∀ガンダム(上)
福井晴敏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)穏《おだ》やかで温かい原初の光が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|据《す》える二つの目玉が
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序 章──正歴二三四三年・初夏──
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最初に、光があった。
穏《おだ》やかで温かい原初の光が闇を祓《はら》い、細かな、鏡の欠片のようなきらめきが、広大な大地のそこここに生まれた。
原初の光を映して輝くきらめきの欠片は、時が来れば表面が曇り、輝きを失って消滅する運命をたどったが、その頃には新しい輝きが傍《かたわ》らに生まれているので、大地はいつでも無数のきらめきに覆われるようになった。緩《ゆる》やかに紡《つむ》がれる刻の中で、それらは飽きることなく、発生と消滅のサイクルをくり返しているように見えた。
時が経つにつれ、きらめきの欠片は次第に数を増していった。発生する数に比べて、消滅する数が減少し始めたのだった。原初の光を映して輝くものでしかないのに、自らが光を放つものになれると誤解したきらめきの群れは、その瞬間から消滅を忌避《きひ》するようになったらしい。老いさらばえ、表面を曇らせながらも消え去ろうとせず、ひたすら増殖を続けて大地を覆い尽くしたきらめきの群れは、新しい住処を天に求めたようだった。
手始めに中空に浮かぶ石ころに住みついたきらめきの群れは、それを足掛かりに作り物の大地さえ産み出してみせた。天と地の両方にきらめきの欠片が散りばめられ、世界は一見、光で満たされたかのようだったが、そこにはもう、健《すこ》やかな原初の光の反映を見出すことはできなくなっていた。
曇った表面にうすぼんやりと光を宿し、漫然と輝くだけの存在。茫漠《ぼうばく》とした薄明の中に逼塞《ひっそく》する、それは鉛玉の集まりとしか言いようのないものに成り果てていた。世界の輝度《きど》は明らかに低下し、いつしか原初の光の所在さえも定かではなくなった。きらめきの群れは本能的に輝きを欲するようになり、やがて自らが原初の光になり代わって、世界を本来の光で満たそうとするものも現れ始めた。
しょせんは原初の光を映す存在でしかない、という自覚を欠いたままになされる行為は、独善的で、短絡的で、時には傲慢《ごうまん》でさえあったが、原初の光を模《も》した輝きは後を絶たなかった。次から次へと新たな光芒《こうぼう》を世界に刻んでは、己の空疎《くうそ》だけを破壊の痕跡に確かめ、儚《はかな》く霧散する運命をたどった。原初の光の穏やかさとは無縁の、ぎらぎらと暴力的で冷たい光が天と地の両方に現れては消え、強すぎる光がひとつ瞬《またた》くたびに、多くのきらめきを巻き込んで消滅させてゆく。それは原初の光になり代わる、あるいは取り戻そうとしているというより、発生と消滅のサイクルを見失ったきらめきたちが、自分たちの手で仲間を間引いているといった方が正しかった。
破壊しかもたらさない毒の光が幾度も瞬き、その興亡が世界の常識になりかけた頃、ついに最後の、決定的な閃光《せんこう》が発した。天も地も、そこにへばりついているきらめきたちも白い光に呑み込まれ、世界はつかの間、闇と表裏一体の虚無に立ち返った。
世界が再びもとの明るさを取り戻した時、天にも地にもきらめきはなくなっていた。黒々と焼け爛《ただ》れた大地には巨大な一本の樹だけが生え残っており、天に向かって枝葉を広げるその幹の根元に、最初の時よりずっと少ない数のきらめきが細々と残っていた。中空の石ころにもわずかなきらめきの群れを見ることができたが、あれほどたくさんのきらめきがどうして消えてしまったのか、その記憶を持つものはほとんどいなかった。
原初の光だけが、始まりの時から変わらない輝きを世界に投げかけていた。巨大な樹はその光を浴び、焼け爛れた大地に滋養を含んだ葉を降り積もらせていった。残されたわずかなきらめきたちは、天と地を繋《つな》ぐその樹を「始まりの樹」と名づけ、大地の毒が洗い流されるまでの間、発生と消滅のサイクルに身を委《ゆだ》ねて再生の刻を紡《つむ》ごうとした。中空の石ころに残ったきらめきたちも、いつか地上に帰れる日を夢見て、忍従《にんじゅう》と眠りの刻を紡ぎ始めた。
世界は始まって以来の静寂に包まれたのだった。そして永い、とても永い歳月が流れた。
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じりじりと肌を焼かれる痛みで、目が覚めた。
夢を見ていたと思った瞬間、それがどんな内容であったのか忘れてしまい、ロラン・セアックはだるい腕を動かして、ひりひりする顔の上にかざしてみた。
照りつける太陽の光が手のひらで隠れ、汗でぐっしょり濡れた服の感触、背中に当たる地面の感触がじわじわ這《は》い上がってくると、ここはどこか、自分はなにをしているのかといった記憶の断片が、ぼんやりした頭に像を結び始めた。濃密な大気の底に、ぽつんと仰臥《ぎょうが》している我が身に思い至ったロランは、ゆっくり上半身を起こしていった。
気絶していたのだ。まだここの重力に慣れていないのに、無理をしすぎたのがいけなかったらしい。地面にへばりついてしまったかのような体を起こして、ロランは周囲を見回した。
乾いた土の地面を露出させた山肌と、岩の陰に生えるわずかな緑。彼方に見渡せる山々の峰。コンドルらしい鳥が、小さな輪を描いて頭上を飛び去ってゆく。その上はどこまでも青く、途方もない高さで広がる大空──。
間違いなかった。ここは「故郷」ではない。自分は降下《おり》てきたのだ。リュックサックを背負い直したロランは、頭の血が下がらないよう留意しながら慎重に立ち上がった。暑さと重力にふらつきながらも、傾斜している地面にしっかり両足をつけた。
そのまま一歩目を踏み出し、バランスを取ってから二歩目の足を出す。いける、と自分に言い聞かせて、ロランは再び山道を下り始めた。今日中に山を下りなければならない。こんなところで行き倒れになっても誰も助けてはくれない、それぐらいの知識はロランにもあった。あっという間に新しい汗が噴《ふ》き出してきたが、一陣の風が肌を慰《なぐさ》めてくれたことに意を強くして、ロランは始まったばかりの旅に乗り出していった。
勾配《こうばい》が緩《ゆる》くなってくるにつれ、山肌にぽつぽつ点在するばかりだった緑が次第に数を増やしてきて、麓《ふもと》に差しかかった頃にふと気がついてみると、境目のない草原の海が一面を覆《おお》っていた。
大気は相変わらずどんよりと重く、照りつける太陽が肌に厳しかったが、耐えられないほどではなかった。空は青く澄んでおり、ぽっかり漂《ただよ》う入道雲の切れ端も、四方から聞こえる虫の羽音も、初夏の息吹きをいっぱいに蓄《たくわ》えて、旅人を歓迎しているようだった。立ち止まり、帽子をぬいで額の汗を拭ったロランは、何度目かの深呼吸をしてみた。
草いきれの混じったあま苦い空気は、山頂で吸った時よりさらに濃厚で、肺の細胞ひとつひとつを活性化してくれる。降下《おり》た直後に感じた、全身の血液が尻のあたりに落ちてゆく不快感、地面に沈み込みそうな手足の重い感触は薄れつつあり、体が確実にここの重力に順応し始めていることを教えていた。
きっと、人の身体はもともとこのような重さを感じて生きるようにできているのだろう。唐突にそんなことを思いつき、帽子をかぶり直したロランは、来てよかったんだ、と胸の中に呟《つぶや》いてから、再び歩き始めた。
地平線を思い思いの起伏で縁取る山々の峰のひとつに、ひときわ異彩を放つ岩山の形が見える。複数の尖塔《せんとう》が乱立しているのではないかと思わせる峻険な頂きは、この辺りでは「聖なる《アーク》山」と呼ばれていた。それを左後方に見ながら下山すれば、ビシニティの町にたどり着ける。ギュッ、ギュッと靴底に伝わってくる地面の感触を確かめながら、ロランは、自分の姿がビシニティの住人にどんなふうに映るのだろうとぼんやり考えた。
袖《そで》をまくった開襟《かいきん》シャツに吊りズボンを履《は》き、背中には着替えや地図などを収めた大きめのリュックサック。複数の人種が血が入り混じった褐色の肌に、エメラルド色の瞳まではよかったが、プラチナに近い髪の色は、十五歳にしては華奢《きゃしゃ》な体躯《たいく》を強調して、どこか中性的な雰囲気を漂わせていると自覚している。貧しい農家の三男坊が、自分の食いぶちを求めて出帆《しゅっぱん》した姿……というのが、これらの服装を用意した「故郷」の大人たちのイメージだったが、土地の人には、町育ちの少年がピクニックにでも出かけてきたと思われるかもしれない。もっともそうなったらそうなった時のことで、ことさら自分を装《よそお》うという気はロランにはなかった。
ビシニティは鉱山業で成り立っている小さな町で、地方からの出稼ぎ労働者も受け入れているから、そこに行けば住み込みの職が得られるだろうと「故郷」の大人たちは言っていた。そのために北方の農村出身者であることを証明する身分証書が用意され、本物の綿で織られたシャツとズボン、皮製の靴や羊毛で編んだジャンバーなど、現地に馴染める服装も特別にあつらえられた。リュックサックもバックスキン製という凝《こ》りようで、どれも「故郷」ではとんでもなく高価な代物だったが、「故郷」の大人たちが示した配慮はそこまでだった。
肝心の鉱山の仕事の内容は、わずかに残っていた過去の資料から推測したものでしかないし、体力的に勤まるかどうかも実際にやってみなければわからない。領内で通用する金をいくらか持たされてはいるものの、ビシニティで勤め口が見つからなければ、のたれ死にすることだってあり得る。裸で放り出されたも同然の立場なのだが、不安も心細さもそれほど感じずにいられるのは、この太陽と空と大地が、ロランを飽きさせないからだ。
青空を渡る雲は刻々と姿を変え、草原はちょっとした陽の加減で深遠な緑の階層を浮かび上がらせる。ロランは、緑という色にこれほど多くの種類があるとは知らなかった。しかもそれは、次の瞬間にどんな表情を見せるか、まったく予想させないのだ。
次になにが起こるかわからない世界。それは、国土そのものを一から人工的に作り上げていった「故郷」では、考えられないことだった。予測の立たない未来に期待するのではなく、想定した未来を呼び込むために現在の生がある、とした「故郷」での生活。それに対して、ここには自由な時間の揺らぎがあった。
大地を踏みしめる足と、ものをつかむ腕さえあれば、ここではどこに行ったっていい。なんだってすることができる。ここには一生かかっても歩ききれないほどの地面、知り尽くせないほどの変化が繰り広げられているのだ。見たことのないものを見て、触れたことのないものに触れる。そう、自分は旅をしているのだと思い至って、ロランはもう一度、来てよかったんだと胸の中に呟《つぶや》いた。光も、音も、匂いも、一瞬後にはどうなるかわからない世界の一部に、自分はなっている──。
不意に生臭い匂いが鼻をつき、ロランは足を止めた。それがなんであるかはわからなくても、喜ばしいものでないことだけは本能が理解していた。左手の茂みがかさりと音を立てると、グルル……と腹に響く唸《うな》り声がそれに続いて、不安は現実になった。
振り返った目に、茂みごしにこちらを見|据《す》える二つの目玉が映った。ぎょっとした時には足をもつれさせてしまい、ロランはリュックサックの重さに引きずられて尻もちをついていた。
オオカミ……いや、コヨーテか? 降下《おり》る前に詰め込まれた知識を反芻《はんすう》するうち、こげ茶色の毛の塊《かたまり》がのそりと茂みを割って現れ、かさかさ草を鳴らしながらこちらに近づいてきた。
素早い、それでいて抜け目のない動きだった。あばらの浮き出たそのコヨーテは、映像資料で見たものよりずっと貧相《ひんそう》だったが、腹を減らしきった目は資料の何倍も獰猛《どうもう》そうに見えた。鋭い牙《きば》を覗かせる口腔《こうこう》から再び低い唸り声が発し、ロランは手に当たった低木の枯れ木を咄嗟《とっさ》につかみ上げた。
痩《や》せた肩の毛を震わせ、姿勢を低くして四肢《しし》の力をため込んでいるコヨーテは、三メートルほどの距離を置いてじっと様子を窺《うかが》っている。尻もちをついたまま、無意識に後じさったロランは、にじり寄ってきたコヨーテに追い立てられるようにして立ち上がった。
膝が震え、心臓が破裂しそうな勢いで脈を打った。一メートルもない枯れ木を汗ばんだ両手に握り、ロランはへっぴり腰でコヨーテの方に突き出してみたが、コヨーテは動じる気配もなく襲撃《しゅうげき》のタイミングを狙《ねら》っていた。逃げたら、背中を見せたら襲われる。溜《た》まった生唾《なまつば》を飲み下した途端、すっと陽が陰り、コヨーテの姿が一瞬、見え難くなった。
雲が太陽を隠しただけでも、その一瞬に襲われるのではないか、という恐怖は絶大だった。ぎりぎり張り詰めた緊張の糸が切れ、ロランは横滑りに走り出していた。
ぐんと四肢を伸ばしたコヨーテが、機を逃さず跳躍《ちょうやく》する姿が目の端に映る。ロランは無我夢中で枯れ木を振り回したが、巧《たく》みに避けていったん地面に足をつけたコヨーテは、次の跳躍で喉元《のどもと》に食らいついてきた。
茂みの中に倒れ込んだ拍子に帽子が飛び、それが地に落ちるより先に、コヨーテの赤い口腔がロランの視界いっぱいに広がった。生臭い息が顔に降りかかり、ずらりと牙を蓄《たくわ》えた下顎《したあご》から唾液が飛び散る。目を閉じることもできず、ロランは自分を呑み込もうとする死を直視した。
死ぬ。まだなにもしていないのに、ここで死ぬ。一瞬後にはなにが起こるかわからない世界、無数の変化と驚きに満ちた世界の、これが摂理ということか? 降下後は、現地に生息する補食獣に注意すべし。新たな一文を資料に付け加えただけで、自分の役目は終わりだというのか……? そんな言葉が矢継ぎ早に頭の中を駆け抜け、それはイヤだ、という絶叫が最後に固まった時、唐突に悲鳴をあげたコヨーテがロランの目前で跳ね飛んだ。
全身にのしかかっていた殺意が霧散し、尻尾をまるめたコヨーテがさっと身をひるがえす間に、火薬の爆《は》ぜる音が響いて小さな土煙が上がった。茂みの中に逃げ込んだコヨーテを追って、さらに二発の弾丸が地面を抉《えぐ》るのを見たロランは、硬直した首をどうにか動かして、銃声が発した空を見上げた。
低周波のモーター音とともに、回転するプロペラの形が最初に見え、幌《ほろ》張りの船体が続いて視界に入った。飛行船、という表現を思いついた時には、巨大な長方形の船体が頭上を覆《おお》い尽くして、ロランは、陽を陰らせたのが雲ではなかったのだと知った。
鮮やかな黄色で塗装された飛行船は、船体そのものが一枚の翼といった感じで、電気駆動らしい二基のプロペラエンジンを前方に備えている。幅五十メートルはあろう船体の中央下部からは、方向舵《ほうこうだ》の役割を果たす大きな帆が地上に向かってのび、流れる雲さながら、ゆったりした速度で低空を飛行しているのだった。
「パン・アメリア航空」の社名が掲《かか》げられた方向舵の根元近くに、巨大な船体には不釣り合いに小さいゴンドラが吊り下げられている。窓ガラスごしに数人の人影が蠢《うごめ》いているのを確かめたロランは、最後尾の窓から心持ち身を乗り出し、こちらを見下ろしている青年の存在に気づいて、目を凝らした。
高度は四十メートルとないだろう。ロランと同じ褐色の肌に、手入れの行き届いた亜麻《あま》色の髪をなびかせているその青年は、両手に中折れ式のリボルバー・ライフルを携《たずさ》えていた。少年の面差しが残る顔は十七、八歳ぐらいにしか見えなかったが、こちらにぴたりと据えられた青い瞳はひどく大人びていて、助けられた安堵《あんど》より先に、奇妙な違和感をロランに抱かせた。
上流階級の人間であることは、仕立てのよさそうなシャツとベスト、窓から微《かす》かに窺《うかが》える船室内の豪華な調度品を見ればわかる。人助けも戯《たわむ》れのひとつ、というふうに見下ろす涼《すず》やかな目は、人を見下し慣れた傲慢《ごうまん》ささえ漂わせているのだが、青い瞳の奥には、体中を舐《な》め回すような執着的な色も忍んでおり、違和感としか言いようのない隠微《いんび》な空気を醸《かも》し出しているのだった。
「さすがでらっしゃいますわ、グエン様」という声が低いエンジン音に混ざり、ロランは立ち上がるのも忘れて頭上を行き過ぎるゴンドラを凝視した。
「コヨーテが逃げて行っちゃう!」「わざと逃がしておやりになったのね」と別の声が続く。フリルの袖飾りをつけた少女の姿が窓からちらりと覗き、遊覧飛行を楽しむ上流階級の華やかさを垣間見せたが、グエンと呼ばれた青年は介する様子もなくこちらを見下ろし続けた。「あの坊や、大丈夫?」という声を聞いたロランは、礼を言おうと立ち上がりかけたが、その時には方向舵が後部窓を隠して、青年の姿は見えなくなっていた。
同時に飛行船の落とす影が過ぎ去り、太陽の光が頭上に戻ってきた。激しく打ち鳴らす胸の鼓動を聞きながら、ロランはゆったり遠ざかってゆく飛行船を見送った。
山麓《さんろく》を下りきると、一面の草原はカエデなどの樹木が群生する森林に姿を変えた。その先には小麦畑が点在するなだらかな丘陵地帯が広がっており、踏み固められた地面には、馬車のものらしい轍《わだち》が幾筋も走っているのが見えた。ビシニティの町が近いとわかったロランは、それからは多少緊張して歩みを進めた。
正午を過ぎた陽差しはますます勢いを増し、夜明けから歩き通しの身に斟酌《しんしゃく》することなく降り注いでくる。平地のうだるような暑さが体にのしかかり、水筒に残った最後の水を飲み干してしまったロランは、草いきれに微《かす》かな水の匂いが混じるのを嗅《か》ぎ取って、我慢できずに走り出していた。
地図でも確認したし、降下《おり》る途中にこの目で見てもいた。「|赤い河《レッドリバー》」と名づけられた河が、この先にあるはずだ。炎天下を忘れて走り続けるうち、緩やかな水の流れが大気を低く震わせている音が聞こえてきて、それから間もなく、丘陵地帯を割って流れる河がロランの目前に現れた。
遠い昔、鉱山から流れ出る土で赤く染まったと言われるレッドリバーは、この時は清浄な水の色を陽光にきらめかせてロランを待っていた。ブナの木が人差し指ほどの大きさに見える対岸を見渡し、人も馬車も見当たらないと確かめたロランは、リュックサックを下ろし、着ているものを手早くぬいでいった。
汗に濡れたシャツとズボンを地面に広げ、天日に晒《さら》してから、片方の足をそっと河に浸してみる。澱《よど》みを知らない清涼な水が火照《ほて》った肌に冷たく、慌《あわ》てて足を引っ込めたロランは、しばらく迷った後、よし、と自分に気合を入れ直して、河の中に足を踏み入れた。
河底の石が素足に痛かったが、少し進むと柔らかな砂底になり、水の深さは腰の高さほどになった。数匹の川魚が足もとを泳いでゆくのを見たロランは、両の手のひらにいっぱいの水を掬《すく》い取り、顔に近づけた。
透明な水は、「故郷」から持ってきた消毒剤を使わなくても飲めそうな気がしたが、さすがに試してみる気にはなれなかった。代わりに掬い取った水を放り投げると、「故郷」で見るよりずっと早く飛び散った飛沫《しぶき》が一瞬だけ虹を浮かび上がらせ、勢いよく水面に吸い込まれていった。
わずかに揺らいだ河面は、やはり「故郷」の川より重い質感を際立たせているように見えた。神経の一本一本、細胞のひとつひとつが歓喜の声を上げているようで、しばらく水をバシャバシャやったロランは、「故郷」を出ると決めた時から、必ずやろうと心に決めていたことをやってみるつもりになった。
いったん河岸に上がり、リュックサックに濡れたままの手を突っ込む。着替えの束の中に隠しておいた固い感触が指先に当たり、引き出すと、ブリキ細工の玩具がロランの手につかまれていた。
魚を形どった平べったいブリキ細工の玩具は、赤い塗料《とりょう》で表面が塗《ぬ》られており、黒いまんまるい目玉と、金で塗り分けられた大きなウロコや尾ヒレが、ユーモラスな魚の姿を描き出している。口に当たる部分には紐《ひも》を通す穴がついていて、ロランは物心ついた時から、それをメリーと名づけて肌身離さず持ち歩いていた。
「故郷」の物を持ち込むことは固く禁じられていたが、誰になにを言われようと、ロランにはメリーを手放すつもりはなかった。辛い時も悲しい時も、そのまんまるい目玉でじっとロランを見上げてきたメリーは、幼年期の記憶を支える大事な思い出の品だったし、顔も知らない両親の匂いを、唯一いまに伝える物でもあったからだ。
施設に預けられた時、産着《うぶぎ》や当面のおむつを詰めたバッグの中に、このメリーが入っていたのだと先生は言っていた。両親は事故で亡くなったとも言っていたが、それは施設の子供なら誰でも聞かされる嘘のひとつで、実際にはもっと複雑な、やりきれない事情がひそんでいることは、みんながそれぞれに想像していた。
もっとも、そんなことに思い悩むのもシニアスクールまでで、卒業と同時に施設を出なければならない孤児たちは、もっと現実的な進路問題に煩わされることになる。スカラシップを取ってハイスクールに進学するか、単純労働に従事するか、あるいは|ディアナ《軍》・|カウンター《隊》に入隊するか。いくつかある選択肢のうち、ロランはここに「降下《おり》る」道を選択した。それは「故郷」全体にとって献身的な行為とされており、出発前の荷物検査でメリーが見|咎《とが》められずに済んだのも、後戻りのできない旅に向かう者に対して、せめてもの温情を示すべきと判断されたからなのかもしれなかった。
メリーを持って再び河に入ったロランは、それを水面に置いて慎重に手を放した。もともと水に浮かべて遊ぶ玩具であるメリーは、つっと指先から離れると、穏やかな河の流れに乗ってぷかぷか浮かんでみせた。自然に笑みがこぼれ落ちるのを感じながら、ロランは軽く水をかいて、メリーを押し出すようにしてやった。
ぺったり水面に張りつき、細かな水面の隆起《りゅうき》に合わせて上下に踊るメリーは、「故郷」の水に浮かべてやった時よりよほど楽しそうだった。赤い魚がいる、という話は容易には信じられないのだが、考古学に詳しい施設の先生は、大昔には金魚と呼ばれる観賞用の小魚がいて、メリーはそれを模《も》したものではないかと言っていた。西洋と東洋という文化の区別があった時代に、東洋のどこかで作られたものではないか、と。
その話が本当なら、メリーはここに「やってきた」のではなく、「帰ってきた」のだろう。それは自分も同じだと続けて考えたロランは、脊髄《せきずい》から脳にまで染み渡ってゆく水の感触を味わった。
「故郷」の人々にとって、「故郷」は本当の故郷ではない。この太陽と空気、大地と水のあるところが、人が戻るべき処。ふるさと、というやさしい言葉の音が示す場所そのものだ。両親という根を持たない自分は、だからここに憧れ続けていたのだろうか。ここに来れば寂しくないと本能が知っていたから、降下《おり》る道を選んだのだろうか……?
そんな思考の飛躍が、神経を緩《ゆる》ませていたのかもしれない。ふと気がつくと、メリーは河の流れに押されてかなり遠くにまで行ってしまっていた。ロランは慌ててその後を追い、ゆっくり回転しながら流れてゆくメリーを掬い取ろうとしたが、その途端、メリーはぷいっと流れる向きを変えて、河岸の方に押し流されていた。
自然の気まぐれを示した河の流れに頭がついてゆかず、ロランは無闇に慌てた。このままメリーが遠くに流れていってしまうという想像には、コヨーテに襲われた時とは別の種類の恐怖があった。人の気を知らずにメリーは流れてゆき、重い水をかき分けてロランが近づこうとすると、波紋に押し流されてますます遠ざかってゆく。ほとんど飛びかかるように手をのばしたロランは、瞬間、踏みしめるべき河底がなくなっていることに気づいて、ぎょっとなった。
あっという間に水面が目の前に迫り、飛び散る水|飛沫《しぶき》、自分の口から吐き出される水泡がそれに続いた。思いきり水を飲み込んでしまい、慌てて水面に顔を出したが、もう足の届く河底はなくなっていた。息継ぎする間もなく水に引き込まれ、ロランは再び嫌というほど水を飲む羽目になった。
河に深いところや浅いところがあるのは知っていても、これほど極端な段差があるとは想像していなかった。慌てるな、泳げるはずだと自分に言い聞かせ、なんとか手足を動かそうとしたが、まだここの重力に順応しきっていない体は、満足に水を掻《か》くこともできない。陽光がきらめく河岸の風景と、水泡が乱舞する水中の光景が交互に入れ替わるうち、上下左右の感覚も怪しくなってきて、ロランは溺死《できし》という言葉を思い出した。
そうして死んだ者が、過去に「降下《おり》た」者たちの中にいると聞かされている。肺に入り込んだ水が胸を灼熱《しゃくねつ》させ、ロランは夢中で手足を動かし続けた。その瞬間には恐怖も後悔もなく、ただ生きようとする体が勝手にもがいている感じだった。水泡の膜の向こうに、二組の人の素足がよぎったのはその時だった。
それほど距離は離れていないはずなのに、そのすらりとした二人ぶんの足はしっかり河底に立っており、腰から上は水面の上に出ているのだった。浅くなっている? ロランは足で河底を探ろうとしたが、水を蹴《け》るばかりで、上下の感覚も一向に戻らない。耳にも水が入り込み、鼓膜《こまく》が鋭い痛みを訴えた刹那《せつな》、一瞬だけ水面から顔を出せたロランは、飛沫ごしに素足の持ち主たちの顔を目撃した。
最初に長い金髪を垂らした少女の裸身が見え、こげ茶の髪をしたもうひとりの少女が、口に手を当てて驚いた顔をしているのが次に見えた。いったん水中に引き戻され、再び顔を出したロランは、振り返った金髪の少女と目を合わせて頭の中が真っ白になるのを感じた。
たおやかな金髪と透き通るような白い肌、それにサファイア色の瞳。ディアナ・ソレル様が、「故郷」で民を統治しているはずの女王陛下が、なぜここにいるのだ……? 水中に引き込まれる間にそう考え、重い腕をばたつかせて水面に戻ったロランは、河面を蹴立《けた》て、まっすぐこちらに走ってくる金髪の少女の顔を、もういちど正面に捉《とら》えた。
「人が溺《おぼ》れてる! お姉さま」「サムとジェシカを呼んできて! 早く」そんな声が水の入った耳に響き、まだ張りきらない少女の乳房が、濡れた金髪の下で幻のように揺れた。駆け寄る少女の周囲で水飛沫がきらめき、メリーが一緒に宙に舞うと、ロランの視界は急速に暗くなっていった。
水中に引き戻される直前、金髪の少女がなにかを叫んでこちらに手をのばすのが見えた。それは「故郷」を発つ前の日、初めて謁見《えっけん》したディアナ・ソレルの神々しい姿そのもの。薄れゆく意識の中でも、ロランはその時に聞いた女王の声をはっきり思い出していた。
『全ムーンレィスのための献身、嬉しく思います。ロラン・セアック』
「故郷」の首都、ゲンガナムの深奥《しんおう》にある「白の宮殿」で、ディアナ・ソレルはそう語りかけ、緊張でがちがちになったロランにそっと右手を差し出した。忠誠を誓う口づけが許されたのだった。謁見の間に居並ぶ執政官たちは、下々の者に対してやりすぎであろう、というような不快げな視線を寄越していたが、ディアナ・ソレルは動じなかった。ロランも女王の気遣いとやさしさがわかったから、遠慮しようとは思わなかった。
そんなふうにおっしゃっていただけて、光栄です。たしか、そう応えたと思う。ロランはディアナ・ソレルの手を取り、その甲に唇を触れた。驚くほど冷たい、しかし芯に温かさを宿した手だった。
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『モルモットなんだよな、だいたいがさ』
そんなことを言うのは、キース・レジェだ。施設でロランと一緒に育ったキースは、ガキ大将という使い古された形容詞がぴたりと当てはまるような少年だった。「ケンカを始めるのも終わらせるのもキース」といった施設の先生たちの言葉が、トラブルメーカーであると同時に、年少者の面倒見もよいキースに対する愛憎《あいぞう》半《なか》ばの思いを表現している。一本気でケンカっ早い一方、どこか冷めた目で自分を客観視しているようなところがあって、ロランとは不思議に馬が合った。
『だってそうだろう? 体にセンサーを埋め込まれてさ、降下《おり》た後はどうぞご自由に、っていうんだぜ。もう連絡を取ることもできなくて、センサーだけがこっちの健康状態をモニターして情報を送り続けるんだ。これがモルモットじゃなくてなんだって言うんだよ』
『じゃあなんで、キースは調査員を志望したの?』
フラン・ドールが反論する。やはり施設で同じクラスだったフランは、つぶらな瞳という表現は彼女のためにあるのではないか、と思わせる黒目がちの美少女だが、負けん気と押しの強さはなまじの男の比ではない。ボーイッシュにきめたショートカットの髪が示すように、顔に似合わぬさっぱりした気性で、その突撃精神はロランはもちろん、キースをもしのぐところがあった。
そんな調子で、およそロランとは正反対の性格の持ち主である二人なのだが、施設で気がおけずに話ができる友人といえば、真っ先に思い浮かぶのがキースとフランの名前だった。だからシニアスクールを卒業する時、示し合わせたわけでもないのに、三人が三人とも「降下《おり》る」道を希望したとわかった時には、ちょっとした口論にもなった。
『消去法ってやつだよ。運河の苔《こけ》掃除なんておもしろくなさそうだし、ディアナ・カウンターに入隊するってのもぴんとこないし……。調理工場は、ハイスクールぐらい出てないと一生ぱっとしないしな』
『調理技師がキースの夢だったものね。じゃあさ、降下《おり》られたら、向こうで昔の料理人とかになるんだ?』
『まだわかんねえけどな。フランこそ、その気になりゃ奨学金とれたんだろ? なんで調査員なんだよ』
『ロマンよ、ロマン。もうじき、ディアナ様の帰還作戦だって始まるのよ? 歴史が変わる瞬間をこの目で見たいじゃない。あたしたちが最後の環境調査員になるかもしれないんだから、チャンスを逃す手はないわ』
『気楽でいいよ、おまえは。……おいロラン、おまえはなんでなんだよ』
キースの声に、フランもこちらの顔色を窺《うかが》うようにする。ロランは、紐《ひも》で首からぶら下げていたメリーを服の中から取り出して、そのまんまるい目玉を覗き込んだ。
『ぼくは、これを川に浮かべてみたいんだ』
『川? 川ならここにだってあるじゃない』
『でも、メリーはここで作られたんじゃないもの。これを作った人や、ずっと昔に持っていた人……その人たちがしてたみたいに、メリーが生まれた場所で泳ぐのを見てみたいんだ』
子供の頃から、そういうふうにしか自分の気持ちを言い表せないのがロランで、それを笑って許してくれるのがキースとフランなのだった。キースは『聞いたおれがバカだったよ』と苦笑し、フランは『哲学ね』と言って笑ってくれた。その一ヵ月後、三人はそろって環境調査員の試験に合格し、半年にわたる速成訓練の後、「故郷」を旅立った。
予定通り山頂に降下《おり》た後は、それぞれの目的に向かって別々に山を下っていったキースとフラン。今頃どうしているだろう? メリーが浮かぶところを、二人にも見せたかったのに……。
「およしなさい、ソシエ」
不意にそんな声が降りかかってきて、ロランは周囲を見回した。ディアナ・ソレル様の声。ソシエって誰だ? 考えようとした途端、頬《ほお》になにかが当たる感触がして、眠りの薄皮《うすかわ》が破けた。全身にのしかかる重力の感覚がよみがえり、意識が急速に浮上していった。
焦点《しょうてん》の定まらない目に、のばしかけた手をびくんと引っ込めた少女の顔が映った。
眠っていたらしいとわかり、頬に当たった感触が少女の指先だったことにも思い至ったロランは、警戒したのもつかの間、すぐに好奇心むき出しの眼をこちらに向け直した少女の顔を見返した。ディアナ様と一緒にいたこげ茶髪の少女……と思いつく間に、「だから言ったでしょう?」と、もう一度ディアナ・ソレルの声が発して、ロランはだるい首を動かしてみた。
黒ずんだ板張りの天井を背景に、水から上がって間もないと見える金髪を垂らした少女の細面《ほそおもて》が見えた。やっぱり、ディアナ・ソレル様? ロランは口を開きかけたが、金髪の少女はろくに目も合わさずに視界から消えてしまい、代わりにこげ茶髪の少女がロランの視界を塞《ふさ》いだ。
「ね、あなた、これ追いかけて溺《おぼ》れたの?」
そう言う少女の手には、メリーが握られていた。すぐには声が出せず、ロランは小さく頷《うなず》いて返事の代わりにした。いたずらそうな瞳をしばたたかせた後、ぷっと吹き出した少女は、「バッカみたい」と率直な感想を寄越した。
「ソシエ……!」金髪の少女の叱責《しっせき》の声が飛ぶ。ソシエと呼ばれた少女はぷいと顔を背《そむ》け、うるさいんだから、というふうな足取りでロランのそばを離れていった。ひどく重く感じられる手足を動かして、ロランは上半身を起こしてみた。
上にかけられていた毛布が滑《すべ》り落ち、寝椅子に横たえられていた自分に気づかされた。小屋という程度の広さしかない木造家屋の中には、他にも煉瓦《れんが》製のオーブンや木製のテーブルセット、パン生地の保温に使われるドーボックス、ブリキや白鑞《しろめ》の皿、木材をくりぬいたボウルなどが並ぶ食器棚があり、そのどれもが長年の使用に耐えてきた貫禄《かんろく》を放っている。飾りといえば押し花を入れた小さな額が数点あるだけで、はるかな昔、過酷《かこく》な労働に耐えてここの土地を開墾《かいこん》した開拓者の住居のように見えたが、唯一異なるのは、天井から裸電球が吊されている点だった。
金髪の少女がちらとこちらを振り返ったが、毛布のはだけたロランが裸身だとわかると、すぐに目を背けていた。慌《あわ》てて毛布を手繰《たぐ》り寄せながらも、肩にタオルをかけた金髪の横顔を窺ったロランは、よく見ればディアナ様とは少し違うな、と思い直した。
ディアナ様の肌はもっと白いし、髪もさらりとした直毛で、目の前にいる少女のように緩《ゆる》くウェーブはかかっていない。隣に並んだソシエが、先刻、河の中でお姉さまと呼んでいたのも思い出したロランは、ここがどこか、彼女たちは何者なのかという疑問を保留にして、似てない姉妹だなという感想をまずは結んだ。
ソシエに魅力がないというわけではないが、金髪の少女の優美に過ぎる立ち姿と較べれば、見劣りする観は否めない。気になるのは、そろってシルクのブラウスを身に付けている姉妹が住むには、この小屋は似合わないということだったが、その疑問はすぐに解消した。「ジェシカ、頼むわね?」と金髪の少女が呼びかけると、二階から降りてきた中年の婦人が、訝《いぶか》しげな目をロランに向けてきたのだ。
でんとした体躯《たいく》に、臑《すね》まで包むぶ厚いウール地のスカートを履《は》いた中年の婦人は、この小屋の主に相応《ふさわ》しい容貌の持ち主と見えた。前掛けを芋虫のような太い指でつかみながら、「よろしいのですか、キエルお嬢さま」と金髪の少女を見返した後、再度ロランをじろりと睨《にら》む。化粧など知らないといった肉厚の顔が、お嬢さまに悪さしたら承知しないよと無言の圧力をかけてきて、ロランは我知らず生唾《なまつば》を飲み下していた。
「平気よ。よそ者が流れてくるなんて、珍しいことじゃないわ」
さらりと返すと、キエルと呼ばれた金髪の少女は小屋から出ていった。ここは使用人の住居なのだろう。ソシエも後に続き、こちらを振り返ってクスリと笑った顔を最後に、戸を閉めてしまった。メリーが彼女の手に握られているのはわかっていたが、ジェシカに睨《にら》まれていては、呼び止める勇気はロランには持てなかった。
河岸に置きっぱなしだったリュックサックと服は、サムという年寄りの使用人が回収してくれたらしく、小屋に運び込まれていた。服を身に着けたロランは、ジェシカかからスープと黒パン、それにミルク一杯の食事を振る舞われた。
ジャガイモやセイヨウネギ、数種類の野草を煮込み、乾燥ハーブで味付けしただけの薄いスープは、適温に調理されたものしか入れたことのない口に、舌が焼けるほど熱く感じられた。黒パンも固かったが、噛《か》んでいるうちに濃厚な味が染《し》み出してきて、ロランはしばらくの間、なにも考えずに口を動かし続けた。
西日の差し込み始めた窓の外にムクドリらしい小鳥がとまり、無心にパンをかじるよそ者の姿を一瞥《いちべつ》すると、興味なさそうに羽づくろいを開始した。「故郷」では映像でしか見られない光景が当たり前に見られるのも、ロランには嬉しく、とんでもなく貴重なことのように思えた。
「このハイム家はね、溺れてなきゃ、おまえみたいなよそ者には出入りできないところなんだよ」
ミルクを注《つ》ぎ足してくれながら、ジェシカが言う。辛辣《しんらつ》な口調と裏腹に、旺盛な食欲を見せるロランをそれほど悪くは思っていないようだった。黒パンを頬ばったばかりのロランは、それを飲み下してから礼を言おうと思ったが、それより早く小屋の戸が開き、こげ茶の髪を三つ編みに結《ゆ》い直したソシエが顔を覗かせた。
姉がいなくなったところで、尋問《じんもん》を再開するつもりででもいるのか。興味津々の顔を隠しもせずに近づいてきたソシエは、「そんなのに関わらない方がいいですよ」と言ったジェシカの声を無視して、パンを頬ばるロランを無遠慮に見下ろした。
育ちのよさが作る大らかさ、わがままさが、恐れを知らない好奇心を助長して、茶色い瞳を輝かせているようだった。礼を言おうと立ち上がったロランは、その拍子にパンを喉《のど》に詰まらせてしまい、慌ててスープで飲み下す醜態《しゅうたい》を晒《さら》してしまった。
ソシエは口もとで微かに笑っただけで、ロランの行動をじっと観察している。どうにかパンを飲み込んでから、ロランは「あの……」と切り出した。
「その、恵んでもらうつもりはありませんから。お金は少しありますし……」
礼を言うつもりが、そんな言葉になって口からこぼれ落ちた。後悔する間に、「わかってるわ、ロラン・セアック君」とソシエが応じて、ロランは思わずその顔を見返した。
両手を腰の後ろに組み、勝ち誇った顔をしているソシエの背後に、口に開いたリュックサックが見えた。「故郷」で偽造した身分証書が役立ってくれたことはひとまず安心してから、ロランは「調べたんですか?」と訊《き》いてみた。
「あなただって、あたしたちを見たじゃない」とソシエ。河で水浴びをしていた二人の裸身が思い浮かんだが、明瞭な像を結んだのは金髪をまとった乳房の方で、ソシエの姿はかすんでいた。スープに目のやり場を求めながら、ロランは「溺れてたから、ちゃんと見られませんでした」と答えておいた。
ソシエは「残念ね」とすまし顔で続ける。スープを口に運びつつ、ロランは「そうですか?」と聞き返した。他意はなかったが、その途端ソシエの唇から余裕の笑みが消え、茶色の瞳がいら立ちを露《あらわ》にした。
「あたしたちより、こっちの方が興味あったんだ?」
詰問口調で、後ろ手に隠し持っていたメリーを突きつける。ロランが反射的に手をのばすと、ソシエはそれをひょいとかわして一歩うしろに退いた。
「返してください」
「イヤよ」
つんと言ったソシエは、そのまま戸を開けて外に出て行ってしまった。「そんな……! ぼくのですよ」と口にした時には、ロランも後を追って小屋から出ていた。
ブナやカエデが植わった広い庭に、同じような使用人小屋が数棟並んでいるのが見え、手入れされた芝生の向こうでは、ガレージらしい建家と、その数倍の規模を誇る白亜の本邸がでんと構えている光景があった。広壮な洋館は、やはり大昔の上流階級者が住まうお屋敷そのままだったが、正面側の屋根が建物の高さを越えて反対側にまで張り出し、裏側と非対称のデザインになっている点が違っていた。
よく見れば、張り出した屋根にはびっしり芝が植わっているのがわかる。太陽電池の役割を果たす芝から、電気を抽出《ちゅうしゅつ》しているのだろう。旧世界の末期に開発された技術──自己増殖をくり返して自然物に干渉し、植生や土壌を改良するよう設定された分子サイズの極小作業機械《ナノマシン》──が、現在も活動を続けている証明だった。
ナノマシンによる品種改良で発生した太陽電池芝は、使用人小屋の屋根にも植えられており、効率よく太陽光線を集めるために、どの家屋も屋根を南側に向けて建てられている。もっとも、それがはるか昔に人為的に作られたものだとは想像しておらず、旧世界の人々が石油を採取して燃料に使用していたように、純粋に自然の恩恵と受け取って生活に役立てているのが、ここの人々だった。
二千年以上前に滅びた旧世界の電気文明が、一定のレベルを保って進化も退化もせずに使われている──。資料の一文を思い出し、山で見かけた飛行船の電気エンジン、小屋の裸電球なども思い出したロランは、ジェシカがハイム家と呼んだ屋敷をまじまじと見上げた。見た目には近代の戸口に差しかかったばかりの豪邸は、この時は富裕の二文字を浮かべてロランを圧倒した。
「今夜はどうするつもりだったの?」
追いかけてこないことにますます腹を立てたのか、ソシエがつっかかる口を開く。ロランは、「ビシニティにはハイム鉱山があるから、そこに住み込ませてもらおうと思って……」と答えておいた。
「ふうん。考えてはいるんだ」
「あ……! ハイム鉱山って、ここハイムさんのお家……?」
ドジ続きの一日の中でも、最上級のヘマをしでかしてしまったらしいとわかって、ロランは絶望的な気分になった。なぜ最初に聞いた時に思い当たらなかったんだ? 周囲に特別な印象を与えてはならないと厳命されていたのに、よりにもよって鉱山主の娘に助けられてしまうなんて……。
言葉をなくしたロランに、ソシエはニタリと意地悪く笑ってみせた。「そうよ」と言うや、本邸の方に走り出したソシエを追いかける気にはならず、ロランは小屋に引き返した。
これから住み込みの職を探すつもりでいた鉱山は、これで一歩遠のいた場所になってしまった。どうする? と考えるより先に、とにかく早々に引き払うべきだと結論を出したロランは、ジェシカに礼を言って小屋を後にした。
メリーを取り戻す必要があったし、キエルという金髪の少女をもう一度見たかったということもある。リュックサックを背負い、ハイム邸の正面玄関に向かったロランは、車寄せに黒塗りの自動車が停まっているのを見て、足を止めた。
自動車が開発されたのは百年ほど前だが、ここでのゆったりした時間の流れは、デザインも機能も開発当初のままに留めている。鉱山業の発達で、馬車や鉄道に代わる新しい交通手段として注目されているものの、乗用車を所有できるのは一部の富裕階級だけだと資料に記されていた。ハイム家の乗用車も、アールデコ調の邸宅に似合うクラシックなデザインの車に見えたが、エンジンにはやはり水素駆動のものが使われているようだった。
まだ馬丁時代の名残りが抜けない制服を身に付けた運転手が、屋根のない運転席から降りて恭《うやうや》しく客席のドアを開ける。恰幅《かっぷく》のいい紳士とその夫人らしき女性が玄関に姿を見せ、ドレスで着飾ったキエルと、さっきと同じ服装のままのソシエがそれに続いた。
この家の主人、つまりハイム夫妻だろう。アメリア大陸の東海岸一帯を治めるイングレッサ領において、一代で鉱山業を成功させた急進|著《いちじる》しい実業家。速成教育の知識が頭を駆け抜けたが、ロランの目は、白いドレスに包まれたキエルの横顔に釘付けになっていた。
明るい場所で離れて見ると、その立ち姿はやはり驚くほどディアナ・ソレルに似ている。ハイム夫妻に続いて車に乗り込みかけたキエルは、ぼっと見惚《みと》れているこちらの視線に気づいたのか、不意に体をロランの方に向けた。ソシエも気づき、ここまでおいでと言わんばかりにメリーをかざして見せたが、キエルはにこりともせずにそれを取り上げ、車用のスロープを下ってまっすぐこちらに歩み寄ってきた。
ディアナ様とそっくりなお嬢さんが、メリーを取り返してきてくれた。ロランは胸が高鳴るのを感じたが、キエルの顔には明らかな怒りが浮かんでいた。不満顔のソシエが姉の後についてくるのを見てから、キエルのきっとした表情に視線を戻したロランは、ずいとメリーを差し出したキエルの勢いに、思わず腰を引いてしまった。
「成人式のために体を清めていたのに、めちゃめちゃにしてくれたわね」
レースの手袋をはめた手につかまれて、メリーは申しわけなさそうに身を竦《すく》めていた。有無を言わせぬ声に、大事な儀式の邪魔をしてしまったらしいと無条件に理解したロランは、「あ、謝ります!」と反射的に頭を下げていた。
腰を折りまげた途端、リュックサックがずるりと前の方に滑って、体勢を立て直す間もなく頭を地べたにくっつける羽目になった。ソシエの忍び笑いが聞こえ、四つん這《ば》いのまま急いで顔を上げると、呆れきった様子で見下ろすキエルの顔があった。情けなさと恥ずかしさで、ロランはこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「河の流れがあんなに強いなんて、ぼく知らなかったんです。それで溺れてしまって……」
恥の上塗りとわかっても、なせか喋《しゃべ》らなければ間が持ちそうになかった。くすくす笑うソシエの横で、「もういいわ」とため息まじりに言ったキエルが腰を屈め、ロランにメリーを手渡してくれた。
「起きられるようになったのなら……」
「あたし、お父さまに鉱山で働けるようら頼んであげる」
出てお行きなさい、と続くはずだった姉の言葉を遮《さえぎ》って、ソシエが言っていた。眉をひそめ、「ソシエ……」と口を開きかけたキエルに、「いいじゃない」と返したソシエは、そっぽを向く素振りを見せた。
「ガリアと戦争になるかもとれないから、鉱山は増産、増産で、いくらでも人手は欲しいのよ?」
「大人の話に口を出すものじゃないわ」とキエル。他人には窺《うかが》い知れない、姉と妹の間に流れる微妙な感情の渦《うず》がまとわりつき、肌をぴりぴりさせたが、今はとにかく職を見つけるのが優先という思いが先に立った。ソシエの気が変わらないうちに、ロランは「ありがとうございます! 本当に」ともう一度頭を下げた。
すでに思いっきり印象を与えてしまっている、立ち去るべきだという思いと、他になんの当てがある、ここを出たら野たれ死にするだけだという思いが伯仲する胸を抱き、しばらくそのままの姿勢でいると、小さく嘆息《たんそく》したキエルが車の方に戻ってゆく気配が伝わった。顔を上げたロランは、大した騒音も立てずに滑り出した自動車がスロープを下り、門に向かってゆくのをソシエとともに見送った。
紆余曲折《うよきょくせつ》はあったものの、とりあえず住居と職を確保。任務の第一段階はクリアできたと内心に呟《つぶや》いたロランは、後のことは後で考えればいいと自分を納得させるよう努めたが、キエルを乗せた自動車が塀の向こうに消えてしまえば、ひどく所在ない思いにとらわれもした。
これでいいのか? 自分をここに導く原因になった、メリーのまるい目玉を覗き込んだロランは、「あなたも行くんでしょ?」と言ったソシエの声に顔を上げた。
「どこへ?」
「お祭よ。宵越《よいご》しのお祭」
聞き返す間もなく、ソシエは執事たちが控《ひか》える玄関にたっと駆け出していた。
北アメリア大陸の夏は、夜が短い。夏至に当たるその日は、午後八時を過ぎても夜の帳《とばり》は降りきらず、陽の名残りが空をぼんやり橙《だいだい》色に染めていた。
それでも、東の空からは確実に闇が押し寄せてきて、清冽《せいれつ》な星の光を地上に投げかけてもいた。ロランは、大気を通して見る星がゆらゆら瞬《またた》いて見えるのが不思議だったが、地上では、それ以上に興味を引かれる光景がくり広げられていた。
ビシニティの町の中心部から、アーク山の麓《ふもと》に至るまでの道が燃えていた。無論、道そのものが燃えているのではなく、近づいて見れば、人々が手にした松明《たいまつ》の炎が行列を作っているのだとわかる。列の先頭にはひときわきらびやかな光の塊《かたまり》があったが、それは町の中心部から持ち出された巨大な山車《だし》で、人々はその後ろに付き従い、一路アーク山を目指しているのだった。
山車は、高さ三メートルほどの座像に装飾を施《ほどこ》したものだ。旧世界にあったダイブツを想起させたが、座禅は組んでおらず、巨大な椅子に座った格好で人々を見下ろしている。山車の後ろには酒樽《さかだる》や食料を満載した馬車が続き、松明や、鉄のかごに燃えさしの松を入れたジャックライトなどを持った町の住人たちは、それらを取り巻くようにして唄い、笑い合って、なだらかな斜面を行進していた。
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シーシッシー シーシッシー
ラーセッセー ラーセッセー
年を越せ 夜を越せ
年を越せ 夜を越せ
男は男 女は女 男は男 女は女
年を越せ 夜を越せ 年を越せ 夜を越せ
ホワイトドールのご加護のもとに
ホワイトドールのご加護のもとに
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どよどよとわき起こる歓声に耳を澄ますと、そんな歌詞が聞き取れる。夏至の日に行われる成人式の唄。ビシニティでは十五歳になった者は成人と認められ、アーク山の中腹にある「|白い人形《ホワイトドール》」の前で、宵越しの祭を行うのがならわしだった。
十五歳のキエルは、その祭に参加するために河で体を清めていたわけで、一生に一度の大事に闖入《ちんにゅう》してしまったロランが辛辣《しんらつ》な目で見られるのは当然……というのがソシエの説明だった。ソシエとともに行列に加わったロランは、人いきれにくらくらしそうになりながらも、松明が行き交う幻想的な光景から目を離せずにいた。
「故郷」では炎の使用が禁止されている。電気ですべてが賄《まかな》われているとはいえ、こうして松明の明かりを目前にすれば、炎には闇を照らしたり物を温めたりするだけではない、感覚に直接訴えかけてくる原初的な力があるのではないかと思えるのだった。全身が内側から火照《ほて》ってきて、ロランは大声で叫びたいような、笑い出してしまいそうな奇妙な衝動に何度も駆られた。満天の星空を背にそびえるアーク山は、ロランの興奮など知らぬげに、複数の尖塔《せんとう》の形が寄り添う頂きを夜に向けていた。
「ビシニティは、もともとホワイトドールを目印に宿場ができて、だんだん町らしくなっていった場所だもの。ビシニティって名前自体、『そば』とか『添うもの』って意味なのよ。あたしたちにとっては守り神みたいなものなんだから、ホワイトドールに成人式を見てもらうのは当然でしょ?」
そう教えるソシエは、「でも今は、ハイム鉱山が町の中心なんだから」と、誇らしげに付け加えるのを忘れなかった。その言葉を証明するように、キエルは今年成人式を迎える少年少女たちの代表に選ばれており、山車《だし》の上で行列の先導役を務めている。
「あたしも再来年はあれに乗るのよ」と先頭の山車を指さしたソシエに、ロランは「ホワイトドールって、なんのこと?」と訊いてみた。
「もう少し行けばわかるわよ」と答えて、ソシエは山麓の勾配《こうばい》をさっさと上ってゆく。再来年で成人式ということは、ソシエはいま十三歳。自分より年下なのに……と微《かす》かに腹を立てつつ、ロランもその後に続いた。
しばらく進むと切り立った岩肌が前方に見えてきて、松明の行列がぱらぱらと四方に散り始めた。まだ十五歳に満たない子供や、その親たちが下山しているのだった。ロランとソシエはかまわずに上り続けたが、大柄な老人が行く手に立ち塞《ふさ》がれば、それ以上の前進はできなくなっていた。
「お嬢さんたちはここまでです。今夜はこれ以上あがっちゃいけません。宵越しの祭がありますからね」
サムという、ハイム家の使用人のひとりだった。髭《ひげ》に顔半分を覆《おお》われた老人の顔には、長年の苛酷な労働を忍ばせる皺《しわ》が何本も刻まれていたが、この時はその一本一本が子供に語りかけるやさしい表情を作っていた。「ロランにホワイトドールを見せたいのよ」と言ったソシエの抗弁《こうべん》にも、サムは「いけません」と譲《ゆず》らなかった。
「今夜ホワイトドールに会えるのは、十五歳になったキエルお嬢さんたちだけです」
現地の風習を尊重し、溶け込むことに努めよ──。速成訓練を施した「故郷」の教官の声がよみがえったが、内からわき上がってくる熱には関係なかった。
「ぼくだって十五歳ですよ」と言ったロランは、「よそ者は……」と開きかけたサムの口を無視して、走り出していた。
制止の声を背中に聞きながら、ロランは勾配を一気に駆け上がり、山の中腹に連なる岩塊によじ登った。山車が向かった方角は、唄声と松明の灯が教えてくれる。月明かりを頼りに手掛かりを探りつつ、ロランは夢中で岩を這《は》い登った。
ホワイトドールを見てみたいし、成人式の祭も最後まで見届けたい。体内の熱が全身の血液を沸騰《ふっとう》させ、「故郷」にいた時には封じ込められていたなにかが、見たい、触れたいという衝動を爆発させているようだった。
「よそ者はこれ以上、登っちゃいけないんだから……!」などと言いながら、ソシエも後についてくる。相手が年下の少女でも、ここの重力に慣れきっていないロランはあっという間に追いつかれてしまったが、ソシエは追い越して先に行こうとはせず、ロランの背中越しに山車の行列を窺った。盾にされた形だったが、頼られるのは悪い気分ではなく、ロランは慎重に岩の上を這い進んでいった。
過去に噴出した溶岩が固まったものだろう。風雨の浸食でかなり滑らかになっているものの、入り組んだ岩塊は足掛かりには事欠かなかった。息を切らせて登るうち、唄声がすぐそばに聞こえ始めて、折り重なる岩の隙間を松明の火が横切ってゆくのが見えた。ソシエと肩を寄せ合うようにして、ロランは隙間に顔を近づけた。
切り立った岩肌を背にしたそこは広場になっており、山車が下ろされると、少年たちは手にした松明を中央に持ち寄って焚き火の準備を開始した。座像の股間にぴったり体を押しつけ、山車から振り落とされまいとしていたキエルが立ち上がり、馬車を引き連れて登ってきた行列を振り返る。「これからは成人式の宵越しの祭になります。大人の方々は下山してくださいませ!」という凛《りん》とした声が響き渡り、馬車から荷を下ろした大人たちが、飲み明かす相談をしながらぞろぞろ引き上げてゆく光景がロランの目に映った。
残された少年少女たちは、ここでひと晩を過ごすのだろう。それが成人式の出で立ちなのか、頭からすっぽりかぶる白い布をまとい、バンダナにユーカリの枝を差して冠《かんむり》にしている少年たちは、これから始まる祭への期待で顔を紅潮させている。キエルの顔も生き生きと輝いており、少年たちを率いるさまはいよいよディアナ・ソレルに重なって見えたが、ロランの注意を引いたのは、広場の背後にある巨大な石窟《せっくつ》だった。
切り立った岩肌に、高さ二十数メートル以上、幅も十数メートルはあろう石窟《せっくつ》が穿《うが》たれていて、その少し奥まったところに巨大な石像があるのだった。
「あれがホワイトドールよ」と耳元で囁《ささや》いたソシエの声に、ロランは岩の隙間から身を乗り出して石像を注視した。
山車の座像はこれを模して作られたものなのだろうが、こちらは高さが二十メートル近くある。簡略化された目鼻に、大昔のバイキングがかぶっていたような兜《かぶと》。左右に突き出た角が、無表情の能面に猛々《たけだけ》しい印象を与えている。太古の磨崖仏《まがいぶつ》さながら、岩肌をくり抜いて造られたらしい石像は、積年の風雨に全体のフォルムがかなり削り取られてはいるものの、人形であるがゆえの神性と威圧感を湛《たた》えて、大人になろうとする少年たち、少女たちを睥睨《へいげい》していた。
不意に体が震え、ロランは手に触れていた岩をぎゅっと握りしめた。内側からわき上がる興奮とは別種の、鋭く怜悧《れいり》な知覚が脳の襞《ひだ》を押し分け、内奥の古い皮質を刺激したようだった。未知の記憶がそこから溢《あふ》れ出し、見たことのない、しかし見覚えのある光景が像を結んで、目眩《めまい》の波が押し寄せてくるのを感じた。
天を衝《つ》いて聳《そび》え立つ、巨大な樹の映像だった。数キロはあろう太さの二本の幹が絡まりあい、互いを支えながら大気層いっぱいに枝を伸ばしている巨大な樹。夢で見たような……と思った時には消えてしまい、「見つかったら叩き出されるわよ」とソシエに背中をつつかれたこともあって、ロランは今の不思議な知覚を忘れた。隙間に乗り出していた体をわずかに引っ込め、宵越しの祭を見物することに専念した。
石窟を背にして座っているホワイトドールの両手は、なにかを問うているかのように手のひらを上に向け、膝上に突き出されている。その手首の間に幅三メートルほどの板が渡され、祭壇の役を果たしている様子は、巨人の司祭が聖書を膝に説教している姿を想起させた。祭壇の中央に置かれた鉄製のボウルに火が焚《た》かれ、塩漬けの肉や魚、果物などの供物が周囲に配置されると、少年たちの唄声はいよいよ大きく、激しいものになった。
梯子《はしご》を伝ってホワイトドールの膝上に上がったキエルが、一同を見渡す。唄声が歓声に変わり、異様な熱気が巨大な石像の足もとを包み込んだ。
「パートナーを選びます!」と叫んだキエルの声とともに、少年たちの興奮は最高潮に達した。ある者はゴリラよろしく胸を叩いてたくましさを誇示し、ある者は宙返りをして身軽さを披露する。巫女《みこ》役のキエルのパートナーになるために、少年たちはそれぞれ男ぶりを示して見せ、歓声を送る少女たちは、その中から自分に相応《ふさわ》しいパートナーを選び出すのだった。焚き火の原初的な明かりが跳びはねる少年たちの影を岩肌に映し込み、ほとんど神憑《かみがか》りと言っていい祭の空気が夜の大気を揺らした。
ホワイトドールの膝の上で、キエルは少年たちを品定めする。焚き火と、少年たちが放出する熱気で、その顔には玉の汗が張りついている。微笑していながら、少年たちの挙動のひとつも見逃すまいとする真剣な眼差し──。ロランは、そこにまだ知らない「女」の匂いを嗅《か》ぎ取っていた。
その匂いは、「故郷」のディアナ・ソレルへの茫洋《ぼうよう》とした憧れよりも強く、重い実感を伴って下腹部から股間の辺りにじわりと落ちていった。ロランは、背後にソシエがいるのを完全に忘れた。隙間から身を乗り出し、キエルの眼差しがこちらに向けられないものかとさえ思った。
「このガキ! タブーを破るつもりか」
唐突に振りかけられた声が、幻惑の時間を終わりにした。ぎょっと身を引いた時には、少年のひとりが隙間に手をのばし、ロランの頬を押し出すようにしていた。
慌《あわ》てて身をひるがえすと、すでに逃げ出し始めているソシエの背中が、岩場を下ってゆくのが見えた。
「待て、この野郎! ホワイトドールの贄《いけにえ》にしてくれる」と叫んだ声が背後に弾《はじ》け、ロランも一目散に岩の斜面を駆け下りていった。
その夜は、ハイム家の使用人小屋で寝ることが許された。ジェシカが寝起きしている独身用の小屋には三人ぶんのベッドが用意されており、今はジェシカがひとりで使っていたから、そこがロランの当面の寝床になった。
サムから聞いたのか、ジェシカはロランが宵越しの祭を覗《のぞ》きに行ったことを知っていた。怒られると覚悟したが、ジェシカは「見かけによらず、やるじゃないか」と笑っただけだった。その後、どこから来たのか、家族はどうしているのかといった質問が繰り出され、ロランは「故郷」の大人たちが用意した偽装経歴を、問われるままに答えた。
エリゾナ領の農村で家族とともに暮らしていたが、凶作で土地のほとんどを売らなければならなくなった。わずかばかり残った畑の世話は兄夫婦に任せて、自分は職を求めて出帆《しゅっぱん》してきた──。それが、作られた「過去」の内容だった。ジェシカは、「あんたも苦労したんだねう」と言って鼻をすすり、たくし上げた前掛けで目頭を押さえた。意外に涙もろい人のようだった。ロランはいたたまれない気持ちになり、早くこんな嘘をつかなくても済むようになればいいのに、と思わずにいられなかった。
ディアナ様の帰還作戦が始まり、「故郷」の人々と、ここの人々がお互いに手を取り合えれば、つまらない嘘をつく必要もなくなる。自分が降下《おり》たのもその準備のためなのだから、今は我慢しよう。そう言い聞かせて、胸の痛みを紛《まぎ》らわせるしかなかった。
ベッドは、木のフレームにスプリング代わりのロープを張り、その上に藁《わら》を詰めた麻袋のマットレスを敷いたものだった。カーテンで仕切られた向こうのベッドに横になると、ジェシカはすぐにいびきをかき始めたが、ロランはなかなか寝つくことができなかった。寝返りをうつたびに音を立てるマットレスや、カーテンを揺るがすほど豪快ないびきが気になったわけではない。体は疲れきっているはずなのに、頭は冴え冴えとしている。「故郷」の六倍にも達する重力を受け止めた骨、今日一日の過激な運動を記憶した筋肉、死の恐怖と性の衝動を一時に経験した血がそれぞれ騒ぎ立てて、ロランに眠りを許さないのだった。
蚊遣《かや》り火の煙の匂いを嗅ぎながら、ロランは目を閉じて眠ろうと努めた。そうするとコヨーテの生臭い息、飛行船からこちらを見下ろした青年の舐《な》めるような視線、男を選ぶキエルの目といったものが次々まぶたの裏に浮かんできて、意識の一部がますます覚醒していった。まったく別のものであるにもかかわらず、それらは渾然《こんぜん》一体となって頭の中をぐるぐる回り、等しく生を絶叫して、身体の奥底にあるものを刺激し続ける。ロランはそっとベッドを抜け出し、小屋の外に出た。
電気文明が残っていても、ことさら夜を明るくする必要はないと考えるここの人々の感性は、庭に常夜灯を置くような真似はしない。うっすら湿った夜気を肌に感じつつ、森閑とした庭を歩いたロランは、清浄な大気に震える星空と、煌々《こうこう》と輝く満月を見上げた。
かつて、この大地と空を徹底的に汚し、破壊し尽くしてしまった人間は、その原因のひとつである科学技術の大半を葬《ほうむ》り、おぞましい滅びの記憶を忘れることで、生き長らえようとした。そしてこの星は、永い癒《いや》しの刻を迎えた。
それから二千年以上の時が過ぎ去り、この星は回復の兆《きざ》しを見せ始めた。まだ人の住めない土地が多く残ってはいるものの、帰還を願い続けた「故郷」の人々を受け入れるほどには回復した。それは、今日一日過ごしただけのロランにも実感できることだった。
だから、もういいのだろう。すべてが人工的で固められた「故郷」で逼塞《ひっそく》している必要はない。全身の細胞が躍動するような興奮、一瞬先にはなにが起こるかわからない自然の営みの感動を、みんなにも味わってもらいたい。人が人として生きてゆける世界を、みんなで分かち合いたい。ロランは、中空に映える満月を見上げ、腹の底から叫んでいた。
「地球はとてもいいところだ! みんな、早く帰って来ーい!」
その声は庭の木々を震わせ、夜のしじまを破って、はるかな宇宙にまで響き渡っていった。ロランには、そう感じられた。
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†
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ソシエ・ハイムは、トイレから寝室に戻る途中、その声を聞いた。
この春に敷き変えられたばかりのバラの花輪|模様《もよう》の絨毯《じゅうたん》の上を歩き、サッシを開けて窓から上半身を乗り出してみる。父に見つかったら危ないとどやされ、キエルに見つかればはしたないと叱られるところだったが、幸い二人は家にいない。キエルは宵越しの祭の最中だし、父も商工会の役員たちと町で飲み明かしているはずだ。母は寝室にいたが、祭でワインを飲みすぎたとかで、帰宅早々に寝てしまっていた。
声の発した東側の庭を見渡すと、フジの植え込みの向こうに人が立っている姿が、月明かりに浮き立って見えた。今日|雇《やと》い入れたばかりの使用人、ロラン・セアックだ。なにを叫んでいるのかは聞き取れなかったが、両手を開き、天に顔を向けている姿は、まるで月に吠《ほ》えているようだった。
心臓がひとつ大きな脈を打った。北方の僻地《へきち》には、野蛮《やばん》な習慣を持つ民族が今も生活していると聞いたことがある。ロランもそこの出身? と思った時には、このあいだ読んだ冒険小説にあった人食い族の挿《さ》し絵が頭に浮かんできて、ソシエは窓から体を引っ込めた。が、母を起こそうという気にはならなかった。
蛮族であろうとなかろうと、月の光を宿して輝くロランのプラチナ色の髪はきれいだ、と思ったからだ。それは月のまん中を走る細い銀色の筋──「|銀の縫い目《シルバーステッチ》」と呼ばれた──と同じ色をしていて、ソシエは、この不思議な少年は星の世界からやってきたのではないか、とも想像した。
だったら、なおのことみんなには黙っていよう。特にキエルお姉さまは、バカにするに決まっているのだから。ソシエは、月に吠えるロランの背中を自分の胸にしまってから、寝室に戻っていった。今夜は楽しい夢が見られそうだった。
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第一章──正歴二三四五年・初夏──
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ハイム家に厄介になるようになって、九ヵ月が過ぎた頃。小屋の屋根から落ちる雪解け水の音が、春の訪れを告げ始めた矢先に、ピルグリムが死んだ。
ピルグリムは、ハイム家が乗馬用に飼っていた栗毛の馬で、主人のハイム氏が自動車に熱を入れるようになってからは、もっぱら二人の娘たちを鞍《くら》に乗せる日々を送っていた。鉱山での仕事を覚えるかたわら、ロランは自ら進んでピルグリムの世話をした。
使用人小屋の居候《いそうろう》させてもらっている手前、なにかしらお屋敷の役に立ってみせる必要があったし、ソシエよりキエルになついているピルグリムの世話をしていれば、キエルと話すきっかけもつかめるという下心もあった。純粋とは言えない動機で始めた馬の世話は思った以上に大変だったが、しばらく経つとコツがつかめてきて、毛を触った感じやちょっとした仕種《しぐさ》から、ピルグリムの気持ちがなんとなくわかるようになった。ピルグリムもそんなロランを認めたのか、たまにジェシカが飼い葉をやりに行ったり、サムが体を洗ってやったりすると、おまえたちではダメだ、ロランはどこか、というように前足を鳴らし、ぐずる素振りを見せるのだった。
「まったく、おまえが世話をするようになってからすっかりひねこびちまったよ」とジェシカはぷりぷりしていたが、ロランは、ピルグリムは寂しいのだとわかつていた。主人のハイム氏と遠乗りすることがなくなってしまったから。キエルやソシエを乗せて、たまに屋敷の回りを散歩するだけの毎日が、どうしようもなく虚《むな》しく感じられたから。だから始めた理由がなんであれ、一生懸命に世話をするロランが、心の隙間を埋めるものになったのだ。そしてそれは、時にたまらなく心細い思いに駆られるロランにとっても、同じことだった。
そんなある時、アーク山に乗馬に出かけたソシエが、山麓《さんろく》で手綱《たづな》を誤って落馬する事故が起こった。幸いソシエに大きな怪我《けが》はなかったものの、ピルグリムは前足を骨折して、二度と立てない体になってしまった。
サムは、楽にさせてやるしかない、と言った。泣いて謝るソシエをやさしく抱きとめながら、ハイム氏もそれしかあるまい、と言った。このまま寝かせておけば皮膚が床ずれを起こして、からだ全体が腐《くさ》ってしまうのだと言う。それが、走るために生まれてきた馬の宿命である、と。ロランはなんとか助けられないものかと懇願《こんがん》したが、キエルも目を伏せて首を横に振るだけだった。
「故郷」の技術があれば、簡単に骨折を治してやることができるのに。ロランは、「故郷」と連絡を取る方法を真剣に考えたが、どだい不可能な話だった。体内にセンサーが埋め込まれていても、それは片道通行の送信機でしかない。健康状態を監視して、「故郷」に送信するだけの位置発信器に、意志を伝える機能は望むべくもなかった。どうすることもできないとわかり、ロランは泣いた。やがて厩舎《きゅうしゃ》から銃声が響き渡り、ピルグリムが永遠の眠りについたことをロランに教えた。
自分の無力が悔《くや》しく、情けなくて、ロランは雪に埋もれた庭で泣き続けた。こんな思いをするくらいなら、地球になど降下《おり》なければよかったとさえ思った。この悲しみ、慟哭《どうこく》が血圧を上昇させ、脳波をかき乱して、センサーを監視している「故郷」の大人たちに伝わればいい。そうすれば、一刻も早く帰還作戦を始めるべきだとわかるだろう。「故郷」に蓄積された旧世界の技術を使って、地球から悲しい死をなくしてくれるだろう。子供じみているとわかっても、そう願わずにいられなかった。
カエデの幹に顔を押しつけていたロランは、そっと近づいてきたキエルに気づいて顔を上げた。慌てて涙を拭《ぬぐ》ったロランに、「いいのよ。お泣きなさい」と言ったキエルは、今までに見せたことのない慈母のような微笑を浮かべた。
「それはロランのやさしい心が流している涙なのだから、気が済むまでお泣きなさい。でも、その後は笑っていなさい。ピルグリムは天に召されたけど、それは生き物なら当然のこと。私も、ロランも、いつかは天に召されるわ。だから、いつまでも悲しんでいてはだめ。ピルグリムは、きっと十分に働いたことを誇りにして、ロランや私たちと遊んだことを宝にして、天に召されていったのよ。私たちも見習わなければ、ね?」
枝からこぼれ落ちる雪解け水の雫《しずく》が陽の光を浴びてきらめき、キエルの背後に光の雨を降らせていた。ロランはなにも言えずに、やさしく輝く金色の髪をただただ見上げ続けた。
自然の営みに従い、ピルグリムは尊厳をもって死んでいったと教える言葉は、死がなくなれば悲しみもなくなる、と信じた浅はかさを責め、それよりももっと大切なことが生き物にはあるのだと伝えていた。ロランは、泣くのをやめて厩舎に戻った。
ピルグリムの亡骸《なきがら》をしっかり見ておこうと思ったのだった。そして機会があったら、キースやフラン、「故郷」の人々みんなにこの話を伝えようと、ロランはひそかに決心した。
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その年は、五月の終わりから急激に気温が上昇し始めて、夏至《げし》を迎える頃には、イングレッサ領内はどこもかしこも夏一色の様相を呈していた。ビシニティも例外ではなく、午後ともなれば強い陽差しが照りつけて、町全体がハレーションを起こしたように白っぽく浮かび上がって見えるのだった。
耳をつんざく勢いでがなり立てる蝉《せみ》の声を聞きながら、ロラン・セアックはハイム邸に続く坂道を走っていた。ここ一週間ほど雨を忘れた地面は乾ききり、熱く膨張《ぼうちょう》しきった大気の中、そよとも揺らがない樹木が濃い影を落としている。以前なら貧血で倒れかねない暑さだったが、降下《おり》てからまる二年が経とうとしている今は、多少の寒暖でまいるようなことはなくなっていた。
屈強な鉱夫たちと同等とまではいかなくとも、筋肉も骨格も標準的な十七歳の少年という程度には発達して、日々坑道の中を行き来し、水素発動機やエレベーターの点検をして回る仕事も十分にこなしている。肩までのびたプラチナの髪が、以前にも増して中性的な雰囲気を醸《かも》し出してはいるものの、ロランが一人前に働ける男であることを疑う者は、少なくともビシニティにはいなかった。
仕事を切り上げてハイム邸に行けと親方に言われたのは、午後の操業が始まってすぐ、新しい竪穴《たてあな》に設置したエレベーターの点検をしていた時だった。ハイム社長が呼んでいるのだと言う。とにかく急げよ、という声にせき立てられて鉱山を後にしてきたが、ハイムが名指しで自分を呼びつけた理由は親方も知らず、ロラン自身思い当たる節はない。このところ破竹《はちく》の勢いで業績を伸ばしているハイム鉱山は、イングレッサの首都・ノックスに支社を出したばかりで、忙しく飛び回っている社長とロランが顔を合わせるのは夕刻、屋敷内に併設された事務所の前を通って帰宅する時だけと決まっていたからだ。
数人の事務員たちと事務所に詰めているハイムは、ロランが窓越しに挨拶すると、今日はどうだった、などと気さくな声をかけてくれたものだが、それさえもここ数日はなくなっている。太り肉《じし》の体を机に押しつけ、書類の山から頭の先だけ覗《のぞ》かせた鉱山主は心ここにあらずという感じで、挨拶をしても、片手を上げてひらひらさせるのが精一杯なのだった。
ハイムがそこまで忙殺されている理由は、鉱夫たちの噂話や、採掘された鉱物の出庫内容などを見聞きするうちに、ロランもおぼろげに推測している。今もこの近くを飛行しているプロペラ音が、その理由だった。蝉のざわめきの中に、頭上を行き過ぎるエンジンの音が混ざるのを聞き取ったロランは、足を止めて空を振り仰いだ。
染《し》みるほどの青空を背景に、一機の複葉機が飛んでいるのが見える。町外れの工場で造られている飛行機、たしかブルワンとかいう単発のプロペラ機だ。曲芸まがいのラフな飛行をする機体が、翼を立てた。九十度回転してみせると、胴体側面に描かれたマークを地表に向けながら頭上を通りすぎてゆく。イングレッサ義勇軍《ミリシャ》のマーク、と確認したロランは、両翼端に機関砲らしい黒い筒《つつ》が装備されていることも確かめてから、遠ざかるブルワンのシルエットを見送った。
各町や村で自発的に運営されてきた自警団を糾合《きゅうごう》、組織化して、イングレッサ領全体の防衛を目的としたミリシャを設立する──。ロランが鉱山で働くようになった頃から始まったミリシャ設立運動は、イングレッサの領主であるラインフォード家の主導のもと、急速に進められていた。これまで、戦争と言えば水取り場をめぐるローカルな土地争いぐらいしか知らなかった人々が、軍隊に近いレベルの組織構築を開始したのは、大西洋を越えた先にあるガリア大陸が侵攻してくる可能性があるからだと喧伝《けんでん》されているが、真偽のほどは定かではない。ロランにわかるのは、そのためにハイム鉱山はひたすら増産を強《し》いられているということだけだった。
複葉機や装甲車、トラックといった機械から、ライフル、弾丸、鉄帽に至るまで、軍備には絶対的に鉄鋼《てっこう》資源が必要になる。ミリシャ設立の動きは、イングレッサ領に隣接するルジャーナ領、フロリャ領にも見られ、これに付随《ふずい》して鉄道網の整備、自動車産業も活況を呈し始めたという意味では、現在の北アメリア大陸は、まさに農耕社会から工業化社会へ変革する途上にあるのだった。
ハイム鉱山が業績を伸ばし、社長が書類の山に埋もれる道理だった。鉱山の拡張は日々行われ、新しい竪穴が掘られるたびにエレベーターやトロッコが増設されて、その整備と保守は機械いじりの得意な──「故郷」のものに較べれば、ここで使われている機械は原初的で単純な構造のものばかりだ──ロランの仕事になる。今日は西坑の発動機の点検、明日は南坑エレベーターの配電盤修理と駆けずり回るうちに、一日という時間は瞬《またた》く間に過ぎてゆく。単調な、しかし穏《おだ》やかで充足した毎日を重ねて、もう二年……。
「あれがミリシャとやらの戦闘機か。よく飛んどるな」
長閑《のどか》な声がすぐそばに発して、ロランはぎょっと地上に目を戻した。道脇の茂みががさがさ揺れると、土埃まみれのオーバーオールを着た小柄な老人が現れて、汚れきった眼鏡のレンズごしにぎょろりとした目を向けてきた。
ぼさぼさの白髪頭に、内側にブリキを仕込んだ日除け帽兼ヘルメットをかぶっている。帽子の左右にくくりつけられた懐中電灯が、もう一対の目になってこちらを見上げているところは、いつものシド・ムンザらしい姿だった。茂みの中でなにをしていたのか気になったものの、この老人が奇妙な場所に出没するのは珍しいことではないので、ロランは、「シドじいさん……?」とやや驚いた顔を見せるのに留めておいた。
なにかとよくない噂の男なのだが、どういうわけか鉱山への出入りを黙認されていて、アーク山と鉱山を行き来してはあちこち勝手に掘り返したりしている。先日も坑道近くに断りなく発破を仕掛け、あわや落盤《らくばん》事故の騒ぎを起こした挙句、「今度やったら殺す」と鉱山の親方に凄《すご》まれていた。もっとも当人はけろりとしたもので、反省の色は爪の先ほども見せない。誰から聞いたのか、ロランに機械いじりの才があると知ってからは、仕事の途中であろうとちょっかいを出してくるようになって、ロランにとっても迷惑な人になりつつあるのがシドだった。
そんな孤高の偏屈《へんくつ》老人だから、続いて茂みが揺れ、長身のがっしりした男が姿を見せた時には、ロランは本気で驚いてしまった。シドと同じく、スコップの先を覗かせたリュックサックを背負っているその青年は、ロランと目を合わせると帽子を取って軽く会釈《えしゃく》した。
「ロランは初めてじゃったな。この男はウィル・ゲイム。この間からわしの助手をやってもらっとる。鳳凰《ほうおう》の羽《はね》を取りにいった、あのウィル・ゲイムの直系の子孫じゃ」
腰をさすりながら、シドが含んだ目で説明する。自分も帽子をぬいで会釈したロランは、「はあ……」と気の抜けた声を返した。鳳凰の羽もウィル・ゲイムの名前も聞いた覚えはなく、このじいさんの助手になる酔狂《すいきょう》な人間がよくもいたものだ、という感想しかわかなかった。
「なんじゃ、知らんのか。イングレッサの子供なら誰でも一度は聞く昔話じゃぞ」
不満げなシドの声に、ウィル・ゲイムと紹介された男ははにかんだような、それでいて迷惑そうな複雑な笑みを、髭の剃《そ》り跡が目立つ口もとに刻《きざ》んだ。
「すみません。ぼく、ここの生まれじゃないもんですから……」と言い訳しながらも、ロランはシドから離れるタイミングを求めて顔を左右に動かした。
気にするふうもなく、シドはロランの顔を凝視《ぎょうし》している。たわいない世間話の合間にも、絶えずこちらの反応を窺《うかが》い、正体を見透かそうとするような粘着質《ねんちゃくしつ》がこの老人の目にはある。特に、シドが山を掘り返している目的が「黒歴史」の探求にあると聞かされてからは、ロランはその視線に居心地の悪さを感じるようになっていた。
「黒歴史」は、このアメリア大陸のみならず、地球各地に残る過去の文献や資料を編纂《へんさん》したと言われる伝承文学だ。数百章に及ぶ膨大な分量の上、編纂された地方によって内容が微妙に異なるので、研究者の間でも統一した見解は出ていないのだが、基本となる部分は一致している。すなわち、「宇宙にまで進出した先史文明が、太古の昔に存在していた」というものだ。
その記述によれば、地球には、かつて大規模破壊戦争によって人の住めない星になった歴史があるのだという。先史文明の人々はほとんどが宇宙に逃げ延び、科学力の大半が失われたが、我々は無意識にその科学的遺産の恩恵を受けている。たとえば、水素エンジンの動力となるフロジストーン。沿岸で採掘されるフロジストーンの結晶体は自然の産物と思われているが、事実は、海を浄化するために大量投下された科学的物質が、海水と結合して発生したものである。太陽光線から電気エネルギーを抽出するホタル草も同様。これらはすべて、地球環境を汚さずにエネルギーを利用できるよう、先史文明の人々が遺したものである云々……。
ロランにしてみれば、それらの記録が残っているという事実は、地球がまだ完全に過去の記憶を失っていない証明に思えたが、ここで暮らす人々にとっては荒唐無稽《こうとうむけい》、オカルトと断じられているのが「黒歴史」の記述だった。資料的価値はいっさい認められておらず、その研究をしようなどと志す者は変人の謗《そし》りを免《まぬが》れない。が、まれにシドのようなへそ曲がりが研究に取り憑《つ》かれて、彼らは人々の奇異の視線をものともせずに、あちらの山、こちらの山を掘り返して、先史文明の遺物発掘に情熱を傾けているのだった。
実際、ロランも何度か先史文明の遺物らしきものを坑道内で見つけている。それは「故郷」では馴染みの深いコンピュータのチップであったり、半ば化石化した光ディスクの破片であったりしたが、鉱夫たちはそんなものには目もくれず、きれいな物であれば持ち返って妻子のみやげにする程度で、先史文明の存在に思いを馳《は》せる気配は微塵《みじん》もなかった。
どう見ても人工物としか思えない物体が無数に発掘されているにもかかわらず、先史文明の存在を頑《かたく》なに否定できる人々の頭の構造とはいったいなんなのか。電気文明が一定のレベルで停滞していることと併せて、降下《おり》た当初のロランにはなかなか理解できなかったが、今ではなんとなく想像がつくようになっている。
滅びの記憶を忘れることで再生の道を歩んできた人々は、本能的に技術の進歩を嫌っているらしいということだ。だから先史文明の名残《なご》りには目を向けようとしないしヽそれを解き明かそうとする者には、奇人変人の烙印《らくいん》を押して排斥《はいせき》しようとする。ミリシャ設立から始まった工業化の動きで変わりつつある部分もあったが、そうした風潮がいまだ根強く残っているのが、現在の地球だった。
そんな空気の中で二年間を過ごしたロラン自身、「故郷」での生活を忘れかけている自分を自覚している。それだけに、わしは忘れんぞ、と言っているようなシドの目には、居心地の悪さを感じずにいられなかった。粘着質の視線は、こちらの出自さえ見透かそうとしているのではないか、と思わせる強い光を宿しているのだ。
「ハイムの旦那に呼ばれてるんじゃろ」
離れたがっている気配を察しているのかいないのか、シドが言う。ロランは、「なんで知ってるんです?」と頭ひとつ小さい眼鏡面を見下ろした。
「わしはなんでも知っとる。ハイムの旦那が、おまえにお屋敷付きの運転手をやらせるつもりでいるっちゅうこともな」
「運転手って、自動車の? どうして……」
「わしが、おまえには機械いじりの才能があるっちゅうて、ラインフォード家の御曹子《おんぞうし》に報告したからじゃよ」
ひどく確信めいた口調が気になったし、イングレッサの領主一族であるラインフォード家の名前が、シドのような男の口から出てきたのも意外だった。
「……それで、どうして旦那様がぼくを運転手にするって話になるんです?」と相手をしたロランに、シドは痩《や》せぎすの体を反らすようにして統けた。
「ミリシャの設立でハイム鉱山の業績はうなぎ登りじゃが、それを実質的に操っとるのは御曹子。グエン・サード・ラインフォード、その人じゃ。わしは、その御曹子の依頼で山を調べとる。それはハイムの旦那も知っている。だからわしは鉱山にも出入りできるし、わしが御曹子に言ったことが、ハイムの旦那に伝わりもする」
わかったような、わからないような話だった。一年半ほど前から出没するようになったシドが、鉱山への出入りを許されているのは、ラインフォード家の口利きがあるかららしい。とりあえずそれだけを理解して、ロランは「……はあ」と生返事を返しておいた。
「ま、大人の世界にはそういうこともあると覚えておくんじゃな。おまえに機械の才能があるなら、もっと大きな仕事も任せられるかもしれん。出世のチャンスと心得て、しっかりやることじゃ」
「大きな仕事って?」
「わしの見立てでは、やはりアーク山が『|くり返しの山《マウンテン・サイクル》』である公算が大きい。そうなら、機械いじりができる奴は何人でも欲しいんじゃよ」
じっと立ち尽くしているウィル・ゲイムの目が、ちらとシドを見たようだった。「マウンテン・サイクル……?」とおうむ返しにする間に、シドはくるりと背を向けてしまい、スコップや発破を満載したリュックサックと、そこから突き出た鶏がらのような足だけがロランの目に映った。
「『黒歴史』が語る、過去の文明の宝庫じゃよ」
言い捨てたシドに続いて、ウィルも帽子のつばに手をやってその場を離れてゆく。正体不明の胸騒ぎか感じながらも、ハイムを待たせるわけにはいかないロランは、二人を見送るのもそこそこ、再び走り出していた。
鉱山への行き帰りには、東側にある通用門を使うのが近道だった。門をくぐったロランは、正面玄関ではなく、屋敷に併設された鉱山事務所の玄関の方に向かった。
一階の東側三分の一ほどを占《し》める鉱山事務所には、常時十人ほどの事務員が詰めておりヽ優美な屋敷の一画に鉱山の土臭さを持ち込んでいる。鉱山業がさほど儲《もう》からなかった時代の名残りで、今でもそのままにしているのは、ハイムの堅実な経営姿勢の表れだった。
家族からは不満の声があがっているが、「特需《とくじゅ》に踊らされたっていいことはない」が口癖《くちぐせ》のハイムは、対外的な体裁を整える以外、いわゆる贅沢品にも手を付けようとしない。事務所に向かったロランは、そんなハイムなら絶対に買わないはずの物を正面玄関の方に見つけて、足を止めた。
純白のボディに、金メッキの装飾を施した最新のオープンカー。ハイム家の乗用車よりはるかに優雅で、素早い瞬発力を秘めているように見える車が、車寄せに鎮座《ちんざ》していたのだった。思わず目が吸い寄せられた途端、「すごい、ピカピカ! グエン様が造らせたの?」と興奮気味の声が発して、玄関からソシエが飛び出してきた。
去年の暮れ、三つ編みにしていたこげ茶の髪をばっさり切って両親と姉を驚かせたソシエは、さすがに木登りをしてジェシカたち使用人をハラハラさせ るような真似はしなくなったものの、ハイム家の次女としては活発すぎる性格は相変わらずたった。この時も落ち着きなく車の周りを動きまわり、枝の上で跳びはねるリスの姿をロランに想い起こさせた。
「乗用車だって、スポーツのように走らせたいっておっしゃっているのよ」
キエルの声が玄関の中から聞こえる。夏休みで暇を持て余している二人の姉妹は、豪華な新車で乗りつけた来客にはしゃいでいるようだ。ソシエは目を輝かせて運転席を覗き込み、後部トランクを開けてみたりしている。トランクの内側がビロード張りの予備席になっているとわかると、「すごい、ここも座席になってる。すごいわよ、お姉さま!」と玄関を振り返ったが、キエルは「見たわよ」と子供をあやす口調で返しただけで、玄関に出てくる気配はなかった。顔が見られるのではないかと期待していたロランは、あきらめて事務所の扉をくぐった。
応接間に行くよう経理担当の事務員に教えられ、屋敷に入る時の習い性で靴の土を丹念に落としたロランは、カーペット敷きの廊下を歩いて奥の応接間に向かった。油彩の風景画や彫刻が並ぶ廊下は、腐葉土《ふようど》の饐《す》えた臭《にお》いが染《し》みついた使用人小屋とは別世界の華美さで、柱時計の音も心なしか上品に聞こえてくる。孔雀《くじゃく》石細工の花瓶《かびん》台が置かれたコーナーを曲がり、応接間に続く廊下に出たロランは、扉の前で肩を寄せ合い、じっと耳を澄ましているキエルとソシエの背中を見つけて、立ち止まってしまった。
中の話を立ち聞きしているらしい。ソシエはともかく、キエルがすることではないと思ったが、緩《ゆる》くウェーブのかかった長い金髪を見ていられるのが幸せだったので、ロランはそれとなくコーナーに身を寄せ、キエルの様子を窺《うかが》った。
十七歳になって背がのび、優美さに艶《つや》やかさが加わり始めたキエルは、ますます「故郷」の女王、ディアナ・ソレルに似てきたようだった。丈の長いスカートからちょこんと覗いたハイヒールの足首が美しく、いつの間にか溜まっていた生唾を飲み下したロランは、「戦闘機も必要なんでしょうかね?」と言ったハイムの声を、応接間のドアごしに聞いた。
「海上での戦闘も考えてますから」と、若い男の声が応じる。「ガリア大陸が攻めてくるってなら、そうなりましょうな」とハイムの声が続くのを聞いたロランは、来客はシドの言っていた御曹子かもしれない、と唐突に思いついていた。
イングレッサ領主の御曹子、グエン・サード・ラインフォード。グエン様が……と言っていたソシエの声、来客中に自分を呼び出したハイムなどを繋《つな》げて考えつつ、ロランは扉の向こうから聞こえてくる声に意識を集中した。「ですから、増産路線は続けます」と続いた男の声が、くぐもりながらもはっきり耳に伝わった。
「ハイム社長には、そろそろ外の領地の山へ進出することも考えておいてもらいたいのですが」
「承《うけたまわ》りましたが、本当に戦争は始まるので?」
ハイムの声が聞き返したのと、扉の前にいるソシエがこちらに気づき、キエルの肘《ひじ》をつっついたのは同時だった。うるさいわね、というふうに振り返ったキエルと目を合わせてしまったロランは、どうすることもできずに頭を下げた。
はっと息を呑み込んだ顔が赤くなったのも一瞬、キエルはすぐにつんと顔を背《そむ》けて、あからさまに不愉快な表情をしてみせた。またひとつ、嫌われる材料を提供してしまったと自覚して、ロランは両手につかんだ帽子をぎゅっと握りしめた。うなだれ加減で応接間の扉に近づくと、「噂ですよ」と答えた青年の声が、間の悪い空気をひそやかに揺らした。
「しかし、これが契機になって工業化社会が作れるのなら、チャンスは最大限に活かしたいというのがわたしの本音です」
「さすがは御曹子。ご領主の跡取りであるばかりか、新時代の産業を興《おこ》そうとなさる俊英でいらっしゃる」
素知らぬふりのキエル、じっと凝視しているソシエの視線を左右に感じつつ、扉の前に立つ。「政治と外交を年寄りがやってくれていれば、ぼくが商売の方をやるしかないでしょう?」と苦笑まじりに返した青年の声を聞いてから、ロランは扉をノックした。
「失礼します」の声が終わらないうちに、「おお、来たか」と言ったハイムがソファから立ち上がり、大股で近づいてきた。応接間の調度は、このところ身分の高い客をもてなす機会が多いハイムが、堅実の主義を曲げて買い集めた一流の品ばかりだが、当のハイムはまだこの部屋に馴染んでいるとは言い難い。猪首に巻いたシャゴールの蝶ネクタイもどこか曲がっており、それよりよほど主人然とした落ち着きぶりで、行儀よくコーヒーカップを口に運んでいる青年の目が、ロランの注意を引いた。
褐色の肌に、ぴたりと撫《な》でつけた亜麻《あま》色の髪。どこかで会ったような……というのが第一印象で、青い瞳が頭からつま先までを駆け抜けると、その印象はますます強くなった。「グエン様、こちらはロラン・セアック。例の、機械に強いうちの使用人です。ロラン、こちらはグエン・サード・ラインフォード様。イングレッサ領主の跡継ぎでいらっしゃる方だ」と交互に紹介したハイムは、恐縮して戸口から動けずにいるロランを正面に見つめ、口を開いた。
「おまえには、今日からこっちで運転手の見習いをやってもらう」
シドじいさんの言った通りだと驚いた後、本当に運転手をやらせてもらえるという喜びがじわじわ湧き上がってきて、ロランは「自家用車のですか?」と声を弾《はず》ませた。すぐ後ろで話を聞いていたソシエが、「よかったわね、ロラン」と背中を押し出すようにして、そのまま応接間に一歩足を踏み入れた。
ソシエがちゃっかりそれに続く。キエルもなりゆき上やむをえずといった感じで入ってきて、ハイムは怪訝《けげん》な顔を見せたものの、娘たちが立ち聞きしていたらしいことについてはなにも言わなかった。
「空いている時間には勉強もして、ラインフォード様の造る新しい時代の担い手になるんだ」と続いたハイムの声に、目の前に大海が開けてゆくような感覚を味わったロランは、陶磁器が触れ合う軽やかな音を聞いて、現実に立ち返った。
コーヒーカップをソーサーに戻したグエンが、ゆらりと長身を立ち上がらせたところだった。片手をズボンのポケットに差し入れ、「その髪の色……」と口にした整った顔を、ロランは「はい?」と見返した。
「思い出したんだ。何年か前、コヨーテに襲われていた少年と同じ髪の色だって」
飛行船から見下ろしていた舐《な》めるような視線が、目の前の青い瞳と重なり、コヨーテの生臭い息が鮮明によみがえってきた。「撃《う》ち漏らしたので、心配していたのだがね?」と続けたグエンに、「ああ……! あの時は、ありがとうございました」と答えたロランは、無条件に頭を下げていた。
「お陰様で、ここのお嬢さま方にも助けられて……」
降下《おり》た直後の驚きと興奮が、多少の懐かしさを伴って頭から胸に落ちていった。あれから二年、頬《ほお》と顎《あご》が削り出され、彫りを深めたグエンの表情は、大人びた瞳との落差を埋めて、青年実業家らしいたくましさを醸《かも》し出している。しかしこちらを凝視する目の奥に漂《ただよ》う隠微《いんび》な空気は変わっておらず、あの時と同じ違和感を覚えたロランは、厚い絨毯《じゅうたん》の床に目のやり場を求めた。
「縁があるのなら、ますます勉強をして、御曹子に恩返しをしなければな?」
微《かす》かに澱《よど》んだ空気を無視して、ハイムが快活に割って入る。「よかったわね、ロラン」とソシエにもういちど言われれぱ、ロランもグエンの視線などどうでもいいという気分になれた。
「でも、新時代の学問というのは厳しいのよ」
そう言ったのはキエルだ。キエルお嬢さまが自分のことを気にしてくれた、と思った瞬間、他のものはいっさい頭から消えて、ロランは「はい……」とキエルに振り向きかけた。が、その時には「そうでございましょう、グエン様?」と続けたキエルの言葉が、ロランを素通りしてグエンに向けられていた。
一心にグエンを見つめる横顔は、もう自分のことなど意識の片隅にもないと教えていた。話のきっかけをつかむダシに使われたのだとわかったが、あけひろげな態度に陰湿さはなく、そうまでしてグエンを振り向かせようとするキエルが可愛く見えて、ロランは少しの寂しさとともに、さらに魅《ひ》かれてゆく自分を発見していた。
「そうだが、ローラは君のお父さまの目に適《かな》ったんだ。機械に対するセンスは、これからの時代には貴重なものだからね」
キエルを見返し、すぐにロランに視線を戻したグエンが、名前を聞き違えているとは思えなかった。親しくなれば愛称で呼ぷのも珍しくないとはいえ、ローランならまだしもローラとは。キエルとソシエはおやという顔を見せ、当のロランもこそばゆい気分を漂ったが、グエンは泰然とした微笑みを崩さなかった。ハイムに至っては気づいてもいない様子で、「こいつには今年、二年遅れの成人式にも参加させます」と言葉を継いだ。
「お願いできるんですか……!」
いい話ばかりが続いた後でも、その喜びの量が減るものではなかった。成人式への参加は、すなわちビシニティの住民として正式に認められるということでもある。今年成人式を迎えるソシエも、「あたしと一緒に?」と顔を輝かせて、ロランは、目の前に大きな世界が開けたのだとあらためて実感した。
機械に詳しいという自分の風評が、シドを通じてグエンに伝わり、ハイムを経由してお屋敷付きの運転手に抜擢《ばってき》される結果をもたらした。その構図は理解できたものの、グエンは最後までハイムに働きかけた事実を明かそうとはせず、ハイムも己の采配《さいはい》だというスタンスを貫き通した。機械いじりの得意な人間に教育を施《ほどこ》して、工業化社会の先兵を育成しようとでもいうのか? 「黒歴史」が教える科学的遺産の宝庫、マウンテン・サイクルと口にしていたシドの顔も思い出せば、グエンの肚《はら》の内が気にならないではなかったが、今は成人式に参加できる嬉しさがすべてに勝って、ロランを幸福な時間に繋《つな》ぎ止めていた。
帰り際、君の腕を試してみたいと言ったグエンの要請で、ロランは新車を運転してグエンを空港まで送り届けることになった。本格的に走らせるのは初めての経験だったが、車の構造自体は「故郷」で使っていた電気自動車《エレカ》と変わるところはない。違うのは、ギアチェンジの際にクラッチを使わなければならない点だが、何度か鉱山のトラックをいじっていたのでコツはつかんでいた。
「しっかりね、ローラ」
屋敷を出る時、ソシエがそう冷やかした。ロランは、「ぼくはロランですよ」と平静な声で返しておいたが、心中は穏やかとは言えなかった。
それから二週間後、夏至の日。
イングレッサ領の首都、ノックスでミリシャのパレードが開催され、ハイムー家も賓客《ひんきゃく》として式典に招待されることになった。
軍隊の体裁を整えつつあるミリシャを内外にお披露目して、兵の士気を高めるとともに、新規入隊者を募《つる》る。それが急なパレード開催の名目だったが、実際の理由はもう少し複雑らしい。ミリシャ設立のため、イングレッサ領では二年前から二十パーセントという法外な特別税が課せられており、資産家の中には領外に財産を移転させる者も増えている。このへんでパレードのひとつも行い、ミリシャの存在を誇示しておかなければ、領内の経済維持も難しくなるのがラインフォード家の立場だと、鉱夫たちの間ではもっぱらの噂だった。
いずれ、大量受注の恩恵を受けている鉱山主としても他人事ではいられないのが道理で、ハイムは二つ返事で式典への参加を決めた。運転手用制服の着心地に馴染み始めたロランは、ハイム一家らを乗せて何度目かのノックス行きに駆り出された。
ビシニティからノックスまで、直線距離にして約六十キロ。羊や牛の群れに道を塞《ふさ》がれなければ一時間半の行程だったが、ロランには、パレードが終わり次第ビシニティに引き返す必要があった。今日は成人式が行われる日でもあり、ロランとソシエは夕方までには帰宅して、宵越《よいご》しの祭に参加する支度を整えなければならなかったからだ。
「なにもビシニティの成人式の日に、ミリシャのパレードをやることもないでしょうに」
強行軍になるとわかると、ハイム夫人はそんな不満を夫に漏《も》らした。ビシニティ随一の雑貨店の娘だったハイム夫人は、刺繍《ししゅう》と菓子作りが趣味という物静かな女性で、季節の変わり目には必ず何日か寝込む体の弱い人でもある。仕事の関係で来客が多いこの頃は、接待疲れのためか顔色がすぐれないことも多かった。
「そういう狭い考え方はいかん。これからはイングレッサ全体、いや、北アメリア全体の視野に立って物事を考えていかんとな」
「でも、土地のお祭は大事にしなくちゃ。今年はソシエが成人を迎えるんですよ?」
「だからわたしは、パレードが終わったらソシエとロランを連れてビシニティに帰るさ。おまえは今晩はノックスに残って、キエルの面倒を見てもらいたいんだ」
この秋からノックスの大学に進むキエルは、一週間ほど前からハイム鉱山の支社ビルに行っている。大学が始まれば、併設された社員宿舎で一人暮らしをする予定だ。夫人は、「ボストニア城のパーティーに招かれたのは、それは光栄なことですけど……」と納得しかねる声で答えた。
夏至の晩、ボストニア城で例年開催されるパーティーの招待状がキエル宛てに届いたのは、グエン・ラインフォードがハイム邸を訪ねた翌々日のことだ。ボストニア城はラインフォード家の居城であると同時に、イングレッサ領の中央行政府が置かれる場でもあり、富と権威の象徴として領民から畏敬《いけい》の眼差《まなざ》しを向けられている。そこで開かれるパーティーの招待状は、上流階級に仲間入りするチケットも同然なのだから、ハイムが興奮するのは当然だった。
「ご領主の城に招かれたんだぞ。こんな光栄なことが他にあるか」
娘と御曹子が親しくなれば最良、と考えている父親の頭には、他の論理はない。しかしロランは、キエルには当分家庭に入るつもりがないことを知っていた。「新しく生まれ変わりつつある社会で働きたい」というのが口癖で、グエンに近づこうとするのも、行政府で働くコネを得たいという思いが先行しているらしい。
「大学なんて、どうせ知っていることしか教えてくれないんだから。私は社会に出たいのよ」
「大学に通いながらだって、アルバイトはできるだろう」
「就職したいのよ。ボストニア城の行政府で働きたいの。お父さまから、グエン様に話をつけて……」
「バカを言うな。大学も出ないで、グエン様が相手にしてくれるものか」
「お父さまは考え方が古いのよ」
そんな口論が父娘の間で交わされるのもたびたびだった。一方、ソシエはと言えば、
「あたしはお役人や、商売人の奥さんなんてごめんだもの。ミリシャに入隊して、戦闘機乗りになるわ」
飛行機工場に友達がいるとかで、ひそかに練習もしているのだという。出来すぎの姉への反発が半分、生来の活発な性格が半分にしても、ビシニティ随一の実力者の娘が、戦闘機のパイロットでもあるまい。さすがに驚いたロランは、髪を切ったのもそのためよとあっさり告白したソシエに、旦那様のお許しは得たのかと尋ねたものだが、
「あたしは自分のことは自分で決めるの!」
怒鳴ってから、「ロランもミリシャに入隊しなさい。自分たちの土地は、自分たちの手で守らなくちゃ」とくる。ぼくは且那さま次第ですとごまかせば、
「ロランはいっつもそれだ! キエルお姉さまに言われたら、二つ返事のくせに」とからまれる始末で、そうかもしれない……と思ってしまう引け目があるために、その後つねられるか、叩かれる羽目になるのだった。
一家をノックスの支社ビルに送り届け、今夜のパーティー用に仕立てられたキエルのドレス一式を運び込んだ後は、特に仕事はなかった。パレードを見物するにしても、運転手の立場では貴賓《きひん》席に入るわけにはいかない。駅前の広場に仮設された雛壇《ひなだん》に収まったハイムー家と離れて、ロランは一般観衆が立ち並ぶ舗道に向かった。
ノックスは、イングレッサ領の首都と呼ぶに相応しい規模と、最新の設備を誇っている街だ。道のほとんどは石畳で舗装され、馬車の代わりに自動車が行き交う街の周囲には、太陽電池芝のパネルに囲われた環状線の高架を見ることもできる。無論、その上を走るのは水素機関で動く機関車だ。
他にも市電が縦横無尽に路上を走っており、イングレッサ最大の図書館や美術館、劇場、デパートなどが軒を連ねていて、ここで手に人らない物はないのではないかと思わせる。ハイム家の女たちも、ドレスや貴金属を買う時は必ずノックスまで出向くようにしていた。しょせんは鉱山町でしかないビシニティと違って、ノックスには本物の贅沢と学問がある、というのがハイム夫人の言い分で、買い物以外にもオペラ鑑賞、娘たちの稽古事――キエルはバイオリン、ソシエはピアノ。社交ダンスは二人とも習っている――と、週に四度は車を往復させるのがロランの仕事になっていた。
人と車の往来が絶えず、常に華やかな喧噪《けんそう》に包まわているノックスだったが、今日の賑やかさはいつもと違っていた。晴れ渡った青空には、それぞれのゴンドラから「ミリシャ万歳!」と記された垂れ幕を渡した二|隻《せき》の飛行船が浮かび、打ち上げられた花火が白い噴煙《ふんえん》をいくつも咲かせている。次第に近づいてくる地響きが舗道を揺らし、貴賓席の脇に整列した軍楽隊が行進曲の演奏を開始すると、沿道に集まった人々の歓声はいよいよ大きなものになった。
軍靴で石畳を踏み鳴らす歩兵部隊を先頭に、無数の車輛がゆっくり近づいてくる。見張り台の上に、小振りな天体望遠鏡を思わせる鏡筒を掲げた測量器隊。同じく見張り台に、アサガオのような漏斗《ろうと》型の聴音器を鈴なりに実らせた聴音器隊。それらは軍用にチューンナップされたスポーツカーに牽引《けんいん》されており、巨大な探照燈《たんしょうとう》を荷台に寝かせたトラック部隊が続いて姿を見せた時には、上空を複葉機の編隊が行き過ぎてもいた。
ブルワン・タイプの飛行機だ。中には最近開発されたばかりの機体、ヒップヘビーも混ざっている。その名の通り、尾部に複葉の翼とプロペラエンジンを備え、先細りした機首に機銃を設《もう》けたヒップヘビーは、純然たる複葉機のブルワンに較べて、より戦闘機らしいフォルムを見せつけている。幾重にも重なったプロペラの轟音《ごうおん》とともに、V字隊形を取った編隊群が頭上を埋め尽くしてゆき、舗道からは再び赤い軍服を身に着けた歩兵の足音が響き始めた。
リボルバー式のライフルを担《にな》った歩兵部隊の後方には、荷台に機関砲を載せたトラックと装甲車が数台。装甲車といってもトラックに鉄板を重ねて補強し、天井に小型砲台を設けただけの代物だが、車長用キューポラから上半身を出し、直立不動の姿勢を取っている兵は意気《いき》軒昂《けんこう》といった顔をしている。礼装用の鉄帽が他の兵隊とは違うな、と思った途端、
「頭ぁ、左! イングレッサ領主、ラインフォード閣下に対し、捧《ささ》げえ、銃《つつ》!」の号令がその口から飛び出し、歩兵部隊が一斉にライフルを前面に掲《かか》げ、顔を左に向ける光景がロランの目前で展開された。
レンガ造りの瀟洒《しょうしゃ》な駅舎を背にした貴賓席の中央、雛壇の最前列に並ぶ青い制服の男たちが、手を額に掲げて答礼する。ミリシャの高官たちだろう。列の中央に位置する三人の男たちの顔は、ロランも新聞の写真で見覚えがあった。
髭《ひげ》面のがっしりした体格の持ち主が、ミハエル・ゲルン人佐。ラインフォード家の後押しを受けて各地の自警団を糾合、ミリシャを編制した名門出の秀才で、実務面の指揮官を任ぜられている男だ。その隣で車椅子に座っている老人は、現領主であるメッサー・ラインフォード。軽く手を挙げただけで、皺《しわ》だらけの顔に埋め込まれた暗い目を一点に据《す》えているさまは、もうろくして正気を失いかけているという噂を裏づけるもののようにも見える。そして老いた領主の傍《かたわ》らで敬礼しているのが、グエン・サード・ラインフォード。他界した父に代わって祖父を補佐し、イングレッサ領の工業化とミリシャ創設を両輪で押し進める若き御曹子。新聞が書き立てるところの「産業革命の寵児《ちょうじ》」、その人だった。
喜悦《きえつ》を湛《たた》えたその顔は、自らが興した軍隊の威容に満足している様子だったが、ロランには、飛行機工場の友人を通じてミリシャに出入りしているソシエの声が耳に残っていた。
「兵隊って言ったって、字も読めない人たちがほとんどなのよ。はりきってるのは上の人たちだけで、ほとんどの連中は、鉄砲もって行進してれば食いっばぐれがないって考えてるだけなんだから。大砲を照準するのだって、右左もわからない人たちがいるから、『スプーンを持つ方!』とかって指示してるの。それでミリシャだなんて、信じられる?」
実際、目の前で行進している歩兵たちの足並みは完全に揃《そろ》っているとは言えず、敬礼のタイミングも微妙にずれていて、錬成《れんせい》の行き届いた軍隊というにはほど遠い。編制はようやく旅団レベルといったところで、いかにも着せられているという雰囲気の軍服にしても、寄り合い所帯の印象を拭《ぬぐ》えるものではなかった。
それでも、短期間にこれだけの装備と陣容《じんよう》を整えられたのは、転換期に差しかかった社会ならではの力――試行錯誤を恐れず、とりあえずなんでもやってみようとする人のバイタリティ――の賜物《たまもの》で、ロランは単純にすごいと感心した。機関砲を最新装備と喜んでいるあたりは、|「故郷」の軍隊《ディアナ・カウンター》とは較べものにならない貧弱さなのだが、行進する兵士たちも、それを見守る人々も、ともに生き生きしている。社会全体が上り坂にある中、新しいものはなんでも取り込み、楽しもうとする風潮が、軍のパレードさえも余興《よきょう》にして、街ぐるみのお祭り騒ぎにしているのだ。
どだい、ミリシャ設立の引き金になったガリア大陸の侵攻という話自体、噂の域を出ないあやふやなものだった。貿易|摩擦《まさつ》が問題になってはいても、ガリア大陸の諸国に戦争を決意させるほどの軋轢《あつれき》ではないという点で、各新聞の論調もおおむね一致している。一部の反動的な新聞に至っては、産業路線を推進するためにラインフォード家が流したデマである、と断言しているほどだ。そんな中でもミリシャの設立が進められたのは、ラインフォード家の鶴のひと声があったからというのがひとつ、近代化しつつある社会が雇用の拡大を望んだからというのがひとつで、その意味では、このパレードはまさに時代の変遷《へんせん》を記念するセレモニーでもあった。
幼年期を終え、成熟期を迎えた社会を祝う成人式の祭り――。そう思えば、無愛想な装甲車が祭りを彩《いろど》る山車《だし》に見えてきて、ロランは余計なことを考えるのをやめた。パレードが盛り上がるにつれて観衆の数が増え、ぼんやりしていると後方に押しやられてしまいそうだったということもある。もっと前の方に出ようとしたロランは、その途端、待ち構えていたように目の前を横切った男にぶつかってしまい、慌てて後ろに下がった。
ぶつかった相手が立ち止まり、ちらりとこちらを見る。あやまろうと開きかけた口が凍りつき、ロランはその顔を凝視《ぎょうし》した。小麦粉の袋を肩に担《かつ》ぎ、振り返った少年の顔は間違いなかった。
キース・レジェ。「故郷」で一緒に育ったガキ大将。二年前、降下《おり》た直後に別れて以来、もう会う機会はないと思っていた親友の顔がそこにあった。周囲の喧噪《けんそう》が聞こえなくなり、ロランは思わず近寄ろうとしたが、含んだキースの視線は待て、と言っていた。
降下以後は単独行動に徹せよ。仲間と連絡は取るな。教官の声が脳裏に響いて、ロランは半歩踏み出したところで足を止めた。その間に周囲に視線を走らせたキースは、人垣に押されたふうを装ってこちらに近づいてくる。視線を合わさず、「ひとりか?」と尋《たず》ねた押し殺した声に、ロランは微《かす》かに頷《うなず》いた。
重い小麦袋を担《にな》った肩の筋肉は厚く、鼻柱の強そうな横顔には思慮深さが備わりつつあったが、一瞬だけ視線を絡ませた茶色い瞳は、ガキ大将の頃のキースと変わらなかった。汚れた前かけから香ばしいパンの匂いが漂《ただよ》ったような気がした瞬間、「十分したら、ノックス・クロニクルの屋上に来いよ」と言ったキースが離れる足を踏み出して、ロランは「入れるの?」と小さく聞き返した。
ノックス・クロニクルは、イングレッサ領で最大の発行部数を誇《ほこ》る新聞社だ。その本社ビルに、部外者がおいそれと入れるとは思えなかったが、
「フランが勤めてる。入れるさ。必ず来いよ」
同じく施設で育ち、ともに地球に降下《おり》てきた少女の名前がキースの口をついて出て、ロランは棒立ちになった。「フランと会ってるのか……?」と訊いた声には返事はなく、小麦粉を担ぎ直したキースの背中はすぐに人込みに紛《まぎ》れてしまった。もうパレードが目に入らなくなり、ロランは懐中時計の文字盤に目を落として、ここを離れるタイミングを計《はか》り始めていた。
十分後、観衆をかき分けてノックス・クロニクルの本社ビルに向かうと、見覚えのある少女の顔が裏手の搬送《はんそう》口からおいでおいでをしていた。二年前、花飾りのついた帽子をかぶって山頂を下っていったフラン・ドールの顔がすぐに重なり、ロランはなにも言わずにフランのもとに駆け寄っていった。
ショートにした髪と、黒目がちのつぶらな瞳。いったん怒れば相手が男でもつかみかかってゆく、勝ち気なフラン・ドールの印象はそのままでも、痩《や》せぎすだった肢体《したい》が丸みをおび始めたさまは、「故郷」にいた頃のフランとは違っていた。インクで汚れたエプロン姿が奇妙に艶《なまめ》かしく見え、ロランはどぎまぎしながらフランの背中に続いた。ツンと鼻をつくインク臭の中、巨大な輪転機が唸《うな》りを上げる周囲で複数の印刷工が立ち働いていたが、そろそろ夕刊の最終版が上がるという時間に、こちらに注意を向ける余裕のある者はいなかった。
給水塔の他に、太陽電池芝のパネルが何枚か取り付けられている屋上は、この時は無人だった。六階の高さにある屋上からはパレードの様子が一望でき、機関砲を載せたトラック部隊の砲列、観衆の帽子で埋まった沿道が、パノラマ的な光景を現出してロランを圧倒した。
カメラの一台も配置しておけばいいのにと思ったが、現場の空気を重んじる記者やカメラマンたちは、街に繰り出して取材を行っているのだと言う。「ここの人たちって、見上げるばっかりで見下ろそうとしないのよね」と、なんの気なしに口にしたフランの言葉を反芻《はんすう》したロランは、彼らは地面から離れたくないからそうするのだろう、とぼんやり想像した。遠い昔、一度はこの大地を失ってしまった恐ろしい記憶が、身体のどこかに残っているから……。
間もなくキースも駆けつけて、フランスパンの入った紙袋をフランに押しつけるや、先刻の押し殺した態度の反動のようにロランに飛びついてきた。首を抱え込み、元気にしてたかこの野郎、と拳《こぶし》をぐりぐり頭に押しつけるキースからは、「故郷」の教官の言葉など消し飛んでいた。同郷の人間と会うということが、こんなにも心を和《なご》ませるものかと不思議に思いながら、しばらくは互いの無事を喜び、近況を報告しあう時間が流れた。
降下地点の山頂で別れた後、ノックスに流れついたキースは、市内のパン屋で住み込みの職を得たのだと言う。「調理の仕事をしたいって夢がかなったんじゃないか」と言ったロランに、「まあな。小麦粉のひんやりした感じって、いいもんだぜ」と照れくさそうに応えたキースは、焼いたばかりのフランンパンをほれと差し出してきた。まだ温かいパンはふっくらと香ばしく、ひと口かじっただけで豊かな気分になれて、ロランはキエルとソシエにも食べさせたいものだと思った。
「でもフランの方がすごいぜ。将来はノックス・クロニクルの女新聞記者だもんな」
「まだわかんないわよ。印刷所にもぐり込めたってだけで……。ほら、インクの臭いがまるで取れないんだから」
そう言って両手を差し出したフランの指先からは、たしかにインクの微かな臭いが漂っていたが、それは歴史の目撃者になりたい、と熱っぽく語っていた夢の香りでもあるのだろう。フランも、目的に向かって確実に前進している。ロランは、「いい匂いじゃないか」と思った通りのことを口にした。
「故郷」で暮らし続ける道を選んでいたら、自分たち孤児にはもっとつまらない生活が待っていただろう。ふと考え、環境調査員になって正解だったと今さらながらの感慨《かんがい》を結んだロランは、クライマックスに差しかかったパレードを眼下に見つめた。
永く地球と断絶していた「故郷」の人間が、地球の自然環境下で生体を維持できるか否か。研究者の出した結論は、「|極小作業機械《ナノマシン》の補助を受ければ可能である」というものであり、その実証のために環境調査員が地球に送り込まれたのだったが、実験データ――降下した調査員の健康状況――を「故郷」に送る什事は、体内に埋め込まれたセンサーが自動的に行ってくれる。必然、調査員たちに与えられた任務は、地球の環境下でいかに生き抜くかに焦点が絞られることになり、降下後の行動は個々の裁量と自由判断に委《ゆだ》ねられるとされた。
その条件を逆手に取り、「故郷」では実現できない夢を追求しようとしたのがキースとフラン。漠然と地球に憧れ、金魚の玩具を河に浮かべてみたいという、とんでもなく曖昧《あいまい》な動機で環境調査員になったのがロラン。三人とも家庭を知らず、「故郷」に残すなにものもないからこそできた行為だったが、こうして夢に向かって邁進《まいしん》するキースとフランの姿を見れば、ひとり遅れを取ったような引け目も滲《にじ》み出してくるもので、ロランは以前より大人びた二人の顔から、我知らず目を背けていた。
「ロランだってたいしたもんだよ。お屋敷付きの運転手って、ここらじゃステイタスなんだろ?」
そんな思いを読み取ったかのように、キースが言う。「運がよかったんだよ」と応えながらも、そう言われれば自分にも未来の展望があったのだという気分になれて、ロランは二人と再会する前に運転手に抜擢されていた幸運をひそかに感謝した。
「心配してたのよ、本当。あたしとキースは偶然ノックスで会って、時々顔を合わせてはいたけれど。ロランはまたどこかで泣かされてるんじゃないかって」
昔と同じ、姉さん口調で言ったフランが、立て直した気分に水を差すようにする。ロランは、「そんなことないよ」と小さく口をとがらせた。
「でもさ、これで安心したわ。あたしたちが全員無事ってことは、きっと他の大陸に降下《おり》た人たちも大丈夫ってことだもんね」
自分だちとともに降下《おり》た〈|降下船《フラット》〉は全部で六機。それぞれの機体に三人の環境調査員が乗り込んでいたから、他にも十五人の調査員がこの空の下に降り立ったはずだが、ロランには全員が無事であるとは思えなかった。恐らくはコヨーテに襲われず、河で溺《おぼ》れるようなこともなかったのだろうフランをちらと見たロランは、「よせよ、そういう話」と鋭く言ったキースに、どきりとさせられた。
「故郷」の人間であることを気取《けど》られてはならないという、環境調査員に課せられた唯一の義務があったにしても、尋常ではないキースの態度と口調だった。無人の屋上を見回し、「いいじゃない、誰も聞いてやしないわよ」と返したフランに、「壁に耳あり、だろ? ただでさえやばい状況なんだから……」とかぶせたキースは、硬くした顔を手すりの下に向けた。
「どういうこと?」
「ガリア大陸の連中が攻めてくるってのがデマなら、この軍隊はなんのために組織されたのかってことさ」
ミリシャのパレードを見下ろして、キースはそう言った。「まさか……」と呻《うめ》いたフランの表情も、心持ち曇ったようだった。
「あれが、ディアナ・カウンターと戦うっていうの?」
想像もしていなかったことだった。|「故郷」の軍隊《ディアナ・カウンター》と|地球の軍隊《ミリシャ》が戦争をする。「そうなの?」と振り返ったロランの視線を避けて、キースは、「わかんないけどさ……。あれ、ほとんど対空戦用の装備じゃないか」と手すりに寄りかかった。
「新聞社にいたって、月のニュースはなにもないんだろう?」
月、とはっきり口にしたキースに、ロランも茫漠とした不安が胸に拡がってゆくのを感じた。そう、キエルやソシエたちハイム家の人々も、ジェシカたち使用人も。今パレードに歓声を送っているすべての人々が、この星以外にも人が住んでいる場所があるとは知らない。二千年以上の間、ひたすら地球への帰還を待ち続けた人々がいるとは知らない。
「……そうよね」と同意したフランは、打って変わった暗い声になっていた。
「驚くわよね、ここの人たち。帰還が始まったら……」
その言葉を最後に、三人は沈黙した。重い不安がそれぞれの中で咀嚼《そしゃく》され、消化されるためには必要な静寂の時間だった。軍楽隊が奏でる勇ましい行進曲が空々しく聞こえ、頭上を横切った飛行機部隊の轟音が、萎《な》えた気分を逆なでするようにした。
「ねえ、帰還が始まったら二人ともどうするの?」
しばらくして、フランが不安を拭い去る明るい声を出した。男二人がくよくよ立ち止まれば、尻を蹴飛ばして前進を促すのが自分の役目と心得ているのがフランだ。キースと苦笑顔を見合わせたロランは、「ぼくは、帰還民として登録したくないな」と相手をした。
監察期間の二年が過ぎれば、体内に埋め込まれたセンサーは自動的に消滅する。以後、「故郷」の人間として登録するか、地球の人間として暮らしてゆくかは個人の判断に委ねられており、この自由は環境調査員に与えられた最大の特権と目されてもいた。
「今日、成人式を終えたらビシニティの人間になるから、ハイム鉱山の職員になるよ」と付け加えたロランは、そうだ、今晩は宵越しの祭があるんだと思い出して、多少胸が軽くなるのを感じた。
「おれもパン屋の修業を続けて、みんなにうまいもの食わせてやるよ。来年はパン屋の組合に登録してもらえんだぜ」
「じゃあ、あたしは新聞記者になってみせる」
キースとフランが続けて言う。明るみの差した二人の顔に、つまらない不安はなりを潜《ひそ》めたように見えたが、それも腹の底を揺さぶる重い音が連続するまでのことだった。
街外れの荒れ地に並べられた高射砲が、祝砲を打ち上げ始めたのだった。パレードがクライマックスを迎えつつあることを告げる音だったが、もう楽しめる心境であるはずもなかった。一斉に硬くした顔で、三人はじっと青空に咲く黒い噴煙を注視した。
「……ディアナ様が、うまくやってくれるよね」
渦巻く思考の中から、それは不意に浮かび上がってきた言葉だった。輝くばかりの知性と美貌、深いやさしさと高貴さで民を統率する「故郷」の女王。地球帰還作戦は、ディアナ・ソレル様が永い時をかけて計画されたことなのだから、すべてがうまく運ぶに決まっている。口づけを許された手の甲の感触を思い起こして言ったロランに、「そうだな。第一陣で来るってことはないだろうけど……」とキースも口をそろえた。
「知識が足りないだけなのよ。ディアナ様が来てくれれば、ここの人たちだってすぐにわかってくれるわ。現にあたしたち、うまくやってこれたんだから」
フランが重ねる。それはそうだとロランも心強く思ったが、自分を客観視することを忘れないキースは、ぽつりと付け加えていた。
「でもさ、それはおれたちがここの人間だって思われてるからだぜ」
その言葉には、フランも反駁《はんばく》できなかった。捉《とら》えどころのない不安が再び頭をもたげるのを感じながら、ロランは彼方の空を見やった。
祝砲の噴煙を背に、ヒップヘビーのいかにも戦闘機といった形が横切ってゆくのが見えた。
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ノックス外縁を流れるテッサ河に夕陽が映える頃、ボストニア城に二台、三台と車が集まり、着飾った人々が門に続く橋を渡り始めた。毎年、夏至の晩に開催されるパーティーの始まりだった。
ボストニア城はテッサ河が流れ込む湖のほとりに建てられており、門は南と西に用意されている。南門は市庁舎ホールの入口で、西門はパーティーの時だけ一般に開放されるラインフォード家の玄関。駐車場は西門を入ったところにあるのだが、社交会の人々は南門の市庁舎口から入城し、車だけ西門に回して駐車させるのを常にしていた。
西門から直接、城に乗りつけるのは、パーティーの時だけ呼ばれるお上りさんであり、遠回りをしてでも市庁舎口から入城するのは、頻繁《ひんぱん》に城に出入りしていることを示すステイタスになるからだ。滑稽で非効率に見えても、そうした伝統と習慣にこだわるのが上流階級の人々だった。乗り物が四輪箱馬車《ブルーアム》から自動車に変わったところで、その気質が変わることはない。
キエル・ハイムは、母とともに西側のラインフォード家の玄関から城に入った。急進いちじるしい父の威光があれば、南の市庁舎ホールから入城することもできたのだが、キエルには「ミリシャ成金《なりきん》の山師」と陰口を叩かれている父の七光りを利用するつもりはなかった。新しい環境――些細《ささい》なふるまいがその者の評価を根底から覆《くつがえ》しかねない、社交会という魑魅魍魎《ちみもうりょう》の住む世界――に慣れるためには、謙虚に構えておくのが得策だったし、権威にこだわらない態度は、グエン・サード・ラインフォードには好ましく映るだろう、という計算も働いていた。
出席者がどちらの門から入城したか、パーティーのホストであるラインフォード家の御曹子がいちいち知悉《ちしつ》するなどあり得ないのだが、新参者の噂は小さな事柄でも耳に入りやすいものだ。特にグエンは、茫洋とした態度の下に鋭い観察眼を秘めた男だとキエルは読んでいた。
その者がどういう気質で、なにを目的に自分に近づいてくるのか、涼やかな笑みの皮をかぶってじっと見定めている。そして保身に凝《こ》り固まった人間や、取り入ろうと接近してくる女は、容赦なくいじめ抜いてやろうとする冷酷な一面も持ち合わせているように見える。まだ数えるほどしか会っていないが、キエルはグエンの人柄をそのように推測していた。
だから先日、グエンがビシニティを訪問した時、自分が示した態度は失敗だったと思う。グエンのような男に、がっついた気配を悟られるのは禁物なのだ。それでいて、新時代の革命児を自認するグエンには、貞淑《ていしゅく》で保守的な令嬢も面白味がないと感じられるに違いない。グエンの目は、令嬢と呼ばれる女たちが身に着けている控えめな態度や無邪気さといったものが、しょせんは訓練によって作られた人工物でしかないと見抜いているだろう。別にグエンの花嫁候補になりたいとは思わないが、行政府で職を得るためには、ダエソに認められるしかないのがキエルの立場だったし、良家に嫁《とつ》ぐのが女の幸せと信じている両親の説得にも、彼の存在は役に立つ。それゆえ、キエルは西門から入城しなければならなかった。保守的権威に疑義《ぎぎ》を申し立て、新時代への参画意欲をグエンにアピールする必要があったのだ。
ボストニア城の規模は、北アメリアに散在する領主の城の中でも群を抜いている。大きさはルジャーナ領の城の方が勝っているが、壮麗さと多様性ではボストニア城にかなう城はないという点で、衆目も一致を見ていた。
北アメリアの文化源流は、北方の未開種族が残したトーテミズム――部族と特別に関係のある動植物を神聖視し、造形化したものを信仰する宗教形態。ボストニア城においては、柱などに施された頂部装飾に見られる――と、大陸の太陽信仰が混ざりあったもので、ただでさえ多様で複合的なのだが、ボストニア城の多様性は度を越している。海門の市庁舎ホールがガリア大陸の東方、グリックにある遺跡から掘り出した円柱を使っていれば、西門は北アメリアの土着文化に即したアーチ構造になっており、そうかと思えば典型的なゴシック式の尖塔《せんとう》も内包しているといった具合で、さながら世界中の文明を網羅《もうら》したデザインになっているのだ。
「人類文化の記念碑」と絶賛する者もいれば、「痴呆症にかかった老人が、うろ覚えの記憶を慌てて書き殴ったような建築」と誹謗《ひぼう》する向きもあったが、整合性を失わずに複数の文化を結集し、なお威厳を保っているデザインの秀逸さは誰もが認めている。門をくぐると、その威厳は絢爛《けんらん》豪華な富の泉を湛《たた》えて来客を歓迎し、キエルは胸が高鳴るのを自覚した。歓声を上げたくなる衝動を抑《おさ》えるのに苦労したが、母はどこか落ち着かない様子で、「ソシエ、ちゃんと成人式の準備ができているのかねえ」などと口にしていた。
パレードが終わった後、昼食会で街の名士たちと慌ただしく握手を交わした父は、成人式に参加するソシエとロランを連れてビシニティに帰っていった。
「ジェシカだっているのだから、大丈夫よ」と答えながらも、いつも泥んこで帰ってきては母に叱られ、半ベソをかいていた妹の幼顔《おさながお》を思い出してしまったキエルは、あのソシエが成人式か……と場違いな感慨にとらわれた。
「お姉さまばっかり、ずるい!」を口癖にしながら、姉が良い娘をやっていてくれれば自分は楽ができる、と打算を働かせているようなところもあって、なかなかひと筋縄ではいかない妹。しかしどこかで律儀なその性格には狡《ずる》さがなくて、キエルにとっては安心して接していられるのがソシエだった。
もっとも、最近は幼なじみを通じてミリシャに出入りしているようで、本気で入隊を考えているのなら、そろそろ止める算段を考えなければならない。ソシエが家を雛れてしまえば、私もノックスで好きに生活するというわけにはいかなくなる。私の言うことは聞かなくても、ロランが説得すれば聞くだろうか? でもソシエがロランにちょっかいを出すのぱ、私に対する当て付けが半分なのだろうし。以前にも、私になついていた馬を自分になびかせようと奮闘していたことがあったから、それと同じようなものだろう。宵越しの祭で選んだパートナーと恋仲にでもなれば――私の場合は一ヵ月と交際は続かなかったけど――、考えも変わるかもしれない。ソシエは誰を選ぶのだろう。雑貨商の息子のマリス? 宝石店の息子で二枚目のランダ? それともまさか、ロラン……?
パーティーで出される料理のメニューは、富の威力を示すまたとないチャンスだ。大抵は調理されすぎている上、重いソースがふんだんにかかっていて、コルセットで腹を締め上げている婦人たちは消化不良になるものなのだが、グエンはそのあたりもぬかりなく配慮していた。立食パーティー用の大皿に並んでいるのは、野鴨《のがも》やテラピン(北アメリア産の淡水ガメ)など、こなれのいい肉類とスープ、サラダばかりで、ソースもサワークリームを主体とした軽い物が用意されている。キエルは野鴨をひと切れ口に入れただけで、後は母と一定の距離を保って会場の様子を窺《うかが》うことにした。広壮なダンスホールには社交会のメンバーのみならず、ミリシャの軍人やラインフォード家に関係する事業家たちが集まっていて、ホール壁面のテラスに陣取った楽隊が静かな舞踏曲を演奏する中、教組のカップルがステップを踏む光景が展開されていた。
キエルが身に着けているドレスは、クジラの骨で形を取ったシルクの一級品で、スカートのレースにはメレダイヤが散りばめられている。肩は夏のパーティーらしく露出させているが、首にエトナ製の首飾りを巻いているので、決して下品には見えない。アップにまとめた髪は金の止め具で束ね、両手にはやはり金のブレスレットとベルベットのバンドを嵌めていた。男たちは判で押したような愛想笑いを浮かべて前を通り過ぎ、羽根飾りのついた礼装用の軍帽を小脇に抱えたミリシャ士官の一団も、タキシードの鎧《よろい》で身を固めた上流階級の男たちも、談笑の合間にこちらを振り返ってはダンスに誘う間をはかる視線を寄越していたが、キエルは目が合えば微笑んで会釈するだけで、すぐに顔を逸《そ》らすよう心がけていた。男性の関心に水を差しながら、同時に惹《ひ》きつけておくのが淑女のたしなみ。社交会では公然と認められているしきたりは別にしても、待人がいるキエルには、つまらない男を相手にしている余裕はなかった。
その待人――グエンは、踊り場を挟《はさ》んだ向こうで髭面の軍人となにごとか話している。新聞で見たことがあるイングレッサ・ミリシャの指揮官、ミハエル・ゲルン大佐だ。他にも数人の紳士や婦人が、ラインフォード家の御曹子とお近づきになりたい、という顔を隠しもせずに周囲で待機している姿があった。
こうした席では、女性はあまり動かずにいるのがよしとされるので、自分からホールを横断して近づくような無作法な真似はできない。パーティーが終わるまでに、グエンがこちら側にたどり着けるなどあり得ないか。キエルは小さく嘆息して、母の方を振り返った。そわそわ落ち着かなかった母も、今は婦人たちのお喋《しゃべ》りに巻き込まれて、それなりにパーティーを楽しんでいるようだった。
いつまでも壁の花に甘んじていても仕方がない。先刻からちらちら視線を送っている、ミリシャの士官の誘いに乗ってみようか。そう思い、顔を上げた時だった。ローマン・パンチのグラスを二つ、両手に携《たずさ》えたグエン・サード・ラインフォードが目の前に立っていて、キエルは危うく声を上げそうになった。
「やあ」と白い歯を見せたグエンに、「こんばんは」と努めて平静に返したキエルは、差し出されたグラスを受け取った。周囲の目を気にも止めず、「退屈ではありませんか? キエル・ハイム嬢」と口にしたグエンの言葉を聞いて、内心に快哉《かいさい》を叫んでいた。
「とんでもありません。素晴らしいパーティーですわ」
「どうですか……。因習と規範に縛られて、なにひとつ面白味のないパーティーですからね」
婦人たちとともに驚いた顔をしている母に会釈しつつ、グエンはキエルにだけ聞こえる声で言った。思った通りの人であったことに安心して、キエルは、
「長い間、守り抜かれてきた伝統には、それなりの意義があるとお考えにはなりませんか?」と、あえて反対の論陣を張ってみた。
「エチケットと呼ばわるものは生活の仕方ですから、これは生きる上で参考になりますし、遵守《じゅんしゅ》されるべきです。しかし因習や規範という言葉には、これを教義化して人を狭くする性質がひそんでいるように思いますが?」
辛辣な言葉も嫌味に聞こえないのは、育ちの良さがなせる業《わざ》なのだろう。微笑を湛《たた》えた瞳が言い切ると、ふっと笑った唇が「でも、ダンスは好きですよ」と付け加えて、グエンはキエルを踊り場に誘った。周囲の人がさりげなく道を開け、楽隊の演奏にいっそうの熱がこもるのが、キエルには感じられた。
「彼らが規範にこだわる理由をご存じですか?」
そつなくリードのステップを踏みながら、グエンは人々の注目を揶揄《やゆ》するように尋ねた。意外に厚いグエンの胸板を目前にしつつ、キエルは「いえ……」と答えた。
「そうでもしなければ、社交会の存在など消えてなくなってしまうとわかっているからです。脆弱《ぜいじゃく》なのですよ、基本的にね」
「次期領主ともあろうお方が、過激派なんですね?」
「それはそうです」言った途端、大きく回り込むステッブを踏んだグエンの腕に力が入り、キエルの視界は青い瞳で塞《ふさ》がれた。「我々は、新しい時代を生きる者だと自覚しておりますから」
「……私も、代わり映えのしない学問をするよりは、実社会で学ぶべき時代になったと存じております」
しっかり抱かれた腰のあたりが熱くなり、キエルは声が上ずるのを自覚した。ほう、と微笑したグエンの顔がすっと離れ、二人の足は再びワルツのステップを踏み始めた。
「なら、後で新時代のものをお見せしますよ」
その声は、テストに合格しましたよと言っているように聞こえた。ステップのひとつひとつが未来に通じる階段に思えてきて、キエルは生まれて初めて、ダンスを楽しいものだと感じた。
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「上げろーっ!」
腹から絞り出した大声が響き渡ると同時に、丸太で組まれた山車《だし》がゆらりと持ち上げられる。松明《たいまつ》の炎が揺らめく中、クルミの油で磨《みが》き込まれたホワイトドールの木像は、地の底から立ち上がった精霊のように見えた。
今年、その足もとに立って行列の先導役を務めるのはソシエだ。二年前のキエルを彷彿《ほうふつ》とさせる白い装束《しょうぞく》姿で、木像の膝のあたりにしっかり両手をかけ、振り落とされないよう身構えている。「アーク山のホワイトドールのもとへ!」とその口が叫び、おう、と応えた少年たちの鬨《とき》の声が松明の炎を揺らすと、巨大な山車はゆっくり前進を開始した。年を越せ、夜を越せと合唱する声がかけ声になり、五十人に及ぶ担ぎ手たちの足並みをそろえてゆく。ロランも声を張り上げて、黄緑と白の染料で塗り分けられた担《かつ》ぎ棒を、しっかり肩に担ぎ直した。
ビシニティの山車置き楊からアーク山に連なる道は、例によって松明の炎の川だった。ホワイトドールを模した木像がその上をおごそかに滑り、担ぎ手たちの白装束が山車の周囲に沸き立つ波|飛沫《しぶき》を描き出す。膝下まで包むたっぷりした衣に、袖をつけただけというシンプルな成人式の装束は、靴以外は全裸で着るのが決まりだ。股下がすうすうする感触がロランには心もとなかったものの、周囲の熱気に炙《あぶ》られてすぐに汗だくになり、余計なことを気にしている暇はなくなった。
全部で十本ある担ぎ捧には、それぞれ十人の少年たちが取りついているが、二年遅れで成人式に参加したロランたちは、三人で一本の担ぎ棒を背負わなければならないのだ。山車を揺らしてソシエが落ちたらと思うと、一瞬たりと力を緩《ゆる》めるわけにはいかなかった。
白装束の他に、ユーカリの草の冠と、肩からたすき掛けにする巾着《きんちゃく》袋ひとつが、宵越しの祭に持参する持ち物のすべてだった。巾着の中には桜の木で作った筒が入っていて、これは宵越しの祭が始まるまで開けてはいけないのが決まりらしい。聖痕を付けるための道具が入っているのだ、とハイムは言っていた。ビシニティに戻った後、ソシエは体を清めるためレッドリバーに向かい、ロランは父親代わりのハイムから成人式に参加する心得を教授された。
『宵越しの祭は、ホワイトドールの前でひと晩、好きにやればいいだけのことだ。が、大事なのは宵越しの始めにやる聖なる刻印だ』
二年前、宵越しの祭を盗み見た時には、その儀式が始まる前に追い出されてしまったのだった。ロランに背中を向けさせたハイムは、肩甲骨《けんこうこつ》の辺りから脇腹、尻の少し上と、左右六ヵ所に両の親指を押し当てながら説明した。
『ここらの六ヵ所に、聖なる痣《あざ》をつけるんだ。理由? 昔、ホワイトドールを祀《まつ》っていた司祭にそういう痣があったからだろう。伝説じゃあそうなってる』
痣をつけるという話は穏やかではなく、ロランはどうやったらそんな痣がつくのかと尋ねたが、ニタリと笑ったハイムは、『男はこれ以上、知らずに行くんだ』と言うだけだった。
『まあ、そう難しく考えるな。おまえは女の気を惹《ひ》くことだけ考えてりゃあいい。一生に一度のお祭りなんだからな』
期待と不安が拮抗《きっこう》する胸中は、ビシニティの町全体を包む興奮に呑み込まれて、どよどよと渦巻く成人式の唄、酒と食糧を積んで随伴する馬車の車輪の音、担ぎ手たちの汗と吐息が、ロランに感じられるすべてのものになった。担ぎ棒が肩に食い込み、皮がすりむける鋭い痛みが走ったが、それさえも歓声の中に溶かし込んでしまう熱気だった。先刻、「故郷」の仲間たちと話し合った不安も溶けて流れて、これで自分も一人前だ、正真正銘、ビシニティの人間だという思いだけが、ロランの体内で膨脹していった。
やがて石窟《せっくつ》に巨体を据えたホワイトドールの威容が見えてきて、大人たちは下山を開始した。山車が下ろされ、松明の炎が一ヵ所に集められて焚き火の明かりを灯すようになると、複雑な岩の陰影が石窟の壁面に刻まれ、頭の左右に二本の角を生やしたホワイトドールの石像を浮かび上がらせる。物言わぬ顔を夜空に向けているホワイトドールを見上げて、ロランはふと、奇妙な感覚が頭の中を駆け抜けるのを感じた。
鋭く伶俐《れいり》な知覚が脳の襞《ひだ》を押し分け、内奥の古い皮質を刺激したような感覚。目眩《めまい》とともに、巨大な樹の映像が脳裏をよぎったようだったが、一瞬のことで確かめる間はなかった。二年前、初めてホワイトドールを見た時の記憶が明瞭によみがえり、あの時と同じ感覚だと思い出しはしたものの、宵越しの祭の準備に追い立てられて、ロランはすぐにそれを忘れた。全員で手分けして、ホワイトドールの祭壇に供物を運ぱなければならないのだった。
祭壇は、膝上に突き出されたホワイトドールの両手に橋桁のように渡されている。二十メートル近くある座像は、膝上といっても七、八メートルの高さがあり、梯子とロープを使って供物を上げる作業はなかなかの大仕事だった。全員が汗みずくになって塩漬けの肉や魚、果物などの供物を運び上げ、最後に今年の巫女を務めるソシエが、中央に置かれた鉄製のボウルに松明の火を投じる。勢いよく燃え上がった炎がホワイトドールの無表情を照らし出し、宵越しの祭は始まった。
歓声の中、梯子を下ってホワイトドールの足もとに立ったソシエが、興奮に上気した顔で一同を見渡す。どこか威厳を漂わせた物腰は別人のようで、ロランは、自分でも理由がわからずに鼓動が早まるのを感じた。
「では、パートナーを選びます。わたしと共に行くのは、どなた?」
選ぱれたひと組が、祭壇の上で最初に聖痕を授けあうのがしきたりだった。一斉に自身のアピールを始めた少年たちの奇声で、ホワイトドールの石窟は俄か騒然となった。
少女たちの歓声がそれに重なり、憑《つ》かれたように跳びはねる少年たちの影が長くのびて、岩肌に影絵の陰影を踊らせる。二年前に目撃した熱気と興奮の当事者になった時、ロランにできたのはただ呆然とすることだけだった。自然の中で生まれ、育ち、笑い、泣き、そして死んでゆく人たちの生の波動に圧倒され、慣れたつもりでも、しょせんは人工的な「故郷」の環境下で生まれ育った身体を立ち竦《すく》ませてしまった形だった。
壇上のソシエは、それらの様子をじっと見定めている。女の目だ、と思った瞬間、目の前の少年がいきなり四つん這いになり、コヨーテの鳴き真似で遠吠えをしてみせた。二年前、草原で出くわした生臭い殺気が鮮明によみがえり、ロランは神経が奮い立つのを自覚した。立ち竦んでいる場合じゃない。二度とない祭り、今この瞬間を全力で楽しまなきゃ。ここでは、人は決まった年月の間しか存在することができないんだから……!
石窟の岩肌の向こうに、月が見えた。薄黄色の円を星空に描き出している月は、その中央に細い銀色の筋を走らせて、ここの人々が|銀の縫い目《シルバーステッチ》と呼ぶ通りの光景を現出している。硬質な輝きを放つ銀の糸の中に、二千万の同胞が生きる「故郷」を幻視したロランは、天に向かって両手を広げた。手のひらが月を包み込んだ瞬間、全身を声にして叫んでいた。
「地球はいいぞぉーっ! みんな、早く来ーいっ!」
「ロラン・セアック!」
ソシエの声が響き渡り、ロランはぎょっと我に返った。奇声を発するのをやめ、一斉に振り向いた少年たちの向こうで、ソシエがこちらを指さしている姿があった。
パートナーの指名。呆然と壇上を見上げると、さっさといらっしゃい、というような顔をして腰に手を当てているソシエの姿があった。全員の冷やかしの目が痛く、ロランは赤くなった顔を思わずうつむけていた。
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行政府庁舎の区画に入ると、絢爛《けんらん》豪華なパーティーの空気はなりをひそめ、寄木《よせぎ》細工《ざいく》の床を歩く足音が奇妙に大きく聞こえるようになった。最低限の照明しか灯されていない廊下は薄暗く、グエンの背中について歩くしかないキエルは、不用心にここまでついて来てしまったことを後悔し始めていた。
領主の城にはハーレムがあり、麻薬を盛って女を玩具にしているなどという話は、ゴシップ新聞の捏造《ねつぞう》と断じてまともに取り合ったこともなかったが、火のないところに煙は立たずの譬《たと》えもある。新時代の物をお見せするという言葉に釣られ、母に断りもなくパーティーを抜け出してきた自分は、女として迂閲だったのではないか。そう考えると露出の多いパーティードレスの作りが気になり、廊下を飾る彫象や肖象画も隠微な雰囲気を漂わせるようになって、キエルは引き返したい衝動に駆られたが、つかみかけたチャンスの大きさを思えば、ここでグエンを袖にするような真似はできなかった。
人気のない応接間や会議室が並ぶ廊下をすり抜け、奥まった場所にある部屋の前で立ち止まったグエンは、無造作にマホガニー製の扉を開いた。レディファーストのルールを無視し、さっさと室内に入ったグエンに続いたキエルは、自分の不安が愚かな杞憂《きゆう》であったことを知らされた。
中規模の晩餐会が行える程度の広間には、大量のファイルを収めた巨大な書棚が壁際に置かれ、数台の長テーブルが互いに向き合うよう並べられて、給仕の格好をした男たちが、その前でノートを広げて筆記具を手にしている姿があった。高い天井から吊り下げられたランプがくすんだ光を落とす中、押し黙った男たちがテーブルにしがみついている空気は、図書館のそれに似ているとキエルは思ったが、奇妙なのは彼らが全員ヘッドフォンをかぶっている点だった。
ラジオ局を見学した時に見たことがあったが、どこにでもあるという代物ではない。テーブルの上には大型のラジオらしい機械の箱が鎮座しており、スピーカーらしい網目の下には、複数のつまみを備えた制御盤《せいぎょばん》とマイクも配置されている。それらは全部で四台あり、各々の背部からのびた太いケーブルが壁に取りつけられた金属の棒にからまって、さながら発電機と送電線といった外観をなしているのだった。飛行場や城の庭に新設された巨大な鉄塔を思い出したキエルは、「これが、電線を使わないで通信のできる機械?」とグエンに尋ねてみた。
ダンスホールで聞かされた時にはまさかと思ったが、この広間の様子を見れば信じないわけにはいかなかった。ケーブルのからまった金属の棒は、壁をつき抜けて外に飛び出している。電線を介さずとも声のやりとりができるという、グエンが説明するところの電波≠発信しているのだろう。「そうです。無線機と呼んでいます」と答えたグエンは、亜麻色の髪に手をやりつつキエルに振り返った。
「|月の民《ムーンレィス》が届けてくれました」
なにを言われたのか、すぐにはわからなかった。
「ムーンレィス……? 月に住む種族ですか?」と言ってはみたものの、あまりのバカらしさに真面目な顔をしているのが難しくなった。
「そう騙《かた》る連中が、入植したいと言っているのです」
真剣そのものの口調で、グエンは続けた。さしかけた笑いの潮が引き、キエルはグエンの真摯《しんし》な横顔を見上げた。
「ガリア大陸の侵攻というデマを流して、ミリシャを設立したのはそのためです。先祖代々受け継いだ土地を、唯々諾々と渡すわけにはいきませんからね」
「……そんなに大勢の人が押し寄せるのですか?」
「イングレッサだけではない。北アメリア大陸のサンベルト地帯を寄越せと言うのです。この二年間、無線機を通じての交渉でそれを言い続けている」
サンベルトはイングレッサ領の南方に位置する平野地帯で、日光の強い土地柄として知られている。土地自体は肥沃だが、強すぎる陽光は人の身体によくないとされているので、住む人の数はそれほど多くはなかった。
そのサンベルトに、ムーンレィスは入植を望んでいる。このボストニア城に無線機を送りつけてきて、二年もの間交渉を続けている。その経緯はわかったが、それだけで、キエルにはなにひとつ実感が伴う話ではなかった。つい先刻まで華やかな社交パーティーの席上にいた自分が、なぜ薄暗い広間で空想小説の筋書きを聞かされているのか。それを不条理と思う以外、感想はなかった。
「『黒歴史』はご存じですか?」
そんな思いにかぶせて、グエンが言っていた。
「ええ。よくは知りませんけれど……}と答えながら、キエルはますます話が現実と乖離《かいり》してゆくのを感じた。
大概の人にとっては、話題にしただけでバカにされるオカルト話、というのが「黒歴史」に対する認識だ。低俗扱いされる一方、それを題材にした文学は売れるという不文律があるとはいえ、多少なりともハイソサエティを自認するキエルが、興味を持てる話ではなかった。
「太古の昔、宇宙にまで進出した人の文明があったのだという。彼らムーンレィスは、その先史文明の末裔《まつえい》だと名乗っているのです。我々と同じ人間で、二千年の間、地球に戻れる時を待ち望んでいたのだとか」
が、次期イングレッサ領主の口から、現在の事態と繋ぎ合わせるような言葉が紡《つむ》ぎ出されれば、無縁な話と遠ざけているわけにはいかなくなった。「人間……私だちと同じ?」と無意識にくり返したキエルは、その言葉が思ったより深刻な音色を含んでいることに気づいて、漠然とした不安が胸の底に拡がるのを自覚した。
「騙りですよ。月にでも住んでいる宇宙人に違いないのです」
そう言い、眉根に皺《しわ》を寄せたグエンも、同じ不安を感じ取っているのに違いなかった。同じ人間――それもこちらより進んだ文明を持っているらしい月の住民は、タコのような宇宙人を相手にするよりも厄介で、面倒な事態を引き起こしてゆくのではないか。なぜそう思えるのかはわからなくても、その不安は間違いなくキエルの中にあった。
しかし、これは本当に現実なのか。グエンの悪質な冗談にかつがれているのではないか。そんな思いも残っていて、キエルはグエンの整った横顔をまじまじと見上げた。日頃の余裕の権化《ごんげ》といった微笑がかき消え、未知の脅威にじっと耐えている表情は、演技には見えなかった。
「そのようなご苦労をなさっておいでだったのですか……」
半信半疑の胸のうちから、唯一吐き出された言葉だった。虚をつかれたような顔を見せた後、ふっと口もとに笑みを浮かべたグエンは、無線機と向き合っている部下のもとに近づいていった。
「昨晩、ヒルズ・ソックスの天文台から届いた写真です」
やはり冗談だったかと安心しかけたのもつかの間、グエンが手渡した写真に目を落としたキエルは、今度こそ逃げ場を失って絶句した。天体望遠鏡から写し取ったと思われる不鮮明な写真には、シルバーステッチの輝きが美しい月と、それを背に飛行する黒い物体が数点、写っていたのだった。
ケシ粒ほどの大きさでも、物体には明らかに人工物とわかる凹凸が認められる。「ムーンレィスの宇宙船と思われます」と説明したグエンの声が、キエルの疑念にとどめを刺した。
「ついに招かれざる客が来る、というわけですよ」
続けた声に冷笑が混ざったように思えて、キエルはぞくりとしたものを感じながらグエンを見返した。予想を裏切ってひどく真剣な顔をしていたグエンは、キエルと目を合わせると、息がかかるほどの距離に体を寄せてきた。
「キエル嬢。あなたにはぜひ、ここで私の補佐をしていただきたい。ミリシャの増強には、お父上の協力が必要です。ハイム鉱山と連絡を密にするためにも……」
唐突に発した雑音が、その先の言葉をかき消した。
四台の無線機が一斉にノイズを奏《かな》で始めたのだ。頭蓋《ずがい》に直接、突き剌さるような大音響が広間を満たし、キエルは咄嵯《とっさ》に両の耳をぎゅっと手のひらで押さえつけた。無線機と向き合っていた男たちも慌ててヘッドフォンをかなぐり捨て、鼓膜をつんざく高音域から身を守ろうと両手で頭を抱え込む。数十人のソプラノ歌手が、耳もとであらん限りに絶叫すればこんな音になるのではないか? 手のひらを突き抜け、鼓膜を刺激し続ける音にそう思ったキエルは、無線機の背部でむき出しになっている真空管の列が、過負荷を示して異常発光しているのを視界の片隅に捉えた。
理屈はわからない。が、貧弱な無線機では受け止めきれない、とてつもなく強力な電波が受信されたのだという直感が頭を駆け抜け、キエルの肌をざわと栗《あわ》立てた。白い閃光が発し、広間を包み込んだのはその直後のことだった。
窓から差し込み、すぐに消えたそれは稲光《いなびかり》のようでありながら、カメラのフラッシュに似た人工的な硬さもあった。窓際に駆け寄り、「どこだ!?」と叫んだグエンの背中が、キエルの不安を確実なものに固めていった。
無線機を調節し、ノイズを消した男たちが、マイクに向かって暗号らしき言葉を吹き込み始める。どうしたらいいのかわからず、キエルは窓際で固まっているグエンの背中に身を寄せた。夜空には暗雲が立ちこめつつあり、心の中を引き移したような闇の下、窓や街燈の光をそこここに散らしたノックスの街並みが、ひっそり静まり返っている光景があった。
再び閃光が発し、コンマ何秒か街を白く浮かび上がらせた後、消えた。雲の上で発した光だと知れたが、雷鳴の類いはいっさい聞こえなかった。代わりに、「ミリシャからの報告は!?」と怒鳴ったグエンの声が響き渡る。
「はっ、各所へ照会中!」
無線機に取りついている誰かが答え、ほとんど同時にサイレンの音が遠くで鳴り出した。細く、長く響き渡ったそれは、不安を増殖させるだけの暗い音色だった。窓枠をつかむグエンの手がぎゅっと握りしめられるのを見たキエルは、とんでもなく危険な場に居合わせてしまったらしいと理解して、窓から数歩後退した。
始まった――。なにが、という主語を欠いたまま、その直感だけが頭の中に立ち上がっていった。「報告は!?」と怒鳴ったグエンの声が、もういちど広間に響いていた。
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「いいわね? ロラン」
言うや、ソシエはくるりと背を向ける。祭壇に上ったばかりで、聖痕を授け合うといっても、なにをどうしたらいいのか見当もつかないロランは、「わ、わかりません。どうやるんですか?」と戸感った声を返した。ソシエはなにも答えようとせず、装束の肩紐に手をやると、躊躇《ちゅうちょ》なくそれをほどいていた。
装束がするりと足もとに落ち、ソシエの裸の背中が露《あらわ》になる。焚き火に照らされた白い肌は奇妙に艶《なまめ》かしく、いけないとわかっても、ロランは背中のくぼみから尻の谷間にまで目を走らせてしまった。
「ロランも背中を向けて、裸になって」と言われなければ、いつまででもそうしていたかもしれなかった。
「我に六つの聖痕を授けたまえ……」
猛烈な勢いで脈を打つ心臓の音に、呪文のように唱えるソシエの声が混じる。女たちにはあらかじめ儀式の詳細が伝えられているのだろう。殊勝な口調はいつものソシエとは別人の落ち着きぶりで、ロランは装束から足を抜く時に、ちらりと背後を振り返ってみた。
たくしあげた装束で胸を隠し、うつむいているソシエの背中から腰に至る線は、すでに女らしい曲線を描きつつある。口腔に溜まった生唾を飲み下した途端、「早くしてよ! さっきお父さまが渡したでしょ。あれを出すの」といつものソシエの声が発して、ロランはあたふたしながら巾着袋の紐をほどいた。
「もう、死ぬほど恥ずかしいんだから。……なによ、それ」
なんとか木筒を取り出した時、呆れたというふうな声が耳を打って、ロランはもういちど背後を振り返った。少しだけ顔をこちらに向けたソシエが、訝《いぶか》しげな視線を尻のあたりに注いでいるのに気づいて、しまったと思った。
ソシエの目には、首から背中の方にぶら下げた金魚の玩具が見えているはずだ。装束の下にはなにも着けてはいけないという決まりがあっても、肌身離さず持ち歩いているメリーを置いてくる気にはなれなかったし、一生に一度の儀式だからこそ、「故郷」の思い出が詰まったメリーと一緒に過ごしたかったということもある。「あー、いやだ。成人式だっていうのに、そんなオモチャ持ってきて……!」と続けたソシエに、そんな気持ちを説明するつもりになわないロランは、「そ、そうですか?」とできる限り平静な声で応えた。
「今夜で最後だからと思って……」
こんな奴をパートナーに選んで損した、と言わんげかりの声を聞けば、口から出任せでもそう付け加えずにはいられなかった。早く終わらせてしまおうと思い、木筒の蓋《ふた》を開けたロランは、不用意に中を覗き込んでぎょっとなった。
ぬめぬめとした表皮を持つ親指大の物体が、筒の中で無数に蠢《うごめ》いていたのだ。体を弓状に反り返らせ、筒の内壁を這って外に出ようとする物体の腹には、まがまがしい黄色の縞も浮き出ている。筒を放り出したい衝動を必死に堪えて、ロランは「な、なんです、これ!?」とソシエを振り返った。「ヒルでしょ」と答えた声には、微塵の動揺もなかった。
「それで背中に聖なる痣をつけるの」
ホワイトドールを祀る司祭の背中にあったという痣を、ヒルの咬み跡で再現しようとは。悪質な冗談としか思えず、ロランは筒と蓋を両手に持ったまま硬直してしまった。そうしている間にも、ナメクジとも汚物ともつかないヒルたちはもぞもぞ体をうねらせ、筒の縁まで這い出してくる。「うわ……出てくる」と思わず口にしたところに、「蓋は捨てていいんだから、早くして」と無情なソシエの声が重なった。
「で、でも……」
「あたしもつけてあげるから」
そう言われて、喜べる状況であるはずもない。とりあえず蓋は捨てたものの、ヒルのてらてらした表皮をつまみ上げる勇気は持てず、ロランは暑さとは別の理由で噴き出してきた汗を拭った。「ヒルだったのかよ!?」と少年の叫び声が石窟に響いて、祭壇の下でも聖痕を授け合う準備が始まったことを伝えた。
「知らなかったの?」「昔からの決まりでしょう」と少女の声が応じる。「急がなくていいよ、お二人さん!」と冷やかす声も聞こえてくれば、いつまでも固まっているわけにはいかなくなった。代表の自分たちが済まさなければ、他の者も儀式を始められない。筒に目を戻したロランは、恐る恐るヒルに指を近づけていった。頭と尻の区別もつかない体をうねらせているヒルは、やはり素手で触れるにはあまりにもグロテスクな代物と見えた。
「こ、これしないと、大人になれないの……?」
「二年遅れなのよ、あなたは」
ぴしゃりと言った後、「場所は知ってるわね」と統けたソシエは、再び顔をうつむけて祈る仕種をみせた。じっと待っている裸の背中に、ソシエも怖いのだろうとわかったロランは、ぐっと息を詰めた。筒に指を近づけ、死ぬ気でヒルをつまみ上げた。
指先の感触が伝わる前に、素早くソシエの背中にのせる。勢い任せでやったために、ハイムに教えてもらった位置よりだいぶ中ほどにずれてしまっていた。びくりと体を震わせ、「なにやってるの!」と怒鳴ったソシエの声が、ロランの耳に痛かった。
「ホワイトドールが見てるのよ。あなたが宵越しの祭を男らしく終えられるかどうか。成人として認められるかどうか」
それができない者は、ここでは一人前と認められない。そう教える声を聞いた瞬間、これは祭ではなく、試しの場なんだと理解したロランは、頭上のホワイトドールを見上げた。冑《かぶと》をかぶった石像の顔は正面の夜空を向いており、瞳のない目はどこを見ているのか定かではなかったが、それだけにこちらを睥睨《へいげい》しているようにも思えるのだった。
巨人の掌中で試されている我が身を顧みて、ロランは前より冷静に二匹目のヒルをつまみ上げた。冷たいが、思ったより軟らかくない感触を指の腹に確かめつつ、ソシエの右肩甲骨の脇にヒルをのせることができた。
まだ大人になりきらないソシエの背中が、小さく震える。激痛というほどではないにせよ、ヒルの牙が食い込む痛みは確実に伝わっているはずだが、ソシエは一歩も動かずに聖痕の刻印を待っていた。無意味に思えても、こうした通過儀礼が成人としての自覚を育て、共同体の一員という意識も発生させてゆく。閉ざされた空間に密集していながら、みんながそれぞれの殼にこもって寂しがっているように見える「故郷」の生活は、この単純なしきたりを排除しすぎた結果なのではないか、とロランは唐突に思いついていた。
非合理的なものは極力排除し、生存のための環境を一から人工的に構築していかなければならなかった「故郷」の事情は、人に緊張を強いる一方、その生をどこか間延びしたものに変えた。「ある程度管理され、とりあえず生きてゆける環境」が前提条件としてあるために、個々人の責任感や自立心は身近な対人関係の中でのみ語られ、自然との関わりはおろか、社会全体と自分とを結びつけて考えることさえもなくなっていた。
結果、内向的でバランス感覚を欠いた大人子供が増え、親と子の関係もあやふやなものになって、ロランたちのような親なし子を増やしもした。それに対して、ここの人々には自然に対する畏敬の念が無条件に残っており、環境と折り合いながら共生してゆこうとする生存の知恵が、掟やしきたりという形を取って生活を律しているのだった。
平均寿命が五十代半ばに届かないこの世界では、病いや天災から逃れられればそれでいいとする謙虚さがあった。成人を迎えた子供たちに対して、よくぞ十五まで無事に育ってくれたと喜ぶ純粋な感謝の念があった。だから子供たちも、成人式の後は成員の自覚をもって共同体に参画する。それは、生まれてから一定の年数が過ぎたというだけで認められる成人とは、根本的に違っていた。
ここまで生きてこられた、そのことに感謝して、これからの時を過ごす。やらなければ、という思いがやれそうだ、に変わり、ロランは筒から半身を出しているヒルを恐れずにつまみ上げた。ひとつ壁を乗り越えたような達成感が胸の中に芽生え、今度は正確に位置を見定めてソシエの背中にのせようとした。閃光が発し、石窟を白く染め上げたのはその時だった。
三匹目のヒルをのせ終えたばかりの指先が凍りつき、ロランは岩肌越しに夜空を見やった。満天の星空の向こう、地平線近くにはりついた雲がぼんやり発光しているのが見え、ドン、ドロドロ……と、太鼓を打ち鳴らす音に似た重低音が遅れて聞こえてきた。
生への感謝を踏みにじるような、臓腑《ぞうふ》を共振させる強圧的な音だった。雷か? 思った時には再度、閃光が発して、地平線上にある雲の発光がさらに強くなった。そこだけ夕焼けの色に染まった雲は、ノックスの街の方向にあるものと知れた。
「なに……?」
呟《つぶや》いたソシエの声は、語尾が小さく震えていた。答えようとして、声が喉《のど》に張りついてしまったのは、雲そのものが発光しているのではなく、地上の明かりを反射して光っているとわかったからだった。
「あれは火事の色だよ!」と叫んだ誰かの声が、ざらりとした不安に拍車をかけた。
夕陽の残照より暗い、しかし輝度《きど》は高い赤色。それが地平線の一角を埋めており、目を凝《こ》らせば、ノックスの街の形が微妙な凹凸になって判別できるのだった。
祭りの興奮が冷め、代わりに重苦しいどよめきが祭壇の下からわき上がってきた。「おーい、ロラン! 方向はわかるか!?」と怒鳴った声が、その中に混ざった。
「ノックスの方なのは間違いありません。かなり大きい!」
答えながら、ノックスにはキエルお嬢さんと奥様がいるはずだと思い出したロランは、腹の底が冷えてゆくのを感じた。石窟の入口近くに集まった少年たちも、それ以上かけ合う言葉もなく彼方の炎を見つめている。「街中が燃えてるって感じよね……」と呟いたソシエも、まだ自分自身その言葉の意味が飲み込めていないようで、胸前に持った装束をぎゅっと抱きしめたまま、不穏な空の色に見入っていた。
本当にノックスは燃えているのか。これほどの大火事が起こった原因はなにか。考えようとした刹那、暗い赤に染まった地平線に新しい変化が生じて、ロランは息を呑んだ。地上から針の太さほどの光線が発して、空を探るように左右に振れたのだ。
探照燈――サーチライトの光だ。ノックス外縁に配置されているミリシャの高射砲部隊の物だろう。瞬《またた》く間に複数のサーチライトが光を放ち始め、慌ただしく交錯しながら黒煙と雲に覆われた上空を探り出した。それはまるで、上空から侵攻する敵を捜しているかのような動き……。
無意識に浮かび上がってきたその言葉に、ロランは慄然《りつぜん》とした。「敵」ってなんだ? ガリア大陸の侵攻が始まったとは思えず、もうひとつの絶望的な推測が抗《あらが》いようのない勢いで頭をもたげてきて、立っているのが辛くなるほどの脱力感、手足の痺《しび》れが徐々に体を支配していった。
手がだらりとぶら下がり、横になった筒からヒルがぼたぼた落ちてゆくのがわかったが、どうする気にもなれなかった。その場に棒立ちになって、ロランはノックスを焼く仄暗い炎の色を見つめ統けた。
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それは最初、夜空をただ落下してゆくだけの物体に見えた。
本体と思しき半球状のボディから、不似合いに長い「足」――信じられないことだが、たしかにそう見える――を二本、だらりとぶら下げている。遠目にはクラゲか、あるいは足の少ないタコとしか表現のしようのない物体は、しかし明らかに人工の産物であり、近づいて見ることができたなら、兵器として十分に洗練されたデザインであることもわかっただろう。が、満足に状況もわからないまま、夜間に緊急出動を強いられたミリシャ航空団のパイロットたちに、そんな余裕はなかった。
ボストニア城から警戒警報が発せられた時、最初に動いたのはビシニティの飛行機工場に駐屯する第二航空団だった。開発間もないヒップヘビーを隊長機に、ブルワン四機から構成される五機編隊が全部で五つ。総計二十五機のプロペラ複葉機が飛行機工場を発し、上空から侵攻する未知の敵にアプローチした。
パイロットの大半は、ブルワンを最強の戦闘機と言わしめる画期的な新型エンジン、星型空冷シリンダーの開発にも携《たずさ》わったベテランたちで、実戦経験こそないものの、ブルワンやヒップヘビーを凌《しの》ぐ飛行機がこの世にあるとは思っていなかった。特に両機に搭載された機銃は、時速三五〇キロで宙返りしても弾詰まりしない最新の機構を備えている。操縦席上に翼が張り出しているために上方視界は悪かったが、それは複葉機の宿命とでも言うべきものだ。どこの大陸、どこの領が相手であろうと、自分たちの戦闘機が負けるわけはないと固く信じていた。
しかし――上空に出た彼らが目撃した物は、想像を絶していた。星空に溶け込むような黒い塗装が施《ほどこ》されていても、パイロットたちの目には、長い両足をだらりとぶら下げ、まっすぐ降下してくる物体の輪郭がはっきりと見えた。しかもそれはひとつではなく、確認できただけでも同型の物が三体はいる。どう見ても戦闘機ではないし、無論、飛行船でもない。既存の常識がまったく通用しない「敵」を目の当たりにした時、パイロットたちの脳裏に浮かんだのは「化け物」の一語だった。
後は時間の問題だった。緊張の糸が切れ、パニックに陥ったパイロットたちが機銃の引き金を引けば、戦端はあっさり開かれた。最初に攻撃を仕掛けたのは、一番編隊のヒップヘビーで、編隊長であるパイロットは異形の物体にまっすぐ突進しつつ、威嚇《いかく》目的の機銃を撃ち放った。十発に一発の割合で曳光弾《えいこうだん》が挿入してある機銃の弾道が、淡い緑色の筋を引いて夜空を切り裂いてゆく。ただ落下するだけに見えた物体がふわりと上昇に転じ、意志を持ったもののように空中機動を行ったのはその瞬間だった。
不意に目前に現れた異形の物体を回避するには、ヒップヘビーは加速がつき過ぎていた。翼もない物体が、自らの意志で浮き上がるなどという冗談はない。よもや針路上に物体が浮上してくるとは想像していなかった編隊長は、エンジンのスロットルを開ききっていたのだ。結果、両者は正面から衝突した。編隊長が最後に見たのは、半球状のボディ中央に埋め込まれた真っ赤な目玉――|単眼式《モノアイ》カメラセンサー――の恐ろしげな光だった。ヒップヘビーは物体の短い胴体部に激突し、エンジンを誘爆させて四散した。オレンジ色の火球と機体の破片が夜空に飛び散り、その中から、かすり傷ひとつ負っていない異形の物体が姿を現した。
その光景を目撃したパイロットたちは、一様に息を呑んだ。異形の物体が無傷であること以上に、ヒップヘビーが接触したために物体の大きさを目測することができ、それが少なくとも四十メートル以上あることが判明したからだった。恐怖と憎悪が交錯して、イングレッサ・ミリシャ第二航空団はパニックに陥った。そして無線機などはなく、通信は信号燈のやりとりで賄《まかな》うしかない複葉機のパイロットたちにとって、いちど崩れた指揮系統を立て直すのはどだい不可能な話だった。
戦闘は乱戦になり、とにかく射界に入れば即座に引き金を引くというやり方で、ミリシャの戦闘機部隊は執拗《しつよう》に物体に食い下がった。異形の物体は反撃の気配を見せず、ヒステリックな攻撃をただやり過ごそうとしているようだったが、ミリシャのパイロットたちは航空力学を無視した物体の動きを読むことができず、さらに三機のブルワンが物体と衝突して爆発する運命をたどった。異形の物体自身、彼らにしてみればとんでもなく旧式な飛行機の空力限界が理解できずに、戸感っているようだった。
やがて三機の物体は地表に近づき、その巨大な足で小麦畑を蹴散《けち》らしながら着地した。衝撃で数トンの土砂が吹き上がり、近隣の農家を一瞬に押し漬していったが、全長四十メートルの物体が気づくものではなかった。両膝をぐんと曲げて接地した後、足の付け根から白色光を発して立ち上がった物体は、そのまま猛然と地上を走り始めていた。
知る人が見れば、股間の輝きはスラスター・ノズルの噴射光であるとわかっただろう。が、その知識を持つ者は地上にはおらず、ミリシャのパイロットたちに見えるのは、ダチョウさながら、長い足を交互に動かして疾走する「化け物」の姿だけだった。一歩足が踏み出されるたびに畑のひとつが土くれに変わり、道が抉《えぐ》り取られて電柱がなぎ倒される。巨大な物体は、ただ走るだけで絨毯爆撃と同様の被害を地上に与えた。パイロットたちの恐怖と憎悪は頂点に達し、ほとんど特攻まがいの攻撃が開始された。
地上に降りた物体は、空中にいる時ほど自由に動き回ることはできず、ジャンプはできても、再び空中に浮き上がることはできないようだった。機銃弾の雨がまともに降りかかり、物体の装甲に着弾して無数の火花を咲かせたが、それは致命傷どころか、かすり傷ひとつ与えられはしなかった。機上のパイロットたちには判別できなかったが、物体の装甲は可塑《かそ》性の金属で形成されているらしく、傷を負うと回時に修復が始まって、機銃弾が当たった程度の傷であるなら、数秒と経たないうちに治癒させてしまうのだった。
それでもノックスに進撃する物体の足を止めようと、ミリシャのパイロットたちは果敢な攻撃を挑み続けた。中には味方の銃弾に当たって失速し、物体に体当たりして果てる機もあった。異形の物体は、それらを小バエの跳梁《ちょうりょう》と断じて無視していたが、執拗を通り越して狂気に近い攻撃に、ついに堪忍袋の緒を切らす時がきた。
半球状のボディー――いや、歩行する姿を見れば、それは頭部と言った方が正しい――の頂上部にあるカバーが開き、中から砲台らしき形状のものがせり出してくる。疾走する両足の動きは止まらないまま、頭部が左右に回転して中央のモノアイ・センサーが不気味な赤色に染まった。
戦闘機が密集している方位を特定、照準したことを示す光だった。次の瞬間、砲台の筒先から光の筋が吐き出され、灼熱した粒子が地表と大気を焦がして、ミリシャの戦闘横隊に殺到した。
照射された光の筋は数十センチに満たないものの、周囲の空気を白熱させながら驀進《ばくしん》するそれは、直径数メートルの閃光の帯になってミリシャ編隊を直撃した。六千度に達する熱波が一瞬に複葉機の脆弱《ぜいじゃく》な装甲を溶かし、パイロットの肉体を蒸発させて、七機の戦闘機を灼熱した鉄塊に変えてゆく。他にも三機のブルワンがコントロールを失って地上に叩きつけられる一方、光の帯が擦過した地表にはたちまち炎の道が走り、木々の葉を燃やして幹を火柱に変えた。大気に威力を減殺されて次第に勢いを弱めながらも、山肌を抉りながら直進した光の帯は、四十キロ先にあるイングレッサ領の首都、ノックスにまで到達した。
直撃を受けた環状線南駅の建物は、砂でできていたかのように簡単に粉砕された。爆風が市電をなぎ倒し、熱で溶かされて溶岩になったレンガやガラスの塊が、正面の百貨店をもぐずぐずに崩してゆく。途中にあった民家は言うに及ばず、百に及ぶ人の命が、なにが起こったのかもわからないまま圧倒的な熱地獄の中に消滅していった。
その輝きと爆発の地響き、空気の震動は、ボストニア城の通信室にいるグエンとキエルにも伝わったし、そこから数十キロ離れたアーク山にいるロランとソシエにも、感じ取ることができた。地球規模から見れば、大陸の一端に走った糸クズほどの光であっても、彼らにとって――そこで生まれ、暮らすすべての人々にとって、その輝きは重大な意味を孕んでいた。
それは、地球が二千年来忘れてきたビーム兵器の光だった。
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それまでとは較べものにならないほどの閃光が発した後、ぶわんと大気が揺らめいて、世界そのものが一瞬、震憾した。祭壇の上に立ち尽くしたロランは、地平線上を走ったピンクの光を目撃して、最悪の想像が現実になったことを知った。
虹のような淡い光の中に、鋭い閃光の筋を内包した光の帯は間違いない。|「故郷」の軍隊《ディアナ・カウンター》の演習で見た覚えがある。ビーム兵器――それも艦隊同士の長距離戦闘で使われる、SSB(対艦荷粒子砲)レベルの大出力ビームだ。先刻までの元気を完全に喪失し、肩を寄せ合ってごそごそしている少年たちを見下ろしたロランは、その場に膝をつきたい衝動に駆られた。
「故郷」の、ムーンレィスの人々が仕掛けてきた? ディアナ・ソレル様がこんなやり方をお許しになったというのか? なぜとどうしてが錯綜する頭にそんな言葉が浮かんでは消え、ロランはひたすらその揚に立ち尽くした。首からぶら下げたメリーの他は、一糸まとわぬ裸である我が身を気にする余裕もなかった。誰かが肩を叩いていたが、振り返って確かめる能力さえ失っていた。
「ロランッ!」大声が耳元に弾けて、ロランはやっと何分の一かの正気を取り戻した。「山を下りた方がいいわ。早く」と続けたソシエは、アルコールを染み込ませた布でヒルを拭い、成人式の装束を身につけている。咄嵯に判断ができず、「そ、そうですけど……」と返事をしたロランは、もういちどノックスの方に目を戻した。ビームの輝きは消滅し、代わりに、噴き上がった土砂が形成する薄い幕が地平線に垂れこめていた。
バラ……と岩が崩れ落ちる音が頭上に発し、なにかが落下してくる気配がそれに続いた。反射的にホワイトドールの顔を見上げた瞬間、そこから落ちてきた岩の塊が鉄製のボウルを直撃して、中の焚き火を祭壇の上にぶちまけていた。
燃えた木片が飛び散り、火の粉が吹き上がる。避けようとしたソシエが体当たりしてきて、ロランは両手でそれを抱きとめる形になった。いつものソシエならすぐに離れるところだったが、この時は違った。足もとから這い上がる震動が、祭壇を揺らし始めていたからだ。
地震にしては、その震動は奇妙に小刻みで、まるで足もとで巨大なエンジンが稼働しているのではないかと思わせた。丸太を組み合わせた祭壇ががたがた音を立て、ロランはソシエを抱いたまま、下におりるべく梯子の方に後退しかけたが、大量に落下してきた岩の小片が、退路を塞ぐ方が早かった。
ホワイトドールの顔面にひびが入り、ボロボロ崩れ出しているのだ。祭壇を支える手のひらにも亀裂が走り、表面の岩肌が崩れ落ちて、大量の砂が噴き出してくる。岩に見えていたのは石化した表面だけで、ホワイトドールの中には砂が詰まっているようだったが、それがなにを意味しているのかはロランにはわからなかった。
岩と砂の崩落は続き、祭壇が大きく右に煩くに至って、ロランとソシエは立っていることができなくなった。「なんなの……!?」と叫ぶソシエを胸に抱いて、ロランは傾いた祭壇にうずくまり、正体不明の地震が収まるのを待った。
落下してくるのは砂がほとんどでも、表面の石化した部分が背中を直撃したらただでは済まない。歯を食いしばり、じっと耐えるしかない耳に、「逃げろ、逃げろ! ホワイトドールが崩れるぞ」「ロランとソシエが埋まっちまった!」と叫ぶ少年たちの声が聞こえてくる。やはり地震が起きたのではなく、ホワイトドールの石像が崩落しただけであるらしい。いつ岩塊に押し潰されるかわからない状況では、それ以上のことは考えられず、岩の小片がいくつも背中に当たるのを感じながら、ロランはソシエの体温に意識を集中した。その温もりが感じられる間は、死なずに済むという根拠のない確信があった。
一分に満たない時間だったろう。震動が収まり、ロランは砂まみれの頭を上げた。小石や砂が落ちる音はまだ続いていたが、祭壇と足もとの焚き火が消えてしまったこともあって、ホワイトドールは以前より深い静寂の中に沈んでいた。みんなは避難したのか? ソシエの無事を確かめた後、祭壇の下を覗き込もうとしたロランは、ホワイトドールの手のひらを視界に入れて息を呑み込んだ。
巨大な手のひらは、相変わらず祭壇の端を支えて上を向いているものの、月明かりに鈍く輝く五本の指は石像のものではなかった。滑らかな表皮は鋼鉄に似た光沢を放ち、指の関節のひとつひとつが異なるパーツで構成されていて、今にも動きだしそうな雰囲気を漂わせている。石像の下に機械の腕が入っていた――? 真っ白になった頭に呟いたロランは、ホワイトドールの腕が不意にだらりと下がる気配を知覚した。
崩れ落ちたのではない。人間の腕がそうするように、肘《ひじ》の関節が動いて右腕が下がったのだ。必然、支えを失った祭壇は大きく傾き、ロランはソシエを押し出すようにしてホワイトドールの左腕に乗り移った。左腕は前方に突き出されたままだったが、表面を覆《おお》っていた岩はなくなっており、やはり鋼鉄のすべすべした感触が足の裏に伝わった。
左腕も機械になっている。恐怖とは別の、名状し難い情動のうねりが内奥から立ち上がってくるのを感じながら、ロランはホワイトドールの顔を見上げてみた。思った通り、冑《かぶと》をかぶった石像の頭はなくなっており、代わりに白い装甲で覆われた機械の頭部がそこに鎮座していた。
ほぼ球形に近い頭部は、前面の一部が引っ込んだ形状をしており、そこに複眼式《デュアル・アイ》カメラセンサーが備えられているさまは、ヘルメットをかぶった人の顔そのものと見えた。口に相当する部分は赤い装甲ブロックで覆われていて、そこからアンテナともフェイスガードともつかない細長い装甲板が、石像当時の角をしのばせて左右に展張している。まるで髭《ひげ》だと思いつく間に、「なにが起こったの……?」とソシエが口を開いて、ロランは我に返った。
鋼鉄としか言いようのないホワイトドールの腕の感触を確かめ、こちらを見上げたソシエの顔は、恐怖と好奇心がないまぜになり、パニックの一歩手前で拮抗《きっこう》しているという感じだった。月明かりとは違う、下からわき上がる青白い光にその姿が照らし出されているのを見たロランは、錆《さび》ひとつないホワイトドールの装甲に手をつき、足の方を覗き込んでみた。
心臓が一瞬止まり、そのあと猛然と鼓動を開始した。ホワイトドールの足の付け根のやや上方、ちょうど子宮の位置に球形のカプセルが据えられており、青白い光はそこから発しているのだが、問題はそこにある装置の数々だった。前面に配置された三面のディスプレイ・パネル。エア・シートベルト機構を備えたシートと、その左右から張り出したコントロール・アーム……。
「コクピットだ……」
思わず口にすると、ソシエが即座に「コクピットって?」と聞き返してきて、ロランは自分の迂閤《うかつ》さを呪った。地球の人々が知っている言葉ではない。「……その、操縦席じゃないんですか? そんなふうに見えません?」とごまかしながらも、ロランの目は球形のコクピットに釘《くぎ》付けになっていた。
そう、コクピットも、巨大な人型マシンも、地球にあるべきものではない。しかし位置関係から見れぱ、目の前のコクピットは間違いなくこの人型マシンの操縦席で、ロランを誘うように前面のディスプレイを点滅させているのだった。
永く石像の中に埋まっていたらしいのに、こいつばまだ生きている――。腰の装甲板が足場になりそうだと確認したロランは、コクピットに近づくべく、ホワイトドールの腕から足を下ろしていった。
置き去りにされると思ったのか、「なにしてるの」と言ったソシエの声は小さく震えていた。「下りてみます」と答えて、ロランは素足の先で慎重に足場を探った。
「動かすつもり? こんなものが動くと言うの。ホワイトドールなのよ?」
「でもあれ、すごく光ってて、動くように見えませんか?」
ソシエが言葉を呑む気配を頭上に感じながら、ロランは腰の装甲板に乗り移った。首にぶら下げているメリーが揺れて金的に当たり、素っ裸のままでいる自分を思い出したが、確かめなければならないという思いの方が強く、かまわずに風防《キャノピー》の開いたコクピットを覗き込んだ。機体同様、新品の状態を保っているパネル類を確かめてから、思いきって中に乗り込み、シートに座ってみた。
前面左のパネルは、システム起動を示して機体のチェックリストをスクロールさせているものの、ほとんどがエラー表示で半分も判読できなかった。中央と右のパネルは「∀」の記号を点滅させるのみで、ひょっとしたらこの機体のコードなのかもしれなかったが、やはり読み方はわからなかった。
|逆立ちした《トップスタンド》Aか、あるいはVの表示にドットエラーが出ているのか。推測しても始まらず、ロランは他のシステムをひとつひとつチェックした。球形のコクピットの内壁は一体成型のモニターで、前面の半透明キャノピーと合わせて三六〇度の視界を確保する全視《オールビュー》モニター・タイプ。シートから張り出し、パイロットの左右の腕を覆うコントロール・アームは、五本の指がフィットする|半球状の操縦棹《アームレイカー》を採用しており、|腕部の《マニピュレーター》操作を握力に至るまで滑らかに操作できる。フットペダルは右側がスロットルで、左側がブレーキ兼逆噴射。シートの上にあるボウル状の装置は、戦闘時にはパイロットの頭をすっぽり覆い、敵機の識別、方位、速度から予測進攻曲線までを表示する|仮想実現ヘルメット《VRヘッド》――。
いくつかの差異はあっても、基本的には地球降下の際に操縦した〈降下船《フラット》〉と同じシステムが採用されている。〈フラット〉は着陸時には人型に変形し、乗り込んだ環境調査員が降下地点まで操縦しなければならないために、この類いのマシンの扱いは速成訓練の中でも最重要科目とされていた。まだ機能が完全に復旧していないのか、ついたり消えたりしているモニターの一画に、ほぼ人間と同じスタイルを持つこの機体の全体図がCG表示されるのも見たロランは、もはや間違いないと確信した。
これはモビルスーツだ。遠い昔、宇宙を生活の場とし始めた頃の人類が、|宇宙植民地《スペースコロニー》建造の目的で開発した人型のマシン。際限のない電子戦争の末、ついにレーダーが完全に無力化された時代には、近接戦闘を仕掛けられる唯一の兵器として、主力兵器の地位を与えられたマシン……。
製作技術は失われてしまったが、自己修復機能を内蔵したタイプが大量に備蓄されていたために、現在もディアナ・カウンターの主力兵器として使用されている。しかしそれはロランの「故郷」――月での話であって、ここは地球だった。滅びの記憶を忘れ、緩やかな再生の刻を紡いでいたはずの地球に、なぜモビルスーツがあるのか。なぜホワイトドールのような石像の下に、さながら遺跡のごとく安置されていたのか。ひと通りコクピットを調べ終わると、それらの疑問が重苦しい不安とともにのしかかってきて、ロランは知らないうちに額に張りついていた冷汗を拭った。
とんでもなく危険な物に、自分は乗っている。そう思った瞬間、「どうなの!? 動きそうなの」と叫んだ声が頭上に弾けて、ホワイトドールの腕を這い下りてくるソシエの尻がロランの目に映った。
ここまで来るつもりらしい。近づけてはいけないという思いが無条件に立ち上がり、ロランは「∀」の記号を点滅させているパネルに手をつき、コクピットから半身を乗り出してソシエの接近を制止しようとした。ズン、と鈍い震動が下からわき起こったのは、その時だった。
大量の砂が流れ落ちる音が周囲を包み、ぐらりと動いたホワイトドールの腕から、ソシエが振り落とされる光景がそれに続いた。尻から落ちてきたソシエを受け止めたロランは、シートに嫌というほど頭を押しつけられる羽目になった。
「痛ぁ……」と呻いたのも一瞬、ソシエはコントロール・アームをつかみ、パネルに足をついて、ロランの膝の上で強引に体勢を立て直そうとする。「迂闊に触ると……!」と悠鳴り、ソシエを押さえ込もうとしたロランは、不意にふわりとした浮遊感に体が包まれるのを感じた。
開きっぱなしになったキャノピーの向こうで、星空と、赤く燃える地平線の情景が下に動いてゆく。「立った……?」とソシエが呟き、「そんな……」とロランが返した刹那、ズシンと重い響きが尻の下に発して、前方に移動する感覚がはっきり伝わった。
立ち上がったホワイトドールのモビルスーツが、一歩を踏み出したのだった。アームレイカーひとつ動かしていないのに、なんだって動き出した? ロランは生きているパネルに目を走らせて、エア・シートベルトと衝撃吸収装置《ショック・アブソーバー》が作動しているかチェックした。この二つがなければ、身長二十メートルに及ぶ巨人の体内にいる自分たちは、歩行の衝撃だけで外に放り出されるか、壁に頭を叩きつけて首の骨を折ることになる。両システムとも正常に作動しており、ロランはほっと息を吐きかけたが、それもホワイトドールの右マニピュレーターがつかんでいる物を見るまでのことだった。
細長い直方体の物体は、先端に三角のパーツが上下が対になる形で設置されていて、下部の中ほどからにモビルスーツの手の大きさに合う握り棒が突出している。直方体の本体は荷電粒子の発生・蓄積機関である銃身《バレル》、先端の三角パーツは射出方向を定めるガイドラインの役割を果たす銃口。握り棒は引き金を備えた銃把《グリップ》であるとわかり、これはビームライフルだと理解したロランは、パネル上に表示された操作キーを片っ端から押していった。
ビームライフルはモビルスーツが装備する標準的な携行武器《オプション》で、艦載ビーム砲ほどの威力はないにしても、発射時の熱量は数千度に達する。キャノピーが開きっぱなしの状態でビームが射出されれば、コクピットが黒焦げになるのは必至だった。一刻も早くコクピットを防護する必要があったが、どのキーを押してもキャノピーが閉じる気配はない。機体の動きも止まらず、巨大な脚で岩を踏み砕き、土砂と樹木を削って斜面を滑りながらも、なんとか姿勢を固定したホワイトドールのモビルスーツは、右マニピュレーターに携えたビームライフルの銃口を燃える地平線へと向けた。
「腕みたいなのが動いてる……!」とソシエが叫んだ時には、ホワイトドールのモビルスーツは左マニピュレーターでバレルを支え、人間の兵士さながら狙撃態勢に入った。完全に自動制御で動いているらしい。大量の土砂が構えられたライフルから落ち、銃口に詰まっていた砂がくしゃみのように勢いよく叶き出される。パネル表示が〈|CRUISE《巡航》〉から〈|COMBAT《戦闘機動》〉に切り換わるのも見たロランは、もうなにも考えずにソシエに覆いかぶさっていた。
目を閉じていてもわかるほどの閃光が発し、肌を焼く熱波が背中に叩きつけられる。空気が引き裂かれる轟音が耳を聾し、薄目を開けて背後を窺ったロランは、ライフルの銃口からのびる光の膜、周囲に飛び散った残粒子の輝きを同時に網膜に焼きつけて、ソシエを抱く腕の力を強くした。
飛散した残粒子のひと粒でもこちらに飛んでくれば、ただでは済まない。線香花火の火種ほどの大きさであっても、当たれば人体など簡単に貫通するのだ。「どうなってるの、なにが起こったの!?」と、もがくソシエを押さえ込んで数秒。熱気が薄まり、ビーム発射直後のイオン臭を嗅ぎ取ったロランは、恐る恐る正面を向いてみた。
山麓に至る道がビームの放射圧でごっそり抉られているのが見え、森の木々が火柱になって燃えているのが続いて目に入った。その向こう、ビシニティの町にも火の手が上がっており、ビームの弾道に沿って陰鬱《いんうつ》な炎の色が町を縦貫している。「町がやられてる! どうして!?」と悲鳴に近い声を上げたソシエに、「わかりません。勝手に動いてしまって……」と答えながら、ロランは重苦しい不安が喉元までこみ上げてくるのを感じた。
炎の筋は町の中央を逸《そ》れて、レッドリバー沿いの高級住宅街を走っている。しっかり男をやってきな、と背中を叩いて送り出してくれたジェシカの顔、今晩は早めに酒席を切り上げて帰宅すると言っていたハイムの声が思い出され、最後に炎上するハイム邸を頭に描いてしまったロランは、いったいなぜ、と胸の中に絶叫した。
なぜ急にこのモビルスーツは動き出した。なぜいきなりビームライフルを撃ったのだ? なにひとつわからないいら立ち、次にどうなるか予測できない恐怖が渾然となる中、とにかく降りた方がいいと最低限の判断を下したロランは、再びパネルに目を走らせた。
モビルスーツが立っている以上、子宮の位置にあるこのコクピットは、少なくとも地上十メートルの高さにあると見て間違いない。飛び降りるわけにはいかず、コクピットを下降させるキーを捜して指をパネル上に這わせたロランは、降りるな、と叱るようなタイミングで鳴り響いた耳障りな電子音に、びくりと体を震わせた。
〈フラット〉の操縦訓練をした時に聞いたのと同じ音。接近警報だ。〈|WARNING《警告》〉の赤文字を点灯させたモニターが接近する物体の方位、速度、数などのデータを羅列して、ここからは右上方に見えるビームライフルの筒先が、少しだけ左にずれてゆく。同時に、ノイズ混じりのモニターに照準ディスプレイの幾何学模様が乱舞して、接近する四つの熱源体がロックされたことを伝えた。
また、発射される? 全身の毛穴が開き、ロランはやめろと胸中に絶叫したが、ビームライフルのグリップを握るホワイトドールの巨大な指は、容赦なく再び引き金を搾っていた。
目を閉じる間もなく、銃口からピンク色の光の帯が吐き出される。熱波と残粒子が飛び散ったが、コクピット前面にエア・シールドの類いが展開されているのか、粒子の粉は見えない壁に当たって目の前で押し返された。山の斜面を噴き上げ、レッドリバーを越えて突き進んだビームの行く手に、オレンジ色の火の玉――爆発の火球が三つ、四つと咲く。闇夜が一瞬、白く染め上げられるのを見たロランは、ビームが射出されたこと以上に、思ったより近い距離で発した炎の色にひやりとしたものを感じた。
敵意を持ったなにかが、こちらに迫っている。その直感が膨れ上がり、どうしたの、なにが起こったのとくり返すソシエを意識の外にさせた。この場に留まっていては危険だと教える直感に従い、もう一度、今度はじっくりコクピット周りを点検してゆく。パネルに映る操作キーの少なさに、音声認識システムを採用したタイプかもしれないと思いついたロランは、「コクピット、閉鎖」と試しに口にしてみた。
すり鉢状のコクピット上面が半透明カバーに覆われ、外部のキャノピーも閉じて、二重の透明装甲がコクピットを防護した。三六〇度の視野を確保するオールビュー・モニターも作動し、それまで壁や床でしかなかったコクピット内壁が、外界の景色を映し出すスクリーンになった。足もとに十数メートル下の地上が映り、「なんなの!?」と叫んで抱きついてきたソシエを受け止めたロランは、説明の口を開きかけて絶句した。
モニターにビームライフルの筒先が映り、その銃口が真っ二つに裂けて、グリップから先が黒ずんだ鉄屑に変貌しているのがわかったからだった。保存状態が完全でなかったのか、二度の射撃で壊れてしまったらしい。これでは応戦できない、と内心に呟いたロランは、その自分の言葉にぞっとした。
なにを考えているんだ、ぼくは。戦うつもりでいるのか? 相手は「故郷」の人々、ディアナ・カウンターの軍人たちらしいのに。自問した瞬間、接近警報が耳を打って、ロランは反射的に「VRヘッドを……!」と口にしていた。
シートの上部に設置された半球状のカバーがスライドして、ヘルメットそのままにロランの鼻から上を覆う。視界が塞がれる直前、ソシエの呆然とする顔が見えたが、説明したり、取り繕ったりしている余裕はなかった。VRヘッドのモニターが映し出すデータに神経を集中して、ロランは状況を探ることに専念した。
VRヘッドは頭部のカメラセンサーと連動して、モビルスーツの目の高さから見た映像をパイロットの視野に投影するシステムだ。パイロットの瞳孔反応を読み取ってCG補正を行い、明暗からズーム、ピント調整まですべて自動でやってくれる。この時は赤外線が捉えた映像に実景に近い彩色が施されており、そこに平面座標軸が重なって、接近する物体の数と距離、速度、予測進攻曲線と会敵時間をロランに伝えた。
約四十キロの距離を、時速二百キロの速度で進攻してくる目標の数は一機。潰れたボールのような巨大な頭部と、不釣り合いに長い二本脚のシルエットには見覚えがあった。
ディアナ・カウンターの主力、拠点攻撃用の重モビルスーツ〈ウォドム〉タイプだ。やはり相手は「故郷」の、ムーンレィスの人々。地球帰還作戦が始まったのだとしても、いきなり重モビルスーツを降下させるなんて正気の沙汰じゃない。いったいディアナ・カウンターの指揮官たちはなにを考えているんだ? これがディアナ・ソレル様のお考えだとでもいうのか……? 無意識にかみ締めた奥歯がギリと鳴り、アームレイカーを握る両手に力を込めたロランは、〈|OBJECT《目標》 |MS.《モビルスーツ》|TYPE《一般機》→1|CODE A《コードはA》〉の文字の下に、〈|UNKNOWN《未確認機種》〉が表示されるのを見て、「アンノウンのAは〈ウォドム〉に転換」と指示を送った。
〈|SPELL《つづりは》?〉の文字がすかさず反応する。杓子定規のコンピュータに神経を逆なでされながらも、「W、A、D、O、M。ウォドム、だ」とくり返して、ロランはVRヘッドを元に戻した。
オールビュー・モニターの映像を背に、こちらを見つめるソシエの顔は恐怖に塗り込められていた。「ロラン、なにをやってるの?」と詰め寄りかけたソシエを制して、ロランは、「敵らしい物が近づいてるんです」と言ってしまった。
「敵? 敵ってなんなの?」
「……わかりません。でも、とにかくこいつを動かさないと。いきなりあんなもの撃っちゃったから、向こうもびっくりしてるんですよ、きっと」
理由がなんであれ、突然動き出したこのモビルスーツがビームライフルを撃ったのは、ノックスに仕掛けた〈ウォドム〉を狙ってのことに違いない。二度目の射撃は、〈ウォドム〉が撃ち返してきた長距離ミサイルを迎撃したものと考えれば、二十キロほど離れた場所で起こった爆発も説明がつくのだった。
となれば、次は接近戦で確実にこちらを仕留めようとするはずだ。速成教育の付け焼き刃でそれだけの思考をまとめたロランは、「できるの? ロランに動かせるの、この機械人形みたいなのを?」と言ったソシエの真摯な顔を、正面に見返した。
「やってみないと。話し合って、誤解をとくチャンスを作るためにも……」
「相手が敵なら、話し合いなんかできるもんですか」
そう言うと、ソシエは延焼するビシニティの方に顔を戻した。思わず「敵」という言葉を使ってしまった自分、ソシエの頑なな態度の両方に漠とした不安を感じながらも、ロランはモニターの一画に表示された〈ウォドム〉との相対距離を確かめた。
敵なんかじゃない。これはすべてなにかの間違い、事故みたいなものなんだ。話せばきっとわかってくれると自分に言い聞かせてみたが、疾走する〈ウォドム〉の姿からは、敵意しか感じ取れないのも事実だった。ロランは慎重に右のフットペダルを踏み込み、アームレイカーを動かしていった。
ずるずるとアーク山の斜面を滑ったホワイトドールのモビルスーツが、半壊したビームライフルを捨てて右マニピュレーターを正面に突き出す。操る者の思惑とは別に、その姿は敵の到来を待ち構える戦神と表現されても仕方のないものになっていた。
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ノックス近郊に降下した二本脚の物体――ミリシャの兵士たちは、侮蔑の意を込めてカカシ≠ニ呼んだ――の数は、九機まで確認されたところで以後の情報が途絶えた。
最初の攻撃で無線電信用の鉄塔が倒壊し、通信が分断された結果だった。司令本部と各部隊との情報交換は伝令を通して行うしかなくなり、イングレッサ・ミリシャは敵の正確な数も勢力もわからないまま、各個に応戦を強いられた。
伝令が途中で戦死すれば、前線部隊は一時間前の情報を頼りに戦闘を継続し、予測に倍する敵の火力に圧倒されて、いたずらに損害を拡大させることにもなる。どだい、測量器隊がいかに正確な数字を高射砲の射手に伝えようと、鉛と火薬の塊でしかない砲弾が、自己修復能力を持つカカシ≠フ装甲にかすり傷ひとつ負わせられるはずもなかった。しかしこれをガリア大陸の侵攻と信じているミリシャの兵土たちは、目の前の現実を容易に認めようとはしなかった。
「カカシにしか見えないものなど、撃ち落としてやれ!」
「脚を狙え! 二本足で歩く戦車なんぞ、マンガ以下なんだ。イカレたガリアの連中に、イングレッサ魂を見せてやれ!」
そんな声が高射砲部隊、航空団のそれぞれで飛び交い、兵士たちはそれを絶望的な行為と自覚することなく、果敢に砲弾を撃ち上げ続けた。情報の分断が恐怖の伝播を阻止している上に、初めての実戦で一種の躁《そう》状態に陥っている兵士たちの神経が相乗した形だったが、それで敵の進撃を阻めるものではなかった。サーチライトの光が交錯する中、続々と降下してきたカカシ≠フ一団は、砲撃を無視してノックスに侵入するや、大型トラックほどの大きさがある踵を上下させて市内を闊歩し始めた。
先制攻撃を禁じられているのか、砲撃する気配こそなかったものの、四十メートルの巨体で街中を歩き回られれば結果は同じだった。着地の衝撃だけで舗道の石畳は粉砕され、沿道にあるデパートなどのショーウインドが粉微塵に割れて、落下してくる看板の下敷きになって人が死ぬ。そこにミリシャの攻撃が加わり、狭い市内では集中砲火を浴びる危険があると判断したらしいカカシ≠ヘ、頭部側面に装備されたミサイル・ランチャーによる反撃を開始した。
街に乗り入れてきた装甲車や、高射砲陣地を限定して狙ったものとはいえ、鉄筋建築もアスファルトも知らないノックスの街に取って、ミサイルの破壊力は圧倒的だった。直撃を受けた装甲車は瞬時に吹き飛び、荒れ狂う爆風が電柱や市電をなぎ倒して、近隣の建物も容赦なく打ち崩してゆく。ミリシャ創設に併せて避難計画も策定されていたのだが、人がちぎれて飛ぶ光景を目撃したばかりの住民たちは、恐慌状態に取り憑かれていた。
車を所有する富裕者はミリシャの制圧を無視して我先に市外へと逃げ出し、装甲車と鉢合わせて身動きが取れなくなった挙句、ミサイル攻撃の巻き添えを食らって四散した。一般市民は飛行場に殺到し、飛行船でビシニティなどの郊外へ避難しようとしたが、ノックス全住民を運べるほど飛行船の数があるわけはなかった。
溢れんばかりの客を乗せた飛行船が次々もやいを解き、ゴンドラに入りきらなかった乗客をばらまきながら離陸してゆく。爆発の閃光が地獄絵図を闇夜に浮かび上がらせる一方、市外でもミリシャの戦闘機部隊とカカシ≠フ交戦が統いていた。
ミリシャのパイロットたちは、アーク山の方から発したピンク色の光がカカシ≠フ一機を直撃するさまを目撃していたのだ。直撃を受けたカカシ≠ヘ行動不能に陥り、同行していた別のカカシ≠ェ泡を食ってアーク山に向かう光景も見れば、自分たちの知らないミリシャの秘密兵器がアーク山にある、という推測がパイロットたちには真実になった。そのことが彼らの士気を鼓舞し、戦闘機部隊は疾走するカカシ≠フ前に布陣して、一歩も退かない徹底抗戦の弾幕を張った。行動不能になったカカシ≠ノも容赦のない攻撃が加えられ、危機を感じ取ったもう一機のカカシ≠ヘ、僚機を救うために再度ビームの砲口を開いた。
放出された荷電粒子の嵐が複葉機の群れを紙切れのように焼きつくし、ノックスに向かってのびてゆく。二度目のビームは市の中心街を貫き、大通りを灼熱地獄に変えて、黒煙と粉塵の垂れ幕を炎の中に拡げていった。激震はボストニア城をも揺らし、ここは攻撃されないと言った城主の言葉を信じ、パーティー会場に残っていた人々を大いに動揺させた。
心臓の弱い老子爵が発作を起こして倒れ、何人かの婦人もショックで気を失った。姿の見えない娘を押し求め、会場内を歩き回っていたハイム夫人もそのひとりだった。
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「これでは侵略ではないか!」
マイクを握り、叫ぶグエンの背中は小刻みに震えていた。雷のような光がノックスの街を直撃し、砲撃の音や機械人形の足音が間近に響くようになってから、そろそろ一時間と少し。ダンスホールに残っているはずの母を気にしながらも、殺気立った無線室から離れられずにいたキエルは、スピーカーを通して聞こえてくる応答の声に意識を集中した。
(……約束……期限は、一ヵ月も前に切れている。その場合、我々は帰還作戦を強行すると伝えた……である)
ノイズの嵐の中でも、その男の声ははっきり聞き取ることができた。これが、月に住むというムーンレィスの声。多少、発音になまりがあったが、話している言葉は北アメリアの一般言語そのものだった。キエルは窓に近寄り、こげ臭い思いを我慢して夜空を見上げてみた。
南塔の鐘楼、城の周囲に上げられた複数の阻塞気球が、炎の照り返しを受けてオレンジ色に浮かび上がっているのが見え、雲と煙の筋が渾然とたなびく向こうに、|銀の縫い目《シルバーステッチ》を中央に走らせた薄黄色の月を望むことができた。グエンの話では、そのシルバーステッチこそがムーンレィスの都市なのだという。糸ほどの太さにしか見えない場所に、そんなに大勢の人が住んでいる? 私たちと同じ言葉を喋り、ずっと進んだ科学文明を持つ人々が……? まだ突拍子もない現実の数々を受け入れることができず、呆然と満月を見上げる間に、「我々にとっては、あなた方の存在そのものが信じられないのだ」と言ったグエンの声が続いていた。
「我々も努力はしている。しかし、他の領主たちに月に人間が住んでいると納得させるだけでも、半年やそこらの時間は過ぎてしまうんだ。それを一方的にこんなやり方で……」
(二年以上、交渉してきた。二千年前の故郷に帰りたいと、我々の想いを伝えもした)
冷徹な口調に、底深い情念のうねりが潜《ひそ》んでいた。無線技師らが注視する中、キエルも絶句したグエンを見つめた。
(しかるに、そちらの対応……なんの誠意も見受けられなかった。我々としては、交渉は決裂した……とみなし、帰還作戦を強行せざるを得ない)
「では聞かせてもらいたい。帰ってくるのに、その土地の街を破壊する必要があるのですか……!」
ようやく反駁《はんばく》の論拠を見出したというふうに、グエンが押し殺した声で言う。(我々……破壊はしない。そちらの攻撃から身を守るだけ……ある)と答えた無線の声は、鉄面皮を崩さなかった。
「我々にも攻撃するつもりはない。あのカカシのような兵器を引っ込めてくれれば、交渉を再開する準備もあります」
そこに通信相手の顔を見出しているかのように、スピーカーの網目に目を凝らしたグエンが続ける。この一時間、ミリシャの伝令兵が慌ただしく出入りする様子を見てきたキエルには、それがはったりであるとわかっていた。
空襲が開始されると同時に通信は分断され、十分ほど前にようやく電話線の一部が復旧したばかりという状態で、交渉再開の準備ができようはずもない。咄嗟に懐柔の言葉を並べたグエンの機転に、単なるお坊っちゃんではないらしいと感慨を新たにしつつ、キエルはスピーカーの反応に耳を澄ました。(信用できない)と返ってきた声が、遠くの爆発音に混ざって無線室に響き渡った。
(モビルスーツ同士の交戦も始まっている。交渉を引き延ばした上で、戦力の整備を進めていた貴下らの言葉をどうして信用するこ……できる)
ノイズの波がひどくなり、「切れました!」と叫んだ無線技師の声が響いた後、スピーカーは唐突に沈黙した。「モビル……? なにを言ってるんだ」と呻いたグエンの声が奇妙に大きく響き、キエルはひとつ深呼吸をしてから、そちらに近づいていった。
「どうなさるおつもりです? 気球も、ミリシャの飛行機も飛んでいます。これではムーンレィスの人たちを刺激するだけなのではありませんか?」
出過ぎた真似だとわかっても、キエルはグエンの目を見てはっきり言っていた。この二年間、ミリシャの整備が行われてきた事実と、今の無線の声を照らし合わせれば、ムーンレィスの言い分にも一分の理があるとわかったからだったが、グエンは「無闇に発砲するなと、ミハエル大佐を通じて全部隊に伝えてあります」と応じて、キエルに背を向けてしまった。
「しかしミリシャにはイングレッサを防衛する義務がある。カカシのような兵器で街や畑を踏み荒らそうという連中を、指をくわえて見ているわけにはいかないでしょう」
「でもこのままでは……」
「わかっています。カカシ≠送り込んできたのが、この二年間交渉をしてきたのと同じ相手であるなら、話は通じるんです。和解の糸口は必ず見つけられる。……ディアナ・ソレルもそれを望んでいるはずだ」
「ディアナ・ソレル……?」
無線室に飛び込んできた人の気配が、その先の言葉を封じた。この騒乱の中でも、蝶ネクタイの身なりを崩さない執事が近づいてきて、片手に持った電話をグエンに差し出す。「黒歴史発掘隊のシド・ムンザからです」と言った執事の声に、グエンの眉がぴくりと動くのがキエルの目に入った。
シド・ムンザという名前には聞き覚えがある。確か、うちの鉱山に出入りしている偏屈な老人の名前だ。グエンの口利きで仕方なく出入りさせている、と父がもらしていたことも思い出したキエルは、受話器を受け取ったグエンの表情を窺った。電話の声に聞き入るうちに端正な横顔が曇り始め、「髭を生やした機械人形……? 落ち着いて話せ」と言った時には、半ば怒った顔になっていた。
その後、黙って電話の声を聞いたグエンは、「間違いないんだな? ……よし、すぐに応援を回す。そのまま様子を見ていてくれ」と結んで、受話器を置いた。「なにかあったのですか?」と尋ねたキエルの声も耳に入らない素振りで、しばらく思案顔を中空に向けると、思いきったようにこちらを振り返った。
「ハイム鉱山にやっているシドからの報告です。ホワイトドールの中から機械人形が現れて、ムーンレィスのカカシ≠ニ戦っているらしい」
ひと晩ですっかり中身を入れ替えられた頭でも、その言葉を即座に理解することはできなかった。
「機械人形……? なんです?」と聞き返したキエルに、グエンは「わかりません」と返した。
「なんでも髭が生えてるんだとか」
「お髭の生えた機械人形……ですか?」
「そう見えるんだそうです。それがホワイトドールの中から現れて、雷を発射する兵器を使ったとか」
まったく意味がわからなかった。ホワイトドールの石像の中に機械仕掛けの人形が入っていて、今はムーンレィスのカカシのような兵器と戦っている。どれほど想像力を働かせても様子を思い描くことができず、「どういうことなんでしょう?」とくり返したキエルは、「なんとも言えません。手の空いた者を調査に向かわせます」と応じたグエンが、ふとなにかに思い至った表情になるのを見た。
「しかし、もしわたしの想像している通りのことなら……」
ぼそりと呟くと、グエンは先の言葉を呑み込んで執事の方に歩いていってしまった。取り残された心細さを感じながらも、ホワイトドールの前では宵越しの祭りが行われていたはずと思い至ったキエルは、抑えていた不安が胃を重たくしてゆくのを感じた。
ソシエとロランは無事なんだろうか。それにお父さまやジェシカ、サムたちも……。考えるといたたまれなくなり、母を捜しに行きたいとも思ったが、今この場を離れるわけにはいかないという思いを抑えるには至らず、キエルは異常な夜の中にひとり立ち尽くした。
[#改段]
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3
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相対距離が十キロを割った瞬間、接近警報のアラームが別の音色に転じた。敵機のレーダーに捕捉されたことを告げる音――すなわちロックオンされたのだ。
オールビュー・モニターの一画に接近する〈ウォドム〉が拡大投影され、回避パターンが複数の矢印になって表示される。望遠映像の概念を知らないソシエが、「来たっ! どうするの、ロラン!?」と怯《おび》えた声を出すのを聞きながら、ロランは電子マニュアルを操作して通信装置の項目を捜した。
ノートブックサイズの電子マニュアルは、シートの下に転がっていたのをソシエが見つけたものだ。表面に「∀」の記号が刻印されたラップトップ型マニュアルで、二面のマルチモニターの間に三枚のディスプレイ・フィルム――極薄のテレビモニター――が挟まれており、指先に反応するコントロールパッドで機体の操作方法、データ等を表示させられる。お陰でこの機体の全高は二十メートル、重量は二十八・六トンであるということがわかり、|Iフィールド・ビーム駆動システム《IFBD》を採用していることもわかったが、それらの知識がいま直面している事態に役立つはずもなかった。
必要なのは通信システムの使用方法なのだが、パイロットには一般常識に区分されている事項なので、特別仕様でもなければマニュアルには記載していないようだった。「ロラン!」と膝の上で体をよじったソシエに、「なんとか向こうのパイロットと連絡をつけなきや」と応えながら、ロランはパッドに押し当てた指を動かして次々に画面を呼び出していった。
「そうすれば戦いをやめることも……」
モニターの輝度調節が追いつかないほどの強烈な閃光が発して、その先の言葉を封じた。ショック・アブソーバーが働いているはずのコクピットが震動し、ずる……と機体が滑る感覚、背中を突き上げる衝撃が連続して襲いかかってきた。
〈ウォドム〉の発したミサイルが、機体周辺に着弾したのだった。爆発で斜面が抉れ、足を滑らせたホワイトドールが尻もちをついたところに、さらに二基のミサイルが着弾する。噴き上がった土砂と爆煙が視界を覆《おお》い、機体の損傷状況がCG解析画面になってモニターの一画にインサートされる。ロランはデータを読み取ろうとしたが、不意にぐり、と押し潰される痛みが股間に走って、それどころではなくなっていた。
体勢を立て直そうとしたソシエが、膝をロランの股ぐらに押しつけたらしい。首からぶら下げたメリーが全裸の股間を隠す格好になっていただけに、この時の痛みは生半かなものではなかった。ソシエの体重を受けたブリキの玩具に男の証明が圧迫され、下半身から発した悪寒が全身に広がってゆく。ロランは「ソ、ソシエお嬢さん……膝……」と搾《しぼ》り出し、きょとんとした顔で足もとを見たソシエは、素っ裸の男の膝に乗っている自分に今さら気がついたのか、たちまち顔を赤らめていった。
「あたし、なんてこと……」と、小さく呟いたソシエが慌てて膝をどけたのと、爆煙の向こうから突進してくる〈ウォドム〉がモニターに映ったのはほとんど同時だった。巨大な足で樹木を踏み倒し、土煙を上げて猪突してくる〈ウォドム〉の姿を見たロランは、シートの脇に移動しようとしたソシエを抱き寄せ、なにも言わずに膝に乗せ直していた。
エア・シートベルトの有効範囲にいなければ、機動の際の加重で押し潰されるか、モニターに頭をぶつけて下手をすれば死ぬことになる。文句を言おうとして、急速に接近する〈ウォドム〉を視界に入れたソシエは、息を呑んでロランに背中を押しつけてきた。ロランはアームレイカーとペダルを動かし、ホワイトドールのモビルスーツに立ち上がる動作をさせた。
こちらの全高より長い脚を前後に動かし、巨体に似合わぬ俊敏な動作で近づいてくる〈ウォドム>は、このホワイトドールのモビルスーツ同様、IFBDシステムによって機体を駆動させている。IFBDは、Iフィールドと呼ばれるエネルギー収束帯を機体の周囲に展開し、手足の関節部に備えた相互作用レセプターを外部から直接駆動させるシステム――つまり、見えないエネルギーの糸で自らの体を操作するという、操り人形に似たシステムで、関節機構をモーターで駆動させるよりも、迅速で滑らかな動作を実現していた。周囲に対比物がなければ、四十メートルもの全高があるとは信じられない〈ウォドム〉の生物的な動きを見つめ、パイロットと話し合うチャンスを作れるか? と自問したロランは、その機体からバラッとなにかが飛び出すのを見て、ぎょっとなった。
背部に折りたたんであった左右のマニピュレーターが展開し、五本の指がある手のひらを、人間がそうするように正面に突き出してきたのだった。「腕が生えた! ロラン」とわめいたソシエに続いて、ロランも「捕獲するつもりなのか……!?」と呻《うめ》いていた。
いかに手足を備えた兵器とはいえ、殴り合いの格闘戦で雌雄が決するなどというバカな話はない。モビルスーツの腕はあくまでも各種武器を装備するためのアタッチメントで、ミサイルやビームの応酬によるアウトレンジ戦闘が基本なのは、戦闘機や戦車と変わるところがなかった。この状況でわざわざ両腕を展開したということは、こちらを押さえつけて拿捕するためとしか考えられず、ロランは反射的に駆動系モードを〈|WALK《歩行》〉から〈|FLIGHT《飛行》〉に切り換えて、右のフットペダルを思いきり踏み込んでいた。
脚部のスラスターが閃光を発し、盛大に噴き上がった土砂とともにホワイトドールの機体を大きく跳躍させる。重力圏内では飛行するというわけにはいかないものの、スラスター噴射を上手に使えば百メートルやそこらのジャンプはできる。吸収しきれないGが上からのしかかり、あっという間にアーク山の斜面が眼下に過ぎ去ってゆく。「飛んだの!?」と叫んだソシエの声が耳を打ち、〈ウォドム〉の頭上を飛び越えたところで着地シークエンスに入ろうとしたが、いくらペダルを踏んでも制動がかかる気配はなかった。
左脚のスラスターに砂が詰まっている? 「バランスが……!」と呻いた時には林立する針葉樹の梢が目前に迫り、ホワイトドールのモビルスーツは数本の大木を蹴り倒しつつ、森の中に倒れ込む形になった。
ぶわっと押し寄せたエア・シートベルトの空気の壁が、ロランとソシエの体を衝撃から守る。ソシエの苦痛の吐息が耳に吹きかかり、コクピットを左右に揺さぶる激震、モニターを埋める炎の色が立て続けにロランの感覚を刺激した。
再度のミサイル攻撃。機体を立ち上がらせ、回避パターンに従ってアームレイカーとペダルを操作する間に、さらに撃ち込まれた二発のミサイルが杉の木を根元から吹き飛ばし、飛散した炎が局囲の森を焼いた。これでは話し合いどころではない、と白熱する頭の片隅に呟いたロランは、もう一度フットペダルを踏み込み、ホワイトドールをアーク山へと跳躍させた。
高度計と予想落下曲線をモニターの一画に確かめつつ、片手でマニュアルを操って武装の項目を捜す。とにかく〈ウォドム〉の火力を封じなければ、という思いがさせたことだが、表示される武装はオプションばかりで、固定武装の類いは見つけられなかった。胸部の多目的サイロにミサイル装備が可能との表示があったものの、現在はもちろん空荷状態。いっそ機体を捨てた方がいいか? 考えた瞬間、アーク山の斜面がモニターいっぱいに映し出され、ロランは片足のスラスターだけを使ってかろうじて機体を着地させた。
脚が地面にめり込み、手をついた岩が崩れ落ちて、ホワイトドールの巨体が斜面に四つん這いになる。ぎゅっと抱きつくソシエの体温を熱いものに感じながら、アームレイカーを動かして立ち上がる操作をした時だった。〈ウォドム〉の頭部に設置されたハッチが開放し、ビーム砲の暗い口がこちらを向いた。
ビームの直撃を受ければ、どれほど分厚い装甲に覆われていようが助からない。咄嗟《とっさ》に動いたロランの手足がIFBDを介して機体の関節を動かし、ホワイトドールのモビルスーツがスプリンターさながらに斜面を蹴る。ビームの鉄槌がアーク山を打ちすえ、莫大な土砂と炎を噴出させたのは、その直後のことだった。
爆発の衝撃波を背中に受け、ホワイトドールの機体がスラスターを噴かしたかのように宙を飛ぶ。着地と同時に空気のクッションに体を支えられ、拿捕するつもりなのか撃破するつもりなのか、支離滅裂な〈ウォドム〉の行動に舌打ちしたロランは、「アーク山が……!」と呻いたソシエの声に、慌ててモニターを見た。
燃える山麓の照り返しを受け、闇夜にぼんやり浮かび上がるアーク山の斜面に、ぽっかり巨大な穴があいているのが見えた。ビームが抉《えぐ》った跡だとわかったが、それは抉られたというより、空洞の地面を踏み抜いたという感じで、土砂に混じって金属的な光沢を放つ物体が穴の周辺に見え隠れしている。カメラを調節して拡大投影したロランは、それが鉄骨らしき構造材であることを確認して、ぞくりと寒気が走るのを感じた。
衝撃で歪《ゆが》んではいるものの、土中から突き出した鉄骨の表面には錆ひとつない。他にも無数の鉄骨、折れ曲がった外板などが穴の外縁に垂れ下がっており、アーク山の地下に、広範な地下施設が埋もれている可能性を示唆《しさ》していた。
アーク山こそ「|くり返しの山《マウンテン・サイクル》」に違いない、と言っていたシドの言葉が思い出された。「黒歴史」が教える科学的遺産の宝庫、マウンテン・サイクル。アーク山がマウンテン・サイクルで、そこにホワイトドールのモビルスーツが埋まっていたのなら、ここは失われた文明の兵器貯蔵庫……? 漠然とした寒気が実体を伴った不安に変わり、ロランはモニターの望遠映像を解いた。ソシエと顔を見合わせ、早くここから離れた方がいいと無言の視線を絡ませた途端、爆発的な光がモニターを塗り潰した。
これまでとは比べものにならない衝撃がコクピットを揺らし、モニターにノイズの嵐が吹き荒れる。直撃を知らせる表示がパネルに明滅して、ふわりと浮き上がったソシエの背中がそれを隠した。
強すぎる衝撃に、エア・シートベルトが二人分の体重を支えきれなくなったのだ。ごつっと鈍い音がすると、モニターに頭をぶつけたソシエの体が、壊れた人形のようにシートの下にくずおれた。慌てて抱き起こし、「ソシエお嬢さん! しっかり」と肩を揺すったが、閉じた目が開く気配はなかった。
出血していなかったことが、逆に不安感をあおった。打ちどころが悪かったのか? ぐったり重い体を膝の上に抱え直し、このまま目を覚まさなかったら……という恐怖がひやりと背筋を落ちてゆくのを感じたロランは、その後、反動のようにこみ上げてきた熱い衝動を胸に、接近してくる〈ウォドム〉を見据えた。
両のマニピュレーターを胸の前にだらりとぶら下げ、斜面を上ってくる〈ウォドム〉は、その全身から一方的な傲岸さを漂わせていた。巨大な機械で樹齢百年の大木を踏み倒し、収穫前の畑を燃やして、人の命を奪いもする。これが三百年かけて準備されてきたという地球降下作戦か。ディアナ様がこんなやり方をお許しになったというのか。熱い衝動がそれらの疑問を導き出し、そんなはずはない、と結論したロランは、すっと頭の血が下がるのを知覚した。ひどく明瞭になった頭で再びマニュアルを繰り、先刻は見落としていた固定武装のデータを発見して、目前まで迫った〈ウォドム〉をモニターごしに見上げた。
向こうのパイロットには、ミサイルの直撃を受けて仰臥《ぎょうが》したホワイトドールのモビルスーツは、完全に無力化されたように見えているはずだ。ホワイトドールの三倍はある太いマニピュレーターをのばし、こちらを捕獲《ほかく》すべく巨体を屈めた〈ウォドム〉を冷静に観察したロランは、〈ウォドム〉の指先が機体に触れる直前、アームレイカーとフットペダルを一斉に動かした。
ぐんと起き上がったホワイトドールのモビルスーツが、〈ウォドム〉のマニピュレーターをかわして下側に回り込む。総身に知恵が回りかねるの表現そのまま、巨体を棒立ちにさせた〈ウォドム〉の股下をすり抜けたロランは、機体の両肩に装備されているビームサーベルを、右のマニピュレーターに引き抜かせた。
手のひらのコネクターに接続されたビームサーベルが、アイドリングの光を放出口にきらめかせる。片足を軸にして振り返った〈ウォドム〉が、巨大なマニピュレーターを突き出してきた刹那、脚部の関節をいっぱいにのばして垂直にジャンプしたホワイトドールのモビルスーツは、〈ウォドム〉の手のひらを踏み台にして一気に頭上に出た。恐ろしげに光るモノアイ・センサーを真正面に捉えた一瞬、右手にしたビームサーベルを振り下ろしていた。
「こんなことをするために、地球に降りて来たはずじゃないでしょう!?」
我知らず叫んだ声とともに、対象物の接近を感知したビームサーベルがビームの刃を発振する。Iフィールドによって保持された粒子の束は、長さ二十メートルほどの光の刃になって顕現し、〈ウォドム〉の頭頂部を文字通り斬りつけていた。
瞬間的には一万度を超えるエネルギーの刃が装甲を溶かし、内部のビーム砲、粒子発生酸関もたちどころに焼き切ってゆく。数メートルも食い込んだ粒子束が〈ウォドム〉の頭部を半分ほど溶解させたところで、ホワイトドールのモビルスーツはそれを飛び越えて着地した。極小作業機械《ナノマシン》の技術を応用した自己修復型装甲といえども、ここまで破壊されたものを瞬時に修復する性能はない。頭部をざっくり抉られた〈ウォドム〉は、傷口から漏電の火花と黒煙を噴き上げ、ぐらりと上体を揺らがせていった。
ビームの発振が収まり、柄だけになったビームサーベルを構え直しながら、ロランは肩で息をしつつ〈ウォドム〉の様子を見守った。そのまま倒れるように見えながらも、脚部を踏んばって体勢を立て直した〈ウォドム〉は、半壊した頭部をこちらに向けて衰えない闘志を示した。両のマニピュレーターを突き出し、轟然と土煙を上げながら巨大な脚を一歩踏み出す。搭乗するパイロットの気迫に押されたのか、無意識に後退の動作を機体にさせてしまったロランは、アイドリングしたままのビームサーベルを正面に構えた。
〈ウォドム〉の主動力機関・|不連続超振動ゲージ場《DHOG》縮退炉は、人間で言うなら下腹部に相当する位置にある。周囲の空間からエネルギーを汲み出すDHOG縮退炉は、いちど起動すればほとんど無限にエネルギーを供給し続ける究極の機関だが、崩壊すると周辺の空間をねじ曲げて溶解し、深刻な破壊状況をもたらす欠点があった。そこをやるわけにはいかないと考えたロランは、頭部の下、左右のマニピュレーターの付け根にあるコクピットに目をやって、溜まった生唾を飲み下した。
コクピットにビームサーベルを突き立てた結果は、想像するまでもなかった。人殺しをしなければいけないのか……? ぐったり動かないソシエの重みを腕に感じつつ、ロランは〈ウォドム〉のパイロットがあきらめてくれることを願ったが、否、というように二歩目を踏み出した〈ウォドム〉は、それを合図にして一直線にこちらに突進してきた。
分厚い装甲ごしに、相手のパイロットの殺意が肌を刺した。両のアームレイカーを握りしめたロランは、覚悟を固める間もなくフットペダルを踏み込んでいた。
ソシエお嬢さんを死なせるわけにはいかない。それだけが唯一のより所だった。再度ビームサーベルを発振させて、ロランは〈ウォドム〉のコクピットを見据えた。相対距離がみるみる縮まり、レティクルの十字線が〈ウォドム〉のコクピットに重なる。やるしかないと胸中に吐き捨て、ペダルにかけた足に力を込めた瞬間、まったく別方向から降り注いだ光が目の前で炸裂した。
細い光の筋が数発、石灰質の地面に着弾して穴を穿つと、砕けた岩盤と土塊、爆発の煙を噴出させて、衝撃波がまともに押し寄せてきた。出力を絞ったビーム、とわかった時にはモニターの光景がぐんと下降し、ホワイトドールのモビルスーツは尻もちをつく格好で腰部を地面にめり込ませていった。
同じく衝撃波を受けた〈ウォドム〉もバランスを崩し、両の脚部を前に投げ出しながら地面に倒れ込む。震動がこちらのコクピットにまで伝わり、直後に接近警報のアラームがロランの耳を打った。ソシエがずり落ちないよう留意しつつ、カメラの角度を上空に向けたロランは、星空を背にした金色のモビルスーツがゆったり降下してくる光景を目撃した。
ずんぐりしたボディを持つその機体は、手や足、体のバランスが人間のそれに酷似していて、巨大なヘルメットをかぶっているように見える頭部を別にすれば、ほぽ完全な人型を呈していた。ディアナ・カウンターの観閲式で、何度か見たことのある機体。〈スモー〉タイプのモビルスーツだと思い出したロランは、収まりかけた動悸がぶり返すのを感じた。〈スモー〉タイプと言えば、ディアナ女王の親衛隊に配備されている機体だ。ディアナ・カウンターの中でも成績優秀な士官だけが入隊できる親衛隊は、ムーンレィスの子供なら一度は憧れる職業のひとつで、精強を誇るエリート部隊として名を知られていた。
相手が親衛隊では勝ち目がない。でくの坊の印象がある〈ウォドム〉とは対照的に、いかにも精悍なフォルムを持つ〈スモー〉を見上げてそう思った時、モニターの一画に無線着信を知らせるサインが表示された。驚く間もなく通信先の映像が映し出され、ノイズごしに男の顔がロランの前に現れた。
(〈ガンダム〉のパイロット! 聞こえ……なら戦闘は中止しろ)
劣悪な電波状況であっても、深紅のバイザーで目を隠した男の顔は判別できたし、声もはっきり聞き取ることができた。脚部スラスターと姿勢制御用ロケットを巧みに噴射し、ゆっくり降下してくる〈スモー〉の機体を、ロランは狐につままれた思いで見つめた。
「ガンダムと言った……?」
聞き慣れない言葉だった。こちらの機体を指して言ったのだろうが、そんな名称のモビルスーツがあるとは聞いたことがない。第一、つい先刻まで石像の中に埋まっていたこのモビルスーツの名前を、〈スモー〉のパイロットが知っている道理はなかった。ノイズしか映さない通信画面から目を離したロランは、〈ウォドム〉の前に軟着陸した〈スモー〉をあらためて注視した。
起き上がろうとする〈ウォドム〉に手を貸しながらも、〈スモー〉の右マニピュレーターに装着されたビームガンは抜け目なくこちらを照準している。
(……テテス少尉! 停戦……言ったはずだ)という男の声がノイズの中に発し、〈スモー〉そのものが喋っているような錯覚をロランに与えた。
(しかし、あの機体は捕獲して調べないと……! 地球にモビルスーツがあるなんて話は金輪際……)
テテスと呼ばれた女の声が、オープンになった無線に飛び込んでくる。〈ウォドム〉のパイロットらしい。戦っていた相手が女だったという事実は衝撃的だったが、(ディアナ・ソレル閣下が降下《おり》てこられる。話はそ……らだ)と続いた男の声を聞けば、そんなことを気にしている余裕はなくなった。
「ディアナ・ソレル様がいらっしゃるんですか!?」
かっと全身が熱くなり、気がついた時にはそう口にしていた。(誰だ、貴様。ムーンレィスなのか?)と詰問する声が即座に反応し、慌てて口を噤んだものの、後の祭りであることはわかっていた。
月の女王、ディアナ・ソレルの名前を知っていれば、ムーンレィスと判断されても文句は言えない。とんでもなく厄介な立場に立たされたと自覚する間に、(答えろ! ムーンレィスなのか)と男の声が続き、〈スモー〉のビームガンがこちらに向かってぐいと突き出された。
(わたしは親衛隊のハリー・オード中尉だ。白いモビルスーツのパイロット、官姓名を名乗れ)
有無を言わせぬ、鍛えられた軍人だけが出せる種類の声だった。ロランは、「メ、メイザム地区出身、ロラン・セアックです」と反射的に答えてしまった。
「正歴二三二七年十一月二日生まれ。同地区シニアスクール卒業と同時に、〈フラット〉十二番で地球降下」
速成訓練でしごかれた習い性が頭をもたげ、自動的に動いた口がそう続けていた。これでもう後戻りはできないと覚悟したが、(献体《けんたい》か)と応じた男の声は、拍子抜けするほど素っ気なかった。
献体とは、モルモット的な扱いで地球に降下する環境調査員を指す言葉で、関係者の間で使われる一種の隠語だった。本人の前で言っていい言葉ではないと思い、ハリーという軍人の無神経さにロランはむっとしたが、(なぜそんなものに乗っている。寝返ったのか)と詰め寄る声は、それ以上に腹を立てているようだった。
「寝返るなんて、そんな……! だいたい、二年の観察期間が終わったら、帰還民として登録するのも、地球人として生きてゆくのも自由のはずです」
(だが敵対行動を取っていいという話はないぞ)
ごまかされはしないと言わんばかりの声が反応して、ロランは口が重たくなるのを感じた。あまりにも突飛で異常すぎる事態の推移を、無線ごしにきちんと話せる自信はなく、頭部を半壊させた〈ウォドム)を見れば、敵対行動という言葉を否定できる論拠もないように思えた。「そちらが攻撃してきたから、仕方なく……」と口ごもると、(先に撃ってきたのは、そ……の方だろう!?)と女の声が割り込んできた。
テテス少尉と呼ばれた、〈ウォドム〉のパイロット。負けん気の強そうな声が発すると同時に、頭部を抉られた〈ウォドム〉の脚がこちらに踏み出そうとして、〈スモー〉がそれを制止する光景が続いた。
(とにかく、戦闘は一時中断だ)と言ったハリーの声は、ロランではなくテテスに向けられていた。
(冗談じゃない……! 玩具《おもちゃ》みたいな飛行機だって機銃は撃ってくるし、モビルスーツまで隠し持っていたんだ。地球人は温和……抵抗しないって情報は、嘘だったんでしょうが。今のうちに叩いて……ないと……)
(これは絶対命令だ。違反した者は、一親等まで含めて極刑に処せられる)
ぴしゃりとしたハリーの声がテテスを遮《さえぎ》ると、こちらを照準していた〈スモー〉のビームガンが下ろされていった。停戦、の一語がようやく実感でき、緊張の糸が多少ほぐれるのを感じたロランは、「……あの、ディアナ様がいらっしゃるんですか?」と尋ねてみた。
(最悪の形での接触になってしまったことを憂いておられる。仲裁のために、予定を早めて第一陣で降下される)
その言葉こそ、張り詰めていた神経をなだめてくれる最高の薬になった。やはりディアナ様はこんなやり方をお認めにはなっていなかった。ほっと胸をなで下ろしたロランは、踵《きびす》を返し、地響きを立てながら斜面を下ってゆく〈ウォドム〉を半ばぼんやりと見つめた。月明かりに金色の装甲を浮き立たせた〈スモー〉もドーム状の頭部をこちらに向け、見返す素振りをみせた。
(停戦命令に従って拿捕《だほ》はしないが、ロラン・セアック。政様もムーンレィスなら、ディアナ様のお顔に泥を塗るような真似は慎めよ)
ハリー中尉の声には、親衛隊という職責だけではない、ディアナ・ソレルを真実敬愛する者の情がこもっているように思えた。「それはもちろん……!」とロランが答えると、背を向けた〈スモー〉の機体も、離れる足を踏み出した。
脚部のスラスターを低出力で噴射し、滑るように山を下ってゆく。金色の機体が視界から消えた途端、猛烈な脱力感が襲いかかってきて、ロランは冷汗でべとべとの体をシートに沈み込ませた。
鎮火の兆しを見せ始めたとはいえ、ビシニティはまだ燃えている。ひときわ目立つ炎を河岸に瞬かせているのは、宝石商のランダの家だろう。黒煙をたなびかせる町並みを遠望し、ハイム邸は無事なのか、山を下りたみんなは町にたどり着けたのかと考えたロランは、それらの不安をひとまず置いてソシエに目を戻した。
胸に寄りかかったまま動かない顔を見下ろし、こげ茶色の髪がかかった頬に指をのばす。ぴったり閉じていた瞼が不意に開き、髪と同じ色の瞳がじろりと睨み返してきたのは、その瞬間だった。
意識が戻っている? 頬を緩めかけて、ソシエの瞳が明確な怒りを孕《はら》んでいることに気づいたロランは、事態を悟って息を呑み込んだ。起き上がり、膝から離れてシートの脇に体を寄せたソシエの顔は、色濃い警戒に塗り込められていた。
「あんた……いったいなんなの?」
すべて聞かれていた。ロランは、モニターに背中を押しつけたソシエを返す言葉もなく見つめた。
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無線ごしに急場の停戦条約が結ばれてしぱらく、ノックス上空は巨大な鋼鉄の塊に埋め尽くされた。
飛行船とは較べものにならないほど大きく、圧倒的な質感を感じさせるそれらは、すべて月から降下してきたムーンレィスの宇宙船だった。舷灯や注意灯をそこここに瞬かせ、ボストニア城の頭上を行き過ぎる鋼鉄の塊はどれものっぺりしていて、小説の挿し絵に出てくるきらびやかな宇宙船のイメージとはかなり違っていたが、いくつかの種類にわかれていることはキエルにもわかった。
角張った船体に、大きさの割に少ない灯火を瞬かせているのが戦艦。コッペパンのような丸みを帯びているのが民間人を乗せた輸送船だろう。文化が違っても、戦争に使う道具がなにかしら隠微な雰囲気を漂わせるのは、どこの世界も変わりがないようだった。
展開中のミリシャ全部隊に停戦命令を徹底させ、双方の砲火が収まるまでに、時刻は午前三時を回っていた。爆発音が途絶え、消火の喧噪が遠くに聞こえるだけになった無線室には、重苦しい不安を呑み込んだ沈黙が流れている。星空の代わりに夜空を覆った宇宙船の灯火、護衛に就《つ》くカカシ≠竅A他の種類の機械人形が発するロケット噴射の光を見上げて、執事も、無線技師の男たちも、呆然自失の顔を隠そうとしなかった。
「そんなものが戦うための乗り物か! それが火を噴《ふ》くロケットか! ただ浮いているだけではないか」
そんな中、ひとり気炎を吐くのはグエンだった。ベランダに立ち、正気を失ったかのように頭上の船団を睨《にら》みつける御曹子の姿に、執事はかける声もなく顔をうつむけている。厨房《ちゅうぼう》から戻ってきたキエルは、簡単な夜食と茶を載せてきたワゴンを入口の脇に止めて、そちらに近づいていった。
ディアナ・ソレルと呼ばれるムーンレィス指導者の介入によって、とりあえずの停戦条約が結ぱれたものの、実際には一方的に要求を呑まされたと言った方が正しい。ノックス郊外の平原十ヘクタールを一時的にディアナ・カウンターの駐屯地と認め、現地に在住する農家を速やかに退去させること。そこに五隻の戦艦を含む第一次帰還船団の降下を認めること。いっさいの戦闘行動を停止し、北アメリア大陸の全領主が出席する交渉会議の場を設けること……。
つまりは、橋頭堡《きょうとうほ》の構築を認めろということだった。明日の夕刻にはディアナ・ソレルも降下するから、それまでに領主たちをノックスに集めておけという。こちら側の通信手段の不足を説明し、農民の退去や会議の設定にはある程度の猶予が必要と認めさせはしたが、言いなりにさせられた感は拭えない。人にかしずかれる生活を当たり前にしてきたグエンにとっては、屈辱的な夜になったことは間違いなかった。
「降りてくるがいい! だが一方的に要求を呑むつもりはないぞ。我が方も『黒歴史』が語る機械人形を手に入れたのだ!」
負け犬の遠吠え、という表現を思いつかせる背中は見たくなかった。「グエン様……」と呼びかけ、キエルはベランダに足を踏み出そうとしたが、振り返ったグエンの顔を見て立ち止まってしまった。
いたずらを企む、子供のような笑顔がそこにあったからだった。「ご心配なく、キエル・ハイム」と言ったグエンに、キエルは笑い返すことができなかった。
「予測していたことです。そのための先行投資もしてきました」
「ミリシャの創設……ですか?」
「それだけではない。『黒歴史』が教える科学的遺産の発掘です。シドの報告通り、ホワイトドールから機械人形が出土したと言うなら、ぎりぎり間に合ったことになる」
ひどく確信めいた口調だった。実感のない単語の羅列をひとつひとつ咀嚼しながら、キエルは、「電話で話していた、髭の機械人形のこと……?」と聞き返した。
「さっき入った報告では、カカシ≠倒してみせたそうです。輝く剣のような武器を使ってね」
そう言うと、グエンは手すりから離れてこちらに近づいてきた。肩から異様な興奮が立ち昇っているようで、キエルは無意識に一歩退いていた。
「シドには、『黒歴史』に伝えられるマウンテン・サイクルの捜索に当たらせていました。伝承によれば、莫大な宇宙的機械……兵器が封じ込められているとされる山です」
「宇宙的兵器……」
「シドはアーク山がマウンテン・サイクルなのではないかと推測していた。それで、あなたのお父さまのお許しをいただいて、ハイム鉱山からアーク山に連なる一帯を調査させていたのです。そして今日、アーク山のホワイトドールから機械人形が現れた」
事情はわかっても、やはり具体的な像はなにひとつ結ばなかった。華やかなパーティードレスを着て、高価なエトナの宝飾まで身に着けて、自分はいったいなんの話を聞いているのだろう。キエルは途方に暮れた思いでグエンを見返した。
「イングレッサ領に限らず、この地球には先史文明の宇宙的兵器が大量に眠っているのかもしれない。それを我々は手に入れられるのです」
「……では、グエン様はそれを使ってムーンレィスと戦争をなさるおつもりですか?」
さながら玩具を手に入れてはしゃいでいるグエンの態度に、キエルは硬い声で言ってしまった。自分の不安を嗤《わら》われたように感じたからだったが、グエンは意外に冷静な様子で、「本気でやれるとは思っていません」と苦笑を返した。
「しかし、交渉するにしても手持ちのカードは必要でしょう?」
こちらも力を蓄えなければ、対等の立場で交渉のテーブルにつくことはできない。端的に真実を語った声に、キエルは虚をつかれた思いでグエンを見つめた。
そういう発想は自分にはなかったと思う。やはり領主になるべき器の男だと認めて、「ああ……。それはそうです」と率直に応えると、グエンは柔らかな微笑を褐色の肌に刻んだ。入口の脇に止めた夜食のワゴンに目をやり、「助かります」と軽くキエルの肩に触れてから、室内に戻っていった。
ローションの香りが鼻をくすぐり、すぐに消えた。触れられた肩が熱くなるのを感じながら、キエルは、自分はグエンから離れられなくなってゆくのだろうと予感した。
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コクピット部をエレベーター式に下降させる機構が組み込まれていることがわかり、山の斜面に座り込んだホワイトドールのモビルスーツから降りられたのはよかったが、それは山積する問題の一部を解決しただけに過ぎなかった。
「ひとりでは危険ですよ、ソシエお嬢さん……!」
「放してよ! ロランはあの機械人形に乗ってきた人たちの仲間なんでしょ!?」
説明の口を開きかねているうちに、猜疑の念を加速させたらしいソシエは、球状のコクピット部――マニュアルにはコクピットボールとあった――が地上に降下するや、ロランを振り払って外に飛び出そうとしているのだった。
夜明け前のひときわ濃い闇が覆う山道を、ひとりで歩かせるわけにはいかない。ロランはソシエの装束の裾をつかんででも引き止めようとしたが、親衛隊のパイロットとの交話をすべて聞いていたソシエの怒りは、尋常ではなかった。
「ぜんぶ嘘だったんだ! エリゾナの農家で生まれたって話も、凶作で出稼ぎに来たって話も! 二年間、ずっとあたしのことを騙してたんだ。お父さまやお母さま、お姉さまやジェシカたちのことも、みんな騙してたんだ!」
ひと言ひと言が、胸の奥で疼いていた痛みの素に突き刺さるようだった。パネルの照り返しを浴びたソシエの顔を直視できず、目を伏せたロランは、「そのことは謝ります!」とソシエに負けない大声で叫んだ。
「そうするのがぼくの任務だったんです。でもそれは、ぼくたちがここで暮らしていけるか調べるためで……」
「触らないで!」
勢いに任せて繰り出されたソシエの手の甲が頬を打ち、ロランはシートに倒れてしまった。苦い痛みが腹の底までつき抜ける中、ぎゅっと手を握りしめ、こちらの顔を一瞬だけ見下ろしたソシエは、パネルを踏み越えてコクピットから飛び出していった。
「ソシエお嬢さん……!」
コクピットボールから身を乗り出して叫んだが、白い装束をひらひらさせて走る背中が立ち止まる気配はなかった。後を追おうとして、素っ裸のまま外に出ることを躊躇した瞬間、横合いから差し込んだ強いライトの光がロランの目を射た。
手をかざして光の方向を窺うと、二つの懐中電灯の光が斜面を下り、こちらに近づいてくるのが見えた。誰です、と口を開きかけたロランは、「そこにいるのはロランか?」と先に出された声に、心臓が大きく脈打つのを感じた。
聞き覚えのある声。まさか……と思った時には懐中電灯の光が数メートル先にまで近づき、案の定、シド・ムンザとウィル・ゲイムの顔を闇の中に浮かび上がらせた。
それぞれが背負ったリュックサックから、例によってツルハシとシャベルを覗かせている二人は、発掘調査の途中だったのだろう。落磐事故を起こしかけて鉱山の親方と大ゲンカをしてからは、人気のない夜中に調査を行うようになったと聞いたことがある。面倒な時に面倒な人と……と内心に呟く間に、ホワイトドールの踵部にまで歩み寄ってきたシドとウィルは、白い装甲に覆われたモビルスーツをしげしげ眺め回し始めた。
「黒歴史」を信奉し、先史文明の存在を実証すべく地道な発掘調査を行ってきた二人にとっては、バンザイ三唱を唱えたくなる光景であるに違いなかった。半分土にめり込んだモビルスーツの足の甲をさすり、「近くで見ると、いよいよでっかいなあ」と長閑な声を出したウィルを背に、シドはまっすぐこちらに近づいてきた。
「おまえが動かしたのか?」と眼鏡に手をやり、こちらを睨み上げる。ロランは咄嗟《とっさ》に視線を逸《そ》らしていた。
「ええ……。動いてしまって」
コクピットボールから半身を乗り出している状態では、認めるほかなかった。ふん、と納得しかねるように鼻息を漏らし、ロランの頭から腰までをまじまじと見つめたシドは、不意に背負っていたリュックサックを地面に下ろした。中から大きめのタオルを取り出し、なにも言わずにこちらに放る。受け取ったロランは、意外に気の回る人なんだなと奇妙な感心をしつつ、タオルを全裸の腰に巻いてコクピットボールから降りた。
背中を向けた途端、「聖痕は授《さず》かったんじゃな」とシドに言われて、ロランはコクピットの縁にかけた手を止めた。儀式の途中で空襲が始まり、ホワイトドールが動き出したのだから、そんなはずはなかった。「聖なる痣《あざ》ですか? 付いてるんですか?」と尋ね、確かめようと体をくねらせたが、鏡でもなければ自分の背中が見えるものではない。「ちゃんと六つ付いとる」と答えたシドの声に薄気味悪い感覚を味わいながら、ロランは背中に手を回して肌を探ってみた。肩甲骨のあたりに、そこだけ微かにざらざらしている皮膚の手触りを確かめて、ふと思いつくことがあった。
シートに押しつけられた時、背中になにかが当たる感触があった。エア・シートベルトと併せて、パイロットをシートに固定するマウントの突起が当たっていたのだろう。パイロットスーツの背中にあるアタッチメントと接合し、磁力でパイロットをシートに吸着させるのがマウントだから、素肌に直接当たればなにかしらの影響を与えたのかもしれない。聖なる痣というにはあまりにも現実的で、恪印を押されたような不快感も覚えたロランは、「運転の仕方、わかるのか?」と言いながら歩み寄ってきたウィルに、微かな腹立ちを感じた。
こちらの苦労をいっさい想像せず、自分の興味だけを優先させている声と聞こえたからだった。「……よくわかりません。夢中だったんで」と、ロランはやや硬い声で答えたが、ウィルはまったく気にしていない様子で、爛々と輝く瞳をコクピットボールに向けた。
「こいつが出てきた時の様子を詳しく聞かせてもらいたいな。それにどうやって動かしたのかも」
目を合わす間もなくロランの脇をすり抜け、ウィルはコクピットの中にもぐり込んだ。シートに座り、「∀」の記号を点滅させるパネルやモニターを見回して、「すげえ、こいつは本物だぜ、おやっさん」とますます顔を輝かせる。粗野だが、屈託のないウィルの物腰を見れば、ロランも腹を立てても仕方がないという気になった。
「月の姫君と恋をしたっていうご先祖の話は、騙《かた》りじゃなかったんだ。これならミリシャだって、おれの宇宙船の発掘を手伝ってくれるよな?」
アームレイカーを指先で弾きつつ、ウィルが続ける。わけのわからない話でも、月の姫君、宇宙船と言った言葉がロランの耳に残った。最初に会った時、あのウィル・ゲイムの子孫≠ニ紹介されたことが思い出され、あらためて髭の剃り跡が目立つ青年の顔を見つめてみたが、あっけらかんとした表情は外見以上のなにかを秘めた人のものとは思えなかった。
「あれが宇宙船と決まったわけじゃない。今はこれの調査が先決じゃ」とシド。振り返ったロランは、汚れた眼鏡ごしの目がこちらを注視していたことに気づいて、不穏な気分が増すのを感じた。
「事情は知っとるな? ノックスの方にも機械人形が現れて、大変なことになっとるらしい。こいつを動かせたんなら、おまえにも協力してもらうことになるぞ」
「協力ってなんです?」
「じきミリシャの発掘隊も到着する。アーク山がマウンテン・サイクルなら、こいつの他にも機械人形が埋まっとるかもしれん。おまえはこのホワイトドールの調査に協力して、少しでも使えるようにしておくんじゃ」
シドの言いようは、ミリシャが以前から「黒歴史」に興味を持っていたこと、ホワイトドールの起動がすでに中央本部に知れ渡っていることを教えていた。自分には想像のつかないレベルで、事態は急速に動き始めている。得体の知れない危機感が膨れ上がり、〈ウォドム〉に感じたのと同じ、一方的で傲岸《ごうがん》な空気も感じ取ったロランは、「後にしてください」と言って離れる足を踏み出した。
「お嬢さんが心配ですし、お屋敷がどうなったかも気になります。町に戻ります」
「そんな悠長なことを言ってる場合じゃないんだぜ、ロラン君」
電子マニュアルを片手に、コクピットボールから降りてきたウィルが行く手を阻むようにした。頭ひとつ大きい長身の胸板は厚く、気圧されたロランはわずかにあとずさった。
「戦争が始まるかもしれないんだ。武器として使えそうなものなら、整備しておく必要がある」
「御曹子も同じお考えじゃ。必要なら辞令も取り寄せる。おまえはミリシャの黒歴史発掘隊に入って、わしの手伝いを……」
戦争、武器、辞令。どれもが自分には無縁で、今の事態を悪化させるだけの言葉に思えた。「勝手なこと言わないでください!」と遮《さえぎ》り、ロランはウィルの手から力任せに電子マニュアルをひったくった。
「ビシニティ、火事になってるんですよ。気にならないんですか?」
大人がこうも無神経で、身勝手になれる理由がわからなかった。呆気に取られた顔の二人に背を向けて、ロランは走り出していた。
調在でも発掘でも勝手にやればいい、と思った。ソシエの姿は見えなくなっており、周囲の闇に搦《から》め取られそうな不安を感じたロランは、がむしゃらに走り続けてそれをふりきろうとした。
ビシニティに戻った時には、白々と明け始めた東の空が星々の瞬きを隠し、アーク山の峰が朝日の光に縁取られるようになっていた。まだ火事の煙が抜けきらない住宅街を走り、焼け焦げた倒木を乗り越えてハイム邸にたどり着いたロランは、正門の前で棒立ちになっているソシエの背中を見つけて、息を呑んだ。
屋根が吹き飛び、家屋の半分が焼け落ちた屋敷を呆然と見つめるソシエは、ロランが隣に立ってもなんの反応も示さなかった。暗い山道で何度も転んだのだろう。白い装束は泥と汗で汚れ、頬にも引っかき傷が走っている。目の前の現実を受け入れられず、立ちすくんで身動きが取れなくなっている様子を察したロランは、今は声をかけない方がいいと判断して、ひとつ息を吸ってから屋敷の方に歩き出した。張り出し屋根を支える柱が折れ、瓦礫と木片が散乱する玄関から顔を覗かせたジェシカが、それを出迎えた。
小さな目をいっぱいに見開き、「お嬢さま!」と驚いた顔を見せたジェシカは、すぐに顔をくしゃくしゃに歪ませ、その場にしゃがみ込んでいった。サムも煤《すす》に汚れた顔を見せ、嗚咽の声を漏らし始めたジェシカを気づかう素振りをみせると、ロランに含んだ視線を寄越した。
ソシエではなく、自分を見て頷いたサムの寡黙な表情に、ロランはなにが起こったのかを察した。ソシエもわかってしまったのだろう。ぺたんと芝の上に座り込み、「……お父さまになにがあったの?」と震える声で呟いていた。
いたたまれなかった。ソシエをその場に残して、ロランは走り出した。「いやよ!」と叫んだ涙声を背中に聞きながら、屋敷の玄関をくぐった。屋根の梁が落ち、割れた花瓶や額縁が散乱する廊下に立って、階段の脇に横たえられた人の姿を前にした。
頭まで毛布をかけられている人の周囲で、数人の使用人と事務員たちが沈痛な顔をうつむけていた。近づいても誰も顔を上げようとせず、ロランは毛布からはみ出した腕に目を落とした。
爪の先が黒ずんだ太い指は、ハイムのものだとすぐにわかった。帰宅した時、いつも事務所の窓から「お帰り」と言うように振られていた腕が、ぴくりとも動かずに廊下に投げ出されていた。黒く焼け焦げた腕は消炭の塊のように見えるのに、ところどころ皮がむけて、鮮やかなピンクを覗かせてもいる。炭化した皮膚からは想像できない、あまりにも鮮烈な肉の色――。頭が真っ白になり、ロランは腰に挟んでいた電子マニュアルを取り出して、自分でもわからないままにコントロールパッドに指を押し当てていた。
サバイバルキットの説明やナノマシンの概念図が、次々モニターに現れては消える。なんとかならないのか、と内心に絶叫しながら、ロランはパッドに当てた指を動かし続けた。いつの時代に製造された代物かはわからないが、失われた旧世界の技術力で作られていることは間違いないんだ。人間を蘇生させる方法のひとつぐらい、記録されていないのか……? 憑かれたようにマニュアルの画面をスクロールさせるうち、無駄だ、あきらめろと諭す声が内側からわき出してきて、ロランはじわりと視界が滲むのを感じた。
馬のピルグリムが死んだ時と同じだった。死んだものは生き返らないという当たり前の理解が押し寄せてきて、ロランはマニュアルを閉じた。ハイムの旦那さまは、もう目を開けることはない。ピルグリムがそうしたように、たくさんの思い出と一緒に天に召されたのだから……。
「お父さま!」
ソシエの甲高い声が耳を打ち、立ちこめた悲痛な空気をよりいっそう重くした。なにもできずに立ち尽くしたロランは、玄関から飛び込んできたソシエの背中が、ハイムを覆った毛布にとりすがるのをただ見つめた。
毛布を揺すり、「父さん、父さん……!」とくり返すソシエの声に、ジェシカの嗚咽が相乗する。ぎゅっと拳を握りしめ、歯を食いしばったロランは、不意に立ち上がるや、振り向きざま平手を繰り出してきたソシエにもういちど頬を叩かれていた。
「みんなあんたのせいよ、あんたの……!」
震える瞳がそう叫び、直後に外に向かって走り出していった。奇妙にあとをひく頬の痛みを感じながら、ロランはその後を追った。おろおろするジェシカとサムをすり抜け、玄関から飛び出したソシエの肩をつかんで、「どこに行くんです!」と怒鳴った。
「放してよっ! お母さまとお姉さまに知らせなきやいけないでしょう!?」
「無理ですよ、ノックスだって攻撃されているんです。火事の色、ホワイトドールからも見えたじゃないですか」
「じゃあ飛行場に行く! 戦闘機を借りて、お父さまの仇を取ってやる……!」
衝動に取り憑かれた体の力は半端なものではなく、ロランは本気でソシエを押さえ込まなくてはならなかった。「無理です! 落ち着いてください」とくり返したロランに、ソシエは充血した目を向けた。「嘘つきのロランにはわからないのよ! 機械人形の手先のロランには……!」
一瞬、弛《ゆる》んでしまった手を振り払って、ソシエの背中が離れる足を踏み出す。直前に手首をつかんだロランは、「落ち着きなさい!」と叫び、引き戻した勢いでソシエの頬に平手を走らせた。
なにをしたのか、自分でもすぐにはわからなかった。すとんと腰を落とし、呆然とこちらを見上げたソシエは、みるみる両目に涙を溢れさせてその場にうずくまった。感情の栓が外れ、押し留めていたものが一気に流れ出したようだった。床に額を押しつけ、両の手のひらを固く結んで、ソシエは全身を声にして泣いた。
かける言葉もなく、ロランは慟哭《どうこく》に震える小さな背中を見下ろした。手のひらの痛みが全身に広がり、沸騰した体液が目からこぼれ落ちるのを止められずに、たった一晩で根底から覆《くつが》されてしまったいくつもの人生、どうすることもできない自分の無力を噛み締めた。
誰を憎み、誰を仇と呼べばいいのか。ビシニティを焼き、屋敷を破壊してハイムの命を奪ったのは、ホワイトドールのモビルスーツが放ったビームだ。善悪の区別などはなく、そうして無差別に人を殺すのが戦争で、ハイムがいち早くその犠牲になったというだけのことだ。熱い塊になった胸の中に呟きながらも、それが「故郷」の人々が地球に戻ろうとした結果、始まった悲劇であることを知るロランは、昂る感情を鎮められずにただただ涙を流した。
この日を夢見て、二千年以上の間ひたすら刻苦を忍んできた。ムーンレィスが、永く憧れてきた本物の故郷に帰るというだけで、こんな悲しみが引き起こされるものなのか……?
「ディアナ様……。どうか、お慈悲を」
天を仰いで、ロランは我知らず呟いていた。涙は枯れることを知らず、後から後からこぼれ落ちて頬を濡らし続けた。
その日の夕刻。焦《こ》げた木片が散らばったままの庭の一角で、ハイムの葬式が執り行われた。
本来なら鉱山の関係者や知人を招き、日を置いて盛大に行いたいところだったが、真夏の盛りでは遺体の保存もおぼつかず、町全体が先の見えない混乱に包まれていることもあって、形ばかりの葬式が行われる運びになったのだった。
せめてハイム夫人とキエルの帰宅を待つべきという意見はあったものの、不通になった電話線が復旧する見込みはなく、二人の無事さえ確かめられないのではどうにもならなかった。使用人たちと、駆けつけた数人の鉱夫たちに見守られて、ハイムを収めた柩は墓穴に下ろされていった。
立会いにきた公証役場の役人は、今日一日でひと月分の仕事はしているのだろう。朝からいくつもの焼け跡を回り、死亡届を書いてきた喪服姿は、いちいち同情してはいられないという顔を隠しもせず、事務的に遺族のサインを求めていた。いかにも役人然とした態度には腹が立ったが、大きすぎる悲しみは人の神経を雑にするらしい、とわかり始めているロランは、書類にサインをするソシエの横顔を黙って見つめた。
ひとしきり泣いた後、誰とも口をきかずに焼け残った自室に閉じこもっていたソシエは、サインを済ますと虚脱した顔つきで墓穴の前に屈んだ。「さ、嬢ちゃま……」と肩を抱いたジェシカに促され、柩に最初の土をかけた途端、再び嗚咽の声を漏らし始めた。
たまらない光景だった。「泣きなせえ。気が済むまで泣きなさりゃいい……」と呟き、両腕でソシエを包み込むようにしたジェシカの脇で、サムたちが寡黙にシャベルを振るい、墓穴に土を投じてゆく。ロランもその中に加わり、無心にシャベルを動かした。体を動かしていれば、感情の波も少しは静まってくれるようだった。自分の神経も雑になっているのかもしれないと思いつつ、ロランは汗を拭うのも忘れて柩《ひつぎ》に土をかけ続けた。
墓穴が土で満たされ、後は墓標を立てるだけになった頃、正門の前に立つ人の姿がロランの目に入った。着古したシャツに煤で汚れたジャケットを羽織り、遠慮しいしいこちらを見ている青年と視線を合わせたロランは、思わず声をあげそうになった。
キース・レジェ。昨日、ノックスで再会したばかりの親友の顔がそこにあった。今までその存在を忘れていた自分の迂闊《うかつ》さに呆れたのも一瞬、無事な顔を見せた「故郷」の親友に目で頷いたロランは、周囲を窺って誰もキースに気づいていないことを確認した。名前と死亡日時を記した手作りの墓標が立てられるのを横目に、列から離れて小走りに正門へ近づいていった。
いかにも焼け出されたといった風情のキースは、顔に疲れを滲《にじ》ませてはいたものの、澄んだ目はいつもの勝ち気な光を宿していた。「ビシニティも大変なんだな」と口にしながら門柱の陰に身を寄せたキースに倣って、ロランも敷地の外に出た。
「ひとりか? フランは?」
「わからない。新聞社の方はやられてなかったから、無事だとは思うけど」
「ノックス、空襲ひどかったんだろう? ボストニア城はやられなかったのかな」
キエルとハイム夫人は、城のパーティーの途中で空襲に出くわしたはずだ。逸る胸を隠して尋ねたロランは、「飛行船から見た時はなんともなかったな」と答えたキースの声に、少しだけ胸をなで下ろした。
「ディアナ・カウンターの連中がどんなにアホでも、イングレッサの中央官庁ぐらいは攻撃対象から外してるんだろうさ」
帽子を目深にかぶり直しつつ、キースは吐き捨てるように続けた。自分と同じ痛みを呑み込んでいるらしい横顔に、ロランは、「キースの方は、大丈夫だったの?」と聞いてみた。
「ひどかったのは中央通りと南駅の方で、うちの方は外れてたからまだよかったけどな。〈ウォドム〉が暴れそうなんで、店のお嬢さんだけでも助けようと思って出てきたんだ。……おまえこそ、昨夜は成人式とかだったんだろ? 平気だったのか」
屋敷の中をちらりと覗き込んでから、キースは施設にいた頃と同じ、不器用な弟分を心配する目を向けてきた。ひと口に説明できるはずもなく、ズボンに挟んだ電子マニュアルの感触を確かめたロランは、「時間、ある?」とだけ返した。
「|逆立ちした《トップスタンド》A……かな?」
「|逆さまの《ターン》A、じゃないの?」
マニュアルに刻印された「∀」の記号を見て、キースが言ったのがその言葉だった。「ターンA……?」と聞き返したロランに、キースは「その方が言いやすいだろ」と肩をすくめてみせた。
レッドリバーの河岸に落ち着くと、体にこびりついた火事の臭いが気になるようになって、どちらからともなく水浴びをしようという話になった。河に浸かり、ついでに着ているものも洗った二人は、今はパンツ一枚の姿で木の下に腰を下ろしていた。
「そのモビルスーツが二千年以上前に造られたものなら、ナノスキンの滓が溜まって、石像みたいになってたってこともあるよな」
ホワイトドールからモビルスーツが出現した経緯を、キースはそのように分析した。モビルスーツを形成するナノスキン――|極小作業機械《ナノマシン》によって構成される自己修復型装甲《ナノスキン》――は、従来の合金とは根本的に異なり、生物にきわめて近い特性を備えている。必要な元素の補給があれば、あらかじめ定められたプログラムに準じて再生と増殖をくり返し、錆などの損傷を修復して永遠に機体を保守し続ける。つまり、一種の代謝機能を発揮するのだった。
二千年以上も放っておかれたモビルスーツなら、機体が数回入れ替わるほどの新陳代謝が行われて、死滅して砂になった大量のナノマシンが機体に積み重なっていっただろう。それが永い時間をかけて凝固し、モビルスーツを石像のように見せていたというのがキースの推測で、そう考えれば錆ひとつないモビルスーツの姿も、表面の岩盤が崩れた時に流れ落ちてきた大量の砂も、すべて説明がつくのだった。相変わらずの冷静な思考力に、ロランは半ば感心の面持ちでキースの横顔を見つめた。
「でもさ、装甲なんか真っ白で、ぜんぜん実戦向きって感じじゃないんだ」
「儀典用の機体か、テスト機だったんじゃない? 親衛隊にも金色のモビルスーツとかってあるだろ」
「その親衛隊の人は、ガンダムとか言ってたけど」
ハリー・オードと名乗った親衛隊の男も、金色のモビルスーツを操っていた。機体ごしにも軍人らしい物腰が窺えたハリーの声を思い出す間に、「ガンダム? 聞いたことないな」と物憂げに返したキースの声が流れて、ロランは夕刻の空を映す河面に目を向けた。
火事の後片付けが続く町の喧噪はここまでは届かず、河岸には昼と夜を結ぶ緩慢な時の流れだけがあった。こうしていると昨夜の出来事はすべて悪夢のようで、草の上に置かれた電子マニュアルも、モビルスーツやナノスキンといった言葉たちも、ロランの中で次第に実感を失っていった。
「そいつ、〈ウォドム〉のビームが出した波動を感知して、初動をかけたんだよ、きっと」
かなり間を置いてから、仰向けに寝転んだままのキースが口を開いた。兵器であるなら、そうしたプログラミングが施されるのは別段めずらしいことではない。地平線にビーム光が発した直後、ホワイトドールのモビルスーツが起動したタイミングからして、キースの推測は間違いないように思えた。「そういうの、あるよね……」と応じて、ロランもその場に仰向けになった。
枝に干したシャツとズボンが、そよ風を孕んで揺れているのが見えた。ソシエはもう泣きやんだだろうか、とぼんやり考えたロランは、「これからどうなると思う?」と口に出してみた。
「どうってことないさ。戦争になるわきゃないから」
「ミリシャは戦ったんだろ?」
「バーカ、あんなんで戦えるか? ビーム砲どころか、ミサイルだって知らないんだぜ、ここの連中は」
「でもシドじいさんたちは、戦うつもりみたいだった」
今頃はミリシャの発掘隊も到着して、アーク山の調査が大々的に行われているはずだった。置きっぱなしにしてきてしまったホワイトドールのモビルスーツ、〈ターンA〉はどうなっているのだろう。漫然と考えてから、ロランは黙り込んでしまったキースをちらりと盗み見た。マニュアルを手慰みにいじっている横顔は、呑み込んだ鉛が消化不良を起こした表情だった。
「……〈フラット〉を掘り出して、ディアナ・カウンターに合流しようか?」
弱気を滲ませた声がその口をついて出て、ロランは思わず上半身を起こした。地球降下の際に使用した〈降下船《フラット》〉は、モビルスーツ形態を取って降下地点に埋まったままになっている。どうしてそういう話になるのかという腹立ちが頭をもたげ、ロランは「そうしたら? ぼくは戻らないけど」と硬い声で答えていた。
「なんでだよ?」
「ここの人たちのことが心配だし、昨夜みたいなことがあれば、ディアナ・カウンターに戻っていいのかって気になるよ」
「わかるけどさ……。地球がムーンレィスの帰還を徹底的に拒めば、ディアナ・カウンターは戦うぜ。そうなりゃここは蹂躙《じゅうりん》されるかもしれないんだ。今のうちに保護してもらった方が利口かも……」
理屈はわかっても、自分の都合ばかりを優先させるようなセリフが、キースの口からでたとは信じたくなかった。戦争になるとみんな変わってしまうのか、あるいは単に自分の思慮が足らないのか。「そんなこと……! ディアナ様がするわけないよ」と言ったロランは、「そんなことでもあんなことでも、起きるのが戦争だろうが」と返したキースに、続ける言葉を失った。
「昨夜の騒ぎを見りゃわかんだろ? ディアナ・ソレルが平和を望んでたって、撃たれりゃ撃ち返すのが兵隊ってもんだ。いっぺん戦端が開いちまったら、そう簡単に収まるもんじゃないんだよ」
その場の状況に呑まれ、咄嗟に〈ウォドム〉を斬りつけてしまった昨晩の自分が思い出されて、ロランは「そうか……」と呟くしかなくなった。「想像力のない奴だな、まったく」と漏らしたキースは、再びごろんと仰向けになり、不安をごまかそうとするかのようにマニュアルをいじり続けた。
それきり、河のせせらぎだけが聞こえる静寂が舞い降りた。結局、先のことは誰にもわからないのだとあきらめて、ロランももういちど仰向けになった。「なんだ、このファイル?」とキースが言ったのは、腕枕をしかけた時だった。
「『花咲爺』……?」
差し出されたマニュアルのモニターに、そのファイル名がカーソルに囲われて映っていた。呼び出してみると、グラフィックのない英文の文章がモニターを埋めて、ロランはキースと顔を見合わせた。「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが……≠チて、なんだこりゃ?」
「古代の地球にあった童話だよ。施設に絵本があったじゃないか」
金魚のメリーが作られたのと同じ、東洋と呼ばれる文化圏で語り継がれてきた物語ということで、ロランの印象に残っていた。およそ読書とは縁のない子供時代を送ってきたキースは、「それがなんだってモビルスーツのマニュアルに載ってるんだよ」と口をとがらせた。「暗号表かな……」と思いついた推測を口にしたロランは、マニュアルを操作してファイルリストを古い順に並べてみた。
数百のファイル名が記録された順番に並び、リストの最後に〈|the oldman of Blossom《花 咲 爺》〉の項目が表示された。どうやら後から追加保存されたファイルであるらしい。パイロットが趣味で記録したのか? ちらりと考え、まさかと打ち消したロランは、ふと薄気味の悪い感触を味わってマニュアルを離した。自分の背中に手を回し、マウントに押しつけられて聖痕のようになってしまった六つの痣をさすってみた。
ホワイトドールを祀っていた司祭の背中に六つの痣があったことから、成人式を迎える子供に聖痕を授ける儀式が定着した――。パイロットスーツの背中にあるマウント接合用アタッチメントは、未開の人々にはまさに痣と見えたことだろう。それがホワイトドールを操れる力の象徴と受け取られ、千年、二千年の時間を経るうち、聖痕伝説として土着の民に根づいていった。司祭と呼ばれていた人物は、かつてホワイトドールのモビルスーツを操るパイロットだった……?
あり得る話だとロランは思った。が、だとしたら、なぜあんな場所にホワイトドールは置かれていたのか。アーク山がマウンテン・サイクルと呼ばれる兵器貯蔵庫だったとしても、あのモビルスーツだけが外に置かれていた理由の説明にはならない。いったいなんの目的で石像の姿を表に晒していたのか。なぜビーム砲の波動を感知して覚醒するようプログラムされていたのか……。
「どういう話なんだよ?」
キースの声がすぐそばに発して、ロランは物思いから立ち返った。「花咲爺」のファイル名を映したままのモニターを見つめ、「よく覚えてないけど……」と記憶の底をまさぐった。
「正直なおじいさんのところに、犬が来てさ。宝物が埋まってる場所を教えてくれて、おじいさんは金持ちになるんだけど、それを妬んだ隣の意地悪じいさんが犬を殺しちゃうんだ。おじいさんが犬を埋めると、そこから木が生えてきて、その木で作ったボウルからは宝物がいくらでも出てくるようになる。でもそれも隣の意地悪じいさんに盗まれて、燃やされてしまう」
「どうしようもないジジイだな」
「だけどその燃え滓の灰を撒いたら、枯れ木に花が咲くんだ。それでおじいさんはみんなから慕われて、めでたし、めでたしって……。確かそんな話だよ」
ひじ枕で聞き入っていたキースは、きょとんとした目を二、三度しばたかせると、「アホくさ……」と呟いて仰向けに戻った。
「それとホワイトドールのモビルスーツがなんの関係があるんだ?」
「知らないよ。このマニュアルのデータだって完全なものじゃないんだから……」
ファイルが閉じると同時に初期画面に戻り、モニターにはCGで描かれたモビルスーツの三面図が映し出された。「花咲爺」との関連はともかく、アンテナだかフェイスガードだかが口の部分からのび、髭のように左右に展張しているこのモビルスーツの面相は、いかにも爺らしいとロランは奇妙な納得をした。「枯れ木に花なんてさ……。まるでナノマシンじゃないか」とひとり呟いたキースの声が、その納得に水をかけた。
ナノスキンに限らず、あらゆる物質・生命体に干渉して増殖をくり返し、そのものの治癒や修復、場合によっては改良を行うのがナノマシンだから、キースの比喩もあながち間違ったものではなかった。「枯れ木に花、か……」とくり返して、ロランは再び河面に目を戻した。
一陣の風が頭上の木を揺らし、河面を騒がせて、真夏の太陽にいじめられた大地をいたわった。二年前、地球に降下《おり》てきた時から感じ続けている自然の息吹きは、今も絶えることなく緩やかな営みを紡いでいるのだった。ちっぽけな人の行為など、大地を渡る風に色がついたということでしかない、というように……。
「……そのナノマシンが、戦争でめちゃめちゃになった地球を、ここまで復活させたんだよね」
しばらく沈黙した後、ロランは誰にともなくそうけった。「二千何百年の時間をかけてな」と、キースが相手をしてくれた。
「月で生まれ育ったおれらが、地球の重力下で無事にいられるのもナノマシンのお陰だ」
半分面倒くさそうなキースの声が続ける。体内に注入された医療用ナノマシンが筋力や血圧、骨密度を調整してくれなければ、地球の六分の一の重力しかない月の環境に順応したムーンレィスが、地球に戻れるものではない。枯れ木に花を咲かせる「花咲爺」の物語が、既に現実になっているのが今の地球なのだと思い至ったロランは、不意に暗い感慨にとらわれた。
そのような技術を手に入れても、旧世界の人々は戦争をやめられなかったのだという。荒廃した地球にナノマシンを散布し、はるかな未来に再生を託して、地球圏を離れなければならなかったのだという。地球に残されたわずかな人々はその忌まわしい記憶を忘れ、月に避難した人々は大地に還れる日をひたすら待ち続けた。そして今、ようやく復活の兆しを見せ始めた地球で、両者の出会いは戦争という形をもって行われた――。
「ぼくらの中にも、残っているんだろうか。戦争でこの星を破壊してしまった旧世界の人間の血が……」
無意識に言ってから、それがとんでもなく重い言葉であることに気づいて、ロランは口を噤んだ。キースはなにも言わなかった。草地に横たわったまま、無言の顔を上に向けている親友に倣って、ロランも茜色に染まり始めた空を見上げた。黄金色に映える雲間を割り、見覚えのある形が音もなく上空を滑っていったのは、その瞬間だった。
沈んでいた全身の血が一斉に騒ぎだし、ロランは思わずはね起きていた。「〈ソレイユ〉だ……!」と叫んだ声に、キースも起き上がって目を細めたようだった。
間違いなかった。ディアナ・ソレルが座乗するディアナ・カウンターの旗艦。純白に輝く船体は、下から見上げると楕円形をしており、全部で六本の突起構造物が周囲に配置されているさまは、さながら手足を広げた亀のように見えた。
全長三百メートルに及ぶ巨大な戦艦がゆっくり高度を下げ、ノックスの方角に向かうのを見送ったロランは、「言ったろう? ディアナ様がいらしてくれたんだ」と、肘でキースをつつきながら言ってやった。「ああ、そうだな」と返ってきた声には、明かるみが差し込んでいた。
「これでもう大丈夫だよ。ディアナ様がきっとうまくおさめてくれるよ」
もういちど空を見上げて、ロランは続けた。夕陽を浴び、船体を仄かなオレンジ色に染めている〈ソレイユ〉は、座乗する者の優美さを引き写して、宝石のように輝いている。すぐに同意するかと思ったキースはなかなか返事を寄越さず、しばらくして聞こえてきたのは、「ロランさ……」というあらたまった口調だった。
「そのホワイトドールのモビルスーツ……〈ターンA〉か? 使えるようにしとけよ」
予想外の言葉だった。「……なんで?」と振り返ったロランに、キースは軽く肩をすくめる仕種をしてみせた。
「この先、ディアナ・カウンターに合流するにしても、逃げるにしてもさ。いいんじゃない? せっかく手に入れた物なんだから」
そう言うと、もう議論するつもりはないというふうに背を向けて、キースは生乾きのシャツを枝から下ろし始めた。二年前より筋肉がつき、大きくなったキースの背中に、ディアナ様を信じられないのか、と出しかけた言葉が口の中で溶けるのを感じたロランは、無言で河面を見つめた。
みんな、変わってゆく。そんな予感が、取り残された心細さの中にゆっくり立ち上がっていった。
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東の空から攻め進んできた群青色が、西の地平線に張りついていた茜色を落としにかかった頃。すべての飛行船が退避し、だだっ広い平地をさらすだけになっているノックス空港に、三々五々車が集まり始めた。
北アメリアに散在する、各領の代表たちを乗せたリムジンだった。ルジャーナ領とエリゾナ領からは行政官が、フロリャ領とデジャス領からは領主がじきじきに駆けつけ、各々の権勢を誇るかのように、大量に引き連れてきた従者の車を空港の一画に並べた。ポートベロ領とチャバス領の代表も飛行船でこちらに向かいつつあったが、ディアナ・カウンターの駐屯地を避けて飛ばなければならないために、一時間ほど到着が遅れるという話だった。
全領とまではいかなくとも、わずか半日前の連絡でこれだけの数が集まったのは、現在の事態がいかに重く受け止められているかの証明だろう。無視でぎない事態だということがようやくわかったのだ、とグエンは言っていた。これまでは、ムーンレィス対策のための領主会談を催しても欠席する者がほとんどだったのだという。実際、滑走路脇に並んだ領主たちの顔はどれもこわ張っており、青ざめてさえいるように見えた。長時間、車に揺られ続けたせいではなく、空港に来るまでの途中、空襲を受けたノックスの惨状を見たからであろうことは、キエルの目にも明らかだった。
ずらりと居並んだ領主たちの列の中央、グエンに付き従って滑走路を見つめているキエルは、いつの間にかグエンの私設秘書にされてしまった身だった。ディアナ・カウンターとの折衝やミリシャの指揮だけでなく、各領主への連絡、被災者の救済活動、マスコミへの対応といった雑事が一斉に襲いかかり、グエンも行政官たちも忙殺されるようになれば、偶然とはいえ、事態の中心に居合わせたキエルは便利に使われる羽目に陥ったのだ。
殺到する来客の応対で右往左往する秘書たちに状況を伝えるうち、役所からの問い合わせを内容ごとに仕分け、それぞれの部署に伝える仕事までキエルのものになって、気がついてみればグエンと行政府のパイプ役になっていた。もともと城で働くコネを求めていたキエルにとっては、食事をする間もない激務もさほど苦にはならなかったものの、倒れた母を見舞えない苦味は絶えず胸の底で疼いていた。
着替えを取りに行く時、一度だけ顔を見ることができた母は、ベッドに横たえられて静かな寝息を立てていた。爆撃の音にショックを受けて気絶したという話だったが、なにも言わずに姿を消してしまった自分のために、余計な心労がかかったせいもあるのだろう。ビシニティとの電話線が途絶したままでは家に連絡もできず、キエルはメイドにいくらかの金を握らせて、母の世話を頼むしかなかった。
いったいこれからどうなるのか。昨晩から何度もくり返している自問が浮かび上がった時、カメラのセッティングを終えたマスコミがフラッシュを焚き始めて、青白い光が領主たちの顔を照らすようになった。
複雑な影の形が間欠的に滑走路に描き出される中、グエンは前に向けた顔を動かそうとせず、その隣で車椅子に腰かけているグエンの祖父、メッサー・ラインフォード領主も、昏い目を一点に据えたままじっとしている。痴呆症の噂は事実かもしれない、とキエルは思った。取り巻きの家臣たちが必死に事実を隠し、実務を代行しているようだったが、彼らが現在の事態に対してまったく無力であることは、城内の動きを観察していれば想像がついた。
これ以後、おそらくはグエン・サード・ラインフォードの双肩に、イングレッサ領の――あるいは地球の――命運がのしかかってゆくのだろう。希望と絶望が交互に入れ替わる胸のうちを感じつつ、キエルは自分と二つしか歳の違わないグエンの背中を見つめた。すべてが恐ろしい勢いで変わり始めた世界を重ね合わせ、身を委ねてもいいのだろうかと口の中に呟いてみた。無意識にわき上がってきたその言葉は、自分の中の未知の領域から発せられたようで、こんな時になにを考えているのだろうと、キエルはグエンを男として値踏んでいる自分を恥じた。
ほどなく西の空に黒い影が現れ、それはすぐに人を模した機械の形になった。昨晩、ノックスを襲ったカカシ≠ニは違う種類の機械人形のようだった。人々の口からどよめきが漏れ出す間に、Vの字の形に編隊を組んだ機械人形たちは続々と空港に降り立ち、ふくらはぎのあたりから淡い光を発して、滑走路を滑るように移動する。スケート選手を想起させる姿だったが、その身長が二十メートル近くあることは、空港の周囲に並ぶ樹木の大きさから推測できた。
「すごいものだな……」とグエンが呟き、衝撃から立ち返ったカメラマンたちがフラッシュの光と音を連続させた。閃光が瞬く中、金色に塗られた先頭の機械人形が十数メートルの距離にまで近づき、その足もとから発する強風が領主たちの列に吹きかかった。
「無礼な……!」と誰かが呻く声が聞こえる中、キエルは帽子を押さえながら巨大な機械人形を見上げた。二、三メートル宙に浮かんでいた踵が、ゴトッと金属の音を立てて接地すると同時に風は収まり、下腹部の少し上、ちょうど子宮の位置にある半球状の部品が左右に開いて、中で運転していたらしい男が立ち上がるのが見えた。
あれがムーンレィス。フラッシュの閃光がより騒がしくなるのを感じつつ、キエルは機械人形の運転席に立つ男の姿を注視した。光線の加減によっては赤く見える、異様に大きなサングラスが奇異に映ったものの、その体つき、顔つきは人間そのものだった。軍服らしい黒い制服に身を包んだその男は、フラッシュの洪水に動じる気配もみせず、直立不動の姿勢を取って西の空に顔を向ける。厳しく鍛えられた人の所作だとわかり、キエルは男の視線を追って茜色の空を見上げた。夕陽を背に近づいてくる巨大な宇宙船が目に入り、感嘆の息を呑んだ。
美しい、という言葉がなんの抵抗もなく浮かび上がってきた。純白に輝くその宇宙船は、亀の甲らのような平べったい船体に高い船橋構造部を聳えさせており、緩やかな弧を描く翼状のものがその左右を覆っているさまは、童話の挿し絵に出てくる天界の城を思い出させた。昨晩、ノックス上空を覆ったどの宇宙船よりも優美で、巨大な船。ディアナ・ソレルが乗る船に違いないと断じて、キエルは次第に大きくなってくる空中宮殿を見つめた。
領主たちも、出迎えるべき月の女王が現れたことを察したらしい。儀仗兵さながら、ずらりと整列した機械人形を見上げるのをやめて、一斉に西の空を見た。ディアナ・カウンターの駐屯地ではなく、このノックス空港を降下地点に選んだのは、ディアナ・ソレルの和平の意志の証なのだろう。敵陣にひとり乗り込む女王を警護するためか、機械人形たちの手には明らかに武器とわかる拳銃状の物体が握られており、運転席に立つ男も油断なく警戒の目を走らせていた。
ディアナ・ソレルが、いかに重要な人物かを物語る光景だった。月からきた女王、という幻想的なフレーズを口中にくり返し、子供の頃に聞いたおとぎ話の世界だと思ったキエルは、宇宙船の船橋の一部が分離し、本船を後にしてこちらに近づいてくるのを見た。
大型船が搭載する内火艇のようなものだろう。小型といっても、二十メートル以上はあろうその内火艇は、下から見ると本体である宇宙船とまったく同じ形をしている。まるで親亀の背中から孫亀が離れたようだと可笑しくなったが、その時にはみるみる大きくなった純白の船体が頭上に迫り、キエルたちの目前で垂直に降下を開始した。強風が再び吹きかかったが、もう文句を言う者はいなかった。誰もが固唾を飲み、滑らかな光沢を放つ小型宇宙船の乗降口が開く瞬間を待ち詫びた。
着陸脚が滑走路について間もなく、船体の中ほどにある乗降口のドアがせり出してきて、乗降口と地上とを結ぶ階段に姿を変えた。船内から溢れるまばゆい光を背負い、乗降口に立つ女性の姿を見たキエルは、開けた口が塞がらなくなってしまった。
白いマントを羽織り、ベレー帽に似た軍帽をかぶっている女性は、キエルと同じ、長い金髪と水色の瞳を持っていた。その顔立ちも、自分に酷似しているようにキエルには見えた。鏡に映したという表現そのままに……。
「ディアナ・ソレルです。そちらがグエン・サード・ラインフォード殿でありましょうか?」
自分と同じ顔がそう言い、呆然と立ち尽くしていたグエンが、我に返ったように頭を下げる姿がキエルの目前で連続した。「……は。ディ、ディアナ・ソレル閣下で?」と声をどもらせたのは、他人の空似というには似すぎている顔に、動揺したからに違いなかった。
「よしなに」ゆったりとした微笑を浮かべて応えたディアナ・ソレルは、次の瞬間には左右を囲む機械人形を見上げ、「先発隊各員はご苦労でありました」と続けた。凛とした声が夕刻の空港に響き渡り、月の女王の降臨を大地に宣言したようだった。
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カカシ≠ェ発射した雷のような武器が、アーク山――もうその呼び名は使われず、誰もがマウンテン・サイクルと呼んでいたが――の斜面に大穴を開けてくれたことが幸いした。大型トラック三台に、山ほどの器材と兵員を乗せてきたミリシャの発掘隊と合流したウィル・ゲイムは、シド・ムンザとともにマウンテン・サイクルの地下に足を踏み入れていた。
石灰質に見えていたのは表面だけで、十メートルほどの厚みがある岩盤層の下は、鉄骨らしき骨組が林立する中に大量の砂が溜まったがらんどうだった。坑道のように入り組んだトンネルが縦横に走っていることもわかり、発掘隊の一団は畏怖と興奮の両方を感じつつ、闇に包まれたマウンテン・サイクルの深奥に進んでいった。
先頭に立つシドは、「誰もなににも触るな!」と発掘隊に厳命した割には、自分は手当り次第に坑道を支える金属に触れ、砂に埋もれた正体不明の機械類を拾い上げて、そのたびに発掘隊の足を止めていた。興奮に顔を上気させ、「ウィル、これなんだと思う?」と拾った物をいちいち見せては、次の瞬間にはさっさと先に進んでツルハシを振うというありさまで、ウィルは何度も頭から砂をかぶる羽目になった。
坑道を覆《おお》う岩盤は、表面をちょっと削っただけで中の砂がこぼれ落ちてくるのだ。迂闊に衝撃を与えては危ないと言っても聞く耳を持たず、シドは憑かれたように闇の中を駆けずり回り、ツルハシを振い続けた。
無理もない、とウィルは思った。「黒歴史」の実証に人生を賭けているシドにとって、ここは文字通り宝の山に見えているのだろう。もとはハイム鉱山の雇われ山師だったシドは、鉱脈を探す途中、先史文明のものとしか考えられない金属片をいくつも発見するうちに、単純かつ重大な疑問につき当たったのだという。つまり、ビシニティは火山性大地の上にある。そこに鉄を採掘できる鉱山が存在するなど、地質学的にあり得ない。にもかかわらず、ハイム鉱山が厳然と存在しているのはどういうわけか。
「黒歴史」の中にある「宇宙飛翔の章」が、その疑問に解答を与えてくれた。その記述によれば、先史文明の人々は地球の鉱物資源を採り尽くしてしまった後、宇宙を漂う限石に資源を求めたとある。なら、我々が鉱山と信じている山は、先史文明の人々が宇宙から引き寄せた巨大な隕石ではなかったか――。そう思い至った瞬間、実直な雇われ山師の人生は速やかに消え去り、「黒歴史」探求に生涯を捧げるシド・ムンザが誕生した。
鉱山を隕石などと吹聴する男は、ハイム鉱山にとって迷感以外のなにものでもなかったことは想像に難くなく、それから間もなくシドは追放の憂き目にあう。以後、「黒歴史」を実証するべく、家庭も持たずに各地を放浪する生活を送っていたのだが、二年ほど前、噂を聞きつけたイングレッサの次期領主、グエン・サード・ラインフォードに声をかけられて、ミリシャの黒歴史発掘隊に参加する運びとなった。
一応、ミリシャの一員になったものの、当のシドはいいスポンサーがついたぐらいにしか思っていない様子で、あくまでも自分の欲求のために地道な発掘調査を続けている。「歴史は歴史家のものであって、事実などはない。わしにとっての事実は、わしが調べた歴史の中から自ずと生まれてくる」というのが彼の持論であり、どうしてそこまでこだわるのかと問うと、「この歳になると、自分のやりたいことにあれこれ理屈をつけるのも億劫なんでな」と惚けた返事が返ってくる。偏屈と言ってしまえばそれまでなのだが、既成の価値観にとらわれず、なにごとにも公平に接しようとする姿勢は、ウィルには好ましく映っていた。
そういうシドでなければ、「気触り者」の風評がついて回る自分を、助手にしようなどとは思わなかっただろう。ウィルにとっては、「黒歴史」の探求は学究的行為でもなんでもなかった。百五十年前、月の姫君と恋に落ちた初代のウィル・ゲイムから始まり、曾祖父、祖父へと連綿と引き継がれていった月への想い。「気触りの一族」と蔑まれても捨てきれなかった想いを果たし、没落したゲイム家を立て直すための必然的行為だった。
月の姫君との恋物語が、単なるおとぎ話ではないと証明する物的証拠はたしかに存在している。ゲイム家の男たちが永い歳月をかけて掘り出し、あと少しで手が届くところまできているのだが、固い岩盤に阻まれてこれ以上先へは進めなくなっていた。そんな時にシドが現れ、「黒歴史」が実証されれば、ミリシャの人材と器材を使って一気に掘り出すことができると教えてくれたのだから、ウィルは一も二もなくその話に飛びついた。
シドに付いて各地の伝承を調べ、マウンテン・サイクルと思われる場所を片っ端から調査してゆく。気が遠くなるような作業でも、大地に突き立てるツルハシのひと振りひと振りが、ウィルには夢に近づく足音に聞こえていた。
が、昨晩の異常な出来事、それに呼応して出現したホワイトドールの機械人形が、それらの地道な作業を終わりにした。「黒歴史」は実証されたも同然で、自分は今、その科学的遺産の宝庫であるマウンテン・サイクルの中にいる。坑道を支える鉄骨には錆ひとつ浮いておらず、明らかに鉱山で採れる金属とは違う物質であることを教えている。祖先の恋物語がファンタジーでないと証明されたのだ。これでミリシャも自分の発掘を手伝わざるを得ないだろう。オーバニーの谷に埋もれている、巨大な宇宙船≠フ発掘を……。
大量の砂がこぼれ落ちる音が発し、目の前を舞っていたシドの懐中電灯の光が唐突に消えた。慌ててライトの光を左右に振り、直径一メートルほどの穴がぽっかり口を開けているのを見たウィルは、咄嗟に「おやっさん!」と呼びかけた。
脆くなっていた地盤を踏み抜いてしまったらしい。「おやっさんが落ちた! 手を貸してくれ」と後続のミリシャ兵に呼びかけてから、ウィルは穴の近くに駆け寄った。ひんやりした空気を漂わせる穴の中を覗き込み、ライトで底を照らしてみた。
「ウィル、来てみろ! 早く」
それほど深くはないようだと思った瞬間、シドの声がひどく遠くに響いた。落ちた場所でじっとしていればいいものを、性懲りもなく動き回っているのだろう。「空気はあるんだろうな!?」と怒鳴り返しても返事はなく、ウィルは仕方なくリュックサックからロープを取り出した。
片側をミリシャ兵に支えてもらい、穴の中に垂らしたロープを慎重に伝い下りると、三メートルほど下にある地面にすぐ足がついた。上と同じような坑道が前後に続いているのがわかり、シドの姿を捜して懐中電灯を振ったウィルは、十メートルほど先で二つの光が瞬くのを見た。
シドがヘルメットにくくりつけている、二本の懐中電灯の光だ。「おやっさん、無事か!?」と叫び、ライトで足もとを照らしながら光の方に歩み寄ったウィルは、呆然と立ち尽くすシドの向こうにあるものを見て、絶句した。
坑道を抜けたところにある、広大なホールのような空間だった。直径十数メートルはあろうボール状の物体がそこに並んでおり、球体の下部から生やした二本の足らしき構造物で巨体を支えて、口を開けて見上げるしかない二人の男を黙然と見下ろしていた。
そう、見下ろしている。複数のパーツで組み上げられた球体の上部には、カメラのレンズとおぼしき部品が据えられていて、左右からはどう見ても腕としか思えないものがだらりとぶら下がってもいる。人型《ひとがた》と呼ぶにはあまりにも奇怪な形だったが、手と足、それに目まで付いていれば、思いつく言葉はひとつしかなかった。
機械人形だ。それが少なくとも六体、地上の喧噪とは無縁の静謐の中に佇んでいる。懐中電灯の乏しい光で照らしただけだから、実際にはその倍以上の数があるだろう。鈍い光沢を放つ機体を照らし、「まるで造ったばかりじゃねえか……」と呻いたウィルは、ふと全身に寒気が走るのを感じた。
開けてはならないものを開けてしまったのではないか。「黒歴史」の実証を手に入れられた喜びを押し退けて、そんな直感が脳髄の奥から立ち上がってきたのだった。機械人形たちは否定も肯定もせず、冷たいレンズの目でこちらを睥睨《へいげい》していた。
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第二章――正歴二三四五年・晩夏――
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八月二十三日付ノックス・クロニクル第一服総合面より抜粋
あれから二ヵ月 見えない和解への道
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ムーンレィスの地球帰還作戦が始まって、今日で二ヵ月が経過しようとしている。イングレッサ領の首都ノックスの中心部にあるボストニア城では、北アメリア領主連合とムーンレィス首脳による交渉会議が連日催されているが、初期に一時停戦の合意がなされて以降、実質的な進展はなにひとつ見られないまま現在に至っている。互いに和平を望んでいるにもかかわらず、交渉がまったく前に進まないのはどういうわけか。
理由のひとつに、地球側とムーンレィス側の主張がそれぞれまったく別の歴史認識に根ざしていることがあげられる。ムーンレィスの移住を「入植」と呼び、他人の土地に強引に割り込もうとする侵略的行為だと主張する地球側に対して、これは「帰還」であると主張するムーンレィス側は、地球への移住を当然の権利と見なしている。先史文明の末裔と称するムーンレィスの堅史によれば、彼らの祖先は月に移住した宇宙移民者であり、汚染された地球が再び人の住める星になるまで、月面の人工都市で苛酷な生活に耐えてきたという。復活の兆しを見せ始めた地球への帰還は当初からの予定だったというが、地球側にはその主張を裏づける記録は残っていない。父祖代々荒れ果てた土地を耕し、労苦の末に現在の緑豊かな世界を手に入れたとする地球側の歴史には、ムーンレィスの存在を認める余地は皆無だといえる。「黒歴史」の記述にそれらしい記録の断片が見つけられるものの、「黒歴史」に堅史書的価値が認められていないのは周知の通りだ。
もうひとつの理由に、第一次帰還船団と共に降下してきたムーンレィスの軍隊、ディアナ・カウンターの対応のまずさが指摘される。最初にディアナ・カウンターを降下させることによって圧倒的な科学力の差を誇示し、以後の交渉をスムーズに進めようと意図したムーンレィス側だが、イングレッサ・ミリシャの予想外の抵抗にあって戦端が聞いてしまったため、結果は裏目に出た。首都ノックスはほとんど空爆されたも同然の被害を受け、軍・民あわせて二九四名もの死傷者を出したイングレッサ領は、歴史観の相違による立場の差を超えて「反ムーンレィス」色に染まっている。隣接するルジャーナ領でもミリシャの整備が急がれており、ノックスの惨状を目のあたりにしたルジャーナ領主・ボルジャーノ公は「民族の勇気は宇宙的兵器が撃ち込まれたぐらいではくじけない。ディアナ・カウンターがルジャーナ領に侵攻するようなことがあれば、彼らは亡骸となって大地への帰還を果たすことになるだろう」と語った。ディアナ・カウンターの力の誇示が、かえって徹底抗戦の意思を地球側に芽生えさせてしまった格好だ。
農民たちの憎悪も深い。ディアナ・カウンターの戦艦五隻を含む第一次帰還船団の降下地点として、ノックス郊外の平原十ヘクタールが一時的に譲渡されたが、このために現地に在住する五十世帯あまりの農家が家と畑を失うことになった。現在、降下地点では解体された宇宙船が家屋の役割を果たし、機械人形の手によって周辺に金網が敷設され、居留地としての整備が着々と進んでいるが、金網の外隔では連日農民たちによるデモがくり広げられている。「宇宙人に畑は耕せない」と書いたプラカードを手にしたある農民(三二)は、「降下が始まった最初の晩、家族を連れてほとんど着のみ着のままで家を飛び出してきた。家畜は置いてきてしまったし、小麦の収穫も一度もできなかった。これではこの冬を越せそうにない。よそから来た連中に、なぜ先祖伝来の土地を明け渡さなくてはならないのか」と怒りをぶちまけた。
降下地点から外れた農家でも、爆撃に驚いた牛が流産したり、乳が出なくなったりなどの深刻な影響が出ている。機械人形に畑を踏み潰されたというボイン・ノビサドさん(五七)は、「大きな鳥の足のような物で踏みつけられて、噴き上がった畑の土が納屋を押し潰した。これでは今年の収穫は望めそうもない。ムーンレィスもパンを食べるだろうに、なぜ命の糧である畑を潰したのか。科学の力で空気からパンを作り出せるとでもいうのか」とディアナ・カウンターの一方的な攻撃を非難した。
本紙が独自に入手した情報によると、ムーンレィスの食料事情は地球のそれと大差はない。むしろ地球での自活を考えて、畑は温存するつもりでいるようだ。居留地の金網越しにインタビューを試みたところ、あるムーンレィスの帰還民(三五)はこう語った。「本国からの増援物資が滞っているために、運んできた食糧でなんとか食い繋いでいる。現地の農民に畑仕事を教えてもらって早く自活の態勢を整えたいのに、居留地を防衛するディアナ・カウンターの兵隊が邪魔をする。地球に来れば自然の中で穏やかな暮らしができると聞いていたのに、これでは話が違う」。
ディアナ・カウンターが過剰ともいえる警備態勢を敷いているのには理由がある。土地を追われた農民たちを糾合し、兵力を増強しつつあるイングレッサ・ミリシャが、農民のデモに乗じてムーンレィスの居留地を襲う事件が頻発しているからだ。明白な停戦条約違反だが、病床の祖父に代わってイングレッサ領の全権を握るグエン・サード・ラインフォード卿は、「全部隊に停戦命令は出している」と関与を否定する発言をした。イングレッサ・ミリシャの指揮官であるミハエル・ゲルン大佐は、「攻撃を示唆するような命令はいっさい下していない」とした上で、「広がった戦線を監視するには、手持ちの通信機器では限度がある」と認め、最後にこうも付け加えた。「イングレッサの全領民を守るのがミリシャの任務である。デモに参加した農民がディアナ・カウンターの機械人形に踏み潰されんとする光景を前にすれば、看過できない場合がある」。
マウンテン・サイクル(アーク山)に埋まっていた機械人形の発掘も進めているミリシャは、ディアナ・カウンターにとって明確な脅威に育ちつつある。ミハエル大佐は通信手段の不備というが、農民のデモに合わせて都台よく現れる前線部隊の動きともいえる警鰐態勢を敷いていはあまりにも作為的だ。機械人形の出土によって「黒歴史」が実証されたにもかかわらず、いまだにムーンレィスの主張を否定し続ける各領主の態度も、小競り合いを長引かせるー因になっているといえるだろう。
今回の事件で、イングレッサ領民は既に多大な損失を被っている。これ以上の犠牲を出さないためにも、一刻も早い双方の和解が待たれる。
(ノックス本社 ラリー・ブリグマン/フラン・ドール)
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※本稿は最終版編集時に削除。グラハム・ゲリィ記者による記事
「ディアナ・カウンターへの怒り強く 急増するミリシャ入隊希望者」
に差し替えられた。
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八月も終わりに差しかかると、青々と輝いていた緑も強すぎる陽差しに飽食し始めた様子で、次第に煮染められたような濃緑色に変わってきた。熱気が重く垂れこめる居留地の平原は、午後になれば蜃気楼が揺らめく天然のオーブンになった。
脚部スラスターベーンの噴射圧と膝関節の駆動を併用し、モビルスーツ〈スモー〉を跳躍させたハリー・オードは、高度が二百メートルに達したところで左のフットペダルを軽く踏み込み、落下速度の調整に入った。航空力学を無視した人型のマシンであっても、スラスターベーンの推力と空間斥力処理装置《FRP》を併用すれば、かなり自由に重力圏内を飛行することができる。目的地まで飛び続けるのも不可能ではないのだが、ハリーは進路上に必ず数回の着地中継点を設定して、機体にジャンプをくり返させながら移動するのを常にしていた。
FRPがいかに万全であろうと、機体にかかる空気抵抗は依然、厄介な問題として残っている。大気や重力といった慣れない環境に順応するには、不自由な思いを厭わず、体に覚え込ませるのがいちばんの早道だった。
無論、地球環境を想定したシミュレーション訓練は何度も受けていたが、その内容はあらゆる自然条件を数値化し、操作系にかかる負荷として機械的に再現したものでしかない。本物の自然は、気まぐれな要因で刻々と表情を変える。ちょっとした風向き、気温差に左右される空気抵抗の変化は、アームレイカーの手応えひとつから実地に学んでゆくしかなく、瞬時の判断と正確な操作が要求される戦闘に即応するには、周囲の環境に対する勘を絶えず研ぎ澄ませておく必要があった。この先、事態がどのように進展しようとも、ディアナ・ソレル親衛隊の名に恥じない実力を維持しなければならないと考えるハリーは、跳躍から自由落下に至るすべてのシークエンスを、手動操作で行うようにしているのだった。
着地の際には畑を避けなければならないのだが、月の人工都市しか知らないムーンレィスの目には、野原との識別が難しいという面倒があった。緑といえば住宅地区の畑か、公園区画にしかない月とは異なり、ここでは自然の大地の中に畑が点在している。耕された土地とそうでないものの判別がつけづらい道理だったが、居留地とノックスとの行き来にはいつもの中継点を使えばいいので、着地ポイントの選定に煩わされる必要はなかった。ハリーは逆噴射の推力と落下速度の関係にだけ留意して、土の地肌を覗かせている大地に機体を近づけていった。
着地と同時に、何度目かの衝撃を受け止めた地面が盛大に土を噴き上げ、股間に位置するコクピットのキャノピーにまで土くれが降りかかる。〈スモー〉の両膝の関節機構《アクチュエーター》がいっぱいに曲がり、その勢いを借りて再ジャンプに移ろうとしたハリーは、全視《オールビュー》モニターの一画に映った光景を見て、ペダルを踏みかけた足を止めた。
三キロほど向こうで、境界線の金網《フェンス》を敷設している〈モビルリブ〉が擱座《かくざ》している姿があった。またか……と口中に呟いた時にはモノアイ・センサーを調整し、画像を拡大したハリーは、〈モビルリブ〉の足もとに二十数人の農民が横たわり、デモ活動を行っている馴染みの風景を確かめて、げんなりした。〈モビルリブ〉は、背骨構造《スパイン》と呼ばれるフレームシステムを採用した民生用のモビルスーツだ。構造材の梁だけで構成されたボディに、工作用のアームと、移動用の車輪を踵に備えた足を生やしている姿は、手足のついた建築途中のビルといった外観を呈している。用途に応じた各種工作機械の搭載が可能で、目前の機体はフェンス敷設機を腹に抱えていたが、生身の体を横たえた農民たちを足もとにすれば、巨体を立ち往生させるしかなくなっていた。
フェンス敷設を阻み、〈モビルリブ〉の行く手に廣たわった農民たちはほとんどが女だったが、中には幼い子供も混ざっている。男たちは〈モビルリブ〉の足に群がり、鍬や鎌でフレームを打ちつけては、コクピットにいるムーンレィスの作業員たちに罵詈雑言を浴びせているようだった。
蛇腹《じゃばら》状のスパインに支えられた〈モビルリブ〉のコクピットは、太古の恐竜の頭さながら、地上十八メートルの位置に張り出している。投石は届かないし、仮に当たってもびくともしないとはいえ、キャノピーごしに窺える二人の作業員は恐怖に顔を引きつらせていた。民間の作業員には恐ろしい体験なのだろう。感情の抑制が美徳と考えられている月では、これほど生々しく人の殺気が充満することは滅多にない。作業中の〈モビルリブ〉がミリシャに襲われ、強奪される事件も現実に起こっていると思い出したハリーは、まだ時間に余裕があることを確かめてからアームレイカーを握り直した。レーダーが警報を鳴らし、接近するモビルスーツ隊の存在を知らせたのは、その時だった。
ほどなく〈ウォドム〉一機と〈ワッド〉四機からなる哨戒部隊がフェンスの向こうに現れ、〈モビルリブ〉の足もとにたかる農民たちの包囲を開始した。〈ワッド〉は全高七メートル足らずの小型モビルスーツで、大昔のヘリコプターからローターを取り去り、代わりに手足を付けたような外観は、頭でっかちの小人を想起させる。全高四十メートルの〈ウォドム〉と並んだ光景は、主人に引き連れられた小犬のありさまだったが、地上から見上げるしかない農民たちには、等しく恐怖の対象と映っているはずだった。
敵味方識別《IFF》コードの反応を見るまでもなく、テテス・ハレ少尉の部隊だとわかったハリーは、頭部だけ新しいものにすげ換えられた〈ウォドム〉の動向に注視した。
帰還作戦が始まった日、地球側のモビルスーツと交戦して自機に大きな損傷を被ったテテス・ハレは、プライドを傷つけられた反動からか、農民のデモに対して抑制を欠いた行動に出ることがある。この時も、ろくに警告もしないうちに〈ウォドム〉のマニピュレーターを繰り出して、蟻んぼうを払いのけるように振り回す光景がハリーの目前で展開された。
巨大な指が地面を抉り、盛り上げられた土の津波が横たわる農民たちに降りかかる。子供を抱いて慌てて退避する母親、逃げ遅れて生き埋めになった老婆、それを掘り起こす男たちの狂乱が繰り広げられる中、テテスの〈ウォドム〉は執拗に地面を抉り起こしてゆく。どうせ殺されはしない、と多寡をくくっていた農民たちにはいい薬だと思う一方、楽しんでいるようなテテス機の動きには、ハリーもひやりとしたものを感じずにいられなかった。やりすぎるなよ……と内心に呟いた瞬間、〈ウォドム〉の指先に小さな火花が発して、ハリーは思わずシートから身を乗り出した。
着弾の火花。農民の誰かがライフルを撃ったのだ。〈ウォドム〉のマニピュレーターがテテスの怒りを受けて大きく振られ、蜘蛛の子を散らしたように逃げてゆく農民たちの中から、ひとりの男をつまみ上げた。
人間ほどの大きさがあるひとさし指と親指に胴体をつかまれ、片手につかんだライフルを振り回してもがいている男は、五十がらみの中年と見えたが、実際はもう少し若いのかもしれない。肉体を酷使する生活に慣れている地球の人間は、歳より老けて見えることが多いとハリーも経験から学んでいた。固太りの体躯にオーバーオールを着こみ、髭面を真っ赤にしてもがく男を拡大投影したハリーは、その手に握られたライフルが狩猟用のマスケット銃ではなく、ミリシャで使われている中折れ式のリボルバーであると確認して、無意識に舌打ちしていた。
デモの背後に潜んでいるものの臭気が、鼻をついたからだった。つまみ上げられながらも果敢にライフルを構えようとして、果たせずに取り落としてしまった男は、今は手足をばたつかせるだけになっている。懸命に踵を鋤で打ちつける農民たちをよそに、〈ウォドム〉はあっという間にマニピュレーターを動かし、両脚の付け根にあるコクピット・ハッチの前まで男を持ち上げた。ハッチが開き、間違いなくテテス・ハレのものだとわかるパイロットスーツが、コクピットから姿を現す光景がそれに続いた。
地上戦用ヘルメットを装着したテテスは、サンドバッグよろしく吊り上げられた男を見て、いい眺めだというふうに口もとを歪ませる。なにか尋問しているようだが、地上二十メートルの高さに持ち上げられた男には、答える余裕がない。ほとんどパニック状態で、テテスを無視してわめき続けている。ぴったりしたパイロットスーツが、豊満な胸を強調するテテスの顔がいら立ちを露にし、片手に持ったインターフェイス端末になにごとかコマンドを打ち込む。〈ウォドム〉のもう一方のマニピュレーターがゆらりと持ち上がるのを見たハリーは、咄嗟に「やめろ! テテス少尉」と通信回線に怒鳴っていた。
「相手は民間人だ。その男は解放しろ」
(中尉もご覧になったでしょう? こいつはミリシャのライフルを持ってたんです。潰してやれば、付近に隠れてるミリシャのネズミどもが必ず出てくる)
手元のインターフェイス端末に怒鳴り返したテテスは、すぐにこちらの位置に気づいたようだ。気性の強さを滲ませた瞳がまっすぐハリーを見、彼女が優秀なパイロットの目を持っていることを暗黙のうちに伝えた。
そうでなければ、三キロ以上離れた〈スモー〉の頭部センサーを正確に見つめ返せはしない。実際、テテスのパイロットとしての才能は天性のものであり、つわもの揃いの親衛隊からも一目おかれているのだが、傑出したパイロットではあっても、優れた兵士ではないのがテテスだった。およそチームワークという言葉とは無縁の性分は、ディアナ・カウンターに入隊していなかったら、スラム地区でマフィアの頭領にでもなっていただろうと想像させるほどなのだ。
ミリシャの航空部隊と戦闘になった時、最初にビームの砲門を開いたのもテテスだった。本来なら厳罰を免れないところだが、敵モビルスーツのデータを持ち帰ったことで功罪相殺され、今も哨戒部隊を率いて居留地の警備を行っている。デリケートな状況対処が要求される第一次降下部隊に、なぜテテスのような女が選ばれたのか理解に苦しむが、人事の不満を言い出せぼきりがないのが、現在のディアナ・カウンターの内情でもあった。
「そうだとしても、無抵抗の地球人に危害を加えてはならないという原則がある」
続けたハリーに、(無抵抗? こいつが?)と鼻で笑ったテテスは、吊り上げられた男に目を戻した。その肉感的な唇が嘲笑を紡いだ刹那、不意に降りかかった雫がヘルメットに当たり、バイザーを汚した。
男が唾《つば》したらしいとわかった時には、テテスの形相がみるみる青ざめ、無表情になっていった。(じじいが……!)と呻いた低い声とともに、〈ウォドム〉のもう一方のマニピュレーターが持ち上がり、鋼鉄の指が男を揉み潰さんぱかりにのびてゆく。男の顔が恐怖に歪み、ズボンの裾からこぼれ落ちた液体が、太陽にきらめいて光の筋になるのがハリーの目に映った。
失禁したのだろう。「やめろと言った! 少尉」と怒鳴り、ハリーはフットペダルを踏み込んだ。スラスターを噴かした〈スモー〉の機体が一気に三キロの距離を飛び、〈ウォドム〉をかすめるようにして着地する。土砂が噴き上がり、コクピット・ハッチの上に立つテテスは、風圧をまともに食らってシートに倒れ込んだ。
(見たでしょう!? こいつはあたしを辱めたんだ)
即座に起き上がり、こちらを睨みつけたテテスの怒声がコクピットに響き渡る。「モビルスーツで人間を握り潰すなど、ディアナ・カウンターの士官のすることか!」と言い返して、ハリーは機体を〈ウォドム〉に相対させた。
「我々はディアナ・ソレル閣下の名を戴いた前衛だ。相手が蛮族でも、軽率な真似は慎め」
意識して蛮族という言葉を使ったのは、このままではおさまらないテテスを少しでも落ち着かせるためだった。案の定、多少溜飲を下げてくれたらしいテテスは、(親衛隊のエリートが言いそうなことだ……!)と捨てゼリフを吐きながらも、マニピュレーターを操作して男の体を地上に下ろした。
五メートルほどの高さに下ろしたところで、集まった農民たちの上に男を落とす。男の体重を数人がかりで受け止めた農民たちが倒れ、子供が「鬼!」「死んじまえっ!」と叫びながら、〈ウォドム〉のコクピットに石を投げつける光景が続いたが、〈ウォドム〉の巨大な脚がだまれ、というように大地を踏み鳴らすと、一斉にその場から逃げ出していった。小さく息を吐いたハリーは、センサーのモードを熱線探知用のサーマル・イメージに切り換えて、ブナとカエデが密生する付近の森を探査《スキャン》してみた。
思った通り、鉄帽をかぶったミリシャの兵たちが後退してゆく姿が、CG補正された温感映像に映し出された。デモに乗じて、居留地に侵入するつもりだったのだろう。同じく森をスキャンしていたのか、(だから言ったでしょう?)と言った声がスピーカーから発し、ほとんど同時にテテスのすらりとした肢体が、〈ウォドム〉のマニピュレーターに乗ってハリーの目前にまで降りてきた。
気が重かったが、感情のしこりはその場で解決しておかないと任務に差し障りが出るので、ハリーもコクピットのキャノピーを開けて相手をした。ヘルメットをぬぎ、頬に垂らした赤毛をかき上げたテテスの向こうでは、〈モビルリブ〉がフェンスの敷設作業を再開したようだ。大地を踏む車輪の音に、フェンスの杭を打ちつける高い音が断続的に響き、
「奴ら、丘の向こうには装甲車だって待機させてるんですよ」と言ったテテスの声が、それに混ざった。
「大昔のモビルスーツを掘り出したからって、蛮族どもは調子にのってるんだ。叩ける時に叩いておくのが……」
「和平交渉が優先だ。ディアナ様は戦争を望んではいない」
「その和平交渉の間に、連中はモビルスーツを発掘して、機械人形部隊とやらを整備してるんです。ここで奴らを徹底的に叩いておけば、ミリシャは虎の子の機械人形部隊を投入してくる。そうなりゃマウンテン・サイクルの発掘現場を攻撃する口実だってできるってもんでしょうが」
ビシニティという田舎町の近傍にある山、マウンテン・サイクルで旧時代のモビルスーツが次々発掘され、イングレッサ・ミリシャの新たな拠点になっていることは誰でも知っている。停戦命令が実効しているために攻撃を仕掛けられず、ミリシャの戦力が増強されるのを、ただ傍観するしかないことも周知の事実だったが、判で押したような戦略論が、テテスの頭から紡ぎ出されたものとは思えなかった。ハリーは、「それはフィル大尉の考えか?」と鎌をかけてみた。
口ごもった一瞬の後、テテスは喋りすぎた自分に気づいたのか、開き直りとも取れる微笑を浮かべた。フィル・アッカマン大尉はディアナ・カウンター艦艇師団の司令付参謀で、立場的には数多くいる参謀のひとりに過ぎないものの、艦隊の指揮権を掌握する執政官グループと縁戚関係で結ばれているために、階級以上の影響力と発言力を持っている。「和平を前提としたディアナ・ソレル閣下のやり方は甘い」と、事あるごとに漏らしているフィルが、武力解決を唱えて司令のアジ大佐に食い下がっているのは有名な話だった。
非番時にフィルの寝室に出入りする現場を何度も兵に目撃されているテテスが、その血気の影響を受けていないはずはない。「さて……。上官といえども、組織も軍規も異なる親衛隊に、部隊の機密をそうそう話すわけにはまいりませんので」と答えたテテスは、余裕の微笑を浮かべている。いかに反ディアナ的な発言をしようとも、執政官グループに強力なコネを持つフィルを、親衛隊が好きに処遇できはしないと見抜いている微笑だった。女を匂い立たせた白い細面を見る気にはなれず、ハリーは約十万の帰還民が暮らす居留地に目のやり揚を求めた。
コンテナ・ブロックを中心に、U字型の居住ブロック四つが組み合わさった形の帰還船は、今はブロックごとに解体され、居住ブロックがそのまま簡易住居として使われている。ドーナツを半分にしたような形の簡易住居が点々と散らばる中、余った構造材を利用して子供たちの遊び揚が作られ、洗濯物の干し台や帰還民同士の物品交換所が設けられている居留地は、難民キャンプそのものの様相を呈していた。
その向こうには、戦艦〈アルマイヤー〉を中心とするディアナ・カウンターの橋頭堡が、蜃気楼に揺らいでいる光景がある。前面に張り出した艦橋《ブリッジ》が亀の頭を彷彿とさせる〈アルマイヤー〉は、さながら暑さにうだって寝そべる巨大なイシガメだった。艦尾の発着デッキは今ごろ灼熱地獄だろう、と想像したハリーは、陽光を映しててらてら輝く船体上部の荷粒子砲台を眺めた。防寒対策は万全でも、防暑は甘く見られていたのが今回の帰還作戦のミスのひとつで、オープン構造になっている〈アルマイヤー〉の発着デッキは、午後になると蒸し風呂同然の酷暑に見舞われるのだった。
二百年にわたって準備され、あらゆる想定がされ尽くしたように思えても、実際に蓋を開けてみなければわからなかった問題が山積している。その意味では、現在はまさに試行錯誤の時なのだろうと納得して、ハリーは地平線を埋める針葉樹の緑に目を移した。
帰還作戦実施によって招来される、ディアナ・カウンター将兵の心理的変化についても、事前の予測とは異なる結果が出始めている。精神医学分野の権威が予測したところでは、実戦を経験することで十数パーセントの兵が神経症にかかり、そのうちの半分は戦力として機能しなくなるだろうとされていたのだ。
シミュレーションで万全の訓練を受けているとはいえ、人の体がちぎれ飛ぶ光景を目の前にすれば、それ以上の戦闘継続は不可能になるだろう、と。たしかにそうした反応はあったものの、戦線を離脱した兵の数はひと握りにも達しない少数だった。突発的に開いてしまった戦端に刺激され、以前より積極的に任務に取り組むようになった兵の数の方がむしろ多く、表層的には落ち着いていても、底の方では興奮しっぱなしといった空気が漂っているのが、地球に降下《おり》てからのディアナ・カウンターなのだった。
その傾向は地球側のミリシャにも見られる。工業化時代の戸口に立った社会の潜在能力があったとはいえ、数年前までは軍隊の概念さえろくに知らなかった者たちが、かくも巧妙に動くさまには不気味ささえ感じられる。地球人もムーンレィスも、二千年間眠っていたなんらかの資質が呼び覚まされたのかもしれなかったが、それがなんであるかを正確に表現する語彙《ごい》はハリーにはなかった。
ハリーにあるのは、ディアナ・ソレルが企図した今回の帰還作戦が、地球と月の双方をよりよい方向に導くであろうという確信だけだった。地球の民は、滅びの記憶を忘れることで再生の時間に身を委ねてきた。しかしただ忘れたというだけでは、かつて自らの発祥の地さえも破壊してしまった人の性《さが》、原罪を乗り越えたことにはならない。
滅びの記憶を忘れずに持ち続け、原罪を滅却して新たな世界を築かんとするディアナ・ソレルの理想を知らなければ、地球の民は眠れる歴史の中で脳髄をふやけさせ、やがてはウジ虫以下の存在に成り果てる。過去を認知し、その上でよりよい未来を開くためにも、地球人とムーンレィスの融合、ディアナ・ソレルによる人類の統治は必須である――。それがハリーの信念であり、その実現に多少の流血が必要であるというなら、自分の血であれ他人の血であれ、被ることを厭わない覚悟も持っていた。
が、そういう自分こそ、眠っていたなにかを呼び覚まされて、興奮しているだけなのではないか? ふと考えたハリーは、「ディアナ様は穏便にとおっしゃられますが、地球は広いんですよ」と言ったテテスの声に、その先の思考を中断された。
「本国からの増援も遅れに遅れて、一昨日ようやく第二次降下部隊が到着したばかり。それだって当初の予定の半分の数でありましょう?」
事実だった。ディアナ・ソレルが傑出した統治者であっても、ムーンレィスのすべてが恭順しているわけではないという拭い難い現実がある。地球帰還作戦の遅延が月本国の隠微な力関係に影響を与えた結果、増援物資の補給が滞りがちになって、武器弾薬の不足はもちろん、帰還民の食糧事情も悪化の一途をたどっていた。動揺の火種が軍・民両方に燻っている今、迂闊に口にしていいことではなく、ハリーは「推測でものを言うな」とテテスをたしなめたが、顔のこわ張りは隠せなかった。
「|降下《おり》てきた船の数を見れば子供でもわかりますよ。自分が言いたいのは、この居留地とノックス空港の〈ソレイユ〉だけが、ディアナ・カウンターのより所だということです。古びたモビルスーツと玩具みたいな兵器しか持っていないミリシャでも、囲まれたら厄介になりますよ」
「守りのための戦闘は許可してある」
「だからさ……。増える前に潰すっていうのが、守りの戦いだと思うんだがねえ」
生来のヤクザ気質を覗かせた声に、ハリーはさすがに怒りを孕んだ視線を向けたが、今のは独り言であります、というような顔でインターフェイス端末を操作したテテスは、〈ウォドム〉のマニピュレーターを上昇させて〈スモー〉のコクピットから離れていった。無駄と知りながらも、「停戦命令は実効中だ」とくり返したハリーは、「その論法で、中尉はこの間〈ガンダム〉を取り逃がしたのでありましょう?」と答えたテテスの声を、〈ウォドム〉の指の隙間ごしに聞いた。
「ガンダム……?」
「ミリシャの機械人形部隊の中核、白ヒゲのモビルスーツのことでしょうが。中尉がそう呼んだんですよ?」
いったん停止させたマニピュレーターの上で、テテスが不審げに説明する。地球に降下した最初の夜、頭部のフェイスガードが髭に見える白いモビルスーツを目にしたのは鮮明に覚えていたが、ガンダムという言葉を口にした覚えはなく、なぜそう呼んだのかも皆目わからなかった。
〈ガンダム〉といえば、過去の戦争で宇宙移民者を苛《いじ》めた偉大な敵≠ニいう、伝説とも迷信ともつかない話が口づてに残る大昔のモビルスーツの名称で、ハリーも士官学校時代に何度か耳にはしたものの、以後気にしたこともない言葉だった。「わたしがガンダムと言ったのか?」と確かめると、「フライトレコーダー、聞かせましょうか?」と呆れた調子のテテスの声が返ってきた。
「ぴったりの名前だと思ってたんですがねえ。宇宙移民者の偉大な敵だった〈ガンダム〉が地球に残っていて、あたしたちの帰還の邪魔をする。しかもそのパイロットは、地球側に寝返ったムーンレィスだっていうんだから、できすぎじゃありませんか」
「できすぎ……?」
「単純に憎める敵がいるっていうのは、兵にとっては士気の高揚に繋がるということです。敵役《かたきやく》ってやつですよ」マニピュレーターの指の隙間からこちらを見下ろすテテスは、そう言うと肉厚の唇をニヤと歪めてみせた。
「ご心配なく。この話は誰にもしていません。こんど戦場で会ったら、自分が確実に討ち取ってみせますよ」
マニピュレーターが再び上昇を開始して、ハリーは喉まで出かけた反論の言葉を呑んだ。〈ウォドム〉のコクピットに収まったテテスを見送りつつ、白いモビルスーツに乗っていたムーンレィスの少年、ロラン・セアックの名前を思い出していた。
本国のメインフレームにアクセスして調べたところ、たしかにその名が戸籍に登録されていた。メイザム地区養護施設出身の孤児で、環境調査員を志望して二年前に地球に降下。おとなしいという以外、備考欄に記す事項もない凡庸な少年というのがロラン・セアックの記録であり、白いモビルスーツに乗り込んだ経緯、ディアナ・カウンターの一線のパイロットと互角以上に渡り合えた理由については、皆目わからないまま現在に至っていた。
テテスの言う通り、白いモビルスーツは今やミリシャ機械人形部隊の中核と目されている。新聞記事を信じるなら、現在のパイロットはローラ・ローラという名前の女性で、ロラン・セアックの消息はあれ以降途絶えていた。監察期間の満了で体内発信教が消滅したとはいえ、追跡調査する方法がなかったわけではないのだが、あえてそれをしなかったのは、動揺の拡大を恐れた親衛隊上層部が情報の秘匿を決定したからだった。
親衛隊の権限を超えた措置だったが、補給の遅滞で動揺が拡大しつつある時に、ムーンレィスの中から造反者が出たという話が広まっていいことはない。誰にも話していない、と言ったテテスの言葉を反芻したハリーは、上官との同衾《どうきん》を公然とやってのけるような女の口が、どれほど固いものかと怪しんだが、テテスは介する様子もなく、自機を転回させて哨戒行動に戻っていった。
重い地響きを立てて遠ざかる〈ウォドム〉の足音に、随伴する〈ワッド〉隊が小走りに駆けてゆく足音が重なる。喉に小骨が引っかかった感覚を抱えたまま、ハリーもコクピットに収まった。
パネルの時刻表示が、十三時五十分を差していた。そろそろボストニア城で何回目かの交渉会議が始まる。とんだ道草を食ってしまったと内心に罵りながらも、ディアナ・ソレルに会えると思うと引っかかった小骨も多少まるみを帯びてきて、ハリーは再び〈スモー〉をノックス空港へ跳躍させていった。
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「……ミリシャが軍隊ではない、という話は信じましょう。末端の者が独自の判断で動いて、勝手に戦線を広げているのですからな」
冷笑を含んだ声に、キエル・ハイムは速記の手を止めて微かに顔を上げた。ずらりと居並ぶディアナ・カウンター首脳陣の中、青白い肌がムーンレィスの典型と見えるミラン・レックス執政官が、のばした背中をぴくりとも動かさずにいる姿が見えた。
長テーブルを挟んで向かい合う席には、グエン・サード・ラインフォードを中心とする地球側領主連合が陣取っている。ボストニア城の行政区画にある会議場で、連日のように開催されている交渉会議の風景だったが、この日は初めて北アメリアの全領主が揃うとあって、いつにない緊張が漂っていた。
二時間の昼休みを挟み、午後二時から再開された会議は、頻発するイングレッサ・ミリシャのゲリラ攻撃を非難し、明白な停戦条約違反だとするディアナ・カウンター側の声明によって幕を開けた。これに対して領主連合は、ミリシャは市民団体であって軍隊ではない、その行動を我々の総意と勘違いしてもらっては困ると反論して、ミラン執政官の冷笑を買う羽目になったのだった。「現在、調査をさせております。責任者が判明し次第、厳罰に処す所存であります」と応じたイングレッサ・ミリシャの指揮官、ミハエル・ゲルン大佐の声は、屈辱を押し殺してひどく無表情に聞こえた。
「あなた方の攻撃は、地球の人間にとっては天地が逆さまになるほど恐ろしいものだったのです。いったん植えつけられた恐怖と憎悪は、そう簡単に拭い去れるものではありません」
グエンが、ミハエルを庇って続ける。痴呆症が隠しきれなくなったメッサー・ラインフォード領主に代わり、イングレッサ領の全権を与かった若き御曹子は、今は北アメリア領主連合の取りまとめ役も任されていた。
初期からムーンレィスとの交渉を行ってきた実績を買われてのことだったが、年老いた他の領主たちには、ムーンレィスとまともに取り組むつもりも能力もなく、グエンが矢面に立たざるを得なくなったと言った方が正しい。憮然と腕組みをする領主たちの中、ただひとり交渉の荒波に揉まれ続ける背中を見つめたキエルは、「速記をしてくれているこちらの令嬢は、あなた方の攻撃でお父上を亡くされたのです」と重ね、不意にこちらを振り向いたグエンと目を合わせて、口から心臓が飛び出る思いを味わった。
ディアナ・カウンター首脳陣の注視が、テーブルから少し離れた机で速記をしているキエルに向けられる。肉体的な差異はないものの、ムーンレィスの太陽の光を知らない白い肌と小さな瞳孔は、集団になると否応なく異民族を意識させた。中央に座るディアナ・ソレルまでが、憂いを含んだ瞳をこちちに向けるのを見たキエルは、いたたまれずに速記帳に視線を戻した。
グエンの私設秘書として速記係などの雑用を務める傍ら、キエルはボストニア城に滞在するディアナの世話役も仰せつかっている。ディアナ自身がそう希望したからだった。容姿が似すぎている、という単純にして奇妙な符号が、地球と月の和解を求める女王の気を引いたのかは定かではないが、二人の瓜二つぶりは、ディアナの側近でさえ見誤るほどのものだ。最初は気が重かったものの、そうすることでグエンの役にも立てると考えたキエルは、それからはディアナのお茶の時間の話し相手を務めるようになった。
話といっても、せいぜい北アメリアの風習などを教える程度のことだったが、他愛ない話でも目を輝かせて聞き入るディアナは、およそ高慢な態度や邪《よこし》まな気配とは無縁の女性だった。純粋な人柄に触れるうち、少しでも月の情報を手に入れようという打算も溶けて流れて、共感できる人らしい、の思いが固まりつつあったから、この時のディアナの視線はキエルには痛かった。
女王の責任感で覆った鉄面皮の下に、同情や自責の念といったさまざまな感情が渦巻いているのがわかる。目を合わせるのが辛く、速記用のペンを握り直したキエルは、交渉のダシに使うタイミングで人の不幸を持ち出したグエンを、わずかに恨めしくも思った。
父の訃報は、ディアナ・カウンターの攻撃があった翌々日にキエルのもとに届いた。寝たきりの母にその事実を知らせると、ひとしきり嘆き悲しんだ母は、それきり自らを現実の世界から遮断してしまった。大きすぎる悲しみから身を守るため、母の心は戦争や父の死にまつわる記憶を無意識に封印したのだ。
今はビシニティに戻ってジェシカたち使用人とともに暮らしているが、その心は二ヵ月前に留まったまま、いまだに父の死もムーンレィスの存在も認められずに、夢と現の狭間を漂っている。戦災で焼け落ちた屋敷が自宅だとはわからずに、こんなに焼けてしまったお家は気の毒だねえ、と他人事のように口走っているのだという。ソシエが家を離れ、ロランとともにミリシャの手伝いをしているのは、そんな母の姿を見ていられないからでもあるのだろう。勝ち気なようでいて、人一倍鋭い感受性を持っている妹だから……。
そう考えるといてもたってもいられなくなるのだが、ビシニティに向かう飛行船に飛び乗りたい衝動をどうにか堪えて、キエルはボストニア城に留まり続けていた。偶然の延長線上であっても、領主陣営トップの秘書を務め、月の女王の世話役も任されている自分の立場を考えれば、今ここを離れるわけにはいかないと思う。それは二ヵ月前の、新しい社会に出て働きたいなどという浮ついた気分ではなく、ディアナの物腰から自然に教えられた、己の責任を果たそうとする義務感のようなものだった。
「この大陸のサンベルト地帯を提供してくれさえすれば、我々は戦いはしない」
ディアナ・カウンターの中核、艦艇師団の司令を務めるアジ大佐が口を開き、キエルは速記に意識を戻した。分厚い眼鏡の奥に思慮深げな瞳を湛えたアジは、六十も半ばを超えた高齢だが、第一次降下部隊の長として如才ない指揮官ぶりを発揮している。ディアナの意志を尊重し、血気に逸《はや》りがちな将兵を抑えてはいるものの、一向に進まない移住交渉にいら立ちは隠せない様子だった。
「あなた方は自分の都合だけを申している」とグエンが即座に返し、いつもの論争が蒸し返されそうになった時、会議室の扉が開いてひとりの男が入室してきた。
特徴的な深紅のサングラスは、ハリー・オード中尉のものだとすぐにわかった。一同に黙礼した後、きびきびした所作でディアナ・カウンター陣営の末席に着いたハリーは、若年ながらディアナの警護隊長を務める親衛隊の中堅士官だ。隙のない物腰に、なにかしら紳士的なやさしさを漂わせている男で、ディアナも全面的な信頼を寄せているようだった。
キエルにとっては、好きになれる数少ないムーンレィスのひとりであり、老獪なディアナ・カウンターの首脳たちと並ぶと、その端正な顔立ちはますます引き立って見えた。
「……ディアナ・カウンターの方々におわかりいただきたいのは、無線で交渉をした二年あまりはなかったことにしていただきたい、ということなのです」
中断の間を咳払いで取り繕って、グエンがそう続ける。眉間に微かな皺を寄せ、「月に住むムーンレィスを、同じ人間と認識していなかった、と?」と聞き返したアジにも動じず、グエンは「それ以前です」と冷静に返した。
「送っていただいた無線機は、我々にも理解できる真空管式のものでしたから、我が領の収奪を狙ったどこかの国の攪乱《かくらん》工作だと想像したのです。月に人間がいるなどという話は到底……」
嘘と本当を半分ずつ、といった感じのグエンの言葉だった。肩にのしかかった重圧をしっかりと受け止め、政治家的資質を開花させてゆくグエンを見るのは嬉しいことだったが、ディアナの苦労も知るキエルは、その背中に多少のきな臭さも感じ取っていた。
平和的解決を口にする一方で、グエンはミリシャに資金と指示を出し、マウンテン・サイクルの発掘を進めて機械人形部隊の編制を急いでいる。対等に交渉を成立させるためのカード≠セと言うが、ムーンレィスの渋面を前に丁々発止のやりとりを続けるグエンには、この事態を面白がっているのではないかと疑わせる節があることも確かだった。
「我々の圧倒的な技術力を前にしても、まだそのようなのらくらした態度を続けるつもりか?」
がっしりした体躯に、吊り上がった細い目と広がった鼻。隣に座るアジ大佐の温厚な顔とは対照的に、いかにも獰猛《どうもう》な顔つきをしているフィル・アッカマン大尉が、噛みつかんばかりの目でグエンを睨みつける。一応、司令付参謀のひとりであるようだが、外見そのままの性格と直情的な物言いは、キエルには頭の悪い人という印象しか持てなかった。ディアナとアジも困惑している様子なのだが、どういうわけか、交渉会議の時には必ず上席の方に座を占めている。会議室の空気が険悪になり、「抑えろ、フィル大尉」と言ったアジの声が、緊張した雰囲気を多少和らげた。
「彼らには我々ほどの学問も知識もないのだ。蛮族には蛮族のやり方に合わせる必要がある」
抑制されたアジの視線が、まっすぐグエンを射る。
「残念ながら、そういう言われ方を認めざるを得ません」と平静を装ったグエンが返した時、「言わせておく気か、グエン・サード!?」の声が隣に座る領主の口から発した。
ルジャーナ領の領主、ボルジャーノ公だった。グエンの祖父、メッサー・ラインフォードの盟友でもあるボルジャーノは、領主たちの中でもっとも反ムーンレィス志向の強い人物で、自領でもミリシャの整備を急いでいると聞く。「過去に人間が月に住み着いたなどという話は、いっさい信じられん。こいつらはガリアの北の住民で、いかさま師の集団に決まってるんだ」とまくし立てたボルジャーノは、マホガニー製のテーブルを拳で叩きつけていた。
「そうだろうが。地球中の人間が全員、過去の記憶を失っているなどという話が、どうして信じられる。こいつらが本当に月から来たというなら、それは月の生き物が進化して生まれた人間に決まっている。我々とはまったく関係のない人種なんだ」
「地球上では『黒歴史』といわれております裏の歴史。オカルトと捉えられているようですが、あれが真実なのです」
それまで黙っていたディアナ・ソレルが口を開き、ボルジャーノの蛮声を遮《さえぎ》った。会議場の空気が一瞬に張り詰める中、注視する一同の目線を受け止めた月の女王は、臆する様子もなくグエンたちの顔をひとりひとり見つめていった。
「領主方がそのことを理解され、大衆に知らしめれば、無用な誤解は早々に解けるものと考えますが?」
「それが難しいのです。新聞やラジオの普及率など、この数百年ほとんど変わっていないのですから」
さすがに動揺の気配を隠せないグエンが言うと、「いつまでもそう仰《おっしゃ》られるなら、私どもはサンベルトに移動します」というディアナの声がぴしゃりと返ってきて、一同は声を失った。その間に、ディアナの目配せを受けたミラン執政官が、テーブル上に北アメリア大陸の地図を広げていた。
「みなさま方は立体映像《ホログラム》はご存じないと聞きましたので、地図を用意させました」
東からイングレッサ、フロリャ、ルジャーナの各領が並ぶ北アメリア大陸は、メジコ湾に突き出た半島を経由して、マニューピチなどの小領が割拠する南アメリア大陸に続く。広げられた大陸の地図は、領境とは関係なく緑と白で塗り分けられており、各地の人口密度を示す赤い点がその上に散りばめられていた。
「緑色の部分が、まだ汚染が残っている地域……あなた方の言う痩せた土地が広がっているところです。これによると、サンベルトは土地も肥沃で、気候風土もいいとされているのに、人口密度は極端に少ない。なぜでしょう?」
イングレッサ領の南方、フロリャ領との領境上に広がるサンベルト地帯を指して、ミランが問う。
「サンベルトは日光が強い土地柄です。強力な太陽の光は体によくないから……」と答えたグエンを制して、ミランは「違います」と間を置かずに言っていた。
「北アメリアの人々の潜在的記憶が知っているのです。そこが自分たちの土地ではない、ということを」
小さな瞳孔が、灰色の瞳を強調しているミランが一同を見渡す。ぞくりとした悪寒が地球側出席者たちの体から無条件に立ち昇り、会議場の空気を一、二度下げたようだった。
「汚染レベルが少なかったサンベルトは、もっとも早く人が住める環境を取り戻すだろうと予測された土地です」押し黙った領主たちの反応を見据えつつ、ディアナがゆったりとした声で続ける。「私たちの祖先は、月に移り住んだ時からそこへの帰還を予定していました。過去を抹消したつもりでも、あなた方の体の中に当時の記憶が残っているからこそ……」
「歴史などいくらでも捏造《ねつぞう》できる。いくらでも歪められるものだ」
唐突に発した低い声に、ディアナは水色のルージュをひいた唇を閉じた。女王の言葉を遮った無礼に、ミランやアジたちが怒りの目を向ける中、ゆらりと立ち上がった声の主はディアナの顔を正面に睨み据えた。
「おまえたちが今さら地球に帰還するなど、誰が認めるものか!」
そう続けたエリゾナ公の目は赤く血走っており、うちに秘めた怒りの大きさを示して、拳は白くなるほど握りしめられていた。北アメリアの中では、もっとも歴史が古いと言われるエリゾナ領の領主は、これまで頑としてムーンレィスとの交渉に応じようとせず、会議にも代理の者を寄越し続けていたので、今日が初めての出席になる。「エリゾナ公……」と小さく囁いたグエンが、抑えろというふうに肩に手をのばしたが、「かまわんでくれ」とそれを押し退けたエリゾナは、テーブルに両手をついてディアナの方に身を乗り出すようにした。
「わしは他の者たちより『黒歴史』に詳しい。おまえたちムーンレィスが語る『黒歴史』には、真実が欠けているんだ」
「真実とはなんです」
「おまえたちは地球を捨てて逃げ出した民ではないか!」
枯れ木を思わせるエリゾナの腕がテーブルを叩きつけ、エリゾナ家の紋章が刺繍されたマントが、発散される怒りを孕んだかのごとく小さく波打った。「逃げ出した……?」と聞き返したのは、油断のない目を注いでいるハリーだった。
「我らの父祖たちは、この地球に留まり、辛苦の末にこの星を再生させた。対しておまえらの父祖たちは、月に落ち延びた卑劣な逃亡者である。今になって大地に還りたいなどとは笑止!」
再度テーブルを打った拳の音が、会議場の天井を飾るエトナ細工のシャンデリアをも揺らしたようだった。「無礼な……」と呟いたディアナの眉間に微かな皺が寄ったが、それは怒りというより、悲しみを大したものにキエルには見えた。
それが真実……なのだろうか? 速記を忘れ、エリゾナに視線を移したキエルは、素早く動いたエリゾナの右腕が、マントの裏に隠していた物を取り出すのを見て、ぎょっとなった。
ライフルを思わせる木製の台座の先端に、金属製の弓が取りつけられた物体は、間違いなくクロスボウだった。ハリーが即座に腰の拳銃を抜き放ち、アジとフィルが同時に立ち上がったが、その時には鋭い光沢を放つ矢じりがディアナの胸にぴたりと据えられていた。
「おまえたちの攻撃で、ノックスに旅行に来ていた妻と甥が殺されたのだ。貴様らの強力な兵器で、妹が頼りにしていたいい子が黒焦げにされたのだ……!」
頑《かたく》なに交渉を拒んできた理由が明らかになり、キエルはいっぱいに張られた弓弦同様、ぎりぎりまで張り詰めたエリゾナの顔を見た。作りは旧式でも、クロスボウの矢はフライパン程度の鉄板なら簡単に貫通する。唇をきつく結び、座ったまま微動だにせずにいるディアナは、それがわかっているのだろうか? 矢じりと、その向こうのエリゾナの目をじっと見つめる瞳には、恐怖よりも強い哀しみが宿っているようにキエルには見えた。
ハリーとフィル、それに数人の将兵がエリゾナに銃口を向け、棒立ちになった領主たちの中、「それはいけません! エリゾナ公」と叫んだグエンが前に出ようとしたが、それはエリゾナに引き金を引かせる結果しかもたらさなかった。
ブン、と鳴ったのは弓弦の音か、矢が肉を貫いた音か。呻き声が漏れ、それがアジ大佐の声だとわかるより先に、ディアナの隣に立つアジが腹を押さえ、テーブルに上半身を倒れ込ませていった。制服の背中から、血と脂を吸った矢じりが突き出ているのを見たキエルは、全身の血が足もとに下がってゆくのを感じた。
グエンが前に出たために狙いが狂ったのだろう。白い細面をさらに青白くさせたディアナが立ち上がり、扉を開けて飛び込んできた親衛隊の兵たちが素早くその周囲を固める。傍らではフィルがアジを抱き起こし、頸動脈にひとさし指となか指を当てていたが、血の気を失った老大佐の顔を見れば、即死に近い状態であることはキエルにも想像がついた。
「医務官を呼べ!」と叫んだフィルの声が響き渡る中、立ちつくすしかないグエンたちを見据えたハリーは、手にした拳銃の筒先をエリゾナに向けていた。
「ご老体、ディアナ様が列席される交渉会議の場を、血で汚した罪は大きいぞ」
言いつつ、ハリーはサングラスごしの視線を親衛隊員たちに送る。円陣を組んでディアナを護衛する兵たちが、陣形を崩さずに出口の方へと移動を開始し、「交渉は続けます! 将兵は早まった行動を慎むように……!」と叫ぶ声を無視して、ディアナを会議場の外に連れ出してゆく。呆然と見送ったキエルは、「野蛮人め、血であがなえ!」と怒鳴ったフィルに、びくりと体を震わせた。
「これが地球の総意か……!」
ぐったりしたアジを部下に預け、ハリーに並んで銃口を掲げたフィルが、殺気そのものの目をエリゾナに向ける。エリゾナは痩身の胸を反らし、覚悟があることを伝えたようだったが、両手を広げたグエンがその前に立ち塞がっていた。
「あがなえと言うなら、わたしをやれ! しかし交渉は続けさせてもらう」
その瞬間には打算もなにもなく、グエンは領主だる者が持つべき義勇の美徳に従って体を開いたのだろうが、火がついたフィルの感情を静めるには至らなかった。「代償が先だっ!」の声と同時に銃声が発し、窓から差し込む陽光を圧して膨らんだ閃光に、キエルは反射的に目を閉じていた。
次に目を開いた時、見えたのはテーブル上をたゆたう硝煙の筋と、胸に血の華を咲かせたエリゾナの姿だった。グエンがその痩身《そうしん》を支え、「エリゾナ公……!」と呼びかけたが、口からも血の泡を吹き出した老領主は、もう半分意識を失いかけていた。
「すまん……。御曹子には、この先の我らの行く末を……」
吐き出された血の塊がその先の言葉を封じ、エリゾナは動かなくなった。血にまみれた手をこめかみに当て、亜麻色の髪をぎゅっとわしづかみにしたグエンは、言葉もなく顔を伏せている。硝煙をたなびかせる銃口を掲げたまま、フィルはその頭に照準を取っていたが、「大尉、ここは……」と囁いたハリーが間に入ると、渋々といった感じで拳銃を下ろしていった。
「アジ大佐の命の代償を、老躯《ろうく》で支払ったと思うなよ。グエン・ラインフォード」
ハリーのその言葉は、フィルを納得させるために吐かれたものとキエルには聞こえた。アジ大佐の遺体が担架に載せられ、ミランたち他の出席者も会議場を後にしてゆく。近づきかけた地球と月が、再び互いの距離を離してゆく足音が会議場を満たし、ゆっくり後じさるハリーとフィルの足音が、その中に混ざった。
「……中尉の言う通りだ。相応の代償は支払わせる」
最後に呟くと、フィルは開けっぱなしになった扉をくぐって会議場を後にした。滞留する血と硝煙の臭いがうっすら鼻をつき、これから始まる事態の惨《むご》さをキエルに想像させた。
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「……いいですね? それじゃ、今日は手引書の十二ページ目の操作からいきます」
膝に置いたガリ版刷りの手引書をめくりながら言うと、「おうよ! しっかり指導たのむぜ、ローラちゃん!」の野次が飛んで、どっと笑う男たちの声がそれに続いた。ぼくはロランです、と出しかけた言葉を呑み込んで、ロラン・セアックは左右のアームレイカーに手のひらを載せた。
反論したところで、新しい笑いを提供する結果にしかならないとわかっている。目の前には十数機のモビルスーツがずらりと整列しており、そのコクピットには、急場で作製された手引書を手にした俄かパイロットたちが収まっているのだ。余計なことで時間をつぶす間に、一刻も早く基本操作を習熟させる必要があった。
ミリシャの連中がロランをローラと呼ぶのは、グエン・サード・ラインフォードのもたらした悪い影響だ。このマウンテン・サイクルで複数のモビルスーツが発掘され、機械人形部隊の編制が現実のものになった時、発足式の壇上に立ったグエンは一同に言った。
『ローラの機械に対するセンスは本物だ。でなければ、このホワイトドールの機械人形を操って、ムーンレィスのカカシ≠撃破するなどできなかっただろう。状況が有利であるとは言えないが、このような時にビシニティの守護神であるホワイトドールが立ち上がり、多くの機械人形が出土した僥倖は、我々に絶望するなと教えてくれている。この土地を耕してきた父祖の魂が、これら巨人たちを呼び覚ましたのだ。月との交渉がよりよい方向に傾くか否かは、すべて諸君らの働きにかかっている。一刻も早く機械人形の操縦を習得し、ローラのホワイトドールに負けない活躍をみせて欲しい』
こうなる以前からロランに目を付けていたグエンにしてみれば、機械人形を動かし、ムーンレィスの兵器を大破せしめたローラの武勇談は、自分の手柄のようにも思えたのだろう。もっとも、なりゆき上そうなってしまったというだけで、ロランには手柄を立てた自覚は微塵もなかった。一同の興奮についてゆけず、相変わらず涼やかなグエンの顔を見上げて、どうしてこの人は自分のことをローラと呼ぶのだろう、と漠然とした疑問を感じるのみだった。発足式に出席したのも、ソシエに尻を叩かれて発掘の手伝いをしていたからであって、本格的にミリシャに入隊して戦うつもりなど、これっぽっちもなかった。
その後、ロランを壇上に招いたグエンは、『操縦訓練の教官はローラに務めてもらう』と締めくくって、引き連れてきた新聞社のカメラマンに写真を撮るよう命じた。ミリシャの士気を高めるためにも、ローラの活躍は報道したいのだという。ムーンレィスの環境調査員である自分が、〈ウォドム〉とやりあった経緯はディアナ・カウンターに知れ渡っているだろうし、あの場に降下してきた親衛隊のパイロットには名前も知られている。この上、新聞に載るなど冗談ではないと思ったが、いつもの舐めるような視線で煙に巻いたグエンは、ムーンレィスとの交渉の矢面に立っている都合上、自分は一緒に写るわけにはいかないと言って、ロランをひとり残してさっさと演壇から下りてしまっていた。
顔はアップでは載せないし、実名も伏せると重ねたグエンは、まるでこちらの素姓を見抜いているかのようだったが、確かめる気にはなれず、またその余裕も与えられなかった。すぐに大量のフラッシュが焚かれ、ミリシャ機械人形部隊の若き星、ローラ・ローラ≠フ見出しが、翌日の新聞にでかでかと踊る羽目になった。
ホワイトドールのモビルスーツ、〈ターンA〉をバックに撮影された写真は確かに粒子が粗く、肩までかかった髪が風になびいて写っている姿は、ローラ・ローラの名前も手伝ってロランを女に見せていた。これならディアナ・カウンターの目に止まっても自分とはわかるまい、とロランは胸をなで下ろしたものだが、そのままなし崩し的にミリシャに編入され、機械人形部隊の訓練指導をさせられているのだから、露見するのは時間の問題とも言えた。
「わかってるな!? 今日は上半身の動かし方だ。〈カプル〉の腕は武器を持つにはでかすぎるから、戦闘になったら爪でぶっ叩くしかねえ。ロランの言うことをよっく聞いて、完全に暗記するまでは操縦席から出るんじゃねえぞ!」
山間の訓練場に響き渡る大声がすぐ横に聞こえて、ロランは開放したキャノピー越しに左手の方を窺った。先日、ムーンレィスの居留地から強奪してきた〈モビルリブ〉のコクピットから顔を覗かせたウィル・ゲイムが、前方に整列したモビルスーツ群に呼びかけているところだった。
ウィルは黒歴史発掘隊の所属で、機械人形部隊に指示を出す権限はないのだが、その辺のいい加減さは言っても始まらないのが現在のミリシャだ。居留地の設営で家を失った農民たちが続々と入隊してくる一方、主力の陸戦隊はゲリラ活動に忙しいので、訓練の行き届かない兵がごろごろしているというのがひとつ。発掘作業や機械人形の整備などの作業が山積しているのに、リーダーであるミハエル大佐がしょっちゅう交渉会議に呼び出されるため、マウンテン・サイクルに腰を落ち着けていられないというのがひとつ。他にも挙げればきりがないが、とにかく今のミリシャの編制はめちゃくちゃの極みで、所属も階級も関係なく、手の空いている者がなんでもやるのが当たり前になっているのだった。
「いいから早く始めろよ!」
「こっちは十年も飛行機を飛ばしてきたんだ。同じようなもんだろうが!」
モビルスーツの頭部にあるコクピット・ハッチに半身を乗り出し、ウィルの繰り言にうんざり顔を見せている男たちが口々に叫ぶ。機体に〈AMX−109 KAPOOL〉の型武名が刻印されていたことから、〈カプル〉と命名されたモビルスーツは、今までに十五畿が稼動状態に整備され、航空団の中から選りすぐられた戦闘機乗りがパイロットに任命されていた。
昨日まで複葉機を飛ばしていた男たちに、モビルスーツを操縦しろというのも無体な話ではあったが、操縦枠を握り慣れているぶん、まったくの素人よりは覚えが早いのも事実だった。どだい、動作の大半をコンピュータが代行しているモビルスーツの操縦は、アームレイカーとペダルの操作さえ誤らなければ子供でもできる。
「飛行機に手足がついてるか? 敵をぶん殴ったり、横移動したりするか? いっちょまえの口は、きっちり動かせるようになってから叩け!」と怒鳴り返すウィルの声を聞いたロランは、「それでは、始めます!」と精一杯の大声を出して、〈ターンA〉のマニピュレーターを動かしてみせた。
放っておけばあっという間にケンカになり、貴重な時間を無駄にすることになる。つきあってみれば気のいい男なのだが、こうなる以前は気触り者≠ニ周囲から謗られていたらしいウィルは、他人の言葉に敏感で、やたらにケンカっ早い欠点があった。先祖代々、宝探しに熱を入れてきたためにそんな風評がつくようになったのだというが、忙しさにかまけてロランも詳細は聞いていない。イングレッサ領の者なら誰でも知っているという、ウィルの祖先にまつわるおとぎ話も、いまだに知らないままだった。
荒くれのパイロットたちを従わせるのに必要なのは、理屈ではなく実力だ。全員がそれぞれのコクピットに収まるのを待ったロランは、自分もコクピットのキャノピーを閉鎖して、通信機のスイッチを入れた。
「まず、五番のボタンを二回押して、センサーモードを〈警戒〉から〈索敵〉にスイッチしてください。コントロールは〈歩行〉に固定したまま、七番スイッチを押して機動モードを〈戦闘機動〉から〈近接戦闘〉に変更。シート脇の小さな画面に表示が出ましたね? 正面のモニター……テレビジョンには照準用の十字線が出ているはずです。この十字線を目標に重ねて、操縦桿のスイッチを押しながら前に倒せば、機械人形の腕がそこを目がけて繰り出されます。ようするにパンチです。スイッチと一緒にペダルを踏めばキックになりますが、〈カプル〉の足は短いのであまり役には立ちません。自分が手本を見せますから、後に続いてやってみてください」
我ながらアホらしいと思いながらも、ロランはアームレイカーとフットペダルを操作して、〈ターンA〉の機体に正拳づきの真似事をさせた。サッカーボールに手足がついているといった形状の〈カプル〉が、ずんどうのボディを動かして懸命にそれを真似るのを見て、アホらしい気分に拍車がかかるのを感じた。
〈カプル〉がいつごろ製作された機体なのかは定かでないが、|Iフィールド《IF》・|ビーム駆動システム《BD》が採用されていないところを見ると、〈ターンA〉が開発された時代よりかなり前、モビルスーツが使われるようになった初期の頃の機体であると見て間違いなかった。用途も不明だが、全体に曲面を多用した形状、指の代わりに設置された巨大な爪から推測して、局地戦用の機体――おそらくは水中での運用を前提に設計されたのだろう。爪付きのマニピュレーターは、発掘作業に適しているという効能があるものの、何点か出土したモビルスーツ用の携行火器は持たせられず、無論ビームサーベルもつかめない。〈ターンA〉同様、胸部から腹部にかけて計八基のミサイル・ポッドを備えてはいたが、肝心のミサイルがなくては話にならなかった。
水中戦用の機体ゆえ、地上での移動速度も極端に遅く、短足を動かしてぴょこぴょこ集団で行進するさまには、アホらしさを通り越して涙が出てくる。いったいなにを考えてこんな機体を大量に保管していたのか、マウンテン・サイクルを造った旧世界の人間の正気を疑いたくなるが、今のところ唯一発見されたモビルスーツで、ミリシャ機械人形部隊の主力になっているのが〈カプル〉だった。
居留地から強奪してきた〈モビルリブ〉も、建築作業用の機体でしかないから、戦闘ではでくの坊の役にも立だないだろう。それでもグエンは、機械人形部隊を地球側の切り札と目しているようだし、ミリシャの兵士たちも、これでディアナ・カウンターを地球から追い出せると信じている。ロランはロランで、両者が正面からぶつかり合うような事態が起きないことを祈りつつ、機械人形部隊の錬成に明け暮れる毎日を送っているのだった。
「故郷」の人々を苦しめる手伝いをしているのではないか――。そんな罪悪感を覚えはしても、今はこうするしかないとロランは思う。多少なりとモビルスーツを使えるようになってもらわなければ、ミリシャなど瞬く間にディアナ・カウンターに殲滅させられてしまうだろう。対等な交渉を進めるためには相応の戦力がいる、といったグエンの言葉は、ディアナ・カウンターの一方的な攻撃を目の当たりにしたロランに、圧倒的な真実として刻み込まれていた。
今だけのことだ、すぐにディアナ様がいいようにしてくれる。そう胸のうちに唱え続けて、もう二ヵ月。地球と月の交渉は、いまだ進展の気配を見せない……。
どうにか予定の訓練ノルマをこなし、機械人形部隊に解散が令されたのは、西の空に浮かぶ雲が暗い赤味を宿し始めた頃だった。夕食の始まる時間だったが、すぐに地上に降りる気にはなれず、ロランは〈ターンA〉のコクピットに座ったまま、トラックと兵員が行き交う地表をぼんやり見下ろしていた。
マウンテン・サイクルの麓にはいくつものテントが張られ、突貫工事で建てられた木造の司令部を中心に、機械人形を整備する架台や、発掘品を収納する倉庫なども造られており、野営地以上、駐屯地未満といった風情を醸《かも》し出している。宿舎のテントが集まっている場所には木製のテーブルが並べられ、賄いの女たちが配膳に立ち働く姿が見えて、夕食の準備が進んでいることを伝えていた。
三々五々集まってきた兵士たちは、さっそく配給のビールに手をのばしている。食事が終わる頃には歌声がわき起こり、テーブルの上でダンスを披露する女も現れて、今晩もやんやの騒ぎが繰り広げられることになるのだろう。軍隊というより、寄り合い所帯の感が強いミリシャならではの風景だが、一見むだに見えるそんな時間が、見知らぬ人同士の結束を強めているのも事実だった。
風の流れが変わったのか、宿舎の方からシチューの芳香が漂ってきて、ロランはふと、ジェシカが作るシチューの味を思い出した。自転車を飛ばせば、ハイム邸までは三十分とかからないのだが、兵員は営舎で寝泊まりするべしという規則があれば、勝手に帰宅するわけにはいかない。どだい、ほとんどの使用人が里に帰り、半分焼け落ちた屋敷の修理もままならないハイム邸に戻っても、気が滅入るだけだとわかっている。奥様の具合はどうなのだろう、と続けて考えてしまった途端、ビシニティでの穏やかな生活と、モビルスーツのコクピットに座っている現在の生活との隔絶感がずしりとのしかかり、疲れの抜けない骨身をきしませるようにした。ロランは我知らずため息を吐いていた。
親も兄弟も知らない自分に、家庭というものの温かさを教えてくれたハイム邸での日々。帰る場所はそこしかないとわかっていながら、どんどん遠ざかっているような気がする。あれからまだ二ヵ月しか経っていないのに、どうしてもハイムの旦那の顔が思い出せない。ボストニア城で働いているというキエルの顔さえ、ディアナ・ソレルの顔と渾然一体になって、像がぼやけてきている……。
口笛の音が足もとを吹き抜け、ロランは物思いを閉じてコクピットから身を乗り出した。十メートル下の地表に、こちらを見上げるキース・レジェの顔があった。
いつの間に調達本部と話をつけたのか、複数の業者に混じって毎日パンを納入しに来ているキースが、野営地にいるのは特別なことではなかった。空のケースを満載した台車を〈ターンA〉の足に立てかけ、来いよというふうに手招きするキースに頷いたロランは、コクピットボールを降下させた。
〈ターンA〉の股間から、ワイヤーで吊るされたコクピットボールが排出され、地上数センチのところでぴたりと静止する。「調子いいみたいだな、このホワイトドールは」と言いながらコクピットを覗き込んできたキースに、ロランは「〈ターンA〉だよ」と返した。
「ホワイトドールの機械人形じゃ言い難いからって、この間の会合で決まったんだ」
「へえ……」
「キースが付けた名前だろ?」
「そうだったかな……」と頭を掻いたキースが、他のなにかに気を取られている気配を感じ取ったロランは、例の話かと察して次の言葉を待った。周囲を見回し、食事に向かう兵の一団が過ぎ去るのを見送ったキースは、案の定、「な、例の話、進めていいかな?」と顔を寄せてきた。
ロランたちが地球に降下する際に使い、今は山中に埋めてあるモビルスーツ〈フラット〉を、ミリシャに売るという話だった。純然たる戦闘用モビルスーツではないとはいえ、大気圏突入に耐える装甲は十分に強固だし、地中潜航時に用いる機体振動システムは武器にも転用できる。少なくとも〈カプル〉や〈モビルリブ〉よりはるかにマシな戦力になるから、ミリシャも調達の金は惜しまないだろう。それを資金にして、自分の店を持ちたいというのがキースの大望で、偶然発見したように見せかけるため、それなりの作り話もすでに考えているとのことだっだ。
要は、ディアナ・カウンターから借り受けた装備をミリシャに横流しするという話なのだが、キースにとっては、同乗してきたロランとフランを差し置いて、売った金を独り占めにしてしまうことの方が気になるらしい。どんな状況でも前向きに捉え、対処していくキースのたくましさに感心するばかりで、〈フラット〉のことなどすっかり忘れていたロランは、「フランがいいって言うなら、ぼくはかまわないよ」と、初めて聞かされた時と同じ返事を返しておいた。
ほっと息をついた後、すぐにすまなそうな顔を見せたキースは、「悪いな。店ができたら、おまえとフランにはいつでも好きなだけ焼き立てのパンを食わせてやるからな」と言った。ロランは微笑で応えたが、なにかしら後ろめたい気分がわき上がってくるのを抑えられず、「……でも、いいのかな」と呟いてしまった。「なにがだよ」と、キースは片方の眉を吊り上げてみせた。
「〈フラット〉をミリシャに売るってことはさ……。戦争の手伝いをして、ディアナ・カウンターの人たちを、その……怪我させるかもしれないってことだろ?」
殺してしまうかもしれない、という言葉が出せずに、そんな言い方になっていた。キースは、「〈フラット〉一機で戦局が変わるなんてことはないさ」とやや鼻白んだ顔になった。
「そんなのわかんないよ。戦争って、なにがどうなるか予測がつかないんだから……」
「おまえだって、ミリシャの連中にモビルスーツの操縦を教えてるんだろ? それはどうなんだよ」
「それは……。多少の戦力がないと、ミリシャなんてディアナ・カウンターにあっという間にやられちゃうって思うから……」
「だったらそれと同じことだろ?」
詰め寄った瞳が揺れ、キースも同様の苦味を抱えていることをロランに伝えた。ただ、そんな思いにかかずらってはいられない人の生活があり、キースはその渦中にいるのだろうと想像して、ロランは重労働を忍ばせる汚れた前かけに視線を落とした。
「……おまえはいいよ。ハイム家に雇われてるし、この〈ターンA〉を動かしてりゃ食いっぱぐれもないからな」
背を向け、コクピットボールに寄りかかるようにしたキースが続ける。そんなつもりはないとロランは思ったが、この二年間で住む世界が決定的に違ってしまったらしいキースに、自分の気持ちをうまく説明できる自信はなかった。生来の口下手を呪いつつ、相変わらず「∀」の表示を点滅させるパネルを見つめるしかなかった。
「戦争だろうがなんだろうが、食ってかなくちゃならないんだ。金がいるんだよ。ベルレーヌと親方夫婦ぐらい、おれが養っていけるようになりたいって思うのが、いけないことなのか?」
ベルレーヌは、キースが住み込みで働いているパン屋のひとり娘の名前だ。二ヵ月前はお嬢さんと呼んでいたはずのベルレーヌを、今は名前で呼ぶようになった心境と立場の変化に、ロランはキースが逸《はや》っている理由がわかったような気がした。「そんな……。そんなこと言ってないよ」と肩に手をのばしかけた刹那、フラッシュの閃光が焚かれて、目の前が一瞬、真っ白になった。
振り向いた目に、三脚カメラの暗幕から顔を出したフラン・ドールの姿が映った。「スクープ! 機械人形部隊の華、ローラ・ローラに恋人発覚か」などと言いながら近づいてくるフランに、ささくれだった空気もなりを潜めて、ロランは決まりの悪い目をキースと見交わした。
人手不足に乗じてノックス・クロニクルの記者見習いになったフランが、取材で野営地に日参するのも毎度のことだった。「どうしたの、難しい顔して。ケンカ?」と尋ねたフランは、「別に」と顔を逸らしたキースの返事を聞かないうちに、コクピットボールの縁にどすんと寄りかかって伸びをした。
「あーあ、頭きちゃう。都合のいいとこばっかり撮らしておいて、肝心な部分は軍の機密だって言うんだから」
「そういうもんだろ? 軍隊ってさ」
「あたしは公平に、事実を報道したいのよ。ミリシャとディアナ・カウンターの両方に取材して、戦場の真実を見極めたいの」
「ご立派、ご立派。女記者さんの面目躍如だ」と苦笑混じりに言ったキースに、「ミリシャとディアナ・カウンターの両方を相手に商売するような、節操のないパン屋さんには言われたくないわね」とフラン。言葉は辛辣でも、悪意のない二人のやりとりはいつものことだったが、両方を相手に商売、という言葉がロランの耳に引っかかった。それぞれコクピットボールの左右に背中を預けている二人に、ロランは「そうなの?」と確かめた。
「けっこう評判いいんだぜ。補給物資が届かなくて、帰還民の連中、缶詰みたいなもんしか食えないでいるからな」
「キースのところのパンはおいしいものね。……あ、帰還民にインタビューする時は、また協力してね? 最近はディアナ・カウンターの警備が厳しくて、おちおちフェンスにも近づけないのよ」
「いいけど、警備兵につかませるパン代だってあるんだからな。今度はちゃんと紹介料を払ってくれよ」
そんな会話をさらりとする二人は、自分には想像のつかないレベルで今の事態に馴染んでいるようで、ロランはキースとフランの顔をしげしげ見つめてしまった。
いったいこの差はどこからくるのか、いつから二人はこんなに大人になったのかと呆れ、野営地にこもりきりの自分は、ひょっとしたら大事ななにかを見落としているのではないかと、場違いな不安にとらわれもした。
「新聞ってミリシャの記事ばっかりで、月の帰還民の話なんて全然載ってないみたいだけど?」
「デスクにラインフォード家の息がかかってんのよ。一昨日だって、あたしが初めて連名で書いた記事が直前でボツにされて……」
そこでフランが言葉を切ったのは、三脚カメラに近づく人影を見つめたからだった。ロランがそれに気づいた時には、「ロラン、なにやってるの?」と険を含んだ声が投げかけられていた。
飛行服をまとい、革製のヘルメットを片手にぶら下げたソシエ・ハイムが、無遠慮な視線をこちらに注いでいた。まずい、という直感が三人の間に走り、「じゃあまたね、ロラン」と言ったフランが、最初に難を逃れてコクピットボールから離れていった。「おれも、明日の仕込みがあるから……」と言いつつ、キースも帽子を目深にかぶり直して後に続く。ひとり取り残されたロランは、去ってゆく二人を訝しげに見送ったソシエの視線が、ジロと音を立ててこちらに向け直されるのを見て、逃げ出したい衝動に駆られた。
以前からミリシャ航空団への入隊を希望していたこと、町の名士だった父親を戦災で失ったことへの同情から、機械人形部隊の予備パイロットに登録されているソシエは、ここにきて先鋭的な気質にますます磨きをかけている。〈カプル〉の操縦を習得し、ムーンレィスを地球から追い払いたいというのが口癖で、兵たちからは「特攻少女」のあだ名まで頂戴していたが、ソシエに回すほど〈カプル〉が余っているわけもなかった。
結果、日中は憂《う》さを晴らすように複葉機のヒップヘビーを乗り回し、夕刻は不満顔で野営地をのし歩く、現在のソシエができあがった。ロランにしてみれば、そんな真似は一刻も早くやめさせたいのだが、危険な真似をしないよう注意するのが精一杯で、正面きって向き合えずにいるのが現状だった。
今のところ、ロランがムーンレィスであることを自分の胸だけに秘めているソシエだが、その瞳の奥には、忘れたわけでも許したわけでもないと教える強い光が宿っているのだ。
「誰? 今の人たち」
視線を逸らさず、コクピットボールに近づいてきたソシエが尋ねる。よもや同郷の友人とも言えない。
「野営地に出入りしているパン屋と、新聞記者さんですよ。見たことありませんか?」と答えると、もういちど訝しそうに二人を見送った後、ソシエの目がぴたりとロランに据えられた。
「まあいいわ。話があるの」
日頃は同じ目線に立っている声音が、不意に主従関係を意識したものになる。昔から、無理難題を押しつける時のソシエの癖だった。厄介な……と思っだ時、通信パネルが呼び出し音を奏でて、ロランは天の助けとばかり、回線オープンの表示に指先を触れた。レーザー通信の他に、通常無線を受信する回路が〈ターンA〉に内蔵されていたことが、ミリシヤの真空管無線機との通話を可能にしていた。
(ロラン、聞こえるか。すぐにホワイトドールで三番孔の前に来てくれ。面白いもんが見つかった)
シド・ムンザの声だった。一応、黒歴史発掘隊の責任者ということになっている老人は、相変わらずのマイペースぶりを発揮していて、坑道に入ったきり何日間も姿を見せず、行方不明の騒ぎを起こしたのも一度や二度ではない。この野営地でいちばんの年寄りであると同時に、いちばん元気な人でもあった。
「ホワイトドールじゃなくて、〈ターンA〉ですよ。言いにくいからってこの間の会合で……」
(呼び方なんぞどうだっていい! 日が暮れる前にさっさと来るんじゃ!)
割れた声ががなり立てると、無線は一方的に切れた。腹に一物抱えたソシエの相手をするのに較べたら、夕飯前のひと仕事くらいどうということはない。
「そういうわけですから……」と言いつつ、ロランはシートに座り直して上昇のボタン表示に指をのばしたが、それより先にソシエがコンソールをまたぎ、強引に膝の上に乗りかかってきた。
「あたしも連れてきなさい」
顔を前に向けたまま、ソシエは交渉の余地なしといった声で言う。膝に乗られた拍子にシートに押しつけられ、飛行服の背中に忍ばせた金魚のメリーがぎゅっと尻に当たるのを感じたロランは、「危ないですよ」と抗弁したが、「前にも二人乗りしたでしょ?」と返したソシエは動じなかった。
「ロランはうちの運転手なんだから、あたしを運ぶ義務があるわ」
わかったようなわからないような論理で言いくるめると、ソシエは再びつんと顔を背けてしまった。「やってちょうだい」という主人然とした声に、ロランは渋々コクピットボールを上昇させた。
マウンテン・サイクルの中腹が草一本生えていない荒れ地なのは、砂や岩に見えているもののほとんどが、死滅した極小作業機械《ナノマシン》――|自己修復型装甲《ナノスキン》から排出された滓――の結晶であるからだ。直径十キロ、標高三キロに及ぶ山の斜面は、今は先の戦闘で穿たれた大穴を皮切りにいくつもの発掘坑が掘られ、その周囲にナノスキンの滓をかぶった鉄骨や、発掘されたばかりの〈カプル〉が雑然と並んでいた。
遺跡の発掘現場とも、工事現場ともつかない奇妙な光景で、〈ターンA〉が人足よろしく穴掘りをすれば、そこに漂う雰囲気はますます現実離れしたものになった。〈ターンA〉を駆り、三番孔と名づけられた発掘坑を前にしたロランは、シドの指示で巨大な金属製の物体の発掘作業を手伝っているところだった。
〈モビルリブ〉によって半分ほど掘り出されたそれは、最大直径十二、三メートルはあろう楕円形の物体で、引き上げてみるとモビルスーツが機体防御に用いる楯《シールド》に見えた。赤く塗られたフレームに、緩く湾曲した装甲板が張られており、例によって新品同様の光沢を放っている。「大きさと色合いからして、ホワイトドールが使うもんじゃないかと思ってな」と口に手を当てて叫ぶシドの声を聞きながら、ロランは〈ターンA〉のマニピュレーターに裏側の|握り棒《グリップ》を持たせてみた。
手のひらのコネクターが即座に反応し、兵装コントロール・パネルが点灯して、シールドの表示とともに目の前の物体の構造図がCG表示される。最大耐久力、対ビーム熱拡散効率なども列記されたが、意味は半分も理解できなかった。「やっぱりそうみたいです」と叫び、コクピットから身を乗り出してシドを見下ろしたロランは、「なんでだよ!?」と怒鳴ったウィル・ゲイムの声に、思わず首をすくませた。
「ルジャーナ領の方でも、このマウンテン・サイクルみたいに機械人形が埋まってる山が発見されたんじゃ。仕方なかろう」
「だからって、キングスレーに埋まってるおれの宇宙船の発掘は後回しにするのか!?」
ウィルが怒っている姿はめずらしくもなかったが、シドを相手に怒鳴るのは、ロランが知る限り初めてのことだった。以前にも宇宙船がどうとかいう話をしていたな、と思い出したロランは、片膝をついた〈ターンA〉の前で対峙する二人を、そっと見下ろした。
激昂するウィルに対して、「ルジャーナ・ミリシャとの話し合い次第ではな」と答えたシドは、いつもの淡々とした態度を少しも崩していなかった。
「キングスレーに巨大な機械が埋まってるのは認めるが、宇宙船だという保証はどこにもない。動かす当てのないものより、今は機械人形の数を揃える方が先決じゃよ」
「おやっさんは『黒歴史』の研究家だろう!? ミリシャに雇われちゃいるが、おれたちは戦争には関係ないはずだ」
「ムーンレィスは大量入植を要求しとる。なにもせんでおったら、わしらは連中の言いなりにさせられかねん」
ウィルが言葉を詰まらせたのと、ロランが息を呑んだのは同時だった。地球の人にはそういうふうに感じられるのか……と、両者の間に横たわる溝の大きさをあらためて実感せざるを得なかった。
「対等に共存するためには、わしらも力をつけなきゃならんのじゃよ。宇宙船の発掘はその後でもよかろう」
背を向けて言うシドの影が、斜面に小さな染みを作っていた。その隣で、倍近い長さにのびたウィルの影も立ち尽くしていたが、不意に地面に唾を吐きかけると、両手をポケットに突っ込んでその場を去っていった。
「あれ、ウィル・ゲイムさんでしょ?」
斜面を下ってゆく長身を見下ろして、いつの間にか隣に身を乗り出していたソシエが言う。夕陽に描き出された横顔の輪郭は美しく、ロランは意外な発見をした思いでソシエを見つめた。
「おとぎ話に出てくるウィル・ゲイムって、もっと紳士的な人なのに。子孫だかなんだか知らないけど、イメージが台無しなのよね」
「おとぎ話って、どういう話なんです?」
その場の雰囲気に任せて、気楽に相手をしてしまったのがいけなかった。キッとこちらを睨みつけたソシエは、「そんなことより……!」とロランをシートに押しつけるようにしてきた。
「このホワイトドールの動かし方、教えなさいよ。あたしだって飛行機の操縦訓練は受けてるし、機械人形の操作だって独学で勉強してるのよ?」
それが、今回のソシエの無理難題だった。いつ回ってくるかわからない〈カプル〉を待つよりも、自分から〈ターンA〉を奪った方が早いと思いついたらしい。ここに来る道すがら、ひたすら操縦指南を迫られてきたロランは、「ホワイトドールじゃなくて、〈ターンA〉ですよ」と、今日何度目かの同じセリフでごまかそうとした。「名前なんてどうだっていいの!」と怒鳴り返して、ソシエはますます体を詰め寄らせてきた。
「なんでダメなの!?」
「ぼくだって、まだ教えられるほど使えるわけじゃないんですよ」
嘘ではなかった。花咲爺≠フファイルが暗示する通り、かなり革新的な実験機であったらしい〈ターンA〉の機体は、内蔵コンピュータの不調もあって機能の半分が封印されたままだし、唯一の手がかりである電子マニュアルにしても、重要な部分はパスワードで保護されているために半分も判読できない。他のモビルスーツがマウンテン・サイクルの内奥に保管されていたのに対し、〈ターンA〉だけが外部に露出していた理由もいまだ不明で、その成り立ちに不穏な匂いを感じ取っているロランは、自分以外の誰かに〈ターンA〉を触らせる気にはなれないのだった。
「それに、反対なんです。お嬢さんが戦うようになるの」
「どうして?」
「どうしてって……。お嬢さんたちハイム家の人たちは、ぼくにとっては家族みたいなものだから……。家族の人が危険な目に遭うのって、誰でも嫌でしょう?」
心の底から自然に浮かび上がってきた、なんの飾りもない裸の気持ちだったが、「あたしはその家族を、あんたたちムーンレィスに殺されたのよ」とソシエに言い返されれば、ロランは口を閉じるしかなくなっていた。
「お父さまは焼け死んで、お母さまは正気を失ってしまって……。仇を討とうとするのは当然じゃないの」
「……わかりますけど、憎しみにとらわれていたら、解決の糸口もなくなってしまいますよ。キエルお嬢さんは、グエンさんのところで和平交渉の手伝いをしてるじゃないですか」
姉と比較されるのは、ソシエがいちばん嫌うところだ。しまったと思った時には、「お姉さまは関係ないでしょ!」の怒声がコクピットをつんざいて、ロランは「……すみません」と小さく呟いた。
「操縦を教えてくれないなら、あんたの秘密をバラしてやるから」
キエルの名前が感情の接を外してしまったのか、ソシエはついに最後の切り札を持ち出してきた。心臓が跳ね上がり、ロランは手のひらにつかんだアームレイカーをぎゅっと握りしめた。
「いいの? ロランはムーンレィスだって大声で叫ぶわよ」
尻をのせたコンソールの端を固くつかんで、ソシエが続ける。しばらく沈黙した後、ロランは「……いいですよ」と答えていた。
「本気よ、あたし」
動揺の気配を見せながらも、ソシエは強硬に固めた声と表情を崩さずに言った。「いいですよ」とはっきりくり返して、ロランはシートから立ち上がった。
「ローラとか呼ばれて、いつまでも嘘ついてるよりその方がいい」
人の苦労を想像しようともしないソシエに腹が立っていたし、それぞれ進むべき道を見出しているキースとフランを目の当たりにして、自分の宙ぶらり加減が嫌になっていたということもある。ぎょっとした顔のソシエを無視して、ロランは「シドじいさん!」と足もとに呼びかけた。
「ぼくはムーンレィスなんです!」
シールドの前に屈み込み、金槌で表面を軽く叩いたりしていたシドは、ん? と顔を上げて眼鏡に手をやると、「ああ、そうか」と返してすぐにシールドに目を戻した。
素っ気ないにもほどがある反応に、ソシエと顔を見合わせたロランは、「本当なんですよ!?」とくり返したが、「ま、そうとでも考えにゃ、おまえさんがいきなり機械人形を動かせた説明がつかんわな」と応じたシドは、こちらを見ようともしなかった。
「ウィルの先祖が月のお姫さんと恋をしたって話もそうじゃが、月から人が降りてきて地球に住み着いたっちゅう話は、いろんな場所に残っとる。今まではおとぎ話にされとったが、先代、先々代がムーンレィスだった者もおるんじゃろうな」
どっこいしょと立ち上がり、シドは反らせた腰をぽんぽんと叩く。勢いをそがれ、「そういうことじゃなくて……」と言葉を詰まらせたロランをよそに、「この楯みたいな道具、空いてる倉庫に運んどくようにな」と言ったシドは、宿舎の方に歩いていってしまった。
全身を支配していた情動がみるみる萎えてゆき、間の悪さだけが夕陽の差し込むコクピットに残った。ソシエは顔を背けており、なぜか恥をかかせてしまったような気分になったロランは、どうしてかわからないまま「……すみません」と言った。「なんで謝るのよ」と応えた声が、山頂から吹き下ろす風の中に混ざった。
「ロランは、どうしてムーンレィスのところに行かないの?」
少しの沈黙の後、ソシエはそんなことを尋ねた。
「キエルお姉さまのため?」と続けた顔がこちらを見、ロランは一瞬、そうなのだろうかと自問していた。
「……ぼくは、誰にも不幸せになってもらいたくないだけです」
本音を言ったつもりだったが、「嘘ばっかり……!」と言下に返したソシエは、再び顔を背けてしまった。どう言ったらいいのかわからず、思考の渦の中から言葉を見つけ出そうとしたロランは、野営地の方から聞こえてきたラッパの音に顔を上げた。
緊急呼集。現作業を中断し、所属原隊に集合せよと告げるラッパの音だった。斜面の向こうに広がるバラックとテントの群れを見下ろした途端、ウィルの長身が駆け上がってきて、「おやっさん、ロラン!」とこちらに向かって大きく手を振るのが見えた。
「ムーンレィスの軍隊が動き始めたらしい。一戦ありそうだぜ!」
立ち止まった後、「ここを襲いにくるのか!?」と怒鳴り返したシドは、踵を返して発掘隊のテントへと走り出した。なにを聞いたのかすぐには理解できず、ぽかんとそれを見送ったロランは、「ロラン、あたしたちも行かなくちゃ!」とソシエに肩を揺さぶられて、反射的に〈ターンA〉を立ち上がらせていた。
野営地では慌ただしくトラックが行き交い、夕食の途中に駆り出された兵たちがその合間を走り抜けている。女たちが協力してテーブルをどかしているのは、装甲車と機械人形が移動しやすいようにするためだ。発掘隊のテントの方でも、シドとウィルが発掘品の移動を部下に命じている。各々の役割分担に従い、てきぱき指示を出す二人は、先刻の口論などすっかり忘れているようだった。
それぞれ勝手を言い合っていた人々が、戦闘の一語を合図にひとつにまとまってゆく。数秒前までの不和を洗い流し、自分の膝にちょこんと座っているソシエの顔を横目で窺《うかが》ったロランは、この収束感はなんだろう、と意識の片隅で考えた。
結局、戦闘という危機だけが人を結束させるということか。そんな思いが浮かび上がってきたものの、気分を暗澹《あんたん》とさせる想像とは向き合いたくなかったので、ロランはそれを考えないようにした。ソシエの体温を膝上に感じつつ、〈ターンA〉に斜面を下らせていった。
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アジ大佐の遺体を搬送するという名目があったとはいえ、フィル・アッカマンを単独で居留地に帰してしまったのは失敗だった。通信端末のパネルに映ったフィルの腫れぼったい顔を前に、ハリー・オードはそう痛感していた。
(たび重なる停戦条約違反の挙句に、交渉会議の席上でディアナ様のお命を狙ったのです。和平の機会をお与えになったディアナ様の温情も理解できない輩たちには、自分の立場というものをよくよく理解させる必要があります)
それが、マウンテン・サイクルの攻撃許可を求めるフィルの論拠だった。戦艦〈アルマイヤー〉に戻るや、半旗を掲げてアジの死を大々的に公報したフィルは、兵たちの報復の気運を抑えきれないと称して、ミリシャの拠点を潰滅する作戦をディアナ・ソレルに上申してきたのだった。
司令付参謀たちは、ディアナの意志を尊重する穏健派のアジ寄りと、武力解決を信条とするタカ派のフィル寄りに二分されていたから、アジの死後、フィルが第一次降下部隊の指揮権を掌握するのは当然のなりゆきと言えた。とはいえ、よもや今晩から動き出すことはあるまいと多寡《たか》をくくっていたハリーは、わずか数時間で報復攻撃の手はずを整え、出動許可を申請してきたフィルの迅速さに、己の読みの甘さを認めるしかなかった。
フィルにとっては、軍の覇権を握る千載一遇の好機になったのがアジの死なのだろう。ボストニア城の一画にあてがわれた居室の中、テーブルに置かれた端末越しにフィルと対面しているディアナは、「兵力が圧倒的に違うので、彼らもヒステリックになっているのです」と声を震わせていた。
「アジ大佐を撃った領主は、その場で射殺されたと聞きました。双方の流血で怨恨はあがなわれたはずです」
テッサ河に面したこの部屋はいい風が入るので、冷房など望むべくもない城内でも過ごしやすい環境が整っていたが、ディアナの順には小さな汗の玉が浮き出ていた。(相手は蛮族です)と応えたフィルの声に、水色のルージュをひいた唇がそれとわからぬほど歪んだようだった。
(ここで断固とした態度を示しておかなければ、彼らは何度でもディアナ様の暗殺を目論みます)
「私ひとりの命で済むことなら、この体を捧げてもよい。和平交渉をあきらめるつもりはありません」
過激なセリフに、ディアナの背後に立つミラン・レックス執政官が息を呑む気配が伝わったが、ハリーは驚かなかった。短慮なわけでも、たてまえを言っているのでもなく、掲げた理想に殉じてみせられる一途さを持っているのが、ディアナ・ソレルという女性だ。その熱意が硬直しつつあったムーンレィスに地球への帰還を決意させたと認める一方、帰還作戦遂行の障害にもなり得ると予見していたハリーには、至極当然とも取れる女王の言葉だった。フィルもその辺は承知しているらしく、(ご自分ひとりの体と思ってもらっては困ります)と冷静に返していた。
(ディアナ・ソレル陛下の統治なくして、月と地球の平和的共存もあり得ません。和平を現実のものとするためには、必要最低限の流血は不可欠と考えます)
「和平が流血を欲するというのですか……?」と呟いたディアナは、テーブルの上にのせた拳をきつく握りしめている。(本国の情勢もございます)と応えたフィルの声が、苦悶に追い打ちをかけるように続いていた。
(アジ大佐の死は、既に全軍に知れ渡っております。なにもしなければ、ディアナ・カウンター全将兵の士気にも関わります)
「……マウンテン・サイクルに集結している、ミリシャのモビルスーツ部隊だけを攻撃するのですね?」
搾り出すようなディアナの声に、(人的被害は最小限に留めます)と即座に答えたフィルの声が重なる。しばらくの沈黙の後、「よろしい」と言ったディアナの声が部屋に響き渡った。
「マウンテン・サイクルへの攻撃は認めましょう。しかしあくまでも戦力の減殺が目的です。敵であろうとも、人間は殺傷してはなりません」
できるわけがないとわかっていても、そう言うしかないのがディアナの立場だろう。嘆息をこらえたハリーは、(了解であります)と実直に敬礼をしたフィルの顔が、モニターから消える直前、ニヤと歪むのを見逃さなかった。
地球に降下《おり》て以来、奇妙に血を沸き立たせているのは誰もが同じだったが、それにしてもフィルの態度は尋常ではない。ディアナも気づいただろうか? まっすぐ背筋をのばして椅子に座り、形のよい唇を噛み締めている横顔を窺《うかが》った途端、「ミラン」と女王の威厳を取り戻したディアナの声が発して、ハリーは多少慌てて視線を前に戻した。
「聞いての通りです。すぐに〈ソレイユ〉に戻り、〈アルマイヤー〉で指揮を執るフィル少佐を補佐するように。前線の部隊が命令を逸脱しないよう、監視を徹底してください」
「は。……フィル、少佐でありますか?」
「師団を指揮する者が、尉官では都合が悪いでしょう。戦時適用による特進を認めます。辞令は後ほど手配するように」
ひとつ事を決めてしまえば、付随する決定事項を遅滞なく、的確に処理できるのがディアナだった。「心得ました」と応じたミランが、風のように部屋を後にしてゆくのを見送ったハリーは、隠しきれない憔悴《しょうすい》を滲《にじ》ませたディアナの背中に目を向けた。
細い肩に、二千万に及ぶムーンレィスの行く末が担わされていると想像するのは辛かった。喉までこみ上げた苦味を飲み下し、今はひとりにした方がいいと判断したハリーは、ブーツの踵《かかと》をぴしりと合わせた。
「わたしも出ます。前線部隊と合流して、兵が先走らないよう監視いたしましょう」
「よしなに……ハリー大尉」
大尉、と言ったディアナの声に、ハリーはそのまま退出しかけた足を止めた。「階位責めとは思わないでください」と振り向いたディアナは、少しだけ微笑んでいた。
「親衛隊の苦労もわかっているつもりです。より一層の奮起を期待します」
フィルの暴走を警戒すれば、唯一の抑えになる親衛隊にも力を付けさせなければならないのが道理で、警護隊長の自分を一階級特進させたのは、その手始めというところだろうとハリーは想像した。余計な感謝の言葉が必要とは思えず、「は! ありがとうございます」と敬礼だけを返して出口に向かうと、「……ハリー」という小さな声が背中を打った。
「急ぎすぎたのでしょうか? 私は……」
ためらいがちにかけられた声に、存在そのものは数百年の刻を経ていても、精神と肉体は十九年間しか生きていないディアナの素顔が覗いていた。こういう女王だから、命を賭けて守る価値があると再確認して、ハリーは腰までのびたディアナの金髪を振り返った。他の誰でもない、自分にだけ本音を漏らしてくれた女王への想いを新たにしつつ、「わたしは、ディアナ様の理想を信じております」と口を開いていた。
「大地を失った我々ムーンレィスと、過去の記憶を失った地球の民が、それぞれ欠けたものを補い合ってこそ、真の地球圈の復興がなされる。すべてが万全であったとは申しませんが、いま帰還を強行しなければ、ムーンレィスは月にしがみついて果てるだけの存在になるかもしれません。その兆候は、既にあるのですから」
再生した地球への帰還を一義とするソレルー族の統治体制は、すべてのムーンレィスに人類文明の継承者、守人たらんことを期待した。月はあくまでも一時的な避難場所であって、そこでの発展を望むべきではない。生存のために必要最低限な糧を得る以外、すべての労力は、将来の生命の種となる冬眠者≠フ管理と、旧世界から受け継いだ文明の維持にのみ費やされるべきである。いつの日か復活する地球に再び文明の火を灯すため、今は刻苦の歴史を甘受しなければならない……と。
それがムーンレィス開闢《かいびゃく》の志だったが、二千数百年の間、少しずつ積み重ねられてきたストレスは、人の心に微妙な変化を生じさせた。地球への帰還は、いたずらに歴史を逆行させるだけである。人は月という新しい環境で感性を先鋭化させ、文明と存在を発信し続ければよいとする思潮は、少しずつ同調者を増やし、今ではムーンレィスの中にひとつの勢力を形成するまでになっていた。
アグリッパ・メンテナーという男の存在に集約される、月の暗い側面――。ふとその名前を思い出したハリーは、こちらを振り返ったディアナの水色の瞳に、不穏な物思いを打ち消した。
「私の父祖……ソレルー族の者が土壌改良に成功して、月でも人の生活が存続するようにしてしまった結果ですね」
「お陰で我々は生き延びることができました。過去の文明の火を絶やさず、今日という日を迎えることができたのです。憎むべきは、そうまでして地球への帰還を夢見た父祖の志を忘れ、月での終息をよしとして恥じなくなった人心の堕落でありましょう」
ハリーが言い終えると同時に、ディアナの鬢《びん》を束ねる銀の髪飾りが揺れ、こちらを見ていた瞳が逸らされた。なにか取り残されたような気になったハリーは、「ですから、今回の帰還作戦は行わなければならなかったと信じております。多少の犠牲を伴おうと、結果的に人のためになることなのですから」と付け加えたが、ディアナはもう振り向いてはくれなかった。まっすぐのびていた背が微かに屈められ、「……|生真面目《きまじめ》なのですね」と言った声が、小さな吐息とともに漏れていた。
「でも、私が地球への帰還を望んだのは……」
言葉が途切れ、沈黙が流れた。なぜか先の言葉を促す気にはなれず、「あんなことがあったばかりです。お疲れなのでしょう」とハリーは言った。ディアナの首が、肯定を示して微かにうなだれたようだった。
「よろしければ、キエル・ハイム嬢に茶など運んでもらいましょう。彼女は聡明な方とお見受けします」
最初に見た時は、あまりの瓜二つぶりに嘘寒いものを感じ、地球側が陰謀を企んでいるのではないかと疑いさえしたが、間を置いて観察すれば、キエルの物腰はディアナに劣らず好意が持てるものだとわかった。同年代の女性と知り合う機会がなかったディアナには、ちょうどいい話し相手だと認めているハリーは、「そうしてください」と言ったディアナの声を待って、戸口へと向かった。
「ハリー。……ありがとう。いてくれて助かります」
ドアに手をかけた瞬間、小さな声が背中に発して、ハリーは「は」と応じて部屋を後にした。こういう女王だから、命を賭けて守る価値がある。ディアナに女の匂いを嗅ぎ取っている自分をそんな言葉で律して、ハリーは親衛隊員が立哨する廊下を歩いていった。
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「……グエン・ラインフォードの賛同は得られなかったが、ミリシャは市民軍であって、ラインフォード家の私兵ではない。故に、我々は独自に作戦を実行する」
ミハエル・ゲルン大佐が言うと、とりあえず正しいような気がしてしまうのはなぜだろうとロランは思う。顔の下半分を覆った強《こわ》い髭《ひげ》が、年齢以上の落ち着きを感じさせるからだろうか? とにかくその体からは常に正体不明の自信が溢れており、軍服に包まれると、それはほとんど正義の権化というようなオーラを醸し出して、周囲を圧倒してしまうのだ。
司令本部と名づけられた二階建てのバラックには、招集ラッパの音色を聞きつけた男たちが詰めかけて、俄か作りの床が抜けてしまうのではないかと思わせるほどの混雑を見せている。歩兵、工作、機械化、通信、航空、補給などの各部隊責任者と、司令付の幕僚が数人。機械人形部隊からは隊長以下すべてのパイロットが出席しているが、これは機械人形一機が一個中隊の戦力に匹敵すると認識されているからだ。
集まったどの顔も、戦闘を目前にした熱気と緊張を漲らせており、ミハエルの髭面と、テーブルの上に広げられたイングレッサ領東部の地図を交互に見つめていた。
地図には複数の矢印が書き込まれ、マウンテン・サイクルからノックスに至る進攻コースを示している。時刻は、午後九時を少し回ったばかり。ムーンレィスの高官が交渉会議の席上で殺害された経緯が伝えられ、ディアナ・カウンターが報復に動き出す可能性が強いこともすでに説明がなされた。後はどう機先を制するかという話で、ノックス空港に着陸している〈ソレイユ〉の奇襲作戦を企てたミハエルが、いよいよ作戦概要を話し始めたところだった。
「我々にとって有利な点は、ディアナ・カウンターがミリシャの兵力を過小評価しているところにある。ディアナ・ソレルの裁可が下り次第、敵はこのマウンテン・サイクルに侵攻をかけてくるだろうが、それは機械人形を前面に押し立てての強襲、なんの工夫もない正面攻撃になるだろう。対して我々は、敵が攻撃を仕掛けてくる前に野営地を離れ、民間用に偽装したトラックや鉄道でノックスに向かう。〈カプル〉には手足を縮める機構が組み込まれているから、貨物列車でも輸送は可能である」
もともと水中での運用を前提に建造されたらしい〈カプル〉には、水流抵抗を軽減するために手足を胴体内部に引き込むシステムが備わっている。採掘された鉱石を運ぶ都合上、ビシニティとノックスを繋ぐ鉄道の線路幅は大きめに取ってあるから、対抗車輛とすれ違わなければ輸送は可能だとロランにも思えたが、それで実際に戦えるかどうかは別の話だった。
仮に奇襲が成功したとしても、こちらの戦力はわずか十数機の旧式モビルスーツと、玩具同然の装甲車や複葉機のみ。一方ディアナ・カウンターは、〈カプル〉とは数百年の技術格差があるIFB駆動のモビルスーツを揃えている。中核部隊がマウンテン・サイクルの攻撃に向かった後とはいえ、〈ソレイユ〉の防備が留守になるということはあるまい。精鋭ぞろいの親衛隊が抜け目なく目を光らせているはずだ。ミハエルもそれはわかっているのだろうが、もっぱら飼い殺しの憂き目に甘んじてきたミハエルには、ここで断固とした対応を打ち出すことで、スポンサーであるグエンの鼻をあかしたいという思いがあるようだった。
ミリシャを和平交渉のためのカードとしか考えていないグエンと、軍隊はカードではなく生きた人の集団だとするミハエルとの間には、立場の違いが生じさせる埋め難い溝がある。二人の不仲説は、なかば常識と化して兵たちの中に広まっていた。
「同時に、各地の飛行場に残る全戦闘機が夜明け前に発進。陸戦隊の奇襲に先んじて、〈ソレイユ〉への空襲を敢行する。我々の使用する弾丸や爆弾では歯が立たないのは承知しているが、指揮所を中心に重点爆撃を加えれば、敵も泰然と構えてはいられまい。艦載砲は対空迎撃に振り向けられ、地上の敵への対処には隙が生じるはずだ。その隙に乗じて、機械人形部隊を中心とする陸戦隊が一気に進攻。〈ソレイユ〉艦内に突入して、艦の制圧、もしくはディアナ・ソレルの身柄を拘束する」
確固不抜といったミハエルの声に、ロランは思わず顔を上げた。「拘束って、ディアナ様を誘拐するんですか?」と聞き返した途端、「なにが様、だ!」と前に立つヤーニ・オビュス少尉に睨まれて、先の言葉を呑み込まなければならなくなった。
ずんぐりした巨体に三白眼を光らせ、いつも口をへの字にしているヤーニは、軍人という職業が創出されなければ、一生を不満のうちに終えていただろうと思わせる男だ。居留地を狙ったゲリラ戦では獅子奮迅の活躍ぶりを見せているが、口より先に手が出るそのスパルタぶりは、下士官以下すべての兵たちから恐怖の的と目されている。なにをしても後腐れを残さない、さっぱりした気性の持ち主ではあるものの、ロランがムーンレィスであると知れば、真っ先に処刑を訴える人物であることは間違いなかった。「たしかに容易なことではない」とミハエルが答えてくれたお陰で、ロランはヤーニの視線から逃れることができた。
「しかし、わたしが観察したところでは、ディアナ・カウンターは多分に思想によって支えられている軍隊と思える。より所であるディアナが人質に取られれば、我々が想像する以上のダメージを被《こうむ》るだろう」
「思想によって支えられている軍隊……でありますか?」
「譬《たと》えだよ。我々には自分の土地を守るという明確な目的があるが、彼らにはそれがない。地球に帰りたいというのは理念でしかなくて、そうしなければ生きてゆけないということではない。月では農耕が営まれていて、我々が想像するより住みよい世界が構築されているようだからな。この差は、組織をひとつの生き物になぞらえるなら、満腹したコヨーテと、腹を空かしたコヨーテの違いになって表れるということだ」
補給隊長の質問に、本来のインテリ気質を覗かせて答えたミハエルは、にやと笑って一同を見渡すようにした。
「満腹したコヨーテには体力がある。しかし、腹を空かせたコヨーテほどの切迫感はない。餌をめぐって両者が争った時、腹を空かせたコヨーテが必死の抵抗を示せば、満腹したコヨーテは怪我をする前に手を引く」
なるほど、と納得したような吐息が男たちの口から漏れて、作戦会議室の空気を湿らせた。そういう言い方ならよくわかるというふうに、しきりに頷《うなず》いているヤーニを横目にしながら、しかしそれは一面的な物の見方だとロランは思わずにいられなかった。
ムーンレィスは、たしかに物質的には満腹しているかもしれないが、その心は飢餓状態に置かれている。月は徹底的に閉鎖された生活空間で、そんなところで一生を終えるのは、人にとっては苛酷なことなのだろうと今のロランには想像がつく。農耕が営まれていようと、人の生理に馴染んだ都市設計が行われていようと、しょせんは慰め、痛み止めのようなものでしかない。紛らわしているだけで、本質的な解決にはならないという真理は、一度でも地球の自然に触れれば誰でも理解できることだった。
だから本能が地球への帰還を望むのだが、大地を失った記憶を忘れている地球の人々には、永遠に理解できないことなのかもしれない。ディアナ・ソレルの存在に癒《いや》しを得てきたムーンレィスの心のありようも理解できなければ、女王を奪われたディアナ・カウンターが、真実の飢餓状態に追い込まれるだろうことも想像できない。腹を空かせ、なお体力もあり余っているコヨーテを怒らせたら、どんな結果になるか――。考えるのも恐ろしいことだったが、大勢の大人たちを前にして、自分の不安を上手に伝えられる自信はロランにはなかった。
「同時に一戦隊を居留地への攻撃に差し向け、陽動とする。彼らの言い分を信じるなら、ムーンレィスも長きにわたって戦争を知らない歴史を紡いできたのだ。技術力は圧倒的だが、その組織は意外に脆いとも言える。〈ソレイユ〉を陥《お》とし、ディアナを捕虜にすれば、交渉によって内側から突き崩すことも不可能ではないだろう。諸君らの健闘を期待する」
そう締めくくった後、ミハエルは「なにか質問は?」と再び一同を見渡した。誰もが押し黙る中、さっと手を上げ、「はい」と言った高い声を聞いたロランは、口から心臓が飛び出す思いを味わった。
ソシエだった。一応、機械人形部隊予備パイロットの肩書きを待つソシエは、周囲より頭ひとつ小さい体を躊躇《ちゅうちょ》なく前に進み出させると、伍長の袖章が縫い込まれた飛行服姿を直立不動にしてみせた。
「ホワイトドール……〈ターンA〉は、どこに配置されるのでしょう?」
「〈ターンA〉は列車には詰めない。自走でノックスに向かい、居留地のゲリラ攻撃を支援すると見せかけて、〈ソレイユ〉攻略作戦の中核を務めてもらう」
「ミリシャの機械人形部隊のシンボルであることに変わりはない、ということですね?」
「当然だ。〈ターンA〉と〈カプル〉の性能の差は歴然としている」
「では、あたしに〈ターンA〉のパイロットをやらせてください」
呆気に取られた沈黙が訪れたのも一瞬、驚きとも苦笑ともつかないどよめきが兵たちの口から漏れて、作戦会議室を揺らした。ロランも開いた口が塞がらなくなったが、「理由は?」と尋ねたミハエルの声は、冷静の皮をかぶったままだった。
「あたしは父をムーンレィスの空襲で殺されました。父は鉱山主で、ビシニティでは名が通っていた人です。新しく入隊した人の中には、父の鉱山で働いていた者もたくさんいます」
「知っている。それで?」
「父の復讐を誓う自分がパイロットになることで、〈ターンA〉は本当の意味で反ムーンレィスのシンボルになります。大事な作戦を行うのに、兵隊の士気を高めるいい材料になると思います」
言い終わった後、ちらとだけこちらを見たソシエと目を合わせたロランは、メチャクチャだ、と叫びたい衝動を堪えるので精一杯になった。「無茶を言っちゃいかん」と、機械人形部隊長のマリル少佐がなだめるように言ったが、ソシエはミハエルの顔だけを凝視している。強い視線を正面に受け止めたミハエルは、顎《あご》髭をさすり、しばらく考える素振りを見せてから、「自らを御輿《みこし》に仕立てようというわけか」とぼそりと呟いた。
「おもしろいな。今のミリシャには必要な要素だ」
「それなら……!」
「だが、〈ターンA〉を使わせるわけにはいかん」
ぴしゃりと言ったミハエルに、ソシエが開きかけた口を閉じる気配が伝わった。「〈ターンA〉はロランが慣れている。彼を外すわけにはいかない」と続いた声に、ロランは安心と暗澹《あんたん》が入り混じる複雑な気分を漂った。
「その代わり、ソシエ伍長には〈カプル〉に乗ってもらう」
ぱっと顔を輝かせたソシエは見ず、一同に視線を戻したミハエルは、「たしか、じき整備の終わる〈カプル〉が一機あったはずだな?」と間を置かずに続けた。は? というような顔を慌てて消し、「テレビジョンの配線未了の機体が一機あります」と答えたマリルの声が、ロランの耳に響き渡った。
「ティモル少尉が搭乗する予定で、面倒を見ておりますが……」
「ティモルなら同郷です。よろしければ、自分が話して了解を取ります」とヤーニ。余計なことを……と思いながらも、こうなったら止める術はないとわかっているロランは、ため息をこらえてソシエの横顔を窺った。両の拳をぎゅっと握り、気をつけをしているソシエは、取りつく島のない強情の塊に見えた。
「よろしい。特例でソシエ伍長の搭乗を認める。編成はマリル少佐に一任する」
「ありがとうございます!」
慣れない敬礼をしたソシエの瞳が少しだけ動き、こちらを見た。ロランが見返すと、ぷいとそっぽを向いた横顔がたちどころに強情の塊に戻っていた。
ソシエ出撃す、の一報は瞬く間に野営地中に広がり、予想以上の反響を巻き起こした。
ハイム鉱山の職員はもとより、ビシニティの有志が応援に駆けつけて、ソシエにあてがわれた〈カプル〉の整備が猛烈な勢いで開始されたのだ。あのソシエ嬢やが、ハイムの且那のあだ討ちに出向く≠ニいう一事が、溜まった鬱憤を晴らすまたとない機会になったのだろう。深夜にもかかわらず、ソシエ機の前に集まった老若男女の数は一中隊にも匹敵するほどで、彼らは階級も軍・民の区別も関係なく、お祭り騒ぎの勢いで機体の整備を手伝い始めたのだった。
どこからちょろまかしてきたのか、配線用のコードや工具が次々運び込まれ、胸のミサイル・ポッドに投擲用の爆薬が装填される。他の〈カプル〉をそっちのけにして整備が続けられる前では、老人たちが出陣祝いを口実に酒を酌み交わしており、女たちはそれぞれ持ち寄った布を縫い合わせて、〈カプル〉のマニピュレーターに巻く巨大な腕章作りに余念がなかった。ソシエ機のシンボルとなるその色は、もちろん復讐を示す赤だ。
当のソシエは、コクピットと整備架台を慌ただしく行き来して機体の点検に努めている。緊張と興奮で、じっとしていられないのだろう気配を感じ取ったロランは、頃合を見計らってソシエを倉庫の陰に連れ出した。
「バカげてますよ、こんなこと」
マニピュレーターに腕章を巻きつけようとする女たちと、そんなものをつけたら故障の原因になる、と怒鳴る整備係が喧々囂々《けんけんごうごう》のやりとりをするのを横目に、ロランはできる限り静かにそう言った。出陣祝いの酒を一杯だけ飲んだらしいソシエは、「ロランには関係ないでしょ」と返して、うっすら色づいた頬を背けてみせた。
「関係ないことないですよ。ソシエお嬢さんになにかあったら、奥様やキエルお嬢さんになんて言ったらいいんです?」
「またキエルお姉さま……!」と睨み返されて、ロランは自分の口を呪いたくなったが、目はソシエから離さなかった。「とにかく、こんなバカなことはやめてください。怪我ぐらいじゃ済まないかもしれないんですよ」と重ねると、強情を張りつかせた横顔はすぐに視線を逸らしてしまった。
「言い難いなら、ぼくが一緒に謝りにいってもいいですから。出撃は取りやめにしてもらいましょう」
今度ばかりは引き下がるわけにはいかない。肘をつかみ、力ずくでも司令本部のバラックに向かおうとすると、「ほっといてよ!」の声とともに手が振り払われ、ロランは常にないソシエの激しさに言葉をなくした。こちらを見据える顔は、酒とは別の理由で紅潮しているように見えた。
「ここはあたしたちの土地よ。自分の土地は、自分の力で奪い返してみせるわ。ムーンレィスのロランに助けてもらうなんて、冗談じゃないのよ。屈辱だわ、そんなの……!」
一語一語が胸に突き刺さる感じだった。深呼吸で痛みをごまかし、「でも、ぼくらは同じ人間じゃないですか」と言ったロランを無視して、ソシエはそこだけサーチライトで照らされた駐機場へ戻っていった。
「この二年間、ぼくはここで暮らしてこれたんです。他のみんなだって、そうできるとは思いませんか?」
「ひとりや二人ならね。でも何百万人は無理よ」
立ち止まり、冷ややかに言ったソシエに、ロランは今度こそなにも言えなくなった。夜気を震わす整備作業の喧噪を聞きながら、どうすることもできずにソシエの背中を見送った。
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空気が揺れる微かな気配に、キエル・ハイムは目を開けた。
城の中でも最高級の客室にしかないミネア製の瀟洒なシャンデリアが見え、窓のカーテンが夜風を孕んで膨らんでいるのが続いて見えた。柔らかな月の光がそこから差し込み、ベッドの上で半身を起こしたディアナ・ソレルの横顔を、童話に出てくる女王そのままに照らし出していた。
壁時計の針は午前四時を指している。ディアナの居室にお茶を運んだのが、午後十時を少し回ったばかりの頃。いつものように話し込んだ後、よければここで一緒に寝ませんかと誘われ、床についたのが十一時半だったから、四時間は眠ったことになる。目を閉じればすぐに眠りに戻れそうだったが、ディアナが一睡もしていないのではないかと気になったキエルは、隣のベッドで放心したように月を見上げている女王の横顔を、そっと見つめ続けた。
物憂げな横顔はひどく疲れていて、同じくらい寂しそうにも見える。交渉会議の席上で見せる、凛とした表情とは別人のようだったが、それが素顔なのだろうと想像できる程度には、キエルもディアナのことを理解しているつもりだった。
姿形が似ているということが、互いを知り合う助けになるものなのだろうか? いずれ、古株の秘書連のやっかみ目に耐えているよりは、ディアナといる方が気が休まるというのが、キエルの本音ではあった。
視線に気づいたのか、不意にこちらを振り返ったディアナと目が合った。「すみません。起こしてしまいましたか?」と言ったディアナに、「いいえ」と応じたキエルは、自分も布団をずらして半身を起こした。
「眠れないのですか?」
うつむいたディアナの横顔に影が差し、「……地球から見る月は、とても美しいので」という答えが返ってきた。キエルには、それが本心を隠すための言葉だとわかっていた。
その場でエリゾナ公も射殺されたとはいえ、アジ大佐の死を看過するディアナ・カウンターではないだろう。近々、なんらかの報復があるとグエンは読んでおり、ディアナが胸を痛めているのもそれに関係したことと察せられたが、政治の問題は、ベッドを並べて眠る自分たちには関係のない話だった。
南の空にかかる下弦の月を見上げたキエルは、「|銀の縫い目《シルバーステッチ》にあるというムーンレィスの街。きっと素敵なところなのでしょうね」と、努めて明るい声で言った。
「美しい街です。地球には及びもつきませんけど、緑や畑もありますし。魚が獲れる運河もあるんですよ」
「月に河があるのですか?」
「赤道面に沿って建造されたトレンチ・シティ……あなた方のいうシルバーステッチですが、地下にある都市の天井に水が流れているのです。そこで魚を養殖して、食料にしています」
到底、想像できる光景ではなかった。「天井でお魚が泳いでいるのですか……」と呟いたキエルに、ディアナはようやく微笑を見せた。
「私たちにはそれが当たり前です。過去の人間は、科学技術で食料を複製するような研究もしておりましたが、人はそれだけで暮らしてゆけるものではありません。真実、生きているものを体の中に取り込まなければ、本当の栄養にはならないのです」
「そういうものですか……」
「私の先祖は、月面の土壌改良に成功して、月でも野菜や果物が育てられるようにしました。ムーンレィスがソレル家を統治一族と認めているのは、その技術によって自分たちの生活が支えられていることを知っているからです。……でも」
常にない女王の多弁は、そこで途切れた。キエルは、自分と同じに見える横顔が、憂いを含んで月の光を浴びるのを見つめた。
「でも、あくまでも代替手段です。本当の自然ではありませんし、そこで暮らしているムーンレィスも、本当の意味で生きているとは言えないのかもしれません」
「だから、ディアナ様は地球への帰還を決意なされた……?」
微笑みを答えにしたディアナは、「キエルさんは、できると思いますか?」と逆に聞き返してきた。
「私たちムーンレィスが、地球の民と手を取り合って、ここで生きてゆくことが……」
目の前の仕事に没頭して、あえて考えないようにしてきた設問だった。微笑していても、ディアナの瞳の底に切実な光が宿っているのを感じ取ったキエルは、しばらく口を閉じた後、「簡単なことではないと思います」の答えをどうにか搾《しぼ》り出した。
「でも、『黒歴史』の語るところが真実なら、受け入れなければならないと思いますし、きっとできるとも信じております。私たちだって、こうして友達になれたのですから」
言ってから、身分の違いをすっかり忘れていた自分に気づいた。「中しわけありません。つい、わきまえない口を……」と姿勢を正したキエルに、「いいのです。私こそ、一緒に寝てほしいなんて子供みたいなことを……」と慌てて応じたディアナは、自分も姿勢を正す素振りをみせた。狼狽を露《あらわ》にした女王の様子が可笑《おか》しく、胸が温かなものに包まれるのを感じたキエルは、久々に意識せずに微笑むことができた。
「いいえ。昔、妹と一緒に寝ていた頃のことを思い出しました。楽しかったです」
ほっとしたように笑い返したディアナは、「妹さん、お元気なのですか?」と言った。ミリシャで……と出かけた言葉を飲み下し、一瞬口を噤《つぐ》んでしまったキエルは、「ええ。お転婆で、手を焼かされますけど」と答えて、間を繕《つくろ》う笑みを浮かべた。
人の真意を見抜けなければ務まらない職責にあるディアナが、不自然な間を見逃すはずもなかった。苦労がおありなのでしょう、と語りかけるディアナの視線を受けるのが辛く、目を逸らしたキエルは、「……お茶でもいれましょう」と言ってベッドから起き出した。
部屋の前で立哨している親衛隊員が、気配を察してドアをノックしてきたが、ディアナが無事を伝えるとすぐに下がった。眠気がとれてしまったのはディアナも同じようで、互いに寝巻き姿のまま、紅茶をのせたテーブルを挟んで向き合う形になったものの、もう会話が弾む雰囲気ではなくなっていた。
夜明け前の耳が痛くなるような静寂の中、カップとソーサーの触れ合う微かな音だけが降り積もり、心ここにあらずの顔で窓の外に目をやっているディアナと、それを見つめるキエルとの間をひそやかに隔ててゆく。そんな時間が流れていった。
心配事がおありなのですか、という言葉が口の中で溶けてしまうのは、一国の民を統率する女王に対して、あまりにもバカげた質問だとわかっているからだ。話の糸口がつかめず、ぼんやりカップを口に運ぶディアナをなす術もなく見つめたキエルは、ふと思いついてカップを左手に持ち替えた。
ディアナの動きに合わせてカップを口に運び、ソーサーに戻す。陶器の触れ合う音が重なり、ちらとこちらを見たディアナは、「左利きでいらっしゃいましたっけ?」と言いながら再びカップを持ち上げた。同じように左手でカップを持ち上げつつ、キエルは「私は、今はディアナ様の鏡です」と答えた。
右手にカップを持ったまま、ディアナはきょとんとした顔で首を傾げる。キエルもその仕種を真似ると、「キエルさんったら……!」と口に手を当てたディアナの顔に、ぱっと笑みが灯った。
「失礼しました」と言いながらも、キエルはディアナの動きに合わせて右手を口に当ててみせた。二人の忍び笑いが部屋をほんのり明るくし、「私たちは、とても似ているようですね」と言ったディアナの声が、降り積もった沈黙の澱《おり》を完全に取り払った。
「恐れ入ります。私にもそう思えました」
「初めてあなたを見た時のハリーの顔と言ったら……。私、あの男が開いた口が塞がらないという顔をしたところを、初めて見ました」
「今でもそうですわ。ミラン執政官も、私と会うたびに幽霊を見るような顔になって……」
笑いのさざ波がもういちど寄せ、それぞれの胸に燻る不安の火種を呑み込んでいったようだった。
「ありがとう、キエルさん」と言ったディアナを、キエルはカップを置いて見返した。
「お陰で気が晴れました。……それで、ついでと言っては申しわけないんですけれど、もうひとつお願いできますか?」
「なんでしょう?」
「交渉が一段落したら、地球の領主方を招いて親善パーティーを開こうと思っています。その時に着てゆくドレスを選びたいんですけれど……」
戸惑いがちに言うディアナが、不意に身近な匂いを漂わせるのを感じ取ったキエルは、「モデルをやればよろしいのですね?」と先回りをした。ぱっと輝いたディアナの顔が同年代の女性のものになり、二人はほとんど同時に立ち上がっていた。
ディアナから借りた整髪料を使うと、緩くかかっていたウェーブは瞬時にほどけ、キエルの金髪はさらりとした直毛に戻った。そこに銀の髪飾りをはめ、水色のルージュをひけば、姿見に映る自分は恐ろしいほどディアナ・ソレルそのもので、キエルはもちろん、ディアナも絶句していたが、いったん慣れてしまえば可笑《おか》しさの方が先に立った。どちらからともなく吹き出してしまい、二人そろってしばらく笑い転げた。
ディアナが持ち込んだドレスの数は半端なものではなく、あれやこれやと着替えるうちに華やいだ気分かよみがえってきて、キエルはイングレッサ領のファッション事情についても細かく説明した。ディアナはディアナで、キエルが新しいドレスを試着するたびに周囲をぐるりと回り、「なるほど、私の後ろ姿って、こういう感じなのですね」などと大真面目に言ったりしていた。
「映画などで、ご自分の後ろ姿はご覧になっているのでしょう?」
「実際に見せていただくのとは違いますよ」と返したディアナは、急になにかを思いついたような顔になると、ドレスルームから出て行ってしまった。寝室でごそごそしている気配を気にしながらも、キエルはドレス選びを続けた。
素材や流行は違っても、上品に肌を露出させるパーティードレスの基本は変わらないようだ。最終的に紫のノースリーブと白のワンピースに絞ったところで、「キエルさん」と呼びかけたディアナが戻ってきて、なにげなく振り返ったキエルは、手にかけていたドレスを取り落としそうになった。
キエルがいつも着用している、ボストニア城の公務服を身に着けたディアナが、ドレスルームの戸口に立っていた。月の化粧品を使ったのか、髪にも緩《ゆる》くウェーブがかかっているディアナは、完全にキエル・ハイムになりきっている。「まあ、ディアナ様ったら……!」と呆れ、思わず吹き出したキエルの前で、くるりと一回転したディアナは、「これなら、グエン殿でも見分けがつかないかしら?」と笑い返してみせた。
その後、いたずらを思いついた子供の顔でもういちど寝室に向かったディアナは、ハンガーにかかった自分の制服を持ってドレスルームに戻ってきた。ディアナ・カウンターの徽章が縫い込まれた制服を、着てみてというふうに差し出されたキエルは、さすがに笑いを消してディアナを見返した。
血生臭い現実の合間に、ふと訪れたなにも考えないでいい時間。すぐに終わってしまう儚《はかな》い安息の時間を、精一杯楽しもうとする顔がそこにあった。華やいだ顔に、もう少しこの遊びにつきあってもいいという気になったキエルは、制服を受け取って袖を通してみた。
特殊な繊維で織られた布は、見た目よりずっと肌触りがよく、それでいてナイフの刃も立たないのではないかと思わせる頑丈さがある。ブーツを履き、手袋もはめると、案の定、ムーンレィスの女王になりきった自分の姿が鏡に映り、キエルの格好をしたディアナと二人、なんとも言いようのない不思議な気分を漂うことになった。
「ミラン、これから視察に参ります。よしなに」
右手を前に差し出し、ディアナの口調を真似て言ってみる。「お上手ですよ、キエルさん」と笑ったディアナが背中に寄りかかってきて、子供のような仕種に驚いた後、肩に触れた手のひらからじわりと体温が伝わるのを感じたキエルは、なんの脈絡もなく、ディアナ様は寂しかったのだろうと想像した。
なら、せめて二人だけの時は、ディアナを女王と思うのはやめよう。そう思った瞬間、荒々しくドアを叩く音が響き渡って、ドレスルームに滞留していた穏やかな空気を吹き散らした。
「なにか!」と応じたディアナの声は、すでに女王のそれに戻っている。親衛隊の兵が部屋に駆け込んできて、敬礼もそこそこに「報告いたします!」と口を開いていた。
「ミリシャの航空部隊がノックスに飛来。〈ソレイユ〉に空爆をかける模様です」
状況の急転についてゆけず、空爆という言葉だけが頭の中で反響して、キエルはその場に立ちすくんでしまった。まだ二十代と見える兵の顔を見返し、どうしてこの人は自分の顔を見て話すのだろうと思う間に、「数はわからないのか」と軍人口調で尋ねたディアナの声が傍らに発した。
え? という表情でディアナを見返した親衛隊員の顔に、キエルはようやく合点がいった。彼の目には、自分がディアナ・ソレルで、ディアナがキエル・ハイムに見えているのだ。「どうなのか!」とキエルのように見えるディアナが督促し、勢いに押された親衛隊員は、「は、は!」と無意味に踵《かかと》を合わせた。
「確認されただけで三十機以上。後続も控えているものと思われます。歩兵と装甲車もかなりの数が集結しているようです」思わず答えてしまった後、親衛隊員はディアナのように見えるキエルに向き直った。「ここは戦場になるやもしれません。〈ソレイユ〉に退避された方がよろしいかと」
服を取り替えているなどと、悠長に説明していられる空気ではなかった。どうしたらいいのかわからず、その場に立ち尽くしたキエルをよそに、「わかりました。すぐに参ります」と答えたディアナは、混乱して目をしばたかせる親衛隊員を無視して、キエルに体を寄せた。
「ディアナ様……」
「着替えている間はありません。このまま一緒に〈ソレイユ〉へ」
押し殺した声で言うと、ディアナはキエルの手を取って親衛隊員の背中に続いた。つられて歩き出しながら、キエルは「でも……!」と言いかけたが、「〈ソレイユ〉にいた方が安全です。着いてから着替えればいいでしょう」と応じたディアナは、もう目を合わそうとはしなかった。
そこにいるのは同年代の女性ではなく、ディアナ・カウンターの最高指揮官だった。低いサイレンの音が外に発し、それが引き返せない道であると教えるかのように、暗い廊下に響き渡っていった。
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午前五時。うっすら明るみの差した東の空が、新しい一日の到来を告げ始めた頃。ブルワンとヒップヘビーからなるミリシャの航空部隊は、一斉に〈ソレイユ〉への進攻を開始した。
ディアナ・ソレルの意向で、〈ソレイユ〉は単独でノックス空港に着陸している。ディアナ・カウンターの本陣はノックスの西三十キロ、ムーンレィス居留地内に置かれており、そこではちょうど、主力のモビルスーツ部隊がマウンテン・サイクルの攻撃に出動したばかりだった。ミリシャとディアナ・カウンターは、互いに行き違う形で各々の拠点に仕掛けたのだ。
ディアナ・カウンターの戦艦に搭載された防空レーダーは、半径数百キロをカバーする探知能力を誇っており、イングレッサ領内の飛行場はすべてその監視下に置かれている。相手が木と布でできたような複葉機であっても、各地で同時に離陸した複数の機影をキャッチしていたのだが、大規模な訓練か、報復攻撃を予測して逃げ出したかぐらいにしか考えていなかった将校たちは、集結した機影の針路がノックスに定まるまで、これを看過していたのだった。ゲリラをしてみせるのが精一杯のミリシャに、本気で仕掛けてくる力はないと信じきっていたためで、ディアナ・カウンターは戦争に不慣れな軍隊である、としたミハエルの読みが、図らずも実証される結果になった。
全長三百メートル余り、艦橋構造部の高さも二百メートルに達する〈ソレイユ〉が、空港の敷地の大半を占有して鎮座している姿は、白亜の宮殿そのものだった。ほぽ円形をしている船体の周囲には無数のビーム砲台が備わっており、使用すればものの数秒で敵機を焼き払えるはずだったが、人を殺傷してはならないというディアナの言葉は、〈ソレイユ〉では至上命令として徹底されていた。強力なビーム兵器による迎撃がためらわれている隙に、三十数機のミリシャ戦闘機が〈ソレイユ〉に肉迫し、腹に抱えた爆弾を遠慮なく投下し始めた。
無数の爆弾が雨のごとく降りかかり、数発が〈ソレイユ〉の艦橋構造部を直撃して炎と黒煙を咲かせたが、大半は空中で爆発する運命をたどった。艦の周囲に布陣した親衛隊のモビルスーツ部隊が、出力を絞ったビームで迎撃しているのだった。十二機の〈スモー〉タイプのモビルスーツが、〈ソレイユ〉を中心にして防御円陣を組み、手にしたビームガンの筒先を降り注ぐ爆弾に向ける。出力を絞ったといっても、周囲の空気を瞬時に数千度にまで上昇させるビームの光条は、かすめただけで爆弾を誘爆させる威力があった。細い光の筋が爆弾の雨を擦過するたびに、いくつもの光球が発して薄明の空をオレンジ色に染める。爆音と閃光が連続し、滞留する黒煙がノックス空港の空に蓋をしていくかのように見えた。
ハリー・オードもその渦中にいた。攻撃部隊の動向を監視すべく、二機の僚機を従えてマウンテン・サイクルに向かおうとしていたハリーは、発進直前に騒ぎに巻き込まれたのだ。即座に爆弾の迎撃を命じ、飛来する戦闘機に対して威嚇射撃を開始したが、ミリシャの航空部隊はまったく怯む気配を見せなかった。一撃離脱戦法で爆弾をばらまいてゆく複葉機は後を絶たず、いくつかが迎撃のビームをかいくぐって地上に達すると、土砂と爆煙を噴き上げて滑走路用に均された地面を抉《えぐ》っていった。
パイロットに外界の状況を把握させるため、モビルスーツのコクピットには外側で発した音声をリアルに――人間の感覚器官が耐えられる程度に――再現する音響システムが組み込まれている。直撃しても害にはならないとわかっていても、精神を圧迫する爆音と衝撃にさらされるのは気持ちのいいものではない。部下の中には直接攻撃を訴える者もいたが、ハリーは許可するつもりはなかった。
人員の殺傷を禁止したディアナの意志は、なにを犠牲にしてでも遵守しなければならない。戦争に勝つために雇われているのが軍人であっても、親衛隊たる自分には、ディアナの意志に殉じる生き方が許されるはずだと信じていた。
「直撃はダメだ! 威嚇射撃が効かないなら、機体をジャンプさせて戦闘機の進路を妨害しろ!」
フィルターに弱められた爆発の閃光がコクピットを染める中、ハリーはそう怒鳴ったが、部下の応答を聞く暇はなかった。レーダーが接近するモビルスーツの影を捕捉したのだ。
ミリシャが発掘した旧式のモビルスーツ。いつの間に近づいたのか、ノックスの街を突っ切って急接近する十数機の機影をレーダー上に確かめたハリーは、ミリシャが本気で噛みついてきたのだとわかって、戦慄した。手加減を前提にした戦闘しか考えていなかった自分は、強者の傲慢に溺れていたのかもしれないという自覚が、今さらのように這い上がってきた。
臀部に設置されたスラスターを噴かし、一気呵成に〈ソレイユ〉に突撃する十二機の〈カプル〉には、余計な感慨を持つ余裕はなかった。彼らにあるのは、ムーンレィスの力の象徴のように聳える〈ソレイユ〉を陥《お》とし、ディアナ・ソレルを奪取するという明確な意志だけだった。
実際には、ディアナはボストニア城の居室にいたのだが、ミリシャのパイロットたちには知る由がなかった。暗殺未遂事件が起こったばかりの時に、敵の城で寝泊まりする者もいないと踏んだミハエルたちは、ディアナ・ソレルの性格を理解していなかったのだ。赤い布を右腕に巻きつけた〈カプル〉を操り、疾走する機械人形部隊の殿《しんがり》についているソシエも、それは同じだった。
「あたしたちにも、機械人形が使えるんだって教えてやる……!」
ミリシャのモビルスーツの動きも、ディアナ・カウンターのレーダーに捕捉されていたのだが、航空部隊の集結が看過されたのと同じ理由で見過ごされていた。ノックス市内の鉄道は二ヵ月前の空襲で破壊されているため、環状線に乗り入れる直前で徴用列車から離れた十二機の〈カプル〉は、まだ寝静まっているノックスの街並を縦貫して、反対側に位置する空港を目指した。
舗道を踏み砕き、空の路面電車を蹴倒しながら進撃する〈カプル〉の後には、兵員や爆弾を満載したトラック――荷台に商店や鉄鋼会社などの社名を記し、形ばかりのカモフラージュをしていた――と装甲車が続く。このうち、爆薬を積んだトラックは空港に入る直前に運転手が飛び降り、無人のまま〈ソレイユ〉に猪突して、後続部隊の血路を開く役目を果たした。十数台の四トントラックが次々空港に乗り入れ、対空防御に余念のない〈スモー〉の足もとに激突して盛大な炎を上げる。親衛隊が浮き足立ったところに、〈カプル〉が投擲する爆薬も飛来して、空と陸の両方に敷えきれない爆発の渦が巻き起こっていった。
〈カプル〉の胸部装甲が左右に開くと、八門のミサイル・ポッドが露になり、姿勢をやや前に傾ければ、中に仕込んだ爆薬入りの樽が滑り落ちてくる。高射砲の砲弾を仕込んでいる機体もあり、〈カプル〉たちは爪状のマニピュレーターでそれらをつかみ、手榴弾の要領で敵に投げつけているのだった。原始的な手段であっても、モビルスーツをそのように使ってみせるセンスはムーンレィスにはなく、親衛隊のパイロットたちは次第に平常心を失った。
充満する殺気と狂気が理性を搦《から》め取り、生き残りたい、敵を叩きのめしたいという意識だけが、両者の間で果てしなく加速してゆく。それは、二千数百年の沈黙を破り、この地球に再び戦場が現出した瞬間だった。
具体的に表す言葉は持てなくとも、ハリーもそれを体感していた。一方的に侵攻したり、ゲリラを追い散らしたりするのとは違う。今までとは決定的に違うなにかが、周囲の空気を汚染しつつある。その理解が、ハリーに手加減を忘れさせた。
ジャンプした〈カプル〉が建物の陰から現れた瞬間、脚部にビームガンの照準を合わせて一射する。直撃を受けた〈カプル〉の脚が吹き飛び、大きく姿勢を崩すとアパートを崩しながら地上に落下した。それが合図になり、他の〈スモー〉もノックス市街を猪突してくる〈カプル〉の狙撃を開始した。ビームの光軸が術中を錯綜し、減殺しきらない荷粒子エネルギーがボストニア城をかすめて、市庁舎ホールの門を粉々に打ち砕いていった。
「この城はディアナ・カウンターにも使わせているのに、攻撃してくるのか!?」
城全体を揺さぶる激震の中、グエン・サード・ラインフォードは叫んでいたが、(仕掛けてきたのはそちらが先だ)と、無線ごしに答えたフィル・アッカマンの声は冷淡だった。
(我々に較べれば貧弱とはいえ、一個旅団に相当する数の部隊が動いているのだ。もう前線部隊の独断という言い逃れは聞けんな)
「わたしは攻撃を許可していない! ミリシャの司令部と連絡が取れ次第、攻撃は中止させる」
再び激震が起こり、執務室の天井を飾るシャンデリアが落下した。ノイズが強くなったかと思うと、(……聞き飽きた。ミリシャ……殲滅……る)と言ったフィルの声を最後に、無線は途絶えた。呆然とするグエンの背後では、ひとりで逃げ出したい衝動を必死に堪えている秘書が、「グエン様、避難を……」と呼びかけていた。
ミハエルを甘く見すぎていた。城を放棄しなければならないという現実が、交渉決裂の文字を引き連れてのしかかってきた時、グエンに考えられたのはそれだけだった。
ミリシャはあくまでも交渉のためのカードで、機械人形部隊の創設も、フォーカードをストレートフラッシュにするという程度のことでしかなかったのだが、ミハエルを独走させる結果になってしまった。玩具を与えられれば、使ってみたくなるのが人情というわけか? そこまで考えて、まだ手の内にカードが残っていることを思い出したグエンは、「ディアナ・ソレルは避難したのか?」と秘書に振り返った。
「まだ城にいるのなら、すぐに捜せ。ディアナと直接交渉すれば、戦闘を中断させられるかも……」
窓の外を横切ったビームの光が、その先の言葉を消した。灼熱した空気の波動が城の壁に叩きつけられ、レンガを砕いて梁を折った。ひび割れた天井から瓦礫がこぼれ落ち、グエンは執務室を後にするしかなくなっていた。
一方、作戦参謀たちとともに〈アルマイヤー〉のブリッジに詰めているフィルは、グエンとの通信を終えるや艦長に緊急発進を令した。居留地にもミリシャの陸戦隊が接近しつつあり、六機のモビルスーツのうち、一機は機械人形部隊の中核と目される白いモビルスーツ――頭部の独特な形状から、ディアナ・カウンターでは白ヒゲ≠ニ呼ばれていた――であることが確認されていたが、フィルは陽動作戦だと断じていた。白ヒゲが加わっているのは、陽動を本当らしく見せるためのカモフラージュでしかなく、ミリシャの本命が〈ソレイユ〉であることは誰の目にも明白だった。
「マウンテン・サイクルに残っているのはクズだけと見ていい。攻撃部隊は呼び戻して、〈ソレイユ〉の防衛に当たらせる。本艦もただちに発進して、集結したミリシャを包囲、殲滅する」
アジの死後、執政官グループの後ろ楯を持つフィルが、降下部隊の事実上のトップになるとわかっている作戦参謀たちは、その決定に異議を唱えるような愚かな真似はしなかった。ただ一点、ディアナの安全を確保する前は攻撃を控えるべき、という意見が出るには出たが、親衛隊の領分だといなしたフィルは、彼らが命に代えてもディアナ陛下を救い出すだろうと付け加えて、〈アルマイヤー〉の発進を強行させた。
もし万が一、ディアナ・ソレルが戦闘に巻き込まれるような事態になっても――それはそれで、かまわない。そう思える事情が、フィルにはあるのだった。
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四機の〈カプル〉と〈モビルリブ〉、それに〈ターンA〉からなる陽動部隊は、予定より十分以上遅れてムーンレィス居留地に到着しつつあった。
〈モビルリブ〉の足が、思ったより遅かったのが原因だった。手足らしきものがついていても、足裏の車輪で走行するしかない〈モビルリブ〉は、傾斜地の横断に手間どったのだ。置いていく手もあったのだが、ウィル・ゲイムが操縦する〈モビルリブ〉には、陽動部隊の指揮官を務めるヤーニ・オビュス少尉が同乗している上、機体の腹に投擲《とうてき》用の爆薬を満載している。作戦地点に到達した後は、陽動部隊の指令塔兼弾薬庫として機能するのだから、置き去りにするわけにはいかなかった。
居留地の襲撃に加わると見せかけて、途中で戦線を離脱。ノックスに移動し、同時期に開始される〈ソレイユ〉攻めに参加する。それがロランに与えられた任務だ。奇襲が成功したとしても、〈ソレイユ〉がそう簡単に陥《お》ちるはずはないし、居留地の守りも厚いと聞いている。ムーンレィス帰還民に被害が及ばないよう、来る敵だけを倒す戦法で陽動を手伝った後は、主戦隊に合流して早期に撤退を促す腹づもりでいたのだが、作戦スケジュールの狂いによって、事態がどう転ぶかわからなくなってしまっていた。
〈ソレイユ〉攻めはもう始まっている。おっとり刀の陽動作戦は看破されて、ディアナ・カウンターの主力はノックスに向かったのではないか? そんなことを考えた時、熱源体を感知したレーダーが警告音を発し、居留地を囲む森の梢が、わき起こった強風を受けて一斉に揺れ始める光景がモニターに映った。
巨大なドーム状の物体が、ざわめく木々を前景にゆっくりせり上がってくる。前方に突き出た艦橋構造部が、亀の頭のように見える姿は間違いなかった。
「〈アルマイヤー〉が離陸する……?」
ディアナ・カウンター艦艇師団にあって、主力をなす強攻突撃戦艦。船体上部に大口径のメガ粒子砲を備えた〈アルマイヤー〉級の戦艦が、全長二百メートルあまりの巨体をノックス方面に向けるのを見たロランは、反射的に機体の針路を変えていた。
(ロラン、どこに行くんだ!?)
戦列を離れ、ノックスに向かう足を踏み出した〈ターンA〉に気づいたのか、ウィルが無線ごしに叫ぶ。「戦艦がノックスに向かったんです!」と叫び返して、ロランは上昇する〈アルマイヤー〉に視線を据えた。
「陽動は失敗したんです。早くみんなに知らせて、撤退させなきゃなんないでしょう!?」
ノックスにはキエルやグエンがいるし、なによりソシエが前線で戦っている。〈アルマイヤー〉が〈ソレイユ〉の援護に向かうとわかった時から、任務も作戦内容もどうでもよくなり、彼らを助けなければならない、という思いだけがロランを支配した。
(命令を破るのか!?)とウィルが怒鳴り、(貴様の仕事じゃあない! 我々の任務は……)と言いかけたヤーニの声が続いたが、ロランはもう聞いてはいなかった。機動モードを〈|FLIGHT《飛行》〉にセットして、フットペダルを思いきり踏み込んでいた。
脚部スラスターベーンから熱風が帯状に吐き出され、大地を蹴《け》った〈ターンA〉の機体を大きく跳躍させる。Iフィールドの結界が噴射圧を調整し、空間斥力処理装置《FRP》の作動と併せて、〈ターンA〉をそのまま飛行させるように見えたが、
「左スラスターの出力が上がらないか……!」
左脚部のスラスターベーンは、ナノスキンの滓が詰まったままになっている。出力最大でスラスターを噴かせば吹き飛ばせるかと期待したが、空中でぐらりと揺らいだ〈ターンA〉は、左手に装備したシールドの重量に引きずられるようにして地上に落下していった。
直前に機体の姿勢を制御して、ロランは接地と同時に再ジャンプの操作をする。大地を蹴った〈ターンA〉が数百メートルの距離を飛び、傍目には巨人が三段跳びをくり返しているような光景を現出する。千メートル以下の高度を飛行する〈アルマイヤー〉は、眼下を移動する〈ターンA〉を捕捉《ほそく》しているはずだったが、散在する農家を巻き添えにするのを恐れているのか、攻撃してくる気配はなかった。畑を踏まないように留意し、〈ターンA〉に三段跳びを続けさせたロランは、十数回の跳躍でノックスを目前にした。
一見して、ぎょっとなった。イングレッサ領の文化の中心地、本物の贅沢があるとハイム夫人が評したノックスの面影は、そこにはなかった。あるのは打ち崩されたビルの列と、瓦礫《がれき》が散乱する割れた舗道、街全体に滞留する粉塵混じりの黒煙ばかりで、彼方に見えるポストニア城も、鐘楼塔が折れて黒煙を噴き上げていた。二ヵ月前のディアナ・カウンターの侵攻とは較べ物にならない、徹底的な破壊の風景に、ロランは腹の底が冷たくなってゆくのを感じた。
空港の〈ソレイユ〉を巡る攻防戦のはずが、市街にまで被害をもたらしているのは、使用される武器があまりにも強力であり過ぎたからだろう。対等に交渉を行うために、モビルスーツという兵器を掘り起こしたことが、結果的にこのような光景を生み出した。同等とまではいかなくとも、脅威になり得る戦力の獲得が、ミリシャとディアナ・カウンターの間に戦争を成立させてしまったのだ。
では、どうする? 事態を受け止めた頭が考えようとした瞬間、術中に擱座《かくざ》した〈カプル〉の姿がモニターに映り、自問の言葉は消失した。半壊したビルに機体をめり込ませている〈カプル〉が、ソシエ機ではないかと想像したからだった。
フットペダルを踏み、頭部のコクピット・ハッチから煙を噴き上げている〈カプル〉に近づいたロランは、ぞっとする思いを抑えて機体を引き上げた。だらりと垂れ下がったマニピュレーターに、赤腕章が巻かれていないのを確かめてほっと息をついた。
街の向こうでは、爆発の音と煙が間断なく噴き上がっている。倒壊した建物の間を縫い、家財道具を担いだ人や車が避難してゆく姿も見たロランは、ここにいれば被害を拡大させるだけだと自覚して、再度〈ターンA〉を跳躍させた。キエルがいるはずのポストニア城に思いを残しながらも、ソシエを捜して戦場へと向かった。
木造の管制塔や格納庫はとうに瓦礫の山と化し、空港は完全な平地になっていた。その中央に鎮座する〈ソレイユ〉を背景に、〈カプル〉隊を前面に立てたミリシャと、親衛隊の〈スモー〉が一進一退の攻防を繰り広げている光景があった。
〈カプル〉が投げつけた爆薬は、〈スモー〉のビームガンによってことごとく撃破され、両者の間に無数の爆発が起こる。その間隙を縫って、装甲車と歩兵が〈ソレイユ〉に突撃する。足もとを進撃する歩兵に対しては、〈スモー〉も総身に知恵が回りかねる大男の役にしか立たず、数機の小型モビルスーツ〈ワッド〉がその相手をする。〈ソレイユ〉は沈黙しているが、オープン構造になっている艦尾の発着デッキでは、布陣したディアナ・カウンターの兵士たちがライフルを撃ち放ち、殺到するミリシャ兵に弾幕を張っていた。
無数の弾道が錯綜し、滞留する硝煙の中に時おり発する血煙が、薄墨を垂らした戦場の空気に鮮烈な赤を咲かせる。横転、炎上した装甲車から火だるまになった人影が這い出し、〈ワッド〉の機銃掃射を浴びた歩兵の列がそろって体を痙撃させると、なにかの冗談のようにばたばた倒れてゆく。無数の骸を踏み越え、次の獲物を求めて移動しようとした〈ワッド〉は、横合いから投げかけられたネットに搦《から》め取られ、その場に引き倒されていた。
すかさずコクピットに取りついたミリシャ兵が、キャノピーにライフルを向けてパイロットに降りるよう命じる。ライフル弾では傷ひとつ付けられないとわかっているパイロットは、当然それを無視する。業を煮やした兵は、爆薬を持ってくるよう部下に命じたようだ。爆薬の詰まった木箱が、網に搦め取られた〈ワッド〉の鼻先に運び込まれ、怯えたパイロットが慌ててキャノピーを開ける。両手を上げたパイロットにライフルを突きつけたミリシャ兵は、しかし次の瞬間、どこからか飛んできた弾丸に頭を砕かれていた。割れたスイカのように頭が飛び散った直後、二人のパイロットはミリシャ兵の銃撃で蜂の巣にされる。同時に再び飛んできた流れ弾が爆薬の箱を直撃し、周囲にいたミリシャ兵を巻き込んで爆発する。ちぎれた手足、人の上半身が、噴き上がった土くれの中で乱舞する――。
心臓が早鐘を打ち、全身の皮膚がざわざわと粟立った。頭が真っ白になり、これはいったいなんだ? と内心に呟いたロランは、不意にコヨーテの生臭い息を思い出した。
二年前、地球に降下《おり》たばかりのロランに襲いかかってきた、痩せこけたコヨーテ。おまえを食ってやる、と全身で言っていたコヨーテの恐怖が鮮烈によみがえり、同種の殺気がここに充満しているのだとわかったが、恐怖の底にひそむ歓喜と興奮の渦は、単に怖いと感じているだけではない、別の衝動の存在を教えていた。
死が充満しているがゆえに、ここには凝縮された生の形がある。闘争こそ生物の本質。こうした淘汰をくり返して、人は歴史を紡いできたのだと教えるように。己の生を勝ち取り、種を残そうとする生体の本能が、残酷な取捨選択を現出する。それは成人式の夜、祭壇の上から男たちを見下ろしていたキエルの瞳の中にあった真実。相応しい雄《オス》を選ぼうとする雌の目が、奥底に眠っていた闘争本能を爆発させる歓喜と興奮……!
不意にひやりとした殺気が走り、ロランは反射的に左のペダルを踏み込んだ。後方に下がった瞬間、鼻先をかすめたビームの閃光がモニターを染め上げ、同時に押し寄せてきた衝撃波が〈ターンA〉を押し倒していた。
狙っている奴がいる。その理解が遊離しかけていた意識を肉体に引き戻し、ロランは〈ターンA〉を立ち上がらせつつ、胸部の多目的サイロに装填した高射砲の砲弾を取り出した。
腰の装甲に弾底を打ちつけ、信管を作動させてから、ビームの飛来方向に目がけて投擲《とうてき》する。爆発の炎が数十メートルの近距離で弾け、黒煙を破って接近してくるモビルスーツがモニターに大映しになった。
金色の〈スモー〉タイプ。ハリー・オードと名乗っていた親衛隊パイロットの顔を思い出す間に、8の字の形をした接近戦用の斬撃武器、ヒートファンを振りかぶった〈スモー〉が肉迫して、ロランは咄嗟にビームサーベルを引き抜いていた。
8の字の一端から突き出ているヒートファンの刃と、ビームサーベルの粒子束が激突する。昇り始めた太陽より明るい光が周囲を圧した後、互いの機体を包むIフィールドの反発効果が二機を弾けるように引き離したが、〈スモー〉は即座に体勢を立て直し、再び斬りかかってきた。シールドで受け止めたロランは、(白ヒゲのパイロット! 聞こえているなら後退しろ)という声を通信機に聞いて、耳を疑った。
モビルスーツに標準装備されている接触通信回線が開き、相手のパイロットの声を届けたのだった。
「そのつもりですけど、仲間がいるんです!」と叫び返した途端、(その声……ローラとかいう女パイロットではないのか?)と見当外れな返答が返ってきて、ロランは意味もなくかっとなった。
「ぼくはロランです!」
怒鳴ったのを勢いに、シールドを突き出して〈スモー〉を押し返す。(ロラン・セアック……! ムーンレィスの献体が、性懲りもなくミリシャのパイロットをしているのか)という声が後ろによろけた〈スモー〉から発し、ロランは、ますますややこしくなる自分の立場にげんなりした。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!? ミリシャもディアナ・カウンターも、戦争の毒気に当たっておかしくなってるんです。早く止めないと……!」
(言われるまでもない……!)と応じつつ、〈スモー〉は再度ヒートファンの刃を振り下ろしてくる。二度の直撃を受けたシールドの表面が削れ、数千度の高熱を発するヒートファンの刃が、めり込んだ端からじわじわ装甲を溶かし始めた。
(きさまのような奴がモビルスーツを掘り出したから、こうなったのだろうが!)
「ぼくが掘り出したわけじゃありませんよ! ディアナ・カウンターの攻撃に反応して、勝手に出てきちゃったんです」
VRヘッドのスクリーンに表示された照準《レティクル》を〈スモー〉の右腕に重ね、ロランはアームレイカーのトリガーを押す。ビームサーベルの刃が振り下ろされ、〈スモー〉の右腕を直撃するかに見えたが、直前にシールドから離れたヒートファンに受け止められて、スパークの火花を散らすのに留まった。
(わからんことを……!)と呻く声がノイズの向こうに発し、「どっちが!」とロランが返した瞬間、接近警報の音がコクピットに響き渡った。
機体を退避させたのは、〈スモー〉も同じだった。二機が飛びすさった刹那、飛来したミサイルが地面に着弾して地面を扶り、土砂と瓦礫を数十メートルの高さにまで飛び散らせる。VRヘッドを索敵モードに切り替えたロランは、ビルを蹴散らし、こちらに突進してくる〈ウォドム〉の姿を正面に捉えて、ぞっとなった。
直線的な動きは、以前にも見たことがあると思い出したからだった。まさか……と口の中に呟いた時、(テテス少尉か……!)という言葉が〈スモー〉のパイロットの口からこぼれ落ちて、ロランは無意識にアームレイカーを握りしめていた。
(〈ガンダム〉は、あたしがやるって言ったろう!?)
聞き覚えのある女の声が通信に割り込み、両のマニピュレーターを展開した〈ウォドム〉の巨体が急速に接近する。応戦するしかない自分に、ロランは己の無力を噛み締めた。
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城の庭に駐機していたはずの機械人形は、〈ソレイユ〉の防戦に駆り出されたのか、すでにいなくなっていた。無線で呼び出しても応答はなく、待っている間に戦火が城に及ぶと読んだらしい親衛隊員たちは、キエルとディアナを駐車場に誘導した。
ディアナ・カウンターの電気自動車ではなく、城のリムジンを使うよう提案したのはディアナだった。この状況下でディアナ・カウンターのものとわかる車を使えば、ミリシャに攻撃されるか、住民に囲まれて袋叩きにされると説明したディアナは、同意を求める目をキエルに向けた。
親衛隊員の目には、依然としてディアナがキエルで、キエルがディアナのように見えているのだ。よろしい、そういたしましょう、とディアナの口調を真似てキエルが言うと、親衛隊員はようやく頷いてリムジンのドアを開けた。雷鳴に似た爆発の音が遠く近くに響く中、城を後にしたリムジンは、避難する車の流れに逆らって空港方面へと向かった。
街の破壊状況は、キエルの予想をはるかに超えていた。ミリシャの進攻が伝えられてから、まだ二十分と少し。まるで引火物に火がついたかのような、狂いじみた戦火の拡大の仕方だった。爆発の音は休みなく響いており、上空ではオレンジ色の光の筋や、小型のロケットが残す噴射煙の筋が錯綜している。ミサイルとか呼ばれている強力な砲弾だろう。着弾の閃光と爆音がひとつ向こうの通りに発し、いつそれが目の前で爆発してもおかしくない状況であることを理解したキエルは、喉がからからに乾いてゆくのを感じた。
運転席に座る兵士は道端の瓦礫を避けるのに忙しく、助手席の親衛隊員も無線連絡にかかりきりになっていて、恐怖を感じている余裕さえないように見える。ディアナはどうなのだろう? 隣に座る、自分のものとしか思えない横顔を窺うと、ディアナの視線は窓外に釘付けになっていた。
瓦礫の山の前で、呆然と立ちつくしている十歳ぐらいの少年がその先にいた。目を凝らせば、瓦礫の下からは赤黒い染みが広がっており、人の腕が覗いているのがわかる。父親か、母親かもしれない者の血に足を浸して、少年はその場を動こうとしない。額から血を流した老婆、煤まみれになりながら家財道具を抱えた一家が、急ぎ足で少年の背後をすり抜けてゆく――。
「……これが、すべて私たちがしたことの結果なのですね」
膝に置いた拳を固く握しめて、ディアナはそう呟いていた。応える言葉が思いつかずに、キエルはぎゅっと唇を結んだディアナの横顔を見つめた。
恐怖の色は微塵もなく、周囲を取り巻く苦痛を一身に背負おうとしている横顔に、格の違いを見せつけられた思いだった。同じ顔をしていても、ディアナと自分はまったく違う。これが女王と呼ばれる立場にある者の資質かと、畏敬の念半分、嫉妬半分の複雑な気分を味わった。
明るみ始めた空が不意に陰り、キエルとディアナは同時に顔を上げた。窓に顔を近づけると、巨大な鋼鉄の塊が通りの上空を覆っている光景が目に入った。
ディアナ・カウンターの戦艦。キエルが思いつくより先に、同じく窓に顔を寄せたディアナが、「〈アルマイヤー〉を発進させたというのか……!」と呻いていた。
「フィルめ、早まった真似を……」
続いた声には、動揺と怒りの色があった。思わず振り返った途端、上空で発した閃光が車内を白く染め、間近に雷が落ちたような大音響がキエルの耳を聾した。
熱波がそれに続き、車内の温度がたちどころに十数度上昇する。前方のビルの屋上がバラッと吹き飛び、粉々に砕けたレンガが落下してくるのを見たキエルは、戦艦がビーム砲とかいう宇宙的兵器を発射したのだと直観したが、突き上げる恐怖がそれ以上の思考を霧散させた。入れ替わっていることも忘れ、「ディアナ様……!」と叫んでしまった瞬間、急ブレーキの音が足もとにわき起こった。
フロントガラスいっぱいに広がる、倒壊したビルの壁が最後の記憶だった。三半規管を破壊するような衝撃が車内をつんざき、金属のひしゃげる音、ガラスの割れる音が全身を包む。向かいの座席を覆ったビロードの布地が目の前に迫り、鈍い痛みが頭頂部に走ると同時に、キエルの意識は急速に遠のいていった。
どれくらいそうしていたのか。吹きつける熱い風を顔に感じて、キエルはうっすら目を開けた。リムジンの天井が見え、まだ車内にいるらしいと理解したが、自分の体がどうなっているのかはわからなかった。瞼の重さを堪えて目を動かし、割れたガラスごしに外の様子を窺ったキエルは、数メートルと離れていないところに機械人形が立っているのを見た。
足しか見えなかったものの、金色の装甲はハリー中尉が使っている機械人形だとわかった。確か〈スモー〉とかいう名前だった……と思い出す間に、近づいてきた人影が割れた窓の隙間から手をのばし、キエルの肩を揺さぶるようにした。
「ディアナ様……!」と呼びかける声が頭の上に発し、キエルは違う、そうじゃないと叫んだが、かすれた吐息が喉を鳴らしただけで、声にはならなかった。ひしゃげたドアがこじ開けられ、ハリー中尉の瞳を隠す深紅のバイザーに、ディアナの姿をした自分の顔が映るのを見たキエルは、再び意識を失った。
次に目が覚めた時、周囲の状況は一変していた。キエルの体はひどく狭い椅子に座らされ、シートベルトが腕の上からかけられて、転げ落ちないようしっかり固定されていた。目の前には破壊されたノックスの街並が広がっていたが、それは数階分の高さから見晴らしたもので、めまぐるしく動く線図や文字が、景色の上に重なって現れたり消えたりしていた。
ふわりとした浮遊感が体を包むと同時に、目の前の景色が下に流れてゆく。すぐ横にペダルを踏む人の足が見え、キエルは、自分が機械人形の運転席にいるらしいと理解した。
ハリーが運んでくれたのだろう。狭い球状の空間の中央にハリーが座る運転席があり、自分はその隣に仮設された補助椅子のようなものに固定されている。ぼんやりした頭でも、それだけの思考をまとめたキエルは、ディアナの安否を続けて考えようとした。「〈ソレイユ〉が離陸するなら、〈アルマイヤー〉は退《さ》がらせるべきです」と言ったハリーの声が傍らに発したのは、その時だった。
(勧告はしている。だがフィル少佐は、ここでミリシヤを徹底的に叩いておくべきだと……)
ミラン執政官の声が応じる。無線機で話しているらしい。「〈アルマイヤー〉が主砲を撃ったせいで、ディアナ様は怪我をなされたのです」と遮《そえぎ》ったハリーは、爆発しそうな怒りを細糸一本で繋《つな》ぎ止めている様子だった。
「〈ソレイユ〉の離陸で、戦闘は自動的に終わります。無益な殺生は控えよというのが、ディアナ様のご意志であったはず……」
そこで言葉を切ったハリーは、素早く運転席の両脇にある機械を操作した。景色の一画が双眼鏡で覗いたように拡大され、楯らしい物を持った白い機械人形がキエルの目に映った。
写真で見たことがある。ホワイトドールの中から現れたという機械人形だ。ほぼ人間と同じプロポーションを持つホワイトドールの機械人形が、腿からふくらはぎにいたる両足の裏から微かな光を発して、神話に出てくる天の神のように空を舞っていた。
「白ヒゲか……!」と驚愕を滲ませた声がすぐ横に聞こえ、なんてセンスの悪い呼び方だろうと呆れたキエルは、目を動かしてハリーを仰ぎ見た。運転席の横の機械が邪魔になって顔は見えず、「ロラン・セアック、なにをするつもりだ」という声だけが耳に届いた。
ロラン。すっかり忘れていた名前を耳にして、キエルは思わずホワイトドールの機械人形に目を戻した。いったん地上に落ちた後、再びジャンプしたホワイトドールの行く手には、イシガメを連想させるディアナ・カウンターの巨大戦艦が浮かんでいた。
あの機械人形にロランが乗っている? ローラの名前で機械人形部隊の手伝いをしていることは知っていても、あの物静かなロランが戦場で活躍する姿は想像できないと思ったキエルは、戦艦に単独で突撃していくように見えるホワイトドールに注視した。
「テテスはなにをやっているんだ……!」と独りごちたハリーも、ホワイトドールに意識を集中しているようだった。悠然と浮かぶ戦艦の巨大さに較べ、あまりにも小さいホワイトドールの姿は、牛に歯向かう蜂の譬《たと》えをキエルに思い起こさせた。
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なにをしようとしているのか、自分でもわからなかった。〈アルマイヤー〉の主砲が吐き出したビーム束の色が、体の奥底に眠るなにかを剌激したのかもしれない。テテス機の執拗な攻撃を振り払い、最大出力で〈ターンA〉を跳躍させたロランは、再度主砲の発射態勢に入った〈アルマイヤー〉に猪突していた。
二撃目は、なんとしても阻止する。どうやって、という思考を抜きにして、その衝動がロランを支配しているのだった。先刻、〈アルマイヤー〉が放ったメガ粒子砲のビーム束は、ノックスの空を瞬時に灼熱させ、ボストニア城の尖塔を残らずなぎ倒しながら空港を擦過した。出力を絞った威嚇射撃であっても、モビルスーツが携行するビーム兵器とは比べものにならない破壊力は、飛散した残粒子だけで二機の〈カプル〉を行動不能に陥らせた。ソシエ機の無事は確認できたものの、次も威嚇であるという保証はなく、なによりロランは、ポストニア城を巻き込んで主砲発射を強行した〈アルマイヤー〉に、異常な臭いを嗅ぎ取っていたのだ。
破壊の快感に酔っている。地球に帰ってきた意味も、積み重ねてきた和平交渉も忘れて、歪んだ喜悦が巨大なイシガメから発しているように見えた。
〈ガンダム〉とも呼ばれるこのモビルスーツに乗ったことが、そんな思考の飛躍をさせているのかもしれなかったが、今のロランに顧みる余裕はなかった。
〈アルマイヤー〉の船体上部に備えられた粒子加速機は、すでに作動を開始している。砲門は半壊したボストニア城ごしに空港を向いており、次の一撃で城を完全に破壊するつもりでいることは明白だった。
キエルお嬢さんのいるところを、やらせはしない。口の中に呟きつつ、ロランはIFBDの通常制御を切り、警報にオートリアクションで作動するようIフィールド制御システムを切り替えた。
こうしておけば、機体を駆動させるIフィールドを一ヵ所に集中させ、照射される荷粒子エネルギーを防御、拡散させる力場――一種のバリアーを展開することができる。〈ターンA〉一機が発生させるIフィールドなど、大出力のメガ粒子砲を前にすれば薄紙も同然だろうが、なにもしないよりはマシだった。
相変わらず不調のスラスターベーンを小刻みに噴かし、落下と跳躍をくり返して〈アルマイヤー〉に近づいたロランは、相対距離が十キロを切ったところでスラスターを全開にした。
ほとんど同時に〈アルマイヤー〉のメガ粒子砲が放たれる。砲門が閃光を発した瞬間、シールドを機体の正面に構えさせたロランは、無意識に叫んでいた。
「行けえーっ!」
周囲の空気を灼熱させ、直径数メートルにまで成長したビームの束が〈ターンA〉に激突する。直前、熱源の接近を感知したセンサーが反応を促し、Iフィールドが機体前面に集中展開された。
ぶつかり合う二つのエネルギーが爆発的な光を生じさせ、太陽よりはるかに強い光量がノックスを照らすと、夜明けの空を暗転させた。莫大な荷粒子エネルギーを受け止めた〈ターンA〉は数百メートルの距離を弾き飛ばされ、エア・シートベルトでも吸収しきれないすさまじいGが、コクピットのロランを襲う。すべてのIフィールドを一ヵ所に集中させている以上、機体のバランスを取ることもかなわず、〈ターンA〉はそのままビームに押し潰されるかに見えたが、ロランはフットペダルから足を離さなかった。
〈ターンA〉のスラスターベーンが唸りを上げ、激突の衝撃と、フルスロットルで噴射されたスラスターの圧力が合わさって、左脚に詰まったナノスキンの滓を吹き飛ばす。本来の推力が復活し、両足のスラスターベーンを全開にした〈ターンA〉の機体は、ボストニア城の一キロ手前で踏み留まってみせた。
シールドにぶつかったビーム束が傘状に拡散し、飛び散った粒子がテッサ河の水面に落ちて大量の水蒸気を発生させる。ボストニア城の壁面にも無数の穴が穿たれ、一瞬に乾燥した庭の草木は炎に包まれたが、それだけだった。放散しきったビームは花火のように溶け去り、砲撃を無力化するさまを目前に見せつけられた〈アルマイヤー〉と、無傷の〈ターンA〉だけが薄明の空に残った。
一秒と少しの間に起こった出来事を正確に認識する術はなく、ロランはしばらく呆然としていた。ビームを受け止めた刹那、パネルとモニターに乱舞した「∀」の記号が網膜に焼きつき、視界を覆って離れようとしなかった。
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砕け散ったビームが、無数の残粒子になって光の雨を降らせると、空中に佇む白ヒゲのモビルスーツもノックス市街に降下していった。両脚のスラスターベーンから鱗に似た青白い光を発し、徐々に高度を下げる白ヒゲを見つめながら、ハリーはアームレイカーを握る手のひらが湿ってゆくのを感じていた。
「〈アルマイヤー〉の砲術が、予調測を誤ったとは思えん。白ヒゲがビームを防いだのか……?」
言葉にした途端、あらためて悪寒に近い恐怖が這い上がってきた。戦艦クラスが搭載するジェネレーターに較べれば、モビルスーツのIフィールド発生機関は大火の前の線香でしかない。それがメガ粒子砲の直撃を受け止めるなど、常識では考えられなかった。
正確な製造年代がわからなくても、白ヒゲが採用しているフレーム構造は〈スモー〉と同じ形式のもののはずだ。ムーンレィスにさえ継承されていない、特殊な技術が塗り込まれているとは思えなかったし、思いたくもなかった。
いったいなんなのだ、あのモビルスーツは。〈ガンダム〉と無意識に呼んだ自分の不可解な心理も含めて、ハリーは、素知らぬ顔で街に降りてゆく白ヒゲに詰め寄りたい衝動に駆られたが、まだ戦闘が終わったわけではなかった。機体の高度を取り、空港から街に至る空間を概観して、戦場の趨勢を観察することに努めた。
滞留する爆発の黒煙を吹き散らし、〈ソレイユ〉が白亜の巨体をゆっくり上昇させてゆくのが見え、空中で呆気に取られたように固まっている〈アルマイヤー〉が、船体上部の砲台を安全位置に収める姿も見えた。三射目はあきらめたらしい。空港に展開するミリシャのモビルスーツ部隊も撤退を始め、戦闘が終結しつつある気配を感じ取ったハリーは、傍らに設置した補助シートを見下ろした。
操縦訓練の際に使う、パイプと強化繊維の布だけで作られた補助シートの上で、ディアナ・ソレルはじっとモニターを見つめていた。「お気づきになりましたか」と声をかけると、びくりとこちらを見上げた水色の瞳が、脅えを宿したように見えた。
らしくないな、と思ったのも一瞬、実戦を間近に見れば当然かと思い直したハリーは、「お怪我はないようですが、すぐに〈ソレイユ〉の医務室にお運びします」と続けて、視線を前に戻した。
「勝手ながら、〈ソレイユ〉は離陸いたしました。ミリシャの攻撃をやり過ごすためですが、こうなった以上、サンベルトに移動するのが得策かと」
ディアナに負担がかからないようヽ緩やかに機体の進路を変えつつハリーは言ったが、返事が返ってくることはなかった。まだショックが抜けないのかと思い、ちらと補助シートを見遣ると、「ディ……キエル・ハイムはどうなりました?」と、思いきったようなディアナの声が発した。
「ディアナ様ひとりをお助けするのが精一杯でした。息はありましたから、いずれ救助されるでしょう」
「そうですか……」と言ったきり、ディアナは再び沈黙した。ショックでぼんやりしているのはわかっても、戦況を気にもしない女王の態度に多少腹を立てたハリーは、「ディアナ・カウンターにもかなりの死傷者が出ています」と低く付け加えた。
「敵を甘く見すぎていたのかもしれません。戦争状態を長引かせないためにも、断固とした対処が必要と考えます」
反論を期待して言ったことだったが、「敵……」と小さく呟いた言葉を最後にして、ディアナは再び黙ってしまった。奇妙な違和感が喉の奥に残り、間の悪い空気がコクピットを満たすのを感じたハリーは、それを振り払うためにペダルを踏む足に力を入れた。
加速した〈スモー〉が、一気に〈ソレイユ〉に近づいてゆく。ゆったり高度を上げるディアナ・カウンターの旗艦は、すでに艦橋構造部を雲に触れさせようとしていた。
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避難する人や車が殺到する大通りは避け、裏道を伝って車を走らせている時だった。瓦礫に乗り上げた車の前で、運転手の制服を煤だらけにした男が手を振っているのを見たキース・レジェは、反射的にブレーキを踏んだ。
助手席のベルレーヌが、「やめたら?」と袖をつかむようにしたが、キースはかまわずにドアを開けた。あちこちで火の手が上がっているし、荷台に寝かせた親方を早く救護所に運ぶ必要もある。人助けをしていられる立場ではなかったが、〈ソレイユ〉が離陸する光景を目撃したキースには、これ以上戦闘が続くことはないとわかっていた。助け合いの原則に従っても問題はないと判断して、くり返し頭を下げる運転手の方に近づいていった。
イングレッサの領主一族が経営する、ラインフォード社製のリムジンだった。直列エンジンを収めた長いノーズは瓦礫に乗り上げているが、後輪は地面に着いている。このタイプのリムジンは後輪駆動なので、こちらの車で引っ張ってやれば脱出させられると考えたキースは、運転手にその旨を伝えてロープを取りに戻ろうとした。「……君」と苦しげな声がかけられたのは、その時だった。
開いた後部座席の窓に、亜麻色の髪を乱した男の横顔があった。額に脂汗を張りつかせて、首を動かすのも億劫というふうにぐったりシートに寄りかかっている。「……すまない。礼はさせてもらう」と続いた声に、キースは思わず体を近づけていた。
「あなた、グエン・ラインフォードですか……!?」
イングレッサ領の次期領主――いや、現領主が痴呆症にかかっているらしい今は、事実上の領主といって間違いない男が、こんな裏道で立ち往生している現実が俄かには信じられなかった。ちらとこちらを見た後、面倒そうに顔を逸らしたグエンの態度を見たキースは、不意に頭に血が上るのを感じた。
「イングレッサの御曹子が、城を捨ててこそこそ逃げるんですか」
ミリシャが無茶な作戦を強行したために、親方夫婦が苦労して建てた店は瓦礫の山になり、親方自身も右腕を骨折する大怪我を負った。冗談ではないと思い、キースはぴくりと動いたグエンの瞳を凝視したが、そこに怒りや惨めさを読み取ることはできなかった。
ただ現実を受け入れ、立ち直ろうとしている真摯な瞳がそこにあった。気圧されるものを感じ、キースは無意識に半歩退いていた。
「あなたが下手な交渉をなさったから、ノックスはメチャメチャになっちまったんですよ。それを、市民を置いてひとりで逃げ出そうなんて……!」
「キース、お怪我をしてらっしゃるのよ。そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
いつの間に車を降りてきたのか、ベルレーヌがすぐ後ろで言っていた。親方夫婦の一人娘は、この数ヵ月でキースにとってなくてはならない存在になっている。小造りの顔を飾る、ぷっくりした唇がへの字にしかめられるのを見れば、いつでも無条件に自分が悪いという気になるものだったが、この時ばかりは違っていた。「だって本当のことじゃないか」と言い返して、キースは片腕を骨折しているらしいグエンに背を向けた。
「〈カプル〉が突っ込んできたせいで、店は壊されて、親方も怪我をして……! 疎開するったって、なんの当てもないんだぜ?」
「……言い訳はしない。責任はすべてわたしにある」
グエンの声が背中を打ち、キースは少しだけ顔を振り向けた。窓枠に体を寄せたグエンの眼差しは、変わらず真摯に見えた。
「逃げ出すわけじゃない。いったん城を離れて、再起を期す覚悟だ。腹立ちはわかるが、今は手助けをしてもらいたい」
添え木を当てたグエンの左手は、シャツに血を滲ませていた。運転席から懇願するような目を注いでいる運転手を見、最後にベルレーヌに振り返ったキースは、なにも言わずに車に戻った。
荷台を開け、ロープを取り出す。日頃はパンの入ったケースや小麦粉を載せている荷台には、今は親方夫婦が乗っていた。折れた腕をシーツで固定している親方が、「なにかあったのか?」と苦痛を堪えた顔で言うのを聞いたキースは、「なんでもありません」と答えてロープを肩に担いだ。
「イングレッサの領主を見つけたんです。後でがっぽり謝礼をふんだくって、新しいパン屋を建ててみせますよ」
笑顔がこわ張るのを自覚しつつ、車の前に戻ってバンパーにロープを巻きつける作業を始めた。ベルレーヌが反対端を取り、リムジンの方に向かうのを見送ったキースは、ロランは無事なんだろうか、と意識の片隅に思いついていた。
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音もなく、光もない。自分の肉体の存在さえあやふやな虚無は、いつものように唐突に終わる時がきた。
虚無に溶け込み、漫然とたゆたっていた意識が、一点に吸い寄せられてゆく。ああ、また目覚めの時がきたのかと理解したディアナ・ソレルは、全身の神経を弛緩《しかん》させるように努めて、これから始まる苦痛の時間に備えた。
凍っていた体液がじわりと溶け、医療用ナノマシンによって修復・保存されてきた細胞のひとつひとつが覚醒すると、皮膚の裏側を虫が這い、血管という血管を針が貫くような激しい痛みが襲いかかってくる。百年間、凍りづけになっていた体が覚醒する時には、必ずその関門をくぐらなければならない。そしてホルマリン漬けの標本生物さながら、液体の充満したカプセルの中で数日間のチェックを受けた後に、ようやく外界に出られるのだ。
外では、百年の間にすっかり顔ぶれの入れ替わった側近たちや執政官、ディアナ・カウンターの将官たちが待ち受けている。祖父がお側に仕えさせていただいておりました、誰某です。そう自己紹介する者の顔は、確かに先代の面影を残してはいるものの、中身はまったくの別人。お互いのことをなにも知らない、階級や位で判別できる他人でしかないのだが、ディアナはさも親しい部下に再会したような調子で言うのだった。私が不在の間、よくムーンレィスを治めてくれました。今後ともよしなに……。
言われた彼らにしても、実感はわかないだろう。百年ごとに覚醒し、数年間――二年か、長くても三年――、ムーンレィスの正しい治世、文化保護の態様を監督矯正して、再び百年の眠りにつく月の女王。そう認識しているだけで、ディアナ・ソレルという人間そのものを知る者はいない。女王、統治者という立場によって認知される、単なる記号でしかないのだから。
荒れ果てたクレーターだらけの地表を真空に晒し、百年間変わることのない景観を保っている月面の光景だけが、時を超えた後の壮絶な孤独を慰めてくれる。そしてその上には、周囲の星の瞬きを圧し、気紛れに形を変える雲の筋をまとって輝く地球の姿があった。
三百年、四百年、五百年。ディアナにとっては十年足らずの時間のうちに、茶褐色に汚れた海は次第に青の面積を広げ、焦げ跡の目立った大陸も元の色を取り戻し始めた。旧世界の最期に蒔かれたナノマシンの種が、大地と海をやさしく癒し、荒廃した地球に再び生命を宿らせる永劫の刻――。月で農耕を興したソレル家の先祖は、いつかそこへ還れる日がくると信じてムーンレィスの世界を拓いた。しかしいくら土壌改良を成功させ、初期に造られたクレーター基地からトレンチ・シティに至るまで、ありとあらゆる人工都市をフル活用しようとも、二千万に及ぶ人口を養うには月はあまりにも限定された空間だった。
人口の増減を徹底管理するという手段もあったが、出産の抑制は、ただでさえ終末観に取り憑かれている人の心を、より衰退させる結果になるだろうと危惧された。そこで案出されたのが、人口の四分の三を冬眠≠ウせるシステム。地球への帰還を果たすその日まで、千五百万に及ぶ同胞を冷凍睡眠させ、残る五百万の民に社会運営を行わせるという現在の体制だった。そしてソレル家の血を引くディアナには、定期的に覚醒して統治体制を監督する――時を超えてムーンレィスを率いる義務が課せられた。
百年眠り、三年起きて、また百年眠る。起きている間にすることといえば、社会学から帝王学、心理学に至るまでの勉強と、百年の間に溜まった女王裁決事案の許認可、市民への顔見せなどの公務ばかり。滅びを免れなかった旧世界の学問習得になんの意味があるのかと思っても、相談できる相手はいない。前回の目覚めの儀の時、花を手渡してくれた少女はとうの昔にこの世を去っている。ふとそんな事実に突き当たり、気が狂うほどの孤独感に苛まれても、誰にもなにも言うことができない。生きているのか死んでいるのか判然としない、白昼夢のような毎日。夢さえも見ない百年の眠りの後に続く、義務感だけに支えられた生……。
もうじき、それが始まる。ディアナは考えるのをやめ、精神をリラックスさせてその時が来るのを待った。いつもならすぐに胸と頭が痛み出し、徐々に全身に拡がってゆくはずだったが、この時はいつまで待ってもそれは起こらなかった。代わりに背中をくすぐる小刻みな振動が這い上がり、埃っぽい空気の中に漂う消毒液の臭い、エンジンの音や人の話し声といったものが五官を刺激し始めた。
「……使える機械人形は、半分もないって話だぜ」
男の声が、そう言っていた。誰の声だろう。機械人形……モビルスーツ?
「ターンだかAだかっていう、ヒゲの機械人形は無事なんだろう?」
「そう聞いちゃいるがな。ま、ラインフォードの御曹子も生死不明となりや、イングレッサ・ミリシャはおしまいと見て間違いねえな」
ラインフォード。ミリシャ。知っている単語が記憶の底に突き当たり、ディアナは微かに目を開けた。霞がかった視界に、幌張りの天井、床の振動を受けてがたがた震える木箱の山といったものが映り、
「ミハエル大佐は、まだやる気でいるって言うぜ」とすぐ近くで発した声が、続いて鼓膜を震わせた。
「バーカ、大佐だけで金が出せるかよ。弾薬の補給も、おれたちのおマンマも、御曹子ってスポンサーがいなくなったらおジャンだろうが。身の振り方を考えといた方がいいって言ってんだ」
「マウンテン・サイクルも、かなりやられたらしいからな……」
「オーバニーでルジャーナ・ミリシャと合流して、立て直しするつもりでいるらしいけどよ。このままじゃルジャーナに併呑されて、いいようにこき使われるかもしれないぜ、おれたち」
「なんでオーバニーなんだ?」
「ルジャーナとの領境に近いからだろ? それにマウンテン・サイクルみたいな場所があるって話だぜ。ウィルとかって野郎が、先祖代々何年もかけて掘り当てたんだと」
「気触りのウィルか? 宇宙船を掘ってるって、本当だったのかよ」
ヒッヒッという笑い声がくぐもり、男たちの会話を終わらせた。嫌らしい笑い方だな……と思った途端、がくんと床が下がり、積んであった木箱のひとつが落ちた。汚れた軍服を着た男がそれを拾い、もとの位置に戻す。目を動かして男の動きを追ったディアナは、捲り上げた幌の向こうに、煌々と輝く昼の光を見つけていた。
舞い上がる砂塵、どこまでも続く広々とした畑。幌の向こうを流れる風景が、ここが旧式トラックの荷台の中だと教えている。月ではない、私は地球にいるんだと思い出したディアナは、なにがどうなったのか考えようとする思考を押し退け、急激にこみ上てきた懐かしい想いに胸が塞がれるのを感じた。
あれはどれくらい前のことだったろう。無間地獄のようなくり返しの中、たった一年、間違いなく生きたと思える日々を過ごせた地球。理念ではなく、人を愛することの素晴らしさを体で実感できた地球。あの悦びと感動をみんなにも知ってもらいたいと思ったから、私は地球帰還作戦の実行を決意した……。
再び暗転――。意識が闇に引きずり込まれ、ディアナは考える間もなく虚無の虜になった。そう、かけがえのない一年の後、私はまた月へと戻った。迎えの船に乗り、こうして永遠のくり返しの中に引き返したのだった。
一年間の調査旅行の終了。全ムーンレィスの行く末を担う者として、約束の期限を破るわけにはいかなかった。あの人は、さよならを言う間もなく別れてしまったあの人は、それをわかってくれただろうか。感情を殺し、身を引き裂かれる思いに耐えて地球を離れた、どうしようもない私の立場を理解してくれただろうか……? 溶けてゆく寸前の意識がそんな問いを結んだ時、虚無が流れ、一点に吸い寄せられる感覚が体を包んだ。
覚醒の感覚。また起こされるとわかったディアナは、いい加減にして、と絶叫していた。
いつまで続けなければならないの? もう私を起こさないで。ソレルの末裔たる者の宿命だとしても、女王としての義務だとしても、こんなのは人の生き方じゃない。生かすか殺すか、どっちかにして。
お願いだから、私をそっとしておいて……!
「……車の中で、気絶してらっしゃったのを見つけたんです」
間近に響いた声が、ディアナの意識を急速に浮上させた。さっきより柔らかいベッドに横になっている。床はもう振動していなかったが、周囲を包む人のざわめき声の中には、やはり強い消毒液の臭いが漂っていた。
「ディアナ・カウンターの兵隊が運転してたみたいですけど、二人とも亡くなっていました」
「グエン・ラインフォードの秘書をしていたのだろう? 彼の所在を知っているのではないかな」
反対側から聞こえてきた男の声に、まだ若い、少年のような声が、「お仕事の内容は知りませんけど、城で寝泊まりされていたのは確かです」と答える。キエルの話をしているとわかり、ミリシャに拾われたらしい自分の立場も理解したディアナは、「そうか」と応じた男の声を、目を閉じたまま聞いた。
「ルジャーナと合流するにしても、グエン殿の生死は確かめておきたい。目を覚ましたら伝えてくれ」
「ルジャーナのミリシャが、そんなに早く動くのかの?」
足もとの方で、年寄りだろうと思える声が尋ねる。他にも数人が自分を見下ろしている気配を察したディアナは、視覚以外の五官を澄まして、周囲の様子を探ることに努めた。
「ルジャーナ領主のボルジャーノ公は、反ムーンレィス志向の強い人物だ。目の前でエリゾナ公が射殺されるのを見れば、領に帰り次第、ミリシャに招集をかけていると見て間違いないだろう。機械人形の発掘にも成功しているようだからな」
「ルジャーナにも機械人形が?」
「そんなことより、キエルお姉さまはなんでいつまでも目を覚まさないの!? 頭を打った様子はなかったんでしょう?」
今まででいちばん大きい少女の声が発して、ディアナは危うく目を開けそうになった。
この人たちは私をキエル・ハイムだと思っている。服を取り替えたこと、ボストニア城を車で脱出したことなどが電撃的に思い出される間に、「疲れてらっしゃるんですよ、きっと」と少年の声が発していた。ひどくやさしげな声音だった。
「ディアナ・カウンターが、ノックスを巻き込むような戦い方をしたからだ。奴らには軍人の仁義ってもんがない」
対照的に野太い声が、腹立ちを露にして言う。
「軍人の仁義って、そんなのあるんですか?」と少年の声。
「これから作るんだ! ルジャーナ・ミリシャと合流したら、今度こそ連中の息の根を……」
「大声を出すなら外でやってちょうだい! キエルお姉さまが眠れないでしょ!?」
「目を覚まさないって文句言ってたのは、嬢ちゃんの方だろうが」
「それとこれとは話が違います!」
「ヤーニ少尉もソシエお嬢さんも、いい加減にしてください。他にも怪我人はいるんですよ?」
なんて賑やかな人たちだろう。ぽんぽん飛び交う言葉の応酬が可笑《おか》しく、ディアナは堪えきれずに頬を緩めてしまった。「あ、いま笑いませんでした?」「うまいもん食う夢でも見てんだろ」「お姉さまはそんなに意地汚くありません!」と続いたやり取りで我慢も限界になり、吹き出しそうになった口に手を当てたディアナは、観念してうっすら目を開けた。
プラチナの髪を肩までのばした少年が、「キエルお嬢さん……!」と顔を近づけるのが最初に見え、「お姉さま!」とそれを押し退けるようにした少女の顔が次に見えた。少女のこげ茶色のショートカットの向こうには、はちきれんばかりの巨体を軍服に包んだ男と、それより理知的で、位が高そうな髭面の男。二人の間にちんと立っている短躯の老人は、平然と汚れた眼鏡をかけ直している。その後ろに立っている長身の青年は……。
一瞬止まった心臓が、そのあと猛然と血を送り始めた。まさか、と疑おうとした時には体が勝手に動き、ベッドの上で半身を起こしたディアナは、青年の顔をまじまじと凝視した。
髪の色は少し違う。しかし瞳の色、輪郭、髭の剃り跡が目立つ顎の線は間違いなかった。体内の奥深くで凍結していた悲哀が溶け、雫になって目からこぼれ落ちるのを感じながら、ディアナは一時も忘れたことのないその名を口にした。
「ウィル・ゲイム……」
ぽかんと口を開けた青年は、おれ? というふうに自分を指さすと、「は、はい……」としどろもどろに答えた。声も同じ。かけがえのない地球での一年間、人を愛する気持ちを教えてくれた男の声を思いがけず耳にして、ディアナの目には他のなにも映らなくなった。慟哭する全身の細胞、止まらなくなった涙に、自分がどれほど大切なものを失っていたのかを理解して、ひと息にベッドから飛び降りていた。
まっすぐ胸に飛び込んだディアナを、ウィルの腕が反射的に受け止める。懐かしい胸板の感触が頬に当たり、ディアナは至福の中に自分の本当の心を見つけていた。私は、あなたに逢うために地球に還ってきたのです……と。
百年、二百年。二度の冬眠の間にどれほどの時間が経ったのか、それは定かではない。が、ディアナにとっては、ほんの数年前に別れた最愛の人との再会だった。
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第三章――正歴二三四五年・初秋――
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……オーバニーのおやしきでくらすようになった月《つき》の姫君《ひめぎみ》のうわさは、まもなくイングレッサじゅうに広《ひろ》まりました。ひと目《め》でいいから姫君《ひめぎみ》に会《あ》いたいという人《ひと》が、毎日《まいにち》のようにおやしきを訪《たず》ねてきました。ウィル・ゲイムは、姫君《ひめぎみ》に静《しず》かなくらしをさせてあげたいと思《おも》っていましたが、とおくから旅《たび》をしてきた人《ひと》たちを追《お》いかえすわけにはいきません。(|中略《ちゅうりゃく》)訪《おとず》れた人《ひと》たちは、だれもが姫君《ひめぎみ》の美《うつく》しさにたいそう感心《かんしん》しました。ぜひ結婚《けっこん》してほしい、とみんなが口《くち》をそろえて言《い》いました。
「結婚《けっこん》してくれれば、よい材木《ざいもく》のとれる山《やま》を三《みっ》つあげよう」となり村《むら》の地主《じぬし》は言《い》いました。「フロジストーンのとれる海岸《かいがん》をまるまるひとつささげましょう」海辺《うみべ》の町《まち》に住《す》む大金《おおがね》もちが言《い》いました。「一生《いっしょう》、不自由《ふじゆう》のないたのしい生活《せいかつ》をさせてあげる」よその領《りょう》からやってきた貴族《きぞく》が言《い》いました。でも月《つき》の姫君《ひめぎみ》の心《こころ》を動《うご》かすことはできません。姫君《ひめぎみ》は、まよいこんだ森《もり》で自分《じぶん》を助《たす》けてくれた、勇《いさ》ましいウィル・ゲイムとの結婚《けっこん》をのぞんでいたのです。
いくら断《ことわ》ってもあきらめようとしない求婚者《きゅうこんしゃ》たちに、姫君《ひめぎみ》は言《い》いました。「東方《とうほう》の大陸《たいりく》に、永遠《えいえん》の命《いのち》をもつ鳳凰《ほうおう》という鳥《とり》がおります。その羽《はね》をもち返《かえ》ってきた方《かた》と、わたくしは結婚《けっこん》いたしましょう」
東方《とうほう》の大陸《たいりく》に行《い》くためには、飛行船《ひこうせん》に乗《の》って長《なが》く危険《きけん》な旅《たび》をしなければなりません。まして、だれも見《み》たことのない鳳凰《ほうおう》をつかまえるのは命《いのち》がけです。ほとんどの求婚者《きゅうこんしゃ》は、姫君《ひめぎみ》のだした条件《じょうけん》におそれをなして、結婚《けっこん》をあきらめました。しかし何人《なんにん》かはあきらめきれずに、危険《きけん》をしょうちで東方《とうほう》の大陸《たいりく》へと旅立《たびだ》っていきました。
求婚者《きゅうこんしゃ》たちがいなくなり、オーバニーのおやしきはもとの静《しず》けさをとりもどしました。月《つき》の姫君《ひめぎみ》は、ウィル・ゲイムが結婚《けっこん》を申《もう》し込《こ》んでくれるのを待《ま》ちましたが、ウィルの心《こころ》は晴《は》れませんでした。ウィルは、ほかの求婚者《きゅうこんしゃ》たちがたいへんな苦労《くろう》をしているのに、自分《じぶん》だけなにもせずに結婚《けっこん》を申《もう》しこむのは卑怯《ひきょう》だと思《おも》っていたのです。
「あなたは、ほかの求婚者《きゅうこんしゃ》たちに条件《じょうけん》をだしたのです。ならば、わたしだって鳳凰《ほうおう》の羽《はね》を見《み》つけてこなけれぱならないでしょう」
ウィルは言《い》いました。姫君《ひめぎみ》は、ウィルが気高《けだか》い心《こころ》の持《も》ち主《ぬし》であることがわかっていたので、悲《かな》しい気持《きも》ちをがまんして引《ひ》き止《と》めませんでした。旅立《たびだ》ちの日《ひ》、ウィルは姫君《ひめぎみ》が大好《だいす》きだったヒッコリーの苗木《なえぎ》を、おやしきの庭《にわ》に植《う》えました。
「この苗木《なえぎ》がさいしょの葉《は》を散《ち》らすまえに、帰《かえ》ってまいります。そのときはわたしと結婚《けっこん》してください」
ウィルはほほえんで言《い》いました。「もちろんです。ごぷじでお帰《かえ》りのほどを」月《つき》の姫君《ひめぎみ》は悲《かな》しそうに答《こた》えました。ウィルを乗《の》せた飛行船《ひこうせん》は、オーバニーをはなれて東《ひがし》の空《そら》へ飛《と》んでゆきました。
(|中略《ちゅうりゃく》)夏《なつ》が終《お》わり、秋《あき》になりました。ある日《ひ》、月《つき》の姫君《ひめぎみ》が庭《にわ》に出《で》てみると、ヒッコリーの苗木《なえぎ》が葉《は》を散《ち》らせていました。さいしょの葉《は》が散《ち》るまえに帰《かえ》ってくると言《い》ったのに、ウィルからはなんの便《たよ》りもありません。姫君《ひめぎみ》が心配《しんぱい》しているところに、とちゅうで旅《たび》をあきらめた求婚者《きゅうこんしゃ》がやってきました。その求婚者《きゅうこんしゃ》は、ウィル・ゲイムの乗《の》った飛行船《ひこうせん》が遭難《そうなん》したことを姫君《ひめぎみ》に伝《つた》えました。
月《つき》の姫君《ひめぎみ》は、たいそうなげき悲《かな》しみました。もうウィルが帰《かえ》ってくることはないとわかったからです。「ウィル・ゲイムさまが亡《な》くなられたのなら、もうオーバニーのおやしきにいてもしかたがありません」姫君《ひめぎみ》は思《おも》いました。ゲイム家《け》の主人《しゅじん》がいくらとりなしても、聞《き》こうとはしませんでした。姫君《ひめぎみ》は従者《じゅうしゃ》に言《い》いつけて、月《つき》から迎《むか》えの馬車《ばしゃ》を呼《よ》びよせました。
「お世話《せわ》になりました。わたくしは月《つき》の世界《せかい》に帰《かえ》ります」
姫君《ひめぎみ》はゲイム家《け》の人々《ひとびと》に別《わか》れを告《つ》げ、空《そら》を飛《と》ぶ馬車《ばしゃ》に乗《の》って天《てん》に昇《のぼ》ってゆきました。(|中略《ちゅうりゃく》)
それから何年《なんねん》かして、明《あ》かりが消えたようなオーバニーのおやしきに、ひょっこりウィル・ゲイムが帰《かえ》ってきました。長《なが》く苦《くる》しい旅《たび》のためにやつれはて、着物《きもの》もぼろぼろのありさまでしたが、その手《て》にはしっかりと鳳凰《ほうおう》の羽《はね》がにぎられていました。
(|中略《ちゅうりゃく》)月《つき》の姫君《ひめぎみ》が天《てん》に帰《かえ》ってしまったことを知《し》ると、ウィルはひどく悲《かな》しみました。たいへんな苦労《くろう》をしてようやく羽《はね》を手《て》に入《い》れたのに、姫君《ひめぎみ》はもういないのです。
「ああ、わたしはいったいなんのために苦《くる》しい旅《たび》をしてきたのだろう。鳳凰《ほうおう》の羽《はね》よ、おまえに神仙《しんせん》の力《ちから》がやどっているのなら、わたしを月《つき》の姫君《ひめぎみ》のところにつれていっておくれ」
ウィルは涙《なみだ》ながらに祈《いの》りました。すると、どうでしょう。鳳凰《ほうおう》の羽《はね》があやしくかがやき、ウィルをつつみこんだのです。あやしいかがやきは大《おお》きな羽《はね》になり、ウィルを鷹《たか》のすがたに変《か》えました。鷹《たか》になったウィルは、オーバニーのおやしきの上《うえ》をぐるりと回《まわ》ると、月《つき》に向《む》かって羽《は》ばたいてゆきました。
オーバニーのあたりでは、いまでも夜鷹《よだか》のことをウィルゲムと呼《よ》んでいます。ほかの鷹《たか》とちがって、ウィルゲムだけが夜《よる》に活動《かつどう》するのは、月《つき》に行《い》きたがっているウィル・ゲイムの想《おも》いが乗《の》り移《うつ》っているからなのです。
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[#地から3字上げ]イングレッサの民話《みんわ》「鳳凰《ほうおう》の羽《はね》」より抜粋《ばっすい》
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「建国宣言……?」
ハリー・オード大尉の声に、キエルは目前のパネルをさするのをやめて顔を上げた。〈ソレイユ〉艦内、08デッキにある将官用会議室には、ハリーの他にもミラン・レックス執政官、フィル・アッカマン少佐らが集まり、それぞれ押し殺した顔を突き合わせていた。
ディアナ・ソレルを議長に頂いた御前会議と言えば聞こえはいいが、実際は、公式には口に出し難い問題や提案を、非公式会談の名目でディアナに伝える下克上の場と言った方が正しい。いら立ちを隠しもしないフィルが冷たい目を向ける中、「そうです」と返事をしたミランは、いつもの折り目正しさでハリーを見返した。
「その上で、サンベルトにディアナ・カウンターの領土を構築してしまうのです」
「地球側の意向は無視する、というわけですか?」
「無視されているのは我々の方でしょう。地球に降下《おり》る前に二年、降下てからは二ヵ月。延々交渉を続けてきた結果が、先日のノックスでの戦闘です。イングレッサ・ミリシャの残党がルジャーナと合流する前に、既成事実を作っておく必要が……」
「手間をかけすぎです! 敵には時間を与えず、抵抗力を奪えばいいのです」
蛮声を差し挟んだフィルが、肉厚の顔に埋め込まれた細い目をミランに向ける。増援がなくとも、第一次降下部隊の戦力でミリシャの残党は掃討できると主張するフィルは、戦闘中止命令を取り払うことにしか興味がない。熊のようなその体躯が立ち上がれば、ミランの痩身は鼻息で吹き飛ばされてしまうのではないかと思えたが、ミランも伊達にディアナ直属の筆頭執政官をやっている男ではなかった。執政官グループに有力なコネを持つ相手であろうと一歩も引き下がらず、「いや、領土は決定しておく」と切り返していた。
「そうしておけば、そこに戦いを仕掛けてくる者に対しては、我々は大義をもって防衛に徹することができる。現状では、我々の方が侵略者になっているのですからな」
「ミラン執政官は、戦争の実態をご存じないからそう言う」
「しかし、戦争には大義が必要ということぐらいはわかっているつもりです」
灰色の瞳に見据えられたフィルは、どっかと椅子に座り直すと太い腕を組み直した。ノックスを離れてから三日、〈ソレイユ}の落ち着き先をめぐって何度もくり返される御前会議の中で、二人の論争はすでに風景の一部になった観がある。キエルは嘆息して、会議室の全周を覆《おお》うスクリーンに目をやった。
装甲多目的ルームとも呼ばれる会議室は、ドーム状の空間の内壁がスクリーンパネルになっていて、すべての壁面に任意の映像を投影することができる。この時は〈ソレイユ〉の外周監視カメラが捉えた映像が映し出されており、高度二千メートルから見下ろすイングレッサ領の山岳地帯の風景が、窓ガラス越しに見るのと同じ精細さでスクリーンを飾っていた。
交渉が決裂してノックスを離れた以上、居留地に駐屯するディアナ・カウンター本隊と合流するのが常道なのだが、〈ソレイユ〉陥落を狙うミリシャが、再び前後の見境なく仕掛けてくる可能性は否定できなかった。帰還民を戦闘に巻き込むわけにはいかず、このまま約束の地であるサンベルトに進行するか、あるいは緩衝地帯を設定し、地球側と再交渉すべきかが連日話し合われてはいるものの、いまだ明確な結論は出ていない。〈ソレイユ〉は当てもなく空中を漂い続けており、その内奥でディアナ・ソレルの玉座に収まっているキエルも、奇妙な判断停止の時間を漂っていた。
私はディアナ・ソレルではない。ハリーに救われて〈ソレイユ〉に収容されて以来、そう叫びたい衝動に駆られたのは一度や二度ではない。が、それをすればどんな立場に追い込まれるかわからず、生き延びるためには、冷静に事態に対処していかなけれけならないと考える理性が、辛うじてキエルを押し留めているのだった。
機械人形の運転席に収容された時、地球の人々をはっきり敵≠ニ呼んだハリーの声は、今もキエルの耳の奥に残っている。本物のディアナの生死がわからない今、遊び心で服を取り替えてみたなどという戯言《たわごと》が通用するはずもなく、誰ひとり頼る当てのない身としては、ディアナ・ソレルを演じ続ける以外に道ぱなかった。
統治者として神聖視されていても、ディアナ個人のことを知る者はいない――信じ難いことだが、ディアナは長い冬眠と短い覚醒の時間を交互にくり返しており、周囲の取り巻きたちとはまだ二、三年のつきあいしかないらしいのだ――ことと、事故のショックで多少頭が混乱していると思われたことが幸いした。ディアナとのお喋りで主要な臣下の性格を把握していたキエルは、空いた時間にはコンピュータと呼ばれる機械からデータを呼び出し、ムーンレィスの常識を理解するよう努めて、これまでのところ、なんとかディアナ・ソレルの役をやりおおせてきた。
逆に言えば、それだけディアナという人間そのものは見過ごされてきたわけで、女王の肩書きでしか認識されないディアナの立場に、あらためて憐憫をかき立てられる思いでもあった。
「建国宣言をすることによって、今後の交渉も有利に進められます。いかがでしょう、ディアナ様」
ミランが言うと同時に、一同の目がこちらに向く。物思いを閉じ、キエルはゆったりと、しかし毅然と見えるよう意識して立ち上がった。三日間、就寝時以外は絶えず人目に晒される生活をしていれば、緊張にもある程度の耐性ができる。口調は極力ぞんざいに、呼ひかけられた時には「なんでしょう」ではなく「なにか」。今までは考えもしなかったが、案外自分には女優の才能があるのかもしれない。そんなことを考える余裕さえ見せて、キエルは壁面に映る山間の農村地帯を見下ろした。
午後の日差しの中、畑に穿たれた爆撃跡が無残さを浮き立たせており、屋根が燃え落ちた農家の近くで、主を失った牛が草を食んでいるのがひどくもの悲しい光景に見えた。ノックスの激戦の後、あちこちで頻発したゲリラ戦の傷痕だろう。無意識に頬を引き締めたキエルは、「……あんな光景を見ると、お互いの恨みを忘れなければいけないと思います」と言っていた。
「そうしなければ、人類は永遠に争うという宿命を背負うでしょう」
「しかし、さまざまな相手がいるのです。すべてがディアナ様と同じ考えに至るとは……」
「そう。すべての地球の人々が、ディアナ・カウンターに敵対しようとしているわけではありません」
言葉じりを取って言ったキエルに、ミランは口を閉じて姿勢を正す素振りを見せた。フィルは腕組みをしたまま動かない。ハリーはこちらを見ていたが、赤いバイザーに覆われた目の表情を読むことはできなかった。
「たとえばラインフォード卿などは、積極的にこちらとの和解を願っていました。いたずらに事を進める前に、あのような方ともういちど交渉の機会を設けるべきでしょう」
ボストニア城を脱出したという未確認情報があるだけで、グエンの所在は不明だった。正気を失って久しい現領主は存命しており、取り巻きの臣下たちが復興政策を開始したとの話だが、事実上、イングレッサ領は無政府状態に置かれている。「裏でミリシャを操っていた人物ですぞ?」と小馬鹿にしたような口調で言ったフィルを、キエルは正面から睨み据えた。
「連絡の不行き届きで、前線部隊が先走った行動を起こすのはよくあることです。あの農村の爆撃にしても、私は許可を出した覚えはありません」
反論の口を開こうとしたフィルを無視し、スクリーンに振り返ったキエルは、「居留地に残してきた、帰還民の安全のこともあります」と続けた。
「土地そのものは確保したいという貴官らの意見に従って、護衛部隊とともに残してまいりましたが。一方的に建国宣言を行えば、ミリシャの攻撃対象になるのは自明です。そのことは忘れないでください」
意見には反対意見で応じ、まだ考慮の余地があると匂わせて、重要な決定をとりあえず回避する。それがディアナを演じる上でのキエルのやり方だったが、そろそろ限界であることはわかっていた。「ですから、グエン・ラインフォードの捜索を急いでください」と重ねて、キエルは一縷の不満を宿した一同から目を逸らした。
「……それと、彼にはキエル・ハイムという秘書官が付いていたはずです。彼女の所在をつかんだら、すぐ私に知らせるように」
「は、そのように通達いたします」と頭を下げたミランに、ありがとうと言ってしまいそうになるのを堪えて、キエルは会議室を後にした。フィルが形ばかりの敬礼をする中、ハリーが影のように背中に付き従う気配が伝わった。
「ミラン執政官は交渉を有利に進めるためと言いますが、建国宣言を行うのは、アグリッパ一派に対する牽制の意味合いもあります」
執務室に戻る途中、ハリーはキエルにだけ聞こえる声でそう言った。「アグリッパ・イッパー……?」と聞き返してから、キエルは、一派と言ったのではないかと思いついて口を閉じた。
「我々が月を離れてから、彼らがなにごとか策動している気配があります。増援や補給の遅れにしても、輸送船団で原因不明の疫病が発生したとか、もっともらしい報告が届いてはおりますが……」
言いながら、ハリーはキエルを追い越して通路の終わりにあるエレベーターのボタンを押した。「ディアナ・カウンターの上層部にアグリッパのシンパがもぐり込んでいて、妨害工作を行っているとみるのが自然でしょう」
「ディアナ・カウンターの内部にまで?」
「恐れながら……」とハリーが応じるまでに、到着したエレベーターのドアが開いた。箱の半分がガラスのような透明素材でできているエレベーターは、十いくつの層にわかれた艦内を音もなく移動して、素早く目的のフロアに運んでくれる。アグリッパという名前を早急に検索しなくてはと思いつつ、エレベーターに乗り込んだキエルは、「アグリッパ一派が、現体制に代わって月の実権を握ろうとしていると?」の問いを重ねた。
「我々ムーンレィスは、過去二千年間、ほとんど闘争のない世界を構築してまいりました。ギム・ギンガナムのような武闘派が騒乱を企てることはあっても、ムーンレィス全体が二つの勢力にわかれて殺しあう、というレベルには至らなかったのです」
深紅のバイザーに流れる壁を映して、ハリーは噛んで含める口調で続けた。「ディアナ様の治世が行き届いていたからではありますが、月という狭い空間に閉じ込められ、閉所恐怖症に陥った人の感性が、無意識に闘争本能を封印したからだとする説もあります。二千年の時の流れが、遺伝子レベルにまで変革を促して、闘争本能を抑制したのだ、と。しかし、地球に降下《おり》て以来のディアナ・カウンターの動きを見ますと……」
「明らかに闘争本能を復活させている……」
「そうです。そのことがアグリッパ一派の心理にも変化を生じさせて、月本国で不穏な空気を加速させていると考えるのは、短絡的でしょうか?」
いくつかわからない単語はあったものの、大筋はキエルにも納得できた。地球にしても、水取り場をめぐって農村の自警団が争う程度で、有史以来――あくまでもキエルたちの知る範囲だが――、大規模な戦争は起こっていなかった。それがわずかの間に軍備を整え、ディアナ・カウンターに脅威と捉えられるほどの勢力に成長したのは、単に機械人形を掘り当てたからというだけではないだろう。
なにかが変わりつつある。地球と月の区別に関わりなく、人の心に致命的な異変が起こっている。こちらを凝視する赤いバイザーを見上げて、キエルは「いいえ」と答えた。
「ハリー大尉がそう思うのなら、そうでしょう。直感は、時に論理を超えて真実を言い当てることがありますから」
「ありがとうございます」ハリーが言ったのと、エレベーターの扉が開いたのは同時だった。立哨中の親衛隊員が敬礼し、軽く答礼したハリーは、歩調を緩めてキエルを先に歩かせた。
「ですから、建国宣言の件はよろしくお考えください。領土の構築で将兵が落ち着けば、アグリッパ一派への対策も立てやすくなりましょう」
定間隔に親衛隊員が並ぶ通路を歩きながら、ハリーは再びキエルにだけ聞こえる声で言った。警護隊長とはいえ、この男は特別にディアナと親しかったのだろうか? 会議の席ではほとんど口を開こうとせず、後になって必ず的確なアドバイスをくれる。なにも知らない素人に一から事情を説明するような丁寧さで、気づかれているのではないかと疑いたくなるほどなのだが、決して表情を読み取らせないのがハリーという男だった。「わかりました。グエン殿の捜索を頼みます」と応じて、キエルは執務室の自動扉をくぐった。
「は。キエル・ハイム嬢も必ずお連れします」
頭を下げたハリーの口もとが笑ったように見えたのは、気のせいか? 確かめる間もなくドアが閉まり、キエルは五メートル四方ほどの執務室にひとり残された。ほっと息を吐いた途端、いつものように脱力感が一気にのしかかってきて、重い足を引きずりながら執務机の方へと向かった。
床と一体成型された、金属ともプラスチックともつかない材質で作られた机には、数枚のディスクとともに紅茶が載せられていた。適温を維持する器に注がれた紅茶は、のっぺりとした室内の造作と同じくらい味気なく、キエルはふと泣き出したい気分になった。
ビシニティに帰りたい。痛切に、そう思った。
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本当の金持ちというのは、やはり違うものだ。ノックスの北方、アラマハン山脈の麓にあるグエンの冬の別荘に滞在するようになって三日。キース・レジェは、つくづくそう実感していた。
別荘があるだけでも十分に金持ちなのだが、グエンの場合、近くの山と牧場をまるまるひとつ所有していて、年に数度しか訪れないプライペート・ゲレンデと、休憩用の山小屋も待っているのだという。山を望む湖畔には専用のボートハウスまで完備されており、やはり秋の紅葉シーズンの時だけ船遊びを楽しむために、一年を通じて管理人を住まわせているという話だった。
「そろそろ夏も終わって、いい気候になる。この腕さえ自由に使えたら、釣りに誘いたいところなのだがね?」
ギプスに固められた左腕を示して、グエンは晴れやかに言う。能天気なお坊っちゃんぶりも、ここまでくればあっぱれといったところで、キースは思わず苦笑させられていた。
街中で立ち往生しているのを助けた義理があるとはいえ、行き先のない自分たちを別荘に招き入れ、親方の怪我を医者に診させて、賓客待遇でもてなしてくれている。ノックスの戦闘はミリシャの独走が原因で、グエンも巻き込まれた口だとわかれば、鷹揚な人柄に感謝こそすれ、反感を持つ筋合いは毛頭なかった。
「いいんですか? 休んでなくて」
九月に入り、山から吹き下ろす風は日ごとに冷たくなっている。防寒用に二重にガラスが人った窓を閉めながら旨うと、暖炉の前のソファに座ったグエンは、「いつまでも休んでいたら、体が鈍ってしまうだろう?」と返した。
「いろいろと仕事も溜まっているしね。それは君も同じだろう?」
「だったらいいけど、店は壊れちまったし、親方の腕はあの通りだし……」
まだ親方本人には伝えていないが、折れた骨が神経を傷めたために、右手の指に麻庫が残ると診断さわていた。パンは焼けても、練った小麦粉の感触から独特の味わいを作り出す職人技は、もう期待できないだろう。「君が代わりに店をやればいいじゃないか」と気楽な声を出したグエンに、むっとした顔を振り向けたキースは、数枚の写真がオーク製のテーブルに放られるのを見た。
「君が見つけたという機械人形、現地に人をやって調べさせた。ミリシャで引き取らせてもらうよ」
粒子の粗い白黒写真に、シャベルを持った数人の男と、土中から半分ほど顔を覗かせた黒い物体が映っていた。緩い弧を描いた表面は、間違いなく〈フラット〉の頭部。ロラン、フランとともに、キースが地球に降下する際に使ったモビルスーツだった。
ミリシャに売却するつもりが、ノックスの崩壊で御破算になってしまったと、腹立ち紛れにグエンに漏らしたのが二日前。どこにどういう手を回したのか、すでに掘り出す作業が開始されている〈フラット〉を写真の中に確かめたキースは、グエンの顔をまじまじと凝視《ぎょうし》した。「そんな目で見るな」と言って、グエンは涼やかな笑みを横顔に刻んだ。
「城は失っても、それぐらいのことをさせる部下は残っている」
「そうじゃなくて、グエンさんはミリシャとは決別したんじゃ……」
グエンが人里離れた別荘で隠遁めいた生活を送っているのも、イングレッサ領が無政府状態に陥り、次期領主として月との交渉を続けることはもちろん、ミリシャのスポンサーを務めることもできなくなったからだ。イングレッサ・ミリシャが分裂せずに残っているかどうかさえ怪しく、キースは疑う目を向けたが、「確かに実権は失ったが、なくしたものはまた取り戻せばいい」と応じたグエンは、刻んだ笑みを絶やさなかった。
「ミハエルたちにしても、ルジャーナの傘下に入るのはおもしろくないはずだ。落日の次には、必ず日の出があるものさ」
「そういうもんですか……」
「君が手助けをしてくれれば、できるよ」
「おれ、ただのパン屋ですよ?」
「ローラの友達なんだろう? だったら、ムーンレィスとなんらかのコネがあるんじゃないかと期待しているんだが、違うかな」
それまで無縁の皮をかぶっていたグエンが、いきなり喉元に迫ってきた瞬間だった。反射的に視線を逸らしたキースは、「おっしゃってる意味がよくわかりませんけど……」と言った。
「月は、地球よりずっと重力が小さいんだそうだ。同じ人間とはいえ、二千年もそこで暮らしていたら筋肉も骨も弱くなるだろう」
ソファの背もたれに寄りかかって、グエンはゆったりと続けた。キースはその顔を見ることができなかった。
「科学技術の力で、そのへんのところは解決できたとしてもだ。なんの実験もせずに、いきなり帰還作戦を始めるとは考えられない。先発隊を送り込んで、地球の環境に馴染めるかどうか調べようとするはずだ」
豪華な調度に囲まれた居間も、窓の外に見える木々の緑も、キースの視界の中で急速に色を失っていった。唐突に降りかかってきた危機との直面に、蛇に睨まれた蛙の心境とはこんなものだろうと思いつつ、キースはなにも見えていない目を窓外に向け続けた。
「二年前にムーンレィスが無線機を送ってきた時から、わたしは部下にそれとなく注意するよう言いつけておいた。よそからこの土地にやってきて、なにか変わった特徴がある者には目をつけておけと言っておいた。それで引っかかったのが、ローラだ。彼が機械人形を最初に動かしたことは、君も知っているだろう?」
声が出なかった。能天気なお坊っちゃん、という評価は根本的に間違っていたと理解して、キースは石になった唾を飲み下した。
「ローラや君がムーンレィスであろうとなかろうと、そんなことはどうでもいい。わたしは優秀なスタッフが欲しいだけだ。無論、見返りは十分に支払う。この機械人形を売った金でパン屋の一軒は買えるだろうが、わたしの手伝いをしてくれたならパンエ場が建てられる。保証するよ」
コーヒーカップが持ち上げられる微かな音が発し、グエンの言葉は終わった。弱みを握られたという思いと、悪い話ではないという思いが伯仲して、キースはしばらく指ひとつ動かせない硬直の時間を過ごした。茫洋とした御曹子の顔から一転、怜俐な策士の素顔を表した男をどう捉えたらいいのかわからず、ただその目的だけは知りたい衝動に駆られて、
「……グエンさんは、本気でディアナ・カウンターに勝てると思ってるんですか?」と尋ねていた。
「武力戦争では無理だろう。しかし彼らの技術力を手に入れられれば、経済戦争で勝つ自信はある」
「経済戦争……?」
「月から大量に人間がくれば、生活する道具が必要になるだろう? 連中が使うものをラインフォード印の商品で固めれば、ムーンレィスと対等の立場でものが言えるようになる。つまり共存できるということだ」
そう言って、グエンは褐色の肌が際立たせる碧眼をこちらに向けた。自分には考えもつかない発想に虚をつかれた後、それはおもしろい、と感じる未知の情動が無条件にわき上がってきて、キースはグエンと目を合わせる気になった。
「……月の技術力を手に入れるなら、ムーンレィスの技術者を雇い入れるのが手っ取り早いですね」
思いつくまま口にすると、「パン屋くんにコネはないのかね?」と応じたグエンの顔に微笑が灯った。キースは、完全にグエンの方に振り返っていた。
「パンを売りに、ムーンレィスの居留地に何度か行ったことがあります。ろくな食い物はないし、ディアナ・カウンターの兵隊は偉ぶってるしで、居留地に押し込められてる帰還民はかなりまいってる。食い物と住む場所を保証してやれば、なびく連中もいるかもしれない」
「素晴らしい。彼らの力を借りられるなら、オーバニーに埋まっている宇宙船だって動かせる」
「宇宙船……?」
「切り札は最後まで取っておくものさ。君には帰還民の手引きをお願いしたいが、できるかな?」
そりゃもちろん……と言いかけて、すっかりグエンのペースに乗せられている自分に気づいたキースは、危うく先の言葉を呑み込んだ。気配を察したのか、「無理強いはしない。よく考えたまえ」と言ったグエンの声を聞きながら、再び窓に向き直った。
ムーンレィスの帰還民に脱走をそそのかして、ミリシャに協力させる。〈フラット〉を売りつけるどころの話ではなく、ディアナ・カウンターに真っ向から敵対する行為であることは自明だった。
ディアナ・カウンターに義理はないし、月に戻る気もさらさらないとはいえ、ここまで事態に深く関わっていいものか。どう理由をつけても、同胞殺しに加担する結果に変わりはないのではないか――。出口のない考えをめぐらすうち、車のエンジンの音が庭の方に発して、キースは顔を上げた。
別荘の管理人と一緒に、食料の買いだしに出ていたベルレーヌが帰ってきたところだった。山盛りの買い物袋を両手に抱え、庭を横切ろうとしたベルレーヌは、こちらの視線に気づくと少し不安げな表情になった。
よほど深刻な顔をていたのだろう。軽く手を振り、大丈夫と伝えたキースは、この別荘のお嬢さんと言っても通用するベルレーヌの細い背中が、勝手口の方に歩いてゆくのをじっと見つめた。
苦労はさせたくない。もやもやと滞留する思考を吹き消して、そんな言葉が浮かび上がってきた。店は壊され、親方も腕をダメにした。これからは、おれの手でベルレーヌと親方夫婦を養っていかなけりゃならない。同胞への裏切りという抽象的で実感のない言葉より重く、その思いがキースの中で膨脹していった。
グエンは無言のまま、静かにコーヒーカップを口に近づけている。窓から目を離し、キースはそうすると決めた顔をグエンに向けた。
「いつ始めますか?」
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重く垂れこめた雲は、ほどなく大粒の雨をオーバニーに降らせ始めた。秋の気配を含んだ雨は冷たく、針葉樹林に囲まれたミリシャの野営地をしっぽり包み込んで、その場に集まった人々の心も重く湿らせてゆくようだった。
肩や頭部に枝をかぶせ、心ばかりのカモフラージュを施した〈ターンA〉の整備をしていたロランは、ミハエル大佐からの呼び出しを受けて司令本部へと向かった。泥に汚れたトラックや装甲車が並ぶ中、そこここに点在するテントが雨に打たれてしおれている光景は、ミリシャの窮状をそのまま引き写している。滅入りそうな気分をかけ足でごまかして、ロランはイングレッサ・ミリシャの旗を掲げた司令本部のテントに急いだ。
ノックスの激戦から、今日でまる一週間。当初、各地でゲリラ戦を展開していた独立部隊も、追々このオーバニーに撤退し始めて、三日も過ぎた頃には敗北の二文字が濃厚に浮かび上がるようになった。ラインフォード家の後方支援を失った今、イングレッサ・ミリシャは落ち武者集団になったも同然で、朝になってみたら一小隊がまるごと脱走していた、などという事件も頻発している。ミハエル大佐が不退転の決意を開陳したところで、沈みゆく船のイメージが覆るものではなく、ルジャーナ・ミリシャの先遣隊と合流するに至って、それはいよいよ深刻化した。
兵の数では劣っていても、機械人形部隊の存在があれば、ルジャーナに隷属するような事態は避けらわる、というのがミハエルたちの当初の見解だったが、ルジャーナ・ミリシャはすでに機械人形の発掘を進めており、オーバニーに進軍してきた先遣隊は、六機のモビルスーツを従えてイングレッサ・ミリシャの前に現れたのだ。
ルジャーナ領内で発見されたマウンテン・サイクルU――イングレッサ側がそう呼んでいるだけで、ルジャーナ側は自分たちのマウンテン・サイクルが元祖だと主張しているが――から発掘されたモビルスーツは、〈カプル〉よりさらに数世代|遡《さかのぼ》った旧式で、モビルスーツが開発されて間もない頃の機体と思われたが、甲冑をまとった人間を想起させるフォルムは、局地戦用の〈カプル〉にはない高い汎用性を誇っていた。コクピットには(MS−06F ZAKUU〉の刻印があったそうだが、ルジャーナのパイロットたちは〈ボルジャーノン〉の名称で呼んでおり、これは領主のボルジャーノ公が直々に命名したとのことだった。
「てめえの名前を機械人形につけるってのが、そもそもまともじゃねえんだよ。反ムーンレィス連合なんて調子のいいこと言ってるが、ルジャーナ領主の権勢欲の強さは衆目が認めるところだ。体よくイングレッサを傘下に収めちまおうって腹に決まってんだから、気を許すんじゃないぞ」
ヤーニ・オビュス少尉はロランにそう言い、「連中の機械人形にどれだけの力があるか知らんが、こっちに実戦をくぐり抜けてんだ。立場はこっちの方が上だってつもりでいろ」とも付け如えたが、ずらりと拒ぶ〈ボルジャーノン〉の威容を見れば、満身|創痍《そうい》の〈カプル〉七機と〈ターンA〉しかないイングレッサ勢は、気後れさせられるのが現実だった。マウンテン・サイクルはディアナ・カウノターに制圧され、補充の見込みも立たないとあっては、ロランたちはルジャーナの力を当てにするよりないのだ。
ルジャーナ先遣隊のキャンプは、イングレッサ・ミリシャのそれとははっきり区分けされており、それぞれの入口に外套を着た見張り兵が立哨《りっしょう》して、お互いの出入りを厳しく監視し合っている。まるで敵《かたき》同士だと思いつつ、司令本部のテントに近づいたロランは、その前に停まっている小型トラックを見て足を止めた。
荷台に『ドンキー・ベーカリー』のロゴが踊っている小型トラックは、間違いなくキースが勤めるパン屋のものだった。崩壊したノックスで営業を続けているとは思えないし、百キロ近く離れたオーバニーまで配達にくるはずもない。ざわざわとした不安が立ち上がり、ロランはぬかるみを蹴散らすようにしてテントへと走った。
火事場泥棒に転じたミリシャ兵に店を襲われ、トラックを盗まれたのではないか。見張りの兵の取り次ぎも待たずにテントに飛び込んだロランは、しかしすぐにそれが杞憂《きゆう》であったことを知らされた。裸電球が照らす下、いつもの前かけ姿のキースが背中を向けて立っていたのだ。
その向こう、ミハエルと並んでテーブルを前にしているヤーニが、「報告は」と険悪な目を寄越す。ほっと息をついたのもつかの間、ロランは「ロラン・セアック、参りました」と反射的に踵を合わせた。
キースはちらと振り向いただけで、ロランと目を合わせてもなにも言おうとしなかった。ひどく重苦しい空気が漂っていることに気づき、憮然と座っているミハエルたちを見返すと、「そのパン屋が持ってきてくれた。御曹子からの手紙だ」と言ったミハエルが、テーブル上の紙片をこちらに滑らせた。
ムーンレィスの技術者を居留地から引き抜き、ミリシャに雇い入れたい。この手紙を持参した者が脱走の手引きをするので、貴下らの機械人形部隊にその護衛を依頼する――。末尾にグエン・サード・ラインフォードのサインがある手紙には、そう記されていた。
所在不明だったグエンが、キースと知り合いになっていたのも不思議なら、二人が結託して、とんでもない計画を始めようとしていることも信じられない。目眩《めくらま》しされたように思い、いったいなにがあったのか、ロランは立ち尽くしたままのキースに詰め寄ろうとしたが、それより先に「ふざけた話だ」とヤーニが口を開いていた。
「おれたちはディアナ・カウンターと戦争をしている真っ最中なんだぞ? どうして敵を味方に迎え入れなけりゃならんのだ」
「帰還民の中には、ディアナ・カウンターのやり方を嫌って、平和に暮らしたがっている者もいます。軍の技術者の中にも……」
「敵は敵だ!」と遮ったヤーニの迫力にも動じず、キースはじっと一点を見つめている。この硬さはなんだろうと思い、同郷の友人の顔をまじまじと見つめたロランは、「利用できるものは使わないと、勝てる戦も勝てなくなる」と呟いたミハエルに振り返った。
「御曹子はそう言いたいのだろう? キース君」
「おれは、難しい話はよくわかりません。ただパンを売りにムーンレィスの居留地にも出入りしてるって言ったら、このお話を聞かされたんです」
「ノックスで偶然、助けたのだと言ったな? 転んでもただでは起きん男が、再びミリシャの実権を握ろうとする……か」
独白のように呟いたミハエルは、「ロラン、聞いての通りだ」と続けて立ち上がった。
「この手紙と一緒に、御曹子は新しい機械人形を寄越してきた。マウンテン・サイクルの発掘品ではなく、ディアナ・カウンターが乗り捨てたものらしい。間もなく到着するが、その整備が済み次第、キース君と協力して帰還民の脱走に手を貸してやってほしい」
新しい機械人形とは、キースが売却しようとしていた〈フラット〉のことだろう。すっかりできあがっている話に「……はい」と答えながらも、ロランはあらためてキースの横顔を窺った。「大佐、いいのでありますか!?」と椅子を蹴ったヤーニのだみ声が、天幕から垂れ下がる裸電球を揺らした。
「新しい機械人形はティモル少尉に任す。ソシエ嬢やに〈カプル〉を取られて、クサっているようだからな。隊長のマリル少佐が重傷で動けない今、君が機械人形部隊の実質的なりーダーだ。〈ターンA〉の活躍を期待している」
ヤーニを無視してロランに続けたミハエルは、「大佐!」とくり返されただみ声に視線を向けた。
「現状では、我々はルジャーナに吸収されても文句は言えん」とぴしゃりとはねつけたミハエルに、ヤーニはへの字の口をさらにひん曲げてみせた。
「見限ろうと思っていたが、また起き上がろうとしている御曹子。こちらも利用させてもらおうじゃないか。ムーンレィスの技術者を味方につければ、例の宇宙船も動かせるようになるかもしれん。……御曹子は、その辺も計算に入れているのだろう?」
ここから二十キロほど南下したところにある、キングスレーの谷に埋まっている宇宙船。ウィル・ゲイムが先祖代々発掘してきたという巨大な宇宙船は、シドたち黒歴史発掘隊の手によって急速に全貌を表しつつある。ルジャーナに悟られないよう、隊内でも一部の者にしか存在を知らされておらず、ヤーニは思わずというふうに周囲を見回したが、ミハエルとキースは冷静だった。「おれは、その手紙を渡すように言われただけですから」と応じたキースに、ミハエルはにやと顔を歪めてみせた。
「まあ、いい。御曹子とどういう約束をしたのか知らんが、パン屋を拡張するつもりでいるなら、こちらにも卸すようにしてもらいたい。わたしもドンキーのパンのファンなのでな」
「それは、もちろん」と頭を下げたキースは、少しだけ顔を動かすとこちらを見た。まだなにをどう考えたらいいのか整理がつかないまま、ロランもその顔を見返した。
少しの後ろめたさと、謝罪の念。笑いたければ笑えと言っているような開き直った強がり。さまざまな感情を寂しげな微笑に託して、キースはすぐに顔を前に戻した。ケンカを始めるのもキースなら、終わらせるのもキース。施設のガキ大将だった親友の横顔を見つめて、ロランは一抹の寂寥《せきりょう》と一緒に納得した。
キースは大人になったんだ。
そのままミハエルと打ち合わせに入ったキースを残して、ロランは機械人形部隊が駐機場にしている針葉樹林に戻った。二十メートルを超える樹高も珍しくはない杉の木立の中、森の妖精というには無骨すぎる〈ターンA〉と〈カプル〉たちが、雨の幕をかぶって静かに佇んでいる姿があった。
それぞれの機体にはパイロットと整備兵が取りつき、当てのない出動を待って黙々と整備を続けている。コクピットの無線を使って招集をかけるつもりで、ロランは〈ターンA〉の足もとに向かった。降下させたコクピットボールの周辺には、〈ターンA〉をあきらめきれないソシエと、例によってカメラを手にしているフラン・ドールの背中があった。
ノックスを命からがらの思いで逃げ出した後、オーバニー近辺の支社で寝泊まりしているらしいフランは、相変わらず一日と置かずに野営地に出没している。こちらに気づくと、「ミハエル大佐の用ってなに? 出動が近いの?」と好奇心むき出しの様子で近づいてきたが、「軍の機密でしょ!?」と怒鳴ったソシエが、間に入ってとおせんぼをする方が早かった。
「軍の横暴! ペンは剣よりも強しって諺《ことわざ》、知らないな?」と冗談めかしたフランに、「そのペンを振るえる権利を守ってやってんのは、あたしたちでしょ」とソシエ。もともと波長が近い二人には、妙に馬が合うところがあるらしい。「で、なんだったの、大佐の話?」とこちらを振り返ったソシエに、「後で話しますよ」と返して、ロランはコクピットの方に歩いていった。
機密を守るという以上に、フランの前でキースが関わっている作戦の話をしたくはなかった。雨に濡れた頭をタオルでごしごし拭きつつ、ロランはキエルの姿を捜した。
ついさっきまで、トラックで資材を取りにきたウィルとなにごとか話し込んでいる背中があった。ソシエに尋ねると不機嫌になるので、「キエルお嬢さんは?」と小声でフランに訊いたロランは、「ウィルさんと一緒にお出かけ中」と、数メートル離れた場所から答えたソシエの地獄耳にひやりとした。
「キングスレーの方にでも行ったんでしょ? なんかフワフワしちゃってさ。キエルお姉さまがあんなに惚《ほ》れっぽい女だったなんて、幻滅なのよね」
意味もなく、体が熱くなった。「惚れてるって、そんな……」と抗弁したロランに、「いきなり抱きついたっていうんでしょ?」とフランが追い打ちをかける。目覚めた途端、ウィル・ゲイムの胸にまっすぐ飛び込んでいったキエルの姿を鮮明に思い出して、ロランは胸の穴がさらに広がるような痛みを覚えた。
「目が覚めたら、絵本に出てくるウィル・ゲイムそっくりな人がいたんで、わけもわからずに抱きついちゃったなんて言ってるけど。怪しいもんよ。絵本に出てくるウィル・ゲイムは王子様で、もっと上品ないい男だもの」
「でも、キエルお嬢さんはウィルって呼んでましたよ」
「お城で働いてれば、知る機会もあったんでしょ? だいたい、お姉さまは現実主義者なんだから、『鳳凰の羽』みたいなおとぎ話は趣味じゃないのよ。愛するウィルの生死もろくに確かめなかった月の姫君は薄情な女だって、冷静に分析してるぐらいなんだから」
月の姫君という一語に、ロランは期せずしてフランと顔を見合わせた。ちらちら周辺を舞っていた符丁が重なり合い、ひどく重要な事実の片鱗を示したような気がして、自分の〈カプル〉に戻ろうとするソシエを呼び止めていた。
「その、『鳳凰の羽』ってどういう話なんです?」
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低く空を覆《おお》った雲が慌ただしく流れると、切れ間から差し込んだ陽光がスポットライトのように山々と草原を照らし、雨の時間を終わりにした。爆撃を思わせる遠雷の音は続いていたが、空と平原に広がり、ゆったり溶けてゆく低音は耳にやさしく、神経を脅かすものではなかった。
まだ夏の勢いを残した太陽が、雨に濡れた大地を乾かし、草いきれや土の匂い、近くを流れる小川の匂いを濃厚に浮き立たせてゆく。ああ、地球の匂いだと思い、肺にいっぱいの空気を吸い込んだディアナ・ソレルは、その勢いを借りて背後の屋敷を振り返った。
頑丈なむくの木で作られた柱が四本、太陽電池芝を敷いた大きな屋根を支えている母屋と、その隣にある棟続きの離れ。テラスの手すりは折れ、のび放題の雑草が周囲を取り囲んではいるものの、かけがえのない一年間を過ごしたゲイム邸の印象は変わらない。一陣の風がくすのきを揺らし、枝から散った水滴が離れの前に虹をかけるのを見たディアナは、耐えきれずに顔をうつむけていた。
四年前にも、同じ光景を見たと思い出してしまったからだった。もっとも、その頃のくすのきは離れに覆い被さるほど枝葉をのばしておらず、離れのテラスも手入れが行き届いて、補修の継ぎ板が目立つようなこともなかった。くすのきの隣に佇立する樫の木は、まだ存在さえしていなかった。
東方の大陸へ旅立つ日、ウィル・ゲイムが屋敷の前に植えた|樫の木《ヒッコリー》。手折れそうに細かった苗木は、両手をのばしても包みきれない太さに成長し、樹高もくすのきを追い越して青々とした葉を茂らせている。夢のない眠りに落ちている間に、このオーバニーでは百五十年以上の時間が過ぎ去ってしまった。そう教える光景を前に、ディアナにできるのは目を閉じることだけだった。今のすべてを遮断して、瞼の裏にあの頃の情景を取り戻そうとした。
ウィルと出会ったのは、ここからそう遠くない森の中。地球に降下《おり》たばかりの身にはなにもかもが珍しく、慣れない環境に難儀している親衛隊の目を盗み、ひとりで散策を楽しんでいるうちに、すっかり方向がわからなくなってしまった。日が落ちると冷たい霧が立ちこめるようになり、心細さと寒さで身動きが取れなくなっていたところ、狩りの帰りのウィルとばったり出会ったのだ。
青く澄んだ子供のような瞳と、頬と顎《あご》を覆う無精髭のアンバランスさが印象的な青年だった。どこから来なされた、と尋ねたウィルに、ディアナは思わず月から、と答えていた。ウィルは驚く様子もなく、それは遠路はるばるご苦労でした、と笑った。それからすぐに親衛隊が駆けつけたが、ディアナは誘われるままウィルの屋敷に向かった。
ひと晩だけ世話になるつもりでいたはずが、三日になり、一週間になり、ひと月になった。いつしかディアナは、ウィル・ゲイムとともにこのオーバニーで暮らすようになっていた。
親衛隊が目立たぬよう警護を固めていたものの、ディアナにとっては初めて得られた自由な日々だった。屋敷の離れに部屋を与えられたディアナは、ゲイム家の人々から家族の一員のように迎え入れられた。ウィルはどこまでも鷹揚《おうよう》な男で、ディアナにはいつでもやさしく、また強い男だった。地球の人間に対する好奇心は、ウィルというひとりの男への興味に変わり、やがて幼い愛情へと成長していった。二人は暗黙のうちに許婚と見なされるようになったが、その頃になると月の姫君の噂があちこちに飛び火して、物見高い貴族や商人たちがオーバニーに訪れ始めた。
彼らは、月で作られた化学繊維の服や立体映像装置《ホログラフィ》を珍しがり、ひとりが結婚を申し込むと、まるで競争するかのように求婚合戦が始めた。誰もが甘い言葉を並べ、己の富の力を誇示したが、それは愛情というより、権勢と栄華を飾るアクセサリーとしてディアナを欲しているのだった。
ウィルが彼らを追い返せなかったのは、貴族の血筋とはいえ、あまり裕福ではなかったゲイム家にとって、有力な商人や貴族たちの機嫌を損ねるのは致命的だとわかっていたからだ。ディアナは一計を案じて、求婚者たちに結婚の条件を出すことにした。
鳳凰の羽を取ってきた者と、結婚する。鳳凰などいるはずがないと知っていながら、ディアナは求婚者たちにそう言った。他の男たちを追い払い、限られた時間をウィルと過ごすためにしたことだったが、それがウィルのプライドを傷つける結果になるとは気づいていなかった。何人かがあきらめ、何人かが意地を張って東方の国へ旅立っていった後、ウィルはディアナに言った。求婚者たちと対等に争い、勝った上であなたと向き合いたい、と。そうしなければ、今の自分はあまりにも惨めすぎるとウィルの目は語っていた。
そしてウィルは旅立っていった。自分の信念と誇りを貫き、存在しない鳳凰を求めて東の空へ消えていった。あるいはそうすることで、月への帰還を間近に控えていたディアナを引き止めようとしたのかもしれない。地球での滞在期間が終わりに近づきつつあることを告げると、ウィルはとても辛そうな顔をしていた。すべてを捨てて、ここで一緒に暮らしてくれないか。まっすぐ目を見て言ったウィルに、ディアナは答える言葉がなかった。
捨てるには、あまりにも大きい責任だとわかっていたから。旧世界から受け継いだ文明と、二千万の命を預かる女王の立場。重すぎる責務を前に、自分という個人の想いなどは勘定にも入らないと思えたから。ウィルはそれを悟り、ディアナの前から消えていったのかもしれない。痛みを紛らわすため、それとも鳳凰の羽の魔力が奇跡を起こすと信じて? もしそうなら、ありもしない希望を与えヽ結果的に余計な苦しみをウィルに与えてしまったのは、他ならぬディアナ自身だった。
二人の時間を手に入れるためについた嘘が、二人を引き離すように働く。ちょっとした気持ちのずれが積み重なり、お互いの間に大きな溝を作ってゆく。求め合う気持ちが強ければ強いほど、そうなってしまうのも人と人の関係なのだろう。結局、ウィルを見たのはその時が最後だった。ウィルが旅立ってしばらく後、ディアナは期限通り迎えにきた連絡船に乗り、地球を離れた。互いの気持ちが、少しだけずれたままになってしまったことを後悔しつつ……。
月に帰るや、一年の間に溜まっていた政治向きの報告を聞かされ、各種の裁可を下す公務に忙殺されて、落ち着く間もなく人工冬眠に入った。ウィルのその後など知りようがなかったし、調べさせる気にもなれなかった。
夢のない百年の眠りを経て、本格始動した地球帰還作戦の準備を二年間監督した後、さらに冬眠。すべての準備が整った二年前に覚醒し、再び地球の大地に足をつけた。旅立つウィルを見送った日から、正確には百五十八年と四ヵ月。ちょっとした偶然からこのオーバニーに舞い戻り、思いがけずウィル・ゲイムのその後を知らされることになった――。
「悪い、持たせたな」
玄関の方から発した声が、ディアナを現実に引き戻した。小脇に古びた箱を抱えた男が、こちらに屈託のない笑顔を向けているのを見て、心臓が跳ね上がるのを感じた。
よく磨かれたむくの木材で作られた扉を開け、純朴な青い瞳を輝かせている男。今日は谷の方にでも遠乗りにいきましょうか、と語りかける乗馬服姿のウィル・ゲイムが自然に重なり、ディアナは思わず数歩を踏み出したが、幻覚は三秒後には消えていた。
整然と並んでいたよろい戸は蝶番が外れて傾き、テラスの床はところどころ黒く腐って、傷んだ柱には大きな蜘蛛の巣がかかってゆく。上等な仕立ての乗馬服はよれよれのシャツとズボンに変わり、ミリシャ黒歴史発掘隊のウィル・ゲイムが、ディアナの前に現れた。
「もう一年近く空けっぱなしにしてるから、埃がひどいのなんのって……」と続けつつ、ウィルは今にも腐り落ちそうな階段を下ってこちらに歩いてくる。物腰や雰囲気、髪の色は違っても、間違いなく私が愛したウィル・ゲイムの顔。いけないと思いながらも、つい髭の剃り跡が目立つ顎を凝視する間に、ウィルの長身がディアナの目前にまで近づいていた。
「物置の奥にしまってたんで、探すのに手間どっちまってさ」と言って、ウィルは手にした木箱を差し出した。「いえ、余計なお手間を取らせてしまって……」と応じたディアナは、表面に彫刻が施された小箱を両手で受け取った。
キングスレーの発掘現場に戻る途中、空き家にしている実家の様子を見に行くというウィルの話を聞いて、衝動的にここまでついてきてしまったのだった。『鳳凰の羽』の舞台になったお屋敷なら、ぜひこの目で見てみたい。そう理由を取り繕ったディアナに、なら珍しいものを見せてやるとウィルが引っ張り出してきたのが、この小箱。見覚えのある彫刻細工を見下ろし、辛くなるだけなのに……と後悔を新たにしたディアナは、小箱の蓋をそっと開けてみた。
埃を吸ってかさかさになったビロードの内張の中に、薄汚れた鳥の羽が収められているのが見え、同時にひどくゆっくりしたオルゴールの音がこぼれ落ちてきた。昔、母屋の居間で毎日のように聞いた音色。ウィルの母親が宝物にしていたオルゴールは、もしゲイム家に嫁いでいたなら、ディアナのものになっていたはずだった。
必死に押し留めてきたものが溢れ出し、じわりと滲んだ瞳を隠すために顔を俯《うつむ》けたディアナは、「嘘か本当か知らないけど、これが鳳凰の羽なんだってさ」と説明したウィルの声を、遠くに聞いた。
「二年ぐらい東方の大陸をさまよった初代のウィル・ゲイムが、やっとの思いで捜し当てたもんらしいけど、ご覧の通りの小汚いただの羽さ。おとぎ話では、こいつの力で夜鷹に変身するんだよな」
「違うのですか……?」
「本当の話なら、子孫のおれがここであんたと話してるわけないだろ? 月に人が住んでるとかさ、そういうことを認めたくない昔の連中が、事実をねじ曲げて作り話っぽくしちまったんだよ。初代のウィル・ゲイムはちゃんと結婚して、子供も作ったさ。もっとも月の姫君への想いを忘れられないで、すっかり家を没落させちまったけどな……」
言葉がなかった。ひとつの人生に関わり、根本から狂わせておきながら、なんの責任も取らずに逃げ出した自分の不実。その罪を自覚する一方で、別の女との間に子を設けたと聞けば、やはり襄切られたように感じてしまう身勝手な思い。そんな自分を愛し、その想いを子孫にまで託した男の壮絶な純情。さまざまな感情が渦巻く中、艶のない、使い古したブラシのような羽を見つめたディアナは、とりあえずすべての思考を中断して、でもこれは間違いなく鳳凰の羽だ、と結論を出した。
あのウィルが、命がけで取ってきたものなのだから。百五十年もの時を超えて、約束通り私の手元に届けてくれたのだから……。喉元までこみ上げた嗚咽を飲み下し、小さく体を震わせた途端、「よかったらやるよ」と言ったウィルが離れる足を踏み出していた。
「でも、ご先祖さまの大切な遺品を……」
「おれが大切なのは、キングスレーに埋もれてる宇宙船の方さ。これから行くけど、あんたも来るかい?」
ここに来ていることは、誰にも言っていない。もう戻った方がいいかとディアナは思いかけたが、野営地で気づまりな思いをするよりは、外を自由に出歩いていたいという気分の方が強かった。頷いてみせると、ウィルはそのままトラックの方に歩き出した。
助手席に乗り込む時、先に運転席に収まったウィルがディアナの手をしっかりと握り、中から引っ張り上げてくれた。握られた手のひらが熱くなり、全身をほんのり温めてゆく感覚に戸惑いながら、ディアナはしばらくなにも言わずにエンジンの震動に身を任せた。
山間の盆地を抜け、キングスレーの谷に出るまでは、山の稜線と畑だけが見えるひたすら平坦な道が続いた。
瑞々しい緑から、円熟した黄金色に脱皮しつつある小麦畑。うっすらまとった霧の皮膜に、虹色のプリズムを浮かび上がらせる山々のシルエット。吹き渡る風が畑の海に深遠な波模様を刻み、雲間から覗いた太陽が、ぬかるんだ泥道さえも宝石を埋め込んだようにきらきら輝かせる。すぐ近くで戦争が起こっているとは信じられない、あまりにも長閑《のどか》な空気に、ディアナはふと、このままなにもかも捨てて、ひとりの女として生きる自分を夢想してみた。
四年前、それができなかったばかりに、私は大切なものを失ってしまった。しょせんは一時の幻、もう二度と手に入らないとあきらめていたところに、こんな偶然が転がり込んできたのだ。
中身はどうあれ、ウィル・ゲイムとそっくり同じにみえる男が、すぐ隣で口笛を吹いている。これをやり直せという啓示と受け取るか、あるいは誘惑と取るか。理性は最初から後者を選択しているが、もしかしたら、と囁きかける声も存在しており、それは刻々と大きくなって、心の中の振り子を揺らし続けているのだった。
あれから一週間、ディアナ・カウンターには特に目立った動きはない。恐ろしく稚拙《ちせつ》な地球の情報収集力では、〈ソレイユ〉の現在位置さえ判然としないが、いまだ総攻撃の気配を見せないということは、キエルさんが私の役をうまく演《や》りおおせてくれているのだろう。彼女には気の毒だけど、私がこれっきり消えてしまっても、大勢に影響はないのかもしれない。ソレルー族の末裔《まつえい》として、私が説いてきた地球帰還の理念は、既にディアナ・カウンターの中に息づいている。後はディアナ・ソレルの姿形をした者がいれば、中身が誰であろうとどうでもいいはずなのだから。
でも、私はソレルー族の理念に従って、帰還作戦を実行したのだったか? オーバニーで過ごしたかけがえのない一年間、空と雲、風、大地、溢れる命の息吹きを全身に取り込んだ一年間は、地球という自然の素晴らしさを私に実感させた。すべてのムーンレィスに、この感動を味わってもらいたいとも思った。しかしそれは帰還作戦を正当化する論法、言い訳に過ぎず、私はただ地球に還りたかったのではないか? 白日夢のような永遠から抜け出して、ウィル・ゲイムが眠る大地に還りたかっただけなのではないのか……?
いつ果てるとも知らない、弛緩した生に縛り続けられるよりは、短くてもいい、生きていてよかったと思える本当の生を謳歌したかった。それは理念や思考では説明できない、体の奥底に息づく原始的な本能の叫びであったのだろう。私だけではなく、全ムーンレィスの中にもきっと残っている本能。だから帰還作戦は行われてしかるべきだった……と、その思いは今でも変わらないが、それならどうして私はここにいるのか。
偶然のなりゆきからキエルさんと入れ替わり、ウィル・ゲイムの子孫と再会した。たったそれだけのことで、心がこんなにも揺れるのはどういうわけか。ディアナ・カウンターに戻ろうともせず、いつまでもこうしていたいと感じてしまうのは、いったいなぜか……。
あの人の面影が、強く残りすぎているのがいけないのかもしれない。傍らでハンドルを握るウィルの横顔をそっと窺った途端、なにげなくこちらを振り返った目と目が合ってしまい、ディアナは慌てて視線を前に戻した。
口笛が止まり、間の悪い沈黙が流れた。取り繕う言葉を探したディアナは、「……あの、この前は失礼いたしました」と思いきって口を開いた。
「急に、その……」
抱きついた、という言葉が出せずに言い澱《よど》んでいると、「ああ、あん時はびっくりしたよ」とウィルのあっけらかんとした声が返ってきた。
「おれの顔、そんなに絵本に出てくる初代ウィルに似てるのかい?」
「私が見た本の絵では……」
「女の人って、ああいう話、好きなんだろうな」
「ウィルさんはお嫌いですか?」
「嫌いもなにも、生々しすぎるよ。ロマンスはいいけど、そのせいで子孫は苦労させられてきたんだから……」
ウィルの目がかすかに細められ、ディアナはなにも言えずに顔を前に戻した。軍用輸送トラックのシートは固く、悪路を走るタイヤの振動が直接お尻に響くようだった。
「オーバニーに帰ってきた初代ウィルは、なんとか月に行く方法がないかって、憑かれたみたいに『黒歴史』を漁《あさ》り出したんだ。それでキングスレーの谷にでっかい宇宙船が埋まってるのを突き止めて、土地を売って、掘削道具をそろえて……。道具ったって、昔は今ほど機械が進歩してないから手掘りとたいして変わりゃしない。堅い岩盤をこつこつ削り続けて、五十で死ぬまでにようやく船体らしいものに手が届いたけど、そんなのは表面のごく一部だ。残りの仕事は息子から息子に引き継がれて、ゲイム家の財産は発掘資金に食い潰されていった。お陰で、おれが生まれた頃にはすっかり気触りの一族って悪評が定着しちまったってわけさ」
「やめようとは思わなかったのですか?」
「途中でやめたら、それこそアホの一族だったって認めるようなもんだろう? ま、こうなりゃ執念だな。いつか宇宙船を完全に掘り出して、今までバカにしてた連中を見返してやりたいってさ」
「執念……」
「ああ。だがそれも、ムーンレィスが来てくれたお陰でうやむやになっちまった。国をあげて『黒歴史』の遺跡を発掘する時代になったんだからな。今のおれは、掘り出した宇宙船で月に行くことしか考えてないよ」
簡単に言ったウィルを、ディアナは思わず見返した。「月に?」と確かめると、ウィルははにかんだような笑みを口もとに刻んだ。
「ご先祖がずっと行きたがってたんだ。子孫のおれが望みを果たしてやりゃあ、百年以上続いたゲイム家の……なんて言ったらいいのかな」
「呪縛、ですか?」
「そう、それ。呪縛から逃れてさ、新しく家を立て直すこともできると思うんだ」
そう言うウィルの瞳は、茫洋とした希望と野心を映して輝いているようだった。鳳凰の羽――この世界のどこかにあるかもしれない希望を追い求め、東の空に旅立っていったウィル・ゲイムの瞳がそこに重なり、ディアナは胸の鼓動が早まるのを自覚した。
私なら、すぐにでも月に連れてゆくことができる。頭に上った血が他の思考を蒸発させ、その思いだけを正面に捉えたディアナは、ウィルの横顔を見つめ直した。「あの、もしも……」と言いかけて、かあっと盛大に喉を鳴らしたウィルに先の言葉を呑み込んだ。
窓の外にぺっと唾を吐き、ウィルはこちらに振り返った。不意にひっぱたかれたかのようで、頭に上っていた血が急激に下がり、ディアナは悄然《しょうぜん》と自分の側の窓に顔を寄せた。あの人は、ウィル・ゲイムはこんな下品な真似はしない。やはり別人……の思いが黒雲のようにわき起こり、胸の中を埋めていった。
雲間からは青空も覗き始めていたが、世界の輝度《きど》は明らかに低下していた。萎《な》えてゆく自分をどうにもできずに、ディアナは茫漠と広がる小麦畑の海を見つめた。
流れる畑が途切れ、むき出しの地肌の壁が左右を覆うようになると、そこはもうキングスレーの谷だった。深さ百メートル、幅も百メートルはあろう谷が緩やかに蛇行しつつ、数キロにわたって森林地帯を貫いている一大峡谷。谷の中は草一本生えていない荒れ地で、砂と岩しか見えない無味乾燥な光景は、まだ完全に回復したわけではない地球の自然を物語ってもいた。
天然のスロープを下り、一キロほど進んだところに宇宙船の発掘現場はあった。百五十年前、初代のウィル・ゲイムが最初にツルハシを振り下ろして以来、子孫たちの手で少しずつ掘り進められてきた発掘現場は、今は無数の人と機械に取り囲まれて、さながら採石場の様相を呈している。坑口には巨大な天幕がかけられ、内部の宇宙船を隠そうとしているようだったが、崖そのものを抉り取るほどに掘り広げられた穴が、それで塞ぎきれるものではなかった。
天幕の隙間から、推進ノズルと思われる円筒が並んでいるのが見える。直径十メートル近いメインノズルが三基と、それよりは小さい巡航用のサブノズルが四基。土砂を満載したトラックやクレーンが、その前をひっきりなしに往来している。爪状のマニピュレーターをノズルに突っ込み、ナノスキンの滓を掻き出しているのは、〈カプル〉とかいうモビルスーツだろう。ムーンレィス居留地から強奪した〈モビルリブ〉も作業に動員されており、落磐防止用の鉄骨をせっせと坑道に運び込んでいた。
船尾には、|近接防御火器システム《CIWS》と思われるドラム缶状の無人砲台が設置されており、その向こうにはモビルスーツの格納庫らしい巨大なシャッター状のハッチもある。まだ船首を土に埋もれさせている船体の規模はわからないが、メインノズルの大きさから推定して全長は百メートル強。おそらくは巡洋艦クラスの戦闘用艦艇だろう。故意に埋蔵されたものか、あるいは何千年も前にこの地に不時着して、それっきりになっていたのか。いずれにせよ、自己修復をくり返すナノスキンの装甲は船体を新品同様に保っており、正しい知識と技術を持った者が整備を行えば、すぐにでも飛び立てるようになることはディアナにも想像がついた。
発掘したモビルスーツの研究で知恵をつけているとはいえ、航法プログラムの設定や、荷粒子砲のエネルギー調整はミリシャには行えない。そう考えて安心しようとしたものの、驚くべき速度で科学技術を吸収し、ミサイルらしき兵器の雛型まで造り始めた地球の人々の様子を見れば、なにが起こってもおかしくないという思いを否定できなかった。
ミリシャがこの艦を運用するようになれば、戦争はますます激化の一途をたどる――。もっとよく宇宙船を観察するべく、助手席の窓から顔を出したディアナは、不意に停まったトラックのために窓枠に頭をぶつけそうになった。
振り返るより先に、「なんだ、ありゃ」の声が傍らに発し、ディアナはハンドルに身をもたせかけたウィルの視線を追った。坑口から少し離れた場所に、見覚えのあるモビルスーツが佇んでいるのを視界に入れて、小さく息を呑んだ。
スパイン構造特有の平べったい手足に、カエルを想起させる半球状の潰れた頭部。ミリシャが発掘した旧式の機体ではない。ディアナ・カウンターが制式採用している可変モビルスーツ、〈フラット〉タイプ。機体を変形させることで単独での大気圏突入を可能にし、地球帰還作戦に先立って行われた環境調査では、調査員を地球に降ろす降下船として使用されていた樵体だった。
この大陸に降り立った調査員のものだろうか? 土地の人間に見つからないよう、降下後は機体を地中潜行させるよう厳命されていたはずなのに。またひとつ、事態を悪化させる材料が増えたらしいと苦い思いを抱きつつ、見物人に囲まれる〈フラット〉を見つめたディアナは、ひとりの老人がこちらに近づいてくるのに気づいて、慌てて視線を逸《そ》らした。
シド・ムンザとかいう、黒歴史発掘隊のりーダーを務める老人だ。「新しい機械人形が見つかったのか?」と窓から身を乗り出したウィルに、「御曹子が送って寄越したんじゃ」と返したシドは、汚れた眼鏡越しの一瞥を助手席のディアナにくれた。
「グエン・ラインフォードが? 生きてたのかよ」
「そのことで話がある。荷下ろしは他の者にやらせるから、ちょいと顔かせ」
部外者のお嬢さんに聞かせる話じゃない、とシドの目が言っていた。なんだってんだよと口の中に毒づき、運転席のドアを開けたウィルは、「キエルさん、宇宙船を見るのは自由だけど、作業の邪魔にならないようにな」と言い置いてトラックを降りた。残されたディアナは、トラックを降りて発掘現場の方に近づいてみた。
天幕《テント》の陰から見上げると、宇宙船は途方もなく大きく、鋼で造られた小山のように感じられた。もう一度私と会うために、あの人はたったひとりでこの船を掘り出そうとした。自分の生涯だけでは足らず、果たせなかった想いを子孫の代にまで託した――。砂のひと粒、砕けた岩の破片のひとつひとつがその壮絶な刻苦を教えて、ディアナの胸を詰まらせた。兵器なんかじゃない、これはウィルのお船だ。なんの抵抗もなくその言葉が固まり、いく粒かの雫になって頬を流れ落ちていった。
私も、もう一度あなたに会いたい。そのためなら他のすべてを捨てたってかまわない。今ならそうできるかもしれないのに、あなたはもういない。姿と声は残っていても、あなたの魂は失われてしまっている。その事実を確認するために、私は再びこの地に導かれたのだろうか。時を超えて生き続けなければならなかったことが、同じ痛みと苦しみを味わわせる。これがムーンレィスを統治する者の宿命というのか。女王と呼ばれているだけで、私は一個の無力な女でしかないのに……。
「冗談じゃねえっ!」という怒声が背後に聞こえ、ディアナは慌てて涙を拭《ぬぐ》った。「この船はおれのもんだ。他の誰にも自由にはさせねえ」とウィルのいら立った声が続き、なにか面倒な事態が持ち上がったことを想像させた。
「ミリシャの協力がなければ、掘り出すのにあと何年かかったと思っとるんじゃ。なにも寄越せとは御曹子も言っとらん。ただ戦争が終わるまでの間、一時的に供出してくれと頼んどるんじゃろうが。ルジャーナの連中にでかい顔をさせんためにも、イングレッサ・ミリシャはこの船が必要なんじゃよ」
「発掘の手伝いをするって条件で、おれはミリシャに加わったんだ。御曹子にもイングレッサにも義理はねえ。この船はおれが月に行くために使うんだ!」
「おまえひとりで、この船をどうやって動かすっちゅうんじゃ。ムーンレィスの技術者の協力がなけりゃ、わしらが束になったって動かせるもんじゃないんじゃぞ」
ムーンレィスの技術者といったシドの言葉に、ディアナは振り返りたい衝動を堪えて聞き耳を立てた。帰還民の中から造反者を募るつもりでいる? できるわけがないという断定は、脳裏に再生されたグエン・ラインフォードの怜悧な視線によってあっさり打ち砕かれ、あの男ならやりかねない、の納得が重苦しい不安を連れてやってきた。「そんなこと言って、体よく船を乗っ取っちまおうって腹なんだろうが」というウィルの抗弁が、往来するトラックの音や岩盤を削る音に混ざり、不穏な気分を煽り立てるようにした。
「いい加減にせんか。だいたい、戦争の最中にのこのこ月になんぞ行ってみろ。撃沈されるに決まっとるじゃろうが。相応に礼金もはずむと言っとるんじゃから、戦争が片付くまでは……」
「親父も、祖父さんも、ひい祖父さんも! ゲイム家の男は、みんなこの船を掘り出すんで一生を費やしてきたんだ。それをいったいいくらで買おうってんだよ!? この世には金じゃ買えないものもあるんだって、御曹子に伝えとけ」
押し黙ったシドを残し、ウィルは足もとの小石を蹴散らすようにしてこちらに近づいてきた。「あの……」と呼びかけたディアナの声も耳に入らない様子で、目前を通りすぎると坑道の奥の方に消えていった。
あのウィル・ゲイムではない、とわかっている男を追いかける気にはなれず、ディアナは薄闇に溶けてゆく背中を黙って見送った。悲恋に打ちひしがれるのでも、死に別れて涙するのでもない。真実の絶望は、ただただ無感動になることだと、どこかでしらけている胸の内が告げたようだった。
その夜は、発掘現場の近くに仮設された作業小屋に泊まった。ここにいてもしようがないと思いながらも、積極的に野営地に戻る気にもなれず、なんとなくぼんやりしているうちに、夜になってしまった形だった。
ウィルとはあれきり会わなかった。夕食の時間になっても姿を見せず、ディアナは汗と土埃にまみれた男たちに混ざって、塩気の強いスープやベーコンポテトサラダなどの食事をひとりで採った。すぐに酒席に切り変わった飯場に居場所はなく、早々に退席すると、砂の吹き溜まった作業小屋の長椅子に服を着たまま横になった。
窓ごしに見える、薄雲をまとった月が美しく、また悲しくもあった。こんな月を見上げて、あの人は固い岩盤を掘り続けたのだろう。ぼんやりと考え、せめて夢で浚えたらと思ったが、うつらうつらする間に訪れた夢は、どれも奇妙に現実的であったり、極端に抽象的であったりして、ウィルの面影を再生するには至らなかった。
目覚めているのか眠っているのか判然とせず、無意味な夢と現実の間をくり返し行き来する。これでは月にいた時と変わらないと思い、何度目かの寝返りを打った時、人の通る気配が窓の外に感じられた。
なぜだか気になり、起き上がって窓から顔を出したディアナの目に、ずだ袋を担いだ背中が映った。
「ウィル……さん?」と呼びかけると、びくりと震えた長身がゆっくりこちらを振り返った。
帽子をかぶり、上着も羽織ったウィルの姿は、ちょっとトイレにでも行くという格好でないことは明白だった。急いで靴を履《は》き、寝静まったテントが並ぶ外に出たディアナは、立ち止まったままのウィルに近づいていった。
「悪いな。起こしちまったか」と帽子に手をやったウィルを無視して、「こんな夜更けに、どこに行かれるのです?」と訊いてみた。しばらく視線を泳がした後、「出てくんだよ」の返事か返ってきた。
「出てくって……」
「ディアナ・カウンターに行ってみるよ。あれを手土産にな」
ウィルが顎で示した先に、月明かりを黒い装甲に宿した〈フラット〉が佇立していた。「退職金代わりだ。あれくらいいただいてったって、文句はねえだろ」と続けて、ウィルは声を失ったディアナから離れる一歩を踏み出した。
「ウィルさん、お待ちなさい……!」思わず女王の口調で言ってしまってから、ディアナはウィルの行く手に先回りをした。「なんで地球人のあなたがディアナ・カウンターに行くのです。モ……機械人形を持っていったって、彼らはあなたを受け入れはしませんよ?」
「そんなの、やってみなきやわかんねえだろ? 月に行くには、ディアナ・カウンターに付いた方がいいってわかったんだ。ミリシャにはもう愛想が尽きたんでな」
「月に行ったって、いいことなんかなにもありません! 月に住んでいた人々が地球に帰ってこようとしているのに、なぜあなたはわざわざ月へ……」
「言ったろ? ご先祖の望みを果たして、家を再興するためさ」
遮《さえぎ》ったウィルは、「どいてくれよ」と続けて歩き出そうとした。自分のために、これ以上ウィルの家系を間違わせるわけにはいかない。「待って……!」と叫んで、ディアナはウィルの前に立ち塞がっていた。
「私はディアナ・ソレルです。あなたのご先祖さまと恋をした、月の姫君です!」
覚悟して言ったのではなく、衝動的に口走ってしまった言葉だった。きょとんとしたウィルの顔を見上げて、ディアナは両の拳をぎゅっと握り合わせた。
「今はキエル・ハイムと入れ替わっていますが、私は正真正銘ディアナ・ソレルです。ムーンレィスの統治者であり、ディアナ・カウンターの最高指揮官を務める者です」
目をしばたかせた後、ウィルの口もとに刻まれた笑みは、笑い飛ばすのもバカらしい、という苦笑だった。「やれやれ……。いくらなんでも突飛すぎるぜ、キエルさん」と言ったウィルに、ディアナは「本当です!」と重ねた。
「だとしても、初代のウィルが月の姫君と恋をしたのは百五十年も昔の話だ。あんたが生まれてた道理はねえだろう」
「冷凍睡眠という技術がムーンレィスにはあります。生きたまま人を凍らせて、百年でも保存することができるのです。あなたには百五十年前の出来事でも、私にとってウィル・ゲイムは四年前の思い出なんです……!」
言っているうちに情けなくなり、ディアナはその場に座り込みたくなった。冷凍睡眠の概念さえ知らない者に、信じられる話ではない。ひとりの人間には長すぎる百五十年以上の生が、私の存在そのものを不実にしてしまっている。目を伏せ、涙を必死に堪えたディアナは、「……やさしいんだな、あんた」と言ったウィルの声を、なす術もなく聞いた。
「そんな作り話で、おれを引き止めようとしてくれてんだろ? でも悪いけど、おれにはおれの人生の夢があるんでね」
ぽんと肩に手を置くと、ウィルはディアナをすり抜けていこうとした。どうしていいかわからずに、ディアナは力任せにその肘をつかんでいた。
「待ってください……! 私が使わせてもらっていた離れに、私しか知らない秘密の隠し場所があります。ウィルと一緒に撮ったホログラム……立体写真がそこに隠してあるんです。私と一緒に、今から屋敷に戻って確かめてください。そうすれば私がディアナだとわかるでしょう?」嗚咽を抑えた息苦しさの中でも、ディアナは一気にそう言った。「母屋から離れに入ってすぐ左の、寝室に使わせてもらっていた部屋。クローゼットの三段目の引き出しの裏です。私がディアナだとわかれば、もう月に行く必要もないでしょう? あなたのご先祖さまの願いは、私と会うことだったのだから……」
屋敷の造りが、言葉通りのものであると気づいたのだろう。苦笑が消え、怒りと不安がないまぜになった表情がウィルの顔を覆った。「いい加減にしてくれよ!」の怒声がそれに続き、ディアナは手を振り払われた勢いで地べたに両手をついてしまった。
「あんたにはわかんないんだ。おれがどんな思いで宇宙船を掘ってきたか……! 恨みはあっても、この土地には義理なんかひとつもないんだよ!」
立ち上がる気力もないディアナを見下ろし、ばつが悪そうに口を歪めたのは一瞬だった。帽子を目深にかぶり直したウィルは、小走りに〈フラット〉の方に向かっていった。
間もなくDHOG縮退炉が作動する振動音が夜陰を震わせ、Iフィールドが機体を包むスパーク音がそれに続いた。ゆらりと動いた〈フラット〉の巨体が最初の一歩を踏み出し、地響きが大地を揺らすと、眠りを破られた作業員や兵たちが一斉にテントから這い出してきた。
「動いてるぞ!」「誰が乗ってんだよ!?」と口々に叫ぶ男たちの声を聞きながら、ディアナはその場にぺたんと座り込んだままだった。私の意志に反して、ウィル・ゲイムという名前の男がまたしても旅立ってゆく。もはや悲しいという感情もわかず、百五十年あまりを経てなにひとつ進歩しない己の無様に呆れて、ディアナは遠ざかる〈フラット〉をただ見送った。
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ぴんと張り詰めた夜のしじまに、針葉樹の森はひときわ濃い闇の塊を作って大地に沈んでいた。キングスレーの谷を抜けたウィル・ゲイムは、カエル頭=\―潰れた半球状の頭部から、いただいてきた機械人形をそう呼ぶことにしていた――を迷わず森の中に踏み入らせていった。
二十メートルを超す杉の樹高が、身を隠す助けになると判断したからだった。巨人の乱入に押しひしげられた樹木が悲鳴をあげ、砕け落ちる枝葉、驚いて飛び去るミミズクなどが機体の周辺を乱舞する。鳥の巣をひっかけたのか、割れた卵がレンズを汚し、〈カプル〉や〈モビルリブ〉よりはるかに性能のいいテレビジョンを曇らせたが、ウィルは無視してフットペダルを踏み続けた。
発掘現場の連中はともかく、ミリシャの野営地に報せが届き、機械人形部隊が追跡に乗り出してくれば厄介なことになる。基本操作は他の機械人形と同じでも、カエル頭≠フ性能はまったく未知数なのだ。投擲用の高射砲弾ひとつ持っていない身としては、できるだけ早くディアナ・カウンターに接触し、保護してもらう必要があった。
後からやってきて、人の宇宙船を横取りする厚かましい奴らだ。ディアナ・カウンターの手に渡るくらいなら、ミリシャは自分もろともこのカエル頭≠破壊しようとするだろう。もしそうなったら、相手が誰であろうとかまわない。徹底的に戦ってやるまでだと断じて、ウィルは汗ばんだ手にアームレイカーを握り直した。
シドやロラン、ソシエたちの顔が目の前をちらつき、それでいいのか? と問いかけてきたが、胸に響くほどのものではなかった。これ以上バカにされてたまるか、と口中に呟いてそれらを消し去ったウィルは、正面に立体投影されたテレビジョンに目を戻した。
パネルに投射されているのではなく、壁前のなにもない空間に忽然と浮かび上がったテレビジョンには、闇夜の森が肉眼で見るより明るめに映し出されている。杉の梢ごしに窺える月も強い光を放っており、進むべき道を指し示してくれているようだった。
幻惑的な輝きに目を奪われていると、私はディアナ・ソレルですと言った女の声が耳によみがえり、たおやかな金髪の色も網膜に浮かび上がってきて、ウィルは舌打ちとともに満月から目を背けた。良家のご令嬢という以外に表現の言葉が思いつかない、およそ自分の人生とは無縁な世界の住人であるキエル・ハイム。なぜあんなことを言ったんだろう。口から出任せ……にしては、どこか辻褄の合うところがあった。外から見ただけで、オーバニーの屋敷に入ったことはないはずなのに、月の姫君が使っていた寝室の場所をぴたりと言い当ててもいた。
まさか本当にディアナ・ソレルだったのか? ディアナとキエルは瓜二つ、とミハエル大佐が話していたのを思い出し、二人が入れ替わっているなど、そんなバカな話があり得るのかと続けて考えた時には、引き返して確かめたい衝動がウィルの胸を埋めた。しかも彼女は、自分自身が初代のウィル・ゲイムと恋をした月の姫君だと言ったのだ。
あり得ない。首を振り、無駄な思考に蓋をしたウィルは、闇夜を映すテレビジョンに目を据え直した。おとぎ話に入れ込んで、夢と現実の区別がつかなくなっている女、それがキエル・ハイムだ。そうでなければ、金持ちの令嬢には自分のような男が珍しくて、惚れたと勘違いでもしていたのだろう。別に特別なことじゃない、前にも同じようなことがあったと言い聞かせて、ウィルはキエルの残像を頭から追い出そうとした。
父にウィルの名を冠されたばかりに、どこかの新聞に『今でも月旅行をあきらめきれないウィル・ゲイム』と書き立てられて、わざわざ遠方から訪ねてくる酔狂な少女が何人かいた。ほとんどは実情に幻滅してすぐに帰っていったが、中には本気になってくわる娘もおり、結婚寸前までこぎつけたこともある。が、どれほど好きあったところで、気触りの一族の烙印が消せるものではなかった。
初代ウィルのように格好のいい悲恋ではない、無様な幕切れ。遅かれ早かれ、みんな自分を見捨てて遠ざかってゆくというだけの話だった。しかしキエルの瞳には、今までに見たことのない、なにかを求める強い光があったようにも思う。もっと前に出会っていたら、あるいは自分にも別の生き方が開けていたのかもしれない。他人の視線の奥に嘲笑の色を探し、攻撃的な態度で自分の周りに壁を作る。哀れな習い性が身に付く前に出会えていたなら、きっと……。
鼓膜に突き通る鋭い音が発し、ウィルは慌《あわ》てて操作に意識を集中した。レーダーとかいう探素機械の音だと気づく間に、テレビジョンの一画が自動的に拡大され、こちらに近づく機械人形の姿を大映しにした。
森を透過して映し出された機械人形のシルエットは、ミリシャのものではなかった。ディアナ・カウンターの主力、カカシ≠セ。データが矢継ぎ早に表示され、〈WADOM304〉の文字がどうにか読み取れた時には、カカシ≠ノ随伴する小型の機械人形もレーダーに探知された。コクピットに手足を付けたといった形状のネズミ≠ェ三機。偵察行動中なのか、密集隊形をとって移動していた機械人形の一団は、不意に足を止めるや、こちらを包囲するかのように素早く散開し始めた。
見つかった――。頭が真っ白になった一瞬、カカシ≠フ頭部がぐるりと転回し、巨大なひとつ目がこちらを向くと同時に停止した。ウィルは、反射的にペダルから足を離していた。
カエル頭≠フ歩みが止まる。逃げなければと考え、どこへ? と自問したウィルは、自分の間抜けぶりに苦笑した。ディアナ・カウンターとの接触を求めて夜道を急いでいたのに、逃げる必要がどこにある。むしろ好機と思い直し、なんとか連絡を取る方法はないかと周囲を見回した途端、(〈フラット12〉、聞こえるか)と女の声が発して、ウィルはびくりと体を震わせていた。
(こちらはディアナ・カウンター第一機甲師団、テテス・ハレ中尉である。パイロットは官姓名を明らかにせよ)
点滅する通信パネルの表示が、無線という言葉を思い出させた。カカシ≠フパイロットの声だとわかったウィルは、「こちらはウィル・ゲイムだ。あんたらがディアナ・カウンターなら、投降したい」と呼びかけたが、返事はなく、テレビジョンに映るカカシ≠ェ反応する様子もなかった。(応答しろ。聞こえないのか)と冷たい声が再び流れて、ウィルは背筋がひやりと冷たくなるのを感じた。
(その機体は我が軍の所有物だ。ただちに降着姿勢を取り、Iフィールドを切れ。従わねば敵対行動と判断して攻撃する)
意味不明な単語の羅列であっても、敵対という一語だけはウィルにも理解できた。通信パネルのボタン表示を片っ端から押し、「待ってくれ! おれはあんたたちの敵じゃない。ディアナ・カウンターに投降したくてミリシャを出てきたんだ!」ともういちど叫んだ刹那、大きく一歩を踏み出したカカシ≠ェ、頭部に装備した大砲の筒先をこちらに向けた。
(くり返す。降着姿勢を取り、Iフィールドを切れ)という声が片道通行の無線から流れ、それは有無を言わせぬ最後通告となって、ウィルの背筋を貫いていった。
(十秒待って応答がなければ、攻撃する)
「応答してんだろうが! おい、もしもしっ!」通信バネルに顔を寄せて怒鳴ったが、もう女の声は途絶えていた。バネルを拳で叩きつけ、八、七、六……と無意識に頭の中で数えたウィルは、咄嗟にコクピット・ハッチの開放レバーを引いていた。
立体映像が消え、目の前の壁が前に倒れて、ひんやりした風がコクピットに吹き込んでくる。林立する杉の木が幽鬼のように見える夜の森が眼前に広がり、なにも考えられないままシートから飛び出したウィルは、ハッチの上に立って思いきり両手を振り始めた。
「撃つなっ! おれは敵じゃない。あんたらに投降して、月に連れてってもらいたいんだ!」
ぬいだ上着を旗代わりにして、何キロか先にいるはずの機械人形に向かって叫ぶ。太い木々が幾重にも覆いかぶさり、カカシ≠ヘおろか、数メートル先さえ見通せない濃い闇を作っていたが、ここで死ぬわけにはいかないと叫ぶ全身の細胞が、ウィルに上着を振らせ続けた。
バカだろうがなんだろうが、途中でやめたらそれで終わり。おれの人生は一から十までこんなことばかりだと頭の片隅に罵りつつ、ウィルは生きるためにひたすら声を張り上げた。木の倒れる音、機械の足が地面を踏みしめる音が遠くに発し、次第に近づき始めたようだった。
「……ふうん。ミリシャが宇宙船をねえ」
テテス・ハレは、頬にまで垂らした赤毛をかきあげながらそう言う。どこか小バカにしたような口調だったが、それがこの女の癖だとわかり始めているウィルは、無駄に怒りはしなかった。「おれの宇宙船を、だ」と付け足して、こちらを見下ろす切れ長の目から顔を背《そむ》けた。
眼前には、満天の星空に縁取られた山の稜線と、月明かりが照らす平原が広がっている。どうにか投降の意志は伝えられたものの、機械人形たちに拘束されて森から引きずり出された後は、木で鼻をくくった尋問の時間が待ち受けていた。カカシ=\―〈ウォドム〉というそうだが――の手のひらの上に乗せられたウィルは、事のあらましをテテスに説明し終えたところだった。
彼らが〈フラット〉と呼ぶカエル頭≠ヘ没収され、今はテテスの部下が乗り込んで中を調べている。一部隊を率いる隊長というにはあまりにも艶っぽく、夜の商売が似合いそうな崩れた雰囲気さえ漂わせているテテスだが、瞳には奥まで見通す鋭利な気が漲《みなぎ》っており、ウィルはすべてを細大漏らさず伝えるよう心がけなければならなかった。
捕縛こそされていないが、ウィルの命は完全にテテスに握られている。テテスが少しだけ〈ウォドム〉の手を動かせば、ウィルは握り潰されるか、二十メートル下にある地面に叩きつけられる結果になるのだ。
「それで、ミリシャを裏切って月に行こうってのかい? ずいぶん簡単なもんだねえ」
「簡単なもんか! おれたち一族が、どんな思いであの宇宙船を掘り出してきたと思ってんだ」
「だったらさ、ミリシャをたたき出して、宇宙船を取り返すってのが筋だろう? 月に行きたいって話はわからないね」
ヤクザな口調が言い終わるより先に、〈ウォドム〉の手首がガクッと傾き、ウィルは危うく手のひらから転げ落ちそうになった。「あたしたちに取り入って、スパイでもやろうってんじゃないのかい?」と続いたテテスの声に、ウィルは杉の幹ほどもあるひとさし指にすがりつきつつ、「バカ言えっ!」と返した。
「この土地の連中は、おれたちをさんざんバカにして、宇宙船まで横取りしやがったんだ。そんなとこにへばりついてるぐらいなら、ご先祖が憧れてた月に行った方がいいって思うのが、筋違いなのかよ!?」
半ば自棄の思いで叫びきると、手首の傾斜がもとに戻り、ウィルはカカシ≠フ手のひらの上に転がる羽目になった。そのままスライドした手首が股間にあるコクピットの前で削まり、ハッチの上に立つテテスが正面にくる。まっすぐこちらを見下ろす切れ長の目からは、先刻までの冷笑が消えているように感じられた。
「地球には、いい思い出がないってことかい?」
単に事実関係を確認しているのではない、内奥に踏み込んでくる視線と声だった。他人に対しては無条件にわき上がってくる反感が、この女に限って感じられないのはなぜだろうと不思議に思いつつ、ウィルは「村八分……って言ったって、ムーンレィスのあんたにはわからんだろうな」と答えた。
「ガキの頃からそういう苦労をしてりゃ、自分が生きてくので精一杯だ。故郷のためにどうこうって気もなくなるさ」
「なるほどね。地球にもいろいろ事情があるってことか」
言い放つと、テテスは深紅の唇を微笑に歪《ゆが》ませた。月光に浮かび上がる細面《ほそおもて》は、やはり先刻とは少し異なる、身近な雰囲気を宿した何者かの額だった。
「あんたの先祖と恋をしたディアナ・ソレルは、ひとりで地球に降下《おり》たわけじゃない。親衛隊やらなにやら、お供の人間たちも一年間の調査旅行をご一緒したんだよ。その時に、地球の女がお供のひとりに見初められてさ。のこのこ月までついてって、子供を生んだらどうなると思う?」
まったく想像外の話がその口からこぼれ落ち、ウィルはどう考えたらいいのかわからずにテテスの顔を見上げた。
「蛮族の子とか、合の子とかってバカにされてさ。子々孫々まで、たいへんな苦労をしょいこむことになっただろうねえ。いわれのない差別ってやつを受けてさ……」
そう語るテテスの目からは、怜悧な兵士の光が消えていた。代わりに現れたのは、自分以外のすべてを敵対視する歪んだ光。被虐の果てにこびりついた、底深い怨念の光だった。
地球人と交わった先祖のために、辛酸を舐めてこなければならなかった人生。完全に理解できなくても、同じ痛みを抱いてきた人らしいという直観が働いた。「……あんたが?」と問うたウィルには答えず、テテスは手にした板のような機械に口を近づけた。
「投降者を本部に連行する。ガスパ少尉は〈フラット〉を操縦して後に続け」
そのひと言で尋問の終了も伝えたテテスは、ちらとだけこちらを見た後、機械の板を続けて操作した。一種のリモコンなのだろう。〈ウォドム〉が前進を開始し、ウィルは降り落とされないよう、再び指にしがみつかなければならなくなった。
テテスはすらりとした体を平然とハッチに立たせている。吹きつける風が赤い前髪をなびかせ、なんの違和感も抵抗もなく、美人だなという感想がウィルの中に固まった。
「安心するんじゃないよ、とりあえず本部に連れてくだけなんだから。どうしても月に行きたいんなら、根性すえてお偉方を説得してみな」
機械の駆動音、巨大な足が大地を踏みしだく音に、突き放したようなテテスの声が混ざった。指につかまって激震に耐えながら、ウィルは「ありがとよ」と言っておいた。
「でもそういうあんたなら、ムーンレィスのために戦うっての、本意じゃないんじゃないのか?」
不意にわいた親しみが、そんな口をウィルに開かせていた。立ち入りすぎたかと思ったが、「誰のためでもないよ。あたしは自分のために戦ってるんだ」と答えたテテスの顔は、微笑していた。
「この帰還作戦で手柄をあげたら……そう、たとえば〈ガンダム〉を倒せば、名誉市民にぐらいはしてもらえるだろうからね」
「ガンダム……?」
「ミリシャにあるだろう? 白いヒゲのモビルスーツのことさ」
「〈ターンA〉のことか?」と確かめると、「〈ターンA〉?」とおうむ返しにしたテテスは、獲物を捉えた捕食獣のような陰惨な喜悦を顔に刻んだ。
「〈ターンAガンダム〉……。それがあのガンダムの名前か」
そう呟いたのを最後にして、テテスはコクピットの中に戻っていった。〈ターンAガンダム〉という呪文めいた言葉を反芻したウィルは、その打倒がなぜ特別な手柄になるのかと気になったが、尋ねる愚は犯さなかった。
自分と同じ。怨念返しは、えてして他人には理解不能な行為になるものだと納得して、ウィルは闇夜に映える月を見上げた。二羽の夜鷹《ウィルゲム》が、煌々と輝く円の中央を横切っていった。
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朝焼けに染まった雲が、炎に包まれた巨人の手のひらを思い起こさせる払暁の時間だった。テテス中隊の帰還を知ったハリー・オードは、ジープ・タイプの電気自動車《エレカ》を駆ってモビルスーツ補給処へ向かっていた。
〈ソレイユ〉がノックスを離れて、今日で八日目。なんの決定も下せないまま、とりあえずサンベルトの北西、約三百キロの位置にある湖畔に着陸してからは、四日が経過している。艦の周辺には弾薬コンテナや|緊急出動用の整備架台《アラートハンガー》、待機用のフィールドテントからなる補給処が仮設され、ミニ駐屯地の様相を呈していた。
出動回数の多い正規部隊のパイロットたちは、艦の発着デッキにいちいち戻ることはせず、補給処に機体を預けて、ブリーフィングなどを行うのを通例にしている。帰投したばかりのテテス中隊は当然そこにおり、パトロール中に拘束したという投降者の男も、補給処で憲兵に引き渡されるのを待っているはずだった。
ハリーがその男に会うつもりになったのは、(〈フラット12〉に搭乗し……)という報告書の一文が気になったからではなかった。〈フラット12〉といえば、あのロラン・セアックが地球降下に使用した機体であり、出所を問い質したい思いも当然あったのだが、それ以上に投降者の名前が勘に引っかかったのだ。
かつて、ディアナ・ソレルが地球環境調査旅行に赴いた際、一年間のほとんどをともに過ごしたという地球の男の名前。親衛隊の古い資料には、ウィル・ゲイムの名前が確かに記録されていた。ディアナとウィルの関係については曖昧な記述に留まっていたが、厳密・詳細が基本の軍資料にあって、そこだけぼやけた記述がされていれば、なにがあったか自ずと察せられるというものだった。
実際、くだんの投降者は、(月の姫君と恋をしたウィル・ゲイムの子孫)を名乗っているのだという。騙《かた》りか、あるいは名を受け継いだ本物の子孫か。どちらにせよ、ディアナの知るウィル・ゲイムはとうの昔にこの世を去っている。別人であることに違いはなく、余分な動揺を与えないためにも、ディアナの耳目に触れる前に抹消しなければならないのがハリーの立場だった。
が、それはあくまでも普通の状態の時にすべき対処だ。まだ百パーセントの確証ではないが、現在は普通の状態ではない。それを確認するためにも、ウィル・ゲイムを名乗る投降者と会う必要がハリーにはあった。
「警護隊長殿がじきじきに投降者を出迎えにくるって、どういうんです?」
引き継ぎを終え、フィールドテントの前で清涼飲料水のチューブをくわえていたテテスは、顔を合わせるや露骨に不審げな表情を作ってみせた。予期していた反応だったので、ハリーは無視して「あの男か?」と顎をしゃくった。
アラートハンガーに佇立する〈ウォドム〉の足もとで、無精髭の目立つ顔をきょろきょろさせている男の姿があった。顔かたちは似ているようだが、薄汚れたシャツをまとった全身からは資料に記された高貴さや精悍さを見出すことはできない。名を継ごうとも、代が替われば別人になるものか……と当たり前の感慨を結んだハリーは、「ええ」と応じたテテスの声をすぐそばに聞いた。
「〈フラット〉は戦闘に使われた様子はないし、あの男も基本操作以外はまるで無知です。情報源の価値があるとは思えませんがね」
「それはこちらで判断する」
真意を悟られまいとすれば、口調は自然にぞんざいなものになった。眉根に険を覗かせた後、鋭敏な嗅覚でこちらの心根を察したらしいテテスは、「そうそう」と思いついたように口を開いた。
「高貴な方の男妾ぐらいなら務まるでしょうがね」
ハリーが睨みつけた時には、にたりと嗤《わら》ったテテスの細面はさっとその場を離れていた。追いかけて張り倒したい衝動をなんとか堪え、咳払いで間の悪さを取り繕ったハリーは、「君、こちらへ」と、所在なげにしているウィル・ゲイムに呼びかけた。
あたりを見回し、手を挙げたハリーと目を合わせたウィルは、ぴょこんと頭を下げてから小走りに駆け寄ってきた。「どうも、世話になります。おれは……」と言いかけた口を、「聞いている。乗りたまえ」と封じて、ハリーは助手席のドアを開けた。
山の稜線から差し込む朝陽が、〈ソレイユ〉の白亜の艦橋構造部を黄金色に輝かせていた。「この車、ハンドルないんスね」と言ったきり、ウィルはスティックレバーで方向と速度を操作するエレカの運転席を珍しそうに眺めている。善人ではあるようだが、物腰や喋り方には鋭さも聡明さも感じられない。この男にディアナの愛人の価値はないと確かめたハリーは、どこかで安心している自分にも気づいて、内心|唾棄《だき》したい気分になった。
「ディアナ様が直接会って、君の話を聞きたいとおっしゃられている。相当に名誉なことなのだから、失礼のないようにな」
走り出すと同時に、ハリーは努めて無表情にそう言った。嘘だった。ハリーが勝手に段取ったことで、ディアナにはまだ投降者の話は伝えていない。ウィルはわかったようなわからないような顔で頷いていた。
「あの……ちょっと聞いていいですか?」
「なにか?」
「月には、人間を凍らせて百年でも眠らせる魔法があるって聞いたんだけど、本当なんスかね?」
真剣に尋ねるどんぐり眼が可笑《おか》しく、ハリーは思わず苦笑していた。地球人にはそんなことでも珍しいらしい。「あるぞ。冷凍睡眠は」と答えてやると、「じゃ、あんたさんも……?」と聞き返したウィルの瞳に、畏怖の色が混ざった。
「誰でもするというものではない。冷睡しているのはムーンレィス全人口の四分の三といったところだ。残りは普通に生活している。君たちと回じようにな」
「へえ……。なら、ディアナ・ソレル様も?」
「ディアナ様は例外だ。我々を統治するために、定期的に冬眠しておられる」
地球と違って、月には大勢の人が暮らしていける余裕はない。そう続けようとして、不意に押し黙ったウィルに気づいたハリーは、「どうかしたのか?」とバイザーごしに視線を送った。「いや、その……」と呟いたウィルの声は、先刻とは打って変わって暗いものになっていた。
「百年後に目覚めて、知ってる人が誰もいなかったら、寂しいだろうなって……」
思ってもいない言葉に、ハリーはまじまじとウィルの横顔を見つめてしまった。そんなふうに考えたことはなかった。これが地球人の発想かと呆れ、なにかしら圧倒されたような気にもなった。
「高貴な方には、相応の義務がある。我々とは違うよ」
「……そういうもんですか」と応じたウィルの顔は、もうエレカにも冷凍睡眠にも興味のないうわのそらだった。気にならないではなかったが、早くこの男をディアナに引き合わせたいという思いの方が強かったので、ハリーはなにも言わずにエレカの運転に専念した。
「……なるほど。モビルスーツだけでなく、宇宙船も掘り出したのですか」
ひと通りの話を聞き終わった後、ディアナ・ソレルが最初に発したのがその言葉だった。人払いをした〈ソレイユ〉の謁見室には、ディアナを前にしたハリーとウィルの姿しかない。ディスプレイに投影された朝の光がドーム状の空間を隈なく照らし出し、謁見室をひどく無機質なものに見せていた。
「おれの宇宙船ですよ。ミリシャの連中がそれを横取りしやがったんです」
礼節とは無縁の世界で生きてきたらしいウィルには、それでも丁寧な口を利いているつもりなのだろう。ディアナが眉をひそめたのは、野卑な口調が神経に障ったのか、ウィル・ゲイムという存在そのものが不愉快なのか。直立不動のまま、ハリーはじっとその表情を窺うことに努めていた。
ウィルの突然の来訪に、ディアナは案の定、困惑を隠しきれないといった態度を示した。かつての恋人の子孫と再会して、平然としていられる者もいないだろうが、ディアナが示した困惑はそれとは明らかに異なる。ハリーにしてみれば目論見《もくろみ》通りの反応と言えたが、薄々抱いてきた懸念《けねん》を確信に変えるには、後ひと押しが必要であるともわかっていた。
ミリシャに裏切られた、月に行きたいとくり返すばかりのウィルにいら立ち、もう少し気の効いた話はできないのかと内心に罵《ののし》った途端、「わかりました」と涼やかなディアナの声が流れた。
「今後ともディアナ・カウンターに協力してくれれば、月に行くこともできましょう」
そう言うと、ディアナは顔を背けて壁一面のディスプレイに向き直ってしまった。穏やかな湖面と森の緑を映し出すディスプレイに、用が済んだのなら早く出ていってほしい、と言っている背中がくっきりと浮き立つ。小さく息を吐き、これ以上のごり押しは得策ではないかと判断したハリーは、退出の声をかけようとしたが、
「あの……あんた様は、本当にディアナ・ソレル様で?」
ぽつりと漏らしたウィルの声が謁見室の空気を揺らし、思わずというふうに振り向いたディアナの頬が、ぴくりと痙撃《けいれん》した。やってくれた、と胸中に快哉を叫びつつ、ハリーは「貴様、なにを言うのか」と低く怒鳴ってみせた。
「なにって……。おれの先祖は、地球に降りてきた月の姫君と恋をして、もういちど会いたい一心で宇宙船を掘り出そうとしたんだ。お陰でおれたち子孫はさんざん苦労してきたってのに……。ウィル・ゲイムって名前を聞いて、あんた様はなんとも思わないんですか?」
ぎゅっと拳を握りしめたディアナの顔から、急速に血の色が失われてゆく。こちらを一瞥した瞳は助けを求めていたが、ハリーは気づかない振りでディアナの言葉を待った。
「……ウィル・ゲイムの名は知っています。その月の姫君が、私であると?」
「キエル・ハイムはそう言ってましたぜ」
目を見開いた一瞬の後、前に踏み出したい衝動をなんとか抑え込んだらしいディアナは、「キエル・ハイムをご存じですか?」とひどく冷たい声で言った。ウィルは介さずに、「ええ、あんた様そっくりのお顔をしてるお嬢さん」と答える。
「キエルさんは、自分が初代ウィルと恋をしたディアナ・ソレルだって言ってた。まさかって思ってたけど、あんた様はウィル・ゲイムのことをよくご存じないようだし。赤の他人が知ってて、当のディアナ様が知らないってのは、いったいどういうことなんですかね?」
危地に追い込まれた人特有の、徹底的な無表情。水色のルージュをひいた唇をかみ締め、そこだけ動揺を露にしているディアナの瞳を見つめたハリーは、これで疑う余地はなくなったと確信した。
となれば、ウィル・ゲイムのような男を相手に時間を無駄にする必要はない。そろそろ助け舟を出すべきと心得て、ハリーはウィルの傍らに一歩近づいた。
「ウィル・ゲイム殿。ディアナ様は、冬眠をされて数百年もの時を渡ってこられたお方だ。どのように大切な思い出であっても、百年、二百年前の記憶に支配されることはない」
そうでありましょう、の思いを込めてディアナ――正確には、ディアナらしい人――を見つめると、サファイア色の瞳が視線を避けるように伏せられた。やはり、ノックスの戦闘の際に取り違えてしまったのか? 懸念が確信に変わった頭で自問したハリーは、「でも、キエルさんはうちの屋敷の中のことも詳しかったようだけど……」と、あきらめきれない様子のウィルが続けるのを聞いた。
「ウィル・ゲイムと月の姫君の恋物語は、イングレッサ領では有名なおとぎ話と聞いています。屋敷の中のことを詳しく記した本もあったのでしょう」
微かに語尾を震わせながらも、ディアナらしい人が毅然《きぜん》と言いきり、ハリーは一瞬、呆気に取られた。この機転の早さ、度胸のよさがあるから、今まで誰にも看破されなかったというわけか。感心半分、畏怖半分でディアナらしい人の顔を見返す間に、
「……まあ、夢見がちな娘ではありましたがね」とウィルが応えていた。
「なら、そういうことでしょう」
そう覆い被せて、ディアナらしい人は話を打ち切る背中を向けた。たいしたものだと胸中に呟きつつ、ハリーは実務面の顔と声をウィルに向けた。
「キエル・ハイムも宇宙船の発掘現場にいるのだな? 場所を教えてもらいたいが」
「そいつはちょっと……。月に行けるってわかるまでは言えませんやね」
ディアナらしい人の大芝居を見た後だけに、ウィルの浅知恵は哀れなほど稚拙《ちせつ》に感じられた。なんであれ、もうこの男に用はない。「それはそうだ」と愛想を言って、ハリーは部屋の外に立つ親衛隊員にウィルを連れ出すよう命じた。
ドアが閉まり、ウィルの気配が消えると、ディアナらしい人がほっと息を吐く気配が流れた。自分が正体を看破しているとは気づいていないらしい。微かに安心したハリーは、「……ハリー大尉」とかけられた声に、反射的に威儀を正した。
「投降者はフィル少佐に預けて、働かせるようにしてください」
少しだけ顔をこちらに向けて、ディアナらしい人は言った。身の危険になる要因は、容赦なく厄介払いができる。本当に統率者の資質があるのかもしれない、と感慨を新たにしたハリーは、「よろしいので?」と確かめた。
「フィル少佐なら、扱いを心得ていましょう。その上で、発掘現場の位置やミリシャの動向などを聞き出せばよい」
腰の後ろに手を組み、ディスプレイの光景を見つめる横顔は、確信を揺らがせるほどディアナそのものだった。「は……」と応じたハリーは、その側に近づいて礼をしつつ重ねた。
「しょせんは、下衆《げす》な男のようで」
ディアナらしい人は、なにも言わなかった。やはり間違いないと思った後、さて、どうする? という言葉が頭を埋めて、ハリーは足早に謁見室を退出した。ディアナらしい人――キエル・ハイムは、ディスプレイに向けた顔を動かそうとはしなかった。
フィル・アッカマン少佐の反応は、予想した通りのものだった。
「簡単だ。そのウィル・ゲイムとやらに、宇宙船の発掘現場を攻撃させればいい。ミリシャを遠ざけてくれれば、我々が宇宙船を掘り出して月に連れていってやるとでも言ってな」
艦内の執務室でパソコンを前にしていたフィルは、事情を説明するや即答していた。武力解決を信条とする降下部隊の指揮官は、ミリシャが宇宙船らしきものを発掘しているという事実に、早くも攻撃の糸口を見出したといったところか。団子鼻を広げ、喜色を露にしたフィルにげんなりしたハリーは、「実力行使となると、ディアナ様が許可なさるかどうか……」と、嘆息を堪えて言っておいた。
「地球人同士でやることだ。問題はなかろう? まあ、〈フラット〉を整備して、武器を持たせるぐらいのことはしてやるがな」
「そのまま寝返る可能性もありますが」
「その時は、ミリシャもろとも我々が始末すれば済む話だ。要は宇宙船の埋まっている場所がわかればいいのだよ」
投降者などは捨て駒として使うべきであって、員数にも人数にも数える必要はない。フィルの本音がわかっても、ハリーは非難するつもりはなかったし、止める気にもなれなかった。
ディアナがディアナでないという確証が得られたのだから、もうあの男に関わる理由はない。ディアナの不在を外部に漏らさないためにも、むしろ死んでくれた方がありがたい。そう考えるだけで、ウィル・ゲイムに同情する気はないし、その余裕もないというのが正直な心情だった。
月本国で謀反《むほん》を企《たくら》むアグリッパ一派の策動、補給物資の遅れ、闘争本能を突出させ始めた兵士たち。問題が山積しているディアナ・カウンターに、これ以上の面倒を持ち込むわけにはいかない。「いつの時代に造られたものか知らんが、ミリシャに宇宙船の技術を渡すわけにはいかない。そうだろう?」と続けたフィルに、「それはそうです」と応じながらも、ハリーは暗澹《あんたん》となる胸の内を感じずにはいられなかった。
なぜこんなことになった。なぜディアナとキエルを取り違えるなどという、とんでもなく愚かな羽目に陥ったのか。自分が間違えて救出してしまったから、というのが簡潔にして残酷な答だったが、服を取り替えたまま気絶していれば、瓜二つの二人を見分ける術はなかった。だいたい、ディアナ・カウンターの最高指揮官と、一領主の秘書風情の女が服を交換していたなど、誰が想像できたというのか――。ひと息に内心にぶちまけてから、ハリーはあらためてどうする? と自問した。
本物のディアナ・ソレルはミリシャにいる。ウィルの弁からも、それは間違いないだろう。キエルになりすまして無事に生きているようだが、果たしてどれだけもつか? ミリシャには、あのロラン・セアックがいるのだ。彼がディアナの存在に気づき――いや、習慣も考え方も異なる異民族の中にいれば、それ以前に必ず露見する時がくる。救出は急がなければならないが、所在も明確でないのにどうやる? アグリッパの勢力がディアナ・カウンター内部にまで浸透している今、フィルはもちろん、ミラン執政官だって信用できるものではない。単独行で、どうすればミリシャに近づける……?
むしろ問題はこれからのことだ。救出の目処が立たず、ディアナの生死さえ定かでない状況下では、現状の維持を最優先に考えなければならない。つまりディアナが不在の間、キエル・ハイムに完全にディアナになりきってもらうのだ。
本物のディアナを救出するチャンスが巡ってくれば、それでよし。もしチャンスがなければ……このまま、キエルにディアナを演じ続けさせるしかない。ディアナが消滅すれば、地球帰還作戦は無論、現体制そのものが瓦解する。事実がどうあれ、月の女王は存在し続けなければならない。この際、中身は誰でもよかった。ディアナ・ソレルの名面と立場を使える者が、ディアナ・カウンターには絶対的に必要なのだ。
この場にいれば、ディアナもそのようにせよと命じるだろう。自分はディアナ親衛隊の警護隊長なのだから、その名を持つ者に仕えていればそれでいい。そうすることが、結果的にディアナの理想の実現にも繋がる――。憑かれたように言葉を並べ、胸の暗澹を押し返そうとしたハリーは、そこでひとつ重要な見落としをしている自分に気づいた。
本物のディアナでないと知りながら、自分は従えるのか? ディアナと同じ顔を持つ、ただそれだけの理由で玉座に坐る女を、命を賭けて守れるのか……と。
「なにか問題でも?」
押し黙った気配を察したのか、フィルが片方の眉を少しだけ吊り上げてみせる。ディアナの和平路線に反対しているこの男にこそ、真相を悟らせてはならない。動揺したのも一瞬、パイロットの反射神経で無表情を維持したハリーは、「いえ、それで結構です」と言って思考の泥沼から抜け出した。
「ウィル・ゲイムの出撃には、自分も監視役として同道しようと思いますが」
親衛隊の仕事ではなかったが、ミリシャと行動を共にしているディアナが、宇宙船の発掘現場にいる可能性は無視できなかった。ウィルの攻撃に乗じて敵陣に入り込み、ディアナの所在を確認、奪還する。平静を装って進言したハリーに、「それは心強い」と応じたフィルは、スツールの背もたれをギッと鳴らした。
「こちらからはテテス中隊を出す。よしなにな」
「テテス中尉を……?」
「白ヒゲに二度も敗退したのだ。上官として、名誉挽回の機会は与えたい。ウィル・ゲイムを連行してきた縁もあるんでな」
フィルの寝室にテテスが出没しているのは、公然の秘密。にもかかわらず、臆面もなくテテスの名前を出してきたのは、愛人を特別扱いする厚顔無恥を喧伝するためではないだろう。こちらが腹に抱えた一物を、フィルは鋭敏な嗅覚で察知している。子飼いの部下に自分を監視させ、勝手な行動を抑制する――つまりは釘を刺されたのだとハリーは判断した。
否も応もなかった。ハリーは敬礼をして、フィルの執務室を後にした。愛人という爛《ただ》れた関係であっても、フィルには信頼し得る人間がそばにいるが、自分にはいない。その事実に少しの嫉妬と敗北感を抱き、不意にウィル・ゲイムの言葉を思い出してもいた。
目か覚めた時、知ってる人が誰もいなかったら寂しいでしょうね。時を超えて存在し続けるディアナに、ウィルはそんな同情を寄せていた。その言葉はディアナには届かず、ウィルはディアナの顔をした女に存在を疎んじられ、黙殺されようとしている。組織の体面を維持するために、自分もそうなることを望んでいる。信頼を寄せる何者も見出せないまま……。
みんな独り、か。苦い感慨を結んで、ハリーは冷たい通路を歩いていった。
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気密扉《エアロック》が手動で開けられたのは、主電源が切れる際、非常解錠装置をセットする余裕があったからだ。実際、艦内のどこにも乗員《クルー》が慌てて脱出した形跡はなかった。不時着したのではなく、この宇宙船は故意にここに置き去られたものなのだろう。
開いたエアロックの向こうは、幅二十メートル、奥行きも十メートル以上はある薄闇の空間だった。正面の壁には分厚い透明素材を嵌め込んだ窓が整然と並び、そこから差し込むわずかな光が、空間内部に配置された機器をほんやり浮き土がらせている。それまで窓を塞いでいた岩盤が削られ、外界の光が多少なりと人ってくるようになったためだ。天井からは剥がれて帯状になったナノスキンが何本も垂れ下がり、床にも乾いた泥砂さながら、ナノマシンの残滓がこびりついている。いかにも廃墟然とした光景でありながら、どこか荘厳で清浄な空気を漂わせているのは、数千年の間に降り積もった時の重みがあるからに違いなかった。
ナノスキンの滓《かす》が装甲の表面を覆い、幾度かの地殻変動が船体を岩山に呑み込むまでの間、この空間はいっさいの光、いっさいの生物の営みを忘れて、静謐の中に沈んでいた。完全な気密状態を保ったまま、気が遠くなるほどの年月を地中に埋もれて過ごしてきた。いま自分たちが吸っている空気は、数千年前に旧世界の人々が吸っていたのと同じ空気――。ふとそう思い至ったロランは、壮大な、それでいて空恐ろしいような複雑な気分にとらわれた。
巨大な船で宇宙を駆け巡り、世の栄華を極めておきながら、やがては滅んでいった旧世界の人々。この船を捨てていったクルーたちは、すでに滅びの予兆を感じ取っていたのだろうか。過去の記憶を失った人類が、数千年後に再びエアロックを開けると想像できただろうか。しかも、「戦力」として使うために……。
シドたち黒歴史発掘隊の面々は、そんな感慨とは無縁の様子で懐中電灯を振りかざし、ナノスキンを払いのけて機器の観察に努めている。昨日から発掘隊に合流した新しい協力者たちのお陰で、それまでどうやっても開かなかった外壁のエアロックを開放する方法が判明し、ようやく艦内に入れたのだから無理はなかった。ナノスキンの帯を気味悪そうに見上げるソシエを横目にしつつ、ロランは明らかに操艦指揮所《ブリッジ》とわかる空間を見回していった。
窓の前にずらりと並んだ操舵、通信、レーダー、機関などの各コンソール。座席は宇宙服《ノーマルスーツ》の背中にある生命維持装置と接合、シートベルト代わりに固定するタイプのもので、天井から吊り下げられた各種モニターは、立体映像《ホログラム》が普及するはるか以前の二次元スクリーン。ディアナ・カウンターが制式採用している艦艇よりかなり古い。おそらく数百年単位の技術格差があるロートル艦だな、と当たりをつける間に、ひとりの男が勝手知ったるというふうに中央のコンソールの前に進み出ていた。
土埃をまぶした日焼け顔の発掘隊員たちとは対照的に、ぽっちゃりした白い顔にちょこんと眼鏡をのせている男は、新しく発掘隊に加わった協力者のひとり。プレスのきいた丈の長い制服が示す通り、ディアナ・カウンターで技術士官を務めていたホレス・ニーベンだった。周囲の喧噪などおかまいなしといった様子で床のメンテナンス・ハッチを開け、うずくまってなにごとか作業していたホレスは、しばらくすると不意に顔を上げ、指先で眼鏡の位置を整えてからコンソールに向き直った。ブンと空気が震え、床から徴かな振動が這い上がってきたのは、その直後だった。
コンソールのランプが順番に点灯し、ディスクを読み込む音が四方から聞こえ始める。一同がどよめくと同時に、すべてのモニターに一斉に走査線が走り、艦長席の背後にある大型航法スクリーンにCGの航路図が映し出されて、数千年の闇に塞がれていた空間が巡洋艦のブリッジらしい活気を取り戻した。
「すげえ!」「本当に動くのかよ……!?」の声が次々に上がる中、ホレスは平然とコンソールの調整を続けている。「ここまでくると、わしゃもうチンプンカンプンじゃ」と、シドが珍しく弱気を口にするのを聞いたロランは、三角布で片腕を吊った長身の男が、コンソールの方に歩み寄るのを目で追った。
グエン・サード・ラインフォードだった。今朝、唐突に野営地にやってきたミリシャのかつてのスポンサーは、ブランクを感じさせない闊達さと強引さで、ロランたちをこの宇宙船の視察に連れ出していた。
ミハエル大佐たちは心中穏やかでないようだったが、グエンが段取ったムーンレィス帰還民の引き抜き作戦が成功し、お陰で艦内に入れるようになったその日にやってきたのだから、邪険に扱うわけにはいかない。好き勝手に振る舞っていながら、要所できっちり計算を働かせているグエンの真骨頂で、ロランたちは機関車に引きずられる貨車さながら、キングスレーの谷を訪れたのだった。
一心に調整を続けるホレスの背後に立ち、グエンは「どうだ?」と手元のパネルを覗き込む。少しも慌てず、ゆったりと首をめぐらせたホレスは、「どう、とは?」と不思議そうに聞き返していた。
鈍いわけでも皮肉屋なわけでもなく、他人とは少々、神経回路がずれているのがホレスという男だ。年齢は三十代半ばというが、旧世界にあったもっとも有名な神像のひとつ、「ダイブツ」を想起させるふくよかな顔と、眼鏡の奥のぱっちりした瞳は、青年とも中年ともつかない不可思議なムードを漂わせている。学究一筋、世の芥とは関わりなく生きてきた仙人のような人物で、脱走を呼びかけた時もこれといった逡巡も恐怖も示さず、「では、そういたしましょうか」と淡々とついてきたのだという。その一方、技師としての能力は折り紙つきであり、なにごとにも動じない茫洋とした性格から、自然と脱走組のリーダー格と目されてもいた。
「動かせるかどうか、教えてもらいたいんだが」とグエン。さすがの御曹子もホレスのずれ方にはついていけないのか、口調の端々にいら立ちが滲んでいた。「ああ……」と合点がいったらしいホレスは、意に介さないのんびりペースでブリッジを見回した。
「ナノスキンに防護されていたので、思ったより状態はいいようです。表にある〈ターンA〉ですか? あれよりは古い時代に建造されたものであることはたしかです。〈カプル〉が造られていた時代の少し後といったところでしょう」
訥《とつ》々と自分の考えを述べた後、「動かせるかどうかというご質問でしたね。ひと月もかければ動かせるかと思います」と答える。安堵とも疲れともとれない息を漏らしたグエンを背に、ホレスが再び作業に戻ると、他のムーンレィスたちも三々五々コンソールに向き合い始めた。耳慣れない専門用語がブリヅジを行き交うようになり、宇宙船の発掘が修復に移行したことをロランに実感させた。
彼らを居留地から脱走させるのは、拍子抜けするほど簡単な仕事だった。キースが事前に脱走希望者を募った後、居留地に出入りしている業者の運送トラックをミリシャが徴発《ちょうはつ》。計四台の荷台に分乗させて一斉に連れ出したのだ。
〈ソレイユ〉がノックスを離れて以降、取り残された観の強い居留地の警備はおざなりで、朝晩の点呼以外、警備兵が帰還民の動向に気を配ることはなかったし、顔なじみの業者が運転するトラックをいちいち検査することもなかった。一応、ロランも〈ターンA〉で護衛についたものの、キングスレーの谷に戻るまでの間、ディアナ・カウンターの追撃は皆無だった。
警戒すべきはむしろルジャーナ・ミリシャの方で、彼らには帰還民の引き抜きはもちろん、宇宙船発掘の事実も悟られてはならないというミハエルの厳命のために、ロランたちは野営地を避け、大回りでキングスレーの谷に向かう強行軍を強いられた。パトロール中の〈ボルジャーノン〉と何度かすれ違いそうになったが、苦労といえばその程度で、脱走作戦は万事滞りなく成功した。
居留地での生活は想像以上にひどいものらしく、自由に暮らせる住居と食料の配給を保証しただけで、五十人もの帰還民がミリシャへの協力を約束した。ホレスのような技術士官のみならず、民間人でも操船やコンピュータ、建築、設計の技師が大勢いるので――ムーンレィスは、芸術家などの一部例外を除いて、全員がなんらかの技術習得を義務づけられている――、宇宙船が本来の能力を取り戻すのは時間の問題だろう。父祖の代から発掘を続けてきたウィル・ゲイムが待ち望んだ瞬間のはずだったが、彼は五日前に〈フラット〉を乗り逃げしたきり、消息を絶っていた。
ルジャーナ・ミリシャの目がある手前、大規模に部隊を動かすわけにもいかず、ウィルの捜索はすぐに打ち切られてしまった。大詰めに入った発掘作業に帰還民の脱走作戦が重なり、誰もが忙殺されていたという事情もある。今ではその名が人の口に上ることさえなくなっていたが、ロランには、他人のものを横取りした後ろめたさを払拭することができなかった。
『鳳凰の羽』の物語を聞かされた今は、少しはウィルの気持ちがわかると思う。誰がなんと言っても、この船の本当の所有者はウィル・ゲイムだ。国の大事とはいえ、それを土足で踏み荒らしている自分たちは、盗人の謗りを受けても返す言葉がない……。
「こんなもの見せられると、学校の歴史ってなにを教えてたんだろうって気になるわね」
いつの間にか隣に立っていたソシエが、モニターの起動画面を見上げながら言う。ロランが応じるより先に、「おっしゃる通り」とグエンが無事な方の肩をすくめていた。
「しかし、これを認めなくちゃならんのです。現実なのだから」
そう言い、ちらとこちらを見たグエンの目は、いつもの舐めるような視線を発していた。ロランは居心地の悪さを感じたが、それが今までより具体的な危機感を伴っているのは、今朝、グエンとともにやってきたキースの言葉を聞いたからだった。
御曹子は知ってるぜ、おれたちがどこから来たのかを。ぼそりと耳打ちして、キースはロランのそばから離れていった。驚いたものの、すぐにどこかで覚悟していた自分に気づいたロランは、なぜ露見したのか詮索しようとはしなかった。
そうでなければ、自分をハイム家の運転手に登用するよう、グエンが働きかけるはずがなかったという理解。それは同時に、グエンは以前からこうなることを予測していたのではないか、という推測も成り立たせる。ロランは横目でグエンの表情を窺い、ややこけた頬と、以前より強くなった目の光を確かめた。
敗残の肝を舐めて、より手ごわくなった感じ――無意識に感想を紡いでから、ロランはその自分の捉え方にぞっとするものを感じた。以前ならそんなふうに人を見ることはなかった。幾度かの戦闘で、自分も戦争の毒気に当てられてしまったのか? 慌てて目を逸らし、ナノスキンの滓が吹き溜まった床を見つめたロランは、不意に視界に割り込んだグエンの革靴に、ぎょっと顔を上げた。
「ご苦労だった、ローラ。君の活躍がなければ、ムーンレィスの技術者を連れ出すことはできなかったし、ミリシャも生き残れなかっただろう」
「そんな……。ホレスさんたちを連れ出せたのは、キースがいたからですよ」
間近から見下ろす青い瞳に圧倒され、ロランは無意識に半歩退いていた。
「そうだが、キースくんには自分の商売がある。ローラには、これからもわたしのそばで手助けをしてもらいたいな。この宇宙船が使えるようになれば、ミリシャの巻き返しも図れる」
そう続けて、グエンは大昔の航路図を映す航法スクリーンの方に歩いていった。ひじ掛けに旧式のインターコムを備えた艦長席をさすりつつ、大気圏進入コースや周回軌道、重力均衡点《ラグランジュ・ポイント》などを示すCGの幾何学模様を眺める。ラグランジュ・ポイントに記された〈SIDE7〉や〈SIDE5〉の文字は、宇宙植民地《スペースコロニー》の集落の名称だろう。この巡洋艦が活躍していた時代は、まだ宇宙移民が行われていたらしい。そのまま艦長席に収まってしまいそうなグエンの横顔を見、ますます長引く戦争を予感したロランは、ひとつ覚悟の息を吸ってからそちらに歩み寄った。
「……ぼくは、グエンさんは和平交渉を望んでいるのかと思っていました」
「それはそうさ。だが対等に交渉を進めるためには、そわなりに戦力がいる。君だって、そう思うから我々の側で戦ってくれているんだろう?」
簡単に返したグエンの言葉に、急所をつく針が含まれているのを感じ取ったロランは、我知らず拳を握りしめた。我々の側≠ニいう、こちらを蚊帳《かや》の外に置いた言い方。「……やっぱり、ご存じなんですね」と確かめると、「わたしは他の連中ほど鈍感ではないよ」と答えたグエンの顔に、微笑の亀裂が生じた。
「しかしそんなことはどうでもいい。キースくんにも言ったことだが、わたしが欲しいのは優秀なスタッフだ。現にこうして、ムーンレィスの技術者を雇い入れもした」
航法スクリーンに手のひらを当て、グエンは慈しむようにポリカーボネイト製の表面をさする。「この感触……。これが技術だ」と呟いた顔は、ほとんど恍惚といった表情だった。ぞくりとしたものを感じて、ロランは石になった唾を飲み下した。
「この技術力を手にすれば、我々は新しい世界を手に入れることができる。地球と月の争いなど、瑣末な問題だよ。『黒歴史』が語る人類の栄光を、もういちど取り戻すんだ。我々の手でね」
その人類の栄光は、結局は滅びに至ったのではないか? ロランは思ったが、今のグエンにはなにを言っても無駄だとわかっていた。交渉のため、生き残るためと取り繕《つくろ》ったところで、とどのつまりは工業化、文明化への興味が先に立つ。それが個人の趣味ならまだしも、グエンの場合、全体に影響を与える立場と力を持っている点が問題なのだった。
自分が口出しできるものではなかったし、舐めるような視線に詰め寄る気にもなれなかった。息苦しさを感じて、ロランは宇宙船のブリッジを後にした。ソシエがついてくる気配が背中に伝わり、それが今は少しだけうっとうしかった。
坑道の外に出ると、坑口を覆う天幕《テント》の近くで数人の人が揉《も》み合っている光景が目に入った。「ダメと言ったらダメだ!」と発したダミ声に立ち止まったロランは、両手を広げて通せんぼをしているヤーニ少尉の肩ごしに、知った顔を見つけていた。
「ロラン、ちょうどよかったわ! この兵隊さんたち、なんとかしてよ。カメラまで没収されたのよ」
こちらに気づいたフラン・ドールが、手を振りながら言う。どうやってこの場所を嗅ぎつけたのか、フランの旺盛な取材欲に閉口した後、これだけ人と資材が動けば露見するのも当然かと思い直したロランは、ソシエとともに小走りでそちらに向かった。「おまえの知り合いか?」と険悪な目を向けるヤーニを愛想笑いでごまかし、没収されたカメラに執心するフランをなだめて、人垣の中から強引に連れ出した。
「許可が出るまで、新聞には載せないからさ。あたしの独占記事ってことで、発掘の経過なんかを……」
「無茶言うなよ。ルジャーナの人たちの目もあって、ただでさえみんなぴりぴりしてんだから……」
この調子では、ルジャーナ・ミリシャも早晩キングスレーに押しかけてくるだろう。宇宙船をめぐって内戦なんて事態にならないだろうな……と、胃を重くする想像をしたロランの脇で、「そうよ。報道はお断わり」とソシエも両手を腰に当てる。
「マスコミを利用するって手段もあるでしょ。イングレッサ・ミリシャが宇宙船を発掘したって記事が大きく載れば、それだけでルジャーナを黙らせることだってできるんじゃない?」
「その代わり、ディアナ・カウンターにもこの場所を知られるわ。攻撃されて宇宙船を壊されたら、ノックス・クロニクルが弁償してくれるとでもいうの?」
珍しく論理的なソシエに、フランは目を丸くして驚いている。これが戦争の外側と内側にいる人の感覚の違いだろうと実感しつつ、ロランは土砂を満載したトラックや、鉄骨を肩に担いだ〈カプル〉が往来する発掘現場を見回した。視察にはキエルも同道したはずだが、テントの幌が立ち並ぶ荒涼とした谷底に、輝く金髪を見つけることはできなかった。
「キエルお姉さまなら、ウィルさんのお家に行ったわよ」
腹のうちを見透かす冷たい声が背後に発して、ロランは意味もなく「ウィルさんの家って……」とおうむ返しにした。「暗くなる前に戻るって」と付け加えたソシエの目は、すでに半分|据《す》わっていた。
「キエルお嬢さん、車の運転できましたっけ?」
ウィルの実家は、ここから十キロ以上南に下った場所にある。歩いていくには少々辛い道程だったし、誰もいない屋敷になにをしに行ったのかと気になったが、「できたから行ったんでしょ!」と唐突に声を荒らげたソシエは、その勢いのまま背を向けていた。
坑道に向かう〈カプル〉のガニ股と歩調を合わせるようにして、大股で天幕の方に歩いてゆく。なにをぷりぷりしてるんだと思い、ソシエの背中を見送ったロランは、「あんたもいい加減、鈍感ねえ」と呆れた声を出したフランに振り返った。
「なにが?」
「少しはソシエちゃんの気持ちも考えなさいって言ってるの」
「そんなこといったって、ぼくにとっては二人とも大事なお嬢さんなんだから……」
「ダメだ、こりゃ」と額に手を当てたフランは、不意に施設時代のお姉さん役の顔つきを取り戻して、ロランを見据えた。「でもね、キエルさんのことはあきらめなさい。どう考えても脈はないから」と続けられた声に、ロランは体温が急激に上昇するのを感じた。
「そんなこと……! 考えてないよ」
「じゃあなによ?」
「横恋慕とかじゃなくて、気になるんだよ。キエルお嬢さんがどうしてウィルさんにこだわるのか……」
まったくの嘘でもなかった。ウィル・ゲイムが去って以来、キエルは必要最低限の口しか開こうとせず、ぼんやりの面持ちで日々を過ごしている。その様子は、『鳳凰の羽』の物語を聞いて以来、頭の片隅に発したある疑念と重なり合って、ロランの中にひとつの仮説を成立させていた。
とんでもなくバカな想像だとわかっている。しかしそう考えれば辻褄が合うことがあまりにも多く、そのように事態が進んだ可能性も、完全には否定しきれないのだった。あの時、崩壊したノックスの街中で助け出したキエルは、本当にキエルだったのか? と……。
「まあ、キエルさんが本気になってるとも思えないんだけどさ。ひと目惚れっていうのは、あるのよねえ」
そんな思いは知らずに、フランは気楽な声を出す。根拠の希薄な想像を追いやったロランは、「人のことなんかより、フランはどうなのさ」と言い返してやった。
「あたし? あたしはあんたたちよりよっぽど上手にやってるわよ。将来のことだってちゃんと考えてる」
「将来……?」
「鈍い。結婚を考えてる相手がいるってことよ」
さらりと打ち明けたフランは、カメラを没収した兵を目の端に捉えたらしく、「ちょっとあんた、待ちなさいよ!」と記者の声を出してそちらに走っていった。いつも同じ目線に立っていたフランが、急に遠い存在になってしまったような気がして、ロランは呆然とその場に立ち尽くした。
大人になってしまったキースも、急速に近代的軍隊に成長しつつあるミリシャも。なにもかもが目まぐるしい勢いで変わり始めたことを実感して、ロランは午後の空を見上げた。一羽のイヌワシが、ひとり取り残された身を嗤《わら》って峡谷を横切った。
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機械人形のエネルギーは、DHOG縮退炉と呼ばれる無限機関から供給されるという話だから、満タンにしてもらったという表現は当たらない。が、ディアナ・カウンターによって整備され、格段に扱いやすくなった〈フラット〉の操作感は、まさにそのようなものだった。
各関節の駆動系は新しい部品に交換され、テレビジョン――モニターというそうだが――の照準画面もぐんと見やすくなった。左右の腿の裏には、それぞれボックスビームライフルとボックスミサイルランチャーと呼ばれる武器が、その名の通り箱型に姿を変えて装備されている。機械人形の腕で引き出せば、展開してもとのライフルの形になる仕掛けだ。
他にもあげれぱきりがないが、とにかく〈フラット〉は最良の形でウィル・ゲイムに手渡されたのだった。これなら、キングスレーの谷に集まった盗人どもを追い払い、宇宙船を取り戻すのも不可能ではないと思う。ディアナ・カウンターに投降して五日、シミュレーターと呼ばれる練習機械でみっちり操縦を学んだウィルには、ロランの〈ターンA〉であっても打ち負かせるという自信があった。
(ウィル・ゲイム。そろそろおまえを拾った森に到達するが、目標地点はまだ遠いのか)
モニターの一画に小画面が割り込み、自分と同じ、パイロット用ヘルメットを装着したテテス・ハレの顔が映し出される。「もうじきでさ」と応じて、ウィルは後方カメラが捉えた映像を側面のモニターに眺めた。
乾いた荒れ地を悠然と闊歩する〈ウォドム〉が一機と、遅れまいと懸命に短足を動かしている小型機械人形の〈ワッド〉が三機。夕刻の茜色に染まった空には、ハリー大尉の駆る金色の〈スモー〉が、小さな人型の染みになって浮いている姿もある。それらはすべて、宇宙船奪還のためにディアナ・カウンターが回した戦力であり、その先頭を切って走っているのは他ならぬ自分なのだった。
〈フラット〉で発掘現場に奇襲をかけ、ミリシャの連中を追い散らした後に、テテスたちが宇宙船を確保する。それが奪還作戦の骨子だ。指揮権こそないものの、ウィルが作戦の要であることに間違いはなく、護衛するかのごとく付き従う機械人形たちの勇姿を見れば、気分はほとんど一軍の将のそれだった。
踏みつけられっぱなしの人生に舞い込んできた、一世一代の晴れ舞台。死んだお袋にも見せてやりたかったものだと思いつつ、正面のモニターに目を戻したウィルは、「そう心配しないでも、日が落ちる前には着きますよ」と重ねた。
(ピクニックと勘違いするんじゃないよ。あんたの働きはディアナ様もご覧になってるんだ。月に行って先祖の望みを果たしたいなら、みっともない真似はさらすんじゃないよ)
「わかってますって。やっとつかんだチャンスを、そう簡単にフイにしてたまるかってんだ」
(そう思うなら急ぎな。フライトモードへの変形、やれるんだろ)
促したテテスは、返事を待たずにモニターから消えた。シミュレーターで何度もくり返した手順を頭に呼び出し、ウィルは座席のひじ掛けにあるコントロールパッドを操作した。
歩行する〈フラット〉の機体が大きく前に傾き、転ぶのではないかと思えた瞬間、見えない力に押し上げられてふわりと浮き上がる。大地を踏みしめていた両足が後ろに折れ曲がり、踵裏《しょうり》が背部に密着すると、半球状のカエル頭が機体の傾斜に合わせて九十度上を向いた。もはや人型とは言えず、地球上のどんな乗り物にも当てはまらない、特異な形状に変形した〈フラット〉をモニター上に確かめたウィルは、軽くフットペダルを踏み込んでみた。
地上十メートルの低空を浮遊する〈フラット〉が、反発した磁石のように前に押し出される。微かな律動がコクピットに伝わり、後続の機械人形との距離があっという間に開くのを見たウィルは、自分の操る機械の力強さに感嘆の声をあげた。
「これが月の技術なんだ。こんなものを使ってる連中と戦争して、勝てる気でいたんだから、まったくおめでたいよ」
これまでミリシャが全滅せずに済んだのは、ディアナ・カウンターが手加減していたからだというフィル少佐の言葉は、決してはったりではない。可笑《おか》しくも悲しい実感を噛み締めて、ウィルは地平線を縁取る山の稜線を見据えた。
あの山を越えた向こうに、自分の未来がある。先祖が望んで得られなかった、高みに通じる階段がある。それだけを考え、他のいっさいを無視するようにしたウィルは、加速する〈フラット〉に身を任せた。キエルやロラン、シドといった名前が浮かんでは消え、流れ去る景色の中に霧散した。
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ゲイム家の屋敷は、オーバニーの西方、針葉樹林が点在するなだらかな丘陵地帯の一画にあった。山の湧水《ゆうすい》が小川になって近くを流れており、ほとんど崩れかけた石橋の上から、廃屋と表現すべき屋敷の様子を窺《うかが》うことができた。
車を川のほとりに停めたロランは、中ほどまで雑草に浸食された道を歩いて、枝を広げたくすのきが寄りかかるようにしている屋敷に近づいていった。夕陽がすべてを茜色に染める中、裏庭にミリシャのトラックがぽつんと置き去られているのが見え、キエルが屋敷にいることを暗に伝えていた。
発掘現場に残ると言い出したグエンのために、乗ってきた車を誰かが野営地に戻さなければならなくなり、ロランがその役を任されたのが一因ではあった。ソシエたちがトラックで野営地に運ぱれていった後、ロランはこっそり寄り道をして、ゲイム邸を訪れてみるつもりになったのだ。
みっともない真似だとは承知している。だが見知らぬ土地でキエルをひとりにしておくのは心配だったし、胸の中で燻《くすぶ》っている疑惑を確かめるには、キエルがウィルにこだわる理由をはっきりさせる必要もある。横恋慕なんかじゃないんだと自分に言い訳しつつ、地図を頼りにここまで来たのだったが、いざキエルが乗ってきたらしいトラックを目前にすれぱ、腹立たしいような、息苦しいような思いに駆られるのをどうにもできなかった。ひとつ深呼吸の息を吐いてから、ロランは半分腐り落ちた玄関の階段に足をかけた。
蝶番《ちょうつがい》の緩んだドアは少しだけ開いていて、隙間から屋内に入ることができた。床には枯葉まじりの埃が吹きだまり、天井の隅にはクモの巣も張っていたが、人が出入りした気配は微かに残っている。後から増築されたらしい、棟続きの離れの方を見遣ったロランは、廊下沿いにある部屋のドアが開いているのに気づいて、そちらに近づいていった。
ひと目で寝室とわかる小部屋だった。ベッドのマットレスは剥《は》がされ、全体にうっすらと埃をかぶってはいるものの、鏡台やクローゼットの上の小物はきちんと整頓されて、窓から差し込む夕陽を浴びている。打ち捨てられた廃屋にあって、そこだけ生活の匂いを残した部屋の中に、キエル・ハイムが佇んでいた。
こちらに背中を向け、手に持ったなにかを覗き込んでいる。夕陽の色とは異なる、人工的な七色の色彩がそこから発し、オレンジに染まった天井に仄かなプリズムを反射させているのを見たロランは、小さく息を呑んだ。
携帯用の立体映像装置《ホログラフィ》が発する光に見えたからだった。思わずあとずさった足が床を鳴らすと、キエルの肩がびくりと動き、プリズムの光は唐突に消えた。振り向いたキエルの瞳が、それに代わってロランの目を剌激した。
「ロラン……。来ていたのなら、声をかけてくれれぱいいのに」
言いつつ、キエルは手にしていたものを鏡台の上に置き、背中で隠すようにする。大事な時間に割り込んでしまったような罪悪感がわき起こり、ロランは「いえ……」と顔をうつむけていた。
「ひとりでいたい時っていうのもあるんでしょうから……。すみません、お邪魔して」
やはり、来るべきではなかった。汲みきれない後悔を抱いて頭を下げたロランに、キエルはひどくやさしい微笑を返した。「あなたにはある? そんな時が」と尋ねた穏やかな声は、目前の少女を十歳も大人びたものに見せた。
「……今のキエルお嬢さんは、そう見えました」
立ち去りたい衝動を堪えて、ロランは思った通りに答えた。意外なものを見つけたというふうな顔をした後、もとの微笑みを取り戻したキエルは、こちらに背を向けて鏡台に向き直った。
「考えていたんです。ディアナ・ソレルと、ウィル・ゲイムさんのこと……」
窓の夕陽が緩く波打つ金髪を輝かせ、長い影を壁に映した。恋を失った女の背中、という表現が不意に立ち上がり、ロランは知らぬ間に一歩部屋の中に踏み出していた。
「ディアナ・ソレルは、月の技術で何百年もの時を超えて生きてきたんだそうです。でもそれは、なにもない時間の積み重ね……。生きているのか死んでいるのかわからない、無意味な年月だったと言っていました」
その重さを知り、虚しさを全身に受け止めた人の声と聞こえた。ああ、この人はいま本当のことを言っている。そう思い、ロランはキエルの――キエルらしい人の背中を見つめた。
「ムーンレィスは、きっと永遠を欲しがったのでしょう。いつか地球が再生して、もういちど大地の上で暮らせるようになるまでには、膨大な時間が必要だとわかっていたから。それを待つには、人の一生はあまりにも短い。永遠を手に入れられると信じなけれぱ、千年、万年の単位で語られる時の重みに、押し潰されてしまうと知っていたから……」
奈落に引きずり込まれそうな体を支えるように、キエルらしい人は鏡台の縁に両手をついた。埃をかぶった鏡は曇っており、その表情を映すことはなかった。
「広大無辺な宇宙を前にすれば、人は塵以下の存在に等しい。でも、それでも、ウィル・ゲイムはあきらめませんでした。自分の寿命で足らなければ、子孫に想いを託してまで宇宙船を掘り出そうとしたのです。無為に百年以上の時を超えてきた月の女王と、連綿と続く命の繋がりに望みを繋いだウィル・ゲイム。そのどちらが、人のありようとして正しいのでしょうね……」
答えられなかったし、その資格があるとも思えなかった。これはキエルらしい人の懺悔なのだろうと理解して、ロランはブラウスに包まれた細い肩の線を見つめた。
「終わりがあるからこそ、生が輝く。それをひとりでも多くの人にわかってもらうために、ディアナ・ソレルは地球への帰還を強行したのかもしれません。この大地に眠ることができれば、土に還ったウィルとも会えましょうから……」
言いきったキエルらしい人は、空気が抜けたかのようにゆっくり顔をうつむけていった。それは違う、という思いがむらとロランの中で頭をもたげ、気がついた時には、「……死ぬために、地球に戻られたというのですか」の問いが口をついて出ていた。
「だったら狡《ずる》いです。ディアナ様の独り善がりです」
振り返ったキエルらしい人は、否定も肯定もせずにロランを見返した。自分でも理解できない怒りに押されて、ロランは両の拳をきつく握りしめた。
「そう思うなら、どうしてウィルさんを引き止めなかったんです。今度こそ一緒に、幸せになろうって努力しなかったんです?」
キエルらしい人の表情に、動揺と怒りがないまぜになった波紋が生じ、「あの人は、私の知るウィルではなかったから……!」という抗弁が部屋の空気を震わせた。
「私の好きだったウィルは、このホログラムの中にしか……」
ひと息に口走ってから、キエルらしい人は先の言葉を呑み込んだ。ホログラムという現実的な単語が、両者に等しく水をかけたようだった。情動のうねりがすっと退き、冷静にキエルらしい人を見つめたロランは、「やっぱり……ディアナ様なんですね」と確かめた。鏡台の上に手を置き、手のひら大の立体映像装置《ホログラフィ》に触れたディアナ・ソレルは、沈黙を答えにした。
「覚えていらっしゃいませんか? 『白の宮殿』でいちどだけ拝謁《はいえつ》させていただいた、環境調査員のロラン・セアックです」
驚きと疑念の入り混じった瞳がすっと細められ、ディアナは「ロラン・セアック……」とくり返した。御手に口づけをさせていただいた……と重ねるまでもなく、その時の記憶を取り戻したらしいディアナの目が見開かれた。
「ロラン・セアック……! 環境調査員がなぜミリシャに? ディアナ・カウンターを裏切ったというのか」
反射的に出た言葉だとわかっても、女王らしく取り繕った声であったことがロランには腹立たしく、同じくらい悲しかった。「ディアナ様こそ、どうして……!」と思わず言い返した瞬間、無礼を叱るようなタイミングで天井の梁が軋み、窓ガラスが小刻みに震え始めた。
鏡台の写真立てが倒れ、窓の外で木々がざわめく。地震の揺れではないと判断した体が勝手に動き、窓際に駆け寄ったロランは、葉を舞い散らせる樫の木の向こうを、黒い物体が行き過ぎるのを見た。
木々の梢に腹をこすりつけるようにして、茜色の空を音もなく滑ってゆく。航空力学をはなから無視した形を、空間斥力処理装置《FRP》の力で浮遊させている物体は、間違いなかった。
「〈フラット〉だ……!」
キースがミリシャに売り、ウィル・ゲイムが乗り逃げしたモビルスーツ。フライトモードに変形した黒い機体が、屋敷の庭をかすめてキングスレーの方向へ去ってゆく。ディアナ・カウンターが制式採用している量産機とはいえ、この時、この場所に現れた機体が、まったく別の〈フラット〉とは考えられなかった。「……まさか、ウィルが」と、小さく呻いたディアナの声も聞いたロランは、それしかないと確信した。
前後の事情は不明だが、あの〈フラット〉のパイロットがウィルで、キングスレーの谷に向かっているのなら、それは宇宙船を奪い返そうとしているのに決まっていた。激昂すればなにをしでかすかわからない、情緒の危うさを覗かせるウィルの横顔を思い出したロランは、「行きましょう」とディアナに振り返っていた。
「戦う必要なんて誰にもないはずなんです。早く止めないと……!」
そのひと言で、ディアナも事態を了解したようだった。頷《うなず》きはしたものの、どうしていいかわからないというふうに立ちすくんだディアナの腕を取って、ロランは走り出していた。
シルクに包まれた腕は折れてしまいそうにか細く、無礼な真似をしているのではないかと自覚させたが、ロランはかまわずに走り続けた。いま自分が手を繋いでいる人が、ディアナであろうとキエルであろうと、そんなことはどうでもいいと思う。どちらも同じくらい大切な人なのだから、その苦労や悲しみは取り払ってあげたい。事態に流され、すべてに中途半端な自分でも、差し伸べられる手があるのならそうしたい――。理屈ではなく、体の奥底からわき上がってくるそんな思いが足を動かし、ひとり取り残されたように感じていた体を、ほんの少し前に押し出してくれたようだった。
地球と月の問題は、関係なかった。自分の庇護を求めている人が、そばにいるという事実。それだけのことだが、それだけのことの方が重要で、どんな大義や理想よりも意味がある。少なくとも、今のロランにはそう思えた。
馬力はトラックの方があるが、森の間道を突っ切るには小回りがきく乗用車が有利だった。自分が乗ってきた車の助手席にディアナを座らせ、エンジンをかけると、ディアナの手がロランの膝上に置かれた。
のしかかる不安を押し殺すように、白い指に微かな力が込められる。そこから伝わる熱が下腹部に拡がり、背中を貫いて胸にまで届けば、もう迷うことはなにもなかった。正面を見据えて、ロランは〈フラット〉が去っていった方向に車を走らせた。
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後続を大きく引き離して先行した〈フラット〉が、ルジャーナ・ミリシャの機械人形部隊と接触したのは偶然だった。
イングレッサ・ミリシャの不穏な動きを察知して、ルジャーナ・ミリシャは偵察部隊をキングスレーの谷に差し向けていたのだ。哨戒行動にかこつけ、密かにキングスレーに向かっていた三機の〈ボルジャーノン〉は、だから発掘現場に侵攻する〈フラット〉と最初に、正面からかち合う結果になった。
これまでに出土した機械人形は基本的に陸戦兵器で、空を自在に飛ぶ機械が発掘されたという情報はなかったから、羽もないのに空中に浮かんでいる黒い物体は、すなわちディアナ・カウンターの兵器と判断されるのが道理だった。三機の〈ボルジャーノン〉は地響きを立てて散開し、背の高い杉の林に身を潜めるや、それぞれが手にした携行武器の筒先を〈フラット〉に向けた。
銃身《バレル》の上に円形のドラムマガジンを載せたサブマシンガンと、機械人形の身長と同じほどの長さがあるバズーカ砲。マシンガンといっても、機械人形が使うそれは大砲クラスの砲弾を撃ち出す巨大なもので、バズーカに至っては中規模ミサイル程度の破壊力がある。使用する弾体はマウンテン・サイクルUの出土品だったが、ルジャーナ領では、オリジナルをもとにした弾体の量産計画がすでに進められていた。
装備も士気もイングレッサ・ミリシャには負けない、というのがルジャーナ・ミリシャの衿持《きょうじ》で、選ぱれて〈ボルジャーノン〉を任されたパイロットたちには、特にその傾向が強かった。機械人形同士の実戦をまだ経験していない身としては、なんとしてもここで戦功をあげておく必要がある。時速百キロに満たない速度で滑空する〈フラット〉は、その意味では格好の獲物と言えた。慎重に狙いを定めたパイロットたちは、隊長機の号令一下、一斉に右側のコントロールレバーを握りしめた。
パイロットの握力がマニピュレーターに伝わり、人がそうするように、〈ボルジャーノン〉の指がそれぞれの得物の引き金を絞る。サブマシンガンからドラム缶ほどの大きさがある薬莢《やっきょう》が排出され、バズーカの後部からはバックファイアの炎と爆風が吐き出されて、背後に広がる杉の木立を根元からへし析り、焼き払ってゆく。速射された火線が三方から殺到し、浮遊する〈フラット〉を直撃するように見えたが、直前に高度を上げて回避した〈フラット〉は、〈ボルジャーノン〉が見守る中、フライトモードからモビルスーツ形態への早変わりをやってみせた。
目標を見失ったバズーカの弾体が森林に落ち、爆煙と土くれ、砕けた木の破片をまき散らしながら炸裂する。着地した〈フラット〉を目がけ、さらに数発の砲弾が撃ち込まれたが、それらは立ち昇る粉塵の壁にことごとく弾かれ、あらぬ方向に落ちて森を延焼させるだけに終わった。
爆発による粉塵ではなかった。〈フラット〉に装備された特殊装甲早稲宇極超音速で振動し、ソニックプレードを発生させるヒートエッジ装甲――が働き、機体周辺の土と木々を噴き上げているのだった。本来は地中潜航時に用いる機能だが、桁外れのかまいたちとも言えるエネルギーの壁は、戦闘においても攻防両面で威力を発揮した。竜巻としか見えない空気の渦が、悠然と佇立する〈フラット〉を取り囲み、あらゆる砲弾を跳ね返してゆく。〈ボルジャーノン〉のパイロットたちは、敵を過小評価していたらしいと気づいたが、それは遅きに失した理解だった。火線が弱まった一瞬、脚部に装備したボックスビームライフルを引き抜いた〈フラット〉は、箱型に折れ曲がったバレルと銃口がライフルの形に展開するや、右端の〈ボルジャーノン〉に向かって一射した。
灼熱したエネルギーの筋が、モノアイ・センサーを備えた〈ボルジャーノン〉の頭部を瞬時に溶解させ、ボディとの接合部分から根こそぎ抉り取ってゆく。首なしになった僚機が、杉の木を押し倒しながら沈み込むのを見た隊長は、残った部下にパイロットの救出を命じる間もなく、〈フラット〉に向かって突進していった。
〈ボルジャーノン〉のモノアイが、隊長の恐怖と怒りを引き写してピンク色に発光する。腰に装備した接近戦用の斬撃《ざんげき》武器、ヒートホークを抜き放ち、左肩のシールドを前面に立てて突進した隊長機は、しかし、〈フラット〉の周囲に張り巡らされた見えない壁に弾かれて、尻もちをつく羽目になった。
ぶつかった衝撃で機体の外側に露出した動力パイプが切れ、肩のシールドも弾け飛んだものの、隊長は怯まずに立ち上がり、巨大な斧といった形状のヒートホークを振りかぶった。焦りが導いた蛮勇としか言いようのない行為で、自機と敵機との間に数百年の技術格差が横たわっていることには、気づきようがなかった。
動力パイプの切断でエネルギーパルスの伝達が鈍り、必然的に動きの遅くなった〈ボルジャーノン〉の腕は、あっさり〈フラット〉に受け止められた。同時に装甲の振動数が上がり、さらに強力になったソニックプレードの壁が〈ボルジャーノン〉の機体を包む。装甲そのものが切り裂かれることはなくても、内部の電子装置はたちどころに破壊され、コクピットは衝撃吸収装置《ショックアブソーバー》の要領をはるかに超える凄まじい振動に見舞われた。五官では認識しきれない振動に攪拌され、パイロットの神経がずたずたに引き裂かれるのは一瞬だった。数秒後には体中の穴という穴から血を噴き出し、隊長は絶命した。
残る一機の〈ボルジャーノン〉を駆るパイロットには、隊長が悶死した事実を知る術がなかったのだ。敵機に囚われた隊長機を救出すべく、彼は機体を移動させながら立て続けにマシンガンを撃ち放った。止まっていれば狙い撃ちにされるとわかっていたからだが、自ら標的に向かって突き進むホーミングミサイルの存在を想像できなかったことが、彼の死期を早めた。
動きの止まった隊長機を打ち捨てて、〈フラット〉はライフルを持っていない左手でポックスミサイルランチャーを抜き放つ。計二十基の小型ミサイルを収めたランチャーが展開すると同時に、二発のミサイルが噴煙の筋を引いて〈ボルジャーノン〉を襲う。生き物のように進路を変え、弧を描いて迫るミサイルにパイロットが恐怖した時には、〈ボルジャーノン〉の膝から下がなくなっていた。
小さく爆発を起こし、森の中に倒れ込んだ機体の胸にビームの槍が突き刺さり、パイロットをコクピットごと蒸発させる。この時、コクピットを貫通したビームが、背部ランドセルに収められた主動力炉も破壊したために、〈ボルジャーノン〉は機体の深奥から大爆発する結果になった。
DHOG縮退炉よりはるかに旧い年代に造られたジェネレーターは、爆縮などの異常反応を起こしはしなかったものの、発生した爆風波は直径一キロに渡って地面を抉り、六千度に達する熱線は爆心地を囲む森林を火の海に変えた。噴き上がった爆煙の高さは数百メートルに達し、夕焼けの空に毒々しいキノコの形を咲かせていった。
衝撃が地殻を揺さぶり、地震に似た震動の波紋がオーバニーに拡がってゆく。癒《い》えかけた痂《かさぶた》を強引に剥がされた大地が、苦痛に身をよじるかのような震えだった。その中、地中潜航で爆発の難を逃れた〈フラット〉は、傷ひとつない機体を地表に出現させた。屹立《きつりつ》するキノコ雲を背に、煉獄《れんごく》と化した周囲の光景を確かめた〈フラット〉は、再びキングスレーの谷に向けて移動を開始した。
唯一生き残ったのは、最初に頭を抉られたきり、行動不能に陥っていた〈ボルジャーノン〉のパイロットだった。三重のショック・アブソーバーがコクピットを防護し、衝撃を軽減してくれたからだったが、機体は押し寄せてきた土砂の波に埋まり、脳振盪を起こしたパイロットも気を失いかけていた。完全に意識が途切れる直前、そのパイロットは通信機から流れる人の雄叫びを聞いた。
(おれ……月に行く……だ。邪魔す……は、誰だろうと容赦し……)
敵のパイロットのものらしい声は、常軌を逸した余韻をまとってスピーカーから響いた。ディアナ・カウンターにも気触りがいるらしい。生き残った〈ボルジャーノン〉のパイロットは、粟立つ肌を感じながら気絶した。
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森林地帯の一画に咲いた爆発の華は、十キロ以上離れた場所にいてもはっきり肉眼視することができた。キャノピーを開け、〈スモー〉のコクビットから半身を乗り出したハリーは、背筋がざわつくような悪寒を味わっていた。
夕陽を背に、どす黒い傘を広げて立ち昇るキノコ雲には、それだけの恐怖を喚起するなにかがある。自分たちの存在、いま起こっているすべての事象を否定し、間違っているのではないかと詰め寄るなにか――。固唾を飲み、平衡感覚を浸食する破壊の風圧を凝視したハリーは、「ドジが、ジェネレーターに直撃なんかさせて……!」と吐き捨てたテテスの声に、ようやく我に返った。
傍らに佇立する〈ウォドム〉の手のひらに乗り、スコープを覗き込んでいるテテスには、他の感慨はないらしい。モビルスーツ同士の戦闘では、相手の動力炉を爆発させるのは自殺行為とされる。コクビットなり、制御系なりをピンポイントで潰すのが常道なのだが、素人のウィル・ゲイムには関係のない話だろう。
非は、そんな男を捨て駒に仕立てたこちらにこそある。レーダーには、野宮地を発したミリシャのモビルスーツ部隊の影が映し出されており、それらはまっすぐ爆発地点を目指している。ウィルが彼らと接触し、先刻と同様の戦闘を展開すれば、宇宙船の発掘現場にいるかもしれないディアナの身にも危険が及ぶ――。そう考え、五メートルほど離れた場所にいるテテスを見遣ったハリーは、相変わらず高みの見物を決め込んでいるその姿に、内心舌打ちした。
この女が見ている限り、迂闊な真似はできない。戦闘のどさくさに紛れられれば、ディアナを捜索するチャンスもあろうと期待していたのだが、テテスはここで動静を探ると言ったきり、一向に腰を上げる気配を見せなかった。だるそうに〈ウォドム〉の指に寄りかかり、スコープを目に当てているテテスから目を離したハリーは、「ミリシャの増援が来たようだ。援護しなくていいのか?」と、無表情の皮をかぶって言ってみた。
「ディアナ・カウンターは先には手を出さないってのが、原則でありましょう? 宇宙船とかの所在を確かめるのが今回の目的なんだから、自分たちが危ない橋を渡る必要はないと思いますが」
スコープを覗いたまま、テテスは振り返りもせずに答える。日頃は原則もへったくれもないと決めている女が、今日に限ってどうしてこうも落ち着いているのか。いら立ちを堪えて、ハリーは「冷静だな」と返しておいた。
「増援には白ヒゲもいるかもしれんぞ」
「ミリシャは面で展開してるんです。本国からの補給もままならないのに、点の攻撃を仕掛けて消耗するのはバカらしいでしょうが」
正論だった。テテスの口からそんなセリフを聞こうとは夢にも思わず、ハリーはあらためてその横顔を見つめた。自分の行動を監視するよう、フィルに因果を含められていたにしても、今日のテテスの態度はいつもとは明らかに異なる。「フィル少佐の受け売りではなさそうだな?」と探りを入れると、テテスは初めてスコープから目を離し、こちらに振り返った。
「怨念返しには胆力がいるってことですよ。あのウィル・ゲイムって山出しにそれがあるなら、やってみせてくれんでしょう。なければそれまで。あたしたちまで一緒に泥をかぶる義理はない」
そう言い、血を引いたような赤い唇を微笑に歪めたテテスは、再びスコープに目を戻した。ひどく生々しい感情に触れてしまった思いで、ハリーも拡散しつつあるキノコ雲に目をやった。
地球の民と交わった父祖のために、下層階級の身に甘んじてきたテテスの事情は、ハリーもおぼろげに知悉している。自分には窺《うかが》い知れない部分で、彼女はウィル・ゲイムに共感するところがあるのだろう。だからこそ、安易に手を差し伸べたりはしない。それぞれに自分であがない、自分で乗り越えるしかないものを抱えていると知っているから……。
「怨念、か……」
口にしてみて、面倒な語感だなとハリーは実感した。
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爆発の衝撃をまともに浴びずに済んだのは、森の木々が楯になってくれたからだが、それでも肌をひりひりさせる熱風は押し寄せてきた。咄嗟にハンドルをきり、森の中に車を退避させたロランは、空を覆う黒煙の膜を折り重なる枝ごしに見上げた。
爆心地はここから三、四キロ先というところか。付近の森は炎上しているらしく、夕焼けとは違う、不安をあおり立てる暗い赤が西の空を染め上げている。「モビルスーツの爆発……?」と呟いたディアナに、「わかりません。多分……」と相手をしながらも、他に考えられないとロランは断定した。
やられたのはミリシャのモビルスーツだろう。
〈フラット〉が搭載する縮退炉が爆発したなら、被害はこの程度では済まないはずだし、ディアナ・カウンターの正規パイロットはジェネレーターを直撃するようなドジは踏まない。ウィル・ゲイムの仕業と結論したロランは、脅かしてやろうというレベルではなく、本気で仕掛けてきたウィルの意志を悟って、今さらながら恐怖を覚えた。
そうなら、こんな車でのこのこ行ったところでどうにもならない。ディアナを危険な目に遭わせるだけだ。いったん野営地に引き返して、〈ターンA〉を取ってきた方がいいか? 考えた途端、木が踏み倒される音が背後に発し、断続的な地響きが車を揺らし始めた。
道を挟んで反対側に広がる森の木々がざわめき、〈カプル〉のボール状のボディがぬっと現れると、左腕にシールドを携えた〈ターンA〉がそれに続いた。爆発に気づいたミハエルが増援を出したのだろう。〈ターンA〉に誰が乗っているかは考えるまでもなく、ロランはギアをバックに入れてすかさずアクセルを踏んだ。
「しっかりつかまっててください!」とディアナに叫び、返事を待たずにハンドルを切る。道を削って急転回した車が反対側の森に突っ込み、ソシエが操縦しているに違いない〈ターンA〉を追って、立ち並ぶ木々の中を疾走する。張り出した根っ子に乗り上げた車体が跳ね、先に進むほど生木の焦げる臭いと煙が濃厚になったが、かまってはいられなかった。踏み倒された木々の向こうに、スラスターベーンのスリットを露出させた〈ターンA〉の臑《すね》部を見つけたロランは、ギアをトップに入れて一気に巨人の足もとに近づいた。
炎の照り返しを白いボディに受け、〈ターンA〉は黙々と歩き続ける。車を並走させつつ、ロランは「ソシエお嬢さん! 運転を代わってください」と全身を声にした。
聞こえているのかいないのか――いや、三六〇度の視界を確保するオールビューモニターなら、足もとを走る車の存在に気づかないわけがない。止まろうとしない〈ターンA〉に、ソシエの強情を見出したロランは、車の速度を上げて〈ターンA〉の進行方向に先回りした。
地面にめりこむ巨大な踵を間近に見ながら、ハンドブレーキを上げて急停車する。タイヤを滑らせ、九十度転回した車が行く手を阻むと、〈ターンA〉はつんのめるようにして歩みを止めた。「ソシエお嬢さんなんでしょ!?」ともういちど呼びかけたロランは、煙で息が苦しそうなディアナに、ハンカチで口を押さえているように言ってから車を降りた。
十メートル頭上でコクピットのキャノピーが開き、案の定、飛行帽のゴーグルをかけたソシエが顔を覗かせる。「邪魔よ、ロラン! どきなさい」と怒鳴った声を無視して、ロランは肩掛け鞄に入れておいた電子マニュアルを取り出した。
基本的な動作であれば、機体をリモートコントロールできる電子マニュアルのオプション機能が役に立った。信号を受け取った〈ターンA〉の機動が一時的にロックされ、コクピットボールが強制排出される。ワイヤーに吊るされ、地上数センチの位置でぴたりと静止したコクピットボールに走り寄ったロランは、驚いて尻もちをついているソシエに、「代わってください」とくり返した。「なんなのよ……!」と口をとがらせて、ソシエはシートに座り直した。
「ディ……キエルお嬢さんを頼みます。ここから先は火事で危険ですから、森を迂回して安全な場所に逃げてください」
「勝手なこと言って……! ロランが肝心な時にいないのがいけないんじゃない。あたしだってミリシャの一員なんだから!」
そう言い、ソシエはコクピットボールを上昇させるレバーに手をのばした。強情も時と場合を選べと怒鳴りたいのを我慢する代わりに、「さっきの爆発、見たでしょう!?」と叫んだロランは、コクピットに半身を乗り入れてソシエの肩をつかんだ。
「機械人形同士が戦うと、こういうことになっちゃうんです。とても恐ろしいことなんですよ。ソシエお嬢さんが関わるもんじゃありません!」
「やられなければいいんでしょ! あたしはお父さまの仇を討つって決めたのよ。他人のロランにとやかく言われることなんか……」
そこで不意に口ごもったソシエは、ロランの肩ごしに気まずそうな視線を向けた。振り返ったロランの目に、こちらに歩いてくるディアナの姿が映った。
「ソシエさん。降りなさい」
凛とした声が響くと、ソシエは条件反射というふうに肩をすぼめ、上目使いになった。「なによ……」と精一杯の意地を張る声を聞きながら、ロランは威厳さえ漂わせるディアナの立ち姿を呆然の思いで見つめた。
「ここはロランに任せるべきです。あなたが戦っても、なにもいいことはありません」
「そんなの……お姉さまに言う資格はないわ。なんにもしないで、ウィルさんの後にばっかりくっついてて……! あたしは戦うわ。死ぬのなんて怖くない。ムーンレィスを追い払って、元通りの……」
素早くのびたディアナの平手が頬を打ち、その先の言葉を封じた。張られた頬を押さえ、「……殴ったの?」と呟いたソシエは、口に出してみて初めてなにをされたのか理解したらしく、じわりと瞳を潤ませていった。
「お父さまが生きてらっしゃったら、きっと同じことをします」と言いきり、ディアナはソシエを見据えた。キエルを演じているようでいながら、そこには紛れもなくディアナ自身の匂いが漂っている。無条件に畏敬の念を抱かせる女性の顔を眼前にして、ロランはただ感嘆するばかりだった。
「生きているありがたさを知らない人間が乗れば、機械人形は魔神になります。今のあなたに〈ターンA〉は扱えません」
涙目を背けて、ソシエは膝の上に置いた拳を固く握り合わせていた。力のなくなった肩に触れた途端、乱暴に振り払ったソシエがひと息にコクピットから飛び降りて、ロランはかける声もないまま、入れ替わりにコクピットボールに収まった。
背を向けたソシエの傍らで、ディアナがまっすぐな視線を注いでいた。「頼みます。ロラン・セアック」と女王の声で言ったディアナに圧倒されながらも、ロランは「はい」とはっきり頷いてみせた。
「必ずウィルさんを止めます」
キャノピーを閉鎖し、コクピットボールを上昇させる。定位置に収まると同時に、オールビューモニターが作動して、頭部メインカメラが捉えた映像がコクピット全周を包んだ。炎を走らせた前方の森を見、VRヘッドで〈フラット〉の位置を確かめたロランは、足もとに佇む二つの人影をちらと見下ろした。
立ち尽くすソシエの背中は、ディアナに肩を抱かれても顔を上げようとしなかったが、その重心は心持ちディアナの方に傾いているように見えた。ディアナ様なら、きちんとキエルお嬢さんをやってくれる。それはディアナの役を演じているキエルにしても同じだろうと思えたロランは、そんな女性たちに関われた幸運に勇気づけられて、〈ターンA〉を前進させた。
ディアナとソシエに害が及ばない距離を取ってから、スラスターベーンを噴かす。跳躍した〈ターンA〉の機体が、火の森を越えてキングスレーの谷へと向かった。
メインカメラがその姿を捕捉した時、〈フラット〉はすでに峡谷地帯に進入していた。左右の腕にビームライフルとミサイルランチャーを携え、憑《つ》かれたような足取りで進む黒い人形を見据えたロランは、その百メートル前方に着地点を設定した。
相対距離と現在の速度から落下曲線が割り出され、VRヘッドの映像に表示される。曲線が描くコースに針路を取った瞬間、峡谷の奥から接近する二つのエネルギー反応が探知され、CGに補正された拡大映像が割り込んできた。
〈カプル〉だ。発掘現場から飛び出してきたらしい二機の〈カプル〉が、短足を忙しなく動かして侵入者に猪突してゆく。爪状のマニピュレーターには発掘用の発破を詰めた樽が握られており、〈カプル〉たちは走る速度を緩めないまま、長い腕を振りかざしてそれを〈フラット〉に投げつけた。
爆発の炎と黒煙が咲き、噴き上がった土砂が〈フラット〉に降りかかる。〈フラット〉は動じることなく歩き続けていたが、〈カプル〉たちが再び投擲の気配を見せると、左腕のミサイルランチャーをゆらりと持ち上げていった。
ダメだ、と思った時には二基のミサイルが発射され、白い航跡の筋が先行する〈カプル〉の腹部を直撃した。当たりどころが悪かったのか、内部で誘爆を起こした〈カプル〉は、装甲の隙間から炎と煙を吐き出してその場にくずおれる。僚機の爆煙をかいくぐり、もう一機の〈カプル〉が怯まずに突進をかけたが、再度放たれたミサイルが足もとで爆発すれぱ、片方の短足を失って地面に転がるしかなくなっていた。
今度は右腕のビームライフルを持ち上げて、〈フラット〉は転がった〈カプル〉にとどめの銃口を向ける。ためらわずに撃つ気配を感じ取ったロランは、「やめろ、ウィル・ゲイムさんっ!」と叫び、一気に機体を降下させた。
予想落下曲線を無視した機動に、スラスターベーンが制動の噴射をかけて機体を着地させる。エアシートベルトが体をシートに押さえつけ、目玉が飛び出しそうなGに歯を食いしばって耐えたロランは、〈フラット〉と正対するや、夢中でフットペダルを踏み込んだ。
弾かれたように飛び出した〈ターンA〉が、〈フラット〉に正面から体当たりする。鋼鉄のぶつかりあう衝撃音がコクピットを揺らし、両機のIフィールドが反発しあって、互いの機体表面にスパークの閃光を走らせる。体勢を崩しながらも、どうにか踏み留まった〈フラット〉の右腕が上がり、ビームライフルの銃口が〈ターンA〉の頭部に狙いをつけた。直前に〈フラット〉の手首をつかみ、銃口を押し戻したロランは、「もうやめてください、ウィルさん!」の怒声をくり返した。
「こんなことして、いったいなんになるっていうんです!?」
(おれは月に行くんだ。そのためならなんだってやるって決めた。邪魔をするならおまえも……!)
接触回線がそんな言葉を伝えた後、〈フラット〉の装甲がスパークとは別の光を宿してロランの網膜を刺激した。ヒートエッジ装甲が発するソニックブレード。ぞっとなった刹那、超振動が生み出すエネルギーの奔流が〈ターンA〉を包み、ショック・アブソーバーの限界を超える動揺がコクピットを襲った。
〈|MALFUNCTION《機能不全》〉の文字がモニターを埋め、アラームが鳴り響く。五官を凌駕《りょうが》した超振動は、感電に似た苦痛となって全神経を直撃した。声にならない悲鳴をあげ、体を硬直させたロランは、(離れろっ!)と怒鳴ったウィルの声をアラームの中に聞いた。
(おまえは殺したくねえ。後ろにすっこんでろ)
「ディアナ様……キエルお嬢さんだって、悲しむのに……!」
頭蓋の中で脳味噌が波打ち、髄液が泡立つような不快感。なんとかそれだけの言葉を並べると、(ディアナもキエルも関係ねえ!)と返したウィルの声が、間を置かずロランの鼓膜を貫いた。
(おれは、おれの宇宙船で月に行く。月に行って、地べたを這いずり回ってる奴らを見下ろしてやるんだ)
加速する怨念が、本来の目的も、ウィル自身も呑み込んでしまったかのようだった。言い返そうにも声が出せず、攪拌された脳髄から垂れてくる鼻水をすする間に、〈フラット〉のビームライフルがピンク色の光条を吐き出していた。
狙いを定めずに放たれたビームが峡谷を走り、切り立った斜面に当たって岩盤を溶かす。大量の土砂がそこから流れ落ち、谷底にまき散らされるさまを目撃したロランは、痺《しび》れる指先にアームレイカーを握り直した。
宇宙船の発掘現場は、ここから三キロと離れていない。乱射されたビームがそこを直撃すれば、シドたち発掘隊の面々は間違いなく生き埋めにされる。取材で居座っているフランも、グエンやキースも巻き添えになる――。「ウィル・ゲイム……!」と腹の底から搾り出したロランは、その勢いでフットペダルを踏み、ボールレバーを押し出した。
スラスター・ベーンを噴かした〈ターンA〉がじりと前進し、左腕に装備したシールドが、ソニックブレードの壁をつき破って〈フラット〉の頸部を打ちすえる。Iフィールドの反発効果とソニックブレードのエネルギーが相乗し、シールドが弾け飛ぶと同時に、体勢を崩した〈フラット〉が大きく後ろによろめいた。機を逃さずにビームサーベルを抜き放ったロランは、〈フラット〉の右肩を目がけて粒子束の刃を振り下ろした。
肩の装甲が一瞬に溶解し、根元から切断された〈フラット〉の右腕が、握ったビームライフルともども地面に放り出される。切断箇所にスパークを走らせながらも、即座にミサイルを撃ってくるだろう〈フラット〉の動きを予見したロランは、返す刀でミサイルランチャーも両断した。
安全機構が働き、〈フラット〉の左マニピュレーターが自動的にランチャーを手放す。直後に内部のミサイルを誘爆させたランチャーが四散し、間近に発したオレンジ色の閃光と爆煙がモニターを埋めた。
フィルターで減殺しきれない強い光が目を射り、灼熱した無数の破片が機体に押し寄せて、大粒の雹《ひょう》がトタンに当たる乾いた音が無数に弾けさせる。思わず目を閉じ、すぐに開けたロランが次の瞬間に見たのは、黒煙をつき破って迫る〈フラット〉だった。
回避する間はなかった。〈フラット}の体当たりをまともに食らった〈ターンA〉は、背中から地面に倒れ込んでいった。すかさず馬乗りになった〈フラット〉が、残った左腕で〈ターンA〉の頭部をわしづかみにする。ロランは払いのけようとしたが、その瞬間〈フラット〉の腕部ヒートエッジ装甲が振動して、ソニックブレードの嵐が地面を抉り始めた。噴き上がる土砂の中、左腕にぐいと機体の重量をかけた〈フラット〉は、陥没する地面に〈ターンA〉をめり込ませていった。
メインカメラが潰れ、すぐにサブカメラの映像に切り換わったが、それさえもノイズだらけで正視にたえるものではなかった。再び始まった痺れの中、(おまえも同じだ! おれを、ゲイム家を嗤《わら》った奴らには、報いを受けさせてやる……!)という声がロランの鼓膜を震わせ、ウィルが正気を失いつつあることを伝えた。
「そんな……そんなこと言ってるから、戦争だっていつまでも終わらないのに……!」
(黙れっ! 戦争を大きくしてんのはおまえだ。〈ガンダム〉みたいな機械人形で勝ち続けているおまえが、言えたことかよ!)
脳を揺さぶられる苦痛の中でも、その声ははっきりと聞こえた。聞くのはこれで何度目だろうと思いつつ、ロランは「ガンダム……」と口の中にくり返した。
(そうだ、〈ターンAガンダム〉。ムーンレィスの伝説に出てくる白い死神の名前だ。世界を滅ぼした悪魔の腹に、おまえは乗ってるんだ……!)
白い死神。世界を滅ぼした悪魔。刺激的な単語の羅列は、遠のいてゆく意識の中であやふやになり、やられるのか……という漫然とした予感が代わりに訪れた。もう手足の感覚さえ定かではなく、キャノピーを隔てた向こうにある〈フラット〉の股間を見、その奥のコクビットで怨嗟《えんさ》に身を焦《こ》がすウィルを幻視したロランは、不意に現出したまったく別の光景に目を見開いた。
二本の巨大な樹が互いを支えあい、絡まりあって、はるかな天空に枝葉を広げている。大地の深奥にまで根を下ろし、すべての源であるかのように黙然とそそり立つ巨木が、目の前に現れたのだった。
どこかで見たことがある……と思い、あれはいつだったろう? と記憶をまさぐったロランは、手をのばせぱ届きそうな、それでいて彼岸にあるとも思える樹の幹に触れようと、感覚の失せた腕を持ち上げた。雲海を貫き、大気層にまでのびた枝から一枚の葉が抜け落ちたのは、その時だった。
風に弄《もてあそ》ばれ、気まぐれに空を舞い落ちてくる葉は、「A」という文字に見えた。瞼《まぶた》の裏に映るようなおぼろな光を宿し、螺旋《らせん》模様の筋を描いて、「∀」になったり、「A」になったりをくり返しながら次第に近づいてくる。同じ葉であっても、その瞬間の大きさと形は二度と再現されることはなく、ロランは、人の歴史もそのようなものだろうとなんの脈絡もなく理解した。刻々とありようを変えて風に舞う葉は、やがて「∀」の形をとって視界いっぱいに広がり、ロランはあまりのまばゆさに思わず目を閉じた。
それは、「現在」という瞬間が持つ眩しさ――誰かの声がそう告げた刹那、唐突に白日夢の時間は終わった。目を開けたロランは、コクピットのキャノピーと、その向こうで暴力的な光を発しているビームサーベルの刃を見た。
鋼鉄が溶ける衝撃に近い音がコクピットを揺らし、ロランの体を震えさせた。〈ターンA〉のビームサーベルが、〈フラット〉の股間を貫いた音。あるいはその内奥で一瞬に焼き尽くされた肉の音、骨も残さずに消失しただろうウィル・ゲイムの絶叫であったのかもしれない。頭が真っ白になり、なにが起こったのか、どうしてこうなったのかと無意味に周囲を見回したロランは、アームレイカーを握った自分の右手に目を止めて、血の気がひくのを感じた。
ひとさし指がビームサーベルの発振スイッチを押しており、離すと、〈フラット〉のコクピットを焼いた粒子束の刃が消失した。その自覚はなくても、自分の指がスイッチを押し、ウィル・ゲイムを焼いたことは否定のしようがなかった。人を殺したらしい、という実感がじわじわ指先から這い上がってきて、ロランは呆然と焼け爛《ただ》れた〈フラット〉のコクピットを見つめた。
ビームの刃は斜め前から後方に突き通ったらしく、股間を貫通した穴と、溶解してめくれ上がった装甲板が、ほんの数メートル先で白い煙を吐き出していた。もうそこにウィル・ゲイムはいない。無意識にせよ、錯乱していたにせよ、自分がウィルを殺した。ビームサーベルを発振して、爪の欠片ひとつ残さずにその肉体を蒸発させた――。
制御弁が閉じたのか、〈フラット〉の機体からIフィールドが消失し、爬虫《はちゅう》類を思わせる頭部ががっくりと垂れ下がる。ウィル同様、〈フラット〉も死んだのだろうと納得したロランは、しばらくはなにをする気にもなれず、じっとシートに身を横たえた。
すべての神経が振り切れ、飽和してしまった感じだった。仰向けになった〈ターンA〉も、その上にのしかかった〈フラット〉も、悪趣味な彫像さながら凝り固まっていた。最後の残照が静止した二つの機械人形を赤く染め、長い影をキングスレーの谷に刻んだ。
〈モビルリブ〉が馬乗りになった〈フラット〉を排除し、ロランがコクピットから這い出した時には、夜の帳《とばり》が谷間の荒野を覆っていた。大地に横たえられた〈フラット〉は人の骸《むくろ》のようで、残った片腕が、月に向かって突き出されたままであるのがロランには悲しかった。
野営地を発してきた機械人形部隊は、今は周辺の索敵に駆り出されて四方に散らばっている。〈フラット〉が単独で強襲をかけてきたとは考え難く、付近に潜伏しているはずのディアナ・カウンターを警戒してのことだったが、第二波の攻撃があるとはロランには思えなかった。
ディアナ・カウンターには、最初から〈フラット〉を援護するつもりはなかった。戦力外のモビルスーツがどうなろうと、彼らの腹は痛まない。当たるも八卦、当たらぬも八卦という程度の感覚で、ウィル・ゲイムは捨て駒にされたのだろう。
間近にソニックブレードを浴び、電装部品に不調をきたした〈ターンA〉は修理が必要で、ロランは索敵任務から外された。いずれ、飽和した神経が感情を平のばしにしている今は、なにをやっても役には立たないと承知している。ひとりの人間を殺し、いまや名実ともに戦争の一部になったわが身を他人事のように傍観しつつ、ロランは戦闘の後始末に奔走する人々をぼんやり見つめていた。
全壊した〈カプル〉に取りつき、黒焦げになったパイロットの遺体を運び出しているヤーニたち。〈ターンA〉のコクピットを覗き込み、機器のチェックを開始したホレスらムーンレィスの技師たち。そうするのが仕事と心得ている人々には奇妙な活気があり、月明かりが照らす薄闇も手伝って、ビシニティの成人式の風景をロランに思い起こさせた。あれから二ヵ月半、すっかり入れ替わった世界が周りを取り囲み、ハイム邸での日々が実感を失いかけているにもかかわらず、成人式の印象だけは明瞭に焼きついているのだった。いったい自分の頭はどうなっているのかと呆れ、ロランは荒れ地に横たわる片腕の〈フラット〉に視線を移した。
シド・ムンザがその前にぽつねんと立ち、トレードマークのヘルメットをぬいで黙祷《もくとう》している姿があった。シドがウィルをミリシャに引き入れたのは、自分自身の考えか、あるいは宇宙船を欲したグエンの指示だったのか。今さら確かめる気にもなれなかったが、互いに違う価値観で動いていながら、どこかに通底する部分を持ち合わせているのがシドとウィルだった。
口には出さなくても、孤独な老人には唯一の話せる相棒だったのかもしれない。そんなことを考え、胸にちくりと針が剌さるのを感じたロランは、痛みと向き合うのを避けるために顔を伏せた。焦げ臭さの残る〈フラット〉から離れようとして、目の前に立ち塞がった長身に止められた。
「よくやってくれた、ローラ。お陰で宇宙船を壊されずに済んだ」
いつもの朗々とした声で、グエンはそう言っていた。白い歯を覗かせた顔に頷く気にはなれず、ロランは「……ぼくは、ウィル・ゲイムさんを死なせてしまいました」と口にした。
「だが君は生き残った。我々もな」
そう考えるしかないとわかるから、肩に置かれたグエンの手が湿り気を帯びていても、ロランは振り払おうとはしなかった。黙って足を動かし、今度こそ〈フラット〉から離れようとして、「……ロラン」とかけられた声に立ち止まった。
振り向いた先に、キース・レジェがいた。両手につかんだ帽子をくしゃくしゃに丸め、顔をうつむけていたキースは、「すまない……!」と搾《しぼ》り出すや、地べたに膝をついた。どう捉えていいのかわからないまま、ロランはその姿を見下ろした。
「おれが〈フラット〉を売ったりしなければ、こんなことには……」
うなだれ、肩を震わせるキースを責める権利は、世界中の誰にもないとわかっていた。お互い、戦争の一部になった痛みを分かち合ったところで、なにがどうなるわけでもない。キースの肩に触れ、もういいよの思いを込めて軽く叩いてから、ロランは止めていた足を動かした。「ロラン……」とフランが声をかけたようだが、目を合わせれば押し留めているものが溢れそうな恐怖があったので、聞こえない振りで歩き続けた。
自分にも謝らなければならない人がいる。ようやくそう思いつくだけの正気を取り戻したロランは、地面に突き剌さった〈ターンA〉のシールドのそばに、その人の顔を見つけた。作業に動き回る人々から外れ、仰臥する〈フラット〉を見つめていたディアナ・ソレルは、視線に気づいたのか、まっすぐロランを見返してきた。
傍らに立っているソシエが口を開きかけたが、立ち入れない雰囲気を感じ取ったらしく、なにも言わずに顔を背けていった。ディアナの前に立ったロランは、その目を見続けることができずに、顔をうつむけてしまった。
「……申しわけありません。ウィル・ゲイムさんを引き止められませんでした」
言った途端、押し留めてきた感情の箍《たが》が弛《ゆる》んで、熱い脈動が胸から突き上げてきた。ぎゅっと目を閉じ、必死に体の震えを堪える間に、「ありがとう、ロラン」と言ったディアナの声が流れた。
「お陰で助かりました。私も、妹も……」
そう言い、微笑んだディアナの瞳には、しかし涙の膜が張りついているのだった。それを見た瞬間、最後の楔《くさび》が外れて、ロランはその場に膝をついていた。くずおれそうな体を両手で支え、こみ上げてくる嗚咽を堪えて、頬を伝い落ちる雫が乾いた砂地を濡らしてゆく音を聞いた。
それが義務であるかのように、ディアナは背筋をのばして〈フラット〉を見つめていた。月光がその姿を照らし、恋を失った女の背中をやさしく浮かび上がらせた。
[#改段]
それから三週間後、グエンの発案で、キングスレーの谷に埋もれていた宇宙船は〈ウィルゲム〉と命名された。星空を舞う夜鷹に因《ちな》むとされていたが、月に行きたがっていた最初の発掘者に敬意を表し、供養するための名であることは、イングレッサ・ミリシャの人間なら誰もが知っていた。
[#地から1字上げ](下巻へつづく)
[#改ページ]
底本
HARUKI NOVELS
二〇〇〇年四月八日 第一刷