川の深さは
福井晴敏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)短機関銃《サブマシンガン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)予備|弾倉《マガジン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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ブラウン管の走査線に映し出された顔は、この一年間、マスコミを席捲《せっけん》し続けてきた男のものだった。簡略化された弁護人たちの横顔に並んで、皺《しわ》のひと筋から後れ毛の一本に至るまで、そこだけつぶさに描き込まれた似顔絵は、桜田門から漏れ聞こえていた噂がそれなりに的を射ていたことを教えている。
子供ひとり分痩せたという体に、国民嫌悪の象徴となった小汚い法衣。大儀そうに閉じられた目、突き出した分厚い唇は、母親の説教を不服と退屈の両方で聞き流す幼児のそれで、裁きを受け入れ、懺悔《ざんげ》する大人のものではない。襟足《えりあし》に散っているフケも、不自由な拘置生活を偲《しの》ばせるというより、彼のだらしなさ、反省のなさを示す小道具といった方が正しく、見るとはなしにテレビ画面を眺めていた男は、法廷内の写真撮影は禁止という制度をあらためて妙なものだと感じた。
学生アルバイトを並ばせて傍聴券を確保したマスコミ記者のコメントや、克明なイラストを垂れ流しにしておいて、プライバシーの保護もなにもあったものではない。もっとも、そうして表面的に建て前を取り繕《つくろ》ってさえおけば、実態がどうであれ興味を持たずにいられる大らかな――あるいはルーズな――国民性は、仕事上、男もおおいに利用させてもらってはいたが。
(被告は現在十三の罪状で起訴されているわけですが、今日の初公判では、このうち三つの起訴状朗読が検察側によって行われ……)
(起訴状別表に付された二千名あまりの被害者氏名の朗読は、午後四時過ぎまでかかり、その間被告は目を閉じたまま、まるで居眠りでもしているかのように……)
(罪状認否で唯一わたしたちが理解できた言葉は、最後の『いまはなにも言うことがない』という一節だけで……)
(傲慢さ、身勝手さ、幼稚な権勢欲に支えられた尊大さ。多くの若者たちが彼のような人間に無批判に従ってしまった背景には、企業主義主導できた戦後日本の社会と、そこに人材を送り込むことに主眼を置いた教育システムそのものに問題が……)
(こんな男がなぜ……。悔しい、本当に悔しい。主人を返してください。それができないなら早く死刑に、ずっと檻《おり》の中に閉じ込めておいてもらいたい)
午後六時半。どのチャンネルを回しても、聞こえてくるのはそんな声ばかりだった。向き合うソファに座り、テレビのリモコンをいじっていた老人は、「憎まれ上手だな」と垂れぎみの頬をさらにたるませて言った。男は唇を微笑の形に歪めて、返事の代わりにした。
「適材適所。どんな役回りにも、ふさわしい人材はいるということか?」
「優れた舞台演出のコツは、役者に気づかせないことです」冷めかけたコーヒーカップを手にして、男は口を開いた。「いま自分が舞台に上がっているのだという事実をね」
古傷が目立ついかつい手に、そのカップの華奢《きゃしゃ》な作りはひどく不釣合いに見えた。親指の付け根から手首にまで至る切創《せっそう》をこしらえたのは、いまから二十年近く前、ドジを踏んで商売|敵《がたき》が手中に落ち、下請け連中から程度の低い拷問を受けた時のことだったか。その時の血の臭いがふと鼻腔《びこう》に絡みつき、国家への忠節という、永遠に報われない片思いに従って黙秘を貫き通した自分の青臭さも思い出してしまった男は、ひと口|啜《すす》ったコーヒーの苦味でそれを忘れようとした。
不自然な間《ま》に気づいたのか、老人は男の目の底を確かめるようにしてから、棚の開き戸の中に据えられたテレビに目を戻した。体ばかり発育した女が、清涼飲料の缶を片手に笑う画面が消えると、倒壊した高速道路の空撮映像が映し出された。昨年の阪神大震災を教訓に、防災意識を高めようと訴える政府広報だった。
「個性を引き出して、好きに演技させてやるんです。その方が劇に面白味が出る。現に日本中が熱狂したじゃありませんか」
付け加えて、男は立ち上がった。百七十八センチ、八十キロの体躯は、五十の大台を目前にした彼の世代では大柄の部類に入ったが、この部屋でそれが際立《きわだ》つのも、座ったままの老人がどの世代から見ても平均以下の身長しかないからだった。どういうわけか、政治家という人種には小男が多い。目礼して退出しようとした男を、老人は「佐久間《さくま》一佐」と呼び止めていた。
いくつかある肩書きのうち、捨てたはずの階級呼称を使ったのは、自分と男の立場を明確にしておくための防衛心理――ひらたく言えば、おまえの尻尾は握っているぞと暗に仄《ほの》めかす浅薄な脅しだった。立ち止まった男に、老人は「公調の再編な、決まったよ」と、テレビに向けた顔を動かさずに重ねた。
「従来の二部体制を改編するとともに、対外・対テロに主眼を置いた専従の調査班を五つ設ける。統括と人選は君に任せることになるだろう」
「ほう……。思ったより早かったですな」
先刻承知していても、驚いてみせるのがこの界隈の流儀だった。老人はテレビに向けていた目をちらと動かした。
「兼松《かねまつ》がこちら側について、サッチョウOBも横槍の入れようがなくなったからな。君の描いた絵の通りに、事は進み出したというわけだ」
「まさか。時代の要請でしょう」
CMが終わり、ブラウン管は、二千人の死傷者を出したテロ事件の首謀者の顔を再び映すようになっていた。一暫《いちべつ》し、部屋のドアノブに手をかけた佐久間と呼ばれた男は、老人の立ち上がる気配を察して内心に舌打ちした。
「君の演出プランを信じないわけじゃないがな。クセのある役者がひとり、閉幕を知らずに動き回っていると聞いた。主流を制したとはいえ、まだ反対派の目が周りを囲んでいる状況を忘れんようにな」
この世界で佐久間の年齢まで生きていれば、いら立ちも苦笑で償却する術が身につく。口もとを歪めた佐久間は、法廷の模様を描いたイラストがさらに数点、ブラウン管を飾っているのを見た。
大衆の欲求と乖離《かいり》し、社会の変革からも取り残された結果、無意味な形骸と化した制度。そんなものはいくらでもこの国に残っている。役人はとかく変化を嫌う生き物で、変えるには莫大な時間と、利権のみが動かし得る人脈が必要とされる。政権が替わり、経済体制の根本が疑われる時代になっても、その体質だけは変わりようがなかったこの国――。佐久間|仁《ひとし》は苦笑を残したまま、小太りの老人を見下ろした。
「心得ておりますよ、官房長官殿。身内の不始末は、身内で片付ける。それが我々の流儀です」
それ以上の口出しは背中で封じて、佐久間は官房長官室のドアを閉じた。律儀に頭を下げる秘書官の顔は見ずに、赤いカーペットの敷かれた階段を下りた。
加害者不在のアフター・バブル不況下、住専という格好の悪役を見つけた国会記者クラブの面々は、各党の国対委員を追い回すのに余念がない。顔も名前も永田町のリストにない男に注目する余裕は誰にもなく、佐久間は記者たちの目を引かずに、公邸側から首相官邸を後にすることができた。
雨だった。かすかに残った陽光が、陰鬱な雲の模様をかえって浮き上がらせて、官邸の屋根からこちらを見下ろすミネルバの梟《ふくろう》の彫刻をひどく所在なげに見せている。古代ギリシャの知恵の象徴も、見渡す限りの無知蒙昧《むちもうまい》にはなす術がないといったところか。ヘーゲルは、かの鳥は黄昏《たそがれ》がやってくると初めて飛び始めると書き残したが、この国は黄昏の成熟を迎える前に、重度の痴呆症にかかってしまった。湿った空気に、警察車輌や報道ヘリの喧噪が作り出す特別な緊張を嗅ぎ取りながら、傘を持たない佐久間は乗ってきたクラウンの方に歩いていった。
いつものように、城崎《しろさき》涼子《りょうこ》のすっきりとした立ち姿が後部ドアの前にあった。ライトグリーンの傘の下で、なにかを結んでいる瞳が佐久間を見、ドアを開けると軽く頭を下げた。
彼女の立場ですることではないのだが、佐久間は容認していた。そつない秘書役の演技が、自分と一定の距離を保つための彼女なりの防波堤だとわかっていたし、なにより頭を下げた後、長いストレートの黒髪をかきわける仕種《しぐさ》を見るのが、好きなのだった。並んで後部座席に収まった涼子がドアを閉めたところで、護衛兼運転手がハンドルを握るクラウンは静かに走り出した。
官邸前には防石金網張りのバス型輸送車の他、多重無線車も駐車して、平時より多い数の制服警官が立哨《りっしょう》していた。国会議事堂から外堀通りに続く山王坂《さんのうざか》にも、一般車輌の通行を規制するバリケードと、紺のヘルメットと出動服に身を固めた機動隊員たちに占拠されている。一年前の春、このすぐ足もとで起こった戦後最大のテロ事件――新興宗教団体・神泉《しんせん》教による地下鉄爆破事件の捜査が、その首謀者たる教祖の初公判を終えて、ひとつのクライマックスを迎えたことを教える光景だった。
早朝から敷かれた厳戒態勢は、被告が東京拘置所に戻された現在、緩和されつつある。飛びかう警察無線の傍受は防音ガラスを隔てた運転席の護衛に任せて、スーツの襟裏に仕込んでおいたワイヤレスマイクを外した佐久間は、「感づいたようだ」とだけ言った。梶本《かじもと》官房長官との会話を車内で受信していた涼子には、それで十分だった。彼女も「はい」とだけ答えた。
永田町や霞が関の住人との会談は形に残さないという原則は、ごく最近、佐久間たちの側でのみ密かに変更されていた。掘る墓穴は、いつでも二つ。古くからある摂理は、この数年で根本からひっくり返ってしまった世界に対応した結果、味方にこそ適用していかなければならないものになっている。それを卑怯と考えるつもりは、佐久間にはなかった。すべては生き残るため。それほどに、この数年の変転が激しいものだったということだ。
経済破綻。冷戦構造の崩壊。五五年体制の終焉《しゅうえん》。二大政党というシステムを失い、裸で放り出された政治家たちは予想以上の無能を晒《さら》け出し、不況下であっても成長を強いる経済システムは、泡まみれの企業・産業に容赦のない減量を余儀なくさせた。削る贅肉《ぜいにく》がなくなれば、歯や髪までも抜かずにいられなくなるリストラという集団神経症の蔓延《まんえん》に、無能は追従を、有能は絶望だけを濃くしていった数年間。最低限の自制心もかなぐり捨てたこの国は、ついに己の目と牙さえも抜く愚を犯した。
財政の逼迫《ひっぱく》という直接的理由を、目の前にあった脅威の消失という言葉で粉飾し、挙句《あげく》、同盟国との歩調合わせという無内容な政治用語で正当化する。まったくお笑い種《ぐさ》だった。世界が存在する限り、脅威が消滅することはないし、同盟国がその危険を肩代わりしてくれることもない。安全保障という言葉は、相手の利益とこちらの安全が一致した時にのみ発効するのであって、真の平和は自分で勝ち取ってゆくしかないものなのに。そんな理由とも言えない戯言《ざれごと》を並べて、この国は現実を見据える目をえぐり出し、口の奥に隠し持っていた牙を抜こうとしたのだ。
「最後の局面で、駒を読み違えるとはな……」
それがいかに危険で、愚かな行為であるかを知らしめるための行動は、ほぼ予定通りの帰結を迎えたと言える。が、梶本に指摘された身内の不始末≠ェ喉《のど》に刺さった小骨になり、計画にわずかな亀裂を生じさせているのも事実だった。放っておけばそれが膿《うみ》を作り、生まれて間もない体には、小さな膿が致命傷になることもある。涼子は雨の筋を張りつかせた窓を向いたまま、無言を返事にした。
「赤坂の臨時雇いが、思いのほか上首尾の収穫を得たという話だったが?」
「一時的なものです。赤坂が〈アポクリファ〉を手にすることはありません」
それだけは即座に応じた涼子の整った横顔を見て、佐久間は少し苦笑した。外堀通りに出、緩慢な車の流れに包まれるようになった窓外に目を戻して、涼子はその視線には応じなかった。
「彼は動くか」
「今晩中に。……おそらく」
「信じているんだな?」
言いつつ、佐久間は自分の左手を涼子の右手に重ねた。運転手がルームミラーごしに一瞥を寄越したが、佐久間と視線を絡ませると、すぐに無表情な目を雨に滲《にじ》むフロントガラスに戻した。堅い圧迫に覆われた涼子の白い手がぴくりと反応し、征服欲を掻《か》き立てるいつもの湿り気を帯びた後、ゆっくりと退かれていった。
「……私の部下ですから」
それを拒絶の言葉にして、涼子は口を閉じた。すり抜けた湿り気を手のひらに感じながら、佐久間は「そうだな」と言ってやった。
市ヶ谷に近づいた頃には、夜が東京の街を覆っていた。やまない雨の下、パトカーのサイレンが遠くで鳴り続けていた。
午後から夕刻にかけて東京を濡らした大粒の雨は、午後十時を過ぎた頃には小降りに転じた。肌を打ちつける雨粒が霧雨に変わり、冷たい湿気の塊《かたまり》が低く滞留し始めると、それまで地面にへばりついていた悪臭が溶けて流れ出し、あたり一帯を覆うようになる。蒸れた体臭にアルコールが絡みつき、腐ったダンボールや、排泄物の臭いがないまぜになって醸《かも》し出される悪臭は、都市が夜毎に吐くため息の臭い。盛りを過ぎ、精気を失った者の饐《す》えた口臭だ。
新宿や池袋でも、明け方になると同じような臭いが漂うが、この浅草を包む臭いはそれとは少し異なる。三ヵ月と少しの間、半分以上の夜を路上で過ごしてきた男には、その微妙な差異を嗅ぎ分けることができた。歌舞伎町あたりでは、何百とある店舗から吐き出された残飯が腐敗し、酸味を帯びた生臭さが悪臭の芯になるが、浅草にはそれがない。あるのはダンボールにくるまって眠る無数の人の体臭で、アルコールとアンモニア、垢《あか》まみれの衣服が渾然《こんぜん》一体となった臭いはどこか枯れており、もの悲しささえ感じさせるのだった。
夜の早い浅草は、十時を過ぎればほとんどの店舗がシャッターを下ろす。男の目の前には『西参道』と書かれたアーケードがあったが、営業している店は一軒もなく、軒先《のきさき》に作られたダンボールハウスが通りの終わりまで連なって、ホームレスの集落といった様相を呈していた。左手には、桜並木と塀を挟んで浅草五重塔が聳《そび》え立っており、背後では浅草寺《せんそうじ》の観音堂が半ば闇に溶け込んでいる。長年の汚れを蓄えたアーケードの向こうで、そこだけ不似合いな高層建築を際立たせているのは浅草ビューホテルだ。
境内《けいだい》には申し訳程度の街灯しかなく、寝静まった浅草の中でもさらに濃い闇をまとっていたが、常に外界に開かれている男の五感は、自分以外の他者が境内にいないことを感知していた。国際通り、馬道《うまみち》通り、雷門《かみなりもん》通り、言問《こととい》通り。浅草寺を囲む四つの通りに「定点」を残し、寺の近傍を走る六区通りでも、根城にしているホームレスたちの印象に残るよう、吸い慣れないタバコを吹かしながらゆっくり歩いてきた。追手の目が浅草寺に集中するのは時間の問題と考えた男は、彼らが寺に到達する時間と、自分が目的のビルにたどり着くまでの時間を計算しつつ、アーケードの方に向かって歩き始めた。
砂利が敷き詰められた境内に、土日祭日にのみ営業する出店のバラックが並び、「たこ焼き」や「あんず飴」の文字が躍る看板が、雨に濡れたままになっているのがうら淋しかった。去年、初めてここを訪れた時には、焼きそばやお好み焼きの香ばしい匂いが立ちこめ、澄んだ青空の下、数えきれないほどの人が境内を行き来していた。人の多いところは苦手だと言ったにもかかわらず、強引に自分を連れ出した女は、お好み焼きとフランクフルト、焼きとうもろこしを平らげた挙句、水飴にも手をのばそうとして、同行した彼女の父親に呆れられたりしていた。
ふとそんなことを思い出し、パイプとトタンで組まれたバラックの列を見遣《みや》った男は、そのひとつの前に鈍い光沢を放つ物が落ちているのに気づいて、足を止めた。厚紙に貼られた透明パッケージの表面に遠い街灯の光を宿している物は、出店で売られる玩具のようだった。店を引き上げる際にうっかり落としていったのだろう。パッケージの中には卵形のゲーム機が入っており、デフォルメされたヒヨコが描かれた厚紙に『タマゴロー』の商品名があった。
必要な情報を得る以外、新聞やテレビを見る習慣を持たない男も、『たまごっち』とかいうポケットゲームが流行《はや》っていることは知っていたし、『タマゴロー』がその海賊版商品であることも想像がついた。以前、拾ってきた雑誌で『たまごっち』の記事を読んだ女が、欲しいと言っていたのを覚えていたからだ。
まがい物でも、あれば喜ぶかもしれない。腰を落とし、パッケージに手をのばしかけた男は、その途端、不意に覆いかぶさってきた抗《あらが》いようのない徒労感に襲われて、砂利に膝をつきそうになった。一年近い間、いつでも目の届く場所にいた女が、自分のミスで連れ去られてしまった喪失感。金に換えられないたくさんのものをもらったのに、他愛《たあい》ない玩具すら彼女に与えられなかった無力感。そういった思いが一斉にわき上がり、たとえ彼女を取り戻せたとしても、先の保証はなにひとつない現実と併せて、逃亡生活の疲労をため込んだ体をぐらつかせたのだった。
ここで絶望に呑まれれば、二度と立ち上がれなくなってしまう。男は深く息を吸い、吐いて、いまの自分にあるものを頭の中に列挙してみた。まだしばらくは動ける体力。腰に差したグロック17自動拳銃と、ブルゾンのポケットに収めた予備|弾倉《マガジン》一本。市販の材料で作った即席|手榴弾《しゅりゅうだん》三個。完遂しなければならない任務――。
そう、任務だ。他のすべてを失ったとしても、それだけは残り続ける。まだやれる、おれはまだ戦えると内心に唱えて、男は立ち上がった。他愛のない玩具でも、彼女にまがい物は似合わないと結論し、海賊版商品のパッケージから目を離して再び歩き始めた。
境内を抜けると、砂利を踏む自分の足音は聞こえなくなり、代わりに車のドアが閉まる音、複数の足が砂利を蹴散らかす音が、かすかに男の鼓膜に捉《とら》えられた。ここからは観音堂を挟んで反対側の場所、馬道通りに面した二天門の方角。当たりをつけた男は、思ったより早かったな……と感想を紡《つむ》いだのを最後に、考えるのをやめた。濡れたアスファルトを蹴り、あらかじめ決めておいた経路を一気に駆け抜けた。
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零時の中間報告を済ませてしまえば、後は自由になる。応接ソファに会社支給の薄い毛布を重ねて敷き、ロッカーから睡眠薬代わりのポケットボトルを取り出そうとした時、来客を告げるインターホンが鳴った。
夜は寝るものと決めている夜勤番の警備員にとっては、いちばん腹立たしい出来事に違いなかった。店子《たなこ》の間抜けな社員が忘れ物でもしたのか、酔っぱらいか。鬼瓦《おにがわら》の外見に相応《ふさわ》しい不機嫌な声で、桃山《ももやま》剛《つよし》は「はい、警備室」と受話器を取った。
「ああ桃さん、今日の当直はあんたか。よかった、ちょっと入れてくんないか?」
カメラ付きインターホンの小さな液晶画面に映ったのは、隣のビルに詰めている警備員、竹石《たけいし》和雄《かずお》のサイズの合わない制帽姿だった。別の警備会社から派遣されているじいさんだが、地区の防災訓練で知り合ってからは、時おり相手の警備室に押しかけて暇潰《ひまつぶ》しの将棋を指したりしている。グータラ加減は自分とどっこいの年金生活者で、いまは互いに寝る時間だと信じて疑わない桃山は、「なんだよ、こんな時間に。非常識だぜ」と言ってやった。
「頼むよ、入れてくれよ。危ないんだよ」
カメラに顔を近づけた竹石の声は、かすかに震えてさえいるようだった。勤続そろそろ三年、いくらでもごまかしのきく巡回と、フォーマットが決まっている日報を上げる以外に仕事のない警備員稼業で、危ないことがあったといえば、去年三つ隣のビルで起きたボヤぐらいなものだ。反射的に壁の火災報知器に目をやり、「なんだ、火事か」と重ねた桃山に、「とにかく開けてくれよ」と竹石はますます怯《おび》えた声で応えた。
仕方なく、桃山はマスターキーの鍵束をポケットに玄関へと出向いた。白帯も帽子も、警笛付きのレイヤードもうっちゃったままにして久しいが、さすがに鍵は身につけるようにしている。一階の片隅に八畳ほどの空間を確保している管理室兼警備室のドアを開け、受付窓口に面した幅一間の短い廊下に出ると、正面玄関のガラス戸にへばりつくようにしている竹石がすぐ目に入った。
時おりある本社の巡回に備えて、格好だけはきっちり警備員らしくしているいつもの姿だった。シリンダー式の錠を開けた途端、頭ひとつ小さい裂びた体があわてて中に飛び込んできて、自分でドアを閉めるや、鍵も一緒にかける。ほっとひと息ついた顔を見下ろし、「なにごとだ?」と尋ねた桃山に、口に手を当てた竹石は「ヤクザだよ、ヤクザ」と、小声で返事を寄越した。
今年四十三になる桃山からすれば、父親といっておかしくない年齢の竹石だが、幅も質量も二倍近く桃山の方が勝っているので、その様子は子供が大人に告げ口している図に見えた。桃山は、「ヤクザ?」と太い眉をしかめてみせた。
「十人くらい。このへんウロウロしてやがんだ。窓叩いてみたり、ゴミ置き場蹴散らかしてみたり。最初は酔っぱらいかと思ったんだがよ、なんか探してるみたいで、いつまでも離れようとしないんだ。桃さん、ああいう連中の相手、得意だろ? なんとか追っ払ってくんないかな」
「冗談じゃない。ほっとけよ、そのうちいなくなるから」
ヤクザと聞いた瞬間、頭の奥に封印したセンサーが勝手に反応し、玄関の向こうにある見慣れた夜道がひどく明瞭に映ったような気がしたが、その感覚と正面から向き合う勇気は持てず、桃山は逸《はや》りかけた心を無視して引き返そうとした。まくり上げた制服の袖口をつかんで、竹石がそれを引き止めた。
「そう言わずに頼むよ。うちのビルの裏にある倉庫、機械警備入ってんの知ってるだろ? あいつらが悪さして発報させたら、パトロールとか来て面倒だからさ……」
竹石の詰めているビルは、食品会社が三フロアを借りていて、隣接する倉庫に自社製品のストックを置いている。無人の倉庫ビルには、窓と出入り口に大手警備会社の警報装置が設置されているから、センサーが異常を感知すれば、少なくとも桃山たちよりは若くてやる気のある警備員がパトロールカーに乗って急行してくるシステムだ。立ち合いなどさせられ、睡眠時間をオジャンにされてはたまらない。竹石の胸のうちは、同じグータラ警備員の身に自明の理だった。
「じゃ駅前の交番に電話してさ、来てもらえよ。おれはもう寝るから」
「警察呼んだりしたら本部に連絡しなきゃならないし、ユーザーさんにも報告書出さなきゃなんなくなるよ。……なあ、頼むよ。元マル暴刑事さんなら、顔もきくだろ? あんなの追っ払うのわけないだろ?」
カチンときたのは、自分以上のグータラ無責任ぶりにではなく、知りもせずに昔の仕事を引き合いに出されたいら立ちのせいだった。冗談じゃない、と桃山は内心に罵《ののし》った。帳面返して、恥じもせず警備員の制服なんかを着てるいまのおれが、どのツラ下げて元マル暴でござい、なんて言えるってんだ。連中が昔の威光でひれ伏すなんてことは、金輪際《こんりんざい》あり得ない。ヤクザほど人の上下に敏感な人種はいないんだ。物笑いのタネにされるばかりか、下手すりゃ仕返しの嫌がらせ食うに決まってる。特におれみたいに、途中下車したおまわりは。
「……簡単に言うなよ」と言って、桃山は竹石につかまれた袖口を引き戻した。
「そう言わずに、助けると思って」竹石も必死だった。「このとこの就職難で若い連中が流れ込んできて、本部は強気なんだ。おれみたいに何年もいる奴より、安く使える新人雇い直した方が得だって、クビ切るチャンス窺《うかが》ってやがんだよ。いま面倒起こしたら……」
ならば隙《すき》のない対応をしてみせればいいのだが、半年に一度、教科書を読み合わせるだけの教育でなんの知識が身に付くはずもない。なにもない、なにもしないのが当たり前の生活を数年も漫然と続けていれば、外界の変化や刺激に対する耐性がなくなり、臆病になってしまうのもこの仕事の職業病とでもいうべきものだった。桃山は、「わかったわかった」と手を振って、竹石の声を遮《さえぎ》った。
「……ったく、しやあねえなあ」
同情したというより、いまのみじめさを再確認するだけの言葉を聞きたくなくて、とりあえず黙らせるために言ってしまったという方が正しい。そのまま警備室に戻ろうとした桃山は、「どこ行くんだよ」と泣きそうな竹石に呼び止められた。
「着替えるの。わざわざナメられる格好して行く必要ねえだろ?」
夕方から降りだした雨が、霧になって夜を湿らせていた。あとで連絡すると言って竹石を帰した桃山は、西友ストアで買ったセット価格九千八百円のブルゾンとスラックスに身を固めて、派遣勤務先ビル「アリランス亀戸《かめいど》」の玄関を出た。
この仕事に就くまで、亀戸と言えば天満宮《てんまんぐう》がある他は、焼肉屋やパチンコ店が固まっている町という印象しかなかったが、それは町を縦走する明治通り沿いだけの話で、駅の北口から蔵前橋《くらまえばし》通りにかかるまでの一帯には、中小のオフィスビルがマンションと並んで軒を並べる光景があった。アリランス亀戸も、京葉道路と蔵前橋通りを繋ぐ一車線道路に面して建つ、地下駐車場を含む七階建てのテナント型ビルで、輸入雑貨を扱う小さな貿易会社やらアパレル系の服飾会社、大手旅行代理店の出張事務所、英会話学校と、種々雑多な業種が入居している。この不況で周辺ビルの常駐警備はほとんどが切られ、機械警備に切り替わったが、アリランスは服飾会社が在庫商品を置いているため、辛うじて生き残っていた。ビルと一緒に倉庫棟の管理を任されている、竹石の「第二安田ビル」も事情は同じだ。
昼間は明治通りの渋滞を回避する抜け道に使われる通りだったが、いまは通る人も車もなく、水銀灯の白い光が等間隔に丸い輪を落とすだけの静寂に包まれていた。そろそろ終電のはずの総武線、京葉道路を行き来するタクシーや長距離トラックの騒音が緩慢に夜気を震わせ、人が寝るべき時間に雑事に追われている我が身の佗《わび》しさを増幅させる。四月下旬の雨はまだ冷たく、通りの左右を見渡しても、それらしい姿を見つけられなかった桃山は、五分刈り頭にはりついた水滴を太い指で払いのけつつ、ビルの周辺をぐるりと回ってみることにした。
隣はなかなか買い手がつかず、駐車場になって久しい二十坪ほどの空地。そこから一本道を挟んで、第二安田ビルの六階建てがある。一階には警備室と背中合わせに中華料理屋が入っており、その勝手口を塞《ふさ》ぐように駐車している車が、桃山のセンサーに引っかかった。
きょうび、ベンツごときを特別視していては日本人も務まらないが、その筋の人間が使っているものには独特の雰囲気がある。二重に貼られたウインドの遮光シール。フレームに密着させて取りつけた予備のアンテナは、自動車電話のためのものではないだろう。外からは見えないが、コンソールには警察無線を傍受できるよう、基盤のジャンパ線をカットした無線機が積んであるはずだ。足立ナンバーの車番を頭のメモに付け、ひとつ離れたブロックに同種のマークUが駐車していることにも気づいた桃山は、竹石の言葉がまんざら戯言《ざれごと》でもなかったとわかって、次の一歩を多少慎重に踏み出した。
第二安田ビルの裏手に出て、体内センサーの目盛りが振り切った。警備室の横、搬出入シャッターの前に、携帯電話を片手にした若僧がひとり。すぐに桃山の視線に気づき、こちらが目を逸《そ》らすまでじっと睨《にら》みつけてきた。革ジャンにだぶだぶの作業ズボン、ロン毛に茶髪と、それくらいの流行《はやり》言葉は桃山だって知っている。多分、下足番だろう。落ち着きなく顔を振り、無闇《むやみ》にタバコを吹かすさまは、慣れない見張りをさせられている風情《ふぜい》だった。
なにげない顔でその前を通りすぎながら、どこの組だろうと考えた。駅前に広がる繁華街を根城にする地場組か、あるいはよそ者か。捜四の桃太郎とあだ名されたのもいまは昔、それでなくても亀戸のあたりはとんと不案内ときている。桜田門に上がるまでは上野、浅草、新宿、池袋とその筋のメッカを回り、都内の暴力団構成員の顔と名前はあらかた諳《そらん》じていたものだが、入れ替わりの激しい業界のこと、三年も離れていれば頭のリストも役立たずになる。最近の情勢は週刊誌の中吊り広告が教える程度のことしか知らず、それにしてもほとんど見ないようにしてきたというのが正直なところだった。
もううんざりだったからではなく、かすかであっても現場の空気を伝える一字一句が、自分を疎外し、嘲笑《あざわら》っているように感じられたからかもしれない。途中下車の根性なし。無価値な男。世捨て人を気取った廃人、と……。
第二安田ビルに隣接して、四階建ての倉庫棟がある。住居にするにも事務所にするにも中途半端な大きさで、結局、安田ビルに入った食品会社と工業会社が、折半で倉庫用に借りきることになったビルだ。搬出入用のシャッターと、トラックヤードが通りに面した正面にあり、裏は通用口がひとつと左右両面に窓がひとつずつ。すべて機械警備のセンサーが設置してある。若僧のいる通りを折れ、倉庫ビルと安田ビルの狭間《はざま》にある一間もない路地に目を走らせた桃山は、ぎょっと立ち止まった。
パレットの廃材を足掛かりにして、窓から倉庫を覗き込んでいる男の横顔が見えたからではない。そのうしろにいる二人のうちのひとり、三十代の男のジャケットの内側に、黒い異物が覗いていたからだ。暗がりに一瞬でははっきり判別できなかったが、直線的な銃把《グリップ》の形は多分オートマチック。関西ならいざ知らず、火消しのシステムが確立している都内の暴力団にあっては、銃弾が飛び交うような抗争が起こることはほとんどなく、いつあるかわからない職務質問やガサ入れに備えて、持ち歩くのはもちろん、事務所に置いておくのもタブーなのがヤクザにとっての拳銃というものだ。暴対法施行後は統制もますます厳しくなっているはずなのに、目の前の男は堂々と脇の下を膨らませ、後の二人もそれなりの道具を懐《ふところ》にのんだ気配を漲《みなぎ》らせている。棒立ちの一瞬の後、桃山は急いで倉庫の角に身を隠した。
これはヤバい。竹石の言う通り、連中はなにかを探している様子だが、拳銃《チャカ》片手の捜索となれば、相手も事情も限られてくる。車は確認しただけでも二台、他にもいると見て間違いない。元警官、現在グータラ警備員の手にはあまる。竹石には悪いが、本職を呼ぶのが利口だ。顔に張りついた霧雨を冷や汗と一緒に拭《ぬぐ》い気づかれないよう路地を横切ろうとした桃山は、窓の中を覗き込んでいた男が窓枠に手をかけて揺すっているのを視界に捉えて、反射的に立ち止まってしまった。
防犯センサーが振動を感知して発報する。まずいと思うより先に「おい、ちょっと待った」と口が動き、桃山は己の迂闊《うかつ》さに絶望した。
びくりと震えた三つの背中がこちらを振り返り、一瞬の驚愕を顔に表した後、殺気そのものの視線をぴたりと据えてくる。窓枠に手をかけていたジャケットの男は三十代前半、塗ったような日焼け顔に、ブルゾンの胸をはだけている小僧は二十歳前後。オートマチック持参のリーダー格は三十代後半というところか。上等な服も靴も、雨に濡れた路地に汚されている。それだけ差し迫った仕事に追われている証拠だった。口の中に舌打ちしつつ、桃山は引き返せない一歩を踏み出した。
「そのビルは、警報器で警備会社と繋がってんだ。下手にいじると騒ぎになるぜ?」
「なんだ、てめえ」と小僧。華奢な男がもてはやされる昨今のご多分に洩《も》れず、鳥ガラのような体つきの男だった。近寄ってきた三人の手の動きに注視しながら、桃山は「この近所のもんさ」と答えておいた。
小僧はブルゾンのポケットに手を入れたまま、肩をやや持ち上げるようにしている。ポケットの中の道具を握りしめ、きっかけひとつで斬りかかってきかねない面構《つらがま》えだ。後の二人は年齢分落ち着いてはいるが、世間話ができる雰囲気でもない。取り囲まれた桃山は、下手に動いて刺激する危険よりも、腰を据える無謀を選んで質問を重ねた。
「ずいぶん大勢さんが出向いてるようだが、なにかあんのかい?」
「おっさんに関係ねえだろ」
「そうもいかねえんだよ。浮世の義理ってのがあるんでな」
こういう手合いには、ナメられたら終わり。マル暴時代に染みついた癖は抜けていなかった。睨み返した桃山の目に特別な色を見出したのか、小僧がはっとした顔になり、リーダー格の男が「失礼ですが……」と、ややあらたまった目を向けてきた。
「どちらかのお身内の方で?」
状況も忘れて、思わず吹き出しそうになった。「おまえの顔と図体で天下を取れる仕事は、ヤクザか警官しかない」と言ったのは五年前に他界した父だったが、身長百八十、体重百七、上野の西郷さんが十発はり手を食らった直後のような面相は、くすぶっているいまでも同類に見えるらしい。桃山は「冗談じゃねえよ」と返して目を逸らした。
「とにかくな、なにを探してるのか知らねえが、明日にしてもらえねえかな。そうぎらぎらした目でうろつかれると、落ち着いて眠れないんでね。あんたらだって、こう暗くちゃ探しづらいだろ」
「ところがね、そう悠長なことも言ってられないんだよ」同業者ではないとわかったリーダー格が、明らかに見下した口調で言った。「ちょいと面倒があってね、みんな気が立ってるんだ。下手なちょっかい入れてもらいたくないんだよ。怪我しないうちに、おとなしく消えてくれないかな」
余計なトラブルを避けたいのは、向こうも同じ。逃げ道が提示されたのだから、それに従えば問題は納まるはずだったが、なんの気なしに桃山の肩に置かれたリーダー格の手が、そのチャンスを奪ってしまっていた。
左肩に置かれた手をつかみ、甲に親指を当てて、そのまま逆手に蹴り上げる。条件反射だった。「イテテ……!」と男の悲鳴が漏れると同時に、「てめえ、なにしてんだよ!」と吠えた小僧が、ポケットから手を出す気配を見せた。
右手でリーダー格を押さえたまま、足を蹴り上げて小僧の手をポケットの上から潰す。まずは道具を使えなくしてしまうに限ると、これも条件反射。小僧が壁に叩きつけられ、背後から突進してきたもうひとりにうしろ手を取ったリーダー格を突き返したところで、桃山はようやく、おれはなにをやってるんだと考える余裕を取り戻した。
もう桜の代紋が表紙に輝く手帳はないのに。こいつらも一応はプロ、無闇に刃傷沙汰《にんじょうざた》を起こすほどバカではないだろうが、メンツというものがある。転がった三人のうち、最初に起き上がった小僧の目がそれを証明していた。兄貴分二人をコケにされて、完全に頭に血が上っている。これは本当にヤバい、と桃山は覚悟した。ポケットから抜き出されたナイフの切っ先を見、腰を落として間合いを窺いながら、どこかでひどく冷静なままの頭が、かわせるのか? と自問していた。
この三年、取っ組み合いはもちろん、駆けっこさえまるで御無沙汰。勘も鈍っていれば、余分な肉をため込んだ体も鈍りきっている。ここで死ぬかもしれないぞ。警備員、ビルを守って名誉の殉職。いやいや、ここは勤務地から外れた場所だから、そうはならない。グータラ警備員、勤務をサボって散歩中に、ヤクザにからまれて刺し殺される。うん、多分こっちの方だ……。
張り詰めた糸が、切れる時だった。まだ慣れていないのか、刃を上にした折りたたみナイフを握りしめ、小僧が腰を低くする。桃山も開いた両の手のひらをわずかに前に出し、ナイフの切っ先に目線を集中させる。「おまえらなにやってる!」という怒声が頭から振りかけられたのは、その瞬間だった。
路地の出口、通りに面した歩道から、肩幅の広いスーツ姿の男がこちらを見据えていた。街灯の逆光で顔は窺えなかったが、三人にはそれが誰だかわかったようだ。小僧はたちどころに腰を退《ひ》き、尻餅をついていた二人もあわてて立ち上がると、こちらに警戒、男に敬意の両方を同時に表して、壁際まで後退する。リーダー格が事情を説明する口を開くより前に、近づいてきた男の目が桃山のそれと合い、かすかに見開かれた。
「桃山さん……」
低い声と一緒に、逆光から外れた顔の形が明瞭になった。がっしり組み上がった体躯を包む三揃《みつぞろ》いに、一見穏やかな角張った顔。鷲《わし》の嘴《くちばし》を思わせる大きな鼻は、喧嘩で何度も潰された後遺症だ。なにより鷲鼻の両側で光る力のある目は間違えようがなく、「金谷《かなや》……か?」と呟いた桃山は、その場に棒立ちになった。
隙のない目が一瞬の感傷を滲ませ、互いの問にあった事象、それからの数年という時間を顧《かえり》みたようだった。ほぼ同じ身長の顔がゆっくりと歩み寄り、ぴしりと踵《かかと》をそろえると、金谷はあらためて腰を折ってみせた。
「ご無沙汰してます。その後、お変わりありませんか」
まるで熊が目の前を通ったかのごとく、壁に背中を押しつけて固まっていた男たちの口がぽかんと開いた。
「……ああ」と桃山が答えるより先に、まだナイフを手にしたままの小僧に気づいた金谷は、瞬時に豹変した顔と声で「バカ野郎っ!」と吠えた。
「いつまでそんなものぶら下げてやがんだ。この方は、おれの大事な恩人だ。……警察に勤めてらっしやるな」
最後のひと言は、含んだ視線と一緒に桃山に向けられた。無条件にわき上がる引け目を感じる間に、雷に打たれたように硬直した小僧がナイフを引っ込め、金谷は残る二人に「他、当たれ」と背中で指示を出していた。
「まだこの近くにいるはずだ。林と宮沢に合流しろ。気ぃ抜くな」
「はい!」を唱和して、三人が路地を走り抜けてゆく。やはり誰かを追っている。金谷が直接動くほどの相手は何者だ? と、錆《さ》びついた脳味噌が疑問を列挙したが、いまはもう聞ける立場ではなく、桃山は無言で金谷の横顔を見つめた。こちらの逡巡を感じ取ったらしい金谷は、口もとに穏やかな笑みを取り戻して、「ご迷惑おかけしました」と向き直った。
「いや……。妙なところで会うな。いつ出て来たんだ」
「もう二年になります。……その節は、すっかりお世話になっちまって」
二年。八年の刑期が言い渡され、服役したのは五年前だったから、ほぼ仮釈の規定通り、三分の一の三年で出てきたことになる。暴対法の嵐の真っ只中であっても、舟木《ふなき》会は金谷の腕を取り戻したがったということだ。確かにそれだけの価値はある男だった。金谷|稔《みのる》、または三日殺しの金谷。丸太のような腕から繰り出される拳を脳天に食らうと、その時は無事でも、三日後にぽっくり逝《い》ってしまうという伝説は、池袋を根城にするグレン隊上がりの老人たちにさえ信じられていた。
それなり以上に知恵も働くのに、幹部への道を蹴って用心棒であり続けようとした金谷をめぐり、桜田門がお隣の警察庁も巻き込んでひと騒動を演じたのは六年岡桃山の父親が、治る見込みのない食道癌で入院した年でもある。世話と言うのはおこがましいが、絶対不変の決定事項に逆らい、桃山が金谷の処分に関して孤軍奮闘したのは事実だった。
いまにしてみればなんのことはない、実にくだらないことで大の大人が口角泡を飛ばし、いがみ合った事件。思えばあの時から、自分もまた病魔に蝕《むしば》まれ始めたのかもしれない。価値観を見失い、世の中全部がバカバカしく見えて、やがて救いようのない無気力に陥る。絶望≠ニいう名の、死に至る病に……。
そうして、退官後にいくつかあった選択肢の中からいちばん安易な道を選び、なにもせずにグータラの限りを尽くしている自分に較べて、まったく衰えない金谷の眼光だった。変わらない鋭さを前に、桃山は自分の現在を告げる口を開かずにいられなくなった。
「なあ、金谷。おれは……」
「聞きましたよ。お辞めになったんですってね。いまは警備会社に勤めてらっしゃるとか」
先刻承知といった声に遮られて、桃山は口を閉じた。部下を納得させるために、警察の名を持ち出さなければならなかった金谷の気づかいがわかり、みじめな気分に拍車がかかった。
「意外でしたよ。わたしの知ってる桃山さんは、デカになるために生まれて来たようなお人でしたからね。……でも」そこで言葉を切り、金谷は少しだけ顔を伏せた。「納得もしました。あんたは組織に収まるような柄じゃない。特に警察なんていう、古くさい権威主義の集まりにはね」
そして、「太ったんじゃありませんか」と付け加えた。非難はしないが、褒《ほ》めるつもりもないといった目だった。桃山は、「楽してるからな」と言って、金谷の視線を避けた。
「おめえのシマは池袋だろ? なんだってこんなとこにいるんだ」
「ちょいと身内で面倒《ゴタ》がありましてね。まあ応援ってとこです。ご迷惑をかけるような真似はいっさいさせませんので、どうかご心配なく」
やや逸らされた金谷の顔は、人の生死に関わる緊張を孕《はら》んでいるように見えた。問いただしたい衝動が口まで出かかったところで、まっすぐに向けられた金谷の目がそれを封じた。
「あの時のご恩は忘れません。お困りのことがあったら、いつでも訪ねて来てください。東口のロキシーって店で言ってもらえば、わかりますから」
こちらの返事を待たずにもう一度頭を下げると、金谷は「じゃ」と背中を向けた。微塵《みじん》の隙もない後ろ姿が路地から消え、ひとり取り残された桃山は、泣きやんだらしい夜空を見上げてからその場を離れた。
久々の立ち回りの興奮を押し退けて、なめ尽くしたつもりの苦味が胸の中に染みていた。確か六つ下だったから、金谷はいま三十七。している稼業の善悪はおくとしても、あいつは生きている。いまそこに在る自分自身を肯定し、年齢相応のスタンスをもって世に接している。風のように現れ、消えていった印象を反芻《はんすう》しながら、桃山はそんなふうに思った。それに較べておれはなんだ。若くはないが、年寄りというわけでもない。なのにもう死んでいる。やってもやらなくても誰も困らない仕事、周りにいるのはそれに見合った老人ばかり……。
それ以上考えると、この後の酒がまずくなる。三年の経験で得た、それがいちばんの教訓だった。走り去ったベンツと一緒に捜索者たちの気配も消えたことを確かめた桃山は、インターホンごしに心配ない旨を竹石に伝えてから、アリランス亀戸の正面玄関に続く低い階段を上っていった。
マスターキーをポケットから取り出し、左に捻る。空回りした。磨《みが》かれたスチール製の把手《とって》を押すと、なんの抵抗もなく開く。もう自分のアパートの部屋と同じくらい開け閉めをくり返した鍵、どうもかけ忘れたらしい。唯一最大の仕事だというのに、グータラも極まったなと思いつつ、今度は中からちゃんと施錠をして桃山は警備室に戻った。午前零時半、毛布は敷いたままだ。一杯やって、六時の中間報告までひと眠りといこう……。
ドアを開けた途端、いつもと違う空気を感じた。顔を上げ、そこにあった光景を目に入れた桃山は、この晩なんど目かの異常事態に肝《きも》を潰した。
女がいた。若い……というより、いっそ少女と表現した方がいい、十代と見える女だった。男物のコートを羽織った背中が振り向き、こちち以上に驚愕した目が一瞬、大きく見開かれる。ちょうど受付窓口の脇に常備してある救急箱を手にしたところで、それを胸に抱いて棒立ちになった彼女の姿に、桃山の頭の中は真っ白になった。
「だ、誰だ……!?」
そうした状況に立ち合った人が、最初に口にするべき質問をぶつけると、少女もそれに見合った行動を起こした。救急箱をしっかり胸に抱いたまま、驚愕から恐怖、警戒に切り替わった少女の顔が一歩後退し、壁際に置いた書類用ロッカーに背中をぶつける。その目の下と唇の端に浮き出ている青黒い痣《あざ》に気づき、桃山が息を呑んだ刹那《せつな》、雨に汚れたスニーカーの足が逃げ出す一歩を蹴っていた。
警備室の大部分を占めて四つ向き合っている事務机に膝をつき、ペン立てやバインダーをなぎ倒しながら、反対側の床に転げ落ちる。咄嗟《とっさ》に捕まえようと身を乗り出した桃山は、すぐに起き上がった少女と机を挟んで睨み合うことになった。
まだ殴《なぐ》られて間もないと見える痣の他に、額と頬のかすり傷からも血を滲ませている。色が白く、整った顔立ちの美人だけに、かえって酷いものに見えた。コートの下に覗く、膝の破れたジーパンに張りついている赤黒い染みも血だろう。暴行や交通事故といった当たり前の推測は、まるで火事場から逃げ出してきたような、煤《すす》らしい黒ずみに汚れた全身の様子に退けられた。いったいなんだ? という言葉が真っ白な頭に浮かび上がり、もしや金谷たちが追っているのは……と思いついた桃山は、素早く動いた少女の目がペン立てからこぼれたハサミを捉え、右手につかみ上げるのを見て、ひやりとなった。
必死の目と一緒に、ハサミの切っ先がこちらに向けられる。救急箱を左手に持ち、警備室と控室を仕切る壁際まで後退した少女に、桃山は「待った!」と、開いた両手を前に突き出した。
「落ち着け。おれはここに詰めてる警備の人間だ。なにもしないから、慌てるな。な?」
少女のショートカットの髪が、汗で額に張りついていた。両手を上げたまま、ゆっくり机を回って近づこうとした桃山は、さっと突き出されたハサミにそれ以上の接近を封じられた。
「わかった。近づかねえよ」先の丸まった文具ハサミに大した危険はなかったが、いまは彼女を落ち着かせるのが先決と思い、桃山は顔面の筋肉を総動員して作り笑いを浮かべた。「とにかく、それ置けや。危ねえからさ」
ひきつった笑顔が逆に警戒心を煽《あお》ったのか、片手に救急箱、片手にハサミを持ち、退《さ》がれるだけ退がった少女の背中が壁にぶつかる。煤に汚れた顔に、焦燥より強い一途《いちず》な意思の張りを感じ取った桃山は、「あんた……外にいる連中から逃げてきたのか?」と尋ねてみた。
手にしたハサミがぴくりと震え、少女の口がかすかに開きかけたが、それだけだった。荒い息づかい以外、返ってくる言葉はなく、壁に寄りかかってどうにか立っている少女の様子に、桃山はこちらの胸も苦しくなってくるのを感じた。「おい、大丈夫か。怪我してんだろ?」と、腫《は》れ物に触る思いで声をかけると、きゅっと唇を結び直した少女の顔があわてて壁から離れた。
日の輝きはしっかりしているし、運動機能も問題はない。麻薬中毒の兆候はなく、商売女にも見えない。もしかしたら日本語がわからない、外国人かなにかか? ヤクザに追われているという仮定から考えられる限りの推測が頭の中を駆け巡り、桃山は少女の黒い双眸《そうぼう》をじっと覗き込んだ。臆さずに見つめ返す少女の瞳の中に、ふとそれまでと違う表情が浮かぶのがわかり、自分でもわからずにどきりとした。
なにかを確かめる目。そう見えた。少女の口が動き、何度か息を呑み込んだ後、辛うじて聞き取れるほどの声が八畳少しの警備室の空気を震わせた。
「助けて……くれますか?」
落ち着いた問いかけだった。思わず「なに?」と聞き返した桃山に、少女はハサミを捨ててまっすぐな目を向けた。
「お願いします、助けてください。怪我してるんです」
懸命な目と声が、今度ははっきりと耳朶《じだ》を打った。上げていた手を下ろして、桃山は一歩、彼女に近づいた。
「怪我って……あんたがか?」
「いえ……」背を伸ばし、その一歩を受け入れた少女の顔が、苦しそうに伏せられた。「あたしの……友達です」
言ってから、少女は顔を上げて黒い瞳で桃山を見た。傷つき、疲労しきった、自分の半分もない小さな肉体。おそらくは倍以上、年の開きがある少女。にもかかわらず、桃山はその日に気圧《けお》されていた。傲慢や威圧、世に溢《あふ》れる圧迫には無条件で反抗してきた自分だが、この目には逆らえない。なにかしら胸に迫る、一本筋の通った、ぴんと背筋の伸びたなにかがそこにはある。それはこの三年の間、存在さえ忘れていた熱さ、場違いに美しい人の生の姿だった。
タバコの脂《やに》が染みつき、湿気がところどころ壁紙を剥《は》がした場末の警備室で、グータラ警備員に向けられるべき視線ではない。見るのが辛く、桃山は顔を背《そむ》けた。いまの自分には眩《まぶ》しすぎる。一片の情熱もなく、時を過ごさずに潰している身には激しすぎる。物陰に潜んでいた身に光を当てられたようで、その苦しさから逃れるために、桃山はとりあえず言ってしまっていた。
「……どこにいるんだよ」
コートを脱ぐと、顔ばかりでなく、スタイルもいい少女の姿に驚かされた。頭が小さい。グラマーというのではなく、すっきりと健康的な体躯だ。肩の破れたシャツの背中について警備室を出た桃山は、なにひとつわからずに侵入者の言いなりになっている自分を省《かえり》みる間もなく、地階に続く階段を下らされた。
地階は、搬出入用のトラックヤードを兼ねる駐車場が大部分を占めていて、発送受取の簡単なメールコーナーが一画に仕切ってある他は、機械室と電話交換機を収めたMDF室があるだけの空間だ。宅配物は店子の自主管理に任せており、六階と七階に入居する服飾会社がほとんど独占しているコーナーには、この時も明日の朝いちばんで発送する小包が山積していた。
常夜灯の蛍光灯二本が照らすだけの薄闇を進み、メールコーナーの裏手にあるMDF室の前で立ち止まった少女は、「ここです」と言いながらスチール製のドアをノックした。
二回、三回、一回。中に隠れている友達とやらと取り決めた符牒《ふちょう》だろう。どこのビルにも必ずあるMDF室は、業者が月一回点検に入る以外、閉じっぱなしなのが普通で、ここアリランス亀戸でも巡回経路から外されている。少女の手首にすり切れたような傷を見つけ、針金捕縛された跡だと気づいた桃山は、「鍵が……」と口を開きかけたが、あっさり回ったノブにその先の言葉を止められてしまった。
「あたし。入るわよ」と、細目に開けたドアから呼びかけた少女の背中が、先に中に入る。暗闇の中、交換機を収めたキュービクルの作動灯が点《とも》っているのがまずは見え、その奥に、ひときわ濃い闇の凝縮がうずくまっているのが見えた。ドアが開ききり、外のわずかな光が六畳もない小空間を照らすと、その凝縮の形がはっきり目の中に飛び込んできて、桃山はこの夜、最後の異常と直面することになった。
最初に見えたのは、銃口の暗い穴だった。ぴたりとこちらの眉間に据えられたオートマチック拳銃の向こうで二つの燐光《りんこう》が瞬《またた》き、人の目だと桃山が理解するより先に、少女が電気のスイッチを入れた。むき出しの電球が打ちっぱなしの壁と床を照らし出し、配電盤に背を当て座り込んでいる男の姿を露《あらわ》にした。
やはり若い、少年と表現すべき顔がそこにあった。少女以上に汚れ、すりむけた顔に光る目は手負《てお》いの獣《けもの》のそれで、右手に構えたオートマチックの銃口同様、こちらを見据えてそよとも動かない。しっかり結ばれた口もとがその意志の強さと理知を伝え、桃山は無意識に自分も顔を引き締めていた。
そうするに足りる相手だと、本能が認めたのかもしれなかった。一秒にも満たない睨み合いの後、「やめてっ!」と叫んだ少女が間に入り、久々に見た殺気そのものの目は少女の背中に遮られた。
「この人は違うわ。あたしが呼んだの」
しゃがんだまま表情も銃口も動かさない少年に近づき、「ここの警備の人よ」と続けてから、少女はそっとオートマチックを握る少年の右手首に触れた。少年は左の脇腹に深い傷を負っているらしく、ブルゾンの下のシャツは出血でどす黒く染まり、血溜まりが床にまで広がっている。少女の手が少年の手首を包み込み、オートマチックを下ろさせるように見えたが、次の瞬間、空いている方の手を無造作に動かした少年は、少女の右手をつかむや、ひと息に横に転がしていた。
合気道の達人が見せる、無駄のない所作だった。思わず一歩を踏み出そうとした桃山は、すぐに向け直された銃口にそれ以上の前進を封じられた。射界を確保した目が再びこちらを捉え、それは先刻のチンピラたちなど及びもつかない、本物の目だと桃山にはわかった。銃身《バレル》に刻まれた螺旋《らせん》模様を見、拳銃も本物であることを確かめた桃山は、自分もかつて仕事で使っていたのと同じ視線で応じた。
脂汗を張りつかせた眉間に小さな皺が寄り、少年の目がほんの一瞬、殺気以外のものを宿して揺れた。
「……誰にも気づかれるなって言ったはずだ」
押し殺した声がその口から漏れ、外見相応の苦しそうな息づかいが後に続くと、銃口もほんの刹那、ぶれたように見えた。少年が、限界すれすれの体力で銃と緊張を保持している証明だった。尻餅をついていた少女は、「無理よ……!」と叫んでその横顔に体を近づけた。
「そんな怪我、ひとりでどうやって治すのよ」桃山を見据える少年の目に負けない、必死の目で少女は重ねた。「いまはあたしとこの人を信じて。悪い人じゃないわ。あんたと同じ目してるもの」
ぽろりとこぼれ落ちた少女の言葉に、桃山はわけもなく胸を衝《つ》かれたように感じた。棒立ちの桃山に目を向けたまま、少年は「わかるもんか」と応じた。その年齢の若者らしい、ふて腐れた声だった。
「とにかく、手を上げてもらう。悪いが、知られたからにはこのまま帰すわけにはいかない」
一瞬、覗かせた素顔を隠すように、より堅くなった少年の声と銃Uが桃山に向けられた。「やめてよ!」と肩に手を伸ばした少女を払って、濃い眉の下に光る少年の目は揺るがなかった。
「このビルに他に人は? 交代は何時に来る」
「やめてったら、バカッ!」手を上げかねない勢いで怒鳴ってから、少女は泣き出しそうな顔で桃山を見た。「ごめんなさい、怪我して気が立ってるんです。いつもはこんなじゃないんです」
少年の顔に苦いものが走り、桃山は少女の方に視線を移した。変わらない一途な光が、潤《うる》んだ目の向こうで揺れていた。
「いま言ったことは取り消します。少しの間でいいから、ここで休ませてください。……薬代は、後でちゃんとお支払いしますから」
脇に置いた救急箱に手を置き、少女が言う。「よせよ」と呟いた少年の声が、奇妙にくぐもって聞こえた。
「お礼もします。なにもないけど、あたしにできることならなんでも……」
立ち上がり、目を伏せて言った少女の顔は、立派な女のそれだった。「よせ」と、今度ははっきり少年の声が聞こえた。
「本当です。なんでもします。だから助けてやってください。ここにいさせてくれるだけでも……」
「やめろっ!」
怒鳴り、立ち上がろうとして、少年の足がもつれた。配電盤に背中をつき、左手で脇腹を押さえると、苦痛の吐息と一緒に脂汗を床に落とす。銃は桃山に向けたままで、あわてて支えに入った少女につかまり、また床に座り込んだ少年は、しばらくは顔を上げる力もなく肩を上下させた。
切れかけた体力を押して、少年が立ち上がろうとした理由。プロらしくない行動に訴えてでも、彼が守ろうとしたもの。硬化して久しい胸にそれが突き通り、桃山は我知らず拳を握りしめた。命ではない。意地とか尊厳とか呼ばれる、理性の対極にあるなにか。男の愚昧《ぐまい》だけが紡ぎ出す、徹底的に不器用ななにか――。奥底に眠っていた熱が共振し、気がついた時には、桃山はそうすると決めた一歩を踏み出してしまっていた。
すぐに銃口をかまえ直し、少年は緩む気配のない警戒の目を向けてきた。「……いいからよ、その物騒なもんしまえよ」と言って、桃山も逸らさない視線を据えた。
彫像さながら、少年は動かない。もう一歩近づくと、頑固な筒先だけが反応してこちらの動きを封じ、癇癪玉に火がついた。
「ここまで女に言わせて、恥ずかしくねえのかっ! さっさと傷見せろ。血い止めてやるぐらいのことはできっから」
銃口を無視して少年の脇に腰を下ろし、救急箱を引き寄せる。なにかを確かめる少年の目が注がれるのを感じた桃山は、手を休めて少年の目の底を見返した。銃口は天井に向けたものの、少年はまだ|引き金《トリガー》にかけた指を外そうとしない。無言の睨み合いは数秒続き、なにを納得したのか、ゆっくり伏せられていった少年の目が対峙《たいじ》の時間を終わりにした。
トリガーから外れた人差し指が、トリガーセーフにかけられる。じっと目を閉じた少年は、それで見ず知らずの他人に命を預ける覚悟を決めたのかもしれなかった。瞼《まぶた》を開くと同時に床の上に銃を置き、思いきったようにブルゾンから肩を抜いていた。
少年の苦痛の息を聞き取った少女が手を貸し、凝固した血でシャツに張りついたブルゾンをそろそろと脱がしてゆく。傷口を明かりに向け、左腕をうしろに逸らすよう言ってから、桃山は血に染まった少年の左脇腹に顔を寄せた。
ぼろぼろに裂けたTシャツの下に、無数の創(傷)。切創にしては創端が披裂状《ひれつじょう》で、挫創《ざそう》にしては創洞が深い。まるで熊の手にでも引っかかれたようだった。表皮|剥脱《はくだつ》も認められる。小さい創はすでに凝固が始まっていたが、四センチ以上皮膚を裂いた三つの創は、まだ出血を続けている。凝血で固められた服布を慎重に取り除き、ハサミでシャツを切り取って傷口を露出させた桃山は、怪我の原因を推測させるとりわけひどい傷を左胸の脇に見つけて、息を呑んだ。
表皮を破り、胸板に横から突き刺さった鉄片は幅一センチ、厚さは三ミリ近くあった。外側に突き出た部分は二センチ強で、刺さっている深さは想像するよりない。「他のは抜いたが、それだけ残った」と平然と口にした少年の顔を見てから、桃山は滲んできた汗を手のひらで拭った。
すさまじい力で引きちぎられた鉄片は、おそらく爆圧によって生じたもの。切創とも挫創ともつかない他の傷も、そう考えれば納得できる。こいつはなにかの爆発の直近にいたのだ。火傷こそないが、そこここに付着した煤がそれを裏づけている。拳銃片手の捜索に走り回っていた金谷たちの姿が思い出され、敵対組の構成員、よもやテロリスト……? と不穏な想像が頭を駆け巡ったが、いまは明らかに自分の手にあまる傷を、どう処置するかの方が問題だった。
「医者に行く気は……ねえんだよな、もちろん」と確かめた桃山に、少年はわかっているなら聞くなと言いたげな目を返した。
やれやれ、だ。「しゃあねえな」と呟いてから、桃山はじっと胸に手を当てている少女に目を移した。「おいあんた、さっきなんでもするって言ったな」と言うと、どきりとした顔に不安が差し込むより前に、少年の右手がオートマチックのグリップにのびていた。
「……はい」
「よし、じゃおれの助手になってもらう。まずは湯を沸かして、ありったけのタオルを持ってきてくれ。洗い場は警備室の隣にある。湯温は人肌よりちょい熱め」
虚をつかれた顔の少年をちらと振り返った桃山は、グリップから離れた少年の手は見ずに、立ち上がった少女に続けた。「それと、おれのロッカーにバッグが入ってるから持ってきてくれ。桃山って名札の貼ってあるやつがそうだ」
「わかりました」の返事が終わらない間に、少女の背中が部屋を飛び出し、桃山はあらためて少年の胸に突き刺さった鉄片と向き合った。肋骨に骨折の兆候はなし。斜めに胸板に突き立っている鉄片が胸壁を破っていたら完全にアウトだが、喀血《かっけつ》や呼吸困難がないところを見ると、その心配はないようだ。
救急箱から取り出した滅菌ガーゼを脇腹の出血箇所に当て、「押さえてろ。強くな」と少年に持たせてから、鎖骨のくぼみにある止血点を親指で押さえる。間接止血と直接止血の併用で血流を抑え、凝血が少しでも早く傷口を塞いでくれるのを期待した措置だったが、どれほど効き目があるかははなはだ疑問としか言いようがなかった。いずれ、傷口を縫い合わせる道具も技術も、ここにはない。
「あんまり当てにすんなよ。かなり前に救急法の講習受けたっきりなんだから」
自分と相手の両方を励ますために言った言葉だったが、少年は答えなかった。さてはやせ我慢も限界かと顔色を窺うと、しっかり結ばれた唇も、一点を見据える眼差しもそのままで、滲んだ脂汗以外、苦痛を想像させる色は皆無だった。
たいした野郎だと感心し、中性的でさえある整った横顔をまじまじと見つめた桃山は、「おまえ、名前はなんてんだよ」と重ねてみた。やはり返事はなかった。
「ナナシのゴンベエさんか。いまどき流行らねえぜ」
あまり長く血流を止めておくわけにもいかない。少しはおさまった出血を確かめ、鎖骨下動脈から指を外した桃山は、肩口に残っている昔の傷痕に気づいて目を細めた。
注射痕のような陥没は、間違いなく銃創――弾丸がめり込んだ痕だった。他にも無数の刺創、切創が無駄なく筋肉を備えた体のあちこちに残っており、彼の尋常でない過去を物語っている。拳銃はオーストリア製のグロック17。パーツのほとんどが強化プラスチックで構成されていて、空港の金属探知にも引っかからないとびきり高価な代物だ。日本の地下市場に出回っているという話は聞かないし、第一、ヤミで手に入れたものとも思えない。先刻見た銃口には、サイレンサーの装着痕らしいネジ巻き状の傷もついていた。こんな若僧が個人で用意できる装備じゃない、と結論した桃山は、銃創から外した視線を少年の横顔に戻した。かなりの規模を持つ組織の構成員? それならあの少女はなんだ。なぜ金谷たちはこの二人を追っているんだ……?
なんだ、いったいなんなんだ、こいつは。解答のない疑問が冷たい恐怖に変わる直前、とりあえずバッグだけを持ってきた少女が戸口から顔を覗かせ、桃山は物思いを消した。
バッグを置き、「お湯、いま沸かしてます」と言ったが早いか、少女はまた飛び出してゆく。姿勢のいい溌剌《はつらつ》とした動作が、背骨のない軟体動物のようないまどきの若い女を見慣れた目には新鮮だった。それまで壁の一点を見つめていた少年の目が、少女の消えた戸口を向いているのに気づいた桃山は、ショルダーバッグの中を探りつつ「いい娘だな」と言ってやった。
「手を出したら殺す」と少年。バッグの中からコンビニの袋に包まれたポケットボトルを取り出し、気を落ち着けるためと自分に言い訳してひと口あおった桃山は、「見損なうなよ」とその目を見返した。
「でもまあ、ここでおまえがくたばっちまったら、先のことはわからんわな」
景気づけの憎まれ口と一緒に、桃山はトリスのラベルを少年の口許に近づけた。アルコールの刺激臭に、慣れていないらしい少年の顔がかすかにしかめられた。
「なんだ、これ」
「酒だよ。麻酔の代わりだ。……むせないよう、ゆっくりな」
しぶしぶ受け取り、少年はボトルに口をつけた。さらにしかめられた顔が「安いの飲んでるな」と憎まれ口を返して、桃山は苦笑した。
「贅沢言うな。おれにとっちゃ貴重な睡眠薬だ」
「勤務中に酒か。不真面目な警備員だな」
「真面目にやる価値も必要もない稼業《かぎょう》なんだよ」血を吸いきったガーゼを外し、新しいガーゼをあてがう。もう余分がない。後で買いに行かなくては。「知ってるか? この手のビルが守衛を置いとく理由はな、保険金なんだ。火災保険も盗難保険も、警備を入れてるのと入れてないのとじゃ、掛け金が段違いだからな。万一のことがありゃ、警備会社が入ってる保険屋からも金がおりるし。もちろん税金対策にもなる」
脇腹の三ヵ所の創は、血が止まりつつある。化膿止めの軟膏《なんこう》を塗り込んで被覆《ひふく》すれば、縫わないでも塞がりそうだ。少し安心して、桃山は少年の顔を見た。聞いているのかいないのか、視線を宙に向けた横顔はぴくりとも動かなかった。
「優秀な警備員が、泥棒や火事を防いでくれるなんて誰も期待してねえんだよ。それなら機械警備の方がよっぽど安上がりだし、確実だからな。ようするに、おれたちゃ生きた保険証書ってわけさ。バインダーに綴《と》じて引き出しにしまっておいても、一向に構わない。なにもなければ誰にも見向きもされず、なにかあっても保険屋がぜんぶ面倒見てくれるってわけだ」
問題は、突き立った鉄片だった。どう考えても救急法で処理できる傷ではない。だいたい救急法は被覆と止血の応急処置が鉄則で、刺さったものを引き抜くなど論外。いちばんしてはならない危険な行為だ。外側に出ている部分はまっすぐだが、中がどうなっているかはレントゲンでも撮らない限りわからず、先が鉤状《かぎじょう》に曲がってでもいたら、引き抜く時に胸壁を傷つけてしまうかもしれない。そうなれば胸腔部内に空気が入り込み、気胸を引き起こして完全にお手上げということになる。いかにこの少年がタフでも、早晩、呼吸困難に陥ってバイバイだ。
かと言って、このまま刺さりっぱなしにしておくわけにもいかない。再びドアが開き、「お湯、沸きました」とヤカンと洗面器を持って現れた少女を、「よし、じゃんじゃん沸かして持ってきてくれ」と言って追い出してから、桃山は少年の横顔を見た。
察したらしい少年の目がこちらを見、顔を伏せた桃山は、タオルを湯に浸しながら「それな……。引っこ抜いたら、ちょいとヤバいことになるかもしれないぜ」と、偽りない現状を口にした。しばらくの間の後、「わかっている」という落ち着いた声が部屋の中に響いた。
「だがこのままにしておけば、いずれ化膿でやられる。抜くしかない」
「そんな高いチャカ持ち歩いてる奴が、モグリ医者の知り合いぐらいいねえのか?」
「……いまは誰も頼れない」痛みとは別の理由で低くなった少年の声が、答えた。「あんたがやってくれ」
孤立無援。そういうことかと納得して、桃山は「わかった」と返した。濡れタオルで血に汚れた体を拭き、立ち向かうべき鉄片に目を据える。周辺皮膚の炎症が露になり、ひとつ深呼吸した桃山は、抜いた後の出血を抑えるため、鎖骨下動脈を押して間接止血を開始した。
同時に、もう一方の手を患部に近づける。「その前に、ひとつだけ聞きたい」と少年が言ったのは、桃山の親指と人差し指が突き出た鉄片に触れようとした時だった。
「なんで……そんな仕事続けてるんだ?」
初めて聞くためらいがちの声に、桃山は「あ?」と聞き返してしまった。冷たい打ちっぱなしの床を見つめた目が「引き出しにしまわれて……見向きもされない……」と続けて、桃山は不意打ちを食らった痛みを腹のあたりに感じた。
「じゃ、おまえはなんで怪我してこんなとこに逃げ込んでんだよ?」
動揺を隠すためと、はぐらかすために吐いた言葉だったが、どちらの効果もなく、ただ真実を求める目だけが桃山に向けられた。自分の命を預けるに足る男か、確かめるように。空っぽの三年間を見透かされた気になり、桃山は目を逸らさずにいられなくなった。
「……ま、とりあえず楽だからな。ひとりで食うにゃ困らん稼ぎもあるし。今晩だってよ、それ飲んでぐっすり眠って、明日は新装でじっくりねばるつもりだったんだ。まったく、とんだ邪魔が入ったもんだぜ」
それのなにが悪い。逸らしっぱなしの目で開き直りを言った桃山は、「なんだ、新装って」と聞き返してきた少年の声に、少し驚かされた。
「パチンコだよ。新装開店。知らねえのか?」
「ああ……。想像力のない趣味だな」
「ほっとけ。……そんな男に、命を預けるのは不安か?」
聞いても始まらないことだとわかりながらも、桃山は言ってしまった。少年の目が宙を漂い、また一点を見つめると、「かまわないさ」と、なにかをふっきった声が答えた。
「命なんて安いもんだ。……特におれのは」
格好つけでも強がりでもない、事実を淡々と話す声と聞こえた。なんてことをぬかしやがると驚き、呆れ、その後、ふと冗談じゃないという言葉が桃山の胸中に固まった。
冗談じゃない。そんなことが、人の命が安いなんてことがあってたまるか。こいつも、あの娘も、おれも。こんな小汚いビルの片隅で終わっていい命、人生なんてあっていいはずがないんだ。自分でもわからずに体が熱くなり、桃山は「それ、もう二度と言うなよ」と口にしていた。
「こんど言ったら、ただじゃおかねえ。わかったな」
揺れた瞳が、返事だった。指先の震えがおさまるのを待ってから、桃山は鉄片に右手を近づけていった。
いちど抜いたら、やり直しはきかない。深度が浅く、まっすぐなら吉、深くてひん曲がっていたら凶。目を閉じ、開き、もう一度深呼吸してから桃山は鉄片に触れた。食い込んだ肉の感触が伝わり、少年の顔と体が初めて痛みに歪んだ。
「タオル、くわえてるか?」
「いらない。痛みには慣れてる。……さっさとやってくれ」
喘《あえ》ぎ声が答え、「そうかい」と応じた言葉を合図にして、桃山は一気に力を入れて鉄片を引き抜いた。ズル……と、ぞっとする肉の抵抗が指先を伝わり、声にならない絶叫を上げた少年の体が、大きくのけぞった。
抜いた鉄片を見る間もなく投げ捨て、用意しておいたガーゼを押し当てて直接止血する。間接止血が効いてくれたのか、さほどの出血はなかった。そのまま横にならせてから、桃山は少年の胸に耳を当てつつ顔色を見た。
呼吸も脈拍も荒いが、血色は悪くない。胸壁に傷がつけば、胸腔内部の圧が上がって息が浅くなり、唇も紫に変色するはずだ。少しほっとして、桃山は床に転がった鉄片に目をやった。
ナイフの切っ先のような形状の鉄片は、全長五センチ足らずで、先端もきれいに尖《とが》っていた。少年の胸板の厚さなら、胸壁にはまず影響ないと見ていい長さだった。今度こそ安堵した桃山は、溜まっていた息を吐き出し、顔いっぱいの冷や汗を拭った。
少年は全身で息をしている。仰向けの顔に鉄片をかざし、桃山は「痛みには慣れてるんじゃなかったのか?」と言ってやった。ひとつ大きな息をついた少年は、「心の準備ってもんがある」と睨み返してきた。
「抜く前に抜くって言え」
「下手にかまえられると、筋肉が緊張して抜きにくくなるんでな。……ほれ、もうちょい我慢しろ」
いったんガーゼを外し、消毒する。鉄片の鋭さが幸いして、傷口は思ったよりきれいに肉を裂いている。これならうまく塞がってくれるかもしれないと思いつつ、桃山は組織の回復を助ける副腎皮質ホルモン剤の軟膏を取り出し、傷口にチューブ半分塗り込んでから、最後の滅菌ガーゼを当てた。
少年に上半身を起こさせ、三角巾で被覆包帯を作ったところで、ヤカンを持った少女が部屋に帰ってきた。止血を兼ねてきつめに縛り、左肩に本結びの結び目を作り終えた桃山は、額いっぱいの汗を拭い、「済んだよ」と少女の顔に振り返った。
「本当の応急処置だけだけどな。あとはこいつの回復力に期待だ」
ヤカンを置き、仰向けになった少年に駆け寄った少女の背中は、他のなにも目に入らない一途さの塊だった。眠った、というより気絶した少年の顔に触れ、目と顔を伏せてゆく。小刻みに震え出した肩から目を逸らした桃山は、「しばらく寝かせてやんな」と鼻の下をこすった。
「そいつもよく頑張ったよ。おれはちょっと買い物に行ってくる。あとよろしくな」
薬はともかく、ガーゼと絆創膏《ばんそうこう》くらいなら表のコンビニでも手に入る。二人の食料だっているだろう。部屋を出ようとした桃山は、「ありがとうございます」とかけられた声に足を止められた。
「本当に……ありがとう……」
床に両手をつき、伏せた少女の顔からはひとつ、二つと水滴がこぼれ落ちていた。かっと頭が熱くなり、桃山は真っ赤になった顔をあわてて背けた。「すぐ、戻るからよ」と言い残して、逃げるように部屋を後にした。
警備室に戻り、こちらも血だらけになってしまったシャツを制服に着替えて、桃山は明治通り沿いにある二十四時間営業のコンビニへ向かった。通勤用の自転車をこぎつつ、金谷たちがまだうろついてやしないかと目を凝らしたが、暗く沈み込んだ通りには、とろとろ帰宅の道をたどっている地元の酔客以外、人の姿はなかった。
そこだけ煌々《こうこう》と明かりを灯しているコンビニには、街灯に吸い寄せられる蛾よろしく、小僧連中が雑誌コーナーで立ち読みを決め込むいつもの光景があった。包帯、ガーゼ、インスタントの氷枕をカゴに放り込み、サンドイッチやおにぎり、ジュース、それに怪我人用にこなれのいいものをとレトルトの粥《かゆ》を選んだ桃山は、顔見知りの中国人店員が詰めるレジにそそくさと大量の商品を持ち込んだ。普段は茶と弁当しか買わない身のこと、なにか言われやしないかと内心どきどきしたが、つまらなそうにバーコードセンサーを動かしている中国人店員は、最後まで目を合わそうともしなかった。
まだ金谷たちが消えた確証はない。包帯などの医薬品は包みのいちばん下にして、大急ぎでビルに戻った桃山は、いつも通り自転車の後輪をチェーンでガードレールに巻きつけ、巨体を屈《かが》めるようにして玄関に続く低い階段を駆け上った。
鍵を開け、もういちど周囲を見回してから中に入る。ほっと息をついた後、こそこそびくびくしている自分の滑稽《こっけい》さに、おれはなにをやっているんだという疑問がふと頭の片隅に立ち上がった。
不法侵入者――それも拳銃片手に、たったいま戦場から帰ってきたような奴を匿《かくま》い、世話してるなんて。この仕事を真面目にやる気はさらさらないが、なにを言ってもここは他人様の家。自分の勝手に使っていいという法はない。立派な犯罪行為だ。雨上がりの夜気に冷やされた頭がいまさらながら常識を捻り出し、それを合図にしたかのように、受付窓口の向こうにある電話が桃山の目に入った。
通報すべきではないか。そうすれば病院できちんと怪我の手当もできる。これ以上、面倒に関わらずに済む。そんな言葉が固まり、桃山の頭の中で秤《はかり》がゆらゆらと振れた。
一方の皿には、生きているのか死んでいるのかわからないこの三年間の生活と、これからも続くその繰り返し。そしてもう一方の皿には、なにかを為し遂げた達成感が載っていた。いま放り出せば幻のように消えてしまう、きっと一生後悔するだけのなにか。秤の動揺が一方に振り切って止まり、電話から目を離した桃山は、後はもう二度と振り返ることなく、二人の待つ部屋に戻っていった。
買い物袋と一緒に、警備室にある会社支給の難燃毛布を六枚、少女に渡した。「薄っぺらだけど、コンクリの上に直接寝るよりゃマシだろ。一応、空調は強めに入れといたから」と言うと、「すみません……」と言った少女の顔がまた目を潤ませかけ、桃山はあわてて袋の中身に目を逸らさなければならなくなった。
「これ、真ん中押すと冷たくなるんだってよ」インスタントの氷枕を後ろ手に差し出し、桃山は意味もなく上ずった声で言った。「今晩は多分熱出すだろうから、様子見て使ってくれ」
少年は死んだように眠り込んでいる。少女は「はい」と両手で受け取った。
「朝七時に清掃の人間が来て、そのあと八時には玄関と裏のシャッターを開ける。そうしたら人もたくさん出入りするようになるが、ここは月一回、業者が点検に来る時しか鍵を開けないから、まず心配はない。当分はじっとしてることだ。こいつは、傷口が塞がるまでは絶対安静だからな。特に左手は動かさないこと」
「はい」
「おれは朝九時にあがって、夕方の五時半に戻ってくる。ここは雑居ビルだから、この部屋に出入りする時だけ気をつければ、トイレに行ったりするのは自由だ。でもなるたけ出ないようにな。上で残業がなければ、九時には鍵閉めて誰も入れないようになっからさ」
「わかりました。本当にありがとうございます」
氷枕を両手にした少女の頭が深く下げられ、桃山はまた少しどぎまぎした。まったく、こんな娘に世話かけさせやがって。包帯巻きの少年に目をやった桃山は、二人の関係はどの程度のものなのだろうと、ついわき起こった下世話な想像をあわてて頭から消し去った。
「本当は入院しなきゃなんねえ傷なんだが……。ま、こいつの若さならなんとかなんだろう。しっかり面倒見てやんな。おれは警備室にいるから、なにかあったら呼んでくれ」
部屋を出ようとした桃山は、「あの……」と思いきって出したような少女の声に呼び止められた。振り返ると、少女の迷う目が横に逸らされ、少しの沈黙の後、こちらをまっすぐに見上げた。
「あたし、葵《あおい》っていいます。お世話になります、桃山さん」
それで、すべて報われた気になった。「よろしくな」と返して、桃山はほとんど空になった救急箱を片手にMDF室のドアを閉めた。
警備室の時計は、午前一時半を指していた。竹石にインターホンごしに呼びつけられてから、一時間半あまり。ぷっつり緊張の糸が切れた体に、この三年でいちばん密度の濃い九十分の疲れがどっとのしかかり、桃山はソファに倒れ込んだ。清掃が入る前に洗い場で使ったものの始末をと思ったが、すぐに襲いかかってきた睡魔に気力を奪われて、三年ぶりに酒のない眠りに落ちていった。
翌朝、インターホンの音に起こされた。液晶画面に清掃のおばちゃんの顔が映り、六時五十五分の時計の針を見た桃山は、あわてて玄関の鍵を開けに向かった。
洗い場は、心配をよそに使った形跡すら残っていなかった。あの娘――葵が片付けたのだろう。洗面器とヤカンもちゃんと元の場所に戻っている。ただタオルだけはごまかしようがなく、カップ麺をこぼしちまったんで使わせてもらった、洗って返すと取り繕った桃山は、「五枚も?」というおばちゃんの呆れ顔は見ずに、二人の様子を見るため地階へと急いだ。
鍵がかかっていた。昨日の符牒を真似てノックすると、鍵を開ける音と一緒に、細目に開いたドアの隙間から葵の顔が覗いた。充血気味の目に「変わりないか?」と尋ね、「はい」の返事を得た桃山は、「じゃ、また今晩」と言い置いて上に戻った。
雨上がりの青空が、酒の残らない目覚めを迎えた体に心地よかった。六時に本社に入れる中間報告をすっぽかしてしまったが、別に初めてのことではない。派遣先の安全を確認し、異状があればすぐ対応するための電話報告だというが、夜間は車の運転もおぼつかない年寄りの電話番がひとりいるだけの本社に、なんの対応を期待できるはずもなく、この三年間「服務中、異状なし」以外のセリフは言ったためしがない。新聞受けから三紙分の朝刊を取り出した桃山は、自動販売機がカップコーヒーを抽出する間にぱっぱと顔を洗い、警備室に引き返した。
不味《まず》いが、とりあえず温かいコーヒーを啜りつつ、一面をざっと眺める。昨日行われた神泉教教祖の初公判記事が、法廷内のスケッチ画と一緒に紙面のほとんどを占拠しており、期待していた暴力団同士の抗争、爆発などの文字はなかった。
事故にせよなんにせよ、この国で爆発が起こって誰も気づかないなんてことは考えられない。零時前に事が起こっているのは確かだから、朝刊の一報には間に合ったはずだ。爆圧に引きちぎられた鉄片の形を思い起こし、ページをめくった桃山は、やはり裁判記事が大半を占めている社会面に、その推測の裏づけとなる記事を見つけ出した。
(浅草でガス爆発 ビル半焼
二十五日午後十時半ごろ、東京都台東区雷門二ノ○ノ○、テナント型ビル「ビオラ雷門」四階から「ドーン」という爆発音がして出火。四階建てビル九十平方メートルのうち三階と四階を焼き、同階に入居していた事務所従業員八人が火傷などの重軽傷を負って病院に運ばれた。
警視庁捜査一課と浅草署では、火元となった四階事務所の洗い場にガス管の破裂した跡があり、従業員が夜食の支度をしている最中に爆発が起こったことから、老朽化した管から漏れたガスに引火、爆発したものと見て調べている)
一読して、引っかかることのあまりの多さに閉口した。タバコに手を伸ばしながら、桃山は訃報《ふほう》記事の隣にちんまりと載ったベタ記事を頭の中で検証してみた。
前代未聞のテロ事件首謀者の初公判に追いやられたとはいえ、首都圏のビルを半焼させた爆発火災にしては、あまりにも扱いが小さすぎるというのがひとつ。ガス爆発にもかかわらず、下階までが延焼した不自然さがひとつ。爆風が炎を吹き消すガス爆発では、引火危険物でもない限りそれほどの火災は起きないはずだ。だいたい最近のガスは、管に異常があれば自動的に供給が止まるようになっている。よほどの老朽建築物ならともかく、このビオラ雷門はバブル時代に建て直されたばかりのビルだ。桃山はそれを知っており、知っている理由が、この記事が引っかかる最大の原因だった。
いつでも高級外車が納まっていた一階の上は、神山組《かみやまぐみ》と書かれた提灯《ちょうちん》と神棚が壁を飾る事務所。三階は組員の待機場所兼仮眠室。四階は確か、神山組長自身が住居に使っていた。テナント型ビルとは登記上だけの話、そこが指定暴力団舟木会系神山組の事務所であることは、近隣の住民なら誰でも知っている話だった。
指定後は、多くの三次団体がそうしたようにフロント企業、つまり企業舎弟に転身し、形だけ盃《さかずき》を返した若頭を社長に据えて輸入車販売修理会社の看板を掲げていたが、裏でやっていることは変わらない。暴対法が施行された年、国税局と連携したフロント企業壊滅作戦に警察が血眼《ちまなこ》になっていた頃には、桃山も直接事務所に出向いてそれを確かめた。組の看板を下ろし、似合わない背広を着込んでワープロなどを叩いている元組員たちの机の中には、幼稚な暗号に変換されたミカジメ代徴収帳簿がしっかり納まっていたのだから。
あれから四年、ビルそのものが人手に渡った可能性もないではないが、所轄《しょかつ》の浅草署と並んで名前の出ている本庁捜査一課の早すぎるおでましは、事故以外の原因をあらかじめ想定していたがゆえのものと見て、まず間違いなかった。そうでなければ、ビルとも住居ともつかない建物の上半分が焼けた程度で本庁の臨場《りんじょう》が要請されることはありえず、仮に浅草署がすぐに不審火と判定し、捜一の火災犯担当を呼んだにしても、朝刊の一報に並んでその名前が出るとは考えられない。要人の家が火災にあった時などは、過激派テロを警戒して本庁公安部にも出動がかかるので、一報であっても所轄と並んでその名前が出ることがあるが、今回の記事もそれと似た匂いを感じさせる。つまり、爆発現場が指定暴力団の三次団体事務所であると知っていた桜田門が、抗争による爆弾テロを懸念して迅速に動いた……ということだ。
にもかかわらず、舟木会のふの字も記事にはなく、あれほど間違いには神経質な桜田門が自ら、消火間もない現場検証で不自然な断定発表を出している。まるで早々に幕を下ろそうとするかのように。サツ回りの記者連も、現場がどういう場所かわからないはずはあるまい。発表をそのまま、形式上やむを得ずと言わんばかりに片隅に載せて、フォローする気配もないとはおかしすぎる。新聞を閉じ、桃山はせめてテレビが現場の映像を流してくれるのを期待したが、ちょうど始まった首都圏のローカルニュースでさえ、浅草で起こったビル爆発火災を報じることはなかった。
コーヒーの温もりも虚しく、背筋が冷たくなるのを感じた。金谷たち舟木会の捜索、逃げ込んできた少年の傷、それにこの記事。考えられるもっとも有力な仮説は、少年が神山組事務所を襲撃、爆破して、そのとき負った怪我を抱えてここまで逃げてきたというものだが、金谷たちの追跡はそれで説明できるにしても、あたかも隠蔽《いんぺい》工作のような桜田門の動きはわからない。そもそもあの少年は何者なのか。舟木会と敵対する組織のヒットマン? それならあの少女、葵はいったいなんだ。虚偽の発表を信じさせた背景には、マスコミ各社に対するそれなりの根回しもあったことだろう。そうまでして真相を隠さなければならない、それほどの重大事件にあの二人が関わっているとでもいうのか……?
ふと、忘れていたはずの電話番号が頭に浮かんできた。本庁捜査四課直通の電話番号。退官後は雲隠れしたも同然で、当時の同僚とは完全に交際が切れていたが、話せる奴がいないではない。こちらの想像通りだとしたら、火災現場には当然マル暴担当も駆けつけているはずだから、なにか聞き出せるかもしれない。再び電話に目が行き、しばらく見つめてから、桃山は苦笑と一緒にその思いつきを却下した。
まだなにもかも仮説に過ぎない。早まったことをして、少年の存在を気取《けど》られでもしたら最悪だ。それより、こうなってしまったからには、片付けておかなければならない目先の問題がある。受話器を取り、冷たい不安を追い払った桃山は、下敷きに挟んだメモに記された番号を押していった。
(こ、来なくていいって、それはいったいどういうことでありますか……!?)
大声に、桃山は受話器を耳から遠ざけた。苅屋《かりや》誠《まこと》、三十六歳。なにを勘違いしているのか、警備業に奇妙な情熱を燃やしている彼は、もう五年もの間このアリランス亀戸に詰めている。桃山と交代で夜勤に入っており、今日から二日間は彼の当直だったが、よもや二人の世話まで交代するわけにはいかない。石頭相手に言い繕うのも面倒なので、単刀直入に「今日と明日、来ないでいいから」と言った桃山に対する返事が、ほとんど悲鳴に近いその声だった。
「落ち着けよ、別に永遠に来るなって言ってるわけじゃねえんだから。今日と明日の夜勤を代わってくれりゃいいんだ。勤務予定表はそのままでいい。そっちから本社に上番《じょうばん》入れてくれりゃ、おまえが働いたことにしとくからよ」
大手は別として、中小の警備会社の社員には、残業代で稼がなければ人並みの生活が送れないという苛酷な現実がある。契約金の八割が人件費に消えてしまう生産性の低さが、基本給を極力抑え、退職金などの出費を最低限に済ませなければならない台所事情を生み、三年勤続している桃山でさえ、基本給は十三万に満たない。これに加給の七万、夜勤手当が加わってようやく二十万と少し。手取りで二十五万もらおうと思ったら、基本の百八十時間に加えて四、五十時間は残業する必要がある。無論、ひとつの勤務先に割り当てられた時間は限られているので、好きにできるものでもなかった。一方が時間を取りすぎれば他方の時間が少なくなるので、双方話し合いのもと、勤務予定表は作っていかなければならない。特にこのアリランス亀戸派遣隊の場合、桃山と苅谷の専属の他に月四回ペースでアルバイト隊員が入れられるようになったので、時間の振り分けはいよいよ厳しいものになっていた。残業しなければ食っていけない一方で、労働省から、ひと月に百を超える残業時間の改善を迫られている本社の事情も忘れるわけにはいかない。
独り身の桃山と違い、苅谷には老母と妻の家族がある。ひとつ勤務を変えると後々までの変更を余儀なくされ、時間に響く結果になるので、苅谷に予定通り稼がせるための「代理出勤」提案だったが、真面目な彼はあくまでも真面目だった。
(でも、もし本部にバレたら……)
「大丈夫、バレやしねえよ。本社の連中が、契約更新の時以外に顔見せたことあるか? 上下番《じょうげばん》と中間報告の声がおまえなら、向こうはその通りタイムカード押すよ」
在社年数でいえば苅谷の方が先輩で、入社当初、桃山が見習いとして送られて来た時には、やはりガチガチの石頭だった前任者と二人、やってもやらなくても誰も困らない仕事を、まるで国事のように厳粛に執《と》り行っていたものだった。引継ぎ、申し送り時には直立不動、巡回に出かける時には敬礼。そうすることでなにかが報われると信じているかのように、本社の業務マニュアルを一から十まで実践している姿は、真面目というよりも子供の兵隊ごっこを連想させた。
しばらくはつきあっていた桃山だが、間もなく堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れ、先輩風を吹かし、あれこれ小うるさいことを言ってきた前任者と拳骨で話し合った結果、他の派遣隊に異動する予定だった彼は他の会社に移ることになった。それを目《ま》の当たりにした苅谷はすっかりおとなしくなり、当時に較べればかなり砕けてきたが、それでもまだ元来の小心が災いして、規則通り動く人形を演じて安心している節《ふし》がある。いい歳をして……と思うのだが、この手の自立心が欠如した大人は前の職場でも目にしているので、桃山もことさら言うつもりはなかった。どだい、この国にはそんな連中が多い。神泉教事件がいい例だ。組織の一員としての自分にしか価値を見出せないから、自分で考える頭がなくなり、集団でバカな真似をする……。
「おまえの給料を、このおれが稼いでやろうって言ってんだ。文句ねえだろ?」
(ですが、自分にも責任というものが……)
口を尖らせた苅谷の声に、わかっていてもカチンときた。まったく融通というものがきかない。言っていることは正論でも、それを押して頼んでいるこちらの心情や事情を想像しない、できない奴は一人前の大人ではないと思う。いつでも真面目ないい子の自分が最優先と主張せんばかりの声に、一秒前の達観を忘れた桃山は、「なにが自分だよ」と悪態を返していた。
「日誌打って散歩して、後はぼけっとテレビ見てるだけだろうが。猿でもできる仕事にどんな責任があるってんだよ。とにかくよ、おれがその責任とやらをおまえの分もきっちり果たしといてやるから、おまえはとうぶん家にいろ。わかったな」
勢いと口では負けない。苅谷は(は、はい……)と、胃腸虚弱の痩せぎすに相応《ふさわ》しい細い声で了承した。
(でも、どうして……)
「いいの、おれがそうしたいの。そんじゃ楽しい臨時公休を」さっさと切り上げようと受話器を置きかけて、桃山は最後にもういちど釘を刺しておくことにした。「あ、もしもし。それからな、もし本社にチクったりしたら、おまえん家《ち》に火ぃつけるからそのつもりで。じゃ」
これでよし。目下の懸案事項を片付けたところで、テレビの時報が午前八時を告げた。シャッターを開け、正面玄関を解錠した後は、ぼちぼち顔を見せ始める店子の従業員に各事務所の鍵を渡す、唯一仕事らしい仕事が始まる。授受簿に名前と時刻を書かせるのと引き替えに鍵を渡し、こちらも三文判のハンコを押す仕事を続けて三十分。預かっている七つの鍵のうち四つが出払い、桃山が二杯目のコーヒーを買いに出ようとした時、このビルの管理部長である関田《せきた》が出勤してきた。
くたびれた五十七歳、という表現で人格の大半が説明できる関田は、アリランス亀戸の他、都内にいくつかテナントビルを経営しているヨツバ興業の社員で、かつては営業部長として海外リゾート開発に飛び回っていたらしいが、バブル崩壊の余波に押し流されて、墓場一歩手前のここに漂着する羽目になった。他にも二人いるリストラ最前線の社員とともに、平日の九時から五時までこの警備室兼管理室に居座り、普通にやれば一時間で終わる仕事を一日かけて行うのが役目で、口を開けば華やかなりし過去の四方山話《よもやまばなし》、無情な本社に対する恨みつらみが飛び出してくる。猫背の上の眼鏡面が「おはよう」と言い、その後は「なにもないでしょ?」と昨晩の異状の有無を確かめるのが常だったが、この時はひどく真面目な顔が「桃さん……」と近づいてきた。
「聞いたよ。昨夜、ヤクザと立ち回りしたんだって?」
「はあ? なんのこってす」
「安田ビルの守衛さん言ってたよ。ヤクザ十人をひとりで追っ払ったって。さすが元刑事だって」
竹石、あのバカ。喉まで出かかった罵声を呑み下して、桃山は曖昧な愛想笑いを浮かべた。竹石のところは契約を切られまいと色々な雑務を買って出ていて、玄関前の掃き掃除なんてこともやっているから、そこで関田と話になったのだろう。騒ぎにしたくないからと頼みに来たのは、そっちのくせに。桃山は「そんな大げさなもんじゃねえですよ」と言って、それ以上の追及を遮断した。それでなくても、いまは心配性の関田が知れば目を回すようなことをしている身だ。
「困るよ、あんまり無茶なことされちゃ。お礼参りでもされたらどうすんの。このビルになにか嫌がらせされるようなことがあったら、ぼくの立場というものが……」
肝心なところに気が回らず、どうでもいいことで的外れな大騒ぎをする。害もなければ益もないこの男の、それが最大の欠点だった。同輩社員二人ははなから無視、苅谷ははいはい頭を下げるしか能がないので、結句桃山がお守り役を務めなければならなくなる。腰に手を当てて、桃山は「なに言ってんです」と、頭ひとつ小さい関田を見下ろした。
「部長、ついこないだ暴追ネットワーク(地方警察署が主催する企業参加の暴力団追放連絡会)の講習受けてきたばっかでしょう? なに聞いてたんです。連中はね、いまは暴対法でがんじがらめにされてんです。金にならないリスクは冒《おか》しません」
「でもねえ……」
「大丈夫、大丈夫。さ、今日は壁の塗り替えで業者の見積りに立ち会うんでしょう? 準備準備」
他に話し相手のいない孤独な身の上を自覚してか、ユーザーと派遣警備貞という上下関係を越え、関田も桃山の言うことには逆らわないところがある。まだ納得しきれない様子の猫背を机の前に座らせ、桃山は都合よく現れた店子の従業員に鍵を渡しに向かった。関田と顔を合わさないよう、授受簿に念入りにハンコを押していると、もうひとりの社員、本村《もとむら》が出勤してきた。
電気設備士の資格保持者である彼は、ビルの設備管理を実質一人で切り盛りしている最大の実力者だ。年齢も四十五と桃山に近く、閑職に回された身を嘆く前に、あまるようになった時間を利用してバイクの免許を取りに行くなど、優れたマイペースぶりを発揮している。納得のいかない仏頂面《ぶっちょうづら》をバインダーの資料に向けている関田を窺い、「これ?」と両の人差し指を角にした村本に、「いつもの発作」と応じて、桃山は昨晩の警備日報を手渡した。
これで、その日の勤務は終了になる。八時四十分、契約は九時までだが、そのへんは現場裁量だ。のんびり着替えて五十分頃に下番の電話を入れれば、本社も九時までの時間をつけてくれる。ロッカーに向かった桃山は、返り血に汚れたシャツはそのままバッグに押し込んで、ランニングの上に直接着込んだブルゾンの前をぴっちり閉じた。本社に下番報告を入れ、「じゃ、お先に」と関田たちにひと声かけてから、アリランス亀戸を後にした。
自転車をこぎ、裏手の搬入口に回ってみる。猫のマークの宅配便トラックが、地下に続くエントランスに荷台の尻を突っ込んでいる姿があり、その向こうに、MDF室のドアをわずかに窺うことができた。仕分けに立ち働いている服飾会社の社員たちは、いつもと同じ、閉じっぱなしのドアに注意を向けはしないだろう。まずは大丈夫の安心と、少しの不安、それに自分だけが知っている秘密の優越感を抱いて、桃山はその場を離れた。
第二安田ビルの角を曲がったところで、同じく勤務を終えた竹石のしょぼくれたジャケット姿と鉢合わせた。笑顔で口を開きかけた顔を「おしゃべり」と睨みつけた桃山は、口をぱくぱくさせる竹石は振り返らずに、ペダルを踏む足に力を込めた。
蔵前橋通りに出て、東に直進。自宅のある平井《ひらい》まで約二・五キロ、体調がよければ十分で行ける距離だ。雨に洗われた後の晴天は空気も爽《さわ》やかで、桃山は通りを走るトラックや乗用車と競走するように自転車を走らせていった。
通い慣れた道は、通る人や車さえ見知ったものばかりのような気がする。株式会社東陽警備に入社して三年、幾度かあった別勤務地への異動を断り、桃山が亀戸に居残り続けたのは、単に通いの便を考えてのことではなかった。渋谷や新宿、大きな繁華街には元の仕事で知り合った組の連中が多く、そこにあるビルに詰めれば、やはり顔見知りだらけの所轄署とつきあわなければならなくなる。かつての同僚や後輩から、警備員姿を物笑いの種にされるのはたまらない。いくらでもあった大手警備保障会社の管理職待遇の引きを断り、就職雑誌でとりあえず目についたいまの会社に飛び込んでしまったのも、それが理由だった。下手に管理職の肩書きでももらって、警察や地方公安委員会との折衝係などにされた日には、抜け出した意味がなくなってしまう。とにかく少しでも知り合いのいないところ、煩《わずら》わしさのないところをと希望して、たどり着いたのが亀戸の現場勤務なのだった。
入社当初は本庁勤務の経歴から期待の星と目され、幹部候補生として半年に一度の教育カリキュラム編成を任されたり、営業所ごとに常置が義務づけられている警備員指導教育責任者の資格を取るよう勧められたりしたが、当人にやる気が完全にないとわかったいまは、本社の態度も触れず関わらず路線に落ち着いている。三人に満たない派遣隊の隊長で一生を終えたいと言うならそれもよし。きかん坊に無理強いをしても始まらない、とあきらめたのだろう。
一度、そんなに昔の職場との接触が嫌なら、なぜ警備会社なんかに勤めたのかと尋ねられたことがある。他にできそうな仕事がなかったから、というのがその時の桃山の答えだった。高校を出てそのまま警察学校に入学、以後ひたすら警官として過ごし、他の物の見方さえ知らなかった自分に、いまさら他の商売ができるはずもない。職能を活かしてのヤクザ転向、興信所勤めなんかもまっぴら御免。結局、形こそ警察を真似ているが、実態は無と言って差し支えない警備業、それも場末の施設警備が、自分には似合いだったのだ、と。
警官以外の生き方を知らなかった自分は、その仕事に対する情熱を失った瞬間から、生きることそのものにしらけてしまったのかもしれない。退官直後、もし退職金が自由に使えて、アル中になるだけの時間と生活の余裕が与えられていたら、間違いなくそうなっていただろうと桃山は思う。その意味では、職を失うと同時に家庭も失い、微々たる退職金も慰謝料や一人娘の養育費に充《あ》てなければならなくなった経緯は、桃山には救いになった。官舎から一人移り住んだアパートの家賃を払い、死ぬまでは食い続けなければならない体を養うために、とりあえず働いてみせなければならなかったのだから。
働くために生活があった人生から、生活のために働く人生へ。変化に伴う痛みはすでに過去のものとなり、近頃は昔の自分を笑える境地にすら達しつつある。使命感に溢れ、警察機構という徹底した縦社会の片隅に位置しながら、どこかで正義を実践しているつもりだった自分。軟弱を嫌い、無能を軽蔑し、まるで自分を特別の人間のように思っていた。青臭くて、小生意気で、鼻持ちならないエゴイスト。携帯電話片手にドラマの主人公を気取っている若いサラリーマンや、それが世界を救う仕事であるかのごとくせかせか働き回っている連中を見ると、昔の自分を見ているようでなんだか腹が立ってくる。そうして働き詰めて、その先になにがある? 社長と株主を儲《もう》けさせて、頭をなでられればそれで満足か。昇進したところでしょせんはどんぐりの背くらべ、いらなくなったらいつでも捨てられる歯車でしかないのに。一生懸命働けば自分も会社も発展して、社会も進歩するなんて論理は、三十年前に終ってるんだ。頑張りすぎ、稼ぎすぎがありもしない価値を作り出し、借金地獄という結果に直面させられているいま、なにをあくせくする必要がある。生活のためか? だったらそれが生き甲斐って態度はやめにしてもらいたいもんだ。企業戦士の自己満足で、これ以上世間を住み難くされるのはまっぴらごめんだ。
もっと気楽に行けばいいのさ。夜勤が明けるたび、適当な喫茶店でモーニングをつつきながら時間を潰し、その晩に勤務がなければ夕方までパチンコ台の前に居座る生活の中で、そんなふうに思ってきた。勝てば帰りに寿司屋か焼肉屋に寄り、大勝ちすればそれプラス風俗店。負ければほか弁を食ってさっさと寝る。以前の自分に言わせれば「酸素の無駄」のような毎日を、そう納得して紡いできたはずだった。
でもそれなら、日中、町ですれ違うネクタイたちの顔を見る時、例えようのない胸苦しさを感じるのはなぜなのか。正視できず、感じる必要のない引け目を感じて、目を逸らしてみたり、開き直りのやぶ睨みをしてみたり。まるでその中に昔の自分がいて、見咎《みとが》められるのを恐れているかのように。昨夜もそうだった。金谷の目をろくに見返すことができなかった。こいつは生きているが、おれは死んでいると、理屈抜きでそう感じた。そしてあの二人……。
旧中川を越えると、そこはもう平井になる。荒川によって母体の江戸川区から切り離され、墨田区とも旧中川で隔《へだ》てられている一画は、よくよく地図を見れば、蛹《さなぎ》の形をしたひとつの島であることに気づかされる。それまであった中小のオフィスビルは零細ぶりをいよいよ際立たせ、アパートや一戸建ての住宅が増える一方で、荒川沿いには工業会社のバラックや倉庫、工場が建ち並ぶ。かつては高度成長の一翼を担ったその一角に、桃山の住むアパート「富士見荘」があった。いつ果てるとも知れない旋盤機械の音を遠くに聞きながら、桃山は上り慣れた鉄階段を上っていった。
築十二年、一応、鉄筋の二階建てアパートで、四つ並ぶドアのいちばん奥、二〇四号室が桃山の借りている部屋だった。1DK、トイレと独立した風呂が付いて月五万の家賃は、都内では格安の部類に入ったが、越して三日と経たずにその理由がわかった。小道一本挟んだ向こうの工場から聞こえる機械音はまだしも、堤防に並んで走るすぐ前の道路をトラックが通過すると、アパートそのものが縦に震動するのだ。ろくな地質改良もせずに建てた建物なのだろう。川を少し上ったところには大手化工会社の工場があり、日中はひっきりなしに行き来するダンプのために、しばらくは夜勤明けの昼寝もできないありさまだったが、慣れてしまえばどうということもない。いまでは至って住み心地のいい、自分だけの城だった。
ひと晩閉じっぱなしだったカーテンと窓を開けると、対岸を走る首都高の高架が堤防の向こうに見える。川の湿気を含んだ空気は、気温が上がってくると泥混じりの水の臭いを宿し、それが家賃の安いもうひとつの理由になっていたが、桃山は気にならなかった。川や海、水を湛《たた》えた広い場所には、昔から奇妙な憧憬《しょうけい》がある。気が向けば堤防に上り、灰色とも深緑ともつかない色の川面《かわも》をぼんやり眺めるのも、桃山の時間の潰し方のひとつだった。
いつだったか、大型台風が関東を直撃した時も、雨風に吹き曝《さら》されるのもかまわず、水位の上がった黒い流れを見下ろしていたことがある。綾瀬川、中川と合流した荒川が、その川幅を数百メートルにまで拡げたところ。土砂に濁《にご》った視界いっぱいの川は、河岸に溜まったさまざまなゴミや水草を押し流しながら、どうどうと力強く流れていた。暴風にちぎられる川面、護岸壁に激突して上がる白い飛沫《しぶき》。人工物に固められた都市という容れ物の中でのたうちまわる、それは巨大な生物に見えた。身に帯びた無数の芥《あくた》を気にするふうもなく、ただその衝動に従って海を目指す黒い混沌。刻々と表情を変化させるそれを、桃山は飽きることなく見つめていた。畏怖と驚嘆、それになにかしら胸を衝く懐かしさを抱いて。
灰色の堤防の向こうから、土砂運搬船の規則正しいディーゼルの音が聞こえた。今日の川は、穏やかなのだろう。下を走るトラックの排ガスが切れた瞬間を見計らい、ひとつ深呼吸した桃山は、買い物のリストを頭に並べながら風呂の湯沸かし器を点《つ》けに向かった。ひとっ風呂の後、ビール。缶詰と、冷蔵庫になにかあるだろう。そのあと買い物に出かけて……。
湯沸かし器が水を引き込む音を聞きながら、桃山はズボンを脱いで万年床に仰向けになった。天井の木目を見上げ、ふと、おれはあと何年ここに住むのだろうと考えた。
駅ビルにロータリー、ファーストフード店にパチンコ屋と、モデル化されたJR駅前のご多分にもれず、平井駅にも同じような光景があるが。だが少しは飾った感のあるお隣の亀戸に較べれば、住む人しか降りないと決めている平井の空気は砕けたものだ。昔から個人経営の店や工場が多く、住と職がかっちり区分けされていないせいだろう。駅北側に広がる商店街は、たまに訪れる人より住人の勝手を優先させたたたずまいで、ロータリーにはハンバーガー店の代わりに定食弁当屋が並んでいる。近代化の先兵として立哨しているカーネル・サンダース人形も、いまでは軍門に降《くだ》ってすっかり平井の住人になりきっている体《てい》だ。
やはり疲れていたのか、風呂上がりのビールで午後まで気絶してしまった桃山は、多少あわてて買い物をしなければならなくなった。まずは医薬品。昨晩使ってしまった救急箱の中身を元どおりにする分と、今後の手当に必要な分。切り傷にいちばん効くやつと注文して出てきた軟膏と消毒液、止血スプレー、包帯、三角巾、それに代謝を助ける錠剤を買い、その後、二人の着替えぐらいと思って洋品店に入ったが、中年男が女性洋品を買うには、個人経営の店舗はあまりにも密室でありすぎた。女物の棚の前をうろうろし、店番のおばさんの険しい視線に追い立てられた後、西友ストアでまとめ買いすることに決める。衣料品売場で、周囲の視線がない隙に素早く女性用コーナーを回り、目についたものをカゴに突っ込んでレジへ。男物の下に隠した浅知恵は、レジを打つパートの娘の好奇の視線と、うしろに並んだ主婦の嫌悪の表情に打ち砕かれ、桃山は冷や汗まみれで、二度と行くまいと決めた衣料品売場を後にした。
最後に二人前の食料を三食分買って、山盛りの荷台と一緒に亀戸へ向かった。結構な出費だった。おれはいったいなにをやってるんだと呆れたが、やらなければならないことがあるというのは悪くなく、いまはそれを楽しむ気分の方が大きかった。午後五時半、まだ仕分け作業の続く向こうにMDF室の無事を確かめて、桃山は警備室に入った。
なにがあろうと、関田は五時にはさっさと帰る。村本だけが引継ぎに残っており、「今晩も?」と言った怪訝《けげん》な顔に、「苅谷が風邪で。こう世の中が進歩すると、バカでも風邪ひくらしいわ」とごまかしてから、桃山はその苅谷に電話を入れた。
「上番、ちゃんと入れたか?」の問いに、(はい。でも……)と、苅谷は相変わらず歯切れの悪い返事を寄越す。「デモもストもない。中間も忘れるなよ」と念を押して、桃山はビル中の人間が消えてくれるのを待った。
その晩は残業もなく、三階の英会話学校の夜間クラスが最後の退出者だった。金髪、碧眼《へきがん》、日本語ペラペラのジョンソンは、授受薄のサインにもカタカナを使う。教員の経験も資格もなく、ただそのいかにも西洋人の面相だけを見込まれて採用されたのだと、いつだか当人自ら口にしていた。「オヤスミナサイ」と窓口を離れた彼に「グッナイ」と応じて、桃山は即座に正面玄関の鍵をかけた。
刻時巡回時計の細工、警備日報作成ともに済ませてある。荷物を両手にMDF室に向かい、桃山は符牒のノックをした。「おれだ」と言うより前に、細目に開いたドアから葵が顔を覗かせ、中に入ると、包帯に覆われた上半身を起こした少年が、右手を背中の方にやるのが見えた。
かまえかけた拳銃を隠したらしい。気づかない振りで、桃山は葵に買ってきたものを渡した。
まだ青白いが、昨日に較べれば少年の顔色は格段によくなっていた。「どうだ、痛むか」と尋ねた桃山に、少年は「……少し」と呟いて顔を背ける。その態度も回復力も、若さの証明ということだろう。「左手、動かしてねえだろうな」と言いつつ、桃山は袋の中からピンクのスウェットを取り出した葵に向き直った。
「サイズとか全然わかんないんでよ、ちょっと大きめの買ってきた。下着買う時にゃさすがに冷や汗かいちまったよ」
「ありがとう。助かります」
少し頬を染めた顔がうつむき、年頃の娘にデリカシーのない言葉だったかなと桃山は頭を掻いたが、すぐに顔を上げた葵は、スウェットの上を胸に当てて「どう?」と少年の方に示す余裕を見せた。ちらと見た少年は、「センスないな」とだけ口を開いた。
「へへ、そんだけ憎まれ口叩ければもう大丈夫だ。なあ、いまはもう誰もいないから、あんた洗い場で体でも拭いてきたらどうだ? さっぱりするぜ」
煤と埃《ほこり》が汚れた髪を見下ろして言った桃山に、葵は「いいんですか?」と、いままででいちばん嬉しそうな表情を輝かせた。
「ああ、かまわねえよ。ついでに洗濯もするといい。あんたがいない方が、こいつも痛えって悲鳴上げやすいだろうしな」
少し口もとをしかめた少年を顎でしゃくって言うと、葵はいい? と確かめる顔を彼に向けた。お願いの混じった目に、少年が渋々|頷《うなず》くのを待って、「じゃ、お言葉に甘えます」と、あらためて笑みを浮かべた顔が立ち上がる。ごく自然に見えるそんなやりとりのひとつひとつが、常に危険と直面し続けてきた二人の用心深さを伝えていた。着替えを持って立った葵に、洗剤の置き場所などを教えてから、桃山は少年の隣に座って買い込んだ薬の袋を引き寄せた。
「さて、お医者さんごっこの続きと行くか」と言った軽口にも眉ひとつ動かさず、少年はじっとしている。やはり昨晩は熱が出たらしく、使いきったインスタントの氷枕が床に転がっていた。胸の包帯を解き、血と体液を吸ったガーゼをそっとはがした桃山は、まずは消毒液で患部を拭くことから始めた。傷口は早くも塞がりかけているが、まだ膿む危険は残っている。出血はないようだから、今日は緩めに被覆して、風通しをよくしてやった方がいいだろう。ガーゼで傷口を拭き、来る前に何度も洗った手で軟膏を塗り込みながら、それにしてもたいした回復力だと桃山は感心した。
「あんた、警官だな」
胸の処置を終え、脇腹に移ろうとした時だった。それまで呻《うめ》き声ひとつ立てなかった少年が口を開き、桃山は包帯にかけた手を止めてしまった。
「……熱で頭パーになったんじゃねえのか。警備員と警官間違えるようじゃおしまいだぜ」
こみ上げる動揺を隠して、桃山は作業に専念しようとした。少年の目がこちらに注がれ、「そうなる前の話だ」という言葉が重ねられた。「違うか?」
「なんでそう思うんだ?」
傷から顔を上げて、桃山も少年の目を見返した。年齢の倍も落ち着いてしまった瞳の中に、一片残っている幼い輝きが揺れ、「さあ。……姿勢、かな」と少年は答えた。
姿勢。奇妙な答だったが、意味は伝わったような気がした。長く警察の飯を食っていると、体の中に一本|芯《しん》が通る。人の暗部に接し、見聞きしたくない本音と直面するうち、自然に固まってくる太い芯。それは視線、表情、ふるまいに表れ、物の捉え方、接し方にまで影響を与えて、そう簡単に消えはしない。多分、自分にもわずかに残っている芯を、彼は「姿勢」と表現したのだろう。そしてそれがわかる少年にも、似た芯があると桃山は思った。
チンピラ、ヒットマン、いずれも違う。もっと別のなにか。警官ではない、もっと実戦的ななにかの芯が、少年の中にも通っている。桃山は、「ケッ、怪我人が風流な口をきくなよ」と答えておいた。
「なんで辞めたんだよ」
それをイエスと受け取ったのか、少年は続けた。再開しかけた手を止めて、桃山はその顔を見上げた。
「じゃ、なんでおまえは舟木会に追われてんだ?」
少年は、目も表情も動かさなかった。じっと見据えたまま、桃山は「浅草の爆発。おまえがやったのか」と続けてみた。
少年は答えなかった。答えたくないからではなく、答えられない事情があるからだと、無言の目が言っているようだった。ゆっくり逸らされた顔に、桃山も目を伏せていった。
「まあいいや。よそうや、昔の話は」
聞いてどうなる。デカに戻りかけた自分に苦笑して、桃山は脇腹の包帯を解きにかかった。ガーゼを取り出し、包みを破くと、「……保《たもつ》」というしわぶきのような声が紙の破れる音に混ざった。
手を止め、桃山は少年の顔を見た。やや伏せられた目が、「保だ」とくり返した。「おれの名前」
迷った末の自己紹介であることは、気まずそうに背けられた顔を見るまでもなくわかった。暗闇にひとつ光が射し込んで来たようで、桃山は「……保、か」と口の中で反芻《はんすう》した。
「一応、名前はあったってわけだ。保に葵ちゃん。次は二人の馴初《なれそ》めなんか聞かせてもらいたいね」
悪い癖だと思いながらも、桃山は言ってしまっていた。いつもこうだ。差しのべられた手が照れ臭くて、つい憎まれ口を叩いてしまう。こいつにとっては、名前を教えるだけでも重大なことだったんだろうに。
言った後で自分に腹が立ち、桃山は寡黙に残りの処置を続けた。無言の時間が流れ、ひと通りの処置を済ませてから、「なにか飲むか?」と目を合わさずに聞いた。少年が頷いた気配に、回復の一助にと思って買ってきた野菜ジュースの缶を渡して、桃山は床に腰を下ろした。
少年は缶を片手に、じっと一点を見つめている。片手が使えないんだったと思い出し、蓋《ふた》を開けてやろうと桃山が身を乗り出した時、少年が再び口を開いた。
「おれは、葵を守る。それがおれの任務だ」
心臓が、ひとつ大きな脈を打った。「任務……?」と聞き返して、桃山は少年の目の中を覗き込むようにした。
「誰から与えられた任務だ?」
答はなかった。代わりにまっすぐな瞳が桃山を見返し、強い眼光が胸の奥にあるものをもういちど揺り動かした。
強靭《きょうじん》な意志と、使命感。決して退かない、前だけを見据えた目。任務が誰から与えられ、それがなにを意味するかなど関係ない。全身で彼女という存在を受け止め、彼女を守ることに己の生を燃焼させると決めた目だった。見返りなどいらない、ただその使命をまっとうした後、自分だけが触れられる充実感が残ればいい。安穏と生きているだけでは決して理解できない、生の重さと価値を知っている目に、桃山はあの頃の自分が映ったような気がした。
あの頃の自分も、きっとこんな目をしていた。負けるなんて考えたこともない、傲慢なまでの自信。思い込みだけで地球さえ回すことができた、尽きない情熱。自分でもわからない間に、ゆっくり、潮が退くように失せてしまった。もう二度と取り戻すことができない、熱すぎる欠片《かけら》……。
「……いいな」という呟きが自然にこぼれ落ちた。少年の問う目が注がれたが、受け取った缶に視線を落として、桃山はそれを見返しはしなかった。
「それがなんであってもよ……。することがあるってのは、いいよ……」
なんの抵抗もなく、思いを言葉にすることができた。蓋を開け、保と名乗った命に缶を手渡してから、桃山は背を向けて自分も缶コーヒーを口にした。
葵が帰ってくるまで、二人の男に会話はなかった。
翌日は、出来合いの弁当や惣菜の他に、葵の書いたメモに従って買い物をすることになった。食パンにベーコン、マヨネーズ、それにポテトチップのガーリック味。いったいなにを作るつもりだと思いながら、桃山はとりあえずリストの品を買いそろえて亀戸へ向かった。金曜日の夕刻、早めに仕事を切り上げた背広姿たちとすれ違い、いつもはうっとうしさしか感じられないその風景を、ひどく平静に受け止めている自分に気づかされた。
彼らと同じように、いまの自分にはやるべきさまざまなことがある。二人の人間の命が、あの熱い目が、自分を必要としている。その思いがくれた余裕……なのだろう。酒を食らって寝に行くのではなく、自分だけが果たせる責任を果たしに行く。たったそれだけの思い込みが、桃山の世界を百八十度転換させてしまったのかもしれなかった。
そんな歳でもあるまいに、おれもよくよくの単細胞だなと予防線を張りつつも、体調もこの数年ないほどに良好なことは事実で、警備室に入るや、十分ですべての仕事を片付けてしまった桃山は、最後の鍵を受け取ると同時に地階に続く階段を下った。
「昨日、洗い場使わせてもらった時にオーブン見つけたものだから……」というのが、いったいなにを作るんだと尋ねた桃山に葵が答えた言葉だった。出来上がるまではお楽しみということらしい。さらに驚異的な回復を見せた保の手当を済ませた桃山は、葵の後を追って洗い場に行ってみた。
警備室と女子トイレに挟まれた洗い場は、三畳ほどの狭い空間に流しと湯沸かし、小型冷蔵庫が押し込まれており、その上に焦げと油の染みついたオーブンが載せられている。以前、苅谷が自宅から持ち込んだ、昭和四十年代から活躍しているという歴戦の兵《つわもの》だ。桃山が顔を出すと、切りそろえた食パンにマヨネーズを塗っていた葵は、「すみません、なにからなにまで……」と、もう一度頭を下げてみせた。
「かまわねえよ。人が作ってくれた料理食べるなんて、何年ぶりだ」
引き寄せた椅子に腰かけて言った桃山に、「料理なんて大げさなもんじゃないんです」と、葵の細い肩が恥ずかしそうに返した。
「前にあたしの通ってた高校で流行ってた……おやつみたいなもんです。いちど作ってあげたら、彼がなんだか妙に気に入っちゃって……」
この二人にも、普通の男女のように互いの感情を育《はぐく》む時間があったということか。昨日買ってきたスウェットを着込んで流しの前に立つ葵のうしろ姿は、風呂上がりの娘が夕飯の支度を手伝う光景以外の何物でもないと思う。どうしてこんなことになったのか。あの保とはどこで知り合い、なぜ一緒に逃げているのか。初めて聞いた過去の話に、聞きたい山ほどのことが頭をもたげてきたが、それを聞けばこの平穏な空気が壊れてしまうことはわかっていた。椅子の背もたれに両手をかけて、桃山は無言で小さな背中が動くのを見つめた。
マヨネーズを塗り終えると、葵はポテトチップの袋を取り出し、封を開ける前に両手でしごいて中身を粉々にした。それをマヨネーズを塗ったパンの上に振りかけ、最後にベーコンをのせる。「変でしょ?」と笑いかけながらオーブンに入れた葵の横顔を見て、桃山はひとつ思い出すことがあった。
以前、これと似たサンドイッチの話を聞いたことがある。その男も、通っていた高校で流行ったものだと言っていた。もしそうなら、もしこれが偶然の一致ではなく、彼女がその男と同じ高校の出身であるなら、身元も自ずと限られてくる。弛援していた神経に緊張の針が突き立ち、一瞬、二人を逃亡に追い立てている状況の底深さが眼前に広がったが、やはり確かめる気にはなれなかった。ちらとこちらを振り返った葵の目に、桃山はあわてて暗い想像を引っ込めた。
なにかを言いかけた目が、オーブンに向き直る。桃山が「どしたい」と聞くと、つかの間迷った葵の顔が、「いえ……」と作り笑いを浮かべた。
「桃山さんって、結婚はしてないのかなって……」
「してたけどな、別れた。流行りのバツイチってやつだ」
そんなことかと、桃山は苦笑混じりに答えたが、真顔になった葵は「すみません」とうつむいてしまった。忘れたつもりでも、あらためて同情されると気が滅入《めい》るもので、桃山は「気楽でいいさね」と重ねて、それに伴う苦い記憶のいくつかを追いやった。
パンの焼ける香ばしい匂いが立ちこめ始めていた。一度オーブンの蓋を開け、焼け具合を見てまた閉じた葵は、「……彼も」と無言の間を破った。
「彼も言ってました。自分のためだけに作られたものを食べるなんて、生まれて初めてだって。それからなんです。それまではろくに口もきかなかったあいつが、少しずつ色んなことを話すようになったの……。だから、時々作ってあげてんです。とりあえずこれ食べさせとけば、機嫌いいみたいだから」
半歩後ろを歩いているように見えて、実は葵の方が主導権を握っているのかもしれない。「そいつは安上がりでいいな」と笑った桃山に、葵もありのままの笑顔を見せた。
「父も……」笑いの波に任せて言ってしまってから、はっとなった葵の顔が一瞬、口を噤んだ。「……父も、言ってました。料理がうまければ、男はなにも言わないでも、稼いだ金持って毎日家に帰ってくるもんだって。父の仕事の関係で、しばらく保と三人で暮らしてたことがあったんです。食事のたびに……口癖でした」
それより先は話したくないし、話せないのだろうとわかった桃山は、無理に言葉を繋ぎはしなかった。過去形で語られた父親の現在。保のような人間の能力が必要とされるその仕事。目を逸らし、無言で焼き上がったトーストを紙皿に移し始めた痣の残る横顔が、桃山にはひどく切なかった。
気を抜けば溢れそうになる感傷を、必死に制御しようとしている。どのような事情によって成立したものであっても、父と保と三人で暮らした時間は、彼女の宝だったのに違いない。それを、おそらくは一方的に奪われて、嘆く間もなくここまで逃げてきた。保と二人きり、誰ひとり頼れる者もなく。どう見てもまだ二十歳そこそこ、感情に任せて思い切り泣くことが許される年頃だろうに……。
と言って、自分の子供の父親役さえ務められなかった男が胸を貸せる道理はなかった。桃山は、「そりゃ本当だ。その通りだよ」と応えて、目を伏せた。葵は微笑し、中年男の不器用を受け止めてくれたようだった。
湯気を立てるトースト・サンドをMDF室に運び込んだ後は、惣菜も広げての密やかな宴《うたげ》が催されることになった。人と一緒に食事をするのも数年ぶりだと思いついたが、もう口にする必要もなく、その心地好さにただ身を任せていればいい時間だった。
特製サンドが、意外にも驚くほど美味《うま》かった。炙《あぶ》られたマヨネーズの酸味とポテトのガーリック味がふくよかに混ざりあい、ベーコンの脂と併せて、どこか高級感さえ醸し出している。トーストに盛られた量の加減がまた絶妙で、「美味いな、これ」と葵の分までひとつ平らげてしまった桃山の横で、保も黙々と口を動かし続けた。
「せっかく彼女が作ってくれたんだからよ、もうちょっと幸せそうな顔して食えよ」
うるさそうにしかめられた仏頂面は、思春期に差しかかった子供が、親と一緒に歩きたがらないのに似ていた。保にも、葵と二人の時にだけ見せる素顔があるらしい。葵はさもおかしそうに笑っていた。
冷たい、さっぱりした飲み物が欲しくなり、桃山は一階の自動販売機までコーラを買いに行った。紙コップに入ったコーラを二人に渡し、自分はひと口飲んで量を減らしたコップにロッカーから取ってきたトリスを注ぐ。保がじっと見ているので、「飲《や》るか?」と聞いてみると、ぶすっとした声が「いらない」と答えた。
「安酒ばっかりよく飲むな」
「やかましい。これなくしてなんの人生か、だ」
コップを掲げて言った桃山を一瞥し、ぷいとそっぽを向いた保は、「……酔っ払うって、そんなに楽しいのか?」と、ぽつり呟いた。
「なんだ、おまえ酔ったことないのか?」
「薬物に対する訓練を受けている。アルコールどころか、麻酔も満足に効かない」
仕様書でも読むような声だった。桃山は「おーおー、立派なこった。こないだひと口飲ませて損したぜ」と言って、その訓練を施《ほどこ》した者のおぞましさは考えないようにした。どの道、ようやく傷口が塞がりかけた怪我人に、酒を飲ませていい法はない。
地下室ごもりの退屈しのぎにと、桃山が買い物に混ぜておいた女性向け雑誌に目を落としていた葵が、「質問」と不意に口を開いた。悪戯《いたずら》な笑みを含んだ顔で二人の男を交互に見、開いた維誌を胸に隠す。
「あなたの目の前に川が流れています。深さはどれくらいあるでしょう? 1、足首まで。2、膝まで。3、腰まで。4、肩まで」
「なんだ、そりゃ」
「心理テスト」雑誌の巻末をちらと示して、葵は文字通り試す目を向けてきた。「考えちゃダメよ。パッと思いついた印象で答えて」
言われてみて、桃山の頭に思い浮かんだのは家の前を流れる荒川の澱《よど》みだった。それも台風の時、堤防に上がって見下ろした、あの氾濫《はんらん》寸前の黒い激流。「肩までだろ、そりゃ」と桃山が答えたのと、「肩まで……かな」と保が言ったのは、ほとんど同時だった。
互いに、グッと詰まった顔を見合わせる結果になった。葵はクスクス笑い、「やっぱり、二人とも似たもの同士ね」と膝を抱えた。
「これはね、あなたの情熱度を表してるの。足首までって答えた人は、あんまり情熱のない人。膝までは、あるにはあるけどいつも理性の方が先に立つ人。腰までは、なんにでも精力的で一生懸命、いちばんバランスの取れてる人」
「肩まではどんな人だい?」
「情熱過多。暴走注意、だって」
なんとまあ。グータラの歳月にどっぷり浸かっているこのおれが、情熱過多とは。褒められて嬉しいような、そんなことで喜ぶ自分が情けないような、複雑な心境だった。保は納得するでもなんでもなく、例によって愛想笑いひとつ浮かべない顔を天井に向けている。そう言えば葵がここに自分を連れてきた時、保に言ったセリフが「この人、あんたと同じ目してる」だったか……。
「冗談じゃねえ。こいつはともかく、おれは至って冷静な人間だぜ。間違ってるよ、それ」
照れ隠しに大きめの声を出した桃山に、葵は「そうかな?」と首を傾げて笑ってみせた。なんだか見透かされているような気になり、コーラのコップにトリスを注ぎ込んだ桃山は、ひたすらそれを呷《あお》ることに努めた。
スナック菓子もジュースもなくなり、桃山がMDF室を引き上げたのは零時過ぎだった。まとめたゴミを手分けして運び出す道すがら、不意に葵が「ご迷惑ですね。あたしたちがいると」と口を開いた。保の前では決して出さなかった、いまにも切れてしまいそうな細い声だった。
「そんなこたねえよ」
「感謝してます、本当に。なるたけ早く出ていくようにしますから……」
ちょうど階段を上りきったところだった。ゴミを入れたビニール袋をぎゅっとつかみ、目を伏せた葵に、桃山はみもふたもなく狼狽《ろうばい》した。ほろ酔い気分も消し飛び、「ちょっと待ってくれよ」と、小さな肩を正面から見下ろした。
「全然かまわないんだ。本当だよ」
どう言ったらいいのかわからず、おろおろするばかりの桃山を、葵は黙って見上げていた。
「どんな事情があるのか知らねえけどさ。その……うまく言えねえけど、よかったと思ってるんだ。あんたたちに会えて」
この三年間、こんなに笑った時はなかった。怒った時もなかった。汗をかき、なにかを為し遂げたと感じたこともなかった。言葉になりきらない感情が渦を巻き、その半分でも伝えたいと思ったが、出てきたのは「……嘘じゃねえ。本当だよ」という、付け足しのため息だけだった。うつむき、握った拳を意味もなく握りしめた桃山は、ふと触れた温もりに顔を上げた。
「……ありがとう」
手の甲に触れた葵の手のひらは、少しひんやりとしていながら、芯に温かいものを感じさせた。棒立ちになった桃山を残して、葵は再び歩き出していた。
細い背中が、廊下の薄闇に溶けてしまいそうだった。少しの距離をおいて、桃山は後に続いた。
翌日、土曜日。苅谷が久々にそのモグラに似た面相をアリランス亀戸に持ってきた。
土日祭日はヨツバの管理社員が休みの分、警備が日勤で埋めているので、九時から五時までは嫌でも顔を突き合わせることになる。相変わらずの折り目正しさ、エセ警官の仕種で本社に上番報告を入れた後、桃山が一年前から書くのをやめている所持品検査簿にその日の所持金を記入した彼は、さあ、説明していただきましょうという目を桃山に向けた。当然と言えば当然かもしれないが、それを楯にして強気になっている態度が、アルコールの残る頭に障った。
「おはようさん」とだけ言って、「聞くな」の無言バリアーを周囲に張り巡らす。不満そうな目がしばらくは泳いでいたが、本社に内緒で勤務を代わってしまった共犯には違いなく、下手にバリアーに触れたら火傷するとわかっている苅谷は、あきらめて「……おはようございます」と返した。そして後はもうひと言も喋らず、受付窓口の前に腰を下ろして、彼の任務に専念していった。
土日は夜勤から続いた方が日勤に入り、朝出勤してきた者は翌日朝までの二十四時間勤務、つまり当務に入るのが基本だったが、元の勤務表に従って、桃山は今晩も引き続きここに残るつもりだった。「いいんですか?」と言った苅谷に、「いいよ。その代わり昼は寝かせてくれ」と答えた桃山は、受付窓口の衝立《ついたて》一枚うしろにあるソファに横になり、日中は居眠りを決め込むことにした。
土曜は上の服飾会社が顧客相手の展示即売会をやるために、窓口の前に旦那を連れた奥様達の行列ができる。中流以上、上流未満を自認する輩がちだ。自家用車で乗りつける小金持ち連中に、アホみたいな警備員の格好を見られるほど腹立たしいこともない。「列を崩さないで下さい」「そこは駐車禁止です」と警備室を出たり入ったりして活躍する苅谷のすぐうしろで、桃山の方は夢の中を行きつ戻りつしている間に昼間の時間は過ぎた。
即売会は四時に終了、苅谷は五時に上がり、服飾会社の社員たちも六時には帰った。邪魔者が消えると同時に地下に下り、たまには豪華に店屋物でもとろうと二人に提案すると、「うれしい」「三人前とったら怪しまれる」という声がそれぞれから返ってきた。「ひとつずつ別の店からとりゃいいだろ」と保を納得させた結果、天ぷら定食、トンカツ定食、それにチャーハンと餃子が出そろうことになり、三人でインターナショナルな夕飯を済ませた。
食後、保が警備室のパソコンを使わせてほしいと言い出した。脇腹の傷は快方に向かいつつあるし、一日寝たきりの生活にもいい加減うんざりだろうと思った桃山は、左手を包帯で拘束するという条件付きで許可した。胸の傷は、まだ肩を動かせば口が開きかねない。
「パソコンったってよ、IBMの一世代前のやつがあるだけだぜ」
「DOSが使えればなんでもいい。こいつの中身を確かめるだけだから」
ブルゾンの内ポケットに隠し持っていたフロッピーディスクを示して、保は多少ぎこちない歩みで階段を上った。まだ傷が疼《うず》くのだろうが、顔にも口にも当然そんな素振りは見せない。思えば彼が立って歩くところを見るのはこれが初めてで、一歩うしろについた桃山は、その頭から踵《かかと》までをまじまじと観察した。
一見すれば華奢な体躯で、背丈も百七十あるかないかだが、その胸板の厚さ、太股と二の腕の太さは尋常ではない。特定のスポーツで鍛えた肉体というより、そのように作られた身体といった印象だ。無精でうなじまでのびた髪は性格に似合わずまっすぐで、そこから覗く目と耳は、絶えず周囲の状況を探って片時も休まない。ここで戦闘になった場合、どこに移動してどう反撃すると、そんなことでも考えているのだろうか。態度のでかさが身長を実際以上に高く見せており、均整の取れたうしろ姿を眺めるうち、自分の寸胴《ずんどう》ぶりに嫌気がさしてきた桃山は、観察するのをやめにしていた。葵に劣らず、スタイルがいい。この二人に挟まれていると、同じ日本人をやってるのが嫌になってくる。
警備室には、関田と村本の机の上にIBMのPCシリーズの端末が置かれている。二年ほど前、OS2という高処理OSに書き換えられたと聞いたが、どちらもヨツバ本社から電子メールを受け取る以外、あまり役に立っているとも思えない代物だった。
机の下にある本体の電源を入れ、関田の席に陣取ってパソコンの立ち上がりを待つ保は、懐から取り出したフロッピーを右手でひらひらさせている。そうした姿からはなにやら知的な雰囲気も漂ってきて、保という存在の不可思議さをあらためて実感させたが、桃山は気にせぬ素振りでソファに腰かけた。テレビのリモコンを手に取り、答がないのを承知で「なんだ、それ」とフロッピーを顎でしゃくると、「保険ってとこかな」という返事があっさり返ってきた。
「へへ、おれらと同じか」
「グータラ警備員よりは役に立つ」
どこかの局が、クラシックかなにかのコンサート会場を映し出していた。指揮者を中心にずらりと並ぶ楽団の黒服を一瞥し、即座にチャンネルを変えた桃山は、「ケッ、言ってくれんじゃねえか」と言い返した。保はなにも言わず、ソフトの読み込み表示を続けるモニターから目を離して、端末の上に溜まった埃を吹き散らしたり、脇に置かれたモデムを指で弾《はじ》いたりしていた。
「インターネットには繋いでるのか?」
「いや。ここの本社と電話回線で繋がってるだけだ。あとなんとかいうのに入ってるって村さん言ってたな。ニ、妊婦じゃなくて……」
「ニフティサーブ」
「そう、それだ。それに入ってるって言ってた」
土曜の夜は、どこの局もろくな番組をやっていない。すべてのチャンネルを回した桃山は、またクラシックに戻ったところでリモコンを放り投げた。「興味ないんだな」と、妊婦発言を揶揄《やゆ》した保の声が端末の向こうに聞こえた。
「隣近所のつきあいも満足にできねえ連中が、パソコン通信で世界中とお友だちになれるなんざ、お笑いぐさだね」
どうにもクラシックは好きになれない。ぴっちり髪をセットした指揮者が、半ば陶酔して棒を振っている姿を見るうち、目がとろんとしてくるのを自覚した桃山は、なんでもいいから他のにしようとチャンネルを変えた。「変えるなよ」という素っ気ない声が、端末に見え隠れする保の頭から発した。
「なんだ、おまえこういうの好きなのか」
「……別に。低能タレントのお喋り聞いてるよりはマシだろう」
気まずそうに答えて、保はすぐにモニターに目を戻した。コンサートはモーツァルトだかの協奏曲の演奏に入っていて、よく見ると、机の上を叩く保の指が、そのリズムに合わせて踊っているのだった。これで結構、感受性の豊かな男なのかもしれない。なぜだか少し救われたような気になり、桃山はテレビのボリュームを心持ち上げてやった。
ようやくウインド画面が立ち上がり、DOSコマンドを選択した保は、フロッピーをディスクドライブにセットして、片手で器用にキーボードを叩いてみせた。「紙、あるか」と聞くので、コピー機の脇に置いてあるA4紙を使っていいと言うと、三角巾で左手を脇に縛られたままの上半身が、つかの間席を離れる。ちらとその背中を見てから、桃山は端末の向こうに回ってモニターを覗き込んだ。
興味がないとは言え、桜田門では各種情報照会を完全に電算化していたし、ここでも毎日警備日報を打つのにマルチプランという計算ソフトを使っているので、桃山にも必要上備えた最低限の知識はある。画面はちょうどCドライブに挿入されたフロッピーの読み込みを進めているところで、読み込みのレベルを示すバーが次第に伸びてゆくさまを見守った桃山は、バーが百の目盛りに達した途端、唐突にブラックアウトした画面にどきりとした。
壊れたのかと疑う間もなく、真っ黒な画面に緑色のアルファベット文字が浮かび上がってきた。フロッピーのデータが表示されたのだろう。画面の中央に〈Apocrypha〉のタイトルが映し出され、その下でパスワード入力待ちのカーソルが点滅した。
アポクリファ、と発音するのだろうか。これだけではソフトの性格さえ判別できず、適当にキーボードを叩いてみようとした桃山は、「触るな」という鋭い叱責の声に危うく指を止めた。
紙束を片手に、こちらを睨みつけている保の顔があった。桃山は「そう素人扱いすんなよ」と口を尖らせた。
「これでも日報打つんで毎日使ってんだ」
「そうじゃない。この端末、一応、通信ネットに接続してるんだろう? 下手にいじってこいつを目覚めさせたら、どえらいことになる」
有無を言わさぬ口調で言い、保は桃山をどかして再び席についた。
「目覚める……?」と聞き返したが、もう答えるつもりのないらしい顔は動かず、代わりに素早く動く五本の指が、キーボードを通じて端末との会話を始めた。入力を示す七つの*印がパスワードの項目に並び、タイトル画面が消えると、バイナリファイルを思わせる記号の羅列が端末を埋めてゆく。肩をすくめて、桃山はテレビの前に戻った。
保にはその暗号の羅列が読めるのか、スクロールする画面に目を固定したまま、時おり手元の紙にボールペンでなにごとか走り書きしている。もうテレビの音も耳に入らない様子なので、そっと手にしたリモコンでチャンネルを変えると、「変えるなって」と間を置かず発した声に叱られた。不平の鼻息と一緒にクラシックを呼び戻し、タバコをくわえた桃山は、パソコンと一体化したような保の横顔を窺った。
「怪我の調子、どうだ? 夜とか痛まないか」
「悪くない。脇腹の方はもうほとんど痛まなくなった。胸の方も我慢できる程度だ」
二つのことを同時に片付けるくらい、朝飯前なのだろう。端末に固定した目を動かさず、意識の一部をこちらに振り向けた保が答えて、桃山は「そうか」とタバコの灰を灰皿に落とした。
「なあ。明日は休もうかと思ってんだ。五目連続でこのソファの上に寝るのは、年寄りにはこたえるんでな」
毛布敷きで六時間眠れるとはいえ、仮眠は仮眠。家で寝るのと同じというわけにはいかず、長く続くと、とれない疲労が頭と体を次第に重くさせてゆくものだ。いまも、昼間あれほど寝た口から欠伸《あくび》が止まらない。保は「ああ」といつもの素っ気ない返事をした。
「別の奴が夜勤に入るけどよ、あの部屋は巡回でも覗かないことになってるから大丈夫だ。でも一応、用心しててくれ。なにせクソ真面目で、気の小さい男なもんでな」
「わかった」
「夕方、ちょっと顔は出すよ」
「いいよ。休んでろよ」
「別にすることもねえしよ。帰りにちょっと寄るだけだ」
なにか照れ臭くなり、桃山は意味もなく煙を吹かしながら言った。「どこかに出かけるのか?」と、端末の陰から覗く保の頭が質問を寄越した。
「ああ。面白そうな映画が錦糸町《きんしちょう》にかかってるんでな」
「映画なんか観るのか」少し驚いた保の目が、手の動きを止めてこちらを見た。「なんだよ、おれが観ちゃいけねえのか?」と言い返した桃山から視線を外し、モニターに顔を戻した保は、「パチンコが趣味だって……」と言った。
「別に四六時中やってるわけじゃねえよ。……そう言えば、おまえの趣味はなんなんだ?」
一瞬、キーボードを叩く音が止まり、すぐに再開した。いまの驚き方といい、こいつは普通の人間の余暇の過ごし方をまったく知らないのではないか。押し黙った空気を向こうに感じながら、桃山は「なんかあんだろ」と重ねた。
「その……任務についてない時はなにやってんだよ」
もう一度キーボードの音が止まり、保は今度は顔を上げてこちらを見た。考える目がつかの間泳ぎ、すぐにそれを振り払うと、「……寝てる」とぶっきらぼうに答えた。
「ケッ、おれよりよっぽど想像力のねえ人生送ってんじゃねえか。このクラシックとか、読書とかよ。なんかねえのか?」
演奏を終え、客席に向かって一礼する指揮者を映し出すテレビを指して桃山は言った。保はもう集中できなくなったモニターから目を離し、耳に挟んでいたボールペンを机に戻した。
「音楽は、施設にあるレコードをぜんぶ聞いた。図書室にあった本もだいたい……」
遠い声が未知の一端を覗かせ、桃山は思わず振り返ったが、その時には「子供の頃の話だ」と付け加えて、保はまた作業に戻ってしまった。施設という一語が胸の中で反響し、問いただしたい衝動に駆られたが、それをすればようやく開きかけた岩戸がまた閉じてしまう。どんな人の関係にもそれなりのルールがあり、この場合、互いにここで顔を突き合わせる羽目になった経緯には干渉しないのが絶対の約束事だった。桃山は「ふーん。おまえにもガキの時代があったわけだ」と応じて、こちらから踏み込む愚を避けた。
「三月《みつき》に一度、観賞会ってのがあって、それで映画もよく観た。E.T.とか、ゴジラとか、ドラえもんとか……」それに気づいているのかいないのか、何年振りかで開いた箱の中を探るような保の目と声が続けていた。「劇場のあの雰囲気は好きだった。たいてい、スナック菓子かなんかが配られてて……。ブザーが鳴って、暗くなるとゆっくり幕が上がる。他の映画の予告篇を見るのも好きだった」
「あれはおれも好きだ。全米大ヒットとかってよ、わくわくするもんな」
「……いろいろなものが、世界にはあるんだって教えてくれる。なんでも映る、大きな窓みたいなもんだ。帰りに外で食事できるのも楽しみだった。施設では、二週間単位で同じもの食わされてたから」
作業を終えたらしく、フロッピーを取り出してクローズの操作を始めた保の顔は、初めて見る穏やかな色に包まれていた。養護施設かなにかにいたのだろうか。嫌悪が九割九分を占める記憶の中、三ヵ月に一度のその時間だけが宝になりえた子供時代。桃山は「……へえ」とできるだけ自然な声で応えた。
「でも、いちばん好きだったのは海だ。海水浴。毎年、夏になると必ず泊まりがけで連れてってもらえた」
「海、か」
「どこだったか覚えてないけど……。こう、岬《みさき》の上に灯台が立ってて、反対側には山が見えた。砂浜に海の家がずらっと並んでて……そこで食べたカレーが美味かった。あんな美味いもの、後にも先にもおれは食べたことがない。
晴れてるのに、遠くの水平線は少し霞《かす》んで見えるのが不思議だった。そこを船が通るんだ。白くて大きい……きっと外洋船だ。乗れたらいいっていつも思ってた。ここを抜け出して、いろんな国を見て回るんだって。普段はそんなこと考えもしないのに、そこにいると色々な未来が頭に浮かんでくる。そして、それがなんでも実現できるような気になってくる。あそこには自由があったんだ。考えることの自由。行動することの自由。生きること、死ぬことの自由。そして永遠も……」
「自由と、永遠……」
「ああ。ランボーもそんな詩を書いてる。誰にも、なににも縛られずに、自由に想像を広げることができる。はね返すものがないからだろうな。海は広いから……」
遠くに向けられていた保の目は、その言葉を最後に伏せられていった。記憶の海を一緒に見つめていた桃山は、不意に戻った警備室の黄ばんだ壁に、言いようのない息苦しさを味わった。
それほどに自由を切望し続けた子供時代、苛酷な境遇の中にあっても、保の感性は葬られることなく培《つちか》われてきた。そしてそんな人の豊かな可能性を前に、現実はなにひとつ応えることなく、いま現在も変わらない不自由の中に彼の肉体を閉じ込めている。「海、か……」ともういちど口にして、桃山は一瞬、心に焼きつけられた蒼を瞼の中に探してみようとした。
「もう何年も行ってねえな。カミさんと娘を連れていったきりだ」
蛍光灯を見上げながら呟いた桃山の声に、パソコンの電源を落とす乾いたスイッチの音が応えた。一歩近づいた保の顔を見て、桃山は「いつかよ、行きてえな。三人で」と口にしていた。
「ああ」と保。ほんの少し、柔らかくなった藍日だった。「行こうぜ、絶対。約束だ」と重ねて、桃山はその目をまっすぐに見た。
海。遠い海。距離だけではない、目に見えないあらゆるものが隔てた先にある遥《はる》かな海。でもそれは絶対に存在する。いつかたどり着くことができる。この小汚いビルを抜け出して、あらゆる障害から自由になって。あの荒川だって、その先は海に繋がっているのだ。廃油と腐った水藻に汚され、嵐に身を引き裂かれながらも、それはまっすぐに海を目指して流れていた。あの激しさの先に、永遠の安寧がある。肩までの川を渡りきった時、きっとこの手につかむことのできる自由が……。
もういちど「……ああ」と答えて、保は警備室を出ようとした。ドアに手をかけ、一歩廊下に踏み出したところで、「じゃ、また明日」とわずかに顔を振り向けてみせた。
また明日。再会を約束する言葉、いままでに数え切れず口にし、聞いてきた言葉が、これほど胸に染みたことはなかった。今日よりはきっとマシな明日、明後日、その先に繋がる明日。その想いを込めて、桃山も言った。
「ああ。またな」
翌日、苅谷と入れ替わりに帰宅した桃山は、たまっていた洗濯物をコインランドリーで片付ける仕事に午前の時間を当てて、午後から予定通り錦糸町に繰り出した。丸井の次は西武デパートの進出、それに区の総合レクリエーションセンターの建設と、発展著しい界隈だが、日曜は競馬新聞片手の連中で混み合う事情は変わらない。駅前にある楽天地ビルで、とりあえず料金分は楽しめたハリウッド製アクションを観た後、桃山は自転車を亀戸に向けた。
ひとりの映画観賞は悔しいものだが、いまは少なくとも感想を話せる相手がいる。途中のファーストフード店で三人分のハンバーガーセットを買い、正面にいる苅谷に気づかれないようビルの裏手に自転車を止めた桃山は、日曜出勤の社員が使うため半分だけ開放してある地下駐車場のシャッターをくぐって、MDF室へと向かった。
午後五時半。真面目だが、言われたことしかやらない苅谷は、八時の巡回までは警備室から動かないだろう。ハンバーガーの袋を片手に薄暗いエントランスの傾斜を下り、MDF室の前まできた桃山は、鼻唄まじりにいつもの符牒のノックをした。返事は……なかった。
どきりとした。もう一度ノックしたが、やはり返事はない。中で人が動く気配もない。たまらずノブをつかみ、捻ると、呆気なく開いた。無人の暗闇が、廊下の灯にぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
自分の影だけが、奇妙に長くなって壁まで達している。血まみれの保が座り込み、銃口を向けていた場所だった。一歩中に入り、電気のスイッチを入れると、きれいに片付けられたMDF室の全部が桃山の目に入った。一時そこに人が寝泊まりしていたとは想像させない、ビルの機能維持のためにのみ使われる、コンクリートと配電盤があるだけの冷たい空間でしかなかった。その一隅に、きちんと畳まれた毛布が重ねられているのを見た桃山は、ハンバーガーの袋を置いてそこに近づいていった。
毛布の上に、見慣れた箱がコンビニの袋に包まれて置かれていた。それを見た瞬間、二人がちょっと出かけたのではない、永遠に消えてしまったのだという現実がのしかかってきて、桃山はその場に棒立ちになった。
わかっていたはずだった。いつかはこうなると、覚悟していたはずだった。にもかかわらず、予想もしなかった喪失感が胸を埋めた。あまりの唐突さに声も涙も出ないまま、桃山は二人が残した精一杯の感謝の言葉――封を切っていないトリスのポケットボトルを毛布から取り上げた。
金ないくせに。行く場所ないくせに。おれ以外、頼れる人間もいないくせに……。
「……バカ野郎」
ぽつねんと、呟いた。答える者はなく、冷めかけた三人分のハンバーガーとポテトの匂いだけが、小さな空間を満たしていた。
かつて、そこには数百人の人間が常駐する活気があった。蟻《あり》の巣さながら、縦横に錯綜する地下通路は絶えず台車や人が行き来し、各部署に設置されたファックス、レーザープリンタは、一日中なんらかの情報を吐き出し続けて止《とど》まることを知らなかった。地上に露出した五階建てのビルと、その倍以上の容積を誇る地下空間からなるこの施設で、一日に廃棄される紙の量は五トンを軽く超えるとも言われていた。
いま、常駐者の数は百人に満たず、部署も往時の四分の言で削減され、森閑《しんかん》とした通路で人とすれ違うこともほとんどない。現在進行中の事態に呼応して、最下層の地下六階にある電算室にのみ、最盛期と同程度の人が集まっていたが、施設全体に活気を呼び戻すほどのものではなかった。
空調の音ばかりが響く、気が狂いそうな静けさ――部長クラスの執務室が集まるこの地下五階は、特にひどい。十畳ほどの執務室には鉢植えの観葉植物が置かれ、窓代わりの風景画が壁にかけられて、密閉空間の閉塞感を緩和する配慮がなされているが、さほど効果があるとも思えない。気を抜けば胸郭が内側にへこみ、窒息するような息苦しさを覚えさせる。
閉所恐怖症というわけでもないのに……と内心に罵《ののし》りつつ、城崎涼子は直立不動の体をわずかに身じろぎさせた。静けさと閉塞感に息苦しさを感じているのではない。慢性的な睡眠不足や、日々深刻度を増す事態の推移、目の前に座る男が醸し出す空気といった要素が絡まりあい、体の中で化学変化を起こしているのだったが、静かすぎるからという理由で納得できるのであれば、涼子はそれ以上、自分の肉体と精神の変調を詮索《せんさく》しようとは思わなかった。
下手に考えれば深い穴に落ち込み、そこから這い上がれなくなる。子供の頃から息苦しい思いを常にして生きてきた身には、それがよくわかっていた。痛みは痛みと機械的に受け止めればいいのであって、なぜ痛くなったのかを考える必要はない。もっと前向きで建設的なことに頭を使っていれば、痛みは自然に忘れられる。
忘れるだけで、痛みそのものは胸の底に残っていても――。空調フィルター臭い空気を肺に取り込み、息苦しさをごまかした涼子は、執務机の向こうに座る佐久間仁に視線を据え直した。
「一週間の成果としては、お粗末だな?」
報告書の束を机の上に放り、佐久間は言った。A4紙三十数枚にわたる報告書は、要約すれば、捜索対象《オブジェクト》が関西圏以西に逃亡したらしいという推測しか述べていない。涼子は「はい」と応えるのに留めて、言い訳や謝罪の言葉は並べなかった。謝る暇があったら、次の手を考えて迅速に実行する。この地下施設で働くようになって、それはいちばん最初に学んだ行動律だった。
「浅草の一件以来、桜も本格的に動き出している。やりにくいのはわかるが……。こうなると、亀戸でひと足違いで逃したのが悔やまれるな」
上司の部分と、男の部分が半々ずつの声で佐久間は続ける。突き放した後で背後に回り、うしろからそっと取り込みにかかるいつものやり方だった。内面の堅さを引き移した巌《いわお》のような表情がかすかに緩み、最近つれないんじゃないか? と言っている目と目を合わせた涼子は、「その亀戸ですが」と断ち切る声を出し、脇に挟んでいたファイルを佐久間に手渡した。
「対象と接触した人物が役に立つかもしれません。まったくの偶然ですが、赤坂の臨時雇用に知己があります。非関係者に一部情報を聞示するリスクを考慮しても、賭けてみる価値はあるかと」
ファイルを一読した佐久間は、「誰にやらせる?」と即座にゴーサインを出した。涼子は「許可していただけるなら、自分が」と、執務室に入る前から決めていた答を返した。
ファイルから目を上げ、こちらの表情を窺った佐久間は、意地っ張りの子供を見下す大人の顔だった。「のめり込みすぎだな」と振りかけられた言葉に、涼子は予期していても体を震えさせてしまっていた。
「再雇用の呼びかけに応じて、人も集まり始めているんだ。君ばかりが矢面《やおもて》に立つ必要もないと思うが?」
立ち上がり、佐久間は左手を背中に回してゆっくり近づいてきた。息が触れ合うほどの距離をおいて立ち止まり、涼子の肩に右手を置く。やさしく触れているようでいながら、決して手放さないという傲岸さも秘めた手だった。スーツごしにも厚さを偲ばせる佐久間の胸板が視界いっぱいに広がり、涼子は肩に置かれた手に目のやり場を求めた。親指の付け根から手首に至る古傷が、この時は蛇の姿を想起させた。
「彼と一緒に見る未来はないぞ」
低い声が耳朶を打ち、涼子は腿に当てた拳に力を込めた。そんなつもりはないと言おうとしたが、声にはならなかった。捜索対象賞《オブジェクト》への個人的な感情を整理できずにいる負い目、肩に触れた手に息苦しさを感じながらも、身を委《ゆだ》ねたい衝動を捨てきれずにいる自分を自覚する屈辱感に、口を塞がれているからだった。
苦笑ともつかない鼻息が佐久間から漏れ、額をくすぐった。楽しんでいる。むらとわき起こった反感が呪縛の何分の一かを解き、涼子は佐久間の顔を正面に見上げた。
「……私の部下ですから」
いつか言ったのと同じ言葉に、佐久間が返したのは短い嘆息だった。肩から手を離し、それでも楽しむのをやめない目を涼子に据えたまま、佐久間は左手に持っていたテレビのリモコンを無造作に持ち上げた。
応接用ソファの隣にあるテレビの電源が入り、NHKの昼のニュースを映し始めた。公安調査庁の組織改編を伝えるアナウンサーの声が部屋の静寂を破り、佐久間がにやと笑うのを見た涼子は、回れ右をして佐久間から離れた。
状況は、最後の局面に差しかかっている。もう後戻りはできない。そう教えるアナウンサーの声に息苦しい思いを強めつつ、涼子は一礼して執務室を退出した。
肩にかかったストレートの髪をかきわけ、ドアを閉めかけた時、佐久間が怖いほど真剣な目でこちらを注視しているのが見えた。
[#改ページ]
(……公安調査庁が、来年度より大幅に組織改編されることが、今日の臨時国会で正式に決まりました。これは神泉教による一連のテロ事件など、凶悪化する犯罪に対して政府が取締まり能力の向上を図ったものです)
タレ目のアナウンサーがそう告げると、画面は九段の合同庁舎ビルの正門を映し出した。行政管理庁、公務員共済組合などと一緒に、公安調査庁本庁が入居しているビルだ。
一度、北朝鮮の密入国工作員が在日の暴力団幹部と接触した事件で、桃山も中に呼ばれたことがある。なんとも反《そ》りの合わない連中だった。こちらを見下したような態度をとるかと思えば、「我々はどうせ縁の下の存在だから……」と、愚痴とも僻《ひが》みともつかない口をきいたりもする。警察の中でも、刑事部門と警備部門の不仲は伝統的なもので、公調はその職員の大半が警備部の公安・外事課からの出向者で固められているのだから、マル暴にとってこれほど始末の悪い相手もなかった。
思い出したくないことがほとんどの警察官《サツカン》時代にあっても、彼らとの仕事は最悪の部類に入る。だらしなくソファに座り、口半開きの呆けた顔をテレビに向けている桃山は、空っぽの頭でそんなことを思った。
(従来は総務部の他、国内事件を担当する調査第一部と、外事事件を担当する調査第二部の二部体制によって運営されてきた公安調査庁ですが、今回の組織改編により、新たに対破壊工作事件に主眼を置いた調査班が五つ設けられ、二部体制そのものも再構築されることが決まりました。これは昨年四月、暴漢に襲われ、今年二月に復職したばかりの兼松|昌吾《しょうご》警察庁長官が、先月七日の全国本部長会議で明らかにした『凶悪犯罪に対する司法・警察能力の抜本的改編案』を受けて、法務省が独自に準備してきたものです。国会後の記者会見で、新谷法務大臣は、『冷戦の終結により、これまで過激派対策に重点を置いてきた公安調査庁の役割そのものが問われる一方で、神泉教に対する破防法の適用など、より高い行政能力が求められている。今回の組織改編は必要不可欠のものだ』と語りました)
また画面が切り換わり、テレビは全国警察本部長会議の録画映像を流し始めた。壇上でスピーチしているのは、いくぶん痩せたように見える兼松警察庁長官。一年前、ゲバ棒で頭をかち割られても死ななかった不死身の男だ。なにかの間違いで桜田門に吸い上げられた身のこと、長官や総監とは訓示の時以外、顔も合わせたことがないが、神奈川県警本部長だった頃の兼松には、桃山もいちど直接会う機会があった。
可もなければ不可もなし。当たり前のキャリアさん、というのがその印象だった。どだい、個人的感情など持ちようがないほど、キャリア組とノンキャリ組の間には確固たる壁が築かれている。桃山のようなしがないデカがキャリアの管理職に望むことといえば、出世レースを捜査に持ち込んでくれるな、なにもわかってない口を挟んで邪魔してくれるなということぐらいで、後は彼らが異動のたびに退職金なみの餞別《せんべつ》をもらっていようが、いまのポストはしょせん腰掛けで、末は議員か大手企業役員、最悪パチンコチェーン役員の席を狙っていようが、別に怒るつもりもない。そういう場所を職場に選んだ自分がアホなのであって、腐敗に憤《いきどお》って文句を言う間に、少しでも多く組事務所を回り、繁華街を歩いて、情報を集めるのが先決と、そんなふうに自分を決めていたものだった。
それが、知らず知らずに精神を蝕《むしば》み、気がついた時には手遅れ。グータラ警備員一丁上がり、というわけだ。ぼんやり半開きの口がほんの少し上にひきつり、苦笑の表情を作り出そうと試みて、果たせずにもとの魂の抜けた顔に戻る。土曜日の午後、すぐ横では苅谷が隣の中華料理屋でとったラーメンを啜っていたが、痴呆のように弛緩させた顔をあらぬ方に向ける桃山に話しかける愚は犯さず、寡黙に箸を動かすことに努めていた。
この一週間、まるで元気がなくなった桃山の様子を気にしたのか、あれこれ話しかけてはきた。だが「あの、本部が桃山さんも所持品検査簿ちゃんと付けるようにって……」と言えば、「おまえ代わりに付けといてくれよ」。「昼飯どうします?」と聞けば「おまえ代わりに食っといてくれよ」では、話にもならないとあきらめたのだろう。息を潜《ひそ》め、一刻も早く下番時間の五時が来てくれるのを待つしかないのが、苅谷の立場に違いなかった。
ようやくその五時がきても、桃山は動かなかった。テレビに向けた顔も姿勢もそのまま、苅谷が帰ったことにも気づかないありさまで、七時頃、朝からなにも入れてない腹がようやく騒ぎ出して、隣の中華料理屋に電話することを思いついた。受話器を取り、番号を押そうとして、ふと関田の机の上のパソコンを視野に入れてしまった桃山は、一週間前そこに座っていた顔と声の記憶に胸を塞がれて、再び食欲が霧散するのを自覚した。
バカなことだと、わかっている。小娘の初恋じゃあるまいし、いい歳をして食事も喉を通らなくなるなんて。四日間、たったそれだけの短い時間、一緒にいただけだ。聞いたのは下の名前と、朧《おぼろ》な印象しか浮かばない過去の話だけ。互いにほとんどなにも知らず、道ですれ違った他人とたいして変わらない。勝手に入って来て、勝手に出て行った、ただそれだけの存在。それが、消えた後にこんなにも巨大な空白を残すなんて……。
最初の三日は、ぽっかり空いた穴を埋めようといろいろ動き回ってみた。近隣の似たようなビルを回ってみたり、野宿できそうな公園を覗いてみたり。雑多な人込みの中にひょいと二人の顔が見つかりそうな気がして、錦糸町や浅草、自転車で行ける範囲の繁華街をうろついてみたりもした。しかしそれは穴を埋めるどころか、より深く掘り下げてしまう行為でしかなく、そのことに気づいた四日目以降は、気の持ちようを変えてひたすら忘れようと努めた。ややこしいことになる前に消えてくれてよかった、これで面倒から解放される、と。だが浅薄な自己欺瞞は摂取酒量の増加をもたらすばかりで、問題解決の一助にすらならなかった。
絶望に直面した時は、それをあるがまま謙虚に受け止め、対していかなければいけない。見せかけの希望にすがりつき、現実から目を逸らし続ける限り、落ちた穴からは抜け出せない。以前、なにかの本にそんなことが書いてあったのを思い出す。そうなのかもしれない。二人に出会い、一時的に深い穴から抜け出した自分は、この三年間の虚無を初めて見下ろすことになった。そして自身の無気力を嘲笑い、世捨て人を気取り、斜め下から世間をねめ上げて安心していた己の救われなさと、初めて正対することができた。ぽっかり空いた穴、空白は、二人が残したのではなく、最初からそこにあったのだ。その現実と向き合い、抜け出したつかの間の幻想に酔っていた自分を置き去りにして、二人はふっつり姿を消してしまった。
バカ野郎。一週間の焦りといら立ち、内省の時間は、結局その一語にたどり着く。
過ごす時間が終わり、再び始まった潰す時間。19型ブラウン管から世間を見渡し、くだらないと文句を言うだけの日々。ひとりが当たり前のはずの警備室が妙に広く、大きく見えて、油断していると、得体の知れない不安と孤独に押し潰されそうになってくる。そんなにヤワな人間じゃなかったつもりなのに。唯一、有効な対策はなにも考えないことで、それはもう見せかけの希望ですらなく、呼吸する死体に等しかった。
まあいい、そういう時も人にはある、そのうち時間が解決してくれるさと言い訳しながら、すでに一週間。夜中にインターホンが鳴る度にどきりとしたり、似た背格好のカップルが歩いていると、追い越して顔を確かめてみたり……。
「……やることは、やっとかねえとな」
日報の作成やら、刻時巡回時計の細工。散らかし放題の机を見、うっちゃったままの雑事を思い出した桃山は、独りごちた。味噌チャーシューを胃袋に押し込んだ後、『ただいま巡回中』の看板を窓口に出して、腹ごなしの見回りに出かけることにした。
刻時巡回時計は、ひと昔前のカメラ程度の大きさと重さの機械で、巡回中の警備員が肩から下げて使用する。巡回コースの要所要所に設置された専用の番号鍵を鍵穴に入れて回すと、その鍵の番号と打刻時間が、中にセットしてあるテープに記録される仕組みだ。その時間、その場所にいたことを証明し、盗難事件などの時、自己の潔白を証す役にも立つが、基本的には警備員をサボらせないための道具と言った方がいい。証拠のテープをその日の警備日報に添付するよう義務づけられれば、いかにグータラしたくとも、決まった時間に決まったペースの見回りを余儀なくされるのだから。
が、もちろん抜け道は存在する。テープの取り出しや電池交換のため、刻時巡回時計には必ずマスターキーが備えられているので、蓋を開ければ内部の時計は自在に設定することができる。ちゃっちゃとコースを回り、鍵を回すたびに中の時計の針を進ませれば、五分で済ませた巡回も一時間に粉飾され、ひと晩に何度も巡回がある現場でも、同じ手順をくり返しながら回れば、一回の面倒ですべての巡回をクリアできるというわけだ。
その防止策として、蓋を開けると開放を示す○印を自動的にテープに打刻する金具が取りつけられているが、それもドライバー一本あれば片が付く。サンダル履《′》きで最上階まで上がった桃山は、そういうわけで金具を取り外してある刻時巡回時計のつまみをいじりながら、とりあえず最初の鍵回し散歩を開始した。このアリランスでは二十時、零時、三時開始の計三回、巡回が義務づけられているので、時間はともかく、七階から地階までの行程を三周しなければならない。番号鍵はチェーンでしっかり壁に固定してあるので、それだけは解決できない厄介事だった。
分解しきれないアルコールを貯《たくわ》えた体が重く、一回目でもう汗が出た。額に滲んだ汗は冷たく、少し息切れもする。これはそろそろダイエットをしないと、心臓がヤバいのかもしれないなどと思いつつ、桃山は地階に続く階段を降り、最後の番号鍵があるメールコーナーへ向かった。ベルトをつかんでズボンをたくしあげ、柱に固定された番号鍵に手をのばした時、意識して目に入れないようにしていたMDF室のドアから、わずかな光が漏れているのが視界の端をよぎった。
一瞬止まった心臓が、猛烈な勢いで動き出した。間違いない。施錠したはずのドアがほんの少しだけ開き、光の筋を廊下に落としている。棒立ちになった後、まさかともしかしたらの渦巻く頭が勝手に足を動かして、桃山はMDF室の鉄扉に手をかけていた。隙間から電気のついた室内を覗き込み、我慢できずにすぐドアを全開にしてしまった。
目に飛び込んできたのは、姿勢のよい、すっきりとした女のうしろ姿だった。葵……? と喉元まで出しかけた桃山は、振り返った女の顔に危うく口を閉じた。
「すみません、勝手に。桃山さんですね?」
待ち合わせ相手にでも向けるような、自然な目と声。葵とはまったくの別人だった。黒のスーツ姿は同じくらい姿勢がいいが、若さ、溌剌さが背筋を伸ばさせていた葵に対して、こちらは一本芯の通った、こわ張った堅さがそうさせているのではないかと想像させる。歳は二十代後半といったところか。驚きと警戒、なによりそうではなかったという失望を抱いて、桃山は「誰だい、あんた」とふて腐れた声を出した。
「ここは一応、部外者立入禁止ってことになってるんだがな」
「あの二人は入れたでしょう?」
自分と同じ、観察者の資質を持つ目が答え、今度こそ心臓が跳ね上がった。細い顎の上の唇が小さく笑みを結び、こちらの動揺を読み取ったことを伝えたが、嫌味はなかった。しっとりと身にまとわせた空気のせいだろう。美人はたいてい得をするものだが、この仕事でも役に立つ実例は初めて見た。胸のうちに呟いた桃山は、すでに半ば以上彼女の素姓《すじょう》を得心している自分に気づいて、その目をまっすぐに見返した。
正面玄関もこのMDF室も、間違いなく鍵がかかっていた。保と葵が飛び込んで来た晩もそうだ。ありきたりの鍵では、彼らの侵入は防げないということだろう。解錠術は警察学校で多少習ったが、保やこの女のそれはレベルが違う。「……なんのこったよ」と返して、桃山は女の次の出方を窺った。
「これ……」ショルダーバッグからB5判のファイルを取り出し、女はそれを桃山に直接手渡した。長いストレートの髪から、ラベンダーの香りが漂った。「四月二十六日の深夜、午前一時十三分に、そこのファミリーマートであなたが購入した商品のレシートの写しです。それと同日午後四時二十五分、西友平井支店衣料品売場で購入した分のレシート」
包帯、ガーゼ、レトルト粥と並ぶコンビニ店のレシートを貼付した紙には、ご丁寧にも防犯ビデオのプリントアウト写真まで添えられていた。天井からレジを見下ろした写真に、中国人店員の後頭部と、自分の間抜け面がはっきり写っている。西友ストアの方も同様だった。写真にしろレシートの写しにしろ、支店判断で勝手に外部に流せるものではなく、おそらくは本社を通じて入手したのだろう。興信所や暴力団がおいそれとできることではない。
「二十八日には、三軒に分けて料理の出前を……」
「誰なんだよ、あんた」
ということは、やはりそういうことだ。続く言葉を突き返したファイルで撃て、桃山は久しぶりに出す昔の仕事向きの声で言った。慣れているらしい女はまた少し冷たい笑みを浮かべ、「申し遅れました」と軽く頭を下げて見せた。
「私、城崎と申します。城崎涼子」
フルネームを教えるから、勤め先は勘弁しろ、か? そうはいかない。桃山は、「どこのどういった城崎さんだい?」と重ねた。
「元警部補と同じ筋から来た……としか、お答えできません」
元は余計だが、懐かしい呼ばれ方には違いなかった。こちらの身上調査はすべて完了済みらしいとわかって、桃山はこうなる可能性を完全に失念していた自分に心底うんざりした。
浅草の神山組事務所の爆発と、その後の金谷たち舟木会の捜索。それに対して警察は、不自然な事故発表を出しただけで、動く気配さえ見せなかった。その時点で、通常捜査から公安捜査に移行した可能性は予測できたはずなのに、背後ひとつ振り返ることなく、のんびり買い物などをして、二人が消えた後も捜し回っていたとは。自分の迂闊さへの引け目と、いつからかマークされていた恐怖の両方を感じて、桃山は涼子と名乗った女から顔を逸らした。
「わかんねえな。おれは十三階にはとんと縁がなかったんで」
桜田門ビル十三階にかまえる警視庁公安部のオフィスには、実際、数えるほどしか足を運んだことがないし、話せる同期もいない。喋らない日本警察の中でも、連中はとりわけ寡黙な集団だ。頭を掻きながら言うと、「私もです」という微笑が返ってきて、桃山はおやと思った。
きれいな笑顔だったが、幻惑されたのではない。その静けさ、寂しさに、胸を衝かれたように感じたのだった。なにをそんなに疲れているんだろう? この業界で女がやっていくためには、人一倍の忍耐と度量が要求されるのだろうが、それとは異なる、もっと身近な孤独と疲労が彼女にはある。腰を落とし、かすかに血の跡が残る床を手で触れた涼子を見下ろして、そんな直感が桃山の頭の中を駆け抜けた。
「あんた、保の仲間か?」
もうしらばくれても始まらない。そこだけ色の違うコンクリ床に触れた手はどこかやさしく、桃山は妥当な推測を言ったつもりだった。裸電球に照らされた黒髪がわずかに揺れ、はっとした涼子の目がこちらを見上げた。
「彼、名前教えたんですか。あなたに」
「ああ。下だけな」
「……初めてです。そんなこと」
仕事で使うのとは違う、もっと生々しい感情を湛えた瞳がじっと注がれ、やがて外された。立ち上がった涼子に、桃山は「あいつはなにをやらかしたんだ?」と尋ねてみる気になった。
「追っかけてんだろ。あんたら」
もう冷たいだけではない目が、なにかを確かめるように桃山を凝視した。確かめられるほどの価値はないと自覚している体が怯《ひる》み、意地になって睨み返すと、ふっと歪んだ口もとが、「私たちだけじゃありません」と答えた。
「警察、公調、内調(内閣情報調査室)。それに……」
「舟木会も、か」
「そう。もっとも彼らは雇われているだけですが」
雇う? それに警察でも他の調査機関でもない、『私たち』とはいったいなんだ? 身近に感じられたのも一瞬、こちらをグータラの死に体と確かめたらしい女の顔は、再び冷たい笑みをまとっている。桃山は多少いら立った声で「なぜだ」と重ねた。
「危険だからです。彼という存在と、その握っているもの。すべてが」
あのフロッピーディスク。反射的に思い浮かべてしまってから、読み取られないよう、すぐに頭から追い出した。突き通る視線から顔を逸らした桃山は、「おれにゃあそうは見えなかったがな」と意味もなく顎を摩《さす》った。
「あいつは、任務であの娘を守ってるんだって言ってた。そのためなら命も投げ出す覚悟に見えた。危険なんてとんでもねえ、実直な兵隊だったよ。だいたいあんたらじゃねえのか? その命令出したのは」
コンクリ床に残った染みを見下ろして、桃山は思った通りのことを口にした。涼子は冷たい笑みを張りつかせたまま、否定も肯定もしなかった。
「それとな。あの娘、在日だろ。北系の」
涼子の目がすっと細まり、「話したんですか?」と聞いてきた。「朝高サンド、ご馳走になったんでな」と桃山は答えた。
「前に、総連(在日本朝鮮人総連合会)崩れのヤの字から聞いたことがある。朝高……朝鮮高校じゃ、ハンバーガーもコーラも帝国主義の食い物だからってんで、買うのは禁止。代わりに妙なサンドイッチが流行ってるんだってな」
もっとも、葵が作ったそれには独自の改良が加えられていた。それに北朝鮮本国の在外経済部、早い話が送金窓口である彼ら北系在日の人々は、朝鮮高校を代表とする専門の教育機関において、ミニ本国とも言える民族優先の指導を徹底しており、校内では日本語の使用すら禁止されていると聞くが、彼女からは思想や行動の規制を受けた気配は感じ取れなかった。ひどく美味かったサンドイッチの味を遠いものに感じながら、桃山は半ば当てずっぽうで言ったが、涼子の目からは冷笑が消えていた。
まだ多少は生きているとでも思ったのか。「どうなんだよ」と重ねた桃山に、涼子は少しの間をおいてから、「そうです」といくぶん堅くなった声で返した。
「須藤《すどう》葵……李英順《リ・ヨンスン》と、その父親を警護する。それが増村《ますむら》保に与えられた任務でした」
増村保、それに須藤葵。初めて知った二人の姓に胸が騒いだが、それより気になったのは、かつて父と保と三人で暮らしていたと葵が語った時と同様、過去形で語られた任務の内容だった。「でした?」と聞き返した桃山に、涼子は「変更になったのです」と簡単に答えた。
「彼はそれを拒絶して逃亡しました。須藤葵を連れて。回収に向かった要員二名を殺害して」
予期していても、実際に逃亡、殺害と聞かされた衝撃がやわらぐものではなかった。動揺を精一杯押し殺し、桃山は「……新聞にゃ出てなかったな」と搾《しぼ》り出した。
「本庁にいらした方なら、記者クラブの馴れ合い体質はご存じでしょう? コツと人脈さえ押さえれば、マスコミの誘導はそれほど難しいことではありません。彼らも商売ですから」
涼子は淡々と答える。悔しいが、事実と認めるしかなかった。以前、共同会見でサツ回りの新人記者が警視庁幹部に突っ込んだ質問をした時、「君どこの人?」と幹部が白い目を向けると、その日のうちに論説委員クラスの先輩記者がやってきて、高級ブランデー片手に詫びを入れる一幕を目撃したことがある。記者クラブにしろ番記者にしろ、取材対象との間にしっかりした信頼関係を構築し、相手にどれだけ喋らせるかが勝負どころになるのだから、その相手を怒らせてしまえば商売あがったりになる、という道理だった。
受け身にならざるを得ない政府部内の記者クラブほど、その傾向が強い。無論、新聞社が抗議に動いてくれることもまずあり得ない。勝ち目のない喧嘩をして、「お宅とはもうつきあわない」と宣言されたら一巻の終わり。回してもらえる情報が極端に少なくなり、自滅の道を歩むぐらいなら、問題を起こした記者を取り替えた方が賢明と、これも道理の話だった。実際、その記者は翌日から二度と桜田門に顔を出さなかった。
そう考えれば、浅草のビルがガス爆発で半壊したとしても、不思議なところはない。問題は、する側にとっても非常にリスキーな情報操作が、保ひとりのために行われたという事実の方だった。
反逆、逃亡した工作員の捜索。涼子の話を信じるなら、そういうことになる。そして彼ら以外のライバル機関――公安警察や公調、内調もそれを知り、保を追っているというなら、なんとしても先んじて回収したいのが涼子たちの立場なのだろうということも、桃山には想像がついた。
警察は、自身の権限を侵食されるのをもっとも嫌う。公調や内調がしゃしゃり出てくれば、反感に近い感情が芽生えてくるし、厚生省の麻取(麻薬取締官)や海上保安庁など、他に警察権限を持っている機関に対しても、切磋琢磨などという健康的な言葉では括れない、陰湿な差別感覚を持っている。ましてや存在も公表されていない、秘密の情報機関なんて論外だ。根底では警察力の一元化を望む警察、その周辺で縄張りを分け合う他の警察機関に、涼子や保が所属する情報機関が好意的に思われているはずもない。もしそうなら、保という反逆者が逃げ回っている状況は、どの警察機関にとっても一種|垂涎《すいぜん》の的になっているのだろうと桃山は想像を重ねた。隠密裡に、迅速に保の身柄を確保すれば、以後、涼子たちの組織を永遠に黙らせるだけのカードに転化できるという理屈だ。
が、それで事件がすべて水面下で進行している理由は説明できても、舟木会の介入はわからない。涼子は「彼らは雇われて……」と口にしたが、ヤクザを雇ってどうこうしようというのは議員先生の発想であって――それも昨今の状況下では考え難い――、政府や警察の発想ではない。金谷はなぜ保を追っているのか。保はなぜ連中のビルを爆破したのか。
「……なるほどな。で、あんたもあの二人を追っかけてるわけだ。裏切り者をとっ捕まえるためとはいえ、若い娘が土曜の夜まで働かされて。ご苦労なこったな」
「それだけではありません」徹底した男社会で、女性蔑視の皮肉などは聞き慣れている余裕の笑みが、怒らせて口を滑らかにしようとした桃山の浅知恵を粉砕した。「言ったでしょう? 彼の持っているものが問題なんです」
奥まで突き通る視線が再び向けられ、桃山は図体のでかい幼稚園児よろしく、刻時巡回時計を肩からぶら下げて突っ立っているわが身を恨めしく思った。応じる言葉もなく見返すと、ふと目を逸らした涼子が「神泉教の地下鉄爆破事件。どう思われます?」と、まったく予想外のことを言った。
「どう、とは?」
「元警部補の目からご覧になって。なにか感じるものはありませんか?」
一拍はね上がった鼓動に、額に浮き出る冷や汗が続いた。感じるもの? なにを言わせたいんだ。少しでも組織犯罪に取り組んだ経験を持つ者から見れば、あの事件は辻褄《つじつま》の合わないことだらけだっていうのに。堰《せき》を切って溢れ出した言葉を腹に留め、桃山は「……別に」と肩をすくめてみせた。
「頭でっかちのガキどもが、調子にのりすぎたってだけのことだろ? マンガと現実の区別がつかなくなっちまってよ。ひと昔前のゲバ学生と同じだよ。マルキシズムが、SFもどきの人類滅亡説に取って代わったってだけでな」
「一般的な見解ですね」
「悪いかよ」
「悪くはありません。ただもったいないと思って」
小生意気な……と思っても、途中下車の軟弱ぶりを晒し、感じるものも感じないようにしている自分がなにを言い返せるはずもなかった。後は年齢の優位しかない桃山は、「真相は他にあるってか?」と、空想好きの子供の相手をする声で応じた。
「それは重要ではありません」眉ひとつ動かさず、涼子は冷静に返す。「民主主義の社会ですから、多くの人がそうだと信じれば、それが真実になります。ただひとつだけ言えるのは、あんな愚かな事態の発生を見逃すほど、この国はナイーヴではないということです」
さらりと言った涼子の瞳に、燻《くすぶ》っているなにかを刺激されたように桃山は感じた。あんたらみたいな連中がいるなら、そりゃそうだろう。言われないでもそんなことはわかっている。だが別に突き詰めて考えようとしなかったのも、もうその必要がない場所にいるからだったし、なにより彼女の言う通り、真実や価値観、あるいは現実さえもが、多数決によって構築されてゆく現代のプロセスを、自分なりに納得している部分があるからだった。
大衆という多のフィルターを通して見た時、事象は往々にして常識という共通分母によって改竄《かいざん》される。そうした方がわかりやすいこと。その方が都合がよく、傷つく人が最小限で済むこと。複雑な利害が絡みあった出来事ほど、そうしたものが事実に置き換えられるケースが増えてくるのも、無数の身勝手が角を突き合わせている世の習わしのようなものだ。神泉教の地下鉄テロ事件もその例に漏れず、すべてはあのグロテスクな集団が単独で準備し、実行したと考えた方がわかりやすい。そしてそう思う人の数が一定に達した時、それは紛《まぎ》れもない事実として実効することになる。
こうした多の論理――常識と呼ばれるものに逆らうには、かなりの体力と知力が要求されるものだ。学生や、ラジカルを信条とする芸術家、一部のジャーナリズムに任せておけばいいことで、普通の人にはそんな余裕も必要もない。日々の生活の中、風説やニュースが耳に入ればああそうかと思うだけで、いちいち突き詰めて考えていたら、社会そのものがと滞《とどこお》ってしまう。桃山はそれを知っており、自分が普通の人以外の何者でもないことも自覚していた。だからあの事件についても、どれだけ引っかかることが多かろうと、口に出しておかしいとは言わなかったのだ。言った瞬間から生じる責任≠被《こうむ》るのが、億劫《おっくう》だったということもあるが。
それを、城崎涼子は引き出そうとする。いま信じられている事実の先に、確かにそれほどナイーヴであるはずがないこの国の暗部が広がっていることを仄めかして。保の持つなにかがそれに関係している。暗部を隠すために広められた事実≠ニいう信仰を、覆《くつがえ》すだけの力を持っているとでも言うように。
いったいなんだ? と桃山は何度目かの自問をした。あのフロッピーのタイトルには、確か〈アポクリファ〉と書かれていた。アポクリファ。毛生え薬の名前みたいだが、どういう意味だろう。英語だろうか? 後で警備室にある辞書でも引いてみるか……。
そこまで考えて、のせられ始めている自分に気づいた桃山は、咳払いをして涼子の微笑から一歩遠のいた。追うことも引っ込むこともしない目が、黙ってこちらを見つめていた。
「話は面白いがな。悪いけどおれは巡回の途中なんだ。用があんならさっさと済ませて、引き上げてくれねえかな」
同じ土俵には上らないと宣言したつもりだった。黙って受け止めた涼子は、少し顔をうつむけてみせた。
「言っとくが、二人の行き先なら知らないぜ。おれも知りてえぐらいなんだ」
「わかってます。彼はそれほど甘い人間ではありませんから」
「じゃあなんだい」
「お聞きしたかったのです。なぜ、あの二人を匿《かくま》われたのか。危険なことはわかっていたはずなのに」
静けさの中に、熱を帯びた揺らめきが立ち上ったように思った。それだけか? と言いかけて、ふと二人の姿と声を鮮明に思い出してしまった桃山は、床の染みから目を逸らした。
「……あいつらはな、まだ子供だ。そしておれは、少なくとも自分じゃ大人だと思ってる。だからだ」
「それだけですか?」
「他にどんな理由がいるよ」
無性に腹が立ち、桃山はとがった声で話を打ち切った。命なんて安いもんだ……と言った時の保の横顔。あれは、そうして巧みに隠蔽されたこの国の暗部で、人の生き死にを目撃――あるいは直接手を下し続けてきた果てに得た諦念だったのか。命令に逆らい、いつかはいずれかの機関の手によって処理される自らの運命を、従容《しょうよう》と受け入れるための言葉だったのか。
いずれ、桃山が「二度と言うな」と言ってからは、保はひと言もその言葉を口にしなかった。おとなしい患者に徹して、葵を守る自己の肉体の修復に努めているように見えた。不自由な過去を顧み、見えない明日にわずかな希望を繋いで、遠い海を見つめる眼差しをつかの間示しさえした。自分がそうであったように、あいつもきっとここでなにかを得たのだ。自分を変えるなにか。人と人の出会いだけが紡ぐ、生き直す標《しるべ》となるなにかを。それなのに……。
確かめる目――かつて保が見せたのと同じ目が注がれ、やがて伏せられた。「……わかりました。ありがとうございます」と言った言葉に皮肉はなく、涼子はその場を離れる一歩を踏み出していた。
このまま捕まり、尋問されても文句の言えない身にとっては、意外な引き際のよさだった。すぐ脇を通ったラベンダーの香りを背中で見送った桃山は、「ひとつ、お願いがあります」とためらいがちに紡がれた声に、顔だけ振り向けた。
「もし……もし、また彼に会うことがあったら……。その時は、西へは行くなと伝えていただけますか?」
「西へは行くな……?」
「そう言えばわかります。その代わり、あなたには監視の類いは今後いっさいつけません。私の名誉にかけてお約束します」
はっきりと言いきった涼子の顔に、職業を超越した情念が映えていた。単に他の機関の手に渡したくないというだけでなく、誰にも保に触れさせたくないとでも言いたげな瞳に、桃山は「なんでだ」と尋ねた。
「彼は……増村保は、私の部下でした。誰よりも優秀な……」
正直すぎる答に、桃山は面食らった。そしてそう言った時の涼子の目は、信じていいという気にもなった。半開きのドアに手をかけた細い背中を、桃山は「待てよ」と呼び止めた。
「また……おれのところに来ると思うのか?」
発見された気配を感じ取ったからこそ、保と葵はなにも言わずにここを立ち去ったのだ。確実に網の張られている場所に戻ってくるはずがなく、第一それまで生きている保証もない。当然の質問をした桃山に、涼子はバランスのとれた唇を微笑の形に歪めてみせた。
「名前を教えたあなたのところになら……きっと」
その言葉を最後に、黒いスーツの背中がドアの向こうに消えた。後を追って廊下に出た桃山の目に、あまり高くないヒールの足が階段を上りきるのがちらと映ったが、それだけだった。靴音と一緒に気配もかき消え、ラベンダーの香りだけが後に残った。
翌日、日曜は明け休みだった。世間はゴールデンウィーク最後の一日の賑《にぎ》わいを見せていたが、グータラ警備員の身には関係なく、なにをする気にもなれずに家で悶々とゴルフ中継などを眺めているうちに、時間だけが無為に流れていった。
夕方のニュースは、神泉教団への破防法適用がほぼ固まりつつあることを告げると、ペナントレースの速報に切り換わった。一年前の熱狂が嘘のような素っ気なさに、桃山は他のチャンネルを回してみたが、イギリスで猛威を振るっている狂牛病のリポート、やたらと「メークドラマ」を連発する野球解説者の顔が映るばかりで、神泉教関連のニュースが取り上げられることはなかった。
事件当時はどのチャンネルを回しても神泉、神泉で、とにかくそれを流しておけば視聴率が稼げる風潮さえあった。妄想と権勢欲に取り憑《つ》かれたヤマ師的教祖率いる宗教集団が、薬物を濫用《らんよう》した洗脳で信者たちを思うままに操り、人類救済という名目のもとに無差別大量殺人を実行した事件。この、少なくとも日本ではとうてい起こり得ないと考えられていた異常な事件との直面に、すべての日本人は驚き、怒り、困惑して、テレビに釘づけになった。
なんてひどい、なんて恐ろしい、なんて愚かな連中。プレハブみたいな共同住宅に住み込んで、ろくに風呂にも人らないで。オカルト、SFマニアのなれの果て。現実不適合者の集団。あの教祖は、気に入った女信者をはべらせてハーレムを作っていたんだそうだ。汚らわしい、不潔な男。なんであんな奴の言うことを信じるんだろう。受験勉強ばっかりで、常識ってものがないんだ。欠陥人間なんだよ。だから残酷なことも平気でできるんだ。きっと他にも企《たくら》んでいるぞ。もっとひどい、もっと醜いものが連中の中からは出てくるぞ……。
衝撃が過ぎ去れば、そうした怖いもの見たさの野次馬根性だけが加速して、ニュースとワイドショーの垣根を取り払ったマスコミも、おどろおどろしいキャプションや音楽をVTRに添えたり、信者とその家族に突撃取材を試みたりして、視聴者の欲求によく応えた。実際、灰色段階で連日行われた教団幹部とマスコミ知識人との討論は、どんなドラマを見るよりもおもしろく、どんなバラエティ番組を見るより笑えたものだった。間抜けな言い繕い、妄信は、わかってもらえないとあきらめた途端に子供じみたふて腐れた態度に変容する。ああはなりたくない、という人の姿を象徴してくれる者たち。それはつまり、自分はそうではないという安心と満足を提供してくれる存在でもある。事件はその本質とはかけ離れたところで娯楽と化し、ひたすら塾通いに明け暮れる子供、会社研修という名の「修行」で人格を封殺される父親、ファッションやエステに大金を注ぎ込み、気功術や占いに傾倒する母親、といった紙一重の日常を省みることなく過熱し、過ぎ去っていったのだった。
事件そのものは、昨年の三月下旬、連休明けの都心で起こった。午前八時半、東京を縦貫する地下鉄有楽町線桜田門駅において、構内に進入したばかりの先頭車輌が突然爆発して脱線、炎上した。先頭車輌に乗っていた百人あまりの乗客は即死し、他にも後続車内、駅構内にいた四百人以上の人間が重軽傷を負った。
それが始まりだった。同様の爆発が日比谷線霞ヶ関駅、丸ノ内線国会議事堂前駅で起こり、通勤ラッシュの最中にあった人々を直撃した。首都の動脈はその結線部分で文字通り破裂し、噴き出した血と煉獄《れんごく》の炎は、最終的に二百八十五名の死者と、失明、手足切断など一生の障害を背負った者も含めて、千七百三十四名の重軽傷者を生み出すに至った。
悲鳴、怒号、緊急車輌のサイレン音が響き渡り、上空ではヘリのローター音が間断なくこだまする。その日一日、東京は比喩《ひゆ》ではなく戦場と化した。さらに銀座線と都営三田線甫丙でも爆発物と見られる不審物が発見されるや、自衛隊の爆発物処理班にも出動がかかり、周辺住民を避難させての除去作業が行われるなど、未曾有《みぞう》の事態はとどまることなく拡大した。
この時に回収された爆破装置、爆発現場の鑑識捜査から、惨禍をもたらしたのは軍用プラスチック爆弾、セムテックスであることがほどなく判明した。スプーン一杯分で車を吹き飛ばす強力な爆薬が、それぞれの車輌に一キロ近く仕掛けられていたのだ。それも起爆装置ともども紙袋に入れて、荷台に置き去りにするという至って簡単な手口。いったいどこの誰が、なんのために。恐怖が怒りに変わり、憶測、推論入り乱れての情報が錯綜する中、どこからともなく立ち上った「神泉教」の名前が、すべての人を刮目《かつもく》させるだけの重みを持って、事件の中核に根づいていった。
根拠は明白だった。事件を遡《さかのぼ》ること半年、山口県でも同様の爆発事件が起こっており、神泉教団に疑惑の目が向けられたまま、未解決に終わっていたからだ。深夜の住宅街で炸裂したセムテックスが死に至らしめた七名のうち、三名が神泉教を巡る訴訟に関わる判事と裁判所の職員。教団に不利な判決を下そうとしていた人々を殺害したのは誰か、考える余地はそれほどないはずだったが、神泉教の犯行を示す物的証拠はなにもなく、他にそれらしい容疑者が見つかり、そちらに捜査の目が集中してしまったこともあって、半ば迷宮入りの空気が流れていた。
そこに、今回の地下鉄爆破事件。教団はあくまでも潔白を主張したが、理解を求めながらもどこかで高飛車《たかびしゃ》なその態度、パラノイアそのままの陰謀説――国内外の大手宗教団体、公安警察、さらにはCIAと、ありとあらゆる名前が動員された――が、かえって疑惑と反感を高める結果になり、事件から二日、ついに静岡山中にある教団の総本部に対して、警察の強制捜査が入ることになった。
パトカー、装甲車輌で大挙押し寄せた捜査員たちは、一様に出動服と短銃を収めたホルスターで身を固め、中には特注の防護服にガスマスクを装着した者も見受けられた。施設内部で化学兵器が製造されているという情報に対応したもので、ガサ入れというより進軍を思わせる物々しさの背後では、陸上自衛隊に出動待機命令が下されてもいたのだという。そしてその期待に違《たが》わず、プレハブやバラックの集群で形成される粗末な教団施設の内部は、度肝《どぎも》を抜く異常と狂気に満ちていたのだった。
毒ガス、細菌兵器を製造するための化学プラント。大量の銃器弾薬。高温で骨まで焼き尽くす焼却炉。薬漬けで立つこともできなくなった一部の信者たち――。日本の中に突如出現した異界、日常と肌を触れ合う狂気の巣がそこにはあった。教団の世界終末思想につき動かされた彼らが、一種のクーデターを目論《もくろ》んでいた現実が否応なく目前に現れ、警察は監禁状態にあった一部の信者を保護するとともに、全国各地に散在する教団支部の立ち入り捜査を実施。当然とやりすぎの賛否両論を背に浴びながら、予防拘禁に近い教団幹部たちの別件逮捕を敢行した。
結局、セムテックスそのものは発見できなかったものの、大量の火薬原料が施設内部で押収されれば、容疑は固まったも同然だった。教祖を絶対至上の存在と位置づけた特異な組織体系、出家信者から全財産を没収した上、重労働を課し、多岐にわたる商業活動を支えていたというなりふりかまわぬ金儲け体質が明らかにされていくうち、宗教的制裁に名を借りた暴力で教団に逆らう者を多数死に至らしめていた事実も浮き彫りにされ、それらはすべて教祖・王仁天凛《わにてんりん》こと、山岸《やまぎし》和雄《かずお》の指示によるものである疑いが濃厚になってきた。そして事件から二ヵ月弱、昨年五月中旬、ついに王仁に対して逮捕権が発動され、事件以来、奥の院に閉じこもっていた希代のカリスマは、その姿を国民の前に現した。
自決するでもなく、潔く両手を差し出すでもなく、教団施設の隠し扉の向こうでじっと息を潜めていた小太りの中年男の姿に、一万を超える信者たちはなにを見たのか。いずれ、その逮捕劇をもって事件は一応の終幕を迎えたのだった。
それから一年。初公判を迎えたばかりの王仁は相変わらず黙秘を決め込んでいるが、頑《かたく》なに教祖を信じ、犯行否認を続けていた幹部信者たちは、ぽつりぽつりと自供を始めた。地下鉄テロは、教団への司法介入が近いことを予期した王仁が、捜査の鉾先《ほこさき》を変えるために行わせたこと。一殺多生、魂《たましい》の輪廻転生《りんねてんしょう》などの説法で通常の道徳観念が麻痺した実行犯たちが、衆生救済《しゅじょうきゅうさい》を信じ、爆破装置の紙袋を地下鉄車内に置き去りにしてきたことなどが語られ、それなり以上に高度な教団の人的内情――国立大理工系卒の幹部たち、元活動家、暴力団幹部。さらには現役を含む警察・自衛隊OBたち。特に自衛隊出身者は、爆破装置の設計に多大な貢献を果たしたものと見られる――が明るみに出るにつれて、ロシア政界、かつての左翼過激派や暴力団との関連までが取り沙汰されるようになった。事件の根深さを証明するかのごとく、兼松警察庁長官襲撃事件、虚実入り混じった便乗犯の爆弾騒ぎなど、イレギュラーな事件が起こっては過ぎたが、それもようやく一段落して、いまでは町の風景の一部になった観のある逃亡幹部たちの顔写真が、わずかに事件の名残りを伝えるのみになった。
教団に対する破防法適用問題が人の口に上らないのも、神泉事件はすでに決着したという印象が強いからで、経済的にも人的にも丸裸にされた神泉教が、いまさら王仁を奪還し、世界救済を掲げて新たなテロを起こすとは誰も考えていない。行き場なく教団に留まっている出家信者たちへの嫌悪と軽蔑も、いまだ後遺症に苦しむ被害者たちに対する同情も、ブラウン管に展開される虚構という意味では同列でしかなく、価値観もモラルも生き方も個々のレベルにまで細分化された現代にあっては、当事者にならない限り、すべての出来事は遠い世界の他人事でしかなかった。身に迫る危険がなくなったとわかれば、バブルの後始末にどれだけ身銭《みぜに》を切らされるかの方が、国民の重要問題になった。
自らをある程度の無知に留め、忘却をもって先に進む。その処世能力は、この国では少々行き過ぎの観があっても、人の知恵のひとつとして桃山は認めている。むしろそうした世の現実を上手に語る術を持たず、理想に向けて行動する尊さも重さも語らなかった大人たちが、子供たちをひとつの答しかあり得ない受験勉強や、性急な理想論か現実逃避しか教えないメディア文化に漬けっぱなしにしてしまった結果が、神泉教団を生み出したのではなかったか。神泉に走った若者たちを異常と規定するのは易いが、では自国の総理大臣の名前さえ知らず、歌手やタレントを「教祖」のごとく崇め、同じ髪型とファッションで顔中にピアスの穴を開ける若者は正常と言えるのかという問題は、依然として残る。それも異常であるなら、いったい「正常な」若者の規定とはなんなのか。他人に迷惑をかけず、適当に遊んで適当に学び、恋愛やスポーツに青春を謳歌する者のことか。そんな都合の良い若者がいたとして、彼らに良い未来が拓《ひら》けていると言えるのか。
結局は、自己の研鑽より、他人を蹴落とすことに主眼を置く受験勉強だけが将来の約束手形であり、後はひたすらに遊び呆け、十分に遊んだという錯覚を後生大事にして、つまらない大人の形にはまってゆくしかない。過剰な自我は、集団社会生活においては生きる障害にしかならないことは、桃山自身、わが身の痛みとして心得ている。が、だからといって若者にひたすら適応を求め、なんの実経験もないうちからシニカルで要領のいい連中ばかりを増やしてしまったら、この世から進歩という言葉がなくなってしまう。
現状肯定のもとに行われる開発や発見は、ハードにすり寄った効率をもたらすだけで、システム向上の一助にはなっても、人の精神を救いはしない。通信機器、コンピュータの発達がいい例だろう。携帯電話はどこにあっても個人を閉塞した輪の中に留め、独りでこそ得られる発見、会えない時間が育てる人間関係といったものを失わせる。パソコンがもたらした情報革命にしても、高速化した物事に人が青息吐息で追いつこうとしているありさまで、経済活動はその恩恵を受けたが、人は新しい苦痛をひとつ背負い込む結果になった。効率化は余暇より失業者をより多く増やしてしまったのだから。
若者には、そうした現状に対して異議を唱え、考え、行動を起こす権利があり、健康な社会であるなら、彼らの言うことに耳を傾け、物事の実際を見てきた者としての立場から善悪を説き、時にはたしなめたり、叱ったりする大人の存在があって然るべきだろう。この国にはそれがなかった。もとは小さなヨガ教室から出発した神泉教が、ここまでの組織に成長した背景には、そうした若者たちの問いかけに対する答が――正誤は別にして――教団にあったからだとする意見もある。戦後復興の完了と同時に、社会参加が若者の理想になり得た時代は終わり、高度成長のカウンターカルチャーとして誕生した全共闘が無残な終焉を迎えると、シラケた沈滞ムードの中、細分化されたサブカルチャーが隆盛し始めた。いわゆるオタク・ブームがそれで、個々の趣味に没頭する若者たちには、その分野に対する潤沢な知識はあっても、社会そのものに対する関心、洞察力はない。共有する言語が極端に少なく、興味は内側に向けられざるを得ないから、対峙するものを変革しようとする情熱は、自己の精神や肉体に向けられる。それが、超能力開発を謳った教団の宣伝文句に合致し、破滅に向かって突き進む世界を救済しよう、そのためには殺人もやむを得ない、とエスカレートしていった神泉思想にすり替えられたのだ、と。
現実逃避から、現状打破へ。同化を強制する社会に適応できず、オカルトやSF、宗教といった共通言語によって成り立つ自分たちのコミューンに救いを求めたという点では、それは無理からぬことだし、なにも考えない受け身一方の若者よりは、よほど正常だとも言えるだろう。神泉教がここまでの嫌悪の象徴になったのも、大多数の国民が、自分と紙一重の姿をあの小汚いプレハブ住宅の中に見たからに他ならない。
しかし、では不自由を我慢して、現状の中であくせくしている人々の立場はどうなるのか。第一、適応を拒否して自己研鑽のために教団に加わったはずの若者が、なぜ安易に洗脳されてしまうのか。根本では同化を願っているからか。もしそうなら、それは真実、唾棄《だき》すべき存在だと桃山は思う。
自分は他人ほどバカではないという傲慢は、若者の資質としては正しい。だからなんでも否定するし、ぶつかった痛みの中から成長もする。それが社会全体の活力にだってなるだろう。それを、最初から現実を無視して、仲間内の論理ばかり発達させて、否定され追い詰められたら爆破と、そんなものはどう理屈をつけようが単なるテロに他ならない。社会問題云々以前に、親の躾《しつけ》の問題だ。人間として、最低限これだけはやってはいけないというルールを、彼らは破った。不完全な世界で、現実にスシ詰めの満員電車に揺られ、衣食住を賄《まかな》う経済活動に従事している人々を、そのひとりひとりに家族もあれば希望もあった人々を、わけもわからないまま死に至らしめた。その罪の代償は、決して軽いものではないと、後のためにも教える必要がある。いまだ教団に残り、教義そのものは正しかったと嘯《うそぶ》く者たちにしても、いちど世間から否定されたものを信じ続けるというなら、もう今後いっさい、他人に理解を求める権利はないし、同情を乞う資格もないと覚悟すべきだろう。人には行動に伴う責任があるのだから。
だが、そんなことはいい。どだい、桜田門教のマインド・コントロールにどっぷり浸かり、解放された後の空虚を漂っているいまの自分に、正論をぶち上げる権利もない。桃山が引っかかるのは、教団が「すべて単独で」あの事件を案出、実行したとはどうしても思えないという、その一事にあった。
理解できるかどうかは別にしても、十分に納得できる動機があり、物証もほとんどが出そろった。幹部たちの自供も始まれば、法的に裁くことにはなんの問題もない。しょせん、真実は当事者にしかわかりようがないのだから、後で黒が白に引っくり返されない程度の確信が得られれば、警察という第三者には事件の真相追及など無意味だ。実際、神泉教団が地下鉄テロの実行者であることは、桃山も疑念の余地がないと思っている。問題は真実の指示者――教祖の王仁ではない、その上の何者か。あるいは王仁にそうするよう仕向け、材料と方法を与えた何者か――の存在だった。
頂上作戦以来、暴力団という組織犯罪と戦ってきた警察には、組織を潰すには人・モノ・金の三要件を封じるのが早道だという金言がある。人は人材、モノは商売道具(拳銃・短刀などの凶器)、金はシノギ、つまり資金源を指す。暴力団に限らず、あらゆる組織がこの三つから成り立っていると言ってもいい。その観点から神泉教を見、今回の事件を見直すと、説明できないいくつかの要素が浮上してくる。
まずは金。これはいい。暴力団の資金源獲得方法をそのまま引き移した教団が、巨大な組織体に膨《ふく》れ上がった経緯、巨体を維持するために汲々《きゅうきゅう》とせざるを得なくなった経緯は、過去、同様の帰趨《きすう》をたどった暴力団の記録からおおむね想像がつく。モノも、セムテックスや化学兵器は輸入専門書に製造方法が記載されているし、工廠《こうしょう》を造る域にまで達していた銃器についても、基本は簡単な構造だから、本物の見本が一丁と、金属加工や旋盤、鋳型《いがた》製造の技術者がいれば、複製はそれほど困難な話ではない。まあ納得できないこともない、と言える。
問題は人。高度な教育を受けた技術者たちでも、さまよえる若者たちでもない。暴力団や過激派とコネを結び、ロシア政界に進出して武器と人材の供与を受けていたという、そこだけブラックボックスになっている、事件のもうひとつの根幹に関わる「大人」の存在の話だ。
逮捕された幹部の中には、元左翼過激派セクトに在籍していた者もいた。彼がかつてのコネを使い、ソ連という親元を失って人的にも経済的にも困窮している赤軍筋を取り込んだのだとすれば、ロシアへの進出は説明できる。信者の中には元暴力団幹部もいたのだから、その筋から銃器を入手したとしてもおかしくないだろう。
しかし、だ。あの女、城崎涼子が言っていた通り、日本の警察機関はそれほど盲目ではない。暴力団は捜査四課が、過激派セクトは公安がばっちり目を光らせている。特に過激派の方は、事が国体に関わる問題だけに、少しでも組織に関係した者は詳細なブラックリストに載せ、等級別にわけて、公安調査庁とともに監視態勢を整えている。国内セクトに渡りをつけ、ロシアの要人とも口をきけるような大物活動家が、たとえセクトから宗教団体に鞍替えしていたとしても、ブラックリストから外されたとは思えない。出家した身であれ、その一挙手一投足に監視の視線が注がれていたと見るのが正しい。公安の手口をもってすれば、監視用に作業玉(内部協力者)を教団内部に獲得することは造作もない。刑事警察と違って表に出ない公安にとっては、宗教弾圧云々の野次は端《はな》から度外視してかまわない問題だ。
それだけに、セクトも動く時には細心の注意を払う。監視の紐《ひも》がついている気配のある者には、決して非合法な面は見せない。まして人や物資の紹介など論外だ。どれだけ資金的に追い詰められていようとも、信条のまったく異なる宗教団体のために、彼らが危険を冒すとは考えられない。それは彼らと、彼らに繋がる国内外のネットワーク全体の危機を招く。冷戦終結で冷や飯食いに甘んじている昨今のテロ組織は、信条を超えた互助関係を他の団体と結んだり、中東のテロ国家から仕事をもらったりして食い繋いでいるが、確実に失敗、芋づる式に自分たちの身も危うくなるヤマに関わるほど能天気でもあるまい。神泉教という素人団体に関わる愚は、したくてもできないのが地下社会の摂理であったはずだ。
ところが、現実にそれらの手を借りて、教団は武器を入手し、その運用方法も獲得した。ロシアに進出し、軍関係者の取り込みにも成功した。なぜ地下社会の協力を得られたのか。なぜ誰もそれに気づかなかったのか。気づいていたら、あの惨劇は未然に防がれていた。公安の目をくらまし、内外のテロ組織を説得して協力させた者はいったい誰か。元活動家の幹部でないことだけは確かだ。経歴が割れた時点で、彼は監視網という名の棺桶《かんおけ》に入れられたも同然だったのだから。別の何者か――決して表には顔を出さず、事件と同時に地下に潜伏した「大人」の存在があったとするのが自然だ。それも、複数の。
そう考えていくと、第二の疑問にぶつかる。なぜ、教団はあの事件を起こさなければならなかったのか。動機はいい。教義に沿った人類救済の道。予言成就、つまり信者を従わせるためのリアリティの創出。警察の強制捜査を予期し、捜査の矛先を変えさせるためにしたこと。確かに辻褄はあっている。特に最後のひとつは、「やられる前にやっちまおう」という子供じみた発想で、いかにも彼ららしいとも一見思わせる。が、ここで忘れてならないのは、彼らは現実から逃避した頭でっかちの集団であると同時に、巨大な組織体を維持し、種々の経済活動に進出を果たしていた「それなりに世間に通用していた大人の集団」でもあったという事実だ。
山口の爆発事件以来、警察は教団がセムテックスを隠匿していることを薄々察知していた。だからこそ、自衛隊協力のもと十分な装備を整え、ガサ入れに備えてきた。一日や二日で準備できたはずがない、あの強制捜査の異様な物々しさがそれを証明している。では近々強制捜査があると知った教団はどうしたか。わざわざ同じセムテックスを使って、桜田門直下にテロを仕掛けた。他の組織の犯行だ、内部に侵入したスパイの犯行だと言って、捜査の攪乱《かくらん》を意図した。これはつまり、毎日百円ずつ母親の財布からくすねていた子供が、バレそうになったのでいきなり一万円札を抜き取り、驚いた母親に盗っていたのはぼくじゃなくて他の泥棒だよ、と言うのに似ている。ぼくが盗んだと疑われているのをいいことに、一万円盗んでいったんだ、と。
実は、最初は本当にそうなのではないかと桃山も疑っていた。そんな見え透いた真似をするバカもいないだろうと思い、連日のマスコミ報道を眺めていた。ところが子供のポケットを探ってみたら、あっさり一万円が出てきた。いったいこれはどういうことだと問いつめると、ぼくが知らない間に誰かが入れたんだよと言い返してきた。こんなバカは、史上においても例がない。が、教団を希代のバカ集団と規定するとしても、巨大な組織を維持運営してきた事実は依然、残り続ける。
だから破綻《はたん》した、追い詰められておかしくなった、とする見方もあるだろう。しかし外部の監視の目の下、地下社会との接合を果たし、組織の経営ノウハウを伝授した何者かがいたとして、彼はなぜ地下鉄テロなどという愚行を許したのか、もしくは企図したのか。それともそんな人間はいなくて、神泉教団は時流と運任せで膨れ上がった子供集団でしかなかったのか。自殺覚悟の過激派組織からその筋のコネを得たのも幸運なら、公安がまるでそれに気づかなかったのも幸運。あるいは王仁教祖の神通力が為し遂げたことだとでも言うのか。
自衛隊に関する不思議も残っている。大家族主義の警察は身内の恥は隠すから、いまのところ現役警官の信者の存在はあまり騒がれていないが、自衛隊の方は曹士から士官に至るまで、神泉信者を自認する者がぼろぼろ出てきて、中には実行部隊に加わり、幕僚の家に盗聴器を仕掛けた者までいたと報道されている。仮にも一国の防衛を担う機関が、それほどにルーズなものなのかどうか。無論、全員が国防意識に溢れた精鋭というわけにもいかないだろうが、士官が反体制思考に染まりつつあったことすら、まったくチェックできなかったとは考えにくい。
以前、一度だけちらと顔を合わせた陸幕調査隊の男は、公安のそれとも違う特殊な芯を体内に宿していた。あのような芯を持つ組織を内部に擁していながら、隊員の把握はなにひとつできなかったという話はおかしすぎる。あれは保や涼子にあった芯と同じような……。
そこまで考えて、我に返った。危ない危ない、なにを考えてるんだ、おれは。タバコに火をつけ、水割りをひと口|舐《な》めてから、桃山はまだ片付けていないコタツに足を突っ込み、ごろんと仰向けになった。
だからと言って、神泉信者よろしく公安や米軍、大手宗教団体の陰謀説をぶち上げるつもりはないのだ。他の宗教団体には、神泉教と同様、愚かなテロ行為でせっかくの運営基盤を危機に晒す理由がないし、仮に米政府が神泉思想を危険視していたとしても、彼らが直接地下鉄を爆破したり、ヘリから教団施設に毒ガスをまくほどの間抜けなら、日本は五十年前の戦争で勝っていた。公安にしてもそうだ。大規模テロによる殺人は、それが彼らに直接的な痛みを感じさせるかどうかの議論はおくとしても、紛《まぎ》れもなく国益の損失となる。公安警察にしろ公安調査庁にしろ、国益|遵守《じゅんしゅ》のために機能しているのだから、冷戦終結で存在意義が問われていようとも、自作自演でその国益を破壊するなどあり得ない。自分の目の節穴ぶりを、宣伝したかったというなら話は別だが。
とっくにニュースは終わり、六時から始まったアニメ番組の音がテレビから流れていた。あの女、余計なことを考えさせやがって。なにかを結んでいた城崎涼子の瞳を思い出し、『西へは行くな……』と言った声も思い出してしまった桃山は、そのページを開いたまま伏せてある英和辞書を手に取り、何度も読み返した一文に目を落とした。
名詞・単数扱い。1、聖書外典(典拠が疑わしいため新教徒により聖書から除外されている経典)。2、出所の疑わしい文書。――保の持っていたフロッピーに収められていた、データだかソフトだかのタイトル〈アポクリファ〉には、そのような意味が冠されていた。
聖書外典。出所の怪しい文書。いかにもいかにもの思わせぶり、胡散臭《うさんくさ》いタイトルだった。現在、広く信じられている信仰からは否定された文書。除外された事実。涼子たちが狙っているのは、それと見て間違いないだろう。地下鉄テロ事件に関して……と結論するのはまだ早いが、他にあの時の涼子の言葉、態度を説明する術もない。もしかしたら、桃山が持つ疑問に対する答が――公になれば、教団に連座して倍の人々が逮捕されるような、誰も望まない真相が記してあるのかもしれない。そうなら、保を捕え、〈アポクリファ〉を闇に葬りたい人々の数も倍になる。
西へは行くな。涼子は保にそう伝えてくれと言った。特別な感情を覗かせた目で、そう言えばわかると言った。西へは行くな。そこにはもう罠《わな》が張り巡らせてある。行けば確実に殺される。西へは行くな。行っちゃダメだ。おまえには葵を守る義務があるはずだ。おれが苦労して治した体を、粗末にするな。西へは行くな。絶対に行くな……。
クソったれ。胸中に呟いてから、桃山は上半身を起こして壁の時計を見た。六時二十分、まだ夜は始まってもいない。水割りを飲み干し、コタツを抜け出した桃山は、畳の上に放り出していたスラックスに足を通した。
ブルゾンではなくジャケットを着込み、財布の中に三万と少しの現金を確かめてから、流しに吊した鏡を覗く。いまさら見栄を張っても始まらないが、金谷にはあまりだらしないところを見せたくなかった。追いかけている分、自分より保に近い場所にいる可能性のある男。細い線だが、保がまた戻って来るのを待つよりは、いくらか建設的な行動のはずだった。
手遅れになる前に、せめてあの女のメッセージを伝えなければならない。その衝動だけを抱いて、桃山は部屋を飛び出していった。
平井から総武線に乗り、御茶ノ水で丸ノ内線に乗り換える。池袋に行くなら、この方が山手線を使うより早い。一時間後には、桃山は西武デパートとパルコが玄関を並べる池袋駅東口に到着していた。
ご用の時は、東口のロキシーって店で。去り際、金谷が残したその言葉だけが頼りだった。東はサンシャインシティや大型ディスカウント店舗が立ち並ぶ歓楽街、西は東京芸術劇場と立教大学がかまえる学生街と、駅を挟んで二つの顔を持つこの街は、桃山にとっては最後の所轄署勤務を終えた地でもある。猥雑、混沌。新と旧、静と動、灰色と極彩色が入り交じった街。鈴なりに並んでナンバされるのをぼんやり待つ少女たちが、はしゃぐでもなくウォークマンやポケットゲーム、携帯電話といった小道具で自分の世界に浸っている様子を見ると、ここいらも変わったな、と年寄りじみた感慨を口にしたくもなった。
猥雑さは変わらないが、十年前には少なくとも活気というものがあった。目の前で触れ合える友達と笑いあい、帰れる家はあっても家庭はない、その不安を互いに慰めあう生身の姿があった。いまの彼らにはそのどちらもない。無視、無関心。これだけ若い人間が集まっているのに、澱んだ停滞しか感じ取れない。なにも映っていない――あるいは最初から映すことを拒否した目の集団から離れて、桃山は乱立する雑居ビルの袖看板にロキシーの名を探した。
「知らないね。なにか勘違いしてんじゃないかい」
三十分後、元地場警察官の知識と眼力で効率よく当たりをつけ、明治通りから一本入った横道にロキシーの看板を見つけた桃山は、ママさん……と言うより、一杯飲み屋のばあさんの、敵意溢れる視線と向き合うことになった。
桃山が知らなかったのだから、この十年以内に開店した店であることは間違いないが、馴染《なじ》み客専門らしい、キッチンを含めて六畳程度しかない店内は、油と湿気に黒ずんだ穴蔵そのもので、この因業《いんごう》そうなばあさんともども、世界の始まりからここにあったのではないかと疑わせる。ビールの注文と一緒に金谷の名前を出した途端、険悪な目を向け始めたばあさんに閉口する一方で、この店唯一の客がちらとこちらを見たのが、桃山の印象に引っかかった。
カウンターの奥で、レモンスカッシュを前に頬杖をついている女は、はすっぱの無関心を装っているものの、猫科の目はなにかしらの知性を漂わせてこちらの様子を窺っている。ボーイッシュに切りそろえたショートカットの髪に、整った無表情。だがぽってりとした唇。意外とこういう女が情に厚かったりするものだ。余計なことを考えてしまってから、桃山は、「ちょいと、聞いてんのかい?」と言ったばあさんにあわてて顔を戻した。
「知らないって言ってんだよ。他に用がないなら、さっさと出てっとくれ」
かなり前にパーマを当てたきりの髪の下で、ばあさんの金壺眼《かなつぼまなこ》が無遠慮に桃山の体を睨《ね》め回す。堅気のサラリーマンというには少々無理のある風体に、明らかな警戒を漲《みなぎ》らせているょうだった。尻を動かすたびにギイギイ軋《きし》む椅子に座り直しつつ、桃山は「まあそうあわてなさんなって」とビールのコップをつかんだ。
「おれは桃山っつって、奴とは昔からの馴染みなんだ。デカでも代紋違い(他組の暴力団員)でもねえ。ただちょっと奴に話を……」
はがれかけた壁を隠して貼られたビールのポスターを見、コップを口に近づけかけると、いきなり突き出された萎《しな》びた手がコップを奪った。「お義理で飲むような奴に出す酒はないよ」と腰に手を当てたばあさんの勢いに、桃山はさすがに呆気にとられた。
女は相変わらず無表情にストローをくわえている。単に他所者《よそもの》の偵察を警戒しているのとは違う、特殊な緊張の空気を感じ取った桃山は、引き際と心得て小さく息を吐いた。
「せめて電話で確かめるぐらいしてくれねえかな」
「知らないってんだよ、しつこいね。この通り狭い店でね、あんたみたいに図体の大きいのに居座られちゃ迷惑なんだ。さっさと……」
「わかったよ。気が変わったら、おれが探してたって金谷に伝えてくれや」
どうもこの手のばあさんはお袋を連想させてやりにくい。強権を発動できる身の上でもないと自覚している桃山は、おとなしく退散することにした。振り向きもしない女の黄色いワンピースが、穴蔵に咲いた一輪の花に見えた。
無論、それであきらめるつもりはない。店を出た足で、桃山は勝手知ったる歓楽街を歩き回り、自力で金谷を探し出そうと決めた。
昔の馴染みと顔を合わせかねないのが厄介だったが、背に腹は替えられない。第一、いまの桃山には、私服パトロールの刑事たちや、見回りや集金に飛び回っているヤクザたちより、気にしなければならない存在があった。
『監視はつけない』と涼子は約束したが、彼女たちもプロなら、それほどお人好しの集団でもあるまい。時おり立ち止まったり、ジグザグに進んだりして、桃山は背後の様子を窺ってみたが、雑踏に紛れているらしい監視の目を判別することはできなかった。
どだい、抑止が目的の張り付き尾行しかしたことのないマル暴には、荷が勝ちすぎる相手だ。わからないことを気にしても始まらないと、それからの一時間、一時的に現役復帰した桃山は、精力的な聞き込みを展開した。
日の出通りでバッタ物のCDやゴム人形の露店を開いている連中、携帯電話片手に自転車のペダルを踏んでいる茶髪の若造、フィリピン娘たちの中年引率係。なにも言わないでも、桃山を勝手に同業者かデカと勘違いしてくれた彼らは、しかし金谷の居所を尋ねると一様に口を閉ざした。猜疑《さいぎ》と警戒、それに一分の恐怖も覗かせた彼らの様子に、かなり厳しい箝口令《かんこうれい》が敷かれている雰囲気も感じ取って、桃山は次の一時間をひたすら足で稼ぐことに費やした。
サンシャイン通りを抜けた後、ジグザグに東池袋一丁目を下って明治通りへ。徒労とわかっていても、ここであきらめたら、もう二度とあの二人に会えなくなってしまう焦燥感に押されて、桃山はパチンコやスロット、ゲームセンターの類いを片っ端から覗いて回った。金谷はいる、このネオンと騒音の洪水の中にきっといる。そう信じて数時間も歩き続けた頃、棒になりかけた足を気づかったのか、事態は向こうの方から近づいてきた。
「おい、おっさん。あんたか、金谷さんのこと聞いて回ってんのは」
気がついた時には、四人の男に囲まれていた。前に二人、うしろに二人。道のど真ん中、どう見ても堅気ではない険悪な目の集団に、通行人たちは顔を伏せて足早に通り過ぎてゆく。動けば刺されかねない殺気を肌に感じつつ、桃山は「ああ」と、リーダー格らしい右前の男に答えた。
「なんのつもりか知らんが、やめてもらえんか。迷惑なんだよ」
主立った同業者や、マル暴の顔は頭に入っているらしいリーダー格の男は、いまはどちらのリストにも載っていない桃山に相応の口をきいてきた。桃山は、「金谷本人がそう言ったのか?」と聞き返した。
「だまれ、ボケッ! さっさと失せろっつってんだろうが!」
うしろの若造が、首筋に唾がかかる勢いの怒鳴り声で応じる。静から動への直角上昇。この呼吸こそ、彼らがもっとも得意とする威圧手段だ。思わず首をすくめ、小走りに離れてゆく通行人の女の背中がリーダー格の肩ごしに見え、何年も眠っていた衝動が不意に頭をもたげるのを感じた。昔の目と声で、桃山は「ぎゃんぎゃん耳もとでうるせえよ」と振り返っていた。
「てめえのがよっぽど迷惑だぜ。犬っころみたいに騒ぎやがって」
「なんだぁ……!?」
「おれはただ昔のダチに会いてえだけだ。てめえらに文句言われる筋合いはねえ。そこどきな」
ごう……と耳の奥で音がしていた。なにかが流れる音、あの川の音のようだった。嵐の晩に見下ろした、荒川の黒い激しい奔流。包囲を押し退けて前に行こうとした桃山は、「おいおい……」と苦笑混じりのリーダー格に道を塞がれた。ほぼ同じ背丈の、薄い眉の下の目がこちらのそれと直《じか》に合った。
「ガキじゃあるめえし、勘弁してくれよ。明日から仕事に出らんなくなっちまっていいのか? おっさん」
「お気づかいありがてえがな。どかねえと、そっちこそ今年の盆とクリスマスは流動食で祝うことになるぜ」
血相の変わったリーダー格の顔は、見なかった。息を詰め、腰と腕に全体重をかけて、ボディーブローを目の前の鳩尾《みぞおち》に一発。グッと体を折ったリーダー格をやり過ごしてから、桃山は隣の男の襟首をつかみ上げて足払いをかけた。
受け身を取る間もなく頭からアスファルトに落ちた男をまたいで、若造が突進してくる。ズボンのポケットに入れた片手を目の端に捉えて、桃山はすかさず靴の踵をそこに叩き込んだ。
体勢を崩した若造の横っ面を殴り飛ばし、残るひとりが飛びかかってきたのを質量の差で弾き返したところで、正常な意識は消し飛んだ。殴り殴られ、蹴り蹴られ。馬乗りになって誰かの顔面を殴りつけている横から、別の腕が首を絞めにかかってくる。立ち上がって電柱に体当たりし、首から背中に取りついていた男が離れると、今度は別の誰かの拳が顔面に弾ける。なにしてるんだ、バカ。刃物《ヤッパ》抜かれたら最後だぞと理性が叫ぶ一方で、ここであきらめたらそれこそ最後、暴れてりゃそのうち金谷が出てくると、本能が無茶苦茶を並べ立てる。多勢に無勢を、喧嘩の半分はそれで決まる図体の大きさでカバーして、桃山はしまいには立て看板を振り回しながらわめき、がなり、互いにぼろ切れのようになった上着の襟をひっつかんで、シャッターに叩きつけた。
二人が沈没し、こちらもズタボロの半壊状態になった頃、遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえ出し、ようやくわずかばかりの正気が戻ってきた。顔を上げた桃山は、遠巻きにした野次馬の列の中に、鮮やかな黄色が灯《とも》っているのを見て息を呑んだ。
ショートカットの下の無表情は、ロキシーでレモンスカッシュを前にしていた女。穴蔵に咲いた花だった。目が釘付けになった刹那、大型ダンプがすぐうしろに迫ったような圧迫を感じ、桃山はぎょっと振り返った。
金谷が、そこにいた。親身な色を宿したのも一瞬、すぐに猛禽《もうきん》そのものの鋭さに変わった目が、ボコボコになったこちらの顔面を見据える。口を開こうとして、桃山はその万力《まんりき》さながらの腕に襟首をつかみ上げられていた。
「わたしらの事情はご存じでしょう。堪《こら》えてもらいますよ」
返事をする間もなく、襟から離れた金谷の腕が腹にめり込み、雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜けた。いま相手にしていたナマクラの拳など及びもつかない、本物のパンチが、たるみきった腹に突き通ったのだった。
メンツが命の稼業のこと、野次馬注視のもとでやられっぱなしというわけにはいかないし、弟分たちに対する金谷の立場だってある。事情、堪えてもらうといった言葉がぐるぐると頭の中を回り、気がつくと、桃山はすとんと尻餅をついていた。ここぞとばかりに突進しようとした若造の横っ面を張り、じっとこちらを見下ろした金谷の目に、ごうごうと流れる川の音が重なった。
野次馬の列を割り、近づいた黄色のワンピースが、寄り添うようにその隣に立つ。無表情を崩さない女の目を見返し、気絶の醜態だけは晒したくないと思ったが、すでに限界の体は指一本動かすこともできなかった。口腔に拡がる血の味に胃液の酸味が加わり、ごうと流れる川が覆い被さってきたのが、最後の記憶だった。すべてが闇に押し流され、桃山は気を失っていった。
じんじんと脈打ち、熱を放っている顔面。捩《よじ》れたきりもとに戻らない胃袋。すりむけた拳はひりひり音を立てているようで、もちろん体の節々も痛い。ひどく疲れる眠りの後、一気にそれだけの苦痛を取り戻した桃山は、でこぼこの顔面をしかめられるだけしかめて、目を開けた。
左半分の視界が脂《やに》で白く濁っている。見覚えのない天井に丸い蛍光灯が灯っているのが見え、なんとか首を動かし、他のものを見ようとした桃山は、驚くほど近くにあった女の顔と顔を合わせて、どきりとした。
黄色のワンピースの上で、相変わらずの無表情がこちらの顔を覗き込んでいた。口を開こうとすると、すっと差し出された手が濡れタオルで左目の脂を拭ってくれ、桃山は痛さとくすぐったさに首をすくめてしまった。
上半身を起こそうとした桃山に首を振り、そのままと目で伝えてから、黄色のワンピース姿は立ち上がって背を向けた。口がきけないのだろうか。ほっそりした背中の気配が消えるのを待って、桃山はそろそろと痛む身を起こしてみた。
ソファの上だった。すぐ脇の小テーブルには、灰皿と一緒に封を切ったばかりの消毒液や絆創膏が並び、その向こうに真新しいワイドテレビが置いてあるのが見える。閉じられたカーテンごしに電車の音がかすかに聞こえ、どこかの応接間に運び込まれたらしい自分を把握した桃山は、外気の伝わり方からして、多分マンション上階の一室だろうと推測した。
ダイニングだけで桃山の部屋の倍はありそうな空間は、引っ越し直後のような雑然とした虚無に包まれており、あまり生活の匂いは感じられなかった。赤黒く腫れているだろう頬に絆創膏の感触を確かめ、黄色いワンピースの女の部屋か、それとも……と鈍った頭で考えた桃山は、「お気づきになりましたか」とかけられた野太い声に顔を上げた。
金谷だった。手にしたトレーに、ボトルとグラス、アイスペールを載せてこちらに近づいてくる。ネクタイを外し、ワイシャツのボタンも半分外した上には、初めて見るくつろいだ顔がのっていた。テーブルの前にあぐらをかきながら、「どうも申し訳ありませんでした」と口を開いた金谷の顔を、桃山はまじまじと見下ろした。
「せっかく会いに来てくだすったのに、こんなことになっちまって……。いま、ちょいと面倒なことになってましてね。組の了解とって、フケさせてもらってんですよ」
ほとぼり冷ましというわけか。彼らの稼業では別段めずらしくもないことだったが、金谷の言葉は別種の危険を意味しているように思えた。「口の中、痛むでしょうけど」と差し出されたオンザロックを受け取り、桃山はあらためてどことも知れない隠れ家を見回した。つまみの皿を片手に、黄色いワンピース姿がダイニングに戻ってくるのが見えた。
あぐらのまま皿を受け取った金谷は、薬や絆創膏をさっさと片付けてトレーに載せると、「後はいい。先に休んでろ」と言ってワンピースに渡した。思いもよらないまめな亭主ぶりに、桃山はグラスに口をつけるのも忘れて見入ってしまった。
「玄関と窓の警報装置、ちゃんと動いてるか確かめてな」
こっくりと頷き、黄色いワンピース姿は桃山に一瞥を残して背を向ける。それを見送る金谷の横顔は、慈愛に溢れたと表現したくなるほど、見たこともない穏やかさに包まれていた。荒法師さながらの男と、喋らないお人形さんのような女との取り合わせは、まさに美女と野獣といった風情で、金谷にもようやく収まるべき母港ができたらしいとわかった桃山は、なにか切ない気分になった。
みんな、そうして歳を取ってゆく。不自由に慣れ、我慢に慣れ、日々少なくなる選択肢の中から最良のものを選び取り、生活を構築してゆく。妥協を知らず、胸の中にいつでもぎらりと光るナイフを隠し持っていた金谷でさえも。目尻に刻まれた皺に、自分の歳も反映させた桃山は、「いい娘らしいな」と正直な感想を口にした。
「美希《みき》っていいます。あれで結構、面倒見のいい女でしてね。こうして穴ごもりしてるわたしの目になって、いろいろ動いてくれてます。桃山さんのこともあいつから聞いて、すぐ迎えに出たんですが……」
そこで言葉を切った金谷は、真っ赤に腫れ上がった桃山の顔面を面白そうに見上げた。
「相変わらずよく動き回るお人だ。医者に運び込んだ二人は、そのまま入院ですよ」
「……悪かったな」
バカさ加減も、あと少しで取り返しがつかない羽目に陥っていただろうことも、言われるまでもなくわかっている。ぶすっと言い返してから、桃山はオンザロックをひと口呷った。切れた唇と口腔にひどく沁《し》みたが、それ以上に五臓に沁み渡った温かさが、こわ張った痛みをほぐしてくれるようだった。
苦笑顔で、金谷もグラスを傾けている。こうして二人で飲むのは久しぶり……いや、二人きりで飲むのは初めてかもしれない。昔は、どちらにも必ず連れがいた。マル暴の仕事は情報収集が基本で、情報収集の基本は調査対象に近づき、外では聞けない内情を喋らせることにあるとなれば、必然、舌が滑らかになる酒の席が舞台に選ばれるわけで、酌《しゃく》を交わし、上への愚痴をこぼしあう間に、組の内輪話や抗争の火種話が伸ばしたアンテナに引っかかってくる。映画のようにいきなり事務所に乗り込み、帳面で頬をはたいてばかりいたら、連中はなにも教えてはくれない。池袋時代、本庁捜査四課のお供で舟木会の直参幹部らと飲みに出かけた時には、必ずボディガードの金谷の姿があったものだった。
ヤクザとマル暴の癒着《ゆちゃく》が騒がれるのもそのへんが原因で、安月給のデカが、根本的に経済基盤の異なるヤクザの酒につきあっていれば、当然、何回かは奢《おご》ってもらわなければならない羽目になる。敵の情けは受けんなどとご立派なことを言っていると、貴重な情報を取り損ない、ネタの取れないマル暴は、それこそ給料泥棒の烙印《らくいん》を押される。持ちつ持たれつの中にも一線を引き、硬軟使い分けて、いかに現実と職務をすり合わせてゆくかにマル暴の真価が問われるわけなのだが、傍目《はため》には、毎晩ヤクザと飲み歩いているようにしか見えないのが辛いところだった。情報収集の酒か賄賂《わいろ》の酒かの区別は、飲んでいる当人たちにしかわからないことなのだから。
桃山はそうした駆け引きが苦手な方で、仕事の酒とわかってもろくに酌もせず、決して同じ目線に立とうともしない堅物ぶりが、みんなから煙たがられていた。憲法に記された集会の自由は認めるし、この世から悪がなくなると夢想していたわけでもないが、暴力団は暴力団、ヤクザはヤクザだ。壊滅を謳い文句にしている上層部をよそに、現場にはアウトローの受入先として容認する空気があったが、貸借関係を作ってネタを引き出すやり方の実効性は認めても、共存なんてとんでもない。特に自分では血の一滴も流さず、法律に触れなければいいとばかりに、でかい顔であぐらをかいている幹部連中は大嫌いだった。仁侠、仁義と口にしながら、やっていることは金第一の詐欺行為。抗争が始まればこそこそと逃げ隠れ、自宅の前に制服警官の張りつけ警備を要請する。応じる方も応じる方だった。喧嘩なら、球場にでも集めてどちらか死ぬまで殴り合いをさせておけばいい。だいたい、この国はヤクザに甘すぎるのだといつも思っていた。そしてそんな想いを胸にぶすっと腕組みをしている桃山の向かいで、金谷もまた、同じ想いを抱いて飲んだくれのデカどもを睨んでいたのに違いなかった。
気に入らない、生意気な野郎だ。ヤクザのくせにデカのくせに、でかい態度しやがって。そんな目を交《か》わしあい、いつかこいつとはやりあうことになるだろうと思いあっていた二人が、いまは互いに寄《よ》る辺《べ》なく、こうして酒を酌み交わしているのだから、おかしな話ではあった。閉めきったカーテン、機械警備で固められた隠れ家。金谷ほどの男に隠遁を余儀なくさせた事情はなにかと考えた時、導き出される仮説は、自分がここに来た理由と同じというものでしかない。グラス半分ほどオンザロックを流し込んだ桃山は、心なしか憔悴《しょうすい》しているようにも見える金谷の横顔に、確かめる言葉をかけるつもりになった。
「おれの想像してる通りだとしたらな。市販の警報装置なんてものは役に立たないぜ。連中は、その気になればどっからでも入ってくるからな」
抗争相手の組員の話でもなければ、当たり前の刑事の話をしているのでもない。含めた桃山の言葉に、金谷はグラスから目を上げた。
「やっぱり、桃山さんのところに逃げ込んでたんですか。奴は」
そのひと言で、すべて繋がった。奴――増村保。桃山は「気づいてたのか?」と重ねた。
「他はすべて当たりましたからね」
「なぜ踏み込まなかった」
「言ったでしょう。ご迷惑はおかけしないって」
まっすぐな視線に見据えられ、桃山は言葉をなくした。金谷にとっては、組の命令より恩人との約束の方が重要事で、桃山にもその純粋さがあったからこそ、六年前のあの時、金谷の処分を巡って桜田門を相手に孤軍奮闘したはずだった。聞き返すほど野暮になってしまった自分と、衰えない金谷の眼光。すべてが痛く、辛かった。
「……すまない」
「気になさらないでください。もともと乗り気のヤマじゃなかった。それにね、こう言っちゃなんだが、わたしはあいつが気に入ってるんですよ。できれば逃げ延びてもらいたいって、そう……」
驚きと当惑の入り混じった桃山の顔から目を逸らし、金谷は照れたように鷲鼻《わしばな》の下をこすった。
「近ごろ見かけないでしょう、ああいうバカ。目茶苦茶に強気で、目的のためには手段を選ばない。やたら反抗的で攻撃的かと思えば、心を許した相手には犬みたいに純粋な目を向ける。なんだか昔の自分を見ているようで、気恥ずかしいというか……。桃山さんも、そう思ったから奴を匿ったんじゃないんですか」
底をついたグラスに注ぎ足してくれた金谷の顔に、桃山は「知ってるのか」としわがれた声を接《つ》いだ。
「狩る相手のことは調べます。何度かニアミスもしましたしね。……それを聞きにいらしたんですか?」
ここまで見抜かれれば、隠しても始まらなかった。桃山は頷いた。
「もう一度、あいつに会いたい。会って、伝えなきゃならんことがあるんだ」
こちらなりに精一杯の思いを込めて言うと、保や涼子が見せたのと同じ、確かめる視線が金谷から放たれた。まだ生きているのか。信じられるのか。問題を共有するに値する人間なのか、と。イエスと言いきる自信も、ノーと言える潔さもないまま、桃山はその視線を受けた。しばらくの対峙の後、じっと注がれていた視線がゆっくり伏せられ、金谷は「わかりました」と呟いた。
「知ってることはお話ししましょう。ただその前に、ひとつ聞きたいことがある」碁石を思わせる黒い瞳を上げ、金谷は桃山に続けた。
「警察を辞められたのは、やはりあれが原因ですか?」
意外とも、どこかで予期していたとも思える質問だった。即答できる話でもなく、答えを探る頭が、桃山につかの間六年前の時間を顧みさせた。
発端は、腹が立つほどくだらない事件だった。舟木会の直参《じきさん》幹部、松代《まつしろ》組組長の松代|雄三《ゆうぞう》が、知己の与党国会議員、田端《たばた》克宜《かつよし》と飲みに出かけた時のこと。行きつけの料亭でカラオケ大会になり、得意の北島三郎のナンバーを披露した松代に対して、田端が文句をつけた。小節が回ってない、音程が外れて気持ち悪い云々。酒の席での悪意のない戯《たわむ》れのはずだったが、次のひと言が席を凍りつかせてしまった。
「ズーズー弁に演歌は無理なんだよ」
集団就職で東北の寒村を離れ、なかなか取れない訛《なまり》を、東京の町工場で馬鹿にされ続けてきた記憶を持つ松代にとって、それは暗い記憶を呼び起こすと同時に、現在の地位にまで這い上がらせた怨念とも言える怒りに火をつける言葉だった。その後は、土下座して謝れと暴れる親分を取り押さえる若頭たちと、本当のこと言ってなにが悪い、と開き直った先生をなだめる秘書連の大騒ぎ。結局、こんなことで持ちつ持たれつの関係を壊すわけにはいかないと、その場はなんとか収まりがついた。
田端は気分悪いと言いながら飲み直すために店を出、松代も酒と怒りに紅潮させた顔で自分の車に戻った。それぞれのベンツが走り出し、翌日、冷静になった頭で詫びの電話の一本も入れれば、話はそれで終わるはずだったが、現実はそうはならなかった。ひと言もないまま若頭と並んで後部座席に納まった松代は、やはり我慢ならん、と低い声で呟くや、座席の隙間に仕込んであったアイクチを手に猛然と突進。かつて自分をさんざんいじめた先輩工員の顔を田端に重ね、車に乗り込もうとしていたその背中を斬りつけてしまった。
同行していた金谷が気づいた時、料亭の駐車場はすでに松の廊下状態になっていた。吉良《きら》役の田端は殺される、助けてくれと泣き叫び、松代|内匠頭《たくみのかみ》は武士ならぬ渡世の情け、いまひと太刀、ともがく体を若頭たちに取り押さえられている。この時、金谷が咄嗟に血のついたアイクチを握ったのは、盃を受けた者としての義侠心からではなかった。摂理だった。組長の責を被って刑務所務めをする、その序列と順番が、たまたま金谷に回ってきたということに過ぎなかった。とにかくまずは組長を連れてこの場を離れるのが先決と、自分の指紋をべったりつけたアイクチを残して金谷たちは逃走。病院に運ばれた田端は全治六ヵ月の傷と診断され、その晩のうちに捜査四課も加えた専従の捜査本部が所轄署に設置された。
背後から斬りつけられた田端は、ホシの顔を見ていなかった。桃山たちのみならず、捜査一課も所轄も事の真相に気づいていたが、現場に残された凶器から金谷の指紋が検出されれば、彼が親分をコケにされて犯行に及んだと結論してもなんの問題もなかった。国会議員の刃傷沙汰にマスコミが飛びつき、警察上層部も神経を尖らせる中で、本ボシ金谷は事実となり、後は通例の手続き――組内での処分、残された家族の面倒など――を済ませた金谷が自首すれば、事件は無事解決する。たとえ身代わりであっても、自分たちからホシを差し出すのが警察に対するヤクザの仁義だったし、彼らの体面を尊重して、自首するまでは待つのがマル暴の仁義だった。
当時、金谷には息を引き取る間際の母親が郷里の長野にいたので、自首はそれを看取《みと》ってからになるだろうと捜査本部は見ていた。ちょうど父親が末期の食道癌で入院したばかりで、自分と同じ、馴れ合いを嫌う金谷に親近感に似た感情を抱いていた桃山も、それを当然のなりゆきと納得していた。母親の入院先にこもった金谷の監視を長野県警に委託して、後は自首を待つのが捜査本部の仕事になるはずだった。
ところが、どこでなにを間違ったのか、それらの事情が入院中の田端の耳に入ってしまった。国会会期中に入院を余儀なくされ、ライバル議員からも笑い者にされる憂き目にあっていた田端にとっては、溜まった忿懣《ふんまん》をぶちまけるまたとない機会になったのだろう。犯罪者に便宜を図るとはなにごとか、そんな調子だから警察とヤクザの癒着が騒がれるのだと、一緒に酒を飲んでいた自分を棚に上げて、国家公安委員会経由で警察庁に噛みついた。おりしも元長官が田端の後押しで選挙戦に出馬しようという時で、警察庁は仁義無視の即刻逮捕をあっという間に決定。冗談だろうと笑ったのは桃山だけで、上級官庁の意向に、警視総監以下、刑事部長も四課長も即座に回れ右して、金谷の即時逮捕を承諾した。
信じられなかった。互いの体面を立て合う共存体制を嫌っていたのは自分だが、これはそうした問題ではない。人の心、その言葉の持つ本来の意味において、まさしく仁義の問題だった。桃山は四課長に噛みつき、埒《らち》があかないとわかれば刑事部長にまで直接進言して、なんとか再考をと訴えた。あと一週間たらずで金谷の母親は息を引き取る、せめてそれだけの時間待てないのか、と。だが刑事部長は首を振り、警視総監は会ってさえくれず、隣接する警察庁の前で待ちかまえて刑事局長に直訴した時には、鼻で笑われる結果に終わった。
親の死に目に立ち会わせたい、そんな当たり前の感情を嘲笑った上に、でんと聳《そび》えている桜田門庁舎。薄々感じ始めていた絶望≠ヘ、その瞬間、はっきり形になって桃山の中に根づいた。
別に完全な正義を求めていたわけではない。警察官になった経緯だって、いま考えればお笑いぐさだった。高校卒業の年、柔道の地区大会で準優勝の成績を収めると、その日のうちに地元赤塚署の人事担当が採用試験案内を届けにきた。進学できる家庭環境ではなかったし、取り立てて将来の目標もなかった桃山が迷っているうちに、父が勝手に必要事項を記入して願書を提出してしまったのだ。
おまえの図体と面相で、天下を取れる仕事はヤクザか警官しかない。そう言い、ヤクザになったら勘当すると付け加えた父に、反発してまでやりたい仕事があるわけでもなかった。中野の警察学校を卒業後、十年の外勤警ら生活を経て、競争率百倍の巡査部長昇進試験にパス。高卒の同期に較べれば早い方だったが、捜査課への配属希望はあっさり却下され、辞令には暴力団対策課の文字が記されていたのだから、まったく皮肉な話だった。一生の仕事は警官かヤクザしかないと言った父の言葉は、二重の意味で当たっていたのだ。
そうして、地道に顔を覚え、情報を取り、足を磨り減らして繁華街を歩き回っていた地回り刑事は、やがて本庁捜査四課員に抜擢《ばってき》された。高卒のコネなしが頂点に近い場所に呼ばれたのも、地場勤務の間にいくつか大きな抗争事件が起こり、彼の努力が上の目につく幸運が何度も重なったからだったが、警察の代名詞とも言える桜田門、警視庁ビルは、一歩中に入れば上昇指向だけが支配する権力闘争の場でしかなかった。桃山の立場では昇進にも自ずと限界があったし、それでなくてもそんな争いに加わる気はなかったが、潰しあい、揚げ足とりが取り通る世界で生きてゆくためには、それまでと別の種類のタフさが要求された。
現場で手足をすりむくより、パソコンと民法の参考書に四苦八苦することの方が多くなり、連日くり返される調査会、勉強会、親睦会では、外交辞令の裏側に潜む本音を読み取り、常に敵と味方の区別をしていかなければならない。感情は官僚的枠組みを乱すものでしかなく、国民の生命と財産を守ることより、自身の体面を守るために職務を遂行する警察という組織。走り去る刑事局長の公用車に、明確な形になった絶望が重なり、自分に大きな期待を寄せてくれていた父の背中さえもが、刑事局長の嘲笑に踏みにじられたような気がした。
働き詰めで家族を養い、なにひとついい目を見ぬまま病床に伏した父。確実な死を痩せ衰えた体の中に自覚し、「余計な延命策はいい。これが人の寿命だ」と言いきった男は、自身が望んだ子供の人生、人に奉仕すべき警察という場の、ここまでの醜さを知らなかっただろう。知っていたら、そこに染まりつつある息子を許しはしなかったろう。なにをぐずぐずしとる! と怒鳴った父の声が耳の奥に弾け、桃山は長野に飛んでいた。
その日のうちに到着、金谷に手錠を嵌《は》めるはずの同僚たちに先んじて病院に向かい、県警の張り番の目をかすめて、金谷と母親を車に乗せて逃がした。事情を知り、「ご恩は忘れません」と言った金谷の滲んだ目を励みにして、桃山はそれから三日、母を看取った金谷が自首して出るまでの間、捜索に走り回る同僚たちを尻目に黙秘を貫き通したのだった。
誰もが、人道にもとるうしろめたさを自覚していたということもある。聴取、送検が済み、事件が警察の手を離れれば、桃山の反逆行為も有耶無耶《うやむや》のうちに処理され、後には上からの強い風当たりと、同情しながらも、それを表に示せない同僚たちの目だけが残された。
なりゆきとはいえ、任官されたからには与えられた任務を忠実にこなし、万事に責任をもって当たるべしとした信条は、その空気の中でいつしか風化していった。
警察という巨大な階層社会の界面を突き破り、本来棲むべきでない世界に足を踏み入れてしまったことが、桃山を呼吸困難に陥らせていたのかもしれない。内面の葛藤は、やがて現在にも繋がる冷笑的な態度に結実した。周囲のものすべてが気に入らなくなり、周囲も桃山を疎《うと》み始めるのに、それほどの時間はかからなかった。
それでも、つぶしのきかない警官が他に職の当てがあるわけでなく、惰性で続けていた勤務だったが、暴対法が施行されて忙しさに拍車がかかった時に、やる気も緊張感も維持できない自分は、周囲の迷惑になると気づかされた。退官の決意と同時に、とっくの昔に破綻していた結婚生活にもピリオドが打たれ、桃山にはなんの荷物もなくなった。慰留されることなく辞表は受理され、見送る者も迎える者もなく、桃山は警視庁を背にしたのだった。
仕方がなかった……とは言わない。そうした想いを抱えながらも、踏み留まっている人間があそこには大勢いる。それを自己処理できず、逃げ出してしまった自分は、ようするに根気がなかったのだ。燃え尽きた感情の後にくる成熟を受け入れられず、いつまでも物事に理想を追い求め続けたという意味では、真実、ガキだったというだけの話だ。金谷は自分の責任のように感じ、口にこそ出さないものの、ずっと気にしていたようだが、別にそれが理由という話ではない。じっと答を待つ目に、桃山は「違うよ」と言っていた。
「なにがきっかけ……ってことじゃねえんだ。積み重ねさ。もともと向いてなかったんだよ。お事えが言う通り、勤め人の柄じゃなかったってだけのことさ。……気づくのに時間がかかり過ぎたがな」
そう続けて、桃山はグラスを空けた。三杯目を注ぎながら、金谷は「そうですか。わかりました」と応じて、自分もグラスを空にした。
酌を返そうと思ったが、金谷はボトルを離そうとせず、なにかの火を消そうとするかのごとく、立て続けに手酌を流し込んだ。お互い、まだ笑い話にするには生々しすぎる記憶を前に、しばらくははがれかけた胸の内を修繕する沈黙が降りた。外の電車の音も途絶え、どことも知れないマンションの一室に完全な静寂が落ちた頃、修復を終えたらしい金谷は自分の側の話を始めた。
「始まりは、シベリア資源開発公社からの投資誘致でした。うちの親父、あんなことがあったっていうのに、まだ田端とつるんでましてね。そっちから回って来たんです」
保に繋がる話だった。まったく酔っていない目を確かめて、桃山は空いた金谷のグラスにボトルを傾けた。
「ご存じかと思いますが、シベリアには、ソビエト時代の杜撰《ずさん》な調査で見落とされてた有望な鉱床がごまんとある。それを、ロシア政府が外国企業の投資を元手に掘り起こそうって話でしてね。高配当が期待できるし、なによりいまのロシアには、打たれる前の鉄みたいな魅力がある。指定で締めつけられてピーピーしてる本家に、向こう進出の足掛かりをつけられりゃ大手柄だってんで、親父はえらく張りきってた。ところが、話を持ってきた仲介の海外投資コンサルの連中が曲者《くせもの》でしてね。公社の人間に道つけて、こっちの裏金をうまく運用してくれる代わりに、ある条件をつけてきた。それが……」
「あの二人の捕獲……か」
「そうです。そっちが本当の目的だったんですよ。シベリア云々の話は、わたしらを取り込むための餌に過ぎない。こっちもいろいろ伝《つて》を通じて、その投資コンサル会社のこと調べてみたんです。そうしたら案の定、赤坂のフロント企業だってことがわかった」
「赤坂……?」
「業界じゃそう呼ばれてるそうです。在日CIA」
部屋の温度が一、二度下がったように思い、桃山は無意識にグラスを握りしめた。舟木会は雇われているに過ぎないと言った城崎涼子の言葉。その雇用者の正体。赤坂――米国大使館所在地。
「人様の家の中で事をかまえる時には、縁の下に巣くってる鼠《ねずみ》を臨時雇用する。連中の常道だそうです。なんにせよ、極道はスパイじゃない。こいつはヤバい火遊びになるってね、わたしゃ反対したんです。ところが親父は、本家に海外進出の道つけるって公約しちまったもんだから、引っ込みつかなくて。耳を貸さずに、まんまと踊らされる羽目になっちまったってわけです」
「……それで、おまえが保たちを?」
「ええ。松代組配下総動員で、増村保と須藤葵の狩り出しを始めました。しんどい仕事でしたよ。わかってるのは名前と背格好だけ。女の方は写真があったからまだしも、増村の方は人相も特徴もはっきりしなかった。最初のうちはいいように遊ばれましてね。あっちこっちにわざと痕跡残して、こちらの動きをかき回してみたり。追い詰めたと思って兵隊集めてみたら、通報受けた警察が待ちかまえてたり。町のど真ん中で、『わたしは拳銃を持ってます。警察の皆さん、逮捕してください』って貼り紙を背中に貼られた奴もいた」
苦笑混じりの金谷の声に、桃山もさもありなんと口もとを緩めた。
「なんたってすばしっこいし、頭がいいんです。極力、流血を避けて、効率よくこちらの戦力を潰してゆく。実際、三十人以上挙げられましたからね。まあちょっとした知恵較べ……ゲームみたいなところもありました。……浅草のビルが吹っ飛ばされるまでは」
それなりに保との追いかけっこを楽しんでいたらしい金谷の口調は、そこでひとつ暗いものになった。「神山組事務所か」と確かめた桃山に、金谷は無精髭《ぶしょうひげ》の浮き出た顎をさすってみせた。
「あっちが訓練で鍛えた兵士なら、こっちにも町中の喧嘩で身につけた野性の勘ってやつがある。長いこと奴と知恵較べしてる間に、だんだんその考えが読めるようになってきましてね。神山んとこの兵隊動員して、先回りの罠を仕掛けてみたんです。結局、当人は逃がしちまったが、それで逃げ遅れた須藤葵を捕えることに成功した。
大事な人質です。浅草の事務所に監禁して、奴が接触してくるのを待ちました。あっちこっちから応援要員かき集めて、町中にパトロール態勢敷きましてね。だが甘かった。あの娘に手を出した瞬間から、ゲームのルールが書き替えられたんだってことに気がつかなかった。三日と経たずに、それらしい奴が六区にいたって情報が飛び込んできて、戦力をそっちに集中させちまったのが運の尽きです。帰った時には、ビルはもう火に包まれてた」
そうして葵を奪還した保は、自らも負傷して亀戸まで逃げのびた。熱しきった頭から漏れ出た熱い息を、桃山は吐いた。
「火傷に骨折、それに弾食らった奴もいる。事務所に残ってた神山組長以下八人は、全員集中治療室のお世話になってます。意識を取り戻した神山が、おもしろい話をしてましたよ。奴が手製の爆弾携えて殴り込んで来た時、残ってた連中はあっという間にのされて、神山も動けなくなった。増村は女を連れてずらかろうとしたが、その時、彼女の頬っぺたに痣を見つけましてね。途端に表情を一変させると、動けねえで震えてた神山にチャカ突きつけて、『殴ったな』って呟いたんだそうです」
「『殴ったな』……」
「大の男が、小便漏らすほどびびったってこぼしてましたよ。あれは鬼の目だったって。それぐらい本気だったってことでしょう。ま、女の方があわてて間に入ったんで、神山は死なずに済みましたがね。増村にとって、彼女はそれぐらい大事な存在だってことです。誰にも傷つけさせるどころか、触ることさえ許さない」
そうしめくくって、金谷はくわえたタバコに火をつけた。なにか締めつけられるような痛みを胸に抱いて、桃山は顔をうつむけた。
「後は、ご存じの通りです。あの爆発で、それまでは静観決め込んで、こっちの上前はねようって狙ってた公安の連中も動かざるを得なくなった。お陰でわたしは身動きとれなくなってリタイア。奴は行方知れずのままです。それよりも、いまは自分の身を守るので精一杯でしてね。赤坂が、役立たずになったアルバイトをそのままにしとくとも思えませんから」
それが、金谷の隠遁生活の正体だった。ロキシーのばあさんも、殺気だった組員たちも、恐れていたのは警察でも代紋違いでもない。外事課や公安課に探られる前に、失敗した作戦の後片付けをするだろうCIAの清算を恐れていたのだ。別室にこもって以来、物音ひとつたてない美希の細い背中が思い出され、金谷の目を縁取るかすかな隈《くま》にも気づいた桃山は、「警察に保護を求めてみちゃどうだ?」と言ってみた。
「そりゃ面倒なことになるかもしれんが、公安なら取引に応じる可能性も……」
「無駄ですよ。こいつはもともと日の丸の方から出た不始末なんです。下手なカード切れば、かえって身が危うくなる」
この一週間――あるいはその以前から、見えない力の重圧に独り耐え続けてきた金谷には、すべての選択肢が考慮済みなのだろう。桃山は幼稚な意見を引っ込めるしかなかった。
「親父も、いまは半狂乱です。こうなると本家も冷たいもんで、他の直参兄弟分も兵隊ひとり寄越しちゃくれない。増村を捕まえなきゃ自分が消されるってんで、賞金出して追わせてますよ。喉に食い込んだ釣針《つりばり》が、ますます深く刺さるだけのことですがね」
煙と一緒に苦笑を吐き出すと、金谷は沈黙した。自分もタバコに火をつけて、桃山は残る最大の疑問をぶつける気になった。
「しかし、な。いったいなんなんだ? 内外の情報部が目くじら立ててあの二人を追ってる理由は」
「さあて……。新聞を斜め読みしかしないわたしには、国の考えなんてもんはよくわかりませんがね。ただこれだけは言えます。こいつは完全に司法行政の枠組みを無視した事件だ。増村には自衛隊のレンジャー並みの戦闘能力と、公安警察の頭脳が備わってる。そんな人間が育つ余地は、日本の行政地図の中にはありません。少なくとも目に見える形ではね」
直接渡り合った金谷の、それが結論なのだろう。桃山は頷いた。
「それに…もうお察しのことと思いますが、須藤葵は北系の在日朝鮮人です。本名はリ・ヨンスン。そしていまから三ヵ月前、ちょうど赤坂がわたしらに接触してきた頃ですが、李鄭和《リ・テイワ》って在日の男が焼死してるんです。自宅の火事でね」
また、火事か。父親のことを語った時の葵の顔が思い出されるより先に、金谷の説明の口が開いていた。
「美希が、そっちの方にコネ持ってましてね。その伝から聞いたんですが、リ・テイワは『学習組』にも名前を連ねてた総連活動家だったそうです」
学習組――在日朝総連内部に設置された非公然組織。本国朝鮮労働党の支援機関として、日本国内における対南工作を展開している。
「娘と二人暮らしで、死ぬ直前まで、北本国の指示を受けてなにかの計画に加わってたらしい。理工系分野に才のある活動家《イルクン》仲間を率いましてね。『アポクリファの編纂者《へんさんしゃ》』って暗号名で呼ばれてた」
切れ切れの断片が、忌まわしい現実に繋がった瞬間だった。目を閉じ、口中に罵った桃山をちらと見て、金谷は気づかぬ振りの顔を背けた。
「須藤葵は、その娘と見て間違いないでしょう。増村がどういう経緯で二人に関わったのかはわかりませんが、公安やCIAが狙ってるのはおそらくその計画資料です。北が計画したなにか。その情報を、あの二人は握ってる」
リ親子を警護するために送り込まれた増村保。つかの間の共同生活、変更された命令。おそらくは警護から清算へ。拒絶と同時に送り込まれてきた回収班。テイワ殺害、放たれた清算の炎。かつての仲間を撃ち、葵を救い出した保。果てない逃亡の始まり。世界中すべてを敵に回しても、たったひとつ手に入れた人間らしい感情を貫くために――。断片的なイメージが頭の中に現れては消え、桃山は根元まで灰になっていたタバコを灰皿に押しつけた。
アポクリファ――国内情報機関の容認、あるいは協力のもとに進行し、途中で摘み取られた北の計画。なんのために、なにを企図して立てられた計画だったのか。自問する桃山の頭に、城崎涼子の言葉が駆け抜けた。『神泉教の地下秩テロ、どう思われます?』『日本はそれほどナイーヴな国家ではありません』……。
「……西へは行くな」
自分でも気がつかないうちに、桃山はぽつりと漏らしていた。金谷は問う目を向けた。
「そう伝えてくれって、ある女に頼まれたんだ。西へは行くな。……おれも、あの二人を死なせたくない」
捕まれば、二人は確実に口を封じられる。それがなんであっても、たかがフロッピー一枚のために保と葵が死んでいいわけがない。金谷はなにも言わず、桃山のグラスにボトルの残りを注いだ。
巻き込まれた被害者同士、それ以上顔を突き合わせていても仕方がなく、桃山は家に送ってもらうことになった。警報装置を解除して部屋を出ると、外の廊下で見張りをしていたらしい大柄の組員が一礼し、金谷は「すみませんが……」と言いながら、黒い鉢巻きを桃山に手渡した。
どんなに口が固い人間でも、胃に半リットルも薬をぶち込まれれば知っていることを話す。知らないことが唯一の防衛策と心得て、桃山は黙って目隠し代わりの鉢巻きを受け取った。
「桃山さん。わかっているとは思いますが、こいつは底なしの沼です。岸に手が届くうちに上がった方がいい。これはわたしからの最後の忠告です」
微塵も揺らがない目をぴたりとこちらに据え、金谷は言った。その肩ごしに、部屋の奥から顔を覗かせた美希のショートカットも見え、桃山は二人を危険に晒している自分の行為を自覚した。「……わかった。世話かけたな」と返して、桃山は目隠しをした。
肘を持った組員に誘導されて、冷たい外廊下を歩いた。エレベーター、駐車場、車の中へ。闇に閉ざされた視界には、あの黒い川の奔流が映っていた。肩までなんてとんでもない、底なしの川。いちど入ったら命はない、人の世の汚濁を吸いきった激しい流れが……。
それから六日後、土曜日。アリランス亀戸の管理・警備関係者一同を仰天、戦慄させた顔面の腫れもようやく治まり、桃山の周囲にはなにもない日常が戻ってきた。
アパート周辺に不審な車輌――盗聴機器の詰まった荷台で、ヘッドホンをかぶった要員が暇潰しの将棋を指しているバンなど――の駐車はなし。以前、捜査二課の知り合いから教わった通り、出かける時には部屋の玄関に塩をまき、不在中に侵入者があればすぐわかるようにしているが、つく足跡と言えば、仕掛けを忘れて踏んづけてしまった自分のものばかり。監視・尾行の気配はどこにもない。先刻承知している彼らが上を行く監視措置を講じているのか、あるいは涼子が本当に約束を守っているのか。いずれにしろ、すべては夢だったのではないかと思わせるほどの平穏が、神泉教に代わって住専と厚生省という新たな悪役を開拓した新聞紙面ともども、桃山を取り囲んでいるのだった。
受付窓口にふんぞり返り、鼻毛を抜いている背後では、苅谷が昼飯のラーメンを啜る音が衝立ごしに続いており、正面の廊下には、週末恒例の服飾会社即売会を目指す行列がエレベーターまで繋がっている。互いのブランド志向を軽蔑しあってでもいるのか、奇妙に寡黙で刺々《とげとげ》しい人の列をぼんやり眺めて、桃山は金谷の目と言葉を頭の中に反芻した。
あっさり途中下車した自分と違って、無能で下司《げす》な親分を持ったのも身の定めと受け入れ、踏んばっている金谷。底なし沼に肩まで浸かりながら、守ると決めた女の肩をしっかりと抱き締め、澱みのない眼差しを上に向けていた。正直、脱帽。自分にはとても真似できないことだと桃山は思う。どうにでもなれと捨て鉢にかまえていたいまの生活のはずなのに、実際に死の臭いを間近に嗅げば、やはり生への未練が噴き出してくる。保と葵に会いたいと思う一方で、こんど関われば命はないという警戒心、恐怖心も間違いなく存在しており、なにを言ってもお上《かみ》意識の強い日本のヤクザを相手にしてきた身には、CIAや北朝鮮といった固有名詞の数々は刺激的に過ぎた。頭から布団をかぶり、震えていたいというのが偽りない心境だった。
在日同胞によって作成された北の計画「アポクリファ」。仮にそれが神泉教事件に関連するものだったとして、では彼らに武器を供与し、地下鉄テロを起こさせた真の示唆者――消えてしまった「大人」の存在は、北朝鮮という国家そのものだったのか。そんな、すぐに元を手繰《たぐ》られるような見え透いたテロ行為が、政治的にも経済的にも瀕死《ひんし》の彼らに、どんなメリットをもたらすというのか。第一、日本の監視機関は、それを見逃すどころか支援さえしていた。計画の編纂者――つまり葵の父リ・テイワを、事件後も保が警護していたのがその証明だ。いったいなにから守るために? 警察や公調、内調、この国の正規の情報機関から? あるいはCIAに代表される海外情報部の目から? それとも保も涼子も北の工作員で、非公開情報機関云々の話は自分を納得させるための嘘……?
そこまで考えて、タバコの一服とともに空想の時間は終わる。新しい情報入力がないままに推測を積み重ねると、物の見方が歪《いびつ》になってくる。刑事時代に学んだ教訓を引っ張り出し、雑居ビルの受付窓口に座る警備員が考えることでもないと自分を納得させて、桃山は気を抜くとすぐに溢れてくる思考の束を引き出しにしまった。じりじりと流れる行列にちらと目をやり、スポーツ新聞を広げて防波堤にしようとした時、ふと列に混じってこちらを見つめる視線に気がつき、桃山の心臓は止まった。
垢の浮き出た小汚いブルゾンに、膝の出たジーパン。ぼさぼさ頭の下のまっすぐな目は、間違いなかった。保……! と口を動かし、咄嗟に立ち上がったものの、頭は真っ白で、あたふたと意味もなく左右を見回し、口をぱくぱくさせた桃山は、とりあえず最初に思いついたことを衝立の向こうに怒鳴っていた。
「か、苅谷隊員! 不定時外周巡回、出発用意」
「はい!」と反射的に返事をして、ラーメンの丼を持ったまま立ち上がった苅谷は、その後できょとんとした顔になった。
「……いまからですか?」
「そうだ。不定時迷走巡回は、警備の基本。賊にこちらのシフトを探らせないためにも有効だ。一時間はみっちり回ってくるように」
丼を奪い、代わりに屋内無線を持たせる。白黒させる目は見ずに、制帽をかぶせて苅谷を警備室から追い出した桃山は、代わりに保を手招きして中に入れた。もういちど列の前後と玄関の外を見渡し、ドアの鍵と、使ったためしのない窓口の非常用シャッターを閉めたところで、ようやく息をつくことができた。
「いいのか?」
なにをそんなにあわてているんだというふうな口ぶりで、保は下ろしたシャッターを顎でしゃくる。「いいも悪いもねえだろうが……!」と応じて、桃山はあらためて忽然《こつぜん》の表現そのままに現れた横顔を見つめた。
「あの娘はどうした」
「無事だ。安全なところに隠れている。……ちゃんと定点作ってきたから、そう心配しないでもいい」
涼しい顔で答えて、保はブルゾンのポケットに両手を突っ込んだままソファに座った。その口調も態度も、間違いなく保のものだった。定点という聞き慣れない言葉が、金谷も散々苦労させられたという、追手欺瞞の痕跡残しのことなのだろうと想像したが、それよりも、こうしてまた目の前に現れた奇跡の方が、桃山にははるかに重要事だった。
これ以上関わるのは危険。先刻までの弱気は跡形もなく消え去り、この二週間、立ちこめ続けていた靄《もや》も晴れて、輝度を増した世界がそこにはあった。しばらく保の横顔を見下ろした桃山は、ラーメンの食べ残しを片付けながら、「腹、減ってないか?」と言ってみた。話したいこと、尋ねたいことがありすぎて、パニックになった頭が最初に紡ぎ出した言葉だった。
「いや。食ってきた」
「怪我の具合は?」
「いいよ。傷口はもう塞がった」
すり傷じゃあるまいし、そう簡単に治ってたまるかと思ったが、確かに元気そうな保からは、もう病み上がりの気配さえ感じられなかった。
「……そうか」と答えて、自分を落ち着かせる意味も含めて二人分の茶を淹《い》れた桃山は、向かい合った椅子に腰を下ろした。
「あのな。実はおまえに伝えてくれって頼まれたことがあるんだ。その……」
涼子の名前を出していいものかどうか。迷っている間に、「西へは行くな、だろ?」の声が保の口から返ってきて、桃山はぎょっとなった。
口半開きの驚き顔をちらと見て、保はかすかに歪めた口もとをうつむけた。「来たんだろ、涼子。ここに」と続いた声に、桃山は返す言葉もなくその目を見つめた。
「お陰で、またこっちに戻らされる羽目になった」
「……どういう意味だ?」
「あんたは、あの女にのせられたんだってことさ。舟木会の金谷に接触したことも、そこから『西へは行くな』って言葉があっちこっちに広まったのも、ぜんぶ涼子のシナリオのうちだ」
そんなバカな……と思う一方で、奇妙な納得が桃山の腹の底を冷たくさせた。金谷のところから情報が漏れる? のせられた? では彼女の、涼子のあの目はいったいなんだったんだ……?
「でもよ。おめえの上官なんだろ、彼女。心配そうにしてたぜ。本当に、その、目がよ。なんていうのか、その……」
あれは絶対演技なんかじゃない。うまく表現できないもどかしさに口をもごもごさせた桃山に、保は乾いた笑い声を浴びせかけた。
「それが手なんだよ。……あの女は、自分以外の他人は利用するために存在してるって思ってるんだ。気をつけた方がいい」
初めて聞いた笑い声より、後に続いた言葉の低さの方が桃山の胸に重く残った。口とは裏腹に、保にも涼子に対する特別な感情があるのかもしれない。愛情、憎悪。あるいはその両方が……。
こちらの勘ぐりを察したのか、出しかけた表情をすぐに引っ込めた保は、代わりに懐からトリスのポケットボトルを取り出した。テーブルの上に置くと、「この間のやつは、とっくに飲んじまっただろ」とぶっきらぼうに言った。
「……当たりめえだよ」衝かれた胸の痛みを隠して、桃山はそれを受け取った。嘘だった。二人が消えた日に置き去られていたトリスは、まだ封も切らずにしまってある。金ないくせに、無理しやがって。見返した目に気づかぬ振りで、保は茶に口をつけた。
この二週間、どこでなにをしていたのか。自分にはまったく想像のつかない世界を駆け、再び戻ってきた保の横顔には、相変わらず遠くを見る目が光っている。自分も茶を啜り、タバコに火をつけつつ椅子に座り直した桃山は、多少は整理した胸のうちをぶつける気になった。
「その、おれなりにな。おめえの背景っていうか、立場みたいなもんが少しはわかったつもりだ」
卓上ライターを手に取り、もてあそぶ保の表情は動かなかった。桃山は顔を伏せた。
「どこの組織……いや、どこの国の人間だって、そんなことはかまわねえんだ。ただ……ただよ。どうする気なんだ、これから?」
「北の人間じゃないよ、おれは。この国から出たこともない。純正の日本人だ」
ライターの火を宿した目が、こちらの疑念など先刻承知といった声で答えた。桃山が口ごもる間に、立ち上がった保は机上のパソコンのモニターに近づき、うっすら積もった埃を指でなぞった。
「どうするかはまだ考えてない。ただあんたにはこれ以上、迷惑かけるつもりはない」
「つっぱんなよ。あの娘抱えて、これから一生逃げ回るつもりか」
モニターに片手を置いたまま、保は答えなかった。タバコを消して、桃山はそちらに体を向けた。
「なあ。金谷のこと知ってんなら話は早い。あいつもいまヤバい立場に立たされてんだ。その……協力してよ、あのフロッピーでどっかの組織と取引してだな、身の安全を図るってわけにゃあ……」
「あんた、なにもわかってないんだな。あのヤクザが信じられるとでも思ってるのか?」
「金谷はただのヤクザってわけじゃねえ。おれとは昔からの……」
「ヤクザはヤクザさ」昔の自分の声。馴れ合いを嫌う声が保の口から発し、桃山を遮った。「第一、おれは誰かを当てにして先の予定を立てるなんてしたことない。自分自身は空っぽで、送られてきたプログラム走らせるしか能のないこいつとは違うんだ」
モニターの頭をぽんと叩くと、保は完全に背を向けた。過去の自分との対面に、桃山もそれ以上のことは言えなかった。
「……ご立派なこった。親も兄弟もない一匹狼か」
代わりに、桃山はそんなことを言った。「会ったことはない」と応じた保の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「じゃ、保って名前は誰がつけたんだよ? 誰だってひとりで生きてきたわけじゃねえんだ。おめえも……」
「さあね。気がついたらそう呼ばれてた。いくら施設でも、子供を番号で呼ぶわけにはいかなかったんだろうさ」
言葉を重ねれば重ねるほど、距離が開いてゆく。そんな感じだった。密室になった警備室に沈黙が降り、即売会帰りの客のざわめきが窓口のシャッターごしにかすかに聞こえた。静止していた保の背中は、やがて離れる一歩を踏み出した。
「とにかく、おれたちのことはもう忘れてくれ。それが身のためだ」
顔を見せずに、保はドアの方に向かった。桃山はあわててその前に立ち塞がった。
「どうするつもりだ」
「火遊びのツケを支払わせる。あのヤクザどもに」
こげ茶色の瞳の奥で、ぞっと肌を粟立《あわだ》たせる暗い炎が揺らめいた。息を呑み、一歩退いてしまった桃山の横をすり抜けて、保はドアノブに手をかけた。桃山は巨体をドアに押しつけてそれを封じた。
「どいてくれよ」
「冗談じゃねえ。神泉信者じゃあるまいし、そう簡単に見聞きしたもんを忘れられるか」
「どけよ」
「どかねえ。おめえの腹ん中を開くまではな」
いま行かせたら、取り返しのつかないことになる。その直感を抱いて、桃山は頭ひとつ小さいところにある目を見下ろした。じっとこちらを見据えていた保の目が不意に伏せられ、瞬間、腹に衝撃が走った。
鳩尾《みぞおち》に一発。的確な打撃は、金谷のそれがハンマーなら、こちらはあくまでも細く鋭い、錐《きり》のひと突きだった。たまらず腰を折り、膝をついた桃山をつかの間見下ろして、保は警備室を後にした。
逆流しそうな胃の痛みを堪えて、ドアノブを手がかりになんとか立ち上がる。噴き出した脂汗と涎《よだれ》を拭い、半ば倒れるようにして廊下に出たが、視界に入ったのは、いきなり飛び出してきた死に体の撃膚員に驚く見知らぬ顔ばかりだった。保の姿はなく、桃山は腹を押さえてその場にうずくまってしまった。
鉛《なまり》になった胃袋が、脈打っていた。殴られた痛みではなく、再び開いてゆく保との距離の、抗《あらが》いようのない重さと硬さがもたらす痛みだった。
[#改ページ]
バブル期に建てられた店特有の、浅薄な瀟洒《しょうしゃ》とでも表現すべき内装は、いまは埃の中に沈んでいた。五年前、松代組長が手をつけたホステスに買ってやった店で、地下では会員制のルーレット賭博《とばく》も行われていたというが、不況と暴対法のダブルショックであえなく倒産。積み上げられた椅子とテーブル、枯れた観葉植物だけが往時の面影を偲ばせる薄暗い店内で、舟木会系松代組組員の宮村《みやむら》義行《よしゆき》は、独りの夕食を終えたところだった。
仕出し屋から出前させた千五百円の幕の内弁当に、同じく喫茶店から持ってこさせた一杯八百円のブレンドコーヒー。日頃は下足番として集金に歩き回り、コンビニ弁当で食事を済ますことの多い宮村だったが、今晩は贅沢が許されていた。彼の足もと、かつてルーレット賭博場に使われていた地下室では、いま松代組長御自らが蟄居《ちっきょ》しており、宮村はそのボディガードの役を仰《おお》せつかってここにいるのだ。いつ襲撃してくるかわからない鉄砲玉から、身を挺して親分の命を守らなければならないのだから、多少の贅沢は当然の権利だった。
もっとも関西や九州と異なり、調停制度が発達している関東一帯では、ドスやチャカを振りかざしてのタマの取り合いなどはまず起こらない。相手が進出著しい中国マフィアとなると話は別だが、それにしても最近では棲み分けに成功しつつある。いまはどこを向いても抗争の火は上がっておらず、宮村には、松代の異常なまでの警戒ぶりが理解できなかった。
複数の潜伏先情報を故意に流し、その全部に実際に護衛を配置する。腕利きと目される主要戦力は、現在そろって九州の方に出張しており、まだチーマー時代の色が抜けない宮村が本丸防衛に駆り出されたのも、それらの状況がもたらした人材不足のためだった。いったい組長はなにをそんなに怯えているのか。誰が狙っているというのか。宮村の耳に入る情報といえば、ひと月前から組を挙げて行っている人捜しに関連しているらしいということと、「赤坂」という名前ぐらいで、それがなにを意味しているのかも皆目《かいもく》わからない。六本木あたりに、新手の中国マフィアが進出したのだろうかと想像するのが関の山だった。
インターホンが鳴った。玄関脇に取りつけたビデオカメラから送られてくる映像に、一緒に配置されている兄貴分、三橋《みはし》の顔を確かめた宮村は、入口の鍵を開けに向かった。本来の鍵の他に、ドアの上下に増設した鍵も開けると、三橋に続いて長身の女が店に足を踏み入れてきた。
蟄居の憂さ晴らしに、松代が夜毎出前を頼んでいるコールガールだろう。初めて見る顔だったが、いかにも松代好みのスレンダーな色白美人に、宮村はつかの間|見惚《みと》れてしまった。
ボブカットの下のうつむけ気味の顔は、目鼻立ちが整っており、赤の似合う形のいい唇がきゅっと結ばれているさまが、なんとも扇情的だった。少々肩幅が広いのが難点と言えば難点だが、そんなものはさっぴいても余りある魅力が彼女にはある。タイトスカートからのびる黒のストッキングに包まれた足を見下ろし、モデルくずれかもしれないと思ってから、宮村は三橋に視線を移した。
一緒に迎えに出たはずの仲間がいないことに気づき、「あれ、ヒデの野郎は?」と尋ねると、「……ちょっと、他に用があって」と、奇妙に固い三橋の声が返ってきた。薄暗い照明の下、その顔に脂汗が浮かんでいることには、宮村は気づかなかった。
いい物を食い、いい車に乗り、いい女と遊んで見せてこそ、子分たちの示しになる。そう嘯《うそぶ》き、実践してい総代が、本気で効果のほどを期待しているのかは疑問だが、少なくともこの時の宮村には覿面《てきめん》だった。いつかはおれもこんな女を抱ける身分になりたいものだと思いつつ、彼はカウンターの奥にあるトイレのドアを開けて女に手招きした。個室に並んだ掃除用具入れの鍵を開けた先に、地下に通じる細い階段がある。この向こうで、親分はこれからお楽しみというわけだ。
「なるほどね。そういう仕掛けか」
瞬間、宮村と女、三橋しかいないはずのトイレに、第三者の男の声が響いた。ぎょっと振り返った宮村が見たのは、無表情なボブカットの女と、悲鳴を上げて逃げ出した三橋のうしろ姿だった。
一緒に迎えに出たヒデがどんな末路を迎えたか、その目に焼きつけた三橋の逃げ足は尋常ではなく、宮村が呆然としている間に、ボブカットの女の手刀が彼の首筋を直撃していた。倒れて音を出す前に両手で受け止め、トイレの床に宮村を寝かせた増村保は、彼のポケットや懐に手を突っ込んで地下室の鍵を探した。
安全を考慮すれば、見張り番にも鍵を渡さないでおくのがベストだが、松代には心臓の持病がある。万一発作を起こした場合のことを考えて、外からでも鍵が開けられるようにしているはずだ。店の玄関や掃除用具入れの鍵とは別に、首に紐でぶら下がっている鍵を見つけた保は、それを力任せに引きちぎった。ボブカットの鬘《かつら》をはぎ取り、タイトスカートの脇を破って、女物のショルダーバッグを手にいったんトイレから出た。
顔の化粧を拭いつつ、バッグの中からジュースの空き缶数本を取り出し、店内の四隅に置く。アメリカンサイズの「午後の紅茶」だったが、いちど切断された上蓋にはビニールテープが巻かれ、飲み口から飛び出したコードは、小型のアラーム時計に接続されていた。設置を終えてからあらためてトイレに戻り、保はグロック17を片手に一気に階段を駆け降りた。降りきってすぐの場所にある鉄扉の鍵穴に鍵を差し込み、解錠の音が小さく響けば、後は鉄扉を蹴り開けるだけだった。
かつての賭場には、隠れ家用に簡単な応接セットと寝具が持ち込まれており、松代は肥え太った体をソファに沈め、酒を舐めつつテレビの洋画劇場を眺めているところだった。勢いよく開いたドアにぎょっと振り向いた松代は、拭った口紅が血のように口もとを汚している男の顔と、彼の手に握られたオートマチックの暗い銃口を一時に目に入れた。
「ま、待てっ! 早まるな」
咄嗟に立ち上がろうとして、松代はソファと一緒に転倒する。保は引き金に指をかけたまま、無表情に一歩を踏み出した。背後の階段からあわただしく人の足音が駆け降りてきたのは、その時だった。
自動的に動いた保の体が壁際に寄り、松代と、新たな侵入者の両方を射界に入れる。全開にされた鉄扉から飛び込んできた大柄な背中は、無様に倒れ、恐怖に顔をひきつらせている松代を見てから、ゆっくりと保が掲げる銃口に振り返った。
「……来たか」
金谷が言ったのは、それだけだった。歪めたその口もとと、暗殺者の無表情。それが、松代の最後の記憶になった。
数分後、店内に設置された空き缶が一斉に爆発した。炎となってまき散らされた焼夷薬《しょういやく》は壁を這い、渦巻き、酸素を求めて暴れ回った。下ろしたシャッターはその勢いに弾け飛び、西新宿の一角、松代組が占有をかけていた五階建ての雑居ビルは、その足もとから盛大に炎と黒煙を噴き出していった。
「卵と灯油?」
日勤を終え、殴られた腹の痛みと、胸の痛みを抱えたまま一杯ひっかけた帰り道。自転車を取りにアリランス亀戸の前まで戻った桃山は、第二安田ビル一階の中華料理屋で起きた奇妙な盗難事件を、竹石から聞かされたところだった。
「そう。萬来軒が使ってる倉庫室から、一斗缶と五パック分の卵」
非番の体を、生意気にも自家用車で運んできた竹石は、他人事の気楽さで言う。夕方の六時頃、補充のため倉庫に向かった店員が盗難に気づいて、警察を呼ぶ呼ばないでひと騒動あったらしい。ビルの前には、竹石が勤務する警備会社の車も止まっていた。
「なんでえ、チンケな物盗りもいたもんだな。萬来軒の数え間違いじゃねえのか?」
「わしもそう思うんだがさ。倉庫室に行く時は、店の中通るか、警備室の前通るかしないと行けないだろう? 守衛はなにを見てたんだって、店長さんえらい剣幕なんよ」
「それにしちゃいやに落ち着いてんな。本社からどやされるんじゃねえのかい?」
ヤクザを追っ払ってくれ、と泣きついて来た時のあわてぶりを冷やかして言うと、「今日はわしの当番じゃないからね。叱られんのはバイトの学生の役目」と涼しい答が返ってきた。古株として騒ぎを収めにきたのかと思ったら、ただの火事場見物。他人の不幸は蜜の味、を地でいく竹石の顔に肩をすくめて、桃山はその場を離れた。
自転車の後輪をガードレールに巻きつけたチェーンを外そうとして、ふと背後に近づいた人の気配に気づいた。桃山は振り向き、開いた口から心臓が飛び出しそうな気分を味わった。
須藤葵が、そこにいた。白いシャツにジーパン姿で、ぎゅっと握った拳を胸に当てている。「あんた……!」と搾り出した桃山に一歩近づくと、青白い、思い詰めた葵の顔が必死の目を向けてきた。
「保が……保が来ませんでしたか……!?」
聞き返す必要はなかった。なにが起こったのか悟り、ほろ酔いも消し飛んだ桃山は、帰りかけた竹石を大声で呼び止めていた。
十分後、半ば強奪するように竹石のカローラを借り出した桃山は、葵を助手席に乗せて蔵前橘通りを西に下っていた。保は新宿に向かったはずという葵の言葉が、唯一の手繰れる線だった。あのバカは、彼女を置いてひとりで舟木会潰しに向かったのだ。どういう経緯でそうなったのか、この二週間どこでなにをしていたのか。憔悴し、疲れきった様子の葵から聞き出すつもりにはなれず、話の糸口に盗難事件のことを話した桃山に、さらに血の気の退いた葵の顔が「保です、それ」と言っていた。
「卵泥棒がか?」
「卵白、灯油、塩。焼夷薬の原料になります。前に作ってるとこ見ました。スチールの空き缶にトイレットペーパーの芯を入れて、中に焼夷薬、外側にネジとかボルトとかを詰めて、起爆線を通して蓋をする。いちばん簡単な即席手榴弾だって……」
火遊びのツケを支払わせる、と言った時の保の目が脳裏によみがえってきた。やはりなにをしてでも止めるべきだったのだ。「なんてこった……」と思わず呟いた桃山の顔色を窺って、葵は「この前……お礼も言わずにいなくなってしまって、ごめんなさい」と、二週間前を顧みる声を出した。
「あの後、九州の方に逃げてたんです。向こうなら舟木会の勢力範囲外だし、たくさんある港に痕跡を残しておけば、国外に逃げたように見せかけられるからって。でも舟木会がそれを嗅ぎつけて。賞金目当ての組員が周りをうろつき出して、いられなくなっちゃったんです。それでまたこっちへ……」
おれのせいだ。涼子にのせられたんだと言った保の言葉を噛み締めて、桃山は三年ぶりのハンドルを握る手に力を込めた。
『西へは行くな』と言った涼子の言葉は、裏を返せば二人に西に向かう意思があることを仄めかしている。いまや組全体の懸案事項である保の行方の手がかりとなる情報を、金谷が聞き逃すはずはない。逃げ出した桃山と異なり、金谷はいまだ組織の人間であり、そのことと保に対する好感云々の話は、違う次元の問題だった。亀戸に匿った自分を見逃し、迷惑はかけないという約束は守ったのだから、後は本来の役柄に戻り、我が身と組の窮地を救うために動いたのだとしても責めるには当たらない。そんな当たり前の理屈に気づかなかった自分が、徹底的に迂闊だったというだけのことだ。
「このままじゃきりがない。頭を潰してけりを付けるって……。こっちに戻った途端、あたしたちに賞金かけてる組長の居所をどこからかつきとめて、飛び出していっちゃったんです。止めたんだけど、追いつけなくて……」
そこで言葉を切ると、葵はぐったりとシートにもたれかかった。窓の外を流れる水銀灯の明かりに照らされる顔には、冷や汗も浮き出ている。「おい、大丈夫か? 車止めようか」と言った桃山に、額にはりついた前髪を払った葵の顔が、「……平気です。行ってください」と微かな笑みを浮かべた。
「この頃、ちょっと体の調子くずしちゃって……。そのせいもあるんです。これ以上、あたしに無理させられないって……」
保ならそう思うだろう。華奢な体に、苛酷な逃避行の疲れを滲ませた葵から目を逸らした桃山は、涼子の思惑に完全にのせられた己を自覚して暗澹《あんたん》となった。
あの女、保が舟木会潰しに乗り出さざるを得なくなる状況を作り上げるために、おれを利用したんだ。いまのところ、涼子たちの他に公安や内調、CIAまでが保を追いかけているが、もし保が捨て身の反撃に転じ、舟木会に大量の死傷者が出たらどうなるか。ヤクザとはいえ市民、それが次々血祭りに上げられれば、もうマスコミを黙らせておくこともできない。なによりもスキャンダルを恐れる警察は及び腰になり、地下社会も騒ぎ出せば、彼らを利用していたCIAも手を引くしかなくなる。事件が衆目に曝《さら》されることで、これまで水面下で追跡を続けていた各機関は、そろって身動きが取れなくなってしまうというわけだ。ただひとつ、もとより存在が秘匿されている涼子たちの組織を除いて。
保に殴られた痛みを押し退け、憤怒《ふんぬ》の熱が桃山の胃袋を焼いた。単独で、大手を振って保を捕獲できる状況を作るために、あの女は、涼子は関わった人間たちの感情を利用したのだ。スパイも一流になれば、あんな目も演技でできるということか。そこまで人を貶《おとし》める、どれだけの価値があるっていうんだ。このくだらないスパイ合戦に……。
「感謝してます。あの時、なにも言わずに助けてくれて」
葵がぽつりと口を開いた。その汚濁に頭まで浸かりながら、なお人として在ろうとすることの重さを、静かに湛えた声だった。
「わかってるんです。このまま、ずっと逃げ続けることはできない。保もあたしも、命でしか償《つぐな》えない種類のルールを破ってるんだって……」否定しようとした桃山を制して、濡れた葵の瞳がルームミラーごしに向けられた。「でも、保との旅で……あたし、本当にいろいろなものを見ることができました。うまく言えないけど、そのまま普通に生きていたら一生見れなかったものを、見て知ることができたんです。人の住んでる世界には、本当にいろいろなものが……醜いものや美しいもの、やさしいことや厳しいことがある。保は、全身でそれを教えてくれたように思います」
つかの間の幻のように、そのまま消えてなくなってしまいそうな葵の声だった。桃山は深く息を吸って、喉元までこみ上げた感情を抑えた。
「だから、あたし、もう悔いはないんです。一生かかって感じるすべてのことを、この何ヵ月かでまっとうすることができたんだから……」
「……よせよ」
「父がどんな死に方をしたんだとしても、あたし、保に……」
「もういい。もうよせ」父の死、という言葉に耐えられない辛さを予感して、桃山は強い口調で封じていた。「あんたも保も、おれがOKするまでは死なねえ。こいつは木からリンゴが落ちるってのと同じ、絶対のルールだ」
まだ海に行く約束も果たしていない。黒く激しい流れの果てにある、絶対の安寧にたどり着くまでは誰も失うわけにはいかないんだと、桃山は自分にもそう言い聞かせた。この世でいちばんきれいな微笑を返して、葵は目を閉じたようだった。
が、新宿に入り、歌舞伎町のネオンを右手に見つつ靖国通りにかかるガードを潜れば、そこには逃れようのない現実が口を開けて待っていた。
青梅《おうめ》街道に続く交差点、角の都民銀行のビルの向こうで、夜空が赤く燃えていた。炎の赤、血の赤だった。増援の消防車が、鐘とサイレンを鳴らしながらすぐ横を通り抜けて行き、桃山は為されてしまったことを知った。固く口と手を結んだ葵とともに、遅すぎた自らを悔いる他なかった。
火事場見物ののろのろ運転が作り出す渋滞をすり抜け、火災現場から一区画離れたホテル裏に車を止めた桃山は、葵を車内に残して走り出した。現場は、松代組が賭場を商っていた雑居ビルに違いない。もともと不動産屋が転売に失敗した物件を、松代が頼まれて占有をかけていたビルで、賭場が摘発されてからは無人の廃ビルになっていたと聞く。
CIAの清算を恐れて、立てこもる場所としては悪くない。薄暗い路地を駆け抜け、想像通りの場所に野次馬の人だかりを見つけた桃山は、焦げくさい臭いを嗅ぎながらその中に突進していった。
近隣のスナックから様子を見にきたらしい黒服、キャンプファイアーかなにかと勘違いしてはしゃぐ茶髪の小僧どもを押し退けた先に、一階から炎の舌を吐き出しているビルがあった。水浸しの路上に散らばっているガラスやコンクリート片、ひしゃげたシャッターの鉄片が爆発火災であることを教え、崩れかけた窓枠の向こうで暖炉の火のごとく燃えている炎は、二階から三階にまで延焼域を拡げつつある。放水の帯の下を駆け回る銀色の消防服に混じって、マスコミや警察の人間と思《おぼ》しき人影も活動を始めており、防護線のいちばん前に出た桃山は、「危ないから下がって!」と怒鳴る制服警らに、「本庁、捜四だ」と銀行でもらったメモ帳をさっとかざして、ちゃっかりロープをくぐり抜けた。
照り返しで顔が熱い。酸素ボンベを背負った消防服が火の残る一階に飛び込んでゆく姿を横目にしつつ、桃山は行き交う人の中に知った顔を探した。写真を撮っている所轄の事件番でも、サツ回り記者でもない。出火場所がここだと判明した時点で、必ず臨場しているはずの連中。捜査一課でも公安でもない、火災そのものより建物の持ち主に用のある連中。水と炎がせめぎあう中を走り、散らばったガラスをいくつも踏みしだいた桃山は、ポンプ車のうしろで駐車灯を点滅させているスカイラインの中に、それを見つけることができた。
本庁捜査四課員、今西巡査部長。三年ぶりに見た後輩は相変わらずの赤ら顔で、もうもうと立ちのぼる煙を半開きの口で見上げている。柔道部出身の体格はごついが、中身は子供のように純真な男で、海千山千のマル暴たちの中に混じって、のんびり加減をいつもどやされていた。その頃と同じ声で「今西っ!」と怒鳴った桃山は、反射的に硬直したまる顔に近づいていった。
「桃さん……! なにしてんです、こんなとこで」
「死傷者は出たのか。出火の原因は」
考える間を与えず、昔の勢いと口調で畳みかけると、今西はあわててメモを繰《く》り始めた。助かった、三年前からまったく進歩してない。
「まだ来たばっかりで、なにも……。怪我人を収容した病院に向かった警らの報告では、松代組の奴がひとり、軽い火傷と打撲を負って手当を受けてるそうです。それにホトケが多分二人……」
「誰だっ!」それを先に言えばいいのに、この男はまったく要領が悪い。思わずスーツの襟をつかんで怒鳴った桃山は、「か、金谷稔と、松代本人じゃないかって……」と返ってきた返事に、頭が真っ白になるのを感じた。
金谷が? まさか、そんなバカな。あいつは、あのどことも知れないマンションで松代同様、隠遁《いんとん》していたはずじゃないか。なぜこんなところにいた。それも保が襲撃をかけた、ちょうどその瞬間に……。
よほどすごい形相になっていたのだろう。今西の顔が怯えていた。襟を放して、桃山は「確かか?」と、多少気を取り直した声を出した。
「地下に入ったレスキュー隊の一報だと、ホトケは二体とも粉々らしいです。焼け残った財布の中の免許証と、生存者の証言から、そう……。なんでも松代を狙って女装した賊がいきなり押し込んできたとかで、気絶させられたと思ったら、駆けつけた金谷に助けられた。それで外に応援呼びに行くよう言われて、電話した後に戻ってみたら、いきなり店が爆発したんだとか」
女装した賊。中性的に整った保の顔を思い出した桃山は、鎮火に向かいつつあるビルを見上げた。
金谷の奴、保の反撃を察知して松代を助け出そうとしたのか。自分よりずっと愚かな人間、忠義にろくに応えることもしなかったバカな親分と心中しちまったのか。あの言葉を忘れた娘、美希を残して。到着した時にはもう保はおらず、仕掛けられた爆弾の巻き添えを食らったのか、あるいは一戦交えてホトケになった後、ビルごと爆破されてしまったのか。
いずれにしろ、金谷はもういない。そして保は、おそらく無事だ。毛布をかぶせた担架《たんか》が二つ、消防隊員たちによって運び出されてきて、複雑な思いでそれを見つめた桃山は、「あっ、桃じゃねえか!」とかけられた怒声に、首をすくめた。
人相の悪いごろつき風体の男たちが四、五人、こちらを険しい目つきで見つめている。日の丸組桜田門一家、かつての同僚たちの変わらない姿だった。再会を喜べるような別れ方はしていないし、そういう場所でもない。「てめえ、こんなとこでなにしてやがるっ!」と怒鳴った同期が突進してくるより前に、桃山は「おれに話したってこと、誰にも言うなよ」と今西に釘を刺して、早足でその場を離れた。火事場のどさくさでリンチでも食らった日にはたまらない。
この騒ぎ、しかも浅草に続いて二度目となれば、もうマスコミ誘導も効かない。涼子の思惑通り、公安もCIAも戦列から一歩身を退かざるを得なくなるだろう。一課や四課を差し置いて現場を仕切っているはずの公安には、今晩が最後のチャンスになるわけで、「女装した賊」の人相風体を全派指令で指揮台から流し、厳重な検問態勢を敷くことが予想された。
もう葵と並んでドライブを続けるわけにはいかない。あたりを窺いながら車に戻った桃山は、顔を合わせるなり問う目を向けてきた葵に、「足、替えよう」とだけ言った。察したらしい葵の顔が即座に頷き、車を降りた。細い肩を抱いた桃山は、見物に飽きた野次馬たちの列に紛れて、駅の方向へと歩き出した。
雨が降り出していた。西口に続くアーケードの坂道は、終電を目指す酔客たちの頭に埋められる時間帯だった。緩慢な人の流れに身を任せて、桃山は葵の肩を抱いたまま歩いた。互いの心細さを少しでも紛らわそうとするように、葵も体を離そうとはしなかった。
「……保、無事なんですね」
「ああ。上がったホトケは二つ。どっちも保じゃない。奴と落ち合う場所は決めてあるのか?」
「はい。あの……」
「いや、いい。知らない方が安全だ。おれもマークされてる身だからな」小田急百貨店の下、ギターをかき鳴らしてメッセージソングを歌う若者を取り囲む人垣の側に、編み上げの出勤靴を履いた警らが左右に視線を走らせている姿を見て、葵の肩を握る手に無意識に力が入った。「わかってるとは思うが、とにかくなるたけ人込みの中を歩いて、暗がりを避けること。どこで職務質問《バン》かけられるかわからないからな。ヤバいと思ったら、タクシーでもなんでも乗り継いで、できるだけ東京から離れた方がいい。今晩は保の手配だけで手いっぱいだろうから、大丈夫とは思うけどな」
一緒にいてやれればそれに越したことはないが、まんまと利用された自分の間抜けぶりを思えば、かえって危険を呼び込む結果にならないとも限らない。券売機でとりあえず最低運賃のキップを買い、一万円札二枚と一緒に葵の手に握らせた桃山は、両肩を軽く叩いて精一杯の笑顔をみせた。
「奴のことだ、うまく逃げてるさ。心配すんな」
「……ありがとう」潤んだ目が伏せられ、次の瞬間、背伸びした葵の唇が類に触れた。カッと頭が自熟し、硬直した桃山を残して、葵は自動改札に続く人の列に走っていった。
一度だけ振り向き、微笑《ほほえ》んだ顔は、多すぎる人の中にすぐにかき消された。小さな体が、この先の長い夜をひとりで支えなければならないのかと思うとたまらず、桃山は逃げるように改札口を後にした。
本降りになった雨の中を歩いて、桃山は車に戻った。もう野次馬の姿も見当たらず、検証の場へと移行しつつある火災現場には、消防車より覆面《ふくめん》を含めたパトカーの方が多く駐車している。金谷と松代の遺体を乗せているのだろう救急車が、サイレンも鳴らさずに走り去るのを見送ってから、桃山は両手をポケットに突っ込み、一区画離れたホテルの裏手を歩いた。
なんてこった。あのバカ、金谷を殺《や》っちまうとは。甘いと言われようがなんだろうが、あいつとおまえは理解しあえるはずだったんだ。それを勝手に殺しあって、残された者はどうすればいいんだ。あの娘は、美希は、これからひとりでどうやって生きていくんだ。葵だって、おまえがこんな無茶を続ければいつかは……。
濡れた路面を踏むタイヤの音が、注意灯を瞬かせてこちらを見下ろす高層ビルの足もとに続いていた。青梅街道から一本離れた道端に車の無事を確かめた桃山は、そのうしろに駐車している青いMR2と、ドライバーの顔を見て、足を止めた。
運転席から降り立った城崎涼子は、雨に濡れるのを気にするふうもなく、最初に会った時と同じ、なにかを結んだ目をこちらに注いでいた。笑いにきたのか、それとも使い終わった伝書鳩の後始末でもしにきたのか。しばらく藍色のスーツ姿を見つめてから、桃山は無言で自分の車に近づいた。
つき刺さる視線を無視してドアに鍵を差し込みつつ、桃山は「あんたも火事見物かい?」と言った。涼子は黙っていた。保を失いたくないと仄めかした、あの時と同じ真摯《しんし》な目だった。
「さぞ満足だろうな。描いた絵の通りに物事が進んで」
じっと立ち尽くしたままの涼子に一歩近づき、桃山は「おれはな……」と感情を吐き出す口を開いた。
「保のことを言った時の、あんたの目を信じたんだ。それを……くだらねえスパイごっこのお先棒担がされるとはな」
「彼には、生き延びてもらいたい。その気持ちに嘘はありません」
少しうつむけた涼子の顔から、そんな言葉が発した。身近な孤独と疲労を宿した肩を見、これでこの間は騙《だま》されたのだと内心に毒づいた桃山は、「ああ、そうだろうさ」と涼子の顔を睨みつけた。
「これでゆっくり、あんたらだけであいつを始末できるんだからな」
「彼は、私たちが作り得た最高傑作のひとつです。どんな状況に置かれても、切り抜けます」
「傑作? 冗談じゃねえ、あいつは人間だ。つつけば血も出るし、間違いもする。おれやあんたと同じ、生身の人間だよ……!」
思わず声を荒らげると、すっと上げられた視線がまっすぐ桃山を見返した。また、この目だ。もう騙されるかと思いながらも、弁解の口しか開こうとしない涼子に、いったいなにをしにきたんだろうという疑問が桃山の胸中に立ち上がった。
おれに謝りに……? まさか。
雨に濡れた顔を桃山に向けて、涼子は動かなかった。細い顎から雨の滴《しずく》が滑り落ちていたが、拭う手も上げずにただこちらを見ていた。なんだ、なんなんだ。なにをわかれっていうんだ。自分が悪者になってしまったような気まずさを抱いて、桃山は開けた車のドアの中に逃げ込んだ。
「……風邪ひくぞ」と言い残し、ドアを閉めた桃山は、バックミラーに映る涼子を見ないようにしてエンジンキーを捻った。アクセルを踏みながらハンドルを切り、濡れた視線の印象を胸に青梅街道の流れに合流していった。
小岩にある竹石の家に車を返し、タクシーで平井に戻った頃には、雨は横殴りのそれに変わりつつあった。季節外れの台風でも近づいているらしい。川面を滑る風の音が、ごうと息吹きのごとく堤防の向こうに聞こえ、黒い流れの混沌が東の片隅をよぎったが、いまは対峙する気力も体力もなかった。重い足を引きずって、桃山はアパートの鉄階段を上った。
午前一時、どの部屋の明かりも消えている外廊下は、街灯から差し込む光だけが頼りの薄闇だった。洗濯機や古新聞の束が置かれた廊下を歩き、ふと顔を上げた桃山は、部屋の前で自分を待っていた人影に気づいて、声をなくした。
ブルゾンのポケットに手を入れ、鉄柵にもたれかかっている保の姿は、昼間見た時と変わりないようだったが、顔には新しくこしらえた傷が、煤とも泥ともつかない汚れと一緒に張りついていた。驚きの一拍の後、桃山は薄闇に光る二つの目を見据えた。
また定点とやらをこしらえてきたのだとしても、張られた網のど真ん中にわざわざ足を運んだからには、それなりの理由があるのだろう。背けられた保の顔に察しながらも、桃山は無視して部屋の鍵を開けた。
こんなシリンダー錠、破るのは簡単だったろうに。吹き込む雨にびしょ濡れになっている保を横目で睨み、桃山はドアを開け放したまま部屋の中に入った。カーテンを閉めてから電気を点け、ぐしょぐしょの靴下を脱いで部屋の隅に放り投げる。戸口の前に立ち、保は黙ってそれを見ていた。叱られた子供が、もういいよという親の言葉を待っている態度だった。
「さっさと入って、戸閉めろや。雨風が入るだろうが」
背中で言うと、ドアの閉じる音と同時に風の唸《うな》りが小さくなった。玄関に突っ立って、靴を脱ごうともしない保にちらと目をやり、桃山は台所で湯沸かしを始めた。油と埃のへばりついた棚からインスタントコーヒーの瓶《びん》を下ろし、蓋に手をやった時、「葵、来たんだろ」と低い保の声が発した。桃山は「ああ」と同じ調子の声を返した。
「検問だらけの中を、一緒にドライブするわけにもいかないんでな。新宿で電車に乗せたよ」
誰かさんのせいで……という皮肉を込めた声に、保はわずかに顔を上げたが、すぐに革靴と運動靴、サンダルが一足ずつしかない玄関に視線を落とした。「チャンスだったんだ」という声が、しばらくの間を置いて桃山の耳に響いた。
「松代組の主力は、まだ九州に出張《でば》ったままだから……。叩くならいましかなかった」
案の定、の言葉だった。涼子と同じく、保は言い訳をしにきたのだ。桃山は「いいから上がれよ」と言ってコンロの火を止めた。
「また怪我してんじゃねえか。胸の包帯も替えてやるから」
「これで連中は手を引く」玄関から動こうとせず、わかるだろう? と言わんばかりの目と声で保は続けた。「松代だけが問題だったんだ。赤坂に追い詰められて、パニックになってたからな。舟木会そのものはもう……」
「人殺しの理屈なんざ聞きたくねえよ。さっさと上れって服脱げ。風邪ひくぞ」
「あいつらは境界線を越えたんだ。戦場で兵士を殺したって罪にならないのと同じだ。叩ける時に叩いておくのが戦術の基本……」
「いいから言われた通りにしろっ!」
遮り、桃山は怒鳴った。何年ぶりかで出す大声だった。ぐっと詰まった顔になった保は、すぐにふて腐れた表情を背けて「わかったよ」と呟いた。靴を脱いで六畳間に上がった濡れネズミにタオル一枚を放って、ひとつ深呼吸した桃山もコーヒーを両手にそちらに向かった。
万年床を脇によけて保を座らせてから、このあいだ買った医薬品の残りで手当を始めた。頻の傷はたいしたことないが、胸の傷口が新しい血を滲ませている。黒ずみ、ぼろぼろになった包帯を替えてやりながら、桃山は「まったく、無茶しやがって……」と吐き捨てた。保の言い分もわかり、その論理に従っていつ失われてしまうかもしれない体を、こうして修繕してやるしか能のない自分の無力に対する慨嘆だった。
「これからも続けるつもりか。その戦術とやらを」
まだ成長過程にある肉体を微動だにさせず、保は黙っていた。桃山は、「じゃあよ、ここでおめえの手足の二、三本も折っとくか」と、冗談だけではない声で続けた。
「……やめた方がいい。あんたを怪我させたくない」
「ぬかせ。死ぬ気になりゃ、おめえをしばらく動けねえ体ぐらいにはしてやれら。……おめえが無茶して死んじまったら、葵はどうなるんだ。あの娘を守るのが、おめえの任務じゃなかったのか?」
ついきつく縛ってしまいそうになる手元に気を遣いつつ、胸の被覆を終えた。じっと動かない保と背中を向けあう形で腰を下ろし、桃山は冷めてしまったコーヒーを啜った。雨粒が窓を叩く音だけが響く密やかな静寂が落ち、湯気の消えたカップを手にする保の気配が背後に伝わった。
「……障害は、取り除け。そう教えられた」
不意に呟かれた声に、ひと口コーヒーを啜る音が続いた。桃山はかすかに頭を動かした。
「十五で施設を飛び出して……あっちこっちさまよい歩いた。公園や神社を寝床にして、スリやカッパライで食い繋いで……。とにかく保護って言葉が大嫌いだった。偉そうにそんなこという奴に限って、自分の思い通りにならないことがあるとすぐに手を上げたり、ほっぽり出したりするからな。それで、後はお定まりの転落コースだ。神戸の方うろついてた時に、ヤクザに声かけられて……。知ってんだろ? 向こうを本拠にしてる日本最大の暴力団ってやつだ。十八だって嘘言って、でっかいピラミッド組織のいちばん下に組み込まれた。
居心地は悪くなかったよ。施設の奴らよりは気が合ったし、飯は三度三度食えたし。ただ、仕事がな。どうにも好きになれなかった。特にクスリとか、女売り物にするシノギとかは、まるで動物園だ。猿山の猿の方が、よっぽど理性的だって思ってた。……そんな時、曹長《そうちょう》に会ったんだ」
曹長。保の背後にある組織の正体を仄めかす言葉だったが、それよりとても現代日本の話とは思えない、保の歩んだ少年時代の方が重く桃山にのしかかっていた。保護の代償に、同化と従順を強要したこの国の福祉・教育制度は、拒絶してこぼれ落ちた者になんの受け皿も用意することなく、暴力団がそのフォローを務めた……ということか。過去の封印を解いた保の背中は、桃山の視線に応じず先を続けた。
「本家からも一目おかれてた組員で、でかいフロントの経営任されてた男だったけど、実際は違った。その後、おれが勤めることになる場所から送り込まれたアンダーカバー……潜入捜査員だったんだ。前に、その暴力団が二派に分かれて跡目争いの内戦起こしたこと、あっただろう? その時に送り込まれて以来、ずっと潜り続けてたらしい。驚いたよ。何年も泥沼に伏せて、ヤクザとスパイの二役を続けてたっていうんだからな。並の体力、精神力でできることじゃない。こいつにだけはかなわないって、生まれて初めてそう思った。
そいつに誘われたんだ。自分のいる組織にこないかって。知らない間に観察されてて、おれは適性ありって判断されたらしい。ヤクザにも嫌気が差してたし、ろくに考えもしないでOKしちまった。
そのまま富士山が見える訓練キャンプに連れてかれて、そいつからいろんなこと教わった。鍵の開け閉めから、銃器爆薬の取扱い。効率的な首の骨の折り方。曹長が受け持ってたのはいまでも語り草の厳しいコースで、最後まで脱落しないで残ったのは二十人中二人だけ。おれと、城崎涼子だけだった」
あの目に宿っていたもの――保と涼子、二人の間に沈殿した感情の意味が、わかったような気がした。片や総合職、片や現場要員の道を歩んだ同期の新人工作員。「おれたちがそのコース最後の卒業生になった。曹長は、それからしばらくして死んじまったから……」と続いた保の声が、涼子への共感と反感の根深さも想像させた。
「そうして、おれにはIDナンバーと任務が与えられるようになった。ルールは簡単だ。味方以外はすべて潜在的な敵で、その区別は上の人間……公安委や監視委、委員って名のつく議員たちと、局のトップが膝詰めで決めてくれる。任務は国民の代表によって運営される国家の意思そのものであり、局から出る命令はその実行手段の具体的表現に過ぎない。目的は国民の生命と財産の保護にあるが、国家意思が存在の抹消を決定した場合、その者はすでに国民という単位ではなくなる。排除すべき対象でしかなく、これを掃討する行為は、あらゆる観点から道義的に容認されるものである……。難しく考える必要はなかった。こっちはただ言われた通りのことをやってればいい。なにをやらされても、別にどうってことないと思ったよ。なにしろ相手は国家の敵、人間じゃないんだからな。狭い国で、目をつけられるような真似する方が悪いんだって、そう思ってた。首尾よく仕留めて、褒められればそれで文句はなかった。それまで、他人に褒められた経験なんてなかったから……」
種類こそ違え、そこには神泉教に加わった若者たちと同じ渇きがある。価値観の喪失。希薄な個。桃山の歳にもなればグータラの世捨て人を演じて償却できるが、彼ら若者にはそれができず、結局は組織の一員としての自己に価値を見出してゆくしかなかったのだろう。そしてそれは、都市化の代償として郷土意識を失い、戦勝国から一方的に与えられた「自由」の意味も重さも理解しないまま、ひたすらエゴに走って共通の道徳観念さえ喪失してしまった、この国の根無し草ぶりの証明でもあった。
「葵たちの警護にしたって、そうした任務のひとつに過ぎなかった。外部協力者と、その家族の身辺警護。大きな作戦の主要部門のひとつを任されてる人物で、それを巡って内外の情報部が右往左往してる時だったから、住み込みの護衛兼監視は通例の措置だった。ところがその男、葵の父親ってのが曲者で……。コンピュータに関しちゃ天才的な頭持ってる人だったけど、気さくっていうのかバンカラっていうのか……あんたと同じ、頑固親父の類いだった。一緒にいる間中、なにかっていうと議論ふっかけてくるんだ。君の言う敵とはなんだ。わかりあう努力もしないでなぜ敵と決めつけるのか。君が守っているのは国益という実体のない虚像で、敵とはその運営を任された者たちが、利益の障害になると判断したものに過ぎないんだぞ、って……。あの人自身、それまで排他的な組織で非合法な活動やってたって経歴があるから、その反省の意味も含めた言葉だったんだろう」
リ・テイワ。在日朝総連の活動組織、学習組のメンバー。耳に残る金谷の言葉を、桃山は思い出した。
「最初は無視してたけど、あんまりしつこいんでちょっと言い返したら、ずかずかこっちの中に踏み込んできて……。それからは年中、口喧嘩さ。右と左の意見がそれぞれ陣営を作り、自分たちの主張しか口にしなくなってしまった結果が、現在の紛争だらけの人類世界だ。勇気を出して歩み寄り、わかりあう努力をすることが、我々に課せられた急務のはずだ。偉そうにそんなこと言っておきながら、自分がいちばん頑固なんだからな。組織の中でも異端視されてて、早くに母親亡くした葵は、経済的にかなり苦労させられた様子だった。でも悪い気はしなかったよ。あの人も葵も、おれを番号や階級じゃなく、人間として扱ってくれたんだ。うまく言えないけど……家族みたいなもんだったんじゃないかと思う。今日はなにが食べたいなんて聞かれる生活、それまでしたことなかったからな」
亀戸ビルの洗い場で聞いた葵の話が、その時に作っていたサンドイッチの味と一緒によみがえってきた。美味い料理を食わしておけば、男は稼いだ金と一緒に毎日家に帰ってくる。言った後で陰の差した葵の表情と同じく、保の声も低いものになっていった。
「……それが、半年も経った頃だ。突然、命令が変更された。現行任務は現時点を以て破棄。警護対象者二名は北朝鮮工作員と判明。在日機関と通じ、作戦機密を漏洩《ろうえい》中との疑いあり……ってな。言い掛かりさ。でもその瞬間から、葵たちは人間ではなくなった。倒すべき敵になってしまった。機密漏洩阻止、治安維持要件に基づく緊急対処。……作戦情報を収めたフロッピーディスク回収の後、二人の即時無力化が本部から下命された」
処理でも抹殺でもない、無力化という異質な響きに、肌が粟立つ感じがした。それが拒絶、逃亡を余儀なくされた命令かと思った桃山をよそに、続いた保の言葉は「……おれは任務を了解した」だった。
「相手は人じゃない。敵だ。治安維持の障害になると国から認定された、敵なんだ。障害は取り除く。当たり前、簡単なことだ。そう自分に言い聞かせた。涼子はバックアップを二人寄越してきたけど、そんなものは必要なかった。その晩……おれは、リ・テイワを殺した」
もっとも聞きたくない話、想像したくなかった結末だった。思わず唇を噛み締めた桃山の耳に、保の声はひどく淡々として聞こえた。
「なんの抵抗もなかった。まるで最初からわかってたみたいに、テイワは死を受け入れた。後はフロッピーを回収して、上で寝ている葵を始末すればいい。残った記録を家ごと燃やして、撤収すれば、後処理は他の者がしてくれる。そう思って、他のことは考えないようにして、葵の部屋に行った。でも……」
できなかった。その言葉は、これまでに流された血がすでに物語っている。命令拒絶、バックアップ要員二名を殺害後、逃亡。それまで国家防衛の道具として使われてきた保は、かつての雇用者たちから「敵」と認識されるようになった。人間になってしまったという、ただそれだけの罪で……。
「フロッピーのケースに、メモが挟まってた。『保へ ヨンスンを頼む』って、ただそれだけ。あの人は、最初からなにもかもわかっていたんだ。その言葉が、おれの新しい任務になった。葵を守る。そのために、残りの命を使う、って……」
そう言って、保はわずかに顔を上に向けた。受令する兵士が姿勢を正すように。そこにリ・テイワがいて、うつむいた自分の顔を見せまいとするかのように。破滅的なまでの一途さは、贖罪《しょくざい》の意識に裏打ちされたものだったとわかり、桃山は体全部をその背中に向けた。
償いきれない罪悪感のたどり着くところは、自己の破壊、自滅願望に他ならない。「葵は、それを知らない」という言葉が保の口からこぼれ落ち、桃山の暗い予感に追い打ちをかけた。
「父親を殺した奴と一緒に逃げ回ってるなんて……。おれには、あいつに触れる資格なんてないんだ。だからせめて、この体が粉々になるまで……」
「バカ言ってんじゃねえっ!」耐えきれずに出した大声が、かすれた。つかんだ肩を引き寄せて、桃山は保の顔を真正面に捉えた。
「あの娘は知ってるぞ。みんな納得ずくで、それでもおまえにくっついてるんだ。ひとり勝手にぐじぐじ悩んで、自殺みたいな真似はすんな!」父がどんな死に方をしたのだとしても……と言った時の葵の表情が、肩をつかむ手の力を強くさせた。「安い命なんてないんだ。おまえはもう独りじゃないんだぞ……!」
まっすぐに見返した瞳が揺れ、かすかに浮き出た滲みを伏せると、保は再び顔をうつむけた。独りじゃない。独りは辛い。独りでは生きることも死ぬこともできない。それは切なすぎる。手を放し、膝に両手をついた桃山の前で、保も湿気と埃を吸った畳から目を上げようとしなかった。
饐《す》えた沈黙の間が降り、ふとこの雨の中、保を待っているはずの葵の姿が胸を刺した。早く行ってやれ、と口を開きかけた桃山は、脇に置いたブルゾンの懐からコンビニの袋を取り出した保に止められた。
「よくわからないけど、いつものよりは高級品だと思う」
リザーブのラベルを袋ごしに確かめて、ため息が出る思いだった。「金ないくせに、無理すんなよ」と受け取った桃山は、袋の中に潜んだボトル以外の異物感に、ひやりとなった。
「初めて、他人に命を預ける」
立ち上がり、袖を通したブルゾンの懐に、グロック銃のグリップがちらりと見えた。見上げた桃山に、保は「取りにくる奴がいたら、抵抗しないですぐに渡せ」と付け加えた。
「そうすれば、連中もニフティサーブも知らないあんたに手を出しはしない。ただそれまでの間、預かっていてほしい」
袋の中から正方形のフロッピーケースを取り出し、桃山は「わかった」と答えた。ラベルシールも貼ってない、クリーム色の2HDフロッピーディスク。この中に〈アポクリファ〉が眠っている。国内非公開情報組織が、北系在日を取り込んで作成した作戦計画書。力を入れれば砕けてしまいそうな薄っぺらなプラスチック板を握り、桃山はもういちど保の顔を見上げた。傷ついた羽を癒し終えて、その顔にはいつもの退かない力強さが戻っているように見えた。
「……頼む」
それを精一杯の感謝の言葉にして、保は部屋を出ていった。鉄階段を下りてゆく足音が小さくなり、聞こえなくなると、強くなった雨と風の音が残された。
それから、一週間と少し。五月《さつき》晴れの平穏の中、桃山は明けの体を横浜へ運ぶことになった。
平日の午後、京浜東北線の車内は、外回りの背広や、カルチャースクールの友達とお出かけといった風情の主婦連が席を埋めている時で、その頭上では、週刊誌の扇情的なコピーを記した中吊り広告が、扇風機の風に揺れていた。
「新宿・舟木会ビル爆破の謎、徹底追及」「都内暴力団厳戒態勢?」「他組織のヒットマンか、松代組長個人に対する怨恨か 定まらない犯人像」などなど。抗争の気配がないとわかると、新聞は三日で事件のフォローをやめたから、後は彼らの出番というわけだ。もっとも口を閉ざした舟木会と、「適当にやって解散」するよう因果を含められた捜査本部、下手に動けば大火傷しかねない公安が取材源では、あまり気のきいた謎の解明は期待できそうにない。来週には、また別の謀略事件が誌面を賑わすことになるのだろう。
桜木町駅で降り、ホームで少しぷらぷらしてから、列の最後尾について改札を抜ける。目につくのは勝手に学校を切り上げてきたらしい女子高生のだぶだぶ靴下ばかりで、相変わらず監視・尾行の影はない。フロッピーを預かった件が露見しているなら、もう周囲になんらかの手がのびていてしかるべきだから、なにもないのはまだ知られていない証拠……と、桃山は信じるようにした。
泳がされていると考えた方が現実的なのはわかっているが、それよりも、涼子が約束した通り自分は本当にノーマークにされていて、保たちも無事だと考えた方が精神衛生にはよい。見えない不安にびくびくするなら、楽天家でいた方がマシと思い、桃山は後は振り返らずに目的の場所へと向かった。
もとより観光都市としての基盤を備えていた横浜は、そのほとんどが打ち捨てられ、無残な残骸を晒している臨海都市計画を、おおむね予定通り消化することができた希有《けう》な街だ。
これで透明チューブの中をタイヤのない車が走っていれば、二昔前の未来世界の想像図そのままと見えるみなとみらい21地区に向かい、桃山はそのシンボルとされる日本一ののっぽビル、ランドマークタワーに昇った。指定されたラウンジで、商用船が行き交う海を眺めながら待つこと十五分。約束の時間より五分ほど遅れて、待ち人は現れた。
「ごめんなさい、呼び出した方が遅刻しちゃって」
ブランド物のハンドバッグを下ろすと、中島《なかじま》明子《あきこ》はややぎこちない笑みを浮かべて桃山の前に座った。三年前までは同じ姓を名乗っていた彼女から、呼び出しの電話があったのは一昨日の晩のこと。「ちょっと相談がある」と言って、待ち合わせの場所にこんなオシャレな場所を選んだのは、いまの旦那が保土《ほど》ヶ谷《や》に建売の一戸建てを買ったからで、ローン返済の一助に、明子もこの近くの会社で事務手伝いをしているのだと言う。他人様の女房になりきった感のあるかつての妻の顔に、桃山は「かまわねえさ」と応じた。
こうして中流上の暮らしが板についた明子を見ると、もともと官舎暮らしなどさせてはいけなかった女だったのだ、とあらためて思う。まったく女っ気なしのまま三十代半ばに達した桃山に、明子との縁談を持ってきたのは同じ四課の管理官で、彼は明子の父親でもあった。その年に退官、パチンコチェーンの役員に天下りを決めていた管理官にとって、桃山との縁組は出戻り娘の再就職と、警察内にパイプを残す二つの意味が込められていたのだが、結局それは潰《つい》え、明子にも二度目の辛酸を舐《な》めさせる結果になってしまった。
性格……というよりは世界の違い。週の半分も家の布団で寝ない、すれ違いの生活。あげつらえば切りがないが、最大の原因は、生活という言葉の意味を履き違え、仕事に向ける情熱の十分の一も家庭に向けなかった、桃山自身の粗忽さにある。離婚の起爆剤になったのは、そうして燃え尽きた末にしたためた退官届だったが、それ以前から明子に別の男の影があることは察していた。
別れると口にした妻に、桃山は「いい人なのか」とだけ尋ね、明子は、「裕子に大きな可能性と選択肢を与えてくれる人です」とだけ答えた。五年に満たない結婚生活が唯一残したひと粒種は当時三歳になったばかりで、なにかと金がかかり始める時に、自分の都合で勤めを放り投げてしまった男に、父親を続ける権利がないこともわかっていた。その会話を最後に夫婦の時間は終わり、桃山は明子の雇った弁護士に言われるまま、いく枚かの書類に署名|捺印《なついん》をして、ひとり平井のアパートに移り住んだのだった。
それから三年。もともとさっぱりした気性の明子は、わだかまりもあらかた清算した様子で、近郊ベッドタウンの奥様然とした化粧顔に、昔の友達にでも向けるような笑みを浮かべている。コーヒーを注文した彼女の目尻に新しい皺《しわ》を見つけた桃山は、「新居の住み心地はどうだい?」と言って、何本目かのタバコに火をつけた。
「山の斜面削って作ったようなとこでしょう? 毎日坂の上り下りで、もううんざり。でも裕子は喜んでるわ。時々庭に狸《たぬき》が入ってきてね。餌付《えづ》けするんだって、夕方になると張り込んでる」
へえと笑ってから、ふと来年小学校に上がる娘の、抱き上げた時に嗅いだ乳臭い匂いが桃山の鼻をくすぐった。日頃は忘れていても、同じ年頃の子供を見かけると、いますぐ飛んでいって会いたい衝動に駆られる時がある。権利は認められているのだが、物心つく前に別れた父親のこと、新しい家庭に馴染んだ娘を混乱させるのはよくないと、誕生日とクリスマスにプレゼントを郵送し、「サンタさん」と紹介されて電話で話す以外、いっさい接触を絶っていた。霞んだ水平線に目をやり、ひどく遠くまできてしまった感慨をタバコの煙でごまかした桃山は、「顔色いいのね」と言った明子の声に虚をつかれた。
「なんだか、この間より若返ったみたい」
「なんだ、よせよ。いまさらおだてたってなにも出ないぜ」
「本当よ。もしかしていい人でも見つかった?」
「バカ言え。きょうび、おれなんかに引っかかる酔狂な女もいねえよ」
憎まれ口を返しながらも、悪い気分ではなかった。人生なんて、実に簡単なことで根本から変えられてしまう。この数週間の出来事がもたらした心境の変化など伝えようもなく、くすぐったい思いに駆られて窓外に目を逃がした桃山は、今度は明子から転機となるべき話を持ちかけられた。
「鳥取の民宿?」
「そう。姉の嫁ぎ先、向こうじゃ結構、名の通った資産家だって知ってるでしょ? そこの三男坊が急死してね、半分趣味で経営してた民宿を、居抜きで引き継いでくれないかって話なの。お金なんかは別にいらないわ。ただ向こうさんのメンツってものがあるから、潰さないよう切り盛りしてくれればそれでいいって。……あなたのこと話したら、先方さんも乗り気でね。警視庁に勤めてた人なら信用できるって、すっかり……」
それが、明子が自分を呼び出した用件だった。いい話には違いなかったが、まったく未知の土地で、このおれが民宿の親父とは。桃山は、「冗談じゃない」と明子を遮っていた。
「民宿の経営なんてまるでチンプンカンプンだ。無理だよ」
「でも、いつまでも警備の仕事してるわけにもいかないでしょう? お節介だとは思うけど、私、あなたにもなんとかなってもらいたいのよ。いつか裕子が大きくなって、自分の本当の父親に興味を持った時、がっかりさせるようなことだけはしたくないの」
それを言われれば返す言葉もなく、桃山は再び窓の外に目のやり場を求めた。突然目の前に広がった、まったく別の展望に沸き立つものを感じないでもなかったが、なにもかも捨てて別天地に向かうには、いまの生活はあまりにも重すぎる。三週間前までは存在もしなかった重み、まだなにひとつ解決していない重みが、ここには残っている。
「いい人がいるなら、もちろん一緒に行ったってかまわないのよ?」と続けた明子に、桃山は「いや。そういうことじゃねえんだ」と答えていた。
「ただ……ただな。いまはダメなんだ」
穏やかな海面に顔を向けた桃山を、明子はしばらくの間見つめていたが、他人になってしまった自分には立ち入れない事情を察したのか、「……そう」とため息混じりの声を紡いだ。それ以上深追いすることはせず、「考えておいて」と結んで席を立った。
誘った方が奢《おご》る、と言ってきかない明子から強引に伝票を奪い取った後、情報雑誌から抜け出て来たようなカップルのひしめく地上に下り、夕飯の買い物をしていくという元女房を駅の改札で見送った。そのままキップを買おうとした桃山は、街全体が遊園地さながら浮世離れしている臨海都市の光景に、ちょっとぶらついてみようかという気分になった。
警官時代にあれほど渇望した余暇も、腐るほど与えられれば本当に腐らせてしまうもので、自由を満喫するには、その何倍もの不自由が必要不可欠であるとわかるのに、多くの時間はかからなかった。漫然と流れる日々の中、同じトーンでくり返される退屈の虜《とりこ》になっていた体が、いまはひどく身軽に感じられることを自分の胸の中にだけ確かめて、桃山はどこに行ってもかまわない自由な足をアベックの列の中に紛れ込ませた。
洋服店や小物雑貨店が並ぶ元町のアーケード、マリンタワーが見下ろす山下公園。恋人同士の蜜月期間を過ごすには最適のロケーションも、四十過ぎのむくつけき分別盛りの男にとっては、それほど楽しい場所ではない。さっさと通過して中華街で食事でもと思ったが、過去に数度訪れただけの港町は迷路に等しく、あてどなく歩き回っているうちに、団地や建売住宅が建ち並ぶ住宅地に迷い込んでしまった。住居地図に小港町《こみなとちょう》の地名を確かめ、中華街を通り越して、二キロ近く無駄歩きしてしまった事実に歯噛みした桃山は、同じ道をたどって帰るのも悔しいので、山手町をつっきって斜めに中華街を目指すことにした。
名前に相応しく、切り開いた山の起伏に沿って住宅や学校が並ぶ一帯は、とにかく坂が多い。うんざりと言った明子の言葉が実感され、すぐに後悔する羽目になったが、ギブアップしようにも、閑静な住宅地ではタクシーが通りかかるのも絶望的だった。初夏の予兆を示し始めた太陽にジャケットもはぎ取られ、ひいふう坂の上り下りをくり返して小一時間。女子校や寺社の集中する一帯に出た桃山は、緑に覆われた高台の上の寺から、長い石階段を降りてくる人影に気づいて、ぎょっと足を止めた。
ハンドバッグを片手に、やや顔を伏せて階段を降りてきた城崎涼子は、まったくこちらの視線に気づいていないようだった。別の世界を漂っていた目は、最後の踊り場に差しかかったところでこちらのそれと合い、初めて見せる驚き顔が、ブラウスにスカートの清楚《せいそ》な姿とあいまって、桃山をはっとさせた。
かすかに開けてしまった唇をあわてて閉じ、涼子は冷たい無表情を装う。無防備な自分を晒したいら立ちが頬の端に浮かんでおり、これも演技というなら、もう二度と女とは口をききたくないと桃山は思った。石階段の上と下で微動だにせず立ち尽くした数秒の後、涼子は努めてそうするようにゆっくり階段を下り、ポケットに手を突っ込んで見上げている桃山に、「偶然です」と口を開いた。
「別に尾《つ》けていたわけではなくて、その……」
「信じるよ。尾行途中にツラ晒すほど、あんたが間抜けなわけねえもんな」
もっとも、またなにか吹き込んで伝書鳩に使おうというのなら話は別だが。そう続けようと思ったが、むきになった後で言い澱んだ涼子の顔には、皮肉も警戒も向ける気分になれなかった。バッグのベルトを握った手が、唇と同じく固く結ばれているのを見た桃山は、彼女もぎりぎり張り詰めているんだなと、ふと反感以外の感情がわき起こるのを感じた。
「墓参りかい?」
「……ええ。あなたは?」
「別に。散歩ってとこさ」答えてから、保たちの捜索状況を聞き出したい衝動が頭をもたげたが、この場でそれをするのはルール違反だとわかっていた。くだらないゲームの規則ではない、人と人がつきあってゆくために、最低維持しなければならないルール。涼子にとっても、この間題はビジネスの範疇《はんちゅう》では捌《さば》ききれないことなのだろうと、先日の保の話から当たりをつけてもいる。さらりと肩に落ちた髪に、いつかと同じラベンダーの香りを嗅いだ桃山は、「じゃあな」と棒立ちの涼子に背を向けた。
突き立っていた視線は、数歩進んだところで逸らされ、彼女も反対側の道をたどり始めた気配が背中に伝わった。その肩に漂わせた身近な空気を確かめたくなり、もういちど振り返った桃山は、同じタイミングで振り返った涼子と視線を交わす羽目になった。
五メートルほどの距離を空けて、なにを言っていいのかわからない顔を見合わせた。「あのよ……」と桃山が言ったのと、「あの……」と涼子が口にしたのは、同時だった。
「……よろしければ、お茶でもいかがですか? ご一緒に」
完全にこちらに向き直った涼子がそう続け、それはこっちのセリフだと思った時には、照れ隠しの悪癖が口を動かしていた。「今度はなにを企んでんだよ」と苦笑混じりに吐き出した桃山は、「別に、なにも」と言った真っ正直な涼子の目と声に、叱られたような気分を味わった。
「いけませんか? 私が誘っては」
その目に熱が灯ったのも一瞬、涼子は背を向けていた。二人の距離がさらに数メートル空いてしまったところで、桃山は縮める足を踏み出していた。
どうしてそんなことを言ってしまったのか、よくわからなかった。気がつくと、涼子は元町の喫茶店で桃山と向かい合っていた。
三週間前、突然事件の中核に首を突っ込み始めた元マル暴刑事は、洒落《しゃれ》ている分、華奢な作りの椅子に浅く座り、巨体をすぼめて小さなコーヒーカップを口に近づけている。漫画のクマと向き合っているようで、涼子はつい緩めてしまいそうになる唇を、窓に向けてごまかしていた。
見てきたものも、感じてきたものもまったく異なる。なんの接点もない、異性として捉える範囲にすらいないはずの男。それなのに、交わした言葉のいくつかが胸に残り、わだかまっていた。
『あいつらは子供で、おれは大人だ』
『おれやあんたと同じ、生身の人間だよ』
そんなふうに臆面もなく正論を口にし、自分を一個の人間として扱う男を、涼子は知らなかった。正論などは各自が胸の中で了解していればいいことで、口に出して言うのは頭の悪い証明。無力な女ではなく、同格の仲間として扱われることを一義にしてきたのに、ひどく動揺させられたのを覚えている。隙間に響いたのかもしれない。増村保への感情を整理できずにいる隙間。口にしない間に、頭の片隅にもなくなってしまった正論と、それを当たり前にしすぎた周囲の空気。そうしたものが染み込み、心の中に作り出した大きな隙間に……。
「生まれ、こっちの方なのかい?」
自分と同じく、視線を窓に逃がしている桃山が言った。家の墓があそこにあるなら……と続いた声に、涼子は二つ分のいいえを返した。「じゃ誰の墓だい?」という遠慮のない質問が、ごついが、よくよく見れば繊細そうな目を埋め込んだ顔から発していた。
即答できずにいると、「ひょっとして、死んだ恋人の墓だったりしてな」と冗談めかした言葉がかけられて、涼子はますますなにも言えなくなってしまった。うつむいた途端、「まさか、本当にそうなのか?」とあわてた桃山がこちらを覗き込んできて、涼子は我慢できずに小さく笑っていた。
「いえ。……そうなれればと思っていた人です」
言う必要のないことだと思ったが、不思議と後悔はなかった。「そうか、そりゃあ……」と顎を引き、悪かったという言葉をコーヒーと一緒に飲み込んだらしい桃山は、しばらくしてから遠慮がちの目を上げた。
「もしかして、曹長って人かい?」
口に近づけかけたカップを止め、涼子は桃山の顔を見返した。どうして……という驚きは、増村保が心を開いた相手という情報によって消化され、それよりも、考えるより先に口や手が動くこの男の無防備な目が、常設しているこちらのバリケードを易々と突破してしまう驚きの方が、それを不快に感じていない自分への戸惑いとともに重く響いていた。無言を答にした涼子は、曹長と呼ばれていた男の記憶を、コーヒーの表面に映えた自分の目の中に追った。
自分が入局するはるか以前から、関西の広域暴力団に浸透していた男。墓碑に記された沼崎《ぬまざき》隆二《りゅうじ》という名前さえ、本名であるのか定かではない。企業間闘争の調整役、共産勢力に対する牽制役として、保守の庇護下で肥大していった暴力団は、五五年体制のシステム確立と、党人派に代わる官僚派議員の台頭後は、淘汰《とうた》の対象でしかなくなった。四代目を戴《いただ》く主流派と、認めずに組を割った反主流派の跡目争いの内戦に乗じ、組織そのものの壊滅作戦が企図されたことが、彼を単身、反主流勢力の中枢に潜り込ませる結果になった。
内戦を煽動《せんどう》し、主流の頭を潰して反主流に主導権を握らせた後、しばらくは生まれ変わった直後の脆弱《ぜいじゃく》さを残すだろう組織を一気に殲滅《せんめつ》する作戦。だがそれは、主流の頭目である四代目総長暗殺の際、同行していた若頭と、その補佐も一緒に殺害されるというハプニングのために、無残な結末を迎えた。一時に頭全部を失ってしまった主流派は、徹底的な報復攻撃を反主流派に対して仕掛け始めたのだ。
頭目の四代目を失ったことから始まるはずだった混乱と弱体は、誰が五代目になってもおかしくない空気の中で手柄争いの猛攻勢に取って代わり、反主流派はたちまち陥落した。なりふりかまわぬ抗争は、組関係者のみならず市民の流血をも招き、それはすべて殲滅作戦を企図した局と、作戦を認可した国家公安委員会、情報活動監視委員会の汚名にもなった。清算の嵐は、上の者には異動や降格といった形になって現れ、現場要員には直接的な生命の危機となって吹き荒れた。
マスコミにも大きく取り上げられた四代目の死の謎――彼の命を奪った弾丸の線状痕《せんじょうこん》は、直後に逮捕された実行犯たちの使用した銃器のそれとは一致しなかった――、すなわち魔法の弾丸≠フ引き金を直接引いた者として、沼崎も退路を断たれた。内外の目から隔離され、組内部に潜入して情報を送り続ける道しか、彼には残されていなかった。
文句を言うでもなく、残る人生をヤクザとスパイの二足の草鞋《わらじ》で歩き続けた男は、メンタルチェックのたびに後進の育成にキャンプで教鞭《きょうべん》をとる以外、ほとんどの局員にとって忘れ去られた伝説でしかなかった。国立大学卒業後、上級国家公務員試験合格者として防衛庁の門を叩いた涼子は、適性を見出され、送り込まれた富士の裾野の一角で、彼と出会った。そして怜悧、有能でありながら、致命的に純粋なその人柄に触れ、彼の歩いてきた苛酷な道を知るうちに、上官としてではなく、男という性として彼を捉えている自分に気づいた。
およそ経験した覚えのない感情だった。早くに両親を亡くし、預けられた親戚の家で、「言うことをきかないと、孤児院にやっちゃうよ」という言葉に怯え続ける子供時代を送った涼子にとって、同年代の男は端から眼中になかったし、恋愛という言葉自体、無縁の膜の向こうで朧にかすんでいた。それよりも力が欲しいという欲求が、過去から現在に至るまでの涼子を貫いてきた。
息苦しい思いが常態の子供時代は、他者の存在を排斥し、痛みを機械的に処理する術を身につけさせた。なぜ怒られるのか、なぜ息苦しいのか、深く考える必要はない。それが親を亡くした子供をどれほど傷つけるか考えもせず、「捨てる」を叱責の常套句《じょうとうく》にしていた叔母たちの言葉に、学ぶべきものはない。ただ平身低頭してやり過ごしておけばいい。なぜ世界はこうも理不尽なのかと悩む間に、理不尽から抜け出す方法を考えるのが先決――。そうしていつでもぎりぎり張り詰め、ろくに友達も作らずに勉強に励んだ少女は、弱肉強食の単純な論理が支配する特殊な部署にたどり着いた。情実も、そこから派生する無能も存在を許されない環境で、初めて聞くに値する言葉を投げかけてくれた男と出会い、彼に恋をした。
すべてを機械的に処理してきた心に、前代未聞の動揺が訪れた。呻吟《しんぎん》の末、他者の肌合いを拒絶してきた体が取った行動は、ひたすら訓練に打ち込み、自分の存在をアピールするというものだった。結果、実技では増村保に後《おく》れを取ることがあったものの、ほとんどは一番の成績を修めて訓練課程を修了した涼子は、局長をして「希《まれ》に見る大器」と言わしめるまでになった。が、その評価を待たずに、沼崎隆二は死んでしまったのだった。
詳細は、いまだに明らかにされていない。ただ潜入先で幹部組員の手によって刺殺され、裁断された遺体は海に捨てられたという経緯の裏側には、彼を売った局と、そうさせた委員会の政治的謀議があったとする説が一般的だった。
別にめずらしいことではなかった。すべての決定は間接民主主義社会の総意であり、党の派閥間調整の思惑が潜んでいようが、政府・企業の利害の共通分母が見え隠れしようが、「国家の意思」に従うのが局の役目。そこに参画した者には、無条件で従属する義務が発生する。その結果、沼崎は死ななければならなかった。彼は自ら選んだ道の果てにある責任を従容《しょうよう》と受け入れたのだと、涼子は信じるように努めた。犠牲の上であぐらをかいている人間たちの存在があっても、個人の美徳がなにひとつ反映されない国政に絶望させられても、関係ない。それが力を持ったことの代償だと自分に言い聞かせ、その後、泣いた。
涙が止まらなかった。自分はいまだ無力で、昔と変わらない理不尽のただ中にいるのだとつくづく思い知った。どんなに強くなっても、なにひとつ変えられはしない。自分で自分の運命を裁量することもできない。絶望に囚《とら》われ始めた自らを、沼崎の能力がそのまま移植された保と走り続けることで慰め、目覚めてしまった女を、やはり沼崎と似た匂いを持っていると思えた佐久間に託して、心の隙間をなんとか埋めてきた。しかし保は、そんな感情の澱みを嫌って自分と距離を置くようになり、佐久間も、沼崎の代わりにはなり得なかった。
包容力があるようでいて、どこか独善的な佐久間は、たとえば一緒に寝た時にも、行為のある一点から向こうは自分の都合を優先させるところがある。求めるだけで、与えることを知らない男。それでも傷を舐めあうように同衾《どうきん》を続けて、現在の激動に身を浸けさせる結果に……。
じっとこちらを見つめる桃山の視線が、内省の時間を終わりにさせた。すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み、取り繕った涼子は、「……あのさ」と言いながら目を外した桃山に、顔を向け直した。
「あんたの前に、川が流れてんだよ。その深さはどれぐらいか。1、足首まで。2、膝まで。3……ええと、腰まで。4、肩まで」
「なんです、それ」
「いいから答えなよ」
頬杖《ほおづえ》をつき、こヤと笑った桃山の顔に、以前流行った心理テストの類いかと思いついた。
少し考えてから、涼子は「さあ。……肩までかしら」と思った通りを口にした。
呆けたような桃山の顔は、すぐに低い笑い声に包まれ、やがて膝を叩いての大笑いに変わっていった。いったいなんだと呆れ、少し腹を立ててから、その開け広げな態度に涼子もつられて笑ってしまった。
声を立てて笑うなど、数年ぶりのことだった。ひとつ息苦しさが取り払われたようで、すっきりした。
割り勘の勘定を済ませて店を出た後、「あの、そっちに予定がなけりゃよ……」と、逡巡の末というふうな桃山の声がかけられた。夕食を一緒に、という誘いだった。女の身には、お茶と夕食の間にある距離は長くて遠いもののはずだったが、涼子は桃山の申し出を受け入れた。この後、ひとりのマンションでなにも入っていない冷蔵庫にため息をつくなら、このクマのぬいぐるみを相手に外食するのも悪くないと、軽い気持ちのつもりだった。
相手の懐事情は、調べがついている。割り勘にしても負担の少ないところの方がいいと思い、中華街の中でも質素な店に入ろうとしたが、「どうせ来たからには、これぞ横浜中華街って店に人らにゃ」という桃山に背中を押されて、看板に竜が躍る指折りの高級店に入ることになった。
世間に背を向け、逼塞《ひっそく》している男が、そんなふうにちょっとした言葉や仕種の端々に余裕を漂わせているのが、不思議だった。あれこれ注文し、せっせと小皿に取り分けてくれる桃山に、警官時代の四方山話や、生真面目な同僚警備員の笑い話などを聞かされ、こちらは父親に食事に連れてきてもらった娘よろしく、ただ笑うことと食べることに口を動かしていればいい時間になった。「誘ったもんが奢る」と言い張ってきかない桃山に、五|桁《けた》に達した勘定も払われてしまい、涼子は少し迷いながらも、「軽く一杯」をお返しに奢らせてもらうことを承知させた。
車で桜木町に向かい、ランドマークタワーのラウンジへ。まるでフルコースのデートだと思ったが、「また戻っちまった」と苦笑した桃山に、ふと彼の背負ったものを見せられたような気がした。
数時間前、同じこの店で別れた細君と向き合っていたのだと言う。離婚の事実は報告書で読んでいたが、当人から直接聞かされる重みはまた別のもので、暗い海面に映えるベイブリッジの灯を見下ろしながら、涼子もいつしか自分の事情を話し始めていた。
誰にもしたことのない話を、初対面に近い男にしている自分が信じられなかったが、初めて感じる安息感の心地好さに、つい喋らされてしまった。核心に触れる部分は濁し、固有名詞も伏せた少ない言葉になったが、桃山はことの本質を見抜いたようだった。
「なるほどね。教官が初恋の相手、か」と言って、桃山は闇を縁どる沿岸のきらめきに目をやる。クマのぬいぐるみでも父親でもない、男そのものの横顔に、涼子も視線をそちらに向けた。
「あんた、保にその男を重ねてんだな。だから試してんだ。いろいろ罠仕掛けて、あいつが切り抜けられるかどうか。なんたって、教官が避した最高傑作だもんな。どんな状況に置かれても、生き延びてくれるって信じてる。そうして奴を戦い続けさせて、それを見ることで、あんた自身なにかを振り切ろうとしてるんだ」
自分でも開けたことのない胸の奥の扉を、遠慮なく叩く声だった。動揺をソルティドッグのグラスを握る指に隠して、涼子は「けっこう分析好きなんですね」と皮肉を返した。水割りを舐めた桃山は、「おれにも覚えがあるからよ」と微笑を見せた。
「でも、な。他人に自分を任せちまうってのはよくねえ。疲れるばっかりで、いつか空っぽの自分と向き合わされることになる。そん時になって、初めてわかるんだ。自分を救えるのは自分だけだってな」
またひとつ、わだかまる言葉だった。「柄じゃねえな」と肩をすくめた桃山に止められて、涼子は深い穴の一歩手前で足踏みをした。
急に近づきすぎてしまった距離に、互いに戸惑いを感じ始めていたのかもしれない。車で送るという申し出を、「あんたも保とおんなじ訓練受けてるんだろうが、女の飲酒運転に変わりはねえ。同乗する勇気はないね」と断り、電車で帰ると言った桃山を送って、涼子もライトアップされた帆船〈日本丸〉の前を通って桜木町駅に向かった。始終ポケットに手を突っ込み、がに股で歩き続けた桃山は、この時も同じ格好で歩きタバコを吹かしていた。
「悪かったな。せっかくの休みを、オジンにつきあわせちまって」
「いえ、楽しかったです。本当に」
デリケートな局面に首を突っ込み始めた危険人物。潜在的な敵と言って差し支えない男。そして、自分を笑わせ、他の誰も与えてくれなかったなにかを、そっと手渡してくれた人。ひどく心地よかった半日を振り返り、どう動くかわからない明日以降の事態も見つめた涼子は、線を引く言葉を出しておくべきと考えて、「桃山さん」と、数歩前をゆく大きな背中に呼びかけた。
無防備な桃山の顔がこちらを見る。しばらくその目を見返してから、涼子は「……あの、また会えますか?」と言ってしまっていた。
バカ。自分の甘さ加減に絶望する一方で、答を待つ涼子の脈拍は上がっていた。きょとんとした表情になった桃山は、鼻の下をこすりつつ、「仕事抜きだったら、いつでも」と答えた。
「暇ができたらよ、連絡してくれ。すぐ飛んでくから」
真っ赤になった顔を背けると、「電話番号、知ってるよな」と付け加えて、桃山は駅に向かっていった。動く歩道の手前でいちど振り返り、「またな」と手を上げて、丸い背中が大股で離れていった。
それまであった風よけがなくなってしまったようで、奇妙な肌寒さを覚えた。
「……また」と呟き返した言葉の温もりを抱いて、涼子も駐車場に戻る道をたどった。
その週の土曜日。壁の塗り替え工事が行われるアリランス亀戸の警備室には、桃山と苅谷の警備員コンビの他に、関田と村本が様子見の顔を出していた。床にビニール、壁に足場の廊下を行き来する塗装会社の制服姿を前に、受付窓口でニタニタしている桃山は、立ちこめる塗料のシンナー臭にラリっているわけではなかった。
城崎涼子から、本当に電話が掛かってきたのだ。この前の礼を言った後、「再来週の日曜日、休みが取れそうなので……」と思いきったように口にした彼女は、先に続く言葉を用意していなかったか、忘れてしまったかのどちらかで、いずれにせよ、それぐらい緊張していたことに間違いはなかった。
いくらなんでも話がうますぎる。なにを言っても相手は保たちの命を狙っている組織の一員、罠かもしれないと叫ぶ理性は、いや、彼女とはわかりあえたんだという思い込みに押し流され、桃山はその場で再会を決断してしまっていた。
心のどこかがふれあい、立場も年齢も越えて新しいなにかが生まれた。彼女と一緒にいると、胸の中でもやもやしていたものが明確な言葉になり、自分を一歩先に進ませてくれるような気がする。気負わずに、自分を示してゆくことができると思う。中学生さながらのぎこちない会話の末、再びランドマークタワーの麓《ふもと》で会おうと約束した桃山は、それまでは一億総中流意識の権化《ごんげ》と蔑視していたミッキーマウスが表紙の情報雑誌などを眺め、デートコースを検討するという、至福の時間に身を委ねることを許されたのだった。
無縁としか感じられなかったものが馴染める肌合いを帯び、腹立たしかったことの数々が気にならなくなる。苅谷や関田の間抜け面までが愛しく見えてくるのだから、人の主観などいい加減なものだった。
「この間、喧嘩で顔腫らしてきた時あったでしょう? あの時、頭打ったんじゃないかと思うんですよ」「いちど医者に連れてった方がいいのかもねえ」と、衝立の向こうから聞こえてくる苅谷と村本の声も、「くじけるなよ」と近所の喫茶店のコーヒー券を握らせ、ため息顔を背けていった関田の憐れみ溢れる目も、いまの桃山にはまったく気にならない。保たちの行く末も含めて、世界にはまだいくらでも救われる余地が残っているのだと、無責任な思い込みが大手を振っていられる時が流れていた。
塗り替え作業は順調に進んだらしく、関田と村本が帰途についた五時前には、予定通り、一階から三階までの内装を終えた業者たちも撤収の準備を始めた。ひとつのびをして、昨晩から詰めていた席を立とうとした桃山は、鳴り出した外線の電話にそれを止められた。
「はい、亀戸警備室」と応じた声も、我ながら愛想がいいと自覚する。が、受話器の奥から聞こえてきた声が、薔薇色だった桃山の世界を一瞬に凍りつかせていた。
「桃山さん。落ち着いて、わたしの言うことを聞いてください」
「金……」谷、と続くはずの声を呑み込み、桃山は無意識に受話器を握りしめた。胃がきゅっとすぼまり、百ものなぜ≠ェ頭を占拠するまでに、「斜め前を見てください」と低い声が続けた。
窓口に面した廊下、解体途中の足場の前に、少年と見える細い背中の作業員が立っていた。オレンジの繋ぎ姿がちらとこちらを振り返り、池袋のバーにいた時と同じ、猫科の目が桃山を射た。
美希だ。「桃山さんの作業着も用意してあります」と続いた声を聞きながら、桃山は化粧気のない美希の顔から視線を外した。
「勤務が終わったら、それに着替えて美希たちと一緒にトラックに乗ってください。わたしのいる所までご案内します」
この業者、全員が金谷の手の者? 唐突に異世界に放り込まれ、指の先まで硬直した桃山を尻目に、美希はビニールシートの束を抱えて視界から消えた。監視の目をまき、自分を連れ出すための算段が万全に整っている。じたばたしても始まらないと判断した桃山は「わかった」とだけ答えた。
「ありがとうございます」の応答を最後に電話は切れた。例によって夕食のラーメンを啜っている苅谷に、「じゃ、そろそろ上がるわ」と告げ、ひとり浮かれていた至福の時間にも別れを告げた桃山は、言われた通りの行動を取るため警備室を後にした。
相変わらず無口な美希の案内で作業着に着替え、退出する業者の列に混じってビル前に停車したワゴンに乗り込む。隣に座った男の左脇が奇妙に膨らんでいるのに気づき、彼らがそれなり以上の覚悟で自分を連れ出しにきたことも了解した桃山は、渡された目隠しをきつく縛った。後はなにも記憶しないように努めて、死んだはずの男との対面に備えた。
「……餌にされたミミズがね、食いつきかけた魚と共謀して、釣り人を欺《あざむ》いてやったってわけです」
一時しのぎですがねと付け加えて、金谷は日光を忘れた青白い顔に微笑の皺を刻んだ。京葉道路に出て、錦糸町の喧噪を背にしつつ四ツ目通りに折れたところまでは覚えているが、そこから先はどこをどう移動したのかわからない。暗闇の中で二時間車に揺られ続けた桃山は、どことも知れない建物の一室、おそらくは地下室で、金谷本人と再会していた。
実際、至って簡単なトリックだった。新宿のビルで松代組長と一緒に粉々になったのは、金谷の潜伏するマンションを襲い、返り討ちにされた赤坂の常雇いなのだと言う。新宿のビルを襲撃する直前、不意に接触してきた保と示しあわせた金谷は、その遺体を使って自らの死を偽装したのだ。
「親父、てめえが助かりたい一心で、わたしのヤサをあっちこっちで吹聴《ふいちょう》して回ってたんだそうです。……最後の最後まで、ケジメのつけ方を知らない人だった」と重ねた金谷は、それでも自分の信条を裏切ってしまった呵責《かしゃく》を感じているのか、太いため息をついて目を伏せた。変わらない不器用さに再会できた喜びと、また一杯食わされた恨みの両方を抱いて、桃山は簡易椅子に座る金谷を見下ろした。
保め、なんのかんの言いながら、「金谷と協力して……」と言ったこちらの提案をちゃんと聞き入れていた。だが金谷も認めている通り、早晩露見する一時しのぎに過ぎず、鑑識結果の不自然さは公安からCIA、涼子たちの組織へと漏れ伝わり、死を装った者に真実の死を与えるべく、このアジトにもいずれかの手が及ぶことになるのだろう。打って間もないコンクリ床のそこここに湿気の水が溜まり、血溜まりに似たその黒い染みの上で裸電球が陰鬱な光を投げかける。十坪ばかりの地下室を見回した桃山は、案内の男たちと別室に引き上げた美希の白い顔を思い出して、胃の中の鉛が重みを増すのを感じた。
「浅草、新宿と続いたビル爆破で、事態は地下水脈の界面をつき破って、表社会の注目を集めるようになった。こうなると、赤坂はもうドラスティックな手には出られないし、公安も静観を続けるしかなくなる。外野は事実上撤退して、増村保の始末はその製造責任者たちに白紙委任されることになった。わたしが生きてようが死んでいようが、連中のシナリオにたいした影響はありませんよ」
立ち上がり、先回りの口を開いた金谷の目に、含んだなにかが宿っていた。製造責任者∞連中≠ニ表現された、保や涼子の背後にある組織について、なんらかの確証を得たと伝える視線。「……連中って、いったいなんなんだ」と先を促した桃山は、「当たりはつけてらっしゃるんでしょう?」と逆に聞き返され、金谷の広い肩幅からつかの間目を逸らした。
「まあな。陸幕調査隊……ってところか」
陸上幕僚監部調査第二課別室、もしくは調別。野球場のような巨大レーダー基地を使って、軍事的脅威とされる近隣諸国の通信を傍受したり、やはり巨大な望遠鏡をしじゅう覗き込み、日本海あたりをうろついている戦闘機や艦艇の写真を撮ったりしている人々。北の工作員狩り、スパイ事件の摘発に外事警察が動く時には、その設備と機動力を活かし、公安調査庁と一緒に首を突っ込んでくることもたびたびと聞く。
曹長、富士の裾野の訓練キャンプ、文字通り兵卒の技量を身につけている保とくれば、桃山には他に思いつく推測もなかったが、金谷の返事は「半分、正解です」だった。
「在日CIAが赤坂なら、彼らは『市ヶ谷』と呼ばれていたんだそうです。陸幕調査隊は連中のフロントに過ぎず、その規模はもっと大きく、深い。……もうお察しのことと思いますが、美希も北系の在日でしてね。その方面の伝やら、暇潰しの読書やらで多少はこの世界のことを勉強したんですが、情報部は軍が強いっていうのは近代史の知られざる一側面なんだそうです。点在する拠点、税関パスの特権を活かした機動力。監視衛星やらなにやら、でかい設備を運用できる組織力。そしてこれがいちばん重要な点ですが、人目につかずに済む隠密性。この通り狭い国だ、それ相応の規模を持つ非公開組織を運営するとなれば、自衛隊の傘の下でやるのが利口だったってことでしょう。防衛費は外野のチェックが厳しい反面、常識外れのでかい単価が動きますからね。決算の帳尻さえ合わせておけば、組織の予算枠確保もそう難しい話じゃない」
市ヶ谷――陸上自衛隊東部方面総監部の所在地にして、現在、防衛庁の新庁舎建設が進められている場所だった。一聞では俄《にわ》かに信じ難い与太話《よたばなし》も、これまでの経緯を目撃してきた身には笑い飛ばすことができず、なにより「ナイーヴではない……」と言った涼子の声が、「『市ヶ谷』と呼ばれていた」と組織の存在を過去形で語った余谷の声ともども、桃山を打ちのめしていた。
細糸一本で核戦争を繋ぎ止めていた東西冷戦構造のただ中にあって、西側諸国の最前線、防波堤でもあったこの国が、公安調査庁や内閣情報調査室など、警察OBのみによって組織される一元の情報機関しか持たない現実は、確かに不自然だと言える。反共の壁となることで大戦の負債を償却した、日本という敗戦国に与えられた義務と責任は、教科書や新聞が伝えるほど穏やかなものではなかったろう。巧妙に隠された暗部、闇の中でのみ語られ、処理されてきた歴史があり、そこに「市ヶ谷」と呼ばれる彼らの存在もあった。軍を認めない国家にあって、世界第三位の武力を保持する自衛隊という組織。行政機関のみならず、国民生活からも遊離した離れ小島の片隅に、真の「国家防衛」に従事する防人《さきもり》たちの集いがあった……のかもしれない。
常識という名の地盤に亀裂が走り、黒々とした恐怖の塊が足もとに覗いた。この数年に世界で起こったいくつかの事象が、すでに彼らの存在意義を過去のものにした経緯も推測した桃山は、金谷が知り得たすべて、それを話すために危険を冒して自分をここに呼んだ事件の真相を聞く準備があることを目で伝えた。頷いた金谷は、「お互い、もう知らんぷりはできない立場だ」と前置きの口を開き、猛禽の目を桃山に据えた。
「これから、ひとつの仮説をお話しします。どう受け取るかはすべてご自身の判断にお任せしますから、参考と思って聞いてください。
もう想像されてるでしょうが、〈アポクリファ〉は、神泉教団が引き起こした地下鉄テロと密接な関係がある。一見複雑ですが、根は単純な話でしてね。余分なものを取り除いてもういちど見直してみると、それまで見えなかったものが見えてくる。いったいあの事件はなんだったのか。なぜ起こり、なぜ誰も止められなかったのか。なにが変わり、誰が得をしたのか?
答は、いまのところひとつだけ。神泉教団だったから、というものでしかない。狂信的宗教団体のしたことに、一般社会の道理を求めても始まらない、とね。じゃあその宗教、教団っていう肩書きを取り除いてみるとどうなるか。セムテックスとかいう軍用爆薬を入手して、時限爆弾をこさえた連中。それを地下鉄の網棚に置いてきた連中。実行犯と呼ばれる信者グループには、実際いろんな畑の人間が加わっていた。医者、技師、理工系大学の研究員。ですがね、テロという半軍事的な行動を目前にして、いちばん注目されるべき人材は誰かと言えば、自衛官です。爆弾を作り、幕僚の自宅に盗聴器を仕掛け、一部信者に野戦訓練の手ほどきまでしていた現役・OBの自衛官信者たち。教団という枠を取り去った時、まず最初に注目されるべきマスは、軍事行動のプロたる彼らだったはずだ。一部の自衛官が、軍用プラスチック爆弾を使って桜田門、つまり警察直下にテロを仕掛けた。あの事件の根元にあるものはそれです。そしてそれがなにを意味するかと言えば……」
「クーデター、か」滲んだ脂汗を拭うのも忘れて、桃山は呟いた。有志自衛官によるクーデター。終末思想、予防革命、理由はなんでもいい。とにかく真っ向からテロの挑戦状を受け取った警察は、当然、自衛隊に対して警戒の目を向ける。直属上司への事情聴取から始まり、やがては幕僚監部、防衛庁へと攻め上り、ついにはいま教団に対して行っているのと同じ、予防検束という事態にまで発展していたかもしれない。
そうなれば自衛隊の態度も硬化し、下手をすればサボタージュ、駐屯地籠城《ちゅうとんちろうじょう》といった事態が惹起《じゃっき》されて、両者は冷戦下に置かれる結果になる。治安機関と国防機関が疑心暗鬼の睨みあいを続ければ、日本の防衛力は麻痺したも同然になって――。
「誰が得をするか、という話になる。まあこれは、普通に新聞やニュースを見ていれば察しがつくってもんでしょう。盗みが起こって最初に疑われるのは、いつでも貧乏な奴、腹を減らした奴だ。実際に日本への侵攻を開始すれば、南だって中国だって黙っちゃいないでしょうが、それは問題じゃない。そうなんだと信じさせる材料がそろっていれば、計画者たちには十分だった。『我々式』の政治も経済も行き詰まり、飢餓寸前のありさまになってる連中なら考えかねない。平然と民間機を爆破するようなテロ国家ならさもありなんと、納得させるだけの状況証拠があればそれでよかった。アポクリファ……偽文書という暗号が示す通り、もともと途中で摘み取られる予定で始まった計画だったんです。計画を示唆し、その醸成を見守り、土壇場で挙げてカードに転化する。最後に笑うのは、この国を反共の砦《とりで》に仕立てた張本人たち……というのが、〈アポクリファ〉が迎えるべき帰結のはずだった」
そうなのだろう。それは決して実行されない、架空の計画としてスタートした。神泉教団はそのために作られた単なる容れ物。計画を進めるベースキャンプとして仮設された、資材や人材をストックする物置小屋に過ぎない。宗教的な理屈は、なにも知らない信者たちを動かす動機付けでしかなく、地下鉄テロの本来の目的は、自衛隊と警察の対立構造を成立させ、クーデターという名の疑心暗鬼で両者の力を相殺させることにこそあった。
政界、官界をも巻き込む混乱は命令系統の分断を生み、骨抜きにされた現場部隊の間隙を突いて、南の頭ごしに北朝鮮が電撃的な日本侵攻を果たす。それが、北本国の指示を受け、リ・テイワら在日工作員が作成した作戦計画書――〈アポクリファ〉のラストを飾るクライマックスだった。
が、それは北朝鮮の意思とは無関係のところで成立、進行していた計画であって、テイワたちに計画の編纂を命じた真実の指示者は、北ではなく、はるか西の大国にいた。平壌《ピョンヤン》に浸透している工作員を使い、北朝鮮政府からの指示を装って、テイワたちに日本侵攻計画を作成させる。後は時期を見てすっぱ抜くだけで、彼らの目論見は達成される。お宅のところの工作貞がこんな物騒な計画を立てていましたよ、となに食わぬ顔で完成した計画資料を突きつけ、公表されたくなければ……と凄《すご》んでみせれば、身に覚えのない寝耳に水の話であっても、北は彼らの要求を呑まざるを得なくなる。
最高指導者の覚えをめでたくしようと、軍幹部が忠節を競い合い、成功の当てのない対南浸透作戦を各個に展開している事情が、北から反論の口を奪い去る。自分は知らないが、他の誰かが計画したことかもしれない。この間、管理所(政治犯収容所)送りになってのたれ死んだ、革命世代のあの将軍かもしれない。疑心暗鬼が渦巻くピョンヤンに突きつけられる、日本侵攻計画の動かぬ証拠の値段は、決して安いものではなかったろう。代価として考えられるのは、つい先日まで懸案事項になっていた核査察の受け入れ……といったところか。誰も傷つけることなく、文明的に国連の橋渡し役を務められれば、世界の警察たるアメリカ合衆国の面目躍如という筋書き。「まるっきり、ヤクザのやり口ですがね」という金谷の言葉を、桃山は否定するつもりはなかった。
日米協同対北工作と言えば聞こえはいいが、ともかくそのヤクザのやり口に日本も一枚噛んだ。当時、計画の拠点に神泉教という名もない新興宗教団体が選ばれた理由は、もともと宗教団体に甘い日本の法律制度がひとつ。バブル経済が始まる一方、心の置き場を求めて漂泊する人々が増えていた時代の流れと、彼らを引きつけるカリスマ的素養が王仁教祖にあったことがひとつ。おそらくは闇金融などの肩書きを名乗り、教団に接近した『アポクリファの編纂者』――すなわちリ・テイワたちから新しい集金ビジネスを持ちかけられ、人心掌握、組織運営の手ほどきも受けたのだろう王仁は、彼らの計画通り、破竹の勢いで教団の拡大を開始した。
これで第一段階は終了。後は治外法権のバリアーで教団を覆い、外交カードに転化されるその日まで、警察、公調、市ヶ谷ともにノータッチの協定を結び、ひたすら肥大する組織の監視を続けていれば事は足りる。ある者は泳がされ、ある者は誘導されて、入信する自衛官たちの数も次第に増えてゆく。決して実行されないテロ計画は、その体裁だけを着実に整えていった。
「八〇年代も終わりの頃の話です。『アポクリファの編纂者』たちが、王仁をどう誘導していたのかは想像するよりありませんが、そのコントロールが万全でなかったことは確かです。なにせ権勢欲の強い男ですからね。人形の立場を忘れたのか知らなかったのか、王様気取りで組織の独占運営を始めた。選挙戦出馬とその大敗は、そんな王仁に対する編纂者たちの鞭入《むちい》れだったんでしょう」
確かに、治外法権のノータッチをいいことに、王仁は文字通り神の如くふるまっていた。あまりの無法ぶりにマスコミの注目を集め、バブルの波に乗って経済的にも著しい発展を遂げた教団は、テイワたちの手綱から離れる気配さえ見せ始めた。大敗と、その後の経済逼迫が十分に予測されていた選挙戦に王仁が出馬する羽目になったのは、教団内部にいる「示唆者」を使い、テイワたちが誘導した結果に違いなかった。
「彼らは千の顔と千の声を持っていた。公安捜査の内情を漏らしていた現役の警官信者。セクトの同志。スパイ説を流布する出家信者。門前で罵声を張り上げる右翼団員。無論、テイワたちにそこまでの組織力、動員力はない。彼ら『示唆者』の中には、市ヶ谷から送り込まれた者もいたと見るのが自然でしょう。そして『示唆者』のもたらす情報、なにげない言葉のひとつひとつが、ある一点に向けて教団を歩かせていた」
放漫経営の果てに自滅に至る教団は、その直前、必ずや捨て身のテロに打って出る――いや、「示唆者」たちの誘導によって、否が応でも出させられる。だが終末思想に向けて走り始めた教団をよそに、世界は劇的な変化に見舞われつつあった。
「ソビエトの崩壊と、冷戦構造の消滅。モスクワの後押しを失った北はあっさり核査察を受け入れて、〈アポクリファ〉はその存在価値を失った。計画は土壇場で破棄され、清算の嵐が関係者の間に吹き荒れた。散らかすだけ散らかして手を引いちまった赤坂に代わって、編纂者と教団の後殆末は日本に一任されたようです。教団の方は、警察がそれまで閉じていた目を開ければいいだけの話で、後は編纂者たちを清算し、『示唆者』を教団周辺から引き揚げれば、〈アポクリファ〉は跡形もなく消え失せる。なにも問題はないはずだったが、そこに大きな誤算が潜んでいた。
一変した世界地図の他に、バブルの破裂と、五五年体制の終焉って事態までが重なった日本では、他にも破棄されたものがあったんです。行政地図の狭間に隠し持っていた牙……冷戦終結後の世界では、金食い虫にしかならないと判断された市ヶ谷の者たちです」
不景気が最初に切るのは、生産性のないサービス業の首。なにも天下国家の話に限ったことではなかった。なぜ起こり、なにが変わり、誰が得をしたか。すべて理解した桃山は、漏れ出たため息とともに顔をうつむけた。
「末端の工作員たちはなんの補償もなく解雇され、幹部職員は手足を失った組織に居残って、それでもなんとか再編を試みようとした。しかし不況は底知らず。市ヶ谷という牽制策を失った永田町は、検察から袋叩きの目に遣わされて、月ごとに変わる政権はいつしか責任能力を完全に失っていった。市ヶ谷再編の夢は無残にも砕かれたわけです。そして絶望した者の数があるレベルに達した時、破棄されたはずの計画がひとり歩きを始めた。
赤坂に使い捨てられ、北からも総連からも見放されて、清算の順番待ちをしていたアポクリファの編纂者を取り込み、彼らのルートと、まだ教団に居残っていた『示唆者』の両方を使って、神泉教団の操演がひそかに再開された。いちど立ち止まったシナリオが、再び走り出したわけです。彼らの都合にあうよう、少々改稿された上でね。それで最初に打ち上げられたのが、山口の爆発事件だった」
深夜の住宅街で炸裂したセムテックスが、教団を巡る訴訟を担当していた判事らの命を奪った事件。当時は教団の犯行を示す証拠はなにも発見されなかった。
「その時点で、警察も公調も〈アポクリファ〉の復活に気づいていた。黒幕が誰であるかもわかっていた。でも口には出せない。彼ら自身も一枚噛んでいた計画の暴露は、日本のみならず、アメリカの国益も損ねる結果になる。真っ黒な教団から目を逸らし続けた、警察の警察とも思えない対応の原因はそれでしょう。当時の教団は、誰にとっても危険過ぎる火中の栗だったわけです。
この頃から、永田町は暴走を始めた市ヶ谷への説得を開始した。野党に成り下がったとはいえ、右翼バネが廃《すた》れたわけじゃない。それまで予算確保に暗躍していた国防族を始め、冷や飯食いはもうたくさんだって先生方の中には、市ヶ谷復興を容認する者も少なくなかった。想像ですが、あらためて正規の情報機関として再編、発足させようって、そんな話が持たれたんじゃないかと思います。
そうなると、穏やかじゃないのは警察だ。やっと邪魔者が消えて、警察力の一元化が実現しそうだって時に、脅しに屈して市ヶ谷の復活を認めるとはなにごとかとね、公調や内調も一緒になって、こっそり反撃の準備を始めた。それが、あの強制捜査です。復興話が具体的になる前に、彼らの計画拠点である教団施設を白日のもとに晒し、組織を丸裸にしようと試みた。鬼子の市ヶ谷を始末したいって点では、防衛庁とも足並みがそろっていたようですしね。〈アポクリファ〉の行方を気にする赤坂の後押しもあって、教団を法的に抹殺する準備は滞りなく進んだ。施設に押し入って人、モノ、金を押さえて、市ヶ谷の動きを封じる。警察の基本戦略ってやつです。しかしそれが、結果的に地下鉄テロ実行の引き金を引くことになってしまった。
強制捜査の接近を知らされ、焦る王仁の耳もとに示唆者たちの声が囁《ささや》かれる。大きな花火を打ち上げろ。そうすれば奴らはなにもできなくなる……。そして事件は起こった。それですべてが一変してしまった。水面下で進んでいた事態は、無差別テロっていう刺激的な言葉に引き上げられて、日本中の目が教団に集中することになった。『一部自衛官が宗教団体内部でクーデターを画策した』ってシナリオは、『自衛官も加わっていた狂信的宗教団体のテロ』というふうに改変されて、後には安全神話を打ち砕かれたこの国と、面目丸潰れの警察だけが残った」
市ヶ谷同様、警察と公調も教団内部に内通者を飼っていたはずだが、神泉教が国民の敵となった現在、それが彼らにとっては負債、もしくは足枷《あしかせ》になっているだろうことは想像に難くない。派手に自衛官信者の存在がリークされた結果、防衛庁トップの首が片っ端から斬り落とされていった経緯が、それを証明している。そろって自縄自縛の罠に嵌まってしまったところに、今度は警察庁長官の襲撃事件――。
「事実はどうあれ、人も物証も内部犯行を示唆するもの以外出てこないでしょう。現役の警官信者による長官襲撃。サッチョウも桜田門も真っ青で、当分は深い穴から抜け出せなくなるって寸法だ。
たいした計画です。その後も続発するテロ騒動、なにかが変わってしまった不安に包まれる国民たち。ここぞとばかりに永田町内の市ヶ谷擁護派が騒ぎ出して、警察力の再検討が叫ばれる。凶悪・武装化の進む犯罪に対して、現在の警察制度では力不足。殴られた痛みでそれを認めた警察長官の口から、新たな対テロ組織の編成が呼びかけられる。公安調査庁の拡大再編――。ニュースでは三百人規模の増員が認められたとか言ってましたが、就職雑誌で公募するわけじゃなし、いったいどこから出てくるんですかね? その三百人は」
そう言って、金谷は長い話を締めくくるタバコをくわえた。返す言葉もなく、桃山はむき出しのコンクリ床に目を落とした。
変わってしまった世界から取り残され、それまで奉仕してきた体制にも裏切られた市ヶ谷の人々にとって、これは生き残りのための行動、正当防衛だったということか。公安調査庁の再編というが、その実態は市ヶ谷の公的機関化そのものであって、数年後には国家安全やら機密維持やらの新法が発効し、日本はその図体に相応しい牙を手に入れてゆくのだろう。
冷戦の厚い蓋で、まがりなりにも封じ込められていた種々の問題が噴出し、これから真のサバイバル時代に突入する世界情勢に鑑《かんが》みれば、正当な防衛力の整備を企図した彼らの行動を、保身に走った結果と非難することはできない。利権食いが難しくなればミーハー根性に走り、村祭りの感覚で国政者を選んで恥じなかった国民たちは、横っ面を張りでもしなければ、危機という言葉の意味すら理解できなかったのだから。
テイワたち計画編纂者たちにしても、〈アポクリファ〉が北本国の発案した計画でないことは薄々承知していたはずで、それでもアメリカの計略にのってみせたのは、孤立を深める母国への憂い、もしくは絶望があったからだろう。彼らにしろ市ヶ谷にしろ、一方的に幕を落とされた冷戦の遺物でしかなく、その体制下で戦後の半世紀を過ごした日本には、彼らの存在を負債として受け止める義務と責任があったのかもしれない。
臭いものには蓋を当たり前にし過ぎて、ついには蓋の中身を想像もできなくなった者たちには、その代償と向き合い、平和が決して無償で与えられる恩恵ではないことを知る必要があるはずだった。彼らはその場に置かれた者として当然のことを行い、そう仕向けたのは、我々の暮らすこの社会に他ならないのだ、と。
しかし、だ。それでも、これはやはりテロでしかない。正当な防衛力の整備という正論、とどのつまりは自分たちの論理のみを振りかざし、無実の人々を多数死に至らしめた背景には、歪んだ自己顕示欲、復讐の怨念しか感じ取れないと桃山は思う。国家防衛の理想を商業主義に踏みにじられ、体制から排斥されたフラストレーションをテロ行為に発展させた経緯は、彼らが利用した神泉教団の若者と少しも変わるところがない。
政治の問題は、たとえそれが不可能に思えても政治的行動で正すのが本当であって、流血を前にすれば、どんな大義もその色を失う。愛国精神も、マンガもどきの人類救済論も、テロという形態を取れば同列。後始末の一環として為されたテイワの清算、すべての真相を背負って逃亡する羽目になった保と葵が、いまこの瞬間も命を狙われている現実を含めて、決して認めてはならないことだと、桃山はあらためて胸中に刻み込んだ。
憮然と押し黙った様子にそんな胸のうちを確かめたのか、金谷は微笑した顔を桃山に向けた。タバコを靴先でもみ消し、「あんたは、他人の指図で動くようなタマじゃない」と呟いていた。
「だから、これは提案です。わたしと一緒に、ここを離れてはもらえませんか?」
ここ、という代名詞が日本という国を指していることを察して、桃山は戸惑う顔を上げた。「あんたが預かったものには、それだけの重さがある」と続けた金谷に、返しかけた言葉を呑み込まなければならなかった。
「いまは各地で冷や飯食いをしている市ヶ谷OBたちの中には、今回の暴走を快く思っていない者も大勢いる。彼らの手を借りることができれば、北に迎えを寄越させるのも決して不可能じゃない。増村はもうその線で動き出しているようです」
差し出された救いの手に、北朝鮮への亡命と書かれた文字が浮かび上がり、桃山は再び視線を床に向けた。あまり魅力的なプランとは言えなかったが、すでに確定した歴史が走り始めているこの国にあっては、アポクリファ――聖書外典に目を通してしまった自分は、信仰を阻害する異教徒でしかない。彼ら流の言い方を真似れば、国民という単位を剥奪《はくだつ》された、排斥されるべき異物と認識されているだろうことは、想像するまでもなく明らかだった。
本来、北朝鮮に致命的な不利益をもたらすはずだった〈アポクリファ〉は、いまや日米協同謀議の存在を裏づける恰好《かっこう》の証拠になっている。その詳細を記したフロッピーディスクと、作戦に参加していた現場要員の身柄がセットで手に入るとなれば、北は諸手《もろて》をあげて亡命を受け入れるだろう。美希にも北とのコネがあるという話だったし、金谷と保なら、ピョンヤンの外交カードに成り下がる前に、北を経由してさらに遠くへ逃げるぐらいのことはやりかねない。腐った肌に嘘の上塗りをした国で朽ち果てるくらいなら……と思いかけた桃山は、不意に脳裏をよぎった視線にその先の思考を断ち切られた。
「悪いな。のれねえや、その話」
そう答えて、桃山は瞼の中の涼子の視線と向き合った。彼女も深い川の中にいる。あの視線を置いて、自分だけ岸に上がることはできない。「再来週の日曜、会う約束してんだ」と付け加えた桃山は、他に言うべき言葉も思いつかず、差し出された救いの手をそっと遮った。一瞬きょとんとなった金谷は、すぐに目を伏せて「……女、ですか」と微笑した。
「それもいいでしょう」
そして、笑った。清々とした笑顔だった。つられて笑ってしまった後で、桃山は金谷の手を握り、もう二度と会うことのない男と別れた。
帰りの車中、目隠しの闇の中に、またあの川が流れていた。黒く、激しく、すべてを呑み込んで走り続ける混沌。それまではひとりで見下ろしていた周囲に、いまは保がおり、葵がいる。金谷と美希、それに涼子がいる。その充足を抱いたいまなら、残された時間も姿勢よく生きてゆけると思った。流れの行き着く先にある、永遠の安寧を信じて……。
初夏直前の、一年でいちばん穏やかな日和が続いていた。涼子との再会を二日後に控えて、桃山はその日に赤丸を記した部屋のカレンダーをぼんやりと見つめていた。
自分に〈アポクリファ〉のフロッピーが託された事実は、遠からず「市ヶ谷」の知るところとなる。自身の存在を脅《おびや》かす「真実」の最後の種子を、彼らがこのまま見逃すとは金輪際考えられない。いつどうなってもおかしくない己の身の上を承知しながらも、金谷と別れてからの数日間は、桃山の人生においてもっとも静かな、落ち着いた時間になっていた。
空っぽの生活に向けた焦燥感も、酒がなければ眠りも得られなかった絶望的な孤独感も、いまはもうないと思う。別にそれでなにが変わるわけでもないのに、涼子と会う日をひとつの区切りにして、以後の身の振り方はそれから考えようと桃山は決めていた。
その間は苅谷とバイトに頑張ってもらい、久しぶりに三連休を取ったのはいいが、当日までは特にすることもない。もう上着もいらない陽気を窓の外に確かめた桃山は、家でごろごろしていても仕方ないと、財布とタバコをズボンのポケットに突っ込んで部屋を出ることにした。
昼休み時は、往来するダンプも河岸開発工事の音もなく、川面を滑るディーゼル船の単調な調べだけが堤防の向こうに続いていた。アパートの鉄階段を下り、堤防沿いの道路に出た桃山は、こちらを見下ろす視線に気づいて足を止めた。
堤防上の道路に続く階段の途中に、保が立っていた。着たきりスズメのブルゾン姿に季節感はなく、愛想の欠片《かけら》もない仏頂面を黙然とこちらに向けている。もう驚く必要もなく、ありのままを穏やかに受け止めている己の胸のうちを覗いて、桃山は「よお」と声をかけた。
預けたものを取りに来たのだろう顔は、口を噤んで動かなかった。しばらく見上げてから、止めていた足を動かして背を向けた桃山は、「どこ行くんだよ」とかけられたふて腐れた調子の声に、もういちど足を止めた。
「さあ。……パチンコか映画、かな」
少しだけ振り向いて答えた途端、「映画ならつきあう」という声が返ってきて、桃山はおやと思った。すくめた肩を返事にして歩き出すと、階段を下りた足音が近づき、数歩うしろをついてくる気配が伝わった。
どんな欺瞞で追手の目を眩《くら》ましてきたにせよ、ターゲット二人が肩を並べて歩いている図は、鴨が葱《ねぎ》を背負って歩く光景以外のなにものでもない。気休めであっても、少しでも人が多くて晴れがましい場所にいた方がいいと無意識に判断したのか、桃山はいつもの錦糸町ではなく、久しぶりに有楽町に足をのばすつもりになった。
平井から秋葉原経由で直行した後、ガード下の牛丼屋で昼飯を済ませ、営業サボりの背広姿や学生カップルの列に混じって有楽町マリオンへ。夏休み前の閑暇期といった感じの上映ラインナップの中から、頭を使わずにパッと楽しめそうなアクション物を選んで、二人分のチケットを買った。ほれ、と背中でつまらなそうにしている保に手渡すと、代わりによれよれの千円札一枚と、五百円玉二枚が返ってきた。
今日二回目の上映が始まって、三十分が過ぎようとしている時だった。かまわずに入ろうとした桃山は、「途中から観るつもりか?」と言った保にエレベーターの手前で止められた。「ダメか?」と訊いた桃山に、「当たり前だ」と断言して、保はさっさとチケット売場の前を横切ってゆく。今度はこちらがその背中について、桃山も人と車の往来が絶えない晴海通りに出た。
不二家の上にある喫茶店に落ち着き、次の上映が始まるまで待つと決めた保と並んで、桃山は晴海通りを流れる車の列をぼんやりと眺めた。山ほど話さなければならないことがあるにもかかわらず、一時間半の待ち時間にした会話らしい会話と言えば、「彼女、元気にしてるか?」「ああ」だけで、フロッピーのフの字も互いの口をつくことはなかった。
ようやく三回目の上映時間になり、平日午後のがらがらな劇場の幕が上がるや、保は完全にスクリーンに吸い込まれてしまった。盗み見たこちらの視線に気づく様子もなく、遠い眼差しを一心に注いでいるさまは、かつて口にした通り、「世界を映す大きな窓」に見入る子供の表情そのものに見えた。
本編が終わり、最近の映画特有の長いクレジットロールが流れ始めても、保は動こうとしなかった。スクリーンに幕が下り、場内に照明の光が戻るまで待って、桃山は「けっこう観れたな」と感想を言った。
「……ああ」と応えた保は、すぐに顔を逸らして思い出したように席を立った。苦笑顔を見られないようにして、桃山もその後を追った。
マリオンを出て、有楽町駅に直行しようとする無粋な背中をつかんで、桃山は手近な喫茶店に保を誘った。そろそろ来た理由を切り出す頃合と見計らってのことだったが、保はなにも語ろうとはせず、「ここの払い、あんた頼むよ」とだけ口を開いた。最近なにかと物入りで……と付け加えた顔に、金谷が言っていた亡命話が思い出され、映画代を受け取ってしまった我が身を後悔したが、いまさら返せるものでもなかった。「はいよ」と応じて、桃山は苦味の増したコーヒーの残りを畷った。
結局なにひとつ触れないまま、親子とも土建屋の師弟とも取れない肩を並べて、まだ陽の残る平井に戻った。「明日、ここを離れる」と保が言ったのは、堤防から河岸に続く斜面に腰を下ろし、夕焼けに染まった荒川を見下ろした時だった。
隣に座り、同じように川面に視線を注いで、保は桃山の顔を見ようとはしなかった。今度こそ、絶対的な別離になる。「そうかい」と搾り出した桃山は、用意していたはずの覚悟を吹き飛ばし、こみ上げてくる喪失感を抑えるのに精一杯で、次に続く言葉をなくした。
河岸に設けられたグラウンドから、近在の子供らが醸し出す草野球の声が聞こえ、目をそちらに向けると、少し離れたベンチに陣取った青年がキャンバスと向き合っている姿が見えた。保と同年代だろう。紅く燃えた川に目を凝らし、情熱に任せて筆を走らせている姿は、ただそれだけに没頭することが許される、人生に与えられたわずかな時間を燃焼させている最中のものと映った。
この違いはなにか。同じ大地に生まれ、同じ空気を吸っていながら、隣に座る命を待ち受ける救いのない明日、あまりにも殺伐とした未来はいったいなんなのか。目を伏せ、口を開けば溢れ出しそうになる感情がどうにか収まるのを待ってから、桃山は「おれには、よくわかんねえけどよ」と黄金色の空を見上げた。
「おめえはドンパチなんかやるより、絵描いたり、いい音楽聞いたり、そういう生活の方があってんじゃねえのか?……なにもねえぜ、向こうにはよ」
これから赴《おもむ》く寒い国。自らを生父カードに転じて、行った後は、二度と戻ることも叶わない国。保はわずかに顔をうつむけた。
「考えることを捨てた国から、禁じた国に移るだけのことだ。どうってことない」
答えた横顔も、夕陽のオレンジに染まっていた。「……そりゃそうだ」と苦笑してから、言いようのない脱力感に駆られて、桃山は声もなく光る川面を見つめた。
なんにせよ、北に行くとなれば、〈アポクリファ〉の資料が命の安全を保証する約束手形になる。「あれ、取りに来たんだろ?」と言って腰を上げかけた桃山は、「いい。あんたが持っててくれ」と返事を寄越した保の顔を見返した。
「パスポート代わりになるもんじゃねえのか?」
「どうせ北にはあのカードは使いこなせない。荷物になるだけだ。欲しがる奴にくれてやればいいさ」
無表情に言いきった保に、葵の親父さんが娘の命と一緒に託したものだろう? と反感がよぎったが、いまさら胡散臭い作戦計画書が出てきたところで、週刊誌ネタに終始する可能性も否定しきれないのも現実だった。桃山は口を閉じ、川面に目を戻した。
決まったことは貫徹するのが政府の仕事で、公調の拡大再編は、決定事項としてすでに走り始めている。もはやあのフロッピーディスクにはなんの価値もなく、保全措置として周辺の口封じさえ完了させれば、市ヶ谷には十分なのかもしれない。CIAも同様。北だけが、自らを陥れるはずだった日米共同謀議の証拠に外交カードの価値を認めているが、保の言う通り、死に体の彼らにそれを使いこなす体力は残っていないのだろう。亡命後、ピョンヤンから脱出するまでの時間を稼ぐためにも、形に残るような証拠はむしろ持たない方がいいのかもしれなかった。
結局、なんの意味もなかった。なにひとつ変えられず、最後の最後まで傍観者でしかあり得なかった無力を反芻《はんすう》して、桃山は赤みを増した空に目をやった。音もなく立ち上がった保の影がのび、「多分、もう会うことはないと思う」という声が、頭の上に振りかけられた。
「さよなら」
そのひと言のために、ここに来た。危険を承知で自分に会いに来た。そうわかり、一緒に歩いたこの半日の一瞬一瞬が、生まれ育った故郷に別離を告げる儀式だったことも察した桃山は、保の顔を見上げることができなくなった。自分の影と重なり、土手の草地に伸びていた保の影は、来た時と同じように不意に離れていった。
なにか言わなければならない。最後にふれあった人間として、なにかを伝えなければならないと闇雲《やみくも》に焦って、「……おい」と呼び止めた。立ち止まり、振り向いた保の顔をまっすぐに捉えて、桃山は言っていた。
「またな」
夕陽の逆光に遮《さえぎ》られて、表情は読み取れなかった。今日よりもマシな明日、明後日、明々後日に続く明日、きっと会える。そう信じて、桃山は背筋をのばして保の姿を見送った。もう答える言葉は必要なく、保は桃山の前から去っていった。
その晩。腹の中で燻《くすぶ》る火をアルコールで消したつもりになり、夜中過ぎに帰宅した桃山は、待ちかまえていた自分のけじめと直面させられることになった。
部屋に入って最初に見えたのは、窓から差し込む街灯の光と、それを背にした知らない男の大柄な影だった。その貌《かお》に、自室に訪れた客をもてなすような笑みが浮かぶのが続いて見え、ほろ酔い気分は瞬時に消失した。咄嗟につかみかかろうとした腕が左右からのびた手に取り押さえられ、すぐに逆手に取られると、膝裏に鋭い蹴りが入る。気がついた時には、桃山は畳に横面を押しつける羽目になっていた。
「はじめまして、桃山さん。うちの者たちがすっかりお世話になったようで」
落ち着き払った声に、桃山は無駄とわかっても「誰だ、てめえ」と搾り出した。冷徹な中にも、どろりとした感情を潜ませた男の声が耳にこびりつき、せめて顔を睨みつけてやろうと身をよじったが、見えたのは親指の付け根から手首に至る、古傷をこしらえた右手だけだった。背中にのしかかる別の男に逆手を捻り上げられ、首筋に冷たい感触も押し当てられた桃山は、再び頬を畳に密着させた。
「桃山さん、我々は多忙な身だ。お互い時間のロスをなくすためにも、正確に答えていただきたい。ディスクはどこにある?」
上等な革靴の向こうに、震災直後さながら、めちゃくちゃに荒らされた部屋の様子があった。畳や天井、裏と名のつく場所すべてがあらためられ、押し入れから冷蔵庫、扉のついているもの全部が開け放たれ、中身を床の上にまき散らしている。テレビまでが解体されて、むき出しのブラウン管が逆さになったお膳の脇に転がっていた。「なんのこったよ」と絶望的な抵抗を言った桃山への返事は、腕の関節を曲がらない方に向けてぐいとねじ曲げる、背中にのしかかる男の万力のような力だった。
呻き声を皮一枚のところで押し留めた桃山に、「多忙と言ったはずだがね」と重ねた男の事務的な声がかけられる。無駄で無意味なことであっても、こいつらには絶対膝を折らないと決めた、こちらの強情を硬化させるだけの声だった。「……あんた、スパイじゃ一流かもしれねえけど、警官としちゃ三流だな」と言った虚勢には、低い笑い声が返された。
「君らと違って、あまり外面《そとづら》を意識したことがないんでね」
その言葉を合図に、背後で人の動く気配が起こった。桃山を床に這いつくばらせている二人は、そういう形の鉄塊であるかのごとくそよとも動かず、いったい何人が押しかけて来てるんだと思う間に、目の前にアンプを思わせる機械がどんと置かれた。
上に重ねられたモデム、配線の束と、それに繋がる携帯用の小型モニター。どことなく医療器具の硬質さを連想させる小道具に、脇の下が冷たくなるのを感じた桃山は、「電気で拷問でもしようってのかよ」と声をかすれさせた。「そんな野蛮な真似はしない」と苦笑した声が応じる。
「文明的に、衛星放送でも楽しもうと思ってね」
生臭い声が吹きかけられ、桃山はひとつ固唾を飲み下した。五インチの液晶モニターのスイッチが入り、中継器らしい機械が調整されると、見知った風景が映し出される。心臓が一拍跳ね上がる前に、「今宵《こよい》の当直は誰かな?」と言った声が、映像の送り主に指示を与えたようだった。
アリランス亀戸ビルの正面玄関を捉える暗視映像は、そこでカラーの温感映像に切り換わった。かなり高性能のセンサーは、探査温度を設定することで特定の対象のみを強調できるらしく、低温の青と黒が基調の建物の輪郭の中に、赤とオレンジで表現された苅谷の人の形は嫌でも目立って見えた。
横になったオレンジ色の人の形は、ソファの上で眠りこけてでもいるのか、いちど寝返りをうった他はほとんど動かない。「これでは火事が起こっても気づかないな」と揶揄した声に、桃山は発作的に身をよじった。
「苅谷は関係ねえ! 手を出すな」
「これは視聴者参加番組でね。結末は見ている方が選べるんだ」再び拘束の手に押しひしげられた桃山の頭を見下ろして、耳に障る粘り気のある声が続けた。「お気に召さないなら、チャンネルを変えよう」
画面が切り換わり、今度は見覚えのない住宅街が液晶に浮かび上がった。寝静まった家々は坂に沿って並んでおり、微妙な段差の上に連なる一戸建ての列の前をゆっくり横移動した映像は、やがて一軒の家の前で静止した。「中島」の表札が粒子の荒い暗視映像に捉えられ、今度こそ桃山の頭は真っ白になった。
ここぞとばかりに筋肉が膨脹して、のしかかるひとりをはね除けたところまではよかったが、すぐに銃のグリップが首筋に食い込み、再度畳に顔面を叩きつけられる結果に終わった。銃のハンマーが起こされる音が耳もとに響き、髪をつかまれて、桃山は温感映像に変換された中島家の様子を直視させられた。
貿易会社に勤めている旦那は出張中なのか。家の中には、一階でテレビを見ているらしい明子の人の形と、二階で就寝している裕子の人の形、二つのオレンジしか見つけることができなかった。もうひとつ、手前に映った人の形は、明らかに訓練された者の動きをみせて家に近づいてゆく。門を開け、狸が出るという庭先に侵入すると、サッシの前で伏せ、殺《や》るか退《ひ》くかの命令待ちに入ったようだ。手にした道具はセンサーに反応しなかったが、ナイフの類いであることは想像に難くなかった。
「……なるほど。こいつは文明的だ」
娘の小さな人の形を見るのに耐えられず、桃山は目を閉じて負けを認めた。「どこにある?」と、目的を達した穏やかな声が応じた。
「亀戸」
「もう調べた」
「警備員だぞ。その気んなりゃ、店子の部屋にだって入れる。三階の英会話教室の事務室、ジョンソンって奴の机の引き出し覗いてみな。ディスク・ラックのいちばんうしろに混ざってるよ」
屈辱の砂が口腔いっぱいに広がり、舌をざらつかせた。「なるほど。木を隠すには森の中、か」と納得した男の無言の指示が飛び、ひとりが部屋を出てゆくと同時に、桃山を拘束する腕の力が若干緩くなる。後は寝惚けた苅谷が連中と鉢合わせしないことを祈るしかなく、どうにか首を動かした桃山は、年齢も格も自分よりひと回り上の余裕を湛えた男の顔を見上げた。
それなりの地位に就いているように見える男が、現場に顔を出しているのも不思議なら、もう無価値のはずのディスクを回収するために、無関係の市民を人質に取るなりふりかまわなさも理解できない。さっさと自分を始末すれば、保全措置には十分だろうに。「いまさら悪巧みの指南書取り返して、なんの得があるんだよ?」と尋ねた桃山は、「本当になにも知らないんだな」と呆れ半分に応じた男の声を聞いて、なにかひやりとするものを感じた。
「別に知りたくもねえや。リストラ逃れに大芝居打った三文役者の言い分なんざ」
「言い訳するつもりはないよ。もう承知のことと思うが、我々は警官ではなく、兵士なんでね。絶えず敵を創出していかなければ、生きてゆくことができないんだ」
確信犯、というわけか。少しはあった同情心も、断崖に向かって突き進んでいる自分の口の多さも忘れて、その理解が癇癪玉に火をつけた。「……おれの知ってる兵士は、そうは言わなかったぜ」と睨み上げた桃山に、見下ろす男の目も鋭さを増した。
「守るものがありゃ、兵士は生き続けることができる。バカでぶきっちょな生き方でもな、あいつはそう決めて、なにも文句は言わなかった。いつかはおっ死ぬとわかってても、泣き言ひとつ言わねえで、しっかりあの娘の肩を抱いてたよ。それに較べて、てめえはなんだ。なにが欲しいんだ。感謝か? 賞状か? いい歳こいて、誰かに頭なでてもらわなきゃ気が済まねえのか」
「守るべきもの? そんなもの、この国のいったいどこにある」冷笑の中に真摯《しんし》な感情の揺らめきが立ち昇り、男の革靴が一歩桃山との距離を詰めた。「望むものは、労働に見合った報酬と立場、それだけだ。無償の犠牲を払ってもいいと思えるほど、この国が誠実であったことはただの一度もないんでね」
言い返す前に、桃山は二人分の強力に床から引き剥がされていた。膝をついたまま、男の顔を正面に見上げる形になり、その懐から取り出された黒い棒状の物体を目に入れてしまった。
ブラックジャック――ヤクザ御用達の殴打用器具だった。薄闇でも目立つ古傷を這わせた右手が柄を握り、ひとつ左の手のひらを打った後、「申しわけないが、ご同道願うよ」と男の目が桃山を直視する。最初に声を聞いた時にも感じた、澱んだ憎悪が瞳の奥で蠢《うごめ》き、さすがにぞっとなった桃山は、「もっと文明的な道具はねえのかよ……!」と身をよじった。男の顔がぐっと寄せられ、堅い岩を想起させる面相が音を立てて歪んだ。
「君には、個人的な恨みがあるんだ」
あ? と聞き返した瞬間、世界が爆発した。白い閃光が走り、真横に倒れたらしい自分の体を自覚したが、それが最後だった。粘っこい男の目と声に、なぜか嫉妬という言葉を思い出しながら、桃山は気絶の闇に引きずり込まれていった。
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次第に弱まりながらも、新宿から続いていたビルと街灯のイルミネーションは、外苑東通りの交差点を過ぎたところでいったん途絶え、外堀通りとの合流点からまた復活する。そこだけ無愛想に静まり返り、都心の一画を占有している暗闇は、旧陸軍省参謀本部時代からまとい続けた陰微な静けさ。いまは自衛隊市ヶ谷駐屯地と呼ばれる場所特有の静謐《せいひつ》だった。午後十一時、新宿方向から靖国通りを流してきた一台のバンは、空いた道を走るにしては緩慢な速度で、すでに閉門した正面ゲートの前を通過した。
ゲート脇の通用口から漏れる警衛所の光に、六四式小銃を担いだ陸士のシルエットがちらりと見える。相変わらず弾は未装填《みそうてん》なんだろうかと考えてから、ハンドルを握る中年の男は銀杏《いちょう》並木と塀に囲われた高台に目を走らせた。
塀のそこここに貼られた白いプレートは、新庁舎建設の告知看板。六本木の防衛庁移転は三年後に完了する予定で、現在急ピッチで複数のビル建設が進められている。正門から百メートルほど西に進んだ場所に東京ガスの本村町ガバナを収めたドアがあり、さらに少し下ったところには、工事車輌の臨時出入口。駐屯地に通じるどの入口よりも巨大な工事用車輌出入口からは、のび上がれば工事用|防塵《ぼうじん》シートに覆われたD庁舎と、E庁舎の建築途中の姿を窺うこともできる。クレーンと鉄骨の影が夜より濃い闇を作って並び、いかにも建設現場然とした空気を漂わせている駐屯地を見渡した男は、その奥に二組のヘッドライトの瞬きを認めて、反射的に車の速度を緩めた。
工事車輌の誘導を請け負う民間のガードマンではなく、陸士の誘導で高台の坂を下ってきた二台のトレーラーは、十トン積載の巨大なコンテナを大きく切り返すと、新宿方面に向けて走り出した。米資本の空輸会社の社名を掲げてはいるが、中身はどうだかわかったものではない。このバンにしても、サイドドアに記した城南電設の文字は、今朝がた、急場で書き込んだデタラメだ。
「横田から来たやつか?」
トレーラーのテールランプを見送りながら呟いた男に、「多分な」と応じた後部座席からの声は、続いて「落とすなよ」と注意を促した。事が始まるまでは、法定速度を遵守して本村町を巡回待機。それが二人に課せられた仕事だった。男はアクセルを踏み直して、速度計の針をもとに戻した。
外苑東通りを右折後、駐屯地に隣接する警視庁第四・第五機動隊本部の前を通過して、同第一交通機動隊の敷地の角を再度、右に折れる。大蔵省研修所、印刷局記念館と続く坂を上り、裏門に当たる左内門《さないもん》の角を折れて靖国通りに戻る坂道を下れば、それで市ヶ谷駐屯地を公道沿いに一周したことになる。ありふれたバンに不審の目を注ぐ者はいないようだったが、二人の男は凝らせるだけの目を凝らして、闇の輪郭《りんかく》を探るのに余念がなかった。
左内門の前を横切り、東京地連の古ぼけたビルを通過する時だけは、緊張とは違う種類の沈黙が車内に降りた。かつて男が幾度となく潜《くぐ》った門は、昔から変わらない、灰一色の飾りのない姿を闇に溶け込ませている。本部ビルに出入りする時は、正面ゲートではなく、ここを使うのが近道だった。名前よりも階級とIDナンバーが多くを語った日々を顧みて、あの頃はよかったとは口が裂けても言えないが、つぶしの効かない身を泥にまみれさせているいまとなっては、決して得られない充足感があったことだけは否定できない。甘苦い感慨を沈黙で結び、二人の男は窓の外を流れて過ぎる東京地連のビルを見送った。
ほとんど解体と言っていいレベルにまで組織が縮小され、なんの補償もなく解雇された後、機密抵触者に課せられる五年間の住居移転・出国禁止義務の檻の中に放り込まれた二人の男にとって、地下鉄テロから公安調査庁の再編に至る黒い流れは、自明の成り行きでしかなかった。殺気だった公安や内調の猜疑《さいぎ》の目に晒されながらも、互いに連絡を取り合い、事件の底にある往時の仲間たちの蠢動《しゅんどう》を推測し、「市ヶ谷」再興を目論む歪んだ怨念の実在を確認し合った自分たち。為されてしまった復讐≠ノ、共感と反感の両方を感じている胸のうちも確かめ合った後は、ようやく手に入れた小さな平穏を守るため、目も耳も口も閉じていようと決めたはずだった。
にもかかわらず、いまはこうしてバンのハンドルを握り、かつての勤め先に敵を見る目を向けている。荷台に積まれた高価な道具と一緒に、駐屯地に聳える巨大な通信塔を見上げている。因果な話としか言いようがなく、男はルームミラーごしに後部座席の仲間と含んだ目を見交わした。
同種の仕事を請け負った車は、このバンの他にも五台。人も、二十人を下らない数が所定の場所で待機している。いかなる理由があろうとも、国民をテロの対象にしてしまった恥と、ひとりの男の怨念に引きずられるまま、計画を容認してしまった一部の利権者たちの愚劣を濯《そそ》ぐために。誇りを口にする資格はなくても、人生の大半を費やした場所が汚辱にまみれようとしているなら、自分たちにはそれを防ぐ義務と責任があるのだと、いまさらながら気づかされた。再び靖国通りに出たバンの中で、男はその起爆剤となった少年が残したサンドイッチの包み紙を助手席の上に見つめ、「……いいんだよな、これで」と口にしていた。
「ああ。あいつを信じよう」
昔と同じ調子の声が後部座席から返ってきて、男は口もとの皺を深くした。いま頃は、比喩ではなく地下深くに潜っているだろう少年は、間もなく行動を開始する。それまでは気取られず、与えられた仕事を完璧にこなしてみせるのが、先輩たる自分たちの意地というものだった。
窓がひとつもない部屋にあるのは、ひと組の毛布と、床と一体成型された便器だけ。三メートルはある天井から落ちる蛍光灯の明かりは薄暗く、中央にぽつんと据えられたスプリンクラーのヘッドは、おそらくは監視カメラの類いと推察された。脳味噌が腫れ上がったような痛みもようやく治まり、桃山は仰向けの体を漫然と天井に向けているところだった。
ここがどこか、いま何時なのか、目覚めた時には腕時計からズボンのベルトに至るまで、すべて没収されていた身には想像することも叶わず、ただ差し入れられた食事の回数から、一日以上の時間の経過を知覚していた。しばらくは脱出の努力に使われた頭と体は、いまは疲弊と焦燥の果てに俎《まないた》の上の鯉さながら落ち着いており、自傷防止のマットレスに覆われた四畳ほどの小空間には、激動から切り離された奇妙な安息がたゆたっている。吐いた息だけ重くなった静寂を破り、解錠の微かな電子音が響いたのは、三度目の食事から二、三時間が過ぎようとしていた時だった。
看守の足音を聞く死刑囚の心境のはずだったが、不思議と恐怖はなかった。上半身を起こした桃山は、武装した張り番を背に入室してきた者の顔を見て、その理由を悟った。いつもと同じ、結んだ唇をこちらに向けた城崎涼子は、「……よお」と言ったしわがれ声に応じることなく、語間の視線を桃山のそれと合わせた。
「どうして……逃げなかったんです」
握った拳を胸の膨らみの前に当てて、涼子は憔悴の渦中にある顔を伏せた。いきなり飛び込んできたまっすぐな感情に声をなくすと、「チャンスはあったはずです……!」と叫んだ涼子が詰め寄る足を一歩踏み出していた。
「金谷から誘いがあったでしょう? どうして……」
「……あんたとさ、デートの約束があったからな」
正直に答えたつもりの声が喉に引っかかり、桃山は小さく咳払いした。一瞬、息を呑んだ後、すぐにきっとした顔を向け直した涼子は、「バカです。あなたは」と本気で怒った声を出した。
「本当に……バカよ」
そして、滲んだ目を伏せていった。それは男を奮い立たせる姿、声に違いなかったが、まだその肩を抱き寄せる率直さは示せず、桃山は距離を開けたまま涼子の顔を見上げた。天井の監視カメラを始め、多くの夾雑物《きょうざつぶつ》を排し、真実二人きりで向き合える時間を作らなければ、相手に自分の体温を伝えることはできないと思う。いまはただ、そうなれる萌芽を見出せたことに充足して、桃山は「……その声が聞きたかった」と呟いていた。
「保たちは?」
「北に向かいました」睡眠不足がほつれさせた額の髪を払って、なんとか立ち直ろうとする涼子の声が答えた。「江津《ごうつ》を出港して、海上で向こうの高速艇に拾われる予定です。瀬取りの漁船に乗り込んだ二人を、監視衛星が捉えました」
瀬取りとは、またえらく物騒な船に乗ったものだ。東南アジア周辺から領海ぎりぎりまで出張ってきた漁船に、拳銃や麻薬など、正規のルートでは手に入りにくい品物をブイにくくりつけて海上に落としてもらい、それをこちらの漁船が回収する古典的な密輸方法。監視衛星と臆面もなく口にした涼子から視線を逸らし、桃山は久々に入力された情報を頭の中に整理した。
金谷のコネか、保の昔の仲間が段取ったことかは定かでないが、とにかく保と葵は日本を離れた。が、自分と金谷が接触した事実が筒抜けで、おまけに監視衛星が保たちの姿を捕捉しているのなら、泳がされた末の船出であると見てまず間違いない。誰もいない公海上で接触前に沈めるもよし。せっかくのカードを使いこなす体力がなければ、清算に手を貸して市ヶ谷に恩を売っておいた方が得と、損得勘定を働かせるだろう北に始末を任すもよし。あの傲慢が服を着て歩いているような古傷の男なら、海上自衛隊を動かして派手な捕り物劇を演じ、市ヶ谷復興を内外に示すセレモニーにする、なんてことも考えかねない。
もはや楽観主義の入り込む余地もない、どこをどう見ても八方塞がりの状況だった。結局、最初から勝ち目のない喧嘩だったことを再確認した桃山は、「あいつこそバカだ」と吐き捨てた。
「わざわざ海のど真ん中に……。あの野郎の思う壷じゃねえか」
個人的な恨みがどうのとほざき、強烈な一撃を頭にくれた古傷の男は、あれ以来姿を見せていない。なにかを察した涼子の目が伏せられ、こめかみの髪がさらりと肩を滑り落ちるのを見た桃山は、ふと胸の栓が外れる音を聞いたような気がした。
並んで歩いた横浜の色と匂い、向き合って過ごした半日の風景がそこから溢れ出し、冷えきった胸の底を温かく満たしてゆく。隔てていたものが溶けてなくなり、ほんのわずか、すべてから解き放たれることができた時間。無理に引き寄せれば幻のように消えてしまう、もう二度とは得られない淡い温もりを抱いて、桃山は「……中華街、美味かったな」と呟いた。床に目を落としたまま、涼子はなにも応えようとはしなかった。
「あのラウンジでさ。あんたと会う前に、昔の女房に会ってたって言ったろ? あれ、鳥取の親戚がやってる民宿を、居抜きで引き受けるつもりはないかって話だったんだ」
涼子が伏せた目を少しだけ上げれば、今度はこちらが顔をうつむける番だった。そこに三年分の虚ろが載っているかのように、桃山はあぐらの上に投げ出した手のひらをぼんやりと見つめた。
「その話を聞いた時……怖かった。知らねえ土地や、知らねえ商売。まったく新しい生活。保たちのこともあるし、おれだけここを離れるわけにはいかねえからってそん時は思ったけど、言いわけだよ。ただ怖かったんだ。一から出直す、その出発点に立つってのが……。それがよ、そのすぐ後にあんたと会って、また会う約束までしてさ……。怖くなくなったんだ。いまなら……いまならやり直せるんじゃねえかって、ひとり勝手に……。バカだよな」
独りでなく、二人なら。未知の土地や商売にあたふたして、無様を晒すだろう生活にも、そうして老いを重ねてゆく時間にも、きっとそれだけの価値がある。許すことも、愛することもできると信じて、桃山はすべてをさらけ出した口を閉じた。じっと立ち尽くし、初めて愛を告白された少女の眼差しを注いでいた涼子は、やがて苦しそうに顔を伏せ、「私には……そんな資格ない」と、その場に踏み留まる声を返した。
「誰も……自分も……救えない」
胸の高さにまで上げられた手のひらには、やはり涼子自身が過ごしてきた、彼女にしか感じ取れない何年分かの重みが載っているようだった。すべてを包み込む大きさはいまの桃山にはなく、二人の間に横たわる川は、その深さと厳しさだけを示して立ち入りを拒み続けていた。
緑の線画で構成された二次元の日本海周辺図は、元山《ウォンサン》、楽園《ナグオン》と連なる東海岸側の軍港を発した北朝鮮の艦艇が、九州・山陰地方沿岸に侵攻、空軍と連動して上陸部隊を展開させるまでの工程を、細密にシミュレートしたCGだった。
あくまでも佐世保の第二護衛隊群の出足が遅れ、築城《ついき》を始めとする航空基地の対処が乱れた場合のモデルでしかないが、赤で表示された北の軍勢が、福岡から島根に至るまでの沿岸を着実に変色させてゆくさまには、それなりの説得力と迫力、なによりスキャンダラスなインパクトがある。少なくとも、王仁が教団維持のために吹聴した世界終末論ほどのキワモノ性はあると思い、佐久間は端末ディスプレイから目を離した。
理論の裏づけなどは不必要、そう見えるだけの体裁を整えてやれば人の疑心には火がつき、いったんついた火を消すには、その百倍もの論理と実証が要求される。規模の大小こそあれ、それがデマや中傷と呼ばれるものすべてに共通する特性だった。その意味においては、リ・テイワが作成したシミュレーション・ソフト〈アポクリファ〉は、所期の目的を十分以上に達成している。昨晩、亀戸のビルから回収されたフロッピーディスクを調査にかけ、テイワの仕事ぶりをあらためて確かめた佐久間は、消すには惜しい人物だったとかすかに後悔した。が、無論口には出さないし、表情に現すこともしない。
改築の進む市ヶ谷駐屯地にあって、造成の粉塵に晒されるままになっている古ぼけたビルの足もと――「市ヶ谷」と俗称される組織の本部を収めた地下施設は、組織解体の前段として実施された大規模縮小の嵐を経て、いま再び往時の活気を取り戻しつつある。再雇用に応じた職員の数は、縮小後も踏み留まった者の数を合わせれば三百人をはるかに超え、UNIXのワークステーションがずらりと並ぶこの電算室にも、三十人を下らない人いきれが充満している。公安調査庁再編の名目で確保した予算枠では、すでに不十分な域にまで達しているのだから、しても始まらない後悔に気を取られている余裕は佐久間にはなかった。増村保の始末、回収されたフロッピーに隠匿されたデータの解読と、それでなくても片付けなければならない問題が目前に山積している。
「ソフトのレベルとしては、ちょっと高度なパソコン戦略ゲームといったところなんですが。さすがは天才テイワ、ひと筋縄じゃありません。例の資料を呑み込んでいる分、こちらで保管しているオリジナルよりプログラムサイズが膨らんでいるはずなのですが、走らせると同時にその膨らみをワークエリアに潜り込ませて、サイズチェックをすり抜ける巧妙さで……。『セキュリタリアン』のホストに繋いで、ようやく十キロバイト分の膨らみ検知に成功した次第です」
上石《かみいし》三等空佐は、天才と評されたテイワへの尊敬が半分、嫉妬が半分の声でそう説明する。まだ防衛庁治安情報局と呼ばれていた時代――組織が縮小される以前の「市ヶ谷」で、上石は技術情報部の要職に就いていた男だ。縮小措置で局から外された後は、もともとの出身母体である航空自衛隊に戻っていたが、閑職しかあてがわれなかったらしく、今回の再雇用に二つ返事で応じてきた。久々に味わう興奮に顔を紅潮させている上石を一瞥してから、佐久間はフロッピーの解析状況を伝えるディスプレイに目を戻した。
〈アポクリファ〉の根幹である日本侵攻シミュレーション・ソフト――計画がシナリオ通り進み、自衛隊と警察の反目によって防衛力が機能不全に陥った場合を前提とする、北朝鮮の戦略プラン検討プログラム――の作成は、リ・テイワに一任されていたとはいえ、市ヶ谷も赤坂もオリジナルのバックアップを保管している。上石が言う通り、計画が中止となったいまは高度なパソコンゲームでしかなく、仮に公表されたとしても、マニアが手の込んだいたずらをしたと受け取られるのが関の山だろう。内外の情報部が目の色を変えて追い回す価値はないはずだったが、問題は、増村保に託されたディスクには、オリジナルにはない十キロバイト分の余剰データが含まれている点だった。
日米共同製作の作戦マニュアル、関係者のリスト、各種証書。画像データとして取り込まれた中には、当時の総理の割り印が押された認可証や、大統領補佐官の直筆サインも収められているかもしれない。計画が中止されなければ、北の謀議を立証する動かぬ証拠になる予定だったフロッピーの一枚に、それら舞台裏を暴露する資料が潜り込まされたと知ったのは、いまから三ヵ月ほど前のこと。地下鉄テロ実行と同時に海外に逃亡させた「アポクリファの編纂者」のひとりが、潜伏したプラハのホテルのバスタブで感電死する直前のことだった。
清算の手が下される間際、彼は逃亡を拒んでひとり日本に残ったリ・テイワに、すべての真相を証明する資料を託したことを告白した。それは赤坂の清算を逃れ、市ヶ谷の傘の下に匿われた編纂者たちが独自に収集していた情報で、もし自分たちの誰かが不自然な死を迎えれば、テイワは全世界にその資料を公開するだろう……と叫んだのが、彼の最後の言葉になった。
北の核査察受け入れを最終目的とする〈アポクリファ〉に加わることで、母国に国際社会復帰の道を開こうと夢想したリ・テイワ。総連の排他的活動に嫌気がさし、売国奴の汚名を着せられるのを承知で計画に参加したリベラリストは、しかしそれが市ヶ谷再興の道具に成り下がったとわかった時点で、計画をまるごと潰す準備を進めていたのだろう。いずれ、「はなから国を亡くしている人間が、どこに逃げる必要がある」と言いきり、事件後も日本を離れようとしなかったテイワは、その瞬間からもっとも危険な対象として認識されるようになった。
即時抹消、フロッピー回収を決定した市ヶ谷の命令に従い、警護から清算にシフトチェンジした局員がその任を果たせば、すべてが終わるはずだった。が、ちょっとした駒の読み違い≠ェ、予期し得なかったトラブルを招来する結果になってしまった。
増村一曹の反逆、逃亡。この三ヵ月間、日本の地下社会を騒がせてきた混乱も、今晩でようやく終息を迎える。フロッピーの本当の価値を知らなかったのか、あっさり手放して北への逃亡を図った増村は、テイワの娘ともども間もなく消えてなくなり、治安情報局の再興にひとつ花を添えることになる。暗号化され、裏ログでしか呼び出せないよう細工されたフロッピー内の資料も、|防衛ネットワーク回線《IDDN》の基幹をなすスーパーコンピュータ「セキュリタリアンV」の演算能力にかかれば、ほどなくその全貌をディスプレイに表示するだろう。
上石は、誰の益にもならないデータの解読に手間をかけるより、そのまま破棄した方がよいと提案していたが、佐久間にはその気はなかった。どんな内容であれ、厳重に秘匿された内部資料が編纂者たちに漏れていたのだとすれば、現物を吟味し、リーク元を追及する作業は必須事項となる。途中まで手を貸しておきながら、土壇場で宗旨変えするような者たちを許す気はないし、そうした中途半端さが世界を混沌の中に置き、自分たちにも煮え湯を飲ませ続けてきたという現実も、忘れるつもりはなかった。
「変節には、死をもって報いる。それが軍人だ」
変わらない――変わりようがなかった自分の不器用を右手の古傷に確かめて、佐久間は我知らず口にした。上石がちらと振り返ったが、聞き返す愚は犯さず、すぐにディスプレイに向き直っていた。
電算室の扉を潜ると、複数の端末が発する防熱ファンの唸り、いつでも強めに調節されている空調の風が全身を包んだ。かつての活気を取り戻した電算室を見渡し、つかの間タイムスリップした気分を味わった涼子は、上石三佐と並んで立つ佐久間の冷笑を視界に入れて、目のやり場を床に求めた。「警備員殿のご機嫌はどうだ?」という声が間を置かずかけられ、わかっていてもぴくりと肩を震わせてしまった。
全国方面本部間に独自の回線を張り巡らせ、外部アクセスのいっさいない閉鎖ネットワークを構築するセキュリタリアンVは、IDカードの管理から各種警報装置の管理までを一括して行っている。IDカードに打ち込まれたクラスによって、各種特別警備地区への立ち入りを管理――すなわちIDカードを鍵代わりに使っている都合上、ひとつのシステムに身分登録と警報の二つを同乗させる必要があり、そのために生じる危険は、何重ものインターロックとシステム監査によって償却されていた。
その性能を実証するように、佐久間の傍らにある端末にはリーダー・プロファイル――ビル内各部屋の入退室記録――が、時刻からIDナンバーに至るまですべて表示されており、彼は桃山のいる拘置室に涼子のカードがアクセスしたのを目敏《めざと》く読んで、冷やかしともつかないそんな言葉を吐いたのに違いなかった。大人の男の放任を気取る一方で、行く先々に柵を打ち込み、自分の掌中にあることを誇示する。佐久間とは、そういう男だった。
「……なぜ、直接出られたのです?」
それが、心地好かった時もある。呟く内心を無視して佐久間に近づき、涼子は彼にだけ聞こえる声で尋ねた。桃山拉致の現場仕事に、佐久間が直接出向かなければならない理由はない。公私混同の厚顔無恥をひっぱたくつもりの質問だったが、「君の気を魅《ひ》いた男がどんな顔をしているのか、興味があったんでね」と返されれば、続く言葉は霧散した。
「君のファザーコンプレックスを再確認しただけだったがね」
冷笑を崩さず、佐久間は続ける。満足か? と言いたげな声音に、胸のどこかが弾け、長く溜め込んでいたものが漏れ出て、自分でも驚くほど、佐久間に対する気持ちが退いてゆくのを涼子は感じた。
自分のような女でも、必要としてくれている人がいる。数分前に聞いたばかりの声が風になり、目の前にかかっていた靄《もや》を吹き散らしたようだった。この男にこそ、一緒に見る未来はない。ディスプレイに戻した佐久間の横顔を窺い、そう断じた涼子は、大柄の背中から無意識に半歩遠ざかっていた。
床下に無数のケーブルが這い、マシンの防熱ファンが唸り続ける電算室は、台地上に設営された駐屯地の利を活かし、広大な空間を確保した本部地下設備の最下層フロアをまるまる占拠して広がっている。システムオペレーターたちがそれぞれのワークステーションに向き合う列の向こうには、移転に伴い、六本木本庁から運び込まれたばかりのセキュリタリアンのメインホストがあり、無数の作動灯とモデムの通信ランプを点滅させる大型冷蔵庫の外観を、嵌め殺しの窓ごしに見ることができた。
人の頭では一生かかっても終わらない演算を数分で処理する能力を持つ電子頭脳は、目下総力をあげて〈アポクリファ〉のフロッピーディスクの解析を進めている。隠された資料を呼び出すには裏ログの検索が不可欠だが、膨大な組み合わせが想定される七桁のパスワードのうち、セキュリタリアンはすでに六桁までの解読を終了していた。解析結果を伝える端末ディスプレイには、〈Apocrypha〉のタイトルの下、六つの確定したパスワードを示す四角いカーソルが映し出されており、その隣で未確定の点滅を続ける七つ目のカーソルが、最後の抵抗という言葉を涼子に思い出させた。
テイワ、保、葵、それに桃山。他にも大勢の人間が関わり、誰もが自分にとっていちばん大切なもののために守り通してきたフロッピーが、その価値を失おうとしている。思わずディスプレイから目を逸らした涼子は、瞬間、電算室中に響き渡った警報の音に顔を上げた。
「ウィルス発見! メインホスト防壁に接触」
すぐにリセットされたブザーの後、シスオペの報告が飛んで、電算室の空気が変わった。「バスターを走らせろ」と上石が指示するより早く、オペレーターの手が素早くキーボードを叩き、ウィルス撃退のワクチンプログラムを投入する。涼子は反射的にディスプレイに目をやり、〈アポクリファ〉の解析状況を伝える画面を凝視した。外部アクセスゼロのセキュリタリアンに、ウィルスが侵入する可能性はたったひとつ。外から持ち込まれたソフトに付着していたとしか考えられない。佐久間も同じ結論に至ったらしく、「これか?」とディスプレイを一瞥した冷たい目を、上石に転じていた。
「ありえません。端末のOSにも、二重三重の防護措置が施してあるんです。万一、このディスクにウィルスが潜んでいたのだとしても、ホストにたどり着くなんてことは金輪際……」
緊張のためか怒りのためか、顔を青白くさせた上石がそこまで言った途端、ディスクの解析終了を告げるアラームが鳴った。
それが始まりだった。リセットされた警報が再びわめき出し、「ウィルスが防壁を突破しました!」と、悲鳴に近いオペレーターの声が電算室を揺るがした。
「デバグのトラップドアから中枢プログラムに侵入。|割り込み処理《イント》でデータを改竄中」
「こちらの暗号表を使って……まずい、Eモードが発令されました! バックアップへの移行が拒絶されます」
「停止信号送れ!」と上石。ホストのCPUに問答無用で処理中断を命じるキーが打ち込まれたが、〈Eモード〉の表示が消えることはなかった。「ダメです。FINGERとRHOSTを改竄。端末からのアクセスはできません」
ネットワークにぶらさがった端末の、住所録ともいえるデータベースの自己改竄。考えられないことだった。これですべての端末は名なしの迷子同然となり、親であるホストとの会話ができなくなってしまう。発令された〈Eモード〉のために、二つあるバックアップ機への切り替えも不可能になれば、ウィルスの侵食を阻止する手立てはない。せめて汚染を最小限に留めるべく、ネット内の駐屯地にシステム遮断を要請するしかなかった。
早速、電話連絡を始めた上石たちの喧噪をよそに、涼子は解析終了のまま静止したディスプレイに視線を戻した。七つのカーソルがそろったタイトル画面の中、〈Apcrypha〉の文字に変化が生じようとしていた。
〈Apo〉から下、〈crypha〉の文字が、水に溶けたように滲み、形を失い、別の単語を構築してゆく。〈c〉は〈t〉に、〈r〉は〈h〉に。生物の変態さながら、それは〈Apotheosis〉とタイトルの形を変えた。
「アポトーシス……」
思わず口にすると、降ってわいた異常事態に堅い沈黙を守っていた佐久間も、隣に並んでディスプレイを覗き込んだ。いら立ちを宿した目が涼子の目と合い、直後、すべてが闇に包まれた。
停電。それこそもっとも考えられない事態だったが、一秒未満で切り換わった非常灯のねっとりした赤色を、他に説明する言葉もなかった。パニック直前の静寂が降り、それを破って、床下から鈍い震動が這い上がってきた。
地の底で、巨大ななにかが倒れたような音。地震の類いではないと、衝撃の伝わり方から涼子はすぐに判断した。
爆発――。
ズシンと腹に響いた揺れは、バンの運転席にいても十分に感じ取れた。一拍置いて、雷鳴に似た爆発音が深夜の外堀通りに響き渡り、爆圧で持ち上げられたマンホールの蓋が数センチ浮き上がる。
予期した通りのものであっても、進路上のマンホールから黒い煙が立ち昇る光景を前にすれば、男は思わずハンドルを切ってしまっていた。大きく蛇行したバンのタイヤが派手に軋み、二度目の爆発音がそれに相乗する。窓と天井に手をついて体を支え、「なにやってんだ!」と怒鳴りながらも、後部座席の相方は道具の準備を進める手を休めなかった。
荷台に積まれた小型発電機のような機械は、ロシア製のECM装置。クーデター未遂を演出する効果の一環として、教団施設に隠匿されていた小道具のひとつだが、一応、電波妨害という本来の役目を果たすこともできる。電源はカーバッテリー数十個を直列に繋げてカバー、放射板は衛星放送用のディッシュアンテナ三つで代用する。「動いてくれよ……!」と祈りつつ、後部座席の男は塞いだ窓の向こうにアンテナを向けた。運転席のコンソールから聞こえていた警察無線の音が、不意にわき起こった激しいノイズにかき消され、彼の祈りが聞き届けられたことを伝えた。
あわてて通用口から飛び出してきた警衛の陸士が、途絶した無線に必死に呼びかけているのが見え、そのうしろにちらと見えた警衛所では、当直責任者らしい中年の陸曹が、やはり断線した内線電話の受話器を手に怒鳴っている姿がある。人力で非常呼集をかけ、未装填が当たり前の小銃と短銃に実包を込めて、まがりなりにも応戦態勢が整う頃には、すべてが終わっていることだろう。
作戦の第一局面《フェイズ1》は終了、これより第二局面《フェイズ2》スタート。間もなく殺到してくるはずの警察と消防が道路を封鎖する前に、周回しつつ離脱する。頭に叩き込んだ道路地図を呼び出して、男はバンの速度を上げていった。
激震に転がされ、便器にしたたかぶつけてしまった頭が疼《うず》いたが、さすっている余裕はなかった。非常灯の赤色ランプに照らされたドアを力任せに叩き、桃山は「おい、ここを開けろっ! なにがどうなってんだ!」と、がなれるだけの声でがなった。
パニックは、与えられた情報が少ない分、より重く桃山にのしかかっていた。非常ベル、怒号、走り回る足音の喧噪がかすかに聞こえ、断続的な震動と、遠雷を思わせる重低音が足もとの床を突き上げる。火事だか地震だか知らないが、こんなどこともわからない場所で缶詰にされたままくたばるのだけはご免だ。あきらめの境地もなにもかもかなぐり捨て、びくともしないドアを叩き続けて十数分。すぐ隣に落ちた雷の轟音《ごうおん》とともに、唐突にぶり返した激震が床を大きくスライドさせて、桃山は今度は尻もちをつく羽目になった。さらに激しさを増した怒号と足音がドアの向こうに渦巻き、なにかが弾ける音が混ざるのを耳に入れて、ぞっとなった。
銃声? 非常電源設備も破壊されたのか、赤色ランプも消えて真実の闇が覆うようになった部屋の中、その推測が桃山の頭と体を硬直させた。だしぬけに静寂が戻り、ドアに耳を当てて外の気配を探ろうとした刹那、カチリと鳴った解錠の音が奇妙に大きく響いて、桃山はあわてて身を退けた。
ドアが開き、通路に立ちこめる硝煙《しょうえん》の臭いが鼻をつくと同時に、短銃を片手にした男が一歩部屋に足を踏み入れてきた。何度か食事の差し入れにきた張り番のスーツ姿だったが、右手に握ったオートマチックはだらりと下を向き、焦点の定まらない虚ろな目は桃山をすり抜け、背後の壁に向けられている。声をかけようとした時には、その長身が前のめりに倒れ込んでいた。
咄嗟に避けた桃山は、背中に突き立てられたナイフの柄を見るより先に、その向こうに立っていた人の存在に気づいて、開いた目と口が閉まらなくなった。
「保……!」
非常灯の暗い赤色が照らす下、爆煙らしい筋がたなびく通路に、いつもの無愛想がグロックを片手に立ち尽くす姿があった。「動けるか?」と言った保に、「……ああ」と頷いてみせると、グロックのグリップが無言のまま突き出される。「使えるな?」と続いた有無を言わせない声に、桃山は口を開きっぱなしのまま、両手でグロックを受け取った。
このバカ、葵との北行きをキャンセルして、ここに殴り込みでもかけてきたのか。プラスチック製とはいえ、詰まった弾の重さでずっしりしているグロックのスライドを心持ちずらし、初弾の装填を確認した桃山は、煤に汚れた保の顔に探る目を向けた。硝煙だけではない、ケーキを焼いたような甘ったるい匂いを含んだ煙が染み、すぐに目をしばたかせてしまったが、極限まで五感を研ぎ澄ました保の横顔には、ふやけた想像はどのみち無用だった。一秒後の生死を自分の力でもぎ取らなければならない、戦場に生きる兵士の顔がそこにはあった。
「警報装置は死んでるが、人は生きてる」
ドア枠に身を寄せ、新たにかすめ取ったらしいSIGザウエルの銃口を床に向けつつ、保は通路の左右に無駄のない視線を飛ばす。ちらと振り返った目は、桃山ではなく、うつ伏せに倒れた張り番の男に向けられていた。
「覚悟してここに居残ってる連中だ。死にたくなかったら、躊躇するな」
背中に突き立ったナイフは、第三と第四肋骨の間――肺を貫いて捻ってある。声も出せずに即死したことだろう。自分が何者で、なにをやっているのか承知している連中に、下手な人道主義は命取りになるだけと教える保の言葉に、桃山は「あいよ」と応じてグロックのグリップを握り直した。喜び勇んで人を殺す気はないが、なにもしないで殺される気はもっとない。
「言っとくが、おれの射撃はかなり下手っぴだぜ。おめえが両手で持ってた方が……」
一部の警察キャリアは、日本の警官は三十メートル先のカレンダーの文字を任意に撃ち抜けるなどと嘯いているが、三ヵ月に一度の実射訓練で技能上達が望めるはずもなく、桃山の射撃の腕は「かなり下手」と、「すごく下手」の間の領域を漂うのに終始していた。現場での発砲経験もなし。どだい、チャカに頼るような奴は警官の名折れという風潮が当たり前になっているのが、この国の警察だ。
決死の脱出行をやらかそうというなら、自分が持つより、保の二丁拳銃の方が無駄弾を節約できる。桃山は本気で提案したつもりだったが、「これよりはマシだ」と差し出された保の左手に、その先の言葉を遮られた。
まだ凝固しない血を滴らせた手のひらは、ここに到達するまでの苦難を証明しているように見えた。ぎょっとなったこちらをよそに、姿勢を低くした保の体が走り出して、桃山はためらったのも一瞬、夢中でその後を追った。
見た目は普通のオフィスビルと変わらない通路は、充満する煙がただでさえ薄暗い非常灯の明かりを隠し、爆発に崩された天井と壁の訂礫が一方の道を完全に塞いで、落磐事故直後の坑道といった様相を呈していた。スプリンクラーのパイプから漏れ出た水が床を浸し、天井の電気配線が時おりショートの火花を爆《は》ぜさせる。頭上に交錯する殺気だった人の足音は、救助隊のものではなく、侵入者を追い求める番犬たちのものだろう。
無闇に指示の声を張り上げたりせず、自分の位置と指揮系統の保全に配慮しているところは、さすがプロの行動と言うべきか。水浸しの床を蹴立てて走りながら、桃山は逃げられっこないと騒ぐ胸の焦燥が、汗と一緒に流れ落ちてゆくのを感じていた。
ろくに先を見通せない薄闇であっても、そこには自分の力で引き寄せられる未来がある。ふと涼子の顔が脳裏をよぎり、桃山は先を走る保に負けじと足を動かした。
非常灯が照らす薄闇に、蓄電池に電源を保証された端末のディスプレイが明るく映えていた。ダウン表示を出したまま停止しているワークステーションには、もうそうして電灯代わりを務める以外、立つ役はない。一瞬に目も耳も口も奪われ、恐怖と絶望だけが残された電算室で、佐久間は、もはやまったく手遅れで意味のない上石たちの修復作業を他人事の思いで眺めていた。
コンピュータ・ウィルス――いや、それ自体独自に動作し、ネットワーク内部を荒らし回ったという点では、ワームの名を冠した方が正しいのかもしれない。なんであれ、〈アポクリファ〉の中に潜んでいたプログラム「アポトーシス」は、セキュリタリアンVの中枢に取りつき、プログラムを書き換え、接続されたコンピュータと端末すべてに自己の複製を送り込んで、ネットワーク全体を麻痺させるという所期の目的を見事に果たした。
十キロバイト分の膨らみ――舞台裏暴露の資料を呑み込んだものと決めつけていた、オリジナル・ディスクにはなかったデータの膨らみこそが、ウィルスの住処《すみか》になっていたのだろう。リ・テイワはそれを増村保に託し、増村はこうなることを見越した上で、あの桃山という男にフロッピーディスクを預けたのだ。
一般のパソコンと異なり、セキュリタリアンのような超大型コンピュータは、そのプログラムの秘匿性と閉鎖環境という条件から、ウィルスの侵入は極端に困難になる。が、セキュリタリアンVのシステム開発に携わった人間が、ウィルス作りにひと役買わされていたのだとすれば、話は当然違ってくる。〈アポクリファ〉作成時、協力と監視の因果を含めてテイワのもとに送り込まれた技術情報部員が、あくまでも技術論の延長として、セキュリタリアンVのプログラムについて口を滑らせてしまった可能性は否定できない。自分も局も――いや、市ヶ谷再興を推進するすべての者が奸計《かんけい》にはめられた現実を認めて、佐久間はテイワの遺産が為した破壊と混乱をあらためて反芻した。
それは、巧妙な敵地制圧作戦そのものだった。「トロイの木馬」と呼ばれるタイプのウィルスのように、解析プログラムの干渉を引き金に覚醒したアポトーシスは、デバグ用のトラップドア――ブログラム・ミス修正を容易にするため設けられる一種の隠し扉――から、セキュリタリアンVのメインホストに侵入。割り込み処理で中のプログラムを書き換え、〈Eモード〉――非常事態対応モード発令を指示した。
大規模災害、もしくは敵の攻撃によって副と予備のバックアップ機が破壊され、電源も遮断された場合にのみ発動される〈Eモード〉は、セキュリタリアンVに徹底したスタンドアローンの環境設定を行わせ、機密保持のため、いっさいの外的操作を拒否させるようプログラムされている。バックアップ機への移行はもちろん不可、電源を切っても内蔵蓄電池で動き続けるという頑固さで、止めるには本体を叩き壊すしかない。直結した端末を使い、所定のパスワードを入力すれば解除もできただろうが、アポトーシスにはその対策も含まれていた。
ネットに繋がるコンピュータ内のデータやプログラムを相互に使い合える、UNIX・OSの開放的な特性を逆手に取ったアポトーシスは、マシン語に翻訳《コンパイル》した自身の複製を電子メールの形で送付した後、TELNETと呼ばれる遠隔操作機能を利用して、各ワークステーションのOS内でもとのプログラムに再翻訳した――つまりすべての端末に卵を産みつけ、端末自身の機能を使ってそれを孵化《ふか》させるという離れ業をやってのけたのだ。結果、ネット内のコンピュータは大半が壊滅状態に陥り、生き残ったものにしても、FINGERやRHOSTといったユーザーID番号表を改竄されたために、メインへのアクセスはおろか、相互通信さえできないありさまになってしまった。もはやセキュリタリアンVに接触する術はなく、人力で配線を付け替えて一からシステムを立ち上げ直す間に、物理的な制圧作戦が市ヶ谷を襲っていた。
ダウンした警備システム、作動停止した警報センサーは侵入者の存在を伝えることなく、ループ構成の電源三系統は根元からあっさり切断された。陸・海・空の通信群と、その需要に応えるレーダーと通信塔を擁する市ヶ谷駐屯地では、有事に備えて大出力の自家発電システムを完備しているが、特高受電ケーブル正副二本と同時に、発電所の送電ケーブルも爆破されてしまえば、後は各隊舎・庁舎内の非常電源だけが頼りになる。ケーブル破壊後、最初にこの情報局ビルの発電室が爆破された経緯からも、侵入者の狙いは明白だった。主要な外灯と警報センサーは蓄電池を備えているから、駐屯地全体がいきなり闇に包まれる事態は避けられたものの、それらのシステムを統括するセキュリタリアンVのプログラムが破壊されていれば、結果は変わらない。探る目を失ったところに、通信設備壊滅の報せも飛び込んできて、事実上、陸の孤島と化した市ヶ谷駐屯地の現実が佐久間たちに突きつけられた。
切れた警報装置をいいことに、メンテナンス用のマンホールから地下に潜った侵入者は、通常の電話回線、非常用回線のケーブルを保護被膜ごと爆破。携帯電話はもちろん、VHFとUHFの長短無線波帯も、駐屯地周辺を取り巻くジャミング波――おそらくは移動中の車輌に搭載されている電波妨害装置《ECM》によって、沈黙を余儀なくされた。頼みの綱のマイクロ送信波の無力化に至っては、笑ってしまうほど単純かつ効果的な方法で為された。侵入者と連動して動き出した複数の襲撃者は、通信塔を始め各所に設置されたパラボラを、駐屯地外のビルの屋上から一斉にライフルで狙撃したのだ。もともと指向性の強いマイクロ波は、パラボラの角度を少し変えてやるだけで受発信不能に陥る。襲撃者たちはそれを熟知しており、わずかな戦力で的確に急所だけをつくその戦術、尻尾をつかませない迅速な行動が、彼らの素姓をすでに物語ってもいた。
ライフル、ECM装置、それにアポトーシスの潜んでいたフロッピーディスク。どれもが〈アポクリファ〉の演出小道具であり、クーデター色を弱めたシナリオに合わせて、強制捜査直前に教団施設から撤去したものばかりだった。それを持ち出し、運用できる者は自ずと限られてくる。かつての仲間たち。ここで同じ血を流し、浴び、共に戦隊を舐めてきたはずの同志たちだ。
電波とコンピュータネットワークの途絶も、本部ビルへの直接攻撃も、市ヶ谷の占拠や壊滅を目的としたものではないだろう。ただ防衛本庁の事態把握が少しばかり遅れ、永田町シンパの手が回るより先に警察やマスコミが騒ぎ出せば、彼らの狙い通りの結果が招来される。公安調査庁再編という約束手形を発行させたとはいえ、永田町にも霞が関にも、まだどう転ぶかわからない不安定な空気が流れているのだ。いっさいの通信が途絶し、地下から黒煙を噴き上げる首都圏防衛の拠点を目の当たりにすれば、隣接する機動隊も消防も黙ってはいない。立ち入り要求は受け入れざるを得なくなり、それはそのまま、市ヶ谷再興に異議を唱える反対派たちに巻き返しの糸口を与える結果にもなる。かつての職場の再興を阻《はば》むために、彼らがこの大がかりな芝居に打って出たのだろうことは疑う余地がなかった。
愚かな連中。完全に嵌められた怒りよりも、同じ痛みをわかちあった者たちが、見当違いの牙を剥いてきた事実が佐久間には許せなかった。感謝の言葉ひとつかけられず、いままで存在していたことさえ否定され、打ち捨てられた恨み。なんの補償も与えられず、罪人さながらの制約された生活に閉じ込められた悔しさ。それらすべてを聖人のように許し、残された時間を逼塞して生きたいというなら、それもいいだろう。ただ、邪魔はするな。この国に体格に見合った剣と楯を持たせ、これからの苛酷な時代を生き抜くための自覚と自立を促そうとした、当然の行為の邪魔だけはしてくれるな――。意味をなさないバイナリファイルの羅列をスクロールさせる、ガラクタ同然のディスプレイの列を見つめながら、佐久間は滲み出た忿懣の液体が凝集し、頭の一点で固体化するのを知覚した。襲撃者たちを結集させる起爆剤となり、おそらくは単独でここに乗り込んできているだろう少年の顔が、熱い棒になった思考の中にゆっくり立ち上がっていった。
「セムテックスを使ってます。B4とB5に回った班は全滅。例の監視対象者《サブジェクト》を連れて逃亡した模様」
システム再立ち上げの喧噪の中で、侵入者の狩り出しに動いている部下の声はひどく落ち着いて聞こえた。増村保。沼崎の遺した不良品が、この襲撃の中核にいる。桃山を救い出し、テイワの娘を無事に逃がすため、この市ヶ谷に捨て身の攻撃を仕掛けてきた。中性的に整った顔立ちに、師匠譲りの冷徹な光を蓄えていた目を思い出し、「……やさしくなったものだ」と独りごちた佐久間は、事態に対応するための顔を上げた。
生かして帰すなと、間抜けな悪役のセリフを吐く必要はなかった。目で頷いた部下に、佐久間は代わりに「〈鷲〉の状況は?」と尋ねた。横田から届けられた荷物は、搬入の報告を受けて以来、佐久間の意識の外にあった。
「組み立ては完了しています。現在、索敵システムの整備を……」
「発進急がせろ。最優先だ。指揮所は衛星監視室に置く」
地下施設最下層にある電算室のさらに下、そのためだけに掘り下げられた地下空間に位置する衛星監視室は、電算室以上に高い警備レベルで守られている。そこを指揮所に選んだのは、パラボラの復旧が終われば最初に通信が再開できるばかりでなく、間もなく殺到してくるだろう外野の野次に邪魔されずに、予定通りのシナリオを進められる機能と機密性を備えているからだった。
そう、まだ終わったわけではない。切り札はこちらの手中にあることを確認して、佐久間は電算室を後にした。立ち上げ作業に余念のないオペレーターたちは、誰ひとりこちらを振り向こうとはせず、ただ上石の悲鳴に近い声だけが佐久間の背中を打った。
「ああ……! ウィルスが消えてゆく」
その場に膝をついた上石の前で、ディスプレイ上の文字が消滅を開始していた。自己消去は、それほど特別な技量を要するプログラムではない。軍事転用すれば最強の兵器にもなり得るウィルスに自滅の因果を含ませたのも、平和論者リ・テイワの良心というところか。その偽善も、希代のウィルスの解剖を果たせずに嘆く技術屋の背中も、唾棄すべき対象でしかなかった。アポトーシスの名前に相応しい帰結を迎えたウィルスに納得して、佐久間は足早に電算室のドアをくぐった。
「自殺遺伝子……?」
迷路のごとく入り組んだ造りは、襲撃や占拠に備えた結果なのだろう。明滅する非常灯が頼りの薄闇、おまけに床がスプリンクラーの放水で水浸しになっていれば、滑らないように移動するだけでもひと苦労だったが、追う側も同じと思えば文句は言えない。台地を利用して作られた広大な地下設備の中、保の背中を追って爆煙のない区画にまで逃れた桃山は、自分に渡されたディスクの正体と、その名前の由来を聞かされたところだった。
「神格化ってのが本来の意味らしいけど、生物学ではそれで通ってる。DNAの中にあらかじめ組み込まれている自滅促進プログラム。オタマジャクシが蛙《かえる》になる時、尻尾がなくなるだろう。あれの働きのことを言うらしい」
それが、アポトーシス。取り憑いたプログラムやデータに自滅を促《うなが》した挙句、最後は自らも消滅するコンピュータ・ウィルスの名前としては、これ以上ぴったりのものもない。不用心に喋っているように見えて、その実、目も耳も一瞬たりと休ませずにいる保の後頭部をちらと窺い、「なるほどな」と感心した桃山は、不意に形を結んだ思いつきに恨む目を向け直した。
「……おめえ、おれがとっ捕まるのを計算に入れて、あのディスクを渡しやがったな?」
市ヶ谷に〈アポクリファ〉のディスクが渡り、虎の子のスパコンネットの解析に掛けられるお膳立てを調《ととの》えるには、自分という素人の媒介こそが適当だったのに違いない。またしても一杯食わされたとわかり、歯噛みするしかない桃山をよそに、保は「あんたが捕まったのは計算外だ」と冷静だった。
「さっさとディスクを奪られて、金谷と一緒に逃げてればこんなことにはならなかった。とんだお荷物だ」
ぶすっとした保の声は、自分と同じ不器用な命に向けた親しみを含んで、どこかやさしく響いた。身近な匂いを確かめて、桃山も照れ隠しに鼻を鳴らした。
「おれだってよ、いま頃おめえは海の藻屑《もくず》になってんだろうって、ほっとしてたんだ。またその面を見る羽目になるとは思わなかったぜ」
「またなって言ったのはあんたの方だろう」と保。顔をしかめかけた途端、シャツの切れ端で心ばかりの応急手当を施した保の左手が不意に上げられ、桃山は立ち止まった。
敵だ。壁につき当たった通路が二本に分岐するT字路の手前、犬の嗅覚でその存在を知覚したらしい保のうしろで、桃山もつい先刻教わったばかりの屋内戦闘射撃《インドア・コンバット・シューテング》の基本を頭に並べ、取るべき行動を反芻した。一度の掃射で二人とも被弾しない程度に離れ、互いを援護できるぐらいの距離を保つこと。背中を庇《かば》い合うこと。目を動かす時には銃口も一緒、グリップを保持する両手の力は均等に。指はトリガーセーフに固定、撃つ時以外引き金には絶対触れないこと……。
スプリンクラーの残り水が床に滴《したた》り、いやに大きな音を立てる。壁に背を当て、ぎりぎり張られた弦《つる》の緊張を漂わせた保の背中を見ながら、巨体をすぼめた桃山も五感を凝らしたが、人の気配さえ感じ取ることはできなかった。汗でぐっしょり濡れたグリップを持ち直そうとした時、明滅する非常灯が銃をかまえた人影をT字路に一瞬浮かび上がらせ、桃山がぎょっとするより先に、即座に反応した保の左手が一閃した。
相手の手首をつかんで引きずり寄せ、同時にもう一方の手で左肩を押し、相手の体に接触しないよう素早く自分の身を捻る。絵に描いたような腰投げが決まり、不意をつかれた大柄が床に叩きつけられた。間を置かず、保は仰向けになった相手の首筋に手刀の一撃をたたき込む。ゲッと白目を剥かせた手際は見事の一語だったが、直後に銃声が轟《とどろ》き、弾着の火花が壁に弾ければ、感心している間はなくなった。右手の階段口と、左手の機械室ドア。いつの間にか殺到してきた追手が、警告もなにもなく発砲を開始したのだった。
短銃だけではない。日本にあるとは聞いたことがない、H&K製のMP―5型軽機関銃までが動員され、轟音と銃火《マズルフラッシュ》の閃光が通路に吹き荒れる。フルオートが吐き出す滝のような十字火線に捕獲の意思はなく、ただ仕留めるためだけに放たれる弾丸の群れに、桃山は気休めの応射をしつつ後退するよりなくなった。
意味不明の大声を張り上げながら、とにかく引き金を搾り続ける。指の力みが銃口をぶれさせ、狙った覚えのない床や壁にばかり弾着の火花が散ったが、黒ずくめの保安要員たちは安易に敵を見くびりはせず、迂闊に攻め込む愚も犯そうとはしない。互いをカバーしあい、確実に間合を詰める基本戦術を遵守して、徐々にこちらに近づいてくる。熱い塊が頭のすぐ横を通り過ぎ、砕けた壁と硝煙が視界を白く塗り潰す中、桃山は自分の頭も真っ白になってゆくのを感じていた。自分の体がどう動いているのかもわからず、ひとつ手前の階段口まで戻りかけた途端、背後に回った追手の銃撃も開始され、飛んできた火線が脇の下をかすめる感触にひやりとなった。
ヤバい。白熱した頭に命じられるまま、通路に面したドアの鍵に立て続けに銃弾を撃ち込んだ桃山は、正面の敵に弾幕を張るので精一杯の保の襟首をひっつかむや、文字通りの体当たりをドアに敢行した。二・五人分の体重の激突にドアが弾け飛び、コピー室らしい小部屋に転がり込んだ直後、一秒前まで自分たちがいた壁が左右の火線に曝され、ぐずぐずの蜂の巣になる。あと少し建て付けが頑丈だったら、挽《ひ》き肉にされているタイミングだった。
が、ほっとしている場合ではない。覆いかぶさった体の下から這い出し、ドア枠に身を寄せて応射を始めた保に倣《なら》って、桃山もグロックの引き金を搾った。それぞれが左右の敵に弾幕を張り、保のカバーする右手の火線は多少勢いを失ったようだが、桃山の対する左手の火線はまったく衰えず、代わりにそれまで元気に空薬莢《からやっきょう》を排出していたグロックのスライドが、後退したきり動かなくなった。
弾切れだ。「本当に下手だな」とぼそっと呟かれた保の声が、銃撃の嵐の中でも明瞭に聞こえた。
「やかましい! 警備員は射撃なんぞ上手くなくたって勤まるんだ」
一瞬後には頭を吹き飛ばされるかもしれないジリ貧の状況下では、そんな軽口の叩きあいが恐怖を払い、集中力を維持させる助けになることもある。保の目が素早く走り、斜め向かいの壁にある階段口の防火ドアで止まると、桃山を振り返った。こちらももう残弾は少ない、火線の切れ目を狙って、いちかばちかあそこまで走り抜ける。言葉より雄弁に語った目に頷いた桃山は、その途端、カラカラと場違いに間抜けな音を立てて床を走ってきた物体に目が釘付けになった。
ローラースケート程度の大きさの台車に載せられた、それは黒い弁当箱に見えた。こちらに向いた蓋面には、〈FRONT TOWARD ENEMY〉(この面を敵に向けるべし)の文字が浮き彫りされている。爆弾の類い? こんな狭い通路で使ったら、連中もただでは済まないだろうにと真っ白な頭で考えた瞬間、「クレイモアだ……!」と呻いた保に肩をつかまれ、桃山は部屋の奥に引き込まれた。
ドアを蹴り閉め、事務机をはね上げて防壁代わりにすると、保は耳を塞いでその場にうずくまる。わからないままに桃山が真似した直後、爆発の強烈な衝撃と音がドアの向こうに発し、トタンに大量の小石をぶつけたような音が耳を聾《ろう》した。
対人用指向性地雷、とでもいうのか。弁当箱内部の爆薬が起爆し、内蔵する大量の鉄球が扇状にばらまかれて、殺傷範囲を限定した爆風に乗ってドアを壁ごと粉砕する。楯にした事務机にもパチンコ玉大の鉄球が無数にめり込み、爆風で部屋の壁に叩きつけられた桃山は、陰湿なまでに巧妙な殺人道具に胸糞を悪くする間もなく、ひしゃげた机を足ではね除けた保に引き起こされた。
硝煙と粉塵で灰色に閉ざされた視界が、いまはこちらの味方になる。「行くぞ」と言うが早いか走り出した保の背中を追いかけ、桃山も瓦解《がかい》した部屋の戸口を抜けた。いくつかの銃声が弾ける音を聞きながら通路を横切り、階段口に飛び込む。あわてて殺到する足音を尻目に防火ドアを閉じた保は、把手に空のマガジンを差し込み、かんぬき代わりにしてから、ようやく溜めていた息を吐き出した。思い出したように噴き出し始めた顔の汗を拭い、桃山もひとつ大きな息をついた。
拳で叩かれた後、銃弾のノックが開始されたドアから離れて、桃山と保は地上に向かう階段を昇り始めた。非常階段は七層に分かれた地下設備の上下に通じていたが、他の階から敵が飛び出してくる気配はなく、無線が使えず難儀している追手の苦労を想像させた。
保の仲間が電波妨害装置を積んだ車で走り回っている成果なのだろうが、それで袋の鼠の状況がカバーしきれるものでもない。迷う様子もなく階段を昇ってゆく保の背中に、桃山は「脱出のプランはちゃんとあるんだろうな」と聞いてみた。このまま地上に出て、小銃を担いだ陸士たちとさらに一戦交えるというのは、勘弁してもらいたかった。
「逃げるために来たわけじゃない。まだやることが残ってる」
こちらの思いは毛の先ほども気にしていない声で、保は平然と答える。そこから先は立ち入らせるつもりはないとでも言いたげな声に、桃山は「冗談よせ」とその肩をつかんでいた。
「そうやっていつでも独りでやってきたんだろうがな、今度はそうはいかねえぞ。おめえの隣にゃ、このおれがいるんだからな」
振り向いた保の瞳は、しかし揺れるのを隠してすぐに背けられた。銃弾がドアを叩く音を足もとに聞きながら、桃山は必死の目を保の横顔に据えた。
「ちったあ周りにいる人間のことも考えろっつってんだ。おめえが死んじまったら、葵はどうなる。おれや涼子、金谷だってそうだ。みんな伊達《だて》や酔狂でおめえに関わったわけじゃねえんだぞ」
「……わかってる」やんわり肩の手を払い、保は煤に汚れた神妙な顔をまっすぐ桃山に向けた。「そのために必要なことだ。葵はじきに北の迎えと接触する。おれの代わりに船に乗った、金谷も一緒だ」
監視衛星が捉えたという、瀬取りの漁船に乗り込んだ男女の正体。すっかり忘れていた疑問が解消され、桃山はつかの間絶句した。
「北は、はなからおれたちの回収はあきらめてる。会合ポイントもなにもかも、佐久間に筒抜けだ。だが無事に向こうにたどり着くことができれば、まだ勝算はある」
打算の渦巻く世俗から一歩離れて、保の目はいつも以上に透徹したものに見えた。「……どうしようってんだ」と呻いた桃山に、保は初めて会った時から変わらない、退くことを知らない表情ではっきりと答えた。
「言ったろう。葵を守るのが、おれの任務なんだ」
衛星監視室に下りるまでに、事態は想像通りの進展を迎えていた。環線送電ケーブルの切断は、隣接する第四・第五機動隊本部からも光を奪い、壁ひとつ隔てた駐屯地から爆発の煙が噴き上がるさまも目撃した彼らは、当然の行動として立ち入り調査を要求。桜田門本庁からの応援はもちろん、消防から電力会社、ガス会社の対処要員までが殺到してきて、誰も入れるなという命令しか受けていない警衛たちと、入れろ入れないの押しくら饅頭《まんじゅう》が繰り広げていると、様子を見に地上に出た部下の一報だった。
すべては、通信が途絶し、中央の事態把握が遅れたために起こった混乱と言えた。それぞれが独自の責任と判断で押し合いへし合いを続ける頭上では、すでに報道ヘリも回遊を始めているらしい。血の臭いを嗅ぎ取った彼らが、飛行禁止令を破って駐屯地上空に肉薄するのは時間の問題で、いまも目前の監視パネルに砂嵐を吹かせている妨害電波が切れれば、そのカメラの捉えた映像が全国の家庭に流されることにもなる。計器とディスプレイで装飾されたコンソールデスクを前に、ようやく回復した衛星経由のマイクロ回線で永田町と連絡を取った佐久間は、その一滴で化学変化を起こし、もはや二度ともとの色には戻らなくなった事態を噛み締めて、ヘッドセットの下の顔を固くしていた。
(どう収拾をつけるつもりだ。都心の一等地に構える自衛隊の総本山で、暴動騒ぎとは……。三島の自殺とはわけが違うぞ)
ヒステリックな梶本官房長官の声音は、市ヶ谷を震源地とする地殻変動が、永田町をも根底から揺さぶっていることの証明だった。あるだけの自制心を動員して、佐久間は「わかっております」と返事を搾り出した。
「もう少しだけ持ちこたえて下さい。シナリオから逸脱した事態ではあるが、まだ修正は可能だ。自治関係さえ押さえられれば……」
(そんな悠長なことを言っとる場合か。いましがた、野党各本部に怪文書が送付されてきたそうだ。〈アポクリファ〉に関する資料と、総理の作戦認可証。関係者の写真の中には、君とわたしの顔も写っていると内調からの報告にはあった。例のディスクはそちらが押さえたんじゃなかったのかね?)
敗北という現実が肩に食い込み、その鋭い牙が喉を引き裂いた瞬間だった。手に入れたディスクがウィルス入りのダミーなら、当然、本物は別に存在する。すっかり失念していたそれが、この状況下においては、もっとも致命的な結果をもたらすだろう場所に送り付けられていた。一瞬、なにも考えられなくなった佐久間をよそに、(これでは、次の連立政権は連中の天下になる)と続いた梶本の声は、怒りとは別の理由で震えていた。
(国防族がそろってタマを握られた上に、この騒ぎ……。党は空中分解するぞ)
絶対的なカードを握った野党からの圧迫が、党内に燻っている市ヶ谷再興反対派たちには追い風になり、党――あるいは国家――の保全という大義名分のもと、再興に手を貸した梶本たち保守陣営の粛正が開始されるという想像は、決して飛躍したものではなかった。派手な暴動を演出して外野の目を呼び込み、不可侵領域を丸裸にする作戦とセットで、市ヶ谷再興をその根本から潰す計画。(安保室も招集に動き出した)と重ねられた梶本の声が、敗北に塗り潰された佐久間の胸にとどめの刃《やいば》を刺した。
首相を議長とする政府最高レベルの緊急事態対策機関、内閣安全保障会議の招集は、被害を最小限度に収める新たなシナリオが、永田町と霞が関の間で走り始めている事実を証明していた。歴代の内閣安全保障室長同様、防衛庁長官を経て選任された現室長は、ある意味で市ヶ谷シンパ最右翼にいた人物でもある。いかに通信が途絶していようとも、関係省庁を集めた対策本部設置の常道をすっとばし、こちらを無視していきなり安保会議の招集に乗り出したあわてぶりは、不自然としか言いようがない。事態の公表を決意した政府と議会の暗黙の了解――つまりは幕引きに関する一定の合意――があらかじめ練られており、それに従った結果と見るのが正しかった。
傷つく人が最少で済む、都合のいい事実。かつての地下鉄テロ事件のように、当事者を蚊帳《かや》の外に置いたところで事実関係は再構築され、その屍《しかばね》の上で捏造《ねつぞう》された真実が開花する。あの時は王仁に象徴される教団が肥しになり、今度は自分にその役が回ってきたというわけだ。制御下にあったすべてのもの、利用したすべての約束事が手のひらから離れ、牙を剥き、真綿のように首を絞めつけてゆく。無意識にネクタイを弛めた佐久間は、続いて机に手をつき、揺れる体を辛うじて支えた。
(これを機にサッチョウが巻き返しに転じれば、すべて終わりだ。長官襲撃事件にしても、連中には桜田門に泥をかぶせる逃げ道があるのだからな。君と心中するつもりは、我々にはないぞ)
政治屋根性むき出しの梶本の声が言った。「……承知しております」と、佐久間はいっさいの感情を消した声で答えた。
(切るクビを用意しておきたまえ。それがわたしからの最後の忠告だ)
一方的に、電話は切れた。ゆっくりヘッドセットを外し、声と表情から事態を察したらしい部下に返してから、佐久間はいまの会話を録音したミニディスクを、コンソールのドライブから取り出した。
掘る墓穴は、いつでも二つ。これ以上泥を呑むつもりは毛頭ない。まだ終わらないあらゆることを胸のうちに確かめて、佐久間は注視の目を向けるオペレーターと部下たちに振り返った。
「〈鷲〉の離陸次第、本指揮所は破棄。電算及び文書記録に機密処理を施した後、各個に退避しろ」
市ヶ谷本部からの撤退を意味する言葉だった。ゆらと立ち昇った動揺と不安の空気は、佐久間の堅い視線を前にたちまち勢いを失い、オペレーターたちは所定の作業を開始した。端末内のハードディスクには自己破壊プログラムを走らせ、フロッピーは磁石付きの廃棄ボックスに放り込む。シュレッダーも騒ぎ出す音を背にしながら、佐久間は壁一面に広がるメインスクリーンに、日本海の作戦地図を呼び出した。
東経百三十五度、北緯三十九度。監視衛星が最後に送ってきた座標上に、〈鮫《さめ》〉を示す輝点が瞬いていた。指揮所がなくなったとしても、〈鷲〉と〈鮫〉は獲物を仕留めるまで止まらない。予定通りの帰結を迎え、北との間に共同謀議の既成事実を作ってしまえば、まだ政府と議会を押さえ込む手はある。梶本の声を収めたミニディスクを懐に、佐久間はその場を離れる一歩を踏み出そうとした。
背中に固い異物が当たり、佐久間は反射的に足を止めた。異物がなんであるかは確かめるまでもなかったし、誰がそれを突きつけているのかも、かすかに漂うラベンダーの香りを嗅げば振り返らずとも明らかだった。一瞬、詰めてしまった息を吐きながら、佐久間は「……君か」とだけ言った。
脱出準備の喧噪で、入退室の手順が省略されていたことが幸いした。書類の束を両手に持ったオペレーターのひとりが、部屋の中央で立ち止まった佐久間に最初に気づき、思わず書類を床に落とすと、その音が呼び水になって他の局員たちもこちらを注視した。
後はお定まりの展開だった。全員が一斉に各々の懐に手をやり、わずかに上げられた佐久間の右手がそれを制止する。確実な殺意に取り囲まれた己を自覚した城崎涼子は、佐久間の背中に突きつけたワルサーPPKのハンマーを起こし、自分の本気を伝えた。
「この機会を待っていたというわけか」
「チャンスは、最大限に活かせ。あなたから教わったことです」
微塵の動揺も見せない佐久間の背中に、涼子も同じくらい冷静な声で応じたつもりだった。よく考えてしたことではないが、衝動的にしたことでもない。ただ、こうなってしまった状況を前にした時、自分には他にできることがなかったのだと内心に呟いて、涼子は背中に押し当てた銃口に少しだけ力を加えた。ゆっくり歩き出した佐久間に続き、衛星監視室の出口に向かおうとして、ちらと振り返った佐久間の目が視界に飛び込んできた。
揺るがない信念と、無邪気でさえある傲慢さを湛えた硬い瞳の中に、庇護を求める脆《もろ》いなにかが揺れている。そこに自分を映していれば安心できた、愛したといって差し支えない男の目は、この時も牡牛の穏やかさと寛容を示して、涼子の目前たあった。
指先がじわりと痺れ、張り詰めた神経を押し退けて、情動の塊が喉元までこみ上げた。震えそうになる銃口を強く背中に押し当て、涼子は区切りをつける視線を返した。
「必要ないんです、もう。私も、あなたも……」
東京裁判、三島由紀夫切腹の舞台として知られる二号館の地下には、旧陸軍省参謀本部時代に造られた地下壕がある。戦後、国会議室堂と市ヶ谷とを結ぶ非常用トンネルの坑口に供された後は、トンネルの保守点検要員が通り道として使う以外、利用価値もなく放置されている場所だった。
が、鍾乳洞《しょうにゅうどう》を思わせる地下空間には一応、電気が通じており、手動開閉式のリフトも備えられていて、その作動状況は一号館管理室にある旧式の監視盤で確かめることができた。東西二つあるリフトのうち、西側の箱が地下から上がってくるのを確かめた情報局員たちは、武器を手に昇降口へと殺到した。
本部地下施設と地下壕は回廊で繋がっている。手動で作動させたガス噴霧装置にいぶり出され、地下施設から逃げ出した侵入者たちの退路は、ここより他にはないはずだった。侵入者の殲滅に動いているのは全員レンジャー育成課程の修了者で、中には情報局が所管する特殊要撃部隊《SOF》の在籍経験者もいたが、施設の構造を熟知した侵入者の戦術は尋常なものではなく、これまでの戦闘で十三人もの局員が無力化の憂き目にあっている。いまも五人の局員が地下に先発し、侵入者を待ち伏せていたが、無線連絡が途絶してすでに三分が経過しつつあった。
妨害電波《ECM》の影響は、辛うじて無線音声が聞き取れる程度に緩和されているから、応答がないのは返り討ちにされた結果と見るのが正しい。リフトに乗って上がってくるのは侵入者に他ならず、局員たちは蛇腹式鉄扉の前に包囲射撃の隊形を展開すると、冷徹な技術者の目で箱が到着するのを待った。
その下、リフトの中には、しかし誰の姿もなかった。代わりに床下に二個の拳大の物体がくくりつけられており、それぞれの突起部分が紐に結ばれて、地階の扉に結びつけられていた。リフトが上昇するにつれ、紐は余裕を失ってぴんと張ることになり――局員たちが待ち受ける一階に到達する寸前、MK2破砕手榴弾の安全ピンは音を立てて外れた。
起爆と同時に巻き起こった秒速四百メートルの爆風は、旧式のリフトの床を薄紙のように引きちぎり、膨脹した空気は逃げ場を求めて狭い孔内を荒れ狂った。砕け散ったリフトの床がその強大な力のはけ口になり、蛇腹式鉄扉を吹き飛ばして一階に溢れ出た爆風と破片は、昇降口に展開する情報局員たちを瞬時に無力化した。
爆発の震動がみしみしと壁を揺らし、続いて粉々になったリフトの残骸が雪崩《なだれ》さながら落下してくる。粉塵と爆煙が通路を覆い、桃山は耳を塞ぐ手をあわてて口と鼻に回したが、盗れる涙と鼻水を抑えるには手遅れだった。
リフトの近くで待ち伏せしていた五人ばかりの追手を倒し、短機関銃《サブマシンガン》と一緒に手榴弾を手に入れたのはいいが、これほどバカげた威力だとは想像していなかった。使用したのは破砕タイプの手榴弾で、焼夷タイプと違って火災が起こり難いという話だったが、自分の家の中でこんなものを持ち出してくる市ヶ谷の連中も、それを逆手に取ってしまう保も、もはや正気ではない。文句を言おうにも咳き込んで声が出せず、壁に寄りかかってゼーゼー息を荒らげた桃山は、無情にのびてきた保の腕に襟首をわしづかみにされ、そのまま非常階段を上らされていった。
無論、これで待ち伏せの連中が全滅してくれたはずもない。永年の放置で石筍《せきじゅん》が生えつつある地下壕を抜け、地上に通じる鉄扉を前にしたところで、保は血と煤で汚れた包帯巻きの左手から、指を三本つき出してみせた。三、二、一と一本ずつ引っ込めてゆき、最後の一本が倒れた瞬間、桃山がドアを蹴り開ける。一号館の西側、工事用防塵シートに包まれたD庁舎の建設現場が、ひさしぶりに嗅いだ外気の匂いと一緒に目の前に現れた。
保が下から左、桃山が上から右の射界をカバーして、視線と同調させた銃口を素早く左右に振る。が、クレーン車や鉄骨資材の陰に伏せていた撃ち手が銃撃を開始し、無数のマズルフラッシュが闇の中に閃くようになれば、突入・制圧の基本形を決めたのもつかの間、すぐに体を引っ込めなくてはならなくなった。跳弾の火花が戸口に次々と散り、空を裂く弾丸の音がすぐ脇をかすめてゆく。できるだけ体を細くし、「こりゃたまらん……!」と呻くしか能のない桃山の隣で、保は戸口の陰から撃ち手の数を確認するのに余念がないようだった。
「一気に突っきる。左側のビルまで走れ」
怒涛《どとう》の銃撃の中、建設会社のロゴが入った防塵シートにくるまれたD庁舎を目で示し、保は三十連発のMP―5SDサブマシンガンの銃口を上げた。この包囲の中をどうやって……と桃山が尋ねるより前に、その体が腰を落として戸口の前に出、フルオートの引き金を搾りつつ、銃口を左から右に動かしていった。
鉄骨の陰に潜む撃ち手が弾け飛び、包囲が乱れる。迷わず飛び出した保の背中が、黄色いアームを屹立《きつりつ》させたクレーンに向かって走り、桃山も罵る間もなく後に続いた。吠え立てる猛犬よろしく、弾丸を吐き出して暴れ回るサブマシンガンを腕力でねじ伏せ、マズルフラッシュの瞬く方に向けて撃ち放つ。びゅんと凶暴な音を立てて錯綜する弾道の中を突っ走り、工事用フェンスの切れ目に設けられたビルの搬入口を視界に入れた刹那、先を走る保の背中がクレーンに向けてなにかを放るのが見えた。それがなんであるか思いついた時には、車体の下に転がった手榴弾が起爆の炎を発し、腹に突き通る轟音が闇を揺らしていた。
すさまじい爆風がクレーン車を前のめりに押し上げ、巨大なアームがこちらに向かって倒壊してくる。必死に足を動かし、酸素供給のおぼつかなくなった桃山の頭に、「息止めろっ!」と保の声が響き、直後に完全に倒れたクレーンが醸し出す震動、漏れ出た燃料の引火、爆発が続けざまに起こって、なにがなにやらわからなくなった。ごうと爆ぜる炎の熱気が背中を押し、眉と髪の焼けるぞっとする音が耳もとに弾ける。焼け火箸になって倒れたクレーンが目論見通り追手を遮ると同時に、桃山と保は転げるように建設途中のビルに飛び込んだ。
あきらめの悪い火線が炎ごしに乱射される。頭も体も一酸化炭素でフラフラだったが、弾着の火花に追い立てられて、桃山はとにかく建物の奥へと走った。裸電球の頼りない明かりの下、取りつけ前の配管や乱雑に積み重ねられたコンクリの袋を飛び越え、型枠工事の最中らしい鉄骨の林を駆け抜ける。仮置された床板を踏み鳴らして奥に進み、傾斜を滑りおりて一階分地下に下ると、壁代わりの防塵シートが行く手を遮る終点に到達した。
シートの切れ目に銃口を差し入れ、わずかな隙間から内側の様子を見て取るや、保は無造作にシートをまくり上げて中に入った。後に続いた桃山は、そこにあったものを目の当たりにして、今度こそ腰を抜かしかけた。
宇宙船か? 言いかけて、機体上部に設置されたプロペラ軸と、そこから伸びる四枚のブレードに気がついた。戦闘機を思わせる鋭角的な風防《キャノピー》の両脇に、ジェットエンジンのような巨大構造物。横に突き出た羽根に似た板には、ごついミサイルの束を抱えてもいる。機首に取りつけられたカメラとセンサーの集積ブロックは昆虫の牙といった風情で、およそ桃山の知っているヘリコプターのイメージではなかったが、他にその形状を言い表す言葉もなかった。さも当然といった様子で近づいてゆく保の背中に、「……なんだ、こりゃ」と呟くと、振り向きもしない頭が「AH―64、攻撃へリ・アパッチ」とこともなげに答えた。
「評価試験の名目で、佐久間が米軍から借り受けたオモチャだ」
ヘリらしからぬひらべったい印象の機体、極限まで小さくしたローターの羽根は、被探知性と空力抵抗の減殺を追求した結果か。そう言えば映画で見た覚えがある、と桃山は思い出した。米陸軍の主力攻撃ヘリコプター、別名「|空飛ぶ戦艦《ガンシップ》」。アメリカ先住民の部族名が与えられる米軍の攻撃ヘリの中にあって、アパッチというとっておきの名前が冠された経緯が物語る通り、攻撃から索敵、生残性に至るまで最新の技術が投入された機体は、西側最強の地上制圧兵器といっても過言ではない、と映画のプログラムには書かれていた。
車ではあるまいし、そう簡単に貸し借りのできる代物《しろもの》とも思えなかったが、目の前にある褐色のヘリの存在は疑いようがない。機体の周囲を回り、点検の目を走らせる保を呆れ顔で追った桃山は、ひとつ大きな息を吸ってそちらに近づいていった。
鋼矢板《こうやいた》で仕切られ、基礎コンクリートが流し込まれたばかりの地下空間は、一辺三十メートルほどの正方形の空地で、ちょうど煙突の底から見上げたように、五階分の吹き抜けの向こうに四角く切り取られた夜空が見える。秘密のヘリポートとしてはまさに打ってつけの場所に、世界最強の武装ヘリが二機、周囲の騒ぎなど素知らぬ顔で鎮座しているのだった。おそらくは分解して、トレーラーの類いで運ばれてきたのだろう。部隊マークやナンバーが削り取られた機体は、どちらも組み立て間もない雰囲気を漂わせていたが、逃げ出したのか応戦に駆り出されたのか、整備士やパイロットの姿は見当たらない。口半開きの桃山をよそに、機体に取りつき、手探りで開閉レバーを見つけ出した保は、上下式のサイドハッチを跳ね上げてからようやくこちらを振り返った。
「沖縄から横田に定期整備に出された機体を、奴がコネで引っこ抜いた。所定の性能が確かめられれば、再編後の公調で対テロ用特殊装備として登録する肚《はら》だ」
前後に席が並ぶ複座式《タンデム》のコクピットに体を入れ、リアシートに収まった保が続ける。力の信奉者、あの冷戦の遺物がいかにも考えそうな話だと納得して、桃山は褐色の攻撃ヘリの機首からテールローターまでを眺め回した。日本に正当な自衛能力を取り戻させるというご立派な理想の第一歩が、こんなオモチャの収集とはまったく泣けてくる。私設軍隊でも作るつもりなのか? 冷戦時代からひとつも進歩していない頭の中身は、環境変化に適応できなかった恐竜並みの貧弱さで、つまり佐久間という男は、自分の自由にできる城が欲しかっただけなのだろう。「おまえはもういらない」と吹きつける現実の風から身を守る強固な壁と、自分と同じように考え、決して逆らわない家臣たちによって固められた城。バカな話だった。目の前にある高価なヘリが教える通り、それは新たな需要確保を目論む政財界に与えられた、砂上の楼閣《ろうかく》でしかないのに……。
なんのことはない、あの男も王仁教祖と変わらない操り人形。現実逃避の支配欲を体《てい》よく利用された大人子供だ。そう思った時、この大がかりな奇襲を仕掛け、保に協力した市ヶ谷OBたちの真意が初めて理解できた気がしたが、いまは『所定の性能を確かめる』と言った保の言葉の方が問題だった。「確かめるって、まさか……」と呟いた桃山に、保はハッチから頭を出して肯定の目を注いだ。
「ここから日本海まで飛んで、北の高速艇を沈める。実地訓練さ」
関係者一同注視のもと、保と葵を迎えに出た北の船を撃沈して、〈アポクリファ〉の終焉を宣言するとともに、対テロ特殊装備の性能を披露する。新生市ヶ谷の初仕事としては悪くないというところだろうが、それはすなわち、このヘリさえいただいてしまえば追撃の足はなくなるし、葵たちと合流もできるという一石二鳥に繋がる。コクピットに置いてあったらしいごついヘルメットをかぶり、コンソールに指を走らせ始めた保の顔を感心半分、呆れ半分で見上げた桃山は、「ここで別れよう」と不意に振りかけられた声に、心臓を跳ね上がらせた。
「ここを出てまっすぐ行ったところに、工事車輌の出入口がある。おれが上から援護するから、あんたはそこから脱出してくれ。大日本印刷ビルの脇で、昔の仲間が城南電設って会社のバンに乗って待機してるから、それに乗るといい」
そう言うと、保はもうこちらを意識の外にした顔をコンソールに戻す。急につきつけられた別離にぽかんとなり、親とはぐれた迷子さながら、その場に棒立ちになった桃山は、直後に立ち上がったエンジンの甲高《かんだか》い唸りに五感を塞がれ、無意識に一歩後退した。
すでにエンジンは温められていたのか、四枚のブレードが勢いよく回転を始める。普通のヘリに較べれば騒音は少なめに感じられたが、直径十五メートル以上のプロペラがブンブン振り回される轟音は、腹にこたえる凄まじさだった。最後にちらとこちらを見、リアシートのハッチを閉じようとした保と視線を絡ませた桃山は、なぜそうするのかわからないままマシンガンを放り投げ、あわててコクピットに飛びついた。
「運転席は前じゃねえのかっ!?」
「ガンシップでは視界のいいリアシートがパイロット用と決まって……なにやってんだ!?」
めずらしく驚き、声を荒らげた保の顔は見なかった。見よう見真似でフロントシートのハッチを開いた桃山は、頭からコクピットに潜り込んでいた。
「おれも連れてけ」
「冗談じゃない、降りろっ!」
「やなこった」後部が操縦席なら、前部は火器管制の役目でも果たすのだろう。座席とコードで繋がっている、やたらと重いヘルメットをかぶった桃山は、ハッチを閉じてシートベルトの装着にかかった。車と違い、三本の索で上半身をしっかり固定する頑丈なシートベルトだった。
「一個しか席がねえならあきらめるが、この通り二人乗りじゃねえか。てことは、こいつは二人乗んなきゃ所定の性能が出ねえってことだろ?」
「死ぬぞ、今度こそ」
コンソール脇のバックミラーに映った保の目が、本気の厳しさを湛えて桃山を見た。ごうとうねる黒い川のように。寄せつけない厳しさと、魅入《みい》られずにはいられない激しさ、強さを宿した奔流のように。もう堤防から見下ろすだけの傍観者でいるつもりはなかった。負けずに睨み返して、桃山は「おれが死ぬ時は、おめえも死ぬ時だ」と言ってやった。
「そうしたら葵は助けられねえ。それとも最初から死ぬつもりででもいるのか? 任務をおっぽり捨てて」
ぐっと詰まった保の顔をミラーに確かめた途端、ローターとは別の震動が起こり、防塵シートから爆発の煙が染み出してくるのが見えた。入口を塞いだクレーンを爆破して、追手が中に入って来たらしい。「おかしな理屈こねるな! 時間がない、早く降りろ!」と怒鳴った保の声に、殺されかねない気迫がこもった。
「おめえが降りなきゃ降りねえっ!」
気合いでは負けるつもりはない。怒鳴り返した桃山は、ついこの間は亀戸の警備室で睨み合わせた目を、攻撃ヘリのコンソールごしに突き合わせた。数秒の静止の後、先に逸らされたのは保の顔の方だった。
「……後悔したって知らないぞ」
そのひと言で躊躇を捨てて、保は離陸前の最終点検を始めたようだった。「へへ、そうこなくっちゃな」とシートベルトを胸前に合わせた桃山は、後は運を天に任せるつもりだったが、「乗るからには働いてもらう」と聞こえてきた声に、ずらりと並んだ計器の群れと向き合わされることになった。
「あんたの役目は火器管制オペレーターだ。装備架《パイロン》に増加タンクを背負ってるから、いまのこいつにはチェーンガンと、対地・対空ミサイルの三つの武装しかない。武器の選択、照準はだいたいコンピュータがやってくれるから、あんたはそこのスティックを動かして発射ボタンを押すだけでいい」
ヘルメットに内蔵された通話装置の声は明瞭だった。ミラーに映った保を真似て、桃山はヘルメットの右下に取りつけられたルーペを思わせる照準装置を起こし、コンソール中央から突き出している操作グリップを両手でつかんだ。視界の半分が照準の十字線を備えた赤外線映像に切り替わり、接近してくる無数の人の形が、爆煙を透視してはっきり見えるようになった。
熱いところほど白く見える映像に捉えられた追手の数は、少なくとも十人以上。こちらの視点に合わせて画面が随時移動するのは、機首のカメラシステムが、ヘルメットの動きと同調しているためらしい。「たいしたもんだ。さぞや高いんだろうな」と呆れ混じりに呟いた桃山に、保は「一機十五億円。標準輸出価格で」と、涼しい返事を寄越した。
借り物とはいえ、レンタルには保証金が付き物。「……消費税が五パーセントになるわけだ」と桃山が独りごちた途端、断続的な光が発して、カンカンと耳障りな音がコクピットに走った。
追手の銃撃が始まったのだ。いかなアパッチと言えど、サブマシンガンの掃射にそうそう耐えられるものではないだろう。直撃の閃光がキャノピーに弾け、「他にやることは!?」と怒鳴った桃山は、「祈っててくれ」と応じた保の声の堅さに、意味もなく息を詰めた。正面のディスプレイに人工水平線のCG画面が浮かび、高度計の数値、エンジン回転を示すゲージが上昇してゆく。極限まで詰めた息を桃山が吐き出した瞬間、ふわりとした浮遊感が体を包み、アパッチは尻を持ち上げるようにして離陸した。
轟音と暴風に周辺の整備資材が吹き飛び、防塵シートがばたばたと裂けんばかりにはためく。そのまま前進し、鉄骨にローターをぶつける直前、制動をかけてなんとか踏み留まった機体に、ここぞとばかりに集中砲火が浴びせられた。
「こっちも撃ち返せっ!」と叫んだ保の声に、桃山はあわてて計器の列に顔を近づけた。
「どうすんだよ!?」
「言ったろう! TADSでターゲットを捕捉して、IHADSSのレティクルでロックするんだ」
「……日本語でもう一度」
「あんたが見たものが標的になる」焦《じ》れた保の手がコンソールごしにのび、桃山のヘルメットをつかんで敵の方に向かせた。「撃ってくる奴を見て、ボタンを押せ」
文句を言える状況ではなかった。地上五メートルでホバリングするアパッチは格好の標的でしかなく、言われた通り、赤外線画像の視界にサブマシンガンを携えた追手たちの姿を入れた桃山は、操作グリップの上端にある発射ボタンを親指で押し込んだ。
機体下部に据えられた機銃がヘルメットの動きに同調して回転し、その銃口から火花を迸《ほとばし》らせる。サブマシンガンの銃撃がホースの放水なら、こちらは瀑布と言っても過言ではない、威力も連射速度も桁違いの嵐だった。ばらまかれた弾丸がコンクリを削り、鉄骨を撃ち抜き、追手たちが蜘蛛《くも》の子を散らすように後退してゆく。頭を動かすたびに駆動するチェーンガンの銃身、力強い発射の反動が座席ごしに尻に伝わり、理性も良心もかなぐり捨てて、凶暴な快感が体を走るのが感じられた。保に言われるまでもなく、残るもう一機のアパッチを照準の十字に捉えた桃山は、夢中で発射ボタンを押していた。
鎮座するアパッチのキャノピーが粉々に砕け、ランディングギアの支持を失って大きく横に傾く。ローター基部から黒い煙が噴き上がり出すと、すぐに燃料への誘爆が始まって、テールから真っ二つに折れた機体は爆発の炎を四方に散らしていった。
爆発の衝撃にこちらの機体も揺らぎ、モニターのひとつが赤ランプを点《とも》す。口中に罵った保の声が通話装置に響き、鉄骨がぐんと目の前まで迫ったその時、アパッチは劇的な急上昇に転じた。
ローターの唸りが激しくなり、高度計のデジタル表示があっという間に桁を増やす。以前、一度だけ乗ったことのある警察のヘリとは段違いのパワーだった。鉄骨の林がみるみる下に流れ、だしぬけに途切れる。駐屯地の暗闇と、その向こうの街の灯が一斉に目に飛び込んできて、桃山は思わず感嘆の息を漏らした。
足もとに踊る炎の瞬き、靖国通りを埋め尽くす勢いのパトカー、消防車のランプの群れ。地平線まで広がるオフィスビルやマンション、街灯やヘッドライトの筋が紡ぎ出す、きら星のような東京の夜景だった。約三百フィートの高度は、三十階程度からの展望と変わらなかったが、飛びながら見下ろす感覚はまた別のものだ。平井は、亀戸はどのあたりだろう? 荒川の黒い流れは? 精微なイルミネーションは、そこにへばりつき、日々芥にまみれている人の生活とは無縁なようでいて、実はそれがあるからこそ輝いて見えるものなのかもしれない。いきなり想像外の高みに引き上げられた頭に血が巡らず、立ちくらみの痺れの中にそんな想いが呼び起こされて、桃山は「すげえな、飛んでるぜ」と、観覧車に乗った子供の目を保に向けた。照準装置に隠れていない方の瞳が、やはり街の灯を宿して汚れのない輝きを浮かべているのが見えた。
「てえしたもんだ。ヘリの操縦もできるとはな」
「実際に飛ばすのは初めてだ。マニュアルで訓練は受けたけど」
さらっと答えた声に、感傷も哲学的考察も吹き飛んだ。「なんだとおっ!?」と吐き出した桃山の声を引き金に、釣瓶《つるべ》落としの急降下が始まり、束の間の遊園地気分は完全に霧散した。
まだマンホールから黒煙をたなびかせている駐屯地の地面が、目の前に近づく。「お、おい、落ちてるぞっ!」と、わかりきったことを言った桃山に、「上にいると狙い撃ちされる。索敵怠るな」と返した保は、しかし操縦桿《そうじゅうかん》と格闘中であるのは間違いなかった。乗るんじゃなかった……と内心に呟いた途端、弱気を叱りつけるタイミングで警報が鳴り、太い槍に似た筒を掲げる人の形が赤外線映像に捉えられた。
距離を示す数値や回避パターンの幾何学模様が表示され、ジープの上からこちらを照準している男の姿が大写しになる。矢継ぎ早に出る英語の表示は読み取れなかったが、男が手にしている物がなんであるかぐらいは、桃山にも想像がついた。都心のど真ん中、それも「撃たれるまで撃たない」がモットーの自衛隊の総本山で、ミサイルをぶっ放す? こいつらアホか、と胸中に罵った桃山の耳に、「こっちもミサイルだ!」と叫ぶ保の声が響いたが、その時には人間より利口で躊躇のないアパッチのコンピュータが、パイロンに蓄えたミサイルの使用を決断していた。
幾何学模様が乱舞し、照準の十字線が小型ミサイルの筒を担いだ男をロックする。目玉を押し込まれるような失速感の中、無我夢中で発射ボタンを押した桃山は、機体の左右にのびたパイロンから一基のミサイルが射出され、白い尾を引いてジープに突進してゆくのを見た。
小型ミサイルの筒を投げ出し、退避する男の姿が後方に流れ去る。閃光がその後に続き、まき起こった爆発の震動と破片が背後から襲いかかると、アパッチの機体が激しく縦に揺さぶられた。なんとか姿勢を立て直し、上昇に転じたアパッチを無数の火線が追う。もはや後悔する余裕さえなく、桃山はコンピュータに命じられるまま発射ボタンを押した。
さらに一発放たれたミサイルが、通信塔の足もとに爆発のキノコ雲を立ち昇らせる。東京の夜景がもうもうと噴き上がる爆煙のカーテンに隠され、兵器そのもののシルエットを持つアパッチが、それを突き破って上昇してゆく。
半世紀ぶりに、東京に戦争が持ち込まれた夜だった。
限界が近づいていた。ほんの少しのきっかけがあれば、取り囲んだ銃口が火を噴き、自分の脳味噌は床にまき散らされることになる。知った顔のどれにも躊躇の色はなく、逆の立場なら、自分もそうするだろうとわかってもいた。
衛星監視室を出、エレベーターを乗り継いで本部ビルの三階に上がったのは、外の状況を少しでも知りたかったからだが、下ろされたブラインドを上げる余裕はなく、断続する爆発の震動だけが混乱の根深さを伝えて廊下に響いている。舞台の幕が閉じる音を、佐久間はどんな思いで聞いているのか。何度も歩いた廊下で、何度も見上げた男の首筋に銃口を押し当てて、涼子の戦争も続いていた。
「どうするつもりだ。わたしの首を手土産《てみやげ》に、サッチョウに尻尾でも振るつもりか」
「償いをしていただきます。数百の無実の人を死に追いやった罪。与えられた職務の理念をねじ曲げて、市ヶ谷の名に泥を塗った罪」
この廊下をまっすぐ進めば、通信室に行き当たる。マイクロ回線が復旧しているなら、六本木経由で警察の基幹無線に割り込むのも不可能ではない。すでにトカゲの尻尾切りを決意している永田町は、通報があったのをもっけの幸いに警察の駐屯地立ち入りを認め、佐久間の身柄は拘束されるだろう。
公平な対応は望むべくもなかったが、悪あがきの醜態を晒した挙句に自決する、そんな無様な結末だけは迎えさせたくない。女の身勝手と言われようと、信念でしたことならば、その責任は最後まで正面から受け止める男であってほしい。すべての想いを託して言った涼子に、太いうなじをかすかに動かしてみせた佐久間は、「無実、理念……。君の口からそんな言葉を聞かされるとはな」と苦笑混じりに吐き捨てた。
「過去もなければ未来もない、商業主義という場当たりの現在しかないこの国を作った連中の罪はどうなる。なにもかも崩れ去って、一からやり直さなければならない時が来ているのに、向き合う自己もなく共食いと浪費をくり返している。腐りきったエゴのミンチに、理念がなんの意味を持つ」
銃口を強く当て直した涼子を無視して、佐久間はその場に立ち止まった。がっしり組み上がった肩から、数十年の鬱積と忿懣が立ち昇っていた。
「放っておけばこの国は沈むよ。我々という汚れ役が卑怯の限りを尽くしてこそ、この国の平穏はあったんだ」
「それは理屈です」
「だが事実だよ、涼子。沼崎もそのために死んだ。なんの見返りも賞賛もなく、汚い嘘にまみれて、自分よりはるかに劣るくだらん人間の手にかかって死んだ。挙句に切り刻まれて、ゴミのように捨てられた。そのことを忘れたわけではあるまい」
「彼は、見返りを求めてそうしたんじゃない。そういう生き方を選んだのよ。あなたも、私も……」
それが手だとわかっているにもかかわらず、沼崎の名を出された心と体が動揺して、涼子は開く必要のない口を開いてしまった。周囲に向けた警戒の何分の一かが削《そ》がれ、取り囲んだ六つのプロの目が、見逃さずにその瞬間を捉える。むらと押し寄せる殺気の波動に気づき、そちらに注意を奪われた刹那、運命は涼子を見放した。
素早く動いた佐久間の右手がワルサーをわしづかみにし、首から引き剥がすと、振り向きざまの掌底を涼子の胸に打ち込む。はずみで放たれた弾丸が天井に着弾の火花を散らし、同時に壁に思いきり背中を打ちつけた涼子は、受け身を取る間も与えられずに、壊れた人形のように床に転がった。
咳き込み、圧迫された気管になんとか空気を取り入れながらも、咄嗟に壁際に後退して顔を上げる。銃口が、涼子の眼前を塞いで暗い穴を広げていた。
「女だな」
いくつかの意味を込めて、佐久間が言う。それを侮蔑の言葉にした男には、もう持つべき共感もなかった。涼子は黙して、銃口と同じ暗黒を湛えた佐久間の瞳を見上げた。
壁に背を当てて座り込んだ細い背中と、銃を手にして取り囲んでいる複数の人の形。ふと見下ろしたビルの一角に、桃山がそれらを識別できたのは、赤外線センサーの性能のためだけではなかった。
「おい、あのビルに寄せろ! 涼子だ」
カメラの視野を狭く設定すると、絵に描いたような形勢不利の光景が、赤外線映像の中にクローズアップされた。間違いない、駐屯地の外れにある古びたビルの三階に、涼子がいる。「なに……?」と呻いた保も、操縦に向けていた注意を少しだけ振り分けて、照準装置のカメラをビルに据えたようだった。
「……あの女にも、つけなきゃならない決着がある。やらせておけばいい」
ミラーに映った保の横顔は堅く、自分には立ち入れない世界の厳しさ、涼子との間に流れる感情の澱みを見せつけられた気がしたが、沸騰した頭を冷やすには至らなかった。「冗談じゃねえ! 寄せろ、助けるんだ!」とがなった桃山は、キャノピーを擦過した曳光弾《えいこうだん》も無視して、コンソールの向こうにある保の顔を振り返った。
「時間がない。じきに他の基地からも迎撃が殺到してくる。早く離れないと……」
「屈理屈はいい! 寄せるんだっ!」
無意識に、ズボンに挟んだグロックに手がのびていた。保の目がそれを見、血走っているだろう桃山の目を見返した。
「やるんだ。ここで彼女を見殺しにしたら、おめえもあの佐久間って野郎と同類だぞ」
グロックはすでに弾切れだったが、関係なかった。桃山の目と声に本気を確かめ、涼子に向けた特別な感情も読み取ったらしい保は、ぐっと口を閉じて顔を背けた。涼子を救い出すことも、彼女と自分との間に桃山という第三者が立ち入ることも。すべてを拒否した保の横顔を見た桃山は、縦揺れしたアパッチの勢いを借りて、リアシートのコンソールに乗り出すようにした。
「ガキみたいにいつまでも甘えてんじゃねえ! いつでも助けが欲しかったのは、彼女の方なんだぞ」
考える手順を飛ばして、胸の奥から勝手に飛び出してきた言葉が互いのヘルメットを震わせた。そこに奥底のわだかまりがあるかのごとく、保は握った操縦桿を動かそうとはしなかった。
ブラインドごしに差し込む光と音は、打ち上げ花火のそれに似ていた。一度は寄り添った男の肩が明滅する逆光に浮き立ち、「おれと死ぬか?」と囁かれた言葉が耳朶を打つと、ワルサーのグリップを握らせ、両手を包み込んだ手のひらの感触が神経を萎えさせてゆく。蛇を思い出させる手の甲の古傷を見下ろし、佐久間の瞳を見返した涼子は、拒絶できない自分の脆さに絶望した。
それを知っているのか、銃口を自分の胸に当てた佐久間の顔は微笑していた。挑戦と懇願をないまぜにした瞳が目の前で揺れ、耐えきれずに瞼を閉じた涼子は、次に佐久間の顔を視界に捉えると同時に、引き金にかけた指先に渾身の力を込めた。
佐久間の胸が砕け、取り囲んだ六つの銃口がすぐに自分の体も蜂の巣にする……はずだったが、そのどちらも起こらず、代わりに数滴の血が涼子の頬に散った。直前にハンマーに差し入れて発射を防いだ、佐久間の親指の付け根から撥ねた血だった。
赤黒い雫が、蛇の舌を想起させて古傷の端から滴っていた。かつて国家のために流され、今度は自分自身のために流された血は、いずれも等しく見返りを得られず、行き場なく流れ落ちてゆくようだった。怒り、孤独、絶望。多くの感情を無表情に結実させ、佐久間は「残念だ」とだけ言った。
血の滴る親指の付け根をハンマーから引き抜き、佐久間は奪い取ったワルサーの銃口を涼子の額に押し当てた。逸らさないと決めた目を向けて、涼子は背中に回した手にミカン大の黒い球体を握りしめた。
M67破砕手榴弾。行動する時は、いつでも最悪の状況を想定しておけと言ったのは、沼崎だったか。あるいは佐久間かもしれない。どちらでもいい、と涼子は思った。そんなことはもうどうでもいい。親指を安全ピンにかけた時、脳裏を走ったのは、朧になりかけた沼崎の顔でもなければ、ほとんど記憶のない両親の顔でもない。けばけばしい中華街の看板や、ラウンジから見下ろした暗い海の前で向き合った顔。ひどく鮮明に浮かび上がった、桃山という男の顔だったのだから。
なぜだろう? どうしてもう一度会う約束までしてしまったのか、いまでもよくわからない。ただひとつ覚えているのは、他愛ない質問の言葉。互いに心の障壁を抱えたまま、元町の喫茶店で向き合った、その時に聞いた言葉――。
「……川の深さは」
ふとこぼれ落ちた言葉に、銃口の向こうにある佐久間の目がかすかに動いた。川の深さは。誰の胸にもきっとある、日々芥にまみれ、澱み、時にせき止められながらも、終着点を目指して流れ続ける川の深さは。どんなに汚されても、流れ続ける川には未来がある。ぶつかる痛みの中に浄化も得て、明日に希望を繋いでゆくことができる。保も、沼崎も、きっと桃山も、だから走り続ける道を選んだ。その先に待つ確実な破局を知りながら、止まろうとはしなかった。分解不能の毒素を孕み、袋小路に入ってしまったこの国の本流から離れて。どす黒い血の赤に染まった水を、怨念の池に封じ込めてしまった私たちから離れて。
どんな清流であっても、滞留すればやがては腐る。現実に傷つけられることを恐れ、独善的な論理で固めた水溜まりに引きこもった時から、私たちはすでに明日を失っていたのだ。痛みを機械的に受け止め、誰とも本気で交わろうとしなかった私自身も……。
桃山はそれを教えてくれた。痛みを恐れず、もっと緩やかに、もっと穏やかに現実を受け止めて、自分を示してゆく術があることを教えてくれた。だから温かい。だから忘れたくない。一瞬の空白の後、ハンマーの持ち上がる乾いた金属音を聞いた涼子は、その納得を得て目を閉じた。
これで終わり。私の川も、沼崎と同じ安寧にたどり着く。安全ピンの鉄輪の感触を親指に確かめ、涼子は最後にもう一度だけ佐久間を見た。爆発の光とは違う、強烈な閃光がブラインドの隙間に発したのは、その瞬間だった。
(伏せろ、涼子っ!)
割れたスピーカーの声が響き渡り、直後、ローターの爆音がガラスを一斉に震動させた。
桃山の声、とだけ理解した体が反射的にうずくまった刹那、閃光と突風の嵐が涼子の頭上を吹き荒れた。
棒立ちになったのも一瞬、すぐに銃口を振り向けた佐久間たちに、なにが起こったのかを知る余裕はなかっただろう。M230チェーンガンの掃射はたちどころに壁と窓を打ち砕き、佐久間たちにも同様の運命をたどらせた。二秒に満たない掃射の後、顔を上げた涼子の目に入ったのは、血のこびりついた瓦礫の山と、その向こうでホバリングするアパッチの褐色の機体だった。
ローター半径ぎりぎりまで近づいたヘリのコクピットで、知った顔の男たちがこちらを見ていた。桃山、それに保。なにも考える必要はなく、ただ目の前に現れた光景をありのまま受け入れて、涼子も崩れた壁に体を近づけた。ローターの巻き起こす強風に洗われる髪を押さえ、コンソールの光に照らし出された桃山の顔を正面に見つめると、(無事だな!?)と怒鳴った声が機外スピーカーを震わせた。
(ちょいと出かけてくる。デートの時間には間に合わせるからな)
世界中に響くような大声がそう言い、その場の状況もなにもかも忘れて、涼子は頬が赤くなるのを自覚した。赤外線で体温の変化を感知したのか、保の口もとがかすかに緩むのが見え、自然な笑みを表したその顔に、涼子も我知らず微笑を返していた。
いつでもいちばん身近にいながら、いちばん遠い存在だった増村保。母親役を求め、亡き男の面影を押しつけて、互いに得られず傷つけあってきた過去も、いつか笑って話せるようになる。流れる川のせせらぎに、どんな汚濁もやがては濯がれる時が来るのだと、その瞬間、素直に信じることができた。親指を立てた桃山に小さく手を振り、挙手の仕種を見せた保に頷いた涼子は、いってらっしゃい、と口の中に呟きつつ一歩後退した。ローターの回転が一段と激しくなると、飛行灯を消したアパッチの機体はみるみる闇夜に遠ざかっていった。
旋回、上昇したエンジン音が遠ざかり、入れ替わりにパトカーと消防車のサイレンの音が近づいてきた。ついにゲートが突破されたらしい。よろけそうな足をなんとか律して、涼子は硝煙と血の臭いが充満する廊下を振り返った。赤ペンキをぶちまけたような壁を背景に、瓦礫の山の中から人の手首が突き出しているのが見え、遠い炎の照り返しが、その甲に刻まれた古傷をはっきり浮かび上がらせていた。
得られなかったなにかを求めて、いっぱいに開かれている手のひら――。膝の力が萎え、涼子はその傍らにぺたんと座り込んだ。悪趣味な抽象彫刻を思わせる瓦礫の下で、佐久間の人の形がどれだけ残っているのかは定かでなかったが、硬直した手のひらはまだ温もりを帯びていた。甲の古傷に触れ、何度もそうしたように指を絡めて、涼子は警察が到着するまでの間、そこに留まろうと決めた。
人一倍寂しがりだった人。次の幕が上がるのを、ここで一緒に待とう。冷えてゆく指先の分、熱くなる胸のうちを確かめて、涼子は漂う煙の向こうにパトランプの列が滲むのを見つめた。
デジタル式の自動安定装置を備えているアパッチの操縦は、普通のヘリに較べれば易しいというが、そんな慰めの言葉は、ペーパー・パイロットにつきあっている身にはたいして役に立たない。もはや飲み込む固唾もなく、からからに乾いた唇をぎゅっと噛み締めるしかない桃山を乗せて、アパッチは市ヶ谷駐屯地を後にした。
敷地を抜けると同時に一気に高度を下げた保は、あわてて退避する機動隊員や消防士の頭上をかすめて、アパッチの進路を北西に取ったようだった。外堀通りを埋め尽くす緊急車輌の屋根がぐんぐん後方に流れ、ドスン、と下から突き上げる衝撃がコクピットに走る。なにごとかと振り向いた桃山は、屋根のパトランプを弾き飛ばされたパトカーと、その脇で怒鳴っている警らの顔を視界に入れて、ぞっとなった。
地表すれすれまで近づいた機体のランディングギアが、パトカーの天井を踏み潰したのだ。「いくらなんでも下げすぎじゃねえのか!?」と上ずった声で抗議した桃山は、「バッジに引っかかる。できる限りNOEで行く」と操縦で手一杯の保の返事を聞いて、しぶしぶ口を閉じた。
|NOE《ナップオンジアース》、すなわち地形追随飛行は、レーダーの網をかい潜って敵地に侵攻する攻撃ヘリの十八番《おはこ》らしい。日本の防空網――バッジシステムは、全国二十八ヵ所に設置されたレーダーサイトと、八機の早期警戒機が張り巡らせる網を、各方面の防空指令所《DC》が監視。要撃機の発進や、地対空ミサイル部隊への目標指示などを地上で管制する態勢を整えており、それらはすべて、府中の航空総隊作戦指揮所《COC》が総括する仕組みになっている。佐久間が事前に回した手のお陰で、アパッチには特殊任務《SOLL》機のレーダーコードが与えられ、領空を出るまではコリドーと呼ばれる既定の飛行ルートをたどり、地上誘導も受けられる段取りができているそうだが、この騒ぎでは約束手形も早晩無効になると見るのが正しい。追撃を避けるためにも、攻撃ヘリ本来の機動性を活かし、道路沿いに低空飛行で行くというのが保のプランだった。
「あんたら警察と同じで、自衛隊も縦割り思考が強い。すぐに空自が動くほど上の連絡はよくないはずだが……後は運だな」
「見つかったらどうする?」
「どうもこうもない。イーグルにあっという間に袋叩きにされる」
いかにアパッチが強力な兵器でも、しょせんはヘリコプター。航空自衛隊の主力要撃機、F―15Jに山間部に追い立てられ、誘導ミサイルの一発も食らえば、瞬く間に木端微塵《こっぱみじん》にされるという話だった。聞くんじゃなかったと思いつつ、桃山は視線を外にやった。
時速三百キロに届く速度で新青梅街道上を驀進《ばくしん》する機体の下、手をのばせは届くような場所を、車のランプがびゅんびゅん流れ去ってゆく。まるで砲弾になった気分だったが、片手に操縦桿、片手に道路地図のながら運転をしている保を見れば、速い速いと喜んでばかりもいられなかった。電線や標識にローターがぶつかれば一巻の終わりなのだ。横田や入間の飛行基地に行き当たるのを避けるべく、関越自動車道に移動した機体がつかの間減速し、桃山は多少息をついたが、それも長距離運送のトラックがアパッチのすぐ横に並び、並走する形になるまでのことだった。
こちらに負けない速度で高速道路を飛ばしていた運転手は、無理もないと言うべきか、全開の目と口をアパッチに釘付けにしたまま、動かなくなってしまった。よそ見運転は事故のもと。安心させようとそちらに振り返り、愛想笑いを浮かべた桃山は、ヘルメットが機銃とシンクロしているのを忘れていた。
桃山の頭の動きに同調し、機体下部のチェーンガンがぴたりとトラックの方を向く。ニタニ夕顔と一緒に機銃の銃口が挨拶するのを見て、運転手の正気は途切れたのだろう。あわてて切ったハンドルに車体が横滑りし、冷凍コンテナともども道路を塞ぐようにすると、玉突き事故の混乱が後方に流れ去っていった。
あらら……と見送った桃山の耳に、「遊ぶな」と保の叱責の声が飛ぶ。ひとつ咳払いしてごまかした桃山は、「……涼子は大丈夫かな」と話題を変えた。
「昔の仲間が動いてるって言ったろう。永田町も霞が関も、佐久間の暴走を危険視してたって点では、共通の利害がある。後始末の役を買って出れば、粗末には扱われないさ」
すぐに返ってきた声は、保自身、涼子の身を心配していた証拠だった。「都合のいい事実。被害が最小で済む真実の捏造、か」と独白した桃山は、佐久間にしろ、治安情報局とかいう組織にしろ、つくづく神泉教団の合わせ鏡でしかなかったと思い至り、足もとを流れる街灯の筋にやりきれない目を落とした。
それが正論であっても、よりよい未来を迎えるために必要な行動であっても、大衆のコンセンサスを得られない世直しは没落の道をたどる。彼らの行動は、すでに先人が腐るほど実証してきた摂理のくり返しでしかなく、人は結局、百年先の未来のためにいまを節制できるほど、上等な生き物ではないということなのだろう。
人それぞれに理想の火を掲げ、向かい風の中を這うようにして、ともすれば見失ってしまいそうな光に近づいてゆく。近道はどこにもないし、他人の力や考え方、神なんてものの存在を当てにしても、救われはしない。昨日よりはマシな明日を信じて、今日の苛酷を最善をもって生きる。それが、人にできる精一杯なのだから……。
「ならよ、もう葵の乗った船を襲う奴はいないんだ。おれたちも涼子たちと合流したらどうだ? 北だってうしろめたい身だ、無事に向こうに着けば、外交筋から彼女を取り戻すことだって……」
「こいつの燃料は片道キップ。予定通り船を沈めてまっすぐ帰ったとしても、陸にたどり着けるかどうかぎりぎりってところだ。これがどういうことかわかるか?」
すっかり失念していた、というより考えもしなかった話に、桃山はミラーごしに保の顔を見返した。増加タンクを背負っているとはいえ、日本海で一戦やらかした後、悠々帰投できるほどの燃料が積載されているはずもない。「……海上に迎えがいるってことか」と呻くと、ミラーに映る保の顔が頷いてみせた。
「おそらく護衛艦が待機してる。佐久間の出身母体は海自だから、考えられない話じゃない。市ヶ谷経由で通達を出せば、地方艦隊の一隻くらい裁量できたはずだ。防衛長官直轄部隊への臨時編入と、それに伴う幹部クルーの部分的入れ替え……。後は実射訓練とでも言い繕っておけば、護衛艦は十分市ヶ谷の猟犬になり得る。目撃者は、アメリカの偵察衛星ぐらいだろうからな」
「でもよ、もうその佐久間は……」
「死んでも命令は残る。主人がストップをかけない限り、獲物を仕留めるまで追い続けるのが猟犬の役目だ。ヘリが来なければ、艦が後を引き継ぐだけのことだ」
混乱の極みにある防衛庁がどうにか事態を把握し、海上幕僚監部を通した正規のルートで任務中止が下命されるまで、いったいどれだけの時間がかかるか。アパッチを強奪したのは逃亡が目的ではなく、中止命令が出るまでの間、護衛艦を足止めしておくことにあったとわかった桃山は、さすがに血の気が引くのを自覚した。
たった一機、たった二人で、護衛艦に喧嘩をふっかけようっていうのか。「火器管制はここからでもできる」と保の声が続き、桃山はミラーに視線を戻した。
「降りるならいまのうちだぞ」
ヘルメットの下に覗く保の顔は、ひとりでもやり遂げると決めたいつもの表情だった。喉まで出かけた弱気をどうにか呑み下し、桃山は「余計な気い遣うんじゃねえよ」と返した。
「前見てしっかり運転しろ」
「……バカだな、あんた」と保。確かめるまでもなく、微笑している声だった。誰も信じようとしなかった男が、いまは涼子を信じ、昔の仲間を信じ、このおれを信じて行動している。狡《ずる》くて自分勝手な他人たちに囲まれていても、そんな安息が得られる瞬間があるから、人生は続ける価値があるのだろう。「おめえはどじゃねえよ」と応えて、桃山は暗い夜空を見上げた。人工の光が減った分、満月の形が明瞭に見えるようになっていた。
秩父《ちちぶ》、飛騨《ひだ》の山脈を越え、月光を映す黒部の湖水を後にして富山湾へ。約二時間の飛行を経て、アパッチは日本海を眼前にした。
まだSOLL機の登録が生きているのか、指揮系統が混乱しているのか、自衛隊機の追撃がないのが救いだった。いま頃は謎のヘリコプターの目撃通報で、どこの県警の通信センターもパニックになっているだろうが、いくらあわてたところで警察や海上保安庁にはアパッチを追えるほどの航空装備はない。夜明け前のひときわ濃い闇に沈む海面を見下ろした保は、「海に来れたな」と一時間ぶりに口を開いていた。
いつか三人で行こうと亀戸の警備室で約束したのは、奇妙な共同生活最後の晩のことだったか。桃山も眼下を覗いてみたが、月の光を波頭にちりばめた海はどこまでも暗く、見ただけで風邪をひきそうな硬質な冷たさを宿していて、安寧とはほど遠い虚無が不安を増幅させるばかりだった。ぶるりと肌を粟立たせた桃山は、「冗談じゃねえ」と返して目を前に戻した。
「こんな真っ暗な海はごめんだ。第一ひとり足りねえじゃねえか」
「そうだな。……この海は、冷たすぎる」
海上では、隆起する海面が機体の姿勢維持を困難にする。この二時間で操縦感覚を体得したらしい保は、サイクリック・レバーを小まめに調節して機体の姿勢を維持し、全地球測位システム《GPS》とジャイロコンパスを併用して現在位置を割り出す作業の一方、先行する北の高速艇に通信を送る芸当までやってみせた。
葵と金谷を乗せて島根の漁港を出発した瀬取り船は、予定通り竹島沖で二人の引き渡しを済ませたようだった。日韓当局からノータッチのお墨付きをいただいているとも知らず、北の迎船は律儀に韓国領海線を迂回《うかい》し、元山に帰港するルートをたどっているのだろう。あらかじめ取り決めてあったらしいデジタル無線の呼びかけに応じ、朝鮮語の返信がノイズと一緒に返ってくるまでに、さほどの時間はかからなかった。
同じ言葉で応じる保に、あらためて過ごしてきた時間の種類の違いを知らされる思いだった。奇妙にしゃちこぼって聞こえる異国語のやりとりは、桃山にはまるでちんぷんかんぷんだったが、舌打ちした保の様子を見れば、あまり楽しくない事態が持ち上がっているのだろうことは想像がついた。
「どうした?」
「高速艇どころか、二十ノットも出ないオンボロで迎えに来たんだそうだ。これじゃすぐに追いつかれて沈められるぞ」
国の困窮が軍にも及び……という類いの話ではない。〈アポクリファ〉の外交カードとしての価値があやふやで、使いこなせる自信もないなら、後始末に協力して市ヶ谷に貸しを作り、別件で返してもらおうという算盤《そろばん》勘定。支離滅裂なようでいて、土壇場できっちり計算を働かせている北らしいやり方だった。
生贄《いけにえ》の棺桶として沈められる前提の迎船に、金をかけても始まらない。クルーも、落ちこぼれか反体制指向の連中をそろえてきたに違いなかった。上の人間の思考回路は、どうしてこう主義主張の区別なく似通うものなのか。唾棄する間に、さらに二言三言の朝鮮語が交わされて、チャンネルの切り替わるかすかなノイズの後、ひどく久しぶりに聞く声が桃山の耳朶を打った。
(保……)と言った声はどこかか細く、最後に会った時の具合の悪そうな顔色を思い出させたが、状況を考えれば当然と言うべきかもしれない。オンボロ船のオンボロ無線室で、二世代前のマイクを握っている葵の姿を思い浮かべた桃山は、「無事か?」と応じた保の声を通話装置ごしに聞いた。
(……うん。そっちは?)
「グータラ警備員と一緒だ。問題ない」
(桃山さん……!?)と大きくなった声に、耳障りなデジタルノイズも比例して音量を増した。北の迎船との距離は近づいているはずだが、だんだんひどくなるようだ。頬に触れた唇の感触がふとよみがえり、桃山は「よお、ついてきちまったよ」と、無意味に赤くした顔で無線に割り込んだ。
「こっちは順調だから、心配いらねえ。金谷によろしくな」
できれば挨拶ぐらいしたいところだが、恋人同士の邪魔をする無粋は、金谷も望まないだろう。葵の返事がノイズの中で切れ切れに聞こえ、「……その、腹の具合は大丈夫か?」と、努めて素っ気ないふうを装った保の声が重ねられた。
(うん、平気。……父親に似て、しぶとい子みたい)
途絶寸前の声に、シートベルトの効果もなく座席からずり落ちそうになった。あわてて座り直し、目を合わせようとしない保を振り返った桃山は、不意に飛び込んできたその言葉の意味をゆっくり呑み下していった。
そうか、そうだったか。あの辛そうだった葵の様子。つわりを自覚していたのなら、あれ以来の保のガムシャラぶりにもあらためて筋が通る。妊娠、おめでた。二人は親になるのだ。「……そうか」と応じた保の顔に、見たことのない穏やかな色が映え、めでたいやら気恥ずかしいやら、桃山はいてもたってもいられない気分になった。
(桃山……ん。保を頼……ます。肩までの川……きっと二人で……)
ノイズの嵐の中で、遠ざかる声が言っていた。「おう、任せとけ」と返した声は届いただろうか? 完全に失探した無線のスイッチを切り、「すぐに会えるさ」と無表情に繕った保を、桃山は「この野郎……」と睨みつけてやった。
「なんでそんな大事な話を黙ってやがったんだよ」
「……言わなかったかな」
「言ってねえよ。まったくいつの間に……。ちゃっかりしてるぜ、本当」
決まり悪そうに逸らされた横顔は、剥きっぱなしだった牙を内奥《ないおう》に秘める術を覚えて、辛酸の果てにのみたどり着くことのできる、本当の強さを宿し始めた男のものと見えた。わけもなく胸が熱くなり、桃山は海上の星空に目のやり場を求めた。
「ま、とりあえずおめでとさん。それにご愁傷さんだ。親父になったら、もういままでみたいな無茶な真似はできねえんだからな」
自分のことは棚に上げた言葉だったが、保は黙って聞いていた。言われるまでもないことだろうと思い、桃山も口を閉じた。だから最後にこんな大騒ぎを演じてみせた。自分と葵の身だけが大事だったのであれば、たとえばあのウィルス・プログラムの引き渡しを条件に、北や他のテロ国家と取引することだってできたのに、それをしなかったのだ。しょせんは醜聞種でしかない〈アポクリファ〉と違い、その気になれば一国の防衛体制や、金融ネットワークを麻捧させられるアポトーシスを鼻先にぶら下げれば、もっと有利な身柄保全交渉を進められたはずなのに、そうしなかった。そしてしないとわかっていたからこそ、リ・テイワも保にすべてを託すつもりになったのに違いなかった。
生まれ育った場所。どれほど傷つけられ、裏切られ、絶望させられたとしても、ここより他に帰れるところはない、たったひとつの故郷。葵を通じて生身の人の魅力を知り、感情を育む場として周囲を捉えるようになった時、多くの人が無意識にそうしているように、保は世界そのものを愛することを覚えたのだろう。だからもっとも厳しい選択肢を取り、葵を生かすと同時に地下の腐敗を摘出する、この行動を起こそうと決めた。誰もが容認しかけていた病根を白日のもとに晒し、この国がさらなる泥沼に足を踏み入れるのを防ごうとした。葵と二人――いや、親子三人。いつか胸を張って帰り、暮らせる国になると信じて。ここが自分の故郷だと、恥じることなく子に語れる時がくると信じて……。
清冽な星々の瞬きが、周囲百キロにわたって海と闇しかない虚無の空間を包んでいた。次の夜明けは見られない自分を予感しながらも、新しい命の存在を知り得た心は、もう恐怖に萎縮することはなかった。いつかきっと、その時はくる。おめでとう、本当におめでとう。滲む星空にまだ見ぬ未来を繋げて、桃山はその言葉を何度もくり返した。
竹島沖約百キロまで北上した葵たちの船は、北緯三十八度を越えた時点で転舵し、朝鮮半島との距離を徐々に詰め始めた。そこより東に九十数キロ、追尾を開始した護衛艦の輝点がアパッチのレーダーに捉えられたのは、交信を終えてから三十分も経った頃のことだった。
機首のレーザー測遠機が艦影を捕捉すると、着艦用に事前にセットされていたデータがモニターに表示され、やはり事前に備えつけられていた専用の衛星通信回線が開く。〈鷲〉のコードを与えられたアパッチに対して、〈鮫〉のコードを持つ護衛艦から発せられた通信は、最初から殺気立ったものだった。
(貴機の所属、搭乗者名を明らかにせよ。目標殲滅以前の本艦との接触は認められていない。返信なきまま接近を続ける場合、本艦は所定の防衛行動に入ることを警告……)
それ一台で方位、距離、高度を測定できるという護衛艦の高性能三次元レーダーには、NOEも気休めにしかならない。高度を取り、赤外線映像に映る艦影を確かめた保は、「〈こんごう〉だ」と呻いていた。
「佐世保の虎の子が出張ってるとはな……」
九州、佐世保を母港とする第二護衛隊群所属のミサイル護衛艦。海上レーダー基地とも言える高性能レーダーを備え、同時に複数の目標を迎撃できるイージス・システムを搭載した最初の護衛艦だと、保は説明した。難しい理屈は置くとしても、ヘリで挑むにはまさに最悪の相手だということぐらいはわかる。暗い海と空の界面に、灯火管制した百六十メートルの巨体を見定めた桃山は、「さあて、どうする」と乾いた唇を舌で湿らせた。
「とにかく足を止める。船が主砲の有効射程に入ったらアウトだ」
中・長距離射程の誘導ミサイルは、韓国や中国、ロシアのレーダー網が錯綜するこの公海上では使えないとなれば、射程二十四キロの一二七ミリ単装速射砲が、〈こんごう〉最大の武器になる。現在、葵たちを乗せた北の船と〈こんごう〉との距離は、約九十キロ。最大戦速で追撃に入ったイージス艦が、二時間弱で主砲の射程圏内に葵たちを捉えてしまうのに対して、北のボロ船が自国の領海内に到達するには、たっぷり二時間半はかかる。市ヶ谷の変事を察知したピョンヤンが急きょ予定を変更し、迎船の回収に動き出すとしても、領海に入るまでは静観を決め込むと見た方がいい。つまり最低三十分間、あの化け物の足を止めてみせなければ、葵たちに生き延びるチャンスはないということだった。
左舷をこちらに向けて横たわる〈こんごう〉の黒い塊まで、およそ三十キロ。艦橋構造部の前に鎮座するいかつい主砲が転回するや、照準捕捉されたことを知らせる警報がコクピットに鳴り響いた。主砲の射程圏内まであと六キロ足らず、残り少ない燃料を横目に艦の真正面に機体を向けた保は、懐から一枚のフロッピーディスクを取り出した。
「前にあんたのところで複製したディスクだ。アポトーシスの最後の一匹が入ってる」
コンソールの下に増設された、衛星暗号通信装置のディスクドライブにそれを差し込みながら、保は敵を見据える目をまっすぐ〈こんごう〉に向けた。亀戸の警備室で熱心にキーボードを叩いていた時の横顔が思い出され、そんな恐ろしいもんをコピーしてやがったのかと、いまさらぞっとなる胸のうちを隠して、桃山は「どうしようってんだ」と返した。
「衛星経由で、こいつをあの艦のレーダーシステムにぶち込む。市ヶ谷でやった時ほどの効果はないだろうが、少しは防空システムを混乱させられる」
「できるのか、そんなこと」
「やってみりゃわかる」と保。そりゃそうだ、と桃山も視線を正面に据えた。どのみち勝算はゼロ、やれることならなんでもやってみるしかない。GPSとレーダーがリンクしているなら、アポトーシスを侵入させるのも決して不可能ではないし、うまくすれば、繋がったシステムすべてに自滅を促すその特性が、無人管制・完全オートメ化が自慢の護衛艦から、砲撃能力を削ぎ取ってくれるかもしれないのだ。送信を開始すると同時に静止し、突進する〈こんごう〉の真正面に立ち塞がったアパッチの中で、桃山はさあ来いと近づく影を睨みつけてやった。さあ来い、化け物。おれがこの両手で受け止めてやる……!
測遠機の目盛りが急速に下がる。舳先《へさき》に記された173の数字が赤外線映像にはっきり映し出され、各種レーダー板を鈴なりに実らせたマストの鉄塔が、十字架のシルエットを次第に大きくしてゆく。イージス艦特有の巨大な艦橋構造部は壁そのもので、海上要塞、風車に挑むドン・キホーテ……と不吉なイメージばかりが頭を駆け巡ったが、そこは元マル暴の胆力、ここまでつきあったバカさ加減の総決算で、桃山はロックオンの警報に負けない大声で弱気を吹き飛ばした。主砲の射程距離まであと一キロ、無人砲塔の暗い砲門が無造作に動き、立ち塞がる小蝿に狙いを定める。八百メートル、五百メートル。逃げ出したい衝動を操作グリップを握る手のひらに押し込んで、桃山も照準の十字線を砲塔に重ねた。射程距離到達まで残り三百メートル、百、五十――。流れ落ちた汗に目をしばたかせた瞬間、鳴り続けていた警報が出し抜けに止まり、コクピットに場違いな静寂が戻った。
ぴたりとこちらを見据える砲門が、迷ったように左右に首を振る。測遠機の目盛りは二十四キロを割って、すでに射程圏内に入った現実を伝えているのに、照準を解いた主砲はウンともスンとも言わない。
成功だ。「やった! ばっちり風邪ひいてくれたらしいぜ」と保を振り返った桃山は、その顔に安堵の微笑が浮かびかけたのを見たのも一瞬、突然わき起こった閃光に目を塞がれた。
〈こんごう〉の主砲、一二七ミリ速射砲から放たれた曳光弾の閃光だった。轟音、というより衝撃がすぐ後に続き、急上昇で回避したアパッチのコクピットに重圧がのしかかる。倍になった重力にシートに押しつけられた桃山は、「レーダーが使えなくても、目測で撃ってくるから気をつけろ」と言った保の声に、食いしばった歯の間から文句を搾り出した。
「先に言え、先に!」
さらに急上昇、そして降下。大砲と言えば弾の装填に時間がかかるものという素人考えを嗤《わら》って、〈こんごう〉の主砲は二秒と置かずに次々弾丸を撃ち放ってくる。照明弾の燃焼が闇の海を照らし、海面すれすれを這うアパッチの姿を見つけ出すと、着弾の水柱が立て続けに噴き上がって進路を阻むようにする。レーダーが使えない向こうがヤケクソなら、残弾わずかな機体で弾幕に突っ込むこちらもヤケクソだった。目玉が押し込まれ、内臓が移動する強烈な加重に耐えて、桃山も上昇と同時に操作グリップの発射ボタンを押し込んだ。
両翼のパイロンに吊した残り六本の対戦車ミサイルが二本、撃ち出される。艦橋構造部中央に装備された機銃があわてて左右に首を振り、細長いドーム型の本体下部から火線をほとばしらせたが、火器管制から索敵まですべて自動制御でこなすらしい機銃は、コンピュータの助けがなくなればでくの坊同然だった。一発が乾舷《かんげん》間近で爆発し、その炎をかい潜った二発目が主砲の砲塔基部を直撃して、オレンジの炎を盛大に噴き上げる。船体が傾《かし》いだように見えたのは、気のせいではないだろう。そのまま爆煙の中に飛び込み、機銃を撃ちまくりつつ〈こんごう〉の艦橋に突進する。さながら一騎打ち、〈こんごう〉の機銃の火線と根競べの撃ち合いをしながら、マスト直上まで一気に駆け上がった。
追いすがる機銃弾の数発がテールローターを貫き、故障箇所発見パネルに無数の赤が点灯した。「どこに直撃を受けても三十分は飛ぶようにできてる。先に魚雷管とミサイルを潰せっ!」と保の叫び声が弾け、直後、舌を噛み切りそうな衝撃がコクピットを揺さぶった。揚力《ようりょく》の低下したアパッチの機体がマストをかすめ、ランディングギアがマストのレーダー板を蹴飛ばしたのだった。
弾け飛んだアンテナ板と一緒に、へし折れたランディングギアが海面に落ちてゆく。片足になったアパッチの機体が〈こんごう〉の頭上を流れ、艦橋構造部のすぐうしろ、二つある煙突の狭間に巨大なミサイルの発射筒を見つけた桃山は、迷うことなく発射ボタンを押した。
ミサイルが撃ち出された衝撃を感じる間もなく、すかさず火器管制をチェーンガンに切り替えて、今度は両舷の魚雷管と思われる物体を照準する。機銃弾が甲板上を走り、パイプ三本を束ねた形状の魚雷発射管を撃ち砕く。煙突裏の発射筒に着弾したミサイルも同時に炎を噴き上げ、〈こんごう〉はその中央から炎とキノコ雲の傘を広げていった。
ドン・キホーテの槍が歯車に突き刺さり、巨大な風車を止めた瞬間だったが、僥倖はそこまでだった。後部甲板からのびた機銃弾の緑の曳光がアパッチに突き刺さり、その腹に弾痕の蜂の巣が刻まれる。赤外線の目で目標を捉えたもう一基のドーム型機銃が、猛然と火線を撃ち上げ始めたのだ。
ウィルスに侵《おか》されたコンピュータが狂い、攻撃範囲が無制限になっているのか。射線上の煙突やマストの鉄骨が砕けるのもかまわず、執拗に追随する火線は機械ならではの容赦のなさで、さらに数発の直撃を食らったアパッチは、黒煙を噴き出し始めた機体を海面すれすれに降下させるよりなくなった。煙突を盾にして死角に入ろうとしたが、心得ていたように前部機銃からの狙撃も始まり、あわてて後退した時には、前後二つの火線が交錯するポイントに追いやられてしまっていた。
集中砲火――嬲《なぶ》り殺しだった。手動制御への移行を完了させたのか、どれだけ逃げても十字砲火の交差が追いかけてくる。ひび割れたキャノピーが白く曇り、コンソールが火花を散らして、黒煙がコクピット内にも充満する。ドラム缶の中に閉じ込められ、鉄棒でガンガン叩かれればこんな感じになるだろう。目を閉じ、歯を食いしばって衝撃に耐える桃山の体に、全速で後退、転舵する機体の動きが伝わり、次の瞬間、すぐ耳元で頭を真っ白にするような爆発音が弾けた。
丸く砕けたキャノピーの破片が肩に当たり、生暖かい液体が首筋に振りかかった。咄嗟に頭を抱えた後、どうにか目を開けた桃山は、首筋を拭った手のひらを見て絶句した。
血だった。コンソールとキャノピーにも、水風船をぶつけた跡のように赤黒い飛沫が散っている。「保……!」と振り返った桃山は、機体とガラスの破片に埋まった保の上半身が、左脇腹をべったり血に染めているのを見て息を呑んだ。
転舵のため、機体が横腹を向けた一瞬に機銃弾の直撃を受けたらしい。「……大丈夫。まだやれる」と呻いた保は、ドーム型機銃の射程を離れた機体を再度転舵させて、死に体のアパッチの鼻面を〈こんごう〉に向け直した。
「もう少しだ。スクリュー……VLSを……」
甲板についた火を自動消火の放水で消し止め、不沈ぶりを見せつけて驀進する護衛艦をまっすぐ見据えて、保は腸《はらわた》を振り搾るような声で言った。その目に揺らめく、消えかかった燐光が鮮烈な輝きを宿すと、共鳴したかのようにローターの回転を高めたアパッチが、既に半壊した機体で突撃を開始する。見えない力の脈動に乗って、桃山もまた絶叫していた。
「どけぇーっ!」
〈こんごう〉の火線の嵐が叫び返す。機銃を撃ち散らしつつ、桃山は最後のミサイルを発射した。不完全な照準装置が目標を追いきれなかったのか、こちらの気迫に呑まれたのか、前部甲板のドーム形機銃が直撃を受けて四散する。火線の途絶えた右側に機体を捻り、艦橋構造部の正面にホバリングしたわずかな時間を見逃さず、桃山はさらにチェーンガンで甲板を掃射した。狙いは甲板に内蔵された垂直ミサイル発射筒、主砲のうしろに碁盤状に並ぶハッチの群れだ。発射ボタンを押し込みながら、桃山はもう少し、もう少しなんだと念仏のように唱え続けた。
あと少しで自由に手が届く。次に続く命を手に入れ、永遠に近づくことができる。これを乗り越えれば、こいつを止めることさえできれば。白熱した頭にごうごうと響く音が聞こえ、吹き込む風の音か、逆流する血の音か、あるいはあの川の音なのかと考えたのが、最後のまともな思考だった。集中砲火に機首のセンサーを破壊され、照準装置がダウンすると、テールローターへの循環パイプも切断されて、アパッチは浮遊するスクラップに過ぎなくなった。よたよたと射程圏外に抜け、墜落寸前で踏み止《とど》まった時には、コクピットは血と煤にまみれた棺桶になっていた。
混線した無線がなにかをわめき、生き残ったレーダーに別の艦影が映ったようだが、桃山には読み取れなかったし、その余裕もなかった。咳き込むエンジンの音を聞き、破片の擦過と冷気で感覚のなくなりかけた手のひらを握りしめて、桃山は「おい……生きてるか」と通話装置に吹き込んだ。割れたミラーに保の姿を確かめることはできず、「……ああ」と返ってきた声に少し息をついて、砕けたキャノピーごしに、現実の壁そのものとして立ち塞がる護衛艦の威容を見つめた。
主砲とレーダーは潰したものの、まだごっそりミサイルを残している〈こんごう〉に対して、アパッチに残された武装は空戦用の小型ミサイルが二本のみ。このままではいずれ追いつかれて、葵たちの船は沈められる。こちらもあとどれだけ飛んでいられるかわからない身、スクリューを潰して足を止めるには……と考えかけた桃山は、不意に「……桃さん」と喘ぎ声が紡がれるのを聞いた。
初めて名前を呼ばれた驚きに、桃山は無条件に背後を振り返った。シートに沈み込み、血の惨んだ腹を上下させながらも、保は「頼まれてくれるか?」と衰えない目の光で続けた。
「FCSが断線した。手動に切り換えるから、手で外してくれ」
垂直同期の乱れたモニターに機体の線図が映し出され、コクピット脇、左側に突き出た搭乗用足場に輝点が灯った。そこにFCSとやらの制御装置があるということだろう。取り外すにはハッチを開け、キャノピーから半身を乗り出さなければならない。「わかった」と応じた桃山は、即座にシートベルトを外しにかかった。曲芸まがいの行動であっても、ここであきらめて負け犬のまま殺されるのはご免だったし、なにより名を呼び、頼むとまで口にした保の精一杯に、応えてやりたい二心だった。言うことを聞かない手を叱咤し、なんとかシートベルトから逃れた桃山は、ロックを外してサイドハッチをはね上げた。
「……ありがとう」
静かな声が、他の物音すべてを消して桃山の頭に響いた。やさしすぎる声音にどきりとしながらも、桃山はハッチの外に身を乗り出した。
すぐ上で回転するメインローターの強風と、五メートル下の海面から噴き上がる飛沫が五感を圧倒する。上半身をキャノピーの外に出した桃山は、吹きつける海水に目を細めつつ問題の箇所に手をのばした。カバーの把手に指が触れようとした刹那、アパッチの機体が大きく傾き、繋ぎ止める何物もない桃山の体は、呆気なく機外に放り出された。
なにが起こったのかわからなかった。気がついた時には目前に黒い海面が迫り、すべてが闇に包まれた。夢中で手足を動かし、どうにか荒れる海面に顔を突き出した桃山は、すぐ上に浮かぶアパッチの腹から、小振りなドラム缶程度の大きさのタンクが落とされるのを見て、慄然《りつぜん》とした。
海面に接触するや、表面のカバーが弾けて爆発的に膨脹したタンクが、救命ボートの類いであることは考えるまでもなかった。すぐにローターの回転音が高まり、思わず手をのばした桃山をその場に残して、保はひとりアパッチを上昇させていった。
「またな」
雑音の混じった通話装置に、そのひと言が置き去られた。パイロットシートに座る保の顔が、微笑したように見えたのは錯覚か? 海水の冷たさも感じられない体をゴムボートに寄せ、闇に紛れ込んでゆく機影を追った桃山は、塩辛い水が入り込んでくるのもかまわず、開けるだけの口を開けて怒鳴っていた。
「バカ野郎ーっ!」
ノイズの海の中に、桃山の声が小さくなってゆく。通話装置も暗視装置もダウン、もう電装品は役に立たない。ヘルメットをはぎとった保は、開いたままのサイドハッチから吹き込む風を顔に受けて、ひとつ大きな深呼吸をした。
必要なものはすべてそろっている。まだあと数分は飛行できる燃料。ほとんど流れ出てしまったものの、操縦桿を握るには十分な体内の血液。そして光。まだ消火しきれない炎が、〈こんごう〉の中央舷で燃えている。桃山が灯してくれた火、自分を導いてくれる光だ。あれを目指して飛んで行けばいい。最後にもう一度、近づきつつある別の艦影――ようやく動き出した海上自衛隊の艦艇をレーダーに確かめた保は、前方に瞬く灯だけを視界に入れた。
消えかかった蝋燭《ろうそく》のように、最後にひときわ輝いた光。暗闇に灯った、たったひとつの灯。葵のようにきれいで、桃山のように温かい。涼子の清廉さ、曹長の厳しさ、テイワの大らかさを持った命の光。その向こうに、永遠の輝きが広がっている。守ることができた、その充足を抱いて、保は自分の知るすべてのものに宣言した。
「任務、完了――」
機銃の線条がアパッチを引き裂き、火の玉になった機体がまっすぐ〈こんごう〉の艦尾に突き刺さった。コクピットが潰れ、爆発の炎がアパッチを包んだが、その時には、直前にパイロン両翼から放たれたミサイルが、事前にセットされたのだろう目標を目がけて海中に没していた。
止める手段はなかった。至近距離から海面に向かって放たれたミサイルは、忠実な猟犬のごとく、海水をかき回すスクリュー・プロペラの音源を目指して突き進んだ。炎の塊になったアパッチが〈こんごう〉の後部ヘリコプター甲板を滑り、煙突構造部に激突した瞬間、スクリューを直撃した二基のミサイルも起爆して、〈こんごう〉の巨体を震わせた。
金属の塊が膨れ上がり、白熱した炎が艦尾から飛び散ると、そそり立った水柱がスローモーションさながら、ゆっくりと飛沫を咲かせてゆく。爆圧にすべてのプロペラを吹き飛ばされ、軸のねじ曲がったスクリューは、不協和音を奏でた末に回転をやめた。推進力を失い、惰性でしばらく進んだ〈こんごう〉は、向かい風に押し返されるようにして、その歩みを止めた。
ゴムボートの上で、桃山はそれを見届けた。体温を奪い尽くす海と風の冷たさも忘れて、黒煙を噴き上げる護衛艦のうしろ姿をいつまでも見つめ続けた。揺れる波間に、複雑な船体の形が奇妙にくっきりと浮かび上がり、ふと空に目を転じると、黒一色だった空が東から群青色《ぐんじょういろ》に染まりつつあるのが見えた。
曙光《しょこう》が水平線の向こうに生まれ、ゆったり広がる朝の光が雲を薄桃色に染め、海を金色に染めて、世界の色を変えてゆく。長い夜の終わりを告げる光。実体のなかった明日が、確かな今日になる瞬間だった。冷えきった体に朝陽を浴びながら、桃山は声も涙も出ない、飽和した顔を海と空の界面に向けた。
そうするしかなかったのか、保。これでよかったのか。おまえの川は、このだだっ広い海に流れ着くことができたのか?
今日は、昨日よりマシな今日になったのか……?
ボートがぐらと揺れた。凪《な》ぎ始めた海面に、新たな波紋が生じたのだった。縁に両手をつき、頑丈なゴム底に膝をついた桃山は、十数メートル先の海面が隆起し、黒い異物が吃立してゆくのを呆然と見上げた。
潜水艦だった。全長八十メートルあまりの巨体が、その涙滴型の船体を半分だけ海面に現し、のっぺらぼうの黒い筒に二枚の羽根を生やしたセイルが、波紋に揺さぶられるだけの桃山を見下ろした。
朝陽がその陰に隠れて見えなくなると、セイルの上に顔を覗かせた白い制服姿の男が手を振り、続いて現れたもうひとりの男が、手にした旗を頭上に掲げてみせた。風にはためく日の丸を確かめた桃山は、両足を踏んばって不安定なボートの上に立ち上がり、目前に聳える壁をまっすぐに捉えた。
この先どうなろうと、もう自分に恥じるような生き方はしない。おれも、おれの務めを果たしてみせる。日の丸がはためく黒い鋼壁の向こうに、生まれたばかりの陽光を宿した海の広がりを信じて、桃山は背筋をのばしていった。
バカだな、あんた。海を渡る風が、そんな微笑を届けて傍らを吹き抜けた。
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――十一月二十八日付サンエイ新聞夕刊「視点」より抜粋――
高度情報化社会の無知
自衛隊市ヶ谷駐屯地の停電・火事騒ぎから、今日で半年が過ぎた。埋設送電線が浸水し、ショートして発火にいたったという事故の原因は、使用・供給両者の管理不備にあったとの調査結果が発表されたが、駐屯地内部の自家発電設備も同時に不備に陥った理由、通信を含むコンピュータネットワークが短時間の停電ですべてダウンしてしまった理由については、未だ明確な説明がなされていない。降格人事でお茶を濁す前に、政府はそれが国防の中枢拠点で発生した事故であることをよくよく肝に銘じて、原因究明を徹底してもらいたいものである。
が、どれほど高度な管理システムを導入しても、起こる時には起こるのが事故というものだ。問題は、発生時の対応にこそある。今回、事態に最初に対応したのは隣接する機動隊本部の警察官と、地元消防署の消防士たちだったが、彼らは個々の判断で動いたに過ぎず、関係官庁が状況を把握し、防衛庁が正式に駐屯地内への立入り許可を出したのは、半ば強引に押し入った彼らが火災を消し止めた後だった。
火事は庁舎二つを半焼させたが、彼らの判断がなければ、被害はより深刻なものになっていたことは論じるまでもない。この間、マスコミへの対応もまったく統制が取れておらず、駐屯地上空に侵入したテレビ局のヘリに退去勧告(従わねば発砲する云々の内容だったそうだが、真偽は定かでない)が出されると、それが後に物議を醸したお粗末も忘れられない。結局、何が起こっているのか正確に理解している者は誰もおらず、マニュアルに記載された事項は勤勉に遵守するが、それ以外の事態には何ら決断を下すことができない、役所の悪癖を露呈させたと同時に、軍(と書くとまた問題なのだが)施設と芸能人宅を同列に扱ったマスコミの緊張感のなさ、総じて国民の危機意識の低さを浮き彫りにした事件だったと言えるのではないか。
思えば阪神大震災、地下鉄爆破事件の時も同じ主旨の駄文を書いたように思う。今回の事件はそれらとは質的に異なるが、高度情報化社会と呼ばれる中にあって、受け手側に相応の見識がなければ猫に小判なのだという現実、非常時に頼らなくてはならない自衛隊や警察といった行政機関に対する国民の無知(無関心)、本質的な意味での情報不足が、有事の対応を不必要に複雑化、または臆病にしてしまう現状は、忘れるべきではないだろう。
「凶悪犯罪に対する警察能力の抜本的改編案」も結構だが、その前に、大多数の国民は警察庁長官と警視総監の違いさえ理解していない現実を認識し、セクショナリズムの排除、相互理解と協力態勢を、官・民の問に徹底させること。これには双方の不断の努力が必要だが、混迷を極める世界情勢にあって、日本人だけが安全にただ乗りすることは、もう許されない時が来ている。公安調査庁の再編に大金をつぎ込むなら、そうした意識改革にこそ投資すべき……と書いているいま、公安調査庁改編が見直される旨のニュースが飛び込んできた。
新政権が早くも気炎を吐いたか。早速アシスタント君に詳しい理由を調べるよう頼んだら「公安調査庁って再編するはずだったんですか?」と聞き返された。何をか言わんや、である。
[#地付き](桜美大学社会学部教授 相原哲夫)
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一年前、息苦しいほどの静寂の底にあった地下空間は、いまは複数のモーター音や金属を打ちつける音、足音と一緒に移動する怒鳴り声、館内放送のアナウンスといった喧噪に包まれていた。モーター音は電動ドライバーの音、金属を打ちつける音はリベット打ちの音か。瓦礫を積んだ台車が床を踏み鳴らす音も聞こえてくる。耳を澄ませば、天井から響く怒声は「パネルの取り付けはB棟の三からでしょ!?」と言っているのがわかるし、通路から届く館内アナウンスの声が、(IDDNの通信復旧テストは予定通り、本日一四〇〇より実施されます。電算室要員は十分前までに……)とくり返しているのもわかる。
急ピッチで修復の進む市ヶ谷の地下施設にあって、A棟第五層にあるこの執務室の雰囲気もだいぶ変わった。部屋の隅に置かれた鉢植えの観葉植物は変わらないが、窓代わりの風景画は、西洋の油彩画から日本の水彩画に掛け替えられた。三ヵ月ほど前、この部屋の住人として新たに赴任してきた男が、幕僚ゴルフコンペで準優勝した際に手に入れた品なのだと言う。
水車小屋と小川を淡いタッチで描いた水彩画は、一年前までの住人――佐久間仁が目にすれば、失笑したに違いない朴訥《ぼくとつ》さだが、現在の住人にはこちらの方が似合っている。風景画に並んで掛けられた数枚の賞状。正面の壁には国旗と、出身部隊の隊旗が律儀に飾られてもいる。執務机の下にちらりと覗くのは、健康サンダルの類《たぐ》いだろう。整理整頓という言葉を忘れた机は書類で埋もれ、吸い殻と飴の包み紙が山盛りになった灰皿や、家族のスナップを収めた写真立てがその間に見え隠れする。生活色全開といった感じの机の向こうに、初老に差しかかった男のまる顔が控えており、タヌキというあだ名通りのその風貌が、この執務室になにかしらあっけらかんとした空気を持ち込んでいるのだった。
部屋なんて、しょせんは容れ物。住む人次第でどうとでも変わってしまう。佐久間がいた頃の閉塞感は微塵もない、開放的でさえある執務室の雰囲気を肌に感じて、城崎涼子は思わずにいられなかった。それはこの地下施設全体、市ヶ谷という組織そのものについても言えることだ。
自分も、佐久間も、こうした日常の匂いを忘れ過ぎていたのかもしれない。まどろっこしくても、歯がゆい思いをしたとしても、雑駁《ざっぱく》なものを取り入れ、日常のバランス感覚を養っていってこそ、社会と折り合う術も見出せたはずなのに……。
「どうしても、戻る気はないかね」
三十秒あまりの沈黙を破って、まる顔の男――井島一友が口を開いた。組織縮小以前の市ヶ谷で東部方面内事部長の要職を務め上げ、縮小後は一事務官として、防衛庁の片隅でひっそり定年を迎える日を待っていた。いかにも困ったというふうに眉をひそめ、下唇を突き出している顔には愛敬があるが、タヌキのあだ名は単に見てくれを揶揄《やゆ》しただけのものではない。日頃は太平楽の粗忽者《そこつもの》が、いざという時は無類の行動力、統率力を発揮する。その化かしっぶりをタヌキと恐れられているのだ。
半年前、急転直下の市ヶ谷の再編制が決定されるや、最初に井島が呼び戻された経緯も、内外の彼への評価を物語っている。本人の意志を無視し、問答無用で行われた異動であったことは想像に難くなく、この半年間の井島の苦労を目の当たりにしてもいる涼子は、「はい。申しわけありません」と率直に頭を下げた。
「愚痴を言っても始まらんが、いまは人手不足の折だ。君みたいなベテランに抜けられると痛いんだが……」
「ありがとうございます。しかし新しい市ヶ谷には、自分のように過去を引きずった者は不要かと」
努めて事務的に言ったつもりでも、井島と目を合わせ続けることはできなくなった。「君はもう十分に償ったじゃないか」という声が行き過ぎるのを聞きながら、涼子は、この一年あまりの変転を伏せた瞼の裏に追った。
〈アポクリファ〉事件の帰趨《きすう》がもたらした政権交代劇も終わり、政界・官界の人脈地図更新もおおよその片がついたのは三ヵ月ほど前のこと。その間、公安調査庁再編計画の見送りも決定され、佐久間の描いた絵は完全に白紙に戻ったかに見えたが、そこへ俄《にわか》かに市ヶ谷再編制の話が持ち上がり、破壊された地下施設の修復と、組織体系の再構築が始まったのだ。
理由は単純だった。市ヶ谷駐屯地で起こった戦闘の隠蔽工作、事件後、地下に潜伏した佐久間のシンパの狩り出し。公的機関が正規に処理すれば、国全体がひっくり返りかねない事件の処置は、不正規に処理するより道はないと判断された。市ヶ谷が引き起こした事件の後始末は、市ヶ谷にやらせるのが適当という結論が導き出されたのだ。
他にも護衛艦〈こんごう〉が被《こうむ》った十億単位の損害の穴埋め、〈アポリクファ〉の情報を握ったまま北朝鮮に渡り、行方をくらました須藤葵と金谷稔の捜索、事件の真相を嗅ぎ回る内外の情報機関への牽制……と、やるべき仕事は山積している。往時と同じ規模とまではいかないが、とりあえず必要最低限の人員は呼び戻し、各事案への対処を進める一方、組織の再構築案を検討する。四年の空白の間に断線した人的な情報ネットワークも順次復旧させ、二年以内に情報機関としての市ヶ谷を編制し直す。公的機関化こそ実現しなかったものの、佐久間が望んでやまなかった市ヶ谷の再興は、皮肉にも彼の死を契機に実現する運びになったのだった。
もっとも、井島たちのような人間が中心になって行われるそれは、佐久間が脅迫めいた手段で断行しようとした再編とは異なり、周囲との共生を旨とする穏やかなものになるだろう。増村保やリ・テイワ、多くの人が命と引き替えにもぎ取った未来の種が発芽し、そのひとつが目の前にあるのなら、涼子には成長を見届けたいという思いもあったのだが、現在の市ヶ谷に居場所を見つけられない――興味を持てない自分がいることも、また事実だった。
「君が積極的に協力してくれたお陰で、佐久間一佐のシンパもあらかた摘発できた。どこから手をつけたらいいのかもわからない事件に収拾の糸口をつけて、永田町に市ヶ谷の存続価値を認めさせたんだ。その意味では、君が新しい市ヶ谷の産みの親だと言ってもおかしくないんだよ?」
「それも佐久間一佐の暴走があったればこそです。自分は、その後始末の手伝いをしたに過ぎません」
「しかし君は佐久間を……」思わず言いかけて、涼子と視線を合わせた井島は、ばつが悪そうに顔をうつむけた。ワイシャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出し、空なのに気づいて、ぐしゃと潰したそれをゴミ箱に放り込んでから、「まあいい」とため息混じりに呟いた。
「後始末と言えば、今回の組織再編自体が後始末の一環のようなもんだ。放っておけばなにをしでかすかわからん連中は、一ヵ所にまとめて国で管理した方がマシだ、とな」
そう言う井島自身、増村保に協力した元局員たちの総元締めとして、市ヶ谷駐屯地の破壊工作を後方支援した張本人であることは、局内では暗黙の了解事項だ。空とぼけたタヌキ面が可笑《おか》しく、涼子は「井島部長も含めて、ですか?」と言ってやった。「バカ言え」と返した井島も、くたびれた微笑を肉厚の頬に刻んだ。
「ようやく落ち着いた生活ができるって安心してたところを、無理に呼びつけられたんだ。あっちこっちに散らばってる元局員の再雇用、特殊要撃部隊《SOF》の再立ち上げと錬成……。頭が痛いよ」
微笑を消し、椅子の背もたれをギッと鳴らした井島は、「いい人材はみんな早くに逝ってしまうからな……。佐久間一佐にしても、こんなことにならなければ……」と独白のように呟いた。そう、あの人は急ぎすぎたのだ……と内心にくり返し、そのように傲慢で性急な男であっても、佐久間がいたからこそ市ヶ谷に居続けた自分を再確認もした涼子は、退出のタイミングを見計らう目を井島に向け直した。
井島も鈍感な男ではなかった。理屈では割りきれない要因があると察したのか、「辞めるのが利口かもしれんな?」とさっぱりした笑顔で言い、「申しわけありません」と重ねた涼子の顔は見ずに、インターホンに手をのばした。「夏生くん、城崎さんがお帰りだ。上までお送りして」と受話器に告げた井島に、結構ですと言いかけた涼子は、自分の立場に気づいてすぐに口を閉じた。
もう自分は市ヶ谷の人間ではない。この場でIDカードを返却すれば、付き添いがいない限り、複数のセキュリティ・チェックが設けられた地下施設からは出られないのだった。わかりきったことのはずなのに、IDカードを井島の机に置いた途端、言いようのない心細さに襲われている自分を発見して、涼子はしばし呆然とした。
「失礼します」という声がドアの向こうに発し、夏生と呼ばれた女性局員が顔を覗かせたが、彼女が返却証明書を手渡してくれたことも、所定の欄にサインした自分の手の動きも、ほとんど実感できないほどの猛烈な動揺だった。
「そうそう、新しい市ヶ谷の名前、聞いたかね?」
証明書とカードを机の引き出しにしまいつつ、井島はひどく気楽な声で尋ねた。涼子は「いえ……」と動揺を押し隠した声で応じた。
「ディフェンス・エージェンシー・インフォメーション・サービスの頭文字を取って、DAIS。ダイスだとさ」
「ダイス……」
「趣味が悪いだろう? ま、どうせ市ヶ谷の通り名で呼ばれるんだから、関係ないがね」
なんの感慨もわかなかった。どう反応したらいいのかわからず、曖昧な笑みを浮かべると、「いいじゃありませんか。秘密結社みたいで」と横から明るい声が割り込んできた。「生意気言うな」と井島が応酬するのを聞きながら、涼子はあらためて夏生と呼ばれた女性局員を見た。首からぶら下げたIDカードには、夏生由梨のフルネームと一緒に、勝ち気そうな目が印象に残る顔写真がプリントされていた。
新しい世代は確実に育っている――。さして歳の変わらない、しかし恐れを知らない若さに溢れた女の瞳を前にして、用済みになった己の体ひとつがつくづく痛感された。井島に一礼し、得体の知れない疲労感を抱いて夏生由梨の背中に続いた涼子は、「城崎くん」とかけられた声にドアの手前で立ち止まった。
「何度も言うようだが、君はもう罪を償った。下手に臆病になって、幸せをつかみ損ねんようにな」
不意に飛び込んできた言葉が、まったく別の男の顔と声を呼び起こし、涼子は思わず井島を振り返った。どの程度の情報を得た上で言っているのかと気になったが、聞いても詮ないことだとあきらめて、例によって空とぼけたタヌキ面から目を離した。
(デートの時間には間に合わせるからな)
世界中に響き渡る大声で宣言されたのに、まだ約束は果たしていない。その気になればできたにもかかわらず、忙しさを理由にずっと会うのを避けてきた。
なぜかはわからない。怖かったのかもしれない。いま、すべてから解放され、ひとりの女に立ち返った我が身を顧みて、その恐怖はますます大きくなったような気がする。会えない理由はなにひとつなくなったが、いまはまだ約束を果たせる自信はない。あと少し……あと少しだけ、時間が……。
額のあたりに突き立つ視線に、ふと我に返った。怪訝な顔の由梨と視線を合わし、もういちど井島に振り返った涼子は、小さく会釈して歩き出した。由梨に続いてドアをくぐり、もう二度と訪れることのないだろう執務室を後にした。
「……いいからさ、来いよ。来ちまえば、後はどうにだってなるんだから」
受話器の向こうで、(そんなこと言っても……)と応じた声は消え入りそうに細く、机に肘をついて喋っているのだろう相手の姿を想像させた。疲れてるんだな……と思いながらも、桃山は残り二桁になったテレホンカードの度数を確かめ、財布の中から新しいカードを取り出した。
言った方も答えた方も、もう同じ会話を何度くり返したかわからない。ひなびた土産屋が並ぶ海岸沿いの国道に車を停め、カレイの干物の匂いを嗅ぎながら公衆電話を前にしている桃山は、相変わらず煮えきらない涼子の返事に、足もとの砂利を何度もつま先で蹴っていた。
「景気は悪くねえんだ。いまも急に入った団体客用に、市場で鯛仕入れた帰りで……。え? そりゃもちろん、おれがさぱくのよ。手伝いのおばちゃんに習ったんだ。シャッシャッてよ、うまいもんだぜ。……一度、あんたにも食わせてやりたいんだ。もういいんだろう? そっちは」
無論、そう簡単なことではないとわかっている。
政権交代、責任回避の人事異動、別件捏造の更迭劇が永田町と霞が関を沸かせた一方で、関係者の上から下までを吹き荒れた事故、自殺に見せかけた清算の嵐。複雑な戦後処理の調停役から解放され、情報局員の肩書きを返上できても、涼子を本当に苦しめているもの――彼女自身の罪の意識が償却されるまでには、まだ過ぎた時間は短すぎる。今日もダメかな……と滲み出してくる弱気を払って、桃山は「いいぜ、こっちは」と明るい声を出し直した。
「海も空もきれいでさ、嫌なことなんかすぐ忘れっちまうよ。……なあ、もういいじゃねえか。いてくれなきゃ困るんだ。必要なんだよ。あんたじゃなきゃだめなんだ」
鳥取に移って、そろそろ一年。ほとんどゼロから始めた民宿経営の四苦八苦を乗り越えられたのも、本当に必要と思えばなんでもやれる謙虚さを手に入れられたのも、ひとりの力ではないと自覚している。必死だからこそ言える、以前なら死んでも口にしない種類の言葉だったが、返ってきたのは無言の間だけだった。受話器の向こうに涙を感じ取った桃山は、つき馴れたため息を吐いた。
今日も足踏み、か。まあ焦ることはない。いつかきっと……と思い、桃山はまたかける旨を伝えて受話器を置いた。
閑散とした国道を横断し、反対車線に停めた「民宿・因幡屋《いなばや》」のロゴ入りワゴンに乗り込む。パワステもついていないボロだが、仕入れの他、客の送迎にも重宝している車だ。エンジンキーを捻った桃山は、すっかり癖になった手つきでバックミラーを心持ち傾け、背後の様子にざっと目をやった。例によって、監視の車がきっちり五十メートル後方に駐車しているのが見えた。
県警公安部か、地方公安調査局の連中か。お咎めなしで東京を離れられたのは、ここという都合のいい引き受け先があったからというのがひとつ、涼子たち市ヶ谷OBの良心と尽力に助けられたからというのがひとつだが、完全に自由というわけでもない。涼子との連絡にいちいち公衆電話を使わなければならないのも、民宿の電話に盗聴特有の雑音が混じっているせいだ。
国際情勢を揺るがす機密に首を突っ込んでしまった身のこと、税の一種としてあきらめるよりなかったが、こう何度もフラれる現場を目撃されるのは楽しいものではない。ささやかな抵抗を思いついた桃山は、発進を中断してミラーの角度を変えた。
エンジンを吹かしつつ、国道を走る車の流れを読む。長距離運送のトラックが走ってくるのが見え、それが十メートルの距離にまで近づいたところで、アクセル全開の急発進をかけた。
悲鳴を上げるタイヤ、トラックの警笛が閑散とした国道を騒がせる。監視役のあわてぶりを目に浮かべながら、桃山はにんまり顔で通い馴れた道をたどっていった。
鳥取と言えば砂丘しか思いつかなかった貧しい先入観をよそに、浜村温泉の名で知られる温泉街の一角に因幡屋はあった。木造三階建て、居抜きで引き受けてもらいたくなるのも納得のあばら家を再建すべく、経営計画書を片手に、馴れない銀行まわりをしたのもいまは昔。資産家のオーナーを焚《た》きつけ、町ぐるみで「海水浴も楽しめる湯の里」のPR戦略に出たのが功を奏して、真っ赤だった帳簿は次第に黒く塗り替えられつつある。
監視をまいて国道を西に下った桃山は、仕込みを始めるまでにはまだ時間があることを確かめて、白兎《はくと》海岸の脇に車を停めた。シーズン直前の寂寞《せきばく》とした砂浜に足を踏み入れ、初夏の陽光を映えさせる海に向かって歩き出した。
民宿の名前の由来でもある、因幡の白兎の神話が伝わる海岸は、延々と続く白砂が日本海の濃い青を一段ときわだたせていて、初めて見た時には、染料を流し込んだようなその色に畏怖に似た驚きを感じたものだった。見馴れた太平洋とも、あの時ヘリから見下ろした冷たさとも別次元の、どこまでも深く、透明な青の世界。それまでの空虚を取り戻そうとガムシャラに働き詰めた一年間、疲れた時には、こうして海を眺めに来るのが桃山の常だった。
『あそこには自由があったんだ。それに永遠も……』
『なににも縛られず、どこまでも想像の羽をのばしてゆくことができる。はね返すものがないからだろうな。海は広いから……』
そうなのだろう。ここで眠りにつく、そのずっと以前からおまえはわかっていた。汚れ、傷つき、身悶えしながら流れ続けた川の、ここが終着点。自分、涼子、亡き佐久間を始めとする市ヶ谷の残党。いまだ漂泊を続ける神泉教団の若者たち、拠《よ》るべきものを失くしてしまった、この国に生きるすべての人たち。心の中にぽっかりと開いた穴、空白は、その川の水によってのみ満たされる。あらゆる依存、欺瞞、束縛から逃れ、傷つくことを恐れずに流れ込んだ川に満たされて、巨大な空虚はいつか海原に姿を変える。永遠の安寧と、強さに支えられた自由を宿して−。
涼子がこっそり教えてくれたところによると、葵は無事に北に収容されたそうだ。いま頃は出産も終えているはずだが、その後の消息は赤坂でさえつかめずにいるらしい。一説には、もう北朝鮮国内にはいないんじゃないかとも言われている。なにせ、曲者《くせもの》ぶりではおまえに負けず劣らずの金谷が一緒だからな。近頃、大連で羽振りをきかせている大陸マフィアの大物が、あいつそっくりの顔をしてるって噂もあるくらいだ。まあ心配はいらないだろう。金谷なら、赤ん坊ともどもちゃんと葵の面倒を見てくれる。おまえと葵の間にできた子なら、頑丈さは折り紙つきだからな。どんな環境にあろうと、母親を守ってたくましく生きていってくれると信じている。
たったひとつの心残りは、この海を見せてやれなかったことだ。いつか三人で来ようって、おまえは葵に話してたのか? 結局、約束は果たせなかった。すべてが歴史の箱に納められ、おまえたちの子――あるいは孫――がこの国の土を踏めるようになる頃には、おれはこの世にいないだろう。会って、いろいろ見せてやりたかった。この海の色。おまえが生まれ、育ち、そのために戦った故郷。きっと愛していた、この国のすべてを……。
夏の激しさを宿し始めた太陽が、真上にあった。青く横たわる海面に無数のきらめきが宿り、熱された砂浜に波音だけが緩慢に響く。世界中の人間がいなくなってしまったような、その瞬間の浜辺が桃山は好きだった。人の生きる世界に戻ろうという気にさせてくれるから。うんざりだった苅谷や関田の顔さえもが懐かしく思い出され、もう少し頑張ってみようという気にさせてくれるから。尻の砂をはたいて立ち上がり、堤防の上のワゴンを振り返った桃山は、監視の車がいないことに気づいて眉をひそめた。
とっくに追いついていると思ってたのに。開店前の海の家のバラックが並ぶ浜を見渡してみたが、それらしい人も車も見当たらない。よもやあわて過ぎて事故でも起こしたんじゃなかろうな……と思いつつ、波打ち際に顔を戻した桃山は、いつの間にか立っていた人影と目を合わせて、声を失った。
産着《うぶぎ》に包まれた赤ん坊を抱いて、その人影はじっとこちらを見つめていた。すっとのびた背中は変わらないが、いくぶん短くした髪に包まれた顔、ふっくらと丸みを帯びた顎の線は、間違いなく母親のそれになっている。十五メートルほどの距離を開けて呆然と見つめあった後、桃山は近づく一歩を踏み出しかけたが、小さく首を振った葵にそれ以上の接近を封じられていた。
わけがわからずに立ち尽くすこちらをよそに、葵は腕の中の赤ん坊になにかを話しかける。抱き直し、こちらに向けた産着の陰に、小さな顔に輝く黒い双眸が一瞬、見えたような気がした。無垢《むく》そのものの黒い粒と目を合わせ、思わず類を緩めた桃山に、微笑み返した葵はゆっくりと頭を下げた。
ありがとう。その声が桃山にだけ聞こえ、直後に車の警笛が鳴った。堤防の上で、運転席から顔を覗かせた男が「急げ」と口を動かしている。振り向き、頷いた葵は、もういちど頭を下げてからそちらに向かって走っていった。
後部座席に収まる寸前、こちらを振り返った葵になにか言おうとしたが、言葉が浮かぶより先に車は走り去ってしまった。無理を言ってここに来たのだろう。おそらくは市ヶ谷の襲撃にも加わった保の仲間が運転する車はすぐに見えなくなり、代わって、お馴染みの監視の車が堤防の上に到着する。いま自分が誰と会ったか、連中が知ったら腰を抜かすことだろうと思いついた桃山は、またしても保に嵌められていた自分に気づいて、笑った。
あのヘリの中で、葵の声は次第に遠ざかっていた。当然だ。彼女は最初から船には乗らず、日本に残っていたのだから。ちょっと考えればわかることだった。市ヶ谷の監視衛星が捉えたという、瀬取りの漁船に乗り込んだ男女は、保と葵の姿を装った金谷と美希。金谷が美希を置いてひとりで北に行くはずはないし、美希に北とのコネがあったからこそ、北朝鮮に収容された後、二人は見事に姿を消すことだってできたのだ。
最後の大芝居で政府の目をくらまし、葵の存在を抹消してみせた保。その子供は、これからこの国で生きてゆく。滲んで見える水平線を見渡して、桃山は瞼に焼きつけた、生まれたばかりの瞳を光の中に追った。
話したいことがたくさんある。ここには、君の父親が少しだけマシにしてくれた明日があるんだ。いつか会おう。この海で、きっとまた会おう。だからいまは、その想いを込めて――。
「またな」
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主要参考文献
『オウムという悪夢』宝島社
『朝鮮総聯の研究』宝島社
『攻撃ヘリ コブラ&アパッチ』江畑謙介 原書房
『コンピュータ・ウイルス・ストーリー』那野比古 TBSブリタニカ
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底本
講談社文庫
川《かわ》の深《ふか》さは
2003年8月15日 第1刷発行
2004年2月2日 第5刷発行
著者――福井《ふくい》晴敏《はるとし》