不定期エスパー1[#1は□+1] 〈護衛員イシター・ロウ〉[#〈〉は《》の置換]
[#地付き]眉村 卓
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(例)[#ここから文庫化にあたって]
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文庫化にあたって
エスパーとは超能力を持つ人間のことで、そのESPは extrasesory perception (超感覚的知覚)の略である――ということは、とうにご存じと思います。
もしも超能力者が存在するかまたは将来出てくるとして、ではその超能力は生まれながらのものなのか、それともたいていの人あるいはすべての人が素質を持っていて訓練すれば能力を使えるようになるのか、となると、物語によって設定は違うわけです。
しかし、どちらにしても、超能力というものの存在が一般に認められている世の中で、超能力者とそうでない人がまじり合って暮らすという状況は、充分考えられるでしょう。むしろそれが一番ありそうなことだとは、いえないでしょうか。そしてそれがどんな社会になるかは、これまた書き手によってさまざまです。
そんな中で、超能力者の素質がありながらふだんは表に出ず、思いもかけないときに能力が出現し、しかもそれがすぐに消えるか長くつづくのか、自分にもわからずコントロールも出来ない――という人間がいたらどうでしょう。超能力者としても普通人としても中途半端で、本人は苦労するに違いありません。不定期にエスパーになる不定期エスパー、イシター・ロウがこの物語の主人公です。
この物語は「SFアドベンチャー」に連載され、トクマ・ノベルズとして新書判で刊行されました。その文庫化がこれです。
第一回ぶんを書きあげたのが一九八一年の九月で、最終回が掲載されたのは一九九〇年一月号ですから、随分長い連載でした。途中で何度もへたばりかけてはつづけたので、終わったときには自分でも信じられなかった位です。四〇〇字詰め原稿用紙で四三八〇枚というのは、ひとりの主人公で通す物語として長過ぎるかも知れません。まあ一生懸命書いたつもりですが、お読みになって退屈したりややこしくなったり、その他欠点にお気づきになったら……それはもちろんぼくが悪いのです。
さて。
本来、自分の作品についてあれこれと説明や注釈はすべきではない、とは、よくいわれることです。いいたい事柄があるなら作品の中で出せば良いので、後になって何かを付け加えるのは弁解じみて見苦しい、ということでしょう。ここまででぼくはもうそれをやってしまいました。毒を食らわば皿まで、というわけでもありませんが、このさいなのであと二、三、新書判のあとがきではしるさなかったことを書きます。
この物語を始めるにあたって、ぼくは、初めから人の上に立つ颯爽《さっそう》としたヒーローではなく、活劇などではばたばたと倒されて行くはずのその他大勢の側からの話にしたいと考えました。英雄・貴公子といったほうから見ればとかく引き立て役で終わりがちの、取るに足りない人間にも、当人なりの人生や努力や目標があるはずです。いや、大概の人が実生活ではそうなのでしょう。だからこそ手の届かないスーパーヒーローの活躍に惹《ひ》かれるわけですが、その他大勢のひとりでもやろうとすればある程度のことが出来、彼なりの人生をつかむのだ――ということにしたかったのです。まあそんな表現をしなくても、ぼく自身がイシター・ロウのように若く、イシター・ロウのような立場にあれば、こうでありたかったという、そんな話を目ざしたというほうが、わかってもらえるかも知れません。しかしながら書いているうちにイシター・ロウはどんどん独り歩きを始めましたから、こちらとしてはついて行くのに精一杯の格好になりました。ま、小説というのは主人公が最後まで作者の厳重な管理下にあるとつまらないといいますし……それでも最初の原則を守ろうと努めはしましたけれども……結果はお読みになる人の好き嫌いや判断しだいです。
このこととは別にぼくは、産業とか技術、社会のありようといったものの地域差を描いてみたいとも念じました。どこもかしこも等質の世界というのは、設定としては成立しますし、そうしたほうがいいたい問題をはっきりさせる場合もありますが、この物語ではそうではなく、お互い作用し合っている状況を出したかったわけです。十四のネイトから成るネプトーダ連邦となれば、そうなっていて当然でしょう。宇宙船が飛ぶ一方で剣技が重視されている――という世界は、一見変かも知れませんが、考えてみれば現実のぼくたちはかたちこそ違え、いろんな基盤や意識の中にあり、心底深く沈んでいるものや借り物を共存させて生きているわけで、自分ではそれほど異様とは思っていないのです。この物語の世界や人々もそれと同様、と、解釈して下さい。
ついでにいいますと、こうした設定でどうせアクションを書くのなら、組み打ちであれ剣での渡り合いであれ戦闘場面であれ(今述べたような設定のおかげで、いろいろ出すのが可能なのです)なろうことならあらゆる型を、それもなるべく同種のものを繰り返さないようにしよう、と、もくろみました。うまく行ったかどうか、ひとつひとつに迫力があるかどうかは……ぼく自身にはわかりませんが、そのつもりで拾って行って下さると面白いかも知れません。
小説を読むときの見方に、これは主人公以外の登場人物の立場になっても納得出来るかどうかというのがあります。こっちの、この人物になってみるとどうにも無理だ、といった物語もあり、また、それでもいっこうに構わないのだとする人も結構いるようです。しかしぼくは少なくともこの物語において、登場人物の誰になってみても一応首肯出来るものでありたい、そのひとりひとりを主人公にしても一編の物語になり得るように、と、心掛けたつもりです。――と、大きなことを書いたものの、今度読み返してみて、さてどうだろうなと思ったのを、白状しなければなりません。
他にも、作者としては、あれもこうしたかった、これはこうすべきであった、と、いろんな反省はありますが……熱意をもって書いたのは本当で、イシター・ロウの生き方やその奮闘に多少とも共感して頂ければ、これに過ぎる幸せはありません。
一九九二年三月
[#地から2字上げ]眉村 卓
[#改ページ]
目 次
文庫化にあたって
エレスコブ家
護衛員
[#改ページ]
主な登場人物
[#ここから改行天付き、折り返して13字下げ]
イシター・ロウ……………不定期エスパー。ファイター訓練専門学校を卒業した後、エレスコブ家へ。一般警備隊護衛部・第八隊勤務となり、エレン・エレスコブの護衛員となるが……。
イサス・オーノ……………ファイター訓練専門学校の同期生。戦闘興行団のスター。
エレン・エレスコブ………エレスコブ家当主ドーラス・エレスコブの令嬢。要人達と次々に会談するなど、その行動は精力的。
モーリス・ウシェスタ……エレスコブ家警備隊長。超能力除去手術の経験がある。
ヤスバ・ショローン………エレスコブ家の研修中に知り合った同期生。ロウと互角の力量を持つ。カイヤント勤務となる。
シェーラ……………………あるときはエレスコブ家に雇われた世話係。またあるときは、デヌイベと称する宗教集団に属す。謎の女性。
トリントス・トリント……エレスコブ家中枢ファミリー。ロウを目のかたきにする。
ヤド・パイナン……………護衛部第八隊(エレン付)隊長。
ハボニエ・イルクサ………護衛部第八隊の上級隊員。ロウの良き話し相手。
ミスナー・ケイ……………超能力を有する不思議な女性。
イスナット・ノウセン……エスパー化したロウの査問会で座長をつとめる。
ゼイダ・キリー……………ネイト=バトワの第四地上戦隊に属する小隊長。小心で官僚的。
ガリン・ガーバン…………分隊長。叩き上げの一徹者で、有能な下士官。
レイ・セキ…………………第三小隊の不定期エスパー。能力の操り方は、ロウより数段まさっている。
[#ここで字下げ終わり]
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エレスコブ家
モーリス・ウシェスタは、はじめからぼくを憎んでいたのだ。ぼくがエレスコブ家の警備隊の一員となったときから、そうだったのである。
ぼくがエレスコブ家に雇われることになったきっかけは、ファイター訓練専門学校の公開卒業戦闘であった。
ファイター訓練専門学校の公開卒業戦闘には、たくさんの人が見物にやって来る。戦闘がショーとしても面白いからだが……一部の人々は、それだけが目的ではない。ファイター訓練専門学校の学生たちは、在学中に半分以上、身のふりかたが決まってしまう。入学時に、すでにどこかの家≠ゥら送り込まれている者もあるし、訓練の途中で目をつけられてスカウトされる者もいるからだ。
ぼくは、公開卒業戦闘のときも、まだ、どこへ行くとも決まっていなかった。これは、ぼくの成績が悪かったためではない。ぼくは訓練所では首席とまでは行かなかったが、一応、いつもトップグループの中にいた。だからぼくに対する勧誘は、すくなくなかったのだ。いろんな有力な家≠ゥらの、警備隊に入らないかとの誘いや、プロのファイターとして戦闘興行のメンバーにならないかという申し出は、五つや六つではなかったのである。
それなのに、ぼくが……別に遊んでいて暮らせるほどの財産もなかったぼくが、自分の行く先を決めなかったのは、ぼく自身の奇妙な能力、生れついて持っている体質に、不安を抱いていたからであった。
ぼくは、不定期エスパーだったのだ。
不定期エスパーをご存じだろうか?
エスパーといえば、誰でも知っている。読心力や透視力、念力とか未来予知といった力を、ときにはひとつだけ、人によってはその全部を持っている連中だ。
エスパーが、今の世界で優遇されているかとなると、ぼくには何ともいえない。一面ではたしかに相応の待遇を受けているが、半面、エスパーであるがために、仕事の種類も制限され、管理されているのも事実である。これは、わがネプトーダ連邦の体制にも関係があった。ネプトーダ連邦は十四のネイト――主権体で構成されており、共和制で、個人個人の自由や権利を保障している。他の星間帝国や星域連合体などとくらべると、間違いなく民主的で、開かれた社会なのだ。が……そうした体制であるがゆえに、個人個人はおのれの権利を主張する。そんな中に置かれた、遺伝的特質によるエスパーたちは、個人の自由やプライバシーを侵しかねない厄介者なのであった。とはいえ、エスパーたちのほうにもまた、社会の成員としての権利がある。だから大半のネイトでは、エスパーが他の人々と違うおのれの能力を行使する、そのこととは原則として咎《とが》められないが、他人に迷惑を及ぼしたり、エスパーとしての能力によって知った秘密をみだりに洩らすのは、きびしく禁じられていた。また、エスパーであることによってきわめて有利になる場や、競争に加わるのも、許されなかった。それはつまり、そうしたネイトの為政者が、エスパーでない大多数の人々の意向を受けたということでもある。もしもそういう定めを作らなかったら、へたにおのれの能力を駆使したエスパーは、人々のリンチに遭ったかも知れないのだ。そして、この結果、エスパーは職業の選択上、まことに不利な位置を与えられることになった。人間どうしのコミュニケーションにもとつく高度な技術の仕事は、医師などの一部以外は駄目であった。他の人々との公平を欠くからというのである。それに、学校教育においてもハンディキャップを背負わねばならない。カンニングが効果のあるテストは、受けてはならないとなると……おおかたの学校へは行けなくなる。中にはエスパーのためだけのコースを設けたところもあるが、ごく少数であった。設備に手間がかかるし、教えかたも変えねばならない。それにエスパー以外の学生たちが、同一基準で成績をつけられるのを拒否しがちだからである。ならば、エスパーのためだけの学校があればいいではないか、となるところだけれども……そういう学校は設立の段階で、種々の圧力によって潰されたし、運良く開校にこぎつけても、そこがエスパーのための学校だと判明するや否や、しつこい嫌がらせをされ、石を投げられて、廃校となるのがおちだったのだ。
エスパーがどうしてこんな目に遭わなければならないのか、と叫ぶ人たちは、もちろんいないわけではなかった。当のエスパー以外にも、そう主張する者はあったのだ。エスパーはある意味では社会の財産であり武器である。それなのになぜか、というわけだが……かれらの声が世の中に受け入れられる可能性は、すくなくともここ十年や二十年はなさそうだった。エスパーは少数者だったが、少数者である以前に、優者だと人々に思われていたからである。かれらは優者なのだから、その優越性の上に、さらに何かをプラスする必要はない。現にエスパーたちは今のままでも、かれらなりに適当にやっているではないか――というのが、世間の考えかたであった。エスパーに限らず、優者とか恵まれた者に対しては、公平を要求しみんなと同列になることを要求するのが、いわゆる民主政治――といって悪ければ、こういう状況に来た民主制での一般的現象である。大多数は、自分たちよりぬきん出た存在を許さない。ぬきん出ようとすれば寄ってたかって足を引っ張り、引っ張っても駄目な場合には、正義の名によってハンディキャップを負わせるのだ。内心、これは良くないことだと思っていても、みなから仲間外れにされるのがこわいので、同調するのである。
これは……ある意味では、もったいない話であった。エスパーの能力を活用すれば、これまでには出来なかったような、大きな、画期的な研究や仕事が実現するかも知れない。現に、ネプトーダ連邦以外の星間帝国や星域連合体では、積極的にエスパーを登用しているとの噂であった。エスパーゆえに高位高官にのぼり、特別な待遇を受けて働く者もすくなくないという。ただ……だからといって、そうしたエスパーたちが幸福かどうかとなると、何ともいえない。エスパーを利用しているのは、おおむね独裁体制かそれに近い帝国・連合体であって、そこではエスパーは特殊能力者として、機械同様に扱われ、酷使されているというのである。(ネプトーダ連邦のマスコミはそう報じていた)人間として扱われる前に、エスパーとして利用されているだけだというのだ。それに引きくらべれば、われわれはエスパーを、ちゃんと人間として扱っている――というのが、ぼくたちの世界の一般的な声なのであった。
エスパーたちがこうした立場にあるとなれば、みずから進んでエスパーの能力を放棄する者が出て来ても、不思議ではない。脳に簡単な処置をほどこし催眠術にかけるだけで、人格や感情や記憶のいっさいを傷つけずに能力をなくせる技術が確立されて以来、多くのエスパーたちが転向した。今でも転向する者はあとを絶たない。いうまでもなく、これは個人の自由意志で手術を受けるので、決して強制されることはない。エスパーはいずれを選ぼうと勝手なので、これがネプトーダ連邦の自由であり寛容さなのだ、ということになっている。
ぼくの父は、そうした元エスパーで、母は非エスパー――普通人であった。父は技術官僚を志し、そのための上級学校へはエスパーでは行けないので、手術を受けたのだ。父の両親は普通人だったから、そうすることをむしろよろこんだらしい。話によると父の父のその母がエスパーだったそうで、父の場合、その因子がよみがえって来たのであろう。父の祖母の時代にはまだエスパーの能力徐去手術法は発明されていなかったので、彼女は一生をエスパーで終えたはずだ。はずだ、というのは、父の祖父と祖母は、離別したからである。エスパーと普通人は、熱烈に愛し合っている間はともかく、秋風が立ちはじめると逆に憎み合うようになることが多いという。その典型的な例だったのだろう。ついでにいっておくと、ぼくの父はエスパーでなくなってから母と知り合い、結婚したのだ。母はときどき父に、あなたがエスパーだったらわたしのこの気持ちもわかるでしょう、といっていたが、もちろん本心からではなかった。言葉のあやに過ぎなかったのである。
そういう家系のひとりっ子として生れたぼくは、五歳ごろまで、普通の人間と思われていた。エスパーの発現は、単純な遺伝子の優性・劣性では論じられない。エスパーたる能力を持つには、十数種類の因子が関係していて、その組み合わせの型によって決まるという。だからぼくは、当り前の子供として育って来た。
五歳になったある日、ぼくは突然、父と母の心の中を読んでいる自分を発見した。父も母もぼくに対しては、純粋な愛情を抱いていたのはさいわいであった。もっと複雑で愛憎のからみ合った家庭に育っていたら、ぼくはテレパスになったことで、自己嫌悪におちいり、人間嫌いになっていたかも知れない。それでも自分以外の人間の心がわかるというのは、こわいものである。ぼくは泣きながら母にそのことを訴えた。父と母は顔色を変え、ぼくを専門家のところへ連れて行った。
「あなたがたのお子さんは、テレパス――読心力者ですね」
と、専門家は、精神波感知機を覗《のぞ》き込み、ぼくとの問答を済ませると、いった。「読心力以外の能力があるのかどうか、それはまだはっきりしませんが……とにかく、エスパーであるのは、たしかです」
「でも……この子は……ロウは……今まで何でもなかったんですよ」
母が抗議した。
専門家は、父母の家系をたずね、それからぼくをさらに大型の感知機の前に立たせて、いろんな質問をし、反応を調べた。そのときの専門家の心中にあったものを、ぼくはいまだにはっきりと覚えている。混乱と疑惑……エスパーへのおそれと、それに重なり合ったかすかな軽蔑……。専門家は、しばらく考えてから、答えたのだ。
「この能力は、一過性のものかも知れません。おたくのような家系では、成長途上にいっとき、エスパーになる者が現われるのです。その場合、これは、一週間か二週間だけつづいて、それでおしまいです。あとは、一生、エスパーとしての能力は出て来ません。ごくまれに、例外がありますが」
「例外とは……どういうことです?」
父が訊いた。
「不定期エスパーですよ。ご存じですか?」
と、専門家。
「ああ……。聞いたことがあります」
父が頷《うなず》き、母のほうは不審げに専門家を見た。
「不定期エスパーとは、あるとき何の前ぶれもなしにエスパーの能力が現われ、それが何時間なり何日なり何カ月かなり持続したのちに、また普通人に還ってしまう人たちです」
専門家は、母に向かって説明した。「いつエスパーになり、いつ普通人になるか……それがどの位つづくのか、本人にもわかりません。おそらくそうした人々は、エスパーと普通人の境界線上にあって、体調や感情の変化、さらには自己暗示などの影響で、両者の間を行ったり来たりするのでしょう。このメカニズムはまだ解明されていませんが……そういう人たちがごく少数ではありますが存在するのは事実です」
「…………」
「この不定期エスパーは、普通人であるときに、それと検出するのは不可能です」
専門家はつづけた。「世間でいわれているように、きわめて優秀なエスパーは、普通人を装う能力を持っています。自己の力を抑制し精神波を出さないようにするのですな。しかし、これは長くは保ちません。何かあると反射的に力を使ってしまうので……ほんの五分か十分で、感知機に反応が出てしまいます。感情制御の修業をしたエスパーは、何時間も正体を現わしませんが、それでも眠ってしまうと制御は出来なくなり、エスパーであることがたちまち判明します。ところが、不定期エスパーが普通人の状態にある場合は、ただの普通人です。どんなにしても検出不能なんですよ」
そんなわけで、父母は、ぼくが一過性の発現なのか不定期エスパーか不明のまま、ぼくを連れて帰ったのだ。
ぼくのそのときの読心力は、一週間も持続しなかった。たしか、四日か五日で、ばったりと消えてしまったように記憶している。
その後長い間、ぼくにはエスパーとしての能力は現われなかった。父も母も、あれはやはり一過性のものだったのだろうと判断し、安心もして、ぼくを官僚になるための予備技術学校へ入れたのである。
予備技術学校で、ぼくはよく勉強した。教えられることは真面目に学んだけれども……ぼくの関心は、政治や社会のほうにも向いていた。これは自分がエスパーとは無縁でない立場にあり、エスパーの社会的待遇に疑念も持ったせいで、いやでもそちらの方面のことを考えてしまうようになったからである。
予備技術学校をあと少しで卒業というときに、ぼくは再び、エスパーの能力が起きあがって来たのを知った。同級生と議論をしていて、相手がぼくの成績をそねんでおり、悪意だけでののしっているのを感知したぼくは、衝動的にそいつを椅子ごとひっくり返したのだ。それも、自分の手でではなく、怒りをぶっつけた――念力によって、であった。ぼくがエスパーだった(周囲の人間にとっては、そうだったろう)ということは、あっという間に知れ渡り、ぼくは教務室に呼び出され、わざわさ運び込まれた精神波感知機の前に立たされた、ほくは自分が、そのときまではエスパーでも何でもなかったことを主張したが……立証は出来なかった。不定期エスパーかも知れないと学校当局も専門家も認めたものの、エスパーでありながらそれを隠していたのではないか、という疑惑は消えなかったのだ。たまたまその前のテストで、ぼくが抜群の成績をあげていたのも、不利に作用した。ぼくはエスパーの能力を使って不正行為をしたのだと判定され……退校処分になったのだ。
不幸な事柄は、とかく重なりやすい。
ぼくが予備技術学校を放り出された直後、父母は交通事故死した。即死だった。百キロ以上離れた場所にいたぼくは、父母の痛みと驚きを感じ取って、悲鳴をあげた。それがお別れだったのだ。即死でなければ、ぼくは父と母のぼくに対する気持ちを受けとめていたかも知れない。これは残念なことである。が、また一方、ふたりの死への苦痛を何分も何時間も共有していたなら、エスパーであることにろくに馴れていなかったぼくは、精神的に変調を来していたであろう。ただ……このとき、ぼくは、エスパーであるというのは、あきらかに普通人とは別の存在だと、悟ったのである。
両親を喪ったぼくは、自活の道を考えなければならなかった。それに、今後のことを思えば、エスパーとしてではない特技を何か身につけておくのが望ましい。ぼくは身体が丈夫で、運動神経も鈍くなかった。だから……ファイター訓練専門学校の試験を受け、合格したのだ。体力と反射神経と技がものをいうファイターには、当人がエスパーであろうと否と、ほとんど関係がない。それはたしかにエスパーなら、対戦相手がどこを狙っているか読み取ったり、念力で武器を飛ばし回収することも出来る。一見、エスパーは有利だとなりそうだが……違うのだ。いささかでもファイターの真似ごとをした人なら、よくご承知だろうが、こういう状況では、鍛えられた神経と身のこなし、それに体力のほうが、ずっと速いし、有効なのである。エスパーの能力を使って、これはこうだからこうしよう――と計算し、行動に移そうとしたときには、すでに反射的・本能的に動いた敵の電撃剣か、敵の身体そのものが、こちらにダメージを与えているのだ。それがわかっているからこそ、ファイター訓練専門学校は、普通人やエスパーの区別なしに、体力テストでパスした者を迎え入れているのだった。ぼくが入学したのは、そのためだ。そして、ファイター訓練専門学校は、ネイトに役立つ人間を育てるという(これは、いうまでもなく、番犬としてのファイターのありようを示していた)目的上、学費は無料で、給料さえ支給される。この点も、ぼくには有難かった。
入学時に、ぼくは定めに従って、自分がエスパー、それも不定期エスパーである旨を登録した。在学中、何度か普通人になったりエスパーになったりしたが、それはいつ到来し、いつ消失するか、自分でも全く見当がつかなかった。学校にはほかにもエスパーが何人かいたけれども……かれらはぼくが不定期エスパーであるのを知っており、テレパシー会話が通じたり通じなかったりするそんな中途半端な奴とは、安心してつき合えない(と、かれらは心でその気持ちをぼくに伝えたのだ)そのせいで、ぼくと格別親しくなろうとはしなかった。
ファイター訓練専門学校の学生としての毎日を送りながら、しかしぼくには、自分がエスパーであるがために進むことを許されなかった分野への未練も残っていた。だから訓練の余暇には、技術のことや政治経済、社会のありようなどについて、自分で勉強したものだ。
公開卒業戦闘で、ぼくは、同じクラスのイサス・オーノと対戦した。最終戦の三つ前の――Aランクの試合である。このランクは電撃剣でたたかうのだ。
イサス・オーノは、強敵だった。練習で何度も手合わせしたぼくは、よく知っていた。ぼくは先端が明滅する細身の剣を顔のところに挙げて待ちながら、イサスを見た。ぼくと同様、薄い保護衣をつけたイサスは、にやりと笑ってみせた。
はじめ! の合図と共に、ぼくは剣を突き出し、上段からabcdの打ちと突きを送った。むろん、これは一種の挨拶に過ぎない。イサスは型通りぼくの剣を受け流すと、今度はむこうから踏み込んで来た。bc――からだ。これがイサスの得意手のbceからc'の速攻であるのを、ぼくは知っていた。c'をかわそうとして、ぼくは反射的に相手の剣をはねあげていた。イサスは、いつものbcec'ではなく、bcebの変形を選んだのだ。そのときのぼくはエスパーではなかった。純粋に反射運動でかわしたのだ。エスパー時だったら……いや、ぼくはそうでなかったからこそ助かったのを悟った。イサスは、ぼくが不定期エスパーであるのを知っている。だからこの瞬間、ぼくがエスパーであるかもわからないと仮定し、相手がエスパーであってもいい作戦に出ているのだ。イサスはときどき、ぼくや、他の常時エスパーに対して、そうした作戦をとった。つまり……意識の中では攻撃の型を想定しながら、肉体が全く別の動きをするという攻めかたを持っていたのだ。鍛えあげたファイターにとっては、その程度のことをマスターするのは、さほどむつかしくはない。エスパー時なら、観衆を前にして多少あがっていたぼくは、ひっかかっていたであろう。
そう気がつくと、ぼくは瞬時にして落ち着き、冷静になった。小型スタンドにひしめく観衆の顔も、よく見えるようになった。
「それでは、お返しだ。イサス・オーノ」
ぼくは叫び、このときのために練りあげた打ち込みを開始した。それは六動作をワンセットにした攻めで、組み合わせを変えながら四回、連続していた。ただし、この四回を完了すると、ぼくの身体はほとんど無防備になってしまう。いってみれば勝つか負けるかの賭けである。三本勝負ではじめからそんな真似をするのは、無謀かも知れない。手の内を見られてしまったら、あとは、もっと水準の低い手しか使えず、圧倒されて、やられてしまうだろう。だが……ぼくは、勝つにしろ負けるにしろ、まず一本を取りたかった。ぼくがエスパーであり得るせいで、ひっかけようとしたイサスに、正面から攻め立てて出鼻を挫《くじ》いておいてやりたかったのだ。
剣が閃《ひらめ》き、ぼくは前進しつつ打ち込んだ。イサスはあざやかに受けて後退する。第一の六動作で、ぼくは円形の闘技場の中心まで盛り返し、第二のセットで、イサスをコーナーに追いつめた。何も考えなくても自動的に剣と身体が動くようになっていたぼくは、さらにスピードをあげて、第三の六動作――cdc'dab'のb'で、イサスの胸に剣の穂先を突き立てていた。イサスは、予期しなかったぼくの猛攻に驚きの表情を浮かべたまま、その場に膝をつき、倒れた。
人々の叫び声が、ぼくの耳に入って来た。
イサスが回復処置を受けて出て来るまでの五分間を、ぼくは闘技場下の椅子にすわって待った。群衆は興奮していた。スタンドから発色弾を投げた者もいる。
五分後、戦闘は再開された。イサスはたしかに動揺していたはずである。ぼくの速攻に虚をつかれ、今度はどうなるのか、作戦を練っていたに違いない。が……もちろん彼はファイターらしく、そんな気持ちを表情にはあらわしていなかった。無表情だった。ぼくはそのときエスパーでなかったから、イサスの心を読んでいたのではない。けれども普通人でもあったぼくは、相手の表情からその心理を見抜く――普通人であるがゆえに修得しなければならぬ洞察力をも併せ持っていた。だからわかったのだ。
第二回めは……ぼくはもう小手先の技は弄《ろう》さなかった。相手が動揺しているうちに決着をつけなければならない。ぼくはもう一度、さっきの攻めを敢行した。第一セット……第二セット……そしてcdc'dab'の第三セット――イサスはちゃんと受けた。ぼくは無心で最後の、四つめのcc'ca'b'aを、やってのけた。ぼくの剣はイサスの胴にささって電撃を与え、イサスは倒れ伏した。
あぶないたたかいであった。捨て身の攻めだったが……はた目には快勝だったろう。ぼくは勝ち……あざやかな試合をやってのけた学生が受けるメダルをもらって退場した。
そのあとの二試合が済み、大会の儀式が終了したあと、教務官がぼくを呼びに来た。ぼくに会いたいといっている客があるのだそうだ。これは、別に珍しいことではない。スカウトや勧誘は、通常こうしたかたちで行なわれる。練習試合や訓練を見た者が、本人と会って人物を見定め、気に入ったら誘いをかけるのである。が……公開卒業戦闘のあとというのは、あまり例がない。こんなことになったのも、成績上位グループの中で、まだ行く先が決まっていなかったのは、ぼくだけだったからであろう。
「会いたいというのは、エレスコブ家だ。エレスコブ家は知っているだろう? チャンスだぞ。もうそろそろこのへんで、決めてしまったらどうだ?」
教務官は、ぼくをともなって廊下を歩きながら、低い声でいった。
ぼくは、エレスコブ家の名を聞いていた。よく知っていた。ぼくたちのネイト――ネイト=カイヤツを実質的に動かしているのは、二十ないし三十の有力な家≠セが、エレスコブ家はそのうちの十指に入る名門である。だが、たとえそれがエレスコブ家であろうとも、ぼくはまだ、おのれの進路に枠をはめたくはなかったのだ。ファイター訓練専門学校の卒業生なのだから、ぼくは当然、ファイターとしての道を歩くことになるであろう。連邦軍人(これは、ファイターの資格で入る以上、出世は望むべくもなかった。連邦軍の中枢は、当然ながらネプトーダの官立のしかるべき士官学校出が占めているのである。ファイターでは古手のベテランの下士官で終るのが関の山であろう。ごく優秀なのは選抜されて特務将校になれるだろうが……エスパーではその可能性はうんと低くなる)あるいはネイト常備軍のメンバーかネイト警察官(あまり成績の良くないファイターは、たいていこのコースに入る。そんなに無茶働きをする必要もなく、そこそこに安定した生活を送れるからだ。しかし、ネイト常備軍にしろネイト警察官にしろ、それを利用し、そこの幹部におさまっているのは、ネイトの実力者、なかんずく有力な家≠フ親族・配下であった。その中で生きて行くには、たくみな遊泳術と交際の才能が前提になる)でなければ、戦闘興行団に入るか(ここで人気プロになれば、ちょっとしたものだ。数年間で一生暮らして行ける財産を作るのも、夢ではない。が……ぼくの見るところ、戦闘興行そのものが、すでに斜陽化しつつあった。形式やマナーを重んじる古典的な興行戦闘は、都市ではまだ大勢のファンを持っているものの、地方の家≠ヌうしの、警備隊どうしの相剋《そうこく》が増えている現在、あきらかに時代から遅れつつあった)それとも、有力な家≠フ警備隊員になるかである。(実は、ファイターたちが、もっとも熱烈に希望するのが、この警備隊員であった。隊員になることで有力な家≠フ、お雇いではあるがファミリーの一員と称することが出来たし、うまく行けば警備隊組織の上部メンバーに食い込めるだろう。さらに幸運に恵まれるならば、家≠フ直系ファミリーになるのも夢ではない。何の縁故も持たないファイター訓練専門学校出にとっては、いつ放り出されるかわからぬ危険性はあるものの、若い野心を満たすには、これが、ほとんど唯一のコースだったのだ。ぼくだって、ありていにいえば、魅力をおぼえていた。が……一警備隊員の間はともかく、ある程度より上のポストにつこうとすれば、まず間違いなくエスパーの能力の除去手術を受けなければならないであろう。家≠ニいうものは、それぞれ他の家≠ノ知られてはならぬ機密を有しており、それらが家≠フ力の一端にもなっているからで……そういうものに近づける立場の人間は、エスパーであってはならないからである)
要するに、ぼくは、ファイターでありながら、ファイターとしてのどの道も選ぶ気がなかったということだ。それに自分は、元来は別の方向に進むはずだった人間で、真正のファイターではない――との自意識もあって、おのれの将来を枠にはめてしまう決心がつかず……ずるずると延ばしているうちに、卒業を迎えたのであった。
教務官とぼくは、廊下の果ての、校門に遠くない位置にある、いくつかの面会所の、そのひとつに入った。ぼくたちは、この面会所を品評会場と呼んでいた。全くその通りに違いないのだ。そこは品定めをされる場所なのである。
あまり大きくないその部屋の、柵で仕切られて五十センチほど床が高くなっているむこう側には、ふたりの客がいた。ひとりは初老の、体格はいいが目の鋭い男。もうひとりはサングラスのついた紗《しゃ》のべールをかぶった若い女だ。ご大層な格好だな、と、ぼくは腹の中で笑った。男のほうは、多分ファイターをスカウトする役目の人間だろう。人品から見て、もうちょっと上かも知れない。エレスコブ家の直系ファミリーの可能性もある。女は、顔はわからないけれど、それについて来たのだろう。ファイターに興味を持ち、そばで眺めたいので、連れて行ってくれと、しかるべき知り合いにねだる女は、すくなくない。そんな女に限って、ベールをかぶったりするのだ。サングラスつきの紗のベールは、他人に顔を見られたくない人間や、あまり外出しない者――換言すれば重要人物がしばしば使用する。それを真似て、わざわざ格好をつける若い女が結構いるのだった。この女も、そのたぐいに違いない。
ふたりは、高床の椅子に並んで腰をかけていた。
低床のぼくたちは、むろん、立ったままである。
「イシター・ロウです」
教務官が、ぼくをふたりに紹介した。ぼくは黙って、頭をさげた。
「私は、エレスコブ家の人事委員をしているヒトノバリだ」
初老の男が立ちあがり、柵のむこうから手を伸ばした。ぼくは歩み寄って、その手を握った。男の背が低かったので、下からという感じは、そんなにしなかった。
女は、身動きもせずにすわっている。
人事委員か、と、ぼくは思った。ぼくの予想よりも大物だ。スカウトに来るのは、たいてい警備隊長か、せいぜい外部人事員ぐらいで……人事委員がやって来る例は、滅多にない。
「それでは」
ヒトノバリと名乗った初老の男は、教務官に声をかけた。しばらく当事者どうしにさせてくれとの合図である。
「うまく応対しろよ。無理にエレスコブ家に入れとはいわないが、何もわざわざ敵を作ることはないからな」
教務官はぼくにささやき……ヒトノバリに会釈して、部屋を出て行く。
教務官の心配は、もっともだった。ぼくはこれまでに何度か、スカウトに来た人間にいいたいことをいって、怒らせていたのだ。
「イシター・ロウ」
ヒトノバりは、柵に両手をかけて立ち、静かにたずねた。「年齢は、二十四。そうだね?」
「そうです」
ぼくは答えた。
そのとき、ぼくは相手の手首の、時計とは逆の側に、四角いガラス板をはめ込んだ計器があるのを認めていた。小型の――精巧なために誰もかれもが簡単に手に入れることは出来ない精神波感知機なのだ。そんなものを所持していることも、相手がたしかに高い地位の人間なのを裏付けている。そして、その感知機は、今は作動していないはずであった。ぼくは現在普通人だからなのだ。ヒトノバリは、そのことを確認した上で、ぼくとの対話を開始したのであろう。
ヒトノバリは、また質問した。
「ファイター訓練専門学校の新卒としては、年を食っているが……これは、はじめに進もうとした方面からの転換を余儀なくされたためだね?」
「その通りです。ぼくは――」
「いや、きみの口からいうことはない」
ヒトノバリは、ぼくをさえぎり、ポケットから紙片を取り出した。「きみのことは、学校当局から聞いている。きみはもともと、ファイターになるようなタイプではなかった。だがきみは数すくない不定期エスパーのひとりで……事実かどうか私には知る由もないが、エスパーとしての能力を用いた不正行為のかどで以前の学校を追われ、ご両親のご不幸もあって、自力で道を拓かなければならなかった。そこで、あらためてこの学校に入ったのだ。そうだね?」
「ええ、そうですよ」
ぼくは、いささかぞんざいに応じた。相手が表現に留意しているのはわかるけれども、またそろその話を持ち出されるのは、愉快ではなかった。それに、いちいち念を押されるのも、気にさわった。
「そういう経歴があるにしては――というより、そういう経歴を踏んで来た上に、きみは優秀なファイターだ」
相手は、ぼくの気分にお構いなく、つづける。「世の中には、剣技・格闘技その他すべての個人戦闘に長じた、おそるべきファイターがいる。それがファイターの目標であり理想だということになっているが……私にいわせれば、そうでないファイターも必要なのだ。ファイターの世界しか知らず、すべてをファイターの目でしか眺めようとしない者は、警備隊のベテランになれても、転用はきかない。もっと柔軟な思考と広い視野を持ったファイターがいてもいい。その点、きみに関する学校の記録は、私が求めるものとよく合致している」
「おほめにあずかりまして、お礼申し上げます」
ぼくは頭をさげ、少し皮肉な調子でいってやった。「それにしては、お誘い下さるまで、ずいぶんゆっくりしておられましたね。ぼくはもう卒業なのですが」
「検討していたのだよ」
「…………」
「私は、きみのことを検討していたのだ、イシター・ロウ」
ヒトノバリは柵から手を離し、腕をうしろに組んだ。「きみがこれまで、他の家≠ニ契約しなかったのは、きみにも相手方にも具合の悪い事情があったためだ。きみは不定期エスパーで、エスパーである以上、精神波フェンスをめぐらした内部には入ることは出来ない。いいかえれば、外部勤務の警備隊員で終る運命にある。といって、精神波フェンスを守る特殊警備隊――エスパー隊員になることも出来ない。常時エスパーではないのだからな。これでは、他の家≠フ提示する条件と、きみの自尊心とは折り合うはずがないのだ」
「…………」
その通りだった。ぼくは黙っていた。
「私が、きみをわが家≠フ役に立つと思いながら、これまでなりゆきを見ているだけだったのも、それと全く同じ事情からだ」
と、ヒトノバリ。「しかし、きみにはきみ自身の意志で、このジレンマから脱出する方法がある。つまり……エスパーの能力除去手術を受けることで、普通人になり切ってしまえばいいのだ。きみにもそれはわかっているはずだ。が、きみは今以て、不定期エスパーのままでいる。なぜかね? なぜ、普通人になろうとしないのかね?」
ぼくは、あぶなく苦笑を浮かべるところだった。
エスパー能力の除去手術?
ぼくがそのことを考えなかった、といえば、嘘になる。自分の父もそうしたのだ。ぼくも同じことをして、なぜいけない? 立場がぐっと楽になるのだ。
しかしながら、ぼくはそうしなかった。ふたつの理由から、したくなかったのだ。
ひとつは……父母の死の瞬間を、ぼくが共有出来たという記憶によるものであった。ぼくがエスパーでなかったら、あの感覚はついに知ることがなかったろう。エスパーであったからこそ、経験出来たのである。この能力を永久に放棄するのは、父母や、その他すべての自分と共にあった大切なものを放棄するような感じになるのだった。思い出のためにも、捨てたくなかったのだ。
もうひとつは……ぼくが、この能力を持ちつづけたら、いつかはきっとそのために、すばらしいことがあるに違いない――という気持ちを抱いていたからであった。世の中が変化して、エスパーのほうがずっと有利な時代が到来する、というような、具体的な期待ではない。何となく、どうなるのかはわからないが、そういう気分が消えないのである。これがエスパーとしての予知能力のせいなのか、それともただの思い込み、気休めなのか、自分でも不明であるが……それが心の中にある間は、除去手術など受けたくなかったのである。
けれども、そんなことを、この初老の男に説明して何になろう。
「お答えしかねます」
ぼくは、やや間をおいてから、相手の目をみつめて、いった。
ヒトノバリも、ぼくの目を見た。
「手術を受けるつもりはないのだね?」
「ええ」
ぼくは返事した。
ヒトノバリは頷いて身を引き、横の女に向いていった。
「お聞きの通りです。いかがなさいますか?」
なぜそんなことを訊くのだろう、それに言葉遣いもていねい過ぎるではないか、と、ぼくが思ったとき、サングラスつきの紗のベールの女は、はじめて声を出した。
「それなら、それでもいいではありませんか。わたしのほうの用は、エスパーでないときにしてくれればいいのです。勤務中にエスパー化したら、他の者と交代してもらえばいいでしょう」
綺麗《きれい》な澄んだ声で、しかもはっきりした口調であった。
ヒトノバリは、かすかに眉をひそめた。
「しかし……そううまく行くものでしょうか? これまでにそういう前例はありません。エスパー化したときに、この男は、多少はお嬢様の心を読んでしまいます」
お嬢様?
ぼくは、どきりとした。
だが……まさか……。
「わたしが、エスパーに一度も心を読まれたことがないというのですか?」
ベールの女は、含み笑いの声でいう。「その程度のことは馴れていますよ、ヒトノバリ。わたしが求めているのは、相応の礼儀と知性を持った護衛です。それが第一です。そしてこの男も、エスパーの守秘義務は当然心得ているでしょう。もしそうしなかったら、それはわたしがこの男を心服させることが出来なかったというだけです」
「…………」
「そのうちに、あるいはこの男――イシター・ロウは、手術を受けても良いとの気持ちになるかも知れません。しかるべき待遇を受けられるとなれば……決心をひるがえすかもわからないのです」
「それは……失礼ですが、自信過剰ではございませんか?」
ヒトノバリは、いんぎんに、しかし、たしなめるようにいった。
「さきのことは、わかりませんよ。わたしにも……そしてヒトノバリ、あなたにも」
女は軽く受け、手をあげて、ベールを脱いだ。
女は美しかった。
美しいといっても……よくある、瞬間にぱっと花が開いた感じの、あの派手な美しさではない。切れ長の冴《さ》えた目を持つ、いわば第一印象のあざやかさが、一拍置いて深い淵のように底知れぬ落ち着きの中へ定着する――ぼくには初めての、静かな美しさなのであった。
「わたしは、エレン・エレスコブです」
女は、おもむろに口を開いた。「エレスコブ家の娘ではありますが、今のところは何の役職にもついていない、いってみれば余計者です。余計者でも、何人かの警備隊員にガードされなければなりません。わたしは自分の護衛をしてくれる者を、自分で選ぶことにしています」
「…………」
ぼくは、何秒間か、呆然としていた。
この女は……エレスコブ家の令嬢だったのだ。サングラスつきの紗のべールをかぶっていたのも当然であった。
「お嬢様」
ヒトノバリが、少し喋り過ぎではないかといいたげに、口を出した。いいながら、彼は自分の手首の精神波感知機に視線を走らせてもいた。
「そんなに神経質になることはありませんよ、ヒトノバリ。この男が、現在エスパーでないことは、その反応でよくわかるじゃありませんか。エスパーなら、わたしが名乗る前に読み取っていますから、あんなに驚きはしません。わたしには、相手が本当にびっくりしているのか芝居しているのかぐらいは、わかるつもりです」
「…………」
そんなに表情が変化したのかと思って……ぼくは赤面した。
「ともあれ、わたしはこの男が不定期エスパーであっても構いません。わたしは気に入りました。あとは、当人の意志だけの問題です」
若い女――エレン・エレスコブは、ヒトノバリに顔を向けて、そういった。
そのとき、ぼくの心は決まっていたのだ。不定期エスパーのままでどこかの家≠フ傘下に入れるのなら、それでいいではないか。あとの昇進がそのために不利になるかも知れないとしても……どうせ、どこかで働かなければ生活して行けないのだ。このへんがしおどきかもわからなかった。いや……それではやはり嘘になる。ぼくはそれだけで心を決めたのではなかった。ぼくはたしかに、エレン・エレスコブに惹《ひ》かれていたのだ。しかもそのことを自覚してもいたのである。
三日後に、ぼくはエレスコブ家から廻されて来た車に乗った。その三日のうちに、ぼくの卒業は認定され登録され、エレスコブ家との契約も完了したのみならず、エレスコブ家内のチェック・システムにぼくの特徴を入力したのである。もっとも、チェック・システムといっても、エレスコブ家としてはほんの外郭の部分についてだけであった。警備隊員はそこまでなのである。
しかし、エレン・エレスコプと出会ったことでふくらんだぼくの気持ちは、この迎えの車の中で、早くもしぼみはじめた。迎えに来たのはヒトノバリでもなく、むろんエレン・エレスコブでもなく……年配の外部人事員であった。外部人事員はネイト=カイヤツにおいて、エレスコブ家がどれだけ重要な地歩を占めているか、ということを、えんえんと喋り、エレスコブ家はそれ自体、ひとつの政治単位といってもいいのだ、と、ぼくに訓示した。そして、警備隊員は家≠フ直系ファミリーどころか内部ファミリーでもなく、外部ファミリーに過ぎないけれども、それでもエレスコブ家のファミリーというのは得難い資格であり、家≠ノ忠誠をつくさなければならない、と、説くのであった。
「それにきみは、単なる警備隊員ではない」
と、外部人事員はいうのである。「きみはわが家≠フ警備隊で基本訓練を受けたのち、エレスコブ一族の護衛員となるのだ。身分は警備隊員だが、一族の護衛員はおえらがたの目にもとまりやすいし、昇進の機会も多いので、志望者はひきもきらない。しかし、護衛員は、護衛される当人と人事委員の意向で選抜されるために、優秀な警備隊員でもなかなかなれないのが普通なんだよ。それをきみは、好成績でファイター訓練専門学校を卒業したといっても、はじめから護衛員予定者として採用されたのだから……光栄なこどと考えなくてはならない。わかるね?」
これほどまでに外部人事員が値打ちをつけるのは、彼が長い間エレスコプ家に勤めていて、ほかの世界のことにうとくなってしまったのか……でなければ、彼が身分としては内部ファミリーの末端に位置していたからではないか、と、ぼくは思う。
ぼくがもっと素直で、純粋にファイターとしてのコースしかたどって来なかったのなら、この外部人事員の言葉も、あるいは抵抗なく聞けたかも知れない。けれども、ぼくはそうではなかったし、自分で勉強もして、もう少し広い視野から家≠見る習慣が出来ていた。
家≠ニいうのは、ある血族を中心とした一種の経営体である――とされているが、見方を変えれば、これは過去の歴史に登場する財閥であり領主であり貴族でもあるのだった。こういうものが生れて来た事情を、ぼくは多少は知っている。元は一惑星が一世界であり、そこに植民した人々が、ある世界ではひとつの、ある世界ではいくつかの政府を持っていた。宇宙航行の技術が進歩するにつれて、かれらは他の居住可能な惑星にも進出し、領土権確保のためのたたかいが相次いだ。やがてそれは、二十数個の星系にまたがる同盟や戦争に満ちた共通世界となり、十四のネイトと呼ばれる主権体が分割統治するようになったのだ。各ネイトにはそれぞれネイトのために奉仕する勢力があった。ネイトに奉仕することで利益を得る巨大企業体だ。ネイトはそれらの巨大企業体に権益を与え、それによってみずからも力をたくわえて、他のネイトに対抗した。巨大企業体は、しかし、古典的国家などよりははるかに大きく、はるかに強力であったから、それを保つためには何らかのシンボルが必要だった。一族を中心とし、その一族の名をとった家≠ェ生れ、力を競うようになったのである。
ついでにいえば、こんなネイトの集まりであるネプトーダ連邦が、分裂も崩壊もしないのはただただ、外圧のせいである。ネプトーダ圏とは別の、異質の文化圏を有する、さまざまな星間勢力が、折さえあればおのれの力を浸透させ、攻撃し、併呑《へいどん》しようとしているから(ネプトーダ連邦の各ネイトは、しじゅうそのことを説いていた)ひとつにまとまっているのである。
――と、そんな状況下の、さして強大でもないネイト=カイヤツの、これまたベストテンに入る程度のエレスコブ家に対し、ぼくがその外部人事員が求めるような絶対的な忠誠心を抱くというのは……そこまでのめり込むつもりは、ぼくにはなかったのだ。エレスコブ家がそれほどのものと考えるというのは、視野|狭窄《きょうさく》以外の何物でもないような気がするのである。
まして、警備隊となれば、なおさらのことだ。
警備隊というのは、ぼくはこれまでに何度もその単語を使って来たけれども……正式の名称ではないのである。俗にそう呼ばれ、それで定着しているだけなのだ。連邦もネイトも、正規にそんなものを公認しているのではない。法律上は、どこの警備隊にしたって、ガードマンのグループに過ぎないのだ。連邦にしろネイトにしろ、武力とは連邦軍とネイト常備軍、それに秩序維持のためのネイト警察以外にはあり得ないので……私兵というべき警備隊を認めるはずはないのであった。それにもかかわらず、この私的なガードマン・グループが、××家の警備隊といわれるのは、これ自体があきらかな暴力装置であり、必要とあれば殺人・略奪・戦闘・放火、その他何でもやってのける、れっきとした組織だからである。こうした警備隊の活動が見逃され、黙認されているのは、警備隊を擁する家≠ェネイト政府に対して発言力を有し(というより、家≠ヘネイト政府を構成する一部といったほうが早い)私的戦闘の多くが、届け出もなく闇から闇へ葬り去られて、すべては事故や正当防衛で片づけられてしまうせいであった。各家≠ノは、それらが事故や正当防衛であることを証言するための人間が、いつも大勢控えているのだ。そして、これが一番大きな理由なのだが、軍や警察の力の及ばぬ田舎や辺境では、有力な家≠フ警備隊がなければ、秩序の維持さえむつかしくなっていたのである。
その、いわば私兵になるのに、ここまでもったいをつけられるのは……外部人事員の頭が固いのだとしても、彼にそう信じさせるだけの背景と歴史があるということだ。ぼくはいささか気が重くなった。
車は途中から飛行に移り、都心からあまり遠くないエレスコブ家の屋敷に到着した。ああ、誤解のないようにいっておくが、これはネイト=カイヤツの首都カイヤツ府のエレスコブ屋敷である。エレスコブ家は、ほかにもたくさん屋敷があるし、屋敷だけでなく、多くの工業地帯や農場群を保有しているのだ。
ぼくたちの車が着陸したのは、緑に包まれた一角の、四角い大きな建物の屋上であった。広い屋上には、十機近い垂直離着陸機がいた。すべて三千メートル級の大気圏内戦闘機である。予告なしにここへ来ようとすれば、たちまちこれらの機に撃墜されたところだ、と、外部人事員はいった。
降りるとすぐ、青い制服の男女が四名現われて、ぼくを受け取り、屋内へ連れて行った。ぼくはそこで同様の青い制服を与えられ、着用した。かれらは帯剣だったが、ぼくの服には、ベルトだけで剣はなかった。
「と、すると……これがエレスコブ家の警備隊の制服なのだな?」
ぼくは、かれらに案内されて廊下を進みながらたずねた。「となれば……あなたたちはぼくの同僚なのか?」
四名の男女は答えなかった。一番年かさらしい男が、皮肉な表情になって、一言、低くいっただけであった。
「私語は禁止だ」
廊下の果てに、ドアがあった。合金製のドアだ。
年かさの男は、ポケットから電磁錠を取り出し、ドアに当てた。
「誰か?」
太い声が、上から流れる。
「イシター・ロウを連れてまいりました」
男は答える。
「よし。そいつだけを入れろ」
声がいい、男はドアを押し開けて、ぼくに中に入るように、身ぶりで示した。
ぼくは踏み込んだ。
広い部屋だった。ファイター訓練専門学校の教務官室ぐらいはあるだろう。大きな窓があり、窓のない側の壁には、ずらりと本やマイクロフィルムなどをおさめたケース、それに剣や棒、神経衝撃銃などを載せた棚があった。
しかし、ぼくは、その部屋の観察はしていられなかった。それらは、ちらりと見たばかりである。
正面のデスクにいた大男が、ゆっくりと立ちあがって来たのだった。男はぼくの前でとまると、両手を腰に当て、ぼくを上から下まで見おろして、目をこちらに向けた。ひややかな――金属を思わせる目であった。
「わしが警備隊長のモーリス・ウシェスタだ。エレン様におべっかを使って採用されたイシター・ロウというのは、お前か?」
大男は、威圧するような太い声でいった。
そのとき、とっさにぼくが考えたのは、相手がどういうつもりで、そんないいかたをしたのか――ということであった。
ぼくがエレン・エレスコブにおべっかを使ったなどとは、いいがかりもはなはだしい。ぼくは自分ではそんな気もなかったのに、望まれてエレスコブ家と契約したのだ。契約などとはおこがましい、と、例の外部人事員ならいうかも知れない。それなら、雇われたでもいい。雇われたのに相違ないのだから。しかし、そのためにぼくは何も卑屈な態度をとったわけではなかった。とる必要もない立場だったのだ。それはたしかにぼくは、エレン・エレスコプは魅力的な女だと思ったけれども、それだけの話であった。
それなのに、このモーリス・ウシェスタなる警備隊長がこんな極《き》めつけかたをするのは……あるいは、ぼくに関して、そんな噂が流れているのだろうか? そういうことがあるのかもわからない。
だが、そのような中傷めいた噂があるとしても、この警備隊長がこうした訊きかたをするのには、相応の理由がなければならない。その理由というのは……初対面のぼくを試しにかかっているとしか、思えないのであった。ここでほくがどんな反応を示し、どうでるかによって、ぼくという人間を判断し、どう扱うか決めようとしているのに違いない。ぼくはそう信じた。これまでの生活経験から、その程度の事柄はわかるつもりであった。
そして、このような場合、相手がぼくに期待している反応は、ふたつのうちのどちらかである――ということも、ぼくは知っていた。同様の状況に何度も直面していたからである。
かりにぼくが、順調にぬくぬくと育って、しかも秀才と呼ばれて平気でいる人間だったら(そんな手合いがごろごろしているのは、誰でもご存じだ。ネイト=カイヤツは開かれた民主的な社会体制といいながら……いや、逆にそれゆえに、型にはまったエリートコース、競争試験を勝ち抜いて来た有資格者というものが、何となく承認されている。そしてそんな連中が、自己の専門分野や自分たちにつながる人脈以外には、ろくに何も知らないことは、常識になっているのだ。ことに他人や周囲が何を感じているか、とか、人間というものについての深い洞察力がまるきり欠如していて、当人はそれに全く気がついていないのである)無邪気に、そして猛然と、抗議したであろう。自分はそんなことはしませんよ、と、食ってかかったところである。そんな真似をやれば、海千山千のこの警備隊長に破顔一笑されながらも、心の底で、可愛げはあるが子供だな、と、軽く見られるのがふつうなのだ。
もうひとつの反応のしかたは、自分から進んでよき下僚になりますとの意思を、態度で示すことである。世の辛苦をなめて来て、とにもかくにも相手の信頼をかち得ようとしている者は、決して正面から反対したりはしない。やわらかく訂正するだけはするが、相手がそうと認めなければ実績を以て、おのれの誠実さを証明しようとするのである。ぼくは断言するが、これは全面的降伏、心からの帰服とは限らない。むしろ、強い上昇志向を抱いている人間であればあるほど、そうしたやりかたが上手なのである。このことを知らないで表面的に物事を見ようとする者は、そうした下僚を気楽にあごで使い、やがて自分の増上慢のせいもあって、しばしば裏切られるのだ。が……ちゃんとわかっている者なら、こういう人間を使うとき、例外はあるものの必要以上に親密にはならず、上と下との位置関係というクールな状態を保つ。つまり……役目の上だけのつき合いにとどめるのだった。ぼくがそういう出かたをすれば、この警備隊長は、多分、そのような扱いをするのに違いない。
ぼくは、このどちらでもありたくはなかった。たまたま運と才能に恵まれて、それで思いあがっている青二才というのは、へどが出るほど嫌いだったし、かといって、最初から他人の風下に立ち隠忍自重をつづけてチャンスを持つには、やはり若過ぎたのだ。多少のうぬぼれもあった。
それに、大体が、こういう質問のしかたが、はなから権威をふりかざして、こちらを組み敷こうとするものである。このモーリス・ウシェスタという警備隊長は、そういう性格の男なのであろう。
――という、ぼくの思考は、だが、二分の一秒もかからなかった。ぼくにとって、幾度となく繰り返したことのあるこの種の意識は、ひとつひとつがパターンと化しており、それらを瞬間的に組み合わせるだけの話だったからである。たとえ眼前の人物がテレパスだったとしても、そう簡単にすべては読み取れなかったはずだ。
ぼくは、できるだけ静かな調子でいった。
「エレスコブ家では、おべっかを使うと採用されやすいんですか?」
「何?」
モーリス・ウシェスタは押し殺した声を出し、こちらへ半歩踏み出した。それは、次の瞬間にぼくに一発食らわせるための足場固めでもあった。そのはずだったのだ。だから、ぼくはほとんど自動的に、一メートル以上も飛びすさっていた。
ウシェスタは、手を動かさなかった。機先を制されてなぐるのをやめたのか、それともなぐりかかる気配だけを見せたのか……ぼくにはわからなかった。そのままで、もう全身の緊張をゆるめ腕をだらりとさげて、頬には嘲笑《ちょうしょう》か苦笑か、得体の知れない薄笑いがにじんでいる。
「何をびくついているのだ?」
と、ウシェスタは、太い、きわめて低い声でいった。「えらく神経質だな。ファイター訓練専門学校では、そういう用心深さも教えるのか?」
「いいえ」
ぼくはみじかく答えた。
「ほう。生れついての臆病者か?」
このウシェスタの挑発に、だがぼくは乗らなかった。いつもならかっとして、手は出さないまでも痛烈な言辞で酬《むく》いるところだが、モーリス・ウシェスタには、なぜかそうさせない無気味さがあったのだ。かといって、黙っているのは肯定と見做《みな》されるだろうから、相手の顔をみつめて、真面目にいったのである。
「昆虫でも、殺気を感じれば逃げるものです」
ウシェスタは、くるりと向きを変えて、元の席に戻った。腰を降ろすと、デスクの上で指をからみ合わせ、感情のこもらぬ声を出した。
「よかろう。そのうちに、お前の腕前はゆっくり見せてもらう。お前が基礎研修で棒を折らなければの話だが……。ここがファイター訓練専門学校と違うことが、じきにお前にもわかるだろう。では、出て行け」
「失礼します」
ぼくは頭を下げ、型の通りにまわれ右をした。かかとを打ち鳴らす音が高過ぎたかも知れない。それから歩きだした。ドアはまだ開いたままで、ぼくが外へ出ると、自動的にしまった。
四人の男女は待っていた。
先程ぼくに私語は禁止だといった年かさの男が、手を挙げてぼくを停止させ、あとの三人に、もういいというような身振りを示す。三人の男女は、軽く辞儀をして、去って行った。
そのときになって、ぼくはようやく、かれらの制服と自分のそれとの、こまかい差異を見て取る余裕が出来たのだ。この建物に到着して制服を渡されて、着るように命じられたとき、ぼくはそれが青色で、ベルトで胴を締める詰襟の上衣とズボンであることを認識し、相手は四人とも腰に細身の剣を吊っているけれども、こちらは丸腰である――ということだけを、頭に入れたのであった。というより、相手がみな帯剣でありながら、おのれが丸腰なのがいやに意識されて……その他の事柄にまでは注意が及ばなかったのである。これまではぼくは、ファイター訓練専門学校の制服を着ていた。制服族というのは他の制服にも敏感というのが常識だが、上から下までつづいたぴっちりと身体に密着するタイプのファイター訓練専門学校の制服に馴れた目には、今度の服はあまりにも違いすぎて、違和感もあり、細部の観察には至らなかったのだ。それに白状すれば、もともとぼくは服装とかファッションには鈍感なほうでもあった。
が……今見ると、かれらの服は青色は青色だが、その襟は白色なのである。白色の襟に小さな金色の星形バッジがついていた。年かさの男にはふたつ、あとの三人にはひとつ。多分、階級章なのであろう。そういえば、ぼくの服の襟は、上衣全体と同じ青色で、何のしるしもついていないのであった。
と……そんなことに気がついたときには、残った年かさの男はぼくを直視し、頷きながら告げたのだ。
「とりあえず、きみの私室に案内しよう」
男は先に立って廊下を歩きはじめ、ぼくはつづいた。
階段に来た。
階段をくだり……さらにくだって……男は、さきの階から六レベルばかり下で、また廊下へ入った。番号のついたドアが並ぶ廊下だ。その中の14としるされたドアの前に来ると、男は錠を指していった。
「自分で開けたまえ。きみの左右両手の親指に合わせてある」
指紋錠であった。指紋錠は比較的高価だが錠としての安全性は高いので、ぼくもこれまでに何度か使ったことがある。ただ、ふたつ以上の指紋に反応する型は、はじめてだった。おそらくこれは、訓練とか事故で片方の親指を負傷しても、もう一方の指で開けるためなのであろう。ぼくは錠の上蓋《うわぶた》をずらし、右手の親指を押しつけた。それだけではドアは開かない。あとは手動なのである。ぼくは錠の上のノブを握って廻し、ドアを押しあけた。
「入るがいい」
と、男。
ぼくは踏み込んだ。
小さな部屋であった。何段かの棚と収納庫、引き出し式のベッドを備えた、能率本位の個室である。壁にスクリーンがはめられ、その下にはスピーカーや送受話器、スイッチや調節ダイヤルが、ひとまとめになっていた。デスクと椅子もある。デスクのわきの床に、先に送り出したぼくの荷物が、荷造りのままて積みあげられている。正面の窓は二重ガラスで、間に組み込んだブラインドから、午後ももうだいぶおそくなった陽が射し込んでいるのであった。
「すわれ」
男は椅子を指さし、自分は壁からベッドを引きおろして、腰をかけた。
「自己紹介をしておこう」
男はいいだした。「私はレクター・カントニオ。本部警備隊の二級士官で、新人研修を担当している。さっきいた三人は、あれも新人研修にあたる士官補だ。――が、まあ、今はそれだけにしておこう。それ以上のことや、隊の仕組みなどについては、あすから教わるんだからな」
「…………」
「これから当分の間、ここがきみの個室になる。気に入るかどうか知らんが、いやでもここで暮らしてもらわねばならない。はじめから個室を与えられるのは、恵まれているんだからな」
レクター・カントニオはつづける。「きみはきょう一杯荷物の整理をし、休養をとればよろしい。あすの早朝、呼び出しがある。それから研修だ。生活上のこまごまとしたことは、あとで世話係の職員が来るから、その者に聞くこと。――以上、わかったね?」
「はい」
ぼくは答えた。
「これで、所定の通告は終りだ」
レクター・カントニオは、心持ち姿勢を崩した。「ところで、ここは個室だし、個室内では私語も自由だから、個人的に少々忠告しておきたい。ま、きみが聞きたくないというのなら、話は別だが……」
「何でしょうか。伺います」
ぼくはいった。
レクター・カントニオは頷いた。
「そうか。では話そう。きみは最初から、一族の護衛員の候補として採用された。こういうケースは毎年あるわけではない。それだけに、きみに対する風当りは強いだろう。外部から来た、ことに学校を出たばかりのきみには不可解かも知れないが、エレスコブ家に限らず有力な家においてはどこでも、身分意識ははげしいものだ。そうした中では、優遇されている者は、そうでない者の嫉視《しっし》反感の的になる。たとえ耳に届かなくても、きみは自分が、どうしてあんな奴がはばをきかせているのか、と思われていると覚悟しなければならん。そんな反感を打ち消すにはただひとつ、自分に与えられる待遇にふさわしい、あるいはそれ以上の実力を示すしかない。たかが警備隊ときみは考えるかもわからないが、たかが警備隊だから、よけいにそうなのだ。だから……きみはファイター訓練専門学校を優秀な成績で卒業したという以上の努力をし、実力をつけることだ。わかるか?」
「わかります」
ぼくは返事をした。
当然そうであろう、と、ぼくは思っていたのだ。このレクター・カントニオは、ぼくが一族の護衛員候補として採用されたことで、有頂天になっているのではあるまいか、と、危惧しているらしい。ぼくに関してはその心配は無用というものであった。ぼくはそれほどいい気分でいたのではない。誤解のないようにいっておくけれども、だからといってぼくは、自分が選ばれて人の上に立つのが当然だとか、こんな仕事は自分には役不足で大したことではないのだ、という思いあがった心境にあったのでもなかった。ぼくは……むしろ、おのれより上になった者に対して嫉妬しやすい性格であり、それゆえに、たまたま自分が恵まれた境遇になれば、どんな目で見られやすいか、よく承知していたのである。そして、そうしたいわれのない(とは必ずしも断言出来ないだろうが)非難・反撥をかわす道は、レクター・カントニオのいう通り、自分が今の立場にふさわしい力の持ち主であることを証明するしかないと信じてもいたのだ。ただ、ついでに告白してしまうと、そういう風に努力してうまく行ったときに、ぼくはしばしばあぶない状態におちいる傾向がある。自分で気がつかぬうちに、天狗《てんぐ》になってしまうのだ。そんなとき、何かの拍子でわれに返って反省する場合もあるが、たいていは友人や他人に冷や水をぶっかけられて、元に戻るのであった。そう考えて来ると……ぼくが注意しなければならないのは、ここの警備隊員になろうとする時期ではなくて、(うまく行ったらだけれども)なり切ったと信じた瞬間であろう。
だから、相手のこの忠告≠ヘ、それはそれで良かったのだ。
が。
レクター・カントニオは、そのあとで、予想もしなかったことをいったのである。
「それともうひとつ」
と、レクター・カントニオは、ぼくを直視した。「警告しておくと、警備隊長のモーリス・ウシェスタは、エレスコブ家警備隊三千人の頂点に立ち、全警備隊員の人事に干渉する権力を持っている。警備隊員のうち内部ファミリーなのは、警備隊長ただひとりだといえば、理解できるだろう。さっき、きみはモーリス・ウシェスタに対して、かなり反撥的な言動を示したようだが、ああいう真似は慎んだほうがいい。それでなくても、きみは、モーリス・ウシェスタには目障《めざわ》りな人間なんだからな」
「と、いいますと?」
聞き捨てならない言葉だったから、ぼくは反問した。
「モーリス・ウシェスタは、エスパーが嫌いなのだ。常時エスパーであろうと、不定期エスパーであろうと」
レクター・カントニオはいった。「なぜそうなのか、私は知らない。モーリス・ウシェスタは元エスパーで能力の除去手術を受けたから、能力を残している人間を憎むのだともいうし、ずっと若いころにエスパーにひどい目に遭わされたからだともいう。いずれにせよ、彼はエスパーを憎んでいるのだ。わがエレスコブ家には、他家と同様、エスパーのみから成る特殊警備隊はあるが、ウシェスタはかれらに対してさえ、勤務中はともかく、それ以外のときに自分の面前でエスパーとしての能力を見せられるのを忌み嫌っているほどなんだな。しかるにきみは不定期ではあるがエスパーなのだ。これが理由の第一」
「…………」
「第二は、彼が警備隊員として、きっすいの叩き上げだということだ」
と、カントニオ。「彼は三十歳前に辺境の――植民都市にあるエレスコブの事業所隊員として雇われ、紛争や実践を経て今の地位にまで来た。体力そのものは落ちただろうが、今でも戦闘能力は抜群で、しかも判断力にも指揮にも長じている。そんなウシェスタにとって、学校を出てファイターを自認している連中は、鼻持ちならないのだ。きみはファイター訓練専門学校の出身で、優等生でもあった。格好な標的だといわざるを得ない」
「…………」
「それから第三の理由は――」
「まだあるのですか?」
ぼくは、思わず叫ぶような声を出した。
「まだあるのだ」
カントニオは、皮肉っぽい目つきになった。「モーリス・ウシェスタは、エレスコブ家に忠実だ。もちろんこれは、エレスコブ家の人間ならそうあるべきだろうが……ウシェスタの場合、それがほとんど生きているための信念のようになっていて……エレスコブの一族、ことに当主のドーラス・エレスコブには絶対的な忠誠を誓っている。また、そうでなければ現在のような信任は得られないともいえるけれども……。ともあれ、それだけに、要領や小手先でエレスコブ家の上部にとり入り、一族に近づこうとする人々には、本能的に警戒し、敵意を抱くのだろう。従って、彼が信頼し推挙したケースは別として、一族の護衛員になろうとする者は、ウシェスタの目にはみな、虚栄か野心に満ちた成りあがり志向としか映らないようだ。きみは護衛員候補として採用された。きみ自身の気持ちはそうではないとしても、彼にはうさん臭く思えるのだな。――これが第三の、そして最後の理由だ」
「…………」
ぼくは、ちょっとの間、黙っていた。それから顔をあげていった。
「ぼくにはどういうつもりもありませんでした。ぼくの罪ではありません」
「むろんそうだ」
カントニオは応じた。「第三の理由についてのみならず、第一、第二に関しても、きみ自身には何の非もない。きみはきみとして存在しているのだからな。しかし、モーリス・ウシェスタはそうではない。きみはそういう対象であり……現在のエレスコブ家の警備隊長は彼なのだ」
「…………」
「そんなわけだから、きみは楽ではないし、努力も人一倍しなければならないだろう」
レクター・カントニオは背筋を伸ばし、立ちあがった。「だが、きみはこれを試練と見倣すこともできる。試練を突破し切り抜けたとき、成果は、ありきたりの道をたどった場合よりずっと大きいだろう。それでは……しっかりやるんだな」
起立したぼくに軽く片手を持ちあげて見せると、カントニオは部屋を出て行った。
ぼくはドアを閉じて内側から鍵を掛け、ベッドを壁にしまい込んだあと、すぐに荷物の整理にとりかかる気にもなれず、また椅子にすわって、しばらく考え込んでいた。
レクター・カントニオがいったことは、なかなか消えなかった。それどころか、だんだん重くなる感じであった。
自分が置かれた境遇について、ぼくはこれは運が悪かったのだろうか、と考えた。そうとしか思えないのである。カントニオのはじめの忠告は、それはまあ仕方のないことであった。人間は、あたらしい状況下に置かれれば、どんなにしても人的関係の悩みが生じるものだ。複雑で特殊な条件を全部外したところで、やはり、他人に羨望《せんぼう》され反感を持たれるか、自分が他人をそうするか……ときにはその両方を経験するものなのである。これまでにもそういうことは何回もあった。今度は他の隊員たちにやっかみの目で見られかねない立場らしいが……何、そのうちにはそれだけでなく、上部の人々に対してぼくが羨望し憎むようになるかも知れない。いずれにしてもこういうしがらみは、避けることのできないもので……努力もし、自分の頭を冷やしもして、何とかやり抜いて行くしかないのであった。しかし……カントニオの、あとでいったモーリス・ウシェスタの件は……たしかに不運である。よりにもよって、ぼくのような人間を敵視する、そんな警備隊長のいる家に入り、その当人の下で働くことになったのだ。しかも、最初の顔合わせであんな言動をしてしまったのだと思うと……憂鬱にならざるを得なかった。
これから、はたしてうまくやって行けるのだろうか?
カントニオのいった通り、つらい毎日になるのに違いない。
しかし。
だからといって、ぼくは、このままエレスコブ家を辞めてさっさと逃げ出すというつもりにはなれなかった。逃げ出してファイター訓練専門学校に戻り、泣きつけば、別の仕事を世話してくれるかもわからないが……簡単にエレスコブ家から退去できるかどうか不明だし、学校側も迷惑するであろう。それをあえてやって、かりに学校にもどこにも相手にされなくなっても生活して行ける自信はあった。あったけれども……これはやはり負けたことになり逃亡したことになるのだ。自分がそんなに弱いとは認めたくなかった。
いいではないか。
頑張るだけ頑張ってみようではないか。
だが……。
と、また気が弱くなりかけたとき……ぼくの神経は鋭敏になっていたのだろう。外から不意に聞えて来た物音に、ぎくりとして、ドアのほうを見たのだ。
ノックの音であった。
「はい!」
腰をあげ、ドアの前まで行って、ぼくはそのすぐ横に、応対のためのインタホンがあるのを認め、ボタンを押した。
「何ですか?」
「世話係の者です」
返って来たのは、女の声だった。「イシター・ロウさんですね? 入居されたと聞いて伺いました。ドアを開けて下さい」
ぼくは鍵を外し、ドアを開けた。
「失礼します」
入って来たのは、ぼくと同じ年頃に見える女であった。手に小型のノートのようなものを持っている。目が大きく、きらきらしていて、どちらかというと可愛いタイプに属するが……どうもそれだけではないようであった。ぼくには未知の何かを持っているような……どこか異国風の感じのする女である。黒い制服がよく似合っていた。
「イシター・ロウさんですね?」
女は確認し、ぼくは頷いた。
「そうです」
「はじめまして。わたし、シェーラといいます。この階の世話係をしています」
いってから、女はちょっと肩をすくめて見せた。「でも、わたしひとりでこの階を担当しているのではありません。この七階には四人の世話係がいます。わたしは新参だから、一番下っ端です」
「そうですか。よろしくお願いします」
「世話係の人間に、そんなていねいないいかたをなさること、ありませんわ」
シェーラと名乗った女は笑った。「わたしたちは、警備隊の方々のお世話をするのが仕事ですから……気楽に用事をいいつけて下さい」
「…………」
「さて、と」
シェーラは、ぼくの部屋の中を見廻し、ノートにチェックしはじめた。きびきびとした態度で、一分も経たないうちに済んだようである。
「一応、備品は全部そろっていますね。ほかに必要なものはありませんか? 規則で許されている範囲内で持ってまいりますが」
「いや……今のところは、別にないです」
ぼくは答えた。ここへ来たばかりで、何が足らないかなどといわれても、わからないのである。
「そうですか? もし、あとで気がついたらおっしゃって下さい。でも、ま、たいていの方は、趣味的なものは別として、ここにある設備で充分なようです。個室としては、まあまあですものね」
シェーラはいう。
「そうですね」
ぼくは同意した。
たしかに、その通りである。若くて独身の、これから研修を受けようという警備隊員などにとっては、ここの設備は部屋こそ小さいものの、ちゃんとしたものであった。文句をいう筋合いはない。
だが……と、そう思う心の隅で、ぼくがちらりと皮肉な気分になっていたのも事実であった。これは、警備隊員のような、いわば下部機構の人間にとってはそうだ――というだけの話なのだ。ネプトーダ連邦なりネイト=カイヤツが保持する科学技術水準を考えると、もっともっと便利でぜいたくな道具があってもいいのである。残念なことにそうしたトップクラスの文明の利器は、連邦単位・ネイト単位で主として利用され、その利便を享受できるのは、一部の上層階級の入たちに限られているのであった。だからこれは、庶民として許されるぜいたくの範疇《はんちゅう》に属している。
けれども……本当のところ、そんなえらそうなことは、ぼくにはいえないのであった。これまでのぼくの生活は、ことに両親が亡くなってからは、ずいぶんときびしいものだったのだ。とぼしいとされるファイター訓練専門学校での毎日が、もっとも楽だったのである。それにくらべると、ここはれっきとした個室なのだ。それに……あのレクター・カントニオによれば、はじめから個室を与えられるのは、恵まれているのだという。いい気になってはいけないのである。
「どうか、しました?」
シェーラが、小首を傾けて、訊いた。
「いや」
ぼくは、気をとり直した。
「では、説明いたします」
シェーラは喋りだした。トイレは部屋を出て廊下左側の突き当たりにあること、食堂と浴場は一階で、どちらも時間制限があること、いつ、呼び出しや連絡があるかわからないので、部屋を出るさいには棚に置いてある小型の通話器を手首にはめて行くこと、衣類は必要に応じて支給されるが、規定枚数を超えると、そのぶんは給料から差し引かれること、その他、用があれば送受話器で世話係の階センターの内線番号でいうこと――などを要領良く話した。会話をしているうちに、だいぶぼくの気持ちはほぐれて来たようだ。おしまいにシェーラは、あすのことをいった。
「わたしが来る前に、研修担当の士官の方からお話があったと思いますが、研修は明朝からはじまります。呼び出しは、そこのスクリーンとスピーカーで行なわれます。ふつうは午前八時ですが、それよりも早い場合もあれば、遅いときもあります。早いめに用意をして、待機しているほうがいいと思います」
「わかった。そうするよ」
ぼくは応じた。
シェーラは、いささか意外そうな面持ちになった。
「ずいぶん素直なんですね」
「どうして?」
「ほとんどの方は、うるさいことをいうな、と、おっしゃるんです」
「それなら、なぜいったんだ?」
「いうのがきまりですから」
「なるほど」
「これで、おしまいです」
シェーラは、ぼくを見た。「何か、おたずねになりたいことがありますか?」
「当面は――」
ないといいかけて、ぼくは、私事ではあるが、この女のことについて訊いてみようとの気になった。さっきから気づいていたのだが、このシェーラという女の言葉には、軽いなまりがある。カイヤツ府に生れてカイヤツ府に育ったぼくだからわかる程度の、ごくかすかなものだが……。ぼくはたずねた。「きみは……よその土地から来たのかい?」
「わかります?」
シェーラは、虚をつかれたような表情になった。
「まあね。ぼくはカイヤツ府の生れ育ちなんで」
「そうですか」
シェーラの顔には、もう、微笑が浮かんでいた。「そうなんです。わたし……カイヤントから来ました」
「へえ。カイヤントね」
ぼくは驚いた。予期していたよりは遠かった。ネイト=カイヤツは、ふたつの星系を版図にしている。恒星カイナと恒星チェンドリンだ。カイナの第一惑星は灼熱世界で居住不能だが、第二惑星がネイト=カイヤツの中心であり、このカイヤツ府のあるカイヤツ。第三惑星のカイヤントには植民都市が十数個あり、第四惑星は軍が使用している。第五惑星には自動観測機器類しかない。カイナから五・二光年離れたチェンドリン星系は、比較的近年にネイト=カイヤツが統治権を獲得したというものの、居住可能なのは第三惑星と第四惑星だけで、それも、第三惑星のほうはときどき反乱がおきているし、第四惑星に至っては、現在のところ環境を改造して新世界化しようとしている最中なのだから、まだ完全にネイト=カイヤツ化されてはいない異郷なのである。――と、ぼくは知識の上では知っているが、自分自身はカイツヤ府からあまり遠くのほうへ行ったこともなく、まして星間航行など、したこともなかった。そんなぼくから見れば、お隣りの惑星であるとはいえ、カイヤントは遠い、未知の世界だったのである。そうか。このシェーラという女は、カイヤントから来たのか。それで、出会った瞬間に異国風の印象を受けたのに違いない、と、ぼくは納得した。
「ここの言葉を努力してマスターしたつもりだったんですけど……まだ、そうではなかったんですね」
シェーラはいう。
「そんなことはないよ。近頃はカイヤツ府も、よそから来た人のほうがずっと多いし……ぼくだからわかったんで……気にすることはないさ」
ぼくは、なぐさめにかかった。
「なら、そういうことにしておきましょう」
シェーラは、また肩をすくめ、それから挑戦的な、それでいて悪戯《いたずら》っぽい顔になると、いった。「ところで、イシター・ロウさん、不定期エスパーなんですって?」
「もう、そんなに知られているのか?」
ぼくは、少しばかりうんざりしながら答えた。
「それは、ひと通りのことは、世話係には知らされますから」
シェーラは、そこで、真面目な口調になった。「エスパーなら、これまで……いえ、これからも、いろいろと厄介でしょう?」
「それは、もうレクター・カントニオから聞いたよ」
「レクター・カントニオ二級士官から? それじゃ、あの方は、あなたに好意を抱いたんですわ。だから、前以て注意なさったんでしょう」
「そうだといいがね」
「能力除去手術をなさるお考えはないの?」
「同情はいらないよ」
「そうですね。もちろん、そうでしょう」
シェーラは、奇妙な目つきで、ぼくを眺めた。「それで耐えて行くおつもりなら……それでいいんです。どうか……ご自分を大切にして下さい。では、ほかにないようでしたら、わたしはこれで失礼します」
「どうも、いろいろ有難う」
「いいえ」
シェーラがにっこりして去って行ったあと、ぼくは、だいぶ心があかるくなったのをおぼえていた。ここへ来てやっと、個人的な会話をかわしたという感じで……荷物の整理にとりかかったのであった。
予告通り、基礎研修は翌日の早朝からはじまった。呼び出しがあったのは午前七時である。シェーラがいったのよりは一時間早かった。そのときにはぼくはとうに起き、一階の食堂へ行って(もちろん、通話器を手首にはめるのは忘れなかった)食事を済ませていたのだ。食事は可もなく不可もなく、おそらく栄養本位に作られたと思われる内容であった。食堂はかなり大きな部屋で、ぼく以外にもやはり青色の、襟も青く階級章もつけていない若者たちが、それぞれ離れて黙々と食べていた。全部で十七、八人もいただろうか。そのうち六人か七人は女性なのだ。ぼくが食べ終って席を立つときにも、まだあとからふたり三人とやって来て、食事をはじめていた。七階の自分の部屋に戻ったぼくは、呼び出しにそなえて体調を整え、いつでも出られるようにしていた。正七時にスクリーンがあかるくなり、同時にスピーカーがマーチを鳴らしはじめた。聞いたことのない曲であるが、メロディは単純で、ぼくはすぐに覚えてしまった。(あとで教えられたのだが、それはエレスコブ家警備隊のマーチのひとつだそうである)スクリーンには例のレクター・カントニオの顔が浮かびあがり、マーチがフェイド・アウトすると、口を開いて、直ちに玄関前の広場に集合するように、と、告げた。無表情だが有無をいわせぬ調子である。送受話器をとりあげて確認する余裕もなく、ぼくはそのまま廊下へ飛び出した。これもあとでわかったことだけれども、この命令はぼくに対してだけでなく、同時に多くの人間に発せられたもので、問い合わせなどしても、すぐに先方が受けてくれるかどうか、怪しいものなのである。
玄関前の広場には、ぼくを含めて二十名ほどの男女が、走って来て集まった。基礎研修なるものを受けるのがぼくひとりではなく、ほかにもたくさんいるらしい――ということは、食堂にぼくの同類がいたことや、レクター・カントニオの集合という言葉からも察していたので、意外ではなかった。広場にはカントニオのほかに、きのう会った三人の男女も待っていて、ぼくたちに、横一列に並ぶように命じた。整列しているうちにも、ばらばらと五、六人が駈けつけて来たから、全部で二十五、六人ということになる。昨日カントニオが士官補だといった女性がぼくたちの名前をひとりずつ呼び、ぼくたちは返事をした。返事の声が小さかったり、たるんだものであったりすると、別の、男の士官補がどなりつけた。ぼくはファイター訓練専門学校でこういう風に並ばされたり点呼を受けたりするのに馴れていたから、何ということもなかったけれども……他の連中のうちには、かなり戸惑《とまど》っている者もいたようである。
点呼が終ると、カントニオがぼくたちの前に立って、訓示をした。
「きみたちは、エレスコブ家警備隊の警備隊員として採用された。その意味ではすでにエレスコブ家の外部ファミリーである。しかし、外部ファミリーではあっても、まだ警備隊員としては一人前ではない。現在のところは階級的には、ただの補助隊員だ。よって、上級者として、私はただ今からきみたちを、お前たちと呼び、お前たちに上官に対する敬意と敬礼を要求する。敬礼!」
ぼくたちは、いっせいに手を挙げて敬礼した。残念ながら、その敬礼はまちまちであった。ぼくはファイター訓練専門学校で習った挙手の礼をしたけれども、大半は、手を高くさしあげたり、前方へ突き出したり――中には頭をさげたり、全く何もしない者もいた。男の士官補がわめき、敬礼の見本を示した。エレスコブ家の敬礼はこうである、と、いうのだ。その敬礼は、ぼくがやったのとも少し違っていた。肱《ひじ》を前へ出して、指先を目尻に当てるのである。ぼくが聞いたところでは、挙手の礼というのは帽子をかぶっている場合に行なわれ、無帽のときは頭をさげるという組織が多いのだそうである。が、ファイター訓練専門学校では、無帽でも(大体、制服に帽子がないのだ)礼は挙手の礼だし、それはこのエレスコブ家の警備隊でもそのようであった。男の士官補はぼくたちの敬礼スタイルをいちいち直し、正式のものにさせた。それから改めてカントニオが号令をかけると、今度は全部そろった。
「よろしい。直れ」
カントニオはいい、訓示を再開した。「お前たちは採用のさい、一応、どこに配属されるか決められておる。だが、それはあくまでも予定だ。基礎研修をパスしない者は、パスするまで補助隊員のままであり、予定された職務にはつけない。それどころか、採用取り消しだ。また、たとえパスしたところで、能力や適性が予定された職務にふさわしくないと認定されれば、ことなる仕事にまわされることもある。そのつもりで頑張るんだ。本日はまず、体力づくりのトレーニングから開始する。全員右向け、右! 前方へ向かって走れ! 広場を三十周するんだ!」
それが、はじまりであった。
その午前のうちにぼくたちは、広場を三十周したばかりでなく(これは手はじめだったのだ)エレスコブ家のカイヤツ府屋敷の中をぐるぐると走りまわされた。屋敷の敷地は広くて、大きな建物やビルがあり、森や池もあったが、その中の道を、四人の士官と士官補に従って、あっちこっちと走ったのである。ぼくには自分がどこをどう走っているのかわからず、まして、屋敷がどういう配置になっているのかもつかめなかった。ただ走るだけなのだ。それでもひとりも落伍者が出なかったのは、研修を担当する人々が、どのくらいまでやればいいのか心得ていたためであり、こちらも一応採用されるだけあって、基礎体力が出来ていたからであろう。
昼食後、休憩のあと、今度は行進の練習であった。号令のままに前進、まわれ右前へ進め、右へ……左へ……と、隊伍を組んで動くのである。こういうことも警備隊には必要なのであろう。ぼくはこれまでに何回となく、いろんな家の警備隊が行進するのを見たことがあった。そんなとき、連邦軍やネイト常備軍、でなくてもネイト警察などにくらべて、人数もすくなく武器も貧弱なだけに(家の警備隊にはそうした高性能の武器は使用を許されていないのである)いかにもお手軽だなと感じ、ガードマンならガードマンに徹したらいいのに、と思ったりもしたのだが……自分がその練習をやっていると考えると、やはり妙な気分であった。しかも、これが結構面倒で、うるさいのである。ファイター訓練専門学校の、どちらかといえば個人プレーに馴れていたぼくは、みんなと調子を合わせ隊伍を乱さないようにするのが精一杯であった。だから身体よりも精神的に疲れてしまったのも当然である。
黄昏《たそがれ》がひろがり出したころ、初日の研修は終った。あと、いつ呼び出しがあるかも知れないから、そのつもりでいるように――と、カントニオはいったが、ともあれ解散は解散である。ぼくたちは食堂で一緒に食事をし、それから入浴した。何人かずつで入るのである。ぼくが浴槽に身を浸すと、横にいた筋骨のたくましい男が、声をかけて来た。
「どうだ? 疲れたか?」
「…………」
ぼくは、その男を見た。行進のときに幾度も隣りになり、こちらがもたもたしていたために迷惑をかけかけた相手である。トレーニング中はよく観察するゆとりがなかったが、こうしてゆっくり見ると、ぼくより三つか四つは上であろう。眉の太い、男っぽい奴であった。
「きょうは迷惑をかけて悪かったな」
ぼくはいった。
「いいんだよ。俺はああいうことは何年もやって来たからな」
男は答えた。「俺はよその家で警備隊員をやっていて、あんな行進はしょっちゅうやらされていたんだ。このエレスコブ家で三つめだよ」
「へえ」
ぼくは相手をみつめた。
新人にしては年を食っているのも道理である。そういう、あちこちの家を渡り歩く警備隊員がいることを、ぼくは学校での世間話で耳にしていた。忠誠を要求する家をいくつも渡り歩くのは、家では決してよろこばない。家にとって、一生をそのファミリーでいるのを求めたいからである。が……そうなるには、本人にもそれなりの理由があるのだろう。なぜそうなったのかをたずねるのは、失敬かも知れなかったが……ぼくは、やはりいわずにはいられなかった。
「どうしてまた……?」
「運が悪かったのさ」
と、男は応じた。「はじめの家では警備隊長と試合をして、禁じ手で大けがをさせてしまったし、次は次で中枢ファミリーの女の子と親しくなったんで、放り出されたってわけだ」
「――そうか」
いいながら、ぼくは、何となくひやりとした。エレスコブ家の警備隊長のモーリス・ウシェスタについてのカントニオの言を思い出したからであり、学校で出会ったエレン・エレスコブの顔を思い浮かべたからであった。うっかりすると、自分もそんなことに……いや、そんな真似はしてはならない。決してしてはならないのだ。
「行進はへただが、貴公、いい身体をしているじゃないか」
男はまたいった。「これまで何をしていたんだ?」
「学校にいたよ」
「学校?」
「ファイター訓練専門学校」
ぼくが返事をしたとたん、周囲の二、三人が、こっちを見た。
「そいつが、そうらしいぜ」
ひとりが、鼻を鳴らした。
「学校出で優等生だから、個室をもらっている、護衛員候補だってよ」
別の男もいった。「ヤスバ、そんな奴にかまうな」
「…………」
男は、ぼくを鋭い目でみつめた。それからゆっくりと声を出した。「そうか。貴公がな……。いや、そのうちにお手合わせしてもらうとしよう。ファイター訓練専門学校の優等生がどのくらいのお手並みか、一度打ち合ってみたいと思っていたんだ」
いうと、ヤスバと呼ばれた男は、ざあっと湯をしたたらせながら、立ちあがった。他の連中も、それにつづいて浴槽を出て行った。
研修というのは、むろん、体力トレーニングだけではなかった。カントニオたちは新人の基礎研修のためにちゃんと日程を組んでおり、ぼくたちは、それに従って鍛えられるようになっていたのである。体力のトレーニングはむしろ新人たちの肉体的能力が衰えないようにするためであり、忍耐力をつけるためであり、それ以上に、まだ外出を許されない新人たちのエネルギーを発散させるためのものであるようであった。研修の主体は、やはり戦闘訓練と、それから講習にあったのである。
戦闘訓練は、ファイター訓練専門学校のときと違い、これから実際にたたかい、場合によっては殺し合いさえしなければならないだけに、ありとあらゆる科目が課せられていた。素手での組み合い、なぐり合い、棒や剣をとっての打ち合い(剣も、鋼の真剣や電撃剣を問わず、いくつもの型の剣技を教えられ、稽古をしなければならない)、それに銃だ。ピストル、自動小銃、レーザーガン、神経衝撃銃――と、ひと通りのものについて、使いかたを学び、実射で点数をつけられるのである。が……家の警備隊という性格上、前にもいったように現代的な高性能の武器は、万一のときのために使用法を学び練習するので……もっとも多いのは、やはり、素手での格闘と、殺傷の心配のないようにした剣での打ち合いであった。そして、これはぼくには、お手のものだったのである。エレスコブ家にあらたに採用になった連中というのは、採用されるぐらいだから、いずれも腕に覚えがあったのであろうけれども……大半が我流であった。本筋を基本から学んだ者は、多くなかったのだ。中にはファイター訓練専門学校の旧卒組もいたけれども、学校ではそれほど勉強しなかったのか、あるいは卒業後ろくに練習しなかったのかで、腕前は現役の学生よりも下であった。れっきとした家であるエレスコブ家の警備隊の新入りが、どうしてこんなことになるのか、ぼくはいささか不思議な気がしたのだが……考えてみると、無理もないのである。エレスコブ家はネイト=カイヤツの第八番めか九番めに位置する家であり、一、二を争うきわめて有力な家では、エレスコブ家の五倍ないし八倍の警備隊を擁している。ごく優秀なファイターや、自力でファイター級の力を身につけた者は、上位の家に吸収されてしまうだろうし、また、ファイターを欲しているのは家々だけではないのだ。ネイト=カイヤツ常備軍や警察、それに戦闘興行団が人材を求めているし、ネプトーダ連邦軍に引っ張られるのもいるだろう。そうすると……どうしてもこういうことになってしまうのかも知れなかった。
ぼくは、だから、そうした実技訓練になると、いつも好成績をおさめた。が……別格とまでは行かなかった。我流であれ、本筋の衰えたのであれ、他の連中はそれなりに強く、思わぬ奇手でぼくをおびやかしたのだ。中でもあの眉の濃いたくましい男――ヤスバには手こずったのだ。フルネームはヤスバ・ショローンだが、我流は我流でも、おそるべき技術を持っていた。考えられないような技を見せるのだ。ためにぼくは、格闘でも打ち合いでも、しばしば苦杯を喫した。勝負の結果はほぼ互角というところかも知れない。当然ながらこうした稽古で、ヤスバは禁じ手など使わず、正規の攻めと受けをするのである。実際に戦闘を行なうことのあるはずの家での稽古に禁じ手があるのはおかしいと考える人もいるだろうが、これは練習で使うと危険だから禁じているのだ。もしもヤスバが禁じ手をフルに使えば、ぼくはひとたまりもなかったろう。あの初日の入浴のとき、彼が警備隊長を禁じ手で大けがをさせたというのは、事実に違いない、と、ぼくは思った。
講習は、これはもっぱら連邦やネイト=カイヤツの現況、エレスコブ家の機構や警備隊の仕組みについてなどである。実のところ研修担当者たちは、こちらの講習については、それほどの効果は期待していないようであった。警備隊員にとって、そうした机の上の勉強は、大して意味がないということだろう。事実、新人たちも、一部を除いては講習のときには、あまり真剣になっていないみたいで、居眠りしている者もいた。担当者たちは、しかし、これを咎めようともしないのだ。だが、ぼくにとって、それらの講習の内容は、結構面白かった。中にはとうに知っていたこともあるが……それをこうして教えられるのは、一種の復習でもあったのである。
ぼくが、単に復習といわず、一種の、と制限をつけたのには、それなりのわけがある。
ここの講師たち(カントニオたち研修担当者のほかにいろんな人たちが話しに来た)は、きわめて即物的で実際的な見方をしており、それをそのまま喋るのであった。職掌柄、それだけの知識を持っているのであろうが、連邦やネイト=カイヤツの現況などについては、世間一般の学校やマスコミのように、連邦の意義やネイト=カイヤツの美風を強調したりせず、マイナス面は率直にマイナスと指摘したのである。
今更いうまでもないことだけれども、わがネプトーダ連邦は、十四のネイトで構成されている。二十数個の星系にまたがる版図を有し、各ネイトの特徴を保ちつつ、結束して外圧に対処して来た。
――と、ぼくたちは教えられていたし、そのこと自体には何の間違いもなかった。だが、ここの講師たちの意見によれば、連邦の弱点は正に、その連合体たるところにある、ということになるのだ。なぜなら各ネイトは、ネイト自体の利害にもとついて、互いに駆け引きを行ない、権謀術数をめぐらしているのであり、いつ分裂するか知れたものではない、というわけである。そんな状況だからネイトによっては、連邦の外敵ともそこそこに通じ、交渉し取り引きしているものもあるとのことであった。ひょっとするとそんな場合もあり得るかも知れない、とぼくは想像したこともあったものの、こうはっきりといわれると、いささかショックだったのは、事実である。
しかもその外敵なるものが、巷間《こうかん》伝えられているような単純な図式では、とても捉《とら》え切れない様相を呈しているらしい。ぼくは、ネプトーダ連邦の正面の脅威は、巨大なウス帝国とその手先のボートリュート共和国だと学んでいた。連邦はこの二者と何年もの間小ぜり合いを繰り返し、枢要な箇所で勝利をおさめることによって、版図を維持し独立を保っている。その他の方面には、ロジザクセン同盟とかケイナン教邦、さらに数個の勢力が、あるにはあるが、これらとはあるいは同盟を結び、あるいは外交折衝によって衝突を回避し、戦線が二方面にわたらぬようにしている、というのだ。これだって、基本的にはその通りなのである。その通りだけれども、連邦が現在ぶつかっているのはボートリュート共和国軍に過ぎず、背後のウス帝国はまだ直接行動は起こしていない。いったん動きだしたら、わがネプトーダ連邦は(さすがに、潰滅するとまでは講師たちもいわなかったが)おそるべき苦戦を強いられると聞けば、感じはまるで変って来る。さらに、ロジザクセン同盟とかケイナン教邦というもののどちらもが、ネプトーダ連邦とはおよそ異質の理念を奉じる、連邦以上の勢力であり、当面連邦と戦火を交えていないのも、共通の脅威であるウス帝国を意識してのことであって、ひとつ事態が変れば、いつウス帝国と手を組んでネプトーダ連邦の背後をつくか知れたものではない、と指摘されると……真剣に考えれば充分にあり得ることだけに、いかにも危ういという気がして来るのであった。
もちろん、こうした連邦のありようや安全性の問題について、一般に誰も論じなかったとは、ぼくはいわない。そうした言論が弾圧されているとも思わない。これまでも今も、それは世の中に存在するのだ。が……それらは、さまざまな多くの議論のひとつであり、反論だってすくなくないために、多数のうちの一説として扱われ、みなが本気で考えていないだけである。そして連邦を運営している連中も、今のところは、危機を訴えて非常時の態勢に持って行くのと、外敵のおそろしさを知らせ過ぎてパニックになるのとをはかりにかけ、このままでほうっているのか、でなければ無理をしないで徐々に体制を移行させようとしているのかもわからない。そのへんになると、ぼくなどには何とも測りかねるのであった。
講師たちのそうした調子は、ネイト=カイヤツについて語るときにも変らなかった。曰《いわ》く――ネイト=カイヤツは、ネプトーダ連邦の中堅であり、ネイト=ダンコールやネイト=ダンラン、ネイト=バトワといった上位ネイトの暴走を抑制し牽制し、下位ネイト群とはうまく調和しつつある、典型的なネプトーダ・ネイトであるとされているが、いいかえればこれは、ネイト=カイヤツが七位か八位のありふれたネイトであり、大ネイトの圧力に悩み、群小ネイトと手を組まざるを得ないということなのだ……。また、ネイト=カイヤツの版図が将来性ゆたかだということや、その文化が中庸を行くおだやかで開明的なものだという点も、裏を返せば、近年統治権を獲得したチェンドリン星系が、まだ完全にカイヤツ化されていないか、未開発の世界であることにほかならず、カイヤツ文化が先進ネイトの後を追って何とか格好をつけようとしながらも、前近代的な面を濃厚に残しているのを意味しているのである……端的にいえばネイト=カイヤツは、大ネイトと何とか肩を並べようと努力している中進ネイトなので、それゆえにネイトとしての体面や体裁をつくろうことが先行し、ネイト中心の社会体制となっている。従って、上層と下層の落差は大きく、生産性も低い。文化的であろうとするために社会は開かれたかたちをとっているが、本質的にはそういうことなのだ。この状況、この段階では、有力組織が力を合わせてネイト=カイヤツを運営するのが、もっとも効率的で現実的であり、その有力組織とは、つまりエレスコブ家を含む二十四ないし三十の家なのである……。
講師たちの説くこういうネイト=カイヤツのとらえかたは、家の有用性の部分は別として、実はぼくは何度か読んだり聞いたりしたことがある。少しニュアンスはことなるが、それは、連邦統一主義者たちの論調と酷似していたのだ。ネイトなどというものは一日も早く解消し、ネプトーダは単一の主権体にならなければいけない――というのが、連邦統一主義である。それに、反ネイト主義者たちも、同じようないいかたをしていた。こちらはネイトの存在や主権を認めず、連邦すら不必要であって、人間は各自自由に権力に拘束されずに生きなければならぬと主張する一派である。この両者がめざすものは全く別であろうが、共に現実を否定している点だけは変らなかった。
それと同じようなことを、ここの講師たちがいうのは、一見、奇妙なようである。ここの講師たちは、当然ながら、現実尊重論者であった。が……考えてみれば、現状を冷静に分析しマイナス面をとり出して来る以上、そこに共通点が生じるのは、不思議でも何でもないかも知れない。
そして、講師たちが連邦やネイト=カイヤツに関して、なぜそんな喋りかたをしたのかという理由が(それはもちろん、かれらはそうした見方をとり、必要外の修飾をほどこさずに説明しただけのことであったろうが)やがて何となくわかるような気がして来た。講習内容が家々やエレスコブ家と移るにつれて、微妙なトーンの違いが生じて来たからである。
今もいったように、講師たちは、ネイト=カイヤツにおいては有力な家が主導的な役割を果たしていることを述べた。数字を挙げてである。かつ、家といっても、一、二位を争うサクガイ家とかマジェ家などと、ようやく独立経済単位の体を成している弱小の家々との間には、規模にしろ力にしろ人材にしろ、大きな差があることも、説明した。その中でエレスコブ家が、ベストテンに入るとはいいながら、決してまだネイト=カイヤツの主流にはなっていない事実も、歯に衣着せずに話した。本来エレスコブ家は長い歴史を持つものの、ネイト=カイヤツ本拠のカイナ星系ではせいぜい並び大名クラスだったのだ。それが当主のドーラス・エレスコブの代になってから、近年版図に入ったチェンドリン星系の第三惑星チェヤントとの貿易で着実に利益をあげるようになり、さらに第四惑星チェイノスの新世界化計画工事に食い込んで次の飛躍を図っているところだという。従ってネイト=カイヤツ政府には、しばしば閣僚や高官を送り出してはいるが(いっておくけれども、当主のドーラス・エレスコブ自身はネイト政府の閣僚なり高官なりにはなったことがない。これは大なり小なりどの家にもある傾向なので、政府へ出向するのは、各家の一族の中枢ファミリーが、家の意向を受け家に有利になるように働くというかたちが多いのだ。そのことで当人の修業にもなるし、ときには家にいては志を得ない立場なので、政府の一員となることによって、自己の運を切り拓こうとするケースもある。要するに、当主が家自体をなおざりにすると足元が危うくなるので、出向者をリモー卜・コントロールせざるを得ないのだ。なるほど上位の三つ四つの家では、伝統的にそうなっていることもあって、当主が大統領になることがすくなくないけれども、これは実質的には当主を引退したようなもので、その家にはちゃんと、実力のある当主後継者がいて、家を切り廻すのがつねであった)現在のエレスコブ家は、どちらかというと反主流派の新興勢力なのである。
そのエレスコブ家だが、この体系は、他の家とそんなに違っていない。当主を中心とした中枢ファミリーは、当主のスタッフ、ネイト出向者、家の運営や各部門を監察する検正員と、それらを含めて構成される中心的実行機関である政府立案執行会議のメンバーとで成り立っている。ほかに当面は役目のない一族や準一族が、予備人員として控えているが……これも(実際はそんな呼びかたをするほどの存在ではないけれども)中枢ファミリーのうちに入る。これが、つまりエレスコブ家の核だ。
その下に、商業貿易や対外や内務・人事や保安、交通運輸、研究、工業生産、農業生産、ネイト出向団などの、各部門の主要メンバーがおり、中枢ファミリーと合わせて、内部ファミリーと称せられる。警備隊長は、だから保安部門の主要メンバーのひとりとして、内部ファミリーの一員なのだ。外部人事員というのも、これは対外部門のちゃんとしたメンバーゆえに、内部ファミリーなのである。
その外にあるのが、現実に実務にあたっている外部ファミリーだ、警備隊員もそのひとつというわけであった。
これらが、エレスコブ家のファミリーであるけれども、ファミリー以外にも、短期契約や一時契約の人々が、多数働いている。ファミリーの人間から見ると、それらは非ファミリーになるのであった。
長くなった。
ともあれ、こうした、家々どうしの関係や、エレスコブ家の構成について、講師たちは何ひとつ飾り立てないで語った。あるいは、飾り立てていないような喋りかたをした。
しかし……客観的に数字まで挙げて説明しているにもかかわらず……いや、それだからこそ、もっとも確かでもっとも頼りになるのは家なのだ、との結論あるいは認識を迫られる感じになるのだった。連邦よりもネイト=カイヤツ、ネイト=カイヤツよりもそれを支える家々。家の中でも現実におのれが一員になっているエレスコブ家を守り、もり立てて行くのが、いちばん手っとり早いし、それが正しいとの気を持たせるのである。講師たちみずからは何も求めたり意見を述べたりしないけれども、データを重ねて聞かされることで、そういう心理になって行くのであった。
つまりは、それが狙いだったのであろう。エレスコブ家に対する忠誠心を形成するように、プログラムが組まれていたのであろう。他の新人たちがどう感じたかは、何も耳にしなかったので知る由もないが、ぼくはそう思った。思いながら、別に口にすべき事柄でもないので、他の連中と同様、何もいわなかった。ぼくの印象では、そんなふうに勘ぐった者は、あまりいなかったような気がする。こうした講習には退屈していた人間のほうが多いかもわからない。
しかし。
今のような話にはそれほど熱心ではなかった連中も、ことが自分たちに直接かかわりのある警備隊についてとなると、とたんに態度を改め、結構、身を入れて聴いていたようである。
エレスコブ家の警備隊は、ざっと三千人。これだけでは一家の警備隊として少な過ぎると考える人もあるかもわからないが……ネイト=カイヤツには正規の警察が存在し、それなりに機能していることを忘れてはいけない。それに場合によっては連邦軍が出動して来ることもあるのだから、まず、このくらいが妥当なのではないだろうか。一時的に警備隊を増強しなければならないような状況下では、短期契約の傭兵《ようへい》とか他家からの引き抜きもあり得るというし……大体が、警備隊などというような部門は、それ自体生産性を有しているのではない癖に、維持費は高くつくので、常備人員も必要最小限度に抑えられる傾向がある。
その警備隊は、警備隊長のもと、一般警備隊と特殊警備隊があった。いずれもカイヤツ府エレスコブ屋敷の本部によって統括されているが……一般警備隊は勤務地により本部部隊と各種事業所部隊にわかれる。本部部隊は主としてカイヤツ府内での警備に従事し、各種事業所部隊はエレスコブ家の事業所のあるところ、必要に応じてどこにでも置かれ、移動もしょっちゅうなのだ。つまり極端な場合には惑星カイヤツのあるカイナ星系にとどまらず、もうひとつのチェンドリン星系に赴くことだってあるのだった。この本部部隊と各種事業所部隊は建前としては同格であり、配置換えによる交流も行なわれないわけではないが、やはり隊員たちは都会であり生活にも便利で、その上大きな紛争のないカイヤツ府(カイヤツ府内では警察が、充分に力をふるい、私的戦闘がないよう、目を光らせているからだ)での勤務を望む者が多いのであった。警備隊本部やその上の保安委員会では、こうした事情をふまえて、各種事業所部隊にはある程度の権限を委譲して行動しやすいようにし、隊員への手当てや昇進・叙勲も比較的有利になるように配慮しているという。こうした一般警備隊に対し特殊警備隊というのは、全員がエスパーから成る別働隊であり、その運用や配置については、警備隊のメンバーの中でも、隊長をはじめごく一部の者しか知らなかった。それに特殊警備隊のエスパーたちは、自分たちだけで固く結束し、一般警備隊の連中とは私的なつき合いを避けているのである。
ぼくが(うまくそうなれるかどうかはまだ何ともいえないけれども)なることを予定されている護衛員というのは、右のうちの一般警備隊に属する。ただし仕事は重要な一族・上級者の護衛だから、勤務地は一定していない。守らなければならない人間に随《したが》って、いかなる場所へでも行くのである。この任務は守る対象の性格や癖をよく知っていないと果たせないので、原則として特定の個人に専属することになるが……それだけに、当人と護衛(ひとりのときもあり、何人ものときもあるという。その本人の重要度によるのだ)の結びつきは強く、ために、それが認められる立場の人間は、護衛を(エレン・エレスコブのように)自分で選ぶこともある――というしだいであった。
こうしたエレスコブ家警備隊の階級制度は、だが、案外大まかで、すっきりしたものである。もっともそれはぼくの感じであって、他の者にとっては、小うるさい仕組みなのかも知れない。要するに警備隊長というのは隊長であり、警備隊員とは別格である。隊員は士官と平隊員にわかれるが、士官も一級士官と二級士官、それに士官補の三階級しかない。士官補というのを士官に含めるのはおかしいといえるし、やっていることもおおかたは下士官としての仕事であるが……士官と称することに定められているのだ。これらの士官≠ヘ、青色の例の制服の、その白色の襟に星形のバッジをつける。一級士官は三つ、二級士官がふたつ、士官補はひとつだ。そして、常時柄の白い剣を腰に吊っている。
平隊員(いいかえれば兵卒だ)のほうは、正式には正規隊員と呼ばれる。上級、中級、初級の三階級があって、青色の制服に襟も青色。その襟にやはり、上級隊員が三つ、中級隊員がふたつ、初級隊員がひとつの、星形のバッジをつけるのだ。平隊員は勤務についているとき、または特に必要と認められたときに限って、青柄の剣を吊ることになっている。剣を吊っているからといって、いつでも剣を使えというわけではない。これは士官にも共通していえることだが、つまり警備隊員としての身分の象徴なのであって、戦闘となればその戦闘にふさわしい武器を携行・使用するのだ。戦闘のさまたげになる場合は剣を外しても差し支えないし、万一紛失しても、小言は食うがあたらしいものを支給してもらえるのだということであった。
こう述べて来ると、この士官・平隊員に該当しない存在があることに気がついたはずである。そう。ぼくたちは青襟に星形バッジもなく、剣も持たされていない。これが平隊員のまだ下の補助隊員のスタイルなのだ。補助隊員はもともと非ファミリーの傭兵のことを指すので、戦闘時には制服・武器を貸与されるのである。ぼくたちは、一応採用されて身分的には外部ファミリーの末端につらなったのだが、研修をパスするまでは階級は補助隊員に過ぎず、補助隊員の姿をさせられているのだ。このあたりは大まかな階級制度だといっても、家のファミリーにかかわる問題であり、警備隊が戦闘を目的とした組織だけに、なかなかうるさいのであった。
ついでにいっておくと、ぼくたちと同じように星形バッジをつけていない者も、ほかにいる。白い襟だけの士官研修生というのがそれだ。平隊員から選ばれ、でなければ何かの手柄で昇進して士官になるさいに、士官としての教育を受けるのだけれども、その期間中は研修生となって、命令系統の外に置かれるのであった。かれらはしかし、士官と平隊員の中間的存在だから、剣の柄は青色だそうであった。(そうである、というのは、ぼくはその時点ではまだ士官研修生を見ていなかったからだ)
それと、警備隊には警備隊のための職員がいる。たとえばあの世話係のシェーラがそうだ。が、この職員たちは、厳密には警備隊員ではないし、その数にも入らない。かれらの多くは短期契約の非ファミリーであり、それを監督する立場の人間は外部ファミリーのメンバーではあっても、警備隊へ出向して来ているかたちなので、数に加えるいわれがないのである。この職員たちは、端的にいうと、警備隊の雑務を処理する、いわゆる外郭団体の人々なのであった。
それから――。
いや、やめておこう。きりがない。
ともあれ、こうした講習のあと、ときたまではあるが、習った事柄を覚えているかどうかのペーパーテストが行なわれた。そのテスト結果は別段発表もされず、本人にも教えられなかった。単に研修担当者たちが参考のために見るだけなのだろう。ぼく自身にしても、自分がどのくらいの成績だったのか、知る由もなかった。
そういうしだいだったから、ぼくにとって講習は面白かったというものの、そちらはあくまでも従であり、精力はやはり戦闘訓練にそそぐことになった。
また、そうしなければならない、と、考えもしたのだ。
というのも……ぼくはただでさえファイター訓練専門学校の優等生であり、護衛員候補だということで、みなからは別扱いにされている。別扱いというと聞えはいいが、要するにのけものにされているのだ。これで講習に重点を置き、実技がおろそかになったりしては、いよいよ疎外されるに決まっているのである。
さいわい、ぼくは、前にもいった通り、実技訓練では好成績をおさめ、好成績を維持していた。たいていの科目でたいていの仲間よりも優っていたのだ。ただ、例のヤスバ・ショローンだけは、そうは行かなかった。ヤスバと何とか肩を並べるのが精一杯で、ヤスバをしのぐことは、どうしても出来ないのである。そんな状態のままで、ぼくは毎日を頑張るしかなかった。ぼくとしては、たとえ自分がそういう立場でも、やはり同期生としてみんなの仲間になりたかったし、仲間になろうとすれば、黙って今の状況に耐え、根気良く努力するほかはない。ぼくは自分の経験から、お互い心にわだかまりのあるときでも、一緒に汗を流し、共に苦しむことをつづければ、そのうちにどこかで通じ合えるときが来るのを知っていたし、それを信じてもいた。これがデスクワークならなかなかそうは行かないが、全員が一単位としてへとへとになるまで体力を使い果たす――ということが重なれば、いつかは連帯感が生じて来るものなのである。それはもちろん目的としてではなく、結果としてそうなるのだ。だからぼくは、あてにはせず、自分なりに全力をあげて努めた。
ぼくたちの実技訓練は、日を追うにつれてむつかしく高度なものになって行った。ときどきはカントニオや他の士官補の指導のもとで、演習まがいのこともした。実技テストをされることもあった。
初めのうちはカントニオたちとぼくらだけで行なわれていた訓練は、そのうちにもっと広い、正規隊員たちもいる場所ででもなされるようになった。非番の正規隊員たちは、ぼくらの訓練ぶりを、腕組みしたり、二、三人で何かささやき合ったりしながら見物するのだ。ときには士官も見にやって来るようになった。
それだけではない。
あるとき、ふと気がつくと、モーリス・ウシェスタが来ていたのだ。ウシェスタは警備隊の士官の制服姿だった。(その白襟に星がいくつあったのか、ぼくは見ている余裕はなかった。ちょうどひとりと打ち合いが終って、次の相手と向かい合う直前の、その瞬間だったからである)
それからウシェスタは、しばしばぼくたちの訓練ぶりを眺めに来るようになった。二級士官のカントニオがあわてて敬礼するのを手で制して、黙ってぼくたちのやることを見ているだけである。はじめの間はウシェスタに気を取られ、むやみに緊張したりあがったりしたぼくたち(ぼくだってそうだった。ウシェスタを意識するなという方が無理であろう)は、そんなことをするだけ自分の注意力がおろそかにあり、失点を重ねる結果になるのを悟って、何も考えずふだんのままに行動することを覚えた。
もっとも、ウシェスタはただの傍観者ではなかったようである。ときにはウシェスタはカントニオを呼んで、何か指示を与えているらしいこともあった。どういう指示だったのか、ぼくにはむろん何もわからないが……ウシェスタが来ているとき、ぼくがカントニオなり士官補なりに声をかけられて、ヤスバと組まされるケースが多くなったことはたしかであった。あるいはウシェスタは、ヤスバとぼくとの組み合わせに興味があるのかも知れない、と、ぼくは思ったりした。
そして。
こういうぼくの、へたにみんなのご機嫌とりをするわけでもなく、さりとて弧高を保とうとするわけでもない、いわば自然流の行きかたと、(ファイター訓練専門学校ででも同じだったのだが)得物が何であろうと相手が誰であろうと気を抜かずに全力をあげるやり方は、少しずつではあるけれども、みんなの気持ちをやわらげはじめているようであった。それはあるいはぼくの自分だけの印象であり、希望的観測に過ぎないのかもわからなかったが……話しかければそこそこに相手になってもらえるようになり、先方から声をかけてくれるケースも、まれではなくなって来たのである。正直なところ、そこにはまだ厚い壁がある感じだったものの、少しずつ事態は良くなりつつあるようであった。
そんなある日。
そのときのぼくたちは、本部建物の裏の射撃場のひとつで、レーザー実射の練習をしていた。起きあがって来る薄鋼板の人形の胸板を狙って、レーザービームをパルスで発射するのである。自由練習なので、ぼくは次々と起きあがってくる人形相手に、何度もパルスを噴出していた。
レーザー射撃というのは、はたで見るほど簡単ではない。銃はそれほど重くないし、連続射出しつつ狙いを合わせればそのうちに目標に命中するだろうが……経済性を考えると、そんな連続射出は許されないし(だからパルスになっているのである)敵を想定する以上、出来るだけ速く照準を定めて的確に撃たねばならないのだ。
ぼくは一パルスか二パルスで、たいてい的を撃ち抜くことが出来た。だが、狙いをつけるのがいつも遅いのだ。省エネルギーで正確にとなると、どうしてもそうなってしまうのである。これはぼくの悩んでいたことであった。
横のボックスには、ヤスバがいた。ヤスバは早射ちで狙いもたしかである。けれども彼はいつもエネルギーを消費し過ぎるのであった。どんなに注意されても七パルスか八パルスを使ってしまう。ヤスバはこれは実戦で否応なく身につけてしまったので、たたかいともなれば、敵を完全にやっつける必要があり、それだけ噴出しないと不安だということらしかった。たしかにその通りだろうが……連邦軍が採用している大型のレーザー銃ならともかく、われわれが携行を許されている護身用のレーザーでは、多人数を相手にしたとき、それではたちまちエネルギーが尽きてしまうのだ。
これで何回めか……ぼくがまた銃を構えようとした瞬間である。
「おい、お前たち、場所をあけろ!」
うしろから、声がした。
振り返ると、ぼくと同年配の見知らぬ男が立っていた。警備隊の制服ではない。ふつうの街着で……しかし、かなり金のかかった服装であった。のみならずその広い襟には、エレスコブ家をかたどった小さなバッジがついている。エレスコブ家内部ファミリーのバッジだ。地位が高くなればなるほど、かえってそんなものはつけないのだが、これ見よがしにつけているのは、内部ファミリーとしてはあたらしいか、でなかったら、内部ファミリーであることがうれしくて仕方がないのだろう。
「どうしてですか?」
相手の横暴な態度にかちんと来たぼくは、それでもていねいに反問した。
「こちらは今、練習中ですが」
ヤスバもいった。
「トリントス・トリント様が練習をなさる」
その青年は、顔をうしろに廻しながらいうのだ。
視線をむこうへ移すと……レクター・カントニオの横に、ひとりの士官が立っていた。レクターよりはだいぶ若い……といってぼくよりは三つ四つ上の……ちょうどヤスバぐらいの年の士官である。その士官が軽くカントニオに頷きかけると、カントニオは敬礼をし、手で、こちらのほうを示した。
「早く場所をあけんか! トリントス・トリント様の邪魔をするつもりか?」
ぼくたちの前に立った内部ファミリーのメンバーらしい青年は、いらいらした口調でいうのである。
近づいて来るその士官は……三つ星であった。つまり一級士官だ。カントニオより上だ。それはいいが、一級士官といえど外部ファミリーのはずである。内部ファミリーらしいこの青年が、なぜ、様づけをするのだろう? 疑いながら……しかし、ぼくとヤスバはボックスから出た。その士官が練習をするのなら、ひとつだけあければいいようなものだが……ふたつともあけうというのだから、仕方がない。
ぼくたちの敬礼に答礼らしい答礼もせず、その士官は、ぼくがいたボックスに入った。生意気な青年のほうは、ヤスバのいた場所を占領した。
士官は(そのときにぼくは気づいたのだが、その一級士官は、右腰にホルスターをつけていた。そんなものは出動時か特別な場合にしかつけないものなのだ)何秒間か、むこうの薄鋼板の標的をみつめていたが、腰を少し落とすと、やにわにホルスターから銃を引きぬいた。レーザーではなく、ピストルである。ピストルを出したと思うと、その手を伸ばして撃った。一発……二発……三発……。弾は薄鋼板の人形の胸に命中した。人形は衝撃を受けると横に倒れ、次のが起きあがって来る仕掛けだから、最初の着弾と同時に動きだしたのだが……士官はその動きに合わせて、すべて人形の胸板に当てたのである。
ぱちぱちぱち、と、手を叩く音がした。ぼくたちに場所をあけさせたあの青年が拍手したのだ。
士官はいつの間にかピストルをホルスターにしまい、次の人形を待っていた。次が定位置にとまった瞬間、またもや右手を動かしてピストルを抜き、一発、二発、三発と発射した。今度も弾丸は命中した。士官はそのピストルを指にひっかけて、一、二度廻してから、ホルスターにおさめた。
青年が、また拍手した。
ぼくとヤスバは、ボックスを出たその位置で、この情景を眺めていたのである。ぼくたちだけでなく、他の新人たちも、あっけにとられて見ていたのだ。
士官はそこでくるりときびすを返し、ボックスを離れた。
レクター・カントニオが、こっちへやって来た。
「今の、見たかね?」
と、青年は、カントニオにいい、カントニオは軽く頭をさげた。ぼくの気のせいか知れないが、カントニオの頬には苦笑が浮かんでいたようである。
「練習の邪魔になったかな。いや……どうもありがとう」
士官は、カントニオにいった。ぼくが予期していたよりは高い細い声であった。それから例の青年を従えて、射撃場から去って行ったのだ。
そんなかれらを、ぼくが感心して見送っていたと思う人は、いるまい。射撃練習を中断させられた上、見世物じみた早射ちを見せつけられたのだ。それに、どんな武器を使うにせよ、ああいう小手先の芸は(六発全部が命中したのはみごとだし、おそるべき腕には違いなかったが)ファイター訓練専門学校でも、ここでも、歓迎されないのである。実戦向きではないからだ。
顔を戻したぼくの目が、ヤスバのそれと合った。
「曲芸だな」
と、ぼくはいった。「極低反動型の銃だからいいが、ふつうのピストルだったら手から飛んで行ってしまうぞ」
ヤスバは、わずかににやりとした。
「器用は器用だな。だが、あれで殺し合いは出来ん」
ヤスバは答えた。
こういう、感想を述べ合う機会は、かなりみんなと通じ合えるようになっているとはいえ、しょっちゅうあるわけではなかった。だからぼくは、つい調子に乗ってつづけた。
「あのふたり……何者だろうな」
ヤスバは太い眉の片方をぴくりとあげ、ぶっきらぼうにいった。
「知るもんか」
それで会話はおしまいになった。
「お前たち、何をぼんやりしている! 練習をせんか! ほかの奴らもだ!」
カントニオが大声をあげ、ぼくたちはボックスに戻った。
かれらが何者であるか、カントニオもほかの士官補たちも、何ひとつ説明しようとしなかった。もしもぼくがみんなと大部屋で寝起きしているのなら、そのことを話し合えただろう。が、訓練が終ったあとはあの個室でひとりになるだけであり、食事のさいも喋るチャンスはなかった。
こういうとき、ぼくに得られる話し相手は、世話係のシェーラだけである。ぼくのいる七階の世話係は四人で、一日に二回、交代制で各部屋を廻っていた。シェーラ以外の世話係はぼくよりだいぶ年上だったし、この階で個室を与えられている中では当然ながらぼくが一番下だから、あまり口をきくこともなかった。シェーラだけは、お互い下っ端どうしというわけだからだろうか、ぼくにいろいろ話しかけ、こっちも思っていることをいうようになっている。たまたまその日は、そろそろシェーラが来るはずの順番に当たっていたから、タ食後ぼくはすぐに部屋に戻って、心待ちにしていたのだ。
やって来たのは、やはりシェーラだった。話し合うといっても、ここはシェーラにとって仕事の場である。ぼくの部屋の中をチェックしシーツをとりかえたり備品の補充をしたりするシェーラ相手に声をかけ、むこうも作業しながら返事をするというのがつねで……そのときも同様だった。ぼくは昼間の射撃場での一件をいい、トリントス・トリントとかいう一級士官と、ぼくと同年配の内部ファミリーの青年について、何か知っているかとたずねた。
「トリントス・トリント様は、エレスコブの一族ですわ」
シェーラは、手もとめずに答えた。一族といっても、一族の直系ではないから、準一族ということになるでしょうね。どっちにしろ、中枢ファミリーには違いありませんわ」
「中枢ファミリー? そんな人間が、どうして警備隊などにいるんだ?」
「警備隊など、と、またそんないいかたをして」
シェーラは、咎めるような目つきで、振り返った。
「イシター・ロウ、あなたももうそろそろ、警備隊員になり切ってもいいんじゃありません? ご自分の組織をそんな風にいうのは、良くないわ」
「おや。お説教をする気かい?」
「違います」
シェーラは微笑した。「何かになろうとするときは、なり切らなければならない、と、そういいたいだけなんです。――わたしが、警備隊の職員になり切ろうとしているように」
それがどういう意味なのか、ぼくにはよくわからなかった。しかし考えてみると、シェーラもまた警備隊に所属して働いているのであり、ぼくがそんないいかたをするのは、面白くないかも知れなかった。だからぼくはいった。
「悪かった。で……?」
「あの方は、そのうちカイヤツ政府に出向するはずの人なんです」
シェーラは、作業を再開した。「でも、本当はそんなことはお嫌いだという噂です。ですから、道楽――といったらいけないのかしら。趣味で警備隊員になっているということですわ。警備隊には規定があって、一族とかしかるべき身分の人なら、それに相応した階級に任じることになっています。もっとも、ちゃんと制服は着ているけど、命令系統からは外されているようね。実力のないそんな人に実戦をまかせたら大変だから」
「それで一級士官か」
ぼくは鼻を鳴らし、それからシェーラを見直した。「でも、きみ……くわしいんだね。世話係はみなそうなのか……それとも、自分でいろいろ調べるわけ?」
どうしたわけか、シェーラは動きをやめ、むこうを向いたままで、低い声を出した。
「そんなことをいうのなら……わたし、好意で説明したのに……もうやめます」
「ごめん」
ぼくは、またあやまらなければならなかった。「気を悪くしたのなら、済まない。よかったら、つづけてくれないか?」
「あの方は、器用で腕が立つとの評判ですわ」
シェーラはいう。「本当は政策立案執行会議メンバーのひとりである保安委員長になりたいんだ、なんていう人もいます。保安委員長なら警備隊を思いのままに動かせますものね。だけどエレスコブ家は個人の趣味より全体がだいじなのだし、かりにそうなっても警備隊長が従おうとしないでしょう」
「…………」
「でも、気をつけたほうがいいですわ、イシター・ロウ。トリントス・トリント様は結構やり手で、にらまれたらろくなことがないというし……あの人の意を迎えようとする警備隊員もすくなくないんです。警備隊員が中枢ファミリーと近づきになる機会は滅多にないから、つてを作っておこうというわけね。ま……護衛員は別ですけど」
「…………」
ぼくはその護衛員候補者で、しかし、まだなれるかどうか見当のつかない身であったから、黙っていた。
「もうひとりの若い人というのは、おそらくハイトー・ゼス様でしょうね」
と、シェーラ。「あの人のお父さんは、ネイト=カイヤツ政府に出向して、エレスコブ家から送られた長官の秘書を務めていた関係で、あの人もそのうち出向するんでしょう。多分、トリントス・トリント様について。だから、今からトリントス・トリント様にくっついて廻っているんですわ」
実にくわしい――と、ぼくは思った。思ったが、さっきうっかりそれを口にして、なぜかいやがられたようだったので、何もいわなかった。
シェーラの作業は済んだようである。
「でも、わたしがこんなにいろいろと、ぺらぺら喋ったということは、黙っていて下さいね」
シェーラは、手を拭きながら、ぼくを見た。「わたし、あなたに早く馴れてもらいたいと思うから、お話ししたんです。わかって下さるでしょう?」
「わかった。約束するよ」
ぼくは答えた。
「本当に?」
「本当だ」
「そう?」
シェーラはにっこりし、ちょっとためらってからたずねた。「まだもう少し、時間があるんです。もうしばらく、ここにいても構いません?」
「いいとも」
それはむしろ望むところだった。が、心配にもなったので、いってみた。「でも……そっちは大丈夫? あとで叱られるんじゃないのかい?」
「叱られたら、そのときのことですわ」
「…………」
「その前に、教えていただきたいんです」
シェーラはいうのだ。「あなた……ここへ来てから、エスパーになってらっしゃらないみたいだけど……そうなんですか?」
「そうだよ。しかし――」
「今も、エスパーじゃないんですね?」
「ああ。でもどうして――」
「やっぱり、気になるから」
シェーラは答えた。「だって……こんなにいろいろ喋っていて、心を読まれていたと思うと……いやだし……それに、これからしようとしていることで、なぜそんなことをしようとしているのか、知られるのは、はずかしいんです」
「とは……?」
「笑わないで下さいね」
シェーラはいいだした。「わたし……実をいうと、占いを少々やるんです」
「占い?」
ぼくはぽかんとした。
世の中にそういうものがあるのは、むろんよく承知している。すぐれたエスパーなら相当な未来予知が可能なのに、やはり流行しているのだ。もっとも、エスパーが自己の能力で知った未来を語るのは、法で禁じられていたし、世間も許さない。まして悪い未来を告げるのはタブーだった。だから逆に、占いなどというものが行なわれるのかも知れない。(ただ、エスパーが生活のために占いと称して未来を告げることはあるようだが、これはむろん非合法で、発覚した者は強制的に能力除去手術をほどこされるのだった)しかしぼくは、占いに関心を抱いたことはない。
「占いは、おいや?」
と、シェーラ。
「さあね。あまり興味はない」
「そうですか。でも、やらせてほしいんです。お遊びだと思って……いいでしょう?」
「お遊び、ね」
ぼくはいった。お遊びなら、別にどうということもないだろう。
シェーラは、椅子を指さした。
「それでは、そこにすわって、両手を前に出して下さい」
ぼくは椅子に腰掛け、両手を突き出した。
「こう?」
「そうです」
シェーラはぼくの前に立ち、ぼくの手の甲に、てのひらを重ね合わせた。つめたい、乾いた感じの手であった。
突然、ぼくは、こんなことをしていていいのか、と、不安になった。世話係が部屋に来ているとき、ぼくは部屋のドアを半分あけている。これは定めにもなっているのだが……その開いたドアから、こんな光景を目撃されたらどうなるだろう、と、思ったのだ。
「目をつむって」
と、シェーラ。
「こうかい?」
「そう。それでいいんです」
シェーラは、ぼくの両手を上から握り、一、二秒沈黙していた。それから、低く喋りだした。
「イシター・ロウ。あなたには、未来があるわ。大きな未来よ。今の立場は、あなたには必ずしも満足出来ないでしょうけど……これがはずみ台になります」
これが何という占いなのか、ぼくにはわからないが……占いというより、何となく未来予知を聞かされているような気がする。
待てよ。
シェーラはエスパーではないか、との疑念が、ぼくの胸に湧きあがって来た。エスパーとして、知り得た未来を告げているのではあるまいか? 今のぼくはエスパーでも何でもないからわからないけれども……だがぼくは、すぐにその考えを、自分で打ち消した。こんな、警備隊の世話係にエスパーが採用されるとは、ありそうもないことだ。かりにそうだとしても……いや、それよりもシェーラがエスパーだったら、ぼくに今はエスパーではないのか、などと訊くはずがないのである。これはやはり占いなのであった。お遊びとしての占いなのである。
「だから、どんなことがあっても、くじけちゃいけないのよ。辛抱して頑張れば、きっと何とかなるわ。あなたには、そういう運がついているんです」
シェーラはつづける。
ぼくはそっと目を開いて、そうしたシェーラを眺めようとした。
シェーラも、ぼくをみつめていた。彼女はとても綺麗に見えた。それに優しいし親切なのだ。ぼくはにわかに衝動がこみあげて来るのを感じ、握られていたシェーラの手を、こっちから握った。シェーラも手に力をこめたようだったそう感じたのだけれども、ぼくが立ちあがり彼女を引き寄せようとしたそのとき、シェーラははげしく腕を振って、ぼくの手を外したのだ。
「駄目」
と、彼女は首を横に振った。「そんな、もののはずみでというのは、いけないわ」
「…………」
ぼくは腕を垂らした。なぜそんな衝動に襲われたのか自分でも不思議で、自分自身がひどく間が抜けた存在になったような気分だった。
すでに、シェーラは元のシェーラに戻っていた。彼女は静かにいった。
「わたしの占いは、当たるんです。あなたには大きな未来が待っていることを、忘れないで下さいね」
「…………」
「それじゃ、失礼します」
いうと、ちらりと微笑を残して、シェーラは出て行ったのである。
ぼくはそれでもまだしばらく、その場に突っ立っていた。
訓練は続けられた。
ぼくたちは、そうした毎日に馴れ、あまり苦痛も感じなくなって行った。
ふつうなら、こうなるまでに、たいてい脱落者が出るものである。だが、ぼくを含めて二十六名の新人(うち八名が女性)の誰ひとりとして、辞めて逃げ出す者はいなかった。これは、はじめから採用するときに、そういう性格とか体力を検討していたのか、研修担当者のやりかたがうまかったのか、それともエレスコブ家の警備隊員というポストにはそれだけの魅力があったのか……ぼくには知りようがない。
そのうちに訓練そのものも、繰り返しの要素が強くなって来た。換言すれば、習熟の時期に入ったのだろう。
さらに、ぼくたちは、これまでのように新人どうしばかりでではなく、正規隊員たちや、ときには士官たちとも打ち合いをしたりするようになった。われわれが稽古しているところへかれらが来て、練習に参加するというスタイルなのである。
あきらかに研修は、そろそろ仕上げの段階に入ろうとしていたのだ。
が……それがどんなかたちで終了を告げることになるのか……ぼくたちの全員が基準に達しているのかそうでないのか……こちらには何もわからなかった。
そして、あれは、研修がはじまって六十日めのことである。
「あしたは、お前たちは先輩相手に、試合を行なうことになる」
解散の前の訓示で、レクター・カントニオはいったのだ。「試合にはエレスコブ家当主の名代をはじめ、中枢ファミリーの人も何人か見える。お前たちにとっては晴れの、しかも大切な試合だ。ぶざまな結果にならぬよう、最善をつくしてもらいたい。試合に使用する武器は、お前たちひとりひとりのこれまでの練習ぶりを観察して、こちらで決めた。じぶんの得物は何になるのか、相手が誰かは、夕食後、世話係がお前たちそれぞれに一覧表を届ける手はずになっている。今晩はどう過ごそうとお前たちの勝手だが、体調を整えておくのが得策というものだろう。では解散」
ぼくたちはいつもの通り食堂で夕食をとった。何人かは興奮して話し合っていたけれども、ぼくは黙々とひとりで食べ終ると、自分の部屋にあがった。
間もなく、世話係が薄っぺらいパンフレットを持って来た。それがシェーラだったら、ぼくはいろいろたずねたいところだったが、あいにくその日はシェーラではなかった。
パンフレットは、ぼくたちのためというより、どうやら見物人のために作られているようである。出場者の氏名や年齢、それに写真も載っているのだ。
ぼくはページを繰り……自分が一番おしまいに出ることを知った。ぼくが使うのは伸縮剣だった。先端に電撃点がある剣で、長さを柄のボタンで調節するのである。短くすると三十センチ位になるが、このときは太い。伸ばすと一メートル二十センチに達するものの、この場合はきわめて細くなり、強く打たれると曲ってしまうのである。この伸縮の特徴をうまく利用してたたかう、技術を要する剣であった。
相手は……と、どうせ知らない人間だろうと視線を移したぼくは、無意識にくちびるを強く結んでいた。
相手は、どういうわけか、あのトリントス・トリントだったのである。
トリントス・トリントと?
ぼくが大きく息を吸い込んだとき、部屋の送受話器が鳴った。応答ボタンを押すと、スクリーンにカントニオの顔が浮かびあがって来た。
「組み合わせは見たか、イシター・ロウ?」
カントニオはいう。
「見ました」
ぼくは答えた。
「相手は強いぞ。それにかなりきわどい手も使って来るだろう」
と、カントニオ。「だがお前は全力をつくせばよい。相手が中枢ファミリーだからといっておもねる必要はない」
「もちろん、そのつもりです」
「それでよろしい。それで、いっておくが、今度の試合での組み合わせのうちいくつかは、警備隊長自身の指示によったもので、お前の場合もそのひとつなのだ」
「警備隊長が?」
ぼくは絶句した。モーリス・ウシェスタがなぜトリントス・トリントとぼくを合わせたのだ?
ぼくがそれ以上何もいえないうちに、カントニオはつづけた。
「あす、当主名代として来られるのは、エレン・エレスコブ様だ。お前が護衛するはずのお方でもある。エレン様がお前のたたかいぶりについてどんな印象を持たれるか……お前自身の運命にもかかわるのだから、そのつもりでな」
その言葉に、ぼくの胸が躍らなかったといえば、やはり嘘になるであろう。
人間、誰しも、おのれに注目してくれる者があるのは、うれしいものだ。それがエレン・エレスコブのような魅力的な女性となれば、なおさらである。むろんエレン・エレスコブは、ぼくのために来場するのではないけれども……自分の護衛をつとめるはずの人間のたたかいぶりには、強い関心を抱くに相違ないのだ。勇み立ちたくもなるところであった。
が……それを単純によろこんではいられないことも、ぼくにはよくわかっていた。これはいわばテストなのである。いい加減な真似をしたり、ぶざまな負けかたをしたりすれば、エレスコブ家令嬢の好意を獲得するどころか、エレスコブ家から放り出されることにもなりかねない。
さらに気をつけねばならないのは、見物人を、まして特定の人物を変に意識したりすると、平生の実力が出なくなるということだ。他の連中はどうか知らないが、ぼくにはそんな傾向があった。張りつめて、しかし無心でたたかうのが、一番良好な結果を生む。ファイター訓練専門学校でもそうだったが、今ではいよいよその感を深くしていた。思い切って全力をあげればいいのだ。それだけなのである。
だからぼくは、カントニオに対して、別段気負った返事もせず、黙って頭をさげるにとどめた。
試合といえば、並んだ旗が風にひるがえり、ラッパがひびき渡って、美々しく着飾った選手たちが入場して来る――というのが、一般的な通念だ。その上に、膚もあらわな女たちの踊りや、ほかさまざまな余興も組み込まれている場合もすくなくない。しかし、それは戦闘興行によって作られたイメージなのだ。金を取って客を集めるためには、派手にせざるを得ないのである。その点、ファイター訓練専門学校の公開卒業戦闘は、ずっと簡素であった。伝統に従ったいくつかの儀式はあるものの、実質本位であった。ぼくは、今度の試合というのも、当然、ファイター訓練専門学校の公開卒業戦闘に類似したスタイルだろうと予想していたのだ。
そして、ぼくのその予想は、半分的中し、半分外れた。実際は、さらに地味で、お祭り的要素は皆無に近かったのである。
ぼくたちは、レクター・カントニオらに連れられて、試合場である屋内体育館に入った。これまでにもたびたび使ったことのある、古い建物だ。入ってみると、そこには飾りつけらしいものは何もなかった。中央に試合を行なう少し高い台が築かれ、周囲に組立椅子が並べて置かれているだけで、あとは壁の得点板に組み合わせが表示されているばかりであった。
これが試合場か、と、ぼくは内心がっかりした。それから、むしろこのほうが当り前なのだろう、と、考えもしたのだ。今度の試合は、ぼくら新人にとっては重大なものであるが……警備隊や、ましてエレスコブ家にとっては、何ということもないおきまりの催しなのに違いない。新人の腕を見ようという、毎年行なわれる内輪の催しなのだ。仰々しい準備をする必要はないはずであった。ぼくは、自制もし事大主義にもおちいらないでいたつもりだが、どうやら自分の存在や警備隊というものを、いつの間にか気がつかないうちに過大評価する心理状態になっていたのかもわからない。
仮設の観覧席には、すでに半分ぐらい人が来ていて、なおも埋まりつつあった。いずれも制服や仕事着のままで、盛装している者など、ひとりも居ない。そうなのだ――と、ぼくはここに至って悟った。これは、エレスコブ家のビジネスのひとつなので、それ以上でも以下でもないのであった。
ぼくたちは、いったん控え室へ赴き、そこで各自の武器と防具を貸与された。時間が来るまでぼくたちは、それぞれの武器を握ったり試したりして、自分になじませるように努めた。お喋りをする者はあまりいなかったし、口を開いても、ふたことみことのやりとりで終る。
三十分ほど経過したとき、外にいたカントニオが戸口に姿を現わして、告げた。
「さあ、お前たちの出番だ。試合順序で一列になって、私について来い」
防具をつけ武器を手にしたぼくたちが列を作るのを見ながら、カントニオは、のんびりした声を出した。
「そんなこちこちになることはないぞ。相手は先輩なんだから、負けて当然だ。そのつもりで全力をあげて、相手に一泡吹かせてやれ」
その言葉が、ぼくたちの気分をほぐすとまでは行かなくても、気持ちを幾分か楽にさせたのは、事実である。
カントニオについて、ぼくたちは控え室を出、一列になって試合場内の通路を進んで行った。
観覧席はもう一杯だった。そして、全く予期しなかったことだが、かれらはぼくたちを認めて、拍手を送って来たのである。湧きあがり、波のように高まる拍手であった。しかもかれらの表情は、きわめて好意的なのだ。中には、頑張れよ、と、声をかける者もあった。
そうなのだ。
かれらは、ぼくたちを、身内として扱っていたのである。自分たちのエレスコブ家にあたらしく加わろうとしているぼくたちを、歓迎し、励まそうとしているのであった。
正直いって、これは悪い気分ではなかった。それに、何かあたたかいものが胸にこみあげても来た。自分がどこかの何かに所属し、そのことを承認されていると感じるのは、よろこびである。人間にはそうしたものを求める本能があるのだろう。それでいてなおかつ、ぼくの頭の中のどこかは、醒《さ》めよう醒めようとしてあがいていた。それは、こういう連帯感は一種の麻薬なのだ、これに溺《おぼ》れ、これを頼りにするようになれば、もはや逃げ出すことは不可能になるぞ、と、警告していたのである。
ぼくたちは、試合台の一方の側の外に、並んで着席した。
拍手がいったんおさまり、ついで、またもや高くなった。相手方が入場して来たのだ。士官もいたし正規隊員もいた。士官研修生の姿もあった。当り前の話だが、ぼくたちのような補助隊員スタイルは、いなかった。が……それだけの違いでは、試合にさいして見分けがつかないためであろう、かれらは全員、首に白いマフラーを巻いていた。
かれらが、ぼくたちと反対側に陣取ると、場内は静まり返った。
最前列にいた人物のひとりが立って、試合台のわきに立った。キット・ベイハムという名の一級士官であった。
「ではこれより、警備隊の隊員選手対新人の試合を行ないたいと存じます」
キット・ベイハムは、ていねいな口調でいった。「ご臨席のエレスコプ家代表に開会のご宣言をいただきます」
場内の人々の視線は、いっせいに、得点板と真向いの壁ぎわに向けられた。そのときになってぼくは気がついたのだが(それまでは場内をちゃんと観察するような心理状態ではなかったのである)、そこは一段高くなってまわりをロープで仕切ってあり、テーブルを置いて、数名が着席していたのだ。席の中央にいたのは、エレン・エレスコブであった。単純過ぎるほどのデザインのワンピースを着ており、それがよく似合ってもいる。こちらからは距離があるのでこまかい表情は見えないものの冴え冴えとした美しさは、この前会ったときと同じであった。
横にいた年配の女が、身をかがめるようにして、エレンに何かささやいている。
ぼくは、その反対側にすわっているのがモーリス・ウシェスタであるのを認めて、何となく重いものが胸に落ち込むのをおぼえた。この試合場にウシェスタがいるのは当然であり、それが当主名代に説明をする立場にあるらしいのも不思議ではなかったが……それがぼくの、ウシェスタにつねに監視されているのではないかといった不安感を刺激し、エレン・エレスコブの考えかたに影響をあたえるかも知れない位置にいることに、どこか不吉な気がしたのであった。
同時に、ぼくは、その特別席について、エレスコブ家当主名代の令嬢にしては、警固がお粗末過ぎるのではないか、とも思った。なるほどエレンたちの席の下には、護衛員らしいのがふたり佇《たたず》んでいるけれども、それだけなのである。が……この点に関しては、ぼくは次の瞬間に自分でもおかしくなった。ここはエレスコブ家の本拠のカイヤツ府屋敷うちであり、この場内には怪しげな人間の入り込む余地はないはずである。しかもここには警備隊員がわんさといるのだ。隊長のモーリス・ウシェスタもすぐ横にいるのである。これでも危険だとしたら、安全な場所なんて、ほとんどないことになるではないか。ぼくなどがいらぬ心配をしなくても、専門家たちに手抜かりのあろうわけがないのであった。
そのときには、エレン・エレスコブはゆっくりと立ちあがっていた。エレンは口を開き、張りのある声でいった。
「開会を宣します。みなさんは、ふだんの力をぞんぶんに発揮して、すばらしい試合をして下さい」
服のどこかにマイクが仕掛けてあるのか、その声は、静まり返った場内に、朗々とひびき渡った。
みんなは、どっと拍手をした。何か叫んだ者もいたようである。あきらかにエレン・エレスコブは、ここの人たちに支持され、尊敬されているのだ。それはまあ美しい当主令嬢に対しては自然な感情であろうが……ぼくにはエレンと自分との距離が、また大きくなったような感じがした。これは嫉妬なのであろうか? 男というものは(女だってそうなのかもわからないが)おのれが好意を抱いている対象が、多くの人々にも好かれることを望み、好かれていることに誇りを持ちながら、現実にそうであるのを見せつけられると平静ではいられないのである。ぼくはその状態におちいったのであろう。が……ぼくは、うまく行けば自分が、そのエレン・エレスコブの護衛員になるのだと考えて気をとり直し、ついで、自分にとってエレンは、何もそんな特別な存在ではないのだ、ただ魅力的な女性と思っているだけなのだ、と、いい聞かせて、心を落ち着けた。すくなくとも、そう努めた。いや……今は、エレン・エレスコブのことなど念頭から追い払わなければならない。今は試合に全精神を集中しなければならないのだ。
ぼくは、注意を元に戻した。
キット・ベイハムが、試合のやりかたを説明しはじめたのである。
ぼくたちは、それについては、あらかじめ聞いていた。
試合は二十六名ずつの、一対一の総当たりである。この二十六試合には、同じ種目はひとつもない。すべてことなっているのであった。こういう場所で行なわれるので、銃や弓矢やレーザーといった飛び道具は除外されている。まして、エスパーの特別警備隊員が用いる方式は入っていない。というより、特別警備隊が具体的にどんな戦法をとるのかは、隊長以下ごく一部の人間しか知らないのであり、公開されるわけもないのだ。そして、飛び道具を除外しても、なおかつこれだけの、実際はもっと多くの種目があるのだから、試合はちゃんと成立するのだ。見方をかえれば、飛び道具を使用しないというこのことは、警備隊員たちが制服に帯剣というふだんの装備でどのくらいたたかえるか、との観点から組まれているともいえる。
この審判は、基本的には古典的な、ありふれた方式でなされることになっていた。正審一名、副審二名の計三名で、正審は試合台上に立ち、副審は対戦者の控えていない側の台横にひとりずつ分かれて着座する。それぞれ白と青の旗を持って、だ。これは対戦者が相手に、種目ごとに定められたダメージを与えたと認めると、そのほうの色の旗をあげるためであった。白がむこう、青がぼくたちの色である。旗は同時にふたり以上があげるのでなければ、ポイントにならない。そして、先に二ポイントを奪ったほうが勝ちなのだ。
――と、いえば、警備隊のような実戦本位の組織の試合にしては、スポーツ的なゲーム性が強過ぎるのではないか、と、考える人がいるかも知れないが……ポイントはそれだけではない。相手を失神させたり戦闘続行不可能にさせたり、戦闘継続の意思を喪失させたときには、それまでのポイントのいかんにかかわらず勝ちとなるので……こういうやりかたを採用することによって、不充分ではあるが、実戦的要素を加味しているのである。これは古典的スタイルからの逸脱に違いなかった。古典的スタイルからの逸脱という点では、もうひとつ、ファイター訓練専門学校では到底考えられないルールがあった。対戦者の審判に対する抗議権である。相手のポイントがダメージというほどちゃんとしたものではないと思ったり、不当な判定と感じたさいには、片手を高くさしあげ静止して、抗議することが許されているのだ。むろん、抗議が通るとは限らない。それどころか、審判の心証を害すると、さらに不利な判定なり宣告なりをされるおそれがあるのだけれども……一応、そういうことが認められているのであった。
その審判は、きのう渡されたパンフレットによれば、全部で九名。三組である。種目が多いためにそれだけ必要なのである。二十六の種目は大別すると、三つの系になる。組み討ち・拳技・蹴技の素手闘系と、手近にあるもので応用出来る道具を使う変形種目群系と、それに棒や杖や各種の剣を扱う剣技系だ。審判にあたる者にだって得手不得手があるわけだから、各組が適当な系を受け持つというのが、まずは妥当な構成といえる。
キット・ベイハムの説明が終ると、時を移さず、第一戦の対戦者の名前がアナウンスされた。
第一戦は、組み討ちのI型である。この種目は、防具はない。相手に膝か手をつかせるか、倒すか、試合台から突き出すかすればポイントになるのだ。
わがほうの対戦者は、がっちりした巨漢である。が、相手方の体格は、それを上廻っていた。
ふたりは試合台にあがり、向かい合って立った。
「はじめ!」
正審が叫ぶ。
試合時間はすべて八分。
いうまでもなく、途中で勝負がつけば、それまでである。
わがほうの対戦者は、二、三歩、無造作に進んだ。無造作というより、不用意であろう。いつも練習している調子で、相手に近寄ったのだ。
相手は、かかとを浮かしつつ、一歩、二歩と後退した。こちらはさらに前進し、相手の身体に肉薄した。相手が、つと足を停める。そこに向かって、わがほうの対戦者は腰を落とし、両腕を引きつけて突進した。はげしい突きを左右交互に繰り出して――敵を場外に出す作戦である。
相手は、くるりと向きを変えて、その突きをかわした。こちらはその横身を押し出すべく、そっちへ突進の方向を転換した。だが足が流れている。相手はそこをついて、はたいた。こちらがよろめき、手をつくのを辛うじてこらえ、立ち直ろうとしたとき、相手はまともにこちらの身体にぶつかっていた。相手の足が飛んだ。こちらの片足が内側から刈られた。頭を持ちあげようとして重心が後方へ寄っていたから、ひとたまりもない。わがほうの対戦者は尻餅をつき、仰向けに倒れた。
観衆が沸き、三人の審判全員が白い旗をさっとあげた。
ポイントである。
ふたりははじめの位置に戻って、再び対峙《たいじ》した。
「はじめ!」
審判の声に、今度は相手側の選手が、つかつかと歩み寄って来た。こちらは今の交戦で警戒している。だからやや消極的になり、動作からも心持ち敏捷《びんしょう》さが失われていた。相手は巨体を利用して強引に組み、こちらをぐいぐいと押しにかかった。こちらは耐え……耐えながらも後退せざるを得ず、ついには試合台の端に来て弓なりになった。相手は落ち着き払って腰を落とし、腕を伸ばして突っ放した。わがほうの対戦者は、台から転落した。
白旗が三つ、あがった。
二ポイント。
勝負ありだった。
ふたりはもう一度向かい合うように指示され、正審が、相手方に勝ちを宣した。観衆はさかんな拍手をおくった。
まず一敗なのだ。
しかも、開始されてから一分とたたないうちに敗れたのである。
先輩はやはり先輩で、われわれは及ばないのか――といった空気が、かすかではあるがぼくたちの間に漂ったことは否めない。誰もそれを認めたくはなかったろうが、……今のようにあっけなくやられてしまうと、弱気めいたムードが生じるのが当り前である。
第二戦の対戦者名が呼ばれた。
第二戦は、組み討ちのII型で、投げを主体とする種目だった。相手を投げて、その背を強く床に打ちつければ、ポイントなのだ。この種目は、女性どうしであった。
「頑張れよ!」
試合台にあがるわがほうの小柄な女性に、味方のひとりが声を投げた。その女性と気が合って親しくしている男である。彼女はひとつ頷いて、定位置に立った。
相手は、よく緊まった身体つきの、男っぽい顔をした士官研修生である。ぼくには、その士官研修生の面上に、優位にある者の表情が浮かんでいるように思えた。
ふたりは組んだ。
こちらの女性は、組むや否や、果敢に攻撃を開始した。足を払い、釣り込み足を試み、相手を引きずるようにして、次から次へと攻め立てたのだ。
相手はこの動きを扱いかね、焦ったようである。こちらの攻撃が停止した瞬間を狙って、思い切った投げ技に入って来た。相手の右脚がこちらの左脚にかかり、そのままはねあげられると見えたがこちらは脚を外していた。相手の脚がむなしくあがると同時に、こちらは腰をひねり、逆に投げを打った。相手の身体が宙を大きく一回転したが……そこはベテランである。背中からではなく、うつ伏せに落ちた。旗はひとつもあがらなかった。返し技というのは比較的低く評価される上に背中を打たなければ意味ないからである。
しかし、これで先方がひるみ、こちらが調子づいたのは事実であった。こちらはなおも攻め立て、コーナーのひとつで相手が刈りに来るところをかわし、低く身を沈めた。腰をあげたときには、反動を利用して相手の身体を持ちあげていたのだ。相手は頭を中心にして、円弧を描き、だん、と、試合台の床に叩きつけられた。こちらはそれを上半身と両腕で決めて、えい、と、鋭い気合いを放った。文句のないポイントである。虚をつかれた感じでしんとなった場内は、たちまちはげしい拍手に包まれた。
一ポイントを奪われて、相手は猛烈な攻めに転じたが、こちらはそれを受け流し、ときには返し技を出して、相手をためらわせだ。あっという間に試合時間の八分が過ぎ……この第二戦は引き分けになった。引き分けとはいうものの、こちらは一ポイントを取っているのである。もしも勝ち数が同じ場合には、ポイント数の合計が、全体の勝敗を決するのだ。この試合は団体戦とはいいながら、あくまでも新人の技量を見るためのものであり、勝負にこだわり過ぎるべきではない、と、ぼくたちはいわれていたけれども……やはり試合は試合である。一ポイントでも多く奪うのが、ぼくたちの目標であった。だから、これは大きかったのだ。
ぼくたちの意気はあがった。
このぶんでは、何とか対等に行けるかも知れない。うまく行けば、勝てるかもわからないのだ。
そうなると、ぼくたちの間には、ひとつのチームとしてのまぎれもない一体感が形成されて来た。個人としてはもとより、チームのためにも勝って見せようという気持ちが、ひとりひとりの顔にあらわれて来たのである。
第三戦の組み討ちのV型、第四戦の徒手拳、第五戦の蹴技、第六戦の全身闘……と、ぼくたちは、それぞれ全力をつくした。そして善戦していた。第八戦の閃光器併用重装拳が終って審判が交代したときには、ほぼ互角の戦績をあげていたのだ。
変形種目群系に入っても、ぼくたちは頑張りつづけた。握環闘、拘束縄、ベルト鞭術といった厄介な種目でも、みんなは健闘した。麻酔針戦では一分以内に勝ちをおさめたのである。もちろん、それまでには何人もけがをしたし、ひとりは失神して手当てを受けねばならなかったが……士気は少しも衰えなかったのだ。そこは手練の違いというべきで、相手がたにはひとりもけが人が出なかったのだが……そうだったのである。
だが、それにもかかわらず、勝ち数、ポイント数共、ぼくたちは、少しずつリードされはじめていた。小さな差や思わぬ負けが積み重なると、いつの間にか無視し得ぬ大きさになる。変形種目群系の対戦を消化しつくした段階で、ぼくたちは、勝ち数にして三、ポイントで七つの差をつけられていた。
あとは、剣技系の九戦である。
審判が、また交代した。今度の審判は、パンフレットによれば、正審が警備隊の副隊長のひとりである一級士官、副審が戦闘技術にくわしいという内部ファミリーの保安委員と、技術的にはベテランの古参士官補である。
剣技系の種目は、警備隊員にとっては代表的な表芸のひとつであるだけに、多彩であった。それも、基本技と近代的な応用技が入りまじっている。電撃短棒もあれば、短杖術、長杖術、細身剣に湾曲刀、一般剣、広刃直剣、一般電撃剣、伸縮剣と……さまざまなのであった。
そして、ぼくをも含めて剣技系で対戦することになっている新人たちは、みなそれなりの自信を持っていた。警備隊に採用されようというほどの人間なら、まず剣技に長じていなければならず、採用されてからも剣をあやつることにかけてはひと一倍熱心に練習し、誰もがひとつやふたつ、得意技や奇手を持っているつもりだったからである。
「何とか、差を取り返そうじゃないか」
ぼくの隣りにいたヤスバに、もうひとつむこうの男が低くいっていた。「奴らはむろん達者だろうが、こっちだって、素人じゃないんだからな」
ヤスバが薄く笑ったのを、ぼくは見た。
「まあな」
と、ヤスバは短く答えた。
剣技の最初――第十八番めの対戦がはじまった。
こちらの対戦者は、なかなかの試合巧者であった。与えられた種目である電撃短棒をふるって、何度かきわどいところまで追いつめた。一回か二回は捧の先が相手に触れたようであるが……旗は一本しかあがらなかった、そのうちに、相手はこちらの手の内を読んでいたようである。中途から攻守ところが入れ換って、たてつづけに二本を取られて敗退した。
その次の対戦では、終始こちらが優勢であった。しかし、ポイントを認められるには至らず、結局、両者無得点のままで引き分けになった。
そしてその次……。
そのころになると、ぼくは、疑念を抱きはじめていた。審判が不公正ではないか、という疑念である。こちらがあきらかにポイントを獲得してもいい場合にも、なかなか旗があがらないのだ。それに反して、先方のポイントは甘いような気がして来たのである。そして、ぼくたちにきびしいのは、副審の内部ファミリーである保安委員なのであった。その保安委員は、よほどでないとぼくたちのポイントを認めようとはしないのである。もちろんそれは、素人目にもわかるような露骨なものではない。相当な水準まで剣技に熟達している者でなければ見抜けないような、差のつけかたなのだ。パンフレットによるとその副審の保安委員は、戦闘技術にくわしいことになっている。なっているが、実はそうではないのかも知れない。内部ファミリー・保安委員の権威をかさに、審判を買って出たのかもわからないのだ。いや……あのやりかたは、そんなものではない。よく承知しているのだ。承知していなければ、あんな微妙な差のつけかたは出来ない。が、……それならそれで、余計にたちが悪いではないか。
しかし……本当にそうなのだろうか?
審判ともあろう者が、えこひいきをしているのであろうか?
「判定、どう思う?」
ぼくは、隣りのヤスバに、押し殺した声でささやいた。
「そういうことだ」
ヤスバは、むっつりと応じた。
ということは……ヤスバもまた、ぼくと同じ印象を受けているのだ。
事実なのだろうか?
だが……なぜ?
事実とすれば、なぜそんなことをやらなければならないのだ?
あの保安委員は、新人たちが勝つと具合が悪いと考えているのか?
それともこれは……と、ぼくは勘ぐった。こんなことをすれば、ぼくたちにもわかるのに……世の中というものが、エレスコブ家のファミリーでいようとするならば、こういう不公正がまかり通るものであり、それを辛抱し我慢しなければならない、という教訓を、言外に与えようとしているのか?
ぼくにはどうなのかわからない。
わからないが……愉快ではなかった。これでいいのかという気がした。
ぼくやヤスバだけではなく、他の新人たちもその時分には、けげんそうな、かつ不満そうな顔色になっていた。ひそひそと言葉を交す者も出て来た。
ついに、ひとりがその気持ちを行為で示した。彼は対戦中、自分の突きが認められないのに抗議して、剣をおろし、もう一方の手を高くさしあげたのだ。
観衆は、ざわざわした。
審判は彼のいいぶんを聴取し、協議して……却下した。ポイントとは認められないというのである。彼は対戦を続行することを命じられ……敗れた。
つづいて、またひとりが抗議した。入っているとも思えない相手の剣に、ポイントがあげられたのである。
正審が、その対戦者のいいぶんを聞こうとして近づきかけたとき、例の保安委員が立ちあがった。そして正審を呼んだのだ。正審は保安委員の話に耳を傾け、やや困惑した風であったが、もうひとりの副審を呼んだ。もうひとりの副審である士官補は異議をとなえ……しかし、結局は折れたようであった。
正審は、元の場所に戻って、いい渡した。
「抗議権の乱用は許されない。今のような連続的な、これ見よがしの抗議は、集団反抗と解される。従って、この試合に限り、以後、抗議権の行使は認めない。公正を期するため、新人側だけでなく、隊員選手側も同様とする。以上だ」
ぼくたちは、いっせいに不満の声をあげた。
が。
ぼくたちを統括する立場のカントニオ二級士官が、すっくと立ちあがって、制したのであった。
「審判の決定に従え! 静かにするのだ!」
「…………」
ぼくたちは沈黙した。
むろん、それではぼくたちの気持ちはおさまらなかった。こんな馬鹿げた処置があっていいものか、と、思うのが当然だった。
「これが現実というものさ」
ヤスバがぼくに、薄笑いと共にいった。「試合といっても……おれたちは、エレスコブ家の秩序の枠の中にあるんだ」
「…………」
ぼくは、どういったらいいか、わからなかった。
それはそうかも知れない。
そういうものかも知れない。
しかし……。
「いいさ。おれは、おれなりにやる」
ヤスバは眩《つぶや》き、あとは、前方の試合台に向き直る。
試合台では、今抗議した対戦者が敗れ、引きさがって来るところだった。
次の種目は、細身剣である。こちらの対戦者は、何か心に期するところのあるような表情で、試合台にあがって行った。
「あいつ……よせばいいのに」
またヤスバが低く眩くのが、ぼくの耳に届いた。
よせばいいとは……何のことだろう?
が、……それが何であるかは、すぐに判明した。
その対戦者もまた、禁じられたにかかわらず、相手のポイントに対して、手を高くさしあげて抗議したのである。
審判は無視した。
そして、こちらの対戦者が手を高くあげている隙に、相手の細身の剣が、彼の胸元をつらぬいたのであった。防具のつなぎ目をわざわざ狙って、柄まで深々と刺し通したのである。
こちらの対戦者は倒れた。
救護班が、彼を運び出して行った。
むろん、設備の整ったエレスコブ家の屋敷なのだから、彼は回復処置を受けて、じきに治るであろう。
が、このことは、たしかに抗議権が封じられたことを、明白にぼくたちに見せつけたのだ。(ただ突っ張っても何もならないという事実を、知らしめようとしているようでもあった)
それだけならぼくたちは、なおも同様の行為をつづけていたかもわからない。
だが、そこでカントニオ二級士官は、ぼくたちを集め、円陣を作らせたのだ。
「お前たち、何をしている?」
と、カントニオはいった。「お前たちはまだ悟っていないのか? お前たちは試されているんだぞ! 審判がむこう寄りなのはわかっている。あえてそうするように、仕組まれているんだ。そういう不利な状況下で、お前たちがどれだけ頑張るか、どこまで不利をはね返すか、はっきりいえばお前たちが、エレスコブ家のためにどこまで耐え忍んで努力するか、そいつを見極めようとされているんだぞ! よくあることなんだ。こんなことを私にいわせるな!」
そうなのか。
やはりそうだったのか。
ぼくは共感はしないが、理屈だけは納得した。
そういうことは、充分あり得るのだ。家というのは、元来がそういうもののはずだったのを……ぼくは忘れかけていたらしい。
ぼくにいわせれば、それにしてもこんなやりかたは、姑息《こそく》である。もっと上手なやりかたがあってもいいはずである。が、そこにエレスコブ家の本質が露呈されているのかも知れなかった。
いや。
いや待て。
本当は、これも嘘なのではないか――と、ぼくは思ったのだ。真実は、もっと単純な……内部ファミリーである保安委員が横車を押し通そうとしているだけなのかもわからない。それを、新人研修担当であるカントニオは、事態を収拾するために、あんな理屈づけをしただけだということも考えられる。このままでは新人たちの態度がよろしくないと判断されかねないし、それでは新人研修担当者として、大きなマイナス点がつく。のみならず新人たちが、上部の内部ファミリーに対して不平不満をくすぶらせることになるであろう。それでは警備隊員として今後うまくないし、エレスコブ家のためにもならないのだ。それらを見越して、そんな説得のしかたをしたのかも知れないのであった。
だが……よそう。
そんなことは、あとでいい。あとで……時間が経つうちに、わかって来るであろう。
それよりも、今は、試合だ。
カントニオが求めているのは、こういう状況であるにもかかわらず、全力をあげるということである。
よろしい。
やろうじゃないか。
やってみせよう。
試合はつづいていた。
カントニオの言葉に、みなはそれぞれ、それなりに観念し、ほぞを固めたようである。判定が不利になるであろうことを承知で、ともかくも全力をあげてたたかっていた。そうなると、えこひいきがあからさまとまでは行かないだけに、こちらも相応のポイントを奪うことが可能なのである。わがほうは多少は持ち直した。持ち直したが……もはや全体としての挽回《ばんかい》は、数字的にはあり得ないのであった。
二十五組めの……ヤスバの番がめぐって来た。
次はぼくである。
ぼくは、それまで外していた防具を身につけつつ、試合台を注視した。
先程、ヤスバは、これが現実さといった。それでいながら、おれはおれなりにやるともいった。その言がどういう意味なのか、知りたくもあったのだ。
ヤスバの組は、一般電撃剣である。
相手は、三十四、五の士官補だ。
ヤスバと士官補は、軽く剣先を合わせると、いったん飛びさがった。
まず攻めに出たのはヤスバだった。目のくらむような速さで、abcdの打ちと突きを送り、相手が定石通りに受けると、さらにa'b'c'd'の攻めを行なった。これも相手は型通り受けた。そこでふたりは離れた。
再びヤスバは、攻めに行った。今度もabcd、そしてa'b'c'd'の、同じ組み合わせである。
どういうことだ、と、ぼくは思った。ヤスバはそうした正攻法よりは、奇手妙手の達人なのである。得意技ではないのだ。
つづいて、士官補が攻めて来た。はっとする速度で、いくつかの組み合わせを連続した、華麗な攻撃である。ヤスバはあざやかにそれを受け流した。この一連のやりとりに、観衆はどよめいた。
ヤスバの次の攻めのあと、士官補はまたもや猛攻に入った。その動作の組みあげかたにぼくは目をみはった。名手というべきであろう。すくなくとも正攻法の剣技でなら、その士官補に対抗し得る者が、そうたくさん居るとは思えない。
それでも勝負がつかないので、ふたりはしばらく小競り合いをつづけた。
と。
刃先がきらめいて離れた瞬間、ヤスバは左手で右の肱を押えた。
やられたのか?
だがぼくは、一本の旗もあがっていないのを見て取っていた。それは、ぼくが傍観者だから出来たことである。たたかっている当事者――それも士官補のほうは、刃先がヤスバの腕をかすめたのだと思ったであろう。一般剣ならこんなことはない。突いたり切ったりしたら、こちらに手応えがあるからだ。が……一般電撃剣の場合、穂先で敵を刺すことも出来るし、触れることで電撃を与える場合もある。こちらに感触がなくても、はずみで電撃点が相手の露出部をかすめるケースもあるのだった。もちろんこれは殺し合いではなく試合だから、電位は低く落としてある。びりっと来る程度にしてあるのだ。そしてヤスバは、保護衣と手袋のつぎ目である肱を押えたのだった。士官補が、ポイントを得たかと、ちらりと気を抜いたのも仕方ないなりゆきである。
そのときには、ヤスバは、それまでの正規の攻めかたを捨てて、我流でしか考えられない、激烈な攻めに転じていた。肱を押えたのはただのポーズだったのだ。勝つためには手段やマナーにこだわってはいられない、実戦とはそういうものだというのがヤスバのモットーであるが、それを地で行ったのである。しかも、そのひっかけは、あくまでもその場しのぎのペテンであって、彼の本領は定石を無視した攻めにあった。士官補はたじたじとなり、それでも懸命に防戦し――ぼくの目にも隙が生じた。
ところがヤスバはその隙をつかなかったのだ。相手がおのれの隙を自覚して態勢を立て直そうとしたときに、剣を相手の剣にからめて、ぐるぐるっと廻した。士官補の剣は手から離れて飛んだ。
はっと士官補が立ちすくんだ。まだ旗は一本もあがっていない。そのひまにヤスバは、士官補の腕に、胸に、脚に、連続的に突きを入れていた。電撃と突きの併用を――一回刺すか触れるかすればポイントをかせげるところを、審判が旗をあげるのをほんのわずかにためらっている間に、三回もダメージを与えたのである。
士官補は昏倒した。
青旗が二本あがった。正審と、副審の士官補があげたのだ。そして、例の保安委員は腕を垂らしたままであった。呆然として、旗をさしあげることも忘れているのだ。
「お前は――」
保安委員がいいかけ、沈黙した。保安委員は、どうしてそんな、三度も刺すということをしたのか、と、いいたかったのに違いない。しかし……これは文句をつけるわけには行かないケースだったのだ。ポイントをふたつ取るのも、相手を戦闘継続不能にするのも、一勝は一勝である。ヤスバはこの規定にのっとって、相手を昏倒させるという――早く勝負がつく方法をとったことになるのだった。審判が新人側のポイントを出し渋るという、それを逆手に取って、旗があがらないうちに(あがってしまえば、次のはじめが指示されるまで、攻撃は中止しなければならない)相手を戦闘不能にしてしまったのである。保安委員はそれを知った。知って……自分の青旗をあげた。
観衆が、わあわあといった。拍手はあまりなかった。観衆の、ことに戦闘技術に関する知識もなく実戦を他人事としている人々にとって、これはきわめてアンフェアなやりかたと映じたに違いない。だが、勝ちは勝ちなのだ。ヤスバは勝利を告げられると、表情ひとつ変えずに、試合台を降りた。こちらの連中だけが、熱烈な拍手を送った。
そういう手があったか。
ぼくはヤスバの作戦に感服し……しかし、いつまでもそうはしていられなかった。
いよいよぼくの出番なのだ。アナウンスがはじまっているのである。
ぼくは、薄い保護衣をもう一度あらため、手袋の手に短くした伸縮電撃剣を握って、試合台にのぼった。
正面に、あのトリントス・トリントがあがって来た。
試合台は、のぼってみると、ひどく広く見えた。周囲の観衆のあたりは妙に暗い。試合台だけが浮きあがっているみたいである。足が頼りなかった。
いかん、と、ぼくは思った。これは、あがっている証拠である。
ぼくは、トリントス・トリントの網かぶとの奥の顔をみつめた。端正ではあるが皮肉っぽい口元のせいでやや歪んで見えるその顔には、たしかに何かが浮かんでいた。軽侮するような嘲笑するような、それとも優越感なのか……いやな表情であった。
しかも、そのときになって、ぼくの心には、エレン・エレスコブが眺めている、という意識が浮かんで来たのだ。エレン・エレスコブの護衛としてつとまる人間かどうか、判断されようとしているのだ――という感覚が、である。
ぼくたちは、向かい合った。どちらもまだ剣は短くしたままだ。
「はじめ!」
正審が宣した。
するっ、と、トリントス・トリントの剣が伸びた。
ぼくも柄のボタンを押して、剣を長くした。
エレン・エレスコブは、ぼくのたたかいぶりに評価をくだすであろう。そのためにもちゃんとした働きをしなければ……との想念が脳裏をかすめた。
そのエレンは、特別席から、じっとこちらを見ている。
トリントス・トリントが動いた。いや、剣が揺れたのだ。それにつれて、ぼくの切っ先も動いた。まだ、夢を見ているようであった。
突然。
「しっかり! イシター・ロウ!」
会場の隅から、女の声が飛んで来たのである。
それが、ぼくをわれに返らせた。
声は……シェーラだった。ぼくにはわかった。シェーラは警備隊の世話係としてか、あるいは何かの用で来たのか……ともかくこの試合場の中にいるのだ。そして、シェーラのことを思い出すのと一緒に、ぼくはたちまちにして、シェーラに象徴される日常生活を……警備隊員としての毎日を……その気分を取り戻したのであった。興奮し、のぼりつめていたぼくの気分は、一時にさめ、いつものぼくに還ることができたのである。
危いところであった。このまま時が経っていれば、ぼくは素人がやられるように、トリントス・トリントにやられていたに違いない。たたかいがはじまったばかりで、相手がこちらの出方を窺《うかが》っているうちだったから、助かったのだ。
ぼくは剣を構え直し、敵を見つめた。
トリントス・トリントは、剣を少し短くして、やはり構え直す。
そうなってみて――ぼくは、おそるべき敵と出会っているのを悟った。トリントス・トリントの構えは隙だらけである。どこを襲ってもポイントをあげられそうなのだ。初心者なら即座に打ってかかるだろう。が……その隙のことごとくが罠《わな》であった。うっかり攻め込めば、たちまち切り返されて、電撃を食うのである。
ぼくは攻めなかった。構えを変えて、下段にした。
トリントス・トリントの目が細くなった。と同時に、今の今まであった隙が、全部消失したのだ。そこにあるのは、剣と人間が一体になった凶器そのものであった。
次の瞬間、トリントス・トリントは打ちかかって来た。八動作をワンセットにした連続技だ。ぼくは防いだ。もちろんそのつもりで防いだのだが、やられなかったのは、毎日の苛酷な訓練で、ぼくの身体が技をおぼえ切っていたおかげに過ぎない。
けれども、守勢に廻ってばかりはいられないのだ。相手の攻撃が一段落したのと入れ替りに、ぼくは攻め立てた。出し惜しみをしている状況ではないから、技術のありったけを注いで攻めたのだ。
トリントス・トリントは、それを剣技のモデルのように、型通りに受け流した。
焦ってはならない。
焦れば負けである。
ぼくは、自分の剣をだいぶ短めにした。この剣はこれだけの長さだとおのれに暗示をかけて、たたかうのである。そして切っ先がわずかに届かないとき、剣を伸ばすのだ。このやりかたは伸縮剣においては基本的な方法であるが……ぼくはそれを、通常よりも心持ち短くし、二段突きをすることをマスターしていた。
トリントス・トリントが次の攻撃に出て来たとき、ぼくはその剣で受け、受けるだけでなく攻撃も行なった。二度、三度、と、ぼくの切っ先は伸びたが、相手には届かない。だがぼくの剣は、それで伸ばし切ったわけではないのだ。その長さがぼくの剣の全長だと相手が無意識に感じるまで待つのである。それで攻めた。先方の八動作ワンセットの速い動きに対し、こちらは六動作ワンセットの、それよりもさらに速い動きで攻めまくった。両者の距離がつまったその一瞬ぼくは剣を全長にした。相手の首に切っ先が触れた。
触れたはずだったのだ。
けれども、ポイントにはならなかった。青旗が一本あがっただけであった。
そう。
少々のことでは、審判はぼくにポイントを与えないのである。ことに、さっきのヤスバの一件のようなことがあったあとでは、ぼくは誰が見てもはっきりとわかる突きか接触をしなければ駄目なのだ。
しかし、このトリントス・トリント相手にそれは望むべくもないことであった。そこまで明白な一本を取るのは、余程の幸運に恵まれなければならないのである。
「行くぞ、小僧」
声がした。トリントス・トリントであった。トリントス・トリントは突っかかって来た。これまでの技は、彼にとっては小手試しだったのを、ぼくは知った。ぼくは辛うじて相手の次から次へと繰り出す剣をかわした。ついに相手の切っ先が、ぼくの胸に触れた。伸縮電撃剣は一般電撃剣とことなり、刺すことは出来ない。伸ばし切った細さでは、突きささらないのである。触れるしかないのだ。その切っ先はぼくの保護衣に当たったので、電撃は来なかったけれども……白い旗が三本、さっとあがるのが見えた。
駄目なのだろうか。
これは、ぼくの手に負えない相手なのだろうか。
二回めの対時になった。
はじめの合図と共に、トリントス・トリントは、かさにかかって攻め立てて来た。ぼくはただもう反射的にそれを受け、防ぐばかりであった。これではポイントを取られるのは時間の問題だ、と、ぼくは思った。それくらいならやられて昏倒したほうがましだ。
その刹那《せつな》に、ぼくの頭に天啓が閃いたのである。
どうせ昏倒するのなら、はじめからそのつもりで行けばいいのだ。肉弾となればいいのである。これで上部の人たちには憎まれるかも知れないが……このままで終りたくはなかったのだ。
ぼくは剣を最短にして、自分でもわからぬことをわめきながら、相手のふところへ飛び込んだ。突くなら突け、触れるなら触れろ――と、剣を短剣のつもりでふるい、相手の伸び切った剣をはねあげ、叩いた。相手の剣が曲ったようだった。それはどうでもよかった。ぼくは短くした剣を握りしめ、相手にぶつかり、剣でなぐりつけた。太い短い棒として、思い切り力をこめて、横なぐりになぐったのだ。それも一回、二回……相手の網かぶとが脱げて顔がむき出しになったのを、もう一回、なぐりつけた。動きが停まったその顔を、がんと突いた。
気がつくとトリントス・トリントは倒れていた。ぼくはだらりと剣を持ったまま、そのそばに立っていた。正審が勝ちを宣している。ぼくはぼんやりと試合台を降りた。みんな、拍手をしているようだが、よくわからなかった。
不意に、誰かがぼくの手をつかんだ。ぼくは目をあげた。
ヤスバだった。
ヤスバだけでなく、他の連中もぼくを見ていた。拍手していた。
「よくあそこまで捨て身になれたな」
ヤスバは、ぼくの手を握った手に力をこめて、ゆっくりといった。「おれにはあんなやりかたしか出来なかったが……伸縮剣でああ滅茶苦茶になぐったのは、貴公がはじめてじゃないか? すごかったぞ。あんな真似をしたからには、貴公もおれと同様、おえらがたにはにらまれるだろう。それがわかっていながら……おれたちの意地を通してくれた。――これからは、おれを友達だと思ってくれ」
ぼくは、口を開くことが出来なかった。なぜかわからないが、ぼくは泣きそうな顔をしていたようだ。それでもやっと、いうことが出来た。
「きみにしては、随分長いお喋りじゃないか」
忘れていたあれ――ぼくのエスパーとしての能力が起きあがって来たのは、それから三日後のことであった。
なぜ三日後にそんなことになったのか、ぼくにはわからない。というのも、それは、ぼくたち新人の研修終了を意味する任命式が行なわれた日だったからである。偶然にそうなったのだろうか? それとも、ぼくのエスパーとしての能力が起きあがるには、それなりの内的必然性があって、その状況に出くわしたからなのか? これまでのエスパー化の場合を思い出して、ぼくはそこに何かの法則性や共通点があるかどうかを検討もしてみたのだけれども……心あたりはなかった。となれば、これは全くの偶然か、でなければぼくにはまだつかむことの出来ない法則があるかのどちらかに違いない。ま、偶然ならそれでもいいのだ。しばしば経験することだが、待っていた事柄がなかなか起こらず、諦めかけてほかのことに手をつけた――一番具合の悪いときにそいつが到来するという、あの奇妙なタイミングの符合の、これもその一例かも知れないのであった。もっとも、その日のそのときにエスパー化したのが、ぼくにとって幸運だったのか不運だったのか、それも何ともいえないのであるが……。
だがしかし、これらはあとで考えたことである。今はとにかく順序を追って説明するのが良さそうだ。
試合の翌日、ぼくたちはいつもの練習場に集められ、実技訓練を受けた。ぼくはレクター・カントニオが前日の試合について、講評し、訓示とか説教をするのではないかと予期していたのだが、そんなものはなかった。いきなり実技訓練に入ったのだ。しかも……それは訓練と称しながら、実体は総復習に近かった。これまでに学び習得した技の体系の要約といってもいいだろう。ごく形式的なものだったのである。訓練がはじまってじきに、ぼくはそのことを悟り、同時に、研修そのものが終りに来ているのだと直感した。他の連中も、あからさまには口に出さないが、そう感じていたようである。ぼくをも含めて、みんながそうと喋らなかったのは、うっかり言葉にしたりすると、すぐ近くまで迫っている研修終了のときが、また遠のいてしまいそうな、そんな気がしたためであった。長い研修のうちに、みんなの気持ちは、その程度には通じるようになっていたのだ。ことに前日の試合のあとは、たしかに、われわれは同期生なのだという連帯感が生じていたのである。
次の日は、講習だった。この講習もまた、初期の頃に聞いた事柄の総まとめであり……ぼくたちの期待は、しだいにふくらんで行った。講習のあと、カントニオは、ふだんと全然変らぬ口調で、ぼくたちに告げた。
「お前たちの研修は、本日を以て全課程を終了した。ひとりの落伍者も出なかったのを、お前たちと共によろこびたい。あす、お前たちは任命式に出て、正規隊員に任じられ、勤務命令書を受けとることになる。そののちにささやかな会食があって、解散だ」
「…………」
そういわれても、しばらくぼくたちは、黙っていた。これがもっと初期の、研修がつらくて仕方のない時分なら、何人かが、いや大半が歓声をあげていたに相違ない。けれどもすでにぼくたちにとって、研修の日々は生活そのものとなっていた。それが日常だったのだ。その日常がだしぬけに終るというのは……とっさには、ぴんと来ないものなのである。そして、研修終了全員合格という事実が、みんなの胸にしみ渡ったのちも、やはり大声を出す者はなかった。そのとき、ぼくたちをそうさせたのは、訓練によっていつの間にか身についた自制心だったのであろう。ぼくたちが洩らしたのは、吐息に過ぎなかった。ただそれは、深い安堵《あんど》と、ふわりと浮かびあがって来るよろこびをこめた、大きな吐息ではあった。
カントニオはつづけた。
「解散のあとは、お前たちは自由に騒ぐがいい。あすの夜は食堂も浴場も、おそくまでやっているし、お前たちの騒ぎも大目にみられるのがならいだ。そして、あすの晩が、お前たちが一堂に集まる最後の機会だということも、つけ加えておこう」
「…………」
「今さら述べることもないが、お前たちが乗り切ったのは、基礎研修に過ぎない」
カントニオは、ぼくたちを見廻した。「当然ながらお前たちは、これからのそれぞれの配属先で、勤務に必要なことを学ばなければならないのだ。が……ここでみんなと一緒に頑張ったのを思い出せぱ、今後もへたばることなしに、やって行けるだろう。私はそう望んでいる。みんな、よくやった。これからも今の気持ちを忘れないで欲しい」
それは、他人事として聞けば、ありふれたきまり文句であったかも知れない。しかし当事者として自分なりに苦労して来たぼくたちには、真情のこもったねぎらいと励ましの言葉として、受けとめられるのであった。それをせせら笑い鼻を鳴らしつつ聞き流す神経は、すくなくとも、ぼくにはなかった。
そういう気分になったというのも、ぼくはやはり相当なところまで、エレスコブ家の警備隊員になり切っていたからであろう。そう。ぼくは誇りを持ちはじめていたのだ。誇りというのは、自分が持っている、あるいは獲得したものがあると自覚したときに、強く意識されるものである。逆説的な表現になるが、ぼくは、基礎研修を乗り越えたというそのことで、誇りを抱き、エレスコブ家の警備隊員化しつつあったのだろう。そして、それが不愉快ではなかったのだ。新人の二十六名全員が合格したのも、これが当初からの予定で、ぼくたちがおどかされただけなのだ――と考えたくはなかった。みんなが頑張ったからこそ、こういう結果になったのだ、と、おのれを得心させていたのである。
任命式の日が来た。
午前十時に、ぼくたちは、指示された通り、警備隊本部ビルの一階ロビーに集合した。服装はいつものままである。式場に入る前にあたらしいものが支給されるのだ、と、ぼくたちは聞いていた。ちなみに、この任命式のさいに渡される品々は、すべて無償供与で、給料からの差し引きは行なわれないということなのだ。
式場は、警備隊本部ビルから少し離れた、集会所のひとつであった。この種の集会所はエレスコブ家のカイヤツ府屋敷の中に、いくつもある。いずれも樹々にかこまれた、それぞれが趣向をこらした建物なのだ。訓練でぼくたちは屋敷の中をずいぶんあちこちと歩き回り、走らされたけれども、その程度ではとても全貌を知るわけには行かない。だからぼくは屋敷のうちにいくつ集会所があるか、それら一棟一棟がどんな用途に使われているのか知らない。また、中へ入ったこともなかった。が……任命式の会場にあてられた集会所の前はしばしば通過し、ときには近くから仰いだこともあるので、その形状はよくおぼえていた。屋敷に銅板を張った宝形造りの建物で、セイドア・ホールと標識柱にはしるされている。そのセイドアが何を意味しているのか、誰かの名前なのか……ぼくたちは何も教えられてはいなかった。
よく晴れた日で、カントニオたちにひきいられたぼくらは、列を組んで、陽のかけらがばらまかれた林の小道を踏んで、進んで行った。標識柱のある場所を過ぎると、錆びて緑色になったセイドア・ホールの屋根が、日光を照り返して、ぼくたちの目を射た。
建物に入ったぼくたちは、小さな別室へ来て、そこで警備隊の職員から、衣服の入った袋を渡された。別室のわきに更衣室があって、そこで着替えるのである。更衣室は七つか八つしかなかったから、順番に着替えるわけなのだ、ほくも順番が来るのを待って更衣室に踏み込み、内側からかけ金をおろした。
袋には、下着と、真新しい青色の制服が入っていた。一見したところは色もかたちもこれまでのものと大差ない。が……裸になって下着をつけ、制服を着込もうとして、ぼくは気がついた。生地も仕立ても、今までのよりはずっといいのである。これはあきらかに、ファミリーの一員としての制服なのだ。そのことを示すかのように、(ちらりと眺めたぐらいではわからないのだが)右胸の部分には服地と全く同色の小さなぬいとりがあった。エレスコブ家の紋章なのだ。そして、青い詰襟にはまぎれもなく金色の星がひとつ、ついているのであった。
着終ったぼくは、空になった袋にこれまでの制服や下着を詰め込んで、更衣室を出た。そうするようにいわれていたからだ。外へ出たとたん、警備隊の職員のひとりが近づいて来て、ぼくの袋を受け取り、他の人々のそれを集めてある山に載せた。それらの衣服類はどうするのだろうな、と、ぼくはちらと考えた。あんな風に寄せ集めてしまっては、もうどれが誰のものか、見分けがつかないはずである。と、すると、不用になったそれらは一括して処分されるのだろうか? 下着類は多分そうだろうが、制服のほうは……消毒し手直しをして、次の訓練に使用するのだろうか? けれども、それはもはやぼくにはかかわりのないことであった。ぼくがタッチしたり、気にしたりする必要のない問題なのである。というより、かかわりのない事柄に、やたらに首を突っ込まないのが、組織に身を置いた人間というものである。そのことを、ぼくもぼちぼち知りはじめていたのだ。それでいて……やっぱりそんなことが気になる癖は残っている。その意味では、ぼくは古典的な組織人ではないのかも知れない。それとも組織人そのものになり得ないところがあるのかもわからない。
しかしながら、そうした想念というか迷いの心は、ほんの僅《わず》かな間のものであった。ぼくはすぐに任命直前の警備隊員の気分を取り戻した。
正午。
真新しい制服になったぼくたちは、カントニオの点呼を受け、縦一列になって式場へ入って行った。順番は、この前の試合の出場順である。それがもっとも適切なやりかたかも知れない、と、ぼくは思った。なまじ成績順とかその他のもっともらしい順番になるよりは、このほうがみんなの気持ちにぴったり来るであろう。ぼくももちろんそうであった。
式場は、豪華であった。正面の演壇のうしろには真紅の緞張《どんちょう》[#校正1]がさがり、床にはこれも真紅のじゅうたんがしきつめてある。両側にはテーブルと椅子が置かれ、そこには警備隊の士官たちが着席していた。士官たちだけではない。もっと上席のほうには、内部ファミリーのバッジをつけた黒衣の人々もすわっている。
ぼくたちは、じゅうたんを踏んで進み、式場中央に横一列に並べられた椅子に、順々に腰をおろした。中央には、ぼくたちの席しかないので、本当ならがらんとした感じになるはずだったにもかかわらず、そうではなかった。むしろ、重苦しい、厳粛な雰囲気に包まれていた。それは、真紅のじゅうたんのなせる効果であり、居並んだ人々の沈黙のせいであろう。そういえば、三日前のあの試合のときとは打って変って、ここにはざわめきも拍手もないのであった。ぼくたちが着席し終り居ずまいを正すと、静けさはいよいよ鋭くなったようである。
左側の最末席に着座していたカントニオが立ちあがり、うやうやしく一礼した。誰に対してという礼ではなく、ぼくたちが用意出来たことを告げる合図だったらしい。その横にいた一級士官のキット・ベイハムが、任命式のはじまることを宣言し、ぼくたちに起立を命じた。
ぼくたちは佇立《ちょりつ》した。
キット・ベイハムの乞いに応じて、右側最上席にいた人物が、席を離れ、演壇にあがった。それは保安委員長――中枢ファミリーのメンバーであり政策立案執行会議の一員である、むろん警備隊長のモーリス・ウシェスタよりもはるかに高位にあるエレスコブ家の幹部だった。ぼくたちが保安委員長を見たのはこれが初めてだったのだ。
保安委員長は、長くは喋らなかった。二分か三分間、きみたちはこれからエレスコブ家のファミリーになるのであり、それもきわめて重要な仕事である警備隊の一員になるのだという旨の話をし、任務に忠実であるようにと要請しただけである。ぼくには保安委員長がどんなタイプの人間であるか観察するひまもなかったし、印象もごく淡いものであった。
保安委員長が席に戻ると、モーリス・ウシェスタが立って、演壇の真下、ぼくたちの正面に来た。ウシェスタは、特別な格好をしていなかった。ただの一級士官の服装である。警備隊の階級の最上位は一級士官なのだから、それで当り前なのかも知れないが、どうも妙な感じであった。警備隊長なら警備隊長らしい派手ないでたちがあってもいいのではないか、と、ぼくは思い……それから、その左胸に内部ファミリーの小さなバッジがついているのを認めて、納得した。そうなのだ。警備隊長がモーリス・ウシェスタであるのを知らぬ正規隊員はいないはずなのだから、今さら隊長であることを誇示する必要はないのである。正規隊員でない非ファミリーの傭兵にとっては、警備隊長も一級士官も大差ないかも知れない。となれば、一級士官のスタイルで充分なのだ。地位を示すためには、内部ファミリーのバッジひとつあればいいのである。それはもちろん、時と場合によっては、モーリス・ウシェスタは、はなばなしい格好をするのかもわからないけれども……今は、たしかにそれでいいのであった。
士官がふたり、車輪のついた荷台を押して来た。ウシェスタの横に来ると士官たちは荷台を止め、その上にかけてあった赤色の布をとった。
荷台に載っていたのは、剣の山と、積みあげられた黒い平べったい箱である。
「ただ今より、勤務命令書と認識票、及び剣を手交する」
キット・ベイハムが、自席の位置で立って告げた。
「名前を呼ばれた者は警備隊長殿の前に出て受け取り、席に戻ったら認識票を首にかけ、剣を腰に吊って、待機するように」
つづいて、カントニオが席から離れて、モーリス・ウシェスタの斜めうしろの位置についた。
キット・ベイハムが、名簿を手にして、最初の名前を読みあげた。入場した通りの順番らしい。呼ばれた者は前に進み出て、ウシェスタの正面で直立不動の姿勢をとった。
モーリス・ウシェスタの斜めうしろのカントニオは、何もしようとはしなかった。どうやらカントニオの役目は、呼び出された人間が当人に相違ないのを見極めることにあるようである。
荷台のわきの士官は、台から黒い平べったい箱と、剣とを持ちあげて、ウシェスタに渡す。ウシェスタは頷いて受け取り、目の前の新人に差し出した。その新人が頭を垂れて受けるのに、低い声でひとことふたこと、何かいい、握手を求めた。
ふたりめの名前が呼ばれた。
そして三人め。
ウシェスタは、ひとりひとりに箱と剣を渡し、言葉をかけ、握手を求めるのである。
呼び出されるのは、やはり、入場順、つまり試合のときの順番通りである。となれば、ぼくは一番あとなのだ。ぼくは起立のままで、次々と仲間が出て行き、箱と剣を授けられて戻って来るのを見ながら、そして戻って来た連中が箱をあけて認識票を首にかけ剣を吊る気配を感じながら、じっと正面を注視していた。
そうしているうちに、ぼくは、なるほど当然そのはずではあるが、考えようによっては面白い事実に気がついた。荷台のわきの士官たちは、箱を持ちあげるさいには入念にその蓋を検分してからウシェスタに渡すが、剣のほうは手あたりしだいに、どれでも同じという調子でとりあげるのである。ぼくたちは講習で、剣は警備隊員としての身分の象徴ではあるけれども、戦闘のさまたげになるときは外してもいっこうに差し支えないし、万一紛失しても、(文句は多少いわれるが)給料から差し引きで新しいものを支給してもらえるのだと教えられた。これはファイター訓練専門学校ではとても考えられないことである。ファイター訓練専門学校の学生は、制服に短剣を吊るのがきまりだ。ろくに切れない格好だけの短剣だけれども、失ったりしたら大ごとである。退校とまでは行かないにしても、成績に大きく響くのは間違いない。精神的なたるみがあると見倣されるからだ。伝統的な精神主義が残っているのだった。ところがここではすべてが実際的であり、実戦本位で、剣はただの剣、道具のひとつに過ぎないのである。だからあんな風に無作為に渡すのだ。どの剣を誰に与えても似たようなものだというわけだろう。そのことを、ぼくはあらためて認識し……むしろそれが当り前ではないか、と、積極的に肯定する気持ちになっていたのであった。
ヤスバが戻って来た。
「イシター・ロウ」
名前を読みあげられて、ぼくは進み出、きちんとした歩調で、モーリス・ウシェスタの前へ行き、足をそろえてとめると、背筋を伸ばした。
「イシター・ロウか」
ウシェスタは呟き、一瞬、ぼくを、腹の底まで見通すような目でみつめた。ぼくはまたたきもせずにその目を見返し……ウシェスタはかすかに唇のはしを歪めた。苦笑に似ていたが、そうだったのかどうか、ぼくにはわからない。それでいて、ぼくは威圧感をおぼえていたのだ。ウシェスタには、何かがあった。ぼくには察知できない何かを持っていた。
ウシェスタは、士官の手から箱と剣を取ると、ゆっくりとぼくの前に持って来た。ぼくが何となく予期したような、突発的なはげしい動作ではなく、自然な動きであった。ぼくは型の通り上半身を傾け、両手でそれを受け取った。
「おのれの力を過信するなよ」
ウシェスタの低い声が、ぼくの耳を衝《う》った。「いつまでも向こう意気の強さが通用すると思っていると、いずれは破滅する。それを忘れるな」
ぼくは黙って、箱と剣とを押し頂いた。何もいい返す気にはなれなかったし、第一、そんな真似は許されてもいなかった。だが、その言葉がぼくの胸に、不吉な警告、あるいはまがまがしい予言として響き渡ったことは否定出来ない。
ウシェスタは、何をいいたいのだ?
ぼくに、どうしろといいたいのだ?
けれども……解答は得られるべくもなかった。ぼくはそのまま後退し、向きを変えて席に帰りついた。
戻ったぼくは、箱を椅子に置いて、まず、留金のついた剣を手早く腰に吊り、それから箱を持ちあげた。黒い平たい箱の表面には、金文字でぼくの名がしるされている。その蓋を開くと、蓋の裏面に、勤務命令書と書かれた封筒が、バンドで固定されていた。封筒には封がしてあり、ここで今、中を見る余裕はない。また、キット・ベイハムは、認識票をつけ剣を吊れといっただけなのだ。封筒はあとである。ぼくは箱の中に小さな渦を巻いている銀色の鎖をつまみあげた。鎖には、二センチ四方ほどの金属板がついている。ぼくのエレスコブ家警備隊員としての登録番号を刻印した認識票なのだ。ぼくは制服の襟を開きボタンを外してから、鎖の両端を両手の指につまんで首に廻し、留めた。ボタンを掛け直すと、それを待っていたらしいキット・ベイハムの声が、場内に流れた。
「新隊員は、抜剣! 正面にむかって敬礼!」
ぼくは、みんなと共に剣をさやから抜き、正面の、ウシェスタの方向にむいて、敬礼をした。訓練で、剣を抜いたさいの敬礼は習っていた。柄を握ったこぶしを目の前に持って来て、剣を直立させるのだ。敬礼は二十六名全員、みごとにそろった――と、思う。
同時に、式場一杯に、エレスコブ家の正歌が鳴りはじめた。
正歌に対して、ほかの人たちも敬礼をした。ただ、剣を吊っていた者も抜剣はせず、右手を使ってのエレスコブ家の敬礼をしたのである。みじかい正歌はじきに終り、その人たちは手をおろした。キット・ベイハムが、また叫んだ。
「直れ!」
ぼくたちは剣をさっとおろし、形式通り右から左へと弧を描きながら、はずみをつけてさやに納めた。その金属音が残り……しんとなった。
キット・ベイハムが宣した。
「これで任命式を終了する。新隊員は退場!」
ぼくたちは、入って来たのとは逆の順序で、式場から退出した。
はじめの別室へ引き揚げて来て、ぼくたちが最初にしたのは、例の封筒をあけることであった。
ぼくは自分の封筒を開き、中の紙片を出した。右肩に小さく命令番号があり、本文は大きな文字でまずぼくの名前。その左に、
エレスコブ家保安部門警備隊正規隊員に任用し、エレスコブ家ファミリーの資格を認める。
とあり、年月日の下に、ドーラス・エレスコブの名と捺印《なついん》があった。ここまではすべて印刷で、印だけが本物である。
それから少し間隔をおいて、
一般警備隊護衛部・第八隊(エレン・エレスコブ付)勤務を命ずる。
と、肉筆でしるされ、年月日と、あと、保安委員長ハクヤ・ヨーセツ及び警備隊長モーリス・ウシェスタのサインがあった。
そうなのであった。
ぼくは、ここに正式に、エレン・エレスコブ付の護衛員に任命されたのである。
今の任命式によって、ぼくの心はたしかに高揚していた。そして、今のこのものものしい勤務命令書は、さらにぼくを奮い立たせた感じであった。ぼくにすれば妙なことだ――と、もうひとりのぼくがそれをひややかに眺めていたのは本当である。が……今はその影も薄かった。ぼくがこれまできわめて懐疑的であり計算をしがちだったのは、もっともらしく荘重な事物のその裏に、いつも仕掛けがありごまかしがあると知って来たからである。それは、とりも直さずぼく自身が、そういうもっともらしく荘重なものを、出来ることなら信じたいという欲求を持っていたからで、そこから裏切られるのがいやだったのだ。裏切られる前に疑ってかかり、心の用意をしておこうと構えていたからである。だが、このときは、ぼくはそれなりに、家の制度や家が持つ虚構や欺瞞《ぎまん》をすでに熟知しているつもりであり、それをわきに置いておき気をつけていさえすれば大丈夫なのだ……いや、その留保条件さえつけておけば、少々いい気分になったって構わないではないか、と、おのれを許していたのであった。
ぼくは、求められるままに、何人かの仲間にその命令書を見せ、相手のも見せてもらった。そうした仲間たちは、すでにぼくに隔意を抱かず、お互いそれぞれの道があり、それぞれに合った命令を受けたのだという態度であり……それがまた、ぼくを浮き浮きとした気持ちにさせたのだ。
が。
そのとき、ぼくの目は、ヤスバのそれと合った。
「貴公は、やはり護衛員か?」
と、ヤスバは、命令書を見せろともいわずに訊いた。
「そうだ。きみは?」
ぼくが反問すると、ヤスバは、ほとんど関心がないような口ぶりで答えた。
「おれか。おれはカイヤント勤務さ。予定通りな」
「カイヤント……?」
ぼくは、ヤスバを見た。カイヤツ府どころか、この惑星でもない。隣りの星なのである。同じカイナ星系ではあるが、別の惑星は別の惑星に違いない。
そんな遠くへ……?
ぼくの心理は、顔にあらわれたのに違いない。ヤスバはそれを見て取って、逆にぼくをなぐさめるように、うっそりといった。
「これでいいんだ。事業所部隊だが、最初から傭兵の小隊を持たされることになるんだから」
「――そうか」
ぼくは頷いた。正規隊員が不足勝ちな事業所部隊なら、そんなこともあるのかも知れない。そして、ヤスバなら立派にそれをこなせるし、ヤスバの性に合っているのかも知れない。ぼくの気持ちは、少しあかるくなった。
「なあ、今の任命式、ちょっとしたものだったな!」
突然、ひとりの男が、ぼくたちに声をかけて来た。「この間の試合から考えて、任命式もおざなりじゃないかと思っていたが、保安委員長も出席したし、なかなか本格的だったじゃないか!」
「そうだ」
ぼくは、そっちを向いて応じた。
その男は、それで満足したらしく、他の連中のほうへ行った。
「そう思うか?」
ヤスバが、ぼそりとたずねた。
「そういえるとは思うが」
ぼくは答えた。
ヤスバは薄く笑った。
「きみは、そう思わないか?」
ぼくが問うと、ヤスバは、ちょっと間をおいてから、眩いたのだ。
「貴公は、おれが任命式に出たのはこれがはじめてでないことを、忘れている」
「…………」
それはどういう意味か――と、ぼくがさらにたずねようとしたとき、カントニオがみんなに、会食の会場へ行くのだと告げ……話はそこまでになってしまった。
会食は、カントニオがあらかじめいったように、簡単なものであった。カントニオをはじめとする研修担当者と、それにぼくたちだけの食事である。ほかには誰も出席しなかったし、格別の余興があるわけでもなかった。だが、カントニオたちには、役目を果たしたという安心感があったのだろう。これまでとはことなり、気軽によく喋った。ことにカントニオは饒舌《じょうぜつ》だった。カントニオは、自分は自分なりに基礎研修をやったつもりだといい、そのためには、新人ひとりひとりの事情も考え合わせ、脱落しないように気をつけながら努めて来たのだけれども、そういうやりかたを好まぬ担当者も、年によってはいる、もっときびしく一律にきたえるべきだと主張する者もいるが……自分はこれでいいと信じている――というようなことを、繰り返して話し……それからみんなを見廻して、低く、いったのだ。
「ところで……これから四年か五年経って、お前たちがどうしているかだが……どういうことになっているのかな」
ぼくを含めて大半の新人は、それを励ましと期待の言だと受けとったが……そのぼくの目に、ヤスバがまた薄笑いを浮かべるのが映ったのであった。
会食のあと、ぼくたちはまたもや列を作って警備隊本部ビルに帰り、そこで解散した。それぞれが自分の部屋へ戻り、食堂が開く時刻になるのを待って、思い思いに集まったのだ。
ぼくが食堂に入ったのは、午後六時ちょっと前であった。剣は携行しなかった。士官と違って正規隊員は、勤務か特別な場合以外には剣を吊ってはならない。そしてこれはいうまでもなく私的な集まりである。携行は許されないのだ。しかしそれでもぼくたちは、きのうまでのぼくたちではない。制服の青襟には金色の星がひとつ、ついているのだ。たかが星のひとつぐらい、などといわないで欲しい。階級制度の厳重な組織のうちにあっては、一階級の差でも、大きいのである。ましてこの星は、ぼくたちが正式にエレスコブ家のファミリーに加えられたのを示しているのだ。剣を吊らなくとも、その新しい星のついた制服を着るだけで、充分だった。
食堂には、もうあらかたの仲間が参集していた。別に式次第とか挨拶などもあるわけでなく、勝手に寄り合って、料理を頼み、酒を飲むだけなのである。みな意気軒昂で、何人かはもう酔っ払っていた。どなったり、歌ったりしている。そしてその間を、職員たちが走り廻って、注文の品を持って来たり、世話を焼いたりしているのだ。それもきょうは、いつもの食堂の係員だけでなく、部屋の世話係たちも来ているのであった。
ぼくが入って行くと、五、六人がこっちへ振り向き、イシター・ロウだ! と、わめいた。拍手した者もいた。あとから来た者はみなそんな目に会っているらしい。ぼくはみんなの間の席にすわって、すすめられるままに酒を飲み、自分でも頼んだ。
「今夜が最後だそうだからな! 飲むだけ飲もうや!」
ひとりがどなっていた。「それにしても、みんな任命されて、よかったよかった!」
むろん、男たちだけではなく、女の新隊員たちも飲んでいた。男にまじってちゃんと研修を乗り切った連中だから、体力も男らと同格である。人によっては、そのまわりにいる男たちよりも豪快な飲みっぷりなのだ。
話題は、いつの間にか先輩たちとの三日前の試合のことになった。みんなは試合のときの様子を喋り合い、お互いに肩を叩き合ったりした。ぼくのことが話に出ると、みんなはぼくを立たせて、拍手し、また酒を飲ませるのだ。
「そういえば、ヤスバもすごかったわね!」
女性隊員の誰かが叫んだ。
「ヤスバはどこだ?」
別の仲間がいう。
「まだ来ていないのか?」
他の者もあたりを見廻した。
そのヤスバが、のっそりと、食堂の入口に姿を現わしたのだ。
「やあ、ヤスバだ!」
ひとりがどなり、何人かがそっちへ走って行って、ヤスバを連れて来た。ヤスバは逆らわず、みんなの拍手に、照れた笑いを浮かべている。
「お代り、いかが?」
うしろから、ぼくに声をかけた者があった。見ると……シェーラだ。
「きみも……?」
ぼくは訊いた。
「きょうは、総動員なんですよ」
シェーラは微笑し、ぼくのグラスを受け取ると姿を消し、すぐにお代りを持って来た。
座は、だんだんと乱れて来た。
以前から仲が良かった男と女は、肩を抱き合ってささやいている。ひやかす者もいるが、誰も本気で構おうとはしない。みな、飲んだり食ったり歌ったり、議論をしたり踊ったりで、忙しいのだ。世話係の女を両手で持ちあげて力を競っている連中もいた。
「なあ、イシター・ロウよ」
ひとりが、ぼくの肩に手をかけて、ややろれつの廻らぬ声でいいだしていた。「貴様が試合で相手をした……あいつ……何といったかな?」
「トリントス・トリントか?」
「そう! トイントス・トイント! いや、ト、リントス、卜ーリントスか。どうだっていいや」
そいつはわめいた。「あいつ……いかんな! おれたちの練習の邪魔をしやがって! あれ……一族らしいな! 一族のくせして……おまけになんであんな奴が、一級士官だ?」
「知るもんか。あんな奴」
すでにぼくもだいぶ酔っていた。だからそんな風に受けることが出来たのだ。
「あいつは、貴様を憎んでるだろうな。あんなにやられたんだからな」
そいつはつづけた。――あんな野郎、殺してしまっても良かったんだ。いやな野郎だ。殺した奴は憎まれるだろうが、それなら貴様が殺しゃいいんだよ。たしかにいい奴だが貴様はどうせファイター訓練専門学校出の優等生で、護衛員になれる結構な身分だからな!
もう聞かずに済むはずだったせりふを耳にして、ぼくはあっけにとられ、ついでかっとした。こいつ! またそのことをむし返すのか。
だが。
ぼくはそこで自分の神経が凍りついたのをおぼえた。相手の唇は全然動いていないのであった。
一秒たらずの、意識の空白があった。
周囲の声は、にわかに大きくなっている。いや……声ではないのだ。ぼくが感知しているだけなのだ。
到来か――と、ぼくは思った。
エスパー能力が……こんなときに、起きあがって来たのか?
ぎくりとしたが……ひやりともしたが……そんなに強くはなかったのは、やはり、酔って感受性が鈍くなっていたからであろう。
「どうした? ぽかんとして、こいつ、飲み過ぎやがったな?」
相手は、ぼくの頭を二、三度軽く叩いた。――案外酒に弱いのかな、こいつ、という、その意識を残して、そいつは笑いながら立ちあがり、どこかへ行ってしまった。
ぼくは、すわったままであった。
いくつもの想念や意識が、ぼくの頭の中に飛び込んで来る。それらは、言葉でありながら言葉ではないのだ。意味や、それにともなうかたちや色もありながら、実体は何もないのである。的確な表現は不可能だが、それは夢の中の事象に似ているのだ。それとも頭の中に瞬間に湧きあがるイメージとでもいうか……人が何かを、誰かを思い浮かべるとき、そこに出て来るのは具体的な事物ではなく、象徴的な、総合されたもので、どうしても描写は出来ないものだが……あれに似ているのである。そうした感覚が、いくつもいくつも重なって、ぼくの中に飛び込んで来るのだ。これは、まぎれもなく、ぼくにエスパーとしての能力の、そのテレパスの出現を教えていた。ぼくはそのことを知っていた。
しかし……ぼくは本物の常時のエスパーではない。常時のエスパーなら、それらを整理し、活用することが出来よう。そういう訓練機関もあるし、自分自身で能力の扱いかたをマスターして行くのだ。ぼくはその点、ほとんど未訓練であった。コントロールは出来ない。コントロールどころか、おのれの能力や、知りたくもない事柄を知らされるのに、恐怖と嫌悪を感じるときさえあったのだ。
「どうした? 気分が悪いのか?」
上から声があって、ぼくは顔を上げた。テレパシーではなく、肉声だった。
ヤスバである。
ヤスバは……心配してくれていた。彼の内面にはたしかに、ぼくに対する屈折した感情があったが、彼の意識はそれを押さえ、隅へ押し込もうとしていた。彼自身気づかずにそうしているのだ。ヤスバは、ぼくに敬意も抱いていた。それ以上に、ぼくが考えていたよりもずっと強く、ぼくに好意を持ち、友人として考え、ぼくの身を心配してくれていたのである。ぼくは兄を持ったことがなかったけれども、兄の感情とはこんなものかも知れなかった。
「ありがとう。大丈夫だ」
ぼくは小さな声で答えた。
「いいのか?」
ヤスバはたずねる。
「大丈夫だ。しばらくほっといてくれ」
ぼくは繰り返した。
ヤスバは頷いた。
――ただの飲み過ぎかな。それならいいが。
「無茶飲みはやめろよ」
いうと、ヤスバはそれ以上ぼくに構おうとせず、騒いでいる仲間のほうへ、歩み去って行く。
ぼくはほっとした。ヤスバの心の中でぼくがそういう位置にあるのを知ったのはうれしかったが、つづけて話しているうちに、いつヤスバも、ぼくの知りたくない感情を湧きおこすかわからない。そうなると決まったわけではないものの、可能性はあるのだから……その前に行ってくれたのが、有難かったのである。
それにしても……。
なぜこんなときに……。
みんなは、どんちゃん騒ぎをしている。そのどんちゃん騒ぎの渦の中に、この状態でいつづけるのは……みんなの気持ちを見せつけられるのは、とても耐えられなかった。それに本当にどっと酔いが廻って来た感じもあるのだ。こうなれば、先に自室へ引き揚げるほうが、ましかもしれない。
ぼくは立ちあがろうとし、足をすべらせて膝をついた。
「馬鹿ね。こんなに酔って」
ぼくの前に、シェーラが立っていた。
シェーラ。
その顔は、怒っているようでもあり、おかしがっているようでもある。
そんなシェーラの本心を見たくはない、見るのがおそろしい、自分を好いていてくれているように見える彼女の本当の気持ちを知るのはおそろしいーとの意識とはかかわりなく、ぼくの能力は、シェーラの心を本能的につかもうとしていた。
なかった。
空白なのだ。
シェーラの心の中には、何もないのであった。
これは……あり得ないことであった。ぼくはエスパー時に、ロボットと対面したことがある。ロボットからは何も感知出来なかったのだが……あれと同じだ。シェーラは……ロボットか? いや、ぼくはこんな人聞そっくりのロボットが存在するとは聞いたことがない。すくなくともネプトーダ連邦にはそんなものはないはずだ。
まさか……。
ぼくは、ぽかんとシェーラをみつめたまま、彼女の心の奥をひとりでに探ろうとしていた。奥は……白かった。妙ないいかただけれども……白紙であった。
いや。
違う。
それは、障害だったのだ。カーテンかベールに似た、ぼくにはそこから先は感知出来ない膜があるのだった。膜にさえぎられて、ぼくには何も見えないのだ。
「どうしたんです? 立ってください」
シェーラは笑いながら、ぼくに手を差しのべた。
ぼくはその手を握った。
わっ、と、無数の感情が、ぼくに襲いかかって来た。離れていたときには何も感知出来なかったシェーラの感情が、接触によってどっと流れ込んで来たのだ。それは、奔流さながらに一度に殺到したために、ぼくには分析不能だった。その中には、ぼくが好きという気持ちも、エレスコブ家警備隊に対する意見も、日常生活の感覚も、さらにはこの食堂の騒ぎへの反応も……さらに、ぼくにはよくわからぬもろもろの雑物があった。宇宙とか星域とかネプトーダ連邦、カイナ星系……そうしたことどもが、たしかにあったようだが、すべてが一体となっているために、到底読み取れなかった。ぼくが感じ取ったと思うのも実は錯覚かも知れない。ただ……その中のひとつだけは、はっきりとぼくにわかった。シェーラは、ぼくの気持ちを知りたがっていたのである。その意思が一番表面に出ていたために、それだけは何とかわかったのであった。
しかしながら、これは、手と手が触れ合ったその瞬間のことである。
シェーラは、さっと手を引っ込めて、ぼくを注視した。目を大きくして……立ちつくした。
「――なったのね」
シェーラは呟いた。ぼくはそのかすかな声を耳で聴いたのだ。彼女の心は相変らず空白だった。そう考え、そう口にしたにもかかわらず、テレパシーでは感じられず、声で聞いたのである。
シェーラは、そのときには、もう身をひるがえしていた。向きを変えて……食堂を出て行く。
シェーラは……?
シェーラは……どうなっているのだ?
あの空白は何だ?
空白の奥にあったものは、何だ?
手を触れたときに、なぜどっと彼女の意識が流入して来たのだ? あれは、どういうことなのだ?
そして……そんなシェーラは、何者なのだ?
シェーラを……。
ぼくは、立ちあがった。
追うのだ。
シェーラを追って、問いたださなければならないのだ。そうしなければ、とても気が済まなかった。
ぼくは、食堂を出て、ドアのむこうに行ってしまったシェーラを追った。酔ってはいたが、そのくらいのことは出来たのだ。それとも、ぼく自身は自覚していないが、酔って床に膝をついたようなぼくが、彼女を追おうとすれば追えたのは……これもエスパーとしてのぼくの、思念力のせいだろうか? 不定期エスパーでありながら、不定期であるがゆえに、ぼくはエスパーとしてどの程度の水準の存在なのか、本気で究明しようとはしなかった。また、テレパシー以外に、思念力を使ってしまった経験はあるが、それはエスパー時にはいつも使用可能なのかどうか、そのほかにも何か能力があるのか……正確なことは知らないのである。
食堂を出たぼくは、廊下をむこうへ急ぎ足で歩いて行くシェーラを認めた。
「待ってくれ!」
ぼくは走った。
シェーラは、ちらりとこっちを見ると、歩みを早めた。
ぼくは追った。
階段のところで、シェーラはもう一度振り返り、角を曲った。
ぼくは駈けた。
シェーラの行った方向(そのあたりまで来ると、あたりには誰もいなかった)へと曲ったぼくは、階段のわきのくらがりのなか、こちらへ向き直ってたたずんでいるシェーラを見つけて、走り寄ろうとした。
「待って」
シェーラは、てのひらを向けて両手を突き出した。「そこで立って……わたしの質問に答えて」
「…………」
ぼくは、シェーラの手前、二メートルのところで、足をとめた。
シェーラは、質問に答えろという。
たずねたいのは、むしろぼくのほうなのだ。
が。
彼女がそういうのだ。
ぼくの質問は、そのあとでも出来るだろう。
ぼくは待った。
「イシター・ロウ」
シェーラは口を開いた。「あなた……エスパー化したんでしょう?」
ぼくは、無言で肯定した。
「エスパーの時期は、どのくらいつづくの?」
シェーラは、また訊く。
ぼくは、こちらから問いを投げたい気持ちを抑えて答えた。
「わからない。二、三日のこともあるし、二週間近くつづいたこともある」
「エスパー化すれば、その旨を届けなければならないんでしょう?」
と、シェーラ。「あなたは特殊警備隊員ではなく、一般警備隊員で、しかも護衛員だから、エスパー時には勤務から外される。不利な扱いを受けるわ。ことに、今のこの時期にエスパー化しては、大きなマイナスになるわね。そうでしょう?」
「そう」
ぼくにもそれは、よくわかっていた。
「それだけ聞けばいいの」
シェーラは、身体の力を抜いた。
「今度はこっちの番だ」
ぼくはいった。「きみは、いったい――」
けれども、シェーラは首を左右に振った。振りながら、ぼくのほうへ歩み寄って来て、すぐ前に立ち、ぼくを見あげたのだ。
「今は何も訊かないで」
「しかし」
「お願い」
「…………」
「わたし、あなたが好きなんです。嘘じゃないんです。だから――」
シェーラはいうと、だしぬけに手を伸ばして、ぼくの首を抱いた。ぼくの目をひたとみつめて、手に力を入れたのだ。
回答になっていない。シェーラは何も答えていない――と、頭では思いつつ、ぼくは抗し切れなかった。いや、この前の衝動が……シェーラへの気持ちがにわかに高まって、こちらから彼女を抱きしめていた。ぼくはシェーラの顔を引き寄せ、唇を重ねた。甘美な――というよりは、もっと強烈な陶酔であった。ぼくはめまいをおぼえつつ彼女の唇をむさぼり――不覚にも意識がかすんで足の力がぬけるのを感じた。自分の頭の中でか、シェーラから流れ込んで来るのか、幾千幾万の花や蝶が乱舞するのにも似たおびただしい想念、数え切れない感情が、ぼくを包み込んだ。それはぼくを圧倒し、それから……いっせいに飛び去って行ったのだ。
気がつくと、シェーラはぼくの手から離れ、ぼくを見ていた。ついで、にっこりすると、ぼくの横をすり抜けて、階段をあがって行ったのである。
ぼくは何かいおうとし、彼女を追おうとしたが……出来なかった。なぜか、おそろしく疲れていた。全身が今にも崩れてしまいそうな疲労感である。しかも、酔いが再び還って来たらしい。ぼくはその場に尻をついて、休んでいるうちに、眠ってしまった。
目をさましたのは、自室の中である。
もう、朝であった。窓はあかるい。時計もそのことを示している。もしもいつものように訓練があったら、完全に寝過ごしていた時間であった。
ベッドに横になったまま、ぼくは昨夜のことを思い出そうとした。みんなに起こされて、やっと起きあがり、這うようにしてこの部屋に戻って来たこと……食堂の騒ぎ……そしてシェーラ。
シェーラ。
疑念がよみがえって来た。
シェーラは……。
だが、ともかくは起きねばならぬ。何かぼくに対する指令が来ているかも知れないのだ。
ぼくは身を起こした。頭が重いのに耐えて送受話器の前に来たが、何もなかったようである。しかし、とにかく連絡はとらなければならないだろう。
そのとき。
ノックの音が聞えた。
インタホンで応じると、世話係の女だという。シェーラではない女だった。
ぼくはドアを開けようとし、その下に、一枚の折り畳んだ紙片がさし込まれているのに気がついた。それを拾いあげてから、ドアを開く。
世話係の女は、いつものように、室内を点検し、シーツをとりかえたり備品を整えたりしはじめた。ぼくは部屋の隅で待ちながら、紙片を開いた。
走り書きの文字が、目に飛び込んで来た。
またお会いすることになるでしょう。ご自分を大切に。お元気で。
[#地から2字上げ]シェーラ。
これは……?
「教えてくれませんか?」
ぼくは、世話係の女にたずねた。「シェーラは……どうかしたんですか?」
「ああ、あの子。きのうの夜中に辞めると申し出て、けさ早く、出て行きましたよ」
女は、動きながら応じた。「みなさんにご挨拶したいけど、どうしても急に故郷に帰らなければならなくなったといって……。イシター・ロウさんには置き手紙をして行くといっていましたけど……それがそうなんですね?」
「…………」
ぼくは、すぐには何もいえなかった。
なぜ?
なぜシェーラは急に……?
女は、ぼくが口をきいたためか、きのうは大変だったでしょう、とか、きょうは新任の隊員さんは一日ゆっくり出来るはずですよ、とか、いろいろ喋ったが、ぼくはなかば上の空であった。
どうしてシェーラは、まるで逃げるようにして、行ってしまったのだ?
わからない。
わからぬままに、世話係の女を送り出したぼくは、そこで自分の身に、予想もしなかったことが起こったのを知った。
ぼくは、世話係の女の心を読めなかったのである。
かつて例のないことだが……ぼくのエスパーとしての能力は、一晩で消えてしまっていたのであった。
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護 衛 員
任命式の翌々日、ぼくは護衛部の宿舎に移り、あたらしい仲間と顔を合わせた。そこで任務についての申し渡しと説明を受け、二日後には、エレン・エレスコブへのお目見得もはたしたのである。その次の日には、実質的には見習いとしてではあるが、早くも勤務についていた。
――と、しるしてくると、いかにもスムーズなようだけれども……そして、手続きそのものは容赦なくてきぱきと運ばれたのも事実だけれども……ぼく自身の気持ちからいえば、そんなに簡単なものではなかった。順応するにはそれ相応の努力を必要としたのだ。
ぼくに宿舎を移るように命じたのは、はじめて見る二級士官であった。レクター・カントニオではなかった。ぼくはすでに新人研修担当の手を離れ、護衛部に所属していたからだ。その士官は送受話器のスクリーンに姿を現わして、ぼくの名前を確認したのち、私は護衛部第八隊長のヤド・パイナンだと名乗ったのである。ヤド・パイナンは、ぼくに護衛部のありかは知っているかと問いかけた。ぼくは、あれがそうなのではないかと見当はつけていたものの、正確には知らなかったので、その旨を正直にいった。ヤド・パイナンは、するとスクリーンに一枚の地図をひろげて見せ、ここだと指で示した。ぼくが考えていた建物に違いなかった。ぼくは、わかりましたと答えた。
「よろしい。では、今すぐに、護衛部に来るのだ」
と、ヤド・パイナンは命令した。「お前の宿舎は用意されている。身ひとつで来るがいい。その部屋の荷物は、後刻、世話係が新しい部屋に運んでくれる。いいな?」
ここは、反問などしないのがいい場面だったかも知れない。が……身ひとつというのは、いささかふ[#「ふ」に傍点]に落ちなかったのだ。首にかけている認識票は、これは問題ない。つねに肌身離さず身につけていなければならないものだからだ。しかし、配属先に行くのに、勤務命令書は要らないのか? それに剣は……?
「お伺いしますが、勤務命令書と剣は……持って行かなくても、いいのでしょうか?」
ぼくはたずねた。
この質問に、ヤド・パイナンは、あまり気を悪くした様子はなかった。代りに、苦笑のような表情を浮かべたばかりである。
「ああ……命令書と剣か」
ヤド・パイナンはいった。「持って来たければそうしてもいい。あんまり意味はないがね。それに、剣は携行するとしても、吊るなよ。手に持つんだ。これは勤務じゃなくて赴任だから、平隊員が剣をぶらぶらさせていては、ほかの部門の連中がうるさい」
「わかりました」
ぼくは直立して返事をした。これからの直属上官であり士官である相手が、予想外に親しげで階級差にこだわらないのが、ちょっとした驚きであり、うれしくもあった。だが、だからといってこちらがつけあがり、なれなれしい態度をとるのは禁物である。先方がやわらかく出れば出るほど、こちらがけじめを守るのが礼儀というものであった。
「よろしい。待っているぞ」
いうと、ヤド・パイナンは送受話器のスイッチを切った。
ためらいは許されない。
ぼくは、部屋の中を見廻した。六十日以上も暮らした部屋なのだから、それなりの愛着もあるが、命令とあれば、仕方がない。このまま出て行くしかないのだ。ぼくは勤務命令書と剣に目を走らせ、やはり持って行くことにした。命令書はぼくにとって大切なものだし、剣は何かあったさいには役に立つ。ヤド・パイナンはどっちでもいいといったのだから、たずさえて行くにこしたことはない。ただ剣は、いわれた通り腰には吊らず、左手でつかんで――廊下へ出た。階段をくだり、一階ロビーを抜けて、外へ出た。
そうしながらも、ぼくの脳裏には、いろんな事柄がかすめ過ぎていたのだ。これまでの仲間の新人たち、なかんずくヤスバとは、ろくに別れの挨拶もしなかったのである。何人かとは前日の夕方、食堂で出会い、少しは雑談もしたのだが、ヤスバとは会わなかった。たしかにカントニオがいったように、ぼくたちが一堂に集まる機会は、その前日、つまり任命式の晩が最後だったということなのであろう。それでもなおかつぼくは、何となくまたみんなと一緒になりそうな錯覚を抱いていたのであった。こうしてあたらしいポストに赴く今となっては、それも空しい期待となったわけだ。いや、ぼくだけでなく、ヤスバをはじめ他の連中も、それぞれの命令を受けて出て行ったか、出て行くかするのに違いない。今度出会うのはいつか……出会うことがあるのかどうか……それさえも、何ともいえないのであった。
会えないといえば……そこでまた浮かんで来たのが、シェーラのことである。きのうは何度となくシェーラのことを考えて、依然としてわけがわからなかったのだが、それがまたもやよみがえって来た。彼女は何者で……なぜ出て行ったのだろう。どういうつもりだったのだろう、と、その疑問が湧きおこって来たのであるが……今のこの瞬間は、それよりもシェーラがもう居ないのだとの、喪失感のほうが強かった。彼女は、またお会いすることになるでしょう、と、置き手紙をして行ったが、はたしてそうなるのかどうか……怪しいものであった。
しかし。
これらの想念は、いってみれば未練なのである。ふっきらなければならぬときには、ふっきらねばならない。
玄関へ来たぼくは、護衛部へと、走りはじめた。こういう場合、警備隊員は歩こうと走ろうと自由なのだ。隊員は、場所や状況によっては移動方式を指定される。雰囲気を乱してはいけない典雅な場では、どんなに急ぐときでもゆっくりした歩行を守らねばならないだろうし、逆に、緊急時とか、いつ非常事態が発生するか知れない緊迫した状況下では、つねに全速で駈けることを命じられる可能性もある。緊急時には当然そうあるべきだが、緊迫した状況下では、何かおこってからにわかに走りだすことで周囲に不安を抱かせる結果になるからだ。が……今の場合、ぼくはどうでもよかった。ここは屋敷うちであり、特にあわてる必要もないときだから、どうしようとぼくの勝手であった。勝手だけれども、同じ行くなら早いほうがよかろうと判断して、走りだしたのである。いや……それでは嘘になる。ぼくが駈けだしたのは、それ以外にもうひとつ、理由があったのだ。ぼくは、おのれの心の中の雑念を断ち切り、自分を励ますために、走ったのだった。むしろ、こちらが主たる動機だったのかも知れないが……よくわからない。ぼくは実際のところ、ふたつともひっくるめた意識のもとに、なかば衝動的に走りだしていたのである。
そして、それでよかったのだ。護衛部までは相当の距離があったし、走りつづけるうちに、訓練のときと同様の感覚が生じて来て、雑念は消えて行ったからである。ぼくは林の中の道や、建物群の横を、これまでに走らされたように駈けた。行き来する人たちや、建物の前にむらがる人々は、ぼくにはほとんど無関心であった。中にはぼくのほうに振り向く者もいたが……別に好奇心をかきたてられたわけでもなさそうで……警備隊員が何かやっているらしい、というだけの表情に過ぎなかった。
護衛部の建物の前に来た。
ここは警備隊本部のあたりと違って、本邸のそばなので、樹々もそれほど多くはない。本邸はいってみればこのエレスコブ家カイヤツ府屋敷の中枢部分であり、顔でもあって、正面は屋敷の正門につづいているので、人の出入りもはげしい。(そういう話である。ぼくはまだ本邸の正面や正門のあたりには行ったことがなかったのだ)複雑な形状の、大きな建物なのである。護衛部はその裏手にあたる位置にある、四階建ての、どこか孤立した印象のビルであった。護衛部がそんな風に見えるのはおそらく背後に巨大な本邸のシルエットがそびえ立っているために違いない。そして、ぼくがここが護衛部ではないかと想像していたのは、このへんまでなら、何度も来たことがあり、ここに警備隊員が出入りしているのを見て、こんなに本邸に近いところにあるのなら、これが護衛員のいる場所ではないか、と、推測したためなのだ。
護衛部の玄関に来たぼくは、ふつうの歩行速度に戻り、右手にあった歩哨《ほしょう》詰所の前に来て、敬礼した。歩哨(ぼくより一階級上の、中級隊員だった)は、ぴしりと答礼をし、ぼくが氏名と用向きをいうのを待って、あごをしゃくった。
「入った右に士官室がある。お前の隊長が待っておられるよ」
「ありがとうございます」
ぼくが答えると、なぜか歩哨は薄笑いを浮かべた。
どういうことだろう。
何のつもりだろう。
わからなかったが……ぼくは一応、また敬礼をし、玄関へ踏み込んだ。
ひゅっ、というような音がしたのは、そのときである。
玄関の、ぼくには見えなかった横手から、何かが降って来たのだ。ぼくは反射的に飛びのき、それを避けた。同時に反対側から棒のようなものが突き出されたのをぼくはそちらへ勤務命令書の箱を投げつけ、剣をさやごと振って、外した。ぼくの視野に、数名の男たちが映った。
みな、棒を持っている。ぼくは剣を抜いて、構えた。
「やめろ」
正面の男が、棒をおろしてどなった。「もういい。剣をしまえ」
あとの男たちも、棒をおろした。
「これは何だ?」
ぼくはまだ油断をせず、かれらをにらみつけた。「何をしようというんだ?」
「やめろ」
正面の男が、またいった。
そのときになってぼくは、そいつが星三つの上級隊員であるのを見て取った。あとの男たちも、星三つかふたつの……ぼくよりも上の階級なのであった。
「これは挨拶だよ」
正面の男が、棒を捨てて、右手をさし出して来た。「おれたちは第八隊の、エレン様付の護衛員さ」
「…………」
ぼくは、剣をさやにおさめたが、まだ釈然としなかった。
「おれはハボニエだ」
正面の男は、手を出したままいうのだ。
「柄は悪いが、仕事だけはちゃんとしている。お前の噂は聞いていた。腕が立つという話だったからな。みんなでためしてやろうと待っていたんだ」
「…………」
ぼくは、まだぴんと来ないままに、相手の手を握り返した。
ほかの連中も寄って来て、ぼくの肩を叩いた。
「しかし、残念だったな」
ひとりがいった。「この恒例の歓迎では、たいていの者が一発か二発叩かれるのに……今回はゼロだった」
「では……これはテストだったんですね?」
ぼくは、やっと口を開くことが出来た。
「それで……ぽくは、合格なんですか?」
「合格も不合格もない。今いったように、ただの挨拶さ」
ハポニエと名乗った男が笑った。「お前はたまたま一発も食わなかっただけだよ。幸運な奴だ」
挨拶?
恒例?
この連中は、そのつもりでぼくを待っていたのか? そして……ぼくの頭の中に、歩哨のあの薄笑いが浮かんで来た。あの歩哨は、それを知っていたのだ。それで、ああいう顔をしたのだ。
「――ひどい話だ」
ぼくは、腕の力を抜いて呟いた。
男たちは、にやにやした。誰かが、ぼくの投げた勤務命令書の箱を拾って来て、ぼくに押しつけた。ぼくは受け取った。
「それじゃ、隊長んとこへ行けよ」
ハボニエが、ぼくの肩を押した。「ほら、あそこが士官室だ」
ぼくは歩きだした。
士官室としるされたドアをノックする。
「入れ!」
声が聞えた。
ぼくはドアを開いた。
サロンのような部屋に、五、六人の白襟――士官たちがいた。立っている者もすわっている者もあって……何か談笑している雰囲気である。ひとりが腰をあげた。ヤド・パイナンであった。
「来たか。早いな」
ヤド・パイナンは頷《うなず》き、他の士官たちに会釈をすると、部屋を出て来た。それからぼくの前に立って廊下を進み、8と書かれたドアをあけた。棚に書類を積みあげ、デスクがふたつある、執務室のような部屋だ。ヤド・パイナンは、ここが第八隊の事務室だといい、デスクにつくと、ぼくをその前に立たせて、宣誓させた。私は護衛員として、与えられた職務を果たすために、全力をつくします――という文句を、復唱させたのである。ぼくは真面目に復唱した。
「よし。これで儀式は終りだ」
ヤド・パイナンは立ちあがった。「お前は玄関で一風変った挨拶をされただろう。ああいうことはやってはならないとされているが……いくらとめても、やめる連中ではない。だが、それだけだとは思うなよ。みんな、立派な護衛員だ。そして、うちの隊員は全員、エレン様によって指名された者ばかりだから、エレン様のためなら身を張ってでも職務を遂行する。お前もそうであることを祈る」
「そのつもりです」
ぼくは答えた。
当然、そういうことだろう、と、予期していたのだ。
つづいてヤド・パイナンは、ぼくたちの仕事について、手みじかに説明した。第八隊は隊長のヤド・パイナン以下六名で、全員勤務のときもあるし、ふたりあるいは三人のときもある。出動命令があれば出て行くだけだ、ということ。エレン・エレスコブが長期にわたる旅行などをするとなると、それこそハードスケジュールになるけれども、用のないときは何をしていようと自由だということ。それからぼくの部屋はこの建物の二階の二十八号室だということ……。
「とりあえずは、その位でよかろう。もっとくわしいことを知りたければ、このパンフレットに書いてある」
ヤド・パイナンは、机の上をすぺらせて、小さなパンフレットを、ぼくのほうへよこした。
「そのうちに、エレン様があたらしい護衛員のお前をお呼びになるはずだ」
ヤド・パイナンはいった。「だが、それがいつになるのかはわからん。エレン様のご都合しだいだからな。――いっておくのはそれだけだ。出て行ってよろしい」
ぼくは敬礼をし、その部屋をあとにした。
そんなわけで、ぼくは自分の部屋がどこにあるのか、自分で捜さねばならなかった。もっとも、そんなに苦労はせずに済みそうだった。ヤド・パイナンがくれたパンフレットには、護衛部内の配置図もちゃんと載っていたからである。
そのときには、もう先程の、ハボニエと名乗った男やほかの連中は、どこへ行ったのか見えなくなっていたが……だからといって建物の中が静かでしんとしていたわけではない。何人もの隊員が行ったり来たり、廊下で立ち話をしたりしていたのだ。女性隊員もすくなくなかったが、出会う者の誰もかれもが、ぼくよりも上級者ばかりなのには、閉口した。原則として、上級の人間には、出くわせぱ敬礼しなければならないからである。ぼくはいちいち敬礼をしながら廊下を通り、階段をあがった。しかしながら、敬礼された相手はみな、意外そうな、やや迷惑そうな表情で答礼するのだ。これはひょっとすると場違いなことをしているのかな、とぼくは思ったが、やめることも出来なかった。十七人めか十八人めか……すれ違おうとした大柄な女性の士官補にぼくが敬礼すると、相手は足をとめ、顔をしかめていった。
「あんただね? やたらに敬礼ばかりしている新入りっていうのは。外へ出てならともかく、内部でそんなことをしていちゃ、面倒で仕方がないじゃないの。護衛部内での護衛員どうしは、目礼で済ませばいいのよ。それがここの不文律なんだから」
それで、その後はぼくは目礼だけにとどめることにした。
二十八号室は、じきに見つかった。前の部屋と同様、指紋錠で、ぼくの指紋と同調されていた。
部屋は、これまでよりも幾分広かった。設備は大差ない。世話係が届けてくれるはずの荷物は、まだ運びこまれていなかった。もっとも、ぼくがここへ走ってやって来たのを考えると、それが当然であろう。ぼくはデスクに勤務命令書の箱と剣を置き、窓から外を眺めた。眼下は小さな広場、というより空き地になっていて、ふたりの男が棒で打ち合っている。それを五、六人の男女が棒を手に、眺めているのだ。訓練かと思ったら、そうではなかった。ひとりが勝つと次の相手が飛び出して打ち合い、またたくうちに、勝負がついた。そんな調子で三人抜いた男が、横の何かの台に置いてあった紙幣をわしづかみにして、ポケットに入れたのだ。棒の打ち合いで賭けをしていたのである。
ぼくは椅子に腰をおろした。
今の光景といい、敬礼のことといい、みんなの態度といい……この護衛部では、規律はあまり守られていないみたいだ。これまでの生活から思うと、随分いい加減な感じがする。それはまあ、新人の訓練のときには、ことさらにきびしい生活をさせるのかも知れないが……それにしても、ここは自由過ぎるのではあるまいか。ここでぼくはうまくやって行けるのだろうか、と、ちょっと心配な気もしたのである。でもまあ、郷に入れば郷に従えだ。ぼくは、自分を見失わないようにしながら、みんなに合わせて行くほかないと思った。
エレン・エレスコブに会うために、ぼくはヤド・パイナンに連れられて、午前の陽の中を、本邸のほうへ歩いて行った。その日の朝に、エレンがぼくを呼びなさいといって来たのだそうだ。
ヤド・パイナンは士官だからむろん帯剣で、そのほかに短銃も携行していた。パイナンはこれから前の護衛員に代って勤務につくのであり、その交代のときに、ぼくをエレンに会わせるとのことであった。そしてきょうはぼくも剣を吊っている。正規の勤務ではないけれども、自分が守らなければならぬ、いわば主人にお目見得するのだから、そうしろとパイナンがいったのだ。
ぼくたちは本邸の、いくつもある入口のひとつに近づいた。入口をまもっている本邸の警備員はヤド・パイナンを知っているらしく、敬礼をして、道をあけた。
本邸の内部へ入るのは、これがはじめてである。
それに、本邸と一口にいっても、全貌をつかむのは、なかなかむつかしいであろう。ぼくは基礎研修の折に、レクター・カントニオたち担当者から断片的に本邸の話を聴いたが、本邸には家の経営やネイト及び他家との折衝・行事のための表本邸の部分と、当主・家族・一族・中枢ファミリーのための内本邸の部分があり、それぞれが必要に応じて仕切られた複雑な構造になっているようなのである。その中にはエスパーに秘密やプライバシーを探知されないようなテレパシー等の遮断材で守られた部分もすくなくないであろうし、通路も入り組んでいて、知らない者がうかつに入ると迷ってしまうという話もあった。
入ってみて、ぼくはその話が嘘ではなさそうだと思った。ぼくたちが通過した入口が、本邸にとってどういう意味を持つ場所なのかわからないが、廊下は少し行くと左右に分れたり、わき道があったりするのだ。照明はあかるく、じゅうたんもしきつめてあるけれども、だからといって来客を待つムードではない。それに、どこかからたえず監視されているような気もする。これはぼくの単なる勘だったが、そうした設備があっても不思議ではあるまい。
しかしぼくは、馴れた足どりで進むヤド・パイナンに従いながら、その道順を頭に叩き込んでいた。いくつめの角をどっちへ曲り、それからどの位行ってから――というようなことを、だ。その程度のことは警備隊員としても、いや、ぼく自身の安全と便宜のためにも、必須の心得のはずであった。もっとも、それがあまり長くややこしいと、全部が全部マスター出来たかどうか……何ともいえない。さいわいなことに、ヤド・パイナンは、入って五分位のところで、足をとめた。あまり大きくはないが左右に開く扉の前で、である。そこには剣と短銃を携えた隊員がふたり、たたずんでいた。男と女だ。男のほうは、ぼくは知っていた。護衛部に来たさいに挨拶≠してくれた、あのハボニエだ。とはいうものの……ぼくはそれをすぐにハボニエだと認めたわけではない。初めて会ったときや、そのあとも護衛部の建物の中で出くわしたときの感じとは、まるでことなっていたからだ。それまでの印象は、きわめてくだけた、多少乱暴なところがあったのに、今は表情までが違っていた。鋼鉄のようにぴんと佇立《ちょりつ》し、眼光も鋭いのである。そして女性隊員のほうだって、きびしさと油断のなさは、同様であった。
ふたりは、ぼくがどきりとするほどあざやかな敬礼を決め、かちんと靴のかかとを合わせた。
「ご苦労。ハボニエ上級隊員は交代の時間だ。私が代る」
ヤド・パイナンは、よくひびく声でいった。その声はふだんとまるで違っていた。有無をいわせぬ、威厳のある命令調だったのだ。
「ハボニエ上級隊員、交代します」
ハボニエがもう一度敬礼し、かかとを鳴らした。ついで、くるりと向きを変えると、ちゃんとした歩調で、去って行った。
そうだったのか――と、ぼくはそのとき思ったのだ。平常の、あの乱雑といってもいい自由さの半面には、こういうものがあったのだ。勤務のときにはこうだからこそ、ああいう生活が許されるのだ。とすると……護衛員の仕事というのは、予想以上にきついものなのかも知れない。
ヤド・パイナンは、扉を軽くノックし、ゆっくりと押しあけると、内側に向かって告げた。
「イシター・ロウを連れてまいりました」
「入れなさい」
声が返って来た。エレン・エレスコブの声である。ぼくはよく覚えていた。
ヤド・パイナンは扉をもう少し開け、手で支えると、ぼくにいった。
「入って、お目にかかるのだ」
ぼくは、進んだ。
四面の壁にカーテンを垂らした、小ぢんまりした部屋であった。広さの点を考えなければ、ホールと形容したほうがいいかも知れない。天井からはカットグラスをはめ込んだ光球が吊られ、磨き立てた床には、何もないのである。わずかに壁ぎわに何脚か、椅子が並べられているだけだ。
だが、四面カーテンとは……と、ぼくはそこで、こちらから見て奥の壁が、他の面とは違っているのを見て取っていた。そこにはどうやらカーテンをわけるとドアがあるようだが……ということは、そのむこうにまだ部屋があるわけで……その間の仕切りには特別な材料が使用されていることになる。特別な材料とは、いうまでもなく、テレパシー遮断材だ。テレパシーのみならず、他の超能力をも遮る高級材かも知れない。ぼくは、そうしたものにロッソー板とかカッソー板、あるいは不定形のラヌとかいうものがあるとは聞いていたが、今の、この壁が何であるかは見当がつかなかった。つくわけもなかった。
しかし。
そんな観察と思考は、むろん、ほんの瞬時のことである。部屋のなかをじろじろと見廻す無礼な真似は許されていないのだ。それに、ぼくの関心はそちらにはなかった。主人であるエレン・エレスコブのほうが大切であった。
エレン・エレスコブは、部屋の中央に立っていた。黒っぽいドレスをまとい、髪は結いあげずに垂らしている。相変らず切れ長の冴《さ》えた目をぼくに向けて……しかし、少しやつれたような感じもあった。
そのときには、ぼくはもう頭をさげ、腰をかがめていた。敬礼をしたり、突っ立っていたりしてもよかったのかもわからないが、ひとりでにそうなったのである。そして一緒に入って来てぼくの横にいるヤド・パイナンがかしこまっていて、ぼくに何も指示しないのは……ぼくのその態度が正解だったようであった。
「お立ちなさい。イシター・ロウ」
エレン・エレスコブがいい、ぼくはそれに従った。立ってみるとエレンはぼくより少し背が低かった。そういう対面のしかたをしたことがなかったので、そのときにはじめて知ったのだけれども……それが何だか不思議な気がした。
「久し振りですね」
エレンは、澄んだ声でいった。「でも、わたしのほうは、あなたの噂はいろいろ聞いていたのですよ。わたしとヒトノバリの事前の調査と確信は、間違っていませんでした。腕も達者で、それに強情で真面目だとか……」
「…………」
ぼくは、心持ち頭をさげた。
「試合は、面白かったですね」
エレンは含み笑いをしながらつづけた。「あなたは勇敢だったわ。でもあれは、少しやり過ぎでしたね。トリントス・トリントはあれ以来、あなたをひどく憎んでいるのですから。でも、あの男にはいい薬だったかも知れません。愉快でした」
「エレン様」
ヤド・パイナンが、かすかに咎《とが》めるように口出しした。
「いいのです、いいのです」
エレンは笑った。はっと惹《ひ》きつけられそうな笑顔だ。ただそれだけではなく、そこにはもっと深いものがちらりと顔を覗《のぞ》かせたようでもあった。それが何かは、ぼくにはわからない。だが、それもまた魅力なのは、事実であった。
「あのトリントス・トリントが、わたしの気を惹こうとしているのは、知る人はみな知っていますよ」
エレンはヤド・パイナンにいった。「あの男は、私と結婚して保安委員長になりたいのです。その器でもないのに……。それにエレスコブ家の人事は、そんなお手軽なものではなく能力主義だということが、どうしても理解出来ないのですよ。なまじ小利口だから、どうしようもないわ」
「エレン様」
ヤド・パイナンが、さっきよりもう少し大きな声をあげた。
「そうね。不愉快な話はやめましょう」
エレンは、ぼくに向き直った。「でも、イシター・ロウ、あなたが任用されてわたしの護衛員になってくれたのは、良かったわ。わたしはいずれ近いうちに、大きな旅行をしなければなりません。わたしの護衛部員たちはみな優秀ですが……ひとりでも多いにこしたことはありませんからね」
「…………」
「わたしの護衛は苛酷ですよ。わたしは自分自身のプライバシーには、それほどこだわりませんが、過保護は嫌いです。それに仕事についてのせんさくは、誰にもさせたくありません。しかもあちこちと飛びまわる上に、わたしを狙っている者もすくなくないのですものね」
「…………」
ぼくは、思わずエレン・エレスコブの顔を注視した。
エレンを狙う者がすくなくない?
はじめて会ったとき、エレンは、自分は何の役職にもついていない余計者だといった。ぼくは、だから、ふつうの身軽なお嬢様だと解釈したのだ。なるほど例の試合では当主の名代として臨席したが、それはいってみれば飾り物としての存在かもわからない、と、考えたのである。そのエレンが、仕事をしているらしい。その仕事のせいでかどうかは知らないが敵もいるらしい。これは、どういうことだろう。
だが、ぼくは何もいわなかった。いえる立場でも状況でもなかった上に、たった今、仕事のせんさくは誰にもさせないとの言葉を聞いたばかりなのだ。
エレンは、ぼくの視線を受け、にっこりすると、右腕を差しのべた。
「わたしを守ってくれますね? イシター・ロウ」
それはもちろん握手を求めているのではなかった。手の甲を上にしているのだから……ぼくがしなければならぬ行為は、はっきりしている。ぼくは膝を折ってその手をとると、手の甲に接吻をした。何かの芝居か映画で見た古典的な儀式の見真似であった。だから作法に合っていたのかどうか、知らない。エレンの手首はかすかに花の香りがした。
「それでは、お戻りなさい」
手を引っ込めると、エレン・エレスコブは、ぼくたちふたりに告げた。「わたしはもう少し休みます。そろそろまた活動を開始しなければならないのですから、体力をつけておきませんとね」
「あまりご無理をなさらないで下さい」
ヤド・パイナンが、はっきりと心配の色を浮かべていう。
「するものですか」
エレンは答え、軽く手を動かした。出て行けという合図であった。
外へ出ると、はじめから居た女性隊員は依然として身じろぎもせず、佇立している。
「イシター・ロウ初級隊員は、宿舎に帰れ。――ひとりで帰れるか? 帰れなければ誰かを呼ぶが」
パイナンがいった。
「帰れます。わかっています」
ぼくは返事した。
「よろしい」
ヤド・パイナンが、満足したように頷いたので、ぼくはこれがテストだったことを悟った。
「イシター・ロウ初級隊員、帰ります」
ぼくは、先刻ハボニエがいったように復唱し、廊下を歩きだした。記憶はたしかであった。
ぼくは迷いもせずに本部を出て、護衛部に帰りついた。
帰ると、ハボニエが待っていた。
具体的にいうと、ばくの部屋にハポニエが送受話器で連絡して来たのだ。
「お前、おれと組むことになったのを知っているか?」
と、ハボニエはいった。
「組む?」
「そうとも。新入りがはじめのうち、古参の人間と組んで、やりかたを段々学んで行くんだ。隊長はおれにやれといった。だからまあ、仲良くやろう」
「お願いします」
ぼくは、スクリーンに頭をさげた。
「とにかく、そういうことだから、食堂に来ないか? 酒でも飲んで、話し合おう」
ハボニエはいうのだ。
警備隊本部ビルと同様、護衛部にも一階に食堂がある。それにこちらは勤務が不規則なので護衛員のためにであろう、二十四時問開いているのだ。もっとも、定められた食事時間帯以外は、きまりきったメニューで、パックされた食品を加熱するだけであった。だから、まだ昼にはだいぶ間のある時間だけれども、食堂に行くのは不思議ではない。
しかし、こんな時間から酒とは……。
「来いよ。待ってるぜ」
ハボニエの顔が消えた。
ぼくは下へ降りた。
それほど広くない食堂の隅のテーブルに、ハボニエはいた。その前にはたしかに小型の酒瓶とグラスが置かれている。
ぼくはハボニエに向かいあって、すわった。
「飲まんか?」
ハボニエはうながす、
「いえ……結構です」
酒は、この前の大酔でいささかこりていた。嫌いではないが、このところ敬遠している。それに、酔っ払ったりしたら勤務に差し支えるではないか。ぼくは相手にそういった。
「次の勤務は明日の夜明けからだ」
ハボニエは答えた。「おれはもうしばらくしたら寝なくちゃならん。だから飲むのさ。お前もその時から一緒の勤務のはずだから、そのつもりになっておくほうがいい。あとで隊長から命令が出るだろう。早く寝るのがいいぞ。飲んでも、度をすごさないようにすればいいんだ。セルフコントロールが出来ないというのなら、飲むべきじゃない。うちの隊長はふだんは甘いが、仕事のことになると容赦はしないからな。どっちにするのも、お前の勝手だよ。どうだ?」
そういうことなら、つき合っておくのがいい、と、ぼくは判断した。
「じゃ、少しいただきます」
ぼくはいい、ハボニエは手を左右に振った。
「おい。もういい加減に、その馬鹿ていねいないいかたをやめろよ。なるほどおれは上級隊員だし、お前は初級隊員さ。だがな、気がついているかも知れないが、この護衛部の内輪では、隊員はみな隊員で、対等のつもりでいいんだよ。ま、士官は別だし、勤務になったらうるさいがね。もっと気楽に行こうじゃないか」
「――はあ」
「くどい奴だな」
「――わかった」
「それでよし、と」
ハボニエは、もうひとつのグラスを持って来て、ぼくの前に置き、酒を注いだ。それから自分のにも入れて、ぐっと飲んだ。
「さっき、おれたちの勤務ぶりを見て、けげんそうな顔をしていたな」
ハボニエはいいだした。「そうなんだ。あれが護衛員の仕事の顔なのさ。大体が護衛員というのは、地位の高い連中を守るわけだから、いやでもきびしいマナーを要求される。秩序や形式は崩してはならない。それに飾りものじゃなく、護衛の任を果たさなければならない。いや、順序は逆だな。護衛が先だ。何はおいてもそれが先だが……きつい仕事さ」
「…………」
「だからといって、おれたちが仕事をいやがっているわけでもないんだな」
ハボニエは頷いてみせた。「そこには一種の奇妙な快感もある。ぎりぎりまで自分を追いつめ、全力をつくしているという快感さ。その反動で、非番のときは遊びまわったり酒を飲んだりもするけれども……どちらがおのれの本当の姿か、わからなくなって行くものさ。どっちも、本当の姿かも知れん」
「なるほど」
ぼくは何だかわかる気がした。
「ところで、お前の名前だが、イシターとロウのどちらが姓なんだ? どちらを呼べばいい?」
ハボニエはたずねる。
ぼくは、イシターが姓で、ロウが名前だと答えた。しかし、どちらで呼んでくれても構わない。ふつうは、一息でいえるせいで、みんなイシター・ロウと呼ぶ、ともつけくわえた。
「そうか。じゃ、おれと同じだ。おれはハボニエ・イルクサで、ハボニエが姓だ。しかし、ハボニエという姓は珍しいのに、イルクサという姓は多いから、よく間違えられるがね」
ハボニエはそんなことをいってから、話を戻した。「それならイシター・ロウ、実をいうと、お前はこちらでは注目されていたんだぞ」
「注目? ぼくが?」
「そうとも」
とハボニエ。「護衛部はここ二年、新人を迎えていなかったからな。そりゃ他の隊から護衛部に廻って来たのは何人もいるが……純粋に新人ではじめから護衛員候補として採用されたのは、二年ぶりなんだ。それも自分の護衛にはうるさいエレン様のお声がかりと来ては……どんな奴かと、注目するのが当り前さ」
「それは……光栄だ」
ぼくはいった。悪い気持ちではなかった。
「それと、もうひとつ、いってやろう」
ハボニエはつづける。「お前は任用前の試合で、トリントス・トリントと対戦したな。あれは、おれはエレン様のさしがねだと思うよ。トリントス・トリントは、前からエレン様に気があって、近寄ろう近寄ろうとしていた。それが本当に好きなのか、今の準一族の立場から一族ないし家族の地位にあがろうとの野心のせいかは、おれには判断しかねるがね。エレン様はトリントス・トリントを毛嫌いしておられるから……自分の護衛になるはずの人間、つまりお前を、あいつにぶつけるよう、モーリス・ウシェスタに働きかけたのだと思うな」
「…………」
ぼくは、また、なるほどと思った。エレン・エレスコブへのお目見得をはたし、彼女のあんな言葉を聞いた今では、もっともだという気がした。
「もっとも……エレン様が、お前が勝つと信じていたのかどうか、おれにはわからん。エレン様はいわば素人だから、そう思っていたかもわからない」
ハボニエはいうのだ。「しかし……おれはあの試合を見ていたが、実力ではお前に勝ちめはなかった。トリントス・トリントはいい腕をしている。認めたくはないけれども、それはたしかだ。おれは、お前が完敗すると思ったね」
「――だろうな」
その通りだった。ぼくは肯定するしかなかった。
「ところがお前は勝ってしまった」
と、ハボニエ。「それも、無茶苦茶なやりかたでな。おれたち第八隊の者は、顔にこそ出さないが、内心、歓声をあげたよ。あいつを打ちのめし、ぶっ倒したんだ。第八隊としても、ざまを見ろというわけさ」
「…………」
幸運だったのだ、と、ぼくはいおうとしたが、そういういいかたは、かえっていやらしくなりそうだったので、やめた。
それよりも……ぼくが複雑な気分になったのは、このハボニエをはじめ、第八隊の全員が、エレン・エレスコブに傾倒しているらしいことであった。ぼくの心の中には、あきらかにエレン・エレスコブへの好意があり、それはある意味ではぼくひとりの気持ちとして、そっとしておきたいものであった。それでいながら彼女の魅力は誰をも惹きつけるだろうとも考えていたので……少しがっかりしたような、一方では同志を得たような心境におちいったのである。ぼくは、だから、何となく呟いた。
「エレン・エレスコブという人は、不思議な人なんだな」
ぼくはどうやら、相手の話の腰を折ったようである。ハボニエは顔をしかめたが、しかしエレンのこととなると、それはそれでいいらしい。ゆっくりと頷いて応じたのだ。
「そうなんだな。あの人には、不思議な力がある。人を惹きつける何かがあるんだ。第八隊はそのエレン様に指名された、エレン様の護衛隊だからな。仕事がきつくても、それでいいんだ」
「あの人、あちこちへ飛びまわるということだったけど……」
ぼくは水を向けてみた。エレンのことについて、もう少し知りたかったからだ。ただ、狙っている者がすくなくない、という部分については、何となく、口にするのがためらわれた。
「あの人は、忙しいんだよ。ただの令嬢ではない。頭もいいし、それだけの能力もある人だからな」
ハボニエはいった。「でも、それが過労になって、ここ何日か休養していた。あまり無理をしてもらいたくないもんだ。エレスコブ家のためにも、おれたちのためにも」
「何の仕事なんだろう」
ぼくは、さらにさぐりを入れた。
「知らんな。また、知ろうとも思わん」
ハボニエは首を振った。「おれたちは護衛員だ。ただ、あの人を守ればいいのさ」
「…………」
ぼくは黙った。
たいして成果は得られなかったな、と、ぼくは思った。
「ところで、どこまで話したかな」
ハボニエは、ぼくを見た。「ああそうか。お前の勝利までだ。あれでおれたちは、お前に好感を抱いた。負けても当然の状況で勝ったんだ。エレン様の敵はおれたちの敵なんだから、お前はおれたちの仲間だ――というわけさ。おれたちは、お前をかばえるだけかばうつもりだ」
「かばう? ぼくを?」
「ああ」
「何から?」
「トリントス・トリントさ」
ハボニエは、吐き出すようにいった。「あいつはお前を憎んでいるそうだ。お前に復讐をするチャンスを窺っているらしいよ。試合だというのに、あいつは恥をかかされたと思っているのさ。そのお前がエレン様の護衛員となったんだから、許せないというんだろうな」
「…………」
理不尽な話だけれども、そうなら仕方がない、と、ぼくは思った。ある程度は覚悟もしていたのだ。
「トリントス・トリントは、現在のところはまだそれほどの力はない」
ハボニエはいう。「だが、彼はまぎれもない中枢ファミリーで、準一族だ。保安委員長の座を狙っているというが、ま、それは無理だろうと、おれは思う。けれども保安委員長にはなれないとしても、エレスコブ家のしかるべき地位にはつくだろう。ネイト=カイヤツ政府に出向して、長官や次官になるかも知れない。そのことを見越してトリントス・トリントとよしみを通じている内部ファミリーも、結構多いんだ」
「…………」
ぼくは、射撃訓練にトリントス・トリントが割り込んで来たときにくっついていた生意気な内部ファミリーの青年――ハイトー・ゼスとかいうのを、想起していた。
「お前はこれから、おれたち第八隊の護衛員として、エレン様について、あちこちと行かなければならない」
と、ハボニエ。「そこでトリントス・トリントが力をふるっている場に遭遇するかもわからん。とんだいやがらせをされるか……いやがらせ位ならいいが、お前の職業的生命、いや、生命そのものが危機にさらされるときもあるだろう。おれたちにはろくに力はないが、出来るだけのことをして、お前をかばってやるよ。また、エレン様もお前のことを気にかけて下さるだろう」
「…………」
覚悟していたとはいえ、あまりうれしくない状況であった。トリントス・トリントはぼくの疫病神になるのだろうか? あいつのためにぼくは道をふさがれることになるのだろうか? そうなるとすれば、ぼくには大した対抗手段は残っていない。むこうはエレスコブ家の準一族で中枢ファミリー、こっちはやっと正規隊員になったばかりの護衛員だ。エレスコブ家にいる限り(そして当面ぼくはまだ出て行くつもりはないのだ)苦労しなければなるまい。
ただ、ハボニエがかばってやるといってくれたのはうれしかった。第八隊はぼくの味方なのだ。いいかえれば、ぼくは第八隊のメンバーとして、抵抗なく受け入れられたのである。トリントス・トリントに対してみんなが何が出来るかは別として、これは有難いことであった。それに……そう。エレン・エレスコブも助けてくれるであろう。それは期待してもいいのではあるまいか?
が。
そのとき、ふっとぼくの心の中に、また暗いものが忍び込んで来たのだった。こんな風にエレン・エレスコブや、エレン・エレスコブの護衛隊をあてにしているぼくを、警備隊長のモーリス・ウシェスタはどう見るだろうか、ということに思い至ったのである。ぼくはいまだに、モーリス・ウシェスタに憎まれているのではないか、との想念を捨て切ることが出来なかった。エレスコブ家入りをしたウシェスタとの初対面のときから考えると、事態はずいぶん良くなって来たような気もする。ぼくの訓練ぶりは、ウシェスタにそう悪い印象を与えなかっただろうと信じるし、任命式の日のウシェスタの言葉は、先達としてのアドバイスだったのではないか、と、思うこともあるのだが……それらがすべてぼくの都合のいい解釈であり錯覚であって、実際にはずっと憎まれっぱなしだったのではないか、という気持ちを、どうしても拭《ぬぐ》い切れないのであった。
もしそうなら……?
もしもそうなら……トリントス・トリントとモーリス・ウシェスタを、ぼくはむこうに廻さなければならないのだ。そして、それは客観的に見れば、ぼくの手に余ることであった。そう簡単にやられはしないぞ、ぼくはぼくなりに何とか抵抗してやる、とは思うものの……それは何の裏付けもない、ぼくひとりの気概に過ぎないのだ。
「えらく黙り込んでしまったな」
気がつくと、ハボニエがこちらを眺めていた。「まあ、あまりくよくよすることはないさ。それに、トリントス・トリントにどうかされる前に、お前も、それにおれも、どこかの争いで殺されてしまうかも知れないんだからな。その日その日を精一杯にやって行くしかないさ」
ハボニエは、すでに酒瓶を空にしていた。が……追加は注文しなかった。それだけでぴたりとやめて、立ちながら、ぼくにいったのだ。
「じゃ、おれは部屋に帰るよ。あすの夜明けにまた会おうぜ」
ハボニエがいったのは、事実だった。それから数時間してぼくは、勤務から戻って来たヤド・パイナンに呼ばれ勤務表を手渡された。当分の間、ハボニエと一緒に勤務するように、ともいわれた。
そんなわけで、ぼくはその晩は早目にベッドに入り、夜明け前に起きた。前の部屋の荷物は就寝前に届けられていたので、それで用意を整えたのだ。剣を吊り短銃を帯び……玄関へ来ると、ハボニエが待っていた。
ぼくたちはほとんど喋らずに、暗い道を歩いて本邸に来た。本邸の警備隊員と敬礼をかわして、中に入った。例のエレン・エレスコブのいた部屋の扉の前に立って、警戒するのだ。
しかしながら、ありていにいえば、これはぼくの初勤務ではあっても、見習いそのものに違いなかった。扉にはぼくたちの前にふたりの隊員が佇立していたが、そのうちのひとりが交代しただけである。交互にひとりずつ交代するシステムで……ぼくがいるときは三人になった。
つまり、本来はひとり残った護衛員と、それにハボニエのふたりで警固するところを、ぼくが余分に加わったかたちなのである。ぼくはまだ一人前扱いされていなかったのだ。
ぼくたちは扉の前に直立し、二時間後に来たひとりが前のひとりと交代し……さらに二時間後、次の隊員とぼくたちが交代した。その間ずっと、ぼくはエレン・エレスコブの姿を見なかったのだ。いっては何だが、どこか空しい勤務であった。
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しかし。
そうした、変化のない勤務は、あまり長くつづかなかった。数日のうちにエレン・エレスコブは完全に健康を回復して忙しく動きはじめ……ぼくたちは、本格的な護衛の仕事を開始したのだ。
いったんそうなると、エレン・エレスコブは、きわめて精力的であった。カイヤツ府中心部にあるネイト=カイヤツ官庁街の各省、及び付随機関、大統領官邸などを訪問するのだけれども、それよりもっとひんぱんに顔を出すのが、家々で行なわれる会合やパーティであった。エレスコブ家でだけでなく、他の家々のそうした行事に出席するのである。
これはぼくにとっても、ある程度は頷けることであった。カイヤツ府に住んで多少とも事情を知っている者には周知の事実だが、ネイト=カイヤツの官庁街が大きな仕事をするのは、昼前から夕方近くにかけての間だけなのだ。もちろん執務時間は朝の九時から午後六時までということになっており、日常的な業務はちゃんとやっている。が……重大な方針決定や政策の立案となると、調整や話し合いは有力な家々での集まりで、社交のうちに行なわれるのがつねなのだ。夜のうちにさまざまな事柄の合意がなされ、それが次の日に官庁で具体化されるのである。つまり、公的には政策の決定や実施は官庁でなされるのだけれども、実質はその前の段階の家々の駆け引きや勢力差で決まるのだった。こういうネイト=カイヤツの政治の実態を考えれば、エレン・エレスコブが夜の会合やパーティを重視するのも当然であろう。
ただ、だからといって、官庁のほうが完全に形骸化していると考えると、間違いになる。今もいったように官庁では日常業務を処理しているのだし、それにもうひとつ、大切なことがあるのだ。ネイト=カイヤツは、ネプトーダ連邦の構成主権体であり、連邦に対するネイト=カイヤツの顔は、あくまでも官庁なのである。だから、ネプトーダ連邦の役人や他のネイトの外交官などとの折衝や交歓は、官庁街で行なわれる。そうした人々が、夜の有力な家のパーティに顔を出すのは本当にしても、公式には官庁街なかんずく大統領官邸が舞台になるのであった。
そして、はじめの一カ月か一カ月半、エレン・エレスコブの活動は、それだけにとどまっていた。行動範囲は、カイヤツ府内に限られたのだ。これはエレンが病みあがりのため、それ以上の遠出を控えていたのか、それとも当面、そうした活動のしかたで充分だったのか……ぼくにはわからない。彼女が何を目的として何をしようとしているのかも見当がつかないのだから、わかるわけがないのだ。それに、ハボニエがいったように、護衛員はそんなことを知る必要もないのであった。
ともあれ。
エレン・エレスコブの動きがカイヤツ府内を出なかったとはいえ、ぼくたち護衛員の任務がきついのには変りはなかった。すくなくとも、エレスコブ家カイヤツ府屋敷内での立哨勤務にくらべると、ずっと苛酷だった。苛酷ではあるが、他面、変化に富んでいるのもたしかである。そのときどきの状況によって、形態がくるくると変るからだ。
ふつう、護衛といえば、護衛対象の前後左右を固めて、周囲に油断なく目を光らせる――という情景を連想する人が、多いに違いない。それももっともで、護衛という単語の意味は、つき添って守ること、と、されているのだ。ぼくだって、エレスコブ家の基礎研修を受けるまでは、漠然とそんな風に解釈していた。ファイター訓練専門学校では、そんなものを学ばなかったせいである。ファイター訓練専門学校は、当人の戦闘力を鍛えあげるのが本旨であって、他人の護衛については何も教えはしない。そりゃ、わざわざ学ばなくっても、ファイターともなると、他人を守ること位は出来よう。が、それでは無駄も多いし、決して充分とはいえないのだ。そのことをぼくは、基礎研修のさいに習った。もっとも、基礎研修では護衛そのものの仕事についてはほとんどやらない。一般警備隊員としての心得を叩き込まれるだけである。それによれば、警備とは一口にいっても、施設や重要資材・物品を守る以外に、人間を守る場合もあるのであり、人間を守るとしても、要人と離れて注意深く周囲や行く手を警戒するやりかた、つき添って守るやりかた、要人を安全な乗りものに乗せて大急ぎでその場を抜けさせるやりかた……と、無数にあるとのことであった。考えてみればこれは当然の話で、たとえばビルとビルの間の細い道を行くときに、いつ上から爆弾が降って来るかわからぬ場合、要人をびっしりととりかこんで歩くなんて、殺してくれというようなものなのだ。要するに警備の方式は、こちらが何をどうしなければならないかによって決定されるのであり、方式はあくまでも従なのだ。このことだけでも、ぼくにとっては、なるほどという感じであり、新鮮でもあった。そして……護衛員となると、これがもっとややこしくなって来る。というのも、命令で持ち場を与えられたふつうの警備隊員が、一応原則として指示された方式で警備するのに対し(といっても、ぼくは別にかれらが楽だなどというつもりはない。かれらはかれらで、やたらに自由なやりかたはとれず、愚直なまでの死守をつづけなければならないかも知れないのだ。ぼくにはどうもそんな真似は苦手なのである)護衛員のほうは変幻自在に、状況の変化に合わせなければならないからだ。自分たち以外にエレスコブ家の警備隊員がいるか否か、他家の連中とはどうかかわり合っているのか、ネイトの常備軍や警察官がその場でどんな役目を持ち何をしようとしているのか……さらには屋内か屋外か、屋内としても何の建物の中なのか……を勘案しなければならないのである。むろんその判断は隊長なり先輩隊員が行なうので、ぼくはその指示に従えばいいのであるけれども、ときによっては、とっさにぼくだけの判断で行動しなければならないことだってあるはずだ。そんなわけで、ひとことに護衛といっても、簡単ではないのであった。
たとえば、こんな具合だ。
エレン・エレスコブが、経済省に出向き、大統領官邸をまわってから、さる要人と会見し、そののち他の家のパーティに出席するとする。あらかじめその予定を告げられていたヤド・パイナンは、前以て必要と考えられる人数に出動予告をかけ、エレン・エレスコブが動きだすと同時に、本格的な護衛に入るわけだ。彼女がどのようなコースでエレスコブ家カイヤツ府屋敷を出、どういう形式で経済省に出向くかは、ときによってことなる。これは彼女の用件がどういうものであり、誰かの要請を受けたか自発的なものかによって違うらしいが、どれがどうなっているかは、護衛員の知るところではない。ヤド・パイナンは、具体的にどんなコース・形式になるかを、エレン・エレスコブ自身の口から、でなければ人事委員会などの他の部局から聞くだけなのだ。同行者がいる場合もあれば、エレンひとりのときもある。同行者が要人クラスだと、そちらの護衛員もついて来るわけだ。いずれにせよぼくたちは、彼女が本邸の玄関から出るさいには玄関で待ち(本邸内部の要所要所にはエスパーの特殊警備隊員が配置され、そのほかの場所も担当隊が受け持っているので、護衛員が中をついて行くことは、ほとんどない。かれらの警備にゆだねるのが建前だからなのだ)本邸わきの道を抜けるとなると、見えがくれに周囲を固めて、護衛することになる。
カイヤツ府内での交通には、彼女はたいてい車を用いた。飛行能力を備えた車である。大型の垂直離着陸機は滅多に使わなかった。というのも、垂直離着陸機は大気圏内戦闘機でもあり、そんなもので官庁街や他の家へ行くのは非礼になるからだそうだ。彼女の車の運転席の横には、しばしばヤド・パイナンが乗った。同行者のあるときは別の、護衛員用の車に乗るのである。隊長がそうなのだから、いうまでもなくぼくたちは、つねに護衛員用の車であった。護衛員用の車は一台、または二台だが……エレン・エレスコブは目に立つようなものものしい警備を嫌うために、一台のことが多かった。そのぶんだけ、ぼくら護衛員が神経を余計に使うことになるのも本当だが、いたしかたがなかった。同行者にも護衛員がついていると、そのぶん、車の数は増えるわけであり、その場合には彼女もやむを得ないと思っているようである。そして、ふた組、まれには三組の護衛員がつくとなっても、その人数は決して間引きされなかった。護衛員たちはみな、それぞれの主人が大切なので、あとに引くつもりはなかったからだ。とはいいながらも、そこは顔見知りの護衛部の人間どうしである。複数の隊が一緒に行動するとなっても、隊長どうしが打ち合わせ、車の配置を手際良く決定するのだった。
エレン・エレスコブが経済省なら経済省に到着すると、ぼくたちはその建物の入口まで護衛をつとめる。ぼくらの装備は、剣と短銃だった。レーザーガンの携行は、どうやらこの(治安が良いとされる)カイヤツ府内では、いささかものものしいと見倣《みな》されるらしいのだ。もっとうがった見方をすれば、いわば私兵であり家のガードマンに過ぎないぼくたち警備隊員が、正規のネイト常備軍やネイト警察の力が充分及んでいるこのカイヤツ府で、たとえ護身用の小型にしろ、これ見よがしにレーザーを持ち歩くのは、やはりはばかりがある――ということなのであろう。ぼくたちはその場所で彼女が建物に入って行くのを見送り、出て来るのを待たねばならない。官庁内を警備するのはネイト警察の仕事であって、責任はかれらにあり、怪しげな連中(かれらから見れば、正にぼくたちはそうなのだ。こっちのことはよくわかっていても、そういうことにしなければならないのが定めである)を中に入れるわけには行かないのである。
そういうしだいなので、それらの官庁の前庭にたむろしているのは、ぼくたちだけではなかった。官庁に出入りする要人や要人なみの人々をつかまえて何か訴えようとする連中や、乞食、集まって来る人たち相手の露店商など、結構たくさん居るのである。ときたま、用のない者を追い払おうと下級役人が現われることもあった。が……中でも一番気になったのは、ぼくたちの同類――よその家の警備隊員たちであった。
ぼくはこれまで、エレスコブ家の警備隊については、いろいろと見聞きし、学んでも来たけれども、他の家々の警備隊については、ファイター訓練専門学校以後、ほとんどあたらしい知識を附加していない。他の家の警備隊の組織が、ぼくたちに似ているのかどうか、護衛員というものを持っているのかどうかさえ、知らなかった。また、そうお手軽に見当がつきそうもなかったのだ。服装からして、家によってさまざまなのである。ぼくたちは勤務にさいしては、みな剣を吊っていたが、そんなものを持たずに短銃だけを携行している連中もいた。服の色も、真紅や黒色や、迷彩服らしいのや、ストライプ、ときには派手に家の紋章を胸に大きく描いているところもある。何度もそうした他家の警備隊と出くわしているうちに、ぼくは、いくつかの家の制服をおぼえてしまった。そのうち、いやでも目についたのは、やはり、サクガイ家とマジェ家である。ネイト=カイヤツを代表するといっていいこの二家は、警備隊員の数も多いし、いい場所を占めているのがふつうであった。が……その制服は対照的といっていい。家風の違いによるのだろうか。サクガイ家のほうは上から下まで灰色の、身にぴっちりとついたスタイルで、ひさしの突き出た丸い帽子をかぶっている。ちょっと見には作業服さながらだが、腕に山形の階級章がついており、短銃を腰に吊っているので、警備隊員だとわかる。士官・下士官・兵の区別もあまり強調していない。山形の階級章の色が違ったり、帽子をとりまく線の数がことなっているだけで……総じて地味であった。そうしたサクガイ家に対して、マジェ家の制服はまことに派手である。ぼくは想像するのだが、サクガイ家とマジェ家はネイト=カイヤツで一、二を争う家であるものの、実体はサクガイ家が一歩ぬきん出ているというのがおおかたの見方なので、そのため、マジェ家はことさらに対抗意識を持っているのではあるまいか? とにかくマジェ家の警備隊員の制服ときたら……飾りのついた金属製のヘルメットをかぶり、金のぬいとりのある真紅の服に長靴といういでたちなのだ。吊っているのは磨きあげた鞘《さや》のサーベルと、やや銃身の長い短銃。それだけでも派手なのに、将校は裏地が赤の黒いマントを羽織って、胸にはマジェ家の紋章の鳥をデフォルメした大きな階級章をつけているのであった。この二家の連中は、ほかの家の警備隊員には無関心、でなければ無関心を装うのがつねである。かれらにはかれらなりの衿持《きょうじ》があるらしい。ほかの家の連中のほうも一目置いていた。ときたま騒ぎやいざこざがおこるとすれば、それはもっと下にランクされるラスクール家とかホロ家、ヨズナン家といったところの警備隊員たちによってであった。自分たちはサクガイ家やマジェ家にひけをとらないれっきとした家の人間だ、と、そう自負したいので、それで余計におのれの勢威を誇示したいのかも知れない。
そういう中にあって、ぼくたち――エレスコブ家の警備隊は、やや特殊な立場にあるようだった。エレスコブ家は古い家柄ではあるし名門には違いないが、力からいうと、それほどの存在ではなかったのに、近年事業の伸張で頭角をあらわし発言力も増している(そういうことなのだそうだ)ので、それより上位にランクされている家々からは、警戒と反感の目を向けられがちだということらしい。それも、ネイト=カイヤツのあたらしい反主流の一派のリーダーとして、もっと弱小な家々と手を組みつつあるとなれば、なおさらである。ぼくたちは、一再ならずラスクールやホロ、ヨズナンといった家々の警備隊員に、あからさまに見くだした態度をとられたり、挑発されたりした。それらに対してエレスコブ家の連中は、よほどの場合でない限り、けんかを買って出たりはしない。カイヤツ府内でごたごたはなるべくおこすべきではない、という首脳部の意見が、モーリス・ウシェスタによって通達されているからだ。それに、やりたければカイヤツ府を離れた、ネイト常備軍やネイト警察が手薄な地域で、いやでもやらなければならなくなるとの話でもある。従ってここではエレスコブ警備隊員は、たまに例外はあるにしても、規則正しく自重していた。ことに、護衛員たちは徹底していた。護衛員の本分は、護衛対象を守ることであって、仕事にマイナスになるような真似は決してしてはならないのだ。そのうちでも、前にハボニエがいったように、第八隊は厳格であった。ときには近くの人々の揶揄《やゆ》の的になったりしながらも、ぼくたちはパイナン隊長に指示された隊形なり場所なりを守って、エレン・エレスコブが出て来るのを、何時間も待つのだ。必要なときは会話もかわすし、交代で食べたりもするが、エレンが姿を見せるや否や、護衛のかたちを作るのである。そのかたちはむろん、そのときどきに応じたやりかたで、万が一にもエレン・エレスコブの身に危害が加えられないよう、機敏に、確実に動きつつ、つねに注意をおこたらないようにしなければならない。などというと、まるで何かの教科書のようだが、それがかけねのないところだった。護衛員は護衛対象を守るためにあるので、もし失敗すればそれが不可抗力によるものであっても、いっさいいいわけはきかないのである。
――という、官庁街でのぼくたちのありようは、大統領官邸へ赴いたときも、大差はない。ただこちらは連邦外交官やネイトの閣僚といった面々も出入りする場である関係上、ふつうの官庁よりも警備がきびしく、変な連中がうろうろすることは出来なかった。それにぼくたちや、ぼくたちの同類のためにも、随行者控所という名目の部屋があり、そこで待機する仕組みになっている。だからここでは、エレン・エレスコブが邸内に姿を消すまでと、出て来てからの安全確保に全力をあげる一方で、ぼくたち自身も作法にかなった振舞いをする必要があったのだ。控所の、官邸職員が指定した場所で、佇立し、呼ばれたり移動したりするさいには、歩調正しくしかも礼儀を失しない感じで行動しなければならない。マナーに反した言動をやったりすれば、自分たちの主人に恥をかかせることになるのであった。
このあたりまでは、しかし、どちらかというと、護衛任務の基本編みたいなものなのである。そのつど適当な対応をするとはいうものの、一定のきまりがあって、それをもとにすればいいからだ。ところが、そのあとエレン・エレスコブが誰かと会見するとか、どこかの家のパーティに臨むとなると、これはもう、応用編としか、いいようがないのであった。
エレン・エレスコブは、さまざまな場所で、さまざまな人間と会見した。その相手が誰であるかを、ぼくたちは教えられることもあったし、そうでないときもあった。ある場合には府内中心部のサロンで若い連邦外交官と面談することもあり、マスコミ関係者との記者会見もあり、と思うと、うらぶれた地域で得体の知れない数名の老人が相手というケースもあるのだった。白状するがぼくは、エレン・エレスコブが若い連邦外交官などと親密に話し合うのを見ながら、心おだやかでない自分を意識したこともある。だが、エレンが何の目的でそうしているのか不明であり、また彼女が護衛対象である以上、そうした自我の台頭や無用の忖度《そんたく》は許されもしないし意味もないのだ、と、思い至らざるを得なかった。そして、ハボニエや他の先輩たちが、護衛員は護衛員として、ただあの人を守ればいいのであり必要以上の事柄を知ろうとは思わない――といっている心理が、多少は理解出来るような気もしたのである。ま、それはともかく、エレン・エレスコブは、エレスコブ家の人と外で会うこともあった。相手が一族や中枢ファミリーの場合もあれば、それほどの地位にはいない人間のときもあった。一度はモーリス・ウシェスタと、数分間の話し合いをしたこともある。そのときのウシェスタは、ぼくたちをじろりと眺め、かすかに頷いて見せたけれども、ものはいわなかった。警備隊長として部下に声をかけるような、そんな状況ではなかったのかもわからない。ともあれエレンが会見する人々は種々雑多だった。その種々雑多な相手と場所、状況に応じて、ぼくたちの護衛形態は変らなければならなかったのだ。エレンの意向とパイナン隊長の判断によって、ぼくたちは彼女の両わきを固めたり、抜剣して離れてたたずんだり、逆に、相手の目に触れないよう姿をかくして監視したり、あるいは先方の護衛と向き合うかたちで整列したり――と、いろんなやりかたをするのである。また、その場所へ行くにしても、車だけではなく、徒歩のケースもあるので、そのときはそのときなりの警戒の方式をとることになるのだった。ぼくは、エレン・エレスコブが、ファイター訓練専門学校へ来た日のことを想起することがあった。あのときのエレンは、人事委員のヒトノバリとのふたり連れだったが……ぼくはそうと信じたのだが……実はどこかで護衛員の目が光っていたのに違いない。今となっては、そうとしか考えられないのであった。とすると、そのさい、第八隊の誰かが、ぼくが何かとんでもない真似をするのではないか、と、見張っていたことになるのだ。それがハボニエだったかも知れない。が……ぼくは何となく、そのことをハボニエにたしかめて見る気にはなれなかった。むこうが何も言わないから、こっちから言う気もしないこともあるが、あるいはぼく自身、そのころの自分の姿をハボニエの口から聞くのは、妙な、嫌な気分になりそうだと感じていたからかも知れない。ただ、いえるのは、あのとき、ぼくが、エレンたちの背後に護衛員の姿があったら、素直に承知していたかどうか、疑問だったろう、ということである。あのときのぼくに対しての護衛は、つまりあれで正解だったということになるのかもわからない。
同じ応用編でも、これが他家でのパーティや会合となると、また問題がことなって来る。他家ではその家の警備隊員がお客の身を守る建前になっているけれども、むろん安心は出来ない。それにそうした家では、ぼくたちも一応エレスコブの外部ファミリーとしての待遇を受けられるので、おつきの人間として会場のすぐ外にいながら、内部の豪華な様子を見つつ、エレンの身辺を警戒する、ということになる。そして、その家がどこであるかということで、ぼくたちの態度や応対や緊張度というものも、ことなって来るのであった。いいかえれば、そこでのぼくたちは、エレスコブ家の一員であることで、エレスコブ家の置かれた立場を受けとめ、エレスコブ家の人間としての感覚を保ちつづけねばならないのである。たしかに、そうした会合の、なかんずくパーティははなやかだった。どちらかというと時代がかった、どこか芝居にも似た雰囲気の、儀式的要素の強いものであったが、どの家もその家なりに贅《ぜい》をつくして、飾り立て、音楽を奏し、集まりを盛りあげようとしていた。皮肉なことだが、ぼくたちは自分の本拠であるエレスコブ家のパーティを覗かせてもらったことはない。エレスコブ家の本邸内には、前にもいったように、別に担当の隊があるからだ。しかし、おそらくエレスコブ家のパーティにしても、他の家のと根本的な差異はないはずである。こうしたパーティは、ぼくがこうして警備隊員、それも護衛員になっていなければ、なかなか見る機会はなかったであろう。それを、会場の外からではあっても望見出来るのは、いささか複雑な感じであった。きらびやかな社交の場を覗いているたのしさと、実質はおのれはこのパーティとは無縁なのだという不満が、一緒になるからだ。しかもぼくは、その光景をよその世界として眺めているわけには行かない。ぼくたちはエレスコブ家の外部ファミリーとして扱われているからであり、それ以上に、そこにいるエレン・エレスコブの身の安全を確保しなければならないのだ。単なる見世物のつもりで見ることは、許されないのであった。
パーティは、たいてい深夜までつづき……そののちエレン・エレスコブは帰途につく。ぼくたちは彼女を本邸まで護衛してから、護衛部に引き揚げるのだ。こういう毎日がはじまってからは、エレンの部屋のドアの立哨はなくなっていた。本邸内の、しかるべき警備をされている要人の部屋は、元来、護衛員がガードする必要はないのを、彼女が体調を崩して休養している間、第八隊が合意の上で自発的に扉の前に立つことを申し出て、許可されたのだという話であった。エレン・エレスコブがこうしてあちこちと動きまわり、護衛員たちも精神をすり減らし身体を酷使している現在では、エレンがそんな無駄は認めないだろうということなのである。無駄というより、無理と表現したほうがいいかも知れない。それだけの余力があったとしても、必要度のそう高くない勤務で使い果たすより、本来の護衛任務のために温存し、体力を回復しておいてほしいのが、エレンの本心だったのであろう。
予告はされていたが、楽な仕事ではなかった。馴れないぼくには、疲労が抜け切らぬうちに次の緊張を強いられる感じで、それを意志力と鍛えあげた体力で、何とかこなしているというところだった。第八隊の一員としての一体感も、ぼくを支える大きな力になったのはたしかである。それでも二週間経ち三週間経つうちに、ぼくはどうやら安定して来たようだ。その安定は……以前にハボニエがいったことは、まことに的確だったのを、ぼくは思い知らされたのだ。それは、ぎりぎりまで自分を追いつめ、全力をつくしているという、一種奇妙な快感なのである。どこか自虐的なそんな感覚が、ぼくを張りつめた状態で維持させてくれている――ともいえるのであった。
もっとも、誤解されては困るので、いっておくけれども、ぼくたち第八隊の護衛員は、いつも全員が出動していたわけではない。みんながずっとそんな状態をつづけていたら、新参のぼくはもとより、先輩の隊員でさえ、ぷつんと糸が切れるようにへたばるか、異常な行動をおこすに違いなかった。まれにはパイナン隊長以下の六名全部が出動するときもあるが、たいていは三名、ときには二名であった。あとの者は非番である。非番といっても、二名なり三名なりは緊急指令があれば出動出来る――待機なので、完全に自由というのではない。が……それでは真の休養にならず神経が参ってしまうので、ヤド・パイナンは勤務表をやりくりして、ときどき何人かずつ、部下に外出も可の休日を与えるのだった。外出していても、何時間かおきに、護衛部に何かおきていないか連絡を入れなければならないけれども、思い切り羽を伸ばせるのは事実なのだ。みんなはそれを上陸と呼んでいた。海上艦や宇宙船勤務におけるあの上陸の意味である。外出というよりそのほうが、気持ちにぴったり来るからであろう。つまりぼくたちは大別すると、勤務と待機非番と上陸非番の三つのどれかをやっている、ということになる。勤務と待機非番が三対二位の割合で、ほんのときたま、上陸非番になれるのだ。ただ、隊長のヤド・パイナンは、上陸非番は決してやらなかった。それどころか、待機非番さえ、ほとんど取らなかった。責任感のなせるわざだとしても、ぼくなどから見るとこれは驚異的である。よほどの強い意志と体力がなければ、そんな真似は不可能だ。それでもやはりパイナンも人間である証拠に、たまには待機をやり、そのときは副隊長格のノザー・マイアンという古参の女性士官補が指揮をとった。
こうした毎日のうちに、だがぼくは、このあたらしい体験や見聞を通じて、ネイト=カイヤツの社会に対するイメージを、いくつかつけ加えることになった。それは、一種の発見だったかも知れない。それまでのぼくは、ネイト=カイヤツの社会というものを、しごく概念的な図式化されたものとして、とらえていた。すなわち、ネイトを支える家々があり、官僚がおり、それらに社会は動かされている。家々の幹部と高級官僚はエリートで、あとは一般大衆なのだ――という図式であった。一般大衆からエリートになるには、よほどの幸運に恵まれなければならない。それゆえにひと握りのエリートたちは、ほとんど通気孔というもののない閉じこめられた特権サークルを形成し、権力や富や最新の科学技術を駆使し活用している、との認識を抱いていたのだ。これが間違っていたとは、ぼくはいわない。基本的にはこの通りなのである。しかしながらその特権階級なるものが、ぼくが単純に考えていたほどの均質な一枚岩ではないらしい、ということが、おぼろげながらわかって来たのであった。ひとくちに家といっても、その力をくらべると、格差は想像以上に大きい。ぼくには覗き見に類したことしか出来ないパーティひとつをとっても、規模や豪華さはあきらかに優劣があるのだ。家の当主といえば代表的なエリートと思われているけれども、今のぼくなら弱小の家の当主と第一級の家の中枢ファミリーとのどちらが力を持っているかと訊かれれば、後者のほうだと答えるであろう。何年か前、評判をとった映画があって、ぼくも観た。典型的なサクセス・ストーリィで、志を立てた青年があたらしく家をおこすまでの苦闘の物語である。それはいってみれば大衆の夢であった。だから多くの人々が熱狂したのであるが……現在のぼくなら、なるほど家をおこしたのはいいが、それからあと、どんなにみじめだろうか、と考えてしまうに違いない。それに家の幹部たちや高級官僚にしても、思ったよりも地位が不安定らしいことにも、ぼくはうすうす気がつきはじめていた。本当に無能なら、その地位にはとどまっていられないようなのだ。かれらの中での競争が、それほどはげしいということにもなるのであろう。さらには、ネイト=カイヤツの富や技術が、家々に偏在しているのはたしかだとしても、それを完全にわがものにしている者は、いないといっていいのであった。当主といえどもそうなのだ。家の幹部たちは、幹部であるからそれらの力を使えるのであって、所有しているのではないのである。所有しているのは家という抽象的な存在なのだ。もっとも、この見方には異論があるかも知れない。ぼくがまだ窺い知れないもっと上部のもっと奥のほうでは、画に描いたような本物の所有者がいて、にらみをきかしているのかもわからない。が……おおかたのいわゆるエリートは、高級官僚をも含めて、いつ失脚するか知れず、失脚したとたんにエリートでも何でもなくなる不安定な存在だ、という気がする。要するに、ぼくがかつて信じていた特権階級なるものは、その中に種類や差がいくつもあるので、到底一律には論じられないのであった。これは当り前の話だといわれれば、それまでである。どんな社会だって実際にはそうなのだと指摘されれば、頭をさげるしかない。けれども、小さいときからいつの間にか脳裏に作られて来た、選ばれた人々の強力な集団というものが、全くの幻想に過ぎなかったと知ったのは、不思議な、ああなるほどそんなものか――という感じなのである。
もうひとつ、ぼくが考え及ばなかったこととして、連邦とネイト=カイヤツのかかわりがあった。ぼくたちはネイト=カイヤツの人間として、ともすればネイト=カイヤツ本位にものごとを考えがちである。よほどのことがなければ、連邦のことにまで思いはひろがらない。また、ネイト=カイヤツが、そんな風に、なるべく連邦を意識させないようなやりかたをとっているのだ。ネイトの結束あって、はじめてネプトーダ連邦があるのだ、と、考えるように仕向けているのである。ところが護衛員として働きはじめると、ぼくはいやでも多くの連邦外交官や連邦から来た人間を見掛けることになった。連邦の人間についての話を聞かされたりもした。そうした人々はネイト=カイヤツの大統領官邸で儀礼的に会見したり挨拶したりするだけでなく、深くネイト=カイヤツの社会に食い込んでいるのである。パーティにもよく出席して、ネイト=カイヤツ上層社会のメンバーとなり切っている者もすくなくない。つまり、ネイト=カイヤツは、ネイト=カイヤツ独自の主権体として自立しているのではなく、ネプトーダ連邦の一員としていろいろ介入もされ干渉もされつつ、何とかやって行こうとしている――ということなのだ。連邦の意図や動きと無縁ではいられないのである。これまた当然の話だろうが、ぼくはこのことを忘れてはならないと思うようになった。
そして、今のことと関連しているのだけれども、そうした、連邦というものを意識するような感覚を持つと、妙なものが見えて来るのであった。ぼくたちがひっくるめてエリートとか要人とか呼ぶ人々が、その活動範囲や力によって、いくつかのクラスにわけられるのではないか、ということである。端的にいうと、家クラス、各省クラスの人間と、ネイトクラスの重要人物と、さらに連邦を相手にする連邦クラスの大物――なる区分だ。そういう見方をすると、何となくその人間の行動や周囲の反応に納得が行くような気がして……便利なのであった。もっとも、ぼくがひそかにやっていたそんな区分が、現実と合致しているのかどうかは、保証の限りではない。ぼくのクラスわけがいささかあやふやだった証拠には、ぼくは自分の主人であるエレン・エレスコブを、どこに入れたらいいか、見当がつかなかったのだ。考えようによっては広く手をひろげて大きな仕事を画策しているようでもあり、観点を変えると自由なお嬢さんが気ままに飛びまわっているようなところもある。ぼくには依然として、彼女の実体は不明であった。
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本格的な護衛がはじまってから一カ月あまり経ったころ、ぼくはヤド・パイナンに呼ばれて、あすはまる一日自由にしろといわれた。
上陸非番である。
隊長以下六名の護衛員が次々と交代で出勤するのだから、上陸非番が可能な日はなかなか来ないはずである。十日かそこらについてひとり、それから十数日経ってまたふたり、という調子なのであった。新参のぼくなどは、当分順番はまわってこないだろうと覚悟していたので、むしろ意外な感じだった。
「うれしいか?」
と、ヤド・パイナンはたずね、ぼくは素直にうれしいと答えた。
「あすは、ハボニエも外に出る」
パイナンはいった。「お前たちが行動を共にしようと、別々になろうと、それは勝手だ。話し合って適当にやるがよい」
「わかりました」
「少々羽目をはずしてもいいから、発散させろ。そのための上陸なんだからな。だが、頭と身体は無傷で帰って来い。あと、任務に差しつかえるようだと、ただではおかんぞ」
「そのつもりです」
「よろしい」
ヤド・パイナンは頷き、両方の前膊《ぜんぱく》をデスクに置いた。「お前は新入りだから、いっておいたほうがいいと思うが……いずれそのうちにエレン様は、カイヤツ府外の地へ行かれるはずだ。それもたびたび、な。場合によってはカイヤツを離れてよその惑星へ行くかも知れん。そうなったらかなり長期間、上陸非番の機会はないだろう。そのつもりでな」
「わかりました」
「それだけだ」
パイナンはいい、ぼくは第八隊の事務室を出た。
次の日。
ぼくはハボニエと共に、護衛部の建物を出た。パイナンは同行でも別々でもいいといったが、ぼくはハボニエの意向を聞くことにしたのである。
「相変らず律儀な奴だな」
と、ハボニエは笑った。「おれだってどっちでもいいんだ。相棒がいたらそれなりのたのしみがあるし、ひとりならひとりで遊ぶのもまたよし、さ。しかしまあせっかくだから、一緒に出よう。ひとりになりたくなったらそういうよ」
そんなわけだった。
ぼくにとっては、そのほうが好都合でもあった。何しろエレスコブ家の警備隊に入ってからはじめての上陸なのである。先輩隊員がどうやって発散させるのかを知っておきたかったし、こういうときならエレン・エレスコブやエレスコブ家について、あるいはもっと別の事柄についても、ふだんは聞けないような話を聞けるかもわからないからだ。
護衛部の建物を出たぼくたちは、しばらく本邸沿いに道をとり、途中からそれて通用門に向かった。通用門の歩哨はぼくたちの外出許可証にぽんと印をつき、敬礼した。歩哨はぼくと同じ初級隊員だったのだ。ハボニエとぼくは答礼して、通用門をあとにした。
「どこか、行きたいところがあるのか?」
ハボニエがたずねる。
「別に」
ぼくは返事した。
「そうか。それなら中央公園へ行こうか」
と、ハボニエ。
「中央公園?」
ぼくは、問い返した。中央公園には樹々が多いし、スポーツのための施設もいくつかある。健康な場所であった。健康過ぎるともいえるのであった。上陸というその言葉から、ぼくは何となく興行施設や歓楽街のあるライカイヤツ地区とか、カイヤテット地区といったところを連想していたのである。
「そうさ。中央公園」
ハボニエはいった。「さっき、朝食を食ったばかりなんだぜ。とりあえずは汗を流そうじゃないか。どうせライカイヤツとかカイヤテットへ行くにしても……まだ早いぜ。それにたのしみというものは、長いことつづけては飽きてしまう。ひとつひとつ順番に、集中的にわっとやるもんだ」
「なるほど」
ぼくは頷いた。それも一理ある。
「そう決まったら、あそこからパスに乗ろう」
ハボニエは、道のかなたのバス停留所を指した。
ぼくたちは歩きだし、バス停留所へやって来た。
やわらかい風が吹いて来る。
よく晴れた、気持ちのいい日だった。そうしてバスを待っていると、ようやく、久し振りに自由な時間を持ったのだという実感が湧いて来る。仕事でぼくたちはカイヤツ府内のさまざまなところへ赴いていたが、それはろくにわき見も出来ない護衛員としてなのである。おのれの意志で行きたいところへ行けるのは、三カ月ぶりなのであった。
バスはじきに来た。
それほど込んではいなかったけれども、空席はなかった。ぼくとハボニエは並んで立った。車内の何人かが、ぼくたちをそっと観察しているのが感じられる。ぼくたちは制服姿だった。私用の外出だから剣も短銃も持っていないが、見る者が見ればエレスコブ家の警備隊員だということは、一目|瞭然《りょうぜん》なのだ。そして家の警備隊員というのは、すくなくともカイヤツ府内においては、また、若い連中にとっては、多少は格好のいい存在なのである。地位や身分が高いわけでもなく、尊敬されているわけでもないが、鍛え抜いた体力を持った少々素朴なスポーツマン、と見倣されているからだ(実際に警備隊員になってみて、ぼくは、世間のそうした印象というのは、あまりあてにならないと悟ったけれども)。それに加えて、庶民にとってもなろうとすればなれる職業だというイメージが、プラスになっているかも知れない。
バスを降りたぼくたちは、中央公園のスポーツ施設に入場し、走ったり泳いだりバーベルを持ちあげたりした。一般の人々の中に入ると、ぼくたちの体力も体格も、やはり一段抜きん出ていた。若者のうちには、ぼくたちの動きを見て、ひゅうと口笛を鳴らすのもいた。
思い切り汗を流したあと、ぼくとハボニエは服を着て、公園の中にあるレストランで昼食をとった。
それからハボニエは映画を観ようといいだした。ぼくも別に異存はなかったから、またバスに乗って、今度はライカイヤツ地区に向かい、二流の、つまらぬアクションものを観た。アクションにしても、大したことのない映画だった。派手なだけが、取り柄といえば取り柄のしろものである。
「予想通り、つまらん映画だったな」
外に出ると、ハボニエはいった。
「それなら、なぜあれを観ようといったんだ?」
ぼくがたずねると、ハボニエは肩をすくめて苦笑した。
「そりゃおれだって、深刻な考えさせてくれる映画を観たいと思うことはあるさ。しかし、これは上陸なんだぜ。あとに残るようなものを観ちゃ困るんだ。何でもいいから、スカッとするものを観るべきだ。そうじゃないか?」
「そうはそうだが……今のは、あまりスカッともしなかったぞ」
ぼくは抗弁した。
「そうだったな」
ハボニエはいい、ぼくの肩を叩いた。「それじゃ、もうひとつ観よう」
ぼくたちはもう一本映画を観た。今度はスペクタクルで、前のよりはだいぶましであった。
夕方。
ハボニエはぼくをともなって、ライカイヤツ地区の中心部からややそれた、それほど上等でない酒場が軒をつらねている界隈《かいわい》へ足を向けた。
「このへんに、なじみの店がいくつかあるんだ。知っている女の子も来るかもわからん。まずは……あそこにしよう」
ハボニエは、暮れかかった中、どぎつい看板をかかげている店をゆびさし、先に立って入って行った。
入ると同時に、店の喧噪《けんそう》が、ぼくの耳を衝いた。
かなり大きな店だ。
長い湾曲したカウンターがあり、テーブルも結構多い。客が一杯で、飲んだり歌ったりしている。カウンターの一部が空いていたので、ぼくたちはそこに陣取った。
カウンターの奥にいた老人が、頷きかけて来た。
「長いこと来なかったじゃないか、ハポニエ」
「例によって忙しくてね」
ハボニエは答え、いつものやつをくれといった。ぼくもそれにならった。大きなグラスに入った緑色の飲みものである。
「何だ? これ」
ぼくは訊いた。
「ペランソさ。この店の名物なんだ」
ハボニエがいい、ぼくはそれ以上はたずねずに、飲んだ。おそろしく強い酒であった。
「どんどん飲めよ。そのうちに女が来るだろうから」
ハボニエはうながす。「その位の酒が飲めんようじゃ、警備隊員を返上しなくちゃならないぜ。おれたちはみな、ペランソを飲むんだ」
「…………」
ぼくは辛抱して飲んだ。酔いが廻るのは早かった。
そうしながら店内を見廻すと、いろんな人が来ている。よその家の警備隊員もすくなくないのだ。そしてかれらの前には、申し合わせたように、緑色のペランソが入った大きなグラスが置かれていた。
女も多かった。多いが……彼女たちはみな濃い化粧をし、ぴらぴらした肉体的魅力を強調した服装で、どう見ても堅気の連中ではなさそうである。
「あの女たちも客かい?」
ぼくは向き直って、ハボニエにいった。
「客……といえば、客かな」
ハボニエは応じた。「店にとってはそうだろうよ。自分の金で飲むか、ほかの客におごってもらうかするんだからな。だが目的は男さ。良さそうな男をつかまえて、気が合ったら一緒にどこかへ行くんだ。値段をとり決めてからな。ここはそういう店なんだ」
「…………」
それで、ぼくにはよくわかった。
一分もしないうちに、ひとりの女がやって来て、横にすわってもいいかとたずねた。
「すわれよ」
ハボニエは受け、女の顔を見ていった。「何だ、お前、メサじゃないか」
「え?」
女は、だいぶ酔った目をハボニエに向けた。顔のつくりの大きな、綺麗といえなくもない女だ。一、二秒のうちに、女は思い出したらしい。
「あんた……ハボニエね? エレスコブ家の」
女はいった。
「元気らしいな」
ハボニエは頷き、席をひとつずらして、女をぼくたちの間に入れた。ありがとう、何か飲ませてくれる? と、女はたずね、ハボニエが承知するや否や、カウンターのむこうの老人に叫んだ。
「あたいもペランソ!」
「あまり飲み過ぎないほうがいいんじゃないか?」
と、ハボニエ。
「いいんだから。――それより、こっちの人は、お仲間?」
メサと呼ばれた女は、ぼくを見やっていうのだ。
「そう。イシター・ロウだ」
ハボニエが返事をした。
「若い人ね」
と、メサ。「あたい、あんまり若い男は好きじゃないの。悪いけど」
「いいんだよ」
ぼくはとりあえずそういった。
ハボニエとメサは、以前にふたりが会ったときのことを話しはじめた。どうやらふたりは何度も会っているようで……ハボニエはメサが嫌いではないようである。
ふたりの話に割って入るのもどうかと思ったので、ぼくはペランソを、ちびちびと飲んだ。
と。
「ここにすわってもいいですか?」
女の声が聞えたのだ。
目を向けると……若い女が横に立っていた。二十歳にはなっていないであろう。化粧らしい化粧もしていないのだ。
「どうぞ」
ぼくはいった。
女は、手にグラスを持っていた。中身も半分ほど残っている。
「ここへは、よく来るんですか?」
女はたずねた。
「いいや。はじめて」
と、ぼく。
「――そうですか」
女は呟き、それからしばらく黙った。何かいおうとして、なかなかいえないという風情である。
「おいイシター・ロウ!」
ハボニエの声に、ぼくは振り向いた。ハボニエはいつの間にか席を立ち、メサの肩を抱いている。「おれたち、話がまとまったから消えるぜ! そっちはそっちで、しっかりやってくれ。だが、きょうじゅうには帰るのを忘れるな!」
いうと、ハボニエとメサは、酒代を払って出て行った。メサがこっちへ顔を向けて、手をひらひらさせた。
ぼくは、視線を戻した。
女は、ぼくを見ている。
「あの……」
と、女はいいだした。「このこと、はじめにいっておきたいんですけど……わたし……その……本当の商売、したくないんです。お話するだけでいいんです。それで……こんなことをいうと、怒るでしょうけど……それで、少しだけお小遣いをいただけたらいいんです。あつかましいでしょうか?」
「…………」
ぼくは、あぶなく微笑するところだった。苦笑だったかも知れない。
この女は、まだ、そこまで決心がつかないのであろう。それで、こういう中途半端なことを考えついたのに違いない。こんな申し出をされたら、その気になってここへ来ている男は腹を立てるのがふつうである。
けれども、ぼくはそんなつもりで来たのではなかった。正直なところ、そんな気にもなれなかった。ぼくの頭の中にあのエレン・エレスコブがあるせいか……いや、それだけではあるまい。一方ではシェーラのイメージも残っている。いずれにせよぼくの想念の中にある女性は、ここにいる女たちとは異質であった。あるいはぼくが、こんなにも毎日苛酷な仕事をして神経がすり減っていなかったら、身体は身体と割り切れたかも知れない。ともかく理由はいくらでもつけられる。つけられるが、はっきりしているのは自分がどうも乗り切れない、という気持ちなのだ。
とあれば、これは、歓迎すべき事態なのかもわからない。それに好奇心も湧いて来た。
「おいやだったらいいんですけど」
女は席を立とうとする。
「いいんだよ。ここにいてくれ」
ぼくはいった。
「そうですか?」
女はにこりとして、すわり直し、グラスを持ちあげて一口すすった。それからグラスを置いて、自己紹介をした。
「わたし、ミスナーといいます。ミスナー・ケイ。本名じゃないんですけど、そう呼んで下さい。あなたは?」
ぼくは、イシター・ロウだと答えた。
「失礼ですけど、エレスコブ家の警備隊員ですね?」
女は、ぼくの服を眺めていう。「初級隊員ですね? 任命されたのはいつ?」
「くわしいんだね」
ぼくは説明しようとして……そのとき、視線を感じ取った。誰かがぼくをみつめているのだ。
ぼくはそっちへ目を向けた。少し離れたテーブルに、きんきらきんの制服の男がいる。マジェ家の警備隊員だった。そいつが、刺すような目つきで、こちらをにらんでいるのだった。
そういう目つきに、ぼくはこれまでたびたび出くわしている。いや、ぼく自身、おのれが不当に扱われたと感じたときや、やり場のない怒りにかられたときに、幾度となくそんな視線を相手に向けたはずだ。それは敵意をはっきりと示す目であった。まともに受けとめるのは、つまり、けんかを買うのを意味する。たとえ、相手が何に腹を立てているのかを知ろうとしてやった場合でも、結果はそうなるのだ。
ぼくにはそれがわかっていた。また、今の自分の立場をわきまえているつもりでもあった。だからぼくは、反射的に視線をほかへ移し……ミスナー・ケイと自称する若い女へと戻したのだ。
彼女は、ぼくが見た方向へは一顧だにせず、ぼくの服に目を当てたままだった。
「何の話だったかな」
ぼくはいった。「ああそうか。ぼくがいつ初級隊員になったか、だったね?」
「そうです」
と、ミスナー・ケイ。
「正規隊員になってから、まだ一カ月そこそこさ。駈けだしだよ」
いうと、ミスナー・ケイは、少し、目で笑った。
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
「新鮮だから」
ミスナー・ケイは答えた。「警備隊員ずれしてらっしゃらないもの」
「――なるほど」
ぼくは肩をすくめた。そんないいかたをされると、複雑な気分にならざるを得ない。
「でも、正規隊員って、簡単にはなれないんでしょう?」
ミスナー・ケイはいうのだ。「なるためには、いろんな研修を受けなきゃならないんでしょう?」
「そりゃまあ、いろいろとね」
「でしょうね。どんな訓練があるんですか?」
「どんなといっても、それこそいろいろさ」
ぼくはそんな受けかたをした。一口で説明出来るようなものではないし……あまりぺらぺらと喋るのも考えものだ、という気がしたからである。ぼくは反問した。「しかし……どうしてそんなことを訊く?」
ミスナー・ケイは、ちらと上目づかいにぼくを見た。それからいった。
「知りたいから。わたし、何でも知りたいんです。好奇心が強いんでしょうね」
「多分、ね」
「それに、家の警備隊というのに、関心があるんです」
「ほう」
「ネイト=カイヤツを動かしているのは、家々でしょう?」
と、ミスナー・ケイ。「警備隊というのはその家々の、いわば私兵だけど……なかば公認されているわ。そして、まぎれもない武力でしょう? この武力が、実質的にネイト=カイヤツにおいてどんな役目を持っているかを考えると……その構造や仕組みを知りたくなるのも当然ですわ」
「待ってくれ」
ぼくはさえぎった。
このミスナー・ケイという女は、どうやらただのミーハー族ではない、という感じがして来たのである。ぼくは、こんな場所で、こういう話題が出るとは、考えもしなかった。ただのんびりと、日ごろのストレスを発散させるつもりだったのだ。
しかし、この女がそんな話をしたければ、ぼくはそれでも別に構わなかった。それだけの手応えのある相手なら、それなりにこっちも話せばいいのである。
「きみは今、家の警備隊が武力で、その武力が、ネイト=カイヤツにおいて役目を持っているといったね?」
ぼくは、ゆっくりといった。「それはどういう役目なんだろう? きみは、どう思っているんだ?」
「わたしは、家の武力は、ネイト=カイヤツの内側……内部に向けての自律的作用をはたしていると思うんです」
ミスナー・ケイは即答した。「でも、それだけで、対外的にはあまり……いえ、当の警備隊員を前にして、こんなことをいっては失礼だから」
「いいよ。つづけてくれ」
「対外的には、家の警備隊というのは、力にはなっていないんじゃないでしょうか。端的にいえば、ネプトーダ連邦という観点から見ると、実力・装備などの点で、武力とはいいかねるんじゃありませんか? まして、ネプトーダ連邦そのものを、ひとつの単位に過ぎないと見倣せば、ほとんどゼロといってもいいと思うんです。――ごめんなさい」
ぼくは苦笑した。それが一面の真実であるのは、たしかだったのだ。
「で?」
ぼくはうながした。
「現在のネイト=カイヤツでは、社会的上昇の機会は、そうたくさんはありません。それゆえに、家々の警備隊は、多くの有能な若い人を吸収しています」
ミスナー・ケイはいう。「いいかえればこれは、ネイト=カイヤツが保有しているエネルギーのかなりの部分を、家々の警備隊が吸収しているということです。それはつまり、ネイト=カイヤツ内部の秩序や既存の階級・階層の維持に利用されるばかりで、ネイト=カイヤツ外への力にはなっていない、ということになりません?」
「それはいえるだろうね。だが、別のいいかたも可能じゃないか?」
「どういうことです?」
「要するにきみは、ネイト=カイヤツが保有しているエネルギーが、内部強化、あるいは維持のほうについやされて、対外的にはほとんど使われていない、と、いいたいんだろう?」
ぼくは、相手の論旨を一応復習してから指摘した。「しかし、へたに対外的に力を傾け、力を誇示するよりも、内部強化のほうがネイト=カイヤツの独立性に役に立つともいえるんじゃないかな」
ミスナー・ケイは頷いた。
「それはそうですわ。だけどそれは、ネイト=カイヤツ内に、自分たちのネイトを愛するという合意が出来ているときに有効じゃないんですか? 現在のネイト=カイヤツがそうだとは、わたしには思えません。また、かりに結束していたとしても、規模の大きな非常事態になったら、とても独立性を持ちつづけるわけには行かないでしょう?」
「非常事態?」
「戦争です」
と、ミスナー・ケイはいった。「ネプトーダ連邦は現にウス帝国とボートリュート共和国を相手に、たたかっているんでしょう? それも、今のところはボートリュート共和国軍が相手だけど……ウス帝国が本当に動きだしたら、大変なことになるわ。そのとき……連邦の一員であるネイト=カイヤツは、どれだけのことが出来るのか、まことに心もとないと思うんです。連邦の一員として、しかるべき実力を見せなければならないのに、……現状では、とてもそんなことは無理です。そうじゃないでしょうか?」
「――つづけてくれ」
「ネプトーダ連邦が戦闘で潰滅しないために……潰滅しないとしたら、連邦内でいっぱしのネイトとして認められるために……ネイト=カイヤツは、持てるエネルギーをその方向につぎ込むべきですわ。各家がばらばらに、ネイト=カイヤツの一般人に対しての力としての警備隊をやしなうのをやめて、外への力としなければ……」
「警備隊が不要だというんだね?」
「いいえ、違います」
ミスナー・ケイはかぶりを振った。「家々の警備隊は、それなりにきびしく鍛えられ、力を持っています。だからこれを、家だけのものでなく、ネイト=カイヤツとして動員出来るようにした上で、もっと高度の装備や訓練をすれば……無駄がなくなるでしょう? 非常事態にさいしても、対応出来るんじゃないですか?」
「理屈はそうだろうね」
ぼくは返事をした。「しかし、そんなことが可能かな。家々はそう簡単に協調はしないだろう」
「でも、そうしなければ、ネイト=カイヤツは、いずれ連邦と共に滅びるか、連邦が生きのびても、末席のとるに足らないネイトに転落してしまいますわ」
「…………」
「だからなんです」
ミスナー・ケイはいうのだった。「だからわたしは、いろんな家の警備隊が、実際にどういう状態にあるか……興味を持っているんです。いざというとき、すべての家の警備隊が、家としての立場よりもネイト=カイヤツ全体を考え、ネイト=カイヤツの力になり得るかどうか……そのために、機構や隊員の意識がどうなっているか、知りたいんです」
「なるほどね」
ぼくは呟いた。少し呆れてもいた。
このミスナー・ケイなる女のいうことには、それなりの理はある。ミスナー・ケイは正統的な連邦統一主義者とはいえないだろう。が……ネイト=カイヤツの持てる力を、連邦のために使うようにすべきだというのは、その意味では連邦統一主義者に含まれるかも知れない。それにしても、この話は、ぼくには遠大であった。やっとエレスコブ家の護衛員になった身には、現実の壁の厚きというものを知っているがために、なかなかそうは行かないよ、という感じがするのである。
「本当です」
しかし、相変らず熱心に、ミスナー・ケイは訴えるのだ。「そういう危急存亡にさいしては、ネプトーダ連邦は、ありとあらゆる手段を講じるでしょう。その中にあってネイト=カイヤツがとるべき道も、おのずから決まって来ます。ネイト=カイヤツは、ネイト=カイヤツに可能なかたちで対応しなければならないんですわ」
「きみは……まるで、連邦かネイト=カイヤツの政策立案者みたいないいかたをするんだね」
ぼくはいった。
それから……ぼくは、自分がどこにおり、相手が何であったかを、思い出したのだ。
ここは、ハボニエが連れて来てくれた酒場である。ここには、男をつかまえて商売しようとする女たちが、むらがっているのだ。
そして、このミスナー・ケイと名乗る女も、そのひとりなのである。本当の商売はしたくないが、小遣いをかせごうとはしているのだ。
また、ぼく自身はというと、政府高官でも家の中の中枢ファミリーでもない、ただの、駈けだしの警備隊員に過ぎないのであった。
こんな場で、こんなふたりが交すにしては……今の議論は、あまりにも大き過ぎたのではあるまいか? ぼくは、にわかに空しくなって、目の前のグラスを持ちあげ、ペランソを一口飲んだ。
「こんなお話、退屈でした?」
ミスナー・ケイは、そういいながら、さりげない仕草で、カウンターに置いたぼくの手の甲に、自分のてのひらを重ねた。そして、二、三秒黙っていたが、不意にその頬に血の気がさした。彼女は微笑し……やわらかく、眩くようにいった。
「こんなところへ来る女にしては、えらそうなことをいう奴だ、と、お思いなんでしょうね。だったら、あやまります。だけど……この宇宙には、ネイト=カイヤツやネプトーダ連邦だけでなく、無数の世界があるわけでしょう? そこには敵もいれば味方もいる。誰もが知っている世界や、まだ耳にしたことのない世界もある。ひょっとしたら、あなたに今よりももっと合った世界もあるかもわかりません。そんなことを考えると……ネイトや連邦がどうあるべきか……いやでも思いをめぐらせてしまうんです」
「…………」
ぼくは何もいわなかった。ミスナー・ケイの喋りかたや、その言葉には、何となくぼくの日常感覚をひろげ、ぼくを未知の、どこかなつかしいところへ誘い込むような気分があった。それが何であるのかは……ぼくにはわからなかった。もうしばらく考えれば、おぼろげながら何かをつかめそうな気もするのだが……わからなかった。それに、ぼくの内面に、そういう未知の何かに惹かれるものがあるのも、不思議といえば不思議だった。
しかし。
次の瞬間、ぼくは、すぐうしろに誰かが近づく気配を感じ取り、手を引っ込めてそっちへ向き直ったのだ。
赤と金色が、ぼくの視野に映った。あの、マジェ家の警備隊員だった。そいつの手は、ぼくの肩をつかむところであった。ぼんやりしていたら、ぼくは引き倒され、とまり木からころがり落ちていたはずである。が……ぼくは向き直ると同時に、身をかがめ、そいつの手は宙を泳いだ。そのときには、もうぼくは、とまり木からすべり降りていた。そんなことが出来たのも、ぼくはいつの間にか危険に対して敏感になっていたからであろう。まして先程、敵意に満ちた目に出会ってからはずっと、無意識のうちに警戒していたのである。
ぼくは、マジェ家の警備隊員と向かい合った。そいつはヘルメットを脱いでいたが、ぼくより背が高く、肩幅も広かった。ただ……だいぶ酔っているらしく、上体がわずかに揺れている。
「何か用か?」
ぼくは、声を投げた。
「いやに、いちゃいちゃするじゃないか」
マジェ家の警備隊員は、ぼくをにらみつけ、とまり木から離れようとするミスナー・ケイのほうへ、あごをしゃくった。「その女は、おれがはじめに目をつけたんだ。ところが商売はしないといいやがった。それなのに何だ。お前のような奴を相手にしてやがる」
「そういう選択は、女の自由じゃないのか?」
ぼくはいった。
「おれが嫌で商売をしないというのなら、そういやいいんだ」
マジェ家の警備隊員は、うなり声を出した。「それを何だ? 商売はしないといいながら、すぐ近くではじめやがって!」
「わたし、あなたがいうような商売はしないと、いっただけです」
ぼくの斜めうしろに立っていたミスナー・ケイがいった。彼女は、予想外に落ち着いていた。
「何を?」
マジェ家の警備隊員は吠えた。「きいたふうなことをいうな! お前はこいつを相手に商売をはじめたじゃないか!」
「待て」
ぼくは、どうせ相手は聴きやしないだろうと思いながら、それでも事情を説明しようとした。
「おれは、馬鹿にされるのは辛抱出来んのだ!」
マジェ家の警備隊員はわめいた。「おれを馬鹿にした奴は、どんなことになるか、思い知らせてやる。まず、その商売女からだ!」
そいつは、ミスナー・ケイのほうへ近寄りかけた。
「やめろ」
ぼくは、その前に立ちはだかった。面倒はおこしたくないが、こうなれば行きがかりである。
「どけ。ひよっこ」
そいつは、ぼくを片手で押しのけようとした。ぼくはその手をとらえ、わきへ外した。
店内が、しんとなった。
「邪魔をするか!」
そいつは、剣の柄に手をかけた。「それなら、お前から片づけてやる。マジェ家の警備隊員の腕がどういうものか、見せてやるぞ」
「こちらは丸腰だぞ」
ぼくはいい返した。「マジェ家の警備隊員は、丸腰の人間を斬るのか?」
そのときには、まだぼくは相手を、というより、マジェ家の警備隊員の良識というものを信じていたのだ。何の武器も持たぬ者に剣をふるうとは、考えられない。だからけんかになっても、せいぜいなぐり合いだろうと思っていたのだ。
だが……そいつは、鞘をすべらせる音と共に、サーベルを抜いたのである。
静まり返っていた店内から、いくつか悲鳴があがった。
「丸腰がどうした?」
そいつは叫んだ。「おれは警備隊員だぞ。剣を使う人間だ。相手がどうであろうと、知ったことか!」
すでにそのときには、ぼくはそいつの前から飛びのいて、ミスナー・ケイと同じ場所にさがっていた。
「あぶないわ!」
ミスナー・ケイがささやいた。
「あぶなくなったら、逃げだすだけだ」
ぼくはささやき返した。それは本音であった。それよりも……そうだ。ぼくはミスナー・ケイにいった。「きみは……どこかへ逃げろ」
「…………」
ほんのわずかな間だったが、ミスナー・ケイはためらったようだ。ぼくは、この女は危険というものに対して鈍感なのではないかとさえ思った。けれども、彼女はたちまち身をひるがえして、背後の戸口へと走り去ったようである。
ぼくは、ようである、といった。
相手の動きから目を離せないので、気配だけでミスナー・ケイの行動を察知するしかなかったのだ。
しかし、それだけでも、やはり注意力は減殺されたのは事実である。ぼくがはっと気がついたときには、相手は抜剣のまま、じりっと間合いをつめていた。
それは、相手が素人ではなく、こちらも素人でないのを熟知した動きであった。おのれが剣を持ちむこうが丸腰となれば、素人ならそのまま打ちかかって来るであろうが……こっちは丸腰は丸腰なりに、一応、守りの構えをとっている。いい加減に斬りかかって来たら、相手の剣を奪い取るか、奪い取らないまでも叩き落とし、格闘に持ち込むかたちなのだ。そのことを、相手は承知していて……それで、そんな攻めかたをして来たのだ。
ぼくは、じりじりと後退した。これだけ距離がつまれば、うしろを向いて戸口から逃げるのは無理である。背後から斬られるか、剣を投げられるということになるおそれがあった。従って、これ以上間合いをつめないように後退をつづけ、機会を窺って遁走《とんそう》するしかないのである。
が。
相手はうまかった。酔っているはずなのに、ぼくとの距離を目に見えぬほどわずかずつ、ちぢめにかかっている。
それだけではなかった。
相手は油断なく迫って来ながら、いったのだった。
「逃げたければ、逃げるがいいぞ、ひよっこ。エレスコブ家の警備隊員がどれだけ腰抜けか、いいふらしてやろう。だが……逃げられるかな?」
いつか、ぼくは戸口の近くまで、さがって来ていた。
いや、そのはずだったのだ。抜剣の相手に捨て身の抵抗の構えを示しつつ、うしろの戸口へと後退していたはずだったのに……どういうわけか、ぼくは戸口をずれた壁ぎわへ寄っているのに気がついた。相手の追いつめかたが、それだけうまかったということなのである。
もしも相手の剣が、突きのみのタイプのものであったら、ぼくは自分から進んで、壁を背にしていたであろう。突きをかわすことが出来れば、相手の剣は壁に当たって折れるかもわからないし、奪い取ることも可能である。が……マジェ家の警備隊員の剣は、切ることも突くことも出来るサーベルなのだ。
ぼくは、刻々と追いつめられて行った。このままでは間違いなくやられる。相手がぼくを殺してしまうつもりか、傷つけて倒すだけなのか、ぼくにはわからなかったけれども……どのみち、無事では済むまい。ぼくの脳裏を、少々羽目をはずしてもいいから無傷で帰ってこいといった、ヤド・パイナンの言葉がかすめ過ぎた。だが、もう遅いのだ。
ここで死ぬのか、と、ぼくは思った。こんな酒場で……。
ハボニエが、ぼくを助けに出現することも望めなかった。ハボニエはぼくがぼくなりにたのしんでいると信じ、あのメサと共に、与えられた時間を目一杯に活用しているに違いない。
仕方がない。
ぼくは覚悟した。
ここで殺されるのなら……それがぼくの運命だというのなら……観念するしかない。
そう思うと、だしぬけに、ぼくは気が楽になった。やるならやれ、どうせいずれは死ぬ身なのだという気になり……そして、そう思ったとたんに、やぶれかぶれの案が浮かんで来たのだった。それは、トリントス・トリントとの対戦のあのときに酷似していた。どうせ死ぬのなら……死んでも構わないというのなら……それなりのやりかたがあるのだ。
ぼくは、マジェ家の警備隊員をみつめながら構えていた身の力を抜いて、棒立ちになり、大声をたてて笑いだした。そこで相手がぼくを突くなり切るなりすれば、ぼくは一巻の終りだったが……あまり唐突に、しかも、おかしくておかしくて仕様がないように笑ったものだから、相手は顔をしかめた。
「おそろしさで狂ったな、ひよっこ」
相手は嘲笑《ちょうしょう》した。
ぼくは笑いつづけ(やけくそだからこそ、笑えたのかも知れない。へたな自意識が残っていれば、とてもそうは行かなかったに違いない)さらに笑いつづけながら、視線を相手のむこうへ向け、腕をあげてそちらを指さした。
相手は振り向いた。
そいつは、そんなことをすべきではなかったのだ。対決のさなかに、敵の背後に何かありそうに見せかけ、隙を狙うというのは、古典的も古典的、初心者も初心者がやることである。そんなものに相手がひっかかったのは……相手がぼくよりも酔っていたことと、それに、そいつが剣を持ちぼくが丸腰である――ということによる過信のせいだとしか思えない。それにぼくの笑いかたが、あまりにも常軌を逸していたからかもわからないが……いや……やっぱりこれは、奇跡だったのかも知れない。
相手が振り向いたときには、ぼくは、すべての雑念を追い払って、戦闘の動物になり切っていた。基礎研修のころ、考えればそれだけつらくなるような状況下で、ぼくはしばしばそうすることで、何とか切り抜けて来たのだ。護衛員候補でありファイター訓練専門学校の優等生であるために白眼視されたのを、ひたすら頑張ることで耐え、やがて仲間扱いされるようになったのだが……その無心の頑張りを一瞬に凝縮して、身についた動きだけで行動したのである。
ぼくは横に飛び――テーブルのひとつを持ちあげて、そいつへ投げた。そいつがかわしたときには、次のテーブルを踏んで跳躍していた。追って来る相手の位置と方向を見定めて、手に触れるものを投げた。何でも投げてやった。つかみあげて妙に重いと思うと、それは、そいつのヘルメットだった。ぼくはそのヘルメットをそっちへほうってやり、相手が思わず受けとめようとするのを、椅子をつかみ、椅子ごと、そいつの足にぶつかって行った。
そいつが倒れ、もみ合いになった。このもみ合いがどんな経緯をたどったか、ぼく自身にもよくわからない。反射神経と体得した技だけで格闘したのである。はっとわれに返ると、ぼくは、奪い取ったサーベルを、そいつの喉元に突きつけていた。
「殺せ」
そいつは、憎々しげにいい、目を閉じた。
ぼくには、しかし、そいつの喉をかき切ることは出来なかった。これは任務ではない。私用外出でのけんかである。しかも、相手は無抵抗の状態になっているのだ。ぼくはサーベルを引き、遠くへ投げ捨てようとした。
相手の腕が動いた。
そいつは、短銃を引き抜こうとしたのだ。マジェ家の警備隊員は、サーベルと短銃を持っているのを、ぽくは忘れていたのである。
きたない奴だ――と、思ったとき、ぼくは相手の、短銃を握った右腕に、サーベルを振りおろしていた。とっさの行為だったし、はじめから腕を切断するつもりもなかったから、傷はそう深くなかったはずだ。それでも右腕からは血が噴出し、そいつは短銃をとり落として、ころがり、うめき声を出した。
ぼくはその場を立ち去ろうとした。戸口に向かって歩きだしたが……店内の人々が、あわてて道をあけるのである。ぼくはまだ手に血のついた剣を持っているのに気づいて、床に投げ捨てた。
そのころには、ぼくはもう、ふだんのぼくに戻りかけていたようである。それほどたくさん飲んだのでもないペランソの酔いは、あらかたさめていた。強い酒で、酔いが廻るのは早いけれども、さめるのも早いのかも知れない。それに、興奮もどこかへ消えてしまっている。そういえば、ぼくはこの店の勘定を払っていない。
そればかりでなく……今の騒ぎで、ぼくは店の設備や備品を、だいぶこわしている。そうなったのはぼくだけの責任ではないにしても、いくらかは弁償しなければならないであろう。
そうしたことを、きちんとしておくのは義務だ、と、ぼくは考えた。エレスコブ家の警備隊員として……そして、ぼく自身の良心として……そうすべきであった。別のいいかたをすれば、ぼくは、かつてその日の暮らしにも困っていた人間として、特別な権利や財産を持たない者には、そうした損害がどれほど大きく、どんなにこたえるものか、実感出来たのである。
ぼくは、さっきのマジェ家の警備隊員が腕をおさえ、二、三人にとりかこまれて何かいっているのを見てとり、当面すぐにはぼくに挑んで来ないだろうと判断して、カウンターに歩み寄った。その奥にははじめ入ったときにぼくとハボニエに頷きかけた老人がまだいて、こっちを眺めていたのだ。
「勘定してくれないか」
ぼくは老人にいった。「それに、あと、どの位払ったらいい?」
「ほう」
老人はぼくをみつめ、酒代を告げた。それ以上はあんたの気持ちしだいだともいった。
ぼくは、自分でも少し多いかなという額の金を置いた。
ところで、あのミスナー・ケイという女はどうしたのだろう、と、ぼくは思った。ぼくはあの女と喋り合い、小遣いを与える約束をしたのである。話はしばらくしただけだし、こんなけんかをしてしまったのも、元はといえばあの女が原因なのだが……きっちりするところは、きっちりしておきたかった。ぼくは店内を、目で探した。ミスナー・ケイは居なかった。
「あの女は?」
ぼくは、立ったままカウンターに肱《ひじ》をついて、老人にたずねた。
「あの女?」
「ぼくと話していた女さ」
「ああ、あの変りものかね」
老人は答えた。「あれは風来坊でね。商売をやっているのかやっていないのかもわからん。いつ来て、いつ居なくなるかも見当がつかんのだよ。おおかた、どこかへ逃げてしまったんだろう」
「…………」
そうかも知れなかった。ぼくは彼女に逃げうといったのだ。それでいながら、何となく戻って来そうな気もしていたのだが……。
しかし、そうしているぼくを、老人はけげんそうに見やり、ぼくに顔を近づけて、早口でいったのだった。
「あんた、何をぐずぐずしている?」
「え?」
「早く、どこかへ行ったほうがいいよ」
老人は、店内に視線を走らせて、ささやくのだ。「もう誰かが、この騒ぎをどこかに知らせているはずだ。ネイト警察が来たらあんたは拘留されるよ。でもネイト警察ならまだいい。マジェ家の連中がやって来たら、寄ってたかって、殺されちまうだろう」
「…………」
「早く」
それ以上そこにぼんやりと突っ立っているほど、ぼくは馬鹿ではなかった。ぼくは老人にひとこと礼を述べると、おもてへと走り出たのである。店内の人々がぼくの突然のその行動にどう反応したかは、知る由もなかった。外は完全に夜になっていた。ぼくは、どぎつい看板がやたらに目につく道を駈け、駈けているとかえって周囲の疑惑を招くと気がついて、徒歩に切りかえた。歩いているうちにぼくは、自分の制服がさっきの格闘でだいぶ汚れ、胸や袖口には血がついているのを知った。ぼくは、とある路地に水道の蛇口があるのを認め、そこで血を洗い流し……ゆっくりと歩きだした。
冷静になってみると、ぼくは自分が全くの間抜けであったと自覚しないわけには行かなかった。あの老人は、ぼくが酒代を払い、店の損害に対しても金を出したから、そしておそらくぼくが、なじみであるハボニエのつれだったから、親切に警告してくれたのであろう。本来なら、老人にいわれるまでもなく、ぼくは自分でその後のなりゆきを察知していなければならなかったのだ。それをあんな風にぼうっとしていたのは……おのれをののしりたい気分であった。
それにまた、ぼくは、何とまあ簡単にトラブルに巻き込まれたことであろう。あのミスナー・ケイという、出会ったばかりの女のために、行きがかりとはいえ一命を落としかねない争いを開始したのである。
あれやこれやを考え合わせると、これ以上ひとりでぶらぶらしているのは、やめたほうが良さそうだった。それに、遊ぼうという気持ちも、あまりなくなっていた。まだ上陸時間はだいぶ残っているが、ぼくはまっすぐ帰途につくことにした。
護衛部に帰りついたぼくは、ヤド・パイナンが勤務を終えて戻っていると聞き、第八隊の事務室へ行った。マジェ家の警備隊員といざこざをおこしたことを、報告しておかなければならないと思ったからである。
ヤド・パイナンは、ぼくの話を黙って聴いていたが、終ると、やおら口を開いた。
「お前は、結果としては無傷で帰って来た。それは当然の義務であるが、一応評価していい」
「はい」
「だが、問題がふたつあるな。その一。お前は素手で、武器を持った相手とたたかうことになった。こちらが丸腰だから相手も武器は使用しないだろうと期待してだ。甘い期待だ」
「…………」
「警備隊員というのは、見方によれば一種の殺人機械でもある。殺人機械が、武器を携行していて、使用するのが有利となれば、ためらいなく使用するのが当り前だ。それが第二の天性となっていると承知しておけ」
「はい」
「もうひとつは、相手の剣を奪い取ったときに、殺してしまわなかったことだ」
ヤド・パイナンはぼくを見据えた。「おのれを殺そうとした敵を殺せる機会には、容赦なく殺さなければならない。なまじ情けをかけたために、こちらがやられてしまうことはすくなくない。敵を殺し、とどめをさせば、そいつはもうこちらには害を及ぼさない」
「はい。しかし……」
ぼくはいった。パイナン隊長のいうことは、たしかにその通りである。そうでなければならないはずである。が……あのときのぼくには実行出来なかったのだ。なぜ出来なかったのかというと……任務遂行の場合ではなかったのと、相手が無抵抗の状態だったからである。しかし、そのためにぼくがあぶなく短銃で撃たれるところだったのも事実だった。相手が、ぼくがサーベルを投げ捨てるのを待って短銃を出し、撃てば、ぼくはやられていたはずである。それを考えると……隊長の言葉をそのまま肯定するのもつらく、反駁《はんぱく》するには無理があった。
「しかしはいかんぞ。イシター・ロウ」
ヤド・パイナンは首を振った。「お前は警備隊員だ。私用で外出していてもそうなのだ。しかもお前は制服を着ていた。制服とは、本人がそれを着ているとの意識を持つだけのものではない。お前を見る人たちみんなが、お前を警備隊員だと認めることも意味する。お前は他人の目に、警備隊員と映り、こととしだいによればいつ殺人機械になるかも知れぬ存在と映るのだ。だから、お前の相手は、お前を自分と同じ凶器だと見倣し、それ相応の出かたをしたのだ」
「――はい」
いわれてみれば、そうであった。
「いっておくが、そのときお前が相手を殺していても、無事に帰着し、こちらに理があったとエレスコブ家が認定すれば、お前の身は安全なのだ」
ヤド・パイナンはいった。「それぞれの家では、警備隊員のみならず自家のファミリーが法に触れても、何とか闇から闇へほうむることが出来る。それだけの力があるから、家なのだ。これは特権には違いない。公正を欠くともいえるだろう。私はだから、必要以上にやたらに特権を行使しろとはいわない。しかし、そういう特権があるということは、心のどこかにとどめておけ」
「――はい」
「よろしい。行け」
次の待機非番のとき、ぼくは、ハボニエから、あの晩事件をおこしたらしいな、と、いわれた。
ぼくは説明した。問われるままに、相当くわしく喋ったのである。ついでに、パイナン隊長からいわれたことも、つけくわえた。
「そりゃ隊長のいう通りさ。お前はあっさりと、そいつを殺しておくべきだったんだ」
ハボニエは笑った。「お前は律儀だが、それだけでなく、優し過ぎるのかも知れないぞ。それがお前の命取りにならなければいいが」
「…………」
「それで……どうなんだ? あの店にいくら払ったんだ?」
ぼくは、その金額をいった。
「払い過ぎだな」
ハボニエは、感想を述べた。「その半分でも充分だったんだ。ま、この次におれが行ったら、おれの待遇も良くなるだろうが……気前が良過ぎるぜ」
「そうはいっても……だいぶあちこちぶっ潰したんだからな」
ぼくは抗弁した。
「そんなもの、負けたほうにおっかぶせればいいんだよ」
ハボニエは、いささか意地の悪い表情になった。「それに、おれたちはそこまで気を遣うことはないんだ。警備隊員どうしの斬り合いなんて、あのへんでは珍しくないんだから……店のほうも馴れているよ。第一、ああした店は、うんともうけているんだぜ。そういう損害見込みは、あらかじめ酒や料理の値段に織り込まれているとおれは思うね。おれたちは警備隊員らしく、派手にやって、そこそこ置いて行けばいいんだよ」
「――そんなものかね」
ぼくは呟いた。
わずかではあるが、ぼくの心中に違和感が生れていたようである。ぼくの頭にあった実力ひとつで身を張って這いあがって行く警備隊員というイメージは、少し、歪みはじめていた。警備隊員は家のファミリーであり、ファミリーとしての特権を持っている。それは実にささやかな特権ではあるが、特権には違いなかった。それを、警備隊員たちがあまり深く考えもせずに享受しているらしい――との印象が、ぼくの中に沈着しつつあったのかも知れない。
もっとも、さらに突っ込んで考えれば、ぼくのそんな心理は、奇妙といえば奇妙なのである。ぼくは自分でもわかっているが、出来るものならこの手に権力を持ちたい、と、ひそかに願っているところがあった。それは認めておかなければならない。そして、それを正当な手段で無理せずに獲得出来れば(そんなことがあり得るとの確信もなかったが)うしろめたさを抱かずに済むであろう、とも思ったりしていた。そんなぼくが、実際に警備隊員であるということによる有利性を見聞きし、自分もそのひとりであると自覚したときに、そんな違和感が生れて来るとは……おかしいのである。
が……ぼくはそんな心の屈折を、ハボニエにはいわなかった。いうべきでないとも思ったのだ。
「それにしても、その……何とかいう女。ミスナー・ケイか? 変な女だな」
ハボニエは、首をかしげた。「それはまあ、まだ商売女になり切りたくはないため、中途半端なことをして稼ごうとするのは、ときどきいるよ。あの女は、そういう感じだった。しかし、それならよけいに金が欲しいはずなんだ。それが……金をもらわずに消えてしまったというのか?」
「そうだ」
「外で待ってもいなかった?」
「そうなんだ」
「妙だな。どういうつもりだったんだろう」
ハボニエは、宙に視線をただよわせ、ぼくを見やった。「妙といえば、お前としたその話の内容も変ってるな。そういう女が、ネイト=カイヤツとかネプトーダ連邦とかを論じるとはね」
「全く」
「その女、反体制運動か何かやっているんじゃないか?」
ハボニエはいった。「それで、警備隊員を仲間に引き入れようともくろんだのかも知れんぞ。最初に声をかけて来たマジェ家の警備隊員は、これは駄目だと見て取って、次にお前を標的にしたんじゃないか?」
「そうかもわからない。でも何かを説得するつもりだったとしても、そんなひまはなかったわけだ」
ぼくは答えた。
答えながら……ぼくは、ふっとそのときのことを思いおこしていた。あのときミスナー・ケイは、ぼくの手に手を重ねて、夢のようなことをいった。この宇宙には無数の世界があってどうこう、というような事柄をだ。そしてそれを聴きつつ、ぼくはどこかへ誘い込まれるような気分におちいった。あれは、ハボニエのいう何かの運動への説得の手はじめだったのか? どうも、そんなものではなさそうな感じもあるが……ぼくには何だかよくわからなかった。
[#改ページ]
ヤド・パイナンが予告した――エレン・エレスコブの、カイヤツ府外への旅行がはじまった。
くどいのを承知でいっておくが、それは、あくまでも惑星カイヤツ上のことで、他の惑星へではない。いずれそうした他の世界へも行くことになるであろうとの話だが……当面はカイヤツ上に限られているようだった。
もっとも、エレン・エレスコブは、このカイヤツ上にしても、ありとあらゆる地へ赴いたのではない。そんなことは到底不可能であった。エレン・エレスコブは、六度か七度、カイヤツ府郊外の工業地帯を訪ね、そののちに、ゲルン地方、ヘベ地方、ついで南西大陸のハルアテ東南地方の順に、旅をしたのである。と、しるしても、惑星カイヤツに関する知識のない人には、何が何やら見当もつかないだろうから、ひと通りの説明をしなければなるまい。
惑星カイヤツは、いうまでもなくネイト=カイヤツの本源世界である。ネイト=カイヤツは、カイナとチェンドリンの二星系の、合わせて九惑星を版図としているが、そのうち人間がそのままで居住出来るのは二惑星、改造によって、あるいは特別な施設を作ることによって住めるようになったのが二惑星、現在改造中のが一惑星――となり、その中で当然ながらカイナ星系の第二惑星であるこのカイヤツが、最も工業化され、人口も多いのであった。
とはいうものの、そのカイヤツだって、決して均質化され、どこも同じレベルに達しているわけではない。カイヤツには大ざっぱに見て、四つの大陸と、一群の島々がある。地図の中心に来るのが早くから開けた主大陸で、その東北寄りにカイヤツ府があるが、主大陸にはカイヤツ府のほかにもスターヤツとかホロトヤとかレスバーツといった都市がいくつか存在し、山岳地帯を除いてはほぼ開発されつくして、工業地帯もたくさんあるのだ。惑星カイヤツ、というより、ネイト=カイヤツを支えて来たのは、もっぱらこの主大陸の生産力であった。最近は主大陸だけではなく、他の大陸の発展もいちじるしいから、かつてのような圧倒的優位にはないとしても、依然、産業・文化の中心であるのには変りないのである。
主大陸から北西の方向には、だだっぴろいわりに資源に乏しく気候もきびしい北西大陸。南西方向には近年農業の生産性が高くなっている南西大陸。そして大陸の東南方向に第二の主大陸となりそうな勢いの東南大陸。その北方、つまり主大陸から東にあたる海上に、東諸島と呼ばれる一群の島々がひしめている。この島々では漁業と、それに海水から鉱物資源を抽出精製する工業化が進んで、東南大陸に並ぼうとしているのだ。
エレン・エレスコブが旅をしたのは、だからはじめはカイヤツ府から遠くない工業地帯であって、ここには各家の勢力が寄り集まり、さまざまな工場群がひしめいている。が……その後のゲルン地方というのは主大陸の北西部、ヘベ地方は同じく南部の、これまでは工業よりも農業が優勢な地域であった。南西大陸のハルアテ東南地方となると、これはもう大規模農業地帯そのものの、田舎なのだ。なぜエレンがそういう土地へ赴いたかとなると……これは、ぼくにも理解出来た。カイヤツ府郊外の工業地帯はともかくとして、あとはエレスコブ家の所有地なのだ。ほかにもエレスコブ家はいろいろ土地を持っているけれども、広大な地域をまとめて所有しているのは、その三地方なのである。ゲルン、ヘベだって相当なものだが、ハルアテ東南地方の土地となると、南西大陸のほとんど四分の一を占めるであろう。それらの地方を訪ね、人々と会い、視察したのだ。ぼくが見聞きした限りではそうであった。
ただ、いっておかなければならないことだが……エレスコブ家はそれだけの土地を保有してはいても、さきの説明と照合すればおわかりのように、カイヤツ府近郊の工場群はともかくとして、いずれも生産性の低い土地ばかりであった。このことが実はエレスコブ家がそこそこの名門扱いされながらも、実力ではそんなに上位にランクされなかったゆえんであり……それゆえにこそ、当主のドーラス・エレスコブの代に入ってから、近年ネイト=カイヤツの版図に入ったチェンドリン星系を利用して巨利を博し、勢力を伸ばすという行きかたをとって来た、といえるのだ。
そして。
エレン・エレスコブが、カイヤツ府近郊の工業地帯へ赴いている間は、護衛員としてのぼくの勤務も、また、ぼく自身の気の持ちかたも、これまでとさほど大きな違いはなかった。むろん、同じようなものだとまではいわない。エレン・エレスコブがカイヤツ府を離れるとなると、ぼくたち第八隊は全員出動だったし、乗りものも、車だけでなく、ときには垂直離着陸機も使われた。他家の警備隊員との接触もそれまでよりは多くなった。それに、エレスコブ家経営の工場に入るとなると、それが工場であり、ふだんはエレスコブ家の一族や中枢ファミリーはそうたびたび来ないだけに、先方が緊張し、落度がないようにと神経を使う。それが護衛員であるぼくたちにもはね返って、マナーや儀式のルールを少しでも乱さないように、精一杯努めなければならないのだ。が、そうしたことも、何度かやっているうちには馴れて来る。あたらしく加わった事柄に注意していれば、本質的にはカイヤツ府にいるときと、そんなに差はないのだった。ぼく自身の気分だってそうである。ぼくはカイヤツ府生れのカイヤツ府育ちだったけれども、近郊の工業地帯へは、ちょくちょく行ったものだ。だから、未知の場ではなかった。意表外の事柄や、衝撃を受けるような事柄にも、あまり出くわさなかったのだ。
もしも、こうしたカイヤツ府近郊の工業地帯へ随行するようになって、ぼくがあたらしく得たものがあるとすれば、それはエレスコブ家の工場のありようの再認識であっただろう。エレン・エレスコブは、自家の工場だけでなく、他の家の工場へも足を伸ばして、はた目には儀礼的な訪問をし、そこの人々と会談したりした。ために、ぼくは、エレスコブ家の工場と、他の家の工場とを、ある程度比較しながら見学出来たのである。ぼくは、自分が不定期エスパーだということで追われるまで、予備技術学校にいたのだ。工場を見て、それが現代のネイト=カイヤツの技術水準から考えて、進んでいるか遅れているか位の判別はむつかしくない。そうしたぼくの目には、エレスコブ家の工場群は、それほどレベルは高くなく、能率もいいとはいいかねるものとして映ったのである。他家にくらべると省力化も遅れ自動機械はフルに活用されているとはいえず、いまだに人海戦術の意識が残っているようであった。そういえば、エレスコブ家は本来、農業が主力であり、工業はあきらかに後発の家であった。近年の業績伸長にしても、貿易を中心とする商業によるのである。それを反映して、エレスコブ家が自家用に使っている高度で精密な機器・車両類は、自分のところで生産したものはすくなく、かなりの部分を、他家の製品に頼っていた。それらをことごとく自給するようになれば、エレスコブ家としてはもっと楽なのであろうが……今のような状態では、当分無理ではないだろうか、という気がしたのであった。
六回か七回の、そうしたカイヤツ府近郊の工業地帯行きのあと、エレン・エレスコブはゲルン地方へと飛んだ。
そこでぼくは、そんなことがあるとは考えもしなかった状況を、見聞きすることになったのである。
いや、考えもしなかったというのは、正しくないかも知れない。ぼくは、カイヤツ府がネイト=カイヤツの首都であり中心であり、もっとも進んだ都市であると理解していた。また、それが当然であると考えてもいた。何しろぼくは、カイヤツ府で生れ育ったのである。その意味では、ありていにいえば、カイヤツ府及び府の近郊以外の地域を、田舎だとして見くだしていたところがある。自分でも気がつかないうちに、カイヤツ府中心の意識を抱いていたのだ。それをちっとも不思議と感じなかったのだから、独善的だと非難されても仕方がない。そんなぼくがカイヤツ府から遠い田舎≠ノ対して漠然と持っていたイメージは、貧しく、人々を取りまく環境もカイヤツ府のように自由ではないだろうが、そのぶんだけ牧歌的で、競争もはげしくないだろう、との程度に過ぎなかった。だが……少し突っ込んで考えれば、これは、カイヤツ府の繁栄は他の地方によって支えられ、それだけ他の地方が苦渋を味わっている、との見方も出来るのである。いいかえれば、だからぼくは、ゲルンとかヘベとか南西大陸ハルテア東南といった地方で、カイヤツ府に存在する暗い部分とはまた別の、いわばネイト=カイヤツなり、家々の支配がもたらす暗部に出くわすことになるのを、心のどこかで予期しているべきだったのだ。教科書や観光案内で得られる通りいっぺんの知識や概念ではつかみ得ない、思いがけない現実と対面するのを、無意識にでも覚悟していなければならなかったはずである。そして、実際にそうだったのかもわからない。が……それをはっきりと自覚していなかったというのは、やはりぼくが(カイヤツ府しか知らない多くの人々と同様)独善的で、鈍感だったのだろうか?
カイヤツ府からまず西方に出て、山岳地帯を飛行で越えたぼくたちの車は、数時間後に北方へ向きを変え、ゲルン地方が近づくと共に、高度を落としつつあった。
こういうコースをとったのは、所要時間や運転の苦労と、燃料の消費量を考えて、それがもっとも効率的だったからであるが、そのほかにも理由がないわけではなかった。人工密集地や、公的、あるいは家々のれっきとした施設がある場所の上空を飛ぶのは、とかく問題が起こりがちである。へたをすると交戦に至るかも知れない。従って、あまり人も住まず大した建物もない山岳地帯の上を選んで飛行し、平野に出ると地上走行に切り替えたのである。別に誰に教えてもらったわけでもないが、それくらいはぼくにも察しがついたのだ。
ぼくたち一行は、三台の車に分乗していた。いや、正確には、ぼくたちではなく、エレン・エレスコブの一行と表現すべきなのであろうが……これまでのとはことなった、大型の車である。今回は日帰りや一泊ではなく、十日あまりの旅になるので、エレン・エレスコブの身の廻りの面倒を見る人間や、仕事の段取りをつける年配の内部ファミリーや、その部下の事務局員なども加わっていた。それらに護衛員のぼくら、さらに運転者も合わせると、二十名を越す人数になる。その上に、旅行に必要な機器や資材の類も積んでいるのであった。ただ、垂直離着陸機は使われていない。他の車との協同がしにくい上に、たとえ一機といえども垂直離着陸機のような貴重なものを、十日以上もカイヤツ府から遠く離れた地で独占使用させるほど、エレスコブ家には余裕がないのだ、と、ぼくは推測していた。この陣容で、ゲルン地方、ヘベ地方、南西大陸ハルテア東南地方と……旅をするのである。
これだけの人員と準備は、今までとくらべると、たしかにずっと大がかりである。旅程を考えれば当然ともいえよう。が……エレスコブ家の令嬢であるエレン・エレスコブとなれば、もっと、ものものしい陣立てであってもおかしくない、という気も、ぼくにはするのであった。それをこの程度にとどめているのは……エレン自身の意向による抑制か、でなければ、そうしないといけないような可能な限りの身軽さが求められる仕事だからなのか、それとも、所詮エレスコブ家にとってエレンも持ち駒のひとつで、持ち駒の重要度に応じた待遇を受けているのか……ぼくには何ともいえなかった。何度も繰り返すが、ぼくにはエレン・エレスコブが、何のためにどんな仕事をしているのかも、わからなかったからである。
シートにすわったぼくは、窓から、しだいに近くなって来る大地を眺めていた。護衛員のくせにそんな真似が可能だったのは、そのときのぼくは、三台の車の、最後尾に乗っていたためである。先頭の車には内部ファミリーの男や事務局員、まん中の車にエレン・エレスコブとおつきの人間がおり、おしまいの車には荷物類が積まれていて、護衛員たちは各車にふたりずつ配置されていたのだ。この担当は、あらかじめ告げられていた予定により、ときにはパイナン隊長の命によって、定期的にあるいは随時交代することになるが……当面、ぼくとハボニエは荷物積載車乗務の番であり、これは乗務というよりむしろ運ばれている感じなので、待機非番に似ていないこともなかった。そんなしだいでぼくは、積み込まれた荷物の間で身を小さくして、ハボニエとむかい合つてすわっていたのである。
窓から眺めていると、眼下の風景は、いかにもひろびろとした、おだやかなものであった。不定形ながら大きく仕切られた農場がつらなり、ところどころ地区の集落らしいのが見える。と思うと、黒いけむりを吐き出す工場が数棟、かたまったりしていた。車が降下するにつれて、戸外で働いている作業衣の男女も目に映った。ふたりか三人ずつ組になったり、農場内の道を何十人かつらなって歩いたりしているのだ。林や池、鉄道の線路と駅舎、道を走るバスとか、自転車に乗っている人々といったものも、視界に入って来ては去って行くのである。陽光を受けたそれらの景色は、疑いもなくぼくの頭の中にあった平和な田舎≠ナあった。
「えらく熱心に見ているな。面白いか?」
ハボニエが、声をかけて来た。「――そうか。お前はカイヤツ府からあまり離れたところへ行ったことがないといっていたが……そうなのか?」
「ああ」
ぼくは、ハボニエにちらりと顔を向けて答え、また窓の外に視線を戻す。
そろそろ着陸であった。透明な隔壁のかなた、背中を見せている運転者は、馴れた仕草で車をあやつっている。その横のもうひとりの運転者は隔壁にもたれかかって、よく眠っているようだ。間もなく軽い衝撃が伝わって来て、車は、地上走行の震動に変り、窓の外に砂ぼこりが湧きあがった。道は舗装されていないのである。
「ところで、どうなんだ?」
だいぶしてから、また、ハボニエがいった。「お前、ときどきエスパーになる体質だという話だったが……まだ、なりそうにないか?」
「え?」
突然そんな話題を持ち出されて、ばくは当惑しながらハボニエを見返した。ぼく自身、そのことを忘れていたのだ。それを、なぜ、ハボニエはそんな事柄を訊くのだろう? なるほどぼくは、あの任命式の夜……シェーラが居なくなったあの夜以来、エスパー化していない。もともとぼくのエスパー化は、不定期エスパーの名の通り、いつそうなるか見当がつかないので、次にいつ起きあがって来るかわからなかった。そして、そうなればぼくは直ちにパイナン隊長なり、手近の第八隊員なりにその旨を報告しなければならないことになっている。すると隊長はぼくを、エスパーでは具合の悪い任務から外し、別の仕事をさせるはずであった。
けれどもそのぼくのエスパー化について、ハボニエのほうからたずねて来たのは……どういうことだ?
「いや、おれは別に、それほどの意味でいったんじゃない」
ハボニエは肩をすくめた。「おれはただ、こういう土地へ来て、ここの人々の心をいやでも読み取らなきゃならなくなったとしたら、どんな気分かと……ふっと思ってみただけだよ」
「それは、どういうことだ?」
「いや。いや」
ハボニエは薄く笑った。しかしそれだけで、あとは何もいわないのである。
ぼくもそれ以上は強いて追及する気にもなれず、また窓の外に目を向けた。
と。
車がにわかにスピードをゆるめ、停止したのだ。
「どうした?」
ハボニエが、運転席に通じるマイクをつかんで叫んだ。
「前方に、何かあるようです」
運転者の声が返って来た。
ぼくとハボニエはドアをあけて、外へ飛び出した。荷物を守ることが今のぼくたちの任務であるが、エレン・エレスコブの身の安全は、それよりはるかに優先する。
外へ出てみると、先行の二台もとまっており、護衛員たちが降り立っていた。ひとりが前方へ駈けて行き、すぐに戻って来た。その隊員は中央の車に何かいい、ぼくたちのほうへも叫んだ。
「自滅者の集まりだ! 心中か何かあったらしい。車はゆっくりと進め。われわれはその右側を警戒して歩行する」
「…………」
ぽくとハボニエは目で合図をし、車の右側を歩きだした。車はぼくたちと同じ速度で進む。ぼくには自滅者とは何のことかわからなかったけれども、万一の場合、いつでもたたかえるように、気を張りつめた。今度の旅行では、ぼくたちは剣と、それに短銃ではなくレーザーガンを携行している。それらの武器をいつでも使えるように、身構えながら進んだのだ。
すぐに、右手の道路わきに、二十数名の男女や子供がむらがっているのが見えて来た。かれらはまばらな円陣を作り、中央にむかって頭を垂れている。何かに祈っているのかも知れなかった。いずれも粗末な、ところどころ破れた服をまとっている。かれらの中央には布がひろげられ、その上に何かが横たわっているようだった。歩むにつれて、ぼくは、それが何であるかを悟った。布の上には、やはりぼろぼろの衣をまとった男と女の死体があったのだ。ぼくはその死体を観察した。ぼくたちが受けた命令が、かれらからエレン・エレスコブを守るというものであるからには、かれらがどんな出方をするか、見て取らなければならなかったのだ。ふたりの男女はまだ若かった。ぼくとほとんど変らぬ年頃であろう。だがその顔は不思議なほど平穏であった。微笑しながら眠っているようにぼくには思えたのだ。ふたつの死体の周囲には、いくつも花が置かれていた。とりかこむ人々も静かであった。あたかもぼくたちがそばを通過するのさえ気づかないような感じで、じっとうなだれているのだ。こちらに対して何の行動もおこしそうには見えなかった。だが油断は出来ない。どんなときでも護衛員は気を許してはならないのだ。ぼくは緊張しっぱなしでその横を通り過ぎ、何度か振り返り、かなり離れてから、またハボニエと共に、車に乗った。
それにしても、今のは、どういうことだろう。
「…………」
ぼくは、物問いたげな目を、ハボニエに向けた。
しかし、ハボニエは黙っている。
ぼくは、口に出して訊いた。
「あれは……?」
「心中だろうな。毒か何かを飲んで……。自滅者の心中さ」
ハボニエは答えた。
「自滅者」
「そう。自分から戸籍を進んでなくした連中さ」
「ああ。離籍者だな」
ぼくは頷いた。離籍者のことなら、聞いたことがあったのだ。税金や借金に追われて、行方をくらましたり、はなはだしい場合には(どうやってやってのけるかは知らないが)死亡届を出して、自分が存在しないことにしてしまう――そんな人々が結構たくさんいるのである。カイヤツ府にもいた。そういう人間と何人か、ぼくも会ったおぼえがある。そうした人々は、公職とか、戸籍の明示が必要なちゃんとした職業には就けないけれども、その日暮らしの気楽な、しかしどこからも保護の手のさしのべられない生きかたをすることは出来る。かれらと同じような連中が、こうした地方にもいるというわけであろう。そしてかれらは自滅者とも呼ばれているらしいとなれば……ぼくはそれで一応納得した。なぜかハボニエが、ぼくにいささか皮肉っぽい目つきを見せたのもわかっていたが……やりとりをそれで打ち切ったのである。
車は走りつづけた。
外は、相変らず林や丘や農場である。ときどき集落の中を抜けたり、橋を渡ったりするのだった。さっきまで見えていた鉄道は、もうこっちがだいぶ外れて来たためか、見えなくなっている。はじめのうちは新鮮だったそれらの風景も、しかし、一時間、二時間とつづくうちに、退屈なものとなってしまった。
やがて、少しずつ、建物が多くなり、ときどき道や橋に設けられたゲートを通り抜けたりするようになった。ゲートには、警備隊員たちがいた。エレスコブ家の警備隊員である。もっとも、そのうち、剣を吊りレーザーガンか短銃を帯び、襟に星形バッジをつけた正規の隊員は、ごくわずかであった。あとは制服姿ではあるが星形バッジのない補助隊員である。つまり、非ファミリーの傭兵《ようへい》たちなのだ。かれらは、だが、勤務についているのだから、全くの丸腰ではなかった。腰に一メートルほどの棒を吊っているのである。
午後もかなり遅くになってから、ぼくたちはゲルン市に入り、ゲルン・センターに到着した。ゲルン市はこのゲルン地方の中心地であり、ゲルン・センターはその中軸の建物である。いってみれば、これは、ゲルン地方の領主でもあるエレスコブ家の館のようなものだ。
けれども、ゲルン市といい、ゲルン・センターというものの、カイヤツ府を見馴れていたぼくの目には、それらは何と貧しく映ったことであろう。長い間手入れをされていない傾いた木造の住宅や、露店と大差のない商店や、何度も何度も上塗りされた見た目には馬鹿っ派手なホテルやら……総体にここには、蓄積された富がおのずから持つあの厚みと重さがないのであった。堂々としているのはゲルン・センターと、それに、センターに隣接して並ぶ倉庫群ぐらいのものである。そのセンターや倉庫群にしても、古びた時代遅れの建物で、威圧感と落魄《らくはく》の感覚が半々になっているのだった。
エレン・エレスコブは、そのセンターの一室でしばらく休息し、すぐに、彼女の来着を持ちかねていたここの人々と、次々と会いだした。エレンの部屋には随行の内部ファミリーや事務局員、それにパイナン隊長と副隊長格のノザー・マイアンが入ったが、ぼくたちは交代で、その戸口を守った。だから聞き取れる会話はごく断片的なものに過ぎなかったけれども、それでもエレンがやっているのは、ただの儀礼的な会話ではなく、報告を受けて指示を与えたり、質問して事態を分析したり――というもののようであった。
夜になって、会食があった。出席者は五十名そこそこで、パイナン隊長もその中に加えられた。ぼくたちは室の四隅に立って、礼儀正しく佇立していた。
エレンのその日の予定は、それでおしまいだった。次の朝早く、ゲルン地方のあちこちを視察に出るから、比較的早く寝所に入ったのである。ぼくたちはふたりずつ、その寝所の警備にあたった。ぼくとハボニエが最初の番で……それが終ると、ハボニエはぼくを誘った。
「何か食わんか? それに、少し飲もうや」
空腹だったぼくは、一も二もなく賛成した。もっとも、食ったり飲んだりといっても、旅のさいちゅうであるぼくたちは、遠くへ出掛けてほっつき歩くわけには行かない。いつ何がおきて呼び出されるか知れたものではないからである。それはたしかにぼくたちは、そのための小型通話器を手首にはめていたけれども……戻るのに時間のかかる場所ではまずいのだ。それに、夜もだいぶ更けていた。
「どこへ行く?」
ぼくは、たずねた。
「センター地下の店は、もう終っているだろうな」
ハボニエは、時計を眺めて答えた。「そういえば、センターから遠くないところに、夜明けまでやっている店があったっけ。そこにしよう」
ぼくたちはセンターを出て、そこへ行った。木造の、変な鳥の絵を描いた看板がぶらさがった店であった。分厚い木の扉を押すと、暗い店内にいた客たちが、じろりとこっちに顔を向けた。ぼくたちの制服を見ての反応はそれだけで……あとは、またそれまでのように飲んだり食ったり喋ったりをしている。
中年の、まだ色香の失せていない女が出て来た。ここの女主人のようである。女はぼくたちの襟に視線を走らせると、愛想良くいった。
「これはこれは。ファミリーの隊員さんではありませんか。ひょっとしたら、きょうお着きになられたエレン様のおともの方で……?」
ハボニエが無言で頷くと、女はもみ手をせんばかりの態度で、ぼくたちを窓ぎわのテーブルへ案内しつつ、喋るのであった。
「それなら、お家の本当の直参じゃありませんか。カイヤツ府にいらっしゃるんでしょう? そういう方においでいただくとは光栄ですわ」
窓ぎわのテーブルの四、五人がすわっているところへ来ると、女はかれらに手を振って立たせた。飲み食いしていた連中は、無表情で腰をあげ、それぞれがグラスや皿を手に、別の場所へ移って行った。
女が指を鳴らすと、痩せて、どこかおどおどした少女がやって来て、テーブルの上を片づけ、拭きはじめた。女はぼくたちをすわらせ、相変らず喋るのだった。
「こちらへは、カイヤツ府の方が、ときどきお見えになるんですよ。カイヤツ府へは、わたし、まだ一度も行っていないんですけど、そのうちお金と暇が出来たら、ぜひ行ってみるつもりですの。すてきなところなんですってね」
そのとき、テーブルを片づけていた少女がうっかりして皿を床に落とした。皿は割れなかったが、女は少女の横面を、ぴしゃりとひっぱたいた。少女は何もいわず、片づけ、テーブルを拭き終ると、姿を消した。
「どうも……粗相をいたしまして……お気にさわったらごめんなさい。うちが気に入って下さるとよろしいんですけど。ほかのお仲間にもぜひよろしくお伝えくださいな。飲みものは何になさいますか? アペランソを置いてございますが」
ハボニエはそれでいいと答え、ぼくも同じにした。料理は適当に、セットになったものを頼んだ。
「アペランソは、カイヤツ府から来られた警備隊員さんによろこばれております」
女主人はつづけた。「でも近頃はアペランソも、ゲルンではなかなか手に入らなくなりまして。でもここはセンターの近くで、そういう立派なお客様のためには、どうしても置きませんとねえ。苦労しているんですよ。――ありがとうございます。どうか、ごゆっくり」
女主人がそういったのは、ハボニエが、硬貨を与えたからだった。チップとしてはいささか高過ぎる額であった。
「商売のうまい女だ」
女が引っ込むと、ハボニエは眩いた。「でもまあ、こういう地方では、現金はカイヤツ府でよりもだいじにされるし……カイヤツ府から来た連中は、旅行気分で気楽に金を使うからな。おれたちだけが、けちけちするわけにも行くまいよ」
「現金が、ね」
「地方じゃ、物々交換も珍しくないしな」
と、ハボニエ。「それなのに、自滅者にとっちゃ、現金しか利用できないと来ている。おまけに自滅者は、近年、増えるばかりだということだよ」
「その自滅者だが――」
ぼくが、口をはさんだ。「自滅者とは、要するに離籍者のことなんだろう? それをなぜ、そんな呼びかたをするんだ?」
ハボニエは、おやというような顔でぼくを見たが、すぐに頷いた。
「やっぱり、お前はたしかにカイヤツ府の生れ育ちだよ」
「…………」
「離籍者は離籍者でも、カイヤツ府内とこういう地方では、事情がまるで違うんだ」
「とは?」
「まあ待て。アペランソと料理が来たようだ」
ハボニエはいった。さっきの痩せた少女が、瓶と料理の皿の載った盆を持って来るところだった。
ぼくはその少女に、ハボニエが女主人に渡したような額ではないが、チップとしてはほどほどの硬貨をやった。やる前に、ハボニエの同意を目で求めてだ。ハボニエは苦笑じみた微笑を走らせ、首肯した。少女は黙ってお辞儀をすると、盆を手に去った。
「お前のあの金が、女主人にみつかって取りあげられなければいいがね」
ハボニエは呟くようにいい、瓶を持ちあげた。「ふむ。量産型のふつうのアペランソだな。ま、よかろう」
「アペランソって、例のペランソと関係あるのか?」
ぼくは、グラスに酒をついでもらいながら訊いた。
「大ありさ。アペランソは、ペランソをもとに作られたんだからな」
というのが、ハボニエの返事だった。「ペランソはきついけれども、醒めやすいのが特徴だ。その特性を活かして、もっと口あたりを良くし、もっと醒めやすいものを合成したのが、アペランソでね。おれはペランソのほうが好きだが……こういう土地じゃ、ペランソなんて滅多にない。大量生産されるアペランソしか、飲めないんだよ」
「しかし、さっきの女主人、アペランソもゲルン地方では入手しにくいといっていたじゃないか」
「ゲルン地方だからさ」
と、ハボニエ。「アペランソは主要な家ではどこも生産している。だが残念ながらわがエレスコブ家では、他家との対抗上銘柄を作っているというのが実情でね。このゲルン地方はエレスコブ家のいわば領土だろう? よその家のアペランソには高い税がかけられるし……エレスコブ家製のアペランソは品薄だというしだいさ」
「まるで封鎖経済だな」
ぼくがいうと、ハボニエは、少し頬を歪めた。そして、グラスを口につけた。ぼくも飲んだ。
なるほど、ペランソにくらべると、いささか頼りなかった。
「そういうことなんだな」
ハポニエは首を振った。「お前のいう通り、封鎖経済、いや封鎖社会なんだよ。それが先刻いいかけた自滅者の問題にもつながって来るんだ」
「…………」
「離籍者がなぜそんなことをするかというと、それは税金のがれということになっているな」
ハボニエはぽくを見やった。「税にはネイト税と家の税がある。正式には家の税なんてものは存在しないんだが……下請けや流通の過程で容赦なくピンはねをしているんだから、実質的には税金さ。ネイトの税は主として人頭税と所得税、家の税はいわば間接税だ。そうだろう?」
「そう」
「ま、おれたちのように家のファミリーは、ネイトの税は、家が払ってくれている。が……そうでない人間は、しかるべき官庁へ自分で納入しなきゃならん。直接持参さ。これがカイヤツ府のように地域も狭く、近くに納入先があればいいが……地方ではそうは行かん。何キロも何十キロも離れた場所へ納めに行くわけだ。自弁でだよ。ともすれば滞納になる。滞納の利息は高いんだ。もちろん家々の中には……わがエレスコブ家でもそうだが……ネイト政府の例外規定を利用して、徴税請負いをやっているところもある。しかし、とても全部を捕捉するわけには行かないんだ。で……破産する奴も出て来る。他人にそのための金を借りようとしても、なかなか貸してもらえないので、死亡届を出してもらい、離籍ということになる。それで納税義務はなくなるからね」
「なぜ借りられないんだ? そのための貸付け機関が、ネイトにも家にもあるんじゃないのか?」
「手続きが面倒だし、資格認定がうるさいんだよ」
ハボニエはいう。「で、個人的に借りようとしても、だ。もしも金を貸して相手が法的には死亡しちまえばどうなる? 遺族が相続放棄をすればおしまいじゃないか。だから、金を貸すのは大冒険で……貸したがらないのが当り前だ」
「当人が生きているのを証明してもか? 第一、なぜそう簡単に死亡届が出せるんだ? 死亡届は医師の診断が必要だろう?」
「どうして生存を証明する? 遠いところにある官庁の出先へそいつを連れて行かなきゃならないんだぜ。それに自滅者たちの結束は強いし……ネイト警察はそこまで手がまわらないので、協力しちゃくれないよ」
「家は?」
「家? 家は、そうした自滅者たちを、安い労働力として利用しているんだ。当人が称する名前をうのみにして、その日契約の、現金払いの労働者としてね。どの家でもやっていることさ。というより、どの家だって、人頭税も所得税も関係のないそういう労働力がなかったら、やって行けないだろうよ。そういう構造なんだ」
「…………」
「医師の診断書をとるのも、そうむつかしくはないんだ」
と、ハボニエ。「医師というのは、おおむねカイヤツ府とか、どこかの都市に集まりがちだ。地方に住むのは、正義感の強い者か、金もうけ専門の連中でね。正義感が強ければ、窮状にある人間を死なせたことにしてそいつを救えるから、と、診断書を出すし、金もうけ専門なら、そこそこの金品か、今後の労役提供と引きかえに、気やすく診断書を出すのさ。それでおしまいだ。何せ、昔から田舎と呼ばれるところでは、墓を建てたり葬式を出したりするのは、しかるべき富裕な人々の地位の象徴になっているんだよ。うちの人は亡くなりました。遺体は集落の近くの共同坑にほうり込みました、で、ふつうは済んでしまうんだ」
「…………」
ぼくは聴いていた。そういう、ひとつひとつの事柄は、たしかに知識としては知っていたし、理屈としても、ああなるほどと思うところがあったが……こういう風に組み立ててこられると、別の、違うイメージが形成されて来るのである。
「こういう状況じゃ、現金がだいじにされるのも当然だろう?」
ハボニエは、グラスにアペランソを注いだ。「人間、いつ離籍するかわからないし、離籍してしまったとき……現金しか、役に立たないんだ。不動産や家財は、死んだことになれば、どうしようもないものな。そんな事情があるものだから、みんな、現金を大切にして、能う限り退蔵する。それがまた現金不足という現象になって……いたちごっこなんだな」
「――それで、離籍して……安働きをするしかないのか? たとえばカイヤツ府に出るとかは……出来ないのか?」
「おれがいおうとしたのは、そこなんだよ」
ハボニエは、ゆっくりとつづけた。「家の力や土地柄にもよるが……たとえばこのゲルン地方を見ろ。鉄道網はないに等しい。ゲルン市をまん中に、一本、走っているだけだ。バスもある。だが、本数は少ないし、料金は高い。カイヤツ府へ行くには、自滅者なら四日か五日ぶんの賃金をつぎ込まなくちゃならないんだぜ。自転車というものがあるから、それで行くことも不可能じゃない。しかしそれだけの日数の食糧と、宿泊のための道具をどうやって準備する? 事実上、ここは一種の封鎖社会なんだ。それに、自分が長い間住んだ土地なら、周囲がそれなりに存在を認めてくれるし、助け合うことも出来るが……よその、ほんの十キロも離れた集落へ行けば、よそものだ。飢え死にしたって、誰も構ってくれやしない。元の場所かその近辺にいるほうが、安全なのさ」
「…………」
「離籍者は、だから、こうした地方では、おのれの未来とか将来を捨てて、その日暮らしのうちに死んで行くしかない。カイヤツ府でのように、やりかたしだいでは何かのスターになったり、もうけたり、有力者とうまくつながって、別の戸籍に……いや、よくあることなんだぜ。たいていの家じゃ、死亡した人間の籍を抜かずに置いておいて、人材があればそいつのものにさせるシステムを持っている。その別の人間として生れ代る――というようなことは、到底望めない。要するに、離籍者は離籍者でも……自滅者というしかないのさ」
「…………」
ぼくは、しばらく黙っていた。それから、ハボニエが喋っているうちにいつの間にか強くなって来ていた疑問を、そのまま言葉にした。
「それにしても……どうして、そんなにくわしいんだ?」
「知りたいか?」
「知りたいね」
「おれの親が、ふたりとも、自滅者だったからだよ」
ハボニエは、あっさりと答えた。「ゲルン地方じゃないが、よく似た土地で……小作人をやっていたが、洪水で働く場所がなくなったんだな。それで他の人々と共に自滅者になったが……おれは、そのままだった。これでも基本学校じゃ優秀だったから、将来があると思ってくれたんだろう。小さい時分は自滅者たちは、おれが一緒に暮らすのを許してくれたが、途中からは、そうは行かなくなった。おれはぐれて、けんかばかりするようになり……親からしょっちゅう金をせびっていた。そのうちに、父親がヨズナン家の警備隊員に殺されたんだ。そいつがヨズナン家のファミリーだったのかどうか、おれは知らん。ファミリーだったら、殺人をやっても時によれば罪に問われずに済むが……そいつが傭兵だったとしても、自滅者を殺したんだ。犯罪にはならない。母親は落胆のあまり、寝込んでしまった」
「…………」
「で……おれは機会を窺っていた。我流だが、自分の腕には自信もあったんだ。ある日とうとう隙を見つけて、そいつをやっつけたよ。そいつを油断させておいて、短刀で突き、倒れたところをそいつの剣を抜いて、心臓をさしてやった。三回もだ。あれだけやれば助からなかったはずだ。おれはその場から逃亡した。母親がおれの復讐をよろこんでくれたかどうかおれにはわからない。おれが逃亡してから十日ほどあとで衰弱して亡くなったそうだ。おれはあちこちの家から食べものをかっ払っては、カイヤツ府へと旅をした。カイヤツ府に着いても、ヨズナン家の連中はおれを追跡し捜索しているようだった。おれはやけくそで……仕事もなかったしね。やけくそでけんかや恐喝をして、ある日自分で死ぬ気で、道で出くわしたエレスコブ家の警備隊員にけんかをふっかけ、渡り合った。相手はおれの腕を見込んでエレスコブ家に連れて行ってくれた。それがたまたま公用で外出中のパイナン隊長だったんだな。エレスコブ家はなにもかも承知の上で、おれを基礎研修のメンバーに採用し……エレン様は、おれを護衛員に指名してくれたんだ」
「…………」
「いや。長くなった。よくある話さ」
ハボニエは薄笑いを浮かべ、また料理を食い、アペランソを飲んだ。
ぼくも一口、二口、アペランソを飲んだ。このハボニエにそんな過去があるとは……不思議な感じだった。それをまた、淡々と語るところは、いかにもハボニエらしい。そういう話におのれの気持ちを織り込まないのは……ハボニエはそんないいかたが不得手なのか、でなければ、あらわにしたくないからであろう。
それでもぼくは、ひとつ、いわずにはいられなかった。
「じゃ……ひょっとすると……ヨズナン家の連中は、まだきみをつけ狙っているかも知れないな」
「どうだかな。そうかもわからん」
ハボニエは、にやりとした。「だが、人間、誰でも仇を持っているものさ。お前にだって、トリントス・トリントという奴がいるんだぜ」
「…………」
ぼくは肩をすくめた。いやなことは、なるべく忘れていたいものだ。ぼくは、飲んだり食ったりのほうへ、自分の関心を向けることにした。
だが。
薄暗い店内でのその会話は、意外なまでに重く、ぼくの心に落ち込んだようである。
センターへ戻る途次、ぼくたちは何人もの娼婦に声をかけられた。中にはずっとついて来る者もいた。彼女らはむろんぼくたちがエレスコブ家の警備隊員であるのを知っていたが、そればかりか、ぼくたちの襟の星形バッジを認めて、外部ファミリーだとちゃんと識別したようである。ここがエレスコブ家の所有地で、しかもその中心のゲルン・センターそばなのだから、彼女らがくわしいのは当り前かも知れないけれども……その態度はあきらかに、カイヤツ府内の人々がぼくらに対して見せるものとは、ことなっていた。ここではぼくたちは、れっきとした身分のある人間として、扱われているのであった。
同じような経験は、ほかにもあった。
次の日、夜があけたばかりという時刻に、ぼくたちはセンターの玄関に出て来た。エレン・エレスコブが、おつきの人々やパイナン隊長と共に出て来るのを、待つためである。ところがそんな時間だというのに、センターの前には、十数名の男女が来ていたのだ。かれらはみな陳情書としるした封筒を持ち、ぼくらを見ると、走り寄って来た。このことを、どうか上の人に伝えて下さい、と、叫びながらである。ぼくたちにいったって仕方がないのに、かれらにとってはぼくたちでも、上部につながっている存在になるらしかったのだ。ぼくたちは何も答えず、というより、そんな真似は許されていないので、とり合わなかった。エレンたちが姿を現わしたとき、今度はかれらはそっちへ走り寄ろうとした。ぼくたちは当然、かれらの前へ立ちはだかり、かれらを排除しつつ、エレンを車のほうへ導いた。差し出された陳情書は、つきそいの内部ファミリーが受け取った。陳情書を渡した連中は、ぼくたちの車に向かって、何度も頭をさげた。エレンの車だけでなく、他の車へもだ。
それに……そういえば、傭兵――非ファミリーの補助隊員のこともある。
ぼくたちの車は、そのときにはもう、三台ではなかった。ゲルン・センターを出るときに、一番前と一番うしろに一台ずつ、トラックがついたのである。二台のトラックの荷台には、警備隊員たちが乗っていた。この地方勤務の正規隊員が指揮する補助隊員たちなのである。その正規隊員たちにしても、たいがいがぼくと同格の初級隊員であったが……疑いもなく隊長の仕事をしていたのだ。いうなれば、こうした正規隊員数のすくない土地に来ると、たとえ初級隊員であっても指揮者であり、別格の存在なのである。そして、補助隊員のうちに見込みのありそうな者がいると、指揮者の正規隊員が推薦し、もっと上級の任務を与えられたり(そういう補助隊員は腕に一本か二本の白い条をつけていた)、さらには抜擢《ばってき》されて正規隊員候補となり、基礎研修を受けるためカイヤツ府の屋敷へ送り出される――とあれば、正規隊員の威令はいやでも行なわれるというものだ。そうした、ここではいわば別格の正規隊員の目から見ても、当主令嬢の一行というものは雲の上の人々であり、ついている護衛員ですら本部部隊のメンバーで、エリートということになるようである。だから……ふつうの補助隊員たちがぼくたちに接するときには、はれものにでもさわるような調子で、緊張し切っているのが、こちらにもよくわかった。かれらは、やろうと思えば反抗的になったり、だらしない言動を示すことも出来たのであろうが、そんなことをすれば、たちまち解雇になるのは目に見えていた。そんな関係で、ぼくたちの待遇は悪くなかった。その気になりさえすれば、おのれが特権身分のはしくれであると信じ、肩で風を切って歩くのも可能であった。これはぼくの推察だけれども、カイヤツ府から来る本部部隊のメンバーの中には、そうする連中もすくなくないのであろう。人間、自分ではそう思わなくても、たちまちいい気になり傲慢《ごうまん》になりがちなものである。
パイナン隊長以下、第八隊の人々は、そんなことはなかった。いつもと同じに、自然だった。ひたすらエレン・エレスコブの護衛に専念していたのだ。そういう気風の隊であるのが、ぼくにはうれしかった。だが……そんな気持ちになるということ自体、ぼくが、ここでも自分たちが結構な立場にあり、抑えてはいるものの、自尊心を満足させていたということも出来る。そして、ぼくはそんなおのれを、自分自身でひややかにどこかから眺めているのも自覚していた。あの薄暗い店でのハボニエとのやりとりが、しばしばぼくの胸中に起きあがり……自分がいい気になるには、現実はもっと底が深く暗いものであり、大きなものである、という感覚が定着しつつあったのである。
そう。
たとえば、ぼくたちに丁重な補助隊員らが、なぜそうなのかを考えてみるがいい。かれらは自分がエレスコブ家の警備隊員という地位を失うのがいやだから、そうしているのである。なぜ警備隊員でありつづけたいかというと、警備隊員はこの地の、エレスコブ家と直接かかわりのない一般の人たちに対して、優位に立ち、力をふるうことが出来るからではないのか? そう思えば、うやうやしい補助隊員の態度に、簡単にのせられてはならないという気がするのだ。
また……この地にいれば、そんなにまでしなければなかなか昇格もしない警備隊員と、一方、カイヤツ府に生れ育った、あるいはカイヤツ府に住んでいたということで、比較的楽にエレスコブ家正規隊員になれた人々を引きくらべてみるがいい。住んでいる場が違うだけで、それだけの差が出て来るのは公正なのか? たしかに、地方に行けば民度は低いといわれるし、ぼくもそう感じた面はある。が、カイヤツ府内の人間の考える民度とは、カイヤツ府内での判断ともいえるかも知れない。そこには、こういう地方で生きて行くための能力や手段は、何の要素にもなっていないかもわからないのである。
そんなわけで、ぼくは、ゲルン地方へ来たために増上慢になったに違いないところを……どうやら、自分自身をいましめることには成功した。ただ……いっておくが、これは本物のうしろめたさではないかも知れなかった。そこまでは行かなかった。カイヤツ府のエレスコブ家本部部隊の護衛員が、かなりの矛盾や歪んだ社会構造の上に立った地位であるのは悟りつつあったが……自分が警備隊員を辞めようとの気持ちには至らなかったのである。そこまではぼくは純粋ではなかった、ということだろうか?
ゲルン地方のあちこちを三日間、あるいは視察し、あるいは報告を受け、あるいは式典に臨んだりしたのち、エレン・エレスコブはヘベ地方へ飛んだ。
ヘベ地方は主大陸の南端にあり、ここでは漁業もさかんである。しかし、ゲルン地方と本質的な差はなさそうであった。工場や農場や……丘や林や……港や漁村や……それに傾いた家々……自滅者の群にも出会ったりしながら、ぼくたちの車は、ゲルンと同様、ここにもあるヘベ市の、ヘベ・センターに近づいて行った。市内の風景もゲルン市と大差はない。強いていえば、こちらのほうがより貧しい印象である。
そんな市内のところどころに、ぼくは、ポスターが貼られているのを見た。戦闘興行のポスターである。通りすがりに車の窓から眺めるだけだし、そんなものに注意を奪われていい身ではなかったので、ざっと見ただけだったが、……どうやらこのヘベ市に、タブト戦闘興行団が来ているらしいのだ。タブト戦闘興行団といえば、数ある戦闘興行団の中でもビッグ3に入る有名な集団である。もっとも、近頃では戦闘興行が斜陽化しつつあり、昔のように花々しいものではなくなっているのだが……ファイター訓練専門学校時代の記憶のあるぼくには、やはりなつかしかった。場合によっては、ぼくもどこかの戦闘興行団に入っていたかも知れないのだ。
ただ、ぼくがちょっと不審だったのは、タブトのような戦闘興行団が、こんなヘベ市のようなところへ来ているということであった。ずっと前にいったが、興行としての戦闘は、古典的なマナーを重んじ、そうしたことにくわしい人々をファンに持つ。いいかえれば、都市、それもカイヤツ府などで行なわれることが多い。カイヤツ府などでなければ、スターヤツと、かホロトヤ、またはレスバーツといった、すくなくとも都市らしい都市で興行されるのが一般的だ。地方ではファンも少ない上に、家どうし、警備隊どうしの衝突もままあって、人々がそんな戦闘などというものにあまり興味を示さなくなっている、という事情もあるからだった。それを……一応は市というものの、田舎町のヘベ市へ、高名なタブト戦闘興行団が来るというのは、奇妙である。ここにそれだけのファンがいるとは考えられないが……ひょっとしたら、どこかの都市から都市への移動の途中、興行を打つことにしたのかもわからない。それなら筋は通る。そして、そんな打ちかたをするなら、家と家の境界近くのややこしい地よりも、どこかの家の勢力が支配的な、安定した場所のほうがトラブルにも巻き込まれないだろうし、人々が多少は興味を持ってくれるとの期待が出来るだろう。多分、そういうことに違いない、と、ぼくは判断した。
ヘベ・センターに入ったエレン・エレスコブは、今度もまたゲルンのときのように、休息のあと面談を重ね、会食のあと、翌朝に備えて、早い目に寝所に引っ込んだ。ゲルンのときよりもまだ早い、常識では寝るには早過ぎる時刻だった。面談の数も前ほどではなかったし、会食がはじまったのも早かったからであろうが、それだけでなく、エレンの疲れが大きくなっていたせいもあるようである。パイナン隊長はぼくたちにそういった。たしかにぼくの目にも、エレン・エレスコブは疲労しているように映ったのだ。
そして、今回もまた、寝所警備の最初の順番は、ぼくとハボニエだった。ぼくたちは気を張りつめて警備を務め、時間が来ると次のふたりと交代した。
「さて、どうする……」
ハボニエがいう。
ぼくはそのときには、心を決めていた。例の戦闘興行のポスターは、センターのそばにも貼られていて……それによると、昼間と夜の二回、行なわれるとなっていたのだ。今からなら、夜の部に間に合う。興行はセンターからそう遠くない中央広場とやらで催されるようだから、観戦しに行くつもりだった。そうした興行では弁当や飲みものを売り歩くのがつねなので、食事もそれで済ませればいい。ぼくはそういった。
「戦闘興行……」
ハボニエは、ひゅうと口笛を吹いた。「あんなもの、実戦じゃ何の参考にもならないぜ。変なものに興味があるんだな」
「いいんだよ。それに、あそこには、知っている奴がいるかも知れない」
ぼくは答えた。
「知っている奴? ああ……お前、ファイター訓練専門学校出だったっけ」
ハボニエは納得したようだ。「しかし……その制服で行くのは、まずいんじゃないのかね? あっちもプロだろうが、こっちもプロだ。いやな顔をされるかもわからんぞ。けんかでも売られたらどうする?」
「へんな野次をとばしたり、おかしな真似をしなければ、何ということもないさ」
これまでに何度も戦闘興行を観たことのあるぼくは返事した。
「そうかな」
ハボニエは、首をひねった。「おれは、ああいうものを観たことがない。つまらん、形式的なショーだとしか思えんからな。でも、お前が行きたいならそれでいいさ。おれも行くよ」
「つき合うか?」
「いいさ。ただ……このことは、このセンターの係にいっておいたほうがいいぜ。万一のときに備えて、適当に措置をしてくれるだろう」
「センターの係へ?」
「ああ。おれたちのために、補助隊員を出してくれるだろう」
それは、あまりやりたくないことであった。ぼくたちのたのしみのために、そんな気もない補助隊員を出動させることになるわけである。
けれども、ハボニエは譲らなかった。またぼくにも、ハボニエが譲ろうとしない理由はわかっていた。そんな場所へ出掛けて、何かいざこざがおこっては、護衛員としての任務がはたせなくなるからである。
「そのくらいなら、やめるよ。補助隊員らが気の毒だ」
ぼくがいうと、ハボニエはおかしそうな表情になった。
「お前、相変らず律儀で……石頭だな」
「何?」
「まあ、そう怒るなって」
ハボニエはぼくをみつめた。「お前、おれが補助隊員をあごで使いたいから、そんなことをする、と、思っているんじゃないだろうな。反対だよ、反対」
「…………」
「係が何人補助隊員を出してくれるか知らないが、希望者はたくさんいるだろうよ。ただで興行を観られるだけじゃない。もしかりに何かあったとき、補助隊員としては、何かの活躍をして、おれたちの推薦を受ける可能性があるんだぜ。お前としては、かれらの働きぶりをよく心に刻んでおいて、推挙してもいいような奴がいたら、そのことを係の人間にいえばいいんだ。補助隊員たちにとってはチャンスなんだぜ」
「――そんなことは、考えもしなかった」
「だからお前は、カイヤツ府育ちの律儀者だというんだよ」
だったら問題はない。ぼくはうんといった。
そんなわけで、ハボニエは手続きをし、ぼくたちには五人の補助隊員がついて来た。(むろん、パイナン隊長の許可があって、はじめて出来たことだが)そのせいで、ぼくらが中央広場に来たとき、興行はもうはじまっていた。
ぎらぎらする照明のもと、仮ごしらえの柵に建てかけられた大きな看板に、出場者の名がずらりと書かれている。ぼくは、その、前から十二番めか十三番めに、ファイター訓練専門学校の公開卒業戦闘でぶつかったイサス・オーノの名があるのを発見した。
イサス・オーノがタブト戦闘興行団にいるというのは、それほど不思議なことではなかった。もともとイサス・オーノは、組織に従属して管理されるのが嫌いな性格で、スター志向も強かった。そのせいではじめから、契約ひとつであちこちと移るのも可能な戦闘興行団を志望していたのである。ファイター訓練専門学校での成績が良かったために、いくつもの戦闘興行団から誘いを受けたようだが、彼は、二流の中どころのウエイセスという戦闘興行団に入った。彼にいわせると、ウエイセスが提示した条件が一番良かったし、ウエイセスクラスの戦闘興行団でなら、そんなに長く下積みをやらずにスターになれるだろうから――とのことだったのだ。おそらくイサス・オーノは、すぐにウエイセスで頭角をあらわし、すぐにか、もうひとつふたたつの戦闘興行団を経てかは知らないけれども、タブトにスカウトされたのであろう。ま、それだけでもなかなかのものだが……ぼくが意外だったのは、そういった短時日のうちに、ビッグ3のひとつであるこのタブト戦闘興行団で、十二、三番めにしても看板に名をしるされる位置にまで来ていることなのであった。
「知り合いがいるのか?」
看板をみつめているぼくに、ハボニエがたずねた。
「ああ。公開卒業戦闘で対戦した奴がいる」
ぼくは答えた。
「そうか。それは良かった」
ハボニエはいってから、肩をすくめた。「――いや、何が良かったのか、よくわからんな。とにかく入ろうか」
ぼくたちは、五人の補助隊員と共に、切符を買って会場に入った。
会場は、小規模ながら野外スタイルの典型であった。中央に戦闘用のスペースをとって仕切りを作り、その背後に選手控所や運営本部や準備場などのテントを張っている。客は金属パイプと丸太を組み合わせた半円形の仮設スタンドで観戦するのだ。
スタンドは、八分から九分の入りであった。もっとくわしくいうと、前のほうの高い席が空いて、うしろの安い席が一杯なのである。
ぼくたちの席は、前から何列めかの一等席であった、他の席でも別に構わなかったのだが、もうそれしか残っていないといわれたのだ。(もっともファイター訓練専門学校の学生時代ならいざ知らず、今のぼくには、一等席といってもそれほどたいした金額ではない。補助隊員たちのぶんを勘定に入れてもだ。それも七人ぶんを、ハボニエが頑張ったので半々で払ったのである)
ぼくたちが席へ進んで行くと、通り路の近くの人々はみな、こちらに目を向けた。一見、無関心な顔つきだけれども、ぼくには必ずしもそうでないように感じられた。何となく、たくさんの視線が、背中に当っているように思えて仕方がないのだ。それはぼくの、こういう土地に来ている警備隊正規隊員としての自意識のなせるわざかもわからなかった。
着席する。
そのときはすでに、強いライトを浴び、音楽に送られて、同じ衣装をつけた五十人ほどの帯剣の男女が、整列し、歩調をとって退場して行くところであった。戦闘興行のプログラムでは、集団剣舞をよく冒頭に出すものだが、ここでもそうだったようだ。さすがにタブト戦闘興行団だけあって、その動きは、剣の鞘の揺れかたひとつまでそろっている。観客はさかんな拍手を送った。
すると、派手な格好の男が登場し、五つの模範決闘が行なわれると告げた。
「模範決闘?」
ハポニエが、ぼくに顔を向けていった。「決闘に模範もくそもないだろう。決闘はただの決闘だぜ」
「いいじゃないか。これはショーなんだ」
ぼくが答えると、ハボニエは納得したようである。
「ショー? やっぱりな。それならわかる」
最初に出て来たのは、十六、七歳の少年ふたりであった。一礼して剣を抜いて構え、打ち合いを開始した。基本はものにしているが、動作はそれほど速くない。こういった少年たちは、戦闘興行団の叩きあげ選手の候補であって、そんなに実力はないのだ。けれども観客にはかえって打ち込みや受けがよくわかるためか、両方に対して声援が飛んだ。ついに一方が片方に突きを入れ、勝負が決まった。というよりも、はじめからそうなるように技を組み合わせているのである。倒れたほうは電撃によるショックを受けただけで、じきに回復するはずだし、あらかじめ観客にもその旨は知らされているのだが……他の人の手によってテントへかつぎ込まれるのに、同情の声があがり、ついで勝者への拍手となった。
その次は、若い女たち、それから大男と小柄な青年……という具合にして、全部で五組がたたかった。それぞれの組み合わせのムードもことなるし、服装もその都度違っていた。観客を退屈させないためである。しかもその演出のうまいところは、あとから出場する者であればあるほど、剣技が複雑巧妙で、速くなって行くことにあった。五組めあたりになると、電光さながらの剣さばきに、観客からどよめきがあがったりした。
だが……それは、素人目に、である。
ぼくにはこの種の決闘が、あらかじめ攻めと受けのセットを作り連続させて、一連の打ち合いになるようにしているのは、わかっていた。だからこそあれほど速く攻め合えるのである。ファイター訓練専門学校時代に、ぼくがちょくちょく戦闘興行を観に行ったのは、実はその攻守の構成や変化を参考にするためであったのだ。
しかし……今こうして眺めていると、どうも作為が見え実戦には無理なやりかたが気になって、どうしようもないのだった。タブト戦闘興行団ともあろうものが、なぜこんなレベルのショーをやるのであろう。観客が田舎者だからと思って、手を抜いているのか――と疑ったぼくは、次の瞬間、そうではないことを悟った。ぼくの目にそのように映るのは……ぼくが、ファイター訓練専門学校当時のぼくではなくなっていたからである。ぼく自身があきらかに以前よりも腕をあげている、そのためなのであった。
とすれば……。
ぼくはハボニエを窺った。ハボニエは退屈そうだった。
ひきつづいて行なわれたのは、十名対十名の入り乱れての対戦である。アクションをふんだんに織りまぜた喜劇的なショーであり、剣さばきもあざやかだったけれども……むろんこれも巧妙に工夫された演出であった。
そのあとに、護身術が披露された。襲いかかって来る男たちを、素手の女が片っぱしから投げ飛ばし、逆を取り、当て身を食わせるのである。女の動きは、基本も応用もちゃんとマスターしたものであるが……これとて、約束ごとによるお芝居には相違ない。それでも観客はやんやの喝采《かっさい》を送り、女が自分の術の説明をし実演してみせるのを、傾聴した。女がなかなかの美貌なのも、相応の効果をあげたのであろう。彼女が引き込もうとすると、十数名の主として若い男たちが、花束を持って仕切りへ駈けつけ、先を争って渡すのだった。短期興行にもかかわらず、彼女がここですでに熱狂的なファンを獲得しているのはたしかであった。
そんなことを考えていたぼくの耳に、そのとき、ハボニエの声が届いた。
「全く……よく出来た見世物だなあ」
ぼくはハボニエを見やった。ハボニエはしかし、ひやかしたのではなく、正直に感心していたのだ。ここまで上手にショー化したことに対して、彼らしく感嘆の声をあげたのである。ハボニエの表情を読んだぼくには、よくわかったのだ。
しかし、悪いことに、ぼくたちの後方の席でさかんに声援したり拍手したりしていた数名の老人が、その声を聞いたのだった。男も女もいたが、みな実直そうな人たちで、それだけにかちんと来たのであろう。鋭い声が飛んで来たのだ。
「隊員さん、面白くないんだったら、帰ったらどうです?」
「何?」
気色ばんだのは、ハボニエでもぼくでもなく、ぼくたちについて来た補助隊員だった。補助隊員たちは、ここが点稼ぎの好機と思ったのか、席を蹴って、そっちへ向かおうとした。
「やめろ!」
ぼくはどなった。
補助隊員たちは動きをやめたが、まだそのままだった。階級からいっても、ぼくよりはハボニエが上なのである。ハボニエの指示待ちの格好だった。
「騒ぐんじゃない」
ハボニエは静かにいい、後方を向いて会釈を送った。そればかりか、釈明もしたのである。
「これは失礼しましたな。私は感心したんですよ。われわれでは、とてもこうは行かんでしょう」
「…………」
老人たちは黙った。文句をつけたものの、やり過ぎたかなと感じたところへ、三つ星の警備隊員がおだやかに挨拶したので、ほっとしたのであろう。
前へ向き直りながら、ハボニエはぼくににやりとしてみせた。仕方がないさという目つきである。いざこざをおこさないためには、そんな芸当も出来る男なのだ、と、ぼくは内心でうなった。
と。
ラッパが鳴り渡り、派手な格好の進行役の男が進み出て、これより抜き勝負をはじめると宣言したのだ。
抜き勝負は、一流の戦闘興行団においては、芝居ではない。武器はそのときによってまちまちだけれども、まずふたりが対戦し、勝った者が次の選手と対戦し、そこで勝った者が次と――という風にして、最後に勝ち残った者を勝利者とする。一般的にはもっとも弱い者からしだいに強い者へと並んでいるので、はじめのほうに出場する選手が勝利者になる例は滅多にないが……勝利者とならなくても、抜いた人数は評価され、当人のランクづけに直接かかわって来るのだ。だから選手たちは技術の粋をつくしてたたかうのであった。もちろん選手たちは戦闘興行団にとっては看板であり財産なので、死なれたり大けがをされたりしては、損になるため、そういう事故のないように配慮はされている。従って本当の勝負が期待出来るのであった。ただし、戦闘興行団によっては、どの選手が勝つかで賭け札を売るところもあり……そういう賭けがからんで来ると、往々にして八百長が行なわれることになるし、また、それだけの腕の立つ選手をそろえられない戦闘興行団では、単なるショーでお茶をにごす場合もある。だが、ちゃんとした一流の戦闘興行団では、そういうことは決してしなかった。抜き勝負はどちらかといえば地味なので、興行のおしまいの部分には持って来られない。中程に置かれるのが通例だけれども……その戦闘興行団の、若手ないし中堅メンバーの実力を示すものとして、欠かせないものであり、格付けの要素のひとつともなっているのであった。
そういえば……。
イサス・オーノが出場するとすれば、この抜き勝負あたりではないだろうか? イサス・オーノの経歴や立場から考えると、そのあたりがもっともふさわしいのである。ぼくは入場のさいにもらった薄いパンフレットを開いて、推測通り彼の名前が抜き勝負の部に記載されているのを知った。抜き勝負の部には十一名が出ることになっていて……イサス・オーノはその第六番めなのである。戦闘興行団は、数に限りのある持ち駒を、フルに活用しなければならないから、彼の出番はそれだけではないだろうが、彼にとってはこの抜き勝負がもっとも大切であろうことは、容易に想像がついた。
中央には、呼び出しに応じて、二名の選手が登場し、対峙《たいじ》していた。ふたりはそれぞれ華美な服を着ている。その背中には、自分の名を大きくしるしていた。これはよくあることだ。が……得物は同じではなかった。片方が湾曲刀、片方が広刃直剣なのである。
「はじめ!」
審判が両者を見やってから叫び、ふたりは飛びすさって刀を構えた。たちまち一方が打って出て、相手が後退しつつ受け、反撃に転じた。刃と刃がぶつかって、冴えた音を残した。漫然と眺めていたら、それはこれまでのものと大差なかっただろうが、ふたりは本気でたたかっているのだ。一連のやりとりののち、両者はまた離れ……十秒以上にらみ合ったのち、どちらからともなくぶつかり合った。金属音が数回つづいたと思うと、湾曲刀のほうが、相手の肩から胸にかけて斬りおろしていた。選手たちは当然肌に密着したしなやかで強靱《きょうじん》な防護衣をつけているはずだが、その上からまとっている服が裂けて、口を開いた。勝負あった、である。審判が叫び、観客は拍手した。
「ほう」
ハボニエが声を発した。買った弁当をぼくたちはそれまでに平らげていたが、ハボニエは補助隊員に軽い酒を買って来させ、飲んでいたのである。その容器を横に置いて、身を乗り出しているのだった。
「あれは……本気だな」
ハボニエはいった。
ぼくは頷いた。
「どっちも、わりといい腕をしている」
ハボニエは容器を持ちあげてまた一口飲み……しかし、勝負に注目しはじめたようであった。
ひとり、またひとりと選手が出て来た。得物もさまざまであった。それぞれ、得意な武器を持っているのである。選手にしてみたら、相手が変ると対応を変えなければならないので……疲れるだろうな、と、ぼくは思った。
勝負そのものは、一進一退であった。一進一退というのが適当かどうか、何ともいえないが、要するに、ひとり抜いた選手は次で敗れ、その勝者は次の選手に負け……という様相を呈して来たのだ。勝負の推移としては地味である。だが、観客はぼくが思ったほど退屈はしていないようであった。この抜き勝負では作為が全然ないことが、観客にもわかるのかも知れない。それに、ぼくがいささかあっけにとられたのは、ひとりひとりの選手に結構ファンがいるらしいことであった。このヘベ地方の人々が、タブト戦闘興行団とおなじみのはずはないのだが……前宣伝が行き渡っていたのか、それともきょうまでの何回かの興行のうちにひいきが出来たのか……そこそこ声援が飛んだり、罵声が聞えたりするのだ。そして、これはぼくの気のせいではなく、たしかにそうだと信じるが、人々は選手たちや戦闘興行団に対して、好意的であった。いってみれば元来同根であるぼくら警備隊員へのわざとらしい無関心や隠された敵意といったものは、そこにはなかったのだ。これは当り前のことかも知れない。人々にとってみれば、剣などの武器をあやつるプロにしても、背後に権力を背負っているか全くの在野的存在であるかは、決定的なことなのである。
それはともかく。
演出されたのではない本当の勝負というものは、所要時間は不定である。むしろ、例外を除いて、ショーよりはずっと早く片がつくものだ。イサス・オーノの出番はじきにまわって来た。
名を呼ばれて、夜の閣からスポットライトの中に現われたイサス・オーノを見たとき、だがぼくは最初、別人ではないかと思った。
以前はいかにもファイター訓練専門学校の学生らしく髪を刈りあげ軽やかな格好をしていたイサス・オーノは、まるで変っていたのだ。髪は長く伸ばしている。もっとも、戦闘に支障を来すから額に前髪が垂れないよう、眉の上は横一文字にカットしてあるが、そのためにどこか凄味が出ていた。着ているものも、上から下まで黒ずくめだ。胴の太いベルトも長靴も黒。ただ、吊っている一般剣は柄も鞘も真紅であった。
観客は沸いた。名を叫ぶ者もすくなくなかった。あきらかにイサス・オーノは、人気者か、人気者になりつつあるかなのだ。
イサス・オーノは、軽く一礼し、するりと剣を抜いて構えた。
審判の合図と共に、イサス・オーノはすいすいと前進し、たちまち、目にもとまらぬ速さで、切りかかった。もっとも、相手も腕達者である。刃の反射光が乱れ飛んだと思うと、ふたりは離れ、構え直していた。次の打ち合いで勝敗は決した。イサス・オーノは相手の細身剣をはねあげ、出ようとするその喉元に切先を擬していたのだ。
あざやかだった。
というより、高度なテクニックを綱渡りのように弄《ろう》した、ひとつ間違うと逆にやられてしまう手法だったのだ。
それでも、ぼくはやはり旧知に、叫ばずにはいられなかった。
「いいぞ! イサス・オーノ!」
その声は、たまたま拍手と歓声がとぎれた瞬間に、はっきりとひびいた。イサス・オーノにも聞えたようである。イサス・オーノは無表情にこっちを見やり、ちょっと視線を据えたまま、会釈を返した。
次の相手は電撃剣であった。イサス・オーノは、これも簡単に破った。
三人めは、少しひまがかかった。敵はぼくの目にも練達の名手だとわかった。それでもイサス・オーノは、イチかバチかの大業を使い――幸運にも仕留めるのに成功した。
四人めは……これはもう、いけなかった。イサス・オーノのほうは疲れているし、相手はこれからである。それに相手はたくましく、長剣を難技巧の連続でらくらくとあやつる男だった。イサス・オーノは善戦したが、今度は捨て身の戦法も空しく、敗れ去った。
それにしても、とにかく三人を抜いたのである。観客は惜しみない拍手を送った。
「あれが、お前の知り合いという奴か?」
次の選手の名前が呼びあげられているうちに、ハボニエが訊いた。
「そうだ」
ぼくは答えた。
「――ふむ」
ハボニエは、そのときにはそういっただけである。
ぼくは、注意を中央へ戻した。が……それも長くはつづかなかった。横手のほうから仕切りを迂回して、タブト戦闘興行団のユニホームを着た少年が、ぼくたちのほうへ近づいて来ると、たずねたのである。
「イシター・ロウさんとおっしゃるかたは、おられますか?」
「ぼくだ」
「これをお渡しして、ご案内するようにといわれました」
少年は、折り畳んだ紙片をさし出した。
イサス・オーノの、走り書きの手紙であった。
きみが来ているとは知らなかった。次の出番まで少々時間がある。よかったら控所へ来ないか? 久し振りにお喋りでもしよう。イサス・オーノ
「おいでになりますか?」
待っている少年が問うた。
「そうしよう」
ぼくは、ハボニエにイサス・オーノの手紙を見せ、ちょっと行って来るがいいかとたずねた。
「行ってこいよ。そういうことなら、ひとりのほうがいいだろう。おれはここで観ている」
ハボニエはいった。油断するなとか気をつけうというたぐいの言葉をつけ加えなかったのは、ぼくを一人前扱いしてくれているということだろう。それとも、戦闘興行の雰囲気がわかって、あまり神経質になるほどのものではないと判断したのか……。それに、ぼくがさっきイサス・オーノに声を投げたせいで、周囲の観客たちが、ぼくらも同類の戦闘興行愛好者だと解したらしく、やや打ちとけた感じになっていたのもたしかであった。
ぼくは、少年について行った。
イサス・オーノは、テントの中の控所の、小分けされた区画のひとつで休んでいた。
「久し振りだな」
ぼくが入って行くと、イサス・オーノは立ちあがって握手を求め、ぼくもそれに応えた。
「ま、すわれよ」
いわれて、イサス・オーノの前の椅子に腰を降ろす。
ライトにあかあかと照らし出された試合場とことなり、そこはテントの天井の灯と、試合場から流れて来る光があるだけで、暗かった。それでもぼくはその暗い光で、イサス・オーノの椅子の背後のテーブルに、花束が積みあげられているのを見て取ることが出来た。
「ここがエレスコブ家の土地なのは知っていたが……きみが来ている可能性は、考えもしなかったぜ。偶然だな」
イサス・オーノは、椅子に背をもたせかけながらいった。「ところで、ぼくの剣さばきはどうだった?」
「ずいぶん達者になったと思うよ」
ぼくは答え、イサス・オーノは皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「悪達者になったということさ。本筋からはだいぶ逸脱している。でもまあ、こういうほうが受けるんだから、やむを得ん」
ぼくは、おやと思った。イサス・オーノは髪型や服装が変っただけではない。前はこういう陰翳《いんえい》のある言葉遣いをする男ではなかったのだ。
「きみ……変ったな」
ぼくはいった。
「このおどろおどうしいスタイルが、だろう?」
イサス・オーノは、自分の髪や服に手をやって笑い、すぐに真顔になった。「いや、ポーズをとっても仕様がない。たしかにぼくはだいぶ変っただろう。戦闘興行団などにいて、あちこち流れ歩いているうちに、考えかたもだいぶ変化するものさ」
「苦労したようだな」
「寄らば大樹の蔭というが、戦闘興行団なんて、どんな超一流でも大樹にはなり得ないからね。所詮は浮き草稼業だから、苦労がないといえば嘘になる。でもぼくは自由で、おのれの力量ひとつでやって行ける今のほうが好きさ。ところで、その大樹の蔭にいるきみのほうはどうなんだ?」
ぼくは、卒業後の自分の身の上をかいつまんで話した。
「――そうか。要人の護衛員とは、またつらい仕事に就いたもんだ」
イサス・オーノは呟き、斜めにぼくを見やった。「だがイシター・ロウ、変ったといえばきみのほうも変ったよ」
「ぼくが?」
「ああ。妙な表現だが、強くなった。前からきみは考え深い性質で、負けん気も相当なものだったが……背伸びしたがるところがあった。まあ、怒るなよ。それが、自信がついて来たんだろうな。学校時代とは、ずいぶん違って来た」
「お世辞はよせよ」
ぼくは少し笑った。内心、悪い気分ではなかったのは、本当である。
「お世辞じゃない」
イサス・オーノは首を振ってから、しかし、ちょっと考えて、低くいった。「ただ……それがエレスコブ家の一員になったから、というのなら、愉快なことではないし……心配でもあるがね」
「それは、どういうことだ?」
「人間、大きな組織に属していると、背後にある組織の力を、自分の実力だと錯覚するようになりがちだからな」
イサス・オーノは答えた。「ことに家のファミリーなんて、その最たるものさ。そんな場合、どんなに立派に見えても、所詮はにせものだから、そのうちメッキがはげてしまうだろう。ま、きみはそんなことはないだろうがね」
「気をつけるよ」
ぼくは素直にいった。それはぼく自身が以前にしばしば感じていたことであるし、エレスコブ家の警備隊員になった今でも、つとめて自戒しているのだ。が……イサス・オーノの言葉には、まだ気になる個所があった。ぼくはそれを口に出した。
「しかし、心配とは、どういう意味なんだ?」
「きみがエレスコブ家におり、エレスコブ家のために働く……いやこれは当然の話だが……そのために、つらい立場に置かれるんじゃないか、ということだよ」
「とは?」
「エレスコブ家は、ひょっとしたら近い将来、大きなごたごたに巻き込まれる……というより、みずからごたごたを惹き起こすんじゃないか、と、ばくは見ている」
そこでイサス・オーノは、思い出したようにたずねた。「もっとも、ぼくはエスパーじゃないから、断言は出来ないがね。きみ、最近はエスパー化しないのか?」
「この前みじかい奴が一度来たが……そのあとはないよ。――話をつづけてくれないか」
「ああ。とにかく……このところエレスコブ家の伸張ぶりは、誰の目にもあきらかだ。だがそれがもとで、厄介なことになりはしないか、という気がするんだ」
「そんなことは、今でもしょっちゅうだよ。よその家にいやがらせをされたり、白眼視されたり、さ。警備隊員程度のレベルでも、うかうかすると、けんかを吹っかけられるんだから」
「ぼくがいうのは、そんなことじゃない」
イサス・オーノは手を振った。「エレスコブ家はネイト=カイヤツにおける権力抗争に加わりはじめている。もっと弱小の家々を仲間に引き入れてね。ネイト=カイヤツの主導権を握ろうと考えているのかも知れない。だが正直などころ……きみを前にして悪いが……いくらエレスコブ家がカをつけて来たといっても、まだしばらくは無理だろう。で……功を焦る結果、何か従来の勢力関係を揺るがすようなことを仕掛けるのではないか、と、ぼくは思う。いってみれば現状のもとでは、ネイト=カイヤツで一番問題をおこしやすいのは、エレスコブ家と考えるが順当だろう。すでにそのための工作をはじめているのかもわからないがね。ぼくがいうのは、そうなったとき、きみがエレスコブ家に忠誠を誓っていればいるほど、その渦の中にほうり込まれ、利用されて捨てられる可能性が大きい、ということなんだ」
「――なるほど」
ぼくはこれまで、そんな観点でエレスコブ家を見たことがなかった。なまじ内部にいるとわからないことがあるけれども、これもその口かも知れなかった。「それにしても……なかなか辛辣《しんらつ》な観測だな」
「局外者だからね。それで見えるのさ。多少ひねくれた見方をしているかもわからないが」
イサス・オーノは頷いてみせ……ついで、呟くようにいった。「本当は、家どうしがそんな真似をしているときじゃないんだ。そういうことをするから、ネイト=カイヤツ全体が疲弊して行くんだよ」
「だが、この構造は一朝一夕には変るまい」
ぼくは指摘した。
「そういうことだ」
イサス・オーノはまた頷いた。「それはわかっている。わかっているが……戦争のことを思うと、これでいいのかと、考えてしまうよ。戦争が拡大したら、ネイト=カイヤツなんか、けし飛んでしまうものな」
「拡大するかね」
ぼくはたずねた。ぼくがマスコミなどで知っているところによれば、ネプトーダ連邦軍とボートリュート共和国軍のたたかいは対峙のままであり、ときたま散発的に小ぜりあいがある程度だという。けれどもイサス・オーノのようにあちこちへ行き、いろんな人たちと話し合う立場の人間なら、何かぼくには未知の情報を持っているかもわからないと思ったのだ。
「さあ……何ともいえないが、いやな噂があるよ」
イサス・オーノはいった。
「いやな噂?」
「あくまで噂だが……ウス帝国が版図内に動員令をかけて、大軍が集結しつつあるということを耳にした」
「ウス帝国が……?」
ぼくはひやりとした。ネイト=カイヤツがその一員であるネプトーダ連邦は、これまでボートリュート共和国と戦火を交えて来た。そして連邦が、それほど大した勢力とはいえないボートリュート共和国を圧倒出来ないでいるのは、ボートリュートのうしろに巨大なウス帝国がついていたからなのだ。ネプトーダ連邦は、ボートリュートとウスの両者と戦争をしているとの態度をとっているし、厳密にはその通りなのだが……独裁体制を有する超大勢力のウス帝国軍とは、まだ直接ぶつかっていない。これまでそれで済んでいたのは、もっぱらウス帝国が内政固めに努めているという事情によるものであった。ウス帝国に準備が整えば……そうでなくとも外征により内部の不満をしずめる必要が生じれば……動きだしてもおかしくはないのだ。
「ウス帝国に、そうする必然性が出来たのかな」
ぼくがいうと、イサス・オーノは首をかしげた。
「それは知らんよ。とにかく星間勢力はたくさんあって、ぼくらが聞いたことのないところも存在するんだ。ウス帝国にその何かが関与したのかもわからないし……ウス帝国自体に何かあったのかもわからない」
「…………」
ぼくには何もいえなかった。イサス・オーノも沈黙したが、ふと、目をあげた。
「そういえばきみ……ヘデヌエヌスという名前を聞いたことがあるか?」
「ない。何だそれは?」
「われわれの知らなかった星間勢力らしいんだ」
イサス・オーノはいった。「その勢力が、どういう手段で何のためにかは、はっきりしないけれども、われわれの星域内へ浸透して来て、工作しているというんだがね」
「どういうことだ?」
「くわしいことは、何もわからん。ただ……そういう変な噂がときたま入って来るだけでね」
「…………」
「これは……おかしな話になってしまったな。旧友のめぐり合いにしては、あまり適当じゃなかった」
イサス・オーノはいい、時計を見た。「ぼちぼち次の出番の用意にかからなければならない。ま……お互い、それなりに頑張ろうや」
「そうだな」
「また会おう」
「そうしよう」
ぼくたちは握手したが……今度いつ会えるものやら……当分、そんなことはないだろうな、という気がした。
席へ戻ると、ハボニエは酒を飲みながら、おとなしく興行を見物していた。
「早かったな」
ハボニエは、声をかけた。「そりゃまあ、あっちも仕事の合間だから、そんなにのんびりともしていられないだろうが」
いうと、ハボニエはまた正面に向き直る。それも、面白がっている風なのだ。補助隊員たちも、たのしんでいるようだった。
「面白いか?」
ぼくは訊いた。
「ああ。見物人になり切れば、意外にたのしめるものだな」
ハボニエは返事をし、ぼくを見やった。
「そういえば、お前の知り合い……イサス・オーノとかいったな。やっぱりお前に似ているよ」
「ぼくに?」
「相手が自分より上だとわかっても、イチかバチかの手段に出るところがな。お前がトリントス・トリントとやったときとおんなじだ」
ぼくは肩をすくめた。いわれてみると、そういう共通性があるのかも知れなかった。
ヘベ地方のあとは、海を距《へだ》てた南西大陸の、ハルアテ東南地方であった。
エレスコブ家が所有するこの地方は、前にもいったように、大規模農業地帯である。といっても漁港もあれば、鉱山もあるのだが……現在のところは農業が圧倒的主力であった。飛行するぼくたちの眼下には緑がひろがり、あちこちに集落があって、入々は仕事にいそしんでいる。自然がふんだんにある美しい景色なのだ。
しかし……この広々としたハルアテ東南地方もまた、本質的にはゲルン地方やヘベ地方と同様の状況にあった。いや、人口密度が低いことや、大農場システムのところが多いことや、交通網がろくに発達していないことなどを考えると、閉鎖性がさらに強かったといえるだろう。人々は貧しかった。自滅者の群にもたびたび出会った。
ぼくの私見を述べさせてもらうなら、ここははもっと発展可能なはずである。エレスコブ家が全体の地主として人々を働かせ、その報酬に農作物の一部と少々の金を渡すというようなことをやめて、自分の土地にさせれば、もっと生産性もあがるであろう。今のままでは労働意欲も湧かないし、農作物の改良やもっと有望な作物を植えてみる――というようなことも行なわれるはずがないのである。それに農業にばかり固執するのも、問題であった。土地の案内書や、エレンがさまざまな相手と話す断片を洩《も》れ聞いたところでも、ここにはいろいろな鉱脈があり、工場立地に好適な場所もすくなくないのだ。あきらかにエレスコブ家は、このハルアテ東南地方を充分には活用していないのである。
ぼくはそのことを、ハボニエにいってみた。
「そりゃお前のいう通りさ」
ハボニエは、薄笑いをして答えた。「しかし、今はとてもそこまで手が廻らないだろうな。エレスコブ家の収益をになっているのは、主として商業部門なんだ。そりゃ先のためにこの土地に投資するのは大切かも知れん。が……それが実際にプラスになりだすのは、だいぶ先のことだし、投資額にしても莫大なものになるだろう。当面は、だから、このままで行くしかないんじゃないか? おれにはよくわからんがね」
おそらく、ハボニエの判断があたっているのであろう。
しかし、それはエレスコブ家の、エレスコブ家のための事情である。この土地の人々や、ネイト=カイヤツ全体にとってみれは、ここにもっと有効に利用されてしかるべきであった。今のところエレスコブ家には、このハルアテ東南地方を活用するつもりも力もないというわけだが……単にその土地を所有しているというだけで、いわば握りしめているのは、もったいない話であった。
それとも……エレスコブ家には、はじめからそういう開発・活用の気がないのかもわからない。このハルアテ東南地方を温存しておいて、しかるべきときが来たらどこかの家に売り渡す――ということも、考えられないではない。その時機待ちの間、そこそこの収穫さえあげればいい、ということなのかも知れなかった。
どっちにしろ、これは、家のエゴイズムというものである。この旅行でゲルン地方、ヘベ地方、ハルアテ東南地方とめぐり、いろんな体験をするうちに、いつかぼくの心には、エレスコブ家、というより、家というそのものへの疑念や、不信に似た感覚が生れていたけれども……それは確実にぼくの中に定着しようとしていたのであった。
もっとも、ぼくはそんなおのれの気持ちを、ハボニエや他の人に喋りはしなかった。喋ったところで何になろう。また、ぼく自身がそういいながら、エレスコブ家の禄《ろく》をはんでいる身なのである。えらそうな批判をするのは身勝手というものであった。そういう状況把握は状況把握で……ぼくは護衛員の職務を遂行しなければならないのである。自分の心の中にあるものはそれとして、自分の中にしまい込んでおくべぎであった。
それとまた、生れて初めてカイヤツ府から遠く離れ、諸地方を見たのだが……それらはみな、工業化されていないところであった。ネイト=カイヤツでは、すぐれた工業製品が生産されている。宇宙船ですら建造されているのだ。それらは、どこで作られているのであろう。そういう地帯もちゃんと存在していなければならないはずである。一方でそんな技術を持ちながら、他方、ぼくが見た地域のように、昔ながらの面影を色濃くとどめているところがあるというのは……いかにもアンバランスな感じなのだ。が……これが現実というものかも知れない、と、ぼくは考えるようになった。大きないいかただが、ひとつの文明とか世界というものは、その全体が均質で同一水準にあるのではなく、多種多様な面を合わせ持つのがふつうなのかもわからない。よく物語などでは、どこからどこまでも同じような生活、同じような風景、同じような意識の人々だけの社会が出て来るけれども、それはむしろ特殊な例なのではないだろうか――と、思ったりもしたのである。
とにかく……エレン・エレスコブの旅が終り、カイヤツ府のエレスコブ家カイヤツ府屋敷へ帰着したとき、ぼくは、心身共に疲れ果てていた。
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カイヤツ府に戻ってから十日以上も、エレン・エレスコブは外出をしなかった。さすがにエレンも旅で疲労し、身体を休めていたようである。ぼくたちは例によって、エレンの部屋の扉の前に交代で立ち番をした。はじめて勤務したときとはことなり、護衛の実務に馴れた今では、これは楽な勤務であった。楽とはいうものの、真剣に、気を張りつめていなければならないことに、変りはなかったが……。
そうした勤務の合間を見て、ヤド・パイナンは、ぼくたちに上陸非番の機会を与えた。今度はぼくは、ひとりだった。ひとりで出てみると、それほど行きたいところがあるのでもないことに、自分で気がついた。中央公園のスポーツ施設もいいが……ひとりで泳いだり走ったりしても、あまり面白くはないであろう。そこでぼくはふと思いついて、ファイター訓練専門学校を訪ねてみることにした。
ファイター訓練専門学校は、ちっとも変っていなかった。ぼくが卒業してから何年も経ったわけではないのだから、当り前かも知れない。しかし、ぼく自身の主観では、ずいぶん前のような気がしていたのだ。ぼくは、教官室へ行き、挨拶をした。教官たちはぼくが元気なのをよろこび、クラスメートの誰かれの消息を教えてくれたりもした。教官室を辞去したぼくは、学生たちが訓練を受けている横を通りかかり、しばらくその様子を眺めていた。かれらを見ているのは、不思議な気分だった。まだ何の色にも染まらず、ひたむきなかれらを一方では少し羨《うらや》み、一方では、かれらが妙に幼く思えたのである。
ファイター訓練専門学校をあとにして、ぼくはぶらぶらと歩いた。どこかで昼食をとって……それから映画でも観るほかはないな、と、思いながら、歩道を進んでいたとき。
うしろから来た一台の車が、ゆっくりと速度を落とし、ぼくの横手で停止したのである。
ぼくは反射的に跳躍し、車から離れた地点で身を低くして、構えた、警備隊員としての神経が、自動的にそうさせたのだ。どこで、いつ狙われるかわからない生活を送っていると、そうなるものだ。それに、ぼくは(前にパイナン隊長にいわれたように)エレスコブ家の警備隊員の制服を着ていた。それだけでも、誰かに襲われる可能性はあると覚悟しなければならない。
車から降りて来たのは、女だった。サングラスつきの紗《しゃ》のべールをかぶり、デザインはシンプルだが高価そうな服を着ている。女は歩道に立つと、ベールを取った。
どこかで見たような――と思った次の瞬間に、ぼくは思い出した。
それは……前の上陸非番のときに会った……ミスナー・ケイと名乗った若い女だったのだ。
「――きみは」
いいかけて、ぼくはやめた。
あのときのミスナー・ケイは、男を相手に話をして、それでいくらかお金が欲しいといったのだ。本当の商売はやりたくないので、そんなことを考えたらしい。あのときはぼくはそう解釈した。
けれども……目の前にいるミスナー・ケイは、車を運転し、どこかのお嬢さんのような格好をしている。
ぼくの脳裏に、ハボニエのいったことがよぎった。あの夜の話を聞いたハボニエは、その女、反体制運動か何かをやっているんじゃないか、と、首をひねったのである。ハボニエは、だからその女は、警備隊員を仲間に引き入れようともくろんだのかも知れんぞ、ともいったのだった。
そうした警戒の意識が、ぼくの口を封じたのだ。
「わたし、お礼がいいたかったんです」
ミスナー・ケイ(それが本当の名であるかどうか、いよいよ怪しい。いや、最初から彼女は、本名じゃないと明言したのではなかったか?)は、ぼくとの距離をあえて詰めようとはせずに、にっこりしていった。「あのときは逃げてしまって、ごめんなさい。でも、あなたはわたしをかばって、マジェ家の人とたたかってくれましたわ。ひとこと、お礼をいいたかったんです。どうも、ありがとうございました」
「きみは……何者なんだ?」
ぼくは、やっとものをいうことが出来た。
「それは……いずれわかるときが来ると思います」
ミスナー・ケイは、またにこりとした。
「とにかく、ありがとうございました。これで失礼します」
いうと、彼女はお辞儀をし、くるりと向きを変えて、車へと引き返して行く。そのときにはもうべールをつけていた。
「待ってくれ」
ぼくはそっちへ駈け寄ったが……車は動きだし、たちまちかなたへと去って行ったのである。
今のは、どういうことだ?
彼女は何者だ? この前会ったときは、何かの目的でそんなことをしていたのか? あのとき店の老人は、あれは変りもので、商売をやっているのかいないのかもわからんといった。何かの意図のもとに、そんなことをしているのか? 今の姿が本当で……いやあの格好も、わざとそうしているのかもわからないではないか。
どういうことだ?
考えても……見当もつかなかった。
それと……ぼくはどういうわけか、シェーラを思い出していた。あのミスナー・ケイの微笑が、シェーラのことを想起させたのかも知れない。そんな、シェーラのことをなぜ考えたのかわからないのだが……そうなのである。
それにしても、あの女は何者だ?
ぼくはその謎をかかえ込んだまま昼食をとり、映画を観た。夜はどこかへ飲みに行こうかとも考えたが……この前騒ぎを起こした店へひとりで行くのは、やはりためらわれた。といって、ほかの店を捜すのも面倒だ。大体、こんな化かされたような気分でひとりで飲んでいて、けんかでも売られたら、今度は勝てるかどうか、怪しいものである、ぼくは上陸非番をそこで打ち切り、護衛部へ帰ることにした。まだ夕方前であった。ちょうど勤務を済ませて戻って来たハボニエは目を丸くし、勿体《もったい》ないことをする奴だ、と、呆れ顔になった。が、ぼくがミスナー・ケイの話をすると、眉をひそめた。
「どうも得体の知れない女だな。やはり何かの運動家か、でなきゃ秘密の仕事をしているのかもわからん。そんな奴と、あまりかかわりあいにならないほうが、無難だぜ」
「かかわりあいも何も、むこうから勝手にやって来たんだ。仕方がないだろう?」
「全く、変な女だな」
ハボニエはいい、ぼくの肩を叩いた。「ま、そんなことは早く忘れて……食堂で一杯やろうや」
その上陸非番も、一巡すると、もう与えられなくなった。ぼくは、エレン・エレスコブが活動を開始するのが近づいているのではないかと想像したが……当たっていた。上陸非番が出なくなって三日めの夜、ぼくたちは、翌朝五時に武装して会議室に集まるよう、命令されたのである。
ぼくたちが会議室にそろったのは、定刻の十分前であった。
ヤド・パイナンは五時きっかりに部屋に入って来ると、並んでいるぼくたちを見廻して、簡潔にいった。
「エレン様が、また旅に出られる。行く先はカイヤントだ」
カイヤント?
ぼくは驚いて隊長をみつめた。
カイヤントは、隣りの惑星である。何度かいったように、ぼくたちのこの世界であるカイヤツは、恒星カイナの第二惑星で、カイヤントは第三惑星だ。お隣りには違いないし、植民都市も十数個あって、カイヤツとの行き来も頻繁だけれども……別の星は別の星である。宇宙旅行ということになるのだ。そしてぼくはまだ一度も、宇宙船に乗ったことがなかった。だから、パイナン隊長の言葉に、期待と不安が半々になって、胸に湧きあがって来たのである。だが、それを表情に出さないように努めた。
他の隊員たちがどう感じたかは知らない。しかし、みんな、黙って隊長の次の言を待っていた。
ヤド・パイナンは手を動かしてみんなを椅子にすわらせ、自分も腰をおろすと、いつもの、何でもないような調子でいった。
「今度の旅行は、きわめて危険なものになるだろう。カイヤントの諸都市は、現在、各家の勢力が入り乱れて、争いがしょっちゅう起きているそうだ。エレン様を狙う者もいることだろう。場合によっては、襲撃者たちと一戦交えることになるかも知れない。エレン様のみならず、われわれだってエレスコブ家の者だというだけで、標的になることもあり得る」
「…………」
みんなは依然として無言だったが、いいたいことをやっと抑えているのは、ぼくにもわかった。ぼくもそのひとりだったのだ。ぼくたちは護衛員だから危険は覚悟の上である。だが、エレン・エレスコブが、どうしてわざわざそんな危ない真似をしなければならないのだ?
パイナン隊長は、その空気を察して、つづけた。
「もちろん私は、エレン様に、そんな危険な旅はやめていただきたい、と、再三お願いした。しかし、エレン様は承知なさらなかったのだ。この仕事はエレスコブ家の浮沈にかかわる上に、最適任者はわたし以外に考えられない、だから自発的に行くのだとおっしゃった。私にはお願いは出来ても、とめる権限はない。それに、このことに関して、ドーラス様はじめ、エレスコブ家の政策立案執行会議が、極秘のうちに、そうするしかないと決定したのも、事実のようだ」
「…………」
「出発の直前までこのことを伏せていたのは、エレン様の行く先や行動予定が洩れて、計画的な襲撃を受けるのを、避けるためであった。われわれはこれよりただちに出発し、エレン様と共にカイヤントに行く。全員、起立! 護衛部前に集合!」
ひとたび命令が出れば、否も応もない。ぼくたちは即座に行動に移った。いつものようにエレン・エレスコブを護衛しつつ、エレンの随員たちと共に車に分乗し、宙港に向かったのだ。
宙港は、カイヤツ府の中心から七十キロあまり離れたところにある。カイヤツ一級宙港だ。ネイト=カイヤツ圏内では最大の宙港だという。ネイト=カイヤツの表玄関なのだから、それが当然であろう。もっとも、ぼくはそこへ何度も行ったことがあって、どういう景観なのかは知っていたけれども、他の宙港は見たことがなかった。ぼくにとっては宙港とは、カイヤツ一級宙港のことなのだ。一級宙港というのは、設備や広さや利用度による格づけであって、ネプトーダ連邦の各ネイトは、それぞれひとつかふたつ、あるいはそれ以上の数の一級宙港を持っているというが……それらがカイヤツ一級宙港と大同小異なのか、大きな懸隔があるのか、ぼくは正確な知識は持っていない。また、カイヤツ圏内の、一級ではない他の宙港がどの位カイヤツ一級宙港と違うのかも、ろくにわからないのである。だからよそと比較しろといわれても、何とも返答出来ないのであった。ただ自分のところの宙港は一級宙港なのだ、という認識があるばかりで、子供のころなどはそれがうれしかったのである。カイヤツ府生れのカイヤツ府育ちの人間は(宇宙旅行をしたり、くわしい知識を有している者は別として)たいていぼくと同様だろうと思う。
そんなぼくの目から見ての話に過ぎないが……宙港というのは、壮観だった。力強く、広大なのであった。宙港にはさまざまな種類の宇宙船がひしめいている。連邦軍船やネイト軍船は別区画にあって、一般人がくわしく観察するのは許されなかったが、飛翔の姿だけを見ても、心強い感じたった。それ以外の船は、仕切りの外の遠くからではあるけれども、見物が可能である。ぼくは子供のころや少年時に、宙港へ行くたび、親にそろそろ帰ろうとうながされながら、発着する宇宙船をよく眺めていたものであった。陽が照っていればそれだけ船体は輝き、曇っていればいたで、重量感がある宇宙船群。たとえ小型の船でも、それなりの精巧さと鋭さを見せているのがたのしかったのである。
そうして宇宙船を眺めながら、ぼくはぼくなりに、あれは何でこれは何だと、判別したものだ。その程度の知識は、宇宙船好きの少年には当り前だったのである。もっとも数が多いのは、やはりお隣りの惑星であるカイヤントと、このカイヤツを結ぶ定期運航船であった。それらにはネイト=カイヤツ保有のや、各家保有の船があり、大半は運賃を取って客や貨物を運ぶのだ。カイヤツとカイヤント間には、それだけの需要があるということであろう。ほかに、カイヤントをも含めてカイナ太陽系内を行き来する船もあるが、第四惑星のカイノスはもっぱら軍の基地として使われており、第五惑星のカイバリーには自動観測機器類を設置しているだけなので、軍民併用とか学術用とかの、特殊な型に限られており、数も少ないのである。それとは別に、カイナ太陽系を離れて、現在はネイト=カイヤツの版図に入っている五・二光年先のチェンドリン星系への宇宙船がある。こちらは、ネイト=カイヤツとはまだしっくり行っていない第三惑星チェヤントとか、新世界として改造中の第四惑星チェイノスへ赴くせいもあって、大型であり、船体もいかにも頑丈な印象だった。しかし……ぼくたちが不思議なものでも見るようにみつめたのは、そうしたカイナ太陽系内就航船とか、チェンドリン星系行きの船もさることながら……大小各種の、連邦間を往来する連邦登録定期貨客船なのであった。連邦登録定期貨客船は、それぞれ船体に所属ネイトのマークを明示というか、誇示している。ネイト=カイヤツは二隻を保有しているが、他のネイト籍の宇宙船が、到着したり発進したりするのだ。他のネイト……それはあきらかに別世界であった。世界といえばネイト=カイヤツしか知らず、そのネイト=カイヤツにしても、カイヤツ府以外は映像や物語や教科書でしか知らなかったぼくたちにとって、他のネイトから来る船というのは、奇妙なまでに想像をそそる存在だったのである。そのころのぼくは、たしかに、宇宙旅行を求め、いずれは宇宙船に乗るだろうと信じていたのだ。そして、そういうぼくにとって、真正の本格的な宇宙船というのは、ネプトーダ連邦間を自由に飛翔する連邦登録定期貨客船だった――ということであろう。
だが。
ぼくが宙港へ行って夢をふくらませていたのは、予備技術学校にいたころまでの話である。そう……エスパーの能力を悪用したとされて予備技術学校を放り出されたぼくは、宇宙船とか宇宙旅行に対して、何の興味も持てなくなってしまったのだ。いや、それは技術者としての道を閉ざされたために、自分から背を向けたというべきなのかもわからない。ましてその直後に父母が交通事故死してからは、なおさらだった。技術者になり得ない立場であり、宇宙旅行にもおそらく無縁であろうという意識の上に、今度は生活がのしかかって来たのだ。毎日を暮らすのに精一杯で……ファイター訓練専門学校に入ることが出来て、官費で教育を受けるようになっても、もはや現実がつねに立ちはだかっている毎日だったのだ。自分が宇宙旅行をするときが来るというようなことは、まず考えられないことだったのである。
ぼくは、少々感傷的になり過ぎたようだ。人間、過去を振り返らなければならなくなると、どうしても感傷的になるようである。そうすることによって、自分が時間を喪失したとの自意識の衝撃を、やわらげようとしているのかも知れない。
ともかく……そんなわけで、ぼくが宙港に来たのは、久し振りであった。
久し振りのその宙港を、しかしぼくは、ゆっくりと眺めているわけには行かなかった。そんな余裕は全然なかったのだ。一刻も気を抜けず、わき見さえも出来なかった。ぼくたちの車は宙港にまっすぐ入って行き、ゲートを抜けると、小さいががっちりした建物の前で停止した。そこに要人室があったのだ。ぼくたちはエレン・エレスコブを守りつつ、要人室へついて行き、暫時の待機のあと、迎えのバスが来るのを待って、乗り込んだ。バスは、近くまで来ると意外に大きな間隔を置いて並ぶ宇宙船群の横を通り、ひとつの宇宙船のそばに来た。さほど大きくなく、白い外殻の宇宙船で、船体にはエレスコブ家のマークと、エレスコブ・ファミリーという文字がしるされていた。ぼくとハボニエが先頭になって、中に入った。船長以下、何人かの乗務員が、入口に立って一行を出迎えていたのだ。乗務員は全員、エレスコブ家の紋章のついた制服をまとっていた。
エレン・エレスコブは、用意されていた個室に入り、あとの内部ファミリーや、エレンの身の廻りの世話をする人たちも、それぞれあてがわれた部屋へと姿を消した。ぼくたちのための部屋もあった。それも、せまいけれどもふたりで一室ずつ、なのだ。やがて、着席してベルトを締めるようにとのアナウンスがあり――船は発進した。まことにあわただしく、あっけない出発だった。
[#地付き]<不定期エスパー1[#1は□+1] 了>
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[#地から2字上げ]この作品は1988年7月徳間書店より刊行されました。
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底本:「不定期《ふていき》エスパー1」[#1は□+1]徳間文庫 徳間書店
1992年4月15日 初刷
このテキストは
(一般小説) [眉村卓] 不定期エスパー 第1巻(徳間文庫 4c).zip FQDHNwp3qU 29,988 49ec1923f5c7f9fc9a8b9a69e4135868
を元に、OCRにて作成し、底本と照合、修正する方法で校正しました。
画像版の放流神に感謝します。
※ 本文中一部縦書き横並び表示が表現し切れていないところが有ります。
(剣技の型のところ等)
***** 底本の校正ミスと思われる部分 *****
*行数は改行でカウント、( )は底本の位置
955行目
(p147-11) 緞張は緞帳?
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