出させた。
鉄の触れ合う音、溶接の火花がひっきりなしに閃《ひらめ》くブンカーで、パウラは感知実験の他、ミゼットサブの操艇訓練という新しい日課に明け暮れた。〈ナーバル〉と命名されたそれは、パウラの能力≠機械的に定着するシステム、PsMB1の中枢となる小型潜航艇だった。ミゼットサブの開発に乗り気でなかった潜水艦隊司令部をよそに、SSが強権を発動して独自に海軍技術陣を動員し、なんとか開発にこぎつけたのだという。
能力者が水中の対象物を感知した際に生じる脳波の乱れを、電気的に取り出して増幅。信号化された脳波に監視装置内の磁性体が反応し、感知対象物の方位・距離・速度はもちろん、その形状までを立体的に再現する――。PsMB1の概要を簡単に説明すると、そういうことになる。既存のソナー機器より容量が大きく、ただでさえ狭いUボートに積載するには無理があったことと、現有Uボートへの設置工事を簡易に済ませられるという二つの理由から、システムの中枢をミゼットサブに集中させ、Uボートの上部甲板に接合する方式が考案された。もっともそれは実地運用に当たる潜水艦隊司令部に対する言い訳で、PsMB1を艦の外側に設置する最大の理由は、パウラという人間の存在を秘匿《ひとく》することにあった。
ひとたび母艦たるUボートに接合したら最後、パウラは〈ナーバル〉から出ることは許されず、食事も排泄も艇内で行い、母艦に同乗するSS隊員のみが、食事の運搬と健康管理のために〈ナーバル〉と母艦を行き来する。PsMB1という革命的探知装置の存在は知らせても、その根幹がひとりの人間――それも劣等人種である事実を、一般の乗員たちに知らせてはならない。ヒムラー長官がリンドビュルム計画に課した条件は、字義通りに遵守されたのだった。パウラが被《こうむ》るだろう苦痛は、意識の外にして。
実際、〈ナーバル〉は単独行動は想定されておらず、推進装置と二本の魚雷を装備しているものの、母艦から離れて行動することはまずあり得ない。操艇訓練はあくまで非常時に備えたものだったが、凝り性の性格がこんな場所でも発揮されたのか、パウラは確実に操艇の腕を上げていった。軍港内とはいえ、海上で行われる訓練は気晴らしになったし、|イッカクイルカ《ナーバル》の名に相応しい、ずんぐりとしていながら精悍《せいかん》でもある〈ナーバル〉の船体に、奇妙な愛着も感じていた。問題は艇内の環境で、その狭さと空気の悪さには終始閉口させられた。一度、急速潜航訓練の際にディーゼル主機の停止が遅れた時には、閉鎖された艇内の空気が残らず機械室に持っていかれて、酸欠で死にかける目にもあった。
そうして一年も経つ頃には、パウラはすっかり〈ナーバル〉を手足にすることを覚え、PsMB1もほぼ完成の域に近づいた。〈ナーバル〉艇内に注入される海水量を調整する自動注排水装置、内側に温熱器を仕込んだ防水スーツ、脳波を受信する検知器――開発した医学博士の名を取ってヘルツォークの王冠《クローネ》と呼ばれた――も、試行錯誤の末に実用に耐え得る性能を持つに至った。後はUボートに搭載して実地試験を行うのみだったが、肝心の試験艦はなかなか送られてこなかった。SSを通した督促《とくそく》も一向に効果がなく、リンドビュルム計画のブンカーは長く空き家の状態が続いた。
当時、ドイツ潜水艦隊はデーニッツ司令の指揮のもと、移動群狼戦術《ウルフパック》と呼ばれる新戦略を展開し、連合軍の船を千隻以上沈める大戦果をあげていた。十隻から四十隻のUボート群が、無線で連絡を取りつつ散開。敵船団を捕捉するや、ホーミング信号で僚艦《りょうかん》を誘導し、ただちに包囲陣を形成して反復攻撃を行う。限られた戦力を有効に活用し、敵海上交通路を遮断するこの戦略のために、作戦用Uボートは常に払底《ふってい》している。怪しげな兵器の試験に供せられる艦は一隻たりとてなく、できればリンドビュルム計画などは早々に中止し、ブンカーも明け渡してもらいたいというのが、潜水艦隊司令部の本音だったらしい。
当然、SSは猛然と抗議した。しかし隊員五万を超える大所帯に膨れ上がったとはいえ、SSは国軍からすれば傍流の新興組織でしかなく、着実に戦果を挙げている実績を突きつけられれば、古参の兵たちを相手に無理を押し通せるものではなかった。開戦前、通商破壊作戦の必須条件として三百隻の作戦用Uボートの建造を要求して、得られないまま大戦に突入したデーニッツの意地もあったのだろう。代替手段のウルフパックがようやく軌道に乗り始めたところに、外野に余計な茶々を入れられてはたまらないと、デーニッツが個人的な感情を持ち出したというのがもっぱらの噂で、一時はリンドビュルム計画自体が空中分解の危機にさらされた。
数年後、一方は凋落《ちょうらく》し、一方は次期総統の指名を受けて決着するヒムラーとデーニッツの暗闘は、思えばこの時から始まっていたわけだが、パウラたちに関係のある話ではなかった。計画が中止になれば即座に抹殺される我が身を自覚して、戦々恐々の空気がリンドビュルム計画の関係者たちを包んだ。緊張に耐えかねて脱走を試み、射殺される者も出た。撃ったのはフリッツだった。
目論見《もくろみ》通り、パウラの後見人としてキールに招かれ、特例中の特例でSS軍曹の立場を手に入れたフリッツは、脱走者を撃ち殺すのにも躊躇しなかった。鉄の意志と、容赦のない実行力。ナチの化身になったかのごとき敏捷《びんしょう》さで脱走者の背中を撃ち抜き、黄色いSS≠フ逸話に新しいページを付け加えた。そんな兄を見るのは辛かったが、冷たい能面の下に、あの晩に見せたくしゃくしゃの泣き顔を重ねたパウラは、拳銃を片手にしたフリッツを黙って受け止めた。「白い家」で流すだけの涙を流したフリッツは、もうどんなに悲しくても泣けなくなってしまったのだ。そう言えばパウラも、いつからか涙を流すということをしなくなっていた。
腐った魚の目玉のように澱んだ空気が解消され、リンドビュルム計画が再始動するには、一九四二年の初春まで待たなければならなかった。ベルリンで日独伊軍事協定が取り結ばれ、バンゼー会議でヨーロッパのユダヤ人絶滅政策が決定されたその年、大西洋で作戦行動に従事していたUボート〈U109〉から、米商船と不慮の衝突事故を起こし、舵《かじ》を失って漂流中の敵潜水艦を拿捕《だほ》したとの報せが入った。艦名は〈シュルクーフ〉。一度はドイツの軍門に降った後、ド・ゴール将軍のもとに再編された自由フランス海軍が所有する、異形《いぎょう》の大型潜水艦だった。
小回りの効かない図体に、建艦政策上、あまり効果的とは言えない巡洋艦級の対艦砲。すでに時代遅れの産物と化しつつある〈シュルクーフ〉の取得が、SSと潜水艦隊司令部の対立を終わりにした。機動性が命のドイツ潜水艦隊にとって、図体の大きい〈シュルクーフ〉は無用の長物。対してリンドビュルム計画においては、PsMB1の実用試験が一義であって、艦の性能の優劣はさしたる意味を持たない。なにより、米商船との衝突事故を最後に消息を絶ち、遠からず戦没認定が下されるだろう〈シュルクーフ〉は、その存在をあらかじめ抹消されている。極秘計画に供される試験艦として、これほど理想的な艦は他にない――。
SSとの関係をこれ以上こじらせたくないデーニッツの思惑《おもわく》、喉から手が出るほど潜水艦を欲していたリンドビュルム計画関係者の焦りが、打算まみれの論理を正当化した。拿捕の報せが入って一ヵ月後、一九四二年三月の未に、〈シュルクーフ〉はキール軍港に入港した。艦尾にシガレットケースを連想させる旋回式魚雷発射管を備え、艦橋構造部前面には二本の砲身を突き出した奇怪な潜水艦が、リンドビュルム計画のブンカーが迎える初めての客になった。
非公式ながら、フランスから取得した四番目の潜水艦〈UF4〉の艦名が冠され、〈シュルクーフ〉の大規模改装工事が始まった。〈ナーバル〉と接合する固縛装置、艦との往来を可能にする交通筒の設置。ドイツ海軍の規格に合わせた各種兵装の交換。千里眼鏡《ヘルゼリッシュ・スコープ》を始めとするPsMB1関連機器の取り付け。〈ナーバル〉を積載した結果、さらに重みを増した船体の運動性については、日本との技術交流でもたらされた新式機関に換装《かんそう》し、従来の一・六倍の馬力を持たせることで補償された。もともと長い連続潜航時間、爆弾防御のため甲板に鋼鉄を張った二重装甲の堅牢《けんろう》性はそのまま、水上・水中速度、航続距離の数字も跳ね上がり、ふと気がついてみると、〈UF4〉は攻守ともに優れたドイツ海軍屈指の――いや、世界中の海軍の瞠目《どうもく》に値する力を持つ潜水艦になっていた。
レーベンスボルンや祖国遺産協会、さらにはミネラルウォーターやらジャムやらを製造する国営工場など、豊富な下部組織を持つSSから惜しみなく投入された予算と、戦時量産態勢で抑圧されていた軍事技術者の開発精神の爆発。二つの要因が重なり合って生じた歓迎すべき誤算だった。艦首から艦尾まで、手を入れない場所はないというほどの大規模改装工事には、リンドビュルム計画専任の人員だけでは追いつかず、海軍からも大勢の工作兵が駆り出された。必然、パウラの行動の自由はさらに著しく制限されるようになった。PsMB1の根幹を部外者にさらしてはならないという絶対条件と、システムの稼働実験にはパウラが不可欠という現実をすり合わせるべく、〈ナーバル〉艇内で一日のすべてを過ごすのがパウラの日常になった。
〈ナーバル〉という器に収められたPsMB1の核《ケルン》――機械の一部と認識され、扱われる日々の始まりだった。稼働実験がなければ特にすることもなく、耐圧殻ごしに聞こえる工事の喧噪、シフト交代を告げるサイレンの音で時間の経過を知り、日に三度、バケツ一杯の水と工具箱を持って現れるフリッツを唯一の話し相手にして、長い一日が終わるのを待つ。工具箱の中には食事が入っており、フリッツはパウラが食べ終わるまで一緒にいてくれる。才能を認められ、SSの深部にも関わり始めた兄は日毎に寡黙《かもく》になり、ほとんど会話らしい会話もしなかったが、パウラには十分だった。
いつか、必ず。SSの黒い制服を着ていても、兄の目は常にそう語りかけてきた。子供の頃、パウラがいじめられて帰ってくると、その時は無関心な振りをして、後でこっそり仕返しに飛び出してゆく。そこに映るのがどんなに儚《はかな》い希望でも、いつでも自分を守ってきた目と目を合わせていれば、次の食事の時間まで自分を律することができた。正気を失ったり、自分の命を絶つ方法を考えたりせずに、祖母が言う自分に恥じない生き方≠忘れずにいられた。
いまのこと、これからのことは話さずに、パウラは昔の話をした。朧《おぼろ》げな両親の記憶、祖母の家での生活、人として生きられた頃の思い出を話し、潜望鏡が吊り下がる天井に青空を、パイプに覆われた壁に広々とした草原を思い描いた。フリッツは黙って耳を傾けていた。操艇訓練のために設置された後部座席に座り、艇の外に待つ苛酷《かこく》な世界から一時逃れて、ここではないどこかに心を飛ばしているようだった。
それでも、どうしようもなく不安になり、紛らわす術のない孤独に苛《さいな》まれる時もある。狭い空間に詰め込まれた機械類がたまらない圧迫感を放ち、自分を押し潰そうとする幻覚に襲われたり、知らない間に世界が消滅して、自分ひとりが虚空に取り残された妄想に悩まされたり。〈ナーバル〉が〈UF4〉の甲板上に固定されてからは、感知野を介して意識を水中に飛ばす気晴らしもできなくなり、緩慢に流れる時間の重みはいよいよ耐えがたいものになった。気を抜けば崩れそうな正気を保ち、時の重みを少しでも緩和するために、パウラはいつしか歌を口ずさむようになっていった。
学校で習った歌、祖母のレコードで覚えた日本の歌。知る限りの歌を歌い尽くすと、もう一度始めから歌い直す。どの歌にも初めて聞いた時の思い出が詰まっており、その瞬間の光景、匂い、空気の肌触りを思い出させるだけでなく、歌詞や曲を作った者の感性を通して、未知の世界へ自分を誘ってくれる。『ターラウのエンヒェン』はまだ知らぬ恋の熱情を。『ユモレスク』は生と死の変転が積み重ねる刹那の美を。『冬の夜』は祖母が生まれ育った異国の情景、国は違っても人の暮らしは不変だと教える家族の温もりを。その間だけはこの鋼鉄の筒を抜け出し、懐かしい故郷や知らない土地、過去と未来を自在に行き来しながら、パウラは喉が嗄《か》れるまで歌い続けた。歌声が外に漏れ、改装作業に携《たずさ》わる工作兵たちを怯えさせることになるとは、ちらりとも思いつかなかった。
無人の精密機械装置から女の歌声が聞こえてくれば、工作兵たちが騒ぎ出すのは当然だった。噂はすぐにリーバマンの耳に入り、彼は歌をやめさせるようフリッツに指示した。無論、フリッツはその指示を守らなかったし、パウラも歌をやめる気はなかった。唯一残された自由を守るために、二人は以前と同じ方法でリーバマンを煙《けむ》に巻くことにした。無理に歌をやめさせれば、PsMB1の稼働に支障が出ると脅したのだ。
自分の意志では視覚や聴覚を遮断できないのと同様、感知能力も意図的に低下させることはできないが、肉体の仮病はいくらでも装える。フリッツをキールに呼び寄せる時にも、パウラはノイローゼになった振りをし、ハンストを敢行してリーバマンたちを大いに慌てさせていたから、この脅迫には説得力があった。予想通り、今回もリーバマンが折れた。直接〈ナーバル〉に足を運んだリーバマンは、パウラの精神を安定させ、感知能力を維持するには、歌唱の自由を認むるもやむなし、ともっともらしく言った上で、ただしできるだけ小さな声で歌うように、と付け足した。もちろん、パウラはそれを聞かなかったことにした。
数日後、いつものように食事を運んできたフリッツは、最近、PsMB1という呼び名をまったく耳にしなくなった、とパウラに漏らした。
『ローレライだ。工作兵の連中がそう呼び出して、いまでは海軍のお偉方もそう呼んでる。この調子じゃ、クワックザルバーたちも使い出すだろうな』
妖しく美しい歌声で船乗りたちを魅了し、急流に引きずり込むというライン川の魔女。〈ナーバル〉から漏れ出す歌声は幻聴、機械の稼働音が歌声に聞こえるだけだと言い張り、噂を封じ込めようとしたリーバマンらの行動が、逆に神秘性をかき立ててしまったらしい。パウラは可笑《おか》しくなったが、フリッツは仏頂面のままだった。
『気に入らないの?』と尋ねると、『生々しすぎる。おれはPsMB1でいい』とぶっきらぼうな声が返ってきた。
ローレライという女性名詞は、無条件に自分の存在を思い出させ、硬質な機械装置に人間の体温を持ち込む。SSの仮面をかぶり、システムの運用に携わらなければならないフリッツにとつて、それは気を重くするものでしかないのだろう。またひとつ、兄の負担が増えたとわかって、パウラは口を噤んだ。ちらとこちらを見、すぐに視線を逸らしたフリッツは、仏頂面の口もとをほんの少し緩めてから、あらためてパウラと目を合わせた。
『歌えよ、ローレライ』
無理に噂を封じ込めるより、歌声に似た稼働音を発する機械という認識を定着させた方が、今後システムを運用する上で好ましい。そんな判断が下されたのか、一週間後、リーバマンはPsMB1に通称を付けてはどうかとベルリンに願い出た。ヒムラーSS長官はこれを認め、以降、PsMB1はローレライ・システムと呼ばれるようになった。
コルビオ艦長と出会ったのは、そうして半年あまりが過ぎ、改装工事が終盤に差しかかった頃のことだ。
ドイツに拿捕されるまで〈シュルクーフ〉の艦長であった男は、四十代半ば、顔半分が強《こわ》い髭《ひげ》で覆われていて、小説の挿し絵に出てくる船長そのものといった風情だった。苛酷な捕虜生活も、肌に染みついた海の匂いを取り去るには至らず、〈ナーバル〉に初めて足を踏み入れた時も、彼を連行してきたSS隊員やリーバマンよりよほど堂々として見えた。
もともと艦内にあった電気系統と、ローレライ・システム用に新設した各種装置の連動が一向にうまくゆかず、これ以上の作業の遅滞は認められないという段になって、捕虜収容所に抑留中のコルビオが担ぎ出された。〈UF4〉と名を変えた自分の艦の変わりように驚いたのもつかの間、不具合の原因は〈ナーバル〉側の配線にあると見抜いたコルビオは、自ら〈ナーバル〉への立ち入りを要求。外側から指示させるだけでは埒《らち》が明かず、SSとの協議の末、リーバマンはやむなく敵国捕虜を秘密の器に招き入れた……というのが、コルビオがパウラの前に現れた経緯だった。
なんの予備知識も与えられていなかったのだろう。パウラと顔を合わせたコルビオはぎょっとした様子だったが、すぐに柔和な笑みを髭もじゃの面相に浮かべると、『邪魔するよ、お嬢さん』と会釈してみせた。余計な口をきくな、というSS隊員の叱責もどこ吹く風で、機械室から操舵室をぐるりと見回し、リーバマンに教えられるまでもなく壁面の整流器に目を止めた。『工具』とぞんざいに言うコルビオを呆然と見ていたリーバマンは、『さっさとしねえか!』と続いたフランス訛《なまり》のドイツ語に、慌てて工具箱を差し出した。
おどおどしたクワックザルバーと、悠然と点検を開始したコルビオの落差は、恐怖や暴力による支配では埋められない、人の器の違いが生み出す差だった。胸に清涼な風が吹き込まれるのを感じながら、パウラは岩山の厳しさを湛《たた》えたコルビオの背中を見つめた。鼻唄まじりに配線をいじったコルビオは、整流器の蓋を閉める時、パウラと視線を合わせて片方の目を軽くつぶった。こんな連中に負けるな、と力づけられたようで、パウラは自分でも気づかないうちに微笑を返していた。
それからしばらく、コルビオは〈UF4〉に留まることになった。改装工事の助言役を務め、乗組員に選定されたドイツ海軍の士官たちに操艦の癖を伝授するためだった。その熱心さはリーバマンや、艦長を拝命したカール・ヤニングス少佐を呆れさせるほどで、工作兵たらは問題が起こればまずコルビオに相談し、乗員たちもコルビオの意見を艦長のもののように聞いた。戦闘中でなければ助け合うのが海軍全般の美風だが、それだけでは説明のつかないなにかがコルビオの態度にはあった。
我々に取り入ろうというのか。仮にも元艦長が自分の部下や艦に対して恥ずかしくないのか。ヤニングスが溜まった不審の念を吐き出すと、コルビオは静かに答えたという。
『恥ずかしいとは思わんね。自分の艦をでたらめにいじり回されて、知らん顔ができるという方がおれにはよっぽど恥だ。貴様らナチに母国が降った時も、この艦はいったん人手に渡った。イギリス海軍の連中が、ナチに奪られる前にてめえで接収しちまおうって、ポーツマスに寄港してた〈シュルクーフ〉にも乗り込んできやがったんだ。おれは部下と一緒に艦に籠城して抵抗した。しまいには撃ち合いが始まって、ジャン・ベルタンが射殺された。かみさんをもらったばかりの、まだ三十前の砲術長だ。この艦には奴の血が染みついてる。腕の悪いナチの工作兵に好きにいじらせるわけにゃあいかねえ。てめえら下衆《げす》の艦に成り下がっても、この〈シュルクーフ〉は最高の潜水艦でなきゃならねえんだ。
くだらん文句を垂れる前に、みっともねえ戦いをしないで済むようてめえの腕を磨いとけ。その方が自由フランスの同志も取り返し甲斐があるってもんだ。その時は、貴様らが取り付けた新兵器が貴様らの脅威になる。たとえおれが死んでも、おれの艦が仇討《あだう》ちをしてくれるって寸法だ。整備に熱が入んのは当然だろうが』
万事そんな調子である一方、コルビオは〈ナーバル〉で顔を合わせたパウラのことを覚えていて、なにかと気づかう素振りを見せた。収容所にいる部下を人質に、厳重に口止めされている以上、もちろんおおっぴらにはできない。しかし〈ナーバル〉の近くで溶接機やハンマーがやかましく騒ぎ立てるのを見つけると、『精密機械が近くにあるんだ! 少しは気をつけろ』と工作兵を怒鳴りつける。パウラが潜望鏡でこっそり外の様子を眺めているのに気づいてからは、スコープの方を見てウインクしたり、笑いかけたりするのを忘れず、一度、周囲に人目がない時には、不格好なタップダンスまで披露してくれた。髭面に汗をかき、どたどたとタップを踏む巨体を十字線の向こうに捉えて、パウラは久しぶりに声を出して笑った。巡回にきたSS隊員に見咎《みとが》められ、咄嵯に体操の振りをしてごまかす姿も可笑しかった。立ち去るSS隊員の背中に鉄砲を向ける仕種をしてみせた後、コルビオは作業用ヘルメットをぬいで舞台役者のように会釈し、なにごとか口を動かした。頑張れ、という力強い声がパウラにははっきり聞こえた。
パウラが歌う歌を聞きつけ、〈ナーバル〉の外装板を叩いてリズムを取ることもあった。そういう時は曲の速い明るい歌を選んで、パウラも二人だけの演奏会を盛り上げた。厚い耐圧殻に隔てられていても、二人はリズムを通して会話をし、互いの心を触れ合わせることができた。
いつだか、コルビオの歌声を聞く機会もあった。パウラに聞かせるためだろう、ブンカー中に響き渡る胴間声《どうまごえ》を張り上げたコルビオに、工作兵たちは正気を疑う目を向けたが、|フランスの歌《シャンソン》の音色は途切れることなく流れ続けた。無機質な耐圧殻ごしに、パウラはそのもの悲しい旋律と歌声を確かに聞き取った。
[#ここから2字下げ]
今日は帰れない
森へ行くんだ 窓辺でぼくを見送らないで
君のまなざしが 闇を追いかけ
涙に濡れるのを見たくないから
涙に濡れるのを見たくないから
[#ここで字下げ終わり]
フランス民兵の心情を歌った詞の内容を知ったのは、艦内無電池電話の配線が終わり、コルビオと直接話せるようになってからだった。リンドビュルム計画の関係者しか知らない予備回路を使い、試験を装って〈ナーバル〉の無電池電話を鳴らしたコルビオは、故国にパウラと同じ年頃の娘がいることも告白した。
『パリの弟夫婦のところに身を寄せていてな。ナチの占領下に置かれてからは消息がつかめん。女房は強い女だから、どんな状況になっても家族を守って戦ってくれてるだろうが……。あんたを見てから、どうにも里心がついていかんよ。故郷《くに》に帰らんで、自由フランス軍に加わったことを後悔したくなってくる』
自由フランス軍の旗揚げに伴ってイギリスの抑留から解放された時、コルビオには退役《たいえき》して妻子のもとに帰る選択肢もあったのだという。パウラは『なぜ戻らなかったの?』と尋ねた。
『なあ、お嬢さん。人間なんてのは、自分の足で歩いてるようで、実は誰かに歩かされてる。神様とかそんなもんじゃない、人の考えなんぞ及びもつかんなにかにだ。人にできることっていやあ、その瞬間瞬間に最善の道を選び取って、そっちの方向にちょっとだけ足を向けるってぐらいだ。都合のいいところで留まることはできない。流れに逆らって引き返すこともできない。おれにとって、故郷に戻るってのは留まることのように思えた。だからこうして自分が選んだ道を歩き続けてる。肥え溜めに頭を突っ込む羽目になっても、少しでもいい方に行けるようにって足をばたつかせてるんだ。後悔なんてしてる暇はないんだよ』
そう語ったコルビオは、『あんたもしっかり生き抜けよ』と付け加えた。穏やかな熱を放って胸の底に落ちた言葉のひとつひとつを手に取り、自分は選べているのだろうかとパウラは考えた。結果は無残でも、ルツカは彼女にとって最善の道を選び取っていた。取りつく島のない硬質な論理でも、フリッツも自分で選んだ道を歩いているように思う。自分は? 祖母の言う通り、自分に恥ずかしくない生き方をしようとは思うけれど、ただ流されるばかりで、まだ自分で自分の先行きを決めたことはない……。
十五歳の誕生日を迎えて数日後に聞いた、それは初めて同じ目線から語りかけられた大人の言葉だった。フリッツの来訪と並んで、潜望鏡に映るコルビオの姿がパウラの心の支えになった。その顔を見、声を聞くことで、いままで見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえてくる。成長のある段階に必要な触媒《しょくばい》として、パウラはコルビオに父親の面影を重ねていた。
しかしコルビオは、ある時を境に〈UF4〉から姿を消した。フリッツにもその消息はつかめなかった。一九四三年、スターリングラードでの敗退をきっかけに対ソ戦略は総崩れになり、エル・アラメインにおけるロンメル軍団の敗北、連合軍のシチリア島上陸と、ドイツ軍はすべての戦線で後退を余儀なくされていた。再びコルビオの姿を潜望鏡に捉えたのは、わずか一年足らずで暗転した戦況の最中、〈UF4〉の進水式がひそやかに行われた時だった。
SSの将官が居並ぶ後方、工作兵たちの列に混じって〈UF4〉の進水を見送るコルビオは、頑健な肉体といかめしい髭面は変わらなかったが、目には別人のような霞《かすみ》がかかっていた。〈ナーバル〉の潜望鏡が動くのを見ると心持ち相好を崩し、頑張れと口を動かしてくれたが、いつもの底の抜けた笑顔ではなかった。ただ耐え抜けと伝える眼差しに、コルビオは別れを告げに来たのではないかと思いついたパウラは、不意に胃が重みを増すのを感じた。……戦没と認定された〈シュルクーフ〉の乗員は、残らず戦死したことになっている。〈UF4〉が艦籍未登録のまま進水したいま、彼らはどのような扱いを受けるのだろう?
ドックで最終的な艤装《ぎそう》を施し、水密試験を受けた後、バルト海にて約三ヵ月の訓練航海。悪化の一途をたどる戦局に追い立てられ、ローレライ・システムの実動試験を含む訓練日程は急ぎ足で消化された。各種装置との連動試験、無人標的を使用した攻撃訓練を黙々とこなしながらも、一度しこった不安は簡単には消えず、パウラは日々胃が重くなるのを感じ続けた。……システムの秘匿を金科玉条《きんかぎょくじょう》にしていたクワックザルバーが、なぜコルビオの〈ナーバル〉立ち入りを認めた?
核《ケルン》≠フ心理状態とは裏腹に実動試験は順調に進み、予定よりひと月早く、乗員の錬成訓練を兼ねた最終試験が実施された。老朽Uボート〈U109〉を敵艦に見立てての模擬水中戦が、その内客だった。時間、海域は無制限。一流の技量を備えた有人標的を相手に、実戦と同等の訓練を行う――。有人、実戦という言葉が胸を締めつけ、直視を避けてきた不安の中身を突きつけて、パウラはそうでないことをフリッツに確かめようとした。フリッツは否定も肯定もせず、『やるしかない』と静かに、反論を許さない口調で言った。
自らが恐怖になることで、恐怖を克服する。兄にはもう覚悟ができていたのだろう。では自分はどうすればいい? この鉄の棺桶に閉じ込められ、自分の力では外に出ることもできない。命令の拒絶は自分を殺し、兄をも殺す。こんな状況下で、いったいどこに選び取れる最善の道があるというのだ……?
もっと早くにわかっていれば――いや、心の底ではわかっていたのだ。ローレライという兵器になること。この三年、リンドビュルム計画の実験に協力してきたこと。わかっていながら、自分はここまで来てしまった。手をのばせば届くところに解決方法はあるのに。いまからだって間に合うかもしれないのに。でもそれが最善の道とは思えない。コルビオ艦長も、ルツカも、祖母も、きっと反対する。そう思うのは、自分勝手な思い込みだろうか? 祖母の言葉を守ってきたつもりで、自分はいちばん恥ずべき生き方を選んでいたのだろうか……。答えを見出すなにものも得られないまま、パウラは最終試験当日を迎えた。
ブルスト・ニボー――艇内水位を胸《ブルスト》の高さまで引き上げ、能力≠最大限に引き出す感知態勢が令され、頭を覆うヘルツォーク・クローネが感知像を発令所に伝える。〈U109〉の船体が十数キロ離れた海底に感知され、前進する船体に引き裂かれる海水、スクリュープロベラの攪拌《かくはん》が残す航跡が、透明なゼリーの中を進む土中生物さながら感知野に映る。波紋になって広がる探信音波を乱発し、ひたすら北上を目指す〈U109〉に、明らかに戦闘の意志はない。見えない敵から逃れ、死を一秒でも遠ざけようとする生への希求だけがある。デンマークを抜け、北海を経由した先にあるフランスに帰るために。いまは鉤十字《ハーケンクロイツ》の旗がはためく祖国、しかし他に帰る場所はないたったひとつの故郷に帰るために。無意識に考えついてしまったパウラは、探信音波が生み出すものとは違う、微小な音の波形が〈U109〉の船体から発するのを感知して、絶句した。
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遠く離れても忘れはしない
君のもとへ いつか戻ってきたら
真昼だろうと 真夜中だろうと
熱い口づけで君を狂わすよ
熱い口づけで君を狂わすよ
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音として認識されたわけではない。だがパウラは、〈U109〉から発するコルビオ艦長の歌声を間違いなく聞いた。いつかブンカーで聞いたのと同じ旋律、同じ歌詞が哀れな有人標的から溢れ出し、その船体をぼんやり包むのを明瞭に感知した。最善の道を選んだと言い、後悔などする暇はないと言い放った男の、捨ててきたもの、失ってしまったものへの憧憬《しょうけい》。絶えず胸を疼《うず》かせてやまない痛みが歌詞になり、もう二度と会えない者たちへの想いが旋律になって流れるのを、全身で受け止め続けた。
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もしも春まで帰らなければ
麦の畑に種を播《ま》く時
ぼくの骨だと 思っておくれ
[#ここで字下げ終わり]
鈍い震動が足もとに発し、〈UF4〉から射出された魚雷が二本、探信音波の死角を縫って〈U109〉に向かうのが感知された。目を閉じても耳を塞いでも感知時に影響はなく、クローネは感知像によって微妙に変化する脳波を信号に変え、各種機器に中継する。その瞬間、パウラは何者でもなく、ローレライという兵器システムを構成する何物かに過ぎなくなった。
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麦の穂になって戻ったぼくを
胸に抱きしめて迎えておくれ
[#ここで字下げ終わり]
艦首魚雷管を発した五十三センチ魚雷の航跡が、確実に〈U109〉へとのびてゆく。歌声はやまない。ひとりではなく、複数の歌声が重なり合って被膜を形成し、〈U109〉を包んでいるのだとわかる。魚雷がその被膜を破って船体に到達し――
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胸に抱きしめて迎えておくれ……
[#ここで字下げ終わり]
閃光、そして起爆。爆発的に拡がった衝撃波が歌声をかき消し、感知野をぶわんとたわませる。感情さえも蒸発させるすさまじい衝撃に、パウラは一瞬、空《くう》になった。そして一斉に流れ込んできた無数の声が、真っ白になった頭をたちまち埋め尽くし、全身を冒すのをなす術なく知覚した。
『熱い、熱いよ!』
『ママ……!』
『イザベル!』
『腕が、腕が……!』
五体を引き裂かれた者、火のついた油に全身を巻かれ、海中に投げ出されてもまだ消えない炎に焼かれて悶死した者。百もの絶叫が押し寄せ、その味わった痛みを教えようとするかのように脳を、神経を、脊髄《せきずい》をパウラの肉体から引きずり出して、釘《くぎ》を打った棍棒《こんぼう》で目茶苦茶に叩きのめす。艇内は彼らの血膿《ちうみ》で満たされ、ばらばらになった手足や首、腸《はらわた》が浮く汚水溜まりになった。激痛に身をよじり、のけぞったパウラは、見覚えのある髭面が血の池に浮かぶのを視界の端に捉え、夢中で手をのばした。
血膿の中から目だけ覗かせたコルビオは、助けを請う手を無視してパウラを凝視した。血に濡れた双眸に『なぜ』と問いかけられたパウラは、途切れる寸前の意識で答えを探した。
『なぜ』
他にどうしようもなかったから? 嘘。
『なぜ』
自分を消してしまえばよかったのに、そうしなかった。
『なぜ』
祖母の教えに背きたくなかったから?
『なぜ』
いつか兄と逃げ出せると夢想していたから?
『なぜ』
これが最善の道だったから?
『なぜ』
ぜんぶ違う。わからない。
『なぜ』
わからないわからないわからない。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。
苦痛にもみしだかれ、いっそ死んだ方がいいと肉体が訴える一方で、意識の深層が別の結論を出すのをパウラは聞く。少なくとも、これで自分の命を自分で絶つという選択肢は消えてなくなった。簡単には死ねない。コルビオの質問に答えられるようになるまでは。自分にとって最善の道が見つかるまでは。望まざる死に呑み込まれ、かくも苦しむ肉体の慟哭《どうこく》を聞いてしまったから。
強くならなきゃ。おばあちゃんより、ルツカより、兄さんより。もっと、もっと強く――。
コルビオは黙して答えを待っている。いまはなにも言葉を見つけられず、パウラはただその顔を見返した。ごめんなさい、ともう一度言うと、コルビオは不意に天を仰ぎ、血腰に隠れていた目から下の顔を露にした。
強い髭をたくわえた口と顎は、そこにはなかった。輪切りになった頭の断面がこちらを向き、こぼれ落ちた二つの眼球がパウラを変わらず凝視した。白い火花が閃き、意識を保つ最後の糸が切れる直前、物理的な衝撃波が一拍遅れて〈UF4〉に到達し、〈ナーバル〉を激震させた。
腹に響く重低音に鉄の軋み音が相乗し、鈍い痛みが肩のあたりに走った。パウラは目を開け、床に落ちたアルミの皿と、医務室の扉を横になった視界に捉えた。
使い古されたアルミの皿が、夢と現実の境目を明瞭にした。溶けたシャーベットが残っていたはずの皿は、完全に乾ききっている。どれくらい眠っていたのだろう? ベッドから落ちた拍子に打ったらしい肩をさすり、上半身を起こした途端、再び叩きつけるような轟音が足もとに発した。衝撃に揺さぶられた船体が大きく傾斜し、パウラはベッドの足をつかんで体を固定した。
水中衝撃波――それも爆雷の起爆ではない。一ヵ所を鋭く突き上げる衝撃の発し方は、魚雷特有のものだ。経験から判断したパウラは、扉の外を駆け抜ける複数の靴音を聞きながら両足に力を入れた。まだ膝に力が入らず、包帯を巻いた腕を床についてしまったところで、扉が勢いよく開かれた。
「無事か!?」と勢い込んだ征人は、顔もランニングシャツも油で真っ黒に汚れていた。「ええ……」と自然に出てきた日本語で応え、立ち上がろうとしたパウラは、「そのままじっとしてた方がいい。ベッドの上は危険だ」と言った征人の声の硬さに、思わず体を硬直させた。
「なんなの?」
「敵潜だ。待ち伏せしてた奴と、前から追っかけてきた奴。挟み撃ちにされたらしい」
戸口をつかんで足を踏んばった征人の背後を、「急げよ!」と怒鳴りながら水兵が通り過ぎる。「はい!」と応じた征人は、「また来る。勝手にここを出るなよ」と言い置いて、パウラの返事を待たずに扉を閉めて行ってしまった。
診察机から落ちた鉛筆が床を転がり、閉まった扉に当たって止まる。傾斜はまだ収まっていないようだ。〈ナーバル〉に乗っていない時に戦闘に巻き込まれることが、これほど心細い感覚を味わわせる。新しい発見を噛み締めつつ、パウラは金網に覆われた蛍光灯を見上げ、その向こうにいるはずの馴染《なじ》みの敵を睨み据えた。
〈しつこいアメリカ人〉――。
[#改段]
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[#ここで字下げ終わり]
「目標、減速。速力二ノット」
ヘッドフォンに全神経を集中している水測長の声音に、隠しきれない喜色が滲む。図体に似合わぬ敏捷《びんしょう》さでさんざん逃げ回ってきた獲物も、ここらでようやく息切れということらしい。こちらはいっさいの感情を押し隠した無表情で、スコット・キャンベルは「方位は?」と確かめた。
「方位〇二九。距離三千百フィート」
「〈スヌーク〉は?」
「目標の軸線上、距離五千八百。深度九十フィート」
距離を詰めたか。相変わらずの〈スヌーク〉の勘の良さに、キャンベルは我知らず口もとを緩めた。〈スヌーク〉の艦長とは面識がなく、ろくに作戦を打ち合わせる間もなかったが、〈スヌーク〉はこの半日ですっかり連携行動のコツをつかんだ観がある。いまも目標――〈シーゴースト〉が停止する気配を見せるや、すかさず包囲の輪を縮める機転を働かせてみせた。なまじの操艦センスでできることではない。
中心に〈シーゴースト〉を挟み、互いの速度を同調させて周回潜航を続ける。海上ではさして難しくない包囲網の形成も、三次元運動が可能な水中ではかなりの操艦技量が要求される。通信を取り合う術はなく、ソナーだけを頼りに僚艦の位置を探り、敵の動向を探らなければならないのだ。その点、〈スヌーク〉は実によくやってくれている。少なくとも、前回のパートナーであった〈ボーンフィッシュ〉よりは当てにできると思い、キャンベルは緩んだ口もとを引き締めた。魚雷をほとんど使い果たし、潜航するのが精一杯だった〈ボーンフィッシュ〉と違って、〈スヌーク〉は補給も修理も万全の状態にある。艦長もそこそこ優秀とくれば、猟犬役ぐらいは務めさせられるというものだ――。
「例の、自動懸吊装置を使って静止するつもりですな」
こちらも距離を詰める指示を出そうとしたところで、傍らに立つエドワード・ファレル副長が不意に口を開いた。言わずもがなの言葉に、キャンベルは露骨に顔をしかめた。
「『魔法の杖』を使う予兆かもしれません。迂闊《うかつ》に距離を詰めるのは危険なのでは?」
かまわずに重ねたファレルの顔は、澱み、汚れきった司令塔の空気も手伝って、いつも以上にうっとうしくキャンベルの目に映った。自動懸吊装置とはその名の通り、自動制御による注排水で艦を水平に保つ機構で、これを使えば水中であっても機関を停止し、無音状態で一定深度に留まることができる。開発に成功したのは唯一日本海軍だけだが、敗戦直前まで日本との技術交流を続けていたドイツのこと、〈シーゴースト〉に同種の装備が施されていてもおかしくはない。実際、〈シーゴースト〉は機関を止めて海中に静止し、思いもよらない死角をついて反撃に転じるという戦術で、これまで幾度も危地を脱している。
が、今度ばかりはそうはいかない。キャンベルにはそれがわかっていた。だからこそ傷の癒《い》えない船体に鞭打ち、疲労しきった乗員を引きずってでも追撃を続行したのだ。キャンベルは額の絆創膏をひと思いに引き剥がし、前回の戦闘で味わった屈辱も一緒に引き剥がした。
この四月に制圧されたばかりの沖縄・嘉手納《かでな》飛行場を飛び立ち、大東諸島沖で哨戒任務についていた対潜哨戒機、PB4Y−2プライバティアからの報告が僥倖《ぎょうこう》の始まりだった。陸軍爆撃機B−24から爆撃機能を取り外し、代わりに各種電子機器を装備したプライバティアは、敵潜水艦の哨戒任務を専門に行う航空機で、搭載した|磁気探知システム《MAD》は潜航中の潜水艦であっても逃さず探知する。二日前の夕刻、そのプライバティアは大型潜水艦の影をMADで探知し、敵潜発見の一報を所属航空団に送るとともに、一路西進するその艦の追跡監視を行った。爆雷投下がためらわれたのは、探知された艦影の識別ができず、日本海軍の潜水艦である確証がつかめなかったからだ。プライバティアは謎の潜水艦にぴたりと張りつき、最後の残照が水平線に呑み込まれる直前、巡洋艦クラスの大砲を搭載した奇妙な潜水艦≠ェ、海上に浮かび上がるさまを目撃した。
対空電探でプライバティアの接近を探知したのか、潜水艦はすぐに潜航して再び海面下に姿を消した。爆雷が投下されたものの、燃料の切れかけていたプライバティアには、撃沈を確かめる術も余裕もなかった。プライバティアはやむなく帰投したが、その報告はほどなく海軍情報部の耳に届き、〈シーゴースト〉の奇策で手ひどい打撃を受けて以来、修理作業に追われていた〈トリガー〉の知るところとなった。『魔法の杖』を回収したにもかかわらず、〈シーゴースト〉はなぜ日本に戻らず南南西に向かっていたのか。宿敵の不可解な行動にファレルたちは首を捻《ひね》ったが、キャンベルにはどうでもいい話だった。
キャンベルにとつて重要なのは、〈シーゴースト〉がまだ太平洋に――自分の手の届く場所にいるという事実であり、硫黄島《いおうじま》近海を横切り、会合地点に向かいつつある〈スヌーク〉なら、〈シーゴースト〉の鼻先を押さえられるという事実だった。キャンベルはさっそくONIに無電を打ち、〈スヌーク〉に〈シーゴースト〉を追わせるよう上申した。無論、自らも修理を切り上げ、ファレルの反対を押し切って南南西に針路を取った。
最初に〈シーゴースト〉を捕捉したプライバティアに代わり、他の機が捜索を引き継いでいたことが幸いした。追跡開始から一日半、現地時間十六時。上空を飛び回るプライバティアと連絡を取りあい、捜索範囲を絞りこんだ〈スヌーク〉は、硫黄島沖約四十マイルの海域にて〈シーゴースト〉のキャビテーション・ノイズを捉えた。空と海から追い立てられ、海中を這い進むしかなかった〈シーゴースト〉は、補気も充電も限界に達していたのだろう。潜望鏡で敵機の不在を確認すると、〈シーゴースト〉は夜を待たずに海上に姿を現した。〈スヌーク〉はこのチャンスを見逃さず、即座に雷撃を加えた。〈シーゴースト〉は息継ぎもままならずに再潜航し、逃走を目論んだが、〈スヌーク〉はこれを執拗に追跡。プライバティアと連携し、〈トリガー〉の針路上に〈シーゴースト〉を追い込むことに成功した。
そこから先は狐狩りの要領だった。アクティブ・ソナーを打ち鳴らして〈シーゴースト〉を取り囲み、逃げ疲れるのを待つ。浮上する気配を見せれば、雷撃可能深度に陣取る〈スヌーク〉が魚雷を放ち、海中に引きずり下ろす。〈スヌーク〉が搭載するMk28魚雷は、ドイツ海軍のT−5型魚雷をもとに開発された最新式聴音魚雷で、発射後は音源を探知して自動的に針路を調整、敵艦に食らいついてゆく。まだ実戦配備されて日が浅く、機動性が悪い上に誤認探知も多いという代物ではあるが、〈シーゴースト〉の足を止める役には立ってくれた。六十フィート(約十九メートル)の水深から振り下ろされる魚雷に頭を押さえられ、周回しつつ探信音波を浴びせかける〈トリガー〉に進路も阻まれて、〈シーゴースト〉は文字通り袋の鼠《ねずみ》になった。
機関を停止して海底に沈座、岩礁《がんしょう》などの遮蔽物《しゃへいぶつ》に隠れて反撃の機会を窺ういつもの手は、この海域では使えない。海底深度は千フィート(約三百メートル)以上。当然、遮蔽物に利用できる岩礁や断層は存在しない。空気とバッテリー、それに魚雷の残量を考えれば、いつまでも包囲網を維持するというわけにはいかないが、苦しいのは〈シーゴースト〉も同じ――いや、向こうの方が圧倒的に分が悪いと言える。案の定、〈シーゴースト〉は次第に動きが鈍くなっていった。先刻、Mk28の爆発を至近距離で浴びてからは、ほとんど惰性で動くのが精一杯のありさまになり、機関の音も途絶えた。自動懸吊装置を使っての無音潜航……と言えば聞こえはいいが、ようはバッテリーが続かなくなったのだろう。
〈シーゴースト〉の現在深度は二百フィート(約六十メートル)。無音潜航に入った以上、聴音魚雷はもはや役に立たない。従来のやり方――アクティブ・ソナーで位置を概算し、磁気爆発尖を装填した魚雷を夾叉《きょうさ》で撃ち込む――で致命傷を与える手はあるが、いまはその時ではないとキャンベルは判断していた。現地時間午前二時、〈シーゴースト〉を捕捉してから十時間あまり。腕時計に確かめた途端、「目標、完全に静止」と水測長の声が飛んで、キャンベルは小さく息を吐いた。
ファレルの言い分にも一理はある。『魔法の杖』を取り戻したいま、〈シーゴースト〉が予想外の反撃に出る可能性も皆無とは言えない。だがそれは、〈シーゴースト〉にとって限りなく危険な賭けになる。電気室で起こった火災の煙が通風管を伝って入り込んだのか、まだ焦げ臭さが抜けない空気を咳払いで紛らわしたキャンベルは、「エディ、君は『魔法の杖』をどう認識している?」と、仏頂面のファレルに話を振った。
「ナチが開発した新兵器。超高感度ソナーというのが情報部の見解ですが……」肉厚の頬をかき、ファレルは探る目をちらと寄越しつつ答えた。「情報の連中の言うことなど当たったためしがないものです。自分には、もっと魔的ななにかが『魔法の杖』と〈シーゴースト〉にはあるように思えます」
決して本音を漏らさない用心深さが身上の男にしては、珍しく直截《ちょくせつ》的な物言いだった。ひやりとしたものを感じながら、キャンベルは「同感だ」と応じた。
「我々の常識の通用しないなにかが、あの艦にはある。そうでなければ、幽霊に幽霊を追いかけさせる不条理を合衆国海軍が企てる道理もないからな」
例によって愛想笑いひとつ返さないファレルから視線を外し、キャンベルは続けた。「だが明白な事実もある。『魔法の杖』には致命的な弱点が存在するということだ。我々はその弱点を押さえつけている。たとえ『魔法の杖』を使ったとしても、奴はこの包囲網を突破できない」
この二ヵ月半の戦闘記録を分析すれば、誰にでもわかる。二週間前、あの岩礁海域で同様の包囲網に捕らえた時もそうだった。〈シーゴースト〉は死に体の〈ボーンフィッシュ〉を葬ったものの、後は戦闘を放棄して逃げの一手に転じた。まるで、魔力を使い果たしたかのように。
岩礁さえ邪魔にならなかったら、あの時に仕留められていたかもしれない。「〈スヌーク〉を第二の〈ボーンフィッシュ〉にするつもりで?」と皮肉を言ったファレルに、「同じ轍《てつ》は踏まんよ」と返し、キャンベルは赤色灯に馴れた目を海図台に落とした。
「ここには奴が隠れられる岩礁はない。〈スヌーク〉のコンディションも万全だ。勝機は我々にある」
「ならいいのですが」
ファレルは目を合わせずに応じる。その横顔が、今度はこちらのコンディションが最悪だと言っていた。否定はできない。とりあえず浸水は食い止めたが、ポンプの故障で排水ができず、艦底には依然許容量を超えた汚水《ビルジ》が溜まっている。補気も不十分。こめかみの痛み具合からして、おそらくあと三、四時間で二酸化炭素濃度が危険域に達するだろう。
なにより悩ましいのは怪我人の存在で、現在、〈トリガー〉は重傷者を含む八人の負傷兵を抱えていた。そのうちのひとりは電気室の火災で全身に火傷を負い、極めて危険な状態だ。戦闘が始まる前、キャンベルは医務室に赴き、顔まで包帯に巻かれたその機関科水兵を見舞った。
ひどいありさまだった。炎は彼の皮膚のほとんどを壊死《えし》させ、炭化した皮膚がベッドの周囲にぱらぱら剥がれ落ちていた。包帯は滲み出る体液で薄黄色に染まっており、間断ない呻き声がその下からわき上がってくる。もう抗生物質もモルヒネもストックがないと言う軍医長を背に、キャンベルはしきりに水を欲しがる彼に水差しの水を与えた。飲んだ端から体液になって流れ出てしまう水でも、彼はうまそうに飲み干し、『ジョアン……』というかすれ声をキャンベルの耳に残した。
妻か、恋人の名前だろう。その瞬間、黒々とした感情が腹の底でうねり、哀れな機関兵への同情が霧散した。
ここでは満足な治療はできない。硫黄島方面に向かっているのなら、いったん寄港して怪我人だけでも降ろせないものか。そう訴える軍医長の声も上の空で、キャンベルは包帯の隙間から覗く機関兵の青い瞳を凝視した。すぐに目を逸らしたキャンベルは、できる限りのことはしてやってほしいと軍医長に言い残し、逃げるように医務室を後にした。
米軍が攻略してから半年近くが経つ硫黄島は、洞窟内に潜伏した日本兵の散発的な抵抗はあっても、日本本土空襲の中継点となる一大飛行基地として機能している。攻略作戦用に大量の医薬品が運び込まれたと聞くから、艦内よりはるかにましな手当が施せることは間違いない。艦の補修もそこでできるし、上申すればONIも硫黄島への寄港を認めるだろう。しかしそのためには、〈シーゴースト〉の追撃はあきらめなくてはならない。奴が〈スヌーク〉を振り切り、悠々と太平洋に乗り出してゆくのを黙って見過ごさなければならない。それでは本末転倒ではないか?
〈トリガー〉にはまだ戦う力がある。そして任務の達成まであと一歩の場所にいる。ここで退くわけにはいかない。あの機関兵もそれはわかってくれよう。我々は個人である以前に軍人であり、軍人は己を犠牲にしてでも勝利を目指す。たとえ自分にも帰りを待つ誰かの存在があったとしても、その確信に揺らぎはない――絶対に。
「あと数時間もすれば、水雷戦隊が到着してこの海域に爆雷の雨を降らせる。ナチの群狼戦術《ウルフパック》を打ち破った実績のある対潜水艦部隊だ。我々はそれまでここに奴を釘付けにしておけばいい」
ひどく澄んでいた青い瞳を意識から追い出し、キャンベルは言った。
「降伏することを知らない蛮族《ばんぞく》……ジャップの手に渡った時点で、『魔法の杖』の確保は事実上不可能になったからな。ONIもなりふりかまってはいられなくなったのだろう」
「だから、通常部隊を動かしてでも〈シーゴースト〉は沈めると?」
「そうだ。奴が沈めば任務は終わる。戦没認定も解かれて、我々は晴れて生きた人間に戻れる。ここが辛抱のしどころだよ」
なんの実感もわかない言葉だった。任務の完了、帰国。そのあとは? 「そう願いたいものです」と、これも実感のこもっていない返事を寄越したファレルに背を向け、キャンベルは自分をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨鎖《びょうさ》――〈シーゴースト〉を司令塔の耐圧殻の向こうに幻視した。
このまま座して死を待つ貴様ではないだろう。水雷戦隊が引導を渡す前に、死に物狂いでかかってくるがいい。幽霊を仕留められるのは、幽霊だけ。帰りを待つ者も、気にかけてくれる者も持たない。名実ともに幽霊になった自分こそが、貴様を沈めるに相応しい。
「目標との距離を詰める。取り舵二度」
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自動懸吊装置が損壊を免れたのは、不幸中の幸いだった。バネ仕掛けの深度|鈑《はん》が水圧の変化を感知し、電気信号に変換して自動注排水弁に伝えると、艦尾側に傾いていた〈伊507〉の船体がじりじり水平に戻ってゆく。絹見は小さく息を吐き、略帽をぬいで素早く額の汗を拭った。
風邪でも引いたように喉の奥が痛む。蓄電池から漏れた硫酸蒸気が通風管を伝い、発令所にまで充満しているせいだ。まだ危険域ではないが、このまま濃度が増すようなら全員に空気清浄器を携帯させる必要がある。もっとも、その前に酸欠になる可能性の方が高いが――。そこまで思考を組み立てた途端、ぽたぽたと冷たい滴《しずく》が首筋に降ってきて、絹見はぎょっと天井を見上げた。
また新たな浸水が始まったのかと思ったが、違った。船体の傾斜が収まったために、天井に結露した水滴が落ちてきたのだ。十人からの乗員が手に手に工具を持ち、パイプの亀裂にあてがったぼろ布にコルクを打ち込み、衝撃で緩んだビスを締め直していれば、彼らが放つ熱気だけで発令所は蒸し風呂同然になる。体から絞り取られた水分が天井に結露し、錆び混じりの水滴になって降ってきても驚くには当たらない。実際、壁の気温計は摂氏三十三度を超え、さらに上昇しつつあった。
空調が停止して久しい艦内は、どこも似たようなものだろう。すでに三人が熱中症で倒れたと聞いた。先刻の雷撃で電動機が不調をきたし、二次電源でなんとかもたせている現在、この熱地獄を緩和する方法はない。自分もあとどれくらい正気でいられるか……。
(電池室の換気装置がやられました。室内は硫酸蒸気が噴き出ていて、防毒マスクもあっという間に腐食しちまいます)
伝声管ごしに報告する岩村機関長の声も、いつもの張りを失っている。「なんとかもたせろ。このままでは……」と伝声管に口を近づけた絹見は、発令所に飛び込んできた折笠征人と不意に目を合わせ、危うく先の言葉を呑み込んだ。
手にした工具箱を上等兵曹に渡し、征人は即座に自分の受け持ちの破損箇所に取りつく。他にも二十歳前の兵たちが汗と油にまみれ、浸水を食い止めようと奮闘する姿を横目に、絹見は伝声管を握る手のひらに無意味に力を込めた。
加熱する電池から発生する水素ガスは、一定の濃度に達すると爆発する。電池室の換気が効かなくなれば、充満した水素ガスが遠からず大爆発を起こし、〈伊507〉は内側から破壊される結果になる。岩村も(わかっとります)と含んだ声を出した。
(しかし二酸化炭素濃度も上がっとります。浮上しないことにはどうにも……)
「そうしたいのは山々だが、相手があっての話なんでな」
自棄《やけ》気味に呟いた絹見の声を、定間隔に響き渡る金属音がかき消す。もう十時間以上、片時も鳴りやまずに船体を打っているその音は、二杯の敵潜が放つ探信音波の音。〈伊507〉を取り囲み、どこにも逃げ場はないぞと囁き続ける敵の声だった。一杯は〈伊507〉より十メートル下の深度を、一杯は雷撃可能深度の二十メートル前後を維持して、上下左右、どこに動いても陣形を崩さずぴたりと張りついてくる。こちらが雷撃可能深度まで浮上しようものなら、容赦なく魚雷を撃ち込んで反撃を封じる手際のよさで、この周到かつ偏執的な戦術は、おそらく五島列島沖で戦った敵潜のものと絹見は推測していた。米海軍主力潜水艦ガトー級の一隻、フリッツが言うところの〈しつこいアメリカ人〉だ。
「いまいましい音だ……」
べったり浮き出た汗を拭い、木崎航海長が毒づく。探信音波のピッチは次第に早くなっている。こちらが止まった隙に包囲の輪を縮める腹積もりだろう。できる限り動き回って手を焼かせてやりたいところだが、蓄電池の余力、あちこちガタがきた艦の状態を考えれば、これ以上無理な操艦を強いるわけにはいかない。艦尾に曳航する〈海龍〉の廃棄も考えたが、その程度でどうにかなる問題ではなかった。
「敵さん、よほど頭にきたようですね」送油管を金槌で叩き、破損箇所を探す高須が振り向かずに言う。「向こうだってろくに修理する時間はなかったはずだ。このしつこさ、自滅覚悟ですよ」
「特攻は日本の専売特許だってのに、いくらかもらわにゃ割に合いませんな」
海図長の兵曹長が咳き込みながら調子を合わせる。若い兵たちを落ち着かせようと、彼らなりに気を遣ったのだろうが、効果があったとは言いがたかった。修理に没頭する征人たちの背中はなんの反応も見せず、転輪羅針儀の脇に所在なく立つ小松少尉だけが、青い顔を笑みの形に引きつらせる。泣き笑いともつかない複雑な面相に気圧され、思わず目を逸らした絹見は、「フリッツ少尉をお連れしました!」と響いた大声に表情を引き締めた。
両手と腰を縄で繋がれたフリッツに続き、田口兵曹長が発令所の水密戸をくぐってくる。相変わらずの黒い制服、一同の注視もどこ吹く風といった顔のフリッツを見、直立不動の田口に視線を移した絹見は、まずは「ほどいていい」と短く言った。
傷の目立つ頬をぴくりと動かし、躊躇の気配を見せたのも一瞬、田口は慣れた手つきでフリッツの捕縛をほどきにかかった。その間、フリッツは絹見を直視し続け、絹見もフリッツの細面を見つめ続けた。
呼んだ側も呼ばれた側も、互いの口がどう動くかはあらかた想像がついている。笑わば笑えと思い、表情のない黒い瞳を凝視した絹見は、あっさり視線を外し、修理兵が鈴なりになる発令所を見渡したフリッツの挙動に、虚をつかれる思いを味わった。
自由になった手首をさすりつつ、最後に油と海水の混ざった水たまりに目を落とす。それだけで〈伊507〉の現状を察したのか、フリッツは「面倒らしいな」と静かに口を開いた。
「ご覧の通りだ。敵潜二杯に挟まれてる。ひとつはおそらく〈しつこいアメリカ人〉だ」
絹見に代わって、高須が答える。フリッツは眉ひとつ動かさず、「現在位置は?」と重ぬた。
「硫黄島西南西、百海里。海底深度は三百以上。本艦の安全潜航深度を二百メートルほど超している。隠れられる場所はない」
「それで?」
「敵潜は我々をここに足止めしている。間もなく水雷戦隊が殺到して、本艦を袋叩きにする算段だろう。それまでに包囲網を突破しなけりゃならんが、さっきの雷撃でかなりの痛手を負った。もうでたらめに動き回る余裕はない。敵潜の動きを確実につかみ、反攻をかけて沈める。他に突破口を切り開く方法はない」
「頼みの綱はローレライ、か」
苦笑に口もとを歪めたフリッツの目は、高須ではなく絹見に向けられていた。嘲笑を真正面に受け止めた絹見は、「そうだ」と応じた高須の声と、金属が床を打つ派手な音を同時に聞いた。
折笠征人だった。取り落としたスパナを慌てて拾い上げると、征人は絹見の視線を避けてボルトの締結作業に戻る。なにを気にしているんだ? 好奇心という言葉では説明のつかない背中を見つめた絹見は、「できるか?」と続いた高須の声に促され、意識をフリッツの方に戻した。
木崎も、小松も、すぐ横で腰の拳銃に片手をかけた田口も、等しくフリッツに注目する。絹見を直視するフリッツの顔から苦笑が消え、「……無理だ」というかすれ声がその口をついて出た。
「なぜだ? 〈ナーバル〉の損傷は……」
「そういう問題じゃない。〈しつこいアメリカ人〉は、どちらか一方がやられても即座に反撃できる布陣を敷いているはずだ。いまの〈伊507〉の状態ではどのみち逃げきれない」
「なら二杯とも沈めればいい。ローレライならそれができる」
押しかぶせた高須に反論しようとして、フリッツは果たせずに顔をうつむけた。やはり、そういうことか。当たってもらいたくない推測が当たったらしいと悟り、絹見はひっそり嘆息した。
「少尉。我々を好きになれとは言わん。だがこの艦には君の妹も乗っているんだ。せっかく助け出したものを、こんなところで死なせてしまっていいのか? 彼女だって……」
「もういい、先任」
だとしたら、これ以上の議論は時間の浪費にしかならない。振り返った高須の顔は見ず、絹見はフリッツとの距離を一歩分縮めた。
「同時に二つの敵とは戦えない。……それがローレライの致命的な欠陥だな?」
無表情になったフリッツの顔が、答だった。ざわと揺れた発令所の空気を肌に感じつつ、絹見は「計算が合わんのだ。そうとでも考えなければな」と続けた。
「この艦がローレライの実験艦として就役してから、ドイツが降伏するまで約一年。世界中の海で暴れ回っていたにしては、連合国に目立った被害はない。ローレライの性能が話通りのものなら、この艦だけでももっとマシな戦果が挙げられただろう」
フリッツは口も表情も動かさず、絹見をまっすぐに見据えた。
「ところがそうはならなかった。……少尉、パウラ嬢の能力は物体の感知のみならず、人間の心の中も見通せると言ったな。それとなにか関係があるのではないか?」
目を閉じ、顔を伏せた拍子に無表情の仮面が割れ、苦悶の色が端正な顔に浮かび上がった。「……詳しい理屈はまだなにもわかっていない」と搾り出してから、フリッツはゆっくり顔を上げた。
「ただクワックザルバー……リーバマンは、ゼーレンブレッヒャーと呼んでいた」
「ゼーレンブレッヒャー?」
「精神的衝撃波とでも訳すか。敵艦を撃沈した瞬間に発する非物理的衝撃波……絶叫や呪いの言葉、恐怖、絶望。百人、二百人の乗員たちが炎に焼かれ、ひしゃげた船体に押し潰されて溺れ死ぬ。その瞬間に吐き出される最後の叫びだ。それが水を媒介にしてローレライの中枢に伝わり、パウラの神経を直撃するらしい。五官でしか物を感じられないおれたちには想像できない、すさまじい苦痛だ。パウラは一時的に意識不明に陥り……ローレライ・システムも使い物にならなくなる」
耳障りな探信音波も、修理作業の音も絹見の意識から消えてなくなり、フリッツの声だけが静まり返った発令所を支配した。生唾を飲み下し、「回復するまでにかかる時間は?」と尋ねた絹見の声は、不覚にも少し震えて響いた。
「短くて半日。長ければ二日……三日かかったこともある」
敵艦船を沈めるたびに二、三日の休養を必要とする兵器。絹見は目を閉じ、「しかし、なにか解決策はあるはずだ」と割って入った高須の声を、暗闇の中で聞いた。
「敵艦の撃沈と同時に電源を遮断するとか、彼女を水から引き上げるとか……」
「そんなことはとっくの昔に試した。〈ナーバル〉の座席には、レバーひとつで水面から浮上する装置が備わっている。心理学者が束になって、ありとあらゆる診療を試みもした。だがだめなんだ。感知に没入している間、パウラは一種の催眠状態に入る。肉体の能力は極端に衰えるから、自力で水から出ることはできないし、強制的にシステムを切れば後でどんな障害を引き起こすかわからない。水を媒介にするというのは、精神と神経が肉体を離れて水に通うということだ。水が彼女の体の一部になるんだ」
ひと息にまくし立てるフリッツの声に、なにかが絹見の勘に引っかかったが、突き詰めて考える頭は働かなかった。「より遠く、より正確に物体を感知しようとすれば、それだけ水との一体感も深まる。電源を切ったり入れたり、機械みたいに都合よくできるものじゃない。……第一、光や音より速く到達するらしいゼーレンブレッヒャーを、どうやって避けろと言うんだ?」
誰も答えられず、そもそも質問の意味さえ満足に理解できずに、厚い沈黙の幕が発令所に降りた。規則的な探信音波の音が静寂の間を埋め、(応急修理斑は三甲板、機械室へ急げ)(送水管のバルブ閉鎖、なにを手間どっているのか!)と、艦内各所から届く伝声管の声がそこに重なる。「……これでわかったろう」と呟き、フリッツはただ呆けるしかない一同から顔を背けた。
「四年近く研究して、わかったことはほんの一部。それを部分的に利用してるってだけで、パウラの能力の大半はまだ謎のままだ。しょせんは人智を超えた力……制御しようというのがおこがましい話なのかもしれん。ローレライは未完成の不良品で、あんたたちはそれを知らずに買いつけたってわけだ」
フリッツの顔に刻まれた苦笑が、絹見に向けられたものか、自分自身に向けられたものなのかは判断がつかなかった。結局、すべては道化芝居。ローレライを第三帝国の礎《いしずえ》にしようと目論んだナチスドイツも、その力が逼迫《ひっぱく》する戦況の救世主になると信じた帝国海軍も、一部隊を動かしてまでそれを追い回している米軍も。聞いてしまえばバカらしいとさえ思える欠陥をひた隠しにし、戦争を渡り歩く傭兵稼業に自由を見出そうとしたフリッツも――。「〈しつこいアメリカ人〉にも教えてやるといい。呆れて帰ってくれるかもしれないぞ」と言ったフリッツの皮肉に応じる気力もなく、絹見は潜望鏡に手をついて虚脱した体を支えた。
一同の目が、容赦なく艦長に集中する。通常ソナーを使い、万一の可能性に賭けて包囲網を強行突破するか? とにかくなんらかの指示を出さねばという焦りに駆られ、絹見は本来の潜水艦《ドンガメ》乗りの頭で考えてみた。あるいは可能かもしれない。しかし問題は散水雷戦隊の存在だ。包囲されてからすでに半日、呉を襲った機動艦隊が付近にいることを考えれば、爆雷を満載した駆逐艦はすぐそこまで迫っていると見た方がいい。敵潜二杯の追尾を振り切り、対潜哨戒機と水雷戦隊がうようよする海を、気息奄々《きそくえんえん》の〈伊507〉で突破する? 到底、できる相談ではない。
「万事休すか……」
高須がぽつりと漏らした。将校の不安と絶望は、悪性の流行病になって艦内中に感染する。高須もしまったという表情を浮かべたが、その時には遅く、発令所の空気はたちまち絶望一色に塗り込められていった。
補修作業の手が止まり、兵たちは隣の者と不安げな顔を見交わす。いつもなら即座に注意するはずの小松は、鉛《なまり》を呑み込んだ顔でただ立ち尽くしている。フリッツは黙してうつむき、高須と田口はなんとかせねばと周囲を見回すものの、互いに言うべき言葉を見つけられない。それは絹見も同じだった。ここはひとつ、皇国万歳、大和魂不滅なりの常套句《じょうとうく》で急場をしのぐか? 咄嗟に考え、それではいよいよジリ貧だと思い直した途端、「まだ方法はあります」と場違いにか細い声が発令所に響いた。
全員の視線が艦尾側の隔壁に殺到し、水密戸をくぐってきた小柄な肢体を射た。隔壁に手をついてふらつく体を支えながらも、少女は臆することなく男たちの視線を受け止めた。
「パウラ……」
呆然と呻き、隔壁の方に体を向けた征人は、他のなにも目に入っていない横顔だった。パウラはちらと目を動かしただけで、すぐに彼女の唯一の肉親に眼差しを据えた。
「申しわけありません。パウラ嬢がどうしてもお話ししたいことがあると言うので……」
続いて水密戸をくぐった時岡軍医長が、居心地悪そうに言う。パウラは隔壁から手を離し、支えようとした時岡の手を断って、立ち尽くすばかりのフリッツに近づいていった。だぶだぶの夏用制服を着ていても、姿勢のよい歩き姿は掃きだめに鶴という言葉を思い出させたが、絹見の注意を引いたのは彼女の手に握られたアルミの皿の方だった。
艦内配食に使うなんの変哲もない皿。包帯に覆われた左手でしっかりそれをつかんだパウラは、思わず道を開けた海図長たちの脇をすり抜け、フリッツの一メートル手前で立ち止まった。
「兄さん。まだ話していないことがあるでしょう?」
明瞭な日本語が、この場にいる全員になにかを告げようとするパウラの意志を伝えていた。フリッツの顔から血の気が引き、高須が「なんだ、話してないことって」と身を乗り出す。パウラは、フリッツを見上げる目を動かさずに答えた。
「リーバマン新薬のことです。あれを使えば……」
「言うなっ!」
怒声というより、悲鳴に近いフリッツの声音が爆発し、発令所の空気がびりびりと震えた。全員が気圧される中、パウラは微塵も揺るがずに兄を見据え、フリッツは両の拳を強く握りしめて妹を見据え続ける。先刻、フリッツの言葉が頭に引っかかったのは、彼が最後の秘密を隠し持った上で話していたからか。冷静に納得しながらも、パウラの鳶色の瞳に強い意志の力が宿り、フリッツが先に視線を外すのを見た絹見は、その一瞬、時も場合も忘れて単純に感嘆した。
こうも美人であったか。絶望で濁った空気をはねのけ、凛《りん》と立ち尽くす少女の姿に、絹見は不謹慎を承知で内心に呟いていた。
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耐えきれずに目を逸らし、顔を伏せても、パウラはフリッツ少尉を見つめる眼差しを動かそうとはしない。油まみれの手にスパナを握りしめ、征人も動かずに二人の顔色を窺った。
油で煙管服《えんかんふく》を真っ黒に汚した機関兵曹も、舵輪の前に座る二人の操舵員たちも、絹見艦長さえもが凍りついたように動かず、異国の兄妹をじっと注視する。無音潜航とは種類の違う静寂と緊張が張り詰め、敵潜の探信音波の音だけが、あらゆる意味で静止した〈伊507〉の船体をノックし続けた。
「リーバマン新薬……?」
沈黙の時間を破り、高須が最初に口を開いた。パウラはフリッツを見るのをやめて、高須の方に顔を向けた。
「ローレライ・システムの構造的欠陥を補うために作られたタブレット……このくらいの大きさの飲み薬です」
ひとさし指を折り曲げ、パウラは丸薬ほどの小さな丸を作ってみせた。「それを飲めば、ローレライを連続稼働させることも不可能ではないと……そう聞いています」
「噂だ。そんな薬は存在しない」
フリッツが言下に否定する。「どういう薬なんだ?」とかまわずに重ねられた質問は、絹見の口から出た。
「よくは知りません。多分、脳の一部を部分的に麻痺させるんだと思います」
「脳の一部を……?」
「敵艦を撃沈した時、殺された人たちの思いを感知して苦しむのは、私が人間だからです。だったら私を人間でなくしてしまえばいい。痛みや苦しみを感じる心を取り去って、システムの稼働に必要な部分だけ残しておけばいい。そういう考えに基づいて作られた薬です。感情の動きを司る部分を麻痺させて、純粋に情報を処理する装置として脳を活かす。日本の言葉ではなんと言うのかわかりませんが、脳の中のアミダラとか、コルテックスとかいう部分に直接作用するとかで……」
「Ho:r auf! Ich sage doch, so eine Medizin gibt es nicht.」
硬い耳触りの言葉がフリッツからほとばしり、征人は体が揺れるのを自覚した。「Lugen.あるはずよ」と静かに応じ、パウラは一歩も退かない目をフリッツに向け直す。
「最後の出航の時、クワックザルバーから直《じか》に受け取ったでしょう?」
「……知らん。確かにそういう研究は行われていたが、完成はしなかった」
「兄さん……!」
「おまえが口を出すことじゃない! 医務室に戻ってろ」
「私のことよ! 兄さんも、この艦《ふね》の人たちも、みんな私のことでこうなった。違う?」
否定も同情も寄せつけない声が響き渡り、ずしりと重い痛みを征人の胸に残した。言い返そうとして果たせず、パウラに背を向けたフリッツは、転輪羅針儀の隣に鎮座する機械装置に目を落とした。半球状の透明ガラスの上に貼られたロヲレライ カンシバン≠フ名札を引き剥がし、ぐしゃと握り潰した背中は、制御しきれなくなった自分の感情に怯えているように見えた。
パウラは黙って見つめている。ガラスに映る自分の顔を凝視したまま、フリッツは「……おまえにはわかってないんだ」と低く搾り出した。
「生体実験の記録を読んだ。あの薬は、麻痺させるなんてなまやさしいものじゃない。破壊するんだ。いちど使えば、もう後戻りはできない。おまえは感情も記憶もなくして……このコロセウムと同じ、ローレライの部品のひとつになってしまう」
コロセウムと呼ばれた機械装置に拳を当て、取り繕う術をなくしたフリッツの肩が小刻みに震えた。「考えることも、話すことも……歌うこともできなくなる。ただの機械、ローレライの中枢を占める高級な機械装置だ。人ではなくなってしまうということなんだぞ、それは……」
歌うことも……と言った声が、宙を漂っていた言葉の羅列を息苦しい実感に変え、征人はぎょっとした顔をパウラの方に向けた。ちらと目を合わせたパウラは、左手に持つアルミの皿を見下ろした後、すぐにフリッツの背中に視線を戻した。息苦しさが勢いを増し、ぎゅっとスパナを握りしめた征人の耳に、「わかってるわ」と言ったパウラの声がやわらかく響いた。
「恐怖を克服するには、恐怖になるしかない……。私も同じ。自分の役目を果たすために、兵器になる」
アイスクリームが載っていたアルミの皿を両手で握りしめ、パウラは長いまつ毛に縁取られた目を伏せた。微かに首を動かし、「パウラ……」と呟いたフリッツの声は、かすれて聞こえた。
「この場を逃れられたって、いつかはそうなる。戦争から戦争を渡り歩いて、兵器としての価値を示し続けて……。私たちには、そういう生き方しか許されていないんだから。そうでしょう?」
静まり返った発令所にパウラの声だけが響き、深度計が教える水深よりもっと深く、世界の底にまで〈伊507〉を沈めてゆく。なぜ誰もなにも言わないんだ? なぜ否定しないんだ? 征人は額に巻いた手拭いをほどき、スパナを煙管服のポケットに差してパウラの方に向き直った。完全に作業を放棄した形だったが、誰も気に留める者はいなかった。
「Fritz.」
呼ばれ慣れたドイツ語の発音に、フリッツの肩がそれとわかるほどに震える。パウラの横顔は微笑しているように見えた。
「どうせ兵器になるしかないのなら、私はいまなりたい。いまなら、なってもいいような気がする」
「……なぜだ」
フリッツが問う。パウラは、両手に持ったアルミの皿を胸に抱き、顔をほんの少しうつむけた。
「故郷の人たちだってしてくれなかったことを、ここの人たちはしてくれたから……」
そう言って、パウラは初めて征人を正面に見た。征人は、今度こそ息ができなくなった。
「それはおまえを兵器として見ているからだ。ここの連中だって、『白い家』の奴らと変わらない。おまえは……」
「兄さん。薬を飲むのは私よ」
フリッツの弁をぴしゃりと遮り、パウラは「……お願い」と小さく重ねた。
「心をなくすのなら、その時期と理由だけは自分で選ばせて」
なんの気負いもなく、パウラはそれだけを言いきった。誰に強制されたのでもなければ、義務感に駆られたわけでもない。ただそうしてもいいという気になれたから、パウラは自分を消してしまう*を飲むと決めたのかもしれない。自分で見つけたなにか、命と引き替えにしてもかまわないと思えるなにかのために。
――合うとるか間違うとるかはわからんけど、誰に言われたんでもなく、自分で見つけたなにかのために闘うて、ほいで死んだんじゃけえ……。
広島で出会った芸者――おケイの言葉が鮮明によみがえり、征人は夢から醒めた思いで周囲の大人たちを見回した。コロセウムから手を離し、ゆっくりパウラに振り返ったフリッツ。両の拳を軽く握り、どこか一点を見つめている絹見。腕を組み、沈痛な面持ちをうつむける高須。腰の拳銃に手を置いたまま、怒ったような顔を正面に据えた田口。目を落ち着きなく泳がせ、誰かなにか言うのを待っている風情の小松。
みんな押し黙り、なにもできずにいる。最後に人間として恥ずかしくないことがしたい。そう願う一個の命に対して、なにひとつ応える言葉を持てずにいる。清永を見殺しにしようとした時と同じように。そうなればそうなったで仕方がない、それが現実、戦争だとあらかじめあきらめているかのように。それぞれに途方に暮れ、その一方で多少の打算は働かせて、ことのなりゆきを見つめている。
この脆さはなんだ? 清永の一件の時にも感じたバカらしさ、脱力感がより鮮明になり、鋭い怒りになって征人の胸を突き上げた。想定外の事態に突き当たれば、自信も確証も持てない大人たち。取り繕ったり、紛らわしたりするのに慣れているだけで、自分と同じくらい無力な大人たち。それが人間だというのなら、そうなのだろう。それが現実で、対処しきれない自分は半人前、世間知らずの小僧だというのなら、そうなのかもしれない。でも、だとしたらこれはいったいなんのための犠牲、なにを得るための代償なのか。
そんなにも無力な人間たちが、パウラを犠牲にして生き長らえる。彼女から永遠に歌声を奪ってしまう。〈ナーバル〉の中で聞いたあのやさしい歌――『椰子の実』の歌。ここではないどこか、はるかな高みに存在する希望≠指し示し、豊かさ≠具現する音色を消し去ってしまう。現実に対処するにはそうするしかない、それが戦争だとわかったようなことを言って?
冗談じゃない。
そう、冗談じゃない。「……ちょっと、待ってよ」という声が渇いた喉から搾り出され、征人は自分でもわからないうちに最初の一歩を踏み出していた。
一斉に突き刺さってくるいくつもの視線をよそに、パウラの前に立ってその顔を正面に見つめる。パウラは透き通った目をしばたかせて征人を見返した。
「薬を飲んだら、ローレライの機械になっちゃうんだろ? 君が君でなくなってしまうんだろ? だめだよ、そんなの。よせよ」
驚きに瞼を震わせたのもつかの間、パウラはすぐに顔をうつむけてしまい、征人は背後に立つフリッツの方に振り返った。「少尉、やめてくださいよ、そんなこと」と詰め寄った征人の声を最後まで開かず、フリッツもこわ張った顔をあらぬ方に背けた。
「そんなことしたら、自分たちの方が人間でなくなってしまいますよ。戦争だからって、なんでも許されるわけじゃないでしょう? それじゃしまいには、この世界から人がひとりもいなくなってしまいますよ……!」
視界の端に映る田口が不自然に目を逸らし、その隣に立つ海図長も無言で顔をうつむける。内奥からわき出る熱に浮かされ、征人はただひとりこちらを正視する絹見に歩み寄った。
「艦長、お願いします。少尉に薬を渡すなと命令してください。パウラを医務室に戻してやってください。こんなやり方、帝海軍人の本分じゃないはずです」
押しもせず、引きもせず、拳ひとつ上のところから征人を見下ろしていた黒い瞳が、一刹那ぴくりと震えた。その途端、「いい加減にせんか!」という怒声が耳もとに弾け、背後からのびてきた腕に思いきり襟首を引っぱられた。たたらを踏み、辛うじて倒れるのを防いだ征人は、漏れた水と油が染みを作った床、群れ集まった乗員たちの足、目尻を吊り上げた小松の瓜実顔《うりざねがお》を、順々に視界に入れた。
「一工作兵の分際で、艦長に意見するとはなにごとか! 艦の運営は艦長がお決めになることだ。貴様がとやかく言う筋合いはない」
「艦の運営……?」
硬くまっとうな言葉の響きと、いま頭をいっぱいにしている問題を繋げて考えることができず、征人は呆気に取られて小松を見返してしまった。小松は意外なほど冷静な顔でこちらを見据えた。
「我々の任務は特殊兵器ローレライの搬送だ。任務遂行のためには犠牲が必要な時もある。それもこれも艦長がご裁断することで、一個人の感情を云々しても始まらん。ここは戦場だぞ」
「パウラは帝海軍人ではありません。それを犠牲にするなんて……」
「ローレライを無事に送り届けよとは大本営海軍部、軍令部の命令。すなわち陛下の御意志だ」
胸をそらして言った小松の声に、発令所の空気が俄かに引き締まり、何人かが反射的に踵を合わせる音が響いた。征人の心臓にも荷重がかかり、息を呑んだ口がそれきり動かなくなった。
「貴様は陛下の御意志に逆らうつもりか?」
小松が無表情に重ねる。征人は言葉をなくして床に目を落とした。息苦しさが這い上がり、内奥の熱が徐々に冷え固まってゆく。馴染めない、しかし抗うだけの力も持てない体が、流れの中で身動きを取れずに感じ続ける息苦しさ。いつだってそうだ。いつもここで目を閉じてしまう。仲田大尉を援護しようと機銃に取りついた時も、清永を助けるために〈海龍〉に同行した時も、体が勝手に動いただけのことであって、心の目はいつも閉じていた。流れに抗おうとせず――いや、抗った先にあるものがなにか、そもそも見えていなかった。見つけようともしなかったのだ。
いまはそれが見える。流れに身を任せた先、抗った先にあるものそれぞれが、生死以上の重さを持って目の前にある。征人は顔を上げ、パウラを見た。自分で見つけたなにか、命と引き替えにしてもかまわないと思えるなにか。征人は腹に力を込め、押し寄せる流れに向けて体を正対させた。
「……陛下だって、この場にいたら反対されるはずです」
強い風が吹き抜け、その場にいる全員の体を揺らしたような気がした。驚きを通り越し、ぽかんと口を開けた小松の顔を、征人はまっすぐに睨み据えた。
「こんな非道に陛下の名前を掲げるのは、それこそ無礼だとはお考えにならないのですか?」
軍法会議にかけられたっていい、手っ取り早く海に放り込んでくれてもかまわない。征人は、みるみる蒼白になった小松と対峙し続けた。薄く開いた唇から聞き取れない罵声《ばせい》が漏れ、機械的に動いた小松の腕が大きく振り上げられる。歯を食いしばり、それでも目は閉じないと決めて、征人は両の足を踏んばれるだけ踏んばった。
素早く動いた別の腕が小松の手首をつかみ、ぐいと捻り上げた。小松の体は勢いに乗ってコマさながら一回転し、手首をつかんだ腕の持ち主に倒れかかったところで、もう一方の腕に軽く押し返されて背後につんのめった。
尻餅をつきそうになった小松を、居並ぶ乗員たちが慌てて受け止める。足を踏んばったまま、征人は小松を突き飛ばした男の顔を正面に見た。すぐに体勢を立て直し、「掌砲長……!」と呻いた小松を無視して、田口も征人を正面に捉えた。
助けられたという実感は微塵もなかった。喉元に突きつけられた刀が、ナマクラ刀から名刀に取って変わった戦慄だけがあった。腰の力が萎え、膝が笑い出すのを必死に堪えつつ、征人は目を逸らさずに田口を見返した。
「……よくよく世話を焼かせる」
数秒の沈黙を経て、不意に目を伏せた田口がしわぶきともつかない呻き声を発した。え? と口を開きかけた征人は、「折笠」とあらためて出された野太い声に、慌てて姿勢を正した。
「貴様の言ってることはガキの戯言《ざれごと》だ。まして上官に口答えなぞ、根性を叩き直すぐらいじゃ済まない重罪だ。覚悟はしてるんだろうな?」
パウラが見てくれている。それだけを頼りに、征人は「はい」と搾り出した。田口の目が一段と鋭さを増し、心の奥底まで見透かす視線が征人の瞳を焼く。これまで……か? 膝の震えを抑えきれず、もう立っていられないと観念しかけた瞬間、田口の視線が征人から外され、への字の口もとが苦笑の形に緩んだ。「しかし、それは帝海の中での話だ」と続けて、田口は目をしばたかせる征人の顔を覗き込んだ。
「〈伊507〉なんてそれらしい名前がついちゃいるが、この艦には正式な艦籍はない。おれたちの任務を知ってるのはほんのひと握りの偉いさんだけで、そいつらにしても、おれたちがどう戦い、どう死んでいったか知る方法はない。帝国海軍の潜水艦であって、そうではない艦。まっとうな歴史はもちろん、戦史にも残りゃしないちっぽけな屑鉄《くずてつ》。それがこの〈伊507〉だ。その中で面つきあわせてるおれたちは、屑鉄にわいた錆《さび》みたいなもんだ。戦争の鼻息ひとつで跡形もなく消え去る、吹けば飛ぶような鼻クソだ」
この人はいま、本当のことを話している。本気で、自分の言葉でなにかを語りかけようとしている。そんな直感が征人の中を駆け抜けた。酸欠の金魚のごとく口をぱくぱくさせる小松を見、寄りそうように立つフリッツとパウラを見た田口は、最後に黙して語らない絹見と視線を合わせた。
「だから……だからなんです。こんな屑みたいなおれたちだからこそ、人間らしく死にたいって若僧の思いを汲《く》んでやっちゃもらえませんか? いまじゃすっかりくたびれちまいましたが、自分も出征してきたばかりの頃は、こんな顔をしていたに違いないんです。不実に生きるより、誠実な死を選びたい。死んで護国の鬼となる。……鬼になるってことが、どういうことか知りもしねえで……」
太い眉の下にある瞳が揺らぎ、田口の頭が深々と下げられた。鬼≠ニいう言葉が胸の底にしこり、戦友の屍肉《しにく》を食って生き延びたという噂を思い出させたが、なぜか恐怖は感じなかった。暗い影に覆われた横顔は、ひどく哀しいという印象を征人に残した。
「自分からも、お願いします」
沈黙を守る絹見の傍らで、木崎航海長も略帽をぬいで腰を折り曲げる。それが始まりだった。「わたしも、お願いします」と時岡が続いたのを皮切りに、一人、二人と発令所にいる者たちが頭を下げ、ついにはほぼ全員が絹見に向かって礼をする格好になった。
意外すぎるなりゆきについてゆけず、征人は棒立ちのまま周囲を見回した。小松は途方に暮れた顔を絹見に向け、高須は一同に加わりこそしないものの、その目はじっと艦長の顔色を窺っている。絹見は眉ひとつ動かさない無表情で、年齢も階級も関係なく、一心に頭を下げる乗員たちと対し続ける。パウラも呆然の面持ちで立ち尽くしていたが、それよりも黒い制服姿をゆらりと動かし、上着のボタンを外し始めたフリッツの方が、征人の注意を引いた。
上着の前の折り返しに指を差し入れ、豆粒ほどの大きさの物を三つ、手のひらの上に取り出す。心臓がどくんと脈打ち、征人は田口を押し退けてでもそちらに近づこうとしたが、ふと顔を上げたフリッツに見つめられ、その場に立ち止まってしまった。
なんの含みもないまっすぐな目が征人を見、もういい、と無言のうちに伝えた。礼をもって礼に尽くす――おまえの国のやり方だろう? ほんの少し穏やかになった顔がそう語り、手のひらに並べたリーバマン新薬をパウラに差し出す。こちらを振り返り、兄の顔を見上げたパウラは、小さく頷いて包帯に巻かれた手を薬にのばした。
だめだ。その思いが絶叫になり、口から吐き出される直前、「待て」と別の声が発令所に響き渡った。
湿った空気を吹き散らし、全員の頭を一斉に上げさせる絹見の声だった。びくりと手を止めたパウラは見ず、フリッツを無機的な瞳で直視した絹見は、ただひと言、「現状でも、一杯は確実に倒せるんだな?」と確かめた。
「は……」と思わず返したフリッツとともに、征人は呆然の目を絹見に向けた。「よし」と、これもなんの昂揚も感じられない声で応じた絹見は、注視を浴びせかける一同にあらためて向き直った。
「合戦準備。ただちにローレライを起動」
ぽかんと艦長の顔を見つめた後、互いの顔を見合わせた乗員たちなど見えていない様子で、絹見は「できるな?」とフリッツに呼びかけた。声をなくしたフリッツに代わり、「はい」とはっきり答えたパウラは、もう薬の方を振り返ろうとはしなかった。
頷き、絹見は突っ立ったままの乗員をどかして海図台の方に歩み寄る。「艦長……」と、さすがに不安げな声をかけた高須に背を向け、海図を指でなぞった絹見は、「やりようはあるさ」と呟いてちらと顔をこちらに向けた。
「屑鉄の意地を見せてやる」
そう言って略帽をしっかりとかぶり直した時、絹見がにやと笑ったのを征人は見逃さなかった。思わず鳥肌が立った瞬間、「総員、戦闘配備に戻れ」の声が発令所をつんざいた。
「ぐずぐずするな! 戦闘配備だ」
田口が追い打ちをかける。反射的に背筋をのばし、どやどやと水密戸をくぐってゆく乗員たちを見送った田口は、海図台に向き合う絹見の背中にもういちど頭を下げた。絹見は気づかない様子だったが、田口はきちきちとした所作で礼を解くと、回れ右をして発令所を飛び出していった。まだなにが起こったのか実感できないまま、とにかく修理作業に戻ろうとした征人は、艦尾側の隔壁に向かう途中のパウラと一瞬、視線を絡ませた。
少し潤んだように見える瞳を見、なにかを踏み越えたらしいという思いが胸の底に固まりかけたが、それも「折笠上工」とかけられた声に霧散した。「は!」と咄嗟に背筋をのばした征人とは対照的に、海図台から顔を上げた絹見は落ち着き払った目だった。
「貴様には特別任務についてもらう」
底堅い艦長の目と声に、緊張だけが征人の胸を埋めた。
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換気の制限、排水ポンプの作動を伴う便所の使用制限。空気とバッテリーを節約するべく課せられた各種制限のために、〈トリガー〉艦内はほとんど悪臭の巣だった。一年も掃除をしていない公衆便所に重油をぶちまけ、風呂嫌いの男ばかりが十人、窓を閉め切って一週間ほど生活すればこんな臭いになる……というところか。
水を流せない便所から漂う悪臭は司令塔にも立ちこめ、航海長らは充血した目をしきりにこすっている。メタンガスのせいだろう。自分も粘《ねば》ついた目頭を揉んでから、キャンベルはグリニッジ標準時に合わせた腕時計を見た。膜がかかったようになかなか目の焦点が合わず、いら立ちながらも、七時ちょうどを指そうとしている針の位置を確かめる。標準時午後七時、現地時間午前四時。包囲開始からすでに十二時間が経過した計算になる。遅い、とキャンベルはもう一度いら立った。
ONIが差し向けると言った水雷戦隊は、レーダーやソナー、電波方向探知器《ハフ・ダフ》を搭載し、海中に潜む敵艦を爆雷攻撃で仕留める潜水艦ハンターたちは、なにをぐずぐずしているのか。よもや道に迷ったということはあるまい。深度二百三十フィート(約七十メートル)に位置するこちらには無理だが、雷撃可能深度に陣取る〈スヌーク〉なら、超長波通信で現在位置を逐次知らせることができる。沖縄に帰投した対潜哨戒機からの報告もあるのだから、現場海域の特定は難しい話ではない。日本本土の空襲に出向いている艦隊を始め、太平洋戦域には少なくない数の駆逐艦が展開中だというのに、いまだに足音ひとつ聞こえないのはどういうわけか。
彼らの足音――キャビテーション・ノイズを探知した〈シーゴースト〉が、死に物狂いで動き出した時が撃沈の好機になる。後からしゃしゃり出てきた駆逐艦どもに、奴の息の根を止める栄誉を譲る気はないが、このまま持久戦を続けて共倒れになるわけにもいかない。まだこちらの体力が残っているうちに、水雷戦隊に到着してもらう必要がある……。
パッシブ・ソナーの管制盤を前にする水測長が不意に左手を上げ、キャンベルは物思いを中断した。聴音手歴十年、ヘッドフォンが体の一部になった観のあるベテラン水測長は、未知の音に突き当たると必ず左手を上げる。司令塔にいる全員の注視をよそに、ヘッドフォンに右手を添え、瞑目《めいもく》した顔をじっとうつむけた水測長は、やがて「目標から低い振動音。電動機の稼働音と思われます」と口と目を同時に開いた。
「モーターとは波長が違います。注排水音らしきものも探知」
「位置は?」
「変わりません。キャビテーション・ノイズもなし」
赤色灯の下では黒く見える水測長の瞳が、考えられる可能性はひとつと訴えていた。その場に固定したまま、機関とは別の電動機を稼働させた〈シーゴースト〉。
「『魔法の杖』か……」と呻いたファレルと目を見交わしてから、キャンベルは見た目同様、臭いも下水管並みになった司令塔を見渡した。
ようやく|決闘の時《ショウダウン》か。「間もなく目標は動き出す」と宣言して、キャンベルはそれぞれの配置に就く乗員たちの顔をひとつひとつ見ていった。
「『魔法の杖』を作動させた〈シーゴースト〉は、我々の死角をついて雷撃可能深度に浮上しようとする。その時がチャンスだ。総員、気を引き締めて次の指示を待て。ソナーはどんな些細な変化も聞き漏らすな」
憔悴《しょうすい》しきった乗員たちの顔に微かな明るみが差し、停滞していた空気が俄かに活気づく。慌ただしく司令塔を後にするファレルの背中を見つめながら、結局、この瞬間こそがすべてなのだとキャンベルは再確認した。自分の手足になって動く艦、それを補佐するためだけに存在する乗員たち、手ごたえのある敵。他のことなどどうでもいいと思い、キャンベルは半日ぶりに口もとを緩めた。
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(……くり返す。本艦はこれより、ローレライ起動のための特別配備を実施する。起動作業が完了するまでの間、本官に代わってフリッツ少尉が艦内の指揮を執《と》る。各員は少尉の指示に従い、各々の作業に従事せよ)
あの黒服が、一時的とはいえ艦の指揮を執る。何度くり返されてもぴんとこない絹見艦長の命令が艦内スピーカーを震わせ、清永の鼓膜も震わせたが、唾と一緒に飛んでくる岩村機関長の怒声はその何倍も大きかった。
「そこをどけっちゅうのがわからんのか、こらっ! わしは機関大尉だぞ。命令に背いてただで済むと思っとるのか!」
怒鳴られ、煙管服の襟首をつかまれ、しまいには萎《しな》びた体の体当たりを受け止めながら、清永は両手を広げて機械室前の通路に立ち続けた。人並以上の体躯を使って即席の隔壁になった清永の正面には、そこをどけと猛烈な剣幕の岩村がおり、背後にはそこを動くなと命じた早川芳栄中尉がいる。怒鳴られようが体当たりされようが、体の方はなんということもなかったが、上官二人に挟まれ、異なる命令の板ばさみになった心の方は別だった。
「どかんと軍法会議にかけるぞっ!」とがなられて我慢も限界になり、清永は「艇長……」と助けを求める顔を背後に振り向けた。
本来は清永とともに〈海龍〉に乗り込み、ローレライ回収作戦の要《かなめ》を務めるはずだった早川艇長は、蓄電池室の扉の前で備え付けの防毒マスクを手にしたところだった。機関長を押さえておけと命じた時と同様、「気にすることないぞ、清永上工」と涼しい顔で言った早川を見て、清永は絶望的な気分になった。
「貴様の直属の上官はおれだ。おれの命令を優先して守る義務がある」
「そりゃ〈海龍〉に乗ってる間の話じゃろうが! 機械室ではわしの命令を聞け」
短躯《たんく》をぴょんぴょんと跳ねさせ、岩村は清永の肩ごしに早川を怒鳴りつける。早川は煙管服の袖口と手袋の隙間にガムテープを巻き、肌の露出を少なくする作業の手を止めずに、「だからですよ」と苦笑混じりに応じた。
「もう〈海龍〉の出番はない。黒服に〈海龍〉を乗っ取られたお陰で、わたしゃこれまでまったく働かずじまいです。ここらで艦のお役に立っておかなきゃ寝覚めが悪い」
角張った顔を蓄電池室の扉に向けた時、早川はもう笑ってはいなかった。扉の向こうでは、過熱した蓄電池から発生する硫酸蒸気と水素ガスが渦を巻き、換気装置の壊れた室内で刻々と濃度を増しつつある。水素ガスは、空気濃度が六パーセントを超えると爆発する性質を持つ。機関科兵でなくとも、特殊潜航艇の機構を知悉《ちしつ》する清永にはその知識があったし、早川もそれは同じだった。爆発を防ぐには、すべての動力を止めて浮上するか、誰かが蓄電池室の中に入って換気装置を直すしかない。「そりゃわしの仕事だ!」と叫んだ岩村が脇の下をすり抜けようと暴れ、清永はやむなく岩村を羽交《はが》い締《じ》めにした。
「ローレライ用の電動機を動かしたせいで、ただでさえ電池が過熱しとるんだ。有毒ガスも濃くなっとる。マスクも服もすぐに腐り落ちてしまうぞ」
「換気装置を直す間、もってくれればいい」
「素人《しろうと》にできるものか!」
「艇長実習で、艦内にある機械の構造はだいたい理解してます。換気装置ぐらい、ものの十分で直してみせますよ」
防毒マスクを顔に当てた早川の声は、毒素を吸着する活性炭入りの吸排気口ごしにくぐもって聞こえた。「それに、機関長には他にやらにゃあならん仕事があるでしょう。ここは自分に任せてください」
手袋に包まれた手に工具箱を持ち、早川は蓄電池室の扉に向き直った。止めなければ。そして自分が行きますと言わなければ。いまさらのようにわき上がってきた思いとは裏腹に、清永は体が硬直するのを感じた。なんとか口を動かし、手足を動かそうとしたが、硬直した体は岩村を押さえ込んだまま、ぴくりとも動いてくれなかった。
特攻であっという間に死ぬのは我慢できるが、硫酸蒸気を浴びてじわじわ死ぬのは耐えられない。そういうことか? その程度の覚悟しかなかったのか、おれは? 悔しさと恐怖、それに敗北感がないまぜになり、その反動のように、自分でも思いもよらない言葉が清永の口をついで出た。
「……ローレライがちゃんと使えりゃよかったんだ」
扉の把手にかけた早川の手が止まり、岩村の体からも力が抜けた。自分でも理解できない怒りに駆られ、清永は「そうでしょう!?」と重ねた。
「よくわかんないけど、パウラって娘《こ》が薬を飲みさえすりゃ、こんな無茶をやんないでいいんでしょう? おれ聞きましたよ。そりゃ、それであの娘がおかしくなっちまうのは可哀相だけど、そのために艇長が犠牲になるなんて変ですよ。我々の任務は……」
「バカッ! 女を犠牲にして自分だけ生き残ろうなんて、貴様それでも男か」
耳をじんと貫いた裂帛《れっぱく》の声より、言葉の中身が清永の頭を痺れさせた。「任務は重要だが、我々は奴隷《どれい》ではなく軍人だ。踏み越えられない一線というものがある」と続けて、早川は決まりが悪そうに清永から視線を逸らした。
「長く戦場にいると、頭に毒が回ってその程度のこともわからなくなる。陸戦隊にいた頃は、おれもさんざん非道を働いてきた。女子供をこの手にかけたこともある。任務のためにな」
うつむいた防毒マスクの眼鏡に光が当たり、早川の目を見えなくした。「それで手に入れた勝利など勝利ではないし、それで生き残った命にはなんの価値もない。本当の勝利っていうのは、多分もっと尊いもんだ。手に入れた本人にしかわからないようななにかだ。戦友を守るために命を張った貴様になら、わかるだろう?」
返す言葉ひとつなく、清永は荒い息を鼻と口から垂れ流した。その間に煙管服の胸ポケットからなにかを取り出した早川は、メンコほどの大きさのそれを素早く清永の胸ポケットに滑り込ませた。
「貴様の操艇、この目で見たかったんだがな」
御守りらしきものが胸ポケットに収められるのを見てから、清永は防毒マスクの眼鏡の奥にある早川の目と目を合わせた。「中は見るなよ。かみさんにどやされるからな」と言い、笑みの形に細めた目の印象を最後に、早川は蓄電池室の扉を開けた。
むっとする熱気と硫黄の臭いを通路に残し、扉は閉められた。同時に体の硬直が解け、力の抜けた腕をすかさず岩村に振り払われて、清永はその場に尻もちをついた。蓄電池室の扉に取りつき、把手をがちゃがちゃと鳴らした岩村は、「なんぞつっかえをしよった……」と呻いて扉に拳を打ちつけたきり、動かなくなった。
さまざまな思いが錯綜し、なにひとつまともに考えられない頭で、清永は胸ポケットから御守りを取り出してみた。おそらくは早川の妻の恥毛が収められている小袋は、まだろくに知らない女の生々しさと、それを断ち切って死地に赴いた早川の覚悟の両方を伝えて、自分の手にはあまるという思いだけを浮かび上がらせた。こういう時こそ肌身につけているべきではないのかとも思ったが、妻の一部を毒で汚したくなかったのだろうと想像すると、これも未知の、夫婦という人の関係の重さが胸を締めつけた。
本当の勝利。生き残る価値のある命。学校でも、海兵団でも習わなかった言葉を反芻し、自分には難しすぎる、この御守りと同じくらい手にあまる……と途方に暮れた清永は、憤怒《ふんぬ》の形相をこちらに向けた岩村に気づいて、機械的に立ち上がった。
鉄拳制裁《アゴ》が来る。咄嗟に覚悟して、気をつけの姿勢を取った清永に、岩村が寄越したのは「なにをぼさっと突っ立っとる!」という怒声だった。
「さっさと修理に戻れ。こっちも負けちゃおれんぞ」
額に巻いた手拭いを外し、顔を湿らせる雫をすべて拭い取ってから、岩村は感情を縛りつけるようにぎゅっと鉢巻きを締め直した。痩身から立ち昇る気合いにもつれた思考を吹き散らされ、清永は御守りを握りしめたまま走り出した。汚水《ビルジ》と重油の臭いが混ざりあう機械室に飛び込み、(機械室、こちらはフリッツ少尉。バッテリー室の修理状況はどうか?)と艦内スピーカーが騒ぐ声を背中に、ヒューズの交換作業を続ける機関兵曹の補助についた。
「貴様に心配されんでも、もたせてみせるわ。さっさと次の指示を寄越せ!」
怒鳴り返す岩村の声を聞きながら、清永は御守りを汚さないよう胸のポケットにしまった。
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(よし。これより〈ナーバル〉への注水を開始する。艦尾タンクの水を抜くことで重さの均衡は保てるが、〈ナーバル〉の重量が増した分、艦はどうしても横揺れしやすくなる。艦の運動性を維持するために、機関出力は二割増しで対応してもらいたい)
(なんとかする。そっちこそヘマしたらただじゃおかんぞ)
機関長らしからぬ、ひどく感情的な物言いが気になり、征人は艦内一斉放送を受信する通信装置に目をやった。直後にポンプの作動する音が艇内に響き渡り、内殻壁面に設置された注水管が一斉に海水を吐き出し始めて、慌てて顔を正面に戻さなければならなくなった。
左舷側の内壁に四ヵ所、床に近い位置に並ぶ逆止弁からどうどうと海水が噴き出し、さび止め塗粧《とそう》された床を濡らしてゆく。そのように設計されたものだとわかっていても、狭苦しい艇内に水が入ってくるのを見るのは楽しいことではなかった。たちまち押し寄せた水が後部座席の土台に当たって跳ね、どきりとするほど冷たい海水が頬にかかる。思わず潜水靴を履いた足を上げそうになった征人とは対照的に、前部座席に座るパウラは見事な落ち着きぶりで、右舷側の壁面に据えつけられた配電盤に手を走らせ、各種装置の通電を確かめるのに余念がなかった。
舵輪と無数のバルブ、それにローレライ関係機器が混在する〈ナーバル〉の操艇席に収まったパウラは、ヘルツォーク・クローネと呼ばれる脳波受信機を頭にかぶり、肩から胸を覆う温熱装置が鎧《よろい》に見えるゴム服で身を包んでいる。さしずめ中世の女剣士といった勇ましさだが、包帯を外した傷だらけの手と、クローネの下に覗く白い横顔は、やはり痛々しいとしか征人には感じられなかった。
体型にぴったりあったパウラのゴム服の背中から目を逸らし、ごつさと不細工さばかりが際立つ自分の潜水服を見下ろす。すでに膝の高さにまで達した水位を確かめた征人は、「怖くない?」と遠慮がちに声をかけてみた。
「別に。あなたは?」
手を休めず、振り向きもせずにパウラは言う。無意識に膝のあたりをさすり、潜水服の気密性を確認してから、征人は「平気だよ」と返した。ヘルメットをかぶらずに潜水服を着用したのは、こちらの雑念が水を介して漏れ伝わり、感知の妨げになるのを防ぐためだ。パウラはなにか返事をした様子だったが、艇内に反響する水の音に遮られて聞き取ることはできなかった。
パウラ・エブナーとともに〈ナーバル〉に同乗し、その様子を観察。発令所と連絡を取り合い、あらゆる事態に対応できるよう備えよ――。絹見から特別任務の中身を聞かされた時には、それこそ望むところと勢い込んだものだが、いざ〈ナーバル〉に乗り込み、前後に並ぶ座席のひとつに座ってみれば、なにをどうしたらいいのか皆目《かいもく》見当がつかない。〈ナーバル〉の装置のひとつになったようなパウラの姿をうしろから眺め、これからなにが始まるのか、水位はどこまで上昇するのかと、無為な不安に駆られるのが関の山。発令所で艦長たちと渡り合った時の熱情は、次第に上昇する水面とともに冷め、いま胸を支配するのは耐えがたい圧迫感だった。
パウラはよくも平気でいられる、とあらためて思う。こんな狭い場所に閉じ込められ、水を流し込まれて、まるで水責めじゃないか。しかも敵艦を撃沈した後には、人事不省に陥るほどのすさまじい衝撃と恐怖が待っているという。いまはパウラが一緒にいるからなんとかなるが、自分独りではとても我慢できそうにない……。
「いいのよ、降りていても」
不意にパウラが口を開き、征人はぎょっと顎を引いた。読み取られたのかと思い、もういちど足を探って潜水服の感触を確かめながら、「平気だって言っただろ?」と歯切れ悪く応じた。
「ここにいろって艦長の命令なんだ。勝手には降りられないよ」
「私から艦長に頼めば……」
「いいよ、必要ないよ。降りる時は一緒だ」
配電盤の上を行き来するパウラの手がつかの間止まり、すぐにまた動き出した。征人は、「……いたら、邪魔か?」と手袋の指をこすり合わせつつ重ねた。
「そんなことないけど」
「だったらいいじゃないか。なにかの役には立つよ」
「なにかって?」
「なにかって……なにかさ」
言葉を濁すと、パウラはちらと顔をこちらに向けた。〈ナーバル〉に乗り込んでから、目を合わせたのはこれが初めてだった。上を向いた長いまつ毛が鳶色の瞳を飾り、ぽってりした唇から微かに歯が覗くのを見た征人は、ああ、これか……と唐突に納得した。
一個の命を死に赴かせる原動力。報国の理念では慰めきれない恐怖を癒し、そのために命を投げ出してもいいと思えるなにか。自分には生涯無縁かと思われたものが、いま目の前にある。言葉にするなら、それはパウラがこちらを見てくれたということでしかないのだが、どうやら自分という男は、それだけで怖さを忘れられるらしいのだ。
だから、いまはこれでいい。そう思った瞬間、艇内にこもる圧迫感が失せ、胸のつかえが霧散すると、ずっと感じてきた息苦しさもあっさり消えてなくなった。あまりの単純さに我ながら可笑しくなり、征人は苦笑した顔をうつむけた。
「なにが可笑しいの?」
パウラが眉をひそめて訊く。「別に」と返して、征人は前部座席の背もたれごしにパウラの顔を見た。
「ただ……ずっと捜してたものが、見つかったらしいんでさ」
なんの気なしに言った後で言葉の重大さに気づき、征人は頬が紅潮するのを感じた。眉をひそめたままのパウラから目を逸らし、取り繕う言葉を出すべきかどうか迷う間に、(各整流器、接続準備よろし)と通信装置が騒ぎ出した。
(発電機、用意よし)(重力タンク、ブローやめ。前部ツリムに三百移水)と声が続く。艦内各所に分散するローレライ関係装置を起動させるべく、報告と命令はすべて一斉通信で行われている。通信用マイクを取り上げ、「〈ナーバル〉アン コマンド。アレ・ジステーメ・ノマール」と吹き込んだパウラに、(よし)と応じたフリッツの声は、通信装置の貧弱なスピーカーから聞こえた。
(これよりローレライを起動。正常稼働を確認し次第、指揮権を艦長に戻して自分は引っ込む。それまでは各員、指示に従ってもらいたい)
めずらしく殊勝なフリッツの声音に、パウラの肩にも緊張が走るのがわかった。温熱器の導線がうっすら浮き出た細い襟首を見、分厚い手袋に覆われた自分の手のひらに目を落とした征人は、肩に触れるという大それた行為には踏みきれず、代わりに「なにか手伝うこと、ある?」と努めて明るい声を出した。
「前に君がしたみたいに、歌でも歌っててやろうか? 少しは緊張がほぐれ……」
「黙ってて」
硬い声に遮られ、征人は百万の後悔を抱いて口を噤んだ。パウラは正面に向き直り、水面に手を差し入れて、少しうしろに倒した背もたれに体重を預けている。(曳航索具に通電。発令所、確認よろしいか?)と岩村の声が流れるのを聞きながら、征人は水面がざわざわと蠕動《ぜんどう》するあの感触を知覚した。
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暗闇に一点、小さな輝きが灯ってゆっくり左に流れ、接眼レンズの十字線をつかの間浮かび上がらせる。膨大な海水に隔《へだ》てられた向こう、約八十メートル彼方で瞬くその光は、深度六十メートルの常闇に発した唯一の光源。暗い海底に閉じ込められた〈伊507〉にとっては、起死回生に繋がる一縷の希望の光だった。第二潜望鏡の接眼部に目を押し当てたまま、絹見は「確認した」と内心の興奮を隠して応じた。
「曳航索具の通電を確認した」一斉放送のマイクを握った高須がすかさず中継する。「砲術室、そちらからは確認できるか?」
(確認できず。測距儀の視角範囲外です)
砲術室――艦橋構造部の半分を占める二十・三センチ連装砲の砲座につく田口が、応答の声を寄越す。深度六十メートルの海中で潜望鏡を巡らせる艦長がいれば、主砲の砲座について闇の海中に目を凝らす掌砲長もいる。まったく正気の沙汰ではないと思い、絹見は小さく苦笑しつつ潜望鏡から目を離した。旋回把手を収め、「潜望鏡、下げ」と命じる。油圧駆動の音を立てて潜望鏡が下降すると、その向こうに立っていたフリッツの視線が直《じか》に刺さり、「本気でやれると思うのか?」という問いが喉元に突きつけられた。
絹見が起案した作戦内容は、発令所の面々にはすでに話してある。前回、五島列島沖の戦闘で使った手段より十倍は奇抜で、百分の一しか成功の見込みがない作戦。それとなく聞き耳を立てる高須を一瞥した絹見は、「無論だ」と苦笑を拭った顔で答えた。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という諺《ことわざ》もある。やってみるまでだ」
「身を捨てて……こそ?」
片方の眉を吊り上げたフリッツの顔が歳相応の青年のものになり、再び苦笑が漏れた。「もっと日本語を勉強するのだな」と言ってから、絹見は海図台の方に向き直った。
しばらくこちらを凝視していたフリッツは、やがて勝手にしろとでも言いたげに背を向けた。それでいい、と絹見は胸中に呟いた。呉越同舟《ごえつどうしゅう》の道行きになったというだけで、我々はまだ互いを知り尽くしたわけではないし、信用しきれてもいない。この支離滅裂とも言える反撃行動を決意させたのは、二人の若者――折笠征人とパウラ・エブナーの存在があったればこそだが、彼らの熱情に浮かされて死に急ぐつもりは毛頭ない。冷静に、でき得る最善の行動を取るのみ。いまは互いが疑心暗鬼というくらいでちょうどいいのだ。その方が相手の間違いを見つけやすいのだから……。
(フリッツ少尉。事情はわからんでもないが、命令と復誦が日本語とドイツ語のちゃんぽんというのは、やはり士気に関わる。なんとかならんのか?)
第二甲板で整流器の接続に回っている小松が、いかにも不満といった声をスピーカーごしに寄越し、そういうものだと絹見はひとり得心した。それもひとつの意見、小松なりの用心深さの現れと思えば、無下《むげ》にはできない。フリッツがいら立つ気配を感じ取った絹見は、「場合が場合だ」と予備のマイクで通信に割り込んだ。
「催眠状態に入ったパウラ・エブナーには、馴染みのある母国語の方が理解しやすい。段々と慣らしていくから、今回は我慢しろ」
(了解しました)と小松は呆気なく引き下がった。じろと睨む目をくれたフリッツに、学べよと無言で伝えた絹見は、マイクを戻して一歩うしろに下がった。
ここから先は、ローレライの管理を任された元SS少尉のひとり舞台になる。フリッツはひとつ咳払いし、全艦一斉放送のマイクをあらためて取り上げた。
「ローレライ起動準備! 電動機《アンラッサー》」
(|準備よし《クラー》!)
「整流器《グライヒリヒター》」
(一番から十二番まで、クラー!)
「配電盤《シャルトターフェル》」
(クラー!)
「グート。グライヒリヒター、一番《ヌマーアインツ》。接続《シャルテン》!」
(ヌマー・アインツ、ゲシャルテット!)
「ヌマー・ツヴァイ、シャルテン」
(ヌマー・ツヴァイ、ゲシャルチン!)
「ヌマー・ドライ」
(ヌマー・ドライ、接続! いやゲシャルチン!)
俄か仕込みのドイツ語の復誦が重なるうち、低い唸りが発令所の床下から発し、それまで沈黙していたヘルゼリッシュ・スコープの柱が、潜望鏡のようにゆっくり上昇を開始した。同時にヘルゼリッシュ・アプフォーラ――コロセウムとも呼ばれる機械装置の作動灯が点灯し、円柱の上面にはめ込まれた半球ガラスが内側から淡い光を放ち始める。水晶さながら、薄緑色の輝きに包まれたコロセウムから、絹見は我知らず体を離していた。
壁面に背中を寄せると、電流計とパイプに挟まれた配電箱が赤と緑の豆ランプをいきなり点滅させ、絹見はそこからも離れなければならなくなった。壁や天井のそこここで同様の光が瞬き、囁《ささや》き声に似た機械の稼働音が四方からわき出してくる。この一週間弱の航海で多少は馴染んだ〈伊507〉の発令所が鳴動し、なにか別のものに変わってゆく光景を目の当たりにして、絹見の胸中には不穏な言葉の連なりが浮かび上がった。
魔女《ローレライ》の目覚め――。生唾を飲み下した絹見の耳に、(ヌマー・ツヴォルフ、ゲシャルッテン)と小松の声が響き、最後の十二番目の整流器の接続も完了したことが告げられた。
「PsMB1、ディー・ローレライ。起動《アンラッセン》!」
フリッツの声が飛ぶ。呼応するように機械の囁き声が強くなり、さらさらと砂のこぼれ落ちる微かな音がそれに混ざった。
「艦長、あれを」
怯えを滲ませた高須の声に、絹見は動揺を押し隠して振り返った。高須が呆然と指さす先で、コロセウムに明らかな変化が起こっていた。淡い光を放つ半球ガラスの内側で、細かな黒い粒が蠢《うごめ》くのが見える。ガラスと同じ形にくり抜かれ、すり鉢状になった円柱の上面から砂が溢れ出し、竜巻《たつまき》に吸い上げられるかのごとく渦を巻いて、球体内部に砂柱を屹立《きつりつ》させているのだった。
見えない力に吹き上げられ、半球ガラスの頂点に当たっては再び底に落ちる砂の還流は、数秒のうちにみるみる勢いを弱め、砂柱の中にひとさし指大の物体を三つ、結実させる。羽虫の大群のようにめまぐるしく動く砂が寄り集まると、中空に浮かぶ棒の形は流線型に整えられ、司令塔らしき突起を生やした潜水艦の形になる。二つは、ガトー級と思われる米潜の形。その間に挟まれたもうひとつの形は――。
「〈伊507〉だ……」
コロセウムに顔を寄せられるだけ寄せた木崎が、何度も目をしばたかせながら呟く。流線型の船体に、艦橋構造部と一体化した連装砲と〈ナーバル〉を載せ、艦尾からのばした索具で〈海龍〉を曳航している。間違いなかった。球体の中央に現出した砂の塊は、紛れもなく〈伊507〉の現在の姿。それを上下斜めに取り囲む二つの塊は、〈しつこいアメリカ人〉と増援のガトー級潜水艦に他ならない。周辺海域の状況を引き移した箱庭をコロセウムの中に見、細部まで正確に再現された〈伊507〉を凝視した絹見は、この航海に出て初めて、開いた口が塞がらない顔になった。
ちらちらと蠢く砂の粒は、付近を回遊する魚だろうか? 敵潜から航跡とは別に発する弓状の軌跡は、まさか探信音波が震わせる海の蠕動を再現したもの? コロセウムの仇名《あだな》の由来通り、まさに客席から闘技場を見下ろす観客の気分を味わう一方、絹見はこの魔法の正体をつかもうと球体の底を覗き込んだ。うっすら輝く球面の底には、電極らしき突起が等間隔にびっしり埋め込まれている。それがイソギンチャクの触手さながらざわざわと蠢き、刻々と動く潜水艦の砂模型を不可視の力で支えているらしい。磁力か? だとすると、この砂は砂鉄……? わからないなりに頭を働かせ、それにしてもあり得るのかとさらに身を乗り出した絹見は、フリッツが脇に立った気配を察して顔を上げた。
とりあえず口だけは閉じた絹見の顔は見ずに、フリッツはコロセウムの台座に接続されたレバーを無言で引き上げる。縦横に交差して球体内面を一周する二本の輪が回転し、台座とガラス面の接合部分に収まると、別の輪が現れて再び縦横に交差した。それを合図に三つの砂模型の形が一斉に崩れ、箱庭は消滅したように見えたが、空白は一秒足らずの時間に過ぎなかった。
すり鉢状の底からわき出した砂が、凹凸のある膜を球体の円周いっぱいに広げる。その上にほとんど点になった三杯の潜水艦の位置関係が再形成され、ガラス面すれすれのところには下辺のない二等辺三角形が描き出された。水上航走する船の引き波に似ている、と思いついた絹見は、慄然とした思いで球体の内面を走る二本の輪を注視した。羅針盤と同じ方位計の目盛りが刻まれた輪には、距離計と思われる数値の刻みもある。縮尺は……十キロの幅が約五センチだから、およそ二十万分の一。直径一メートルの球体の中に、二百キロ直径の世界が再現された計算になる。
「最大望遠は半径百キロ。このレバーで十キロ単位で訶節できる。最小は半径一キロ」
そう説明したフリッツがレバーをいっぱいに倒すと、目盛り計がキロ単位からメートル単位のものに変わり、数十キロ彼方を航行する水上艦船の航跡も、複雑に隆起する海底地形を模した膜も崩れ去り、先刻と同じ大きさの〈伊507〉と二杯の敵潜が、再結集した砂鉄群によって形作られた。水中を自在に見通す超高感度探知装置、そんなものではない。これは神の業だ。千里眼《ヘルゼーヘン》としか表現しようのないなにかだ。絹見はただただ感嘆し、淡い緑色の光が照らし出す砂模型を飽かず見つめ続けた。
「Haben Sie schon mal das Wort Computer geho:rt?(コンピュータという言葉を聞いたことがあるか?)」
なんの前ぶれもなくフリッツの母国語が振りかけられ、絹見は不用意に「コン……?」と聞き返してしまった。久しぶりに聞いたドイツ語の響きより、コンピュータという不可思議な言葉の印象が強く頭にこびりついた。
「Die Forschung in diesem Bereich ist in den USA fortgeschritten, und in einigen U-Booten sind solche Maschinen schon eingebaut.(複雑な計算を自動的に行う機械だ。アメリカではそれなりに研究が進んでいて、一部の潜水艦にはすでに取り入れられている)Man braucht nur die Beobachtungsdaten einzugeben, dann berechnen sie die Zielpunkte fu:r Torpedoangriffe, ohne dass man selber mu:hselige Berechnungen anstellen mu:sste.(観測数値を打ち込めば、面倒な計算をしなくても雷撃の射点を割り出してくれるといった具合だ)」
高須や木崎が怪訝な目を向けるのをよそに、フリッツは滑《なめ》らかに続ける。別にドイツ語をかじったことのある絹見にだけ教えようというのではなく、技術的な専門用語を交えた話は母国語の方がしやすいのだろう。絹見も記憶の底からドイツ語の文法と単語を引っ張り出し、「Soll das heissen[#エスツェットはssで代用], auch in der Lorelei wird diese Technologie eingesetzt?(このローレライにも、その技術が使われているというわけか?)」と先回りの言葉を並べてみた。
「Paulas Gehirnstromwellen werden in Magnetismus umgewandelt und vom Kollosseum empfangen. Die dort im Zentimeterabstand eingegrabenen magnetischen Strahler bewegen den Eisensand in seinem inneren und geben ihre Empfindungen bildlich wieder.(パウラの脳から送られてくる電気信号を磁気に変換し、このコロセウムが受信。センチメートル単位で埋め込まれた磁性放射器が中の砂鉄を操り、感知像を再現する)Die Struktur der Vorrichtung ist eigentlich einfach, aber weil es so viele Magnetstrahl er sind, die alle einzeln gesteuert werden mu:ssen, sind die dafu:r notwendigen Berechnungen mit Menschenkraft nicht zu schaffen.(構造は単純だが、数百の磁性放射器を個別に動かすために必要な計算は、人間業ではできない。整流器と言っているが、あれは計算機と呼んだ方が正しい)Wahrscheinlich handelt es sich dabei um den automatischen Rechner mit der gro:ssten[#エスツェットはssで代用] Kapazita:t weltweit.(ひとつひとつが独立して、膨大な計算を分散して行いながら、全体でひとつの回路を形成する。おそらくは世界でいちばん大容量の自動計算機だ)」
日本語で聞かされたとしても、完全に理解するのは困難な話だった。眉根に皺を寄せた絹見の表情に察したのか、フリッツは「Sie mu:ssen nicht alles verstehen.(すべてをわかる必要はない)」と付け足した。
「Dennoch merken Sie sich davon, dass〈I507〉nicht nur einfach ein U-Boot, sondern auch selbst ein grosses[#エスツェットはssで代用] Computer vom Lorelei-System ist.(だがこれだけは覚えておいてくれ。この〈伊507〉はただの潜水艦じゃない。それ自体がローレライ・システムを構成する巨大なコンピュータなんだ)」
上昇を終え、接眼装置を露にしたヘルゼリッシュ・スコープを、フリッツは顎で指し示した。まだ整理のつかない頭で、絹見は普通の潜望鏡よりひと回り大きい接眼装置に近づき、旋回把手を左右に引き倒した。
接眼レンズを覗き込んで、ぎょっとなった。ほの暗い緑色の世界を背景に、目前を横切るガトー級の船体がはっきり見える。絹見は思わずスコープを回転させ、その姿を追った。潜望鏡で海上を見渡す時とまったく同じに視野が動き、〈伊507〉を中心に周回潜航する敵潜の姿が、照準の十字線の真ん中にぴたりと捉えられた。
距離は約八百メートル。ためしに仰角調節用とおぼしきつまみをいじってみると、潜望鏡では考えられない自由度で視野が上方に転じ、雷撃可能深度に陣取るもう一隻の敵潜も十字線に捉えられた。倍率調節つまみを回し、魚雷発射管の筋目までが明瞭に見える敵潜をじっくりと観察した絹見は、これも砂鉄で作り出された幻像と確かめて、くらくらする頭を接眼レンズから離した。
コロセウムが状況を俯瞰《ふかん》で再現すれば、ヘルゼリッシュ・スコープは潜望鏡からの見た目、すなわち主観で周囲の状況を再現する。雷撃可能深度まで浮上し、ヘルゼリッシュ・スコープで観測した数値をもとに魚雷を調定すれば、潜航中の潜水艦でも百発百中で撃沈できるだろう。それもコロセウムで彼我《ひが》の位置関係を探り、敵の探信音波の死角から忍び寄る形で――。
「これがローレライだ」
コロセウムの淡い光を下から浴び、にやと笑ったフリッツの顔は幽鬼のように見えた。あとはあんたの領分だ、お手並み拝見といこう。目で語ったフリッツに、絹見は略帽をうしろ前にかぶり直し、あらためてヘルゼリッシュ・スコープを覗き込んだ。
見える。敵潜の配置、方位、距離、速度、すべてが見える。これがローレライ――〈伊507〉の本当の力。驚愕の連続で揺さぶられた頭がぴしりと引き締まり、ドンガメ乗りの観察眼で敵潜の動向を確認した絹見は、フリッツに目を戻した。「もらうぞ、少尉」と短く言い放ち、一時的に譲渡した指揮権を取り戻してから、全艦一斉放送のマイクを手に取った。
さて、始めるか。「艦長より達する」と絹見は一声をマイクに吹き込んだ。
「これより本艦は敵潜の死角をついて反撃に出る。決して分のいい戦いとは言えないが、我々には八百万《やおよろず》の神のみならず、ローレライという守り神がついている。死力を尽くして当たれば勝算はある。各員、全力で〈伊507〉を支えてもらいたい。以上」
マイクを置き、絹見は複数の作動灯が点滅する発令所を見渡した。高須や木崎たち発令所要員が姿勢を正す横で、フリッツは艦首側の隔壁に向かって走り出したところだった。もう任せてもいいと判断したのだろう。彼にはこの後、砲術室で田口の補佐をする仕事が待っている。
まずは第一歩。水密戸を勢いよく通り抜けた長髪のうしろ姿を見送りつつ、絹見はフリッツと、この艦に乗り組む羽目になった自分自身と、大戦の世界を生きるすべての人間たちに呟いてみた。国境や民族が対立しか生まないというのでは哀しすぎる。そうやって少しずつでも互いを信じ、力を合わせて行くことを覚えていけばいい。それがこの艦に自分を導き、風変わりな乗員どもと引き合わせた亡霊の本意なら――。ひどくさっぱりとした気分で弟の面影を引き寄せた絹見は、次の瞬間には軍人の本能で感傷を塗り潰し、〈伊507〉艦長の顔を一同に向けた。
「機関始動。微速前進、面舵《おもかじ》四度」
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「目標、動き出しました」
抑制の効いた水測長の声が、〈トリガー〉司令塔に張り詰めた緊張の弦を震わせる。ざわと浮き足立った乗員たちをよそに、キャンベルはひとり能面を維持して続く報告を待った。
慌てる必要はない。針にかかった魚が、最後のひと暴れを始めたということだ。『魔法の杖』を作動させたからには、〈シーゴースト〉はこちらの位置を正確に把握していると見て間違いないが、この深度ではどのみち魚雷は撃てない。雷撃で突破口を開くには、深度二十メートル前後まで浮上する必要があるが、そこでは〈スヌーク〉が待ち構えており、奴が雷撃可能深度に到達するより早く聴音魚雷をお見舞いする。
重要なのはその先だった。〈シーゴースト〉は『魔法の杖』を使って〈スヌーク〉の雷撃を回避するだろう。同時にソナーの死角に回り込み、反撃に転じて〈スヌーク〉を沈めるだろう。そしてそれを最後に魔力を失い、身を隠すものひとつないこの海域で立ち往生する。『魔法の杖』の弱点――一隻沈めるたびに使用不能になるという致命的な欠陥が、奴の墓穴を掘る。〈シーゴースト〉は、一時に二隻以上の敵とは戦えないのだ。
初めてその存在が確認されてから、約一年。少なくない犠牲を積み重ねて確信に至った、それは〈シーゴースト〉が抱える唯一最大の瑕疵《かし》だった。ONIが水上艦艇ではなく、対潜戦闘には不向きな潜水艦に追跡を任せたのも、作戦の隠密性維持という以上にそこに理由がある。相手が水上艦艇なら、『魔法の杖』でスクリューだけを狙いすまして攻撃し、行動不能に陥らせて離脱することも可能だが、潜水艦ではそうはいかない。水上艦艇より装甲が薄く、タンクに小さな穴が開いただけで沈没する可能性がある潜水艦は、適度に傷を負わせるということができない。一隻沈めるたびに動かなくなるという、笑止千万な弱点を持つ『魔法の杖』を封じるには、殺《や》るか、殺られるかの選択肢しかない潜水艦をぶつけるのが最適というわけだ。
水雷戦隊の到着が遅れているのも、あるいは〈トリガー〉か〈スヌーク〉のどちらかが沈み、『魔法の杖』が無力化されるのを期待してのことか? ふと思いついたキャンベルは、それならそれでかまわないと結論して腕を組み直した。ようは沈む側に回らなければいいのだ。その点、〈スヌーク〉は不幸だった。最新式の聴音魚雷を装備した時点で、雷撃可能深度に留まって〈シーゴースト〉を狙う役――奴が反撃に転じた時、最初に沈められる役を仰せつかったも同然だったのだから。
ファレルは〈ボーンフィッシュ〉の二の舞にする気かと言ったが、違う。〈スヌーク〉に囮《おとり》役の鉢《はち》が回ったのが運なら、その犠牲を利用し、今度こそ〈シーゴースト〉を沈める役がこちらに回ってきたのも運。作為はいっさい働いていない。つかんだ運を無駄にしなければいいと断じたキャンベルは、「深度を下げています。かなり早い」と続いた水測長の報告に、ぴくりと頬を痙攣させた。
「方位〇四〇、距離二千八百フィート。深度は三百……三百十(約九十五メートル)。さらに潜降します」
水測長の声に合わせ、目標の推定位置を作図盤に記入する水測員の横顔にも戸惑いが滲む。移動距離に対して、潜降速度が異常に早い。キャンベルはまず、よほど潜入角を深く取らなければこうはならないと判断し、次に、〈シーゴースト〉が反撃不可能の深々度に自ら潜降を開始した理由について、考えられる可能性を頭に列挙しようと努めた。
二つしか挙がらなかった。事故か、血迷ったか。どちらだ? と自問し、どちらでもいいと一秒未満で自答したキャンベルは、「目標を包囲しつつ追跡する。艦首七度下げ、取り舵二度」と令して、潜望鏡《ペリスコープ》の柱に片手を預けた。復誦が行き渡り、司令塔の床が艦首側に向かって傾斜し始めるのに、さほどの時間はかからない。ゆっくり右に倒れてゆく深度計の針を見据えつつ、今度はチキンレースかとキャンベルは頬を歪めた。
これまでの戦闘で、〈シーゴースト〉の潜航可能深度が三百三十フィート(約百メートル)前後であることはわかっている。〈トリガー〉の安全潜航深度も同程度。だが水圧に押し潰されるぎりぎりの深さまで潜降し、我々を巻こうという魂胆《こんたん》ならお門違いだ。同じガトー級の中には、最大深度七百五十フィート(約二百三十メートル)をマークした艦もある。先に音《ね》をあげ、臆病者《チキン》の烙印を押されるのは〈シーゴースト〉の方だ。もし事故を起こして千フィート(約三百メートル)下の海底に墜落しているのなら、こちらはできる限り近づき、その船体が圧潰《あっかい》する音をパッシブ・ソナーで聞き届けるまでだった。
それより先に、奴が動き出したことを知った〈スヌーク〉が魚雷を放つ。ほとんど直滑降で深度を下げる〈シーゴースト〉に対し、こちらは大きな螺旋《らせん》を描いて潜降するから、深度調定された聴音魚雷が目標を見誤る心配はない。その場合、〈シーゴースト〉撃沈の手柄は〈スヌーク〉のものになるが、これについてはあきらめるしかないとキャンベルは割り切っていた。水雷戦隊に手柄を譲るよりはずっといい。対潜水艦部隊が爆雷の投射を開始すれば、こちらは巻き込まれないよう後方に下がらなければならなくなるが、いまなら奴が粉々に砕ける音と衝撃を直接、体感することができる。どだい、魚雷を撃つのが〈スヌーク〉であっても、その魚雷の調定に必要な水中索敵法、照準の概算の仕方は、すべて〈トリガー〉が実戦で編み出し、ONIに報告してきたもの。実質的に〈シーゴースト〉を沈めるのは〈トリガー〉であり、その艦長たる自分だ。
おれの獲物だ、とキャンベルは胸中にくり返した。逃げろ、もっと逃げろ。好きなだけ潜ってみせるがいい。おれはどこまでも貴様を追っていくぞ……。
「アクティブ・ソナー、測深儀を併用して目標の探知を続けろ。絶対に取り逃がすな」
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二十五度の潜入角を取って潜降する〈伊507〉は、傍目《はため》には失速して墜落する航空機のように見えた。水中排水量四千四百トンの巨体が重く積み重なる海水を押しひしげて沈降を続け、艦尾で回転する二軸のスクリュープロペラだけが、自らの力で深々度を目指す艦の意志を静かに伝えていた。
曳航索具に繋がれた〈海龍〉が三十メートルの距離を開けて続き、大きな螺旋《らせん》を描いて潜航する〈トリガー〉が、〈伊507〉の航跡を包み込むようにしてその後を追う。まっすぐ潜降する〈伊507〉と、周回しながら深度を下げる〈トリガー〉の相対距離は次第に開きつつあったが、それは〈トリガー〉側の思惑通りの展開だった。安全潜航深度を無視して潜降を続ける二隻の潜水艦の頭上、雷撃可能深度十九メートルに位置する〈スヌーク〉は、駛走《しそう》深度を最大に調定したMk28魚雷を二本、艦首魚雷発射管から射出した。
二百六十五キロの炸薬を搭載した聴音魚雷は、射出後、一度だけ大きな弧を描いて自らの針路を調整すると、〈伊507〉を上回る潜入角で潜降を開始した。磁歪振動子を並べた|水中マイク《ハイドロフォン》が〈伊507〉の機関音を捉え、常に最大感度を維持する操舵管制装置が尾部の舵を調節して、二本のMk28魚雷が一路標的を目指して驀進《ばくしん》する。自己の駛走音がハイドロフォンに影響を与えないよう、雷速は二十四ノットに抑えられていたが、八ノットで這い進むしかない〈伊507〉にとって、その速度は十分に脅威的なものだった。
Mk28はたちまち〈伊507〉に追いつき、コロセウムで先から魚雷の動向を監視していた〈伊507〉は、磁気爆発尖が作動するぎりぎりの距離で潜舵と縦舵を動かし、巨体をよじるようにして魚雷の直撃を回避した。再浮上して二撃目を狙う性能を持たないMk28は、いちど標的をそれたら最後、慣性の力と重力の虜《とりこ》になって海底へと落下してゆく。一発が〈伊507〉の十メートル脇を横切り、暗い口を開く深海に呑み込まれていったが、続く二本目の魚雷を回避するには〈伊507〉の図体はあまりにも大きく、その機動力にも限界があった。
辛《かろ》うじて直撃は避けたものの、二本日の魚雷は磁気爆発尖を作動させ、〈伊507〉の右舷、艦橋構造部の直近で起爆した。刹那、閃光が周囲の海水を青白く染め上げ、深度百七十メートルの水圧を押し退けて膨らんだ爆発が、海水を瞬時に沸騰させつつ〈伊507〉を呑み込んだ。
瞬間的には水圧の数万倍に達した爆圧の力が〈伊507〉を襲い、その巨体がぐらと左に傾く。右舷後部に張った露天甲板の手すりが根こそぎ持っていかれ、艦橋構造部上の対空機銃は固定具を引きちぎられて、支えを失った銃身をくるくると回転させる。飛散した魚雷の破片は艦橋から後部甲板、その上に固定された〈ナーバル〉にまんべんなく降り注ぎ、いくつかが外板を削り、いくつかが二重装甲に突き刺さって、衝撃波が鋼鉄の船体をたわませた。
すでに安全潜航深度を五十メートル以上も超え、水圧の力にも痛めつけられていた〈伊507〉に、それは傷口に塩を塗り込まれる以上の衝撃となって作用した。無傷は軽傷に、軽傷は重傷に、重傷は致命的な傷に。艦内のあちこちから一斉に海水が噴き出し、爆圧と水圧の力で弾き飛ばされたボルトが銃弾のように跳ね回って、計器盤のガラスを粉々に打ち砕く。中央補助室では配線の一部がショートし、火を吹いた。皮肉なことに、そこは左右を圧搾空気のタンクに囲まれているために、漏水を免れた数少ない区画のひとつだった。火はすぐに他の配線に燃え広がり、ただでさえ少ない酸素を猛烈な勢いで消費し始めた。
パートのベッドに置かれた私物、艦長室の書類、烹炊所の鍋や皿、工具に各種器材。固定されていないものはことごとく吹き飛ばされ、艦内を転げ回る。乗員たちも例外なく天地が逆さまになるほどの衝撃を受け、ある者は床に、ある者は壁にしたたか打ちつけられて、昏倒する者もひとりならずいた。もっとも被害が大きかったのは前部魚雷発射管室で、予備魚雷の固定索が弾け、魚雷架台から転げ落ちた結果、一・七トンの九五式魚雷をまともに受け止める羽目になった水雷科員が即死した。他にも補助機関室で送水管の修理に当たっていた上等機関兵曹が、すさまじい勢いで弾け飛んできたボルトに額を直撃され、その場に倒れたきり動かなくなった。
先の雷撃で破壊された一次電源に続き、二次電源も機能を失った。予備回路が作動して電力を復旧させたが、モーターの力は大幅に低下していた。深度を増すごとに高くなる水圧が装甲を軋《きし》ませ、鉄砲水のような漏水の勢いを増す一方、中央補助室で起こった火災の煙が通風管を伝って艦内に充満する。火責めと水責めの阿鼻叫喚《あびきょうかん》の中、それでも〈伊507〉はひたすら潜降を続けた。
沈んでいるのでないことは、頑固に回り続けるスクリュープロペラを見れば明らかだった。〈伊507〉はあくまでも自らの意志で深海を目指し、その航跡を追って駛走する三本日のMk28魚雷が、今度は左舷側の艦底付近で起爆の閃光を咲かせた。
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突然、顔に水の塊が叩きつけられ、水を吸い込んだ肺が灼熱した。パウラは咳き込み、五官の感覚を一気に覚醒させた。
身をよじり、激しく咳き込むそばから新たな水が降りかかり、壁面の機器類を濡らす。魚雷の爆発で〈伊507〉の船体が激震し、〈ナーバル〉艇内に張った水が荒れ狂っているのだった。「椅子から動くな!」と叫ぶ征人の声を背後に聞きながら、パウラはうしろに倒した背もたれから上半身を起こし、水滴がしたたる配電盤に点検の目を走らせた。
防水加工がしてあるとはいえ、これほどまともに水をかぶる状況は想定されていないはずだ。片手を水に浸して感知野を維持しつつ、もう一方の手を通電試験用のスイッチにのばしたパウラは、その途端、みしりという嫌な音が頭上に響くのを聞いた。
続いてなにかがへし折れる音が艇内にこもり、送水管の継ぎ目から海水が迸《ほとばし》り始める。耐圧殻の厚みに較べて体積が小さい分、〈ナーバル〉の可潜深度は〈伊507〉より高いが、もちろん限界はある。じき二百メートルに差しかかろうとしている深度計の針を見、耐圧性能を五倍も上回る水圧の存在を確かめたパウラは、とにかく送水管のバルブを締めようと座席を立った。ヘルツォーク・クローネのケーブルは長さに余裕があるので、感知中でも艇内を動き回るぐらいのことはできる。満足に血の巡らない手足を動かし、どうにか腰を浮かしたところで、今度は圧搾空気管のボルトが勢いよく弾ける音が耳をつんざいた。
ネジの切れ目を擦り潰すほどの圧力に押し出され、直径一センチ足らずのボルトが艇内を跳ね回る。鉄を打つ激しい音、ガラスの割れる音が連続し、パウラは腰を浮かせた体勢で硬直した。壁面のパイプに当たったボルトが火花を閃《ひらめ》かせ、思わず目を閉じると、背後からのびてきた腕にぐいと引き寄せられた。
引っ張られた勢いで一回転し、顔を座席に押しつけられる。ごわごわした潜水服の感触が、中に息づく温もりとともに背中に伝わった刹那、びくりと震えたその体が不意に重みを増し、微かな呻き声がうなじにかかった。冷たい戦慄が胸を走り、パウラはぐったりのしかかった征人から慌てて体を離した。
思った通り、征人の潜水服の左腕に小さな穴が開き、そこから血が流れているのが見えた。自分の脳天を貫いたかもしれないボルトに抉《えぐ》られ、血を流す傷口を目の当たりにした体が勝手に動き、パウラは「ユキト……!」と叫んだ拍子に両方の手を水から出そうとした。征人は「平気だ……」と搾り出し、引き上げかけたパウラの手をやんわり水中に戻してくれた。
「役に立ったろ?」
汗と海水でびしょびしょの顔に無理やり笑みを浮かべて、征人は言った。心臓が高鳴り、感知に振り向けた神経がふわりと熱を帯びるのを感じたパウラは、咄嗟に征人から顔を背けた。じんわり胸を暖める熱の正体は不明だったが、それと向き合えば感知が続けられなくなるという恐怖感があった。
出血箇所を押さえる余裕もなく、征人は肩まで水に浸かって送水管のバルブを締めにかかった。「……薬と包帯、椅子の下の物入れにあるから」とだけ言って、パウラは座席に腰を据え直した。「了解」と返ってきた声を聞き、なぜこうも胸が痛むのかと自問したのを最後に、再び感知野に意識を集中した。
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(ぜ、前部発射管室です! 魚雷が外れて、菊政《きくまさ》一水が下敷きになって……!)
伝声管を震わせる水雷科員の声は、ほとんど悲鳴だった。「落ち着けっ! 損害を報告しろ」と怒鳴り返した声が喉に詰まり、ひとしきり咳き込んだ絹見は、発令所に漂う煙が一段と濃くなったことに気づき、ひやりとした。
中央補助室で上がった火の手は、通風管を経由して大量の煤煙を発令所に注ぎ込み、空気に占める炭酸ガスの割合を猛烈な勢いで増やしている。「通風隔壁弁の閉鎖はどうなっている!」と叫んだ途端、返事をするかのように新しい漏水が天井から噴き出してきて、伝声管にしがみつく絹見の背中を濡らした。
水圧に押し固められた水柱が海図台を直撃し、上にあった海図を引き裂くと、コンパスや定規《じょうぎ》もあちこちに蹴散らしてゆく。応急処置用のボロ切れを口にくわえた高須が海図台に飛び乗り、ずぶ濡れになりながら補修を開始するのを横目に、絹見は先刻から壁に寄りかかって動かない木崎を抱き起こし、艦首側に傾いた床の上に寝かせた。爆発の衝撃で弾き飛ばされ、昏倒した発令所要員は他にも二人。医務室まで運ぶ余裕はとてもないが、せめて壁からは離しておかないと、次に爆発があった時に命を失う恐れがあった。爆発の衝撃を間近に受け止めた耐圧殻は、すさまじい勢いで振動する。人間の背骨など簡単に砕けてしまうほどに……。
(機械室より発令所! 電池室のガス濃度が限界です。すぐに機関を止めてください)
岩村機関長の声がびしょ濡れの背中を打ち、絹見は舌打ちしたい衝動を堪えて伝声管の前に戻った。安全潜航深度を無視して潜降している以上、なにが限界に達しようといまさら驚くには当たらないが、爆発寸前で踏み留まる蓄電池室の限界だけは例外だった。
「換気装置はまだ直らんのか?」
(早川中尉が当たってますが、応答ありません。多分もう……)
蓄電池室内に吹き荒れる硫酸蒸気が、防毒マスクを腐食させるのに多くの時間はかからない。いかにも実直そうな早川の顔を脳裏に呼び出し、すぐさま打ち消した絹見は、「深度は?」と背後の潜航士官に質《ただ》した。
「現在、百九十五」
とうの昔に危険域を超えた深度計から目を離さず、配電筐に手をついて体を支える潜航士官が答える。艦首側に二十五度も傾いた艦内にいれば、なにかにつかまっていないと立つこともままならない。絹見は伝声管に片手を添えたまま、淡い輝きを放つコロセウムに視線を移した。
艦尾に繋いだ〈海龍〉を道連れに、急俯角で海底に潜降する〈伊507〉と、つかず離れずその周囲を巡り、螺旋状の航跡を描いて潜降するガトー級。向こうも安全潜航深度を超えているはずだが、艦首が上を向く気配はない。おそらく〈しつこいアメリカ人〉の方だろう。もう一杯のガトー級は深度二十メートルに留まり、自殺同然の潜降を続ける敵艦に探信音波を浴びせかけていた。回避しても食らいついてくる魚雷――ドイツで開発されて一時話題になった、聴音装置付きの魚雷を撃ち込むために。
安全潜航深度は、文字通り艦の安全が確実に保証される深度であって、実際の可潜深度より浅めに設定してあるのが普通だ。耐圧殻の厚みからして、絹見は〈伊507〉の最大可潜深度は二百は固いと踏んでいた。問題は魚雷の方で、今度間近に爆発の衝撃を浴び、耐圧殻に亀裂が一本でも生じれば、その時点で覚悟をしなければならない。たとえ微かな傷であっても、水圧の魔の手はたちまち傷口を押し広げ、艦をやすやすと握り潰してしまう。機関を止めても潜降はできるが、いまはそれはできないと絹見は再確認した。すでに機関出力は半減しているとはいえ、少しでも魚雷を回避するためには、最低限の機動性を確保しておく必要がある。
時機。それがこの作戦の明暗を決する要《かなめ》だ。一路潜降する〈伊507〉と、螺旋状に潜降する〈しつこいアメリカ人〉の深度差が開き、一定の条件を満たす時機。その二杯と、雷撃可能深度に留まるもう一杯のガトー級の位置関係が、一直線で結ばれる時機。二つの時機が重なり合う瞬間を待ち、たった一度の好機を逃さずに行動してこそ、この作戦は成功する。いまだばらばらな三者の位置関係をコロセウムに確かめ、まだだめだと絹見は内心に呟いた。まだその時機ではない。まだ深度が足りない。あと少し、深度を稼がなくては――。
「……まだだ。せめて二百十。いや二百二十。それまでもたせろ」
伝声管に吹き込んだ絹見に、高須や海図長らがぎょっとした目を振り向ける。(爆発しちまいますぞ!)と我慢も限界の声を出した岩村を、「やるんだ!」と押し返して、絹見は伝声管にかけた手を白くなるほど握りしめた。
「換気装置を修理すればいい。ここでやめたら元も子も……」
百の弦楽器が一斉に低音を奏でたような不協和音が響き渡り、絹見は口を噤んだ。
艦首から艦尾までを駆け抜けたその音は、のしかかる水圧が艦の耐圧殻を締め上げた音。強度を上回る圧力にさらされた〈伊507〉が、たまらずにあげた悲鳴だった。「深度、二百」と報告した潜航士官が青ざめた顔をこちらに向け、絹見は正視できずに高須の方に視線を逃がした。
海図台の上で漏水箇所の修理を続ける高須も、血の気の失せた顔で絹見を見返す。もはやこれまで――水圧に潰されるか、蓄電池室の爆発で粉微塵《こなみじん》に吹き飛ばされるか。瞼《まぶた》を閉じ、一瞬後に訪れても文句は言えない死と向き合った絹見は、(なに、直った!?)と耳に飛び込んできた岩村の声に、充血した眼を見開いた。
「どうした!?」と顔を寄せると、伝声管が(直った! 直りました)と興奮した声を重ねる。その場にいる全員が傾聴する中、(蓄電池室換気装置、修理完了)と岩村の声が高らかに宣言し、ほっと息を吐く十人分の気配が発令所に広がった。
爆沈を免れた安堵が、依然存在する圧潰の恐怖を一時的にかき消したようだった。快哉《かいさい》を叫びたい心中を隠し、「よくやった」と静かに応じた絹見は、三つの砂鉄の塊が蠢《うごめ》くコロセウムに視線を据えた。まだ運は残っているらしい。問題は、あとどれくらい残っているかだ。
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うだる暑さと悪臭でぼやけていた頭が、思いきり蹴飛ばされたようだった。焼けついた配線を引きはがす作業を中断して、清永は機関科員たちの声に耳を傾けた。「直ったってよ!」「中尉がやってくれたんだ」と言い合う声にもういちど頭を蹴飛ばされ、考える間もなく機械室を飛び出していた。
通路に飛び出した途端、重油と結露が入り混じった水溜まりに足を取られ、尻餅をつく羽目になった。そのまま艦首側に傾斜した通路を数メートルも滑り、蓄電池室の扉の前でなんとか踏み留まる。扉の前にいた岩村機関長がこちらに振り返り、脇に控える河野《こうの》二水が助け起こそうと手をのばしたが、清永は無視して閉ざされた扉に紅潮した顔を向けた。
「なにやってんだ! 早く開けろ」
怒鳴りつつ立ち上がった清永に、河野は「中につっかえ棒してるみたいなんです。呼んでも応答がなくて……」と気圧された声を返す。通路に常備してある防火斧を視界に入れた清永は、河野を押し退けてそれをつかみ、支持架から取り外した。岩村の了解を取るという頭は働かず、「どいてろ!」と河野を一喝するや、蓄電池室の扉に斧を振り下ろした。
死なれてたまるか。斧の切っ先が把手近くにめり込む衝撃とともに、そんな言葉が歯の隙間から漏れ出した。本当の勝利、生き残る価値のある命。消化不良の言葉も、奥方の想いが詰まった御守りも、預けっぱなしで去られてはかなわない。なんとしてでも御守りを返し、言葉の意味をわかるように説明してもらう。そうしなければ、自分は背負わされた重荷で押し潰されてしまう。早川を助け、自分自身も助けるために、清永は斧を振り上げては振り下ろした。岩村がなにか怒鳴り、河野が肩に手をかけたようだったが、気にする余裕はまったくなかった。
数回叩きつけたところで把手が壊れ、扉が少しだけ開いた。防火斧を河野に押しつけ、清永は扉を全開にした。肌を焼く熱気が立ちこめる室内に、ひと抱えもある直方体の電池がずらりと並んでいるのが見え、吐き気を催すほどの硫黄臭が全身を包む。咄嗟に腕で鼻と口を覆った清永は、床に膝をつき、過熱する電池にもたれかかった煙管服の背中を見つけて、ガスでひりつく目を見開いた。
電池の上に押しつけられた防毒マスクは半ば溶け落ち、焼けたゴムが露出した耳や頬にへばりついている。うなじの皮膚も赤く爛《ただ》れ、ドライバーを握った手はぴくりとも動かなかったが、天井の換気装置は低い唸り声をあげており、室内にこもったガスを確実に濾過《ろか》しつつあるようだった。
頭が真っ白になり、清永はふらふらと室内に足を踏み入れた。「バカッ、まだガスは抜けとらんのだぞ!」と岩村の怒声が耳元に響き、複数の手が背後から引き戻しにかかったが、清永は戸口をつかんで早川の背中だけを直視し続けた。
「でも艇長が……」
「ガスが抜けるまで待て。残念じゃが、中尉はもう助からん」
岩村の声は、ひどく冷たく響いた。「そんな……」と呟いた体から力が抜け、清永は一気に通路に引き出された。
「そんなの困りますよ。おれ、艇長にこれ返さなきゃ。おれなんかが持ってちゃいけないんですよ」
御守りをしまった胸のポケットをつかみ、そうでしょう? と早川に呼びかけた。硫酸蒸気の中にうずくまった早川は返事を寄越さず、急いで閉じられた扉がその背中を隠してゆく。自分と早川を隔てる扉が閉まりきる直前、清永は岩村を振り払って扉を押し開け、無言の背中に突進しようとした。
「艇長! なんとか言ってくださいよ。これ受け取ってくださいよ。奥さんがくれた大事なものなんでしょう!?」
「こりゃいかん。早く押さえろ」と叫ぶ岩村の声が緊張で硬くなり、「清永上工、落ち着いて!」と呼びかける河野の両腕がぐいと腹を締めつけた。清永はひたすら艇長とくり返し、足を踏んばって蓄電池室に留まり続けた。妻との絆を他人に預け、肌を溶かすガスに巻かれてでも修理をやり遂げた艇長は、本当の勝利を手に入れられたのかどうか。せめてそれだけでも知りたいと思ったが、早川との距離は縮まらず、二人がかりの力で引っ張られる体を踏み留まらせることもできずに、清永は再び通路に尻餅をついた。
「急げ!」と命じた岩村に従い、河野が今度こそ蓄電池室の扉を閉める。早川の背中が見えなくなり、清永は力の失せた首に引きずられて顔を下に向けた。汗と、目に溜まっていた雫がその拍子にぼたぼたとこぼれ落ち、垢《あか》と油で汚れたズボンに染《し》みを作った。ポケットから御守りを取り出し、その上にも数滴の雫をたらしてしまった清永は、染みになる前に慌てて親指で水滴を拭った。
これを自分に託した艇長の想いも、遺された言葉も、いまはまだわからない。しかし少なくとも、艇長は命と引き換えに考える時間を与えてくれた。〈伊507〉も自分も、いまだ生き残っている。それは単に、特攻して果てるまでの時間が引き延ばされたということではないのだろう。
無駄にはできない。泣いている暇はない。自分の涙が御守りを汚し、貴重な時間も汚すのを嫌った清永は、顔中の雫を吹き散らして絶叫した。
「〈伊507〉、ローレライ! 艇長で足りなきゃおれの命もくれてやる。絶対に勝ってみせろぉっ!」
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「深度、二百二十」
潜航士官の声がうわずり、水圧に締めつけられる船体がぎりぎりと軋む音を奏でた。まだか、とすがりついてくる十組の目を背中に、絹見はコロセウムを見つめ、その時機≠ノ差しかかろうとしている状況に全神経を傾注した。
こちらに追随する〈しつこいアメリカ人〉は、深度百七十メートルで潜降を止めた。距離は約四百。その二百メートル後方には、深度二十を維持して追尾するもう一杯のガトー級がおり、現行のまま推移すれば両者は約三十秒後に最接近する。〈伊507〉と、二杯の敵潜の位置関係が一直線で表されるその時機=\―ローレライを眠らせずに〈しつこいアメリカ人〉を叩き、且《か》つもう一隻のガトー級も沈められる好機の到来は、たった一度しかない。絹見は目を皿にしてコロセウムを覗き込み、あらゆる角度から三つの砂鉄の塊を凝視した。舵を一杯にきって方向転換したとして、時間は間に合うか? 浮上角度の計算に間違いは……?
いや、いける。生理と不可分になったドンガメ乗りの直感がそう断じて、絹見はすべての不安を消し去った。よく耐えた、よく持《も》ち堪《こた》えてくれた。瞑目《めいもく》し、水圧に握り潰されようとしている〈伊507〉の悲鳴を聞いた絹見は、瞼を開けた次の瞬間、反撃開始を告げる声を全身から搾り出した。
「メインタンク、ブロー! 深さ二十まで急速浮上」
その時を待って身を縮こまらせていた発令所要員たちは、唐突な下令であっても戸惑う素振りは見せなかった。全員が即座に、一斉に動き出し、各々の復誦の声が艦内に響き渡る。間もなく圧搾空気がメインタンクに送り込まれ、蒸気機関車の汽笛に似た轟音《ごうおん》が艦首から艦尾までを貫いた。
雌伏《しふく》の時を終えた〈伊507〉の咆哮《ほうこう》だった。絹見は続いて「機関全速! 面舵一杯」と令した。
「左舷前進一杯、右舷後進一杯。潜舵上げ一杯!」
復誦が矢継ぎ早に走り、〈伊507〉の船体が大きく右に傾斜する。発令所の床に転がるガラス片や絶縁材の屑《くず》、工具などが、慣性の力に引っ張られてわずかに左舷側の壁に寄り、ついで重力に引かれて右舷側の壁に転がる。「派手に行くぞ! 全員なにかにつかまれ!」と高須が一斉放送マイクに怒鳴る声を聞きながら、絹見は潜望鏡に手を巻きつけ、重心を低くして衝撃に備えた。
右に傾いた船体が復元すると、今度は艦首側に傾斜していた床が持ち上がり、前後水平になったのも一瞬、急速に艦尾側に傾いてゆく。仰角は三十五度から四十度、四十五度へ。床の水溜まりと結露の雫が音を立てて艦尾側に流れ落ち、配電筐《はいでんばこ》にしがみつく潜航士官が耐えきれずに振り落とされ、床を滑って隔壁に叩きつけられる。絹見はみるみる上昇に転じる深度計の針を見てから、コロセウムに視線を移した。急速回頭、そして急速浮上。航空機に匹敵する機動をやってのけた〈伊507〉の砂模型が、黄緑色の淡い光を浴びて浮き立って見えた。
限界まで潜ったところでメインタンクをブローした〈伊507〉は、重石から切り離された風船のようなものだ。機関の力に浮力が相乗し、最大水中速度を凌駕《りょうが》する速さで上昇する。その針路上には〈しつこいアメリカ人〉と、もう一杯のガトー級がいる。刻々と変化する三者の位置関係をコロセウムに確かめ、「潜舵、下げ二度」「縦舵、取り舵三度」「舵、戻せ」と逐次指示を飛ばす一方、絹見の目は〈伊507〉ではなく、その艦尾にぶら下がる〈海龍〉に注がれていた。
待っていろよ、〈しつこいアメリカ人〉。これまでさんざんいたぶってくれた礼だ。きつい一発をお見舞いしてやる。艦首を上に向け、ほとんど垂直で浮上する艦の傾斜に耐えながら、絹見は唇の端を笑みの形にひきつらせた。
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「目標反転! 本艦に急速接近中!」
水測長の絶叫は、船体の軋む音を圧して司令塔に響き渡った。ブレーカーが落ちたように思考が空白になり、「なに……?」と呟くしかなくなったキャンベルに代わって、「方位は!?」とファレルの怒声が反応する。
「方位二〇八。下から突っ込んできます!」
カミカゼ――瞬時に浮かび上がった言葉を噛み締め、ファレルと目を見交わしたキャンベルは、致命的な見落としをしていた自分に気づいて呆然となった。あれはもう我々の知る〈シーゴースト〉ではない。そういう蛮行《ばんこう》を平気でやる連中の艦に成り下がったのだという事実に、なぜもっと早く気づかなかったのか。恐怖より強い恥辱の念が空白になった頭を塗り潰し、「機関全速! 面舵……」と声を張り上げたキャンベルは、「間に合いません!」とそれ以上に大きい声を出した水測長に遮られ、全身を硬直させた。
アクティブ・ソナーの反射音が、目標の異常近接を告げて非常警報のごとく鳴り響く。直後に船体が大きく右に傾き、キャンベルは体勢を立て直す間もなく右舷の壁に背中を打ちつけた。ごうごうと轟く水流の音、耐圧殻のすぐ向こうを移動する機関の音が司令塔を圧し、誰もが顔中の筋肉をこわ張らせて天井を見上げる。左舷下側から浮上してきた〈シーゴースト〉が、その船体をこすりつけるようにして〈トリガー〉に肉迫する音――機関音が一段と激しくなり、スクリュープロペラの回転する規則的な音が次第に高くなる。耐圧殻が引き裂け、暗い海底に呑み込まれる一瞬先の我が身を予測して、キャンベルは無意識に肺に空気を溜めた。船体をびりびりと共振させる機関音が最高潮に達し、ヘッドフォンを外した水測長が胸前に十字を切った刹那、プロペラの回転音が頭上を行き過ぎ、近づく一方だった機関音が徐々に遠ざかり始めた。
水流の音も併《あわ》せて遠くなり、五官を圧迫する気配が急速に薄れてゆく。キャンベルはゆっくり首を動かし、海図台につかまったファレルともういちど目を見交わした。〈シーゴースト〉の機開音は右舷上方に抜け、間違いなく〈トリガー〉から離れつつあった。
すれ違ってくれた……? 硬直した体を壁から引きはがし、キャンベルは両方の足で床に立った。瞬間、すさまじい衝撃に下から突き上げられ、床につけたばかりの足が宙に浮いた。かつて聞いたどんな音よりも大きい激突音が艦尾方向に発し、照明という照明が残らず消えて、キャンベルを奈落の底に引きずり込んだ。
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それは、海中を自在に見通せる者のみが実行し得る戦法だった。〈伊507〉は〈トリガー〉の左舷後方から接近し、後部露天甲板の上を通過して右舷前方へと抜けた。
〈伊507〉の艦底と〈トリガー〉の甲板との距離は、もっとも接近した時点で一メートル弱。だがすべてのタンクをブローして、重石の外れた風船のごとく上昇を続ける〈伊507〉は、ただ脅かすために〈トリガー〉をかすめたわけではなかった。艦底をこすりつけるようにして〈トリガー〉に交差する一瞬、〈伊507〉は潜航を下げ、その艦首を海底へと向けていた。
イルカの曲芸さながら、〈伊507〉は大きな弧を描いて〈トリガー〉の上を飛び越えたのだった。必然、艦尾に引きずる曳航索具も大きな弧を海中に描き出し、再度潜降に転じた〈伊507〉に引っ張られて、滅多なことでは断ち切れない頑丈な索が〈トリガー〉の後部甲板をこする結果になった。その末端には特殊潜航艇の〈海龍〉が繋がれており――〈伊507〉に牽引され、十三ノットを超える速度で海中を進んでいた〈海龍〉は、そのままの勢いで〈トリガー〉の横腹に激突した。
全長十七・二八メートル、直径一・三メートルの鋼鉄の塊が〈トリガー〉の左舷に突き刺さり、水中排水量二十三・五トンの質量に速度を掛け合わせた力が、まともに船体を打ち据える。〈トリガー〉は弾かれたように艦尾を振り、外板は呆気なくひしゃげ、耐圧殻は歪んで、搭載する精密機械の大半が一斉に火花を噴き出した。〈海龍〉の艇首がめり込んだ左舷側の後部魚雷発射管は完全に潰れ、浸水と火災に見舞われた艦内はたちまち地獄と化したが、〈トリガー〉の不幸はそれだけに留まらなかった。
〈海龍〉の激突と同時に〈伊507〉から切り離された曳航索具は、惰性の力に引っ張られて〈トリガー〉の下側に回り込み、すぐに新しい力の虜になった。水中でも二千七百四十馬力を維持する機関によって、直径二メートル弱のプロペラを回転させる二軸のスクリューの力。〈トリガー〉を推進させるスクリュープロペラは、艦底付近を漂う曳航索具の先端をあっという間に引き寄せ、海水と区別することなくプロペラの刃《ブレード》に巻き込んでいった。
巨船を牽引する頑丈さと、索具としての柔軟さを併せ持つ曳航索具が、右舷側のプロペラに搦《から》め取《と》られ、スクリューシャフトに絡みついてゆく。モーターが不協和音を奏で、減速ギアが弾け飛ぶ音を艦内に響かせた後、〈トリガー〉の右舷側プロペラは回転を止めた。激突して海底に落ちるはずだった〈海龍〉は、シャフトに巻き上げられる形で〈トリガー〉の後部甲板に密着し、推進力の半減した船体には重すぎる荷物となって〈トリガー〉にのしかかった。
〈伊507〉がその頭上をかすめてから、十秒と経たないうちに起こった出来事だった。〈トリガー〉は事実上その戦闘能力を失い、乗員の忿懣《ふんまん》と恐怖を封じ込めた鋼鉄の袋と化した。爆沈することも、海中に呪詛《じゅそ》の念をまき散らすこともなく無力化された〈トリガー〉には、再び浮上を開始した〈伊507〉を見上げる役目しか残されていなかった。
ローレライの千里眼を維持したまま、〈伊507〉は浅深度を目指して一路浮上を続けた。鋭い刃を備えた防潜網切器を掲げ、海水を切り裂いて驀進する艦首の先には、残るもう一隻のガトー級、〈スヌーク〉がいる。その船体から放たれるアクティブ・ソナーが〈伊507〉の艦影を探知し、パッシブ・ソナーも急速に浮上する機関音を捉えたが、聴音魚雷Mk28が射出される気配は一向になく、〈スヌーク〉は無防備な腹を〈伊507〉に見せて、深度二十メートルの浅海を漂っていた。
〈トリガー〉の陰から浮上してきた〈伊507〉に対しては、目標誤認を警戒して聴音魚雷を放つことができず――いや、当たり前のソナーしか持ち得ない〈スヌーク〉には、浮上してくるのが敵か味方かの区別さえおぼつかなかったのだ。〈スヌーク〉の艦長が事態を察した時にはすでに遅く、〈伊507〉は雷撃可能深度に達していた。自動懸吊装置がその船体を〈スヌーク〉の左前方に静止させ、艦尾に設置された後部旋回式魚雷発射管の外扉が開いてゆく。タバコの箱に似た旋回発射管が油圧駆動で九十度回頭し、内蔵する四本の九五式魚雷の弾頭が、約五百メートル離れた〈スヌーク〉をぴたりと見据えた。
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「発射管、ようそろ」
まる一日にわたった辛苦の疲労を滲ませて、高須が息の上がった声で報告する。気温三十五度、湿度九十七パーセント。炭酸ガス濃度はとっくに危険域を超え、じき呼吸不能域に入る。自分も全力疾走の直後のように肩を上下させながら、絹見はヘルゼリッシュ・スコープに目を当て、砂鉄で再現された敵潜の姿を十字線の中心に捉えた。
魚雷の調定は済んでいる。方位〇九四、距離五百二十。水上標的を狙うのと同じ要領で観測数値を読み、必死に逃げる敵潜の未来位置を計算して、最適な射点を割り出す。これなら潜水学校を出たての新米、いや生徒だって撃沈は容易だろう。もしナチがローレライの量産に成功していたら、世界中の潜水学校の教育課程は三分の一に短縮されていたかもしれない。そうなれば自分は失業だなと思い、微かに口もとを緩めた絹見は、唯一の懸案事項を思い出してすぐに苦笑を消した。
〈海龍〉をぶつけて撃沈しない程度の損傷を与え、乗員を殺傷せずに敵潜の足を止める。〈しつこいアメリカ人〉を仕留めた手口が使えるのは、一回限り。敵の追撃を振り切るには、目前のガトー級は沈めるしかない。その瞬間の恐怖と苦痛がどのようなものなのか、想像もつかないというのが正直なところだが、代われるものなら代わりたいなどというおためごかしで、とりあえずの良心を慰めるつもりは絹見にはなかった。
人それぞれ、負わなければならない責務と苦痛がある。君に負わされた苦痛は度を越しているが、いまは利用させてもらうほかないのが我々の立場だ。呪ってくれていい。自分から君に言える言葉はたったひとつ――。
「堪えろよ、ローレライ……」
その言葉を最後に、絹見は思考を捨てた。十字線に映る敵影に全神経を集中し、己の責務を果たす声を張り上げた。
「後部発射管、九番。てぇっ!」
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肉体に置き去りにした五官に、魚雷発射の微かな震動が伝わる。後部旋回発射管から九五式酸素魚雷が撃ち出され、航跡の筋を感知野に刻んでガトー級に直進するのを見届けたパウラは、無駄とわかっても五官の神経に意識を凝らし、水の中に没入している自分を忘れようと努めた。
感知野が閉じ、すべての神経が水から引き上げられるのにかかる時間は、最短でも三分。間に合わないと端《はな》からあきらめ、できるだけ神経を弛緩させて苦痛に備えるのが常だが、今度ばかりは意識を失いたくない、艦を守らなければならないという思いに駆られて、パウラは闇雲《やみくも》に走り続けた。弛緩した肉体に意識的に神経を引き戻す作業は、重い粘液の中を全力で走るのに似ている。実際、身体は〈ナーバル〉の座席に横たわっていても、パウラの精神と筋肉は張り詰め、長距離走の最中のような疲労と刻苦に苛まれていた。
常連四十九ノットで突き進む魚雷は、しかし十秒と経たずにガトー級の左舷中央に突き刺さり、弾頭の炸薬を起爆させた。ガトー級は司令塔の根元から吹き飛び、分離した司令塔が大量の気泡をまき散らして破砕すると、船体も真っ二つに折れて、内側から爆発した耐圧殻が外板を四方八方に飛散させてゆく。パウラはその衝撃に押し倒され、沸騰する海水がどろりと凝固し、赤黒い液体に変化するのをなす術なく見つめた。それはあらゆる物理法則を無視した速さで〈ナーバル〉に押し寄せ、ほどなく注水管やハッチの隙間、外板の継ぎ目から艇内に侵入し始めた。
ちぎれた手足や頭、臓物。血と体液に包まれだ汚物がどぼどぼと艇内に流れ込み、パウラの四肢にからみついてくる。巨大なアメーバに捕食されたかのごとく、パウラは肌を焼かれ、骨を溶かされ、神経を蝕《むしば》まれる激痛に身をよじらせた。痛い、苦しい、助けてと呻く百人の声が錯綜し、最後になぜ≠ニいう一語が頭の中で爆発する。パウラは歯を食いしばってそれを受け止め、途切れそうな意識の糸をぎゅっと握りしめた。
負けちゃいけない。強くならなくちゃいけない。必死に訴える理性を組み伏せ、なぜ≠ニ問う百人の声が全身の痛点を刺激する。座席に横たえた体を弓ぞりにして身悶《みもだ》え、水に浸けた両の手のひらを痙攣させたパウラは、ふと腹のあたりに暖かな感触が広がるのを知覚した。
手のひらの形になって広がる熱が、冷えきった体をじわりと温めてゆく。自分をうしろから抱きかかえるひと組の手のひらを見下ろし、いつの間に手袋を外したんだろうと考えたパウラは、ためらいがちに、しかしぴったりと密着させて、自分の手のひらを征人の手のひらに重ねた。
そうすれば痛みがやわらぐと、体が知っているようだった。自分を抱きとめる征人の腕に力が入り、手のひらから流れ込む熱が勢いを増す。腹部を温める熱が腰まで広がり、痛みが退いてゆくのを感じたパウラは、小さく安堵の息を漏らした。途端に闇が覆いかぶさり、パウラの意識を静かに昏睡《こんすい》へ導いていった。
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爆発、四散したガトー級から生じた衝撃波が海中を伝播《でんぱ》し、〈伊507〉の船体をも微かに震わせた。音速を超える衝撃波は海面付近の水を霧に変え、爆発の圧力がそれを押し上げるから、海上では白濁した水柱が盛大に屹立《きつりつ》していることだろう。絹見は腹に響く重低音を全身に受け止め、敵潜の粉砕を体感しながら、引き締めたままの顔をコロセウムに向けていた。
ガトー級の砂模型が無数の破片になって散らばると、〈伊507〉の砂模型も不意に形を崩し、砂時計の砂のようにコロセウムの底に流れ落ちてゆく。淡い緑色の輝きも徐々に光彩を失い、コロセウムは切れた裸電球さながら、奇怪な器の形を発令所に佇立させるのみになった。
ローレライ、沈黙――。息を詰めて見守る高須たちの顔に明らかな戸惑いが浮かび、敵艦撃沈の喜色に染まるべき発令所が不安一色に塗り込められる。いちど便利に慣れると、人はもう後戻りはできなくなるということか。自身、想像以上の心もとなさを感じている心中を眺め、内心に舌打ちした絹見は、「聴音! 状況を知らせ」と一喝してコロセウムに背を向けた。
「方位一八二、距離六百五十。敵潜、急速浮上中」
ローレライ稼働中であっても聴音を続けていた唐木水測長の返答は、明瞭迅速だった。どてっ腹に〈海龍〉を叩き込まれ、機関も半分潰された状態で、なおこちらに向かって浮上してくる〈しつこいアメリカ人〉。もはや執念の権化《ごんげ》となった鋼鉄の塊が海中を這い進み、じりじり接近しつつあるさまは、機能を失う前のコロセウムで先刻確認している。雷撃可能深度まで浮き上がり、最後の一騎打ちを仕掛けるつもりだろう。「仇名は伊達ではないな」と独りごち、予測通りの展開に高須と頷きあった絹見は、「聴音器の音を全艦のスピーカーに繋げ」と続けて令した。
「取り舵一杯、新針路一八二。微速前進」
下水の流れる音に似た海流音、規則的な韻律《いんりつ》を刻む敵潜の機関音が渾然となってスピーカーから流れ、次第に間隔の短くなる探信音波の金属音がそれに相乗する。残量わずかな電力を振り絞り、〈伊507〉が〈しつこいアメリカ人〉の接近方位に回頭すると、探信音波の間隔はいよいよ短く、聞く者を圧迫する音になって発令所に響き始めた。肩で息をする一同の顔に緊張が張り詰め、「敵潜、方位変わらず。距離四百八十」と唐木の声が流れる。
ここからが正念場。酸欠で痛む頭に気合いを入れ、絹見は「掌砲長、調子はどうか」と伝声管に口を寄せた。
(準備よし。しかし射程が読めません。できるだけ距離を詰めていただけると助かります)
落ち着いた田口の声が応じ、絹見は少し肩の力を抜くことができた。射程に限らず、すべてが読めない前代未聞の行為だが、他にこの局面を切り抜ける術はない。聴音器と探信儀を使った水中戦闘では、〈しつこいアメリカ人〉に一日の長がある。相手も深手を負っているとはいえ、満身創痍《まんしんそうい》、千里眼も失った〈伊507〉が生き残るには、それなりの工夫が要り用になる。無理は承知と腹を括ってくれているらしい田口に、絹見も「了解した」と抑揚のない声を返しておいた。
「その時が来たら、操艦は掌砲長に従う。頼むぞ」
(はっ!)と返ってきた田口の応答は、〈しつこいアメリカ人〉の機関音にかぶさって聞こえた。しつこいというだけではない、狂気という言葉を思い出させる粘着質な音だった。
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「無理ですっ! もう後退してください」
ファレルの怒声は、ぎりぎりと軋む船体の音より耳障りに響いた。無様《ぶざま》にひきつった肉厚の頬は見ず、百二十フィート(約四十メートル)を切った深度計に目を走らせたキャンベルは、「これ以上の戦闘は自殺行為だ!」と視界を塞いで立ったファレルに、露骨に顔をしかめてみせた。
「前部発射管の魚雷、ソナーともに健在。機関も第一主機は生きている。死に体の〈シーゴースト〉を仕留めるのに、他になにがいる。〈トリガー〉はまだ戦える。十分にな」
「しかし、艦尾に亀裂が生じて浸水が始まってます! 一刻も早く後退して浮上しなければ、二度と浮き上がれなくなってしまう。速度だってもう二ノットも出んのですよ?」
つかみかからんばかりの勢いでわめくファレルを見、艦長は副長を更迭《こうてつ》できないという海軍法を疎《うと》ましく思いながら、しかし確かに艦の被害は甚大《じんだい》だとキャンベルは認めた。すれ違いざま、〈シーゴースト〉に巨大な鉄の塊――おそらくは艦尾に曳航していた小型潜航艇――をぶつけられたために、外殻は裂け、内殻にも亀裂が入り、一気に流入した海水が艦尾魚雷発射管室を水没させた。曳航索具を巻き込んだらしい右舷スクリューは回転を止め、機関出力は半分以下に低下。いまの〈トリガー〉には、艦尾側に傾いた船体を立て直す力もない。が、それがどうしたというのだ?
奇抜な戦法で一方の動きを封じ、その間にもう一方を仕留める。単純かつ効果的なやり方で、〈シーゴースト〉はこちらの裏をかき、二つの敵と同時に戦えない弱点を克服してみせた。だが彼らは、ひとつ重大なミスを犯したことに気づいていない。〈トリガー〉にとどめを刺さず、〈スヌーク〉の方を仕留めた選択のミス。より強力な敵を生き残らせてしまったミスに、気づいていない。
いかに取り返しのつかないミスであったか、これから嫌というほど思い知らせてやる。キャンベルは、「痛手を被《こうむ》っているのは〈シーゴースト〉も同じだ」と言ってファレルに背を向けた。
「しかも〈スヌーク〉を沈めて、『魔法の杖』も使えなくなっている。すぐにけりはつくよ」
「この状態でどうするというのです」
「『魔法の杖』さえなければ、水中戦闘の実力はこちらの方が上だ。ここには奴が隠れられる障害物もない。じきに到着する水雷戦隊と連動して……」
「水雷戦隊なんぞ来ない! まだわからんのですか!」
単に口を滑らせたという声ではなかった。不意に蹴つまずかされた思いで、キャンベルは押し隠してきた本音をぶちまけたファレルに振り返った。司令塔にいる全員が注視する中、「我々は囮なんだ」と重ねたファレルは、怯えともつかない表情を浮かべて一歩あとずさった。
「ONIも海軍も、我々が〈シーゴースト〉を仕留めることは最初から期待してない。しょせんは奴の実力を測るためにあてがわれた実験動物なんだ。合衆国海軍には、『魔法の杖』に関するもっと別のプランがある。我々なんかには想像もつかない、大きなプランが。奴が落っことした『魔法の杖』を見つけられずに、あろうことか目の前でさらわれてしまったドジな潜水艦は、とっくの昔に見捨てられてたんですよ……!」
皮肉のように敬語《サー》を付け足したファレルは、あとは溜まりに溜まった忿懣を荒い息にして吐き出し、キャンベルを凝視するのみだった。艦長の反応を窺う一同の視線も浴びたキャンベルは、艦尾側に七度傾斜した床がさらにせり上がり、垂直に屹立した司令塔から滑り落ちる自分を幻視した。
そうかもしれない。いや、そうなのだろう。数え上げればきりのない不可思議、この作戦の根本的な非効率をあらためて顧《かえり》み、とりあえずファレルの見解を腹に収めたキャンベルは、だからといって怒る気にもなれない自分の平静さに戸惑いを覚えた。妻が――アシュレーが浮気をしているらしいと聞かされた時もそうだった。同僚の目撃談を否定も肯定もせずに最後まで聞き、その晩、アシュレーが開き直って事実を認めても、怒りも悲しみもついにわいてこなかった。別離《わかれ》てくれていい、と言ったアシュレーにひと言も返さず、翌朝、いつものように家を出、ポーツマスの海軍工廠に係留中の〈トリガー〉に乗り込んだ。そのまま出撃し、ギルバート諸島沖で日本軍の水上艦艇に袋叩きの目に遭わされた後、九死に一生を得て、この特別任務を仰せつかることになったのだった。
前々から感づいていたから、冷静でいられたのではない。感づいていたからこそ、他人にそれを指摘されたことが我慢ならなかった。真実を突きつけられ、その痛みに耐えかねた無意識が、痛みを痛みと知覚するより先に平静を装う神経を働かせたのだ。そうして別の興味に――操艦と戦闘の日々に埋没していれば、痛みと直接向き合わずに済む。直視を避けたところで痛みは癒えず、むしろ悪化するものだとわかってはいるが、興味の対象が継続して存在している間は、耐えがたい屈辱や孤独感を忘れていられる。見捨てられた痛みを我が身に引き寄せずに済む。
そうだ、〈シーゴースト〉。おまえはまだそこに存在する。そしておれには戦う力が残されている。他にはなにも必要ないんだ。なにも、なにも……。
「|だったらなんだ《ファッツ・マター》」
ファレルを一瞥して、キャンベルはそれだけ言った。驚愕と絶望に見開かれたファレルの灰色の目に背を向け、なりゆきを見守る司令塔の面々に向き直ったキヤンベルは、「雷撃戦、準備!」と命じて疑念に濁《にご》った空気を追い散らした。
「発射管注水、外扉開け。雷撃可能深度に到達次第、攻撃を開始する。ソナーは敵の位置を逐次知らせ」
「艦長……!」
すがる声音に続いて、ファレルの太い指が肩に食い込んできた。「わたしは戦闘指揮を執っているんだよ、エディ」と言い、キャンベルは感情を消した目をファレルに振り向けた。
「話なら後で聞こう。奴を沈めた後にな」
肩をつかむ指から力が抜け、背中を滑って床に落ちる気配が背後に伝わった。その場に膝をついたファレルから離れ、キャンベルはペリスコープの柱に片手を預けた。
深度は八十フィート。じき雷撃可能深度に到達する。ナチの飼い犬だった頃よりいっそう周到で、油断ならない敵になった〈シーゴースト〉。あるいはなんらかの対応策を準備しているかもしれないが、かまうものか。察しの通り、おれにはもう帰る場所がない。すでに滅んだ国から、これから滅ぶ国に身を売ったおまえもそれは同じだろう。我々が唯一、生の実感を得られるのはこの海にいる時だ。生真面目を嗤《わら》われることも、不公平極まりない論理に翻弄されることもない。鉄の意志が道を拓《ひら》き、力のある者が勝利を得る。単純明白な論理が支配する戦場の海だけだ。
そろそろ決着をつけよう。国家間の駆け引きも軍の思惑も関係ない、我々の闘いの決着を――。自分と現世を繋ぎ止めるたったひとつの存在を見据え、キャンベルは薄い笑みを口もとに浮かべた。
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暗黒の淵から、一点の輝きがゆっくり浮かび上がってくる。それは海水の揺らめきにもてあそばれて歪み、風にさらされる蝋燭《ろうそく》の炎のように頼りなく瞬きながらも、決して消えない目印≠フ役割を果たし、測距儀の照準スコープに目標の所在を教えていた。
艦内でもっとも狭く、もっとも高価な装置が集積する区画――射撃指揮所に腰を据えるフリッツは、その光景を目の当たりにして感心するより先に呆れた。艦橋構造部上に張り出した基線長四メートルの大型測距儀は、〈海龍〉の探照燈の光を確実に捉えている。曳航索具を介した遠隔操作でスイッチが入れられ、〈伊507〉から切り離された後も、〈海龍〉のバッテリーを消費して輝き続ける探照燈。耐圧構造に守られた分厚いガラスは、激突の衝撃にもなんとか耐えてくれたらしい。回収作戦用に装備された強力なライトが闇を裂き、〈海龍〉と、〈海龍〉を艦尾にぶら下げて浮上する〈しつこいアメリカ人〉の姿を、朧《おぼろ》ながら浮かび上がらせる。絹見の目論見通り、ホタルのように尻を光らせ、己の所在を知らせるガトー級潜水艦の姿が、二十倍率に設定した照準スコープに映し出されているのだった。
距離はもう五百メートルを割った。最大射程十一キロを誇る二十・三センチ砲の測距儀で測定するには、やや近すぎる距離で瞬く光を十字線に捉え、距離計と角度計の数値を再確認したフリッツは、自分の手が汗ばんでいることに気づいて少し驚いた。
ネクタイを外し、胸前をはだけたワイシャツも汗を吸って肌に張りついている。酷暑でもほとんど汗をかかない体質は、「白い家」で投与された薬物が代謝機能に影響を与えた結果とばかり思っていたが、それだけではなかったようだ。精神的な理由だったのだろうか? だとしたら、ほんの数時間前の自分と現在の自分は、どこがどう変わったというのか……。
「目標よし、射撃用意よし!」
肩を寄せ合うようにして指揮所にこもる田口が、部屋の狭さを無視した大声を伝声管に吹き込む。測距儀はT字形の構造体で、外に張り出した横棒の部分に三眼のレンズを備え、艦橋構造部に埋没した縦棒の部分、すなわち可動軸の真下が射撃指揮所になっている。直径二メートル足らずの筒型の空間に、照準器や射角・方向角の調節ハンドル、射撃統制装置などの操作機器がぎっしり詰め込まれ、本来は砲術長が単独で配置されて射撃指揮を執る。その下に複数の砲術科員が付き、給弾や、弾道に影響を与える各種数値――風向、風速、気温、気圧、船体傾斜角――を観測して、砲手でもある砲術長の補助を行うのが通常の手順だ。
が、いまはもちろん通常の時ではない。砲術長を務めるはずだった仲田大尉は艦に乗り込む前に戦死し、代わって射撃指揮を執るのは掌砲長の田口。彼に主砲操作を一から教え、ともに狭苦しい指揮所にこもって補助を行うのはフリッツただひとり。砲術科員も下に控えてはいるが、彼らの出番は今回はない。錬度不足で機器の操作に不安があるからではなく、そもそも必要ないのだ。
(打ち方始め。時機は掌砲長に託す)
絹見の冷静な応答に、「打ち方始め! 発射時機、掌砲長いただきます」と田口の復誦が重なる。再度の大声にさらされてじんとなった耳を押さえ、どうせ正気の沙汰じゃない、なるようになれと内心に吐き捨てたフリッツは、それで余分な思考に蓋をして照準スコープに目を戻した。
接近する光が射線上に乗ったことを確かめてから、フリッツは軽く顎をしゃくって田口を促した。照準スコープはゴーグル型の突起物で覆われており、砲手はこれに額を当ててスコープを覗き込み、発射時機を窺う。操作要領を教える間、いくつか質問を寄越した他は返事代わりの鼻息しか漏らさず、への字に固めた口を動かさなかった田口は、この時も仏頂面でスコープに両目を押し当てた。
後は任せるほかない。砲座にでんと収まった大柄な背中から離れ、指揮所の内壁ぎりぎりまで退がろうとしたフリッツは、ちらとこちらを振り返った田口と目を合わせて、意味もなくどきりとした。
意外に澄んだ瞳が、おれに全部やらせるつもりかと訴えていた。フリッツは軽く息をつき、砲座の脇に戻ってもう一度スコープを覗き込んだ。四百に近づいた距離計を読んでから、「もっと引きつけた方がいい」と言ってやった。
「どれくらい」
「少なくとも二百」
「ぎりぎりだな」衝撃波の影響、艦の惰性運動を素早く計算したのか、田口は「根拠は?」と重ねた。
「あるか、そんなもの。ただ水中だと、マシンガンでも相手を殺せる距離は一メートル以下になる。射程距離の比率から言って、だいたいそれくらいだろう」
「ようするに勘か。頼りねえ話だな」
「文句なら艦長に言え。こんな狂ったやり方、ナチの連中だって思いつかなかった」
敵潜に打ち込んだ〈海龍〉の探照燈を目印≠ノして、水中で二十・三センチ連装砲をぶっ放す。海戦史に残る愚挙に出ようとしている我が身を自覚したらしく、田口は微かに苦笑した顔を照準スコープに当て直した。水中で砲門を開いたら最後、海水が流入して主砲自体が使えなくなるので、チャンスは一度きり。よって次の砲弾を装填する給弾手の出番はなく、風速や気圧が弾道に与える影響は計算できても、流速や水圧がおよぼす影響は計算しようがないから、観測員も必要ない。要り用なのはヤケクソの度胸と勘、それに運。あと一時間足らずで酸素が尽き、バッテリーも尽きる艦内に閉じ込められた乗員たちが生き残るには、その運に賭けるしかない。〈しつこいアメリカ人〉は共倒れを覚悟で追撃を続け、息切れした〈伊507〉が浮上するのを待って必殺の雷撃を仕掛けてくるだろう。ここで確実に仕留めなければ、ローレライの加護を失った〈伊507〉が無事に浮上することは――。
「右寄せ三《さん》、高め二《ふた》」
迷いのふっきれた剛直な声が耳元に発して、フリッツは無為な物思いをやめた。砲塔の旋回軸は水中で稼働するようには設計されていないから、方向角は艦の針路を変えて調節しなければならない。フリッツは伝声管に口を寄せ、「発令所、右変針三度」と田口の指示を伝えた。
ごとん、と金属が擦れあう音が床下から響く。田口が射角調節ハンドルを回したのを受けて、砲塔内にいる操作手が砲身を動かした音だ。二本の砲身がわずかに上を向いたはずだが、水中で、それも指揮所にこもっていては確かめる術はない。照準スコープを独占されていては艦が変針したかどうかもわからず、「戻せ」と言った田口の声を、「舵、戻せ」と伝声管に中継しながら、フリッツは、他人に命を預ける心細さをあらためて噛み締めた。
初めての経験ではない。潜水艦に乗っていれば、艦長に自分の生死を任せるだけでなく、預けた命を他人事のように傍観する心理も自ずと身につく。〈UF4〉時代の自分は、そうして己の命というものを遠くに置き、妹と逃亡する機会を窺う一方、死んだら死んだで仕方がないとあきらめの境地にも達していたが、いまはここで終わりたくはない、先に進んでみたいと願う思いがどこかで育ちつつある。それが心細さを増殖させ、かきなれない汗になって染み出しているようなのだ。
臆病になったのか? と自問し、違うだろうと自答したフリッツは、ある種の安心感に包まれている自分も発見して、少し気恥しくなった。先刻、発令所で戦闘中にあるまじき光景を見た時から――縁もゆかりもない他人たちが妹のために頭を下げ、この無茶苦茶な反撃作戦が始まった時から、自分の中でなにかが変わった。永く目の前にかかっていた霧が晴れ、彼岸《ひがん》に続く一本道にいくつもの分かれ道が存在することを知った。分かれ道の先は見えないが、それぞれ別の場所に繋がっており、その気になればどちらにも進むことができる。決まりきった道の他にも、選択し得る道があるのだとわかり、自分の先行きに興味を持てるようになった。
いきなり分かれ道に踏み込むほど愚かにはなれず、その先にいまよりマシななにかがあるという保証もないが、少なくとも可能性は残される。「白い家」でルツカが望み、ついに手に入れられなかった可能性。それを見極めるためなら、他人に命を預ける怖さぐらい、紛らわさずに正面から受け止めようと決めて、フリッツは汗ばむ手で砲座の背もたれを握りしめた。肌の色とか、血の記憶とかは関係ない。ここの連中は、ナチの連中より多少は好きになれるらしいのだから……。
「発射用意」
照準スコープに顔を当てて動かなかった田口が、主砲発射スイッチに手をかけつつ言う。フリッツも緊急用の爆砕ボルト作動スイッチに指を載せ、その時を待った。
「発射時機近づく。五、四……」
田口のうなじから汗が滴り落ちる。「三、二……」と呟くその声が聞こえる音のすべてになり、フリッツは息を詰めて指先に全神経を集中した。
「てーっ!」
渾身《こんしん》の一声が田口の口から迸り、フリッツは爆砕ボルトの作動スイッチを入れた。打ち合わせ通り、一拍遅れて田口が発射スイッチを押し、直近で爆雷が弾けたような轟音が射撃指揮所を圧した。
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開閉機構の故障に備えて設置された爆砕ボルトは、二十・三センチ砲の砲口を塞ぐ砲口蓋を瞬時に吹き飛ばし、水圧より強い爆圧の力で海水を押しひしげて、爆発的な気泡に包まれた砲口は一瞬、真空状態になった。二本の砲身から打ち出された砲弾は、その気泡の渦を突き破って海中を走り、弾頭の風帽で海水を切り裂きながら二百メートル先の目標を目指した。
水の抵抗力がたちまちその速度を減殺《げんさい》したが、最大射程二十四キロの飛翔力を持つ砲弾を無力化するには、厚さ二百メートルの水のカーテンでは少々薄すぎた。沸騰する海水の尾を引いて走る二発の砲弾は、潜水艦の耐圧殻を貫くのに十分な威力を維持したまま、目標――〈海龍〉の探照燈が照らし出す〈トリガー〉の舷側に突き刺さった。
外殻を破り、内殻を破って艦内に到達した砲弾は、一発が重油タンクを貫いて機械室にめり込んだ。後の一発は電気室に到達して炸薬を起爆させ、秒速数百メートルの爆風と、まき散らされた破片が艦内を荒れ狂った。人体に命中した弾丸が筋肉組織を貫き、骨や内臓に当たって砕けるように、〈トリガー〉を貫いた砲弾は艦の急所を容赦なく破壊し、ずたずたに引き裂いて、全長九十四メートルの船体に致命傷を与えていった。
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魚雷や爆雷が間近で爆発したのとは違う、もっと硬質で取り返しのつかない衝撃が足もとを貫き、司令塔を激震させた。大きくスライドした床に足を取られ、潜望鏡に背中を打ちつけたキャンベルは、ボールのように跳ね飛んで側壁の情況指示盤に激突した。
びりびりと震え続ける床に手をつき、なんとか立ち上がろうとする。ショートの火花を閃かせる配電盤、床に突っ伏した水測長らの背中が、上下左右の感覚を失った視界を次々に流れ、キャンベルはたまらずに目を閉じた。悲鳴と怒号が床下の操舵室からわき上がり、金属の引き裂かれる轟音がそれをかき消す。なんだ、いったいなにが起こった? 状況を督促《とくそく》しようにも声が出ず、側壁にもたれかかったまま、ずるずる座り込んでしまったキャンベルは、「|よお《ヘイ》、艦長《スキッパー》」という声をすぐそばに聞いて、瞼を開いた。
同じく壁にもたれかかったファレルが、血まみれの顔をこちらに向けていた。嘲笑に歪んだ厚ぼったい頬と、冷たく光る眼を同居させた顔が、自分ともども、百人の乗員を殺した男への憎悪を込めてキャンベルを射疎《いすく》めた。
「来世用の忠告だ。女房に逃げられた男に、潜水艦の艦長はやらせるもんじゃない」
艦長と、艦長を制止できなかった副長の我が身を同時に喋って、ファレルは言った。見透かされていた? 恐怖や怒りを押し退けて恥辱の念が全身を貫き、キャンベルは咄嗟に左右を見回した。他の者に聞かれはしなかったかと恐れ、最後の最後にそんなことを気にする己の浅ましさに愕然とした刹那、艦尾方向から発した爆発音がキャンベルの鼓膜を破った。
内殻の裂け目から流れ込んだ重油に火がつき、機械室が爆発を起こしたのだった。怒濤《どとう》のごとく艦内を吹き抜けた炎と爆風は、隔壁を突き破って艦首にまで到達し、船体の上に張り出した司令塔をも焼き尽くした。恥辱の熱で内側から焼かれたキャンベルの肉体は、次の瞬間には外側から押し寄せる炎の熱で灼《や》かれ、その生命を蒸発させた。
溶鉱炉《ようこうろ》と化した耐圧殻は膨脹し、補強材の鉄輪を引きちぎって瓦解すると、内殻と外殻の隙間に充填《じゅうてん》された重油に残らず引火を促して、外板という外板がすべて弾け飛んだ。船体を支える竜骨《キール》も真っ二つにへし折れ、内側から大爆発を起こした〈トリガー〉は、海上には五十メートルに達する水柱を、海中には大量の気泡と衝撃波の嵐を残して、硫黄島沖西南西百八十キロの海域に没した。現地時間七月三十日、午前四時二十七分のことだった。
爆発を中心に広がった衝撃波の輪は、砲撃と同時に逆進をかけ、〈トリガー〉から離脱を図った〈シーゴースト〉――〈伊507〉を真正面から打ち据えた。爆圧によって凝縮され、固体に近い硬度を持った水の塊が暗灰色の装甲を直撃して、〈ナーバル〉を背負った〈伊507〉の巨体が大きく揺らぐ。〈しつこいアメリカ人〉と仇名された敵艦の怨念さながら、飛散した破片も無数に降りかかったが、〈伊507〉のスクリュープロペラは回転を止めることなく、その船体を確実に爆心から遠ざけていった。
暗黒の海底に堕ちてゆく〈トリガー〉の残骸を尻目に、〈伊507〉はいったん落ち込んだ深度を徐々に上げ始めた。頭上にはうっすら発光する海面の揺らめきがあり、今日の朝陽が昇りつつあることを告げていた。
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腸《はらわた》を揺する重低音の唸りが後方に遠ざかると、がたがたと鳴る船体の共振も収まり、天井から降り注ぐ結露の雨は小康状態を迎えた。絹見は潜望鏡の柱に腕を巻きつけて体を支え、明滅する赤色灯を見据えながら、〈伊507〉の鼓動に耳を澄ました。
爆雷百個が一時に弾けたのと同等の衝撃を、二百メートル以下の至近距離で浴びたのだ。機関の音に不協和音が混ざったり、新たな浸水報告が届いたりすれば、備蓄空気をほとんど使い果たした艦の浮上は絶望的になる。両眼をしっかりと見開き、できれば塞ぎたい耳に意識を凝らして、絹見は明暗を決する音を聞き取ろうとした。モーターの音は、正常。大規模な浸水に伴う空気の変動も、ここからは感じられない。損害報告は――?
「目標、撃沈!」
不意にわき起こった声に、絹見はぎょっと振り返った。濃厚に漂う死の気配を吹き消し、もぎ取った勝利を高らかに宣言した高須と目を合わせて、腹に詰まった不安が溶けて流れるのを自覚した。
〈伊507〉、健在。唐木水測長と並んでヘッドフォンを耳に当てた高須の目がそう言い、艦内のあちこちで発した歓声がそれに続いた。機械室、前後部の魚雷発射管室、中央補助室。ラッパ型の伝声管が地鳴りに似た乗員たちの歓声を伝え、発令所でも海図長と潜航士官が肩を抱きあって快哉《かいさい》を叫ぶ。階級も年齢も関係なく、無心に喜びあう乗員たちの顔を前にして、絹見は栓《せん》が抜けたかのようなため息を吐いた。潜望鏡から離れ、機能を停止したコロセウムに腰を預けて、汗でぬるついた目頭を揉んだ。
潜水艦単独で、二杯の敵潜を同時に撃沈。帝国海軍始まって以来の快挙を為し遂げた実感もいまはなく、しばらくは目を閉じ、脱力した体が回復するのを待った。浮上、損害確認、軍令部への連絡と、これからの手順を考えるうちに頭が真っ白になり、一服つけたいものだ……という思いだけが空になった頭に残る。やはり歳だな、とため息を吐き直し、目を開けた絹見は、いつの間にかこちらを注視していた高須や海図長、操舵長らの顔を視界に入れて、一瞬きょとんとした。
己の生き死にを預け、その命令には完全に従う。艦長という存在を見つめ、受け入れる目がそこにあった。艦籍未登録の鉄屑でも、規格外品の乗員の寄せ集めでもかまわない。どうやら自分は〈伊507〉の艦長と認められたらしいとわかり、絹見は姿勢を正した。
「よくやってくれた」
複数の踵が合わさるざっという音が発令所にこもり、一斉に挙手敬礼した一同の所作が澱んだ空気を払った。絹見は答礼し、全員が敬礼を解くのを待ってから、いま〈伊507〉が必要とする唯一の命令を下した。
「メインタンク・ブロー。浮き上がれ」
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圧搾空気が重力タンク内の水を押し出し、軽くなった船体が徐々に浮上を開始する。その間、乗員たちの歓声は伝声管を低く震わせ続け、各科ごとの万歳三唱も収まる気配がなかった。うしろに束ねた髪に手をやり、汗を絞り取ったフリッツは、射撃指揮所の床にあるハッチを開放した。
ラッタルを下った先には、第一甲板がある。一刻も早く新鮮な空気を吸おうと、三々五々発令所に集まり始めた乗員たちのせいで、一甲板の通路はいつになく混雑していた。ラッタルに足をかけ、その混雑の中に降り立とうとしたフリッツは、「どこ行くんだ?」とかけられた声に顔を上げた。
「今頃は夜明けだ。ここにいりゃ、その……。太陽の光が拝めるぞ」
砲座に腰かけた田口が、傷の目立つ頬を掻きながら言う。射撃指揮所は艦橋構造部の中にあるので、艦が浮上すれば新鮮な空気が真っ先に入ってくる。照準スコープを覗けば外の光景も見られるだろう。発令所で艦橋に上がる順番待ちをするより、はるかにマシな思いができることはわかっていたが、フリッツには興味のない話だった。
水浸しになった主砲は解体点検しなければならないし、予備の砲口蓋を取りつける必要もあるが、いまはとにかく補気と充電が先決だ。とりあえず自分の役目は終わったと思い、いかにも照れ臭そうな田口から目を逸らしたフリッツは、「もう用は済んだんだろう?」と返した。
「部屋に戻ってひと眠りする」
「部屋って、収監室か?」
他にどこがある。じろと睨み上げると、「へそ曲がりが」と吐き捨てた田口の顔がそっぽを向いた。
「妹の顔を見てやんなくっていいのかよ」
腕を組み、指揮所の壁に片足をつけた田口は、それきり振り返ろうとしなかった。ちくりと胸を刺す痛みを無視して、フリッツは残りのラッタルを降りきった。
慌ただしく発令所に向かう乗員たちの流れに逆らい、二甲板に下りる。士官室の前を横切って最下層の三甲板に向かおうとすると、ラッタルを上がってきた清永と鉢合わせた。油で黒く汚れた顔に、汗の筋をいくつもつけた清永は、フリッツと合わせた目を反射的に険しくした。
こちらもさり気なく身構え、ラッタルを昇りきった清永を無表情に見返したフリッツは、その手に小さな布の袋が握りしめられていることに気づいて、わずかに眉根を寄せた。昔、祖母に見せてもらった記憶がある。オマモリとかいう呪《まじな》いの道具だった。
フリッツの視線に気づいたのか、清永はオマモリを後ろ手に隠し、むっと口を閉じてみせた。顎を引き、軽く拳を握って対したフリッツは、不意に目を伏せ、「……艦橋、行かねえのかよ」と低く呟いた清永の態度に、拍子抜けの気分を味わった。
「ああ」と応じたフリッツに「ふうん」と返し、清永は歩き出した。汗とも涙ともつかない筋を残した頬を横目で窺い、大柄な背中を見送ったフリッツは、あんなに大人びた奴だったかな……と感想ひとつを結んで、三甲板に下るラッタルを降りた。
たび重なる衝撃で蝶番《ちょうつがい》が外れたのか、傾いた扉が開けっぱなしになっていることを除けば、収監室は最後に見た時と変わりがなかった。壁をさすって亀裂の有無を確かめたフリッツは、傾いた扉を無理にでも閉め、固い寝台に腰を下ろした。衝撃で天井から剥がれ落ちた錆カスや塗装片を手で払い、横になろうとしたところで、寝台の下に制帽が落ちていることに気づいた。
拾おうとして、髑髏の徽章と目を合わせたフリッツは、不意に虫酸《むしず》が走るのを感じた。SSの制帽自体に虫酸が走ったのではなく、それを拾おうとした自分自身に虫酸が走ったのだった。我ながら節操《せっそう》のなさに呆れたが、ナチにも、SSにも、本心から忠誠を誓ったことは一度もなく、ただ必要だから身につけていたのだと考えると、いまの自分はもうそれを必要としなくなったのだろうという結論に落ち着いて、錆カスをかぶった制帽をそのまま放っておくのに迷いはなかった。
だからと言って、ここの連中と同じ格好をしようという気にはならない。フリッツは束ねた髪をほどき、寝台に仰向けになった。まだそちらに足を向けるかどうかは定かでないが、とりあえず進むべき道はひとつではないとわかった。そういうことだ。いまはそれだけでいい。パウラのことが気にならないではなかったが、中途半端な状態の兄がくっついているより、ここの連中に任せた方が妹のためになると納得して、フリッツは瞼を閉じた。
自分が必要になれば、どうせすぐに呼びにくるだろう。この艦に乗っている限り、連中とおれは一蓮托生なのだから。
「一蓮托生、か……」
つい先日、絹見に言われた時には否定した言葉を、なんの抵抗もなく受け入れている。まったくどうかしていると思い、フリッツは苦笑した。腹の底の忿懣を紛らわすためでも、自分を嘲《あざけ》ったのでもなく、ただ可笑しくてこぼれた苦笑だった。
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(艦体、浮上します)
一斉放送に繋がったままのスピーカーが告げると、大量の水が流れ落ちる音が頭上に轟き、床が前後に微動した。水中で衝撃波に叩かれた時の鋭い動揺とは異なる、ゆったりとした動揺を潜水靴の足裏に感じ、舷側を洗う波の音を耐圧殻ごしに聞いた征人は、逸る胸を抑えて後部座席から立ち上がった。
背もたれをいっぱいに倒した前部座席に横たわったパウラは、一向に目を覚まそうとしない。前部座席の正面にある小型潜望鏡を覗き込み、どきりとするほどの明るさに思わず目を背けた征人は、今度はゆっくり接眼レンズに目を近づけた。
払暁《ふつぎょう》の色に染まる空と、まだ夜の重さを引きずった海面が一時に視界に入ったが、閉鎖空間に慣れきった頭は痺《しび》れるばかりで、じっと見惚《みと》れるという心境にはなれなかった。左腕の傷がひきつれる痛みを訴えるのも感じた征人は、潜望鏡から手を離してとりあえず給気弁を開いた。続いて高圧通風装置を作動させ、機械室の水密戸を開く。
排水の済んだ〈ナーバル〉の床は、潜水靴の底が当たるたびに金属の音をくぐもらせたが、パウラの瞼が開く気配はなかった。ディーゼル給気用の換気扇が回り、機械室を経由して新鮮な空気が入り込んできても、合わさった長いまつ毛はぴくりとも動かない。外した手袋を団扇《うちわ》代わりにしてばたばた扇《あお》ぎ、パウラに少しでも新鮮な空気が行くようにした征人は、「パウラ、起きろよ」と耳元にそっと呼びかけてみた。
「助かったんだ。外に出られたんだぜ。明るいよ。すごく明るい。もうお日様なんてずっと見てないだろう?」
頭にかぶるヘルツォーク・クローネを恐る恐る外し、肩を揺すってもみたが、閉じた瞼は開かなかった。まる一日起きないこともあると言ってたっけ。フリッツの言葉を反芻した征人は、それも無理はないと思い直して、昏睡するパウラから目を逸らした。
ひどいものだった。敵潜が爆沈した瞬間――いや、その直前からパウラの苦しみは始まっていた。感電したようにのけぞり、手足を痙攣させて、征人がなにを呼びかけてもまったく反応しない。声さえもあげられない極限の苦しみを味わい、水に浸した手のひらをこわ張らせるパウラを前に、征人にできたのは震える体を抱きしめてやることだけだった。
感知中は水から引き揚げたり、無理に体を動かすと危険だと教えられていたので、前部座席の背もたれごと、うしろから抱きすくめた。あるいは自分の声が伝わるかもしれないと、手袋を外し、パウラの脇腹を両手で包み込んで、大丈夫、怖くない、おれがいると念じたが、パウラの苦しみは収まらず、征人の手をはぬのける勢いで硬直と痙攣をくり返した。背骨が折れてしまうのではないかと思わせるくらい激しく、痛ましい痙攣だった。
涙が出た。こんなにも苦しんでいる姿を目の前にしながら、なにもしてやれない悔しさ。それでも彼女の力を利用せずにはいられない、自分たち軍人の無明ぶり。彼女を兵器に作り変え、終わりのない刻苦を与えた世界そのもの、戦争という絶対的な状況への怒り。そういったものが渾然となって流させた涙だった。もう大丈夫とも、怖くないとも言えず、征人はごめん、ごめんよとひたすら謝り続けた。それが伝わったのかどうかはわからないが、冷え、ふやけきったパウラの手のひらが征人の手のひらに重ねられると、痙攣は次第に収まり、パウラは昏睡に引き込まれていった。
意外に穏やかな寝顔にほっとした征人は、発令所にパウラの気絶を告げてから、座席を上昇させて彼女を水から引き揚げた。水中砲撃という前代未聞の戦法で戦闘が終結したのは、十分ほど前。〈ナーバル〉艇内の排水を命ぜられた後は、別命あるまで待機と言い渡され――それきり、ほったらかしにされているのだった。
補気と充電、修理作業に追われて忘れられているのかもしれない。機械室の方を振り返り、思ったより進まない換気にいら立った征人は、「出てみようか?」とパウラの寝顔に呼びかけた。このまま医務室に直行すれば、今度はいつ外の空気が吸えるかわかったものではない。敵機でも来ない限り、すぐに潜航することはないだろうから、出してやるならいまだ。パウラにはその権利がある、と自分を納得させた征人は、まずは前部隔壁の水密戸を開き、ひとりで艇外に出てみることにした。
水密戸をくぐって気密室に入り、ラッタルに靴のつま先を引っかけて、慎重に上部ハッチのハンドルを回す。耐圧性を向上させるべく、潜航中の艇内の空気は加圧されているので、浮上直後にいきなりハッチを開くと外に吸い出されてしまう危険がある。大きく口を開け、気圧差で鼓膜が破れないよう備えた征人は、片手でしっかりラッタルの支持棒を握り、ハンドルの最後のひと回しをもう片方の手で行った。
ハンドルが開放位置に振り切れるや、艇内から噴出する空気に押されてハッチが自動的に跳ね上がった。ラッタルにしがみつき、顔をなぶる空気の奔流に耐えた征人は、それ以上に強烈な光の奔流を頭から浴びて、咄嗟に片手で目を覆った。
瞼を閉じても、まだ目が染みるほどの光だった。外というのはこんなに明るいものだったか? ほとんど恐怖を感じ、ゆっくり光に目を慣らしていった征人は、艇内の空気がすっかり入れ替わる頃、ようやく顔を上に向けることができた。円形のハッチの向こうに、〈伊507〉に乗り込んで以来、初めて目にする明るい空が広がっているのが見えた。
曙光《しょこう》を浴びて間もない空は、限りなく白に近い水色だった。じんと心地好い痛みが眉間のあたりに広がり、汚れた空気に一週間近くさらされてきた肌が、ひりひりと歓喜の叫びをあげる。太陽を直接浴びたわけでもないのに、全身が火照《ほて》り、体に染みついた悪臭や雑菌が消毒されてゆくのがわかる。その場に立ち尽くし、ハッチから流れ込む新鮮な空気を貪《むさぼ》った征人は、すぐにそれだけでは足りなくなり、無意識にラッタルを昇り始めていた。
ハッチから頭を出した途端、清涼な風が出し抜けに吹きつけてきて、息が止まりそうになった。酸欠と汚れた空気に慣らされた体が、外気のあまりの肥沃《ひよく》さに驚いたようだった。続いてこれまでの明るさなど較べものにならない、骨まで染み透るすさまじい光が顔面を直撃し、覆った手のひらさえすり抜けて網膜を白熱させた。先刻と同じ手間をかけて光に目を慣らした征人は、橙色《だいだいいろ》に燃え盛る光源――太陽に、細めた目を向けてみた。
水平線から半分ほど顔を出した太陽は、海面に無数の光の粉を散らし、空の色に混じって見分けのつかない雲にも光を投げかけて、海と空しかない世界に複雑な陰影を与えていた。征人は声をなくしてその光景を見つめ、海を渡る風を肌に浴び、溢れるばかりの空気を肺に吸い込んだ。甘苦い大気を噛み締めると、心地良いでも、さわやかというのでもない、美味《うま》いという表現が自然に頭に浮かび上がり、目の前の光景がふと滲んだ。
仲田大尉にチョコレートをもらった時と同じだった。美味いものを口に入れると、人間は涙が出るようにできているらしい。奇妙な感心をしてから、征人は目尻に滲んだ雫を拭い、いったん艇内に戻ろうとした。目が醒めなくてもいい、抱きかかえてでもパウラをここに連れてこよう。この光を浴びさせ、この空気を吸わせてやろう。ラッタルを降り、すでに息苦しく感じる艇内の空気に半身を浸した征人は、こちらを見つめる人の視線に気づいて動きを止めた。
振り返った目に、ここからは小高い丘のように見える〈伊507〉の艦橋構造部が映った。半球状にせり出した格納庫の扉、格納庫の上に並ぶ二挺の対空機銃、朝陽を浴びて橙色に輝く艦橋を順々に視界に収めた征人は、最後に艦橋の上に佇《たたず》む絹見艦長と視線を交わらせた。
二本の潜望鏡と給気筒が佇立する艦橋甲板に立ち、双眼鏡《メガネ》を首にかけた絹見は、この空も海も、状況の一局面に過ぎないと言わんばかりの無表情で、〈ナーバル〉の上部ハッチから半身を乗り出す征人を見下ろしていた。反射的に体をこわ張らせた征人は、絹見の顔半分が橙色の陽光に塗り潰されているのを見て、不意に胸が軽くなるのを感じた。
この顔を呉で見かけた時から、すべてが始まった。薄暗い艦内に閉じ込められ、機銃弾の雨にさらされ、窒息の恐怖を味わわされた一週間を象徴する能面。息苦しさと不可分だった艦長の顔が、いまは太陽の光とともにある。広大無辺な海と空を背後に従え、一度は奪い去ったものを無言で差し出して、自分を見下ろしている。そう思えた時、ラッタルをつかむ右手が自然に上がり、征人は絹見に挙手敬礼をしていた。
そうするのが決まりだからではなく、敬礼という言葉が表す通りの心情につき動かされ、右手を掲げたのは初めての経験だった。絹見は答礼を返し、ほんの少し緩めた口もとを太陽の光に浮き立たせると、すぐにいつもの無表情に戻って征人から視線を外した。メガネを持ち上げ、はるかな水平線を見渡すその姿は、もう一工作兵の存在など頭の片隅にもない艦長のものだった。
征人も絹見を見上げるのをやめて、太陽が下辺を接する水平線を見つめた。昭和二十年、七月三十月。幾多の生命を呑み込んだ戦場の海を照らし、太陽の光は橙色から黄金色に転じつつあった。
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「お客さん、お電話が入っちょりますが」
襖《ふすま》ごしに届いた女の声に、重くのしかかる眠りの皮が破られた。布団を押し退けて上体を起こした途端、障子を真っ白に輝かせる陽光に目を射られた大湊《おおみなと》は、寝汗で湿った顔を慌てて手で覆った。
そのまま「何時だ?」と尋ねると、「九時半です」の声が返ってきて、やれやれ……という思いがぼやけた意識の底に固まった。ろくに整理していなかった調査資料に目を通し、零時前には床についたはずだから、なんと十時間近く寝ていた計算になる。血を吐くような不安を抱えていても、疲れた体はおかまいなしに眠りを欲するというわけか。まだ寝ていろと言われれば、夕方までだって寝ていられそうなだるさを確かめ、「すぐ行く」と応じた大湊は、床を抜け出して浴衣《ゆかた》の帯を手早く締め直した。
柱島を離れ、広島市内にたどり着いたのが昨晩の九時近く。本来なら焼け残った官舎にでも投宿すべきところを、この高級料亭で思わぬ骨休めをすることになったのは、呉鎮守府の幕僚《ばくりょう》を勤める同期が行きつけの店を紹介してくれたからだ。ほとんど孤立無援の調査活動を強いられ、床にもつけない一週間を過ごした身にはありがたい気遣いだったが、ひと晩程度の熟睡で溜まった疲労が抜けきるものではない。むしろ国家存亡の時節柄をものともしない料亭の台所事情に呆れ、夜半まで鳴りやまなかった三味線の音色と嬌声《きょうせい》に呆れて、却って気疲れさせられたという気分もないではなかった。
巷《ちまた》ではどんぐりの実さえ食用に供されようという時に、白米の飯や刺身、ビールまでが平然と運ばれてくる。高級外車を堂々と乗り回し、芸者を上げて乱痴気《らんちき》騒ぎに興じる御仁がひとりならずいる。しかもその連中の出自はと言えば、日ごろ贅沢は敵だと喧伝《けんでん》する市議会や市役所の官吏公僕であり、灯火管制を口やかましく押しつける軍の将校であり、彼らを抱き込み、権益に与かろうとする企業家たちであるらしいのだ。
浅倉が見切りをつけた気分もわからんではない。そう言えばあの男と最後にじっくり向き合ったのも、こんな料亭の中ではなかったか? ふと思いつき、疲れを溜め込んだ腰がみしりと痛むのを感じた大湊は、無精髭の浮いた顔を思いきりしかめて襖を開けた。廊下に控えていたもんぺ姿の女と目が合い、見覚えのある細面《ほそおもて》がぎょっと伏せられるのを見て、しかめた顔を急いでもとに戻さなければならなくなった。
昨夜、部屋の案内から食事の世話まで面倒を見てくれた芸者だった。住み込みの内芸者なのだろう。売れっ子らしく、あちこちの座敷に呼ばれていたが、その合間にも小まめに顔を出し、不足がないよう目を配るのを忘れなかった。周囲の騒ぎに辟易《へきえき》するこちらの気分を察すると、仲居にも干渉を控えさせる神経の細やかさで、朴念仁《ぼくねんじん》を自認する大湊にもいい女という言葉を思い出させた。
絣《かすり》の着物にもんぺをはいた姿は、昨晩の艶《あで》やかな着物姿とは別人のようだが、化粧気のない肌に女盛りの張りを湛え、切れ長の目を伏せ気味にした顔には、それはそれで楚々《そそ》とした色香が漂っている。確かおケイとか言ったなと内心に呟き、もしや同期の情婦《イロ》か? と続けて考えてしまった大湊は、「誰からだ?」と素っ気ない声を出してくだらない詮索《せんさく》を打ち消した。
「お連れの中村様です」
「中村が? もう起きたのか?」
「七時過ぎにはお目覚めになって、鎮守府にお出かけになりましたけえ。大佐殿はお起こしせんよう言われちょりましたんで」
柱島で〈伊507〉の整備補修に携わった工作兵や造船技師、総勢百人を超える関係者を片っ端から尋問し、人員と補給資材の調達経路を洗い出す。気の遠くなる膨大な調査活動の助手を務め、一週間の不眠不休につきあってくれた中村は、昨晩も自分より後に寝たはずだった。気力も体力も充実した三十代の部下に対して、四十代も半ばを超えた身が遅れを取るのは初めてのことではなかったが、久しぶりに熟睡できた安心感のせいか、この時はひどく複雑な思いが大湊の胸を吹き抜けた。
火薬|廠《しょう》、燃料廠、衣糧廠、人事部。各鎮守府の傘下組織から鎮守府幕僚に攻め上り、軍政・軍令両機関を動かした命令書の出所を探るとともに、その結節点ひとつひとつに目を凝らして、白か黒かの当たりをつける。広島湾のただ中に浮かぶ柱島にこもり、残された書類から謀議の痕跡をたどってゆく作業は、つまりは海軍組織全体を容疑者に見立てた探偵業であり、想像以上に根深いその腐敗構造を確かめる作業に他ならなかった。謀議の全貌が明らかになったところで、喜ぶ者は誰もおらず、親兄弟を疑うようなうしろめたさが終始つきまとう。しかも黒幕の軍令部第一部第一課長はとうの昔に行方をくらまし、彼が独断で出撃させた戦利潜水艦も消息を絶って、すべてが手遅れの様相を呈しているのだ。
呉に到着すると同時に始まった米軍の空襲は、大湊たちが柱島に渡った後も反復して行われ、増援はおろか、無線も通じない状況下での調査活動になった。黒煙を噴き上げる軍港を遠望し、たまに飛来しては余った爆弾を落としてゆく敵機を警戒しつつ、〈伊507〉が入渠《にゅうきょ》していたドックを写真に収め、同じ海軍の飯を食う兵たちを相手に尋問の真似事をやる。これで気の滅入らない者がいたら呼んでこいというところだが、若さゆえの近視眼が功を奏しているのだとしても、中村はよく持《も》ち堪《こた》えた。柱島に取り残された格好の工作兵たちから丹念に供述を取り、〈伊507〉の補修に出向を命じられた時の様子、所属原隊の指揮官の経歴などを照らし合わせて、ほとんど全部が灰色の世界を、濃い灰色と薄い灰色に分ける仕事を積極的に推し進めてくれた。お陰で一応の調査資料がまとまり、こうして帰京の途につけることになったのだが、報告を受けた軍令部が、彼の熱意に見合うだけの対応をするかといえば、およそ見込みはないというのが大湊の読みだった。
今次調査で確実に判明したのは、〈伊507〉に太平洋を横断できるほどの燃料が積み込まれたことと、搭載する〈海龍〉に特殊兵器回収用の装備が増設されたこと。この二点から、〈伊507〉が特殊兵器回収のために出撃した事実が推測できるが、推測で物を言えるのはここまでだ。〈伊507〉の出撃に必要な人員と資材の調達に関して、命令書を受け取った将校たちの何人が恣意《しい》的に浅倉に協力し、何人が当たり前の事務手続きに従っただけなのか。これについては、灰色の段階では口にすることさえ許されない。たとえばある将校の謀議への加担が取りざたされるとして、その者が軍令部総長や次長、各部長の誰かと同期であったり、かつての上官や部下であったり、縁戚関係であったりした時に、更迭《こうてつ》なり聴取なりが速やかに行われるものかどうか。海軍省や、軍需工場の背後に控える財閥筋との繋がりもあれば、事態はさらに混迷の度合いを深める。中止されたはずの作戦がひとり歩きを始めたことが判明し、浅倉の関与が明らかになった時でさえ、その更迭をしぶりにしぶったのが軍令部なのだ。
それぞれに守るべき体面があり、組織のメンツがある限り、調査がこれ以上進展することはない。〈伊507〉を出撃させた浅倉がなにを目論み、なにを行おうとしているのか。よもや中止になった『断号作戦』を、そっくりそのままなぞろうというのでもあるまい。彼の謀反《むほん》――もうそういう言葉を使ってもいいだろう――の具体的な中身が闇《やみ》に閉ざされている間は、誰もが目と耳を塞ぎ続ける。無理に開かせようとすれば、こちらの命取りにもなりかねない。
外界と完全に遮断された一週間を過ごして、中村はなにがしかの進展があることを期待して呉鎮《くれちん》に向かったのだろうが、戦況はともかく、浅倉や〈伊507〉の行方について収穫があったとは思えない。おケイについて廊下を歩き、階下の玄関口にある電話に向かう道すがら、大湊は中村にどう説明したものかと考えあぐねた。
柱島では黙ってやらせておいたが、内地で同じように動き回るのは危険だ。追及を嫌う者の数が一定に達すれば、無意識の悪意と暴力がその身に振りかかってくる。左遷《させん》ならまだしも、前線にでも飛ばされた日には目も当てられない。これからは発言ひとつ、行動ひとつにも用心しろと教える必要があるが、せっかくのやる気を阻喪《そそう》させずに話を進めるには、どこからどこまで説明すればよいのか。考えあぐねるうちに階段を下りきり、古ぼけた柱時計の脇にある電話を前にした大湊は、軽く咳払いしてから「わたしだ」と受話器に吹き込んだ。
「ご苦労さん。お陰様で寝坊させてもらったよ。そっちはどうだ。復旧作業は進んでるのか?」
つい饒舌《じょうぜつ》になってしまったこちらをよそに、中村は切迫した声で話し始めた。
七月二十六日、ポツダム宣言、無条件降伏といった言葉が次々に耳の奥で弾け、胃袋をずしりと重くして、受話器を取り落とさないようにするのが精一杯になった。なにもかもが青天の霹靂《へきれき》、衝撃としか言いようのない話だったが、大湊は「うん。うん。そうか」と機械的に落ち着いた声を出し、柱時計のガラスに映る自分の顔を呆然の目で見つめた。この一週間で激動した情勢から取り残され、浦島太郎になった男の顔がそこにあった。
「で、内閣の反応は? ……黙殺か。だろうな」
昨夜、新聞のひとつも取り寄せなかった己の粗忽《そこつ》さが恨まれた。料亭を紹介してくれた同期が、この件についてはひと言も話さなかったのは、外界の情報と分断されていたこちらの立場を知らなかったからだろう。空襲で通信塔が根こそぎ破壊されたために、柱島ではラジオさえ聞くことができなかった。そこまで考えられる頭を取り戻した大湊は、「わかった、ありがとう。わたしもこれからすぐそちらに行く」と言って受話器を置いた。
それきり、体中の神経が断線したようだった。しばらくは身じろぎもできずに、大湊は庭先から届く蝉《せみ》の声を聞き、柱時計の振り子が刻む時の音を聞き続けた。
来るべきものが来た――そんな感じだった。七月二十六日の早朝に受信されたポツダム宣言は、要約するなら日本に無条件降伏を求める米英支三国の協同勧告だが、実際のところは勧告などというなまやさしい代物ではない。政府は昨年暮れのカイロ宣言の焼き直しと断じ、黙殺するとの見解を発表したものの、八項目にわたる終戦条項の具体的で硬質な言葉の響きは、最後|通牒《つうちょう》以外のなにものでもなかった。
特に締めくくり――ポツダム宣言を拒否した場合には、迅速かつ十分な壊滅あるのみとす≠ニ謳《うた》った一文。これは脅しではない。米国には、迅速かつ十分な壊滅≠日本にもたらす新兵器がある。対米情報を所掌する軍令部第三部第五課長として、大湊はその新兵器が実戦配備されつつあることを知っていた。彼らは本気だ。本気で日本を地上から消し去るつもりだ。水面下で進行中だった終戦工作もこれですべて水泡に帰し、全滅か、降伏かと迫る匕首《あいくち》が喉元に突きつけられたのだとわかって、大湊は震えた。玄関から差し込む日差しは時々刻々と強くなり、腋《わき》の下を汗が滴り落ちたが、内からわき起こる震えは収まる気配がなかった。
浅倉、貴様はまさか、これを予期して行動を起こしたのか……? もはや自分の手の届かない場所に去った旧友に問いかけ、答を得られずに拳を握りしめた大湊は、「なんやら厳しいお顔しちょりますな」とかけられた声に、ぎょっと顔を上げた。
麦茶の入ったコップを盆に載せ、おケイがすぐ横に立っていた。涼やかな中にも窺う色を忍ばせた微笑を見返し、顔の汗を浴衣の袖で拭った大湊は、「ああ……厳しいな」と応じて麦茶を受け取った。
「本当に、厳しいことになった」
微笑をわずかに曇らせたおケイの顔は見ず、大湊は開け放たれた玄関に目をやった。日差しはいよいよ強く、激しく、この広島をまるごと溶かしてしまうのではないかと思わせた。
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その頃、陸軍中央特殊情報部(特情部)は、日本に飛来する米軍機の不審な行動を察知していた。
特情部は暗号解読と通信傍受を任務とする部署で、米軍が戦略爆撃機B−29スーパーフォートレスを完成させ、迎撃不可能の高空から本土爆撃を開始するようになってからは、敵機の発信する電波をいち早く捉え、早期警戒警報を出すのが主な仕事になっていた。暗号無線は解読できなかったが、電波発信による簡単なコールサインの符牒《ふちょう》は判読できたので、サイパン方面から進発するB−29の動向をある程度予測することが可能だった。
通常、爆撃に飛び立つB−29の編隊は、出撃前にVのキーを連打する。これは無線機テストの合図で、それから三十分後に飛び立つと、今度は約十分後に15V575……≠ネどのコールサインから始まる短い電文を発信する。575は戦隊名、15はその機に与えられたナンバーを表す。これまでの調査で、サイパン島発のB−29はV400番台、グアム島発はV500番台、テニアン島発はV700番台のコールサインを持つことが判明している。つまりコールサインのやりとりで、飛来するB−29の発進基地と機数があらかた割り出せるのだった。
以後、B−29の編隊は富士山を目指してまっすぐ北上する。富士山には日本の電波探信塔があり、B−29はそこから発信される索敵電波を頼りに日本を目指すのが常だった。敵機の飛来をいち早く探知する一方、敵の案内役にも利用される。両刃《もろは》の剣《つるぎ》である富士の電探塔から得た情報をもとに、特情部は敵の爆撃目標と規模を各地の防空部隊に知らせる。防空部隊は射程の届かない高射砲を撃ち、なけなしの迎撃機を出動させて、圧倒的物量で行われる敵の戦略爆撃に虚しい抵抗をする……というのが、昭和二十年半ばの日本の防空態勢の現状だった。
そんな中、五月の中頃から頻繁《ひんぱん》に探知され始めたふ不審機は、通常の爆撃編隊とは明らかに異なる行動を示し、特情部の面々を困惑させた。コールサインは、これまでに観測されていないV600番台。他の戦隊が百十二機のB−29からなるのに対し、このV600戦隊は十二機程度のB−29しか持たず、テニアン島近海を飛行するばかりで、本土空襲にも参加しようとしない。七月中旬になると日本近海まで足をのばしてきたが、なにもせずにテニアン島に帰還するというくり返しで、その正体も目的も完全に謎に包まれていた。
もつとも奇異な点は、そのV600機が飛行中、たびたびワシントンに向けて長文の電報を発信することだ。前線を飛ぶたかが一機の爆撃機が、米国の首都に直接電報を打つというのは異変の度を越している。
『もう日本を占領したつもりで、連合軍の政治家が視察にでも来ているんじゃないのか?』
冗談混じりにそんな推測をする者もいたが、いくらなんでも時期|尚早《しょうそう》であり過ぎる。特情部はV600機の観測を続け、暗号解読に全力を挙げた。各国の国内放送を傍受し、電報や新聞など、大使館から入手できるあらゆる情報を収集して、その行動に関わりのあるニュースを洗い出そうとした。しかし成果は一向に挙がらず、その間もV600機は不審な行動を反復して行った。なんらかの特殊任務を遂行するために、飛行訓練を行っているのではないかという意見も出たが、ではその特殊任務とはなにかとの問いに答えられる者はなく、五里霧中の空気が特情部に広がった。
膨大な情報の中で、唯一特情部の目を引いたものと言えば、『ニューメキシコ州で新しい実験が行われた』と報じる外国通信社の新聞記事ぐらいだった。しかしアラモゴードという砂漠のど真ん中で行われた実験の詳細は、小さな囲み記事には記されていなかった。それが新兵器の実験であるかどうかも判然とせず、奇妙な実験の記事はすぐに興味の対象から外されていった。
後日、その記事こそがV600機の飛行目的と密接に関わっていたことが明らかになる。時に昭和二十年、七月三十日。V600番台のコールサインを持つB−29の一機、〈エノラ・ゲイ〉が広島に向かって飛び立つまでには、まだ一週間ほどの猶予が残されていた。
[#地付き](以下下巻)
[#改ページ]
底本
単行本 講談社刊
二〇〇二年一二月一〇日 第一刷