∀ガンダム(下)
福井晴敏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)窺《うかがえ》えない
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(例)|月の民《ムーンレィス》
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第四章――正歴二三四五年・晩秋――
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月に「表側」と「裏側」という言い方が存在するのは、月がいつでも同じ面を地球に向けているから、という単純な理由による。公転周期――月が地球を一周する時間――と、自転周期――月が一回転するのにかかる時間――が、ともに約二十七・五日と一致しているがゆえに起こる現象で、この不可思議な符号のために、地球から観測できる月の表面は全体の五十九パーセントに過ぎず、残りの四十一パーセントは、地上からは決して窺《うかがえ》えない「裏側」ということになる。
その裏側の一画に、月の首都・ゲンガナムはある。外側から見た場合、それは月面に九百万個以上存在するクレーターのひとつでしかなく、クレーターの中央を縦貫《じゅうかん》する銀色の運河と、周辺の小クレーターを利用して造られた貯水池や空港、他の衛星都市と繋《つな》がる幹線道路の筋だけが、わずかに人工物の影を表出させている。稼働人口五百万人、冷凍睡眠者も含めれば二千万人を超える|月の民《ムーンレィス》の首都としては、あまりにも寂しい光景だったが、ひとたび中に入れば、天然の亀裂《クレバス》を利用して造られた地下都市の壮麗さに、誰もが驚かされることになる。
都市の天井の高さは一キロに及び、最大幅は十キロを優に超える。狭い空間を最大限活用するため、都市内の至るところに橋が架けられ、土壌改良によって生成された田畑や森林の面積を、より多く取る配慮がなされている。月面を掘り起こし、土地そのものを人の手で造り出していったにしては、農地や住宅、学校や病院などの生活施設が混在する町の様子は雑然としており、岩山の斜面に家屋が建てられていたりと、故意に不便さを残した印象さえあるが、それは人の生理感覚に馴染《なじ》む町作りが追求された結果だった。
地球の直径の約四分の一という、衛星としては破格の大きさを持ちながら、質量は八十分の一しかなく、大気を引き止めておくだけの重力も持たない月。元来、人の生存を許さない苛酷《かこく》な環境下においては、きっちり区画整備された人工都市の景観は、むしろ人の精神に余分なストレスを与える。予測の立たない未来に期待するのではなく、想定した未来を呼び込むために現在があるとされる月では、有機的な複雑さを有した町作りが求められた。永い年月が経過すれば、当初の予定になかった区画も自然に作り込まれて、過疎《かそ》地やスラムといった地区もそこここに誕生していたが、それこそ人間生理を優先した人工都市の面目躍如《めんぼくやくじょ》と言えた。
削《けず》り出された岩盤《がんばん》は山の稜線《りょうせん》そのものの起伏を見せ、生活排熱によって上昇した空気は、都市の天井部に雲を生じさせる。地球の六分の一しかない重力の関係上、草木の背が異様に高く、大気層を形成するに至らない空が青くないことを除けば、地球のそれときわめて似た風景が広がっていたが、決定的に異なるのは、天井の上を二条の運河が流れている点にあった。
総延長一万九百十五キロ、幅はそれぞれ九百メートル。赤道に沿って月を一周する運河の下に、すべての都市は造られている。透明素材で形成された運河は採光窓でもあり、下から見上げれば、巨大な水槽ごしに太陽を望む幻想的な光景になって、地下都市に地球の昼と変わらない光を届けていた。
五十メートルの水深を持つ河の水は、魚の養殖に用いられるばかりでなく、太陽光線から有害な要素を取り除くフィルターの役も果たす。灼熱の昼と極寒の夜を一週間単位でくり返す月にあって、都市内の気温を一定に保つ触媒《しょくばい》としても利用されており、暑い昼側には夜側で冷やされた水を、寒い夜側には昼側で温められた水を環流させて、植物の生育に必要な季節の変化をも再現してみせた。
人工物がなければ一秒たりと生きてゆけない世界であるからこそ、人工的な便利さは最小限に留め、自然の不便さと折り合いながら生活を構築してゆく。それが、トレンチ・シティとも呼ばれる月面運河都市の理念であり、ムーンレィスたちは、その理念に従って二千数百年にもわたる歴史を紡《つむ》いできた。
ひとつの頂点を極めた旧世界の文明が、かくも壮大な人工都市を造り上げていなかったら、ムーンレィスの歴史もまたあり得なかっただろう。が、ムーンレィスが月に逼塞《ひっそく》したのは、その文明が地球を破壊してしまったからに他ならず、彼らの肩には遺産と負債の両方が重くのしかかっているのだった。
首都ゲンガナムの中心には、「白の宮殿」と呼ばれるムーンレィスの最高行政府庁がある。曲面を多用した高層建築は、溶けかかった飴細工を想起させる特異な外観を呈しており、その中央から都市の天井まで届くエレベーターの柱をのばしている。夜の週に入って三日目、天井に敷設《ふせつ》されたグラスファイバーが作り出す人工の明かりも消え、窓の灯を浮き立たせるようになった「白の宮殿」に、一台のリムジン型|電気自動車《エレカ》が近づきつつあった。
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「白の宮殿」に到着するや、ギム・ギンガナムはなにも言わずにリムジンを降り、正面玄関に向かって歩き出した。
ミーム・ミドガルドと名乗った案内役の男が、慌《あわ》てて追いすがる気配が背中に伝わったが、かまうつもりはなかった。制止しようと近づきかけた衛兵を一瞥《いちべつ》で退《さ》がらせ、ロビーを通り抜けたギムは、土気色の顔をこわ張らせたミドガルドが追いつくより先に、乗り込んだエレベーターのドアを閉じた。
案内役など必要ない。「白の宮殿」の一部は、もともとギンガナム家に属していたものだ。今は実権を失っているが、宮殿内の構造は熟知している。長い不在の間に改築されていたとしても、自分をここに呼びつけた男の所在ぐらいは察しがついた。
そう、本当に長い不在だった……と、ギムは多少の冷静さを取り戻した頭で考えた。極小作業機械《ナノマシン》の技術を応用した建物の壁は、今でも新築同様の清潔感を保ってはいるが、最後に自分が「白の宮殿」に訪れてからは、百年以上の時間が経過しているはずだ。もっともそれは外界の時間の流れであって、ギムの体内時計は、あれからまだ一日程度の時間しか過ぎていないことを告げていた。
全身の体液を抜き取り、いっさいの生物活動を停止させて人体を凍結する冷凍睡眠は、その者から時間の感覚を完全に奪《うば》い去る。実際、磨《みが》かれた壁に映る自分の姿は、百二十年前に永久凍結の判決を受けた時から、少しも変わってはいなかった。肩幅いっぱいになびかせた長髪の一部を、頭頂部で結ったギンガナム家独特の髪型。家紋《かもん》を縫《ぬ》い込んだ半袖の制服と、剣戟《けんげき》訓練でこしらえた無数の傷に覆《おお》われた腕。腰に帯びた刀――太古の昔、東洋と呼ばれる文化圏で鍛《きた》えられたギンガナム家当主の証――は錆《さび》ひとつなく、仮に衛兵が収り押さえにかかってきても、至近距離なら一撃で叩き伏せられる体力も、まったく哀えていない自信があった。
凍結される寸前に感じた空腹感、自分を「冬の城」に追いやった者に対する怒りと憎悪も、百年以上の時を超えて身体の中に息づいている。永遠に氷漬けになるはずだった自分が、唐突に解凍された理由は不明だったが、出迎えにきたミドガルドから、指示者の名前を聞かされているギムには、明確な覚悟があった。
事と次第によっては、斬《き》る。その瞬間に衛兵に射殺される結果になるだろうが、いちど死んだ身を生き永らえさせるより、自分を裏切った者に相応の罪を償《つぐな》わせる方が、ギムには重要事だった。エレベーターの扉が開くと同時に、ギムは刀の鞘《さや》に左手を置き、長い廊下を足音高く歩き始めた。
予想された衛兵の待ち伏せはなく、誰にも会わずに目的の部屋にたどり着くことができた。秘書らしい若い女が扉の前に控《ひか》えていたが、ギムを見ても顔色ひとつ変えず、来客の到着を冷静に主人に告げると、なにも言わずに執務室の扉を開いて一礼した。事前に連絡を受けていたのだろう。拍子《ひょうし》抜けしながらも、こういう人を食ったやり方があの男の常套《じょうとう》手段だと心得ているギムは、鞘に手を置いたまま執務室の扉をくぐった。
宮殿の内奥に位置する男の執務室は、差し渡し二十メートルはあろうドーム状の空間で、がらんとした様子は百年前と少しも変わるところがなかった。部屋の中央にしつらえられた壇上に、玉座を思わせるリクライニングシートだけがぽつんと置かれ、すり鉢を逆《さか》さまにした天井は一面の多目的スクリーンになっている。この時は衛星軌道上から望む地球の映像が大写しにされていて、ギムに宇宙空間に飛び込んだかのような錯覚を与えた。
月から撮影したものではない。地球降下作戦に出向いた艦艇が送ってきた映像か? つかの間ここにきた目的を忘れ、久しぶりに見る地球の映像を注視したギムは、画面の一端に浮かぶ03/04/0093の数字に気づいて、眉をひそめた。
日付と年号……にしては、0093という数字の意味がわからない。凍結されていた年数を加算しても、今は正歴二千三百年代のはずだ。地球の色自体、いつもより多少くすんでいるように見え、思わず部屋の中央に足を進めたギムは、不意に発した人の気配に、鞘を握《にぎ》る腕の力を強くした。
無人と思えた玉座の上に、人がいたのだった。背もたれを倒したシートに長身を預け、天井のパノラマを見上げる男が誰であるかは考えるまでもなく、ギムは宮殿に入ってから初めて口を開いた。
「アグリッパ・メンテナーか?」
この執務室の主、自分を「冬の城」から呼び戻した男の名前を唱えると、背もたれの陰から異様に長い腕が突き出され、少し待てと言うようにひとさし指が立てられた。間違いなく、アグリッパ・メンテナー。確かめると同時に玉座に突進しかけたギムは、前触れなく発した赤い閃光に目くらましされ、足を止めた。
頭上を塞《ふさ》ぐ地球の映像の一画に、炎の塊《かたまり》が現れたのだった。大気層の薄いベールに摩擦《まさつ》熱の軌跡を描き、進路上の雲海を瞬《またた》く間に霧散《むさん》させながら突き進むそれは、北半球に横たわる最大の大陸の中腹、南方に突出した逆三角形の半島めがけて落下してゆく。隕石《いんせき》か? 咄嗟《とっさ》に自問したギムは、落下する炎の塊の中に、摩擦熱で生じたのではない、明らかに人工的な光を見つけて、違うと自答した。
間欠的に瞬き、進路を修正しているかのように見える光は、姿勢制御ロケットのもの。隕石としか見えないこの物体は、自然に地球に引き寄せられたのではなかった。そのように仕組んだ何者かの手によって操《あやつ》られ、故意に地球に激突させられようとしているのだ。いったい誰が……と考える間に、炎の塊は半島の中程に衝突し、閃光と衝撃の波紋を水の星に生じさせた。
半島の一端に灼熱の光輪が咲き、成層圏にまで噴き上がった土砂が、青い大気層のベールに汚濁を拡げてゆく。落下地点にどれほどの人が住んでいたのかは定かでないが、月と同程度の人口密度であったなら、被害は百万の単位になっているだろう。あまりにも圧倒的な破壊の風景をすぐには実感することができず、ギムは天井を見上げたまま棒立ちになった。ざわざわと這《は》い上る戦慄《せんりつ》に頭蓋《ずがい》の裏をくすぐられたように感じ、我知らず身震いした。
「安心せられよ。現在の映像ではない。遠い昔に、ロンデニョンと呼ばれる宇宙植民地《スペースコロニー》から撮影された映像だ」
よく通る声が発し、ギムは多少慌てて刀の鞘を握り直した。シートから長身を立ち上がらせたアグリッパ・メンテナーの背中が、数メートルと離れていない玉座の上に見えた。
マント状の衣服で全身をすっぽり包んでいても、長い手足はいやでも目立つ。月の重力が永い年月をかけて彼の肉体に変化を促し、異形と呼ぶべき姿に変異させた。それはすなわち、アグリッパという男が、もともと月で生まれ育った生体ではないことを意味していた。
人類の繁栄が過去のものとなり、戦乱によって破壊された地球が人の住めない星になり果てた時、残されたわずかな人間たちは、月に移住して大地の復活を待とうと決めた。それがムーンレィス開闢《かいびゃく》の歴史だったが、アグリッパは、初期の移民時代にはすでに生まれていたのだという。冷凍睡眠にも入らず、異常としか言いようのない長寿を誇って、ムーンレィスの歴史を目撃してきたのだという。
無論、真偽のほどは定かではない。各家庭を結ぶ情報ネットワークから、電気や空気の供給、運河の保守に至るまで、月のあらゆる社会システムの管理人という公職に就《つ》いていても、アグリッパの周辺は謎に包まれている。統治者たるソレル家から摂政《せっしょう》の立揚を与えられた男が、自らのカリスマ性を高めるために吹聴《ふいちょう》するデマなのかもしれなかったが、振り向いた赤い瞳に見据えられれば、デマにも多少の真実が含まれていると、ギムも認めざるを得なかった。
漆黒《しっこく》に近い肌に埋め込まれた、深紅の瞳。長寿を得る手段として、失われたはずのクローン技術を用いたために表れた副作用だとも、禁じられた医療用ナノマシンの機能限定解除を行い、その賦活《ふかつ》作用で瞳孔《どうこう》の色素に異常が出たとも言われているが、正確なところは誰も知らない。
地球を死滅させるまで続いた人類の戦乱を目撃し、流された多くの血と数多の呪詛《じゅそ》を焼きつけた瞳が、赤く染まっているのだという説もある。血の色に近い、暗い赤色の瞳には、そんな眉唾《まゆつば》話を信じさせるだけの陰惨《いんさん》な影が差していた。
「百二十年ほどになろうか……。よくぞ戻られた、ギム・ギンガナム殿。お変わりないようでなにより」
玉座から下りて、アグリッパは空々しく胸に手を当てる。二千数百年の時の重みをまとった体は、もはや同じ人間のものとは思えず、埃《ほこり》に埋もれていた過去の遺物が不意に動き出したような、闇の中で虚無の塊が身じろぎしたような嘘寒い空気に、ギムは先刻までの殺意が萎《な》えてゆくのを感じた。「当たり前だ。貴公にとっては百二十年ぶりでも、わたしにはほんの一日前のできごとなのだからな」と精一杯の皮肉を返して、無防備に立ち尽くすアグリッパと正対するよりなかった。
「そう身構えなさるな。このゲンガナムは、もともとギンガナム家が治めてきた都市」見た目には四十代前後と思える面長《おもなが》の顔に微《かす》かな苦笑を刻《きざ》み、アグリッパは続けた。「地球に降下したディアナ・ソレルに代わって、今はわたしが月を治めている。統治一族たるソレル家のもと、月の管理人を任じられてきたメンテナー家と、武を司《つかさど》るギンガナム家の当主がこうして顔を合わせたのだ。腹を割って話そうではないか」
「ギンガナム家は取り潰された」赤い瞳に隠された本音を読み取ろうと目を凝《こ》らしつつ、ギムは低く言った。「それに、わたしは敵か味方かわからない者に対して、腹を割って話す寛容さは持ち合わせていない」
「これは心外な。永久凍結の刑に科せられた貴公を氷室《ひむろ》から救い上げ、通常の倍の時間をかけて慎重に解凍もした。そのわたしを、敵か味方かわからないとおっしゃるか?」
慎重に解凍したという部分については、冷凍焼けのひとつもない肌を見れば真実であろうと思えた。おそらくは、定期的に冷睡と覚醒をくり返しているディアナ・ソレルを解凍するのと、同様の手間《てま》隙《ひま》がかけられたのに違いない。すっかり勢いをそがれたギムは、萎えてしまった憎悪の念をかき立てようと、夢のない百二十年間の眠りにつかされるに至った経緯を反芻《はんすう》した。
発端は、今から百五十八年前にさかのぼる。ディアナ・ソレルがじきじきに出向いた環境調査旅行を機に、ムーンレィスの宿願たる地球帰還作戦は本格的に始動したが、この時、問題になったのが地球で文明を再興した人々の存在だった。執政官たちは時間をかけて帰還交渉を行うべきだと提案し、先代のギンガナム家当主であったギムの父は、軍を前面に押し立てた帰還作戦の実施を主張して譲《ゆず》らなかった。
ムーンレィスの武を司ってきた者としては当然の発想だったが、ディアナ・ソレルは一言のもとにそれを退けた。問題の解決に武力を使うことしか思いつかない者は、過去、自らの手で大地を死滅させた旧人類の尻尾であると言い放ち、それでもギムの父が引き下がらないと知ると、ギンガナム家が統括する軍を没収する令を下した。
ギンガナム家は没落し、代わりにディアナ・カウンターという新しい自衛組織が開設された。父は責任を取って自決し、父の位牌《いはい》にすがって泣く母の背中を見て育ったギムは、ディアナ・ソレルへの怨念《おんねん》を腹に抱いて、十代と二十代を過ごした。
それが百二十年前、三十代の終わりに差しかかった時に爆発した。没落後、離散していた家臣たちを結集したギムは、冷睡中のディアナ・ソレルを暗殺し、月の覇権《はけん》をギンガナム家の掌中《しょうちゅう》にする計画を立案、実行したのだ。
勝算はあった。地球への帰還を一義に掲《かか》げ、種の存続のみを優先するソレル家の統治体制は、必然的に刻苦の歴史をムーンレィスに強要してきた。そのストレスの受け皿になったのがアグリッパの存在で、ムーンレィスは月で生き続けるべきである、と説くその思潮は、帰還作戦の推進で生活がさらに厳しくなったことも手伝って、確実に同調者を増やしつつあった。
地球への帰還は、歴史をいたずらに逆行させるだけである。人類は、月という新しい環境で文明と存在を発信し続ければよい――。そう唱えるアグリッパに、半分とは言わないまでも、かなりの数のムーンレィスが傾倒している時だったから、ソレル家の打倒も夢ではないとギムには思えた。ディアナ・ソレルを討ち、メンテナー家とギンガナム家の二本柱による、新たな統治体制を構築する。大望を抱き、事を起こしたギムだったが、計画は無残な失敗に終わった。
計画に加わった者は残らず検挙され、ほとんど形だけの裁判の末、永久凍結の刑が科せられた。ゲンガナムの地下、「冬の城」と呼ばれる広大な氷室で、地球への帰還を夢見て眠り続ける千五百万の同胞とともに、終わりのない冬眠につく――。事実上の死刑だった。
計画失敗の原因は、今となっては定かではない。が、協同していたアグリッパ一派が決行直前で手のひらを返した事実、暗殺計画を察知したディアナ・カウンターが、事前に包囲網を敷いていた事実を鑑《かんが》みれば、事情は自《おの》ずと想像がつく。
ギムは、「冷凍刑の判決には、貴公も賛成していたはずだが?」と言って、持ち直した殺気をアグリッパに向けた。
「おっしゃるな。わたしの立場ではああするしかなかった。地球帰還の妄執《もうしゅう》に取り憑《つ》かれている者どもを、この月から放逐するためにはな」
平然と受け流したアグリッパは、ギムが聞き返すより先に、天井のスクリーンを切り換えてみせた。スペースコロニーから撮影したという過去の地球が消え去り、代わりに現在の地球を映し出すようになった天井を見上げたギムは、小さく息を呑んだ。
太陽光を照り返す青い海と、雲の筋を飾った陸地の色は先刻の地球と変わらなかったが、よく見れば大陸の形が微妙に異なっているのがわかる。南半球に、ひとつだけ離れて存在する大陸の変わりようは特に顕著《けんちょ》で、虫食いの跡のようなクレーターがいくつも穿《うが》たれた地形は、海岸線がごっそり抉《えぐ》られて、ほとんど原形を留めないほど変形しているのだった。「お気づきか?」と言ったアグリッパに、ギムは動揺を隠しきれない視線を戻した。
「かつて人は、増えすぎた人口のはけ口を宇宙に求めた。しかし新しい環境を手に入れても、生物としての業《ごう》を払拭《ふっしょく》できなかった人は、自らの新天地たるスペースコロニーさえも戦争の道具に使った。……大陸の形が違って見えるのは、落下した数多のスペースコロニーが、大地を抉り取った結果だ」
訥《とつ》々と語る言葉は、闇の彼方に追いやられた歴史の真実をひもとくものだった。驚きを皮一枚下に留めて、ギムは「『冬の城』に蓄積されたデータを、なぜ貴公が持っているのだ?」と問うた。
ムーンレィス開闢以前の歴史は、映像資料からディスク化された書物に至るまで、すべて「冬の城」に封印されている。管理はソレル家に一任されており、今はディアナ・ソレルしかアクセスできないはずだったが、アグリッパはその封印を解き、閉ざされた歴史の一部を開陳してみせたのだった。「現在の月は、わたしの統治下にあると中したはずだ」と答えたアグリッパの赤い目は、はっきりと笑っていた。
「女王が不在なら、管理人が好きをやれるという道理か」
「それだけではない。わたしにも個人的に所有している過去の記録というものがある。我らムーンレィスが、この地に棄《す》てられる原因となった最後の大戦も、わたしはこの目で見てきた」
「棄てられた……?」
「そうであろう? 人類の大半は、死滅した地球を見捨てて外宇宙へと飛び出していったのだ。失われた超技術が、スペースコロニーを太陽系の外に押し出す光景もわたしは見てきた。旅立つことも、地球に戻ることもできずに月に落ち延びた我々は、棄民なのだよ」
アグリッパが説く思想の核心部分だった。滅んだ地球圏を捨て、はるかな銀河に乗り出していった人類。自分には無縁な話としか思えず、ギムは無言を通した。ぞろりとした衣服の袖から長い腕を突き出したアグリッパは、頭上を覆う地球の一点を指さした。
「去り際、人類は治癒《ちゆ》を促《うなが》す命の種を地球に蒔《ま》いた。あの巨大な柄杓《ひしゃく》が、ナノマシンを散布する光景もわたしは見た」
大気層のベールが、青い光の筋になって地球の曲面を縁取る傍《かたわ》らで、極端に細い、ぴんと張り切った糸を思わせる物体が、ゆっくり回転しているのが見える。ほとんど宇宙の闇に溶け込んでいるが、時おり太陽光を反射して輝くと、約八千キロという狂いじみた全長が、銀色の糸になって虚空に浮かび上がった。
旧世界の人類が、栄華に任せて造り上げた史上最大の人工物。ザックトレーガーと呼ばれる、地球と宇宙とを結ぶ桁《けた》外れに巨大なかけ橋の姿だった。使う者がいなくなった今でも、それは飽きることなく回転運動を続けて、先端部を定期的に大気に触れさせている。ザックトレーガーを指さしたアグリッパは、達観とも無関心とも取れる横顔を向けて、言葉を継いだ。
「ザックトレーガーの遠心力を利用して蒔《ま》かれたナノマシンは、気流に乗って世界中に拡がっていった。大空から大地に注ぎ込まれた命の種……。荘厳な光景であったよ。光の粉に見える膨大な数のナノマシンが、巨大な柱になって天と地を結ぶ。旧世界の神話に伝えられる世界の中心の樹……建木やイグドラシルといった生命の源たる大樹は、かくあったのだろうと思わせる光景だった」
アグリッパの瞳が閉じられ、再び開くと、赤い瞳には恍惚《こうこつ》とした色が宿っていた。
「地球をあまねく覆ったナノマシンは、文明の痕跡を消し去り、戦乱に傷んだ大地をいたわって、永い時をかけて地球に再生を促した。その意味がおわかりか? それだけの力が、文明が、かつての人類にはあったのだ。命の輪廻《りんね》に介在し、枯れ木に花を咲かせる『花咲爺』の説話をも現実にする力。過去、闘争本能によってその運用を間違えた歴史があったとしても、人類はたしかにそのような叡知《えいち》を手に入れた」
そこで言葉を切ったアグリッパは、無縁な話に退屈しているギムに気づいたのか、恍惚の色を消した目をこちらに向けた。「だから……」と継《つ》がれた声に、本題に入る気配を察したギムは、無意識に身構えた。
「だから、それらの記憶を独占したソレル一族が、地球の傷が癒《い》えるまで、月に残った民に種の存続だけを優先させる施策を促したことは正しい。地球に残った民が、過去の歴史を封殺して生き永らえてきたことも正しい。それはまさに、生体としての原理原則に従いながらも、なお世界を正確に認識した者――『新たな人のかたち《ニュータイプ》』的な生き方であったのだから……」
抽象的な言葉の羅列であっても、ニュータイプという一語だけはギムの頭に引っかかった。かつて、アグリッパの思想に傾倒する者から聞かされたことがある。宇宙に進出した人類が、新たな環境に適応して進化したとされる新人類の総称。過去の歴史資料が封殺されている現在、その実存を証明するものは皆無だったが、アグリッパは自らをニュータイプと称し、月で生き永らえたムーンレィスは誰もがニュータイプたり得ると説いて、賛同者を募《つの》る惹《ひ》き句にしているという話だった。
「我らムーンレィスは、この月で闘争本能を封殺し、絶対平和のもとに時を紡《つむ》ぐ法を手に入れたはずなのだ。かつてニュータイプと呼ばれた者たちが切望して、ついには得られなかった理想郷の萌芽《ほうが》がここにはある。貴公の反乱が失敗に終わったのも、争いを嫌うムーンレィスの本質が流血を拒《こば》んだからであろう」
思わず睨《にら》み返したギムを正面に受け止めて、アグリッパは説法の口を開き続けた。「しかし百五十年前の地球調査旅行で、ソレル家の末裔《まつえい》たるディアナ・ソレルは生き血を吸ってしまった。情動に取り憑《つ》かれ、従順に時を過ごす法を忘れて、地球帰還作戦を強行してしまった。それは歴史の必然であろうが、旧来の概念に囚《とら》われて行動を起こせば、過去の人類が示した通り、自滅の道をひた走る結果になるのは自明。だから、あえて今回の地球帰還作戦は黙認した」
百五十年前の調査旅行で、ディアナ・ソレルが地球の男と昵懇《じっこん》の仲になったという噂《うわさ》は、ギムの耳にも届いている。恋愛も闘争も、情動を活性化するという意味では同列。生き血を吸ってしまったと表現したアグリッパに苦笑した後、ディアナ・ソレルが父に放った言葉を思い出したギムは、「彼らも旧人類の尻尾だったということか」と相手をした。
「ディアナ・ソレルと、彼女に賛同するディアナ・カウンターの軍人たち。地球帰還を望むムーンレィスたち。彼らは、月で悠久の時を刻む術《すべ》を忘れた異種だ。滅びを誘発する種だ。ゆえに、地球に放逐する必要があった。降下部隊の先鋒《せんぽう》に配下の者を忍ばせて、混乱が長引くよう仕向けもした。……だが、いちど生き血を吸った者は怖いものだ。地球で闘争本能を復活させたディアナ・カウンターは、当初の予想を上回る勢いで戦乱を拡大しつつある。対する地球の民も、明らかに変質しつつあるように見える」
平和的な帰還を望み、ギンガナム家の軍を解体したはずの女王が、戦争で自らの手を汚している。これほど愉快なことはないと思い、ギムは笑おうと試みたが、出てきたのはため息に似た失笑だけだった。世間知らずの女王の気まぐれに振り回されて、家は没落し、父は自らの命を絶つ羽目に陥《おちい》った。その事実を再確認して、百年間氷漬けになっていた怨念が、じわじわ解凍されてゆく感覚を味わった。
「地球の民は軍を創設したばかりでなく、ナノマシンに埋もれた過去の兵器を掘り出して、ディアナ・カウンターと小競《こぜ》り合いを起こせるほどの力を手に入れたと聞く。過去の宇宙大戦において、悪鬼のごとき戦闘能力を示したモビルスーツ、〈ガンダム〉のようなものまでが復活して、戦線の拡大に加担しているとも聞く。……わたしが憂《うれ》えるのは、旧人類の闘争本能を蘇《よみがえ》らせてしまった彼らが、その力をもって月の制圧を目論《もくろ》まないという保証は、どこにもないということだ」
そう締めくくると、アグリッパはギムに視線を戻した。傲岸《ごうがん》と理知が拮抗する赤い眼差しに、哀願の気配が漂うのを読み取ったギムは、アグリッパが自分を解凍した理由を悟った。
闘争本能、発展欲。地球で生命の衝動を復活させた者たちが、月に戻るのを阻止する。その役目をやれということだ。アグリッパがどの程度ディアナ・カウンターに浸透しているのかは不明だが、ディアナに弓を引くのに、大規模に部隊を動員するわけにはいくまい。単独で行動し、なお阻止任務をまっとうできるのは、ギンガナム家の当主として、幼少の頃から戦闘訓練を受けてきた自分をおいて他にいない。よくもぬけぬけと……と言う代わりに、ギムは、「貴公の論法によれば、わたしも闘争本能を忘れられないムーンレィスの異種ということになるが?」と皮肉を返した。
「毒をもって毒を……という話なら、聞く気はないぞ」
「見返りに、冷凍刑に処せられた貴公の家臣を残らず解凍して、ギンガナム家を再興させると言ってもかね?」
思わず眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたのは、こすからい懐柔《かいじゅう》策が気に入らなかったからではなく、それまで俗世とは縁を切ったような顔をしていたアグリッパが、不意に生臭さを嗅《にお》わせたからだった。二千年の齢《よわい》を重ねたと嘯《うそぶ》く男の、これが本性か? 反駁《はんばく》の口を開きかけたギムは、再び切り換わった頭上の映像を見て、思いとどまった。
月面の一画、切り立った岩肌が左右を囲むクレバスの映像だった。この時期に太陽光が当たっていないということは、裏側のどこかだろう。摂氏百三十度の灼熱の昼から一転、夜にはマイナス百五十度になる極寒の闇の中、クレバスの底に集まった数機の〈モビルリブ〉が、直径百メートルほどの穴をぐるりと取り囲んでいる姿がある。掘られて間もないと見える穴の中央に、一機のモビルスーツが佇立《ちょりつ》しているのを認めたギムは、四方から当てられた投光器の光に浮かび上がるその機体を、まじまじと注視した。
見たことのない機体だった。ほぼ人型のフォルムに、左右非対称で末端肥大気味の手足。半球状の頭部は〈スモー〉タイプのそれよりふた回り小さく、より精悍《せいかん》なイメージを醸《かも》し出している。背中には、各種武器のアタッチメントらしい甲羅状のランドセルを背負い、戦闘能力の塊といった外観を呈していたが、なにより印象的なのは胸部装甲に走る×印のモールドだった。
そのようにデザインされたものか、あるいは過去の戦闘で傷つけられたものか。十文字に切り裂かれた胸を張り、傲然《ごうぜん》とたたずむモビルスーツに魅入られていたギムは、「〈ターンX〉だ」と言ったアグリッパの声で、我に返った。
「〈ターンX〉……?」
「内蔵データにその名があった。ディアナ・カウンターが地球への降下を開始した日に、大きめの月震があってな。震源地を調べてみたら、その機体が埋まっていた。おそらくは最終戦争時に使われた機体だろう。整備を進めるとともに、オプション兵器の発掘も行わせている」
そう言うアグリッパが、この機体をギムに任せるつもりでいるのは明白だった。「これを使わせるために、わたしを『冬の城』から呼び戻したか」と苦笑したギムには答えず、アグリッパは玉座に続く短い階段に足をのせた。
「地球で復活した〈ガンダム〉は、〈ターンA〉と呼ばれている。そのような命名をした過去の技術者のセンチメンタリズムこそ、人類の飛躍を阻《はば》むものだ」
玉座に腰を下ろして、アグリッパは瞑想《めいそう》するように瞼《まぶた》を閉じた。「〈ターンX〉は、そのアンチテーゼとして開発された機体と見て相違あるまい。そやつが月を揺らした時間と、地球で〈ガンダム〉が起動した時間は、ほぼ一致している」
「アンチテーゼ……。対〈ガンダム〉用に造られたモビルスーツだとでも言うのか?」
微笑に歪《ゆが》められた唇が、返答だった。赤い瞳を隠し、黒い顔貌《がんぼう》を天に向けたアグリッパの真意を測るのを中断して、ギムは〈ターンX〉の映像に目を戻した。
「太陽がその寿命をまっとうして、この星系が虚無に引き戻される前に、我々は叡知《えいち》を正しく使う方法を手に入れなければならない」
独白のようなアグリッパの声が、広大な部屋の中に吸い込まれていった。ギムはもう振り返りはしなかった。
「さすれば、永遠を手に入れられずとも、他の知的生命体に我々の存在を知らしめる術《すべ》も見つかろう。それでこの星に発生した知性……人類という存在もまた報《むく》われる。外宇宙に飛び出していった者たちと決別し、発祥の地に残った我々ムーンレィスの、それが使命というものだ」
死の床につきながら、なお生を希求してやまない老人を想起させる繰り言。そうでもしなければ、ただ発生し、ただ滅んでゆくだけの人はあまりにも寂しいと訴えるアグリッパの声は、ギムの頭を素通りした。
関節部には従来にない機構が組み込まれているようだが、耐久性は信頼できるのか。ごってりしたランドセルを背負って、なお機動性を保証するだけのパワーはあるのか。パイロットの目で〈ターンX〉を観察するギムには、アグリッパの思想も思惑《おもわく》も興味はなかった。膨らみ始めた闘争の喜悦が、冷えきった身体に熱い血を注《そそ》ぎ込んでゆくのを感じて、ギムは百二十年ぶりに武者震いをした。
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二ヵ月以上張り続ければ、緊張の糸もどこかに弛みが生じてくるものだ。サンベルト直近の湖畔《こはん》に降下して以来、〈ソレイユ〉では第二|哨戒《しょうかい》配備が敷かれ、艦内は通常直より多い人員が配置されていたが、ひと月も過ぎた頃には、下士官以下のクルーは手の抜きどころを心得るようになる。
正規の配置表の他に、裏配置表のようなものが出回り始めて、余裕のある勤務体系が自主的に構築される。戦闘らしい戦闘が起こらなければ、士官たちもそれを見過ごすのが当たり前になり、当直要員がひとり、ふたりと姿を消した艦内は、午前零時を過ぎると閑散とした空気を漂《ただよ》わせるありさまになった。
テテス・ハレは、そういうわけで哨戒配備中にしては人の少ない通路を歩き、フィル・アッカマン少佐の私室に赴《おもむ》いた。気密扉《エアロック》になっている自動扉をくぐり、デスクの向こうで本に目を落としているフィルの姿を見て、出頭報告に開きかけた口を思わず閉じていた。
軍関係の書類はすべて電算化されているから、紙に書かれた文字を読んでいるなら、それはフィルの個人的な趣味ということになる。この男に読書なんて高尚な趣味があったのか。呆れ半分に見つめたテテスは、「よく来た、中尉」と顔をあげたフィルと目を合わせて、心持ち姿勢を正した。
その場に誰もいなくても、公務で呼び出した時には、フィルはテテスを階級名で呼ぶ。〈ソレイユ〉の全クルーに同衾《どうきん》の事実を知られていて、今さら取り繕《つくろ》っても始まらないと思うのだが、フィルなりにけじめをつけているつもりなのだろう。やることがいちいち浅はかなんだよねえ……と胸中に呟《つぶや》きながらも、テテスは「は」と背筋をのばして、フィルの相手をしてやった。
しかつめらしい顔で頷《うなず》き、フィルは読みさしの本をデスクの上に放る。「地球の『黒歴史』について書かれた本だ」という声に、テテスはあらためて辞書のように分厚い本を見つめた。変色してぼろぼろになった紙束を、四隅のめくれあがった厚紙で綴《と》じた大判の本。古書特有の重みが、無機質なデスクの上で際立って見えた。
「読み物としてはなかなかおもしろい。地球の全生物が業火《ごうか》に焼かれて、死滅するところなどは特にな」
「業火……ですか?」
「そう書いてある。もっとも、ミリシャの研究がもう少し進めば、業火にも兵器の名前がつくだろうがな」
にやと唇を歪《ゆが》めた後、フィルはデスクの上のキーボードを軽く叩いて、パソコンのディスプレイをこちらに向けた。画面に映し出された静止映像を見たテテスは、小さく息を呑んだ。
洞窟《どうくつ》内で撮影されたらしい映像には、半分土に埋もれた縦横三メートルほどの機械と、技術士官の袖章をつけた数人の宇宙服が映っている。筒状のケースを束ねた機械は、ミサイルランチャーを想起させる大きさと形をしていたが、十二基ある筒の先端すべてに描かれたマークを見れば、そうでないことは明白だった。
三角の中に、○を囲む三つの台形が記されたマークは、はるか昔、人類が宇宙に進出するさらに以前にデザインされて以来、変わらずに使用されているもの。放射線取扱地区を示すマーク――つまりこの機械は核弾頭用のキャリング・ケースで、中には十二発の核弾頭が収納されているのだ。
地中で数千年の時を越えてきた、最悪の破壊兵器。ナノスキンの滓《かす》にまみれたケースから妖気が立ち昇ったように思い、テテスは肌が粟《あわ》立つのを感じた。月にも旧時代に製造されたものが残ってはいるが、厳重に封印されており、無論ディアナ・カウンターには装備されていない。モビルスーツ、宇宙船ときて、最後は核弾頭。いったいこの星はどれだけの火薬を溜め込んでいるんだと呆れる間に、「今日の午後、『|失われた山《ロスト・マウンテン》』で発見された」とフィルが説明して、テテスは青ざめた顔をあげた。
ロスト・マウンテンは、〈ソレイユ〉の降下地点から南に五十キロほど離れたところにある荒れ地で、肥沃《ひよく》な平原地帯の真ん中に、そこだけ荒涼《こうりょう》とした岩場地帯を現出させている。土地の者には禁忌《きんき》の場所になっていたが、ナノスキンの滓《かす》が凝固《ぎょうこ》した岩塊が発見され、マウンテン・サイクル同様、過去の兵器の埋蔵が期待されたことから、調査隊が発掘作業を行っていた。
「情報は差し止めてある。発掘に出張《でば》っている連中にも箝口令《かんこうれい》を出した。今のディアナ・カウンターが手に入れたところで、宝の持ち腐れになるだけだからな」
肉厚の横顔に、檻《おり》に閉じ込められた熊の陰りが宿っていた。画面を消し、ディスプレイを引き寄せたフィルは、巨体をスツールの背もたれに預けつつ口を開いた。
「核兵器がそれひとつということはあるまい。他にも埋まっている場所があって、いつかはミリシャが掘り当てるかもしれん。蛮族《ばんぞく》どもが、下手にいじって爆発でもさせてみろ。連中もろとも、我々も世界を滅ぼした業火とやらに焼かれることになる」
デスクの上に鎮座する古書を苦々しげに一瞥《いちべつ》して、フィルは言葉を継いだ。「が、だ。逆に我々が核を占有して、有効に使ってみせればどうなる? これ以上、戦力を浪費せずにミリシャを屈伏させて、地球を完全に制圧、支配することができる。生ぬるい和平路線に固執《こしつ》して、蛮族どもを調子づかせているディアナ・カウンターでは夢の話だが……。ここに来て、少々状況が変わり始めた」
そう言い、握り合わせた拳《こぶし》の上に顎《あご》をのせたフィルの表情は、とっておきの話をする時のものだった。
「ついさっき、本国からわたし宛てにホットラインが届いた」と続いた言葉に、来るべきものが来たらしいとわかったテテスは、無意識に拳を握りしめた。
本国とは、本来なら月で待機している第二次降下部隊司令部か、「白の宮殿」の執政官グループを指すが、フィルの場合は違う。それはテテスも同じだった。踵《かかと》を合わせて、テテスは聞く準備があることを伝えた。
「ディアナを排除する」
ほら、来た。内心に呟《つぶや》いたテテスは、動揺を押し隠した無表情をフィルに向けた。「それがアグリッパ閣下の意志だ」と余計な言葉を継ぎ足したフィルは、不意に立ち上がると、備え付けの戸棚の方に向かって歩き始めた。
「一週間後の建国式典が、好機になろう。ミリシャのことだ、建国宣言が始まる前に必ず〈ソレイユ〉に仕掛けてくる。その混乱に乗じて……」戸棚から取り出したスコッチの瓶《びん》を、首を絞めるかのようにぎゅっと両手で握りしめながら、フィルは昏《くら》い目をテテスに向けた。「やれるか?」
愚問だった。スラムでくすぶっていたところを拾われてから、ずっとその手の訓練を受けてきたのだ。テテスは、「親衛隊の配置さえわかれば」と答えておいた。小さく鼻息を漏《も》らしたフィルは、氷のパックを脇に挟《はさ》み、スコッチの瓶とグラス二つを両手につかんで、デスクの方に引き返してきた。
「サンベルト共和国の建国宣言など、蛮族相手の駆け引きにしても愚の骨頂だと思っていたのだがな。こうなってみれば、我々の役に立ってくれる。運が向く時というのは、こんなものだ」
オンザロックのグラスをテテスに手渡してから、自分のグラスを軽く触れ合わせる。勝手に乾杯したつもりのフィルを冷めた思いで見返したテテスは、グラスをあおって一気に半分ほど空けた。思った通り、少しも酔えそうな気配はなかった。
「アグリッパ閣下は、ディアナ亡き後のディアナ・カウンターは、わたしに任せると言ってきた」
スコッチを注ぎ足しつつ、フィルは言う。自分には関係のない話だと思い、テテスはグラスの中で揺れる琥珀《こはく》色の液体に目のやり場を求めた。
「地球の統治もな。あの方は月から離れるつもりはないようだから、地球は我々の好きにしてかまわんということだ。そうなったら、わたしはムーンレィスが地球人を統治する二重国家体制を敷いて、初代の王になる。どうだ、女王に立候補してみるか?」
そう続けて、フィルはゆっくりテテスの背後に回り、うなじに顔を近づけてきた。耳たぶにかかる鼻息がうっとうしく、少し体を離したテテスは、おととい来いの悪態を胸の中に留めて、「ずいぶん気の早い話で……」と笑ってみせた。
冗談ではなかった。フィルを経由して本国の指令が届く都合上、私室に赴《おもむ》く口実のついでに寝ていただけであって、今後もフィルとの関係を続けるつもりは毛頭ない。この仕事についたばかりの頃は、背信《はいしん》の罪悪感をものともしない神経の太さを快く感じたこともあったが、無知で傲慢《ごうまん》な性格の裏返しだと気づいてからは、熱もとうに冷めていた。
「なんなら、母親もこっちに呼ぴ寄せるといい。地球の女王の母親が、運河の苔《こけ》掃除でもないだろうからな」
鈍感なりにこちらの気分を察したのか、追従《ついしょう》するように続けたフィルに、テテスはスコッチをひっかけてやりたい衝動を堪《こら》えるのに苦労した。半年以上ベッドを共にして、いまだに相手の触れられたくない部分もわからないのか。せめてもの気晴らしに殺気を孕《はら》んだ目を向けたテテスは、フィルの暑苦しい巨体が一歩後退するのを見届けてから、グラスの中に視線を戻した。
蛮族の子孫、ムーンレィスの恥と罵《ののし》られ、ろくな仕事ももらえずに最低の生活を強いられてきた母。父が放射線病で早死にしてからは、代わりに運河の苔掃除という苛酷《かこく》な労働に従事していた。
トレンチ・シティに太陽の光を届ける運河は、定期的に掃除をしなければ、底面に苔がこびりついてすぐに曇ってしまう。幅一キロ、総延長一万キロ以上の運河が二条もあれば、掃除には百機の小型潜水艇でかかっても一ヵ月以上かかり、磨《みが》き終わって一周した頃には新たな苔が付着しているというありさまで、永久に続けていかなければならない作業なのだった。
防護服を着こんでいても、濾過《ろか》しきらない太陽光線をまともに浴び続ければ、皮膚|癌《がん》や放射線病などの病気にいつかかってもおかしくはない。本来なら受刑者がやるべき仕事だったが、母は愚痴《ぐち》のひとつもこぼさずに苔を削り続けた。正業につけない女が、ひとりで子供を育ててゆくにはこうするしかないと決めていたのだろう。子供の頃のテテスには、そんな母の背中がとても大きく見え、同時にとても悲しいものにも見えていた。
すべては、ディアナ・ソレルの供で地球に赴《おもむ》いた数代前の先祖が、地球の女を娶《めと》ったがために起こった悲劇。それから百五十年以上の時が流れ、地球人の血は十分の一以下に薄められたにもかかわらず、差別は一向に薄まることなく自分たちを取り巻いている。先祖が作った負債を、子孫がいまだに返済させられ続けているのだ。テテスは先祖の軽率な行為を呪い、排他的なムーンレィスを憎んだ。だがもっとも憎んだのは、そうした差別の存在を横目にしながら、なにもしようとしなかったディアナ・ソレルだった。
冷凍睡眠をくり返し、短い覚醒の時間は公務に追われていれば、すべてに対して万全であれと言っても不可能な話だろう。しかし先祖に地球の女との結婚を許したなら、後に禍根《かこん》が残らないよう、差別を禁止する施策をほどこすのが女王の務めではなかったのか。テテスは何度となく母に言ったものだが、そのたびに母はこう答えるのだった。ディアナ様のことを悪く言うもんじゃない。あの方は、あたしたちみんなの幸せを考えるので忙しいんだ。次に目覚められた時には、きっといいようにしてくれるに違いないんだから。
祖母から聞かされたという、「目覚めの儀」の絢爛《けんらん》豪華な様子が語られて、母の話は終わる。ディアナの覚醒《かくせい》を祝って、月中がまる三日、お祭り騒ぎになる目覚めの儀。次にディアナ様が目覚められる時は、あんたも二十二歳。生きているうちにディアナ様のご尊顔を見られるなんて、あんたもあたしも幸せ者だよと大真面目に語る母は、少ない収入をやりくりして、目覚めの儀の時に着るドレスをテテスのために用意してくれていた。それですべてが救われると信じているかのように……。
そのディアナを、あたしが殺す。あたしをスラムから拾い上げ、ディアナ・カウンターにもぐり込ませたアグリッパ・メンテナーの命を受けて。この任務を成功させれば名誉市民になれる、母にもっと楽な生活をさせてやれると考えたテテスは、ふと複雑な気分にとらわれた。
ディアナが死ねば、母は嘆くだろうと思いついたのだった。喜ばせるために、悲しませもする。己の行為の皮肉さを嗤《わら》ったテテスは、フィルが怪訝《けげん》な顔をするのを背に、スコッチの残りをひと息に飲み干した。
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「総員、離陸用意!」
ミハエル・ゲルン大佐の声が響き渡り、操艦指揮所《ブリッジ》に流れる空気をぴしりと引き締めたようだった。ほとんど同時にエンジンが甲《かん》高い唸《うな》り声をあげ、床の震動が一段高くなる。ブリッジの後方に立つディアナ・ソレルは、航法スクリーンの枠に手をついて体を支えるようにした。
「出力、良好!」「各ノズル、定常温度です」「後部見張り員は障害物の有無を再確認」と次々声を発するのは、各コンソールに取りついているムーンレィスの技術者たちだ。この二ヵ月、油とナノスキンの滓《かす》にまみれ、〈ウィルゲム〉の修復にかかりきりになっていた彼らの声には、居留地を脱走してきた頃とは別人の張りのよさがある。血色もよくなり、隣で操艦要領を見学しているミリシャの兵士たちと並んでも、どちらが地球人かわからないほどだった。
艦長席に陣取り、「ミリシャ各員は、技術者の命令に従って協力しろ」とマイクに吹き込んだミハエルの方が、むしろ顔色は悪い。空間斥力処理装置《FRP》の原理をなんど聞かされたところで、この巨大な金属の塊が空を飛ぶとは信じられないらしく、先刻からしきりに尻をもぞもぞさせている。対照的に落ち着いているのがグエン・サード・ラインフォードで、例によって三つぞろえのスーツをそつなく着こなし、ミハエルの隣でブリッジの様子を眺める横顔は、ジェットコースターが動き出すのを待つ子供の表情だった。
「両舷、後進半速」操舵《そうだ》コンソールにつくホレス・ニーベンが令したのを合図に、艦が移動する微《かす》かな慣性がブリッジにかかり、ディアナは体を支える腕の力を強くした。永く地中に埋もれていた宇宙船が、自らの力で船体を震わせ、重力の鎖《くさり》を断ち切って動き出した瞬間。崩れ落ちる岩盤とナノスキンの滓を窓の外に見つめ、床からつき上げるエンジンの律動を体感したディアナは、不意にわき起こった感情の塊に胸を焦《こ》がされる思いを味わった。
ウィル・ゲイム、あなたのお船が飛びますよ……。溢《あふ》れそうな雫《しずく》を閉じた瞼《まぶた》で押さえ、口の中に呟いて数秒。それまで薄暗かったブリッジが唐突に明るくなり、ディアナは涙の残る目を開けた。
前方の壁にずらりと並んだ窓から、午後の陽光が差し込んでいるのが見えた。発掘現場の坑道を抜けた〈ウィルゲム〉が、その姿を数千年ぶりに白日の下に現したのだ。キングスレーの谷に這《は》い出した〈ウィルゲム〉は、そのまま全長百メートルの巨体を回頭させ、じりじり峡谷《きょうこく》から浮上を開始した。
大気圏内航行を想定した艦らしく、空気抵抗を考慮した三角形の船体の上に、戦闘時は船体内に格納される艦橋構造部を突出させた〈ウィルゲム〉は、遠望すれば巨大な紙飛行機と見えなくもない。最低限、空を飛びそうな形をしてはいたが、地球人にとってはやはり信じがたい光景なのだろう。「姿勢、良好。予定着陸地点に向かって微速《びそく》で進みます」と言ったホレスに、「ま、任せる」と応じたミハエルは、手が白くなるほど艦長席のひじ掛けを握りしめていた。
「素晴らしい。思った以上に良好な飛行じゃないか」
朝食をもどしそうな顔のミハエルを尻目に、帽子を小脇に挟《はさ》んだグエンがひとり手を叩く。当初の予定よりひと月以上遅れたとはいえ、こうして〈ウィルゲム〉が使えることが実証されたのだから、その微笑には一点の曇りもなかった。
キエル・ハイムになり代わっている身としては、一緒に喜んでおいた方がいいという理性が働いたが、ただはしゃいでいるだけのように見えるグエンに追従する気にはなれない。ディアナはひっそりと嘆息《たんそく》を漏《も》らし、次第に下降してゆく景色を窓の外に見つめた。
「技術者たちに礼を言っておきたい。大佐、マイクを貸していただけるかな?」
こちらの思いに気づくふうもなく、グエンはミハエルに振り返って言った。イングレッサ領の後ろ楯《だて》を失った御曹子《おんぞうし》に実権はなく、本来ならミハエルが〈ウィルゲム〉を統括《とうかつ》するはずだったが、ラインフォード家の資産でムーンレィス技術者の衣食住が賄《まかな》われていれば、結局はグエンがスポンサーであることに変わりはない。形ばかりの敬意を表したグエンに、渋い顔をしてみせる気力もないらしいミハエルは、「どうぞ」とあっさりマイクを渡した。受け取ったグエンは、慣れた手つきで全艦放送のスイッチを入れ、「わたしはグエン・ラインフォードです」とマイクに吹き込み始めた。
「〈ウィルゲム〉の順調な飛行を見せてもらい、感動しています。ムーンレィスの諸君の優れた技術力がなかったら、このように短期間で本艦が舞い立つことはなかったでしょう。この技術力を〈ウィルゲム〉の修理だけに留めず、地球改造にも振り向けていただきたい。その献身と努力が、ひいては地球永住を望む諸君の暮らしを快適にし、我々地球の人間たちとの和平にも役立つはずです。ミリシャを代表して、心から感謝の意を表します」
艦内各所のスピーカーを震わせた声が終わると同時に、ブリッジに拍手がわき起こった。勝手にミリシャを代表された恨みを唇の端に滲《にじ》ませ、嫌味《いやみ》たらしく手を叩くミハエルにマイクを返すと、グエンは窓のそばに歩み寄った。
眼下に広がるオーバニーの森林地帯を見下ろし、「これなら、すぐに月へも飛び立てそうだ」と呟く。微笑の中にひそむ目の光は怜悧《れいり》さを湛《たた》えており、本気か? と思わず口中に呟いたディアナは、グエンに向かって一歩を踏み出しかけたが、
「それは無理です。〈ウィルゲム〉には単独で重力圏を脱する能力はありません」
マイペースが身上のホレスが、その場の空気を考えずに事実を淡々と述べる方が早かった。つまらなそうに眉《まゆ》をひそめ、「なにか方法はないのか?」と尋ねたグエンに、バカ正直に教えてしまいそうなホレスの気配を察したディアナは、「グエン様」と多少大きめの声を出して間に入った。
「この宇宙船が使えることはわかりましたけど、よろしいのですか? 坑道から出てしまっては、ディアナ・カウンターのいい標的になると思いますが」
「彼らはもう〈ウィルゲム〉の存在を知っているし、キングスレーの発掘現場では何度か小競《こぜ》り合いも起こっています。どこにいても同じなら、薄暗い洞窟に身をひそめているより、こうして青空の下に出た方が爽快じゃありませんか」
唇から白い歯を覗《のぞ》かせて、グエンは澱《よど》みなく答える。「そうですけど……」とディアナが口ごもる間に、懐《ふところ》から一通の手紙を取り出したグエンは、「こういうなめた真似をされれば、こちらもそれなりに構えてみせる必要もありますしね」と、苦味を忍ばせた声で続けていた。
ディアナ・ソレルのサイン――キエルが、筆跡を真似て書いたものだ――が記された封筒を見れば、ディアナも続ける言葉を呑み込まざるを得なかった。一週間前、〈ソレイユ〉から北アメリア全土の領主に送付された建国式典の案内状。サンベルト共和国なる独立国家を立ち上げ、一方的にサンベルトの占領を宣言するディアナ・カウンターの式典は、三日後に〈ソレイユ〉で開催される予定になっていた。
交渉の窓口がなくなれば、侵略者の汚名を返上し、自己防衛の大義を手に入れるためにも、自国の領土を決定しておくのは有効な戦術だが、それにしても急ぎすぎの感は拭《ぬぐ》えない。グエンが言う通り、「なめられた」という印象を領主たちに与えるのは必至で、おそらくは自分の代わりにディアナを演じているキエルが、ミラン執政官らに押し切られてしまった結果だろうとディアナは推測していた。
キエルは愚かな女性ではない。あるいはなんらかの考えがあるのかもしれないが、彼女には、まだ組織を動かすことの難しさ、恐ろしさはわかっていないだろう。長の立場が配慮ある発意を示しても、人を介して施策が行われれば、末端では傲岸不遜《ごうがんふそん》な決定事項として伝えられたり、まったく逆の意味になって伝わったりするものだ。そう考えると一刻も早く〈ソレイユ〉に戻り、事態の収拾に当たらなければならないとも思うのだが、この数ヵ月で千年分の進歩を果たしたミリシャを見れば、もう少し情勢を窺《うかが》っていた方がいいという思いも捨てきれずにいるのだった。
ディアナは、「ご出席なさるおつもりですか?」と、手紙を懐に戻したグエンに尋《たず》ねてみた。
「無論です。ボルジャーノ公などは、無視すればよいと言っているようですが。異議申立てをしようと思えば、直接出向くのがいちばん手っ取り早いでしょう」
間を置かずに答えたグエンに、招待状が届いて以来、以前にも増して〈ウィルゲム〉の飛行が急がれた経緯を思い出したディアナは、「まさか、この〈ウィルゲム〉で乗り込むおつもりで……?」と重ねた。グエンは、「それも一興ですがね」と笑って否定した。
「せっかく修復した〈ウィルゲム〉を、〈ソレイユ〉の主砲で壊されてしまってはかなわない。ただディアナ・カウンターには、我々がいつまでも蛮族のままではないと知ってもらう必要がある。だから飛ばしてみせたんです。我々の新しい中核戦力をね」
「戦力などと……! それは急ぎすぎる考え方です」
キエルの立場を忘れて、ディアナはつい自分の言葉で言ってしまった。おやという顔で振り返ったミハエルを背に、グエンは動じない目を向ける。
「そうでしょうか?」
「無謀と言い換えてもいいでしょう」
「時代を動かす第一歩は、いつでも無謀なものですよ。キエル嬢」
用意していたようなグエンの声に、ディアナは続く言葉が喉《のど》に張りつくのを感じた。弁論術はたしなんでいたが、いざ考え方のまったく異なる者を前にすれば、なにをどう説明していいのか咄嗟《とっさ》には判断がつかない。参考意見を聞かされはしても、真っ向から対立する意見を持つ者が周囲にいなかった自分は、いわゆる普通の人づきあいを知らなさすぎたのだろうと、苦い自覚にとらわれた。
「ルジャーナ・ミリシャに、こちらに主導権があるとわからせるためにも、〈ウィルゲム〉の離陸は有効だ。そうだろう、大佐?」
「まあ……。アメリア合衆国の将来の大統領がおっしゃるなら、そうでありましょうな」
ひじ掛けに頬杖をつき、好ぎにしてくれと言わんばかりに答えたミハエルの言葉に、ディアナは耳を疑った。「アメリア合衆国?」とおうむ返しにすると、「大佐、軽率だぞ」とミハエルを睨《にら》んだグエンの横顔に、照れ隠しの苦笑が刻まれる。ついにそこまで考えるようになったか……と感慨を新たにしつつ、ディアナは窓の外に広がる青空と山々の稜線、森林の緑を見つめた。
「……そのような構想がおありでしたか」
事態は、予想に倍する速度で進みつつある。このまま進めば、目の前の自然が再び消失する時代がくると予感して、ディアナはグエンたちに背を向けた。
降下準備に入ったブリッジを離れ、艦尾のモビルスーツ格納甲板《デッキ》に向かう。足もとに伝わるエンジンの行動が、ウィルの息吹きのように感じられるのが、今のディアナには救いだった。
十分後、〈ウィルゲム〉はキングスレーの谷から五キロほど離れた湖畔《こはん》に翼を休めた。着陸と同時に点検作業が始まる中、「モピルスーツデッキに下りたディアナは、ロラン・セアックの姿を捜した。
奇妙ななりゆきから、地球の側で戦う羽目になったムーンレィスの少年。ウィル・ゲイムの一件以来、どこか影を漂わすようになったロランに、これ以上の迷惑をかけたくはなかったが、他に頼れる人がいないのもディアナの現実だった。
今度はモビルスーツを搭載して飛行試験を行うのか、モビルスーツデッキには複数の〈カプル〉が搬入され、日頃はがらんどうの格納庫を賑わせていた。
「こんな機体、ハンガーの規格とまったく合いませんよ!」「ワイヤーで固定しとけ! ようは重石《おもし》の役が務まりゃいいんだ」と言い合う声を頭上に聞きつつ、ロランを捜して左右を見回したディアナは、壁際のハンガーに佇立する〈ターンA〉を見つけて、そちらに近づいていった。
髭のように見えるフェイスガードをぴんと立たせ、ハンガーに固定されつつある〈ターンA〉の足もとには、しかしロランの姿はなかった。代わりに、こげ茶色のおかっぱ頭がコクピットボールに取りついているのを見たディアナは、「ソシエさん」と声をかけた。
油に顔を汚したソシエ・ハイムは、かなりくたびれてきた飛行服姿も手伝って、ちょっと見には少年か少女かの区別はつかなかった。「なに?」と振り返ったソシエに、「ロランを見ませんでしたか?」と尋ねると、小さく息を呑んだ後、「知らない」とつっけんどんに答えた顔が、すぐに逸《そ》らされた。
「グエンさんにお使いでも頼まれたんじゃない? ついでにドンキーに寄るって言ってたから、帰りは遅くなるかもしれないけど」
「ドンキー?」
「キースとかって人のパン工場でしょ。この間、野営地の近くに開業したって言ってたじゃない」
コクビットに半身を突っ込み、なにごとか手を動かしているソシエの背中は、頑《かたく》なにこちらの存在を拒んでいる。彼女がロランを気にしているのはわかっても、姉妹の間に働く感情がどういうものなのかはわからず、想像するしかないディアナは、「……そう。ありがとう」と言ってその場を離れようとした。
「キエルお姉さま。それと、さん付けであたしのこと呼ぶのやめてくれる?」
その途端、コクピットから顔を出したソシエにそう呼び止められて、ディアナは「え?」と立ち止まった。
「前はそんなことなかったじゃない」
「それは……。もう成人式を済ませて大人になったのだから……」
しどろもどろに答えたディアナに、訝る視線を向けたソシエは、「自慢じゃないけど、宵越しの祭の途中で戦争が始まってね。まだ聖痕は授かってないの」と返して、腰に手を当てた。
「とにかくやめてよね。ソシエさん、なんてさ。なんかくすぐったくなっちゃう」
「そう……。ごめんなさい」
身近な人の気持ちも、ろくにわかりはしない。自分は今までなにをしてきたんだろうと恥じ入りつつ、ディアナは頭を下げた。目をしばたかせ、呆気に取られた様子で見返したソシエは、「ほーんと、変なの」の声とともにコクピットに顔を戻した。いたたまれない思いを抱いて、ディアナはその場を離れるしかなかった。
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太陽が山の稜線に隠れれば、もう寒いという表現が当てはまる十一月の空気だった。イングレッサ・ミリシャの拠点が〈ウィルゲム〉に移って以来、用済みになった感のある野営地に使いを頼まれた帰り道、ロラン・セアックはキース・レジェのパン工場に立ち寄った。
川沿いの平地に広がる百坪ほどの敷地に、工場棟と小麦貯蔵庫のサイロが並ぶパン工場は、明日の朝一番に納入するパンの仕込みが始まっている時だった。ネッカチーフで髪を包み、一列に並んでパン生地をこねる女たちの姿が工場の窓ごしに見え、その向こうのバラック宿舎からは、夕食の支度の煙が立ち昇っているのが見える。職員の数は日に日に増えているようで、先日、新たに居留地を脱走してきたムーンレィス帰還民を受け入れてからは、宿舎の増設も進んでいた。
近在の主婦を雇《やと》った方が安くつくにもかかわらず、住み込みのムーンレィス帰還民も積極的に雇用しているのは、パン作りに出自は関係ないというキースの信条があるからだ。地球人とムーンレィスが一緒になり、日に数百食のパンを作っている工場にはふっくらした空気が流れており、息苦しい思いに駆られた時には、ここで気を休めるのがロランの習慣になっていた。
往来する運送トラックに踏み固められた道を越えれば、工場の正門はすぐだった。自転車をこいで敷地に乗り入れたロランは、事務所のドアから勢いよく飛び出してきた人の姿を見て、咄嗟《とっさ》にブレーキを握った。
「ロラン、ちょうどよかったわ! うちの人が大変なの」
臑《すね》まで届くウール地のスカートをはためかせ、脇目もふらずに走り寄ってきたのはベルレーヌだった。キースが住み込みで働いていたパン屋のひとり娘は、今ではこの工場の経営者の立場についている。グエンの出資でキースが建てたパン工場とはいえ、組合札はベルレーヌの父がノックスで取得したものを使っているからで、名目上、キースは雇われ工場長の肩書きに甘んじていたが、それも二人が籍を入れれば解決する、一時の不都合だった。
うちの人、と臆面もなく口にしたベルレーヌに多少どぎまぎしつつ、「どうしたんですか?」と尋ねると、「いいから来て」とロランのジャンパーの袖をつかんだ前かけ姿が、一目散に事務所に戻り始めた。自転車にストッパーをかける間もなく引きずられ、ドンキーベーカリーの看板を掲げた戸口をくぐったロランは、「言いたいことがあるんならはっきり言えよ!」と発したキースの声に、ぎょっと立ち止まった。
住居兼用の事務所は、事務室の隣が食堂になっている。「恥ずかしくないのかって言ってんのよ!」と怒鳴り返す声が半分開いたドアから聞こえ、ロランは、思わず身をすくませたベルレーヌを背に食堂を覗《のぞ》き込んでみた。キースとフラン・ドールが、六人掛けの木製テーブルを挟《はさ》んでにらみ合う光景がそこにあった。
土で汚れた鞄とカメラをテーブルに置いたフランは、取材の帰りにちょっと立ち寄ったという風情だったが、今にも手が出そうな殺気立った雰囲気は、施設で姉御肌《あねごはだ》を慕《した》われていた頃に戻っていた。「敵も味方も関係なくパンを売るなんてさ……!」と吐き捨て、テープルを叩いたフランの拳が食器棚を震わせ、ロランはかける声もなくその横顔を見つめた。
「今さらなんだよ。おれが居留地の連中にパンを握らせたから、フランだって取材できたんだろ?」
「それとこれとは話が違うわ! ミリシャにパンを卸《おろ》して、その足でディアナ・カウンターに納品に行って……。両方に兵糧を流してるんだから、戦争商人と同じじゃないの」
「おれはパン職人だ。作ったパンを売ってどこが悪い。おまえみたいな給料取りにはわからない苦労が……」
そこでキースが言葉を切ったのは、戸口に呆然と立ちつくすロランに気づいたからだった。「……来てたのか」と決まり悪そうに言った声に、フランも紅潮した顔をこちらに向けた。
「うん。……どうしたのさ?」
「どうもしないよ。取材で前線に行って、ちょっとひどい光景を見てきたからってヒス起こしてんのさ」
こちらに近づきながら言ったキースに、「ヒステリーなんかじゃない!」とかみついたフランは、それきり背中を向けてしまった。土と硝煙で汚れたブラウスに、返り血らしい茶色い染みが混ざっているのを見つけたロランは、フランがなにを見てきたのかを察して、顔を伏せた。
ノックスの戦闘で一方的に休戦協定が破られて以来、ミリシャとディアナ・カウンターは各地で小競《こぜ》り合いを続けている。戦闘に巻き込まれて廃墟になった町もあれば、野盗《やとう》と化した両軍の兵に根こそぎ略奪された村もあると聞く。前線で酸鼻きわまる光景を見てきた後なら、フランがナーバスになるのも当然と言えた。
「あたしだって、決まった給料なんかもらってないわよ。出来高払いで、それもらっても新聞に出るとは限らないんだから。ミリシャに都合のいい記事ばっかり載せて……」
両の拳を小刻みに震わせ、フランは消え入るような声で呟く。そうなの? と言いかけて、近頃まったく新聞に目を通さなくなっている自分に気づいたロランは、不意に足もとをすくわれたような感覚に襲われた。
〈ウィルゲム〉の存在を知ったディアナ・カウンターは、三日とあけずに発掘現場への攻撃をくり返している。強大化するミリシャへの警戒感と、当初の和平路線との界面で行われる攻撃は小規模かつ散発的で、ミリシャの機械人形部隊でも太刀打ちできる程度のものだったが、実戦であることに変わりはない。いつ来るかわからない攻撃に備えて整備と訓練をくり返し、その間に〈ウィルゲム〉の修復、ムーンレィス帰還民の脱走手引きに駆り出されていれば、新聞を読む暇もないのがこのところのロランの生活だった。
周囲を見回す余裕を失い、目の前の仕事にどっぷり浸《つ》かっている自分は、〈ターンA〉のパイロットになりすぎていたのではないか。重苦しい感慨が胸の底で澱《よど》み、機械油でごわごわになった自分の手のひらを見つめたロランは、「ならやめちまえ、そんな仕事」と言ったキースの声に、顔をあげた。
「うちで雇ってやるよ。まだまだ人手は欲しいからな。ロラン、おまえもだぜ」
窓際に寄り、小麦粉の積み下ろし作業を眺めるキースに、ロランは「ぼくも……?」と聞き返した。
「らしくないだろ。グエン・ラインフォードの口車にのって、モビルスーツのパイロットなんてさ」
「口車なんて……。ぼくは、話し合いで決着をつけるためには、こっちにもある程度の戦力が必要だって……」
まるでグエンの口ぶりだと思いながら言った途端、「今までに、話し合いで決まったことがひとつでもあるか?」といったキースに遮られて、ロランは言葉をなくした。
「敵とか味方とか、関係ないんだよ。そうやってだらだら戦争が続いて、死んでく奴もいれば、生き残る奴もいる。だったら、おれはパンを焼いて生き残る。地球と月の両方にバンを売って、両方の人間を雇い入れてりゃ、ここは中立地帯になるんだ。載るあてのない記事を書いてるより、なんぼかマシってもんさ」
それこそらしくない、ひと言多いキースの言葉は、頬を打つ鈍い音とともに終わった。キースの頬を張った手のひらをぎゅっと握りしめ、涙に縁取《ふちど》られた目を伏せたフランは、カメラと鞄を乱暴にひっつかむと、ベルレーヌの脇をすり抜けて外に飛び出していった。
言い争いの後の饐《す》えた空気が立ち込め、外から漂《ただよ》ってくるシチューの香りが、それをゆっくりかき回した。張られた頬をさすり、「あいつ、変わったな」とキースが言ったのぱ、小麦粉の積み下ろしを終えたトラックがエンジンを吹かした時だった。
「前はさ、もっと余裕あったよ」
「それは、ぼくも同じだよ。キースも……」
他に言葉もなく、ロランは呟くように言った。しばらくの沈黙の後、「……そうだな」と返したキースの声が、走り去るトラックの音に混ざった。
「ご飯、食べてく?」
戸口に立つベルレーヌが、タイミングを心得た明るい声をかけてくれた。ロランは、振り向いたキースとぎこちない笑みを交わした。
夕食の誘いを断り、パン工場を後にした頃には、空は一面の茜色に染まっていた。まっすぐ〈ウィルゲム〉に帰る気にはなれず、ロランは途中の川原に自転車を倒して、一時の休息を取った。
冷たい川の水で手と顔を洗い、ついでに自分の顔を川面に映してみる。褐色の肌にエメラルド色の瞳、プラチナ色の髪を肩までのばした何者かが川底から見返してきて、ロランは、おまえは変わってしまったのか? と問い質《ただ》したが、いつまで待っても返事は返ってこなかった。なにも答えようとしない自分の顔を見るのに飽きて、ロランはその場に仰向けになった。
なんか、人相が変わったみたい。ソシエにそう言われたのは、たしかひと月半ほど前のことだったか。自覚はなかったものの、思い当たる節がないではなかったので、ロランはあえてどう変わったのか問いつめようとはしなかった。ウィル・ゲイムを手にかけて以来、自分の中でなにかが変わってしまったという自覚は、間違いなくあったから……。
それだけでなく、ビームが擦過《さっか》した後のイオン臭、コクピットに澱《よど》む電子回路の焦《こ》げた臭いが少しずつ肌に染み込み、体の中で化学変化を起こして、自分を別のものに変えていったのだろう。キースもフランも、きっとそうしてそれぞれの生活臭に染まり、施設でじゃれ合っていた頃の肌合を失ってしまったのに違いなかった。
小麦粉の香り、インクの香り。同じ大地を歩き、同じ空を見上げていながら、今やまったく別々の世界に住むようになった親友たちは、自ら選び取った仕事に最善を尽くしている。ただ職能を切り売りするのではなく、仕事を通して世間を見、自分自身を省《かえり》みて、一個の大人として社会に参画しようとしている。それに較べて、自分のやっていることはなんだ? 戦場の臭いに引きずられ、目の前の雑事に追われて、周囲のなにも目に入らなくなっている。自分はいったいなにがしたいのか。なにを通して世界を見、自分自身を見つめればいいのか……。
わずかに顔に当たっていた残照が不意に陰り、ロランは物思いを消して上半身を起こした。青い厚手のドレスをまとい、赤い羽飾りの帽子を金髪にのせた少女が、土手の上から長い影をのばしているのが見えた。
ディアナ様、と言いそうになるのを堪《こら》え、「……お嬢さん」と代わりに呟《つぶや》いたロランは、宝物を見つけた思いで近づいてくるディアナを見つめた。夕陽を背にした金髪の何本かが、障く糸になって月の女王を飾っていた。
「いらっしゃったのなら、声をかけてくださればいいのに……」
意味もなく恥ずかしくなり、うつむき気味の顔で言ったロランに、「ひとりでいたい時というのもあるのでしょうから」と返したディアナは、いたずらな微笑をその顔に浮かべた。いつか、オーバニーのゲイム邸でひとり佇《たたず》んでいたディアナに、ロランがかけたのと同じ言葉。「お嬢さんにはありますか? そんな時が」と、その時ディアナが答えた言葉を真似て言うと、「今のロランはそう見えました」の返事が返ってきて、ロランは自然に頬が緩《ゆる》むのを感じた。
「元気がないようですね?」
隣に立ち、オレンジ色を流した川面に水色の瞳を向けながら、ディアナは言った。憧れのディアナ・ソレルが、すぐ隣に立って自分に話しかけてくれている。二ヵ月やそこらの時間で慣れるはずもなく、いつものように頬をつねりたい衝動に駆られたロランは、「ちょっと、疲れちゃいまして……」と痒《かゆ》くない頭をかきつつ答えた。
「でもディアナ様のお顔を見たら、また元気になりました」
そんな言葉が許される程度には、女王との距離が縮まっている自信はあった。ロランは、微笑み返したディアナを横目で窺《うかが》った。すっきりした顎《あご》の線と、ふくよかな頬のラインが絶妙のバランスを保つ横顔は、やはりこの世でもっとも美しく、貴重な宝のように感じられた。
「〈ウィルゲム〉の試験飛行、うまくいったんですか?」
「ええ。グエン卿は大喜びです。このまま月にでも行けそうだとはしゃいでおりました」
「月に……?」
「その場の思いつきではないでしょう。あの宇宙船を見つけた時から、心の片隅にあった考えだと思います」
対岸で、大量のシーツを洗濯している野戦病院の看護婦たちを見ながら、ディアナは言った。キエルの姿の中から、ムーンレィスを統治する女王の厳しさが立ち上がったように思い、ロランは我知らず表情を引き締めていた。
「地球の民は、とてものびやかで柔軟性に富んでいます。あのような技術を手にすれば、グエン卿が野心を育てるのも当然でしょう。あの宇宙船を〈ウィルゲム〉と命名できる地球の民なのですから」
飛躍した論理についてゆけず、ロランは尋ねる顔をディアナに向けた。ディアナはゆったりとした微笑で応えた。
「ミリシャにしてみれば、ウィル・ゲイムは反逆者です。でも、あの宇宙船を発掘したのがウィルであれば、誰もが〈ウィルゲム〉の名を当然のように受け入れました。私は、それはとても尊いことだと感じています」
「尊いこと……」
「時に無責任、無節操に映りながらも、そのやさしい柔軟性こそが地球で生まれた生体の本質……。すべてが人工物で覆われた月の都で、神経を研ぎ澄まして生きてきたムーンレィスには、育ちようのない感性でしょうから」
「わかるような気がします。地球の時間って、月よりずっとゆっくり流れてるみたいですから」
「そうですね。私にもそれは感じられます。……ゆっくり進んでいた時計の針を、私たちディアナ・カウンターが倍の速さにしてしまったことも……」
微かに唇を歪めた表情を見られるのを嫌ったのか、ディアナは川岸に一歩近づいた。ロランは、なす術《すべ》もなくその背中を見つめた。
「今までの私は、なにも見えていませんでした。地球の自然に憧れていただけで、自分の行為がどのような結果を招いてしまうのか、理解していなかったのです」
自分には想像外の重みを背負った背中が、言っていた。「そんな……」と呟いたきり、ロランはたゆたう水草に視線を落とした。
ディアナ様にそう言われてしまったら、ぼくらはどうすればいいんです? 続く言葉をしまい込んだ胸が熱くなり、ロランはなにもしてやれない自分の無力を呪った。月と地球の和解を望みながら、結局は戦争の一部に成り果てている自分には、ディアナが背負う重みを共有することさえできない。目を閉じ、昂《たかぶ》る感情を静めるために深く息を吸うと、「……ロラン」と呼びかける声がすぐそばに発して、ロランは反射的に顔をあげた。
「私は〈ソレイユ〉に帰ります。ディアナ・ソレルに戻って、その上で……全軍を月に撤退させます」
微動だにしないディアナの背中がそう言い、ロランは絶句した。「今のままでは、月と地球、双方の人々を間違わせるだけです」と続けたディアナは、振り返った瞳をまっすぐロランに据えた。
「そして……今度こそ誤りのない、誰も傷つかずに済む方法を考えて、一から地球帰還作戦をやり直したく思います」
言葉はやわらかでも、そこには間違いなく女王が下した決断の堅さがあった。ディアナの瞳の中に、もう変更はあり得ない、確定した硬質な意志を読み取ったロランは、「……行ってしまわれるのですか」と押し殺した声で応えた。
「いつかは、そんな時が来るんじゃないかって……覚悟はしていました」
ディアナはディアナに戻り、キエルはキエルに戻る。それぞれが在るべき場所に帰り、ちょっとした偶然が生み出した誤り、ロランにとっては夢のような僥倖《ぎょうこう》をもたらした誤りが、もとの形に正される。理性では当然のこととわかっていても、いざ終わりの時間を告げられれば、思った以上の喪失感がロランの胸を埋めた。
一から地球帰還作戦をやり直す――。ディアナの時間軸で語られるそれは、十年後、二十年後を見据えての話ではないだろう。五十年、百年、あるいはもっと先の未来。いずれにしろ、自分はもうディアナには会えない。ディアナが月に帰り、「冬の城」で冷凍睡眠に入ったが最後、時間という絶対的な壁が互いの存在を永遠に隔ててしまうのだから……。
「三目後の建国式典が、キエルさんと接触するよいチャンスになると思います。ロラン、手伝ってくれますか? 私が〈ソレイユ〉に戻るのを……」
押し黙り、うつむくしかないロランに笑顔を見せて、ディアナは言った。ロランは、夕陽の色を引き移した女王の顔を見返した。
この顔、この瞳に送り出されて、二年半前の自分は地球に降り立った。その微笑に勇気づけられたから、今まで戦い抜くこともできた。そう実感した瞬間、自分を取り巻いているのは戦争の臭いなんかじゃない、ディアナ様の香りだという思いが自然にわいてきて、ロランは胸のしこりがすっと溶け落ちるのを感じた。
ディアナを通して世界を見つめ、やるべきなにかを見出す。そういう生き方が、自分にはあるはずだ。「はい」とはっきり頷《うなず》いたロランは、しかし、これがディアナへの最後の奉公になることも予感して、付け加えずにはいられなかった。
「でも……寂しくなるなぁ……」
語尾が震えてしまったのが情けなく、ロランはぎゅっと唇を閉じた。肩にそっと置かれたディアナの手が、わかっています、もうなにも言わないで……と語りかけ、こみ上げる嗚咽《おえつ》をやさしくなだめてくれたようだった。
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艦橋構造部の最上層、ディアナ専用の展望室からは、中空に浮かぶ三日月と、闇夜に沈む森林地帯を一望することができた。ドーム状に張り出した巨大な一枚成型ガラスに手をつき、キエル・ハイムは二百メートル下に広がる地上を見下ろしていた。
月と星明かりだけが頼りの闇でも、〈ソレイユ〉の前方、湖岸に隣接する二百メートル四方の平地に、巨大な天幕《テント》が張られているのがわかる。両腕を水平に広げた〈ウォドム〉を柱代わりに、差し渡し六十メートルにわたって張られた天幕《テント》は、ディアナを象徴する青と白のツートンカラーで塗り分けられており、周囲に敷設《ふせつ》されたフェンスの垂れ幕にも同様の配色が施《ほどこ》されている。フェンスの一端には鉄骨むき出しのゲートが二つ仮設され、ディアナ・カウンターの軍旗と、北アメリア各領の旗が吊された下には、入場者のチェックを行う警備用の小天幕が並んでもいた。
さながらサーカス一座の興行を思わせる光景だったが、三目後には各領の代表者がここに集まり、サンベルト共和国の建国を宣言する式典が厳《おごそ》かに挙行されることになる。のらくらした態度で判断を保留するのも限界になり、ミラン執政官らに押し切られる形で建国を認可してから、すでに二週間。後は演壇の設置を残すのみの式典会場を見つめ、もう引き返せないところまで進んでしまった事態を確かめたキエルは、これでよかったのだろうか……と何度目かの自問にとらわれた。
サンベルト共和国の建国といっても、本当にサンベルト一帯を占領するつもりはなく、最終的にはそれよりもひと回り小さい、フロリャ領程度の土地を割譲《かつじょう》させて事をおさめる。最初に大きく出て、途中でひいてみせれば、領主たちもある程度の領土の割譲は認めざるを得ないだろらう……というのがミラン執政官の考えで、早い話、今回の建国宣言は大がかりなはったりでしかないのだった。
駆け引き材料、戦術としての建国宣言。そう聞かされれば、キエルに反駁《はんばく》できる論拠はなかった。ミリシャが宇宙船を手に入れた上に、ムーンレィス帰還民の脱走者が増えるという事態が重なって、総攻撃を訴えるフィル少佐らを抑《おさ》えるのが難しくなっていたということもある。式典の挙行がいいガス抜きになると考えたキエルは、サンベルトへの直接侵攻は行わないという条件付きで、建国宣言の発表を了承した。
帝王学も知らない自分が、簡単に下していい決断ではないとわかっている。が、今はディアナ・ソレルその人と目されている以上、決断力のある女王の役を演じてみせる必要があった。ディアナ・ソレルの存在が、どれほどの重みをもって全軍に受け入れられているかは、二ヵ月半の女王代行業務で十分に思い知らされている。ディアナがいなくなれば、ディアナ・カウンターは間違いなく発狂するだろう。本物のディアナの所在は依然としてつかめず、死亡という最悪の想定が頭をよぎるようになれば、嘘をつき通すのがキエルの至上命題になったのだ。
事態に流されるまま、とんでもなく遠いところまで来てしまった。無闇に広い展望室の空間が孤独感をかき立て、キエルはその場にうずくまりたい衝動に駆られたが、ノックの音が響き、「失礼いたします」の声がドアごしに発して、それもできなくなった。腰の後ろに手を組み、式典会場の設営具合を確かめる女王の威厳を取り繕《つくろ》ったキエルは、「どうぞ」と最高指揮官の声を出した。
入室してきた親衛隊員が、ハリー・オード大尉であったのがキエルには救いだった。慇懃《いんぎん》な物腰に、こちらを思いやるやさしさをさりげなく交えた警護隊長は、今のキエルにはなくてはならない存在になっている。神聖視という名の隔絶感が周囲を取り巻く中、ただひとり、人が人に向けるべき視線を注いでくれる男。この時も、赤いサングラスごしの目は保護者の大らかさを宿しており、キエルは冷たい展望室の空気がほんのり温まるのを感じた。
「式典会場の設営は、明日の午前中に終了します。午後には予行演習が行えると、工兵からの報告です」
隣に並び立ち、ハリーはいつもの実直な声で言った。「それはよかった」と無表情に応じて、キエルは赤いサングラスから目を逸《そ》らした。
「突貫工事になってしまいましたが、設営は万全なのでしょうね?」
「明日、親衛隊が総出で点検いたします。気象部の予報では、当分は晴天が続くそうですから、もう雨や風に壊される心配もないとは思いますが……」
機械人形を使えば容易と思われた会場設営は、イングレッサ地方特有の暴風雨――ダストブローの季節と重なったために、予想外の困難に見舞われた。用意した天幕《テント》が風に吹き飛ばされて破れてしまった時には、北アメリア中の商社に連絡を取って、工場から飛行舶用の張り布をわけてもらったりもした。
過去に一年間、地球に滞在した経験のあるディアナなら、地球の天候について多少の知識を持っていても不自然ではあるまい。キエルは、「ダストブローの季節はもう終わりです」と教えてやった。
「それを聞いて安心しました。理屈ではわかっていても、あの雷とかいう発光現象は恐ろしいものです」
雷が〈ソレイユ〉を直撃した瞬間は、ちょっとした喜劇だった。ミリシャの新兵器と勘違いした将官たちが、慌てて全艦に戦闘部署発動を命じたのだ。生真面目に告白したハリーの様子が可笑しく、キエルは、「ハリー大尉でも怖いものがあるのですね」と小さく微笑した。「わたしも人の子ですから」と応えて、ハリーは口もとの緩んだ顔を窓の外に向けた。
地球の影を背負った月が、下辺に金色の光を集中させて美しい弓を描いていた。「今宵は、|銀の縫い目《シルバーステッチ》はよく見えないようで……」と呟いたハリーが、いつになく感傷的な気配を忍ばせているのを感じ取ったキエルは、「ホームシックにかかっているような口ぶりですね?」と冷やかす声を出した。ハリーは「まさか」と言って、端正な横顔に苫笑を刻んだ。
「身内と呼べる者がいないわたしには、ホームシックにもかかりようがありません。月に残っている血縁者と言えば、『冬の城』で冷睡している曾々祖母ぐらいですから」
ハリーの履歴データに、幼少時に両親と死別という一文が記載されていたのを思い出して、キエルは視線を窓に戻した。無神経なことを言ってしまったと謝りたくても、女王の身では迂闊《うかつ》に頭を下げるわけにもいかず、気まずい沈黙を漂うしかなかった。
「……わたしの先祖は、ギム・ギンガナムの反乱計画に加わり、永久凍結の刑に処せられました」
不意に発せられた声が、沈黙の時間を終わりにした。「今から百二十年前……曾々祖父の時代の話です」と穏やかに続けて、ハリーは夜空に浮かぶ故郷を見上げた。
「曾々祖父が凍結された後、まだ幼かった曾祖母を類縁に預けて、曾々祖母も冷凍睡眠に入りました。特例措置ではありますが、冷凍されてで夫に添い逐げようとした熱意が、時の執政官たちの心を動かしたのでしょう。お陰で犯罪者の家系は断絶して、曾祖母以降の子孫は、なんの負い目もなく生きてゆくことができました」
履歴データにも記されていない、初めて聞く話だった。どう受け取っていいのかわからないまま、キエルはハリーの横顔を見つめた。
「地球帰還が果たされ、すべての冬眠者が解凍されれば、恩赦もあろうと期待していたのかもしれませんが……。犯罪者に適用される簡易冷凍であったために、曾々祖父は間もなく死亡しました。曾々祖母は、それを知らずに今も眠り続けています」
過去の述懐を終えると、ハリーはなにかを押し殺した顔を下に向けた。地球で生きてきた身には想像外の話であっても、ひどく重たいものを呑まされた気分になったキエルは、「なぜそんな話を?」と戸惑いを隠した声で尋ねた。
「思い出したのです。先日、ウィル・ゲイムという男が言っていた言葉を。百年後に目覚めて、知っている人が誰もいなければ寂しいだろう、と……」
憂いを含んだ声と横顔で、ハリーは答えた。二ヵ月ほど前、〈ソレイユ〉に投降してきたミリシャの男。ディアナの愛人の子孫と名乗った男は、フィル少佐に預けられてしばらく後、戦死報告に姿を変えてキエルのもとに戻ってきた。正体の露見を恐れ、故意にウィル・ゲイムを遠ざけた自覚のあるキエルは、ハリーに向いていた体を窓の方に向け直した。
「冷凍睡眠という技術があればこそ、ムーンレィスは月という限られた空間でも生きてゆけたのです。気に入らないのですか?」
「ムーンレィスが生存するための技術、それは尊いものです。しかしわたしは、先祖がわたしより若くして目覚めるのには抵抗があります。愛する者の死さえ知らずに眠り続けた曾々祖母が、幸福な目覚めを迎えられるとも思えません」
硬い石を思わせるハリーの言葉が、冷たく取り繕《つくろ》った態度を虚しくさせた。「ですから、わかるような気がするのです。自然界の生き死にに憧れられたディアナ様のお気持ちが……」と続け、こちらを見たハリーの表情はどこまでも真摯《しんし》で、息を呑んでしまったキエルは、微かないら立ちの波が胸の中でさざめくのを聞いた。
自分に語りかけていても、ハリーの眼中にキエル・ハイムの存在はなく、赤いサングラスにはディアナの姿をした自分の顔が映っている。その事実に、あらためて気づかされたからだった。
「私が地球帰還作戦を実施したのは、ソレル一族の理念に従ったまでのこと。個人的な感情は関係ありません」
嫉妬という言葉を思い出してしまった自分が腹立たしく、キエルははねつけるように言った。ハリーは、「申しわけありません」と率直に頭を垂れた。「過ぎた口をきいてしまったようです。しかし……」
そこで言い澱《よど》むと、ハリーは不意に頭を上げてキエルを正面に見下ろした。
「万一、今回の地球帰還作戦が中止になって、ディアナ様が再び百年の眠りにつかれるようなことがあれば……。その時は、白分もともに冬眠したいと考えております」
決然と言いきった声に、白分の立場も、前後の理屈も忘れて、キエルぱ負けた、と思った。
女にとっては、これ以上はないと思える言葉。百年の孤独をその身に負わされていても、ディアナは女として充足している。無条件にそう感じ、ただ見せつけられるしかない白分を顧《かえり》みて、味わったことのない激しい感情が体の中で渦を巻いた。
「……ありがとう」
さまざまな思いが伯仲し、なにも考えられなくなった頭が唯一紡ぎ出した言葉だった。一礼し、遠ざかってゆくハリーの気配が背中に伝わり、展望室に佇むキエルを孤独に戻した。
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最初はディアナ・カウンターの制服ばかりが目立っていた会場も、次第にタキシードやドレスで着飾った人々が集まり出して、夕刻には建国式典に相応しい賑わいを見せるようになった。
湖畔に百メートル四方の敷地を構えた式典会場は、メイン会場となる大天幕と演壇用の小天幕、敷地を囲むフェンスがあるもののすべてで、周辺では〈ワッド〉タイプのモビルスーツ数機が警備に当たっていた。会場の隣にはモビルスーツの足で均《なら》したらしい駐車場も設けられ、式に参列する人々はそこに車を預けた後、ゲート脇の受付で招待状をチェックさわるのが決まりだった。
受付業務に当たる警備兵は物腰穏やかで、相手がミリシャの関係者であろうとにこやかな対応を崩さなかったが、ロランを前にした時だけは、押し固めた営業スマイルに一瞬の亀裂が入っていた。
「イングレッサ・ミリシャのローラ・ローラ様ですね。承《うけたまわ》っております」
ラベンダー色のジャケットに、シルク地のスカート。アイシャドウと口紅を塗った顔には、緩《ゆる》くカールしたかつらの毛を垂らしたロランに会釈《えしゃく》しながらも、警備兵は舐《な》めるような視線を頭から爪先まで往復させた。かつらの位置がずれていたか? 慌てて羽根飾りの帽子に手をやったロランは、後ろで順番待ちをしている中年の男と目を合わせて、あっと声を出しそうになった。
どこかの領の行政官らしい中年男も、警備兵と同じ種類の目線をこちらに向けている。別に怪しんでいるのではなく、男はいつでもこんな目で女を見ているのだろう。初めて女になった身には、それが過剰に感じられたのだとわかったロランは、にっこり微笑んで警備兵の前を通り過ぎた。
グエンが用意したフリル袖のドレスを着こなし、アップにした髪をシャゴール製の帽子で隠したディアナが、後に続いて招待状を差し出す。受け取った警傭兵は、よもや自軍の最高指揮官が目の前にいるとは想像もしていないだろう。実際、招待状の宛名はグエンの筆頭秘書の名前になっている。キエル・ハイム宛に届いてはいたが、ディアナは、キエルと内密に接触するためには、関係のない第三者の名前を使って出席した方がいいと判断していた。
入れ替わりの事実が露見している可能性は低くても、キエルがどのような立場に追い込まれているかわからない今は、慎重に行動する必要がある。そう語ったディアナは、やはり一国の統治者たる資質の持ち主だった。無事に受付を通過したディアナを振り返り、ふと、自分もあんな目で女の人を見ているのだろうかと考えたロランは、意味もなく頬が赤くなるのを感じた。気をつけねばと奇妙な自戒をしつつ、先を歩くグエンの背中に従って、青と白のストライプが鮮やかな大天幕へと向かった。
よりにもよって女装姿で建国式典に参列する羽目になったのは、『ミリシャ機械人形部隊の華、ローラ』の新聞報道を真に受けたディアナ・カウンターが、ローラ・ローラ名で招待状を送ってきたからだ。冗談だろうと笑ったのはロランだけで、グエンは「おもしろいじゃないか」と言い、ディアナは「故郷の知り合いが、〈ソレイユ〉に乗り組んでいないという保証はないでしょう?」と言って、ロランの女装はあっという間に決定された。どこから調達してきたのか、〈ウィルゲム〉艦内の一室に鏡台と大量のドレスが運び込まれ、ディアナの指示のもと、ロランの貴婦人修行が始まった。
もっとも、親衛隊のハリー大尉はローラがロランの変名であることを知っている。女装したところで、自分のデータはとうの昔に全軍に知れ渡っているのではないかと思えたが、ディアナはそれはないと断言した。
「そうなら、ローラの名前で招待状が届きはしないでしょう? ハリーは慎重な男です。〈ターンA〉のパイロットがムーンレィスであるとわかれば、兵に動揺が生じると判断して、自分の胸だけにしまっているはずです」
「でも、降下作戦が始まったばかりの頃ならともかく、今ではホレスさんたち帰還民がミリシャに協力しているのだから……」
「胸のうちを明かせる者が周囲にいないのだと思います。キエルさんが建国宣言を認めてしまったこともそうですし、私がいないという理由の他に、ディアナ・カウンターの組織に影を落としているものがあるのかもしれません」
鏡台の前にロランを座らせ、マスカラの使い方を指南しつつ言ったディアナは、そこでこらえきれないというふうに小さく吹き出して、「ロランって、お化粧のりがいいのですね」と付け加えた。そうですか? と頬を緩《ゆる》めてしまった直後、自己嫌悪の大波に襲われたロランは、それから化粧が終わるまでの時間を寡黙《かもく》に過ごした。
喜んでどうする。女物のジャケットを、肩幅を少し直した程度で着られてしまっただけでも、すでに十分屈辱的な事態なのだ。ディアナがハリーに全幅の信頼を寄せているのがわかり、自分も同じくらい頼られる男になりたいものだと思いながら、やっていることは「女らしい歩き方の練習」。もとより中性的な顔立ちが、女の側に振り切れてしまった姿を鏡に確かめ、これも任務だ、ディアナ様のためになることだと自分に言い聞かせたロランは、ひとりになった時、半ば自棄になって鏡の前であれこれポーズを取ってみた。
頭の後ろに手をやり、腰を突き出してウインクしてみたり、扇子《せんす》を口に当ててホッホッと笑ってみたり。情けなさを通り越して笑いがこみ上げ、多少はふっきれた気分になったところ、たまたま通りかかったソシエに「そういうの、好きなんだ?」と冷たい目で見られて、死にたい気分に駆られた。
大天幕の中には、三方にしつらえられた観覧席の雛壇の他、ビュフェやバーのコーナーが用意されて、立食パーティーのお膳立てが整えられていた。自動調理機では作れない凝ったメニューの数々は、月特産の運河鯨《くじら》のソテーはもちろん、ローストビーフや生鮭の燻製《くんせい》といった北アメリアの郷土料理も並んで、どんなパーティーにも引けを取らない豪華さを演出している。給仕役の兵が忙《せわ》しなく行き来する中、でんと立って動かないのは〈ウォドム〉で、左右に広げたマニピュレーターからスクリーンの幕を吊り下げ、式典会場の中央に佇立する拠点攻撃用の重モビルスーツは、四十メートルの長身をいかして天幕の柱代わりを務めていた。
日頃は恐ろしげなひとつ目の巨人も、こうしてカカシそのままの格好で突っ立っていれば、平和を象徴する記念像のように見えてくるから不思議なものだった。緊張に顔をこわばらせていた参列者たちも、食と酒が進むにつれて次第に笑顔を見せるようになり、〈ソレイユ〉の軍楽隊がルジャーナ仕込みのジャズを演奏するや、拍手と歓声が天幕の中にわき起こった。フロリャ領の行政官夫人が、ディアナ・カウンターの給仕に料理のレシピを尋ねる光景を見たロランは、廿さと苦さが半分ずつの複雑な気分を味わった。
地球と月、ふたつの星に住む人々には、本来こうした出会いが用意されていたはずなのだろう。この空気を大事に育てていけば、同じ人間同士、争う必要はどこにもないはずなのに……。
「グエン様。ミリシャの方たちの姿が見当たらないようですけど、大丈夫なのでしょうか?」
背後で発したディアナの声に、ロランは現実に立ち返った顔を振り向けた。仕立てのいいタキシードから、パーティー慣れした男の余裕を発散させているグエンと、ワイングラスを片手にしたディアナが向き合っている姿があった。
「大丈夫とは?」
「ルジャーナ領からは行政官のひとりも出席していません。ルジャーナ・ミリシャが建国式典の妨害を狙っているのなら、イングレッサ・ミリシャも遅れを取るまいとして、なんらかの行動を……」
「ミハエル大佐には、静観を依頼してある。心配はいりませんよ」
皆まで言わせず、グエンは答えた。せっかくのパーティーに無粋《ぶすい》な、の思いを言外に込めた声だった。
「……命令ではなく、依頼ですか」と返したディアナの声は、抑制した感情を秘めて低く響いた。
「それが今のわたしの立場です。協力者ではあっても、指揮官ではない。ミリシャの行動に口を差し挟む権限はありません」
通りかかった給仕からワインを受け取ると、グエンは空になったディアナのグラスに目をやった。グラスの上を手のひらで塞《ふさ》いで、ディアナは問いつめる視線をグエンに返した。
「たしかにこの建国式典は潰《つぶ》れてくれた方がありがたい。ここでサンベルトの統治を宣言されてしまったら、なにもかもなし崩しに押し切られてしまいますからね」苦笑したグエンは、ワインをあおってから続けた。「しかしわたしは、交渉で物事を解決したいと考えている男です。式典が始まったら異議を申し立てますが、それはミリシャとは関係のない、あくまでもわたし個人の行動です。同様に、ミリシャがどんな妨害工作を起こそうとも、やはりわたしには関係のない話ということになります」
〈ウィルゲム〉の修復と、和平交渉の継続を両立させようと思えば、ミリシャと一定の距離を保っている自分の立場は利用できる、と教える言葉だった。志は正しいように思えても、相も変わらず涼やかなグエンの横顔には、この駆け引きをどこかで楽しんでいる気配がある。ディアナも同感らしく、「どう転んでも、ご自分に泥がかかる事態は避けられる、と?」の皮肉をぶつけていた。
「これは手厳しい。キエル嬢はいつから政治家になったのですか」
軽く肩をすくめ、「なあ? ローラ」とこちらを振り返ったグエンの目は、怜悧な策略家から一転、全身を舐め回すいつもの執着的な色だった。先刻の警備兵や行政官の視線がそこに重なり、ロランはなにかしらぞっとするものを感じた。
男が、女をいかに粘りけのある視線で追っているものかと体感すれば、グエンが自分に向ける目は、まさに男が女を値踏む時のそれだとわかる。はっきりとした悪寒が背筋を走り、「……はあ」と生返事をしたロランは、目のやり場を頭上のスクリーンに求めた。
〈ウォドム〉の左右のマニピュレーターから、それぞれ吊り下げられた幅二十メートルほどのスクリーンは、式典が始まれば演壇に立つディアナを――正確には、ディアナの姿をしたキエルを――映し出すようになるのだろう。午後六時の式典開始まで、あと一時間。懐中時計に確かめたロランは、促す目をディアナに向けた。
頷《うなず》いたディアナは、通りかかった給仕のトレーにグラスを置いてから、こちらに向かって歩き出した。「どこに行かれるのです、キエル嬢?」と尋ねたグエンに、「久しぶりのお酒で酔いが回りました。外の空気を吸ってまいります」と返し、ロランと並んで天幕の外へ向かう。ひとり残されたグエンは、すぐにどこかの秘書官に声をかけ、退屈を紛らわす算段を整えたようだった。
演壇の小天幕の向こう、カメの頭を思わせる艦首をこちらに向けている〈ソレイユ〉は、地上から見上げれば壮麗な白亜の宮殿にしか見えなかった。ロランとディアナは、式典会場と〈ソレイユ〉を隔てるフェンスの方にまっすぐ歩いていった。
青白の垂れ幕が金網の無骨さを隠してはいるものの、ライフルを担《にな》った警備兵が定間隔に立哨《りっしょう》しており、〈ソレイユ〉に続くゲート付近には、特に多くの兵が配置されているように見えた。ロランたちが近づくと、ゲート脇に立つ兵士たちの間に張り詰めた空気が流れ、何人かがライフルのストラップに手をかけた。引き返したい衝動に駆られながらも、ロランはさも当然という顔をするように努めて歩き続けた。
片手を突き出し、こちらに近づいてきた警備兵が、「ここから先は立入禁止です」と慇懃《いんぎん》無礼な声を出す。ロランが生唾を飲み下した途端、「ご苦労さまです」という凛《りん》とした声が背後に発して、警備兵はその場に硬直した。
やや顎《あご》を上げ、女王の威厳を全身から発したディアナが、呆然と立ちつくす兵たちを順々に見回してゆく。「ご苦労さま……?」と思わずおうむ返しにした兵を見据え、「このようにしなければ、皆さんの働きぶりを見せていただけませんから」と続けたディアナは、ストラップにかかったままの兵の手に険しい視線を移した。
無礼な、と叱るディアナ・ソレルの目。わかったらしい兵は慌ててストラップを手放し、直立不動になってみせた。他の兵たちも姿勢を正す中、「親衛隊が、お忍びでご案内しておりました」と一段高くした声で付け加えたロランは、歩き始めたディアナの背中を感嘆の面持ちで眺めた。
「着替えを急ぎます」と短く言い、さっと道を開けた兵たちを左右にしながら、ディアナは垂れ幕の向こうのゲートをくぐる。ハンドバッグを右手に持ち直し、ロランもその後に続いた。女らしい歩き方さえ忘れなければ、ディアナとともに〈ソレイユ〉に侵入するのは容易なことに思えた。
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「……間違いない。ルジャーナの機械人形だわ」
VRヘッドと呼ばれるお碗《わん》型のヘルメットは、テレビジョンよりずっと明瞭に遠隔地の映像を映し出してくれる。二十キロ離れた森林の中ほどに、五機の〈ボルジャーノン〉が潜伏している姿を発見したソシエは、無線機に押し殺した声を吹き込んだ。
(やっぱりな。そういうこすっからい連中だよ……!)と応答したヤーニ・オビュス少尉のたみ声が、球形のコクピットいっぱいに響き渡っていた。
(大佐の読みが当たったっちゅうわけじゃな。どうする?)
シド・ムンザの長閑《のどか》な声が無線に割り込み、緊張した空気に水をかけるようにする。ソシエはVRヘッドをシートの背もたれに戻し、コクピットの内壁を覆《おお》うテレビジョンごしに、十メートル下にある地面を見下ろしてみた。
折り単なる樹木が作り出す薄闇の中、半ば土にめり込んだ〈ターンA〉の踵《かかと》が見え、その隣にヤーニとシドを乗せた輸送トラックの幌が見える。後方には三機の〈カプル〉も待機しているはずだったが、頭と肩に枝葉をかぶせ、針葉樹林に溶け込んでいる団子状の機体は、ここからは判別することができなかった。
ルジャーナの機機人形部隊が〈ソレイユ〉に向かったという情報は、グエンたちが建国式典に赴《おもむ》いた直後、野営地に残した偵察部隊からもたらされた。互いに静観の意志を確認し合ってはいたものの、今この時期に〈ソレイユ〉に向かったのであれば、それは建国式典の妨害を狙っているとしか考えられない。ルジャーナ・ミリシャの抜け駆けを疑ったミハエル大佐は、追跡、監視を行う部隊の派遣を決定。ソシエたちにその役が任ぜられ、〈ソレイユ〉まであと五十キロという地点で、案の定、森林に潜伏する五機の〈ボルジャーノン〉を捕捉したのだった。
ルジャーナ領は、建国式典にひとりの参列者も出さなかったと聞く。機械人形用の巨大な機関機やロケット砲を携《たずさ》え、森林にじっと身を伏せている〈ボルジャーン〉たちは、建国宣言が始まると同時に〈ソレイユ〉に殴り込みをかけ、参列者などおかまいなしに大砲を撃ちまくるつもりでいるのだろう。
(どうもこうもねえ)と応じたヤーニのだみ声は、爆発寸前の怒りを孕《はら》んで小さく震えていた。
(ルジャーナの連中に好きにやらせるわけにはいかねえ。連中が攻撃を開始すると同時に、こっちも〈ソレイユ〉に突撃。ルジャーナのデク人形の頭ごしに、〈ターンA〉の大砲をぶっ放してやる)
言い放ったヤーニは、(あのホレスとかってメガネマンジュウの話じゃ、〈ターンA〉の大砲はルジャーナのやつより数段強力で、射程も長いってんだろ?)と確かめる言葉を並べた。「知りませんよ。あたしだって実際に撃ったことはないんだから」と答えながらも、それは正確な答えではないなとソシエは思い直した。
〈ターンA〉が大砲――ビームライフルと言うそうだが――を撃つところは、いちど間近で見ている。ホワイトドールの石像の殼《から》を破り、この〈ターンA〉が初めて姿を現した時。ロランの膝の上に座って、稲光のような閃きがライフルの筒先からほとばしるのをたしかに見た。発射の衝撃でライフルは粉々になってしまったが、撃ち出された閃光はビシニティをかすめて、地平線の先にあるノックスにまでのびていった。小さな爆発の炎が彼方で発し……その瞬間から、地球と月の戦争が始まったのだ。
今、〈ターンA〉の右腕には、その時と同じ型のビームライフルがしっかりと握られている。マウンテン・サイクルから発掘されたのは三ヵ月も前だが、部品が劣化していたために使い物にならず、ホレスたちムーンレィス技術者の調整によってようやく使えるようになったものだ。他にも数丁、同じ型のライフルが発掘されており、やる気のないロランに持たせておいても什方がないと、ソシエは自分の〈カプル〉に譲《ゆず》るよう頼んだのだが、手のひらの形がまるで合わない上、エネルギー供給用のチューブが規格外と言われれば、あきらめるしかなかった。その代わり、手の甲に直接装着する機関砲がラインフォード家の工場で開発され、すべての〈カプル〉に取りつけられるようになったのだが。
(ホレスの話では、相手の距離に合わせて、ビームの照射レベルとかいうのを自動で調節できるっちゅうことじゃったな)息抜きついでに同行したという雰囲気を隠しもせず、シドが他人事の気楽さで言う。
(あの山を越えれば、それこそ〈ソレイユ〉を直接狙《ねら》えるんじゃろ)
(上等だ。ルジャーナの連中、頭ごしにビームが飛んでったら腰ぬかして驚くぞ)
それしか頭にないらしいヤーニは、ニヒニヒと不気味な笑い声をたてた後、(嬢ちゃん! ちゃんと撃てるんだろうな?)と一転して怒鳴り声を出した。(ルジャーナが〈ウィルゲム〉の横取りを狙ってるって話もあるんだ。ここでイングレッサ・ミリシャの実力を示して、奴らにはどっちが上かってことをわからせる必要があるんだ。ドジったら、お尻ペンペンぐらいじゃ済まねえぞ)
機械人形部隊に入って三ヵ月、お嬢さんと呼んでくれるのがロランだけになれば、この程度の言葉は笑って受け流せるようになっている。ソシエは「了解」と応じたが、
「でも、うまくやれたら少尉からも上申してよね。〈ターンA〉は、ソシエちゃんの方が上手に扱えるって」
そう付け加えるのも忘れなかった。(わかったわかった、うまくいったらな)とうるさそうに答えたヤーニの声を聞き、正面に目を戻したソシエは、(じゃが、ほどほどにな)と重ねられたシドの声に、もういちど足もとのトラックを見下ろした。
(式典会場には御曹子《おんぞうし》とロランがいるし、あんたの姉さんだっているんじゃ。怪我《けが》させんように気ぃつけんといかん)
『黒歴史』の探求にしか興味がない顔をしていて、思い出したように人への配慮を見せるのがシドという老人だ。「わかってます」と答えたソシエは、(あんたもじゃぞ)と続いた言葉に、意味もなくどきりとした。
(ソシエ嬢ちゃんがはりきり過ぎて怪我をしたら、わしらがロランから怒られるからな。なんで止めなかったんだっちゅうて)
顔が赤くなるのが自分でもわかり、「わかってるって言ってんでしょ!」と怒鳴り返したソシエは、それで肌にまとわりつく甘ったるい空気を振り払おうとした。ロラン、あのバカ。あいつが横から口出しするせいで、あたしはいつまでも一人前と認められないんだ。口の中に呟き、西の空を染める日の名残りを見つめた。
いつもこちらを気にかけているようなことを言っておきながら、肝心なところはまったく気が回らないロラン。キエルお姉さまがミリシャに合流してからは、二人でごそごそする機会が多くなって、その傾向はますますひどくなった。一昨日、ロランが女装で式典に出席するとわかった時も……と思い出したソシエは、飛行帽をぬいで頭をかきむしりたい衝動に駆られた。
困り果てた様子のロランをひとしきり笑いはしたが、それは別にからかったのではなくて、後で化粧の仕方やコルセットのはめ方を教えてやるつもりでいたのだ。それなのに、ロランは勝手にバカにされたと勘違いして、後からきたキエルが女装の手伝いをすることになった。「そんなに笑っては失礼ですよ、ソシエさん」と、他人行儀な口調で言った姉の顔に、正直、ソシエは泣きたくなった。
後からおっとりやって来て、その楊をすべてさらっていってしまう。姉にそういう目にあわされたのは初めてではないが、その時のみじめな思いは格別だった。しばらくたってからこっそり見にいくと、キエルはすでにいなくなっていて、女装したロランがひとり鏡の前で優雅にポーズを取っていた。道化の格好をさせられているのに、あのバカは、キエルと出かけられるだけでウキウキしていたのだろう。そんな奴があたしの身を心配している……?
「……冗談じゃないわよ」
低く声に出して、ソシエは無意味な物思いを閉じた。今は〈ボルジャーノン〉の動きに注意を払っていればいい。お父さまは焼け死に、お母さまは、自分がどこでなにをしているのかもわからない人になってしまった。それなのに、なにも行動を起こそうとしない腑抜《ふぬ》けた姉と、そのお尻にくっついて喜んでいる男なんて、どうなろうと知ったことじゃない……。
接近警報の電子音が短く二回鳴り、まるで叱るようなタイミングで発したその音に、ソシエはびくりと体を震わせてしまった。テレビジョンの一画が自動的に拡大映像になり、山の向こうから近づきつつある物体の数と方位、機種、進攻速度が矢継ぎ早に表示される。呆然となったのも一瞬、ソシエはすかさずVRヘッドを下ろして状況の確認に努めた。
立て続けに表示されるデータのほとんどは理解できなくても、機種と数はソシエにも読み取ることができた。一機のカカシ≠ニ三機のネズミ≠ゥらなる陣容は、ディアナ・カウンター偵察部隊の標準的な編制だ。〈ターンA〉より探知能力の低い〈カプル〉は動き出す気配がなく、片膝をついていた〈ターンA〉を咄嗟《とっさ》に立ち上がらせ、無線に呼びかけようとしたソシエは、一段高くなった警報の音にぎょっと凍りついた。
赤い三角輝点《マーカー》が画面上に現れ、急速に接近してくる。狙った標的をどこまでも追いかけてくる、ミサイルとかいう名前の砲弾。真っ白になる寸前の頭がそう理解し、「敵襲っ!」と反射的に怒鳴ったソシエは、ビームライフルの照準を飛来するミサイルに合わせた。
複数の幾何学模様が目まぐるしく交錯し、ミサイルを示すマーカーに重なる。ビームライフルの使用にはヤーニの許可が必要だったが、かまってはいられなかった。手のひらにフィットする半球状の操縦|桿《かん》を握り直し、ソシエはひとさし指の先端に当たる発射ボタンに力を込めた。
ビームライフルの銃口からピンク色の光が吐き出され、群青色の空に向かってまっすぐのびてゆく。光条がかすめた山肌に火の道が走り、山林を焼く鮮やかな炎の色が、ソシエに戦闘の恐怖と興奮を思い出させた。
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立体映像式《ホログラフィック》レーダースクリーンは、二つのモビルスーツ部隊のマーカーを一時間以上前から映し出していた。〈ソレイユ〉の北北東三十キロの森林に潜伏する五つのマーカーには、〈LOUSANA・MS〉のコード名が浮き出ており、その二十キロ後方、山ひとつ挟んだ山間地に展開するマーカー群には、それぞれ〈INGRESSA・MS〉と〈WHITE−MUSTACHE〉のコード名が記されている。友軍の偵察中隊を示す〈RECON221CO〉のマーカーが接触したのはイングレッサMSの方で、先制攻撃によっていぶり出された白ヒゲたちは、荷粒子砲と機関砲で応戦しつつ、〈ソレイユ〉に向かって無謀とも言える進軍を開始していた。
「ルジャーナMSも移動を開始。百三十四度五十二分、本艦に向かって直進中」
抑揚のないオペレーターの声が、張り詰めたブリッジの空気を揺らす。イングレッサの部隊より二十キロ手前に位置するルジャーナMSは、防御を固めなければ十分未満で〈ソレイユ〉に到達する。複数のマーカーが入り乱れるレーダースクリーンをちらと見たフィル・アッカマンは、「会場警備の部隊を前面に出して対処。増援は白ヒゲの方に回せ」と静かに令した。
え? というふうにこちらを振り返ったオペレーターは、フィルと目を合わせると慌てて正面に向き直り、命令の復唱を始めた。フィルは無表情を装ったまま、円形のブリッジの天井から壁までを覆う透明装甲――ガラスのように見えても、単時間ならビームの直撃にも耐える――ごしに、眼下の建国式典会場を見下ろしてみた。
すべては予定通り……いや、イングレッサとルジャーナのミリシャが別個に仕掛けてきてくれたお陰で、警備部隊も式典会場の外に出すことができたのだから、それ以上と言ってもよかった。ルジャーナMSはガラクタ同然の旧型機だが、マシンガンやバズーカで武装している。参列客に威圧感を与えないよう、大型火器を取り外してある警備隊のモビルスーツでは防ぎきれず、すぐに親衛隊も出動せざるを得なくなるだろう。ほどなく〈ソレイユ〉の直近で戦火が閃《ひらめ》き始め、今は平穏を保っている式典会場も、避難する人々の怒号と悲鳴でパニックに陥る。
必然、ディアナ・ソレルの警護は手薄になる。そして少しの隙があれば、与えられた任務をまっとうできるよう訓練されているのがテテスという女だった。戦力を分断する格好の囮になってくれた白ヒゲのマーカーを見、堪えきれずに口もとを緩めたフィルは、「申し上げます!」とかけられた声に、もとの無表情を取り戻した。
「戦術システムの下した脅威評価は、ルジャーナMSの方が上であります。増援は侵攻するルジャーナMSに回すべきと考えますが」
直立不動の体から、下克上の緊張感を漲《みなぎ》らせているオペレーターの顔を見て、フィルは内心舌打ちした。艦の運営に携わる主要士官はシンパで固めたつもりでも、哨戒配備が長引き、各所から交代要員が送られてくるようになれば、時おり知らない顔がブリッジ勤務に就くこともある。胸の名札にオペレーターの名前を確かめつつ、フィルは、「システムの下した判断より、自分の頭で考えろ!」と怒鳴り声を返した。
「白ヒゲはビーム兵器で武装している。実体弾のひとつやふたつが当たっても〈ソレイユ〉の船体はびくともしないが、ビームが直撃すればそうはいかない。ここは白ヒゲの殲滅《せんめつ》に全力を注ぐのが正しい判断である」
もっとも、大気圏内ではビーム兵器の威力はかなり減殺される。白ヒゲが現在位置から〈ソレイユ〉を狙撃したところで、大気中の湿気にエネルギーを奪われたビームは、船体にかすり傷ひとつつけられないだろう。戦術システムの下した判断は正しく、事実を上申したオペレーターの行動も間違ってはいなかったが、顔面蒼白になった彼は、それ以上自分の立場を悪化させる愚は犯さなかった。「は! 了解しました」と背筋をのばしたオペレーターは、回れ右をして自分の配置に戻った。
「それでいい」と応じながらも、フィルは、このオペレーターの顔と名前は覚えておこうと思う。ディアナ亡き後のディアナ・カウンターを掌握するためには、中枢に勤務する者は厳選する必要がある。彼には前線に行ってもらおうと決めて、フィルは色とりどりのマーカーが錯綜《さくそう》するホログラフに目を戻した。
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建国宣言が始まる午後六時まで、あと四十分。戦闘配置が令されるや、配置先に急ぐクルーの足音と、殺気立った声が行き交うようになった艦内は、先刻までの弛緩した空気とは別世界の緊張感に包まれていた。フィルがうまく立ち回ってくれているらしいと思いつつ、テテス・ハレはブザーが響き渡る通路を小走りに進んだ。
別に急ぐ必要はない。親衛隊が防戦に駆り出され、ディアナの警護が手薄になるのを待たなければならないのだ。むしろゆっくり進んだ方がいいくらいなのだが、誰もが駆けずり回っている艦内で、ひとり落ち着いた顔をしているわけにもいかなかった。下層|甲板《デッキ》に用がある素振りで、砲術班の一団が上層甲板に向かうのをやり過ごしたテテスは、エレベーターが戻ってくるまでの間、仕事の手順を再確認することで時間を潰した。
ディアナの居室までの経路、親衛隊の配置はすべて頭に入っている。仕事が終わった後、自分の行動が疑われた場合に備えて、〈ウォドム〉に細工を施しておくのも忘れてはいなかった。Iフィールド発生機関に不調をきたしたテテスの〈ウォドム〉は、今はアラートハンガーで整備兵の修理を受けている。モビルスーツ部隊に出動が令《れい》されたにもかかわらず、パイロットの自分が艦内に残っていた理由は、それで説明がつくというわけだ。古典的なやり方だが、ディアナの死後、大混乱に見舞われるディアナ・カウンターで、まともな調査が行われるとは思えない。フィルの口利きもあれば、ディアナ暗殺犯の捜索は型通りに終始して、自分に嫌疑がかけられる事態は回避できるとテテスは踏んでいた。
ディアナの居室に至る通路には監視カメラが設置されており、録画されたビデオディスクは親衛隊が所掌している。フィルの権限をもってしても改竄は不可能だが、それについても対策は考慮済みだった。テテスは今、普段着用しているパイロット用の制服の下に、ミリシャの制服を着こんでいた。
監視カメラに顔が映るようなドジは踏まない。後で親衛隊が検分したとしても、ディスクにはミリシャの制服を着た女しか映っておらず、ディアナを暗殺した犯人は、建国式典にもぐり込んだミリシャの刺客と結論されることになる。が、それもこれもフィルがディアナ・カウンターの実権を握り、自分を裏切らなかったらという付帯条件の上に成り立っているものだ。不確定要素に全面的に依存するほど、テテスは能天気な人生を送ってはいない。
フィルが指揮権掌握に失敗したり、欲をかいて手柄を独り占めしようとすれば、自分は暗殺犯と名がつく者の多くがたどってきた末路――口封じのための抹殺――を歩む羽目になる。万一の際の離脱経路の確保、脱出後に月本国と直接連絡できる手段を講じておくのは不可欠で、それらの準備もテテスは怠らなかった。
対策はすべて打った。後は仕事に専念すればいい。計画手順を頭に並べ、手落ちがなかったかと疑うのをやめて、テテスは重ね着した制服の下に必要な道具の重みを確かめた。この種の仕事に完全という言葉はない。完全に近づける努力をしたという確信が得られれば、あれこれ悩んで集中力を減衰させることこそ愚かだった。
懐《ふところ》のホルスターに吊した道具――ミリシャ兵から奪ったリボルバー拳銃は、強化プラスチックで形成されたディアナ・カウンターの自動拳銃よりずっしり重く、扱いづらいものの、確実な仕事をしてくれそうな信頼感があった。さっさと終わらせるだけだと断じて、テテスは到着したエレベーターに乗り込んだ。
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照明が赤い非常灯に切り換わり、招集ブザーが鳴り終わってしばらく後、微かな衝撃音が〈ソレイユ〉艦内の空気を揺らし始めた。
爆発の音と震動。この三ヵ月、恒常的に戦場に出入りしている身には、それがミサイルの弾着音であることも区別がついた。非常階段を昇る足を止め、ロランは耳を澄まして爆発音の方向と規模を探ろうとした。
「ミリシャが仕掛けたのでしょうか?」
同じ不安にたどりついたのか、階段の手すりを強く握りしめたディアナが言っていた。〈ソレイユ〉に侵入した二人は、ディアナの案内で警備の薄い区州を通り、艦橋構造部を縦貫する非常階段を昇っているところだった。
「わかりません。けど、このタイミングは妙だと思います」
建国式典の妨害を狙ったものなら、建国宣言が始まると同時に仕掛けた方が効果的なはずだ。それ以前に攻撃すれば、相手に仕切り直しのチャンスを与える結果になる。おそらくは偶発的に戦端が開いたのだろうが、それにしては、爆発の音が近すぎるのがロランの神経に障った。
〈ソレイユ〉のレーダーなら、百キロ圏内に接近する敵はあらかじめ探知できる。付近に出張ってきたミリシャと戦闘になったのだとしても、艦の近くで衝突するのはおかしい。イングレッサにしろルジャーナにしろ、ミリシャがディアナ・カウンターの防衛網を正面突破できるとも思えない。ディアナ・カウンターが故意に手加減して、誘い込みでもしない限り……。
ふと達したその推測に、ロランはざわとした悪寒《おかん》が走るのを感じた。なぜ? ディアナ・カウンターがどうしてそんなことをする必要がある。自問する間に、不意に表情を硬くしたディアナが止めていた足を動かし、ロランを追い越していた。
「急ぎましょう。キエルさんの身が心配です」
ディアナ・カウンターの実情を知るディアナの危惧《きぐ》は、明快だった。なにがどう、とはわからなくても、ディアナの考えている通りなのだろうと直観したロランは、スカートの裾をたくし上げ、前より早足で残りの階段を昇った。二百メートルに及ぶ〈ソレイユ〉の艦橋構造部は、六十階建てビルに相当する。あと二十階ぶんの階段を昇らなければ、キエルがいるはずのディアナの居室にはたどりつけないのだ。
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「参列客の安全を確保するのが最優先です。式典を中止するかしないかは、後で考えればよい」
建国宣言の原稿を挟んだ皮製のフォルダーをきつく握りしめて、キエルは言った。公文書はすべて電算化されるディアナ・カウンターの慣習に逆らい、特別に用意させた紙の原稿だったが、それを不要にしかねない事態が周囲で持ち上がっていた。
(しかし、〈ソレイユ〉に避難させるなど……! 不心得者がディアナ様のお命を狙わないという保証はありません)
通信端末のパネルに映るハリーも、常になく顔をこわばらせている。建国宣言開始まで、あと三十分。十分ほど前から始まった戦闘は一向に終息する気配はなく、式典会場の間近に流れ弾が飛来するようになって、参列客の避難を考慮しなければならない局面にまで陥っているのだった。
湖畔の平地に天幕を張っただけの式典会場など、射撃演習場も同然だ。地球との関係をこれ以上悪化させないためにも、参列者たちは〈ソレイユ〉艦内に避難させるしかなかったが、ハリーはあくまでも慎重だった。それがハリーらしい美点であると同時に、彼の思考を狭くしているとわかるキエルは、「そのために親衛隊がいるのでしょう」と、意識して辛辣《しんらつ》な口調で言った。
「参列客の避難活動はミランに指揮を執らせます。ハリー大尉はミリシャの侵攻を食い止めてください」
(しかし……)
「くどい! 仕掛けたのがミリシャであっても、参列客になにかあったらディアナ・カウンターの手落ちと……」
つん、と鼻をつく刺激臭が立ちこめ、続いて人の気配がすぐ背後に発した。思わず振り返ったキエルは、開きっぱなしになった部屋の扉と、通路から漂ってくる白い煙、それらを背にして立つ女らしき人の姿を一時に視界に入れていた。
女と断定できなかったのは、その顔が消火作業時に使うガスマスクにすっぽり覆われていたからだ。うつ伏せに倒れた親衛隊員の頭が扉枠の向こうに見え、その首があらぬ方向にねじ曲がっているように思えたが、確かめる余裕はなかった。すぐに自動扉を閉めた女は、片手に持った拳銃の銃口を無造作にキエルに向けた。
室内のエアコンが瞬く間に白い煙を吸い上げるのを待ってから、銃を持っていない方の手でガスマスクを剥《は》ぎ取る。長い赤毛を後ろで束ねた女の顔が露《あらわ》になり、キエルは棒立ちのまま、自分を見据える切れ長の瞳と目を合わせた。
外で立哨していた親衛隊員を殺害し、自動扉のロックを破って音もなく侵入してきたとなれば、その目的は考えるまでもなかったが、こちらを見つめる女の目に殺気は感じられなかった。そよとも揺らがない銃口同様、なんの感情もない二つのガラス玉がそこにあるだけで、キエルは、殺人を生業《なりわい》にした人の目はこのようになるのだろうと、奇妙な感心をした。
(ディアナ様、どうなされました)
通信端末のスピーカーから、やや緊張したハリーの声が流れていた。彼の端末のパネルには、不意に背中を向けたきり、ぴくりとも動かない女王の姿が映し出されているはずだ。異常を知らせる挙動を取れば、即座に引き金が引かれると判断したキエルは、「……よい。客がきたようです」と応じて、後ろ手で通信を切った。
女の口もとが微《かす》かに歪《ゆが》み、ガラス玉の瞳に一抹《いちまつ》の感情が差し込むと、精一杯の虚勢を張る女王に苦笑したという表情が作り出された。自分が相対しているのが同じ人間であるとわかり、思考の何分の一かを取り戻したキエルは、「何者か」と口にしてみた。
「残念ながら、暗殺という闇の仕事を請け負った者です。名乗れません」
暗い銃口の穴の向こうで、暗殺者には不似合いなぼってりした唇が答えていた。返事が返ってくるとは予想していなかったキエルは、女の顔をまじまじと見つめた。野暮ったいズボンとジャケットはミリシャの制服に似ていたが、言葉にはムーンレィス特有の訛《なまり》があり、なにより小さく収縮した瞳孔は、明らかに地球の民ではないことを示している。キエルは、「……ムーンレィス。アグリッパ・メンテナーの手の者か」と間いを重ねた。
月の実権を握るべく、ディアナ不在の間に暗躍を開始した男の名前。ディアナ・カウンター内部にもその一派が浸透していると聞かされていれば、他に思いつく推測はなかった。小刻みに震える両の拳をぎゅっと握りしめ、キエルは沈黙を答えにした女を睨み返した。
「私を殺せば、地球での戦禍が拡大するとわかっての所業か? この建国式典は、ムーンレィスが地球の土地を平和裡に所有できる貴重な……」
「それは、あたしに関係のある話じゃない」
落ち着き払った声音に、取り繕《つくろ》ったディアナの威厳はあっさり吹き飛ばされた。口ごもり、わずかにあとずさったキエルに合わせて銃口を動かした女は、「……もう少し、気の回る人間かと期待してたんだがね」と続けた。
「度胸は認めるが、ただの女じゃないか」
ガラス玉の瞳に、今度ははっきり感情の色が灯った。それが憎悪の光だとわかったキエルは、女が自分と会話を交わしたのは、ディアナ・ソレルという人物を確かめる――あるいは試そうとしたからだと理解して、絶望的になった。
女の目は、ただ暗殺対象というだけではない、ディアナ・ソレルに対する個人的な怨恨があると教えている。ディアナではない私が、ディアナに向けられるべき憎悪を受け止めて死ぬ。考えた途端、押し留めてきた感情の塊が全身の臓腑を突き上げて、キエルは声にならない絶叫を薄く開いた唇から漏《も》らした。
それは切なすぎる。せめてハリーには真実を知ってもらいたい。そう思った刹那、電子ロックが解錠される小さな音が発し、自動扉が勢いよく開いた。反射的に振り向き、機械の精密さで扉に銃口を据え直した女の肩ごしに、キエルは懐かしい顔と再会していた。
忘れかけていた本当の自分の顔が――正確には、キエル・ハイムの扮装をしたディアナ・ソレルが、そこにいた。向けられた銃口を睨《にら》みつけ、「誰か!?」と誰何《すいか》した声は本物の女王の威厳に満ちており、なにも考えられなくなったのも一瞬、すぐに正気を取り戻したキエルは、こちらに背を向けた女に目を走らせた。
ディアナの顔を持ち、ディアナのように話す少女を前にして、女の背中は困惑を露《あらわ》にしている。今なら、後ろから不意を打てるかもしれない。咄嗟に考える間に、「こいつ……!」という叫び声がキエルの鼓膜を震わせ、同時にディアナの背後からひとりの少女が飛び出してきた。
第三者の登場は予測していなかったのか、女が引き金を引くタイミングが一拍遅れる。その隙に突進した少女は、飛び込んできた勢いのまま女に体当たりをかけた。尻もちをつきながらも、すぐに体勢を立て直した女の銃口が少女に向けられ、それより早く動いた少女の腕が、女の手首をつかんで銃口を遠ざけようとする。褐色に近い肌を持つ少女の横顔を呆然と見つめ、どこかで見た覚えがある……と考えようとした時、女がつかんだ少女の髪がずるりと抜け落ち、キエルはぎょっとなった。肩まで届くプラチナ色の髪がその下から現れ、目と口をいっぱいに開いてしまった。
「ロラン……!?」
アイシャドウを塗った目もとは以前より大人びて見えたが、エメラルドに似た瞳の輝きは間違いなくロラン・セアックのもの。なぜロランがここに、しかも女の格好をしてディアナと一緒にいるのか。今度こそ頭が真っ白になったキエルは、女がロランの顔面に頭突《ずつ》きを食らわせ、続いて股間を蹴り上げるのを見ても、指一本動かすことができなかった。
ブーツのつま先に直撃された股間を押さえ、後ろによろけたロランの顔は、男にしかわからない痛みを堪《こら》えて苦悶《くもん》に歪んでいた。むしり取ったかつらを見、脂汗を浮かべたロランに目を戻した女は、「なんだ、こいつ!? オカマか?」と呆れ果てた声を出した。
なにか言おうとして、果たせずに口をぱくぱくさせたロランは、部屋の壁に背中をつけて倒れそうな体を支えた。素早く駆け寄ったディアナがその前に立ち寒《ふさ》がり、一歩も退かない目を赤毛の女に向ける。毅然《きぜん》とした横顔をなす術もなく見つめたキエルは、ちらとこちらを窺《うかが》ったサファイア色の瞳と視線を絡ませて、不意に心の死角を突かれたような感覚を味わった。
目の前に銃口を突きつけられているのに、その瞳に恐怖の色を見出すことはできず、ただひたむきな謝罪の念だけがこちらに向けられている。そうわかり、自分には到底真似できない、女王らしく振る舞ってきたこの数ヵ月は、真に模倣でしかなかったと痛感させられたからだった。
女も本物の迫力に圧倒されたのだろう。ディアナを凝視《ぎょうし》し、立ち尽くすしかないキエルと見比べて、「オカマの従者に影武者。高貴な人の趣味らしいが……」と独白していた。
呑み込んだ言葉の先に、どちらが本物だろうと知ったことではない、一緒に殺してしまえばいいという女の意志を汲み取ったキエルは、瞬間、自分でも理解できない感情が内奥から立ち上がってくるのを感じた。全身の血がわけもなく沸騰し、熱に浮かされた勢いで叫ぶように言っていた。
「影武者ではありません。私がディアナ・ソレルです」
女だけでなく、ディアナとロランも思わずというふうにこちらを見る。向け直された銃口を正面に受け止めて、キエルは逸《そ》らさないと決めた目を女に据えた。ここで退いたら、終生敗残の烙印《らくいん》が押されるという理屈抜きの確信があった。
「違います! 私がディアナです。撃つのなら私をお撃ちなさい」
ディアナの声が、有無を言わさぬ力をもって居室内に響き渡る。女の頬が動揺を示してぴくりとひきつり、それはすぐに鬼面の形相《ぎょうそう》に変わった。「冗談をやってるんじゃないんだよ、こっちは……!」という声が搾《しぼ》り出され、引き金にかかった細い指に力が込められる。開きっぱなしになった扉の外に人の気配が発したのは、その直前のことだった。
反射的に振り返り、視線と一体化させた銃口を扉に向けた女の肩ごしに、ハリー大尉の赤いサングラスが見えた。銃声が轟《とどろ》き、部屋いっぱいに膨《ふく》らんだ閃光に目を閉じたキエルは、正面を塞《ふさ》いでいた女の気配がふっとなくなるのを知覚した。
次に目を開けた時、女の姿は視界から消えており、姿勢を低くして部屋に飛び込んでくるハリーの姿だけがキエルに見えた。横に転がって初弾を回避したらしい女は、すぐに膝をついてしなやかな体を支えると、ハリーに向けて銃口を構え直す。目の端に捉えたキエルは、テーブルの上の皮製フォルダーを無我夢中で投げつけていた。
フォルダーが女の手首に当たり、銃声が発すると同時に挟んであった建国宣言の原稿がばらまかれる。はずみで放たれた銃弾がハリーの肩をかすめ、キエルは小さくあっと叫んだが、それは短く尾を引いた鮮血の帯を見たからではなかった。
脇目も振らずに飛び込んできたハリーは、キエル・ハイムのように見えるディアナに向かって猪突していたのだ。ディアナ・ソレルのように見えるキエルを、意識の外にして……。
ハリーがディアナに体当たりした直後、再び銃撃の轟音と閃光が発して、一瞬前までディアナが立っていた壁に弾着の火花が散った。ディアナに覆《おお》い被《かぶ》さったまま、ハリーは手にした拳銃を女に向けたが、それより先に立ち上がったロランが、スカートの裾をなびかせて女に突進していた。
女は、闇雲に突進するロランを盾《たて》に使えると瞬時に判断したのだろう。素早く身を捻《ひね》って横に移動すると、下からすくい上げるような頭突きをロランに見舞っていた。
女の膂力を総動員した頭突きがまともに腹に食い込み、唾液とも胃液ともつかない水滴を口から飛ばしたロランの体が、後方に吹き飛ぶ。立ち上がりかけたハリーがそれを受け止める羽目になり、体勢が崩れるのを見て取った女は、次の瞬間には床を蹴《け》っていた。
一気に距離を詰め、ロランをどかして拳銃を構え直そうとしたハリー目がけて、鞭を思わせる蹴りを繰り出す。弾き飛ばされた拳銃が床に落ちるより早く、続く回し蹴りをハリーの横面に直撃させた女は、上半身を起こそうとしたディアナの二の腕をつかみ上げた。一動作で逆手に捻り、自分の体にぴったり密着させて、頬の下に銃口を押しつけた。
「テテス、貴様……!」
切れた唇から血を滲ませたハリーの顔は、怒りと焦《あせ》りで蒼白になっていた。テテスと呼ばれた女は切れ長の目をすっと細め、返事をする代わりにディアナの腕をつかむ力をぐっと強めた。
ディアナの口から苦悶《くもん》の呻き声が漏れ、「やめろ!」と怒鳴ったロランが飛びかかろうとする気配が伝わったが、さっと横に突き出されたハリーの腕が、それを制していた。
下手に動けば、テテスは躊躇《ちゅうちょ》なく引き金を引く。暗黙に語ったハリーの横顔に、ロランは唇をかみ締めてテテスの顔を睨みつけたようだった。ディアナに銃口を押し当てたまま、ゆっくりあとずさったテテスは、扉をくぐった拍子に身をひるがえし、ほとんど足音を立てずに通路を走り去っていった。
「待て!」と叫んだロランが部屋を飛び出してゆくのと、ハリーがブリッジに直通するインコムを取り上げたのは同時だった。「親衛隊のハリー大尉だ。ディアナ様のお命が狙われた。犯人はテテス・ハレ中尉。ディアナ様そっくりの地球人の女を人質に取って逃亡している。ただちに艦内を封鎖して……」と続く声を背にしながら、キエルは硬直した手をゆっくり持ちトげてみた。
震えが残っていたが、動かせないほどではない。大きく深呼吸してから、キエルは棒きれになってしまったような足を動かした。どうにか部屋の中ほどまで進み、床に片膝をついてまき散らされた建国宣言の原稿を拾い集めた。こわばった神経が指先を痺《しび》れさせ、一枚拾うだけでも苦労したが、置き去りにされた絶望感を紛らわすにはちょうどいい作業だった。
インコムの受話器を壁に戻したハリーが、多少慌てた様子で傍《かたわ》らに腰を落とし、一緒に原稿を拾い始めた。咄嗟に本物のディアナをかばってしまった気まずさを含んで、その顔はいつも以上に寡黙に見えた。この男は、とうの昔に気づいていた。それでいながら、自分をディアナ・ソレルであるかのように扱っていたのだ。もはや疑いようのない確信を無表情の下に隠して、キエルは「怪我はいいのですか?」と尋ねた。
は? と顔を上げたハリーは、言われるまで忘れていたという様子で、銃弾の擦過《さっか》した肩に手をやった。「かすり傷ですから。ディアナ様こそ……」といった言葉を、「私は大丈夫です」と遮《さえぎ》って、キエルはハリーより先にすべての原稿を拾い集めた。
「それより、一刻も早く賊を捕らえてください。キエル・ハイムに怪我をさせるようなことがあってはなりません」
「は。それはもちろん……」と応じたハリーは、視線を避けるように顔をうつむけた。すぐにでもディアナを追いかけたい衝動が、その全身から立ち昇っていた。集めた原稿をテーブルの上で均《なら》し、いら立ちと一緒にフォルダーに収めたキエルは、「予定時間より少々早いが、建国宣言を始めます」と背中を向けたまま言った。
「指揮系無線のチャンネルも使って、戦闘中のモビルスーツにも呼びかけます。ミランに手配させてください」
ベレー帽に似た指揮官用の制帽をかぶり、キエルは自分でも驚くほどの冷静さで言いきった。「は。しかし……」と戸感った声を出したハリーに、「私はディアナ・ソレルです」と押しかぶせた。
「ムーンレィスを束ねる者が、この程度のことで動揺するものではない。貴官は私の指示に従っておればよい」
今は完全にディアナ・ソレルをやりおおせてみせる。それ以外、自分がここにいる理由はないと断じて、キエルは女王の声音で言った。「……は。了解であります」と応じたハリーが、それでも立ち去り難い風情でぐずぐずしているのに腹が立ち、「ハリー大尉は、あの少女のような少年と協力してキエル嬢の奪還を」と尖った声で続けていた。
「これは厳命です」
は! と敬礼をしたハリーの顔は、見なかった。建国宣言の原稿を小脇に抱えて、キエルは硝煙の漂う居室を後にした。
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(ディアナ様が演壇に出られる。百三十七から百八十までの隔壁を開放しろ。親衛隊が先導する)
「戦闘は継続中です。外に出られるのは危険です」
(ディアナ様のご意志である。開放しろ!)
スピーカーから流れ出た怒声に、オペレーターは判断を仰ぐ目をこちらに向けた。「言われた通りにしろ」と命じて、フィルは熱をもった額に軽く手を当てた。ぬぐったはずの脂汗が再び手のひらを濡らし、小さく舌打ちしていた。
テテスが仕損じるとは。脂汗の中身を言葉にするなら、そういうことになる。ディアナ襲撃の一報と同時に全艦封鎖を実施し、警衛部隊が総出で行方を追い始めたものの、テテスの所在は依然としてつかめない。事前に取り決めた逃亡ルートの情報をそれとなく流し、警衛たちに先回りさせてもみたが、テテスはそこにも姿を現さなかった。任務が失敗したからではなく、もとよりフィルに信頼を寄せていなかったからであることは、考えるまでもなかった。
下賎《げせん》の出はどこまでも下賎。いざという時の胆力がないくせに、警戒心だけは一人前というわけか。司令席のひじ掛けを叩きつけたい衝動を堪えたフィルは、代わりに「テテス中尉の所在はまだわからんのか!?」と声を荒らげた。
「三分前にモビルスーツデッキ付近の監視カメラに捕捉されて以降、消息は不明です」
緊迫したオペレーターの声が終わらないうちに、透明装甲の一画に六面の監視パネルが表示され、艦内各所を矢継ぎ早に映し出してゆく。機関室、弾薬室、電気整備室。縦にも横にも長い広大な艦内は、三百に及ぶ監視カメラが設置されていても、ブリッジから把握できる場所はほんのひと握りでしかない。秒単位で切り換わる画面の中、ディアナ専用甲板の通路が映り、親衛隊の一団と、彼らに取り囲まれたディアナが足早に横切るのを見たフィルは、自分でも苦虫を噛み潰した顔になるのがわかった。
テテスが捕まれば――自分がディアナ暗殺を命じた事実は、たちどころに露見するだろう。肌を合わせていても、時おりひんやり冷たい腹の底を感じさせていたテテスが、自分をかばうことは金輪際あるまい。アグリッパ・メンテナーにしてもそれは同じだった。現時点でディアナ放逐の計画が明るみに出れば、アグリッパは間違いなく自分を見捨てて保身に走る。結局、ババの引き受け手は自分しかいないと認めて、フィルは暗澹《あんたん》となった。
百二十年前、ギム・ギンガナムの反乱に関与した武家の多くが取り潰された中、アッカマン家だけが咎《とが》めを受けずに済んだのは、決行直前にディアナの陣営に下り、反乱計画の詳細を密告したからだ。その跡取りとして生まれたフィルには、ディアナへの忠心を貫いた軍人家系の血筋に対する称賛と、同志を売った卑怯者の一族という汚名の両方がついて回った。
実戦などあり得ないという空気に国ぐるみで浸かっていながら、なお軍人としての矜持《きょうじ》は墨守《ぼくしゅ》しなければならない。ディアナ・カウンターのように歪《いびつ》な軍隊組織では、そうした風評や家柄による人物査定が人事の基本になって、能力に応じた出世などは望むべくもなくなる。アッカマン家に生まれた時点でディアナ・カウンターへの入隊が決められていたフィルに、それは度し難い現実だった。幼少時からひたすら文武修得を強要され、人並みの青春も知らずに研鑚《けんさん》に励《はげ》んだ結果は、働き盛りのうちに閑職に回された父があらかじめ体現している、という皮肉。そうした生き方がアッカマン家の男の美風と聞かされても、割り切れない思いは拭いようがなく、ひそかに堆積し続けた不満は、ある事件を契機に爆発した。
知能テストの結果が平均以下だったと知ったのは、ディアナ・カウンターに入隊して間もなく、最初の艦隊勤務についたばかりの頃だ。それを聞いた瞬間、隊内での扱いが父以上に冷遇されたものになるとわかり――いや、人生そのものに巨大な十字架が負わされたと知ったフィルは、自分の中で意識的に事実をねじ曲げた。
知能テストの結果は上層部によって改竄《かいざん》されたもので、一点の信憑《しんぴょう》性もない。アッカマン家の人間の出世を阻《はば》むべく、ディアナ・カウンターが仕組んだ巧妙な罠だと思い込むようにしたのだ。結果、フィルは生来の攻撃的な性質をより先鋭化させていった。模擬戦の規模を拡大し、軍功による出世を認めるべきと主張して、形骸化した人物査定制度は破棄すべきと訴えるまでになった。
自分の首を絞める行為とわかっていても、己の無能と向き合わないためにはそうするしかないのだった。当然、ディアナ・カウンター上層部はフィルを疎んじ始め、組織内にいよいよ身の置きどころがなくなった時、アグリッパ・メンテナーがフィルに声をかけてきたのだ。
信じられないほどの長命をもって、月の管理人を任じられている男。アグリッパは、一軍人でしかないフィルには生涯無縁な存在であるはずだった。が、「白の宮殿」にフィルを招聘《しょうへい》したアグリッパは、意外な事実を教えた。百二十年前、アッカマン家が他の武家を裏切り、ディアナ陣営に反乱計画を密告したのは、自分が教唆《きょうさ》したものであったと告白したのだ。
旧態依然としたソレル家の統治体制に未来はないが、さりとて、ギム・ギンガナムが望む軍政で月を蹂躙《じゅうりん》させるわけにもいかなかった。当時の事情をそう説明したアグリッパは、反乱計画を潰すためにアッカマン家を利用したことを詫びた。そして、せめてもの罪滅ぼしにフィルにチャンスを与えたいと中し出てきた。
執政官グループを取りまとめる長老の娘との婚姻を段取り、ディアナ・カウンターにおけるフィルの立場を揺るぎないものにする。その代わり、地球帰還作戦が始まった際は自分の指示に従って行動してもらいたい。それがアグリッパの提案だった。ようはもういちど利用されるという話だったが、降っておいた幸運に感謝こそすれ、断るつもりはフィルには毛頭なかった。
地球帰還を一義とするディアナ体制と、月での永住を望むアグリッパの意見が相反しているのは周知の事実だが、それは半ば制度化した思潮の相違であって、対立構造を生じさせる類いのものではない。アグリッパがいかなる理由でディアナの排除を目論《もくろ》むのか、それは定かでなかったが、フィルにとってはどうでもいいことだった。戦争が現実のものとなり、軍功による出世が夢ではなくなったにもかかわらず、ディアナは依然、和平交渉に固執してディアナ・カウンターを飼い殺しにしている。知性と理性ですべてが解決できると夢想して、蛮族どもにいいようになめられているのだ。力の本質を理解できず、頭でしかものを考えられない指揮官など、実戦渦中の軍組織には不要だった。
だから、ディアナは排除しなければならない。これは自分の劣等感が思わせていることではないと確信して、フィルは透明装甲ごしに外の風景を見つめた。
夜の帳《とばり》が降りたばかりの薄闇に、曳光《えいこう》弾の弾道とビームの軌跡、爆発の光が散発的に閃くのが見える。今こうしている間にも、戦争は続いているのだ。無益な消耗戦を終わらせるためにも、ディアナに代わって自分が全軍の指揮を執る必要がある。一度の失敗ですべてを失うわけにはいかない。チャンスを次回に繋《つな》ぐには、今回の失敗を完全に抹消しなければ……。
「相手はディアナ様のお命を狙った反逆者だ。捜索に当たっている兵には、発見次第の射殺を徹底させろ」
正面を見据えたまま、フィルは無表情に言った。一瞬の冷たい沈黙がブリッジを支配した後、「は……』と振り返ったのは、先刻の下克上オペレーターだった。
「人質の安全確保を最優先にするよう、親衛隊から指示が出ておりますが」
おそるおそるの様子で言ったオペレーターの顔に、フィルはひじ掛けを握れるだけ握りしめた。そんなことはわかっている、おれはバカじゃない。「艦内の警務は、我々正規軍の所管である!」と怒鳴り、フィルは堪《こら》えきれずに立ち上がっていた。
「反逆者には断固とした態度で望まねば、士気に影響する。人質の安全確保は留意させろ。だが優先すべきは反道者の処分だ」
これで怒鳴られるのが二度目のオペレーターの反応は、素直なものだった。「はっ!」と体を硬直させた彼が、命令を復唱するのを聞きながら、フィルは司令席に腰を据え直した。ひじ掛けに手を置いた途端、テテスのやや固めの乳房の感触が唐突に思い出されて、意味もなく両手を握り合わせた。
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ドアが開くと同時に、「そこまでだ!」の声が飛んで、ブルパップ式のライフルの銃口がエレベーターの中に向けられた。反逆者を追いつめたつもりでいる二人の兵は、しかし、そこに立っている人の姿を認めて、ぎょっと身を引いたようだった。
「ディアナ様……!?」
ひとりエレベーターに乗っていた金髪の少女は、否定も肯定もせずに立ち尽くしている。その真上、エレベーター点検用ハッチの裏側に潜むテテスは、薄く開けたハッチの隙間からリボルバー拳銃の筒先を突き出した。兵たちが慌ててライフルの銃口を下げ、一歩エレベーター内に入ってくるのを待ってから、息を詰めて引き金を二回引いた。
轟音と閃光が弾け、それぞれ胸と頭を撃ち抜かれた兵がその場にくず折れる。縁をつかみ、懸垂の要領でひと息にハッチをくぐり抜けたテテスは、呆然と立ち竦《すく》む少女の傍らに降り立った。フリル袖のドレスにべったり返り血が付着しているのを横目にしつつ、これで弾倉が空になったリボルバーを捨てて、倒れた兵からライフルと予備マガジンを取り上げた。
「惨《むご》いことを……」
ディアナか、影武者かもしれない少女が、まだ二十歳そこそこに見える兵たちの骸《むくろ》を前に言う。震える声には恐怖より強い怒りがあるようだったが、テテスはかまわずに少女の二の腕をつかみ、エレベーターから飛び出した。
通路の先には、発着|甲板《デッキ》に繋がる艦載機の格納庫――モビルスーツデッキがある。先刻、わざとこのデッキの監視カメラに顔を映したのは、他のデッキに逃げたように見せかける初歩的な欺瞞工作だったが、全面的に引っかかってくれるほど警衛も間抜けでぱなかった。すぐに複数の人の足音が迫り、「いたぞ!」「止まれ!」とお定まりの怒声が背後に弾けるや、銃撃の火線が通路を飛び交い始める。足をもつれさせた少女を引きずって、テテスは十字に交差する通路の陰に退避した。
壁際に身を寄せた瞬間、擦過《さっか》した銃弾が壁の角を粉砕して、テテスはひやりとなった。一撃で壁を抉った弾丸は、弾頭に装甲をかぶせた徹甲弾。人質の安全を二の次にしてでも、反逆者を殺せという命令が出ている証拠だった。豪放な性格の裏側に、絶えず人目を気にする神経質さを併せ持っていたフィルの顔を思い出し、「……あの男の考えそうなことだ」と吐き捨てたテテスは、ジャケットの懐から手榴弾を取り出した。
こうなってしまえば、ベッドで睦みあった時間など一片の保証にもならない。どだい、それぞれ底暗い劣等感を持つ者同士の情交は、互いの加虐趣味を満たそうとするだけで、愛しあうという性質のものではなかったと思う。手のひらにすっぽり収まる破砕手榴弾を握りしめ、フィルとの関係を完全に終わらせたつもりになったテテスは、安全装置の外れたそれを床に放った。起爆の閃光と爆風が通路を満たすと同時に、咳き込む少女の腕をつかんで走り出していた。
警報がけたたましく騒ぎ立てる中、硝煙が立ち込める通路を駆け抜けて、一気にモビルスーツデッキに到達する。船体の三分の一を占める巨大ながらんどうに、二十数機分の整備架台《ハンガー》が並ぶ〈ソレイユ〉のモビルスーツデッキは、今は艦の外に仮設されたアラートハンガーが整備・補給処の役割を果たしているため、外装板を外した修理中の機体が並ぶばかりになっていた。駆けつけた二人の警衛を射殺し、いちばん奥まった場所にあるハンガーに向かったテテスは、事前に準備した離脱手段――モビルスーツ〈ムットゥー〉が予定通り鎮座しているのを確かめて、小さく安堵の息をついた。
〈ムットゥー〉は、ロスト・マウンテンの近くで発掘された旧世界の遺物だが、〈スモー〉や〈ウォドム〉と較べても性能的に見劣りはなく、部隊編制が可能と判断されたことから、整備作業が進められているモビルスーツだ。逆さにしたお碗の底から、〈ウォドム〉のそれよりひと回り小さい頭部を突き出している姿は、人型が基本のモビルスーツの設計思想からは著しく外れているが、それは変形機構を有するこのマシーンの一断面でしかない。内蔵データにあった〈モビルアーマー〉という単語が、あるいはこの形態の時の呼称なのかもしれなかったが、真相は闇の中だった。
代謝《たいしゃ》機能を持つナノスキンに防護されてきた機体は、数千年の時を超えて新品同様の装甲を保っている。少女の腰を抱えるようにしてハンガーを駆け上ったテテスは、開きっぱなしのコクピット・ハッチにまずは少女を押し込み、続いて自分の体を滑り入らせた。
部隊編入前の〈ムットゥー〉は、パイロットのID登録もまだなされていない。当然、各種のセキュリティ措置も講じられておらず、イグニッションスイッチを入れると、なんの抵抗もなくジェネレーターが起動した。足もとに伝わる心地好い振動に、まだ幸運は残っていると胸中に呟いたテテスは、シート脇のレバーを引き上げてコクピット・ハッチを閉鎖した。内壁全面がスクリーンになるオールビュー・モニターの作動を確かめてから、シートの背後でじっと押し黙っている少女に振り返った。
「振り落とされないように、しっかりシートの背もたれにつかまってな。エア・シートベルトはあたしの分しかないんだ。下手な真似すると、壁に頭をぶつけてあの世行きだからね」
口を開きかけた少女を無視して、正面に顔を戻す。上下左右を見回し、最低限の安全確認をしようとしたが、壁沿いの|渡り廊下《キャットウォーク》に、複数の兵が集まりつつある光景を見ればその暇はなくなった。ライフルの弾丸が機体の外板に弾ける音を聞きながら、テテスは空間斥力処理装置《FRP》を作動させてアームレイカーを握った。
「どこに逃げようというのです」
ふわりとした浮遊感がコクピットを包むと同時に、足を踏んばる気配をみせた少女が言った。「首謀者が誰であるにせよ、あなたはもう見捨てられています」と続いた声音に、ディアナ・ソレルらしい威圧を感じ取ったテテスは、神経をささくれ立たせた。
「投降するべきです。改悛の情があれば、ディアナ・ソレルも悪いようにはしません」
「知ったふうな口をきくんじゃないよ。ディアナを憎んでる連中は大勢いるんだ。投降した途端、あんたもろとも撃たれて一巻の終わりさ」
少女が息を呑む気配を背後に、テテスはスロットルを小刻みに開いて〈ムットゥー〉を前進させた。FRPの作り出す力揚が狭い格納車内で反響して、機体は小舟のように左右に振れた。
「本物か影武者か知らないが、ディアナらしく見える人質がいるんだ。下っ端がダメなら、『白の宮殿』の元締めと直取引するまでさ」
「『白の宮殿』……。アグリッパ・メンテナーが、私の暗殺を企てたというのか?」
その時だけは、細面に怒りの色を露にして少女は呟いた。先刻、居室でディアナの制服を着ていた少女とは異なる、ごく自然な感情の発露。「……その反応、本物のディアナ・ソレルだね?」と確かめると、少女の――ディアナの顔がぴくりとこわ張って、あまりの正直さにテテスは苦笑した。
「あんたがディアナなら、わかるだろう。これから行くロスト・マウンテンには、核兵器が埋まってるんだ」
「核……!?」
「起爆させれば、式典に集まってる地球のお偉方はもちろん、〈ソレイユ〉だって吹っ飛ばせる。そいつを楯にすれば、誰にも手出しはできないって寸法さ。核とあんたがこっちの手中にあるってわかれば、アグリッパも再交渉に応じるだろうしね」
そこで言葉をきったテテスは、絶句したディアナをよそに機体の操作に専念した。発着デッキのシャッターが、行く手を阻むように閉鎖し始めるのが見えたからだった。シャッターの手前に修理中の〈スモー〉タイプがあったが、テテスはかまわずにスロットルペダルを踏み込んだ。
蹴飛ばされたように加速した〈ムットゥー〉が、ハンガーに固定された〈スモー〉を引き倒しながら発着デッキに猪突する。閉鎖する直前のシャッターをくぐった瞬間、機体上面に張り出した頭部がシャッターをかすめ、舌を噛み切りそうな激震に見舞われたものの、鍛えられた三半器管がその程度で揺らぐものではなかった。スロットルとアームレイカーを操作し、即座に機体を立て直したテテスは、夜になって間もない群青色の空に〈ムットゥー〉を飛翔させた。
〈ソレイユ〉がみるみる後方に流れ去り、ミリシャとディアナ・カウンターの交戦の火花が俯瞰《ふかん》されるようになる。戦況次第で追手の数も決まるとわかっているテテスは、状況を探るべく無線回線を開いた。(……すべての命をわかちあう、すべての人たちよ。武器を大地に置いて、私の話を聞いてください)という声がスピーカーから流れたのは、指揮系無線のチャンネルにセットした時だった。
「キエルさん……!?」
シートの背もたれにしがみついているディアナが、信じられないといった声をあげた。影武者が、本人に成り代わって建国宣言を始めたらしい。前に乗り出し、(私は戦いは望みません……)と続いた声に耳をそばだてるディアナの横顔を窺《うかが》ったテテスは、なにも言わずに無線のボリュームを落とした。ぎゅっと唇を結び、咎めるようにこちらを見た青い瞳と目を合わせてから、正面に視線を据えた。
「……リンダ・ハレって名前の女を覚えてるかい?」
自分でもわからないうちに、そう口にしていた。
「リンダ……?」と眉をひそめたディアナの気配が背後に伝わり、テテスは無意識にアームレイカーを握りしめた。
「覚えてない、か……。そうだろうねえ。あんたが百五十年前に地球に降下《おり》た時、同行したムーンレィスの技師と恋仲になった地球の女の名前なんてさ」
先刻も、無駄話をしたためにドジを踏む羽目になった。今は操縦に専念すべきとわかっても、いちど流れ始めた感情を止めることはできず、テテスは続けてしまっていた。リンダの名を思い出したのか、ディアナが驚きの息を吸い込む音がすぐそばに聞こえた。
「リンダは月に連れていかれて、子供を生んだ。蛮族の血をひく子孫たちが、月でどんな暮らしを強いられてきたか……。あんたには想像もつかないだろうね」
一般ムーンレィスと同じ公共施設は利用できない。仲のよかった幼なじみは、学校に上がる頃から自分を避けるようになる。家の壁には野蛮人≠フ落書きが絶えず、まともな職につけなければ、まともな物さえ売ってもらえない。テテスが十五歳になったばかりの頃、三人組の男に暴行を受けた時には、合意によるものというでたらめが鵜呑《うの》みにされて、犯人は不問に付された。自分の腹にのしかかってきた男の前歯が一本欠けていたこと、『蛮族が操を気にするのかよ』と小声で呟いた警官の顔を、テテスは一生忘れない。
「……そのような話、私は……」と震える声で言ったディアナを、「そうだよ、お姫さん」と遮って、テテスは自分の人生と同じ、薄闇に包まれた森林に目を向けた。
「教えといてやる。あんたの最大の罪は、無知ってことさ」
それで無駄話を打ち切ったテテスは、ディアナの反応を待たずに機を降下させた。左コンソールにあるレバーを引き、モニターの表示が〈CONDITION・MA〉から〈CONDITION・MS〉に変わるのを見守った。
〈ムットゥー〉の機体の底から、折りたたまれていた脚部が展開し、着地する鳥さながら踵が前に突き出される。同時にモノアイ・センサーを収めた頭部が上部にスライドし、内部に格納されていたマニピュレーターが左右にのびると、それは人の上半身を想起させる形になった。
ぶかぶかのスカートを履いた巨人――モビルスーツらしくなった〈ムットゥー〉の状態をモニターに確かめ、テテスはロスト・マウンテンに向けて高度を下げていった。星空の下に横たわる荒涼とした大地が、夜の月面を想起させる光景であったことがテテスには腹立たしかった。
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(かつて、私たちの母なるこの地球は、人が住むことさえ許されないほどに荒廃した惑星になりました。そのような苛酷な時代があったと『黒歴史』は語っております。なのに、地球の皆様方はそれを忘れております。なぜでしょうか?
人間には、もっとも辛い体験や記憶は、忘れてしまうという悲しい性がございます。悲惨すぎる過去を背負ったまま、生き続けることはできないのです。だから忘れようとした。過った歴史に封印をして、再生にすべての力を費やしてきたのです)
〈ソレイユ〉との距離が狭まるにつれ、無線機から流れるディアナの声はより明瞭に、より力強く耳朶《じだ》を打つようになった。「ムーンレィスの言いそうなこと……!」と独りごち、聞き入ってしまいそうな自分を律したソシエは、索敵《さくてき》画面に意識を集中した。
口ではなんとでも言える、と思う。たしかにディアナ・カウンターは後退しつつあるが、それはディアナの演説に感化されたからではなく、先行した〈ボルジャーノン〉があらかた全滅させられたからだ。こちらも山越えの途中に僚機を一機失い、今は二機の〈カプル〉だけが〈ターンA〉に随伴している。〈ソレイユ〉まであと二十キロと少し、ここからならビームライフルを直撃させるのも不可能ではないが、式典会場の様子がわからなければ迂闊に撃つこともできない。つまりディアナは、会場の参列客を人質に取って建国宣言を強行したのだ。その言葉に胸に響くなにかが含まれていたとしても、聞く道理はソシエたちにはなかった。
(地球中の人間が、みんなそろって昔のことを忘れるなんてアホな話があるもんかよ……!)
混線した無線の中に、ノイズと同じくらい耳障りなヤーニ少尉の声が発する。無線が通じるということは、ヤーニたちのオンボロトラックもようやく山を越えられたらしい。位置を確かめようと背後を振り返りかけたソシエは、途端に鳴り響いた接近警報の音に慌てて前方に目を戻した。
自動的に拡大された映像に、星空を背に飛行する金色の機械人形が映った。〈GOLD・SUMO〉の表示は、ロランが後から打ち込んだものだろう。ディアナ・カウンターの中でも、もっとも強敵と目される機械人形の接近。確かめた頭が勝手に判断を下し、ソシエはフットペダルを踏み込みつつ、ビームライフルの照準を金色の人型にセットした。
地を揺らして走る〈ターンA〉の右腕が上がり、片手保持にしたビームライフルを一射する。ピンク色の光条が夜空にのび、金色を直撃するように見えたが、わずかに機体を揺らしただけで回避した金色は、一気に加速をかけてこちらに突進してきた。鱗粉に似た青白い光がその機体から発し、「金ピカめ……!」と呻いて二射目の引き金に指をかけたソシエは、(撃つな!)と無線に割り込んできた鋭い声に、危うく指先の動きを止めた。
(白ヒゲのパイロット、聞こえるか? わたしはハリー・オード大尉だ。ディアナ様の命に従って、ロラン・セアック君を連れてきた)
低い、冷静な声がそう言い、思わず「ロランを……?」と呟いたソシエは、カメラを調節して金色の手元を拡大してみた。そっと重ね合わされた手のひらの間に、スカートを風にたなびかせたロランの女装姿が映り、瞬間的にかっとなった。
「あいつ……! やっぱりムーンレィスに寝返ったんだ」
ディアナの命令で、ディアナ・カウンターの機械人形に運んでもらっているとなれば、他の推測はなかった。機械人形の手のひらにしがみつくロランに照準画面を重ね、そうならただではおかないと心に決めたソシエは、〈ターンA〉に走るのをやめさせた。両手の指を鳴らしてひっぱたく準備を整えつつ、金色の機械人形が三十メートルほどの距離をあけて着地するのを見守った。
金無垢の銅像を思わせる機械人形が地に屈《かが》むと、その手のひらがそっと地面に下ろされ、ロランが転げ落ちるようにこちらに走ってくるのが見えた。コクピットのキャノピーを開け、「ロラン、この裏切り者……!」と怒鳴りかけたソシエは、不意に下降を開始したコクピットのために尻もちをつく羽目になった。
あっという間に十メートルの高さを滑り降りたコクピットボールが、地面から数センチのところでぴたりと停止する。またロランがリモコンで操ったらしい。ロックされた上昇レバーはぴくりとも動かず、ソシエは走り寄るロランを睨みつけるしかなくなった。「いつもいつも、なんなのよ!」とコクピットから半身を乗り出して叫んだソシエは、「どいてください!」と常にない声で怒鳴ったロランに、どきりと体を震わせてしまった。
「お嬢さんがさらわれたんです。早く助けに行かないと……!」
「キエルお姉さまが……?」と聞き返したソシエには答えず、ロランはスカートをたくし上げてコクピットに乗り込んできた。ソシエを押し退けてシートに収まり、手際よくスイッチとパネル類を点検してゆく。「早く降りて!」ともういちど怒鳴った横顔は、こちらを見ようともしなかった。
「な、なによ……! ムーンレィスの金ピカに運んできてもらったりしてさ。〈ターンA〉を盗んで、ディアナ・カウンターに行くつもりなんでしょ!?」
「ハリー大尉はキエルお嬢さんを、ぼくはディアナ様を守る。それが今はいちばんいいんです」
はっきり言いきったロランは、ソシエが聞き返そうとした時には無線のチャンネルに手をのばし、「ハリー大尉! 行きます」と金色に呼びかけていた。(とりあえず今は信用する。ディアナ様に怪我をさせたら承知せんぞ)と応じた男の声を聞き、直後に燐光を発して離陸し始めた金色を見上げたソシエは、わけがわからずにロランを見つめた。「ディアナ様って……さらわれたのはお姉さまなんでしょ?」と確かめようとした刹那、「今は説明してる暇はありません」と堅い声に遮《さえぎ》られて、続ける言葉を呑み込んでいた。
「ソシエはどいて! 早く」
聞いたことのない激しい声が、追い打ちをかけた。父親に横面を張られた時と同じ衝撃が体に走り、ソシエは自分でもわからないうちにじわりと目が潤むのを感じた。なによ、と言い返そうにも声が出せず、よろけるようにしてコクピットを降りた。
点検を終え、正面を向いたロランの顔は、汗で滲《にじ》んだアイシャドウが目の下に隈を作っていた。笑おうとして果たせず、上昇するコクピットボールをただ見送ったソシエは、力の抜けた足を動かして〈ターンA〉の巨大な踵からあとずさった。
ワイヤーを引き込む音が止まり、コクピットボールが定位置に収まるや、その踵がふわりと持ち上がって〈ターンA〉は移動を開始した。ソシエに背を向けて数歩遠ざかり、ぐっと腰を落とすと、両手にライフルと楯を携えた巨人の姿が夜空へと飛翔していった。
噴射の風を浴びながら、ソシエは両足から燐の光を放つ〈ターンA〉を悄然と見上げた。結局、一度も目を合わさなかった。独り取り残された身に、そんな思いが風になって吹き抜けた。
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(私たちムーンレィスは、地球が再び住めるようになるまで月で暮らしました。人類の記憶を残すために、新しい人の再生に手を貸すためにです。そして今日、この地球は二千年に及ぶ歴史を刻んで、再び人類の繁栄を築き上げることができるようになったのです。
地球は完全とは言えないまでも、再生いたしております。ならば、ムーンレィスも地球に帰還して、地球の再生と、二度と過った歴史を刻まないように手を貸したいのです)
ハリー機から転送されるレーダーディスプレイは、テテスという女兵士が奪ったモビルスーツの信号を確実に捕捉《ほそく》していた。〈ムットゥー〉のマーカーが、〈ロスト・マウンテン〉と表示された一帯に逃げ込むのを確かめたロランは、迷わず〈ターンA〉をそこへ向かわせた。
山を飛び越えた途端、それまであった森林の樹木は冗談のようにかき消え、岩と砂だけの荒れ地がモニターいっぱいに広がった。一片の水気もない、荒涼の一語で言い尽くせる大地は地平線まで続いており、結節状に隆起した地肌を月光に浮かび上がらせている。夜の月面よりもさらにひどい虚無は、恐ろしく広大な火傷痕をロランに想起させた。
「ロスト・マウンテン……どういう場所なんだ?」
口にしてみて、ロスト――失った、という言葉が持つ寒々しい響きが目前の光景に重なり、ロランは肌が粟立つのを感じた。黒々とした火成岩が連なる大地には無数の亀裂が走っていたが、それは地勢というより表情という言葉を思い出させる。焼け火箸を押し当てられ、激痛に満腔《まんこう》を開いた人の表情。刻まれた皺《しわ》の一本一本がその業苦の壮絶さを伝え、なにがどのように失われた場所なのか……と考えかけたロランは、不意に強烈な殺気が発するのを知覚した。
それがなんであるのかわからないまま、反射的に機体の高度を下げる。直後にビーム光が閃き、〈ターンA〉のすぐそばをかすめて夜空に吸い込まれていった。下から狙われている――ビームの残粒子がIフィールドに弾ける音を聞きながら、ロランは眼下に広がる黒い大地に目を走らせた。磁性反応が強いロスト・マウンテンではレーダーは役に立たず、ビームの飛来方向からおおよその見当をつけて、出力を弱めたビームライフルを一射した。
砲口のガイドレールから撃ち出された高エネルギー体の塊が、光の尾を引いてロスト・マウンテンの大地に突き刺さる。灼熱した岩盤が砕け散ると同時に、放射状に走る亀裂のひとつから再びビーム光が発し、左マニピュレーターに装備したシールドをかすめた。ビームの軌跡がモニターを白く染め、機体を激震させる。自分も頭を真っ白にしつつ、ロランはビームライフルの照準を亀裂の斜面に定めて引き金を引いた。
射出されたビームが斜面の岩盤を突き崩し、土石流が亀裂に注ぎ込まれる。降り注ぐ土砂が亀裂の底に潜む〈ムットゥー〉の動きを封じる間に、ロランは一気に〈ターンA〉を降下させた。流れ落ちる岩石とともに、幅二十メートルほどの亀裂に滑り込む。底の方でスラスターベーン特有の青白い光が発し、咄嗟に制動をかけてビームライフルをかまえたが、予測された反撃はなかった。スラスターベーンの光が消えると、〈ムットゥー〉のぼってりした機体の気配も消え、土砂の粉塵だけがVRヘッドの暗視映像を埋める。亀裂の底に、モビルスーツがくぐれるほどの横穴がある? CG補正された暗視映像を凝視し、降りてみるしかないと結論したロランは、機体の制動を解いて、切り立った斜面を滑り降りた。
七十数メートル下ったところで亀裂の底に足がつき、案の定、直径二十メートル弱の巨大な横穴が〈ターンA〉の前に現れた。孔口は鉄骨らしき構造材で補強されており、岩盤で覆われた坑道の内壁にも金属の光沢が見え隠れしている。ディアナ・カウンターが発掘用に掘ったものか、あるいはマウンテン・サイクルと同じ旧世界の遺跡か。考えようとした瞬間、孔道の奥でスラスターベーンの仄かな光が瞬き、ロランは〈ターンA〉の腰を屈めさせた。放たれたビームが頭上を擦過し、背後の斜面を直撃したのは半秒も経たないうちのことだった。
爆発の衝撃波が背中にのしかかり、溶けた岩が火山弾になって機体に降りかかる。ロランはフットペダルを踏み込み、爆圧を利用するようにして〈ターンA〉を坑道に突入させた。
狭い坑道では回避運動もできず、次に狙われたら最後だとわかっていたが、ここで直撃を加えて〈ターンA〉を爆発させたら、相手もただでは済まない。坑道が崩れて生き埋めになる程度ならまだしも、
〈ターンA〉の動力機関であるDHOG縮退炉が破壊されれば、爆縮反応に巻き込まれて〈ムットゥー〉も消滅する運命をたどる。威嚇《いかく》射撃しかできないはずだと信じ、それ以上は考えないようにしたロランは、上下に蛇行する坑道を進むのに専念した。
低出力のビームが二度三度と機体をかすめ、坑道の壁を崩す。スラスターを全開にし、落磐が道を塞ぐより先に〈ターンA〉を飛翔させ続けて数十秒。それまで暗い孔壁しか見えなかった視界が唐突に開け、ロランは〈ターンA〉を着地させた。差し渡し百メートルはあろうホール状の空間に、ディアナ・カウンターの作業車や発掘器材が転がっているのが見え、ビームガンの銃口をこちらに向けた〈ムットゥー〉が、その中央に立っているのが見えた。
三機の〈ワッド〉が〈ターンA〉の足もとをすり抜け、一目散に坑道の中へ逃げ込んでゆく。この発掘現場に駐屯していた部隊だろう。向こう側の壁面にさらに奥に続く坑道の入口があったが、ここで決着をつけるつもりでいるのか、〈ムットゥー〉は微動だにせずにモノアイを光らせている。スカートを思わせる巨大な下半身に、不釣り合いに貧相な上半身を屹立させた巨人を見据えたロランは、ビームライフルの砲口をゆっくり下げていった。
あの中にディアナ様がいる。キエルの演説が流れる指揮系無線とは別に、近距離用の個別回線を開いたロランは、「お嬢さんを返してください」と抑制した声で言った。少しの沈黙の後、(その声は、さっきのオカマかい?)という返事が返ってきた。
(こいつはいい。オカマが〈ガンダム〉のパイロットとはね)
そう続けたテテスの声は、追い詰められた人の凄みを含んでロランの鼓膜を震わせた。ぴくりと動いてしまった爪先がペダルを介して機体に伝わり、〈ターンA〉が小さく一歩を踏み出す。(それ以上、動くんじゃないよ)の声とともに〈ムットゥー〉のビームガンが突き出され、ロランは慌ててブレーキを踏んだ。
(あたしがなにを持ってるか、見えてんだろう?)
〈ムットゥー〉の平べったい左マニピュレーターが掲げられ、手のひらにつかんだ物体をこちらに示す。筒型のケースを束ねた物体を拡大映像に確かめ、ミサイルランチャーの類いを想像したロランは、ケースの先端に刻印されたマークを見てぎょっと息を呑んだ。
「核爆弾……!?」
月の施設に、同様のマークが記されているのを見たことがある。放射線取扱区画を示す刻印は、見間違いようがなかった。(そういうことさ)と応じたテテスの声が、冷たい刃になってロランの喉元に突きつけられた。
(命だけは助けてやる。Iフィールドを切って、機体から離れな。ディアナと一緒に〈ターンAガンダム〉も月に持ち返れば、あたしみたいな女でも名誉市民になれるってもんさ)
「〈ターンAガンダム〉……?」
(『黒歴史』を生んだ張本人。宇宙移民を苛《いじ》めた張本人の〈ガンダム〉だろうが……!)
なにを言われたのかわからず、ロランは五十メートルの距離を置いて立つ〈ムットゥー〉を呆然と見返した。〈ターンA〉の呼び名と、幾度も聞いた〈ガンダム〉という言葉が繋げられた。たったそれだけのことが奥底に眠るなにかを揺り動かし、自分の乗っているマシーンの肌触りを変えたように感じながらも、今この時にそんな話を持ち出すテテスの神経は理解できず、目前の核爆弾も、〈ターンAガンダム〉という言葉も、次第に現実株を失っていった。
(宇宙に進出した過去の歴史を、地球の人々は天の神々の物語にすることによって、または『黒歴史』に封印することで、再生の力を身につけたのです。悲惨で辛すぎる過去の記憶を、歴史そのものを書き換えることで忘れようとしたのです)
小さく流れるキエルの声が、唯一現実を感じさせるものだった。そう、だから人は、地球は、緩やかな時を紡いで再生することができた……とロランは反芻《はんすう》してみる。テテスが語る〈ターンA〉の来歴にしても、そうして改竄された歴史上の故事――単なるフィクションに過ぎない。
(それは、人という生体に宿る命の力が、文明と引き換えにしてでも生き続けようとした生命力が、させたことでありましょう。そのような歴史を踏んで再生を果たした今、互いの歴史を否定して争い続けることこそ愚かです)
でもテテスは……いや、あのハリー大尉も〈ガンダム〉という言葉を知っている。自分も、〈ターンAガンダム〉という名前に本能的なきな臭さを感じている。それは細胞の一片、血の一滴が内包している忘れられない記憶。忘れようとしても忘れられない記憶が、人にはある? 数千年の時を経てなお、人の中に入り込み、人の血を騒がせ続ける記憶が存在する? 永遠に消えない苦悶の皺《しわ》を刻んだ大地――おそらくは核の業火によって焼き尽くされ、それゆえに核兵器の埋葬地となった、このロスト・マウンテンのように……。
「そうだとしても……!」
いま再び、その禍々《まがまが》しい記憶を再現してどうなる。歴史の経緯に分断されただけの地球人とムーンレィスが、骨肉の争いを続けてどうなる。ロランは顔をあげ、この痂《かさぶた》を思わせる大地の底に眠っていた膿の塊――核弾頭を握る〈ムットゥー〉を見つめた。操る者の底深い情念を示し、煌々とひとつ目を輝かせる巨人は、かつてディアナが語った通り、生きているありがたさを知らない者が操る機械人形――魔神の傲慢さをたたえて、こちらを睥睨《へいげい》していた。
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(私たちは、この目も鼻も唇も同じです。この身体も、地球人、ムーンレィスの違いはありません。私たちは同じ人類なのです。
ですから、私はここで、ムーンレィスのための国家をサンベルト一帯に建設するのはやめます。そして再度、和平交渉を再開されますことを、アメリア大陸の人々にお願い申し上げます)
「キエルさんは、私以上に私の心を語ってくれている……」
ぽつりと呟いたディアナの声が奇妙に大きく響き、テテスはちらと背後を振り返った。
一心に無線パネルを見つめていたディアナもこちらを見返し、わずかに潤んだ青い瞳と目を合わせてしまったテテスは、意味もなくどぎまぎするのを感じた。「動くんじゃないよ」と取り繕《つくろ》ってから、モニターに憮然とした顔を戻した。
「さあ、早く〈ガンダム〉から降りな! あんたのお姫さんがどうなってもいいのかい!?」
ライフルを下に向けたまま、白ヒゲのモビルスーツは無言で立ち尽くしている。縮退炉を破壊せずに無力化する自信はあったが、限られた残弾を無駄遺いしたくなかったし、「白の宮殿」への手土産に傷をつけたくもなかった。なよっとしているようで、目には強い力を湛えていた女装姿の少年を思い出したテテスは、照準ディスプレイのレティクルを白ヒゲの頭部にセットした。
偉そうなヒゲの一本も抜いて、立場をわからせてやる。出力を絞ったビームガンの銃口を、ヒゲらしく見えるフェイスガードに向けた途端、(キエルお嬢さんの声、あなたにも聞こえてるんでしょう……!?)といった声が無線から流れて、テテスはトリガーボタンから指を離した。
(ぼくたちには争う理由なんてなにもないんです。この〈ガンダム〉が人類を滅ぼした悪魔だとしても、そんなことは今のぼくたちには関係ない話じゃないですか。過去の記憶にとらわれていたら……)
「その過去の記憶に、今も苦しめられてる人間がいるんだよ! 先祖の恥は、子々孫々まで引き継がれるもんさ」
ガキの相手をしても始まらないと思いながらも、テテスは叫び返していた。(そんなことないです!)の怒声がすぐに返ってきて、ますます神経が昂《たかぶ》るのを自覚した。
(人に区別なんかない。わかりあう努力をすれば、やり直すチャンスはいくらでもあるはずです)
「差別を経験したことのない幸せ者の幻想だね、それは!」
(このロスト・マウンテンに核兵器を埋葬した人たちだって、やり直そうと思ったからこそ……)
「それが幸せだって言うんだよ。もしそうなら、こんな物騒なもんは宇宙の彼方にでも捨てちまえばよかったはずだろ?」
無線ごしにも、少年が絶句する気配が伝わった。テテスは左マニピュレーターに掲げた核弾頭の束を突き出すようにした。
「こいつをここに埋めた連中は、いつかまたこれが使われる時代がくるって予測してたのさ。〈ガンダム〉が残っていたことだってそうだ。噂じゃ、その〈ガンダム〉は勝手に動き出したって言うじゃないか。平和を望む先人どもが、そんなものをわざわざ地球に残しておくかね?」
(それは……)
「人間は永遠に戦いを忘れられない生き物だって知ってたのさ、そいつらは。あたしも都合の悪いことはすぐに忘れるタチだがさ、なにもかもきれいさっぱり忘れられるほど、人間の脳味噌は便利にできてないんだよ……!」
前歯の欠けた薄汚い口と、蛮族と蔑《さげす》んだ警官の声。忘れられれば苦労はないと思い、テテスは怒りに任せてトリガーボタンを押した。放たれたビームの光弾が白ヒゲの頭部をかすめ、左側のヒゲを吹き飛ばしながら坑道の壁に突き刺さった。
よろけて膝をつきながらも、白ヒゲは赤い双眼を光らせて体勢を立て直し、不退転の決意を示すかのごとく胸をそらしてみせる。予測していたとはいえ、パイロットの強情をそのまま引き写した白ヒゲの挙動を見れば、テテスは苦笑するしかなくなっていた。「あんたがオカマじゃなくて、女王を守る一端の騎士だってことはよくわかったよ。わかったからさっさと消えちまいな!」
片方のヒゲを失い、かえって凄味を漂わせるようになった白ヒゲのモビルスーツは、微動だにせずに立ち尽くしている。必死に恐怖を堪えているだろう少年の姿を想像したテテスは、「面倒な坊やだ。……ねえ? ディアナ様」と背後を振り返った。
「ハリーといい、あの坊やといい……。たまには自分で戦ってみたらどうなんだい、ええ?」
背もたれを握りしめる細腕が小刻みに震えているのを見、笑いを消した目で続けたテテスは、返事を待たずにモニターに目を戻した。もう一方のヒゲを撃ち抜くべく、照準ディスプレイを操作しようとして、「……私は、ディアナ・ソレルである」と小さく呟いたディアナの声を聞いた。
影武者でないことを認めたというより、自分自身に確かめているような声音だった。もういちど振り向いたテテスは、明瞭な怒りを孕《はら》んだ青い瞳と、こちらに向かって繰り出されたフリル袖を同時に目に入れた。
顎《あご》の付け根に衝撃が走り、平衡感覚がなくなった一瞬、ディアナの体当たりがテテスを襲った。抗《あらが》う間もなくシートから滑り落ち、コンソールにしたたか後頭部を打ちつけたテテスは、「ロラン、聞こえますか!?」と叫んだディアナの声に、慌てて頭を振った。
「かまいません、私と一緒にこのモビルスーツのコクピットを焼きなさい!」
シートに収まり、白ヒゲを見つめる横顔に恐怖はなかった。そうしなければならない、という義務感がディアナの全身から立ち昇り、気圧されるものを感じたテテスは、「血迷ったか……!」と叫んでシルクに覆《おお》われた女王の二の腕をつかんだ。
シートにしがみつくかと思われたディアナは、自分からこちらに体を寄せると、すべての体重をかけてテテスを床面のモニターに押しつけようとした。胸に頭を押しつけ、「急いで! 今なら私が押さえて……」と言ったディアナに、「ふざけんじゃないっ!」と声を荒らげたテテスは、左手で長い金髪をつかみ上げた。
苦痛に顔を歪めたディアナがのけぞった隙に、肘を鳩尾《みぞおち》に滑り込ませる。力の失せた女王の体を一気に引きはがし、コンソールに叩きつけたテテスは、床に倒れたディアナと入れ替わりにシートに収まりつつ、懐の拳銃を抜き放った。
血の気をなくしたディアナの顔がこちらを見ると同時に、銃口を額に突きつける。予想外の行動力を見せた女王に畏怖に似た感情を覚え、「……ご立派だね。高貴な方の義務ってやつかい?」と精一杯の皮肉を言ったテテスは、「違います」と即座に返された声に、頬をぴくりと痙攣《けいれん》させた。
「私の無知があなたの怨念を育ててしまったのなら、受け止めるのが私の義務です」
一分の迷いも恐れもない、決然とした声だった。テテスは、銃口を支える手首が震えるのを自覚した。
「女王だから言うのではありません。地球で、ひとりの女として生きてみて、私はそれを学びました」
言いきったディアナの顔を見返して、テテスは怒るより呆れた。この自信はいったいなんなのか、こんな時に自分の心情を臆《おく》しもせずに語れる神経はなんなのかと疑い、ディアナ・ソレルだから、という答えを得て、考えもしなかった事実と直面させられた気分になった。「ひとりの女として……」とおうむ返しにしたテテスは、床にしゃがみ込みながらも、なお背筋をのばして自分と対そうとしているディアナの顔を、飽きることなく見つめた。
ひとりの女。自分と同じ、当たり前の女でしかない人が、月を統治する女王の役をやらされている。百年間の冷凍睡眠をくり返し、果てることのない義務を果たし続けている。それまで女王という記号でしか捉えられなかったディアナが、不意に肉体を持ち、人の生臭ささえ漂わせ始めて、テテスはどう捉えたらいいのかわからない自分に戸感った。
人間なら間違えもするし、恐怖も悲しみも感じる。女王であるがゆえに、それらの感情をすべて押し殺し、間違いのない人生を強いられてきたディアナは、自分と同じ、ただの被害者だったのではないか? そんな思いまでが渦を巻くようになり、自分の頭のいい加減さに呆れ果てたテテスは、ディアナから目を逸らした。胸の中で燻《くすぶ》る憎悪に息を吹き込もうと目を閉じ、果たせずに開いて、モニターに映し出された光景に息を呑んだ。
片方のヒゲを失い、半分焼け焦げた頭部に赤い目を光らせた白ヒゲが、オールビューモニターの前面すべてを覆い尽くして眼前にあった。磁気の滞留するロスト・マウンテンでは、接近警報も作動しないことを忘れていた。猪突する白ヒゲの右腕に、アイドリング状態のビームサーベルが握られているのを見たテテスは、咄嗟にビームガンを持っていない方のマニピュレーターを正面に掲げた。
腰を落とし、〈ムットゥー〉のスカートの下にもぐり込むようにした白ヒゲの腕が一閃すると、ビームサーベルから粒子束の刃が展張する。下からすくい上げ、〈ムットゥー〉の左手首を切断するはずだったビームサーベルは、テテスがマニピュレーターを動かしたために狙いが外れ、手首が握っているもの――核弾頭を切り裂いてしまっていた。
「しまった……!」
筒型のケースの蓋が瞬時に溶け、中からナノスキンの滓《かす》に包まれた核弾頭が二基、ごろりと転がり落ちる。その信管部分はビームサーベルの熱によってぐずぐずに溶解しており、岩盤に激突して開いたカバーからはソフトボール大の黒い球――プルトニウム239を収めたタンパーと起爆用火薬、点火パネルからなる圧縮方式《インプロージョン》の核爆弾本体――が、爆発装置の外郭ごしに鉛色の本体を覗かせてもいた。
核爆弾の構造はきわめて単純なもので、起爆用の通常火薬を爆発させ、内蔵する核物質の密度を高めてやれば、臨界量にまで圧縮された核物質が勝手に連鎖反応を起こしてくれる。無論、二重三重の安全措置が施されており、起爆用火薬の配列が少しでも狂えば反応しない構造になっていたが、数万度に達するビームサーベルの熱エネルギーにさらされ、膨脹したタンパーが徐々に核物質を臨界密度に押し上げている今は、関係のない話だった。
〈|RADIOACTIVITY《放射能》〉の文字がモニターに表示され、みるみる数値が上昇してゆく。〈|CAUTION《警告》〉の赤文字がその下で点滅するのを見ながら、テテスは己の迂闊《うかつ》さを呪った。「まったく、あたしとしたことがドジを踏んだもんさ……!」と罵《ののし》り、あと数分で始まるだろう核分裂反応――核爆発がもたらす惨禍を予想してみた。
二基の核弾頭が爆発した瞬間、このロスト・マウンテンの地下には、表面温度七千度に達する巨大な火球が発生する。放射される熱線は瞬時に白ヒゲと〈ムットゥー〉を溶かし、音速で吹き荒れる爆風波が坑道を満たして、数百トンに達する爆圧がロスト・マウンテンの地殻を吹き飛ばす。地表に出た衝撃波は他の核爆弾の誘爆によって勢いを増し、山を打ち崩して〈ソレイユ〉をも呑み込むかもしれない。船体は辛うじてもつだろうが、式典会場の参列客、展開中のミリシャ、ディアナ・カウンター両軍はともに壊滅。高度十数キロにまで成長したキノコ雲の下、まき散らされた放射能降下物が、数万年にわたって大地と空気を汚染し続ける……。
ディアナ・ソレルと、〈ガンダム〉のように見えるモビルスーツとともに、自分の体も爪の欠片ひとつ残さずに焼き尽くされる。己のミスの重さにひたすら圧倒されて、テテスはなにも考えられなくなった目をディアナに向けた。点滅する警告灯を頬に宿し、「……信管が作動したのですか?」と尋ねた女王に力のない笑みを返して、あと少しで消えてなくなる体をシートに沈み込ませた。
ディアナを巻き添えにできる、その事実に溜飲のひとつも下げられればと思ったが、同じ人間の目線で女王を捉えられる今は、もはや積年の恨みをぶつける気力もわかないのだった。あるいはそんなものは最初から存在せず、貧困や差別が生んだ無形の憎悪に、ディアナ・ソレルという形を当てはめていただけなのかもしれない。なんの疑念もなくディアナを敬い、目覚めの儀を指折り数えて待っていた母が、そうすることで日々の虚しさを埋め、自らも生活の中に埋没させてきたように……。
貧困から抜け出し、すべてを見返してやろうと決めたはずの自分が、運命を従容《しょうよう》と受け入れた母の生き方を裏からなぞっていた。遅すぎる理解を得て、テテスは笑った。忌ま忌ましい過去の記憶などどうでもよくなり、ひとりつっぱってきたこれまでを顧みて、腹の底からわき上がってくる可笑《おか》しさに身を浸した。もう数分もすればそれも終わる。これから行く場所には差別も貧困もなく、あるのは天国と地獄という明確な世界の区切りのみ。そう思い、立ち尽くすばかりの白ヒゲをモニターの向こうに見つめた時、横合いからのびた手がテテスをつき飛ばしていた。
力を抜いていた体は簡単にシートから滑り落ち、コンソールとシートの隙間に尻もちをつく羽目になった。「なにを……!?」と呻《うめ》き、立ち上がろうとしたテテスは、入れ替わりにシートに収まり、アームレイカーに両手をのせたディアナの横顔を見て、絶句した。
「あなたはロランと、〈ガンダム〉と一緒にお逃げなさい」
一瞬だけこちらを見てそう言うと、ディアナはパネルを操作して、マップメモリーの一覧をモニターに表示させた。〈LOST MOUNTAIN〉の項目を呼び出し、調査隊が作製した地下坑道の3D地図を指でなぞるようにして、「深い縦穴があるようです」と冷静に続けた。
「地下爆発なら、被害は最小限に食い止められます」と言ったディアナが、ここから百メートルほど進んだところにある天然の亀裂に赴き、核弾頭を捨てるつもりでいることは明らかだった。「早く!」ともういちど脱出を促した声に、思わず肩を震わせてしまったテテスは、〈ムットゥー〉のマニピュレーターを操作し、二基の弾頭を拾わせたディアナを呆然と見上げた。
なにひとつ言葉が浮かばず、とにかく腰を上げようとコンソールに手をついて、右の手のひらに数本の金髪が絡みついているのに気づいた。先刻、ディアナと争った時にむしり取っていたらしい。艶やかな光沢を放つ金色の毛は絹糸のように美しく、警告灯の明かりを頼りに顔に近づけたテテスは、不意に母親から聞いた昔話を思い出していた。
ディアナ様の金髪は、それはもう美しいもので、あたしたちのご先祖さまと一緒に地球に降下《おり》られた時には、地球の人たちは誰もが天女と勘違いしたもんだ。ご自分の髪を土に埋めたら、そこが一面のハーブ畑になったって話もある。地球の人たちはそのハーブにソレルって名前をつけて、今でも大事に育ててるらしいよ――。幼い頃、枕許でそんな話を語って聞かせてくれた母は、自分の赤毛が嫌でしょうがなかったテテスに、おまえの髪も十分にきれいだよと付け加えるのを忘れなかった。次にディアナ様が目覚められる時には、きっと町いちばんの美人になってるよ。最後に必ずそう言って話をしめくくる母が、毎年少しずつ貯金をして、テテスのために高価なドレスを買おうとしていると知ったのは、中学に入ってしばらくしてからのことだった。
目覚めの儀のお祭りに着てゆくドレス――それは、地に這いつくばって生きてこなければならなかった母が、報われない人生にたったひとつ添えようとした彩りだったのだろう。だが結局、テテスはそのドレスを着なかった。目覚めの儀の祭に出かけることさえなく、その日も平常通り工作員養成課程の訓練を受けた。貧困と差別を放置したディアナを祝福する気にはなれなかったから。女王を妄信し、訪れるはずのない救いを待ち続ける母に辟易《へきえき》していたから。汚れてしまった自分には、もうきれいなドレスを着る資格がないと思えたから……。
指にからむ長い金髪の感触を確かめ、テテスは目を伏せた。運命に流され、訪れるはずのない救いを待っていたのは母ではない、自分だ。そうわかった途端、胸のしこりがすっと溶けてなくなり、テテスは気負いのない目をディアナに向けた。
「……お姫さんが、冗談いうもんじゃないよ」
え? と反射的に振り向いたディアナを、シートから引きずり下ろすのは容易だった。代わりにアームレイカーを握ったテテスは、繋《つな》がったままの無線回線に「ロランとやら!」と呼びかけていた。
「あんたの姫さんを返す。マニピュレーターをこっちに近づけな!」
こちらを見た白ヒゲの目が、戸惑っているように見えるのが可笑しかった。「テテス・ハレ……」と呟いたディアナの声を背中にしつつ、テテスは「早くしな! 時間がないんだ」とくり返した。
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右マニピュレーターを差し出すと、〈ムットゥー〉の腹部にあるコクピット・ハッチがあっさり開き、シートに収まったテテスという女兵士の顔が正面に見えた。こちらもキャノピーを開いたロランは、ハッチから出てきたディアナが〈ターンA〉の指につかまり、手のひらに乗り移る光景を狐につままれた思いで見つめた。
くぐもった声のやりとりが無線ごしに聞こえてはいたものの、二人の間にどういう経緯があったのかは想像するしかない。切断された核弾頭の放射線濃度は次第に高まりつつあり、とにかく急いでここを離れなければと考えたロランは、テテスがディアナを解放した理由を詮索するのをやめた。手のひらに乗ったディアナが無傷であることを確かめ、マニピュレーターをこちらに引き寄せようとして、「待って!」と叫んだディアナに止められた。
「テテスさん、あなたも」
そう言い、〈ムットゥー〉のコクピットに手をのばしたディアナの声は、鳴りっぱなしの警告ブザーの中でもはっきり聞こえた。微かに頬を緩《ゆる》め、「……そういう無責任なやさしさは、罪のもとだよ。ディアナ・ソレル」と応じたテテスの声も、ロランには明瞭に聞き取れた。
なんだ、いったいどうなってるんだ? 目をしばたかせたロランは、「早く行きなっ!」と怒鳴ったテテスの声に、慌てて〈ターンA〉のマニピュレーターを動かした。手のひらをコクピットの前に近づけ、名残《なごり》惜しそうに背後を振り返るディアナを促して、こちらに乗り移れるよう手を貸した。
「……いいお姫さまには強いナイト。しっかり守ってやんなよ」
ディアナを膝の上にのせると、そんな声が〈ムットゥー〉のコクピットから届いた。ロランは顔をあげたが、その時にはコクピット・ハッチがしまり、テテスの姿は見えなくなっていた。穏やかな笑みを刻んだ、赤い唇の印象だけがロランの網膜《もうまく》に残された。
きれいな人だったんだ――。なんの抵抗もなくそう思えた時、それを別離の言葉と受け取ったかのように、〈ムットゥー〉は離れる足を踏み出した。核弾頭を片手に携え、奥に続く坑道に向かう〈ムットゥー〉の背中を見つめたロランは、上昇の止まらない放射線数値も視界に入れて、キャノピーを閉じた。とりあえずすべての思考を後回しにして、〈ターンA〉を出口に繋がる坑道に向かわせた。
エア・シートベルトのパワーを最大にセットして、スロットルペダルを踏み込む。スラスターベーンに押し出され、地面を蹴って猛然と坑道を進み始めた機体の振動を体感しながら、じりじりする思いで放射線数値のレベルを読んだ。
数値がどれだけ上昇すれば臨界に遠するのか、それはわからない。が、残された時間がわずかであることは間違いなかった。坑道内で核爆発に巻き込まれた場合、機体はどうなる? とてつもない衝撃波に見舞われるだろうが、エア・シートベルトはディアナと二人ぶんの体重を支えられるのか? 核の威力を実際に目の当りにしたことはなくても、全身の細胞をざわめかせる恐怖に駆られて、ロランはペダルを踏み続けた。肩に手を回し、しっかり体を密着させるディアナに照れる余裕さえなく、永遠に続くかと思われる坑道が途切れるのを待った。
(……本当……いい女王さまだったんだよね……。ママ……)
放射線の影響で、無線から発したその声はひどいノイズをまとっていたが、テテスの声であることは判別できた。肩をつかむディアナの手に力が加わり、「ママ……お母さん?」とロランが呟いた瞬間、それは始まった。
最初に発したのは、どんな爆発やライトでも再現できない、圧倒的な白い閃光だった。闇に包まれた坑道が一瞬に真昼の光で満たされ、即座に光量調節フィルターがキャノピーを覆ったものの、ロランは眩しさに目を閉じてしまった。
次に目を開けた時、溶けてゆく〈ターンA〉の足が底面のモニターごしに見え、ロランはぞっとなった。衝撃波とは異なる、熱波としか表現しようのないものが坑道を満たし、〈ターンA〉の機体をも取り込んでいるのだった。直線で構成された〈ターンA〉の踵《かかと》が飴細工のように形を崩し、手のひらの指もどろどろに溶けて、団子さながらにまるまってゆく。後部カメラが死んだのか、オールビューモニターの後ろ半分がブラックアウトし、残るモニターもノイズで埋められた。もはや機体を操作している感覚もなく、咄嗟にアームレイカーから手を離したロランは、胸に顔を押しつけるディアナを力いっぱい抱きしめていた。
「世界を滅ぼすほどの力を持つものなら、〈ガンダム〉! ディアナ様だけでも守ってみせろぉっ!」
荒れ狂う衝撃波の嵐が、その絶叫を呑み込んだ。坑道を打ち崩し、音の速さで達した爆風波は、〈ターンA〉の機体を文字通り弾き飛ばした。死んだはずのモニターに光が宿り、「∀」のマークが乱れ飛んだように見えたのは、幻か? 考える間もなく、ロランの意識は闇の底に引きずり込まれていった。
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「なんということをおっしゃるのです! これではミリシャの増長を招く一方です」
演壇を降りた途端、噛《か》みつくばかりの勢いで迫ってきたのは、やはりミラン・レックス執政官だった。サンベルト共和国設立の声明を出すはずが、一から和平交渉をやり直すと宣言してしまったのだから、執政官や将校たちが慌てるのも無理はない。抗議されるのが当然で、誰が最初にくるかぐらいに考えていたキエルは、「志の高さで守ってみせればよい」と女王らしく言い放って、ミランの脇をすり抜けようとした。
「それでは軍は動かせません! アグリッパと内通して、ディアナ様の暗殺を狙う者までが内部に現れたという時に……」
そのまま首脳陣が居並ぶ天幕《テント》に戻ろうとしたキエルに追いすがって、ミランが続ける。建国宣言の撤回は衝動的にしてしまったことで、自分自身、まだ心の整理がついているとは言えない。今はひとりになりたいと思ったキエルは、ミランの言葉尻を取って、「知っているような口ぶりに聞こえますね?」と言ってやった。
兵の中に暗殺者がいた以上、他にもアグリッパの息がかかった者がいると見て間違いないとはいえ、よもや実直を絵に描いたミランということはあるまい。キエルはでたらめを言ったつもりだったが、息を呑み、一歩退いたミランは、予想外の動揺をその灰色の瞳に覗かせていた。
まさか……と思い、キエルは天幕の中に控える執政官や将校たちに視線を移した。ある者は戸惑い、ある者はいかにも不愉快な顔をして、土壇場で建国を撤回した女王を見返している。この中の何人が味方で、何人が敵なのか。ディアナと取り違えられ、初めてディアナ・カウンターに紛れ込んでしまった時も、針の筵《むしろ》に座る苦痛を味わったものだが、いま周囲を取り巻いている空気はそれとは明らかに異なる。もっと粘着質で、もっとどす黒い恐怖。同族や身内だけが醸し出せる、腹の底に突き通る冷たい殺意……。
「素晴らしいお言葉、たしかに承りました。ディアナ・ソレル!」
朗々とした声が足もとに発して、不穏な想像を吹き散らすようにした。仮設された演壇の下、帽子を高々と掲げたグエン・サード・ラインフォードが、涼やかな笑みを浮かべてこちらを見上げていた。
ミリシャとの戦闘は終息したものの、会場は混乱冷めやらずといった雰囲気に包まれている。不完全な警備の隙をついて、グエンは参列客用の大天幕からひとり抜け出してきたのだろう。傍若無人が愛敬になる風貌と、思い立ったらじっとしていられない行動力。ボストニア城でにわか秘書をしていた頃の記憶がよみがえり、キエルはなにもかも捨てて駆け寄りたい衝動に駆られた。親衛隊の一団が殺到するのが見え、その者はよいと指示を出そうとしたが、懐かしさに詰まった喉はすぐには声を出すこともできなかった。
あっという間に親衛隊の黒い制服に取り囲まれ、グエンの顔が見えなくなる。大天幕の方に押し戻されながらも、グエンは笑顔を崩さず、帽子を振る手も止めようとはしなかった。
「交渉の窓口はいつでも開いております。私も、地球側の代表として……」
そこまで叫んで、グエンは不意に顔を横に向けた。それは親衛隊員たちも、キエル自身も同じだった。森林地帯の向こう、標高百メートルもない小さな山の稜線がくっきりと浮かび上がり、強烈な光を放ち始めたのだ。
星空がかき消え、透明な青空がみるみる広がってゆく。まるでシネマの早回しを見ているようだったが、ようやく夜の帳が降りきったばかりの時刻に、夜明けが始まる道理はない。どだい、山の向こう側に発した太陽の光はあまりにも強く、夜明けと呼ぶには一方的で硬質な感じさえして、キエルは本能的に目を閉じていた。
あの光を見てはいけない。そう教える本能に従って顔も伏せた刹那、地の底から這い上がる震動が演壇を揺らし始めた。
地震、という言葉を思いついたのは、演壇の後方に掲げられたディアナ・カウンターの軍旗が倒れ、派手な音をたてた時だった。どよめきが天幕を満たし、ごうごうと唸る地鳴りがそれに相乗する。状況を督促する幾人かの声が弾ける中、「まさか、あれが……!?」と呻いたミランの声が、はっきりキエルの耳朶に触れた。
この男は、なにが起こったのかを知っている? この数ヵ月で培われた女王の理性が頭をもたげ、キエルはディアナらしく督促しようと瞼を開きかけた。青白い光が網膜を刺激したと思った瞬間、割って入った親衛隊の黒い制服に抱きすくめられて、再び視界が闇に包まれていた。
「目をおかばいになって、早く艦内に」
ハリーの声が耳元に聞こえ、キエルはディアナとロランの無事を確かめる余裕もなく、「なんなのです……!?」と低く怒鳴った。キエルの顔を胸板に押し当てたまま、ハリーは「夜中に、夜明けをもたらすもの」と答えた。
「この地球は、まだ完全に旧世界の記憶を失ったわけではないようです」
天幕の奥に移動したところで、キエルはハリーの両腕から解放された。一礼し、無礼を詫びたハリーの肩ごしに、キエルは小刻みに揺れ続ける垂れ幕を見つめた。
青と白のストライプが映える垂れ幕の向こうで、夜中に夜明けをもたらす光が燦々と輝いていた。太陽の穏やかさなど微塵《みじん》もない、どこまでも寒々とした硬い光だった。
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第五章――正歴二三四五年・初冬――
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圧倒的な閃光《せんこう》と、全身の骨を粉々に打ち砕く衝撃。それらの記憶は薄皮一枚で現在の感覚と遮断《しゃだん》されていて、いま周囲を包んでいるのはいっさいの感覚を呑み込んだ白い闇、明るくもなければ暗くもない、真っ白な虚無だった。ロランの肉体はその中に沈み込み、覚醒しているのか眠っているのか、それさえも判然としない意識の虚空をたゆたっていた。
一瞬か、あるいは一日以上の時間が経った頃、白い闇にぼんやりと色がつき、聞き慣れた川のせせらぎが鼓膜《こまく》を震わせ始めた。ひどく緩慢《かんまん》に聞こえる水の音は、地球の川が奏でる音とは少し違う。月にいた時、毎日のように聞いた音。天井運河の流れる音だ。そうわかった途端、視界いっぱいに河面のきらめぎが広がり、頭上を覆《おお》うチューブの内壁に投射された人工の空、河岸にへばりついている運河管理ユニオンの赤|錆《さ》びた建物、ドックに並ぶ漁船や補修船の影が浮かび上がってきた。陸揚げされた魚の饐《す》えた臭いが鼻をつくと、市場から聞こえてくる喧噪《けんそう》が全身の毛穴を塞《ふさ》ぎ、おい坊主、と呼びかける太い声がロランの背中を打った。
ひとりでなにしてんだ。父ちゃんと母ちゃんはどうした。まくり上げた潜水服《スイムスーツ》の袖から、潮焼けした太い腕を覗かせる中年の男が言い、七歳のロランは、父はユニオンで働いています、と機械的に嘘をついていた。
母は市場で働いています。もうじき仕事が終わるから、ここで待っているように言われました。
子供がひとりで河岸にいるもんじゃない。間違って落っこちたら、そのまま「沖」まで流されちまうんだからな。
はい、気をつけます。
なんの用意もしないで「沖」に出たら、悪い病気にかかっちまうんだ。怖いことなんだぞ。待つなら市場の近くにするんだ。
はい、わかりました。ありがとうございます。
答えながら、七歳のロランは上面だけの受け答えをしているのが息苦しくなり、胸に抱え持った金魚のメリーに目を落とす。ブリキの表面に描かれた丸い瞳を見、粗末なリサイクル繊維のセーターを着ている自分を顧みて、嘘がバレるのではないか、施設の子供だと見抜かれるのではないかと怯《おび》えたが、言うことを言った男は、すぐに埠頭に横付けされた船の方に歩いていった。
もう自分のことなど眼中にない背中を見送り、安心と寂しさが内混ぜの複雑な気分を漂ったロランは、そろそろ光量の落ち始めた人工の空を見上げた。半メートルほど尻の位置をずらして多少の誠意を示し、潮気の立ちこめる岸壁に留まり続けた。
運河の水に塩分が含まれているのは、運河都市《トレンチ・シティ》建築のため、月面に落下させた資源小惑星――木星の衛星軌道から運ばれた――の含有する氷が、もともと海水に近い成分を有していたからだという。お陰で地球の海に似た生態系が構築され、ムーンレィスの貴重な食料庫として機能するようになったが、苔や貝類が河底に付着し、地下都市の採光窓としての役目に支障をきたすことにもなった。漁船に混じって複数の潜水艇が係留されているのはそのためで、船体に複数の可動式モップを備えた潜水艇は、月面を一周する長大な運河をたえず回航して、河底の掃除を行っているのだった。
総延長一万キロを超える運河は、二十パーセントがくり抜いた岩盤の下を通っており、残り八十パーセントは採光用の透明チューブに覆われて、月面上に直接露出している。漁港などの施設が集中する岩盤内部の運河に対し、月面上の運河は「沖」と呼ばれ、人や船舶の立ち入りは禁止されていたが、掃除用潜水艇だけは例外だとロランは知っていた。
あれに乗れば、このメイザム港を離れて「沖」に出ることができる。沿岸は放射線注意マークの描かれたエアロックで隔てられ、水上は浮標と防護ネットで什切られている「沖」。その河岸には選ばれた人の住む町があり、施設の子供たちの両親はそこにいるのだという噂は、ロランの中では真実として受け止められていた。
水平線に連なる浮標を越え、未知の大河に乗り出せたなら、両親に会うことができるだろう。施設で先生にぶたれたり、悪たれ小僧どもに持ち物を隠されたりせずに、絵本に出てくる子供のように幸福に暮らせるだろう。いきなり自分が会いに行ったら、両親は戸惑うだろうか。どだい、潜水艇への密航がバレたら警察に捕まってしまうから、そのへんは慎重に考えなければならない。うっかりメリーを河に落としてしまい、泳いで取りにいったら岸に戻れなくなった……という筋書きならどうか。仕方なく浮標に係留していた近くの潜水艇にあがったところ、機関室かどこかで眠りこけてしまい、動き出した潜水艇に運ばれて「沖」に出てしまった。これなら警察も納得するだろうか……。
子供なりに周到な計画を立て、まだ見ぬ世界への憧憬をかき立てる一方で、しかし、そんな町は存在しないのだと七歳のロランは知っていた。「沖」への立ち入りが禁止されているのは、チューブ内に直接差し込む太陽光線が有害だからだということも、両親がとうの昔に死んでいることも――いや、それさえも嘘で、自分は捨てられたのだという現実も、うっすら理解し始めていた。そして、それでもなお岸壁に日参している自分の行動については、ここでぼんやりするのが好きだからと曖昧な理屈をつけて、結局はなにもできないまま、門限がくるまでひたすら運河を眺め続ける毎日をくり返しているのだった。
現在に徹底的に絶望しているのでもなければ、未来に茫洋とした希望を抱いているのでもない。淡々と岸壁に通い詰め、脱出計画を練り続ける七歳の子供の横顔を前にして、ロランはそのあまりの無表情に当惑を覚えた。あの頃の自分はいったいなにを考えていたのか。慌てて記憶をまさぐったが、出てくるのはキースやハメット、フラン、ドナといった友人たちの顔や、複数の人の体臭が染みついたベッドのぶよぶよした感触ばかりで、ひとつひとつは明確でも、全体的に見ればとりとめのない印象の羅列でしかなかった。
『ムーンレィスは、きっと永遠を欲しがったのでしょう。人の一生はあまりにも短い。永遠を手に入れられると信じなければ、時の重みに押し潰されてしまったでしょうから……』
『こいつをここに埋めた連中は、いつかまたこれが使われる時代がくるって予測してたのさ。人間は永遠に戦いを忘れられない生き物だって……』
聞き覚えのある女たちの声が反響し、運河の水面を騒がせた。ロランはそれらの言葉の意味を思案し、切ないな……という感慨にたどり着いて、そう、あの頃の自分も単純に切なかったのだとようやく得心した。
切ないから、切なさを忘れようとしてありもしない希望にすがり、もっと切なくなる。そんなくり返しは、黄昏の時代を生きるすべての人が共有してきたものだと思い、そう思いつける自分に戸感ったロランは、メリーが七歳のロランの手を離れ、運河にこぼれ落ちてゆくのを見て、慌《あわ》てた。
油を引いた静けさの河面を、鮮やかな赤色が音もなく滑ってゆく。思い出の一片が永遠に失われてしまう恐怖に駆られて、ロランも記憶の河に飛び込んだ。月の緩慢な重力下を流れていたはずの河は、地球での質感を思い出したように唐突に流れを早め、いったん沈み込んだロランが顔を水面に出すと、そこはもう月ではなくなっていた。太陽の見えない薄曇りの空、澄んだ水の底に敷き詰められた砂利が交互に視界に入り、地球に降下《おり》た直後、ビシニティのレッドリバーで溺れた時の恐怖と混乱が、ロランの脳裏に再生された。
掻けば掻くほど水は重くなり、体にまとわりついて、水面に漂うメリーを次第に遠ざけてゆく。何度も水を飲み、苦しさに手足をばたつかせたロランは、あの時と同じ光景が目の端をよぎったのに気づいて、そちらに意識を集中した。すらりとのびた二組の素足が今度ははっきり見え、溺死の恐怖が急速に色|褪《あ》せてゆくと同時に、両手と両膝が砂利底についた。
素足の持ち主の一方が、細い指でメリーを搦め取り、ゆったりした動作で水面から掬《すく》いあげる。腰までのびた金髪ごしに、まだ張り切らない少女の乳房が覗き、ロランは生唾をひとつ飲み下しながら立ち上がった。
腰まで水面に沈めた裸身が波紋もたてずに移動し、もうひとりの少女に寄り添うようにすると、二組の水色の瞳がこちらを見返す。ディアナとキエル、キエルとディアナ、どちらでもよかった。内からわき起こる喜びが体を震えさせ、ロランは夢中で走り寄ろうとしたが、その途端、ごつごつした河底に足を取られて、もういちど水中に頭を浸ける羽目になった。
手のひらが底についたが、予想された砂利の感触はなく、滑らかで冷たい金属の手応えが神経に突き通った。河底に埋め込まれた二つの目がぎらりと輝き、ぎょっと立ち上がったロランは、〈ターンA〉の顔の上に立っていた自分を知って、絶句した。
ヒゲに見えるフェイスガードを左右に広げ、双眸《そうぼう》を爛々と赤く輝かせた〈ターンA〉の顔が、透明な水の底で揺らめいている。額には「∀」の刻印が浮かび上がっており、穏やかな緑色の光に縁取られたそれは、暴力衝動の塊と見える赤い目の色よりはるかに強く、ロランの網膜に焼きついていった。
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――∀……ソレハ、ゲンテンヘノカイキ。
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ディアナか、キエルかもしれない少女の声が響く。声というより、頭蓋《ずがい》の中に直接響く信号のようだと思ったロランは、もう沐浴《もくよく》を覗き見している無礼を感じることなく、白い裸身に目を戻した。
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――反転シタA……∀<n、A<gイウ文字ガ象徴スル意味性ヲ含有シなガら、まっタく異ナる形と名にヨッテ表現される。ゆエニそれは、原点ヘノ回帰と、新タな時の開闢《かいびゃく》を同時に示す言葉とシテ語られる。螺旋《らせん》状に連なる時の輪を跳躍《リープ》し、次なる時代に移行するために……。
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神経回路に流入してくるそれらの言葉には、ロランの脳髄の処理能力を探り、入力速度を随時調整しているようなぎこちなさがあった。未知のなにかと繋《つな》がっている感覚にロランはおののいたが、存在そのものの重さをもってのしかかる言葉が、耳を覆《おお》ったぐらいで聞こえなくなるものではなかった。
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――Vという文字に、ドットエラーが付いているだけなのかもしれないでしょう? そのものの造られた時代性を知らずに、記号だけで隠喩《いんゆ》を成立させてしまうのも人の知性の賢しさです。
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キエルか、ディアナかもしれない少女が反駁《はんばく》する。存在の重さはなく、キエルの肌合いを感じさせる声になっていたことが、ロランを多少安心させた。
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――でも私は、これを造った人が時代の揺り戻しを想像して刻印したのだと信じたい。そうでなければ、『花咲爺』の説話をファイルに残すようなこともなかったはずですから……。
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ディアナの大らかさで答えたもうひとりの少女は、それを合図にしてメリーを水面に浮かべ、ロランの方に押し出すようにした。受け取ろうと前に出たロランは、次の瞬間には踏みしめるべき足場を失い、その場で一回転していた。
河の水がかき消え、〈ターンA〉の顔も消失して、虚空を漂うメリーだけが見えるもののすべてになる。手をのばしてどうにかメリーをつかみ、ロランはディアナとキエルの姿を探したが、白い闇に溶け込んでしまったのか、二人の裸身を見つけることはできなかった。ただどこかで見守られている安心感が体表を包んでおり、その温もりに身を任すと、周囲の空間が流れ出す気配が知覚された。
自分が移動しているのか、あるいは白い闇の方が動いているのか。落下と上昇の区別さえつかないまま、ロランは己を取り巻く加速感に全身を委《ゆだ》ねた。
すべての物質が存在の殼を脱ぎ捨て、同じ根から発したものだという主張だけをして、血と知からなるロランの存在もその中に溶けてゆく。分子、原子、それ以下のレベルにまで。乱舞する光が脳髄を刺激し、春のときめきを運ぶ風や、稲妻を孕んだ真夏の積乱雲を見せたかと思うと、秋雨の寂しさ、舞い散る雪片の肌を切る冷たさにもなって、神経の系という系に積み重ねられた時の重みを伝える。未知のなにかが見、感じてきたことのすべて。そのものの記憶の源流を、ぼくはいま遡っている。そう理解できた時、はっきり視覚に認識できる光景がロランの眼前に広がった。
二本の幹が絡まりあい、はるかな天にまで枝葉をのばしている巨大な樹。地平線を縁取った山々の彼方に聳《そび》える、天と地を繋ぐ大樹の荘厳な光景だった。始まりの樹≠ニ教える声が弾けたが、それがディアナとキエルの形を借りた存在の声なのか、自分自身の血が含有していた記憶の声なのかは、ロランには判断がつかなかった。
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スクリーン・パネルの向こうには、青く透き通った昼下がりの空と、がさがさに乾ききり、黒灰色の地肌をさらすだけになっている大地とが、彼方の地平線を境にくっきり分かたれている光景があった。
地面を錯綜《さくそう》する無数の亀裂は、すり鉢状に抉《えぐ》られた陥没地帯を中心に巨大な蜘蛛の巣を描き出し、誰かが並べたような鰯雲がその上にぽっかりと浮かぶ。いっさいの水分、有機物を失っているという意味では、砂漠以上に絶望的な状態に置かれたロスト・マウンテンを見下ろし、鳥の一羽も飛んでいない青空に目を戻したキエルは、不謹慎を承知の上で、破壊もここまでくれば一種の芸術だな、という感想をまずは紡《つむ》いだ。
六千度に達する熱線がすべてを焼き尽くし、空気中の細菌から土中の微生物に至るまでが死滅した空間。生が存在しなければ、死という表現もまたあり得ない大地にあるのは、厳粛なまでの静謐《せいひつ》、虚無を飛び越えた先にある清浄さだ。あれから二日、領土構築に代わる今後の指針の策定に忙殺され、厳戒態勢の艦内で神経をすり減らす時間を過ごしてきたキエルには、その静粛な空気がひどく貴重なものに感じられた。
「爆発は、深度八百メートルの縦孔の途中で起こったようです。原因は不明ですが、地下爆発で済んだのは不幸中の幸いと言っていいでしょう」
隣に立つハリーが、眼下の爆心地を見下ろしつつ言う。カメに似た母船の形状を踏襲していることから、コガメとも俗称されるこの〈ソレイユ〉内火艇のブリッジには、他には三人の操舵要員の姿しかない。ドッキングすれば〈ソレイユ〉の艦首部分になり、モビルスーツも何機か搭載できるコガメは、本来もっと大人数で運用されるべき中型の戦闘艇だ。爆心地の視察に赴《おもむ》くディアナの足を務めるとなれば、護衛も含めて二十人以上の人員が配置されるはずだったが、当の女王が最少限の配置を望めば話は別だった。
ミランたちの反対を押し切ってまでそうしたのは、張り詰めた艦内の空気を持ち込みたくなかったからだが、それは理由の一部でしかない。ディアナ・カウンターが直面している問題とは別に、身近にはっきりさせなければならない問題がキエルにはある。視線を合わそうとしないハリーの横顔を見、問題を共有する者のぎこちなさを感じ取ったキエルは、「しかし、放射能はまき散らされた」と硬い声で応じた。
「先人たちが行った地球再生計画《リテラフォーミング》。その二千年の成果が、少なくともこのロスト・マウンテンでは水泡に帰したのです。調査隊が発掘を行っていながら、核兵器の存在に気づかなかったという話は信じられませんが?」
「発見の事実が隠蔽されていた可能性はあります。親衛隊が調査を進めております」
二百メートル下の地表を見つめたまま、ハリーは無表情を装った声で言った。「アグリッパ一派か?」と確かめたキエルに、「おそらく……」と返した時も、赤いサングラスはこちらを見ようとはしなかった。
「この地球には、他にも同様の大規模破壊兵器が埋蔵されているものと考えられます。対策は急ぐ必要がありましょう。発掘品を隠匿《いんとく》し、なお刺客を送り込める立場にいる者となれば、自ずと限られてきますから」
ハリーの言いようは、一直線にフィル・アッカマン少佐の犯行を示唆《しさ》していた。軍の実務を統括する首席参謀にして、武力解決派の最右翼である男。暗殺の実行犯――テテス・ハレと愛人関係を結んでいたという話まで聞けば、彼がアグリッパ・メンテナーの黒子を務めていると見て間違いないように思えた。「証拠が固まり次第、更迭などの措置は取りましょう」と答えて、キエルはひび割れた大地に目を戻した。
不毛の一語で言い尽くせる風景であっても、柔和な陽光はあくまでも温かく、冬の気配を忍ばせた空気もぴんと透き通っている。散歩にでも出かけたいと思わせる長閑《のどか》な昼下がりだったが、一歩外に出れば、放射能という不可視の毒がたちまち全身を冒し、細胞を破壊するのだという。髪が抜け落ち、歯ぐきから流れ出す血が止まらなくなって、最後には死に至るのだという。事前に検索したデータを思い起こしたキエルは、「プルトニウムの毒性が消滅するまでには、永い時間がかかると聞いていますが……」と、実感がわかないまま言ってみた。
「放射能を除去、中和するナノマシンを大量に散布したとして、二千年以上。なにもしなければ、プルトニウム239が半減期を迎えるまで二万五千年かかります」
「二万……」
圧倒的な数字だった。そのような兵器を造り、戦争に使用していた旧世界の人々の頭の中身はどうなっているのか。キエルには見当もつかず、ただただ呆れ果てるしかなかった。
「風上に位置していた〈ソレイユ〉は、山が防壁になってくれたこともあって直接の被爆を免れましたが……。爆心地から百キロ圏内の土地には、今後なんらかの影響が出るとみて間違いないでしょう。急性白血病や甲状腺癌。遺伝子への干渉で、子孫にも長期の影響が出る可能性も……」
最後まで聞くに耐えず、キエルは「対策は進んでいるのでしょうね?」とハリーを遮《さえぎ》った。
「百キロ圏内に存在する三つの村と、いくつかの集落には避難勧告を出しております。中和剤の支給も行っておりますが、住民が診療を拒んでいるのは以前ご報告した通りです」
一方的に土地を占有したディアナ・カウンターが、現地住民にとっては魔法の道具としか見えない医療機器を使い、病気の予防をすると言っても信用される道理がなかった。和平交渉の進展は望めそうもないとわかって、キエルはひっそり嘆息した。
「月のクレーターを思い出しますが……。青い空の下で見るのは嫌なものです」
直径一キロを超えるすり鉢状の陥没を凝視して、ハリーが呟いていた。さりげない言葉の端々に月の情報をおり混ぜ、ディアナとして持っているべき知識を暗に伝える。思えばディアナ・カウンターに来た当初から、ハリーはそうやってキエルに助け船を出していたのだった。確信犯であったことが露呈したにもかかわらず、いつもの態度を崩そうとしないハリーにいら立ったキエルは、もう一度その横顔を窺った。押し殺した感情の起伏が、より以上の無表情になって表れているのを確認してから、「キエル・ハイムを乗せたモビルスーツが、爆心地付近にいたという話ですが。まだ確認は取れないのですか?」と、意地悪く尋ねた。
人質にされたディアナを追い、ロスト・マウンテンに飛び込んでいった白ヒゲ≠フ消息は、ディアナとロランともども途絶えている。「……残念ながら」と応じたハリーの横顔がはっきり曇り、暗い感情が頭をもたげるのを自覚したキエルは、それを払拭《ふっしょく》するべく、「ハリー大尉」と大きめの声で呼びかけた。
「もっと近くで見学したい。貴官のモビルスーツに私を乗せてください」
反射的に直立不動になった後、ハリーは「危険です」の返答を即座に寄越した。「〈スモー〉の化学・生物・放射能対策は、万全と聞いております」と押しかぶせて、キエルは予想通りの反応を示したハリーを退けた。
「命令です。私を乗せて、ロスト・マウンテンを低空で飛びなさい」
敵と味方が判然としない今、それぞれが胸のうちに秘めている問題をさらけ出して、今後の対応を話し合う必要がある。キエルがわざわざ小人数で爆心地の視察に赴いたのは、そのチャンスを作るためであることには、ハリーも気づいているはずだった。
〈ソレイユ〉艦内では誰に聞かれるかわからないが、モビルスーツのコクピットなら完全な密室になり得る。二人だけで話すべきことがあるでしょう、と目で訴えたキェルに、惚《とぼ》けるのも限界とわかったらしいハリーは、「……は」と、ややこもった返事を返した。いら立ちの炎を消火できないまま、キエルはブリッジを後にした。
十分後、ハリーとキエルを乗せた金色の〈スモー〉は、ロスト・マウンテン上空を旋回するコガメを後にした。いつかそうしたように補助椅子に腰を下ろし、運転席のハリーを見上げたキエルは、陥没地帯の斜面がモニターいっぱいに迫った頃、「いつから気づいていたのです?」と切り出した。
「……確信したのは、ウィル・ゲイムの一件があって以来です」
少しの沈黙の後、モニターに据えた視線を動かさないハリーの横顔が答えた。予測はしていても、いざ正面から告白されれば動揺を抑えることができず、平静を維持するためにこちらも沈黙の時間を漂ったキエルは、「……なぜ?」とこもった声で尋ねた。
「わたしは、ディアナ様の理想に殉じると決めた男です」
即座に返ってきた答えは、用意していたものではなく、常に胸中を支配している真実の思いなのだろう。喉元までこみ上げた敗北感を呑み下して、キエルは細かな光の粒を散らした爆心地を見つめた。高熱で焼かれた岩と砂が溶け、ガラスに結晶した光だった。
「帰還作戦の成功と、地球人とムーンレィスの融和をなすためには、ディアナ・ソレルという存在が不可欠です。そうであれば……」
「ディアナの名を使える者がいれば、それが誰であってもかまわなかった、と?」
重要なのはディアナという人間ではなく、彼女が体現する理念そのもの。後を引き取ったキエルに、「組織とはそういうものです」と応えて、ハリーは初めてこちらを振り返った。
「それに……アグリッパ一派が、ディアナ様の追放を策動する気配があれば、このほうがディアナ様のお命を守ることに繋がるとも考えました」
すぐに視線を逸らすと、ハリーは微かに口もとを歪めながら続けた。ようは体のいい影武者にされていたのだとわかったが、キエルはなぜか怒る気にはなれなかった。
道具に使っていたと率直に認め、それが組織だと臆面もなく言いきる男を前にして、感じることができたのは不快感ではなく、可笑しさを含んだ一種の心地好さなのだった。「ひどい男と罵《ののし》ってくださって結構です」と付け加えられた言葉に、この数ヵ月のひとり相撲を自嘲したキエルは、「……いいえ。真面目なのでしょう」と言って、ほんの少しだけ頬を緩めた。「ディアナ様にもそう言われました」と返したハリーの横顔にも、苦笑らしき表情が浮かんだ。
「しかし……。あの時、自分は咄嗟《とっさ》にディアナ様の方をおかばいした。あれは自分の本性の部分がやってしまったことです」
苦笑を消したハリーが続けて、キエルも緩めた頬を引き締めた。テテスの銃口に狙われた時、まっすぐディアナのもとに飛び込んでいったハリーの姿が脳裏によみがえり、補助椅子の支持金具を我知らず握りしめていた。
「あなたがディアナ様以上にディアナを演じているなら、女王の姿をしているあなたの方を助けるべきだった。それができなかった自分は、迂闊《うかつ》な男です。優秀な軍人ではなかったという証明をしたに過ぎません。お許しください」
なんてことを言うのだろう。あまりにも愚直《ぐちょく》なハリーの述懐に、微かにあった心地好さは霧散し、キエルは怒る以前に呆然となった。
これまでの不実を謝罪し、精一杯の誠意を示そうとした言葉であっても、そんなものはハリーの独善でしかないと思う。組織のため、理念のためと言いながら、結局はディアナへの思慕が先に立つ。わざわざ余計な言葉を継ぎ足して自分をふり、屈辱の上塗りをした無神経がすぐには信じられず、絶句した一瞬の後、私はここでなにをしているんだろう、という思いがキエルの胸を支配した。
もうこんな場所には一秒だっていたくない。今すぐ家に、ビシニティに帰りたい。このところ忘れかけていた衝動が頭から爪先までを駆け抜け、つまり自分は、ハリーがいたからディアナ・カウンターに居続けたのだと再認識もしたが、それを恥じる余裕もなかった。どうしたら帰れるだろう、どうしたらもとの自分に戻ることができるだろう。必死に考え、放射能が充満する荒野に目を走らせたキエルは、ディアナの生死が不明であるという致命的な現実に行き当たって、絶望した。
ディアナ・ソレルが核の炎に焼かれたのなら、自分はもうキエル・ハイムには戻れない。ディアナ・カウンターを暴走させないためには、このまま女王を演じ続けるしかない――。急激に目の前が暗くなり、キエルは虚ろな目を焼け爛《ただ》れた大地に落とした。補助椅子の上で尻の位置をずらし、ハリーからなるたけ体を離すようにして、逃げ場のない息苦しさを紛らわすしかなかった。
爆心地を一周し、形ばかりの視察飛行を終えた〈スモー〉は、それから十五分後には帰路についた。すでに交わされる会話はなく、定間隔に聞こえる電子音と、エンジンの微かな振動音だけが狭いコクピットを満たしていた。
「妙だな……」
コガメとの会合空域に差しかかった頃、ハリーがぽつりと呟《つぶや》くのを聞いたキエルは、下に向けていた顔をあげた。上空で旋回待機しているはずのコガメが、十キロほど離れた地表に着陸しているのが見えた。
五機の〈ウォドム〉タイプがその周囲に佇み、流線型の船体を持つコガメを取り囲むようにしている。付近を流していたパトロール部隊と出会ったにしては、五機という数は異常だったし、コガメがわざわざ着陸する理由も見当たらない。「CTブリッジ、こちらはハリー大尉だ。状況を知らせ」と無線に呼びかける声を傍らに聞きながら、キエルはなにかしらきな臭いものを感じた。
〈ウォドム〉は頭部の対艦ビーム砲の砲門を開いており、その足もとに数機群がっている〈ワッド〉タイプも、身長に倍する大きさの長距離ビーム砲を構えている。危険の二文字が頭の中で点滅し、このまま直進するのはまずい、とハリーに呼びかけようとした時。まったく別の方向から発した閃光がモニターを埋め、コクピットを激震させた。
大量の小石をトタンにぶつけたような音が、直後に続く。擦過《さっか》したビームの残粒子が、機体を覆《おお》うIフィールドに干渉して弾ける音。上下左右の感覚を失いながらも、機体が急速に高度を取るのが感じられ、「なんの真似だ!?」と怒鳴るハリーの声も聞き取ったキエルは、味方に狙撃されたらしいという推測を導き出してから、閉じていた目を開けた。地表のあちこちに咲いたピンク色の光が、火線の尾を引いて一斉に殺到してくるのが見え、思わず両手を顔の前にかざしていた。
暴力の塊といった光と音が間近をかすめ、素人目にも尋常ではないとわかるハリーの操縦が、紙一枚の差でそれらを回避する。遠く離れていた地表がみるみるモニターに近づき、こちらも反撃を開始したのか、火線の飛来方向に飛んでいった光弾が、隆起した岩盤をかすめて土煙を吹き上げる。補助椅子の手すりをぎゅっと握りしめ、目玉が飛び出しそうな激しい機動に耐えたキエルは、(ハリー・オード大尉)と呼びかける声を無線回線の向こうに聞いた。
(ディアナ様の拉致《らち》、及びミリシャへの亡命を企てた現行犯だ。この場で処刑する)
嘲笑の皮をかぶった声がそう続け、キエルは息を呑んだ。地盤沈下によって生じた十数メートルの段差に機体を寄せ、とりあえず火線から逃れたハリーの顔も、血の気を失っているように見えた。
少なくとも十機以上は伏せている射手、強制的に着陸させられたのだろうコガメ。周囲を取り巻く状況を納得し、自分が視察に赴くと言った瞬間から、すっかりできあがっていたのに違いないお膳立てを悟ったキエルは、顔を見合わせたハリーともども、事態を理解した。
フィルは、先手を打ってきたのだ。「フィル、貴様……!」と搾り出したハリーに、その可能性を完全に失念していた己を重ねたキエルは、舌打ちしたい衝動を辛うじて抑えた。
「ディアナ様を亡き者にして、全軍の将兵にどう言い繕《つくろ》うつもりだ。貴様にディアナ・カウンターを統括できると思うのか!?」
(先日の核爆発は、貴様も見たはずだ)
フィルの応答に迷いはなかった。虚飾の皮を剥ぎ取り、捨て身の反撃に打って出た男が、それまでの鬱憤《うっぷん》を一時に叩きつけてくる声音と口調だった。
(ああしたものが、この地球には大量に埋まっている。にもかかわらず、タブーに縛られた我々にはそれが使えない。蛮族どもが核武装した時、和平を重んじておられる女王はどうするつもりなのであろうな?)
ぐっと声を詰まらせたのは、ハリーも同じだった。(ディアナ・ソレルの弱腰には、すべての将兵がうんざりしているのだよ……!)と続けられた声に、冷え冷えとした鬱憤の塊を感じ取ったキエルは、必死に律してきたものが砕けてゆくのを自覚した。
(これまで無駄死にさせられてきた兵たちの供養だ。死に華を咲かせて、せめて士気の昂揚に役立っていただく)
フィルの最後通牒だった。理性が地の底に沈み込む直前、ぎりぎり踏み留まったキエルは、「フィル少佐! あなたは人類の原罪に触れようとしています」と出せる限りの声で叫んだ。
「武力で地球を制圧した者が、どのような政権を作るつもりでいるのです」
(我々が地球に住むのは当然の権利。阻《はば》むものは徹底的に排除して、地球人を使役します)
「それでは、いま以上に無駄な血が流れます!」
(ここで議論をするつもりはありません。表舞台から退くと約束するなら、命の保証はいたしましょう)
そこで言葉を切ったフィルは、こちらに考える時間を十分に与えてから、(あくまでも抵抗するなら、ハリー大尉ともども……)と重ねたが、その声が最後まで伝わることはなかった。ハリーが無線を切ったのだった。ひどく無表情な顔で一点を見据え、しばらく沈黙したハリーは、やがて「……キエル・ハイム」と静かな声で呼びかけた。
「今さら言えたことではないが、わたしを信用してもらえますか?」
気負いのない、やさしい声だった。見下ろした赤いサングラスに自分の顔を写し、自問の時間を漂ったキエルは、沈黙をイエスと受け取ったのか、再び無線のスイッチを入れたハリーが「了解した。ディアナ様を降ろす」と言ったのを、他人事の面持ちで聞いた。
(結構。ではその場で降着姿勢を取り、Iフィールドを切れ。迎えを寄越す)
「ふざけるな! 放射能の充満する中にディアナ様を降ろせというのか。わたしがそちらに向かう」
ハリーの怒声がコクピットを揺るがせ、キエルは思わず体を震えさせた。(……いいだろう)という声が、少しの間を置いて無線から流れた。
(全機に照準されているのだということを忘れるな。不審な行動を少しでも取れば撃墜する)
最後まで聞かずに無線を切ったハリーは、ビームガンを腰のアタッチメントに戻してから、〈スモー〉を離陸させた。盾にしていた段差の斜面が眼下に流れ去り、それぞれビームの砲口をこちらに向けた〈ウォドム〉たちの姿が、モニター上に露《あらわ》になる。筒先の暗い穴に確実な死を連想し、全身をこわ張らせたキエルは、「|衝撃吸収装置《ショック・アブソーバー》がもたないかもしれません」と、対照的に落ち着いた声で言ったハリーの横顔を仰ぎ見た。
「アームに挟まれないよう気をつけて、手足を踏んばっていてください」
神経のほとんどを外界に向けているらしいハリーは、それだけ伝えるのがやっとの様子で、こちらを振り返ろうともしなかった。今はハリーを信じるしかないと思い、言われた通りにしたキエルは、不意にどうしようもなく惨《みじ》めな気分に襲われた。
コガメを包囲する機械人形との距離が詰まると、先頭に布陣していた〈ウォドム〉が、三機の〈ワッド〉を引き連れてこちらに近づき始めた。ディアナの身柄を引き取りにきたのだろう。相対距離が三百メートルを切ったところで〈スモー〉を着陸させ、残りの道程を歩行で進んだハリーは、そこまで、というように片腕を突き出した〈ウォドム〉に従い、機を停止させた。無線のスイッチを入れ、武装解除のために接近してくる〈ワッド〉を見据えて、大きく息を吸い込む素振りをみせた。
フッとひと息に吐き出されたのは、ただの息ではなく、気合いとしか表現しようのないなにかだった。ひやりとした殺気がコクピットに充満した刹那、電撃的に動いたハリーの手足が、〈スモー〉に腰のビームガンを引き抜かせていた。
銃口が正面の〈ウォドム〉を横切った一瞬に、光の筋が撃ち出される。それはまっすぐ〈ウォドム〉の首の付け根、全体に比べればアンバランスに小さい胸を直撃し、爆発的な閃光を咲かせていった。
瞬時に広がった衝撃波が、焼け焦げたロスト・マウンテンの大地をさらに抉《えぐ》り、〈ウォドム〉が巨大な光球と化す。吹き飛ばされた〈ワッド〉の手足が引きちぎれるのを見た後、体の芯まで突き通る震動と轟音に包まれたキエルは、手足を踏んばり、補助椅子から振り落とされないようにするので精一杯になった。
フィルターでは抑えきれない凄まじい閃光がモニターを染め、吹き上がる粘ついた土砂がそれを隠した。ただの爆発ではない、圧倒的な衝撃と光は、故意にモビルスーツのエンジンを直撃した結果だろう。もはや天地の区別もつかない闇の中、(ハリーめ……!)と罵《ののし》るフィルの声が遠くに弾ける。気を抜けば舌を噛んでしまいそうな激震に耐え、きつく目を閉じたキエルは、涙が瞼《まぶた》を押し開けてこぼれ落ちるのを止めることができなかった。
胸に食い込んだシートベルトが苦しかったからでも、いちかばちかのチャンスに賭けたハリーに感動したからでもない。無神経な言葉で自分をふった男に命を預け、心中も覚悟しなければならない。その悔しさ、情けなさが流させた涙だった。
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雲海を割り、はるかな天上に枝を這《は》わす巨大な樹は、目に見えているのではなかった。先刻から聞こえてくる声がそうであるように、脳髄に直接送り込まれた情報が映像という表現手段を取り、視覚野に働きかけているのに過ぎない。その証拠に、一万メートル先にあるものが見えるにもかかわらず、ロランは自分の手足を見ることができずにいた。
ただひとつ、両手に握りしめたメリーの感触だけが、確かな皮膚感と現実感を与えてくれる。丸い目玉の膨《ふく》らみを親指で探り、鱗《うろこ》を象《かたど》ったでこぼこを確かめたロランは、尻尾の付け根のあたりに覚えのないへこみがあることに気づいた。いつへこんでしまったんだろうと考え、コクピットに座っている時かもしれないと思いついたロランは、ふと泣き出したい思いに駆られた。
〈ターンA〉に乗る時は、首からぶら下げたメリーを背中の方に回すようにしているから、シートのアタッチメントに押しつけてしまったのかもしれない。顔も知らない両親の唯一の存在の証、幼児期から現在に至るまでの記憶を支える思い出の結晶。かけがえのないメリーを、自らの行為によって傷つけてしまったとわかり、たとえ直せたとしても、それはもう元通りのメリーではあり得ないとも悟って、ロランは泣いた。
日々少しずつ失われていったもの、目の前の仕事に没頭し、向き合うのを避けてきた喪失感が一時にのしかかってきて、その重さに身悶えした。いっそメリーを捨ててしまえば楽になれるかとも思ったが、そこまでの勇気は持てず、傷ついた記憶を胸に抱えて泣き続けた。
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――そのように捨て去れないものがあるから、人は幾度でも時代の揺り戻しを経験するのでしょう。
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ディアナか、キエルかもしれない声がそう語りかけ、ロランは、時代の揺り戻し? と聞き返した。
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――そうでなければ、正歴が西暦をなぞることはなかったでしょう? 間に宇宙世紀という闇の時代を挟みながら、地球の人々は今、西暦と呼ばれた時代をくり返しつつあります。
――地球人もムーンレィスも、それをごく自然に受け入れています。人の暮らしはこのようなものだ、と。
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過去を葬《ほうむ》ったはずなのに、同じ歴史をくり返している……? ロランの意識の片隅に生じた反発が頭蓋《ずがい》をつき抜け、ディアナとキエルの肌合いに包まれた虚空に波紋を投げかける。
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――生命体が記憶したことは、どのような形であれ完全に忘れ去ることはできません。だから地球の人は、過去の悲惨な歴史を『黒歴史』という伝承文学にして残したのです。
――〈ターンAガンダム〉を、宇宙大戦の権化《ごんげ》と敵視するムーンレィスがいるのも、当時の記憶が遺伝子の中に蓄積されているからなのかもしれません。
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ぼくがメリーを捨てられないのと同じように、忘れられない物事が人にはある……。大樹の前で像を結んだ〈ターンA〉のイメージを知覚しながら、ロランは自問してみる。
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――そう。でも、人は悲惨すぎる過去を背負ったまま、新しい時代を開くことはできなかった。だから一生懸命、忘れようとしたのです。そして原点に戻り、この星の傷が癒《い》えるまで静かに時を紡いできました。
――それが時代の揺り戻し……。螺旋《らせん》状に輪廻《りんね》の階段を昇ってゆく、世界のありようなのでしょうから。
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それでは同じことのくり返しで、いつまで経っても進歩がないのではないか? ディアナか、キエルかもしれない声たちの断定に近い言葉に、ロランは再び微かな反発を感じる。旧世界の知恵の結晶が地球の治癒《ちゆ》を促した、その事実を思い起こして、反論の思惟を虚空へと飛ばした。
ナノマシンのようなものまで使って、人はこの星を復活させることだってできた。なのに、また戻らなければならないんですか?
[#ここから太字]
――まっすぐ進み続けた時の果てには、きっと無意味な増殖と絶対的な虚無しかないのです。
――死があるから、生をまっとうできる。それを重ねて、私たちは生きてゆくべきなのでしょう。
[#ここで太字終わり]
判別のつかない二人の声が続けて流れ込み、それは馬のピルグリムが死んだ時に見たキエルのやさしい微笑、ウィル・ゲイムの屋敷で見たディアナの寂しげな背中になって、ロランに咀嚼《そしゃく》を促した。
[#ここから太字]
――なのにそれを忘れ、人の造り出した文明を他者に知らしめるためだけに、死を遺棄し続けている者もいます。
――その者はとうの昔に精神を病んでいるのに、それを人類の業《ごう》という言葉にすり替えて、自己の主張をやめられずにいるのです。
――その姿は、旧世界の末期に現れ、この星を破壊していった人間の怨霊《おんりょう》そのものです。やさしさという節度を失ったエゴの塊です。
[#ここで太字終わり]
中空に浮かぶ月が視界いっぱいに広がると、月面の一画に黒い影が澱《よど》み、血のように赤い二つの眼がロランを見据えた。怨霊という言葉が実体になって立ち上がり、ロランに認識しろと迫っているようだった。
[#ここから太字]
――生存のために与えられた欲望という機能を肥大化させ、正当化してしまう怨霊。それはあなたの中にもあるし、私の中にもある。
――地球と月、そこに住むすべての人々の中にあるものなのです。人は、記憶を完全に忘れることができないから……。
[#ここで太字終わり]
文明の近代化がもたらす爛熟《らんじゅく》と頽廃《たいはい》。永遠を欲しがったムーンレィスと、ピルグリムの延命を願った自分。とりとめのないイメージが脳内を駆け巡り、頭が破裂しそうな感覚にロランは怯《おび》えた。
[#ここから太字]
――だからロラン、あなたはこの〈ターンAガンダム〉を使って、その怨霊を討つために戦いなさい。
[#ここで太字終わり]
ディアナとキエルの強さを持った声が言いきると同時に、〈ターンA〉のイメージが月の影を呑み込んで消え去り、峻厳《しゅんげん》な起伏を見せる山脈と、天をつく巨大な樹がロランの視覚野を支配した。二つのうねりが絡まりあい、一本の巨木を形成している始まりの樹=Bロランの認識は、しかし、それが真実の樹木ではないという事実を取り込み始めていた。
意識を凝らせば、そこに樹木の実体はなく、輝く無数の光の粉が群れ集まって、途方もなく巨大な樹に見せているのだとわかる。天上から蒔かれた再生の種――幾億、幾兆のナノマシンが、荒れ果てた大地に注ぎ込まれてゆく光景。自分はいま、世界の再創成を追体験しているのだと理解したロランは、手をのばしてその光の奔流に触れてみた。手のひらに当たって散らばった種は、次の瞬間には渦巻く気流に乗り、彼方の地平線に吸い込まれていった。
[#ここから太字]
――ご覧なさい。これは、人がこの星に為した唯一の善行です。その一瞬だけ、人はたしかに神になったのかもしれません。だからこそ、消え去らなければならなかった……。
[#ここで太字終わり]
まっすぐ進み続けて――[#ここから太字]欲望の赴《おもむ》くまま文明を発達させて[#ここで太字終わり]――時の壁に突き当たり――[#ここから太字]人という種の限界に行き当たり[#ここで太字終わり]――砕けた――[#ここから太字]滅んだ[#ここで太字終わり]――……。その瞬間――[#ここから太字]その事実に気づき、残る叡知《えいち》を贖罪《しょくざい》に投じた瞬間[#ここで太字終わり]――だけ、神――[#ここから太字]という言葉が体現するなにものか[#ここで太字終わり]――になれた……?
[#ここから太字]
――人はしょせん、人ですから……。でもそれがわからず、神に近い存在になって生き続けようとする者もいる。脆弱《ぜいじゃく》な肉体と、病んだ精神の持ち主であるそれは、淘汰《とうた》されるべき老獪《ろうかい》な祭司です。
[#ここで太字終わり]
人という種の限界を踏み越え、それ以上の者になろうと試みた挙句、餓鬼道に堕ちた旧世界の人々。その怨念を餌にして、月に巣食い続ける魔物。寒々としたイメージを漂ったロランは、その者と戦えというのですか? と疑問の意思を投げかけた。
[#ここから太字]
――そうしたものが人の間に入り込み、狂わせてしまったために起こること、そのすべてと、です。あなたには、老獪な祭司を斃《たお》すだけの強さが、精神の健やかさがあります。
――災厄を払う炎になって、この世界をゆるやかな揺り戻しの時に委ねてください。始まりの樹≠フ果実である〈ターンAガンダム〉が、その手伝いをしてくれましょう。
[#ここで太字終わり]
黄金色の奔流の中に白い人型が浮かび上がり、両のカメラアイをぼっと輝かせる。赤い瞬きに、月に巣食う魔物の瞳を重ね合わせたロランは、固まりつつある認識がぶるりと震えるのを知覚した。
〈ターンA〉が、果実……?
[#ここから太字]
――そうでなければ、あのような場所に置かれているはずはないでしょう?
――忘れないで。花咲爺は、神のカに頼ることなく、生き物の献身とやさしい心を知る人が、枯れ木に花を咲かせたという物語。とてもやさしい説話なのですよ……。
[#ここで太字終わり]
その言葉を最後に、ディアナか、キエルかもしれないイメージは急速に離れてゆき、〈ターンA〉も、始まりの樹≠熄チえた。ひとり虚空に取り残されたロランは、心細さと、重いものを呑み込まされた不安に、自分の存在が押し潰される恐怖を味わった。
せめてメリーの感触を確かめようと思ったが、尻尾のあたりがへこんだ金魚の玩具は、もう昔のようにロランを慰《なぐさ》めてはくれなかった。漫然と続く白い闇を見渡し、災厄を払う炎、穏やかな揺り戻しの時といった言葉を並べたロランは、そのどれにも拠《よ》るべきものを見出せずに、ただ絶叫した。
で、でも……! へこんじゃったメリーは、もうもとには戻らない。それは、それはとてもひどいことですよ……!
その声のあまりの大きさに、眠りの薄皮が破けた。
最初に戻ったのは、横たわった体にのしかかる重力の感覚だった。続いて消毒薬の匂いが嗅覚をくすぐり、頭上の蛍光パネルの光が視覚を刺激して、ロランの意識を現実に浮上させていった。
蛍光パネルに破損防止用のネットが備えられているのを見、軍艦の中らしいと当たりをつけてから、両手と両足に力を込めてみた。爪先が布団に当たるのがわかり、やや痺《しび》れは残っているものの、指先で太股から腰骨までの感触を確かめることもできた。五体はちゃんとある。そう考えられる頭も正常に機能している。自分は助かったのだと確信したロランは、ここはどこか、なにがどうなったのかと記憶をなぞるのを後回しにして、ベッドに仰向けになっている体をゆっくり起こしてみた。
「ロラン……!」
ぎしぎし軋《きし》む肩と肘の痛みを堪え、ひどく重く感じられる上半身を起こし終えた時、聞き覚えのある声が傍らに弾けた。まだ感覚の戻りきらない首を動かし、声がした方に振り向いたロランの目に、半開きの唇を閉じるのを忘れたソシエの顔が映った。
横には携帯用万能測定器を手にしたホレスが立っており、眼鏡の底のちんまりした目をしきりにしばたかせている。なにがあっても泰然自若《たいぜんじじゃく》のムーンレィス技師にすれば、それでも最大級の驚きの表現なのだろう。声を出そうとして、からからに乾いた喉がひきつるのを感じたロランは、咳払いする気力もなく口を押さえた。「どうしたの、吐き気がするの?」と言ったソシエが顔を寄せてきたが、重い頭は首を振ることさえ思いつかなかった。
「三日も眠ってたのよ。核爆弾っていうのが爆発して、丸焦げになった〈ターンA〉が見つかって……。もう目を覚まさないんじゃないかって、心配したんだからね」
支離滅裂な説明でも、ぼんやりした記憶の裏づけにはなったし、いつもと同じ、責め立てるようなソシエの声の調子も、気分を落ち着かせる材料にはなった。あれから三日………と胸の中にくり返して、ロランはその瞬間の映像を脳裏に呼び出そうとした。
溶けてゆく〈ターンA〉の手足と、五体をばらばらにひきちぎる衝撃波。あの時、エア・シートベルトが二人ぶんの体重を支えきれないと判断した自分は、ディアナを残して咄嗟《とっさ》にシートから離れた。直後にゴツッと鈍い音が頭上に弾けて、目の前が真っ暗になって……それから、どうなった?
「頭をコンソールにぶつけて、昏睡していたのです」ホレスが、心を読んだかのようなタイミングで説明の口を開いた。「場所が場所だけに心配していたのですが、脳波に異常はないようです。もう起きても大丈夫でしょう」
「なにか飲む? それともお腹すいてる? ここは〈ウィルゲム〉の中だから、スープと缶詰くらいしか用意できないけど……」
ベッドに片膝をついたソシエが、顔を覗き込みながら続ける。空っぽの胃袋が痛いほどの飢えを訴えたが、それ以上に気になることがあるロランは、ひきつる喉を我慢して三日ぶりの声を出した。
「ディア……キエルお嬢さんは?」
息が触れ合う距離にあるソシエの目がすっと細くなり、小鼻が微かに広がったかと思うと、頬に走った衝撃がそれに続いた。ぐらついた上半身を立て直し、顔をあげたロランが次に見たものは、大股で部屋を出てゆくソシエの背中だった。
「おやおや……。この三日間、ずっとつきっきりで看病してらっしゃったのに」
水差しを片手にしたホレスが、エアロックの向こうに消えたソシエを見送りつつ言う。張られた頬がじわりと痛み出し、胸もちくりと疼《うず》いたようだったが、反省する間はロランにはなかった。水差しを受け取った途端、再びエアロックが開き、知っている顔たちが一斉に部屋になだれ込んできたからだ。
「ロラン!」「小僧、生きとったか!」の声とともにフランとキース、ヤーニが顔を出し、「ローラ、必ず戻ってきてくれると信じていたよ」と、両手を広げたグエンがそれに続く。土埃やオーデコロン、それぞれの汗の臭いがわっと広がり、消毒薬の無機質な臭いを吹き散らすと、仲間という名の穏やかな体臭が医務室を支配して、瞬く間にロランを現実の世界に引き戻していった。
たしかな血と肉を持った人の息吹きが、安堵と引き替えになにかの記憶を奪ってゆくのが感じられたが、つかもうとした時には輪郭も定かでなくなり、重いものを呑み込んだ微かな不快感だけがロランに残された。ベッドを取り囲み、気分はどうだ、頭は痛まないかと質問責めを開始するシドやミハエルたちに、はあ、まあ、と答えながらも、ロランの目は、人垣の向こうに見え隠れする金色の髪に吸い寄せられていた。
一瞬だけ目を合わすことができたディアナは、なにも言わずにただ微笑んでみせた。それだけで、ロランには十分だった。
煌《こう》々と燃える焚き火の炎が、十重《とえ》二十重《はたえ》に連なる人の輪の向こうで揺れていた。夕陽が山の稜線に隠れ、群青色の星空が残照を押しやると、それは薄闇を照らす唯一の光源になって、無数の影絵を大地の上に刻んだ。
どこから調達してきたのか、バンドネオンの音色が笑い声の中に混ざり、テーブルの上で踊る男たち、女たちの姿が、巨大な金属の壁となってそそり立つ〈ウィルゲム〉の艦底に影法師の乱舞を描き出す。「ミリシャのエースの全快祝いをやろうじゃないか」と、グエンがその場の思いつきを口にしてから数時間。倉庫や酒保に貯蓄してあった分の他に、キースの伝《つて》で酒樽や食糧が続々と運び込まれ、〈ウィルゲム〉の乗員はもちろん、付近に展開中の部隊や、ルジャーナ・ミリシャまで巻き込んでの大宴会が挙行されることになった。会の趣旨が維持されたのは始めの数分で、すぐに乾杯の声とジョッキの触れ合う音が場を席捲し、巨大な着陸脚《ランディング・ギア》で三角形の船体を支えた〈ウィルゲム〉の下、いつ終わるとも知れない酒盛りの時間が続いているのだった。
核爆発が起こって以来、〈ウィルゲム〉はキングスレーの発掘現場を離れて、今はイングレッサ領とフロリャ領の境目にある森林地帯に翼を休めている。ルジャーナ・ミリシャも主力部隊を本国に呼び戻し、発掘品の量産化を軸とした戦力の立て直しを図っているとの噂で、これらはすべて、核の光が地球の人々にもたらした恐怖、かき立てた警戒心の大きさを物語る事態の推移と言えた。
ディアナ・カウンターと対等に渡り合えるという幻想が吹き飛べば、明日どうなるかもわからない不安感がミリシャに立ちこめ、良好だったムーンレィス技師たちとの関係にも険悪な空気が生じ始めている。ロランの復帰を酒の肴に、嘘でもいいからはしゃいでおこうとしたグエンの考えは、あながち思いつきだけのものではないのかもしれなかった。
当のロランは、始めに簡単な挨拶をしたきり、ほとんど飲み食いすることなく宴席を抜け出した。弾薬を詰めた木箱や発掘品などが無造作に散らばり、引っ越し途中の乱雑さを呈している野営他の片隅に立って、風にのって漂ってくるバーベキューの香り、潮騒のような人のざわめき声を、まだはっきりしない頭で受け止めていた。
背後では、痂《かさぶた》か錆《さび》を想起させる黒い物質に全身を覆われた〈ターンA〉が、冬の冷気を染み込ませた地面に片膝をついている姿がある。肩や拳、フェイスガードなどのエッジ部分を被覆《ひふく》した黒い塊は、装甲が焼け焦げてそうなったのではなく、内側から滲み出た未知の物質が凝固したものであるらしい。どこをどう飛んだのか、爆心地から百キロ以上離れた山中で発見された時には、すでに黒い痂が破損箇所を覆っていたのだという。みるみる全体に拡がり、原形を留めぬほど機体を覆い尽くした物質は、完全変態する昆虫が分泌する特殊な体液――蛹《さなぎ》の殼に近い性質を持つものだとホレスは言っていた。事実、力尽きたように座り込み、このままホワイトドールの石像に戻ってしまうのではないかと疑わせながらも、〈ターンA〉の機体は急速に修復されつつあったのだ。
宴会の準備が進む中、ロランを〈ターンA〉の前に呼び出したホレスは、火山岩に似た手触りの黒い物質を金ベラでこそぎ落としてみせた。真新しい装甲が再形成されているさまを示し、「あり得ないことです」と言った声は、珍しく感情を露《あらわ》にしていた。
「ナノマシンは、生物の細胞に近い働きを持つものです。細胞のひとつひとつが結合し、皮膚や骨、肉という全体を構成するように、ナノマシンもプログラミングされたアーキテクチャに従って、マシンの装甲やフレームを形成する。それ自体が自己増殖能力を持ち、新陳代謝を行うのも生物と同じです。が、それは百年、二百年という時間をかけて行われるべきプロセスであって、たった二、三日で消失したパーツが再生されるものではありません」
実際、ビームの直撃で折れ飛んだはずのフェイスガード――ヒゲさえも、黒い塊の中で再生を開始しているのだった。下ぶくれの頬をこわ張らせたホレスの弁に、ロランはあらためて〈ターンA〉の頭部を見上げた。
「通常のモビルスーツの場合、ナノマシン装甲……いわゆるナノスキンが使われているのは外装板だけですが、〈ターンA〉は機体のすべてがナノスキンで形成されている。その証拠に、破壊された内部の駆動システムも急速に治癒しつつあるのです。他のモビルスーツとは製造された時代が違うといっても、この便利さは異常です。少なくともディアナ・カウンターには、これほどの技術力で造られたモビルスーツはありません」
「これを〈ガンダム〉って呼ぶ人もいますけど、関係あるんでしょうか?」
「〈ガンダム〉? ああ、ムーンレィスの神話に出てくるモビルスーツですね。宇宙移民者の偉大な敵と言われる……。残念ながら、わたしはその方面には不案内です。わたしに想像がつくのは、伝説に語られる分泌装甲《ウージィ・アーマー》の技術が使われているのではないか、ということぐらいなもので」
「ウージィ・アーマー……?」
「極端に増殖能力の早いナノスキンと考えてください。ナノスキンに傷が生じた場合、液状化した応急修理用のナノマシンが分泌されて、即座に傷を修復するという話ですが、失われて久しい技術です」
そう言ったホレスは、「過去の技術や、歴史的記録の大半が『冬の城』に封印されているという点では、我々ムーンレィスも地球の人々同様、記憶を失っているのですよ」と付け加えて、その場を離れていった。虚をつかれた思いで、ロランは簡単に真実を言ったホレスの背中を見送った。
旧世界の歴史に関するデータは、すべて「冬の城」と呼ばれる広大な氷室――千数百万に及ぶ冷凍睡眠者たちが眠る保存槽の集合体――に保管されている。データ管理は統治一族であるソレル家に一任されており、他の者にはアクセス不可能とされていたが、それは管理用コンピュータに旧世界の失われた技術――人間の脳波に感応する、直接通信《ダイレクト・インターフェイス》システムが使われているためだった。
脳波からその者の思考言語を読み取り、マシン語に翻訳して、コンピュータに繋がる各種機器を円滑かつ迅速に操作する。指でキーボードを叩いたり、操作レバーを動かしたりするより数百倍遠く、人の意志を機械に伝達できるダイレクト・インターフェイス・システムは、旧世界では当たり前に使用されていた技術だという。必然、それはモビルスーツの操縦など軍事技術の発展にも貢献し、いかにして人とコンピュータとの相互通信を妨害するかが、戦争の勝敗を決する大きな要因と目されるようにもなった。
その行き着いた先が、末梢神経に感染する生物兵器――人の神経細胞に取りつき、部分的な変移を促して、コンピュータとの脳波通信を不可能にするウィルス兵器――の開発であり、自殺行為に等しい大量散布だった。結果、人はコンピュータにアクセスする術を失い、それ以前に使用されていたダイレクト・インターフェイス・システムは、事実上無用の長物と化した。
人類の文明は衰退の兆《きざ》しを見せ、その後、ナノマシンの暴走が引き起こした一大災害――ナノマシン・ハザード――に見舞われるに至って、一気に滅亡への道をひた走ることになる。それが、閉ざされたカーテンから漏れ伝わる断片的な記録を繋ぎ合わせ、ムーンレィスの学者たちが導き出した推論――ロランたちが学校で習う「歴史」だった。
無論、単体種のウィルス兵器がすべての人類にあまねく作用することはなく、遺伝的に抗体を持ち、ウィルスに感染しなかった者も存在する。ソレル家の先祖もその中のひとりで、月の土壌改良を為し遂げた功績と併せて、彼の一族が統治者の座に就く要因にもなった。その血をひく者であれば、「冬の城」に蓄積された過去のデータを呼び出すことも可能なのだが、現当主であるディアナを始め、ソレル一統は頑《かたく》なに歴史への接近と開陳を拒んできたのだ。
月を地球帰還までの一時的な避難場所と規定したのであれば、生存に必要な文明だけを維持すればいいのであって、滅亡に至る暗い記憶は闇に封印しておくべきと判断された。そう好意的に受け取る者もいれば、統治体制を絶対的なものにしようと目論むソレル家が、一族の神性を高めるために策動しているのだと嘯《うそぶ》く者もいる。いずれ、過去の記憶を封じ込めた地球の歴史の特異性や、〈ターンA〉の異質さにばかり目がいっていた自覚のあるロランは、「ムーンレィスも記憶を失っている」といったホレスの言葉に、不意に足もとをすくわれたような気がしたのだった。
〈ガンダム〉という言葉が体現する通り、神話と歴史的事実の間に明確な境界線を引けずにいるムーンレィスも、虚実が入り乱れる歴史の闇を漂っている。この目で見、この手で確かめたもの以外は、言葉や映像などのデータに頼るしかないのが人間。そしてデータには、入力した者の考えや嗜好《しこう》が入り込むという宿命的性質があるから、決定的な真実を語ることはない。どこから来てどこへ行くのか、相対的な価値観のどこに中庸を見出せばいいのか、いまだ誰にもわからないし、これからもわかりはしない。
圧倒的な時間の奔流に根を下ろし、存在を主張し続けてきた〈ターンA〉なら、あるいはそれらの答えを知っているのかもしれない。そう思うと、痂に覆われた機体に荘厳の被膜がかかり、下ろすべき根もなく、一瞬以下の生をまっとうするしかない我が身の儚《はかな》さが迫ってきて、ロランは単純に切ないと感じた。現在に絶望しているのでなければ、未来に茫洋とした希望を抱いているわけでもない。ただそこに静止し、自分の影を見つめているしかない切なさ……。
『終わりがあるからこそ、生が輝く。無為に百年以上の時を超えてきた月の女王と、連綿と続く命の繋がりに望みを繋いだウィル・ゲイム。そのどちらが、人のありようとして正しいのでしょうね……』
『でもそれがわからず、神に近い存在になって生き続けようとする者もいる。脆弱《ぜいじゃく》な肉体と、病んだ精神の持ち主であるそれは、淘汰されるべき老獪《ろうかい》な祭司です。災厄を払う炎になって、この世界をゆるやかな揺り戻しの時に委ねてください』
輪郭のない記憶の塊が、脳の襞《ひだ》を押し分けて頭の中をめぐっていた。内容を覚えていないにもかかわらず、ディアナとも、キエルともつかない肌に包まれていた感触だけが残っている夢の記憶。どこまでが現実でどこからが夢なのか、せめてその区別はしたいものだと思った刹那《せつな》、「ロラン」と呼びかけるディアナの声が耳を打った。それが現実の声と確信できないまま、ロランは背後を振り返った。
この目で見、手で触れられる現実のディアナ・ソレルが、そこに立っていた。わけもなくほっとし、小さく息をついたロランに一歩近づいたディアナは、「ほとんど食べていないのでしょう?」と、両手に持ったブリキのトレイを差し出してきた。
バーベキューとマッシュポテトを取り分けた皿に、コーヒーの入ったカップが添えられているのを見て、耳たぶのあたりがほんのり熱くなるのが感じられた。「……ありがとうございます」とかすれた声を搾《しぼ》り出して、ロランはトレイを受け取った。
「お礼を言うのは私の方です。あなたの機転がなければ、私は今ごろ……」
手近な木箱の上に腰を下ろしつつ、ディアナは言った。夢の中で感じた肌の温もりを思い出し、赤くなる顔を自覚したロランは、少し迷ってから隣に腰かけた。コーヒーをひと口すすり、「〈ターンA〉が頑丈にできてたお陰です」と返すと、「そうかもしれませんね」と応じた青い瞳が、痂に覆われた巨人に据えられた。
「普通のモビルスーツでないことは間違いありません。もしかしたら、時空を超える力が備わっているのかも……」
〈ターンA〉を見上げた横顔に、冗談を言っている気配はなかった。「時空を超える能力……ですか?」とおうむ返しにして、ロランも黙然と佇立する〈ターンA〉を見つめた。
「そうでなければ、いくらIフィールドのようなバリアーがあったとしても、核の熱に焼き尽くされていたはずでしょう?」
たまたま人の形に削り出された岩の塊か、前衛彫刻にしか見えない痂だらけの〈ターンA〉から目を離し、ディアナははっきりとした口調で続けた。
「ホレスさんの話では、機体から放射能は検知されなかったそうです。核爆発が起こった瞬間には、
〈ターンA〉はもうそこにはいなかった……とも考えられます」
核の熱線に溶かされてゆく手足と、ブラックアウトしたはずのモニターを埋めた「∀」の記号。一秒未満の瞬間を記憶の底に呼び出し、否定も肯定もできないと結論を出したロランは、「空間転位……テレポーテイションの機能が内蔵されているということですか?」と、半信半疑に聞き返してみた。
旧世界にどれだけ優れた文明があったとしても、よもや時間や空間を超越する技術が開発されていたとは考えられない。「わかりませんけど……」と答えたディアナも、テレポーテイションという、どう転んでも現実的ではない言葉の響きに戸感っているようだった。
結局、目の前にある事象ひとつ満足に理解することはできない。酔いが回ってきたのか、どっと弾けたソシエやヤーニたちの哄笑を遠くに聞き、もう素直に輪の中に加われなくなっている己を顧みたロランは、しばらく黙った後、「……ディアナ様」と思いきって口を開いた。
「正直に答えてください。ぼくらは……地球とムーンレィスの人たちは、少しはマシな人類になれるんですかね? 昔、地球を人の住めない星にしてしまった人たちより……」
そこにあるのは希望か、絶望か。誰にも答えられるわけがない、とんでもなく抽象的な質問とわかっていても、ロランは言ってしまっていた。嘘でもいい、ディアナの言葉なら信じてもいいし、信じられる。そう思い、一心にディアナを見つめると、思いがけず微笑した唇がゆったりと答えを紡いだ。
「あなたたちニュータイプなら、そうなれるでしょう」
用意していたかのように、奇妙に確信めいた声だった。「ニュータイプ……?」と聞き返しながら、施設の誰かがそんな言葉を口にしていたなと思い出したロランは、場違いな懐かしさにとらわれた。
「過去の記録にある、宇宙の環境に適合した新しい人類の総称です。拡大した認識力を持ち、遠く離れている人や、初めて会った他人とでさえも、言葉を介さずに誤解なくわかりあえる人々。超人のように聞こえますが、私はもっと広い意味を持った言葉だと思っています。その能力が他人へのやさしさに繋《つな》がり、世界への洞察に向けられたなら、旧世界に現れたという預言者たち……。ブッダやクリースト、アラが達したと言われる『悟り』だって得られたはずなのですから」
静止した影の向こうに、漠然とした希望が見えたような気がしたが、それも一瞬だった。運河の「沖」には選ばれた人々の住む町があり、そこに施設の子供たちの両親がいると聞かされた時と同じ。はぐらかされたという思いだけを抱いて、ロランは、「……そんな人たちがいても、旧世界は滅びてしまった」と低く呟いた。
「だからです。ムーンレィスが雌伏《しふく》し、地球の民が活性化する今日までの歴史……一度は滅んだはずの私たちが、今こうして火を囲んで笑いあっていられるのは、本当に奇蹟だと思うのです。そのような経験を得た人類が、いつまでも愚鈍であるわけはない。今は、私はそう信じています」
ディアナの声は明確で、迷いがなかった。立ち止まっていた背中をぽんと叩かれたようで、ロランは夢から覚めた面持ちで女王の顔を見上げた。
「誤りがあるとするなら、旧世界を破壊した人の怨念が、アグリッパ・メンテナーという男の姿を借りて、今も月に残っているということ」焚き火を囲む人の輪の向こう、暗さを増してゆく夜空に清冽《せいれつ》な星々の輝きを見出したのか、遠くなったディアナの瞳が続けていた。「そして百五十年前、ひとつの恋愛に殉じきれなかった私の未練が、理念だけの地球帰還作戦を実行させてしまったということ。それが、人々の中に眠っていた欲望を目覚めさせてしまうだろうとは、想像できずに……」
自らの生理機能をも脅《おびや》かす際限のない発展欲と、同族を殺すために容赦なく知恵を行使する闘争本能。月に巣食う、赤い目をした魔物。夢の中の声に血の通った現実の声が重なり、ロランはなにひとつ整理がつけられないままディアナを見返した。うつむき、「だから……」と苦しそうに付け足したディアナは、その視線を避けるように木箱から立ち上がった。
「だから私は、このウィルのお船を借りて月に戻ります。物事を間違わせる源と対決して、すべての人が平らかに生きてゆける素地を取り戻したく思います」
焚き火の光にぼんやり艦底を浮かび上がらせた〈ウィルゲム〉を見つめ、静かな、それでいて揺るぎのない声で言いきったディアナは、「……ロラン、手伝ってくれますか?」と重ねてこちらを振り返った。ロランは、なにも言えずにその顔を見上げ続けた。
月本国の政治的変動を知り、ついに核の光までよみがえらせた戦争を目の当たりにしたディアナの、それが最終的な決断なのだろう。ウィル・ゲイムの遺産をもって月に帰還し、単身アグリッパ・メンテナーと対決する――。そう言ったディアナは、その先に訪れる自らの死を静かに見据えている。膝に載せたトレイを握りしめ、しばらく無言の時を過ごしたロランは、「……みんなが気持ちょく暮らしてゆける世界を取り戻すためなら、それはお手伝いします」と答えて、トレイを脇に置いた。
「でも、それでディアナ様が死んでしまわれるのは嫌です。絶対に嫌です」
立ち上がり、わずかにあとずさったディアナを正面に見下ろしたロランは、女王の背が自分より低かったことに今さら気づいて、わけもなくどきりとした。目を逸らし、「……私の中にも、アグリッパと同じ怨念があるのかもしれないのですよ?」と応えたディアナは、動揺を隠すように再び背を向けていた。
「いちど目覚めてしまった人々の欲望を鎮めるためには、人柱のようなものが必要です。私がそれになれるのであれば……」
「そんなの……! それこそ勝手ですよ」
自分でもわからないうちに腕が動き、ロランはディアナの細い肩をつかんでいた。その時は漠然とした切なさも感じる余裕はなく、突き上げる衝動に押された体が勝手にやってしまったことだった。
「昔の恋に憧れて地球帰還作戦を実行なさったこと、たとえそれが本当でも、すべての間違いのもとであったとしても、そうされたディアナ様は可愛い女《ひと》なんですから……!」
思わず口走ってしまってから、可愛いの一語が急に生々しい肉感を放って胸に迫り、手のひらに伝わる柔らかな感触と併せて、気絶するほどの羞恥心が這い上がってきた。頭が真っ白になり、とてつもない無礼をしでかした指先を硬直させたロランは、「ありがとう、ロラン」と微笑み、手の甲にやさしく触れたディアナの指の意外な冷たさに、びくりと肩を震わせた。
「そう言ってくれたのは、ウィルとあなただけです」
表面は冷たいのに、芯はしっとりと温かい感じ。前に握った時よりずっと強く、ディアナの体温を感じることができたロランは、もう迷う必要がなくなった自分を知った。月の女王ではなく、そのために命を捨ててもいいと思える女性、自分の人生とも決して無縁でないひとりの女になったディアナを見つめ、からからに乾いた喉から言葉を押し出そうとした時、こちらに注がれていた青い瞳が不意に別の方を向いた。
正気の何分の一かが返り、複数の人が駆け出す気配、車のエンジン音を背中に聞いたロランは、ディアナの視線を追って背後を振り返った。バンドネオンの音色と笑い声が途絶え、三々五々持ち場に帰りつつある兵たちの姿を目に入れて、慌ててディアナの肩から手を離した。
焚き火を背にしたソシエが、なにかを叫んでしきりに手を振っている。〈カプル〉のジェネレーターに灯が入る独特の音も聞いたロランは、前を通りかかったトラックの助手席にヤーニの姿を認めて、進路の前に立ち塞がった。急停車したトラックの窓から身を乗り出し、怒鳴る口を開きかけたヤーニの機先を制して、「なにがあったんです!?」と腹の底から声を出した。
「ムーンレィスの機械人形が、味方同士で追いかけっこしてるらしい。金ピカの機械人形が、ミリシャに投降したいって無線で言ってきたんだとよ」
心臓がひとつ大きな脈を打ち、同時にハリー大尉の名前がロランの頭を支配した。赤いバイザーをかけた顔を思い出す間に、同じ直感を得たらしいディアナが、「どうなさるおつもりです?」と、ロランの横に並び立っていた。
「決まってらあ。パイロットをぶち殺して、金ピカをいただくだけよ。〈ターンA〉がこのありさまじゃ、代わりになる戦力は欲しいからな」
当たり前のことを聞くなと言わんばかりの声に、ディアナと横目を見交わしたロランは、「ぼくも行きます」と間を置かずに言った。ディアナとキエルの入れ替わりを知っていながら、ロランにディアナの命を託し、自らはキエルの警護に徹したハリー大尉。味方に追われている事情がなんであれ、死なせるわけにはいかないと思ってのことだったが、「おまえはいい。まだ養生してろ」と言うや、ヤーニはハンドルを握る兵に発進を促してしまっていた。
トラックは土埃を蹴立てて走り去り、〈ウィルゲム〉のモビルスーツデッキを発した〈カプル〉隊がそれに続く。急いで焚き火の方を振り返ってみると、案の定、ソシエの姿は消えていた。すでに〈カプル〉のコクピットに収まっているのだろう。ソシエも出たとなれば空いているモピルスーツはなく、ロランは方策なしの間の悪い顔をディアナに向けた。森林に分け入る〈カプル〉たちを見送る横顔は、思慮の下に動揺を隠す術《すべ》を心得た女王のものだった。
「……ハリーが、ひとりで脱走してきたとは考えられません」
五機目の〈カプル〉が地響きを立てて通り過ぎた時、ディアナがぽつりと言った。「それじゃ……」と言いかけて、キエルお嬢さんも一緒に? と続くはずの言葉を呑み込んだロランは、ディアナのために戦うと決めた直後に、なにもできない無様をさらす羽目になった不運を心底呪いたくなった。
〈ターンA〉が使えさえすれば……と思ったところで、片膝をついた巨人は毫《ごう》ほども動く気配を見せず、痂でごわごわになった顔を黙って夜に向けている。
「信じましょう。ハリー大尉を」と続けたディアナに頷いた途端、彼方で発した閃光が山の稜線を明確に縁取り、遠雷に似た重い音が星空を震えさせた。
ハリー大尉が戦っている――。なにかが大きく変わろうとしている予感を抱いて、ロランは夜の闇を凝縮した山陰を見つめた。閃光が二度、三度と連続し、山の向こうで行われている戦闘の激しさを暗に伝えた。
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(……今日は、諸君に残念な報告をしなければならない。地球帰還作戦が始まって以来、最悪の不祥事がディアナ・カウンター内部において発生したのだ)
窓ガラスと見分けがつかない〈ソレイユ〉のスクリーン・パネルを見慣れている目に、その映像はどこか平面的に感じられたが、壇上に立つフィル・アッカマンの目が充血しているのはわかったし、脇に並び立つ将兵や執政官たちが、判で押したように顔をこわ張らせているのもわかった。
〈ソレイユ〉から全艦隊に向けた緊急通達であっても、フィルはミリシャに傍受されるのを計算に入れて話している。キエルは目を凝らして、ひとりひとりの表情をスクリーンの中に確かめていった。
(親衛隊のハリー・オード大尉が、ディアナ・ソレル様を拉致《らち》した上に逃亡。現在、ミリシャに投降したとの情報が入っている。女王の警護を任じられた親衛隊の士官が、よりにもよってディアナ様を地球人に売り渡したのだ。蛮族《ばんぞく》に囚《とら》われたディアナ様が、どのようなご苦労をなさっておられるか……。それを考えると、恥ずかしながら涙を禁じ得ない。許されるものなら、軍務を放棄して単身救出に向かいたい思いである)
やや顔をうつむけ、演壇の上に置いた拳を握りしめたフィルの背後では、小刻みに肩を震わせている者もいる。フィルの芝居につき合っているのだとしても、全員がシンパということはあるまい。誰が味方で、誰が敵か。反射的に見極めようとして、「なーんか、頭悪そうなのよねえ」と言ったソシエの声を聞いたキエルは、不意に蹴《け》つまずかされたような、それでいて悪夢から立ち返ったような複雑な気分を味わった。
もうそんな必要はない。私はキエル・ハイムなのだ。髪には元どおりウェーブがかかっているし、服もノックスの洋品店で仕立てた自分のものを着ている。ここは〈ウィルゲム〉の操船指揮所《ブリッジ》で、誰も私のことをディアナ・ソレルと呼ぶ者はいない。私はディアナをやめることができた――。胸の中に叫び、その場にへたり込みそうな脱力感をなんとか堪《こら》えたキエルは、呆れ顔を隠しもしないソシエに「そう?」と振り返った。飛行服姿がすっかりさまになった妹は、「典型的な三文役者って感じ」と言い放って、ブリッジの前方中央に据《す》えられたスクリーンに目を戻した。
「『恥ずかしながら涙を禁じえない』なんてさ。フィル少佐って、こういう人なの?」
いつでも能力以上に振る舞い、それを他人に見透かされるのを極度に恐れている。フィルの強硬な言動の裏には、そんな性根が確かに見え隠れしていた。キエルは「まあ、そうね」と答えておいた。
納得がいかないのか、ソシエは横目でちらちらとこちらの横顔を盗み見ている。キエルが訝《いぶか》しんだ目を返すと、他にも数人のクルーが整備作業を続けているブリッジを見回し、誰も注目していないことを確かめたソシエの目が、ぴたりとこちらに据えられた。
「……ねえ、本当にキエルお姉さまよね?」
大真面目で囁かれた声が可笑《おか》しく、また多少不愉快でもあった。なぜそう感じるのかわからないまま、キエルは「当たり前でしょ」と素っ気なく返した。
「だってさ、本当に見分けがつかなかったのよ? そりゃ話し方が少しおかしいって思ったことはあったけど……。きっと顔だけじゃなくて性格も似てるのよね、お姉さまとディアナさんって。ひっぱたく時の手の感じもおんなじ」
「ひっぱたく? ぶたれたの」
自分でも意外なほどの動揺が走り、キエルはとがった声で聞き返してしまった。「うん。まあ……」と目を逸《そ》らしたソシエは、余計なおしゃべりを後悔している顔だった。
「どうして? なにがあったの」
「別に。つまんないことよ。お姉さまだって時々するじゃない」
「昔のことよ。成人式を迎えた人をぶったりはしないわ」
赤の他人に聖域を踏み荒らされた、出所不明のその感情に押されて、気がついた時には止められなくなっていた。「言いなさい、ソシエ。なにがあったの?」と重ねたキエルから顔を逸らし、「忘れちゃったわよ、もう」と唇をとがらせたソシエも、明らかに意地になっていた。
「私が恥をかくことなんだから、教えなさい」
「いいじゃない。あたしを一人前って認めるんなら、そんな言い方おかしいでしょ」
「ソシエ……!」
「変よ、お姉さま。なんでそんなに気にするのよ……!」
その声は、スピーカーから流れるフィルの演説を圧してブリッジに響き渡った。ぎょっと振り向いた中年のクルーと目を合わし、私はなぜ怒っているのだろうと自問したキエルは、その一瞬、間違いなくディアナを憎もうとしていた自分に気づいて、愕然《がくぜん》となった。
いつ、どこでそうなってしまったのか。千々に錯綜《さくそう》し、どう手をつけたらいいのかもわからない感情の軌跡《きせき》をなぞって、キエルはその折り目折り目に刺さっている記憶の針をひとつずつ拾い集めてみた。それはディアナと再会して以来、自分のことは眼中になくなったハリーの横顔であったり、そこを己の居場所と定め、ディアナの傍らに寄り添っていたロランの態度だったりして、惨めな気分に拍車をかける結果しか得られなかった。その程度の妬《ねた》み心に左右される自分の浅ましさに恥じ入り、同時に、なぜこんな思いをしなければならないのかと、新たないら立ちをかき立てられもした。
疲れているのだ。そのひと言を免罪符にして、キエルは後ろ暗い感情に蓋《ふた》をしようとした。が、そうすると今度は、敵の最高指揮官が身内になりすましていたことに対して、特にこだわりを持った様子もないソシエの達観ぶりが気になり出して、己の業《ごう》の深さにつくづく辟易《へきえき》させられた。
ディアナを嫌う理由も、その権利も自分にはない。理性ではわかっているし、今でも尊敬の念は抱いている。昨晩、ハリーとともにこの〈ウィルゲム〉に収容された時は、互いの無事を喜びあって抱擁も交わした。「私のために、大変なご苦労をかけてしまって……」と声を詰まらせたディアナに、キエルも押し留めてきた感情を思いきり溢《あふ》れさせた。あの涙に嘘はないと、これだけは今でも断言できる。しかしそれは、キエル・ハイムに戻れる安堵感が流させた涙であって、ディアナほど誠実には相手と向き合っていなかったのではないか……?
「……今まで騙《だま》されてたんだもの。少しは腹も立つわよ。でもディアナさんは、お姉さまならきっとこうするだろうってことを、ちゃんとやってたわ。お姉さまの名前に泥を塗るようなことは一度もしなかった。ディアナ・カウンターは許せないけど、ディアナさんに対する気持ちはそれとは別よ」
灰色に鈍った胸に、ソシエのその言葉は一条の光明と感じられた。いくぶん引き締まったように見える頬の線を確かめ、大人になったものだと感心する間に、「お姉さまだって、そうなんでしょ?」の声が重ねられて、キエルは今度こそ羞恥心の虜《とりこ》になった。「……そうね。ごめんなさい」と言いつつ、やり場のない目をスクリーンに向けるしかなかった。
(私は地球人の蛮行を憎む。しかしディアナ様の意志を受け継いだ我々ディアナ・カウンターは、この脅しに屈することはない!)
三文芝居もいよいよ佳境といった風情で、フィルの演説が続いていた。ミランを筆頭とする執政官たちにも共謀の疑いがある以上、もうフィルの暴走を止められる者はディアナ・カウンターにはいない。
「……どうなるのかしら、これから」と呟いたソシエが、こみ上げる不安を懸命に飲み下そうとしているのを感じ取ったキエルは、考えるより先に「大丈夫よ」と言っていた。
「グエン様がいいようにしてくださるわ」
一瞬前までは考えもしなかった言葉が口をついて出て、キエルは自分の心境の変化に戸感ったが、悪い気はしなかった。むしろそれまでふわふわと漂っていた体が、落着点を見出したような安息惑すら抱いて、グエンの名前をもういちど胸の中に唱えてみた。
ボストニア城を失い、イングレッサ領の覇権《はけん》をも失いながら、事態の最前線に踏み留まっているラインフォード家の御曹子。昨晩、数ヵ月ぶりに会話を交わしたグエンは、傷ついてさらにしなやかになったと思わせこそすれ、落ちぶれた色は微塵《みじん》もなかった。ボストニア城に君臨していた頃に放っていた香りを、損なうことなく保ち続けていた。育ちのよさに野心のスパイスがミックスされた、優雅で刺激的な香り。そう、もともとあの香りに魅《ひ》かれて、私は事態に引き込まれたのではなかったか? ふと思いつき、そのグエンが同じ船に乗っている、甲板一枚はさんだ場所に刺激的な香りの源があると気づいたキエルは、思いがけず胸が軽くなるのを自覚した。
グエンという名の居場所、帰属すべき人の繋がりがここにはある。そこにはディアナもいなければ、ハリーも存在しない。敗北感や嫉妬、羞恥心といったものを洗い流して、まっさらな自分をやり直せる場所がすぐそばにあるのだ。「そうかな?」と言ったソシエに、「そうよ」ときっぱり返して、キエルはスクリーン・パネルの下、ずらりと並ぶ長方形の窓の列に目をやった。
西日を反射する〈ウィルゲム〉の舳先と、彼方の山の稜線が一時に見え、重苦しいブリッジの空気をよそに、久しぶりに深呼吸をしてみるつもりになった。ソシエに気づかれないよう小さく息を吸い込み、吐き出そうとして、嗅ぎ慣れない徴かな匂いに気づいた。
ラベンダーの香り。匂いのもとを探し、服の袖口にそっと鼻を近づけたキエルは、それがディアナのつけている香水の残り香だとわかって、眉をひそめた。
昨日までディアナが着ていたのだから、匂いが残っているのは当然だった。この船では、洗濯はどうすればいいのだろう。ソシエに尋ねたかったが、さすがに今は聞ける雰囲気ではなかったので、キエルは我慢してフィルの演説が終わるのを待った。
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(地球人は徹底的に、完膚《かんぷ》なきまでに叩いて、我々は新たな国家を地上に建設する。ムーンレィスの、ムーンレィスによる、ムーンレィスのための国家を、この地球に花開かせるのだ。ディアナ様の意志に従い、わたしはその国家をサンベルト共和国と名づけようと思う)
その言葉が百人、千人の命を奪うかもしれないと知っていながら、なんのためらいもなく話せる人の神経とはなんなのだろう。思う間に、スピーカーから流れる演説の声が小さくなり、「やれやれ、早くも死人扱いだな」といった声がすぐそばに発した。ロランはモニターの中で熱弁を振う団子鼻の軍人を見るのをやめて、音量の調節スイッチを動かしたグエンに振り返った。
ストレートに戻した鬢《びん》に銀のヘアリングをはめ、ディアナ・カウンターの制服に身を包んだディアナも、気まずさといら立ちが拮抗《きっこう》する目をグエンに向けている。ブリッジの一層下、壁面に埋め込まれた小型モニターと飲料供給機がある他は、数組の長テーブルが置いてあるだけの〈ウィルゲム〉の士官室には、ハリー大尉とミハエル大佐が渋面《じゅうめん》で腕組みしている姿もあり、殺風景な部屋の様子に拍車をかけている。揶揄《やゆ》するようなグエンの口調に、無言で立ち尽くすハリーの頬がぴくりと動いたが、顔の半分を赤いバイザーで覆《おお》った鉄面皮《てつめんぴ》が、それ以上感情を表に出すことはなかった。実際、団子鼻の軍人は、明らかにディアナが帰らぬ人になったという前提で話を進めているのだ。
「ディアナ抜きのムーンレィス国家の建設……。キエル嬢を守って脱走した大尉の行動が、強硬派にとっては恰好の宣伝材料になったわけだ」
ディアナ・カウンター内部で起きた政変と、ミリシャに身を寄せるに至ったハリーの事情は了解していても、グエンの口調はあくまで辛辣《しんらつ》だった。人の内面洞察にプライドをかけている御曹子にとっては、その結果こうむる面倒よりも、ディアナとキエルが入れ替わっていた事実を見抜けなかった自分が許せないらしい。「他に選択肢はなかった」と言い放ち、ハリーは責務はすべて自分が受け止めるという顔をグエンに向けた。
その頬に浮き出ている赤黒い痣《あざ》は、昨晩、ヤーニ少尉の拳を正面に受け止めた跡だ。数時間にわたる睨《にら》みあいと、ディアナの必死の説得の末にハリーの投降が認められた時、〈スモー〉を取り囲む一同の中から一歩進み出たヤーニは、「死んだ部下たちの手前もある。殴らせろ」と、驚くほど静かな声で申し出たのだった。
ディアナ・カウンターの中でも、もっとも厄介な敵と目されてきた金色の〈スモー〉。そのパイロットを前にして、ヤーニにはそうするしかなかったのだろうし、止める言葉を持たなかったという点では、グエンもディアナも同じ立場だった。ロランも、それが単なる鬱憤《うっぷん》晴らしではなく、人と人がわかりあうために必要な儀式だと納得できたから、なにも言わずにバイザーを外したハリーの横顔を見つめた。
思ったよりやさしげな瞳を露《あらわ》にしたハリーは、大兵の体躯《たいく》を一点に集中したヤーニの拳を、受け流すことなく正面に浴びた。支えようとしたディアナとキエルを断り、ふらつきながらも自力で立ち上がってみせた。ヤーニはそれを見届けてから無言で立ち去り、今日はまだ一度も姿を見せていない。
「しかし、貴官をこの船に乗せてしまったせいで、我々はディアナ・カウンターから目の敵《かたき》にされる。脅《おど》しに屈しないと言ったからには、ディアナ閣下を人質にしたところで無駄だろうからな」
先刻からしきりに顎髭《あごひげ》を触っているミハエルが、無言の間を破って言っていた。「そんな……! ムーンレィスにとってディアナ様は……」と思わず言いかけたロランを制して、「いいのです、ロラン」と口を開いたのはディアナだった。
「ミハエル大佐のおっしゃる通りです。たとえ私が呼びかけたところで、フィル少佐は偽物《にせもの》と喧伝《けんでん》して攻撃を仕掛けてくるでしょう」
「居留地に駐留していた艦隊が、〈ソレイユ〉と合流すべく動き出したという情報もある。近々総攻撃があると見て間違いない」
組んでいた足をほどきつつ、グエンが続ける。総攻撃の一語が鉛になって胃に落ち、ロランは口を閉じるしかなくなった。
「兵たちも怯《おび》えている。これまでは良好な関係を結んでこられたが、いつ裏切るかもしれないムーンレィス技師たちは、拘禁《こうきん》しておいた方がいいと言い出す者もいる始末だ。動揺を静めるためには、やはり大尉を処刑した方がいいのかな」
簡単に言ったグエンの視線がちらと横に流れ、わずかに上がったハリーの顎がそれに応じた。「グエン様……!」と一歩進み出たロランを、「冗談だよ、ローラ」と軽くいなし、グエンはいつもの涼やかな笑みを頬に刻んでみせた。
「〈ターンA〉もしばらくは動けそうにないし、金色の機械人形……〈スモー〉と言ったか? 戦力になるものなら使いたい。無論、扱い慣れた人に乗ってもらってね」
相手に他の選択肢はないと悟らせた上で、自分の要求を婉曲《えんきょく》的に伝える。人は自分の意見に従うものと決めている、御曹子一流の強引な交渉権だった。
「それがディアナ様を守ることになるのなら、協力はしよう」と答えたハリーに、「どちらのディアナ様だ? 大尉」と尋ねた声は、ミハエルの口から発せられた。
「……わたしにとってのディアナ・ソレルはたったひとり。ここにおられるディアナ様だけだ」
一秒と少しの逡巡《しゅんじゅん》の時間に、他人には窺《うかが》い知れない、キエルとの間に醸成《じょうせい》された感情のしこりが覗いたような気がしたが、ハリーの鉄面皮がそれで崩れるものではなかった。「結構。当てにしていいな? ハリー大尉」と微笑したグエンは、次の瞬間にはハリーのことなど忘れた様子で、「大佐」とミハエルに呼びかけていた。
「ミャーニ近郊で見つかったというマウンテン・サイクルV、有望だと言っていたな?」
「は。今朝早く、黒歴史発掘隊が現地に向かいました。一両日中には答えが出るでしょう」
ミャーニはイングレッサ領の南方、メジコ湾に突き出た半島を領地とするフロリャ領の首都で、港湾都市として知られている。シドたち発掘隊が出かけていったのは知っていても、マウンテン・サイクルVの名は初耳のロランは、「新しいマウンテン・サイクルが見つかったんですか?」とグエンに確かめた。
「ああ。先日の核爆発で、『黒歴史』の解釈に新しい視点が加わったのでね。当たりをつけて掘らしてみたら、案の定だった」
ざらりとした悪寒《おかん》が背中を走ったが、その気分を具体的に表す言葉はなく、ロランは同様の感覚を抱いたらしいディアナと横目を見合わせた。「フロリャ領もミリシャを組織してはいるが、まだ自警団に毛の生えたレベルだ。我々との協同戦線を拒みはしないだろう」と重ねたグエンは、対照的にどこまでも明るい声だった。
「その上で、ルジャーナ・ミリシャに共闘を申し込むというのがグエン閣下の考えだ」
ミハエルが付け足す。〈ウィルゲム〉の離陸に核爆発の猛威まで目撃すれば、科学技術の会得《えとく》なくして勝利はあり得ないとつくづく実感したのだろう。もはやイングレッサ・ミリシャ最高指揮官のプライドにこだわる余裕もなく、完全にグエンの側に寄り添った発言と聞こえた。「閣下はよしてくれ。わたしは協力者でしかないんだから」と苦笑するグエンの声を聞きながら、ロランはもう一度ディアナの横顔を窺った。
膝の上で拳を握り合わせ、じっと一点を見つめている姿に、キエルとして過ごした昨日までの柔らかさはなかった。得体の知れない不安に、つかみかけたなにかが手のひらをすり抜けてゆく寂しさが加わり、ロランはその場に体が沈み込んでゆく感覚を味わった。
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かなり前から気配を察していながら、意識がなかなか覚醒しなかったのは、ベルレーヌの丸い尻に手を置き、弛緩《しかん》していられる幸せを失いたくなかったからだろう。実際、ベルレーヌがベッドを抜け出してからも、キース・レジェは温もりの残るシーツに鼻を埋めて、しばらくは浅い睡眠を貪《むさぼ》り続けていたのだ。
重い瞼《まぶた》を開かせたのは、「キース、起きて。なにか様子が変よ」と耳元で囁《ささや》かれた声だった。ぷっくらしたベルレーヌの唇が緊張にこわ張っているのを見、眠りの波が一気に足もとまで引いたところで、先刻から周囲を包んでいる気配の形が明瞭になった。
松脂《まつやに》が燃える独特の剌激臭と、複数の人が寄り集まって醸《かも》し出す不穏な動揺。窓のサッシから仄《ほの》かな光が差し込み、天井の梁《はり》をぼんやり浮かび上がらせていたが、それが太陽の光でないことは時計を見るまでもなく明らかだった。暗いオレンジ色の光は、間違いなく炎の照り返しによるものだ。火事という最悪の想定が頭をよぎり、キースは反射的にベッドから跳ね起きていた。
いつもなら一日中立ちっぱなしだった足、小麦粉をこね続けた腕がだるさを訴えるはずだったが、この時は感じる余裕はなく、素足に触れた床の冷たさも意識の外だった。状況がわからない時は、極力自分の体を小さくして観察に徹するべし。地球に降下《おり》る前、ディアナ・カウンターで受けた訓練の習い性で姿勢を低くしたキースは、ベルレーヌにも伏せているよう手振りで示しつつ、窓際に体を寄せた。サッシの隙間から外の様子を窺い、火事以上に最悪の想定があったことを思い出して、息を呑んでいた。
事務所兼住居の前、工場棟と小麦貯蔵用のサイロに挟まれた空地が、複数の松明《たいまつ》の炎に埋め尽くされていたのだった。炎の下では、濃い影に塗り潰された数十人の顔が幽鬼のように並んでおり、手に手に握られた鎌や鋤《すき》、斧、猟銃などが、幾何学的なシルエットを地面にのばしている。打ち壊された工場の門の向こうに、数台の馬車が控えているのも確かめたキースは、小さく深呼吸して窓際から離れた。重苦しい不安が腹の底に突き通り、一分前まで幸福をつかんでいた指先が痺《しび》れてゆくのを自覚しながら、慌てる必要はないと口の中にくり返した。
ディアナ・カウンターとの戦争が悪化し、核兵器までが使われたという噂が耳に入れば、遠からずこういう時がくるのではないかと予測していた。落ち着けと自分に言い聞かせ、立ち竦むベルレーヌの顔を見ずに寝室を横切ったキースは、壁際に置いてあるクローゼットの開き戸を開けた。
嫁入り道具の因果を含めて、ベルレーヌの両親が工場の設立祝いに贈ってきたクローゼットには、中折れ式のリボルバー・ライフルがしまってある。ミリシャが制式採用している銃で、護身用にとグエンの伝で譲り受けたものだ。弾丸の箱も取り出そうとして、中身を床にばらまいてしまったキースは、舌打ちを堪えてその場に腰を落とした。サッシから差し込む光を頼りに弾を拾い集めつつ、「おまえは裏から出て、住み込みの連中を起こせ」と棒立ちのベルレーヌに背中で言った。
「騒がないで、落ち着いて行動するよう言うんだ。もし銃声が聞こえたら、裏門からみんなで逃げろ」
指先の震えを止められず、何度も失敗しながらも、どうにかシリンダーに五発の弾を装填《そうてん》することができた。「キース……」と消え入るような声で呟いたベルレーヌに、「いいから! 行くんだ」と押しかぶせて、キースはライフルのストックを元の位置に戻した。
松明の集団が何者であるにせよ、目的はだいたい想像がつく。地球人とムーンレィスを公平に雇い、両軍を相手に商売をしているパン工場の主を吊るし上げるつもりだろう。戦争の恐怖が蔓延すれば当然起こり得る事態で、わかっていながら中立の方針を変えずにいたのは、地球の人間として暮らすムーンレィスであるという、キース個人の事情があるからに他ならなかった。
そうなら、なおさらベルレーヌを巻き添えにするわけにはいかない。彼女は許婚《いいなずけ》の男がムーンレィスであることを知らない。中立を貫いているのは純粋に商売のためだと信じていて、そうせざるを得ない自分の立場についてはなにも知らない。ライフルを肩に吊るし、目を合わせるより先にベルレーヌの肩を抱いたキースは、なにも言わずに一階に下りる階段に向かった。
この数ヵ月で急速に慣れ親しんだ温もり、自分のものになったと思える感触が手のひらに伝わり、もっと愛してやるんだったな……という後悔がこみ上げたが、無視してひと息に階段を降りきった。最後にぎゅっと肩をつかみ、柔らかい肩の手触りを記憶に焼きつけたキースは、次の瞬間にはベルレーヌの背中を押し出していた。
寝巻きにカーディガンを羽織った華奢な体が闇の中で揺れ、数歩進んだところで立ち止まる。振り向き、「無茶はしないで」といった声に、「わかってる」と短く応じたキースは、一度だけベルレーヌと目を合わせてから背中を向けた。しばらくはこちらを見つめていた視線が、意を決して工場棟に繋がる裏口へ去ってゆく気配を背に、事務所の玄関へ歩みを進めた。
すぐに構えられるように、ライフルは銃口を下に向けて戸口の陰に立てかけておく。ここまできたら肝を据えるしかない。深呼吸し、笑う膝をごまかしたつもりになったキースは、勢いよく扉を開けてその場に仁王立ちになった。
松明の熱気、敵意を剥き出しにした複数の視線が、冬の夜気を蹴散らして一斉に殺到してきた。悪意という名の針が全身に刺さったようで、痛みを堪えて足を踏んばり、逃げ出したい衝動をなんとか押し殺したキースは、「こんな夜中に、なんのご用ですか」と、できる限り冷静に切り出した。
「ムーンレィスの職員がいるはずだ。引き渡してもらいたい」
五メートルほどの距離をおいて左右に広がる列の中央、太り肉《じし》の体躯をバックスキンのコートで包んだ中年の男が、両手をポケットに突っ込んだまま応じる。覚えのある姿と声に、キースは「ギッツさん……?」と聞き返していた。
ここからはもっとも近隣に位置する町、カラモートの商工会長を務める男の顔が、決まりの悪さを押し隠して無表情になる。工場設営の認可を取る際にはリベートも支払っているし、建築にはギッツ傘下の業者を使うようにもしてきた。昨日、宿舎増設の件で訪ねてきた時はにこやかに世間話をしていた男が、暴徒の筆頭に立っている現実がすぐには呑み込めず、キースは「なぜです?」と重ねた。
「たしかにムーンレィスの職員は雇ってますけど、問題が起こったなんて話は……」
「黙れ! ムーンレィスびいきが」「問題が起こってからじゃ遅いのよ!」という甲高い怒声は、列の左右から発した。ちらと後ろを振り返り、手にした鋤《すき》を今にも振り上げそうな農夫に目配せしたギッツは、「……昨夜、町内会で決まったことなんだ」と、さも自分は反対したというような口調で答えた。
「月の軍隊が、近々一気に攻め込んでくるという噂がある。骨まで溶かす毒の爆弾の話は、おまえさんも聞いているだろう? そんなもので襲われたら、ミリシャの機械人形があったところでひとたまりもない。その点、ムーンレィスの人間が一緒にいれば、連中も簡単には攻撃してこんだろう」
「そうですよ。だからこの工場は中立地帯になるから、ディアナ・カウンターも攻撃せずに……」
惚けた振りでやり過ごそうとした声は、「それは、君が連中にもパンを売っているからだろう」というギッツの弁に吹き散らされた。もはや逃げ場はないとあきらめて、キースは「……信用できないというわけですか?」の声を搾り出した。
「そうは言わん。だが町全体の安全を考えれば、我々もそれなりの保証が欲しい。ムーンレィスを一ヵ所に集めて、町で管理するようにするんだ」
ムーンレィス職員たちを収監し、ディアナ・カウンターに対する人質にする。吊るし上げは覚悟していても、そこまでの予測は持てなかった自分に舌打ちしたキースは、「無論、最低限の生活は保証する」といったギッツを、呆れる思いで見つめた。
こちらを睨《にら》み据《す》える人の列の中には、通いで工場に働きにきている主婦達の顔もある。昨日までともに働いていた者たちを人質として扱い、盾《たて》代わりにできる人の心理とはなんなのか、パニックにつき動かされた集団心理は、ここまで個人の心をねじ曲げるものなのか。ひたすら呆れ続ける一方、そうならこちらも狡猾《こうかつ》にやるまでだと心に決めたキースは、「……この工場は、ラインフォード家の出資で成り立っているんです」と、最後の切り札を持ち出した。
「グエン卿は、このことを知っているんですか?」
ラインフォード家の威光は、カラモートの町にもあまねく轟《とどろ》いている。ギッツにしても、ラインフォード家を敵に回せば商売が立ち行かなくなるはずだったが、松明の蜃気楼と一緒に立ち昇る集団の憎悪が、それで勢いを弱めるものではなかった。「そのグエンが月の女王とつるんでるって話もあるんだ!」「自分たちの町は、自分たちで守んなきゃなんねえんだ。よそ者のおまえがとやかく口を出すことじゃねえ!」と続けて返ってきた誰かたちの声に、キースは真実、絶望した。
「労働力が減って、経営に差し障《さわ》りが出るのはわかる」
野次が収まるのを待って、ギッツが言う。もうその顔を見返す気力もなく、キースは炎の照り返しで赤く映える地面に目を落とした。恐怖が支配するようになれば、平時の保証はなんの役にも立たない。今まで自分がやってきたことはなんだったのか、地球人とムーンレィスの融和は幻想でしかないのかと考えるうち、いや、自分は最初からそんな幻想を信じてはいなかった、中立を気取って良心を慰めていただけで、結局はベルレーヌとの生活を守るため、体のいい戦争商人になっていたのだという理解が胸を埋めた。
そうでなければ、ベルレーヌに出自を告白できていたはずではないか? それを言ってしまえば嫌われる、自分のもとから去っていってしまうという恐怖が口を拭わせていたのであって、その恐怖は、つまるところ目の前にいる群衆たちと同じ場所に根ざしているのではなかったか。異なるものへの警戒と恐怖。そこから無意識的に発生する差別意識……。
だが、愛しあうことはできた。絶望に塗り込められた胸の中に一点、手のひらに焼きつけた柔らかな感触を見出して、キースは顔を上げた。「我々も若い連中の大半が兵隊に取られている。苦しいのはどこも一緒だ。ここは言う通りに……」と続くギッツの声を遮り、「いやです」とはっきり口にしていた。
「経営の話なんか問題じゃない。盾代わりにするために、大事な職員を引き渡すことなんて絶対にできません」
「相手はムーンレィスだぞ」
「でも同じ人間だ! 笑いもすれば泣きもする、同じ赤い血の通った人間なんだ。それを物みたいに引き渡せっていうのか!」
風が吹いたのか、松明から無数の火の粉が飛び散り、こちらに向かって流れてきた。不安と恐怖を苗床《びょうしょう》にした憎悪が、弾ける寸前の火花を閃かせたようだった。「……キース君。我々も切羽詰まっているんだよ」といったギッツの目も、もういら立ちの色を隠そうとはしなかった。
「言うことを聞けないのなら、君の安全も、女工場長の安全も保証できなくなるが、いいのか?」
女、を強調した声に、感情のメーターが一気に振り切れ、気がついた時にはライフルを引き上げていた。ぎょっと目を見開いたギッツの右隣、慌《あわ》てて猟銃を構えようとした男に銃口を据えたキースは、「………ベルレーヌに指一本さわってみろ」と、久しぶりに出す施設時代の声で言い放った。
「全員、生きてここから出られなくなるぞ」
風向きが変わり、火の粉が松明の列の方に押し流されたが、それも一瞬だった。確認できただけでも三つのライフルが即座に構えられ、暗い銃口がキースを捉える。「落ち着け」とギッツが双方に言ったのは、撃ち合いが始まれば、最初に死ぬ羽目になる自分の立場を自覚しているからに違いなかった。
「君ひとりでなにができる。これは町のみんなで決めたことなんだ」
肉厚の顔が愛想笑いを浮かべようとして、できずに頬をぴくぴく痙攣《けいれん》させる。両手を開いたギッツが、一歩こちらに進み出る気配を感じ取ったキースは、なにも言わずに引き金を絞った。
銃弾がギッツの足もとを抉《えぐ》り、土煙を上げる。ギッツがたたらを踏むと同時に、複数の指が一斉に猟銃の引き金にかかる殺気が伝わったが、すかさず撃鉄を起こしたキースが「動くな!」と一喝する方が早かった。「それ以上、一歩でも近づいたら本当に撃ちますよ」と続けて、キースは銃口を素早く左右に振ってみせた。
勝ち目はないとわかっている。が、今の銃声がべルレーヌの耳に届き、住み込みのムーンレィス職員たちが裏門から脱出するまでの間、時間稼ぎをするぐらいのことはできる。銃口からたなびく硝煙の臭いを嗅ぎながら、キースは頭の芯が冴えてゆくのを感じていた。「バカな真似はやめろ……!」とがなるギッツの声を遠くに聞きつつ、急に明瞭になった群衆の顔をひとつひとつ確かめ、こちらを狙う銃口の数を冷静に数えていった。
「たかがムーンレィスのために、なぜそこまでする必要がある!」
松明の照り返しとは無関係に、顔を真っ赤にしたギッツがわめいていた。もはや怒りも悲しみもなく、キースは、「そうだよな。それがあんたらの本音なんだ」と低く呟いた。
「ムーンレィスは家畜みたいに閉じ込めて、盾にするしか使い道がないってわけだ」
否定も肯定もせず、松明の群れは壁そのものの威圧感をもって立ちはだかっていた。ひきつり、左右に広がった唇が笑みの形になったと自覚した瞬間、キースは腹の底から声を押し出した。
「だったら教えといてやる。このおれも……!」
「やめて! キース」絶叫し、背後に覆いかぶさった人の体温が、すべてに決着をつけるはずの声を阻《はば》んだ。背中に額を押しつけたベルレーヌを振り返り、「放せっ! おれは……」と怒鳴ったキースは、「わかってる。わかってるから、なにも言わないで……!」とくり返された言葉に、今度こそ絶句した。
「あんたはキースよ。それだけであたしには十分……」
腰に巻きつけた腕の力を強くして、ベルレーヌは間違いなくそう言った。衝撃が貫いた後、それまでの緊張の反動のように全身の力が抜けて、キースはライフルの重みに引きずられるまま両手を下ろしていった。なぜやどうしてといった言葉が跳びはね、収拾のつかなくなった頭を必死にまさぐり、おれはバカだの一語をつかまえたところで、その場にがっくり膝をついた。
ベルレーヌも一緒にくず折れ、二人そろって玄関先にしゃがみ込むことになった。張り詰めていた空気がやや和らぎ、こちらを向く銃口のいくつかが下ろされたようだが、確かめる余裕もなかった。自分はなにも見えていなかった、斜めにかまえてわかった振りをしていただけで、こんなにも大きな人の心に包まれていたことに気づいていなかった。その事実に打ちのめされ、引き金から離した指をベルレーヌの指にからめる以外、なにもできない数秒が過ぎた。
どれくらいそうしていたのか、トラックのエンジン音が事務所の裏手に発し、タイヤが軋む音、鉄と鉄のぶつかりあう音がそれに続いた。「ムーンレィスだ! 逃げたぞ」の声が松明の列の中から発し、和らいだはずの空気がざわと揺れるのを感じたキースは、まだ正気が戻りきらない頭をあげた。
住み込みのムーンレィス職員たちが、トラックで裏門をつき倒したのだろう。「追えっ! 馬を出せ」「他にも隠れてる奴がいるかもしれねえ。気をつけろ!」と口々に怒鳴り、四方に散ってゆく松明の炎を見上げつつ、キースは彼らが無事に逃げおおせてくれることを祈った。今という時間、ここという場所がすべてではない。誰もが手を取り合える機会が、まだこの世界にはいくらでも転がっている。そう信じられる温もりを手と背中の両方に感じながら、敷地に乱入してくる馬車の音、人々の怒号を聞いた。
「火をかけろ! ムーンレィスが根城《ねじろ》にしてた工場なんだ、かまうことはねえ」
誰かの口が叫び、それほどの時間を置かずに赤黒い光が背後を染め始めた。白煙とともに焦げ臭い空気が鼻をつき、ベルレーヌを支えてのろのろと腰を上げたキースは、ただひとり、玄関の前に立ち尽くしていたギッツと目を合わせた。
「……警告はしたはずだ」
ぼそりと口にすると、ギッツは鳥打帽に手をやりつつ背中を向けた。腹を揺する震動とともに、事務所の裏手にあるサイロが火を吹いたのはその直後だった。
貯蔵してある小麦粉が粉塵爆発を起こしたのだった。飛び散ったレンガの破片が事務所のガラスを割り、粘っこい炎の舌が壁を舐めるのを見たキースは、ベルレーヌの肩を抱いて玄関を離れた。
夜空を灸《あぶ》って燃え盛る炎は、見る間に工場棟の屋根を焼き、軒を接して連なる宿舎を包んだ。消火という言葉を忘れさせる勢いの燃え拡がり方で、工場前の川原に避難した時には、事務所も全部の窓から火の手を発していた。
上昇気流が火の粉を吹き上げ、さらに強くなった炎がドンキーベーカリー≠フ看板を覆ってゆく。頬がひどく熱かったが、それが押し寄せる熱波によるものか、うちから沸き起こるものなのかは判断がつかなかった。看板が焼け落ちると同時に、軒を支えていた柱が焼け火箸になって倒れ、玄関が燃える木材で塞がれるのを見たキースは、自分でもわからずに「おれの工場が……」と呟いていた。
「また建てればいいじゃない」
そう言って微笑んだベルレーヌの顔は、煤《すす》に汚れて黒ずんでいた。イヤリングのひとつ、化粧品のひとつも買ってやれないまま、振り出しに戻ってしまった。目を合わせた途端、精一杯律してきたなにかが音を立てて崩れ、キースはその胸に頭を埋めた。
両の目からこぼれ落ちる涙は、永遠に止まらないのではないかと思えた。ベルレーヌの手がやさしく頭がなでてくれるのを感じながら、キースは、死ぬまでこの女を愛そうと決めていた。
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ひとつの環境に慣れ過ぎると、そこでの生活や規則がすべてになって、組織全体を客観視できなくなるものだ。数日ぶりに〈ウィルゲム〉にやってきたフラン・ドールと言葉を交わして、ロランはそのことを痛感させられていた。
「ガス……?」
「間違いないわ。発掘現場にいって、この目で確かめてきたんだから。他にも細菌兵器らしいカプセルが掘り出されてるんだって」
そう言うフランの皮帽子はこびりついた砂埃で汚れており、黒目がちな目も疲労の膜をかぶって曇っているように見えた。彼女がフロリャ領の首都・ミャーニに立ち寄ったのは、フロリャ支局に転勤した新聞社の同僚の引越しを手伝うためで、マウンテン・サイクルVの存在を知ったのはまったくの偶然だという。顔見知りのイングレッサ・ミリシャの士官と、フロリャ領の高官が同じ車に乗っているのを目撃し、尾行してみたところ郊外の山中にある発掘現場にたどり着いた。すでに数機のモビルスーツが発掘されている他、奥の方ではナノスキンの滓に埋もれ、それ自体が巨大なハゲ山と化した貯蔵庫が発見されており、広大な地下空間の中、VX≠竍GUSOH≠ニ表記された真新しい銀色のカプセルが、ぎっしり収まっている光景があった――。
「なにも聞いてないの?」
じろりと動いた詰問の目は、職業意識に支えられた好奇心ではなく、純然とした怒りを孕《はら》んで向けられた。胸の芯に氷を当てられたようで、ロランは慌てて「知らないよ」と答えた。
「新しいマウンテン・サイクルが見つかったって話も、一昨日聞いたばかりなんだから……」
そう、そしてその時に、「『黒歴史』に新しい解釈が見つかった」というグエンのセリフも聞いていたのだった。〈ウィルゲム〉の補修作業に追われ、深く考えようとしなかった自分に恥じ入りつつ、ロランは脇に置いたレーザー溶接機のバッテリーを切った。
全長百メートル、全幅《ぜんぷく》七十数メートルの長大な三角形を描く〈ウィルゲム〉の露天甲板上では、他にも数人のミリシャ兵とムーンレィス技師らが溶接機のバッテリーを担い、レーザー光を閃かせている姿がある。前回の高々度テスト飛行の際、船体の気密処理に不備があることが判明したからで、限られた人員をやりくりして鋼鉄の小山を這い回り、装甲板の継ぎ目にレーザーを当てる作業が続いているのだったが、その一方でミリシャという組織そのものが空気漏れを起こし、上層部の考えがまったく伝わらなくなっていたのだから、笑うには重すぎる話だった。
グエンが言う「黒歴史」の新しい解釈とは、終焉の時に世界を覆ったとされる災厄――業火≠ニいう言葉に代表される神話的カタストロフの数々を、文学上のフィクションではなく、大規模破壊兵器の威力を語った言葉であると認識して、旧世界が滅亡に至った経緯を再考察するというものだろう。文字通り大山を消失せしめたロスト・マウンテンの核爆発を見れば、同様の最終兵器が他にも存在すると考えるのも無理はない。問題は、ミリシャがそれらの兵器を発掘し、原理も効果もわからないまま実戦に投入した場合、赤子が刃物を振り回すのも同然の結果になりかねない――いや、確実にそうなると断言できる点にあった。
「写真も撮ったけど、握り潰されたわ。ラインフォード家の圧力でね」
吐き捨てると、フランは背後の装甲板に背中をついてため息をついた。ちょうど艦首メガ粒子砲が収納されている箇所で、展開時に反射鏡《リフレクター》の役を果たす装甲板には、危険 物を立てかけるな≠フ注意書きもしてある。ヤーニに見つかったらどやされると思ったが、下手に注意すればひっぱたかれそうな雰囲気だったので、ロランは気づかない振りでフランから目を逸らした。
口より先に手が出やすい姉御肌《あねごはだ》といっても、触れれば切れそうな今のフランは、施設で一緒に遊び回っていた頃とは明らかに違う。みんな変わってしまった……といつもの感慨を持ち出し、いつの間にか最終兵器の発掘を開始していたミリシャにしろ、変化の予兆を感じ取っていながらなにもできず、結果を突きつけられてから戸惑うしかない自分はなんなのだろうと、こちらも重いため息をついた。
「ディアナ・カウンターも各地で発掘作業を強化してる。ロスト・マウンテンの他に、核兵器が埋蔵されている場所が発見されたって噂もあるわ。このままいったらあたしたち……」
フランが言葉を切ったのと、ロランが背後の気配に気づいたのはほとんど同時だった。振り返り、洗濯|籠《かご》を抱えたディアナと目を合わせたロランは、反射的にまずいと感じた。
髪にウェーブをかけ、ドレスの上に袖付きのエプロンを重ね着したディアナは、一見ではキエルと区別がつかない格好をしている。『ハリーとともに拘留しなければ士気が乱れる」と訴えるミリシャ陣営と、『ディアナを捕虜扱いにすれば協力をやめる」と宣言したムーンレィス技術者の間で板ばさみになったグエンが、ディアナとわからない姿でいれば問題ないと判断した結果だが、ロランには、瞳の光の映し具合から二人を見分けることができた。
フィル少佐の宣戦布告ともいえる演説が放送されて以来、ディアナ・カウンター政変の噂は瞬く間に全土に広がり、ディアナの所在についてさまざまな憶測が乱れ飛んでいる時だったから、どうとでも取れるよう配慮したグエンの処置は賢明なものと言えた。お陰で〈ウィルゲム〉には二人のキエルがいることになり、本物のキエルはグエンの秘書を、ディアナはこれまで通り炊事や洗濯に立ち働いているのだったが、日々混迷の度合いを増してゆく状況を横目に、その心申が穏やかであるはずもなかった。
船体の後部左右、円筒状に隆起したモビルスーツ格納庫の前には、物干しを設置するのにちょうどいいスペースがある。そこに洗履物を取り込みにきて、今の話をすっかり聞いてしまったらしいディアナは、恐ろしいほど無表情な目をこちらに向けたのも一瞬、洗濯龍をその場に置いて背を向けた。フランと顔を見合わせ、まずいという直感が形になるのを感じたロランは、「ディアナ様……!」とその背中に呼びかけた。
応える様子もなく、ディアナは足早に艦内に続くエアロックをくぐってゆく。白いエプロン姿が、暗灰色の甲板を背景にひどく浮き立って見えた。
「いかにも。先日の核爆発で、『黒歴史』の記述に思った以上の事実が含まれていることがわかりましたのでね。災厄の記録が残っている土地を重点的に当たらせてみたんです。死の霧≠ニか、土を腐らせる粉≠ニかの伝説が残っている土地をね」
グエンの顔には一点の曇りもなく、声にはあっけらかんとした明るさまでが漂っていた。思った通り、その足でグエンの執務室に赴いたディアナを追い、ことの真相を確かめたロランは、あまりの屈託のなさに馥を立てる以前に恐怖を感じた。
「それらの遺物を手に入れて、グエン卿はなにをなさるおつもりなのです?」
対照的に冷たい声で、ディアナが問いを重ねる。もとは艦長室として使われていた五メートル四方の空間は、グエンの趣味でワインレッドの絨毯が敷き詰められた上、間接照明などの家具や絵画までが持ち込まれて、高級邸宅の一室といった様相を呈している。マホガニー製の執務机の向こうに構えたグエンと、エプロン姿のディアナが対面する光景は、事情を知らない者が見れば主人と召使いが話し合っているようで、それがロランには少し不快だった。秘書然としてグエンの傍らに立つキエルが、ほとんど目を合わさずにじっと中空を見据えているのも、そう思える一因だった。
「和平交渉実現の前提として、バランスシートの維持は欠かせません。ディアナ・カウンターが核兵器の発掘を開始しているなら、我々も相応の備えをする必要がある。軍隊には軍隊。機械人形には機械人形。核兵器には……」
「それでは絶滅戦争をくり返すだけです!」
初めて聞く激しい声がディアナの口から発し、ロランはびくりと肩を震わせた。グエンの表情から笑みが消え、無関心を装ったキエルの目が微かに動くのがわかった。
「……この戦争の遠因は、私たちムーンレィス側の政治的混乱にあることは、以前お話した通りです」
精一杯感情を押し殺し、冷静に続けるディアナの背中がロランの目に痛かった。なにも手伝えない自分を情けなく思う間に、「例の、アグリッパ・メンテナーとかいう摂政ですか?」とグエンが応じていた。
「そうです。いたずらに戦争を激化させるのであれば、その力を病巣の排除に煩けた方がよいとは考えませんか?」
「我々にアグリッパを討て、と?」
「ミリシャの力を借りようとは思いません。この〈ウィルゲム〉と〈ターンA〉、それに〈スモー〉をお貸し願えれば、私が直接月に赴《おもむ》いて決着をつけます」
きっぱりと言いきったディアナの声に、ロランは虚をつかれた思いでその横顔を見た。すでに聞かされていた話であっても、他人を前にあらためて宣言される感覚は別物だった。グエンもさすがに驚きを隠せない様子で、「……月の全権|掌握《しょうあく》を目論《もくろ》むアグリッパが、それほどたやすい男とも思えませんが」と、かすれ気味の声で言っていた。
「月にいる限り、ムーンレィスは本能的に争いを拒みます。環境を維持するシステムがなければ、真空の月では一秒たりと生きてゆけないと体が知っているのです」
エプロンの結び目で飾られた背中を微動だにさせず、ディアナが答える。グエンがちらりとこちらを見たのに気づいたロランは、慌てて口もとを引き締め、直立不動の姿勢を取った。自分にもその覚悟があると示さなければ、ディアナが孤立してしまうと考えたからだった。
「ディアナ・カウンターの中に好戦派が現れたのは、アグリッパがそのように策動したからというだけではなく、地球という新しい環境を手にして、ムーンレィスの中に封じ込められてきた闘争本能が目覚めたからでもあります」机の上で拳を重ね合わせたグエンを見下ろしつつ、ディアナは言葉を継いだ。「しかしそれは、地球に降下《おり》たムーンレィスにのみ起こった変化。本質的に争いを拒むアグリッパたちに、自ら戦争をする体力はありません。本来の統治者である私が月に戻り、残存するディアナ・カウンターの戦力を糾合できれば、アグリッパの打倒は可能です」
ディアナの名を知らないムーンレィスがいないのと同様、アグリッパ・メンテナーの名を知らない者もまた月にはいない。ディアナの論法に納得する一方、アグリッパは依然、自分のような平民とは終生無縁な雲上人としか思えないロランは、戸惑うものを感じた。その気配を感じ取ったのか、わずかに顔をうつむけたグエンが、「理屈はわかりますが……」と反論の口火を切っていた。
「しかし理屈はどこまでいっても理屈だ。その理屈に従って地球降下作戦を実行した結果が、今回の戦争を引き起こしたのではなかったのですか?」
のらりくらりとした態度で相手の出方を窺い、隙があれば痛い場所を容赦なく突いてくる。グエンの得意技だった。「……おっしゃる通りです」と言ったディアナの拳がぎゅっと握りしめられ、ロランも胸が締めつけられる思いを味わった。
「だからこそ、この決着は私の手でつけたいのです。この身がどうなろうとも……」
呟くように重ねたディアナの腰がすっと落ち、片膝が絨毯につくと、膝を屈するという表現そのままの姿が目前に現出した。なにを見ているのかすぐにはわからず、ただ目と鼻の間が急速に熱くなって、視界がじわりと滲むのをロランは知覚した。
ディアナに憧れ続けてきた自分、その存在をより所にするムーンレィスの心すべてが否定され、汚されてしまったと感じたのだった。やめてくれと叫びたかったが、口をついて出たのは「ディアナ様……」という、今にも泣き出しそうな声だけで、ロランはどうすることもできずにその場に立ち尽くした。ディアナは垂れた頭を上げようとせず、グエンが「おやめなさい」と言うのを受けて、ようやく少しだけ顎を上げた。
「一国の統治者が膝を折って懇願《こんがん》なぞ、それこそ卑怯というものです」
めずらしくいら立ちを露にした声は、膝を折ったディアナに対してではなく、多少でも心を動かされた自分自身に向けられたものと聞こえた。席を立ち、ディアナの手を取って半ば強引に立たせたグエンは、目を合わせるのを避けてすぐに背中を向けた。
「……ご自分の手とおっしゃるが、〈ウィルゲム〉と〈ターンA〉はミリシャの中核戦力です。それを貸せば、少なくともイングレッサ・ミリシャは裸も同然になる。そのリスクに見合うだけの対価が、今のあなたに支払えるのですか?」
再び椅子に戻り、立ち尽くすディアナを見上げた時には、いつもの怜悧な色がグエンの瞳を覆っていた。自分の立場で口を挟めることではなく、ロランは助けを求める視線をキエルに送ったが、傍観者に徹した顔は一点を見つめたまま動かず、こちらの目を見返すことさえしなかった。
秘書としてのスタンスを守っているのだとしても、ディアナとして数ヵ月を過ごし、建国式典でその理念を余すことなく語ってみせたキエルが、夜の月のように冷たい表情をしているのが理解できなかった。いったいなんだ、とその顔を凝視した途端、「思いつかないのでしたら、わたしの口から言いましょう」とグエンが沈黙を破って、ロランはそちらに視線を戻した。
「月の科学技術、そのすべてを開示して、無条件で我々に供与すること。それが〈ウィルゲム〉と〈ターンA〉をお貸しする絶対条件です」
隠し持っていたナイフの切っ先が、いきなり喉元に突きつけられた感じだった。落とし穴に嵌《は》まってしまったと実感するより早く、「……進みすぎた技術が、戦争をより凄惨なものにしていると知っても、月の科学技術を欲しいとおっしゃる?」といったディアナの声が、抑制した怒りを秘めてロランの耳に響いた。
「自衛手段ですよ。この先、我々がどうがんばったところでムーンレィスの地球帰還を食い止めることはできない。いずれは入植を認めなければならなくなるでしょう。その時、両者の文化水準に極端な隔たりがあるのは、我々にとってあまりにも危険です」
「地球の文化が月の文化に併呑される可能性を危惧しておられるのなら、それは杞憂《きゆう》です。私たちは地球の文化を尊重しています。帰還が実現すれば、ムーンレィスは地球の文明レベルに合わせた生活をするというのが、当初からの理念です。科学技術は自然環境の復興にのみ利用して、地球の文化の保護育成を……」
「合わせるとか、保護するという言葉が出てくること自体、すでに十分に支配的なのですよ。第一、それこそ理屈だけの論法だとは思いませんか?」
押し黙るディアナの後ろで、ロランもまた返す言葉のない沈黙の時間を漂った。いっさいの科学技術を封印した地球と、科学技術に依存して生を紡いできた月。二つの星がそれぞれ両極端の道をたどってきたのは、旧世界の人々も人と文明、文明と自然の適正値を見出せなかったからに違いなく、つまるところ、人は中庸で立ち止まるということを知らない生き物なのだろう。いちど便利を知ってしまえば不便には戻れないし、発展を否定して己を抑制し統ける生き方も、決して人間的な対処とは言えないのだから。
にもかかわらず、地球帰還作戦を強行し、その過程を通して両者の間に中庸が見つけられると信じたディアナは、楽天的に科学文明を礼賛するグエン同様、なにか致命的な見落としをしてきたのではないか。そう思うと目の前が暗くなり、足場がなくなるような不安に襲われもするのだが、少なくともディアナには、自らの行為を疑う謙虚さがあるとロランは知っていた。
急ぎすぎたかもしれない過去の過《あやま》ちを認め、身を賭けて現在の間違いを正そうとしている。その誠意が感じられる限り、ディアナは依然、命を預けるに足りる女王だと再確認したロランは、「ですから、地球の文明の底上げが必要なのです」と続いたグエンの言葉を、冷静に受け止めることができた。
「戦争という一局面ですべてを判断するのは愚かです。ムーンレィスが二千年にわたる王国を月に築いてきたように、科学技術には生物としての人間を補完するプラスの面がある。『黒歴史』のよい部分だけを学んで、利用すればいいのですよ。その力をよりよく使ってこそ、人類は本当の意味で世界を手に入れられるはずです」
そこでいったん言葉を切ったグエンは、「そうでなければ、あなた方ムーンレィスは、なんのために文明の灯を絶やさずにきたのです?」と締めくくって、革張りの椅子に背を預けた。その頬には論破の喜悦が刻まれていた。目を閉じ、わずかに顎《あご》を引いてみせたディアナは、「そうしなければ生きてこられなかったから……というのでは、答えになっていませんね」と自嘲気味に呟いてから、不意に顔を上げた。
「理由はあります。でもそれは、あなたがお考えになっているようなことでは決してありません」
くず折れそうだった声音に固い芯が宿り、グエンだけでなく、キエルの顔にも微かな驚きが浮かんだ。女王と呼ばれる者が持つ威圧感がディアナの背中から膨れ上がり、部屋の空気を圧したようで、ロランも無意識に固唾を飲み込んでいた。
「世界を手に入れるのではなく、世界の一部である自らを認識して、穏やかに時を紡ぐ術を地球の民は会得していたはずですが……。いいでしょう」
もはや苦渋はなく、相手を見下す冷たささえ漂わせて、ディアナの声が一同の耳を打った。
「〈ウィルゲム〉と〈ターンA〉、それに〈スモー〉を借り受ける対価として、月の技術の無条件供与を認めます」
修正も変更もあり得ない、それ自体が法的効力を持つ女王の声だった。その瞬間、これからの自分の行く先が決まった、状況に流されるだけの体が一方向に進み始めたと覚悟したが、思ったほどの高揚感はなく、むしろ重石がひとつ増えた息苦しさを覚えている自分に、ロランは戸感った。
女王としての義務、地球と月の反目に象徴される人と自然、科学技術のあり方の問題。それはそれで大事なことだとわかってはいるが、命を投げ出す動機としてはどこか曖昧で、捉えどころがないとも思う。あの華奢な手のひらの感触、思わず可愛いと口走らせる健気さを感じさせてくれれば、もっと単純に身を捧げられるはずなのに。そう思い、自分のいい加減さにうんざりする間に、統治者の威厳を背負ったディアナが言葉を継いでいた。
「その代わり、グエン・サード・ラインフォード。あなたにも月に同道していただく。『冬の城』にくれば、その慢心が滅びの源であると理解できるでしょう」
聞く者の心身を貫き通す、氷の刃のような声が発し、これが一国家を束ねる者の声かと感動する一方、ディアナとの距離がまた開いた寂しさも感じて、ロランは少し悲しくなった。椅子のひじ掛けを握りしめ、じっとディアナを見返していたグエンは、やがて「願ってもないことです」と白い歯を覗かせた。
「科学文明の粋を集めた月の都市……さぞかし素晴らしいものなのでしょうからね」
しかしその目は笑っておらず、白くなるほどひじ掛けをつかんだ手のひらもそのままなのだった。能天気という名の仮面をかぶり、硬直してしまったかのようなグエンから視線を外すと、ディアナは無言で執務室を後にした。
ロランもその後に続こうとして、最後にもう一度、グエンの横に立つキエルを見た。グエン以上に強固な殼で覆われている顔が能面のように美しく、また恐ろしくもあった。
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「……大尉。ハリー大尉」
その声は、強化絹《ハイシルク》でコーティングされた扉の向こうから聞こえた。気がついた時には固いベッドから跳ね起きていたハリーは、続く一動作で扉脇の壁に背中を押し当て、外の気配を探ることに努めた。そのまま五つを数えてから、微かな光を漏らす食事の差し入れ口に顔を近づけ、「ディアナ様か?」と聞き返した。
軍規に違反した者、長期間航行で精神に異常をきたした者を拘置する収監室は、二メートル四方の空間すべてが自傷防止用のハイ・シルクで覆われている。天井の一角には監視カメラも据えられていて、被拘置者の動向を把握できるようになっていたが、配線がいかれているのか、あるいは監視に割く人員がいないのか、使用されている様子はなかった。
どだい、ディアナ拉致の汚名を着せられた上、おめおめ敵陣に逃げ延びたような士官に他に行く当てがあるはずもない。呆れるほどいい加減な監視――食事には鉄製のフォークが添えられ、返却の時になくなっていても咎められない――の隙をつき、いざという時の脱出の算段を整えてもみたが、ディアナの安全が保証され、いざ≠フ具体的な形が見えなくなってからは、それも無用の長物と化している。後は自分の身柄がどう扱われるかという問題だけで、処刑されるにせよ、ディアナ・カウンターとの取引材料に使われるにせよ、今さら慌てても始まらないと腹をくくっていたハリーは、深夜、人目を避けるようにして会いにきたディアナの声に、久々に浮き立つものを感じた。
これまでも食事の差し入れにきたことはあったが、見張りの兵を交えず、二人だけで話すのは初めてだった。いざ≠ニいう時が来たのかもしれないと思い、ベルトのバックルで削ったフォークの感触を袖口に確かめる間に、「今日、グエン卿と話をしました」といったディアナの声が、差し入れ口の隙間から流れていた。
「私はこの船で月に戻ります」
「月に……?」
「アグリッパと対決するためです。しかしミリシャの力は当てにできません。大尉の力が必要です。手伝ってもらえますか?」
可能、不可能を考える必要はなかった。「無論です」と即答したハリーは、「ありがとう。そう言ってくれると信じていました」と返ってきた声を、全身で受け止めた。
「問題はその後です。グエン卿は、この船を貸し出す条件に月の科学技術の供与を要求しました。あの男にムーンレィスの技術力を渡すのは危険です。わかりますね?」
ディアナが危険と感じるものは、いかなる犠牲をもってでも排除するのが親衛隊の任務。ハリーは「わかります」と答えた。
「その時がくれば、ディアナ様のよろしいように致します」
「頼みます。それと、キエル・ハイムも油断がなりません。私と同じ姿をしている者が、グエン卿のそばにいるのはおもしろくありません」
順調に回り始めた歯車に異物が引っかかり、ハリーは逸る心にブレーキをかけた。なにがどう、とは明示できない違和感が口の中に広がり、それを呑み下すより先に、「私の代わりを務めていた時には、大尉がサポートをしてくれていたと聞きますが……」とディアナの声が続いた。
「その時がきたら、キエル・ハイムのこともあなたに任せてよいのでしょうか?」
もはや間違いない。親衛隊の職務を離れても、ひとりの男としてディアナを見てきた自覚のある自分には、扉の向こうにいる違和感の正体がわかる。しばらく黙した後、ハリーは確かめるための口を開いた。
「この船で月に行くとなれば、ザックトレーガーを利用しなければなりませんが。手配はできているので?」
「ザック……?」思わずというふうに聞き返してから、はっと口を噤む気配が扉ごしに伝わった。〈ソレイユ〉にいた頃にかなりの知識を蓄えてはいても、付け焼き刃の勉強ではザックトレーガーにまで手が回るはずもない。やれやれ……の思いを軽い嘆息に込めて、ハリーは「お戯れを、キエル嬢」と言ってやった。
それきり、空調の音だけが大きく聞こえる沈黙が下りた。ともに〈ウィルゲム)に身を寄せて以来、キエルと口をきくのはこれが最初のことになる。人並みに恋愛の悲喜を経験している身には、彼女が自分をどう捉えているかはだいたい察しがつくし、今まで会いに来なかった理由についても自ずと想像がつく。このような話を仕掛けてくる心情もわからないではなかったが、今はもう関わりたくない、面倒だという思いの方が先に立った。
ハリーは、「どういうつもりです?」と重ねて、キエルが立ち去ってくれるのを待った。
「……先に質問をしたのは私です」
意外というべきか、キエルはその場に踏みとどまって逆に聞き返してきた。予想外の粘りけにひやりとしながらも、ハリーは、「わたしは、ディアナ・ソレル閣下の理想に殉じると決めた男です」と、とどめの言葉を吐いた。
「それが答えです」
さすがに後味の悪さに閉口する思いだったが、嘘を言ったつもりはなかった。ディアナ・ソレルが体現する理想を愛すと言いながら、いつしか生身の魅力に取り憑かれ、後戻りできなくなっていた自分だ。決して同じ目線に立てない相手なら、せめてその理想に添い遂げてみせるしかない。これもディアナのような女に惚れた因果だと思い、ハリーは今度こそキエルの気配が消えるのを待った。
差し入れ口から漏れる通路の光が一瞬だけ陰り、遠ざかってゆく足音がそれに続いた。人でなし、と言っているように聞こえる足音を耳にしながら、ハリーは何度目かのため息を吐いた。
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火事場特有の臭いというものがある。単に物質が燃えただけではなく、そこにあった人の生活を根こそぎ奪い、焼き尽くした後に残る陰惨な臭いだ。
ロランが初めてその臭いを嗅《か》いだのは、半年前、ディアナ・カウンターの侵攻が始まって一夜が過ぎた後。ビームの擦過で町の半分が焼け野原になったビシニティをさ迷い、体中にこびりついた火事の臭いを消そうと、レッドリバーで水浴びをしたものだった。傍らにはノックスから疎開してきたキースがいて、〈ターンA〉のこと、戦争のこと、これからのことについて、わからないなりに必死に考えようとしていた……。
「粉塵爆発っていってさ。水をかけたぐらいじゃなかなか消えないんだよ。サイロが吹っ飛んで、工場と事務所に飛び火して……。あっという間さ」
そのキースが、今は煤《すす》に汚れた顔をうつむけ、焼け焦《こ》げたドラム缶の上に腰かけていた。すぐ横には半分炭化したドンキーベーカリー≠フ看板が瓦礫の山から覗いており、冗談のようにそれだけ焼け残った食堂の長テーブルが、水を吸って野ざらしになっているのが痛々しい光景に見えた。
枯れ木さながら乱立する柱の向こうでは、膝までスカートをたくし上げたベルレーヌが焼け跡の中に座り込み、使えそうな食器を拾い集めている姿がある。焼き討ちにあってから二昼夜、ムーンレィス職員たちは暴徒の襲撃を警戒していまだ戻れず、キースとベルレーヌだけが工場に居残って、焼け跡を片付けながらテント生活をしているのだという。半日限りの休暇をもらい、久しぶりにパン工場を訪れたロランは、疲れきったキースの口から工場が全焼した経緯を聞かされたところだった。
話を聞いても、ロランにはキースが味わった恐怖や絶望のすべてを実感はできず、ただ全焼した工場の惨状を見て、それが間違いなく現実に起こったことだと曖昧に理解する程度だった。戦争は局囲の事象すべてを巻き込む性質を持っていて、中立を目指したキースのパン工場にしても例外ではあり得なかった。総攻撃の準備を進めるディアナ・カウンター、グエンとディアナの結託といった噂の数々が、戦争の周辺で暮らす市井の人々にとっては死活問題になり、きっかけがあれば簡単に集団ヒステリーに転化する。そのひとつの結果として目の前にある焼け跡は、これが善悪で割り切れる事象ではないことをロランに教えていた。
焼け落ち、消し炭の塊になった工場も、光の当たり具合によっては黒曜石のようにきらきら輝いて見える。美しさと醜さ、やさしさと厳しさが表裏一体になって、時々の風向きで現れ方を変える。それが人であり、その揺らぎを失ってひとつの観念に縛られた瞬間から、人は過ちを犯すようになるのだろう。祖先の夢に固執し、現在の幸福を追おうとしなかったウィル・ゲイムしかり。自らの血を呪い、狭い怨念に自分を閉じ込め続けたテテス・ハレしかり……。
あのふっくらしたパンの香り、キースの夢の結晶が一夜で灰燼に帰した現実を悲しい、悔しいと嘆いても、それは個人の中で終わらせるべき感情であって、他人に怒りをぶつけても始まらない。怒りは憎悪を呼び、憎悪は常に新たな流血を欲する。この半年でその力学を学んだロランは、だから同情の言葉を並べ立てるようなことはせず、「あてはあるの? これから」とだけ聞いた。キースもそれはわかっているのか、「多少の蓄えはあるし、まあなんとかするさ」と明るい声を返してきた。
「月に戻る気があるんだったら、頼めば〈ウィルゲム〉に乗せてくれると思うよ」
月行きが通達されて以降、補修作業やクルーの選抜、初歩的な宇宙飛行訓練といった雑事に追われ、〈ウィルゲム〉はにわかに喧噪を増している。ロランにしても、午後には戻る約束で抜け出してきた身だ。宇宙飛行の経験者で、賄いの腕も確かなキースなら即戦力になるはずだったが、返ってきた返事は「いいよ」だった。
「ディアナ様がアグリッパとやり合うなら、月だって内戦みたいになるんだろうし。おれはこっちの方が性にあってる」
そう言って、キースはあかぎれに覆われた手で顔をごしりとこすった。その物腰も達観ぶりも、自分とは異次元の大人のものとしか思えず、ロランは「強いんだな、キースは」と正直な感想を言った。
「そりゃおまえの方だよ。悪かったな、いつかは」
「え?」
「パイロットなんて、らしくないって言ってさ。うちの仕事を手伝えだなんて……。それが、今じゃディアナ直属の親衛隊だもんな。すげえよ」
ディアナの手伝いをするということが、人からはそういうふうに見えるのか。単純に感心した後、くすぐったいような、恐れ多くて身が縮まるような気分を漂ったロランは、「そんなんじゃないよ。ぼくはただ……」と顔をうつむけた。「いいんだよ」といったキースの顔には、今日初めて見せる笑みが浮かんでいた。
「おまえ、昔から普通じゃないとこあったもんな。ぼーっとしてるようで、意外と見るとこ見てて。大物になるんじゃないかって、おれは密かに期待してたんだぜ?」
「そんな……。キースこそすごいよ。ぼくにはとても真似できない」
地道に経営計画を立て、人を使って商売を切り盛りしてゆく才覚は、自分にはないと思う。そういう情熱さえ待った試しはなく、周囲の人の動きに目を白黒させている自分は、結局、いつでも傍観者でしかなかったのだろうと、ロランは不意につかみどころのない自責の念にとらわれた。今に始まったことではなく、昔からそうだったのかもしれない。遠い「冲」にあるはずのない理想郷を夢見、日がな一日埠頭に座り込んでいたあの頃から、ずっと。
「まあ、おれは馬力任せで行くしかないからな。養ってかなきゃなんない家族もあるし」
キースの目線の先で、ベルレーヌが集め終わった食器を木箱に詰めていた。これもまた無縁な家族という言葉の響きに、ロランは負い目を上乗せされたように感じた。
「そのうちまた御曹子から金を引っ張り出して、工場を再建してやるさ。グエンさんも月に行くんだろ?」
抽象的な自責の念は霧散《むさん》して、膝を屈したディアナの姿がロランの脳裏を埋めた。そうなるに至った経緯を説明する気にはなれず、ロランは「……そう聞いてる」と言葉を濁《にご》した。
「あの人のことだから、月に行ったらまた大量にムーンレィスの技術者を雇い入れるだろ。そしたら向こうの技術力を使ってさ、最新式のオートメーション工場を……」
「それは違うよ」
考えるより先に口が動き、自分でも驚くほど強い声でロランは言ってしまった。
「キースのパンは、キースが焼くからうまいんだ。機械で作ったパンなんて、誰も食べたくないよ」
一方的であることも、商売の現実を知らない者の押しつけであることもわかっている。が、そうでなければディアナが悲しすぎるという思いに押されて、ロランはバカ正直に重ねていた。呆気に取られた様子で目をしばたかせ、ふと神妙な顔つきになったキースは、「……そうだな」と小さく呟いた。
こちらの思いがどこまで伝わったのか、その後、昔と同じ顔で笑ったキースを見ればどうでもよくなった。こわ張っていた頬の筋肉が弛《ゆる》み、ロランも久しぶりに声を立てて笑った。焼け野原に二人分の笑い声が響き、「男二人で、なにがそんなにおかしいのよ?」とかけられた声が、それに混ざった。
振り返った目に、フラン・ドールの姿が映った。「フラン……」と言いかけた声が詰まったのは、動きやすさが身上のニッカボッカ姿ではなく、パフスリーブのブラウスにスカートを履《は》いていたからで、そんなフランを見るのはロランには初めてのことだった。どぎまぎしているのはキースも同じらしく、「女みたいな格好してんじゃないか」といった憎まれ口は、ちょっとかすれて聞こえた。
それには応えず、「聞いたわ。大変だったわね」と言いながら近づいてきたフランは、振り返ったベルレーヌに軽く手を振ってから、「ロランも……」と続けて黒目がちの瞳をこちらに向けた。自分たちの月行きはもう周知の事実なのだなと再確認して、ロランは曖昧な笑みを返しておいた。
「今日はこれはないのか?」カメラを持つ振りをしたキースが、湿りかけた空気を吹き散らす能天気な声を出した。「ミリシャの華ローラ・ローラ、友人の火事場見舞いに赴く≠チてさ。書きようによっちゃいい記事になるかもしれないぜ」
「もういいの。辞めてきちゃった、あたし」
あまりにも簡単な口調だったためか、脳が言葉の内容を理解するまで数秒の時間がかかった。キースと顔を見合わせてから、ロランは「辞めたって……」と聞き返すともなく呟いた。
「なにを書いても握り潰されるから、ヤケ起こしたってわけじゃないのよ。あくまでも一身上の都合。近いうちにフロリャに越すから、今日はそれを言いに来たんだ」
「……そりゃまた、急な話だな」とくぐもった声で言ったキースに続いて、ロランも「新しい仕事のあてでもあるの?」と重ねた。目を伏せ、はにかんだフランの顔が、「ま、仕事っていえば仕事かな」と、照れ隠しのぶっきらぼうな声で答えた。
「女にとってはいちばん大変で、いちばん大切な仕事かも……」
そう言った時のフランは、内から滲み出る幸福で染め上がっているように見えた。いちばん大変でいちばん大切、と頭の中にくり返し、掃除、炊事……と家事一般を思い浮かべる間に、「そうか……!」とキースが声を張り上げて、ロランは意味もなくどきりとした。ドラム缶から腰を上げたキースは、喜びをどう表現していいのかわからない様子で、フランの頭から爪先までを何度も見返していた。
「なんかさ、ちょっと太ったんじゃないかって、ベルレーヌとも話してたんだ。いつなんだよ?」
「失礼ね。まだまだ先よ。一昨日お医者さんに行ってきたばっかりなんだから」
お医者さん、の一語が脳味噌に突き立ち、ロランも遅ればせながら事態を理解した。妊娠という、一瞬前までは縁もゆかりもなかった言葉が突然生々しさを帯び、頭の中で熱を放ち始めて、頬が赤くなるのが自分でもわかった。
「あ、で、でも、お父さんは誰なのさ?」
混乱した頭がとりあえずの疑問を言葉にすると、つかの間きょとんとなったキースとフランの顔が同時に吹き出していた。「おまえ、なんにも知らないんだな」といったキースの声もろくに耳に入らず、ロランはさらに赤みの増した顔をうつむけた。
「ボツになったけど、フランが初めて書いた記事、見たろ?」
「あたしと連名で載ってた名前の人よ。ノックス・クロニクルの先輩記者」
そう説明したフランは、次の瞬間には軽くキースを睨《にら》みつけて、「キースはなんでわかったのよ?」と詰め寄った。「そいつのこと話す時の顔を見りゃわかるよ。おまえ、いつでも惚れたら顔に出るもんな」「嘘! ベルレーヌの入れ知恵でしょ」と続くやりとりを前に、ロランは、こびりついていた氷の膜が一枚一枚はがれた胸が、ほんのり温かくなるのを感じていた。
このところフランがぴりぴりしていたのはそのためかと納得すれば、なにもかもが変わってゆく寂しさ、切なさも、茫洋とした希望を運んでくるように思えるのだから、人の感覚などいい加減なものだった。こんなことのくり返しで時間を埋められるのなら、それだけで人は十分幸せに生きてゆけるはずなのに……。
「元気な子を産めよ。月と地球のかけ橋になるベビーなんだから」
フランの肩に両手を置いて、キースが兄貴分らしい声を出していた。壮大な発想に面食らいながらも、テテス・ハレの横顔を思い起こしたロランは、「なあ、ロラン?」とこちらを見たキースに「うん。ぼくも頑張る」と大真面目で応じた。もう同じ悲劇をくり返してはならない。そのために自分はディアナと月に行くのだ、と。
「おまえがなにを頑張るんだよ」
キースが不思議そうに眉をひそめた途端、腹の底から可笑しさがこみ上げてきて、今度は三人分の笑い声が弾けた。荒涼とした焼け跡がぱっと華やぎ、それぞれの中にあるわだかまりが溶けて流れるのを感じながら、ロランは、二人と笑いあえるのもこれが最後かもしれないと思いついていた。
冷たい風が川を渡って吹きつけ、見えない冷気が焼け跡に張り詰めた。これから始まる真冬を予感させる、重く厳しい冷気だった。
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〈ウィルゲム〉を囲んで設営される野営地は、資材のほとんどが艦内に収容されるか、別の野営地に運ばれるかして、今は数台のトラックといくつかの木箱が散乱するだけの閑散さだった。
明日の昼前にはそれらもすっかり片付けられ、午後に予定された〈ウィルゲム〉の離陸に備えて、この一帯は半径五百メートルに渡って立入禁止になる。ホレスの弁によれば、離陸後は空間斥力処理装置《FRP》とかいう宇宙的技術を使うが、浮上する時は過給酸素式のロケットエンジンを併用するので、吸気を妨げる障害物は極力排除しておいた方がいいらしい。ソシエたちにすれば、発進準備で手一杯のところへまたひとつ余計な仕事が増えた形で、せめて出発を一日のばすべきという意見も出たのだが、ディアナ・カウンターがいつ総攻撃を開始してもおかしくない状況では、さほど悠長なことも言っていられなかった。
ディアナ拉致《らち》を全軍に公報して以来、ディアナ・カウンターは沈黙している。臨時指導者のフィル少佐が軍の掌握《しょうあく》に手間どっているという説もあったが、それよりも今は核爆弾の発掘に力を注いでいて、準備が済み次第、一気|呵成《かせい》に攻めてくるという推測の方が信憑性は高い。対するミリシャも、イングレッサ・ルジャーナ・フロリャの三軍行動で超兵器≠フ発掘を進めてはいるが、しょせんは打算づくしの協同戦線という現実があった。
弱小のフロリャ・ミリシャはともかく、これまで反目してきたルジャーナ・ミリシャが急に協力的態度に変わったのは、ディアナ・カウンターの第一攻撃目標が〈ウィルゲム〉であることを知っているからだ。その間に時間稼ぎができるばかりでなく、〈ウィルゲム〉が沈めばイングレッサの併呑は容易になるとなれば、ここで協同戦線を張っておくのも悪くないと考えている。同盟といっても信頼に足るものはなにもなく、一刻も早く〈ウィルゲム〉を発進させなければならないのがイングレッサ・ミリシャの立場だった。
ディアナ・カウンターの攻撃準備が整う前に地球を離れ、月に向かう。〈ウィルゲム〉が健在である限り、ルジャーナも強硬な態度には出られないだろうし、月の技術を持ち返ることができれば、ディアナ・カウンターも再交渉のテーブルにつかざるを得なくなる。それが今回の月行きの最大の目的で、「もし失敗すれば、相手が誰であれイングレッサ領の主権は蹂躙《じゅうりん》される」と続いたグエンの言葉に、異議を唱える者は誰もいなかった。
その〈ウィルゲム〉は、今は艦尾に並ぶロケットノズルの円筒に夕陽の色を映し、暗灰色の船体を鈍く光らせて、冷たい風が吹くようになった野営地に静かに佇《たたず》んでいた。百メートルほど離れたところには巨大な火山岩の塊と見える物体がぽつんと鎮座しており、暮色に染まった大地に長い影を落としているのが、墓石を想像させてなにやらもの悲しかった。
目を凝らせば片膝をついた人の形に見えないこともなく、頭部の左右に生えた角状の突起が〈ターンA〉の面影を残してもいたが、ソシエには、ただの岩の塊が転がっているようにしか見えなかった。グエンたちは、このままホワイトドールの石像に戻ってしまうのではないかと心配しているが、それこそ本物のホワイトドールを見たことのないよそ者の推測で、アーク山の麓にあったホワイトドールはこんな不細工ではなかったと思う。ホレスたちが言う通り、今の〈ターンA〉は休んでいるだけなのだ。痂状の岩塊の下で、機械の体のそこここに受けた傷が癒《い》えるのをじっと待っている。そしてすべての修復が終われば、殻《から》を破って再びその戦神のごとき姿を現す。
が、ディアナ・カウンターの制服に身を包んだディアナと、〈ターンA〉と対をなすかのように膝をつき、頭を垂れているロランとハリーがその前にいれば、不細工な岩の塊も重々しい御神体に見えてくるから不思議だった。たった三人でも儀式ばった空気が漂うのは、ディアナが持つ威厳のせいだろう。遠巻きにするホレスたちムーンレィス技師も胸に手を当てており、女王と、二人の親衛隊員に敬意を表しているようだった。
ディアナ親衛隊の任命式など、ミリシャの人間にはなんの関係もない話だ。参列する義理はないのだが、気になるのは誰もが同じらしく、仕事の手を休めて集まってきた野次馬の数は、式が始まる頃には直径数十メートルの円をぐるりと覆うほどになった。艦内気密の最終テストを抜け出してきたソシエも、その中のひとりだった。明日の出発を控えてやるべきこと、覚えるべきことは山ほどあったが、ここまでくれば慌てても仕方ないと自分に言い聞かせて、かしこまったロランの姿を遠くに見つめた。
宇宙服の着方の練習、無重力環境での体の動かし方、艦内設備の使用法の習熟。月への遠征に選抜されたクルーには他にも多くの課題が与えられていたが、ソシエたちにとってもっとも重要なのは機械人形を宇宙でも使えるようにする訓練だ。重力も空気もない宇宙空間では、機体に設置されたスラスターが移動の要になる。操縦桿とスラスターを連動させる作業はホレスたちの方でやってくれるが、操縦感覚そのものは自分でつかむしかない。幸い、同行を条件にルジャーナ・ミリシャから借り受けた〈ボルジャーノン)のコクピットには、宇宙戦の精巧な模擬練習装置がついており、テレビジョンに映る架空の敵を相手にしての演習は、機械人形部隊のパイロットには必修課題と目されていた。
ソシエも幾度か挑戦したが、わけがわからないというのが正直な感想だった。感覚的には飛行機の操縦に近いのだが、落ちるということがなく、バーニアでブレーキをかけなければ果てしなく漂い続ける宇宙には、飛行機で宙返りした時の高揚感、急降下の瞬間に感じる頭が真っ白になるような興奮がない。神経が鋭敏に研ぎ澄まされてゆく冷たい感触だけがあり、漆黒の闇の中でx、y、zの座標軸を頼りに移動を続けていると、自分の存在が膨大な数式の一部になったような気がしてくる。好きにはなれそうもなかったし、大昔の人類が宇宙に人工の島を浮かべて暮らしていたという話、その末裔が月に落ち延びてムーンレィスになったという話も、宇宙の苛酷な環境を知るにつけ信じられなくなっていた。
ソシエが想像していた宇宙は、子供の頃、シネマで見た『宇宙探検』がすべてで、そこではもう少し楽しい場所に描かれていた。太陽と月には顔があって、主人公たちのロケットが月にぶつかると、ネックレスのような|銀の縫い目《シルバーステッチ》がすぽんと抜け落ちてしまう。主人公たちが慌ててそれを拾いにいくという、今にして思えば他愛のない話。キエルお姉さまはバカにしていたけど、あたしはけっこう好きだった。お父さまにせがんで、お母さまたちに内緒でもういちど観に連れていってもらったほど――。
「奴がムーンレィスだったとはな……」
野太い声が間近に発して、ソシエは物思いから立ち返った。隣で腕組みをしているヤーニが、かしこまるロランを胡散臭そうに眺めていた。ムーンレィス技師とつきあっていて今さらという気もしたが、ロランを地球の人間と信じていたヤーニには別の感想があるのだろう。ソシエは、「ロランはロランでしょ」と努めてなにげない口調で言っておいた。
「嬢ちゃんは前から知ってたのか?」
「まあね」
なにか言おうとして、果たせずに口をぱくぱくさせたヤーニは、唇をへの字に結んで顔を前に戻した。笑いをかみ殺したソシエは、「少尉はなんで月に行かないの?」と、その横顔に聞いてやった。
月に向かう〈ウィルゲム〉に乗り組むのはディアナとロラン、ハリー、それにホレスたちムーンレィス技師が中心で、ミリシャからはグエンとキエル、シドを始めとする黒歴史発掘隊と、ソシエたち機械人形部隊の一部が参加する。ミハエル傘下の主力部隊からも一小隊が出向し、ヤーニに隊長の鉢が回りそうになったのだが、彼は頑なにそれを固辞したのだった。「敵の本拠地を叩く絶好のチャンスなのに」とソシエが重ねると、「宇宙は好かん」の返事が間を置かずに返ってきた。
「重さがないってことは、なんでもフワフワ浮いちまうってことだろ? 小便したら自分の顔にかかっちまうなんて、冗談じゃねえ」
「そのへんは大丈夫よ。船の中にあるトイレ、知ってんでしょ? あのホースみたいのを当ててすれば、こう……」
「女の言うことか!」なぜか顔を真っ赤にして言ったヤーニは、フンと大きな鼻息をついて顔をロランたちの方に向けた。「……だいたい、これはムーンレィス同士の内輪もめみたいなもんだ。おれたちの戦争じゃねえ」
「グエン様は、アグリッパとかって奴を降伏させれば、それで戦争は終わるって言ってたけど」
「総大将をひとり倒せば勝てるってほど、戦争は甘いもんじゃねえ。他人がどうだろうと、おれはここに残って自分の土地を守るために戦う。難しいことは上の人に任せときゃいい」
それはそれで正しいヤーニの論法に、ソシエは不意に目くらましされた気分に陥った。少し前までは自分もそう考えていた。ムーンレィスを地球から叩き出し、父親の仇討ちができればそれでいいと思っていた。ところが今は戦争の帰趨そのものに興味がいき、ディアナ・カウンターを憎む気持ちが薄れ始めている。勝ち負けに以前ほどこだわれなくなっているのだ。これは自分が腑抜けてしまったということなのだろうか。
無論、父の死に顔は鮮明に記憶に残っているし、家で寝たきりの母の姿も頭から離れたことはない。が、姉とディアナが入れ替わっていたと知り、その存在を抵抗なく受け入れられた時から、自分の中でなにかが変わった。どこかで冷静になり、心に余裕ができたように思う。それがこの先どういう変化を促してゆくのかはわからないが、少なくとも、いたずらに死に急ぐのは愚かだと考えられるようにはなった。
今はむしろ姉の方が危険だ。勝手に転がる思考がそんな直感に行き当たり、ソシエは見物人の列の中にキエルの姿を探した。にぶいロランはもちろん、他の男連中もまだその変化に気づいていないようだが、妹である自分――いや、同じ女である自分には、キエルに棲みついた危険ななにかの兆候がわかる。ディアナの話をしたり、ディアナとすれ違った時、視線や仕種の中に一瞬だけ姿を見せるなにか。まだ具体的な行動には表れないが、ふとしたきっかけで前面に出れば、すべてをひっくり返しかねない衝動がそのなにかには潜んでいる。
周囲を見回し、列の後ろの方にいたフラン・ドールと偶然目を合わせたソシエは、なにかしら気まずい思いに駆られて目を伏せた。どんな顔をしていたんだろうと慌てる間に、ワンピース姿のフランが旅行鞄を片手に近寄ってきて、ソシエはとりあえず「似合ってるじゃない」と声をかけた。
「当然。でもありがとう」
「新聞記者、辞めたって本当?」膨れ上がった旅行鞄に、フロリャに越すらしいとロランが言っていたのを思い出して、ソシエは尋ねた。「実はひそかに憧れてたんだけどな。なんで?」
「女には別の幸せもあるって気がついたから……かな?」
満ち足りた顔でのたまったフランに圧倒され、ソシエはつかの間絶句してしまった。「なによ、それ。反時代的なこと言っちゃって」とやり返してから、余裕たっぷりの微笑が少し憎らしくなり、胸にしまってきた思いを確かめてみるつもりになった。
「あたしはてっきり、ロランたちと一緒に月に帰るつもりなのかと思ってた」
「いま帰ったって……」言いかけて、はっと口を噤んだフランの真剣な顔に、ソシエは逆襲の成功を確信してにたりと笑った。まじまじとこちらを見返し、悪意のないいたずらと確かめたらしいフランは、周囲を見回しつつ「いつから……?」と小声で言った。
「ずーっと前から。ロランと、それにキースさんも一緒になってよくごそごそやってたでしょ。今だから言うけど、けっこう目立ってたんだから」
フランの顔から笑みが消え、瞳が伏せられると、「ごめんなさい。騙すつもりはなかったんだけど……」という真摯な声音がソシエの耳を打った。敵陣の中で出自を偽り続けてきた心中は、冗談の種にできるほど穏やかなものではなかったのだろう。やりすぎだったと反省したソシエは、「いいんじゃない、別に」と気楽な声で応じた。
「ロランがそうだってわかった時は、ひっぱたいてやったけどさ。旦那さまになる人は、知ってるんでしょ?」
「ええ、まあ……」
「だったらいいじゃない。ちゃんとわかってくれてる人がいるんだから……」
少し妬みの混じった声になってしまったのが疎ましく、ソシエはフランから目を離して正面に顔を向けた。ミリシャ製の飛行服を着たロランの背中が、ディアナの前で恐縮しきっているのが見えた。
今この瞬間から、ロランはミリシャの統制を離れてディアナの指揮下に入る。ハリー大尉も捕虜の待遇を解かれ、以後はディアナの戦士として働くことになる。どのような経緯でそうなったのかは定かでないが、それがグエンとディアナとの間で交わされた取り決めなのだった。月での戦いがどのような帰結を迎えようと、ロランが再び地球の土を踏む保証はなく、ハイム家の運転手に戻る可能性はさらに低い。この二年半、いつでも目の届く場所にいたエメラルド色の瞳が、確実に自分から遠ざかってゆく……。
振り返ると、フランがじっとこちらを見ていた。黒目がちの目に見透かされると思ったソシエは、「その代わり、口止め料」と言って見物の列から離れ、小山のような〈ウィルゲム〉の船体を背になる場所に移動した。
「まだカメラは持ってるんでしょ? あたしのこと写真に撮って新聞社に売り込んでよ。ミリシャの女戦士、宇宙に行く≠チてタイトルでさ」
はしゃいでいれば、もやもやした気分も多少はなりをひそめてくれるようだった。腰に手を当ててポーズを取り、「ローラと違って、こっちは正真正銘の華なんだから」と付け足したソシエに、「了解、了解」と苦笑顔で応じたフランは、鞄の中から乾板とカメラ、それにフラッシュを取り出した。
「ちゃんと撮ってよ。地球人初の宇宙飛行士なんですからね」
「知ってる? 大昔の地球では、いちばん最初に猿を乗せて宇宙船を飛ばしたんだって」
「へえ、そうなんだ」と単純に感心し、すぐに「……どういう意味よ、それ」と顔をしかめた瞬間、フラッシュが焚かれた。「あーっ、今のなし!」と叫んだソシエに、「静かにせんか!」と怒鳴ったヤーニの声は、どこかやさしげに聞こえた。
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老廃したナノスキンに半身を覆われ、黙然と顔をうつむけている〈ターンA〉は、まるで地の底から這い出してきた魔神に見えた。その前で白い礼服姿を浮き立たせているディアナも、ロランにはこの世の人とは思えず、魔神を従える精霊のように見えていた。
「私のためが人類のためになると信じて、お二人の命を捧げてください」
三人だけの任命式を締めくくるその言葉は、古来から伝わる礼式に則ったものではなく、今のディアナの想いを率直に伝えたものと聞こえた。壮絶な覚悟が直接胸に響き渡り、どう答えればいいのかと真っ白な頭をまさぐるうち、「疑いなく」と答えたハリーの声がロランのすぐ傍らに発した。
言葉通り、一片の逡巡もない声音だった。「疑いなく」と統けて答えてから、ロランはハリーに倣って立ち上がった。十分以上、地面につきっぱなしだった膝が痛み、緊張でこわ張った体がよろけそうになったが、足を踏んばってどうにか直立不動を維持した。
精一杯のありさまを見抜いたのか、ハリーを見、続いてこちらを見たディアナの口もとに徴かな笑みが浮かんだ。ロランも唇を動かそうとしたが、その時には鮮やかな右向け右をして、ディアナはロランの視界から消えていた。
「分かれ」と低く令したハリーの声に従い、付け焼き刃の回れ右をしたロランは、そのまま機械的に足を動かして歩き始めた。それで終わりだった。茜《あかね》色に染まった空、鋼鉄の船体に同じ色を引き写して聳える〈ウィルゲム〉、ブーツの靴底に伝わる踏み固められた大地の感触と、それらを知覚している自分。どれも十分前となにひとつ変わるところはなく、これから変わるとも思えなかったが、自分は間違いなくディアナ親衛隊の一員になった。もう曖昧で中途半端な態度は許されず、一挙手一投足がディアナの意志を具現する$e衛隊の戒律に従って行動しなければならない。そう自分に言い聞かせ、周囲を遠巻きにする見物人の列に目を走らせたロランは、じっと凝視するミハエル大佐と視線を合わせて思わず足を止めた。
にこりともしない髭《ひげ》面に埋め込まれた二つの目には、敵意に近い懐疑の光が宿っている。傍らに立つ司令付参謀たちの目も警戒の色を放っており、よく見れば見物人たちのほとんどが同様の目をこちらに向けて、十分前には考えもつかなかった拒絶の膜を張っているのだった。ミリシャのロラン・セアックではなく、ディアナ親衛隊のロラン・セアックを見つめる猜疑《さいぎ》の目――。見えない壁に押し返され、その場に立ち竦んだロランは、「油断するな」と呟いたハリーの声を背中に聞いた。
「これからは敵と味方の区別をしっかりつけるんだ」
赤いバイザーに複数の敵意を受け止めて、ハリーは顔をうつむけることなく続けた。自分には想像外の厳しさを生きてきた横顔に、感嘆と反感を半分ずつ覚えたロランは、「……ぼくには、まだそんなふうに人を区別することはできそうにありません」と小さく、しかしはっきりと答えた。
「ディアナ様の戦士になると誓ったんだろう?」
意外なほどやさしい声で言ったハリーは、次の瞬間にはロランの腰を軽く叩いて歩き続けるよう促し
た。慌てて足を動かし、胸に手を当てて見守るホレスたちの横を通りすぎたロランは、グエンとキエルの姿を認めて再び立ち止まった。
ハリーも立ち止まり、わざわざタキシードを着こんで参列していたグエンと、傍らで無表情に立つキエルとを交互に見返した。ロランに上辺だけと思える微笑を見せ、続けてハリーをちらと見遣ったキエルは、その肩ごしに別の誰かの顔を見つけたのか、微かに顔をこわ張らせた。
上目使いの視線の先に、こちらに近づいてくるディアナの姿があった。周囲を包む猜疑の目よりもさらに根深い、直線的な嫌悪の膜がキエルの瞳にかかったように思い、ロランの心臓がひとつ大きく鳴った刹那、「胸を打たれました」というグエンの声が発した。
「ミリシャがやっている真似事とは重さが違うとわかります」
朗々と言い放ったグエンは、ディアナからハリーに視線を移し、「ハリー大尉も、これで仕切り直しというわけだな」と続けた。この数週間で免疫ができたらしく、ハリーも「ご配慮には感謝する」と如才なく返したが、その体が警戒心の塊になっていることは誰の目にも明らかだった。
「ローラも、ディアナ閣下のために忠誠を尽くすのはもちろんだが、わたしのローラであることも忘れないでくれ」
一向に介さない様子で、グエンはロランに体を向けつつ重ねた。こちらは何度見ても馴染めない舐めるような視線で、ロランは例によって「……はあ」と生返事を返すしかなかった。
それよりも、ディアナを見るキエルの目の方がロランには気がかりだった。男たちが建て前だけの会話を交わすのを尻目に、身を硬くするキエルのそばに歩み寄ったディアナは、「建国宣言の時の演説、今でも耳に残っています」と静かに話しかけた。
「私に万一のことがあった時は、あなたがディアナになって月と地球の民を導いてください。お願いします」
ハリーとグエンがさすがにぎょっとした顔を向けたが、ディアナはもう口を開こうとはせず、黙ってキエルの顔を見つめていた。鏡に映したかのような二人の顔が向き合い、やがて伏せられたキエルの顔が相似形を崩した。
「私は……」
驚きと困惑が入り混じるキエルの瞳に、ほんの一瞬、ただ単に迷惑だと告げる色がよぎったように見えたのは、気のせいか? 全身を耳にして、ロランは続くキエルの言葉を待った。なにかに亀裂が入る大きな音が、背後でぴしりと鳴ったのはその時だった。
夜の冷気が下り始めた野営地に響き渡り、〈ウィルゲム〉の船体に跳ね返って拡散したその音は、次に崖崩れに似たがらがらという音を運んできた。振り返ったロランは、律動する〈ターンA〉の表面か
らナノスキンの残滓が剥がれ、大小さまざまな破片になって流れ落ちる光景を目に入れて、息を呑んだ。
右半身を覆っていた黒い岩盤が爆発するように砕け散り、五本の指を備えたマニピュレーターがカッと開かれる。関節機構《アクチュエーター》が低周波の唸りを上げ、地面に沈み込んでいた膝が土砂の筋を垂らしながら持ち上がると、〈ターンA〉の機体が意志ある者の動きを示して上半身を屈め、続いてひと息に立ち上がっていった。
二本の足が大地を踏みしめ、ほとんど同時に顔面に凝り固まっていたナノスキンの滓が一気に剥がれ落ちる。人間の目を想起させる二つのカメラアイが露になり、すべてが新品同様の光沢を放つ〈ターンA〉の機体を確かめたロランは、驚きより強い恐怖に駆られた。
ディアナやハリー、キエルはもちろん、この時を待ち望んでいたはずのグエンさえも言葉を失い、復活した〈ターンA〉をただ見上げている。自立制御
と呼ぶにはあまりにも生々しいオーラを放って、〈ターンA〉はそれらの視線を受け止めていた。二つのカメラアイが赤く輝き、睥睨という言葉をロランに思い出させた。
翌日、午後の時報とともに〈ウィルゲム〉は離陸した。艦底に装備された補助ロケットと、船体と空間の間に反発力を発生させるFRPシステムの力を借りて、数千トンの鋼鉄の塊が月を目指して浮上してゆく。尽きぬ思慕に駆られて巨大な船を掘り出したウィル・ゲイムの想いが、形を変え、時代の変遷に左右されながらも、百五十年の時を経て実現された瞬間だった。
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第六章――正歴二三四五年・「冬の城」――
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……事実、ザックトレーガーは人類が造り得た史上最大の人工物と言っていいだろう。正歴以前に建設された衛星植民都市、たとえば月面の運河都市《トレンチ・シティ》を単一の構造体として比べた場合、建造に費《つい》やされた資材の量は一万分の一以下に過ぎず、質量という点で言えばさほど驚嘆すべきものではないかもしれない。しかしそれはザックトレーガーが細長い、紐《ひも》の両端に樽《たる》をくくりつけた形の振り子状構造体であるからで、八千五百キロメートルという全長はやはり瞠目《どうもく》に価《あたい》する(参考までに記せば、北アメリア大陸東西の海岸線の距離は最大でも約四千五百キロメートル。八千五百キロメートルといえば地球の直径の三分の二にあたる)。ムーンレィスが生存に必要な科学技術のみを維持し、それ以外の知識・記録に関しては意識的に封殺してきた以上、旧世界の栄華を今に伝える唯一の遺産だった[#「だった」に傍点]と表現しても過言ではない。
その目的は、航宙船舶の重力圏離脱を補助し、最小のエネルギー消費で宇宙空間に送り出すことにある。簡単に言ってしまえば、振り子の先端についた巨大な樽で航宙船舶を掬《すく》い上げ、遠心力によって宇宙に放り出す仕掛けである。回転軸であるセンターハブが高度四千三百キロの周回軌道を自転しながら巡り、ケーブルの先端、内壁に係留設備を備えた樽状のドックを定期的に大気上層(高度約五十キロ)に触れさせる。離陸した航宙船舶は、自力で高度五十キロまで上昇し、秒速約八キロの速度で降下してくるドックと接合しさえすれば、後はほとんどエネルギーを消費せずに宇宙に出ることが可能になる。
ザックトレーガー自体の回転周期は一二二分で、公転周期、すなわち地球を一周する時間は一八三分。この間、ケーブルの両端にあるドック部は、当然のことながら回転周期の半分、六十一分毎に赤道上の大気層をかすめる。つまりザックトレーガーは、地球を一周する間に三回、ドック部を大気圏にかすめさせる計算になる。
旧世界においても、地球の重力圏離脱は交通上の一大問題であったらしく、他にも軌道エレベータと呼ばれる超高層建築物の存在を仄《ほの》めかす記述が「黒歴史」に残っているが、ムーンレィスの歴史記録が破壊されてしまった現在、真偽を確かめる術はない。南アメリア大陸のマニューピチに伝わる伝承、アデスカの民の神話に語られる「始まりの樹」も、天を衡《つ》く巨大な塔の存在を暗喩しているように思われるが、これが軌道エレベーターを指すのか、ザックトレーガーから地球再生計画《リテラ・フォーミング》用のナノマシンが散布された時の様子を指すのかは、議論の分かれるところだ。
ドック部は底の抜けた樽のような形状をしており、円筒の全長は約一・五キロ、直径が八百メートル強。ディアナ・カウンターの中では最大を誇る〈ソレイユ〉級の艦艇が、同時に四|隻《せき》係留できる大きさだ。それが八千五百キロのケーブルに繋《つな》がれて降下してくるのだから、地球上からは全体の動きはつかみようもなく、ドック部分だけが垂直に下りてくるように見える。この時、ドックは必ず大気の摩擦《まさつ》熱を帯びて光の尾を引くことから、その様子を観測できる土地土地では各種の伝説が生まれた。曰く、「天の梯子《はしご》」「天の蓑虫《みのむし》」など。特に後者は、ザックトレーガーが旧世界の一言語(ドゥーチェ語)において「蓑虫」を意味する言葉であったことを考えると、非常に興味深い。
封印したはずの記憶が潜在的に受け継がれてきたのか、あるいは過去に地球に降下したムーンレィスが、現地の住民になんらかの知識を教授したのか。いずれにせよ、地球と月の二文明が互いにどのような影響を与え合っていたのかを調べる上で、貴重なテキストになる事柄と言えるだろう。
アデスカの民の神話では「アデスの枝」と表現され、一種の御神体として敬《うやま》われてきた。「始まりの樹」が伐《たお》れた時に枝の一本が弾《はじ》けて宙に留まり、それが「アデスの枝」になったと神話は語るが、これには「世界の終わりの日に、白い悪魔がアデスの枝を取りにくる」という預言的な結末が付されている。
今日、我々は、これらの伝承が無知の生んだ迷信であることを念頭に置き、理性的に歴史を検証する術を手にした。しかし今次大戦においてもっとも多くの被害をもたらした「根絶やしの三日間」が、イングレッサ・ミリシャの発掘した航宙艦〈ウィルゲム〉と、ザックトレーガーとの接触を皮切りに始まった過去を振り返る時、我々は戦慄《せんりつ》とともにある事実を認めざるを得ない。
〈ウィルゲム〉が艦載する機械人形、ディアナ・カウンターからは白ヒゲ≠フ仇名《あだな》を冠された〈ターンA〉の機体色が白で、一部では〈ガンダム〉と呼称されていた事実。ムーンレィスの民間伝承では「宇宙移民者の偉大な敵」とされる〈ガンダム〉が、「白い悪魔」と表現されることもあった事実と考え併《あわ》せれば、我々はそこに偶然では片付けられない、黙示録的な一致を認めないわけにいかないのである。
[#地から1字上げ]ヨシュウ・トミノフ『文明の相克』(ゲオタル・ハルクィーナ出版)より抜粋
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「ザックトレーガーは、約三時間の周期で地球を周回します。このケーブルの先端についた樽《たる》のような部分が大気上層をかすめ、接合した船を掬《すく》い上げるのです」
壁一面をまるまる使った航法スクリーンの前で、ホレスは相変わらずの淡々とした口調で言う。スクリーンにはCGで描かれたザックトレーガーの概念図が、地球を示す円を背景に、両端に重石のついた振り子といった形をゆっくり回転させる様子が映し出されている。〈ウィルゲム〉が造られた頃には、まだザックトレーガーは存在していなかったはずだから、ホレスたちが急場で作成した図だろう。ロランにしてみれば幼稚園児の落書きレベルのCGだったが、グエンたちには絵が動くだけで十分驚異であるらしく、誰もが目を皿にしてスクリーンに見入っていた。
「この時、接合する船は樽の部分との相対速度を合わせて、慎重に近づかなければなりません。次のタイミングは約二時間半後ですから……」
「それまでは待つしかない、と?」
キエルが口を挟《はさ》む。出航から半日、操艦指揮所《ブリッジ》に集まった顔のほとんどは船酔いとも飛行機酔いともつかない、閉所に押し込められたストレスで青ざめていたが、キエルだけは涼しい顔をしている。〈ソレイユ〉で艦内生活に馴染《なじ》んでいたためだろうが、近づけば感電しそうな張り詰めた空気は、やはり裡に秘めたなにかがその体を律しているのではないかと思わせる。つっかかるような口調に振り返ったロランは、キエルの向こう、一同から離れて立つディアナの後ろ姿に気づいて、そちらに意識を集中した。
操舵コンソールに手を置き、ブリッジの窓を埋める雲海に見入っている背中は、ザックトレーガーの説明も、キエルの声も耳に入っていない上の空だった。「言い換えれば、二時間半待つだけでいいのだろう?」といったグエンの声がすぐに発して、ロランは顔をスクリーンに戻した。
「少々長めのティータイムというところだ。持たせてもらうさ」
ディアナに艦長の座を明け渡す一方、オブザーバーの名目で挟みたい口だけ挟んでいるグエンは、この時も一同の中央に立ってディアナ以上に艦長然とした顔をしていた。能天気にもほどがある声音にムーンレィス技師たちが鼻白んだ表情をみせたが、「樽、すなわちドック部分が大気層をかすめる時間は一分強です」と応じたホレスは、一向にめげる気配のない無表情だった。
「この間に速度とベクトルを完璧に一致させなければならないのですから、それほど簡単なものではありません」
「なに、だめならだめで戻ってくればいいんだ」
グエンもめげない。ホレスは眼鏡の底のぱっちりした目を心持ち細めて、
「接触を誤れば、ドック部分もろとも〈ウィルゲム〉も木端微塵《こっぱみじん》になりますが」
冷厳な物理法則を説明する声と同時に、3D線図で描かれたザックトレーガーと〈ウィルゲム〉が衝突し、粉々に砕《くだ》け散る様子がスクリーンに映し出された。ぐっと息を呑んだ後、「……ああ、そう」と言ったグエンの声は、気まずさを通り越して間抜けに響いた。
全長百メートル、最大幅八十メートル余りの〈ウィルゲム〉の船体は、生命維持装置を含めた機関部と、モビルスーツ格納庫、計六門のメガ粒子砲を賄《まかな》う大容量コンデンサに大部分が占められ、居住区はそれらに追いやられる形で艦橋構造部周辺に集中している。通路は人がすれ違うのにも苦労する狭さで、掃除しきれないナノスキンの滓《かす》や、食料や備品を収めた木箱がそこここに堆積してもいる。戦闘用艦艇の機能性などは望むべくもなく、何年も整理されていない蔵のような埃《ほこり》臭さが艦内を支配していた。
唯一の救いは各ブロックごとに外周監視用モニターが設置されている点で、舷窓さながら外の風景を伝える三十センチ四方のモニターには、紺碧《こんぺき》の空と気流の白い筋、雲間から覗《のぞ》く南アメリア大陸の大地が同時に映し出されている。〈ターンA〉に空間機動用プログラムをインストールする作業を終え、休む間もなく備品整理に駆り出されたロランは、仕事の合間にそのモニターを覗いてみた。
ディアナ・カウンターの追撃を警戒していったん太平洋上に出、徐々に高度を上げつつ真西から南アメリア大陸に向かった〈ウィルゲム〉は、今ちょうど沿岸に広がるタラマチの街を通過して、標高千メートルを超す山々が割拠《かっきょ》するマニューピチに差しかかろうとしていた。地球から宇宙に物体を打ち上げるには、赤道寄りから射出すれば地球の自転エネルギーも利用することができる。その物理法則に従い、赤道上を周回しているザックトレーガーは、アメリア大陸においては赤道直下の小領、マニューピチ上空にその巨大な振り子を触れさせているのだった。
もうしばらくすれば、大気の摩擦熱の尾を引いて降下してくるザックトレーガーのドック――マニューピチの住民からは「アデスの枝」と呼ばれている発光現象が、〈ウィルゲム〉の目前に現れる。複雑、峻厳《しゅんげん》な起伏を見せる山々を見下ろし、切り株に似た形の岩山と、その周辺でひっそり息づくマニューピチの町並みに目を凝らしたロランは、ふと足もとの床がなくなり、虚空に放り出されるような気分を味わった。
人類が発生するはるか以前から存在し、その死滅と再生を静かに見つめ続けてきた山々と、巨大な切り株に似た奇怪な岩山。そこに父木と母木が絡まり合い、宇宙にまで枝葉をのばす樹木のイメージが重なり、始まりの樹∞果実∞新たな時の開闢《かいびゃく》≠ニいった言葉たちが弾け、時代の揺り戻しに委ねる≠ニいう文節らしきものが組み上がると、災厄を払う炎になれ、と呼びかける誰かの声が耳元に響いて、ロランから一時的に現実の知覚を奪った。脳の襞《ひだ》という襞に見知らぬなにかの触手が入り込み、蠕動《ぜんどう》する感覚に恐怖したロランは、反射的にパイロット用|宇宙服《ノーマルスーツ》の胸元に手を当てた。
生命維持装置や温度調節装置、位置発信器などを収めた襟《えり》の膨《ふく》らみの下に、ノーマルスーツの機能とはまったく関係のない膨らみがある。指先でそこを探り、平べったい金魚の玩具の感触を確かめたロランは、自分でもわからないうちに襟元のジッパーを下げ、メリーを取り出していた。塗装の剥《は》げかかった丸い目玉、へこんでしまった尻尾《しっぽ》をくり返し指でなぞり、脳の蠕動が収まるのを待っていると、「やーだ。まだ持ってたの、それ?」という素《す》っ頓狂《とんきょう》な声が背後に響いた。
一般用ノーマルスーツを装着したソシエが、咎《とが》め半分、呆《あき》れ半分の横目を注いでいた。超アラミド繊維をハニカム構造状に織り込んだ生地の上に、生命維持を始めとする各種装置の収まった装具をつけていれば、ヘルメットのアタッチメント部から突き出た顔だけがソシエと判別できる唯一のものになる。やや大きめのノーマルスーツは体型を完全に隠していたが、その時ロランの順に閃《ひらめ》いたのは、成人式の夜に見たソシエの裸の背中だった。
宵越《よいご》しの祭にメリーを持ち込んだことを見|咎《とが》めて、あの時も今とそっくり同じ口調で言うソシエがいた。半年前が数年前とも思える記憶を漂《ただよ》い、少し汗ばんだ白い背中を明瞭に思い出してしまったロランは、「ぼくにとっては、お守りみたいなもんですから」と答えて、赤くなった顔をモニターに戻した。
「ミリシャのエースが、金魚の玩具をお守りにしてるなんてさ。新聞ネタにもなりゃしないわ」
グエンやミハエルが土気高揚の道具立てとして言うことはあっても、ソシエの口からミリシャのエース≠ニいう言葉が飛び出したのは初めてだった。いつでもロランの中途半端な態度を責め、〈ターンA〉を譲《ゆず》れと言って聞かなかったソシエがそう口にしたのは、自分を一人前のパイロットと認めてくれたからか、あるいはロランはあくまでミリシャの一員なのだから、ディアナの戦士になりすぎるなと暗黙のうちに釘《くぎ》を刺したのか。ロランにはわからず、並んでモニターを覗き込んだソシエの横顔を窺《うかが》ったが、「宇宙服って重いし、窮屈《きゅうくつ》なのよね」と言い、分厚い手袋の手で前髪をかき上げたソシエは、もうなにを言ったのかも気に留めていないさっぱりした表情だった。ロランは、「宇宙に出たら重さがなくなるから、楽になりますよ」と教えてやった。
「なんでロランだけ、そんなタイツみたいな宇宙服なの?」
無重量環境下での移動に使用する壁のハンドグリップに手を置いて、ソシエは不満げに口を尖《とが》らせる。ロランが着用しているノーマルスーツはパイロット用の高級品で、鎧《よろい》のような一般用ノーマルスーツと異なり、全身の体型にフィットしたスマートな外観を呈している。〈ターンA〉のコクピットに真空パックで保存されていたもので、シートのアタッチメントに接続するマウントが背中に六つ、尻に二つずつ装備されており、左手首には電子マニュアルと連動する簡易操作装置も備えられていた。まじまじと見つめるソシエの視線に戸惑い、「これはパイロット用ですから……」と答えると、「不公平じゃない」の声が即座に返ってきた。
「ロランは男なんだから、格好なんか気にすることないでしょ。あたしに譲《ゆず》りなさいよ」
「そんなこと言っても、これは〈ターンA〉用だから……」
「じゃ、あたしが〈ターンA〉に乗る時は貸しなさいよね?」
その時だけは、ソシエを前にすると無条件に感じる引け目が消えてなくなり、「ソシエお嬢さんは、もう〈ターンA〉に乗っちゃいけません」とロランははっきり宣言した。「なんで?」と聞き返した声に、「なんでも、です」と押しかぶせて、次第に違ざかってゆく地表をモニターの中に確かめた。
そうしなければ、ソシエが不幸になる。核爆発の際に空間転位《テレポーテイション》した可能性といい、驚異的な再生能力といい、〈ターンA〉は明らかに普通のモビルスーツではない。あの得体の知れない夢の声が幻ではなく、脳に直接呼びかけるなにかの意志なのだとしたら、それは〈ターンA〉が内蔵する記憶であろう、という予感もロランは持っていた。乗る者が操《あやつ》るのではなく、乗った者の精神を取り込み、特定の行動を強制するマシン――。
「……ね、ロラン。帰ったら、成人式の続きをやりましょうね」
押し黙ったこちらを気にしてか、ソシエはいつも以上に屈託《くったく》のない声を出した。ロランは虚《きょ》をつかれた思いでその顔を見返した。
「また御輿《みこし》を作って、あたしがその上に乗って。もちろん、ロランが担《かつ》ぐのよ。それで、〈ターンA〉は機械人形じゃなくて、前みたいにホワイトドールになって式を見守るの」
自分には想像外の発想に呆気に取られた後、冷気で縮《ちぢ》こまっていた胸がほんのり温かくなり、ロランは〈ウィルゲム〉が出航して以来初めての微笑を浮かべた。時間だけではなく、あらゆるものに隔てられて遠くなったピシニティでの生活。いつの間にか見失っていた明日、すべてを終えた後にやってくる明日に茫洋《ぼうよう》とした希望を見出しながらも、今日の重さを完全に忘れることはできず、「……できるかな」の一語を搾《しぼ》り出すのがやっとだった。
「できるわよ。当たり前じゃない」
そう言った時、ソシエの瞳の中に思ってもみなかった光が宿り、ロランの心臓を一拍跳ね上がらせたが、確かめる間はなかった。ブザーが短く鳴るや、(ザックトレーガーとの接触、一時間前。各員は配置につけ)の声が艦内スピーカーから発して、ソシエは「さ、お仕事お仕事」などと呟《つぶや》きながらその場を離れていってしまった。
メリーをノーマルスーツの中に押し込んで、ロランもモビルスーツデッキに向かった。ソシエの瞳がなにを訴えていたのか、考えようとしたのは上層甲板に向かうラッタルに足をかけるまでで、後はこれからの作業手順を思い返すので頭がいっぱいになっていた。
高度五万メートルを超えれば、そこはもう純然たる空とは言えず、地球の引力が大気を引き留めておける限界の高さ――気候や気流といった地球的環境から離れ、宇宙の静謐《せいひつ》に限りなく近づいた成層圏と呼ばれる空間だった。頭上には薄皮一枚になった大気を挟んで宇宙の漆黒《しっこく》が隣接し、眼下では平板と思われた大地と海が長大な弧を描き始める。開放したシャッターの向こうにそれらの光景を眺め、石になった唾《つば》を飲み下したロランは、ハリーの駆る金色の〈スモー〉が虚空に飛び出していったのに続いて、
〈ターンA〉を〈ウィルゲム〉から発進させた。
とうの昔に音速を超えている〈ウィルゲム〉が瞬《またた》く間に遠ざかり、わかっていてもひやりとなったが、ハリー機は少しも慌《あわ》てることなく、臑《すね》部に設置された空間斥力処理装置《FRP》のフラップを開いて徐々に加速、〈ウィルゲム〉との距離を詰めてゆく。さすが親衛隊……と感心したのも一瞬、自分も同等にやってみせねばと思い直したロランは、こちらもスラスターベーンの出力を上げて〈ウィルゲム〉に近づいていった。
FRPの緩衝波《かんしょうは》と、推進ノズルの噴射流を引いて飛ぶ〈ウィルゲム〉に追いすがるのは、控《ひか》え目に言っても大型ハリケーンの真っ只中に突っ込む程度の勇気と技量が必要とされた。先行する〈スモー〉の動きを頼りにフットペダルを踏み、アームレイカーを動かし続けて数秒。七基のノズルから轟然《ごうぜん》とロケット光を噴《ふ》き出している〈ウィルゲム〉の艦尾《かんび》が頭上に迫り、ロランはFRPの緩衝波をVRヘッドのCGに読み取りながら、慎重に〈ターンA〉の機体を艦底に寄せていった。背部のラックにシールドとビームライフルを装備しているから、そのぶん余計に空気抵抗がかかることも忘れてはならない。機体のバランスが崩れないよう、ゆっくり左右のマニピュレーターを持ち上げ、どうにか〈ウィルゲム〉の艦底に手のひらを接触させた。
重力圈を脱し、宇宙に飛び出すには秒速十・八五キロまで加速しなければならない。ザックトレーガーを利用するにしても、第一宇宙速度(秒速七・ハキロ)に達していなければならず、〈ウィルゲム〉クラスの艦艇がその速度を得るには、マスドライパーと呼ばれるリニア方式の発射施設を使用するか、使い捨ての補助ブースターの助けを借りるしかなかった。無論、今はどちらも望みようがなく、〈ターンA〉と〈スモー〉が補助ブースター代わりになり、〈ウィルゲム〉を下から押し上げることになったのだが、ハリーにはともかく、ロランにはあまりにも荷が勝ちすぎる役目だった。
薄いとはいっても、大気は依然厚い壁となって機体にのしかかってくる。機体のバランスが少しでも狂えば緩衝波に巻き込まれ、よくて失速、最悪の場合は船体に叩きつけられ、〈ウィルゲム〉もろとも粉微塵《こなみじん》になる結末をたどるだろう。〈ターンA〉の扱いには多少慣れたとはいえ、FRPとスラスターで動作|制御《せいぎょ》を行う空間機動は、初体験も同然。(推力、ちょい上げ)(右にずれてる。ベーンの角度を三度もどせ)と無線から流れてくるハリーの声を頼りに、しばらくはひたすらアームレイカーとペダルを相手に格闘する時間が続いた。ホレスたちが作製した空間機動プログラムは万全らしく、素人のでたらめな操縦についてきてくれる〈ターンA〉の高い機動性が、救いと言えば救いだった。
(本当に空間機動は初めてか?)
御輿の担ぎ手よろしく、艦尾を左右から持ち上げる〈ターンA〉と〈スモー〉の推力バランスが取れ、大気流に圧迫される機体の軋《きし》みがやや収まった頃、ハリーがそんなことを言った。ロランは「はい。訓練では、地球に降下する時の操作をちょっと教わっただけで……」と正直に答えた。
(信じられんな……)と呟かれた言葉がなにを意味するのか、考えるより先にコールサインが鳴り、〈ウィルゲム〉のブリッジからノイズ混じりの通信が届いた。(ザックトレーガー、接近。船外パイロットは衝撃波に注意せよ)と響いたスピーカーの声に、ロランはVRヘッドを外して肉眼で後方を振り返った。
最初に見えたのは、中空に屹立《きつりつ》する長大な炎の柱だった。漆黒と蒼穹《そうきゅう》が接する空の界面に白熱する火柱が顕《あらわ》れ、ひらめく陽炎《かげろう》を引いて垂直に降下すると、焔《ほのお》に包まれた物体の形を少しずつ露《あらわ》にしていった。
地球の直径の三分の二という、狂いじみた長さのケーブルに吊り下げられたザックトレーガーのドック部。底の抜けた樽に似たその形は、正面から見れば巨大な鉄の輸に見えた。〈ウィルゲム〉の後方約百キロで最降下点に達し、緩やかな弧を描きながら上昇運動に転じたそれは、秒速八キロの速度でまっすぐこちらに突進してくる。大気の摩擦熱で真っ赤に焼け爛《ただ》れた鋼《はがね》の輪が次第に大きくなり、蜃気楼《しんきろう》に揺らぐディティールが見て取れるようになると、直径八百メートル、全長千五百メートルという数字が実感となって迫り、膨大な質量がロランの神経を圧迫した。
「大きい……」
二千年、三千年、あるいはもっと。片時も休まずに回転運動を続け、数百万回に及ぶ大気圏突入をくり返してきた巨大な樽は、ナノマシンの自己補修跡がまだらの筋になって表面を覆《おお》っており、風雨に滑《なめ》された岩塊を想起させた。目を凝《こ》らせば整流ウイングやIフィールド・ジェネレーターなど、各機関の接合面を見出すこともできたが、弾丸のような速度でぶつかってくる宇宙塵、大気の摩擦熱に間断なく曝《さら》されていれば、それらもじきに補修跡の隆起に埋もれてしまうのだろう。樽の側面、ロランたちから見れば上方にあたる部位には、戦艦の艦橋構造部に似た土台構造物が金属の山さながら聳《そび》え立ち、百メートルを優に超す直径のケーブルをしっかり繋ぎ止めている。宇宙の深淵に向かってのびるケーブルは途中で闇に呑み込まれていて、八千五百キロの彼方にある反対側のドック部はおろか、回転軸たるセンターハブの構造体を窺《うかが》うこともできなかった。
製造主たちが死滅したことも知らず、機械的に補修を重ね、永遠に回転し続ける振り子。旧世界の亡霊、という言葉が違和感もなく浮かび上がり、ロランは小さく体を震えさせた。パニックの予兆をモニターしたノーマルスーツが自動的に酸素の供給量を増やし、光量変化を察知したヘルメットのバイザーが透過度を一段上げる。頭上に接する宇宙が面積を広げ、青から濃紺に色を変えた周囲の空を見渡したロランは、五万を指す高度計の数字を読み取ってからレバーを握り直した。
〈ウィルゲム〉が自力で到達できる限界高度。(コースこのまま、出力最大!)とハリーの声が弾け、ロランはフットペダルを踏めるだけ踏み込んだ。
〈ターンA〉と〈スモー〉のスラスターベーンが同時に唸《うな》りをあげ、ごうごうと叫ぶ大気が荒れ狂う白い筋になって機体を包む。フルスロットルでザックトレーガーとの相対速度を一致させた後、徐々に減速してドックの空洞に艦尾から進入。この時、少しでも高度が落ちたり、減速が急すぎたりすると、〈ウィルゲム〉はザックトレーガーの質量に踏みしだかれる羽目になる。事前に策定した速度設定に従い、コンマ単位で推力を調整する間に、ドック部は壁としか表現しようのない存在感をもって背後を覆《おお》い、空洞の内壁に備えられた無数の注意灯、ガントリークレーン、艦を係留する巨大なアームといったものが、モニターの後ろ半分を埋めた。樽の内側に複雑な凹凸を描くそれらは牙《きば》のようで、満腔を開いて迫る化け物魚、と最悪の想像をしてしまった瞬間、〈ウィルゲム〉の船体がその大口に呑み込まれ始めた。
ドックの内壁が頭上にせり出し、じりじりオールビューモニターの視界を塞《ふさ》いでゆく。係留設備は内壁の上下左右の四ヵ所に設けられており、〈ウィルゲム〉が接合するのは一番ゲート、地球の感覚で言えば下段に位置するアームだった。センサーが進入する艦艇のサイズを把握し、自動的にアーム角度を最適の状態に調整してくれるから、ザックトレーガーが建造される以前に造られた〈ウィルゲム〉であっても接合に問題はない。完全にドック内に呑み込まれた船体をCG映像に確かめ、まだか……と口中に呟いたロランは、唐突に発した鈍い震動にひやりと体を硬直させた。
内壁から突き出た係留アームが、〈ウィルゲム〉の艦底をくわえ込んだ衝撃だった。ほとんど同時にIフィールド・ジェネレーターが作動し、がらんどうの入口を見えない力場の壁で塞ぐ。気流の抵抗が消失し、〈ウィルゲム〉の推進ノズルが沈黙するのを見たロランは、こちらもスラスターベーンの噴射を止めた。
艦の進入に反応して稼働《かどう》したのか、慣性制御機構が遠心力を中和してドック内の重力が消滅する。いきなり無重力にさらされた機体がふわりと浮き上がり、〈ウィルゲム〉の艦底に頭部をぶつけた後、反動でドックの床面に尻もちをつく格好になったが、安堵で半分|麻痺《まひ》した頭はみっともなさを感じる余裕もなかった。
(上出来)
ハリーが言う。ドック内部は注意灯が瞬くだけの薄闇だが、CG補正されたモニターは〈スモー〉の金色の機体を明瞭に映し出している。踵裏《かかとうら》のマグネットを使い、こちらとは対照的にスマートに着床した〈スモー〉を見たロランは、〈ターンA〉を立ち上がらせつつ、溜め込んでいた息を吐いた。
後はザックトレーガーの回転運動に身を委《ゆだ》ね、月に近づいた時点で再び〈ウィルゲム〉を押し出してやればいい。現在の月の位置、ザックトレーガーの自転速度と公転速度。三つの要素から割り出された時間は二十二分後で、それまでロランたちには休息が許されていた。一般用ノーマルスーツを着込んだクルーが〈ウィルゲム〉のエアロックから飛び出し、ノートパソコンを手に管制センターに向かうのを横目にしながら、ロランは浮き出た汗を拭《ぬぐ》おうと額に手をやった。
手袋に覆われた手の甲がヘルメットのバイザーに当たり、乾いた音を立てた。思わず苦笑しかけた瞬間、ロランは不意に背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。
考えるより先に手足が動き、〈ターンA〉をその場から移動させたのは、これまでの実戦経験がなせる業《わざ》だった。案の定、ピンク色の光条がすぐ目前を走り、一瞬前まで立っていた床を直撃して、灼熱した火球を膨《ふく》れ上がらせていった。
真空中では爆発の音こそ伝わらないものの、飛散した鉄片や残粒子が機体を包むIフィールドに当たり、弾ける音は地上にいた時と変わらない。端的に暴力を連想させる音にパイロットの感覚を呼び覚まされ、ロランは上下左右に素早く視線を走らせた。
ドック内に潜み、狙撃してくる敵――おそらくはモビルスーツが近くにいる。なぜとは考えず、機械的に状況を分析した頭がとりあえずの結論を出した刹那、先刻とはまったく別の方向からビームの細い線条が走り、モニターを白く染め上げた。
係留アームに固定された〈ウィルゲム〉の船体をかすめたビームは、ドックの入口に張られたIフィールドの壁に干渉すると、丸いエネルギーの波紋を残して虚空に吸い込まれてゆく。複数の敵がいる? 背部のラックに収めたシールドとビームライフルを両手に構え、ロランは〈ターンA〉をガントリークレーンの陰に待避《たいひ》させた。ビームガンを即時射撃位置に保持した〈スモー〉が、別のクレーンの根元に着地したのを目の端に捉えつつ、VRヘッドを下ろして敵の気配を窺《うかが》うことに努めた。
「待ち伏せされた……?」
レーダーにはなんの反応もなく、CG補正された映像もドックの内壁を映すばかりだったが、他に現状を表す言葉はなかった。(バカな……)と呟いたハリーも、見えない敵に全身の神経を尖《とが》らせている声だった。
(ディアナ・カウンターの機体なら、事前に捕捉《ほそく》できたはずだ)
想像外の事態への戸惑いを隠して、その声音はひどく断定的に聞こえた。断定は短絡に繋《つな》がり、短絡は対応の誤りを生む。思ったより狭い人なのかもしれないと思いつき、それは危険だと続けて考えたロランは、〈スモー〉が痺《しび》れを切らしたようにクレーンの陰から飛び出し、〈ウィルゲム〉の上に回り込むのを見て舌打ちした。
ブリッジにいるディアナの身を案じたのだとしても、ハリーらしからぬ不用意な行動だった。まずいと思った時には複数のビームがドックの四方から発し、〈スモー〉の周囲に錯綜《さくそう》する光の網が顕現《けんげん》した。
左腕に装備したIFジェネレーターで数発のビームを中和、無力化しながらも、一発が〈スモー〉の肩の装甲を擦過《さっか》し、体勢を崩したところに新たな光条が殺到する。レーダーは依然として敵影を捕捉できず、ロランは下手に撃てばドックを破壊しかねないと承知の上で、ビームライフルの|引き金《トリガー》をでたらめに絞った。
出力を弱めたつもりでも、射出されたビームは反対側の係留設備――ここからは天井に見えるドックの内壁を直撃して、クレーンのひとつを根こそぎ吹き飛ばした。焼け火箸になったクレーンが爆圧に押し出されて飛んでくると同時に、無数のビームが〈ターンA〉に殺到する。咄嗟《とっさ》に回避し、ビームの飛来方向にライフルの銃口を向けたロランは、モニターを横切った物体を視界に捉えて、トリガーボタンにのせた指をつかの間凍りつかせた。
戦闘機でもなければ、モビルスーツでもない。物体としか言いようのない、全長三、四メートルの飛翔体が無数に乱舞し、こちらを射角に捉えるやビームの線条をのばしているのだった。形は一様ではなく、円錐《えんすい》形のもの、不格好な飛行機と見えなくもないものもあれば、先端に指らしき機構を備えたマニピュレーター状のものもある。ビームライフルで狙撃《そげき》するにはあまりにも小さく、ロランはシールドを前面に立てて機体防御に専念したが、小型の自動砲台とでも言うべき物体は縦横無尽にドック内を駆け巡り、死角に回り込んで狙撃する芸当までやってみせた。
少しでも動きが鈍《にぶ》れば即座に包囲陣を形成し、容赦なく四方八方からの攻撃を開始する。まるで統制の取れた昆虫の集団だった。ハリーとともに弾幕を張って牽制《けんせい》し、〈ウィルゲム〉から引き離すべく天井側の係留設備に移動したロランは、本能的に親機――コントローラーの存在を探した。
機械的な正確さの中にも、物体の動きの根底には粘着質な殺気、偏執《へんしつ》とも取れる人間的な反応があると思えたからだ。これらを操っている者がドックのどこかにいる。整然と並ぶアームのひとつに機体を寄せたロランは、ここからは天井にへばりついているように見える〈ウィルゲム〉、アームの反対面で息を潜める〈スモー〉、林立するガントリークレーンを順々に見渡し、最後にドックの外に広がる宇宙の暗闇を見据えた。
広漠とした空間に希薄な星間物質を漂わせ、限りなく真空に近い虚無の口を開けている宇宙。この時は強すぎる地球光に遮《さえぎ》られて星の光も見えず、不毛の一語で表現し尽くせる闇が広がっているだけだったが、ロランの脳は、その底なしの闇から届く不可思議な音色を聞いていた。
ラ、ラ、ラ……と聴覚を震わせる音は、ハープの弦が奏でる音のようにも、女の歌声のようにも聞こえた。あるいは聴覚が捉えた音ではなく、五官を超えた先にあるなにか――底なしの闇に怯《おび》え、それまで眠っていた部分を覚醒させた脳が、一刹那キャッチした音だったのかもしれない。脳髄《のうずい》が別の生き物のように蠢動《しゅんどう》し、頭蓋《ずがい》から溢《あふ》れ出る感覚に、ロランは思わずヘルメットを両手で押さえた。
ラ、ラ……と呼びかける音がいよいよ強くなる。膨脹した脳髄が白い閃光になって額をつき抜け、虚空に向かって解き放たれたように感じた時、ロランは全身を貫《つらぬ》き通す鋭い殺気を知覚した。
獲物を求め、縦横に動き回る自動砲台の群れの中に、それだけ異なる動きを示す物体が混ざっている。半球のボディに二本の触覚状のアンテナを生やしたそれは、他の砲台のように直線的な移動線は描かず、緩《ゆる》やかな曲線を引いて集団に紛れているのだった。虚空に翔んだロランの意識はその物体の中に殺気の源を見、次の一瞬、たえず動き回るそれがどの位置に移動するのかを見て取った。予測したのではなく、視覚に映る情報として見たのだ。
「そこのトロいのっ!」
自分のものとは思えぬ声がヘルメットの中でくぐもり、同時にアームの陰から飛び出した〈ターンA〉の白い機体が、上半身を捻《ひね》りつつビームライフルを撃ち放つ。大気中よりずっと細く見えるビームの線条が物体の移動曲線と交錯し、エネルギー波を間近に受けた物体が弾かれ、木の葉のように錐揉《きりも》みする光景が連続した。
目標の質量が小さすぎるために、直撃以前にビームの放射圧に弾かれたのだ。三十メートルの距離をおいて並ぶ隣のアームに機体を寄せ、ライフルの出力を最小に設定したロランは、レーダーにさえ映らない砲台の群れを再び注視した。錐揉みから立ち直った物体をVRヘッドの照準《レティクル》に捉え、二撃目のトリガーを絞ろうとして、予想外の光景に指先を硬直させた。
殺気の源、二本の触覚を生やした物体を中心に、すべての自動砲台が集結しようとしている。円錐形の物体に不格好な飛行機型の物体が連結し、さらにぼってりした構造体がその上に重なる。各々が各々を呼び合い、収まるべきところに収まって、十機の砲台がまったく別の形をした機械、人型のマシンを形成してゆく。すべてが連結を終えるまでに二秒とはかからず、最後に殺気の源たる物体がドッキングして頭部になると、一機のモビルスーツがロランの眼前で組み上がっていた。
左腕には五本の指がついているにもかかわらず、右腕は蟹《かに》の鋏《はさみ》に似たグラバーになっており、末端肥大気味の脚部も微妙に左右のデザインが異なる。背中には大量の携行武器《オプション》を鈴なりにした巨大なランドセル――いや、規模からしてオプション用のプラットフォームと言った方がいい――を背負っていたが、なにより特徴的なのは、胸の装甲板に刻印された×印のモールドだった。
デザイン上のものか、過去の戦闘で切り裂かれた跡か。異形のモピルスーツは然して語らず、触覚の下、フェイスガードの奥にある複眼式《デュアルアイ》カメラセンサーをぎらりと光らせる。人の目を想起させるそれは、〈ターンA〉と同じ赤い輝きを宿してロランを睥睨《へいげい》した。
(知らないぞ、あんな機体は……!)
無線から流れるハリーの呻きは、ロランの中を素通りした。それよりも衝撃的な事態が、〈ターンA〉のコクピットで立ち上がっていたからだ。
異形のモビルスーツが顕れたと同時に、オールビューモニターにノイズともつかない斜めの光の筋が二つ表れ、それは互いに交錯して「X」という文字を作り出した。すべてのパネルが〈WARNING〉の赤表示を点滅させ、パニックを起こしたかのようにアラームを鳴り響かせる中、VRヘッドの敵味方識別信号《IFF》も呪文を思わせる文字を並べ始めた。
〈Concept−X Project−6 Division−1 Block−2=TURN−X〉
「〈ターンX〉……。こいつ、知っているのか? このモビルスーツを」
それ以外、共鳴しているとしか思えない〈ターンA〉の反応を説明する理屈はなかった。〈ターンA〉と〈ターンX〉。口の中に呟き、〈ターンX〉と呼ばれたモビルスーツを見上げたロランは、再び頭蓋の中で脳が蠢《うごめ》くのを知覚した。
脳の襞《ひだ》が押し分けられ、なにかが無理やり内奥に侵入してくる感触は、しかし先刻聞いた宇宙の呼び声とは根本的に異なる。もっと鋭く、もっと怜悧《れいり》なもの。前にも感じたことがある……と記憶をまさぐり、そう、初めてホワイトドールの石像を見た時と同じ感触だと解答を得たロランは、それを合図に重苦しい人の声が流れるのを聞いた。
――Xは、反転《ターン》してもX。ゆえに不変の証。
知らない男の声は、無線から届いているのでもなければ、耳で聞いているのでもない。覚醒した新しい脳の皮質が捉え、言葉として伝えている人の意志。目前のモピルスーツの中で澱《よど》む、殺気の源が話している言葉だった。
――ゆえに時代の揺り戻しに屈することもない。そこに留まり、未来を志向し続ける人の力の象徴となる……!
時代の揺り戻し。その一語が頭の中で爆発し、ロランは無意識にアームレイカーを握り直した。「……なにを言ってるんだ?」と呻《うめ》いたのは表層の意識で、ロランの本質は、すでに〈ターンX〉を倒さなければならない敵として認識していた。
傲岸不遜《ごうがんふそん》な力の象徴。ゆるやかな揺り戻しの時を阻《はば》み、世界を硬直させる災厄の種……!
(ロラン、避けろっ!)
不意に割り込んだハリーの声が、ロランを正気に引き戻した。反射的に機体を上昇させた途端、〈ターンX〉のいる場所とはまったく別方向から発したビームが間近をかすめ、Y字型のアームを瞬時に半分消滅させる。飛び散った破片と炎から逃れ、援護《えんご》の火線を張る〈スモー〉の背後に着地したロランは、一機だけ残っていた自動砲台が頭上を行き過ぎ、からかうようにくるりと輪を描くのを見た。
そのまま中空にそそり立つ〈ターンX〉に近づき、人に慣れた鷹《たか》さながら、右の肩に収まって装甲の一枚になる。機体のパーツが分離して、独立した武器になる? 今さらながら戦慄し、パイロットはひとりなのか、どうしてすべてのパーツをコントロールできるのかと疑う間に、それまで黙然と佇《たたず》んでいた〈ターンX〉の左腕が上がり、背部のプラットフォームから突き出た金属の棒をつかんで、おもむろに抜き放ってみせた。
先端の暗い砲口がこちらを向き、細かな光の粒を滞留させる。ビームバズーカだと思いついた時には、ライフルの数倍に値する荷電粒子の塊《かたまり》が射出され、〈ターンA〉の足もとに爆発の火球が咲いた。直径十数メートルの穴がドックの内壁に穿《うが》たれるや、なぎ倒されたアームやクレーンが一斉に吸い出され、〈ターンA〉の機体もあっという間にその奔流《ほんりゅう》に巻き込まれていた。
慣性制御機構が局所的に働かなくなり、ザックトレーガーの回転運動に急激にさらされた機体が、ドックの外に放り出される形になったのだった。周囲にあった人工物が瞬時に消え去り、代わりに暗黒の宇宙がオールビューモニターを塗り込める。辛うじて保っていた上下の感覚を失い、五体がばらばらになるような衝撃に襲われながらも、ロランは咄嗟に穴の縁をつかんで機体のバランスを取り、ドックから弾き飛ばされるのを防いだ。
すでに大気圏を離れたために空気抵抗こそないものの、まだ引力圏を離脱したわけではないし、秒速八キロの速度で上昇を続けるドックの慣性もかかってくる。ここで放り出されたら、引力の虜《とりこ》になった機体は地球に引き戻され、二度と〈ウィルゲム〉に接触できなくなる。踵裏《かかとうら》のフックを起こし、ドックの外壁にしっかり噛《か》ませたロランは、焼け焦げた穴の縁を左腕でつかみ直して内側に戻ろうとした。四重、五重の装甲板を貫通したバズーカの威力にぞっとなりつつ、穴の中に上半身を滑り込ませた刹那、再び発した閃光が機体のすぐそばをかすめた。
つかんでいた穴の縁が熱で溶け、衝撃が踵裏のフックを引きちぎる。圧倒的なビームの束に弾かれた〈ターンA〉の機体がドックの外壁を転がり、ケーブルの土台構造物に激突して動きを止める。土台の要所に鱗《うろこ》状に設置された整流ウイングが折れ曲がり、直径二百メートルあまりの金属板が虚空に飛ぶのを見たロランは、夢中で構造物の突起をつかんで体勢を維持した。
末広がりの形状をなす上台構造物は、下から見上げればとんでもなく巨大な樹木の幹に見えた。複数の灯火に彩《いろど》られた幹の先からは長大なケーブルが屹立し、百キロと進まないところで完全に宇宙の闇に溶け込んでいる。彼岸から吊り下げられた振り子の上にいる錯覚にとらわれたロランは、パニックの一歩手前で踏み留まっている神経が、今にも音を立てて切れそうな恐怖に震えた。
なにもかもが狂っている。こんな場所は人がいるべきところではない。一刻も早く〈ウィルゲム〉に、ディアナのもとに帰らなければならない。憑《つ》かれたようにアームレイカーとペダルを動かし、半ば構造物にめり込んだ機体を立て直そうとした時、またしても「X」の記号がモニターに表示された。体を凍りつかせながらも、ロランは交錯するXの光の向こうにあるものを見つめた。
外壁に穿《うが》たれた穴をくぐり、〈ターンX〉がのっそりと姿を現したところだった。闇の中で赤い瞳が輝き、同時に、プリズムに似た七色の光が胸に刻まれたXの傷痕を浮き立たせた。
(わが名はギム・ギンガナム。ムーンレィスの武を司るギンガナム家の当主にして、今はディアナ・ソレルの成敗《せいばい》を命じられている者。〈ターンAガンダム〉のパイロット、名乗りを上げい!)
その声は、今度は無線機を通じてロランの聴覚を震わせた。「名乗りを上げろ……?」と口中にくり返し、その時代がかった言葉の響きに面食らったロランは、畏怖《いふ》するより呆然となった。
揺り戻しに屈せず、そこに留まって未来を志向し続けるもの――。打ち込まれた楔《くさび》さながら、〈ターンX〉は傲然《ごうぜん》とその場に立ち尽くし続けた。
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その声は、ドックの接触回線を通じて〈ウィルゲム〉のブリッジにも届いていた。唐突に始まった戦闘のためにヘルメットの着用が義務づけられ、誰もがノーマルスーツの鎧に身を固めている中、ディアナはひとり艦長席の肘かけを握りしめていた。
「ギム・ギンガナム……。アグリッパが『冬の城』から呼び戻したか」
百二十年前、ソレル家の統治体制転覆を謀《はか》ってクーデターを起こしかけた男。永久凍結の刑に科せられたはずのギム・ギンガナムが、再び自分の命を狙《ねら》いにきた現実を前に、ディアナは暗闇に引きずり込まれてゆく自分の体を知覚した。
ディアナ・カウンター内部のシンパを使って混乱を引き起こしたり、暗殺者を差し向けてくるのとはレベルが違う。一機とはいえ、自分でさえ初めて見る未知のモビルスーツを使い、直接仕掛けてきた今回のアグリッパの行動は、あからさまな宣戦布告といっても過言ではなかった。本能的に争いを拒んできたムーンレィス、その中でも最高の知恵者、穏健《おんけん》派として完全平和を謳《うた》ってきたアグリッパまでが、武力の行使をためらわなくなった。地球の環境に刺激されたわけでも、実際に戦場の臭いを嗅いだわけでもない。長らく「白の宮殿」から一歩も外に出なかった男が、血生臭い行為に手を染め始めたのはいったいどういうことか。
奥の院に閉じこもり、チェスの駒を動かしているのでは飽き足らなくなったのか。知謀と策謀を駆使するだけで、人の闘争本能は活性化してしまうものなのか。もしそうなら、そのように人の心が変わり、時代が動く端緒を作ったのは自分だった。ソレル家の理念に従い、結果を考えぬままに地球降下作戦を開始したことが、地球ばかりか、月に住む人々の闘争本能までよみがえらせてしまった……。
もう後には戻れない。人類はこのまま、もういちど絶滅するまで戦争を続けるのかもしれない。暗い予感が全身にのしかかり、椅子から落ちそうな体を微かに前に屈《かが》めた時、ピンク色の閃光がブリッジの窓を染めた。
戦闘に応じて艦橋構造部は船体に収納されていたが、窓のモニターは外周監視カメラを通して変わらず外の風景を映し出している。自動的にフィルターがかかり、光量が落ちたモニターに〈スモー〉の機体が横切るのを見たディアナは、鋭《するど》い疼《うず》きが走った胸に手を当て、それでも足らずに目を伏せた。
ハリーもロランも、こんな私のために命を投げ出して戦ってくれている。鈍《にぶ》い震動がブリッジを揺らし、できれば閉じ続けていたい目を開けたディアナは、いつの間にかこちらを注視していたキエルと視線を絡ませ、小さく息を呑んだ。
ヘルメットのバイザーごしに見える二つの目は、まるでこちらの心中を見透かし、非難しているかのようだった。それとわからぬほど目を細め、ディアナはそこに潜む感情を見極めようとしたが、再び発したビームの閃光が、バイザーに反射し、いったん隠れたキエルの瞳が次に見えた時には、純粋に不安を訴える色だけがその表面を覆っていた。
気のせい……か? 眉をひそめた途端、(相手は一機なのか? あっちこっちから撃ってきとるようじゃが)と、シドの声が耳元の通話装置から流れて、ディアナはモニターに顔を戻した。
電離層の影響が残る中では、接触回線が開かない限りロランたちと通信することはできない。ここからでは戦闘の状況を窺《うかが》う術《すべ》はなかったが、ビームを発する物体の縦横無尽な動きは、人が乗って操っているものとは思えなかった。遠隔操作用機動砲台《ファンネル》、という言葉を思い出したディアナは、体の奥底で不穏の塊《かたまり》が頭をもたげるのを自覚した。
「〈ムーンバタフライ〉と同じシステムを使っている……?」
ソレル家に伝わり、ソレル家の血を引く者だけが操ることができる失われた技術の結晶。「冬の城」の内奥に堅く封印されたそれは、幼い頃、生前の父とともに見たのが最後で、この三百年間は誰も近づいてさえいない。他にも同様のシステムを採用した機体が残っていたとは信じられず、まさか……と唇の中に呟く間に、(ムーンバタフライ? 月の蝶々ですか)と耳|聡《ざと》いグエンの声が発して、ディアナは自分の迂闊《うかつ》さを呪った。
ヘルメットに内蔵された通話装置のため、声が筒抜けになることを忘れていた。科学技術万能主義に取り憑《つ》かれた男に知られていい話ではなく、無視して操舵コンソールにつくホレスたちに向き直ったディアナは、「〈ターンA〉と〈スモー〉の援護はできないのですか?」と大きめの声で言った。
(無理です。ドックに固定された状態では……)
「なら出られないのですか!?」
(まだ引力圏内です! いま飛び出せば、本艦は地球の引力に引かれて墜落します)
初めて声を荒らげたホレスがこちらを振り返った瞬間、爆発の火球が音もなく広がった。モビルスーツの機体の一部と見える物体が、意志ある者の動きを示してその前を飛翔してゆく。やはり間違いない、ギム・ギンガナムは失われた技術を使っている。〈ターンA〉に続き、〈スモー〉までが宇宙に弾き飛ばされるのを見たディアナは、通信途絶を承知で叫んでいた。
「ロラン、ハリー! そのモビルスーツは危険です。早くお逃げなさい……!」
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虚空に踊り出た〈スモー〉の機体は、追撃のビームを装甲に映して真実、金色に輝いて見えた。右マニピュレーターに装備したビームガンから連続して光弾が放たれ、続いて穴から飛び出してきた自動砲台を牽制《けんせい》するようにしたが、それは羽虫を矢で射《い》る虚しい行為でしかなかった。
ビームの筋をひらりとかわして、自動砲台はドックの外壁に佇立する主人――〈ターンX〉のもとに返ってゆく。先刻同様、左肩に接合して装甲の一枚になる光景を目撃したロランは、ギム・ギンガナムと名乗ったパイロットの異常な能力にあらためて戦慄した。
名乗りを上げろなどと言う一方、ギムは自動砲台を操ってハリーの相手もしているのだ。背中に目がついているという表現では足らず、〈ターンX〉にそのようなシステムが搭載されているのかとも考えたが、わかったところで対策が見つかるものではなかった。なまじの敵ではない、その理解を抱いて〈ターンX〉を見つめ直した時、(ギム・ギンガナム!)と叫ぶハリーの声が無線機に弾け、猛然と猪突する〈スモー〉の機体が〈ターンX〉の肩ごしに見えた。
(『冬の城』で屍《しかばね》になりかけていた男が……!)
ディアナを侮辱されたからというだけではない、個人的な怨恨《えんこん》がその声にからみつき、〈スモー〉の機体も震わせているようだった。ハリー大尉はギム・ギンガナムを知っている? スラスターベーンの燐光《りんこう》を背負った〈スモー〉が脇目もふらず〈ターンX〉に迫るのを見たロランは、「ハリー大尉、無茶です!」と叫んでいた。
背を向けたまま、間近にかすめるビームを泰然と受け流した〈ターンX〉は、不意にドックの外壁から浮かび上がるや、両のマニピュレーターをゆったり左右に開きつつ〈スモー〉に向き直った。好きなだけ撃てと言っている姿は、日頃のハリーなら絶対に引っかからない浅薄な挑発行為だったが、この時は違った。
〈スモー〉の金色の機体が、静止する〈ターンX〉の機体に突進する。ビームガンが細い光の筋を吐き出し、〈ターンX〉の右マニピュレーターを直撃したかに見えたが、小さく咲いた閃光は爆発によるものではなかった。FRPが発する燐《りん》の光を散らして、肘《ひじ》関節から先の部分が分離したのだった。蟹《かに》の鋏《はさみ》に似た右腕のグラバーが自動砲台と化し、突撃する〈スモー〉の背後にするりと回り込む。間に〈スモー〉がいては掩護の火線も張れず、ロランが〈ターンA〉を移動させた時には、開放したグラバーの奥から太いビームの帯が射出されていた。
他の自動砲台とは桁《けた》が違う、艦載メガ粒子砲クラスのビーム。すかさず〈スモー〉の左腕が突き出され、装備したIFジェネレーターが防御のIフィールドを展開したものの、中和するにはあまりにも膨大なエネルギーの渦だった。緩衝波が虚空に光の波紋を描き出したのも一瞬、薄氷を割る呆気なさでIフィールドを突破した荷電粒子の塊が、〈スモー〉の左腕を根こそぎ抉《えぐ》り取ってゆく。〈ターンX〉の両肩から発した自動砲台がそこに殺到し、よろめく〈スモー〉の周囲で光の糸が二、三度瞬くと、小さく爆発を起こした金色の機体がたちまち後方に流れ去っていった。
DHOG縮退炉への直撃は免れたとはいえ、制御を失った機体が引力の虜《とりこ》になり、大気圏の摩擦熱に曝《さら》されれば結果は同じだった。「大尉!」と呼びかけた声にも応答はなく、片腕を失った〈スモー〉は音もなく虚空を滑り、土台構造物の陰に隠れて見えなくなってゆく。先回りして受け止めるべく、ロランは〈ターンA〉をドックから飛翔させようとしたが、〈ターンX〉の両肩から自動砲台が射出される方が先だった。
二枚の自動砲台が行く手に立ち塞がり、ビームの弾幕《だんまく》を張る。ぎりぎり回避した瞬間、頭上をメガ粒子砲の帯が吹き抜けて、放射圧に弾かれた〈ターンA〉の機体が再び土台構造物に押しつけられた。
シートにノーマルスーツを固定するアタッチメント、コクピットの周囲に配置された衝撃吸収装置、それにエア・シートベルト。三重の耐衝撃機構《ショックアブソーバー》があっても、体にのしかかるG(重力加速度)を完全に防ぎきることはできない。内臓が移動する不快感、目玉が飛び出るような衝撃に襲われ、思わずヘルメットを手で押さえたが、出てきたのは目玉ではなく、唇から飛び散った胃液とも唾液ともつかない液体だった。丸い水球になって浮かぶ汚物はすぐにノーマルスーツの換気装置に吸い込まれ、代わりに大量の酸素がヘルメットに送り込まれる。頭の芯がじんじん痺《しび》れる音を聞きながら、ロランは百メートルと離れていない場所に着地した〈ターンX」を見つめた。
(数千年の時を経て、ターン・タイプのモピルスーツが相見えたのだ。外野には退場してもらおうではないか)
両肩の自動砲台、右マニピュレーターを定位置に収めつつ、ギム・ギンガナムのよく通る声が言う。「ターン・タイプ……?」とおうむ返しにして、ロランは不健康に青白い〈ターンX〉の機体の色に目を凝《こ》らした。
(この〈ターンX〉が教えてくれた。文明の埋葬者である〈ターンA〉に対して、文明の絶対性を象徴するのが〈ターンX〉。戦《いくさ》で疲弊《ひへい》した旧世界の末期に両者は造られ、そして人類の未来を決すべく戦った)
その時の傷だといわんばかりに、胸の×印のモールドが再びプリズム光を宿した。頭より先に体が反応し、全身の肌が栗立ち、胃がずんと重くなるのをロランは感じた。
「〈ターンA〉が文明の埋葬者……?」
(勝利した〈ターンA〉は、膨大なナノマシンをもって地球の文明の痕跡を消し去り、人類を無明の闇に追いやった。敗北した〈ターンX〉は、月に落ち延びて復活の時を待った。時代の揺り戻しに屈せず、文明の灯をともし続けたムーンレィスとともに……!)
「そんな……そんな話、聞いたことがない!」
(そうだ。地球の民同様、そのような歴史を我々ムーンレィスも忘れていた。すべての記録情報を占有し、もって神のごとくムーンレィスを支配してきたソレル一族のために……!)
違う、と内心に叫んだ端から、『世界を滅ぼした魔物』といったウィル・ゲイムの声、『黒歴史を生んだ張本人。宇宙移民を苛《いじ》めた張本人の〈ガンダム〉』といったテテス・ハレの声が滲み出てきて、最後に『我々ムーンレィスも記憶を失っている』と語ったホレスの声が痺れの残る頭を震わせた。「ディアナ様の一族が……」とくり返しながら、ロランはそうなのだろうか? と自問した。
含有するプログラムに従い、さまざまな物質を構成するのがナノマシンだから、たとえば新種のナノマシン――他のナノマシンに取りつき、そのアーキテクチャを変換する能力を持つナノマシン――のようなものが大量に散布され、自然環境維持に専従するプログラムを他のナノマシンすべてに植えつけたのだとすれば、「膨大なナノマシンをもって、地球の文明の痕跡を消し去る」ことは可能だったろう。強化コンクリートや鉄骨を形成するようプログラミングされたナノマシンも、土壌育成プログラムを注入されればただの土くれに変貌する。ナノマシンで建築されたビルやハイウェイはもちろん、他の建材で造られたものにしても、長い時間をかけて腐敗させ、植物の育成に適した土壌に変換できたはずだから。
それが、旧世界の文明を一気に衰退させたとされるナノマシン・ハザードの真実。戦争と環境破壊で地球が汚染され尽くした時、旧世界の人々は人為的にナノマシンの暴走を引き起こし、自らの文明に幕を閉じた。夢の中で幻視した始まりの樹=Aその果実≠スる〈ターンA〉は、人類に自殺を促《うなが》す鉄鎚《てっつい》だった。〈ターンX〉は文明の埋葬に反対する勢力が造り出した最後の切り札で、〈ターンA〉に敗れた後、月に漂着して永い休眠に入った。そしてマウンテン・サイクルに保管されていた〈ターンA〉が復活するとともに、再び活動を開始した。忘れようとしても忘れられない、血の一滴、細胞の一片にしまわれた記憶に導かれて……。
が、そうならこの〈ターンX〉の徹底した冷たさはなんなのか。しょせんは憶測と、個人的見解の積み重ねでしかない歴史を真実と断言し、人の永遠を謳って恥じない傲慢《ごうまん》さはなんなのか。一方的になだれ込んでくる暗い推測を打ち消して、ロランは全身が武器の塊と見える〈ターンX〉を睨みつけた。
〈ターンX〉は、たしかに旧世界の栄華を窺《うかが》わせる技術の結晶かもしれないが、百五十年の歳月をかけて巨大な船を掘り出した男の純情、世界を呪っていたはずの女が死の直前に示したやさしさ、重すぎる宿命を負い、なお人として最善を尽くそうとする女王の覚悟を前にすれば、そんなものには毛ほどの価値もない。悲しすぎる過去を封印し、明日への希望を紡ごうとしたソレル一族の想いを理解しようともせず、硬質な怨念を突出させるギム・ギンガナムこそ傲慢。世界の和を乱す、やさしさという節度を失ったエゴの塊。斃《たお》すべき敵でしかない――!
ラ、ラ……と歌う声が脳裏に弾け、ロランに〈ターンX〉の頭部に澱む影、ギムの暗い思念を見せた。こちらが動くと同時に機体を分離し、包囲攻撃を仕掛けるつもりでいる。パソコンをスクロールさせるようにギムの思考を読み取ったロランは、フットペダルを踏み込んで一気に〈ターンA〉を突進させた。
同時にビームライフルを撃ち、〈ターンX〉が回避するはずの方向に機体を向ける。本体、つまり頭部のコクピットに肉迫すれば、自動砲台で四方から攻撃することもできなくなる。正確に進路を読んだ〈ターンA〉の動きに、〈ターンX〉がわずかに戸惑う挙動を見せ、(ほう、まだ抵抗する気力があったか……!)とギムの声が無線に流れる。ロランはそれを虚勢と判断して、迷わず〈ターンA〉を直進させた。
それがいけなかった。死角に回り込み、最大出力のビームライフルを直撃させたと思った刹那、上半身と下半身が真っ二つに分かれた〈ターンX〉の機体が、二方向からメガ粒子砲を放ってきたのだ。二条の高エネルギー波が〈ターンA〉の頭と足もとをかすり、ロランは一瞬、機体の制御を失った。
「くそっ……!」
(過去を知り、未来を志向し続ける権利が人にはある。それを阻むものは消え去れ!)
そのコンマ数秒の隙に、〈ターンX〉の背部プラットフォームから小型ミサイルが放たれる。ビームに較べればはるかに速度の遅いそれは、〈ターンA〉に接触する前に自爆してレーダーとモニターをつかの間潰した。
(〈ターンX〉がそれを望んでいる)
爆光の中から再度メガ粒子の帯がのび、正面に構えたシールドに擦過した。シールドの表面がぐずぐずに溶け、はね跳ばされた〈ターンA〉の機体が、ザックトレーガーのケーブルに急接近する。直径百メートルの金属柱がモニター一杯に迫るや、激突の衝撃がロランの五体を引きちぎるようにした。
(智を永遠に繋《つな》げと言っている)
いつの間にかドッキングした〈ターンX〉が、激突の反動で弾かれた〈ターンA〉の頸部《けいぶ》を押さえ、巨大な踵《かかと》で胸部を蹴《け》りつける。ロランは嘔吐し、バイザーに当たって砕けた自分の吐瀉物《としゃぶつ》ごしに、〈ターンX〉の赤い目がぬらりと輝くのを見た。
(積年の恨み、今こそ思い知るがいい……!)
右腕に装備されたグラバーが開放し、砲口に荷電粒子を滞留させると、メガ粒子砲のピンク色の光が
ロランの網膜を焼いた。ぶつっと音を立てて意識が途切れ、ロランの肉体を宇宙よりなお暗い、無意識の底へと追いやった。
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メガ粒子の奔流が吹き抜けると、砕け散ったナノスキンの屑《くず》が微細な光の椋になって虚空に拡散し、レーダーから〈ターンA〉の反応が消失した。腹の底からわき上がってくる喜悦に押されて、ギム・ギンガナムは哄笑《こうしょう》していた。
実戦における勝利。ムーンレィスの武を司るギンガナム家の嫡男《ちゃくなん》として生まれながら、これまで決して味わうことのなかった興奮。絶対平和の題目の中、飼い殺しの憂き目にあってきた肉体が歓喜の叫びをあげ、百二十年間の凍結に甘んじた血液を沸騰させるようだった。あるいは〈ターンX〉が搭載する失われた技術――脳波、思考波を介して人の意志をマシンに伝達する直接通信《ダイレクト・インターフェイス》システム――が、パイロットたるギムの脳に機体の含有データを逆流させ、〈ターンA〉を葬《ほうむ》った悦びを倍加しているのかもしれなかったが、ギムにはどうでもいいことだった。
〈ターンX〉の記憶とでも言うべき膨大なデータは、初めてコクピットに座った時から知覚の深い部分に入り込み、ギムの理解速度に合わせて少しずつ支配領域を広げている。アグリッパ麾下《きか》の艦艇に乗って月を発ち、このザックトレーガーでひとりディアナを待ち伏せる間に、それはすっかり脳の一皮質を占拠し、今ではギム自身の記憶と不可分なものになっているのだった。喜悦に身を震わせているのは自分か、〈ターンX〉か。考えても詮ないことだと断じて、ギムは暗黒に浮かぶ地球の半円に目を据えた。
ザックトレーガーの土台構造物ごしに、大気のベールを羽織った地球はどこまでも蒼く、ギムは新たな興奮が全身の毛穴から滲《にじ》み出すのを感じた。目先の閉塞感と終末観に囚われ、自らの存在を体現する文明を封殺した旧世界の人類。現人類をも逼塞《ひっそく》させる、〈ターンA〉に象徴される過去の呪縛《じゅばく》は、その機体がビームに焼かれて消滅した今、完全に解かれた。これからは〈ターンX〉が象徴する絶対不変の力、一度は葬られた科学技術の力が新しい時代を拓く。その支配者となるのは〈ターンX〉を勝利に導いた戦士、他ならぬ自分だ。ギムはアームレイカーから離した腕を胸の前で組み、昂る思念に任せて〈ターンX〉を移動させた。ドックの外壁に穿《うが》たれた穴の前に着地し、樽《たる》状の空間の内側にへばりつく旧式の巡洋艦――地球に埋もれていたらしい小汚い航宙艦を見下ろした。
まずはディアナ・ソレルを葬る。その上で月に戻り、「冬の城」に眠る家臣たちを残らず解凍して、ギンガナム軍を再興する。旗艦〈アスピーテ〉を中心とするギンガナム艦隊の威容を前にすれば、月に残存するディアナ・カウンターも、彼らを掌中に収めたつもりでいるアグリッパも、ひれ伏さざるを得なくなるだろう。そうして月の勢力を統合した後、全艦隊を率いて地球に進軍。戦争ごっこを続けているディアナ・カウンター第一次降下部隊を支配下に置き、月と地球を統治する新たな軍事政権を勃興《ぼっこう》させる――。
誰にも文句は言わせない。ソレル家の者にしか扱えないとされるダイレクト・インターフェイス・システムさえ、使いこなしてみせた自分だ。辛苦に耐え、因襲を打ち破った者にこそ、次の時代の覇者たる資格が備わる。御家断絶の責任を取って自決した父、そのために泣く生活を強いられた母の無念は、これで報《むく》われる。ギムは〈ターンX〉の足を踏み出し、ディアナの艦が係留されるドック内部に進入しようとしたが、
「なに……!?」
接近警報のアラームが鳴り、対応する間もなく襲いかかった衝撃がコクピットを激震させた。コンソールに頭を叩きつけて即死するところを、エア・シートベルトに助けられたギムは、反射的に機体を移動させつつ〈ターンX〉の損傷を調べた。
オールビュー・モニターの一画に機体の全体像がCGで表示され、背部プラットフオームに装備したビームバズーカが、ラックごと消失している現実をギムに伝えた。小型の隕石《いんせき》がぶつかったにしては、レーダーが直前まで反応しなかったのはおかしい。外壁から離れてドックを遠望し、周囲三六〇度の暗闇に索敵のレーダー波を飛ばしたギムは、土台構造物の向こうに映える地球の外縁、蒼い弧を描く一端に走った七色の光のきらめきを認めて、目と口を全開にした。
先刻も見た、ナノスキンの屑としか思えない微細な光の粒をまとって、〈ターンA〉の白い機体がそこにあった。メガ粒子砲の直撃を受けた装甲には一点の焦げ跡もなく、頭部のデュアル・アイを赤く閃めかせた下では、ビームライフルの銃口がぴたりとこちらに据えられていた。
「バカな……!?」
相対距離は十キロ未満。宇宙では至近距離と表現すべき場所からビームの帯がのび、〈ターンX〉の踵《かかと》を擦過《さっか》する。機体が再び激震に見舞われ、まだ目の前の事態を呑み込めずにいる脳が攪拌《かくはん》されたように感じながらも、ギムはパイロットの本能で〈ターンA〉の動きを追った。幻でも亡霊でもない、現実の敵がモニターを横切るのを目敏《めざと》く捉えて、「行けっ! ファンネル」と叫んだ。
両肩のファンネル――遠隔操作用機動砲台が分離し、〈ターンA〉に突進する。ギムの思考波によって操られるそれは、どれほど熟練したパイロットでも実現し得ない、完璧な連携プレーと機動力でたちまち〈ターンA〉を包囲してゆく。獰猛なビームの線条が交錯し、〈ターンA〉を直撃するように見えたが、その時には七色に閃く光の粒を無数に残して、〈ターンA〉の機体は再び消えていた。
身を乗り出そうとして、シートとノーマルスーツを固定するアタッチメントに邪魔されたギムは、ヘルメットをむしり取るように外して周囲を見回した。宇宙戦では自殺に等しい行為だったが、目を疑う光景を見た後では、ヘルメットのバイザーさえ視界を遮る障害物に思えたのだった。広がった総髪が無重力の中で泳ぎ、ぬぎ捨てたヘルメットがモニターに当たって空中で回転する。背筋が冷たくなる恐怖を堪《こら》え、意識を研ぎ澄ましたギムは、目標を失って漂流する二機のファンネルから数キロ離れた空間、ザックトレーガーのケーブルを背にした空間がぐにゃりと歪むのを見て、今度こそ開いた口を閉じられなくなった。
黒一色に塗り込められた空間に白いゆらめきが生まれ、〈ターンA〉の人型がゆらりと像を結ぶ。そのマニピュレーターに握《にぎ》られたビームライフルが音もなく荷電粒子を吐くと、右脚部に直撃を受けた〈ターンX〉の機体が、三度の激震に悲鳴をあげた。
膝から下がごっそりなくなり、アラームが発狂したようにわめきたてる。「空間転位《テレポーテイション》だと……!?」と絶叫したギムは、自分が発したその言葉の語感に慄然とした。
目標を発見したファンネルが、ギムの恐怖を受けて一直線に〈ターンA〉に向かう。ライフルとシールドを背中のラックに収め、左右の肩に装備したビームサーベルを抜き放った〈ターンA〉は、殺到するファンネルを一撃で両断するや、爆発の光球が膨脹するより先に、もう一機のファンネルも粒子束の刃で切り裂いてみせた。二つの光球を背にした〈ターンA〉に睨《にら》み据えられ、一瞬前の栄光が霧散するのを感じたギムは、機体の全パーツを離散させた。
両腕、両足、腰、胸部。それぞれがファンネルと化し、〈ターンA〉に殺到する。無数のビームが交錯する直前、〈ターンA〉は左右に握ったビームサーベルを拳《こぶし》ごと回転させ始めた。
高速回転するサーベルが光の残像を残し、〈ターンA〉の機体に匹敵する巨大な円を描く。それは粒子束で形成されたシールド――ビームシールドとでも呼ぶべきエネルギーの壁となって、上下左右から飛来するビームを跳ね返していった。
ギムの動揺がコントロールを狂わせ、〈ターンA〉に接近しすぎたファンネルが光の壁に弾かれてゆく。後方に控えた〈ターンX〉の頭部――〈Xトップ〉と呼ばれる制御ユニットの内部で、ギムはモニターに表示された「∀」の記号が赤く点滅するのを見た。
再度の敗北を予感して、〈ターンX〉が震えている。その戦慄と恐怖が電気信号になって脳髄に突き刺さり、ギムは全身を声にして叫んでいた。
「テレポーテイションまで実現した人類が、自らの文明を埋葬したというのか! 時代の揺り戻しに身を委ねたというのか!?」
――時間と空間さえ超えられる力を手にした人は、悟ったんだ。
その声はダイレクト・インターフェイス・システムをを流れる信号より鋭く、無線音声より肉感的な強さをもってギムの五官を貫き、神経繊維の一本一本を共振させていった。〈ターンA〉のパイロットの声と理解して、ギムは突進する白い機体を凝視した。
――そうしてどこまでも繁栄していった後にくるのは、拡大の果ての拡散。宇宙の塵《ちり》でもない存在になることだって。だから……!
「だから時代の逆行を選んだのか。揺り戻しか。無明の中で土いじりをして終わるのが人の分というのか……!」
冗談ではない。ギムのものとも、〈ターンX〉のものとも判然としない怒りがファンネルを結集させ、〈Xトップ〉のもとに〈ターンX〉の人型を形成してゆく。即座に右腕のグラバーに内蔵したメガ粒子砲を開こうとしたものの、〈ターンA〉はすでに一キロ弱の距離にまで接近していた。
「数千年の時を超えた〈ターンX〉を、百二十年の冷睡から覚めたわたしが操っている! それが人の叡知だ。広漠な宇宙の時空に対して、人類が必然的に培《つちか》ってきた力だ!」
――あなたの血はいま、たぎっている。
脳に滑り込む〈ターンA〉のパイロットの声が、白熱する思考に冷や水をかけた。ギムはアームレイカーにかけた指先を硬直させた。
――それはこの先、一万年冬眠し続けたって得られない悦びのはずだ。
百二十年間の氷結を記憶した全身の細胞が反応し、ギムの意識を飽和させた。永遠の獲得は、停滞の束縛。その言葉が脳の内奥から浮かび上がり、そうかもしれない、とわずかに残ったギムの理性が応じた瞬間、〈ターンA〉のビームサーベルが振り下ろされた。
数万度に達する粒子束が瞬時に複合装甲を溶解させ、〈ターンX〉の頭部を焼いた。痛みも恐怖も感じる間はなく、ギムの肉体は一秒未満の時間で完全に蒸発したが、〈ターンX〉の搭載コンピュータに取り込まれた意識はすぐには消失せず、ギムの意識は己の死を他人事のように傍観する数秒間を漂った。
制御を失った〈ターンX〉は、ぐずぐずに溶けた頭部から爆発のスパークを閃かせつつ、ザックトレーガーのドックに向かって流れてゆく。地球の引力に引っ張られているように見えたが、〈ターンX〉と融合したギムの意識は、それが意図的な行為であることを知っていた。
〈ターンX〉の機体を構成するナノマシン――対〈ターンAガンダム〉用に開発された、増殖能力を極端に強化されたナノマシンが、その本能に従って〈ターンX〉の機体を生き永らえさせようとしているのだった。ザックトレーガーに取り憑き、周囲のナノマシンのプログラムを書き換えて、機体の修復に利用する。いつの日か新しい依代《よりしろ》――パイロットに拾われるのを待ち、〈ターンA〉との再戦に備えて永い眠りにつく。それが〈ターンX〉の行動を律する自己保存プログラムの内容だったが、ギムの意識は、その心臓たるDHOG縮退炉が崩壊しつつある現実にも気づいていた。
炉が臨界に達すれば、DHOG縮退炉は周囲の空間を巻き込んで爆縮し、取り憑いたケーブルともども、〈ターンX〉を形成するナノマシンも消滅させる。〈ターンX〉のシステムはその事実に気づいているにもかかわらず、しょせんは増殖本能の塊でしかないナノマシンたちは、生存をあきらめきれずザックトレーガーに憑依《ひょうい》しようとしているのだった。
ドックの土台構造物に漂着し、ザックトレーガーのケーブルとの融合を開始した〈ターンX〉の姿は、単体では生きられない哀れな寄生生物を想起させた。無様《ぶざま》な……と唾棄《だき》しかけて、今までその依代《よりしろ》に使われていた我が身に思い至ったギムの意識は、結局、父ともども他者に使われるだけだった人生に思いを馳せた。
ギンガナム家の再興に奔走した生涯を見渡し、甲斐のひとつも拾い出そうと試みたが、浮かび上がるのは出口のない憤懣《ふんまん》や不安の記臆ばかりで、それらを取り去った後にはのっぺりとした闇、とらえどころのない空虚が残るのみだった。すでにシステムの一部はダウンし始めており、末期の際が慨嘆《がいたん》で塗り潰されるのを嫌ったギムの意識は、過去の詮索《せんさく》を中断して、虚空に佇む〈ターンA〉の観察に残された時間を費やした。
『逃げろ』と呼びかける少年の声が、波動になって白い機体から放出していた。ドックの内壁に係留された母艦に叫んでいるのだろう。ケーブルに取り憑いた〈ターンX〉が爆縮すれば、土台構造物は空間の歪みに引きちぎられて消失し、支えを失ったドックは引力に引かれて地球に落下する。ドックの機能が維持されている間に係留を解き、一刻も早く離脱しなければ、艦もその崩壊に巻き込まれるというわけだ。通信の途絶を知っているのかいないのか、必死に叫び続ける〈ターンA〉のパイロットの声を聞いたギムの意識は、すでにないはずの胸がちくりと痛むのを知覚した。
届くはずがないとわかっていても、叫ばずにはいられない人との繋《つな》がりが彼にはある。自分にはそれもなかった……と苦い諦念《ていねん》を抱いた刹那、〈ターンX〉のダイレクト・インターフェイス・システムが完全にダウンし、ギムの意識も途切れた。もう二度と起こされることのない、永遠の眠りにギム・ギンガナムは落ちていった。
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音とも振動ともつかない鈍い衝撃が遠くで発した後、ギリギリ……と金属のこすれあう重い音が鼓膜《こまく》を震わせ始めた。足もとから這い上り、ノーマルスーツの接触通信回線を通じて神経を逆なでするその音は、〈ウィルゲム〉の船体が醸《かも》し出しているのではなかった。直径八百メートル、全長千五百メートルの金属の樽が、未知の衝撃に揺らいで軋《きし》む音。ザックトレーガーの悲鳴だった。
(ケーブルの土台付近に異常震動発生!)
(ドックのメインフレームと本艦の接続回線が強制排除されています。Iフィールド・ジェネレーター出力低下!)
(コントロールセンターにいる中継員を艦内に呼び戻せっ! 無線が通じないなら誰か迎えに出すんだ)
コンソールに取りついているオペレーターたちの怒声が飛ぶ。ザックトレーガーの管理システムに未知のなにかが干渉し、〈ウィルゲム〉の航法システムとの連動回路を一方的に遮断《しゃだん》しているのだった。外壁を覆うIフィールドの出力も弱まり、慣性制御システムが部分的にダウンした結果、ドックにかかる遠心力が波状に〈ウィルゲム〉に作用して、ブリッジは不気味な微震に包まれている。数秒単位で重力と無重力が入れ替わる感覚は不快の一語で、艦長席に押しつけられたり、引き離されたりをくり返すディアナの背中は、ノーマルスーツの下で玉の脂汗《あぶらあせ》を浮かべていた。
流れ弾がドックの施設を破壊したのだとしても、管理システムが電子的な干渉を受けるとは考え難い。あるいはモビルスーツの縮退炉が爆縮して空間を歪曲させ、電磁障害に似た影響を与えたのかもしれなかったが、もしそうなら撃墜されたのは誰の機体か。ロランとハリーの無事な姿を描こうとして、ギム・ギンガナムの強圧的な声を思い出してしまったディアナは、「〈ターンA〉か〈スモー〉と連絡は取れないのですか?」と、無駄を承知で口にした。
ドックの外に飛び出して以降、接触回線が断片的に通信音声を拾っただけで、ロランたちの動向はまったくつかめずにいる。(無理です。まだ電離層の影響下から……)と案の定の答えを返しかけたホレスを遮り、(ええ、なに言ってんの!?)と調子外れな声音が発するのを聞いたディアナは、「なにか」と咎《とが》める声を出した。
通信コンソールにつくムーンレィスのクルーだった。ノーマルスーツの通信装置はサラウンド機構を有しているので、音声の発した方向からおおまかに発信者の位置を特定することができる。びくりと肩を震わせたクルーは、(ソ、ソシエさんであります)の返答をすぐによこした。
(ロランさんが逃げろと言ってるとか……)
分厚いヘルメットに覆われていても、ブリッジの空気が一瞬、凍りつくのがはっきり感じられた。ギム・ギンガナムの奇襲が始まって以来、ソシエは〈カプル〉のコクピットに収まってモビルスーツデッキで待機している。(ローラが……?)と低く呻いたグエンをちらと振り返ってから、ディアナは「回線を」と言った。
(……聞こえないの!? さっきから言ってるじゃない。ザックトレーガーが壊れる、早く〈ウィルゲム〉を発進させろって……!)
接触回線特有の音の震えが、その声をより切迫したものにしていた。(ソシエ、そっちは無線が使えるの? ロランと連絡が取れるの?)と確かめたキエルに、(わかんないわよ、そんなの!)と怒鳴り返した甲高い声は、ほとんどヒステリーの時のそれだった。
(とにかくロランがそう言ってんのよ。あののんびり屋がこんなに慌ててるのに、お姉さまはなにも感じないの!?)
絶句したのはキエルばかりでなく、その場にいる誰もが同じだった。一秒と少しの沈黙の後、(……機械人形同士、話が通じてるのかの?)と、シドがぽつりと漏らすのを聞いたディアナは、反射的に違うと感じた。
ソシエは聞いているのではない。感じているのだ。論理も脈絡もない、しかし間違いなくそうだと思える確信が体の奥底から突き上げ、ディアナは考えるより早く「緊急発進!」と令していた。
「コントロールセンターに出向いているクルーを収容次第、係留を解いてドックを離脱します」
ぎょっと振り向いたグエンたちの顔を見ないようにして、ディアナは艦長席のひじ掛けをしっかり握りしめた。(危険です)という声は、操舵席に座るホレスのノーマルスーツから発した。
(いま離脱すれば予定航路を外れて、この先の航行に支障が出ます)
「航路の修正は後でいくらでもできる。今は艦の安全を確保するのが先決です」
(しかし、ザックトレーガーが崩壊する確証はどこにも……)と続いたホレスの反論は、ひときわ大きくなった金属の軋《きし》みと震動に呑み込まれた。ずんと肩にのしかかった重力に眉をひそめながらも、ディアナは「艦長命令です」と押しかぶせた。
「係留を解除。機関最大出力でザックトレーガーを離れます!」
ここは女王の立場と威厳を最大限に利用して、ディアナは言い放った。(は? は。ただちに係留を解除いたします)とホレスが復唱するや、席を離れていたグエンやキエルたちが慌てて所定の椅子に流れ、体を固定する気配がノーマルスーツごしに伝わった。
そう、そのように気配を察する#\力が、人には本来備わっている。宇宙という広漠無辺な空間を生活の場とするようになれば、その能力は拡大して、遠く離れた人の存在や意志を感知できたはずではないか? ふと考え、ニュータイプという、歴史の闇に埋もれた言葉も思い出したディアナは、目を閉じてロランの存在に意識を凝らしてみた。
聞こえるのはクルーのやりとりや金属の軋む音ばかりで、ソシエが感じているらしいロランの声を聞き取ることはできなかった。軽い失望と一緒に目を開いた途端、係留アームの外れる重い音が足底に伝わり、スクリーンに映るドックの内壁がじりじり後ろに流れ始めた。得られない感応を追うのをやめて、ディアナは現実を見る目を前方に据えた。
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長大なケーブルを振り回し、秒速八キロの速度で巨大な円を描き続けるザックトレーガーから離脱するには、その回転速度を上回る速力を確保しなければならないのが道理だった。通常はドックの係留設備に備えられたリニアレールが艦艇を押し出し、加速の一助になってくれるのだが、緊急発進する都合上、〈ウィルゲム〉は自身の推力だけが頼りの離脱を強いられることになった。
直径二十メートルのメインノズルが三基と、それより二回り小さいサブノズルが四基。艦尾に設置されたそれらが一斉に閃光を噴き出し、〈ウィルゲム〉の船体を前進させる。噴射から十秒後には音速の二百数十倍の速度に達したものの、ほぼ同様の速度で移動するドックの内側にいれば、その進み具合は呆れるほど遅々として見えた。ドックの突端に舳先《へさき》が到達するまでに三十秒以上かかり、全長百メートルの船体すべてがドックの外に出るには、さらに十秒の時間が必要とされた。〈ウィルゲム〉は加速を続け、ノズルの噴射光がドックの縁から完全に離れた時、そこから数キロ離れた場所でまったく別の光が閃《ひらめ》いた。
臨界に達した〈ターンX〉のDHOG縮退炉が発する光だった。炉心反応によってエネルギーを生み出す通常の融合炉と異なり、周囲の空間から抽出したエネルギーをIフィールドの力場で縮退、炉の内側に封じ込めて動力に転換するDHOG縮退炉は、その活動の代償として周囲の空間から熱を奪う。当然、活動中の炉は極度の低温状態に置かれ、機体に悪影響を及ぼさないよう、分厚い断熱ブランケットで幾重にも保護されているのだが、装甲板さえ溶解させるビームサーベルを前にすれば、薄紙も同然だった。
サーベルに切り裂かれた断熱ブランケットは、その裂け目から縮退炉の冷気を噴出し、ケーブルとの融合を果たしつつある〈ターンX〉の機体を練結させた。各部のジェネレーターは停止し、機体を包むIフィールドも消失したが、炉の内側にエネルギーを封じ込めている縮退用のIフィールドだけは、炉心からのエネルギー供給を受けて活動を続けた。結果、炉は暴走を始め、際限のない縮退反応の末、ついに周囲の空間を炉の内側に巻き込む爆縮に至った。
水面に浮かべた絵の具がかき回され、排水溝に吸い込まれてゆくようだった。縮退炉を中心とする直径一キロ近い空間が水底の光景のように歪むと、ザックトレーガーのケーブル、土台構造物といった物質もあっさりねじ曲がり、閃光を発する炉心に引きずり込まれてゆく。ここではない、「別の宇宙」に繋がる臨界の閃光はコンマ数秒でだしぬけに消え、後には先端の切れたケーブルと、土台構造物を根こそぎ失ったドック、空間の歪曲エネルギーに引きちぎられ、虚空を漂泊する無数の破片ばかりが残された。
ケーブルと切り離されながらも、ドックは慣性運動に従ってそのまま前進するように見えたが、しばらくすると移動速度が弱まり、ケーブルとの距離が次第に離れ始めた。地球の引力が作用して、ドックの質量を引き戻しているのだった。徐々に速度を緩め、つかの間宇宙の一点に静止したドックは、今度はゆっくり後退に転じた。無重力であっても、質量を持つ物体の運動を制止、変更させるには同等の質量が必要とされるが、その点、地球の質量とイコールで繋がる引力は、大型戦艦数十隻分の質量を持つドックに強すぎる力として働いた。
空気抵抗のあり得ない宇宙では加速も容易で、ドックの後退速度はすぐに音速を超えた。のっぺりと沈んだ暗黒の中、樽ともドラム缶ともつかない巨大な円筒が音もなく滑り、青く輝く重力の井戸の底に引き込まれていった。
自律制御の術を失ったドックは、間もなく安全機構を作動させて自壊を開始することになる。墜落して地上に被害をもたらす前に、ドックの構造体は梁《はり》の一本、外装板の一枚に至るまでばらばらに分解し、建築資材の群れと化して大気圏に落ちてゆく。それらはひとつ残らず大気との摩擦熱で溶かされ、地上から見上げれば、幾百幾千の流星になって観測されるはずだった。
無論、ザックトレーガー本体も無事では済まなかった。ケーブル両端のドックの質量が釣り合っているからこそ、順当に回転運動をしているザックトレーガーは、一方のドックを失えばバランスを崩すのが当然のなりゆきだった。
片方の重石をなくした振り子は、もう一方の重石の質量と遠心力を中央の回転軸、センターハブで一手に引き受ける羽目になったのだ。航宙艦の発着港と管理センターを内包するセンターハブは、軸の直径二キロメートル、厚みに至っては二・五キロメートルに達し、ドックよりはるかに大きい質量を有してもいたが、ドック自体の質量に遠心力が相乗した牽引力には拮抗し得なかった。単純きわまりない物理法則に則《のっと》り、地球の局回軌道から引き剥がされたセンターハブは、八千五百キロメートルのケーブルをぴんとのばしたまま、瞬きもしない硬質な星々の海に呑み込まれる運命をたどった。
センターハブに人がいれば、あるいは慣性を自律制御してその場に留まり、周回軌道に戻ることもできたかもしれない。しかし管理センターに人の常駐が義務づけられていたのは数千年前の話で、今はザックトレーガーに目を向ける者は誰もいなかった。永遠に宇宙を漂い続けるか、あるいは千年、万年の後にどこかの惑星に漂着するか。いずれにせよ、地球圈という猫の額ほどの空間で逼塞《ひっそく》する人類には関係のない、彼岸の事柄だった。
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どれほどの時間が経ったのか、気がついた時にはヘルメットの中を漂う汗や唾液はきれいに排出され、バイザーの割れた箇所にはピンク色のガム状の物質がへばりついていた。ノーマルスーツの生命維持装置が働き、補修用の「トリモチ」が放出されたのだろう。ハリーは咳き込み、喉の奥で半ば固まりかけていた吐瀉物《としゃぶつ》を吐き出した。細かな粒になって目前に散らばったそれが、襟首《えりくび》の換気装置に吸収されるのを見てから、のろのろと視線を動かしてみた。
オールビュー・モニターは左半分が死に、キャノピーにも細かな亀裂《きれつ》が走っていて、見える範囲にザックトレーガーのドックやケーブルの存在を確認することはできなかった。代わりに見えたのは二機の〈ボルジャーノン〉で、濃緑色の機体を半ば闇に溶け込ませながらも、牽引《けんいん》用のワイヤーロープを手にせっせと周囲を動き回っている彼らは、傷ついた〈スモー〉の機体を回収する算段を整えているようだった。
最初にこちらの生死を確認する頭がないところは、いかにもミリシャのにわかパイロットらしい粗忽《そこつ》さだったが、スラスターの使い方に無駄こそあれ、〈ボルジャーノン〉はそれなりに空間機動をこなし、〈スモー〉の胴体と脚部にワイヤーロープを結びつける作業を進めている。たいしたものだと苦笑し、彼らの背後で煌《こう》々と輝く月を視野に入れたハリーは、その中ほどに浮かぶ黒い染みに気づいて目を凝らした。
三角形の船体の上に、可動式の艦橋構造部が張り出したシルエットは間違いなく〈ウィルゲム〉のものだった。半分ぼやけていた頭が音をたてて引き締まり、ハリーはパイロットの目で爪の先ほどの大きさに見えるそれを精査した。
空気の歪みがない真空中では、距離に関係なく物体のディティールが明瞭に見える。地球の環境に慣れかけた目には遠近感がつかみづらい難点があったが、この場合は船体の状態を観察する役に立ってくれた。舳先のメガ粒子砲台から艦橋、艦底、艦尾メインノズルと目を走らせ、重大な損壊は認められないと結論を出したハリーは、とりあえず安堵の息を吐き出した。それからようやく自分の置かれた状況を調べる気になり、五体の満足を確かめた後、機体の損傷具合をひとつひとつチェックしていった。
左マニピュレーターをごっそり持っていかれた上、下脚部のFRPユニットや背部ランドセル、胸部ジェネレーター付近にもビームの貫通跡が黒い染みを作り、金色の装甲を汚していた。IFBDのレセプターは半分が機能不全、センサーは七割が沈黙。縮退炉に直撃を受けなくておめでとうというところで、もはやモビルスーツとは言えず、鉄屑の一歩手前で踏み留まっている〈スモー〉の状態を確認したハリーは、屈辱で胸が塞《ふさ》がれる思いだった。
仮に艦内で応急修理ができたとしても、性能は規定の四十パーセント分も引き出せまい。宇宙に出てわずか数十分、早くも戦力外通告を受けた我が身の無能を痛感して、ハリーはきつく唇を噛み啼めた。他にも確かめなければならないことは山ほどあったが、今は冷静に状況を督促する自信はなかった。敵の脅威評価も下せない状況下で、愚かにもほどがある突撃を仕掛けてしまったのはなぜか、曳行を開始した〈ボルジャーノン〉の背中を見ながら考え続けた。
敵のパイロットがギム・ギンガナムだったから、という解答はイエスであり、またノーでもあった。百二十年前、ギム・ギンガナムが企《くわだ》てたクーデター計画に参画したがために、曾々祖父は永久凍結の刑を下され、曾々祖母も後を追って救いのない眠りについた。自分の先祖たちに道を誤らせた、その張本人がギム・ギンガナムであることはたしかなのだが、それはすでに納得済みの歴史、いま現在の自分とはなんの関係もない過去の出来事であって、ギンガナムの名に個人的な恨みを抱いた憶えはなかった。
にもかかわらず、出自不明のモビルスーツのパイロットがギンガナムと名乗った瞬間、制御不能の怒りに全身が支配されて、ハリーは感情の出所を確かめる間もなく突進していたのだ。体内を流れる先祖たちの血に、復讐を命じられたかのように――。
「血の記憶、か……」
あり得るのだろうか? と考えかけて、詮ないことだと思い直したハリーは、思考を中断した。親指ほどの大きさになった〈ウィルゲム〉をキャノピーの向こうに見、到着まであと五分と当たりをつけた時、視野の端を白い朧《おぼろ》な影がよぎった。
〈ターンA〉だった。青白い地球光を純白の装甲に映し、虚空にぽつねんと立ち尽くすその姿は、どこか血の気を失っているように見えた。傍らには〈カプル〉がおり、接触回線を開くためか、〈ターンA〉の肩を爪状のマニピュレーターでつかんでいる。呼びかけようとして、無線が壊れていることに気づいたハリーは、舌打ちとともにシートの背後にある携帯用スラスターを取り出した。
距離は二キロ強と目測しつつ、キャノピーを開放する。モノアイをぎろりと動かし、こちらを睨みつけた〈ボルジャーノン〉に手を振って応え、先に行けと身振りで伝えてから、ハリーはコクピットを蹴って〈スモー〉を離れた。
スラスターを使うまでもなく、〈ターンA〉と〈カプル〉の姿がみるみる大きくなっていった。遠近感がつかめない真空中では、目標物に映る自分の影の大きさが距離を把握する目安になる。淡い地球光が作る影を頼りに〈カプル〉の背中に近づき、一瞬のスラスター噴射で加速を減殺したハリーは、〈カプル〉の薄緑色の装甲の上に慎重に足をつけた。
整備用アクセスハッチの把手を手がかりにして、ヘルメットのバイザーを装甲に接触させる。「こちらはハリー大尉だ」と接触回線ごしに呼びかけると、(ハリー大尉……!)と驚いた様子のソシエの声がバイザーを震わせた。
(せっかく迎えに来てやったのに、ロランは動こうとしないの。そこからコクピットの中は見える?)
正面に回り込めばいいだけの話だが、ソシエはここに来るだけで精一杯だったのだろう。初の宇宙飛行でモビルスーツを操縦し、しっかり〈ターンA〉の横に定位させているのだから、それでも十分に立派というものだった。「わかった。見てみよう」と応じて、ハリーは〈カプル〉の背中から離れた。
蛇腹《じゃばら》構造の〈カプル〉のマニピュレーターをたどり、〈ターンA〉の肩口から正面に回り込む。股間に張り出したドーム状のキャノピーがうっすら光を放っているのが見え、ハリーはまっすぐそこに近づいていった。
戦闘機動中はコクピットの灯りが漏れないよう、外面に対する透明度が低下するキャノピーは、この時は普通のガラスさながら、内部のパネルやコンソール類の光を映し出していた。分厚い三重の透明装甲ごしに、シートにうずくまるノーマルスーツを見下ろしたハリーは、「無事か? ロラン」と呼びかけてみた。
(……はい。。ハリー大尉も)
うつむいたヘルメットのバイザーには、太陽の直射光を防ぐフィルターがかかっていて、ロランの表情を窺うことはできなかった。くぐもった声に、苦悩の果てに冷えきったロランの胸中を感じ取ったハリーは、「なにがあった?」と静かに重ねた。
(……わかりません。ぼくには難しすぎて)と答えてから、ロランはヘルメットに覆われた顔をますます伏せるようにした。ハリーは黙って、ロランが次に口を開くのを待った。
(ぼくは……。また人を殺してしまいました)
しばらくの沈黙を交えて、ロランはそう言った。戦闘がどのような帰結を迎えたのか、知るには十分なひと言だった。虚脱し、いっさいの起伏を失った声音にひやりとなりながらも、この上ロランにまで潰れられてはたまらないと考えたハリーは、「ディアナ様の戦士になったのだろう」と低く怒鳴った。
「任務を果たしただけのことだ。気にする必要はない」
ロランは答えなかった。ハリーはキャノピーを離れ、〈ターンA〉の機体に損傷がないかを確かめつつ、〈カプル〉の方へと体を流した。ここでなにを言っても始まらない。今はソシエと操縦を交代して、一刻も早く〈ウィルゲム〉に戻るのが先決だった。
シールドの表面が溶けている点を除けば、〈ターンA〉に目立った損傷はなかった。いくつかビームの擦過《さっか》した焦《こ》げ跡はあるものの、戦闘をくぐり抜けた後にしては無傷と表現してもよく、ハリーはぞくりとした寒気が背中を走るのを感じた。
冷静に渡り合えたとしても、全方位《オールレンジ》攻撃を仕掛けるあのモピルスーツと戦って、無傷でいられる自信は自分にはないと思う。〈ターンA〉の性能が半分と見積もっても、ロランは明らかに尋常でないパイロットに成長しつつある。基礎訓練は受けていたとはいえ、初めて実戦を経験してからわずか半年。宇宙に出てからは一時間足らずという驚異的なスピードで……。
以前、士官学校のパイロット養成課程に進んだ時に、そうした異常な能力を持つパイロットの話を聞かされたことがある。ニュータイプと呼ばれるそれは、宇宙に適応・進化した新しい人類の総称で、通常の人間より洞察力に優れ、五官を超越して外界の情報を察知できるために、遠く離れた人と意志を疎通させることさえ可能だったという。その傑出した能力はパイロットとしても活かされ、旧世界では、ひとりのニュータイプが一個中隊に相当する戦力と見なされていた、と。
無論、ムーンレィスの正史にはそのような新人類の存在を実証する記録はない。しかしパイロット養成課程では、教官が軽口まじりにその話をするのが創立以来の伝統になっていた。アグリッハ・メンテナーも「月で生き永らえたムーンレィスはニュータイプたり得る」と説いており、人は月で生き続けるべきとする彼の思想に傾倒して、地球帰還作戦に異議を唱えるムーンレィスも少なくはない。公式には否定されていても、民間伝承の形をとって有形無形の影響をムーンレィスに与えてきた言葉――それがニュータイプだった。
どこそこの艦には幽霊が出るといった類いの、なんの根拠もない眉唾《まゆつば》話。月という閉鎖空間に押し込められた人のストレスが、はけ口を求めて作り出した幻想。そう断じて今までまともに取り合ったこともなかったが、ならばろくに訓練も受けていない民間人の少年が、モピルスーツを操って戦果を挙げ続けている理由はなにか。戸惑いながらも、ハリーはその推測を無視はできなかった。
ロランがニュータイプ? まさか。
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二機の〈ボルジャーノン〉に曳行され、モビルスーツデッキに収容された〈スモー〉は、素人目にもパイロットの生存が危ぶまれる壊れようだった。戦闘配置が解かれ、ノーマルスーツのヘルメットを外せるようになって約十分。無意識に艦内監視カメラの映像を凝視し、片腕をなくした〈スモー〉のコクピットに目を注いでいたキエルは、(〈カプル〉九番よりブリッジへ)と響いたハリーの声に、びくりと通信パネルの方を振り返った。
(現在、〈ターンA〉を曳行中。本機は自力着艦が可能だが、〈ターンA〉は補助が必要。回収準備はよろしいか)
続いた言葉通り、〈カプル〉に手を引かれるようにして接近する〈ターンA〉の姿が、外周監視カメラに捕捉された。〈カプル〉にはソシエが乗っていたはずだが、いつの間にハリーと入れ替わったのか。考える間に、「ロランは無事なのですか?」という声が艦長席のディアナから発して、キエルは、ロランの生死を完全に失念していた自分に気づかされ、少し愕然《がくぜん》となった。
(無事です。軽いショックを受けてはいますが)とハリー。その後、艦載モビルスーツ担当のクルーとのやりとりが無線ごしに交わされたが、キエルはもう聞いてはいなかった。ぴんと背筋をのぱしながらも、微《かす》かに安堵の息をついたディアナの姿を横目で窺い、彼女はハリーのことをどう捉えているのだろうと、これも無意識のうちに考えていた。
「さすがはわたしのローラ。期待した通り、幸運を呼び込む天使に成長してくれた」
隣でコーヒーの入ったチューブを手にしているグエンには、他の感想はないらしい。無重力下で液体が散らばらないよう、飲み口がストローになっている代物で、戦闘後に全クルーに配布されたのだが、キエルはひと口飲んだだけでやめにしていた。
重力がなければ、飲み物も自然に胃に落ちるということはなく、喉に流し込むたびに食道が蠕動《ぜんどう》するのがわかる。傍目に現れるものではないとはいえ、はしたないと思う気持ちがどこかで働いて、少なくともグエンの前では飲みたくないと感じたからだった。まだ緊張が冷めきらないブリッジの中、ひとり元気な御曹子《おんぞうし》をちらりと見遣ったキエルは、「そうでしょうか?」とグエンにだけ聞こえる声で言った。
「天使はもっと平和で、たおやかなものでしょう? 私には、今のロランは黒豹のように見えます」
相手がロランであっても、自分以外の誰かにグエンの目が奪われるのはおもしろくない、そう感じる女の部分が言わせた言葉だった。グエンは「黒豹……?」とキエルに顔を向けた。
「そう、しなやかな黒豹。その鋭い爪で、いつかグエン様の喉を裂いてしまうかも」
そこまで口にしてから、なぜそんなことを言ってしまったのだろうと遅すぎる後悔に駆られたが、今さら取り消せるはずもなく、キエルは無言で窓の外に浮かぶ月を見つめた。三十万キロ以上の彼方にある月は、地球から見上げた時の、大気全体に拡散するやおらかな光と違って、直視するのもためらわれる鋭い光を放っていた。
「もしそうなったら、キエル嬢はなにをしてくれるんです?」
しばらく黙った後、不意に口を開いたグエンの顔は微笑に包まれていた。自己嫌悪の波が速やかに引き、こちらも唇の端に笑みを浮かべたキエルは、「ロランはうちの使用人だった男ですから」と、努めて素っ気なく答えた。
「ちゃんとしつけて、おとなしくするよう命じてさしあげます」
そうできる自信はある。そのためにロランを籠絡《ろうらく》する必要があるなら、やってみせる覚悟だってある。最終的にディアナと利害を異にするグエンには、自分の補佐が不可欠なのだと納得して、キエルは軽くなった心に任せてアップにまとめた髪をほどいた。
無重力を忘れた迂闊《うかつ》な行為で、ほどけた勢いで四方に拡がった金髪を慌てて押さえる羽目になった。ディアナが持っているスプレーを使えば、結《ゆ》わなくても髪型をキープできるとわかっていたが、どうぞ使ってください、と微笑んで言うだろうディアナの顔は見たくなかった。キエルはさっさと髪を結い直しつつ、後方の監視カメラが送って寄越す地球の映像に注視した。
厚い大気の靄《もや》の底に、影のように大陸の形を並べている地球の一角で、オレンジ色の焔《ほのお》が無数に瞬いていた。大気圏突入と同時にぱらばらに分解したザックトレーガーのドックが、摩擦熱で焼き尽くされてゆく断末魔の瞬きだった。
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「ディアナ・ソレル閣下の勇敢なる前衛、ディアナ・カウンター全兵士に告げる」
握ったマイクの向こうで、第一次降下部隊五万の将兵が自分の声に聞き入っていると想像するのは刺激的だった。〈ソレイユ〉のブリッジに立つフィル・アッカマンは、大佐に特進、正式に司令代行に就任した第一声をそのように飾った。
「先刻、南の空に走った大量の流星は諸君も目撃したことと思う。あれは地球と宇宙とを結ぶかけ橋、ザックトレーガーが失われたことを示す光である。蛮勇に任せて発掘した航宙艦を飛ばしたミリシャが、結果を考えぬ破壊工作を仕掛けてザックトレーガーを瓦解《がかい》せしめたのだ。この卑劣きわまる行為によって、我々は事実上、二度と月には戻れなくなった。無論、〈ソレイユ〉を始めとする一部の艦艇は自力で引力圏を離脱できるが、帰還船にはその能力がない。十万に及ぶ帰還民がこの地に釘付けになった以上、我々も彼らの安全を守るために留まり続けなければならないという意味では、第一次降下部隊の全員が月に戻る術を失ったと言っていいだろう。今後は増援物資も期待できず、苦しい戦いになることが予想されるが、我々は本来、この大地の土となるべく地球に降下《おり》てきたのだ。勇敢なるディアナ・カウンターの兵士諸君は、すでに不退転の覚悟を固めているものと確信している。
しかし案ずることはない。この地球には豊かな資源がある。自給自足は十分に可能であるし、図らずもミリシャが実証してくれたように、太古の兵器が無数に埋もれてもいる。過去、地球を人の住めない惑星に変えた悪魔の兵器であっても、我々が叡知《えいち》をもって管理すれば、それは蛮族の跳梁を制し、無用な戦争を抑止する力となり得る。その発掘と整備を完了した今、我々は最後の戦いに立ち上がるべきである。
ディアナ・ソレル閣下がここにいれば、同じ決断を下したことと思う。閣下の弔《とむら》い合戦ともなるこの戦いは、百年の後、繁栄の中で暮らす我々の子孫が、聖戦として語り継ぐものになるであろう。新たな統治国家をサンベルトに造り、地球圏に真の平和と繁栄を呼び込むため、諸君の一層の奮起を期待する。以上」
そこでいったん口を閉じたフィルは、それぞれの配置場所で直立不動になっているオペレーターの背中を眺め、言葉を咀嚼《そしゃく》するのに十分な時間を与えてから、おもむろにマイクのスイッチを艦内放送に切り換えた。
「出航用意! 全艦、ただちに浮上を開始。予定会合空域にて第一艦隊と合流、フロリャ領、マウンテン・サイクルVに集結したミリシャの主力を制圧する!」
復唱の声が上がり、各部に命令を伝達するオペレーターたちの声が錯綜する。床下から機関の鈍い震動が這い上がり、透明装甲の向こうの景色が下降を始めるまでに十秒とはかからなかった。フィルはマイクを置き、司令席に腰を据えた。
ブリッジの後方には先日までの同僚、今は部下となった司令付参謀たちが集まっており、フィルが制圧作戦の最終確認に赴《おもむ》くのを待っていたが、少しは待たせてやろうと思う。自分を白痴と陰で罵《ののし》り、親戚の七光りで出世した男と触れ回っているような連中だ。立場の違いをはっきりわからせるためにも、多少ぞんざいに扱ってやった方がいい……。
「結構な演説だったが、引っかかるな」
昂揚《こうよう》した気分に水を差す声が傍らに発し、フィルは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた顔を振り向けた。ミラン・レックス執政官の灰色の瞳が、こちらを素通りして透明装甲に映る青空を見つめていた。
「貴官はディアナ様の死を前提にして話をしすぎる。まだ死亡が確認されたわけではないのだぞ?」
「ミリシャは捕虜を生体解剖しているという噂もある。万一生きておられたとしても、どのような目にあっているか……。醜悪《しゅうあく》な現実を突きつけるより、美しいまま死んだということにしておいた方がよかろう?」
じろりと見下ろしたミランの目は、内奥の怒りを露《あらわ》にしきらないうちに伏せられ、重いため息がその後に続いた。先祖代々ディアナに仕えてきたレックス家の誇りと、天性の政治的|辣腕《らつわん》を存分にふるいたいという欲望を秤《はかり》にかけ、呻吟《しんぎん》の末に後者を選択した男のため息だった。「執政官設こそ、今さら優等生めいた発言をしてもらっては困るな」と付け加えて、フィルはだめ押しする目をミランに向けた。
「ディアナが消えてくれたお陰で、ミリシャを一気に叩くことができる。この〈ソレイユ〉だけでも、十基の戦術核ミサイルを装備したのだ。これでこちらの戦力を消耗せずに連中を降伏させれば、後はサンベルト共和国の建国……つまり政治の舞台の話だ。貴殿も存分に手腕を発揮できよう」
「貴官と違って、わたしにはそれを楽しもうというつもりはない。これが最善の道だと信じるから協力したまでだ」
「女王の信任厚い執政官殿が、謀反計画に見ざる言わざるを重ねてきた理由としては、曖昧《あいまい》だな」
「ディアナ様はおやさしすぎるのだ。あれでは兵と時間を無駄にするばかりで……」
「〈アルマイヤー〉より緊急入電!」と叫んだオペレーターの声が、その先のミランの言葉を封じた。執政官とはいえ、ここは文民の領域ではないとミランに知らしめる意味も含めて、フィルは「回線を回せ!」と指揮官らしい大声で応じた。
イングレッサ領内の居留地を発した〈アルマイヤー〉は、他の艦艇とともに会合空域で待機しているはずだった。すごすごと後ろに退がったミランを背中に感じつつ、通信パネルのポログラムを見遣ったフィルは、次の瞬間、嘲笑に歪んだ口もとをこわ張らせた。
見慣れた〈アルマイヤー〉のブリッジを背景に、旧知の艦長が血走った目をこちらに向けていた。背後では複数のクルーが走り回っていたが、それはなんらかの事態に対処しているというより、恐慌に取り憑かれて逃げ感っていると表現した方が正しかった。スピーカーから聞こえる複数の悲鳴がその直感に追い打ちをかけ、(ガスです!)と絶叫した艦長の声が、鋭い針になってフィルの胸を刺し貫いた。
(げ、現地調達分の食糧、ミルクのボンベの中にガスらしきものが混入していた模様……! 下層甲板は壊滅、ノーマルスーツの着用を命じましたが、すでに艦橋にも……)
唾を飛ばして報告する艦長の声は、そこで途切れた。不意にびくりと背筋をのばし、硬直した艦長が次に口から発したのは、声ではなく泡だった。充血した目が助けを求めてカメラの方を向き、ひと筋の涙を流したが、すべての表情筋が弛緩《しかん》した能面はむしろ笑っているように見えた。艦長はそのまま棒きれのごとく前に倒れ、レンズに頭頂部を押し当てて二度と動かなくなった。艦長の頭ごしに次々倒れてゆくクルーの姿が映り、悲鳴の代わりに、肉と床がぶつかりあう鈍い音がスピーカーを震わせた。
「〈アルマイヤー〉、こちら〈ソレイユ〉。応答せよ」
「高度が下がっています。隊列を離れ、なおも降下中」
「高度二千、千五百、千二百、八百……このままでは墜落します」
「ただいま墜落! 〈アルマイヤー〉が墜落しました」
「原生林に墜落、大破した模様。機関部周辺に煙が上がっています」
「IFFレスポンド消滅。〈アルマイヤー〉、完全に沈黙」
デジタルノイズに覆われていたホログラムは、そこで唐突に森林地帯の鳥瞰《ちょうかん》映像に切り替わった。第一艦隊の僚艦が上空から捉えたライブ映像だった。数キロにわたって抉《えぐ》り出された地肌が緑の絨毯を引き裂き、その終着点でイシガメに似た〈アルマイヤー〉の船体がもうもうと煙を吐き出している。カメの頭さながら前方に突き出たブリッジは地面にめり込み、前足の形をなす左右のビーム砲台はひとつがへし折れて、一キロ以上離れた場所でぽつんと炎の色を灯していた。「各艦に緊急通達! 地球で調達した食糧はすべて破棄。艦内を徹底検索し、不審物の発見に努めよ」と続くオペレーターの声を遠くに聞きながら、フィルは握りしめた拳の震えを止められずにいた。
恐怖によるものか、怒りによるものか。あるいは両者が渾然一体となって体を震わせているのかもしれなかったが、この際そんな分析は無意味だった。ミリシャが仕掛けた。食糧にガス兵器を混入するという、戦術と呼ぶのもおこがましい愚劣な行為をミリシャが仕掛けてきた。震えの止まらない拳をひじ掛けに叩きつけた途端、知らぬ間に涙がこぼれ落ちてきて、バカにするな、の一語がフィルの胸中に固まった。
いつもそうだ。懸命に積み木を積み上げ、あと少しで高みに昇れるというところで、必ずなにかが邪魔をする。それはアッカマン家の家名であったり、知能テストの結果であったりして、いつでも努力ではどうにもならない、不可抗力の形をもって自分の前に立ち塞がる。そして後には、「低能はなにをやっても無駄」という陰口が残されるのだった。
今も〈ソレイユ〉のクルーや司令付参謀、ミランたちは腹の底で笑っているに違いない。地球の蛮族にまで裏をかかれる低能司令、なにをやっても脳味噌がついてこない哀れな男。空気になって伝わる冷笑は、ジュニアスクールの頃に日々聞き続けた同級生の嘲《あざけ》り声、乗艦実習で一緒に過ごした同期の初任幹部らの冷ややかな視線に重なり、最後にホログラムの中で揺れる炎の色が、知った女の唇の形になってフィルを幻惑した。
バカな男。テテス・ハレの唇がそう言い、違う、と内心に絶叫した声を待たずに消えていった。おれはバカじゃない、おれはバカじゃない。頬を伝って落ちる屈辱の雫《しずく》を拭うのも忘れて、フィルは司令席から勢いよく立ち上がっていた。
「作戦変更! マウンテン・サイクルVに対して先制核攻撃を実施する」
その場にいる全員がぎょっと振り向き、〈ソレイユ〉艦長を任じられた少佐が反論の口を開きかけたが、充血したフィルの目を見るや、□を閉じて直立不動の姿勢になった。部下の死を悼み、苦渋の中で最後の決断を下した涙と受け取ったのか、艦長の復唱の声がブリッジに響き渡り、命令が実行に移される様子を見ればフィルにはどうでもいいことだった。兵の士気を高め、ミリシャにこちらの覚悟を知らしめるためにも限定的な核の使用は有効である。胸を突き上げる劣等感の塊は霧散し、指揮官の頭で考えたフィルは、素早く涙を拭ってからホログラムを一瞥した。
自分を嗤《わら》った唇はすでになく、いつ果てるともない黒煙だけがそこに映っていた。
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予想外の核攻撃命令に、〈ソレイユ〉のミサイル班が大|慌《あわ》てで戦術核の装弾作業を開始した頃。ミハエル・ゲルン大佐率いるイングレッサ・ミリシャと、新設間もないフロリャ・ミリシャからなる陸戦部隊は、すでにマウンテン・サイクルVを後にしていた。
ディアナ・カウンターの兵糧に紛れ込ませた死の霧≠フカプセルが、戦艦の一隻を沈めたという情報が届いたからだが、整然とした部隊の移動は、報復攻撃を警戒してのものではなかった。〈ウィルゲム〉が月に向かって以後、名実ともにイングレッサ・ミリシャの指導者になったミハエルには、当初から拠点をルジャーナ領に移す計画があり、今回の奇襲と、その結果始まるであろう報復攻撃は、部隊を移動させる名目としてあらかじめ予測、計算された事柄だったのだ。
マウンテン・サイクルVの発掘作業で協同戦線を張っている手前、ルジャーナは部隊の受け入れを了承するしかなく、領内で戦闘が始まれば、いまのところ戦力を温存しているルジャーナ・ミリシャも動かざるを得なくなる。そうしてルジャーナを疲弊《ひへい》させる一方、イングレッサはフロリャとの連携を強め、同時にラインフォード産業がルジャーナ領内の工場に買収をかける。ルジャーナ・ミリシャは首都オールトンの防衛で手一杯になるから、郊外にある工場は必然的にイングレッサ・ミリシャの守備範囲になる。こちらの気分ひとつで工場の安全も、そこで働く人々の命もどうとでもなると理解すれば、ルジャーナの専制政治に毒された経営者の頭も、ラインフォード産業の買収に乗った方が得だと理解するだろう。戦争が終わる頃にはラインフォード産業、すなわちイングレッサ領がルジャーナ領の基幹産業に食い込むことになり、万一〈ウィルゲム〉が帰ってこられなくとも、イングレッサの主権は守られる。それが、グエンの意志を受けてミハエルが描いた絵の中身だった。
いずれはすべての領を包含する統一政府を樹立、アメリア合衆国を打ち立てるというグエンの大望はともかく、戦後の混乱を乗り切るためには、今のうちから種を蒔いておく必要がある。無論、それにはディアナ・カウンターの戦力減殺も含まれており、実戦経験ではこちらに一日《いちじつ》の長があるとルジャーナに理解させる意味も含めて、ミハエルはさらなる奇襲攻撃を指示してもいた。
ミリシャの主力がルジャーナに移ったのと時を同じくして、イングレッサに残った数少ない航空部隊――三機のヒップヘビーと十機のブルワンからなる戦闘機編隊が、ノックス郊外に十ヘクタールの土地をかまえるムーンレィス居留地に向かった。駐留艦隊がいなくなった居留地の平原には、帰還船を解体して造った簡易住居と、何機かの〈モビルリブ〉が点在しており、後は耕されて間もない畑が閑散とした空気に拍車をかけている。ミリシャの攻撃目標になるようなものはなにもなく、帰還民たちは慣れない畑仕事の手を休め、いきなり上空に現れた複葉機の群れをただ見上げた。
やがてそれぞれの複葉機の尾から白い粉が散布され、青空にいくつもの軌跡を錯綜させると、風に乗ってゆっくり地上に降り積もり始めた。死の霧≠フカプセルとともに、ミリシャがマウンテン・サイクルVから発掘した土を腐《くさ》らせる粉≠セった。降り注いだ粉は植物の生育に必要な成分を土中から奪い、草木に触れれば、たちどころに枯死を促すよう働いた。
毒の混入を恐れて食糧の現地調達ができなくなった挙句、自給自足の道も断たれれば、ディアナ・カウンターは餓死する前に降伏する――それがミハエルの読みだったが、事実は、見よう見まねで耕された畑は種の選別もろくにできておらず、作物を収穫できるレベルには達していなかった。月の技術力を過大評価しているミリシャには想像できることではなく、枯れ葉剤はもちろん、上空から散布する農薬の概念も失われて久しいムーンレィスにしても、無知という点では地球の民と同じだった。帰還民たちは逃げもせずに舞い散る粉を見上げ、遺伝子さえ冒す毒を肺に吸い込み続けた。
知らない間に戦争が終わり、ミリシャが和平の証に人工の雪を降らせにきたのではないか。作戦中のディアナ・カウンターと通信が途絶していたために、そんな憶測が人の口を介して乱れ飛び、中には子供をわざわざ呼びにいく親もいた。死の粉が舞う下で子供たちが駆け回り、大人たちも長い忍従の時間の終わりを信じて笑い合う。後に「根絶やしの三日間」と歴史に記されることになる大量|殺戮《さつりく》戦争は、そのようにして幕を開けた。
大規模破壊兵器の応酬が無差別に人を殺し、自然を窒息させ、まだ癒《い》えきらない地球の古傷に容赦なく塩を塗り込んでゆく。二千数百年の治癒期間を白紙に戻す、悪夢の三日間の始まりだった。
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イングレッサ頭からエリゾナ頭へ陸路で入るには、間に横たわるルジャーナ頭を避けて通るわけにはいかない。イングレッサに匹敵する広大な領土を持つルジャーナだが、中央の都市部と田園地帯を迂回し、なお沿岸の工場地区にもかからないルートは、ベイトンルージュの横断行しかなかった。
蕎麦《そば》も育たない痩《や》せた土地に、旧世界の建築物の残骸と見えなくもない、切り立った直方体の岩がぽつぽつと生えており、それらの間を吹き抜ける砂塵《さじん》は一年中やむことを知らない。人家はもとより道もない荒野で、日頃は人の口にものぼらないのがベイトンルージュという土地だったが、この時ばかりは事情が違っていた。
馬車や自動車、トラックなど、車と名のつくあらゆる物が列をなし、岩塊の間の平坦な道を選んでのろのろと蛇行している。荷物を満載した荷車を引く男たち、幼子の手を引いて歩く女たちがその隙間をびっしりと埋め、遠く地平線まで続く行列を砂塵に霞《かす》ませているのだった。知り合いの業者から買い叩いた中古のトラックを駆り、ベイトンルージュに乗り入れたキースは、蟻の行進さながら、ぎゅうぎゅうに押し詰まった人と車の列を目の当たりにして、小さく舌打ちしていた。
ミリシャの主力が首都オールトンに集結し、ルジャーナ領が戦場になる気配が濃厚になれば、誰もが示し合わせたように同じルート――ディアナ・カウンターの攻撃対象にならないルート――をたどるのが道理だった。なにもない荒野とはいえ、車が通れる平坦な地面は限られており、キースは仕方なく列の最後尾にトラックをつけた。幌の上にまで荷物をくくりつけた二頭立ての馬車が後に続き、赤ん坊を背負った若い母親が横に並んで、すぐに渋滞の真っ只中に追いやられる羽目になった。
「これがみんな、エリゾナに疎開する人たち?」
助手席に座るベルレーヌが、波音のように寄せる怒号とクラクションに目を丸くして言う。セコハンのトラックはワイパーの調子も悪く、砂塵で汚れたフロントガラスに顔を押しつけるようにしているキースは、「ああ」と振り返らずに答えた。
「フロリャの連中だろうな。ネズミが逃げ出すみたいにミリシャがいなくなりや、無理もないさ」
ディアナ・カウンターの戦艦が、ミリシャの奇襲を受けて沈んだという情報はすでに広まっている。報復攻撃を警戒したのか、ミリシャがあっさりマウンテン・サイクルVを放棄し、ルジャーナに拠点を移すさまを横目にすれば、残された近隣の住民が逃げ出したくなるのも当然と言えた。ディアナ・カウンターの艦隊が集結するイングレッサはもちろん、フロリャもルジャーナも戦火に巻き込まれるのが確実となれば、後はエリゾナに逃げ込むしかない。エリゾナは塩が採れる以外、特に資源も産業も持たない小さな領で、領主のエリゾナ公を喪《うしな》ってからは政治的な混乱が続き、いまだミリシャも設立できずにいる。疎開場所としては最適で、キースたちのトラックを始め、この人と車の行列はすべてエリゾナ領を目指して進んでいるのだった。
本来ならグエンの別荘で療養中のベルレーヌの両親も同行させたいところだが、ディアナ・カウンターの制圧下にあるノックスを通り抜け、別荘のあるアラマハン山脈に無事にたどり着ける自信はキースにはなかった。主戦場はルジャーナに移りつつあるから、アラマハンが戦火に巻き込まれることはないと信じて、とにかくベルレーヌを連れて逃げ出すしかないのがキースの立場だった。頑固職人を絵に描いたベルレーヌの父親も、きっとそれを望んでいるはずだと心に念じつつ。
前輪が地面から突き出た岩に乗り上げ、サスペンションも寿命間近の車体が大きく揺れた。横から割り込んできた馬車の幌《ほろ》が目前に迫り、「どこに目ぇつけてやがる!」の怒声が手綱を握る中年男の口から飛ぶ。咄嗟にハンドルを切り、「てめえこそだ!」と怒鳴り返したキースは、「戻った方がよくない?」と遠慮がちに声をかけたベルレーヌを、ちらとだけ振り返った。
「だめだ。工場に残ったトラック、ミリシャが徴発だとかぬかして持ってったろ? 他の業者も軒並みやられてるらしいんだ」
「どういうこと?」
「業者に化けて、ディアナ・カウンターに納品する品物の中に爆弾を混ぜるとかさ。やりかねないぜ、今のミリシャは」
「でもそれは、あたしたちには関係のないことじゃない」
「やられた方はそうは思わないさ。どこの業者か割り出せば、見せしめになにをするかわかったもんじゃない」
取るものもとりあえずにトラックを飛ばしてきたのは、それがいちばんの理由だった。「そんな……」と口にしたきり、黙り込んでしまった横顔を窺ったキースは、「心配すんな」とベルレーヌの膝に手のひらをのせた。
「必ず逃げきってやるさ。戦争なんかに殺されてたまるかってんだ」
細いが、確かな弾力のある膝を軽く揺すってから、ギアレバーに手を戻す。馬車が脇に流れた隙《すき》に、セカンドに入れたトラックを前進させたキースは、しかしと胸中に続けた。
しかし――核兵器や化学兵器が使われるようになっているなら、どこに逃げても結果は変わらない。気流に乗って拡散する死の灰とガスに、遠からず追いつめられる時がくる。砂塵に煙る空を見上げて、キースは青空にぼんやり浮かぶ月の半円に目を凝《こ》らした。
昼間の月は幻のように白く、朧《おぼろ》な影を空に溶け込ませるばかりで、ロランたちの所在を教えてはくれなかった。
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重い、低いサイレンの音色が月を揺らしていた。運河の河面をさざめかせ、月面運河都市《トレンチ・シティ》そのものを震わせて鳴り響くそれは、二千数百年にわたる平安に終止符を打つ音色だった。
(ディアナ・カウンター全将兵、並びにムーンレィス市民に告げる。私はディアナ・ソレルである。不毛な戦いを終わらせ、月と地球の恒久的な和平を取り結ぶために、地球の代表者を連れて帰ってきた。軌道上に展開するすべての艦艇、およびモビルスーツは武器を収め、自動迎撃システムはこれを停止させよ。本艦、〈ウィルゲム〉に戦闘の意志はない。首都ゲンガナムに寄港し、アグリッパ・メンテナーとの直接会談を望むだけである)
腹に響くサイレンの重低音を圧して、ディアナ・ソレルの声はあくまで明瞭だった。アグリッパ・メンテナーは、「白の宮殿」の深奥にある執務室でその声を聞いた。一面のスクリーンになったドーム状の天井を見上げ、展開中のディアナ・カウンターの艦艇が送信する映像を凝視していた。
主に斜長岩からなる月殼の上に、レゴリスと呼ばれる細粒物質の薄い層をまとい、灰色に鈍っている月面。永年の風線=\―地球的表現では風雨だが、大気も水も持たない月では太陽風と宇宙線物質が唯一の干渉材料になる――にさらされ、レゴリスの砂紋《さもん》が微妙な陰影を描き出す月の大地は、いま画面の中央で白と黒の面にくっきり分かたれ、その昼と夜の境目の上に、親指の先ほどの大きさに見える地球が浮かんでいた。
一億五千万キロの彼方から届く太陽光を受け、漆黒の闇にぼんやり浮かび上がる地球は、見かけの面積は月の十六倍の大きさを誇っていたが、広大無辺な宇宙を背にすればひどく小さく映える。そこからすべての人類が発祥したとは信じられない、微小な水滴の中心には黒い染みがぽつんと影を落としており、それは次第に大きさを増すと、三角形の船体のディティールを露にしていった。
トレンチ・シティ全域に、開闢《かいびゃく》以来の戒厳令を招来せしめた地球の航宙艦。〈ウィルゲム〉と名乗る、ムーンレィスが二千年目にして初めて迎える敵艦≠フ姿だった。ギム・ギンガナムの戦死が伝えられて三日、ザックトレーガーの崩壊によって航路を見失うこともなく、〈ウィルゲム〉は月面からわずか四百キロの極軌道に差しかかりつつある。地球で情動を活性化させた月の女王のもと、旧人類の闘争本能を復活させた地球の民が操る船――。恐れ続けてきた事態を目前にしながら、しかしアグリッパは奇妙に冷めている自分に気づいていた。
太古の昔、人類が初めて宇宙に目を向け始めた頃は、月への到達は「ハエの目玉を一キロ離れた場所から狙《ねら》い撃つようなもの」と譬《たと》えられていたという。三十八万キロの彼方にある上、秒速一キロの速度で地球の周りを公転し続ける月は、地上から宇宙を見上げるしかなかった人々にとってはるかな高みに見えたのだろう。現在の地球の科学レベルはその頃と大差ないはずだが、当時の人類が十年、百年の時間をかけて為し遂げた発展を、彼らはものの半年で追い越してみせた。過去の遺産があり、ムーンレィスの協力があったとしても、この適応の早さは尋常ではない。闘争本能の復活という一語では説明のつかない要因があり、それはなにかと考える知識欲が、危機感より強くアグリッパの脳を支配しているのだった。
「通信はカットできんのか!?」
血色の悪い顔をさらに青黒くさせ、玉座の下でわめいているミーム・ミドガルドには、そこまでの余裕はないようだった。法令で定められた秘書枠とは別に、アグリッパが私的に雇用しているミドガルドは、目の周りを縁取る宇宙線焼けが示す通り、月面作業に従事する最下層階級の出身者だ。ディアナ体制下では終生うだつの上がらなかった男が、女王放逐の汚れ仕事を務めて秘書に成り上がったのだから、当のディアナの帰還に慌てるのも無理はなかった。
「ソレル家の緊急コードを使っておられます。すべてのネットワークを破壊しない限り、遮断《しゃだん》することはできません」
支持フレームで腰前に固定したラップトップ・パソコンを操り、メインホストにアクセスを試みている女性秘書の返答はにべもなかった。戒厳令の布告と同時に都市内の情報回線を遮断したものの、システム構築の初期段階から組み込まれている緊急コードを使用すれば、管理システムはディアナの手に落ちたも同然だった。
しょせんは管理人≠フ身が対抗できるはずもなく、ディアナの声はあらゆる情報回線を通して市民たちの耳に届いている。もっとも、〈ターンX〉が敗北した時点である程度の予測を固めていたアグリッパは、動揺することなく事態の推移を観察していた。玉座に腰を据えたまま、天井のスクリーンに向けた顔を微動だにさせずに、接近する〈ウィルゲム〉を見つめ続けた。
軌道上には〈ジャンダルム〉級の戦艦五隻が展開し、〈マヒロー〉タイプを中心とするモビルスーツ部隊ともども、〈ウィルゲム〉迎撃の態勢を整えている。月面上の地対空ミサイル、ビーム砲台もすでに射程距離に入っていたが、〈ウィルゲム〉は減速する気配も見せず、左右の舷灯《げんとう》の色が判別できる距離にまで近づきつつあった。ディアナ・カウンターの将兵が自分を撃つことはないと確信しているのか、情動につき動かされて正常な判断能力を失っているのか。目を凝らし、粛然《しゅくぜん》と進む〈ウィルゲム〉を見据えたアグリッパは、その舳先に人型のシルエットを認めて、微かに息を呑んだ。
「拡大を」と命じると同時に、〈ウィルゲム〉の甲板に佇立する白いモビルスーツの姿がスクリーンを埋めた。楕円形のシールドは背中に収め、ビームライフルは上面に設置された把手用のガイドを握って、ディアナの言葉通り、戦闘の意志がないことを示しているモビルスーツ。しかしその全身からは凶暴なオーラが立ち昇っており、左右にぴんと展張したフェイスガードの上では、爛《らん》々と輝く赤い目が月面を見下ろしているのだった。
「これが〈ターンA〉……」
ミドガルドの声はかすれていた。地球で復活し、ディアナ・カウンターに拮抗し得る力を示したモビルスーツ。〈ガンダム〉という名前が想起させるフォルムを持ち、〈ターンX〉さえもやすやすと葬ってみせたモビルスーツ――。自分と同じ、血のように赤い目と目を合わせ、発狂しているのか? と無意識に考えたアグリッパは、初めて底深い戦慄が這い上がってくるのを感じた。
(私は愛するムーンレィスとの戦いは望まない。しかしアグリッパ・メンテナーが月の占有に固執し、話し合いに応じず、あくまで私を排除するつもりでいるなら、過去、宇宙移民者《スペースノイド》の偉大な敵と恐れられたモビルスーツ、〈ガンダム〉の系譜を引き継ぐ〈ターンAガンダム〉が、鬼神となって襲いかかるであろう。その力は、葬《ほうむ》られた刺客を通して、アグリッパ白身がよく知悉《ちしつ》しているはずである)
ディアナの声が図星をさし、アグリッパはそれとわからぬほどに頬を痙攣《けいれん》させた。〈ターンX〉の戦闘記録は、孫軌道上の通信衛星を介してたしかに月にも送られていた。パイロット、すなわちギム・ギンガナムの脳に伝達された〈ターンX〉の「記憶」――内蔵データと呼ぶにはあまりにも複雑で、システムと有機的に結合しているところはまさに記憶だった――と、そこから推量されるターン・タイプと呼ばれるモビルスーツの存在に関しても、知り得る限りの情報がアグリッパの耳に届いていた。
地球が戦争と環境破壊で疲弊《ひへい》の極みを迎えた時、ある者は地球に治癒《ちゆ》を促すべく文明の埋葬を望み、ある者は人類の叡知《えいち》を信じて科学文明による地球の復興を望んだ。それぞれ勢力を形成して対立した両者は、その頃にはもう物量戦争をこなすだけの体力を失っていたのだろう。互いの思惟をターン・タイプのモビルスーツに託し、文明の未来をかけて戦場に送り出した。
それが〈ターンA〉と〈ターンX〉。一方が情緒的で曖昧なセンチメンタリズムに則《のっと》り、文明をゼロ還元するために戦えば、一方は怜悧かつ明確な人間的希求に従い、文明を維持存続させようと死力を尽くした。結局、〈ターンX〉の敗北という形で決着がついたらしいその戦いは、しかし「冬の城」に蓄積されたデータにも記録されておらず、以後の展開はおろか、実際にあった出来事なのかどうかもわからない。ザックトレーガーから膨大な量のナノマシンが散布されたという記録はあるが、それは太陽県外に乗り出していった人類が地球に施《ほどこ》した治療、破壊された故郷に手向けた命の種であると認識されている。まだ立ち直れる要素が残っていたにもかかわらず、人類が自ら文明を埋葬したとは信じられなかったし、〈ターンA〉がその自殺行為に介在したという記録もない。どだい、ムーンレィスがどちらの勢力の末裔であるのかさえ、知る手がかりはまったくないのだ。
二千年分の知を蓄《たくわ》えた自分にさえない記憶――。ふと叫び出したいほどの恐怖に駆られ、無知は誰もが同じだと考えることで理性を維持したアグリッパは、ディアナはどうなのかと続けて考えた。今回、二機のターン・タイプが衝突したことで明らかになった裏の歴史を、ディアナがどこまで理解しているのかは不明だったが、彼女の口ぶりは、その時の対立の図式が、現在の闘争に重なるものだと本能的に見抜いているようだった。
地球で生物本来の生き死に身を委ねようとする女王と、月で絶対平和を維持し、人類の知性と文明を永遠に繋《つな》げようと願う摂政《せっしょう》。それが〈ターンA〉と〈ターンX〉に体現される人の意志であるなら、自分はすでに負けたということになるが、果たしてそうか。ターン・タイプが優れた叡知の結晶であったとしても、しょせんはモビルスーツ、ただの機械だ。人間の意志を体現することなどなく、したとしても機械的に翻訳された、一方的で融通のきかない行動になって現れるに違いない。
その証拠に、ギム・ギンガナムは〈ターンX〉に食われた。彼の精神はシステムの一部になり果て、自らの思考と、〈ターンX〉の内蔵プログラムとの区別ができなくなっていった。〈ターンX〉がパイロットを取り込むシステムを搭載していた以上、同じターン・タイプである〈ターンA〉も、同様のシステムを採用していると見て間違いない。〈ターンA〉のパイロットが誰であれ、システムに取り込まれているなら、それはもうディアナの命令に全面的に従うことはないだろう。
あらゆる干渉を排除し、はるか昔に入力されたプログラム――文明の埋葬を再度実行しようとするかもしれない。地球で感覚を鈍らせたディアナにはわからなくとも、自分には〈ターンA〉が醸《かも》し出す魔的なオーラが感じ取れる。すべてを滅ぼしかねない悪魔とも知らずに、ディアナは己が統《す》べる国土に〈ターンAガンダム〉を持ち込んでしまったのだ。
そこまで思索を繋げて、アグリッパはようやく内からわき起こる恐怖に蓋《ふた》をすることができた。まだ推測の域を出るものではないが、とにかく〈ターンA〉は早急に捕獲《ほかく》し、破壊するなり徹底的に調査するなり、対策を施《ほどこ》す必要がある。その上で、愚かな情動に取り憑かれたディアナには、すでに女王たる資格がないと全市民に知らしめなければならないが、どう伝えたものか? 頭上を覆う〈ウィルゲム〉と〈ターンA〉の映像を見上げ、長い腕を組んだアグリッパは、「はったりです」と言ったミドガルドに思索を中断された。
「〈ターンX〉が敗退したのは、ギム・ギンガナムの脳がシステムに耐えきれなかったからです。ディアナと我が軍の彼我《ひが》兵力の差はヽ圧倒的と言えます」
「そうだとしても、ディアナの声は全軍に伝わっている。女王に弓を引けと命じたところで、ディアナ・カウンターの将兵が従うとは思えん」
「ならば〈カイラス・ギリ〉があります。あれを使えば、〈ターンAガンダム〉と戦艦を一撃で消滅させることも……」
キーボードを触れる指先が止まり、女性秘書が怪訝《けげん》な視線をよこす気配が伝わった。トレンチ・シティの内奥にしまわれた究極の破壊兵器の名前は、誰もが知っているわけではないし、迂闊《うかつ》に口にしていいものでもない。アグリッパは「それがどれほどの被害をゲンガナムにもたらすか、知った上で言っているのか?」と低く言い放ち、口を滑らせたミドガルドを睨《にら》み据えた。
「女王の帰還は周知の事実だ。ここで無理強いをすれば、社会システムそのものが致命的な混乱に陥る。二千年守り通してきた絶対平和を揺るがすわけにはいかん。同じく戦争を忌避してきたはずの地球が、容易に戦乱に呑み込まれた実証例もあるのだ」
言い終わらないうちに、旧式のモビルスーツが〈ウィルゲム〉の格納甲板を発し、〈ターンA〉に機体を寄せてゆく光景がスクリーンに映し出された。同じく地球で発掘されたモビルスーツだろう。甲冑《かっちゅう》に似た濃緑色のボディが〈ターンA〉の横に並び立ち、モノアイを輝かせるのを見たアグリッパは、不意に目の前の幕が取り払われ、まったく別の視野が開けるのを知覚した。
「あれを見ろ。半年前までは無明の中にいた地球の民が、ああしてモビルスーツを駆り、宇宙を翔けている現実をなんと見る。我らムーンレィス同様、彼らもまたニュータイプなのであろうよ」
その言葉が簡単に口をついて出たのは、自分でも意外なことだった。地球の民の尋常ではない適応力の源泉。「ニュータイプ……でありますか?」と聞き返したミドガルドは、飛躍した思考にはついていけないといういつもの顔だった。
「そうでなければ、二千年もの間、闘争本能を封殺してこれたはずもあるまい? 宇宙に適応した新たな人のタイプ、拡大した洞察力と認識力を持つ人と定義されたニュータイプの血が、地球の民にも受け継がれていたのであろう。ディアナ・ソレルは寝た子を起こしてしまったのだよ」
ミドガルドが理解しているか否かはどうでもよかった。ひらめきは新たな思索の種を生み、思索は認識を強固にして、真理に近づく縁《よすが》となる。慣れ親しんだ摂理に従い、アグリッパは慎重に論理の外堀を埋めていった。
「誤解なくわかりあえる力を持ち、他者との穏やかな融和をなし得るニュータイプ。だがその能力は、戦時には恐るべき兵器になる。事象に対する深い認識力は予知能力に繋がり、優れた洞察力は敵の心理の把握……一種の読心術に転じる。そうした超能力者《エスパー》的な表れ方が時の為政者に利用され、ニュータイプが傑出したパイロットとして使役されてきた歴史は、過去の宇宙大戦の記録に明らかだ。
いま目の前で起こっていることは、その歴史の再現だ。ディアナは地球の民に流れるニュータイプの血を兵器として覚醒《かくせい》させ、それらを率いて月に戻ってきたのだ」
しかも、〈ターンAガンダム〉という悪魔的なマシンとともに。「そうであるなら、なおのこと……!」と言いかけたミドガルドを手で制し、アグリッパは玉座から立ち上がった。
そう、そうであるなら考えあぐね、時間を無駄にすることこそ愚かだ。かざした手に反応し、床からせり出したコントロールボックスの前に立ったアグリッパは、メンテナー家の家紋を表示する通信パネルに軽く触れた。
「アグリッパ・メンテナーであります。ディアナ・ソレル閣下のご帰還を心から歓迎いたします」
あんぐり口を開けたミドガルドを背に、アグリッパは続いて自動迎撃システムに解除を促す操作を行った。(その言葉が偽りのないものであることを祈ります)とディアナの声が応じたのは、トレンチ・シティ中に響き渡るサイレンが停止した時だった。
(地球の代表者とともに、『冬の城』での直接会談を希望します)
「いいでしょう。地球の方々には規定の防疫措置を受けていただきたく思いますが?」
(認めましょう。ただちに展開中の部隊を退がらせ、ゲンガナム宇宙港のドッキング・ベイを開放しなさい)
「了解であります。停泊中の船の面倒は、こちらで……」
(いらぬ気遣いです。〈ウィルゲム〉と、〈ウィルゲム〉が搭載するモビルスーツには、いっさい干渉無用のこと。約束を違えた場合、本艦は全力をもって反撃に転じ、『白の宮殿』もろとも貴公を焼きます。これは脅しではありません)
どすを含んだ声がディアナのものとは信じられず、アグリッパはつかの間絶句した。これが生き血を吸った生体の力かと畏怖《いふ》し、抗し得ないだろう自分を予感して、再びざわとした不安が這《は》い上ってくるのを感じた。
しかし、他になにができるというのか。月を戦場にするわけにいかない。この辺境の星系で人類という知性が発祥し、たしかに文明を築き上げた。その事実と記憶を少しでも長く留めておくために、我々は月で平和を維持し続けなければならない。闘争本能や愚かな情動に左右されることなく、叡知を正しく運用する術《すべ》を獲得して、他の知的生命体に己の存在を知らしめなければならない。そうでなければ、ただ発生して滅ぶだけの人類はあまりにも虚しすぎるではないか。「御意のままに……」のひと言をどうにか搾《しぼ》り出して、アグリッパは頭上のスクリーンを振り仰いだ。
傲然と立ち尽くす白い魔神が、月面を見下ろしていた。赤く輝く双眸《そうぼう》が、細々と残った智の灯を吹き消す暴力衝動の塊に見えて、アグリッパはひそかに肌を粟立たせた。
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エアロックがため息に似た音をたてて開き、眩い白色光に照らされたドックの床面が見えると、それまでのしかかっていた重苦しさが嘘のように消え、身体を揺さぶるほどの興奮が手足の先々にまで張り詰めた。月だ、帰ってきたんだ。そう叫ぶ全身の細胞に押されて、ロランはひと息に舷梯《ラッタル》から飛び降りていた。
舷門のエアロックから床面まで、高さにして十メートルと少し。地球の六分の一の重力がクッションになり、体をやんわり床面に引き寄せてゆく。靴底が床に触れるや、膝のばねを総動員して前方に飛んだロランは、続く五回のジャンプで〈ウィルゲム〉の舳先に到達した。六回目に床を蹴《け》る時は多少力を抑え、細菌の侵入を防ぐ気圧バリアーに跳ね返されないよう、ドックの入口手前ぎりぎりの位置に両足をつけた。
ゲンガナム宇宙港は、三千メートル級のクレーターをまるごと利用して造られたものだ。月面に表出する部分は巨大なエアロックを備えたドーム状構造物で覆われ、三重の隔壁《かくへき》を挟んで地下八百メートルまで達したところに、航宙艦を係留するドックが設けられている。ドックは都市の側壁=\―赤道沿いに月を一周するトレンチ・シティの掘削壁面――に露出しており、削り出された岩壁の一画に、そこだけ金属で囲われた二百メートル四方の口を開けていた。
ドックから都市部までは緩やかな下り坂が続き、その途中に小型艦用の格納庫、大型艦の整備と補修を行う乾ドックの矢倉《やぐら》、林立するガントリークレーンとジンポールの鉄柱などが並ぶ。都心までは十キロ以上の距離があったが、ロランには、植樹の帯を挟んで広がるゲンガナムの街並みと、中央に聳《そび》える「白の宮殿」をはっきり見て取ることができた。
昼の週に入って三日目、都市の天井を縦貫する運河のガラス面は陽光を湛えて光り輝き、そこから放射状にのびる光ファイバーの網目も、設定時間帯に合わせて午後の光を万遍なく行き届かせていた。地球の昼に較べればいくぶん白っぽい陽光が降り注ぐ中、曲面で構成された「白の宮殿」は眩いばかりの照り返しを宿し、都市内を錯綜するハイウェイ、ひしめき合うビル群ともども、ムーンレィスの首都と呼ぶに恥じない威光を放っている。あと数時間もすれば運河は透過率を低下させて光量を落とし、光ファイバーも人工の夕焼けを作り出した後に発光をやめて、今度はビルの窓から漏れる無数の灯がゲンガナムを照らすようになるだろう。
都市の竣工以来、季節は地球の北半球に足並みをそろえて設定されているので、現在は初冬の平均気温、摂氏十度前後といったところか。狭い艦内にいた身には適度な冷気が心地好く、ひとつ深呼吸しようとしたロランは、その途端、背後からぶつかってきたグエンにつき飛ばされる羽目になった。
ぶつかった反動で体勢を整え、フェラッシモの革靴を床につけたグエンは、目前の光景にひたすら圧倒されている顔だった。謝る余裕さえなく、「これは……」と呟いたきり絶句したグエンの背後では、ドレスに着替えたキエルや飛行服姿のソシエ、制服に身を固めたミリシャのパイロットたちの姿がある。大型バスほどの大きさがある〈ウィルゲム〉の前部|着陸脚《ランディング・ギア》の前で固まり、動こうとしない一同から外れて、次に飛び出してきたのはシドの小柄だった。
眼鏡のレンズを手拭いでふき、宇宙港から「白の宮殿」に至る地下都市の情景を見渡したシドは、「わしゃもう、いま死んでも文句は言わん」と大真面目に言ってのけた。「黒歴史」の探求に身を捧げて数十年、その源たる科学文明の都を目の当たりにした老人の感慨は、余人の想像を許すものではないのだろう。なぜだか少し誇らしい気になったロランは、「こういう都市が、赤道に沿っていくつもあるんですよ」と教えてやった。
「これだけの明るさ……。電気はどうしているんだ?」
「天井運河から直接、太陽の光を取り入れてるんです。光ファイバーや太陽電池もありますし。フォンという街には地熱を使った発電所もあります」
「地熱? 月にもマグマがあるのか」
「月殼の厚みはせいぜい六十キロで、後は地球と同じようにマントルと岩流圏で構成されてますから。申心の高熱部分から熱エネルギーを抽出して、電気に変えてるんです」
シニアスクールで教えるレベルの知識だったが、グエンは腕を組んだきり再び黙り込んでしまった。ザックトレーガーでの戦闘以来、こわ張って動かなかった頬の筋肉が少しだけ緩《ゆる》み、ロランは今度こそ深呼吸をした。「故郷」の空気が懐かしさを伴って肺を膨らませ、キースとフランも来ればよかったのに……と思ったところで、「なんか変な臭い、しない?」と言ったソシエに水を差された。
いつの間に近づいてきたのか、「本当……」と鼻に手をやったキエルに続いて、「そう言えば、なにか埃《ほこり》臭いような」とグエンもあたりを見回すようにした。気圧バリアーに隔てられているとはいえ、換気の行き届いたドック内の空気がこもることはない。わからずに鼻をひくつかせ、もう一度深く息を吸い込んだロランは、肺になにかが引っかかる感覚に気づいてどきりとした。
換気装置のフィルターの臭いか、純粋酸素を多目に設定した空気組成の違いのためか。いずれ地球の大気の甘苦さとは異なる、辛味に似た刺激が空気に混ざっていて、ソシエたちの鼻はそれを敏感に嗅ぎ取っているのだった。地球と月、両方の空気を吸い較べて初めてわかるほどの微妙な臭いだが、一同は顔をしかめたまま、こちらに非難がましい目を向けている。誇らしい気分から一転、意味もなく羞恥《しゅうち》心の虜《とりこ》になったロランは、「ドックの近くだからそう感じるんですよ」と慌てて言い訳を並べた。
「ぼくの育った運河の近くは、潮のいい匂いがしますよ。時間があれば後で……」
名誉|挽回《ばんかい》というだけでなく、キエルとソシエに天井運河の風景を見せてやりたい気持ちもあったが、ソシエは「いいわよ、もう」と素っ気なかった。
「月って遠くから見ると金色に輝いてるのに、近くで見ると色のない砂の塊でさ。なんかがっかりなのよね」
「私も、この中途半端にふわふわした感じは馴染めそうにないわ」
スカートの裾を気にしながら、キエルの口調も辛辣《しんらつ》だった。初めて訪れた場所、それも状況によっては敵地になりかねない場所にいれば緊張するのが当然だが、どこか怯えの混ざった一同の目は暗く、地球にいる時とは別人のそれに見えた。
天井の向こうには虚無の真空が広がっている現実、人工物がなければ一瞬たりと生きていけない月の現実を感じ取り、本能的に警戒しているのかもしれない。一方には当たり前なものが一方には奇異に映り、その感覚の違いが新たな反感を生みもする。興奮が冷め、再びのしかかってきた重苦しさの中で、ロランはディアナの頑なな横顔を思い出していた。
〈ウィルゲム)がドックに翼を休めて間もなく、ディアナはひと足先に「冬の城」へ向かった。防疫検査が済み次第、グエンたちを案内するようロランとハリーに命じる一方、ディアナは艦内放送を通じてすべてのクルーに呼びかけてもいた。
「私たちの不在中に、もし〈ウィルゲム〉や〈ターンA〉に干渉しようとする者がいれば、かまいません。メガ粒子砲で『白の宮殿』を攻撃してください」
グエンがちらと目を動かした横で、ホレスたちはぎょっとした顔を振り向け、ロランも耳を疑う思いでディアナを見返したが、水色の唇はそれ以上なにも言おうとしなかった。無言で立ち尽くすハリーに「頼みます」と言い置いて、ディアナは出迎えのリムジンに乗り込んでいった。
地下都市内でメガ粒子砲を使う――万一、狙いが狂って天井運河に穴でも開ければ、トレンチ・シティそのものを破壊しかねない暴挙だった。とりあえず会談は了承させたものの、アグリッパがギム・ギンガナムを差し向けた事実に変わりはない。〈ターンA〉が奪われれば〈ウィルゲム〉は裸同然になるのだから、それだけの覚悟が必要だとディアナは伝えたかったのだろうが、ムーンレィスはともかく、地球の人々にどこまで伝わったものか。両者の感覚が「違う」という、その具体的な中身は、地球で二年間暮らしてようやく片鱗がつかめる程度なのだ。
絶えずどこかで緊張を強いられているムーンレィスには、地球の人々が持つ「生き物のやさしい柔軟性」が理解できず、野蛮で無節操なものに感じられる。同様に、地球の人々にはムーンレィスの生真面目さが窮屈で、時には強圧的にも映る。「冬の城」にはグエンの慢心を諫《いさ》めるものがあると言うが、ディアナにはそう思えても、当のグエンが同じように受け止める保証はどこにもなかった。むしろグエンを同道させたことで、事態はより混迷の度合いを深める結果になるのではないか。
ディアナ様は、またしても急ぎすぎたのではないか……? 再び暗転した胸の中に自問した時、「さっさとアグリッパとかって人を降伏させて、地球に帰るだけよ」とソシエが重ねて、「そうね」と応じるキエルの声が続いた。嘆息《たんそく》を堪えて、ロランはぴりぴりした様子の二人に振り返った。
「月の管理人という話だけど、どういう人なの?」
「よくわかりません。ぼくら一般市民には縁のない人ですし、あまり表にも姿を現しませんから」
「反ディアナ的な勢力を集められる人なら、なにかしらの広報活動はしていたはずだけど」
「ぼくの育ったメイザム……運河沿いの町って、地球の感覚で言えば田舎なんです。ゲンガナムやフォンほどにはネットワークも整備されてませんし、住んでる人たちも政治向きの話にはあまり興味がなくて……」
答えながら、そう言えば自分はつくづくなにも考えない子供だったと思い至って、ロランは場違いな自責の念にとらわれた。月にいた頃のロランにとって、社会はネットワークの端末ディスプレイに写る情報の羅列に過ぎず、なんら現実感を伴うものではなかった。どこそこで事故が起こった、二酸化炭素濃度が上昇したと聞かされても、ああそうかと思うだけで、自分の生活と関係づけて考えることはできない。参加するのではなく、ただそこに座って傍観するのが社会だと決めていた……。
「ぼくがアグリッパ・メンテナーについて知っているのは、ムーンレィスの歴史が始まった時から生きてる人らしいってことぐらいです」
「歴史が始まった時から!? じゃあ何千年も生きてるってわけ?」
ソシエが目を丸くして驚き、それを半ば常識と受け止めていたロランは、「……そういう噂です」と小さく付け加えた。「なるほどな」と割って入った声は、傍らで市街を遠望するグエンの口から発せられた。
「ま、政治家の気質など、月も地球も変わらないということさ。じきに会えるのだから、あれこれ詮索しても始まらない」
なにを思ったのか、その顔には陰惨とも取れる苦笑が浮がんでいた。冬の冷気とは別に、ひやりとした寒気がまといつくのをロランは感じたが、その時にはいつもの涼やかな笑みを取り戻したグエンが、「それより、あそこに河が流れてるんだって?」と天井を指さしていた。
「……ええ。トレンチ・シティ全体を覆っています。魚も泳いでますよ」
グエンの視線を追って、ロランも二条の運河が走る都市の天井を見上げた。人口の多いゲンガナムは、生活排熱が生じさせる雲の量も多く、たゆたう光の帯はうっすら靄《もや》のベールをかぶっていた。
「すべての都市に繋がっているなら、運河を渡ればどこにでも行けるな」
「はい。『沖』……月面に露出している部分は、有害な宇宙線を浴びる危険があるので立入禁止になってますけど」
「深さは? 大きな魚はいるのかな。たとえばクジラとか」
「いますよ。クジラは港町ではいちばんのご馳走です。水深は五十メートルくらいあります」
運河クジラの肉をソテーする時の香ばしい匂い、濃厚なソースの味が不意に鮮明によみがえり、ここ数日、缶詰しか入れていない胃袋を切なくさせたが、グエンは介する様子もなく質問を重ねてきた。どうやったら運河に上がれるのか、河の流れはどれほどか。問われるまま、ロランは都市の側壁《そくへき》にいくつかあるエレベーターの場所を教えてやった。
「なんでそんなことが気になるんです?」
「ローラの生まれ故郷なんだろう? 機会があれば、ぜひ見学したいと思ってね」
笑みの奥で舐《な》めるような視線が光ったのも一瞬、グエンはすぐにロランに背を向け、ランディング・ギアのそばから離れようとしないミリシャのパイロットたちの方に近づいていった。なにごとか話し合い、ちらちらドックの外に目をやるグエンの背中に影が宿り、重苦しさとは別種の、鋭い不安が胸をつくのをロランは感じた。
いったいなにを話しているのか。少し迷った後、確かめようと足を動かしかけたが、ハリーが床を蹴《け》って近づいてくるのを見れば、それもできなくなっていた。
「防疫ルームの準備ができたそうだ。順番にきてくれ」と言ったハリーに続いて、ロランはドックの壁面に設置されたエレベーターに向かった。たむろするパイロットたちに目配せひとつを残して、グエンもその列に加わった。
防疫検査は殺菌灯の照射を受けるだけの簡単なもので、全員が終えるのに一時間とかからなかった。〈ウィルゲム〉で非常時に備えるホレスやミリシャのパイロットたちを残し、ロランたちは出迎えの車に分乗して宇宙港を離れた。
ディアナ・カウンターの軍用|電気自動車《エレカ》が取り囲む中、グエンとキエル、シドを乗せたリムジン・タイプのエレカが先行し、その後ろにロラン、ハリー、ソシエの三人を乗せた同型のリムジンが続く。ゲンガナム市内は往来する車も人の姿もなく、ぴんと張り詰めた静寂に包まれていて、戒厳令下の緊張感を暗黙に伝えていた。
ゲンガナムを横断したエレカの一団は、やがてむき出しの岩肌が切り立つ反対側の側壁に達し、天然の亀裂《クレバス》を利用して造られたトンネルに入った。赤道の周囲に点在する衛星都市――貯水池や工場などの施設が集まるドーム都市――と、トレンチ・シティとを結ぶ坑道の一本だった。オレンジ色の照明が満たすトンネル内を五分ほど走ると、前方に薄緑色の柔らかな光が見え始め、それはみるみる大きくなって車窓全部を埋めた。
光に慣れた目が最初に捉えた印象は、桁外れに巨大な鍾乳洞《しょうにゅうどう》だった。天井の高さはトレンチ・シティほどではなく、せいぜい五百メートル前後。運河のガラス面や光ファイバーの網目は見つけられず、代わりに淡い緑色の光が天井の岩盤全体を覆い、直径五千メートルはあろうドーム状の空間を照らしている。鍾乳石さながら、天井と地面とを繋《つな》ぐ太い岩柱の列も緑色の微光を宿し、柔らかな光を周囲に投げかけていたが、それは岩自体が光っているのではなかった。岩肌に密生した苔――ナノマシン技術によって品種改良された光苔が発光し、電光とも太陽とも異なる輝きで地下空洞を満たしているのだった。
地面は見渡す限りの草原で、緩やかな丘陵地帯のまん中に一本だけ道路が敷かれている。これで鳥の一羽も飛んでいれば、地球に戻ったのではないかと疑わせる風景だったが、決定的に違うのは、道路の終点に巨大な球体の群れが鎮座している点だった。
苔むした大樹を想起させる岩柱が林立する中、まるで昆虫が産みつけた卵のように密集する白い球体は、ひとつの直径が少なくとも五十メートル以上。土に半分埋まっているものもあったが、ほとんどは土台に支えられて地上に表出しており、チューブ状の空中廊下でそれぞれが繋がっている。磨き抜かれた表面に継ぎ目の類いはいっさいなく、無機質な金属の塊でありながら、どこか有機的な生々しさを見る者に感じさせる物体こそ、「冬の城」の中枢をなす氷室。幾千、幾万のムーンレィスが眠る冷凍睡眠槽だった。
一般人の立ち入りは原則的に禁止で、ロランもジュニアスクールの社会科見学で一度だけ訪れて以来、足を踏み入れたことはない。実際、風景の美しさは衆目の認めるところだが、お世辞にも来て楽しい場所とは言えないのが「冬の城」だ。豊かな緑に覆われていても、わずかな昆虫を除けば生き物の姿はなく、聞こえる音もない。時間だけがいつ果てるともなく降り積もり、地球帰還の日まで封印されたタイムカプセル、時の柩《ひつぎ》を納めた空洞をゆっくり埋めてゆく。今もエレカのモーター音が聞こえるばかりで、「なんだか、お墓みたい」と呟いたソシエの声も、広大な空間に吸い込まれてしまいそうだった。
「似て非なるもの……というところだな。たしかにあの中では千五百万に及ぶムーンレィスが眠っている」
ひしめく冷睡槽を赤いバイザーに映し、向かい合う席に座っているハリーが相手をした。「だが死んでいるわけではない。冬眠しているだけだ。地球に帰還できる日まで」
その声に苦味があるのは、そうして阿百年もかけて準備してきた地球帰還作戦が、ここに来て白紙に戻ってしまった現実を肌で感じているからに違いなかった。同じムーンレィスでも、軍人のハリーには自分とは別の感慨があるらしいとわかったロランは、なにも言わずに冷睡槽の群れに目をやった。医療用ナノマシンに細胞を保護され、いっさいの生命活動を停止した人々が、夢も見ずに眠り続ける氷室。千五百万の命を封じ込めた氷の冷たさが無表情な球体から立ち昇り、ロランは小さく身震いした。
「いつから冬眠しているの?」
「ムーンレィスの歴史が始まって間もなくだから、二千年以上にはなる」
「二千年!? なんでそんなひどいことするの?」
唐突に声を荒らげたソシエに、リムジンの運転手がルームミラーごしに不審な目をよこした。「ひどい……?」とおうむ返しにしたハリーも、困惑を隠しきれない顔だった。
「だってそうじゃない。そんなに長いあいだ氷漬けにしておくなんて……! 起きた時に世の中がすっかり変わってたら、その人たちはどうやって生きていくの?」
「月には地球ほどの資源も空間もない。そこで二千万の人間が生きてゆこうとすれば、仕方ないだろう」
「だけど……!」
「一族単位で冷睡しているんだ。起きても寂しいということはないさ。……例外はあるがな」
最後は独白のように付け足して、ハリーは口を閉じた。「……でも、やっぱり変」と呟いたきり、黙ってしまったソシエをちらと窺ったロランは、必要以上に柔らかいリムジンのシートに体が沈み込む感覚を味わった。
そんな基本的なことさえ地球の人々は知らない。あらためて二つの民族の感覚の違いを痛感し、急ぎすぎたのではないか? という自問がぶり返したが、今さら引き返せないことはわかっていた。窓を埋めて聳える冷睡槽を見上げて、ロランはシャツのボタンをいちばん上までしっかりかけた。
リムジンは、冷睡槽の集積ブロックの入口を示すドームの手前で停車した。そこからは冷睡槽を繋ぐ空中廊下を伝い、「冬の城」の深奥に向かう歩きの行程だった。アグリッパはすでに到着しているらしく、使いの男がロランたちを出迎えた。ミーム・ミドガルドと名乗るその男の案内で、一行はディアナが会談に指定した場所、ビジュアル・データ室に向かった。
ミドガルドは土気色の顔をした痩せた男で、宇宙線焼けに縁取られた目は細く、地球人に対する蔑視の色を隠しもしなかった。ロランたちにも見下す目を向け、ハリーが腰に携えた自動拳銃に気づくと、「冬の城」への武器の持ち込みは禁止されていると声高に言った後で、しかし今回は特例措置として許しましょう、と薄ら寒い笑みを頬に刻んだ。まるで自分が城主ででもあるかのような口ぶりだった。「嫌味な奴ね」とソシエが耳元で囁いたが、故郷のメイザムによくいるタイプの大人だと見抜いたロランは、軽く頷いただけでなにも言わなかった。下層階級を自認する生活を送ってきた人々の中には、自分が優位に立てる相手とわかると、日頃の憂さを晴らすためかひたすら辛辣になる者もいる。むしろ問題は、そういう輩《やから》を配下にしているアグリッパという男の人間性だった。
冷睡槽は二重構造になっており、内部の冷睡槽本体を回廊がぐるりと取り巻いている。ジェネレーターの振動が微かに空気を震わせる以外、聞こえる音はなく、しばらくは七人分の足音が奇妙に大きく響く時間が続いた。ひとつの冷睡槽を半周して空中廊下を渡ると、次の冷睡槽も半周してまた空中廊下へ。好奇心の塊といった目を周囲に注いでいたグエンも、さすがに七本目の空中廊下を渡る頃にはうんざりしていたが、先頭を歩く、ミドガルドは気にかける様子もなかった。本来、ビジュアル・データ室はソレル家の者しか入れない神聖な場所。基本的に封印されている区画なのだから、不心得者の侵入を防ぐためにも交通の使が悪いのは当然。城主の口ぶりで説明して、こちらを振り返ろうともしなかった。
回廊と空中廊下を交互に歩き、十五分ほど過ぎた頃にようやくたどりついたビジュアル・データ室は、冷睡槽をひと回り小さくした外見だった。空中廊下の連鎖からは外れており、手前の冷睡槽から一本だけのびた廊下の入口も、強固なシャッターで閉ざされている。壁に埋め込まれた身元確認装置《IDチェッカー》がソレル家の家紋を明滅させていたが、この時はあらかじめロックが解除されていたのか、ミドガルドが前に立っただけでシャッターが開いた。透明素材で形成された他の空中廊下と違い、ハイ・シリコンで覆われた暗い廊下を伝って、ロランたちはビジュアル・データ室に足を踏み入れた。
二重構造の内部を、回廊が取り巻いているところは冷睡槽と変わりがなかったが、廊下を渡りきった場所に扉があり、球体の中心部に入れるようになっている点が違っていた。三重の隔壁をくぐった先にある中心の部屋はドーム構造で、直径三十メートル強、高さは十五メートル程度。内壁には定間隔に照明が設置され、遠慮がちな光が広い空間を劇場のように照らし出している。真円を描く床には椅子のひとつもなかったが、中央に一本足のテーブルに似た物体がぽつんと置かれ、半球状の表面に赤や緑の待機ランプを踊らせているのが、ロランの目を引いた。
立体映像投射装置《ホログラフィ》だった。目が闇に慣れると、照明に並んでスピーカーの放列が内壁を囲んでいるのも見え、ロランはここがまさに劇場であることを理解した。ソレル家の者にのみ閲覧が許される、旧世界から現在に繋がる歴史の映像資料《ビジュアル・データ》を蓄積した劇場。沈殿した冷気が胸の中にまで入り込み、ディアナがなぜここを会談場所に指定したのか、その悲壮に過ぎる決意をロランにわからせかけた時。ビジュアル・データ室の薄闇の中から人の姿が立ち上がり、長身の影がそれ自体生き物であるかのごとく床にのびた。
暗い照明が、臙脂《えんじ》色のゆったりした衣装と、奇妙に長い腕を浮かび上がらせる。足は衣装に隠れて見えないが、こちらに近づいてくる歩幅からして、やはり不釣り合いに長いと見て間違いなかった。アグリッパ・メンテナーだと直観したロランは、その瞬間、面長《おもなが》の顔を振り向けたアグリッパと視線を絡ませた。
漆黒の肌に埋め込まれた赤い瞳に、そのものの本質を見ぬかんとする鋭い光が宿っていた。月面の一画に澱《よど》んだ黒い影と、そこから見下ろす血のように赤い目。夢とも現実ともつかない記憶が弾け、ロランはつかの間その場に棒立ちになった。
その者はとうの昔に精神を病んでいるのに、それを人類の業《ごう》という言葉にすり替えて、自己の主張をやめられずにいるのです――。ディアナの肌合いを持つ声が脳裏を走り、続いて「敵」の一語が無条件に固まって、ロランは自分でも気づかずに拳を握りしめた。なぜそう思えるのか自問しようとしたが、石でせき止められたように思考はある一点から先に進まず、その間にロランから離れたアグリッパの目が、やはり棒立ちになっているグエンの方に向けられた。
「お初にお目にかかる。そちらがグエン・サード・ラインフォード閣下でいらっしゃるか?」
高いのか低いのか判然としない、一度聞けば忘れない特徴的な声でありながら、心にはなにも残らない無機質な響きだった。防疫検査のデータで、一同の顔と名前はすでに知悉しているのだろう。迷わず長い手を差し出したアグリッパに、グエンは反射的に身を引く素振りを見せたが、次の一瞬には自分も手を差し出し、「閣下はおやめください、アグリッパ閣下」の声が笑みを形作る唇から発した。月の一方の代表者と、地球の代表者の手がしっかり握り合わされ、互いの体温を感じる間もなくすぐに離れた。
「歓迎の手配が行き届かなかったことをお詫びする。なにせ急なご到着でしたのでな。……他のみなさまも」
敵意を皮一枚下におさめたハリー、胡散《うさん》臭そうに見上げるソシエ、瞬きもせずに凝視するシドを順々に眺め、アグリッパは最後にやや顔を背けるようにしているキエルに視線を留めた。「ほう……。たしかにディアナ様に生き写しでいらっしゃる」と言った声は、真実の驚きを含んで低くかすれていた。
キエルはちらと顔を動かし、「お陰で貴重な経験をさせていただきました」と言っただけで、すぐに目を伏せた。皮肉にしても、いったい誰に向けられた皮肉か。考えかけた時にはアグリッパの視線が再びこちらに据えられ、ロランは石になった唾を飲み下した。「貴公が〈ターンAガンダム〉のパイロットか?」と尋ねたアグリッパに、「……はい」と答えた声が喉にひっかかり、小さく咳払いしなければならなかった。
「ギム・ギンガナムが仕掛けた非礼の数々を許していただきたい。〈ターンX〉を盗み出し、止める間もなくマスドライバーで飛び出していってしまったものでな。どうもターン・タイプの機体は、パイロットに特定の行動を強いるシステムを内蔵しているらしい」
そう言っている間、アグリッパの目は片時も休まずに動き続け、ロランの頭からつま先までを凝視し続けた。見え透いた嘘とわかっても、大人の口から堂々と語られれば反駁《はんばく》する勇気は持てず、ロランは無言を通した。それよりも月の管理人を任じられた男の、自分に対して向けられる奇妙な関心が気になり、ロランはアグリッパの瞳をまじまじと覗き込んだ。
赤い瞳に思ったほどの強圧さはなく、瞳孔の奥にはむしろ脆いと思わせるほどの揺らぎがあった。この人は怯えている――しかしなにに? 思考をせき止めていた石がぐらりと動き、うちから滲《にじ》み出る敵意が霧散して、ロランは夢から覚めた思いでアグリッパの顔を見返した。
もうそこに赤い目の魔物のイメージが重なることはなかった。見透かされるのを恐れるように目を逸らし、「ディアナ様はまだいらっしゃらないようだが……」とグエンに振り返ったアグリッパの背中は、ロランには当たり前の人間にしか見えなかった。
「我が君との間にはいろいろと誤解がありましてな。ここでそれを解き、月と地球の共生について共に話し合えればと思っている。遠路はるばる参られたことを、あらためて感謝します」
「いや、こちらこそ感謝しています。月の壮麗な都市をこの目で見ることができたのですから。もっと機械化された場所を想像していたのですが、この『冬の城』といいゲンガナムといい、まるで地球にいるような錯覚を覚えます」
「ある程度不便を残しておくというのが、トレンチ・シティの建築理念でしてな。区画整理を完全に行えば生産性も向上するのだが、都市の構造上、いかんともし難いものがある」
「不便を残しておく……?」
「人はしょせん、生来の動物本能から逃れられない生き物だと既定した先人の賢しさです。すべてが人工的な便利さに覆われてしまえば、人の精神は窒息する。理想郷には終生、住まうことのできない業《ごう》を持たされているとね」
アグリッパを見据えるグエンの瞳に喜悦の色が宿り、ロランの心臓がひとつ大きな脈を打った。「あなたは、そうは考えておられない……?」と問いかけたグエンの顔は、相手を自分のペースに巻き込む時の隙のない微笑だった。
「永遠不滅の認識を手にすれば、人は己の業から脱却できると信じている。生物としての本能、欲望、精神の脆弱《ぜいじゃく》さといったものを脱ぎ捨てて、完全な知性体に変革することもできましょう。過去、一度ならず真理に近づいた者もいたのだから」
「そうお考えであるなら、あなたとは話ができそうです」
ぎょっと注視した一同をよそに、アグリッパに近づいてゆくグエンの足取りは、ロランには獲物に忍び寄るコヨーテのそれに見えた。
地球に降下《おり》た最初の日、藪《やぶ》を揺らしてにじり寄ってきた殺意の塊《かたまり》がグエンに重なり、その時の戦慄がゆっくり腹に落ちてゆくと、得体の知れない不安がロランの毛穴を塞いだ。
「わたしも、人類の輝ける未来を信じています。ディアナ・ソレル閣下は過去の悲劇に囚《とら》われておいでのようだが、これだけの文明を構築した人の叡知《えいち》に蓋をして、いたずらに進歩を排斥《はいせき》するのはそれこそ罪です」
継ぎ目のないビジュアル・データ室の内壁を見回してから、グエンはアグリッパをまっすぐ見据えた。
「月と地球が共生するには、まず両者の文化的水準の差を埋めるべきというのがわたしの持論です。月への帰還をお手伝いする対価として、わたしはディアナ閣下に月の技術力の供与を要求いたしました。女王に約束の反故《ほご》を疑う無礼は慎みますが、こちらも相応のリスクを支払っている以上、いざという時の保証は欲しい。
アグリッパ・メンテナー閣下。万一、ディアナ閣下との交渉が決裂した場合、あなたが次の交渉相手になると考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
不安が現実になり、それまで辛うじて噛み合っていた歯車が音を立てて外れて、目の前の光景がぐらりと傾くのをロランは感じた。なんでそういう話になる? 思わずグエンの顔を見つめたが、涼やかな笑みを湛えた横顔はアグリッパに向けられたまま、こちらを振り返ろうともしなかった。
間に入ろうとしたミドガルドを手で制して、アグリッパはグエンの視線を正面に受けていた。赤い目が細められ、相手の腹のうちを探ろうとする気配が感じられたが、ロランには、コヨーテの生臭い息をかいだことのない人には、極めて生物的なグエンの本性は見抜けまいとわかっていた。
グエンにしても、ディアナを拠《よ》り所にしている大半のムーンレィスの心情は理解できないだろう。この場で堂々とアグリッパに共闘を持ちかけたということは、これも交渉術のひとつ、本意ではないと暗に伝えたつもりなのかもしれなかったが、ハリーは恐ろしいほどの無表情でグエンの背中を見つめている。地球の民もムーンレィスも、あまりにも相手のことを知らなさすぎるのだ。
視野狭窄な者同士が顔をつき合わせたところで、互いの勝手を押しつける結果にしかならない――。
「……非常に興味深い話ではある」と言ったアグリッパの声に虚勢の色が混ざり、ロランは真実、絶望した。
「しかしそれには、相互の立場を理解し、尊重する姿勢がなにより必要になる。すべてのムーンレィスが地球への帰還を望んでいるわけではない。月で思索を重ね、人類の智を永遠に繋げたいと欲する者もいる」
「無論です。月は人類の思索の場として温存し、地球は科学技術の力をもってかつての栄光を取り戻す。それでいいじゃありませんか。我々にはよりよい未来を建設する義務と権利があるのです。『黒歴史』という過去の亡霊を祓い、煌々たる人類の未来を……」
(あなた方は幸せ者だ)
叱るようなその声は、内壁に設置されたすべてのスピーカーから発し、集まった人々の胸を否応なく揺さぶって過ぎた。誰の声であるかは考えるまでもなく、ロランは慌てて周囲を見回したが、薄闇に閉ざされたビジュアル・データ室にディアナの姿を見つけることはできなかった。
(だから、このようなことを忘れている……!)
苦痛を押し殺したディアナの声が封印を解いたのか、部屋の中央に鎮座するホログラフィが作動し、空中に投射された無数のホログラムが薄闇を払っていった。音声操作システムではなく、人の脳波に感応するダイレクト・インターフェイス・システム――ソレル家の血を引く者にしか扱えない、失われた旧世界の技術が、ディアナの怒りを受けて蓄積されたデータを解放したのだった。
虚空に投射された二次元映像が、いくつもの窓になってロランたちを取り囲み、内壁のスピーカーが一斉に複数の音声を錯綜《さくそう》させる。さまざまな言葉でニュースを読み上げる男たち、女たちの声。耳を聾して鳴り響くクラクション、エンジン音、金属がぶつかり合う音。銃声がその中に混ざり、映像は数えきれない車が行き来するハイウェイや巨大な女神の像、その背後に広がる直方体のビルの列を映し出す。排気ガスに煙った空では大型飛行機が長い翼を広げ、丸太さながら束ねたロケットを腹に抱えた宇宙船が、白い噴煙の尾を引いて宇宙に飛び出してゆく――。
「冬の城」にしまわれた記憶、旧世界の残像が四方を埋め尽くし、ロランは口を閉じるのも忘れて乱舞する映像を見上げた。グエンとキエル、シドやハリーたちはもちろん、アグリッパまでもが圧倒された様子で、過去の亡霊たちの声に聞き入っていた。
「なに、あの筒みたいなの?」
ソシエが指さす先に、暗黒の宇宙に整然と並ぶ円筒形の構造物の姿が映し出されていた。数は、画面に映っているだけでも十基以上。付近を航行する航宙艦、円筒を構成する外装板の大きさから推量して、全長は少なくとも五十キロはあるだろう。宇宙植民地《スペースコロニー》という言葉を思い出したロランは、太陽光を取り入れる三枚のミラーを羽根のように広げ、ゆっくり自転する円筒の群れに注視した。
自転運動によって生じる遠心力が疑似重力を発生させ、円筒の内壁に地球に似た環境が構築されたスペースコロニー。ひとつのコロニーに千万単位の人間が住み、最盛期には人口の八十パーセントが移住したという人工の島々は、宇宙の常闇《とこやみ》でも人が暮らしていけることを静かに証明していたが、平穏な光景は一時のものでしかなかった。粛然と浮かぶコロニーのひとつから爆発の閃光が発し、それは暴力の暗い色を湛えて、ロランの網膜に焼きついていった。
(……|地球標準《ズールー》時間一月三日午前三時、ジオン公国を名乗るサイド3は地球連邦政府に対して宣戦を布告。サイド1、2、4に対して大規模な奇襲攻撃を行いました)
(ガス兵器が使われたとの情報が入っております。詳しい被害はまだわかっておりませんが、コロニーの密閉空間でガス兵器が使用された場合、住民の生存は絶望的なものと……)
アナウンサーらしい人々の声を背に、コロニーの外壁に仕掛けられた巨大なガスボンベ、円筒の内壁に建設された都市の情景が浮かんでは消えた。揺れるカメラが黒煙のたなびく大通りをクローズアップし、赤ん坊を抱いたまま道端に転がる母親、建物に突っ込んで炎上する車、その運転席で白目を剥き、泡を吹いてハンドルにもたれかかっているドライバーの姿を映し出す。(神よ……)と小さく呟かれた声は、カメラマンのものに違いなかった。
(信じられません、全滅です! サイド2、14バンチに住む約一千万の住民は、ひとり残らず死んでいます!)
アナウンサーの悲鳴が終わらないうちに、先刻に倍する強烈な閃光《せんこう》がスクリーンのひとつから発し、錯綜するビームの光条と爆発の光球、外装板を粉のように散らし、軌道を外れてゆくコロニーの映像が像を結んだ。円筒のそこここから炎を吹き上げ、虚空を滑り落ちるコロニーの行く手には地球があり、全長五十キロの巨体が重力の虜になった現実を伝えていた。
「あれ、〈ボルジャーノン〉……?」
落下するコロニーの周辺を飛び交う隻眼のモビルスーツを指して、ソシエが言う。「そうみたいだけど、あの数は……」とキエルが絶句したのも、手に手に火器を携えたモビルスーツの数は百を下らなかったからで、他にも数十隻の戦艦が浮かび、巨大なコロニーに砲撃を加えている光景は、その物量も残酷さも想像をはるかに超えていた。
〈ボルジャーノン〉たちが平然と見守る中、コロニーは地球の蒼茫に呑み込まれてゆき、鮮血に似た摩擦熱の光がスクリーンを埋めた。
そこで画面は切り替わり、気流の渦を裂いて地上に落下するコロニーの姿が、今度はビルの谷間から見上げる形で映し出された。直径七、八キロの円柱が、摩擦熱で真っ赤に灼熱しながら落ちてくるのだから、その情景は空全体が物質になって覆いかぶさってくるように見えた。コロニーはビルが林立する大都市の中央に円筒の先端を落着させ、ほとんど同時に巻き起こった爆発の閃光と衝撃波が周囲を圧した。ビルは紙切れ同然に吹き飛び、地面は数百メートルの深さまで抉り飛ばされて、十数キロ離れた場所から撮影しているらしいカメラも揺さぶった。刃の鋭さを持つ衝撃波が吹き抜け、噴《ふ》き上がった土砂が津波のごとく押し寄せてきたところで、映像は唐突にノイズに包まれた。
(シドニーに落下したコロニーは、オーストラリア大陸の三分の一に壊滅的な破壊をもたらしたものと思われます。また落下中に分離したコロニーの破片が、北米大陸の人口密集地帯を直撃したとの情報もあり……)
(え、嘘……!? し、失礼しました。たったいま入りました情報によると、死傷者の数は少なくとも三十億を下らないと……)
二週間戦争、ルウム戦役と続いた一連のジオン公国との戦争で、人類はその半数の人口を失いました。人はなぜここまで残酷になれるのでしょう。神は死んだのでしょうか……)
(地球連邦に生き残った国民すべてに、わたしは訴えたい。ジオンにはすでに兵はない! 艦もない、武器、弾薬にいたるもない! そのジオンに、なぜ降伏しなければならないのか。ジオンは地球からもっとも離れたサイドであるが、その彼らが宇宙の深淵を見たなどという戯言《ざれごと》を誰が信じようか。ジオン・ダイクンの語ったコントリズム、ニュータイプ待望論をねじ曲げ、独裁の道具に使ったザビ家一党こそが討つべき敵であり……)
(地球連邦に較べ、我がジオンの国力は三十分の一以下である。にもかかわらず、今日まで戦い抜いてこられたのはなぜか。諸君! 我がジオンの闘争が、絶対的な正義に支えられているからだ)
髭面の老将軍に続いて、黒い軍服に身を固め、銀髪をぴったりなでつけた男がスクリーンの中で熱弁をふるっていた。これほどの殺戮を前にして、正義を口にできる人の精神構造はどうなっているのか。ロランには理解できず、男の薄い唇が動くのを見つめることしかできなかった。
(宇宙に住む我々が、自由を要求してなんど連邦に踏みにじられたか。諸君の父も母も、この連邦の無思慮な抵抗の前に散っていったのだ。国民よ、悲しみを怒りに変えて、立てよ国民よ! 我らジオン公国国民こそ、選ばれた民であることを忘れないで欲しい。優良種たる我らこそが人類を救い得るのだ。ジーク・ジオン!)
唱和する人々の声がスピーカーを震わせ、心を震わせた。熱狂、妄信という名の波動。それに乗って〈ボルジャーノン〉タイプを始めとする数々のモビルスーツが宇宙を翔び、大地を駆けて、膨大な屍の山を築いてゆく。対する勢力が圧倒的な物量作戦で反撃に転じると、その闘争はほとんど終末戦争の様相を呈して、地球圈全体を戦火で包んでいった。
「あれは〈ターンA〉か……?」
ハリーのバイザーに、スラスターの尾をのばして飛翔する白いモビルスーツが映っていた。全体のシルエットは似ているが、頭部のフェイスガードが額に装備され、角に見えるところは〈ターンA〉と決定的に違う。〈ガンダム〉と呼ばれたモビルスーツだと直観して、ロランは白い機体の行方を追った。脚部のない大型モビルスーツと交戦するその姿はあまりにも素早く、すぐに画面から消えてしまった。
ひしめく宇宙艦隊、灼熱する資源小惑星。「終戦」「和平条約」といった言葉が切れ切れに聞こえたが、スクリーンに映る戦争の光景がやむことはなかった。地球圏という狭い空間に戦力を並べ、人間同士のあくなき陣取り合戦、覇権争いが続く。
(顧みよ! 今回の事件は、地球圈の平穏を夢想した一部の楽観論者が招いたのだ。デラーズ・フリートの決起などはその一例に過ぎない。我々の地球は、たえずさまざまな危機に曝《さら》されているのだ。地球、この人類共通の宝を守るために、我々ティターンズは起つのである!)
(ティターンズごとき私設軍隊の暴走を招いたのも、地球連邦政府がすでに弱体化、人を束ねる能力を失っていることの証左である。討つべきは連邦政府の軟弱な政府官僚、絶対民主主義の名のもとに隠れ、なにひとつ決定することのできぬ議員たちであろう。我々はジオンの残党と蔑《さげす》まれ、地球圈を追放されながらも、このアクシズにミネバ・ザビ殿下をいただく……)
禿頭の男、赤髪の女が喋《しゃべ》る横で、戦闘はいつ果てるともなく続く。数多のモピルスーツが宇宙を駆け、〈ガンダム〉に似た形のモビルスーツもまた、次々新しい機体が現れては戦火の中に飛び込んでゆく。より強く、より大きく、より複雑な機構を有した機体へ。まるで進化の形を間違えた恐竜のように。ジャングルを焼く核の華、地球に激突する小惑星の閃光が、それらグロテスクな巨人たちの姿を浮かび上がらせては消える。
(しかしその結果、地球連邦政府は増長し、連邦軍の内部は腐敗した。それがティターンズのようなシオニスト集団を生み、ザピ家の残党を騙《かた》るハマーン・カーンの跳梁ともなった。ここに至って、わたしは戦争の歴史をくり返さないために、地球圏の元凶である地球に居続ける人々を粛正する! これがネオジオンの闘争の目的である!)
赤い服を着た男がなにを言ったところで、闘争の歴史は終わらない。恐竜的進化を遂げたかに見えたモピルスーツたちは小型化に転じ、大規模破壊戦争は次第になりを潜めて、周辺環境に配慮した限定戦争が主流になってゆく。効率よく戦争をするために叡知を発揮しながら、戦争そのものをなくす努力はしない人間……。
(……コスモ・バビロニアの建国が、地球連邦政府に代わる高貴な精神性に則ってなされるものであることは、すでに理解されていると信じています。武力による解決などどこにもないということは、歴史が示している通りであります。しかし残念なことに、時に愚鈍なる者を恐れさせ、恭順させるためには、武力が有効な時もあるのです)
鉄仮面の異形に顔を隠した男が、拳を振り上げて叫んでいた。自分の顔も人前に示せない男が理想を語り、戦争を正当化する? ロランには信じられないことだった。
(私たちは、この宇宙にあっても同一種と認識しあえるのは、肉体の中に精神的な力が宿っているからです。現在の宇宙戦国時代は、まだこの環境に慣れていない人類が、認識しあいたいという衝動があるからこそ行っていることなのです。この自らを鍛える試練の時代をくぐり抜けて、学習を積み重ねれば、人は革新しましょう)
鉄仮面の男の時代からどれだけの時間が過ぎたのか、女王の威厳を持ちながらも、どこかやさしげな顔をした女がそう言い、人々の歓呼がそれに続いた。延々と続く虐殺の記録の中に生まれた、それはたったひとつの救いの萌芽に見えたが、女は次の瞬間には顔を曇らせ、(カガチ宰相がかねがね主張している、多すぎる人類を整理するという発想は、考え方としては認めましょう)と口にしてしまっていた。
女王のひと言が、再び巨大な兵器を生み出し、地球と宇宙の両方に夥《おびただ》しい流血を促《うなが》してゆく。胸部から背部に展張したスラスターが「V」の文字に見える、何世代目かの〈ガンダム)がその中を駆けていたが、それは〈|Victim《犠牲》〉という言葉をロランに思い出させた。
(ナノマシン文明がもたらしたもの、それは人類の類廃と、種族全体の去勢ではなかったか? ナノマシンに自壊を促すウィルスひとつを投入しただけで、赤子の手を捻るがごとく壊滅状況に陥った火星のコロニーを見よ。我々は今こそ人類という生物の原理原則に立ち返り、無意味な増殖を規制すべく……)
赤い荒涼とした大地に、崩れ去った砂の楼閣を思わせる建築物の残骸が並び、その合間に点々と肉の塊が落ちていた。一瞬のうちに空気を奪われ、薄い大気の下に放り出されて窒息した人々の姿。解体された肉の山が地平線まで続き、生々しいピンク色の肉塊を呆然と見上げたロランは、ふとキエルたちの父、ハイム社長の死にざまを思い出した。
黒く焼け焦げた肌の下に覗く、鮮やかなピンク色――。いったいこれはなんだ? なんのための犠牲、なんのための痛みなんだ? 突然、抗《あらが》いようのない感情の渦に巻き込まれて、ロランは泣いた。圧倒的な暴力の記録が神経を麻痺《まひ》させ、やめろと声を出すことも、目と耳を塞ぐこともできなくなった体が、とりあえず流した涙だった。月の緩慢な重力の中、溢《あふ》れる雫は落ちもせずに目の縁に溜まり、後から後から噴《ふ》きこぼれて、ロランの視界を滲ませ続けた。
「ひどい……」と呻いたソシエも、目に涙の膜を浮かべていた。グエンも、キエルも、アグリッパも、ただ蒼白な顔を破壊の光景に向けるばかりだった。一同の頭上でスクリーンはひとつ、またひとつと消えてゆき、最後にひときわ巨大なスクリーンが現れて、軌道上からも破壊跡が窺《うかが》える地球の映像を大映しにした。
いつの時代のものだろう。宇宙世紀と呼ばれた時代は忘却の彼方に過ぎ去り、いくつもの年号が現れては消えて、荒廃の一語で地球圈の状態が示せるようになった頃。黒ずんだ海と、赤茶けた陸地ばかりが目立つ地球の一画で、光り輝く大樹が大気上層まで梢をのばし、黄金色の葉を四方に散らせている姿があった。
梢の上にはザックトレーガーのドックがあり、長大なケーブルに繋がれて宇宙に引き上げられた樽からは、大樹と同じ輝きを持つ粉が飛沫のように尾を引いていた。散布された命の種――地球に治癒を促すナノマシンが、太陽光を反射してきらめいているのだった。
ザックトレーガーの回転力を利用して蒔かれた大量のナノマシンが、光の柱になって地上に降り注ぎ、大気に乗って地球全体をあまねく包んでゆく。旧世界を終わらせ、現在という時代《とき》を開いた始まりの樹=B絶望的な破壊の末に、人類がたったひとつ地球に施した善行――。ラ、ラ……という歌声が脳裏に弾け、それは今までになく強い響きになって、ロランに遠い少女の声を聞かせた。
――ああ……時が見える……。
「このようなことのために死んでいった人たちの数は、千億にもなりましょう……」
すぐ近くに聞こえた肉声が、遊離しかけたロランの意識を現実に引き戻した。一同の背後に立ち、スクリーンを見上げるディアナの姿が、始まりの樹≠フ輝きを浴びて黄金色に染まっていた。
目を伏せ、もう十分というふうに顔もうつむけてから、ゆっくり部屋の中央に進み出る。永く封印してきた歴史の恥部を開陳し、その痛みと重みを背負って歩き続ける女王の横顔を前に、ロランにできたのは道を開けて通すことだけだった。
「お陰で人口は激減して、地球は再び天国のように暮らせる星になりました。あなたがた地球の民はそれを忘れ、西暦と正歴を繋いで緩やかに再生の時を紡いできました」
ホログラフィの前に立ち、グエンを振り返ったディアナは、続いてアグリッパに視線を移した。「そして宇宙移民者《スペースノイド》の末裔である私たちムーンレィスは、この月で刻苦の歴史を築きながら地球に帰還できる日を待ったのです。それがどれほど永い年月であったことか……。にもかかわらず、我々はまた同じ過ちをくり返そうとしている!」
昂《たかぶ》るディアナに感応したのか、ホログラフィがひときわ激しい光を宿し、始まりの樹≠フ映像を消し去ると、代わりに現れたのは先刻と同じ無数のスクリーンだった。頭上に開いたいくつもの窓が一斉に地球を映し、それぞれがクローズアップを開始して、北アメリアと思われる大陸の鳥瞰図を描き出していった。
過去、地球の軌道上を巡っていたという監視衛星の映像のようだった。地球帰還作戦の初期に運用が試みられたが、失われて久しい技術の産物だったために修復ができず、結局使われなかったと聞く。いつの時代の記録かと考える間もなく、監視衛星の映像は高度数百キロから数十キロ、数千メートルまで地上に近づき、森の木々や建物の形が判別できる位置で固定された。複数の土地を映し出すスクリーンのひとつに、山間の盆地に広がる街の映像を見つけたロランは、思わず声をあげそうになった。
街の中央に聳える塔が、新聞で見たフロリャ領の首都、ミャーニにある記念塔と重なったからだ。「あれ……!」と指さしたソシエも目を見開いたが、その時には強烈な白い閃光がスクリーンを塗り潰し、ノイズの嵐が映像を塞いでいた。いったん消え、再び回復した監視衛星のレンズが次に捉えたのは、高度八十キロから見下ろすフロリャ半島と、半島の一画に咲いた巨大なキノコ雲だった。
核攻撃――その言葉が混沌とした頭から捻り出されるまでに、別のスクリーンにうっすら雪化粧をした草原が映った。ぽつぽつと点在するU字型の簡易住居、長大なフェンスの筋に取り囲まれたそこは、ノックス近郊に仮設されたムーンレィス居留地だった。この時期にイングレッサに雪が降るとは思えず、スクリーンに目を凝らしたロランは、すぐにそれが雪ではないことに気づかされた。
畑の周囲で雪をかぶっているなにかの膨らみ――収穫物の束かと思われたそれらは、すべて人の死骸だった。子供を抱きかかえてうずくまった母親、住居の入口にもたれかかって動かない老人、バケツに頭を突っ込み、そのまま息絶えた若い男。数千年前、スペースコロニーや火星の都市を襲った虐殺とそっくり同じ光景が、雪に似た死の粉に埋もれて居留地を覆っていた。
隣のスクリーンは森林地帯に墜落、炎上する〈アルマイヤー〉級の残骸を映しており、別のスクリーンの中では〈ソレイユ〉が四方に火線を張っている。その下で爆発のキノコ雲を噴き上がらせるのは〈カプル〉。片足を失い、地上に擱座《かくざ》したところを数機の〈ボルジャーノン〉に袋叩きにされているのは〈ウォドム〉だ。〈ソレイユ〉のメガ粒子砲が大地を抉り、装甲車部隊を一瞬に蒸発させる一方、腹に大量のボンベを背負ったヒップヘビーが〈アルマイヤー〉級に特攻を仕掛ける。艦尾モビルスーツデッキに直撃を受けて間もなく、〈アルマイヤー〉級が徐々に高度を落とし始めたのは、ボンベ内の致死性ガスがクルーを悶死させたからか、あるいは高性能火薬が艦内を焼いたからか。もうなにも考えられず、ロランは今この瞬間の地球のありようを伝える映像を見つめ続けた。
わずか半年で近代戦への進化を遂げてしまった、周到で凄惨な戦争の光景――。おそらくはソレル一族が意図的に封印してきた監視衛星を復活させ、一同に現実を示したディアナの瞳は、うちから溢れる怒りを湛えて震えていた。「……グエン卿」と呼びかけた声は、悲しみを引きずってビジュアル・データ室の薄闇に響いた。
「以前あなたは、なぜムーンレィスが文明の灯を絶やさずにきたのかとお尋ねになった。科学文明が悪であるなら、痕跡を残らず抹消してしまえばよかったではないか、と。文明の力を借りなければ、月で人が生きてゆくことはできなかったから……というのが最大の理由ですが、他にも理由はあると私は申しました。
これがその答えです。辛すぎる記憶は、たしかに人から立ち直る力を奪います。しかしこのように悲惨な歴史があった、その事実を伝えていかなければ、人は何度でも同じ過ちを犯すのです。だから、記憶を失って治癒に専念していられる間はいい。けれど地球が復活の兆しを見せ、人が再び物質文明の戸口に立った時は、この惨憺たる記録の数々が自制を促し、暴走を食い止める楔になればよいと……。そう願って、私の父祖は『冬の城』に可能な限りのデータを残しました。そしてムーンレィスの生存と、データの維持に必要最低限な科学技術の存続を許したのです」
過去の地球を焼いた戦乱の光景が浮かび上がり、そこに現在の終末戦争の光景が並んで投影された。過去も現在も、主義も思潮も関係なく、いつかはともに歴史という名の地平に並び立つ無残な記録だった。スクリーンの光がグエンの額に浮き出た脂汗を浮かび上がらせ、「よく見なさい」と重ねられたディアナの怒声が、その体を小さく震わせた。
「これを見ても、まだ月の科学技術が欲しいと言うか、グエン・サード・ラインフォード! これが人の、生物のありようと知っても、まだ死を遺棄して認識だけの存在を増殖させたいと願うか、アグリッパ・メンテナー! 答えよ!」
ディアナの怒りが波動になってビジュアル・データ室を揺るがすと、だしぬけにホログラフィが停止し、すべてのスクリーンが消えた。再び戻った薄闇と静寂は以前よりも濃く、なにも言えず、身じろぎひとつできない人々の上に覆いかぶさっていった。
「……人類は、真なるニュータイプに変革して外宇宙に進出したというデータもございます」
長い沈黙の後、薄闇の中から立ち上がったのはアグリッパの声だった。赤い目がまっすぐディアナを見据え、ディアナの青い瞳が闇に溶け込む長身を見返した。
「我らが、それら変革した人々から取り残された棄民であるなら、人類発祥の地である地球圈で永遠不滅の認識を獲得し、人類の存在を発信し続ける義務がありましょう。我々ムーンレィスは、その術を手に入れつつある。旧世界の科学文明を継承しながら、二千年間、完全平和を維持できたことがなによりの証明です。それを存続、発展させるためには、地球帰還を一義とするディアナ体制は不要と判断いたしました」
不要≠フ一語に、それまでの叛乱行為すべてを認め、なお正当化する傲岸さを滲ませて、アグリッパは言い放った。「それで、帰還作戦を黙認した上で刺客を送り込んだのですか」と応じたディアナの声は、怒りを孕んで不気味なほど冷静に聞こえた。
「百五十年前の地球調査旅行以来、あなたは変わってしまわれた。無益な情動に取り憑かれ、いたずらに帰還作戦を急ぐょうになられた。地球には、人の血を騒がせる魔的なエナジーがあるのです。そのょうな場所に、そのような女王に率いられて移民すれば、二千年守り通してきた平穏が脅《おびや》かされるのは必定。現にあなたは、旧世界の文明を滅ぼした〈ターンAガンダム〉を連れて月に戻ってきた」
最後の言葉は、ディアナとともにロランにも向けられていた。狂気とも憎悪ともつかない色が赤い瞳に澱み、思わずあとずさりそうになったロランは、「データはどこまでいってもデータです」と断言したディアナの声に支えられ、その場に踏み留まった。
「人類が外宇宙に進出したという話も、〈ターンAガンダム〉が地球に残った文明を滅ぼしたという話も。あなたは自分の目でそれを見たのですか?」
微かに揺れた薄い眉が、唯一の反応だった。一同の視線がアグリッパに注がれ、二千年の齢を重ねたという男の返答を待ったが、漆黒の面はディアナに向けられたきり、なにも語ろうとはしなかった。背後に控えるミドガルドが「……おかしなことを申される」と苦笑混じりに応じたが、それさえも聞こえていない様子だった。
「アグリッパ様が、二千年以上の長寿を誇ってムーンレィスの歴史を見てきたことは、ディアナ様もご存じのはず。他の者ならいざしらず、アグリッパ様に限っては……」
「嘘です。他の者はごまかせても、私の目はごまかされません。そこにいるアグリッパ・メンテナーは、せいぜい百年と少ししか生きていない」
ミドガルドの顔が苦笑を張りつかせたままなのは、あまりにも意外な言葉がすぐには脳に伝わらなかったからだろう。一同の驚きがざわと空気を揺らしたが、ロランは平静に事実を受け止めた。むしろどこかでそれを予期していた自分を不思議に思い、意味のない居心地の悪さを感じていた。
「たしかに、アグリッパ・メンテナーという男は二千年前にはすでに存在していました。しかしそれは、そこにいるアグリッパとはまったくの別人。アグリッパはひとりの人間ではなく、代々そのような顔に整形された者が世襲をして、ひとりの人間であるかのごとく振る舞っていただけ。ソレル家の統治体制に反発する者たちの受け皿として、一部のムーンレィスが作り出した虚像に過ぎません」
「バカな……! アグリッパ様の赤い瞳は、過去の戦乱を目撃してきたために……」
「ひとつ強烈な印象を与える個性があれば、人はその他の微妙な差異を忘れてくれます。あなたは秘書に登用されてまだ間もないようですね? 私の言葉を疑うのであれば、『白の宮殿』の奥の院に巣くう医務官たちに聞いてみるとよい。あなたの命と引き替えに、真実を教えてくれるでしょう」
数歩あとずさったミドガルドの口が震え、泣き出しそうな目がアグリッパに向けられたものの、彼の主人は否定も肯定もしようとはしなかった。表情のない顔は変わらずディアナに向けられたまま、虚ろになった赤い瞳はなにも映していないようにロランには見えた。
ミドガルドの目に絶望の色が差し、土気色の顔が頬を痙攣させると、糸が切れた操り人形さながら、その痩身がぺたんと尻もちをついた。見ているのが辛くなり、ロランは顔を背けた。
「クローニングやナノマシンの力を借りれば、肉体を千年生き永らえさせることも決して不可能ではないでしょう。初代のアグリッパは、人の変革を信じてそれを実行しました。そして百五十年ばかりの時間を生きた後、発狂して自らの命を絶ったそうです」
虚脱した顔をうつむけるミドガルドの横で、アグリッパは微動だにせずディアナの言葉を受け止めていた。長い手足が、この時は哀れな道化の姿をロランに想像させた。
「永遠を手に入れたところで、人の精神は耐えられはしない。人類の拡大と増殖を願いながら、自分自身が人間の限界を示しているという皮肉。だから初代のアグリッパに仕えた人々は、それを隠すため、代々同じ顔を持つ者がアグリッパを演じ続けるシステムを構築した……」
その声にすでに怒りはなく、どうしようもない哀れみの音だけがあった。硬直したアグリッパを静かに見つめて、ディアナは最後に言っていた。
「あなたが何人目のアグリッパなのかは知りません。でもあなたは幸せ者です。私たちを地球に放逐するために陰謀を企て、お陰で生物が持つ闘争本能の喜びに浸れたのですから。そうでなければ、あなたもあと数年で発狂すると予測していたはずです」
徹頭徹尾、動かなかったアグリッパの肩がぶるりと震え、赤い瞳がゆっくり伏せられていった。人の拡大と増殖を願って智の王国を築こうとした月の管理人が、その野望と己自身の虚像を棄て去り、敗北を受け入れた瞬間だった。ロランは、長い腕をもてあましたようにだらりとぶら下げ、立ち尽くすアグリッパを見つめた。
ひどく惨めでありながら、とても人間臭い背中――。そこにはもう月の占有を目論んだ男の影はなく、ロランはハリーやソシエと戸惑う目を見交わした。あまりにも呆気ない幕切れが信じられなかったからだが、いくら考えたところで、この先、アグリッパが再び脅威になるという予感は持てなかった。
座り込んで動かないミドガルドが示す通り、主人の箔《はく》が剥がれればアグリッパに与《くみ》する者は総崩れになる。後は月に残存する兵力を結集して地球に戻り、アグリッバの後ろ楯を失ったフィル・アッカマンを降伏させれば、それで戦争は自動的に終結する。ディアナ・カウンターはいったん地球から撤退し、ムーンレィスと地球の民が平和に共存できる道を探して、一から地球帰還作戦をやり直せる――。
が、そうか? 変わらず全身を縛っている緊張の糸に、ロランは甘い想像を消してディアナの顔を見た。やはり厳しい表情を崩さないディアナの目は、ロランをすり抜けて背後に向けられていた。振り返ろうとした刹那、喉を鳴らす低い笑い声がわき起こり、ロランは反射的に身を硬くした。
断崖の上で微妙なバランスを保っている振り子を、おもしろ半分に揺らす響き。忘れていた不安を思い出させる笑い声だった。虚空に放散する笑い声は数秒続き、やがて「どうも、まいったな。これは」というグエンの声に結実した。
「女王の威光があるにしても、〈ウィルゲム〉一隻で月に殴り込みをかけるにしては、ディアナ閣下は妙に自信がおありのようだと気にはなっていたのですがね。まさかこういう形で決着がつくとは思わなかった。アグリッパ・メンテナーが張り子の虎だとわかれば、ムーンレィスはあなたに脆くしかないというわけだ」
芝居がかった口調で続けると、グエンは伏せていた目をディアナに向けた。「なにが言いたい?」と即座に反応したのは、ディアナではなくハリーだった。
「命そのものは未来を考えることはしない。おぞましい過去に萎縮しているムーンレィスの方々には、まずそれを理解してもらいたいと思いましてね」
ハリーを振り返ろうともせず、グエンはホログラフィを背にするディアナに一歩近づいた。微笑に固まった唇に、鋭い牙を蓄えたコヨーテの赤い口腔が重なったような気がして、ロランは動悸が早まるのを感じた。
「過去、悲惨な戦いの歴史があった。それは認めましょう。しかしわたしは歴史学者でも、哲学者でもない。事業家を志す者だ。人々が求めるものを作り与え、幸せであろうとする本能に忠実たらんとする者だ。約束通り、月の科学技術を引き渡していただきたい」
このビジュアル・データ室に入った時から――いや、そのずっと前からひそかに喉元に突きつけられていたナイフが、躊躇なく皮膚に食い込んできた感じだった。いつかはそうなると予期していても、実際に走った痛みがやわらぐものではなく、ロランはディアナと正対するグエンを見上げた。
見慣れた横顔が、今やはっきり「敵」に回った男のものとは信じられなかった。冗談でしょう? と出しかけた声が喉に張りつき、酸欠気味の魚のように口をぱくぱくさせたロランは、グエンの傍らにすっと寄り添った人の影を見て、足もとの床がぐらりと傾くのを知覚した。
キエルが、グエンに並んで背筋をのばしたのだった。その目には明らかな反抗の色があり、近親憎悪という言葉さえ思い出させて、自分と同じ顔を持つ月の女王を見据えていた。
「そのような歴史を経た後の地球なら、間違えずに済む文明の発達が行えるはずです」
ディアナと絡ませた視線を少しも逸らさず、キエルは言った。そうするのが自分の義務だとでも言いたげな、こわ張った声音だった。ディアナの瞳が初めて動揺を露にし、血の気を失った頬がみるみる白くなっていった。
「その歴史は、ある程度の肉体の刻苦がなければ、人は精神を病むと教えています。今の地球には、暮らすに困らないだけのものがすべてそろっているはずです。私以上に私の心を語ってくれたキエルさんなら、そのことが……」
「あなたは、農作業の苛酷さを知らないからそう言える。流行病で赤子を亡くす親の心がわからないからそう言えるのです」
硬い壁を思わせるキエルの声に遮《さえぎ》られ、ディアナの口が悄然と閉じられるのがロランに伝わった。馬のピルグリムが死んだ時、ただ泣くことしかできなかったロランに、いつまでも悲しんでいてはだめと諭し、これが生き物のありようと教えてくれたキエル。その時と同じ声、同じ顔がそう言い、もはやどうしてという言葉も思いつけずにキエルを見つめたロランは、ちらと動いたその瞳が、ハリーの方に向けられたことに気づいた。
咎めるように細められた目は、次の瞬間にはグエンの顔色を窺い、すぐにディアナに戻された。ああ、キエルお嬢さんは自分で自分を騙そうとしている。そんな直感が頭を貫いたが、なぜそう思えたのかはわからず、大事ななにかがすり抜けてゆく喪失感だけがロランの胸を埋めた。
「科学文明が人の心を蝕む、過剰な長寿が生への恩恵を忘れさせる、すべてあなた方のデータです。高いところから地球を見下している者の理屈です。それこそ認識だけで生きている者の傲慢だと気づかないのですか?」
「その通り。わたしには、あなた方が『黒歴史』という炎を恐れる猿にしか見えないな」
グエンが続ける。過去の戦乱に呑み込まれた千億の無念、再生に託した百億の永い夜が、そのひと言で嗤《わら》われ、踏みにじられた。内奥から発した熱が腹を焦がしてこみ上げ、気がついた時には両の拳をきつく握りしめていたロランは、「違うっ! 違いますよ!」と全身を声にして叫んだ。
「そういうことも全部ふくめて、平和に生きてゆくことができなければ、人はまた絶滅寸前までいくんですよ! 『冬の城』の記憶が教えてくれていることって、そういうことでしょう!? 難しいことなんかなんにもないんですよ……!」
冷笑が消え、グエンの瞳が真摯な光を帯びたようだが、それだけだった。言葉になりきらない内奥の熱は虚しく薄闇に拡散し、「無駄だ、ロラン」という低い声が後に続いた。
振り向いた目に、ハリーの無表情が映った。右手には自動拳銃が握られ、鈍い光沢を宿す銃口はぴたりとグエンに据えられている。ロランが息を呑んだのと、「ハリー、いけません!」とディアナが叫んだのは同時だった。
「それでは私たちも旧世界の人類と同じ罪を犯します。餓鬼道に堕ちます!」
「ディアナ様は関知なさらぬよう。これは自分の勝手でいたすことです。許さぬとおっしゃるなら、後で処刑してくださってもかまいません」
微塵の気負いもない、やさしいとさえ思える声だった。動かない銃口の先でグエンがわずかに身じろぎし、かばうようにキエルがその前に立ち塞がる。それらの気配を背中に感じつつ、ロランは「ハリー大尉……」と小さく呟いた。
「わたしは、ディアナ様の理想に殉じると決めた男だ。それを妨げる者を排除し、ディアナ様のお心を平らかにできるのであれば……。たとえ地獄に堕ちようとも、後悔はない」
そう言った時、ハリーの目はロランを素通りしてキエルに向けられていた。グエンの前に立ち、一歩も退かないと言っているキエルの視線と、同じく誰にも動かせない銃口を向けたハリーの視線とが絡みあい、二人にしかわからない感情の火花を爆《は》ぜさせたかに見えたが、それもつかの間だった。「……やれやれ。女王の飼い犬の本領発揮だな? ハリー大尉」と割って入った声に、ハリーの目がキエルからグエンに移された。
「しかし、ひとつ大事なことを忘れてないか? 〈ウィルゲム〉の主砲は『白の宮殿』を照準しているんだぞ」
銃口が揺れ、ハリーの口から舌打ちが漏れた。彫像のごとく固まっていたアグリッパまでが顔を動かし、ロランも落とし穴を踏み抜いた思いでグエンを見つめた。全員の注視を受け止めたその顔は、涼やかな笑みの下に獰猛な本性を覗かせた何者かだった。
「今頃はミリシャ兵が行動を起こして、ムーンレィスの技師連中を拘束しているはずだ。わたしが帰らなかった場合、『白の宮殿』はもちろん、ゲンガナム全体が炎に包まれることになる。実地指導の甲斐あって、ビーム砲の扱いぐらいは習得できたのでね」
「嘘だ」
「なんなら試してみるか? 言っておくが、破壊されるのはゲンガナムだけでは済まないぞ。〈ウィルゲム〉が砲撃を始めると同時に、天井の運河にもぐり込んだ機械人形も行動を開始する。運河のあちこちで一斉に穴が開き、都市の空気が流出すればどうなるか。蛮族の頭でも、だいたい想像はつく」
ちらりと動いたグエンの瞳がこちらを見、運河のことを根掘り葉掘り質した時の好奇心いっぱいの目、その後、ミリシャのパイロットたちとなにごとか話していた時の隠微な目が、なんの違和感もなくそこに重なった。
整備用の防塵《ぼうじん》シートで機体を覆い、クジラの群れに紛れ込ませれば、モビルスーツを運河内に配置させるのは容易だった。科学文明に無限の可能性を信じる無邪気さも、理想実現のためには多少の流血もよしとする狡猾さも、グエンにとっては等質のものでしかない――。今さらながら理解した体からカが抜け、喋らされてしまった、故郷の人々を危地に追い込んでしまったという重い後悔が、ロランの心を塞いだ。
「これも文明の弊害のひとつかな? 科学技術に寄りかかりすぎたムーンレィスの社会は、脆《もろ》いんだよ。基本的にね」
グエンは笑っていた。ディアナの唇がぎゅっと噛み締められ、憂いに覆われた瞳がハリーを見た。顔を伏せ、一緒に銃口も下ろしたハリーの肩が小刻みに震えるのを見たロランは、「グエン・ラインフォード……」と低く呻いた。笑いを消したグエンの顔がもう一度こちらを向き、「そんな目で見るな、ローラ」と、打って変わった真摯な声が返ってきた。
「好きでやっていることじゃない。自衛手段というやつさ。ローラが〈ターンA〉に乗っているのと同じだ」
それは違う、という思いが胸の中で弾けたが、言葉にはならなかった。立ち尽くし、睨み据えるしかないロランに近づいたグエンは、「わたしと一緒に来てくれ」と重ね、両肩に手を置いた。
「〈ターンA〉の戦力が欲しいから言うんじゃない。君という人間が必要なんだ。新しい時代を開くために、わたしの右腕になってもらいたい。ローラにならそれができる」
初めて会った時から変わらない、舐めるような視線が肌を灼き、神経も灼いた。男が女を見る時の目。ロランではなく、ローラという、グエンの中で作られた幻想を欲している目。悔しさ、情けなさが不快感を押し退けて這い上がり、ロランはじわりと滲み始めた目でグエンを見上げた。
「……男が好きな男なら、スカートでも履けばいい」
肩に置かれた手のひらが感電したように震え、そのあと離れた。絶望に翳《かげ》ったグエンの顔は、溢れ出る雫に遮られてすぐにぼやけてしまい、ロランはたまらずに目を伏せた。
これで終わり。もう二度と、舐めるような視線が自分を見ることはない。遠ざかるグエンの靴音にそう思った時、「馬丁の言うことか!」と怒鳴ったキエルの声が静まり返ったビジュアル・データ室に響き、ロランは今度こそ涙を止められなくなった。
差別的な言葉も、ヒステリックな声の調子も。キエルお嬢さんはなにも見えなくなっている。自分でも抑制できないなにか、男には理解の及ばないなにかに支配されて、やさしさも、周囲を見る目も失ってしまっている。「……ねえ、ロラン。ここにはロランの求めるものはないわ。わかっているでしょう?」と、表面だけを取り繕ったキエルの声が流れて、ロランは目前に近づいたハイヒールをぼやけた視界に捉えた。
「あなたがいくら慕ったところで、ディアナ・ソレルには伝わらない。百五十年前にも、そうしてひとりの人間の運命を弄《もてあそ》んだのがディアナなのよ? 恋愛に生きられないで、理念だけで月と地球を往復しているディアナは、もう女ですらないのだから」
最後の言葉は、肌をひりつかせるほどの毒を含んでディアナに向けられていた。弱い重力に引かれ、ゆっくり落ちてゆく自分の涙を見ながら、ロランは「……キエルお嬢さん」と搾り出した。
「ぼくは、キエルお嬢さんが好きでした。ディアナ様に似ていたからじゃなく……ピルグリムが死んだ時、やさしい言葉をかけてくださったキエルお嬢さんが、好きでした……」
微かに息を呑む気配が伝わった後、あとずさるキエルのハイヒールが視界から消え、ロランはまたひとつ、大事なものを失ってしまったのだと知った。「残念だよ、ローラ」と言ったグエンの声が耳を打ち、絶望的な喪失感に拍車をかけた。
「そういうわけだ。シネマの上映が終わったのなら、わたしはこれで失礼する。……アグリッパ閣下、よければご一緒しませんか?」
乗馬にでも誘うような調子でグエンが言い、ロランはびしょびしょになった顔を上げた。ぎょっと振り返ったハリーとシドの向こうで、アグリッパは相変わらず立ち尽くすばかりだった。
「あなたが百歳だろうが千歳だろうが、そんなことはどうでもいい。先ほどの話はまだ生きています。ここにいる者が口を閉ざしている限り、あなたは依然、ディアナに次ぐムーンレィスの指導者だ。そしてディアナ・ソレルもこちらの手にある」
続けたグエンは、隣に立つキエルをちらと見遣った。髪型を変えればディアナそのものになる少女の顔を見、こちらの手にある、という言葉の意味を了解したらしいアグリッパは、ようやく凝固した体を動かす素振りをみせた。足もとで座り込んでいるミドガルドの顔にも、狐につままれたような表情が戻る。
「強制はしません」と付け加えて、グエンは歩き出した。キエルがその後に続く。ミドガルドは座り込んだままだったが、アグリッパが特に迷う様子もなく歩き出すと、慌てて腰を上げて出口に向かい始めた。ビジュアル・データ室から急速に人の気配が失せ、代わりに冷たい静寂が徐々に勢力を広げていった。
先刻からひと言も口を挟まずにいたシドも、背を向けて一同の後に続く。途中で立ち止まり、眼鏡ごしの視線をロランに寄越したが、そこにある感情を読み取る間もなく、しわくちゃの顔はすぐに前に戻された。重いため息をつき、疲れきったというふうに肩を落として、シドはドームの内壁にぽっかり開いた出口をくぐってゆく。隣に立つソシエが、なにも言わずにその背中を追おうとするのを見たロランは、「ソシエお嬢さん……」とかすれ気味の声を出した。
立ち止まりはしたものの、ソシエは日を合わそうとはしなかった。パフスリーブに包まれた肩が微かに震え、「ごめん、ロラン」という声がうつむいた後頭部から発した。
「あたし、今は早くここから出たいの」
それ以上の会話を拒む、硬く冷たい声だった。ロランが絶句している間に、ソシエは足早に出口に向かった。
低いハイヒールの靴音が次第に遠のき、ソシエは一度も振り返らずにビジュアル・データ室を出た。後には月の女王と、二人の親衛隊員だけが取り残され、押し潰されそうな静けさが「冬の城」の深奥に舞い降りた。
これまでにあった出来事――希望と絶望、喜びと悲しみ、やさしさと厳しさが表裏一体となり、渾然と進行していたすべての出来事が、最悪の方向に振り切れてしまった。なぜそうなったのか、どこで曲がり角を間違えたのか。一瞬のうちに手の中をすり抜けていったいくつもの絆を反擲して、ロランは自問した。グエンの舐めるような目、キエルの変節、ソシエの寂しげな背中。それぞれに思い当たる節はあっても、では自分になにができたのかという問いには解答がなく、折り重なった切なさの澱《おり》が胃を重くするばかりだった。
「協調するために時を経たというのに……。私たちは、それができなかった情けない人類ということなのでしょうね……」
ディアナの声はか細く、ホログラフィに手をついて座り込みそうな体を支えている姿は、今にも薄闇に呑み込まれてしまいそうだった。ムーンレィスが雌伏《しふく》し、地球の民が活性化する今日までの歴史を経て、人類がいつまでも愚鈍であるわけはない――かつてそう言いきった唇が、その時と正反対の絶望を口にしたとしても、今のロランには言うべき言葉がなかった。いっそう重みを増した切なさと向き合い、ディアナから目を逸《そ》らすしかなかった。
「〈カイラス・ギリ〉があります」
不意にハリーが口を開き、ロランは顔を上げた。
「あれを使ってグエンとアグリッパを焼き、地球に残った戦力も根こそぎ排除する。それしかありません」と続けたハリーの顔は平静で、いつもの折り目正しさでディアナを見つめている。聞き覚えのない、しかし無条件に胸を騒がせる〈カイラス・ギリ〉という言葉を胸中にくり返した途端、「いけません!」と悲鳴に近いディアナの声が発して、ロランは心臓を跳ね上がらせた。
「〈カイラス・ギリ〉を使えば、月と地球の両方に甚大な被害を与えます。人類の原罪を再現するつもりですか」
「では、どうすればいいのです!」
辛うじて感情を抑えていた皮がついに破けたような、激昂そのもののハリーの声が弾け、ディアナの体がわずかによろめいた。己の無様を恥じたのか、すぐに背中を向けたハリーの肩は、それでも隠しきれない怒りで小刻みに震えていた。
「グエン・ラインフォードの暴走を許し、アグリッパに月を明け渡すおつもりですか。それではディアナ様の理想は、ディアナ様を信じて戦い、死んでいった者たちはどうなるのです。豊かな地球の復活を信じて眠りについた、千五百万の同胞たちの想いは……!」
言った者も、聞く者も、ともに答えがないことをあらかじめ承知している設問だった。ハリーという絆までが離れてゆく予感に怯えながら、ロランは黙って黒い制服の背中を見つめた。
耳が痛くなるほどの静粛な空気が張り詰め、氷室で眠る千五百万の人々同様、いっさいの言葉を失った三人の心を冷たく凍らせていった。
[#ここから9字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
日が落ちると、闇と一緒に舞い降りた冷気がベイトンルージュの荒野を覆い、吹きつける風が、重ね着したセーターとコートの上からも体温を奪うようにした。頭上には満天の星空があり、荒涼とした大地に佇む巨岩群の輪郭をくっきり描き出していたが、清冽な星々の輝きはあまりにも冷たく、空を見上げる者は誰もなかった。
昨日の昼過ぎからほとんど進まなくなり、今朝には完全に動かなくなった自動車と馬車の隊列は、今は氷結した川のように闇の中に沈んでいる。道沿いではいくつもの焚き火が瞬《またた》いていたが、延々と連なる車の放列を照らし出すには至らず、それぞれの焚き火を囲む男たち、女たちの疲れきった顔ばかりが、橙色の光を浴びて亡霊のごとく浮かび上がっていた。
ウィスキーを注いだブリキのカップを片手に、キースもその輪の中にいた。隣にはベルレーヌがおり、工場で唯一焼け残った長テーブルの脚が、今度こそ炭になるのをぼんやり見つめている。枯れ木の一本も落ちていない荒野では、薪もめいめいの荷物から持ち寄るしかなく、中には馬車の底板を剥がして持ってきた者もいる。ベイトンルージュの横断は長く見積もっても一昼夜の行程だから、ただでさえ家財道具を満載している車に、ひと晩分以上の薪を載せなかったのは誰もが同じだった。
とうの昔にエリゾナ領に到着しているはずが、荒野の真っ只中で二晩を過ごす羽目になった。一向に酔う気配のない体が疎ましく、空になったカップにウィスキーを注ぎ足そうとしたキースは、明日たどり着けるという保証はどこにもないと思い直して、懐にやりかけた手を止めた。あとどれだけここに足止めされるかわからないのであれば、酒は暖を取る手段として温存しておかなければならない。代わりにベルレーヌの肩をしっかりと抱いたキースは、「エリゾナは領境を封鎖したって話だ」と誰かが呟くのを、焚き火が爆ぜる音の中に聞いた。
「難民にどかっと押し寄せられちゃかなわねえってんでな。追い返された連中が逆流してくるから、当分は動けねえぜ、おれたち」
「じゃ、引き返した方がいいか?」
「ミャーニは全滅したんだぜ。進めるところまで進んだ方が利口ってもんだ」
「フロリャ領の首都がか? 爆弾はマウンテン・サイクルとかを狙ったんだろう?」
「巻き添えを食ったんだよ。骨まで溶かす毒の爆弾≠フ威力ってやつさ。海岸の方に逃げた連中も、毒の灰でばたばた死んでるっていう噂だ」
「ミリシャはどうなんだ。ムーンレィスの居留地に毒の粉をばらまいたんじゃなかったのか?」
「主力はオールトンの城に後退したらしい。ミハエルとかって指揮官、籠城戦《ろうじょうせん》を考えてんじゃねえか?」
「ムーンレィスが本気でかかってくりゃ勝ち目はねえよ。よくて相討ちってところだ」
「そりゃいい。両方ともぶっ潰れちまえば、戦争も終わる」
怒りも絶望も、度を越すと自嘲するしかないといった苦笑が一同の口から漏れ、焚き火の炎をわずかに揺らした。ラジオはミリシャに都合のいいニュースしか流さないが、死活に関わる問題に対しては、人は驚くべき嗅覚を発揮することがある。実際、キースも今朝、ミャーニが核攻撃を受けた証拠を自分の目で確かめていた。
東から昇る太陽の光とは別に、西の空に発した閃光。地平線を縁取る山の稜線を浮かび上がらせ、すぐに消えたその輝きは、数分後に大地を揺さぶる震動を連れてきた。ミャーニが消滅しただろうことはその時すでにわかっていたが、キースは自分の胸に収めて、周囲が推測を並べ立てても黙って聞くのに留めておいた。
下手に言質を取られ、ムーンレィスだと露見しようものなら、自分ばかりかベルレーヌの身も危うくなるというのがひとつ。風向きが変わって放射能塵が流れてくれば、ここにいる全員が被爆を免れないというのがひとつ。対策がないなら心配をかけても仕方がないと、キースはベルレーヌにも無言を貫いていた。
トラックを捨て、徒歩で岩場地帯を突破する手も考えたのだが、そうしてルジャーナ領内のどこかの町にたどり着いたとしても、そこが戦場になってしまえば逃げてきた意味もなくなる。安全なのは戦略的に無意味な場所――まだ旧世界の戦争の傷痕が癒えきらない、このベイトンルージュのような人の住めない土地で、当分はここで頑張るしかないとキースは判断していた。
もっとも、核兵器と化学兵器の応酬が本格化し、地球上から人の住める場所を削り取ってゆけば、いくら踏んばったところで先行きの見通しは立たない。死ぬのが遅いか早いか、それだけの違いにしかならないのだが……。
「ね、あれフランじゃない?」
疲れでかすれたベルレーヌの声が耳元に発し、キースは暗い物思いを中断した。振り返った目に、十メートルほど離れた場所にある別の焚き火と、その横を通りかかり、炎の照り返しで一瞬だけ浮かび上がった小柄な背中が見え、手にしたカップを思わず取り落としそうになった。
「なにやってんだ、あいつ……」と呻いた時には立ち上がり、キースはフラン・ドールの後を追って走り出していた。片手に旅行鞄をぶら下げ、ひとり来た道を戻ってゆく背中は間違いない。昨日、人づてに聞いたところでは、ノックス・クロニクルは三日前にミャーニを引き上げたという話だったから、フィアンセともども、とうの昔にエリゾナに逃げ込んだものと安心していた。それがなぜひとりでこんな場所にいるのか、なぜフロリャ方面に引き返す道を歩いているのか。「フラン!」と大声で呼びかけて、キースは星空に吸い込まれてしまいそうな背中に追いついた。
いくら呼んでもフランは振り向こうとせず、肩をつかんでこちらを向かせると、表情のない虚ろな目がキースの頭からつま先までを行き来し、それからやっと「キース……」と、半分夢を見ているような声が返ってきた。転んで打ちつけたのか、土で汚れた顔にはすり傷があり、コートもぼろぼろのありさまで、肩口は大きく破れて袖が外れそうになっている。息を呑み、肩から手を離したキースは、破れ目から覗く素肌に痂《かさぶた》が張りついていることに気づいて、もういちど絶句させられていた。
「フラン……」と口に手を当てたきり、ベルレーヌも言葉を失っている。二人の顔を交互に眺めたのも数秒、鞄を反対側の手に持ち直し、帽子の位置を正したフランは、「あたし、戻らなきゃ」と呟いて背を向けた。泥で真っ黒になった靴が一歩を踏み出し、地面から突き出た岩に引っかかりそうになりながらも、再び悪路をたどり始める。キースは慌てて追いすがった。
「戻るって、どこへ」
「ミャーニよ。ラリーが待ってるんだから」
近所に出かける口調で答えたフランの顔は、地平線の先を見据えて動かなかった。以前、フランが初めて書いた記事に連名で載っていた先輩記者、ラリー・ブリグマンの名前が瞼の裏に浮かび、ことあるごとに「ラリーが……」と口にしていたフランの声が思い出されて、キースはベルレーヌと顔を見合わせた。フランのお腹にいる赤ん坊の父親が、まだミャーニに残っていた……。
「すぐに追いつくって言ってたのに……。こんなに待っても来ないなんて、変だもの」
そう続けて、フランはまた歩き始めた。百キロ以上離れたエリゾナからどうやってここまで来たのか、その倍近い距離があるミャーニまでこのまま歩き続けるつもりなのか、わからなかったし、考えたくもなかった。こみ上げる感情が声を震わせるのを自覚しつつ、キースは「待てよ」とフランの二の腕をつかんだ。
「な、フラン。昨日の夜、山の向こうが光ったの見たろ? 今は行っちゃダメだ。風向きが変われば、ここだって危ないぐらいなんだ」
正面に回り、両肩をしっかり抱いて、キースはフランの虚ろな瞳を覗き込んだ。弛緩した頬はなんの表情も示さず、昏《くら》い目はキースの視線を避けて左右にうろうろ動き、「……放して」という消え人りそうな声が紡がれた。
「しっかりしろ! わかるだろう? ミャーニは核攻撃されたんだよ。誰も生き残っちゃいないんだ」
「そんなはずないわ! あたし、ラリーと約束したんだもの。絶対に危ないことはしないって。すぐに追いつくって。ラリーがあたしとの約束を破るはずないわ」
その時だけは目を合わせて言いきったフランは、必死に無視しようとしている現実をキースの瞳の中に見つけたのか、慌てて視線を逸らした。「放してよ……!」と怒鳴り、手を振りほどこうともがくフランに頬を打たれたキースは、それでも肩をつかむ腕の力を緩めなかった。「よさないかっ!」と腹の底から声を出し、その勢いでフランの体全体を抱きしめた。
「お腹の子が汚れた空気を吸っちまったらどうする気だ! もうおまえひとりの体じゃないんだろうが……!」
脇腹にかかったフランの腕の力が不意に萎え、だらりと下がってゆく気配が伝わった。膝もがっくりと折れ、急に重くなったフランに引きずられて腰を落としたキースは、自分も地面に膝をつきながらフランの顔を見た。虚ろだった瞳に感情のゆらめきが戻り、それはすぐに涙に結晶して、フランの汚れた頬を洗い始めた。
「………ミャーニの宝石店に指輪を直させてるから、それを受け取ってから追いかけるって……。指輪のサイズが違ってて、あたし、我慢できるくらいだからいいって言ったのに、ラリーは……」
後は、言葉にならなかった。そのまま冷たい地面にうずくまり、フランは声をあげて泣いた。白い指が地面を抉り、乾いた砂をつかんだ拳を震わせて、いちばん大事なものを喪くした者の慟哭を荒野に響き渡らせた。
嗚咽を噛み殺すベルレーヌを背後に感じながら、キースは泣かなかった。腹の中で煮えたぎる熱が、流れるべき涙を蒸発させてしまったようだった。あと何人殺せば気が済むのか。あと何回胸を裂く悲痛な声を聞かなければならないのか。岩の狭間に映える青白い月を見上げて、キースは魂の奥底に絶叫した。
もうたくさんだ。こんなくだらないことは、早く終わりにしてくれ。
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宇宙港を発して、十分と少し。月の首都・ゲンガナムははるか下方に遠ざかり、大小さまざまなクレーターに紛れて、すでに判別できなくなっていた。わずかに作用していた月の引力も感じられなくなり、〈ウィルゲム〉のブリッジは引き止めるなにものもない無重力だった。
遠い太陽の光が、緩やかな弧を描く月の地平線を暗黒に浮き立たせている。|銀の縫い目《シルバーステッチ》はそれを両断する形で縦に走っており、〈ウィルゲム〉が赤道に沿って航行していることを教えていた。あと数分もすれば月の裏側を抜けて、地平線の向こうに地球が見えてくるだろう。シルパーステッチの周囲に散らばり、次第に高度を上げつつある無数の光点たちにしても、その事情は同じだった。
月面を雲のように覆《おお》い、〈ウィルゲム〉に追随して移動する無数の光点。それらはすべて、ディアナ・カウンターの艦艇が灯す航海灯の輝きだ。〈ソレイユ〉級の母艦を中心に、〈アルマイヤー〉級や、〈ジャンダルム〉級の戦艦五隻によって構成される艦隊が三十以上。総計二百隻に達する艦艇が月面各地を発し、隊列を形成して、〈ウィルゲム〉を申心に集結しようとしているのだった。
戒厳令下で緊急発進に備えていたとはいえ、短時間でこれだけの戦力が出揃ったのは、女王の直接命令がいかに重く受け止められているかの如実な証拠と言えた。もう、後戻りはできない――「冬の城」から〈ウィルゲム〉に戻るまでの道すがら、何度も胸に唱えてきた言葉をくり返して、キエルはマイクのスイッチを入れた。
「勇敢なる前衛、ディアナ・カウンター全将兵に告げる。私はディアナ・ソレルです」
ブリッジの床に設置された立体映像投射装置《ホログラフィ》が作動し、キエルの立体映像《ホログラム》が宇宙の常闇に投射される。〈ウィルゲム〉に乗り込んだアグリッパが、引き連れてきた配下たちに急場で設置させたものだ。ディアナの制服に身を包み、ディアナと同じ色のルージュをひいたキエルの姿が、直径数千メートルの幻影になって虚空に結実する。それはディアナ・ソレルその人と認知されて、全艦艇に観測されているはずだった。
「現在、地球の親善大使、グエン・サード・ラインフォード卿の好意に甘えて、地球の戦艦〈ウィルゲム〉に座乗しております。いま地球でなにが起こっているかは、すでに周知のことでありましょう。地球の占有を目論むフィル・アッカマン少佐が、私を放逐し、第一次降下部隊を私物化して、地球の軍隊であるミリシャと無益な闘争を続けているのです。地球に眠る過去の兵器を発掘、運用して行われる戦闘は、再生したばかりの大地を容赦なく傷つけ、地球を再び人の住めない惑星にしてしまうかもしれない、と危惧させるレベルにまで達しています」
あまりにも巨大なホログラムは、投射側からはぼんやりした光の膜にしか見えず、キエルは内心ほっとしていた。拡大された自分の顔が宇宙に浮かび上がるところなど、見たくないし見せたくもないと思う。特にグエンには……と続けて考え、キエルは一瞬だけ動かした瞳でその姿を捜した。アグリッパとミドガルドを左右に従え、腕を組んで窓外の月を見つめているグエンは、難しい交渉の時に見せる精悍な顔つきだった。
「私は、フィル少佐を背後で操る人物がアグリッパ・メンテナー卿であると信じさせられ、グエン卿の協力を得て月に戻ってまいりました。しかしアグリッパ卿と会談した結果、それらはすべてフィル少佐が捏造した周到な嘘、まったくの事実無根であったと判明しました。アグリッパ卿が私の暗殺を企図したという事実はありません。むしろ私の留守をよく守り、月の管理人の務めを実直に果たしてくれています。今後もムーンレィスの長老として、私のよき相談役を務めてくださるでしょう。
すべてはフィル少佐と、少佐と結託する一部の執政官が企てたことなのです。私はこれより全艦隊を率いて地球に向かい、フィル少佐の悪しき行動を正します。が、それは単に叛乱部隊の鎮圧を意味するのではありません。地球側にも、我々の帰還を認めようとせず、いたずらに戦禍を拡大する者たちがおります。彼ら頑迷なる者たちには、力をもってしてでも歴史の真実を教え論す。それがディアナ・カウンターの任務であり、今回の出征の真の目的です。
幸い、私はグエン卿という聡明かつ勇敢な協力者を得ることができました。旧来の封建的制度をあらため、グエン卿のような人物を中心とする民主社会が構築できれば、地球の体質もまた変わるでしょう。二千年をはるかに超える時間を経て、地球はもとの青さを取り戻し、私たち人類も十分に罪を贖いました。これから第二の人類の繁栄が始まるのです。旧世界の失敗を反面教師として、我々は今度こそ永遠の理想郷を地球圏に構築してゆくことでしょう。
無論、その道は平坦ではありません。旧態依然とした封建制度にしがみつく者たち、旧人類の闘争本能を復活させた者たちは、抵抗をあきらめず、あくまで流血による解決を求めるでしょう。しかし彼らが人類の繁栄を阻む障害である限り、我々はたとえ同胞であっても打ち破ることをためらってはなりません。その血を浴びることを恐れてはなりません。これは人類が真に復興を為し遂げるための聖戦なのです。
ゆえに、文明の守人、ムーンレィスの女王として命じます。人類の発展を阻むものは、ミリシャであれディアナ・カウンターであれ、これを排除する。全艦、地球へ向けて発進!」
ディアナらしく右手を差し出し、下令したキエルのホログラムに応じて、すべての艦艇が標識電波《サイン・ウェーブ》を明滅させる。我、女王に永遠の忠誠を誓う――そう告げるサイン・ウェーブの嵐は、キエルには満場の歓呼と拍手に感じられた。
ホログラムが消え、グエンの拍手が乾いた音をブリッジに響かせた。アグリッパがそれに続き、ミドガルドがためらいがちに追従すると、それぞれのコンソールを前にするブリッジ要員たちも手を叩き始める。地球から連れてきたムーンレィス技師は全員拘束してあるので、ここにはミリシャの兵士と、アグリッパの配下たちしかいない。ホレスらに代わって舵を取る彼らは、自分が本物のディアナでないことはわかっているのだろうが、アグリッパがグエンの犬に成り下がっている事実には気づいていないのだろう。
アグリッパが認めるディアナの代役――キエルが語った言葉だけが彼らの真実になり、自分を本物のディアナだと信じている何万、何十万の将兵たちにしても、それは変わらない。もう一度、今度は自分の意志でディアナを演じると決めた途端、立て板に水の滑らかさで出てきた今の言葉はなんだったのか。拍手の渦にさらされながら、キエルは靄《もや》の底にかすんだ自分の心をまさぐってみた。
そうすべきと堅く信じているから……という結論にまず突き当たり、しかしそれはディアナへの対抗意識が作り出した思い込み、強迫観念に過ぎないのではないかという疑問符が後に続いて、最後に、グエンの役に立ちたいからそうするのだ、という単純明快な解答が靄の底から浮上してきた。「愛されたい」と同義語の「役に立ちたい」。愛し、愛されなければ、今の自分はあまりにも寂しすぎると感じている心が、自らを守るために言わせた言葉。ひもとけばそんな個人的な感情に裏打ちされて、私はディアナを演じ、人類の命運を決するような言葉を吐いてしまったのか……?
不意に目の前に差し出された手のひらが、そこから先の思考を中断した。枯れ木を思わせる長い腕をのばして、アグリッパの赤い瞳がキエルの視界を塞いでいた。
「他意はありません。ぜひお手を握らせていただきたい。あなたこそ、我らにとって真に必要な女王であるとわかったのです」
そう言うアグリッパの瞳はいつになく寡黙で、真実、感銘しているようにもみえたが、奇妙に細長い五本の指は同じ人間のものとは思えなかった。「……ありがとう」とどうにか返して、キエルは蜘蛛を連想させるアグリッパの手のひらを握った。予想通り、冷たく乾いた手のひらだった。
グエンは、「結構。おおいに結構」と言うばかりで、こちらに近づいてくる様子もない。予想外の冷淡さにひやりとさせられたが、その時には「グエン殿」と振り返ったアグリッパの背中に遮られて、キエルはグエンの表情を見失ってしまっていた。
「全軍に月と地球の協調を示すためにも、この〈ウィルゲム〉を女王の座乗艦にするという貴殿の意向には賛成だが、装備、性能ともいささか心もとない。〈ジャンダルム〉級の戦艦四隻を直掩《ちょくえん》につけたく思うが?」
やや興奮しているとも取れるアグリッパの声にも、グエンは「いいでしょう」と冷静に答えるのみだった。
「艦載モビルスーツも、パイロットともども入れ替えた方がよい。月面防衛の主力である〈マヒロー〉タイプは、攻守ともにバランスの取れた機体。地球で発掘されたものよりは頼りになる」
「頼みます。ただし艦とパイロットの人選はこちらにお任せいただきたい」
僧衣に似た臙脂色の衣服の下で、アグリッパの痩身が一瞬硬直するのが伝わった。見え透いたなりゆきだったので、キエルは驚く気にもなれずにアグリッパの背中を見つめた。
「閣下を信用していないわけではありません。ただ、これから生死をともにする方々の名前と経歴は、あるていど順に入れておきたい。人事のデータを回していただけるとありがたいのですが」
グエンが涼しい顔で付け足す。周辺をシンパの艦隊で固め、艦内には配下の刺客を忍ばせて、〈ウィルゲム〉の指揮権掌握を狙う。キエルがディアナの代役になり得るとわかった以上、グエンさえ追い落とせば実権を取り戻せるとアグリッパは考えたのだろうが、それこそ小細工だった。
グエンが持つ獰猛な本質を理解できなければ、自分という女の心理もまったく理解できない、頭でっかちな男の小細工。グエンを失墜させた後、この男は自分を意のままに操れるとでも思っているのだろうか? 看破されたことを悟ったのか、「……手配しよう」と嘆息まじりに応じたアグリッパの横顔を、キエルは軽蔑を込めて一瞥した。
「それと、月に残してきたもうひとりの女王ですが……。いくらにせ者と喧伝《けんでん》したところで、向こうは月の社会を知り抜いている。我々の不在中に、ムーンレィス市民を煽動されたりしては厄介です。禍根は早めに絶った方がいいと思いますが?」
あまりにも事務的な口調だったために、話の内容を理解するまでに一拍の時間を要した。すっかり失念していたが、思えばディアナになり代わるというのはそういうことなのだと、キエルは虚をつかれた思いでグエンに振り返った。「『白の宮殿』にはそうした仕事を専門に行う者がいる。任せていただければ……」と言ったアグリッパを遮り、「それより」と続けたグエンは、うちから染み出るなにかを微笑の皮で繋ぎ止めている顔だった。
「それより、艦砲射撃で『冬の城』ごと葬るというのはどうです?」
心臓の跳ねる音が聞こえ、アグリッパとミドガルドがそろって息を呑む気配が後に続いた。間違ってしまったのかもしれない――その直感が靄の底から急速に浮かび上がり、冗談だろうと笑いたい頬を硬直させて、キエルの目の前を暗くしていった。
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ムーンレィス技師を残らず拘束してしまったために、出港作業を不慣れな者同士で行う羽目になったことが幸いした。アグリッパが連れてきた配下たちはどこか居丈高で、ミリシャ兵が反感を持ち始めたことも、情報を引き出しやすくする一因ではあった。
気密チェックや備品固定作業の合間に、ソシエは慌ただしく立ち回るミリシャ兵にそれとなく話しかけ、必要な情報をひとつずつ聞き出した。三十人に及ぶムーンレィス技師が拘束された経緯、収監されている場所、見張り員の配置。ろくに状況を知らされないまま、不満と不安の中で慣れない仕事をやらされていれば、兵たちも情報交換に飢えていたのだろう。「冬の城」でなにがあったかをかいつまんで説明してやると、積極的に口を割ってくれた。
収監場所は艦底にほど近い第四甲板で、外側から鍵をかけた備品倉庫に十人ずつ収容。ライフル所持の見張り員が常時一名配置。これだけわかれば、後は行動を起こすのみだった。どうやって見張り員の目をかすめるかという問題は残ってはいたが、それについてはソシエなりの勝算があった。
出港作業が終わり、艦内配備が通常の航宙直に移った頃合を見計らって、ソシエは最下層にあたる第四甲板に降りた。着陸脚《ランディング・ギア》の収納装置と補助ロケットエンジンの機関室が大部分を占め、その隙間を備品倉庫が埋めている第四甲板は、航行中はほとんど無人になる区画だ。壁に設置されたリフトグリップを握り、主通路から外れて左舷側の通路に入ったソシエは、誰とも会わずに収監場所の倉庫にたどり着くことができた。
三つ並んだ倉庫の扉の前に、宇宙服を着込んだ見張り員がひとり。靴底のマグネットが作動しているため、いかにも立哨中という感じで通路の真ん中に立っていたが、脇に置いたつもりのライフルは半ば宙に浮いている。いきなり通路に現れたこちらに気づき、反射的にライフルに手をのばそうとした見張り員と目を合わせたソシエは、リフトグリップを力いっぱい握りしめた。
リフトグリップは無重量環境下での移動に使われる設備で、壁から突き出ているグリップを握ると、レールを滑って通路の終点まで運んでくれる。角を曲がったり、他の通路に移ったりする時にはちょっとしたコツが必要で、タイミングを誤ると突き当たりの壁などに激突する結果になる。そのために握力で速度が調整できるようになっているのだが、この時は減速をかける必要はなかった。握れば握るほどスピードの上がるリフトグリップは、人が走る程度の速度でソシエの体を移動させ始めた。
「どいてーっ!」
さも止まらなくなったというふうを装って、悲鳴をあげる。「なんだ!?」と怒鳴った見張り員の顔がヘルメットの中でこわ張り、ソシエは小さく息を詰めて衝撃に備えた。ヘルメットの着用義務は十五分前に解除されているが、機関室のある区画では常時着用が義務づけられている。素早く目を走らせ、見張り員の宇宙服が自分と同じ型のものだと確かめたソシエは、後はもうなにも考えずにリフトグリップを手放した。
加速に乗った体がまっすぐ見張り員に突進する。狭い通路では避けようもなく、頭から突っ込んできたソシエを正面に受け止めた見張り員は、靴底のマダネットも虚しく空中に弾き飛ばされた。質量は見張り員の体の方が一・五倍は勝っているとはいえ、加速の力がかけ合わされれば形勢は逆転する。ソシエを腹に受け止めたまま、見張り員は背中から壁に激突していった。
反動で押し返され、互いに抱き合う格好で二人の体が空中を回転する。天井と床が目まぐるしく入れ替わり、踵になにかがぶつかったかと思うと、見張り員の背中が床を打ち、今度はソシエの背中が天井に押しつけられる。無重力といっても、体の質量が消滅するわけではない。二人分の質量が背中にのしかかり、一瞬呼吸ができなくなったが、ソシエは無我夢中で見張り員のヘルメットに手をのばした。左側にある開閉装置を押してバイザーを閉じ、続いて腰の位置にある生命維持装置をまさぐる。プラスチックのカバーを押し破り、非常用サバイバル・スイッチを押した途端、シュッとガスの噴出される音が響いて、見張り員の目がぎょっと見開かれた。
事故や戦闘で宇宙に放り出された際、パニックで酸素が急激に消費されるのを防ぎ、救出されるまでの間、精神と肉体を安定状態に保つ。一種の麻酔ガスだった。大きく見開かれた見張り員の目は、すぐにとろんと眠たげになり、ソシエの肩をつかんでいた腕からも力が失せてゆく。天井に手をつき、体の回転を止めたソシエは、完全に閉じた見張り員の目を確かめてから、靴底のマグネットを頼りに床に足をつけた。
上下の感覚がなかなか戻らず、体が波に洗われたようにふらついたが、ぐずぐずしている間はなかった。棒切れになって浮かぶ見張り員の体を引き寄せて、ソシエは腰のベルトに付いている電子キーの束を外しにかかった。こうしている間にも、〈ウィルゲム〉はどんどん月から遠ざかっているのだ。機械人形で戻れる距離にいる間に、ホレスたちを脱出させなければならない――。
「なにをしているっ!」
大声が通路をつんざき、心臓と、電子キーをつかんだ指先が凍りついた。ライフルの銃口、宇宙服のヘルメットを背部のラックにはね上げたミリシャ兵の顔が振り返った目に映り、ソシエは青ざめる自分の顔を知覚した。
ヘルメットを着用していないのでは、麻酔ガスで眠らせる手は使えない。がっちり組み上がった兵の体躯を見上げ、警戒を漲らせた目と視線を合わせたソシエは、顔見知りとはいえ、冗談で切り抜けられる状況ではないと覚悟して、ゆっくり両手を上げた。兵の背後にふわりと人影が浮かび上がったのは、その瞬間だった。
兵が気配を察した時には、ひどく小柄に見える人影がヘルメットをつかみ上げ、有無を言わさず兵の頭にかぶせていた。首周りのファスナーが自動的に閉まり、ヘルメットと宇宙服をしっかり密着させる。呆気に取られた一瞬の後、チャンスと判断した体が咄嗟に床を蹴って、ソシエは兵をつき飛ばしつつ生命維持装置に手をやった。作動した非常用サバイバル・システムが、じたばた暴れる兵の手足を弛緩させるのはあっという間だった。
兵の体を通路の端に押し出し、反動で床に足をつけたソシエは、だぶだぶの宇宙服に包まれた小柄な体をあらためて振り返った。ヘルメットのパイザーを開け、ひとつ大きな息を吐いたしわくちゃの顔を見て、胸の鼓動がいっそう早まるのを感じた。
「シドじいさん……!」
土埃で汚れた眼鏡に手をやり、いつもの泰然とした目線を寄越したシドは、「ぐずぐずしとる暇はないぞ。早く鍵を外すんじゃ」とぶっきらぼうな声で言った。思わず頷き、空中に漂う見張り員に近づきながらも、ソシエはシドの短躯をまじまじと見下ろさずにいられなかった。
「冬の城」を離れる時もさして迷った様子を見せず、〈ウィルゲム〉に戻ってからは、なにごともなかったかのような顔で出港作業を傍観していた。マイペースが身上の老人にどんな心境の変化が起こり、ホレスたちを助け出す気になったのか。ソシエには想像が及ばず、「……いいの?」という質問が自然に口をついて出た。
「シドじいさんは、グエンさんやアグリッパが言うような科学文明の繁栄が見たいんじゃなかったの?」
「人には節度っちゅうもんがある。こんな押し込み強盗みたいなやり方で科学技術を手に入れても、火傷《やけど》すんのがオチじゃ」
当たり前のことを聞くな、と言わんばかりの声で答えたシドは、「嬢ちゃんこそ、覚悟はいいのか?」と逆に質問を返してきた。電子キーをベルトから取り外す手が止まり、「あたしは……」と答えかけた声が詰まって、ソシエは即答できない自分に戸感った。
覚悟……と呼べるほどのものはなにもない。最初からこうするつもりで「冬の城」を離れ、グエンと姉についてゆく振りをしたと言えば格好もつくが、そんな上等な話ではなかった。
あの時は本心から「冬の城」を出たいと思ったのだ。それぞれが勝手を言い合い、醜さと脆さを露呈していったビジュアル・データ室の薄闇。女でありすぎる姉も、泣くことしかできないロランも、これ以上見たくないし、見てはいけないとも思った。このまま感情のうねりに身を浸し続けたら、きっと自分も言ってはならないことを言ってしまう。胸の奥底にしまった醜さの皮が破け、父と母、自分自身の誇りも汚してしまう。人類の未来も、地球と月の融和も遠い話でしかなく、あの瞬間、ソシエの行動を決定づけたのは紛れもない個人の感情だった。
そして姉も――キエルも、己の感情に従って一線を越えた。姉妹としてではなく、同じ女として理解できる根の部分で、キエルはディアナを憎み、グエンを愛そうとして、もう一度ディアナになる道を受け入れてしまった。とんでもなく不毛で、自らを傷つける結果にしかならないと説いたところで、今のキエルを止めることはできないだろう。いかに理不尽であるかはキエル自身がいちばん理解している。そうでなければ、硬い言葉遺いでディアナの理念を否定したり、ディアナ以上の女王を演じてみせると気張って見せたりはしない。いつでも最善の道を捜して行動しているはずが、自分でもどうにもならない感情に翻弄されて、ふと気がつくと思惑とまったく外れたことをしている自分がいる。そうなった時、キエルのように潔癖な女性は、安易に宗旨変えをして自分に背を向けはしない。傷つく一方と知っていても、自分を責め抜くことでしか気持ちの表し方がわからないから……。
だから、今は〈ウィルゲム〉を離れようとソシエは思う。そんな姉を嫌悪するのではなく、痛いほど気持ちがわかるから、今は離れていよう。月に居場所があるとも思えないが、少なくともロランはいる。ホレスたちを助けて月に向かえば、姉の負担も少しは軽くなるだろう……と、結局はこれも個人の感情だった。覚悟があるとは口が裂けても言えず、沈黙の時間を漂ったソシエは、「御曹子は、ちいとはしゃぎすぎじゃ」とシドが口にするのを聞いて、止めていた手を動かし始めた。
「『黒歴史』の実証をこの目で見ることができたんじゃ。わしはそれを冥土のみやげと思って、後は学問だけの生活に入るのもやぶさかではないが……。御曹子のお年では、あれもこれも欲しくなってしまうのも仕方のないことじゃて」
歳相応の疲れた声に、ソシエは意外なものを見つけた思いで顔を上げた。曲がった腰をぽんぽんと叩いて、シドはいつになくやさしい目だった。学究第一、世の道理は自分には関係ないと決めているはずの老人が、思いもよらず情に厚かったりもする。まだまだ人間も捨てたものではないと、なにかしら救われた気分になった。
電子キーは金具でベルトにしっかり固定されており、見張り員の体を直接ドアの前まで運んだ方が早いと気づかされた。妙に大きく見える見張り員の体を押し流し、一枚目のドアを開けると、五メートル四方の空間にすし詰めにされた男たちが一斉に顔を上げた。なにか言いかけたホレスを遮り、唇に指を当てたソシエは、「静かに」と短く言った。
「銃を持った見張りがいるわ。なるたけ音をたてないようにして、機械人形の格納庫へ」
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「なにも『冬の城』全体を破壊しようというんじゃない。ビジュアル・データ室を潰せばいいのです。『冬の城』が繭《まゆ》のように独立した区画であるなら、あの|銀の縫い目《シルバーステッチ》にある都市……トレンチ・シティに被害が及ぶこともないはずだ」
グエンが指さす先には、ゲンガナムを拡大投影したスクリーンがあり、運河と交差する形で月面を走る天然の亀裂《クレバス》、その底に見え隠れするドームの天井が、土に埋もれた水晶球のように映し出されているのだった。千五百万の冬眠者を収めた氷室、「冬の城」のドーム――。これからなにが始まるのか、自分たちはなにをしようとしているのか。「砲撃」「破壊」という言葉が虚しく反響するばかりで、なにひとつ実感をつかめないキエルは、呆然とした目をスクリーンに向け続けた。「しかし、冷睡槽には被害が出る」と応じたアグリッパの声も、隠しきれない動揺を示して小刻みに震えていた。
「分厚いドームの天井を貫通させるとなれば、最大出力での砲撃が必要になる。ビジュアル・データ室に狙いを絞ったとしても、周辺の冷睡槽は確実に巻き添えを食うであろう。それに電力の供給が絶たれれば、それだけで冷睡者たちの生命維持は……」
「ある程度の損害はやむを得ない。問題は、ビジュアル・データ室に蓄積された『黒歴史』の映像記録ですよ。ディアナがあれを公表すれば、科学文明の発展に異議を唱える者が必ず出てくる。忘れたくても忘れられない恐怖……遺伝子に蓄積された、滅びの記憶とやらにつき動かされた愚か者たちがね」
淡々と語る声に吐き捨てる調子が混ざり、キエルはグエンに視線を戻したが、見えたのは革靴の足で軽く床を蹴り、ブリッジの前方に流れてゆく背中だけだった。上着の裾が空気を孕《はら》み、発散する精気を受けたかのごとくそよいだのもつかの間、コンソールに手をついて体を捻り、グエンの足が器用に床に着地する。
「おそらくは、わたしや閣下の中にもその記憶は埋め込まれているのでしょう。しかし過去のトラウマに縛られて、なにもできないというのでは生きている意味がない。廃人ですよ。ディアナは自然法に則った生死のサイクルに身を委《ゆだ》ねたがっているようだが、そんなものは彼女個人のセンチメンタリズムだ。『黒歴史』の映像記録で人を恫喝《どうかつ》し、自分の思潮に従わせようとする女王は、インチキ祈祷師と変わりがない」
両手を上げ、舞台役者の口調と仕種でグエンは続けた。微笑の膜が変わらずその顔を覆っていたが、過去のトラウマ∞廃人≠ニ口にした刹那、表面の薄皮がひきつれ、中に押し隠した別のなにかが顔を覗かせたのを、キエルは見逃さなかった。
なんなのかは判然としない。が、グエンは無理をしている、背伸びをしているのではないかという疑念が、直感になってキエルの中を駆け抜けた。必要以上に事業家であり、政治家であり、なにより男であろうとしているグエン。では本当の中身は……?
「人類を逼塞《ひっそく》させるだけの記録などは、死に取り憑かれた女王ともども消し去ってしまった方がいい。そう思いませんか?」
最後通牒といった声が投げかけられ、キエルは遊離しかけた意識を引き戻してアグリッパを見た。ミドガルドや他のクルーも注視する中、細い顎に長い指を這わせ、沈思する瞳を一点に据えていたアグリッパは、「……『冬の城』の記録は、ソレル家が管理してきたもの。データを閉鎖、破壊するといっても、外部からのアクセスでは限界がある」と、独白のように呟いた。
「物理的な破壊がもっとも有効かもしれん……」
ぽつりと付け足された言葉に反応して、グエンの口がにたりと歪む。恫喝するまでもなく、巧みな弁舌で外堀を埋めてやれば、アグリッパは自分に同意するしかないと確信している男の、余裕の笑みだった。そうして今回も己を騙し、「冬の城」の攻撃を正当化したアグリッパは、これからも終生、ムーンレィスの信頼を裏切り続けるのだろう。もはや軽蔑する気にもなれず、哀れな生き物を見る思いで萎《しな》びた長身を見遣ったキエルは、その途端、「砲撃準備!」と弾けたグエンの声に、頭を殴られたような気がした。
「目標、『冬の城』のビジュアル・データ室だ」
言いつつ、グエンは後ろ向きに体を流して艦長席に収まった。清々とした顔がスクリーンを見上げると同時に、「砲撃戦用意!」と復唱の声があがり、「メガ粒子砲、一番から六番まで発射用意」「ブリッジ指示の目標!」という声がそれに続く。ブリッジの空気が自分を置き去りに流れ出し、止めようのない勢いで命令が実行に変わってゆく――。茫洋と漂っていた不安が急速に形になり、重力とは関係のない、千五百万の命の重みが胃を押し下げて、キエルはたまらずに床を蹴っていた。
「グエン様、それではあんまり……!」
青い瞳がちらと動き、艦長席に近づくキエルと視線を合わせたが、手すりに置かれた腕はそのままだった。手をつかんで引き寄せてくれると期待していたキエルは、空をつかむ虚しさが胸の底に広がるのを感じながらも、艦長席の背もたれをつかんで自力で体の流れを止めた。床につけようとした足がもつれ、スプレーで固めたはずの髪が大きくそよいでしまう。
なにをやっているのやら、とでも言いたげな目を寄越しただけで、グエンはすぐにスクリーンに目を戻した。「いくらなんでもやりすぎでしょう!? 考え直してください」と怒鳴り、正面に体を移動させたキエルが視界を塞ぐと、亜麻色の髪に手をやったグエンの目に苦笑の色が灯った。
「人類の発展を阻むものは、すべて排除する。そう言ったのは君だよ? ディアナ・ソレル閣下」
「それはあなたが望んだから……!」
その瞬間は意地もプライドも関係なく、言った途端に二流の女に成り下がる言葉が口をついて出たが、グエンは苦笑を崩さなかった。
強がりでも照れ隠しでもない、真実、まいったと言っている苦笑が褐色の肌を歪め、「悪いが……」という声がキエルの耳を打った。
「悪いが、女には興味がないんだ。主人としてしつけられるというなら、今からでもいい。ローラをくれないか? そうしたら考え直してもいい」
なにを言われたのかわからず、キエルは「え?」と聞き返した。グエンはもう答えることなく、代わりにキエルの両肩をそっと抱いて、やんわり自分の前から遠ざけていった。
苦笑に歪んだ顔が視界から消え、航法用スクリーン、通路に出るエアロックがゆっくり目の前を流れてゆく。すべてをなくし、空っぽになった体が漫然と宙を漂い、ブリッジの側壁にぶつかった時だけ痛いと感じたが、それも抜け殼の中に響いた小さな残響でしかなかった。反動で反対側の壁に押しやられるところを、靴裏のマグネットのお陰で床に引き寄せられたキエルは、ブリッジの片隅にぽつんと突き立ち、焦点の定まらない目をスクリーンに泳がせた。
亀裂の底に眠る「冬の城」のドームが網膜に映り、男が好きな男なら……と言った時のロランの顔がそこに重なった。ロラン、ローラ。そういうことか。人はもっと複雑なものだと信じていたけど、見た通り、聞いた通りのものでしかないということか――。今さらどうにもならない、拠るべきなにものもない虚無が眼前に広がり、キエルは自分の男運の悪さを自嘲した。その後、不意に這い上がってきた激しい痛み、ごまかしようのない胸の痛みに襲われて、全身が千々に引き裂かれてゆく感覚を味わった。
重力があれば、その場に座り込むこともできただろう。しかし無重力空間では立っているのも寝ているのも同じで、キエルは床に立ち尽くしたまま、なにも見えていない瞳を虚空に注いだ。
暗黒に塗り潰された窓にその姿が反射し、ディアナ・ソレルと同じ顔をした女が、悲しみを湛えてまっすぐキエルを見返した。
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格納庫のシャッターが開くと、巨万の星に埋め尽くされた宇宙、灰色に輝く月面が一斉に目に飛び込んできた。瞬かない星々の中、定期的に赤い光点を明滅させているのは、ディアナ・カウンターの戦艦だろう。フットペダルを踏み、〈ターンA〉にシャッターをくぐらせたソシエは、それぞれ密集隊形を取る艦隊――といっても、艦と艦の間隔は十キロ以上あるが――の数を四つ観測してから、背後を振り返った。
片腕をなくしたままの〈スモー〉に、〈ボルジャーノン〉が三機と〈カプル〉が二機。〈スモー〉にはシドが乗っており、後の機械人形にはホレスたちが分乗している。一機に六人ずつ、すし詰めどころの騒ぎではない状態でコクピットに収まっているホレスたちは、かさばるからという理由で宇宙服も着用できずにいる。非常用ボンベを計算に入れても、コクピット内の空気が保たれる時間はせいぜい十五分――。ホレスの言葉を思い出したソシエは、安全確認もそこそこに〈ターンA〉の機体を離床させた。
倉庫からホレスたちを救い出した後は、拍子抜けするほど簡単にことが運んだ。互いに顔も知らないミリシャ兵とアグリッパの部下たちが混在し、指揮権が不明瞭なまま出港した〈ウィルゲム〉は、命令系統もろくに機能していないありさまだったのだ。格納庫にたむろしていた兵たちは、大挙して押しかけたムーンレィス技師に不審な目を投げかけたが、グエンの命令で機械人形の整備をさせるのだと言うと、ブリッジに確認も取らずに通してくれた。
主要な部署をアグリッパの部下に占められた上、グエンからなんの説明もなければ、ミリシャ兵にはもうどうでもいいという気分が蔓延していたのだろう。全員が機械人形に乗り込み、コクピットを閉じた段になってようやくおかしいと気づいた様子だったが、その時には後の祭り。エアロックを開放し、格納庫の空気を抜くと脅せば、ヘルメットを外していた兵たちは我先に逃げ出していった。
もっとも、シャッターの開放はブリッジでも感知されるから、今頃はグエンたちも集団脱走に気づいているはずだ。その気があれば主砲で狙撃することも可能だろうが、そうなったらそうなった時の話だった。奇妙にくっきり見える|銀の縫い目《シルバーステッチ》を目標にして、ソシエは〈ターンA〉を月面に近づけていった。
頭部のモノアイを光らせた〈ボルジャーノン〉、〈カプル〉が後に続き、最後にぎくしゃくした動きの〈スモー〉が並ぶ。パイロット以上に機体のシスデムに詳しいシドらしく、初めての操縦にしては上等と思える動きだった。パートナーとしてはいささか頼りないが、このさい贅沢は言っていられない。急速に小さくなる〈ウィルゲム〉を確かめ、無数のクレーターを蓄えた月面に目を戻したソシエは、「ホレスさんたちは、早くシルバーステッチへ」と通信機に呼びかけた。
「あたしとシドじいさんは、ディアナさんたちを迎えに行ってから合流します!」
(了解。定員オーバーで、こちらは近くの港にたどり着くのが精一杯です。頼みます!)
一刻も早く月の都市に入らなければ、全員窒息死する結果になるとわかっているホレスの声は、さすがにいつもの落ち着きぶりを失っていた。「了解」と応じて、ソシエは夜の面にまでのびるシルバーステッチの輝きを見据えた。
ところどころ岩盤に覆われ、縫い目と呼ぶに相応しい銀色の点線を月面に刻むシルバーステッチ。その筋をたどれば、ゲンガナムと「冬の城」にたどり着ける。まっすぐ降下するホレスたちの機械人形と分かれて、ソシエは放物線を描く形で〈ターンA〉を月面に近づけた。
ぎこちない動きでついてくる片腕の〈スモー〉を目の端に捉え、シドに励ましの声をかけようとした瞬間。ザーッとノイズの音がヘルメットの中で反響し、同時に細いピンク色の線条が頭上の星空を走っていった。
四本……いや、六本。〈ウィルゲム〉から放たれたらしい光軸は、まっすぐ月面に向かってのびてゆく。それはシルバーステッチと交錯する天然の亀裂に突き刺さり、爆発的な閃光を咲かせた。
衝撃波の波紋が音もなく広がり、白熱する光の渦の中、粉々に砕けた岩盤と砂塵が黒い染みになって吹き上がる。呆然と見つめたソシエは、閃光に浮かび上がった人工の建造物を視界に入れて、操縦桿にのせた指先を凍りつかせた。
見た覚えがある。あれはゲンガナムの宇宙港だ。〈ウィルゲム〉が入港する時、ゲンガナムの港はどこよりも大きいとロランが自慢していたから、隣接するクレーターの大きさ、月面に表出したドッキング・ベイの形は目の裏に焼きついている。そのゲンガナムに隣接する亀裂は、すなわち「冬の城」がある場所。そこに〈ウィルゲム〉の主砲が撃ち込まれた――。
突然、信じられないほどの不安、恐怖と絶望が全身に張り詰めて、胃が破けたような痛みが腹に広がった。ピンク色の光軸が再び天から降り注ぎ、灼熱する亀裂に新たな爆光が閃くのを見たソシエは、自分でもわからないうちに絶叫していた。
「ロラーンッ!」
火山の爆発を思わせる炎の筋が亀裂から噴き出し、赤く灼け爛れた岩盤が血のごとく闇にまき散らされる。ロランが、あの中にいる。エメラルド色の目をしたハイム家の使用人。金魚の玩具を捨てられない、泣き虫のパイロット。これまでも、これからも、自分にとっては誰よりも身近で、誰よりも大切だった命が、あの燃え盛る亀裂の底にいる……。
自然に噴きこぼれた雫が、細かなシャボン玉になって目の前を舞っていた。今さら遅い、それはわかっている。でも愛していた。あたしは間違いなく、ロラン・セアックを愛していた。初めて会った日の晩、月に向かってなにごとか叫んでいた背中。月光を宿して輝くプラチナ色の髪の毛。記憶の奔流がとめどなく溢れ、一緒に涙も溢れさせた。行って確かめなければならないとわかっているのに、手も足も痺《しび》れたように動かず、虚空に立ち竦《すく》む〈ターンA〉の中で、ソシエもまた立ち竦み続けた。
ノイズの中にシドの声が混ざり、すぐに消えた。一時の静寂が舞い降り、ラ、ラ……と歌う微かな声がそれを破った。
竪琴の響きとも、人の声とも取れる音色だった。ソシエは顔を上げ、滲む視界を左右に動かした。鋭い星の光が目を射り、ラ、ラ……と歌う音が次第に大きくなる。通信機から聞こえているのではない、脳に直接訴えかけてくる声――呼び声。無意識に動いた足がペダルを踏み込み、ソシエは操縦桿を握り直した。
静止していた〈ターンA〉の脚部がスラスター光を発し、機体を前進させる。その行く先では、灼熱する亀裂がいまだ衰えない爆光を内奥から放っていた。
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金属がぶつかりあう重い音が頭上に響き、直後に猛烈な横揺れがきた。床全体がスライドしたようで、ロランは手をつく間もなく転倒していた。
地球の重力に慣れた体はさほどの痛みを感じなかったが、想像外の震動にさらされたショックはそれとは別だった。月震か? まだ微震の続くビジュアル・データ室を見回し、ホログラフィにつかまって体を支えたディアナ、膝をついたハリーの背中を確かめた途端、再び内壁がたわむほどの衝撃が襲いかかってきて、ロランは床からはね跳ばされた。
肌にまとわりつき、毛穴から神経にまで突き通る震動――コクピットで何度も味わった感覚がよみがえり、宙を舞うロランの体から血の気が引いた。月震なんかじゃない、これは爆発の震動だ。咄嗟にのばした指先が床に触れるまでの間に、ディアナになり代わって全軍に出動を促したキエルの声、それを遮断するべく、ディアナ・カウンターの通信回線に割り込みを試みた徒労の時間が次々に思い出され、ロランは脱出という観念がすっぽり抜け落ちていた自分の迂闊さを呪った。
キエルをディアナに仕立て上げた以上、グエンたちが最初に考えるのは本物のディアナの抹殺だ。片手で体重を支え、地球の六分の一の重力を利用してひと息に立ち上がったロランは、同様の結論に達したらしいハリーと視線を絡ませた。
「冬の城」そのものに攻撃が加えられているなら、ゲンガナムに通じる坑道が崩落するのは時間の問題。それまでにディアナを脱出させなければならない。天井に溜まったナノスキンの滓《かす》が雪のように舞い落ちる中、呆然と天を仰ぐディアナに体を向けたロフンは、ハリーと同時に床を蹴った。周囲を取り囲む内壁の照明が一斉に消え、ビジュアル・データ室が闇に閉ざされたのはその瞬間だった。
ほんの二、三秒が、数分にも感じられる真の闇がドーム空間を満たし、すぐに作動した非常灯が陰鬱な赤色の光を投げかける。停電、の一語が臓腑《ぞうふ》を締め上げ、ロランは思わず「冷睡槽が……!」と叫んでいた。
内奥にあるビジュアル・データ室が停電したからには、「冬の城」全体の電力供給が絶たれたと見るのが正しい。医療用ナノマシンに保護されているとはいえ、冷凍睡眠槽のシステムがダウンし、生命維持装置が停止すれば、冬眠者たちの生存は絶望的になる。ホログラム状のバーチャル・キーボードを中空に呼び出し、素早く指を動かし始めたディアナの顔は、赤色灯の下でもわかるほど蒼白になっていた。
「自家発電装置があります。問題はないと思いますが……」
センサーがディアナの指の動きを読み取り、打ち込まれたコマンドをメインホストに伝える。ホログラフィが発光を強め、スクリーンが矢継ぎ早に表示されると、「冬の城」各所に設置された監視カメラの映像が周囲を埋めた。前庭、入口の小ドーム、各ブロックごとに区分けされた冷睡槽の群れ。無数のスクリーンに目を走らせたロランは、その中のひとつに異様な光景を認めて絶句した。
土台に支えられ、継ぎ目のない球体に光苔の光をぼんやり映している冷睡槽。そのいくつかに天井の破片らしい巨大な金属の塊が突き刺さり、亀裂から白い煙を立ち昇らせていた。液体窒素の類いが気化しているのだろう。もはや時の柩とは呼べず、割れた卵のように無残な姿をさらしている冷睡槽の中では、おそらく千人単位の人間が肉塊と化しているはずだった。
夢のない二千年の眠りの果てに訪れた、あまりにも唐突な死――。ディアナも、ハリーも、声もなくスクリーンを見上げていた。確認できただけでも、崩壊した冷睡槽は六個。天井の崩落は止まらず、砕けた岩柱の破片も落下し始めて、さらに二つの冷睡槽が目の前で押し潰されていった。
八千人、九千人、一万人。スローモーションの緩慢さで降り注ぐ破片が、静かに、確実に死者の数を増やしてゆく。顔を背けたくても、金縛りになった体はぴくりとも動かず、ロランは大量殺戮の光景を黙って見つめ続けた。
上空から艦砲射撃を行っている〈ウィルゲム〉が、この結果を予測していないはずはない。それでも、グエンは「冬の城」ごとディアナを葬ると決め、実行に移したのだ。科学文明がもたらす人類の発展のために。しょせんは個人のものでしかない欲望を、大義であるかのごとく振りかざして。金縛りが解け、代わりに奥底から噴き出してきた未知の感情が体を支配して、ロランは両の拳を握りしめた。全身から発する熱が眼球に水滴を結露させたが、それは涙というより、殺意という、未知の感情が生まれつつあることを告げる破水といった方が正しかった。
空気の裂ける鈍い音がして、ロランは我に返った。殺気を漲らせた鋭い音は、ハリーの拳が醸し出したものだった。崩壊した冷睡槽を映すスクリーンを虚しくすり抜け、小刻みに震えるハリーの拳は、ホログラムの光を浴びて七色に輝いていた。
「……この方がいいのかもしれない。目覚めて絶望を味わうよりは、この方が……」
微かな独白が、その唇から漏れる。まるで冬眠者の中に知り合いでもいるような口調だったが、自分以上に殺意の権化となった背中を見れば、聞き返す勇気はロランにはなかった。
殺意、憎悪といった感情は、こうも頑なに人を作り変えるものなのか。ウィル・ゲイムやテテス・ハレの姿がハリーの背中に重なり、己のうちに発した黒々とした感情もそこに重なって、ロランは鳥肌が立つのを感じた。
「ディアナ様。敵の狙いは、間違いなくこのビジュアル・データ室です。ロランとともに、早く避難なさってください」
その間に、ひどく冷静な声のハリーがディアナに振り向いていた。明らかに自身を除外した言葉に、ロランは「ハリー大尉はどうするんです?」と詰め寄ったが、赤いバイザーはディアナを見つめたきり、こちらを向くことはなかった。
両の拳をしっかり握り合わせて、ディアナもハリーを見上げていた。ハリーの覚悟はわかっているし、止めなければならないとも思っているのに、言うべき言葉を見つけられずに立ち尽くしている。そんなもどかしさを湛えたディアナの瞳は、それが自分にできる唯一のことだと信じているかのようにハリーだけを捉えていた。
ハリーも、身じろぎひとつせずに女王を見下ろしている。バイザーに覆われた鉄面皮に小さなひびが入り、「……ご無礼」という囁き声が聞こえたかと思うと、ハリーの両腕が不意にディアナを抱きしめ、輝く金髪に顔を埋める光景がロランの目前で展開した。
「暇乞《いとまご》いをする勝手をお許しください」
ディアナの指先がこわ張り、すぐに弛緩した。真っ白になった頭に嫉妬らしき感情の火種がわいたが、ロランがそれを知覚するより先に、ハリーの体がディアナから離れていた。鉄面皮を取り戻した顔がバイザーごしの視線を寄越し、「ディアナ様を頼む」と言い残して、ハリーはロランの前から去っていった。
一瞬の出来事だった。棒立ちになっていたディアナが正気に返り、「ハリー、待って! 暇乞いは許しません!」と叫んだが、ハリーの背中は振り返らずに出口を抜けた。直後に発した轟音がビジュアル・データ室を揺さぶり、大量に降り注ぐナノスキンの滓が視界を塞いで、ロランは後を追う暇もなくその場に転倒した。
破片のひとつがビジュアル・データ室の外殻を直撃したらしい。貫通こそしなかったものの、天井に亀裂が入り、ナノスキンの滓に混じって小石大の建築材が落下し始めれば、いつまで保《も》つかわかったものではなかった。微震の止まらない床を蹴り、ホログラフィにしがみつくディアナの背中に覆い被さったロランは、「とにかくここを離れましょう!」と轟音に負けない声で怒鳴った。「いけません!」と怒鳴り返すと、ディアナはロランの腕の下をすり抜け、ノイズに歪むキーボードのポログラムに向き合った。
「ハリーは〈カイラス・ギリ〉を目覚めさせるつもりです。早く止めなければ……!」
「無理ですよ! 早く避難しないと」
「『冬の城』のシステムがダウンすれば、〈カイラス・ギリ〉の封印は無条件に解かれます。ここの電力が生きているうちに遮断を……!」
ビシッ、という不気味な音が頭上に発し、キーボードの上を流れるディアナの手が止まった。すり鉢状の天井を網の目に走る亀裂が、最後の支えを失ったことを知らせる音だった。振り仰いだ目に、中央部分からごっそり剥がれ落ちた瓦礫群が映り、ロランはディアナをつき飛ばすようにしてホログラフィから離れた。
五官すべてを塞ぐ激突音がすぐ背後に発し、中空を飾っていたスクリーンが一斉に消滅する。地球に比して弱い重力も、数トンの瓦礫が間近に落下してくれば関係なかった。砕けた建築材が背中を打ち、まき散らされたナノスキンの滓が口と鼻の中に入り込んでくる。床に伏せ、歯を食いしばって衝撃が収まるのを待つロランの下で、ディアナがじっと息を詰めていたのは数秒だった。ディアナが起き上がろうとする気配を察したロランは、「まだ危険です……!」と腕の力を強くしたが、今度は月の引力がディアナの味方をして、あっさりはねのけられてしまった。
霧さながら立ちこめる粉塵を無視し、ホログラフィに駆け寄ったディアナは、床の半分を埋めた瓦礫の山を前にぴたりと足を止めた。「なんてこと……」と呟き、口を手で押さえたディアナの視線の先には、瓦礫に押し潰されたホログラフィがあった。
〈カイラス・ギリ〉という不穏な響きが脳裏をよぎり、殺意の衝動に取り憑かれたハリーの背中が思い出されたものの、ここで立ち竦んでいたら死ぬだけだと最低限の判断を下したロランは、「ディアナ様、急いで!」と叫び、腕を取ってかまわずに走り始めた。
が、あと数メートルで出口に差しかかるというところで、ロランは足を止めなければならなくなった。部屋を取り囲む回廊から黒煙が吹き込み、戸口を炎の舌が舐め始めたのだった。床をつき抜けた破片が、球体の下部に集積する機器を直撃したのだろう。他に出口はなく、あったとしても、回廊全体に火の手が回っているのでは脱出は不可能だった。
炎の熱波に遠ざけられ、瓦礫に埋まったビジュアル・データ室に向き直ったロランは、まだ崩落の続く天井と、亀裂の向こうに広がる岩盤を見上げた。戸口から吹き込む黒煙が内壁を伝い、どんどん亀裂に吸い込まれてゆく。「冬の城」を包むドームに穴が開き、空気の流出が始まっている証拠だった。床下に降りれば非常用の宇宙服《ノーマルスーツ》ぐらい見つかるかもしれないが、この炎の勢いでは近づけない。
ここまで――か? 必死に抑え込んできた言葉がじわりと染み出し、ディアナの手を握る力を強くした刹那、すぐそばで巨大な金属がこすれあう音が発した。
内壁の一画に亀裂が走り、急速に網の目を広げると、構造材と建築材が爆発したように四方に飛び散る。ディアナを抱きすくめ、降りかかる破片に背を向けたロランは、続いてIFB駆動の関節機構《アクチュエーター》が奏でる耳慣れた音を聞いた。
思わず振り向き、目にしたものは、人間そっくりに五本の指を生やした機械の手のひらだった。ロランの目前で、その巨人の手のひらはいったん裂け目の向こうに引っ込み、次に見えた時には左右の手のひらが裂け目の両縁をつかんで、金属が引きちぎれる轟音とともにみるみる内壁を裂いていった。回廊に立ちこめた黒煙がたちまち吸い出され、大きく広がった裂け目ごしに、二つの赤い目が光るのがはっきり見えた。
「〈ターンA〉……」
全身から力が抜け、その場に座り込みそうになったロランを支えて、ディアナも信じられないという顔を隠さなかった。髭に見える左右のフェイスガードをぴんと立て、こちらの姿を確認したらしい〈ターンA〉の顔が裂け目から離れると、アクチュエーターの作動音が響き、代わりに股間のコクピットがロランたちの眼前に現れる。キャノピーを開き、「ロラン!」と手を振ったパイロットと目を合わせて、ロランは今度こそ口を全開にした。
「ソシエお嬢さん!? どうして……」
コクピットから半身を乗り出し、ソシエは怒ったような、それでいて泣き出しそうな顔でこちらを見下ろしていた。まだ目の前の光景が現実のものとは思えず、声の出ない口を無意味に動かす間に、そこここに焦げ跡を作った金色の機体が〈ターンA〉に並び、同じくロランの顔を覗き込むようにする。片腕になった〈スモー〉のコクピットで、シドもキャノピーをはね上げていた。
「空気がなくなるぞ! 二人とも早く乗れ」と怒鳴り、一般用ノーマルスーツを放って寄越したシドの横で、「話は後! 早くこれを着なさい」と、ソシエもシートの後ろから取り出したものを放る。ヘルメットの重さに引きずられ、ふわりと人型に広がって落ちてくる白い物体は、〈ターンA〉専用のノーマルスーツだった。ロランは膝のバネを使って飛び上がり、空中でそれを受け止めた。
なぜソシエたちは戻るつもりになったのか。ろくに月の地勢もわからない身で、どうして砲撃の網をかいくぐり、ここまでたどり着くことができたのか。仰天しっぱなしの頭に渦巻くいくつもの疑問は、決死の覚悟で運ばれてきたノーマルスーツをつかんだ途端、どうでもよくなり、なくしたものとあきらめていた絆が戻ってきてくれた喜びが、ロランの胸を埋めた。
まだ生きられる。それだけの価値が、まだ世界には残っている。内壁を蹴って体の向きを変えたロランは、シドが放ったノーマルスーツも受け取ってから引力に身を任せた。驚きで固まっていたディアナの頬が緩み、月に戻って以来、初めて見せるやわらかな微笑がロランを迎えてくれた。
「……あなたがソシエさんを呼んだのですね。ロラン」
着地した拍子にノーマルスーツを床に落としたために、ロランはそう言った時のディアナの表情を見逃してしまっていた。「え? ぼくはなにも……」と返しつつ、拾い上げたノーマルスーツを手渡そうとして、凍りついた指先からスーツが滑り落ちた。
ディアナがいない。一瞬前まで自分を見つめていた青い瞳が忽然と消え、黒煙と粉塵の向こうに、急ぎ足で出口を抜けてゆく金髪が幻のようにロランの目に映った。
突き上げる不安が他のすべてを見えなくさせ、ロランは走り出していた。「なにやってんの! 早くしなさい」とソシエの怒声が飛んだが、無視して出口に向かった。
崩れた壁から吹き込んだ風が炎の大半を吹き消したとはいえ、回廊には薄墨さながら視界を曇らせる黒煙と、鼻をつく剌激臭が立ちこめていた。袖口で鼻と口を押さえながら、ロランは振り向きもせずに走るディアナを追った。生き残った非常灯が辛うじて明かりを灯す中、ひたすら走り続けたディアナの背中は、回廊を半周したところでようやく立ち止まる気配を見せた。
小さく上下する肩が赤色灯の下に浮き立ち、サファイア色の瞳が不意にこちらに向けられる。煤で汚れていても、ふっくらした微笑に少しの憂いを含んだ顔は、やはりこの世でいちばん美しいものにロランには感じられた。引きずってでも連れ戻すつもりの気勢が萎え、ロランは「ディアナ様……」と呟くしかなくなった。「もういいのです」と応えて、ディアナは壁の一画を占める身元確認装置のパネルに手を触れた。
「あなたと出会えて、私は十分に報われましたから……」
独立した電源を確保しているらしいIDチェッカーが作動し、ほとんど同時にすぐ横の壁が左右に開く。ビジュアル・データ室と回廊とを隔てる壁の中に、ひっそり組み込まれた円筒形の空間が現れ、やはり専用電源に賄われた照明が灯ると、明らかにエレベーターだとわかる形を露にした。
人ひとり乗るのがやっとと思われるエレベーターに、自分が乗り込む余地はない。そうわかった頭がパニックになり、ロランは夢中でディアナの肩をつかんでいた。
「そんな……! そんなのってないですよ。これからじゃないですか。これからみんなで幸せになればいいんじゃないですか! グエンさんもキエルお嬢さんも、時間をかければきっとわかってくれますよ。人はわかりあえるんです。ソシエお嬢さんもちゃんと迎えに来てくれたじゃありませんか。ぼくたちだって………ぼくと、ディアナ様だって、こうして……」
こみ上げる感情が喉を塞ぎ、先の言葉をかき消した。泣いている場合ではない、自分の気持ちすべてを伝えなければならない。思えば思うほど目が滲み、子供じみた言葉ばかりが紡ぎ出されてきて、ロランは自分のバカさ加減に絶望した。目を伏せ、震えるロランの手の甲にそっと触れたディアナは、「すべての罪は、私にあるのですから……」と低く、しかしはっきりと言った。
「私には、この戦いを終わらせる義務があります。行かせてください」
「だったらぼくも行きます! ディアナ様の戦士として、最後までお供をします!」
水色のルージュをひいた唇が、嗚咽を押さえ込もうとするようにぐっと歪み、両手に抱えた肩が小さく揺れた。ディアナの瞳がロランを見上げ、今まででいちばんやさしい笑顔を視界いっぱいに広げて、やおらかな感触を唇に触れさせた。
全身が硬直し、なにも考えられなくなった。目の前で伏せられたまつ毛が濡れている、そう確認したのを最後に、ロランも目を閉じた。
頭の芯が痺れ、筋肉のこわ張りをゆっくり溶かしてゆく。両手の下にある細い肩の感触、唇に触れるやわらかなものの感触が、女王ではない、ひとりの女の匂いをロランに知覚させた瞬間、夢の時間は終わりを告げた。
「あなたはニュータイプ。だから人を愛しなさい」
自分に触れていた唇がそんな言葉を形作り、その意味が伝わるより前に、ディアナは視界から消えた。
抱くべき肩を失い、だらりとぶら下がった両手をどうにもできないまま、ロランはエレベーターに乗り込むディアナの背中を見送った。ディアナ様、と呼び止めたつもりだったが、声にはならなかった。
ディアナが乗り込むと、透明装甲の扉が有無を言わさぬ勢いで閉まり、その無慈悲な音が一瞬に体の麻痺を取り除いた。足がもつれ、前につんのめりながらも、ロランは扉に取りすがって透明装甲ごしにディアナを見た。「ディアナ様、待って!」と叫び、自分とディアナとを遮る扉を叩き続けた。
「ぼくが、ぼくが愛せるのは……!」
二センチに満たない薄さでも、金属の数倍の強度を持つ透明装甲は振動ひとつ起こさなかった。黙ってこちらを見つめるディアナの瞳が潤み、一度は自分のものになった唇が言葉の形に動いて、なにかを語りかける。扉に遮られて音は聞こえなかったが、ロランにはディアナの声をはっきり聞き取ることができた。
ありがとう。……さようなら。
モーターが駆動する微かな音が発し、エレベーターは唐突に下降を始めた。ほとんど落下に近い速度で、ディアナを乗せたエレベーターはビジュアル・データ室の球体を抜け、土台に設置されたチューブを伝って、「冬の城」の地下深くに消えた。
「ディアナ様あーっ!」
内奥から搾り出された絶叫が、獣の声のように喉を震わせた。透明装甲に頭を押しつけ、ロランはそのまま床に膝をつけていった。
箱の消えたエレベーターのチューブだけが、透明装甲の向こうでぽっかり暗い口を開けていた。心の闇に通じる、底なしに暗い虚無の口だった。
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最初の砲撃が始まってから、二十分は経つ。亀裂の底の灼熱は一向に衰える気配を見せず、色のない月面に赤い筋を走らせていた。月の昼間は摂氏百三十度にも達するというから、そのせいだろう。四日後、ゲンガナムが夜の週に入るまで、「冬の城」のドームは燃え続けるのかもしれない。月面に刻まれた傷口の底で、じくじくと暗い血の赤を灯し続けるのかもしれない。
グエンも、アグリッパも、然してその光景を見つめている。ビジュアル・データ室だけを狙い撃つつもりが、「冬の域」を覆うドームの意外な強固さにてこずって、ドーム全体が灼熱するまでメガ粒子砲を撃ち続けた。そうして十分以上の連続斉射で表面の一部を溶かした時には、「冬の城」全体で崩落が始まっており、あらためてビジュアル・データ室を直撃する必要はなくなっていたのだった。
ディアナと「黒歴史」の記録を葬り去るために、結局は「冬の城」全域を破壊する結果になってしまった。被害程度は明らかではないが、おそらくは三分の一の冷睡槽が崩壊したと聞かされれば、煌々たる科学文明社会への熱も冷め、沈黙するしかないのがグエンの立場だろう。絶対平和の信奉者のはずが、今は数百万の犠牲者を出した殺戮行為の共犯になったアグリッパも同様。通信コンソールを前にするクルーだけが、殺到する他の艦からの問い合わせに応答するので忙しい。
「冬の城」に異変が起こったようだが、そちらではなにかキャッチしているか。している、「冬の城」は破壊された。キエル・ハイムという、ディアナ様そっくりの顔をした女を使い、クーデターを目論んだ一部の地球人の仕業だ。「冬の城」を爆破して逃亡を図ったが、本艦が主砲で撃破した――云々。
嘘が嘘を呼び、裏切りが新たな裏切りの素地を作る。当分は――いや、永遠に続くのだろう循環に組み込まれた己を自覚して、キエルも灼熱の底に沈む「冬の城」を見つめていた。クルーの精神衛生を考慮してか、今は望遠映像は解かれ、スクリーンには高度百キロから見下ろす月が映し出されている。煮えたぎる亀裂は赤い光の点にしか見えず、ともすれば付近を並走する艦隊の灯火に紛れてしまいそうだったが、キエルは、その暗い赤が秘める煉獄のどよめき、業火の熱波を肌で感じ取っていた。
自分も、あの炎に焼かれてしまえばよかったものを……。停滞した思考の澱からそんな考えが浮かび上がり、靴底のマグネットで床に繋ぎ止められているという、ただそれだけの理由で〈ウィルゲム〉のブリッジに居続ける体を柳のように揺らした。なぜ、と考える理性は戻らないまま、キエルは今からでもそうする方法はないかと思案を巡らせた。
先刻、ソシエたちが簡単に脱走できたぐらいだから、艦内の警備はいい加減になっているのだろう。グエンもアグリッパも、ブリッジにいる者はみんな自分を意識の外にしている。今ならブリッジを離れても見咎められはしないはずだ。私も機械人形を奪って脱走しようか? でも操縦はできないし、機械人形はソシエたちが全部持っていってしまったようだし。いっそ宇宙服を着て泳いで行こうか。それなら私にもできそうだ。あの赤く灼熱する光を目印に泳いでいけば、いつかは「冬の城」にたどり着ける。ルビーみたいに光る亀裂に身を投じれば、これ以上苦しい思いをしなくても済む。嘘も裏切りも、罪悪も恥辱もない自由な世界に行ける。もとの自分に戻ることができる。そうだ、そうしよう……。
どうしてもっと早く思いつかなかったんだろう。二十分以上、ぴくりとも動かさなかった足を動かして、キエルは床から離れた。宇宙服はブリッジにもあるが、ここで着替えたらさすがに怪しまれる。他の場所で仕入れた方が確実だ。そう思い、通路に出るエアロックに体を流した瞬間、「月面に高粒子エネルギー波を観測!」とクルーの誰かが叫んで、キエルは反射的に床に足をつけた。
「艦艇や自動迎撃システムのものではありません。トレンチ・シティ全体から放出して……。なんだ、これは!?」
「とてつもなく莫大なエネルギーです! センサーが振り切れています。全容の把握ができません!」
それぞれのコンソールから報告が続く。艦長席のグエンが「なんだ……?」と眉をひそめる横で、アグリッパが「まさか……!」と呻き、目を見開くのを見たキエルは、もう少しブリッジの様子を見てから行こうかという気になった。
「全艦艇を散開させろ! 可能な限りの速度で月の赤道面から退避。南極面に移動する」
珍しく……というより、初めて感情を露にしたアグリッパの声がブリッジに響き渡る。クルーたちが無条件に反応し、航路変更が行われるのを見たグエンは、得体の知れない不安ではなく、無視された怒りに駆られたらしい。艦長席を離れるや、「なんだというのです……!」とアグリッパに詰め寄っていた。
「〈カイラス・ギリ〉だ。ディアナが封印を破りおった……」
ひっ、と小さく息を呑んだミドガルドを背に、グエンは狐《きつね》につままれた表情だった。「急がせろ! あれの直撃を受けるわけにはいかんのだ」とくり返し、前に出ようとしたアグリッパの肘《ひじ》をわしづかみにして、「なんなのだ、〈カイラス・ギリ〉とは……!」とグエンの詰問が重ねられる。恐怖が伝染したのか、その額にも脂汗が滲んでいるのがキエルに見えた。
「トレンチ・シティに埋設された高エネルギー粒子加速器のことであろうが……! 旧世界の末期に、外敵……すなわち異星人の襲来を視野に入れて建造された、地球圏防衛用の最終兵器だ」
キエルを驚かせたのは、都市全体が巨大な兵器になっているという事実ではなく、異星人という、とんでもなくバカバカしい言葉の響きの方だった。いつ来るかわからない異星人を警戒して、月面を一周する都市に巨大兵器を埋蔵した旧世界の人々。「ほう……」と応じたグエンの目がすっと細められ、いつもの怜悧な獰猛さを取り戻したようだった。
「まだそのようなものをお隠しになっていたか」
「隠す隠さないの問題ではない。使ってはならぬ兵器なのだ。あれが使用されれば、十や二十の艦艇はたちどころに……」
そこで言葉を呑んだアグリッパは、スクリーンを凝視して動かなくなった。視線を追ったグエンが同様の反応を示すのを見て、キエルは自分も灰色の月面を映すスクリーンに目をやった。
灼熱の色を滲ませた亀裂のすぐ近く、ゲンガナムからは南東の方向に位置する小クレーターが、中心からひび割れてゆくところだった。直径は三百メートルといったところか。過去、小型の隕石が衝突してできたのだろう窪みが、凍った湖面に石を投げつけたかのごとくひび割れ、網の目状の亀裂を瞬く間に全域に広げると、吹き上がる砂塵が周辺で渦を巻き始める。「月の竜巻……?」とグエンの独白が聞こえたが、そんなものではないとキエルは思った。
直径三百メートルのクレーターを完全に覆い、なおそれ以上の高さに渦をのばす竜巻は、夏の終わりにエリゾナ領を襲うハリケーンや、イングレッサ領を見舞うダストブローとは較べ物にならない。ほとんど想像を絶する天変地異としか言いようのない現象だった。
どだい、大気のない月で竜巻が起こる道理はない。「あれが〈カイラス・ギリ〉か?」と尋ねたグエンに、「違う。あれは……」と震える声で答えたアグリッパは、それを最後に口を閉じた。眼窩の底で赤い瞳が忙しなく揺れ、怯えた小動物の姿をキエルに連想させた。
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〈まどろみの海〉と命名されたそのクレーターは、直径三百五十メートルほどのお碗型の小クレーターで、なにを造るにしても申途半端な大きさであったために、月の植民が開始されて以来、都市計画からは外されてきた場所だった。
今、そのお碗の底と見える円形の地面は千々にひび割れ、月面深くから発する閃光が、蜘蛛《くも》の巣状に広がった亀裂を光の筋のように浮かび上がらせていた。クレーター全域に拡大した亀裂から白色光が噴き上がり、鼓動に似た明滅をくり返すたびに明度を増すと、突然、底が抜けたという表現そのままに大地そのものが瓦解し、直径三百五十メートルの地盤がすっぽり陥没した。
粉々に砕け、奈落に吸い込まれるかに見えた地盤は、しかし月の底からわき上がる閃光に押し返され、残らず虚空に舞い土がる運命をたどった。月の弱い重力はそれらを引き止める術を持たず、宇宙に吐き出された岩と砂の奔流が巨大な竜巻を形成し、月面に聳立する。衝撃波が直径数十キロにわたって波紋を広げ、レゴリスの砂塵を嵐の海のごとく騒がせる一方、〈まどろみの海〉の底からは異形の物体がゆっくり浮上し、その巨体を立ち上がらせていった。
すべてを押しひしげて乱舞するエネルギーの渦の中、奇妙にゆったりと静止している物体は、航宙艦と呼ぶには特異すぎる形状で、モビルスーツと呼ぶにはあまりにも大きすぎた。蛹を想起させる本体ブロックの全長は四十メートル弱。だがその背部に装備した四枚の羽根状の構造物は、上下の長さが百メートルを優に超え、ひときわ大きい上方の羽根二枚の全幅は百二十メートルにも及ぶ。それよりひと回り小さい下方の羽根は、表面に密生する無数の突起が優雅な模様を描いていたが、無論、装飾を目的とするものではなかった。
ダイレクト・インターフェイス・システムのひとつの完成形――感応波中継装置《サイコ・コミュニケーター》(サイコミュ)と呼ばれるシステムに連動する、パイロットの感応波《サイコ・ウェーブ》によって操作される遠隔操作用機動砲台群《ファンネル》。すなわち下方の羽根二枚は、それ自体がファンネルのコンテナになっているのだった。
本体の最上郡にはモノアイ・センサーを備えた頭部構造があり、サイコミュ発受信用のアンテナが触覚の形に展張してもいる。つまり遠目に見渡せば、この巨大なマシンは完全に蝶に見えた。
〈ムーンバタフライ〉――ソレル家に伝わる、ソレル家の血を引く者にしか操れない、失われたサイコミュ・システムが駆動させるモビルアーマーだった。揚羽の模様に染め抜かれた羽根が、太陽光を浴びて渦巻く砂塵の中に展開し、中に在るパイロットの思惟を受けてモノアイを閃かせる。その視線の先では、〈ウィルゲム〉を中心に集結しつつあるディアナ・カウンター艦隊が、数多の灯火を星の光に紛れ込ませている姿があった。
(我が同胞、ムーンレィスよ。旧世界の残滓に湧く蛆虫になり果て、人類の原罪に触れなんとするグエン・サード・ラインフォードよ。私はディアナ・ソレルである。ただちに武装を解除し、それぞれの居場所に戻るがいい。あくまでも進軍を続けると言うのなら、この〈ムーンバタフライ〉の羽ばたきがすべての艦、すべてのモビルスーツを破壊するであろう。我が怒りによって励起されるその力は、もはや私自身にも制御が及ばず、戦力と呼ばれるありとあらゆるものを消滅せしめるまで止まらない。命を尊び、生のありがたさを知る者たちは、今すぐこの宙域から立ち去れ)
凛と響く声が宇宙の常闇を圧し、〈ムーンバタフライ〉のサイコミュを介して、展開中のすべての艦に伝わってゆく。百五十年前の恋愛に殉じきれなかった後悔が地球帰還作戦を強行させたという引け目があるために、強権発動をためらい、アグリッパ一派の跳梁を許して、グエンという新たな脅威を生み出してしまった。そうして月にまで戦火を持ち込み、ついには禁忌の兵器にまで手をつけなければならなくなった女王の、悲痛な叫びだった。ディアナ・カウンターの将兵たちは、月面から浮上した未知の兵器におののきながらも、間違いなく女王のものと思える声に聞き入った。
戒厳令の発布以来、五里霧中の状態で行動を強いられてきたという事情もある。急ぎすぎる地球遠征作戦に疑問を抱く将官の中には、いったん軍を引いて状況を見定めるべきではないか、と進言する向きもあったのだが、
(騙されるなっ! かくも猛々しい言葉を吐く者が、ディアナ・ソレル閣下であろうはずもない。あれは地球の女、キエル・ハイムが演じる偽りのディアナである。真なるディアナ・ソレルは我らとともにある!)
アグリッパ・メンテナーの声が、指揮系基幹回線を通じて〈ウィルゲム〉から発信され、艦同士の個別回線でやりとりされる通信を吹き散らすようにした。すべての艦が沈黙する中、(しかし、あれはたしかにディアナ様の声です)と反論の口火を切ったのは、〈アルマイヤー〉級十八番艦・〈アリトスカ〉を旗艦に置く第九機動艦隊の司令だった。
(ソレル家の血を引かぬ者が、あのように巨大なマシンを操れる道理はない)
(「冬の城」が砲撃を受けたという未確認情報もある! 地球の戦艦は本当に味方なのか)
(あれが偽りのディアナであるなら、真なるディアナ様のお声を……!)
他の艦も騒ぎ始め、今度は〈ウィルゲム〉が沈黙する番かと思われたが、アグリッパに代わってマイクを握ったグエンの声は、臆することを知らなかった。
(ディアナ閣下は胸を痛めておられる。諸君らの浅薄な猜疑《さいぎ》の心、偽のディアナに付和雷同する小胆ぶりに対して、だ! 真に勇気のある者は我に続け! あの蝶のような兵器こそ、人類を破滅に追いやる死の象徴である)
そう気炎を吐いたグエンが、次に放ったのは言葉ではなく、メガ粒子砲の光軸だった。〈ウィルゲム〉の艦首に装備された主砲が一斉に粒子エネルギーの塊を吐き出し、六本のビームの矢が月面上の〈ムーンバタフライ〉を直撃する。莫大なIフィールドの壁が機体を防護したものの、〈ムーンバタフライ〉は羽根を傷めた蝶のように体勢を傾け、中に在るディアナの苦痛を引き写したのか、羽根をすぼめて機体をよじってみせた。
女王への忠誠が姿勢を正しているディアナ・カウンターの将兵たちにとっては、容認し難い光景だった。本物か、偽物かという論理を飛び越えて、やはり〈アリトスカ〉の司令が最初に行動を起こした。
〈ムーンバタフライ〉の楯となるべく、〈アリトスカ〉が〈ウィルゲム〉の射線上に立ち塞がり、イシガメに似た船体が異議を唱えて地球の戦艦を見据える。その勇気に対して、〈ウィルゲム〉が返した返答は再度の主砲斉射だった。
五十キロと離れていない空間にいた〈アリトスカ〉は、退避行動を取る間もなく直撃を受け、四散した。爆発の光球が膨れ上がり、それはぎりぎり張り切った緊張の糸を断ち切る刃となって、すべての将兵に受け止められた。
(〈アリトスカ〉がやられた!)
(やったのは地球の戦艦だ)
(なにが親善大使だ! 月の攪乱を企むスパイではないのか)
(真なるディアナはこちらにあると言った! ディアナ閣下が座乗しておられる限り、正義は〈ウィルゲム〉にある。その行動を阻む者は、すなわちディアナ閣下への反逆者、裏切り者である。ディアナ・カウンターの兵員であればこそ、その罪は重い。本艦は、今後も反逆者に対しては断固たる措置を講じる!)
双方の声音が共振して、互いの猜疑、憎悪を増幅していくようだった。〈ウィルゲム〉の主砲が再び〈ムーンバタフライ〉に向かって放たれ、それは今度は別の艦から発射された|対ビームミサイル《ABM》によって阻止された。
爆発と同時に形成されたビーム攪乱幕が射線上に滞留し、〈ウィルゲム〉の放出したメガ粒子を減殺する。〈ウィルゲム〉に随伴する四隻の〈ジャンダルム〉級が即座に砲門を開き、ABMを撃った艦に対して威嚇射撃を行ったが、その時には他の艦が撃ち放った|艦対艦ビーム《SSB》が〈ジャンダルム〉をかすめて、狙いのずれたビームが無関係の艦に突き剌さっていた。
音もなく広がる爆発の光を背に、複数のビームが錯綜して新たな光球を生じさせる。乱戦の始まりだった。ディアナ・カウンター艦隊にしてみれば、〈ウィルゲム〉一隻を討ち取れば終結する戦闘のはずだったが、各艦隊の司令クラスにアグリッパのシンパがもぐり込んでいたことが、事態をより混迷に導く結果になった。
ディアナ・カウンター全体からすれば、その勢力は十分の一以下でしかない。が、敵と味方の区別が判然とせず、疑心暗鬼の中での戦闘を強いられているディアナ・カウンターに対して、アグリッパ一派には敵味方がはっきりしているという利点があった。
彼我兵力の差を埋める決定的な要因となって、その利点は戦場に作用する。最初に艦載モビルスーツを発進させたのも、アグリッパのシンパたちだった。潰れた球状の頭部に光学センサーを満載し、身長と同じ長さのシールド兼メガ粒子砲を装備した〈マヒロー〉タイプが、先刻までの僚艦に殺到して容赦なくビームを撃ち込んでゆく。〈アルマイヤー〉級が爆沈し、飛散する破片を縮退炉に受けた〈マヒロー〉も爆縮反応を起こして、歪んだ空間に巻き込まれた別の戦艦、別のモビルスーツが、見えない力に引きちぎられて鋼鉄の肉片を散らした。
地球でミリシャとディアナ・カウンターが衝突した時と同じだった。引火物に火がついたかのごとく、戦火は瞬く間に全艦に伝播して火勢を強めた。「冬の城」とともに葬られた旧世界の記録、宇宙大戦の映像資料が亡霊と化し、この宙域に投影されているかのようだった。恐怖と憎悪、流される血だけは現実のままに――。
広げた羽根に無数の爆光を映して、〈ムーンバタフライ〉は静止していた。モノアイ・センサーを保護する透明装甲にも宇宙を灼く光球が映え、乱舞する反射光が涙の筋に見えた。
(この流血をもって、人類に再び安息を……!)
怒号と悲鳴が入り乱れる無線回線に、ディアナが吹き込んだのはそのひと言だった。昂る女王の思惟がファンネルを覚醒させ、百に及ぶ荷粒子砲台が一斉にコンテナから放出されると、自らスラスターを噴射して戦場へ突入してゆく。遠望すれば、それはまさに蝶の羽ばたきが鱗粉を散らす光景になって、闇の虚空に金色の光の粉をまき散らした。
ビーム砲とスラスターからなる本体に、姿勢制御用のイオン放射板を持つファンネルは、母体である〈ムーンバタフライ〉のシルエットをそのまま踏襲していた。〈ムーンバタフライ〉が揚羽蝶なら、こちらは紋白蝶といった形状のファンネルが群れをなし、気流に乗って大陸を渡る蝶の集団のように、ビームの光軸と爆光が咲き乱れる宇宙を翔ける。いくつかの艦がその金色の渦に呑み込まれ、狂ったように撃ち散らす迎撃の火線も虚しく四散していった。
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溶解したドームの天井を抜け、まだ灼熱の色が消えない亀裂も抜けて、オールビュー・モニターが宇宙の漆黒に塗り潰された瞬間。メガ粒子の太い線条が目前をかすめて、ロランは咄嗟に〈ターンA〉の機体をビームの飛来方向に走らせた。
シールドにもなるメガ粒子砲を右肩に装備した〈マヒロー〉が、三十キロ先の空間で動揺した素振りをみせる。二射目のエネルギー充填《じゅうてん》に入ろうとしたところを、常識を無視してこちらがまっすぐ突進したからだ。メガ粒子砲の狙撃をあきらめ、〈ターンA〉の足もとに機体を滑り込ませた〈マヒロー〉は、左腕のハンドガンを即座に撃ち放ってきた。
劣化プルトニウム弾が連続して撃ち出され、複数の火線が〈ターンA〉を取り囲む。こうしている間にも、ディアナの身に危険が及ぶ。回避行動を取りつつ、メガ粒子の加速器を回転させ始めた〈マヒロー〉を視界の端に捉えたロランは、やらなければやられる、と無意識に判定を下した。ディアナを連れ戻すまでは死ねない、そう叫ぶ胸を免罪符にして、背部のラックに収めたビームライフルを引き抜いていた。
ラ、ラ……。歌う声が脳裏に弾け、周囲三六〇度を包む殺気が針になって肌を刺激する。その一点、ひときわ濃い殺意の凝縮を感じ取ったロランは、照準画面《レティクル》がターゲットを捕捉するより早く、射界を固定してトリガーボタンを押した。
ビームライフルが荷電粒子の塊を射出し、ピンク色の筋が〈マヒロー〉の胴体を貫く。メガ粒子砲を誘爆させ、四肢を散らして吹き飛ぶ〈マヒロー〉を見たロランは、「やれた……!?」と無意識に発した声をすぐに呑み込んだ。〈マヒロー〉が爆発した刹那、コクピットから放り出されたパイロットの姿を見てしまったからだった。
大量の破片とともに虚空に飛んだパイロットの体は、白い爆光に人の形を浮かび上がらせたのも一瞬、すぐに胎児さながら縮こまり、骨も残さず燃え尽きてゆく。その向こうでは〈ジャンダルム〉級が艦底に炎を走らせている姿があり、モビルスーツがすれ違いざまにとどめのビームを撃ち込むと、内部から盛大に爆発してロランの視界を塞いでいった。
血の色に灼熱して、バラッとまき散らされた破片は臓物を連想させた。ひしゃげた鉄骨に混ざり、ちぎれた人の手足が大量に飛んだように見えたのは錯覚ではないだろう。アームレイカーを握る手のひらが震え出し、ロランは夢中でフットペダルを踏み込んだ。機体の移動にあわせて乱舞する手足は見えなくなったが、全天を覆う爆光から逃れることはできず、十人、百人の命を消し去るいくつもの光球がロランの網膜を焼き続けた。
「冬の城」で見た映像資料と同じ、無慈悲で、周到で、残酷なまでに美しい光の狂宴。動悸が早まり、体の奥底でとぐろを巻く黒い衝動が身じろぎして、ロランは自分でも気づかないうちにディアナの姿を捜し求めた。この狂気の渦に搦《から》め取られる前に、ディアナ様を見つけなければならない。力づくででも捕まえて、トレンチ・シティに、ソシエたちのところに戻らなければならない――。殺気と恐怖で押し固められた空間に亀裂が入り、ぴんと音をたてて直進する硬質な意志が脳を貫いて、金色の鱗粉《りんぷん》を散らして飛ぶ巨大な蝶がロランに知覚された。
ひと粒ひと粒が蝶の姿をなす鱗粉は、金色の奔流になって進路上の艦艇に襲いかかり、戦艦ほどの大きさの親蝶がその後に続く。殺到するビームに揚羽の模様を焼かれながらも、羽根の全周に装備されたメガ粒子砲、体毛さながら全身を覆うミサイルを撃ち散らして、脇目も振らずに突進する蝶の行く手には、殺気の源泉である黒い澱み――〈ウィルゲム〉がある。見えないはずのものを見、感じられないはずのものを感じて、唐突に噴きこぽれた涙がロランの視界をぼやけさせていった。
あのやさしいディアナが、こうも昂っている。夥しい死骸の山を築いて広がる怒りと哀しみに圧倒され、自分には受け止めきれないと理解した心が、どうにもできずにただ泣いているという感じだった。接近警報が鳴り響き、〈ウォドム〉のダチョウに似たシルエットが急接近するのがわかったが、無力感に打ちすえられた頭は恐怖さえ感じず、機械的に動いた手足が自動的に対処行動を起こしていた。
ビームライフルの直撃を受けた〈ウォドム〉の頭部が砕け、誘爆した内蔵ミサイルの光が滲んだ視界に広がる。頭を失った〈ウォドム〉の残骸が炎の中から飛び出し、ロランは回避する間もなくそれを正面から受け止める羽目になった。
慣性の力と月の引力に引きずられて、自機に倍する質量にのしかかられた〈ターンA〉が月面に落下してゆく。運河に衝突したら都市に被害が出る、と最低限の思考を組み立てたロランは、ビームサーベルを引き抜いて、巨大な脚ばかりが目立つようになった〈ウォドム〉の機体を両断した。
二つに分かれた〈ウォドム〉の残骸は、月面に表出する運河の南北にそれぞれ落着し、爆発した。粉々になった岩石とレゴリスの砂塵が吹き上がる中、スラスターを噴かして着地したロランは、見慣れた運河のガラス面を視界に入れて、ぎょっとなった。
「発光している……?」
幅二キロにわたって月面を一周するガラスの河が、太陽の反射光とは異なる、うちから滲み出る光に包まれて白く輝いていた。よく見れば、光はガラスの下を環流する二条の運河の狭間、おのおの西回りと東回りに流れる運河を隔てる壁から発している。幅二百メートルはあろう壁には、ガラス面に接して巨大なチューブが埋設されており、メガ粒子の加速器とそっくり同じ光を放つそのチューブが、運河全体が発光しているように見せかけているのだった。
〈カイラス・ギリ〉。不穏な語感がなんの前触れもなくよみがえり、ロランは全身を鳥肌だたせた。
「こいつ、荷粒子砲そのものじゃないのか……!?」
月面を一周する粒子加速器――それはつまり、トレンチ・シティ全体が巨大なビーム兵器になっていることを教えていた。憎悪にこわ張ったハリーの背中が脳裏をよぎり、敬愛する女王に背を向けてまで――いや、愛するからこそまっとうしなければならない、その壮絶な復讐の覚悟が胸を貫いて、ロランは魂の奥底からわき上がる悲鳴をあげていた。
「やめろーっ!」
運河のガラス面を突き破り、直径二百メートルに及ぶ光の柱が立ち昇ったのは、その直後だった。
幾層にも重ねられた強化ガラスは瞬時に溶け、周辺の岩盤と溶融して、月を軌道から外してしまうのではないかと思わせる衝撃波が、それらを四方に飛散させた。押し寄せるレゴリスと岩の嵐が〈ターンA〉を弾き飛ばし、骨という骨が砕けるほどの攪拌《かくはん》に見舞われたコクピットの中で、ロランは屹立した光の柱に無数の光球が実るのを見た。
射線上にいた艦艇やモビルスーツが、一瞬に消滅、爆発したことを告げる光球だった。膨大なエネルギーの塊が戦場を切り裂き、星の輝きも打ち消して暗黒を驀進《ばくしん》する。その先で、地球は夜のベールを半身にまとい、青いビー玉のような姿を半分ほど闇に溶け込ませていた。
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真空中ではほとんどエネルギーを減殺されることもなく、まっすぐ地球に到達した〈カイラス・ギリ〉のビームは、大気圏を突破すると同時に周囲の空気を白熱させ、三キロにまでその直径を膨らませた。天上から振り下ろされた鉄鎚は北アメリア大陸を直撃し、照射角度の変更と月の公転速変にあわせて、灼熱する焼け火箸が数十キロにわたって大地を抉っていった。
それより少し前、フィル・アッカマンはルジャーナ領の首都、オールトンを目前にしていた。これまでの戦闘で二隻の僚艦が沈み、〈ソレイユ〉もガス兵器を抱いた複葉機の特攻を受けて、船体の三分の一を閉鎖する憂き目にあっていたが、撤退して戦力を立て直すという発想はフィルにはなかった。
敵はしょせん蛮族だ。言葉を喋り、火を使う猿でしかない者たちだ。猿を相手に撤退する軍隊はない。そんな決定を出す者の頭は猿以下だ。自分は猿以下ではないから、このまま軍を進める。将兵や執政官たちは先刻から撤退を進言しているが、それは自分を追い落とす策略に決まっている。猿以下の低能指揮官と烙印を押し、更迭しようという腹だ。
その手に乗るか。おれはバカじゃない――。爆発で抉られ、赤土をむき出しにした大地に積み重なる屍の山、モビルスーツや装甲車の残骸を透明装甲ごしに眺めて、フィルは最後にオールトンの街並みに視線を固定した。
領主が専制的な施策を講じている上、工業を主幹産業にしているルジャーナの首都は全体に無愛想で、イングレッサ領のノックスのような洒落っ気がなく、どこか沈んだ印象さえ与える。硝煙が薄墨になって眺望を煙らせていればなおさらで、街の中央に聳えるリリ・ボルジャーノ城だけが、倉庫かと思わせる作りの建物が並ぶ中に場違いな瀟洒さを際立たせていた。
幼くして病死した領主の娘を偲び、十年ほど前に改名されたという城の中には、いまイングレッサ・ミリシャとルジャーナ・ミリシャの残存兵力が集結している。城の周辺に残ったモビルスーツを配置し、住民を避難させた街のそこここに高性能爆薬――データベースにはTプラスの名称で記録されていた――を設置して、文字通りの籠城戦に入る構えだ。メガ粒子砲の十発も直撃させれば掃討できる数だったが、フィルには別のプランがあった。
「大佐、正気なのか!? オールトンを核攻撃するなどと……」
ブリッジに飛び込んでくるなり、つかみかかる勢いでそう言ったのはミラン執政官だった。参謀たちから聞いたのだろう。予測していたことなので、フィルは振り向きもしなかった。
「主砲の掃射でことは済むはずだ。これ以上の戦禍の拡大は、地球の自然をもういちど死滅させる結果になりかねんぞ!」
「ボルジャーノ城を射程距離に捉えるには、街中に艦を入れねばならん。自滅覚悟でTプラスとかを使われてみろ。機関の出力が五十八ーセントに満たない〈ソレイユ〉は沈むぞ」
「だったらいったん軍を退くことだ! 三日三晩の戦闘で兵も疲れきっている。戦力を立て直して、万全の態勢を整えてから……」
こいつもか。腹の底に堆積する重油に火がつき、フィルはミランの灰色の瞳を睨み据えた。息を呑み、一歩しりぞいた痩身を見下ろして、「これは決定である!」の一語を吐き捨てた。
「たとえ北アメリアが死滅しようとも、地球にはまだ大陸がある。蛮族にはここで徹底的に恐怖を味わわせて、以後の抵抗の気運を挫く必要があるのだ。火を使う猿どもに、火の熱さを教え込んでやるのが我々の……」
そこで不意に自分の言葉が聞こえなくなり、フィルはきょとんとなった。ミランと顔を見合わせ、慌てて喉に手をやったフィルが、次に見たものは青白い光に包まれたブリッジだった。
天井をドーム状に覆う透明装甲が沸騰し、飴細工さながらぐにゃりと曲がってゆく。なにが起こっているのかわからず、ただ逃れようのない死を直観した本能に衝き上げられて、フィルは恐怖の中で満腔を開いていた。
「ママ……!」
夢中で叫んでしまってから、またバカにされると咄嗟に思いついたフィルは、音が聞こえなくなっていることを思い出してほっとし、すぐにまたぎょっとなった。いつの間にか目の前に立っていた人の顔が、聞いたぞというふうにニヤと口もとを歪めたのだった。
バカな男。テテス・ハレの肉厚な唇が言葉の通りに動き、両目に溢れ出した涙がその姿をぼやけさせた。違う、おれはバカじゃない――絶叫した途端、溶け落ちた透明装甲から熱波が吹き込み始めて、フィルの涙を蒸発させ、皮膚と毛髪を焼いた。ブリッジはコンマ数秒の時間で瓦解し、押し寄せる装甲板や鉄骨の奔流の中に、フィル・アッカマンの肉体を消滅させていった。
天から降り注ぐ〈カイラス・ギリ〉のビームが、〈ソレイユ〉を直撃したのだった。随伴する三隻の〈アルマイヤー》級も瞬時に蒸発させ、地上に突き立った荷電粒子の嵐は、数百メートルの深さまで大地を抉りながら、オールトンに直進した。途中にあった戦場の痕跡などはたちどころにかき消え、後には幅数キロにわたって地面を抉り取られた平原が、巨大な峡谷と化して蜃気楼に揺らめくばかりだった。
その数分前、ヤーニ・オビュスは、オールトンから南に二十キロほど離れた山間地にいた。片手に弾帯、背中には部下を担いでおり、まだ十代と見えるその少年兵の左腕は、倒れてきた機械人形に潰されてぺらぺらの肉の布になっていた。
今にも切れ落ちそうなのに、垂れ下がった肉の布はなかなか外れようとせず、歩くたびに揺れ動いてヤーニの太股を叩いた。いっそのことここで切っちまおうか。五キロ先には野戦病院があるが、患者で満杯だろうし、すでに撤収している可能性もある。オールトンに最後の拠点を構える、という本部の決定が通達されたのは昨日の昼頃で、最前線に展開していたヤーニの部隊は必然、撤退もいちばん最後になった。航空部隊の援護も打ち切られた孤立無援の状況下で、生き残ったのはトラックで自分を待っている五人の部下と、背中で気絶している少年兵ひとりなのだ。
このまま放っておいたら壊疽を起こして死ぬだけだ。ミリシャに入隊する前は、実家の農家で家畜の解体もやっていたから、腕の切断くらいならなんとかやれる自信があった。機械人形の残骸や横転したトラック、人の死体が無造作に転がる戦場跡を見回し、ヤーニはノコギリか斧の代わりになるものを捜した。弾帯の炸薬を使ってトバす手もあったが、下手に音をたてて、まだ周辺をうろついているかもしれない敵の目を引きたくはなかった。
(……オールトンに集結したミリシャ兵士は意気軒昂である。ルジャーナ領民の全面的な協力を得て、我々はリリ・ボルジャーノ城に最大最強の拠点を構築した。ディアナ・カウンターに残存するわずかな兵力では、これを打ち破ることはできない。居留地を失い、補給も増員もままならないディアナ・カウンターは、もはや軍の体裁をなしていないのだ。この緑なす北アメリアの大地を侵略の魔手から守るために、我々は今後も断固戦い続けるであろう。父祖伝来の土地から授けられた兵器、死の霧≠竍双子の悪魔≠収めたボンベはまだ無尽蔵にあるのであって……)
バッテリーが生きているのか、ひしゃげた運転席に、血まみれの下半身だけが残っているトラックから無線の声が聞こえてきた。悲鳴に近い、うわずった声で喋り続けるミハエルの声を遠くに聞きながら、こりゃあダメだ、とヤーニは思った。
理屈はない。自分がダメと感じたら、それは間違いなくダメなのだ。子供の頃、仲間たちと連れ立って河を樽で下ろうとした時も、荒れ狂う河面を見てヤーニはダメだと感じた。日頃は猪突猛進を身上にしている体が、その時ばかりは無条件に河に入るのを拒否したようだった。仲間たちには意気地なしとからかわれたが、ヤーニは河下りを中止して家に帰った。その晩、七人の仲間のうち、四人が溺死したと学校の教師が青ざめた顔で伝えにきた。
記録的な豪雨で近隣の畑が全滅した時も、妻が肺病を患って亡くなった時も。ヤーニは事前にダメだと感じ取って、徹夜で苗を移すなり、貯金をはたいて一度きりの贅沢《ぜいたく》旅行を妻にさせるなりして、最善と思われる行動を取ってきた。図体ばかりで頭は軽いと言われ続けてきた男の、それが処世術でもあった。そんな生き方が息苦しくなり、ダメと思おうがなんだろうが、命令に従って戦わなければならない軍隊に居場所を求めたのだが、そうして自分を騙し、部下が無駄死にするさまを目撃し続けて、溜まりに溜まった鬱積《うっせき》を爆発させたのが、今のミハエルの声だった。
「冗談じゃねえや……」
ミリシャは負ける。ムーンレィスにではなく、それよりもっとまがまがしいなにか、己のうちから染み出す毒のようなものに負けて自滅する。ディアナ・カウンターも同じだろう。土地をめぐって争っておきながら、大地を焼き、畑を枯れさせて、結局は人の住める土地をますます狭めてしまった。ようやく活躍の場を見つけた、人生の鬱屈から逃れられたと錯覚した自分同様、あまりにも律儀に戦争という害悪に取り組んでしまったのだから。
オールトンに行ったところで死ぬのを待つだけだ。残った部下を連れて田舎に逃げるか? ふと思いつき、老母に任せきりの畑はどうなっているだろうと考えかけたヤーニは、「……水」と耳元に呟いた少年兵の声を聞き、足を止めた。
腰の水筒に多少の残りがあった。「待ってろ」と応えて、ヤーニは腰を屈めて弾帯を置き、水筒に手をのばした。背後に閃光が発し、地面がゼリーのように波打ったのはその瞬間だった。
少年兵を下敷きにしてはまずいと、前に倒れようとした体がふわりと宙に浮き、続いて衝撃波が巨大な棍棒になって背中を打ちつけてきた。天地が回転し、爆弾か? と自問した時には機械人形の残骸が目前に迫り、ヤーニはぎゅっと目を閉じた。なにかが背中に当たって息ができなくなった刹那、顔面が土で塞がれ、吹き上がった土砂がその上を覆って、空気が沸騰するザーッという音を聞こえなくした。
ごうごうと唸《うな》る地鳴りが収まり、ビームが擦過した後の薬くさい臭いが漂い始めた頃、ヤーニは土の中から這い出した。頭上にカカシ≠フ巨大な脚が張り出しているのが見え、これが壁になってくれたお陰で死なずに済んだとわかったが、なぜか助かったという気にはなれなかった。ふらつく体を引きずって、ヤーニはカカシ≠フ脚の下を抜けた。
あちこちに点在していた残骸は衝撃波で吹き寄せられ、幾重にも重なった堆積の筋がきれいな同心円を描いて、戦場というより廃品置き場を想起させた。なにが起こったのか考えるのを後回しにして、水筒を片手に少年兵を捜し回ったヤーニは、山積みになった機械人形の屍の中にその姿を見つけた。
カカシ≠フ頭の左右に突き出たアンテナに腹を貫かれて、少年兵は宙吊りになったまま、奇妙に穏やかな寝顔をこちらに向けていた。潰れた腕は肩ごとなくなっており、切断する必要も、水を飲ませる必要もなくなったと理解したヤーニは、地平線を埋めて聳立する黒い壁に視線を移した。
数千メートルの高さにまで舞い上がった大量の土砂が、瀑布になって天と地を繋いでいる。質感はキノコ雲そっくりだが、例の核爆弾とかいう代物を一度に百個爆発させたとしても、ここまでの光景にはなるまい。なにかに似ている……と記憶をまさぐり、いつか写真で見たオーロラだと思いついたヤーニは、土の色一色に塗り潰された醜悪なオーロラとも、天から降ろされた暗幕とも取れる土砂の壁を、飽かずに眺め続けた。
ミハエルの声はもう聞こえなかった。無線が壊れたせいもあるが、それ以前にミハエル自身がいなくなったのだろう。オールトンを呑み込んだ土砂の壁を見上げ、ミリシャ本部の壊滅を確信したヤーニは、帰属すべきものをなくした喪失感ではなく、ひとつ肩の荷が下りた安堵感を抱いて歩き出した。
早く部下たちが待っているトラックに戻らなければならない。森の木々が遮蔽物になっていれば、彼らが生き残っている可能性もないではなかった。
三秒以下の照射時間であっても、〈カイラス・ギリ〉のビームは地球に降下《おり》たディアナ・カウンターを焼き、ミリシャを焼き尽くして、オールトンの街をまるまるひとつ消滅させた。超高熱の火柱によって土中のナノマシンは根こそぎ死滅し、まき散らされた残留放射線が空気を汚染すれば、回復間もない北アメリアの大地は、再び滅びへの坂道を転げ落ち始めたのかもしれなかった。
キースとフラン、ベルレーヌは、ベイトンルージユの荒野でその光を目撃していた。爆心地からは二百キロ以上離れていたが、直撃と同時に起こった地震は感知できたし、空を覆う噴煙の瀑布も見ることができた。
「赤ちゃん、どこで育てたらいいんだろう……」
地平線を閉ざす黒いカーテンに遠い目を注いで、フランがぼんやり呟いていた。応じる言葉があるはずもなく、キースは群青色の空に半ば溶け込んでいる月を見上げた。
|銀の縫い目《シルバーステッチ》がいつもより強い輝きを放つ月は、母星《ははぼし》の不幸を嘆いているようにも、嗤《わら》っているようにも見えた。大気上層に拡散した土砂が上空に染み出し、かつての「故郷」を煙らせてゆくと同時に、季節外れの生暖かい風がキースの頬をねぶった。
イオンの臭いを含んだ、気色の悪い風だった。「いやな臭い……」と漏らしたベルレーヌの肩を、キースは無言で抱きしめた。
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残粒子の帯が冷え、ビームの軌跡が消滅すると、地球の一点に発した鋭い光がロランの日に焼きついた。数千、数万かもしれない命を溶かし込んで、その光はどの星よりも強い輝きを放ってみせた。
運河の被害も壊滅的だった。ビームの照射に使われたガラスは一キロ以上にわたって消失し、下にある空気と水を残らず蒸発させて、空洞になったチューブだけが月面に暗い口を開けている。発射直前に上流側と下流側の隔壁がそれぞれ閉鎖し、被害を最小限に食い止める措置がなされたものの、付帯損害と片付けるには大きすぎる傷痕と言えた。
おそらくは、対異星人をも想定した最終兵器。トレンチ・シティの全住民を避難させ、月を完全に要塞化した上で使用するというのが、〈カイラス・ギリ〉本来の運用理念なのだろう。照射面は月面に表出している部分――無人区画の「沖」に限られるとはいえ、隣接する港町が無事であるとは思えない。散乱放射線は致死量をはるかに上回っている。すぐに最寄りの地下都市に避難したとしても、住民の被爆は免れないはずだった。
撃った側、撃たれた側がそろって致命的な痛みを被《こうむ》る両刃の剣。ハリーは知っているのだろうか? すべてを承知で、それでもなお〈カイラス・ギリ〉を使わなければならなかったのだろうか? 貪欲、闘争本能、エゴ。ディアナの理想を妨げるもの、ディアナを苦しめるものを残らず排除すれば、ディアナの心は平らかになる。大量殺戮者の汚名を背負おうとも、二度と目覚めることのない「冬の城」の冬眠者たちとともに、自分の魂もまた救済される。ディアナの理想に殉じると言いながら、ひとりの男として女王を愛してしまった男の、それが懺悔であり誠意。愚直な命が示せるたったひとつの愛の形だと信じて……。
ふつふつと煮えたぎる胸に「否」の一字を刻んで、ロランは〈カイラス・ギリ〉に「敵」を見る眼差しを据えた。それを愛と呼ぶのなら、それこそがエゴ。それを死者たちへの手向けと思うのなら、それこそが闘争本能のなせる独善。こうまでする権利は、この世の誰にもない――。機体を埋める砂塵と岩盤を払いのけて、ロランは〈ターンA〉の白い人型を月面から飛翔させた。
運河に沿って機体を飛ばしながら、発光する加速器のチューブをVRヘッドで素早く走査する。〈カイラス・ギリ〉が巨大な荷粒子砲であるなら、エネルギーの充填には相応の時間がかかる。次の発射までに無力化しなければならないが、どうやる? 加速器は照射角偏向用の分厚いIフィールドに防護されている。〈ターンA〉の火力では刃が立たず、第一、トレンチ・シティ全周に及ぶ加速器を破壊すれば、都市にどんな影響を及ぼすかわからない。任意の場所からビームを照射できるのでは、照射面のガラスを叩き割る手も無効。運河の長さは、月面に表出している部分だけでも八千キロを下らないのだ。
となれば、方法はひとつ。どこかに存在する〈カイラス・ギリ〉のコントロール・ルームを、一点集中攻撃で破壊するしかない。ロランは、月面を走る白色の光芒に目を凝らし、意志を凝らした。
意識が機体の速度を超え、三重のキャノピーをすり抜けて、五官が捉えられる以上の情報をロランに知覚させる。〈ターンX〉と対戦した時の感覚――途中からほとんど記憶が飛んでいる、未知のなにかが身体を貫く感覚がよみがえり、額のあたりがぼうっと熱くなると、月面に潜む赤い目の印象がロランの脳にキャッチされた。
夢とも現《うつつ》ともつかない、月に巣食う赤い目の魔物。アグリッパの赤い瞳に重なり、〈ターンX〉のメインカメラの輝きに重なったそれは、今はハリーの赤いバイザーに重なって見えた。赤い目の魔物はひとつの存在を指し示すのではなく、誰の中にもある歪んだ想念を象徴したもの。やさしさや美しさと表裏一体の、人の意識を硬直させる怨念そのもの――!
ゲンガナムの直上、運河の底面にひっそり設けられたコントロール・ルームの薄闇に、それは潜んでいる。ブレーキペダルを踏み込んで制動をかけ、ロランは機体の進路を溶解したガラス面に向けた。
運河の内部に突入、アクセスゲートを使ってトレンチ・シティに入り、地下都市の天井伝いにコントロール・ルームを目指す。最低限の行動予定を立て、ビームが穿った巨大な破れ目に〈ターンA〉を降下させようとした瞬間、レーダーが無数の飛行物体の接近を告げ、ロランは反射的に機体を右に逸らした。
同時に十数本のレーザー光が閃き、左腕に装備したシールドの表面を焦がす。不可視であるはずのレーザー光線は、この時は空間に滞留する砂塵やガラスの破片に反射して、青い光の線条をロランに見せつけた。
ビームより細い、しかし鋭く冷たい光が〈ターンA〉を狙って錯綜し、暗い谷底のような運河の裂け目から、平べったい円盤形の物体が這い上がってくる。十や二十ではきかない円盤の大群が押し寄せ、その中のひとつを捕捉した〈ターンA〉の索敵センサーが、〈BUG〉の文字をVRヘッドに表示した。
「バグだと……!?」
直径は三メートル強。明らかに無人攻撃機とわかる円盤群がそろってレーザーを撃ち放ち、接近すれば円周に装備したチェーンソーらしき刃を回転させて、自滅覚悟の体当たりを仕掛けてくる。原始的な攻撃であっても、高周波で回転するチェーンソーは装甲板を紙さながら切り裂き、レーザーは蜂の針のごとく急所を狙い撃って、機体をじわじわ苛んでゆく。ビームライフルで十機ほど撃破したものの、一向に減らないバグの群れはあっという間に〈ターンA〉を取り囲んで、ロランはビームサーベルを振り回して牽制しつつ、後退するしかなくなっていた。
拠点防衛用の無人攻撃ユニット。旧世界の人々が〈カイラス・ギリ〉に配置した番犬たちは、主人が滅び去った後も任務を忘れていなかったらしい。無人機であるがゆえに恐れを知らず、恥も知らないバグたちは、仲間の機体を楯にしてまで〈ターンA〉に肉薄し、レーザーとチェーンソーの刃を執拗に閃かせる。その切っ先は〈ターンA〉というマシンではなく、中に在るパイロットの生体に吸い寄せられて、ロランを噛み砕こうとしているのだった。
「こいつらっ……!」
対人殺傷を目的とした無人兵器の陰惨さが肌を刺し、ロランは絶叫とともにペダルを踏み込んだ。ビームサーベルを握った手のひらを回転させ、ビーム膜の傘を楯にしてバグの群れを押し返すようにする。ビーム膜に接触したバグが爆発し、その隙をついて滑り込んできたバグが、コクピットのキャノピーに体当たりしてきた。
ガリガリとキャノピーを削るチェーンソーの音には、神経を恐怖一色に塗り込める強圧さがあった。最外部の透明装甲に亀裂が入り、思わずシートに背中を押しつけたロランは、二枚目の装甲に刃を立てたバグが唐突に光を発し、四散する光景に視界を塞がれた。
ピンク色の光軸が光のシャワーになって降りそそぎ、周囲を飛び回るバグを粉砕してゆく。殺気はなく、むしろ強く暖かなものに肌が覆われるのを感じたロランは、頭上を振り仰いで絶句した。
蝶の群れ――そうとしか表現しようのないものが金色の渦を巻き、爆発の光球を背に近づきつつあった。羽根に見えるイオン放射板が舞うように羽ばたき、殺到するレーザーを巧みに回避して、本体の先端からビームの光をほとばしらせる。いくつかのバグが光球に呑み込まれ、円盤群の布陣が崩れるのを見て取ったロランは、直近のバグをビームサーベルで切り裂いてから一気に反撃に転じた。
バグよりもひと回り大きい蝶たちが〈ターンA〉を取り囲み、防御の結界を作って並走する。蹴散らされたバグが次々後方に流れてゆくのを尻目に、ロランは蝶たちを差し向けてくれた者の姿を虚空に捜した。〈カイラス・ギリ〉のビームでかなりの数を失いながらも、いまだ数十隻の艦艇が砲火を交える戦場で、揚羽の羽根模様を見つけるのは難しいことではなかった。
複数のビームが交錯する一点、二重三重の十時火線が交わる一点に身をさらして、揚羽蝶はそれでもなお前進をあきらめずに宇宙を翔けていた。ミサイルはすでになく、羽根の全局に備えたメガ粒子砲が唯一の火力だったが、集中する火線が羽根の一枚をもぎ取ると、四方八方にのびていたビームの数も半分以下になり、揚羽の巨体がぐらりと傾く気配がロランに伝わった。
火線が容赦なくそこに集中する。羽根の付け根から鱗粉が散ったが、それは母機を守る子機のスラスターの光ではなく、機体から散らばった破片や伝導液の滴が太陽光を映し、きらめいているのに過ぎなかった。心臓が早鐘を打ち、なにも考えられなくなった頭を意味もなく左右に振ったロランは、周囲でバグと戦い続ける蝶の群れに呆然と目を戻した。
「こっちはいい! ディアナ様を守れ!」と怒鳴り、ビームサーベルを振り回して追い散らそうともしたが、蝶たちは〈ターンA〉に張りついて離れようとせず、防御の円陣を幾重にも重ねてロランを守り続けた。ひとつひとつにディアナの心が宿り、その想いを伝えようとしているかのように……。
「もういいっ! もういいんです、ディアナ様!」
絶叫するロランの頭上で、揚羽はついにすべての羽根を散らした。蛹《さなぎ》の形をした本体ブロックが虚空を滑り、擦過するビームに身を焦がしながら〈ウィルゲム〉に突進する。小さな爆発の光が瞬き、潤んだ角膜に炎の色をぼやけさせた。
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ちょうど機械人形の格納庫に通じるエアロックをくぐった時だった。唐突に船体を震わせた衝撃に搦め取られ、キエルは壁にいやというほど体を叩きつけていた。
第二甲板の厨房で宇宙服を手に入れたところまでは覚えているが、後の記憶は半分ぼやけていて、自分がなぜここにいるのかも急には思い出せない。戦闘中はすべてのエアロックが原則的に閉鎖されるので、宇宙に出るには艦尾の格納庫を使うしかないと考えたのではなかったか? 壁や天井に何度も打ちつけられるうち、痛みの中からそれらの記憶が浮かび上がってきて、キエルは目の前を横切ったエアロックのレバーを夢中でつかんだ。ヘルメット内にこもる自分の荒い息を聞きながら、反動にもてあそばれる体をどうにか制御して、薄暗い格納庫のがらんどうを見渡した。
ひきちぎれた鉄板や鉄骨、機械油らしい茶色の液体が玉になって漂い、機械人形が出払った後の格納庫を汚していた。その向こうに機械人形の頭とわかる巨大な金属の塊があったが、それは〈ウィルゲム〉が搭載している機械人形ではなかった。シャッターを突き破り、機械人形の整備に使うベッドをなぎ倒して横たわるその物体は、〈カプル〉の四、五倍はあろう機体の半分を格納庫にめり込ませて、浜に打ち上げられた魚のようにキエルを見返していた。
ペールグリーンの装甲はところどころ破れ、擦過したビームが全体に焦げ跡を作っているものの、蛹の形をした機体には見覚えがあった。アグリッパが〈ムーンバタフライ〉と呼んでいた機体、ディアナ・ソレルの機械人形だ。揚羽の羽根をうち枯らした機体を見上げ、どうしてディアナの機械がここにあるのかとぼんやり考えたキエルは、ヘルメットの中に鳴り響いたアラーム音に身を硬くした。
氷を当てられたような、皮膚がひきつるような痛みが腿のあたりに走り、分厚い手袋に覆われた手で探ると、小さな破れ目にひとさし指が引っかかった。衝撃ではね飛ばされた拍子に裂けてしまったらしい。空気漏れ、窒息死という言葉が頭を駆け抜け、キエルは慌てて破れ目を手のひらで押さえた。アラーム音は一向にやまず、息苦しさが全身を締め上げ始めて、たまらずに艦内に戻るエアロックに手をかけた。
衝撃で壊れたのか、安全装置が働いているのか、いくら開閉レバーを動かしてもエアロックの自動扉が開く気配はなかった。氷を当てられた冷たさは火傷に似た痛みに転じ、肺が酸素を求めて灼熱する。声にならない悲鳴を喉から搾り出しつつ、キエルは夢中でエアロックの鉄扉を叩いた。
気圧が急速に下がり、眼球と舌が膨らんでゆく感覚がはっきりわかる。こんなのはいやだ、こんな汚い死に方はいやだ。一瞬前まで自らの消滅を願っていた心をよそに、臓器という臓器、細胞という細胞が等しく生を渇望して、キエルはみもふたもなく扉を叩いた。痛い、苦しい、死ぬのはいやだ。死にたくない。誰か助けて……。
不意にうしろから羽交い締めにされ、キエルはエアロックから引き剥がされた。床と壁の区別もわからなくなり、つかめるものを捜して手足をばたつかせるうちに、アラームが止まり、代わりに酸素の流れる音がヘルメットを満たしてゆく。ひきつっていた皮膚がじわりと弛緩し、萎みきった肺が空気で膨らんで、キエルは全身で呼吸をした。涙や汗、涎でべとべとになった顔を反射的に拭おうとして、ヘルメットに思いきり手をぶつけてしまった時、ようやく目の前に立っている人の姿に気づいた。
光の加減でヘルメットの中の顔は見えなかったが、白と黒に塗り分けられた宇宙服、ヘルメットの側面に描かれたソレル家の家紋を見れば、誰であるかは想像がついた。
破れ目に補修用の絆創膏《ばんそうこう》が貼られた自分の腿を見、もっとも助けられてはいけない人に助けられてしまったらしい、と理解したキエルは、床に尻を押しつけたまま、どうすることもできずにディアナ・ソレルを見上げた。
やはり補修用の絆創膏を貼った脇腹に手を添え、やや上半身を折り曲げるようにしているディアナは、無重力でなければ今にも倒れてしまいそうな様子だった。絆創膏に赤黒い染みが浮き出ているのに気づいた途端、膝を折り、そっとヘルメットを近づけてきたディアナの顔が視界いっぱいに広がって、キエルは目を逸らす間もなく青い瞳と視線を合わせた。
(もう一度、服を取り替えてくださいませんか……?)
接触回線が震える声を届けると、二枚のバイザーを挟んだ先で自分と同じ顔が微笑んでみせた。なんの含みもない、悲しいまでにやさしい微笑だった。ボストニア城で一緒に寝た時の記憶、互いの服を取り替え、鏡の前で笑い転げた時の記憶が鮮明によみがえり、それはすぐにぐしゃぐしゃにかき乱されて、自分がしてきたこと、なくしてしまったものの重さがキエルの胸を潰した。
いくら悔いても時間は逆戻りせず、なくしたものも二度と戻ってはこない。消えてなくなりたい衝動に駆られ、今はそれさえもできなくなった自分に気づかされて、キエルは悄然と目を伏せていった。
もう死ねない。精神を押しひしげる死の苦痛と恐怖、生を希求してやまない肉体の慟哭を知った後では、自分で自分の命を絶つことなどできない。どれほどの絶望、どれほどの恥辱と罪悪にまみれても、命がある限り生き続けなければならない――。もはや後悔もなく、ゴミ屑同然になった己の身体ひとつを受け入れて、キエルはディアナの顔を見返した。目で頷くと、いつも以上に頬を白くしたディアナも黙って頷き返し、ヘルメットの中を漂う血の粒がゆったり上に流れた。
間もなく数人のクルーが慌ただしく飛び込んできて、格納庫にめり込んだ〈ムーンバタフライ〉の処理が開始された。二人は喧噪を逃れて第二甲板に向かい、キエルが宇宙服を手に入れた厨房で互いの服を取り替えた。
キエルはディアナの化粧と髪型をしたままなので、キエルが脱ぎ捨てたディアナ・カウンターの制服をディアナが着れば、それだけで二人の入れ替わりは成立した。ディアナの怪我は思った以上にひどく、宇宙服をぬぐと、ずたずたに裂けた脇腹からゴルフボール大の血の玉がいくつも溢れてきて、キエルは自分でも気づかないうちに着替えを手伝っていた。
自分と入れ替わったディアナがなにをしようとしているのかは、聞くまでもないことだった。わかっていながら手伝いをしている自分は、つくづく節操のない女だと我ながら呆れたが、狂ってしまった歯車を止めるには必要な作業だとも思えた。
感情に任せて人を裏切り、傷つけた罪。女王の名を騙り、戦争をけしかけた罪。重すぎる罪の数々を今さらあがなえるはずもなく、もうひとつ罪を重ねることでけじめがつけられるのなら、それは進んで甘受しよう。そう決めた心と体が、キエルにディアナの手伝いをさせているのかもしれなかった。
血液を固めるスプレーを脇腹の傷口に吹きつけ、キエルの手を借りて上着に袖を通したディアナは、額に浮き出た脂汗を拭ってから血まみれの字宙服を引き寄せた。懐を探り、取り出したのはコンパクトに似たプラスチックケースだった。両手でしっかりと握り、胸に強く押し当ててから、ディアナは思いきったようにキエルにそれを差し出した。
「キエルさん、あなたの言ったことは本当です。私も、恋心に浸って人生をまっとうしたかった……」
恋愛に生きられず、理念だけで月と地球を往復しているディアナは、もう女ですらない。ビジュアル・データ室で吐いた自分の言葉が思い出されるより前に、キエルはディアナからコンパクトを受け取り、蓋《ふた》を開いてみた。
七色の光が発し、並んで映る男女の立体写真《ホログラム》が手のひらの上に浮かび上がった。古いデザインのドレスで着飾った、今より少し幼く見えるディアナ。その隣で緊張した顔をしている正装の男は、あのウィル・ゲイムに似ていた。月の姫君と恋をした先祖の遺志を引き継ぎ、この〈ウィルゲム〉を掘り出した男。気触りと謗られ、非業の死を遂げた男の先祖は、粗野な風貌の中にも理知的な光を瞳に湛えて、四年前のディアナにしっかり寄り添っていた。
返そうとすると、ディアナは首を小さく横に振り、少しはにかんだ微笑みを浮かべてみせた。いい男《ひと》でしょう? と言っている瞳を見て、キエルは今度こそ負けた、と思った。
ディアナは十分に女だ。それがわからず、男の質《たち》も見抜けなかった自分は、真に二流以下の女だ――。圧倒的な敗北感に塞がれ、立ち尽くすしかないキエルを残して、ディアナは厨房を後にした。リフトグリップの音が遠ざかり、自分と同じ顔を持つ少女、無二の親友になれたかもしれない存在が、永遠に離れていってしまったことをキエルに伝えた。
戦闘は終息に向かいつつあるのだろう。警報の音も、ビームが間近を擦過する音も聞こえず、艦内は静寂に包まれていた。よじれた心がもとに戻ろうとする力に操られて、キエルは再び機械人形の格納庫へ向かった。
機械人形がなくては押し出す術もないらしく、〈ムーンバタフライ〉は依然、格納庫にめり込んだままだった。後頭部にあるコクピットのドアが開いているのを見たキエルは、ひとりになれる場所を求めてそちらに体を流した。四、五人の宇宙服姿が溶接機を手に飛び回っていたが、魂の抜けたキエルの宇宙服が運転席に取りついても、見咎める者は誰もいなかった。
薄暗いコクピットに座ると、三重のドアが閉まり、壁面を覆うテレビジョンが部分的に作動して、仄かな明かりが半球状のレバーを照らした。右下の壁面には大きな亀裂が口を広げており、細かな鉄片に混じって血とも油ともつかない液体の玉が浮かんでいる。ディアナの脇腹から溢れる血の色を思い出したキエルは、あとどれほどその命の力が保つだろうと続けて考えてしまってから、意味不明のデータを垂れ流すパネル類を見回した。
機械人形には二度乗ったが、どちらの時も傍らにはハリーがいた。操縦の仕方がわかるはずもなく、もう自分を乗せて飛んでくれる男もいないと慨嘆したキエルは、なんでもいい、とにかくここを離れたいと心の中に叫んだ。コクピットが微かに律動し、左右の風景がゆっくり前に流れ出したのは、その直後のことだった。
完全に機能を停止したと思われた〈ムーンバタフライ〉が、自ら姿勢制御ロケットを噴射して格納庫から離脱してゆく。周囲にいたクルーが驚く素振りをみせた時には、大穴の開いたシャッターが遠くになり、〈ウィルゲム〉の船体が遠望されるようになって、〈ムーンバタフライ〉はキエルの望み通り艦を離れた。心を読み取る機械があるのかもしれないと思いついたが、ではどこに行こうか? という自問に対する答えは見つけられず、キエルは小さくなる〈ウィルゲム〉をなんの感慨もなく見つめた。
行き場のない女ひとりを乗せて、宇宙のゴミと化した〈ムーンバタフライ〉が虚空をさまよい出した瞬間だった。やっと自分に相応しい居場所が見つかったと思った刹那、凍りついていた感情の栓が緩んで、驚くほど簡単に涙がこぼれ始めた。嗚咽を堪える必要も余裕もなく、キエルは声をあげて泣いた。
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排除された〈ムーンバタフライ〉の残骸が闇に溶けきり、格段に少なくなったビームの光軸、思い出したように膨らむ爆発の光球だけが見えるもののすべてになった。旧式の二次元スクリーンにそれらの光景を見据えて、アグリッパ・メンテナーは半ば虚脱した時間を漂っていた。
わずか半日で一変した情勢、多くの命が失われた事実を認識し、思索の糧に取り込むためには不可欠な漂泊の時間だった。あるいはもうそんな必要はなく、一瞬先の予測すら立たない緊張感に身を委ねていればいいのかもしれなかったが、それでは旧世界の人間と同じ穴の狢になってしまうという自戒、百年の停滞に甘んじてきた習い性が、アグリッパに分析者の立場を取らせているのだった。
〈カイラス・ギリ〉の掃射によって、戦場の雌雄《しゆう》はほぼ決したと言ってよい。一撃で三十隻以上の艦艇が沈められたが、それらはすべて生粋《きっすい》のディアナ・カウンターの艦だった。メンテナー家に与する艦艇は直前に赤道面から退避したため、ほとんど被害を受けずに済んだ。〈ムーンバタフライ〉の攻撃でかなりの損害を被ったものの、こちらにはまだ地球を併呑するに十分な戦力が残存している。〈ムーンバタフライ〉が特攻を果たせずに墜ちた今、脅威に価するものは事実上なくなったと見て間違いなかった。
遺体は発見できなかったが、コクピットには大量の血が浮遊していたという。特攻直前に脱出したのだとしても、ディアナが生きている可能性は万にひとつもないだろう。後は〈カイラス・ギリ〉の問題だったが、これもグエンの機転で福に転じつつあった。ビームの奔流が三分の一の艦艇を葬った直後、グエンは〈カイラス・ギリ〉こそ叛乱軍の砦、討つべき敵であると全軍に呼びかけ、残存艦艇を率いて月に転進したのだ。
敵と味方が判然としない状況下において、共通して憎める敵の存在を提示した結果は、誘蛾灯《ゆうがとう》に似た効能を戦場にもたらした。〈ウィルゲム〉にいるディアナが本物か、偽物かという話はひとまずどうでもよくなり、圧倒的な火力で僚艦を焼いた〈カイラス・ギリ〉がディアナ・カウンターの敵になったのだ。ディアナ派とアグリッパ派の区別に関係なく、今はほとんどの艦艇とモビルスーツが月に針路を取っている。無論、強硬に〈ウィルゲム〉打倒を訴える艦もあったが、少数でしかないそれらは他の艦艇に順次駆逐され、戦闘は終息に至る最後の局面――掃討戦に移行していた。
どうしていいかわからない時に目的を示されれば、それに従うことで己の理性を維持しようとする。ディアナにすべての箔を剥がされた時、グエンの誘いに乗ってみせた我が身にも通じる人の無節操が、ここでも発揮されたという話だった。もはや指揮権収奪の意志もなく、アグリッパは事態の推移を淡々と見つめていた。
二千年の絶対平和が崩れ去った現実を哀しいと思いはしても、歴史の装置がそのように作動したのだと考えれば、それはそれで次の思索、新たな認識への標《しるべ》となる。二十数代に及ぶ歴代のアグリッパたちが知り得なかったことを知り、なし得なかったことをなすと想像するのは、目まいがするほど刺激的だった。むしろこうして事態に身を任せていれば、次代のアグリッパに移行する必要もなく、さらなる長寿をまっとうできるかもしれないという感触も、アグリッパはこの半日でつかんでいた。
このまま〈カイラス・ギリ〉を手中に収め、地球に降下《おり》たディアナ・カウンター、ミリシャをも従属させたグエン・ラインフォードが、新たな時代を開く英雄となるか、歴史に名を残す罪人となるか。いずれ、その帰結を間近に体験するこれからの時間は、「白の宮殿」で思索を重ねるより実りの多い時間になるだろう。物心ついた時からアグリッパになるための教育を施され、歴代のアグリッパたちが得た知識、紡いだ思索の吸収にひたすら努めた半世紀。発狂する前に安楽死を選んだ先代の跡を引き継ぎ、アグリッパという幻影の座についてからは、情動に取り憑かれたディアナの放逐をひそかに進めてきた半世紀。一世紀にわたる生涯をなげうち、この興奮と刺激に身を委ねきることはまだできないが、少なくとも今は、地球帰還に固執したディアナの気持ちがわかるとアグリッパは思う。
普通に生き、普通に死ぬ。高い精神性を永続させるより、愚かでもいい、限られた生を思う存分謳歌したいと願うのも、人がしょせんは生身の動物であるからなのだろう。業や欲を捨て去って穏やかに生き続けるなどできはしないし、できたとしても、やさしくなりすぎた人は自然に淘汰される運命をたどる。だからこそ事物を正確に認識し、人と世界の調和を実現できるニュータイプへの変革を望むのだが、過去の宇宙世紀において、ニュータイプと呼ばれた者たちがいかに無力であったことか。
二千年の絶対平和を維持してきた地球の民とムーンレィス、ニュータイプの素養を秘めているはずの現人類も、結局は欲望を目覚めさせ、宇宙大戦の地獄図を復活させてしまった。兵器として覚醒した現代のニュータイプたちが、この戦場ではなんと生き生きとして見えることか……。
「ローラめ……。よくやってくれている」
心を読んだかのようなタイミングでグエンが呟き、アグリッパは思索の束を脇にのけた。ノーマルスーツの着用を拒み、ネクタイという奇妙な布を首に巻いているグエンの視線の先で、ブリッジのメインパネルが月面運河に咲く無数の爆光を映し出していた。
〈ターンAガンダム〉が、〈カイラス・ギリ〉の防衛ユニット・バグを次々と葬っている光。〈カイラス・ギリ〉の射界を避け、南極方向から運河に接近している〈ウィルゲム〉からは、戦闘の様子を詳細に観察することができた。ディアナが差し向けたファンネルの援護も手伝って、〈ターンA〉は確実にバグの群れを押し返している。ぞろりとした不安が立ち上がり、アグリッパは艦長席に収まるグエンの方に体を流した。
ロラン・セアックというパイロットのニュータイプ能力が活性化しているのか、あるいはギム・ギンガナム同様、ターン・タイプのモビルスーツ特有のサイコミュ・システムに呑み込まれているのか。「〈ターンAガンダム〉は、正確に〈カイラス・ギリ〉の中枢に向かっているように見える」と言って、アグリッパはグエンの横顔をちらと窺った。
「あのパイロットの能力とは思えん。〈ターンAガンダム〉が持つ未知の機能が発動しているのかもしれん」
「いいじゃありませんか。我々がやりやすいようにしてくれているんです。もっとも、二度と大砲が使えないほど壊されてしまっては困るが」
涼しい声の中にも、動かない石を思わせる強硬さを覗かせてグエンは答えた。自分は〈ウィルゲム〉の勝利を確信していると言い放ち、ノーマルスーツの着用を断固拒否した時の横顔がそこに重なり、アグリッパは微かに眉をひそめた。
アグリッパもノーマルスーツは着けていない。ここで敗退すれば後がないという思いは同じだが、それだけではない、どろりと澱んだ意地がグエンにはあるように思える。最初の印象はもっと軽やかな青年であったが……と思いつつ、アグリッパは「相手は旧文明を埋葬したモビルスーツだぞ」と釘を剌した。
「〈カイラス・ギリ〉を破壊した後、我々に向かって牙を剥かないという保証はどこにもない」
「しょせんは乗り物ですよ。扱う人間次第でどうとでもなる。現にローラは、わたしのために戦っている」
艦長席を離れて流れたグエンの背中は、操舵コンソールの手前で止まった。頭上のスクリーンを見上げ、「……口ではなにを言ってもね。可愛い奴ですよ」と付け足された低い声に、アグリッパはグエンが意地になっている理由がわかった気がした。
ロランをローラと呼ぶ心理と、当のロランにそれを否定された無念。その程度のことだが、その程度のことに左右されるのも生身の人の哀しさなのだろう。もっとも、半世紀も前に興味も能力も失っているアグリッパには、グエンの襖悩の中身はわからず、特殊な性的嗜好の持ち主にはそれなりの苦労があるらしいと、おぼろげに想像するのみだったが。
「さて、戦況もひと段落したようだし、わたしは自室で小休止を取ってきます。少しの間、指揮をお願いします」
そう言って振り向いた時には、グエンはなにかを洗い流したようなさっぱりした顔だった。自分と、自分の配下しかいないブリッジを見回し、アグリッパは上目使いを寄越したミドガルドと視線を絡ませた。
信じるつもりになったのか、なめているのか。素早く考えをめぐらすうちに、「一応、連絡係を置いておきます」とグエンの声が続いて、ノーマルスーツを着込み、ライフルを構えたミリシャ兵の一団がどやどやとブリッジに入ってきた。
「なにかあったらいつでも呼んでください」
ニヤと口もとを歪めると、グエンは隊長らしい男と二言三言交わしてブリッジを出ていった。信じられているわけでも、なめられているわけでもない。呆気に取られた顔のミドガルドから目を離して、アグリッパも口もとを歪めた。歴代のアグリッパが何人いるのかは定かでないが、自嘲まじりの苦笑を浮かべたアグリッパは自分が最初だろうと思うと、少
し愉快だった。
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ドアを開け、ネクタイを緩めながら執務室に足を踏み入れたグエンは、こちらと目を合わせるとぎょっと体を硬直させた。
しばらくは声も出せないという顔だった。ばれたか……と不安になりながらも、ディアナはソファに座ったまま無表情を返した。グエンの目が探るように細められ、薄く開いた唇が小さく動いて、それからようやく「……いたのか」の一語が搾り出された。
執務室にキエル・ハイムがいたからといって、それほど驚く理由もあるまい。キエルとの間になにかあったのだろうか? 考えかけて、吐きそうなほどの眠気に襲われたディアナは、グエンの態度を無視してソファを離れた。鎮痛剤が効いているために、ただでさえ少なくなった血が脳に回らなくなっている。余計なことを考えている余裕はないと自覚して、壁際の食器棚の方に体を移動させた。
グエンの趣味で持ち込まれた高級家具の数々は、すべて金具でしっかり床に固定されていた。無重量環境に備えたのだろうが、絵画を収めた額縁の四隅にテープが貼られ、天井のシャンデリアが傾いた形で静止している光景は、悪趣味な前衛芸術の中に迷い込んだような錯覚を抱かせる。吐き気をもよおす部屋の風景をなるたけ見ないようにして、ディアナはコーヒーのチューブを用意した。立っていても体に負担がかからない無重力が、この時ほどありがたく感じられたことはなかった。
「ひどい男と思っているだろうね」
その間に、ソファの上に体を流したグエンが言っていた。思わず聞き返しそうになるのを堪えて、ディアナは無言を通した。
「言い訳はしないよ。使いたくない表現だが、幼児期の精神的外傷というやつかな。自分でもどうにもならないんだ」
亜麻色の髪を指で乱し、やや顔をうつむけたグエンの背中は、軽い口調と裏腹に苦悩で塞がれていた。ディアナはソファの後ろからコーヒーのチューブを差し出し、グエンが受け取るのを待って再び食器棚の方に戻った。
「十歳になるまで、城ではずっと女の格好をさせられて、祖父の玩具にされる子供時代を過ごしてきたんだ。多少は歪みもするさ。祖父が痴呆症にかかっていることは知っているだろう? 母が病死して、父が後を追うように死んだショックでおかしくなったとされているが、でたらめだ。脳梅《のうばい》だよ。倒錯主義者のなれの果て、自業自得だ。さすがに孫に感染《うつ》しはしなかったがね」
驚きは、どこかでやはりと思っている胸の中で分解され、哀れと感じる心だけがディアナに残された。車椅子を足代わりにしていたグエンの祖父――メッサー・ラインフォードの姿を思い浮かべようとしたが、出てくるのはいつでも一点に注がれていた昏《くら》い目の印象ばかりで、顔つきもろくに思い出せるものではなかった。
「ついでに言うなら、母も病死じゃない。わたしを玩具にしていることを知られた祖父の差し金だ。わたしを連れて城を飛び出す前に、しかるべき手を打ったというわけさ。それを知った父が自殺すれば、わたしは祖父を頼るしかなかった。女を演じさせられながら、男としてあろうとするのは容易なことではなかったよ。ローラに言われるまでもなく、スカートを履かされていたんだ。そんな子供が大人の男になるには、必要以上に男をやってみせる必要があるだろう? 工業化にしても、政治的交渉にしても、わたしには人並み以上にやったという自負はある。ただ一点……あれほど嫌悪していながら、祖父の倒錯主義を引き継いでしまった因果を除いては、ね」
そういうグエンだから、スカートを履け、といったロランンの言葉が消えない傷になり、過剰な破壊行為を引き起こす一因にもなったのだろう。それがすべてではない、でも無視はできない一因。百五十年前の恋人が眠る土に還りたいという、誰にも告げられない衝動に駆られて、地球帰還作戦を急いだ自分と同じように。傷の痛みより重く鋭い、心の痛みにじっと耐えて、ディアナは食器棚に隠しておいたものを手に取った。
理念や大義を掲げておきながら、どうしようもなく感情に振り回される一方で、感情があるからこそ豊かでもいられる。それが生身の体の宿命であるなら、生身の体が迎えるべき帰結を迎えよう。すべてに決着をつけて、安息を得よう――。痺れる手のひらにそのための道具を握りしめて、ディアナはグエンの正面に体を流した。
「しかしね、これで終わりじゃない。月と地球を平定して、科学文明の戸口を開く大事業をなし遂げたら、わたしはわたし自身を征服できる。ローラだって、今もわたしのために働いてくれているんだ。彼を屈伏させて、月の技術をすべて手に入れたら、君と……」
グエンの顔が上がり、なにかにすがりつかなければいられない脆さ、哀願を含んだ愛想笑いが褐色の口もとを歪めた。
ああ、この人もやはり男だ。本能的に理解したディアナは、それを最後に自動拳銃の銃口をグエンに向けた。
微笑を凍りつかせたまま、表情をなくしたグエンの目が銃口をすり抜けて脇腹に向けられる。赤黒い血の色を見、続いて顔を見上げたグエンが、ディアナ……と唇を動かすより先に、ディアナは引き金にかけたひとさし指にほんの少しの力を込めた。
轟音が執務室をつんざき、銃弾がグエンの体をソファから押し出すと、ディアナも発射の衝撃で後ろに飛ばされた。壁に背中を打ちつけた拍子にびりっという音が弾け、脇腹の傷口が裂けたと思いつく間もなく、鉄と塩の入り混じった臭いが喉元までこみ上げてくる。銃口から硝煙をたなびかせて目の前を行き過ぎる自動拳銃、ルビー色のシャボンになって漂う大小さまざまな血の玉、頭蓋の中でこだまする出血の音らしい川のせせらぎ。反動で再び前に押し返されながら、ディアナは体に残っていた命の力が静かに、確実に抜けてゆくのを感じていた。
四肢をだらりと投げ出し、ゆっくり回転する体を止められずにいるグエンも、同じ心境なのだろう。左胸から噴き出し続ける血の玉をじっと見つめ、「こんな……こんな最後……」と呟くグエンを抱きとめたディアナは、ほとんど感覚の失せた腕でソファの背もたれをつかみ、絨毯の敷き詰められた床に体を近づけた。
意味はない。が、地球の大地で生まれ育った体は、末期《まつご》の際《きわ》を床の上で迎えたいのではないかと想像したのだった。濃霧のように立ちこめる血の臭いの中、グエンを床に押しつけるようにしたディアナは、自分もその上に重なって体の力を抜いていった。
「まだ……なにもできてはいないんだぞ……」
天井を見据えて動かないグエンの瞳が滲み、舞い上がった透明な雫が血の玉に混ざった。無念に打ち震える肉体の慟哭を全身で受け止めて、ディアナは次第に弱まる胸の鼓動を聞いた。
自分のものともグエンのものとも判然としないその鼓動は、ウィル・ゲイムの厚い胸板に頬を埋めて聞いた音に重なり、たった一度の抱擁に人生のすべてを託したハリーの息遺いと重なって、最後に涙でくしゃくしゃになったロランの顔が像を結んだ。固まった血でがさがさする唇が自然に緩み、ディアナは自分が微笑していることを自覚した。
ただそこにいるだけでほっとできる、穏やかな春の風にも似たやさしい少年。自分がいなくなったら、ロランはきっと悲しむだろう。そう思える人の絆を手に入れられたことに安息して、ディアナは今も虚空を翔け続ける身近な魂にそっと語りかけた。
――これも、生き物のあるべき姿のひとつ。だから、悲しまないで……ね? ロラン……。
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何十機目かのバグが爆発し、間近で膨らんだ火球がモニターを白熱させた瞬間。ロランは、その声を聞いた。
「ディアナ様……?」
体を包むふわりとした温もり、胸の底を打つ悲哀の錘《おもり》ひとつを残して、それはつかまえる間もなく闇に霧散してゆく。漠然とした不安は、すぐに抗いようのない喪失態に取って変わり、血も骨も臓器も、細胞のひと粒ひと粒までもが等しく泣き叫んで、ロランは全身を硬直させた。アームレイカーを握る手のひら、フットペダルを踏む足が凍りつき、無数の光球が閃く戦場に〈ターンA〉の機体が静止した。
レーザーを撃ち散らして、数機のバグがここぞとばかりに襲いかかってくる。回転するチェーンソーがぎらと輝き、避けなければと思いついたが、固まった体はなんの反応も示さなかった。恐怖さえ感じず、自分を粉砕しようと迫る刃の列を見つめたロランは、不意に爆発、四散したバグの衝撃波に揺さぶられて、ようやく正気の何分の一かを取り戻した。
イオン放射板が蝶の羽根に見える自動砲台が、群れをなしてモニターを横切ってゆく。斉射されるビームの光軸がバグの機体を次々貫き、大量の火球が闇を圧して膨脹する。止まっていた腕を動かし、直近をかすめたバグをビームサーベルで撃破したロランは、いまだ衰えない蝶たちの動きをオールビュー・モニターに確かめた。
〈ターンA〉を取り囲んで防御円陣を形成する蝶型砲台は、先刻よりさらに俊敏な機動性を発揮して、先行した一群がバグに攻撃を仕掛け始めているようだった。消えてしまってもなお、ディアナ様は自分を守ろうとしてくれている? ふと考えて、ロランはすぐに違うと断定した。
攻撃色一色に染まった蝶たちは、明らかに〈ターンA〉の防御を二の次にしている。ディアナのやさしさとは異なる、烈しさの権化。自らの破壊を顧みず――いや、むしろ望んでいるかのごとくバグに食らいつき、ともに光球に転じてゆく蝶たちの背後に、ロランはディアナとは似て非なる女の絶叫を聞いていた。
――ひどい、ひどい男! あなたが愛してくれさえしたら、私は世界を救うことだってできたはずなのに……!
理解不能の情動に操られ、宇宙を舞う蝶たちが一方的にバグをやり込めてゆく。「キエルお嬢さんなのか……!?」と我知らず叫んだ声がヘルメットの中でくぐもり、同時にレーザーの雨が闇の虚空を千々に引き裂くのをロランは見た。
溶解した運河のガラス面からさらに多くのバグが噴出、今までに倍する数の円盤群が蝶の群れと激突したところだった。闇雲に突進を続ける蝶たちがあえなく羽根を散らす先で、二百に及ぶバグは守りの態勢を固め、運河の破孔に崩せない銀色の壁を形成する。小型無人機とはいえ、おのおの融合炉を内蔵しているバグと蝶は、爆発すれば小型の太陽ともいえる熱と光を放散した。
夥しい爆発の光が咲き乱れる宙域は溶鉱炉と化し、次々墜落する機体が月面を赤黒く灼熱させる。三六〇度の空間を埋める地獄の業火に、泣いてつかみかかるキエルの姿と、堅く心を閉ざし、他人を決して立ち入らせまいとするハリーの頑迷な鉄面皮をだぶらせたロランは、怒るより先に呆れた。しかもその向こうでは〈カイラス・ギリ〉の加速器が着実に白色光を強め、痴話喧嘩など知らない、といわんばかりに次の発射準備を整えつつあるのだ。
ばらばらな心が引き起こした、ばらばらな事象の暴走――。照射レベルを最大にしたビームライフルを撃ち放って、ロランは「ハリー・オード!」と一喝した。
「ディアナ様が死んだんだぞっ! もうやめろ!」
蝶たちの火線を突破したバグが大挙して迫り、レーザーの豪雨がロランに叩きつけられる。一機を撃墜した刹那、背後から突っ込んできたバグが〈ターンA〉の背中を斬りつけ、体勢を崩した一瞬に三機のバグが機体を挟み込むようにした。
チェーンソーが腹の装甲を削り、関節に設置されたIFBDのレセプターを粉砕する。もはやハリーという人間の意識は微塵もない、バグと同化した者の硬質な殺意が全身の毛穴に染み込み、ロランは嫌悪と怒りで身震いした。「やめろと言ってるんだぁっ!」と叫んだロランの精神が振り切れ、同時に〈ターンA〉の機体から、飽和したIフィールドの渦が放出された。
レセプターの損壊が招いた現象か、あるいは本来の機能が復活したのか。機体を駆動させていた力場が外に向かって拡散し、それは七色に輝く光の羽根となって〈ターンA〉の背中に顕現した。付近にいたバグは瞬時に弾き飛ばされ、百メートル近くのびた光の羽根が羽ばたくように揺らめくと、ビームの掃射を受けたかのように数十機のバグが爆発、四散する。無数の爆光を背に、二度目の羽ばたきで姿勢を制御し、三度目の羽ばたきで加速した〈ターンA〉は、既存の推進機関を停止させたまま、月面に向かって猛然と降下を開始した。
巨大な光の羽根を得た〈ターンA〉がバグの群れを押し退け、ゲンガナムにある〈カイラス・ギリ〉の中枢を目指して運河の上を滑る。蝶たちがその後に続き、ディアナの揚羽蝶が〈ターンA〉の姿を借りてよみがえったかのごとく、金色に輝く鱗粉の筋を運河のガラス面に反射させた。
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バグを粉砕、殲滅《せんめつ》しつつ、月面を舞う蝶と化した〈ターンA〉が猛進する。目前に投射される立体映像にその姿を見つめて、ハリーは狭《ずる》いと感じていた。
なぜディアナの翼がロランにだけ与えられる。百万の人の怨霊を背負ってでも、ディアナの理想を実現しようとしているのは自分なのに。理屈もなにもなく、子供じみた考えと自省する冷静さも失って、どす黒い嫉妬の炎がハリーの胸を焼いた。ホログラムを映し出す三面の球体、射撃管制装置を始めとする各種機器が四方を固めるコントロール・ルームを見渡し、なにか対抗手段がないかとデータベースを漁《あさ》ってもみたが、すでに運用技術の大半が失われている人類史上最大の荷電粒子砲――〈カイラス・ギリ〉は、バグ以上に有効な防衛システムを稼働させることはなかった。
そのバグも、すでにすべて放出しきっている。一個師団のモビルスーツを撃退できる数が上がっているはずだが、機体の数倍の大きさに成長した〈ターンA〉の光の翼は、触れるだけでバグの編隊を無力化するようだった。破孔に配置したバグは、蝶型自動砲台の特攻ともとれる執拗な攻撃で駆逐され、運河上空に残るバグが残らず排斥されれば、〈ターンA〉の進撃を食い止める手段はない。コントロール・ルームは運河の河底にあり、分厚いガラス面と、五十メートルの水深がバリアーになってくれるとはいえ、今の〈ターンA〉にどれほど有効であるかは疑問だった。
残されたものは、ろくに使い方もわからない未知の機械群に取り囲まれ、嫉妬に身を焦がす哀れな有機体ひとつ。別れ際、たった一度この手に抱いたディアナは、体の力を抜きこそすれ、自分を抱き返してはくれなかった。その悔しさ、切なさが、もう半分以上裂けている胸を完全に引きちぎり、ハリーは苦痛の中で絶叫した。
「わたしはディアナの理想に殉じると誓った! そのわたしをなぜ否定する、ロラン・セアック!?」
――ディアナ様は亡くなられた!
ロランの声が額に突き刺さり、頭蓋が割れるような衝撃にハリーは頭を押さえた。「亡くなられた……? ディアナ様が?」と呟き、その意味が胸の底に落ちるより前に、なぜの一語がハリーの思考を占拠した。
死に至った経緯ではなく、死んだという事実がロランに伝わっていながら、自分には伝わらなかったということに対しての「なぜ」。それほどにディアナの心は自分から遠ざかっていたのか、あるいは最初から男として見られていなかったのか。恐ろしい現実との直面を避け、コントロール・ルームの直上に達した〈ターンA〉を見上げたハリーは、「なぜ、わたしにはわからなかったのだ?」と自問を続けた。
――憎しみが、心を曇らせてしまったからだ!
輝く翼がだしぬけに消失し、虚空に佇立した〈ターンA〉の双眸《そうぼう》が赤く輝いて、ロランの叫びをハリーに伝えた。それはもうディアナの翼を戴いたモビルスーツではなく、運河の底で懊悩する哀れな魂を嗤い、唾棄するためにやってきた白い魔神としか見えなかった。極限に達した怒りと恐怖が神経を焼き切り、発狂する直前、ハリーは〈カイラス・ギリ〉がエネルギー充填を終え、二射目の発射態勢を整えたことを知った。
「そうなら、わたしはディアナの弔いをするだけだっ!」
そのひと言を支えに、ハリーは発射レバーに手をかけた。〈ターンA〉のビームライフルが高熱粒子を吐き出し、〈カイラス・ギリ〉のコントロール・ルームを直撃したのはその瞬間だった。
ライフルの許容量をはるかに凌駕し、銃口を溶解させながら放出されたビームの帯は、十数メートルの厚みを持つガラス面をたちどころに貫き、河面に突き立って運河の水を沸騰させた。数万度の熱量が周囲の水を蒸発させ、むき出しになったコントロール・ルームの外板を溶かすまでに、一秒とはかからなかった。
灼熱した破片に全身を貫かれ、ハリーは即死した。熱波がその肉体を焼きつくし、すぐに覆いかぶさってきた運河の水が灰燼《かいじん》と化した骸《むくろ》を押し流したものの、もうハリーには関係のない話だった。
虚空に溶け込んだディアナの意識を求めて、ハリーの意識も宇宙に飛んだ。苦痛も懊悩も今はなく、あらゆる束縛から開放された魂は自由に宇宙を舞うことができたが、ハリーの幸福は完全なものではなかった。
肉体が消失する間際、〈カイラス・ギリ〉の発射レバーを引ききってしまった。その時の感触が残り、魂を刺す針になって疼《うず》き続けていたからだった。
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月面に再び閃光が発し、屹立した光の柱が周辺の宇宙を青白く染めた。
照射面のガラスは吹き飛び、付近にいた〈ムーンバタフライ〉のファンネルも、バグともども光の奔流に呑み込まれる。爆発の光球が飛散粒子に混じって光の柱を飾り、衝撃波がレゴリスの砂塵を吹き上げたが、常軌を逸して荒れ狂うプラズマの嵐に較べれば、無視してかまわない小さな動揺でしかなかった。
コントロール・ルームが破壊された結果、射角偏向用のIフィールドがでたらめに作動して、〈カイラス・ギリ〉は八方にビームを放射する形になったのだ。青い稲妻に似た光が月面を錯綜し、熱と衝撃で歪んだ空間が、照射面を中心に巨大な波紋を広げてゆく。それは射線を避け、南極方向から〈カイラス・ギリ〉に接近しつつあったアグリッパたちに、最初に襲いかかった。
あまりにも意外な光景は、脳に認識されるまでに数秒の時間を必要とする。アグリッパも例外ではなかった。〈カイラス・ギリ〉のビームがこちらに向かってくる、その現実を理解するまでに三秒かかり、痴呆状態で立ち尽くすミドガルドの顔を醜いものだと感じた時には、光の渦がブリッジの窓全部を埋めていた。
悲鳴も怒号もわかなかった。死に至るまでの一刹那、日頃の習性を発揮したアグリッパは、目前に迫る光の意味を言葉に翻訳して認識しようとした。が、一秒と少しの時間で思いついたのは、浄化の光という使い古された解釈だけだった。
なんと陳腐。歴代のアグリッパたち、二千年に及ぶ叡知を蓄えているはずの脳が、末期の際にひり出した言葉がそれか。アグリッパは絶望し、学ぶべき知恵は外界にこそあったのだ、と初代のアグリッパに毒づきながら、瓦解《がかい》するブリッジの破片に紛れて虚空に吸い出された。
体じゅうの穴という穴から血を噴き出し、直後に到来した熱波に骨まで溶かされて、アグリッパの存在は消滅した。プラズマに船体を舐め尽くされ、機関を誘爆させた〈ウィルゲム〉も、内側から膨れ上がる光輪に呑まれて爆沈した。折り重なって漂うディアナとグエンの遺体は、虚空に放散する粒子のひとつに過ぎず、瞬く間に原子のレベルにまで分解されていった。
接近中のディアナ・カウンターの艦艇を残らず火球に変え、照射面付近の貯水池や宇宙港のドームを根こそぎ抉《えぐ》りながらも、〈カイラス・ギリ〉のビームは衰えることなく地球を目指した。月面全域に及んだプラズマの嵐を逃れ、地球を遠望する宙域に移動した〈ターンA〉は、闇を裂いて直進する狂暴な光をただ見つめていた。焼け焦げたビームライフルとシールドをだらりとぶら下げ、無防備に体を開いたその姿は、途方に暮れているょうにも、力をため込んでいるようにも見えた。
トレンチ・シティの一角、ゲンガナムに次ぐ大都市といえるフォンの宇宙港で、ソシエがモニターごしに〈ターンA〉を発見できたのは偶然ではなかった。月面に設置された展望カメラの映像は、〈カイラス・ギリ〉発射の影響でノイズを走らせている。〈ターンA〉は形も判別できない白い点でしかなく、状況がつかめずに怒鳴りあう港の職員たちの喧噪が背後にあれば、モニターに張りついた埃と見過ごすのが普通だったが、ソシエには、その中で息づくロランの鼓動がはっきり聞こえていた。
崩壊する「冬の城」を逃れ、シドとともにフォンの宇宙港に収容されて半時間。先んじて到着していたホレスたちの口利きで、フォンに駐留するディアナ・カウンターに拘束される事態は免れたものの、直後に轟いた超兵器の雷鳴がトレンチ・シティの交通と通信網を麻痺させ、港のロビーで足止めを食う羽目になった。キエルやグエンたちの所在はもちろん、〈ウィルゲム〉が健在であるかどうかも知りようがないソシエは、ロビーの大型モニターに映る〈ターンA〉に意識を集中した。
周囲の喧噪が聞こえなくなり、ロランの鼓動と息づかいが機体の装甲をすり抜け、暗黒の宇宙、港のドームを貫いてソシエの耳に届く。次第に早く、次第に浅く。高まる動悸が自分のそれと同調し、息苦しさに思わず胸に手を当てたソシエは、不意にロランの意識が走り出し、すっと手元から離れてゆく気配を知覚した。
「ロラン……!」
モニターに手をのばし、白い影を両の手のひらで包み込んだソシエの目前で、〈ターンA〉は消えた。移動したのではなく、シネマのコマ落としさながら、忽然とその場からいなくなったのだ。
細かな光の粒が散ったようだが、月面から放出されたビームの残粒子が無数に漂い、天の川のような光の筋を形成している中では、あまりにも儚《はかな》い瞬きだった。今度こそロランが遠くにいってしまったとわかったソシエは、その場にぺたんと座り込んだ。
唐突に戻った喧噪が、一瞬の知覚を押し退けて五官を塞いだ。自分はこれからなにをしたらいいのだろうと、ソシエはぽっかり開いた胸の穴をとりとめなく見下ろした。
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ぐにゃりと視界が歪むと、なにかを突き破る衝撃がコクピットを揺らして、エア・シートベルトの風圧がぼやけた頭を蹴飛ばすようにした。脳と遮断されていた目をしばたき、ロランは反射的に索敵画面に顔を向けた。
いっさいの反応が消失したレーダーより先に、拳ほどの大きさになった月が目に入り、同時に巨大な質量の圧迫が背中にのしかかってきた。左右のパネルが淡い青色に染まっているのを確かめたロランは、もうなぜとは考えなかった。
このように導かれたという現実を受け入れて、ロランは青い光の源――オールビュー・モニターの後ろ半分を覆って広がる地球に目を向けた。距離は千キロと離れていない。すでに高度と表現すべき空間に位置して、〈ターンA〉は地球を背負う格好で月を見上げているのだった。
背後には、明らかに北アメリア大陸とわかる大地の起伏がある。その中央よりやや南に下がったところで、巨大な痂《かさぶた》が湯気を上げている光景がロランの注意を引いた。
ルジャーナ領の首都、オールトンがあるあたりだろう。そこだけ焼きごてを当てられたように黒ずみ、抉られた地の底から噴煙を吐き出し続ける大地は、単純に痛み≠ニいう言葉をロランに思い出させた。
二千数百年に及ぶ治癒期間を白紙に戻された痛み。そこで生まれ、育まれたはずの命に汚され、永遠に消えない傷痕を刻み込まれた痛み。それはそのまま、住むべき大地を失う痛みとなって人に返ってくる。二千年あまりの癒しを経ても、地球はまだ三分の一も回復していない。わずかな土地に細々と根づき、開墾に開墾をくり返してどうにか畑を耕し、挙句の果てに自らの手で焼き払ってしまった。その痛みが静かな怒りを伴って腹の底に落ち、ロランはここに空間転位《テレポーテイション》した〈ターンA〉の意志を理解した。大気上層で青白いプラズマ光を閃かせる黒雲を網膜に焼きつけ、なすべきことを了解してから正面に顔を戻した。
プラチナ色の光沢に包まれた月の中央、|銀の縫い目《シルバーステッチ》の一角に走った閃光が月の光を圧して膨らみ、彗星に似た白色の光芒がまっすぐ突き進んでくる。驀進する〈カイラス・ギリ〉のビームがどこを狙っているにせよ、こんど直撃を受ければ北アメリア大陸は死滅する。オゾン層が致命的に破壊されるばかりでなく、一撃目の際に形成されたプラズマ雲が過剰反応を起こし、大陸全土を電子レンジに放り込んだのも同然の結果を招来する。ロランは、半ば溶解したピームライフルとシールドを捨てて、〈ターンA〉を〈カイラス・ギリ〉のビームに正対させた。
人の怨念、エゴから発する欲望を餌にする赤い目の魔物が、さらなる糧を求めて放った業火。どろどろと澱む黒い汚濁を白色の光芒の中枢に見出し、ロランはそれこそが真実の「敵」であると確信した。一方的な主張で世界の理を乱し、怒りと悲しみで命を塗り込めようとするもの。〈ターンA〉の両のマニピュレーターがゆっくり左右に開き、白い人型の機体がぐんと胸を反らすや、胸部多目的サイロのハッチが一斉に開放されていった。
外装板に覆われていた六門のサイロが露出するとともに、背部の装填用ハッチも開き、胸から背中に抜ける六本の空洞が仄かな光を放ち始める。額に刻印された「∀」の記号が白熱し、オールビュー・モニターにも無数の「∀」を乱舞させて、六つの聖痕と化したサイロが見えない力を吸収してゆく。膨大なエネルギーを滞留させた装甲やフレームが軋み、すべてのパーツが不協和音を奏でると、内奥から発する重い地鳴りに似た音がロランの五官を圧した。
慟哭とも、鬨の声とも取れる〈ターンA〉の咆呼が虚空を聾し、それを合図に蓄積されたエネルギーがサイロからほとばしった。同時にサイロの下にある収束機が作動し、怒濤のごとく放出するエネルギーを制御して、機体の前面に力場の壁を形成した。
機体の数十倍の大きさに膨れ上がった力場が蜃気楼のように歪み、〈ターンA〉が巨大なバリアーを展開したかに見えたが、それは〈ターンA〉という機械が発生した力というより、地球にあまねく命の力、大地の精気が〈ターンA〉というフィルターを通して抽出され、母なる星に防壁を張り巡らせているといった方が正しかった。空間を歪ませ、光さえもねじ曲げる力場が直径数キロの傘を広げ、直進する〈カイラス・ギリ〉のビームがそこに激突した。
ビームの瀑布が見えない壁に受け止められ、紅色の閃光を四方に散らす。人類が造り得た最大の破壊兵器の力がバリアーをたわませ、莫大な衝撃波によって百キロ以上後退させられながらも、〈ターンA〉はスラスターベーンを全開にして踏みとどまった。胸のハッチはたちまち弾け飛び、肩の装甲や指がじわじわ溶解してゆく一方、とうの昔に限界を突破したサイロが分解寸前の悲鳴をあげる。スラスターベーンのスリットも溶け出していたが、ロランはかまわずにフットペダルを踏み込み続けた。
どんなに愚かでも、たとえ牧いが見出せなくても、この虚無に呑み込まれてしまうよりはいい。怨念の厚い殼に閉ざされていようとも、黒い澱みの核にあるのは人の感情、ひとつの恋愛に殉じた男の誠実さそのもの。美しさと醜さ、やさしさと厳しさが表裏一体となって存在している世界なら、まだやり直せる余地はいくらでも残っている――。激震と轟音に包まれたコクピットでロランは絶叫し、残るすべての力を開放した〈ターンA〉が、徐々に〈カイラス・ギリ〉のビームを押し返してゆく。全身を踏みしだき、骨という骨を粉砕するほどの圧迫が襲いかかり、シートに押しつけられたヘルメットの下でぐしゃり、となにかが潰れる感触がロランに伝わった。
生命維持装置の膨らみにしまっておいたメリーが、いつでも肌に触れていたブリキの金魚が、今度こそ潰れてしまった。途切れる直前の意識がそう知覚した刹那、だしぬけに震動が収まり、体にのしかかる圧迫が消失した。視界いっぱいに広がる〈カイラス・ギリ〉の光芒は忽然と消え、拡散、消滅する残粒子の群れが、百万発の花火を打ち上げた後のように虚空を飾った。
次の瞬間にはそれらの輝きも遠ざかり、凍てついた常闇から一転、赤く灼熱した気流の筋が見えるもののすべてになった。力を使い果たし、地球の重力の虜《とりこ》になった〈ターンA〉の機体が、引力に引きずられて大気圏に突入したのだった。
なにも考えられないまま、フフンは摩擦熱に焼かれる透明装甲を見つめた。ビームを阻止できた安堵感もなければ、これで死ぬという恐怖然もなく、ただメリーが自分の身代わりになってくれたのかもしれないと思いついた時だけ、それは哀しいという感情がぼんやり浮かび上がったが、振り切れた神経が感じられるのはそこまでだった。機関も駆動系も壊れ、人型のスクラップと化した〈ターンA〉は、炎の筋を引いて大気の底に吸い寄せられていった。
間欠的に発生するIフィールドが大気の摩擦熱を軽減しているものの、しょせんは焼け石に水でしかなかった。灼熱に曝された装甲はぼろぼろ崩れ、右のマニピュレーター、膝から下がごっそりもげた左脚部が、あっという間に気流の渦に搦め取られてゆく。黒ずんだ機体の破片はそのまま焼失するように見えたが、ある高度に達すると自ら瓦解を始め、砕け散った粉のひと粒ひと粒が金色の輝きを放って、摩擦熱に焼かれることなく地上を目指した。
機体を構成するナノマシンが、意志あるもののようにIフィールドを発生させ、光の粉になって大地に降り注ぐ。気流の腕がそれらを掬《すく》い取り、焼け爛《ただ》れた地表に万遍なく光の粉が散布される。始まりの樹=\―荒廃した大地に蒔かれた命の種が、光の奔流となって巨大な樹を形作る光景がそこに重なり、枯れ木に花を咲かせましょう……という穏やかな言葉のつらなりが自然に固まって、ロランはどこで聞いた言葉だろうと記憶の泥を手繰り寄せた。
施設の遊戯室の風景、花咲爺≠ニ書かれた絵本の表紙が懐かしい乳臭さと一緒に思い出され、それはすぐに電子マニュアルのモニターに映るファイル名に変化した。〈ターンA〉の電子マニュアルに記録されていた意味不明のファイル、花咲爺=B「枯れ木に花を……」と小さく口にしたロランは、そういうことか、と納得して息をついた。
荒廃した大地に始まりの樹≠咲かせた花咲爺≠ナあると同時に、果実≠ナもある〈ターンA〉。その機体は、死滅したナノマシンを活性化し、再度の自然修復を促す新種のナノマシンによって構成されている。地球上のありとあらゆるナノマシンを土に還元し、文明の痕跡を消し去った上で、自然治癒を促すアーキテクチャを注入、無限に伝染させた新種のナノマシン。〈ターンX〉の増殖能力と表裏一体でありながら、根本が異なる再生能力を持つ〈ターンA〉は、それゆえ一面では旧文明を埋葬した破壊神であり、別の一面では人類に再創世の機会を与えた創造主でもあった。
そして、いつか復興した人類が再び過ちを犯した時には、身を砕いて三度の復活を促す命の種にもなる。〈ターンA〉という機械に旧世界の人々が与えた、それが役割だったのだろう、と……。
[#ここから太字]
――でも、機械はどこまでいっても機械。その役割をまっとうするためには、健やかな人の意志の媒介が不可欠です。
[#ここで太字終わり]
ディアナか、キエルかもしれない声が付け加える。あるいはどちらでもなく、そのような役割を持たせた機械を〈ガンダム〉という形に託して残した人の声なのかもしれなかったが、もうどうでもいいことのようにロランには思えた。次第に溶けてゆく透明装甲を他人事の面持ちで見つめつつ、だったら、と思考に滑り込む他者の思惟に問いかけた。
だったらなぜ、大量のモビルスーツを地球に残しておいたんです。核兵器や毒ガスを廃棄もせずに保存しておいたんです。これだけの技術を手にした人々なら、過ちの種をあらかじめ取り除くことだってできたはずでしょう?
砕け散った〈ターンA〉のナノマシンが、いかに〈カイラス・ギリ〉に灼かれた大地を修復しようとも、失われた多くの命はもとには戻らない。怒りに押されて吐き出された問いに対し、ロランにとってもっとも安心できる人の声――ディアナとキエルの声をもって応じる〈ターンA〉の思惟が、それはロランの慢心、と言葉を送り返した。
[#ここから太字]
――記憶を忘却することと同じ。過ちを犯すことも、生物が存続するエネルギーの現れなのだから、摘み取るわけにはいかないでしょう?
[#ここで太字終わり]
そうなのだろうと思う部分と、それは狭いと無条件に感じる部分が拮抗して、ロランはしばし思考の空白を漂った。
悲劇の再来を予測して――それどころか必要悪と認めて、あえて火種を残した。理屈は正しくても、そのために狂わされた人生、失われた命の責任はいったい誰が取るのか。人類の未来という、一個の魂には彼岸の事柄でしかない曖昧な言葉で、今を生きる人たちの痛みと苦しみが埋め合わされるとでもいうのか。二重になっているノーマルスーツのファスナーを開けて、ロランはメリーを取り出してみた。尻尾が潰れ、表面に無残な亀裂を刻んだブリキの玩具に失われたものの重さを実感して、反論の意志を飛ばした。
でも、そのためにぼくはたくさんのものをなくした。メリーも元には反らない。どうしてぼくなんかを選んだんです。たまたまホワイトドールのそばにいたというだけで、ぼくにはなにも……。
なにも、ない。中断した思考の先にある言葉を掬い取った〈ターンA〉の思惟が、だからなのでしょう? と即座に答えた。
[#ここから太字]
――平和への希求はあっても、あなたにはこだわりがない。狭い原理主義に陥ることもなければ、個人の感情を大義や欲望に投影させることもない。いつでも中間に立って世界を概観できる立場にいたのですから。
[#ここで太字終わり]
憶病なだけです。どっちの人の言い分もわかるような気がするから、自分にできる仕事を……。
そこまで思考を紡いで、ロランはぞくりとした悪寒が背筋に走るのを感じた。
でも、そんなぼくがウィルさんを殺して、ハリー大尉も殺した。〈ターンX〉と戦った時には、憎しみさえ感じた。月に巣くう赤い目の魔物……あれはいったいなんなんです? あなたが見せた幻影なんでしょう?
〈ターンA〉の思惟はなにも答えようとしなかった。ディアナとキエルの肌合いが消え、代わりに機械的な硬質さを湛えた〈ターンA〉の頭部を幻視したロランは、それまで辛うじてバランスを保っていた足場が崩れ、奈落の底に転落する恐怖を味わった。
ぼくには「敵」と思える者がいない。怨念返しをしなければならない過去もない。だから利用したのか。自分の目的を果たすために、どうとでもなるパイロットを取り込んだのか……!?
[#ここから太字]
――それは悲しい物の見方です。あなたには、流れに任せて揺らぐことのできる柔軟さがあったから、〈ターンA〉に受け入れられた。世界を揺り戻しの摂理に委ね、緩やかな螺旋を昇り続けてゆくために……。
[#ここで太字終わり]
そう答える〈ターンA〉の顔面は、しかし摩擦熱でぐずぐずに焼け爛れ、髑髏《どくろ》と化したフレームの奥で赤い目を爛々と輝かせているのだった。ひとつの存在を指し示すのではなく、誰の中にもある歪んだ想念を象徴する赤い目の魔物。災厄を祓う炎になれ、と命じた言葉の欺瞞が胸を衝き、ロランは、嘘だ、と断じた。
あなたにだってなんの確証もありはしない。一方的に文明を埋葬して、帳尻合わせにこの機械を残したんだ。そうしたって同じことがくり返されるだけだと知っていながら……!
[#ここから太字]
――そのくり返しが積み重ねられて、いツかは高みに至ル。そレが螺旋状につラナる時の輪の跳躍《リープ》。心臓ガ、宇宙が、膨脹と収縮ヲクり返すヨウニ、終局に至ッテは原点ニ回帰スるのが生物のあリヨうだと……。
[#ここで太字終わり]
それが事実だという証拠がどこにある! そうだと思い込んで、そのために文明を滅ぼしたというなら、あなたたちこそ傲慢だ。節度を失ったエゴの塊じゃないか……!
[#ここから太字]
――遠い「沖」ニあるハズのなイ夢ノ街ヲ求めテ、埠頭に座リ続けテイタ。
[#ここで太字終わり]
ディアナでもキエルでもない、無機質な機械人形の声が予想外の返答を寄越し、ロランは絶句した。
[#ここから太字]
――現在ニ絶望していルノデモナければ、未来ニ茫洋トシタ希望を抱いテイルのでもナイ。タダ切ナイカラ、切ナサヲ忘レテアリモシナイ希望ニスガリ……。
[#ここで太字終わり]
人工の夕焼けに染まったメイザムの漁港が鮮明によみがえり、埠頭に座り込んでいる七歳の自分にホワイトドールの石像が重なって見えて、ロランは混乱した。そうしたところでどうにもならないとわかっている、でもやらずにいられなかった。それが答えか? それほどまでにあなたたちは追い詰められていたのか? 怒りと悲嘆が渦巻く興奮が過ぎ去ると、絶望する気にもなれないしらけた気分がやってきて、ロランは虚脱した。
時の輪のリープにしても、ニュータイプにしても。ありもしない希望でもしがみつかずにはいられない、人の切なさが生み出した幻影でしかなかった。〈ターンA〉の思惟が頭蓋の中で蠢《うごめ》き、壊れた機械の声が反論の口を開く気配を感じ取ったロランは、黙れよ! と絶叫した。
ごたくはいい。メリーを元に戻せ。ディアナ様を返せ! 独りぼっちで座り続けているなんていやだ。ありもしない希望を待ち続けるなんて、もうたくさんなんだから……!
コクピットに鈍い衝撃が走り、脳に流入していた〈ターンA〉の思惟が瞬時に霧散した。ふわりとした移動感がそれに続き、一本になった〈ターンA〉の脚が透明装甲の向こうを流れ、遠ざかる光景がロランの目に映った。
ノイズを走らせながらも、まだ機能しているパネルに〈CORE−FIGHTER EJECT〉の文字が点滅していた。〈ターンA〉のコクピットに装備された脱出機構が作動したのだろう。コクピット・ブロックの左右についた腰の装甲が翼の役を果たし、コアファイターと呼ばれる小型戦闘機を形成すると、Iフィールドを発生させつつ降下角度を修正する。ロランが手を下す必要もなく、自動制御で本体から離脱したコアファイターは、手足を失った〈ターンA〉が落下してゆくのを尻目に、機体を維持できる速度で地上への降下を開始した。
嫌われたらしい。呆けた頭にそんな思いが固まるまでに、髭《ひげ》に見えるフェイスガードも溶け落ち、もう人型とは言えない〈ターンA〉の機体が炎に包まれて離れてゆく。潰れたメリーを握りしめ、ロランは目を閉じて降下の律動に身を委ねた。
粉微塵に砕けた〈ターンA〉は、やがて枯れ木に花を咲かせる灰に転じ、百年、千年の時間をかけて焼け焦げた大地を潤すのだろう。では自分はどうする? 人の存在も、世界のありようも、膨大な時の流れに翻弄される落ち葉のようなものでしかない。風に吹かれるまま、「A」と「∀」の変転をくり返すあやふやなものだと知らされて、この先の一年、十年をどう生きたらいい? なにに喜びを見出し、どこに帰ればいい……?
瓦解した〈ターンA〉の機体は金色の渦に姿を変え、いまだ爆煙を立ち昇らせるオールトンに吸い込まれて消えた。コアファイターがその後に続き、風に舞う一枚の葉に似た機体が緩やかな螺旋を描いて、悠久の時を刻む大陸の片隅に落ちていった。
[#ここから9字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
季節を問わずに吹き渡る北風に加え、イオン臭まじりの生暖かい風が砂塵を舞い上げるベイトンルージュの荒野は、二十メートル先も満足に見えない視界の悪さだった。頓挫したセ・ハン・トラックを背に、通りかかる車を待ち侘びて一時間半。褐色の靄の向こうにトラックの車体が浮かび上がるのが見え、キースは夢中で両腕を振り、声を張り上げた。
気づかずに行き過ぎるかと思われたところで、トラックは不意に方向を変え、こちらに向かって近づき始めた。ほっとしたのもつかの間、モスグリーンに塗られたトラックの形を確かめたキースは、頭上に掲げていた両腕を凍りつかせた。
ヘッドライトは片方が潰れ、運転席の屋根も若干ひしゃげていたが、幌に描かれたマークは間違いなくイングレッサ・ミリシャのものだ。出自を隠している身として、ミリシャに本能的なきな臭さを感じるのはいつものことだが、この時の危機感はそれとは別だった。
ミリシャとディアナ・カウンターがともに壊滅的なダメージを受け、統制を失った残存部隊が各個に戦線を離脱したとなれば、最初に心配しなければならないのは彼らが野盗に転じることだ。家財道具を積んで荒野に立ち往生していればなおさらで、おのおの来た道を戻り始めた避難民たちに倣《なら》い、キースも岩場地帯を縫うようにしてトラックを走らせたのだが、燃料タンクに穴が開くアクシデントに見舞われて、再度の立ち往生を余儀なくされていた。
挙句、最初に通りかかったのがミリシャのトラックだったとは。己の不運を呪いながらも、キースは役立たずのセコハン・トラックを振り返り、荷台の陰にいるベルレーヌとフランを見遣った。隠れるよう言おうとしたが、エンジンの排気が間近に迫り、油圧ブレーキがため息に似た音を響かせて、「パン屋じゃねえか」という野太い声が振りかけられる方が早かった。
へこんだ助手席のドアを開け、砂塵よけのゴーグルを外しつつトラックから降りてきた兵士と目を合わせて、キースはいよいよ最悪だと内心に舌打ちした。ずんぐりした巨体に、砂埃をまぶした唇をへの字に曲げているのはヤーニ・オビュス少尉。野営地で何度か会ったことのある、好戦的という一語で人格の大半が説明できるような男だ。戦場の臭いを濃厚に染みつかせた巨躯が無造作に近づき、何人かを殺してきたのだろう目が油断のない光を放って、キースは蛇に睨まれた蛙の気分を味わった。
誰よりも軍律を重んじていたヤーニのこと、簡単に野盗になり下がるとも思えないが、敵に回せばこれほど厄介な相手もいない。窓の割れた運転席にあと二人の兵士が乗っているのを確かめ、自分のトラックをちらと振り返ったキースは、荷台に積んだライフルに弾を込めておけばよかったと微かに後悔した。こちらに近づきかけたベルレーヌと視線を絡ませ、そこにいろと目で伝えてから、「燃料切れか?」と口を開いたヤーニに顔を戻した。
「……ええ。タンクに穴が開いてしまって。余分があったらわけてもらえませんか? できたら水と食料も少し」
「どこに行くつもりだ。エリゾナは領境の封鎖を解いてないし、オールトンは全滅だ。イングレッサだって毒の灰まみれになってるかもしれんぞ」
「オーバニーに行きます。ディアナ・カウンターの戦艦が墜落したらしいけど、毒の灰は届いていないようですし」
こうなったらじたばたしても始まらない。肝を据えて言うだけのことを言うと、ヤーニは太い腕を組んで沈黙した。よく見れば愛敬のある目が思案をめぐらすように空を見上げ、ゴーグルの形にへばりついた砂埃をごしりと拭ってから、「オーバニーに行くまでの燃料はわけてやる」の返答がへの字の口をついて出た。
「だが食料はやれん。こっちも先の補給のあてはないんでな」
粗野な中にも、軍人らしい折り目正しさを忍ばせた声を聞いて、キースはようやく肩の力を少し抜くことができた。思ったより話せる相手だとわかれば、「少しですけど、代金は払います」とたたみかけるのにも躊躇はなかった。
「水だけでもわけてもらえませんか? お腹の大きい連れがいるんです」
ベルレーヌと肩を寄せあうようにしているフランを顎で示すと、ヤーニの片方の眉がつり上がり、「なんだ、ありゃノックス・クロニクルの女記者じゃねえか」という反応が返ってきた。
「おまえの女だったのか?」
「違いますよ。旦那はミャーニに残っていて……」
不意に厳しくなったヤーニの顔を見れば、最後まで言う必要はなかった。ミャーニが核攻撃を受けた事実は避難民にも知れ渡っているのだから、ヤーニには具体的な被害程度もわかっているのかもしれない。寡黙な横顔に同情とも慚愧《ざんき》ともつかない影が宿り、キースは虚をつかれた思いでヤーニを見上げた。好戦的という評価は一面的でありすぎたかな……と考えかけて、こちらに近づいてきたフランに中断された。
「お久しぶり、少尉。ご無事でなにより」と言ったフランの声は明るく、半日前までの虚脱状態とは別人の観がある。それまでほとんど口をきかず、虚ろな眼差しを一点に注いでいたフランが多少の元気を取り戻したのは、一時間ほど前、金色の光の粉が空いっぱいに広がり、爆煙がたなびく地平線に降り注いでゆくのを見た頃からだったか。おそらくはビームの残粒子の類いだろうが、重く垂れこめた絶望の雲が払われ、殺伐と乾いた胸に少しの潤いが与えられたような感覚は、キースもたしかに感じていた。
もっとも、根拠のない希望をいつまでも持続できる状況ではなく、オーバニーに戻ったところでなんのあてもないキースにせよ、身重の体をひとりで支えていかなければならないフランにせよ、それぞれに苛酷な現実が口を開けて持っている。ヤーニもその思いは同じらしく、「先はどうなるかわかったもんじゃねえよ」と自嘲まじりに吐き捨てていた。
「待ってろ。いまフロジストーンと食料を運ばせる」
フランの視線を避けるように鉄帽に手をやったヤーニは、そのまま踵《きびす》を返してトラックの方に向かった。呆気に取られた一瞬の後、返り血で黒く染まった背中を慌てて追ったキースは、「感謝します」と言って腰を直角に曲げた。
「お礼は……」
「ツケにしとく。いつかパン屋を再開したら払ってもらう」
ぶっきらぼうに返したヤーニは、後は黙って荷台から荷物を下ろし始めた。部下たちがそれを手伝い、缶詰の入った木箱とボトル、フロジストーンの樽をてきぱき運び出す。キースとベルレーヌも作業に加わり、三日分の食料と水、オーバニーにたどり着けるだけのフロジストーンがキースのトラックに運び込まれた。休んでいろという忠告を受け流して、フランもフロジストーンを燃料タンクに入れる仕事に従事した。
「赤ん坊、オーバニーで産むつもりか?」
別れ際、ヤーニはフランにそんな言葉をかけた。せめてもの礼にウイスキー入りの水筒を持ってきたキースは、足を止めて二人の横顔を見較べた。
「よく知らんが、毒の灰は人間の体の中に入り込むもんなんだそうだ。イングレッサ領では土を腐らせる粉もまいたって話だし、よそに行って産んだ方がいいんじゃねえかな。おまえさん、故郷はどこなんだ?」
「月です」
ヤーニの頬がぴくりと動き、キースは水筒を取り落としそうになった。「でもお腹の子の父親は地球の人です」と続けたフランの笑顔は、母親になる女の喜びと自信を放って燦々と輝いていた。
「平気です。さっき、金色の光が降ってきたの、少尉も見たでしょう? どこに行ったって大丈夫です。あたし、必ず元気な赤ちゃんを産んでみせますから」
フランの正気を疑うより先に、ムーンレィスの技術者をミリシャに雇い入れる話を持ちかけた時、敵は敵だと言下に否定したヤーニの怒声がよみがえってきて、キースは棒立ちになった。
好戦的という評価が誤ったものだとしても、ヤーニがムーンレィスを敵視している現実に変わりはない。ましてや、戦場で大勢の同僚が死ぬのを目撃してきたばかりの身だ。フランともども、袋叩きにされても文句の言えない我が身を顧みる間に、ヤーニの目がぎろりとキースに向けられた。
殺される――。飲み下せる固唾《かたず》もなく、キースは木箱を脇に近づいてくるヤーニを凝視した。素手では到底かなわない、水筒を叩きつけて、その隙にライフルを取ってくるか? 咄嗟に考え、水筒を握った右腕を動かすより早く、無数の傷をこしらえたヤーニの腕がぐいと突き出された。
ウイスキーの入った水筒があっさりひったくられ、代わりに缶詰の入った木箱が眼前に突きつけられる。思わず両腕で受け取ってから、キースは無精髭に覆われたヤーニの二重顎を見上げた。
「おまけだ」
にこりともしない顔はすぐに逸らされ、ひどく大きく見えるヤーニの背中が運転席の方に歩いていった。渡された木箱の重みを全身に受け止めながら、キースは呆然の面持ちでフランを見遣った。
笑顔を絶やさず、フランは大地にすっくと立ってヤーニを見送っていた。その立ち姿からは神々しいとさえ思える空気が立ち昇っており、正気を失っているのではない、これが子を孕んだ女のたくましさなのだと、キースは無条件に納得させられてしまった。
「たんと食って、元気な子を産めよ」
いつもと変わらないヤーニの不機嫌な声がそう言い、返事を待たずにトラックが走り出した。舞い上がった砂塵が車体を隠し、幾重にも立ちこめる褐色の靄の向こうに、ミリシャの最後の一兵の姿を消し去ってゆく。走り去るトラックが完全に見えなくなるまで、キースはその場を動こうとしなかった。
[#ここから9字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
ゴトッ、と鉄が触れ合う重い音が体を揺らし、キエルは眠っていた自分に気づいた。
うっすら開いた瞼が乾いた涙で張りつき、熱いタオルで思いきり顔を拭いたいと思ったが、それができない状況であることはわかっていた。ヘルメットのバイザーごしに、キエルは周囲の風景をゆっくり見回していった。
正面を覆っていたテレビジョンの壁がなくなり、瞬かない星の海と、乾いた輝きを放つ月の半球が一時に目に飛び込んできて、棺桶の蓋が外されたような心もとなさをキエルは朱わった。朽ち果てた自分を他人に見られたくないと思い、隠れられる場所を探して左右に視線を走らせたが、狭いコクピットに適当なスペースを見つけることはできなかった。
いったい誰がハッチを開けたのだろうと闇雲に腹を立て、それからようやく、どれくらい眠っていたのか、戦争はどうなったのかと考える理性が働くようになり、キエルは棺桶の底から外界を見渡してみた。無数に咲き乱れていた爆発の火球はすでになく、静謐さを取り戻した宇宙空間には、左右の舷灯が鮮やかな内火艇だけがぽつんと漂っていた。
そこから一本の命綱がのび、ハッチの戸口に立つ小柄な宇宙服の腹に巻きついている。顔はバイザーに隠れて見えなかったが、キエルには、それがソシエであることがすぐにわかった。安堵の息が自然に唇から漏れ、なぜ自分はほっとしているのだろうと考えかけた途端、ソシエの宇宙服がふわりと浮き上がり、ひと息にコクピットに滑り込んできた。
いかにもソシエらしい、向こう見ずで一途な動きだった。レバーを支えにして体を近づけ、胸に飛び込んできた小柄な宇宙服を、キエルは両腕で受け止めてやった。
(お姉さまの泣く声、遠くからでもちゃんと聞こえたわ)
接触回線が開き、間違いなくソシエだとわかる声が鼓膜を震わせた。一本取られた苦味と、肉親の息づかいを間近に聞いていられる安心の両方を感じて、キエルはソシエを抱きとめる腕の力を強くした。「そう……?」と呟き、ひどく久しぶりに見るような気がする妹の顔を正面に捉えた。
それきり、宇宙服の生命維持装置の作動音だけが聞こえる沈黙が訪れた。お互い、確かめなければならないことは山ほどあるはずだったが、無残に無残を重ねた記憶の数々を振り返る気力はなく、その帰結を知る勇気もキエルには持てなかった。
ただ一点、泣きながらハリーを追いかけ、宇宙と月を駆け巡った記憶が生々しく残っており、あれは夢だったのか、それともこの機械人形が現実に働きかけたのかと気になったが、どうしても知りたいというほどの話ではなかった。知らぬ間に女の肉感を持つようになった妹の肩を抱いて、キエルは視界の半分を埋める月の半球にぼんやりと日を注いだ。
(……ね、お姉さま。|銀の縫い目《シルバーステッチ》があんなにきれい)
しばらくして、不意にソシエが静寂を破った。胸に寄りかかったまま、ハッチの向こうを見つめる妹の視線を追って、キエルも月面を二分する運河のガラス面に目をやった。
遠い太陽の光を映して銀色に輝く運河の筋は、大気の歪みがないぶんはっきり見えすぎて、触れれば切れてしまいそうな鋭い光を放っていた。地球から見上げた方がきれいだと思ったが、(ロランの髪の色みたい……)と続け、ヘルメットに覆われた頭を胸に押し当てたソシエを見れば、キエルはなにも言えなくなった。
私の声は聞こえても、ロランの声は聞こえなかったのだろう。妹も恋を失ったのだとわかったキエルは、「本当……きれいね」と応えた。
ソシエは顔を上げようとせず、低く漏れる嗚咽の声を返事にした。小さく震える肩をしっかりと抱いて、キエルももういちど涙を流した。
[#改丁]
終 章――正歴二三四六年・初夏――
[#改ページ]
[#ここから横書き]
月統一暫定政府と北アメリア合衆国との間の終戦協定及び相互協力の条約
正歴二三四六年一月一九日 イングレッサ州ノックス空港に寄港中のディアナ・カウンタ―艦艇〈エディリーヌ〉艦上にて署名
同年同日 効力発生
月統一暫定政府及び北アメリア合衆国は、
両国の間に発生した不幸な過去を反省し、
ただちに一切の戦闘行為を停止し、
平和及び友好に基づく新たな関係の構築に努めることを希望し、
すべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、
また、両国の間の緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、
両国の人的交流による相互の歴史認識の尊重及び入植問題に関する継続的な会談の場を設定することを確認し、
民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配の擁護に共通の関心を有することを考慮し、
終戦協定及び相互協力の条約を締結することを決意し、
よって、次のとおり協定する。
第一条
締約国は、終戦協定が定めるところに従い、いかなる戦闘行為の継続も認めない。また、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも慎むことを………
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「お嬢さま、お客さまですよ」と弾けたジェシカの声は、まだペンキの匂いが残る玄関をすり抜け、二つぶんの客室と廊下を通り抜けて、居間の窓際に座るキエルのもとに届いた。今晩までに仕上げるつもりでいた刺繍をテーブルに置いて、キエルはロッキングチェアを立った。
居間を出る時、鏡を見てくるのを忘れたと思いついたが、戻るのも億劫なのでそのまま玄関に向かった。ビシニティに戻って以来、勤務先の病院と家を往復するだけの生活を送っていれば、外見を気にする神経も退化の兆しを見せ始める。一年前なら考えられない心境の変化だと思うと、少し可笑《おか》しく、また哀しくもあった。
そこだけ新しく造り直された正面玄関の車寄せには、キース・レジェとベルレーヌ・ボンド――いや、四ヵ月ほど前にベルレーヌ・レジェになったのだった――、それにフラン・ドールの姿があった。キースが帽子を取って会釈した横で、ジェシカの巨体がフランの前に立って動かないのを見たキエルは、丸い背中ごしにフランの手元を覗き込んでみた。
白い産着に包まれた赤ん坊が、紅葉のような小さな手を懸命に動かし、ちょっかいを出すジェシカの太い指をつかんだり、はたいたりしている。母親そっくりの黒い瞳と目を合わせ、思わず頬を緩めたキエルは、「あら、その髪……」と言ったフランに意味もなくどきりとした。
腰までのばしていた金髪を切り、シニョンに結い上げたのは三月ほど前のことだ。そう言えば結婚式以来、三人には会っていなかったのだと思い出しつつ、キエルは「変?」と、大きな団子にまとめた髪に手をやった。「そんなことない。よく似合ってる」「ぐんと大人びた感じよね」という返事が、フランとベルレーヌから続けて返ってきた。
「病院に勤めてると、長い髪は邪魔になって……」と笑って応じながらも、キエルは胸の底に沈殿した苦味の種が弾け、引け目ともつかない気分がこみ上げてくるのを感じた。キースの隣を自分の居場所と決めているベルレーヌも、愛された証をしっかり両手に抱きしめているフランも。眩しいほどに充足し、肌をつやつやと輝かせているように見える。半年と少し前、あの狂乱に身を浸していた頃は自分もこうだったのだろうかと自問し、愛するだけでなく、愛されなければこうはならないと自答して、ひっそり息を吐いた。
三人がハイム邸を訪れたのは、キエルが知る限りこれで二度目になる。一度目は今年の始め、地球に戻ってようやくひと月が過ぎたばかりの頃で、当時の廃墟のようなありさまに較べれば、かなり昔の面影を取り戻した屋敷のたたずまいに、三人は感心しきりの様子だった。欲を言えば全体を塗り直し、修繕箇所が目立たないようにしたいところだが、そうそう鉱夫たちの善意に甘えるわけにもいかない。ハイム鉱山の社長宅が半壊したままでは格好がつかないと、無償で駆けつけてくれた鉱夫たちの手で屋敷は修繕されたのだ。
ハイム鉱山はラインフォード産業の傘下に置かれ、経営権はラインフォード家の親戚筋が所有しているから、鉱夫たちが今でもハイム邸を社長宅と呼ぶのは、亡父の人徳のなせる業としか言いようがなかった。事業拡大を予定していた父は多額の借金をしていたので、父の死と同時に一斉に動き出した債権者たちを、ラインフォード産業が整理したという形らしい。顧問弁護士に任せきりにしていたので詳細は知らないが、とんとん拍子に話が進んだ経緯には、当初からハイム鉱山の吸収を狙っていたラインフォード産業の思惑がある、ということのようだった。
合衆制度の発布で、イングレッサ領はイングレッサ州と改名されている。選挙で選ばれた知事が領主役を務める時代になれば、戦後処理のどさくさに紛れて既得権益を拡充し、一族の食いぶちを確保しておきたいのがラインフォード家の立場なのだろう。無論、係争に持ち込んで経営権を死守する手もあったのだが、屋敷が手元に残り、ジェシカたち使用人を食べさせていけるだけの清算金が手に入れば、キエルには鉱山を手放すことにさして抵抗はなかった。
旧ディアナ体制を尊重しながらも、月は万民在権を謳った新たな統一政府の構築に着手し――五年以内にソレル共和国を樹立すると今朝の新聞にはあった――、今年の一月、旧デジャス領領主を初代大統領におく北アメリア合衆国との間に、終戦協定と相互協力に関する条約を締結した。母はその報せを聞くことなく、キエルがビシニティに帰って二週間が過ぎた頃、ついに正気を取り戻さないままこの世を去った。
直接の死因は肺炎だというが、特に苦しんだ気配も見せず、眠るようなという表現が相応しいきれいな臨終だった。ソシエはそれから間もなく州政府に雇われ、シドとともにアメリア中を飛び回る生活をしており、この半年の間、三日と続けて家にいたことはない。使用人の数も半分以下に減り、キエル自身、戦争の傷痕が色濃く残る病院で忙しく立ち働くのが日常になれば、かつてのハイム家の栄華にこだわる理由も余裕もなく、狂乱の反動のように訪れた静かな時間――あるいは贖罪の時間を過ごすことに、なんの文句もない……つもりだった。
一週間後に夏至を控えて、ビシニティの午後は早くも夏の熱気を孕んでいる。ジェシカに人数分のレモネードを用意するよう頼んでから、キエルは一同を応接間に通した。
ルジャーナ州の北方、ルイス郡に引越しをするので、今日はそのあいさつに来たというのがフランの訪問の理由だった。荷物は庭に停めたキースのトラックに積んであるから、その足で出発するのだという。ノックスに再開したパン屋を留守にしてまで、キースとベルレーヌがフランを送り届けることになったのは、ついでに新婚旅行をしてこい、というべルレーヌの両親の差し金であるらしい。
「ディアナ・カウンターの残党が、闇で医療用ナノマシンをさばいてるって話、ご存じでしょう? 親方、それですっかり腕が治ったもんだから、おれのこと邪魔にするんですよ。帰ったら店は乗っ取られてるかも……」と照れくさそうに笑うキースは、べルレーヌにつねられてレモネードをこぽしそうになったりしていた。
「ルイスは爆撃の被害も受けなかったと聞いているけど、仕事のあてはあるの? フランさんは小説を書きたいのでしょう?」
キースの店で働くかたわら、自分の体験を小説にするとフランが息まいていたのは、そろそろお腹の膨らみが目立ち始めた頃のことだ。窓際に座り、赤ん坊に風を送り込んでいるフランは、「小説家なんて実業じゃないもの」と小さく笑って答えた。
「今はそういう時代じゃないし、振り返るにはまだ生々しすぎて……。それほどいい仕事があるとも思えないけど、向こうは物価が安いからなんとかやっていけるわ。この子には田舎の暮らしをさせたいの」
そう続けたフランの横顔は一抹の駱りを宿しており、亡夫の思い出が詰まったノックスにはいたくないから……と言っているようにも感じられた。忙しさにかまけ、ソシエがでずっぱりの生活を送っているのも、この家にロランの匂いが残っているからなのかもしれない。ふと思いつき、それが恋を失った女の心理なのだろうと考えたキエルは、自分にはそういう感情さえなかったと気づいて嘆息した。結局、本気の恋ができなかった我が身を顧み、子供をあやすフランから目を逸らすしかなかった。
「本当ならノックスに残ってもらって、経営の勉強をしてもらいたいところなんだけどな。そうすりゃ、いつかはドンキーベーカリーの支店長だって任せられる」
グラスのレモネードをひと息に飲み干して、キースが気楽な声で言う。「あたし、パンの作り方なんて知らないわよ」とフラン。
「そういうのは人にやらせればいいんだよ。オートメ化にすれば、配送の手配と顧客の確保だけ気にしてりゃいいんだから」
「また……! 機械は入れないっていつも言ってんでしょ」キースをひと睨みして、ベルレーヌはキエルにふくれっ面を向けた。「キエルさんからも言ってやってよ。この人、口を開けばオートメーション、オートメーションなんだから。キースのパンはキースが焼くからおいしいんだって、ロランにも言われたくせに」
「理屈はわかるがさ……。デパートに入ってる量販店が新式の機械を導入して、それで作ってるパンが思ったよりうまいし、安いっていうんだ。焦《あせ》りもするよ」
このところノックスからも足が遠のいているキエルには、初めて耳にする話だった。「そうなの? 月の統一政府は、ディアナ・ソレルの遺志を継いで、科学技術の輸出には慎重な構えだと聞いているけれど……」
「ポーズですよ。本当のところはじゃんじゃん技術を輸出して、見返りに地球の土地を手に入れたくてしょうがないんだ」
「どれだけ土地を手に入れられるかが、選挙の票に直接はね返ってくるものね。この間の議会で、合衆国政府も『黒歴史』の技術封印法令を否決したんでしょう?」
フランが続ける。月と地球の両方を生活の場にしてきた二人には、相互協力という美辞麗句の背後にある政治家の打算、彼らに権益を託す企業家と、その下で少しでも暮らしをよくしたいと欲する市井の人々の思いが、肌で感じ取れるのかもしれない。実際、核や化学兵器の破壊跡が無残な傷痕をさらす一方で、各州の地方自治体、企業や工場はこぞってムーンレィス帰還民を雇い入れ、近代化を合い言葉に財政再建を推し進めていた。
経済がからんで動き出せば、亡き月の女王の理念を尊重するという言葉も形骸と化し、豊かで便利な生活≠共通分母におく社会が加速を開始する。あれほどの大火傷をした直後に、よくもまあ……と呆れたくもなるが、その鈍感さがタフさにも繋がり、試行錯誤をくり返しつつ、少しずつでも前進するのが人の社会というものなのだろう。
そうしなければ窒息するとわかっているから、二千年前と同じように、人は半年前の戦争を意識的に忘れた≠フかもしれない。その連続こそが歴史のメカニズムであると知れば、自然と協調しあえる社会を夢見たディアナの理念は理念でしかなく、一代で人類の栄華を見極めようとしたグエンは、あまりにも急ぎすぎたのだ。ひとりの人間の頭の中で終始するほど、この世界はちっぽけなものではないのだから……。
「私には難しいことはよくわからないけれど……。キースさんが必要だと思うのなら、それはそうした方がいいのじゃないかしら。ベルレーヌさんも、キースさんのそういうしっかりしたところが好きなのでしょう?」
他に言うべき言葉もなく、キエルは応えた。にたりと笑ったキースが「そうなのか?」と振り返り、「知りません」とベルレーヌがそっぽを向く。苦笑したフランに誘われたのか、赤ん坊がキャッキャとご機嫌な声を出して、一同は吹き出した。声を出して笑うのはいつ以来だろうと考えながら、キエルも口に手を当てて笑った。
西の空がぼんやりと茜色に染まれば、マウンテン・サイクルからひんやりした風が吹き下ろし、まだ夏になりきらない季節を思い出させてくれる。フジの植え込みが風を孕んで揺れる音を聞きつつ、キエルは一同を庭に案内した。
父と母の墓が並んで建つかたわらに、なんの碑銘も記されていない御影石《みかげいし》がひとつ、つるりとした表面に夕陽の色を宿して鎮座している。言われなければ墓石とはわからない、直方体に切り出された石材でしかないが、その下には間違いなくディアナ・ソレルの魂が眠っていた。ビシニティに戻ってすぐ、キエルは遺品になったコンパクト型の立体映像投射装置《ホログラフィ》を庭に埋めて、ディアナのために心ばかりの墓を作ったのだった。
墓を建てる時には、ソシエから話を聞いたキースたちも駆けつけてくれて、それまであまり面識がなかったキエルと三人が知り合うきっかけにもなった。今日フランがわざわざ立ち寄ったのも、最後にもう一度ディアナの墓参りをしたかったからなのだろう。ベルレーヌに赤ん坊を預けると、フランは墓石の前に脆いて両の拳を握り合わせ、女王の冥福を祈り始めた。
帽子を持った手を胸に当てて、キースも黙祷を捧げる。彼らにとっては唯一無二の女王であるディアナの墓は、正式には月の首都ゲンガナムに建立されているのだが、あくまで形式的なものだ。ディアナの遺体は宇宙に放散したのだから、冥福を祈り続ける人の気持ちさえあれば、そこがディアナの眠る場所になる。半年後には地球と月を往復する定期便の就航が予定されているとはいえ、もう月に戻るつもりはないキースとフランは、こここそがディアナ・ソレルの墓と決めている様子だった。
もっとも、キエルとソシエ、ハイム邸の使用人の他は、キースたちしか存在を知らない秘密の墓だから、自分たちが死んだ後はどうなるかわからない。参る者もなく、ひっそり苔むしてゆくのかもしれなかったが、それはそれでかまわないとキエルは思っていた。キエルがここに墓を作ったのは、地球の土に還りたがっていたディアナの願いを叶えたいという思いがあったからだ。
できればウィル・ゲイムの屋敷のそばに作りたかったのだが、月の姫君の悲恋を語った『鳳凰の羽』が実話として注目を集めるようになり、ゲイム邸が観光地化する気配まで見えれば、ここで静かに眠らせてあげた方がいいと思った。同じ大陸の土に還りさえすれば、百五十年前の想い人と再会することも、失った恋愛をやり直すこともできるはずだから……と。
一分と少しの間、じっと墓石に向き合っていたフランは、やがてなにかを振り切るように勢いよく立ち上がった。帰還作戦の先鋒として地球に送り込まれ、人を愛し、戦争の悲惨を受け止め、新しい命ひとつが手元に残された。それらの経緯をすっかり清算し、一から出直すと決めたのか、さっぱりした笑顔で「ありがとう、キエルさん」と言っていた。
「本当、感謝してます」と言い、キースも真面目な顔で頭を下げる。自分が月でさらした醜態を知らず、真摯な眼差しを向ける二人を見るのはまさに拷問だったものの、これも贖罪《しょくざい》だと割り切ってキエルは微笑を返した。が、「そろそろロランの墓も……」と言いかけたキースが、ベルレーヌに睨まれて口を噤《つぐ》むのを横目にすれば、形ばかりの微笑は呆気なく霧散した。
ディアナの墓を作る時、ロランの墓も一緒に作るつもりで、小屋に残っていたリュックサックを埋めようと決めてもいたのだが、土壇場で中止を余儀なくされた。それまでロランのロの字も口にしなかったソシエが、頑強に反対したのだ。
『まだ死んでないのに、お墓を建てるなんて変じゃない。ロランは帰る道がわからなくなって泣いてるのよ』
そう言ったソシエは、『お姉さまには聞こえないの?』と半ば怒った顔でキエルに詰め寄りもした。そんなにも愛していたのか……と今さらながら思い知らされ、たとえソシエが正気を失っているのだとしても、たしなめる資格は自分にはないように思えて、キエルは返す言葉をなくした。とりあえずロランの墓は作らないと約束して、ソシエを落ち着かせることしかできなかった。
あるいは――旧世界の記録に残っていたニュータイプが実在し、ソシエにその能力が備わっているのなら、自分には聞こえない声がソシエには聞こえているのかもしれない。「冬の城」の歴史記録が消滅した今、真偽を確かめる術はなかったが、そう信じたいという思いもキエルにはあった。
だから、せめてソシエが新しい恋を見つけるまで、ロランの墓は建てないでおこうとキエルは思う。あのエメラルド色の瞳がある日ひょっこり帰ってくると信じて、ここで待っていようと思う。そうして無為に齢《とし》を重ね、待つことしかできない女になっていったとしても、それが自分にできるせめてもの償いなのだから……。
墓参りを済ますと、キースたちは夕飯の誘いを遠慮してトラックに乗り込んだ。「いつかこっちに戻ることがあったら、必ずお邪魔します」と頭を下げたフランの横で、キースも「帰りにちょっと顔を出します。お土産、期待しててください」と笑顔をみせる。逼塞《ひっそく》した生活を当たり前にしていても、まだ自分を気にしてくれる人の繋がりがある。そう実感できたことがありがたく、キエルは「お待ちしてます」と心からの微笑で応えた。
走り出したトラックは、門を曲がる時に別れのクラクションをひとつ鳴らし、ルジャーナの方角へと去っていった。屋敷に戻ったキエルは、ジェシカが用意した夕食を独りで摂った後、居間で刺繍の続きに専念した。
遠くで聞こえていた洗い物の音が途絶え、虫の声が森閑とした屋敷に響くようになった頃、週末のたびに針を入れてきた刺繍がようやく完成した。大きく伸びをし、肩を揉みほぐしながら、キエルは窓の外に目をやった。
夜の帳《とばり》が下りきった庭は見えず、金髪を結い上げ、ロッキングチェアーに腰かけた自分の顔だけが窓に映っていた。来週も、来年も、そのまた次の年も。
いつまでもここに座り続けて、自分はなにもせずに老いてゆくのだろう。二十も老けてみえる自分の顔に、キエルはなんの感慨もなくそう予感した。
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白く乾いた大地は、地平線まで続いたところで唐突に青空に切り替わっていた。白と青の原色しか見えない世界を彩るのは、雪山のような立体感を放つ入道雲と、地面のそこここできらめく微細なガラスの粒だけだ。
高熱にさらされた岩と砂が瞬時に溶融し、メレダイヤさながら大地を飾るガラスに結晶した。ありとあらゆる人工物を破壊したビームが、ガラス玉を置き土産にしていくというのも奇妙な話ではあったが、それがオールトンの現在の姿だった。
リリ・ボルジャーノ城を中心に置くルジャーナの首都の面影は片鱗もなく、乾ききり、死に絶えた大地が見渡す限り続いている。反ムーンレィス思想を持つ議会の極右派たちは、ここを「ミハエル大佐・激戦の地」と名づけて聖地化し、ムーンレィス排斥運動の象徴にする腹積もりがあるようだが、それはこの大地が示す絶対死≠ニいう言葉の重さを理解できない、頭でっかちどもの戯言だとソシエは思う。
土中の微生物に至るまでが完全に死滅した大地は、このさき永遠に草を芽吹かせることもなければ、花を咲かせることもない。〈カイラス・ギリ〉のビームはオールトンを消滅させ、その一帯を半経五十キロメートルにわたって焼き尽くしたのだ。大気圏突入と同時に発生したプラズマがナノマシンの機能を停止させ、自然修復が中断された土地も含めれば、被害はその数倍に膨れ上がるかもしれない。戦争が産み出すものは破壊でしかなく、仮にそこから技術や文明の進歩がもたらされたとしても、失われた多くの命、住めなくなった土地の埋め合わせにはならないということ。その真理を後世に伝えるためなら、聖地化にも多少の意義があるかもしれないが、わざわざここと限定する必要はあるまい。核兵器の直撃を受けた土地。枯れ薬剤を散布された土地。消えない戦争の傷痕は、この大陸の至るところに残っている。
発足間もない合衆国政府が、それらの土地の地質調査に乗り出してから五ヵ月になる。まだ活動している地球再生計画《リテラ・フォーミング》用のナノマシンを採取し、増殖能力を活性化するアーキテクチャを移植して、再度のリテラ・フォーミングを行うというのが目的だが、今のところ成果はあがっていない。機械人形――最近ではモビルスーツという言い方が一般化しているが――も動員して、かなり深くまでボーリングを行っているものの、電子顕微鏡に映るナノマシンはどれも死骸ばかり。他の土地で採取したナノマシンを散布する手立ても考えられたが、それぞれの環境に適応し、二千載百年の間に独自の進化を遂げてきたナノマシンは、当初に根づいた土地でなければ自然修復能力を発揮せず、ひどい場合には拒否反応を起こして活動を停止することが確認されている。ムーンレィスもナノマシンの開発技術を失っており、活性化のアーキテクチャにしても目下研究中と聞けば、お世辞にも先行きが明るい話とは言えなかった。
機械人形操縦の腕を買われ、政府調査団の一員に加わったソシエは、それでも土を掘り返す毎日を送っている。荒れ果てた土地の再生に情熱を燃やしているから……というわけではない。それはそれで大事なことだと思いはするが、一日中機械人形のコクピットに座り、荒涼とした大地と向き合い続ける理由としては、いまひとつぴんとこない。そうしていると気が紛れるから、という言い方がいちばん正確なのかもしれなかった。
戦争という巨大な災厄をくぐり抜けた後では、ビシニティにいる友人たちがひどく幼く見え、進学や就職、結婚といった将来の選択肢が、どれも無縁で無味乾燥なものに思えた。自分の居場所はどこにもなく、これからなにをしたらいいのかもわからない。無闇に広く感じられる屋敷で、生気の抜けてしまったような姉と顔をつきあわせている生活も、ソシエにはまっぴらだった。
だから、今日もソシエはオールトンの土を掘り返している。なんの解決にもならないとわかっていながら、ボーリングの杭が乾いた大地を抉るのをぼんやり見つめている。オールトンの地質調査に割り当てられたチームは全部で十六あり、ソシエたちのチームはシドを筆頭に総勢六人。他にも各種の調査機械が百メートル置きに設置され、広漠な荒野を触診しているはずだった。
作業は至極単純なもので、〈ワッド〉タイプの機械人形のコクピットに座り、マニピュレーターの先端に取りつけたボーリング機械を地面につき剌せば、後は掘削深度と土性探査モニターをチェックするだけでことは足りる。キャノピーを閉め、外部音声をコクピットに伝える集音マイクのスイッチを切ると、腹に響くボーリングの音もなりを潜めて、衝撃吸収装置《ショック・アブソーバー》から漏れ伝わる微かな振動が感じられるもののすべてになる。余分な思考がそげ落ち、起きているのか眠っているのか判然としない、脳が麻痺してゆくいつもの感覚に身を浸したソシエは、目を閉じて耳を澄ました。
こういう時に、あの声は聞こえてくる。竪琴の音色のような、ソプラノ歌手の歌声のような、ラ、ラ……という女性の声。字宙で初めて聞いて以来、地球に帰ってからもたびたび聞こえるようになったその声は、時にはロランの声を連れてくることもあった。
嗚咽らしい息づかいが聞こえるばかりで、なにを言いたいのか、どこにいるのかも皆目わからないのだが、少なくともロランはまだ生きている。この空の下で、きっと誰かに見つけてもらえるのを待っているのに違いない。そう思い、ソシエはロランの墓を作ることにも反対し続けているのだが、必死に聞き取ろうとするこちらの想いをよそに、日に日に小さくなっていった声は、三ヵ月ほど前から完全に聞こえなくなってしまった。ラ……という歌声が心を騒がせることもなくなり、今ではあれが現実の知覚であったかどうかさえ、はっきりしなくなっていた。
いくら耳を澄ましても探査モニターの電子音しか聞こえず、ソシエは嘆息と一緒に目を開いた。ピストン運動を続けるボーリングの杭をキャノピーごしに見つめ、最初からそんな声は存在しない、疲れが招いた幻聴だ……と囁く理性を漫然と受け止めたところで、無線機の呼び出し音が鳴った。
(ソシエ、居眠りせんでちゃんとやっとるか? 日も傾いてきたようじゃし、そろそろあがるぞ)
シドだった。パネル表示に午後五時の時間を確かめ、「了解」と返したソシエは、ボーリングの杭を引き抜いて撤収の準備を始めた。昨日と同じ、なんの進展もない一日の終わりだった。
トラックに積んだ大量の試験土を土産に、ベースキャンプに使っている民宿に帰った頃には、西の空は一面の茜《あかね》色だった。オールトンの北方六十キロ、爆撃の被害を辛うじて免れた町の外れにある小さな宿で、この一ヵ月、ソシエたち以外の客が泊まりに来た様子はない。裏庭には畑と鶏小屋があり、戦死した夫に代わって宿を切り盛りしている女主人は、宿代よりそちらが生み出す収入を当てにしているようだったが、だからといってサービスに手を抜いたところが見えないのが、ソシエの気に入っていた。
前庭の片隅に〈ワッド〉を駐機させた後は、試験土の詰まった土嚢《どのう》を荷台から下ろす仕事が待っている。六人全員で手分けしても、すべての土嚢を下ろし、検査器具のおいてある納屋に運び込むには三十分以上の時間がかかる。〈ワッド〉を使えば簡単なのだが、納屋と母屋が隣接する前庭はそれほど広くないし、機械の足で花壇を踏み荒らすわけにもいかない。一日弛緩した体を引き締めるにはちょうどいい運動と考えて、ソシエもひと袋十キロはある土嚢を肩に背負った。
三袋目を担いで納屋に向かおうとした時、「シーシッシ シッシッシ、ラーセッセ ラッセッセ……」と歌う声が、風に乗って裏庭の方から流れてきた。心臓がひとつ大きな脈を打ち、ソシエはその場に棒立ちになった。
ピシニティの成人式の唄。「年を越せ 夜を越せ……」と歌う幼い声が続き、気がついた時には土嚢を足もとに置いていたソシエは、こみ上げる懐かしさに押されて裏庭に向かった。鶏小屋の前で餌袋を傾けている小さな背中が見え、「ルルちゃん?」と呼びかけると、振り向いたお下げ髪の顔が「アルマジロのお姉ちゃん!」と、元気いっぱいの返事を寄越した。
女主人のひとり娘で、今年ようやく五歳になったばかりのルルには、〈ワッド〉が巨大なアルマジロに見えるらしい。なんど教えても名前を憶えてくれず、ソシエはすっかりアルマジロのお姉ちゃんにされている。「珍しい唄、知ってんのね。それお姉ちゃんの田舎のお祭りの唄よ」と言いつつ、ソシエはぬいぐるみが動いているといった風情のルルの隣にしゃがんだ。
「男は男 女は女……」と続きを歌ったソシエに、ルルも餌をやる手を休めて声を合わせる。「ホヮイトドールのご加護のもとに……」と歌いきった途端、松明の炎に浮かび上がるホワイトドールの石像の顔、石窟にこもる少年たちの熱気が鮮明によみがえり、現在という時間との隔絶感がずしりとのしかかってきて、ソシエは声を詰まらせてしまった。
もうホワイトドールは壊れてしまったし、宵越しの祭のパートナーになるはずだったロランもいない。父も母も、ソシエが知っていた頃の姉も存在しない。なにも考えず、ただ楽しいことを探していればよかった日々も二度と戻らない――。茜色に焼けた空を見上げて、ソシエは不意に押し寄せた感情の高波が静まるのを待った。
大きな茶色の瞳をぴくりとも動かさずに、ルルはじっとソシエを見つめている。桜貝を思わせる唇が、緊張と不安でぎゅっと結ばれているのを見たソシエは、目の縁に滲んだ雫を素早く拭い、「ごめんごめん……」と明るい声を出し直した。
「とっても上手だったわよ。どこで習ったの?」
「六つ痣《あざ》の聖者さま」と答えて、ルルは鶏小屋に向き直った。「聖者さま……?」と聞き返すと、「ルルにだけ教えてくれたの」という舌ったらずの声が返ってきた。
「ルルがリンゴをあげたら、お礼に教えてくれたの。次の日に会いにいったら、もういなくなってた」
そう続けたルルは、ヒエをこぼさないよう餌箱に流し込むので頭がいっぱいらしく、半分|上《うわ》の空の声だった。地元の人間しか知らない成人式の唄を歌う、六つ痣の聖者。宵越しの祭の晩、ヒルを使って背中につける六ヵ所の聖痕が難なく連想され、ソシエは胸がざわざわと波打つのを感じた。
間違いなくビシニティの出身と思われる者が、聖者と呼ばれてこのあたりをさまよっている。まさか……と思い、どれほどの可能性があるか考えようとして、すぐに致命的な否定材料に突き当たった。
自分と同じ。ロランもまだ聖痕を授かってはいない。膨らみかけた期待がたちどころに萎《しぼ》み、ソシエは小さく息を吐いた。「こりゃ、なにをさぼっとる!」と怒鳴るシドの声がそれに重なり、「あのおじいちゃん、怖い」とルルが眉をひそめる。苦笑したソシエは、ルルの頭を軽くなでてから、よいしょと膝に力を入れた。
納屋に運んだ土嚢を地区別に仕分けした後、密度や硬度などの地質データを寄ってたかって調べて、最後に分解器にかける。それらの作業が終わり、夕食を済ませば、後は明日に備えて寝るだけだったが、シドの一日はまだ終わらない。その晩も納屋にこもり、電子顕微鏡のモニターとにらめっこを始めたシドを、ソシエは差し入れのコーヒーを片手に見舞った。
集めた土の基本的なデータを取り、土中に含まれるナノマシンをより分けるのがソシエたちの仕事で、ナノマシンの調査は各ベースキャンプを巡回するムーンレィス技師が行う段取りなのだが、目の前に機械があればいじってみたくなるのがシドだ。見よう見真似で電子顕微鏡の使い方をマスターしたシドは、それからは採取したナノマシンを肴《さかな》に、寝る時間を惜しんで電子顕微鏡をいじっている。この時も数千倍に拡大されたナノマシンがモニターに映っており、細胞とも基盤の配列ともつかない升目模様を食い入るように見つめる背中が、裸電球の下で浮き立っていた。
ソシエがコーヒーを差し出しても礼のひとつも言わず、目をモニターに釘付けにしたまま、「ふうむ……やはりな」などと唸り声を出す。それがかまってもらいたい時の意思表示だと心得ているソシエは、「例の、ナノマシンが息を吹き返してるって話?」と相手をしてやった。
完全に死滅したと思われたナノマシンが、分子よりまだ小さい自己の体内の部品を修復して、次第に機能を回復させつつある――。シドが驚天動地の新説を打ち立てたのは、電子顕微鏡の扱いを覚えてしばらく経った頃、四ヵ月ほど前のことだ。「あり得んことなんじゃがな……」と応じて、シドはコーヒーに口をつけた。
「しかしそうとしか考えられん。この電子顕微鏡でも見えるか見えないかの小さな変化じゃが、最初の頃に較べると明らかに修復が進んでいる」
「自分で増える力があるんなら、治す力だってナノマシンにはあるんじゃない? 〈ターンA〉みたいに」
「あれは増殖したナノマシンが傷を塞いだり、部品を再構成するっちゅうだけのことじゃ。ナノマシンそのものに自己修復能力があるって話はない。壊れたらそれっきりじゃ」
「でも、治ってるんでしょ?」
「そう見える。この調子なら土壌改良の機能が復活して、オールトンはそのうちもとの緑を取り戻すかもしれん」
「すごーい! どれくらいでもとに戻るの?」
「さあて……。百年か、あるいは千年後かの」
マグカップをモニターの脇に置き、シドは淡々と言う。「なーんだ」とソシエが言うと、「まったく、なーんだ、じゃ」と返し、大きくのびをしたシドの背中が、あくびをかみ殺す気配をみせた。
「本当なら大発見じゃが……。その説を証明するのだって十年、百年はかかる。老いさき短い老人には、気の遠くなる話じゃて」
嘆息まじりに呟き、眼鏡を外して目頭を揉んだシドの肩は、時の重みをのせてすぼまっているように見えた。また老《ふ》けたな……と思いつつ、ソシエは仮眠用の固いベッドに腰を下ろした。
「月に行って、わしも氷漬けにしてもらおうかの。ホレスの話では、冬眠してる連中を少しずつ起こし始めてるっていうから、冷睡槽には空きがあるはずじゃ」
机に両肘をのせ、重ねた手のひらに顎を預けたシドは、まんざら冗談でもないという口調だった。「なにバカなこと言ってんの」と応えて、ソシエはベッドに仰向けになった。
「だったら今からでもお嫁さんをもらって、子供に仕事を継がせなさい。ウィル・ゲイムさんだって、そうやって百何十年もかけて宇宙船を掘り出したんだから……」
天井の梁にかかった蜘蛛の巣が、裸電球の侘しい光を受けて朧《おぼろ》な影を作っていた。「……厳しいことを言うのぉ」と漏らしたシドの声を聞きながら、ソシエは自分が生まれるずっと前に建てられたのだろう納屋の天井を見つめた。
そうして想いを繋げ、命を繋げて、時を超える方法だって人にはある。毎日を精一杯生きることができたなら、百年に満たない人生も想いを育てるには十分すぎる時間。そのために次の一日、次の一秒があるとわかっているのに、自分はなにもせずにここにいる。仕事に逃げ込み、無為に日々を過ごすのに慣れ、恋ひとつできない女になっている。靄のかかった胸の底からそんな思いが浮かび上がり、それでは申しわけないな、とソシエは感じた。
自分でも意外だった。誰に対してそう感じるのかと考えかけた刹那、どよどよと鳴り響く音が胸の靄を揺らし、ソシエは思わずベッドから立ち上がった。
ソシエにしか聞こえないその音は、遠雷か太鼓の音色のようであり、大勢の人が成人式の唄を合唱しているようでもあった。ディアナやキエル、ハリー、グエン、アグリッパの声までが合唱に加わり、全身の血が騒ぎ出すのを知覚したソシエは、それらの声に押し出されて納屋を後にした。
庭は、母屋から漏れる明かりと月の光だけが頼りの闇だった。なにかをしたいらしいのに、なにをすればいいのかわからない。意味もなくあたりを見回し、どよめく胸に両手を当てたソシエは、母屋の玄関から出てきた小さな人影に気づいて、咄嗟に「ルルちゃん」と呼びかけていた。
庭先のトイレに行くつもりだったらしいルルは、眠そうな目をこすりこすり立ち止まった。それでいい、というふうに胸のどよめきが激しさを増し、ソシエは迷わずそちらに近づいていった。
「さっきの話、もういちど聞かせてもらいたいの。六つ痣の聖者さまのことで、他になにか憶えてることある? 髪の毛や肌の色は何色だった?」
考えるより先に流れ出た自分の言葉に戸惑いながらも、ソシエはルルが口を開くのを待った。母屋の方を見、次いで足もとの草地に目を落としたルルは、「ばっちかったからよくわかんない」と、片足のつま先をとんとんやりながら答えた。
「目の色は? 明るい緑色じゃなかった?」
「金魚もってた」
両手を後ろに組み、ルルは顔をうつむけたまま言った。胸のどよめきがぴたりと止まり、ソシエは「え?」と聞き返した。
「つぎはぎだらけのばっちい金魚。立った時、首からぶら下げてんのがちょっとだけ見えた」
ひと息に答えると、ルルはようやく顔を上げて「もういい?」と続けた。どうにか頷き、トイレに歩いてゆくルルを見送ったソシエは、頭上に輝く月に呆然の目を向けた。
成人式の唄はもう聞こえず、遠い竪琴の音色が森閑とした胸を微かに揺らしていた。ラ、ラ、ラ……。透徹した歌声が静かに重なり、|銀の縫い目《シルバーステッチ》を瞬かせて、同じ輝きを放つ髪の毛がふわりと意識に滑り込んでくると、懐かしい波動がソシエの心を共振させた。
目を閉じ、自分を呼ぶ魂の声に耳を澄ましてみる。行き場を見失い、心を閉ざした命の鼓動がはっきりと聞こえ、ソシエは気づかないうちに最初の一歩を踏み出していた。
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草の触れ合う乾いた音に、ロランは目を開けた。
ふけと土埃《つちぼこり》でごわごわになった髪に手を突っ込みつつ、こわ張った上体を起こす。プン、と羽音を残して数匹のハエが飛び去り、饐《す》えた臭いが一緒に立ち昇ったようだが、半分麻痺した嗅覚を刺激するほどのもめではなかった。木漏れ日になって降り注ぐ初夏の太陽を見上げてから、ロランはゆっくり背後を振り返った。
腰の高さまでのびた雑草の茂みごしに、茶色い毛の塊が伏せているのが見えた。腹を揺する低い唸り声が漏れ聞こえ、コヨーテか、と思いついたロランは、だからどうという感想も持てず、自分と同じくらい汚れ、腹を空かせているらしい毛の塊をただ見つめた。
このあたりは人家はないし、滅多に人が足を踏み入れてくることもない。重ね合わせたぼろ布をまとい、木の下で昼寝を決め込んでいた自分は、コヨーテにとってはまたとない獲物なのだろう。茂みから這い出し、腹を地面にこすりつけるようにして近づくコヨーテを見ながら、ロランはいつしか笑っている自分に気づいた。
腹を満たすためには、あんな無様な格好で獲物ににじり寄らなければならない。そうして今日明日を生き延びたところで、いずれ寿命がくれば死ぬのに。鼻に皺を寄せた顔が可笑しく、威嚇の唸り声が滑稽で哀れに聞こえて、ロランは喉を鳴らして笑った。次の瞬間に喉を噛み砕かれるかもしれないと思っても、腹の底からわき出す笑いを止めることはできず、乾いた笑い声がいつ果てるともなく草原を揺らした。
地に伏せてロランを凝視していたコヨーテは、やがて不意に四肢に溜め込んでいた力を抜いた。なにごともなかったかのような顔で立ち上がると、踵を返して茂みの中に戻ってゆく。草を踏む音が遠ざかり、茶色い毛の塊が見えなくなるのはあっという間だった。
得体の知れない奴と恐れられたのか、食うほどの価値もない奴と呆れられたのか。しばらく考え、どっちでもいいと結論を出したロランは、喉の乾きを覚えて周囲を見回した。
先刻、風に乗って何の流れる音がたしかに聞こえてきた。そちらに向かうつもりで草原に入ったのだが、容赦なく照りつける太陽に打ち負かされ、このブナの木陰に倒れ込んでしまったのだ。一向に衰えない太陽の光に手をかざしてから、ロランはブナの幹を支えにして立ち上がった。
何に行けば、魚を捕まえて三日ぶりの食事にもありつけるかもしれない。想像しただけで胃のあたりがきりりと痛み出し、ロランはもういちど苦笑した。コヨーテを笑える立場ではない。死ぬまで飢え続ける身体の欲求に従って、自分も食い、飲まなければならないのだ。どれほど無様をさらそうと、死が訪れるまで生き続けなければならないのだから……。
メジコ領の町で宇宙服《ノーマルスーツ》と交換したポンチョは、すでに染料も褪せて灰色のぼろ切れになっている。破れた生地が地面をこすっていたが、ロランはかまわずに歩き出した。どうしても必要と思われる時以外は、頭も体も極力使わないようにすること。飢餓と隣合わせの旅で学んだ、それは唯一最大の教訓だった。
南北のアメリア大陸を繋ぐ半島の突端、ポートベロ領の岩場地帯に着陸したコアファイターは、数日のうちに周囲の砂を引き寄せ、傷ついた機体を埋もれさせていった。
磁石に吸い寄せられる砂鉄のごとく、コアファイターを完全に被覆した砂は、一週間後には巨大な岩の塊を形成し、まわりに転がる岩と見分けがつかなくなった。サパイバル・キットの中にあった戦闘食の缶詰で飢えをしのぎつつ、ロランは見るとはなしにコアファイターの様子を窺っていたが、接合ブロックに溜まった砂が基盤の配列に似た幾何学模様を描き出し、金属的な光沢を放ち始めるのを見るに至って、観察の意欲を失った。
核《コア》≠ニいう名前が示す通り。周囲の砂に含まれるナノマシンに干渉し、アーキテクチャを書き換えたコアファイターは、自らを核にして再び〈ターンA〉の機体を構成してゆくのだろう。今は直径五メートルほどの岩の塊でしかないが、百年、あるいは千年後には巨大な岩山に成長し、岩の外殻の下に〈ターンAガンダム〉を復活させる。その時、それは巨大な人型の石像になって、千年後の人間たちから畏敬の目を向けられるのかもしれない。
ビシニティの住民に崇《あが》められたホワイトドールのように――。時の螺旋が一巡し、スタート地点に戻ったのだと理解したロランは、いっさいの興味をなくしてコアファイターから離れた。
利用された怒りも、多くのものを失った痛みもなく、どうしようもない虚しさだけが胸の底に沈殿していた。傍観者でしかあり得なかった不実が、〈ターンAガンダム〉に取り込まれる結果を招き、その死と再生に立ち会うことにもなった。ようはそれだけのことだと納得しながらも、自分自身はなにもできなかった無力、人類救済の真理などは存在せず、ただ巡り続けるのがこの世界だと告げられた現実はあまりにも重く、ロランは抜け殼になった体を引きずって旅に出た。
ポートベロ領を抜け、チャパス領、メジコ領を通過して北アメリア大陸へ。当てはなかった。どこをどう歩いているのかわからないまま、モビルスーツの残骸が転がる荒野を渡り、放射能で汚染されているかもしれない河を渡り、戦災の傷が生々しく残る町を見て回った。コクピットから持ち出した電装部品、ノーマルスーツを売って得た金はデジャス領を出る頃にはなくなり、浮き出たあばら骨が腹に縞模様を作るようになったが、いつもぎりぎりのところで餓死は免れた。木陰や洞窟で行き倒れていると、付近の住民が必ず食べ物を持ってきてくれたからだ。
「六つ痣の司祭さま、どうぞこの子に力を授けてやってくださいまし」と手を合わせ、一緒に連れてきた赤ん坊や幼児を差し出すのはたいてい老人で、場所によっては「司祭さま」が「聖者さま」になることもあった。それぞれに微妙な差異はあっても、「背中に六つの痣を持つ司祭」の伝説は、アメリア大陸全土に滲透《しんとう》しているらしい。〈ターンA〉に乗った最初の晩、コクピットのマウントに押しつけられたために変色し、黒子《ほくろ》になった背中の染みは、一年経った今でも六つの斑点を浮き立たせていた。
ビシニティの成人なら誰でもつけているものだと説明しても、絶食中の行者さながら痩せこけ、ぼろ布をまとった身では説得力もない。供え物をもらった手前、そのまま立ち去るわけにもいかないロランは、仕方なく赤ん坊を抱くなり、子供の頭をなでるなりしてその場を取り繕った。騙しているようで気が引けたが、心から喜ぶ老人たちの顔を見れば、信じさせておけばいいか……という気にもなった。
二千年前、未開のアメリア大陸を放浪した六つ痣の司祭――〈ターンAガンダム〉の最初のパイロットも、きっと同じ気持ちだったのだろう。おそらくは自分と同様〈ターンA〉のシステムに取り込まれ、からっぽになった心でさまよっていたのではないか? 〈ターンX〉と戦い、旧世界の文明を埋葬した後、機械の一部になり果てていた自分に気づかされた。それは千年後、再生した〈ターンAガンダム〉に乗り、〈ターンX〉と刃を交えるパイロットが味わう絶望でもある。〈ターンX〉はザックトレーガーとともに消滅したが、機体を構成するナノマシンのひと粒でも残っていれば、永い時間をかけて復活することは可能なのだから……。
旧世界の亡霊が演じる、終わりのない堂々巡り――。考えるのをやめて、ロランは歩き続けた。領から州と呼び名が変わり、冷蔵庫や洗濯機、街頭テレビが出現するようになった町を渡り歩き、〈カイラス・ギリ〉が焼いた大地の惨状をあらためて確かめた。
西に進むにつれて戦災の度合いはひどくなり、枯れ木ばかりの森や、金網を敷設する〈モビルリブ〉の姿が目立ち始めた。ガス兵器や枯れ薬剤の汚染が残る一帯を区切り、人の立ち入りを阻んでいるのだった。立入禁止地区を避けて歩くうち、次第に見覚えのある光景が目につくようになり、ふと気がついてみると、ロランはイングレッサに戻っていた。
今も、地平線の向こうにはマウンテン・サイクルと思《おぼ》しき峰のつらなりがある。自分の勘が間違っていなければ、草原を渡って聞こえてくる水の音はレッドリバーのせせらぎだろう。草原を抜け、草いきれの中に水の匂いを嗅ぎ取ったロランは、いつかそうしたように走り出していた。脚気《かっけ》になりかけの足がついてゆけず、何度も転びそうになったが、とにかく先を急いで足を動かした。
間もなく、丘陵地帯を割って流れるレッドリバーの大河が目の前に現れた。陽光を映してきらめく水面を見た途端、足をもつれさせて河岸に倒れ込んでしまったロランは、草地を這い進んで河の水に顔をつけた。
四年前、ハイム姉妹と出会うきっかけを作ってくれた何の水は冷たく、頭蓋の中に滞留する熱を吹き散らし、体の節々に凝り固まった疲労を洗い流してくれるようだった。そのまま息が続かなくなるまで水を飲んでから、ロランは顔を上げた勢いで仰向けに寝転んだ。
背中に異物感が走り、石かと思って手を差し入れると、でこぼこのブリキの感触が指に当たった。忘れていた痛みがちくりと胸を剌すのを感じつつ、ロランはそれを背中と地面の隙間から引き出した。
尻尾が潰れ、塗装がはげ落ちた箇所には錆びが目立つメリーは、しかし丸い二つの目だけは昔と変わらなかった。長い旅の道連れを太陽にかざし、しばらくメリーとにらめっこをしたロランは、初めてこの場所を訪れた時と同じことをしてみるつもりになった。
冷たい河の水が思い出させてくれた、ちょっとした遊び心だった。ぼろ切れと化したポンチョを天日にさらし、黒ずんだ下着をぬぎ捨てて、ロランは何に入った。四年前に較べて格段に分厚くなった足の裏の皮は、河底の石が当たっても痛みを訴えはしなかった。五メートルほど進み、何の深さが腰までになったところで、ロランはメリーを水面に浮かべた。
ぺったり水面に張りつき、細かな隆起に合わせて上下に踊るメリーは、やはり月で水に浮かべてやった時よりよほど楽しそうに見えた。久しぶりに頬が緩み、ロランは軽く手を動かして小さな波を作ってやった。
波紋に押し出され、メリーははしゃぐようにブリキの体を左右に振ったが、次の瞬間には傾き、潰れた尻尾を河底に向けて、丸い目玉が水面の下に消えていった。
ぷくんと浮き上がった水泡が、別れのあいさつだった。河の流れに搦め取られ、河底を転がるメリーはたちまちロランから離れてゆく。追いかければ捕まえられる程度の速さであっても、ロランは指一本動かさずに遠ざかるメリーを見送った。
もう自分にはなにも取り戻せない。河底に膝をつき、これで真実独りになった己の所在なさを受け止めて、ロランは泣いた。
地球に戻ってから、初めて流す涙だった。どうして悲しいのかわからず、それでも涙を止められずに、食いしばった歯の隙間から嗚咽の息が漏れるのを間いた。そうやって全身の水分を流しきり、自分の体もなくなってしまえばいい。飲んだばかりの水が流れ落ち、河に還ってゆくのを感じながら、ロランはただ泣き続けた。
水の跳ねる音が遠くに聞こえ、なにかが近づく気配が伝わった。涙でぐしょぐしょになった顔を上げたロランは、それきり動きを止めた。
半年前より髪がのび、少しだけ大人びて見えるソシエがそこにいた。あちこち破れた作業着を身にまとい、腰まで水に浸かった体が輝く水面に浮き立ち、微笑一色の顔がロランを見下ろした。
手のひらにはメリーが握られており、尻尾からしたたる水が陽光を宿して光の糸になっている。河底に跪《ひざまず》いたまま、ロランはソシエの顔を見返した。
「生きてる間くらい、笑ってなさいよ」
そう言い、笑いかけた瞳がきらきら輝くのは、涙の膜が張りついているからだろう。こぼれ落ちたきらめきの欠片が胸の空洞を満たし、ロランは冷えきった体が再び熱を帯び始めるのを感じた。唇が自然に微笑の形を紡ぎ、悲しさとは別の理由で溢れてきた涙が、メリーを掬い上げてくれた少女の顔をぼやけさせていった。
蝉がかしましく鳴き、あと百万年は消滅しないだろう太陽が、河に浸かって見つめあう二人を照らしていた。これから始まる真夏を予感させる、熱くまぶしい光だった。
[#改ページ]
底本
HARUKI NOVELS
二〇〇〇年六月八日 第一刷