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機動戦士ガンダムUCユニコーン 02 ユニコーンの日(下)
福井晴敏
世界を覆す力『ラプラスの箱』の謎を秘め、
今、伝説の白き神獣(ユニコーン)が覚醒する!!
大人になったガンダム世代に贈るSF大河ロマン!!
反政府組織『袖付き』とビスト財団の間で行われていた『ラプラスの箱』を巡る謀議は、地球連邦軍の介入によって破局を迎えた。コロニー内外で始まる戦闘。オードリーを追って戦火の中を走るバナージは、純白のモビルスーツ〈ユニコーン〉と出会う。
人の革新――ニュータイプの力が覚醒した時、〈ユニコーン〉はその真の姿を現した!
かつて『ガンダム』に胸を躍らせた大人たちに贈る新たな宇宙世紀サーガ、緊迫の第2弾!!
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0096/Sect.1 ユニコーンの日
2(承前)…………9
3……………………32
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2(承前)
「船に戻れ、と?」
午後四時二分。俄かに光量が落ち始めた人工太陽の下、マリーダは公衆電話の受話器に吹き込んでいた。(そうだ)とジンネマンの太い声が応じる。
(捜索は一時打ち切る。取引が始まる前に帰投しろ。アレクとベッソンもだ)
彼女≠失探《ロスト》してから、二時間あまり。広大な工事区画を突破する術はなく、いたずらに時間を浪費した事実は事実だが、このタイミングでの捜索打ち切りは早すぎる。マリーダは、公衆電話脇の路肩に停めたエレカを見遣《みや》った。運転席に収まったアレクがハンバーガーを頬ばり、道路を渡った先にある建物――アナハイム・エレクトロニクス工業専門学校の校舎をそれとなく注視する姿がある。ここからは見えないが、ベッソンも校舎の裏手に回り、同様の監視態勢を整えているはずだった。
無論、あの学生が帰ってくるという保証はない。しかし工事区画でひと騒ぎを起こしてしまった以上、あの場に留まり続けることはできなかったし、他に手がかりと呼べるものがあるわけでもなかった。腕時計を見、取引の時間までまだ間があると確かめたマリーダは、「彼女≠ェコロニービルダーに入ったことは間違いありません」と多少焦れた声を重ねた。
「逃亡を手助けした学生の身元はわかっています。もしかしたら、財団となんらかの関係があるのかもしれません。彼が戻ってきたところを締め上げれば……」
(その財団から連絡があった。取引場所を、中央ポートからコロニービルダーに変更したいそうだ)
電話のコードに絡めた指が、ぴくりと震えた。彼女≠ニ接触したに違いないビスト財団が、この期に及んで取引場所の変更を打診してくる――しかも、彼らの膝下と言っていい場所に。後手に回らされている嫌悪感を覚えながら、「彼女≠フことは、なんと?」とマリーダは問うた。(頬被りを決め込んでる)というのがジンネマンの返事だった。
(なにを企んでるのか知らんが、こちらもポーカーフェイスで行くしかない。おまえは万一の事態に備えておけ)
なら、なおのこと〈ガランシェール〉には戻らず、自分もコロニービルダーに同行した方がいいのではないか? 反射的に言いかけて、マリーダは口を噤んだ。ジンネマンが想定する万一の事態とは、警護をひとり二人増やして対応できるレベルのものではない。モビルスーツを待機させておく必要がある、ということだった。
敢えて自らの砦をさらす気になったビスト財団が、素直に彼女≠返せばよし。返さなかったら、その時は――。「了解」と応じつつ、マリーダはアナハイム工専の校門に視線を流した。すでに授業は終わったのか、私服姿の生徒たちが笑いあいながら校門を抜け、エレカの駐車場の方に歩いてゆくのが見えた。
なにをそんなに笑うことがあるのだろう。ベビーカーを押す若い女性がひとり、彼らの傍らを行き過ぎるのも見たマリーダは、ふと不快感を覚えた。この通行人たちも万一の事態≠ノ巻き込まれるかもしれない、と想像したからではない。巻き込まれる時は一瞬、消えてなくなるのも簡単なことなのに、彼らはそんなことが起こるとは夢想だにしていない。意識的にも無意識的にも自らの死を考慮の外にし、昨日と変わらない今日が続くと信じている。しょせんはそうした集団錯誤で成り立っているのが平和という状況であり、それはどうしようもなく脆いものらしいという理解が、この時のマリーダにはひどく癇《かん》に障ったのだった。
娑婆《しゃば》の空気を長く吸いすぎたな、と思う。あのバナージとかいう学生を締め上げて、彼女≠フ行方を問い質したい気分は残っているが、自分はもともとその手の仕事に向く人材ではない。この窮屈な服もぬぎたいし、船に戻るのが賢明か……。
(いよいよだ。玉手箱の中身を拝見といくか)
こちらの心中を知ってか知らずか、ジンネマンが電話ごしに言っていた。マリーダは見知らぬ通行人たちを見るのをやめ、不快に温まったコロニーの空を振り仰いだ。
その、マリーダの足もと。内壁の地表から五十メートルあまりも下った先、宇宙の真空と直に接する〈インダストリアル7〉の外壁に、二つの物体が近づきつつあった。
最大直径十五メートル強、各々不揃いな形をした二つの物体は、暗礁宙域ではめずらしくもない石ころに見えた。太陽発電パネルの裏側に潜む〈ギラ・ズール〉のコクピットで、パイロットのサボアもそれを確認した。破壊されたコロニーから噴きこぼれた土砂の塊か、あるいはどこかの鉱物資源衛星から流れてきた破片か。いずれにせよ、〈インダストリアル7〉との相対速度はさほど違わず、コロニーに接触したとしても外壁に傷がつく程度で済む。港湾管理局のレーダーにも捕捉されているだろうし、危険と判断されたらコロニー防御用ミサイルで軌道を変えるなりなんなり、すぐに対抗策が講じられるはずだ。サボアはそう判断し、CG補正された拡大映像に目を凝らすのをやめた。
ひとつところに注意を奪われると、全体の監視がおぼつかなくなる。単独で外周監視任務について十二時間あまり、暇潰しに持ち込んだ音楽ディスクもひと通り聞き終え、集中力が低下している自覚もあった。ヘルメットのバイザーを開け、顔に浮き出た脂《あぶら》をウェットティッシュで拭き取ったサボアは、全天周《オールビュー》モニターに開いた複数のウインドにざっと目を走らせた。機体の周囲に展開した四機の小型監視カメラは、それぞれのケーブルを介して〈ギラ・ズール〉のコクピットに映像を送り込んでくる。港口を行き来する民間船の灯火、コロニーの外壁を走る地下鉄の光、ゆっくりそこに近づく二つの石ころ。順々に異常の有無を確認しながら、あと三、四時間の辛抱だとサボアは思った。取引が無事に終われば、〈ガランシェール〉に帰って思いきり四肢をのばせる。シャワーも使わせてもらえるかもしれない。飛行時間千弱、ガランシェール隊の中ではルーキー扱いの自分であっても、交替なしで丸一日に及ぶ外周監視任務をこなしてみせたのだから……。
瞬間、監視カメラの映像にノイズが走った。コクピットに流していたラジオの音声も雑音で途切れ、サボアは咄嗟《とっさ》に操縦桿となるアームレイカーに手を載せた。オールレンジにした無線のボリュームを上げ、ノイズごしに漏れ聞こえる無数の交話に意識を集中する。十秒ほどでノイズは消え去り、監視カメラの映像も復旧して、サボアはほっと息をついた。
またミノフスキー粒子の干渉波だろう。どこかで散布された粒子がこの一帯を擦過《さっか》し、電波を乱しながら拡散していったに違いないが、いまの波はちょっと大きかった。サボアは念のために各種機器の動作チェックをし、監視カメラの映像を確認した。接近する二つの石ころがコロニーの陰に隠れ、監視映像の死角に入ったことを除けば、先刻と変わるところはなにもなかった。
実際、その一瞬のミノフスキー粒子の干渉波は大きく、防護装置を備えた港湾管理局のレーダーさえ瞬断させられるほどだったのだが、サボアには知る由がなかった。そして、その間隙をつくようにして、二つの石ころが自発的に[#「自発的に」に傍点]移動軌道を変えたことも、サボアには想像外の出来事だった。
凹凸《おうとつ》のある岩肌に姿勢制御バーニアの光を瞬かせ、二つの石ころが〈インダストリアル7〉に近づいてゆく。小刻みにバーニアを噴かしつつ、それはコロニーの回転と相対速度を一致させ、『ロクロ』に覆われた外壁の一点にぴたりと張りついてみせた。と、その石ころに見えていた外被が内側から裂け、風船さながら弾け飛ぶや、明らかに人工物とわかる物体が姿を現した。
岩肌と同じくらい無愛想な茶褐色のボディに、ほぼ直方体と言っていい無骨な四肢。頭部の光学センサーを覆う目のようなバイザーといい、見る者が見ればモビルスーツと認めるに違いない人型のマシーンは、しかし多くの面でその呼び方を裏切る特徴を持っていた。連邦軍の制式モビルスーツ伝来の形状に倣《なら》っていても、その頭部は上から潰したかのごとく扁平で、十二メートルしかない頭頂高は標準的なモビルスーツより二回りは小さい。両腕部には手のひらとなるマニピュレーターが見当たらず、直方体のユニットが奇妙に長い下腕部を形成していた。マニピュレーターをオプション武装のアタッチメントとし、フレキシブルな運用を可能にしたモビルスーツの利点に鑑みれば、甚だ非効率的と言わざるを得ない形状だ。
が、それは、D-50C〈ロト〉と呼ばれるマシーンの一面の姿でしかない。石ころの外被――欺瞞用のダミー・バルーンを脱ぎ捨てた二機の〈ロト〉は、ミノフスキー干渉波に紛れてコロニーに近づき、モビルスーツにしては小柄な機体を『ロクロ』の外壁に正対させた。
コロニーの回転に合わせて背景の星々が流れる中、下腕部を形成する直方体からマジックハンドが展開し、先端から迸《ほとばし》るビームバーナーの光が『ロクロ』の外壁を焼き始める。ビーム束が刃を形成するビームサーベルとは異なり、高エネルギーのメガ粒子を直接吹きつけるビームバーナーは、『ロクロ』の外壁をバターのように易々《やすやす》と溶断した。数秒と経たずに十メートル四方の外壁が切断され、二機の〈ロト〉はコロニー内への侵入を果たした。一機が先に侵入すると、後続の一機が切断した外壁を元の位置にはめ、内側から溶接を施してゆく。離脱の際に手間取らないよう、要所だけを繋ぎ止める簡易溶接だ。
建造中の外壁を覆う『ロクロ』の最外縁に当たるそこは、空気も充填されておらず、鉄骨の梁とフレームが錯綜するだけの殺風景な空間だった。天井高は十メートルもなく、仮置きされた資材が柱の陰に山積みになっていて、船底か縁の下という風情を醸し出している。後続の〈ロト〉が溶接の火花を散らす間、先行した一機は背を屈めて狭い空間に押し入り、脚部を床に接地させると同時にすとんと腰を落とした。接地した途端に作用する遠心重力に引きずられ、あたかも尻餅をついたかのようだったが、それはこのマシーンにとっては正規の運用手順だった。
腰が床に接触する直前、背部に装備したキャタピラ・ユニットが展開し、四つの転輪を巻いた履帯が二組、〈ロト〉の自重を引き受けて床に押しつけられる。併せて両脚部が前に繰り出され、腿に相当する部位がスライドして短くなると、同じく上腕部をスライド収納した両腕が機体の左右に接合し、四肢に見えていた各ユニットがひと塊の機体を構成するようになった。
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扁平な頭部が半ばボディに収納され、臑裏に装備した六輪のキャタピラも床に接地させた〈ロト〉に、もはや人型の面影はなかった。タンク・モードへの変形を完了した〈ロト〉は、四基のキャタピラを轟然と回転させ、装甲車と呼ぶべき形を前進させ始めた。コロニーの床下を疾走する僚機が遠ざかるのを待たず、後続の〈ロト〉もタンク・モードに変形し、背部の兵員輸送室からは宇宙服《ノーマルスーツ》を身につけた数人の男たちが飛び出してゆく。遠心重力が作用する前に機体を後にした彼らは、携帯用バーニアを駆使して各所に散らばり、素早く所定の作業に取りかかった。
パイロット用のものに見えるスマートなノーマルスーツに、弾倉《マガジン》ポーチを鈴なりにした防弾ベストを装着し、ハーネスで右腿に固定されたホルスターにはM-92F自動拳銃の銃把《グリップ》が覗く。肘と膝に強化プラスチック製のサポーターを当て、銃身《バレル》の短いカービン・タイプの無反動ライフルを肩に担った男たちは、無駄な動きをいっさい見せなかった。噴射光を軽減する消炎器付きのバーニアが隠微に瞬き、抗弾ヘルメットをかぶった人影が床に降り立つと、のしかかる重力をものともせずに壁や床のアクセスハッチに取りついてゆく。外壁の溶断で作動した警報装置の復旧、ミノフスキー粒子下でも通信を確保する中継装置の設置、各種ライフラインとセキュリティ・システムを統合制御するガバナーへのアクセス。すべての作業を終えるのに一分とはかからず、その間に先行する〈ロト〉は通路の分岐点に入って見えなくなった。空気も人けもない薄暗い通路に、遠ざかるキャタピラの振動が静かに伝播する。
その密やかな振動は、床を介して後続機の機体を共振させ、操縦室に収まるダグザ・マックール中佐の肌を賑《にぎ》わせた。作業開始から四十五秒後、ダグザは「通信」と口を開いた。(|よし《ゴー》)と短い応答が無線を駆け抜け、中継装置の設置完了をダグザに伝える。
「セキュリティ」
(ゴー)
「ガバナー」
(ゴー)
押し殺した声のやりとりが続くうち、作業を終えたフル装備の男たちが〈ロト〉に引き返してくる。最後のひとりが車体後部のハッチをくぐったところで、ダグザは前席の操縦士に移動を促した。海軍戦略研究所《SNRI》――サナリィが開発した超小型熱核反応炉は、通常の反応炉に引けを取らない出力を発揮し、四基のキャタピラを確実に駆動させてくれる。ダグザを乗せた〈ロト〉はぶるりと車体を震わせ、先行機とは別の経路をたどって狭い通路を進み始めた。
熱核反応炉の小型化によってダウンサイジングに成功していても、〈ロト〉が搭載する人員の数は少なくない。可変モビルスーツという以上に、特殊任務における兵員輸送機のスペックが追求されたためで、一小隊八人を収容できる兵員輸送室は言うに及ばず、操縦室にも車長と操縦士、通信士の計三名が収まる席があり、作戦域到達後は移動指揮通信車としても機能する。その司令席となる車長席のディスプレイに、ダグザは〈インダストリアル7〉の構造図を呼び出した。『ロクロ』との接合部分を中心としたコロニーの平面図に、チーム|A《アルファ》と名づけられた自機と、先行するチーム|B《ブラボー》の現在位置が輝点になって表示され、〈ロト〉の慣性航法装置《INS》――加速度と運動、時間の積分から自己位置を把握する――の精度の高さをダグザに伝えた。
母艦の〈ネェル・アーガマ〉を発した時刻を起点として、作戦経過時間は一時間四十八分。スケジュールには寸分の遅れもなかったが、ダグザに安堵の気分はなかった。地球《Earth》、|コロニー《Colony》、小惑星《asteroid》――『作戦、場所を問わず』が信条の連邦宇宙軍特殊作戦群・|ECOAS《エコーズ》の隊員にとって、コロニーへの侵入はありふれた作業でしかない。問題はこれから、うしろ暗い任務の中身をどう消化するか、だ。ダグザはディスプレイをスクロールさせ、今次作戦の舞台となる構造物に見入った。このまま『ロクロ』の内壁を這い進んだ先、〈インダストリアル7〉の月側の港口に相当する場所に、コロニービルダー〈メガラニカ〉の特異な形状があった。
コロニー公社が所管する巨大施設にして、実質的にはビスト財団の牙城《がじょう》と目されるそこに、『ラプラスの箱』と呼ばれる目標が存在する。その実在を確かめ、第三者の手に渡るのを阻止し、可能なら無傷で回収する。それが今次作戦におけるエコーズの任務であり、『阻止』の前には手段を選ばず≠ニいう言葉が、『回収』の前には極秘裡に≠ニいう言葉が、暗黙という名の見えないインクで書いてある。正規の軍事作戦では消化しきれない、エコーズに招集がかかったのも納得のうしろ暗い任務だが、司令部の幕僚たちはどの程度この事案を把握しているのか。〈メガラニカ〉の内部構造、警備状況に関しては事前にリサーチできたとはいえ、肝心の『箱』がどのような代物かは皆目わからない。たとえ発見できたとしても、持ち運べるものかどうかさえ不明なのだ。
それゆえ、まずは実在を確かめねばならないのだが、『袖付き』という第三者の介入が確定している中、正体も定かでない宝を探せというのは無理難題に近い。手段を選ばず″s動しない限り、任務の達成も、部隊の安全もおぼつかなくなるだろう。|人狩り《マンハンター》部隊の悪名に相応しい作戦になる、と覚悟したダグザは、ヘルメットのバイザーを開けた。顎まで下ろしていたフェイスマスクを上げ、鼻まですっぽり覆ってから、再びバイザーを閉める。
ノーマルスーツのバイザーごしに窺えるのは、冷たい光を放つ二つの眼球のみ。個を排除したその姿こそ、エコーズという総体を示す個性になる。この姿でいる間、すべての隊員は人であることをやめ、任務を効率的にこなすマシーンと化す。音もなく目標に忍び寄り、気配も残さず任務を完遂し、場合によっては作戦成果そのものを事故に見せかける。存在しながら存在していない、エコーズを構成する無名の単位のひとつになるのだった。
地球連邦という巨大組織が垂れ流す排泄物を、人知れず処理する無慈悲なドブさらい機関。一部のマスコミが書き立てる表現も外れてはいないが、部品はなにも望まないし、期待もしない。人も組織も、生きている限り排泄物は出す。誰かがやらねばならない仕事、それだけのことだ――。いつもの論理で迷いを散らし、ダグザは正面のディスプレイに目を戻した。
二機の〈ロト〉は、その低い車高を利してコロニーの床下を走り、コロニービルダーへの突入ポイントに近づきつつある。時刻は午後五時六分、じきに〈ネェル・アーガマ〉のモビルスーツ隊も行動を開始する頃合だ。確実に刻まれてゆく時間表示を見つめ、ダグザはひとつ息を吐いた。難燃繊維のフェイスマスクにこもった吐息が、実戦の臭気を運んで鼻腔にからみついた。
(総員、第二種警戒配備。モビルスーツ発進準備、エアロック開放する。メカニックマンは待避急げ)
全艦放送が鳴り響き、モビルスーツ・デッキの壁にある『AIR』の表示が赤く点滅する。二重になっているヘルメットの接続具を確かめつつ、リディ・マーセナスは〈リゼル〉八番機のコクピットに飛び込んだ。
熱核反応炉はすでに灯が入っている。オールビューモニターを作動させると、球体のコクピット内壁に張り合わされたディスプレイが順々に作動し、身長二十メートルの〈リゼル〉から見渡す光景が周囲三百六十度を取り囲んだ。広大なモビルスーツ・デッキの中、NA-J005のマーキングが施された〈ジェガン〉がハンガーを離れ、カタパルト・デッキに通じるリフトに移動してゆくのが見える。誘導棒《コンダクト・バー》を手にした整備士が中空を漂う向こう、続いてハンガーを離れたのは〈リゼル〉四番機だ。
『AIR』の表示はもう赤のまま固定している。カタパルト・デッキとMSデッキのエアロックがともに開かれ、空気が抜けきったのだった。モビルスーツの関節機構《アクチュエーター》の駆動音、アラームの音は急速に聞こえなくなり、錯綜する無線の声だけがリディの鼓膜《こまく》を騒がせるようになった。整備士の機体点検報告、ブリッジからの通信、編隊長の指示。雑音に等しい声の群れから必要な情報を聞き分け、個別に応答するのも、パイロットの仕事のひとつになる。
(ロメオ001より各機。ノーム中隊に続いて、イアン中隊発進。ノーム中隊は作戦域に進出後、〈インダストリアル7〉の外周監視を実施。イアン中隊は待機域に進出、先発隊のバックアップと母艦の警護に当たれ。すでに『袖付き』がコロニーに侵入している可能性もある。エコーズのお守《も》りだからといって、気を抜くな)
発進前のプレ・フライトチェックを教科書通りにこなす間に、MS部隊長のノーム・バシリコック少佐が一同に檄を飛ばす。〈ネェル・アーガマ〉のモビルスーツ全隊を統率する立場にあるノームだが、今次出撃では自ら中隊を率いて飛び、残りの中隊の指揮はイアン大尉が執ることになっていた。リディはイアン中隊の所属で、その内訳は|R《ロメオ》のコードで呼ばれる〈リゼル〉が四機と、|J《ジュリエット》のコードを持つ〈ジェガン〉が二機。先発するノーム中隊と〈ネェル・アーガマ〉の中間に展開し、不測の事態に備えるのがその役目だ。
不測の事態――『袖付き』との接触。ふと考え、指差確認の手を一瞬止めてしまった時、機付長のジョナ・ギブニーがいきなりコクピットに押し入ってきた。ぎょっと身構えたリディにかまわず、ギブニーは(聞いてるか?)と巨体をすり寄せて言った。
(『袖付き』と交戦した艦、二群の〈キャロット〉だってよ。三機も墜とされたって)
ヘルメット同上を接触させ、振動で声を伝えあう『お肌のふれあい会話』は、無線に乗せたくない話をする際に役に立つ。ギブニーの髭面を間近に見る不幸も忘れ、リディは「三機も?」と声を張りあげた。先刻のブリーフィングで、暗礁宙域近辺で戦闘があったらしいとは聞かされていたが、詳細については知らされていない。モビルスーツが三機も撃墜されたという話は寝耳に水だった。
(まったく、あんなコロニーでなにしようっていうんだか。機体を壊すなよ)
血の気の失せる顔色が、バイザーごしにも見えたのだろう。取り繕うように気楽な声を出すと、ギブニーはリディのヘルメットをぽんと叩いてコクピットから出ていった。反射的にハッチを閉め、コクピット内に空気を充填するエアポンプの作動を確かめながらも、リディは〈キャロット〉に配属された同期のパイロットの顔を思い出していた。
ロンド・ベル第二群に所属する〈キャロット〉は、モビルスーツの搭載数は確か六機。撃墜されたのが同期とは限らないが、それにしても三機とは。よほどの大部隊とかち合ったのか、エース級のパイロットが『袖付き』にいるのか。どちらにせよ、それだけの戦力を持った敵が〈インダストリアル7〉に潜んでいるのかもしれず、マンハンター部隊の連中はそこで事を起こそうと――。
(リディ少尉、聞こえるか)
と、今度はノーム隊長の顔が通信ウインドに現れて、リディは咄嗟に「はい!」と大声を出していた。
(さっきの話、他言は無用だ。忘れろ)
艦内オールではない、個別回線による通信だった。作戦中は禁止されている行為だが、〈ネェル・アーガマ〉のMS部隊員にとって、ノームの言動はルールブック以上の重みがある。艦長室の重く湿った空気と、『ラプラスの箱』という謎めいた響きを脳裏に再生したリディは、「は、了解しています」と神妙に応えておいた。
(知らぬが仏ということもある。おまえの立場では、そのうち否応なく真相を耳にすることになるだろうが)
「お言葉ですが、自分は政治の道に進む気は……」
(わかっているよ。だが、それも否応なくというやつでな)微かに気色ばんだリディを遮り、ノームは苦笑を浮かべた。(とにかく、こんなつまらん作戦で怪我をするなよ。おれもマーセナス議員に睨まれたくないからな)
隊長一流の皮肉で締めくくると、ノームは通信ウインドを閉じた。実戦になるかもしれない事態を前にして、部下の胸中にしこりを残しておきたくなかったというところか。食えない人だと思う一方、この隊長は信頼できると再認識する気分もあり、リディは多少気が楽になるのを感じた。同時に、そんな気配りが生死に作用するのが実戦なのだろうとも思い、尻の穴がきゅっとすぼまる感覚を味わいもした。
ほどなく発進の順番が回ってきて、リディは〈リゼル〉八番機をハンガーから出した。整備士が振るコンダクト・バーに従い、壁の装備架からビームライフルを取り出す。この類いの基本動作はプログラミングされているので、いちいちマニピュレーターを操作する必要はない。〈リゼル〉は人間がそうするような滑《なめ》らかさでビームライフルを手に取り、リフトの方へ向かった。一歩進むごとに足裏のフックがデッキのメス部をくわえ込み、鉄のぶつかりあう音と振動をコクピットに伝える。
リフトが上昇する間、なぜか離れて久しい家≠フ風景が思い出された。開放されれば連邦政府が終焉を迎えるという『ラプラスの箱』、親父は知っているのだろうか? 漠然と考え、バカバカしいと打ち消すうちにリフトは上昇を終え、(ロメオ008、第三カタパルトへ。ジュリエットに続いて発進されたし)とこわ張った女性の声がリディの耳朶《じだ》を打った。オールビューモニターの一角、十インチ大に開いた通信ウインドに、ミヒロ・オイワッケン少尉の緊張した顔があった。
同じ初任幹部同士、実戦になるかもしれないという恐怖と興奮は、パイロットもオペレーターも変わるところがない。|チビ戦車《スモールタンク》もびびってるな、と思ったのも一瞬、不意に正体不明の衝動に突き上げられたリディは、ろくに考える間もなく喋っていた。
「了解。……な、ミヒロ少尉。こんど上陸したら、映画でも観に行かないか?」
(ジュリエット、進路クリア。発進どうぞ)取りつく島のないミヒロの声に続いて、ジュリエットのコードを与えられた〈ジェガン〉が射出され、淡い緑色の人型が目前のカタパルトを滑っていった。聞こえなかったのか、無視されたのか。なんともいたたまれない気分で、リディは射出位置に戻ってきたカタパルトに〈リゼル〉の足を接合させた。足もとでコンダクト・バーを振る管制員を見、発進口の向こうに広がる宇宙を視野に入れたところで、(誘われたの、これで三人目なんですけど)と、通信ウインドに顔を寄せたミヒロが小声で囁く。個別回線の表示を確かめつつ、「そうなの?」とリディは聞き返した。
(あたし、こんなにモテたの初めて。男の人って、こういうとき無闇に誘いたくなるもんなんですか?)
「ああ……。そうかもしれない。なにかやりかけのことがあるって、思いたいものな」
むっと顎を引いたミヒロの表情に、正直に喋りすぎたと気づいた時は遅かった。個別回線の表示が消え、オペレーターという無個性な何者かに戻ったミヒロは、もうデートの約束を取りつけられる雰囲気ではなくなっていた。別にいいけどさ、とリディは忸怩《じくじ》たる内心に呟いてみる。彼女もまだ慣れていないのだ。いいですよ、と気軽に言ってくれたら、男は気持ちよく飛び出して行けるのに。
(ロメオ008、カタパルト装着。射出準備よし)
木で鼻をくくったミヒロの声が言う。半ば自棄《やけ》の気分で、リディはぐっと操縦桿を握りしめた。直後、(あたし、ホラーは嫌いですよ)と囁きかける声が流れて、誰にでも言っているのかもしれない、と思う間もなく、「了解!」と恥ずかしいくらい元気な一声が腹の底から迸った。
「リディ・マーセナス、ロメオ008。行きます!」
発進口の脇にあるカウントダウン表示が0を指し、管制員がゴーサインを出す。リニア駆動のカタパルトが弾かれたように動き出し、瞬間的には5Gにも達する加重がリディの全身にのしかかった。
巨大な木馬に見える〈ネェル・アーガマ〉の右前足部分――無重力下では上下両面が滑走路に使える露天甲板《オープン・デッキ》を、カタパルトに乗った〈リゼル〉の機体が滑る。カタパルトが終点に到達すると同時に、その脚がぐんと蹴り出され、〈リゼル〉はスキージャンプの要領で虚空に飛んだ。
射出の加速度に自らのスラスター推力が相乗し、母艦との相対速度がみるみる開いてゆく。遠ざかる〈ネェル・アーガマ〉をオールビューモニターの一角に捉えつつ、リディはまずレーザー発信の作動が確実であることをチェックした。母艦に自機の位置を伝え、ブリッジからの統合管制をサポートするレーザー発信は、ミノフスキー粒子下でも機能する唯一の命綱だ。これがないと、広大な宇宙で迷子になるばかりか、味方の弾に当たって死ぬことにもなりかねない。だから、発進後はなにを置いてもレーザー発信をチェックする。機体の気密確認、僚機の位置確認などは、後回しでよいと教えられていた。レーダーが使えない宇宙空間で母艦をロストすれば、あとは死ぬまで漂流する運命が待っているだけだ、と。
一年戦争が始まる前、レーダー時代から宇宙を飛んでいた教官たちの繰り言は、しかしリディたちの世代にとっては教訓以前の常識でしかない。ミノフスキーの海で飛ぶことを学んだ身に、レーダーが使えない前提は前提に過ぎず、真空では呼吸ができないというのと同じレベルの話だ。加速が終わる前にレーザー発信をチェックし、先行する僚機の位置も確かめたリディは、続けてトランスフォームの操作を実行した。
〈リゼル〉の頭部が亀のように引っ込み、胸部を形成していたユニットがコクピットごと持ち上がる。両腕は肩口から内側に折りたたまれ、両足の付け根となるフレームが左右に展開するや、膝から上を収納した脚部が胴体を挟み込む格好になった。左腕に装備したシールドが露出した頭部と両腕を隠し、機体下面を構成すると、〈リゼル〉はもう人型とは呼べない。背中から頭上に伸びるブースター・ユニットの先端を機首とし、両足だったブロックをスラスター・ユニットとする空間戦闘機――ウェイブライダーと呼称される飛行機≠ェ現出していた。
変形に要する時間は、わずか〇・五秒。モビルスーツの骨格を形成するムーバブル・フレームの柔軟性と、軽量かつ剛性の高いガンダリウム合金の採用が、このような可変モビルスーツの開発を可能にした。複雑な変形機構を有する分、製造コストは高く、整備も繁雑にならざるを得ないが、その高機動性、自らを輸送機として長駆進攻に対応する汎用性の高さは、それら欠点を補って余りあるものがある。変形によって各部のスラスターを一方向に収束し、機体の質量には過分な推力を得ることで、〈リゼル〉は他のモビルスーツを運搬することさえできるのだ。
ウェイブライダー形態への移行を終えたリディは、操縦桿を軽く左に倒した。〈リゼル〉八番機に続いて発艦した〈ジェガン〉五番機が、後方から急速に追い上げてくるのが見えた。レーザーセンサー同調、相対速度合わせ。訓練で何百回とくり返した動作をトレースし、〈ジェガン〉の両腕が〈リゼル〉のブースター・ユニットに設けられたフックをつかむ。同時に接触回線が開き、(おれのリムジンはお坊っちゃんか)とバンカラな声が無線を騒がせた。〈ジェガン〉五番機、ジュリエットのパイロットだ。
「そうですよ。お客さん、どちらまで?」
(『袖付き』どもの集会所までやってくれ。安全運転でな)
皆まで聞かず、リディはフットペダルを踏み込んだ。スラスターが白熱し、ビート板につかまるような格好で牽引される〈ジェガン〉ともども、〈リゼル〉の機体が一気に加速をする。(てめえ、この……! 父ちゃんに言いつけるぞ)と無線を流れた悲鳴に満足して、リディはにやりと口もとを緩めた。これならやれそうだ、と思う。気分はだいぶリラックスしてきた。訓練通りに体が動いてもくれる。実戦が始まっても、きっと恐れずに対処することができるだろう。そのための努力は人一倍している自信もある。やはり自分は生粋《きっすい》のパイロットなのだ。
それに、ウェイブライダー形態になった〈リゼル〉の加速感。モビルスーツ形態の時とは異なる、自らが弾丸になったかのような一直線の加速感は、子供の頃に夢見た飛行機野郎の気分を味わわせてくれる。リディは機体を横ロールさせ、イアン中隊の編隊に加わった。イアン中隊長機を先頭に、ウェイブライダー形態の〈リゼル〉が四機。そのうちの二機は〈ジェガン〉の人型を牽引しているが、飛行編隊と呼んで遜色のない光景がそこにある。これでこそ……と悦に入りかけた時、複葉機の模型をコクピットにしまい込んでいたことを思い出して、リディはちょっと顔をしかめた。
出撃前に自室に持ち帰るつもりだったのに、すっかり忘れていた。ビニールシートで包んではあるが、無理な加速をしたら壊れてしまうかもしれない。模型をしまった備品入れをちらと見遣ったリディは、まあいいさと口中に呟いた。
帰ってから確かめればいい。ミヒロとのデートもそうだが、帰艦後の懸案事項は多ければ多いほど験《げん》かつぎになるというものだ。そう考えられる自分に安心して、リディは編隊の維持に集中した。
行く手には、無数の残骸や石ころが散らばる暗礁宙域が広がっている。最新版の宇宙図に従い、イアン中隊はそれらを避けつつ待機域を目指した。作戦域となる〈インダストリアル7〉は、無数のデブリに紛れて識別することはできなかった。
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しんと静まり返った部屋に、古い柱時計の音だけが響いていた。旧世紀に造られたのだろうと思える、木製の柱時計だ。
午後六時。ボーン、ボーンと部屋じゅうに響き渡る時報を聞きながら、少女は――あるいは、オードリー・バーンは――窓際に歩み寄り、ガラスごしに外の光景を見渡した。パネル式の人工太陽はすでに光を落とし、あたりは一面の闇の掌中にある。庭に設《しつら》えられた外灯が仄かな光を放ち、羽虫を呼び集めてはいるものの、広大な庭園を照らすには心もとない。まるで極端に星の少ない宇宙を見ているかのようだった。
外縁の森林も暗闇に沈み込み、微かに暗さの違う闇の塊としか識別できない。風にそよぐということを知らず、静止した闇の中に黙然と折り重なる樹木は、こうして見ると異質な代物だった。なまじ地球の自然らしく見えるだけに、風も吹かない密閉空間の不自然さが際立って感じられるからかもしれない。街の明かり、車の音、人の生活が醸《かも》し出す喧噪……そういったものがコロニーを人工の大地と錯覚させているのであって、それらがなくなってしまえば、ただの箱庭に立ち返るのがスペースコロニーなのだろう。なにやら寒々とした気分になり、オードリーは室内に目を戻した。
アンティーク趣味のドレッサーと、鏡台、天蓋付きのダブルベッド。テラスに持ち出すこともできるお茶用のテーブルには、紅茶のポットとクッキーの皿が置かれ、落ち着いた照明の光が陶器《とうき》の皿に反射している。もともと女性の来客のために用意された部屋らしく、カーテンやルームライトの傘は華やいだ色で統一されており、長く眺めていても飽きがこない。何年も使われていなかったはずだが、それを感じさせない手入れのよさは、さすがビスト財団の館《やかた》というところだった。なにしろ先刻は給仕が颯爽と配膳にやってきて、ミニ・コースの食事までが振る舞われたのだ。
レトルト食品の類いでないことは、幼少期から努めて本物≠与えられてきた身には判別がついた。この屋敷に常駐する使用人か、カーディアスに同道する専属のシェフが拵《こしら》えたものに違いない。薬物の混入を疑わないではなかったが、掌中の鳥にそんな搦め手は必要なかろうと自分を納得させ、オードリーはぺろりと食事を平らげてしまった。挙句、空腹が満たされた体が急にだるくなり、今度はベッドに倒れ込みたいのを我慢している体《てい》たらくなのだから、ビスト財団のもてなしは完璧と評価せざるを得なかった。もしくは、自分の神経が驚異的に杜撰《ずさん》になっているのか。
それほどに居心地のいい、見張りの存在も感じさせない部屋に案内されて、二時間あまり。会うべき人に会い、話すべきことを話すという所期の目的は果たせたが、これからどうしたものか。カーディアスは静かに耳を傾けただけで、明確な返答を寄越さなかった。ジンネマンやマリーダたちの動向も不明だが、自分がビスト財団と接触したことを知った以上、相応の疑心暗鬼をもって取引に臨むことは間違いない。自分が人質に取られた場合のことを考慮して、モビルスーツを待機させておくぐらいのことはするだろう。
それで火がつこうものなら、カーディアスも自分を人質に使わざるを得なくなる。一刻も早くこの屋敷を出て、自発的に〈ガランシェール〉に戻った方がいいとも思えるが、カーディアスの意思が確かめられぬままでは帰るに帰れない。取引が無事に済んでしまっては、ここに来た意味がないのだ。どだい、この暗い森に囲まれたコロニービルダーの居住区を突っ切り、ひとりでコロニーの反対端にある港に戻れる自信が、いまのオードリーにあるわけでもなかった。
その風評から話せる相手と信じ、なるようになるとカーディアスの懐に飛び込んだだけで、先のことはなにも考えていない。そんな余裕はなかった、という言い訳は言い訳でしかなく、オードリーはため息をついて椅子に腰を下ろした。冷めた紅茶に口をつけ、壁に飾られた油絵を見るともなく眺める。地球の山岳地帯と思われる背景に、放牧された無数の羊が描き込まれており、羊飼いらしい少年がにこりともしない顔を見る者に向けていた。
労働の刻苦を滲ませながらも、広い世界を映そうとしているまっすぐな瞳。ふと、バナージ・リンクスという名前が思い出され、オードリーは奇妙な疼《うず》きを胸に覚えた。好ましい異性というわけではなく、顔の作りもつぶさには憶えていないのに、あの手のひらの感触ははっきり肌に残っている。大義からでも忠誠からでもなく、ただ感情に任せて張りついてきた手のひらの持ち主は、この絵に描かれた羊飼いの少年にちょっと似ていた。おとなしそうでいて、無遠慮に斬り込んでくる瞳の色――。
『君が誰だってかまわない。必要だって言ってくれ』
耳の奥に残った声が、部屋の静寂を揺らして頭の中を行き過ぎる。なんてことを言うのだろう。いまさらながら呆れ、オードリーは小さく苦笑した。会って間もない、素姓もわからぬ相手に迂闊すぎる物言いだと思うが、あの一瞬、バナージの目は本気だった。この絵の少年と同様、なにかを希求する切実な光がその瞳に宿っていた。意識して切り離す言葉を出さなければ、自分はあの光に引き込まれていたかもしれない。あれからどうしただろう? 無事に学校に戻れただろうか?
「必要……だったのかしらね」
あの手のひらが引っ張ってくれたら、いますぐここを抜け出すことだってできるだろうに。無責任に思考を揺らめかせ、我知らず呟いたオードリーは、叱るようなタイミングで鳴ったチャイムに心臓を跳ね上がらせた。
咄嗟に居住まいを正し、「どうぞ」と応じる。給仕がお茶を下げにきたかと思ったが、木製のドアの向こうにいたのはカーディアス・ビストだった。ざっと肌が緊張で引き締まるのを感じながら、オードリーは立ち上がってビスト家の当主を迎え入れた。
失礼、と戸口をくぐったカーディアスは、まずはテーブルに目を止めた。客人のもてなしに不足がないか確かめる所作であることは、同様の訓練を受けたオードリーにも想像がついた。ここに来る前に給仕と話し、食の進み具合も確かめているはずだ。「おいしゅうございました」とオードリーは先に口を開いた。礼節は身を守る鎧、と心得た体の条件反射だったが、「お口に合ったようでなにより」と微笑したカーディアスの顔に作為は窺えなかった。精悍な鷲が小首を傾げてみせたような、警戒感を溶かす微笑だった。
「お仲間との会合場所を、この〈メガラニカ〉に変更しました」
オードリーに着席を促し、自分も向かい合う席に座ったカーディアスは、手にしたノートパッドをテーブルに置きつつ続けた。「間もなく到着されるでしょう。仕事が済み次第、お引き合わせします。いま少しご辛抱を」
取引を中止するつもりはない、という宣言だった。予想はしていても、いざ現実になった落胆を呑み込むのは容易ではなく、「考え直してはいただけないのでしょうか」と出した声が震えた。テーブルの下で拳を握りしめたオードリーを見つめ、カーディアスは無言を返事にした。
「なぜです? 『ラプラスの箱』は、ビスト財団の繁栄を約束する命綱であると聞いています。それを私たちに託すなどと……」
「財団の繁栄が続いても、世界が腐り落ちてしまってはどうにもならない。だからです」
思いも寄らない言葉だった。動かないカーディアスの瞳を見つめ、「世界が、腐る……?」とオードリーはおうむ返しにした。
「平和と安定は傷みやすい代物です。たまに新鮮な風を送り込んでやらないと、すぐに腐ってしまう」
「それは、戦争が世界を活性化するということでしょうか?」
カーディアスの瞳孔がぴくりと動き、その口もとから微笑が消えた。本気の話らしい、と理解した頭がかっと熱くなり、オードリーはカーディアスの顔をまっすぐに見据えた。
「私は戦争の中で生まれました。戦争を見て育ちました。私を守るために、たくさんの将兵が死んでゆくところも」
わずかに目を伏せ、「でしょうな」とカーディアスは呟いた。そのような生き方しかできなかった者たちへの共感とも、自分に対する同情とも取れる重い声音だった。少し気が削《そ》がれるのを感じながら、オードリーは残りの言葉を吐き出した。
「……とても惨いことです。そこからなにかが生まれると期待するのは、それこそ平和漬けになった者の傲慢です」
「では、あなたはご自身の組織を否定なさるのか?」
「否定はしません。しかしフル・フロンタルは危険な男です。あの男に『ラプラスの箱』を託せば、また大勢の人が死にます」
「フル・フロンタル。赤い彗星……シャア・アズナブルの再来と呼ばれている方でしたな」
動揺が目に表れるのが、自分でもわかった。取り繕おうにも言葉が出ず、オードリーは顔をうつむけた。つかのまそれを凝視したあと、カーディアスはおもむろに立ち上がり、暗い庭に面する窓際に歩み寄った。
「彼の存在なくして、『袖付き』が軍事組織のレベルにまで成長することはなかった。あなたにはできなかったことだ」
「それは、認めます。でも……」
軍事組織として先鋭化することが、最良とは思えない。現状を変えるにしても、変え方というものがあるはずだ。言葉にすればそれだけのことなのだが、それだけのことでしかないという自覚が、オードリーの口を重くした。自分の立場で戦争を、軍隊を否定する矛盾は百も承知している。そういうことではなく、いまの流れは危険だと伝えたいだけなのに、危険の中身が説明できない。自分の直感や感覚を正確に話そうとすると、なにも言えなくなってしまう。そのもどかしさ、己の無力に対するいら立ちが渦を巻き、無為に座り続ける体を震わせた。言葉なんて使わずに、自分の思惟を他者に知らしめる方法があったら――。
「あなたは聡明な方だ。立場に見合う責任感も持っておられる。しかし、まだお若い。心中はお察しするが、それでは人は説得できない。本当のニュータイプにでもならない限り」
しばらくの沈黙を挟んで、カーディアスは言った。耳に痛い諫言《かんげん》より、ニュータイプという言葉が気になったオードリーは、顔を上げてカーディアスの方に振り返った。
「信じていらっしゃるのですか? その……」
「希望は必要です。そして希望を生かすためには、血を流さねばならない時もある」
こちらの視線を正面に受け止め、カーディアスは答えた。鋭い瞳の奥に底暗い光が宿り、この男は確信犯だという直感がオードリーを貫いた。
目先の得失ではなく、カーディアスはもっと大きななにかを見据えて行動を起こそうとしている。まだ自分には窺い知れないなにかを信じ、禁忌《きんき》の『箱』を開こうとしているのだ。その理解は不快なものではなく、オードリーは少し気が楽になるのを感じた。この目を見られただけでもここに来た価値はあると、これも理屈抜きでそう思った。
「お帰りなさい。『箱』の貰い手が、あなたが危惧する通りの者なら、どのみち『箱』が開くことはない」
「……どういう意味でしょう?」
「そういう細工がしてある。暴れ馬ですよ、あれは」
にやと口もとを歪め、カーディアスはテーブルの上のノートパッドを引き寄せた。簡単な操作をしてから、ディスプレイをこちらに向ける。そこに映し出されたものを見たオードリーは、思わず息を呑んだ。
「これは……」
「『箱』への道標《どうひょう》です。あるいは『鍵』……」
続けていくつかの画像を表示させながら、カーディアスは言った。その瞳の色は絵の中の羊飼いの少年に似ていると、オードリーはいまさら思いついていた。
「ねえ、君。バナージくんでしょ? バナージ・リンクスくん」
無遠慮に顔を寄せてきた女の口から、アルコールの匂いが漂った。顔がこわ張るのを自覚しつつ、「そうだけど」とバナージは低く答える。
「聞いたよぉ、今朝の話。プチモビ盗んで、公園に墜落したんだって? すごいじゃん。どんな感じだったか話してよ」
とろんとした目をして、女はソファに座るバナージの太股に手を置き、剥き出しの肩をぐいと押しつけてくる。タンクトップの胸元に乳房の谷間が覗いても、バナージは特になにも感じなかった。染みが目立つ肌を見るともなく眺め、間近で見ると汚いのだな、と思うのがせいぜいだった。グラスに入ったコーラをひと口|呷《あお》り、尻の位置を心持ちずらしたバナージは、「別に……話すことなんてないよ」と目を合わさずに答えた。「うわー、なにそれ。かっこいい!」と弾けた女の声が、広いリビングに充満する大音量の音楽と相乗して耳を苛《さいな》んだ。
「おとなしいんじゃなくて、シブいんだぁ」
「なによ、エスタ。お友達になったの?」
音楽に合わせて腰を振っていた赤毛の女が、エスタと呼ばれた女の反対隣に座り込む。反動でコーラが少しこぼれたが、赤毛の女は気づく素振りもなく、値踏みする目をバナージに向けてきた。二人の女に挟まれる格好になったバナージは、身を小さくして飲みたくもないコーラを飲んだ。疎《うと》ましい、と思う。上気した女たちの顔も、腕に密着する体温も、やたらとビートのきいた音楽も。空疎な騒音と人いきれに沈み込み、漫然と時間を潰すしかない自分自身も――。
目の前では十人からの男女がひしめきあい、音楽に合わせて体を揺らし、アルコール入りのグラスを呷る姿がある。ビールか、コーラにウィスキーを垂らした程度の代物だが、十代半ばの未成年をハイにするには十分というところか。合法ドラッグも出回っているらしく、キッチン・カウンターの奥に見え隠れするブロンドの目付きはかなりヤバい。ベランダにたむろする連中はタバコを吹かし、ドアを閉めきった部屋からも煙が漏れてくる。タバコより粘っこい臭いは、おそらく大麻の類いだ。
日ごろ外面《そとづら》をよくしている分、私学の連中の方が乱れ方は激しいと聞いてはいたが、さもありなんと思える光景だった。この家の持ち主、ミコットの両親が見たら目を剥く惨状に違いないが、幸いにして彼らは幼い息子とともに旅行に出かけている。先刻、その両親から電話がかかってきた時には、全員が息を詰めてミコットの背中を見つめたものだった。
今日はミノフスキー粒子の電波障害がひどく、旅先のコロニーとの通話はすぐに切れたが、取りすました顔で家の無事を伝えるミコットに惑う気配はなかった。電話を置くと同時にぺろりと舌を出し、一同の歓声を浴びる姿を見るに至っては、こういうことに慣れている軽い女なのかと疑いたくもなった。工場長の父親を尊敬し、工専への出入りも躊躇しないさっぱりした気性の少女は、その瞬間からバナージの中で異生物にシフトした。場の空気に馴染み、二、三人の女とホームバーのカウンターでにやけているタクヤも、いまはこの部屋に群生する不快な種のひとつとしか見えなかった。
別にこれが初めてというわけではない。全寮制の工専にいれば、誰かの部屋でパーティーの真似事をやるのは日常茶飯事だし、タクヤのように百パーセント馴染むのは無理にしても、普段ならもう少し周りに合わせられる自信もバナージにはある。人種の異なる私学の連中だからとか、そんなことではないのだ。このパーティーに限らず、昨日まで当たり前に埋没できた日常という時間が、どうしようもなく色褪せて見える現実。多少の齟齬《そご》を含みながらも、問題なく回っていた歯車が今朝を境に軋み始め、いまや完全に止まってしまったという実感。そういったものが自分を焦らせ、いら立たせているのであって、周囲のせいにするのは筋違いだと思う理性はバナージもなくしてはいなかった。
だから見えない防壁を張り巡らせ、壁の花に徹しているのだが、アルコールで弛緩した脳味噌たちには伝わらないらしい。ビートの嵐と不快な体温に包囲され、バナージは内に溜め込んだ圧がじりじり上昇するのを感じた。やはり来るべきではなかった、さっさと立ち去れと促す自分がいる一方、ここで席を立ったらいよいよ居場所がなくなるぞ、と警告する自分もいて、畢竟《ひっきょう》、なぜ尻尾を丸めて帰ってきたのだという自責の念が腹の底で渦を巻いた。
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将来を棒に振るのが怖かったからか? 必要ない、と言われたからか? 将来に明確なビジョンがあるわけでもないのに。自分に必要とされる力がないのはわかりきっていたことで、彼女にああいう言い方をさせたのは自分の狡さでしかないのに――。
「あんたのことさ、割と噂になってるんだよ、うちの学校で。ちょっと可愛い子が工専にいるって」
あとから隣に割り込んできた女が、バナージの目を覗き込んで言う。アルコールで潤んだ瞳は、つつけば崩れるのではないかと思わせるほど弛みきっていた。底堅いエメラルド・グリーンの瞳がそこに重なり、同じ人間のものとも思えないと感じてしまったバナージは、そう感じる自分に腹を立てて無言を通した。
「転入生なんでしょ? 前はどこのコロニーにいたの?」
エスタと呼ばれた方の女が、ブレスレットで飾った手をバナージの膝に重ねる。ピザと酒の臭いが入り混じった吐息を嗅ぎつつ、これが日常だとバナージは自分に言い聞かせた。私学で噂されているなんて福音じゃないか。適当に話を合わせて、学生生活に不足がない程度におつきあいしておけ。そして、十分に遊んだという錯覚を宝にして、何万といるアナハイム社の工員のひとりになるがいい。それが、おまえが棒に振るのを恐れた将来の中身だ。
故郷のことを思い出せ。道を踏み外した連中の末路は、ああしたものだ。母もよく言っていたではないか。平凡な人生の偉大さがわかる大人になれ、と――。とめどなく溢れてくる言葉に、でも、とバナージは反駁《はんばく》する。でも、母からそう教えられるたびに、おれは『ずれ』を感じてきた。目隠しされて、なにかから遠ざけられる気分を味わってきた。今日、その目隠しが少しずれたらしいんだ。それまで見えなかったもの、『ずれ』を感じないで済む世界≠ェ一瞬だけ見えたんだ。意志を張り詰めさせたエメラルド色の瞳の向こうに。ユニコーンのタペストリーと、ユニコーンの角を持つモビルスーツの彼方に。
息苦しかった。ここにいたら息ができない、帰ろう。そう思う端から、ではどこなら息ができるのか、おまえの居場所はここだ、という声が重低音のビートに絡みつき、「ねえ、黙ってないでなんか喋りなよ」と甲高い女の声が相乗する。「あ、彼女とかいるの?」「偉《えら》ーい、義理立てしてんだ」「ほら、エスタ、グラス空いてる。お注《つ》ぎしてお注ぎして」……。
「ほっといてくれよ!」
窒息するという恐怖が、そのまま声の大きさになって迸り出ていた。同時に立ち上がってしまったため、酌《しゃく》をしようとしたエスタの手を振り払う格好になり、床に落ちたボトルがテーブルの脚に当たって割れた。挙句、二人の女がそろって悲鳴をあげれば、周囲の目がバナージに集中するのは時間の問題だった。
気をきかせたつもりなのか、どこかのバカが音楽を止めてくれたお陰で、部屋の空気はいよいよ取り繕う余地のないものになった。エスタがべそをかき出し、「なに、こいつ……」ともうひとりの女が冷たい目をこちらに向ける。「誰だよ、あいつ」「感じ悪ぅ」と複数の声が追従し、何人かの男の目付きが険しくなるのを見たバナージは、エスタに視線を落とした。謝ろうと思ったが、割れたボトルをかたそうともせず、赤ん坊のように泣く姿を前にして、悪いと感じるのもバカらしい饐《す》えた気分が胸の中に拡がった。勝手に泣いてろ、と思う。
「だから工専の奴なんか呼ぶなって言ったんだよ」
誰かが言う。バナージは聞こえない振りをしたが、「ああ? 誰だ、いま言った奴!」と凄む声がホームバーの方から発した。その剣幕に腰を浮かせた女たちを背に、カウンターから身を乗り出したタクヤが睨《ね》めつける目を飛ばしていた。
「ちょっと、バナージ! 謝んなさいよ」
ますます険悪になった空気の中、人垣から顔を出したミコットが叫ぶ。事情を質す余裕もなく、周囲の目だけを気にしているとわかる声に、こちらも最後の理性が弾け飛んだ。バナージはなにも言わずにその場を離れた。
「おい、バナージ!」とタクヤが呼びかけてきたが、無視してリビングを出た。ミコットの家はマンションの最上階二階分にわたっており、室内の階段を上るとそのまま屋上の庭に出られる。玄関より手前にあったという理由だけで、バナージはその階段を上って屋上に向かった。とにかく一刻も早く外に出て、塞がれた肺に空気を送り込んでやる必要があった。
マンションはアナハイム社が所有するもので、人工太陽を支える柱の根元を囲む形で建てられている。上空の人工太陽まで到達する巨大な支柱に較べれば、根元にほんの少し建物がこびりついているという印象だが、その高さは十階に及び、上層階に向かうほど遠心重力が低くなるという特徴がある。リビングのある九階までは体感できない程度の差だが、十階では0・9Gに近づき、屋上に至ってはさらに低重力になるのだ。
低重力は老化を防ぎ、健康も促進するという話の真偽はともかく、富裕層向けのマンションにはこうした造りの部屋が多い。ミコットの家もご多分に漏れず、低重力の階には寝室やトレーニングルームが置かれていたが、それこそ酒で浮かれた連中には格好の遊び場だった。がんがん音楽を鳴らし、トレーニングルームで跳びはねる少年たちの乱痴気騒ぎを横目に、バナージは屋上へと急いだ。途中、ふと外の様子が気になり、踊り場の窓から地上を見下ろしてみる。
思った通り、リムジン・タイプの高級エレカがマンションの玄関前に駐車していた。革張りの座席に最高級のオーディオやら冷蔵庫やらを搭載し、冷えたワインまで常備しているビスト財団のリムジン。自分を〈カタツムリ〉から工専まで送り届けたあと、ボディガードよろしくへばりついている忌ま忌ましい車だ。低重力とは裏腹に気が重くなり、バナージは舌打ちして窓から離れた。
あなたの身辺をお護りするよう、理事長から申しつかっておりますので。リムジンに収まる二人の男たち、猟犬の精悍さと律儀さを感じさせる背広の男たちに、他の論理はない。うっとうしい、帰れと言ったところで、彼らは主人の命令がなければてこでも動かないだろう。カーディアス・ビスト、あの権力を空気のように身にまとった尊大な大人。いまだその掌中から抜け出せないのかと思うと、息苦しさも一入《ひとしお》になり、バナージは段抜かしで階段を上った。屋上の階段室で体を寄せ合っていたカップルが、無粋な奴と言わんばかりに傍らを行き過ぎていった。
「ふーん。で、あいつらが見張ってるってわけ」
眼下のリムジンを手すりごしに見下ろしつつ、ミコットが言う。事情は了解したが、まだ許したわけではないとその背中が語っていた。バナージは両手をジャンパーのポケットに突っ込み、
「嫌《いや》みなんだよ。あんな目立つ車で」
口をとがらせて言ったあと、背後に聳える人工太陽の支柱に視線を逃がす。屋上の中心からそそり立ち、雲を割って三キロ以上の高みに達する支柱は、途中から闇に溶け込んで星空を遮る影になっていた。無論、本物の星ではなく、反対面の内壁に灯る街の明かりが作り出す星空ではあるが。
支柱は内壁の各所に定間隔に設置され、コロニーを縦貫する人工太陽を支えている――いや、人工太陽の柱は中心軸の無重力帯にあるのだから、固定している、と言った方が正確か。その根元をバームクーヘンさながら取り巻くマンションの屋上は、部屋の敷地ごとに低い生け垣で隔てられ、持ち主が思い思いの使い方ができるレイアウトになっていた。ミコットの家を例に取るなら、半分がプール、半分が家庭菜園という造りだ。
その、切り分けられたバームクーヘンとも取れる屋上の一画で、ミコットとタクヤに事情を問い詰められて十分あまり。あらためて反芻するには苦味の多い話だったが、腹を立てている二人に粉飾して話すという芸当はできず、バナージはありのままを喋らされてしまっていた。話せば楽になるとはよく言ったもので、パーティーを中座して様子を見にきてくれた二人を前にすれば、爆発寸前の内圧も多少は鳴りをひそめた。エスタとかいう娘の顔を思い出し、悪いことをしたという気分にもなれたのだから、結局はその程度のむしゃくしゃでしかなかったのかもしれない。そう思うと、今日一日の出来事が急に現実感を失い、手のうちをすり抜けてゆくような虚しさを味わいもした。
「でも、すげえよな。カーディアス理事長って、財界の大物なんだろ。どんな奴だった?」
それでも、他人事の暢気《のんき》さでタクヤが口を開けば、こいつはなにもわかっていないんだと腹立たしくなる。「別に。普通の大人だよ。やたら偉そうでさ」とバナージは硬い声を返した。「ま、並大抵の偉さじゃないんだろうからな」とタクヤはあくび混じりに応じる。
「でも、それでそのオードリーって娘《こ》を置いてきちゃったんだから、ここは素直に負けを認めることね」
ミコットが刺《とげ》のある声を出し、バナージはちょっと息ができなくなった。「なんだよ、それ……」と詰まった声を出すと、ミコットは手すりから離れてこちらに体を向けた。
「ぐじぐじして、あたしの友達に当たるなんて女々《めめ》しいわよ。そんなに気になるんだったら、いまからでも取り戻しに行けばいいじゃない。バッカみたい」
返す言葉がなかった。バナージの反応を待たず、ミコットは目も合わせずに階段室の方に向かった。女はそう考えるのだろう、と咄嗟に納得しつつも、「そんなに簡単なことかよ」とバナージは言った。虚しい抗弁はミコットの背中に弾き返され、プールの水面に落ちて霧散した。
「怒るなよ。ヤキモチだぜ、あれ」
階段室のドアをくぐったミコットを見送り、タクヤが含んだ声を出す。まったく想像外の言葉に、バナージは「は? なにそれ」と聞き返した。
「ニブいねえ、おまえも。ま、気にすんな。確かに簡単なことじゃない」
「なにが」
「クビをかけるってことがさ。ミコットは工場長の娘だし、ああ見えて苦労知らずだからな。おれたちと違うんだよ」
しゃっくりをしつつ、タクヤは言った。アルコールで上気していても、その目は常以上に冷めているように見えた。
「卒業までおとなしくしてりゃ、アナハイムの正社員になれるんだ。それって、おれたちみたいな人間にとっちゃ二度とないチャンスだぜ。つまんねぇ意地張ってミソつけるこたねえよ」
生温《なまぬる》い風に茶色がかった髪をそよがせ、コロニーの夜景を見つめるタクヤの横顔が言っていた。その瞬間、あ、こいつは大人だと思い、バナージは言葉をなくした。ある意味、ミコット以上に隔絶された壁がタクヤとの間に立ち上がり、併せて周囲の世界が自分から遠のいてゆくのが感じられた。
オードリー・バーンと出会ってからこっち、すっかり忘れていた馴染みの感覚――『ずれている』感覚。なにやら胸が疼くような息苦しさを覚え、バナージはタクヤの横顔を視界の外にした。手すりに寄りかかり、街灯やエレカの光が幾何学模様を描き出す地上に目をやる。財団のリムジンは、先刻見た時と同じ場所から動いていなかった。
バナージは手すりを握りしめ、巨大な支柱ごしに月側の気密壁を見上げた。昼間の拡張工事で一段と遠ざかった気密壁は、分厚い空気の層と雲にほとんど包み隠され、〈カタツムリ〉に通じるゲートを見通すことはできなかった。
午後七時。定刻通りに、待ち人は現れた。
「ようこそ〈メガラニカ〉へ。ビスト財団当主、カトディアス・ビストです」
エレベーターから降り立った一団は、財団当主が迎えに立っているとは予想していなかったのだろう。一様にぎょっと息を呑む気配を見せたが、四人のうちのひとり、髭面の男だけがいち早く驚きから立ち返り、探る目を左右に走らせるのをカーディアスは見逃さなかった。
この男が船長《キャプテン》、『袖付き』が寄越した運び屋の首魁か。確認する間に、「〈ガランシェール〉船長、スベロア・ジンネマンです」と剛《かた》い髭に覆《おお》われた口が動き、節くれ立った手のひらが差し出された。カーディアスはその手を握り返し、叩き上げの軍人の手のひらだと了解した。もしくは、捕虜《ほりょ》生活が長かったか、だ。
「ご当主が自らお出迎えとは、恐縮です」
「財団の命運を託そうというのです。人任せにはできません」
互いに目を逸らさずに言ったあと、ジンネマンは年季の入った革ジャンの懐から親書を差し出した。モナハン・バハロとフル・フロンタルの連名によるサインを見、ジンネマンに同行する三人の男たちの顔を見渡したカーディアスは、「これで全員かな?」と問うた。ジンネマンは眉ひとつ動かさず、
「何人か船に残しています。なんならリストを……」
「いや、結構」彼女≠フ件はおくびにも出さない。手強《てごわ》い男と最初の評価を下しつつ、カーディアスは背後に立つガエルに親書を渡した。「どうぞ。ご案内しよう」と微笑を投げ、先に立って長い廊下を歩き始める。
〈メガラニカ〉の回転居住区にある事務棟は、歩くには不便がない程度の遠心重力が作用している。オフィス然とした飾りのない内装は、同じ居住区内にあるビスト邸とは別世界の殺風景ぶりだが、ことセキュリティに関しては申し分がない。ここにたどり着くまでに幾重ものチェックを受けているとはいえ、相手は『袖付き』が送り込んだ精鋭たちだ。屋敷に招いて、くつろいでもらおうという発想はカーディアスにはなかった。
彼女≠フ一件で、互いに疑心暗鬼という事情もある。そのために会合場所を変更し、安全確保に万全を期したつもりのカーディアスは、背後につくガエルに視線を流した。「港の様子は?」と彼にだけ聞こえる声で尋ねると、すかさず横に並び立った長身が「問題ありません」と低く応じていた。
「外に出ていた連中も船に引き返したようです。船内の状況はつかめませんが、万一の事態に備えて待機しているのかと」
〈ガランシェール〉を監視するべく、港に張り込ませている連絡員からの報告だった。彼女≠フ捜索に出たクルーも船に戻った……ということは、ジンネマンはやはりここに彼女≠ェいると確信している。万一の事態に備えて待機するのは、ロンド・ベルのパトロールを葬ったというモビルスーツだろう。どのタイミングで彼女≠返すか、相手の出方次第だなと思案したカーディアスは、うしろを歩くジンネマンたちの気配に意識を凝らした。と、「例の少年に付けた警護は呼び戻しますか?」とガエルに問われ、不意に足をすくわれた気分に襲われた。
『袖付き』の追手が船に戻った以上、バナージ・リンクスに警護を付けておく必要はない。「あとでいいだろう。彼らのシンパがコロニー内にいないという保証はない」と返し、無言で頷いたガエルの禿頭《とくとう》を横目で見遣ってから、カーディアスはつい数時間前にすれ違った少年の顔を記憶の中に追った。
いつかは会わねばと思いながら、仕事にかまけて保留にしてきた不実を嗤《わら》い、今日という時に突然現れた因縁深い顔がひとつ――。写真よりまた少し大人びたと思える顔を思い出しつつ、嫌われただろうな、とカーディアスは内心に苦笑した。我ながら、よくもああ杓子定規な言葉が並べられたものだと思うが、これが男の粗忽なところだろう。いかような経験を積み、いかような力を得ようとも、ああした瞬間に男は無力に立ち返る。怖くなるのだ。自分と似た瞳に、すべてを見透かされる気がして……。
人払いをした事務棟の廊下は、数人分の足音だけが響き渡る静けさだった。用意した部屋に向かい、財団の命運を決する仕事に取りかかるまでの少しの間、カーディアスは己の人生のしこりと対面し続けた。
午後七時四分。一時間ほど前からひどくなり始めたミノフスキー粒子による電波障害は、ここに来て対物感知センサーの目まで曇らせるようになっていた。太陽電池パネルの裏側に潜む〈ギラ・ズール〉のコクピットで、サボアは何度目かのリセット作業を終えた。
システムを立ち上げ直しても、対物センサーが復旧する気配はない。ノイズしか映さないセンサーのウインドを睨みつけたサボアは、リニア・シートのコンソールを殴りつけた。単なる電波障害で、こうもセンサーが使えなくなるのはおかしい。対物感知センサーは、戦闘濃度のミノフスキー粒子下でも半径二十キロをカバーできるはずなのだ。宇宙ではほんの一瞬、一息で懐に飛び込まれてしまう距離だが、こうした監視業務では重宝する。それが使用不能になるということは、ミノフスキー粒子の濃度が増しているか、センサーの防護装置がいかれたかのどちらかでしかない。
「まったく、安物の装置を使ってるからよ……!」
意図的に散布しない限り、センサーを潰すほどミノフスキー濃度が上がる道理はない。後者の理由であることに疑いはなく、サボアはひとり吐き捨てた。まがりなりにも軍組織らしい規模を整え、こうして新型のモビルスーツも運用できるようになった『袖付き』だが、その懐事情は厳しい。装備の大半は旧軍からの使い回しだし、補給備品も潤沢とは言えない。新型にもかかわらず、〈ギラ・ズール〉がアームレイカー・タイプの操縦桿を採用しているのも、従来機のOSを使い回すためだった。手がすっぽ抜けやすいと悪評が立ったことから、連邦軍ではとうに採用を中止している代物なのに。
そんな状況だからこそ、ビスト財団からの怪しげな申し出に一縷《いちる》の望みを託しもするのだが、その取引が始まろうという時にセンサーが故障してくれるとは。サボアは、四方に展開した小型監視カメラの映像に目を凝らした。こうなれば、光学センサーによる映像情報――自分の目が唯一の頼りになる。実景より明るいCGの宇宙をオールビューモニターに見渡し、コーヒーのチューブに口をつけようとした時、白色の光がちらりと視界をよぎった。
「プチモビか?……いや、違うな」
プチモビのスラスター光にしては大きすぎる。光が発したデブリの岩塊を観察するべく、サボアはフットペダルを軽く踏み込んだ。小型監視カメラの性能では満足な観測はできない。機体を少し前に出して、メインカメラで捉えるのが早道だ。アームレイカーを慎重に動かし、サボアは構造材の隙間に潜む〈ギラ・ズール〉をパネルの突端まで移動させた。その頭部がパネルの陰からぬっと突き出した刹那、巨大ななにかがすぐ上をかすめ、接近警報がコクピット内に鳴り響いた。
「なんだ……!?」
咄嗟に頭を引っ込め、腰にマウントしたビームマシンガンにマニピュレーターをのばす。背部にブースター・ユニットを背負ったモビルスーツが一機、〈ギラ・ズール〉の頭上をすり抜けていった。距離は百メートル以下、慣性飛行中らしくスラスターは焚いていない。データベースが照合CGを重ね合わせるまでもなく、サボアは至近距離をかすめた機体のディテールを観察した。
ビームライフルを即時射撃位置に保持し、見た目にはゆっくり移動するミディアムブルーの機体。直線的なラインで構成された人型は、地球連邦軍の可変モビルスーツと知れた。照合結果によればRGZ-95、ロンド・ベル隊に集中配備されていると聞く敵機――。
「こんな近くに……!」
どっと汗が噴き出し、心臓が早鐘を打った。どこを見ていたと自分を罵る一方、それほど巧妙に近づいてきた敵をパイロットの目で観察したサボアは、通信用のコンソールに手をのばした。どれほどミノフスキー粒子が濃くても、二十キロ圏内なら音声は送れる。敵機に気づかれる前に〈ガランシェール〉に一報し、やりすごすなり仕掛けるなり、次の手順を考える必要があったが、コンソールのパネルに触れかけたところでその指先は凍りついた。
周辺を漂うデブリから一機、また一機と、スラスター光を閃かせたモビルスーツが飛び出してくる。それらが小型監視カメラの映像の中を流れ、四方八方に散り、〈インダストリアル7〉を包囲するように展開してゆく。RGZ‐95が四、RGM-89が二、確認できただけでも六機。そのうちの一機が小型監視カメラのケーブルをかすめ、〈ギラ・ズール〉の頭上に固定するのを見たサボアは、絶望的な気分になった。
「なんなんだ、こいつら……」
訓練などという冗談はない。このモビルスーツたちは、ミノフスキー粒子の濃度を少しずつ上げ、デブリの陰に隠れて忍び寄ってきたのだ。間違いなく作戦行動――それも一個中隊と呼べる戦力を前面に押し立て、コロニーを包囲しようという大規模な作戦行動だった。これだけの数が展開したからには、後詰《ごづ》めの部隊も進出中と見るのが正しく、さらに後方には艦隊も控えているかもしれない。確実な情報、そこに間違いなく敵が存在するという根拠がなければ、おいそれと動かせる規模の戦力ではなかった。
はめられた。ほとんど確信しながらも、サボアは通信コンソールのパネルに触れられずにいた。太陽電池パネルを挟んで、皮一枚という距離に固定したRGZ‐95。こいつがここにいる限り、無線発信はできない。いまは太陽発電のマイクロウェーブがミノフスキー粒子に相乗し、〈ギラ・ズール〉の熱源を隠してくれているが、無線を発信したら最後、こちらの存在は敵に露見する。たちどころに電波発信の方位が測定され、いかに逃げようともビームライフルの餌食にされる。
先に仕掛けるか? アームレイカーに載せた指をぐっとこわ張らせつつ、いや、ダメだとサボアは自答する。目前の一機は仕留められても、他の敵機に袋叩きにされる。『袖付き』が潜伏中であると敵に教え、〈ガランシェール〉を危機に陥れるだけのことだ。一報したところで、脱出の機会を失してしまえば意味がなくなる。
では、どうすればいいのか。堂々巡りの思考をもてあそぶうちに、慣性で流れた敵機がすぐ頭上を横切り、サボアは思わず首をすくめた。アームレイカーに載せた手のひらに力が入り、ビームマシンガンのグリップをつかんだ〈ギラ・ズール〉のマニピュレーターがぴくりと動く。敵機のつま先が小型監視カメラのケーブルを引っかけたのか、ウインドの映像にノイズが走った。
気づかないでくれ。サボアは震える両手を握り合わせ、信じたためしのない神に祈った。
そのサボアの緊張を、マリーダは感知した。正確には、コロニーの内外に滞留する膨大な人の気配の中から、不意に見知った気配が立ち昇るのを感じ取った。
〈ガランシェール〉の格納デッキ、ハンガーに固定された〈クシャトリヤ〉のコクピットで、マリーダは分厚い装甲ごしにサボアの息遣いを聞き、同時に刺すように冷たい複数の思惟が押し寄せるのを知覚した。機体に搭載されたサイコミュが感応波を増幅し、感性を拡大しているという自覚はあったが、毛穴に染み込む冷たさは電気的なフィードバックとは違っていた。もっと生々しい、無数の蛇が肌の下に入り込み、そよそよと蠢《うごめ》く生理的な不快感だ。
その冷たい不快の中に、知っていると思える他者の体温が入り混じり、怯えて縮こまったサボアの思惟の在《あ》り処《か》を伝える。マリーダはノーマルスーツのヘルメットをぬぎ、四方に己の感覚を解き放った。コロニーの住民が垂れ流す雑多な思惟を突き抜け、まっすぐ斬り込んでくる外からの思惟を受け止め、じっと閉じていた瞼を静かに見開く。
「敵が来る……!」
予感、という曖昧な感覚ではなかった。マリーダは〈クシャトリヤ〉の熱核反応炉に灯を入れ、アームレイカーを握りしめた。〈クシャトリヤ〉のモノアイが輝き、その機体がぶるりと震えた。
「……つまり、『ラプラスの箱』そのものではなく、箱を開ける鍵を引き渡す、と?」
狐につままれたというジンネマンの顔を、額面通りに受け取るつもりはなかった。叩き上げのがさつな軍人という表皮の裏で、常に精緻な計算を働かせている複雑さがこの男にはある。ブランデー入りの紅茶を口にしつつ、「そうです。ご不満かな」とカーディアスは返した。「不満というより、わかりません」と応じたジンネマンは、五里霧中といった表情で頭を掻いた。
「なにしろ、わたしらは『ラプラスの箱』がどういうものかも知らんのですから」
そう語るジンネマンの背後には、金髪を短く刈り込んだ男がボディガード然とした顔で立っている。フラスト・スコールと名乗った彼は、ソファを勧めても座ろうとはせず、他の二人とともに油断なく警戒の目を飛ばしていた。無論、カーディアスの背後にもガエルとその部下らが並び立ち、フラストたちの挙動をそれとなく注視する姿がある。テーブルを挟んで剣呑な相似形を成す男たちの立像は、この応接室に立ちこめる疑心暗鬼の凝集というところだった。互いに押し黙り、目も合わせないくせに、相手のことが気になって仕方がない――。
観葉植物が置いてある他は絵の一枚も飾っていない、殺風景な応接室で顔を突き合わせて五分弱。このジンネマンという男も、まだ本当の意味では喋っていないし、目を合わそうともしていない。この状態でこちらの手の内を明かすのはおもしろくない、とカーディアスは思っていた。本質が見たい。この手強い男の内に潜む目≠引き出したい。
「しかし、『袖付き』の上層部は『箱』の価値を認めて、あなたのような腕利《うでき》きを寄越した」
微かな焦りを紅茶と一緒に飲み下しつつ、カーディアスは軽いジャブを放ってみた。ジンネマンは顔の表皮を機械的に苦笑させ、
「わたしなんぞ使い走りです。使い走りに重要事を託さねばならないのが、我々の組織の現状でもあります」
笑った目の奥に仄暗い光が宿る。反応あり、と思ったのもつかのま、隠微な光はすぐに消え去り、ジンネマンはだらしなくソファの背もたれに寄りかかった。
「鼻先に餌をぶら下げられたら、吟味している余裕なんぞありません。食いつかずにはいられないということです。ですから、それが毒入りだったり、釣針が仕込んであったりしたら……」
顔の表皮から笑みが霧散し、再び宿った目の光がぬらと閃く。肩透かしを食らった直後の不意打ちに、カーディアスは心臓が一拍跳ね上がる音を聞いた。
「上はさぞがっかりするでしょうな」背後に立つガエルさえ身構えさせるほどの殺気を瞬時に打ち消し、ジンネマンはにたりと笑ってみせた。「ま、そうしたところで、天下のビスト財団を相手になにができるものでもありませんが」
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いかにも苦労人らしい、卑屈とも取れる笑顔。だがその目はもう笑っていない。たばかれば殺す、と内奥に宿る光が言っている。これがこの男の目=Aジンネマンという亡国の軍人[#「亡国の軍人」に傍点]の本質か。見事に殴り返された自分を嗤い、カーディアスは口もとを緩めた。これでいい。これでこちらも本題に入れる――。
「キャプテンは、ニュータイプの存在を信じているのかな」
紅茶のカップをテーブルに戻し、カーディアスは言った。堅い石を思わせるジンネマンの瞳が揺れ、
「そりゃ、まあ……」と戸惑い気味の声がその口から漏れた。
「戦場にいれば、そうとしか説明できない力を感じたことはありますが」
まともに答えたものかという心もとなさが、強い髭面を愛敬のあるものに見せていた。一太刀返せた満足感とともに、カーディアスは「力か。体感した者ならではの言葉だ」と小さく笑った。
「宇宙世紀屈指の政治思想家、ジオン・ダイクンが提唱したニュータイプ論。あれはまさしく力≠セった。宇宙に出た人類は、その広大な空間に適応するために自らの潜在能力を開花させる。認識力、直感力、洞察力が拡大し、他者と誤解なく理解しあうこともできるだろう。それは人の革新……『|新しい人のかたち《ニュータイプ》』の胚胎期《はいたいき》となる。だから人類は地球という揺り籠から巣立たねばならない。スペースノイドは次代の人類の礎《いしずえ》たることを自覚し、宇宙の深淵にこそ未来を見出さねばならない……。そして、あの戦争が起こった」
ジンネマンは、もう戸惑いの色を拭い去っていた。慎重な目の光を見返し、カーディアスは言葉を継いだ。
「一年戦争。スペースノイドの独立を掲げたジオン公国が、地球連邦と正面からぶつかりあったあの戦争……。戦争を主導したのは、ジオン・ダイクンを暗殺して公王の座についたザビ家一党だが、ジオンの名は国の名として残った。名前だけではない。ニュータイプという思想もまた、|ジオン主義《ジオニズム》の中核をなすものとして世に浸透した。戦争に勝利して以来、連邦は常にその見えない力≠ノ脅かされてきたと言っていい。地球に居残る特権階級を告発する力=A棄民《きみん》たるスペースノイドに目覚めよと呼びかける力=Bそうして地球と宇宙の権力闘争を逆転させ、百年続いた連邦の支配体制を覆しかねない力≠セ。
この十数年、連邦はその見えない力≠ニの戦いに明け暮れてきた。ニュータイプと見なされる人物の追放《パージ》、ニュータイプ思想に関する書籍の発禁。一方でニュータイプ研究所などという公的機関も造られたが、あれはマッド・サイエンティストの人体実験場だ。ニュータイプの兵器的側面のみを取り出して、人工的に強化されたパイロットを産み出したにすぎない」
ジンネマンの無表情が、わずかにそよぐのが見て取れた。彼が亡くした国は、連邦に先んじてニュータイプ用の兵器――サイコミュを完成させたことでも知られている。ニュータイプ能力を人工的に付与する研究も進んでいたとなれば、人体実験≠フ実例も目《ま》の当たりにしているのかもしれない。カーディアスは目を伏せ、ジンネマンの動揺を見なかったことにしておいた。
「その行き過ぎた弾圧が軍閥の台頭を許し、グリプス戦役という内乱を引き起こしもした。そして二度にわたるネオ・ジオン戦争……。連邦は大いに疲弊したが、ニュータイプの存在を学術的に裏づける定義がない以上、最終的な勝利を約束する強い味方が連邦にはあった。おわかりかな?」
ほとんど間を置かず、「時間、ですか?」とジンネマンは答えた。やはりこの男は鋭い。「左様」とカーディアスは微笑した。
「人心は移ろいやすく、大衆は忘れやすい。確かにニュータイプらしい人は存在する。だが彼らは、その超能力者《エスパー》的な先読み能力をして、傑出したパイロットであったと歴史に記されるのみ。『誤解なくわかりあえる人』というジオン・ダイクンの定義からは、もっとも遠い場所にいる人々でしかない。常に結果だけを求める大衆は、可能性しか示さないニュータイプに飽きた。ニュータイプという言葉は撃墜王と同義になって、いまでは戦記物の映画や小説でしか語られない。まっとうな政治家や学者の間では忌み言葉になっているくらいだ」
まして、このような場で大真面目に取り上げる話題でもない。ジンネマンの表情に結論を急《せ》く匂いを感じ取り、カーディアスは紅茶で湿らせた口を開いた。
「かくしてジオニズムは骨抜きになり、スペースノイドの自治権要求運動も廃《すた》れた。旧世紀の資本社会が共産主義を打ち負かしたように、地球連邦はジオニズムという毒を封じ込めることができた。では、その先は? 安定という名の閉塞。スペースノイドの階級闘争はなんの総括もされずに霧散し、連邦政府による盤石な支配体制が続く。宇宙《U》世紀《C》|0100《オーワンハンドレッド》をもってジオン共和国が自治権を返還すれば、人々はジオンの名さえ忘れ去ってゆくだろう。
あなた方は、そうなる前に事を起こしたい。そして我々も、そんな未来には魅力を感じていない……」
長口舌《ながくぜつ》を終え、カーディアスは紅茶の残りを飲み干した。身じろぎもせずにこちらを注視していたジンネマンは、不意に顔を伏せ、肩を揺すって笑い始めた。
笑いの波は次第に大きくなり、ついには天井を仰いでの哄笑が室内に響き渡るようになった。フラストたちがわずかに戸惑う素振りを見せる中、「なるほど、双方の利害は一致しているというわけですな」と言い、ジンネマンはさも愉快そうに膝を叩いてみせた。
「だから、静まりかけた水面に一石を投じる。……それが、ビスト財団が我々に『ラプラスの箱』を託す真の目的ですか」
笑った目の奥で、あの殺気を孕んだ光が閃く。カーディアスは微笑を返事にした。
「しかし、よろしいので? 『ラプラスの箱』を我々に託せば、財団は連邦政府との共生関係を失うかもしれない」
「ビジネスにリスクは付き物だよ」
「確かに。あなたが我々に託そうとしているもの……箱でも鍵でもいいが、それに発信機が取りつけられていて、我々の拠点が割り出される可能性もゼロじゃない」
「無償で引き渡そうというんだ。信じられないならお引き取りを、と言うこともできるが?」
「怒らんでください。昔から言うでしょう? タダより怖いものはないって」
すっかり打ち解けた笑みを浮かべながら、その実、以前より硬い表皮がその全身を覆っている。つくづく手強いと思いつつ、カーディアスはジンネマンの目を見つめた。
「ビスト財団の当主ともあろうお方が、そんな猿芝居に手を貸すとは思っていません。ただ、こんな仕事をしてると、疑い深くなる一方でしてね。直そうにも、それで命拾いをしてるもんだから直しようがない」
卑俗な物言いをよそに、鋭い視線が斬り込んでくる。ビジネス・オンリーという話は信じられない、本音を話せ、か。カーディアスはふっと口もとを緩め、
「あなたは聡明な方のようだ。度胸もある」
これは間違いなく本音だった。「恐れ入ります」とジンネマンは如才なく応じる。
「だが、ここですべてを明かすことはできない。なにぶん、危険な代物なのでね」
「連邦をひっくり返すほどの力を持つ物なら、それはそうでしょうが……」
「足もとを見て言っているのではない。事実だよ。あれには、未来を変える力がある」
ジンネマンの目がすっと細くなり、背後に立つフラストたちの顔にも緊張が走る。それぞれがのばしているアンテナに、『箱』の中身という最大の懸案事項が引っかかった空気を感じながら、カーディアスは慎重に続けた。
「いや、本来、そうあるべきだった未来を取り戻す力がある、と言った方が正確か。ただし、誰にでも扱えるというものではない。使い方を誤れば、それは世界をまるごと滅ぼす魔力を発揮する」
「だから、とりあえず鍵を渡して試す……というわけですか?」
「人が人を信じるのは難しい。行動と結果だけが、その者の資質を証明する。あなた方に、世界の理《ことわり》を識《し》る力があればよし」
「世界の理を識る力……。まるでニュータイプですな」
自身の言葉を確かめるように、ジンネマンはゆっくりと言った。ご名答、の意を込めてカーディアスはにやりと笑った。
「反対に、ひとつ事にこだわるだけの狭隘《きょうあい》な主義者なら、『箱』はその中身を明かすことはない」
ふむ、と鼻息をついたジンネマンは、「ひとつ事とは?」と切り返してきた。カーディアスは顎をさすり、「そう、たとえば……」とジンネマンの双眸《そうぼう》を覗き込む。
「ジオンの再興」
ぴくりと動いた眉が、唯一の反応だった。瞬間的に膨れ上がった感情を表皮一枚に押し留め、ジンネマンはひとまず無言を返した。カーディアスも口を閉じ、互いの目の底を覗きあう沈黙が応接室に降りた。
次に寄越すひと言が、この男の価値を決める。ジンネマンの反応を待ったカーディアスは、不意に鳴り出した電話に内心舌打ちした。ジンネマンの視線が電話の方に逸れるのを見てから、自分も仕方なくそちらを見遣る。
いまこの部屋にかかってくる電話が、つまらぬ用件のものであるはずがない。平静を保ちつつ、カーディアスは電話を取ったガエルの背中を窺った。ガエルも動揺を表に示すことはなかったが、電話を切り、こちらを振り返った顔には押し殺した緊張の色が浮き出ていた。カーディアスはジンネマンに断って席を立ち、部屋の隅でガエルと顔を寄せあった。
「コマンド・モジュールからです。ロンド・ベルの艦が〈メガラニカ〉に寄港を要請しています」
来たか。半分は予測の範疇、半分はまさかとざわめく心中を隠し、「用向きは?」とカーディアスは静かに問うた。「テロ特措法《とくそほう》に基づく臨検だと言っているそうです」とガエルは低く答える。
「アナハイム本社に連絡するよう指示を出しましたが、向こうはかなり強硬な構えのようです。すでにモビルスーツ隊がコロニーを包囲しているとか」
「軍との連絡は?」
「やらせていますが……」
期待はできない。元は連邦軍の飯を食っていた者同士、ガエルの抱く危機感はカーディアスにも理解できた。この展開の早さ、動きのよさは、裏から手を回して収拾できる類いのものではない。日頃は肥え太った巨体を持て余し、車両一台を移動させるのにも膨大な手続きを要する連邦軍だが、上層部の足並みさえそろえば行動は素早く、本来の組織力をもって驚くべき実行力を発揮する。無論、この場合の上層部とは、単に組織内の上位機関という意味ではなかった。退役後は議員への転身を目論む将官と、彼の出馬を後押しする中央議会の議員。その議員を後援する一方、軍需品の入札では将官の世話にもなっている企業体のトップ。そうした三竦みが織り成す無形の利害調整機関、その総体を指していう上層部≠セ。
問題は、上層部≠フ重要な構成単位であるはずの自分が、今回のロンド・ベルの動きを察知しきれなかったという事実だった。カーディアスは心持ち首を動かし、ジンネマンの様子を窺った。港に残した船から連絡があったらしく、携帯無線機を耳に当てている。彼らもロンド・ベルの接近を察したのだろう。一瞬、彼らが敵を呼び込んだのか? という考えがよぎったが、それはあり得ない。仮に尾《つ》けられたのだとしても、上層部≠フ事前の合意がない限り、連邦の艦がビスト財団に泥をかける真似をする道理はない。
「マーサめ……」
アナハイム・エレクトロニクスの会長一族、カーバイン家に嫁《とつ》いだ実の妹の顔が目に浮かんだ。政略結婚に人生を捧げたなら、パワーゲームに興じるのも女の権利と言って憚《はばか》らない六つ違いの妹。軍を動かし、『箱』の引き渡しを妨害せんとする上層部≠フ思惑に、あの女が関わっていないわけはない。
「いかがなさいます?」
ガエルが言う。その顔を見返したカーディアスは、「これも、あなたのゲームの一部ですかな?」と割り込んだ声に口を噤んだ。無線機を片手にしたジンネマンが、鈍く光る目をこちらに向けていた。
「そんな予定はない。あなた方が追跡されたのではないかと言いたいが、水掛け論だな」
「同感です。人が人を信じるのは本当に難しい」
上辺の笑みさえかき消し、ジンネマンは無表情に言った。彼らにしてみれば、財団と軍が共謀したとしか思えないのがいまの事態だろう。殺気を漲《みなぎ》らせたフラストの顔を見、前に出ようとするガエルの気配も察したカーディアスは、片手を挙げて双方の動きを制した。ここで我々が争っても仕方がない。落ち着けと伝えようとして、不意にわき起こった震動に息を呑んだ。
ずん……と可聴域ぎりぎりの重低音が遠くで轟き、テーブルに置いた紅茶のカップが小刻みに震える。床を揺らし、壁を震わせ、空気そのものを蠕動《ぜんどう》させる震動は、局所的なものではない。コロニー全体に伝播するほどの衝撃、この〈メガラニカ〉まで共振させる衝撃が起こったと見て間違いなかった。
おそらくは、爆発による衝撃。思わず天井を見上げてから、ジンネマンに視線を戻す。不幸な出会いでした、とその目が言っていた。同時に右手の無線機がすっと掲げられ、アンテナの突起がこちらを向く。ただの無線機でないことは考えるまでもなく、カーディアスはめぐりあわせの悪さに両の拳を握りしめた。
実際、すべては不慮の遭遇から始まった。口火を切ったのは、ひとり太陽電池パネルの裏側に潜み、敵機に囲まれる格好になったサボアだった。
隠れ続けていればロンド・ベルに包囲され、〈ガランシェール〉に通信を送れば即座に発見、撃墜される。が、死を覚悟で一報したとしても、ロンド・ベルに敵の存在を知らせる結果に変わりはないのだ。
〈ガランシェール〉が発見されない可能性に賭けるか、行動を起こして脱出の血路を開くか。どちらも不確実性に頼った選択でしかなく、サボアが決断をためらううちに、不慮の事態が起こった。太陽電池パネルの周辺に配置されたRGZ‐95、〈リゼル〉三番機の脚が、サボアの〈ギラ・ズール〉が展開する小型監視カメラを引っかけたのだ。
モビルスーツには、装甲に接触した音源を拾い、サラウンド機構でパイロットに伝えるシステムが搭載されている。|R《ロメオ》003のコードで呼ばれる〈リゼル〉三番機のパイロットは、メインカメラを脚の方に向けた。小型監視カメラは一辺十センチと小さく、そこから延びる細いケーブルも、その先に潜む〈ギラ・ズール〉も、太陽電池パネルの反射光の中で容易《たやす》く見分けられるものではない。パイロットはデブリとの接触を疑うだけだったが、サボアからすれば、その光景は身長二十メートルの巨人が頭《こうべ》をめぐらせ、こちらを見下ろしたように見えた。バイザーに覆われた敵機の目がぎらりと光り、見つけたぞ、と嗤《わら》ったとも感じられた。
サボアは反射的にマニピュレーターを動かし、〈ギラ・ズール〉にビームマシンガンを引き抜かせた。アームレイカーの発射ボタンを押すと、連動する〈ギラ・ズール〉のひとさし指がマシンガンのトリガーを引く。縮退寸前のミノフスキー粒子がEパック――携行ビーム兵装における弾倉《マガジン》、もしくは電池――から解き放たれ、銃身内部の加圧リングで圧縮されて、メガ粒子に転じた高エネルギーがビームマシンガンの銃口から迸る。素粒子レベルの核融合によって生じたメガ粒子は、マシンガン・タイプのビーム兵装から射出された場合、収束率より速射性の高さをもって対象物に襲いかかった。すなわち、文字通りマシンガンのように連続してビームが撃ち放たれ、ロメオ003の機体に殺到した。
ライフル・タイプの一撃がストレートなら、細かなジャブの連打といったビームマシンガンの粒子弾が、至近距離から〈リゼル〉を打ち据える。ピンク色の光弾が脚部から腹部にかけて撃ち込まれ、ロメオ003はたちまち黒焦げの弾痕に覆われた。熱核反応炉こそ破壊されなかったものの、コクピットは直撃を受け、パイロットは事態を理解する間もなく蒸発した。乗り手を失った〈リゼル〉は、機体内部からショートの火花を爆《は》ぜらせ、暗礁宙域に浮かぶデブリのひとつとなって漂い始めた。
ろくに撃墜を確認する間もなく、サボアは太陽電池パネルの陰から自機を離脱させた。戦端が開いた以上、一ヵ所に留まり続けることは即、死を意味する。こうなったらできる限り敵機を引き付け、〈ガランシェール〉が脱出する暇を作り出す他ない。本隊に一報を告げた彼には、もはや応答を聞き取る余裕もなかった。
「話がうますぎたんだ。まんまと罠にはまっちまって……!」
フットペダルを踏み込み、敵の機影に目を走らせるサボアに、他の思考はない。が、〈ネェル・アーガマ〉から発したモビルスーツ隊のパイロットらにしてみれば、自分たちこそ罠に飛び込んだウサギだと思えた。
(『袖付き』だ! 工業ブロックの方に移動した)
僚機の撃墜を知ったパイロットの声が無線を駆け抜け、各々の配置につきつつあったモビルスーツが一斉に索敵を開始する。その緊張と混乱は、ノイズ混じりの無線を介して四方に発信され、待機域に進出したリディの耳にも届いていた。
「ジオンの残党が、性懲りもなく……!」
操縦桿を握りしめ、口中に吐き捨てる。一年戦争と、二度にわたるネオ・ジオン戦争を経て、いまだに地球圏にテロを仕掛け続ける『袖付き』――ネオ・ジオン軍の残党ども。僚機のレーザー発信が途絶えた、その意味を実感するより早く、(ロメオ002より各機。周辺警戒を厳となせ)とイアン中隊長の号令が無線に割り込んできて、リディは周囲三百六十度のオールビューモニターに目を走らせた。周辺に漂うデブリの中に、まだ他にも敵が潜んでいるかもしれない。無線を錯綜するパイロットたちの怒号、悲鳴に近いミヒロたちオペレーターのコールを聞きながら、ロメオ003は墜《お》とされたのか、とようやく思いついた。簡単なものだ。劇的なことなどなにひとつなく、レーザー信号の有無のみで表現される人の死……。
サボアには、そんな感傷ともつかない思考をめぐらせる暇はなかった。ビームマシンガンを撃ち散らし、殺到する敵機を牽制した彼の〈ギラ・ズール〉は、鈍い光沢を放つ〈インダストリアル7〉の外壁を目指して飛んだ。太陽電池パネルのマイクロウェーブ送電波に敵機を誘い出し、電子機器を火傷《やけど》≠ウせようというだけではない。コロニーの外壁すれすれを飛び、多数の民間船が往来する工業ブロックに逃げ込む算段だった。
真空に浮かぶ、人類第二の故郷たる巨大な円筒――これを傷つけてはならぬという鉄則は、ほとんどモラルとなって敵味方のパイロットに浸透している。コロニーを盾に使う抵抗感はあったものの、彼我《ひが》兵力の差を思えば戦術の是非を問うていられる時ではない。サボアの〈ギラ・ズール〉は回転する外壁をかすめ、数秒と経たずに工業ブロックのプラントを目前にした。〈ネェル・アーガマ〉のモビルスーツ隊はそれを狙撃できず、サボア機に引き離されるかに見えたが、そのうちの二機が猪突したことで状況は変わった。
二機の〈リゼル〉、ロメオ005と007がウェイブライダー形態に変形し、一方向に収束したスラスター光を閃かせる。マイクロウェーブ帯を避けた結果、二機は大回りのコースでサボア機を追わねばならなかったが、空間戦闘機と化した〈リゼル〉の加速性能は〈ギラ・ズール〉の比ではなかった。二機は瞬時に工業ブロックに先回りすると、コロニーの外壁から飛び出してきた〈ギラ・ズール〉を狙撃した。
「速い……!」
ビームライフルの光軸がサボア機の左脚を直撃し、膝から下をごっそり抉《えぐ》り取ってゆく。コクピットが激震に見舞われ、オールビューモニターに警告のメッセージが灯る。衝撃を感知したベルクロ・ファスナーが吸着力を強めたが、サボアの体はシートから引き剥がされ、コンソールから噴き出したエアバッグにヘルメットを突っ込むこととなった。サボアが頭を引き起こすと同時にエアバッグは引っ込み、下からすくい上げるように飛来する〈リゼル〉がオールビューモニターに映る。サボアは夢中でビームマシンガンを撃った。ビーム兵器の直撃は、その者に死を実感させる隙も与えない。食らったが最後、ビーム光を視認する間もなく蒸発させられるのだ。まだ生きている、まだ生きていると攪拌《かくはん》された脳内にくり返し、サボアは発射ボタンを押し続けた。〈リゼル〉は横ロールしてその弾幕を回避するや、〈ギラ・ズール〉とすれ違う一瞬にモビルスーツ形態に戻り、加速の勢いを借りてビームサーベルを振った。
〈ギラ・ズール〉の右腕がマシンガンごと持っていかれ、続けてもう一機の〈リゼル〉が上方から襲いかかる。振り下ろされた高熱粒子の刃がサボア機の鼻先をかすめ、腹部の動力パイプを切り裂いて過ぎる。立て続けの衝撃に翻弄されながらも、サボアは背部にマウントしたビームホークを引き抜いた。ビームサーベルより大型のグリップから粒子束が放出され、斧に似た光の刃が形成されたものの、片腕と片足を失った〈ギラ・ズール〉には付け焼き刃ほどの役にも立たなかった。二機の〈リゼル〉はビームホークの斬撃《ざんげき》を難なくかわし、反復してヒット・アンド・アウェイを仕掛けた。サーベルの光が猛禽《もうきん》の嘴となって〈ギラ・ズール〉をついばみ、満身創痍《まんしんそうい》の機体から漏れる伝導液が鮮血のごとく虚空に散った。
傍目にはなぶり殺しのように見えたが、そうではない。コロニーの直近では可能な限りライフルを使わず、熱核反応炉を誘爆させまいとした〈リゼル〉のパイロットたちは、セオリー通り接近戦で敵機を無力化しようとしたのに過ぎない。その戦術は正しく、可変機たる〈リゼル〉の特性を活かしたやりようでもあったが、パイロットたちは実戦経験の乏しいルーキーだった。反復攻撃がくり返されるうち、サボアの〈ギラ・ズール〉は港口の方に流れ始めた。ドッキング・ベイに出入りする民間船は慌てて舵を切り、各々に退避行動を取ったものの、その動きは俊敏なモビルスーツに比して恐ろしく鈍い。何隻かが衝突事故を起こし、こすれ合う舷《げん》から火花を爆ぜらせ、弾け飛んだ外板が誘導灯《ガイドビーコン》のブイを引き裂いた。輻輳《ふくそう》はしていても、それなりに秩序を保っていた入出港船の列はたちまち乱れ、悲鳴と怒声が港湾管理局の無線を飛び交った。
サボアは、半ば朦朧とした意識の中でそれらの声を聞いた。オールビューモニターは半分以上が死に、ひび割れたモニター面が球状コクピットの大半を覆っていたが、どこかの輸送船と小型艇が接触事故を起こすさまもはっきり目撃した。機体の回転に合わせて目まぐるしく視界が入れ替わる中、ドッキングベイのスペースゲートが間近に迫り、ガイドビーコンの光の放列が下から上へと流れてゆく。ここから離れなければならない、とサボアは思った。ここにいては民間船を巻き込むばかりか、〈ガランシェール〉が離脱する機会を失わせてしまう。港湾管理局が非常措置を取り、すべてのスペースゲートが閉鎖されたらアウトだ――。飛散したモニターの破片が腹に食い込み、漏れ出した血がヘルメットにまで溢れ返る我が身の状況も忘れて、サボアは〈ギラ・ズール〉のスラスターを噴かした。それはもうサボアという人間のしたことではなく、倫理観と義務感に貫かれたパイロットの反射行動だった。
片腕と両足を失った〈ギラ・ズール〉が、ビームホークを振りかざして吶喊《とっかん》する。いまだ民間船の航路に立ち入ったことにも気づかない〈リゼル〉のパイロットたちに、サボアの行為は特攻そのものに見えた。そしてその瞬間、恐怖に駆られてビームライフルを使ってしまったのも、彼らがルーキーであったからだった。
「ネオ・ジオン、万歳!」
サボアの絶叫は、コクピットを直撃したメガ粒子の閃光にかき消された。熱核反応炉は崩壊を免れたが、〈ギラ・ズール〉は内部から誘爆を引き起こして四散した。爆発的に膨れ上がる光球がドッキング・ベイをつかのま照らし、八方に飛び散った破片が灼熱の尾を引いて宇宙の暗黒に消えた。
ほとんど港口で起こったと言っていいその爆発は、間近にあるスペースゲートに衝撃波を叩きつけ、一キロも奥まった先にある中央ポートの空気を微震させた。震動というほど明確なものではない、空気全体が蠢動《しゅんどう》し、肌をざわつかせる波動のような微震――。
係留中の四隻の船のうちのひとつ、〈ガランシェール〉の格納デッキに収まる〈クシャトリヤ〉のコクピットで、マリーダはその波動を受け止めた。ひとつの命が消失する直前に放たれた叫び――おれは確かにここにいた、知っていてくれ、と認知を要求する叫びが駆け抜けたあと、その重みを引き受けたかのように伝わってきた波動が空気を震わせ、心身を粟立《あわだ》たせてゆく。アームレイカーを握りしめ、全身を貫く悪寒に肩を震わせながら、呑まれるな、とマリーダは己を叱咤した。消えゆく命に同調してはならない。同調すれば隙が生まれ、自分も同じ運命をたどることになる。
出港準備に追われるデッキ・クルーがふと動きを止め、周囲を見回す姿がオールビューモニターに映えた。他のクルーも不意の微震に訝《いぶか》る素振りを示し、(なんだ? 爆発が……)とギルボアの戸惑った声が無線ごしに流れる。波動を知覚はしても受け止めてはいない、彼らの鈍さにマリーダはいら立った。普通の人間[#「普通の人間」に傍点]は、どうしてこうも杜撰でいられるのか。
「サボアだ。聞こえなかったのか!?」
思わず怒鳴ってから、口中に舌打ちする。ベテランのパイロット、それ以上でも以下でもないギルボアに、サボアの声≠ェ聞こえる道理はない。(サボアが?)と怪訝な声を返したギルボアを無視し、マリーダは「キャプテンとの連絡は!?」と押しかぶせた。
(途絶した。ミノフスキー粒子が濃くなっている。〈クシャトリヤ〉を出せ。キャプテンを救い出して、ここを離れる)
手段は問うまでもなかった。ギルボアも焦っている、と微かに懸念したマリーダは、「コロニー内で仕掛けるのか?」と確かめる声を出した。
(外は敵だらけだ。コロニーの中を突っ切るしかない。急げ!)
敵の存在を感知して十分あまり、サボアの一報より早く出港準備を促していたとはいえ、〈ガランシェール〉の発進にはまだ時間がかかる。彼女≠ヘ無論のこと、ジンネマン――マスターを置き去りにする選択肢も考えられないとなれば、やれることは限られていた。「まったく……!」と毒づいたのを最後に、マリーダは〈クシャトリヤ〉のマニピュレーターに親指を立てる仕種をさせ、デッキ・クルーに出撃のサインを送った。
船尾のカーゴハッチが開き、引き出し式の貨物ハンガーがスライドする。併せて船外に引き出された〈クシャトリヤ〉のモノアイが輝き、拘束具から解放された機体がゆらりと上体を持ち上げる。袖口を飾る翼の紋章――ネオ・ジオンの紋章を照明の光に輝かせ、四枚の巨大なバインダーを展張させると、〈クシャトリヤ〉の巨体がポートの一角に立ち上がった。
他の船のクルーや、港湾作業員たちが目を丸くしてその姿に見入る中、マリーダはヘルメットをかぶってバイザーを下ろした。ポートは無重力だが、空気が充填されているために不自由が多い。空気抵抗を考慮して強めにスラスターを噴かさねばならない上、下手に噴射すれば周囲の作業員を吹き飛ばすことにもなりかねない。いったんポートの床面に着地し、踵裏《かかとうら》のフックを使って機体を引っかけたマリーダは、慌てて退避する作業員らを足もとに見つつ〈クシャトリヤ〉を前進させた。中空を漂うノーマルスーツを払いのけ、安全にスラスターを焚ける場所まで移動したところで、不意に鋭い殺意が差し込むのを感知する。
敵が来る。その直感が光になって額を突き抜け、脳裏に薄い残光を散らすのをマリーダは見た。光は感応波となってサイコミュに増幅され、コクピットから四方に放射されて、〈クシャトリヤ〉に内蔵されたファンネルに起動を促す。マリーダが意志するより早く、三機のファンネルがバインダーから飛び出し、弾かれたかのごとく移動を開始した。
全長二メートル程度の攻撃端末がバーニア光を閃かせ、漏斗型の機体を我先にと港口に猪突させる。驚く港湾作業員らの頭上をかすめ、次々に閉鎖する隔壁をくぐり抜けると、瞬く間に港口に達した先頭の一機がメガ粒子の光弾を迸らせる。真空を隔てる分厚い隔壁に小さな穴が開き、流出する空気が突風になって吹き抜けると同時に、後続の二機がするりと港口に躍《おど》り出た。
港口に入り込み、船舶用の巨大なゲートを目前にしていた敵――連邦の主力機〈ジェガン〉が動揺の気配を示す。溶け破れた穴から飛び出すや、ファンネルたちは小刻みにバーニアを噴かし、三方から〈ジェガン〉を取り囲む。マリーダは、閉じた瞼の裏側にそれらの状況を捉えた。自機を包囲した小型の物体に殺気を覚え、咄嗟に後退しようとする〈ジェガン〉の挙動も明瞭に感知できた。
「遅い」
目を開け、呟く。ファンネルから放たれたビームが〈ジェガン〉のコクピットを焼き、その制御中枢をピンポイントに刺し貫く。ライトグリーンの機体に小さな焦げ跡が刻まれ、〈ジェガン〉は動かぬ人形になって港口を漂い出した。ファンネルたちはすかさず踵《きびす》を返し、漏れ出す空気に逆らって再び破孔をくぐり抜ける。空気漏れを検知した防災システムが作動し、速乾性の応急補修材《ウォールフォーム》が詰まったゴムボールが大量に放出された時には、最後の一機が港口をあとにしていた。忠実な猟犬たちの動きを意識の片隅に捉える一方、マリーダは息を詰めてアームレイカーを握り直した。
後続の敵は多数。先発機が撃破された以上、彼らは戦闘を覚悟してコロニーに押し入ってくる。骨身に絡みつく不快を振り払い、マリーダはフットペダルを踏み込んだ。四枚のバインダーに装備したメインスラスターが一斉に火を噴き、加速を受け止めた体がリニア・シートに押しつけられる。周囲の作業員や係留索具を吹き飛ばしながら、七十四トンを超える〈クシャトリヤ〉の巨体が飛んだ。
そのままコロニー側の最終ゲートをくぐり、山≠ノ覆われた気密壁の中央からコロニー内に入る。消灯した人工太陽の柱に沿って飛び、反対端の気密壁へ。内壁を埋め尽くす街灯が空気の底で瞬き、星空に似た光景を作り出してマリーダを取り囲んだ。
そのひとつひとつに人の生活がある、ガラス細工のように脆い日常の光――。昼間、町中で見た光爆が脳裏をよぎり、マリーダは唇を噛《か》んだ。感情にかかずらわっていられる時ではない。敵はすぐ背後まで迫っている。〈ガランシェール〉に注意を向けさせないためには、派手に動いてこちらに目を引き付けねばならない。
重くのしかかる空気を引き裂き、闇に溶け込む濃緑色の機体が急制動をかける。真空で扱うのとは異なる軋みを機体と心身に感じつつ、マリーダは〈クシャトリヤ〉を追手に正対させた。
低く、長く響き渡るサイレンの音色が、始まりの合図だった。ひとり屋上の手すりにもたれかかっていたバナージは、その不穏な響きに顔を上げた。
マンションの屋上から見下ろす夜の街は、先刻と変わったところがない。サイレンの音色は、コロニーの外壁が損傷した時のものだとわかったが、それにしては静かすぎるとバナージは思った。多少大きめのデブリが接触し、外壁を傷つけるのはめずらしいことではないとはいえ、サイレンが鳴り出す頃には緊急車両が町中に繰り出し、コロニーの内と外から点検作業を開始しているのが普通だ。その気配がまったく感じられない。
「なあに、また隕石?」と長閑《のどか》な声が足もとに発した。階下のベランダに、アルコールで上気した顔が五つ六つ寄り集まり、サイレンの鳴り渡る街を見渡す姿があった。「おい、テレビつけろよ、テレビ」と誰かが言うそばで、「やべえ、空気がなくなっちゃう!」と叫んだ別の誰かが喉をかきむしる仕種をする。ちょうどいい余興とばかりにはしゃぐ一団に眉をひそめ、自分も階下に引き返そうとしたバナージは、不意に発した閃光にぎょっと目を見開いた。
糸のように細い光の線条が二度、三度と闇夜に閃き、だだっ広いコロニーの内壁を瞬間的に浮かび上がらせる。ここからは十キロほど向こう、地球側の気密壁を覆う山≠真昼のごとく照らし、中空を漂う雲の陰影を浮き立たせた閃光は、一拍置いてすさまじい轟音をコロニー中に響き渡らせた。
五感を塞ぐ大音響が光の数だけ連続し、空気という空気を鳴動させて音の暴威を押し拡げてゆく。バナージは思わずよろめき、階下でわき起こった少女たちの悲鳴を聞いた。テレビで見たことがある、地球の雷にそっくりな音と光――ただ違うのは、空を裂く光が奇妙に一直線で、縦横に交差して見えることだ。バナージは手すりを握りしめ、色付きのストロボ光が明滅する空を注視した。ピンク色の光軸が再び走り、人工太陽の柱を雷ごしに照らし出すや、今度はオレンジ色の光輪がぱっと膨れ上がるのが見えた。
雷鳴に似た重低音に続いて、ゴフッとこもった破裂音が轟き渡る。それは金属の引き裂ける音を伴って耳を聾《ろう》し、鮮烈な炎の色をバナージの網膜に焼きつけた。炎の塊は黒煙を引いて闇夜を滑り、内壁に落下してゆく。墜落と同時に爆発のキノコ雲がそそり立ち、屋上の手すりがびりびりと震えるのをバナージは感じた。
階下の悲鳴がいっそう激しくなり、「落ちたぞ!」「あれ、ルワンの家の方じゃない!?」といった声が錯綜する。「戦争だよ、戦争やってんだよ、あれ!」と誰かが叫び、その声にちょっと肩を引っ張られたように思いながらも、バナージは閃光が走る空を注視し続けた。爆発の炎が膨らんだ時、雲の向こうに一瞬だけ見えた物体に意識を奪われていたからだった。
尖《とが》った頭と太い手足、肩のあたりからのびた四枚の羽根。絵本に出てくる悪鬼そのもののシルエットを持つ巨人が、雲の奥で身じろぎしたのを見たと思う。「なんだ……?」とバナージは呟いた。心臓がどくどくと脈打ち、得体の知れない衝動が体の奥底からわき上がってくる。敵の正体がわからないのはまずい、こんな目立つ場所にいては危険だ。思ってもみなかった言葉が頭の中で跳ね回り始め、バナージは脈動する額を手で押さえた。どうしてしまったんだ、おれは? 体が、頭が、勝手に動き出そうとしている。事態に対応しろ、行動を起こせと訴えているのがわかる――。
「あれ、連邦の機体じゃないぜ。ジオンじゃないの」
足もとで聞き覚えのある声が発し、バナージは我に返った思いで階下に視線を落とした。ハロを抱えたタクヤが、あの四枚羽根の巨人がいる空を指さしていた。傍らではミコットがベランダの手すりを握りしめ、こわ張った背中を棒立ちにさせている。ひやりとしたものが背筋を走り、バナージは再び空に目を転じた。
「ジオン……ネオ・ジオン?」
無意識に呟いてから、月側の気密壁に視線を移す。ちょうど発した閃光が造成地区を不穏な赤色に染め上げ、構造材を剥き出しにしたコロニーの一方の蓋を照らし出した。あの向こう、〈カタツムリ〉の中にオードリーがいる、とバナージは唐突に思いついた。ひとりビスト財団と接触しようとしていた彼女。軍人のような連中に追われていた彼女。活動家なのかと問うと、もっと怖いかも、と言葉を濁《にご》した彼女――。
だからどう、という思考はなかった。衝動に命じられるまま、バナージはマンションの玄関付近を見下ろした。財団のリムジンは先刻と同じ場所から動いていなかったが、背広の男たちはそろって車の外に出ていた。時おり発する閃光を見上げ、無線機になにごとか吹き込む男たちは、遠目にも慌てている様子が見て取れる。これが財団にとっても不測の事態であることの証明だった。
腹が立つほど自信に満ち溢れ、すべては掌中のことと言わんばかりの顔をしていたカーディアス・ビストでさえ、予測しえなかった事態が起こっている。その理解は、彼の掌中にあるオードリーの危機という直感を伴い、未知の衝動が脈打つ腹に落ちていった。暴力的に閃く光と轟音に身をさらしながら、バナージは屋上の手すりを握りしめた。空気中の埃が焼けるような焦げ臭い匂い――ビーム兵器が生起させるオゾン臭があたりに立ちこめ、初めて嗅ぐ戦場の臭気をバナージに伝えた。
空気がなくても、同じ構造物に接していれば振動は伝わる。〈インダストリアル7〉にはめ込まれた『ロクロ』の最外縁部、縁の下とでも呼ぶべき空間に潜伏する〈ロト〉の機内で、ダグザ・マックール中佐は尻から這い上がってくる振動を知覚していた。
「潜伏中の敵機が仕掛けた模様。コロニー内で戦闘が始まっているようです」
前部座席に収まる通信士が、偵察に出した隊員の報告を引き移して言う。案の定だった。規則性のない断続的な振動は、デブリの衝突でもたらされる類いのものではない。〈ネェル・アーガマ〉のモビルスーツ隊は、まんまと敵のペースに乗せられ、コロニー内での戦闘にもつれこんでしまったというわけだ。素人どもが、と罵りたいのを堪え、ダグザは「戦況は?」と尋ねた。「思わしくありません」と通信士は振り向かずに答える。
「敵は一機だと言っていますが、サイコミュ搭載機のようです。味方機に損害が出ています」
コロニーにも、だ。内心に付け足してから、ダグザは車長席のディスプレイに目を落とした。二機の〈ロト〉はすでに突入地点に到達し、フル装備の隊員たちが行動《アクション》の号令を待っている。本来、モビルスーツ隊によるコロニー包囲と、〈ネェル・アーガマ〉の強制寄港に時機を合わせて開始する予定だった作戦を、このまま強行するか、中止して撤収するか。外部との連絡が取れない以上、決断を下すのは隊司令たるダグザの役目だった。
状況から見て、戦闘は偶発的に始まったものだろう。なら、ビスト財団も『袖付き』も自らの保全で手一杯になり、デリケートな取引が継続されるとは考えにくい。取引の阻止という作戦目的のひとつは自動的に果たされたと見ることもできるが、仮にそうだとしても、『ラプラスの箱』という最大の目標は宙に浮いたままになる。離脱行動を優先させつつも、『袖付き』は可能な限りそれを入手しようとするだろう。ビスト財団の動きは予測しづらいが、臨検に抵抗を示すことは間違いない。戦闘の混乱に乗じて『箱』を持ち出し、再び奥の院にしまい込んでしまう可能性は十分にあった。
複数の思惑と権益の網に守られ、見えるものも見えなくする財団の奥の院――そこには軍はおろか、連邦政府首相でさえ立ち入る術はない。だからこそ『箱』は守られてきたのだったが、過去の経緯はこのさい問題ではなかった。エコーズにとって重要なのは、今次任務の達成であり、その可否を決定する状況の判断だった。いったん退《ひ》いて態勢を立て直した時には、『箱』は手の届かぬところに消えているという事実こそが重要だった。
二度目のチャンスはない。その一点をもって他の懸念を退けたダグザは、「全隊に発令。状況を開始する」と無表情に断を下した。
「発令後、本機はコロニー内に進出。敵機の牽制に当たる。以後の作戦指揮はブラボー・リーダーに託す」
機内灯の陰鬱《いんうつ》な赤色が照らす下、「ラジャー」と応じた通信士がコンソールに向き直る。その瞬間には迷いも逡巡もなく、事態に対処する頭だけを働かせたダグザは、通信士の隣に座る操縦士に「やれるな?」と確かめた。タンク・モードに変形した〈ロト〉なら、荷揚げ用のリフトにも載れる。コロニー内に上がるのは造作もないが、問題はそのあとだ。操縦士はフェイスマスクに覆われた顔をわずかに動かし、「実際は初めてですが、サイコミュ兵器の対策シミュレーションは受けています」と正直に答えた。
「やれます。〈ロト〉の機動性を活かして、敵の戦力を減殺《げんさい》するぐらいのことはできる」
「了解だ。射撃管制は任せてもらう。遠慮なく走らせろ」
「ラジャー」と応じた操縦士の声には張りがあった。敵機が〈メガラニカ〉に近づくのを防ぎ、本来の作戦を支援するのが目的とはいえ、〈ロト〉の参戦は友軍の援護にもなる。モビルスーツと言っても、ビーム兵器ひとつ搭載していない〈ロト〉に満足な応戦は望むべくもなく、より危険度が高い任務であることは言うまでもないが、その方が命の賭け甲斐《がい》があるという気分はダグザも同じだった。少なくとも、薄暗い穴蔵に潜み、うしろめたい作戦の経過を見守るよりはずっといい。
無論、表に出すべき感想ではないと承知している。部品はなにも望まないし、期待もしない。任務の内容を選《え》り好みしたりはせず、与えられた役割を果たすことだけを考える。そのように己を規定し、行動する者たちがいるからこそ、世界は滞りなく回っているとの持論にも疑いはなく、ダグザはディスプレイ上を移動し始めた複数の輝点を見つめた。
目標に忍び寄り、倒し、奪い、破壊する。エコーズ各員の行動をトレースする光の放列だった。そのひとつひとつが役割を持ち、エコーズという総体を構成する精緻な部品の動きを、ダグザも隊司令という部品の目で追った。〈ロト〉はすでに移動を開始しており、キャタピラが回る低い振動音の中に、通信士の抑揚のない声がいつ終わるともなく混じり続けた。
「|A《アルファ》、|B《ブラボー》、両隊ともアクション。制圧目標、第一、司令部区画。第二、機関区画。『箱』に関する情報を収集し、所在を確認次第、これを確保せよ。『箱』の確保が最優先。障害はこれを排除せよ。くり返す、障害はこれを排除せよ……」
事前に設置された中継機を介して、その無線の声はミノフスキー粒子下でも明瞭に響いた。『ロクロ』の最外縁部を移動し、コロニービルダー〈メガラニカ〉との接続口付近で待機していたエコーズの隊員たちは、遅滞なく所定の行動に取りかかった。
〈メガラニカ〉は、各種セキュリティ装置はもちろん、電力も自らの機関で賄っている。コロニー側と共有する回線はひとつもなく、唯一、工事用資材搬出入口を通じて〈インダストリアル7〉と繋がっていたが、この巨大なゲートもいまは閉鎖されており、両者の行き来は不可能と言って差し支えなかった。人が出入りできる通用口はいくつか設置されているものの、そのすべてに厳重なセキュリティが施され、ビスト財団の警備人員が配置されてもいる。全員が例外なく武装している彼らは、いずれも軍か警察の出身者であり、警備というより財団の私兵と呼んだ方が正しかった。
が、付け入る隙はある。コロニー建造の工程管理上、『ロクロ』の操作は一部〈メガラニカ〉側で行う必要があり、これは両者のケーブル溝を直結することで果たされていた。無論、コロニー側からはアクセスできず、回線のセキュリティもサイバー面・物理面双方の攻撃を想定して完備。サービスルートすら存在せず、保守点検はリモコン式のマイクロマシーンで行う徹底ぶりだったが、人の立ち入る余地が皆無というわけではない。排熱を考慮して、ケーブル間には一定の隙間が設けられているからだ。アルファとブラボーの二チームに分かれたエコーズは、『ロクロ』の床下を這い上り、それぞれ異なるケーブル溝にアクセスした。そして両チームから選抜されたドア係≠ェ一名ずつ、排熱のこもるダクトに潜り込んでいた。
ケーブル溝の太さは七十センチ四方しかなく、〈メガラニカ〉側に到達するまで最短でも二百メートル以上の距離がある。ろくに四肢も動かせぬ狭さの中、ドア係≠スちは密生するケーブルをかき分け、要所に設置された警報装置を解除しながら先を急いだ。およそ三十分後には両者とも待機地点にたどり着き、彼らは小型バーナーでダクトの一画に小さな穴を開けた。小指の先ほどの小さな穴は、リード線程度の太さしかないサーチ・カムには十分な通り道になった。リモコンで自在に動くそれが蛇のように頭をもたげると、マイクロカメラを備えた先端を床板の隙間から這い出させた。
エアロックになっている通用口の前に、警備要員が一名。ノーマルスーツは着ていないが、屈強そうな背広の脇は不自然に膨らみ、肩に吊した拳銃の存在を教えている。サーチ・カムをめぐらし、通路の天井に設置された監視カメラの所在も確認したドア係≠ヘ、待ちの態勢に入った。飲まず食わず眠らず、場合によっては一日以上も続く待ちの時間は、この時は十五分足らずで終わった。状況開始の無線を受け取ると同時に、ドア係≠ヘダクトのアクセス・ハッチを開き、その上の床板も跳ね上げていた。
アクセス・ハッチの開放警報が鳴り、セキュリティセンター要員が異変に気づいた時には遅かった。無重力の中を浮かび上がった床板が天井にぶつかり、小さな音を立てるより早く、ドア係≠ヘ警備要員の背後を取った。左手で口を押さえ、右手に握ったナイフを警備要員の背中に差し入れる。肋骨の隙間に深々と突き立ったナイフは、軽く捻りを加えられることで肺に空気を流し込んだ。警備要員は持ち上げかけた手をびくんと痙攣させ、声を出す暇もなく絶命した。しばらくは痙攣の収まらない死体を壁に押し流し、ドア係≠ヘその名に相応しい任務に取りかかった。
通用口のロックを解除し、気密室の先にあるドアも開放する。戸口の向こうに続く通路の隔壁も順々に開くと、『ロクロ』側で待機していた本隊が行動を開始した。『ロクロ』の床下から躍り出たダークグレーのノーマルスーツたちが、携帯用バーニアを閃かせてひと息に通路を渡りきる。〈メガラニカ〉側のエアロックをくぐったところで、彼らはかさばるバーニアを廃棄し、壁のリフトグリップを使って進み始めた。最後に戸口をくぐったひとりから無反動ライフルを受け取り、ドア係≠務めた隊員もそのあとに続く。
ヘルメットの下の顔をフェイスマスクで覆い、カービン・タイプの無反動ライフルを構えた一団が、無重力の通路を音もなく滑る。道々の監視カメラを潰し、分岐路に差しかかるや、突き当たりの壁に立った[#「立った」に傍点]チームリーダーが手信号で分散を指示する。隊員たちは無駄のない動きで壁を蹴り、カービンを構え、銃身の下に装備したワイヤーガンのトリガーを引く。射出されたワイヤーが巻き上げられ、隊員たちの体を迅速《じんそく》に各々の進行方向へ転換させる。ひとりが前方を、ひとりが後方を警戒しつつ移動する彼らは、行く手に警備要員が現れてもワイヤーの巻き上げ速度を緩めはしない。視線と一体化したカービンの銃口が短く火を噴き、射出された五・五六ミリ弾が警備要員の胸を粉砕する。
警備要員との連絡が途絶し、何十とある監視モニターが次々にブラックアウトする。二ヵ所の通用口で同時に始まった侵入は、〈メガラニカ〉のセキュリティセンターをパニックに陥れた。一小隊八人ずつ、総勢十六人が分岐路に差しかかるたびに分散をくり返し、毒物が浸透するかのごとく中枢へ流れ込んでゆく。センター要員は侵入警報を鳴らし、通路の隔壁の閉鎖を急いだが、それは遅きに失した対策に終わった。侵入した一団がいち早くセキュリティの配線を探り当て、大部分のケーブルを銃撃でずたずたにしていたからだ。軍隊経験を持つセンター要員は、もう彼らが『袖付き』のゲリラだとは思わなかった。
(マンハンター、侵入者はマンハンターだ! 各員は注意を――)
無線を走ったセンター要員の声は、そこで途切れた。自動拳銃を手に通路を滑る警備要員たちは、その不自然な途切れ方にひやりとしたものの、迂闊に声を出して自分の位置を知らしめるミスは犯さなかった。相手はマンハンター、同じ連邦軍人からも化け物と畏怖される特殊部隊らしいのだ。軍在籍中に彼らと共同訓練を行ったことのある警備要員のひとりは、下手に散らばらず、チームで行動するよう同僚たちに呼びかけた。マンハンターの狙いがなんであれ、コマンド・モジュールが標的にされることは間違いない。進路上の隔壁を手動で閉じ、各個に追い込んでいけば勝機はある。そう考え、無線に吹き込んだ警備要員は、しかしエコーズの隊員たちからすればただの兵隊[#「ただの兵隊」に傍点]でしかなかった。
三人の同僚とともに中枢ブロックを目指した警備要員は、交差路を行き過ぎる侵入者のノーマルスーツを発見した。手信号で同僚たちと連絡を取り合い、彼は通路の前後から侵入者を挟み撃ちにする算段を整えた。一隊が先回りの道を急ぐ隙に、交差路の陰に潜みつつ敵を追跡する。向こうはまだこちらに気づいていない。おそらくは防弾繊維で全身を覆っているだろうが、小銃弾を十発も叩き込めば身動きできなくなるはずだ。アサルト・タイプの無反動ライフルを構え、警備要員は同僚からの無線コールを待った。と、反対面の壁をめぐるリフトグリップになにかが引っかかり、こちらに流れてくるのが視界の片隅に映えた。
音響閃光手榴弾《フラッシュ・グレネード》。ライターほどの大きさしかない物体を見て気づいた刹那、それは警備要員の眼前で起爆し、二百五十万カンデラもの光を交差路に押し拡げた。同時に発した大音響が中耳《ちゅうじ》を揺さぶり、全身の筋力を一時的に麻痺させる。視力を奪われ、体の自由も失った警備要員と同僚たちは、ダイナマイト漁で浮き上がった魚も同然だった。障害排除の原則に基づき、エコーズの隊員は彼らに銃口を向けた。消炎器を装備した銃口から小銃弾が撃ち出され、胸を射貫《いぬ》かれた警備要員の体が一回転して壁に叩きつけられた。
他にも各所で銃声が鳴り響き、隔壁を爆破する轟音が通路を吹き渡ってゆく。〈メガラニカ〉をカタツムリになぞらえるなら、その殻の中央付近から始まったエコーズの侵攻は、瞬く間に版図《はんと》を押し拡げ、殻を挟んで前後にのびるカタツムリの本体――司令部区画などの重要施設が集中する中枢へと及んだ。彼らが必要とするのは中枢のデータバンクと、それを扱える技術者であり、他の人間はすべて潜在的な障害と判断されるものでしかない。隊員らの視界に入る者は、武装の有無に関わりなく銃弾を撃ち込まれ、灼《や》けた空薬莢と乱舞する血の滴が通路に滞留した。
そうして司令部区画に攻め上る一方、殻の内壁に存在する居住区画にも偵察員が送り出され、二人の隊員が草原に覆われた居住区画に降り立った。ヘルメットをかぶったままでも使える暗視装置を装着し、フル装備のノーマルスーツが森閑とした草原を走る。周囲の殺気立った空気をよそに、ビスト邸《てい》は重々しい外観を闇の底に横たえていた。
咄嗟に部屋の電気を消したのは、危険を察知した時の習い性だった。窓から差し込む外灯の微かな光を頼りに、オードリーはベッドの脇へと移動した。
ベッドの下に人が入り込めるスペースがあることを確認しつつ、膝をついて息を潜める。断続的な振動は続いている。〈インダストリアル7〉でなにかが――おそらくは戦闘が始まったことは想像に難くないが、いま留意すべきは遠くに聞こえた銃声と爆発音の方だった。先刻から続いている振動音とは異なる、規模は小さいが生々しい破裂音。あれは外から伝わってくるものではない。このコロニービルダーの中で発し、同じ空気を震わせる音だ。
最初の銃声らしき音が響いて以来、屋敷の空気も騒々しい。コロニーの方から振動が伝わってきた時より、もっと直截的な緊張と殺気が充満しているのがわかる。ジンネマンが仕掛けたのか? と思い、オードリーはベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。あり得ない。そうなら、自分は人質に使われて、ここから移動させられているはずだ。その気配がまったくないということは――。
わからなかった。そう、わからないことがいちばん怖いのだと、オードリーはふと子供の頃の記憶を呼び覚ました。大きな戦艦の内奥で、摂政《せっしょう》に言われるまま玉座に収まっていた頃。戦闘が始まり、船体が軋み始めると、大人たちは必ず言ったものだった。すぐに収まります、姫様。どうぞお心安らかに、と。そうではなく、欲しいのは現在を正確に知るための情報で、それさえわかれば子供なりに覚悟もつくのに、大人たちは子供を怖がらせるものではないと考え落ちをするのだ。
姫様などと呼ばれる境遇に生まれついたせいで、自分は特に現実から遠ざけられがちだった。ジンネマンにしても……と続けて考えようとした時、乾いた破裂音が間近で発し、オードリーは反射的にベッドの下に潜り込んだ。
銃声、それも屋敷内で発した銃声が連続し、ガラスの割れる音、なにかが引き倒される音を階下に響かせる。頭を抱えて身を縮こまらせながらも、オードリーは息を詰めて物音に耳を凝らした。再び銃声が、今度はドア一枚隔てた向こうで鳴り響き、どさっと重いものが倒れる音がそれに続く。しばらくの間を置いて、人の近づく気配と足音がドアの向こうに発し、床との隙間から漏れる光にゆらりと影が差し込んだ。
ドアノブががちゃがちゃと音を立てる。オードリーは身を硬くしてベッドの奥に後退した。ジンネマンたちではない。もっと硬質で、取りつく島のない気配をドアの向こうに感じる。次の瞬間にはドアが蹴破られ、ベッドごとマシンガンで撃たれるかもしれない。できれば閉じたい目を見開き、オードリーは物音に意識を凝らし続けた。そのまま十秒ほどの時間が過ぎると、不意にドアノブを動かす音がやみ、床に映える影がすっと消えた。
足音が遠ざかってゆく。微かにデジタル無線の信号音を聞いたように思い、オードリーは汗ばんだ手を床のカーペットから離した。慎重にベッドの下から這い出し、足音を忍ばせてドアの脇に近寄る。古風な鍵穴を通して見渡した廊下に、人の姿はなかった。
壁の装飾ランプが落ち着いた光を落とす中、硝煙らしい白い筋が廊下を漂っている。つんとした刺激臭と一緒に、独特の生臭い匂いを嗅いだオードリーは、覚悟の息を吸い込んでから薄くドアを開けた。最初に目に飛び込んできたのは、戸口の前まで拡がった血溜りだった。
廊下を流れる血の筋の先に、背広姿の男がうつむけに倒れ伏し、手にした拳銃を床に投げ出している。無残に砕けた頭蓋を見、小銃で撃たれなければこうはならない、と咄嗟に確認したオードリーは、吐き気を堪えて部屋の外に出た。手で鼻と口をぴったりと覆い、紫がかった脳漿を噴きこぼす男を観察する。背広の形と体格から、何度か顔を見た財団の男だと判別がついた。
拳銃ならともかく、小銃のようにかさばる代物を簡単に持ち込めたとは思えない。やはりジンネマンたちの仕業ではないと確信し、オードリーは笑っている膝をどうにか立たせた。もっと組織的ななにかが動いている。事前に襲撃計画を企て、この〈メガラニカ〉に潜伏していた者たちがいるのだ。おそらくは『袖付き』とビスト財団の接触を察知し、『ラプラスの箱』が外部に流出するのを防ぐために――だとすれば、襲撃者の正体は自ずと限られてくる。
コロニー内で起こっている戦闘は彼らが仕掛けた陽動だろうか? 考えかけ、予断はするまいと打ち消したオードリーは、壁に背中を押しつけて死体の脇を通り抜けた。襲撃者の目的がなんであれ、自分がここにいることはまだ知られていないらしい。いまのうちにこの屋敷を出て、ジンネマンと接触する必要がある。こうなってしまえば、ジンネマンも『箱』の入手をあきらめるはずだ。自分を捜して離脱の機会を失し、戦闘を拡大させるような本末転倒はなんとしても防がねばならない。
急がなければ。その焦りが、外に踏み出す力を体内に呼び覚ましてくれた。オードリーは息を殺して階段を下り、まだ襲撃者が潜んでいるかもしれない廊下を足早に抜けた。タペストリーが飾られた部屋の前を通り、玄関前のエントランスに出れば、暗い森が広がる外はすぐそこだった。
「ゲームは終わりだ。彼女≠返していただく」
無線機のアンテナをこちらに向け、ジンネマンが言う。彼の部下たちも同じように無線機を掲げ、懐に手をやったガエルたちを牽制するようにする。はったりか、本当に無線機の中に銃弾が仕込んであるのか。思う間もなく、ジンネマンの掌中から閃光と破裂音が膨れ上がり、カーディアスの足もとに着弾の火花が散った。
ガエルに前に出る隙を与えず、ジンネマンは無線機をこちらに向け直す。ひたと据えられた目と目を合わせ、本気だなと感じ取ったカーディアスは、「落ち着け、キャプテン」と低く怒鳴った。
「最初からそのつもりだ。君たちをはめるにしても、こんな下手なやり方はしない」
「行動と結果がすべてと言ったのはあなただ。あなたは彼女≠預かっていることを言わなかった。おまけにこの騒ぎだ」
言ったそばから震動が起こり、くぐもった爆発音が響いて、ジンネマンの背後にぱらぱらと埃が落ちる。コロニー内で戦闘が起こっているだけではない、とカーディアスは再確認した。この〈メガラニカ〉の制圧を目論み、侵入した者たちがいる。先刻から鳴りやまなかった電話のベルが不意に途絶えたのは、その侵入者たちが電話回線を断ち切ったからに違いなかった。
単に取引を阻止するのに、〈メガラニカ〉全体を制圧する必要はない。軍は――上層部≠ヘ――、この機に『ラプラスの箱』を入手するつもりでいるのだろう。『袖付き』の殲滅はついでのことでしかなく、目的はまず『箱』の確保。そのためにはいかなる犠牲を強いてもよいと、そんな命令が上層部≠ゥら下されていると想像できた。財団当主とて例外ではない。万一のことがあったとしても、財団の後継者は上層部%烽ノいるのだから……と。
ジンネマンとて、これが自分たちを狙った襲撃でないことに気づかぬ道理はない。ただ、彼女≠フ身柄が財団の手中にあるという現実が、彼を逸らせている。もはや作為と偶然の見極めがつかず、彼女≠フ奪還という一事に固執する瞳を見返したカーディアスは、「確かに」と認めた。同時に素早く目を走らせ、テーブルと椅子の位置関係を頭に叩き込む。
「わたしでも同じように考えるが、どうする? ここで撃ったら全員死ぬ羽目になるぞ。彼女≠助け出すこともできなくなる」
瞼をぴくりと震わせ、ジンネマンはわずかに目を泳がせた。張り詰めた殺気がそよぎ、本来の周到な光が瞳に宿るのを見たカーディアスは、手近な椅子の背もたれをつかみ上げた。
低重力のせいで、椅子が思いのほか高く浮かび上がる。撃たれても文句の言えない間合いだったが、ジンネマンは簡単には引き金を引かないという確信があった。ちょうど大きめの爆発音が響き渡り、全員の注意が音の方に逸れた偶然にも助けられて、カーディアスは椅子をジンネマンに投げつけた。テーブルの向こうに飛んだ椅子が音を立てるのを待たず、すかさず床に伏せる。
数発の銃声が頭上に轟いた直後、ガエルとわかる巨体が背中にのしかかり、さらに二発の銃声が耳元で爆発した。短い呻き声があがり、誰かが壁に叩きつけられる音を聞いた時には、カーディアスは抱きかかえられるようにして床から引き剥がされていた。そのまま部屋の外に連れ出されるまでに、銃声より大きな破裂音が膨れ上がり、白い煙が瞬時に応接室を満たす。靄《もや》ごしに複数の銃火が瞬き、耳元を灼熱がかすめたかと思うと、右肩に重い衝撃が走った。
焼けた棒で思いきり叩かれたようだった。カーディアスはよろめき、床に手をつくより先にガエルに支えられた。応射の引き金を搾りつつ、ガエルはカーディアスを引きずってエレベーターの方に向かう。援護する部下が撃たれ、飛び散った血が白煙の中に混ざるのをカーディアスは見た。
その向こうを、ジンネマンらしい大柄が走り去ってゆく。間が悪すぎた成り行きを顧みる間もなく、廊下にまで漏れ出した発煙弾の煙がその背中を隠した。カーディアスはガエルとともにエレベーターに乗り込んだ。エレベーターはすぐに動き出し、居住区内壁から中央ブロックへと上昇し始めた。
一緒に入り込んだ煙が目に染み、咳き込むたびに肩の傷が疼いた。かすめただけだが、切創《せっそう》に火傷が加わる銃創《じゅうそう》の痛みは長く尾を引く。「お怪我は……」と身を寄せたガエルに、「いい。君は大丈夫か?」と返したカーディアスは、制御盤脇の内線電話を取り上げた。
だめでもともとのつもりだったが、電話は奇跡的にコマンド・モジュールに繋がってくれた。(理事長、ご無事で!)と発した声を遮り、カーディアスは「状況は」と押しかぶせた。
(陸戦隊に侵入されました。連邦の特殊部隊かと思われます)
少し肝が冷えた思いで、ガエルと含んだ目を見交わす。これが本気になった連邦軍の怖いところだ。火事場の押し込み強盗に特殊部隊を使う――。カーディアスは、「『箱』に関するデータの機密処理を急げ」と早口に吹き込んだ。
「UC計画のデータも破棄。アナハイムの連中は脱出カプセルに乗せて、君も退避しろ。相手はプロだ。無駄な戦闘は避けて……」
ブツッと鈍い音が走り、電話は唐突に切れた。舌打ちして受話器を放り、カーディアスはガエルに向き直った。
「コマンド・モジュールに行く。無線は?」
「ろくに使えません。ミノフスキー粒子が濃くて……」
よく見れば返り血で汚れている長身を屈め、ガエルはカーディアスの傷口にハンカチを押し当てつつ答える。無線が使えない以上、生き残った部下たちを当てにはできない。最悪、自分とガエルだけで為すべきを為さねばならないと覚悟したカーディアスは、「なら、コマンド・モジュールはわたしひとりでいい」と重ねた。
「君は〈ユニコーン〉の方に回れ」
彼女≠フことも気にかかるが、それについてはジンネマンたちが救出してくれると信じるしかない。カーディアスはガエルに手を差し出した。「しかし、理事長お一人では……」と抗弁しながらも、ガエルは足首のアンクル・ホルスターに収めた小型拳銃を抜き、こちらの手に握らせてくれた。
「すまんな……。身内に刺されて、このざまだ」
肩の痛みを堪えてスライドを引き、初弾を薬室に送り込む。「やはり、マーサ様が?」と言ったガエルには答えず、カーディアスは小型拳銃をポケットにしまい込んだ。
「百年の盟約と言っても脆いもの……。先に反故にしようとしたのはこちらだが、連中はこの機にすべてを持ち去るつもりだ。〈ユニコーン〉を頼む。奪われそうになったら、破壊してくれ」
これが今生の別離になるかもしれない、という予感があった。微かに息を呑んだあと、実直な瞳を向け直したガエルと暗黙の了解を交わしたカーディアスは、最後にはっきりと付け加えた。
「あれを連邦の手に渡してはならん。絶対に……!」
有視界戦闘と言っても、宇宙空間で行われるそれはとてつもなくレンジが広い。各々が秒速数キロという速度で移動しているため、交差すればあっという間に百キロ、二百キロの距離に隔てられてしまうからだ。それゆえ、パイロットは、半径二十キロ圏内ならどうにか役立つ対物レーダーで敵機を捕捉し、光学センサー――モビルスーツの目≠ナ見える距離にまで接近、交差する一瞬に攻撃を仕掛けるのが仕事になる。ビームサーベルで斬り結ぶゼロ距離の交差もあるが、撃ち合いの場合は十キロからの距離を置き、互いの死角に回り込むのが基本だった。
必然、コロニーという筒≠ヘ、モビルスーツが戦闘を行うには狭すぎる空間ということになる。ほとんど地上戦に等しい距離感で敵と対しながら、|AMBAC《アンバック》機動を駆使した空間戦闘の要領で渡り合わねばならず、挙句に空気抵抗という面倒な余禄まで付く。しかもこの空気は常に流動しており、中心軸に当たる人工太陽周辺では熱調整用の人工対流が、内壁付近ではコロニーの回転に伴うコリオリ気流≠ェ、互いに干渉しあいながら吹き荒れているのだ。
〈インダストリアル7〉に進入したネェル・アーガマ隊のモビルスーツは、その環境に慣れる間もなく敵の火線にさらされた。最初に犠牲になったのは〈ジェガン〉三番機で、火だるまになったあと、慣性に引きずられた同機は、コロニーの内壁に激突して四散する運命をたどった。墜落地点から立ち昇る黒煙は、コリオリ気流に押し流され、回転するコロニーの内壁に薄墨の輪を引いてゆく。狭いコロニー内では散開もままならず、〈リゼル〉五番機と七番機のパイロットは互いに背中をカバーし、四方に目を走らせるしかなかった。
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敵機の位置は捕捉しているが、雲に隠れて接近する自動砲台――ファンネルが怖いのだ。小さすぎてセンサーで捉えきれない上に、こちらの死角にするりと滑り込んでくるような動きをする。サイコミュの発達により、ファンネルの遠隔操作は以前より簡便になっているとはいえ、目前の敵機は自らも俊敏に機動し、いまだ一発の被弾も許していなかった。尋常なパイロットにできることではない。
「まさか、ニュータイプってんじゃないだろうな……?」
思わず呟いた五番機のパイロットに、七番機のパイロットが(バカ言え!)とノイズ混じりの無線を返す。モビルスーツの装甲ごしに敵の気≠感知し、相手の動きを予見して仕掛けるというニュータイプ。それは化け物≠ニいう言葉と同義になって、パイロットたちに認識されていた。
事実、〈クシャトリヤ〉の動きは素早く、敵弾が放たれる直前に身をひるがえす芸当を幾度となく見せつけていたが、マリーダとて楽な戦いというわけではなかった。空気のせいで機体が重い。ファンネルの反応も鈍っているのがわかる。コロニーの安全に考慮すれば、ファンネルで敵を包囲し、一撃必中で仕留めなければならないのに、吹き荒れる気流が邪魔をするのだ。
かと言って、牽制射撃で追い込むということもできない。メガ粒子の火線は、当たりどころによってはコロニーの外壁まで貫通してしまう。最適のタイミングで撃たない限り、撃墜された敵機は内壁に激突するという問題もあった。敵機の慣性運動を読み、気密壁か、せめて人のいない造成地区に落着させる。住宅地区のど真ん中に落とすような、先刻の二の舞はごめんだった。
「なまじコロニーの中など見てしまうから、これだ……!」
笑いあう学生たち、ベビーカーを押す若い母親の姿が目の前にちらつく。マリーダはスラスターを噴かし、追いすがるバルカン砲の火線を立て続けの横ロールで回避した。人工太陽の長大な柱を盾にする一方、新たに三機のファンネルを放出し、バッテリーを使いきったファンネルをバインダーのサブ・アームで回収する。四枚のバインダーに一基ずつ内蔵されたサブ・アームは、隠し腕と俗称され、小型ビームサーベルを仕込んだ本体に三本の簡素な指を持つ。羽根に見えるバインダーから隠し腕を展開し、風車のように回転しつつファンネルを回収する〈クシャトリヤ〉は、まさしく異形の怪物だった。バルカンの火線に濃緑色の表皮を浮かび上がらせ、膨大な空気にぎしぎしと骨を軋ませながら、身長二十メートルの魔物が〈インダストリアル7〉の夜を飛んだ。
上空三キロといったところで閃く火線は、内壁の地表からは線香花火ほどの瞬きにしか見えない。スラスターの噴射音、発動機の唸りに似たバルカンの砲声を耳にしても、住民の大半はまだなにが起こったのか知らずにいた。港湾管理局からの一報で警戒警報は発令されたものの、発令の根拠を知る者は自治局にも少なく、テレビの緊急放送は屋内避難を呼びかけるのに終始している。状況確認に出向いた警察官や消防士も、住民らとともに空を見上げるしかないというありさまだった。
それでも、住宅地で火の手が上がり、消防車やパトカーが幹線道路を走り抜けるようになれば、住民の中には独自の判断で動き出す者が出てくる。ほとんどが戦災経験者である彼らは、風に入り混じるオゾン臭から事態を悟り、自治局の勧告を待たずに避難を開始していた。防災リュックを背負った家族連れや、家財道具を積んだ自家用エレカが道に溢れ、シェルターに通じる道路は徐々に渋滞し始めた。自治局は屋内避難の方針を変えず、警察による誘導が遅れたことも、混乱を加速させる要因になった。あちこちでクラクションと怒号がわき起こり、〈インダストリアル7〉はゆるゆると恐慌の坂道を転がり出した。
路上に設置された酸素マスクのラックが開け放たれ、「ひとり一個だ!」「子供の分だろ!?」と怒声が飛び交う。渋滞に焦れたエレカが反対車線に乗り出し、警官の制止を振り切って速度を上げる。一時避難場所のシェルターは定間隔に設置されており、エレカを使わずともたどり着けるはずだったが、彼らが目指しているのはコロニーの地下空間だった。約五十メートルの厚みがあるコロニーの外壁には、共同溝の他に緊急避難用の通路があり、その先には脱出カプセルの乗り場が存在するのだ。
「シェルターに避難したって、コロニーが壊れちまったらおしまいだ。カプセルに乗っておいた方がいい」
いずれも罹災《りさい》経験を持つドライバーたちは一路、造成地区を目指す。地下に下りるリフトはコロニー公社の管理下にあり、自治局が許可しない限り開放されることはないが、工事中の地区なら付け入る隙はある。今日、新たに繰り越された地盤ブロックのリフトは、まだ施錠もされずに稼働状態にあるのだ。作業員の口から漏れた情報は瞬く間に伝播し、エレカの車列は工事用ゲートを踏み越えて造成地区に入った。が、荷揚げ用リフトの入口まで来たところで、車列は団子になって滞留することになった。
シャッターが閉鎖されていたからではない。リフトが上昇してくる振動が伝わったかと思うと、シャッターが内側から破られ、巨大な装甲車が目の前に出現したからだった。エレカ六台が載れるリフトを一台で専有し、内壁の地表に乗り出した茶褐色の装甲車は、行く手を塞ぐエレカの群れに戸惑う素振りを見せたのも一瞬、轟然とキャタピラを回転させて前進を開始した。
シャッターを開けようとしていた男たちが慌てて道を開ける中、全長十メートル、最大全幅六メートルに達する装甲車がエレカの群れに突っ込んでゆく。そのキャタピラが先頭のエレカを踏みしだく直前、装甲車はバーニアを噴かし、ほぼ直方体の車体をドライバーたちの頭上に飛ばした。
その形状がばらっと崩れ、二本の足≠ェ車列の隙間に突き立つ。周囲のエレカを衝撃で跳ね上げるや、縦に直立したと思える装甲車が再びバーニア光を発し、驚く住民たちを尻目にジャンプする。モビルスーツ・モードに変形した〈ロト〉は、飛び石の要領で車列をすり抜け、フェンスをなぎ倒しつつ造成地区から出た。無秩序な避難の列に舌打ちしたのもつかのま、ダグザは車長用の潜望鏡《ペリスコープ》を顔の前に下ろし、緑がかった暗視モニターに敵の姿を探した。
二機の〈リゼル〉が撃ち散らす六十ミリ・バルカンを易々と躱《かわ》し、四枚羽根をひるがえす敵機がモニターに映える。ダグザはすかさず自動追尾装置をセットし、操縦士に前進を促した。できれば人のいない造成地区を離れたくなかったが、対サイコミュ兵器戦術に必要な地勢というものがある。〈ロト〉の巨体が入り組んだ商業地区の道路を踏み砕き、バーニアの噴射で店舗のガラスを破砕すると、オフィス地区に向かって跳躍した。
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新たに三機目の〈リゼル〉が山≠フ搬出入口から飛び出し、夜空にバルカンの火線を爆ぜらせる。コロニー内では強力なビームライフルは使えず、ビームサーベルでコクピットを狙うしかないのだが、四枚羽根は斬り結ぶ暇さえ与えてくれない。三機の〈リゼル〉はただただ翻弄され、まったく別方向から発したビーム光が唐突に夜陰を引き裂く。闇に沈む人工太陽の柱が照らし出され、直撃を受けた〈リゼル〉の脚が弾け飛び、間を置いて降ってきた轟音が〈ロト〉の機体をも揺さぶる。暗視モニターにノイズが走ったものの、ダグザは四枚羽根の動きがわずかに鈍るのを認めた。バッテリーを使いきったファンネルを回収する一瞬の隙――。ダグザは、ペリスコープのグリップにある発射装置を押し込んだ。
〈ロト〉の右肩に装備された二十五ミリ機関砲が火を噴き、五発に一発の割合で仕込まれた曳光弾が緑色の光軸を夜空に刻む。地球上で放たれた実体弾は重力に引かれて曲線を描くが、コロニー内ではコロニー自体の回転というモーメントが作用し、火線は回転方向とは逆向きに折れ曲がる。無論、〈ロト〉の火器管制システムには補正装置が実装されており、火線は大きく曲射しながらも敵機に殺到したが、四枚羽根は直前で火線を躱していた。自動追尾装置が照準中だったにもかかわらず、横ロールで見事に回避したのだ。
こちらの殺気≠感じ取ったとしか思えないタイミングだった。さすがに息を呑みつつも、ダグザは「来るぞ! 突っ走れ」と操縦士に怒鳴った。もとより機関砲で仕留められる相手だとは思っていない。こちらに気づいてくれさえすればいいのだ。タンク・モードに変形した〈ロト〉が走り出すのを待たず、ダグザは車長席を離れて機外に通じるハッチを開けた。
ごうと唸る風圧が全身を包む。次々に流れ去るオフィス地区のビル群を横目に、ダグザは疾走する〈ロト〉の車体の上によじ昇った。灼けた砲身から硝煙を噴き流す機関砲を手がかりに、収納された頭部の脇に移動する。機体のフックにカラビナを引っかけ、しっかり体を固定すると、背中に負ったロケットランチャーを両手に構えた。
コンダクタンス・バーに頬骨を当て、照準器を覗き込む。上空に小さなスラスター光が発し、みるみる大きくなるさまが暗視映像に捉えられる。一つ、二つ……全部で三つのファンネル。ダグザはランチャーの始動スイッチを入れ、弾頭の拘束を解除した。
路肩に止めたエレカを蹴散らしつつ、最高時速百五十キロをマークするタンク・モードの〈ロト〉が走る。コリオリ気流に揉まれながらも、時速三百キロは下らないファンネルが急速に迫る。コロニーの被害を考慮すれば、上空からいきなり撃ってくるということはあるまい。できるだけ接近、包囲して、ピンポイントで狙撃しようとするはずだ。ランチャーのトリガーセーフに指を置き、ダグザは辛抱強く時を待った。やがて〈ロト〉は交差点に差しかかり、その車体を九十度転回させた。
コリオリ気流を逃れ、地上十メートルの低空を飛ぶファンネルが急制動をかける。いまだ。先頭の一機がビルの陰から現れた瞬間に、ダグザはトリガーを引いた。猛烈なバックファイアとともにネット弾が射出され、縦横十メートルの網≠ェ中空に展開する。ファンネルはその真ん中に突っ込み、超剛繊維の網目に包まれた。
内壁に触れない限り、いかに低空を飛んでも遠心重力は作用しない。無重力下にあるファンネルは失速も墜落もしなかったが、絡みついたネットはその軌道を揺らがせ、ビルに接触させることには成功した。1Gの重力下にある建物に触れれば、その物体はlGの虜《とりこ》となる。窓ガラスを割り、壁を崩してビルに接触したファンネルは、アスファルトを削って数十メートルも地表を転がったあと、公衆電話ボックスをなぎ倒して沈黙した。
重力に搦め取られた漏斗型の自動砲台に、自ら飛び上がる力はない。ダグザは次発装填を終え、次の発射時機を待った。地道なやり方だが、効果はある。この要領でファンネルを潰してゆき、虎の子を失った敵を味方機が叩く。対サイコミュ兵器戦術は使えるとわかって、ダグザは奮い立つものを感じた。うしろめたい作戦では得られない、本物の闘いの高揚が血を沸き立たせるのを覚え、口中に拡がるアドレナリンの苦味を堪能した。
その興奮が、視野を狭くしたのかもしれない。〈ロト〉が次の交差点を曲がるのを待って、ダグザは二発目を放った。展開したネットが二機目のファンネルを捉え、地表に引きずり下ろしたが、その道路には人の姿があった。オフィスからシェルターに避難する人々が、歩道上に列をなしていたのだ。
全長二メートル程度とはいえ、ファンネルの質量は重油の詰まったドラム缶などというものではない。地表に叩きつけられたファンネルは、路肩のエレカを粉砕し、ガードレールを突き破って歩道になだれ込んだ。ダグザは、その回転する鉄の塊がOLらしい女性をすり潰し、さらに数人の体を巻き込む光景を目の端に捉えた。激突音に悲鳴が入り混じるのも聞き、舌打ちした分だけ三発目の装填を遅れさせてしまった。
実戦であってはならない、致命的な遅れだった。ファンネルはその隙間に滑り込み、先端の砲口を〈ロト〉に向けた。迸ったメガ粒子の光を、ダグザは知覚できなかった。
ビームは〈ロト〉の車体を後方から貫き、操縦席を蒸散させて前方に抜けた。〈ロト〉は上面の装甲をはね上げて爆発し、ダグザは宙に放り出された。飛散した破片ともどもビルの壁に叩きつけられ、地表に落下する。首の骨を折らずに済んだのは、特殊仕様のノーマルスーツの性能と、彼の運の賜物《たまもの》だった。ダグザは意識を失い、炎に包まれた〈ロト〉が新たな爆煙を噴き上げた。
オフィス地区を揺るがせたその爆発は、しかし住宅地区を襲った二度目の破壊よりはましと言えた。ファンネルの砲撃で片脚をもぎ取られた〈リゼル〉七番機は、アナハイム工専の敷地内に落着していた。本体だけでも二十五・八トンの重量を持つモビルスーツが、秒速百六十七メートルで回転する内壁に衝突したのだ。爆発こそしなかったものの、校舎は木端微塵に吹き飛び、〈リゼル〉は瓦礫の中に埋まった。エアバッグに守られ、辛うじて失神を免れたパイロットは、ぐらぐらする視界の中で敵機を睨み据えた。
「ジオンの化け物が……!」
瓦礫の山に擱座《かくざ》したまま、〈リゼル〉の手にするビームライフルがメガ粒子の光弾を吐き出す。ピンク色の光軸がコロニー内を斜めに突っ切り、射線上に位置する造成地区を直撃する。紙一枚の差で躱したマリーダは、ビームの光より早く飛来する敵パイロットの気≠ノひやりとした。
敵意という以上に、憎悪。澱んだ殺気がビームの光源から放射され、ノーマルスーツの下の肌を粟立たせる。ビームの直撃を受けた造成ユニットが内部で誘爆し、巨大な鉄骨の板面を炎の色で浮き立たせる光景を頭上にして、マリーダは〈クシャトリヤ〉の機動を躊躇した。下手に動けば敵弾の軌道も変わり、射線上の内壁がビームで焼かれることになる。憎悪に取り憑かれた敵のパイロットに、射撃をためらう理性は期待できない。黙らせなければ、という焦りがサイコミュによって増幅され、稼働中のファンネルが〈リゼル〉七番機に殺到した。
七番機はなおもビームライフルを撃ち続ける。三機のファンネルがそちらに向かい、気流を裂いて敵機に肉薄する。その間に〈リゼル〉一番機が踏み込んできて、マリーダは〈クシャトリヤ〉の操縦に意識を振り向けねばならなくなった。ファンネルの動きがわずかに鈍り、コリオリ気流に煽《あお》られるのがわかる。その抵抗が神経にのしかかり、頭の芯がぐんと一方に引っ張られる。
「重い……!」
思わず呻いた刹那、ビームサーベルを振り上げた敵機が上から斬りかかってきた。同時にバルカンの火線が走り、内壁から撃ち上げられるビーム光が〈クシャトリヤ〉の装甲をかすめる。三つの敵意に圧迫されたマリーダは、瞬間的に激発した。それは攻撃の意志になって四方に放射され、ファンネルに発砲を促した。
地表すれすれを走る三機のファンネルから、一斉にメガ粒子の光弾が放たれる。一発が腹部のコクピットを、一発がビームライフルを握るマニピュレーターを焼き、〈リゼル〉七番機は沈黙した。しかし最後の一発は、背部のブースター・ユニットを真横から貫き、内蔵する小型熱核反応炉を直撃してしまっていた。
内部で連続的に核反応を起こし、膨大なエネルギーを供給する炉の崩壊――それは端的に、核爆発と表現するべきエネルギーを周囲に押し拡げた。炉心を保持するIフィールドに遮断され、放射線が漏れ出すことはなかったものの、爆発と同時に発した熱線は周囲の可燃物すべてを燃え上がらせ、音速を超える衝撃波は爆風となってコロニー内を吹き荒れた。〈リゼル〉七番機は超高熱の火球と化し、小型の太陽と言っていい光が〈インダストリアル7〉の夜を染め上げた。
機体の周りに散らばるコンクリ片は瞬時に蒸散し、衝撃波を浴びた校舎が圧潰《あっかい》、粉砕されてゆく。機体が擱座していたため、熱線の大半はアナハイム工専の校舎群に遮られたが、衝撃波は半径五百メートルにわたって家屋を全壊させ、避難途中の住民を吹き飛ばした。内壁そのものも崩壊を免れず、爆心地の地盤ブロックは高熱で泡立ち、幾重もの層をめくり上がらせて、熱線と衝撃波を五十メートル下の外壁まで浸透させた。共同溝を断裂させ、貯水タンクに水蒸気爆発を促しながら降下したエネルギーの塊は、ついには外壁を突き破って宇宙空間に噴き出し、〈インダストリアル7〉の円筒の一画に爆発の炎を膨れ上がらせた。
住宅地区から閃光が発し、巨大なキノコ雲が聳立《しょうりつ》したと思う間もなく、キャベツに似た煙の塊が急速に収縮する。気流のせいではない。内壁の一端に穴が空き、空気の流出が始まったのだ。爆発に気を取られた敵機を押し返したところで、マリーダはその光景を見た。住宅地区の真ん中に、そこだけ明かりの消えた焦げ跡が直径一キロの円を描いて横たわり、黒ずんだ炭の表皮に炎を燻《くすぶ》らせている。炎は強風に煽られて急速に鎮火しつつあり、大童の煙や瓦礫、人の形をした消し炭が、円の中心に凄《すさ》まじい勢いで吸い寄せられていく。急激な気圧の低下で霧が生じたため、破孔の様子はろくに観測できなかったが、その直径は五十メートルを下らないとわかる。機体に装備した装甲補修材《トリモチ》では塞ぎようもない、あまりにも大きな穴が口を開け、不気味に蠢く白い霧が徐々に拡大する――。
「しまった……!」
よりにもよって反応炉を直撃してしまうとは。マリーダは呻き、唇を噛み締めた。熱線に焼かれ、真空に吸い出される数多《あまた》の声≠ェコロニーの内壁に反響し、日常の被膜に覆われていた〈インダストリアル7〉の空気をそよそよと鳴動させる。噛み切った唇から血が滲み、小さな玉になってマリーダの眼前を舞った。
白い霧が蠢《うごめ》いていた。ここからは数ブロック向こう、爆心地付近で発生した霧は、その面積を急速に拡大させる一方、爆心地の穴に吸い寄せられてもいる。結果、穴の周辺には一定量の霧が吹き溜まり、幽鬼に似たガス体が蠢いているように見えるのだった。
「コロニーに穴が開いたんだ!」
誰かが叫ぶ。ひとりマンションの非常階段を駆け下りたバナージは、玄関に出ると同時にその光景を見た。コロニーに穴が開くと、周囲の空気は急激に減圧され、凝結した水蒸気が霧を発生させる。先刻の大爆発が内壁を打ち崩し、コロニーに穴を開けたことは疑いようがなかった。
「本当に戦争やってんの!?」
「酸素マスクだ! シェルターに急げ」
同じく玄関に飛び出してきたマンションの住民たちが、口々に叫んで傍らを走り抜けてゆく。敷地外の路上にも防災リュックを担いだ人が溢れ、街灯の心もとない光が切迫した顔の群れを照らし出していた。「慌てないで、落ち着いて! シェルターは人数分ちゃんとあるから!」と、警官の怒声が聞こえてはくるものの、組織だった避難誘導が行われている気配はない。上空で爆音が起こるたびにどよめきが上がり、電話ボックスの周辺では押し合いへし合いの混乱が生じている。バナージは、道路沿いの建物ごしに爆心地を遠望した。内壁の傾斜に従い、山の斜面のごとく盛り上がって見える一帯は、そこだけ電気の消えた黒い平原だった。タバコを押しつけたような焦げ跡が放射状に広がり、円心付近で蠢く霧が奇妙に浮き立って見える。そこにあるはずの建物――アナハイム工専の校舎は見えなかった。黒ずみ、めくれ上がった地盤ブロックが構造材を露出させるだけで、火のついた瓦礫すら見つけることはできなかった。
爆発で蒸発したのか、外に吸い出されたのか。自分のものとも思えない激しい呼吸音を聞きながら、バナージは震える両手をきつく握りしめた。寄宿舎にいた生徒は何人――いや、金曜の夜に、学校に残っている生徒はいなかったと信じたい。そうでなければ……。
肩にぶつかった衝撃が、遊離しかけていた意識を肉体に引き戻した。傍らを走り抜けていった誰かの背中を追うことはせず、バナージは周囲に目を走らせた。工専の被害を確認するより、いまはやらなければならないことがある。目的のものはすぐに見つかり、「そのリムジン、待て!」という一声が反射的に口から迸り出た。
運転席のドアを閉めようとしていた男が、ぎょっとした様子で左右を見回す。バナージは床を蹴り、敷地のすぐ外に駐車する黒塗りのリムジンの方へと走った。歩道を行き交う人の列をすり抜け、閉まりかけたサイドウインドに手を差し入れる。運転席に座る男の目が見開かれ、助手席の男も微かに息を呑む気配が伝わった。
「おれも乗せてってください」
そのまま助手席側の窓に首を突っ込み、ひと息に言う。警護、もしくは監視対象であるこちらの顔をまじまじと見返し、ビスト財団の男たちはそろって呆気に取られた目をしばたたかせた。こうなっては警護も監視もあったものではなく、彼らが〈カタツムリ〉に引き返すつもりでいることはわかっている。運転席に収まる若い男が血相を変え、「冗談言うな! なんで……」と低く怒鳴ったが、バナージは皆まで言わせなかった。
「おれの身を守るのが仕事なんでしょう?」
ぐっと詰まった顔になり、運転席の男は口を閉じた。この男たちに同行する以外、〈カタツムリ〉に近づく方法はない。無茶は承知だし、行ってどうするという具体的な思案もないが、そうしなければならない、と訴える衝動は依然として腹の底で脈打っている。手の震えが伝わらないようドアの縁をぎゅっとつかみ、バナージは助手席に座る年嵩《としかさ》の男を見た。容易に感情を悟らせない目がすっと細くなると、年嵩は不意にバナージの背後に視線を移し、「そいつらもか?」と顎をしゃくった。
つられて背後を振り返り、絶句した。タクヤとミコットがそこにいた。二人のうしろにはパーティーのメンツが七、八人集まり、一様に青ざめた顔をこちらに向けている。バナージが反応するより早く、「避難するなら、あたしたちも一緒に連れてって」とミコットが一歩前に進み出て、バナージはリムジンに背中を押しつける形になった。
「そんな……。マンションのシェルターは?」
「どっかのバカがパニクって、中から鍵をかけちまいやがったんだよ」ハロを抱えたタクヤが、ミコットの肩ごしに口を挟む。「近くの連中は家に帰ったけど、おれらは歩きじゃ帰れねえしさ。みんな閉め出されて、行き場がないんだ」
「他のシェルターも入れてくれるかどうかわかんないし、学校の方は穴が開いてて近づけないわ。〈カタツムリ〉に入れてもらえるなら……」
そう続けて、ミコットはリムジンの助手席にちらりと視線を流した。なんでそういう話になる? もとより避難という発想がなかったバナージは、憔悴《しょうすい》した一同の顔をあらためて見渡した。危険だ、という直感が脳裏をよぎったものの、説明する理屈はなく、いまだ戦闘が続く上空に目のやり場を求めた。
雲とも爆煙ともつかない被膜ごしに、スラスターの噴射光がちかちかと瞬き、時おり走る火線が四方に光軸を刻む。複数の敵と味方が入り乱れているのだろうか? ここからは頭上に見える内壁にも火の手が上がっており、素人目にも戦場が拡がっているのがわかる。ネオ・ジオンかもしれない敵機と、それを追撃する連邦軍のモビルスーツ……いや、いきなり街を破壊され、いまも流れ弾に怯えるしかない自分たちにとって、敵と味方という区別は意味がなかった。すべて身を脅《おびや》かす危険の塊であり、それはいまこの瞬間にも目の前に落ちてこないとは限らない。コロニーに穴が開くほどの爆発が起きれば、シェルターにいたって助かりはしないのだ。
危険はどこでも変わらない。その一点で自分を納得させたバナージは、再び助手席の窓に首を突っ込んだ。「みんな乗ります」と告げると、年嵩の男は無言の目を返事にした。
「大声で叫びますよ。この戦闘を起こしたのはあんたらだって」
低くした声で続けてから、ドアをつかむ手の力を強くする。真実はこの際どうでもいい。重要なのは、ここで殺気立った避難民に取り囲まれたら、身動きが取れなくなるという事実の方だ。「こいつ……」と呻いた運転席の男を無視して、バナージは年嵩の男だけを見た。互いの目の底を覗き込む数秒のあと、年嵩は運転席の方を見遣り、客席のドアロックを開けるよう目で指示を出した。
「みんな、乗って!」
すかさず叫び、後部ドアを開ける。前を見て動かない年嵩の男に軽く頭を下げ、バナージはミコットたちを先に車内に押し込んだ。
いかに広いリムジンの客室といえども、九人からの人間が乗り込めばぎゅうぎゅうの体になる。バナージは後部ドアの窓から半身を出し、ハコ乗りする格好で車内に収まった。まだ震えの止まらない手でルーフを叩き、全員乗り込んだことを伝えると、リムジンは自棄《やけ》のようにクラクションを鳴らして動き出した。
車道にまではみ出した避難民を避けつつ、月側の気密壁に向かって走る。ほてった顔に吹きつける風が強い。車の移動に伴う対向風だけでなく、穴に向かって流出する空気が風を生み出しているのだ。道端の埃や紙屑を舞い上げ、緩慢に吹き流れる風は、穴の付近では突風になって真空に吸い出されてゆく。コロニー中の空気がそう簡単に抜けきるものではないとはいえ、爆発で開いた破孔が応急修理で塞げるとも思えない。避難民の中には、早くも酸素マスクを付けている者がひとりならずいた。
公民館の地下や、人工丘陵の斜面に設けられたシェルターの気密壁が次々と閉まる。逃げ遅れた人々は次のシェルターに走り、雷鳴に似たビームの閃光と轟音がその頭上に降り注ぐ。車内に目を向ければ、ミコットは他の少女たちと身を寄せ合い、タクヤたちは彼女らにかける言葉もなく押し黙っていた。コロニー内に充満する異常な空気、暴力そのものといった音と光に押しひしげられ、全員が感情を麻痺させているかのようだった。
これはいったいなんだ? 誰と目を合わせる気力もなく、バナージはひとり内心に呟いてみる。最初に戦闘の火を目撃してから、まだ二十分と経っていない。それまではなにごともなかった。誰もがさして代わり映えのしない日常の中にいたのに、たった十分かそこらで覆されてしまう人の生活とはなんなのか。自分に『ずれ』を感じさせ続けてきた日常という時間、厳然と周囲を取り囲んでいた壁のなんと脆いことか。
そこに馴染みきれない違和感を覚えていたとしても、こんなふうにひっくり返されてしまうのは違う。どういう事情で戦闘が始まったのかは知らないが、理由もわからず、なにが起こったのかもわからずに、内壁ごと蒸発させられる人の死は容認できない。戦時下ならまだしも、この理不尽な唐突さはまるっきりテロだ。一方的すぎて、感情の置きどころも見つけられない。
しかし――そう思う傍らで、自分の心身はこの事態に対応し始めている。パーティーの爛《ただ》れた空気に浸るより、よほど明確に次の行動を定めている自分がいる。そこに『ずれ』はない。息苦しさもない。覚醒しているという気分だけがあった。そう、まるで目隠しがほどけたかのように。
本当にどうかしてしまったのかもしれない。バナージは、脈動し続ける額を押さえつけた。そのままリムジンのルーフに頭を叩きつけ、中身をぶちまけたい衝動に駆られたが、いまはこの未知の衝動に従っておいた方がいいとも思う。そうしなければ生き残れないし、彼女≠救い出すこともできないと考える理性は、先走る思考の中でも健在なのだった。
「オードリー……!」
前方に聳える月側の気密壁を見上げ、バナージは知らず叫んでいた。上空で何度目かの爆発が閃き、闇に沈む気密壁をつかのま浮かび上がらせた。
宇宙に雪が舞っていた。コロニーの一画から噴き出し、きらきらと輝きながら漆黒に舞い散る雪。無論、本物の雪ではない。破孔から流出する土砂、瓦礫、焼け焦げた植樹やエレカの残骸といった物たちが、太陽光を反射してきらめき、暗礁宙域を飾るスペースデブリとなって闇に消える。そのさまが、あたかもコロニーから雪が噴出しているように見えるのだ。
巨大なコロニーに比すれば、針で突いたほどの小さな穴――だが、その直径は五十メートルを下らない。破孔はコロニーの回転とともに回り続け、周囲に物と空気をまき散らしてゆく。雪片に似た小さな物体がひとつ、機体のそばに流れ寄り、リディは反射的に〈リゼル〉のカメラをそちらに向けた。オールビューモニターの一画に拡大投影された物体を見て、全身の肌がざわりと粟立つのを感じた。
焼け焦げたベビーカーだった。不気味に原形を留めたそれを凝視し、中身は入っているのか? と想像してしまったリディは、すぐに拡大ウインドを消し去った。ヘルメットのバイザーを開け、額に浮き出た汗を拭ってからまた閉じる。ついでに胸元の汗も拭いたいところだが、ノーマルスーツを着ていてはできない相談だった。下着はすでにぐしょぐしょで、靴下まで濡れているのがわかる。まだ一発も撃っていないし、会敵さえしていないというのに――。
戦端が開かれてから、三十分あまり。〈ネェル・アーガマ〉ともども、作戦域たる〈インダストリアル7〉に進出はしたものの、リディたちイアン中隊の面々はいまだ敵の姿を見ていない。半数以上が墜《お》とされたという未確認情報を横聞きしただけで、コロニー内で交戦中のノーム中隊がどのような状況にあるのか、どれだけの敵が存在するのかさえ判然としない時間が続いていた。頼みの綱のレーザー通信も、コロニーの壁に遮られて受信できない。錯綜する無線に聞き耳を立て、断片的な情報から状況を類推するしかないのは、リディたちも〈ネェル・アーガマ〉も同じだった。
(コロニー内での戦闘はさけろ! 無闇に入ってくるな)
(ロメオ005、交信途絶している。応答を!)
(マンハンター……エコーズのタンクもどきも大破した。救援はどうなってる!?)
(敵はサイコミュを装備しているんだ! 好きにできるか)
(一機だ、たった一機のモビルスーツに……!)
半数どころか、ノーム中隊は壊滅状態に追い込まれた。無線の声に内心で付け足し、リディはコロニー周辺に展開する僚機の所在を確認した。自機を含め、四機の〈リゼル〉と二機の〈ジェガン〉がコロニーとの相対速度を合わせ、戦場と化した巨大な円筒を見つめている。編制が違っていれば、今頃は自分たちが見つめられる側だったかもしれない。サイコミュを装備した敵機とやりあい、ファンネルで蜂の巣にされていたのかもしれなかった。コロニーの内壁ごと砕け散った誰かの機体のように。
(ロメオ002より各機。イアン中隊は母艦の直掩《ちょくえん》が任務だ。周辺警戒を怠るな。コロニーの穴から敵機が出てくる可能性もある)
イアン中隊長が釘を刺したのは、放っておけば突出し、コロニー内に飛び込んでいきそうな各機の心情を慮ってのことだろう。リディとて例外ではなかった。待つのは辛い。味方機の苦戦を遠巻きにするくらいなら、飛び込んでいった方が楽だと思う。初めての実戦で舞い上がっている自覚はあるが、敵は一機であるらしいのだ。たった一機に中隊が壊滅させられるなど、冗談だと思いたかった。たとえサイコミュを装備したモビルスーツであっても。そのパイロットが常人でなかったとしても。
「ニュータイプ……。あんなの、宇宙人[#「宇宙人」に傍点]の迷信なんだよ」
スペースノイドを指す差別語が、つい口をついて出た。家≠フ湿度がコクピットに充満したように感じ、リディは口をすすぎたい思いで軽くフットペダルを踏んだ。〈リゼル〉の機体がわずかに動き、月の方に流れる。コロニーの壁面がモニターの中を流れ、先端に接続されたコロニービルダーが正面に定位した。
コロニーの四分の一ほどを覆う『ロクロ』の外壁ごしに、カタツムリの頭に似た先端が覗いている。〈メガラニカ〉という名称を思い出しつつ、リディはそのコマンド・モジュールであるカタツムリの頭を拡大投影した。しんと静止して見えるコマンド・モジュールの先に、親指ほどの白い物体がぽつんと浮かんでいるのがわかる。〈ネェル・アーガマ〉の白亜《はくあ》の船体だ。
連邦宇宙軍屈指の巨艦も、全長五千メートルを超える〈メガラニカ〉の前では玩具に等しい。リディは無線のチャンネルをいじり、〈ネェル・アーガマ〉と〈メガラニカ〉の交話傍受を試みた。艦載機との交信に使われる基幹系無線より出力は低いが、これだけ近ければミノフスキー粒子下でも横聞きはできる。ほどなく(……入港は認め……ない)とノイズ混じりの声が浮き上がり、ヘルメット内蔵のスピーカーを騒がせ始めた。
(本施設はコロニー公社の承諾を得て、アナハイム・エレクトロニクスが法人運用するもので……)
(戦闘が起こっている! 連邦宇宙軍艦艇として、本艦は対テロ特措法に基づく強制収用の権限を有している)
木で鼻をくくった管制員の声を吹き散らして、オットー艦長の怒声がノイズの底で響き渡る。モビルスーツ一個中隊が壊滅に瀕《ひん》する事態を前にすれば、昼行灯《ひるあんどん》のタヌキ親父も平静ではいられないらしい。リディは耳をそばだてたが、
(〈メガラニカ〉! こちらアルベルトだ。ただちにゲートを開放しろ)
唐突に割って入った別の声音に、顔をしかめる羽目になった。アルベルト――側近を引き連れて艦に乗り込んできたアナハイム社の幹部。『ラプラスの箱』が云々、と艦長室で喋っていたいけ好かない顔を思い出し、「あのデブ、こんなところにまでしゃしゃり出てきて……」とリディが吐き捨てる間に、(聞こえたのか!?)と押しかぶせる声が無線をつんざいた。(き、聞こえております)と管制官の狼狽した声があとに続く。
(いかにビスト財団といえども、軍の活動を拒む権限はない。開けるんだ)
(しかし、理事長が……)
(責任はわたしが取ると言っている! マンハンターに皆殺しにされたくなかったら、我々を中に入れることだ)
こいつ、全軍の指揮を執ってでもいるつもりか? 傲慢にもほどがある物言いに呆れ、不快感を新たにしたリディは、しかし次に現出した光景に目を丸くした。〈メガラニカ〉からガイドビーコンの光がのび、二列の光軸が虚空に進入路を形成したのだ。
船体後部のスラスター・ノズルを小刻みに噴かし、〈ネェル・アーガマ〉がしずしずと前進を開始する。〈メガラニカ〉のスペースゲートが本当に開き、艦が入港態勢に入ったのだった。タイミングからして、アルベルトの鶴の一声が功を奏したのだろうことは考えるまでもない。無線が〈メガラニカ〉のドックマスターに切り換わり、艦の誘導が始まるのを確認したリディは、開いた口が閉じない数秒間を漂った。
「何者だよ、あいつ……」
役員とはいえ、しょせんはアナハイム社の社員でしかない男が、大株主たるビスト財団の牙城を名前ひとつで屈伏させる。只事《ただごと》ではないと思い、〈ネェル・アーガマ〉の船体を凝視したリディは、不意に機体を揺さぶった衝撃に心臓を跳ね上がらせた。いつの間に近づいたのか、イアン中隊長の〈リゼル〉がリディ機に肉薄し、その左マニピュレーターを臑《すね》のあたりに触れさせていた。
(母艦から内火艇《ランチ》が出る。リディ少尉は援護に回れ)
接触回線が開き、無線より明瞭なイアン大尉の声が耳朶を打つ。「はい」と咄嗟に応じながらも、イアン機の接近にまったく気づけなかった自分にリディは動揺した。こんなことでは生き残れないぞ、と思う。
「でも、戦闘中なのに誰が? 警衛隊を先遣《せんけん》するんですか?」
(お客さんだ。アナハイムのお偉いさん御一行がコロニービルダーに乗り込む。敵はまだコロニービルダーには入り込んでいないようだが、警戒を怠るな)
短く告げると、イアン機は接触を解いて右下に流れていった。戦線から外された、当てにされていないという悔しさが胸の底を走ったものの、リディは指示通り〈ネェル・アーガマ〉の方に機を移動させた。いつ来るかわからない敵をじっと待ち受けるよりは、体を動かしていた方がいい。アナハイムの客人が行動を起こすなら、この目で見ておきたいという心境もあった。
カタツムリの殻と見える重力ブロックの中央、直径三百メートルは下らない〈メガラニカ〉のスペースゲートが、カメラのレンズシャッターさながら開いてゆく。両舷に張り出した太陽電池の翼を折りたたみ、〈ネェル・アーガマ〉の巨体がゲートに進入する。リディはその右舷についてゲートをくぐり、第二ゲートの手前で制動のバーニアを噴かした。第一ゲートが閉鎖されて間もなく、エアーの注入が始まり、船舶用の広大な与圧区画に空気が充填される。気圧計のデジタル表示が1に近づいた頃、〈ネェル・アーガマ〉の後部発進口が開き、一隻のランチがカタパルト上に現れた。
ランチとは海軍から持ち越された用語で、艦艇に搭載される連絡用の小型宇宙艇を指す。〈ネェル・アーガマ〉が搭載するランチは一年戦争当時から使われている旧式の代物で、角張った船体の各所に手すりが設けられ、船外にも人を乗せられる配慮がなされていた。非常時には脱出艇として用いられるためだ。
いま、その手すりには複数のノーマルスーツが取りつき、人を鈴なりにしたランチがカタパルトから浮き上がろうとしていた。異様なのは、艇に取りつく全員が無反動ライフルで武装していることで、そのさまは陸戦隊の上陸に見えた。各々の表情はヘルメットのバイザーに遮られて窺えないが、ライフルの持ち方から、それなりの訓練を受けた者たちだと判じられる。少なくとも、民間企業の役員が視察に赴く光景でないことは確かだった。
「どうなってるんだ、いったい……」
まるで私兵を率いての出陣――。艇内にいるのだろうアルベルトの顔を見る術はなく、リディはカタパルトから離床したランチの噴射光を見つめた。間もなく第二ゲートが開き、ランチは〈ネェル・アーガマ〉に先んじて〈メガラニカ〉のドックに進入した。
気密壁に外付けされた荷揚用リフトに乗り、三千メートルあまりの高みに上昇するのは恐ろしい時間だった。資材の搬出に使われるリフトは壁も天井もなく、リムジンは板一枚と言っていい昇降機に固定され、すり鉢状に抉れた気密壁の斜面を昇ってゆく。必然、高度が上がるにつれて上空の戦火が間近に迫り、雲ごしに閃く火線や、モビルスーツのスラスター光が生々しさを帯びてくる。リムジンは剥き出しの状態でそれらの光にさらされ、運を天に任せる十分弱の時間を過ごさねばならなかったのだ。
コロニーから〈カタツムリ〉に至るゲートは、人工太陽の基部周辺に六ヵ所、それぞれ十五メートル四方の口を気密壁に穿《うが》っている。リフトがそのうちのひとつに接合すると、バナージはいち早くリムジンから飛び出した。コロニーの回転軸に近いそこは完全な無重力帯であるため、床の蹴り方を間違えなければ移動は苦にならない。ゲートの奥行は五十メートル近くあったが、バナージは広大ながらんどうを数歩で突っ切ることができた。
つい数時間前、オードリーと一緒に通ったばかりの道なので、だいたいの勝手はわかっている。「おいバナージ、待てよ!」と発したタクヤの声を背中に、バナージは突き当たりの隔壁の手前に足を着けた。建設資材搬出用の巨大な隔壁は閉鎖されたままだが、脇に人が出入りできる通用口がある。先刻はそこから〈カタツムリ〉の中に入ったのだ。
こうしている間にも、流れ弾が飛んでくるかもしれない。バナージは通用口の開放スイッチを押した。ロックがかかっていた。ドア脇のテンキーを押しても反応しない。やはりカードキーがないとだめか。舌打ちして、リムジンの方に引き返す。
ハロを抱えて追いかけてきたタクヤが、「ダメなのか?」と言いつつ傍らをすり抜けてゆく。答える間も惜しく、バナージはリムジンへと急いだ。固定具の解除に手間取っているのか、リムジンはまだリフトの上から動いていなかった。運転席の男がなにごとか操作を続ける中、客席に収まっていた少年らがわらわらと外に出てくる。その背景には闇夜が広がり、時おり走る閃光が雲を、人工太陽の柱を断続的に浮かび上がらせていた。不安げに周囲を見回し、こちらに向かって床を蹴ったミコットも視野に入れたバナージは、「車なんかどうでもいいでしょう!?」と声を荒らげた。
「早く! 通用口を開けてください」
聞こえないのか、財団の男たちはこちらを見ようともしなかった。「ひっかかってんだよ」「非常用の解除ボタン、あるだろ?」などと口にしながら、少年たちも車を取り巻いて動こうとしない。青白い光が彼らのシルエットを浮き立たせ、バナージはひやりとした。光の閃き方、爆音の聞こえ方が先刻より鋭い。音のタイムラグも短く、光が発するのとほぼ同時に重い振動が伝わってくる。
戦場が近くなっている。その直感を裏づけるように、巨大なシルエットがゲート口の向こうを横切ってゆく。渦巻く雲に一瞬だけ滲んだ異形のシルエットは、あの四枚羽根のモビルスーツに見えた。そして切り裂かれた雲の向こう、ここからは小指ほどの大きさに見える別のモビルスーツが一機。あれは見たことがある。連邦軍の主力機……確か〈ジェガン〉とか言うのだったか?
四枚羽根に較べれば華奢に見えるマシーンが、小刻みにバーニア光を瞬かせて姿勢を制御する。ほぼ目線の高さにその姿を捉えたバナージは、全身の肌が音を立てて粟立つのを感じた。次になにが起こるか予測できた――というより、目前の〈ジェガン〉から放出される殺気≠フようなものに打たれた。平たく言うなら、あのモビルスーツは撃つ気だ、とわかったのだ。
「伏せて!」
咄嗟に叫び、すぐ前まで近づいていたミコットに体当たりする。悲鳴をあげたミコットの息づかいを耳元に聞き、勢いで流れた体が壁にぶつかった刹那、閃光と熱波が背後を突き抜けた。
髪を焦がし、うなじを灼くすさまじい熱波がゲート内で膨れ上がり、一瞬の間を置いてスパーク音に似た轟音が耳をつんざく。バチバチと爆ぜる空気が衝撃波になって吹き荒れ、バナージはミコットを抱いたまま壁に叩きつけられた。反動で浮き上がった体が床か天井にぶつかり、上下の感覚が消失した体に二度、三度と衝撃が走る。吸い込んだ空気が熱い。打ちつけた頭につんとした痛みが突き抜ける。バナージはきつく目を閉じ、ミコットを抱く手に力を込めた。荒れ狂う熱波に翻弄されながら、次に来る痛みが致命的なものにならないことだけを祈った。
どれだけそうしていたか。熱波と轟音が行き過ぎ、自分の荒い息が聞こえるようになったのを潮に、バナージは恐る恐る目を開けた。粉々に砕け、ガラス片を散らす照明器具がすぐ目の前にあった。その下、十メートルほど眼下に床が広がり、天井付近を漂う自分の位置をバナージに確認させたが、物を考えられたのはそこまでだった。眼下の惨状はそれほどに激しく、バナージは呑み込んだ息を吐けなくなった。
[#挿絵mb767_140[1].jpg]
ゲート口に接合したリフトはぐしゃぐしゃに溶け、どす黒い焦げ跡が奥の隔壁まで真一文字にのびていた。無残に焼け焦げ、めくれ上がった構造材はまだ余熱を燻らせており、まつげを焦がしそうな熱風がそこから吹き上がってくる。むっと立ちこめるオゾンの臭いも嗅いだバナージは、煤まみれの袖口で鼻を覆った。メガ粒子砲の直撃――あの〈ジェガン〉がビームライフルを使い、流れ弾がゲートを直撃したのだ。モビルスーツの装甲すら貫通する高エネルギー弾は、通常の鉄鋼など粘土のごとく抉り飛ばす。高熱にさらされ、引きちぎられた形のまま溶け固まった床の亀裂は、さながら灼熱する大蛇の這いずった跡だった。リムジンの車体は欠片《かけら》も見当たらず、人と判別できる遺体も残っていない。ゲートのがらんどうに多数の瓦礫が浮かび、蜃気楼の被膜ごしに揺らめいていたが、自発的に動くものはなにひとつなかった。財団の男たちも、ミコットの友人たちも、なにかの冗談のようにきれいに消え去っていた。
そう、消えた。死んだのではない。つい先刻まで喋り、息をしていた者たちが突然に消えたのだ。これは死ではない、こんな人間の死は認められない、とバナージは思った。こうもなにも残さず、実感する間もなく訪れる最期があるとしたら、それは消滅と呼んだ方が相応しい。感情も感傷も喚起しようがない、あったものがなくなるというだけの消滅――。
ふと、オゾン臭に別の臭いが入り混じったような気がした。ハンバーガー店の厨房から漂ってくる臭いに似た、焼けたとも蒸れたともつかない肉の臭いだった。何度も唾を吐き出し、鼻腔に絡みつく異臭をごまかしたバナージは、腕の中のミコットに意識を振り向けた。ミコットは意識を保っていたが、その目は見開かれたまま、眼下の惨禍《さんか》を凝視して動かなかった。
呼びかけても反応せず、揺さぶった手を払いのけると、「マリオ、ラエラ、シルビア……」と呟きながらゲート口の方に漂い出す。抑揚を欠いた声に少しぞっとしつつ、ミコットのあとを追おうとしたバナージは、「おい、生きてるのかよ……」と発した別の声に肩を震わせた。煤けた隔壁の脇、通用口前に張り出した壁の陰から、タクヤがハロと一緒に顔を覗かせていた。
煤で黒ずんだ顔に浮き立つ白目が、決壊寸前の感情を湛えてこちらを見上げている。張り出した壁が盾になって、タクヤを熱波から守ったのだろう。生きていてくれた、と思った瞬間、彼らを連れてくるべきではなかった、自分のせいだ、という思いがずしりと胸にのしかかり、バナージは安堵と痛恨の狭間で宙吊りになった。「生きてるよ! そっちは!?」と搾り出すと、タクヤは壁の陰から漂い出し、「生きてるけど、生きてるけど……」と細い声をゲート内に反響させた。その目はビームで抉られた床に釘付けになっており、腕からすり抜けたハロにも気づかない様子だった。
すぐに駆け寄りたかったが、ミコットを放っておくわけにはいかない。「そこから動くな! ミコットがヤバい感じなんだ」と言い残して、バナージは煤が付着した天井を蹴った。溶け壊れたリフトの方に流れるミコットのうしろ姿には、そのままゲート口から外に漂い出てしまいそうな危うさがある。
「ミコット!」と大声で呼びかけた刹那、戸口の向こうで再び閃光が発し、体を押し戻す轟音がバナージの全身を包んだ。
先刻の〈ジェガン〉がビームライフルを連射し、横滑りしてゆく光景が雲間に映える。四枚羽根のモビルスーツは鮮やかな横ロールで光弾を躱し、ジグザグに飛行しながら〈ジェガン〉との距離を詰めてゆく。両者が折り重なった一瞬、ピンク色のビーム光が弾け、〈ジェガン〉は腰を境に二つに割れた。
ジャッ、と空気が裂けるような音がコロニー中に押し拡げられる。ビームサーベルを使ったらしいとわかったが、いつ抜き、いつ斬ったのか、バナージにはまったく認識できない素早さだった。腰から両断された〈ジェガン〉は、火花を爆ぜらせながら雲の向こうに消えた。よく見れば、その手首もビームライフルごと切断されているようだった。
「すごい……」
格が違いすぎる。マシーンの性能の問題ではない、と断じる直感がわき上がり、また額がずきずきと脈動するのをバナージは感じたが、四枚羽根の次のアクションがその感覚を忘れさせた。敵機を仕留めた四枚羽根は、まっすぐこちらに猪突してきたのだ。
数十トンはあろう鋼鉄の塊が間近に迫り、その圧倒的な質量を見せつけてゲート口を埋め尽くす。ぶつかると思った直前、四枚羽根は急上昇に転じ、全長二十メートルに達する巨人の羽ばたき――スラスターの噴射光がゲート口のすぐ先で爆発した。バナージは思わず両腕で顔を覆い、吹きつける熱風を全身で受け止めた。
続いて、ゲート全体を揺さぶる衝撃音が響き渡る。リフトまで漂い出たミコットの体を取り押さえつつ、バナージは気密壁の一画に取りついた四枚羽根の巨体を見上げた。ここからは左斜め上、五十メートルと離れていない艦船用のゲートに取りついた四枚羽根は、羽根に内蔵した隠し腕を展開し、四本のサブ・アームをゲートの隔壁に食い込ませた。そうして昆虫のごとく隔壁にへばりつくと、人型の本体が袖口からビームサーベルを抜き放ち、粒子束の刃を隔壁に突き立てた。
分厚い隔壁がみるみる白熱し、溶解してゆく。溶接の火花に似たビームの残粒子が四方に飛び散り始め、バナージは慌ててその場から離れた。線香花火の火種ほどの大きさでも、降り注ぐビームの残粒子は鋼鉄を溶かし、ゲート口に黒い焦げ跡を穿つ。人間の体に当たったらどうなるかは考えるまでもなく、バナージはミコットを引きずってできる限りゲート口から離れた。何度か壁を蹴るうちに、ミコットの手がぴくりと動き、「バナージ……?」と呟いた目に生気が戻る。隔壁まで退がりきったところで、バナージは天井を蹴って床の方に移動した。
残粒子の豪雨がゲート口を塞ぎ、熱波をここまで吹き込んでくる。四枚羽根も〈カタツムリ〉に行こうとしている。ぎゅっとしがみついてきたミコットの体温を遠くに感じながら、なぜだ? とバナージは考えた。オードリーを連れ戻すため? だとしたら、彼女はネオ・ジオンの――。
「開けて! 開けてくれぇっ!」
タクヤが狂ったように隔壁を叩く。ハロも両目を点滅させ、惑ったふうに漂っている。「嫌よ、嫌よ、こんなのぉっ!」と叫び、しがみついて離れないミコットを多少|煩《わずら》わしく思いつつ、バナージは周囲に目を走らせた。隔壁と通用口の他に出入口はない。カードキーを持っていた財団の男たちが蒸散してしまった以上、ここから先には進めないが、どうする? 内壁に引き返そうにも、リフトも壊れてしまっている。
落ち着け、焦れば対処を間違える。記憶の底に埋め込まれた声が囁き、バナージはひとつ深呼吸をした。と、額がずきんと脈動し、背筋がざわざわと鳥肌立つのを知覚した。なにかが来る、という危機感に近い予感が駆け抜け、背後の隔壁を振り仰いだ。
空気中の塵が炭化し、煤になってこびりついた隔壁の中央に、ぼうっと赤熱した光が生じる。それはあっという間に拡大し、内側から突き上げる熱が巨大な隔壁をたわませ始めた。中央の赤熱が白熱に転じるより早く、バナージは「タクヤ、ダメだ!」と叫び、隔壁を叩き続けるタクヤを壁の陰に引き込んだ。直後、膨れ上がった隔壁は内側から弾け飛び、白熱して液化した構造材をまき散らして、爆風と轟音の奔流がゲート内に吹き荒れた。
分厚い隔壁を〈カタツムリ〉側から破砕する、それはほとんど噴火に等しい爆発的な激流だった。バナージたちは張り出した壁の陰に隠れ、身を縮こまらせて背後を行き過ぎる爆風に耐えた。鋼鉄がひしゃげる音の中に、スラスターの噴射音が入り混じり、大質量のなにかが爆風とともに背中をかすめてゆく。熱波が収まるのを待ったバナージは、壁の陰からゲート口の方を窺った。空間戦闘機らしいマシーンがゲート口から飛び出し、横に一回転するや、瞬時に人型に変形したそれがビームサーベルを引き抜いていた。
同時に頭部のバルカン砲を撃ち放ち、気密壁に取りついた四枚羽根を狙う。降り注ぐ残粒子がやんだかと思うと、応戦に出た四枚羽根の機体がゲート口を横切り、変形モビルスーツに斬りかかってゆく。両者の鍔《つば》ぜり合いが雲間に閃くのを横目に、バナージは大穴の開いた隔壁を覗き込んだ。後続が来るかと警戒したが、その気配はなかった。破砕した隔壁の向こうには気密室のがらんどうが連なり、さらにその向こうの隔壁にも穴が開いている。コロニーに進入する緊急手段として、あの変形モビルスーツがビームで隔壁を破ったのだ。破孔はまだ赤熱しており、肺が焼けるような熱波を放っていたが、穴の大きさは直径十五メートルはある。破砕部に触れずに通り抜けるのは、さほど困難なことではないと思えた。
〈カタツムリ〉への道が開けた。生唾を飲み込み、他の思考を保留にしたバナージは、腰を抜かしたように見えるタクヤを引き起こした。「タクヤ、落ち着け。あの変形したモビルスーツ、見たことないのか? どこの機体だ?」と、最大限の自制心を使ってゆっくり呼びかける。うろうろと落ち着かなかった視線が少しずつ定まり、タクヤは「し、知らないけど……」と震える口を開いた。
「|Z《ゼータ》系の可変機なら、連邦軍のロンド・ベルかも……」
「なら、連邦軍の艦が〈カタツムリ〉に来てるんだ。ドックに行けば、きっと保護してもらえる。ミコットと一緒に行くんだ」
変形モビルスーツが通ってきた道をたどれば、自動的にドックにたどり着ける。これ以上、二人を巻き込むわけにはいかない。「いいね?」と付け加えて、バナージは宙を漂うハロをタクヤに押しつけた。咄嗟に受け取ったタクヤは、「おまえはどうすんだよ?」と多少は落ち着いたらしい目を向けてきた。
「オードリーがいるかもしれない。居住区の方に行ってみる」
「嫌よ、離れ離れになるのは!」
うずくまっていたミコットがいきなり叫び、バナージは面食らった思いでその顔を見返した。潤んだ瞳に見据えられ、予想外の疼きが胸の底に走ったが、立ち止まるな、と命じる頭の中の声の方が強かった。「タクヤ、頼む」と言い残して、バナージは二人に背を向けた。床を蹴って斜めに破孔をくぐり、隣の気密室へ体を流す。
気密室側の天井に手をついた途端、「バナージ!」とヒステリックに叫ぶミコットの声が聞こえた。冷たすぎたか? と思いながらも、バナージは前だけを見て床の方に移動した。壁のリフトグリップは生きている。気密室を渡りきった向こうに、居住区に下りられるエレベーターがあるはずだ。〈カタツムリ〉側の環境維持システムは無事らしく、空気が漏れている気配もない。大丈夫、行けると自分に言い聞かせて、バナージはリフトグリップをつかんだ。
バカでかいトンネルといった体の気密室を渡り、破砕した隔壁を五つほど抜けると、そこはもう〈カタツムリ〉側のゲートになる。変形モビルスーツが蹴散らしたのか、仮置きされた建設資材が宙を漂い、ゲート口の向こうにまで流出していたが、バナージは脇目も振らずにエレベーターを目指した。コロニー側から伝わる爆音は遠い振動としか聞こえず、周囲はしんと静まり返っている。コロニービルダーの機能が停止中なのだとしても、これだけの騒ぎで人がひとりも出てこないのはどういうわけか。妙だと思いはしたものの、バナージは先の侵入の記憶をたどってゲート脇の通路を急いだ。
記憶通りの場所にエレベーターはあった。電源も入っている。バナージは逸る心を抑えて壁のパネルに触れた。上昇途中にあったエレベーターが到着し、軽やかな電子音を立てる。ドアが開くのももどかしく、バナージは一気に箱に飛び乗ろうとした。
瞬間、ずいと目の前に突き出された黒い穴に押し返された。酸味の強い刺激臭が鼻をつく。銃口、と理解した頭が真っ白になり、バナージは黒い穴に押しやられるままうしろに流れた。
拳銃ではない、アンテナの先端が銃口になっている携帯無線機をこちらに向け、大柄な白人の男がエレベーターを降りてくる。髭面に埋め込まれた黒い双眸を左右に動かし、周囲の無人を確認したらしい男は、視線と連動した銃口をバナージに据え直した。
革ジャンにも染みついた刺激臭が、男の体臭と一緒くたになってぷんと漂う。火薬の臭い――ビームのオゾン臭とは異なる、もっと直截で生々しい殺し合いの臭い。殺される、という直感が背筋を突き抜け、バナージは壁際まで退がった体を硬直させた。
連邦の軍人ではない。ビスト財団に雇われた男たちとも違う。見た目はくたびれていて、どこか崩れた雰囲気のある中年男なのに、睨まれた体が動かなかった。恐怖を恐怖と捉える間もなく、腰から下がふわっと無感覚になるのを感じたバナージは、石のように無表情な髭面の目をただ見返した。刹那、エレベーターの方で閃光と銃声がわき起こり、鉄のぶつかりあう衝撃音が通路内に響き渡った。
思わず目を閉じ、再び開けた時には、眼前にあった銃口が消えていた。髭面の男はすでに床を蹴っており、エレベーターから出てきた別の男が視界に映えた。負傷しているらしい男と、彼に肩を貸す金髪の男。髭面の部下か? と考えた瞬間、髭面より獰猛そうな金髪の目がバナージを捉え、その手にする無線機型の銃が躊躇なくこちらに向けられた。今度こそ撃たれると思い、バナージは壁に背中を押しつけたが、
「子供はいい」
間に割って入った髭面の男が、金髪の銃を押し下げて言う。我に返ったという顔で髭面を見返したのも一瞬、金髪の男は負傷した仲間を抱え直し、髭面の丸い背中に続いてリフトグリップに取りついた。男たちは振り向きもせずにエレベーターの前を離れ、すぐに角を曲がって見えなくなった。爆発の振動音が低く轟く中、「マリーダとの連絡はまだ取れんのか」と怒鳴る声が遠ざかってゆく。
マリーダ。聞いた名前だと思いはしたものの、思ったことすら半ば意識の外で、バナージはこわ張った首をエレベーターの方にめぐらせた。戸口から火花が爆ぜ、ちりちりとショートの音を立てていた。破壊されたエレベーターの管制盤から噴き出す火花であろうことは、先刻の銃声を思い返すまでもなく明らかだった。
これでは居住区に下りられない。そう思いついた頭が徐々に動き出し、恐怖で塗り固められた体がほぐれ始めた。震えの這い上がってくる両腕をしっかりと抱き合わせ、バナージは呆然と無重力の中を漂った。
モニターに映る〈ネェル・アーガマ〉の白亜の船体は、かつてのペガサス級強襲揚陸艦を彷彿《ほうふつ》とさせるものだった。一年戦争の最中、連邦軍のモビルスーツ開発計画『V作戦』の中核を担ったペガサス級の特異な形状は、当時は退役していたカーディアスにも強く印象に残っている。その艦、〈ホワイトベース〉が想定以上の戦果を挙げるに至って、旧来の兵器体系は根本から塗り替えられ、モビルスーツ時代の到来を告げる一方の嚆矢《こうし》となったからだ。
それから十七年の歳月を経て、〈ネェル・アーガマ〉は可変モビルスーツを随伴させ、この〈メガラニカ〉のドックに進入しつつある。なぜスペースゲートを開放したのか、管制員がいれば怒鳴りつけたいところだったが、広大なコマンド・モジュールにカーディアス以外の人影はない。扇型に配置されたオペレーター席はどれも空席で、コンソールも大半が死に絶えている。焼けて変色した記録チップや、空のバインダーが無重力の中を漂い、大慌てで為された機密処理の形跡を残していたが、管制員たちが無事に脱出できたかは確認のしようがなかった。施設内の監視カメラはことごとく無力化され、セキュリティセンターも連絡を絶って久しい。特殊部隊という毒が全身に廻り、〈メガラニカ〉が機能不全に陥ったいま、ドア一枚向こうの状況すらカーディアスには知る術がなかった。
唯一、格納デッキにはまだ手が回っていないらしく、多面モニターのいくつかが〈ネェル・アーガマ〉を捉え、第二ゲートをくぐる艦の姿を複数の角度から映し出している。肩の傷に止血スプレーを噴きつけつつ、カーディアスはその馬の首に似た艦橋構造部を見据え、無線の周波数を調節するのに余念がなかった。ここから格納デッキまではせいぜい三キロといったところだが、〈ネェル・アーガマ〉との通信状況はすこぶる悪い。映像モニターはノイズしか映さず、オットー・ミタスと名乗った艦長の声も雑音で途切れがちになる。ようやく確保した回線を保つには、絶えず送受信の波帯を調節し続ける必要があった。
「臨検は受けると言っている。いまは部隊を退がらせてもらいたい。このままでは被害が増える一方だ」
(すでに戦端は開いているのです。こちらも甚大な被害を受けました。正面の敵を黙らせなければ、退こうにも退けません)
辛抱強く重ねたカーディアスに、オットーも変わらぬ返答を寄越す。声音からして、剛直な艦長というタイプではないとカーディアスは思っていた。ろくに状況も知らされずに隠微な任務に担ぎ出され、いまは最悪に最悪が重なった事態の推移に戸惑っている。我を失うまいとしすぎて、逆に近視眼に陥っているありきたりの指揮官、というところか。
彼らロンド・ベルと特殊部隊の侵攻は不可避であったにしても、彼女≠めぐる疑心暗鬼に捕らわれていなければ、『袖付き』がこうも過剰反応することはなかったかもしれない。その意味では、向こうもこちらも等しく偶然の被害者だと言えたが、一から事情を説明していられる状況ではなかった。いまこの瞬間にも〈メガラニカ〉のクルーは殺され、コロニーの被害も拡大し続けている。『袖付き』のモビルスーツが暴れ回っているからではなく、実戦に不慣れな連邦のパイロットが戦場を拡げた結果であろうことは、指揮官たるオットーの受け答えを聞けばわかる話だった。
「なら、〈メガラニカ〉で殺戮を続けている特殊部隊だけでも退がらせろ。ここはUC計画の開発拠点だ。大半は民間の技術者や研究員であることを忘れてもらっては困る」
(ですが、現にネオ・ジオンが……)
「艦長。軍事的には正しい判断と了解するが、この作戦には高度に政治的な問題が含まれている。対応|如何《いかん》によっては、貴官の責任問題も問われることになる。同行しているアナハイム社の人間と話をさせてもらいたい」
相手の主張と立場を受け入れてから、客観的見解に脅し文句を滑り込ませ、折れてもいいと思える程度の要求を突きつける。交渉術の初歩だが、オットーは引っかかってくれた。押し黙った通信パネルに、カーディアスは「いるのだろう?」とたたみかけた。
「カーディアス・ビストが話したがっていると伝えてくれればいい。それで事態は収拾できる」
この作戦の背後にマーサがいるなら、お目付役を同道させていないはずがない。あの女に与《くみ》するアナハイム・エレクトロニクスの幹部は誰か。数人の顔と名前を思い浮かべるうちに、(しかし、彼らはすでに……)とオットーの声が流れ、すべてを言い終える前に通信が途絶した。
ミノフスキー粒子の影響ではない。電源が落ち、通信パネルそのものが沈黙したのだった。来たか。カーディアスは目を閉じ、深呼吸をした。ズボンのポケットに入れた自動拳銃を取り出し、コンソールの上に浮かべてから、ゆっくり背後を振り返る。無反動ライフルを構えたノーマルスーツの男たちが数人、音もなく宙を滑り、司令席の後方に広がる床に次々と着地するのが見えた。
その身のこなしは訓練された兵士のものだが、着ているノーマルスーツは作業用の代物だった。特殊部隊の到来を予測していたカーディアスは、少し虚をつかれた思いで侵入者たちの顔を見遣った。全員がフィルターのかかったバイザーを下ろしているので、人相は窺えない。無機質なヘルメットの集団を見、それとなく背後に手をのばす間に、さらにもうひとりのノーマルスーツが一団の中央に降り立った。
腰に拳銃を吊ってはいるが、ライフルは手にしていない。他の者たちが見守る中、そのノーマルスーツはおもむろにカーディアスに歩み寄り、ヘルメットのバイザーを開けた。瞬間、こうなるに至った経緯がすべて明白になり、カーディアスは背後に浮かべた拳銃をつかむのを忘れた。
「おまえか……」
他に言葉がなかった。目前のノーマルスーツは微動だにせず、じっとりと絡みつく視線をカーディアスに送り続けた。
ばりばりと空気が爆ぜたかと思うと、瞬時に溶解し、破砕した構造材が重い衝撃音を押し拡げる。ドック全体が感電したかのように震え、どこからか吹きつけてきた熱風がバナージを揺さぶった。
爆圧で飛ばされた大量の破片が鉄骨のやぐらにぶち当たり、車の追突音に似た音を連続させる。火災が発生したのか、炎の仄暗い赤が折り重なるクレーンのシルエットを浮かび上がらせ、縦横に入り組んだベルトコンベアを照らし出したが、広大な工場ブロックの全容は窺えなかった。バナージは足もとを漂う鉄板を蹴り、手近な鉄骨に体を寄せた。またゲート口から流れ弾が飛び込んでこないとは限らない。無闇に宙を漂っていると、爆発で飛散した破片にミンチにされる恐れがあった。
使えるエレベーターを探し、〈カタツムリ〉の中をさまよううちに迷い込んでしまった先は、コロニー資材を製造する工場ブロックだった。回収したスペースデブリを精製・加工し、『ロクロ』に送り込む全自動化工場は、現在すべてのラインが停止しており、点々と設置された常夜灯の明かりだけが薄闇の中で瞬いている。稼働時は三次元に張り巡らされた製造ラインが資材を運び、プチモビや小型作業艇が行き交うのだろう工場は恐ろしく広く、いくら進んでも隔壁に突き当たるということがない。ここからは床も天井も見えず、いましがた上がった火の手が遠くで揺らめき、折り重なる鉄骨やベルトコンベアを幽鬼のように浮かび上がらせていた。
まるで悪夢の中の光景だった。喉が詰まりそうな恐怖に駆られ、バナージは鉄骨に搦《から》めた腕の力を強くした。あの髭面の男に銃口を突きつけられて以来、体の震えが止まらない。腹の底で脈打っていた衝動が萎え、永久にここから出られないのではないかと益体のない不安が這い上がってくる。とにかく壁なり床なりに取りつくことだ、とバナージは自分に言い聞かせた。壁伝いに進めば必ず出口が見つかる。工場ブロックを突っ切った先、いま火の手が上がっている隔壁の向こうに港ブロックがあるはずだ。そこに行けばタクヤとミコットに会える。居住区に下りる方法だってきっと見つかる。
本当に? と聞き返す弱気を無視し、縮こまった首を無理にでも動かした時、白いなにかが視界を横切った。作業用のノーマルスーツ。人だ。破片と一緒に流れてきたそれが、こちらに背を向けて眼下を通過してゆく。一瞬、髭面の男の顔が脳裏をよぎったものの、バナージは鉄骨を蹴ってノーマルスーツの方に体を流した。
誰でもいい、顔が見たい。話をしたい。自分が正気であることを確かめたい。「そこの人!」と大声で呼びかけ、ほとんどぶつかる勢いでノーマルスーツにしがみついたバナージは、しかし正面に向き合った途端に絶句した。ヘルメットのバイザーが割れ、黒い液体がそこから溢れ出ていたからだった。
胸のあたりにも親指の先ほどの小さな穴が開き、中から滲み出た血が煤けた表皮を汚している。ぐちゃぐちゃに潰れ、血溜まりになったヘルメットの中身を覗いてしまったバナージは、慌ててノーマルスーツから手を離した。と、割れたバイザーからひと塊の血が噴き出し、ゲ、とゴム袋を踏んづけたような音が鼓膜を震わせた。
げっぷの音だった。ノーマルスーツの形をした血袋、もはや口の位置も定かでない肉の塊から、奇妙に生々しいげっぷが噴きこぼれたのだ。バナージは悲鳴をあげてノーマルスーツを蹴り飛ばした。蹴った勢いで後方に流れた体をばたつかせながらも、手に当たったベルトコンベアのフレームを夢中で引き寄せ、それを足場にしてさらに遠くに体を流す。ここにいてはならない、ここから出なければならない。どこに、という目的を欠いたまま、総毛立つ全身が闇雲に虚空を泳いだ。
無数の漂流物、肉塊も混じっているかもしれない破片群が常夜灯の下を行き過ぎる。焦げ臭い匂いが鼻をつき、顔に当たる熱気が激しさを増す。ゲート口で嗅いだ蒸れた肉の臭い、げっぷの音が五感にこびりつき、わずかに残った正気を浸食するのを感じながら、バナージは揺らめく炎を目指して手足を動かした。あんなふうに死にたくはない。人の死があんなものだとは思いたくない。母の死はもっと厳《おごそ》かだった。少なくとも、排泄物のようになった肉体を漂わせ、溜まったガスを垂れ流す無様を他人に見られる事態は回避できた。あれでは悼《いた》むことも悲しむこともできない。生理的な嫌悪感があるだけだ。
本能で生き死にを重ねる動物とは違う。人には人の、礼節に則《のっと》った生き死にというものがある。内なる可能性をもって、人の人たる力とやさしさを世界に示す。それが文明を構築し、宇宙にまで進出した人間に課せられた責務のはずだ。人間もしょせんは動物という理屈は、宇宙世紀を生きる人類には許されない言い訳だ――。記憶槽の底で意想外の言葉が弾け、こめかみがずきりと脈動した刹那、まだ余熱を燻らせるビームの着弾跡が視界いっぱいに迫った。引火した機械油や電気コードが漂う向こう、分厚い隔壁に穿たれた破孔は五メートル弱。行ける、と根拠なく確信したバナージは、息を詰めてひしゃげた鉄骨を蹴った。
同時に目を閉じ、両腕で顔を包むようにする。肌を焼く灼熱は瞬時に後方に過ぎ去り、ひんやりとした冷気が全身を押し包んだ。途端に耳が痛くなるほどの静寂が訪れ、空気が変わったという実感が立ち上がったが、すぐに目を開けて確かめる勇気は持てなかった。壁の向こうは港ブロックのはずだが、それにしては静かすぎる。まったく見当違いの方向に踏み込み、真空に吸い出されてしまったのかもしれない。詰めた息を吐き出しもせず、どことも知れぬ空間を漂って数秒。不意に発動機が低い唸りをあげ、目を閉じていてもわかるほどの閃光が振りかかってきた。
同様の音と光が連続して弾け、闇に包まれた空間を照らし出してゆく。バナージは目を開け、指の隙間ごしに周囲を見渡した。ひどく高い天井に複数のスポットライトが設置され、白色光を閃かせていた。ライトの光は床からものび、交差する光の束を空間の中央に聳える構造物に集中させている。構造物は高さ二十メートル、幅は六メートルほどもあり、剥き出しの鉄骨と梁が直方体の形状をなしているさまは、建設途中のビルかなにかに見えた。
周囲に人の姿はなく、四方を取り囲む壁には窓のひとつもない。一面の壁に巨大な搬出入用のゲートが設けられてはいるが、シャッターは閉鎖されており、ゲート脇のエアロックもすべて施錠中の表示が出ていた。倉庫か、整備場か。いや、この不自然な隔絶のされ方は、密室という呼び方が相応しいとバナージは思った。
一辺三十メートル前後の、ほぼ立方体と言っていい密室のがらんどう――その中にビルのごとき構造物が置かれ、自分という異物が漂っている。光に慣れ始めた目を左右に動かし、侵入口となった壁の破孔を振り返ったバナージは、黙然と佇立《ちょりつ》する構造物をあらためて注視した。表面の鉄骨を手繰り、スポットライトが集中する正面に回ってみる。六、七階建てのビルと見えた構造物は、内側が吹き抜けのがらんどうで、一体のマシーンをその内側に抱え込んでいた。
「これ……」
思わず呻いた声がかすれ、途切れた。ライトを浴びて輝く純白の装甲、モビルスーツにしても人型でありすぎるフォルム。目に相当する部位を覆う半透明のバイザーと、額から突き出した長く逞《たくま》しい一本の角――。
間違いない。今朝、地下鉄の窓から目撃した白いモビルスーツだ。流れるに任せた体がキャットウォークの手すりにぶつかり、背中に軽い衝撃が走るのを遠くに感じながら、バナージは目前に聳える巨人を呆然と見上げた。今日一日の異変の先触れとなった人型のマシーンは、専用ケージと思しき構造物に固定され、視界を埋め尽くすほどの巨躯を静かに立たせていた。
よく見れば、純白の表皮には装甲板の継ぎ目が縦横に走り、基盤の回路に似た模様を全身に浮き立たせている。鋼鉄製のワイヤーがその上を取り巻き、工場出荷時のパッケージング状態の体をなしていたが、異様なのは四肢を拘束する巨大な鉄輪の存在だった。両方の肘と手首、膝と足首をケージに固定する頑丈そうな鉄輪は、輸送時の封印にしても大げさすぎる。まるで暴れ出すのを恐れ、檻の中に縛りつけられているかのようだった。
腹部に位置するコクピット・カバーは開放されており、背を屈めてくぐれる程度のハッチが口を開けているのが見える。密室に繋がれた巨人――ビスト家の屋敷に置かれていた無数の彫像と、古いタペストリーに描かれた伝説の獣。それらのイメージが無条件に重なりあい、溶融して、禍々しいなにかに触れた感覚が足もとから這い上がってくる。バナージは生唾を飲み下し、ゲート脇のエアロックに目を向けた。方向からして、あれを抜けた先に港ブロックがある。内側から施錠も解除できるかもしれない。ここから立ち去りたい一心でそう考え、キャットウォークの手すりを蹴ろうとした時だった。モビルスーツのシーリングに使うビニールシートが一枚、目の前をゆるゆると流れるのをバナージは見た。
ケージに引っかかったのもつかのま、ビニールシートは微かな気流に押し流され、壁の破孔に吸い込まれてゆく。ライトの光の中、細かな埃が一方向に流動する光景も目の当たりにしたバナージは、ぞっとする思いで周囲を見回した。
「空気が漏れているのか……?」
換気装置がもたらす気流ではない。どこかに外壁まで通じる穴が開き、〈カタツムリ〉内の空気が流出しているのだ。港ブロックに行くにせよ、居住区に向かうにせよ、ここから先はノーマルスーツを確保しておく必要がある。バナージは広大な密室を見渡し、壁に設置された非常灯の種類を確認した。消火器具の赤ランプはひとつと言わず発見できたが、非常用簡易ノーマルスーツの所在を示す緑色のランプはどこにも灯っていない。消火器具の備品には酸素呼吸器《OBA》も含まれているとはいえ、真空にさらされるかもしれない局面で役に立つ代物とは言えなかった。
エアロックの外にはロッカールームがあるだろうが、開けたが最後、向こうが真空になっていないという保証はない。無為に密閉空間をさまよったバナージの視線は、自ずと正面の暗い穴に吸い寄せられた。巨人の腹の底に通じるコクピット・ハッチ――。
「モビルスーツのコクピットなら、予備のノーマルスーツくらい……」
できれば近づきたくないが、やむを得ない。バナージは、手すりを蹴って巨人の腹に体を寄せた。コクピット・カバーにつかまって勢いを減殺してから、球形のコクピットに入り込む。
微かな油の臭いと、加熱した電気コードの臭いがした。オールビューモニターは作動しておらず、球形の内壁に貼り合わされた多面モニターが薄闇の底に沈んでいる。座席は背もたれの裏にあるリニア・アームで支持されており、正面からはコクピットの中央に浮かんでいるように見えた。シートと一体化したフットペダルも、ひじ掛けの位置にある操縦桿も、工専の実習で見学した〈ジェガン〉のそれと大差はない。標準的な造りのリニア・シートだと思えたが、一点、背もたれの上部に設置された装置類が異彩を放っていた。
搭乗者の頭を包み込むように配置された装置類は、視界を妨げない程度にヘッドレストから張り出し、ヘルメットを固定するアームらしきものも左右に備えている。なにやら拷問器具を連想させる形状だったが、狭いコクピットでは他に収まるべきところもない。バナージはリニア・シートに座り、可動式のアームでシートと繋がったディスプレイ・ボードを正面に引き寄せた。オレンジ色の作動灯が、待機状態を示してちかちかと点滅する。
「生きてる……」
ランプの下にある予備電源の起動スイッチを押す。ブーンと低周波の唸りがコクピット内の空気を震わせ、室内灯が球形の空間を照らし出す。オールビューモニターは作動しなかったものの、三面あるデイスプレイ・ボードはすべて点灯し、システム・チェックのバイナリファイルをスクロールさせ始めた。メイン・ジェネレーターの起動スイッチが待機ランプを点滅させる一方、左のサブ・ディスプレイに出力系の計器が映し出され、速度計、距離計が続いて表示される。基本はプチモビのコンソールと同じだが、エネルギー・ゲインや計器の数値はどれも桁違いだ。
徐々に覚醒する巨人の息吹きが、低い振動になって伝わってくる。プチモビみたいな民生品とはわけが違う、こいつは兵器だ。これまで乗ったことのないハードなマシーン、本物のモビルスーツだ――。その理解は、名状しがたい不安感を伴って胸に落ち、固いシートに収まる体を落ち着かなくさせた。バナージは明るくなったコクピット内を見回し、予備のノーマルスーツを探した。この手のコクピットは、モニターパネルの裏側が備品入れになっている。モニターの継ぎ目を指でなぞり、シートの裏に手をのばそうとすると、不意に耳障りなノイズが機内スピーカーから迸り出た。
右のサブ・ディスプレイに通信ウインドが開き、ノイズの砂嵐が映し出される。ウインドの脇には〈機関部24区画・通路3〉の文字。オートで接続されたのか、〈カタツムリ〉内の通信モニターとの回線が開いたらしい。施設内の情報が得られるかもしれないと思い、バナージはタッチパネルに触れてチャンネルを変えてみた。
物資搬入室、格納デッキ、電算室、食堂。どれも砂嵐を映し出すばかりで、音声もノイズしか聞こえない。ミノフスキー粒子の影響か、中継装置が破壊されているのか。あきらめてディスプレイ・ボードから目を離したバナージは、(マーサの差し金……ことはわかっている)と発した人の声にぎょっとした。
聞き覚えのある男の声だった。〈コマンド・モジュール〉の地区表示をディスプレイ上に確かめ、相変わらず砂嵐に包まれている通信ウインドを凝視したバナージは、ノイズの底から聞こえてくる声に耳をそばだてた。(軍を利用……つもりだろうが、利用されているのはおまえたち……だ)と怒気を孕んだ声が続き、冒険が過ぎたな、と傲岸《ごうがん》に言い放った声の印象がそこに重なった。
(連邦こそ『ラプラスの箱』を手に入れたがっている。そのチャンスを目の前……て、連中が財団の利益を考え……思うのか?)
会話している相手の声は聞こえない。が、声の主は間違いなくカーディアス・ビストだとわかる。「ラプラスの、箱?」とバナージは我知らず呟いた。知っている響きだと思ったが、いつ、どこで聞いたのかは思い出せなかった。
(だから……えは思慮が足りないと……のだ。このままジオンが消滅して、連邦の天下が続いたらどうなる? 人類の敵は本物の宇宙人くらいになって、軍は存在価値……失う。そうなればアナハイムも財団も傾く)
あの人らしい、嵩にかかった物言いが続く。誰と、なにを話しているのかはわからなくても、カーディアスの口ぶりは戦争を商売にしている人――いわゆる死の商人の論理だということは理解できたし、ビスト財団とアナハイム・エレクトロニクスの癒着《ゆちゃく》が噂以上のものであるらしいことも、言葉のニュアンスからバナージには想像がついた。
怖い話をしている。また大きな戦争が起こる、と言っていたオードリーの切迫した瞳が目の前をちらつき、我知らず通信の音量を上げようとした時、(そのための供与だ。おまえは……)と流れたカーディアスの声が不自然に途切れた。しばらくの間を挟み、(やめておけ。後悔するぞ)と続いた低い声に、バナージはひやりとするものを感じた。
ノイズの底から殺気が滲み出してくる。焦燥を押し殺したカーディアスの息づかい、なにか決定的な挙に及ぼうとしている会話の相手の緊張が、次第に昂《たかぶ》ってゆくのがわかる。(マーサに利用されているだけだ。おまえは……)とカーディアスが呻き、バナージが思わず身を乗り出した瞬間、飽和した殺気が音を立てて弾けた。
パン、パン、と乾いた破裂音が連続し、(逃がすな!)と叫んだ誰かの声が無線の中を行き過ぎる。こわ張った手でディスプレイ・ボードをつかんだまま、バナージは身じろぎもせず通信ウインドの砂嵐を凝視した。カーディアスの声はもう聞こえず、ノイズの音だけがコクピット内に残された。
閃光が発した直後、重い衝撃音が頭上から振りかかり、体をすくい上げるような爆風が錯綜するパイプの間を吹き荒れた。オードリーはパイプを支える柱の一本につかまり、無重力下の体が風に飛ばされるのをなんとか堪えた。
居住区の森を抜け、エレベーターに運ばれるまま工場ブロックに出てから、すでに三十分近くが過ぎたか。その間、戦闘の音は刻々と激しくなり、コロニービルダー内でも爆発音が聞こえるようになっていたが、いまの爆発は流れ弾が飛び込んできたというレベルのものではなかった。きつく閉じた瞼を押し開け、オードリーは林立する精製プラントの設備ごしに頭上を振り仰いだ。二百メートルも先にあるゲート口から炎の塊が噴き出し、滞留する黒煙が吹き散らされると、重モビルスーツとわかるシルエットがぬっと姿を現すのが見えた。
ぼってりとした人型に四枚のバインダーを備えた機体が、ゲート口を蹴って工場ブロックに侵入してくる。〈クシャトリヤ〉だ。回転居住区の中心軸、カタツムリの殻の中心を縦貫する工場ブロックは広く、縦横三百メートル以上のスペースがあるとはいえ、モビルスーツが飛び回るには障害物が多すぎる。〈クシャトリヤ〉はさっそく行く手を遮るベルトコンベアに機体を引っかけ、接触の火花を薄闇に爆ぜらせたが、数十トンの機体を前進させる慣性がその程度で打ち消されるものではなかった。蜘蛛の巣さながら張り巡らされたベルトコンベアを押しひしげつつ、濃緑色の巨体がゆるゆると工場ブロックの中空を飛ぶ。頭部のモノアイ・センサーが忙しなく左右に動き、プラントで埋め尽くされた内壁を見回すようにする。
「マリーダ……。私を捜しているのか?」
そうでなければ、動き辛いコロニービルダーにわざわざ押し入る道理がない。コクピットで意識を凝らすマリーダの横顔を想起したのも一瞬、オードリーは周囲に目を走らせ、自分がここにいることを伝える方法を思案した。二百メートルかそこらの距離は、ミノフスキー粒子下でもセンサーが機能する範囲だが、精製プラントが立てこむ一帯を上空から捜索するのは難しい。マリーダなら感知[#「感知」に傍点]してくれるかもしれない、という希望的観測に寄りかかれる状況ではなく、とりあえず事務所棟と思しき建物に体を流そうとしたオードリーは、唐突に閃いた火線と轟音に身を竦ませた。
続いて吹き抜けた突風とともに、連邦軍のモビルスーツが二十メートルと離れていない低空を擦過してゆく。その頭部から放たれたバルカン砲を素早くかわし、姿勢制御バーニアを噴かした〈クシャトリヤ〉がビームサーベルを抜き放つ。両者のビームサーベルが接触し、巨人同士の剣戟戦《けんげきせん》が現出されたかと思うと、後続の連邦軍機が〈クシャトリヤ〉の背後に猪突した。より人型に近い連邦軍機がビームサーベルを振りかざし、〈クシャトリヤ〉の背中に斬りかかる光景を目撃したオードリーは、「マリーダ……!」と絶叫した。
連邦軍機が〈クシャトリヤ〉にビームサーベルを振り下ろす。直前、〈クシャトリヤ〉の背中に回った二枚のバインダーが持ち上がり、内蔵された隠し腕がビームサーベルを発振させる。背後から斬りかかった連邦軍機は、十手のごとく交差する粒子束にサーベルを受け止められ、前後の敵と同時に斬り結んだ〈クシャトリヤ〉の姿がオードリーの視界に焼きついた。スパークの閃光が工場ブロックを染め上げ、目にも止まらぬ速さで動いた隠し腕が背後の敵を斬り裂く。両腕を肩口から溶断された連邦軍機がぐらりと傾き、ミディアムブルーの機体を内壁のプラント群に沈めていった。
ずん、とコロニービルダー全体を震動させる重低音が響き渡り、爆発の炎が縦横に走るパイプ群の向こうで膨れ上がる。再び爆風が吹き荒れ、オードリーはなにかにつかまる間もなく十数メートルも飛ばされた。液体タンクの表面が視界一杯に広がる直前、トラス構造の鉄骨に夢中で指を引っかけ、叩きつけられるのをなんとか堪える。と、サッカーボールほどの大きさを持つ球体が傍らを行き過ぎ、液体タンクにぶつかる音が背後で弾けた。
跳ね返ったあと、耳に見える二枚の皿をぱたぱたと動かし、球形のボディに埋め込まれた一対の光学センサーを点滅させる。「おまえ……!」と人に呼びかける声が出てしまったのは、それを友達のように扱っていた持ち主の口調が思い出されたからだった。ひと昔前に流行《はや》ったというマスコット・ロボット、確かハロと言うのだったか? オードリーは鉄骨を蹴り、頼りなげに漂うハロを両手で包み込んだ。
点滅する目を覗き込むと、(ハロー、オードリー)と気の抜ける合成ボイスが発し、心臓がどきりと鳴った。まさか、あの少年が来ている? 周囲を見回そうとして、漂ってきた爆煙に咳き込んだオードリーは、「あんた! そんなところにいちゃダメだ」と振りかけられた声に慌てて顔を上げた。
バナージ、と咄嗟に叫び返しかけて、危うく口を噤んだ。煙を割って近づいてくる人影は、このハロの持ち主ではなかった。年格好は似ているが、軽くパーマのかかった茶色の髪も、東洋の血を色濃く受け継いだ面差しもバナージとは異なる。確かめる間に、別の人影が少年のあとに続くのも見え、オードリーは無防備に漂っている自分に危機感を覚えた。
少年とともに事務棟の陰に身を寄せ、同年代と思える黒髪の少女が「早く! こっちへ」と叫ぶ。手の中のハロが耳をぱたつかせ、(タクヤ、ミコット)と目を点滅させるのも見たオードリーは、傍らの鉄骨をぎゅっとつかんだ。十メートルほど向こうで手招きする二人は、ビスト財団の職員にも軍人にも見えないが、ここが敵地に等しい場であることに変わりはない。迂闊に同行していいとは思えず、離れるタイミングを見計らおうとした時、爆発の光と音が先刻に倍する勢いで弾けた。
もう一機の連邦軍機が撃墜されたのだ。殴りつけるような熱風がプラントの狭間を吹き荒れ、オードリーはハロを胸に抱えたまま鉄骨のやぐらにしがみついた。飛散した破片が液体タンクに突き刺さり、誘爆の音が次々に弾ける。瞬く間に炎が燃え拡がり、火のついた破片が群れをなして飛びかかってくるのをオードリーは見た。
避ける場所も、その暇もなかった。オードリーはハロを抱きしめ、殺到する破片群から目を逸らした。これで死ぬ――実感のわかない言葉が全身を痺れさせた刹那、大きななにかが頭上からのしかかってくる気配が感じられた。
大量の破片が金属に激突し、弾かれる音が立て続けに耳を聾する。炎の熱波が心持ち弱まるのを知覚したオードリーは、ぎゅっと縮こまらせていた首を背後にめぐらせた。巨大な手のひらが、そこにあった。人間そっくりの関節機構《アクチュエーター》を持つ五本の指と、携行兵装のコネクターを備えた手のひらは、ミディアムブルーで塗られた鋼鉄の腕と繋がっており、破片と熱風を遮る防波堤となってオードリーの眼前に横たわっていた。
頭上には、目の部分をバイザーで覆ったモビルスーツの無機質な顔がある。胸部に記されたNAR-008の機体番号を見、連邦軍の機体と確信したオードリーは、助けられた安堵を覚える間もなく体を硬直させた。咄嗟にその場を離れようとしたが、腹部のコクピット・カバーが開き、「君、怪我はないか!?」と呼びかけられれば、足場を蹴るタイミングを失ってしまっていた。
ハッチの奥から身を乗り出したパイロットが、ぎょっとした風情で顎を引く。ヘルメットのバイザーを開けた顔は、まだ若い青年のものだった。「子供じゃないか……! なにやってるんだ、こんなところで」と怒鳴ったパイロットを、オードリーは答える言葉もなく見返した。その間に事務棟の陰に隠れていた少年と少女が流れ寄り、「コロニーに穴が開いて、逃げてきたんです!」と少女の方が叫び返した。「そ、そうなのか? 待ってろ」と返したパイロットがコクピットに引っ込む。その表情と挙動に、実戦慣れしていないパイロットと当たりをつけたオードリーは、シールドを装備したモビルスーツの腕ごしに周囲の状況を確かめた。誘爆は続いており、火はプラント全体に燃え拡がりつつある。他のブロックに移動したのか、中空に〈クシャトリヤ〉の機影は見えなかった。煙は刻々と濃度を増し、目と喉がひりひりと痛んだ。
「民間人だ。子供がドックに……。了解」と切れ切れに聞こえるパイロットの声を聞きながら、少年と少女は煤で汚れた顔をコクピットに向けている。少年が羽織る紺色のジャンパーにアナハイム・エレクトロニクスのロゴマークを見つけ、バナージが着ていたのと同じだと思いついたオードリーは、「それ……」と口を開いた。少年と少女がそろって振り向き、しまったと内心に舌打ちした時には、黒髪の少女の視線が頭から爪先までを行き来していた。
「あなた、もしかして……」と言いかけた少女の声は、唐突に発したアクチュエーターの稼働音に遮られた。防波堤になっていたモビルスーツの腕が動き、その手のひらが上に向けられる。「乗って」と降りかかってきたパイロットの声に、オードリーはハロを抱く腕の力を強くした。
「ここは危険だ。おれたちの母艦に運ぶ」
続いたパイロットの声に、ほっと息をつく少年と少女の気配が伝わった。最初に少年が床を蹴り、モビルスーツの手のひらに取りつく。指を覆う装甲に触れ、「少し熱いけど、大丈夫だ。急げ」と言った少年に頷いた少女は、足を踏み出すと同時にオードリーの背中を押すようにした。「あの、私は……」と出した声は、「話はあと。ここにいたら死ぬだけよ」と早口に言った少女に遮られ、オードリーは押し流されるままモビルスーツの手に足をつけてしまった。
誘爆の音が轟き、吹き荒れる熱風が煤でべとついた髪を逆立てる。無重力下では温度差による空気の比重が存在せず、対流も生まれないために、炎は周囲の酸素を消費し尽くせば自ずと鎮火する。燃焼が長時間続くことはないはずだったが、いまは隔壁の崩壊で空気全体が流動し、風≠ェ延焼を促す悪循環を発生させている。自動消火設備が作動し、スプリンクラーの霧があちこちで噴出してはいるものの、このありさまでは噴霧も熱湯になって蒸発してしまう。炎はプラント中を舐め尽くし、工場ブロックの酸素を貪《むさぼ》り尽くすまで消えないだろう。ここにいたら死ぬだけ……少女の言葉を反芻し、致命的な一歩を踏み出そうとしている感覚を退けたオードリーは、木の幹ほどもあるモビルスーツの指に体を寄せた。
機体の熱を滞留させる装甲が、思ったより熱かった。三人の少年少女を左の手のひらに載せ、モビルスーツは跪《ひざまず》いていた体を立たせた。スラスターを軽く噴かし、ブースター・ユニットを背負った機体がゆっくり離床してゆく。この私が、連邦軍のモビルスーツに保護される。その意味も重みも受け止める間を与えず、炎の海がオードリーの眼下を遠ざかっていった。
『一代で財団を築き上げた当主の才能を、否定する気はありません。しかし時代は動いているのです』
薄く開いたドアの向こうから、強い西陽と一緒に父の声が漏れてくる。臙脂色《えんじいろ》に膿《う》んだ、血のように赤い西陽だ。そう、あの頃はまだ、ビスト家の屋敷は地上にあった……とカーディアスは思い出す。本物の空の下で、本物の陽の光を浴び、母屋の西棟にある執務室では祖父が――老齢を迎えてなお壮健なサイアム・ビストが、どこか物憂げな横顔を窓外に向けているのが常だった。
『なんと言われようと、「ラプラスの箱」を連邦に渡す気はない。渡した途端に財団は潰される。次期当主と見込まれている男に、その程度のことがわからんとはな』
そのサイアムが、静かな中にも怒りを滲ませた声で応じる。これは夢だ、とどこかで自覚しながらも、カーディアスは父と祖父の諍《いさか》いに聞き耳を立て、執務室に立ち入る隙を窺う十八歳の自分に同化した。滅多に帰宅しない父が、祖父と顔を合わせると口論を演じるようになって久しい。財団の経営の話になど興味はなく、いつもならただちに回れ右をするところだが、この時のカーディアスには早々に決着を着けなければならない問題があった。
ハイスクールを卒業したら、大学に行かずに家を出たい。自活しながら世界を周り、いまの自分にできること、できないことを見極めたい。幼い頃から全寮制の名門校に入れられ、約束された進路を歩まされてきた青年なりの鬱屈《うっくつ》と気概を胸に、カーディアスは日ごろ敬して遠ざけている祖父の執務室の前に立ったのだ。父がいる時を見計らって訪ねたのは、同じことを二度説明する手間を省くためであるし、懸案事項は一気に片付けた方がよいとする生来の性格が働いたからだった。生真面目にすぎる父と違って、苦労人らしい機知を身上とする祖父なら、自分の味方をしてくれようという皮算用もあった。
『それは過去の話です。もう「箱」がなくても財団はやっていける。むしろ「箱」の存在が財団の飛躍を阻《はば》んでいると考えるべきだ』
『誰の考えだ。移民問題評議会の連中か』
『わたしの考えです、父さん。わたしにだって考える頭はある』
父さん。父が祖父のことをそう呼ぶのを聞いたのは、この時が最初で最後だったように思う。もはや夢という自覚も薄れ、カーディアスは二人の会話に耳をそばだてた。父も、祖父も、越えてはならない一線を踏み越えようとしている。たとえ身内でも――いや、身内であるからこそ――、そこより先は引き返せない一線に足を踏み出そうとしている。十八歳の若僧なりに予感し、怯えながら、住み慣れた家が急によそよそしく冷えてゆくのを感じ続けた。
『この二十年、自分なりに財団の業績拡大に力を尽くしてきました。その結果は得られたと自惚《うぬぼ》れてもいます。あなたは、それも「箱」があっての話だとおっしゃるでしょうが……』
『そうは言わないよ。おまえには時流に乗る才覚がある。だから次期当主の筆頭に名を挙げもした。が、それは財団の維持運営に必要な才覚であって、ゼロから事を為し遂げる力ではない』
『あなたがそれを望んだ。わたしは自分を殺してでもその期待に応えてきた。この上なにを望むのです。いつになったらすべてを任せてくれるのです……! あの薄気味悪い冷蔵庫で冬眠をして、あなたは永遠に財団を支配するつもりですか!?』
『「箱」を託せる相手さえ見つかれば、すぐにでも死ぬよ。だが、それはおまえではない』
売り言葉に買い言葉であっても、決定的なひと言だとカーディアスにもわかった。沈黙を挟み、『はっきりとおっしゃる……』と響いた父の声は、濡れているように聞こえた。
『ならば、親子の縁もこれまでです。あなたは偶然手に入れた「箱」を使って、財団を築き上げた。そのバイタリティを見習って、わたしも必要なものは自分の力で手に入れます』
『覚悟の上の言葉か?』
『冗談で言えることだと思いますか?』
『いや……。ただ、それを口にせずに実行できる男であったらと悔やむだけだ。父親としてはな』
言葉が胸に刺さる、というのはこのことだと思った。絶望が言葉という形を借りると、こんなにも人の胸を抉る力を発揮する。言われた者の心境を容易には想像できぬほどに。
『……こんなわたしでも、期待をかけてくれる者はひとりならずいます。わたしと彼らが望む財団のあり方と、あなたが望むそれとは違う。そのことはお忘れなきように』
父の言葉は、カーディアスにも多すぎると感じられた。当人にしてみれば最低限の抗弁であっても、ありのままを喋りすぎると思えたのだ。その場を辞すには、次のひと言で十分だったのに。
『寂しい人だ。あなたは』
それを最後に、父は祖父の執務室を出た。戸口の前に立っていたカーディアスは、隠れるタイミングも見つけられずに硬直した。顔を合わせると、父は少し驚いた顔を見せ、なにも言わずに傍らを通りすぎていった。開け放たれたドアの向こうには祖父がおり、西陽に浮かび上がる影法師がこちらを見つめていた。その目はなにかを語りかけていたが、部屋に立ち入る勇気は持てなかった。ドアはすぐに閉まり、西陽に縫いつけられた孤独な影法師の印象だけがカーディアスの中に残された。
あの時、父がひと言でもなにか言ってくれたら――いや、肩に手を置くだけだっていい。自分という息子にほんの少し気持ちを向ける余裕があったら、その後の展開は違ったものになっていただろうとカーディアスは思う。が、父はなにも語らなかった。夜になっても家族の誰とも顔を合わそうとせず、翌日、逃げるように仕事に戻っていった。妻子に無用な心配をかけぬため……ではない。父には、祖父に見放された哀れな自分しか見えていなかった。畢竟《ひっきょう》、それが父という男の限界であり、祖父がすべてを託しきれなかった最大の要因でもあったのだろう。
進路を相談する気力を失い、カーディアスは学校に戻った。父の訃報《ふほう》が知らされたのは、それから三ヵ月も過ぎた頃のことだった。不審なところなどなにひとつない、不運であったという他ない交通事故死――警察はそう発表したし、新聞にもそのように報道された。だが実際には違うことを、ビスト財団に関わる幾人かの人々は知っていた。無論、カーディアスもその中のひとりだった。
あとで知ったところによると、父はつきあいの深い連邦政府の議員や官僚に焚きつけられ、クーデターまがいの財団乗っ取り計画を本気で進めていたらしい。宇宙世紀も五十年を過ぎた当時、アースノイドとスペースノイドの生活格差は歴然としたものになり、宇宙移民政策は棄民政策という馬脚を現しつつあった。当然、スペースノイドの不満は高まり、あちこちのコロニーで自治権要求運動の狼煙《のろし》が上がっている時だったから、連邦政府は彼らに――殊《こと》に、コントリズムなる宇宙国家主義を標榜《ひょうぼう》し、スペースノイドの耳目を集めていた政治思想家、ジオン・ズム・ダイクンの一派に――『ラプラスの箱』が渡ることを恐れたのだろう。財団の発展に努めるうち、父は連邦政府という巨大な化け物に取り込まれ、抜き差しならないところまで追い詰められていったのに違いなかった。
騒ごうと思えば騒ぎ立てられる父の死だったが、そのきっかけを作った者たちはそろって沈黙を通した。彼らは、祖父を説得し得る人材として父を祭り上げていたのに過ぎない。当の祖父が、その父を容赦なく排除した現実を前にして、これ以上どんな干渉ができよう。カーディアスは、父の葬儀に神妙な面持ちで参列した彼らを憎んだ。祖父も憎めれば事は簡単だったが、父の死後、急に老け込んだように見える祖父を憎みきることはできず、さりとて許すこともできずに、結局は家と距離を置くという当初の計画を無断で実行した。凍りついた心が粉々になるほどの厳しさと、残酷な世界に対峙できる強さが手に入る場所を求めた結果、連邦宇宙軍がカーディアスの当面の受け入れ先になった。
カーディアスはそこで、勤勉実直な努力家とひと括りにされる者たちの中にも、二種類の人間がいることを知った。ひとつは、誰かに認めてもらうために、なにかを為したいと思う人間。もうひとつは、なにか為さねばならないことがあって、結果的に周囲から認められる人間。前者は、周囲の評価が前提としてあるがゆえに、大事な局面で決断力が鈍る。対して後者は、目標が常に前方に設定されているため、目先の情実や良心にかかずらわって必要な決断をためらうということがない。
父は前者、祖父は後者であろう。祖父への感情はひとまず置いて、カーディアスは自らも後者たらんと努めた。祖父に認められることを目的とした父は、死ぬまで祖父の従属物だった。永遠に子供だった、と言ってもいい。そうはなるまい。この世界は、子供のまま世過ぎができるほど寛容ではない。見返りを求めず、己に報いるのは己だけと了解して、為すべきことを為す。完全に自立した個を打ち立てない限り、利用されて捨てられるだけの末路が待っている。そうなれば、献身に見合う愛情も称賛も得られなかったことを終生恨みに思い、世を呪って死ぬだけのことだ。
大人であれ。その信条で子供時代の顔を強引に引き剥がし、生乾きの外面を世界に向けた十八歳の青年は、それから十数年後、祖父の眼鏡に適ってビスト財団に引き戻された。以後の三十年あまりは、一瞬と言えば一瞬のこと。失ったものも多いが、守れたものもまた多い。他の誰も知らなくても、自分だけはそれを知っている。
寂しい生き方かもしれない。虚勢を張り通しの人生であったのかもしれない。身内――それも、もっとも近しい身内の銃弾を腹に受け、呪われた家系のひとくさりでしかない我が身が実証されたいま、カーディアスは凍ったままの内心に呟いてみる。父の裏切りを誘発した祖父は、粗忽であったのだろう、と。強い自分を基準にして、弱者への配慮を欠く男であったのだろう、と。そうしなければ潰されるという強迫観念に追い立てられていたという意味では、本質的に繊細で、脆い人でもあったのだろう、と。
だから夢を見た。『ラプラスの箱』を、それを託すに相応しい者に託し、あるべき未来を取り戻すという途方もない夢に生涯を賭けた。そして、そっくり同じ人生を歩むことになった自分に、わたしを赦《める》すか? と問うた。
他人の承認など、決して求めなかったサイアム・ビストが。その心理は、末期を迎えつつあるいまの自分にはよくわかる。人は、いかように生きようとも満たされない人生を埋め合わせるために、子をもうけ、後事を託す。子殺しという最大の辛苦を受け止めてなお、自分という孫に承認を得られた祖父は幸福な人であった。
自分にはそれがない。赦しを乞える身内が、切り捨ててきたものを贖《あがな》い、後事を託せる相手がいない。独りだ、とカーディアスは思った。どうしようもないくらい、独りだ……。
半ば朦朧とした意識から紡ぎ出される言葉が、腹の穴からこぼれ落ち、無重力を漂う血の筋になって流れてゆく。肌を焼く炎の熱さを遠くに感じながら、カーディアスは網膜を流れる火の色を幻を見る思いで眺めた。
精製プラント全体に燃え拡がり、工場ブロックの内壁を臙脂色に染め上げる炎の海は、まるで夢の中で見た西陽の光のようだった。父を、祖父を包み込み、一族の業《ごう》のように燃え盛る臙脂色の光。それが〈メガラニカ〉を内側から燻《いぶ》し、炎の中に横たわるモビルスーツの残骸ともども、すべてを焼き払ってゆく。
無数の漂流物のひとつになって漂う自分の体も、じきにその炎に呑まれる。コマンド・モジュールで銃弾を浴び、ここにたどり着くまでにかなりの血を流した体は、枯れ木さながら乾ききっている。いったん火がついたら最後、さぞかし盛大に燃え上がるに違いないが、そうなる前にやらねばならないことがあった。カーディアスは感覚の失せかけた足で壁を蹴り、格納デッキの内奥にあるセキュリティ・エリアに体を流した。
エアロックに取りつき、掌紋認証パネルに血で汚れた手のひらを当てる。併せて虹彩《こうさい》識別装置を覗き込むと、ロックが解除されてドアが開いた。システムが正常に作動するからには、まだ特殊部隊の連中はここには来ていない。ガエルに託した機密処理も実施されていないとわかり、カーディアスは肉の痛みとは別種の痛みが胸に走るのを覚えた。ガエルはここまでたどり着けなかったか……。
なら、自分の手で処理を行うしかない。カーディアスはエアロックをくぐり、気密室を抜けた先にあるセキュリティ・エリアに入った。完全に密閉された巨大な倉庫のような空間に、〈ユニコーン〉の白い巨躯がなにこともなく佇《たたず》む光景が目に入った。
連邦宇宙軍再編計画の一環、UC計画の産物として造られながら、『ラプラスの箱』への道案内という役目を負わされたモビルスーツ。可能性の獣を象《かたど》った機体を見上げ、靄《もや》がかかった目に手をやったカーディアスは、鼻をつく刺激臭に気づいて眉をひそめた。錯覚ではない、このセキュリティ・エリアに靄がかかっている。隔壁のどこかに穴が開き、工場ブロックから爆煙が入り込んでいるのだ。周囲を見回し、次第に濃くなる煙に舌打ちしたカーディアスは、床を蹴って〈ユニコーン〉のコクピットに向かった。
侵入口が開けた以上、いつ特殊部隊の連中が押し込んでくるかわからない。機体のOSとなっているラプラス・プログラムを消去し、連動するNT-Dの電装部品を可能な限り破壊する。一度も活躍の場を与えずに壊してしまうのは心苦しいが、『ラプラスの箱』を開ける鍵を連邦政府の手に渡すわけにはいかない。NT-Dのセンサーたる一本角を見据え、腹部のコクピットに目を移した時だった。なにかが破裂する音が背後で轟き、押し寄せる熱風がカーディアスの全身を包んだ。
エアロックから噴き出した炎が壁を這い、溶けちぎれた鉄片がなだれ込んでくる。壁に叩きつけられたあと、群れをなして迫る破片を正面に見たカーディアスは、恐怖より激しい口惜しさに唇を噛んだ。まだなにもできていない。〈ユニコーン〉の機密処理も終わらぬうちにこのざまか。一族の宿願を野ざらしにしたまま、朽《く》ち果てねばならぬとは。
赦しを乞える身内もなく、救いを求める神もなく、憤怒と後悔に身を焦がされながら死ぬ――。襲いかかる破片群を睨み据え、呪詛《じゅそ》の絶叫が口から迸りかけた刹那、横合いからぶつかってきたなにかがカーディアスの体を揺らした。
いったん壁に押しつけられたかと思うと、ぐいと引っ張られた体が〈ユニコーン〉のケージの方に流れる。足もとを吹き抜ける炎を見、破片群が壁に突き刺さる衝撃音を全身で受け止めたカーディアスは、背後から自分を抱きとめる何者かの腕に触れた。それはケージの陰に入ると同時にほどけ、今度は前方に回った何者かの手のひらがカーディアスの手をしっかりとつかむ。ケージの側壁を蹴り、〈ユニコーン〉のコクピットに向かおうとするその者の横顔を見たカーディアスは、握られた手から力が抜けるのを感じた。
「しっかり!」
すり抜けかけた手をつかみ直しつつ、バナージ・リンクスが叫ぶ。また夢か? と目をしばたたいたのも一瞬、カーディアスはバナージの手を握り返し、まだ幼さを残す肌の感触を手のひらに確かめた。夢でもいい、と思う。末期にこんな夢を見せてくれるなら、人生もまんざら捨てたものではない。身内に刺された自分が、もうひとりの身内[#「もうひとりの身内」に傍点]に救われる……。
が、〈ユニコーン〉のコクピットが間近に迫り、現実の質感を際立たせるようになると、夢心地の心境は後退し始めた。銃弾に抉られた腹の痛みも一向に衰えず、カーディアスはあらためて目前の顔を凝視した。ちらと視線を返し、すぐに逸らしたバナージは、カーディアスをリニア・シートに座らせてから体を離した。コクピット・ハッチを背にして立ち、逆光を背にこちらを見下ろす。
母親似の整った面立ちに、頑固そうな焦げ茶色の瞳。間違いない、バナージだ。アンナ・リンクスの子だ。絶えず胸中に一点の染みを落としながら、これまでまともに振り返る間もなかった人生のしこり。彼女≠ニともに唐突に現れ、己の不実を再確認させてくれた顔が、いま再び目の前にある。
「君か……」
前後の状況はどうでもよかった。奇蹟のように現れた身内の顔ひとつを前に、カーディアスは微笑していた。バナージはなにも言わず、警戒と戸惑いが入り混じる生硬い瞳をこちらに向け続けた。背後で爆ぜた炎がその体の線を浮き立たせ、西陽に似た臙脂色の光をコクピットに投げ込んだ。
エアロックを吹き飛ばして入り込んできた炎は、隔壁から天井に這い上り、正面の搬出入口も延焼させつつあった。熱い気流の渦を背中に浴びながら、バナージはリニア・シートに座らせた男から目を離せずにいた。
カーディアス・ビスト。煤で汚れた顔は青黒く変色し、苦しげに上下する腹からは血が滲み出ていたが、鋭利《えいり》な光を湛《たた》える瞳は間違いなかった。政財界に絶大な影響力を持つと言われるビスト財団の当主。オードリーが会うことを望んだ〈カタツムリ〉の主《あるじ》にして、自分を野良犬のように扱った尊大な大人。そして、おそらくは、この理不尽な戦闘の一因を担っている男――。
銃声とともに無線の声が途絶えてから、二十分あまり。予備のノーマルスーツは見つからず、ディスプレイ・ボードに〈カタツムリ〉の配置図を呼び出すうちに、この顔が突然のように目の前に現れた。聞きたいこと、聞かねばならないことは山ほどあったし、怪我をしているなら応急手当のひとつぐらいとも思うのだが、頭も体も満足に動かない。血の生臭さや、カーディアスという存在に気後《きおく》れしているわけではなかった。炎に巻かれそうになった体を引き寄せ、コクピットに運び込んだ時から自分を凝視している目。鋭利なくせに、どこか湿って見える瞳の色が、バナージをその場に縫いつけて離さずにいるのだった。
助けられた感謝でもなければ、戸惑いでもない。見下ろしているようでありながら、根底に多少の感嘆を秘めた静かな目。なんなんだ、とバナージは胸中に呟いた。気味が悪い。なんでそんな目でおれを見つめるんだ――?
「……なぜ、ここにいる?」
何秒か見つめあったあと、カーディアスが不意に口を開いた。屋敷で聞いた時とは違う、別人のようにしわがれた声に胸を衝かれたバナージは、返事を詰まらせてしまった。
「なぜって……。オードリーはどこです」
どうにか応じた口から、聞かねばならないことの筆頭がこぼれ落ちた。虚をつかれたというふうに眉を上げ、カーディアスは「彼女のため、か?」と聞き返してきた。バナージはぎゅっと拳を握り、「どこなんです」と押しかぶせた。
「……わからない。だが、生きてはいよう。生まれた時から、幾度も死地を乗り越えている方だ」
「わからないって……」
なんだ、それ。咳き込み、顔を伏せたカーディアスはそれ以上のことは語らず、バナージは無重力下にある体がよろめくのを感じた。じゃあ、この人はオードリーを置き去りにしてきたのか? 自分だけ逃げてきたのか? わけもわからずに死んでいった人たちを横目に、このモビルスーツで脱出するつもりででもいたのか?
「いったいなんなんだよ、あんた!」
自分でも驚くほどの怒声が噴き出し、狭いコクピット内に反響した。カーディアスはわずかに顔を上げた。
「偉そうなこと言って、なにもできないんじゃないか。オードリーは、戦争を止めるためにあなたに会いに行ったんだ。そういう力があなたにはあるんでしょう? なのに、こんなことになってしまって……。どれだけ被害が出たと思ってるんです。何人死んだと思ってるんです! みんな、ちょっと前までは普通に生きてたんだ。明日の予定があって、来週の予定だってあったんだ。それが……。こんなの、人の死に方じゃありませんよ!」
無言の目をすっと細め、「人の、死に方……?」とカーディアスは呟いた。なにを喋っているという自覚もないまま、「そうでしょう!?」とバナージは叫んだ。
「人には人らしい生き死にがあるんだ。こんなわけのわからない戦争で殺されて、生焼けで血を流して……。人類の半分が死ぬような戦争をやっておいて、あんたたち大人はこの上なにをやろうっていうんです!」
吐き出しきれない感情が指先からも溢れ出し、前のめりになった体がカーディアスの方に傾いた。バナージはディスプレイ・ボードをつかんで体勢を立て直そうとしたが、カーディアスの両手に肩を支えられる方が早かった。
「……憶えているのか?」
すぐ目の前にある瞳が、なにかを確かめるように鋭い光を放つ。肩をつかんだ手を振り払うのも忘れ、バナージは眉をひそめた。
「内なる可能性をもって、人の人たる力とやさしさを世界に示す……。地球を食い潰し、宇宙《そら》に捌《は》け口を求めた人類にとって、それは果たさなければならない責務だ。あるいは希望……」
なにも映っていないオールビューモニターに遠い眼差《まなざ》しを向け、カーディアスは言った。額の奥で重いものが脈打ち、つかまれた肩がびくりと震える。バナージは慌ててカーディアスの両手を払いのけ、ハッチ脇の壁に背中を押し当てた。
知っている。知らないのに知っている。頭の中に埋め込まれた言葉。戦闘が始まって以来、額の奥で脈動している言葉――。
「この上、なにをやろうとしているのか……。そうではない。我々はなにもしてこなかった。連邦という怪物に拮抗《きっこう》する力を持ち、百年前に紡がれた希望を活かそうとしながら、いつしか自らが怪物になっていた。だから……」
間近で起こった爆発音と震動が、先の声を封じた。バナージは咄嗟にカーディアスに覆いかぶさり、コクピットに吹き込む爆風を背中に浴びた。
鋼鉄のひしゃげる大音響がわき起こり、正面の搬出入口のシャッターが外側からの圧で崩壊してゆく。亀裂から新たな熱風が吹き込むや、外側で発した閃光が二度、三度と瞬き、ドシン、と重量物が落下するのに似た衝撃音を光の数だけ連続させる。メガ粒子砲の音。またモビルスーツ戦が再開されたのだ。青白いスラスター光が瞬き、四枚羽根らしい機体が亀裂の向こうを行き過ぎるのも見たバナージは、カーディアスの腕を首に回してリニア・シートから引き剥がした。傷に障ったのか、呻き声を漏らしたカーディアスを抱え直し、「ここを出ます」と短く告げる。
「しっかりして。こんなのに乗ってたら、撃たれたって文句は言えないでしょう」
無重力とはいえ、人ひとりの質量を移動させるにはそれなりの力がいる。オールビューモニターの一面に足を踏んばり、カーディアスの長身を持ち上げようとした途端、「待て」という声が傍らに発した。有無を言わせぬ命令口調に、バナージは思わず体の動きを止めてしまった。
「彼女≠救うためにここまで来た……。その気持ちに変わりはないか?」
再び確かめる目が注がれる。バナージは、心臓がひとつ大きな脈を打つ音を聞いた。
「彼女≠ェ背負っているものは重いぞ。救い出すには、世界の重みも引き受ける覚悟がいる。それでもいいのか?」
肩に回したカーディアスの腕が重みを増したのは、気のせいだけではなかった。少しぞっとしながらも、バナージは「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」と、反射的に怒鳴り返していた。
「早く見つけ出さなきゃ。ここにはタクヤとミコットだって来てるんだ」
あなたには、そのための道案内をしてもらう。言いかけて、カーディアスの顔を見たバナージは息を呑んだ。
血を滲ませた唇の端を微かに吊り上げ、笑ったとわかる顔が目の前にあったからだった。苦笑でも嘲笑でもない、誇らしさに少しの哀しさが入り混じった満足げな笑み――。なんだ? と思う間もなくカーディアスの腕が動き、バナージは入れ替わりにリニア・シートに座らされる格好になった。
「なら、こいつを持っていけ」
ディスプレイ・ボードを定位置に戻し、バナージの両手首をつかんで左右の操縦桿に導く。その手のひらの冷たさにぎょっとしたバナージは、「な、なんです……?」と戸惑う声を出した。「動くな」と顔を合わせずに一喝したカーディアスは、続いてディスプレイ・ボードのタッチキーを操作し、自分の手のひらをディスプレイに押し当てた。
掌紋識別の光が灯り、アクセス許可の表示がディスプレイに浮かび上がる。カーディアスがハッチの外に出て間もなく、オールビューモニターの継ぎ目から緑がかった光がわき出し、レーザーのように指向性の強い光線がバナージの目前で閃いた。球体の内壁に沿って光の幕を形成した光線が、右から左、上から下へとコクピット内をスキャンし、取り込んだデータをディスプレイ・ボードに映し出してゆく。リニア・シートに収まる人間のシルエットが3D-CGで表示され、マッピングされた全身の静脈図を浮かび上がらせると、光の幕は唐突に消えた。
ディスプレイに〈COMPLETE〉の表示が点滅する。「なにを……」と搾り出したバナージを一顧《いっこ》だにせず、カーディアスは再びコクピット内に戻り、タッチキーを操作した。と、甲高いジェネレーターの起動音が出し抜けにわき起こり、鈍い振動がコクピットを微震させ始めた。
予備電源の作動とは規模が異なる、熱核反応炉――メイン・ジェネレーターの覚醒。オールビューモニターを構成するパネルが順々に作動し、継ぎ目のない三百六十度映像が周囲を包み込む。各種制御システムのチェック・ウインドが現れては閉じ、その間にもジェネレーターの唸りが刻々と上昇する。こいつ[#「こいつ」に傍点]を持っていけ、という言葉の意味をようよう理解したバナージは、慌てて操縦桿から手を離した。
動悸が早まり、脇の下に汗が噴き出す。すぐには声も出せず、戸惑う目を向けるしかないバナージを正面に見据え、「これでいい……」とカーディアスは静かに呟いた。
「これでもう〈ユニコーン〉はおまえの言うことしか聞かん。自分に相応しい乗り手と判断したら、この〈ユニコーン〉はおまえに無二の力を与える。『ラプラスの箱』への道も開けるだろう」
「なにを言ってるんです!? わかりませんよ、ラプラスの箱とかなんとか……!」
頭がどうにかなりそうだった。とにかくリニア・シートから降りようとしたバナージは、胸に押し当てられたカーディアスの腕に動きを封じられた。「わかるはずだ」と重ねられた声が全身を貫き、抵抗する力を奪ってゆく。
「我らがビスト一族を、百年にわたって縛ってきた呪縛……。だが使いようによっては、この宇宙世紀に光明をもたらす」
足もとでまた爆発が起こり、吹きつける爆風がカーディアスの額にかかる銀髪をそよがせた。言葉以上のなにかを伝えようとする瞳を見返し、「呪縛……呪い?」とくり返したバナージは、額の奥でなにかが弾けるのを知覚した。
なにを言われているのかわからない……いや、わかる。ビスト一族の呪縛。だから母さんは――。
「アンナは……おまえの母さんは、その呪縛に取り込まれることを嫌って、わたしの前から消えた」
めまいがする。体が揺れる。聞きたくない。わかりたくない。やめてくれ、とバナージは叫んだ。こんな時になんだ。ついでみたいに話していいことじゃない。
「恨むだろうな、アンナは。おまえもわたしを恨むだろう。なにもしてやれずに、こんな重荷まで――。だがいまは、こうなった偶然を呑み込むしかない」
「なにを……言ってるんです……」
額からこめかみにまで拡がった脈動が、ひと揺れすることに記憶の靄を晴らしてゆく。あのビスト家の屋敷に飾られていたタペストリー。広い部屋に流れていたピアノの音色……弾いているのは母だ。母がピアノと向き合い、透明な音色を奏でている。誰かの声がそこに重なり、大きくたくましい腕が幼い自分を抱え上げる。壁一面のタペストリーを指し示し、難しい事々を真摯《しんし》に語って聞かせてくれたやさしい声。振り向いた先にある顔は――
間近に迫った爆発音が、淡い記憶の顔を引き裂いて轟いた。バナージは我に返り、目の前にある現実の顔が「行け、バナージ」と叫ぶのを聞いた。
「恐れるな。信じろ。自分の中の可能性を。信じて、力を尽くせば、道は自ずと拓ける。為すべきと思ったことを、為せ」
咳き込み、うつむいたカーディアスの腕から力が失せてゆく。あの大きくたくましかった腕が、こんなに弱々しい。こんなにも寄る辺なく、最後の力を使いきろうとしている。伏せた顔から血の粒が漂い出すのも見たバナージは、自分でもわからないうちにカーディアスの手首をつかんでいた。
「信じろって……。いまさら勝手すぎますよ! あなたに、おれのなにがわかるって言うんです!」
母さんの葬式にも来なかったくせに。ここに呼び寄せておきながら、いままで会いにもこなかったくせに。胸の奥で凍りついていた感情が溶け、熱を放ちながら喉元にこみ上げてくる。すがるようにカーディアスの手首を押さえ込んだバナージは、「わかる」と発した強い声に肩を震わせた。
「わかるんだ、わたしには。それが……いまは、とても嬉しい」
ゆったりと微笑み、カーディアスは空いている方の手でバナージの頬に触れた。もうほとんど血が残っていない、冷たい手。しかしその感触はやさしく、わずかに残った温《ぬく》もりを伝えきろうとする指先は、無二の肌合いをもってバナージの中の熱を共振させた。
こみ上げる感情がひとつの言葉を形作り、バナージは口を開きかけた。頬をなでた指先がそれをやんわり封じると、冷えきった手首が手の中をすり抜け、カーディアスの長身がすっとコクピットから離れていった。
「身勝手を、赦してほしい。おまえとは、もっと……」
ハッチから漂い出たカーディアスが遠ざかってゆく。行ってしまう。聞きたいこと、話したいことがまだたくさんあるのに、行ってしまう。シートにへばりついてしまった体を引き剥がし、バナージは自分もハッチから飛び出そうとした。刹那、横合いから噴き抜けた炎がカーディアスの体を包み込み、灼熱する破片がその影を千々に引き裂いた。
[#挿絵mb767_192[1].jpg]
「父さんっ!」
その声は、いきなり閉じたハッチに跳ね返され、コクピット内に虚しく霧散した。危険域に達した熱と爆風を感知した機体の防御システムが、オートでハッチを閉鎖したのだった。オールビューモニターを構成するパネルになり、継ぎ目も見当たらなくなったハッチに手をついたバナージは、全天を覆うモニターの中にカーディアスの姿を探した。身長二十メートルのモビルスーツから見渡す視界は、いまや床全体に火が回り、正面のシャッターも半ば崩落した炎熱地獄だった。カーディアスの姿はどこにもなく、舞い散る無数の火の粉がオールビューモニターを包み込み、高精細パネルに細かな光の残像を映えさせた。
「父さん……父さんって言ったのか? おれ……」
こみ上げる感情が形作った言葉。声になるより先にカーディアスに封じられた言葉――自分にはそう呼ばれる資格がない、と言うように。バナージはリニア・シートに座り込み、ずきずきと脈動するこめかみを両手で押さえた。嘘だ、なにかの間違いだ。いくら言い聞かせても脈動は収まらず、これこそが現実だと告げて収縮と膨脹をくり返す。記憶の封印が解けた……いや、もともと完全な封印ではなかったから、おまえは『ずれ』を感じ続けていたのだ、と。幼少期に植えつけられた知識、機転、対処能力。それらがおまえに行動を促し、ここまで生き延びさせてきたのだ、と。母が死に、父の誘いに応じた時から、おまえは意識的にも無意識的にもこうなることを望んでいたのだ、と。
望んでいたこと? これが? こめかみを押さえる手を握りしめ、バナージは目を見開いた。漂う血の粒に混じって、飲料水のチューブが浮かんでいるのが足もとに見えた。先刻、備品入れをあさった際に、サバイバル・キットの中から取り出したものだ。
飲ませてやるのだった。そう思いついた途端、押し固めた感情の塊が腹の底で溶け、視界がじわりと滲んだ。あんなに血を流して、きっと喉が渇いていただろうに。ひとこと言ってくれたら、飲ませてあげられたのに――。
「なんで……泣いてるんだ。おれは……」
拭った端から新たな雫が噴きこぼれ、透明な丸い粒が血の粒と一緒くたになって宙を漂う。父が、父らしい男が死んだことが悲しいのではない。最後に水を飲ませてやれなかったことが悲しい。それを思いつけなかった自分が悔しい。いくら悔やんでも取り返しはつかず、次の機会は永遠に訪れない。その現実が辛く、悲しく、腹立たしい。
こんなふうに、次の機会を唐突に、一方的に奪われた者たちがいったい何人――。バナージは、顔を上げて正面を見据えた。崩落したシャッターの残骸ごしに、四枚羽根と思しきモビルスーツのバーニア光が閃き、新たな爆発が起こるのが見えた。炎の照り返しを浴びつつ、化け物じみた機体のシルエットが次の獲物を目がけて跳躍する。それは死神ほどの分別もなく、道理もわきまえずに、無秩序に死を振りまくマシーンだった。まだ十分に生きたとは言えない命、やり残したこと、伝え残したことが多々ある命を、容赦なくすり潰す醜い機械だった。
そんな死は、人の死に方ではない。排除しなければならない、という思いが立ち上がり、バナージは左右の操縦桿に手を置いた。これはいったい自分の意志か、植えつけられた知識が思わせることか。ジェネレーターの息吹きを手のひらに感じ、微かな不安がよぎった瞬間、聞き知った少女の声がバナージの中に滑り込んだ。
いけない、マリーダ!
声ではない、しかし声としか表現しようのないなにかが光になって額を貫き、バナージは咄嗟に操縦桿を握りしめた。四枚羽根が向かった先、港ブロックの方角に彼女≠ェいる。ひどく危険な状況に置かれ、死の恐怖に追い立てられながら、凜《りん》とした思惟を震わせている。なぜわかるのか、とは考えなかった。基本はプチモビの操縦と変わらない、行ける。ディスプレイ・ボードに目を走らせ、最低限の確認をしたのを最後に、バナージは父から託されたマシーンの一部になった。
拘束具にくわえ込まれた体を身じろぎさせ、〈ユニコーン〉と呼ばれたモビルスーツの頭部が持ち上がる。バイザーの奥に隠された複眼光学《デュアル・アイ》センサーがぎらりと輝き、人間のそれを想起させる二つの目が正面を睨み据えた。
(いけない、マリーダ!)
機内スピーカーを流れた誰かの絶叫――少女の声を、気に留める余裕はなかった。四枚羽根の敵機がスラスターを噴かし、突進してくる姿を背後に見たリディは、墜とされる、と覚悟した。
工場ブロックの隔壁をくぐり、港ブロックに入る直前のことだった。〈リゼル〉の機体を振り向けて、頭部の六十ミリ・バルカンで牽制する余裕はない。ビームライフルは使えないではなかったが、左のマニピュレーターに三人の民間人を抱えているという現実が、リディに射撃をためらわせた。
ライフルを使えば、敵機もビーム兵器の使用をためらわなくなり、〈リゼル〉は敵機とのドッグファイトに突入する。どうせ墜《お》とされるなら、掌中の民間人たちが犠牲になっても仕方がない、やれるだけのことはやるべきとする考え方もあったが、リディには咄嗟にそう思いきるだけの度胸がなかった。他の選択肢はないものか、と考えた数瞬が致命的な遅れになり、四枚羽根の肉薄を許す結果になってしまったのだった。
四枚羽根のモノアイが閃き、ネオ・ジオンの紋章が描かれた袖口からビームサーベルのグリップがスライドする。あと少しでドッキング・ベイにたどり着けたのに。〈ネェル・アーガマ〉に民間人たちを降ろしさえすれば、一太刀なりと打ち返せたのに。死ぬ、と予感した体が総毛立ち、リディは絶叫した。数十メートルの距離に迫った敵機を背後に見、身も世もなく叫びながら、この情けない悲鳴が傍受されないことを微かに祈った。
刹那、工場ブロックの空気がどくんと脈動し、時間が止まった。
なにかの波動……いや、鼓動といった方が相応しい力がコクピット内を吹き抜け、全身を背中から貫いてゆく。ヘルメットの下の髪を頭皮ごと引っ張り、前方に抜けていった波動の生々しさに、リディは前後の状況を忘れて工場ブロックに視線を飛ばした。ぎょっとしたように機体を凍りつかせ、同じく背後を振り返った四枚羽根の向こう――炎に包まれた精製プラントの奥で、波動の源が身じろぎし、その目≠ェこちらを見たような気がした。
(バナージ……!?)
再び少女の声が弾け、リディは正面に目を戻した。救助した三人の民間人のひとり、栗色の髪を持つ少女が〈リゼル〉の手のひらの中で立ち上がり、精製プラントの方に視線を飛ばす姿がオールビューモニターの片隅に映えた。〈リゼル〉のひとさし指と中指にしがみつく他の二人をよそに、親指を支えにしてすっくと立ち、吹きつける風に髪とケープを騒がせている。その目は驚愕に見開かれながらも、工場ブロックの一画に生起した波動の源を見つめ、容易には退かない強い光を宿していた。
きれいだ。思わず口中に呟き、その拍子にわずかながら正気を取り戻したリディは、フットペダルを踏み込んで操縦桿を左に倒した。加速しつつ身を捻り、気密区画の床をかすめた〈リゼル〉がスラスターをひと噴かしする。噴射炎を叩きつけると、〈リゼル〉は一気に床面から離れ、十メートルほど開いた港ブロックの隔壁に滑り込んでいった。
四枚羽根との距離が開き、まだ戦火の及んでいない港ブロックの薄闇が周囲を包む。微かに息をつき、リディは遠ざかる隔壁の隙間ごしに工場ブロックの方を見遣った。溶鉱炉と化した精製プラントの奥で、炎とは種類の異なる光が閃く。殺気に似た波動は収まる気配がなく、ひどく禍々しいなにかの存在をリディに知覚させた。
目覚めてしまう。なにが、という主語を欠いたまま、その直感が全身の肌を粟立たせた。
それは最初、半ば崩壊した隔壁の奥でただ突き立っているように見えた。
柩《ひつぎ》のごとき専用ケージに収められ、白い装甲を炎に炙られる人型のマシーン――その手のひらがぐっとこわ張り、手首に嵌められた拘束具の鉄輪がぎりぎりと悲鳴をあげ始める。腕の装甲の継ぎ目から赤みがかった光が滲み出し、血管さながら浮かび上がると、過負荷に耐えきれなくなった鉄輪が支持金具ごと引きちぎれ、ゆらと持ち上がった巨人の手のひらが握りしめられた。
上体をぐっと前に乗り出しつつ、さらに腕に力を込める。肘を押さえる拘束具が弾け飛び、装甲の継ぎ目から漏れる光が強さを増す。それは基盤の回路に似た幾何学模様となって全身を走り、脈動するかのごとく明滅して、白い表皮の内奥に秘めた巨人の骨格――機体を構成する駆動式内骨格《ムーバブルフレーム》そのものが発光していることを見る者に伝えた。左右の腕を拘束する最後の鉄輪が弾け飛び、上体をケージから引き剥がした巨人の目がぎらと輝く。鋼鉄製のワイヤーが次々に断ち切れ、巨人の上体がいっそう前に乗り出すや、左の膝と足首を拘束する鉄輪が一斉にちぎれ飛んだ。
続いて右足の拘束具も引きちぎれ、自由になった巨人の体がケージから離れる。解き放たれた勢いで前方に倒れ込み、キャットウォークを破壊しながら床に手をつく格好になった巨人は、一本角を生やした頭を持ち上げ、隔壁の亀裂ごしに外界を見据えた。バイザーを透過して閃く二つの目が再び輝き、炎の海の向こうに佇むもうひとりの巨人――〈クシャトリヤ〉を見つけ出す。
「どこの機体だ……?」
敵機の追撃を中断し、火のついた工場ブロックの床面に接地した時だった。それと目を合わせたマリーダは、冷たい悪寒が背筋に走るのを感じた。
形状は、連邦軍伝来の意匠を引き継いだモビルスーツ。だが、人間を模したとしか思えないその目には殺気がある。こいつは危険だ、とマリーダは直感した。破壊しなければならない――パイロットが誰であれ、完全に目覚める前に。他の敵機の存在、わずかに感知した彼女≠フ声はその瞬間にかき消え、マリーダは目前の白い機体に敵を見る眼差しを据えた。サイコミュがファンネルの射出を促し、攻撃端末の群れが一斉に白いモビルスーツに襲いかかる。
メガ粒子の光軸が三つ、四つと錯綜し、崩落しかけた隔壁を撃ち砕く。爆発の炎が膨れ上がり、巨人は立ち上がることなく爆煙の中に消えた。誘爆が連続し、炎の塊が背後のケージを呑み込み、巨人を収容していた密閉空間が破裂したように瓦解する。直撃を確信したマリーダは、直後、炎の奥で輝く二つの目を目撃した。
「な……!?」
回避する間はなかった。渦巻く黒煙を引き裂き、爆発的なスラスター光を背負った白い機体が突進してくる。精製プラントをなぎ倒し、一瞬のうちに三百メートル近い距離を詰めた機体が間近に迫り、マリーダは咄嗟にビームサーベルを発振させた。超高熱の粒子束が周囲の炎より強い光を放ち、〈クシャトリヤ〉の右腕とともに振り上げられる。その光刃が敵を打ち据えようとした刹那、下からすくい上げてきた手のひらが右手首をつかみ、懐に入り込んだ一本角がマリーダの視界を埋めた。反射的に持ち上げかけた左腕も上から押さえ込まれ、〈クシャトリヤ〉はビームサーベルを振り上げたまま、白いモビルスーツと四つに組み合う格好になった。
踵裏のフックを床面に食い込ませ、両足を踏んばった白いモビルスーツの双眸がバイザーごしに輝く。身長はほぼ同じでも、倍ほどの質量を持つ〈クシャトリヤ〉を向こうに回し、華奢に見える機体が鋼鉄の軋みをあげる。装甲の継ぎ目に滲む光が鼓動のごとく明滅し、蜃気楼ごしに揺らめくのを見たマリーダは、びくとも動かない操縦桿に恐怖した。出力は長大なのに、押し返されている。大質量のバインダーを機動させる肩のフレームが悲鳴をあげ、アクチュエーターが過負荷のサインを点滅させている。
「この〈クシャトリヤ〉が力負けをしている……!?」
あり得ない。その思いが怒りに転化し、感応したサイコミュがサブ・アームを展開させる。羽根に見えるバインダーの先端から昆虫のそれに似た隠し腕がのび、先端から迸るビームサーベルが白い機体を串刺しにしようとする。腹部のコクピットに狙いを定めたマリーダは、瞬間、背後からのしかかってきた衝撃に悲鳴をあげた。
白い機体のメイン・スラスターが火を噴き、〈クシャトリヤ〉ごと前進を開始したのだ。〈クシャトリヤ〉の機体が燃え盛る精製プラントの設備に叩きつけられ、白いモビルスーツに押されて炎の海を滑る。前面のコンソールに展張したエアバッグに頭を沈め、すぐに上体を起こしたマリーダは、背後に迫る隔壁を見てぎょっとなった。あれに叩きつけられてはたまらない。連続する衝撃の中、「ファンネル!」と悲鳴に近い声が喉を震わせた。
バインダーから複数のファンネルが飛び出し、隔壁に粒子弾を撃ち込む。溶けてぐずぐずになった隔壁を突き破り、もつれあう二機のモビルスーツが気密区画になだれ込んでゆく。百メートルとない気密区画は瞬時に流れ去り、港ブロックとを隔てる隔壁があっという間に後方に迫った。再びファンネルが光弾を放ち、二機は爆発の煙を裂いて港ブロックに突入した。
仮置きされた貨物コンテナを蹴散らし、荷揚げ用のクレーンを引き倒しながら、白いモビルスーツに押しひしげられた〈クシャトリヤ〉が港ブロックを滑空する。入港した連邦軍の艦が眼下をかすめ、白亜の船体に立つ数機のモビルスーツも視界に入ったが、気にする余裕はマリーダにはなかった。風圧にさらされる機体の制御がきかない。ファンネルを使い、後方から白いモビルスーツを狙い撃とうにも、サイコミュも不調をきたして射撃の精度が鈍っている。圧倒されている、とマリーダは自覚した。この白いモビルスーツの底知れない膂力《りょりょく》に。機体から漲る迷いのない敵意に。それを操る者の火のような意志に――。
(ここから出ていけぇーっ!)
機体の接触回線を通して、その者の声が耳朶を打つ。少年の声。聞いたことがある、と頭の片隅が反応した直後、最後の隔壁がマリーダの背後に迫った。
ファンネルたちがビームを閃かせ、隔壁に破孔が開く。突風が機体を包み、爆発音に続いてごうと唸る風の音を響かせたあと、突然の静寂がコクピットに訪れた。真空――宇宙に出たのだ。ドッキング・ベイの内壁がみるみる過ぎ去り、彼方に月を望む暗黒の空間がオールビューモニターに映える。機体を押さえつける空気の壁がなくなり、マリーダは姿勢制御バーニアを焚いて白いモビルスーツから離脱した。
虚空で一回転した〈クシャトリヤ〉の機体が、白いモビルスーツの背後に回る。同じくバーニアを焚き、姿勢を転換した白いモビルスーツが再度こちらに迫る。その機動性の高さに舌を巻く一方、最小限の動きで敵の突進を回避したマリーダは、微かに余裕を取り戻した。パワーは圧倒的だが、動きが直線的すぎる。敵のパイロットは素人に近い、とわかったのだ。
火器を装備している気配もない。勝てる。二度目の突進も躱したマリーダは、白いモビルスーツの軌跡を視野に入れつつ、カタツムリの殻に見えるコロニービルダーのドッキング・ベイを見遣った。スペースゲートの一端に開いた破孔を通り、連邦軍の可変モビルスーツが外に出ようとしている。墜《お》とせない敵ではないが、白いモビルスーツと連携されるとまずい。連邦軍の艦が入港している以上、再びコロニービルダーに戻り、彼女≠フ捜索を続けるという選択肢もすでになかった。潮時か、と苦い実感が胸中を走る。
姫様を救出できず、マスターの所在も確認できずに後退せねばならないとは。一直線に突っ込んでくる白いモビルスーツを躱し、敵の視覚に対して上を取ったマリーダは、当面の怒りと焦りを目前の敵機に集中させた。素人らしいパイロットでも、こいつのせいで外に弾き出される羽目になった。見逃していい相手ではない。
「おまえだけは、墜《お》とす……!」
時間をかけるつもりはなかった。〈クシャトリヤ〉の両腕が胸の前で交差し、バインダーが四方に開かれる。そこから稼働可能なファンネルが残らず放出され、総計二十機のビーム砲台が渦を巻いて白いモビルスーツを目指した。
急制動をかけ、姿勢を転換した瞬間が包囲のチャンスだった。ファンネルは分散し、直径百メートルの球陣[#「球陣」に傍点]を形成して白いモビルスーツを取り囲んだ。その砲口が一斉にメガ粒子の光を滞留させ、球の中心に位置するターゲットを狙う――。
対物感知センサーがアラームを告げても、なにかが見えたわけではない。レーダーに反応があるわけでもなかったが、バナージは周囲を取り巻く殺気の奔流を知覚することができた。
上下左右、前後にも展開する鋭い針のような殺気。回避のしようがなかった。どう機動したところで、全方位から押し寄せる殺気の針に触れてしまう。手足のごとく動いてくれる〈ユニコーン〉でも、この殺気の檻からは逃れられない。
やられる――なにもできずに。微かに正気を保つ頭の一部がそう叫び、未知の衝動に取り憑かれている体が震えた。瞬間、信じろ、と言った誰かの声が額の奥で弾け、薄い光になって目の前で閃くのをバナージは見た。
同時に、キィン、と金属が共鳴する高い音がコクピット内にこもり、CGの宇宙を映し出すオールビューモニターが俄かに発光し始めた。モニターではなく、コクピットを構成するフレームそのものが光を放ち、モニターの継ぎ目から赤とも緑ともつかない燐光《りんこう》が滲み出してくる。ディスプレイ・ボードに〈NT-D〉の文字が浮かび上がり、点滅したのは一瞬のことに過ぎなかった。ヘッドレストに装備された固定具が勝手に動き、バナージの頭を左右から押さえ込んだのを合図に、それは始まった。
〈ユニコーン〉の肩を構成するパーツが、装甲の継ぎ目から割れ、スライドした装甲の下に赤く輝くフレームが露出する。足、膝、太股でも同様の現象が起こり、腰のフロント・アーマーと胸部装甲も展開すると、〈ユニコーン〉のシルエットがひと回り大きくなったように見えた。赤い燐光が輝きを増し、白い機体を彩る鮮やかなフレームの模様を闇に際立たせる。
腕もスライドし、背部に折りたたまれていたビームサーベルのグリップが二本、両肩を飾るように屹立《きつりつ》してゆく。もっとも変異が顕著《けんちょ》なのは頭部で、口の部分に相当するマスク状のパーツが開き、目を覆うバイザーがスライド収納された顔は、もはや〈ユニコーン〉のそれではなかった。その象徴であった一本角が中央から割れ、Vの字に展開して、角に隠されていた第三の目――メインカメラが露出する。人間の目と同じバランスで配置されたデュアルアイ・センサーを瞬かせ、金色に輝くV型の角を額に展張させた機体は、まるで…………
(〈ガンダム〉だと!?)
錯綜する無線の中からそんな声が浮き立ち、オードリーはぎょっと目を見開いた。
リフトグリップを握ったまま、通路に設置された艦内スピーカーを見上げる。(本当です!)と続いた別の声は、聞き覚えがあった。自分たちをこの艦に運び、すぐにまた飛び立っていった連邦軍のパイロット。確か、整備士はリディ少尉とか呼んでいた。
(あの所属不明機が変形……いや、変身したんだ! 目の前で〈ガンダム〉になったんです!)
(ブリッジ、こちらも確認した。確かにガンダム・タイプだと思われる。現在、敵機と交戦中。速い。とても追いつけない)
リディ少尉よりは落ち着いた声があとに続き、「〈ガンダム〉?」「本当かよ……!?」という声がすぐ近くで発した。一緒にこの艦に運ばれてきた少年と少女――そう言えばまだ名前も聞いていない、とオードリーは思いついた。上甲板に降ろされるなり、ノーマルスーツを着た整備士に待機室に行くよう言われ、案内も付けられずに艦内に収容されたのだ。殺気立った顔で行き交う乗員に道を訪ね、入り組んだ通路を右往左往していれば、互いに名乗り合う余裕などはなかった。二人がなぜバナージのハロを持ち、コロニービルダーに迷い込んだのかも、聞くチャンスは皆無だった。
そんな時に聞こえてきた、〈ガンダム〉という言葉。オードリーは、前を行く少年と少女の挙動を窺った。少年はリフトグリップを手放し、壁に設置された通信パネルに取り付こうとしている。放り出されたハロを受け止め、「なにやってんのよ」と言った少女をよそに、少年は勝手に通信パネルを操作し始め、モニターに映る映像を次々転換させていった。
「外を見るんだよ。サービスケーブルが繋がってれば、〈カタツムリ〉の外周カメラの映像も受信できるはずだろ?」
「勝手にいじって、怒られるわよ」
「だって、〈ガンダム〉なんだぜ? 知ってるだろ、連邦軍が最初に開発したモビルスーツ。ジオンのモビルスーツを百機以上|墜《お》として、『白い悪魔』って呼ばれて……来た!」
少年の興奮した声に、オードリーも十インチ大のモニターを覗いてみた。光学補正された宇宙の暗闇が映るばかりで、なにも見えない。少年がチャンネルを動かすと、粗い宇宙の画像が矢継ぎ早に転換し、ビームらしい火線が一瞬だけ映った。直後にぱっと白い爆発の光輪が拡がり、手前にいるモビルスーツのシルエットをつかのま浮かび上がらせる。
完全に人を模したフォルムに、額からのびるV字のブレード・アンテナが際立って目につく。間違いない、ガンダム・タイプのモビルスーツだ。「見たろ、いまの?」「わかんないわよ」と続く少年と少女の声を傍らに聞きながら、オードリーは全身がざわりと鳥肌立つのを覚えた。
一年戦争時、祖国を大いに苦しめた『白い悪魔』は、その後も同じ名を引き継ぐモビルスーツの開発を促し、数々の戦乱で勇名を馳せてきた。これもそのひとつ、現代技術の粋を凝らした新しい〈ガンダム〉に違いないが、それだけに終始する存在ではないことをオードリーは知っていた。伝説の獣の皮をまとい、世界を揺るがす秘密を内に秘めた〈ガンダム〉。カーディアスの言葉を借りるなら、『ラプラスの箱』への道標、あるいは鍵となるマシーン。それがいま、目を醒《さ》ました――。
「ユニコーン……ガンダム」
つい数時間前、その壮大なからくりを聞かされた頭がぼうっと熱くなり、オードリーは譫言《うわごと》のように呟いていた。少年と少女がそろって振り向き、怪訝な顔を見せたが、取り繕う神経も働かなかった。網膜に焼きついた白い機体のシルエットを追い、オードリーは小さなモニターを凝視し続けた。
白いモビルスーツの一本角が左右に割れ、別の形態のモビルスーツになった。なぜ、という言葉は戦闘渦中のパイロットにはなく、マリーダはとにかく目の前の現実を受け入れたが、その形状を確認できたのは一瞬に過ぎなかった。
「また消えた……!?」
上下左右、三次元に交差するビームがぶつかりあって弾け、スパークの光を虚空に爆ぜらせる。そこにいたはずの敵機はいない。消えたのだ。二十機のファンネルが形成する球陣を逃れ、数キロも離れた空間に移動した白いモビルスーツが、V字に開いた角の下の目を不気味に開かせる。その全身から迸る燐光が残像を引き、〈ガンダム〉らしいシルエットをオーラのごとく浮き立たせた。
瞬間移動をしたなどという冗談はない。高速で機動しているのに過ぎないが、瞬時に加速して静止する、その動きは消えたとしか表現のしようのないものだった。目で追いきれないだけではなく、気配そのものの移動が感知しきれないのだ。
「あんな加速性能、強化人間でもなければ……!」
パイロットが耐えきれるわけがない。思わず忌み言葉を口にした自分を顧みる余裕もなく、マリーダは感知し直した敵の気配に意識を凝らした。姿勢転換したファンネルからビームが斉射され、白いモビルスーツを狙う。浮遊するデブリがその直撃を受け、複数の爆光をコロニービルダーの近傍に膨脹させた。
その白色の光輪を背に、〈ガンダム〉とわかるシルエットが急速に近づく。ファンネルに追撃させつつ、マリーダは〈クシャトリヤ〉の機体を敵機に相対させた。ヘッドレストに装備されたサイコミュがキィンと鳴り、オールビューモニターから淡い光が浮き立つ。機械的な光ではない。〈クシャトリヤ〉のコクピット周りを包み込む特殊なフレーム――サイコフレームが発光しているのだ。目前の敵機が迸らせる燐光と共鳴するかのように、コクピットに滲み出る虹に似た光がマリーダの網膜を刺激する。
「あいつ、全身がサイコフレームでできているのか……!?」
だとしたら、と思考を繋げる暇はなかった。ファンネルの一撃を回避した白いモビルスーツは、肩に装備したビームサーベルを引き抜き、加速しながら左右に振った。高熱の粒子束に触れたファンネルは瞬時に爆散し、無数の光輪と化して常闇を照らす。偶然? いや、あいつにはファンネルの軌跡が見えている。マリーダは自機の前面にファンネルを呼び戻し、必中を期した一斉射を迫り来る敵機に向けて放った。
相対距離は二キロを割っている。亜光速のメガ粒子砲弾にはゼロ距離に等しい射撃だったが、白いモビルスーツはそれを避けた。事前に発射時期を読み、横ロールで回避したのだ。バッテリーを使いきったファンネルに次発弾はなく、マリーダは回避運動を取った。行く手を塞ぐファンネルをビームサーベルでなぎ払い、背部と両脚部のスラスターを全開にすると、白いモビルスーツは迷う素振りもなく〈クシャトリヤ〉の軌道に追随《ついずい》した。
ピンク色に輝く刃が下からすくい上げられ、左前部のバインダーを直撃する。バインダーの先端がサブ・アームごと溶断され、コクピットを激震が見舞う。眼球が飛び出るほどの衝撃にさらされ、マリーダは悲鳴をあげた。深層に潜在する恐怖――〈ガンダム〉という形が惹起《じゃっき》する恐怖が全身を塗り込め、毛穴を塞いでゆく。光刃を振り上げる白い機体に追い立てられ、不気味に閃く双眸を間近に見ながら、死以上の絶望と恐怖にさらされた体が絶叫を迸らせた。
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刹那、まったく別の空域に閃光が走り、弾けた。コロニーの反対端、十数キロ先で発したそれは、ドッキング・ベイ付近に滞留する船舶を照らし出し、すぐには消えない巨大な光芒《こうぼう》を宇宙に刻んだ。発光信号、と理解した頭にいくばくかの正気が戻り、マリーダはアームレイカーを握り直した。
〈ガランシェール〉が脱出してくれたのなら、これ以上ここに留まっていても仕方がない。その冷徹な思考が、敵に呑まれかけていた精神を体に引き戻したようだった。白いモビルスーツの二撃目を皮一枚の距離で回避したマリーダは、バインダーに装備した拡散メガ粒子砲のトリガーを引き搾った。
四枚のバインダーに二基ずつ装備された砲口から、ファンネルとは比較にならない大出力のビームが噴き出す。射出口を取り巻く――フィールドによって偏向《へんこう》されたビームは、散弾さながら四方に飛び散り、〈クシャトリヤ〉を中心に三百六十度の弾幕を形成した。接近中の連邦軍機が慌てて回避運動を取り、白いモビルスーツもさすがに後退の挙動を見せる。マリーダはすかさずフットペダルを踏み込み、一気に加速した機体を戦線から離脱させた。
追撃を覚悟したが、白いモビルスーツはその場に留まったまま、動く気配はなかった。機体の損傷をチェックし、致命傷はないと確認したマリーダは、ヘルメットのバイザーを開けて顔じゅうの汗を拭った。航路を外れて加速する〈ガランシェール〉を前方に捉えつつ、生き残ったファンネルを適宜《てきぎ》回収する。
コロニー内の戦闘で失った分も合わせて、ファンネルの損失は七機。機体に受けた直撃ともども、初めて味わう屈辱が心身を震わせた。彼女≠煖~出できなかった。マスターは船にたどり着けたのか? と考え、祈るしかない自分の立場に閉口したマリーダは、のうのうと息をしている体を引き裂きたい衝動に駆られた。
なにもできなかった。あの白いモビルスーツのパイロットは、本物の[#「本物の」に傍点]ニュータイプであったと思いたい。そうでなければ――。
「こんな無様な戦い……。マスターに申し訳が立たない」
まだ震えの残る指先をアームレイカーに押し込み、さらに加速をかける。バインダーに内蔵したスラスターを轟かせ、〈クシャトリヤ〉の機体が戦場のコロニーをあとにした。
四枚羽根に内蔵されたスラスターが白色光の尾を引き、濃緑色の機体を闇に溶け込ませてゆく。かなりの速度だが、ウェイブライダーに変形すれば追いつけない距離ではない。咄嗟に追撃に入ろうとしたリディは、(よせ、深追いはするな)と発した無線の声に、トランスフォームの操作を中断した。
ロメオ001、ノーム隊長の〈リゼル〉一番機が近づき、リディ機の肩にマニピュレーターを接触させる。「しかし……!」と抗弁しつつも、リディは少しほっとしている自分に気づいた。とりあえず今日は死なずに済んだ――。
(だいぶやられた。母艦に帰投して、戦力を立て直す。あの〈ガンダム〉を回収してな)
ノームの声は苦かった。多くの部下を失った指揮官に、生き延びられた安堵が入り込む余地はない。それこそひとりででも追撃をかけ、部下の仇討《あだう》ちを果たしたいところだろうが、〈ガンダム〉という一語に気を取られたリディは、ろくにノームの心境を慮る余裕もなく虚空に目を転じた。
コロニービルダーの奥から唐突に出現した所属不明機――ガンダム・タイプの形状を持つ白いモビルスーツは、ビームサーベルの発振を収め、無数に漂うデブリを背に静止しているように見える。機体の発光は弱まりつつあり、無防備に開いた四肢も動き出す気配はない。まるで電池切れにでもなったという風情だった。
こちらと敵対する意志はないということか、油断させる罠か。助けられた結果を鵜呑みにする気分にはなれず、リディは「〈ガンダム〉……」と口にしてみた。子供の頃から何度となく耳にしたその名は、この時は不穏な語感をまとって舌先を痺れさせ、汗まみれの体を冷たくするようだった。
「やっぱりあれ、〈ガンダム〉ですよね」
(他にどう見える)
ノームが憮然とした声を返した時、白いモビルスーツに異変が起こった。V字に開いていた角が閉じ、薄く輝く二つの目にバイザーが降りたのだ。
同時に機体各所の装甲板がスライドし、赤い燐光を宿す地肌が収納されてゆく。一秒と待たずにそのシルエットが変貌《へんぼう》し、白いモビルスーツは最初に見た時の形態に戻った。〈ガンダム〉は幻《まぼろし》のように消え、一本角の奇怪なモビルスーツがそこに残された。
(なんの冗談だ、まったく……!)と呻いたノーム機が、リディ機との接触を解いて一本角の背後に回る。ビームライフルを即時射撃位置に構え、リディも白い機体との相対距離を詰めた。(所属不明機のパイロット、聞こえるか。こちらは……)と呼びかけるノームの声をよそに、未知のモビルスーツは黙然と虚空に佇み、ユニコーンを想起させる角に月光を映えさせた。
所属不明機を前後から包囲した二機の〈リゼル〉は、結局、無線での交信をあきらめたらしい。一機がビームライフルで照準する間に、もう一機が背後から接触し、一本角のモビルスーツの牽引が開始されようとしていた。
無線を賑《にぎ》わせていた変身≠フ瞬間を見逃してしまった。ノーマルスーツ用の双眼鏡をバイザーから外し、ダグザ・マックールは小さく舌打ちした。左腕を固定する被覆帯を煩わしく思いつつ、巨大なスペースゲートの戸口に足を着ける。宇宙と直《じか》に接する〈メガラニカ〉の港口には、一見してエコーズとわかるノーマルスーツが三人並び、所属不明機にビデオカメラを向ける姿があった。
その中のひとり、チーム・アルファのリーダーを務めるギャリティ大尉と目が合った。(隊長……! お怪我は?)と目を丸くしたギャリティに続いて、副司令のコンロイ少佐も少し驚いた顔をこちらに向ける。生存の一報は聞いていても、動き回れる状態とは想像していなかったのだろう。実際、応急手当をした看護長からは安静を言い渡されていたが、のんびり寝ていられる心境であろうはずもなかった。こちらに近づこうとしたギャリティの目は見ず、ダグザは「状況」と無表情に質した。
(敵機は後退、目下のところ増援の気配はなし。〈メガラニカ〉は我が隊の制圧下にあり、コマンド・モジュールにて支援班が『箱』の捜索を実施中。人員の損失は、〈ロト〉一番機の乗員二名を含めて計三名。重軽傷者は四名)
抑揚なく報告しながらも、あなたも重軽傷者のひとりですよ、とコンロイの目が咎める色を放っていた。古女房の副司令には鉄面皮も通用せず、多少決まり悪く視線を逸らしたダグザは、「コロニーの被害状況は?」とギャリティに尋ねた。
(空気の流出はなんとかなりそうです。あの穴の大きさなら、空気が完全に抜けるまでひと月はかかります)
それまでに近隣のコロニーから救援が来る。月面のアナハイム・エレクトロニクス本社も、すでになんらかの対応策を打ち出している頃だろう。マスコミ対策は頭の痛いところだが、それについては本部付きの幕僚や背広組が狂奔すればいいことだ。小さく息をついた途端、脇腹がずきりと脈動し、ダグザは痛みが行き過ぎるまでしばし押し黙った。エコーズ仕様のノーマルスーツに助けられたとはいえ、左腕は骨折、あばらにもひびが入っている自覚はある。無重力はこの際ありがたかった。重力区画では、涼しい顔で立っていられる自信はない。
「〈メガラニカ〉側のゲートを封鎖して、コロニー側との通行遮断を徹底しろ。マスコミの連中が入ってこないとも限らん。〈ネェル・アーガマ〉は?」
(艦に損傷はなし。現在、押収物資の積み込み作業に取りかかっています)
「急がせろ。あの暴れぶりからして、『袖付き』も目的の物は手に入れていないはずだ。警戒を怠るなと伝えろ」
(ラジャー)と応じて、ギャリティは開放したスペースゲートの奥に引っ込んでいった。横目でそれを見送ったダグザは、(また来ますかね、奴ら)と発した声にバイザーごしの視線を動かした。細かなデブリが漂う宇宙を背景に、コンロイが含んだ目をこちらに向けていた。
「来るな。同じものを狙っているんだ。ここの物を洗《あら》いざらい持ち出したと知ったら、次は〈ネェル・アーガマ〉に仕掛けてくる」
言ったあと、目で送った合図に応じて、コンロイはダグザの傍らに身を寄せた。互いのヘルメットを接触させ、振動で声を伝えあう『お肌のふれあい会話』の態勢を整える。ダグザは通信装置を切り、「カーディアス・ビストの捜索は?」と低く訊いた。
(続けていますが、おそらく……)
「アナハイムの客人たちが、我々より先にコマンド・モジュールに到着していたという話は確かなんだな?」
(は。作戦用に提供された資料には記されていないサービスルートが存在していたようで)
エコーズが突入作戦を展開する一方、彼らは港口から〈メガラニカ〉に乗り込み、こちらには知らせていないサービスルートを使ってコマンド・モジュールに押し入った。まっとうなアナハイム社の社員がやることではないし、できることでもない。首魁のアルベルトはともかく、同行する連中はその筋のプロだろう。艦内で顔を突き合わせている時から、そんな気配は感じていた。「我々は囮《おとり》……。連中の狙いも『箱』か」とダグザは嘆息《たんそく》混じりに言った。
(あり得ますね。今回の作戦、上層部の間でも微妙な温度差があったと聞いています)
この機に『箱』を手に入れたい者と、流出を阻止できればよしとする者。『箱』の開放を目論んだカーディアスが排除され、両者の共通目的が達成された以上、以後の争奪戦は上層部にも――軍、アナハイム社、ビスト財団が複雑に絡み合う魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》の世界にも――波及することになる。「まったく……」と吐き捨て、ダグザは正面に映えるテニスボール大の月を睨み据えた。
「くだらんお家騒動に巻き込まれて、このザマだ」
偶発的な戦闘で多くの被害を出した上に、部下まで失い、敵も逃がしてしまった。作戦上の犠牲は呑み込むしかないのが指揮官の務めとはいえ、中身も判然としない『箱』の代償というのでは割に合わないこと夥《おびただ》しい。ツケは支払わせてやる、とダグザは内心に呟いた。『袖付き』やアナハイムの連中に『ラプラスの箱』は渡さない。必ずエコーズが手に入れて、上層部の魑魅魍魎どもに叩きつけてくれる。虚しい自己満足でも、他に犠牲者たちの魂魄《こんぱく》に報いる術はない。部品には部品の意地というものがある――。
(『箱』に関するデータはすべて消去されていました。時間的に見て、アナハイムの客人たちが事前に持ち出せたとは思えません。ここのスタッフを何人か押さえましたが、彼らがどの程度のことを知っているものか……)
「まだあれが残っている」
正面に顎をしゃくり、ダグザは言った。二機の〈リゼル〉に両腕をつかまれ、一本角の白いモビルスーツは港口に牽引されつつある。コンロイはバイザーごしに眉をひそめてみせた。
「ここで開発されていたんだ。『箱』とも無関係ではないだろう。ゆっくり調べさせてもらうさ」
一報を聞いた時、すぐに撮影を命じたのはそのためだった。アナハイム社の横槍《よこやり》が予想される以上、白いモビルスーツの資料はエコーズが独自に押さえておく必要がある。ふむ、とコンロイが了解の鼻息をついたのを潮に、ダグザはヘルメットの接触を解いて通信装置を復旧させた。と、(いったいどういうことだ!)と発した怒声が内蔵スピーカーを震わせ、作業用ノーマルスーツを着込んだ男が視界に滑り込んできた。
ずんぐりしたシルエットは、ノーマルスーツの厚みのせいではない。アナハイム社が寄越した横槍の筆頭、アルベルトだとわかったダグザは、無言でその横顔を注視した。勢い余って宇宙に飛び出しそうになるところを、コンロイに支えられて踏み留まったアルベルトの視線の先には、純白の装甲に月光を宿すモビルスーツの姿がある。(誰があれに乗っている!?)とわめき、こちらを見た肉厚の顔は、ほとんど常軌を逸しているように見えた。
(あれは我が社の資産だ。誰にも触らせたくない。隊長、早くあれを回収してくれ)
(やっているでしょう。アルベルトさん、落ち着いてください)
肩に置かれたコンロイの手を振り払い、アルベルトは白いモビルスーツを凝視した。そのノーマルスーツの胸に、乾いた血が付着していることにダグザは気づいた。
(あれは……〈ユニコーン〉は、ただのモビルスーツではないんだ。誰が……いったい誰が動かしたんだ……)
その目も声も、単に社の資産を案じてのものではなかった。大事なものを盗《と》られた子供のそれだと思いながら、ダグザは乾いた血糊を見つめた。誰かの返り血を烙印《らくいん》のように胸に留め、アルベルトは〈ユニコーン〉と呼んだモビルスーツに血走った目を向け続けた。愛惜《あいせき》と憎悪が入り混じり、本人の中でも仕分けされていない感情を宿した目に、ダグザは少しぞっとする気分を味わった。
重い液体の中に漬け込まれていた体が、ゆっくり浮上してゆく。バナージはうっすら目を開け、オールビューモニターに映る〈メガラニカ〉の港口と、巨万の星空を見た。
手足が重い。全身の神経を引き抜かれたかのように、体じゅうがぶよぶよとした肉の塊になっている。一点、こめかみのあたりにひりひりとした痛みが走り、現実の質感を肉体に伝えていたが、手を動かす気力はわかなかった。無重力であるはずなのに、手足が重い。まるで重油の底から引き上げられたかのごとく、全身が重い疲労を訴えている。
そうだ。ディスプレイ・ボードに〈NT-D〉の表示が浮かび上がった時から、自分は確かに重い液体の中に漬け込まれた。時間が弛緩し、手足が重くなり、敵の動きがスローモーションさながらに見えて……それから、どうなった?
わからなかった。リニア・シートに沈んだまま、バナージはディスプレイ・ボードを見遣った。〈NT-D〉の文字はすでになく、〈La+〉と読めるロゴがディスプレイに表示され、呼吸と同じ速度で静かに明滅していた。
「ラ……プラス……」
その背後に、瞬かない星々の輝きがあった。バナージは再び意識を失い、深い眠りの底に落ちた。
(失態だな。スベロア・ジンネマン)
その声は、狭い〈ガランシェール〉のブリッジ内に反響し、敗退の苦味を抱えた胸に突き刺さった。コクピットを出るや、ノーマルスーツもぬがずにブリッジに上がったマリーダは、コンソールのモニターに映るアンジェロ・ザウパー大尉の顔を見た。
(『ラプラスの箱』を入手できず、あまつさえ姫様もお助けできなかったとは……。貴公らしからぬ失態だ。この帳尻、どう合わせるつもりでいるのか)
額に垂らした前髪を無造作にかき上げ、神経質そうな眉根に皺《しわ》を寄せる。白く端整なアンジェロの面差しは、飾りボタンに金モールをあしらった親衛隊の制服とあいまって、中世紀の貴族といった雰囲気を漂わせている。年齢はマリーダとそう変わらないはずだが、嵩にかかった物言いといい、戦場にまで美意識を持ち込む我《が》の強さといい、およそ同調できる相手ではなかった。装飾越味が鼻につく『袖付き』――新生ネオ・ジオン軍のありようを体現する男とでも言うべきか。
「すべては不慮の事態でした。この上は姫様からの連絡を待ち、静観を続けるしかないかと」
こちらは実利優先、装飾もへったくれもないといった出で立ちで、ジンネマンが慇懃無礼に応じる。モニターに映らないのをいいことに、操舵席ではフラストが中指を立てていた。窓の外には、船と並進するギルボアの〈ギラ・ズール〉が浮かび、モノアイを左右にめぐらせる姿がある。マリーダと入れ替わりに出動したギルボアだが、敵に追撃の気配がない以上、当面の懸案事項は〈パラオ〉本部の反応ということになる。傍受した通信に聞き耳を立てているギルボアの挙動は、機体の外からでも窺うことができた。
船に帰ってから息を引き取ったクルーを含め、ガランシェール隊の人的損耗は三名。彼女≠置き去りにしてきてしまった事実も考慮すれば、事は任務失敗というだけでは済まされない。アンジェロに言われるまでもなく、手酷《てひど》い損失という自覚はマリーダにもあったが、少なくともマスターは生きている。いつもの丸い背中がキャプテン・シートに収まり、野太い声をブリッジ内に響かせている。コロンと硝煙の臭いが入り混じった体臭を確かめ、こわ張った神経が多少はぐれるのを自覚したマリーダは、(なにもせずにいろというのか……!)と怒鳴ったアンジェロに物を見る目を向けた。ジンネマンは微動だにせず、静かに反論の口を開きかけたが、(もういい。アンジェロ大尉)と別の声が割って入る方が早かった。
アンジェロの顔色が変わり、直立不動になった体がさっとモニターの外に引っ込む。代わりに目の覚めるような赤色がノイズ混じりのモニターに映え、マリーダはほぐれかけた神経が再び引き締まるのを感じた。
真紅の制服に身を包んだ人影が、ゆったりとした動作でモニターの前に流れてくる。豊かな金髪がそよぎ、目から額までを覆う銀色のマスクにかかると、防眩《ぼうげん》フィルターごしの視線がひたとこちらに据えられた。
(マリーダを退けたという敵……〈ガンダム〉だと聞いた。興味深いな)
防眩フィルターの奥にある瞳は見えない。が、その視線は間違いなくこちらを捉えているとわかる。マスクをかぶった異様な姿も、人を食った言動も、その圧倒的な存在感で償却してしまう。『シャアの再来』と呼ばれる新生ネオ・ジオンの首魁は、この時も存在そのものの力で見る者をねじ伏せ、周囲の空気を席捲《せっけん》してみせた。マリーダは我知らず拳を握りしめ、幻惑するように閃く赤い防眩フィルターを見返した。
(わたしが出るしかないかもしれん。〈ガランシェール〉は引き続き連邦の艦の動向を探れ)
フル・フロンタルの指示はそれだけだった。「は」とジンネマンは心持ち姿勢を正してみせる。
「この失態、一命に賭けて償う所存であります」
[#挿絵mb767_225[1].jpg]
殊勝に付け加えながらも、ジンネマンの目の奥には容易には拭えない不審の光が宿っている。互いの間に横たわる溝をどこまで自覚しているのか、フロンタルは口もとをふっと緩め、(過《あやま》ちを気に病むことはない)と言った。
(ただ認めて、次の糧《かて》にすればいい。それが大人の特権だ)
マスクの下の顔が、嗤っていた。それ自体が仮面と思えるうそ寒い笑みに、マリーダはノーマルスーツに覆われた肌を粟立たせた。
[#地付き]〈三巻につづく〉
[#改ページ]
機動戦士ガンダムUCユニコーン 2 ユニコーンの日(下)
福井晴敏
キャラクターデザイン・挿絵
安彦良和
メカニックデザイン
カトキハジメ
原案
矢立肇・富野由悠季
設定考証
岡崎昭行
小倉信也
白土晴一
協力
佐々木新(サンライズ)
志田香織(サンライズ)
装幀
住吉昭人(フェイク・グラフィックス)
本文デザイン
泉栄一郎(フェイク・グラフィックス)
編集
古林英明(角川書店)
平尾知也(角川書店)
大森俊介(角川書店)
吉田 誠(角川書店)
[#改ページ]
Kadokawa Comic A
角川コミック・エース
機動戦士《きどうせんし》ガンダム|UC《ユニコーン》A
ユニコーンの日《ひ》(下)
著者
福井晴敏〈ふくい・はるとし〉
原案/矢立肇・富野由悠季
キャラクターデザイン・挿絵/安彦良和
メカニックデザイン/カトキハジメ
2007年9月26日 初版発行
発行者
井上伸一郎
発行
株式会社角川書店