おと×まほ 4
白瀬 修
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目次
温泉旅行へ行きましょう♪
おまけ1 隔《へだ》てなき友へ
甘いお菓子が食べたいわ♪
おまけ2 山のように豊かに
少女な彼方《かなた》の一週間
おまけ3 妄想、それは創造
[#改ページ]
温泉旅行へ行きましょう♪
黄昏《たそがれ》の時刻、白く煙る水面の世界。
そこに、異彩を放つ少女がいた。
その背に流れる髪は白銀。淡く、濃く、多彩にきらめく不思議な色。
少女の体つきは桜の実を思わせる。起伏の少ないぺたんとした体形だが、肌にはみずみずしいツヤと、基礎体温の高さを象徴するほのかな紅色が差している。完熟というにはほど遠いものの、甘々とした魅力があふれ出していた。
それは熟すことなく甘い、魔性の果実のようである。
少女は今、あどけない顔つきには似合わない鋭い眼差《まなざ》しを、真正面に向けている。
その先には、そそり立つ一枚の壁。彼女のいる空間と、その向こうにある空間とを分ける断絶の障壁。それは高さにして約三メートル、立ち尽くす少女の身長はその半分にも満たない。
「――この先に」
小さな唇で呟《つぶや》きながら、大きな瞳で|その先《ヽヽヽ》を夢見る。
水滴が少女の体を滴《したた》り落ち、眼下に広がる水面に落ちた。ぽちゃん、と柔らかい音を立て波紋が起こり、そこに映っていた景色が歪《ゆが》む。
水面の揺れは銀髪の少女から少し離れた位置にいる、黒髪の少女へとぶつかった。わずかな干渉を肌で感じ取った少女は、傍《かたわ》らに置いてあった銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがわ》を手に取り、慣れた手つきで顔に掛ける。
彼女は頷《うなず》き、同様に呟いた。
「――いるんですね」
清楚な顔立ちの少女。和の趣が強い漆黒《しっこく》の髪は、後ろで結ばれ二つのおさげとなっている。
その風貌は慎みに満ちていたが、体のラインには確かに強調する部分があった。
「――あ、あの……ほ、本気ですの?」
黒髪の少女の背後から、さらに別の声。
白銀、黒と続き、今度は燃えるような赤髪の少女である。
一人目は子供っぽく、二人目は標準的。そしてこの三人目の少女は、上から下まで徹底してスレンダーであった。もっとも、ただ細いというのではなく、全身がほどよく引き締まっているというべきだろう。
芯《しん》の強そうなシャープな顔の造りをしているが、何故か今は戸惑いの表情を浮かべている。
「――あれっ? 怖《お》じ気《け》づいちゃったかな?」
浮かない表情をしている赤髪の少女に、何者かが抱きついた。
この場にいた最後の一人。今までの少女たちとは明らかに違ったモノ≠持っている、茶髪の女性である。白銀の少女をなだらかな平地≠ニ称するなら、彼女はそびえる山嶺=B比較対象としてはあまりにも……むごい。
「大丈夫だよっ。お姉さんが付いてるから!」
このメンバーの中では一番背が高く、大人っぽい彼女であるが、その軽やかな喋《しゃべ》り方はまだまだ若く、むしろ幼さの方が強く出ている。
「だっ、誰が怖じ気づいてるなんて言いましたの!? というか離れなさい! さっきから背中にあ、当たって……」
「お裾分け〜っ」
茶髪の少女がさらに抱きしめる力を増す。必然的にその体は密着の度合いを増し、肉体の触れあう面積を増した。
「っ!? いりませんのっ! そんな重たそうなもの必要ありませんのっ! 欲しくなんか……」
声が尻すぼみになっていく赤髪の少女は、なんとも切なげに視線を自身に走らせた。
――不意に、その場に立ちこめていた煙が晴れてゆく。
そこにあったのは、浴槽だった。いくつもの大きな岩を円状に組み敷いた浴槽に、なみなみと湯が注がれている。先程から辺りを白く染めているのは、お湯からわき出る湯気であった。そして周囲には青々とした自然の垣根が広がっていて、空は何にも覆《おお》われることなくただ澄み渡っている。この場所は、気持ちの良い開放感に満ちあふれていた。
「柔らかくて気持ち良さそうね♪」
この中で一番幼い外見をしているが実は母親である白銀の少女、白姫此方《しらひめこなた》が言った。
「すご〜い……マシュマロみたい」
誰からも委員長と呼ばれる黒髪おさげの少女は、のほほん、と微笑《ほほえ》む。
「ちょっとお二人ともっ!? そんな呑気《のんき》に見学してないで助けて欲しいですのっ!」
赤髪とですの≠ニいう語尾が特徴的な樋野留真《ひのるま》は、両手をわたわたとさせていた。
「んふふっ。とくと味わってくれていいんだよ〜っ?」
暴れる留真を後ろから抱き締めているのは、明るい茶髪を持つ女性、幾瀬依《いくせより》。
――現在、この露天温泉≠ノは。
銀、黒、赤、茶、それぞれ個性的な色彩を持つ少女たちが集まっていた。
そして四人は今、一枚の壁を前にして話し合っている最中だった。
「そ、それで……本当に、やるんですの?」
抱き締め魔と化した依を必死に押しのけながら、留真はもう一度聞いた。のぼせているわけでもないのにその頬《ほお》は何故か赤らんでいる。
その問いかけに、此方は限りなく薄い胸を張って答えた。
「もちろんよ。だってここは温泉だもの、|アレ《ヽヽ》をしないでどうするのっ! ……ね? いいんちょちゃん♪」
「はい、異論なしです。……|アレ《ヽヽ》は今の私たちにかかせません」
委員長はきっちりとした返事をして、曇った眼鏡のレンズを人差し指で拭《ぬぐ》う。
「うんうんっ、|アレ《ヽヽ》こそ温泉の醍醐味《だいごみ》だよねっ!」
依も一緒になって頷いている。しかし留真だけはそれに抵抗を感じているようで、
「それでもやはりその、いくらなんでも……」
躊躇《ためら》いながらも、その|アレ《ヽヽ》を口にした。
「覗《のぞ》き≠ヘ……まずいと思いますの」
――カコォンッ。
どこからともなく、木|桶《おけ》の音色が鳴り響く。
ある冬の朝、白姫家の居間に家族が揃《そろ》っていた。
ボク、彼方《かなた》とその母、此方。そして猫のモエルである。
キッチンと隣接しているこの居間には、三人掛けの幅広いソファと、大きめのテレビが置いてある。だらりとくつろぐには打って付けの部屋だ。
そんな快適な室内でボク、白姫彼方は――、
「ん〜そこそこ♪」
「母様、動かないでください。危ないですよ」
――母の、耳掃除をしていた。
「かなちゃんのひざまくらふかふか〜♪」
「頬ずりなんてもっとダメですっ!」
――現在、仲良くソファに身を任せているボクと母は、見た目がそっくりだ。
それこそ、鏡合わせのように。
違いといえば、まず髪の毛。白銀という特殊な色は同じだが、ボクは腰に届くくらいのストレート。母は肩を越えるくらいのウェーブヘア。
そして、もっと決定的な違いは性別だ。
母である白姫此方は当然、女性。
しかし母にそっくりなボクは――男の子だったりする。
丸みを帯びた顔に、くりくりの瞳。肌は乳白色で、手入れなんてしなくてもツルツルだ。全体的に華奢《きゃしゃ》で、背もあんまり伸びなくて、通っている大枝中学では女子にすら負けていたりするけれど。
ボクは歴《れっき》としたオトコノコ、なのだ。
(でも、ついこないだまで|あんな《ヽヽヽ》状態だったから……妙に意識しちゃうな)
自分の体を見ながら、いつもと変わりないことを確認する。
現在の時刻は九時。普段より少し遅めの朝食を食べ終え、のんびりしているところだ。休日ならではのゆったりした時間の使い方、というやつである。
(学校がない朝って、なんだかくすぐったい気分になるんだよね……)
膨らんだお腹をさすりながら考えていると、隣から唸《うな》るような声が聞こえてきた。
「う〜ん、かなたんが膨らんだお腹をさする……なんだろう、この背徳感……」
喋《しゃベ》る猫がいつものように呼吸を荒くして、何か言っているようだ。……まあどうでもいい。
「ちょっ!? 今なんかおいらをすごいぞんざいに扱わなかった!?」
「……そういうの、どうやってわかるの?」
耳をピンと立て、明朗快活な声でモエルが言い放つ、
「目を見れば分かるさっ。おいらはずっとかなたんの傍《そば》にいたんだからねっ!」
モエル。月明かりに似た金色の毛並みが美しいが、中身は非常に俗めいた猫≠ナある。
ある日を境に人の言葉が話せると判明した、とにかく非常識な存在だ。しかし今となってはその非常識はごく|当たり前《ヽヽヽヽ》になっている。
(……というか、最近非常識なことが多すぎてもう、どうにでもなれって感じなんだよね……)
ルビー色をしたモエルの瞳を見つめながら、ボクは思う。
「? なになに、ボクをどうにでもして?≠サれはまだちょっと早いと思うんだ。フラグ的に考えて」
「ッ、全然伝わってないじゃないか!」
ぼふんっ!
横に置いてあったクッションを押し付けると、モエルは「もぎゅっ」という奇怪な声をあげてソファに埋まってしまった。
――ボクは妄想猫の始末を終えると、真下に視線を移す。
人の太ももの上で優しげな旋律の曲をハミングしている、幼い少女。
人|懐《なつ》こく、楽しいことが大好きな、明るい笑顔の絶えない人。それがボクの母親。一緒にいるだけで心が弾む、そんな魅力を秘めた人である。
しかしこの人には一つ、致命的な問題が――。
「――そうだわっ♪」
ぎくり。
いきなり膝《ひざ》元から上がった軽挟な声に、ボクは背筋を震わせた、
「ねーねーかなちゃんっ、いいこと思いついたの♪」
「うわ危ないっ! いきなり起き上がらないでくださいよ!?」
母は突然頭を上げたかと思うと、ソファに座ったまま身を沈め、反動を付けて体ごと跳び上がった。小柄な体は軽々と宙に飛び、隣に座っていたボクの方へと落下する。
ぽふんっ。
「!? わっ、と。いきなりなんですか母様っ!」
ひざまくらからお姫様抱っこへ。ボクの腕の中に収まった我が母は、こちらの首に両腕を回して、お姫様のようにしなだれかかってくる。
「うふふ♪」
(この笑顔……このパターンは……!)
ボクが顔を引きつらせるのと対照的に、母はにぱ、とオープンスマイル。そしてハニーシロップのように甘い声で、あっけらかんと言い放つ。
「温泉に行きましょうっ♪」
――これがボクの母親。
人懐こく、楽しいことが大好きな、明るい笑顔の絶えない人。
それに加えて思い付きをノーウェイトで実行に移す行動力を持ち、傍にいる人間を問答無用で巻き込む爆発力を持ち、しかもそれを断らせないという強制力まで持ち合わせている。
「かなちゃん、確か連休よね? なら一泊くらいできそうね。旅館は今からお願いしたら大丈夫だし……あそこならモエルちゃんもおーけーだし。うん、な〜んにも問題はないわ♪」
ボクはどんな答えが返ってくるのか分かっていながらも、一応聞いてみる。
「……どうしていきなり温泉なんです?」
その質問に、母は見事なまでに即答した。
「だって入りたいじゃないっ♪」
――これである。
白姫此方は理屈で動くのではなく、衝動で動くのだ。
「ほら、近頃いろいろ大変だったでしょ? だから慰安も兼ねて、ね?」
小首を傾《かし》げて甘えるようにこちらを見つめる母は、ボクの扱い方を熟知しているとでも言わんばかりだ。……実際、断れなかったりするのだけれど。
「はあ……ボクが大変だったのはほとんど母様のおかげなんですけどね?」
それでも撫然《ぶぜん》とした顔を作り、なんとか言い返すことができた。が、しかし。
「細かいことは気にしないの♪」
光り輝く満面の笑顔で、そう返されてしまう。そのあまりに簡単な答えに、ボクはつい声を荒げてしまった。
「魔法少女《ヽヽヽヽ》のどこが細かいことですかっ!」
何度口にしても、その単語が持つ浮いた響きに頭を抱えそうになる。
――そうなのだ。
冗談でも何でもなく、ボクは本当に魔法少女などというメルヘンチックな役割を|やらされて《ヽヽヽヽヽ》いるのである。
この世界には、人の様々な想いから生まれてくる異形《いぎょう》の怪物ノイズ≠ェ存在している。そいつらに対抗するための存在、それこそが調律師、チューナー≠ニ呼ばれる者たちだ。
それぞれの心の形を映し出すオリジンキーと呼ばれる武器を召喚し、華やかな衣装を身に纏《まと》い、日常の裏で戦う者たち。テレビアニメなどでやっているような正義の味方が、本当にいるのである。
――ちなみに男であるボクがこんな根底から矛盾したことをやらされているのには、深い理由がある。
「元はといえば、母様とモエルが無理やり契約《ヽヽ》なんて結ばせるからでしょ」
契約。ボクが魔法少女をやる、という内容のもので、もしも拒否したり、契約書を破り捨てたりすると……性別が変えられてしまう。それを盾に取り、この一人と一匹はボクに魔法少女を強制したのだ。
「あのふざけた契約書のせいでっ、あんな恥ずかしい、お、女の子の格好とかして……命懸けで戦わなくちゃいけなくなったんじゃないですか……っ」
「えーっ、かなたんまだ慣れてなかったの? あんなに愛くるしいのに〜。かなたんの清純な肢体を包み込む純白のワイシャツ。風が吹けば心も躍《おど》る絶妙たる長さのミニスカート。小動物っぽさを感じさせる頭のリボン。女の子らしい桜色のネクタイ。
何より! ――下半身をぴっちり包み込む黒スパッツが素晴らしいッ! 柔らかい太股《ふともも》と黒い生地の生み出す理想郷! 明と暗の艶《なま》めかしいコントラスト! 肌と生地の境目には果てしない夢が詰まっているとおいらは主張すぎゅむっ!?」
いきなり復活して熱く語り始めたモエルに、再びクッションを叩《たた》きつけて黙らせる。
母はボクとモエルのやりとりを見て優しく微笑むと、声の勢いを少しだけ緩め、諭《さと》すように言ってきた。
「……でも、かなちゃん。魔法少女になって良かったこともあったでしょ?」
「!」
ボクは言葉に詰まり、母の穏やかな視線を真正面から受け止めてしまった。その眼にさらされるだけで、自分のすべてが見透かされてしまうのではないかと思う。
(う〜、こんなときだけ母親≠フ顔するなんてずるいです、母様っ)
「……そ、そりゃ確かに、この力のおかげで友達を助けたりできましたけど……うぅ」
まだいろいろと割り切れていないボクに対し、母は。
「うん。かなちゃん、えらいえらい♪」
と言いながら、頭を撫《な》でてくる。
優しい温《ぬく》もりを持った手のひらが、頭だけじゃなく――心にまで、触れてくる。そんな気がした。
(……あぁ、もう。この人には絶対に勝てないんだ、ボクは……)
小さな小さな母の手は、悔しいけれどやっぱり、心地良かった。
「――それじゃ、行きましょうか♪」
時間にしてわずか二十分。旅館に電話で連絡し、タオルや着がえといった簡単な荷物をまとめ、出かける準備が完了した。
相変わらず母の手荷物は少なく、ボストンバッグ一つというお手軽さ。それに倣《なら》ってボクも荷物は最低限に済ませてはいるが……それでも、リュックがいっぱいになってしまった。
「かなたん、ちょっと苦しいかも」
開け口から金色の猫が顔を出す。
「自分から入りたいって入ったんでしょ? わがまま言わないの」
「だって……かなたんの着がえに包まれたかっただもん――ってちょっと待ってかなたん! 閉めないで! リュックの口を今閉じたら、おいら首が絞まって――」
どうしてロクでもないことしか考えないのかこの猫は。
「……いいなぁ、か〜さまも包まれたい……」
人差し指を咥《くわ》える母。
「母様……本気で羨《うらや》ましそうな顔しないでください……」
出発前からこんなテンションで大丈夫なのだろうか、と頭を悩ませるボクに、母はさらに不可解なことを言ってきた。
「それじゃ、まずは隣町から行きましょうか♪」
「え?」
(隣町に温泉なんてあったっけ? というかまずは、って何?)
嫌な予感を感じるボクに、やっぱり母は、にぱ、と笑って言ってのけた。
「それじゃ――魔法少女慰安旅行=A出発よ♪」
――どうやら今回の思い付きは、ボク以外の人々も巻き込まれるようである。
樋野留真の場合。
「え? 温泉? どういうことですの? は?」
「さぁさ、行きましょ♪」
「此方さんっ? どういうことですの? その手の中にあるロープは何ですの?」
「気にしない気にしない♪」
「彼方さんっ、なぜ首を横に振るんですの?」
「ごめん。留真ちゃん……」
「モエルさんっ、これは一体!?」
「諦《あきら》めなよ。るま子……」
「どういうことなんですの!? 私は今から山菜を摘みにっ、ちょっ、なんで私はロープで縛られてるんですのーっ!?」
幾瀬依の場合。
「温泉っ!? もちろん行くよぉっ!」
「あの……依さん、いきなりな話のはずなんですけど、お仕事とかは……?」
「だいじょぶっ! なんとかするっ! 温泉なんて素敵なイベントに参加しないなんて、一生を無駄にするのと同じことだよっ!」
「なんだかものすごいやる気ですね……?」
「ほんと、彼方ちゃんに誘われてよかったよ……っ」
「? なんかオーバー過ぎませんか……?」
「かなたん。察してあげなよ」
「え? どういうこと?」
「……本当に……年齢差で弾《はじ》き出されなくて……よかった……」
委員長の場合。
「温泉……うん。行きたいな」
「よかった。いきなりだったから断られるかと思ってました」
「ううん。嬉《うれ》しいな。憧《あこが》れてたんだ、温泉」
「もしかして、初めてですか?」
「子供の頃から、あまり出かけたりしなかったからね」
「……。じゃあ楽しみましょう、思いっきり!」
「うんっ。……………………お風呂上がりの肌って、やっぱり柔らかいのかな」
「え? 何か今、小声ですごく不穏なこと言いませんでした?」
「ん? 何も言ってないよ?」
「なら、いいんですけど……」
「……ふふっ」
――と、いうわけで。
それから二時間ほどして――ボクたちは目的の旅館山豊庵《さんぽうあん》≠ヨと到着した。
「わっ、すっごーい!」
仲居さんたちに案内され、客室に入った瞬間、感激を声にして表す依お姉さん。
「……!」
入った瞬間に感じる畳の懐かしい匂《にお》い。誘われるように室内を見渡すと、部屋を仕切るための障子に襖《ふすま》、小難しい絵の描かれた掛け軸、触れるだけ割れそうな繊細な模様の壷《つぼ》など、とにかくそこには、絵に描いたような和室が広がっていた。
広さは約十五畳、縁側まで設置されていて、外には石敷きの庭園までもがある。四人と一匹で使うには勿体《もったい》ないくらい豪華な部屋だ。
「確かに綺麗《きれい》なところですね……母様の知ってる老舗《しにせ》旅館だなんていうから、どんな人外魔境かと思ってましたけど……想像してた以上に普通です」
「うふふ♪ かなちゃんが母様をどんな目で見てるのか、よく分かったわ……」
ぞくぞくっ。
寒気が、かつてないレベルで身の危険を教えてくれた。
「それにしても随分、山奥にまで来ちゃったね?」
委員長が外の景色を眺めながら、眼鏡の奥にある瞳をきょろきょろと動かす。
……確かに、客室から見える風景はほとんどが緑に包まれていて、見渡せども大自然が広がるばかりだ。山豊庵という名前にも頷ける。ボクが住んでいる大枝町も緑が多い方ではあるが、さすがにこことは比べものにならない。
よくある言葉で表すなら――秘境。
大自然の中にひっそりと佇《たたず》む、隠された憩いの地。そんな印象である。
「んしょ、と。……こんなとこに旅館なんて建てて人が来るのかな?」
リュックの中から出てきたモエルが、凝《こ》った体を慣らしつつ微妙に失礼なことを言った。その言葉に母が、自信たっぷりに解説をする。
「それについては大丈夫よ。ここの温泉は限られた人にのみ伝わる秘湯中の秘湯なの。何もしなくたって、求める人は次々とやってくるわ♪」
「? 母様も何か求めてやってきたんですか?」
――ピシ。
そのとき、何故か空気が凍りついた。
「え? ……え?」
母はにこやかに笑っているのだが、その心が霧に包まれてしまったかのように見通せない。
(なんか、空気が重く……?)
依お姉さん、委員長、モエルもこの雰囲気に圧倒され、息を呑む。
「…………」
無言の母は頑《かたく》なに口をつぐみ、言葉を発しようとしない。いつも明るく饒舌《じょうぜつ》な母だからこそ、そうなったときの恐怖は計り知れない。
(一体、何が……!?)
重苦しい空気に押し潰《つぶ》されそうになった、そのとき。
「――あの」
小さな声が、場の雰囲気を打ち砕いてくれた。ボクが声のした方を見ると、そこにはこれまで一言たりとも声を放たなかった少女の姿があった。
焔《ほのお》のごとき赤髪を持つ――、
「そろそろ……ほどいて欲しいですの……」
――ロープで縛られたままの、留真ちゃんの姿が。
「本っっっ当にひどい目に遭《あ》いましたの!」
「る、留真ちゃん、落ち着いて……」
「これが落ち着いていられますか!」
なんだか高そうな木でできたテーブルをベシベシと叩く留真ちゃん。それを横からなだめようとしている依お姉さん。その周りに委員長、ボク、母と、並んで座っている。
旅館に到着したばかりだというのに、ゆっくりする暇もなく一行は大|賑《にぎ》わい(?)である。
「電車に乗せられた時点でほどいてもらえるのかと思いきや、到着までそのままってどういうことですの!? 私なんか最近縛られてばっかりな気がしますのっ!」
「……かなたんにお菓子アーンってしてもらえて嬉しそうだったくせに」
ぼそ、とモエルが呟いた。
(? さっき電車の中で、依さんが持ってきたお菓子を食べさせてあげたときのことかな……?)
「なっ!? そそっ、そんなことないですの! あれは動けなかったから仕方なく!」
怒りから一転、狼狽《うろた》える留真ちゃん。それをチャンスと見るや、モエルは邪悪な笑みを浮かべさらなる追撃を仕掛けた、
「ふう〜ん。どさくさに紛れてかなたんの指まで咥えてたあれも……仕方がなかったんだね」
「!?」
「留真ちゃん……私が見てない隙《すき》にそんなことしてたんだ……?」
一つトーンの下がった依お姉さんの声。
「ごっ、誤解ですの! 私がそんなことを……するわけがございませんの!」
必死に否定しているが、顔に浮かぶ動揺は隠せない。
「ですの娘、随分と汗をかいているようだね。でもまだ温泉に行かせるわけにはいかないな」
脅迫のプロであるモエルが美味《おい》しいネタを見逃すはずはない。爛々《らんらん》とした光を宿すルビーアイは怪しく輝き、完全な脅迫モードへと移行している。
「さぁ答えてもらおうか被告人? 君の食べた甘いお菓子≠ヘ美味しかったのかをッ!」
右手の人差し指をビシイッ、と留真ちゃんに突きつけ、金色の猫が吠《ほ》えた。
(……モエル、なんかストレス溜《た》まってたのかな……)
客室備え付けのお茶を飲みながら傍観していると、思いがけない声がそこに割り込んできた。
「――耳たぶは甘いミルクの味がするんだよね、白姫君って」
「ぶっ!? ……けほっ、けほっ!」
ボクは突然飛び出した言葉に思わず吹き出してしまった。
『!』
留真ちゃん、依お姉さん、モエルの動きが同時に停止する。
ふわふわとした声で、その台詞《せりふ》を放った人物は――。
「舌触りもクリームみたいになめらかなんだよ。ね、白姫君?」
――悪戯《いたずら》っ子のように、微笑んでいた。
「い、いいんちょつ!?」
突然なんてことを言い出すんだこの人は、と思った瞬間……ボクは思い出した。
(そうだ、いいんちょはそういう人だった……! いつだって肝心なときに事態を引っかき回そうとする、小悪魔というか、悪戯っ子というか……!)
「――あら、唇はプリンみたいに柔らかいのよ?」
『!!!』
二人と一匹に雷が落ちたかのような衝撃が走る。
子猫の鳴き声を思わせる純真|無垢《むく》な声。それを放った人物は――。
「味は……そうね。さくらんぼ、ってところかしら。とびっきりあまずっぱいの♪」
――脳天気に、笑っていた。
「母様っ! 何てことを!?」
もはや言うまでもなく、この母はトラブルをこよなく愛する。
白姫此方と委員長。ことごとく火に油を注いでくれた二人組は、お互いに顔を見合わせ、
にこ。
にぱ。
それぞれ穏やかに、華やかに、笑顔を作り。
「これからよろしくおねがいします」
「こちらこそ。いいお友達ができて嬉しいわ」
そう言い合い、強く握手を交わす。
――最凶コンビ、結成の瞬間であった。
それから時は過ぎ。
旅館の室内で、自分を噛《か》もうとしてくる輩から逃げ回る、という貴重な体験をしていたボクは、無駄に汗を掻《か》いてしまっていた。
「ま、待てぇ……かなたん……」
「おとなしく捕まるですの……っ!」
「私たちも彼方ちゃんを食べたい!」
邪《よこしま》な想いを胸にボクを狙ってくる二人と一匹。
事態をここまで悪化させてくれた天然ダイナマイト二名は、客室備え付けのお茶を煎れて優雅な時間を過ごしている。時々聞こえてくる「にが♪」だの「煎餅《せんべい》美味し〜」だのといった緊張感のまるでない声が、ボクの心をひどくざわつかせる。
「いっ、いい加減諦めてくださいよ! 甘いとか柔らかいとかあの二人が勝手に言ってるだけで、そんなことあるわけないでしょう!? ……留真ちゃんなら、分かってくれますよね?」
この中では留真ちゃんが一番の良識人のはず。ボクはそう思って、留真ちゃんに語りかけた。
すると彼女は不自然に俯《うつむ》き、
「……味や感触を確かめたいわけじゃないですの」
抑えめな声で、そう呟いた。
「なっ、じゃあどうして追ってくるんです!?」
一定の距離を保ちながら、彼女に問いかける。
「…………」
答えは、なかった。
その代わりに、
「絶《た》えなく廻《まわ》れ、金華《きんか》の焔《ほのお》=v
意味|在《あ》る言葉が、その想《おも》いを代弁した。
魔力の炎が燃え盛る。その熱に抱かれた彼女は、赤き世界の中で変容を遂げる。
荒々しくも気品を放つ、灼熱《しヤくねつ》のドレス、
紐《ひも》で吊され胸元に光る、金色のコイン。
金貨のオリジンキーウィズ・インタレスト≠操るチューナー、
――グレイス・チャペル。
「変身……! そこまで本気で!?」
依お姉さんとモエルが「行け、捕まえるんだグレ子!」「彼方ちゃんをかぷかぷとっ!」などと、好き勝手にはやし立てている。
それに乗せられるようにグレちゃんは動いた。
「覚悟するですの!」
タンッ。
その動きはまさに疾風。変身することによって強化された脚力で、グレちゃんはこちらに追ってきた。
「くっ!」
魔法少女と普通の人間では根本的なスペックが違う。グレちゃんの動きは、とてもではないが生身で対応できる速さではなかった。
(! 逃げ切れない……っ!)
ボクがそう悟った瞬間。
「――はたっ!?」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげ、グレちゃんは何もないところで蹟《つまず》いた。そのときのボクと彼女の距離はほとんど接触寸前で、そうなると当然、
「うわわっ!?」
ボクも、その転倒に巻き込まれてしまう。
客室が、大きく揺れた。
「はたたっ、ですの……!」
――グレイス・チャペルは閉じていた目を開く。
「!?」
無様《ぶざま》に転《こ》けることを免れなんとか両手で体を支えることができた彼女は、自分の真下にある顔を見た瞬間、自分の心臓が燃え上がるのを感じた。
「ぐ、グレちゃん……?」
至近距離にある繊細な唇から、戸惑いの声が漏れる。
(かっ、彼方さん……!? この、体勢は……!)
グレイスは、自分の置かれている状況にようやく気がつく。
転けた拍子に彼方を巻き込み、そのまま畳の上に倒れてしまったのだ。つまり、完全に|彼女が押し倒した《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》形になっている。そしてこの構図は、彼女にとって二度目の経験となるものだった。前回は、彼方が完全に眠っていたが。
「あ、えぇと、これは、その……」
自分の体の下に、腕と腕の間に、自分よりも小柄で華奢な体がある。
……結局のところ、グレイス本人は|それ《ヽヽ》がどういう感情なのか分かっていなかった。
彼方のクラスメイトだというあの黒髪の少女は、自分の知らない彼方を知っているのだろう。
彼方の母親というあの人もまた、同様に。しかも、この人に至っては彼方と唇を重ねる瞬間を実際に見ている。……例えそれが、魔力を分け与えるという名目であったとしても。
とにかくグレイスは、その二人の言葉を聞き、心の中で何か――そう、永遠に続く焦りのような、消しきれない複雑な想いがくすぶっているのを感じていた。
「…………」
「…………」
長い沈黙。実際は一瞬だったかもしれないが、高鳴る鼓動は幾度となく感じていた。
この静寂を先に破ったのは、白銀の少年であった。
「……捕まっちゃいましたね」
鬼ごっこに負けてしまった、というくらいの軽い口調。そして続けて言う。
「グレちゃん……しかたがないですね……もう」
優しく、くすりと微笑む。
「! あっ、ぅ……え……?」
グレイスの口から出る声は、ほとんど言葉になっていない。
この状況でそんな風に言われるなど、夢にも思っていなかった。いや、そもそもこんなシチュエーションになること自体が、想像の範疇《はんちゅう》外である。
でもこの必要以上にかわいらしい少年は、次々と彼女の予想を超えてゆく。
「いいですよ……グレちゃん、こんなことで満足できるなら。……どうぞ」
「ッッッ!?」
白姫彼方は、上に着ていたシャツのボタンを一つ外し、自分から首筋を露出させる。
絹のように白い肌が現れ出た瞬間、グレイスの視線はそこに釘付《くぎづ》けになった。
肩から首筋へのしなやかなライン。それはまるで女性のような丸みを帯び、このアンバランスな少年の矛盾した魅力を象徴している。そして、しばらく走り回っていたため、うっすらと汗ばんでいるようだ。熱を溜《た》めてほのかに赤くなった肌が、艶めかしく光を反射している。
彼方の顔を見ると、どれだけ恥ずかしさを堪《こら》えているかが分かる。視線を逸《そ》らし、唇を浅く噛み、頬を真っ赤に染めるその仕草は、もはや凶器にも等しい。
(これは、なんというか、まずい、ですの……)
思考がブツ切りになっているのが自覚できる。ノイズと戦闘するときには、類《たぐ》い希《まれ》なる判断力を持って冷静な思考を展開するグレイスだったが、この目の前の強敵はそれを許してはくれない。
(こんなパターンは前にもあった気がしますの。ダメですの抑えるんですの私はグレイス・チャペルですの。決して取り乱さず、心を落ち着けて、正しい判断を――)
「……あ……、でも」
自制心を奮い立たせる紅の魔法少女を、小さな声が撃った。
「あんまり痛くしちゃ……ヤです……よ?」
はにかんだ声、潤んだ瞳、軽く握られた手の平。
その衝撃の大きさたるや、建物解体用に使われる大型鉄球を心に直接ぶち込まれたかのような、圧倒的かつ破滅的な威力を秘めていた。
[#挿絵(img/ノムE-1011-040.jpg)]
――ぶつん。
「いっ、いただきますですのっっっ!」
理性という一線は儚《はかな》くも砕け散った。猛《たけ》る炎の如く、グレイスは襲いかかる。
そのときの彼女に冷静な思考などなかった。けれど何故か、間違ってもいいと思えた。いつだって一生懸命、子供の頃から一人で生き抜く術を模索してきた彼女に、初めて湧き上がるとめどない衝動。
(あとは野となり山となるのみっ……!)
だが。
(……?)
心の片隅に、引っかかることも感じていた。
――なぜ、誰も止めようとしないのか。
この唇が、首筋に触れるまでのわずか一秒にも満たない時間。グレイスがその刹那《せつな》に、視線を動かすことができたのは奇跡であった。
視界に映ったのは、身を乗り出し、ワクワクとした目でこちらを見ている幾瀬依。びっくりしたような顔で手を口元に当てている委員長。殺意を持った目でこちらを睨《にら》みながら、飛び出さないよう依に捕まえられているモエル。
そして。
ジィィィィィィィィィィィィィィ。
魔法少女の研ぎ澄まされた聴覚で感じ取る、機械の駆動音。
その音の発生場所となっているのは、白姫此方の右手に構えられた――ビデオカメラ。
「!?」
グレイスは自らの置かれている状況に気づいた瞬間、その身を強引に方向転換させた。その際に力の加減など一切しなかった彼女は、予想以上に思いきり吹っ飛び、
「はたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
そのまま部屋の反対側にまで、ごろごろと転がっていってしまった。
「あら、残念……」
決定的瞬間を取り逃した此方は、
「せっかくいい絵だったのに♪」
と言って、残念そうに微笑むのであった。
――夕陽が、茂る木々の中へと沈んでゆく。
「ふぃ〜」
無意識に声が漏れる。肌を包み込むのは熱めのお湯。肩まで浸《つ》かると体内の疲労を直接洗い流してくれるみたいだ。
「あのさ、かなたん」
空はもう闇の方が濃い。けれど限りなく自然の光に近い電灯が、辺りをぼんやりと照らしている。温泉から立ち上る湯気がその光を浴びて、幻想的な光景を作り出す。
「ふゃ〜」
ここは楽園だろうか。
「かなたんったら」
「ふにゃ〜」
……気持ちが良すぎる。何も考えられなくなるくらいに。
「かなたんがとろけちゃった……」
「温泉っていいねぇモエル〜」
ボクは他のお客さんが一人もいない温泉に浸かり、満ち足りた気分を味わっている。
「そんなにうっとりするほど気持ちいい?」
「うん〜、すっごくきもちい〜」
「……色っぽいよかなたん」
ボクの傍にはモエルだけ。あとの全員は当たり前だけど女湯に入っている。実はモエルも向こうに入りたがっていたのだが、それはそれで少し寂しいので、無理を言ってこっちに来てもらっている。
「モエルはどう? 木|桶《おけ》じゃやっぱり、気持ちよくないかな……?」
木桶に注いだ温泉に浸かる、金色の猫。普通に入ると足が届かないためそうしているのだが、なんとも哀愁漂う姿である。
「……うんにゃ。十分気持ちいいよ」
「そっか、良かった。……それにしても、今日は何もかもいきなりで大変だったよね」
「うん。ほんと、こなたんは相変わらずだね。強引で、自分勝手で。……まあ、おいらはそのおかげでここにいるんだけどね」
言葉の節々から、母に対する想いが見え隠れしている。
好意、信頼、それに……感謝、だろうか。
「……そういえば、モエルを拾ったのは母様なんだよね」
「うん。こなたんがあのとき、おいらを見つけてくれなかったら……こんな風に、君と一緒にいることはできなかった」
モエルは首を上げて、暗く染まっていく空を眺めている。
「こんな風に騒いで、こんな風に笑って、こんな風に……満たされた気持ちにはなれなかったよ」
落ちゆく夕陽にでも語りかけるかのように、モエルは呟いた。
「幸せだよ、おいらはとても――……」
その儚い双眸《そうぼう》を見たとき、何故かボクは――遠い≠ニ感じた。
時折見せる、物悲しそうな顔。小柄な猫の体に秘められた想い。ボクはまだ、それに触れることさえできていない。
こんなにも近くに、手の届く場所にいるモエルが、果てしなく遠く、それこそ触れることさえもできない場所に行ってしまったかのような。
そんな錯覚を、感じた。
だから。
ひょい――ばしゃぁんっ。
小柄な体を掴《つか》み上げ、一気にお湯の中に浸けてみた。
「!? ぬぁっ、何するのさかなたん!?」
危うく溺《おぼ》れそうになるモエルの体を両手で支え、ボクは言う。
「勝手に幸せだなんて言って、終わらせないでよ」
「……え?」
淡い輝きを放つルビー色の瞳を見つめ、
「|まだ《ヽヽ》だよ。こんなの、幸せでもなんでもない」
自分の瞳の中に、大切な家族の顔を映し、
「――もっと騒いで、笑って、満たされるんだ。今が物足りなくなるくらい、もっともっと幸せになり続けるんだ」
伝える。
「かな、たん……?」
「ほら。こうすれば――」
ボクは、その体を優しく抱き締める。
――こんなに、近いじゃないか。
言葉には出さずに、ボクは想いを胸の中に秘める。
脈打つ鼓動を重ねるように、ボクはモエルを抱き締め続ける。
「…………」
腕の中にいるモエルは、抵抗も何もせず、ただ一言だけ「……うん」と、呟くだけだった。
いつの間にか静寂に満ちていた空には、丸い月がぽっかりと浮かび、温かな光を地上にふりまいていた。金色の光が水面に映り込み、まるで月がボクたちを抱き締めているように見える。
「ほら、見てごらんモエル。こうやって上を見上げるとさ、目の前が空でいっぱいになるんだ」
浴槽の中心に移動して、空を見上げる。
空気が綺麗だからだろうか。今宵《こよい》の月はとても近くに見える。
「ほんと、だね……」
ボクとモエルはその情景に魅入られ、空をただ見つめ続けた。
「……まるで空が落ちてくるみたいだ」
どちらからともなく、そんな呟きが漏れる。
それ以上の言葉は出てこなかった。でも、お互いにずっと黙っていても、考えていることが何となく分かる。
(……暖かい)
体だけではなく、心も。
モエルもきっと同じように感じているだろう。
(いろいろあったけど、来てよかったな――)
――ペキン。
そのときボクは、穏やかな時間がひび割れる音を聞いた。
時は少々さかのぼり、女湯にて。
「覗き≠ヘ……まずいと思いますの」
留真はそう言った後、ざぶん、と湯船に浸かる。
「留真ちゃん、興味ないの? ……向こうには彼方ちゃんがいるんだよ?」
頑なに拒否する留真の隣に、依が座った。
「きょっ、興味があるない以前に! 覗きは犯罪ですの! そもそも、男湯に他のお客さんが入っていたらどうするつもりですの!?」
「大丈夫よ。ちゃんと|根回し《ヽヽヽ》してあるわ♪」
仁王立ちのまま此方は頼もしい口調でそう宣言した。その根回しがどんな内容を意味するのか、他の人間に知る術《すべ》はない。ただ、
(此方さんが言うのなら……まず間違いないですの)
出会ってまだ数回しか会ったことはないが、彼方そっくりなこの少女(?)には得体の知れない力を感じる。
留真は、バスタオルも何も巻いていない、ちんまりあどけない乳白色の体を前にして思う。
(というか、此方さんはオープンすぎますの……でも少し、親しみも……感じますの)
そんなことを考えながら自分の胸元を見下ろしてみたりする留真である。
「……っ、とにかく! 覗きはいけないことですの! 委員長さんもそう思いますよね?」
三対一では分が悪いと見た留真は、すかさずこの中で最も理性がありそうな少女を自分側に引き入れようとした。
いきなり話を振られた黒髪の少女は、一切動じず、静かな声を放つ。
「私……今までずっと、自分を偽って生きてきたから」
視線を空へ向け、過去を振り返りながら。
「……だからこれからは、もっと自分に正直に生きようと思うの」
少女の顔に浮かぶ、柔らかい、雲のようにふわふわとした微笑。
「委員長さん――…」
実の母親の願いを叶《かな》えるために、自分自身を偽り続けてきた少女。その言葉には、確たる決意と、重みがある。
雰囲気に呑まれつつあった留真は、途中であることに気がついた。
「――って、つまりは覗くってことですの!?」
思わず立ち上がり、叫んでしまう。
「ふふっ。白姫君の恥ずかしがるところ見たいなって」
「自分に正直になり過ぎですの! ……もっと慎みのある方かと思ってましたのに……」
どうやらこの場に留真の味方はいないらしい。
(このままでは、この人たちは彼方さんのは、裸を……!)
なぜかは分からないが、胸の奥に炎が灯《とも》る。
(そんなこと……させるわけにはいかないですのっ!)
炎はやがて、彼女の全身にその猛《たけだけ》々しき力を分け与えた。
(ならば!)
留真は体にバスタオルを巻く。そして湯船から出て、男湯との一線である、竹垣の前に立つ。
「どうしても覗くというのなら……私を倒して行くですのっ!」
いかなる時も、樋野留真を駆り立てるものはただ一つ。
それは――灼熱の如き意地。
「留真、ちゃん……」
不安げに自分を見つめてくる依に、留真は決然と声を放つ。
「……幾瀬さん。前に言ったはずですの。私は一人でも戦うと!」
その覚悟の瞳を身に受けた依は、ごくりと喉《のど》を鳴らし、呟いた。
「留真ちゃん、さっきその辺りに石鹸《せっけん》が落ちてたと思うんだけど……」
「は?」
その言葉を聞いた瞬間、彼女はあろうことか足を一歩、後ろに下げてしまった。そしてそこには依の言う通り、誰かが忘れていったと思しき石鹸が落ちてあった。
――つるん。
「は、た……っ!?」
留真の視界がぶれる。
(またっ!? ……いえ、そうですの、私は今ちょうど壁を背にしていたはず)
留真は転倒する勢いに身を任せる。
(このまま壁に寄り掛かれば……!)
彼女の目論見《もくろみ》通り、壁の感触はすぐに体に伝わってきた。
「一日に二度も転けてなるものですのっ――!」
二度目の醜態をさらすことは免れそうだ。樋野留真が安心して体重を預けたまさにそのとき。
ペキペキ、ペキンッ!
そんな音が、この露天温泉に響き渡る。
そのとき起こった出来事は、状況、タイミング、その日の運に至るまで――。
――あらゆる要素が重なり合って起きた奇跡であった。
(? 何の音だろ……)
ボクは落ちてきそうな空を見上げたまま、不自然なその音に耳を傾けた。
この音を例えるなら、竹で造られている壁に何かがぶつかり、それが偶然にも脆《もろ》くなっている部分だったりして、まるで薄氷を踏み砕くかのように連鎖的に崩壊が進んでいったかのような……そんな感じの音。
(まあ、そんな奇跡みたいなことが起きるわけないんだけど……ね?)
ふとボクは、視線を横に向けた。
「――……?」
そこには人の姿があった。
なぜか崩れている竹垣の中で、仰向《あおむ》けになって倒れている少女の姿。どこかで見たことのある赤髪の少女は、倒れたままの体勢から頭を上に向け、さっきまでのボクと同じように空を見上げるようにして――こちらを見ていた。
「えっと、留真……ちゃん?」
ボクはその人の名を呼ぶ。幻か何かじゃないかと思いながら。
彼女もまた、ボクを幻か何かのように見つめながら声を放つ。
「ご、ご機嫌よう……ですの」
(えっ、と……こういう場合、どうしたらいいんだろう)
驚くタイミングを逃したためか、頭の中は妙に冷静だった。
(普通なら、きゃーっ、なんて言って恥ずかしがるんだろうけど……ボク、男だし……)
ボクが何かしらのリアクションをする前に、留真ちゃんが動いた。湯船も凍り付きそうな沈黙に耐えかねたのか、慌てて跳び上がると、正座をして弁明を始める。
「ちっ、違うんですの! これはその……そうっ、不可抗力ですの! 決して彼方さんの入浴を覗こうなどという――」
「のぞ……く?」
その口から飛び出した単語は、女の子には不似合いなものだった。ボクが首を傾げたのを見て慌てた彼女は、
「いえっ、ですからそのっ、彼方さんの貞操をお守りしようと――」
「てい……そう?」
喋れば喋るほど不可解な単語が飛び出してくる。そんな要領を得ないやりとりを繰り返していると、腕の中にいたモエルがぽつりと声を放った。
「ですの娘……むっつりだとは思ってたけど……」
「モエルさんっ!? そんな一歩引いた目で見られる方がきついですのっ! いつもみたいに怒って噛みついてくれた方がまだマシですのっ〜!」
涙目で叫ぶ留真ちゃんの後ろから、声が聞こえてきた。
「さすが留真ちゃん……こんな方法があったなんて……」
バスタオルを巻いた依お姉さんが足下を確かめながら男湯側へと入ってくる。
「意外と脆かったんだね、この竹垣。結び目が綺麗にほどけてる……」
次に、お風呂の中でもおさげは健在な委員長がやってくる。
「壁ごと破壊して混浴にしちゃうなんて、るまちゃん……侮れない子ね……」
最後に現れたのは……白姫此方。体を隠すという行為を真っ向から放棄している我が家のお姫様は、湯船に浸かったボクの姿を見るやいなや、
「はろーかなちゃんっ。……来ちゃった♪」
無邪気かつ奔放《ほんぽう》に、ぶんぶんと手を振った。ボクはその体から目を背けながら、心からお願いする。
「母様、お願いですから……隠してください……」
「大丈夫よかなちゃん、湯気が守ってくれるわ♪」
「なに訳の分からないこと言いながら腰に手当てて胸張ってるんですかっ!?」
もともと子供っぽい人なのだが、羞恥心《しゅうちしん》はもう少し持って欲しい。自分と同じ姿をしているとはいえ、性別は違うのだから。
「湯冷めしちゃうといけないからそっち入るわね♪」
「え!? ちょっと母様っ、それなら向こうに入れば……」
そんな声が届くはずもなく、いそいそとボクの左隣に座ってくる母。
「じゃあ私もお邪魔するね、白姫君」
「いいんちょまでっ!?」
ボクの向かいに座る委員長。続いて依お姉さんが、
「ほらほら留真ちゃん、入ろっ?」
と、うなだれていた留真ちゃんを半ば担ぐようにして、湯船の中央にざばんと飛び込んだ。
なされるがままの留真ちゃんは、「違うんですの……不可抗力ですの……」などと繰り返し呟きながら、文字通り沈んでいる。
なんだかなし崩しに混浴と化してしまった男湯。
そんな状況にどことなく落ち着かない思いをしていると、隣にいる母がこちらを見ていることに気がついた。
「……それにしてもかなちゃん……モエルちゃんを両手で抱いて胸を隠すなんて、なかなかの高等テクね♪」
上から下へと母の視線が動くに連れて、落ち着かない気持ちは増してくる。
(湯船の中は暗いから、大丈夫だとは思うけど……)
「……じ、じろじろ見ないで……ください……」
モエルを胸元にしっかり抱いて値踏みの視線をブロックする。すると母は、ボクの胸元――金色の猫に向かって真剣な声で聞いた。
「……モエルちゃん、どう?」
意味のよく分からない質問だったが、問いかけられた当人(当猫?)はしっかりと、感情を込めて断言する。
「すごく……やわらかい」
モエルは腕の中で、とろけそうなくらい恍惚とした表情を浮かべていた。
「……? っ! やっ、柔らかいわけないでしょっ!?」
ボクは慌てて胸に押しつけていた猫を引きはがし、いつものように投げ飛ばそうとして……ためらう。何しろ、ボクの一挙一動を母が見ている。
(というか、どうしてボクがこんなに見られなくちゃいけないのっ……!?)
普通、逆ではないだろうか。それを普通というのも間違っている気がするけれど。
(だからってボクが母様たちを見つめるわけにもいかないし……)
「うぅ〜……」
ボクは恥ずかしさを紛らわすために、体を深く湯船に沈める。胸の辺りから「お、溺れっ……ぶくぶくぶく」とか聞こえたが、それに気を回す余裕がない。
「いいお湯ね〜……」
すぐ隣にちょこんと座っている母が、空を見上げて呟いた。
「あ〜、日頃の疲れが取れる〜」
自分の肩を叩きながら、目を閉じて悦に入る依お姉さん。そこへ、気を取り直した留真ちゃんがすかさずツッコミを入れる。
「幾瀬さん……それはさすがに年寄りくさいかと」
「!? る……留真ちゃんひどいっ……」
依お姉さんは目元を押さえながら湯船の端にいる少女の元へ。
「わわっ? あ、あの……?」
よく分からないうちにとばっちりを受けている委員長。
「ほら幾瀬さん、委員長さんが困ってますの! 泣きつくのはおやめなさいっ!」
「どうせ私なんてっ! 留真ちゃんからしてみたらお肌の曲がり角にフルスピードで突入してしかもスピンしちゃってるような歳《とし》だもんっ!」
「えー、えーと? よしよし……?」
(あはは。楽しんでるなあ、みんな……)
――ボクは今、この時間に確かな安らぎを感じている。
魔法少女になる以前にはなかった、肌がこそばゆくなるような心地良い時間。
(母様がいて、モエルがいて、楽しい友達がいる)
幸せだ、と言ったモエルの気持ちがよく分かる。
(……今が物足りなくなるくらい、か……)
もしかしたらそれは、とても難しいことなのかもしれない。
「あ〜、委員長ちゃんの体はなんだか新鮮だよ〜……このマニアックな肉付きが何とも」
「わわわっ!? さっ、触るのはいいけど、触られるのはちょっと……んっ……」
「ちょっと幾瀬さん!? 何を口に出しづらいことをしているんですの!?」
「あら♪ 楽しそうね、わたしも参加していいかしら♪」
「だめですっ、私は本来攻める側で……ん、そんないきなりっ……!」
「たまには攻守逆転もいいものよ? さ、体の力を抜いちゃいなさい♪」
「あわわわなんということですの……! ダメですの、こんな場所にいたら大切なモノをなくしてしまいそうな気がしますの……」
「留真ちゃん、逃がさないよっ?」
「ひゃわぁっ! ちょっ、幾瀬さん! どこ掴んでるんですのっ、ああぁぁぁぁぁぁ――」
だけど。
みんなといれば、この上なく簡単なことなのだろうと思う。
――それから三十分ほどが過ぎ。
(どうしよう……)
ボクは窮地《きゅうち》に追い込まれていた。
状況は先ほどと変わっていない。一つの丸い湯船の中に、みんなが自由に浸かっている。
そう、何も変わっていない。
|そこが最大の問題であった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「あ、あの……みんな?」
ボクは視線をなるべく上に向け、女性陣の体を見ないようにして口を開く。すると母が、
「いいお湯ね〜」
と、さっきも聞いたような言葉を放った。それに続くようにして、
「そうですね〜」
「そうだね〜っ」
「そうですの〜」
委員長、依お姉さん、留真ちゃんの声が響く。
(さっきからこれなんだよね……)
これはすでに五回ほど繰り返されたやりとり。
ボクが何かを言おうとすると、必ず彼女たちはこうして何気ない風を装い、無言の想いをぶつけてくるのだ。
(ボクはただ……そろそろ出たいだけなんだけどな……)
さっきからもう、体が熱くて仕方がない。普段は長風呂なタイプ(モエル談)なボクだが、今は状況が状況だ。周りに四人もの女性(胸元に猫一匹)がいて、普通にしていられるほうがおかしい。
しかも、ぴったり隣にくっついている母、向かいでチラチラとこちらを見ている留真ちゃん、その傍には熱っぽい視線の依お姉さん、そしてさっきから頻繁《ひんばん》に眼鏡を磨いている委員長と、包囲網とも言える輪が完成している。
「あぅ……どうしよ」
「あのさあかなたん……おいらそろそろ出たいんだけど……」
胸元でモエルが呻《うめ》く。こちらも先ほどからボクに抱かれたままなので、熱にやられているようだ。
「モエル、裏切る気!?」
「裏切るも何も……かなたんだって息が上がってるじゃないか〜……」
「……っ、そりゃこっちだって出たいけど……今、ボクが立ち上がったら大変ことになるでしょ!?」
今は夜、湯船の中は暗くて体が見られることはない。しかし一度立ち上がってしまえば、この身は白日の下にさらされてしまう。そこに待っているのは視線の集中砲火。
(せめてタオルで隠せたら……!)
しかしボクが傍にあるタオルを取ろうとすると、
「タオルを湯の中に浸けるのはマナー違反よ、かなちゃん?」
……という厳しい言葉が飛んでくるのだ。
「みんなだって辛いはずなのに……」
ボクは注意しつつ、みんなの様子をうかがってみた。
男湯に入ってきた段階では体にバスタオルを巻いていたみんなも、今は|マナー《ヽヽヽ》とやらに則《のっと》って何も付けていない。温泉から湧き出る湯気と、月明かりに輝く水面だけが、皆の体を覆い隠すヴェールとなっている。
……正直、心許《こころもと》なくはあるけれど。
(母様と留真ちゃんは肩まで浸かってるから見えないけど……依さんといいんちょはほんと目のやり場に困る……)
一人一人の表情をよくよく注意して見ると、みんなそれぞれ顔を紅くして、我慢しているような感じである。
――がまん大会。
この状況は、それに近いものである。
「がまんとがまんのぶつかり合いだね……かなたんのすべてを見るために……」
「そこでどうしてボクなのっ!?」
非常に不条理かつ間違っているこの状況。どうしても叫ばずにいられなかった。
「……白姫君」
耳元で囁《ささ亭》かれる声。
「!?」
(いいんちょっ! モエルに気を取られた隙に――!?)
「ここ……いい?」
気配を感じさせずにボクの右側に迫ってきていたのは、委員長だった。
「え、いや、あまりよくなかったり……って、言っても座っちゃうんですね……」
ちゃぼん。彼女はボクの隣に腰を下ろす。これでボクは母と委員長、二人の女性に挟まれる形になる。そんなとき、さっきから黙っていた母が「攻めてきたわね……」と小声で呟くのが聞こえた。その意味を知る前に、委員長が声をかけてくる。
「白姫君はまだ上がらないの?」
「上がらないというか……上がれないんですけど……」
「私たちのことなら気にしなくていいんだよ!? ほら、みんな長湯だから」
ほわほわした笑顔で言っているが、その表情はどこかぎこちない。やはりいくら委員長とはいえ、これだけ長い間温泉に浸かっていれば限界は来るらしい。
「ボ……ボクはみんなが出てから上がろうかと――ひゃっ!?」
委員長が左手をボクの太ももの上に置いてきた。一瞬で体中に緊張が走り、ただでさえ温まっていた体が、別の意味で熱くなる。
「無理、してない?」
のほほん。彼女は平静を装っているが……やはり、その瞳の奥には企みの影が見え隠れしていた。
「……しっ、してないです!」
(負けるもんか……!)
ボクはそんな委員長の攻撃に耐えながら、反撃の手を探る。
(! そうだ……っ)
「いいんちょ、ごめんなさいっ!」
ひらめきを即実行へ、ボクは右手を素早く動かし、委員長の顔――そこにかかっている眼鏡を、奪い取った。
「あっ、白姫君!?」
慌てて彼女が手を伸ばす。だがボクは即座にそれをモエルに渡し、しっかり持っているように指示をした。
「なるほど。これだけ近くても視界を奪ってしまえば……かなたん、考えたね」
「まあね。これでなんとか、いいんちょもおとなしくしてくれるでしょ!?」
「むぅ……。白姫君の意地悪……」
不満げな声を漏らし、そっぽを向いてしまう委員長。
(よし。これでいいんちょはなんとかなった……)
しかし安心したのもつかの間、次の刺客《しかく》が迫ってきていた。
「か〜なたちゃんっ!」
ざぶざぶと湯の中をかき分けてくるのは依お姉さんだ。彼女は堂々とボクの正面にまで来ると、大胆かつ率直《そっちょく》にこう聞いてきた。
「ハグしていい?」
「……ダメです! というかストレートすぎです!」
きっぱりと拒否。
「今ならお姉さんの素肌のぬくもりが味わえるのに〜」
自分の体に目をやりながら、この人はとんでもないことを言ってくる。
「素肌のって……ボクは男なんですよ。もう少しためらいましょうよ?」
「彼方ちゃんならいいような気がして!」
「いいわけないでしょうっ!?」
叫んでいると頭がくらむ。いよいよ限界が近いかもしれない。
「もう……依さん、女の子なんですからもう少し恥ずかしがってくれても……」
ボクはなんとか意識を保ちつつ、呟く。この一言で、依さんがおかしな反応を見せた。
「……お、女の子……?」
まるで初めて聞いた言葉であるかのような、きょとん、とした表情。そしてすぐに彼女は、元々赤くなっていた顔をさらに濃く染めた。
「わ、私が……おんなの、こ……?」
いきなりこちらに背を向け、恥ずかしがるような態度を取り始める。
「かなたん、なかなか的確な攻めだね。普段言われ慣れてないことを言って相手の差恥をあおるなんて……」
「え? そんなつもりはなかったんだけど……」
「ど、どうしよう……女の子だなんて……胸がドキドキするよ……っ」
頬に手を当ててもじもじとしている依お姉さん。どうやら彼女も撃退成功のようだ。
(あとは……!)
少し離れた位置にいる留真ちゃんは、近づいてくる気配がない。というか小声で何か呟いているようだ。
「か、彼方さんと同じお風呂、彼方さんと同じお風呂……同じ……湯に……」
口元まで湯に沈め、ぶくぶくと泡を吐く彼女。
「……かなたん。なんかもう、アレはアレでいっぱいいっぱいみたいだよ」
彼女は……放っておいてもよさそうだ。
(ってことは、残るは……!)
「〜♪」
――白姫此方。
この湯船の中で一人、軽やかに鼻歌なんて歌っている人。いろいろな意味で規格外な人だけに、この長湯でもほとんど堪《こた》えていないように見える。
「ねぇかなちゃん?」
「!」
(来たっ……どう攻めてくる!?)
ボク思わず身構え、隣を見た。しかし母はこちらを向いておらず、楽しそうな笑みはそのままに空を見上げていた。
「……二人でお風呂に入るの、久しぶりよね」
口からぽつりと漏れる言葉。遠く、遠く、空の果てを見つめ、ボクと同じ白銀を持つ人は話しかけてくる。
「かなちゃんがもっとちっちゃかった頃は一緒に入ってたのに……ここ最近はめっきり入ってくれなくなっちゃったから。……寂しかったのよ?」
「……そりゃ、ボクだって男の子ですし……いつまでも母様と一緒に入るわけには……」
「うん。そうよね……」
ズキン、と胸の奥が痛んだ。母のこんなにも沈んだ声は、あまり聞いたことがない、
「いけないことだって分かってるわ。でも、どうしてもね――」
(もしかして母様……ボクと一緒にお風呂が入りたかったから、いきなり温泉に行こうだなんて……!?)
「――かなちゃんの裸が見たかったんだもの」
(そう、だよね……母様はただ純粋に、ボクとお風呂に入りたかっただけで、そこにやましい意味なんてあるはずないんだよね。ただボクの裸が見たかっただけで――)
「――って人が好意的な解釈《かいしゃく》してるときに何をやましい気持ちだらけのカミングアウトをしていやがりますかおかーさまっ!?」
ボクの叫びに悪びれた様子もなく、母はスマイル。
「えへり♪」
「笑って済まそうとしないでくださいっ!」
怒っているのか、泣いているのか、自分の胸にわき上がる感情がなんなのか分からない。肩で息をするボクに、母様が言った。
「きゃ〜、かなちゃんたら大胆ね? ――こんなところで立ち上がっちゃうなんて♪」
両手で顔を隠すようにしてはいるが、指の隙間は完全に広がっており、見る気満々なことが分かる。
「……へ?」
そう言われてから、自分の状況に気がつく。ボクは叫ぶ際に、衝動に任せ……立ち上がってしまっていた。
「――…ひゃあっ!?」
ばしゃんっ。勢いよく座る。
「あっ、惜しい……もう少しで白姫君の……」
「くぅっ、どうして後ろ向いちゃってたのかな……」
「残念なことなんてないですの。見えなくてよかったはず、ですの……」
聞こえてくる、三人分の複雑な思い。その一方で母は、
「大丈夫よかなちゃん♪ 見えなかったわ。…………………………………鮮明には」
顔をほのかに赤く染めて、そんなことを言ってきた。
「……ッ、あうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
「ちょっ、かなたん! 潜られるとおいら沈っ、むぐっ、ぶくぶくぶくぶく……」
――その後ボクは温泉内で意識を失い、そのときの記憶を完全に消し去ることになった。
存分に温泉を満喫(?)し、現在ボクは浴場の出入り口でみんなが出てくるのを待っている。
「浴衣《ゆかた》って、着ると新鮮な気分になるよね」
両手で袖《そで》をつまみ、自分の姿を改めて見てみる。
子供用の浴衣しかサイズが合わなかった(しかもやっぱり大きめ)のはショックだったが、この浴衣という着衣は何となく自分の性に合っている。元々ボクはぴったり体に合っている服というのが苦手で、こういったゆったりとした衣装が好きなのだ。
「うんうん。新鮮だねぇ」
モエルはなぜか床に降り、こちらを眺めながらしきりに頷く。その口が高速で動くのをボクは見逃さなかった。
「火照《ほて》って上気した頬、水気を含んだ髪、浴衣からちょこんと出た指先、襟元《えりもと》からのぞくツルツルの肌。湯上がりかなたんの色っぽさったらそりゃもう新鮮に決まってるさ……」
「……えろ猫」
「にゃっ!? たったあれだけの表現でえろ呼ばわりされるなんて!? これでもいろいろセーブしてたのに!」
抗議してくるモエルは放っておき、ボクは出入り口廊下の壁に背を預ける。
なんとなく周りを見回してみると、見事なまでに人がいないことが分かる。ここまで来る途中に働いている仲居さんは何人か見かけたが、ほかのお客さんの姿はほとんど見ていない。
(……貸し切りみたい)
そのとき脳裏に浮かんだのは、やっぱり母の顔。
(まさか旅館をまるごと貸し切って……!? ……いや、さすがに……そんなわけないか)
まさか、そんなわけない、それらの言葉がこんなにも頼りなく思えてしまうのはなぜなのだろう。
(ていうかさっき、女将《おかみ》さんっぽい人とすれ違ったときにその節は本当にお世話になりました≠ニか深々と頭を下げて言われたんだけど……母様、一体何をしたんだ……?)
母とボクを勘違いするのはよくあることとしても、あの感謝の仕方はどうにも……旅館存亡の危機を救った、とかそのくらいでないとあそこまでされないような気がする。
「それにしても遅いね、みんな」
「そりゃそうさ。女の子の身支度は往々にして時間がかかるものなんだよ!? かなたんだってほんとはもっと時間をかけてぷぎゅっ」
「ボクは男の子だからそんなに時間がかからなくてもいいのっ!」
足蹴《あしげ》にされたモエルは「へぅ〜」と唸り、床に伸びた。
そこからさらに二分ほどモエルといつものやりとりを続けていると、ようやく一人目が出入り口から姿を現した。
「お、お待たせしました……ですの」
特徴的な語尾は聞くだけで留真ちゃんだと分かる。ボクが振り向くと、そこにはなぜか困った顔をしている赤髪の少女がいた。
(あ……)
「遅れてすみませんですの、着替えていたら幾瀬さんや此方さんが……」
留真ちゃんはボクとおそろいの浴衣を着ていた。ボクよりも身長の高い彼女には、子供用の浴衣がぴったりと合っていた。変身衣装のドレス姿を見慣れている分、浴衣姿の留真ちゃんは新鮮で、とてもかわいらしく見える。
ボクがその気持ちを伝えようとすると、ぼぉっとこちらを見つめていた彼女が先に口を開く。
「彼方さん、浴衣……とてもお似合いですの」
「え? あ……、ありがとう」
留真ちゃんが妙に照れながらそんなことを言ってくるものだから、ついこちらまで照れくさくなってしまう。
「――ふ〜。さっぱり」
次に、奥から委員長が出てきた。
普段から和のイメージが強い彼女は、浴衣の着こなしも抜群に綺麗だ。背に垂《た》れるあでやかな黒髪が雰囲気作りに一役買っている。そして、彼女もやはり子供用の浴衣を着ていた。ボクや留真ちゃんと違い、背丈のある委員長にはところどころ長さが足りていないようだ。
「似合うかな。……白姫君」
ボクの視線に気づいた委員長は、裾《すそ》幅が足りずに表に出てしまっている腕や足を見せながら聞いてきた。
「はい。とても――」
似合っています。と言おうとしたところ、
「白姫君はやっぱり、綺麗だね」
いつでもマイペースな彼女に、先に言われてしまった。
「〜♪」
次に、奥から軽快な鼻歌が聞こえてくる。この時点で誰であるかは明白だ。
「おっまたせ〜かなちゃんっ♪」
ひょこ、と女湯ののれんをくぐって現れる自分そっくりの姿。
浴衣のサイズはやっぱりボクと同じで大きめになってしまっている。しかし、母なりの工夫という奴だろうか。腰に巻いた帯の結び方がオリジナルで、リボンのようにかわいらしくまとめられている。
母はボクを見るなり、嬉しそうな声を放つ。
「かなちゃん、浴衣もばっちりかわいいわねっ♪」
ボクは複雑な気分でその言葉を受け止める。
(さっきからどうしてボクが先に褒《ほ》められてるんだろう……嬉しいんだけど、なんか違う気がする……こういうのは大体、男の子が女の子に言ってあげるものじゃないのかな)
よし――次こそは、ボクが先に言おう。
心の奥でそう決意し、最後に出てくるはずの依お姉さんを待った。
「!? でも意外ですね、依さんって着替えとか早そうなのに」
ボクはまだ出てくる様子のない依お姉さんを不思議に思い、他の三人に聞いてみる。
すると女性三人は、
『…………』
同時に沈黙し、俯いてしまった。
「?」
母までもが沈黙するという妙な空気を不思議に思っていると、
「お、お待たせ……」
という声が聞こえた。なんだか苦しそうなのが気になったが、ボクは振り向き、依お姉さんの姿を目にする――。
「え?」
――ぱっつんぱっつん。
視界に飛び込んできたのは、ものすごく抽象的、かつそれ以外に言い様のない状態。
「……うっ、く……」
依お姉さんは苦しんでいた。……それもそうだろう。彼女が今置かれている状況を鑑《かんが》みれば。
「な、なっ、なにやってるんですか依さん!?」
ボクはワンテンポ置いてから、
「それ――子供用の浴衣じゃないですかっ!」
叫んだ。
[#挿絵(img/ノムE-1011-074.jpg)]
ただでさえ豊満な体だというのに、彼女はわざわざ小さいサイズの浴衣を着込んでいる。そのおかげで体のラインが浮かび上がり……むしろ締め付けている。下半身なんて、まるでタイトなスカートを履いているようだ。帯の締め方も無理に絞り込んでいるのが見て取れる。
「はぁ、はっ、ん……」
吐息が熱を帯び、いつもは活発な動きもしとやかになってしまっている。
「……なんか、すごく扇情的なことになってるね、彼女……」
モエルがぽかんと口を開き、呆然《ぼうぜん》としている。
「申し訳ないですの……。止めたのですが私も子供用着れるもんっ!≠ニ意地になってしまって……おそらく、他のメンバー三人が子供サイズを着ていたので、妙な使命感が湧《わ》いてしまったのではないかと……」
心の底から申し訳なさそうに、留真ちゃんが頭を下げる。
「でも、意外とかわいいよ?」
委員長はこんなときでものほほんと――いや、おさげがぴょんとはねているところを見ると、驚いているらしい。
「…………」
「母様!? どうしたんですか?」
なぜか依お姉さんを凝視している母。その視線は強く締め付けられた胸元に向けられており、やがて自分の胸元にも至り――また依お姉さんの胸元に戻り。そんな往復運動を繰り返すたびに、母の表情が沈んでいく。
「大丈夫だもんっ、私もみんなとお揃いでいけるもんっ……」
どう見ても無理をしているのは分かっていたが、その切なくも必死な様子を見ると、誰一人として彼女を止めることなどできはしなかった――。
そして時刻はあっという間に夜。
旅館の質を測る要素の一つでもある、食事の時間だ。
――ぐ〜。
突如室内に鳴り響いた空っぽ感を自己主張する音に、ボクは驚いた。
「る、留真ちゃん……大丈夫?」
「何を言ってるんですの彼方さん!? わっ、私じゃないですの! そんな決して、旅館の食事と聞いただけでお腹が勝手に鳴き始めたとか、そんなことはないですのっ!」
――ぐる〜。
「ないですの……」
「分かってる、分かってるから留真ちゃん、部屋の隅に行こうとしないでっ」
「……なんかもう今日は踏んだり蹴《け》ったりですの……」
「お、上手いじゃないかですの娘。石鹸踏んだり蹴ったりしたからかな」
「こらモエルッ!」
モエルの一言でさらに深くまで沈み込んでしまう留真ちゃん。その近くでは、
「よりちゃん、いいんちょちゃん……折り入って話があるの」
「え? な、なにかなっ……いや、なんですか……?」
「……? なんでしょうか、お義母様」
なぜか母と依お姉さん、委員長が集まって話をしていたりする。なんだか深刻そうな雰囲気なので立ち入ることができない。
(? なんか今、いいんちょの台詞、おかしくなかったかな?)
委員長は母のことをなぜかおかあさま≠ニ呼んでいるのだが、どうにもその発音に別の意味合いが加えられているような気がしてならない。
「実はね――」
――コンコンッ。
皆のそれぞれの行動を遮《さえぎ》り、扉を叩く音が聞こえた。そして通路側から、
『お食事をお持ちしました』
という丁寧な声が聞こえてきた。すると深刻そうにしていた母がいち早く、
「は〜い♪」
と弾けるような返事をして、扉を開けに行こうとする。その際に、
「この話はまた今度、ね」
と、二人に残して。
「……?」
一体何の話だったのだろう。不思議そうにしている依お姉さんたちと一緒に、ボクも首を傾げるのだった。
『――それでは、ごゆっくりおくつろぎくださいませ』
料理を運んできた数人の仲居さんが深々と頭を垂れ、部屋から出てゆく。さすがはプロと言うべきか、統率の取れたてきぱきとした動作で、わずか数分の内に部屋の中に夕食の準備が整えられてしまった。
現在、室内は様々な食材の放つかぐわしい匂いと、大きな鍋の奏《かな》でるぐつぐつというハーモニーで満たされている。
「ささっ、食べましょ?」
母がみんなに向けて言った。
ボクたちは料理の置かれた長方形の長いテーブルに、向かい合わせに座っている。手前側にはボク、母、モエル。向かい側に留真ちゃん、依お姉さん、委員長。
それぞれ自分の正面に置かれている料理を見て、様々な反応を見せている――。
「これはきっと夢ですの……!」
「確かに夢みたいだねぇ……」
豪華|絢爛《けんらん》な料理を前にして現実を疑い始めてしまった赤髪の少女と、いまいち感動しているのかが読み取りにくいほんわかした眼鏡の少女。
「でも……今更ですけど、本当によかったんですかっ? こんな良い旅館に連れてきてもらって、そのうえ豪勢なお食事までいただいちゃって……」
「いいのよ、気にしなくて♪」
依お姉さんの言葉に母が力強く答えた。しかし年長者である彼女としてはそれでも気に掛かってしまうのだろう。どことなく箸《はし》を付けづらいようだ。
その気持ちは留真ちゃんと委員長にも少なからずあったようで、食事を前にしてみんなの動きが止まってしまった。
「……。そう、ね……何も言わずに、っていうのもずるいわね」
みんなの視線が母に集中する。
「正直なところを言うと――見ておきたかったの」
この場にいる一人一人を見渡し、白姫此方は言った。
「かなちゃんに力を貸してくれた……一緒に戦ってくれた、貴女たちを」
「私たち、を?」
依お姉さんがきょとんとした顔で声を放つ。
「ええ。この間会ったときはロクに話もできなかったから、一度じっくりと話をしてみたかったの。――かなちゃんの仲間≠ニ」
「仲間……」
留真ちゃんがなんだか驚いたような顔をして、その単語を繰り返した。
「そう、仲間。……とても強い信頼≠ナ結ばれるモノ」
「……信頼、ですか」
委員長が俯く。もしかしたらまだ、心のどこかで以前の自分を責めているのかもしれない。
そんな彼女にはっきりと聞こえる声で、母が言った。
「でも、本当に聞いた通りだったわ」
白姫此方は嬉しそうに微笑み、
「留真ちゃんは意地っ張りだけど心の強い女の子=v
「ですの?」
「依さんは困った癖があるけど包容力のあるお姉さん=v
「はぐ?」
「いいんちょはふわふわしててちょっぴりやらしい人=v
「???」
「かなちゃんたら、私が旅行から帰ってきてから、すごく楽しそうに話すのよ?」
くすくすと笑いながら、そのときのことを思い浮かべて笑う母。
「ちょっ、ちょっと母様っ!」
気恥ずかしくなって止めようとすると、母の瞳がボクを捉《とら》えた。
「いい仲間ができたわね。かなちゃん」
「! 母様……」
優しい母親の顔をして、母はボクに言った。
「かなちゃん。ここにいるみんなを大切にしてあげるのよ?」
「……はい。もちろんです!」
ボクは心に誓い、揺るぎない答えを返す。
「うんっ、よろしい♪」
母の手が、ボクの頭を撫でてくる。
「そういうわけで、この旅行は私からみんなへのささやかな贈り物だと思って――受け取ってもらえないかしら?」
母の問いかけに、みんなは行動で答えた。
それぞれ置いた箸を手に取り、両手を合わせる。
そこに、軽快な号令が飛ぶ。
「それでは♪」
『いただきますっ!』
綺麗に揃った合唱を終え、ボクたちは賑やかに食事を始めるのだった。
そして、就寝時聞がやってくる。
山奥なだけあって深夜は完全な無音の世界。布団の中から外を見ると、差し込む月明かりの金色の筋が見え、見つめているだけでまどろんだ気分へと引き込まれてゆく。
……眠るには最適の環境だ。
襖で仕切った隣の部屋からは寝息一つ聞こえない。さすがに一日中あれだけ騒げば眠りにつくのも早いものだ。女性陣はきっと今頃、死んだように眠っていることだろう。
(静かだな……)
さすがに男の子と女の子が一緒の室内で眠るわけにはいかない。ボクが言い出す前に、モエルが切り出した提案である。そのあまりにも断固とした姿勢に、みんなは素直に従った。
そのおかげでこうしてボクは一人、静かな夜を過ごせているというわけである。
――もぞ。
布団の中で横|這《ば》いになって体を少し丸めると、ふかふかの布団が形を変え、体になじんでゆく。
浴衣で寝るのは少し違和感を感じる。嫌《いや》なものではなく、ただなんとなくこそばゆい。
(しょっちゅう母様に連れられて旅行とかしてるけど……好きなんだよね、この感じ……)
慣れない土地に体が順応していく感覚。
それと一緒に湧き上がってくるのは、帰るのが惜しいと感じてしまう寂蓼《せきりょう》感。
――もぞもぞ。
(う、ん……)
次第に眠気が襲ってきた。どうやら疲れているのはボクも同じのようだ。
でもそれはどこか、心が温かくなる疲れだった。
(おやす、み……)
――もぞもぞもぞ。
(…………)
――かぶ。
「ッ!? ひゃっ、あんっっっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
目を閉じ、あとは眠るだけの状態だった。それは人間の最も無防備なときだ。
そんなときにボクはいきなり――|耳たぶを甘噛みされた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
さらにはむ、と一噛みされ、いつもより強く、甘い痺《しび》れが、体を襲う。
「んっ……! なっ、なんで……!」
ボクは強制復帰させられた意識をフル動員し、その人に呼びかける。
「……いいんちょっ!」
寝返りを打つ要領で体を反転させると、そこにはやっぱり、
「ふふっ」
ほわほわと笑っている、黒髪おさげの少女がいた。彼女はいつの間にやら隣に、しかもボクの布団の中に潜り込んでいる。
「隣に潜り込まれても気づかないなんて、ほんと白姫君は隙だらけだね」
眠る前なので当然眼鏡は外している。そこにいるのは、飾らない素顔の彼女だ。
「……だっ、誰かが潜り込んで来るだなんて思わないじゃないですか……!」
夜なので声を絞り、ボクは小声で叫んだ。
「そもそも何してるんですかっ!? なにしてるんですか!」
驚きのあまり二回ほど繰り返してしまう。すると委員長は、
「ん〜、夜|這《よば》い?」
と、冗談にもならないことを平気で言い放つ。
「ほら、私って白姫君から見るとやらしい人≠轤オいからね? ご期待に応えようかな、って思って」
「! こ、応える必要なんてないですっ!」
もしかして意外と気にしてたりしたのだろうか。
「とっ、とにかくまず、離れてください……!」
ほとんど体が密着するくらいの距離にいる彼女は、枕の半分をボクから奪っている。少し顔を動かしただけでぶつかってしまいそうだ。
「……ふふふっ」
困っているボクを見るのが大好きだという委員長は、こちらの反応を見て妖艶《ようえん》に微笑むと、さらに距離を狭めてくる。
「いいん、ちょ……?」
「白姫君の顔がよく見えないから……もっとそっち、行くね?」
鼻孔をくすぐる――柔らかい香り。純粋な彼女自身の香りに、心を乱される。
「ん、しょ……んしょ、と」
暗くても顔の細かい部分まで見通せる、そんな距離。
お互いの吐く息が混ざり合い。
揺れる視線が絡み合う。
心を融《と》かす距離。
「いいんちょ……ちょっとま――」
「――どうしてかな」
委員長の唇が小さく動き、そう言葉を紡いだ。
「え?」
ボクは閉じかけたまぶたをゆっくりと開く。すると彼女はとても安らかな顔で、ボクの胸元に顔を埋めてきた。
「……白姫君のそばにいると、よく眠れそうな気がするの……」
その言葉を聞いてボクは思い出していた。
委員長は子供の頃から、人と触れあうことがあまりできずにいたのだ。だからこそ彼女は人に触れるという行為に喜びを抱き、それを求める。
(そっか……今いいんちょのお母さんは入院してるんだよね……。もしかして、誰かに甘えたかったのかな……)
困った状況ではあるのだが、もしそうであるならば拒否なんてできない。いつもは雲のように掴めない彼女の、かわいらしい一面を垣間《かいま》見てしまった気分だ。
「んっ……ん、眠れそう……」
眠たげに間延びした声で呟くと、委員長は薄い寝息を立て始めた。
(ほんと、心地よさそうに寝ちゃって……)
「……おやすみ。いいんちょ」
眠りについた彼女に囁き、ボクは次にどうするべきかを考える。
(う〜ん。このまま寝ちゃうのは……まずいよね)
次の朝、もしみんなにこの光景を見られた場合、『かなちゃんが大人に!?』とか、『破廉恥《はれんち》ですの!』とか、『私も混ぜて〜っ』とか言われるのが目に浮かぶようだ。モエルに至ってはしばらく口をきいてくれなくなるかもしれない。
(? っていうか、どうしてみんな気づかないんだろ……)
それだけぐっすりと眠っている、ということだろうか。
いろいろと考えていると、自分の思考がだんだんと鈍くなっていくのが分かる。
「……ふわ」
あくびが無意識に出てくる。どうやらこちらも限界のようである。
(まぁ……明日……みんなより早起きすれば、いいか……)
ボクの意識はそんな悠長な結論を出し、今度こそ完全に閉ざされてしまった。とても安らかで、とても心地の良い眠りの中へと。
――深い眠りに陥ってしまったボクは、気づくことができなかった。
それから数分後に起きた、いわゆる一つの争奪戦≠ノ。
帰宅の朝。
「……どんな有様ですかこれは……」
旅先で一夜を明かしたボクの、目覚めの一言がこれだった。
現状を確認しょう。
一、ボクの浴衣があり得ない感じに着崩れしている。
二、体のあちこちが痛い。まるで四方八方から引っ張られていたような痛み。
三、なぜか布団に点々とした血の痕《あと》が。
四、それらすべての原因と思わしき一団が固まって寝ている。
「一体、何が起きたっていうんだ……」
ボクが寝ていた布団の上は、まるで寿司詰《すしづ》めのような状態になっていた。
そんなに広くもない、最低でも二人ひっついて寝るのが限度のフィールドに、雑魚寝《ざこね》している四人。布団の中には収まりきれず、ところどころから足やら手やらがはみ出ている。しかも浴衣がもみくちゃになっていてやたらと色っぽい。
「……え〜と昨日の夜、ボクが寝ちゃってから母様がこっそりとこちら側に進入しようとしたところ、依さんに見つかって意気投合、それを止めようと留真ちゃんが立ち上がるものの、転けてそのままボクの布団に突貫、その上から依さんが留真ちゃんを抱きしめてそのまま熟睡、悠々とボクの隣を取っていた母様が布団を掛けた、と」
「――すごいねかなたん、概《おおむ》ね正解だよ」
感心したような声が傍で聞こえる。
「おはよ、モエル」
枕元に座っていたのは、金色の猫だ。やはりモエルもこちらで寝ていたらしい。まだ起きがけなのか、どことなくまぶたが重そうだ。
「もっと突っ込むと、こなたんがかなたんの浴衣を脱がそうとしてさらに一悶着《ひともんちゃく》あったんだけど……」
「なるほど、この血の痕は依さんの鼻血か……」
納得するのもおかしい気がする。
……それにしても、なんとも朝から非日常的な会話をしているものだと思う。
「? かなたん?」
モエルが怪訴《けげん》そうな顔をしてこちらを見た。
ボクは――笑っていた。
こんな朝から、こんなにもあり得ない有様を見て、心の底から笑っていた。
「――ほんっと、退屈しないよね」
ふぅ、と一つ息を吐き、モエルはどことなく嬉しそうな声で呟いた。
「ん〜、もう朝ですの……?」
「むにゃ……ハグし放題……」
「……あふ……眼鏡は……?」
「すやすや……すやすや……」
ボクは大きく息を吸い込み、声に釣られて起き始めたみんなへと――。
「何やってるんですか! あなたたちはっ!」
――元気いっぱい、怒鳴るのだった。
[#改ページ]
おまけ1 隔《へだ》てなき友へ
温泉宿山豊庵《さんぼうあん》=B
清々しい空気と青々とした自然、こんこんと湧《わ》き出る命の湯。
知る人ぞ知る、だが知るためにはある条件を必要とする。
――そんな、秘境の名宿。
月も眠りにつく深夜、岩で組み合わされた浴場にて、とある夜会が開かれようとしていた。
場に絶えず響き続ける、ざざざざざ、というもの静かな環境音。耳に心地の良い安らぎをもたらす、湯の注がれる音。
その柔らかなバックコーラスに合わせて、声が放たれた。
「揃《そろ》ったわね」
響きの中に強靱《きょうじん》な意志を隠し持つ、あどけない少女の声。
「はい」
続く返事もまた、若い少女の声。先の人物よりも声に鋭さがある。
「うん」
快活さの見え隠れする中性的な声が、三番目に響いた。
雲に隠れて眠っていた月が、目を覚ます。淡い金色の光が、温泉という名の舞台に降り注ぐ。
――二人の少女と、一匹の猫。
「それで……此方《こなた》さん。一体どういうことですの? わざわざ彼方《かなた》さんが眠った後にもう一度温泉に入ろう、だなんて」
温泉の隅、肩胛骨のあたりまでを湯船に沈めた赤髪の少女が、もう一人の少女に聞いた。
「…………」
湯船の中央にいる小柄な少女は、例のごとく裸身を惜しみなくさらけ出し、自然な姿勢で立っている。
月明かりがその肌を照らす。体に張り付いて玉となっている水滴にその光が当たり、少女の幼い肢体は艶《なま》めかしく彩《いろど》られている。
留真《るま》はそれを見て、目呟《めまい》にも似た感覚を覚えた。
(……どうしてですの……? 同じ女同士なのにドキドキするですの……! 儂《はかな》く白い肌……濡れた背中……波打つ髪から滴《したたし》る雫《ずく》……)
視線が動かせなくなった留真の近くで、もう一つの声が放たれた。
「ねぇこなたん。かなたんを連れてくるならともかく、どうしてですの娘なんかを誘ったのさ?」
「なんかって……それが人の頭の上で言うセリフですか……」
モエルは湯船には浸《つ》からずに留真の頭の上に乗っていた。微妙なバランス感覚が必要とされるであろう高等技術を、この金色の猫は危なげなくこなしている。
質問を向けられた此方は、湯に波紋を起こしながら振り向き、言った。
「……るまちゃんじゃなきゃダメなのよ」
此方の起こした波紋は、やがて留真の体にわずかな衝撃を与える。
「私じゃなきゃダメ……ですの……?」
赤髪の少女は動揺した。此方のくりくりとした瞳が、真っ直《す》ぐ自分へと向けられていたから。
その視線に込められた深い親しみを――彼女は、身をもって感じていた。
此方は湯船をゆっくりとかき分け、留真の方へと歩きだした。
「うん。るまちゃんじゃないと……」
「!?」
自分に向かって一歩ずつ近づいてくる白銀の少女。それによって留真の心が波立つ。湯船に起きる波紋など比にならない、ビッグウェーブ並の動揺である。
「きっとるまちゃんなら、もう分かってくれてると思うけど……」
いつもの跳《は》ね上がるような口調ではない、妖艶《ようえんさ》な囁《さや》き。
「なっなにを……です、の?」
無意識に彼女は身を引いた。しかし正円形の湯船の中に逃げる場所などない。
「わたしね、ずっとるまちゃんには目を付けてたのよ……?」
頬《ほお》を赤く染めて、彼方と同じ顔をした少女が言う。
「っ!?」
今の留真なら温泉の温度を上げられるかもしれない。そう思えるほどに彼女は顔を真っ赤にし、全身を火照《ほて》らせている。
「ね、るまちゃん……っ」
いつの間にか、目の前に此方がいた。
(だっ、ダメですの、こんな、こんなこと……! 彼方さんになんて言えばいいんですの!? ……っ、モエルさんは一体何をやって……!?)
彼女は、頭の重みが消えていることにそのとき気がついた。視線を動かすと、金色の猫は湯船から離れた場所でこちらに背を向け――、
「おいらは見ないからごゆっくり」
――とでも言いたげな存在感を放っていた。
(助けなさいですのーーーーーっ!)
心の中で悲鳴を上げる留真の、肩に――此方が手を置いた。
「ぁっ…………」
留真の口から小さな声が漏れ出した。
(此方さんの手……柔らかくて、すべすべで、温かい……)
「るまちゃん……」
至近距離で向かい合い、切なげな声を出す此方。
「は、はい……ですの……」
オーバーヒート寸前の頭をフル回転させ、樋野《ひの》留真は状況に見合った行動を選択した。
――まぶたを、閉じる。
(ほ、本当に、してしまうんですの? 此方さんと……!? それならまずは口づけから、ですの? その後は……というかその後とかあるのでしょうか……?)
ぐるぐると思考の迷宮をさまよう留真。
(でもでも、いいんですの? こういうことは本当に好きな人と……いえでも、私にはまだ好きな人なんて――っ?)
彼女の思考の中に現れる、確かなシルエット。それを思い浮かべた瞬間、留真は叫んでしまっていた。
「――やっぱりだめですのっ!」
深夜の温泉に大声が響き渡る。
「……ん? なにが?」
叫んだ留真に、此方が聞いた。
「そっ、その! こういうことはやっぱりもう少しお互いのことを知り、もっと好きになってからでないと……」
「ん〜、やっぱりなれなれしかったかしら……」
人差し指を顎《あご》に当て、此方が首を傾《かし》げた。それを見た留真は手をわたわたと振り、ものすごい勢いで言い訳をする。
「いえ、決して此方さんのことが嫌いとかいうわけではなくて、もう少し親密になってからですね……」
(女の子同士って部分は問題に思わないのかな……)
――モエルは二人の声を聞きながらそんなことを思っていた。
必死な表情で語る留真に、此方はゆっくりと頷《うなず》き、謝罪の言葉を述べる。
「そうね、そうよね……分かったわ。……ごめんなさいね、るまちゃん。
勝手に――胸のサイズを測ろうとしたりして」
「いえ、分かってもらえたならっ……! ――……? 胸のサイズ?」
わたわたと振っていた手が、ぴたりと止まった。
「ええ。るまちゃんとわたし。きっと同じくらいだと思って」
「……同じ?」
「そう。本当は触って確かめたかったんだけど、やっぱりまだ親密度が足りないわよね♪」
「目を付けてた、というのは……」
「うん。るまちゃんもわたしと同じ|高みを求める者《ないちち》≠セと感じたの。きっと同じ悩みを持っているんじゃないかと思って、こんな夜更けに誘ったんだけど……」
「……そ、そう、だったん、ですの……」
留真は魂の抜けた表情で、顔の半分が沈むほど湯船に浸かり込むのだった――。
モエルは頭の中で理解していた。
現在、彼女たちの使用している客室では、白姫《しらひめ》彼方が女性陣と部屋を仕切り、眠っている。
(……こなたんが素直に部屋分けを許したのは、そういうことだったのか。
すべてはこうして|同じ道を歩む友《ひんにゅう》≠ニ、ゆっくり語り合うため……)
胸に込み上げてくる切ない感情を、モエルは空を見上げることで押さえようとした。
しかし、熱い雫は瞳からあふれてくる。
金色の猫は、夜空にぽっかりと浮かぶ光を見て、思った。
(……今宵《こよい》の月は、眩《まぶ》し過ぎるや……)
[#改ページ]
甘いお菓子が食べたいわ♪
AM11:00 〜大枝町・白姫家〜
それはこんな一言から始まった。
「かなちゃんっ、甘いモノとか食べたくな〜い?」
迷いや悩みが尻尾《しっぽ》巻いて逃げていきそうな笑顔で、母である白姫此方《しらひめこなた》が聞いてきた。
「え……食べたい、ですけど……」
ボクはそこはかとなく嫌《いや》な気配を察知して、逃げ腰気味で答える。
ところが母は、ボクが引いた分だけずずいと近寄ってきて、チョコキャラメルの如きスウィートな声を放つ。
「うんうん♪ じゃあ――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌ててボクは、何かを提案しようとする母の口をふさいだ。
「む〜っ!」
物理的に言葉を遮《さえぎ》られ、母はかわいらしく唸《うな》る。勢いを止めたのは申し訳なく思うが、その先を言わせてしまうと取り返しが付かない目に遭いそうな気がした。
(母様の提案が普通だった試しなんてないんだ……!)
何しろ自分が旅行に行きたいからといって、いきなり男であるボクに魔法少女をやらせるような人だ。
(……どうしてだか、一番苦労するのはボクなんだよね、いつも……)
「む〜♪」
はむり。
「うゃっ!?」
母の口を押さえていた手のひらが、急にほのかな熱に包まれた。温かく、ぬるま湯に浸されるような感覚にボクは慌てて手を引く。
「てっ、手を咥《くわ》えないでくださいっ!」
「おいし〜♪」
「そんなわけがありますかっ! 大体いいんちょといい母様といい、どうしてボクを噛んだり舐めたり触ったりするんですかね!?」
「それでねかなちゃん、甘いモノなんだけど……」
ボクの声を完全にスルーし、母は先ほどの続きを口にしようとした。
「っ、わーーーーーーーーーーっ!」
大声を上げてそれを遮りながら、ボクは何とかこの場をやり過ごせないものかと考えを巡らせる。
そうしていると、今まで二階にいたモエルが居間へとやってきた。
「――どったのかなたん、大声上げて」
入ってすぐ、ボクと母を一瞥《いちべつ》して一言。
「なるほど」
頷《うなず》き、そして聞いてくる。
「……それで、今回はなにやるの? おいらとしてはなるべく、黒い服の恐いおじさんたちに追い回されたりしないことがいいかなぁ」
この猫は非常に物わかりが良く、諦《あきら》めもよろしい。
しかしボクはそうはいかない。
(というか家でのんびりしたいっ! 今日こそは!)
ここまで安らぎを切望する中学生というのもなかなか希有《けう》ではないだろうか。
――泣けてきそうだ。
「そうだ母様っ、甘いモノが食べたいならボクが作ります。だから今日は家の中でおとなしくしててください!」
ボクの切実なお願いに、母は顔を綻《ほころ》ばせた。
「あら♪ かなちゃんが作ってくれるの?」
にぱー、と脳天気に微笑む我が家のお姫様。その笑顔が何とも嬉《うれ》しそうで、思わず脱力し、膝《ひざ》から崩れ落ちそうになったが……なんとか踏みとどまる。
「かなちゃんのお手製おやつ、楽しみだわ〜っ♪ じゃあこれはいらないわねっ」
くしゃくしゃ、ぽいっ。後ろに隠し持っていた旅行パンフレットを、綺麗《きれい》に丸めてゴミ箱へと投げる。
(甘いものが食べたいのと海外とどういう関係があるんだ……?)
改めて、止めることができて良かったと胸をなで下ろす。
「それじゃ、よろしくねっ♪」
(……この笑顔を見ると、ね)
つい、いろいろとお願いを聞いてあげたくなってしまう。そんな自分の甘さに悔しさを感じていると、足下でモエルが呟《つぶや》いた。
「なんとか未然に防げたみたいだね。しかし、かなたんも大変だねえ。いつものことながら」
しみじみと哀れそうな瞳で見るのはやめて欲しい、と思った。
――それから約三十分後。
ボクは一人、キッチンで準備を整えていた。
髪は後ろで一つにまとめ、馴染《なじ》みのフリル付きエプロンを着こなして。
両|袖《そで》をまくって、左手にはボウルを、右手には泡立て器を。
「よしっ!」
気合いを入れて、調理開始。
――今日のおやつはショートケーキ。
理由は単純、ボクが好きだから。母もそれを知っているからこそ、基本的な材料はいつも揃《そろ》えてあるのである。
(スポンジケーキは進備完了、次は生クリームを泡立てて、と……)
カッ、カッ、カッ、とリズミカルに泡立て器を動かす。始めはまだ水っぽいのだが、しばらくこうしてかき混ぜていると、ふんわりと泡立ってくるのだ。
(手首を使って、空気を含ませるように、と……)
基本的なことを念頭に思い浮かべ、丁寧に泡立て作業を続ける。
(……まったく。母様はいつもいきなりなんだから)
単調な作業をしていると、頭に思い浮かんでくるのは母のにこやかな笑顔。
(そりゃ、旅行に行ってたときはちょっと寂しかったりしたけど……)
カッカッカッカッ。ちょっとずつ右手の手応《てごた》えが変わってくる。空気を含んだ生クリームが段々と固まってきている証拠だ。
(もう少しあの弾丸っぽいところをどうにかしてくれたらなあ。あのときだって――)
――ちゅ。
「っ……!」
今でもはっきりと思い出すことができる。
柔らかな、あの感触を。
母に、唇を奪われた瞬間を……。
「魔力を分け与えるため、か」
それでも、一言くらいは言ってくれてもよかったはずだ。
(あんな不意打ちみたいな真似《まね》、しなくたって……)
カッカッカッカッカッカッ。音のリズムが少し早くなる。
(……しなくたって? しなかったらどうするっていうんだ? 母様がキスするって言えば、喜んで受け入れるとでも? そんなわけっ、……ない、よ)
「もうっ、なんでボクがこんな気にしなくちゃいけないんだっ!」
カツカッ、ガツ。
いい加減考えるのが嫌になってきたボクは、無意識に右手に力を込めてしまっていた。結果、左手で支えていたボウルがバランスを崩す。
「わぁっ!?」
――バシャンッ。
ものの見事に、ボウルに入れておいたクリームがひっくり返り、こちらに降りかかってきた。
「うぅ〜……ベトベトだよ……」
頬《ほお》から上半身、下半身にまで満遍《まんべん》なく降りかかった白いクリーム。
「あぁもう、もったいないなあ」
と言いつつ、ぺろり。
ちょつと行儀が悪いけれど、手の甲に付いたクリームを軽く舐《な》めてみる。
口の中に広がるまろやかな甘み。
「ん……♪ おいしっ」
ケーキが大好きなボクにとって、クリームは味の大半を左右する重要なファクターだ。甘すぎるとすぐに飽きてしまうし、かといって甘さ控えめではケーキとしての醍醐味《だいごみ》に欠ける。固さもこだわりのポイントだ。柔らかすぎず、固すぎず、あくまでもふわりとした食感を追求し、口の中でとろけさせる。
「あ〜あ、いい感じだったのに結構減っちゃつたな……どうしよ……」
体のあちこちに付いたクリームを拭《ぬぐ》うことも忘れ考えていると、
――ガシャンツ。
後ろから物の落ちる音が聞こえた。振り向くとそこには、体を震わせながら目を見開いているモエルの姿があった。その足下には猫サイズのミニカップが倒れて転がっていて、洗い場に持ってくる途中だったことが分かる。
「か、かなたんが白いものにまみれて……!?」
「あはは。……やっちゃった」
照れ隠しに笑うと、モエルはまるでこの世の終わりでも見たかと言わんばかりに、大袈裟《おおげさ》なリアクションをとってきた。
「やっ、やっちゃった!? かなたん、キミは一体ナニを!?」
「え? いや、作りかけのクリームをこぼしただけなんだけど……。どうしたの? モエル、顔が真っ赤だよ?」
聞きながら、クリームの付いた人差し指をはむ、と口に含む。そして指先を舌で転がすようにして、付着した糖分を拭い取ってゆく。
「お――」
その動きを見たモエルの震えが、ぴたりと止まった。
「お?」
ボクは首を傾《かし》げ、ちゅぷ、と人差し指を口から離す。
――それが激発のきっかけになった。
「おいらも舐めるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
跳躍などという生易しいものではない。それはもはや突進。モエルは金色の弾丸と化し、ボクの上半身に飛び付いてきた。
「こっ、こらモエル! やめなよっ、お行儀悪いよっ!」
いきなりのことに驚き、そのまま床に尻餅《しりもち》を付いてしまった。モエルはそんなことお構いなしに、ボクの頬に付いたクリームを舐め始めてしまう。
「据《す》え膳《ぜん》食わぬはおいらの恥ッ!」
「なんで個人限定されてるの!? ちょっ、ダメだってば、くすぐったいっ、くすぐったいったら! んっ、うぁっ、やっ、あ……っ!」
モエルの舌はざらざらしていて、軽い水気を含んでいる。鼻息はかなり荒く、淡いルビーアイもいつもより濃くぎらついているように見えた。
「美味《おい》しいよかなたん……っ!」
「うぅん……っ、モエル、やめなってば……」
「だめだよっ、まだ白いのが付いてるじゃないか!」
ダメだ。この猫は完全に我を忘れている。
なんとか引きはがす方法を考えようとした、そのとき。
――ガシャンッ。
再び近くで、物の落ちる音が聞こえた。
モエルはその音に気づいていないようで、無我夢中に舌を這《は》わせ続けている。
音がした方を見ると、そこにはもう一人の家族が立ちつくしていた。
「!? 母様……」
母はよろめき、一歩後ずさりしたかと思うと、呆然《ぼうぜん》とした声を漏らす。
「か、かなちゃんが自らをデコレートして……!?」
先ほどのモエルとそっくりなリアクションでわなわなと震え、ご丁寧にも足下には桜の模様が入ったカップが転がっていた。やはり同じように流し台に向かっていたのだろう。
「デコレートって、そんなわけないでしょうっ!? それより母様、助けてくださいっ! モエルがなんかどうしようもないことになってていひゃあっ!?」
ぞわりとした感覚が体を駆け巡る。モエルの荒い舌が首筋をなぞったのだ。
「母様っ、早く……!」
助けを求めるボクを見ながら、母は静かに俯《うつむ》いた。
「か――」
表情が見えない。ただ、とてつもなく嫌な予感がするのだけは確かだ。
「あ、あのちょっと母様?」
ボクは何とかこの場から離れようとしたが、モエルの執拗《しつよう》な責めを前に動くことができない。
……結局。
「か〜さまも舐めるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
跳躍などという生易しいものではない。それはもはや突進。母様は金色の弾丸と化し、ボクの上半身に飛び付いてきた。
「なっ、なにする気ですか!?」
「かなちゃん食らわば皿まで♪」
ぺろ、ん。
「ん〜〜〜〜〜っ、甘ぁい♪」
母の舌が、ボクの頬を濡らした。
「絶対ことわざの使い方間違ってますっ! うっ……ぁ……!」
暖かい感触が神経を撫《な》でる。モエルの舌は荒いブラシのようだが、母様の舌はまったくの正反対だ。とにかく柔らかく、くすぐったい。一度なぞられただけで、体がピクンと震えてしまう。
「かなちゃんったら、母様の一番の大好物を用意してくれるなんて……」
冗談交じり(?)に言いながら、母はボクの頬に付いたクリームを少しずつ舐めとってゆく。
「うふふ……」
「むふふ……」
そのとき、一人と一匹は完全に野獣と化していた。
(このままだとまずい、いろいろな意味でッ!)
「あ――」
命の危険とは違う意味で絶体絶命だったボクは、決死の覚悟で|最後の手段《ヽヽヽヽヽ》を選択した。
ものすごくバカバカしいと思いながらも、
「遍《あまね》く空の果てへ=v
――それは、意味|在《あ》る言葉。
「変身っ!? ちょっ、かなたん!?」
誰もが心に持っている、想《おも》いの言葉。
「あら〜……ちょっと、やりすぎたかしら……」
それに喚《よ》ばれ顕《あらわ》れるは原初の鍵、オリジンキー=B
「こなたんっ、そんな落ち着いてる場合じゃないよっ! 見てよ、明らかにおいらたちの声が届いてない! というか本気戦闘モードだよこの子ッ!?」
ひとたびそれを手にすれば、想いと魔力を武器に闘う戦士が誕生する。
「モエルちゃん。私、この戦いが終わったら結婚するの…………………………かなちゃんと」
この力は、この世を乱す騒晋を消し去るために。
「なんで分かりやすい死亡フラグ立ててるのさ!? というか微妙に図々《ずうずう》しいっ!」
この力は、人の想いを貫くために。
(行こう、オーヴァゼア=Bとりあえずは――)
――この、二匹の野獣を躾《しつ》け直そう。
ピィン。自分の映し身と、心を通い合わせる。
「にゃあっ!? かなたん、蒼《あお》いラインなんて描いてどうするの!? ここ家の中だってば! わっ、しかも螺旋《らせん》!?」
「かなちゃんに攻められるっていうのも悪くないわね。……家が残ってればいいけど♪」
それは大枝町に住む、とある一般家庭の、平凡極まりない――、
日常日常の風景。
AM11:50 〜大枝町・繁華街〜
古伊万里《こいまり》みさらは浮かれていた。
大枝町の中でも一、二を争う良家出身である彼女は、物に不自由したことがあまりない。
金持ちの娘であるが故に何でも手に入る――いうことではなく、ただ単純に彼女には心から欲しい、と思えるようなものがほとんどないのである。
子供の頃から華道に始まり茶道、琴、その他様々な習い事をし、女性らしい、しとやかな振る舞いを身につけてきたみさらであったが、
「〜っ♪」
今の彼女はそんな経験などまったく意味がないほどに、浮かれきっていた。
まるでずっと欲しかった宝物が手に入った子供のように、足取りは軽く、口元は緩み、鼻歌なんてものまで奏《かな》でながら。
「ああ、なんて幸せなんでしょう……!」
ひらりと回って、明後日《あさって》の方向を見つめて呟く。端から見ると限りなく危険な人物のように見えるが、彼女の外見はそんなマイナスな印象など一切抱かせない、清廉《せいれん》とした雰囲気に包まれていた。
私服は上から下まで、質の良い生地を使用している。触れずとも分かる布地の細やかさは、冬場の冷たい風から身を守るという機能性と、着ている人物の気品を強調する様式美、どちらも高水準で兼ね備えていた。
着る人間を選びそうなこの衣装をたやすく着こなすみさらは、自身の個性的な髪をたなびかせて歩く。焦《こげ》茶色のお団子から長い髪を垂《な》らすという、なかなか一般的には真似できない髪型である。
みさらは、自分を魅了してやまない人物の名を呟《つぶや》く。
「彼方《かなた》様……♪」
彼女が浮かれている原因は、ここ最近に起きた出来事によるものだ。
大枝中学校文化祭にて行われた、白姫|彼方《かなた》争奪戦=Bその首謀者であった彼女は、勝負に破れはしたものの、憧《あこが》れである白姫彼方に友達になろう、と言われたのであった。
白姫会≠ネどというファンクラブまで作っている彼女にしてみれば、彼方と友達になるということはそれこそ、神とシェイクハンドする行為に等しい。
「彼方様とお友達……彼方様と……うふふ」
文化祭が終わってからすでに二週間以上が過ぎているというのに、彼女はいまだ夢見心地なのであった。
「鳴呼《ああ》もうっ、我が生涯に一片の悔いなしっ! ですわ〜♪」
「ほう。なぜだ?」
「それはもうっ、ずっと影ながら見つめ続けるだけだったあのお方が、直々にお友達になろうだなんて言ってくださったんですものっ!」
「そいつぁご機嫌で何よりだな」
「ええっ、この喜びを誰かに分けてあげたいくら――」
みさらは独演をぴたりと止めた。
背後から声が聞こえた。いくら浮かれていたとしても、それくらいは気がつく。
ただ、その声は男性のもので、しかも聞き覚えのある、できるならば二度と聞きたくはない、宿敵でなおかつ仇敵《きゅうてき》でなおかつ怨敵《おんてき》でもある、そんな忌々しい男の声――だったのだ。
「喜びを投げ売りしてるのなら俺にも一つ分けてもらいたいもんだな」
男は、振り向かずに固まっているみさらに軽い声で話しかける。
「…………」
「ん? どうした古伊万里。なぜ黙って歩き始めるんだ?」
みさらは、聞かなかったことにしようと心に決めた。そうと決まればこんな場所で立ち止まっている場合ではない、と足を進め始める。
「お〜い、古伊万里?」
(競歩の鍛錬もしておくべきでしたわ……)
とにかく、今はこの場を一刻も早く立ち去ろう。
「古伊万里ー?」
(聞こえない聞こえない)
「九月十二日生まれの古伊万里みさら――!? 趣味は親に教えてもらった陶芸、好きな食べ物は抹茶のアイス。嫌いなものは人参《にんじん》――」
(……!?)
「身長は百五十一、体重はよん」
――シュパッ。
「ぬぉぅっ!?」
鋭い手刀が明日野丈《あすのじょう》の首筋をかすった。それは研ぎ澄まされた刀の一振りを思わせる、殺意のこもった一閃《いっせん》であった。
「いっ、いきなり首狙いはないだろ……俺じゃなかったら再起不能になってるぞ?」
「まだまだ鍛錬が足りませんわね。仕留め損なうとは……まぁいいですわ、次こそは瞬く暇もなくその首を寸断してみせます」
空手、合気道といった武道にも通じているみさらは、素直に自分の未熟を認め、己の精進を誓う。そして再び歩き始めた。
「っておいおいそこまでやっておいてまだ無視する気か!?」
「気安く話しかけてこないでもらいたいですわね、情報屋」
丈から頑《かたく》なに目を逸《そ》らし、歩き続けるみさら。
「やれやれ。ずいぶん嫌われたもんだな、俺」
それを追いかける丈。
「当たり前ですわ。あなたは白姫会にとって最も危険視せねばならない人物なのだからっ!」
「俺が何をしたというんだ……」
「っ! 彼方様と毎日一緒に登校しっ、隙《すき》あらば様々な手管《てくだ》を用いて妙な衣装を着せっ、彼方様の多種多様な攻撃をその身に受けておきながら――ッ」
「いや、最後のはどう考えても羨《うらや》む部分じゃないと思うんだが……」
「それなのにっ、彼方様はなぜあなたのような男を慕うのでしょう!?」
気がつくとみさらは立ち止まり、丈の方を向いて怒鳴っていた。
そこはちょうど、大枝町のメインストリートとなる繁華街の中心。道はこの広場で四方に分かれ、それぞれ別の区画へと繋《つな》がってゆく。前は広場の中央に時計塔が建っていたのだが、現在は補修中とかで、大きな幕で覆《おお》われている。
みさらの微妙に理不尽な猛攻にさらされた丈は、伸ばした前髪をさらりとかき上げて答える。
「そりゃもちろん、俺と彼方は切っても切り離せない深い間柄だからな」
「なっ! よくもぬけぬけと……。明日野丈っ、やはりあなたはこの場で処理しておかなくてはいけないようねっ!」
手に力を込め構えるみさらに、丈が声を放つ。
「――じゃあお前は、どうなんだ」
みさらは眉《まゆ》をひそめ、「え?」と首を傾げる。
「お前はどうして彼方を追いかけるんだ?」
双眸《そうぼう》は前髪によって隠されているが、その視線はみさらをしっかりと捉《とら》えている。
いつもの軽率さは形を潜め、いつの間にか明日野丈は、真剣な姿勢で古伊万里みさらに向かい合っていた。
「それは……彼方様の並々ならぬ美しさに惹《ひ》かれた……から」
丈の雰囲気に気圧《けお》されながら、みさらは居心地の悪さを感じて視線を別の場所に向ける。
「本当にそうか?」
「!」
「俺には、それだけとは思えない。お前が彼方を見る目は、もう少し特別なものに見えるんだがな?」
「…………」
彼女は知らなかった。この少年がなぜ、学校内で妙な肩書きを持っているのか。
彼を情報屋≠スらしめている、一つの才能を。
「お前が彼方に尽くそうとする姿勢は単なる羨望《せんぼう》とかじゃなく、むしろ――」
それは類《たぐ》い希《まれ》なる、
「――恩返しみたいな感じに、近いんじゃないか?」
洞察力。
みさらは内心の驚きを隠せず、頑なにそらし続けていた視線を丈に合わせた。
「明日野、丈……」
彼女が真っ向から見返すと、丈はニヤリと笑って言葉を続ける。
「ま、直感だけどな。ただ、白姫会の規約作ったのお前だよな。会員の間では厳しすぎるって評判だが……あれ、彼方に迷惑をかけないようにかなり気を遣って作ってあるだろ? なにしろ本人がその存在を、つい最近まで知らなかったくらいだしな」
「……白姫会は、彼方様に迷惑をかけるためにあるわけではありませんから」
みさらは攻撃的な姿勢を崩し、丈の言葉に応《こた》える。
「ああ。だからこそお前は|普通じゃない《ヽヽヽヽヽヽ》と分かった。そこまで徹底して彼方に尽くすだけの|何か《ヽヽ》がお前の中にある、ってな」
丈はそこまで言って、言葉を切る。
ちょうどそのとき、時刻は十二時となった。いつもであれば時計塔の鳴らす機械音が鳴り響くのだが、象徴的なその音色は影を潜めてしまっている。
「明日野丈。あなたは――」
古伊万里みさらは、時の調べに代わり声を放つ。
「――天使って、いると思いますか?」
それは、ひどく短い問いかけだった。
[#挿絵(img/ノムE-1011-118.jpg)]
「……天使?」
突然出てきた不可解な単語に、さすがの丈も首を傾げる。
「それってあれか? 人間に羽が生えてて、頭に輪っかのある……」
みさらはその言葉に、
「まあそんな感じですわ」
と頷き、次の言葉を放つ。
「私は昔……天使と会ったの」
どう反応していいのか分からない、という様子の丈を見て、みさらは続ける。
「バカな話だと笑っていただいても結構よ。
でも私は、昔……確かに見た。光輝く、白銀の天使≠」
――それはまだ、みさらが小学校に入り立ての頃。古餌万里家は昔から厳格な気風で知られており、まだ幼かったみさらの教育にも、その影響は出ていた。
「私は毎日、学校が終わった後に習い事をしていた。様々な教養を身につけ、古伊万里の名に恥じぬ娘となるために」
「由緒正しい良家の子女、ってやつか」
「ええ。父や母は、私に大いに期待してくださっていましたわ」
両親のことを誇りに思っているのだろう。顔には尊敬の色が浮かんでいた。
「でも、私はある日――」
しかし、その表情もすぐに曇ってしまう。
「――その期待を、裏切った」
古伊万里の昔語りに、丈は黙って聞き耳を立てる。
「私は黙って家を、飛び出したんです。……家出、というヤツですわ」
「へぇ。お前にもそんな時期があったんだな」
「あの頃はまだ子供でしたから。……どうして毎日、遊ぶことを我慢して学ばなくてはならないのか――なんて、考えたものですわ」
中学一年の少女には不似合いな、大人びた笑顔を浮かべるみさら。それは昔を懐かしむと同時に、わずかな自嘲《じちょう》も込められているようだった。
「…………」
丈はその表情を見て、心の中で思う。
(なんとも小難しい顔して笑うもんだな……)
「……そのときの私は思っていました。この世の中には楽しいことなんて何一つなくて、ずっとこんな風に何かに縛られて、それが永遠に続くのだと」
「そいつはまた怖いことを考えたな……」
丈は苦笑しながら前髪に触れる。
「怖いこと……確かにその通りですわね。でもだからこそ、|あんなもの《ヽヽヽヽヽ》と出会ってしまったのかもしれない」
「天使、か?」
「いいえ。今となってはあまり覚えてはいませんが、とても――恐ろしいもの、だった気がする。家出をした私が、泣きながら走り続けて、帰る道も分からなくなるくらい走って……たどり着いた場所で、遭《あ》ったモノ……」
みさらは記憶の中にある光景をなんとか呼び起こしながら、言葉を選んでゆく。
「お化け、だったんでしょうか。黒くて大きな、あれは……」
「なるほど。家出をして、お化けに遭っちまったってワケだ。……それで?」
はっきりと思い出せない記憶に悩むみさらを、丈が促す。
「……笑いたくなる話ですけど、私は……そのお化けに襲われそうになったんですわ」
みさらはどうせ笑われるだろう、と思っていたが、予想外にも、目の前の男はこの話を真剣に聞いていた。戸惑いながらも、みさらは話を続ける。
「黒いお化けが近づいてきて、私が食べられる、と思ったとき……|それ《ヽヽ》は現れました」
曖昧《あいまい》な記憶の中に唯一、はっきりと残っているその色。
「桜色の光、でしたわ。……目も開けていられなくなるほどの」
みさらは瞳を閉じ、まぶたの裏に浮かぶその輝きを思い出す。
「その光は、私を飲み込もうとした黒いお化けを一瞬で消し去ってしまった。私はそれを見て、これはきっと天使に違いない、と思った」
「…………」
丈は右手を顎《あご》の下に当て、考えるような素振《そぶ》りを見せる。
「私は、すぐにどこかへ立ち去ろうとしたその天使に慌てて駆け寄って、一つお願いをした」
「お願い?」
「天使さん、私も連れて行ってください=v
「!」
丈の目が見開かれる。その様子を見たみさらはクス、と口元を歪《ゆが》め、
「今にして思えば、ものすごいことを頼んだものですわね」
心の底からおかしそうに笑う。
「その天使はそれで、どうしたんだ?」
「もちろん、連れて行ってはくれませんでしたわ。ただ――」
みさらは胸元で手を握り、
「――笑いかけて、くれました」
その記憶を大事に暖めるように、微笑《ほほえ》む。
「とても優しくて、楽しそうで、羨ましいくらいに純粋な……笑顔でした。これから何年経つたとしても、それだけは忘れません。あの笑顔は、暗く閉ざされかけていた私の心に光をくれた。……あんな笑顔があるのだと、教えてくれた」
「…………」
丈がまるで呟しいものでも見るかのように、目を細める。
「その後私は、探しに来た両親によって見つけられました。あとから聞いた話によると、私は発見されたとき、なぜか楽しそうに笑っていたのだそうです」
語り終えた彼女は、ふう、と軽く息を吐き、改めて丈を見た。
「と、まあこういう話なのですが……」
「……つまり、その天使ってのが彼方にそっくりだった、と?」
「正直、初めて見たときは心臓が止まるかと思いましたわ。もう七、八年前の話ですから彼方様のはずがありませんけど」
「なるほどな。でも、それならどうして白姫会を作ったんだ? 違うってのは分かってたんだろ?」
丈の質問に、みさらは顔を赤くして答える。
「……。初めは、似てると思ってただ遠くから見てるだけでしたが……その、ずっと目で追っていく内に……魅了、とでも言いましょうか……。殿方であるにもかかわらず、非の打ち所のない美貌……普段の柔らかな物腰、時折見せるワイルドな攻撃……どんな和楽器にさえ出すごとのできない、深い響きをもったかわいらしい声……」
たどたどしく言葉を紡いでいると――いきなり我に返った。
「なっ、なぜこの古伊万里みさらが、情報屋なんかにこんな話をしているのっ!?」
「惜しいな〜。もう少しで決定的な情報をものにできそうだったんだが」
人の悪い笑みを浮かべ、丈は言う。
「っ! あなたって人は、ほんとに人をたぶらかす天才ですわねっ!」
「ははは。そいつは褒《ほ》め言葉としてありがたく頂戴《ちょうだい》するよ――」
PM12:30 〜大枝町・白姫家〜
ぱく。
「あの〜……」
ごくん。
「かなちゃ〜ん?」
ひょいぱく。
「かーさまもお昼ご飯食べたいな〜、なんて」
ごっ、くん。
「あのね、あれはほんと事故みたいなものなの。というか、目の前であんな光景が広がってたら誰だって行かざるを得ない、むしろ行かない方がいろんな方面に謝らないといけないんじゃないかなって母様は思うのよ」
かちゃ。手に握っていた箸《はし》を置き、ボクは母(正座中)の方を向く。
「! 分かってもらえたかしら♪」
そして息を吸い、
「――分かるわけないでしょうっ!?」
声を、解き放つ。さきほどまで数十分に渡り変身したボクに叱《しか》られていた母は、体を縮こまらせて怒声を浴びる。
「まったくもう。母様はほんとに子供なんですから!」
ボクがそう言うと、やけに楽しそうな声で母が言葉を返してくる。
「あら失礼ねっ。これでも昔は天使さん≠ネんて呼ばれたこともあったのよ?」
「……? 天使? 母様が?」
たぶん今のボクは、胡散臭《うさんくさ》いものを見る目で母を見ていることだろう。
「ええ♪」
「悪魔ではなくて?」
「……ちょっとあとでじっくり話し合いましょうね♪」
「あわわっ、冗談ですってば!」
気がつくと隣に座っていて、ボクの分のお昼ご飯をつまみ食いし始めていた母は、どこか遠くを見つめながら呟いた。
「そういえば、元気かしらね? あの女の子……」
PM13:00 〜白姫家・彼方の部屋〜
「ふぅ。やっと落ち着いたよ」
食器を片付けた後に、ボクは二階の自室に戻ってきた。
「さて……と」
ボクはクローゼットを開き、着替える準備をし始める。
「ん? どっか行くの? かなたん」
モエルがベッドの中から顔を出し、聞いてくる。さっきの説教による恐怖のためか、布団の中に逃げ込んでいたらしい。怒っている間はあれだけ怯《おび》えていたというのに、少し間を開けただけでもうケロッとしている。
(まあボクも、もう怒ってないけどさ)
「……ちょっと、ね。作ったケーキ、留真《るま》ちゃんに持って行ってあげようと思って」
「ですの娘に……?」
ボクが留真ちゃんの名前を出した瞬間、モエルの顔が露骨に不機嫌になった。
「わざわざ隣町にまで届けてあげるだなんて、随分と心優しいんだね?」
「モエル……まだ留真ちゃんと仲良くできないの?」
出会ったときからモエルと留真ちゃんは犬猿というか、縄張り争いをする猫というか、とにかく好戦的だ。でも最近はその兆候も収まってきたと思っていたのだが……。
「……ふんっ。ほんとかなたんは鈍感なんだから」
「?」
ぷい、とそっぽを向いてしまうモエル。
(なんなんだろ……。訳が分からないのはいつものことだけど)
ボクは気を取り直し、クローゼットに並ぶ服からどれを着るか選ぶ。
母が次々と新しい服を買ってきてしまうため、ボクの持っている服はいつもバラエティ豊かである。しかし中には明らかに男が着るべきでないものまで混ざっているため、まともに着ようと思える服は少なかったりする。
「はぁ。またなんか増えてる……母様、買ってくれるのは嬉しいんだけど……」
見覚えのない一着を取り出してみる。
――ブラウス。
やわらかい生地で編み込まれた厚手のブラウスである。ゆったりとした作りは非常に好みなのだが、いかんせんそのデザインとしてちりばめられたフリルに問題がある。それはもうこれでもかと言わんばかりに波打ち、女の子らしさを強調している。正直、すごくかわいいと思う。
「って、かわいくてどうするっ!」
取り出した服を元通りクローゼットに戻す。次に、その隣にあった服を取り出す。
――制服。
純白のワイシャツには胸ポケット、特徴的な三角の襟《えり》、胸元を飾るリボンタイ。スカートは紺色。かなり正統派な組み合わせだ。これはどう見ても、
「セーラー服じゃないかっ!」
突き返し、ボクはげんなりとした。正直、これ以上見るのは無駄に疲れるだけのような気がする。
(いや、でも母様だってこんなネタばかり仕込んでるわけじゃないはず……!)
ボクは一縷《いちる》の望みを抱き、次の服を手に取った。
――なんか透けてる。
「論外ッ!」
勢いよく、なんかいろいろ透けている衣装を封印した。
「……かなたん、ツッコミの訓練でもしてるの?」
モエルが大きな瞳でこちらを見ていた。
「母様ったら、もう……」
いたたまれない気持ちの中、ボクは無難な服を選ぽうとして、
「あ……」
奥の方にしまってあった、一着の衣装を見つけた。
「これは……」
透明な衣装カバーに包まれた――|コスチューム《ヽヽヽヽヽヽ》。
ワンピースをベースにしつつ、小物のベルであちこちを飾るという奇抜な衣装。それは外に着て行くにはあまりにも派手すぎて、普通の用途では使われない服だということが分かる。
「? かなたん、それって子供がよく欲しがるような変身ヒロインの衣装ってやつ? こなたんもほんと好きだね!」
「ううん。……これは母様じゃないよ」
そう言うと、モエルは少しだけ驚いた顔をして聞いてきた。
「え? じや誰の?」
ボクは、手に取ったその衣装を胸に抱きしめ、言葉を紡ぐ。
「これはね――」
PM13:30 〜大枝町・繁華街〜
「〜〜〜っ! どうして貴方は私の行く先々に付いてくるのよっ!?」
古伊万里《こいまり》みさらは、衆目の中であることも気にせず大声を張り上げた。
「んー、まあ暇だったしな。情報収集?」
明日野丈は近くにあった女性物の服を手に取ると、「お、これ彼方に似合いそうだな」などと呟き、しげしげと眺める。
そこはいわゆるブティックの中であった。しかし高級というわりにはどこかアットホームさがあり、客層も若い女学生から壮年の婦人に至るまでと、とにかく広い。商店街の中にある誰でも気軽に入れる店、という印象だ。
しかしそれでも一応は女性物の服を扱う店である。そんな中に平然と入り、しかも女性用の服を手にとって眺めている男子中学生の姿というのはかなり物珍しい。
――現に、明日野丈は周りからの奇異の視線にさらされていた。
「情報収集は結構だけど、貴方さっきから目立ってるわよっ!?」
ふむ、と丈は一つ頷き、みさらに告げる。
「今はお前の方が目立ってると思うぞ?」
「ッ!?」
さらりと言った丈の言葉に、みさらは恐る恐る周囲を見回す。
……店員、店内の客、ほとんどの視線が、ついいつものように大声を放ってしまったみさらへと注がれていた。それが単なる興味本位な視線ならまだいい。しかし、見ている客の言葉の中には「なんだ? 痴話げんかか?」などというみさらにとって心外極まりない、無礼千万な憶測までもが混ざっていた。
カァッ、と顔の熱くなるみさら。
「あ、明日野丈っ! こっ、こっちに来なさいっ!」
「おい、服はいいのか?」
「いいから来るんですっ!」
結局彼女は、丈の腕をあらん限りの力で握りしめ、そそくさと店から出て行く羽目になってしまうのだった。
「嫌がらせのつもりっ!?」
繁華街から少し離れた場所にある公園にまで丈を引っ張ってくると、みさらは改めて怒鳴った。
「これはまた人聞きの悪いことだな。俺はただ古伊万里家のお嬢様の日常という奴を密着取材しようとしただけなんだが」
丈は大げさに肩をすくめる。その風に揺れる柳のような演技くさい動きに、みさらはさらなる怒りを募らせる。
「密着取材なんて認めた覚えはないですわよっ! ……こうなったらもう、古伊万里の作法に則《のつと》りこの邪魔者を排除するしかっ!」
パンパンッ。みさらが手を叩くと、彼女の背後に黒い影が現れる。よく見たらそれは黒いスーツを着た古伊万里家専属のSPだったりするのだが、とにかく次の瞬間には、彼女の手に長く鋭い獲物が握られていた。
「覚悟――っ!」
ぶぉんっ、と風を巻き上げる、薙刀《なぎなた》。
「――冗談だよ」
彼女は武器を構えたまま、動きを止める。
「……え?」
「密着取材ってのは冗談だ」
突然の肩すかしにみさらはついていけなかった。その隙《すき》を突くように丈はさらさらと言葉を放ち、並べ立てる。
「さっきお前に関する情報をもらったろ?情報屋≠ネんて呼ばれている俺としては、単純に餌《えさ》をもらうだけじゃ美学に反するんでね。……情報には情報を。というわけでお前の知りたいことを何でも教えてやろう、と思ってな」
「なっ……なんですって……!?」
警戒心むき出しのまま、動揺を見せる少女。
「ふっ。彼方に関することなら身長から体重、肩幅から靴のサイズまで網羅《もうら》しているぞ。ちなみにあいつのスリーサイズはすごいぜ?」
差し向けた刃先が震える。彼女の手の動きが伝わった結果だった。
「白姫会ですら把握できていない彼方様のスリーサイズを……貴方如きが……! 腐っても情報屋、その肩書きに偽りはないといったところですわね……!」
ごくん。みさらは喉《のど》を鳴らし、目の前の男がちらつかせる武器≠ノ囚《とら》われそうになる。
「さあ、どうするかな!?」
実体のある武器を突きつけられているというのに、明日野丈という男は揺らがない。それは自身の持つ能力に絶対の信頼を持っているからであり、なおかつそれに命を賭《か》ける覚悟を持っているからでもある。
「――……」
追い詰められた表情をしていたみさらが、ゆっくりと薙刀を下ろす。
そして、言った。
「……いいでしょう」
「商談成立、だな。さあ何が知りたい? 白姫会の広報誌にすら載っていない彼方のマル秘情報もあるぜ?」
「いえ、情報は結構です」
みさらは首を横に振る。
「? なんだ、それなら彼方の――」
静かな声が、丈の言葉を遮《さえぎ》った。
「なぜ貴方は彼方様を追いかけるのですか?=v
それは、つい先ほど明日野丈が古伊万里みさらに向けて投げた問い、そのままだった。
「…………」
「私からしてみれば、貴方と彼方様の関係の方がよほど不思議だわ。貴方はいつも彼方様を怒らせてばかりだし。……それなのにどうして――」
そこで言葉を止め、彼女は丈の目を見た。
伸びた前髪のせいでよく見通せない、双眸を。
二人の間から言葉が消え、みさらはただ丈を見据え続ける。
「――それが俺のやるべきことだからだ」
「!」
いきなり放たれた声に、みさらは驚いた。
彼女が丈に抱いているイメージは、軽率で強引、いい加減で小賢《こざか》しい、などなど良い印象の欠片《かけら》もない状態だったので、突然の――真摯《しんし》な想《おも》いを秘めた声に、拒絶反応すら示してしまう。
(いつもは腑抜《ふぬ》けた顔をしているくせに……)
やるべきことだから、と断言した彼の表情からは凄《すこ》みすら感じる。前髪の間から覗《のぞ》く切れ長の双眸《そうぼう》が、彼女の瞳を捉《とら》えている。その鋭さはまるで、
(研ぎ澄まされた真剣のような……!)
もしかしたら自分は、情報屋≠ニいう男の、もっとも深い場所に触れてしまったのかもしれない――。
「な〜んてな?」
――などと本気で考えていたみさらの目の前で、丈はいきなり破顔した。
「はっはっは。ちょっと格好良かったろ?」
いつもの彼らしい、軽々しい表情へとわずかゼロコンマ一秒で舞い戻っていた。
「……は?」
「期待させたみたいで悪かったが、俺と彼方の関係には大層な理由なんてありゃしない。ただ普通に仲良くなっただけだよ」
「…………」
「はははは。そんな今にも突き殺してやる、って顔するなよ痛てててて刃先がめり込んでるめり込んでる」
「驚いて損しましたわ……。本当に初めてです、練習用の模造刀でなるだけ時間をかけつつ叩き斬りたいと思った男は」
刃先でチクチクと丈の頬をつつきながら、みさらは溜息を吐くのだった。
Other side.白姫彼方
「好きだ」
その男との出会いは、こんな告白から始まった。
「……え?」
時刻は夕暮れ時の放課後。
場所は体育館裏。学校内で人目につかない場所といえば、必ずと言っていいほど挙げられるスポットのひとつだ。下駄箱に手紙という古風な手で呼び出されたボクは、少し不安に思いながらも素直にそこに向かっていた。
そうして起きた出来箏が、
「お前が好きだ!」
この――いわゆるところの告白、であった。
「あ、う……?」
それを言われた瞬間のボクの頭は、液体窒素でも浴びせられたかのように凍結してしまっていた。
「俺と付き合ってくれ」
そんなボクの頭を溶かそうとするかのごとく、その男は言葉を紡ぎたてる。
正直、ほとんど知らない人だった。もしかしたら何度か学校内で見たことはあったのかもしれない。けれどボクの中には印象として残っていない……そのくらい距離の遠い人であった。
「えと、あの、どうして……」
本当はすぐにでも断り、その場から逃げ出してもよかったのかもしれない。けれど、ボクは尋ねてしまっていた。
彼の細い瞳の中に宿る――本気の色に、魅入られて。
「ボ、ボクなんかのどこがいいんですか……?」
その頃のボクは、自分に自信が持てず周りから浮いていると思い込んでいた。だからこそ友達という友達も作れず、クラスの中でも一歩引いた立ち位置になっていたのだと思う。
彼はボクの質問に、こう答えた。
「全部! お前の眼、鼻、口、耳、頬、首、肩、腕、指、胸、腹、腰、腿《もも》、膝、脛《すね》、足、髪の毛先に至るまで! ――すべてだっ!」
「うわぁ、このひと無駄に情熱的だよぅ……」
ぶっちゃけ怖かった。
「さぁ返事をっ! いいえ、いやだ、ノー、お断りします以外でっ!」
拳《こぶし》を熱く握り締め、ジリジリと迫ってくるその男は、初めて出会うタイプの人間だった。
「えぅ……なんて強引な……。……でもほら、ボク、こんなに小さいし……」
「構わんっ! むしろそのままでいてくれ!」
力強く即答する。
「髪の毛だって……普通じゃないし……」
「構わんっ! それがお前の色だろう」
またも即答。
「! ……で、でもっ、そんなこと言われても……」
彼の熱意に、ボクは完全に圧《お》されていた。うっかり間違えばイエス、と言ってしまいそうなノリと勢いであった。
しかし、これだけはどうしようもない、最大の障害がある。おそらく彼は勘違いしているのだろう。この外見だから無理はないのだが。
「でもその、ボク……」
――もしかしたら傷つけてしまうかもしれない。彼の心に、癒《い》えない傷を残してしまうかもしれない。ここまで強く自分に好意を抱いてくれる人を、失望させてしまうかもしれない。
言うべきなのか迷った。このまま何も言わず断ってあげた方が、彼にとっても後腐れなく終われるのかもしれない。
「……男の子……なんだよ?」
でもボクは、言ってしまった。
そうしなければ失礼だと思ったから。強く自分に好意を抱いてくれているからこそ、嘘なんてつきたくはないと思った。たとえそうすることによって自分が避けられるようになったとしても。
ボクの告白に、彼は即答する――。
「――構わぬっ!」
その声は空にまで駆け昇り、彼方の宇宙にまで届いてしまったかもしれない。
「構わぬ……ってえええええっ!? そこは構ってよ! っていうかなんでそこだけ武士っぽいの!?」
困ったことに、何の障害もなくなってしまった。
なんかもうノンストップな勢いのその男は、ボクの手を握りしめ、
「俺はお前が好きだって言ってるんだよ、白姫彼方」
「っ! へっ変態さん!? 変態さんなの君はっ!?」
なんとなく気づいてはいたが、もしかしたらかなり危ない人なのだろうか。
「……そっくりなんだ」
ボクの手を取ったまま、彼はうっとりとして呟いた。
「は?」
「そっくりなんだよ……」
なんだか彼の様子がおかしい。いや、最初からだったが。何か妙な邪気でも溜《た》めているかのような時を経て、彼は叫んだ。
「――魔法少女ミリオン――ベル≠ノっ!」
「……は?」
「もし、オーケーなら」
彼はボクの手を離し、傍《かたわ》らに置いていた自分の鞄《かばん》に手を突っ込んでごそごそと漁《あさ》り始める。
「ちょ、ちょっと待ってください、何ですかその魔法少女って――」
「――この衣装を着てくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
どどーん。
効果音にして表すならこんな感じだろうか。
彼は自身の鞄の中から取り出したそれを、両手で広げて見せていた。
極めて独創的な衣装。たくさんの小さな鐘が、花びらのように群をなして咲き誇っている、そんなデザインの……コスチューム。それを見た瞬間、既視感に襲われた。
(なんか、日曜日の朝に母様がこんなのを見ていたような……)
どんな内容だったか思い出そうとしていると、彼がさらに白熱した声で語り始めた。
「いいか、ミリオン=ベルってのはある日道ばたの花に話しかけられた主人公の少女が、福音の鐘――マジカルベルを渡されたところから始まる物語だ。彼女はそれを手にした直後、街に襲い来る災厄《さいやく》の鐘と戦う運命を背負うワケなんだが――」
なんだか話が訳の分からない方向に逸《そ》れてしまっている気がする。
「あ、あの……!?」
「――注目すべきは変身したあとの戦闘でな。彼女は基本的にマジカルベルで戦うワケなんだが、既存の魔法少女モノとは一線を画す、いわゆる肉弾戦がメインとなっているんだ。しかも彼女の武器は巨大化した鐘、それを鈍器のようにして振り回す姿はそれはもう――」
「…………」
どうやらまったくこれっぽっちも聞こえていないらしい。とりあえずこのまま放っておいて立ち去ろうかとも思ったりしたのだが、さすがにそれは心が痛む。
ボクはそのままおとなしく話を聞き続け、ミニスカートについて彼が熱く迸《ほとばし》る思いを語り終えたところで、ようやく話しかけることができた。
「……やっと終わりました?」
「ああ。満足だ」
口の端を右腕で拭い、不敵に笑う。ボクは頭が痛くなりながらも、確認した。
「えーとつまり、ボクがそのみりおんなんとかにそっくり、というわけですね?」
「おう!」
気持ちの良い返事だ。続けて聞く。
「それで、付き合ってくれ……つまりその手に持っている衣装をボクに着てほしい、と」
「おうっ!」
見た目は涼やかなくせに暑苦しい男だ。
「…………」
ボクはとりあえず、無言で彼に向かって笑いかけた。にぱ、と自分のよく知る人の真似をしてみながら。
その笑顔を受けた彼は、喜ばしそうに顔をほころばせると、
「着てくれるんだなっ!?」
と、拳を天に突き上げた。
ボクは、
「誰が――」
拳を握りしめ、
「そんなもの――」
大地を蹴《け》り揺らし、
「――着るかばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
彼の腹部に叩《たた》き込んだ。
「うごふっっっっっ!」
二回転半。彼はアクロバティックに転がり、その場からすっ飛んでいった。
攻撃を受ける直前、彼が上に向かって放り投げていた衣装をボクはつかみ取る。
(直撃を受けてまで衣装は守るなんて……いろんな意昧ですごいな、この人……)
ボクは何となくそのコスチュームを見つめて――気がついた。
(これ、もしかして……手作り!?)
形はしっかり整っているが、よく目をこらして縫い目などを見てみると、所々に乱れやほつれがある。
[#挿絵(img/ノムE-1011-144.jpg)]
(ボクに着てほしいからって……わざわざ……?)
「へ、へへ……いいパンチだ……だが俺はまだ倒れちゃいねえぜ……っ!」
ダウン寸前のボクサーを彷彿《ほうふつ》とさせる動きで、彼は立ち上がっていた。
「どうして……そこまでして……?」
訳が分からなかった。どうしてこんな、絶対に断られると分かっていることに手間を費やし、殴られてまで……立ち上がるのか。
すると彼は不敵に微笑み断言した。
「……笑ってほしいからだ」
「え……!?」
「いつもクラスの中で一人、悲しそうな顔をしてた奴がいる」
「!」
「そいつは、誰よりも人の気持ち……。想い≠ノ敏感な奴だ。だから、周りが自分をどんな目で見ているかを知って、素直に笑うことができない」
心臓が跳《は》ねた。彼が言っているのは――。
「俺は、そいつの笑顔が見たかった」
真剣な目をしていた。想い≠ェ、痛いくらいに伝わってきた。
「俺の知ってる魔法少女……ミリオン=ベルはいつだって笑ってるんだ。だったらそいつにも、その格好をさせれば――魔法少女になれば、笑ってくれるかもしれない。そう、思ったんだ」
「……ボクの、ために……?」
彼は、明確な返事をせずにボクに言ってきた。
「その衣装……受け取ってくれよ。別に着てくれなくても構わない」
苦笑すると、彼はボクに背を向けた。そして足下の鞄を手に取り、さっさと歩き始めた。
「あ、ちょっと……!?」
最初からなにもかも、強引な男だった。今もまた、言うだけのことを言って勝手に去ろうとしている。
「ねぇ……っ!」
ボクは夕日を浴びながらすたすたと去りゆくその背に、叫んだ。
「名前くらい教えてよ――っ!」
彼は右手を軽く振りながら、立ち止まらずに言った。
「――明日野、丈だ」
この日から、ボクの日常にとても迷惑で、とても大切な友人が――加わったのだ。
PM14:00 〜白姫家・彼万の部屋〜
「へぇ……あの彼、昔からあんな感じだったのか」
昔話を終えると同時に、モエルが言った。
「うん。むしろパワーアップしてるくらいだよ。……悪い方向に」
ボクは苦笑いを浮かべ、腕の中にある衣装を見つめる。
「不思議には思ってたんだよね。かなたんってあの手の押しが強いタイプの人、すごく身近にいるでしょ? なのにどうしてさらに他にも付き合ってるんだろう、ってさ」
「あはは……押しが強いタイプに弱いのかも?」
冗談めかしてボクが言うと、モエルはキリリとまじめな声で即座に切り返してきた。
「ああ、よく分かる」
「……そこは否定してよ」
納得されてしまうとすごく切ない。
ボクは取り出した衣装をクローゼットへと丁寧に仕舞《しま》いなおし、静かに語る。
「でもさ……丈君はいつもふざけてばかりに見えるけど、ほんとはすごくいろいろなことを考えてて、いつだってそれを誰かのために役立てようとしている……なんとなくそう思うんだ」
「かなたんにそこまで信頼されるなんて……本人に聞かせてあげたいね」
ボクはそれを「冗談じゃない」と一蹴《いつしゅう》すると、
「こんなこと真っ正面から言ったらそれこそ悪のりして大変なことになるよ。また変な格好させられて、訳が分からないうちにアイドルデビューでもさせられちゃいそうだね」
彼の口八丁、手八丁は我が家のわがまま姫に勝るとも劣らない。母様と違うのは、力|尽《ず》くではなく搦《から》め手で攻めてくるところだろうか。
「……まぁそれに多分、彼ならきっと言葉にしなくても察してるんじゃないかな」
「ふぅん。いいね、そういうの。……男の友情、ってやつ?」
「そんな格好いいものでもないと思うけどね……」
モエルの羨ましげな視線に照れくさくなり、ボクは顔を窓の外へと向ける。
――昼間の空はまだ、青々と広がっていた。
PM17:00 〜大枝町・古伊万里邸前〜
「やっぱでっけぇなぁ……」
明日野丈は自分の眼前にそびえる建造物を前に、そんな呟きを漏らした。
そこには広大な敷地を利用して作られた和風の建物がある。大枝町の古くより存在し続ける、古伊万里家のステータスをそのまま表していると言ってもよい、巨大な家であった。
「……結局、一日中……」
みさらはふらふらと自宅の白塗りの外壁に手をつく。
「どうした、随分と疲れてるみたいだな!?」
誰のせいだと思っているんだ、と叫ぼうとして、みさらは慌てて口をつぐむ。今日一日で彼女の身に刻まれた経験は、確実に古伊万里みさらを大人にしていた。
(この男には……何を言っても無駄ですわ……)
それはほとんど達観の境地であった。
「……まさかあなた、このまま家にまで押しかけるつもりではないでしょうね?」
激しく嫌な予感を感じ、みさらはおとなしく家に入ることができずにいた。
丈はそれを察していたらしく、
「さすがにそこまではしないさ。……ま、今日は良い暇つぶしになったぜ」
「暇つぶしですって!? ……いえ、もういいですわ……」
一瞬は怒りが爆発しそうになったものの、それすらも一瞬で押さえ込み、彼女は平静を取り戻す。
(……明日野丈の要注意レベルを上げねばなりませんわね……)
脳内ではそんなことを考えながら。
「それでは、私は失礼させていただきますわ」
「おう。じゃぁな」
彼女は足早に去ろうとする。丈もそれをおとなしく見送る。
(やっとこの男と別れられますわ……)
みさらは清々とした気持ちで、自宅の軒先をくぐり――」
「…………」
――立ち止まった。
彼女の頭の中にあるのは、今日のこと。結局何がしたいのか、何が狙いだったのかまったく分からなかった一日のこと。
でも、少なくともあの男は――話しかけてきた。
一方的に嫌っている自分に向かって、気安く、図々しくありながらも。そこに何か深い意味があった、などと考えるわけではないが……。
あの男はいつだって、彼方の傍《そば》にいる。大げさに騒ぎながら、毎度のごとく彼方を巻き込んでいる。しかし、それに巻き込まれている彼方はいつも――笑っているのだ。彼女がまぶしい、と感じてしまうくらいの微笑みで。
(私では、あんな風に笑わせて差し上げられない……)
――きっとあの男は知っているのだろう。
白姫彼方という友人が、どんなことに喜び、怒り、哀しみ、楽しむのかを。
明日野丈という男は、もしかしたら自分が考えている以上に彼方のことを思っているのかもしれない。
だからこそ今日一日、敵とも言える自分と――仲を深めようと、したのかもしれない。
……やり方は随分とぶしつけで失礼極まりないが。
(彼方様は……私と情報屋が争っていたとして、喜んだりするはずないですわね。いいえ、きっと悲しみますわ)
――明日野丈は、白姫彼方を悲しませるようなことはしない。
(なら、私は……?)
「っ!」
彼女は振り返り、一度くぐった軒先を舞い戻った。そして、
「明日野丈っ!」
道の先を真っ直ぐに歩いてゆくその男に、大声で叫んでいた。
「?」
数十メートルも離れた位置で、丈は振り返る。
そこでみさらは考えた。自分は一体、何を言おうとしているのかを。
(今日は一日、楽しかった? ……違いますわ)
「えー、その……」
(これからは仲良くしましょう? ……自信がありません)
「つまりは、ですね……」
(彼方様の前では仲良くして差し上げます!? ……そんなの、意味ありませんわ)
「? どうしたんだ?」
不思議そうな顔をして、丈が声を掛けてくる。
(こういうとき、どうすれば……ええと)
おそらくは簡単に仲良くなることなどできないだろう。
けれど、この男には負けたくないと思う。
その想いをそのまま言葉にすると、
「いつか貴方から、彼方様を奪って見せますわ! 覚悟していなさいっ!
貴方と私は――ライバル≠ネのですからっ!」
これが、古伊万里みさらの出した結論だった。
敵≠ナはなく……ライバル=B
「彼方様を思う気持ちでは負けないわっ!」
近所にも響き渡る大声で、古伊万里みさらは明日野丈へと人差し指を突きつける。
彼女の視線の先にいるその男は、
「……ふっ。そいつあ大きく出たもんだな」
そう言っておもしろそうに笑ってみせると、そのまま再び振り返り、歩き始めた。
ゆっくりと沈む夕日に彩《いろど》られ、明日野丈は去ってゆく――。
PM18:00 〜大枝町・とある場所〜
留真ちゃんにケーキをお裾分《すそわ》けした帰り道で、ボクは見知った顔を見つけた。
「あれ? 丈君?」
おそらく家に帰ろうとしていたのだろう、彼は一つの方向に真っ直《す》ぐ向かっていた。
「ん? おお、彼方じゃないか」
ボクが声を掛けたことで足を止め、すぐにこっちを見る。ボクは小走りで彼の元に駆け寄ると、その細い瞳を見上げながら聞いた。
「どうしたんです? こんなところで」
「……いや、古伊万里追っかけてたらな」
彼の答えは、ボクが首を傾げるのに十分な内容であった。
「は? 古伊万里さんって……古伊万里みさらさん、だよね? ……それはいつもの情報収集ってやつですか?」
興味のある対象を見つけると追いかけてしまうという、彼の悪い癖の一つ。情報収集に掛ける熱意は理解したいところではあるのだが、ちょっとばかり周りを見てほしかったりもする。
「さすが彼方、俺のことをよく分かってるな」
「その褒められ方はあまり嬉しくないよ丈君。どーせまた古伊万里さん怒らせたんでしょ。仲良くしなきゃだめですよ?」
ボクの説教っぼくなってしまった言葉に、丈君は「ふっ」といつもの不敵な笑みを浮かべて呟いた。
「……貴方と私はライバルなのですから=Aか」
「? なんですそれ?」
誰かに言われた言葉なのだろうか、とボクが考えたそのとき、丈君はいきなりボクの目を見つめ、はっきりとした声で言った。
「俺と古伊万里はお前を奪い合うライバルだっつーことだな」
「???」
意味が分からないのはいつものことだが、今日はいつにもまして拍車がかかっている。
「いやいやおもしろい奴だよ、アイツもな」
さっきから言っているのは古伊万里さんのことなのだろうか?
(……でも、古伊万里さんって丈君におもしろいとか言われるタイプの人かな……?)
「う〜ん……う」
よく分からなかったが、ひとまずボクは彼に提案する。
「まぁなんにせよ、歩きながら話しませんか? どうせ帰り道は一緒なんだし」
「おう。もちろんだ」
快い返事を返してくるボクの友人は――、
――いつものごとく前髪をかき上げ、不敵に笑うのだった。
[#改ページ]
おまけ2 山のように豊かに
温泉宿山豊庵《さんぽうあん》=B
清々しい空気と青々とした自然、こんこんと湧《わ》き出る命の湯。
知る人ぞ知る、だが知るためにはある条件を必要とする。
――そんな、秘境の名宿。
月も眠りにつく深夜、岩で組み合わされた浴場にて、とある夜会が中盤にさしかかっていた。
「と、いうわけでるまちゃん」
「はいですのっ!」
「……二人とも、すっかり連帯感持っちゃって……」
すっかり意気投合した此方《こなた》と留真《るま》を見ながら、モエルが優しい瞳をして呟《つぶや》いた。
「たった今、わたしたちの指標となる先生が到着されたわっ♪」
「先生ですの!?」
大きく驚いてみせる留真。
此方は湯船からざばん、と立ち上がり、右手で浴場の入り口を指した。
「先生っ! どうぞお入りくださいっ♪」
高らかな声で合図をすると、入り口から一人の女性が姿を現す。
「みんな元気かなっ? 今日はよろしくね生徒たちっ!」
すらりと伸びた背丈、要所要所で体のラインを引き締めながらも、出るところは出ているという欲張りなスタイル。ライトブラウンのポニーテールが特徴である彼女は、
「幾瀬《いくせ》さんっ!?」
――今回の旅行に参加したメンバーの一人、幾瀬|依《より》であった。
「ふむ。確かに彼女のスタイルはバランスの良い、一種の|理想型《きょにう》≠ゥもしれないね」
頷《うなず》きながらモエルが呟く。
依は、
「かわいいかわいい生徒たちの頼みとあれば、この依おねーさんはいくらでも力を貸しちゃうよっ?」
ものすごくノリノリで、湯船の中にダイブした。その激しい動きの中で、彼女の持つたわわな果実は大いに揺れ、その力を見せつける。
「……これが……」
「|理想の未来《きょぬー》=v
留真、そして此方は息を呑《の》み、自らに視線を落とす。
「……これは……」
「|すべての原点《ひかえめ》=v
同じ理想を共有する二人は手をつなぎ、顔を見合わせて頷いた。
「お願いです先生っ! どうしたらそんな風になれるのか、教えてくださいっ!」
「教えて欲しいですのっ!」
二人の切なる叫びに、依は深く頷き、不敵に笑いながら口を開いた。
「――正直、何もしてなかったりっ!」
彼女の宣言は軽くエコーがかかって夜空へと飛んで消えた。
「…………」
「…………」
「教えてあげたいのは山々なんだけどねっ? どうしたらいいのか分からないんだよー」
「…………」
「…………」
「あ、あのね? ほんとなんだよ? おねーさん別に何も特別なことなんてしてないのに勝手に|こんな風《わがまま》≠ノ育っちゃっただけで……」
「…………」
「…………」
「あれっ? どうしてそんな感情のない眼でこっちを見るのかなっ? 此方さん? 留真ちゃん? ……あ、そうだ! 月並みだけどここは牛乳とかどうかな? やっぱり基本は牛乳だと思うの!」
「…………」
「…………」
「あ、あの……そろそろなんか言ってくれると助かるかな? おねーさん、すごく今申し訳ない気持ちとか逃げ出したい気持ちとかでいっぱいなんだけど……」
依は全身に浴びせられる冷水のような視線に、心まで凍り付かされそうになる。
「……るまちゃん」
「……此方さん」
二人はお互いを見つめ、ゆっくり頷く。
そして、
「此処《ここ》に芽吹け、命の花=v
「絶《た》えなく廻《まわ》れ、金華《きんかほ》の焔《のお》」
意味|在《あ》る言葉を、合唱した。
「……え? え? どうしてオリジンキー呼ぶのかなっ!?」
顔を真っ青にして、依は少しずつ後ずさりを始める。だが悲しいことに、湯船の広さも無限ではない。数歩ほど下がったところで、縁にたどり着いてしまう。
「っ、逃げ場が……!?」
本能的な恐怖に怯える依。
そこに、二人分の怨嵯《えんさ》の声が放たれた。
『その胸――小さくしてあげる』
「おっ、落ち着いて二人とも!? そのわきわきしてる両手は何!? そんな強化された力で捕まれたりしたら、いくらおねーさんでも……っ!」
「声なんて届きやしないよ。……キミは、彼女たちにとってもはや敵でしかないのさ」
今までのやりとりを傍観していたモエルが、クールに告げた。
「猫ちゃんっ! なんとか助けてもらえないかな!?」
「残念だけど。今の二人を止められる気はしないし、そもそも――」
モエルの口元が吊り上がり、研ぎ澄まされた牙が姿を現す。
「――おいらだってその胸には、いろいろと思うところがあるんだよ……?」
大きなルビーアイの中に、依は確かな憎しみを見た。
「っ、猫ちゃんまで!? あわわわわっ! ごめんなさいっ! 出来心だったのっ! ちょっと先生とか言われてみたかっただけなのーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
断末魔の叫びが、夜を駆け巡る――。
[#挿絵(img/ノムE-1011-162.jpg)]
[#改ページ]
少女な彼方《かなた》の一週間
「ん……ふわぁ……」
乳白色のふかふかベッドから体を起こし、右腕を大きく伸ばす。
背筋が伸びてゆく気持ちよさに加え、体に活力が漲《みなぎ》ってくるのを実感する。
「朝、か……」
なんとも体は正直なもので、まだ少し眠い。まぶたは重く、このままもう一度布団に身をゆだねたら、どれだけ幸せな気分になれることだろうか。
(それにしてもずいぶん寝ちゃったな。昨日は家に帰り着いてすぐ、寝ちゃったしね……)
朝からこんな風にだらりとした気分になっている理由はいくつかある。
――まず、一昨日開催された大枝中学校文化祭。
我らが一年B組の出し物はコスプレ喫茶だったのだが、開催前に隣のクラスに挑戦状を叩《たた》きつけられ、否応《いやおう》なく売り上げ対決なんてことをする羽目になってしまった、しかもその勝負に賭けられたのはボク自身。なんとか話がまとまったのは良かったものの、いろいろと精神的に疲れることばかりやらされた気がする。
――そして、昨日の死闘。
突如大枝町近隣を覆った謎の壁。その内部に閉じ込められてしまったボクたちは、世界の調和を乱す異形《いぎょう》――ノイズが無限に出現する領域の中で、文字通り死闘を繰り広げることになったのだ。
どちらも精神的、体力的に堪《こた》える出来事だった。
(でもこうしてまた、朝を迎えられてほんとに良かった)
ボクは布団を体の上から退けると、フローリングの床に足を付ける。
「冷たっ」
布団の中で温まっていた足の裏がひやりとした木の感触を受け止め、全身にその冷たさを伝えてくる。
「……もうすっかり寒くなったしね」
ボクはそんなことを呟《つぶや》きながら、ベッド脇に置いてある鏡台の前に腰を下ろした。目の前にある、上半身を丸ごと映し出すことができる鏡で、自分の姿を確認する。
幼さが抜けない顔、これからすくすく成長する(はずの)体、腰まで達する白銀の髪。
(あはは、寝ぐせがひどいや)
そう思いながら自分の胸に手を置き、苦笑する。
ふに。
「?」
何気なく行った仕草だったのだが……手に、妙な感触が返ってきた。
ボクはその違和感に小首を傾げ、自分の右手を見つめてみる。
「……?」
そしてもう一度、胸に手を当ててみた。
――ふに。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!?」
ほのかに柔らかい感触。
それに加え、ほどよい反発力。
「なっ――」
ボクは、自分の胸に|あるはずのない感触《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をはっきりと感じ、
「なにっ、これぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーッ!?」
――とりあえず、大声で叫んでみたりしたのだった。
「母様かあさまかぁさまかーさまっ!」
ボクは朝の日課のすべてをかなぐり捨て、叫びながら脇目もふらず一階へと下りた。階段を下りてすぐのキッチンへと向かい、室内を大声で満たす。
「大変なんですっ!!!」
朝食の準備をしていた母が、キッチン奥から姿を現した。
「も〜。かなちゃん、母様は何回呼んでも増えないわよ?」
にぱにぱと、ボクの慌てぶりが馬鹿馬鹿しくなってくるくらいのパーフェクトスマイルである。ウェーブのかかったふわふわの銀髪に、ピンクでフリルなエプロンがよく似合っていた。
慌てず、動じず、喜怒哀楽のおいしい部分だけをかっさらっている母――白姫此方《しらひめこなた》。
「……あ、でもかなちゃんが増えて欲しいっていうなら母様考えちゃう♪」
歳《とし》を重ねるということに反逆でもしているのか、この白姫此方という人はいつまでも幼く無邪気で純粋で、本当は妹なのではないかと疑いたくなる。
「意味が分からない上に想像しただけでも恐ろしい切り返しはいいですっ! そんなことよりこれっ、どういうことですかっ!」
「そんなことだなんて失礼ねっ。母様が増えてほしくないの?」
腰に手を当て、ぷんぷん、とコミカルな擬音が空中に浮かびそうな仕草で頬《ほお》を膨らませる母。人の話を聞かないのはいつものことだが、こういう緊急事態では非常に困る性質だ。
「あぁもう母様っ、ちゃんと聞いてくださいよ! どういうことなんですか、コレ≠ヘっ!」
自分の胸を指さして、ボクはもう一度聞いた。
母は「これ?」と首を傾《かし》げてとぼけて見せる。そして改めてじっとボクの胸を見つめたあと、思いついたかのように手を伸ばしてきた。
――さわっ。
「んゃっ!」
突然だったので変な声が出てしまった。
「いっ、いきなり何するんですかっ!? さ、触るなら触るって言ってくださいよ……」
「じゃ揉《も》むわね♪」
「いきなり揉むのっ!? ――て、やめっ、あぅっ!」
母は高速の足運びでボクの背後に回ると、両の手を遠慮なくボクの胸に押し当てた。
そして、まずは優しく、手のひらに力を込めた。
「〜〜〜っ、ひゃんっっっ!」
母の手のひらの熱がパジャマ越しに伝わってくる。たっぷりと時間を掛け、三回ほど感触を確かめた母は、
「……む〜……」
と何か不満げに唸《うな》った。
「か……かあさま?」
未知の刺激に翻弄《ほんろう》されていたボクは、その反応を見て怪訝《けげん》に思う。
こちらの視線に構わず、不満顔の白姫此方はボクの胸から手を離し、おもむろに自身の胸元にその手を当てた。
それから同じように三度、手のひらを動かす。
――スカッ。
空振りしたような音が三回、聞こえた気がした。
「…………」
沈黙、そして。
「かなちゃん……ひどい……」
「ちょっと母様っ? どうして泣き崩れるんですか!?」
手にはハンカチ、どこからか聞こえてくる悲しげなBGM。
「かーさまはかなちゃんのこと心の底から、ほんと食べちゃいたいくらい愛しているのに……こんな形で裏切られるなんて……!」
くりくりの瞳からあふれ出てくる――涙。
ドラマのワンシーンを演出するにしても過剰すぎる、哀しみの舞台。
「なんかいろいろ突っ込みどころがありますけど、ボクなんか裏切りましたっけ? というか今話し合わなきゃいけないのはそういうことではなくてですねっ!?」
ここでボクはようやく、本題を口にすることができた。
「――ボク、女の子になっちゃってますよ!?」
声が、家中に響き渡った。
「…………」
母は泣き崩れていた体勢のまま、無垢《むく》な瞳でボクを――息子《ヽヽ》を、見つめてくる。
それから一秒、二秒、三秒と経過し、きっちり十秒後に、
「あら、びっくり♪」
と言い、ぽむっと手を叩いた。
「そんな軽いリアクション!? どう見たってびっくりしてないですし!」
「うふ♪」
「そんなむやみやたらとかわいらしい上目遣いで誤魔化そうとしないでくださいっ!」
「ときめいた?」
「別の意味で胸がドキドキですっ!」
連続しての大声に息が切れそうになる。朝からよくこれだけ叫べるなあ、と自分でも驚きだ。
――完全な膠着《こうちゃく》状態となっていたこの場に、別の声が割って入ってきた。
「こんな朝早くからなにやってるのさ〜? コントの練習は構わないんだけど、もう少し静かにしてくれたらおいらとしては助かるんだけどー……」
部屋の入り口から姿を現したのは、声が完全に寝ぼけている我が家の小動物。金色の毛並みはなにやらぼさぼさで、赤い瞳は重たげなまぶたによってほとんど隠れている。
人の言葉を話す猫は、いつもの快活さが見る影もない、寝ぼけ猫と化していた。
「モエルッ、ちょっと聞いてよボク、女の子になってるんだよ」
「はぁ? 何言ってるのかなたん、自分でやったことじゃないのさ?」
金色の猫、モエルはこともなげに言った。
――そう。
これは自分がやったことだ。
すべては、昨日起きた出来事に関連している。
「でっ、でも!」
モエルは容赦なく言葉を紡ぐ。
「言ったでしょ? 契約書を破棄した場合はキミの性別が変わっちゃうって」
ボクが魔法少女となった際に、|強引に結ばされた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》契約。一枚の紙切れで約束されたその契約は、あまりにもひどい罰則を有していた。
それは――性別転換。
荒唐無稽《こうとうむけい》な話だと思っていたのだが、それはこうして現実に起きてしまっている。
「あの状況じゃ確かに仕方なかったかもしれない。キミの魔力をフルに生かすためには、契約破棄して女の子になるしか……なかった。かなたんも罰は覚悟の上だったんでしょ?」
沈痛な面持ちで、モエルは言う。
――友達を救うためだった。今でもあのとき、ボクがした行動は間違いじゃなかったと思っている。
だが。
「……寝て起きたら元に戻ってたりするのかな〜っ、なんて……」
あはは、と笑いながら言ってみると、
「そんなギャグマンガみたいなことがあるかーっ!」
予想以上に厳しい突っ込みを頂いてしまった。
ボクは心がだんだんと重くなっていくのを感じる、
「……もしかしてボク、ずっとこのままだったり……?」
あまり考えたくはないことだった。
ボクはこれまでの人生、男として生きてきたのだ。たとえ見た目が女の子っぼくても、心はいつだって男として……育ってきた。
「かなちゃん……」
母が心配そうな顔をこちらに向けていた。ボクはその呼びかけに答えることができない。
そうやってしばらく俯《うつむ》いていると、モエルが、
「――そうはさせないよ」
決然とした声音《こわね》で、呟いた。
「モエル……?」
その猫はしっぽを一度だけ勢いよく振り、耳をぴんと立て、はっきりと言った。
「おいらがかなたんを元に戻してみせる」
「! ……どう、やって?」
「破れた契約書を修復するのさ」
現在、あの契約書は綺麗《きれい》に真っ二つとなっているはずだ。
「できるの、そんなことが……?」
「……やるのさ。
少し、時間はかかると思うけど、それまでおいらを信じて待っててくれるかい……?」
自信と覚悟。その言葉から感じる想《おも》いは、とても強い。
だからボクは、
「うん。待ってる」
――安心して、頷《うなず》くことができたのだった。
通学路。
出発がいつもより遅れてしまったため、ボクは初めから走っている。
(目をつむって着替えるのって、案外難しいんだなぁ……)
あの後、学校へ行く準備をする際にまた一悶着《ひともんちヤく》あったのだ。
(いくら自分の体とはいえ、今は女の子なわけだし。そう簡単に見ていいものじゃないよね)
足を絶え間なく動かしながら呟く。
「……ほんと母様ったら。女の子同士だからいいでしょー、なんて……」
着替えのとき、危うくいろいろ触られたり見られたりするところだった。そんな母を部屋から追い出すのにかなり時間を食ってしまい、今に至る。
「というか、これからしばらくこんな感じなの……!? ほんと急いでね、モエル……」
心の底から願い、応援する。
今日からモエルは契約書の修復作業につきっきりになるため、学校にも付いてこれなくなるらしい。
(ちょっと、物足りないかな……って、なんでボク、モエルが付いてくることが当たり前みたいになってるの!?)
走りながらぶんぶんと頭を振って、思ってしまったことをかき消す。
そんなことをしながらある程度走ると、|いつもの場所《ヽヽヽヽヽヽ》にさしかかった。
(丈君は……さすがに先に行っちゃったか)
いつもならそこで待ち伏せているはずの姿がない。先に行ったものだと思い込み、ボクは友人との合流場所を通り過ぎようとして――、
「――隙《すき》ありっ!」
突如、背後から迫ってきた何かに襲われた。
その声の主は、おそらくは合流場所の近くにある電柱の後ろにでも隠れていたのだろう。ボクが通り過ぎたのを見計らって、後ろから――抱きついてきた。
「ッ!?」
そのとき、家から出る直前のやりとりが、ボクの脳裏によみがえってきた。
「かなちゃん。あなたが女の子になってることは、誰にもばれちゃダメよ?」
玄関にて母が、珍しく真面目な声音で言ってきた。ボクは、
「当たり前ですよっ。誰が好きこのんで女の子になっちゃったなんて言いますか。もしこんなことがバレたら、きっとうちのクラスは未曾有《みぞう》の混乱に陥りますよ!?」
と、言い返す。すると母はどこまで真面目に、
「あの赤い髪の子にも、胸のおっきな子にもよ?」
と念を押してくる。顔は笑っているものの、目には真剣な光が見えた。
ボクはそれを不思議に思いながらも、もうほとんど時間がなかったので深く聞くことができなかった。
「わかりましたっ。もしばれそうになったら、|どんな手殺を使ってでも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》忘れさせますっ!」
それだけ言って家を出たのだが、今にして思えばあれは……何か、もっと重大な意味があったのかもしれない、と思う。
――でもまぁ、それはともかく。
「う、うごふ……」
呻《うめ》き声。
「彼方……今日はいつにもまして攻撃が冴《さ》え渡っているな……」
実際にその手段≠使われ、あっという間にぼろぼろになった友人! 明日野丈《あすのじょう》を見下ろし、ボクは言った。
「いきなり後ろから抱きついたりするからですよ。もしそれがボクじゃなかったら、今頃は通報されて判決まで下されてますよ!?」
「超展開過ぎるだろう! ……とにかくおはよう、彼方」
「おはようございます、丈君」
「今日は随分出るのが遅かったんだな? なんだ、また此方さんに絡まれてたのか?」
何事もなかったのように起き上がり、制服に付いたゴミを払いながら丈君が言ってくる。
「……正解です」
「いいな、見たかったな……いや、撮りたかった。彼方と此方さんの絡みか……」
本気で口惜しそうな友人は放っておいて、ボクはさっさと走り始める。
「……衣装はどんなのがいいだろうな……此方さんはかわいい系、彼方はクール系か? いや、ここはあえて逆という手もありだな。彼方にウェディングドレスを着せて、此方さんにスーツを着せる。テーマは倒錯――容姿の似通った性別の異なる二人が、白と黒という真逆の色彩を、これまた真逆に身に纏《まと》う……ふむ、これはもう考えるだけでも頭がこんがらがってくるな……」
前髪をいじりながら考え込んでいる丈君の声が、だんだんと遠くなってゆく。
(なんかすごく邪悪な思念が伝わってくるなぁ……)
ボクはその思念を早く振り払おうと、走る速度を速めるのだった。
同時刻、白姫家。
真剣な顔をしていたモエルが、勢いよく頭を上げた。
「違うっ! そこは裸リボンだろうっ!」
魂のシャウト。
「容姿が似ていて性別の違う二人だからこそ、その結びつきをアピールするべきじゃないのかっ! つまり、繋《つな》がった一本のリボンで、生まれたままの姿の二人をラッピングし、あたかもプレゼントであるかのように演出する!
――それこそが真の倒錯であるとおいらは主張するっ!」
右手を胸の前で握りしめるモエル。
そうやって叫んでから数秒後、
「……あれ? おいら、何言ってるんだろ……」
頭をかきながら、ぼんやりと周りを見回す。
「……寝ぼけて変な電波でも入ってきたのかな……」
赤い瞳をしばたかせ、モエルは修復作業を再開した。
――その後、ボクと丈君は完膚なきまでに遅刻した。
教室に入ると、すでにホームルームが始まっていた。遅刻ギリギリだったことは多々あれど、ここまで完璧《かんぺき》な遅刻は久しぶりだ。
しかし担任を含むクラスのみんなは、遅れてきたボクたちを見てもやれやれまたか、的な雰囲気を醸《かも》し出している。
(あれ、なんか心外……)
ボクと丈君は急いで席に座り、全力疾走で疲れた体を休める。
「…………」
[#挿絵(img/ノムE-1011-178.jpg)]
ボクは机にうつ伏せになりながら、教室内の不自然に空いた席を見た。
(……いいんちょ)
その席には、つい先日まで一人の少女が座っていた。このクラスの委員長をしていたおさげの女の子。遅刻を見逃してくれたり、それを逆手《さかて》にとってセクハラしてきたりする、
――ボクの、大切な友達。
昨日起きた戦いの一端を担っていた彼女は、すべてが終わった後に……ボクたちの前から姿を消してしまった。
(戻って……来ますよね。いいんちょ……)
ボクは問いかけとも、望みとも分からない思いを胸に抱き――前を向く。
ホームルームが終わろうとしていた。
担任の教師が、簡単な連絡事項だけを口にして立ち上がる。
「あー、一時間目は体育だったな。お前ら、ただでさえ他のクラスより賑《にぎ》やかしいんだから遅れるなよ?」
立ち去る間際にそんなことを言いながら。
(大丈夫。悲しんでいたって仕方がないんだ。今は前を向いて、戻ってきたいいんちょにお仕置きされないように、頑張っていこう)
決意は、心の力になる。
しかし、
「まずは体育。さぁ、張り切って着替えようって」
心機一転したボクに、試練は襲いかかる。
「着替えるのぉっっっ!?」
決意は、心の力になる。
……はず。
授業が始まる十分前。
(着替えなきゃ、だよね……)
ボクはクラスの男子たちが残った教室内で考える。
(女の子たちと一緒に着替えるわけにはいかないし。だからって一人だけ別の場所で着替えるなんて……怪しいよね)
机の横にぶら下げてあるバッグを自分の机の上に置き、中から体操服一式を取り出す。慌てて塗備したため、朝の時点で気づくことができなかったのは痛い。先に気づいていたならば、制服の下にあらかじめ着ておくこともできたのに。
ともあれ、この状況では抜け出すことはまず不可能だ。
――何しろ、この教室内は現在シフトA≠ノ突入している。
丈君曰く、
『シフトAとは、白姫彼方に向けられた視線をことごとくブロックするための、我らB組男子の魂を賭《か》けた鉄壁が如き陣形』
意味は分からないが、とにかく今、彼らは周囲を警戒し、わずかな動きにさえも反応するセンサーのようになっているらしい。
「このクラスは、本当にもう……!」
もはや逃げ道はない。
(かっ、体は女の子だけど……こ、心は男の子なんだから……着替えるくらい、平気だよっ)
ボクは覚悟し、ひと思いに着替えてしまおうとまずは上着に手をかける。
(大丈夫。みんなボクが着替えるときは向こう向いてるから。見られたりしない……)
脱ぐ前に周りを見渡すと、クラスのみんなは着々と着替えを進めていた。その視線は頑《かたく》なに明後日《あさつて》の方向を向いており、こちらを見る気配はない。むしろ、同じ男子同士で何かを牽制《けんせい》し合っているような雰囲気さえある。
……シフトAの統制、恐るべし。
(よし。思い切って……)
がばっ、と。
まずボクは制服の一番上を脱ぎ捨てる。
(よし、まずは一枚目)
軽く首を振るって、両手を胸元に持ってくる。
(……次はカッターシャツ、なんだけど……)
なんとなく、クラス内の空気が変わった気がする。さっきまでのざわついた雰囲気から、少しだけ張り詰めたような雰囲気へ。
ボクは気にせず、シャツのボタンを順番に外していく。
ぷち、ぷち、と音を立てながらカッターシャツの結びがほどけ、次第にあらわになっていく下着。下に着ているのはTシャツだが、薄手のものなのでちょっとだけ心許《こころもと》ない。
「んっ。と……」
しゅる、という衣擦《きぬず》れの音を立て、カッターシャツを脱ぎ終わった。
ボクは現在、上に薄手のシャツを一枚と、下に学生ズボンという状態だ。
(バレたりしない、バレたりしない……)
そう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせる。しかし、一枚一枚と衣服を脱ぎ捨てていくたび、胸の鼓動が外に向かって弾《はじ》けようとするかのごとく、高鳴ってゆく。
緊張と――差恥《しゅうち》。
女の子となった自分の体を見せるわけにはいかない、だというのに周りには男の子がいっぱいいる。この矛盾した異常な状況が、激しい胸の鼓動を生み出している。
(みんな、見てないよね……?)
もう一度クラスの中を見てみると、なにやら先ほどよりも雰囲気が殺気立っているような気がした。男子生徒たちはボクの方を見ないように、全霊を賭けて周囲を警戒している。
(……大丈夫、そうだね)
ボクは目をつむって下着に手をかけ、半分くらいまでを一気にまくり上げた。
その、刹那《せつな》。
「おいっ、コイツ今見やがったぞ!?」
「っ!?」
びくんっ、と全身が震えるのが分かった。
(うそっ!? みっ、見られた!?)
慌てて脱ぎかけの服で体を隠し、振り返る。
すると、
「うっ、嘘だっ! 俺は見ていない!」
クラスメイトの男子一人が、首をぶんぶんと振り回し叫んでいた。
「いいやっ、コイツは今、確実に視線を動かしたぜっ!」
[#挿絵(img/ノムE-1011-184.jpg)]
その隣にいた男子が言う。
「――残念だよ」
場の空気を変える冷徹な声が、ボクの背後から放たれた。
「じょ、丈君……?」
声の主は、情報屋こと明日野丈、その人であった。
「アニマル=Bまさかお前が我らB組の誓いを破ってしまうとは」
「ひ、ひぃぃっ! 違うんだ明日野! 俺は見ていない! 本当に見ていないんだ」
その狼狽《うろた》え方はすこし大げさすぎる気もする。まるで死の危険にでも直面したかのようだ。
「ほう? 見ていない、か」
演技がかったセリフと動作で、彼は前髪をかき上げる。
「ならば問おう……彼方の胸のサイズはっ!?」
「にゃっ!? 何を聞いているんですかキミは!?」
ボクの怒声に丈君は、ばちこん、とウインクをした。まぁ見てろ、ということだろう。
このふざけた問いにアニマルは、勝ち誇った表情で答えた。
「胸だって? ふんっ、背中しか見ていないのに分かるわけないだろっ!
――ハッ!?」
空気が凍った、
『…………』
静まりかえる教室内。
(答えなければいいだけだったんじゃ……?)
ボクの素朴な疑問に答えはなく、明日野丈は右手でパチン、と指を鳴らすと、
「――連れて行け」
死神の如き無慈悲な判決を下す。
「いっ、いやだっ、アレ≠ヘっ、アレ≠セけは! 俺の家には腹を空かせたにゃあ(猫)、わん(犬)、ぴい(小鳥)、ぎしゃー(?)がいるんだよっ! 頼むっ、許してくれ!」
必死に懇願するアニマルに、情報屋≠ヘ告げる。
「俺たちは誓っただろ……彼方の着替えを見ない、見せない、妄想しないと。
……なあ。アニマル……!」
その声は、仲間内から出た裏切りに対する、哀しみに満ちていた。
「あ、明日野……」
彼もまた、辛いのだ。その気持ちを知ったアニマルは言葉を失い、うなだれる。
「大丈夫だ。……償いは、すぐに終わる」
彼は振り返り、クラスメイト二名によってどこかへ連れて行かれる仲間を、背中で見送った。
「早く戻ってこいよ……アニマル……」
友を見送る彼の拳《こぶし》は、仲間を信じる心を象徴するかのように、握りしめられていた――。
ちなみに、一人|呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていたボクは、強く、固く、骨が軋《きし》むほどに、最後の最後まで置いてけぼりであった。
そんなこんなで時は過ぎ。
体育の時間を何とかやり過ごしたボクは、ようやく落ち着くことができていた。
(体育さえ終われば、服を脱ぐようなことなんてないもんね……)
今は昼休み。ざわざと教室の中が喧喚《けんそう》に満たされる時間。
クラスメイトの大半は学食へと行き、数少ないお弁当派はがらんとした教室の中で席を寄せ合い、食事をする。
「…………」
視界の隅に、朝から放心状態のアニマルの姿が映る。頬は痩《こ》け、瞳は虚《うつ》ろに、薄く開かれた唇からは「スベテヲワスレロ」という呪文めいた呟きが何度も漏れ出している。
(なんかアニマル……一気に老《ふ》けたように見えるけど、気のせいだよね?)
――く〜。
タイミングよくお腹が鳴った。何はともあれ、食事をしなければ。
ちなみに弁当派であるボクは必然的に、
「よし彼方、喰らい尽くすぞ!」
この男と、食事を共にすることになる。
「丈君、何にでも気合いを入れ過ぎじゃありませんか?」
ボクは母様印のお弁当箱(桜模様)を取り出し、机の上に乗せる。その向かいに丈君が座り、いつの間にやら買ってきていた焼きそばパンとハムたまごサンドを無造作に置いた。
「何を言っている彼方。男はいつでも当たって砕けろだろ?」
「もう粉々だと思いますけど」
丈君はパンの包装紙を破り、ボクは桜模様の風呂敷をほどく。
「俺は何をするときでも、自分の持ちうるすべてを賭けると決めているんだ」
「それであの告白ですか?」
彼との邂逅《かいこう》のときに、ボクが言われた台詞《せりふ》。よく舌を噛《か》まなかったなぁと今でも感心している。
「ああ。アレは俺が生きてきた中でも最も魂を燃やした瞬間だった」
「燃え尽きそうでしたけど」
横幅の広い弁当箱。母が旅行に行っている間はモエルが作っていたのだが、帰ってきたからにはもちろん、母が作ることになる。
「燃え尽きてなお不死鳥のように復活するのが男だろ?」
「……当たって砕けるのが男じゃなかったの!?」
開けるのが怖い……と思ってしまうのは失礼だろうか。いや、そもそも自由気ままという言葉が固形化して歩いているような人だ。何が起きても不思議ではない。
何事にも動じない鋼《はがね》の心を手に入れたいと、つくづく思う。
(当たって砕け……たくはないけど)
ぱか、と。
意を決し、弁当箱の蓋《ふた》を解き放った。
「……っ」
思わず身構えてしまいながら――中を見る。
(今回はいきなり発光したり、蒸気が噴き出したりはしないみたいだね。でもさ……)
「彼方……すごい弁当だな」
丈君の哀れみの目が痛い。
「母様――…」
体中の力が抜けていくのが分かった。
――一面をご飯で埋め尽くした一品。
白米に寿司飯にかしわご飯。様々な種類を組み合わせ、味についてはちゃんと考えられているようだ。
だがしかし。
『私を食べて♪』
海苔《のり》や桜でんぶをふんだんに使い描かれた|ミニ白姫此方《ヽヽヽヽヽヽ》が、そんなことを吹き出し付きで言っていたりする。
(これは……地味にダメージが来る……)
趣向を凝《こ》らすべき部分を激しく間違った、とにかくあの人らしい弁当であった。
「こんなにいただきますを言いづらい弁当があっていいんでしょうか……!?」
遠くを見て、ボクは呟く。
「ま、まあ食おうぜ。食っちまえばあとはどうにでもなるだろ。……惚《ほ》れ薬とか入ってなければいいんだが……」
丈君にまで気を遣わせるこのお弁当は、なんだか切ない味がした――。
昼食が終わると、ボクはいつもの場所へ行く。
校舎四階の階段を上った先――屋上。
普段使われることはほとんどないため、いつも閑散としている場所だ。
ガチャ、ン。
重い扉を開くと冷たい風が吹き込み、そして開放的な光景が目の前に広がった。
――空。
涼やかな色彩に染め上げられた世界。
見ていると体が軽くなった気がする、心そよぐパノラマ。
腕を伸ばし、自分の手のひらを透かしてみる。それだけでも、一面の青い世界に抱かれているような気分になれる。
「少し寒いけど、やっぱり屋上はいいね〜……」
ボクは思いきり息を吸い込み、体内を澄んだ空気でいっぱいにする。体の底から綺麗になっていく感覚。気分をリフレッシュするときはここに来るのが一番だ。
「ん……風が気持ちいい……」
今朝の騒ぎからこれまで、ほとんど緊張していた気がする。
――自分が今、女の子であるということ。
女装して敵を倒すのとはワケが違う、最大級の非日常。
「バレたら……どうなるのかな……」
想像してみる。
「女の子の服とか着せられて、母様にいろいろ触られて……モエルから変な目で見られたり……丈君に写真撮られたり……」
一つ一つ、頭の中でその光景を思い描いてみる。
「…………」
なぜだか随分と鮮明に、もう既に起きてることかのようにイメージできる。
自然と手に力が入って、悔しさを滲《にじ》ませる声が口をついて出た。
「――普段と何一つ変わらないじゃないか……!」
自分で考えておきながら、ものすごいショックを受けてしまった。
(……女の子の体、か……)
右手で、顔に触れる。
限りなく微細な違いではあるが……なんとなく柔らかい気がする。
左手で、胸に触れる。
ちょっぴりと自己主張した二つの起伏が、これまでと違う感触となって膨らんでいる。
「女の子の体って、すっごく敏感なんだね……」
体育の時間、いつも着ている体操服がまったく違う感触だったのを思い出す。生地が肌に擦《す》れる度にボクは動揺し、いろいろと大変だった。
……思い出すだけで頬が熱くなる。
「早く元に戻りたいよ……」
望みを、空に囁《ささや》きかける――。
そして、放課後がやってくる。
「……さ、急いで帰ろ」
いつもは丈君と一緒に帰るのだが、彼は今日、新聞部の活動があるとかで一緒に帰れないらしい。好都合と言えば好都合なのだが、少し調子が狂う。
(丈君、一人きりで新聞部やってるんだよね……さすがというか、なんというか……)
それはともかく、女の子になってから一日目の危険を無事に乗り切ることができたようだ。
家にさえ帰ってしまえば、今日一日はバレることはない。
ボクは手早くすべての教科書を鞄《かばん》にしまい、席を立つ。
そのとき―――、
「彼方様っー」
――まだまだ安心はできないぞ、と、誰かに囁かれた気がした。
「あの、彼方様……今からお帰りですか?」
凛《りり》々しい顔つき、焦茶《こげちゃ》色の髪。片側に作ったお団子から垂《た》れる、一房の長髪。
「……古伊万里《こいまり》さん」
一昨日《おととい》の文化祭で仲良くなった隣のクラスの女の子で、ボクのファンクラブ、通称白姫会≠フ創立者。
実家がお金持ちらしいのだが、その割にはなんとなく取っつきやすい人である。
(どちらかって言うと留真《るま》ちゃんの方がお金持ちっぽいんだよね。……語尾とかが)
彼女は両手を胸の前で合わせ、どこか心許ない足取りでこちらに歩いてくる。
「どうしたんですか? 古伊万里さん」
ボクはなるだけ軽快な感じで声を掛けた。
「はっ、はいっ、あのですね……!」
それでもやはり彼女は恐縮し、身を縮こまらせて声を放つ。どうにもボクに対して思う感情が大きすぎるらしく、ボクのことを様&tけで呼んでくるほどだ。
「はい?」
ボクより彼女の方が背が一回りほど高いため、見上げる形となる。
「これから、その……」
古伊万里さんは身長といいスタイルといい、中学生とは思えないほどに整っていて、足運びも普通の生徒とは明らかに違う。何らかの訓練をしていることは明白だ。
そんな彼女が、しばらく声をどもらせたあと――声を大にして言った。
「一緒に、帰っていただけませんか!?」
まるで一大告白かのような気勢を伴うお誘いである。言った後に不安げに目を閉じ、ボクの返事を待つ古伊万里さん。
(……友達なんだから、それくらいもっと気安く言ってくれたらいいのに。まぁ、仲良くなっていくのはこれからだよね)
友達になろうと言い出したのはボクの方だ。それなら、距離を縮めるのもこちらからでありたい。
ボクはできる限り、優しい声で返事を口にする。
「もちろん、お受けします」
「……やりましたわっ!」
そのときの彼女の喜びようは、やっぱりまだまだ、大げさなものであった。
「でも、良かったんですか?」
ボクは校門を出てすぐ、歩きながら彼女に尋ねた。
「そっ、それはもう! 彼方様とご一緒できるだけでこの古伊万里、秘蔵の皿を割ってもいくらいです」
(……皿?)
舞い上がり気味の古伊万里さんは、なんだか少しかわいらしい。
「いえ、そういうことではなくて……あの、車のことですよ」
「車? ……ああ、アレは家の者が勝手にやっていることです。いつも来なくていいと言っているんですが……」
校門前にはさっきまで、黒塗りの大きな車が止まっていた。車体が横長いその車は、日常的には見られないタイプのものであった。
「やっぱり凄《すご》いんですね、古伊万里さんの家って。少し羨《うらや》ましいです」
心底からそう思う。我が家が普通の一般家庭である分、ああいった貴族的応対とでもいうのだろうか、お迎え的なものは夢だったりする。
ボクの何気ない言葉に彼女は、
「如何に家柄が良くとも、属する人間の中身が伴わなくては意味がないのですわ」
と、真摯《しんし》な笑みを浮かべて言った。
彼女の根底にある信念が垣間《かいま》見える、強さを秘めた言葉。ボクはその姿勢に感動すると同時に、申し訳なく思う。
「すみません。なんだか見た目だけで羨ましいなんて軽率なことを言ってしまって……」
見たままを羨むなんて、彼女自身に失礼なことだった。
「いえ。彼方様が謝られることなんて何もないですわ。私だって彼方様を羨ましく思うのですから」
「え?」
古伊万里さんは意外なことを口にすると、こちらを見て微笑《ほほえ》んだ。
「私は彼方様のように誰からも好かれ、その心を癒《いや》すことはできません」
「! そんな、ボクは人の心を癒したりなんて」
「この、古伊万里みさらが証人です」
ボクの反論を遮《さえぎ》り、彼女ははっきりと言った。
「今この時点でさえ、私は彼方様のおかげで心が安らいでいられる。……なんと言いますか、不思議な魅力を感じるのですわ。なぜだか、心を安心してさらけ出していられるとでも申しましょうか……」
過大評価しすぎだと思ったが、そんなことが言えなくなるくらい、彼女の笑顔は綺麗だった。
大人びた表情なのに、どこか見たことがある気もする――そんな、微笑み。
「あはは。なんかそんな風に言われると……照れくさいです」
見とれてしまったことをごまかすついでに、ボクは照れ笑いを浮かべる。
「あ、も……申し訳ございません。私としたことが少々おしゃべりが過ぎました。女性はもっと慎《つつ》ましく、殿方のお話を聞いて差し上げるが務め」
なんだか古風なことを言う古伊万里さんである。
(……古伊万里さん?)
ふと、頭に引っかかった。
「? どうかされましたか、彼方様? はっ、もしかして私何か粗相《そそう》を!?」
一人で勝手に慌てだす彼女を瞳の中に映し、ボクは考える。
(……留真ちゃん、依《より》さん、丈君、いいんちょ、母様、モエル……)
一通り考え、ボクは結論を出した。
「――古伊万里さん」
「は、えっ!?」
彼女はいきなり呼びかけられ、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げる。驚いている彼女にさらに追撃をかけることになるかもしれないが、ボクは言った。
「みさらさん≠チて呼んでもいいですか?」
「!?」
びくんっ!
強い震えを起こし、古伊万里さんはボクが口にした問いかけの意味を吟味し始めた。
「え、あ……彼方様が、私のことを下の名で……? そんな恐れ多い、いえでも、友達になると言うのならばそのくらいは当たり前、むしろ通過儀礼とでも言うべきことなのでは……?
しかし、私には白姫会代表という重要な役目があり、その私がこんな一足先に楽園を見るような真似をしても良いのでしょうか? 誰か、この解なき問いに答えを……!」
どこまでも大げさな女の子である。
「そ、そんな重々しく考えなくても……ただ、下の名前で呼び合った方が気楽かなって思っただけなので……」
ボクは自分の周りにいる人のことは基本的に名前で呼んでいる。その方が何となく呼びやすいというか、もっと親密になれる気がするのだ。
今にも道ばたに座り込んで思考の迷路に迷い込みそうだった古伊万里さんは、
「と、とりあえずその……もう一度、呼んでみていただけませんでしょうか……?」
平静さを取り戻した声で、そう言った。
ボクは、彼女の目を真っ直《す》ぐに捉《とら》え、
「みさらさん」
呼ぶ。
「――なんたる威力……!」
彼女は額に手を当て、いきなりぐらりと傾いた。
「え? ちょっとみさらさん!? みさらさんっ!」
傾き、そのまま――卒倒する。
慌てて手をさしのべたボクによって抱きかかえられた彼女は、
「すみません、彼方様……みさらは、みさらは……もう……」
とても満足そうに、微笑みながらまぶたを閉じたのだった。
「……ってええっ!? この後どうするんですか!? ボク家知りませんよ!?」
ボクは心の中で思う。
(名前で呼ぶのは、もう少し後にした方がよさそうだなぁ……)
母様――先日できたばかりの新しい友達は、いろいろな意味でおもしろい人でした。
夕方の五時、ようやくボクは家に帰り着いた。
玄関で靴を脱いだ途端、得も言われぬ安堵《あんど》感が体中からこみ上げてくるのが分かる。
(……こんなにも家が安心できるものだったなんて……!)
自然と笑みが浮かび、ボクはうきうきとした気分で家の廊下に足を踏み入れた。
その刹那。
「か〜〜〜〜〜〜ー〜〜〜〜〜〜〜〜なちゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん♪」
ボクの安堵の微笑みは、わずか数秒と持たずに消えてしまうのだった。
(……うん、分かってた。家の中は家の中で、小さな小さな怪獣さんがいるんだよね……〉
とたとたとたとたっ、と。
廊下を子猫のような足取りで駆けてくる母、白姫此方。
「おかえり〜っ♪」
「ただいまです、母様……って、わっ!?」
走ってきた勢いのまま、ぴょこんとボクに向かって抱きついてくる母。どんなときも体全体で思いを表現する、この母親ならではのお出迎えである。
「かなちゃん、ないすきゃっち♪」
「ナイスキャッチじゃないですよ。いきなり抱きついてくるのは止めてくださいってこれまで何度も言ってきたでしょ?」
お姫様抱っこな母はボクの言葉を笑顔で蹴散《けち》らし、
「娘と触れあうのは当然よ?」
などと言う。それに対しボクは半ば条件反射で、
「息子ですっ!」
そう、叫んでしまっていた。しかしすぐに気づくことになる。
(あ……そっか、今は娘なんだ……。もしかしたら、これからもずっと……)
視線を落とし、なんとなく言葉に詰まってしまう。
「こら、かなちゃん。暗い顔しちゃダメよ」
「!」
ぷに、と母が人差し指でボクの頬を指し、瞳を覗《のぞ》き込んでくる。
「かなちゃんが悲しい顔してると、母様も悲しくなっちゃうの」
「母様……」
「大丈夫。モエルちゃんが頑張ってくれてるもの……かなちゃんはちゃんと元に戻れるわ」
この人はいつもボクのわずかな不安さえ見通し、笑顔で吹き飛ばしてくれる。
(大変なことも多いけど……母様が母様≠ナ本当に良かったと思う)
「……ん?」
ボクの視線に気づいた母は、屈託のない微笑みを浮かべ見つめ返してきた。
「いえ、なんでもないです。……かあさまっ」
その笑顔に少しでも見合うことができるよう、ボクも笑う。
――いつもありがとうございます、母様。
そんな想いを、胸に抱いて。
その後、穏やかな間を挟み、母が口を開いた。
「それじゃかなちゃん、行きましょ? 母様もう、今日一日待ちくたびれてたんだから」
「はい? ……なんか約束してましたかね?」
記憶を探っても、今日何かする予定はなかったはず。いや、そもそも予定などという言葉はこの人の辞書の中には存在しないのだが。
「お買い物よ♪――|女の子用の下着《ヽヽヽヽヽヽヽ》とか必要でしょっ?」
「…………」
さっきの感謝はなかったことにしよう。
固くそう決意する、ボクなのであった。
その後。
「イ〜ヤ〜で〜すっ、絶対にイヤです!」
「イ〜イ〜の〜よっ、絶対にイイから♪」
大枝町繁華街、とある店舗の中で争うボクと母の姿があった。
周囲には千差万別、色とりどりな着衣が並んでいる。この場所は女性用の下着を売る場所で、要するに――ランジェリーショップ、というところである。
男からしてみれば、そこで働いているか、または誰かにプレゼントするかでもない限り、来ることはほとんどない店だろう。ましてや、自分で履く≠ネどという理由のために来ることなんて……きっとない。
「かなちゃんなら似合うってば♪」
「ヤですってば、そんなフリフリした……しっ、下着なんて……絶対にボクは着ませんっ!」
試着室の前、手に数種類の小さな布を持った母が迫ってくる。
「いいじゃない。せっかく試着もできるんだし、試してみましょうよ♪」
びらりと。小さな三角形の布地を胸の前で広げてみせる。ピンク色をしたなんともかわいらしいデザインの、母らしい一品だ。
「ひゃっ……!? い、いきなり見せないでくださいよ!」
「? どうして?」
フリルの多めなショーツを持ったまま、目をぱちくりとさせる母。
「……っ、恥ずかしいでしょう!? 一応ボク……男、なんですよ!?」
最後の部分は声を小さくして、周りにいる他の客に聞かれないようにする。
「う〜ん。それなら……」
少し悩んだかと思うと、母はいきなり、
「ほりゃ♪」
という脱力感満載なかけ声を上げ、ボクの体を思いきり押してきた。
「え、わわっ!?」
そのまま強引に、ボクは隣にあった試着室の中へと押し込まれてしまった。その際にちゃっかりと自分も一緒に入ってきて、カーテンを閉めながら言ってくる。
「この中なら……恥ずかしくないでしょう?」
そのときの微笑みは、いつもの天真燗漫《てんしんらんまん》なものよりも艶やかに見えた。
「……いや、あの……」
カーテンで仕切られた試着室の中は当然、狭苦しい。いくら小さい母とボクとはいえ、ほとんど密着状態になってしまう。
店内に響いていた音楽が、この狭い部屋に入っただけでだいぶ小さく聞こえる。その代わり、わずかな衣擦れの音や浅い呼吸の音、普段は気にならない音がしっかりと耳に入ってくる。
「恥ずかしいって、人に見られるからだけじゃなくて、ですね……」
ボクは、早くなった自分の呼吸を実感しながら声を紡ぐ。
「? そうなの?」
我が母ながらこの鈍さはなんとかならないものだろうか。
「でもちょうどいいじゃない。外で履いてみるわけにはいかないものね♪」
ほとんど密着した状態から、母が少しだけ腰を沈める。
「え!? なにするつもりですか!? 母様!?」
「ほら、あまり大声出すと、周りに聞かれちゃうわよ?」
ボクの腰の近くで、口元に人差し指を当てて「しーっ」というポーズを取る母。
「っ!」
慌てて口を押さえ、ボクは改めて小声で言う。
「何してるんですか、母様……!」
「……かなちゃん、目を閉じたまま着替えるのは大変でしょ? だから手伝ってあげようと思って♪」
弾んだ声で言いながら、ボクのはいているズボンに手をかけてくる。
「!? ストップッ、自分で着替えられますよ!? ……っていうかなんで着替えるときのことを知ってるんですか! もしかしなくても朝覗いてましたねアナタって人は!」
矢継ぎ早にそう言うと、ボクにそっくりな顔をしているその人は、ボクにはとうてい真似《まね》できない温かな笑顔を浮かべ、
「母様はいつだってかなちゃんを見守っているわ……」
滲み出る母性を、こちらに向けてくる。
「っ、そんな良い台詞を言いながら脱がそうとしないでくださいーーーーーーーーーっ!」
初日にしてボクは、自分の身を守ることの困難さを思い知ったのだった。
――それからの日々は、あっという間だった。
安穏《あんのん》と過ごすことができたわけではなく、ただ慌ただしすぎて時間を気にする余裕もなかっただけ。学校に行けば厄介な友人、家に帰れば無邪気な母親と、要注意人物が多すぎるのだ。
しかしそれでもなんとかバレずに過ごし、女の子になってから一週間の時が流れた。
その日の午後。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!
「!?」
「あら?」
二階の自室でトランプ(二人でババ抜き)をしていたボクと母は、砂利がぶつかり合うような騒がしい音を聞いた。
「母様っ、ノイズです」
魔法少女のみに感じられる、敵の産声。
ノイズとは人の想いが形となったもの。強い悪意から生まれてしまえば、この世界に害を及ぼす驚異となる。それを退治し、調和を保つのが――チューナー、調律師の役目だ。
「今の感じからすると……結構強そうですね……」
感じる音の大きさによって、敵の強さをある程度は計ることができる。留真ちゃんくらいに経験を積むと敵の居場所まではっきりとわかるのだそうだ。ボクはまだあまりコツが掴《つか》めていないため、ぼんやりとした場所しか分からない。感じた方向に適当に向かっていれば、だんだんと音が強くなるので問題はないのだが……。
「…………」
母が真剣な目をして黙っている。こんな母は久しぶりに見た。
ボクよりも遙《はる》かに強力な力を持っているはずの母が、こんな風に考え込むとは。
(そこまで、強力なノイズなの……!?)
緊張がここまで伝わってくるようだ。
母はしばらく考え込み、こちらに手を伸ばしてくる。
そして、
「こっちよっ!」
と叫び、ボクの右手に握られていたトランプ二枚の内、一枚を奪い取った。
「……あらっ。ジョーカー……」
内容を確認し、うなだれる。
次にボクがハートのキングを引けば、この勝負はボクの勝ちだ。
「――じゃなくてっ! 母様、ノイズですってば!」
ぺしんとトランプを机に叩きつけ、怒鳴る。
「ん〜、位置的に隣町よ? あの髪の赤い子がいるから大丈夫じゃないかしら♪」
「投げっぱなしですか!?=v
「今から行っても無駄足になるわよ? 確かにノイズの反応は大きめだけど、あの子はもっと強いわ。十秒とかからないんじゃないかしら?」
二枚のトランプをよくシャッフルしながら、母が言った。その分析に間違いがないことはよく分かっている。ボクとこの人では経験の度合いが違うのだから。
(確かにグレちゃんは強いし、このくらいなら楽勝かもしれないけど……!)
それでも、なんとなく落ち着かない。
ほとんど直感に近い部分で、心がざわめいている。
「はい、かなちゃん。選んで♪」
二枚のカードをこちらへと差し出してくる母。ボクは、
「――ごめんなさい母様っ、ボク行ってきますっ!」
そう言って、立ち上がった。
ボクは部屋の窓から身を乗り出し、両手で屋根の縁を掴むと、逆上《さかあ》がりの要領で窓枠を蹴り、屋上へと昇る。
――部屋の中に一人残された、白姫此方。
「かなちゃん、本当に良い子に育ったわね〜♪」
外に飛び出して行った子の成長を見て、嬉《うれ》しく感じる。
それと同時に、
「でも、|女の子《ヽヽヽ》を部屋に放置していくなんて……男の子としてはまだまだかしら♪」
などと、手厳しいことも考えたりする。
「ん〜っ、こんど女の子のエスコートの仕方を教えてあげなくちゃ」
此方は、自分の手の中にあるトランプを見る。
「?」
そこには、一枚しか握られていなかった。どうやら先ほど、彼方が勢いよく立ち上がった拍子に落としてしまったらしい。
自分の傍《かたわ》らに裏返しとなって落ちていたトランプを拾い上げ、此方は呟いた。
「あら……」
落ちていたのは――ハートのキング。
「母様の負けね♪」
屋根に上ったボクは、ノイズの反応がする方向をしっかりと見据える。
右手を空へとかざし、
「遍《あまね》く空の果てへ=I」
――意味|在《あ》る言葉を解き放つ。
陽の沈みかけた空から一筋の光が降り落ちてきた。
夕暮れの紅とは対照的な、蒼《あお》色の光柱。燃える空からあふれ落ちる水滴のようだ。
その光は、ボクの目の前に突き立つ。
「――…」
ボクは躊躇《ためら》いなくその光の中に手を差し込み、内部に存在している杖《つえ》≠手に取った。
魔法少女の武器であるそれは、オリジンキー≠ニ呼ばれる自らの分身。呼び出す人間によって形状の変わる、想いの結晶。
「クロス・オーヴァゼア=v
自分より背の高い杖。先端に十字の装飾と、さらに無色透明の宝玉が付いている。
ピィンッ。
ボクの呼び声に呼応するかのように、澄んだ旋律が響いた。
――変身。
自分の体から蒼い光があふれ出す。ボクを中心として生み出される光は、幾筋もの帯と変わり、周囲に展開した。
今まで着ていた衣服が細かい魔力の粉へと変わる。……あっという間に裸にひん剥《む》かれてしまったボクは、自分の体を見ないようにしっかりと目を閉じる。
そこから新たな衣装が、生身の体を包み込む。
上は純色の白いシャツ。袖《そで》先が分離したデザインで、肩が露出している。下は白と水色の縞《しま》柄ミニスカート。両方の太|股《もも》に結ばれた細いリボンがワンポイント。小物としてツインテールを作るための赤いリボンに、胸元を飾る桜色のネクタイ。
「んっ……」
変身が終わると、魔力があふれることによる高揚感が鎮まった。
「新しい衣装、見るのは二回目だけど……やっぱり恥ずかしい……」
ミニスカートのはためきを押さえながらボクが呟いた、そのとき。
「――なぁにを言っているのさかなたんっ!」
最近はあまり聞いていなかった快活な声が、ボクの耳にしっかりと届いた。
「スカートのはためきは世界の夢!」
屋根の上に付設されたテレビアンテナのさらに上、
「恥じらう姿は至高の美!」
夜に先駆け金色が光る。
「恐れるな――汝、その身に誇りを抱け!」
物々しい効果音の後、スタンッ、とアンテナの上から飛び立ち、声の主は格好良く着地する。
「モエルッ!」
「や。かなたん」
モエルは元気よく挨拶《あいさつ》して、|いつもの《ヽヽヽヽ》を始めた。
「その衣装、よく似合っているよ。肩の開いたセパレートデザイン、その意図は一見すると単なる露出の強化、しかしそこには隠された狙いがある。肩を見せるという効果に付随して生まれる脇チラ≠フ可能性! 解放することがさらなるチラリズムを生む! これこそが本当の進化っ!」
魔力を少し、解放する。やはり男の子のときよりも自然な感じで、体中に魔力を循環させることができる。
「そして、新たに太股に巻かれたリボン! 素肌に結びつけるというその背徳感! 解きたいという気持ちを喚起してやまない回避不可能の凶悪トラップ! ああ、解いたリボンでくすぐりたいっ! よじらせたいっ! ってあれ、かなたん体から蒼い光があふれ出してるよ!?」
「――いってらっしゃい♪」
循環した魔力を瞬間的に増幅、モエルを空へと投げ放つ。
「っ、久々だーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
目指すは宇宙だ。
数分後。
「……なんだか、久しぶりに会った気がするよ」
「大げさだなぁかなたんは。ご飯のときは一緒だったじゃないか」
この一週間、モエルの姿を見る機会が本当に少なかったのだ。学校にも付いてこないものだから、調子が狂って仕方がなかった。
だから今、目の前にモエルがいることが素直に嬉しい。
「前にも言ったでしょ? おいらは魔法少女の変身シーンを見逃したりしないのさ。録画したものを早送りしたりもしないし、尺の問題でカットされてたりしたらわざわざ編集して付け足したいくらいだものっ!」
「ごめん、何を言っているかは分からないけど黙れ♪」
にこやかに威圧する。
「ごほん。まぁとにかく、おいらも一緒に行くよ」
「……ってことは……修復、終わったの……?」
ドキドキしながら、ボクは聞く。
「…………」
声が止まる。
赤い瞳をすぅ、と細め、金色の猫は言った。
「……うん」
「! ほんとにっ? やったあっ!」
ぴょこんと思わず飛び跳《は》ねてしまい、あわててまくれあがったスカートを押さえる。
「明日の朝には戻ってると思うよ」
「ありがとうモエルッ! キミは最高の相棒だっ!」
抱き上げ、両手で強くハグする。するとモエルは困ったような声で言った。
「ああ、背中に柔らかさがある……違うんだ、かなたんの柔らかさっていうのはこういうことじゃないんだよ……」
またしょうもないことを言っているなと思ったけれど、今は感謝の意味も込めて投げ飛ばしたりはしなかった。
――人の形をした黒色。
それは暗闇《くらやみ》に立つ人に見えるかもしれない。
だが……確実に違う。いくら黄昏《たそがれ》時とはいえ、光がまったく存在しないわけではない。
そもそもこの場所は暗くなれば、安全を考えてすぐにでも電灯の光が灯《とも》る場所。
――公園、である。
街外れの山の麓《ふもと》にある、閑散とした公園。そこに備え付けられた電灯は五本。一本はどうやら故障中らしいが、それでも光が足りないということはない。
しかしソイツは――光を浴びて尚、暗い。
人と違うというならば、ソイツには最大の違和感があった。
背に生えた異形の翼。コウモリの翼にも似ているが、それが人のサイズに見合うほど巨大化しているのだから、振りまく禍々《まがまが》しさは尋常ではない。
「ウィズ・インタレスト<b!」
対し、夕暮れの灯火を形と変えたかのような少女――樋野《ひの》留真。
変身した状態ではグレイス・チャペル≠ニ名乗る紅の魔法少女は、現れた騒音――ノイズへと向けて、自らが生み出した魔力を撃ち放った。
『……!』
ぼんやりと人の形をしていたノイズは、自らに向かって飛来してくる金色のコインを、右腕で打ち払う。
「甘いですのっ!」
その瞬間、彼女が自分で編み出した術式が発動する。
コインはノイズに触れた瞬間、幾筋もの金色の光となって敵の周囲に弾《はじ》け飛ぶ。その分散した光は、やがて新たなコインへと変わり、再び目標へ向けて集束した。
ズドドドドドドドドドドドドッ!
初手に放ったコインは単なるマーク、本当の攻撃はその後の集束攻撃にある。これこそが、グレイスが最も得意とする攻撃である。
「……お釣りはいらないですの」
胸元にぶら下げられた金色のコイン、オリジンキーウィズ・インタレスト≠軽く弾き、彼女は優雅に声を放つ。
突如公園内に現れたノイズは――白姫此方の推測通り、数秒と持つことはなかった。
「ふぅ。わざわざここに現れてくれるなんて、都合の良いノイズですの」
彼女は戦いの名残も何もなく、あっさりと変身を解いて周囲を見回す。
彼女の視界に入るのは、公園というものを構築する上での必要なもの。
ブランコ。
鉄棒。
砂場。
公衆電話。
自動販売機。
真っ赤なテント。
水飲み場。
すべり台。
ジャングルジム。
――なにやら一つ、生活するためのものが入ったようだが、これは彼女にとつての必需品である。
他ならぬ彼女の住み処《か》。グレイスチャペルこと樋野留真は、自分の目的のために自給目足の生活を営んでいるのであった。
「しかし今のノイズ……先週、大量に現れたヤツと同じ形をしていましたの……」
ノイズの大量発生事件。彼女もまた、そのとき彼方と共に戦った仲間の一人である。
「創造領域の術者が消えたからといって、生み出されたノイズまで消えるわけではない……ということですか……」
彼女が自分なりに推測していると、
――ズザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!
再び彼女の身に、耳をつんざく騒音が響き渡った。
「! 連続発生!?」
ノイズは本釆、一度に大量に生まれてきたりすることはない。そのことをよく知っている留真は、|再び起きた《ヽヽヽヽヽ》その異常に顔をしかめる。
樋野留真が立っている場所から半径三メートル。
彼女を取り囲むかのように――景色が歪《ゆが》む。
ザザッ、ザザッ、ザザッ!
壊れた録画映像のように景色に砂嵐が起こり、そこから黒一色の異形が顔を覗かせた。
「ッ!?」
たった今倒したノイズと同種。
それが――軽く見積もって、三十。
「……なるほど、ですの」
奥歯を噛みしめ、留真は呟く。
「偶然ここに現れたのではなく……|必然としてここに来た《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、というわけですの……」
自分を取り囲んでゆく黒羽のノイズを見つめ、
「確かに、あれほどのチューナーを滅ぼす≠ニいう想い……散らばり、どこかに滞留していてもおかしくないですの。そして散らばった想いが呼び合い、集合し――再起する」
そこから結論を見いだす。
「つまり狙いはチューナー……この場合は私、ですか」
留真は、無意識に喉《のど》を鳴らした。
同時に思考を巡らす。
(一対一なら、自分に有利な距離を保ち、勝つことはたやすい。しかし……こうも大勢、しかも完全に囲まれてしまったとなると……少々、きついですの)
以前の戦いでもこういった状況に陥った。
しかしそのときには、彼女が安心して背中を預けられる仲間がいた。二人でならば、お互いの短所を補い合い、長所を何倍にも引き出すことができたのだ。
(とにかくもう一度変身しなくては。考えるのはそれからですの!)
「絶えなく――」
留真が意味在る言葉≠紡こうとした、瞬間。
『――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
「ッ!?」
周囲を取り囲むノイズが、一斉に吠《ほ》えた。
ビリビリと、体の芯《しん》まで揺らす大音量。それによって彼女の詠唱は中止されてしまった。
(しまった……っ!)
ノイズが、咆哮《ほうこう》と共に押し寄せる。
……一連の流れは緩慢に見えた。
ゆっくりとした時の中で、留真は考えていた。
(これで、何度目ですの?)
黒い軍勢が、
体を震わせ、
地面を蹴り、
全方位から、
悪意を放つ。
そんな、絶望の光景を――、
「留真ちゃん、遅くなってごめん!」
――その人がぶっ飛ばすのは、何度目だっただろうか、と。
ボクは思いきり飛び、空よりその場所へと舞い降りた。
留真ちゃんが立っている場所――今まさにノイズが押し詰めようとしている、その地点に。
「よいしょっ、と」
スタンッ。
着地と同時に、身体強化に使っていた魔力が周囲に霧散する。
『!?』
押し寄せてきたノイズが――動きを止めた。自らの判断で、ではない。霧散した魔力の余波が、一時的な壁を作り出したのだ。
「いやー、びっくりしましたよ。向かってくる途中でいきなりノイズが増えたから。急いで来て正解だったみたいです」
ボクは降り立ってすぐ、呆然としている留真ちゃんに声をかける。
「感謝しなよ、グレ子。キミのためにわざわざ隣町まで出張してきてあげたんだから」
右肩の定位置に乗ったモエルが恩着せがましく言った。留真ちゃんは上手く考えがまとまっていないらしく、体をわなわなと震わせている。
ボクは杖をくるくると回しながら、肩の上に向けて言う。
「もう、モエル。そんな風に言っちゃダメだよ。どうせ変身したら十分もかからないんだし、ボクだってグレちゃんに何度も助けられてるんだから。……って、あ」
言った後で、モエル共々呼び方を間違っていたことに気づく。
彼女は変身していない。つまり今は留真ちゃん≠セ。そういうときはすかさず「留真ですの!」という突っ込みが飛んでくるはずなのだが……なにやら少し、様子がおかしい。
「あ……貴方たちは〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
じっくりと怒りを溜《た》め、留真ちゃんが大声で怒鳴る。
「何考えてるんですのっ? わざわざこんな場所に降りてきて!
自分から敵に囲まれてどうする気ですのっ!?」
怒られてしまった。
……そう。ボクとモエルはのほほんとしていたが、状況はさっきから何一つとして変わっていないのだ。
「ほら! 怯《ひる》んでいた敵が動き出しますのっ!」
三十匹にも及ぶノイズは数だけで判断するならば驚異そのもの。魔力の余波で怯んだものの、その気勢は少しも削《そ》がれていない。
敵を倒す=B意思がないノイズの存在理由は、その一つに絞られている。
「くっ、絶えなく廻れ金華の焔――!」
留真ちゃんが素早く左手を前に突き出し、意味在る言葉を紡ぐ。
ボクは、
「――グレちゃん、動かないで」
と、変身した彼女、グレイス・チャペルの耳元に囁きかける。
「は、た……っ?」
力が抜けたのか、彼女は動きを止めた。潤んだ瞳でこちらを見てくるグレちゃんに、ボクは静かに言った。
「――もう、終わってる」
「え?」
彼女が間の抜けた声を放つのと、ボクが先ほどから|くるくると回していた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》杖を地面に叩きつけるのは、まつたくの同時だった。
モエルが叫ぶ。
「かなたんっ、やっちゃえ!」
――発動。
「蒼の螺旋《らせん》=v
ピィンッ!
力強い、短音の旋律。魔力の解放と共に周囲に現れる――蒼色のライン。
ボクが杖で描いた軌跡は、蒼き魔力の衝撃へと変わる。
「これ、は……!?」
彼女は愕然として呟き、小さく体を震わせた。それは恐怖からくる震えではなく、自分たちを守るように出現した螺旋の渦に、体内の魔力が干渉したからだろう。
そしてボクは、トリガーを引く。
「吹き飛べ!」
激発の声に呼応し、ボクたちの周囲を渦巻いていた蒼い光の軌跡が、外に向かって迸《ほとばし》る。
『……!?』
最初に餌食《えじき》となったのは最も近くにいたノイズであった。その胴体が螺旋の一部に触れた瞬間、黒塗りの体が根こそぎ|消滅した《ヽヽヽヽ》。
クリアブルーという爽快《そうかい》な色とは裏腹な、消滅の魔法。
男の体のときは魔力の制御が不安定だったため、この魔法はそれこそ周りのものをすべて消し飛ばすまで止まらなかった。しかし今なら、その軌道を上手く操作することもできる。
「かなたんすごい……この制御力を失うのはもったいないなぁ……」
「? 失う、とはどういうことですの?」
モエルがうかつに口にしてしまった言葉に、グレちゃんが反応した。そこでこの猫はどんな上手い切り返しをするのだろうと期待していたら、
「! グレ子には関係ないよっ、このむっつりスケベ!」
あろうことか、強引に押し通す道を選んでしまった。
「なななっ!? 誰がむっつりですの!? 誰がスケベですの!?」
(グレちゃん……なんて素直な子なんだ……)
ボクはしみじみとそう思いながら、魔力を少しずつ解放してゆく。
――元々相手がこちらを取り囲む形になってくれていたため、すべての敵を退治するのはそう難しいことではなかった。
青の螺旋を発動させてから十数秒。
「……あれだけいた敵が……あっという間に……」
グレちゃんは唖《あ》然を通り越してあきれているみたいだ。
ノイズの反応がすべて消えたことを確認した彼女は、改めてこちらを向き声を放つ。
「お見事ですの。それと……感謝、いたします」
さっきモエルに言われたことを気にしているわけではないと思うが、いつも強気な彼女が素直にお礼の言葉を言ってきた。ボクが少し違和感を感じていると、
「らしくないね? おいらはてっきりまたあの程度の敵、一人で十分でしたの! 余計なお世話ですのっ!≠ニか言うと思ってたんだけど」
モエルがぶっちゃけてしまった。
「ま、まぁ危なかったところを救ってもらったのは事実ですし。それでお礼を言わなかったらただの失礼な人、ですの」
頬を赤く染め、そんなことをごにょごにょと呟くグレちゃん。そんな彼女に、金色の猫はいやらしい口調で言った。
「ふぅん。素直になったもんだねぇ? それともかなたんにだけかな?」
その顔はなぜか少し不機嫌そうに見える。
「なんですのその含みのある口調は!? モエルさんの考えているようなことは一切ありませんのっ、ないですのっ!」
このままいつもの犬猿なやりとり(猫と人だけど)を始めるのかな、などと考えていると、グレちゃんがいきなりこちらを向いて聞いてきた。
「そっ、それはそうと彼方さん……前は聞きそびれましたが、その変化した姿……一体、どういうことなんですの?」
ボクの着ている衣装を上から下へと眺め、怪訝そうな表情を作る。
『!!』
ボクとモエルはその質問にびくりと反応した。
「いきなり魔力の扱いが上手くなったというのも解《げ》せませんの」
鋭い指摘にボクたちは震えるばかり。答えに困るボクとモエルを見て、グレちゃんは確信を口にした。
「何か……隠して、いますのね?」
『っ!?』
――ボク、女の子になっちゃいました。
(なんて言ったら、グレちゃん絶対怒るもんなあ……)
「えー、と……その、なんていうか調子がいいときはこうなる、みたいな……」
「かなたん、言ってることが浅すぎるよ……」
(ボクが言い訳とか苦手なのはモエルが一番知ってるだろっ!)
声には出せない悲鳴を、視線で伝える。
「…………」
グレちゃんはしばらくこちらの言葉を待っていたが、やがて諦《あきら》めたかのように息を吐き、
「……分かりましたの。詳しくは聞かないことにしますの」
言葉と視線を、ボクの右肩の上に注ぐ。もしかしたら、彼女なりに何か気づいていることがあるのかもしれない。
モエルは、
「恩に着るよ」
と、誰の目も見ずに呟いたのだった。
「ええと彼方さん、せっかくですのでお茶でもいかがですの?」
戦闘が終わった直後、まだ変身も解いていない状態でボクは、グレちゃんからそんなお誘いを受けた。
「あ、はい、じゃせっかくだからお呼ばれします……って……」
失礼であることは承知の上だったが、ボクは言葉を詰まらせてしまう。考えたことが一緒だったのだろう。モエルも開いた口がふさがっていない。
微妙な視線を一身に受けた紅の少女は、その意図を敏感に感じ取り、大きな声を上げた。
「お茶くらい用意できますのっ!」
「あ、あはは……そうですよね。すみません、変なこと考えちゃって……」
なんとなく気まずい空気の中、グレちゃんが妙に明るい表情で聞いてきた。
「――ときに彼方さん、ハーブティーはお好きですの?」
彼女の頬が微妙に引きつっているのが気になって仕方ない。
「……それ、本当にハーブだろうね……」
ボクの不安をそのまま、モエルが口に出してしまう。
そんなやりとりを繰り広げていた最中に――それは起きた。
数メートル先の、テントまで向かう途中。
「はたっ?」
グレちゃんが|いつもの《ヽヽヽヽ》声を上げ、蹟《つまず》く気配がした。
「おっと!」
ボクはそれに素早く反応し、とっさに彼女を自分の体で抱き止めようとする。
「かなたん、ダメだっ!」
その失敗に気がついたときには、すべてが遅かった。
――ふにんっ。
体勢を崩した彼女の頭部が思いきり、ボクの胸へと埋められた。
「あ、っ」
「えっ?」
[#挿絵(img/ノムE-1011-230.jpg)]
グレちゃんの驚愕《きょうがく》した声が、すべてを物語っていた。そこにあるはずのない感触をその身で確かめてしまった彼女は、
「そんな、これは……まさか、そんなわけない……ですの……!」
ショックを隠すこともせず、上擦《うわず》った声で呟きながらボクを見上げてきた。
「彼方さん……あなた……」
いつも強気だった瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「うそ、ですの……!」
そんな彼女を見たのは初めてだった。ここまで大きなショックを受けているのは、ボクがずっと男だ≠ニいう風に、嘘をついていたのだと思ったからだろうか。
「……っ!」
ボクは彼女の瞳を直視できなかった。
(気づかれた……!)
「かなたん……」
モエルが消え入りそうな声でボクを呼んだ。不安に近い感情が、その声音から感じ取れる。
……今のボクは、グレちゃんからしてみればただの大嘘つきだ。
(! そうだ、理由を話せば……)
そう考えた瞬間、母の言葉を思い出す。
『――かなちゃん。あなたが女の子になってることは、誰にもばれちゃダメよ?』
あの人が冗談であんなことを言ったとは思えない。
きっとそこには何らかの理由がある。それこそ、信頼している人にすらバレてはならない重大な何かが。
(じゃあどうしたら……っ!)
もうどうしようもないじゃないか。
ボクの頭に諦めが浮かび上がったそのとき。
「――てぇいつ♪」
などという、緊迫感を蹂躙《じゅうりん》するハニーボイスが響いた。それと同時に、
「はたっ!?」
トスン、という衝撃。ボクの胸に抱きつく形となっていたグレちゃんは、首筋にその衝撃を受けて気を失ってしまう。
「も〜。バレちゃダメって言ったでしょ? かなちゃん♪」
気を失って変身が解けた彼女の後ろに、見知った人の笑顔がある。
「! 母様っ……」
家で待っていたはずの母、白姫此方がそこにいた。右手を手刀の形にしている母は、緊張感のまるでないにこにこスマイルでこちらを見ている。
「どっ、どうしましょう母様っ! 留真ちやんにバレちゃいましたー」
「そうみたいねぇ♪」
「そうみたいね、って! いいんですか!?」
「良くないわ。……まだ、ね。ところでかなちゃん、母様の格好よく見て?」
わずかにシリアスの片鱗《へんりん》を見せたかと思ったら、いきなり母はそんなことを言ってきた。
ボクはまだわずかに慌てていたが、言われた通りに母の格好を見て――気づいた。
「……。母様、どうして――ボクの服を着てるんですか?」
母が着ているのは、よく見覚えのある服だった。白のワイシャツにストライプのミニスカート。どちらも大きめで、体から少し余る。
「どう? 母様のコスプレ。似合ってるかしら?」
「……鏡見てるみたいですけど」
ほとんど外見が同じなのに似合うも何もない気がする。
「は〜。また減点ね。女の子が似合うか聞いてるときは、ちゃんと褒《ほ》めてあげなくちゃ。なるべく自分の言葉で、情熱的にね?」
「はぁ……わかりましたよ。っじゃなくて、今はもっと別の問題があるでしょ」
ボクが叫びそうになったところで、母はボクの唇を人差し指でふさいできた。
「モエルちゃん、こっちにいらっしゃい」
「! う、うん……」
呼ばれたモエルが、ボクの肩から母の肩へと飛び移る。
「かなちゃんはどこか見えないところに隠れてて。……あ、その子はもらうわね」
勝手に話を進めていきながら母は、力の抜けた留真ちゃんの体を先ほどの状況と同じようにして抱き止める。
そこでようやくボクは、この人のやろうとしていることに気がついた。
いくら何でも無茶じゃないかと思ったが……もうそれ以外、頼れる方法がないのも事実だ。
「すみません、母様……よろしくお願いします」
ボクが頭を下げてお願いすると、
「うふふ。男の子に戻ったら今度一緒にお風呂入りましょうね♪」
という、脅迫まがいの言葉が返ってきた。今はそれを拒否することもできず、
「う、ん……!?」
という留真ちゃんの呻く声を聞いて、ボクは慌ててその場から離れた。
「! 彼方さんっ、本当に――」
「――るまちゃんたら、えっち♪」
「!? え!? こ、此方さん……ですの!? 彼方さんは……?」
「何言ってるのさるま子。かなたんはいないよ?」
「え!? 何言ってるんですのモエルさん!? さっきまで確かに……」
「あれぜ〜んぶ、私の演技だったの♪」
「は!?」
「上手だったでしょ?」
「そっ、そんなわけっ――! そっ、そうですの! こうして感触を改めて確かめてみると、さきほどの感触よりも今の方が薄イタタタタタタタッ! 増してますの! 締め上げる力が増してますのっ!」
「命知らずだね……るま子……」
そのやりとりの後、すっかり夜となった街を、ボクたちは一緒に歩いて帰っていた。
「でも良かったです。最終的には留真ちゃん、ちゃんと信じてくれたみたいで」
家の近くで変身を解き、家族で久しぶりに夜の散歩。
空には半月、綺麗な月夜だった。
「そりゃもう、母様の演技力にかかればこんなものよ♪」
「いや母様、何一つ演じていませんでしたが」
始終力押しだったように見えたのは気のせいじゃないだろう。
「まあ、かなり無茶があると思ってたんですけど……意外とうまくいくものですね?」
ボクがそう言うと、モエルが静かな声で言った。
「信じて当たり前だよ」
「……え? どうして?」
それはやけにはっきりとした断定口調だった。
「理由は……|信じたくなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》からさ。かなたんには難しいかな?」
「え? どゆこと? 母様は分かってるんですか?」
ボクは隣を歩く母の顔を見る。
「うふふ。さ〜どうかしら?」
含みのある笑い。どうやらボクだけがその理由とやらを分かっていないようだ。
「え? なんで? 教えてよモエル、母様っ!」
一人と一匹はそれぞれ笑い、ふてくされ、何も教えてはくれなかった。
――月夜を歩く白銀と黄金。
家までの道すがら、白姫一家の話題が途切れることはなかった――。
こうしてボクは、次の朝に男の姿へと戻った。
契約書が修復され、脅迫関係まで元通りになってしまったわけだが……。
まあ、それは仕方ないだろう。
――ともかく、すべて元通りな日常が戻ってきたのだ。
[#改ページ]
おまけ3 妄想、それは創造
温泉宿山豊庵《さんぽうあん》=B
清々しい空気と青々とした自然、こんこんと湧《わ》き出る命の湯。
知る人ぞ知る、だが知るためには|ある条件《ヽヽヽヽ》を必要とする。
――そんな、秘境の名宿。
月もいい加減眠らせろと溜息《ためいき》をつく深夜、岩で組み合わされた浴場にて、とある夜会は終盤を迎えていた。
「……そういえばモエルさん」
「どうしたですの娘」
木|桶《おけ》に注いだ温泉に浸《つ》かっているモエルに、留真《るま》が声を放った。現在、この付近には彼女たちしかいない。此方《こなた》と依《より》は、二人で一緒にサウナルームの方へ行ってしまった。
「留真ですのっ。……とまぁそれはともかく、確か以前|彼方《かなた》さんがモエルの奴、ボクがお風呂に入れてあげようとするとなぜか嫌《いや》がるんだよね=c…と言っていたんですが」
それはまだ彼方が魔法少女になって間もない頃。留真と魔法の訓練をしていた頃に交わした、たわいもない話であった。訓練自体は結局、ほとんど成果のないまま終わってしまったものの、そのときに話したことは今だにしっかりと覚えている。
「……それが?」
モエルはひげをピンと勢いよく動かし、お湯を弾《はじ》いた。
「何となく思ったのですが、今見たところ、そこまでお風呂が嫌いそうでは……ないようですのね? どうして彼方さんから逃げる必要があるんですの?」
「…………」
モエルは湯の中に鼻先を浸ける。
「別に言いたくないのなら――」
ただならぬ雰囲気を感じて会話を止めようとする留真。しかし、予想に反してモエルは語り始めた。
「――想像してごらんよ」
「?」
留真が首を傾《かし》げる。モエルは木桶の中から彼女の方をしっかりと見て、声を放つ。
「まず、お風呂場にかなたんと二人きり」
言葉を聞いた途端、留真の頬《ほお》に差す赤みが強くなった。
「……そ、想像したですの」
まともにモエルの方を見られなくなりながらも、彼女は先を促す。
「次に、かなたんが手のひらにシャンプーを一滴取る」
「はいですの」
頭の良くキレる留真にとっては、指定された状況を思い浮かべることなどたやすいことだ。
「両手を揉《も》んでそれをよぉっく泡立てる」
「? はぁ」
意味が分からない、というニュアンスの込められた返事。
そこに、モエルは爆弾を投下した。
「――そのかなたんの手が、君の全身をくまなく撫《な》で回す」
「っ!?」
ぼふんっ! 爆発した音が実際に聞こえるほど、留真の顔色は急激に変化した。
「そりゃもう丹念に、余さず、あらゆる場所を。優しく、優しく、優しく……」
モエルはできるだけ言い回しを工夫し、彼女の想像力をかき立てる。
「あわわわごっ、ごめんなさいですの! もう分かりましたの! やめてくださいですの!」
「あのすべすべの手が、ぬるぬるした泡をまとって……」
「はたっ、だめですのモエルさんッ! もっ、妄想が止まら――」
すでに彼女はモエルの術中にはまってしまっていた。逃げだそうとしても、留真の脳は考えることを止めようとしない。
「許してと言っても強引に手を上下に動かし、くすぐったさと快楽を同時に与えてくる……」
さらにたたみかけるモエルの囁《ささや》き声。
「そんなっ!? だめですの彼方さんっ、そこまで洗っていただかなくても……!」
現在、留真の頭の中には臨場感あふれる妄想が繰り広げられている。
「小悪魔のような妖艶《ようえん》な微笑を浮かべこぉら、逃げちゃダメでしょ?≠ニ耳元で囁いてくるかなたん……」
「はっ、う……!」
「お風呂場という密室には熱気がこもり、天井へ舞い上がる湯気とともに君の意識も……」
「もっ、もうだめ、ですの……」
思考回路はショートを待つのみ。
ならばひと思いにと、モエルが決め手を放つ。
「気持ちよかったでしょ? ……留真ちゃん」
「――はぅぅぅんっ!?」
予想以上にそっくりだったモエルの声|真似《まね》に、留真の意識はゆっくりと沈んでいった。
――月も逃げ出す深夜、秘密の夜会が行われていた頃。
「うぅ〜……ん……」
とある客室、とある一つの布団の中。
かぷかぷ。黒髪の少女が、瞳を閉じながらにして隣で眠る少年の耳をかじっていた。
「いいんちょ……ボクは食べ物じゃないですよぅ……」
「ふふ〜……お仕置きだよ〜……」
一足先に眠りについた二人は、そんな寝言を呟きながら安らかに過ごしていた――。
「それじゃあ、帰りましょうか♪」
母が先頭に立ち、集まったボクたちに向けて言った。
「ちょっと……名残惜しいですね」
ボクはその建物を振り返り、目に焼き付ける。
「ここが気に入ったんでしょ。かなたん、朝起きてすぐに温泉入ってたもんね」
肩の上からモエルが言う。
「また……来れたらいいですのね」
留真《るま》ちゃんが珍しく、穏やかな顔をしてそんなことを言った。
「うんうんっ、このみんなでねっ!」
明るく賛成する依《より》お姉さん。
「ふふっ。そのときはいろいろと壊さないようにしなきゃね?」
委員長がそう言うと、留真ちゃんは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
――この旅行のおかげで、なんだかここにいるみんなの距離が近くなった気がする。
初めは母の強引な提案からだったけれど、今となってはそれも良かったと思う。
こうして楽しい時間を仲間や家族と共有できることは、とても幸せなことだ。
「またいつか……みんなで」
ボクはそう呟《つぶや》くと、視線を前に向け歩き始めた。
――みんなと、一緒に。
「……ところで母様、結局ここに来た目的って何だったんですか!?」
「うふふ。かなちゃんにはナ、イ、ショよ♪」
「内緒ですの」
「内緒だねっ」
「え? えっ? どうしてですか? なんで二人とも知ってるっぽいんですか!?」
彼方たちが騒いでいる横で、黒髪の少女が一人、首を傾げる。
その手を胸元に当てて。
「あれ? なんか……胸、おっきくなった気が……?」
温泉宿山豊庵=B
清々しい空気と青々とした自然、こんこんと湧《わ》き出る命の湯。
知る人ぞ知る、だが知るためには|ある条件《ヽヽヽヽ》を必要とする。
――そんな、秘境の名宿。
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あとがき
ご機嫌いかがでしょうか、白瀬修です。
なにやら気がついたら四巻が発売されてしまいました。
手にとって頂いた皆様、ありがとうございます。
いかがでしょう、そろそろ新たな境地が見えてきましたでしょうか?
はたまた、ずぶずぶと底なしのぬかるみに沈んでいますでしょうか?
どちらにせよ、この本が皆様の心に何らかの影響を与えられたなら幸いに思います。
え、責任とれ? ……それはまた別の話ということで♪
今回は短編集です。今まで真面目な戦いとかもやってきた分、ひたすら日常にスポットを当ててみました。お風呂の中などでリラックスして読むといいですきっと。
――それでは各短編について軽く一言ずつ。まずは温泉旅行から。
もはや言うまでもなく、定番中の定番ですね。しかしこれは必ず書かなくては、いや書きたい! というわけで完成しました。今読み返してみると、なんかこなすべきシチュエーションが逆な気がしました。いや正しい。これで正しいはず。そう信じることが第一歩。
次に、生クリーム編。……実は書き始めの段階からこの話は生クリームの話≠ナした。でも実際のところは明日野、古伊万里という彼方の友人二人による物語。なかなか異色な感じとなっております。しかしこの二人、協力したら凄い力が発揮できそうですよね。まあ、影響を受けるのはすべてにおいて彼方なのですが。
そして一週間≠フ話。
前巻でも言っていた通り、彼方が○○○になっちゃってる間の話。……のはずなんですけど、なんかいつも通りだったりします。前回から賛否両論だった彼方の○○○なのですが、なんとも反響がもの凄く、嬉しいやら悩ましいやら。
もちろん、頂いたご意見はしっかりと心に受け止めております。
そこで自分なりの考えを述べさせていただけるのであれば、白姫彼方には一つにとどまらずありとあらゆる可能性を与えてあげたい=Aといったところです。
彼方を悶えさせるためなら時空さえもねじ曲げる!
そんな意気込みをもって、これからも臨んでいきたいと思っています。
……やり過ぎには十分注意します、はい。
今回もイラストを手がけていただきましたヤス様、毎度のことながら無茶な注文に全力で返していただける、その粋な心意気に感服いたします。
この本の制作に携わっていただけた方々にも、感謝御礼でございます。
――それでは、名残惜しいですが今回はこのあたりで。また会う日を夢見て。