おと×まほ 3
白瀬 修
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目次
プロローグ
1.魔法少女たち
Other side.?
2.開幕、文化祭
3.祭りの終わり、そして、始まり
4.夜
5.闇の訪れ
Other side.?
6.桜色の帰還
7.空の彼方へ
エピローグ
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プロローグ
「ひゃ、んぅっ! やめ……っ!」
木の机が並ぶ、平凡な教室の中。
「ふふ。やめないよ〜♪」
悦《えつ》に入った声と、弱々しい抵抗の声がおり混ざる。
銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》、清らかな黒髪、垂《た》れるおさげ。一見すると真面目《まじめ》そのものに見える少女の手が、遠慮のない手つきでボクの体をまさぐる。
「白姫《しらひめ》君の体、細くて、すべすべで、弾力もあって、ほんといい触り心地……」
「……んんっ、いいんちょっ、みんな見てますって……!」
二時限目の授業を終えた、休み時間。教室の中には次の授業の準備をしている者や、思い思いの場所で会話をしている生徒たちの姿がある。
そんな中、特に何もすることなく自分の椅子《いす》に座っていたボクは――突如、背中から覆《おお》い被《かぶ》さってきた少女に襲われていた。
「人の目なんて気にしなくていいの。ん、今日も髪の毛さらさらだね。それに、相変わらず綺麗《きれい》な……銀色。光が透《す》き通りそう……」
黒髪の少女は、ボクの腰元まで伸びた髪を一束ほど手に取り、自身の清楚《せいそ》かつ端整な顔に近づけた。白銀色をした自分の長髪が、恍惚《こうこつ》の眼差しにさらされる。
(……よし、今の内に……)
視線が動いたその隙《すき》にボクは逃げようと試みるが、しかし。
「いろいろずるいな、白姫君は」
さわ。
「あゃっ!?」
横に回り込んできた彼女に太股《ふともも》を撫《な》でられ、硬直してしまった。このクラスの委員長である少女は、眼鏡を通した瞳の奥に深い愉悦《ゆえつ》の色を映し、薄く微笑《ほほえ》んでいる。
(逃げられない……っ)
椅子に座ったまま立ち上がることも許されず、されるがまま。ボクに残された抵抗は顔を背《そむ》け、彼女を直視しないようにすることのみだった。
「綺麗な髪、やわらかな体、かわいい顔……」
つつつ、と制服越しに触れてくる手が、太股から上半身へと動いてゆく、端《はた》から見たらこの光景は、女の子二人がじゃれ合っているように見えるのだろうか?
それとも……?
「こんなに、女の子の羨《うらや》む要素が揃《そろ》ってるのに――」
そんなことを考えている間に、彼女の人差し指は優しくボクの体を撫で上がり、最終的にこちらの唇に触れる。
耳のすぐ傍《そば》で、彼女の囁《ささや》きが聞こえた。
「――オトコノコ、なんだもんね」
かぷ。
「っ!」
ぞくんっ。
体が震《ふる》え、全身の感覚が一点に集中する。その部分は温かい何かに包まれており、肌とは違う生々しい熱が感じ取れた。
ちゅ、ぷ……。水っぽい音が耳と体に直接伝わってきて、頭が痺《しび》れる。
――ぺろっ。
「〜〜〜っ!?」
耳元から駆け上がってくる形容しがたい感覚に、ボクは声にならない悲鳴を上げ、思わず振り向いてしまった。その勢いで、甘噛《あまが》みされていたボクの耳は彼女の唇から解放される。
「ふふ、おいしかった♪」
委員長はあくまでマイペースに、隣でふわふわと柔らかく微笑んでいた。
「あ、ごめんね。ちょっとやりすぎたかな?」
笑いながら謝る彼女に、反省の色は見えない。
「……やっ、やりすぎとか……〜〜〜っ、そんな問題じゃないでしょ!」
ほのかな熱を持った左耳を押さえ、ボクは目にうっすらと涙が浮かんでくるのを堪《こら》えながら、悪戯《いたずら》大好きな少女に怒鳴った。
「何度も言ってますけど、いいんちょは女の子なんですからっ! もう少しその……恥じらいとか、持ってくださいよっ!」
その言葉にも委員長は微笑んだまま、
「白姫君が触り心地良すぎるからいけないんだよ?」
本気とも冗談とも取れないことを言ってくる。
「……あぁ、もう」
横目で教室内を見渡し、そんなに注目されていないことに安心すると、自然と溜息《ためいき》が出ていた。乱れた制服を直しながら、愚痴《ぐち》っぼく言う。
「いいんちょはいつもそうです。ボクが怒っても、そうやって笑ってやり過ごすんですから」
今も彼女は表情ひとつ崩さず話を聞いている。なんだか無駄な気がしながらも、ボクは何度か行ったやりとりを繰り返した。
「最近のいいんちょはどこでもそこでも、大胆すぎです」
「ふむ。場所を選んだらいいってことかなあ?」
ふんわりと、彼女ならではの口調で返してくる。
「いいわけないでしょう! だからですね、いいんちょは女の子で、ボクは――」
――キーンコーンカーンコーン。
「あ、チャイムだ」
ふわふわと、本当に捉《とら》え所のない少女は。
「それじゃまたあとでねっ、白姫君っ」
柔らかな笑顔を少しも崩さないまま、自分の席へと戻ってしまった。
「……ほんとに、もう」
(いいんちょはこの先もずっと、この調子なんだろうなぁ……)
そんなことを思いながらボク――白姫|彼方《かなた》は、羞恥《しゅうち》で赤らんだ頬《ほお》を冷ますのだった。
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1.魔法少女たち
夕暮れ時、自宅にて。
「ねぇ……いれて?」
甘えた声。朱に染まる頬《ほお》と熱い吐息《といき》。
「だ、だめですっ、依《より》さん……そんなの……」
ボクが強く体を引くと、彼女はそれを押さえ、止めた。
明るい茶色のポニーテールがふゆん、と揺れる。それに合わせてメリハリの利いた彼女の体も、弾むように揺れた。
「恥ずかしがらなくてもいいんだよ。お姉さん、平気だから」
色香の混ざる声。艶《なま》めかしい呼気が口からあふれ、瞳はどこか夢を見ているようにとろんとしている。お姉さん、と年上であることを強調する割には若さが色濃く、性格は明るい。
「平気なわけないです……っ、こういうことは、もっとお互いよく話し合ってから……」
ボクは、そんな彼女の強引な誘いに弱々しい抵抗を繰り返す。するとその隣で、
「……あの……私からも、お願いですの。……い、いれて……ほしい、ですの」
羞恥《しゅうち》に彩られた表情に、潤《うる》んだ瞳。
依お姉さんより二回りほど小柄な、紅の少女が言った。
「そんな……留真《るま》ちゃんまで……!」
濡《ぬ》れた瞳は、求めてくる。赤々としたショートの髪は、彼女の持つ熱を外に表しているかのようだ。鋭い双眸《そうぼう》は強気な印象を感じさせるが、今は相対的な脆《もろ》さを見せている。強気の少女が抱く弱さ。それこそが、この少女の魅力をさらに増していた。
「だって、このままにされると私……恥ずかしくて……」
俯《うつむ》き、少女は唇を噛《か》む。強がっているのか、けれどもうその我慢も限界のようだ。立ったまま両手を握りしめ、ふるふると震えていた。
――陽はもうじき落ちる。ここから先は、夜という名の静かな時間が始まる。
そんな時間にも関わらず、二人の女性はその体を熱く、たぎらせていた。
「彼方《かなた》ちゃん……」
年上のお姉さん、幾瀬《いくせ》依。
「彼方さん……」
同い年の女の子、樋野《ひの》留真。
「依さん、留真ちゃん――」
迫ってくる二人に、ボクは。
「――お願いですから、落ち着いてくださいっ!」
思い切り、玄関の扉を閉めようとした。
「二人とも、なんでそんな怪しい状態のままボクの家に来るの!? そもそも依さん、どうして留真ちゃんを鎖で縛ってるんですか!? 留真ちゃんも泣きそうな目でこっち見ないで!」
ガツンッ。閉じかけた扉が、逆からの抵抗により止められる。
「――っ、だいじょーぶだいじょーぶ、お姉さんは人畜無害だよっ。別に家の中に入ったからっていきなり彼方ちゃんを襲ったりなんか……しないから。だから中に入れてほしいなっ?」
「なんか今間がありましたよね!? そもそも目が輝きすぎですよ依さん!」
扉から手を放さない依お姉さんは、ボクがどれだけ力を込めても微動だにしなかった。
「すみません彼方さんっ、今は何も聞かずにお家の中に入れてほしいですのっ。というか滅茶苦茶恥ずかしいですの〜っ!」
鎖でグルグル巻きの留真ちゃんは、顔を真っ赤にして切迫した声をあげた。
「留真ちゃん、せめて依さんの邪悪な気を鎮《しず》めてきてください!」
「そんなひどいですの! 私に圧死しろと!?」
この依お姉さんは、かわいいものに抱きつくという困った癖《くせ》がある。しかも豊満なボディに見合ったもの凄《すご》い力も持っていて、これまで幾度となく餌食《えじき》となったボクと留真ちゃんには、その恐怖は身に染みて分かっていた。
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(くっ、なんでこんなことに……)
扉の向こうから、少し落ち着いた依お姉さんの声が聞こえてきた。
「……彼方ちゃん。今、お母様が旅行中でひとりぼっちなんだよね? 正義感とその他諸々が強いお姉さんとしては、一人きりの彼方ちゃんが心配で心配で……」
どうやら彼女は心配してここまで来てくれたらしい。それはありがたいのだが……。
「その他諸々って何ですか? っていうか、こうなるの分かってたから依さんには言わなかったのに、留真ちゃんボクを売りましたね?」
「ちっ、違いますの誤解ですの! この人がいきなり彼方ちゃん家に遊びに行こう!≠チて……私は止めたんですの。でも、無理やり……」
自分に巻き付けられた鎖をジャラジャラと鳴らし、留真ちゃんは否定の言葉を並べる。
しかし。
「でも留真ちゃん、捕まったあとは結構素直だったよ? 自分から率先して案内してくれたくらいだし」
けろり、と依お姉さんは言ってしまう。
「アナタは余計なこと言わなくていいですのっ!」
留真ちゃんが必死になって言い訳する横で、依お姉さんは段々と扉を開ける力を強めている。
非常に危険だ。生命の危機すら感じる。何しろ彼女は今――|変身している《ヽヽヽヽヽヽ》。
比喩《ひゆ》的な表現ではなく、確かに変身しているのだ。
――魔法少女≠ニ呼ばれる存在に。
ボクたちが生きるこの世界には、敵がいる。生きとし生けるものすべてが奏《かな》でる命の律音、日常という穏やかな調律を乱そうとする騒音、ノイズ≠ェ。
異形《いぎょう》の姿を取るそれらに相対するのが、調律師――チューナーと呼ばれる魔法少女たちなのだ。
チューナーは変身することで人を超えた力を発揮し、それぞれに見合った武器、オリジンキーを手に取る。この依お姉さんで言えば、鋼の鎖リンカーズ=B
ノイズと戦う際には強力極まりない攻撃力を発揮する武器なのだが、現在それは一人の少女を縛るために使われている。
(……オリジンキーをこんな風に使っていいのかな)
この武器は使用者の心の底にある想いを映し出すという、言わば己の分身なのだ。
(もしかして依さんのオリジンキーって最初から縛るため……)
ボクは自分の中に湧き上がってくる嫌《いや》な想像を掻《か》き消す。
(とにかく今は、二人とも落ち着いてもらわないとダメだ。こんな状態の二人を中に入れたら白姫《しらひめ》家は滅茶苦茶になる。それだけは間違いない!)
「あのさ、かなたん」
背後から別の声が聞こえた。それはボクとこの家で暮らしている、もう一匹《ヽヽ》の――。
「なにっ、モエル? 今忙しいんだけど!」
「扉、開いてる」
「……へ?」
そういえば、今まで手の中にあった感覚が消えている。視線を落とすと、そこに握られていたはずのドアノブは影も形もなく、目の前の開放された扉からは、外の風が家の中にどんどん入り込んできていた。
「あの二人ならもう奥だよ」
開け放たれた扉が、ガチャン、と音を立てて閉まった。
「わーっ、ここが彼方ちゃんの家なんだ〜っ」
「ふぅ、とんだ辱《はずかし》めでしたの……」
食卓から聞こえてくる、弾んだ声と安堵《あんど》の声。
――今日の白姫家も、賑《にぎ》やかなことになりそうだった。
「……ね、モエル。夕飯は何食べたい?」
髪を背中でまとめ、リボンで結ぶ。ボクの髪は癖がない分、普段はもっぱら弄られる側だったりする。
いろいろと弄《いじ》りやすいのだが、
「う〜ん……えっとね、かなたんを――むぎゅ」
声の主を踏みつけ、足だけぐりぐりと動かし、フリルで飾り付けられたエプロンを体に当てる。サイズの小さなエプロンのはずなのだが、悲しいことにボクの体格にピッタリだ。よくよく思い出すと、小学生の頃から愛用しているのにいつまでも現役である。
(……もうちょっと身長、伸びないかな……)
せめて小学生と聞違われないくらいになりたい。
「ちょっ、かなたん! 踏みつけたまま考え込まないで! おいらこのままだと――」
腰紐《こしひも》をちょうちょ結びにして、しっかり固定。次に服の袖を両方ともまくり上げる。
これで戦闘準備は完了、いつでも料理に取りかかることができる。
「…………」
むぎゅつ。
「はぅんっ!」
背中を踏まれながらも、モエルはなにやら嬉《うれ》しそうだ。
「ちょっ、ダメだったらかなたんっ、このままじゃおいら、いけない趣味に――」
むぎゅぎゅっ。
「ふにゃああっ」
幸せそうだ。その様子を見ているとボクがいたたまれない気持ちになってくる。
「モエル……踏まれて喜ぶのはどうかと……」
「にゃっ!? 待ってよかなたん、そのおいらを見つめる眼差しの冷たさは何!?」
「……少し、接し方を考えないといけないかな……」
「真剣に呟《つぶや》かないでよ!?」
――普通かつ、退屈極まりないやりとり。
しかしボク、白姫彼方と、その家族であるモエルは、毎日|飽《あ》きもせずにそれを繰り返す。それが白姫家の日常風景。
それに少し、変わったところがあるとするならば。
「もう。かなたんってば、ほんと最近こなたんに似てきたよね」
「恐いこと言わないでよ。母様と似てるのは外見だけで十分だってば」
さっきからボクと会話をしているモエルは、淡い金色の体毛で全身が覆《おお》われており、耳は尖った三角形。大きな瞳は宝石を思わせるルビー色をしている。
見るからに気品のある――猫だった。
「とにかく、冷蔵庫の中に入ってるもので手早く作るよ。……あの二人もお腹空かせてるみたいだし」
有無を言わさず、夕食の準備をするためにキッチンへと向かう。
「あっ、かなたん、おいら湯豆腐食べたいなっ」
「はいはい」
後ろから聞こえてきた声に適当な返事をしながら、冷蔵庫の扉に手を掛ける。
「まったく、猫が湯豆腐って……結局はいつも食べるときにボクが冷ますんだから意味ないじゃないか」
「……それも目当てだったり」
ぼそ、と小さな声。
「何か言った?」
「ううん、なんにもっ!」
力強く否定するモエルに不信感を抱きながら、背伸びをして買い溜めしている食材のチェック。身長が低いボクは、背伸びをしないと冷蔵庫の中すべてを見渡すことができない。
「母様がなんでも大きいに越したことはないわ♪≠ネんて言っておっきいの買うから」
「かなたん、今の声マネこなたんそっくりだったよー」
「……盗み聞きしないでよ」
此方《こなた》というのはボクの母で、中学一年のボクと猫のモエルを残し世界旅行へと旅だってしまった、自由|奔放《ほんほう》をそのまま形にしたような人だ。
「う〜ん、そろそろ買い出しに行かないとな……」
そんな所帯じみたことを考えていると、廊下の方でぱたぱたというせわしない足音が聞こえてきた。
「ほらほら留真ちゃん、この部屋ソファがあるよっ」
さっきから家の中を物珍しげに歩きまわっている依お姉さんの声。
「幾瀬さんっ、もう少し静かにするですの!」
続いて、明らかに振り回されている様子の留真ちゃんの声。
二人分の足音は少し奥に行って、声だけが辛うじて聞こえてくる。
「こっちは……お風呂場みたいだね」
「……ここで、彼方さんが……」
「留真ちゃんどしたの? 顔赤いよ? ……もしかして……」
「なっ、なに誤解してるんですの? そんな破廉恥《はれんち》な妄想するわけないですのっ!」
「ハレンチ? ハレンチってなにかな?」
「ぐっ! う……うるさいですのやかましいですの!」
(賑やかしいなぁ……)
一階をあらかた探検し終わった二人は、しばらくしてキッチンの方へとやってきた。
「ほんとにもう! 幾瀬さんっ、貴女《あなた》もいい大人なんですから、少しは落ち着くですの!」
いい加減怒った様子の留真が、食卓のイスに腰掛けながら言った。
(あ、留真ちゃん、それ禁句……)
ボクがそう思ったときにはすでに遅かった。
「……いい大人なんて……留真ちゃん、ひどい……」
依お姉さんはみるみるうちに体を丸め、体操座りで床に座り込んでしまう。そして、
「そうだよね……私、二十四のおばさんだもん……留真ちゃんに比べたら生きた化石みたいなものだもん……年甲斐《としがい》もなくこんなに浮かれちゃって、うざかったよね……」
ポニーテールをしょげさせて、床にのの字を書き始めた。
「あああもう! どうして貴女はそう落差が激しいんですの!?」
「いいもん。二十四のくせにはしゃいだりした私が悪いんだもん」
ボクは何度か見たことのある光景に苦笑しながら、ジャガイモの皮むきを続ける。
「楽しそうだね、かなたん」
こちらを見上げてモエルが言う。
「……楽しい、のかな。どっちかっていうと大変な気がするけど」
「ううん。それでも楽しそうだよ」
モエルがどうしてこんなことを言い出したのかボクには分からなかった。ただそんな風に言ってくるモエルも、どことなく楽しそうに見えた。
「で? 結局今日の夜ご飯はなんにするの?」
「うん、あっちの二人もご飯まだらしいから、肉ジャガにするよ。残った材料全部使えるし」
「かなたんの得意料理だもんね。でもおいらタマネギは――」
「安心しなよ。ちゃんと湯豆腐も用意するからさ」
「さっすがかなたん♪」
後ろから聞こえる二人の騒がしい声。モエルとかわす他愛《たわい》のない会話。
――そのとき、ボクは確かに、この日常を楽しいと感じていた。
「ふわぁ、すごい彼方ちゃん……!」
テーブルに食器を並べ終えると、先に席に着いていた依お姉さんが驚いた声をあげた。
「これ全部、一人で?」
濃厚な醤油《しょうゆ》とみりんの甘い香り。味の染み渡ったジャガイモがほくほくと湯気を立てる。付け合わせには湯豆腐、そして枝豆を使ったサラダが添えられている。ご飯をよそった三人分の茶碗を並べ、食事の準備が完了した。
「人数が多かったからあまり凝《こ》ったことはできなかったんですけど……」
エプロンを外し、髪をいつも通りのストレートに戻す。そんなボクの動きをじっと見つめ続けていた依お姉さんが、ぽつりと呟いた。
「彼方ちゃん、私にお味噌《みそ》汁作ってくれないかなあ!?」
「? 構いませんけど」
「……一生」
「っ!? からかわないでくださいっ!」
「限りなく本気なのにな……じゃあせめて、姉妹の契《ちぎ》りをかわすとか――」
「――そこの巨乳。かなたんをさらおうとするのはやめてもらおうか」
冷徹な声で会話に割り込んできたのはモエルである。床からテーブルの上へ飛び乗ってきたモエルは、ボクの前に座って依お姉さんの視線を遮《さえぎ》った。
「いや、そこの巨乳はひどいでしょ……って、しまった逃げて、モエル!」
「こないだの猫ちゃんっ!」
ボクが気づいたときにはすでに遅く、突進と言えるほどの勢いで依お姉さんはモエルに手を伸ばした。変身はすでに解いているというのに、彼女の動いたあとには残像が残る。
しかし。
「遅いっ!」
モエルは抱きつきモードの依お姉さんを超えた速度で、ひらりと彼女の腕を回避した。
見事な宙返りの最中、黄金色の体毛が目を奪う。
(あの依さんを上回るなんて……!?)
ボクの驚きをよそに、モエルは再びテーブルに舞い降《お》りてきた。しかしそれで諦《あきら》める彼女ではない。虎視眈《こしたんたん》々と狙うは、着地した瞬間の隙《すき》。
「そんなの見え見えさっ!」
モエルはそう叫ぶと、着地と同時に前へ跳《と》んだ。
「なっ!?」
まさかの接近に、伸ばしかけた腕が空を切る。腕と腕の間をすり抜け、モエルは依お姉さんの額に――、
「てりゃっ!」
――ぷにっ。
肉球を、押し当てた。
「…………」
「…………」
二人は静かに離れる。応酬は止まり、沈黙が訪れた。
「やるね、猫ちゃん」
「伊達《だて》にかなたんのパートナーはしてないさ」
一人と一匹はお互い、何かを理解したように言葉を交わした。
ボクは、ようやく落ち着いた場に、ぽつりと言葉を放つ。
「……終わったかな? 二人とも」
かたかたかた、という音が食卓に響く。並べられた食器がボクの手の振動を感じ取り、小刻みに震えていた。
「?」「?」
モエルと依お姉さんは同時にこちらを向き、同時に顔を引きつらせた。
「食卓の上で騒がないのっ!」
漂う怒りのオーラに怯《おび》え、一人と一匹は先の応酬《おうしゅう》よりも素早く自分の席へと戻る。
「まったくもう。二人とも留真ちゃんを見習ってくださいよ。さっきからずっと席に座ったまま、微動だに、してない……?」
そういえば、さっきから留真ちゃんの言葉を聞いていない。具体的には、ボクが「用意が終わるまで席に座って待っててくださいね」と言ってから。
留真ちゃんは、言いつけを忠実に守っていた。
「…………」
並んだ料理から視線を外さず、もしかしたら外せないのかもしれないが、とにかく彼女は待っていた。用意が終わるのを。待てを指示された忠犬よろしく。
「うわっ、留真ちゃんよだれよだれ!」
ぐるるるる、と獣の鳴き声のごとく、留真ちゃんのお腹が吠える。
「生き地獄ですの……こんなにいい匂いを前にしてただ見ているだけなんて……」
「留真ちゃん、そんなにお腹が減ってるなら先に食べててもよかったのに……」
「そんな不作法は……いたしません、ですの」
さすがのプライドだが、口元はそろそろ限界っぽい。
「猫ちゃんっ、隙ありー!」
「ふっ、やらせはせんよっ!」
その間に、依お姉さんがまたモエルに手を出す。
「美味しそう……じゅる」
留真ちゃんは視線も虚《うつ》ろに、ひたすら耐え続ける。
ボクはそんな食事前の光景を前にして、
「なんて手間のかかるメンバーなんだ……」
一人、頭を抱えるしかなかった。
――そこに住む人々がそれぞれの日常を送り、過ごしている時刻。
大枝町には夜が訪れていた。
陽は沈み、暗闇が色濃く町を包む。
当たり前の光景だが、その日は少しだけいつもと違っていた。
空に、わずかな光さえも見えていない。
星の輝き、月の灯火。
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立ちこめる雲がすべてを覆い隠し、光を遮っていた。
その日の予報では曇りの予定などありはしなかった。だが、現実に空は多くの雲に覆われ、あらゆる光を消し去っている。
夜空に隙間一つなく立ちこめる雲は、どこか不自然なほどだった。
「――……」
曇天の下、一人の少女が立っている。
そこは空をよく見渡せる、学校の屋上であった。
四方を囲む手すりに出入り口、その上に取り付けられた給水塔、最低限のものしかそこにはなく、ひたすら殺風景なだけで、夜に立ち寄るような場所ではない。
当然、下校時刻などとっくに過ぎていて、学校に残っている生徒などいるはずもない。だがその学校の制服に身を包んだ少女は、ただぼんやりとその場に佇《たたず》んでいた。
首は少し上を向いていて、視線は眼鏡《めがね》越しに何かを見つめている。
「……、……ん」
唇がかすかに動く。
誰かに語りかける言葉ではなく、ただ、言葉があふれただけ。
何を考えているのか、何を想い、曇る空を眺《なが》めているのか。
何一つとして感情を読み取らせない少女は、もう一度、今度ははっきりとその名を呟いた。
「しらひめ……くん」
呼び声を運ぶように――風が吹いた。
少女の髪を撫《な》でる、冷たい風。揺れる黒色が夜の闇によく馴染《なじ》む。
夜に佇む、印象の希薄《きはく》なその少女は。
――夜空を覆う雲のように、茫洋《ぼうよう》としていた。
「……?」
賑やかな食事を終え、二階への階段を昇っている途中、ボクは足を止めた。
「? かなたん?」
モエルが肩の上から顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「今、なんか呼んだ?」
「ううん、っていうか耳元で呼んだら普通すぐに気がつくでしょ」
ボクの質問にモエルは怪訝《けげん》な顔をして答える。
「……そう、だよね」
はっきりとした声が聞こえたわけじゃなく、何故か突然胸の奥がざわめいたのだ。どうしてそれが呼ばれている≠ネどと感じたのかは分からないけど……。
「お邪魔します……ですの」
騒がしい食事を終え、来客二人はボクの部屋へと押し入ってくる。
「清らかで、彼方ちゃんらしい部屋だね〜」
入るやいなや、依お姉さんは迷わずベッドの方へ行き、身を屈《かが》めた。
「……何してるんです?」
傍目《はため》にはベッドの下を覗いているようにしか見えない。ボクの疑問に、依お姉さんは怪しげな含み笑いを浮かべて答えた。
「義務、みたいな」
「……ベッドの下を覗くことがですか?」
「う〜ん、彼方ちゃんにはまだ早いのかな……」
気落ちしながら呟き、依お姉さんは次に部屋にあるクローゼットを開けた。
「あ!」
それを見ていたモエルがいきなり声をあげる。
「? どうしたの? モエル」
「っ、いやっ、なんでもないよかなたん! ただ、そろそろみんな座って楽しく談笑でもしないかな、と……」
「珍しいね? モエルがそんなこと言うなんて」
「いやいやいや! 決してやましいことがあるわけじゃないんだよ?」
声に妙な焦りがあるのが気になった。
「……モエルさん、まさか……」
留真ちゃんが半眼で、モエルに意味深な視線を送る。
「なっ、何をそんな疑いの目で見てるのさ? おいらは別にそんな、みっ、見られたら困るものなんて隠してないやい!」
「モエル……体が震えてるんだけど」
どう見てもやましいことがある風なモエルを見て留真ちゃんは溜息《ためいき》を吐き、
「ほら、幾瀬さん。人様の部屋をそんなに物色するものじゃないですの」
呆《あき》れ口調で依お姉さんを窘《たしな》め、開かれたクローゼットを強引に閉じる。それを見て、モエルは大きく安堵して見せた。
(……ボクのクローゼットに何が……?)
「え〜っ、留真ちゃん、彼方ちゃんの部屋だよ? 興味ないの?」
「な――ないですの!」
「まあ、留真ちゃんは一度来ましたしね」
一階から食後の紅茶を運んできたボクは、何気なくそう言った。すると留真ちゃんが何故かひどく狼狽《うろた》えた様子で叫ぶ。
「かっ、彼方さん!」
「?」
ボクはその反応の意味がよく分からない。
すると焦る彼女の隣で、ゆらり、と立ち上る陽炎《かげろう》のようなものが見えた。
「……へぇ……留真ちゃん……彼方ちゃんの部屋に入ったことあるんだ……」
部屋の空気がズシン、と重くなる。彼女の顔を見ると、普段そんなことはないのになぜか前髪に隠れて目の辺りが見えなくなっていた。
「私の家には誘っても来てくれないのに……彼方ちゃんの部屋には入るんだ……」
自分のポニーテールを弄くりながら、依お姉さんが呪詛《じゅそ》を呟く。彼女の体から湧《わ》き上がってくる想いは、とても強く、とても激しい。
「ち、違うですの! 以前私が倒れたときに――」
「――かなたんに添い寝してもらったんだよね?」
モエルが快活な声で言い放った。それはもうとても明るい、場を引っかき回す気満々のあくどい声だった。
「モエルさんッ!?」
留真が今度は悲痛な叫び声を上げる。しかしモエルはにんまりと言う。
「あのこと≠ヘ言ってないよ?」
「あのこと?」
留真は、ぼん、と髪の色に負けないくらい顔を真っ赤に染める。
「なななんでもないですの、なんでもないですの!」
しかも慌てて二回同じことを言っている。動揺があからさまなところが彼女らしかった。
「同じ部屋……添い寝……同じベッドで……あのこと……」
「幾瀬さんもっ! 誤解ですの、っていうか変な方向へ誘導する単語だけを抜粋しない! ほら、そろそろ本題を!」
――本題。そう言いかけたところで、邪魔が入る。
ザザザッ。
『!』
その音が聞こえた瞬間、ボクたちは同時に顔を見合わせ、意志を通じ合わせた。
「ノイズかっ!」
モエルが鋭く察し、緊張した表情へと変わる。
「位置は……大枝中学校がある辺りですの!」
誰よりも早く敵の位置を感じ取り、留真が言う。
三人で同時に領《うなず》くと、それぞれ変身のための意味|在《あ》る言葉≠唱えようとする――。
「――……」
ボクは変身するために手を空にかざした状態で、声を放った。
「……あの?」
「どうしたの? 彼方ちゃん」
依お姉さんは体操座りをしてこちらをじっと見つめたまま、変身しようとする気配がない。
それは留真ちゃんも同じことで、控えめながらもちらちらと、ボクの方を覗き見ていた。
「すごく……やりづらいんですけど」
正直に言うと、彼女もまた正直に答えた。
「お姉さんのことは気にしないでいいよ。彼方ちゃんの変身を穴が開くほど見つめたあとに、ちゃんと変身するから」
「なっ!?」
そう真っ正面から言われると、途端《とたん》に恥ずかしさが込み上げてくる。そう、変身を始めると一度服が完全に消えてしまう。光っているため見えないらしいのだが、脱げている側としては、それでも視線は気になるわけで。
「――ボっ、ボク、屋根の上で変身します!」
その期待の眼差しから逃れるため、ボクは部屋の窓から飛び出し屋根の上へと昇った。部屋の中から残念そうな声が聞こえてきたが、さすがに見られると分かっていて変身はできない。
「かなたん、まだ恥ずかしさが気持ちよくならないの?」
「……うっさい」
屋根上で外の風にさらされた瞬間、肌寒さを感じたが、構わずボクは右手を空にかざした。
「――遍《あまね》く空の果てへ」
「――絶《た》えなく廻《まわ》れ、金華《きんか》の焔《ほのお》」
「――鎖よ、絆《きずな》を糾《あざな》え」
三つの意味|在《あ》る言葉≠ェ、放たれる。
部屋の中から炎の揺らめきに似た赤い光が漏れ出し、鎖の擦《す》れる力強い音が聞こえてきた。
屋根の上には光が降《ふ》り注ぐ。神々しく夜空から降り立った空色の光柱に、ボクは迷わず手を差し込み、そこから杖《つえ》を引き抜いた。
「いこう、オーヴァゼア=v
自分の背よりも長い、純然たるスカイブルーの杖。
「う、んッ……!」
続いて、体の奥底から熱い何かが湧《わ》き上がってくる。
それまで着ていた服が光の粒子となって消え、背にたゆたう白銀の髪がふわり、と広がった。
足下から順に靴下が現れ、ポップなデザインの靴が身につく。次にピチピチのスパッツが下半身を覆い、上半身には大きめサイズのシャツが。
青白ストライプのミニスカートがひらりと現れたかと思うと、胸元に桜色のネクタイが結ばれ、彩りを添えた。
最後に、髪を二つにまとめる赤いリボンが猫の耳のようにピンと立ち、髪と一緒になって滑らかな流線を描く。
衣装の変化が終わると長尺の杖、オーヴァゼアを手の中で回し、軽く屋根を叩く。するとすかさず、瞬きもしないでずっと目を見開いていたモエルが威勢の良い声をあげた。
「変身完了っ、今日もいいスパッツだね!」
「下から覗くなっ!」
親指立ててご満悦顔のモエルを上から踏んづけ、ボクは火照《ほて》った体をなんとか抑える。
(魔力が体を流れるこの感じ……やっぱ、くすぐったい……)
裾を引っ張ってスカートの位置を直しながら、そんなことを思う。
「うんうん。やっぱ紅潮してスカートを直させたらかなたんの右に出る者はいないぐへ」
「彼方さんっ!」「彼方ちゃん!」
部屋から変身を終えた二人が飛びだしてきた。
「依さん、留真ちゃん!」
「グレイスですの! っなんて言ってる場合ではなく、ノイズの反応が増えてますの!」
全身を覆い尽くす赤。変身した留真――グレイス・チャペルの衣装は、灼熱《しゃくねつ》の炎を連想させる。荒々しいデザインをしたドレスの胸元には金色のコインが吊されていた。
「急ごうっ、彼方ちゃん!」
シンプルかつ、軽装。依お姉さんの衣装はワンピースのチュニックに、黒のロングタイツ、そして鋼色の鎖がたすき掛けにかけられている。豊満な体のラインがしっかりと浮き出る姿は、大人の色香を増幅させている。
二人の様子からは、若干の焦りが伝わってきた。
「わかりましたっ!」
三人の魔法少女は、同時に屋根の上から跳び立つ。
「あ、ちょっ――かなたん、おいらを忘れてるよ――っ!」
――約一匹の叫びを残して。
魔法少女に変身すると身体能力が著しく上昇する。
例えば、大枝中学までの道のりは走って二十分。変身状態で走れば――。
「――五分もかからない、と」
「? なにがですの?」
「いえ、こっちの話です」
家の屋根やビルの屋上など跳んで渡り、信号も歩道も関係なく直進することができるので早いのも当然だ。
(変身して学校に行けたら遅刻もなくなるんだけど……こんな格好、人に見られたくないし)
想像するだけでも恐ろしい。本当は魔法少女に変身した時点で認識|阻害《そがい》という便利な魔法が発動するので、人に見られても大丈夫なのだ。しかし……、
「……大丈夫だと分かってても、やっぱり気になっちゃうよ……」
ボクは走るときもスカートを押さえながら走る。このスパッツという下履きはあまりにも肌に密着しすぎていて、見られるとものすごく恥ずかしいのだ。
「体は正直に反応しちゃうわけだねっ♪」
追いついてきたモエルが、定位置である肩の上によじ登りながら言った。
「……いちいち言い方がやらしい」
「彼方ちゃん、猫ちゃん! お話はそれまでだよっ!」
先行していた依お姉さんが口を開き、スピードを上げた。グレちゃんもその後に続く。
学校にたどり着くと、はっきりとした騒音が耳に届いた。
「屋上か……!」
ボクたちは一度の跳躍《ちょうやく》で学校の屋上まで跳び上がり、そこにいる敵を確認する。
屋上のざらついた床に、墨をこぼしたような汚れが三つ――明瞭な姿を持たない、なり損ない≠ニ呼ばれるノイズが三匹。形状は陸に揚げられたクラゲによく似ているが、その液体状の体は変幻自在である。
「リンカーズッ!」
着地と同時、依お姉さんが先手を打って仕掛けた。叫びと共に、上半身に巻き付いていた鎖が解ける。彼女はそれを右手で掴《つか》むと、思い切り振り下ろした。
ビュンッ!
魔力を帯《お》びた鎖が空間を切り裂き、そのまま敵の体に叩きつけられる。
「ウィズ・インタレスト!」
次にグレイスの叫びが続いた。まっすぐ伸ばした空の左手に、金色のコインが現れる。魔力で生み出されたその金貨を人差し指の上に乗せ、親指で打ち放つ。
キィンッ!
弾き出された金貨は、二体目のノイズに命中すると幾筋もの光に分かれて弾ける。そして花火みたいに弾けた光が、今度は数十枚ものコインの姿へと戻り、逆再生のように敵を撃つ。それは、一投目を照準とした集束射撃、グレイスの最も得意とする魔法攻撃であった。
流れからすると次はボクの番。
「……蒼《あお》の」
杖を握りしめ意識を集中すると、肩のモエルがいきなり声を張り上げた。
「ストップ! こらこらかなたん、勢いに流されないの!」
「ほらだって、二人は格好良く決めてるし……その場のノリでなんとかなるかも、とか……」
「ノリで学校を倒壊させる気かい!? かなたんの魔法は制御が利かないうえに一発きりなんだから、使いどころはちゃんと考えようよ!」
「うぅ……」
モエルの言っていることは全部本当のことだ。ボクが魔法を撃つとなぜか、全魔力を使い果たして最大威力の一撃を放ってしまう。しかも炸裂《さくれつ》すると周囲にあるものを容赦《ようしゃ》なく消滅させてしまうので、使いどころも気をつけなくてはならない。
「……だったら、ここはやっぱり!」
ボクは魔法を諦め、右手に持った杖を肩に構えた。
「オーヴァー」
そこから腕を後ろに引き絞り、腰を捻《ひね》って、杖を――。
「ゼアーーーーーーーーーーーーーッ!」
――ぶん投げる。
「……うん。もう止めないよ……魔法少女が杖を亜光速でぶん投げても何も言わないさ…ああ、おいらの理想の魔法少女はいずこに……?」
肩の上で悲しみと諦めの声を漏らす猫がいるが、ボクの耳には届かない。
強化された腕力で投げ放たれたオーヴァゼアは、風の抵抗をぶち破り最後に残ったノイズへと突き刺さる。その際に屋上の床が派手に砕《くだ》け、轟音《ごうおん》を立てた。
燐光《りんこう》が三つ――暗がりの空に散った。
「呆気《あつけ》ないものですの」
「強い敵なんていないほうがいいんだよっ」
グレイスと依お姉さんは言葉を交わす。さすがは歴戦の魔法少女だけあって、二人の持つ雰囲気は落ち着いたものであった。
「……異常だね」
ぽつん、とモエルが呟いた。
「え?」
ボクが聞き返すと、傍《そば》にやってきたグレちゃんが言葉を続けてきた。
「ノイズの発生率、ですのね」
「……うん。ここ最近で増えすぎてる。一日に何匹も現れるなんて、あるはずがない」
モエルが言うと、依お姉さんが真剣な声で言葉を放つ。
「それに普通じゃない、強力な力を持った奴まで現れてる。こないだのディスコード=B本来、あんなのが簡単に出てくることなんてないの。少なくとも、私とグレイスちゃんがチューナーをやってるこの五年、そんなことは起きなかった」
ボクがつい最近戦い、圧倒されながらも何とか倒した相手。
意思を持つノイズ――ディスコード。
不協和音という名を冠した敵を思い出し、ボクは軽く身震いする。
「実はね、今日は彼方ちゃんにこれを伝えに来たの」
依お姉さんはそう言って息を吸い、固い口調で言った。
「異常事態につき手の空いた魔法少女は大枝町に集結、原因の調査、解決に当たれ=v
「!」
モエルの耳がピク、と反応する。
「? それってつまり、他の町からも魔法少女が集まってくるってことですか?」
グレイスは溜息を吐き、ボクの言葉に頷く。
「そういうことですの。上からのお達しとはいえ面倒な話ですの。また取り分が減り――」
「もうっ、グレイスちゃん!」
ノイズを倒し報奨金を得ることが目的であるグレイスには、今回の話は素直に喜べないらしい。
「…………」
「モエル?」
肩の上で黙りこくっていたモエルを呼ぶが、反応がない。考え事を始めると没頭してしまうのはいつものことなのだが……今日は何故か、その表情がいつもより深刻なものであるように見えた。
「とにかく、しばらくの間私もこの町にいるから、もしよかったら彼方ちゃんの家に――」
「幾瀬さん! どうせあなたそれが目的でしょう!? 彼方さんにそんな危険物をお任せするわけにはいきませんの!」
「じゃあ留真ちゃんの家に泊めて〜っ♪」
「私のテントは一人用ですのっ!」
――少女は、見ていた。
屋上にある給水塔の上に立ち、魔法少女たちの戦いの一部始終を見つめていた。
その眼差しが追っていたのは、白銀の髪を持つ少年。
彼女は、彼らがノイズを倒すその一挙一動を、少しも見逃さず、見つめ続けていた。
相変わらずの読み取れない表情に、わずかな変化が起きている。それが喜びであるのか、悲しみであるのか、見分ける術はない。ただ口の端をわずかに歪《ゆが》め、薄い笑顔を作り、瞳には悲しみの色を湛《たた》えていた。
そして彼女は、
「もう、そろそろだね……」
暗い空を仰ぎ、ぼんやりとした声で呟いた――。
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Other side.?
寝室で二人きり。
これから眠ろうとする前のわずかな時間。
私は、寝台の上で窓の外を眺《なが》める母親を見つめていた。外に広がっているのは星一つない夜空で、母は飽《あ》きもせずそれをじっと眺め続けている。
――私の母は無口な人だった。
娘の私から見ても何を考えているのかよく分からない人で、感情を表に出すことがほとんどない人だった。
だから私はいつも、無表情でぼーっとしている母を見ては、
(勿体《もったい》ないなあ……)
なんて、思ったりしていた。
――母は綺麗《きれい》な人だった。小学校低学年の私ですら、羨《うらや》んでしまうほどに。
和風で雅《みやび》やかさを感じさせる顔の作り。肌にはくすみ一つなく、触れることすら躊躇《ためら》わせる。
背の半《なか》ばまで伸びた長髪は綺麗な黒色をしていて、そこには他色が混ざる余地なんてなかった。
(お母さん、すごく美人なのに。どうして笑ったりしないんだろ)
母が感情を表に出さない理由は何となく分かっている。
――冷たい瞳。心を貫《つらぬ》かれてしまうような眼光の中に、暗い何かが見えるときがある。
それはきっと、良い感情ではない。
いつか自身を崩壊《ほうかい》させかねない、危《あや》うげなものだ。
でも私はそれを黙って見ていることしかできない。
そこに触れてしまうのが恐かった。今ここにあるすべてが、壊れてしまいそうだったから。
こうして眺めていることしか、できなかった。
「…………」
「――どうしたの?」
「!」
いつのまにか母が、こちらを見ていた。
「あ、え……と。お母さんの髪、見てたら……ぼーっとしちゃって」
なんとも間抜けな言い訳だと思う。母はそんな私の言葉に、「そう」と咳《つぶや》き、また顔を夜の空へ向けた。
私と母のやりとりは、いつもこんな感じだった。家族と言うには少し距離感があって、会話の数も多くはない。
(でも……)
寝る部屋は、同じだったりする。
(自分の部屋あるのに……どうしてなのかな)
「…………」
そんなことを考えていると、母の視線がまたこちらを向いていることに気づく。
私がなんだろう、と首を傾《かし》げると、
「髪、伸びたわね」
突然、脈絡《みゃくらく》もなく、そんなことを言ってきた。
本当にいきなりだったので、どう反応していいか分からなかった。内心に疑問符をたくさん浮かべながら、私は自分の髪を確認する。
(確かに伸びたけど……)
長さ的には、肩を少し越えたあたり。でもそうなったのは昨日今日の話ではない。
一体何を基準として言っているのかは分からないが、とにかくいきなりな言葉だった。
「……こっちに」
いらっしゃい、とまでは言わなかったが、そう言おうしているのは何となく分かった。私は恐怖とは違う、どちらかといえば緊張した足取りで、恐る恐るその寝台へと近づいてゆく。
「ここへ」
座りなさい、ということだろう。明らかに言葉が足りないのだがそれはいつものことで、気がついた頃には自然と理解できるようになっていた。
私は、母が腰を下ろしているベッドに、同じように座る。
「っ――……!」
またもいきなり、だった。私が隣に座ってすぐ、母は私の髪に触れてきた。何を考えているか分からない人ではあるが、これはまた格別だ。
心臓の鼓動がせわしなく胸を叩き、何をされているのかさっぱりと分からない。
少なくとも三百までは胸のリズムを確認できた。
それだけの時間が経《た》った頃に、
「いいわ」
髪から、手が離れた。
私は何とか胸の鼓動を鎮《しず》めながら、ゆっくりと後ろを振り向く。
(……?)
首を回したとき、違和感に気づいた。なんだか髪の感じがいつもと違っている。
――おさげ。
伸びた髪が、背中のあたりで綺麗に結《ゆ》わえられていた。
「え……?」
不可解だった。どうして母はいきなり、私の髪を結んだりしたのか。理由が知りたかったが、その母の瞳は真っ直《す》ぐにこちらを見つめていて、気のせいでなければ「気に入った?」とこちらに問いかけているような、そんな表情をしていた。
だから私は、
「ありがとう、お母さん……」
と、返事をすることしかできなかった。
多分何を考えているかなんて考えたところで無駄だろう。それよりも、素直に嬉《うれ》しかった。
普段からあまり触れ合ったことがなかっただけに、こんな風に髪を結ってもらえることなど、一生ないと諦《あきら》めていた。
――触れてもらえることがこんなに幸せだなんて、思ってもみなかった。
何を考えているのかよく分からなくて、あまり感情を表に出さず、会話の数も多くはなくて、家族と言うには少し、距離感があるけれど。
私は、そんな母が大好きだった。
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2.開幕、文化祭
「よぉし、準備は完璧だな」
ボクの友人である明日野丈《あすのじよう》は、教室の中を見回し、満足げに頷《うなず》きながら言った。
今の彼はグレーのタキシードに身を包んでおり、しっかりと伸ばした背筋はいつもの軽率な雰囲気を感じさせない。学校内では情報屋≠ネどという訳の分からない肩書きを付けられている彼だが、こうしてみると意外に優等生っぼく見えてくるから不思議だ。
(……その本性はトラブルばかり起こす問題児、なんだけどね)
ボクは現在、制服にエプロンを付けた格好で教室にいる。
教室の中を見渡すと、中にいるほとんどの生徒はそれぞれ異質な格好をしていた。その中でも特に異質だったのが、
――ウェイトレス。
洋風と和風、デザインが両極端な衣装を、我がクラスの女生徒たちが身に纏《まと》っている。それはこの学校という場所には、到底結びつかない姿だった。
何も知らない人が見たら、ここは本当に学校なのかと疑うだろう。
どうしてこんなコトになっているのかというと、それは二週間ほど前の話になる――。
「――っつーわけで、今週の日曜は待ちに待った文化祭だ!」
教卓に勢いよく両手を叩きつけ、丈が叫ぶ。彼は伸びた前髪から切れ長の瞳を覗《のぞ》かせ、
「この学園生活を飾る一大イベント、血が騒ぐと思わないかっ!」
口調を更にヒートアップさせ、教室内に残っているクラスメイトたちに問いかけた。するとみんなも勢いよくオーッ、と返事を返す。
丈はその喧騒に応えるよう、さらに声高に説明を始めた。
「三年は全クラス協力しての演劇、二年は合唱。
そして俺たち一年は各クラス個別での喫茶店! いやが応にも気合いが入るってもんだろ!」
丈が拳《こぶし》を突き上げると、みんなもそれに習う。
今や大枝中学校一年B組のテンションは最高潮に達しようとしていた。
「いいかお前ら、この大枝中学校の文化祭は毎年町中の人々が集まってくるらしい。聞くところによれば他の町からわざわざ足を運んできてくれる人もいるそうだ」
「……暇なんだね、みんな」
ボクは司会進行の丈君を目で追いながら、小声で話しかけてきた鞄《かばん》≠ノ向けて声を返す。
「この町のみんなはお祭りとか大好きなんだよ。なんだかんだ言って平和だから、どこかで騒ぎたいって気持ちがあるんだろうね。……っていうか喋《しゃベ》るな」
鞄の中にはモエルが入っている。この猫はボクが何度叱っても懲《こ》りずに学校に付いてくるので、今となっては余計な悪さをしないよう、あらかじめ別の鞄を持ってきてそこに詰めている。
「――いうわけで、文化祭に向けての話し合いを始めたいと思う」
静まった教室内を見回しひとつ頷くと、丈は慣れた手つきで黒板に大きく文字を書き始めた。
(そういえば、なんで丈君が司会やってるんだろ……? 普通、こういうのは――)
「――俺たちがやるのはこれだ!」
司会者は黒板を叩き、大きな声で言った。思考が止まり、自然と意識がそっちに向けられる。
喫茶店
横書きで書かれたのはその三文字。
「古今東西、喫茶店は様々な進化を遂げてきた」
書き終えた後にこちらを振り向き、手の平に付いたチョークの粉を払いながら、彼は静かに言葉を紡《つむ》ぎ出した。クラスメイトたちはその一挙一動を集中して見守っている。
「味の追求はもちろんのこと、それ以外の付加価値にまで」
俯《うつむ》き加減に数歩、教壇の上を歩き、ぴたりと止まる。
「俺たちに与えられた課題は、限りなく奥が深い。それこそ底のない、深淵《しんえん》とも言える」
抑揚を抑えた語り口は彼らしくない――というか、
「彼、今日はタメが長いね」
「あ、やっぱりモエルもそう思う?」
そんな会話が成り立つ程度に、おかしかった。
「この暗中模索に等しい状況の中、俺たちが目指すべきものはなにか?」
今度は反対を向き、また数歩歩いて、止まる。
「脳天に響く珈琲? 舌を唸《うな》らせる料理? 心を和ます内装?」
最後に教壇の前、元の場所へと戻り、クラスメイトたちを見回す。
「違う。重要なのは――」
ギラリ。前髪に隠れた鋭い視線が、鈍い輝きを放つ。
バンッ!
「――|何を着るかだ《ヽヽヽヽヽ》!」
熱に充ち満ちたシャウトに驚き、体が反応してしまう。そして語り出したら止まらないトランスモードへと突入した彼は、毅然《きぜん》とした立ち振る舞いで語り始めた。
「喫茶店が遂げてきた進化の中で、最たるものは衣装=I 有史以来、人類は――」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ!」
「? ……なんだ彼方《かなた》。俺はこれから人類が歩んできた衣装の歴史を」
「語らなくていいです! どうして喫茶店の話し合いをするのに、いきなり衣装の話になるんですか! 普通もっと別のことからでしょ? 何を作るのか、とか」
至極当然なことを言ったつもりだったのだが、教壇に立っている彼はボクの方をきょとん、とした目で見ると、いきなり真剣な声音で言ってきた。
「……ふぅ。いいか? 彼方」
その雰囲気に圧され、ボクはたじろぐ。
「ぶっちゃけ飯がまずくても衣装がかわいければ店は儲かる」
「謝れ! 全国の飲食店経営者に謝れっ!」
あと一歩でその場にある物を適当に投げているところだ。
「ははは、冗談だよ」
「いえ、全然冗談に聞こえませんでしたけど……」
「もちろん、美味しい料理を作ることは重要だ」
「……!」
「俺はそれを最低限の礼儀だと思ってる」
彼はいきなり声のトーンを落とし真面目《まじめ》な声で語りだす。
「ただな、それにはいろいろと問題があるんだよ。学校から下りる予算ってのもたかが知れてるし、用意できる調理器具だって各自で持ち寄ったものくらいだ。料理の質を突き詰めようにも限界があるのさ」
前髪の隙間《すきま》から時折見える彼の目には、真摯《しんし》な光が宿っている。
「だとすれば、来てくれるお客に快適な思いをしてもらうためにはどうしたらいいと思う?
味覚で楽しませる以上に、もう一つ……視覚。きらびやかな衣装で、現実を忘れてもらう。それこそ、俺たちができるもう一つの工夫だと思うんだ」
クラスの中は静まりかえり、私語一つ聞こえない。仲間たちは皆、代表として前に立っている丈の言葉に耳を傾けていた。
「いろいろと準備が大変になるかもしれないが……俺は、自分ができることを全力でやりたいと思ってる」
(……丈君)
どうやら誤解していたらしい。ボクが思っている以上に彼は、彼なりにできることを考えていたのだ。
「ごめんなさい丈君……ボクはまたてっきり、自分の趣味に走ってるのかと……」
「分かってくれたならいいさ」
前髪をかき上げ、彼は笑う。爽《さわ》やかな微笑《ほほえ》みは好青年そのものだ。
「さぁみんな、決めようじゃないか」
再び真剣な顔付きとなった丈は、両手を広げて全員に問い、尋ねた。
これ以上ないほど爽やかに、高らかに、自信満々に。
「|彼方に何を着てもらうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
ボクは黙って、椅子《いす》を投げた。
――とまぁ、そんなやりとりを経て現在に至っている。
のちの話し合いの結果、このクラス内で料理できるのがボクを含め数名のみだったため、必然的にボクは調理班に回ることになったのだ。
それを決定する際にクラスメイトの半数以上が異論を唱え、白姫《しらひめ》彼方をウエイトレスにし隊≠ェ結成されたりもしたが、なんとか平和的《ヽヽヽ》に解決することができた。
(負傷者も出なかったしね。…………………………………………少ししか)
開店準備を進めるクラスメイトたちの数名は、体のいたるところに絆創膏《ばんそうこう》を貼っていたりする。
「あ〜、ところで彼方、今日の俺はこの店≠フマスターなんだが……ちょっと、呼んでみてくれないか?」
何の脈絡《みゃくらく》もなく、丈君が突然そんなことを言ってきた。
「はい? ……マスター。これでいいんですか?」
「……ダメだな」
彼は額を押さえ、首を横に振る。
「なにがです?」
「違うんだ。もう少し笑顔で、語尾に音符を付ける感じで呼んでくれ」
いつものことながらワケが分からない。
(ええっと、笑顔で、語尾に音符……こんな感じ?)
「マスター♪」
にこ、と笑い、ちょっと跳《は》ねた感じのイントネーションでもう一度呼んでみた。
すると彼は、
「うぉっしゃぁ!」
右拳を天に突き上げ、悔いはない、というように吠えた。そしてテンションが限界突破した彼は、てきぱきと皆への指示を始めたのだった。
「……なんなんだろ」
誰も答えてくれないとは分かっていても、呟《つぶや》いてしまう。
「ロマン、さ」
ボクが着ているエプロンのポケットに入っている|ぬいぐるみ《ヽヽヽヽヽ》が、しゃべった。
「人前でしゃべるなって言ったでしょ」
小声で、腰ポケットに入ったモエルに言う。
「はいはいわかってるよ。今日のおいらはぬいぐるみ。かなたんのエプロンを飾るかわいらしい猫のぬいぐるみさ」
モエルは首と前足だけを出し、不動の体勢を作っている。多少無理があるかもしれないが、動かなければなんとか飾りとして押し通せそうである。
「かわいらしい? 小憎らしいの間違いじゃないかな」
(……でも、今日は珍しいな)
というのも、モエルはいつも学校に付いては来るが、ここまでおおっぴらに付き添うことはなく、どこかに隠れているのが普通なのだ。
しかし今日に限ってモエルは「なるべくキミのそばにいる」などと言い出したのである。
(文化祭が見たかったのかな? ……でも)
それにしては時々、妙に視線を鋭くして周囲を見回している。
……警戒すべきものが、近くにあるとでも言うのだろうか?
(気になることがあるなら、ボクにも言ってくれればいいのに。……ま、秘密主義は今に始まったことじゃないけど、ね)
――ピン、ポン、パン、ポン。
いつ聞いても気の抜ける音が、教室のスピーカーから鳴り響いた。
そこから流れ出したのは威厳のある、渋めの声。すでに何度か聞いたことのある、大枝中学校の校長の声だった。
校長の手短な挨拶《あいさつ》を聞きながら時計を見ると、時刻は九時半となっている。
「いいかみんな! 開店時間は十時、残り三十分だ! 最終確認済ませておけよ!」
放送を軽く聞き流し、丈が大声を上げる。
「おう!」「らじゃっ!」「あいさ!」「はいなっ!」「了解けろっ!」
気合いの入った声があちこちから返ってくる。一年B組の意気込みは最高潮に達していた。
そこへ――、
「B組の皆さん」
――乱入者は、現れた。
よく通る声に皆の手が止まる。そして乱入者は、一身に注がれる視線に満足し口元に笑みを作ると、つかつかと教室に入ってきた。
「これはこれは。A組の委貝長さんが何の用かな?」
値踏みの視線を周囲に張り巡らせる女生徒、その眼前に丈が立ちふさがる。
「……。情報屋*セ日野丈。やはり、B組の代表は貴方のようですね」
高貴。彼女を表すにはその言葉が必要不可欠だろう。目線は常に高く、自信に満ちている。
髪型は特徴的なもので、頭の片側にだけお団子を作り、長い髪をそこから垂《た》らしている。色は艶やかな焦茶色。焼きの深い陶器を思わせる、深い色合いをしている。
制服の着こなし一つにしても気品を感じさせる、いろいろな意味で目を引く少女だった。
その女生徒は胸の前で腕を組み、尊大な態度を片時も崩さず、挑戦的な眼で丈を射抜く。
「誰? あれ」
ポケットの中からモエルが聞いてきた。
「ええと隣のクラスの、確か……古伊万里《こいまり》さん。家がお金持ちなんだとか。何回か話したことあるんだけど、あんな感じの人だったかな……?」
小声で会話するボクたちの前で、二人は言葉を交わす。
「なんだ穏やかじゃないな。まるで喧嘩《けんか》でも売りに来たみたいだぜ?」
すると彼の言葉に、古伊万里さんは面白くなさそうにふん、と息を吐き、
「さすが情報屋。こちらの企みなどお見通し、ですか」
そう言ったあと、チラリとこちらを見たかと思うと、彼女は右手の人差し指を丈へと突きつけ、言い放つ。
「明日野丈。私たち一年Aクラスは……Bクラスに、決闘を申し込みます」
嫌な、予感がした。
そしてそれは、
「そちらにいらっしゃる――彼方様を賭《か》けて!」
いつものごとく、的中するのであった。
「ふぇ?」
ざわめく教室の中に、ボクの放った間抜けな呟きが木霊《こだま》した。
「……彼方、様?」
モエルが唖然《あぜん》とした声を漏らす。
古伊万里さんは今の宣言で力を使ったのか、肩で息をしている。しかしまだ言い足りないことがあったらしく、猛火の如き勢いで言葉を紡ぎ出した。
「前々から気に入らなかったのよ、明日野丈、並びにB組のメンバー! あなた方が普段から彼方様に対して行う狼籍《ろうぜき》の数々っ! 汚らわしい目で眺《なが》めるだけならまだしも、最近に至っては彼方様にじょ、女装までさせる始末! こんな危険なクラスにこれ以上、彼方様をお預けするわけにはいきません!
勝負をし、勝った暁には――彼方様を我がクラスに電撃移籍させていただきますわ!」
あまりの言われようにクラスメイトたちが一瞬、敵意を露《あら》わにした。険悪になりそうだった雰囲気を丈が片手で制し、代表として言葉を放つ。
「あのなあ古伊万里、随分な物言いだが……」
「気安く呼び捨てにしないでくださる、明日野丈! 貴方が一番っ――」
剥《む》き出しの敵意に対し、丈はおもむろに前髪をかき上げる。
「いいから聞けよ。俺たちにはな」
[#挿絵(img/mb880_067.jpg)]
髪の隙間から垣間見える細い瞳で、古伊万里さんを見据えた。その静かな迫力に、その場の皆が圧倒される。
「この、一年B組には」
静まりかえる教室。今、このクラスの想いは彼一人に託された。
「圧倒的に」
そして丈君は、皆の想いを背負い、
「――変態が多いッ!」
宣言、してのけた。
『…………』
みんなの動きが止まった。
そんな中、動くのは明日野丈一人だけ。
「なぁみんな! 俺たちが彼方に抱く野望は海を割り山を砕《くだ》く!」
静止した教室の中、ボクは偶然そこにあった机に、手をかけた。
「彼方の真の魅力を引き出せるのは俺たちだけだ! お前たちA組には引き出せまい」
「ふっとべ♪」
ゴシャア。
「のぉウッッッッッ!」
丈はどこからか突如飛んできた机に吹っ飛ばされ、もんどりうって倒れた。さらにその上から、ウェイトレス部隊によるお盆の一斉攻撃が加えられる。
「ふぅ片付いた。……えーと。古伊万里さん、でしたよね?」
丈君の代わりに今度はボクが話しかけると、先程まで敵意剥き出しだった彼女が一転、別人のようにしおらしくなった。
「は、はいっ……! かっ、彼方様からお声をかけていただけるなんて……」
「……様はやめてください」
「そ、そんな恐れ多い……」
ここまで恐縮されてしまうと非常にやりづらい。
「そうだぞ古伊万里、もっと親しみを込めて彼方と呼び捨てにしてやったらどうだ」
吹き飛んで数秒と経たぬうちに丈は戻ってきていた。しかも完全に無傷である。人間離れした耐久性は相変わらずだ。
「くっ! 明日野丈……彼方様を呼び捨てになど……」
古伊万里さんが丈君を忌《いまいま》々しそうに睨《にら》みつける。
「ふっ、できるわけがないよな?」
丈君はその視線を真っ向から見返した上で、大きな声で言った。
「白姫彼方ファンクラブ白姫会¢纒\――古伊万里みさら!」
「!? ファンクラブってなんですか!?」
「……会の創立者として、自分だけが抜け駆けするわけにはいかない。さすがは鋼の結束を誇ると言われる白姫会のトップ、ってところか」
「ちょっと丈君っ、思わしげな会話をする前にボクの質問に答えてよ! 白姫会って何!?」
……この学校にはかれこれ半年通っているわけだが、ファンクラブなんてまったく聞いたこともなかった。その全容を知っているらしい彼は、ゆっくりとそれについて語り始める。
「――白姫会。設立は半年前、お前がこの学校に入ったときから存在している組織だ。メンバーはそこの古伊万里を筆頭とし、現在では数百人にも及ぶと言われている。その規撲は学校内のみでは収まりきれず、内外問わず今も会員は増え続けている。肝心の活動内容は……」
古伊万里さんはにこやかに微笑みかけてきたかと思うと、丈君の言葉を継いだ。
「彼方様が日々を健やかに暮らしていけるよう、草葉の陰からひっそりとお見守りする。それだけが私たちの使命です」
「場合によってはあらゆる手段を用いて障害を排除する、ってのを忘れているぞ」
「っ、うるさい明日野丈!」
「…………」
腰の辺りから大変だね、かなたんも……≠ニいう生暖かい目線を感じた。
「とにかく! 変態が多いなどと言うのなら、なおさら彼方様をこのクラスに預けておくわけにはいきません! 受けてもらうわよ、この勝負――喫茶店売り上げ対決を!」
人差し指をさながら剣の切っ先のように突き出し、白姫会代表が吠えた。
「ちょっ、古伊万里さん、待っ……」
丈もまたその言葉に合わせ、迎え撃つように声を大にする。
「ふっ、勢いに任せれば何とかなると踏んだのだろうが……そうはいかんぞ。俺たちがそんな勝負を受ける道理などどこにもない!」
「丈君は少し黙――あれ、正論?」
(? いつもならこういうことに真っ先に飛び付くのに……)
「逃げる気ですか? 情報屋」
誘い込む気満々な彼女の言葉にも、丈君は冷静に言葉を返す。
「逃げる? 違うな。大切な仲間を簡単にあげるだの渡すだのしたくないだけだ」
「!」
ボクはいきなりのストレートな言葉にびっくりする。そして、胸が熱くなるのを感じた。
(……嬉《うれ》しい、かも)
「そもそも、常識的に考えると生徒たちだけの話し合いでクラス移籍なんてできるわけがない」
彼の語る言葉は紛《まき》れもない事実である。古伊万里さんもそれは分かっているらしく、悔しそうに歯を食いしばる。
(そっか、そうだよね……こんなでたらめなこと、学校が認めるわけ――)
「――抜かったようね。明日野丈」
「!?」
歯を食いしばっていたはずの、古伊万里みさらは……笑っていた。
「この件はすでに、校長に許可をもらっているわ」
「……なんだと?」
丈は眉《まゆ》をひそめる。
「元々あなた方に逃げるという選択肢は存在していなかった、ということよ。
明日野丈。貴方、いつも彼方様と一緒に登校しているわね」
「っ、古伊万里、お前まさか……!」
そこで初めて、丈君の表情から余裕が消えた。
「そう。貴方と彼方様はいつも一緒に登校し、そして遅刻している。一年全体の中でも貴方と彼方様は飛び抜けて遅刻をする回数が多い。……間違いないわよね?」
「……かなたん、そうなの?」
「……そうみたい、だね……」
分かってはいたが、なんとなく答えを濁す。
「報告によると、彼方様の通学を邪魔しているのは……明日野丈、貴方だということも分かっています」
あまりに遠慮のない言葉に、ボクは思わず口を挟んでいた。
「!? 違いますっ! 丈君はそんな……邪魔なんて……して……ない、はず……です、よ?」
脳裏に通学途中の彼の姿が思い浮かぶ。話に夢中になってあちらこちらへ飛び回ったり、近道だと言いながらまつたく違うところへ連れて行かれたこともあった。
「彼方、どうして言葉に詰まるんだ……?」
「ちなみにこの勝負に私たちが勝てば、彼方様の朝は我等が白姫会が責任を持ってお世話《せわ》いたします。そうすれば学校にしてみても遅刻常習者が減って良いことだらけです。……そこまでメリットがあるなら、と校長も快く許可してくださいましたわ」
話が随分とおかしな方向に向かっている気がしたが、この場の雰囲気を前にそれを言う勇気がない。それから数秒の沈黙を経て、丈君がぽつりと呟いた。
「……分かった」
教室内にどよめきが起こる。そんな中、彼は決然と相手を見据え、言い放った。
「いいだろう、その勝負、受けてやる」
古伊万里さんの瞳の奥に、妖《あや》しい光が見えた。それは勝ちを確信し、すでにそのための工作も済ませているという策士の眼だった。
対し、情報屋*セ日野丈は。
「そう思い通りにことが進むと思うなよ、古伊万里」
すべての計略を真っ向から叩きつぶす! 切れ長の瞳が、そう語っていた。
文化祭開始、十五分前。
大枝中学校の校門には、開門の時を待ちかねた人々が押し寄せていた。その中には日曜であるため、他校の生徒の姿も見える。生徒の親も多く、何が目当てか分からないカメラ持参の青年などもいた。
空には雲がかかり、景色は若干灰色にくすんでいる。しかしこの町の人々はこういったお祭りが大好きで、多少の悪天候などものともしないのであった。待っている間も、分刻みで開催待ちの客は増えてゆく。
「ふぅ。ここだね」
――そんな中、一際目を引く二人組がその行列に加わった。
女同士、身長差のあるコンビで、双方とも目立つ外見をしている。
片方の背の高い女がそびえ立つ校舎を見つめ、
「ここが、大枝中学校……」
想いを馳《は》せた呟きを漏らす。
「水くさいよねぇ。――ちゃんったら、文化祭があるって教えてくれないんだもん」
その明るい表情の中には、笑顔を超えた何らかの邪悪な思念が感じられる。今の彼女の目は、どことなく大量の獲物を前にしたハンターを思わせる。
それを見咎《みとが》めたもう片方、鋭い目つきの少女が、きつく激しい口調で背の高い女に|念を押す《ヽヽヽヽ》。
「もう一度言いますけど、くれぐれも目立つ行動は控えるように! 間違っても校内にいる女生徒を片っ端から抱き締めて回ったり――」
がばっ。背の高い女が、自身の豊満な体に少女を抱き寄せ、埋める。
「――きゃあもうっ、焼きもち? 焼きもちなのねっ! はぐしちゃうっ!」
鋭い目つきの少女は突然の抱擁《ほうよう》にジタバタともがきながら、大きな声で怒鳴った。
「やめるですのっ! だからそれをやめろと言っているんですのーっ!」
訪れた二人組は周囲の注目にも気づかず、ひたすら目立ちまくっていた。
「すまない彼方。こんなことになって……」
開店準備が完了した教室で、丈君が頭を下げてきた。
「…………」
「怒ってる、よな……やっぱ。はは……」
勝負の発端《ほったん》となった責任を感じているらしく、いつもの軽い笑みも乾いていた。
そんな彼に、ボクは一つだけ尋ねる。
「勝てますか?」
「! ――……。負けるわけには、いかないだろ」
ボクはその眼を見て、彼の心を感じ取った。
「……もうすぐ開店時間です。行きましょう――」
身につけたエプロンの腰紐《こしひも》を結びなおし、彼の隣に立つ。
「マスター《ヽヽヽヽ》」
その言葉に丈君は、力強く応えてくれた。
「ああ。……任せろ」
――勝負のルールは簡単。
十時から開店、文化祭の終了時刻である夕方四時までの間に、より多く稼いだ方が勝ち。
「それで、どうやって勝つ気ですか?」
「ふふん……愚問だ。そもそも相手が何を仕掛けてこようとだな」
丈君はそれぞれの衣装に着替え終わったクラスメイト(主に女生徒)たちを指さし、叫ぶ。
「この|コスプレ喫茶《ヽヽヽヽヽヽ》が負ける道理はないッ――」
そうなのである。この男がいる時点で予想はできていたのだが、やはりうちのクラスはイロモノ、というか独自の路線を突っ走っていた。
「……よくこんなの学校が許してくれましたね」
女の子たちが着ているのは色とりどりなウェイトレスコスチューム、和洋折衷とでも言うのか、とにかく統一性がない。よく見れば細かいところでフリルや柄のデザインも変わっているようだ。
「それにこの衣装どうやって用意したんですか? 確か丈君が全部用意したんですよね。
……見たところ、生地とかも本格的なんですけど」
ボクがそう聞くと、彼はふふ、と不敵に笑い、
「企業秘密だ」
と、それだけ告げてきた。得体の知れない怖さを感じたが、真実を知ってしまうと後悔しそうな気もする。そのときタイミングよく、
――キーンコーンカーンコーン。
二時限目スタートのチャイムが鳴り響いた。時間は九時五十分、開店十分前。
「よし、みんな聞いてくれ!」
丈君がクラス中に響き渡る大声を放った。ざわざわとした話し声の聞こえていた室内がしん、と静まりかえる。
「やむを得ぬ理由により俺たちはA組と戦わなくてはならなくなった。……みんなが、彼方を大事に思うのなら、ぜひとも力を貸してほしい」
クラスメイト全員が、それぞれの持ち場で力強く頷く。
(……みんな)
胸の奥が、温かい感触に包まれる。
「男ども! 俺たちは体育の時間に誓ったな。絶対に彼方の着替えは誰にも覗かせず、誰も覗かず! 俺たちがその純潔を守り抜くと!」
「ん……?」
(そういえばボクが着替えてるとき、いつもみんなピリピリしてるよね……)
「女子たち! もし彼方が他のクラスに行ってしまったら、大きな目標を失うことになる! 眠っている彼方にアクセサリを付けたりすることもできなくなるぞ!」
「……え?」
(そういえば目が覚めたとき、カチューシャとかリボンとか付いてたことが……)
「いいか、もし俺たちがこの勝負に負けたら、授業中にすやすやと居眠りしてる彼方を見ながら和やかな気分になることもできなくなる!」
丈がそう叫ぶと、クラス全員がうんうんと頷いた。
「!? アンタらそんなことしてたのか! おかしいと思ってたんだ、いっつも居眠りしてるのに誰も起こしてくれないから! ……ってことは、先生も? 先生もなの!?」
「……ほんとかなたん、愛されてるね」
しみじみとモエルが呟いた。
「絶対勝つぞっ、この勝負ッ!」
『オォッ!』
「ちょっとみんな、ボクの話を聞いてってばーっ!?」
こうして、様々な真実を明らかにしながら、ボクの命運を賭けた闘争は幕を開けた。
十時三十分――開店から三十分が経過。
「オーダー! 焼きそば三つで〜す!」
「了解〜」
Bクラスの初動は順調そのものであった。まだ昼食にはほど遠い時間だというのに、既に用意されたテーブルは埋まり、さらに数人のお客さんが行列を作っていたのだ。
その最大の要因は、女生徒たちが着ている衣装にある。
『いらっしゃいませ〜♪』
店員の一人が銀のお盆を胸元に寄せ、ぺこり。
パッと見で洋風の雰囲気を感じ取れるその衣装。白のシャツにオレンジ色をしたタイトスカート。腰には大きなリボンをちょうちょ結びにしている。短いスカートとそこから浮き出る太股のラインが、健康的な色気を醸《かも》し出している。
『ご注文は何になさいますか?』
和紙で作られたメニューを別の店員が慎ましやかに差し出す。
和服であることは誰の目から見ても一目瞭然。藍染《あいぞ》めの袴《はかま》に矢羽根紋《やばねもん》の入った振袖、女性の慎ましさを表現した懐かしさを感じさせる衣装。目に見えた色気はなくとも、その生地が擦《す》れ、しゃらり、という音を鳴らす度、人々はえもいわれぬ感動に駆られる。
――こういったコスプレ喫茶≠ヘ大枝町にないため、珍しいのだろう。来ている客のほとんどは男性で、どこから情報を入手したかは知らないが、ちゃっかりとカメラ持参であった。
「はいは〜い。写真撮りたい方はこっちね〜一枚五百円だよ〜」
丈君、いやマスターが阿漕《あこぎ》な商売を行っているが、大丈夫なのだろうか。
(……あ、先生に連れてかれた)
とにもかくにも、隣のクラスより一歩リードしているのは確かだろう。認めたくはないが、こういった特殊な衣装≠フ集客力はバカにできないと、目の前の現実が教えてくれている。
「それにしてもみんな、ノリノリだね……」
我がクラスの選び抜かれた精鋭ウェイトレスたちは、ひらりひらり、粛々と、二種類の衣装を完璧に着こなしている。
ボクの独り言に反応し、腰ポケットからモエルがひょこっと顔を出した。
「衣装は人を変えるのさ。見てごらん、あの女の子たちが振りまく笑顔を。日々の抑圧から解放された本物の笑顔でしょ?」
ふふん、となぜだか誇らしげにモエルは語る。
「……確かにみんな活き活きしてるけどさ」
「かなたんもそろそろ着たくなってきたはずさ!」
「んなわけあるか。……っていうか大声出さないでよ」
ボクは喋りながらも手を動かし続けている。手首のスナップでフライパンを振ると、中でソースと絡まっている焼きそばがジュウッ、と香ばしい音を立てた。
「ふ〜んだ、いいもんね、おいらはかなたんがあんな服やこんな服着ていろいろしてるとこを妄想して楽しむから」
ジュウッ。
「熱いっ!? ちょっ、かなたん焼きそばが落ちてきた! うわわ分かった! 分かったからそんな次はフライパンだ≠チて目で見ないでよ!」
自分に降《ふ》りかかってきた焼きそばをひょいぱく、とつまみ食いするモエル。
「どう?」
「ん。ばっちひ」
上手く発音できていなかったが、どうやら美味しいらしい。
「オーダー、お好み焼き二つ!」
厨房《ちゅうぼう》から大きな声が響く。
「分かりました〜」
完成した焼きそばを用意しておいた紙皿に盛ると、ボクは手早く次の作業に移る。
――それからも続々と注文は入り続け、さらに三十分が過ぎた。
(このペースでいけば、負けることは……)
幸先の良い流れに、安心したときのことだった。
「? かなたん、なんか……いい匂いがしない?」
目を閉じ、鼻をビクつかせながらモエルが囁《ささや》いた。
「ん? 匂い? ソースとかじゃなくて?」
ボクは麺を妙める手を止め、深く深呼吸してみる。
「!?」
初めはかすかなものだった。しかし一度その存在に気づいてしまうと、それは鼻腔《びこう》に焼き付き、目の前にある料理の匂いすらも薄らいでしまう。……そのくらい、インパクトの強い香り。
周りを見ると、キッチンにいるみんなもその存在に気づき始めたらしく、少しずつ統率が乱れ始めていた。
「……かなたん、これ……隣のクラスからだ」
鼻の利くモエルが言うのだから間違いないだろう。ボクは傍《そば》にいたクラスメイトに妙めかけの料理を渡し、状況確認のため廊下に出る。
「うわ、美味しそ……っ」
表に出た瞬間に思わず言ってしまう。それほどまでに香ばしく、食欲をそそる香りが廊下中を漂っている。そして廊下を行き交うお客さんの数も想像以上であった。この狭い通路にパッと見で五、六十人はいるだろうか。奥が見通せないほどの人でごった返していた。
モエルが生唾を飲み、思いきり空気を吸い込む。
「なんなんだろこれ……軽食とか、そういうレベルのものじゃない。香りの深さが、高級食材のそれに近い――」
「――っ! まさかっ」
ボクは人混みをかき分け、隣のA組を廊下の窓から覗いた。
「………」
絶句、した。窓から見たA組の教室内には本格的な調理器具が並べられており、清潔感漂う衣装に彩られた生徒たちが、様々な高級料理を手に持ち動き回っていた。内装も教室の中だと思わせないほどに様変わりしていて、本当のレストランのようだ。
「うわあ、本格的だね……調理器具がぶら下がってる……」
そこで、一つの勘違いに気づいた。今までボクがただの人混みだと思っていたものは、すべてこのA組の前に並んでいるお客さんだったのだ。その数はB組と比較にならないほど多い。
「あら、彼方様。わざわざ見に来てくださるなんて光栄です」
古伊万里さんが教室から出てきてこちらに声をかけてきた。彼女は自身の体をカジュアルなスーツで包み、この店の支配人らしい振る舞いを見せている。正直、様になりすぎている気がした。
「……これは……どういうことです?」
驚きを隠せないまま古伊万里さんに尋ねる。
「見ての通りですわ、彼方様。これがAクラスの喫茶店≠ナす」
そう言われてしまえば、そうかもしれない。
だが、違う。
聞きたいのはそういうことではない。
ボクは、先程からA組の教室内でテキパキと指示を出している人物を指さし――。
「――どうして本物の料理人が、ここにいるんですか!」
ボクの視線の先には、明らかに生徒ではない、ただならぬ風体をした中年のおじさんがいる。
その人は手際よく生徒たちに指示を出し、自分自身も調理に参加しながら、その場を取り仕切っていた。
「どう見たって本職のコックさんですよね、あの人!」
腕組みをした古伊万里さんに問い質すと、彼女は澄ました声で言葉を放つ。
「彼方様。私たちAクラスは今、料理という名の文化≠己の身で学んでいるのですよ。Bクラスが、衣装の文化≠学んでいるのと同じように」
「っ、そんな……」
ボクだけに聞こえる声でモエルが納得してみせる。
「なるほど、確かに文化祭という本来の意味からは外れてないね。いやむしろ、本職の人間に教えてもらえるという点では、かなたんたちのクラスより遥かに充実度は高い」
「……でもっ、こんなことして予算が足りるわけが!」
「彼は、私の家の使用人です」
「!」
「もちろん、食材までは手を出していませんが……多少、使い慣れた道具くらいは運ばせていただきましたわ。彼の参加には、クラスの皆も、先生方も、満場一致で賛成してくださいましたしね?」
根回しは完璧、ということだ。古伊万里さんはにこりと微笑み、ボクの目を見て言う。
「彼方様。……私、本気ですから」
「…………」
覚悟という名の想いが見える。
本気の瞳に、ボクは語るべき言葉を持っていない。
校舎横の体育館から、二年生の奏《かな》でるオーケストラが、低く、強く、響いていた――。
それから、教室に戻ったボクを待っていたのは信じられない光景だった。
「そんな……」
空席だらけの教室。片時も絶えることのなかったお客さんが一人もいなくなっている。
「最悪のパターンだな」
隣の偵察にでも行っていたのか、渋い顔をした丈君が廊下から姿を現した。
「どういうことですかっ、丈君!」
「……今は十一時三十分、ちょうど腹も空いてくる頃だ。そんな時間帯に教室が空っぽなのはまずい。新しく来た人にまで敬遠されちまう」
「でも、今からでもお客さんを集めれば!」
「難しいだろうな。A組に勢いが付きすぎてる……」
苦虫を噛《か》みつぶした顔で、丈君は口を開く。彼の表情は、それはもう悔しそうな、抑えきれない苦渋に満ちていた。
「――衣装より、味だというのか……っ!」
「今さらそこですか!?」
するとモエルが小声で囁いてくる。
「……いや、彼は間違っていないと思うよ。中学生の文化祭レベルなら、この衣装に任せた作戦でも十分やっていけるはずさ。だけど……そこに本物《ヽヽ》を持ち込んできた向こうが、一枚上手だった、ってところかな」
「っ、……」
廊下の外から聞こえてくる喧騒だけが、教室内に空しく響き渡る。
(このままじゃ……負ける?)
残る時間はあと四時間余り。休憩時間に入るお昼時は最も稼がなくてはならないときなのだ。
今の時点でこれでは、勝負はかなり苦しくなるだろう。それに加えてクラスメイトたちのテンションも下降の一途、逆転は難しいかもしれない。
「くそ、まさか当日になってこんな大がかりな仕掛けを用意してくるとは……すまない彼方。
俺がもっと他のクラスの動向に注意していれば……!」
彼にしてみれば情報戦においても敗北したということになる。ショックは皆よりも大きいに違いない。
「丈君だけのせいじゃないですよ……みんなだって精一杯やってたじゃないですか」
「彼方……」
「ボクも少し、覚悟を決めないといけないのかもしれません」
その言葉に、丈が食らい付いてきた。
「ッ! 彼方、お前まさか諦《あきら》める気か? だめだ、勝負はまだ」
彼が本気になってくれているのが分かる。だからこそ、
「――ええ。まだです。まだ、諦めたりなんかしない」
丈君が口を開いたまま、止まる。
「ボク、このクラスのみんなが好きですから。ちょつと変態さんが多かったりするけど、みんないい人たちばかりです。だから、古伊万里さんには悪いけど、勝ちます。勝って、B組の白姫彼方のままでいます」
このクラスのみんなに、ボクは言った。
「そのためなら、力を惜しみません。……そういう、覚悟です」
周りの仲間たちが、ゆっくりと頷く。
「よく言った、彼方。よし、そうと決まれば何か手を打たないとな」
消えかけていた不敵な笑みを取り戻し、丈は前髪に手をかける。一瞬で表情を切り替えた彼は、思考を口に出して語る。
「現実問題、相手の揃《そろ》えた舞台は驚異的だな……。こっちは味の調整なんて今さらできやしないし、内装なんてそれこそ不可能だ。さて、どうしたものか」
「……どう思いますか? い――」
ボクは聞こうとして、振り向いた。
(あれ……?)
妙な感覚。
誰かを捜していたはずなのに、それが誰のことなのか思い出すことができない。ただ、それはこんな状況をさらりと変えてくれる、頼りになる誰かであったように思う。
その思考を遮《さえぎ》るように丈君が口を開く。
「とにかく、まずやるべきことは客寄せだ。今となってはA組より強いインパクトを生むことはできないが……なんとかして、もう一度客の流れを戻さないことには話にならない」
つまりそれは、明確な対応策がないということである。せっかく上がりかけたテンションも、冷酷な現実を前に再び下がりそうになる。
そんなとき、よく知っている声が廊下の外から聞こえてきた。
「――どうしてあれだけ言ったのにウロウロするんですのアナタは!?」
「――だって、かわいい子がいたんだもんっ!」
激しい怒鳴り声に、邪《よこしま》な叫び声。
「おかげで無駄な時間を使ってしまいましたの! お腹ぺこぺこですのっ!」
入り口扉のガラスに透《す》けて見える、二つのシルエット。
「ふう。……ここですの?」
「うん。ここから彼方ちゃんの匂いがする!」
ガララッ。
「匂いって幾瀬《いくせ》さんアナタ、どこまで危ない人になる気ですの?」
「こんなの基本よ留真《るま》ちゃん。あれ? なんかお客さん少な……」
遠くから聞こえてきた、高らかなシンバルの音と共に。
――救いの女神は訪れた。
「いらっしゃいませ〜っ♪」
「い、いらっしゃいませ、ですの。…………………………………………どうして私が」
満面の笑顔と、不機嫌な仏頂面。
「二人とも本当にすみませんっ、でも大ピンチだったんです!」
キッチンから顔を出し、ボクは働く二人に声をかけた。
「いいのいいのっ。困ったときのお姉さん頼み、ってね」
依《より》お姉さんは和服の給仕服姿でぴょん、と跳《と》んでみせる。その際に彼女のたわわな部分がふよん、と揺れ、集まった観客の目を一気に集中させた。
「ふむ。給仕服は巨乳が着ると凶器だね。服じゃ押さえきれない胸の感じが何とも……というかサイズが少し小さい分、胸元が開いちゃってて……巨乳苦手なおいらでも注目しちゃうよ。
そしてあのポニーテール、和服との親和性はバッチリだ」
[#挿絵(img/mb880_091.jpg)]
顎《あご》に右手を当て、モエルの目が怪しく光る。鑑定モードが発動したようだ。
「どうして私が……こんなことを……どうして……」
俯いてぶつぶつと呟き続ける留真ちゃん。彼女が身に纏っているのはウェイトレス服である。
「ほぉら留真ちゃん、もっとサービスしなきゃっ!」
依お姉さんが後ろから、留真の短いスカートを少しだけつまみ上げる。
「はた!?」
赤髪の少女は慌てて自分のお尻を押さえた。コンマ一秒、見えない程度の動きではあったが、それでも周囲の心を掴《つか》むには十分だった。
「あなたバカですの!? 絶対バカですの!」
依お姉さんの行動に怒鳴り散らす留真。観客はそれを見て恍惚《こうこつ》とし、なぜか胸をときめかせているようだった。
ポケットの中のモエルがすかさず、解説を始める。
「あえてツンデレとは言うまい。あれはどう見ても素で怒っている。だが、ただ怒っているだけでも、見ているおいらたちの想像力は無限大! 今ですの娘を見ている人のほとんどは、ヤツのデレた姿が網膜の奥に浮かび上がっているはずさ。ふ……想像力とは時に、現実を凌駕《りょうが》する」
何故か解説するモエルの姿が格好良く見えたりした。
「……でもゴメン、何言ってるのかさっぱりだ」
「注文、お伺いしま〜すっ」
和の幾瀬依、
「注文は何ですの。さっさと言うですの」
洋の麺野《ひの》留真。
「強力な萌え兵器――いや助っ人のおかげでなんとか盛り返せたな」
二人の活躍《かつやく》ぶりを見て、丈君はいつものように笑う。
「見た目だけ取り繕ってやろうとしてたのがそもそもの間違いだった。……俺たちに足りなかったものは中身≠セったんだな。
だが、それを埋めた今、俺たちに死角はない! これなら、あのA組とも渡り合える――」
余裕混じりの不敵な笑みは、こうしてみると心強い。
「遅れた分を早く取り返せたらいいんですけど――」
なんとか勝算を見いだし、B組が元の活気を取り戻したそのとき。
「――明日野丈っ!」
再び、乱入してくる影。
けたたましい扉の開く音に依お姉さんと留真ちゃんは動きを止め、彼女を見た。
「一体これはどういうことですかっ!」
肩を怒らせて教室に入ってきた古伊万里さんは、お客さんの前だというのにも構わず怒鳴る。
「どういうことだ、とはどういうことだ?」
言葉遊びのように、丈君は同じ言葉を続けて聞き返した。その余裕綽々《しゃくしゃく》な態度に、古伊万里さんはさらに激昂《げきこう》する。
「とぼけないで! そちらの二人ですっ! どう見たって部外者ではないですか!」
確かに、この二人が部外者であるということは一目で分かる。
(目立つしね、どっちも……)
しかし丈君は、前髪を摘みながら言う。
「おいおい古伊万里、忘れてるんじゃないよな? 先に部外者を持ち出したのはお前の方だぜ。
そっちと同じようにこっちのお二人も協力者≠セ。文句を言われる筋合いはないはずだが?」
相手を言いくるめる才能に関しては、丈君の方が数枚上手だった。
この状況はどうしたって動かせそうにない。そこで古伊万里さんが取った行動は……。
「……そちらがそのつもりなら、こちらも容赦《ようしゃ》しませんわっ! ――誰かっ!」
パンパン、と古伊万里さんが手を叩く。すると、
「ハッ!」
即座に、黒いスーツに身を包んだ二人組がどこからともなく現れた。
「すごいよ留真ちゃん、あれSPだよっ?」
「……あの人たち……どこにいたんですの?」
部外者二人は、緊張感などどこ吹く風だ。
古伊万里さんは現れた黒服に慣れた口調で指示をする。
「貴方たち、至急衣装の手配をなさい! このクラスよりもかわいらしいものを!」
伝え終えた直後、黒服二人は「ハッ!」という短い返事を残し、その場から消えた。そしてボクたちの目の前で一連の指示を行った古伊万里さんは、最後に大きな声で、
「彼方様は必ずっ、奪い取って見せますわ!」
そう宣言し、嵐のように教室から出て行った。
一転して静かになる教室。食事中だったお客さんたちは気を改め、食事を再開する。助っ人二人もそれぞれお客さんに呼ばれ、仕事に戻っていった。
「丈君……大丈夫、ですかね?」
「――あと一歩、あと一つ。決め手があれば」
そう言う彼の顔にはもう、迷いはない。揺るぎない自信をその瞳に宿し、口元の笑みは勝利するための方法を確信している。
「彼方」
店の主は、ボクの目を真っ直《す》ぐに見つめてきた。
「……はい?」
真摯な瞳に――悪寒《おかん》が、走る。
(この、展開は……!)
「クラスのみんなが好きだって言ったよな?」
迫力に押されながら、恐る恐る頷く。
「覚悟を決めたって言ったよな?」
なにやら逃げ道を塞《ふさ》がれている気がするが、頷くしかない。
「何でも力を貸してくれるな?」
ここまで来るといくらボクでも、先の展開になんとなく勘づいてしまう。
(でも……断れる雰囲気じゃない……)
三つ目の質問に頷いた時点で、彼は右手を高く天に突き上げた。
「よっしゃっ!最終兵器<Iープンだぁぁぁァァァァァッ!」
パチィンッ。丈の指鳴らしを引き金に、はじめから教室の隅に設置されていた、なんだかよく分からなかった箱がひとりでに開く。
「なに――……?」
箱の縁からスモークが噴き出し、中から現れたのは。
――純白|無垢《むく》の衣装。
人ひとり入れそうな箱の中には、服が一着のみ。心を奪われてしまいそうなほど眩《まぶ》しい、ピュアホワイトのドレス。重ねて縫い付けられたフリルは華やかさと、一糸乱れぬ匠の技巧を感じさせる。それを見たまま、呼ぶのなら。
――ウエディングドレス=B
「まさか、これを……?」
ボクが質問を投げきる前に、彼は親指を立て、答えを如実なものとした。
「! ヤです! 絶対いやです! ウェディングドレスなんてボクが着るものじゃありません! 間違ってます! ボクは男なんですよ!?」
これではいつものパターンになってしまう。ボクは断固として反抗の意思を示す。
「……彼方、お前の気持ちは分かる」
「いやですよ! 絶対丈君の口車には乗せられませんからっ!」
そう。昔からこれまで、幾度となくボクは彼の口車に乗せられてきた。さすがにもうそろそろ、きっちりと拒否しなくてはならない。
「彼方。――後ろを見てみろ」
ボクの背後に視線を送り、丈君は言った。
「……?」
怒るのを止め、言われた通り振り向く。
「っ!」
みんなが、いた。
クラスの仲間たちが、ボクに――視線を送ってきていた。
全員の眼差しに込められているのは、強い期待。
そして……。
「本当は俺たちだって、お前が嫌がることなんてしたくはないんだ」
後ろから聞こえてくる丈君の声は、少しの冗談も混じっていない、本気の声だった。
「だけどな。俺たちはお前が……白姫彼方が他のクラスに行っちまう方が、もっと嫌なんだ」
「!」
クラスメイトたちがそれぞれ、頷いていく。一人一人の顔を見ると、誰もが本気であるということが伝わってくる。
「みんな……」
純粋な想いが、ここにある。
(……ボクは……)
少し前に自分が言ったばかりの言葉を思い出す。
『ボク、このクラスのみんなが好きですから。ちょっと変態さんが多かったりするけど、みんないい人たちばかりです。だから、古伊万里さんには悪いけど、勝ちます。勝って、B組の白姫彼方のままでいます。……そのためなら力を惜しみません』
決意が、軽かったのかもしれない。
みんながこんなにも必死になってくれてるというのに、ボクときたら――。
「――……やります」
ボクの反応に、教室内がざわつく。
「彼方……っ!」
丈君の表情が綻《ほころ》ぶ。
「これを着ればいいんですよね? それで、力になれるのなら……!」
覚悟を持ってウェディングドレスの傍に行き、その衣装と対峙《たいじ》する。
「これ、どうやって着たらいいんです? ボク、こんなの着たことないし……」
「任せてっ」「ですの」
――和、そして洋。
「彼方さん。わたくし、こういうドレスについては少々知識がありますの」
「彼方ちゃん? 着付けはお姉さんに任せて?」
今や名実共に看板娘となった二人組が、ボクの両肩をしっかりと掴んだ。
「え? 留真ちゃん? 依さん?」
気がついたときには、ボクの体はずるりずるりと引きずられ始めていた。向かう先は、カーテンで仕切られた簡易な更衣室。
その中にボクは放り込まれ、続いて二人が入り、カーテンが固く閉じられた。
中は狭い空間で、三人入るのが精一杯だ。
「ちょっ? 二人とも、なんか目が恐いですよ? ちょっとねえモエルッ、助けて!」
「かなたん、おいらは無力だ」
エプロンのポケットからさっさと抜け出していたモエルは、更衣室の隅へと退避した。
「こらモエル!? あっ、依さん、どうしてせっせと上着のボタン外してるんですか!? それくらいできますっ、自分で脱げますから! あ、ちょっ、そこっ……ダメです!」
上着がはだけ、抵抗もむなしくボクの上半身が露わになる。すかさず腕で体を隠すが、依お姉さんはそれを見て、
「……うわぁ、なんかいけない気分になりそう……」
と、熱っぽい呟きを漏らした。
「!? ひっ、留真ちゃん……っ!」
次に、留真ちゃんの手がこちらの下半身に伸びてきた。彼女はぎゅっと目を閉じているが、横から器用にベルトを外してのける。
「彼方さん。すぐに終わりますので、大人しくしててくださいですの」
ボクは必死で、ずり落ちそうになるズボンを押さえた。
「わ、彼方ちゃんの下着かわいい〜っ」
「不可抗力……ですの」
「ごめんよかなたん……あ、鼻血出そ……」
「えぅぅっ! 二人とも、やめてくださいってばあ〜〜〜〜〜〜〜っ!」
ボクの切なる悲鳴は、教室の外にまでこだました――。
――それから十分後。
教室の中は、このわずか十数分の間に満員となっていた。明らかに客以外の人々が山を作り、一大イベントのお披露目を今か今かと待ち望んでいた。
カーテンがほんの少し開き、内部を見せないよう、中から二人の少女が現れた。幾瀬依と、樋野留真。彼女たちはドレスルームの前に立ち、淑《しと》やかにお辞儀をする。
「お待たせしました」
「ですの」
二人の足並み揃った動作は、練習する暇などなかったはずなのにピッタリと合っていた。
ゴクッ。誰かが、喉《のど》を鳴らす。その場にいる誰もが固唾《かたず》を呑《の》み、その瞬間を待っていた。
『それでは』
絶妙の問を経た後、二人はそれぞれ両側のカーテンを掴み、
「オープンッ!」「ですのっ!」
勢いよく、開け放った。
まぶたを閉じたまま、ボクは一歩を踏み出す。
「――……」
誰一人、声を出す者はいない。まるで頭の中が真っ白になっているみたいだ。この衣装のように、純粋に、ただ純然と、意識を真っ白に染め上げられているようだ。
「…………」
一つ歩けば、しゃら、と上品な衣擦《きぬず》れの音色を奏でる。
スタンダードな形状のドレス。肩は大きく開いており、胸から上はすべて露出する形となっている。スカートはウエストのラインから直線的に広がり、何枚ものフリルが白い波を作りだしていた。髪は何もいじらない方が映えるからと、軽く手櫛《てくし》でといて広がりを持たせつつ、ピンク色のコサージュを添えた。腕にはぬいぐるみと思わせるようにモエルを抱いて、ちょっとしたかわいらしさを演出している。
ボクがドレスルームから出ると、姫に付き添う従者のごとく、二人はかしずき、頭を垂れる。
――無言の注目が、気になって仕方がない。
この服はウェディングドレス。女の子が、生涯で最も大事な相手と誓いを交わす――そのための衣装なのだ。
(ボクが着ていいようなものじゃ……)
赤く染まる頬《ほお》を隠すように、ボクは俯く。
「……綺麗《きれい》だよ」
そのとき、囁き声が聞こえた。
「余計な派手さがない分、着ている人――素材の良さが際だってる」
「モエル……」
綺麗と言われて嬉しく思うなんて、あるわけないと思っていた。
(女装とか、絶対に嫌なんだけど……でも……)
胸に込み上げてくるこのドキドキは、なんなのだろうか。
「彼方」
丈君が前に立つ。緊張しているのか、どこか動作がぎこちない。
「えーと……だな」
ボクもちょっと緊張しながら言葉を待った。
そして、彼が放った言葉は――。
「結婚してくれっ!」
――ボクの緊張を、粉々に打ち砕いてくれた。
ふわり。フリルが優雅な軌跡《きせき》を描き、繰り出される足が、標的にめり込む。
「それにしても動きづらいですね、ウェディングドレスって」
ボリュームのあるスカートを、中身が見えない程度につまみ上げ、ボクは自分の体を確かめる。多少動きに制約はかかるものの、なんとか動き回ることはできそうだ。
「あれだけの連続攻撃をしておきながら動きづらいも何もないですの……。どういうコンボですの……?」
留真ちゃんが、教室の隅で残骸となっている一人の男を見つめ呟いた。その額にはうっすらと冷や汗をかいているようだ。
「でも彼方ちゃん、すごい綺麗っ! お姫様みたいだよ!」
依お姉さんは体をうずうずとさせながらにっこり笑う。
「依さん、嬉しくないですから……」
さりげなく、抱きつかれないよう距離を離す。
(……でもほんと、この場に――がいなくてよかった)
ふと、浮かんでくる思い。
(居たら今頃、何されてる、か……?)
それは、誰のことだ?
(何かが、足りない?)
茫洋《ぼうよう》としたイメージ。もやに包まれたようなその感触が、確実な疑念へと変わる前に――。
「彼方さん! なにぼーっとしてますの?」
「! ああ……ごめん、留真ちゃん……」
変なことを考えている場合ではなかった。とにかく現在の状況を確かめる。時刻は一時半、残り時間は半分を切ってしまっている。残り二時間半の間に引き離されてしまった分を取り戻さなくてはならない。
――教室内は今の騒ぎで満員になり、行列も再びできていた。
モエルが誇らしげに囁いてくる。
「あそこに並んでる行列全部、かなたんを見るために来てるんだよ」
「どうして広まってるんだ……っ!」
「あのダウンしてる男が、かなたんが着替えてる間に校内放送かけたんだよ。すごかったよ、この勝機を逃すわけにはいかない、って全速力で駆けまわってさ」
初耳だ。ふざけている部分も多いが、彼はやはり頼りになる面も持っている。これでいつもの訳が分からない言動さえなければ、ボクだって毎日の攻撃バリエーションに悩まされることもないのだ。
(まぁ……この勝負が終わったら、少しくらい労《いたわ》ってあげよう)
いつのまにか教室の隅から彼の姿は消えている。
「というわけでだ、彼方」
気配を感じさせず背後に立っていた丈君が、相変わらずの無傷で声をかけてきた。
「!?」
留真ちゃんと依お姉さんが驚いていたようだが、ボクにしてみれば慣れたものである。彼の復活力を知らなければあれだけの攻撃、たたき込めるはずがない。
(でも最近、攻撃されながら嬉しそうな顔してる気がするんだよね……)
ぞく、と背筋に冷たいモノが奔《はし》る。
「毎度毎度、話の過程をすっ飛ばすのは仕様ですか? 丈君」
「なぁに、文脈なぞクソくらえだ。とにかく彼方、今からお前は休憩時間だ」
いろいろと揺るがしかねない危険発言を繰り出し、彼はボクにそう言った。
「! いや、確かにそうですけど……別にボクは休憩なんてなくても構わないです。みんながボクのために頑張ってくれてるんです。そりゃこんな格好、恥ずかしいですけど……でも、ボクが少しでも力になれるのなら――」
「――それを聞いて安心したぞ。彼方」
その言葉に感銘を受けたかのように丈君は目元を拭い、ボクの肩に手を置いてきた。
「ふえ?」
なんだか嫌な反応だ。何か企んでいるのがひしひしと伝わってくる。ボクの全身を危険信号が駆け巡っている。それを知ってか知らずか、彼はタメも無しに言ってのけた。
「じゃあその格好でちょっと歩いてきてくれ。……この看板を持ってな」
にこやかな笑顔で、歯をきらめかせる。
彼が取り出した木の看板には、こう書かれていた。
『〜特別企画〜これよりご来店のお客様抽選で一名様にのみ、この花嫁からのキスをプレゼント 一年B組』
「……するかっ!」
ベキンッ。看板をへし折る。
「おいおい、気をつけてくれよ彼方」
すっと差し出すその手には、二本目の看板が。しかも材質は先ほどよりも良くなっている。
明らかに一本目が折られることを前提にした周到さだ。
「待ってくださいよ、キスってどうしてボクが……っ! ちょっとなにみんな、どうしてそんな期待した目でこっちを見てるんです? それ、さっきと同じ目ですよ!?」
なんだか、先程までのクラスの一体感が、急に嘘っぼく思えてきた。
とどめとばかりに、丈が言う。
「……彼方……お前の覚悟を、見せてくれ」
「っ! そっ、そんな、こと――」
「そんなこと?」
丈君は、さつき言ったボクの言葉を試すように首を傾ける。
「〜〜〜〜〜っ! わ……っ、わかりましたよっ!」
「もう自棄《やけ》だね、かなたん」
哀れみの目が、心に痛い。
「おし、まずは体育館だ。この時間帯ならちょうど三年が演劇をやってる頃だろ。そっちの客を掴むのが手っ取り早い。――頼むぜ、彼方」
彼の真摯な声に後押しされ、ボクはウェディングドレスで外に出る――。
――それから約一時間にわたり、大枝中学校は騒然とすることになる。
校内に突如現れた純白の花嫁。まさしく絵画から抜け落ちたかのごとく幻想的な姿が、あちこちで見受けられたからだ。花嫁は時折、腕の中に抱いた金色の猫のぬいぐるみに話しかけたりしながら、その愛らしく、無邪気な姿を校内に振りまいた。
婚礼衣装を身に纏った姫君は体育館にも現れ、演劇の最中である役者の目までも奪い、風のように去っていった。呆然《ぼうぜん》とそれを見送った人々が覚えていたのは、それを身に纏った人物の上気した表情だった。熱が混じり、ほんのりと赤く染まった頬。それはまるで、誓いの口づけを待つ少女のそれを思わせる、初々しい恥じらいの表情であった。
運良く目撃した誰もが、夢を見ていたのではないかと、錯覚《さっかく》だろうと思う。
だが、それは白昼夢などではないと、ある場所に行くことで確信する。
大枝中学校校舎二階、三つ並んだ教室の、真ん中。
一年B組。その扉を開けば、
「いらっしゃいませ、旦那様〜っ。ささ、こちらへどうぞ〜」
和服を纏い、薄茶のポニーテールを落ち着きなく跳ねさせる女性と、
「お、お帰りなさいませ、ですの。ご主人様……ってなんで私がかしこまらないといけないんですの!?」
ウェイトレス服を渋々と着こなす、ぶっきらぼうな赤髪の少女、そして、
「お待ちしておりました。――あなた」
幻想世界をそのまま体現した、白き姫が待つ。
「ねぇ……本当にこれでいいの? モエル」
ひそひそと、ぬいぐるみの振りをしたモエルに聞く。
「かなたん……この際もうおいら旦那でいいや……」
「起きろ」
誰にも見せないように、尻尾を引っ張る。
「ひにゃ、ぁんっ!」
ぬいぐるみの振りをすることを忘れ、いきなり大きな嬌声《きょうせい》をあげるモエル。ボクは慌てて胸の中に抱き込み、周りの視線をやり過ごす。
「ご……ごめん、かなたん……でもおいらほんとに、尻尾だけは……弱いから……」
たった一握りで、辛さとも疲労ともとれる吐息《といき》を漏らしてしまう。
「……前から思ってたんだけど、そんなに辛いの?」
「いや、辛い、っていうか、その……」
なんだか恥ずかしそうにごにょごにょとモエルが呟くが、うまく聞き取ることができない。
聞き返すこともできずに、次のお客さんがやってきた。
「あ、お待ちして――」
「――これは一体どーゆーことですかっ!」
いきなり教室中に響き渡る大声を上げたのは他でもない、A組の委員長、古伊万里さんである。彼女は前回と同じようにつかつかと教室に入ってくると、
「!」
教室内に掲げられた看板を見て、立ち止まった。そしていきなり踵《きびす》を返し、教室を出て行く。
「?」
ボクは視線を、店の入り口へ向けた。
「卑怯《ひきょう》ですわよ明日野丈っ! こんな手を使うなんて……!」
特徴的なお団子頭がぴょんぴょんと跳びはねている。どうやら彼女はわざわざ行列に並んでいるようだ。
「……なんで?」
そこから団体のお客さんを通すことで、ようやく古伊万里さんの姿が現れる。彼女はきちんと並んで客として店に入り、抽選券を受け取ると、笑顔になって飛び跳ねた。
「やりましたわ♪」
初めて見る彼女の無邪気な仕草に、みんながぽかん、とする。
「あ、あの……古伊万里、さん?」
ほくほくしていた彼女は、ボクの方を見た途端、動きを止めた。
「…………」
数秒の間。改めてボクが声を掛けようとした時、いきなり彼女は爆発した。
「あっ、あああああのっ、かっ、彼方様! えっと、た、大変お綺麗で、私としましても喜ばしいかぎりですわ……ええと、式の用意はいつに――? 結婚式はこの古伊万里が全財産をなげうつ覚悟でご用意いたします! 新婚旅行はどこにいたしましょう? ……それにゆくゆくは子供のことも考えて……大丈夫です! 彼方様なら必ず丈夫な子を産むことができますわ!」
「落ち着いて古伊万里さん! なんか逆です! ボク子供産めません!」
「どんなことがあろうともこの古伊万里みさら、一生をかけて彼方様を大事にすると――」
暴走はしばらく、止まりそうもない。
「……人間、感情を処理できなくなるとこうなっちゃうんだね」
なんだか哀れむようなモエルの呟《つぶや》きが、無性に耳に残った――。
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3.祭りの終わり、そして、始まり
長きにわたったお祭りにも、終わりが訪れる。
町中から集まってきた人々もまばらになり、それぞれの帰路につき始めた。店は最後のお客さんを見送った後、後片付けという仕事が残っている。
とりあえず簡単な片付けを終えたボクたちは――音の消えた体育館に、集まっていた。
大きな窓から夕映えに染まる空が見える。ずっと快晴というわけにはいかなかったけれど、それでも今は、雲の切れ間から夕陽が顔を覗《のぞ》かせていた。
現在、体育館にはこの結果発表のために一年の全クラスが集合している。それに加え、一般客の人々も見物に来ていた。
集まった人数は、軽く数えて数百はくだらない。
「――……」
演劇のセットが残ったステージ上に、緊迫した空気が流れている。クラスを代表し、丈君と古伊万里《こいまり》さんが、あつらえたような王宮のセット前で対峙《たいじ》していた。
「Bクラスの皆さん、約束は覚えているわね?」
ステージを照らす眩《まぶ》しい照明の下、先に口を開いたのは古伊万里さんの方だった。
丈君がそれに答える形で口を開く。
「今日一日の売り上げを競い、俺たちが負けた時点で……彼方《かなた》はクラスを移動になる」
「上出来ですわ」
古伊万里さんは腕を組み、挑戦的な姿勢を崩さぬまま言った。
「二人とも……」
ボクは何も言うことができず、ただ対峙する二人を交互に見ている。
「すごいね……男の子と女の子が女の子みたいな男の子を求めて争う……言ってて意味分かんなくなってきた」
「なら言うな」
腕の中できつく締め上げると、モエルはぐへ、と鳴く。
確かに、ステージ上で対時する二人に挟まれていると、まるで自分が物語のお姫様にでもなった気がしてくる。
(着替える暇がなくて服もそのままだし……)
おあつらえ向きというやつだろうか。しかしあいにく、姫が実は女装した男、などという物語は見たことも聞いたこともない。
「では、結果を発表します」
公平を期するため、集計はそれぞれの担任教師に任せている。
先生方だと思う。
「A組、B組対抗売り上げ対決」
お互いの担任が頷《うなず》き合い、声を合わせ、読み上げる。
「勝者――」
もの凄《すご》く長く感じる沈黙に、体育館の軋《きし》みが響く。
クラスメイトのみんなは、目を閉じて結果発表を待つ。
丈君は、隠れた瞳に緊張の色を滲《にじ》ませた。
どくん。
心臓が跳《は》ねる。
そして今、結果が明らかになる。
「――B組」
音が消えた。
それは、力を溜めるための空白の一瞬だったのかもしれない。
次の瞬間には、
『オオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォッ!』
怒号が、この巨大な建物を揺るがしていた。勝利の勝ちどき、堂々たる凱歌《がいか》であった。
「いやったぁっー」
B組の面々はそれぞれ飛び跳ねて喜ぶ。その中に、ちゃっかりと生徒たちに紛《まぎ》れ込んでいた留真《るま》ちゃんと依《より》お姉さんが抱き合っているのが見えた。
(ああ、あれはどさくさに紛れて依お姉さんにハグされたのか……)
喜びの中に悲痛な留真ちゃんの悲鳴が混ざっていたが、そっとしてあげようと思う。
「やりましたねっ、丈君!」
ボクはまず、この勝負の一番の功労者である彼に駆け寄り、声をかける。
「ああ……ま、当然だな」
彼は余裕である振りをしているが、その拳《こぶし》は強く、握りしめられていた。
「…………」
ボクは次に、古伊万里さんの方を見る。
彼女は声をあげて文句を言うわけでもなく、この結果を素直に受け入れているようだ。ボクと目が合うと、彼女はさっぱりとした声で言った。
「おめでとうございます。……彼方様」
浮かべた笑顔に無理をしている様子はない。ボクが不思議そうにしているのに気づいたのか、彼女は苦笑し、
「分かったんです。……私はずっと、彼方様が情報屋やクラスメイトにおもちゃにされているのだと思っていました」
なんとなく否定できない気がしたが、口には出さない。
「けれど、違うんですね。今日そのドレスを召されている彼方様を見て、本当に羨《うらや》ましく思いました」
「……羨ましい?」
「ええ。……ご自分では気づかれてないのかも知れませんが、彼方様、とても活き活きしてらしたんですよ。顔はずっと恥ずかしそうにしてましたけど。それでも、その表情は私たちでは真似することもできない、彼方様の最も魅力的な部分≠引き出していたんです」
そのときようやく彼女は、悔しそうに顔を歪《ゆが》ませた。
「今朝、情報屋が言っていたことは本当でしたね。彼方の真の魅力を引き出せるのは俺たちだけだ=B……この身に、痛感しました」
彼女は今回、少し強引な手を使ってきたが、その内には本当に真摯《しんし》な想いを秘めていたのだろう。だからボクは、彼女の目を見て言う。
「古伊万里さん。――ボクと友達になってみませんか?」
「……え?」
「友達、です。ファンクラブとかでボクを遠くから見つめるだけじゃなく、近くからも見てほしいんです。……そうすればもっと、分かるかも知れませんよ? ボクのこと」
ボクは右手を差し出し、
「それにボクも、もっと知りたいですから。――古伊万里さんのこと」
笑顔で言う。
「彼方、様……」
古伊万里さんはその手を両手で掴《つか》み、ゆっくりと、頭を下げた――。
そのとき。
「――さて、大変長らくお待たせしました」
いきなりステージ上の照明がすべて落ちたかと思うと、スポットライトが中央に点灯する。
そこにいたのは、マイクを持った丈であった。彼はボクと古伊万里さんを置いてけぼりで、勝手に司会を始める。
「それでは本日最後のイベント」
ボクはそこで思い出した。
(そういえばまだ残ってた! 最高に厄介《やっかい》なイベントが……っ)
丈は、マイクに向かって声高に叫ぶ。
「花嫁からのキス%桝I者を発表しようと思う」
後半のラストスパート、B組は抽選一名様へのキスを餌に一気に集客率を上げた。そうして勝負には勝てたのだが、そのツケが今、ボクに回ってきている。
体育館に集まった人々は、それぞれ手に番号の書かれた抽選券を握りしめていた。それを掲げ、壇上の司会者に向かって怒号とも声援とも分からぬ声を送っている。
「あの、丈く……」
この熱気を煽《あお》る司会者に近づくと、スポットライトがもう一つ点灯し、ボクを照らした。瞬間的に、場を占める歓声にも熱が入る。
その雰囲気に押されていると、壇上に四角いボックスが運ばれてきた。
「このボックスの中に、当選番号の書かれた紙が入ってる。見事その番号と一致した人が、このお姫様からキスされる権利を得る!」
誰がお姫様ですか、と突っ込もうとしたら、声が群衆の歓声によってかき消されてしまった。
「さて、それじゃあ早速――」
ステージ上から集まった人たちの顔を見てみると、誰もが野獣のような目をしていて、本気で自分の身が心配になってしまう。
(! そうだ、留真ちゃんと依さんが……!)
なんとか助け船を出してもらえないかと思ったが、当の二人は――揃《そろ》って抽選券を凝視《ぎょうし》し、やはり野獣の目つきをしていた。そしてなぜか留真ちゃんの肩の上では、モエルまでもが抽選券を持って結果発表を待っていた。
(どこで手に入れたんだろ、っていうか当たったらどうする気?)
どうやら助けも期待できそうにない。そうしていると容赦《ようしゃ》なく丈君がボックスの中に手を突っ込み、中身をかき混ぜ始めた。
「さぁ、誰に当たるかな――、っと!」
勿体《もったい》付けながらたっぷりとかき混ぜ、一転して今度は思い切りよく、ボックスから腕を引き抜く。当選番号の書かれた紙が高々と掲げられ、集った人々はその一点に視線を奪われた。
「さあ、行くぜ……」
緊張の一瞬、ボクは息を呑《の》み、成り行きを見守った。
「番号は――三、三、六!」
司会者から番号が発表された瞬間、皆が一斉に自分の手に持った抽選券を見た。そして確認し、大半が落胆を見せる。
だが、喜びの声はなかなか上がらない。
「当選者、いないようなら次を引かせてもらうが――」
状況を見て、丈君が次の行動に移ろうとしたとき。
「――あ」
という、小さな声が体育館の中に響いた。その声は少し高い女性の声で、ボクのすぐ後ろから聞こえてきた。
「え?」
ボクが振り向くと、そこにはさっきまで敵として立っていた少女が……口元を左手で押さえ、右手には一枚の抽選券を持った状態で、立ち尽くしていた。
「まさか……古伊万里、さん?」
尋ねると、彼女は信じられないような顔で頷く。
すかさず丈君が彼女の抽選券を確認し、
「どうやら当選者はここにいる彼女のようだぁっ!」
と、暑苦しさ満点に叫ぶ。しかし当たった本人はいまだ実感が湧《わ》かないようで、何度も視線をボクの顔と抽選券の番号の間で行き来させている。
「さあ、当選者はどうぞこちらへ」
ボクと古伊万里さんは強引に手を引かれ、ステージ中央に連れてこられる。スポットライトが二人を照らし、二人だけの世界ができ上がった。
「それではごゆっくり、どうぞ――」
怪しげな言葉を吐き、うさん臭い司会者はすっと身を引く。
「……あ……」
「えっと……」
古伊万里さんとボクはお互いに見つめ合い、どうしたものかと考えた。あまりに展開が急すぎて、頭が追いついていない。それはきっと彼女も同じことだろう……と思っていたら、
「ふっ、ふつつかものですが……!」
古伊万里さんの方はしっかりと、考えることを放棄してしまっていた。彼女はボクに丁寧にお辞儀をし、大きく深呼吸して瞳を閉じる。唇を結び、少し首を傾《かし》げ、|その体勢《ヽヽヽヽ》を作った。
(え、本当に……やるの?)
周囲から伝わってくる期待やら羨望《せんほう》やら嫉妬《しっと》やらの想いが、逃げ道がないことを如実に示していた。
(……ボクなんかでいいのかな……)
そんなことを思いながら、覚悟を決めて彼女の肩に両手を置く。体が小さく震《ふる》え、手には激しい鼓動が伝わってくる。
「じゃあ、失礼します……」
外は夕暮れ、王宮を背景に、二つの影が重なろうとしていた。
会場全体が息を呑む。静まりかえった中に、舞い込む静止の声。
「っ、かなたん、待って――!」「ダメですの、彼方さんっ――!」「彼方ちゃん、後で私にも――!」
耳馴|染《なじ》みの三人の声が響いた瞬聞、ボクの唇は彼女に触れた。
柔らかく、滑らかな――彼女の、鼻先に。
『!』
軽くキスをして、ボクは唇を離す。
古伊万里さんは目を開けると、何が起きたか分からないという風に鼻先に触れた。
「……唇は、本当に大切な人のために取っておくものです」
ボクは悪戯《いたずら》っぽい笑顔を作り、そう古伊万里さんに告げた。
「あ、う……」
少しの間黙っていた彼女だったが……しばらくするといきなり、前のめりに倒れ始める、
「!? 古伊万里さん!?」
ボクに受け止められた彼女は、顔を紅蓮《ぐれん》のごとく染め上げ、ただ一言言った。
「彼方様……一生、付いていきますわ……」
――こうして、文化祭は幕を閉じた。
ようやく制服に着替えることができたボクは、あれから恍惚《こうこつ》としたままの古伊万里さんを送ろうと、一緒に校舎を出た。ちなみに丈君は持参した制服などの後片付けに奔走《ほんそう》しており、先に帰ってくれとのことだった。
「それにしても、ボクのファンクラブって……一体、何をするんですか?」
校門の辺りで留真ちゃんたちを待ちながら、ボクは彼女に一番聞きたかったことを尋ねる。
彼女はまだ若干緊張した様子で、説明してくれる。
「……ええ、それはもう、彼方様の日々のご様子を陰より見守ることがすべて、です」
しかし、あまり説明になっていない。ボクの困った顔を見て、彼女は慌てて付け足す。
「もっ、もちろん、彼方様にむやみやたらと近づく者があればそれなりの対処を致しますし、気安く触れ合おうものなら! 危険分子として白姫《しらひめ》会の総力を挙げて潰《つぶ》しに――ハッ!?」
彼女の顔色が途端《とたん》に悪くなる。なぜだろうかと考えて、ボクはさっきの出来事を思い出した。
「……わ、私としたことが……代表でありながら、彼方様にくちづけをしていただくなんて……これでは私が危険分子では……?」
立ち止まってかたかたと震え始める彼女を、ボクは何とか落ち着かせようとして、
「え、えーと、その……あ、でもあの人は大丈夫なんですねっ? ボクにいつもやらしいことをしてきてるのに」
ボクは何気なく、それを口にした。
「いっ、いやらしいこと? 一体どこの誰がこの麗しき彼方様にそのようなことを!」
(……え?)
『白姫君の体、細くて、すべすべで、弾力もあって、ほんといい触り心地……』
「うちのクラスの……」
頭の中にぼんやりと響く声。
『いろいろずるいな、白姫君は』
「ほら、こないだも教室で……」
思い出そうとすると、頭に霞《かすみ》がかかったようになる。
『白姫君が触り心地良すぎるからいけないんだよ?』
「ぺたぺたと……」
自分の声が、少しずつ小さくなっていくのが分かる。
『それじゃまたあとでねっ、白姫君っ』
「――いいん、ちょ……」
古伊万里さんはボクの言葉に首を傾げると、記憶を辿るように視線を上にあげ、人差し指を頬《ほお》に当てた。
「彼方様のクラスの、委員長……? そういえば、どなたでしたかしら……?」
A組の委員長である彼女が知らないわけがない。クラスの代表が集まる機会は何度かあったはずだ。
ボクは彼女に、声を大きくしてもう一度聞いた。
「眼鏡《めがね》をかけて、真っ黒な髪をおさげにした人です! いつもふわふわした感じの――」
必死なボクの様子に驚いたのか、彼女は目をぱちくりとさせる。しかし、
「――すみません、思い出せませんわ」
答えは、変わらなかった。
ボクは彼女の反応の意味に、薄々気づき始める。
「いいんちょ……」
「? 彼方様?」
呆然《ぼうぜん》とした意識の中、古伊万里さんの呼ぶ声がする。
ボクは。
「なんで、今まで……|忘れてた《ヽヽヽヽ》?」
そう確信したとき、ボクの体は動き出した。
「どうかなさったんですか、彼方様っ!?」
「ごめんっ、先に帰っててくださいっ!」
彼女には悪いと思ったが、この足は止まらない。
とにかく速く、ボクは走る。
胸の焦燥を、振り切るために――。
――屋上。
鍵の開いた扉を開け放つ。
「…………」
普段から鍵がかけられているこの扉を、どうして開けることができたのか。
「……い」
言葉が、上手く出てこない。
「……いいん……ちょ……?」
屋上の乾いた床に立つ制服姿の少女。見間違えるはずがないいつも通りのおさげと、銀縁《ぎんぶち》フレームの眼鏡。顔立ちは清楚《せいそ》で、いつでも絶えず穏やかな笑みを浮かべている――ボクの友達。
今日一日、姿の見えなかったクラスメイトだ。
そして、ボクが今日一日――|思い出すことのできなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、クラスメイトだ。
彼女は今、横を向き、何を見ているか分からない瞳を空へ向けている。すると突然、バッグの中からモエルが飛び出してきて、強い口調で言った。
「気をつけるんだ、かなたん!」
完全に、彼女に聞こえる声量だった。目線は厳しく、彼女を睨《にら》む。
「――お疲れさま。白姫君」
そのままの姿勢で彼女が口を開いた。
「いいんちょ」
|どうして《ヽヽヽヽ》。それだけの言葉が、たくさん、頭の中にあった。
どうして、文化祭のときにいなかったのか。
どうして、誰もいない屋上に佇《たたず》んでいるのか。
どうして、モエルがこんなに警戒しているのか。
どうして、言葉を話す猫を見ても、驚かないのか。
どうして、こっちを向いてくれないのか。
どうして……?
「……サボりは、よくないですよ?」
ボクはできるだけ、普段通りに声を放った。
「うん。そうだね」
彼女はそれを認め、声だけで返事をする。
「あ、そうですっ。今日大変だったんですよ。A組と勝負になっちゃって。もし負けちゃったら、ボクが――」
「――ほんとは、ね」
普通に振る舞いたかった。いつものように軽い言葉で、たわいもない会話を交わしたかった。だけど彼女は、それを遮《さえぎ》って、言葉を紡《つむ》こうとする。
「文化祭が終わるくらいまでは、待っていたかったんだ」
まるで、何かが終わってしまったかのような……そんな、語り方。
「だけど、そうも言ってられなくなっちゃった」
委員長は顔だけをこちらに向けた。そのときの笑顔が、なぜか心に刺さる。
「いいんちょ……、何を言ってるんですか……?」
「もう、始まっちゃうの。夜≠ェ」
そう呟《つぶや》くと、彼女は右手の人差し指で虚空《こくう》をなぞる。意味があるとは思えない、指揮者のまねごとのような些細《ささい》な動きだった……が。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ。
「!?」
耳を打つ激しいノイズ。ボクは屋上のグラウンド側へ行き、身を乗り出して校庭を見下ろす。
そこには、歪みが生まれていた。ノイズが発生する際の、世界のうねりが。
「っ!」
(学校にはまだ人が――!)
「――大丈夫だよ。あの人たち、いるでしょ?」
走り出そうとしたボクに先んじて、委員長は言った。
「! やっぱり、原因はお前か……っ!」
モエルが、敵意と怒りを込めた大声を放つ。
ザ――。
歪みから垂《た》れた黒い雫《しずく》が、校庭に落ちると同時に弾けた。散り散りになった雫がすべて、なり損ないのノイズへと変わる。その数、十数匹。これまでよりもさらに多い。
それから数秒と経たず、校庭に躍《おど》り出る二つの影。炎のドレスと、鋼の鎖。彼女たちは即座に、生まれてきたノイズへの攻撃を開始した。
「グレちゃん、依さん……」
二人は瞬く間にそれぞれ一体ずつ、ノイズを撃破する。
「いいんちょ……」
彼女は魔法少女の存在を知っている。いや――。
(知ってたんだ。ノイズの存在も……ボクが、魔法少女をやっていたことも)
ノイズが消え去る際の光の塵が空気中を舞った。校庭の二人は難なくノイズの数を減らしてゆく。下はどうやら、このまま二人に任せておいて大丈夫そうだ。
ボクは振り向き、屋上の中央で静かに微笑《ほほえ》む少女を見据えた。視線を受け、彼女は口を開く。
「そっち、行っていい?」
唐突な質問だ。彼女らしいと言えば彼女らしい、意図の読めない、問い。
「かなたん、油断しちゃダメだ。あの子は――」
「――いいですよ」
モエルの驚く顔が見えたが、今は自分の思うようにしたかった。
「うん。……じゃ、行くね」
彼女はそう言って、ゆっくりと、歩き出した。
たった数歩の距離を、縮める。それだけのことなのにわざわざ許可を求めてくる。それが、今のボクと委員長の間にある心の距離を表している。
「わぁ、やってるね!」
微妙な距離を取って隣に立ち、手すり越しに校庭の戦いを眺める委員長。十数匹いたノイズはあっという間に、半分近くが倒されている。
「…………」
「聞かないの?」
こっちを見て、聞いてくる。その顔は記憶にあるままの彼女で、だからこそ、なんだかまだ実感が湧いていなかった。……彼女が、このノイズ騒ぎの元凶かもしれないという、実感が。
「聞いたって答えてくれないでしょ。いいんちょ、いつも本当のこと言ってくれませんから」
そう言うと彼女は、おっとりとした目を少し大きくして、驚きの表情を見せた。
「……いつも、か」
彼女は手すりに背を預けると、こんなことを聞いてきた。
「白姫君、私の好きな食べ物、知ってる?」
「? ……いえ」
まただ。また、意図の掴めないー彼女の問いかけ。
「私の趣味は?」
「……知らないです」
地上で、依お姉さんの放つ拳がノイズを貫《つらぬ》き、グレちゃんの放ったコインが敵を打ちのめす。
「私のスリーサイズ」
「知るわけないでしょうっ!」
笑顔で何てことを聞いてくるのかこの人は。
「私の体重……は知られてたらちょっと恥ずかしいかも」
「そこで照れないでくださいよ」
「ふふ。じゃあ次、最後ね」
ボクが溜息《ためいき》を吐くと、委員長は悪戯《いたずら》っ子みたいに微笑《ほほえ》み、最後の質問を口にした。
「私の、名前は?」
「……?」
何をくだらないことを――そう思ってボクは、|考えた《ヽヽヽ》。
出席を取るとき、友人に呼ばれるとき、ボク自身が呼びかけるとき。
知っていて当たり前で、知らないハズなんかなくて。でも、思いつくのは……この人は委員長だ、などという、肩書きだけのイメージでしかなかった。
「……え……? なん、で……」
自分が少し忘れっぽいだけだと思いたかった。けれど目の前にいる少女は、それが当たり前だと言わんばかりに、優しく微笑むのだった。
「認識|阻害《そがい》、知ってるよね。魔法少女がこの世に無闇な影響を与えないよう展開する、認識を曖昧《あいまい》にさせてしまう、とっても便利な魔法」
説明口調で言うと、委員長はボクの隣を見た。ずっと臨戦態勢で待機していたモエルが、向けられた視線に応える。
「おかしいと思ってたんだ。おいらは、キミを二回見てる。最初はこの場所、かなたんが一人で初めてノイズと戦ったとき。二度目は、こないだの遊園地。
……自慢じゃないけど、おいらはかなたんに近づく女の子を絶対に忘れたりしない。だけどそのおいらがついさっき直に見る瞬間まで、キミのことを完全に忘れていたんだ。思い出せたのは、認識阻害を緩《ゆる》めたからだね?」
「うん、さすがだね。モエルさん」
何故か、モエルに対して放つその言葉には、本当にわずかだが――親しみが感じ取れた。
「つまり、そういうこと。……私は、いままでずっと、誰にも正確には認識されていないの」
眼鏡越しの大きな瞳が、ボクの方に戻る。
「白姫君は――私のこと、何にも知らないんだよ?」
「っ、何を言ってるんですか、いいんちょ……あなたはボクの同級生で……」
声が震えているのが自分でも分かる。でもボクは、言わなくてはならない。
「……ボクたちのクラスの……委員長で……」
とつとつと声を出すボクに、眼鏡の少女は、哀れみにも似た声で言葉を捨てる。
「それは全部、偽りのものなんだよ」
体中が凍えていく気がした。
そして彼女は、はっきりと言う。
「白姫君――私≠ネんて、どこにもいなかったの」
いつもの笑顔が、ボクの心を刺した。
「……あ、下はそろそろ終わりそうだね」
言葉を失っているボクに代わって、モエルが声を放った。
「認識阻害を使えたり、ノイズを操ったり……普通にできることじゃない。君は何者だ?」
「ふふ。――あなたと似たようなものよ? モエルさん」
「っ!?」
あれだけ剥《む》き出しだった敵意が、一瞬だけ怯《ひる》む。
「ねぇ、白姫君」
一言でモエルの言及を止めた委員長は、真っ直《す》ぐボクの方を見つめながら聞いてきた。
「いい天気≠チて、どんな天気だと思う?」
彼女の質問は、最初から最後まで捉《とら》え所がない。
「晴れた青空とか……じゃないですか」
何を言えばいいのか分からないボクには、彼女の質問に答えるしかなかった。
答えを聞いた委員長は「うん、そうだよね」と一言呟き――こちらに、手を伸ばしてきた。
「かなたんっ!」
ボクは、自分に近づいてくる手をただ見つめている。
その彼女の手がこちらに触れようとする寸前――。
「――もう少しだけ……一緒にいたかった、かな」
小さく、風に掻《か》き消えてしまいそうな言葉を聞いた。
伸ばした腕を、何もせず下ろしてしまう委員長。その顔は普段と同じに見えたが、なんとなく違うようにも見えた。
「ん、もう時間みたい」
「……いいんちょ。あなたは、何をしようしているんです?」
彼女は視線をスゥ、と細めると、ゆっくりと唇を動かし、その目的をボクに告げた。
「滅ぼすの。――チューナーを」
綺麗《きれい》な笑顔から紡がれた言葉は、ボクと彼女との、関係の終わりを意味していた。
(チューナーを、滅ぼす……?)
「意外と悪い女の子なんだよ? 私って」
柔らかな声、穏やかな笑顔、垂れるおさげに、銀縁の眼鏡。クラスの委員長で、遅刻を見逃してくれて、優しそうだけど小悪魔で、いつも変なおしおきばかりしてくる人。
「これからは敵同士だね? 白姫君」
そのすべてが、今は遠い。
「本気……なんですか……?」
ボクは震えた声で問いかけた。
「……うん」
視線を外し、歩き出したその人は、ボクとのすれ違いざまに囁《ささや》いた。
「さよなら」
キッパリとした別れの言葉と、去ってゆく足音。
その日、大事な友達は――。
――敵となって、ボクの前から姿を消した。
夕暮れの空は完全に消え、光を奪い取るように夜が訪れる。
暗く染まった空には幾つもの雲が浮き、月や星の光を完全に遮っていた。緩慢《かんまん》な動きで流れていくぼんやりとした形の雲は、その遥か地上に住む人々を見下ろす。
上空に立ちこめる雲、落ちる暗闇の帳《とばり》。抵抗するかのように灯《とも》される町の明かり。
地上に住まう人々は、誰もがその始まり≠ノ気づくことができずにいた。
ザザッ。
空に響く、異音。広大な空の一部に歪みが走る。
もしその近くでそれを見ている人がいたならば、その異変に気づくことができただろう。
|暗闇の中に暗闇がある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という異変に。
ザザザザッ。
音と歪みがさらに響き揺らぐ。その度《たび》に、空は段々と侵《おか》されていた。
宵闇《よいやみ》より深い――さらなる黒に。
――その日の空は、いつもより暗かったように思える。
きっとそれは、このざわめく心のせいだろう。
ついさっき起きた出来事の衝撃が、いまだに体の申から抜けていない。あれから自分がどうやって家にまで帰ってきたのか、それさえも思い出すことができなかった。
「…………」
自室のベッドの上で、ボクはただ天井を眺めている。何かを考えるわけでもなく、体を動かすことさえも放棄して。
時々耳の奥に響いてくる彼女の声が、頭の中を巡っては勝手に消えていく。
『減ぼすの。――チューナーを』
滅ぼす。つまりそれは、委員長が魔法少女たちの敵になるということ。
敵=B
何度もエコーするその単語の意味は、とても簡素で分かりやすい。だけど最も理解しがたくて、信じたくもないものだった。
「……かなたん?」
小さな声が聞こえた。声の主は寝転がったボクの横に座ると、心配そうな色を瞳に映して、ボクに話しかけてくる。
「ご飯、食べないの?」
気を使っているのだろうか。いつもの明るい声を潜《ひそ》め、モエルはボクに聞いてきた。
「ん……」
そういえばまだ、何も食べていない。しかし何も食べる気になれなかった。体が空腹を訴えていても、心がそれを求めていなかった。
モエルはそんなボクに悲しそうな目を向ける。しかしすぐに顔を横に振って表情を切り替えると、いつもの快活な声で言った。
「ほら、かなたん! 起きようよっ、おいら今日はちょっと遊びたりなくてさ。いつもみたいに相手してほしいな! オセロでも囲碁でも麻雀でもなんでもいいよ? それに、最近一緒にお風呂入ってなかったよね。おいらが逃げてただけなんだけどさ。……でも、今日だけは特別、一緒にお風呂に入ってもいいよ!」
ベッドの上で身振り手振り、元気さをアピールするかのように金色の猫が暴れる。
「ほらほら、起きないと口には出せないような悪戯しちゃうよ? なんかもう、世界観変わっちゃうようなめくるめく恍惚体験をだね……」
でも、その元気も長続きしなかった。
声が聞こえていなかったわけじゃない。いつも通りに振る舞ってくれているモエルの気遣いも分かっている。
(でも、どうしても……)
「辛いよね」
「……!」
ルビー色の瞳が、ボクを捉えていた。
「今まですぐ近くにいた友達が敵だった。それでなんとも思わないわけないよね」
静かに、ボクに何かを伝えるために言葉を放つ。
「今現在この町で起きている異変……ノイズの大量発生に、あの子は大きく関わっている。もしかしたら、彼女こそがそのすべての原因かもしれない」
考えないようにしていたことをはっきりと口にされ、胸に冷たい痛みが走る。
「もしも次に会ったときは……彼女と――」
一番考えたくなかったことを簡単に言おうとするモエルに、気がつくとボクは上半身を起こし、大声で叫んでいた。
「――戦えって言うの!? いいんちょはついこないだまで一緒に学校に通ってたんだ、ボクと同じ場所にいたんだよ!?」
分かっている。他ならぬ、彼女自身が言ったことだ。次会うときは敵同士だ≠ニ。あの言葉は嘘じゃない。疑う必要もないくらい、彼女は本気の目をしていた。
そして彼女が本当にチューナーを滅ぼそうとしているのなら、いずれはボクとも戦うことになるだろう。
(でも……)
「友達、だったんだ」
「……。うん、分かってるよ」
モエルはボクの膝《ひざ》の上に乗ってきて、ボクの顔を見上げる。その大きな瞳の奥に、自分の姿が見えた。
今にも泣き出しそうな顔をしたボクに、モエルは言った。
「戦わなくていい」
「え……?」
「いいんだ。無理に戦わなくても」
「でも、それじゃ――」
「――かなたん。おいらは、キミが苦しんでいるところを見たくない」
声の調子が変わった。恐いくらい真っ直ぐな声で、モエルは声を紡ぐ。
「チューナーやこの世界がどうなろうと知ったことじゃない。おいらは、キミが悲しんだり辛い思いをするのが一番嫌だ」
声自体は静かなのに、そこには激しい想いを感じる。
「だから、もしキミが戦いたくないというなら、それでも構わない。おいらはキミを責めたりしないし、ずっとそばにいるよ。でもその代わり、忘れないで」
金色の毛がいつもより深い輝きを放っている。まるで……モエルの感情に呼応しているかのように。
「あの子がもし、キミを傷つけようとしたときは」
ボクの家族である一匹の猫は、揺らぎのない声で、
「――おいらが、あの子を倒す」
そう、断言した。
「どんなことをしてでも、おいらはキミを――白姫彼方を守るから」
そのときのモエルは、今まで感じたことのない意志の強さを持っているように感じた。言葉の節々に、眼差しの奥に、根差している想いが垣間見える。こんな小さな体の中に、ボクなんかよりよほど大きな力を秘めている。
羨ましく思うと同時に、ちょつとだけ不安になった。あまりにもその想いが強すぎて、なんだか危なっかしく感じたのだ。
「……ごめん、モエル」
「? なんで謝るのさ」
さっきまでの様子が嘘のように、モエルは普段の顔に戻った。
「心配、してくれたのに……怒鳴ったりして」
「ううん。嬉《うれ》しかったよ」
笑いながらそんなことを言うので、ボクは驚いてしまう。
「ほら、かなたんって一人で思い悩むタイプでしょ? だから、正直な気持ちをぶつけてもらえたのが嬉しかったんだ。……これからも、どんどん気持ちをぶつけてもらえると嬉しいな。どんなことだっていいからさ」
自分のことをこんなに考えてくれる家族がいる。
「――うん」
それだけで、なんだか心が軽くなる気がした。
「うじうじ考えるなんて、ボクらしくなかったよ。考えても答えが出ないなら……結局、ぶつかるしかないんだよね」
「それ、こなたんの考え方だよ」
「母様はどちらかというと、考える前にぶつかってるよ」
ボクとモエルはお互いに言葉を交わし、ようやく笑い合うことができた。
「じゃあモエル。ご飯、食べよっか」
「うん! 今日はおいらが作ったんだよ!」
自慢げに言うモエル。どうやっているかは知らないが、意外と料理がうまい猫なのだ。
「それは楽しみだな。よし、そしたら食べた後に一緒にあそぼっか」
「麻雀がいいな。またかなたんの身ぐるみ全部|剥《は》いであげるよ!」
その上、勝負事にめっぽう強かったりもする。
「うんうん。――でもその前にお風呂ね」
「もちろんさっ! ……あ?」
そして、お風呂に入れられることがどうも苦手らしい。
「いつもいつも逃げ回るから手を焼いてたけど……今日は、モエルから入るって言ったんだもんね?」
「えっ、いや、あれは言葉のあやと言いますか――」
「問答無用」
素早く体を鷲掴みにする。
「ッ、みぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
――その夜、白姫家周辺には悲壮な断末魔の叫びが響き渡った。
夜更け前。
大枝町の隣町、とある公園に建てられたテントの中。
起きるには早すぎる時刻に、樋野《ひの》留真は目を覚ました。
「――……」
キィン、という耳鳴り。普通であるなら気づかない程度の極めて小さな音。しかし彼女は、鋭すぎるほどの感覚をもってそれを感じ取っていた。
(……ノイズ)
胸の奥がチリチリとざわめく。他の誰よりも貪欲にノイズを追い続けてきた彼女だからこそ分かる、予兆のようなものだった。
暗闇に目を慣らしてから、くるまっていた毛布をどけて起き上がろうとした留真の耳に、
「むにゃあ……留真ちゃ〜ん……」
せっかく感じ取ったノイズを台無しにしてしまうくらい、気の抜けた声が聞こえてきた。
(また《ヽヽ》ですの……?)
彼女は、毛布の下から出てきた人物の姿にげんなりする。
幾瀬《いくせ》依。特徴的なポニーテールをほどき、意外と長い髪をざんばらと寝床に広げている彼女が、留真の腰に抱きついている。
「はぐ〜……」
今年で二十四歳であるはずの彼女は、一回りも年下である留真を抱き締め、幸せそうに唸《うな》つた。寝顔には警戒心など微塵もなく、心からの安らぎに満ちている。
(どうしてこの人は毎日毎日、人が眠った後に潜り込んでくるんですの……?)
もはや見|飽《あ》きた光景に頭を抱え、溜息を吐く。
「すべすべ〜……」
腰に抱きついたまま、依は留真の体に頬をこすりつける。
(こ、こらっ! なにをやってるんですの!?)
留真は怒ってはいるものの大声は出さない。幸せそうに眠る彼女を起こさないよう、しっかりと配慮しているのであった。
「まったく……!」
なんとか依の抱擁《ほうよう》から逃れた留真は、まずは着がえから始めた。
彼女が寝間着に使っているのは、デザイン性よりも機能性を重視したトレーナーとズボン。寒くなってくるこの時期、体から熱を逃がすことは死活問題に直結する。サバイバル生活をしている彼女にとって、睡眠時の見た目など二の次であった。
「ん……」
ぺたんと座った状態で両手でトレーナーの裾を持ち上げ、なだらかな胸のギリギリ手前までまくり上げる。一緒に下着のシャツまで掴んでしまっていたので、すらりとしたお腹が丸見えになってしまっていた。
「…………」
彼女はそこで動きを止め、考える。
(どうせ変身するわけですし、着がえる必要もないですの……)
頭の中で確認すると、彼女はまくり上げていたトレーナーを元通りに直し、代わりに小声で呟いた。
「絶《た》えなく廻《まわ》れ、金華《きんかほ》の焔《のお》」
数秒間の変身を依の隣で完了すると、留真は依が眠ったままであることを確認し、テントの外へ出た。
冷えた夜風が、炎と同色の髪を揺らす。しかしその絢爛《けんらん》とした紅は少しも燻《くゆ》らず、暗色に包まれた町に強い輝きを放っていた。
「随分、静かな夜ですの……」
耳を澄ませても、わずかな音さえ聞こえない。
「留真ちゃんに彼方ちゃん、そんなあられもない格好で……そんな、どっちかなんて選べないよ……あああああそんな誘われちゃったら、お姉さん我慢が……ここは天国かなぁ?」
静寂に際だつ、テント内の寝言。
そしてもう一つ。
キィ、ン――。
「そう騒がなくとも、すぐに行きますの」
響くノイズの産声に、魔法少女グレイス・チャペルは動き始めた。公園の砂を蹴《け》り、衝撃で巻き起こる粉塵に触れさせもせず、夜の街へと躍る。
建物の屋上に着地、そこから跳《と》び立つ。三回ほどその動作を行っただけで、あっという間に住処の公園は遠くなっていた。
「…………」
発生点へと駆けながらグレイスは、今日のことを思い出していた。
(今日は幾瀬さんの所為で酷《ひど》い目に遭《あ》いましたの。……まさか、あんな格好をさせられる羽目になるとは)
無理やり鏡で見せられた自分のウェイトレス服姿を思いだし、グレイスは紅潮する。
(あんな服が私に似合うわけありませんの……)
確実に目的地へ近づきながら、考えを巡らす。
(彼方さんは……似合う、と言ってくれましたけど)
夜風の冷たさに負けず、頬の赤みが増す。そしてその人物のことを考えたとき、気にかかることを思い出した。
(そういえば帰り際の彼方さん、様子がおかしかったですの)
学校に現れた複数のノイズを撃破し終え、家が隣町である留真たちと別れる間際。
「なんだか、随分落ち込んでいたようでしたが……」
心配する気持ちが自然と口からあふれる。
(私たちがノイズと戦ってる間に、何かあったんですの……?)
彼女の思考はそこで一旦、止められた。
「……? ノイズの反応が――」
確実に騒音の発生点へと近づいていたはずなのに、突然、位置が探れなくなってしまった。
グレイスは五階建てアパートの屋上で立ち止まり、瞳を閉じ、意識を集中させる。
「――……」
しばらく索敵してみたが、何も反応はない。
「気のせい……? まさか、そんなわけありませんの」
(ありえるとしたら、他の誰かに先を越された? しかし、近くに誰かいるなら、気づいているはずですし……)
油断なく周囲を見回し――彼女は、おかしなものを見た。
「!? なんですの、これは……!」
それはずっと、彼女の視界に入っていた。
グレイスの立っている場所から少し先――そこに広がる夜景。呆然とそれを眺めていた彼女は、思わず声をあげていた。
「なぜ――|こんなところに壁があるんですの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
彼女の目の前には、空から大地にまで続く、真っ直ぐな壁が存在していた。注意深く観察してみると、その壁はゆらゆらと波打って揺れている。
(……ヴェール、ですの?)
その色は、すべての光を遮る漆黒《しっこく》。黒いヴェールが、町と町とを綺麗に分断していた。
「っ!」
グレイスはこれまでにない胸騒ぎを感じながら地上に降《お》り、急いでそれに近づく。
(これは……魔力障壁?)
息を呑み、彼女はその壁に向かって魔力のコインを放る。
放物線を描いた金貨が、そのヴェールに触れた瞬間――、
バヂンッ!
――鞭《むち》を思い切り地面に叩きつけたような音を立てて、消滅した。
(やはり……。しかし、なんですのこの違和感は……?)
グレイスは目の前にそびえ立つ壁に、妙な感覚を覚える。
(障壁というには少し……違う。これは外部からの攻撃を防ぐために構築されたものではない、気がしますの……)
放たれる魔力の質をじっくりと観察し、彼女は一つの決断を下した。
「……手っ取り早く、確かめてみますの」
右手をゆっくりと上げ、得体の知れない壁に向かって恐る恐る伸ばしてゆく。もちろん、触れた瞬間に黒焦げになってしまう可能性もある。しかしグレイスの鋭敏な感覚はその可能性を否定していた。
人差し指が――壁に、触れる。
「っ、……? 感触がないですの……」
できる限りの警戒を払い、彼女は指先から手首までを闇に埋めた。そのまま腕が完全に向こう側へと呑み込まれると、感覚がちゃんとあることを確かめてから、思い切って全身をくぐらせる。
「え……!?」
次の瞬間、グレイスは壁に背を向けて立っていた。振り向くと、闇色のヴェールは変わらずそこにある。もう一度向こう側へ行こうと試みるが、しかし結果は先ほどと同じく、気がつくと壁を背にして立っているのだった。
「魔力は打ち消される、人の体は元の場所に戻される……何らかの魔力干渉ですの? でも、こんな現象は見たことも聞いたこともないですの。これではまるで……人を閉じこめることが目的のような――」
胸騒ぎがして、無意識のうちに彼女は首からぶら下げたコインに触れる。
「――ふふ」
小さな笑い声。それに気づき、咄嗟《とっさ》に振り向いたとき。
「っ!?」
彼女の意識は、途切れた。
揺りかごがある。
そこは一筋の光さえも存在しない、黒一色の空間。どこをどう見渡しても同じ色が続くだけで、上下左右という概念が存在しない場所。
そこに唯一の物体として浮かんでいる、白の揺りかご。周囲と真逆の色を放つ純白の寝台は、この上なく異彩を放つ存在だった。
「――ただいま戻りました」
空間に声が響き渡る。
揺りかごを前にして固さを帯《お》びた、少女の声。本質的に優しい声音をしていたが、どことなく無理やりに感情を抑えている節がある。
「…………」
揺りかごからの返事は無言である。ただ、彼女が場に現れたときから、その寝台はかすかに揺れ、キイ、キイという小さな音を響かせていた。
籠《かご》の主を確認せず、少女は声を闇になげうつ。
「領域展開時、中に取り込まれたチューナーは三人。そのうち一人はすでに戦闘不能にしました」
簡単な報告を終え、彼女は掛けていた眼鏡の位置を直す。
しばらくの間返事があるかを待ってみたが、望みは薄そうであった。そこで彼女は意を決し、ある提案をしてみた。
「残る二人はさして脅威となるとも思えません。このまま捨て置いても――」
「――倒しなさい」
よく通る美しい声。音の響きに重みがあり、影を感じさせる声音。
初めて揺りかごの主が放った言葉は、短くも率直な命令《ヽヽ》だった。
「…………」
思った通りの反応。それに諦《あきら》めを感じて少女は身を翻す。おさげが悲しげに揺れ、揺りかごから遠のいてゆく。
そして、主の元から十分に離れた場所で彼女は立ち止まった。そこに、タイミングを見計らったかのような声が届く。
『いいのか?』
それは音として放たれたものではなく、対象の魔力を震わせることで言葉を伝えるという技術。それを使うことのできる存在は、暗闇の中に紛れていた。
全身がこの空間と同じ色をしているため、場所が掴めない。だが、唯一の特徴である白い双眸《そうぼう》が、暗闇の中に浮いていた。
「なにが?」
それがそこにいるのを分かっていた少女は、逆に聞き返す。
『……言いたいことがあるようだったが』
「っ、ないよ、そんなの」
表情の裏を読まれたくないのか、俯《うつむ》いて声を放つ。
『なら構わないのだが』
端的《たんてき》に、白い眼の存在が話を切り捨てた。間を空けず少女が言う。
「残りの二人のところに行くから、貴方も一緒に付いてきて。
――エフェクト」
言ってから、返事の確認もせずに歩き始める。
『分かった』
白い眼は前を歩く背中に向けて返事をし、付き従う。
ディスコードエフェクト=B意思を持つノイズは最後に、誰に向けてでもなく、その心の中で呟《つぶや》いた。
(さして脅威となるとも思えない、か)
その意識の深奥には、かつて絶対的な実力差を覆《くつがえ》し、自身を打ち倒した、
――白銀の光が見えていた。
[#改ページ]
4.夜
静かな朝だった。
鳥たちのさえずりなんてまったく聞こえない、時が止まったかのような朝。おかげでジリリリと騒ぎ始めた目覚まし時計の音が、はっきりと耳に入ってくる。
「うぅ、ん……」
ふらふらと伸ばした右手で目覚ましを止め、まずは上半身を起こす。大きめのパジャマの袖で眠い目を擦り、欠伸《あくび》が出そうになる口元を反対の手で押さえた。
「――ふわ」
大きく口を開けて思い切り欠伸をすると、体を起こすために伸びをする。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜っ、と!」
一連の行動を終わらせると、ボクの視線は自分の膝《ひざ》の辺りに向けられた。妙に重みのあるその場所には、すぴぃ、と穏やかな眠りについているモエルの姿。猫らしく体を丸め、人の体の上を図々しくも陣取っている。
(上で寝るのはやめてって言ってるのに)
「あ、あぁっ、かなたん……ダメだったら、そんな隅々まで……あふ……素手で洗うのはほんと……はんそ、く……だ、よ……」
昨日の入浴を思い出しているのであろうか。毛に艶が増した金色の猫は寝言を言い出し、体をぴくぴくと痙攣《けいれん》させる。その表情は熱に浮かされているかのようだ。
(……大人しくしてればすぐ終わるのに)
お風呂場で必死に顔を背《そむ》け逃げまどうモエルの姿を思いだし、苦笑する。
「えと、今日は文化祭の振り替え休日だよね。何しよっか……、な――?」
そこでボクは、妙な違和感を感じた。
――カーテンの外が暗い。
起きる時間を間違えたのかもしれないと、すぐに時計を確認してみると、アナログの針は八時過ぎを示している。
(昨日寝たのは夜の十時だし……時計、壊れちゃったのかな?)
持ち上げてみても、時計はしっかりと動き続けている。
膨らんでいく違和感をどうにかして消そうと、ボクは閉めきったカーテンを開く。
すると外は――夜。
「!? まさか一日中寝ちゃったとか? そんなわけ……」
目を凝《こ》らして窓から外を眺《なが》めると、何かがおかしいことに気づく。
「っ!」
窓を勢いよく開け放ち、縁に乗り出してボクは空を見た。
ドクン。
違和感の正体に気づいた瞬間、胸の鼓動が一際強く響く。
「……どうして」
多分、時刻は|朝の《ヽヽ》八時で間違いない。どうやら、違っているのは……。
「空が――黒いんだ?」
曇っているわけでもないのに星の瞬きはなく、月の光も見えない。
漆黒《しっこく》の空。自然の夜とは違う、完全な黒一色で染め上げられた大空が、頭上に広がっていた。
「モエル! 起きてモエルっ!」
この異常事態に嫌《いや》なものを感じたボクは、まだベッドの上で眠っているモエルを揺さぶる。
「あぅん……尻尾は洗わなくてもいいってばぁ……」
しかし今日に限って眠りが深く、モエルが目を覚ます様子は一向にない。
「起きろ〜っ、――起きろってば!」
ぎゅむ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
尻尾を思い切り握ると、モエルはその場で声にならない声をあげ、跳《と》び上がった。そしてベッドの上に落下、すぐさま起き上がり叫ぶ。
「ぬぁっ、なんてことするのさ? い、今、完全に意識が――」
「――そんなことより見て!」
「そんなことだって? キミは尻尾がどれだけ敏感かまだ分かっていないようだね――ってあれ? まだ夜?」
視線を窓の外へと向けたモエルが、首を傾《かし》げて言った。
「よく見て。これは……夜じゃない」
「? 何言ってるのさかなたん、こんな暗いのに――……ッ!?」
ようやく気づいたらしい。ジャンプして窓の縁に昇り、真っ暗な空を眺めながら呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。
「どういうことだ……これは――」
「とにかく外に出てみよう、モエル。なんだか町の様子もおかしいみたいなんだ」
クローゼットから私服を取り出し、服を着替え始める。
「……何が起きてるって言うんだ……?」
上着を急いで脱ぐと、上半身が下着一枚になる。それも脱いで新しい下着に手早く替えると、その上から裾の余った厚手のシャツを着る。
「これは大変なことだ……!」
モエルはボクが後ろを向いて着がえている間も、ずっと何かを呟き続けていた。
次にボクは下を脱ぐためにズボンの両縁に親指を引っかけ、両側から横に引っ張る。そのままゆっくり降《お》ろし、腰から太股《ふともも》の付け根辺りまでが露《あら》わになった、そのとき――
「!」
――刺すような視線を感じた。瞬間的に振り返ると、ベッドに綺麗《きれい》な姿勢で座っていたモエルが、赤い瞳を真剣に見開きこちらを凝視《ぎょうし》していた。
ボクの視線に気づいたモエルは、露骨に緩《ゆる》んだ表情を一瞬で引き締め、こう言った。
「続きをどうぞ!」
「…………」
ボクは床に落ちたパジャマの上着を拾い上げると、
「ッ、見るなっ!」
モエルへと思い切り、叩きつけた。
着がえ終えたボクと右肩の上に乗ったモエルは、家から出て街を歩く。
「想像以上にとんでもないね、これは……」
一通り歩いた街の状況を見て、モエルが率直に感想を呟く。
「……うん」
ボクは頷《うなず》いて、改めて自分の周りを見渡した。今ボクがいる場所は、わずかな環境音さえ聞こえない無音の繁華街。普段の買い出しに使っているルートなのだが、この道路に全く人がいないところなどこれまで見たことがない。
もう少し歩くと普段ならいつも賑やかな、開けた中央路へとさしかかる。道を四方向に分ける広場の中心には、時間を示す時計塔が建っていた。高さ五、六メートルほどのその塔は、遠くからでも確認しやすいため、待ち合わせなどの場所によく使われている。
「……。どうやらほんとに――」
歩道や、道路で止まっている自動車の車内。コンビニの駐車場や、店内。
正しく言えば、各所に人はちゃんと存在している。
が、しかし。
「――今、起きているのはボクたちだけらしい」
外にいたであろう人々のほとんどが、その場で眠りこけていた。
モエルが唸《うな》るような声をあげる。
「うぅ〜〜〜ん……」
「どうしたの? モエル」
「んにゃ、これが魔法によるものだってことは分かるんだけど……なんか、ひっかかってね。
思い出せないことがあるような、あ〜むずがゆい……」
右の爪でカリカリと頭部を掻《か》き、難しい顔をしている。そのときボクは、さつきから頭に思い浮かんでいることを聞けずにいた。
(……やっぱり、いいんちょが関係してるのかな)
タイミング的にはぴったりだろう。そして去り際に彼女が言っていた夜が始まる≠ニいう言葉。状況的に見ても、これがそうであることは間違いない。
見上げると、星も月もない、光をすべて排除した空が広がっている。
――心まで黒く塗りつぶしてしまいそうな、漆黒の夜空が。
「かなたん、とりあえず探索範囲を広げよう。変身して、この現象がどこまで広がっているのかを確かめるんだ」
「うん。わかった」
モエルがそう言って肩から飛び降り、いそいそとボクの目の前に座った。
「なんのつもり?」
無闇に真剣なその眼差しに、つい尋ねてしまう。
「かなたん――見えないと分かっていても、どうしても見ずにはいられないんだ」
(どうせロクな答えなんて返ってこないのに……)
そして案の定その通りだったので、ボクは黙って足下の小柄な猫を掴《つか》み上げ、
「あ、やっぱりこのパターン?」
すでに先を読んでいるモエルを両手でしっかりとホールドし、
「変身終わるまで戻って来ちゃダメだからね?」
命令したのち、空に向かって投げ放った。
「っ、おいらは諦《あきら》めないぞぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
モエルは無明の空に星と消えた。そのあとボクは一度辺りをぐるりと見回す。
(誰も……いないよね?)
そして視線がないことを確認すると、
「よし。――遍《あまね》く空の果てへ」
安心してボクは、その手を空にかざす。
もしかしたらという不安はあったが、光の柱はちゃんと現れた。目と鼻の先に降りてきた光に守られた杖《つえ》を引き抜くと、熱い力の塊《かたまり》が体内に染み渡ってくる。その感覚に身を委ねて目を閉じていること数秒間、次に目を開けたとき、ボクの姿はシンプルだけど女の子らしい、魔法少女の衣装へと様変わりしていた。
「――ッ、あぁっ! 間に合わなかった……」
終わったと同時に、空へ消えたはずのモエルが戻ってきた。どうやら全速力で走ってきたらしく、道にうなだれて全身で呼吸を繰り返している。
「あのさモエル。ボクの……その、はだ……裸なんか、見るために……そこまでしなくてもさ、昨日だってお風呂一緒に入ったでしょ?」
微妙に気恥ずかしい気持ちを感じながら聞いてみると、モエルはがばっと体を起こし、びっくりするくらいの猛反論をしてきた。
「かなたんは何も分かってない! 着ている服が消えるときの恥じらい、朱に染まる頬《ほお》! 戸惑いながらも瞳を閉じる、決意の表情! 満ちてくる魔力に身悶《みもだ》え、口からあふれ出る喘《あえ》ぎ! どれもかけがえのないものなんだ!」
「……はぁ」
「そして、光に包まれた生肌のラインに大きな希望を夢見て想い描く――それが変身シーンなんだよ!」
……その熱意だけは認めてあげたい。
(でも、その希望とやらをボクに想い描くのは間違ってないかな……?)
モエルをさらに興奮させそうなので、その言葉は胸の奥にしまい込んだ。
「おっと、こんなやりとりしてる場合じゃ――」
緩んだ気を締め直し、動き始めようとしたとき。
「――なたちゃ〜ん!」
聞き覚えのある声と、やけに慌てた足音が耳に入る。声のした方を向くと、
「か・な・た・ちゃ〜〜〜〜〜んっ!」
「依《より》さ――……んむッ!?」
反応が追いつかないほどの速度で高速接近を果たしていた依お姉さん――の上半身が、振り向いたボクの目と鼻の先にあった。変身した状態の加速に加え、しかもジャンプしている。そこに付与される力は下手な車に轢《ひ》かれるよりも重い。
だが、顔に伝わってくる感触はぽにゅ、と柔らかいものだった。
「彼方《かなた》ちゃん彼方ちゃん彼方ちゃんっ!」
突進という名の抱擁《ほうよう》、それから二人まとめてゴロゴロと転がり数メートルを移動した後に、依お姉さんはボクを抱き――締め上げた状態で、何度も名を呼んでくる。
「かなたん……変身してなかったら今頃命を落としてたね……」
追いついてきたモエルの言葉に共感しつつ、とにかく様子のおかしい依お姉さんをなだめる。
「お、おちついて、ください、依さん……何が、あったん、ですか?」
口を開いている最中も彼女の腕は力を緩めようとしない。苦しいのだけれど――部分は柔らかくて、本当にもうどうしていいものか分からなくなってくる。
「留真《るま》ちゃんが……いないの」
ボクの顔の横で、彼女はポツリと言った。
「え?」
「朝起きたら留真ちゃんがいなくて……そこら中探し回ったけど見つからないし、空はこんなだし、それに、変な壁があって進めないし! どうしよう、彼方ちゃん!?」
普段から豪胆な彼女にしては珍しく、かなりの狼狽《うろた》え様だ。留真ちゃんへの想いの強さが痛いくらい伝わってくる。――具体的には背骨が軋《きし》むくらい。
(留真ちゃんなら、きっと誰よりも先にこの事態に気づくはず……きっと先に動いてるんだ)
そうやって自分を納得させ、湧《わ》き上がる不安を振り払う。
「ねぇ……変な壁ってどういうこと!?」
モエルが訝《いぶか》しげに尋ねると、お姉さんは少しだけ落ち着きを取り戻したらしく、ようやくボクを腕の中から解放して、説明する。
「留真ちゃんを捜しながら町を歩いてたら、途中で黒い壁みたいなのがあって……そこを通ろうとしたら元の場所に戻っちゃうの。探すついでに確かめてみたんだけど、壁はこの大枝町周辺を丸ごと囲ってるみたい」
「依さん朝から相当走り回ったんですね……」
にわかには信じがたい話だが、この人は嘘を吐くような人ではない。となれば、どうやらこの周辺一帯は何らかの力によって隔離されているようだ。
「黒い、壁……」
顔付きを真剣なものへと変え、モエルが呟いた。何か思い当たるようだったが、ボクたちがそれを聞く前に、事態は動き始めた。
――ザ――。
「! |来る《ヽヽ》だろうとは思ってたけど……っ!」
「ノイズだね!?」
だが、予兆はそれだけでは終わらなかった。
ザザ――。
「!? 彼方ちゃん、別の方からも聞こえるよっ!?」
活気というものの存在しない、静止した世界。そこに響く騒音はいつもよりはっきりと聞こえてくる。
ザザザ――ザザ――ザ――。
それからもノイズの音は止まなかった。連続して、全方位から不快な音が騒ぎ立ててくる。
「くぅっ……! なんて数……」
耳を押さえるが、音は脳髄にまで響いてくる。
「そんな……軽く数えても十匹以上はいるよっ……!」
連続したノイズが収まりを見せる頃には、町内は数十にも及ぶ不快な反応で満たされてしまっていた。
「――……はぁっ」
いまだ残響の続く頭の中を落ち着かせるため、大きく息を吸い、そして吐く。
「彼方ちゃん……」
依お姉さんが不安そうに呟く。
(空を覆《おお》う暗闇、消えた留真ちゃん、これだけのノイズの同時発生……いくら依さんでも、不安にならない方がおかしい……)
今朝から、妙に胸がざわざわしている。
(ボクだって不安だけど、なんだろう、この違和感は。胸の奥底を誰かに覗《のぞ》かれ、煽《あお》られているようなこの嫌な感じ……)
つい最近もそんな感覚を味わったことがあるような気がする。
そう、それは学校で――。
「――あ、揃《そろ》ってるね?」
突如、上から聞こえる声。ふんわりとした声音が耳に届いた瞬間、ボクはそれが誰であるかを確信して叫んだ。
「いいんちょっ!」
天を振り仰ぐと、時計塔の頂上――円錐状の屋根の上に、彼女は立っていた。
一目で分かる彼女特有の微笑《ほほえ》みを浮かべ、結《ゆ》ったおさげを風に揺らして。記憶にあるままの、制服姿で。
「おはよ。いい朝だね?」
彼女はボクたちを見下ろし、声を放つ。
「……おはようございます。朝からこんな天気だと寝過ごして遅刻が増えそうですよ」
「ふふ。天気なんて関係無しに白姫《しらひめ》君はいつも遅刻してるでしょ?」
あくまでマイペースな彼女は、いつものような返答をしてくる。状況も考えずにそれを嬉《うれ》しいと思ってしまうのは、きっとボク自身の中でまだ答えが出ていないからだろう。
――委員長は敵なのか、どうか。
隣で視線をきょろきょろさせていた依お姉さんが聞いてくる。
「彼方ちゃん……あの子は?」
ボクは、わずかな望みを込めて言った。
「――友達、です」
肩のモエルが辛そうに目を伏せるのが見えた。依お姉さんはボクの言葉に驚きはしたが、なんとなく状況は分かったのだろう。視線を時計塔の上に戻す。
その会話を聞いていた委員長は、静かに口を開く。
「白姫君、嘘はダメだよ」
「……!」
容赦《ようしゃ》の一|欠片《かけら》もなく、表情も微動だにさせず。
「友達≠カゃなくて、倒すべき敵=\―でしょ?」
今もっとも聞きたくないことを、言った。甘い望みを砕《くだ》くかのごとく言葉を続ける。
「まだ、そんな偽りでしかない記憶を信じてるんだね? ……現実を見ようよ。私が白姫君と別れた次の日に、この一帯は暗闇に包まれた。言った通りでしょ? 夜が来る、って」
次々と叩きつけられる言葉に、ボクは反論しようとする。
「でも! いいんちょが本当に最初からチューナーを滅ぼそうとしてたのなら!」
「――準備、してたんだろ?」
肩の上から発せられる、鋭く、強い敵意を持った相方の声。
「さすがはモエルさん」
委員長は視線をボクの肩の上に向け、にこりと笑う。
「創造領域=v
聞いたことのない単語がモエルから放たれた。その言葉が出た瞬間、隣で事の成り行きを見守っていた依お姉さんが、明らかな動揺を見せる。
ひとり訳の分からないボクは、モエルの説明を待った。
「創造領域っていうのは、世界を創り出す魔法。自分の中に内包された想い≠、外へと顕現させる――ある意味では、究極の魔法さ。使うには途方もない魔力と、それを形にするだけの強い想いが必要になる」
漠然としすぎていて、それがどうすごいのか掴めない。
「世界を創り出すということは、術者がその世界の主となる。主が望めば世界はそれを反映し、実現する。……例えば、すべてが眠りにつく夜の世界を望めば――それはその通りになる」
「!? まさかっ」
モエルの説明を、委員長が継ぐ。
「そう。今、暗闇に包まれたこの世界は、創造領域の胎内。
名は――バース・オブ・ナイト=v
物柔らかな話し方で、彼女はそれを認めた。
「つまりボクたちが今いるこの場所は、創られた世界だってこと!?」
ふふ、という微笑みが、ボクの言葉を肯定《こうてい》する。何を言っていいか分からないボクに代わって、モエルが再び声を放った。
「腑に落ちない点がいくつかある。ノイズの発生をどうやって操ったのか。人々を眠らせてどうするつもりなのか。……そもそも、君の目的はなんなのか」
「……昨日、言った通りだよ」
「チューナーを滅ぼす? 分からないね、そんなことをキミがどうして――」
「――やらなきゃいけないの」
不意に、背筋を恐怖が走りぬけた。話を打ち切り、急に表情から笑みを消した彼女は、感情の感じられない無色な瞳でボクを貫《つらぬ》く。
「ねえ、白姫君。こないだ、これからは敵同士≠チて言ったよね?」
彼女から放たれる重圧が体の動きを縛る。
「なら、戦おうよ」
ジャラッ。依お姉さんが、鎖を握り直すのが見えた。
「白姫君がまだ戦いたくない、なんて言うのなら――いいものを見せてあげる」
そう言って彼女は、こちらからは死角となっていた足下から、両手で何かを持ち上げた。
(赤い……?)
「ちゃんと、受け取ってね?」
そう言って委員長は自分より少し小柄な|少女の体《ヽヽヽヽ》を、そのまま時計台の上から、
――手放した。
重力に従い、その体は落下を始める。見覚えのある姿。今日はまだ見かけていなかった、依お姉さんがずっと心配していた少女。
寝間着と思われる飾り気のない服に上下を包んだ……。
「留真ちゃんっ!!!」
依お姉さんの大きな叫びが、遠くから聞こえた気がした。彼女は高速で飛び出し、落ちてくる留真の体を受け止める。
ボクはそれを見たとき、頭が真っ白になって――。
「――……ッ!」
杖の底を、地面に叩きつけていた。
ドゴン、という大地の震《ふる》える音が響き、反動でボクの体は飛び上がる。通常のジャンプより勢いのある、突貫《とっかん》。
瞬きの暇すらない一瞬のうちに、彼女の姿が間合いの内に入る。
「うあぁぁぁ――っ!」
何も考えず、オーヴァゼアを振るっていた。その薙《な》ぎ払いの軌道上にいた委員長は、
「うん。それでいいんだよ」
唇の動きだけでそう呟くと、軽く握った右手を胸の前に持ってきて――唱えた。
「其は、全《すべ》てを遮《さえぎ》るもの=v
それは変身の引き金。彼女の意味|在《あ》る言葉=B
突き出したボクのオリジンキーが、彼女の右手に現れたものとぶつかる。無我夢中で放った手加減無しの一撃が、その威力を爆発させる。
……はずだった。
「残念だったね」
少しも揺らいでいない声に意識を引き戻された瞬間、ボクの体は彼女の一振りによって弾き飛ばされていた。
「ッ!」
モエルが肩にしがみつき、驚く。
「あの一撃を受け流した!?」
地上に向かって落下するが、途中でボクは身を翻しなんとか着地した。降りた傍《そば》には、留真ちゃんの体を抱き止めた依お姉さんが、何度も目を閉じたままの少女を呼んでいる。
しかしボクには、それを心配する余裕すら与えられなかった。
「かなたん、上だっ!」
モエルの叫びに従い、ボクは後ろに跳ぶ。それから一秒も経たず、その場所に制服姿の少女が降りてきた。
その手の中には――。
「白い……傘?」
閉じた状態の傘が、握られていた。
委員長の着ていた制服が上から白い粒子となって消え始める。現れ出る素肌を隠すように、彼女の周りに霞がかかる。白い壁の向こうに浮かび上がる彼女の姿。女の子らしい、華奢《きゃしゃ》なシルエット。視界を遮っていた魔力を持つ粒子が、新たな衣を生む。
――立ちこめる霞が消えたとき、変身を終えた委員長がそこに立っていた。
自いワンピース。ただ真っ自く染め上げられた、膝下までを隠す衣装。だが、その色は純白ではない。空に浮かぶ雲のように、かすかな陰影を含む、ぼんやりとした色だった。
「これが私のオリジンキー、シャイン・プリヴェンター=v
彼女が右手の傘を軽く振ると、ポンッ、という勢いのある音と一緒に傘が開いた。
円形の傘布に、真っ直《す》ぐ伸びた柄。それを緩やかな動きで肩に乗せ、微笑む。さながら一枚の絵画のように美しい構図を作り出す。
だが――。
「行くよ、白姫君」
「!?」
放たれた始まりの声と同時に、絵画がぼやける。それは彼女の周囲を取り巻く、白い魔力によるものだった。
「彼方ちゃん!?」
見通しの悪くなった視界の中から依お姉さんの声がする。
「依さんっ、留真ちゃんを頼みます! 彼女は――ボクが!」
「! うん、任せてっ!」
二人の気配がこの場から離れるのを感じると、杖を握る手に力を込める。
そのときボクは、すでに考えることを止めていた。意識を失っている留真ちゃんの姿を見たとき、どうしようもない感情が湧きあがってきた。
[#挿絵(img/mb880_175.jpg)]
認めたくはなかった。けれどもう、そんなことも言えない状況になってしまったのだ。
(いいんちょは……敵、なんだ)
「良かった。やる気、出たみたいだね?」
突然真後ろから聞こえた声に反射的に杖を薙《な》ぎ払う。だが手応えはない。
「こっちだよ?」
声が再び背後から聞こえた。しかも今度は、攻撃を伴って。
閉じられた傘の石突きが後ろから突き出てきた。腹部を狙ったその攻撃を半身になってかわし、一旦距離を取るために前へ跳ぶ。
「霧で視界を奪い敵を惑わす……嫌な戦い方だ。かなたん、魔力でアイツの場所は探れる?」
「ううん。さっきから試してるけど、ダメみたいだ。この霧が出てきたときから、そこら中にぼんやりした魔力が充満してる」
「……だろうね」
感知能力に長《た》けた留真ちゃんならなんとかなったかもしれないが、とことん鈍いボクでは対応できそうにない。
ボシュッ!
空気の壁を突き破る、鋭利な音。勘だけを頼りに横に跳ぶ。霧から突き出た彼女のオリジンキーが、先程まで立っていた位置を貫く。
「うわあ、あんなの喰らったら体に穴が開いちゃうよ」
モエルが恐いことを言ってくれた。
(いいんちょ……っ)
ボクは覚悟を決め、立ち止まった。
「かなたん? 止まったりしたら、狙い撃ちされ――」
「――それでいいんだっ!」
言い放ってすぐ、背後から空気を突き破る音が聞こえた。
ボシュンッ!
(腹……っ?)
わずかな空気の流れを読み、繰り出される傘の軌道から逃れようとする。しかし突きの速度の方が速く、右脇腹に鋭い痛みが走る。
ボクはその瞬間、皮膚を削ぎ取ってゆく傘を――右腕で抱え込む。
「!」
委員長が咄嗟《とっさ》に引こうとするのが分かった。それを許さず、オリジンキーをしっかりと掴み離さない。
「掴まえましたよ、いいんちょ」
首を後ろに向けると、黒髪の少女の姿が確認できた。
「……ダメージを覚悟で動きを止めるなんて、強引だね。白姫君のそういうところ、いいと思うよ」
褒められて悪い気はしないが、彼女の場合はそれが本心であるか分からない。
「でも、まだまだだよ」
いきなり腕にかかっていた力がなくなった。勢い余ってふらつくボクに、素早い足音が近づいてくる。そして、
しゅるっ。
「!?」
体を密着させてきた彼女が、ボクの腰と、太股を優しく撫《な》で上げた。
「あうっ!?」
思わず全身の力が緩み、尻餅《しりもち》をついてしまう。
「ちょ!? 何やってるのさ、かなたん!?」
それをいいことに委員長は自分の武器を取り戻し、石突きで軽く地面を突いた。
「ふふ。やっぱり感度いいね、白姫君」
そう言い、小悪魔っぽい笑みを浮かべた。昨日までならそれも、ただの悪戯《いたずら》だと思うことができたのだが……。
「でも、この状況じゃ単なる弱点だね?」
目の前に突きつけられた傘の先端《せんたん》、そこには敵意が含まれている。
「……ずっとこうして、ボクの弱点を探っていたんですね」
人目も場所もわきまえず悪戯してきたことにそんな意味があったとは――。
「――え? 普通に楽しかっただけだよ?」
「こういうときだけ本心ですかあなたはっ!」
彼女の言葉は純粋そのものだった。
「かなたん。いくらおいらでもそれはないと思うよ……。そんな弱点探るためにわざわざ学校来るわけないでしょ」
モエルにまで言われてしまう。
「ほんと、白姫君すごくいい反応してくれるから。なんだかこっちまで熱くなっちゃうの」
(……確かに、いつも楽しそうだった)
「でもそれも――終わりなんだね」
緩んだ空気に水を打つ、彼女の言葉。
上から突きつけられたオリジンキーの切っ先が、顔から下へ動き、胸の辺りで止まった。
周囲の音が完全に消え、意識がその一点に集中する。確実に命を奪える場所に、彼女は狙いを定めた。
「…………」
冷や汗が肌を伝う。感情の読めない瞳がボクを見つめ、逃げられない獲物を黒瞳の中に捉《とら》えている。
ボクは恐怖に耐えきれず、息を呑《の》む。
それを見た彼女は、ふふ、と笑った。
「じゃあね? 白姫君」
切っ先が――放たれた。
暗闇の町、上空を走りぬける人のシルエット。
後頭部で尻尾のようにまとめた長い髪をなびかせ、幾瀬《いくせ》依は走っていた。その背中には紅の少女、樋野《ひの》留真をしっかりと背負い、落とさないように自らに鎖でくくりつけて。
「はぁ、ふぅ……っ」
彼女の背後からは、無数の羽音、足音、歪《いびつ》な鳴き声が響いている。
ザザッ。
自分をつけ狙う騒々しい音が耳を打つが、彼女は構わず走り続けた。
(助けを、呼ばなきゃ――)
自分たちだけの手に負える事態ではない。過信も油断もすることなく、依はそう判断し、この領域の外へ行く術を模索していた。
「彼方ちゃん、大丈夫かな……」
(本当は一人にしちゃいけなかったと思う……けど、私が残っても意味がない。もし私まで倒れたりしたら……でも……彼方ちゃん……)
ぐるぐると回る思考は、確かな答えをくれはしなかった。
「――ケェェェェェェェェッ!」
突然背後から猛スピードで突進してくる声、
「ッ!」
依が移動する速度より早いそれは、小さな鳥の姿をしていた。高速の突進をジャンプでかわし、建物の屋上で立ち止まる。
隼《はやぶさ》によく似た外見を持つノイズは、空中で身を翻し、今度は前から突進を仕掛けてきた。
「リンカーズッ!」
眼で捕らえることも難しかった隼型のノイズは、依の気合いと共に繰り出された右拳を喰らい、消滅する。
(五匹目……早く何とかしなきゃ、このままじゃいずれ……)
ザザザザッ。
背後から迫ってくる多数の騒音が、隼ノイズとの戦闘の間にその距離を縮めている。
今は背中の温もりだけを気力に変え、依は再び走り始めた。
(きっとどこかに、抜け道があるはず――!)
――数分後、町を区切っている黒い壁の前に辿り着いた依は、そこから壁に添って抜け道を探した。しかし、見渡す限り続く断絶を前に、とうとう立ち止まってしまう。
「はあ……っ、はあ……っ!」
車の行き来しない道。ずっと先まで繋《つな》がっているようだが、この闇のせいで見通すことができない。
(まさか、本当に抜け道がない……?)
その時点で倒したノイズは十を超えている。
体が悲鳴を上げているが、それ以上に心が折れてしまいそうだった。
(でも、諦めるわけには……っ!)
背中で眼を閉じている留真の顔を見て、気合いを入れ直す。
「よし、行こうっ」
『……どこへだ?』
依の全身に、急激な寒気が襲いかかった。
その声は直接脳に響いたので、聞こえないふりなどできない。
「――……」
ゆっくりと依は、振り返る。
「! あなた、は……」
ソイツは、暗がりの道路の奥から現れる。
人型の器に闇を流し込んだかのような姿。黒に埋め込まれた一対の白眼。
『久しいな。二度会うことになるとは思わなかったが』
不協和音≠という名を冠するノイズ――エフェクト。
「それはこっちの台詞《せりふ》だよっ」
わずかな皮肉を込め、依は言い返す。
「できることなら二度と見たくなかったよ。……こないだはボコボコにしてくれてありがと」
『手加減はしたつもりだが』
「そういうこと平気で言うかな……」
会話を交わしながら、依は視線を周囲に張り巡らせる。逃げ道を探すためであったが、その考えを軽く砕くかのように、別の騒音が近づいてきていた。
ザザザザザザッ!
「……っ」
あっという間に、小型ノイズの群れに囲まれてしまう。
眼前には強力無比なディスコード。後ろには無数のノイズ。完全な包囲網が完成していた。
(留真ちゃん、ごめん……私……)
ジャラララッ。鎖を外し、背負っていた少女を道路にゆっくりと降ろすと、依はオリジンキーリンカーズ≠右腕に装着した。
(ダメかもしれないけど……あなただけは守るから……)
悲壮な覚悟を胸に宿し、幾瀬依は戦う決意をした。その闘志に反応し、後ろに迫っていたノイズの群が、一斉に依の背中に襲いかかる――。
その、次の瞬間。
『五月蝿《うるさ》いぞ』
依の視界から、エフェクトが掻《か》き消える。咄嗟に身構えた彼女の横を通り過ぎ――。
ズ、ダダダダダダダダダダンッ!
白い二条の光が、闇夜に舞った。
「……へ?」
依の背後にいた軽く数十を超えるノイズの群れが、連続して響く炸裂《さくれつ》音の一つ一つに合わせ、叫びだけを残して消えてゆく。
「ゲェッ!」「クアァッ!」「ギャアッ!」「ガガッ!?」
空間に細い軌跡《きせき》を刻む、エフェクトの白瞳。
「え? え?」
自分の後ろで展開する事態を全く理解できない依。戸惑っている間に集まっていた騒音はすっかりと消え、場に静寂が戻っていた。
群がるノイズを綺麗に片付けたエフェクトは、彼女の前に立ち、端的《たんてき》に言った。
『――お前たちを守れと言われてきた』
依はその言葉に、ぽかんとした顔で呟《つぶや》いた。
「……どゆこと……?」
[#改ページ]
5.闇の訪れ
「――……?」
閉じていた眼を開くと、石突きはボクに触れることなく止まっていた。目の前にはまだ傘を構えた委員長がいて、体勢は先ほどとあまり変わっていない。
変わったものと言えば、いつの間にか地面に降《お》りていた金色の猫のみだった。
「どうしたんだい?」
モエルは、当たる寸前で攻撃を止《とど》めた彼女に尋ねる。
「…………」
委員長はボクの胸元で止めた切っ先をそのままに、沈黙し顔を伏せた。よく見ると白い傘の先端《せんたん》が小さく震《ふる》えていて、彼女の腕から伝わってくる動揺が見えた。
――わずか数秒前、彼女が傘を引きボクに止めを刺そうとした瞬間、耳元で、避けないで≠ニいう声がした。それを信じた結果が、今の状態だ。
「どうして武器を止めるのさ?」
その指示をした相棒、モエルはこの状態を確信していたらしい。
(いいんちょ……?)
傘を持つ手の震えが、さっきよりも大きくなった気がする。モエルは一旦追及を止め、彼女の顔をしっかりと見据えて言った。
「おいらはさっき聞いたよね? 目的はなんなのか、って」
声に敵意はなかったが、鋭い眼差しはしっかりと彼女の顔を見据えている。その真剣な視線を前に、委員長は顔を上げ、さっきと同じように言った。
「だから、チューナーを滅ぼすのが目的だよ」
笑顔。それがどこか、作り物めいて見えたのは気のせいだろうか。モエルは彼女の言葉に溜息《ためいき》を吐き、次の言葉を放つ。
「……質問を変えようか。この創造領域を作ったのは誰だい?」
「!」
笑顔に微妙な変化が起きた。彼女にしては珍しい、感情の揺らぎ。それは驚いていたようにも見えたし、痛みを堪《こら》えているようにも見えた。
「……? この創造領域を作ったのは――って、どういうこと? もしかして、いいんちょの他に誰かが……?」
ボクは委員長の顔を見る。だが彼女は頑《かたく》なに口を閉ざし、何も語ろうとしない。
「もう大体分かったよ。この領域は誰が作ったものか、ここ最近の一連の事件は、どうやって引き起こされてきたのか。……それを思い出すのに少し、時間はかかったけどね」
どこか遠くで騒音が響く。この領域ができてからずっと増え続けているノイズの産声。いつもなら気になって仕方がないその音も、今は気にならなかった。
「思えば、初めから君の行動はおかしいことだらけだった」
握った傘の柄が、軋《きし》む。
「さっきはどうしてグレ子をおいらたちに返したんだい? チューナーを滅ぼしたいのなら、わざわざ渡しに来なくてもいいはずさ」
(確かにそうだ……さっきは頭が真っ白になっちゃったけど、よく考えたらそんなことしなくたって良かったはずなんだ……)
「それに昨日だってそうさ。かなたんの前に姿を現し、目の前で正体を告白した。どこにそんなことをする意味があるのかな」
あくまでモエルは彼女に問いかけ、自分から結論を口にはしない。
「今の戦い方にしてもそうさ。かなたんを倒そうとする気がまるでなかった。わざと単調に攻撃して、避けれるようにしていたよね?」
「……っ」
委員長が唇を強く噛《か》みしめる。そこに畳み掛ける言葉。
「仲間を倒した振りをして、目の前で裏切って見せて。そうやって怒らせて、憎しみを自分に向けさせて。自分と戦うように差し向けて――」
すでに自分の中で答えを出しているモエルは、目の前の少女に聞いた。
「――キミは、かなたんに何をしてほしいんだい?」
その問いを掻き消すように。
ゴォウッ!
「っ、なに!?」
荒々しい魔力が吹きすさび、周囲に白く立ちこめていた彼女の力が、一斉に動き始めた。
「いいんちょっ!」
展開された魔力は、傘を開いた彼女を中心として渦を巻く。その力の奔流《ほんりゅう》は大地を揺らし、繁華街の中央に建つ時計塔を軋ませた。
気を抜けば、立っていることさえもできそうにない。
「……白姫《しらひめ》君」
オリジンキーを掲げた彼女から、身が竦《すく》むほどの気迫を感じる。
「|今度は《ヽヽヽ》本気だから。白姫君も本気で来ないと……死んじゃうよ?」
口から静かに囁《ささや》かれる言葉が、なおさらその迫力を増長させる。
モエルが肩の上に飛び乗ってきて、聞いてきた。
「かなたん。……|感じるかい《ヽヽヽヽヽ》?」
その問いかけの意味は、考えなくても分かる。
「――うん」
彼女の表情からは笑顔が消えている。絶えず浮かべていた柔らかな微笑《ほほえ》み、感情を読み取れなくしていた壁≠ェ取り払われ、そこに現れたのは剥《む》き身の感情だった。
「なんでだろう……すごく強い、けど……それ以上に悲しいんだ」
逆巻く魔力に当てられて胸が痛むのを感じる。肉体的な痛みではなく、あふれた切なさが心に冷たい痛みをもたらしていた。
「うん、それでいいんだ。惑わされずに彼女の想いを感じて、自分自身の気持ちで真っ直《す》ぐ向き合うんだ。――それが、かなたんの戦い方だよ」
思えば、すべて彼女に促されるようにここまで来てしまっていた。
敵だと言われて悲しかった。仲間が倒されて怒りが沸いた。それらの感情が、彼女を倒さなくてはならない≠ニいう考えに繋《つな》がっていた。
そこに――自分の意思はなかった。
(ボクはどうしたかったんだろう?)
気がつくと重い地響きが消え、すべての魔力が黒髪の少女の前方に収束していた。
それは全魔力を凝縮《ぎょうしゅく》して作り上げた、白い竜巻。
「白姫君。貴方を倒した後、あの赤い髪の子と、背の高いお姉さんをちゃんと倒しに行くよ」
すべての準備を整えた彼女は、元通りの笑顔を作り、そんなことを言い出した。
「私をここで倒さなかったらこの町だけじゃない、他の場所にいるすべてのチューナーが狙われることになるよ」
恐らく、彼女は気づいていないのだろう。
「チューナーがいなくなればノイズが野放しになるからね。たくさんの人が傷つくよ」
平然とした笑顔で、淡々とした声で、言っているつもりなのだろうけれど……。
「最終的には世界が滅んじゃうかもね?」
「……やめてください」
「やめてほしかったら、私を倒すしかないの。何度も言ったよね。私は――」
ドゴンッ。
「――もういい、ですから」
杖《つえ》の底で地面を砕《くだ》き、彼女の言葉を止めた。そのまま両手で杖を握り意識を繋ぐ。澄んだ音と共に、ボクの魔力を象徴《しょうちょう》する空色の光が、先端の宝石に灯《とも》った。
「蒼《あお》の軌跡《きせき》」
オーヴァゼアを縦向きに振ると光が尾を引き、空中に軌跡が残る。彼女のように大きな天変地異を起こせるわけではない、ごく静かな力の発現。だがボクにとってそれは、何よりも強いイメージが込められた魔法。
白と青。
互いの全力を賭《か》けた魔法が向かい合った。
「いいんちょ」
「……なに?」
二つの魔力が、放つ前からお互いに干渉を始めている。空気中のあちこちで雷の放電音に似た音が発生し、閃光《せんこう》を放つ。
「あなたがそうやって何度も自分を敵だというのなら、ボクだって言わせてもらいます」
向き合うだけでは分かりそうにない。ぶつからなくては分からないのだ。
今ここに存在する二つの想い、その強さは。
だからボクは今ここで、自分の想いを彼女に伝える。
「――あなたは、ボクの友達です」
委員長は虚《きよ》を突かれた顔をし、声を荒げた。
「っ、なっ、何を言ってるの!?」
「あ、いいんちょの怒ってる顔初めて見ました。……怒ってても綺麗《きれい》ですね」
彼女の頬《ほお》に赤みが差した。恥ずかしい、というよりは怒りによって、だろうか。
「ふざけないでっ……!」
「ふざけてなんていませんよ。そう思うから、そう言ってるだけです」
ボクは嘘なんて一つも言ってはいない。だが彼女はそれが気にくわないらしく、瞳に敵意を滲《にじ》ませる。
「いいんちょ。そんな目で見ても無駄ですよ。ボクはこれからやることをただの喧嘩《けんか》≠セと思ってますから」
肩の上でモエルが「これまた大規模な喧嘩だね」と呆《あき》れ口調で言った。
「けん、か……?」
呆然《ぼうぜん》と呟《つぶ》く委員長にボクはそれこそクラスメイトにでも話しかけるように言った。
「ええ。そうです、友達同士の喧嘩です。よくやりますよね? 夕陽の下、本音と本音をぶつけ合う〜みたいな。実は憧れてたんです、そういうの。相手が丈君だと一方的になっちゃうから、ちょうどよかったです」
普段と同じように語りかけるボクに、とうとう彼女は痺《しび》れを切らした。
「そんな冗談、すぐに言えなくしてあげる……っ!」
叫び、荒ぶる魔力を解き放つ。オリジンキー、シャイン・プリヴェンターを前方に突き出すと、白い竜巻が風を切り裂きながら、動き始めた。
「何度だって言いますよっ!」
叫び、オーヴァゼアで光のラインに触れると、それを引き金に蒼《あお》の軌跡は放たれた。半月状の魔力は地面に亀裂を刻みながら直進する。
ボクと彼女、それぞれの想いを乗せ、離れていた二つの力が交わる。
――バヂィッ!
白い竜巻に接触した直後、蒼の軌跡は内包されていた力を解放した。半月の線は球状に展開し、局地的な空を作り出す。すべてを呑《の》み込む蒼い爆発――しかし委員長の魔法はそれに真っ向からぶつかり、激しく抵抗する。
耳のすぐ近くで魔力の光が弾けたかと思うと、ズシン、という地響き、それに続いて何かが砕ける音が聞こえる。足下を見ると地面に亀裂が入っていた。力と力のぶつかり合いが暴風と地震を同時に生み出す。
最も近い位置にあった時計塔が、衝突の余波を直に受けてパラパラと破片を撒く。
「く、ぅ……!」
オリジンキーを前にかざし、押し負けないように力を込め続ける委員長。その表情は辛そうに歪《ゆが》んでいる。しかし、一歩も引かずにその場で踏ん張り続ける。
ぶつかり合いで発生した白と青の力場が、少しずつ互いの領域を喰らいあい消滅してゆく。
ボクはそれを眺《なが》めながら、
(青い空、白い雲……なんだか久しぶりに見た気がする。屋上でいつも見てたはずなのに)
思い出していた。
(ボクは隣にいた委員長のことを何も知らなかった。その名前でさえも)
――彼女が偽りだ、と言ったあの日常を。
「でも……」
「かなたん?」
小さく呟いた声に、モエルが反応してこちらを見た。
「名前も、好きな食べ物も、趣味も、スリーサイズも、体重も、何にも分からなくたって」
体内に魔力は残っていないのに、確かな力が漲《みなぎ》るのを感じる。それに呼応するように軌跡が鳴動し、強く輝いた。
「知ってるよ」
ボゴンッ!
巨大な時計塔が根元から地面ごと持ち上がる。
「心地良い声、ふわふわした笑顔、お仕置きするときの楽しそうな顔。……あと、やらしい手つきも。全部、覚えてる」
「……やめて」
バランスの崩れた時計塔はゆっくりと倒れ、倒壊する途中で渦巻く魔力に巻き込まれる。
「確かにあなたはここにいた。ボクたちの傍《そば》にいたんです」
「やめてっ!」
悲鳴に近い声で叫ぶと、その想いを反映し竜巻が勢いを増す。
ボクはそんな彼女に、言葉を届ける。
「自分に嘘を吐いてもダメです」
彼女の顔をちゃんと見て、
「だって、あなたは――」
優しく微笑み、告げた。
「いいんちょ≠セから」
その一言に込められた力が、彼女の力を上回り、爆発が広がった。
「っ!」
――その光は迸《ほとばし》る力のすべてを呑み込み、風景を青一色に染める。
空色の余韻を残し、二つの魔力が消えた。
残滓《ざんし》が暗闇の空間に飛び散って、周囲を明るく照らす。
「……曇りのち晴れ、ってとこかな?」
モエルの安心した声を聞きながら、ボクは立ち尽くす黒髪の少女の元へ、一歩ずつ歩き始める。途中で変身を解き、私服姿に戻る。二つにまとめられていた髪がパサ、とほどけ、ボクの背に広がった。
「負け、た……?」
ボクが目の前に立つと、委員長は俯《うつむ》いて口を開いた。呼吸は荒く声も途切れ途切れだったが、声の中に後悔はない。限界を越えた彼女の白い衣装も、光の粒子となって消えてゆく。
彼女の服は、元の――大枝中学校の制服に戻った。
「――……」
全身から力が抜けた彼女は前のめりに倒れそうになる。ボクはそれを自分の肩で受け止め、耳元で囁いた。
「出会ってから初めてですね。ボクが、いいんちょに勝ったの」
少しして、自分の耳元に声が返ってくる。
「……ふふ、ちょっと悔しいな……」
彼女はそう言った後に「でも」と付け足し、
「良かった……」
そう呟いた友達≠フ顔は、少しだけ、笑っているように見えた。
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Other side.?
今から一年前のある日。
道端《みちばた》を歩いていた私は、急に降《ふ》り出した雨に体を濡《ぬ》らしていた。
それは大粒の雨ではなく、周りが霞《かす》むような小雨だった。周りの建物がうっすらとしか見えなくなり、ここに存在しているのは自分だけであるかのような気分になる。
「…………」
おさげにした黒髪が雫《しずく》を含み、少し重くなる。
そのときの私はワンピースを着て、手には傘を持っていた。そのどちらも皮肉のように白く、背に流れる髪との対比が極端《きょくたん》だった。
「……つめたい」
手に持っている傘を閉じたまま使わなかったのは、それがそういう用途に使われるものではなかったから……というのはただの言い訳で、その日はただ、雨に濡れるのも悪くないかな、と思ったからだった。
細かい雫は肌に当たっても弾けることはなく、次々と皮膚にまとわりついてくる。体温が容赦《ようしゃ》なく奪われていくが、寒さはあまり感じていなかった。
(お母さん……)
空から降《ふ》り落ちてくる雨を見上げ、自分の母親を思い浮かべる。
――無口な人。
感情を表に出すことがほとんどない、実の娘ですら何を考えているのか分からない人。
(お母さんが私にくれたのは、名前と知識。この世界に存在する魔法という力)
コツ、ン。傘の形をしたオリジンキーの底で地面を叩く。
「……いずれはこうなるって……分かってた、はずなのにな……」
呟《つぶや》き、雨に濡れたおさげに触れる。綺麗《きれい》に整えられたその髪型は、母が編《あ》んでくれたものだ。ある目を境に、毎日編んでくれるようになった。特に何か会話をするわけではなかったが、母の手が私の髪を撫《な》でている間は、たまらなく嬉《うれ》しかった。
言葉なんてなくても、何かが通じ合っている気がしていた。
(最近は……もう、振り向くことさえ、なくなっちゃったけど)
ここ数ヶ月の間に、母は髪を編むどころか、呼んでも返事すらしてくれなくなった。瞳の奥に秘めていた暗い何かが、はっきりと濃くなったのが分かる。恐らく、準備≠ェ整いつつあるのだろう。
(私はどうしたら……?)
まだ自分の心が決まっていなかった。母のことが好きなのは確かだ。だからこそ、このまま思惑《おもわく》に従うべきなのか、それとも止めるべきなのか、迷う。
そして悩んだあげく、結局答えは出ないのだ。
(雨にでも当たれば迷いなんて流せると思ったけど……余計にまとわりついてくるだけ、か)
軽く息を吐くと、思ったよりも体が冷えていたのか、真っ白な吐息《といき》が空気中に流れる。
「……どうかしたんですか?」
「!?」
いきなり後ろから掛けられた声に、咄嗟《とっさ》に身構えた。即座に振り返り、声の主を確認する。
「――……」
不覚にも私はそのとき、言葉を失ってしまった。茫洋《ぼうよう》とした白に包まれるこの場所に、目を見張るほどの色彩が飛び込んできたのだ。驚くのも無理はない。
「? 濡れてますけど……傘、差さないんですか?」
自らが輝きを放つかの如き白銀。不思議そうな目でこっちを見ている人物は、薄いブルーの傘を差し、そこに立っていた。
「……っ。いや、私は……いいの。少し、頭を冷やしたかっただけ」
なるべく当たり障《さわ》りのない言葉で、私は会話を打ち切ろうとした。しかし青い傘の持ち主は、澄《す》みきった、耳に心地良い声を放つ。
「さっきから見てましたけど、少しって感じじゃなかったですよ。……ほら、こんなに手が冷えてる」
「っ!」
その人は青い傘を肩とほっぺたの間に挟み、いきなりこちらの手を取った。そして両手で私の手を包み込むと、はあ、と暖かい吐息を吹きかける。
(あ、え……?)
私は戸惑うことしかできなかった。いきなりの行動に驚いたのもあるし、何より相手の手から伝わってくる感触が、慣れないものであったからだ。
(柔らかくて、暖かい……)
白銀の髪を持つその人物は、何度も暖かい吐息を吹きかけた。手の冷たさが移ることも気にせず、私の手が温まるまでずっと、手を繋《つな》いでいてくれた。
「……? どうして、泣いているんですか?」
ふと顔を上げたその人と目が合った。私はその質問に疑問を憶える。泣いているかなど分かりっこない。ずっと濡れていたから、頬は濡れていて当たり前だ。
なのにどうしてこの人は、私が泣いている≠ネどと思ったのだろう?
「あ、いきなりごめんなさい。でもなんだか、顔が悲しそうに見えたから……」
私の表情を読み取ってか、聞く前に答えられてしまう。そしてその答えは少なからず私に動揺を生んだ。
何しろ――私には認識|阻害《そがい》がかかっている。
人と必要以上に接することがないように、外出時は常に変身した状態でいるのだ。それは母の言いつけであり、私自身も望んでいることだった。
人と接すれば恐らく、私の迷いはさらに深くなる。だからこそ、自分の存在を誰にも認めさせることなく、ぼんやりとした雲のようにあろうと思っていたのだ。
それなのに、この人は私の感情を見抜いた。
「ボクの顔、何か付いてます?」
困惑すると同時に――興味を持った。
ほとんど直感に等しい。しかし、人と接することを知らなかった私が初めて感じたもの。
「あっ、あの……?」
私の手は勝手に動いていた。体温を分けてもらっていた両手をそっと外し、目の前にある真っ白な肌へ手を伸ばす。
その頬に触れた瞬間、なんとも言えない充足《じゅうそく》感が湧き上がるのを感じた。
(……うん)
そのときに確信したのだ。
(この人なら……私がほしい答えをくれる)
迷いは今も、雲のように心に立ちこめている。
だが、その奥にある答えを――。
「?」
――この、空のように清《すがすが》々しい人は、持っている気がした。
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6.桜色の帰還
彼方《かなた》と委員長の戦いが終わる、数分前。
「それ、本当なの?」
人の住まう建物の屋上から屋上へ、黒い壁に抜け道がないかを探して、少女を背中に背負った幾瀬依《いくせより》は駆けていた。
『伝えろと言われたことを伝えているだけだ』
依の前方を走っている、人の形をした影―――エフェクトは、必要のあることだけを魔力を介して伝える。
「……この騒ぎの黒幕はあの眼鏡《めがね》の子じゃ、ない……?」
彼女が難しそうに頭を捻《ひね》ると、トレードマークであるポニーテールも角度を変え、風になびく方向を変えた。
「しかも、その黒幕さんはチューナーに恨みをもってて、え〜とノイズを自由に生み出すことができる、と。そしてその方法は」
端的《たんてき》に説明されたことを自分なりにまとめてゆく依。
「想いの増幅《ぞうふく》=c…」
エフェクトに告げられたことをそのまま、口に出す。
「確かに、そんなことができるならノイズの発生率も上がる、だろうけど……」
薄ら寒いものを感じ、依は身震《みぶる》いした。
『我々――お前たちチューナーの呼ぶノイズ≠ヘ、人の喜怒哀楽《きどあいらく》、あらゆる想いから生まれてくる。中でも私≠ヘ特別らしいが』
「そりゃあ……こんな風に喋《しゃべ》れるノイズなんて、滅多《めった》にいないからね」
会話することはできるが、まだ依の声にはエフェクトに対する疑念が残っている。それに気づいているかは分からないが、意思を持つノイズはその心に思いを浮かべる。
(廃棄工事区、だったか。あの場所に渦巻き、滞留《たいりゅう》していた人間の願望。未だ消えることのない無数の想いが、不協和音を生み出した……か)
自分の生まれた場所は、もはや一|欠片《かけら》の破片すら残っていない。彼方の放った蒼《あお》い光が、対流していた想いもろとも、すべてを吹き飛ばしてしまった。
『ならば、今の私は一体何だ?』
「うん? 何か言った?」
『……いや』
依はそのとき、頭に響いた小さな声を聞き取ることができなかった。その代わりに、依はそのノイズに、気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「ね、どうしてアナタは……私たちを手伝ってくれるの?」
エフェクトは突然の質問に、|本当の《ヽヽヽ》答えを言うべきか躊躇《ためら》った。だが結局は、
『あの娘に助けられた借りがある。それだけだ』
いつも通りの断定口調で、それ以上の会話を打ち切る。
「よく分かんないけど、義理堅いんだね」
『……どうでもよいことだ』
その白い双眸《そうぼう》にはまだ、焼き付いている。
すべてを吹き飛ばした蒼い光――白銀の魔法少女が。
「でも、ノイズをたくさん生み出す方法は分かったけど……どうしてみんなを眠らせる必要があったの?」
考えても考えてもあふれてくる疑問に、いい加減依は頭を抱えたい気持ちになってくる。
そこへ、
「――夢、ですの」
語尾に特徴のある声が割り込んだ。
「留真《るま》ちゃんっ!?」
依は急停止し、ビルの屋上で立ち止まった。すると今まで背負われていた留真は、自分の力で床に立つ。
「起きたの? 平気? なんともない? ハグしていい?」
心底から嬉《うれ》しそうに、詰め寄ってゆく依。
「だーもうっ! 寝起きにそんなテンションで迫ってこないでほしいですの! 無事ですの! 平気ですの! ハグはなしですの!」
留真は目と鼻の先にまで近寄ってきた依を両手で押し止める。
『…………』
エフェクトは少し先で立ち止まり、二人のやりとりを傍観《ぼうかん》していた。
(話はさっきから聞いていましたが……本当に律儀《りちぎ》ですの、このノイズ……)
そんな印象を黒塗りの人影に抱きながら、留真は説明のため口を開く。
「眠らされている間、この領域の影響かは知りませんが――随分と恐ろしい夢を見ましたの」
無意識に拳《こぶし》を握りしめる。
「自分の心の中にある醜《みにく》い部分をさらけだすかのような悪夢を」
「留真ちゃん……」
心配げな顔をする依に力強い眼で平気だ、と伝え、留真は続きを語る。
「夢というのは、言い換えれば心から生まれる自分だけの世界≠ナすの。そこには理性などなく、抑え込んでいる感情がそのまま現れる。もし、その想いをノイズへと変えられたなら?」
一度|喉《のど》を鳴らし、依はその答えを続けて言った。
「それだけ強力なノイズが、生まれてくる……?」
エフェクトは何も言わず、その答えを無言によって肯定《こうてい》した。
「留真ちゃん、よく分かったね?」
まだ抱き締めることを諦《あきら》めていない彼女を手で制しながら、赤髪の少女は俯《うつむ》き呟《つぶや》いた。
「……眠っている閲、ずっと声≠ェ聞こえていたんですの」
「声?」
「前にお話ししたはずですの。以前、私が変身できなくなったときに聞こえていた声……何度も頭に囁《ささや》きかけ、心を掻《か》き乱そうとする――……っ?」
いつの間にか爪が食い込むほどに握りしめられていた右手を、依の温かい手がそっと包んだ。
「……そっか。でも、良かった。今回は大丈夫だったんだね留真ちゃん」
「! ええ、まぁ」
留真は少し気恥ずかしそうに、依から顔を逸らす。
(背中が暖かかったから……なんて死んでも言ってあげませんの)
「っ、絶《た》えなく廻《まわ》れ金華《きんかほ》の焔《のお》!」
素直ではない留真は心の中で依に感謝し、その照れ隠しに。意味|在《あ》る言葉≠唱える。
そんな彼女の素早い変身をしっかり見届けると、依が話を切り出した。
「さて、彼方ちゃんが心配だし、早くここから脱出して助けを呼ばなきゃ。三人……もいれば、この壁くらいぶち破れるかもしれないし!」
『無理だろう』
依の言葉をエフェクトが一言で切り捨てる。
「? なぜですの?」
グレイスが聞き返した直後、ザザザザザザザザザザザザッ、という激しい騒音がエフェクトの周囲に鳴り響いた。
「ッ! いきなりっ、どういうつもりですの!?」
白い双眸に感情は浮かばない。ディスコードの前方に魔力を歪《ゆが》ませるノイズの力が発生、それは人間大の黒い球体となり、前方へかざす漆黒《しっこく》の右手に固定される。
『よく見ていろ』
迸《ほとばし》る力に戦慄《せんりつ》し咄嗟《とっさ》に身構える二人にそれだけを告げ、エフェクトは黒い塊《かたまり》を撃ち放った。
膨大《ぼうだい》な威力を秘めた力は、真っ直《す》ぐにこの町を覆《おお》う黒壁の元へと奔《はし》る。
そして漆黒と漆黒がぶつかり合い、その果てに――。
バシュウッ!
「なっ……!?」
――球体だけが、あっさりと消えた。
『見ての通りだ』
白い双眸は悔しそうな様子もなく、ただ結果だけを二人に見せつける。
『どの程度の強度があるかは分からんが、これが通用しないならお前たちの力などではとても』
破ることはできない。と、エフェクトは事実を事実として伝えようとした……が、しかし。
「ウィズ・インタレスト!」
「リンカーズッ!」
そのとき二人はすでに互いの攻撃を合わせ、立ち塞《ふさ》がる黒壁に向けて繰り出していた。
『……!』
グレイスが魔力を込めて放ったコインを、依が鎖を装着した拳で打ち放つという、即席の合体技。それによって付与される魔力は、バラバラに攻撃するよりも遥かに強い。
息を合わせた者同士でなければ想いが相殺《そうさい》し合ってしまうところを、この二人の魔法少女はその場でいとも容易《たやす》くやってのけた。
エフェクトはそれに軽い驚きを憶え、同時に、
(やはり、底が知れんな……人という生き物は)
と、思う。
しかし二人分の力を込めた一撃も、壁に衝突したあと一瞬だけ大きく魔力が爆《は》ぜただけで、消えてしまった。
「これでもだめか〜……」
「そのようですのね……」
エフェクトは残念がる二人に話しかける。
『気は済んだか。ならば、この壁を壊すことは諦めて――』
そのときだった。
「――えぇいっ♪」
その、場違いな声が響いたのは。
「え?」
依がその声に首を傾《かし》げた。
――ズドゴォォォォォォォォォォンッ!
「ですの?」
グレイスが響く轟音《ごうおん》に目を見開いた。
ベキベキベキッ。
『…………』
エフェクトは表情を浮かべる顔を持ち合わせていないが、壁に突如入った|ひび割れ《ヽヽヽヽ》を見て、完全に動きを停止していた。
パキィンッ!
脆《もろ》い音を立て、壁が決壊する。
――ガサガサ。
続いて聞こえてきた音は、人間二人には非常に聞き覚えのある音であった。
「紙袋の……」
「……擦れる音、ですの?」
それから二人の眼に飛び込んできたのは、まさしくその通りの光景だった。
山のようなたくさんの紙袋がひとりでに動いている。……それが勘違いであることに気づいたのは、その山が|声を放ってから《ヽヽヽヽヽヽヽ》だった。
「ふぅっ、や〜っと帰ってこれたわ〜」
やけに幼く、甘い。子供そのものな声に、その場にいた魔法少女二人とディスコードは唖然《あぜん》とする。
「やっぱり故郷と旅行先とじゃ、空気が違うわね〜」
創造領域の壁をぶち砕《くだ》きその向こうから現れた少女《ヽヽ》は、呆《あき》れかえるほどの|場違い感《ヽヽヽヽ》をさらけだしている。
「んしょっ、と!」
砂糖菓子の声の持ち主は、両手いっぱいのお土産《みやげ》≠一度、地面に置いた。
そこでようやくその姿が明らかになり、一同は二重の意味で驚く。
『カナタ――』
ディスコードが無意識に呟いた。
少女は呆然《ぼうぜん》としている三人に気づくと、にぱ、とその表情を綻《ほころ》ばせた。
「あら、かなちゃんのお友達かしら♪」
――緊張感の欠片もない、無防備な笑顔であった。
一方、漆黒の空間。
大枝町全域を覆う闇と同じ色をしたその場所に、揺りかごが揺れている。
一定のリズムを刻み、キイキイと音を立て、眠りを誘うかの如く、揺りかごは、揺れる。
闇の中に浮き彫りとなっている白色が、静かに同じ動きを繰り返す。
その中に、誰を抱くこともなく。
「――そっか。この領域を創り出した人は……」
委員長から事の次第を聞いたモエルは、沈んだ声を出す。
「モエルさんの想像の通りだよ」
委員長がどこか悲しそうに呟いた。
「事の発端は全部――私の、お母さんにある」
「! いいんちょの……お母さん!?」
その人を知っているらしいモエルが、ゆっくりと説明を始めた。
「……今から十三年前、一人の優秀なノイズの研究者がいたんだ。彼女はチューナーとしても凄腕《すごうで》だったんだけど……やっちゃいけないことをして、力を剥奪《はくだつ》されてしまった」
「やっちゃいけないこと?」
モエルが俯いた。それをフォローするように委員長が説明を続ける。
「……人の心を、魔法で操ろうとしたの」
滅茶苦茶な話だが、心当たりがある。
「――もしかしてあの、声……」
「そう。白姫君が前に変身できなくなったとき、声が聞こえたでしょ? 心の深い部分を見|透《す》かし、語りかけてくる声が。あれは、その研究の過程で生まれた技術なの。
……でもその研究は、心という最も大事な部分を土足で踏みにじる、禁忌《きんき》の行い。それでも研究を止めようとしなかったお母さんは、最終的に――オリジンキーを破壊された」
「…………!」
モエルの爪が肩に食い込んでくる。
「なんでそこまでしてノイズの研究を……?」
委員長は首を振り、小さな声で「分からない」と咳き、続きを口にする。
「オリジンキーを失い魔力も失ったお母さんに残ったものは、それまでに培《つちか》った知識と、チューナーに対する復讐《ふくしゅう》心だけ。……そして皮肉なことに、その知識が復讐を手伝う力となった」
「――ノイズリダクション=v
モエルが呟く。委員長はその言葉に少し驚いた顔をして、頷《うなず》いた。
「ほんとに物知りだね。そう、ノイズリダクション……ノイズの力を取り込み、自身の力として扱う技術」
「魔力を失った人間が創造領域を創れるわけないからね。おそらく、領域を創るために必要な力はノイズから集めたんだろう?」
ボクが首を傾げると、すかさずモエルの説明が入る。
「ノイズを倒したときに光が発生するでしょ? あれは魔力に限りなく近いものなんだ。普通なら、放っておけば勝手に消滅していくんだけどね」
「……でもそれはわずかな、本当にかすかな力でしかない。お母さんはそれを十数年もかけて集め続け、今になってようやく動き出せるようになった」
聞いているだけでもゾッとする。一体どれほどの憎しみがあれば、それだけの歳月をかけてまで復讐しようと思えるのだろう。
「いいんちょはその間……ノイズの力を集めている間、どうしていたんですか?」
「お母さんに言われるまま、魔法の使い方を勉強してた。ちゃんとその目的も理解して、大好きなお母さんの役に立つために必死だった」
母親のことを語る彼女は、見ているだけで痛々しい。
「本当は……止めたかった。復讐なんて忘れて、普通の親子として一緒に暮らしたかった」
堰《せき》を切ったようにあふれ出す言葉に、耳を傾ける。
「でも、止めるってことは、お母さんを支えている想いを壊すってことだから。あの人をずっと見てきた私には、そんなことできなかった」
「……そのために、かなたんを?」
モエルの言葉に委員長は頷いた。
「だったらどうして一緒に戦おうって言ってくれなかったんですか? わざわざボクと争う意味なんてないはずでしょう!」
「だめだよ。お母さんを一人になんてさせられないもの」
「っ!?」
その声に込められた深い愛情に、ボクは言葉を失った。
「白姫君が魔法少女になったことは、本当にすごい偶然だった。でも私は運命だと思ったよ。
この人になら倒されてもいいって、そう思える人だったから」
彼女の言っていることは滅茶苦茶だ。
復讐を果たそうとする母親を止めたい。けれどそれはできない。だからボクを頼り、自分と一緒に母親を倒させようとした。
――すべて、身勝手なわがままだ。だけど咎《とが》める気にはなれなかった。
「どうして……ボクなんですか!」
いろいろ言いたいことはあったが、ボクは最後の疑問を口にする。
「…………」
この問いかけに彼女は、珍しく困ったような表情を浮かべた。
そこにモエルが、
「それを聞くのかねこの子は。……ほんと鈍感なんだから」
と、呆れた声で言った。
「? どういうこ――」
意味が分からず、聞き返そうとしたそのとき。
――ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!
「!?」
遠くから聞こえていたものとは比べものにならない、強大なノイズが頭を打った。
「どうしたのかなたんっ?」
「……この、音……いつもと、違うっ……!」
隣を見ると、委員長が顔を歪めているのが見えた。
(いいんちょ、怖がって……?)
それを不思議に思った瞬間――目の前が真っ暗になった。
「……あ、ぁ……」
それが錯覚《さっかく》であることに気がつくのに、どのくらいの時間がかかっただろうか。
「おかあ、さん……」
ボクは傍《そば》から聞こえた声によってようやく、自分が意識を失いかけていたことに気づく。そして、彼女が途切れさせながら呟いた言葉の意味に気づき、顔を上げた。
ドクンッ。
いつの間に現れたのか、一人の女性がそこにいた。
(お母さん……? この人が……)
十メートルほどの距離を隔てているというのに、威圧感が肌に押し寄せる。肌の表面だけではない、体内の臓器に至るまでを重圧で押し潰《つぶ》そうとしてくる、圧倒的な存在感――。
「――何を――しているの――?」
細い声が、濃紅の唇から放たれる。それを耳にしただけで、心が凍りつきそうになる。
美を極限まで追究した人形のような顔――だがしかしどこまでも、どこまでも感情の希薄《きはく》な顔。確かな美しさを感じるのに、それを恐怖に感じてしまう。スラリと伸びた体を包んでいるマーメイドラインのドレスは、黒色で外との境界をはっきりと縁取っていた。
律された長髪が宙を躍《おど》るたび、墨を付けた筆で空間を塗りたくるような軌跡《きせき》が残される。
外見もその中身も――絶えなき、漆黒。
瓦礫《がれき》の転がる地面にゆるりと立つその姿は、影が直接地面から生えているようにも見える。
「かなたん! 逃げろっ!」
モエルが耳元で怒鳴った。
「う、うんっ!」
「あ、あ……」
ボクは困惑している委員長の体を抱きかかえ、その女性に背中を向けた。
(逃げないと、少しでも遠くへ――)
――ドン。
振り向いて走りだした直後、何かにぶつかった。体に伝わってくる、柔らかい人の肌の感触。
(なんで……っ、さっきまで前にいたはずなのに……!?)
ぶつかった拍子に尻餅《しりもち》をついてしまう。黒の女性は、冷ややかな目でボクたちを見下ろす。
「かなたんッ!」
モエルの声は聞こえていたが、ボクの体はそのときすでに、恐怖で硬直してしまっていた。
「――なぜ――逃げるの――?」
声を掛けられただけでどす黒い感情が胸に押し寄せ、目の前から吹きつけてくる異様な気配が、その感情を増幅《ぞうふく》させる。
「ッ、恐いと思っちゃダメだ!」
「変わった――生き物ね――?」
黒の際だつ瞳が向けられた瞬間、モエルは体を辣《すく》ませる。だが、
「かなたんに近寄るなっ!」
恐怖に屈せず、肩の上から相手に飛び掛かっていった。小さなノイズ程度なら切り裂ける鉤《かぎ》状の爪が、女性の顔を狙う。
パシンッ。
「あぅっ!」
彼女は、高速で動くモエルの体を緩《ゆる》やかな動きで後ろへ払いのけた。接触の音は軽かったが、猫の体は飛び出したとき以上の速度で後ろへ弾かれ、地面を転がる。
「モエルッ!?」
無造作に地面に叩きつけられたモエルは、一撃で地面に伏した。その様子を一瞥《いちべつ》し、次に彼女は暗い瞳にボクを映す。
「――綺麗《きれい》――」
(え……?)
不意にその腕がこちらへ伸びてきたかと思うと、そのまま顔の横を通り、髪に触れてくる。
ザザッ。彼女の背後が歪んだかと思うと、そこからノイズが生まれてきた。大きな羽の生えた黒い人型のシルエット。その姿は現実ではありえない、悪魔≠連想させる姿をしていた。
「――光のような――白銀――」
生まれたノイズには見向きもせず、女性はボクの髪を一束だけ手に取り、妖艶《ようえん》な眼差しで眺《なが》める。
ザザザッ。別の場所からまた歪みが生まれ、同じ姿のノイズが現れる。恐怖をそのまま形にしたような異形《いぎょう》の存在が、女性とボクの周りに増えてゆく。
(この人が、呼んでるのか……?)
「――本当に――」
唇が薄く開き、言葉を紡《つむ》ぎ出す。
「――綺麗な――」
その一言一言が騒音を生み出す。
「――イロ――」
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!
声に邪悪な意思が宿った瞬間、数十匹のノイズが一斉に生まれた。単体でも、並のノイズより禍《まがまが》々しい音を放っているのが伝わってくる。
モエルの姿はその雑踏の中へ消え、どうなっているのかが分からなくなってしまった。
「う……ぁ……」
目の前には得体の知れない女性、そのさらに背後には五十は超えるだろうノイズの大群。変身すらできず、体が動かない。押し寄せてくる恐怖の声が頭の中に響き渡り、無意識に体が震《ふる》え出す。
「――痛ッ!?」
刺すような痛みが頭部に走る。髪を掴《つか》む手に、力が込められていた。
「! お母さん、止めてっ!」
委員長が弛緩《しかん》していたはずの体を奮《ふる》い立たせ、すがるようにして腕にしがみつく。
(髪、を……?)
自分の娘を無視し、無表情のまま黒の女性は腕を引く。
(嫌《いや》だ……っ)
本能が理解する。この闇が砕こうしているのはボクの体などではない。間接的な形で恐れや不安を与え、体の奥底を暗い何かで満たそうとしている。
目の前にいるこの女性は――ボクの心を、喰らい尽くそうとしている。
「…………か」
とても大事な人とおそろいの髪。ここにはいないその人へ、届くはずのない声があふれる。
「かあ、さま……」
闇に閉ざされた、瞳の奥に――。
「なぁに《ヽヽヽ》?」
――桜が、舞った。
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7.空の彼方へ
閉じていた目を見開いた、次の瞬間。
ひしめきあうノイズの大群が、
「どっかぁ〜ん♪」
――爆発した。
数十匹のノイズが紙切れのように空に舞い上がり、無造作に落下する。その爆発は連続して起こり、次々と異形《いぎょう》が空へ舞い上がってゆく。悪魔っぽい物体がぽんぽんと空へ舞い上がってゆく光景は、ある意味コミカルであった。
そうやって段々と、こちらへ近づいてくる誰か=B
一体現れただけでも厄介《やっかい》そうなノイズを、数匹ずつまとめて薙《な》ぎ散らしながら進んできて、終《しま》いにはその場にいたノイズをすべてぶっ飛ばしてしまった――少女。
「あらあら♪」
無邪気な声、無垢《むく》な笑顔。
たなびく銀髪、舞い散る桜花《おうか》。
[#挿絵(img/mb880_225.jpg)]
小さな肩にボストンバッグを背負い、細い両手に持ちきれないほどの土産《みやげ》袋を携《たずさ》え。
小振りな体をピンと立て、広がるスカートふわりと揺らし。
「かなちゃん、大びんちね♪」
天真燗漫《てんしんらんまん》、百花繚乱《ひゃっかりょうらん》。
――白姫此方《しらひめこなな》が、そこにいた。
「こな、たん……!」
ちょうど彼女の真下に倒れていたモエルが、ふらふらと立ち上がってその名を呼んだ。
「はろーモエルちゃん♪ ごめんね、遅くなって」
小柄な体を抱え上げ、少女は笑う。
その脳天気な声を聞くだけで、胸に暖かい何かが染み渡ってくる。心に澱《よど》みを作っていた恐怖や、不安、諦《あきら》め。それらすべてがたった一声で、綺麗さっぱり払拭される。
「?」
闇がボクを掴《つか》んだまま振り返り、その色彩を見て眉をひそめた。そこへ、
「ウィズ・インタレストッ!」
キィン、という音と金色の光が、ボクと彼女の間を貫《つらぬ》いた。正確無比な射撃は髪を掴んでいた手の平を撃ち抜き、その拘束を解かせる。
「リンカーズッ!」
続けて繋《つな》がる鎖の金鳴りが聞こえ、固い感触がボクの体に巻き付いた。次の瞬間にはボクの体は、釣り上げられるようにして宙を舞っていた。元いた場所から数メートルの距離を放物線を描きながら飛び、ボクの体は力強い腕に受け止められる。
「大丈夫!? 彼方《かなた》ちゃん!」
「……依《より》、さん」
この豊満な体の感触は間違いなく、依お姉さんだ。隣には意識を取り戻したらしいグレちゃんの姿もある。紅の少女はこちらを見て溜息《ためいき》を吐《つ》く。
「ちょっと見ない間に厄介なことになってますの」
そうは言いながらも、彼女は口の端《はし》に笑みを浮かべている。
続いて伝わってきた声は、ボクにとって相当予想外なものであった。
『――無事のようだな』
(? この声は……)
「エフェクト!?」
グレイスの反対側に、黒一色のディスコードが立っていた。
『覚えていたか』
言葉をいちいち止めて話す癖《くせ》。間違いなく、ボクが戦い、倒したはずのノイズだ。
「彼方ちゃん、私もよく分かんないんだけど……なんか手伝ってくれるみたいなの」
「……はい?」
話の展開についていけない。説明がもう少しほしかったが、肝心のエフェクトはそれ以上何も話すつもりはないようだった。
(何を考えてるのか気にはなるけど……でも、今はそれより――)
――視線を、前に立つ少女へ向けた。
決して大きくはない体躯《たいく》。けれど、ボクにとってその背は誰より広く、強い。
暗闇に燦然《さんぜん》と輝く白銀の髪は、ボクよりも少しだけ短い。だがウェーブがかかっているためボリュームがあり、本人の気質にあった柔らかさを感じる。
命の息吹《いぶき》を感じる桜色のドレスは、フリルがふんだんにあしらわれている。全体的な子供っぽさが先立つ中、肩に巻いたショールがちょっとしたアクセントになっていた。
(そうだ……この人はわがままで、自由|奔放《ほんぽう》で、滅茶苦茶なことばかりするけど……ボクが危ないときにはいつだって、手を差し伸べてくれるんだ)
とても大事で、とても大切な、ボクの――。
「――母様っ!」
依お姉さんの腕から降《お》り、その後ろ姿に声を放つ。
ボクの声を受け止めた彼女は、おそろいの色をした髪をふわりと揺らし、ゆっくりと振り返り、その瑞々《みずみず》しい桜色の唇を開く。
「ただいま。かなちゃん♪」
優しい声と共に――母、白姫此方は帰ってきたのだった。
ボクたちは大きな闇と対峙《たいじ》している。
「この、胸がざわざわする感じ……」
「嫌《いや》な気配ですの……!」
駆けつけた二人の魔法少女は場に立ちこめた異様な気配にたじろぐ。それは黒衣の女性から放たれている、得体の知れないプレッシャーによるものだった。
敵意を感じるわけではないのに、体が強張《こわば》る感覚。こうして向かい合っているだけで本能が恐怖を訴えてくる。
だがこの場において一人だけ、少しも不安を感じていない人がいる。
「〜♪」
うっすらと聞こえてくる軽快なメロディーは鼻歌だろうか。先頭に立つその人は、まるでピクニックにでも来ているかのような軽さで声を放った。
「あなたがこの世界の主ね。お名前、聞いてもいい?」
視線は前、背丈が二回りほど違う女性に向けられている。
「――フィアネス=\―」
黒の女性が、かすかにしか聞き取れない声で答えた。
「それが、|あなたの《ヽヽヽヽ》名前ね!?」
「え……?」
その名前を聞いたとき、委員長が驚いた声を出した。その視線が、母親を見る目から、何か別のものを見る目に変わる。
母の腕の中にいるモエルが「あっ」という声をあげ、口を開いた。
「まさか彼女、ノイズに意識を乗っ取られてるのか!?」
『……そのようだな。ヤツの中から不特定多数の意思を感じる……今のヤツは限りなく私に近い存在だろう』
あっさりとエフェクトが言った。それを聞いてグレちゃんが戦慄《せんりつ》した声をあげる。
「あなたに近い存在、って……彼女がディスコードだ、ということですの!?」
『……中に宿している力はヤツの方がもっと上だがな』
それを聞いた瞬間、みんなの間に緊迫した空気が伝わる。ボクはこのエフェクトというノイズの力をよく知っているため、そこに感じる脅威も大きかった。
「だ〜いじょうぶよっ♪」
みんなが息を呑《の》む中、緊張感台なしの楽観的な声を放ったのは我が母、白姫此方。
「母様、何か考えがあるんですか!?」
(やっぱり、母様は頼りになる……!)
しかし桜色の少女は、ボクの思いに反して力強くこう宣言した。
「きっとなんとかなるわ!」
「きっと!? 根拠もないのになんでそんな自信たっぷりなんですか? ボクの信頼を返してくださいよっ!」
強大な敵を前にして、ボクと母はいつも通りと言えばいつも通りのやりとりをしてしまう。
そのときだった。
ザザザザザザザッ!
ザザザザザザザザザザザザザザッ!
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!
何重にも重なったノイズの騒ぎ声が、場に響き渡る。
「!?」
視線を前へ戻すと、フィアネスは委員長の体を抱え、右手を天に向けてかざしていた。
その手の先、上空に――。
「なんですの!? あれはっ!」
――穴が、開く。
現在の空の色より、もっと黒い――漆黒《しっこく》の穴。そこから迸《ほとばし》る禍《まがまが》々しい気配は、今までとは比べものにならない。
「白姫君っ!」
委員長の叫び声。視線を元に戻すと、地上にいたはずのフィアネスが空中へと浮かび上がっていた。黒髪が大きく広がり、彼女のシルエットを不気味なものへと変えている。
「いいんちょっ!」
腕の中にしっかりと抱き込まれた少女は、こちらに手を伸ばす。
その瞬間、ボクは走りだしていた。
「かなたん!?」
フィアネスは、空に開いた穴へと向かって浮かび上がる。
(く、そぉ……っ!)
キィンッ!
後ろからコインを弾く音が聞こえた。高速で飛来するそれは、空中にいる女性を狙い撃つ。
ジャラララッ!
続いて鎖がボクを追い越し、空に向かって伸びた。
「行かせないですのっ!」「行かせないよっ!」
二人の声が聞こえて、それぞれのオリジンキーがフィアネスを止めようとする。
しかし。
「――……ふ」
フィアネスは表情を動かさず、声だけで笑った。
彼女の体から黒いオーラのようなものがあふれ出す。それは委員長とフィアネスを包み込むように展開し、迫り来る二つの攻撃を防いだ。
「くっ!」「もう一度――」
二人が再度攻撃を仕掛けようとしたとき。
『――退《ど》け』
今までと違う、ただ強力なだけの力が空間を貫いた。
黒い塊《かたまり》。端的《たんてき》な声と一緒に放たれたその魔力攻撃は、フィアネスの障壁に正面から衝突した。
轟音《ごうおん》が直に体に降《ふ》りかかる。その威力は以前戦ったときのものより強力になっているように見えた。
それによりフィアネスの体勢が崩れ、わずかにその体が地上に寄った。
ボクはそれを見逃さず、一気に駆け寄る。
「白姫くん――」
抱きかかえられた状態で、あらん限りに手を伸ばす委員長。
「いいんちょっ――!」
ボクは手を伸ばし、思いきり跳《と》んだ。
離れた二人の手と手が、わずか数センチにまで近寄り、
――。
指先をかすめた。
「っ!?」
ボクの瞳の中に、悲しそうな少女の顔が映る。
そのとき、フィアネスは空へと浮かぶ速度を上げた。
……無力なボクを嘲笑《あざわら》うかのように。そのまま彼女は自らの娘を抱き、空へ――黒い穴へと、吸い込まれるようにして消えてしまった。
「いいん、ちょ……」
ザザ――。
あとに残ったのは、耳につくノイズのみだった。
――大枝町には現在、百を超える数のノイズが存在していた。
町中の人々はその日、自身の心をさらけだす悪夢を見せられ、その想いを形とした異形を産み落とす。
そして生まれたノイズは、何かに呼ばれるかのように一つの場所へ集結しようとしていた。
その場所は、創造領域のコアとも言える場所。
領域の空に浮かぶ黒い穴、主の部屋へと繋がる門。
ノイズたちは、そこへと向かう。
そこには、彼らを呼ぶモノが存在している。
ボクたちは繁華街を離れ、この辺りで最も高い建物の屋上へやってきていた。
辺りを見渡すと、町のそこら中から黒い影が生まれ、空へと飛び上がってゆくのが見える。
ボクたちはその異常な光景をただ見ていることしかできなかった。
「いいんちょを助けないとっ!」
フィアネスが消えた真上の空を見て、ボクは叫んだ。
「落ち着きなさい。かなちゃん」
「でもっ、もしいいんちょに何かあったら……っ」
「……かなたん」
肩の上に戻ってきたモエルが、心配そうな声で呟《つぶや》く。
「どちらにしても、私たちではあの高度まで跳ぶことはできませんの。……なんとかしたいのはやまやまですが……」
グレちゃんは冷静な判断を下しながらも、考えることを止めていない。
「此方さんが開けた穴からもうすぐチューナーの増援が来るはず。だけどやっぱり、何にもできないって悔しいよ……」
依お姉さんは拳《こぶし》を握りしめ、空を睨《にら》む。
「かなたん、みんな同じ気持ちだよ。今は落ち着いて何ができるかを考えよう!?」
焦ったところでどうにもならないことは分かっている。そもそも満足に魔力も回復していないボクでは、何もできやしない。
「だけど……っ!」
歯がゆい気持ちでいっぱいのボクの前に、母が立つ。
「ね、かなちゃん」
「?」
顔を上げると、そこには鏡に向かい合つかのような自分そっくりの顔がある。けれど、浮かべている表情は全く正反対で、母は相も変わらず笑顔だった。
「あの子を助けたい?」
穏やかな声の質問に、ボクははっきりと答えた。
「はい」
「どんなことをしてでも?」
「……はい」
「それはどうしてかしら?」
「友達、ですから。遅刻を何度も見逃してもらった借りとか、全然返せてないんです。それに、彼女がいないとボクのクラス滅茶苦茶なんですよ。丈君とか好き勝手に暴れ回りそうだし……」
戦う理由としては、少し弱いだろうか。ボクはふと気になって、エフェクトの方を見た。
『…………』
無言だが、白い双眸《そうぼう》はボクをしっかりと見つめていた。
とりとめのないボクの話を聞いた母は、
「わかった。……じゃあかーさまの力で、かなちゃんをあそこに運んであげる」
と、言った。
『なっ!?』
ボクとモエル、グレちゃんと依お姉さんが声をハモらせる。
「その代わり母様は付いて行けないから、その先のことはかなちゃんがなんとかするのよ?」
冗談を言っている風ではない。
(……変身するくらいなら、できる)
ボクは体の中にあるわずかな魔力の感覚を確かめ、決意を口にする。
「行きます。……母様、お願いします」
「ん。分かった」
力強く、母が頷《うなず》く。
「かなたん、大丈夫? 相手は桁《けた》違いの強さだよ?」
モエルがもう一度、ボクの意思を確かめるようにして聞いてくる。
でも、ボクに迷いはなかった。
「うん。もう決めたんだ」
「……なら、おいらも付いてくよ」
モエルの言葉に、二人分の声が続く。
「私も行きますの!」
「彼方ちゃん一人にそんな危ないことさせられないよっ!」
力強い仲間の言葉に、勇気づけられる。
「うん。じゃああなたたち四人に任せるわ♪」
みんなで顔を見合わせ、頷き合う。
それから母は、ボクに近寄ってきた。
「かなちゃん。絶対に帰ってくるのよ?」
その距離は約一歩分。いきなり縮まった距離に胸が高鳴る。
花の香りが鼻腔《びこう》をくすぐる。母は香水をつけたりしない人だが、なぜかいつもいい匂いがするのだ。そしてボクはその懐かしい香りを味わい、心が安らぐのを感じた。
「……少し、緊張してるみたいね」
母がボクの左胸に手を置き、言ってくる。
「かーさまが、とっておきのおまじないをしてあげる」
「? はい?」
にぱ、と眩《まぶ》しい笑顔を浮かべる母。その笑顔を見ると安心する――と同時に、ちょっと嫌な予感もした。
(母様がこんな風に笑うときは、いつも……)
ボクの頬《ほお》に、母の両手が添えられる。優しくてすべすべした手が、顔の向きを固定した。
「体の力、抜いて……」
母がそう言うと、不思議なことに体に伝わっていた緊張が勝手に解きほぐされる。頭がぽおっとして、すごく心地良い気分になってしまう。
「うん。いい子ね」
母性に満ちあふれた声は、魔法のようにボクを暖かく包み込む。
今、ボクと母の問にはわずかな距離が開いている。しかしそこに遮《さえぎ》るものはなにもない。お互いに目を合わせれば、瞳に映る自分の姿までも確認できる。
鮮やかな色に縁取られた唇からあふれる、甘い吐息《といき》でさえも感じ取れる。
「それじゃ――受け取ってね」
母はボクにだけ聞こえる声でそう呟くと、一瞬だけ、照れくさそうに笑った。
「わわ、彼方ちゃん……!?」
そして。
「え、あの、で、ですの!?」
白姫此方は。
「ちょ、こなたんまさかっ!」
――ちゅ。
(え……?)
唇に重なる、柔らかい感触。
周りのみんなが、言葉を失っているのが分かった。でもそれ以上にボク自身、頭の中が真っ白で、自分が今どうなっているのか分からなくなっていた。
「んっ――……」
鼻にかかった声。それは自分から漏れたものなのか、それとも向こうから漏れた声なのか。
頬を固定していた手がゆっくりと体を伝い、腰に回される。
一部分を通じて分け与えられる体温と体温が、混ざり合って熱をさらに増す。連続した胸の鼓動は勝手に加速して、どうしようもなく心を高鳴らせた。
トク、ン――。
何かが流れ込んでくる。暖かく、びりびりとした刺激が体に染み渡ってくる。
(これ、は……?)
「こなたんっ! どさくさに紛《まぎ》れてなんてことをっ?」
肩の上からモエルが騒ぎ立てる、
「そっ、そうですの! はっ、破廉恥《はれんち》ですの!」
それに呼応する形で、グレちゃんまでもが叫んでいた。
「こんな夢みたいな光景……! かっ、かわいすぎるよ……っ!?」
依さんは口をだらしなく開き、恍惚《こうこつ》とした目でこちらを見ていた。
『ふむ』
エフェクトはなぜか興味深そうに捻《うな》る。
「……んっ」
そうこうしているうちに、唇から柔らかな感触が消えた。
「うん、これでいいわ♪」
母は再び一歩分離れ、そう言った。それにモエルが怒鳴る。
「よくなぁいっ! いくらこなたんでも今のはないよ! 抜け駆けだっ、裏切りだっ!」
「そっそうですの! 母子でなんて、不埒《ふらち》ですの! 羨《うらや》ましいですの!」
「留真《るま》ちゃん、本音出てるよっ! ……あ〜、でも彼方ちゃんの唇って見てるだけでぷにぷになんだよねえ……私も今度いいかなっ?」
周りはひたすら、騒々しかった。母はそれに笑顔で弁明する。
「魔力を少し分けてあげただけよ。……想いを伝えるのは唇越しが一番だから。これ以外方法はなかったの。ほんとよ? 他意は――ないわ♪」
ボクと同じ顔が、きゃるん、と笑う。
「こなたん、魔力を分け与えるって……いやちょっと待って! 今間があったよね? 他意がないならもっとはっきり言えるよね!?」
「……うふふ♪」
「にゃぁっーちくしょぉっ、おいらだって、おいらだって――……? かなたん?」
モエルがかすかな振動に気づき、こっちを見る。
「…………」
ボクはそれどころではなかった。みんなが散々騒ぎ立てている声もほとんど聞こえてはいなかった。
時間が経《た》つにつれて、体の震《ふる》えが大きくなってくる。
「彼方さん?」
「彼方ちゃん?」
不思議そうにこちらを見ているみんなのことも、どうでもいい。とにかく――、
「あう、ぅぅ……」
――恥ずかしかった。
ようやく声を出せるまでになって、ボクは喉《のど》から声を絞り出した。
「母様の〜〜〜〜〜〜〜っ!」
キイ、ン――。
「ばかぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
『っ?』
領域内にこだまする大声量に、エフェクトを除くみんなが耳を押さえる。
ボクはそのまま、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「なっ、何考えてるんですか! いきなりあんなことするなんてっ! しかもみんなの前で堂々と! なんか考えがあるのなら説明してからにしてくださいよ! いつも言ってるじゃないですか、思いついたことをそのまま実行に移すのは止めてくださいって! それに、よりによってキッ、キスなんて……っ!
――ボク……、初めてだったのに……」
顔の熱さで、これ以上声を紡《つむ》げそうにない。ボクはそんな顔を見せないようにみんなから顔を背《そむ》けた。
「……なんでだろ、おいら今、これまでになく胸がどきどきしてる……」
「彼方ちゃん、かわいい……乙女だよ、純情な乙女だよ……!」
「ちょっとこれは反則な気がしますの……おかしな気持ちになってきますの……」
好き勝手に言われても、反論する気力が湧《わ》かない。体に残った甘い痺《しび》れが、唇に残った生々しい温もりが、ボクの頭を支配している。
「……かなちゃん」
背を向けたボクの頭に、小さな手が乗せられた。
「ごめんなさいね。何も言わずにこんなことして。かなちゃんの気持ち、よく分かったわ」
後ろから寄り添い、母は反省の気持ちを言葉に交えて、言った。
「――今度は、二人きりでしましょうね?」
そのとき、母を除いた全員が、
『そういう問題じゃないでしょうっ!?』
――綺麗に声を、揃《そろ》わせた。
(……ほんとに魔力が満ちあふれてる)
ボクは変身を終え、自分の体を確かめる。体の中に流れる力は、普段通り、もしくはそれ以上だった。
「うふふ、やっぱりかなちゃんの変身はいつ見てもそそられるわ♪」
「やらしい目で見ないでくださいよっ――……」
どんな状況でもまるで動じないこの人は、一体どれだけの力を持っているのだろう。自分の母親ながら、未知数な部分が多すぎる。
「ん? どうしたのかなちゃんそんなに見つめて。ようやく母様の想いに気づいてくれた?」
「誰が気づきますかっ!」
「さすがは愛《まな》娘、難攻不落だわっ」
「ボクは男ですと何回言ったら分かるんですかもうっ!」
「性別だけを見れば問題ないわよね♪」
「親子っていう最大の問題が立ちふさがってるでしょう!?」
テンポ良く進むやりとりは久しぶりで、それをなんとなく楽しく感じてしまう自分が少しだけ忌まわしい。
「……彼方さんが活き活きしてますの」
「うん。なんか少し妬《や》けちゃうねっ?」
「こなたんはいろんな意味でかなたんに一番近い人だからね。まるで正反対なように見えて、繋がりは誰よりも深いんだよ。……だからってさっきのはやりすぎだけど」
モエルの声はまだふてくされている。……しばらくは根に持たれそうだ。
『……まだ行かなくていいのか』
約一名のおかげで緊迫感がまるでなくなってしまったボクたちに、冷静な声が伝わる。
「あ、うん、そうですね。……エフェクト、あなたは? どうするの?」
ボクは必要以上にこちらに介入してこないディスコードに尋ねる。
『義理は果たした。私は残らせてもらう』
短い言葉だけで意思が帰ってきた。
「そりゃそっか。……そこまで付き合う義理もないしね」
『…………』
「でも、ありがとう」
『!』
白い瞳が、わずかに揺らいだ。
「あなたには手痛い目に遭《あ》わされたりもしたけど、今日、依さんやグレちゃんを助けてくれたことは感謝するよ。……この次、どうなるかは分からないけどさ」
苦笑し、ボクはその白い瞳を見つめ返した。
『……ああ』
やはりエフェクトは、端的に呟くのだった。
「――それじゃ、そろそろ始めましょうか♪」
母が両手を一つ叩き、切り出した。ボクは深く頷き、空を見上げる。
「いいんちょを助け出して……この夜を、終わらせましょう」
「うん。行こう、かなたん」
「……ですの」
「だねっ!」
突入する三人と一匹は頷き合い、気合いを入れて母の動きを待つ。
「? そういえば母様、あの空まで送るってどうやるんですか?」
疑問に思いボクが口を開いた瞬間。
「はい、しっかりとくっついててね〜♪」
「うわっ!?」「はたっ!?」「はぐ〜っ※[#ハート黒、unicode2665]」
母は無理やりボクとグレちゃんと依お姉さんをくっつけた。モエルはその間に挟まれる形になる。次に「あ、これちょうどいいわね」などと言いながら依お姉さんのオリジンキーをボクたちに巻き付け、縛り上げた。
「うぁ……締まる……っ!」
ほどけないようにしっかりと縛られたため、三人と一匹の体は自然と密着してしまう。
「ちょっと幾瀬《いくせ》さん……っ、どさくさに紛れて変なトコ触らないでほしいですの……!」
「これは仕方のないことなんだよっ、仕方の……」
「ちょっ、モエル――あんまり動かないで、くすぐったい……依さんもっ、お尻に手が当たつてます! というか母様一体何を――ッ?」
何やら不吉な気配を感じていると、ひょいと軽く三人と一匹の体が浮き上がった。
「……ええと、母様? もしかして、母様の力であそこまで送る≠チて……もしかして」
母は、揉《も》みくちゃになったボクたちを担ぎ上げ。
「しっかり捕まってるのよ?」
にぱ。
笑顔で、上空へ――投げ飛ばした。
重力から解き放たれる感覚。
「ほんとにっ、|チカラで《ヽヽヽヽ》送るってことですかぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーっ!?」
三人プラス一匹の塊は、音をかき消す速度で――飛ぶ。
「いってらっしゃ〜い♪」
すごい速度で離れていく地上には、ハンカチをひらひらと振る母の姿。
「良かったねーかなたん、初体験じゃないかーっ!」
飛び慣れた(?)モエルは意外に冷静であった。
「二度目ですのーーーーっ!」
「はぐぅ〜〜〜〜ー〜〜っ!」
二人は両方からボクに捕まり、痛いくらいに体を寄せてくる。
[#挿絵(img/mb880_249.jpg)]
「あぁもうっ! なんでこんなことにーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
――その日ボクたちは、空を駆ける星となった。
彼らが。門へと入っていくのを見届け、此方は一つ息を吐く。
『……いいのか』
その場に残ることを選んだエフェクトが声を放つ。
「ん?」
『お前が行った方が確実なのではないか?』
本当にその答えに興味があるのか分からない、平坦な調子の問いかけ。
「そうね。かもしれない。けど私が行って倒したところで、彼女≠ヘ救ってあげられない」
『どういう意味だ。アレを倒し、連れ帰ってくればいいだけだろう』
「そういう救う≠カゃ、な・い・の♪」
茶目っ気たっぷりに此方は言う。
『どういうことだ』
「うふふ。――まだまだね?」
意思を持つノイズを見て、此方は面白そうに笑った。
『……?』
エフェクトはそんな少女を見て、不可解だ、とばかりに首を傾《かし》げた。
白姫此方は、空を見上げる。
自分の半身と言っても過言ではない家族を危地《きち》へと送り出し、それでも胸の中は穏やかだった。……信頼を超えた、確信。それが彼女の心にはある。
「かなちゃん――叩き起こしてあげなさい。いつまでも眠ってる、|ぐうたら《ヽヽヽ》な母親を……」
彼女の声は、強い想いとなって空へ昇る。
ひらひらと舞い散る魔力の桜が、暗闇の空へと舞い上がった――。
――眠りの中。
そう錯覚《さっかく》してしまうくらい、深い闇に閉ざされた空間。
「う、うぅ〜ん……」
強引な方法で内部に到着したボクたちは、グルグル巻きの状態で転がっていた。
「リ、リンカーズ……」
依お姉さんが唱えると、鎖がバラバラとほどけ、依お姉さんの腕に装着される。
三人と一匹はよろよろと起き上がりながら、まずは周囲の状況を確認した。
そこには何もなく、自分が足をついている場所がどんな風になっているのかも分からない。空間は水平に広がっているらしいが、周囲をぐるりと見渡すと、自分がまるで宇宙空間にでも投げ出されたような気分に陥る。
「……ある程度予想はしてましたが……ほんとに予想通りですの」
暗闇に灯《とも》る炎のように、グレちゃんの姿は明るい。
「しっかり手を繋いでおかないと、離れ離れになっちゃいそうだね」
依お姉さんはもっともな理由を付けて、グレちゃんとボクの手を握りしめている。最後に起き上がったモエルは、すぐさまボクの肩によじ登り、落ち着いた声で言った。
「……かなたん。ここは恐らく、フィアネスが根城にしている場所。ここを核にして領域を展開しているんだ。何が起きても不思議じゃない、警戒して!」
――ザザザザザザッ。
「言うまでもなく、向こうはやる気らしいよ?」
もはや聞き慣れた、小うるさい音。
立っている場所のすぐ近くで空間が歪《ゆが》む。ノイズが現れる兆候だ。それが起きたのは一箇所《いっかしょ》だけではなく、ボクたちの周囲を隙間《すきま》なく囲み、全方位から出現しようとしている。
「ここで総力を賭《か》けて潰《つぶ》そうっていうのか……!」
ボクは空色の杖《つえ》、オーヴァゼアを握りしめ、それを迎え撃つ覚悟をする。
そのとき、
「やれやれですの。ここまで大歓迎されると――」
グレちゃんが一歩前に出て、右手にコインを生み出した。
「――応えてあげなくちゃねっ?」
依お姉さんはその彼女の横に並び、鎖を拳に巻き付ける。
そして二人は、ボクを見て言った。
『ここは私たちが』
ですの、とグレちゃんが付け足す。
「!? そんな、どれだけいるかも分からないのに――っ!」
「かなたん、あの子等の言う通りにしよう。……一箇所で一網打尽《いちもうだじん》にされる方が危険だし、こでグレ子たちが暴れれば向こうも気にせざるを得ない」
モエルが理に適《かな》ったことを言っているのは分かる。しかし……。
躊躇《ためら》うボクに、グレちゃんが力強く声を放つ。
「問題ないですの、たっぷり眠って力が有り余ってたところですの」
胸元に煌《きら》めく金色のコインは、暖かい輝きを放つ。
「彼方ちゃん。すぐに追いつくから、早く友達を助けてあげて?」
鋼の鎖が力強く軋《きし》み、その拳の硬さを見せつける。
二人はもう、決めているようだ。
ならば、もう……。
「ありがとうございます。グレちゃん、依さん」
ボクは二人にお礼を言って――駆けだした。
心強い魔法少女たちの間を通り過ぎ、強大な魔力を感じる方向へと。
「……頑張れ、ですの」
白銀が遠のいてゆくのを見送り、グレイスは呟いた。
「留真ちゃんて、彼方ちゃんと会ってからいい顔するようになったよね」
依は微笑《ほほえ》ましそうにその横顔を見つめている。
「――何を言っているんですのっ。私は何も変わっていませんの! そんなやましい目で見ないでほしいですの! そもそも今はグレイスですのっ!」
猛火の如く反論するグレイスだが、にやにやと笑う依の顔は崩せそうにない。
紅の髪を燻《くゆ》らし、変わった¥ュ女は苦笑した。
「不思議な感じ、ですの」
「何が?」
「……彼方さんは私よりも経験が浅くて、魔力の扱いも極端にへたっぴ。戦い方も滅茶苦茶で、見てられないですの」
「うわぁ、ズバズバ言うね」
グレイスは右手で胸のコインに触れる。撫《な》でるように、慈《いつく》しむように。
「けれど」
彼女の声にいつもの刺々《とげとげ》しさはなく。
「――彼方さんが負けることはない。……素直に、そう思えるんです」
瞳には、確かな想いがある。
「…………」
それを黙って見つめる依は、嬉《うれ》しそうに笑顔を湛《たた》えていた。
現れたノイズが、彼女たちの周りを取り囲む。数を数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどの密度で、異形が群れる。
ジャラッ!
右拳を突き出し、依はグレイスの背中合わせに立った。
「私たちもこんなところで負けてられないね? 留真ちゃんっ!」
その言葉と存在感に頼もしさを感じながら、紅の魔法少女は胸のコインを軽く弾き――。
「当然、ですのっー」
――手中のコインを撃ち放つ。
キィ、キィ。
「ん?」
広さの全く分からない空間をしばらく進むと、いきなり真っ白なものが浮かび上がった。
それは見たことのある形をして、しっかりとそこに存在している。
「揺り……かご?」
ボクはゆっくり、慎重に足を進める。
「かなたん、気をつけて」
「うん。分かってる」
(でも何かの罠《わな》にしては、あからさますぎる……)
オーヴァゼアを握りしめ、ボクはその籠《かご》の中を、覗《のぞ》き込んだ。
「! いいんちょっ――!?」
中には、少女が眠っていた。
いつもはしっかりと結ばれた髪が、柔らかそうな布の敷き詰められた寝台に広がっている。
純白の中に広がる艶《つや》やかな黒。眼鏡《めがね》は外され、素顔の彼女がそこにいた。
「いいんちょ……?」
細い寝息が聞こえる。苦しそうな様子もなく、むしろ穏やかな、母の腕で眠る子供のように。
――ぞくんっ!
全身が弾けたかと思うくらい、強烈な寒気が襲ってくる。
「……来た」
モエルにもこの気配は伝わっているらしい。息を呑んで呟いた。
「いいかいかなたん、恐怖や不安は」
「――ないよ」
モエルが意外そうにボクの顔を見た。
「さっきはすごく恐かったけど、不思議だよね。なんだか……心が軽いんだ」
気配が近づいてくる。……真っ黒な想いの塊が。
「今までボクを支えてくれたみんなが、ボクを信じてくれている。そんな気がするんだ」
「……なるほどね」
オーヴァゼアの先端、無色の宝石に蒼《あお》い光が灯る。それはまるで、ボクの気持ちを代弁するかのような、清々《すがすが》しい光だった。
そして、ソイツは――現れる。
視界を覆《おお》う一切の闇、そこにまず浮かび上がったのは血のように赤い紋様。
「? 光ってる……」
マーメイドラインのドレス。さっき見たときは黒一色だった布に、赤い紋様が刻まれていた。深く鮮やかな光が明滅する。幾何学《きかがく》的な紋様は一定の輝きを繰り返し、間もなく、その全容を明らかにした。
「あの赤いラインが、ノイズの力を吸収するための紋様みたいだね……」
不気味な光を身に纏《まと》い、その女性は姿を現した。
何度見ても魅力を感じる魔性の容貌《ようぼう》。感情の欠落した顔は、こちらを向いている。
――ディスコードフィアネス=B
それこそ、いま目の前にいる者の名。
「アア――ァ――」
彼女の唇から、噂《うめ》き声が漏れた。もはや人の言葉ですらない怨嗟《えんさ》の声。
ボクはフィアネスに声を放つ。
「いいんちょを……返してもらいます」
ぴくん、とかすかに動く肩。纏う空気が徐々に変わっていくのが分かる。
静かな闇が――唸る。
「アアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァッ!」
咆哮《ほうこう》を上げ、闇は動き始めた。
「行くぞ! フィアネスッ!」
こちらも叫び、蒼い光を身に纏う。
刹那《せつな》――開戦の衝撃が空間に轟《とどろ》き渡る。
縦に振り下ろしたオーヴァゼアは、赤いラインが走る両腕に受け止められた。
「すごいっ、いきなり魔力強化で間合いにッ――!」
モエルが驚きの声をあげる間に、ボクは腕に力を込めた。
「たぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
体に流れる魔力が沸騰《ふっとう》する感覚。エフェクトと対峙した際に掴んだ、身体強化の術。単純に動け、と体に念じるだけだが、その想いを魔力が後押しする。
ドゴンッ!
もう一段の衝撃が弾け、フィアネスが膝《ひざ》をついた。
(力が湧いてくる――いける!)
全身の力を込め、そのままねじ伏せようとした瞬間。
――ザ。
「! 騒音……ッ」
咄嗟《とっさ》に体を引く。弾む桜色のネクタイをかする、黒い影。
四足歩行の獣の姿をしたノイズがこの場所に紛れ込んでいた。距離が離れたことでフィアネスは立ち上がり、何事もなかったかのように佇《たたず》む。
「やっぱり、一対一とはいかないね……っ!」
モエルが緊張した声で言った、次の瞬間。
フィアネスが腕を振った。指先に付いた水滴を払い落とす――その程度の動作。しかしそれによって、彼女を守るように隣に添い従っていたノイズが、消滅する。
『な!?』
ボクとモエルの反応は同じだった。
フィアネスは自分を助けたノイズを、自らの手で倒したのだ。そうした直後、彼女の体を走る赤いラインが、妖《あや》しい光を放つ、その行動の意味に気づいたモエルが、大きな声で叫ぶ。
「あいつっ、ノイズを直接体に取り込んでるんだ!」
「――アアアァッ!」
フィアネスが間合いの外から右腕を横に薙ぎ払う。一見すると意味のない行動に見えたのだが、しかしボクの直感はそれを避けろ≠ニ叫ぶ。
「ッ!」
咄嗟に身を伏せた、頭の上を――闇が引き裂いた。
(腕が伸びた!?)
ブォン、と風切り音を響かせ伸びてきた黒腕は、彼女の右腕に戻る。そのとき、かすかに彼女の腕が歪んで見えた。それは、ノイズが現れる際に生じる砂嵐のような見覚えのある歪み方だった。
息をつく暇もなく、フィアネスはその場から両腕を、空気をその身に抱き込むように動かす。闇が彼女の腕からあふれ、巨大化して迫ってくる。
「かなたんっ、避け――」
「――必要ないっ!」
ボクはオーヴァゼアを真上に放り、左右から襲い来る豪腕を両手で受け止めた。
「なんと!?」
モエルは耳をぴょこんと立て、驚いた声をあげた。ボクはそのまま掴んだ腕を、力任せに引っ張り上げた。
「うぅ〜〜〜りゃぁぁぁっー」
フィアネスの瞳の中に動揺が浮かぶのが分かった。彼女の体は浮き上がり、ボクが腕を引っ張る方向へと投げ出される。
「背負い投げ!? ……滅茶苦茶だよ、かなたん……」
反対側の床にフィアネスを叩きつけ、ボクはちょうど落ちてきた杖を掴み取る。
「なんだかよく分かんないけど、力があふれてくるんだ。いつもより調子いいみたい」
手の中で杖を回し、床を叩く。
「……こなたんのおかげだろうね」
「何? よく聞こえなかったけど」
モエルの放った小さな声は、ぼそぼそとしか聞こえなかった。
「うんにゃ。なんでもないよ〜っだ」
若干ふてくされたような声で言うと、モエルはそっぽを向いてしまう。
(なんか怒ってる……?)
――ザザッザザッ。
「ッ!」
そんなやりとりをしている内に、異様な気配が場を占めていることに気づく。
ゆっくりと立ち上がるフィアネスの周囲に、歪みが複数生まれていた。その歪みから黒い雫《しずく》が落ち、悪魔のような外見をしたノイズが姿を現す。
「またか……っ」
「かなたんっ、吸収される前に倒すんだ!」
しかし、それはできなかった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァッ!」
――空間が、震える。
「!? なんですの!?」
突如起きた振動は、戦闘中の二人にもはっきりと届いていた。
「地震っ? でもここ、空の上だよっ!」
羽の生えた人間、などという奇怪なシルエットをしたノイズに囲まれた状態で、二人は声を掛け合う。
「なんか、まずい感じだね〜……っ!」
グレイスを狙って接近してくる敵に、依は鎖の拳を打ち込む。
「それでも、やるしかありませんの!」
依の攻撃後の隙を狙う者には、グレイスのコインが打ち貫く。
「グレイスちゃん、これ何匹目か覚えてるっ!?」
二体同時に襲ってくる奴らには、
「数えるだけ、馬鹿馬鹿しいですのっ!」
――二人で、蹴りをぶち込んだ。
だが、周囲に集ったノイズに減る様子はない。というよりも、空間内が完全に闇に閉ざされているため、確認のしようがなかった。
蠢《うごめ》く姿だけを見る限り、その数は軽く数百は超えるであろう。
「ただでさえ見通しが悪いのに、なんなんですのこの振動はっ――!」
煩わしそうに叫ぶグレイスに、
「……? なんかおかしくない?」
依が口を開いた。
「なにがですのっ!?」
「――攻撃が、止まってるよ……?」
グレイスが周囲を注意深く見渡すと、確かに、ひっきりなしに襲ってきていたノイズの攻撃が止まっていた。しかし、周りに蠢く影はまだ見えている。
「どういうこと? なんで動きを止めて――」
――バサッ。
一匹のノイズが、羽を広げてその場から飛び立った。それを合図としたように、次々と彼女たちを取り巻いていたノイズが飛び上がり始める。
そしてその大軍は、一斉に大移動を始めた。
「! まさか、彼方さんの方に何か――っ!?」
「グレイスちゃんっ!」
二人は視線だけで意志を通じ合わせ、同時に走りだした。
――キィ、キィ。
戦闘区域から少し離れた場所に、ぽつりと佇んでいる揺りかご。ゆっくりと反復運動を繰り返す純白の寝台。空間の震えは、この場所にも影響を及ぼしていた。
その中には、一人の少女が眠りについている。
「……白姫、くん……」
瞳を閉じたままの彼女の唇が、かすかに動いた。
それは願いを込めた呼び声。
彼女を救うために戦っている、一人の魔法少女を呼ぶ声。
少女の枕元には、銀色のフレームで縁取られた眼鏡が置いてある。
その冷たい金具に、
「――……」
少女の手が、触れた。
「――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「……!?」
「なんて声だっ! こんなの人間の声じゃない、むしろ獣の鳴き声じゃないか……」
モエルが肩の上で驚嘆《きょうたん》の声を漏らした。そう言った後にこちらを見て、怪訝《けげん》な顔をする。
「? かなたん、どうしたの!?」
さっきからボクは、モエルの声があまりよく聞こえていなかった。同時に、ボクの全身は射竦《いすく》められたように制御が効かなくなってしまっていた。
「モエル……この、声……」
「なに? かなたん、よく聞こえないよ!」
フィアネスが放つ鳴き声から――伝わってくる。
「聞こえるんだ……この声≠ゥら、彼女の……フィアネスの想いが……」
自分の考えが認められなかったことに対する怒り。
力を失うことへの恐怖。
想いを折られ、過ごす日々の悔しさ。
奪った者たちに対する憎しみ。
ありとあらゆる感情が、その声≠ノ詰まっている。
(あれだけの体に、こんなにも膨大《ぼうだい》な想いを……?)
「|想いに当てられるな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、かなたん! ――フィアネスめっ、力で勝てないなら心を攻めようっていうのか!」
抗《あらが》おうとしても心が引っ張られてしまう。意識するつもりはないのに、彼女の想いが、音の奔流《ほんりゅろ》となって押し寄せてくる。
――体が傷つけられるよりも遥かに痛い。
蒼が、揺らぐ。
「魔力強化が解けかかってる……! かなたん、心を強く持つんだ! アイツの想いになんて負けちゃダメだ!」
(分かってるよ、でも……)
「!」
気がつくと、頬に涙が伝っていた。
どうしようもなく心が寒くなるのを感じていた。切り刻まれるように、押し潰されるように、様々な感情が胸を叩いた。
「腹立たしい、恐い、悔しい、憎い……この人の心は、こんなにも悲しい感情に塗りつぶされてるの……?」
ザザザザザザザザザザッ!
数十、数百の羽ばたきが聞こえる。それを合図として、フィアネスの周りに羽の生えた人のシルエットが降り立った。ノイズの群れは騒音の元となっている主を守るように、周りに囲いを作る。
――しかし。
「アアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
身が辣むほどの雄叫《おたけ》びを上げ、フィアネスが両腕を振り回した。
腕からあふれ出る黒い力が鋭い爪のような形となって、周りに降り立ったノイズたちを貫き、消し去る。
「吸収、してる……!」
「かなたんっ、どんどんノイズが集まってきてるよ! 引き寄せられてるんだ、この声に!」
段々とモエルの声が切羽詰まったものになっていく。
ボクの瞳からあふれ出る涙は、止まることがなかった。引き裂くような胸の痛みが、ボクを捉《とら》えて放さない。
いくら魔力が膨大にあったところで――こんな気持ちのままで、魔法なんて使えない。
「っ! 思い出すんだ、キミがここに何をしに来たのか! あの子を救いに来たんだろう? だったらこんなところで負けちゃダメだよ! 体を動かすんだ!」
何度も試した。心を奮《ふる》わせ、救いたい人のことを考えた。この暗闇に閉ざされた世界を何とかしなければ、なんてことまで考えた。
だが、それでも目の前の女性から放たれる慟哭《どうこく》は、切なる想いは、上回れなかった。
パシュ、ン――。
「!?」
手の中から、杖の感触が消える。
両手を開いてみると、オーヴァゼアが消えていた。それからすぐに着ている衣装が光となって消え、元の服へと戻ってしまう。
「変身が……解けた……?」
絶望に限りなく近い声の調子で、モエルが呟く。
――変身の解除。それは、戦う意思がなくなった、ということに他ならない。
「オオオオォォォォォアアアアアアアアアアッ!」
フィアネスの慟哭が耳をつんざく。集まるノイズを闇雲《やみくも》に蹴散らしていた巨大な腕が、ボクの方を向いた。そして、ノイズを叩き潰すのと同じ要領で、こちらに向かって繰り出された。
そのとき、
(? これは……)
流れ込んでくる想いの中に、わずかな違和感を感じた。憎悪に縁取られたものとは少しだけ違った、妙な感覚。心の深い場所にあって、感じ取るのが困難な。何かが……。
「かなたんっ……!」
モエルが叫び、肩から飛び降りる。
「っ! モエル、何をやって――」
「――何をやってるも何もない! 言ったはずだ、おいらはかなたんを守る! どんなことをしたって、何を犠牲《ぎせい》にしたって!」
決意の咆哮がボクの胸を射抜く。そうして金色の猫は、ボクの家族は、黒く禍々しい凶腕の前に自ら躍《おど》り出た。
「モエルッ!」
(あんなに小さな体で、どうして立ち向かえるんだ……っ?)
いつだってそうだった。この猫は、小柄な体の中にいつも大きな想いを持っている。
その強い想いは、あまりに強すぎて危なっかしい。自分のことが見えていないかのような無謀な行動に走ることが今までにもあった。
その、自身すら顧《かえり》みない想いはすべて、ボクに注がれているのだ。
――グォンッ!
空気のねじ曲がる音が響き、腕が軌道上のすべてを上から叩きつぶそうと放たれた。
モエルは四肢《しし》を低く沈め、飛び上がる構えを作った。
(まさかっ、下から体当たりする気!? 勝てるわけないだろっ!)
「っ!」
ボクは足下にいたモエルを素早く両手で掴むと、自分の体勢なんて気にせずに床を蹴った。
「にゃわっ!? ちょっ、かなたん!」
巨大な腕が地面に叩きつけられ、空間に振動が走った。しかし間一髪、ボクとモエルは無事に攻撃をかわすことができた。しかし着地などできるはずもなく、ゴロゴロと床を転がって敵から距離をとる。
「おいらのかっこいいとこが――」
地面に下りた直後、軽い言葉を放とうとするモエルに、ボクは――。
「――ばかっ!」
思い切り、怒鳴りつけた。
ビクッ、とモエルは体を震わせ、体を縮ませる。ボクはそんな様子も気にせず、心の底から怒鳴りつけた。
「何を犠牲にしたってボクを守る? それでモエルが傷ついてどうするんだっ!」
フィアネスの感情による束縛《そくばく》がいつの間にか解けている。しかし今大事なのはそんなことではない。
……この、バカ猫のことだ。
「なんか勘違いしてるみたいだから言っておくけど、ボクは|モエルが傷ついて平気でいられる人間じゃないからね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
「!」
モエルの耳が立つ。
「ボクは、ボクの大事な家族が傷ついたらすっごく悲しむから! それは体じゃなくて、心が傷つくってことだからねっ! 勘違いしないでよ。ボクを守るなんて言うのなら、|この心ごと全部守りきってよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
一気にまくし立て、ボクは荒れた呼吸を整える。
モエルはしばらく俯《うつむ》いていたかと思うと、
「……ごめん」
一言だけ、謝った。ボクは「よし」と頷き、モエルを肩に乗せると――、
「アアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
――真横からの薙ぎ払いを、後ろに転がることでかわした。
フィアネスは足音もなく、標的をしっかりと見据えている。道中、羽虫のように周りを囲うノイズを片腕で蹴散らしながら、こちらへ向かってくる。
(もう一度変身……して、どうするんだ……?)
束縛から逃れたとはいえ、まだ胸の中には黒々とした想いが溜まっている気がする。気を抜くと、間違いなくまた|当てられてしまう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だろう。今こうして動けるようになったのだって、あまりモエルがバカなことをするから、勝手に体が動いただけなのだ。
「かなたん……どうするの……?」
「…………」
分かっていることは一つ。
――フィアネスの想いは強い。
少しでも心に隙を見せれば、簡単に心が折られてしまう。
それはつまり……自分の想い≠ェ弱いということでもある。
(向こうの魔力は膨《ふく》れあがるばかり。しかも、想いまで勝てなかったら……)
手の打ちようなんてない。
浮かび上がる考えを、首を振って振り払う。
(ダメだ、こんなことを考えていたらまた……!)
フィアネスが近づいてくる。ノイズを薙ぎ払い、喰い散らしながら。赤い光がはっきりと目に入る。その燃え立つような赤色は、ボクの瞳を焼き尽くそうとしているかのようだ。
這《は》い上がる悪寒《おかん》に、ボクはまた心を絡め取られそうになる。足が震えはじめ、その微細な怯《おび》えが体を走り、モエルに伝わってゆく。
「……かなたん」
「だい、じょうぶ……だから」
こんな時にまで、強がりは口を突いて出た。心配させれば、モエルはまた無謀な行動に走りかねない。……それだけは嫌だ。
「ァ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
細い、細い、怨嗟《えんさ》の声が、背筋を撫で上げた。
目の前にいるフィアネスが放つその声は、歌っているようにも聞こえた。
どこを見ているか分からない眼が――。
ぎょろっ。
――こちらを、見た。
「〜〜〜ッ!」
恐怖の声すらあげられない。それはモエルも同じようで、ボクの肩に爪を食い込ませ、ぎゅっとしがみついてくる。
フィアネスは、腕の攻撃範囲にボクを捉えた。
恐らく、彼女の腕の一振りはもう回避できない。体を動かそうと思っても、動くかどうかさえ分からない。自分の体が石にでもなってしまったようだ。
彼女の想いは――深淵《しんえん》。そこに囚《とら》われてしまえば、後は引きずり込まれてしまうのみ。
「――お母さん」
そのとき、人影がボクとフィアネスの間に割って入った。
顔にはいつもの眼鏡。白い衣装に揺らめく黒い髪。おさげでなくともすぐに分かった。
ボクは背を向けている少女の名を呼ぶ。
「いいんちょっ!」
彼女はボクの顔を確認しないまま、ふわりと声を放った。
「ごめんね、白姫君。……辛い思いをさせて。私の責任を、あなたに押し付けようとして」
委員長の声の中には、悲しみが混ざっていた。
少女もまた……傷ついている。この人は優しいから、自分の母親がこんなことをしているのにも、恐らく、ボクが戦っていることにさえ、心を痛めている。
「アアァ……」
フィアネスは自分の娘の姿を見て、足を止めた。
「お母さん。もう、やめよう?」
ポンッ。
少女は、自分の心の象徴《しょうちょう》を開き、右肩に添える。
オリジンキーシャイン・プリヴェンター=B傘は真っ白で、ぼんやりとして見える。
「私もう見たくない……大好きなお母さんがそんな風になっていくの、見たくないよ……」
傘は、空から降り落ちる雨粒を防ぐためのもの。
「ごめんね……。私が弱かったから。お母さんを止められるだけの勇気がなかったから。こうなるって分かってたのに、いつまでも甘えてばかりいたから……」
彼女はきっと、心を濡らし続ける冷たい雨を、防ぎたかったのだろうと思う。狂い逝《い》く母親を、ただ見つめることしかできなかった。そのことに対する後ろめたさや、悲しみ、後悔。それらから自分を守りたかったのだと思う。
「でも、決めたよ」
しかし少女は今、その降り注ぐ雨に、一歩足を踏み出した。
「私、お母さんのこと大好きだから」
立ち止まったフィアネスの元へとゆっくりと歩み始める。
「無口でも、何考えてるか分からなくても。……大好きだから」
ボクは離れていく後ろ姿を、呼び止めることができなかった。
「あなたを、止める」
そう、言い放った刹那――。
「――ッ、アアアアッ!」
フィアネスが、迫ってきた少女に対し――右腕を真横に振るった。
「――いいんちょっ!」
その攻撃は手加減も迷いもない、ただ排除するためだけの一撃だった。
委員長は、傘を盾にして、闇の腕を受け止める。重い衝突音が響き、委員長の細い体に凶悪な威力が襲いかかった。しかし、少女は立ったままそれを受け止め、耐える。
傘の表面を滑らせ、委員長はなおも母親に向かって歩き始めた。
「無茶です、いいんちょ! っ、遍《あまね》く空の果てへ!」
変身し、一気に駆け出そうとした瞬間。
「来ないでっ!」
驚くほどの叫び声に、ボクは思わず立ち止まってしまった。彼女は顔を少しだけこちらに向け、口を開く。
「……私、自分からお母さんに何かを伝えることって、なかった。だから……やってみたいの」
ギシィッ。
彼女のオリジンキーが悲鳴を上げた。
「かなたん……まずいよ、彼女……まだ回復しきれてない。ほとんど限界のはずなのに、無理に体を動かしてるんだ……」
「……分かってるよ……でも、ボクには止められない……」
委員長は――また、歩き出した。
「ァアッ!」
フィアネスが、反対の腕を振るった。腕と腕で挟み込むように、左腕を動かす。
(まずいっ!)
彼女の傘は右腕を防ぐのに使っている、逆側からの攻撃には対処できない。それは彼女が一番よく分かっていることだろう。しかし、委員長は――。
ドガンッ!
――攻撃を、防ごうとはしなかった。
「いいんちょっっっ!」
モエルが顔を背け、強く目を閉じた。
ノイズの力で強化された両腕に挟み込まれた少女は、
「……ぅぐっ」
まだ、倒れてはいなかった。
見ているだけで痛々しい、いつ倒れてもおかしくない姿ではあった。しかし、止めようとはしていない。諦めという想いに、覆われてはいない。
「お、かあ、さん……」
少女は歩く。足を動かしながら、確実に母との距離を縮めてゆく。一歩一歩、最愛の人に触れるため。
手を伸ばす。
「ァ――?」
フィアネスが、自分の前にかざされた手の平を見て、首を傾げた。
「! 意識があるのか!?」
モエルが驚いた声をあげる。
少女は手が届く距離にまで近づくと、一気にその身を、目前の母親の体に埋めた。……というより、限界だったのだろう。彼女は崩れ落ち、フィアネスに寄りかかってしまったのだ。
「――?」
胸の中にいる人物を不思議そうに見つめ、母親は何かを思い出そうとする。
「!」
ボクはそれを見て確信する。フィアネスの中にはまだ、娘の記憶がある。家族のことを思い出すだけの、感情があるのだと。
(このままそれを思い出させてあげれば――ッ!)
しかし、それは許されなかった。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!
「うっ、ぐっ!」
「かなたん!?」
激しく、苛立《いらだ》っているかのような騒音が――|フィアネスの体から《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》から解き放たれた。
突然の大音響に頭が痛む。
「いいん、ちょ……!」
顔を上げると、
「――アァ――」
フィアネスの顔が、今まで見てきた完璧な無表情に戻っていた。彼女の体から赤い光があふれだしている。その毒々しい光は、意思を持っているように見えた。
彼女の周りには、再び異形の姿が集まり始める。
(今まで取り込んできたノイズが、邪魔を……しているのか)
バキンッ!
感情を失った黒の女性は、胸の中に抱いていた娘を――殴り飛ばした。その力は普通ではない。委員長の華奢《きゃしゃ》な体は横に吹っ飛び、闇の中に転がってゆく。一緒になって聞こえてくるのは、パリンッ、という眼鏡のレンズが砕《くだ》ける音だった。
そしてそのまま、彼女は動かなくなってしまった。
「アイツッ!」
モエルが怒りに咆《ほ》えた。
ボクは、そのとき――
一方、地上では。
『……ッ』
空の黒穴から放たれる振動を感じ、エフェクトは戦慄を憶えていた。
(地上にまで伝わってくるこの力……まだ膨れあがるというのか……)
「かなちゃん……」
彼方たちを見送った場所から動いていない白姫此方が、空を見上げたまま呟いた。
『不安か?』
「ううん、全然」
問いかけに此方はあっさりと応えた。感情の出し方が上手くないディスコードも、さすがに怪訝な様子を隠せない。
『……なぜそこまで信じられる? 確かに、荒削りだが彼方は強い。が……相手の力は幾千ものノイズ相当。私と戦ったときより多少強くなった程度では、足元にも及ぶまい』
「強さって何?」
此方は質問に質問で返す。
『究極的には身体能力と判断能力の組み合わさった総合能力、だと考えているが』
即座に返ってきた答えを聞いて、此方は軽く笑った。
『何がおかしい?』
「うふふ。……案外、真面目《まじめ》なのね」
意思を持つノイズは、その白い瞳を此方の幼い顔に合わせた。しかし、空を見上げる彼女の表情からは、明確な感情が読み取れなかった。
いや――知らなかった。
エフェクトは、その感情の正体を。
愛情≠ニ呼ばれる、人の持つ強固な想いを。
「……一つ、かなちゃんの秘密を教えてあげるわ」
突然目が合って、エフェクトは心に焦りを覚える。だがその言葉の内容の方が興味深かった。
『秘密、だと?』
「ええ。かなちゃんの強さの根底にあるもの、想いを支える大事な要素」
黙し、その答えを待つ人外の存在に、此方は不敵に笑って言い放った。
「あの子――意外とわがまま≠ネのよ」
『……は?』
その声は、このノイズが初めて出す声であった。
ザザザ――ザザ――ザ――。
騒音を立てながら集まってくるノイズはすべて、フィアネスに呑み込まれてゆく。もはや腕を振るうまでもなく、その体から送る黒い魔力に触れた瞬間、ノイズの体は分解され、彼女の血肉となってしまう。
吸収する度《たび》に体に走っている赤いラインが明滅し、その光が強く鮮やかに染まってゆく。
よく見ると、フィアネスの全身が次第に黒く染まっていくのが分かる。それに対比するかの如く、紋様は輝きを増してゆく。
「――……」
ボクは黙って、それを見ていた。
「かなたんっ……今すぐあの子を連れて、ここから離れよう。もう無理だ。もしかしたらって思ったけど……やっぱり、感情を取り戻すことなんてできなかった。それどころか、アレはもっと厄介になってる。今ならまだ、こなたんに頼んで――」
「――何、やってるんだ」
「え?」
ボクが囁《ささや》いた声に、モエルは、耳を澄ませた。
「アァッ!」
ズザザザザザッ!
さっきよりも巨大になった腕が、騒音を纏って振り下ろされる。しかも、
「速いっ!? かなたんっ!」
大きさに見合わない速度を伴って。
ボクは、自分に向かってくる敵意を、真っ向からオーヴァゼアで受け止める。
ズシンッ!
重圧が頭から足下までを突き抜け、体が軋んだ。
「……っ! どうして、彼女を殴った……!」
ボクは押し潰されないように耐えながら、彼女に声を放つ。
「|何をやっているんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、アナタは《ヽヽヽヽ》! 自分の娘の前で、なんて無様なことをしているんだ!」
フィアネスの体から漏れ出す黒い力は、彼女の首の辺りまで侵蝕《しんしよく》している。
「……くッ! あの子は……あんたの娘は! 復讐《ふくしゅう》なんて止めて、普通の親子として暮らしたいって、言ってたんだぞ……!」
腕にかかる重みが増した。構えたオリジンキーが震えてくる。それを見かねて、モエルが言った。
「かなたんっ、このまま力比べしててもこっちが不利だ! 一旦離れて、他の方法を!」
「いや、だ……」
ボクは重圧に耐えながら、それを拒否した。
「な!? どうしてさ!」
「……いいさ……あっちが、どんどん強くなるっていうのなら……それも全部まとめて、ぶっ飛ばしてやる……!」
「何言ってんのさキミは!? 相手の力は――」
非難めいたモエルの言葉に、ボクは強く言い返す。
「――だからこそ《ヽヽヽヽヽ》、だよ……!」
「え……?」
ボクは叫ぶ。
「こんな力があるから、娘のささやかな願いすら叶えてあげられないんだろ……! あんなに強い想いを、無視したりできるんだろ……!?
だったら全部、ぶっ飛ばさなきゃいけないじゃないか! 認めちゃいけないんだ、こんな|下らない想いの塊《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を。母親の想いがそんなものに負けるなんて、|ふざけた茶番《ヽヽヽヽヽヽ》を――ッ!」
――すべては、ボクのわがまま≠セ。
こんなのに負けたくない。負けてほしくない。
家族の絆《きずな》が、こんなものに負けるはずがない。
そう信じるボクの、わがままだ。
「でもっ、このわがままだけは――絶対に、譲らないっ!」
その想いは、確かな力を持つ。
ピィ、ン。
旋律《せんりつ》を奏《かな》で、オーヴァゼアが光を放った。体内の魔力がボクの体を押し、のしかかっていた腕を弾き返す。
「アアアアアッ!」
攻撃を押し返されたフィアネスは怨嗟の声をあげる。そして、この場所に集うノイズを次々と蹴散らし、さらなる己の力とし始めた。
「でもっ、かなたん! 相手の力はほとんど無限なんだよ? 時間が経つほど不利になっていくんだ! どうやって――」
「――モエル。今、アレ℃揩チてる?」
ボクは静かに聞いた。
「は? アレ?」
何のことか全く分からない、という風にモエルが首を傾げた。
ボクは、はっきりとそれの名前を口にする。
「契約書=v
その単語を聞いた瞬間、モエルが口をあんぐりと開けた。
「ちょ!? なんでここでそんなものが……」
「いいから出して。……どうせ持ってるでしょ」
この猫はボクが変身するのを嫌がるといつも、どこからかその紙切れを取り出し、ボクを脅すのだ。持っていないはずがない。
「え、えっと……」
モエルが自分の体をまさぐり始めた。
ザザザザザザザザザザッ!
フィアネスは見境なしに攻撃を繰り出し、ノイズを喰らうことで段々と力を増す。その体からあふれ出る闇はとどまるところを知らず、それらは段々と膨れあがってゆく。
彼女はすでに、頭から足の先まで、すべてが闇に包まれていた。
濃い闇の中に浮かぶ赤い紋様――ノイズリダクションの光が、黒々とした輝きを放つ。
「あった、これだっ!」
よそ見をしている間に、モエルはその手に一枚の紙切れを掴んでいた。
「うん。ありがと」
すかさずそれを手に取り、瞳を閉じた。
――元はと言えば、コレがすべての始まりだった。
母とモエルの共謀により、強引に交わされた契約。それのおかげでボクは、男でありながら魔法少女などという役割をする羽目になってしまったのだ。
(ふざけた契約だよ……)
初めは冗談かと思っていた。
そんな滅茶苦茶な約束があるわけない、と頑《かたく》なに理解を拒《こば》んでいた。
「かなたん? 待って、まさか……!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァッ!」
一際強い雄叫びを放つと、五、六メートルほどの巨大なノイズと化したフィアネスが、その両腕をこちらへ向けて振り下ろした。
「ッ、かなたんっ!」
強大な力の唸りが伝わってくる。まともに喰らえば、まず間違いなくぺしゃんこになってしまうだろう。
だがボクは、その場から動かず――。
「――契約、破棄《はき》」
ビリビリビリッ!
手の中の契約書≠、破いた。
「!? ああああああああああーーーーーーーーーーーーっ!」
モエルがあらん限りの大声を捻《ひね》り出す。
――ズガンッ!
闇の腕が、白銀の人影を叩きつぶす。
「彼方さん!」
「彼方ちゃんっ!」
二人の魔法少女が駆けつけたときに見たものは、闇の中に倒れ伏す黒髪の少女と、そして、巨大な闇の塊に叩きつぶされる――白姫彼方の姿だった。
「そん、な……間に、合わなかった」
グレイスは目の前で起きた出来事が信じられず、口元を押さえふらついた。
「嘘、だよね……彼方ちゃん……?」
依は考えたくなかった最悪の結果に、足の力が抜ける。
彼女たちの前には原形をとどめていない巨大なノイズが立ち塞《ふさ》がっている。そこから放たれている力は、彼女たちを絶望させるに十分なほどの強大さを感じさせた。
しかし、グレイスはふらつく足を奮い立たせ、押し寄せる絶望を怒りに変える。
「ッ! よくもっ、彼方さんを――ッ!」
彼女の右手に魔力が集《つど》い、一枚のコインが生まれる。それは煌々《こうこう》とした金色の輝きを放ち、少女の手の平に収まった。
「喰らいなさいッ――!」
いつもの撃ち方をやめ、彼女は握りしめたコインをそのまま、腕の力で投げ放つ。
ゴォゥッ!
彼女の燃え盛る想いを汲《く》み上げ、金貨は荒々しい炎をその身に纏う。
全魔力を賭けた一撃。
余力も何も残さず、感情のままの一撃がフィアネスへと突き刺さるー。
「――アアアアアアアッ!」
闇が、鳴いた。グレイスの放ったコインは彼女たちの数倍もある巨体に突き刺さると、炎を撒《ま》き散らしながらその腹部に風穴を開ける。
「やった!?」
依は叫び、慌ててグレイスの方へと駆け寄る。それと同時に、紅の魔法少女の変身が解けた。
「……彼方さんの、仇《かたき》、ですの……!」
「グレイスちゃんなんて無茶するの!? 変身が解けるまで魔力を解放するなんて――っ!」
「……留真、ですの……」
力をすべて使い果たし、留真の膝が折れる。依はそれを支え、フィアネスを見た。
「っ!」
その目が驚愕《きょうがく》に見開かれる。
グレイスの渾身《こんしん》の力を持って穿《うが》たれた穴に――闇が流れ込んでいた。
「修復、してる……!?」
彼女が見ている目の前で、その体は元通りに戻ってしまった。
「……やっぱり、勝てないの……?」
望みが次々と潰《つい》えていく。その現実を前に、依の心が折れそうになる。
「彼方、さん……」
留真もまた、その身に絶望を感じていた。
(もう、動くだけの気力も……ない、ですの……)
フィアネスは先程から、両腕を地面に叩きつけた体勢のまま微動だにしていない。
(……?)
それがなぜか、と留真が気にした、そのとき。
彼女たちの前で、蒼が弾けた。
――ドクンッ!
心臓が鳴った。
(!? 熱い……っ!)
何かがボクの体内を嘗《な》め回している。何とも言えないむずがゆさと、わずかな恐怖。視界が段々と白く染まる。意識までもが、どこかへ連れて行かれそうになる。
体中をくまなく這い回る暖かな何かが、体の奥底から力を湧きあがらせてくる。
決して悪い気分じゃない。どちらかと言えば心地良い。心地良すぎて、恐い。そんなゾクゾクする快感にしばらく悶《もだ》えていると、不意に意識が真っ白に染め上げられた。
そして光が、爆発する。
「――……」
黒く染まっていた視界が急に開けた。
(ん、と……)
視線を動かすと、何やらいろいろと状況が変わっている。
(グレちゃん? 変身が解けてる……依さん、呆《ほう》けた顔してどうしたんだろ……)
目の前には巨大な怪物。しかし、その怪物は奇妙な形をしていた。のっぺりとした山のようなシルエット、その胴体から伸びている二本の腕が、途中で|千切れている《ヽヽヽヽヽヽ》。
(ボク、さっきまであの腕に……?)
禍々しさだけを放つ怪物は、腕が千切れたことに戦慄《おのの》き、悶えている。
なんだか頭がぼうっとしていて、記憶の前後がはっきりとしていない。
「かな……たん……」
肩の上から聞こえた声は、聞き馴染《なじ》みのある相棒のもの。首を回して声のした方を見ると、その猫の表情は、なにやら完全に崩壊《ほうかい》していた。
「? なに、そんなに驚いてるの……ボクの顔になんか付いてる?」
[#挿絵(img/mb880_293.jpg)]
ぺたぺたと自分の顔を触ってみると、いつも通りの顔がある。
(あれ、ボクの肌……こんなにぷにぷにしてたっけ……?)
違和感。
(なんか、体もスースーするし……)
そう思って視線を下ろしたとき。
――すべての記憶が蘇った。
「なっ――! ななっ? な、に、コ、レェェェェェェェェーーーーーーーーーッ!?」
それは奇しくも、ボクが初めて変身したときとまったく同じ叫び声であった。
「どどど、どういうこと? なんでっ!?」
狼狽《うろた》えるボクに、モエルが叫ぶ。
「キミが契約破棄したんだろ? 言ったじゃないか、この契約書を破り捨てたりしたら――
――|女の子になっちゃう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》って!」
「わ、わかってるよそれは! じゃなくて、どうしてっ」
自分の着ている衣装を指さし、
「――どうして、服が変わってるんだよ!?」
声を大にして叫んだ。
「女の子になっちゃったんだから、服がそれに合わせて変わるのは当然だよっ!」
……そう、ボクは今、新たな姿となって立っている。
髪を二つに分けて結ぶ赤いリボンと、襟《えり》からぶら下げられた桜色のネクタイは健在である。
しかし上に着ている白いシャツは、肩が露出したデザインに変わっていた。腕から指先まで、大きめな袖が包んでいる。
下半身はそのままで、白と水色のミニスカート。しかし新たに、両方の太股《ふともも》にリボンが結びつけられていて、自分がラッピングされているみたいだ。
そして、最大の変化がそこに潜《ひそ》んでいた。
「え」
スカートの裾から、見えるはずのものが見えない。
(え? そういえば、なんか風通しがいい……)
「? あれ、かなたんっ、スパッツは!?」
そこに気がついたモエルは、一瞬で飛び降りた。そして、足下から見上げてくる。
「ちょっっっ、こらっ!」
慌てて押さえたが、遅かった。
「……なんて桃源郷《とうげんきょう》……」
そう言って、ぱたりと倒れる。
「なっ、なんなの!? 何が見えたの?」
ボクは自分で確かめるのが恐くて仕方がなかった。
――しかし、気の抜けたやりとりをするのもそこまで。
「彼方さんっ! 後ろですの!」
留真ちゃんの叫び声が響く。
「オォォォォォォォォォアアァアアアアアアアアアッ!」
ブオゥンッ!
修復を終えたフィアネスの両腕がこちらに向かって振り下ろされた。その攻撃には、先程まではなかった強い敵意が感じられる。
(どうやらボクは、コイツの天敵と見なされたみたいだね)
落ち着いてボクは、右手を上にかざす。
「っ、受け止める気!? 今度は無理だよ、かなたんっ!」
それ≠喚《よ》ぶ。
「来い――ッ!」
頭の中にはすでに、新たな名が刻み込まれている。
それは、空と交わる、蒼き杖――。
「クロス・オーヴァゼア=v
強い閃光《せんこう》を伴い、それは手の中に現れた。
――シンプルなフォルムはそのままに、宝玉を支えている台座が形を変えている。銀色の装飾が大きく十字に広がり、以前の姿よりもより魔法少女の杖≠轤オい形状をしている。
「たぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ボクはそれを、襲いかかってくる豪腕に向かって振り上げる。
ズガンッ!
「弾きっ――」
「――返した!?」
留真ちゃんと依お姉さんの驚いた声が耳に入る。だが、それだけでは終わらない。
ボクは杖を後ろに振り切った状態から、意識を杖に集中させる。
ピィンッ!
鍵盤《けんばん》を強く弾くような、いつもより強い旋律が体に響いた。それに伴い、杖の先端、銀色の台座に守られている無色|透明《とうめい》の宝石が輝きを放つ。
「かなたん、まさかっ!」
足下からモエルが期待の声をあげる。
「蒼の――」
杖を後ろから前へと振り下ろすことで、空間に描かれる青い光のライン。
「――軌跡っ!」
それを杖で叩き、解き放つ。
半月状の魔力光が巨体に向かって飛んだ。それが危険なものであることに気づいたのか、フィアネスは腕を軌道上にかざし、軌跡を左腕で受け止める。
炸裂《さくれつ》、展開する蒼色の爆発。
「まだだっ!」
振り下ろした杖を返し、今度は横に振る。再び軌跡は生まれ、ボクはそれを打ち放った。
「やっぱりかなたん、魔力をちゃんと操れてるんだね!?」
肩の上に飛び乗ってきたモエルが歓喜の声を上げる。
「……元はと言えばボクが男だったから、魔力が制御できなかったんでしょ。だったら女の子になっちゃえば、自分の中にある魔力をちゃんと扱うことができる」
二発目が右腕に炸裂し、その闇を砕く。
「こんな想い、真っ正面からぶち壊せるっ!」
続いて放った三発目が、その体を打ち砕いた。
腹に巨大な穴が開き、衝撃によって巨人は後ろに仰け反る。即座に赤い紋様が輝き、ノイズの力を循環《じゅんかん》させて修復にかかる。
……しかし、力をどれだけ循環させても、その攻撃によって崩された部分は修復しない。各所で起きている蒼い爆発が、流し込む力を片っ端から消し去っていた。
「アァ……ッ!」
重く響き渡る怨嗟の声。しかし、
「――同情なんてしない」
ボクは揺るぎなく、フイアネスへと声を投げる。
「力を失い、復讐しか生きる上での目標がなかった。別に構わないさ、あなたのその想いが本物だったなら」
クロス・オーヴァゼアが輝く。
「だけど」
記憶の中、柔らかに微笑む一人の少女を思い浮かべる。
「その前に、見てあげなくちゃいけない人がいたんじゃないのか」
カツッ。杖で地面を叩き、一歩を踏み出す。
「ずっとあなたの傍《そば》で、頑張ってた人がいたんじゃないのか」
カツッ。
「知ってますか? あの人はボクに触れてるとき、本当に楽しそうな顔をするんだ。……触れ合うことを、心の底から喜んでるんだ」
カツ、ン。フィアネスの目の前で立ち止まり、ボクは言い放つ。
「でも……あの人が本当に触れたかったのは、ボクなんかじゃなくて、もっと傍にいる人だったんだ」
思い知らせてやらないといけない。
「その人の想いは、あなたの復讐心なんかより遥かに強いはずなんだ」
彼女の、想いを。
「いいんちょは――あなたのことが、大好きなんだ!」
クロス・オーヴァゼアを両手で持ち、高く空へと掲げ、
「そんなことすら気づいてあげられなくなるような、ふざけた想いなんか」
創造する。
「ボクが、空の果てまでぶっ飛ばしてやる!」
その場にいた二人は、体を包む感覚に身を震わせた。
「この、魔力は……!」
留真の顔に喜びが浮かぶ。
「すごく、心地良い……!」
依は体に染み渡る涼やかな魔力に、安堵《あんど》を覚える。
地上で待つ二人にも、それは伝わる。
『ここからでもはっきりと分かる……!』
戦慄と羨望《せんぼう》、複雑な想いをエフェクトは抱く。
此方は、
「さあ、やっちゃいなさい♪」
不敵に、微笑んだ。
――闇に伏した少女のまぶたが、かすかに動く。
夜は、「蒼の世界=I」
果てなき空に包まれる。
――見回せば、そこに広がるのは蒼。
自分が存在している領域が蒼に包まれる。純粋な空のイメージだけを創造した世界。
「グ、アアアアアアァッ!」
フィアネスはこの世界に不愉快さを感じているのだろう。除りを上げ、自らの力を用いて世界をもう一度闇で侵《おか》そうとする。ノイズの力を大量に消費しながらも、まだその怨嗟を諦めるつもりがないようだ。
「領域の強制書き換え……! かなり強引だけど……でも、かなたんらしい……っ!」
モエルが肩の上でぶるる、と震えた。
赤い光も次第に薄くなっていくフィアネスへ、ボクは声を放つ。
「これでもう、夢を見るのは終わりです」
クロス・オーヴァゼアを両手で構える。
「今、あなたの中にいるノイズを消し去ってあげます」
力を込め、意識を繋げる。
「今度はちゃんと応えてあげてください」
蒼い光を体からあふれさせ、
「母を想う、娘の気持ちに」
駆ける。
「オーヴァー――」
横に構えたオーヴァゼアから光があふれ、それはボクの体からも次々と湧き出す。
ブォンッ!
フィアネスが崩れかけの右腕を繰り出してきた。しかしその攻撃は、ボクの体からあふれ出す蒼い光に触れた瞬間に蒸発する。闇は苦悶《くもん》の声を上げ、次に左腕を振り乱した。それも同じように触れる直前で消し飛び、残る部分は胴体だけとなる。
胴体の中にノイズの力を司る、赤い紋様が見えた。
空色の線を描き、広がる空の領域を駆け、ボクは想いのすべてを――。
「ッ、ゼアァァァァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
――叩きつける。
闇の体内にオリジンキーがめり込み、力が伝達する。
ビシッ、ピシピシッ!
赤い紋様にヒビが入る。
ボクは腕にさらに力を込め、想いをぶつける。
亀裂から漆黒の力が勢いよく噴き出し、視界を黒く染めようとした。しかし、ボクの体からあふれ出る蒼い光がそれを阻《はば》み、消し去る。
亀裂は全身に走り、抵抗するかのように邪悪な力はあふれ出してくる。
「かなたん! いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
モエルの掛け声に合わせ、ボクは最後の力を振り絞った。
――パキンッ――。
ノイズの力を仲介していた赤い紋様が弾け飛ぶ。
闇に呑み込まれていたフィアネスの体が、巨人の体内から吹き飛んだ。
ノイズの力をまとめていた紋様が壊れたことで、巨人を形作っていたノイズの力が崩壊を始める。
無理やり生み出されてきたノイズたちが、光の粒子へと変わってゆく。
これまでに見たことがない大規模な現象。
尽きることのない、光の洪水。
「綺麗……」
耳元で唾いたモエルの声に、ボクは黙って頷いた。
―――すべて、終わった。
「…………」
倒れている黒髪の女性に、ボクは歩み寄る。
[#挿絵(img/mb880_305.jpg)]
そこへ、
「お母さんっ!」
委員長の声が響く。ふらつきながら走ってきた彼女は、倒れたフィアネスに駆け寄ると、力の抜けた体を抱き起こし、耳元で呼びかける。
「お母さんっ、お母さん……」
何度呼んでも反応はない。
「――彼方さん」
後ろから声がした。
「……留真ちゃん、依さん」
二人はボクの隣に立ち、まず依お姉さんが口を開いた。
「終わったんだね」
「……はい」
そう答えると、依お姉さんは視線を抱き合う母娘へと向けた。次にグレちゃんが聞いてくる。
「彼女は……どうなったんですか」
モエルが答える。
「あれだけのノイズに意思を乗っ取られたんだ。もしかしたら、もう……」
何となく分かってはいたのだろう。グレちゃんはやるせなさそうに俯く。
「――大丈夫だよ」
そこにボクは、確信を持った声を放つ。
「え?」
肩の上から、不思議そうな声が上がる。
「あの人にはきっと届いてる。自分を想う娘の気持ちが。意思を乗っ取られようが、復讐心で心がいっぱいだろうが、伝わるものはあるんだ」
それは――母と子の、絆。
「それがきっと、彼女の心をしっかりと繋ぎ止めてる」
「お母さん……!」
少女は母の体を抱いたまま地面にへたり込む。
覚悟はしているつもりだった。母を止めようと思った瞬間から、いずれこうなる時が来ることを。だがいざその日が訪れると、そんな覚悟など全く役には立たなかった。
「ッ……」
涙があふれ出す。
感情を隠すことは上手《うま》いと思っていた。しかし、今はどんなに頑張っても胸の中にある大きな悲しみを抑えきれず、次々と瞳から冷たい雫があふれてしまう。
少女は、力を失った母の体を抱き締め、泣いた。
心細くて子供のように泣きじゃくるその背に――、
――かすかな温もりが触れた。
「っ……?」
少女の背に、今まで力なく垂《た》れ下がっていた腕が回されていた。
涙で濡《ぬ》れていた目が、大きく見開かれる。
やがて彼女の体を抱き締めていた手は、後ろから少女の頭を撫でる。ゆっくりと、確かな意思を持って。
「お……かあ……さん……」
ほどけた髪を通して伝わる温もりに、少女は再び目を潤《うる》ませる。
「――……」
母は口を開き、小さな声で確かに言った。
「……髪、また編み直さなきゃね……?」
「!」
それを聞いた瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「っ、うん……!」
少女は大粒の涙を流す。
それは、悲しいからではなく――。
[#改ページ]
エピローグ
「……元に、戻れない?」
ボクはにこやかに笑う母に念のためもう一度聞いた。
「ええ♪」
ボクと同じ顔をした母親は、笑顔でもう一度|頷《うなず》いた。
「だからかなたん、言ったじゃないか。契約を破れば、女の子になっちゃうって。残念だけどもう元には戻れないよ」
モエルが耳元で残酷な言葉を言い放つ。
「……そんな、まさか本当に戻る方法、ないの……?」
意識が遠くなるのが分かった。絶望にうちひしがれ、その場にへたり込んでしまう。完全に力の抜けてしまったボクに、母は言った。
「大丈夫よ♪ 男の子でも女の子でも、かなちゃんは私の大事な子供だもの」
目の前にしゃがみ込み、視線を同じ高さにして、白姫此方《しらひめこなた》は純粋に微笑《ほほえ》む。
「母様――」
優しいその言葉に胸が熱くなった。そして母は、両手でボクの手を取り、
「――それじゃまずは、一緒にお風呂入りましょ?」
さりげなく、言った。
「!? ちょっ、なんでいきなりそうなるんですか!? あ、ちょっと! 微笑んだまますごい力で引っ張らないでくださいよ!?」
浮かれている。この母は完全に浮かれている。
母はボクの腕をしつかりと掴《つか》み、抵抗するボクを浴室の方へずるずると引っ張っていこうとする。
「かなちゃん、この頃一緒に入ってくれなくなっちゃったから寂しかったのよ〜? でもこれからは女の子同士だもの。うふふふふふふふふ♪ あ、今度一緒にお洋服買いに行きましょっか。おそろいの服着てっ、あー楽しみだわ♪」
「っ、モエル、助けて!」
助けを求めると、その猫はキリリと頼もしい顔をして言った。
「かなたん。下着はおいらが選ぶよ」
「違うでしょ!? ちょっと二人とも! 冗談は止めてくださいよっ!」
「ささ、洗いっこしましょ♪」
「何が似合うかなあ。しましま? ローライズ? 生スパッ――」
「――うわぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」
がばっ。
布団を跳《は》ねのける。
「はぁ、はぁ……ハァ――」
眠気も何もない、いきなりの起床。荒れた呼吸が落ち着くのを待って、ボクは大きく深呼吸を繰り返した。
「ま、またあの夢か……っ!」
とびっきりの悪夢。
「――……」
ボクは一抹の不安を感じ、恐る恐る自分の体を確かめる。
肩に触れ、腕に触れ、手の平を触れ合わせ。腰回りを手で撫《な》でてみて、次におなかに触れる。
そのまま胸の辺りを、慎重に――確かめた。
「……ふぅ」
無意識に、安堵の吐息が口から出た。
(うん。……ちゃんと戻ってる=j
あの事件から一週間。
一度は完全に女の子の体になってしまったボクは、ちゃんと元通り――男の体に戻っていた。
(ほんと、修復できて良かった……!)
モエル曰《いわ》く、契約書を元の状態に戻せば破棄《はき》したことをなかったことにできる、ということらしい。ボクを男に戻すため、必死に手を尽くしてくれたモエルの言葉を思い出す。
『いーかいかなたんっ! 今回はまだ契約書自体が綺麗《きれい》に残ってたからなんとか修復できたけど! ほんとは二度と元に戻れないところだったんだよ!? ほんとキミは思いつきで行動するとことか、こなたんにそっくりだよねっ、苦労するおいらの身にもなってよ!」
綺麗《きれい》に真っ二つになっていた契約書は今はさっぱりと元通りになっている。
どうやったのかは分からないが、継《つ》ぎ目一つないところを見ると何らかの魔法が関わっているのは確かだろう。
モエルは最後に、念を押すように言っていた。
『こんなこと二度とできると思わないでよねっ! ……まったく、久しぶりに大がかりな作業したから疲れたよ……』
「言われなくても二度としないけどさ……そこまで言うなら契約解いてくれればいいのに」
――結果的にボクは、いまだにこの無茶な契約によって縛られている。
ボクは溜息《ためいき》を一つ吐き、起き上がってカーテンを開いた。ジャッ、という小気味の良い音と一緒に、視界に街並みが飛び込んでくる。
「っ……」
射《さ》し込んできた光に、眩《まぶ》しくて目を閉じる。
――朝だ。窓を開くと、冬目前の冷たい風が、体を引き締めてくれる。
あの事件の起きた日、町が闇に包まれていたのは半日。その時のことは街中ではいまだに話題に上っている。
ずっと眠っていた町の人々は悪い夢を見ていたことしか覚えていないらしい。そしてその悪夢から目覚める直前、清々《すがすが》しい青空を見たのだという。
モエル曰く、一週間の間に様々な情報操作が行われたらしい。
「あれだけ大規模な現象だったのに、一度もニュースで流されたりしなかったんだよね……」
これもチューナーの背後にいる組織のおかげなのだとしたら、報道に手を加えられるほどの相当な影響力を持っていることになる。
(でも今回の事件はボクたちだけで片付けちゃったから、増援に来てくれた人たちには無駄足踏ませちゃったかな……)
「かなた〜ん、そろそろ起きなよ――ってかなたんが起きてる!?」
部屋に入ってきたモエルがボクを見るなり驚き、全身の毛を立たせて後ずさった。
「なんだその驚き方は。まるでボクがお寝坊さんみたいじゃないか」
撫然《ぶぜん》としたボクの声に、モエルは呆《あき》れた顔をして口を開いた。
「……自覚がないっていうのは罪だと思うよ、かなたん」
冷静な一言は、耳から耳へとすり抜けていく。
――それから軽く身支度《みじたく》をし、制服に着替えて一階に下りると、朝からうきうきした鼻歌がキッチンから聞こえてきた。ボクは覗《のぞ》き込み、そこで料理にいそしむ人に挨拶《あいさつ》をする。
「おはようございます、母様」
「おはよっ、かなちゃん♪」
小学生くらいの体にエプロンを付け、包丁で小刻みなリズムを奏《かな》でる母。何がそんなに楽しいのか、体を揺らしながら料理をしている。
「今日は早起きなのね?」
「……悪い夢を……見たんです」
「あら大変」
母はボクの言葉を聞くやいなや包丁を置いて、とたたたた、という足音を立ててボクに近寄ってくる。そして、
「平気だった?」
と言いながら、ボクの頭を撫でてきた。
「っ、母様……」
あなたが原因です。なんてことは言わず、その小さくて温かい手の感触を少しだけ味わう。
「いい子いい子♪」
明るい笑顔が目の前にある。顔の作りはそっくりでも、ボクとは確実に違う。きっとこの無邪気さは母にしか出せない天性のもの。
白姫此方の――最大の魅力だ。
そんな母の顔をじっと見つめていると、ボクの顔が段々と熱を帯びてくる。
「あら、顔が赤くなってきたわね。風邪かしら?」
びと、と母がボクの額と自分の額とを重ね合わせる。それによってボクは完全に|あの時のこと《ヽヽヽヽヽヽ》を思い出してしまう。
「もっ、もういいですよ母様っ!」
「?」
強引に距離を離すと、母はかわいく首を傾《かし》げる。
ボクは直視することができなかった。
――柔らかかった、その唇を。
「え、えっと……今日の朝ご飯、なんですか……ってホントになんですかそれ!?」
まだ残っている気恥ずかしさを誤魔化《ごまか》すように、何気ないことを口にする。言ったあとにボクは視線をキッチン周辺に向け、ようやくその異様さに気がついた。
白姫此方は自信たっぷりに、飛び跳《は》ねかねない勢いで料理名を口にした。
「今日の朝ご飯――刺身の、舟盛りよ♪」
「それ朝ご飯ですか!?」
――綺麗に切り揃えられた魚の刺身とにらめっこをしながら、ボクは口を開いた。
「でも母様、少し気になったんですけど」
「ん〜? なにかしら?」
食卓の上にどんと載った木の船に箸《はし》をのばしながら、母が声を出す。その傍《かたわ》らでは、自分用に取り分けてもらった魚をはぐはぐと食べるモエルの姿がある。異様な朝食風景だと思うが、そんないつものことは気にせず、気になっていたことを尋ねた。
「この間の戦いのとき、どうしてボク……変身できたんですかね? 契約書、破ったのに」
びくん、モエルが震え、食べていたものを喉に詰まらせたように咳《せ》き込んだ。
「げほ、ごほ――っ、キミ、何も考えずにやってたの!?」
信じられない、というモエルの視線。
「……仕方ないでしょ。だってあの時はいろいろ考えてる余裕なかったし……それしかない、って思ったんだよ。……それで、どうしてなんですか?」
ボクの問いに母、白姫此方は、
「ん〜〜〜〜〜っ!」
と、眼を閉じて唸《うな》った。どうしたのかと思ったら、どうやら刺身にわさびをつけすぎたらしく、目に涙を浮かべていた。湯飲みに入ったお茶をぐい、と飲み、母が口の中を綺麗にする。
ボクはその行動をずっと目で追いながら、答えを待っていた。
そして次に飛び出したのは、こんな一言だった。
「――にが♪」
ボクは一気に脱力して崩れ落ち、すぐに気を改め立ち上がりざまに叫んだ。
「っ、誰もそんな感想求めてません! ボクの質問に答えてくださいよっ!」
「……かなちゃんは私の子供だもの」
静かな声が、ボクの耳に届く。
「はい……?」
声の変化に戸惑っていると、母はボクの目を真っ直《す》ぐに見て、笑いながら言った。
「かなちゃんは私の娘ですものっ、それくらい当然のことよ♪」
「答えになってないですよ!? それとまた娘って言いましたね! だからボクは男だと何度言えば分かるんですかっ! ほんと母様はいつもいつも……」
お馴染《なじ》みのやりとりを始めたボクたちを、呆れたような眼でモエルが見つめていた――。
むやみやたらと豪勢な朝食を食べ終わり、学校へ行く。
早起きしたはずなのになぜか家を出る時聞は一緒である。その原因のほとんどは、今朝の母とのやりとりのせいであることは間違いない。しかも結局、あの質問は煙に巻かれてしまった。
「――よ、彼方《かなた》!」
「おはようございます。丈《じょう》君」
道の途中で待っていた丈君と合流する。それから少し歩いたところで、彼はいきなり唸った。
「ん〜む」
見ると、前髪を指先で弄《いじ》りながら何か考え込んでいるようだ。
「? 珍しいですね丈君。悩みなんてなさそうなのに」
「うおぅ、さらりと厳しいな彼方。……いやな? 先週の集団睡眠のことなんだが、どうも情報の集まりが悪くてなぁ」
先週の、という部分に思わず反応してしまった。しかし丈君はそんなボクの反応に気づいた様子はなく、難しい顔をしたまま語り始める。
「目覚める直前に空を飛ぶ人影を見た、という証言までは集まったんだが……それに関しての情報は一切見つかってこないんだ。誰に聞いても曖昧《あいまい》な答えしか返ってこないんだよな」
それを聞いて安心した。もともと認識|阻害《そがい》があるため正体がばれることはないが、あまりにも違和感が強すぎると効きが悪くなることもあるらしい。
「青だの赤だの茶色だの黒だの。色しか覚えてないって言うんだぜ?」
「へぇ〜、妙ですねぇ……」
適当に相槌《あいつち》を打ち、ボクはその色≠思い浮かべる。
赤。グレちゃんはこの一連の事件が終わり、ノイズの発生率が減ることを嘆《なげ》いていた。
(まぁ、本気じゃないとは思うけど……)
茶。依《より》お姉さんは事件の解決に合わせて、二つ先の町へと帰ってしまった。
(帰り際の抱擁《ほうよう》は凄《すさ》まじかった……留真《るま》ちゃん、失神してたし)
黒。エフェクトだが、これについては事件解決後、行方が分からなくなってしまった。母に聞いてみたところ、二度と人を傷つけることはないわ、と確信しているようだったが……。
(何を考えてるか最後まで分かんなかったな……)
「それでな、彼方。次は別の方向から攻めてみようと思うんだが!」
「――彼方様っ!」
丈君の声に被さるように、聞き覚えのある高らかな声が響いた。
「! ……古伊万里《こいまり》、さん?」
声のした方を見ると、そこにはなぜかボクのファンクラブの会長である古伊万里さんがいた。
「ああ……今日もご機嫌|麗《うるわ》しゅうございます彼方様……」
彼女はうっとりした目をこちらに向けた後、貫《つらぬ》くような目線を丈君に飛ばす。明らかに邪魔者め、という意図が込められた視線だ。
「古伊万里さん、どうしてここに? 家、こっち方向なんですか?」
ボクが尋ねると、古伊万里さんは丈君を道の端へと押しやりながらボクの隣に立ち、言った。
「いいえ。逆方向ですが……これからはこの古伊万里みさら、彼方様のお友達として!通学を共にしたい、などと思う次第でございまして……」
「……それで遅刻したい、と」
「明日野丈は黙っていてください!」
迂闊《うかつ》に口を開いた丈君は、疾風《しっぷう》の如き勢いの声に封殺《ふうさつ》されてしまった。これはこれで珍しい光景である。
古伊万里さんはボクの手を取り、うるうるした瞳で言ってくる。
「この古伊万里、彼方様のお友達になるにはと、一週間考え尽くした末の決断でございます! お許し……いただけますでしょうか?」
「え、ええ……もちろん、いいんです、けど」
ボクは複雑な心境で頷く。丈君は恐らく、分かっているだろう。許可されてぱあっと笑顔が花開く古伊万里さん。
しかしボクは、そんな彼女に告げなくてはならない。
「――今から、全力|疾走《しっそう》ですよ?」
時刻はもう、遅刻にリーチがかかった状態。のんびり話しながら歩いている余裕はないのだ。
「しっかり付いて来いよ? 古伊万里!」
まず丈君が走り始める。ボクもそれについて、走り始めた。
古伊万里さんは少し出遅れ、きょろきょろと周囲を見回した。
「え? え? 待ってください彼方様、こんなところから全力疾走って……ええ? もうこんな時間? おっ、お待ちくださいませ! 彼方様――」
時計を確認しながら、彼女も走り出す。
こういった風に――ボクの日常には、変化が訪れていた。
そんな中でも、最も変わったこと、それは。
「……なあ彼方、委員長って今どうしてるんだろうな?」
学校までの道のりを走りながら、丈君が聞いてきた。後ろからは古伊万里さんの息切れした声と、疲れた様子の足音が聞こえてくる。
「…………」
先週、すべての戦いが終わった後に、彼女たちは姿を消した。
どこに行ったのかは分からない。ただ、あの時委員長の母親は確かに意思を取り戻し、すぐにまた気を失ってしまった。
委員長はその母親を背負い、
『ごめんね。そして――ありがとう』
それだけを告げて、消えてしまった。
「どうしているか聞きたいのは、こっちの方ですよ……」
「ん? 何か言ったか?」
「……いえ、何でもないです」
それから一週間、彼女の席は空席のままだ。
学生生活の間ずっと認識阻害を展開していた彼女は、いなくなってもそこまで不思議に思われなかった。もしかしたら初めから自分の手ですべてを終わらせ、痕跡《こんせき》を残さずに消えるつもりだったのかもしれない。
そう考えると……悔しく思う。
(まだ、遅刻を見逃してもらった借りも返せてないのに……)
しばらく走ると、大枝中学校の校門が見えてきた。
「今日もっ、ギリギリ、だなっ!」
丈君が若干息を切らせながら言う。
「そう、ですねっ!」
ボクも足の回転を止めず、ひたすら走り続けた。
「なんて、ハードな通学なんでしょうっ……!」
なんとか追いついてきた古伊万里さんが、顔に汗の粒を浮かべて一心不乱《いっしんふらん》に走っている。
(……いいんちょ……)
頭の中には、その人の記憶がある。
「もう時間だ――ッ!」
丈君が焦りの言葉を吐き出した瞬間、キーンコーンカーンコーン、という慈悲《じひ》のない鐘の音が、ボクたちの遅刻決定を告げた。
ボクが一番に、学校の校門をくぐる。
「くそっ、ダメだったか〜」
丈君はボクより遅れて校門をくぐり、アスファルトの地面に座り込む。
「はふっ、はふぅっ……!」
その後から、完全に疲労|困憊《こんぱい》な古伊万里さんがなだれ込んできて、地面に座り込む丈君にぶつかって転んだ。
わずか数秒単位での遅刻だ。しかし時間管理に厳しいこの学校は、それでもアウトである。
(……遅刻、か)
ほんの少し前までここで遅刻当番をしていた彼女は、もういない。
全力疾走で疲れ果てたボクたちを包み込む、柔らかな声はもう聞けない。
どう考えても自分が楽しんでるだけのお仕置きも、受けることはない。
従業中に目が合っただけで笑い合ったり、屋上で一緒にお昼寝したり。
些細《ささい》でとりとめのない、友達同士の会話をすることさえ――できないのだ。
膝《ひざ》に手をつき、肩で息をしながら、ボクは胸をちくちくと刺してくる寂しさに耐えていた。
そのとき。
「ふふ」
何処《どこ》かから、笑い声が聞こえた。
「? ……っ!?」
聞き覚えのある柔らかい笑い声。
そして、
「また、遅刻だね?」
ふわりとした声。
ボクが顔を上げると、そこには――。
「おはよ、白姫君」
縞麗に編み込まれたおさげを揺らし、変わらぬ笑顔を浮かべる、少女の姿があった。
見上げた彼女の背後には青い空が広がり、そしてその中に――、
――ふわふわと浮かぶ白い雲が、あった。
[#挿絵(img/mb880_327.jpg)]
あとがき
こんにちわ、白瀬修《しらせしゅう》です。
またこうしてあとがきで出会えたことに、今出来うる最大の感謝をさせていただきます。
――ありがとうございます。実は今、土下座などといった形を越えた新たなお辞儀をさせていただきました。なんかこう、お辞儀の新世界が開けそうなくらいのものを。
お見せできないのが非常に残念ですが、とりあえず皆様の脳裏に出来る限り派手なヤツをそれぞれ思い浮かべていただけたらいいかと。
……本当に、ありがとうございます。白姫彼方《しらひめかなた》がこんなに恥ずかしがることが出来るのも、読んでくれた、買ってくれた皆様のおかげです。
さて、それでは毎度の通り、内容の方に少しだけ触れたいと思います。
今回のお話は一巻から登場しているいいんちょこと委員長のお話です。(なんのこっちゃ)
冒頭から全開でした。彼女の行為≠ヘとどまるところを知りません。このまま突き進み続けると、登場するメディアを移動する羽目になってしまいかねないです。
……冗談はさておき、今回はコメディ四割、シリアス五割な感じですね。
残り一割? 桜色の人に奪われました。一割で済んだだけ良かったと思っています。
新キャラには、日常パートに古伊万里《こいまり》みさらが登場です。
お金持ちさんです。本物の。……本物の。赤い子が草葉の陰で恨《うら》んでいないことを祈ります。
この彼女、作中では結構ズバズバしていますが、深く付き合ってみると無防備な部分がたくさん出てくるタイプの女の子です。意外と寝るときにぬいぐるみとか抱いているかも知れません。
――さて、彼方の周りも段々と賑《にぎ》やかになってきましたが、ただの一人として常識を説《と》いてくれる人がいないのが気になるところですね。……これからも出てこないと思います。しかも今回、もっとも常識外れな人が戻ってきてしまいました。
これから彼方はどうなっていくのか、果たして純潔を守り抜けるのか! 乞うご期待!
……そんな引きをしたらきっと次はありませんね。
ええと、今出てきました次≠ネのですが、実のところ、短編集なるものを考えています。
まったりのんびり、さわさわした感じの日常にスポットを当てて。もっと具体的に言えぱ、彼方のあの一週間≠ノついてのお話など、書けたらいいなと思っております。
今回もイラストを描いてくださったヤス様。ありがとうございます。あのウェデイングドレスは反則です。ときめき過ぎます。
そしてお力添えくださいました編集部の皆様にも、この場を借りて心より感謝いたします。
――それではそろそろお別れの時間となりました。またどこかで、お会いできますよう。