おと×まほ 2
白瀬 修
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目次
プロローグ
1.戦う少女
Other side. 樋野留真《ひのるま》
2.魔法少女はお姉さん
3.思惑、渦巻く、日曜日
Other side. 幾瀬依《いくせより》
4.幾瀬依《いくせより》の理由
5.樋野留真《ひのるま》の理由
6.繋《つな》がる想《おも》い
エピローグ
おまけ
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プロローグ
――歪《ゆが》んでいた。
どこにでもある、ありきたりな造りをした夜の公園。
中央に一ヶ所と、四隅に一ヶ所ずつ。合計五つの心許《こころもと》ない灯《あか》りが生み出している影、その一部が不自然に歪み、蠢《うごめ》いていた。
動いているのは、形のない何か=B夜が作り出す影に溶け込み、存在しているその物体は、生物の形をしていない。水の入った袋を床に放り投げたような姿をしていた。
そしてその場にはもう一つ、人の姿もあった。
身長は百四十後半、丸みを帯びた体のラインは、男にはない柔らかさとしなやかさを併せ持っている。それは見た目十代前半の少女の姿。彼女の瞳は今、まんべんなく広がる闇に紛れた異形に向けられている。
少女と、何か≠サれ以外に動くものはない。
静かだが、異様な気配が場を占めている。
「――……」
先に何らかの行動を起こそうとした少女が、軽く息を吸った。
それを察知した異形が、少女より早く、音も立てずに動き出した。液体状の体を引きずり、見た目からは想像もつかない速度で少女の元へ這《は》い寄る。
ザザザザザッ――引きずられた砂利《じゃり》が、騒がしい音を立てる。
少女は――動かない。それを隙《すき》と見て、異形は一気に間合いを詰めると、体を上へ伸ばした。
それから空へ向かって棒のように伸びた体をしならせ、一気に振り下ろす。
「……っ」
先手を取って繰り出された攻撃を、少女はギリギリのところで横に跳《と》び、かわす。しかし攻撃はそれで終わりではなかった。異形は地面に叩《たた》きつけた体をすぐに引き戻すと、今度は体を真横に振った。
「!」
体が先ほどよりも長く伸び、かなりの広範囲を薙《な》ぎ払う。
少女が身を屈《かが》めてその攻撃をかわすと、異形の攻撃は背後にあった電灯のポールに当たった。
鉄でできたポールが重い音を立て、折れ曲がる。
――驚異的、かつ非常識な威力。
少なくとも今、この場所に、常識などという枠でくくれるものはなかった。
もちろん、それは――この少女も含めて。
キィンッ、という高い音が続けて二回。
空へ奔《はし》る、二筋の光。
月も明るい晩の空、二つの光が空でぶつかり、爆《は》ぜ、割れて幾重の光となり。
――黄金の大輪が花開く。
「風流、ですの……」
金華《きんか》の真下に立ち尽くす少女は、自らが放った輝きに、独り言を呟《つぶや》いた。
その彼女自身もまた、鮮烈な色を宿している。
情熱を秘めた、紅。
短く切り揃《そろ》えられた髪は鮮やかな赤。炎が波を作るようになびいている。身につけた衣装もまた、赤。その姿を遠くから見れば、一点だけが燃え盛るように見えるだろう。少女の色彩は、情熱そのものだった。
グレイス・チャペル
幼き肢体《したい》を豪奢《ごうしゃ》なドレスで包んでいる少女は、自身をそう呼んでいた。
「まったく、こんな夜更けにわざわざ出向いてきたというのに……この程度ですの?」
薄紅の唇《くちびる》が、言葉を紡《つぶ》ぐ。言葉の矛先は、闇に蠢く影へと向けられている。
ダンスパーティを抜け出してきたと言っても通用しそうな格好の少女と、何の変哲もない公園。あまりにも不似合いな組み合わせである。
「時間も勿体《もったい》ないですし、それでは――」
どこまでも浮いている少女は、たった一言で、静かな場の空気を一変させた。
「――反撃、といきますの」
足で力強く砂利を踏みしめる。
鋭い眼差《まなざ》しが正面を見据《みす》えた。
動きを警戒していた異形は、焼け付くほどの気迫を浴びせられるやいなや、いきなり突進を仕掛けた。横滑りするように加速、一気に攻めてくる。
グレイスはまず右に軽くステップ、地面を這う影は、相手の移動に反応して形状を大きく変えた。体の内部から不格好な腕を一本突き出すと、その怪腕を振りかざし、目標に向けて繰り出した。
「さっきからなんとも、面白みのない攻撃ばかりですの」
緊迫感の欠片《かけら》もない声で呟き、グレイスは身を横に反《そ》らした。少女の衣装はその一挙一動に追従し、炎の揺らめきに似た残像を生む。
体捌《たいさば》きのみでかわした少女は、くすりと笑い、敵に向かって踏み込もうとして――。
カン。すてんっ。
――盛大に、ひっくり転《こ》けた。
「ッ、たた……お尻、打った、ですの……」
魔法少女はお尻を押さえながらのそりと起き上がると、自分の足下に落ちていた空き缶を恨めしげに睨《にら》み付ける。
「ポイ捨てはだめですのっ!」
怒りながら缶を拾おうとした、瞬間。
「!」
滑るように接近してきた黒い物体が、空き缶を呑《の》み込み、伸びてきた。
少女は小さく息を吐く。そして、冷徹な眼で敵を捉《とら》えると――左手を、伸ばす。
「ウィズ・インタレスト=v
キィン。
少女の指先が奏でる単音の旋律。
唱え、放たれたのは金色のコイン。取り出す動作はなかったが、確かにそれは放たれた。
「喰らえ、ですの」
丁寧《ていねい》さと荒々しさを混ぜた言葉に導かれ、直径五センチほどのコインが、目視を許さない速度で敵にめり込んだ。
その一瞬で――勝敗は決した。
光の尾を引く金貨は、目標に命中した直後、無数の金色の光となって周囲に散らばる。一筋の光が幾重にも四散する光景、それは打ち上げ花火によく似ていた。
だがそこで散った光は、少女が先に放ったコインとまったく同じものへ姿を変える。
無数に分かれた光がすべて金貨となり、やがて――それらはたった一体の目標へと向けて集束を始める。
ズドドドドドドドドドッ。
連続する打撃音は断末魔の叫びさえも掻《か》き消してしまう。
――この一連の攻撃は、少女が最も得意とするもの。
照準となる金貨を放ち、触れた対象物に対して全方位からの集束射撃を行う。
コインの豪雨に晒《さら》された果てに――敵の姿は、跡形も残らない。
「……ふぅ」
短く、冷たい吐息が捨てられる。
「弱い」
薄紅の唇から零《こぼ》れる言葉。その口が漏らした落胆は冷たく、そこには明らかな失望があった。
「この程度じゃなんの足しにもならないですの」
グレイスは魔法少女である。
この世界の調和を乱す異形ノイズ≠ニ戦う、有《あ》り体《てい》に言うならば――正義の味方。
騒音を消し去る調律者、チューナーとも呼ばれる存在であった。
その彼女は、黒一色の物体が消え去った場所を見つめ、複雑な面持ちで呟く。
「……ノイズの発生が多くなったのは大歓迎なんですけれど」
たった今歩女の手によって討たれた異形、ノイズは、明確な形を持っていなかった。
――ノイズとは願い。人の思いが、歪《いびつ》な形となって生まれ出たもの。
本来、その姿は動物をベースとしたものが多く、実現する思いの方向性によって形も変わってくる。攻撃的な思いならば凶暴な姿となり、別に目的があるならば、それに見合った姿で生まれてくるのが基本である。
だが、先ほどのノイズにはその形がなかった。成形段階で失敗した陶芸品のような、ぐにゃりとした形をしていた。
「最近はなり損ないばかり。……もう少し歯応《はごた》えのある奴《やつ》が出てこないものですの?」
赤を纏《まと》う魔法少女グレイス・チャペルこと樋野留真《ひのるま》は、とびきり不謹慎《ふきんしん》なことを言いながら、うなだれた。
少女の首にぶら下げられていたネックレスが、ぶらんと垂《た》れ下がる。
細い紐《ひも》に吊《つ》られた銀色のコイン。ホルダーにしっかりと留められているその銀貨は、強烈な暖色ばかりの衣装の中で、唯一静かな色合いを持っていた。
「はあ……またも貧乏くじですの〜」
うなだれたまま、強気な外見に似合わない溜息《ためいき》混じりの言葉を放つ。しょげた背中は悲壮感に満ちていて、数秒前まで戦っていた凛《りり》々しい少女と同一人物だとは思えない。
「今日の食事……どうしましよ……」
チューナーはノイズを倒すことによって報酬《ほうしゅう》を得る。倒した敵の強さによってもらえる金額は変わっていくのだが、彼女がなり損ないと呼んださっきのノイズは、強さにしてみれば下級である。当然、実入りは少ない。
「一日くらい食べなくても……いやでも……」
報酬のシステムを利用して生計を立てているグレイスは、切迫した呟きを漏らしながら、右手でお腹《なか》を押さえる。
ぐう〜。
「……お腹空《す》いたですの」
空腹こそ、現時点における彼女の最大の敵であった。
「――そうですの、こうなったらまた、彼方《かなた》さんの家に……」
近くに住んでいるもう一人の魔法少女のことを思い浮かべ、しかし彼女はすぐさま勢いよく首を横に振る。
「何を考えているんですか、私ともあろうものが!」
声を上げ、ノイズによってへし曲げられた電灯に拳の底を打ち付ける。鈍い振動音を立てながら、ポールがさらに形を変える。
鉄の音が止《や》む頃《ころ》に、冷たく、少女は呟いた。
「本当に、何を甘えたことを――……」
――それは、とある夜の風景だった。
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1.戦う少女平々凡々、のったりまったり。
都会と田舎の中間地点、大枝《おおえだ》町は今日も穏やかである。都心の朝ともなれば、通勤、通学ラッシユで人がごった返しているのだろうが、ボクが住んでいるこの街の朝は、すこぶるのんびりと、スローペースで進んでゆく。
「これでもう少し学校が近ければね」
ボク、白姫彼方《しらひめかなた》の通う大枝中学校は、交通の便が少々悪い場所に建っていた。
最寄りのバス停から徒歩十分、駅からだと二十分という奥まった場所にあるのである。しかも自転車通学が禁止されているため、徒歩で通う人間からしてみれば途方もなく遠い、苦難の道のりなのだ。当然のように遅刻者も多く、他《ほか》ならぬボク自身も常習者の一人である。
……だが、しかし。
今日のボクは一味違っていた。
「? しっ、白姫君……!?」
登校時間内に悠《ゆうゆう》々と校門をくぐったところで、クラスメイトの女の子と出会う。
「なんですかいいんちょ、出合い頭からいきなりそんな目で」
彼女はなぜか驚愕《きょうがく》を顔に浮かべ、学校の校舎に掛けられている大時計とボクを見比べる。
「そんな、まだ、十分前なのに……」
彼女のトレードマークの一つである銀縁眼鏡《ぎんぶちめがね》がずれ、もう一つのトレードマークである黒髪のおさげがしゅん、と沈み、いつもは落ち着きに満ちている双眸《そうぽう》が、今は動揺に揺れている。
委員長。肩書きと外見とが運命の出会いを果たしたような少女。人よりも深く、濃い黒色の髪が、純粋な和の雰囲気を生み出している。
「登校の早い白姫君なんて、白姫君じゃないよ……?」
「……ボクのアイデンティティは遅刻だけですか」
なんだか胸の辺りが切ない気がするのは、気のせいじゃないだろう。
「大体、ボクだっていつも遅刻したくてしてるわけじゃないんですよ?」
ボクがいつも遅刻ギリギリな理由は、二つある。
一つは、朝の身支度《みじたく》。おしゃれにこだわる方ではないのだが、髪の手入れにどうしても時間がかかってしまうのだ。それというのもボクの髪はひたすら長く、腰の下まで伸びている。朝起きるといつもボサボサになっているので、ちゃんとしたストレートに戻すのにだいぶ手間取るのだ。
それはまだいい。問題は二つ目の理由、毎日通学路で待ち伏せしている友人の存在である。
一緒に登校するのは構わないのだが、自分の話に夢中になると周りがまったく見えなくなるという厄介な性質を持っている。しかも、話を聞かせるために近くにいる人間(おもにボク)を追い回すという、迷惑|極《きわ》まりない友人なのだ。しかし今日はそんな彼に出会うこともなく、平穏に通学できた、というわけだ。
「あ、そうそう白姫君。今ね、教室で面白そうなコトしてたよ?」
「? 面白そうなこと?」
「うん。写真いっぱい広げて、ローアングルがどうとか」
「ッ!」
写真とローアングル。二つの単語が、脳裏に一人のクラスメイトの顔を浮かび上がらせる。
そして思い浮かんだときにはもう、ボクは駆けだしていた。
「制止役、頑張ってね〜っ」
後ろから委員長の励ましの言葉を受け、猛ダッシュで自分の教室へと向かう。三秒で上履きに履き替え、足音の響く廊下を急ぎ足で進み、階段を一段飛ばしで駆け上る。
二階廊下へとたどり着くと、手前から二つめの教室、一年のBクラスへと向かう。
(遅刻せずに学校に着いた日は、ロクでもないことが起きるんだよね……)
ガラッ。
「さあ〜じゃんじゃん見るがいいっ!」
扉を開いた途端に飛び込んできた声は、紛《まぎ》れもなく彼≠フものだった。
「こんなチャンスは二度とないぜっ!」
随分とヒートアップしているようで、声は教室の外まで響いている。
「おい、これ焼き増しできるのか?」「引き伸ばしは?」「合成頼む!」
教室の中央には人だかりができており、なにやら威勢のいい声が飛び交っている。見たところ他のクラスの生徒までもがこのクラスに来ているようだ。男子女子入り交じり、大きな騒ぎとなっている。
「こんなレアなシチュエーション、生きてるうちに拝めるなんてお前らは幸せもんだあ! しかと目に焼き付けろっ! 語り継げっ! 萌《も》え死ねっ!」
騒ぎの中心人物は声を大にして、朝とは思えない熱気を振りまき、辺りに伝染させている。
「くっそ、リアルで見たかった!」「俺《おれ》たぜ!」「ふん、俺なんか触ろうとして叩《たた》きふせられたぜ!」「それは自慢できることなのか?」
このクラスのメンバーは普段からアクが強いというか、お祭り好きだというか、落ち着きがない。だからざわついているのはいつも通りなのだが、どうにも今朝は規模が違っている。
「…………」
ボクは自分の席に鞄を置くと、静かに人だかりへと近づく。
集団最後尾では、人の垣根に押しやられている男子生徒がなんとか目的の物を見ようと、背伸びをしたり、跳《と》んでみたりしながら、苦情を叫んでいた。
「おおい、後ろの方見えないぞ! 前のヤツ場所代われよ――ッ?」
そう叫ぶ男子生徒は、背後に近づいてくるボクの存在に気づいた瞬間、あれだけ張り上げていた声を一気にしぼませて、場所を退いてくれた。
ボクは次に、立ちふさがる人垣に無理やり体を割り込ませる。
「おい、押すなよ! っつーか誰だよ無理やり割り込もうとしてんの――ッ?」
男子生徒の一人が思いっきり不快な顔をしてこちらを見る。だがすぐに、「ひィッー!?」という声を上げ、全身の筋肉を弛緩《しかん》させてへたり込んだ。連鎖的にその付近にいた生徒が怒鳴り声を上げる。
「おいいきなり座り込むなよっ、邪魔――ッ?」
が、そこに立っていたボクの姿を確認した途端、その顔に恐怖を浮かべ、その場から逃げ出してしまった。
ボクは進む。――海を割るように。
やがて、原因へとたどり着く。声の主は、周囲に起きた異変に気づかず演説を続けていた。
「どうだよこの写真、こないだのヤツだぜ! スカートのこの角度、たまらないだろ!」
二つの机をくっつけ、その上に広げられた数十枚の写真。
その内の一枚を手に取り、見る。
――そこに写っていたのは、記憶にある人物。
学校指定の制服に身を包んだ、見た目からして小さな一人の生徒。身につけている茶色いブレザーのサイズが合っておらず、指先まで袖で隠れてしまっている。まくれ上がりかけている赤いスカートを恥ずかしそうに両手で押さえ、ぱっちりした大きな瞳を羞恥《しゅうち》の色に染め、視線は真っ直《す》ぐにカメラを睨《にら》む。
かなり恥ずかしかったに違いない。薄白い肌を綺麗《きれい》な紅梅色《こうばいいろ》に染め上げ、数秒後には爆発しそうだ。しかもその後ろに写っている数人の女生徒が、被写体の長い頭髪を好き勝手に弄《いじ》っている。珍しい――白銀色の髪。冷たい雪景色に暖かい陽射《ひざ》しが降り注いだ色、と誰かが言っていた。
ボクは黙って写真を机に戻す。
「この写真なんかもう芸術だっ! 絶妙なローアングルでしかも太股《ふともも》の生み出す領域が」
「お、おい、明日野《あすの》、それ以上は止《や》めといたほうが――ひィッ?」
クラスメイトの一人が、広げた写真を前に熱を帯《お》びた解説をしている少年を止めようとした。
だが、立ち込めた怒気、いや殺気を前にして、立つことすら忘れ、教室の床へと崩れ落ちる。
「絶対領域をさらなる境地へと昇華《しょうか》した、コレはまさに革命!」
彼はまだ、気づいていないようだ。頭から湯気が立ち上っている今の状態では、気づけるはずもないだろうが。
「時代はもはやただかわいいだけの歴史を改変せざるをえないっ! これからはおと――」
肩に手を置く。
「?」
騒ぎの元凶、厄介な友人≠ナあり、学校内での情報屋≠アと明日野|丈《じょう》は、熱弁をやめて振り向き――凍結した。
「なんだか、と〜っても、たのしそうだね♪」
彼の右後方から囁《ささや》く。指先で背を薄く引っ掻《か》くように、生やさしい声で。
少しして、肩に置いた手からガクガクとした震《ふる》えが伝わってきた。
「だいじょうぶですか? なんかふるえてるみたいだけど」
言葉で心臓に爪《つめ》を立てる。
「ま、待つんだ彼方……言葉がひらがなになってるぞ!」
「なにをいってるんですか? あなたは」
そこそこに筋肉のついた平均的な肉体は、多少の打撃には耐えられそうだ。
「これは違う、違うんだ……」
身長は百六十後半、それだけあるなら骨も頑丈だろう。折るのには苦労しそうだ。
「ちょっ、彼方! なんか変な解説してないか?」
前髪に隠れた細い眼《め》。突いたらどうなるだろう。
「おぉいっ!? もしかして俺失明の危機っ!?」
確かな怯《おび》えを刻むスマートな顔立ち。学校内で情報屋≠ネどという浮いた肩書きで呼ばれている彼なら、この先に待ち受ける運命もすぐに理解できたことだろう。
「つまりこれはだなっ、そうっ! オマエがあまりにもかわいかったから、つイッ――」
「おやすみなさい」
ごりゅれ。
擬音《ぎおん》でしか表現できないお仕置きを喰《く》らい、丈は椅子の背に崩れ落ちた。遠巻きに見ていたクラスメイトたちはささやかな黙祷《もくとう》を捧げ、自分たちの席へと戻ってゆく。
「まったく。あいかわらずロクでもない」
席に戻ろうとしたそのとき――、風が吹いた。
自分の背に流れる白銀の髪を揺らす、強い風。
開かれた窓から入り込んできた風は、机に並べられた写真を舞い上がらせた。
白姫彼方。体つきは少女のように細く、顔立ちは幼い。このクラスで、いや、学校内でマスコットのような扱いをされているのがコンプレックス。腰の辺りまでもあるストレートの銀髪が自慢でもあり、悩みの種でもある。
そして誰が何と言おうと、れっきとした男≠ナある。
だが。
写真の中で羞恥に身悶《みもだ》えているボクは。
――いたいけな、女の子の姿をしていた。
昼を過ぎた学校の屋上に、透明な風が吹き抜けていく。
「ふぁ、う……」
昼食を終えたボクは汚れるのも気にせず屋上に寝転び、空と正面から向かい合う。
鼻先をくすぐっていく優しい風が心をとろかせる。昼休み、賑《にぎ》やかな声が校舎の中から聞こえてくるが、それも心地良い環境音でしかない。
視界に入ってくるのは一面の青。薄く、濃く、明るく、暗く、同じ表情のない、無限の空。
こうしているとまるで、自分が青い世界に包まれてこの大空と一体化しているような、そんな気分になる。
「――やれやれ。午前中ずっと寝てたかと思えば、今度はお昼寝かい?」
人が心地良く食後の惰眠《だみん》を貪《むさぼ》ろうとしているときに、邪魔をしてくる声。
「勉強が本分の学生さんだとは思えないね。かなたん」
その声の主は、寝転がったボクの顔を至近距離から覗《のぞ》き込んできた。青一色だった視界に影を落とすソイツは、口元をにんまりと笑みの形にしていた。
「かなたん言うな。ボクは彼方だって言ってるだろ」
もはや何度言ったかわからない、お決まりの言葉を適当に口に出す。
「改名しちゃえばいいのさっ」
ソイツはけろっと言い放つ。快活な、メリハリの利《き》いた声で。
「するかっ!」
首根っこをつまんで持ち上げ、耳元で声を張り上げる。ピン、と立った耳をビリビリと震わせ、快活な声の主は「きゅう」と短い鳴き声を上げた。
ボクは体を起こし、地べたにお尻はついたままで足を九十度に広げて伸ばす。すると足と足の間に、ふらふらな声の主が座り込んできた。
「い、いきなり大声出さないでよ……おいらの耳はキミらより良いんだからさ」
そう言って硬い地面にぺしゃ、とへたり込む。
「知ったことか。大体ね、モエル。学校には付いてくるなと」
「あれほど言つたじゃないかっ、てね♪」
モエルがボクの台詞《せりふ》を先読みし、続けてきた。悪気がない……ワケではない。むしろ悪気があって、怒られるのを楽しんでいる感じだ。
溜息《ためいき》を吐《つ》き、この明朗快活極まりない――猫を、睨む。
「猫と話してる場面なんて人に見られたりしたら、いろいろと面倒なんだけどね。目撃者を始末したり、そろそろ五十種類に達しつつあるキミへの折檻《せっかん》を考えたりさ」
「淡々と物騒なこと言うの止めようよ……」
モエル。金色の毛並み、深紅の瞳を持つ小柄な猫。つい最近までは普通の猫だと思っていたのに、とあるできごとが起きてから、人の言葉を話せることが判明。慣れというのは恐ろしいもので、今となってはこうして違和感もなく会話できるようになってしまっている。
「とにかくかなたん。さっきの話の続きだけど、あまりにも緩《ゆる》みすぎだよ?」
透明度の高い体毛は、月から落ちてくる雫《しずく》の色、なんていう表現が似合いそうな幻想的な色をしている。
四本足で立ち上がったモエルは、ひょいひょいと歩き始め、外縁の方へと向かう。
「そんなこと言われてもさ、ここ最近連続してるじゃないか。寝る時間がだいぶ削られてるんだよね、アレのせいで」
それにならってボクも立ち上がり、その後に付いていく。
「もちろんそれもわかってるさ。確かに最近の出現ベースは異常だ。けど、正義の味方だからって日常を蔑《ないがし》ろにしていいわけじゃないよ」
「……正義の味方、ね」
「なんでそこで遠くを見るのさ。誇らしいことじゃないか、陰ながら街の平和を守るヒーロー。
そういうのってみんなの憧《あこが》れなんでしょ?」
――そう。ボクは一応、正義の味方ということになっている。
「でも、魔法少女なんて言われてもね」
屋上の手すりに肘《ひじ》をつき、外を望む。無意識に溜息が出てしまうのは、眺めに見とれたからだと思いたい。
「何が不満なのさ?」
不思議でたまらない、というモエルの言葉に、叫ばずにはいられなかった。
「全部だ全部っ! そもそもどこの世界に性別を偽るヒーローがいるっ!
それはきっとヒーローである前にもっと別のナニかだろうっ!?」
ボクの叫びを聞いたモエルは、顎《あご》の下に肉球を敷いて五秒ほど考えた。そこから導き出された答えは、
「……ヒロイン?」
「真面目《まじめ》に考えた結果がそれかっ!」
そもそも、男であるボクがなぜ、魔法少女などというメルヘンかつファンシーな役回りをやらなくてはならないのか。それには深い、宵闇《よいやみ》より深いワケがある。
「でもかなたん、魔法少女好きでしょ?」
「好きなわけな――っ!?」
不自然に明るいモエルの声。等間隔の手すりの隙間《すきま》を通り抜け、校舎の外壁ギリギリに座っていたモエルが、ずい、と一枚の紙を差し出してきた。
契約書=B
ボクが交わしてしまった約束の証明。
魔法少女へと変身しこの世界の敵だというノイズ≠ニ戦う。そんなふざけた内容の運命を押し付けてくる、ロクでもない書類である。
しかもそれは強制的に結ばされたもので、現在旅行中で家にいない、ボクに瓜二《うりふた》つな弾丸系わがまま姫こと白姫|此方《こなた》――母と、このモエルが目論《もくろ》んだ、とてつもなく強引な契約なのだ。
「辞めたいのなら、この契約書をびりびりに破いて破棄すればいいのさ。おいらは別に止めないよ? まあ、かなたんが女の子になりたいなら、だけど」
くふふ、と笑うモエルは、仮にも魔法少女の相方とは思えないあくどい笑みを浮かべていた。
「この、脅迫者め……!」
――契約破棄イコール性別転換。一体誰が何を考えてそんな罰則を作ったというのか。考えたヤツに会えるのならぜひとも会ってみたいものだ。
「脅迫者なんて人聞きの悪い。脅迫も説得も根底は一緒のはずだよ? 少なくともおいらはそう信じてる」
「その理論を外で言うのはやめてね」
魔法少女だった母。人語を解する猫。ボクの日常は、この青い空のように穏やかにあってはくれないらしい。
「だけど、いくらノイズが増えてるからって、学業をおろそかにされるのは困るね。かなたんがアホの子になっちゃったらおいらがこなたんに絞られちゃうよ。多分、物理的に」
自分そっくりの母が、モエルをぎゅうぎゅうと絞る光景が思い浮かぶ。その映像の鮮明さときたら、今すぐ現実になりそうなほどのリアリティだった。
「まあ、おいらが教えてあげてもいいんだけど」
手で耳の辺りを掻きながら、モエルが言う。
「それは……人間としての何かを失いそうだから許して」
「でしょ?」
悔しいことにこのモエル、猫のくせに頭が良い。冗談で宿題を教えてくれと頼んだことがあったのだが、恐ろしいほどわかりやすく解説してくれた。
(先生の授業よりもわかりやすかったのがなおさら悔しいんだよね……)
「とにかく、こなたんがいない間キミのことは全部おいらに任されてるんだから。もうちょっと頑張ってくれると嬉《うれ》しいな。あ、でも無理をしろって言ってるわけじゃないよ。一番大事なのはかなたんの健康なんだから」
随分とお世話やきな猫である。小言っぽいところもあるが、基本的には優しいのだ。
「モエルっていいお母さんになれるよね」
「――なつ!?」
モエルが赤い瞳に狼狽《ろうばい》の色を滲《にじ》ませ、怒鳴った。
「いっ、いきなり何を言い出すのさ!? おいらはまだそんな歳《とし》じゃない!」
猫の年齢についてはよくわからないが、少なくともモエルは実の母よりも母らしい。
(……母様は、いろんな意味で母親なんて言葉から超越してるから)
実の母が巻き起こす数々のトラブルを思い出し、背筋が冷たくなる。
「そもそもおいらは、母親とかじゃなくて、もっと、その、えと、キミの」
モエルが頬《ほお》を赤らめ、もごもごと何かを言おうとした、そのとき。
「――し〜らひ〜めく〜んっ」
緩んだ声が、その場に割って入った。
「キミのっ! こ」
「モエルッ!」
首根っこを掴《つか》み、持ってきていたバッグの中へと押し込む。ぎゅむ、という音が聞こえた。……少し強く押し込みすぎたかもしれない。
扉の向こうから聞こえてきた、のほほん、ふわふわな呼び声は、誰のものかすぐにわかるものだった。もぞもぞと蠢《うごめ》くバッグを押さえながら、扉の反対側にいる我らがクラス委員長に返事をする。
「いいんちょっ、なんですかっ?」
「あ、やっぱりいた。ちょっと入るね〜」
ふんわりほわほわな声がしたあと、しっかりかけておいた扉の鍵が、いとも容易《たやす》く解錠される。そして、少しだけ開いた扉の中から、ひょこ、と少女の顔が現れた。
「おはよ、白姫君」
「もう昼ですよ」
委員長はするりと屋上に入り込んできて、扉をそっと閉める。後ろ手に鍵を閉めると、てくてくとこちらに近づいてきて、中腰姿勢のボクの前にしゃがみ込んだ。スカートはきっちりと折りたたみ、手のひらを膝《ひざ》の上に置いて。話をする相手と目線の高さを同じにして、口元には朗らかな笑みを。そして――、
「――明後日《あさって》の朝十時。駅前集合ねっ♪ 遅刻はダメだよ?」
なんの脈絡もなく、言った。
「……はい?」
委員長は、疑問符を浮かべるボクをにこにこ顔で見つめ、
「はいこれ、チケット」
ぺし、とボクの手に紙切れを握らせた、長方形の紙には、夢の世界をイメージしたようなイラストが描かれ、端には入場券≠ニ書かれてある。
「えっと……これは、遊園地の入場チケット?」
「うんっ」
良い返事だ。とても快い返事だが、言わなくては。
「いいんちょ。いくらなんでも話をはしょりすぎです」
「過程よりも結果を大事にしようかなって思ったの」
「……大事にしすぎて大切なものを見失ってませんかね?」
マイペースを通り越した彼女との会話は、果てしない柔軟性を要求される。なんとかして話の流れを握ろうと、ボクは言葉をまとめる。
「ええとつまり、明後日の日曜に遊園地に行こう、そう言いたいわけですよね?」
「うんうん」
委員長はコクコクと頷《うなず》いて肯定する。
「べ、別に構いませんけど……二人で、ですか!?」
「そだよ」
こくん、と頷いて返事をする。無邪気で素直な子供のように。
「どうしてボクと?」
「来ればわかるよ」
返事が非常に短い。有無を言わせない、というか言うことができない。上手《うま》い具合に彼女にやり込められている感じだ。
「……どうやら、ボクが行くことは決定事項みたいですね」
「うんっ!」
これまでで一番の返事をして、委員長は満面の笑顔を見せてくれた。
「わかりました。行きましょうか」
誘われた理由は謎だが、断る理由も特にない。
(行けばわかるらしいしね……)
「白姫君なら、そう言ってくれると思ってた」
彼女はそう言って立ち上がると、両手を横に伸ばし、吹き抜ける風を体全体で受け止めた。
綺麗な黒髪が風を受けてなびき、ボクはそれに見とれてしまいそうになる。
――そのとき。
ごそそっ、ごそそっ!
バッグがいきなり跳《は》ねた。
「? 白姫君、そのバッグ、何か入ってるの?」
「いっ、いいええ! 何もッ!」
上から覆い被《かぶ》さり、バッグの中で暴れ始めたモエルを押さえようとするものの、何が気に入らないのかこの猫は暴れ続ける。
「随分と活きの良いバッグだねー?」
「ははは、よく言われます」
見られない角度から手刀をバッグに突き入れる。
「……なんか今、ごふぅ、って」
「気のせいですよ気のせい!」
「……? まいっか。それじゃ明後日、期待してるね」
こんな怪しい物体を簡単にスルーしてくれる委員長。そのおおらかさはさすがだと思う。
満足な結果を手に入れた彼女は、うきうきとその場を後にしようとする。
「あ、そうだ!」
扉の方に向かっていた委員長が急に踵《きびす》を返し、すたすたと近づいてきた。そのまま横を通り過ぎていったかと思うと、彼女はボクの背後に回り、
「? どうしたんですか、いいんちょ――」
――かぷっ。
「あいたっ――!?」
首筋に、噛《か》みついてきた。
「ひゃあっ!? いいんちょ、なにやって――んッ」
首筋の柔らかい部分に軽く歯を立て、犬歯でなぞるように、彼女はボクを弄《もてあそ》ぶ。
「ぷは。だって白姫君、午前中ずっと寝てたから。そのお仕置きです。――かぷり」
「あぅっ、それは申し訳ないですけどつ、なんで噛むんですか!?」
「美味しそうな白姫君がいけないの」
到底納得できない理屈を展開しながら彼女の責めは続く。首筋に薄い歯形を刻みながら、左手でボクの髪に優しく触れ、右手は制服越しにお腹を撫でてくる。
「……っ!」
逃げようとしても逃げられない。力任せに抑え付けられているわけではなく、彼女はむしろほとんど力を入れていないはず。なのに、ふわりとした手つきで触れられるたびに、絶対逃げられないという強制力がボクに働きかけてくる。
「やっ、いいんちょっ……こんなトコ誰かに見られたら――」
「――どうしよっか? |こんなトコ《ヽヽヽヽヽ》、見られちゃったら」
彼女は意地悪く、耳元で曝いてきた。力が抜けて顔を確認することもできないが、きっと彼女は笑っているだろう。……いつもの、ように。
「悪戯《いたずら》が過ぎますってば!」
「悪戯じゃなくて、お・し・お・き」
これ以上は本当に危ないので、何とか振りほどこうとしたが……腰元からゾクゾクとした感覚がせり上がってきて、抵抗することができない。
「ふふ。いいよ、白姫君……すっごく綺麗……」
「ふぁっ、もうっ、ダメですって、ば……!」
それから昼休みが終わる直前まで、ボクは彼女のなすがままに遊ばれてしまうのだった。
「――ん、そろそろ時間だね。教室、戻らなくちゃ」
たっぷりとお仕置きを堪能《たんのう》した委員長は、手早く身なりを整えると、来たときよりもスッキリとした顔で屋上の扉へと向かう。
「あ、午後の授業は寝ちゃダメだよ?」
力が抜けて屍《しかばね》のようになったボクにそれだけ言うと、校舎の中へと戻っていった。
「……もうお嫁に行けない」
ボクは一人になった屋上で、一人うなだれる。お嫁じゃなくてお婿《むこ》でしょ、とか突っ込みを期待したのだけれど、そのボケは不発に終わってしまった。
学校の屋上には、なんか色々吸い尽くされた少年と、微動だにしないバッグだけが、寂しく取り残されているのだった。
――その日の深夜過ぎ、昨夜に続いて闇夜に躍る影が一つ。
車道の車より速く、紅の残影が街中を跳ぶ。そこはこの時間でも車通りの多い場所で、交通量の多さから車線も広く取られている。道路を挟んで住宅が建っているが、電気の付いている家庭は少なかった。
「見つけましたの!」
グレイスが目標を捉《とら》えた。チューナーである彼女の敵はノイズ以外にありえない。確かに彼女の視線の先、車道の中央には蠢く異形の物体がいた。
敵を捕捉した彼女は躊躇《ためら》いなく車道に躍り出ると、
「ウィズ・インタレストッ!」
問答無用でコインを撃ち放つ。車道のど真ん中を移動していたノイズが、その一撃を喰らって液体状に散った。
だが、数秒と経《た》たずに結集、再構築する。
「!」
(仕留め損なった……?)
ノイズは、またも不定形のなり損ない。人々の小さな雑念が集まって生まれる、位としては下級、それどころか雑魚《ざこ》といえる存在。
「……昨夜のノイズとまったく同じのはず、ですの」
一撃で倒せなかったことを不思議に思いながら、グレイスは右手に新たな魔力を生む。
(魔力が、弱まっている……? まさか)
一枚の金貨を人差し指と親指の間に置き、前に突き出した。狙いを定め、さほど動きの速くないノイズに向かって――」。
「――……!」
撃ち放とうとしたとき、少女の視界が突如揺らいだ。だがグレイスは、体に染みついた熟練の動作でコインを弾《はじ》く。
狙いは違《たが》わず、目標に突き刺さる。
それを合図に周囲に生まれる金貨の艦《おり》。連続して、敵の体に集束してゆく。
光散る美しい光景。しかしグレイスは、それに見とれるようなことはせず、敵の消滅だけを確認して身を翻《ひるがえ》した。
「……次、ですの」
彼女の感じているノイズの気配は二つ。
一体はたった今、倒した。もう一体は、距離からしてかなり離れている。そう時間をかけずに別の魔法少女がやってきて、倒してゆくだろう。
「急がないと……」
彼女は、そう呟《つぶや》いた。
ほかの魔法少女が駆けつけるより早く、そのノイズを倒さなくては。呟いた言葉には、そういう意図が込められていた。
彼女の体は、お世辞にも快調と言える状態ではない。連日連夜、遠方で出現するノイズにまで手を下し続けているのだ。疲労は溜《た》まって当たり前である。
だが彼女は、それを止めるつもりはなかった。
――手に入れたいものがある。
体の不調など、この想《おも》いを止める理由にはならなかった。
夜の街を全力疾走するグレイスは、二匹目のノイズが発生している地点へと、十分とかからずたどり着く。
ザザ――ザ――。
「――どうやら、間に合いましたの」
異音が響く。魔法少女のみに聞こえるノイズ。世界を歪《ゆが》ませる、異形のざわめき。
音の大きさや魔力の震えで、大体の強さは察することができる。
「今度は当たりのようですの」
赤に彩られた少女は笑う。しかしその顔はどこか、無理をしているようにも見えた。
指先のわずかな震えを誤魔化《ごまか》すように、グレイスは拳を握り込む。息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そうやって、倦怠《けんたい》感の抜けない体に鞭《むち》を入れる。
彼女を駆り立てる意志は、さらに強く燃え上がる。
人気のない街中だった。グレイスの立っている場所は、車の行き交う交差点の中央。数台の車が行き交うが、道路に立ち尽くす少女の姿が見えないかのように通り過ぎてゆく。
認識|阻害《そがい》。
魔法少女が変身した際に自動展開する魔法。現在のグレイスを人が見たとしても、赤い誰かが立っている£度にしか感じることができない。チューナーはこうして、世界に認識されることなく、ノイズを狩っているのだ。
建物の灯《あか》りもあり、その場所はそこそこに明るい。グレイスの胸元にぶら下がる銀貨が、鋭い光を反射し、きらめいている。
不意に、車の流れが途切れた刹那《せつな》――。
ザザザザザッ!
激しい騒音が、グレイスの全身を打った。
「!」
即座に右手に意識を集中させ、周囲の様子を確認する。すると、痛烈な炸裂《きくれつ》音と共に、交差点の四方を囲む電灯の一つが光を失った。
続いて上空より風音。グレイスの体に強い風が吹きつけてくる。
(何か……落ちてくる!)
危険を察知したグレイスはすぐさま前に跳んだ。さらに電灯の砕ける音が三回聞こえ、残っていた電灯すべてが砕け散る。主立った光が消え、辺りは暗闇に包まれた。
グレイスは風に煽《あお》られないように踏みとどまり、後ろを振り向いた。
ギョロ。
瞬間、眼光に射抜かれる。
白い正円の中に、黒円。鋭さを感じさせる、不気味な、しかしハッキリと開いた眼球。
「猛禽《もうきん》」
ワシやタカといった、独猛《どうもう》な猛禽類の姿。
しかし、その大きさはこの現実に存在するそれよりも遙かに大《はる》きい。人より二回りほども巨大な、まさしく化け物だった。
鳥獣は、アスファルトで舗装された道路を着地の衝撃で砕いていた。
「ふふ……」
笑い声が、グレイスの口をついて出た。
「最近はつまらない獲物ばかりでしたけれど。ようやく大物と出会えたですの」
喜びを感じていた。この、自分の体よりも巨大で、強大な敵を前にして。
炎のように、笑っていた。
ノイズの顔が、グレイスの方を向く。
少女からあふれ出る敵意を、この猛禽類もまた感じ取ったのだ。
「さぁ――戦《や》りましょうか!」
グレイスの右手がガンマンの早撃ちを彷彿《ほうふつ》とさせる速度で霞《かす》んだ。
放たれるは、彼女の魔力を込めたウィズ・インタレスト。鳥獣はその攻撃に鋭敏に反応した。
二枚の羽を一度だけ羽ばたかせると、巨体が軽々と周囲のビルよりも高く、宙に浮かび上がる。
グレイスが続いて、左手に生み出した二投目を空に向けて撃ち放つ。
左手から放たれたコインは、右手のそれよりも音が重い。魔力を一点に集中した、パワーショットである。使う腕によって、扱う魔力の種類を変える。体に染みついた、彼女独自の戦い方だった。
ノイズは滞空状態から翼を横の空間に叩きつける。強風が巻き起こり、巨体が横ヘスライドした。そうやってコインの射線|軸《じく》から逃れると、流れるような動きでグレイスに接近、上空から速度と重量に任せた落下攻撃を仕掛ける。
「フッ!」
予測済みだったグレイスは空へと跳ぶ。上下の逆転、同時にそれは攻守の逆転でもある。地へと降り立った鳥獣を遙かに上回る跳躍《ちょうやく》をもって、グレイスは敵の背を見つめていた。
「もらったですの――っ!」
右手を標的へと合わせた彼女の目に、驚愕の色が映る。
次の瞬間、グレイスの体に真下からの衝撃が襲う。地面への落下から即座に跳躍し、体ごと体当たりしてくる。畳み掛けるようなノイズの攻撃は、彼女の予測を上回っていた。
少女の体は空中で制動を失い、地面へと落ちる。本来ならばそのまま叩きつけられているところを、無理やり体勢を立て直し、着地する。
(油断、しすぎですの……)
衝撃で一時的に動きの止まった獲物を、敵は見逃さない。
鳥獣は羽ばたき、飛び上がる。猛禽類の狩りは、上空から高速で接近、その爪で租手の体を掴み自由を奪う。美しくもまた理にかなった、瞬速の世界。
「っく……」
ダメージによって判断能力が低下しているグレイスにできることは――退避。
(一旦退《いつたんひ》いて――)
しかし。
「……!?」
意に反して、グレイスの体はその場から動いていない。アスファルトの地面に縫《ぬ》い付けられてしまったかのように、足を止めていた。
そのとき彼女の体を襲っていたのは、攻撃を受けた際の痛みなどではなく、慢性的なけだるさであった。数日前から感じていたものの、気を奮えばどうということはないので放っておいた症状。
――疲弊《ひへい》。
どんな環境にいようとも彼女はまだ中学生であり、魔法少女の力をもってしても限界はある。
食事という食事もろくに取らず、眠りさえも削り、戦いのみを続け、今こうしてダメージを負ってしまっている。
「こんな、ときに……っ!」
言葉も力なく、さらには視界がぼやけ、足が震える。無防備な少女に、猛禽の爪が迫る。近隣の建物がビリビリと震えるほどの圧力を秘めた突撃。
「……、……っ!」
意志はまだなお燃えている。けだるい感覚に侵蝕《しんしょく》され尽くした四肢に何度も指示をするものの、意思と体は完全に離れていた。建物の震えが次第に大きく、近くなる。だがグレイスは、鋭い瞳を前に向けていた。諦《あきら》めのない眼差《まなざ》しで、迫りくる敵だけを見据《みす》えていた。
「負けて、たまるもんですか……!」
震える足がとうとう崩れる。地面に片膝をつき、それでも視線は真っ直ぐだった。
暗闇すら引き裂いてゆくノイズの爪が、少女の瞳の中に広がってゆく。
すべてを見届けるまで閉じることのない、その瞳の奥に――。
――ドガンッ!
蒼《あお》が、突き立った。
ザザ――ザ――。
「ノイズ!?」
完全に眠りについていたボクを叩き起こしたのは、不愉快なノイズだった。時計を見ると、ちょうど次の日へと変わってしまったくらいの時間。
耳の穴が詰まったような耳障りなノイズは、普段聞いているものよりも遙かに大きく聞こえてきた。
「ふゃ……どったの、かなたん……」
人のお腹《なか》の上でふてぶてしく寝ているモエルを放り投げ、素早くベッドから降りる。
投げられたモエルは床の上に落ち、したたかに頭を打ち付けた。
「いっっっ、たいッッッ! 何するのさ!?」
「ノイズだよ! しかも――でかい!」
そう告げた瞬間、モエルの表情はすぐさま厳しいモノへと変わった。
「どれくらい!? こないだのカマキリよりも――!?」
「多分、アレよりおっきいと思う。あぁもう、ノイズっていうのはもう少し静かにならないのかな。一発で目が覚めちゃったんだけど!」
「だんだん自分本位になってきたね、かなたん」
「せっかく明日学校休みなのにーっ!」
ぼやきながらもボクは、パジャマをすべて脱ぎ捨てる。
慌てて視線を外すモエル。じっと床を見つめながら、緊迫した声で言う。
「かなたん、気をつけるんだ。もしかしたら」
声に不安が含まれているのを感じる。
「もしかしたら?」
不意に言葉を切ったので気になって聞き返すと、モエルは首を横に振って言った。
「――いいや、なんでもない。とにかく急ごう!」
厚手のシャツに生地の柔らかいパンツ。どちらもサイズは一回り大きめの外出着に着替え、すぐにボクは部屋の窓から身を乗り出し、屋根の縁に手を掛ける。
「てやっ!」
逆上がりの要領で腕に力を掛け、足を振る遠心力でくるん、と屋根の上へ。
「さすが、手慣れたものだね」
モエルは猫らしい瞬発力で簡単に屋根上へと登ってくる。
「まぁね」
「でも盛大に肌露出してるよ」
「ゎんっ!?」
上がった拍子に着ていたシャツがまくれ上がり、背中が丸見えになっていた。光の速さで直し、辺りを見回す。
「時々、キミは狙ってやってるんじゃないかと思うときがある」
「しみじみと言うな!」
顎に手の甲(?)を当てて、モエルがボクの体を見つめる。妙に視線がやらしい。するとこの猫は、ぼそぼそと何かを呟いていた。耳を澄ますと聞こえてくるその解説≠ヘ、
「決して筋肉質じゃない、絹も潤う柔肌。糖蜜《とうみつ》でも掛けたら一つの甘露として完成しそうなその肢体《したい》は、誰かに見せることでさらに熟し、至高の粋を極めてゆく――」
「こらっ、気色悪い表現をするなっ、しかも遠くを見るな、妄想するなーっ!」
なんだか慌惚《こうこつ》とした表情で現実から遠のいていたので、小柄な体を掴み上げてなるだけ上方、できたら惑星間を繋《つない》ぐ礎《しずえ》にでもなることを願い、月を目掛けて投げ放つ。
「――その肌に舌を這《は》わすと細雪《ささめゆき》の如《ごと》き繊細《せんさい》な触感、加えて口の中に広がる水蜜桃《すいみつとう》を思わせる深く、涼やかな香味――」
夜空へ消えるそのときまで、モエルの妄想は止まることがなかった。
「ったくあの猫はほんと情操教育に悪い……」
顔が火照《ほて》っている。恥ずかしさで赤面した顔を冷ますようにボクは空を仰ぎ、右手を伸ばす。
掲げた手に夜の冷たい風が吹き抜け、体を伝う全感覚が集中してゆく。
望みを掛け、唱えるは意味在る言葉=B
「遍《あまれ》く空の果てへ」
意識を、世界の常軌から外す。
言葉と望みが紡《つむ》がれたとき、ダークブルーの空が、蒼く引き裂かれた。
光が真っ直ぐに、ボクの目の前へと降り落ちてくる。
空色の光柱。
確かな力を感じるその光に、右手を突き入れる。
触れる――力。
ボクのイメージの象徴。光から、ソレを引き抜く。
全身を薄い青に包まれた、長尺の杖《つえ》。先端に付いた色なき宝石が、静かに佇《たたず》む。
オリジンキーオーヴァゼア
手の中で回転させ、意識を、杖の中に流し込む。
ピィン。甲高い旋律が鳴り響き、杖の先の宝石が、空色の光を灯《とも》した。
――変身が始まる。
身につけていた衣服が、光の粒子となって夜風に消える。淡い光が全身を包み、温かい力が体中の感覚を痺《しび》れさせ、研《と》ぎ澄ませてゆく。
「っ……!」
くすぐったさと快感の狭間《はざま》で、わき上がってくる感触。体を縛るいくつもの制約が解き放たれてゆく。杖を握り真横に一閃《いつせん》、身を包む光を薙《な》ぎ払うとそこには、姿を変えた自分が立っている――。
「もうすっかり、慣れたものだねっ?」
左肩に飛び乗ってきて、嬉《きき》々とした声を放つモエル。
「……おかえり。早かったね」
放り投げた際に手加減などしていないのだが、モエルは一分と経たずに戻ってきてしまった。
そして、とびっきりはつらつとした声で断言する。
「魔法少女の変身シーンを見逃すなんて、一話の半分を見逃してるのと同じことさっ!」
「とりあえずいろんな方面に謝れ」
視線を落とし、自分の体を見る。
(どれだけ回数こなしても、切ないな……)
上は、純白のワイシャツ。生地はとても柔らかく、肌触りがとても良い。ただ、どうしてか袖が長い。サイズがだぼだぼで、背伸びしたがる女の子みたいだ。首元に巻かれたネクタイは明るい桜色で、子供っぽさに拍車をかける。
下は、ミニスカート。青と白のチェック、爽《さわ》やかさを演出する。正直好きな色なのだけれど、好みの色を選択する前にもっと大事なことがあったのではないかと思う。
ちなみに、
「どう? スパッツにも慣れた?」
というモエルの言葉からもわかるように、スカートの下は黒のスパッツである。下着を見られる心配がない、などと定評のある穿《は》き物らしいのだが、これを見られた方がよほど恥ずかしいというのはボクの感覚がおかしいのだろうか。
「ものすっっっごく恥ずかしい」
「だがそれがい――うひゃあっ!?」
デリカシーの欠片《かけら》もないモエルを肩から叩き落としながら、髪に触れる。細く、長い赤リボンが、重力を無視してピンと立っている。髪の両サイドをまとめ、猫の耳のように存在を強調するリボン。尻尾《しっぽ》が二本頭から出ているような髪型も、小動物チックである。
「さっさと終わらせよう。眠いし」
「油断は禁物だよかなたん」
夜の濃い空気を肺の中に取り入れ、意識を集中する。体の中に新たに生まれている魔力感覚に、アクセスする。
ザザザザザザ――ッ!
「!」
たとえれば、凪《なぎ》の水面が震える感触。モエル曰《いわ》く探知能力が低いと言われるボクにもハッキリと感じ取れる、ノイズのざわめき。
「あっちか」
「ちょっ、と待ってよかなたんっ!」
叩き落とされてからまだ肩に乗っていなかったモエルが、足に掴まってくる。
「跳ぶよっ!」
「落ちるオチルおちるって!」
足にしがみついたモエルが文句を言うのが聞こえたが特に気にしない。屋根から屋根へ、自分の体を風に溶かすように移動する。流れていく景色が、幾筋にも連なる光の線に見える領域。
魔法少女に秘められた力は、人という領域を遙かに凌駕《りょうが》している。
「にゃー――――――う――――――っ!」
モエルの悲鳴を聞きながら、駆ける。
――走り始めてから一分ほどして、不自然に灯りの途絶えた交差点が見えてきた。思ったよりも家から近い場所で良かった、なんて呑気《のんき》な考えはすぐに吹き飛んでしまうことになる。
「!? グレちゃんっ!」
巨大なノイズ、そしてその直線上にいて、動く気配のない赤い影。
見た目だけでノイズだと断定できる巨大な鳥が、今まさにグレイスに襲いかかろうとしている。
(間に合わない――)
「蒼の――」
杖に意識を繋げ、使える唯一の魔法を想い描く。
唯一にして一度きり。魔力制御の下手なボクは、ひとたび魔法を放てば全魔力を出し切ってしまう。
「待つんだかなたんっ! それじゃあいつまで巻き込んじゃうよ!」
……同時に、力の加減も利かないという欠点まで持ち合わせていた。
「それならっ!」
速度を緩めずにオーヴァゼアを肩越しに構える。
「! かなたん、またっ――」
左肩のモエルが静止しようとしているのがわかったが、勢いのついた体は止まらない。
完璧な槍《やり》投げのフォームから、魔法少女の杖を――ぶん投げる。
「イッ、けぇぇぇぇっ!」
力任せの一投が放たれた。空気の歪む音が轟《とどろ》き、オリジンキーは突き進む。
「クェェェェェッ!」
飛釆物に気づいた鳥型ノイズは、けたたましい鳴き声を上げ急停止、空へと逃げる。
暗闇を高速で駆け抜けた杖は、グレイスとノイズの間に突き刺さった。オーヴァゼアが突き立った地面は破砕され、局地的な地盤沈下でも起きたような状態になってしまう。
「なんとか間に合った!」
「だーかーらーキミはどうして魔法少女の唯一無二の武器をあんな亜高速でぶん投げるのさ? 前も教えたよね! オリジンキーは魔法少女の半身とも言える重要なものだって! あれがないと魔法だって撃てないし、そもそも手放すこと自体が非常識というか、きっとオーヴァゼアだって泣いてるよ?」
耳元で小言を言うモエルを意識から外し、様子のおかしいグレイスの傍《そば》に駆け寄る。
「グレちゃん!」
地面に膝をついた彼女の顔を覗くと、まずその白さに驚いた。白いというよりも薄く青みがかっていて、病人のソレと何ら変わらない顔色をしていた。
「……彼方、さん? そう、来てしまいましたの……」
声に覇気《はき》がなく、体に力が入っていない。様子を眺めていたモエルが突然肩から飛び降り、下から彼女の体を注意深く観察する。顔をしばらく見つめた後にグレイスの右手首に耳を当て、目を閉じる。
「目立った外傷はない。脈拍も、弱ってはいるけど乱れてはいない。あのノイズに精神攻撃の類《たぐい》があるとも思えないから……疲労による虚脱状態だね」
医者のような口調で、モエルが冷静な分析を口にした。
「疲労……?」
「うん、間違いないよ。……まったく、どんな無理をしたら変身した状態でここまで衰弱するんだ」
厳しい口調でモエルが言葉を吐き捨てる。それを事実だと裏付けるように、グレイスは小さく唇《くちびる》を噛んだ。
「とりあえず、その辺の事情は後で聞くよ。今は――」
突き刺さったオーヴァゼアを抜き、空に飛んだ鳥を睨む。闇に浮き出る狩猟者の瞳が、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「――あの騒音を、消そう」
そう言った直後、グレイスが弱い声で信じられないことを言う。
「……彼方さん、少し、待ってもらえないですの……アイツは、私が……」
「えっ?」
その言葉に驚くボクの横から、モエルが怒鳴る。
「何を考えてるんだ!? そんな体でまだ戦う気なのか!?」
グレイスは顔を上げ、ボクと目線を合わせてくる。
燃え盛る炎を思わせる眼光に見据えられると、言葉が出なくなってしまう。
「かなたん、コイツの言うことなんて聞くことないよ。無駄に時間をかけるだけだ。どっちにしろ、もう変身を保っておくのも難しいはずさ」
肌に当たっていた風の流れが、急に変わった。距離を取ったノイズが羽ばたきの間隔を速めている。攻撃に転じる合図だ。
「彼方さん……!」
「かなたんっ!」
二人の気迫が、まとめてボクに差し向けられた。
(なんでボクが追い詰められてるのかな……)
モエルの言い分か、グレイスの想いか。
「あぁ、もうっ!」
敵に向き直り、改めてオーヴァゼアを構え直す。
「……!」
グレイスの表情が騎《かげ》る。
「それでいいんだ。――無駄な傷を、負わせちゃいけない」
モエルがグレイスに聞こえない程度の小声で囁く。心配してるのならはじめからそう言えばいいのにと思ったが、この猫は素直じゃない。後でこっそりと伝えておこうと思う。
とにかく、今は……。
ブオンッ!
ノイズが一度羽を翻し、鋭いクチバシを地上に向ける。そのまま周囲の建造物を優に上回る高度から、強襲を掛けてきた。
「結構、厳しいけどっ!」
声を上げ、グレイスの手を掴んだ。
「――え?」
「――あ?」
どつちがどつちかわからない声を、モエルとグレイスが同時に出した。
ボクは彼女の手を引くと、密着するくらいの距離にまで引き寄せ、
「失礼っ」
彼女の腰に右腕を回す。「はた?」、と素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げる彼女の体を肩に担ぎ、跳躍。敵の急降下と入れ替わるように、傍にあったオフイスビルの屋上に着地する。
「グレちゃん、あと何回攻撃できる?」
肩から降ろしながら尋ねると、その意図に気づいたモエルが非難の声を上げた。
「かなたん! コイツに戦わせるつもり――っ!?」
「戦うのはボクだ。戦う上で、グレちゃんを……利用させてもらう。
――飛び道具が蒼の軌跡《きせき》一発のみっていうのも心許《こころもと》ないしね」
もっともな理由を付け、彼女と目を合わせる。
「彼方さん……ありがとうございます、ですの」
「……適当なこと言っちゃってさ。どーせおいらの話なんて聞かないんでしょ」
不機嫌オーラを出しているモエルはふてくされたように呟いた後、
「できるの?」
グレイスの眼を見て尋ねる。
「! やってみせます! ウィズ・インタレストを放てるのは……恐らく、あと一発。
でも! 決めてみせますの!」
「倒せなかったら、即座にかなたんがぶん投げるからね。キミを、敵に向かって」
「……ボクが何でも放り投げるみたいに言わないでよ……っと、来たか」
風圧。屋上にいるボクたちの頭上へ、ノイズが舞い上がってきた。
「クェェェェェェェェェ!」
見失った標的を見つけ、猛《たけ》り狂う。
「それじゃ、行くよっ!」
二人で頷き、グレイスを肩に背負う。彼女の魔法は片手で撃てるし、これならボクの手も塞《ふさ》がることはない。
「おいらは?」
「グレちゃんの肩に掴まってなよ」
「ええー」
露骨に嫌な顔をしたが、置いていかれるのも嫌なのか、素直にグレイスの肩によじ登る。
(今のボク、もの凄《すご》い間抜けな格好のような気が……っ!)
そんな疑念ごと吹き飛ばすように、暴風が斜め上から吹きつけてきた。見上げると、こちらから数メートルも離れた上空で停止したノイズが、二枚の翼を勢いよく羽ばたかせていた。両翼を大きく広げ、巻き込んだ風を一気に地上へと押し出す。それを繰り返すことで、こちらに絶え間ない風圧を送り続けている。
そんな、今までとは違う動きに警戒していると――。
「――痛ッ!?」
右腕に痛みが走る。見るとそこには、薄い切り傷ができていた。
「……鎌鼬《かまいたち》!」「鎌鼬だ!」
グレイスとモエルが唱和する。
「おいらの真似《まね》しないでよ!」「少しでもサポートしようとしただけですの!」
二人は密着した状態で言い争う。
その間、ボクは敵の巻き起こす疾風の半径から逃れるように横に跳ぶ。屋上の狭いフィールド内で唯一風よけにできそうな貯水タンクの背後に隠れ、敵の様子をうかがう。
「かなたんをサポートするのはおいらの役目だ!」「さっきのは私の方が気づくのが早かったですの!」
ノイズがこちらを見失ったと見るや、さらに高度を上げた。
「かなたん上から来るよ!」「彼方さん、上ですの!」
またも唱和。背中越しに陰悪な空気が伝わってくる。
ゴゥ――ッ!
今度は真上から強風が襲ってきた。これでは風よけも意味がない。
(体が押さえつけられてるみたいだ――っ!)
屋上に転がっているゴミや石ころが、鎌鼬によって切り裂かれてゆく。
パスッ。
「!?」
下半身の辺りで小さな音が聞こえたかと思うと、スカートの裾の部分が切れているのが見えた。かろうじて全部は切れていないが、ただでさえ短いスカートにスリットまで入ってしまった。
「またこのパターンかっ!」
ボクはとにかく広がるスカートを抑えながら風圧の射程圏外へ跳ぶ。
距離を離すために隣の建物まで移動すると、予想通りに敵も追従してきた。
「服をボロボロにされる前にっ、さっさと決めさせてもらうよ!」
敵が一定の距離を取って羽ばたこうとした刹那、ボクはオーヴァゼアで思いきり地面を突いた。渾身《こんしん》の力を込めた一突きは、足場を砕いて上へと向かう力を生み出す。攻撃の反動を利用した通常よりも加速のかかった跳躍。脚力と腕力を合わせたこの移動法は、ボクを限界速度へと導く。
それは敵にとっての安全な間合い≠、一瞬で埋める。
『!?』
虚を突かれた鳥獣に、隙が生まれた。
(今だっ、グレちゃ――ッ!)
「――大体どうしてアナタはいつも私に突っかかってくるんですの?」
「かなたんを籠絡《ろうらく》しようっていう魂胆が見え見えだからさ!」
「なっ! ろ、ろうらく!? 誰がそんなはしたない!」
「はしたない? 中学生のくせに随分と耳年増じゃないか。何を想像したのかな?」
ストッ、とそのまま屋上に着地する。
「何も想像なんてしてません! アナタこそ、猫のくせに淫乱《いんらん》な――っ!」
「いい、淫乱!? おいらはあくまでもプラトニックに――」
「…………」
(スカートが切れても反応がないから、おかしいと思ってたんだ……)
ノイズはこちらから距離を離し、さっきよりも高い位置に滞空する。これではもう、さっきと同じ方法は使えない。
「プラトニック? 鼻で笑っちゃいますの!」
「なんだとーっ!」
ぶち。
『ぶち?』
唱和した、その瞬間。
肩に掴まるグレイスの腕を外し、彼女の背中と太股の辺りに手を当て、抱え上げる。
「はわっ?」
俗に言うお姫様だっこの状態になった紅の魔法少女は、いきなりの体勢に狼狽《うろた》え、顔を紅に染める。
「あ、あのっ、彼方さん?」
赤面した少女にニコリと微笑《ほほえ》みかけ、ボクは空を仰いだ。
鳥型ノイズの鋭利な眼差しは、警戒心で一杯だ。
その警戒にこたえてあげようとボクは、体全体を沈み込ませた。
「あ〜……」
一足早く気づいてしまったモエルが、諦めの吐息を吐く。
「なんですのっ、どういうことですの! モエルさん、なぜそんな遠い目を!?」
「おいらさ、今日は絶好の吹っ飛び日和《びより》だって思ってたんだ……」
「どんな日和ですの?」
ボクは、飛び道具を両手で抱え、渾身、全力、全霊、全|煩《わずら》わしさを込めて。
地に溜めた力を――。
「ほ・し・に・な・れぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーッ!」
――空へ、解き放つ。
「えっ、えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーー!?」
グレイスは問答無用の飛翔感に襲われながら、人間大砲≠ニいう一つのフレーズを頭の中で反芻《はんずう》していた。めくるめく急上昇によって視点が定まらず、自分がどこにいるのかわからなくなる。
「しっかりしろっ! 下だ!」
そんな彼女を導いたのは、肩に掴まっているモエルの声だった。
「……っ!」
気を取り直したグレイスは、まず両手を伸ばし魔法を撃ち出す体勢を作る。続けて下方へ目を向け敵の姿を確認。驚いているのか、眼を丸くしているノイズの姿を捕捉する。
(チャンスは一度。撃ちますの――?)
躊躇っている間に体は重力に捕らわれ、緩やかに落下を始めた。
[#挿絵(img\mb681_067.jpg)]
「っ!」
迷う時間はないと判断し、グレイスはオリジンキーに想いを注ぐ。
その間、肩に掴まっているモエルは――鋭い視線を敵とは違う方向に向け、口の端に小さな笑みを浮かべていた。
「――グレ子! 思いっきり、左手で撃て!」
いきなりモエルが大声で指示する。
逡巡《しゅんじゅん》するヒマなどなかった。敵が動く前に撃たねば、奇襲の意味がなくなってしまう。
震える左腕を右手で押さえ、狙いを定めて彼女は叫ぶ。
「ウィズッ、インタレスト!」
キィンッ!
グレイスのイメージで構築された魔力の結晶が奔《はし》る。迸《ほとばし》る魔力は金色の尾を引き、夜の闇に一条の軌跡を刻みつける。
しかし。
「クェェッ!」
タカを模するノイズの動きは、それよりもなお迅速《じんそく》だった。右翼を薙ぎ払うように動かし、わずかに、その体の位置をずらす。
射線から外れ、最後の一撃はノイズの体を擦り、素通りした。
「外し――」
グレイスの言葉を遮《さえぎ》って、モエルが叫ぶ。
「まだだっ」
――白銀が躍る。
「その通りっ! オーヴァー」
ボクは手の中にある杖を握り締めると、イメージを想い描く。自分がこれから何をしようとしているか、そこから導かれる結果を、強く想像し、願う。魔法少女の力の源は、想い。それを叶《かな》えるために背中を押してくれるのが、オリジンキー。
先端で無色の輝きを放つ宝石が、使用者の想いを組み上げ、光を放つ。
(……願いは一つ)
こちらに向かってくるウィズ・インタレストを――。
「ゼアーーーーーーッ!」
――打ち返す。
厚さ数ミりのコインを側面で捉えると、衝撃が両腕を伝わってくる。グレイスの想いが詰まった一撃を全身で感じ、オーヴァゼアを振り抜く。
「外させ、ないっ!」
軌道を変えた金貨が、回避したばかりのノイズへと向かう。
魔力の結晶は蒼い光を伴い、煌々《こうこう》とした輝きを生む。
猛禽が身を翻したとき、想いを相乗させたコインは既に間合いの内にあった。黒円の瞳に映るのは、逃れられない距離にまで迫った一閃光。光は異形を射抜き、虚《うつ》ろな闇で作られた体に、風穴を穿《うが》つ。
ノイズはしばらくの間、何事もなかったかのように空を羽ばたいていた。
「――……」
息を呑《の》んで結果を見守っていると……ノイズの羽ばたきが、止まった。
やがて、穿たれた小さな穴から光が漏れだし、崩壊が始まった。空を舞っていたノイズの体は、地へと落下しながら光の粒子へと変わってゆく。
そしてノイズは、地面にたどり着くことなく――完全に消滅した。
「やったですのっ!」「やったぁ!」
同じように落下しながら、グレイスとモエルは歓喜の言葉を同時に叫ぶ。二人して大きくガッツポーズを取り、迫りつつある地上へと――。
「! ばかっ、モエル!」
「ふぇ?」
両手でガッツポーズを取ったモエルは、グレイスの体から離れてしまっていた。
変身しているグレイスはともかく、多少頑丈とはいえ、ただの猫であるモエルがこの高さから落ちれば、ひとたまりもないだろう。
「あわわわっ!?」
空中でジタバタするモエルを、掴む手があった。
「……馬鹿な猫ですの」
グレイスがしっかりとモエルの体を自分に引き寄せる。それから着地するまで、穏やかな表情をした紅の魔法少女は、ぶす〜っと不機嫌顔の猫を、胸に抱きかかえていた。
「――誰が馬鹿だっ!」
着地してすぐ、腕から抜け出したモエルの叫んだ言葉がそれだった。明らかに照れ隠しだとボクにはわかったが、グレイスは無言のまま目を閉じてしまった。
そしていきなり、
「グレちゃんっ!?」
無造作に倒れた。紅のドレスが解けて、一人の少女へと戻る。
「かなたん、どこか休めるところに!」
モエルの判断は迅速だった。
「わかったっ」
変身を解かずに彼女を背に抱え、急ぎ、休める場所を探す。
「――そ〜れ〜でっ! どうして自分の家になるのさ!」
白姫家自室、ボクのベッドの上で薄い呼吸を繰り返す留真の様子を見ながら答える。
「仕方がないでしょ。留真ちゃんの家知らないし」
「だからつて、年頃の女を自分の家に連れ込むなんて……」
誰かに聞かれたらもの凄い誤解を招く言い方である。モエルは文句を言ってはいるものの、実のところそんなに否定的ではなく、家に運びこむときも反対はしなかった。
「状況的には合ってるんだけどモエルが言うと不健全に聞こえるよね」
「失礼な!」
ぐっすりと眠っている留真の寝息はとても穏やかで、近くで言い争ってもまったく起きる気配がない。
「……ねぇ、モエル」
「?」
歳の同じ少女の横顔を眺め、気になっていたことを聞いてみる。
「どうして留真ちゃんはこんなになってまで……戦うんだろう」
「…………」
モエルは黙ったまま、グレイスの顔を見た。そして、こんなことを言った。
「さあね。……ただ、少なくとも、オリジンキーをここまで操るには、並大抵じゃない強い想いがあるはずだよ。……善《よ》きにしろ、悪《あ》しきにしろ、ね」
カチ、ン。枕元に置いてある時計が針の音を鳴らした。普段ならば絶対に起きていることのない時間。緊張が解け、生あくびをかみ殺す。
「キミももう寝なよ。疲れたでしょ?」
確かに、全身が浮いてるような気がするくらい、意識が朦朧《もうろう》としている。
「――うん――そう、する」
逃れようのない眠気に襲われ、ボクの意識は落ちてゆく……。
「あ!? こらかなたんっ、それはダメだ!
おぉいっ! それだけはダメだったら! こらーーーーーッ!」
意識が完全に消えるまでの間に、モエルの叫ぶ声が聞こえ続けていたけれど、なんて言ってるのかは、わからなかった。
[#改ページ]
Other side.樋野留真《ひのるま》
私は孤児だった。
生まれて間もない頃《ころ》に、とある礼拝堂に捨てられていたらしい。
だから両親の顔はおろか、声も、温《ぬく》もりも、思い出すことができない。
自分を生んでくれた親に対し、どんな感情を抱けばいいかもわからないのだ。
生んでくれたことを感謝するべきか、捨てたことを恨むべきなのか……正直なところ、全部どうでもよかった。
記憶にないものを想うなんて、無意味でしかない。
……それに、私にも親と呼べる人はいる。一人きりで泣きじゃくっていた私を拾い、ここまで育ててくれた人が。
その入は礼拝堂の管理をしている牧師で、とても信心深い老齢の男性だった。
――留真という名は、その人から付けてもらった名前だ。
彼は、この出会いを神のもたらした運命だと信じ、私を育ててくれた。
その暮らしは決して裕福なものではなく、どちらかというと苦しかった。
食事が三食出ない日もあったし、着る服もほとんどが修道服で、おしゃれに気を使う余裕なんてない。住んでいる場所は礼拝堂の一室で、風の強いときなどは窓が音を立てて揺れる。何十年も昔からある建物だから、だいぶガタが来ていたのだ。
生活は苦しかったが、それでも私は――幸せだった。
お腹が空いたときは牧師と二人で、礼拝堂の周りに生えている食べられる木の実を探す。たくましくもなったし、おかげで色々な知識が身についた。
着る服一枚にしても、自分の服を自分で洗い、ほつれれば自分で直す。着ている服への愛着は人一倍深かった。
なにより私は、少し古いけれど力強い、あの礼拝堂が好きだった。建て付けの悪いドアも、歩くたびに軋《きし》む床も。見惚れてしまうくらい厳かな――佇《たたず》まいも。
だから、生活が苦しくても、笑うことができた。幸せだと、言うことができた。
小学校へ通う歳《とし》にもなると、私は自分の置かれている境遇を理解していて、自分は世間一般で言う普通≠ノはなれないとわかっていた。
だが私はごく普通に学校へと入学することができた。しかも、普通では入れないような格式高い学校に。牧師の|つて《ヽヽ》ではあったが、それでも、人と何ら変わりない生活を送ることができたのだ。
学校の制服に身を包んだときの感動は、今も忘れていない。
……だけど。
幸せは、こぼれ落ちていく。
『この礼拝堂は、もう必要ないそうだ』
十字架を見上げ呟《つぶや》かれた言葉は、子供心に寂しさを刻み込んだ。
当時八歳だった私に、大人が語る難しい理由なんて理解できるわけがない。
ただ、近所に真新しい礼拝堂ができていたこと、逆に自分の住んでいる場所は長年の風雨に晒《さら》されボロボロだったこと。それだけで、理由なんてものは簡単に察することができた。取り壊しの提案が出たときも、反対したのは牧師のみで、街に暮らす人々は古びた建物には何の興味もないとばかりに、あっさりと記憶から消そうとしていた。
『これも、神の思《おぼ》し召しか』
礼拝堂の主が紡《つむ》いだ、諦《あきら》めの言葉。
どんな気持ちでそれを言ったのか、私にはわからなかった。
いや――わかりたくなんてなかった。
彼は、|神の思し召し《ヽヽヽヽヽヽ》などという言葉で、この礼拝堂を諦めるという。
そんな言い訳じみた言葉で、これまで過ごしてきた場所を見捨てようというのだ。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも。すべてが詰まったこの場所を。
私に笑顔をくれた、この礼拝堂を。
[#挿絵(img\mb681_077.jpg)]
そのとき、私の心は、とても冷たく――。
――燃え上がった。
神のもたらす運命だかなんだか知らないが、そんな勝手なこと認められるはずがない。こんなに簡単に諦められ、見捨てられていいはずがない。
昔から私は、神を信じたことがなかった。不遇な運命を与えた神とやらに反抗心を抱いているわけではなく、信じるべきものが他《ほか》にあったからだ。
それは、自分=B自分以外の何かではなく、自分自身の力を、信じていた。
そんな私だからこそ、決意したのだ。
誰が諦めたとしても、私だけは諦めない。
――一人で、戦おうと。
私一人の力で、あの場所を取り戻そうと。
チューナーに選ばれたのは、それから間もなくしてのことだ。私の持つ想《おも》いは、オリジンキーを操るに相応《ふさわ》しい強さを持っていたらしい。
ノイズを倒せば、見合った対価が支払われる。強い敵を倒せばそれだけ見返りも大きくなり、お金が手に入る。それを利用しない手はない。
礼拝堂は今も、取り壊されることなく山の中にひっそりと停んでいる。危険なので立ち入り禁止とされ、その土地の利用価値が見つかるまで放置されるらしい。だが、いつその日がやってくるかはわからない。
急がなくてはならないのだ。それこそ自分の身を削ってでもお金を貯《た》め、一刻も早くあの場所を取り戻さなければならない。
私は裏の世界を受け入れた。
笑顔を忘れ、戦いに身を投じる覚悟をした。
「取り戻してみせる」
あの美しい場所――人と人とを結びつける、優雅なるチャペルを。
[#改ページ]
2.魔法少女はお姉さん
(ん……、柔ら、かい……)
意識が覚めるときに、こんな感触がするのはいつ以来だろう。留真《るま》はまどろみの中でそう思った。いつも硬くて冷たい床で、決して快適とは言えない起床を繰り返している少女は、ゆっくりと戻ってくる意識を確かめるように、思考を練る。
まぶたの裏に差す明るさから、朝であることをまず感じ取る。
次に、こんなに緩《ゆる》んだ気持ちで朝を迎えるのは随分と懐かしいな、と感傷に浸ってみたりもする。
(それに……あったかい……)
体全体に伝わってくる感覚は、ふんわりとした温かさに満ちていた。普段と比べたら天国のようだ。それに、体の上に掛けられている布団。ちゃんと熱を逃がさないようにしてくれている。しかも軽い。もしかしてこれが羽毛の布団というヤツだろうか。だとしたら、ここはやっぱり天国だろう。おぼろげな意識の中で、それだけのことを考える。
次第に、体に命令を送れるようになってきた。
(どうして、こんな……心地の良い……)
留真は手をわずかに動かした。
指先が、ふにょ、とした何かに触れる。ほのかに温かいそれは、抱き枕か何かか。ともかく、留真はそれを引き寄せた。起きることを拒否している脳が、そのちょうど良い感触を求めていた。
「ぅ、ん……」
抱き枕が、何か鳴き声のような音を出した気がした。なんだろう、と留真はもう一度抱き枕を引き寄せる。
「あぅ……」
小さな、喘《あえ》ぎ。
(!?)
留真は目を見開き、呼吸を止めた。
彼女がたった今まで抱き枕だと思って抱きしめていたもの、それは――。
――白雪の如《ごと》き姫君。
安らかな寝顔をした白姫彼方《しらひめかなた》には、そんな表現がピッタリだった。
(って、そんなこと考えてる場合じゃないですのっ! なんで彼方さんが……どういう状況ですの!? これは!?)
彼女にとって、ここまでハイレベルな緊急事態は久し振りなことだった、乳白色のベッドの上で、留真はなんとか首だけを上げ、周囲を見回す。
――透明な部屋。
真っ白な壁に、フローリングの床。部屋の中央にはクリアガラスのテーブル。壁際には背の低い木製の棚があり、その棚の上には透明なガラス細工が並べられている。そこからさらに上の壁には奇抜なデザインの額縁が下げられており、よくは見えないが賞状のようなものが収められている。部屋全体のイメージを最も強く印象付けている空色のカーテンは、眩《まばゆ》い陽射《ひざ》しを浴びてうっすらと輝いていた。
趣味があまり色濃く出てはいないが、心が洗われる配色をしている。
「彼方さんの部屋……ですの」
隣で寝息を立てている少女然とした少年は、着ている空柄のパジャマの前ボタンをすべて留めておらず、胸元からお腹《なか》の辺りまでを惜しげもなくさらけだしている。ズボンもずれ下がっていて、下着がほんの少し見えてしまっていた。
留真は昨夜の記憶が途切れている部分を思い出そうとするが、上手《うま》くいかない。それ以上に、置かれている状況が事実を物語っている気がしていた。
(こ、これはまさか……つまりその……そういうことでは、いや、さすがにそんなことは……まだ中学生ですのよ、私たちは)
混乱している頭では、考えつくことがすべて危ない方へ行ってしまう。留真は必死で考えることをやめようと、意識を別の方向に向けた。
(それにしても、ぐっすり寝ていますの……こんなに近くで見るのは初めてですけれど、本当に綺麗《きれい》な肌……きめ細かで、みずみずしくて。唇《くちびる》も、小振りで鮮やかで……)
とろん、とした瞳をする留真。だがすぐに脱線しかけた思考を振り払う。
(とりあえず、手を外さないと……)
眠っている彼方を起こさないよう、慎重に背中に回した手を外しにかかる。
(そおっと……そお〜っ、と……よしっ、外れましたの!)
そこから留真は、急いで起き上がろうとしたが……。
(っ――?)
体に力が入らなかった。
何も食べていないことに加え、昨日の今日で体調が元に戻るわけもない。結果、半分ほど起こしかけていた体が、吸い込まれるように隣で寝ている少年の上に倒れてしまう。
(ああああうっ、これは空前絶後の大ぴんち、ですの!)
傍《はた》から見ればその体勢は押し倒しているようにしか見えない。至近距離から彼方の顔を直視してしまい、顔が熱くなるのを感じる。
(彼方さん、女の子みたい――)
ゴクン。喉を鳴らす音が、心臓を弾《はじ》けさせるほど大きく聞こえた。
(……いえ、そもそも本当に……男の方、なんですの?)
その疑問は、ある選択肢へと至る最も危険なもの。視線は、彼方の体に注がれる。
それは小さな好奇心。
――確かめるか、確かめないか。
答えは、彼女の行動によって示された。
「ふ、不可抗力……ですの……」
留真は、自分の手をゆっくりと、爆弾解体のソレを思わせる精密さ、そして緊張を伴いながら動かし始めた。
慎重に慎重を重ね、上半身と下半身の境目、腰の辺りに手を這わせ、
「……ふぅ」
一度、息を吐く。
(ちょっと、確かめるだけですの。……多分、軽く触れただけでわかる、はず)
そうやって自分を正当化しながら、彼女は意を決する。
「……。よし」
「よかない」
がぶ。
「うひぃっ!? なっ!? な……っ! なんでアナタが……!」
飛び起き、ベッドの隅へと逃げる留真。噛《か》まれた鼻の頭を押さえながら涙目で、布団の中から這《は》い出てくる一匹の猫を見る。
「やれやれ。一晩中布団の中で見張っていて正解だったみたいだ。……あんな露骨にアグレッシブな不可抗力があってたまるか」
モエルは慌てふためく少女を、対照的な冷静さで見つめ、
「さて――一体、何をしようとしていたのかな?」
半眼で尋ねた。
「ッ!」
留真は、断崖絶壁《だんがいぜっぺき》に追い詰められた気分をベッドの端で味わう。
「……そ、そもそもどうして、彼方さんが私の隣で寝てるんですの――」
苦し紛《まぎ》れに質問を回避、話をはぐらかす。
「昨夜の戦いでいきなりぶっ倒れたキミを家まで運んで、そのままかなたんも寝ちゃったんだよ。ここのところ寝不足だったみたいだしね」
グレイスは胸を撫で下ろし、そのまま会話を逸《そ》らそうとする、が――。
「ところで、どこを触ろうとしてたのかな?」
(会話のリターンが早いっ!?)
弱点を見逃さないハンターに驚愕《きょうがく》する留真。
「いや〜、わからないでもないんだよ? かなたんってばかわいいうえに無防備だし、いろいろ劣情を催したりとか、するよね?」
慈愛《じあい》に満ちた作り笑いを浮かべ、モエルは一歩前へ。
「ごっ、誤解ですの! そんな劣情なんて……!」
動きに合わせて留真は下がる。
「あんなトコを触ろうとしておいて、誤解?」
「あ、あの、ですから……」
「ですから?」
「え〜、と」
「えっと?」
ゴツ、と背中に当たる壁は、奈落への入り口か。逃げ道がなくなった留真は、
「〜〜〜っ! だってっ、柔らかかったんだもんっ!」
虎の咆哮《ほうこう》を思わせる猛烈な勢いで、開き直った。
「語尾を捨ててまで!?」
「そっ、そ、それにっ、アナタだって布団の中にいたじゃないですの! 同罪です同罪!」
「おいらはかなたんを守るために潜り込んでたんだい!」
「嘘《うそ》ですのっ! 監視するだけだったらそんなほくほく顔してるわけないですのっ!」
「なにっ!?」
咄嗟《とつさ》にモエルは両手で自分の顔に触れてしまった。
「ほらご覧なさい! 確かめようとしたってことは、やましいことがある証拠ですの!」
「ちっ、ですのですのと小癪《こしゃく》な!」
痺れを切らしたモエルは、ベッド隅の留真へと一気に飛び掛かった。
「語尾は関係ないですの!」
留真は、ベッドを転がって攻撃を避ける。その際、ベッド上の何か≠思いきり蹴り落としていたが、争いを始めた一人と一匹には、それが|誰なのか《ヽヽヽヽ》など、まったく関係のないことだった。
――どういう状況だろう。
ジンジンとした体の痛みによって目が覚めると、そこでは一人の少女と一匹の猫が戦いを繰り広げていた。
「〜〜っ!」「……ッ!」
それぞれ罵《ののし》り合っているようだが、あまりの勢いに内容が聞き取れない。
「……? なんで、床の上……?」
ボクが目覚めたのは、フローリングの床の上だった。ベッドに入って寝た記憶はあるので、どうやらこの一人と一匹の争いに巻き込まれてしまったらしい。
留真とグレイスはお互い本気でやり合つているようだが、端《はた》から見ると、
(子供同士がじゃれ合ってるみたいだ)
――微笑《ほほえ》ましい限りであった。
「あれ、服がはだけてる……ボタン留め忘れて寝ちゃったか」
のんびりとボタンを留め直してから、白熱した一人と一匹に声をかけてみる。
「あの」
「淫乱《いんらん》猫淫乱猫淫乱猫!」
「むっつりスケベむっつりスケベむっつりスケベ!」
(……。今日も大変な一日になりそうだ)
心の底から、そう思った。
「よいしょ、と」
留真とモエルは放っておいて、立ち上がり窓の方へと向かう。
そして陽射しを遮《さえぎ》るカーテンを一気に開け放ち、窓も一緒に全開にして、大きく伸びを一つ。
暖かい陽射し、吹き抜ける風、聞こえる街の息吹。胸一杯に空気を吸い込み、始まりの深呼吸。
「ん〜っ! 今日は学校も休みだし、何しよっかな!」
そんな清《すがずが》々しい朝を演出しているボクの背後では、
「よくも囓《かじ》ってくれたですのっ!」
「よくも髭《ひげ》を引っ張ってくれたなっ!」
熱いバトルが繰り広げられている。
「……はぁ」
二人が暴れるたびに部屋が散らかってゆく。これを片付けるのはきっとボクだろう。そう考えると、なんだかやるせない気がしてきた。
「二人とも。そろそろ……」
「かなたんは黙ってて!」
「ですの!」
まったく聞く耳持たず。
「おいらは今日中にコイツと決着を……って、かなたん?」
「彼方さん……? どうして拳の具合なんて確かめてるんですの?」
目覚めにはちょうどいい準備運動だろう。
「母様がね、言葉が通じない相手にはボディランゲージを使えって」
ボクは笑顔でそう言うと、右拳を左手に打ちつける。
「ちょっ!? かなたん、それ使い方間違ってる!」
「彼方さん! 人間は言葉でわかり合えるはずですの!」
そんなこんなで、どたばたした朝ではあるけれど。
――果てに広がる空は、いつもより清々として見えた。
「留真ちゃん、おかわりいりますか?」
一階の食卓は、今や一人の少女の戦場となっていた。
「! は、はひ、ぜひっ!」
目の前で気持ちが良いほどの食事風景を展開している留真。朝の騒動の最中、ぐぎゅるるるる、などとお腹を鳴らすものだから、少し遅い朝食に誘ったわけなのだが……。
(……すごい食べっぷりだなあ)
ちなみに、モエルはうるさかったので部屋に閉じ込めてある。時々「かなたんの貞操《ていそう》がー」とか叫び声が聞こえるが、無視するに限る。
ご飯をよそっている間にも彼女は、おかずに用意した焼き鮭《じゃけ》に手を付けている。
「はい、おかわりどうぞ」
炊きたてのツヤがある白米をたっぷり茶碗《ちゃわん》に盛って手渡すと、受け取ってからすぐにご飯をかき込む。その流れで味噌汁《みそしる》を含み、更にご飯、焼き鮭と、休む暇のない波状攻撃。箸が掴むものでなく、押し込むものになっている。
そんな風に食べていれば――、
「……!? ッ!」
喉に詰まって当たり前だ。
「はい、お茶です。熱いですから、よく冷ましてくださいね」
空になっていた湯飲みにお茶を注ぐと、彼女はすかさずそれを手に取り、喉につかえたものを押し流すために一気に飲み干した。
それから何度か咳《せき》をした後にボクを見て、所在なさげに目を逸らす。
「ご、ごめんなさいですの。二日近く、まともに食事を取っていなかったもので……」
ボクはその言葉に驚き、つい声を大きくしてしまう。
「二日? そんなさらりと言えることじゃないでしょう!」
昨晩の戦いで見せていた疲労が納得できた。疲れに、栄養失調。それだけあれば、動けなくなって当然だ。
続けて疑問が浮かぶ。聞いていいものかはわからないが――。
「あの、留真ちゃん。言いたくなかったら言わなくても構わないんだけど、留真ちゃんて普段どんな生活してるの? どうしてそんな、無理をしてまでノイズを倒そうとするの?」
「…………」
彼女は、黙ったまま顔を下げた。拳に力が入るのが見える。
「言いにくい、よね」
昨晩の戦いで見せたノイズへの執念。自身を顧みないほどの覚悟。彼女にとって戦いとは、何か、とてつもなく大きな意味を秘めているもののようだ。
「だったら言わなくてもいい。けど――」
わずかに顔を上げた彼女に、落ち着いた声で告げる。
「――許せないんです」
彼女の戦う意味。今はそんなことどうでもいい。
留真の瞳が、ボクを捉《とら》えた。その視線を外させないように見つめ返す。
「あのとき。どうして一人で戦おうとしたんですか。自分の体のことくらいわかってたはずだ。なのに、留真ちゃんは一人で行こうとした」
「……。それは……」
「どうしてボクを利用しなかったんですか」
あのとき戦おうとしたボクを引き留め、彼女は一人で戦おうとしていた。
彼女に何らかの強い想いがあるのはわかっている。だが、
「一人で戦うことなんてなかったはずです。目的のために一人きりで最後まで戦って、燃え尽きる。そういうの、かっこいいかもしれない。……それが正しいとか、間違いとか言うつもりはないです。
けどボクは、目の前で友達が傷つくの――嫌です」
「! 友達……?」
初めて聞く言葉であるかのように、彼女が繰り返す。
「……留真ちゃんは自分が傷ついてもいいのかもしれないけど、ボクは嫌ですから。
絶対に、そんなの許しません」
最後に本当に伝えたかったことを口に出す。
「もっと、誰かを――ボクを、頼ってください」
弱さを見せない彼女に、それだけを願う。
「彼方、さん……」
握りしめられた手が、ゆっくりと解けてゆく。
「ね?」
微笑むと、彼女もまた、ぎこちなく笑い返してきた。
「……ん、留真ちゃんほっぺにご飯粒付いてる」
「えっ? ……あ」
指先で彼女の頬《ほお》に付いた米粒をすくい取ると、そのまま自分の口元に運び、ばくん、と指ごくわなと咥える。こっちを向いて少しのあいだ硬直していた留真は、人差し指で頬を軽く撫でると、
「……さっきから彼方さん……新妻さんみたいですの」
「ふぇ!?」
指を咥えたまま声を出してしまったため、変なリアクションになってしまった。
微妙にむずがゆい空気が、食卓の間に流れてゆく。
そのとき、ドタァン、バタバタバタッ、と、微妙な空気をぶち壊すけたたましい音が二階から聞こえてきた。どうやらモエルが部屋から脱出してしまったようだ。
(両手両足を縛っておいたのに……どうやって抜け出したんだろ)
「――かあなたぁぁぁぁんっ!」
超特急で食卓になだれ込んできたモエルは、開口一番、そう叫んだ。
その格好は、縛った状態から何も変わっていない。というか、両手両足を縛られた状態で転がってきたらしい。どれだけ頑丈なんだろうかこの猫は。
「大丈夫かなたん!? なんかもの凄《すご》い甘い雰囲気が二階まで漂ってきたんだけど!
ですの娘になんかこう弄《いじ》られたりしてない!?」
「……台なしだよ」
溜息《ためいき》を吐《つ》きつつ留真のほうを見ると、彼女の口元がわずかに綻《ほころ》んでいるように見えた。
「あ、今笑ったな――そんなにおいらが滑稽《こっけい》か!」
「! わ、笑ってなんていませんの! 何を言いがかりを――」
しかしモエルのせいで、また怒った顔に逆戻りしてしまう。
(やれやれ、飽きないね)
でも、怒っている彼女からは、昨晩の悲壮さなんて見えなくて。
――少しだけ、安心したのだった。
早めの昼食をたっぷりと食べた留真は、満足顔で帰ろうとしていた。
「ほんとにもう、大丈夫?」
玄関前まで見送りに出ていたボクは、彼女にもう一度聞く。
すると留真は不敵な笑みを浮かべ、こう言った。
「モエルさんを構ってあげたほうがいいですの。……普段はあんなですけど、随分と寂しがり屋でしょう?」
的を射たことを言いながら「自分は大丈夫ですの」と力強く断言する。
「……今日は本当に、ごちそうさまでした」
ボクの目の前で足を揃《そろ》え、ぺこりと一礼する。その振る舞いは優雅なもので、いつも見ている荒々しい様子からはかけ離れた、しとやかなものだった。
「それでは」
「……うん、ばいばい」
そんなギャップに見とれている間に彼女は背を向け、歩いて行ってしまった、一人になってからしばらくして、ようやくのんびりとした時間が戻ってきたことに気づく。
何かと騒がしい日が続いていたので、空をゆっくり眺める暇もなかったのだ。
「とりあえずもっかい寝よかな。そだ、久し振りに屋根の上でひなたぼっこでも――」
――ザ。
「う……」
耳に入った異音が憎たらしい。昨日の奴《やつ》よりは遙かに小《はる》さな音だが、結構近いようだ。
(これ聞きつけて留真ちゃんが戻ってくるのもアレだしなあ……あぁもう!)
玄関の軒先で隠れつつ手を空にかざす。
「遍《あまね》く空の果てへ」
小声で唱えると、光の柱が降りてきた。思いっきり派手に。
(うわこら目立つ! 目立つから!)
光が降り立った直後、溜《た》めも何もなく杖《つえ》を引き抜く。すると荘厳《そうごん》に現れた光の柱は、寂しげにかき消えた。
ひっそりと変身を終えると、まずはその場から跳《と》んで屋根に上る。
「モエルは……まあいいか。すぐ終わるでしょ」
集中して敵の場所を確認すると、ボクは移動を開始する。
昼間は人通りが多い。建物の上を跳んでいるので見つかることはないのだけれど、やはりこの魔法少女の衣装というヤツには悪意を感じざるを得ない。
まず、戦闘するための衣装なのにシャツのサイズが合っていない。手が袖の中に隠れてしまっては、動きに支障が出ると思うのだが。
『なに言ってるのさかなたんっ! ぶかぶかの袖からチラリと覗《のぞ》く指先! そこに宿る意味はあらゆる道理を打ち砕く!』
凶悪なまでに短いミニスカートは、風が吹くたびに気になって仕方がない。
『ねえ、かなたん。スカート押さえる仕草《しぐさ》って、一つの奇跡だと思うんだ。そこに言葉なんて必要ないんじゃないかな……』
下はぴちぴちスパッツ。これは最後の良心なのだろうか?
『そこが一番のネックだよ! スパッツとは下履きの中でも布面積が多く、下着を見られないようにするためのものだと思われがちだ。だけどそれは違う。スパッツは決して|防ぐためのもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》なんかじゃない。……よく見てほしい、下半身に密着した伸縮性の生地が浮かび上がらせる、生々しい素肌のラインを! 黒く覆い隠されているというのに人の目を惹いてやまない、むしろ隠されることによって想像を掻《か》き立ててくる魔性の履き物! 見えないことこそが最大の魅力! スパッツとは|攻めるもの《ヽヽヽヽヽ》なんだよっ!』
脳内モエルがうるさいので、あとで本物をこらしめようと誓った。
「……どうせなら、留真ちゃんが着てるみたいなドレスの方が良かったよ……って、何を考えてるんだボクは!」
女装すること自体がおかしいのである。
(もしかしてボク、慣れて……っ! そんなわけない! 絶対に!)
それからしばらく葛藤《かっとう》を繰り広げていたボクは、その悩みを解決することができないまま、騒音の発生点である近所の公園に降り立った。
ブランコや砂場、シーソーなど、最低限の遊具が設置されている公園。休日の昼間だというのに子供たちの姿は見えない。
「まあ、いない方が助かるんだけど……ちょっと寂しいね」
周囲を見回しながら警戒していると、公園の隅に違和感を感じた。目を凝《こ》らして見ると、その空間の一部だけが、渦を巻きねじれているのがわかる。明らかに普通ではないそのねじれは、意識を集中することで微妙な騒音を立てているのが感じ取れた。
歪曲《わいきょく》した空間から、黒い雫《しずく》が落ちる。
「……! なに、これ?」
陽も明るい真昼の公園に落ちたそれは――真っ黒だった。
ぶよんぶよんの黒い塊《かたまり》。陸に上がったクラゲを思わせる形状。今まで見てきたノイズは何かしらの形を持っていたものだが、そいつにはハッキリとした形がなく、得体が知れない。
「まあいいや。休みの貴重な時間をこんなのに奪われてたまるもんか」
オリジンキーを掲げ、イメージを繋《つな》ぐ。ここは一つ、ストレス解消をかねて全力でぶっ飛ばそう、というつもりで。
「オーヴァー……!」
杖を構え、前方へ跳躍《ちょうやく》。みるみるうちにノイズとの距離が狭まる。
「ゼ――」
「――お嬢ちゃんっ、あぶなぁい!」
ボクと、ノイズの影が重なる直前、いきなり景色が横に流れた。続いて衝撃が襲ってきて、体がえも言われぬ浮遊感に包まれる。
……不思議な気分だった。ふわふわとした気分の中、様々な光景が頭の中をよぎっては消えてゆく。
(これは、思い出……?)
きりもみ回転しながら空中を泳ぐこと数秒間、次に体が無造作に地面へと落下し、それでもなお勢いは止まらずに地面を転がってゆく。最終的に公園内の木にぶつかって止まったが、受けたダメージは色々な意味で深刻だ。
「こんなかわいいお嬢ちゃんを襲おうとするなんて……!」
いきなり割り込んできた女性は、敵にやられるよりも悲惨なありさまになっているボクのことなどお構いなしに、黒いノイズの前に立ちはだかった。声が震《ふる》えているが、それは恐怖から来たものではない。両手に込められた力が、その感情を映している。
突然の乱入者は大きな身振りで敵を指差し、心の内を叫んだ。
「絶対に許せないっ!」
――ライトブラウンの髪が鮮やかな、女の人。ウェーブのかかった髪をポニーテールにしており、横から見るとリスの尻尾《しっぽ》にそっくりだ。
第一印象から、しっかりもののお姉さんという表現が一番ピッタリだと感じた。背が高く、カーディガンにロングスカート、たすき掛けにされたバッグからじゃらじゃらとマスコットキーホルダーが出ていて、その量には少し驚いた。十数個はあるだろう。見るからに重そうだ。
「って観察してる場合じゃない、ノイズが――っ?」
ノイズを睨《にら》んでいた視線が、いきなりこちらを向いた。彼女はボクに向かってウインクすると、「すぐ片付けるから。待っててね」
そう、ボクに向かって言った。
そこで気がつく。
(まさか――)
彼女の口元が動き、何かを呟《つぶや》いたかと思うと、ぞわりと感覚が波立つ。
「これは……魔力!」
目の前で、女性が光に包まれる。凹凸《おうとつ》のくっきりした体のラインが閃光《せんこう》と共に浮き彫りになり、それを目で捉える前に虚空から鋼色の鎖が現れ、露《あら》わになった彼女の肢体《したい》を覆い隠した。
鎖によるヴェールが解けたあとに、静かな宣言が耳に届く。
「チューナー、幾瀬依《いくせより》――」
短めのチュニックワンピースからスラリと伸びた足。黒のロングタイツに包まれていて、肌の色は見えない。しかし、完全に覆われているという事実が、逆に扇情的に感じさせる。
母やグレイスとは違い、コスチュームのデザインに落ち着きがある。
ただ一つ異色なのは、彼女の肩から対角線上の腰元にかけて巻かれている、キーホルダーを吊《つ》る程度の細さしかない鋼色の鎖。彼女の胸元のラインを浮かび上がらせているその鎖は、アクセントというには少々浮きすぎている気がした。
「――行くよっ、リンカーズ=I」
掛け声と同時に、幾瀬依と名乗った女性がその場から消えた。
(速い!)
踏み込みが見えなかった。気がつくと彼女はノイズに肉迫していて、
「ふッ!」
短く、強い呼気を吐き、右拳を振り下ろしている。
ボクと同じ、近接戦を得意とするタイプらしい。ボシュン、と空気の叫び声を上げ、拳がノイズにめり込んだ。めり込んで、凹《へこ》ませた。
「わわ、気持ちわるっ!」
攻撃の直後にそう叫んで、ノイズから離れる。
拳がめり込んだ部分の形状はそのままに、ノイズがぐにょぐにょと上に伸びた、攻撃を仕掛けてきた相手と同程度のサイズとなり、臨戦態勢を取る。
「やっぱり素手じゃ無理、か。なんでなり損ないなのに、こんなに強いんだろ」
そう言って彼女は、おもむろに右手を横に振った。
それを合図に――鎖が、ほどける。
ひとりでに彼女の体から離れた鎖は、主の周囲を数秒間取り巻くと、ジャララと高い音を立て、その両手に収まった。長さにして二メートルほどだろうか。輪っかになっていた鎖にはキーホルダーのリングに酷似《こくじ》した接続部があり、それを外すことによって、鎖を一条にする。
――鎖の鞭《むち》。推測する限り、そう見える。
正解は、次の彼女の行動によって明らかになった。
「よいしょ、と」
右手をクン、と動かすと、鎖が生き物のように動く。
準備を待つことなく、ノイズが先手を打ってきた。その形状から繰り出される攻撃は、ただの突進でしかない。しかし狙われている魔法少女はその場に立っているだけで、このままではノイズに呑《の》み込まれてしまう。
「避《よ》けてっ!」
叫ぶ。しかし、彼女の口から放たれたのは余裕に満ちた声だった。
「その必要はないよ」
彼女は十分に弄《もてあそ》んだ鎖を、今度はぶんぶんと振り回し――右拳に巻いた。
拳に巻き付いた鎖は、右|肘《ひじ》の辺りまでを覆うように装着される。
「鎖の、籠手《こて》……!?」
彼女は左足を半歩前へ、右足を半歩後ろへ。それに伴う上半身の体移動を素早く、右腕を腰のラインに沿わせて後方へと引き絞り、スゥ、と肺に吸気を取り込み、そして。
右拳を、襲いかかるノイズに向けて。
「――ふっ!」
放った。
腰の捻《ひね》りで放つ、踏み込みなしのストレート。シンプルだが、殴るという攻撃の最も正しい形。身体能力のみで繰り出された拳は歪みなく直線を走り、巻き付いた鎖が鈍色の線を空間に残す。
――彼女は、決めた道筋を拳で貫く。
拳という名の武器がノイズに触れた。
そして――少しの抵抗もなく、その体を打ち貫いた。
パァンッ!
貫いた瞬間に、火薬の弾けたような炸裂音が鳴り響き、敵の体が小さく弾ける。それは彼女の攻撃によって引き起こされた爆発であった。
停止スイッチを押したように、互いの動きが止まる。
交差しているチューナーと、ノイズ。先に動き出したのは、ノイズの方だった。
拳に腹部を貫かれたまま、どろりと体が溶ける。体の形を保つことさえできなくなった騒音は、地面に広がって黒い水溜まりとなった。
ジャラッ。
チューナーが拳に巻き付いていた鎖を解く。
それに合わせて、黒い水溜まりは光の砂塵《さじん》となり、蒸発した。
「ん〜っ!」
敵の消滅を確認すると、魔法少女は体を伸ばす。緊迫した空気など元より存在していなかったように。
(……すごい)
終始危なげのない、余裕のある対応。
(グレちやんも強いけど……この人も相当だな……)
すべてが終わると、ノイズを軽く葬った魔法少女が近づいてきた。
「大丈夫だった?」
なんの躊躇《ためら》いもない気さくな声と、無条件で心を許してしまいそうになる優しい微笑みを浮かべ、彼女はこちらに手を差し伸べてくる。ぽかん、として座り込んだままだったボクは、少し気恥ずかしい思いをしながら、その手を握り返した。
「ありがとう、ございます……全然平気です」
しっとりとした手のひらの感触が伝わってくる。彼女はゆっくりとボクを起き上がらせると、こちらの目をしっかりと見つめ返してきた。
「よかった。こんなにかわいい子に怪我《けが》なんてさせられないもの」
顔つきには幼さが残っているが、しとやかに笑うその仕草は大人の余裕を感じさせる。距離が近づいた拍子に、かすかな香水の匂いが鼻腔《びくう》をくすぐった。ほのかに甘い、果実の香りがする。
「ごめんね、恐《こわ》かったでしょ」
これは苺《いちご》の香料、だろうか。甘酸っぱい香りが彼女にピッタリだ。
「いえ、恐いとか全然……いきなり吹っ飛ばされたときはびっくりしましたけど」
「そっか。強いんだね、お嬢ちゃん。偉い偉い」
彼女はボクの前で中腰の体勢になると、すべすべした手のひらで頭を撫でてくる。
若さと落ち着きを兼ね備えた、綺麗な女の人だ。あまり付き合ったことのないタイプの人なので緊張している自分がハッキリとわかる。お嬢ちゃんなんて言われているのに、訂正もできない。
「あ、砂……付いてるよ」
柔らかい動作で、膝に付いた砂を叩《たた》いてくれる。
「す、すみません」
ちゃんとお礼を言いたいのに、言葉が上手く出てこない。そんなボクの様子を察したのか、彼女は警戒心を解きほぐすように声をかけてきた。
「もしかして、怖がらせてるかな。大丈夫、お姉さん、悪い人じゃないよ。お嬢ちゃんのこと、さらったりしないよ?」
「とんでもないです! 助けてもらったのに疑うなんて。……少し、驚いただけですから」
本当に驚いていたのだ。普段、ボクの周りにいる人々は、これでもかというほどにアクが強く、破天荒なタイプが多い。この人にはそれがない。ホントにもう清涼剤のようだ。こんな風に気遣ってくれる優しくて頼りになるお姉さんを、心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。
「…………………………………………かわいいなぁ」
なんかいま小声でボソッと呟いた気がするけど、気のせいだろう。とにかくボクは、こういう出会いを待っていたのだ。こういうのを安らぎ、というのだろうか。
「…………………………………………少しくらい、いいかな?」
(母様はわがまま姫だし、モエルはお転婆《てんば》だし、留真ちゃんは危なっかしいし、いいんちょは黒いし、丈《じょう》君は変態だし)
思い出せども、一癖二癖ある人たちばかり。
たまには癖のない人と付き合ってみたかった。それが正直な気持ちだ。
(……? そういえば、いつまで足を撫でて……撫で、て?)
殺気を感じたときには手遅れだった。
「今だぁっ!」
ガバッ。と、抱きつかれた。
……誰に、なんて質問は思い浮かべるべきじゃない。
「はぐ〜〜〜っ、お肌すべすべ髪の毛さらさらお肌ぷにぷに〜っ!」
わかっている。わかっているけど、認めたくないこともあるのだ。
「こんなハイレベルな子久し振りだよ〜」
頭をなでくりなでくりと撫で回され、頬をぷにぷにつつかれ、頬ずりまでされて、ボクはようやく声を発することができた。
「……あの」
こんな風に冷静でいられる自分が、何となく悲しい。
「何かな?」
「胸、当たってます」
正面から体を密着させているため、彼女のふくよかな部分がちょうど顔に当たっている。多分、ボクの知り合いの中では一番大きい。とはいっても大きすぎず、小さすぎず、バランスの良い大きさであるように思える。
(……ボクは何を考えているんだ)
こういう場合、健全かつ優良な男の子なら喜ぶべきなのだろうか。
「うずめてもいいよ♪」
この人はこの人で、とんでもないことを楽しそうに口走る。ボクを女の子だと思ってるにしても、警戒心がなさすぎる。
「うずめません。というかそろそろ離してください!」
「だめだよ、またいつ出会えるかわからないもの、こ〜んなかわいいコは今のうちに、一杯|愛《め》でとかないと!」
(愛でられてるのか……)
「でも、初対面の相手にいきなり抱きついたりするのは、やっぱり危険というか、少し警戒心が足りないのではないかなと思ったりもしますけれど」
「認識|阻害《そがい》があるから問題なしっ」
[#挿絵(img\mb681_109.jpg)]
認識阻害とは、周りの人間から見た場合の視覚情報をすり替えることによって、魔法少女個人の特定を不可能にするという、とても便利、かつボクの生命線でもある魔法。
なの、だが。
「えっと……ボク、一応魔法少女なんで……効かないと思いますよ? 認識阻害」
「…………」
頬ずりがびた、と止まった。多分、いま彼女の頭の中は思考が混雑を起こしているのだろう。
心の汗が目に見えるようだった。しばらくして考えがまとまったのか、彼女はささ、とボクから離れると、
「ほんと、危なかったね」
何事もなかったかのように平静を装った。それは、ボクが数分前まで見ていた落ち着いたお姉さん¢怩セったのだけれど、今となってはもう手遅れだ。
「え、えーとお嬢ちゃん、新人さんだね。とりあえず自己紹介するね。
私の名前は幾瀬依、好きなものはかわいい女の子――じゃない、ぬいぐるみとか?」
「なんで疑問形ですか」
お姉さんは凄い勢いでテンプレートに沿った自己紹介を始めた。今までの行動をなかったことにする気満々だ。それを見ていると、時間を戻してあげたい気持ちにさせられる。
しかし、彼女の体は今の時点でもウズウズしている。どうにも完全に切り替えられてはいないらしい。
こういう場合は、少し恥ずかしいけど、
「無理しなくていいですよ。……思う存分、どうぞ」
背中を押してみる。
「!」
ボクの一言で、彼女の体のうずきがピタリと止まった。そして、小刻みに震え始める。震えがある一定の度合いに達したとき――。
「はぐ〜っ!」
――彼女は、獣と化した。
そのそれから三十分ほど経《た》ってようやく落ち着いた彼女と、まともな会話ができるようになった。
とりあえずお互いに名前を名乗って、軽い自己紹介をしているときのこと――。
「にじゅーよんっ!?」
それを聞いたとき、不覚にもボクは立ち上がり大声で叫んでしまった。彼女に買ってもらった缶コーヒーを落としそうになったが、なんとか空中で掴み直す、
「しーっ! 彼方ちゃん、しーっ! う〜、だから歳《とし》は言いたくなかったのに……」
依お姉さんは目に涙を溜めて俯《うつむ》いてしまう。
(大人びた人だと思ってたけど……まさか二十四歳の現役OLさんだなんて……)
地面に落ちた小石を拾い、適当に放り始めた依お姉さん。いじけたその仕草に、ボクは慌ててフォローの言葉をかける。
「えーといやでも、実際もっと若く見えますよ、依さん」
「いいもん。どうせ私もうおばさんだもん」
投げた石が落ちていた石に見事に当たり、遠くまで転がってゆく。
「いやいや――驚いたのは依さんがもっと若く見えたからで」
「いいもんいいもん。だまされないもん」
ボクの本心からの言葉も信じてはもらえず、彼女は今度は小石を上に積み上げ始めた。意外と器用である。
(……どう見たって、二十代には見えないのに)
いじける姿はボクよりも幼い気がする。
「見た目が成長しない呪《のろ》いでもかかってるのかな魔法少女って」
落ち込んでいるお姉さんの耳には入れないように呟く。
よくよく考えてみれば、自分の身内にも一人いるのである。年齢と外見を一刀両断して二度とくっつかないようにした感じの、実の母が。
「――よしっ、年齢の話は止《や》め!」
依お姉さんは持っていた微糖の缶コーヒーを一気に飲み干し、マスコットのたくさん付いた鞄ごと、すっくと立ち上がる。その切り替えの早さは、大人っぽいというか、年長者の強さを感じさせるものだった。
「ね、彼方ちゃん、グレイスちゃんって知ってる? グレイス・チャペル。彼方ちゃんがこの辺に住んでるなら、会ったことあると思うんだけど。ちょっと目元のキツイ子で、語尾にですのって付けるの。そして肌触りがすべすべしてるの」
最後のコメントが微妙に気になったが、自分が知っている彼女に間違いないようだ。
「グレちゃんなら知ってますよ、昨日もお世話になりましたし。……肌触りはわかりませんけど」
そう言うと依お姉さんは自分の胸元に手を置き、
「良かった、知り合いだったんだね。……最近グレイスちゃんの様子どうかな、って気になってたんだ」
安堵の息を漏らすその様子からは、グレイスへの好意が感じ取れた。
「お友達、ですか?」
「……そうなりたいと思ってるんだけどね」
彼女は苦笑すると、飲み終わって空になった空き缶を放る。山なりの軌道は数メートル離れたゴミ捨ての縁に当たり、外へ跳《は》ねた。
「ほら、グレイスちゃんって猪突猛進《ちょとつもうしん》なところあるでしょ? 明らかに管轄《かんかつ》外のノイズを倒しに行ったり。……それで誰にも頼ろうとしないから、心配でね」
ベンチを離れ、外れてしまった空き缶をちゃんとゴミ箱に入れる。
彼女の心配は的中している。確かに昨夜、グレイスは疲労により倒れた。それを伝えるべきか迷ったが、心配げに話すその姿を見て、思いとどまる。
「グレちゃんのこと、昔から知ってるみたいですね」
尋ねると、依お姉さんは過去を振り返るように、眼差《まなざ》しをどこか遠いところに合わせて語り出した。
「……うん。あの子と私ね、ほとんど同時期にチューナーになったの。
そのとき私が十九歳で、あの子は八歳。初めて会ったときは凄くビックリした。こんな子供が、ってね。隣町だったから他《ほか》の子たちよりも会う機会も多かったし。昔から手伝うよ、って言ってたんだけど……全部、断られてた。
実際、あの子は初めから強かったしね。誰の手助けも必要としないくらい」
「そんな子供の頃《ころ》から戦ってたんですね……。でも、どうして一人で……?」
「私もそう思って、聞いてみた。でもあの子、頑《かたく》なに私は一人で何でもできるから≠チて。全然、話してくれないの。……自分のこととか」
なんとなくわかる気がした。確かに彼女は自分のことをあまり話したがっていない。人に気を許すということをどこか避けているような……。
「あの子は、一人で戦うことを望んでるんだよね」
痛みを感じているような依お姉さんの表情に、ボクは明るく声を放つ。
「好きなんですね」
「え?」
「グレちゃんのこと」
依お姉さんの言葉には、グレイスの身を案じ、想う気持ちがたくさん込められていた。とても温かい、優しい想い。
すると彼女はベンチから勢いよく立ち上がり、オーバーアクション気味に手をぶんぶん振り、しどろもどろに弁解のようなことを言い出した。
「それはちがっ、わないけどっ、いやほらでも私たち、オンナのコ同士だしっ――」
「? 性別は関係な――」
「――確かにお姉さんとしては、グレイスちゃんみたいにつんけんした子をゆっくりじっとりねっとりと飼い慣らすのもいいと思うけど。他の人には冷たくても、私と会うときだけはお姉様〜≠ネんて呼んで駆け寄ってくるの。わわ、なんて愉悦《ゆえつ》っ!」
「依さん!?」
たった今、話が妙な方向ヘシフトした。
「強気な態度でお願いされるとか……お姉様、ぎゅってしなさい!≠ニか……そんなこと言われたら私、もう……」
「依さん!」
こんなにも近くにいるのに、もの凄く遠い。
「あ、でも彼方ちゃんも忘れちゃダメ。ふわふわのベビードール着せて、寝る前に寂しくて部屋を訪ねてくるの。枕両手で抱えて、お姉ちゃん、一緒に寝てもいい?≠ニかっ!」
妄想に浸りきっている彼女には、どんな言葉も届きそうにない。
「それでそれでっ、あわよくば三人でワンルームの部屋なんかに住んじゃって、三人でお買い物とか料理とかして、時には持ってる服とか交換しちゃったり、仲良く一緒にお風呂入ったり、寝るときは一つのベッドで――」
「――失礼します!」
ストン。手刀を首筋に叩き込む。
「あふっ」
依お姉さんの体がガクン、と崩れ落ちる。
「…………」
ボクは固唾《かたず》を呑んで見守る。
(もし、これでなんとかなったら……)
すると数秒後、彼女は何事もなかったかのように起き上がり、
「わ、わたし今……?」
首を振って辺りを見回す。
(……やっぱり、丈君そっくりだ)
激しく既視感を覚えたがどうやら間違いない。妄想し始めたらどうにも止まらないところなど、彼≠ノそっくりだ。厄介な友人シリーズ上位に名を連ねる、明日野《あすの》丈、その人に。
「依さん、もしかして普段からその調子ですか……?」
彼女は不思議そうに首筋に触れながら、トーンを抑えた声を出す。
「……ううん。普段は我慢してるの。私、普段からかわいい子とか見るとつい色々と妄想しちゃったりするんだけど……チューナーの子たちにそんなことするわけにもいかないし。でも周りの子たちみんなかわいいから、辛《つら》くて辛くて。でも、彼方ちゃんにはバレちゃったでしょ。
だから少し、歯止めがきかなくなってるみたい」
しゅん、と落ち込んでしまうお姉さん。
かわいいものが好き、というのはバッグに付いたキーホルダーの束を見れば一目|瞭然《りょうぜん》だ。
「……いいんじゃないですか?」
今度はボクが、空き缶を放り投げた。
「?」
カンッ、と空洞音を立てて、ゴミ箱の縁に当たる。
「別に構いませんよ。ボクの前では自然体でいてください」
真上に跳ね上がり、縦回転するコーヒーの缶。
「――好きなことって、我慢するものじゃないでしょ」
跳ねた空き缶は、吸い込まれるようにしてゴミ箱の中へと落ちた。
「彼方ちゃん……!」
栗色のポニーテールがぴょこん、と跳ねた。瞳に喜びの色を浮かべ、依お姉さんがボクの手を取る。
「じゃあ、じゃあまずっ、私のことお姉ちゃんって呼ん」
「全身全霊をもってお断りします」
「あああ優しくて厳しい彼方ちゃん、イイ……!」
――また一人、|アクの強い《ヽヽヽヽヽ》知り合いが増えました。
その頃、白姫宅。
「……遅いな……かなたん」
少し見送るだけ、と言ってグレイスと出ていった彼方が、三十分経っても戻ってこない。
すがに不安になってきたモエルは、うろうろと玄関前をうろついていた。
「まさかあのですの娘め、かなたんをそのまま……!」
あいもかわらず発想がきな臭いモエルは、次々と浮かんでくる十八歳未満お断りな空想を思い浮かべながら、彼方の帰りを待つ。
プルルルルルル。
苛立《いらだ》ちを隠せないモエルの耳に、家の電話の呼び出し音が聞こえてきた。
玄関からキッチンへと繋がる廊下に設置された電話が、鳴り響いている。モエルはすたこらと電話の元へ駆け寄ると、
「はい、もしもし」
電話の受話器を手で叩いて落とし、受話器に向かって声を出した。
『……もしもし、白姫さんのお宅ですか?』
「はいはい、そーですけど」
どこかで聞いたことのある声、しかし、それが誰であるかは思い出せない。ただ、その声が女であるという理由だけで、対応はぶっきらぼうになってしまう。
『……ええと、彼方さんに変わっていただきたいんですけど……』
モエルはつっけんどんに言う。
「かなたんならお出掛け中だよ」
『そ、そうですか……じゃあ一つ、伝言お願いしてもよろしいですか?』
「はいはい、どーぞ」
投げやりな応対を気にした風もなく、少女の声が用件を丁寧に告げた。
『明日の約束、忘れないでね。――そう伝えてもらえれば、思い出すと思うので』
「……? わかった。そう、伝えておくよ」
一瞬妙な違和感を感じた気がしたが、今の会話におかしい部分なんてない。
『ええ。それでは、失礼します』
プツ、と電話の切れた音が聞こえ、モエルは少しの間、違和感の正体について考えた。
がなんなのかはわからなかったが、考える過程で一つだけ忘れていたことを思いだす。
「あ……名前、聞くの忘れてた」
[#改ページ]
3.思惑、渦巻く、日曜日
――翌日、日曜。
「あー、今日こそは……のんびりと……」
起きがけに髪を整え、一階に降りる。
「おはよ、かなたん」
キッチンと繋《つな》がっている居間に、座ってテレビを見ているモエルがいた。昨日、ずっとほったらかしにされたことを怒っているかと思ったのだが、それは杞憂《きゆう》だったようで、それどころかご機嫌そうに鼻歌なんて歌っている。
「おはよ、モエル」
パジャマのままで冷蔵庫から牛乳を出し、コップに注ぐ。
「ああ、そういえば昨日なんかキミ宛《あて》に電話があったよ。なんか明日の約束、忘れないでとかなんとか言ってた」
(昨日電話の受話器が落ちていたのはそれのせいか……)
「って、電話に出ないでよ」
納得しながら突っ込み、コップに注がれた乳白色の液体を喉に通す。
そして、
「……ッ!? ぶは!」
一気に噴き出した。
「もー、なにやってんのさかなたん。朝から汚いな……」
ひょこ、とモエルが台所を覗《のぞ》きに来た。ならば、ボクの真っ青な顔を見て、その異変に気づいただろう。
壁掛け時計を見ると、時間はいつもの起床よりは遅く、休日としては適正なのだけれど、約束があったりした場合は少し遅いんじゃないかな、という時間だった。
今日は、日曜日。
『それじゃ明後日《あさつて》、期待してるね?』
屋上で聞いた、そんな言葉を思い出す。
「……遊園地……すっかり忘れてた!」
そう、それはもう見事に。綺麗《きれい》さっぱり、頭の中から消え去っていた。それもこれも、ここ最近立て続けに忙しいせい――なんて男らしくない言い訳はせず、考える前に顔を洗って二階へ。クローゼットから服を取り出し、着ているパジャマを一気に取っ払って、着替える。その間、約一分。
待ち合わせの十時まで残り五分。駅までは徒歩で三十分。走ったところで間に合わないのは自明の理、というヤツだ。
「あぁもう! どうしてこんな大事なことを!」
慌ただしく階段を上り下りしながら、自分の迂闊《うかつ》さを呪《のろ》う。
「朝から大慌てだねえ、かなたん」
妙にのんびりとしたモエルが恨めしい。しかし、いま言い争いなど始めてしまったら本当にアウトだ。
「ごめんモエル、ちょっと行ってくるよ!」
ボクはノンストップで家から飛び出してゆく。
「いつてら〜」
昨日から引き続いてモエルに構ってあげられないのが心苦しい。帰ってきてから思いっきり遊んであげようと心に決める。
勢いよく外に繰り出したボクは、迷うことなく手のひらを空に突き上げた。
「遍《あまね》く空の果てへ」
今日だけは、こんなことに力を使うことを許してほしい。
彼方《かなた》が全速力で空を駆けていった、すぐ後。
「……行った、ね」
玄関前でモエルは、確認の意味を込めて呟《つぶや》いた。
踵《きびす》を返し、居間へと入ってゆくモエル。
人の姿が見えない静かな室内で、金色の猫は、赤い瞳をきらめかせ――。
「さあ。おいらたちも、行こうか」
不敵に、言い放った。
九時五十九分。待ち合わせの時間、一分前。
この街で最も利用されているであろう大枝《おおえだ》駅に、ボクは全速力で走ってきた。魔法少女姿のまま委員長に会うわけにはいかないので、変身は少し離れた場所で解いてきてある。
「いっ、いいんちょっ!」
同じように駅前で待ち合わせをしている人々の中に、目的の人物を見つけた。彼女はボクの姿を見つけた瞬間、無表情だった顔をやわらかく綻《ほころ》ばせて、こっちに向かって小さく手を振った。
目の前の横断歩道を渡り、その人の元へ走る。
駅前の時計が約束の十時に長針を合わせた。変身した状態でのフルスピードなら、徒歩三十分の距離を三分程度まで短縮できることが立証された。
滑り込むように彼女の目の前に急停止したボクは、膝《ひざ》に手を付き、彼女を見上げる。
「ふふ。随分慌てた到着だね、白姫君?」
ボクより少しだけ背の高い委員長は、くすくすと笑いながら意地悪そうな目でボクを見る。
銀縁《ぎんぶち》のメガネが、いつもどおりに彼女の瞳を濃く彩っている。普段通りの二本のおさげもしっかりと自己主張をし、肩書き通りの少女は待ち合わせの場所に立っていた。
白をメインカラーに置いた清楚《せいそ》感あふれる服は、彼女の雰囲気にピッタリだった。見た目の派手さを極力抑えたコーディネイトだというのに、地味だと感じない。服と着る人間との相性がぴったりとマッチしている。
「ご、ごめんなさい、……えと、待ちました?」
「時間ぴったり。白姫君にしては上出来、かな?」
肩にぶら下げているのは、少し大きめのトートバッグ。昨日出会った依お姉さんとは違い、飾り気のない素のままの装飾。それが何よりも似合っている。
「すみません、ほんとお待たせしちゃって……、え?」
目の前の少女がいきなり、正面からボクの背に手を回してきた。はたから見れば、カップルの抱擁《ほうよう》シーンにでも見られそうな状態になっている。この場合、背が低いボクの方が女の子と見られそうだ。
委員長が、その状態からボクの髪に触れてきた。
「急いでるときでも、女の子と待ち合わせするときは身だしなみをちゃんとしてくる。
――ね?」
女性特有の母性を感じさせる声が、耳元で聞こえた。
確かに、慌てて出てきたので身支度《みじにたく》をちゃんとすることができなかった。それに本気で走ってきたので、髪もボサボサだっただろう。
ボクは気恥ずかしく思いながらも、委員長に身を委《ゆだ》ねる。
(……でも、どうして前からするんだろ……後ろからしたほうがやりやすいのに。そういえば、前も――)
「そういえば……二度目ですね、これ」
そう言うと、不意に彼女の手が止まった。
「?」
真横にある彼女の表情に、ちょっとした変化が起きた。その顔は微笑《ほほえ》みを浮かべている。いつも見ている、優しく、朗らかで、雲のような――。だが、笑っているのに、表情が読めない。
こんな感覚を彼女に抱くのは初めてだった。
ボクの記憶の中にいる委員長はいつもクラスをまとめる立場にいて、温厚でありながらも悪戯《いたずら》もする、油断のならない少女である。
そんな彼女の、感情的な一面を見てしまったような……そんな、気がする。
「覚えてたんだ」
ぽつり、と彼女が言った。
「? そりゃ、覚えてますよ。前に、学校でいいんちょが抱きついてきたときの――」
そのときのことを思い出し、さらに気恥ずかしくなる。今の状況が、あのときのシチュエーションそのままだったからだ。
(もしかして、また……!)
人が狼狽《うろた》えているのを見るのが好きな彼女のことだ。たとえ公衆の面前でも、やりかねない。
そう思って身を固くすると、予想外にも委員長は何もせず、黙ってボクから離れた。
「そろそろ電車が来る時間だね。……行こっか」
何事もなかったかのような彼女の顔を見ていると、つくづく思う。
――捉《とら》えづらい人だ、と。
快速の電車に乗り込んだボクたちは特に何を話すわけでもなく、ただ人もまばらな車内のアナウンスと、断続的に聞こえてくるガタン、ゴトン、という振動音を聞いていた。
「……でも、本当に良かったんですか!? 交通費まで持ってもらって。あそこまでだと、結構料金もバカにならないはずですけど……」
正面の窓に映る風景を眺めていた彼女は、視線をこちらに向けると、
「誘ったのは私だもん。それに、女の子にお金の話を何度もするのはマナー違反。男の子ならドッシリと。ね?」
微妙に釈然としない思いはあったものの、ボクとしても交通費まで持ってくれるという申し出は非常にありがたい。なにしろ現在、母が気ままに旅行中であるため、数少ない貯金を切り詰めながら生きてゆかなければならないのだ。
(……長い旅行になるなら小遣いくらい前渡ししてくれたって……いや、よそう。あの母様が先のことを考えて何かを準備するなんてありえない)
ある程度の生活費は残していったものの、それの実権はモエルが握っている。生活費を使うときはちゃんとモエルに通してからではないといけない。
「もしかしなくてもボクって信用されてない……?」
モエル曰《いわ》く中学生がこんな大金持っちゃいけません≠ニのことだが、猫なら良いのだろうか?
「なんだか、浮かない顔だね?」
「え?」
いきなり横から現れた顔に驚く、
「白姫君、考え事してるときはいつも困った顔してる」
「すみません、気を使わせるつもりじゃなかったんですけど……」
「ううん。白姫君のそういう顔、好きだから」
本当にさりげなく、好き、という言葉が出てきて、はじめは何を言われたのかわからなかった。しかしその言葉の意味をよく考えてみると、
「……いいんちょ、今さらりと凄《すご》い告白しませんでした? もちろん、悪い意味の」
気のせいであってほしかったが、彼女は悪びれもせず言う。
「白姫君の困った顔、凄くセクシーなんだよ。それはもう、病みつきになるくらい」
悦惚《こうこつ》と語る彼女は、目が危ない。
「なんて嬉《うれ》しくない告白だ……」
一見すると真面目《まじめ》そうな人に見えるのに、中身は意外と黒かったりする困った人である。でもそれを迷惑だとは思わせない、不思議な引力のようなものが彼女にはある。
普段穏やかな彼女が、饒舌《じょうぜつ》に語る。
「恥ずかしそうな顔とかも、凄く胸に来るものがあるし。なんだか、目が離せないって言うのかな。気がついたら、ずっと白姫君の方見てるんだ」
普通に言われたなら凄く嬉しい言葉なのだろうけれど、彼女に言われるとどうも複雑だ。
ボクがトラブルに巻き込まれると、何かしらの形でこの人が引っかき回していく、というパターンが最近多いからだろう。こういう場合、事件を引き起こす人よりも、それをより面倒にしていく人の方が厄介なのである。
(……いいんちょと母様が組んだりしたら、ボクの未来はないな……)
そんな終末的な不安もろとも、電車は走る。
流れていく外の風景を眺めていると、時間が経つにつれて街並みは変化してゆく。森林の生え盛る山中を抜け、密集した住宅街を抜け、高層ビルが濫立《らんりつ》する街中を抜け、やがて景色は様変わりした。
「ほら白姫君、見えてきたよ」
委員長が指差した先に、今日の目的地が姿を現していた。現実味のあふれる街中から、いきなり浮世離れした世界に切り替わる。
「もうすぐ着くんだって。行こっ?」
その規模に驚いていたボクを、委員長が下車口まで引っ張って行こうとする。
「っ、いいんちょ、そんな慌てなくても遊園地は――」
「逃げちゃうの!」
「メチャクチャなことを平気で言い切らないでくださいっ!」
そんなやりとりを経て、電車は目的地へと止まる。
――目の前には別世界。
一切の容赦を許さない、派手な色彩の国。目に飛び込んでくるのは、絵の具の原色をそのまま塗りつけたような極彩色の建造物の数々。
入口ゲートに向かっている途中、その存在感にボクは圧倒されていた。
「見てるだけで目が痛くなりますね……ここ」
前を歩いていた委員長が、くるりとボクの方を振り返って口を開く。
「全部真っ黒だったらいいのにねっ」
「やりすぎです」
笑顔で真っ黒なことを言う委員長は少し恐い。
「……ここって確か、一日じゃ全部回りきれないくらい広いんですよね? 計画とか、全然立ててないですけど……」
「大丈夫だよ。私に全部任せて」
「…………」
その自信満々な笑みが不安です、なんて口に出せるはずもない。
入り口ゲートに近づくにつれ、体がぽかぽかと温かくなってくる。それは陽射《ひざ》しがもたらす陽気のためだけでなく、園全体から漂ってくる活気がこちらにまで伝わってくるからだろう。
(しかし、それにしても……)
見渡す限り人の海。聞こえてくる話し声も、どこで誰が言っているのかまったくわからないくらいだ。家族達れの姿が多く、男女二人組みのカップルも少なくない。
「多いねー、人」
本当にそう感じているのかわからない、のほほんとした意見を述べる委員長。日曜だというのも原因だろうが、それにしたって多すぎる。
(……人酔いしそうだ)
立ち止まって軽く頭を押さえると、委員長が隣からこちらの顔を覗き込んできた。
「白姫君、大丈夫? 人の多い場所好きじゃなかったよね……?」
ボクの肩にそっと触れ、心配そうに聞いてくる。
「平気ですよ。少し驚いただけです」
そんな心配は無用だとばかりに、笑って返す。
「とりあえず入りましょう。……入り口の前にいても仕方ないですし」
「うん」
委員長と二人――人の喜びが満ちた庭園へと。
そんな二人を、上空から見ている二人がいた。
いや、正しくは一人と一匹。
「……なんで私が……こんなことを……」
その片割れの一人が、苦渋の色を満面に押し出した呟きを漏らす。
「ほらグレ子、ぼさっとしない! 目標は園内に入ったよ!」
もう片割れの一匹が、きびきびした口調で肩上から指示を飛ばす。
二人は遊園地の入り口、巨大なゲートの上を飾るごてごてとした塔の頂点にいた。
そこに立ち、横風に打たれても怯《ひる》むことなく、少女は怒りを爆発させる。
「ですから! どうして! この私が! こんなところまで来てデバカメをしなくちゃいけないんですの!?」
紅の衣装に身を包んだ少女、そして金色の体毛に覆われた猫。どこからどう見ても異色の組み合わせである。
「ふうん……そんなこと言うんだ」
モエルはにやりと笑う。その笑みは彼方なら幾度となく見てきたものだった。そんなこと知る由《よし》もないグレイスは、我慢していた思いを吐き出す。
「そんなことも何も! 改めて昨日のお礼を言いに来ただけなのに、なんでアナタの乗り物にならなきゃいけないんですの!? 真剣な顔して協力してほしいことがある≠ネんて言い出すから何かと思ったら! 完全にだまされましたの!」
「不可抗力」
ポツリと、囁《ささや》いた。
たったそれだけの言葉が、強力な魔法の力でも持っているかのように、怒る少女の動きを止めた。そして顔の色がボン、と見事に赤く染まる。
「なっ! きょっ、脅迫するつもりですの!?」
「にゅふ。別においらは何も言ってないよー?」
極《きわ》めて遠回しだが極めてストレート。
「ひっ、人でなし! いえっ、猫でなしですのっ!」
悔しい、心の底から悔しい。表情が、そんな言葉を物語っていた。
「さあ行けグレ子――あっ、あの二人いきなりお化け屋敷なんかに! なんてハレンチな!」
脅迫者の経験値ばかりが溜《た》まってゆくモエルは、グレイスの頭をぷにぶにと叩《たた》いて指示する。
「せめてそのグレ子≠チて呼び方、どうにかなりませんの……?」
こうして紅の魔法少女、グレイス・チャペル、そして金色のストーカー、モエルも、喜びの楽園に一滴垂らされた負のエッセンスとして、舞台に侵入を果たしたのだった。
「のっけからお化け屋敷ですか……」
「うんっ」
入ってすぐに案内ボードを確認し、目的があるように迷いなく歩き出した委員長。
それを追ってたどり着いた場所は、気味の悪い、少なくともかわいさとかはまったく考えられていない奇っ怪な造形の成された屋敷の前だった。
「あの……一つ聞いても?」
ボクは、意を決して口を開く。
「? なに?」
「なにゆえ、最初がここなんですか?」
無数の蛇が絡み合った入り口が顎《あご》を開き、ダークブラウンの壁には本物の目玉のような木目が浮き出て、こちらを見つめている。このメルヘンチックな世界の中で、一つだけ気合いの入れ方を間違っている建物。このアトラクションだけが他《ほか》と隔離されているのも納得できる。うんざりするほど人の多かった園内だというのに、ここだけ人払いされているようだった。
そんな明らかなコアファン向けスポットを前に、彼女は瞳を輝かせながら言った。
「だって――見て、この枯れた佇《たたず》まいに、人が近寄らない寂寥《せきりょう》感――周りにはあれだけ人がいるのに、ここだけ切り取られたみたいに静かで、喧騒《けんそう》とか全部遠くから聞こえてくるの。……まるで自分だけが別の世界にいるみたいで、落ち着かない?」
こんなにも必死で語りかけてくる彼女をボクは見たことがない。
「あのね、私|廃墟《はいきょ》とか廃線とか大好きなの。なんていうか、その……空虚な感じがね、すごく体に馴染むんだ」
「それはまた、渋いですね……」
(でも一応、このお化け屋敷はまだ廃墟じゃないと思います)
建物の入り口前に立った瞬間、ぶる、と体が震《ふる》えた。
「あれ、白姫君、お化けは苦手?」
弱点見つけた、というあくどい笑みを浮かべる委員長だが、
「いや、お化けとかは別に。普段からそういうのは見慣れてる――ってのは冗談なんですけど、なんか今、寒気がしたんですよね」
ノイズとかそういうのを普段から見ているのに、今さらお化けが恐《こわ》いも何もない。今のボクだと、本物を見てもオリジンキーを取り出して殴りかかってしまいそうだ。
「……もしかして、本当にいるのかな」
静かな声で、委員長が言った。この雰囲気に呑《の》まれてのことだろうか。
しかし、
(この悪寒《おかん》、恐いというか、もの凄い邪《よこしま》なモノのような……)
園内に入ってから、妙な視線を感じている。ボクの髪の色で視線が集まるというのとは別に、明らかな注視を浴びている、そんな気配。
「どうしよっか。白姫君……入る?」
「体、うきうきしてますよ」
こちらに意見を求めているようでいて、ジリジリと不気味な入り口へと近づいていく委員長。元より入る気満々だ。
「ううん、してないよ。白姫君が嫌だったら無理|強《じ》いはできないもん。うきうき」
「語尾にうきうきが付くくらい入りたいのなら、素直に入りましょうね」
二人でフリーパスを出すと、受付の人から「物好きな人だね」などと言われた。
(……なんで建てたんだろ……)
心の中で疑問に思いながら、ボクたちは口を開けた闇の中へと、足を踏み入れる。
肌が闇に呑まれた瞬間、ひんやりとした風が体を包んだ。やはり、人を怖がらせるためにはまず感覚から奪ってゆくに限る。この闇の中、頼りになるのは順路を指し示す薄暗い灯《あか》りのみ。
寒々しい体と、見通しの悪い視界。遠くから聞こえてくる、遠雷のような唸《うな》り声。お化け屋敷としての雰囲気作りとしては、及第点《きゅうだいてん》といえる。
「うふふ〜」
ただ、ボクが一番恐いのは隣に付いてきている委員長だったりする。歩く足音も軽快で、しまいにはスキップでもしてしまうのではないかと内心ハラハラしていた。
そんなピクニック気分な彼女が、いきなり声を上げた。
「あ、こんにゃく!」
ピタン。
物理的な冷たさ、ヌルヌルとした不快感が頬《ほお》に張り付いた。
暗がりの通路からいきなりこんにゃく。お化け屋敷というか、小学校低学年の肝試しの様相を呈《てい》していると思うのはボクだけだろうか。
「予算全部、外観に回したのかな……」
こんにゃくを降ってきた方へと投げ返し、足を進める。
「〜♪」
終始ご機嫌な委員長。聞かなくてもわかった。どうやらこのお嬢さんは、オカルトがお好みのようだ。
「あ、狼《おおかみ》男!」
「……こんなもふもふした着ぐるみの何を怖がれと」
「吸血鬼〜!」
「……牙はせめてズレないように付けてほしかった」
こちらを驚かせようと次々現れる着ぐるみの群れを、嬉しそうに呼び当ててゆく委員長。中の人もたまったものではないだろう。
「赤い魔女と金色の猫!」
「はいはい、もう突っ込む気力すら……」
「河童《かっぱ》!」
「!? ちょっと今なんか変なっ――」
「サハギン!」
「サハギン!? これ考えた奴《やつ》出てこいっ、とか言ってる場合じゃなくて、赤い魔女と金色の猫ってなんですか?」
「? さっきいたよ。そこの曲がり角の方に……」
少しだけ順路をさかのぼってみる。
「あれ、いないね」
そこには委員長が確かに見たという、赤い魔女と金色の猫はいなかった。
もしかしたら、という疑念が頭の中をよぎる。でもまさか、モエルとグレイスが一緒になってこんな場所へ来るはずはない。あの二人の仲の悪さはお墨付きだ。
「どうしたの? 白姫君」
「いえ、なんでも……ってうわ!?」
「じゃ、進もうっ♪」
委員長は左腕をボクの右腕に絡め、ぐいぐいと引っ張って進み出す。その活発さは、学校の中で見る彼女とは全然違うものだった。
(……はしゃいだりするんだね、いいんちょも)
なんとなく嬉しい気分になる。
それから、まったく怖がらない委員長と、どうしても突っ込みを入れてしまうボク。お化け屋敷にとって迷惑|極《きわ》まりないコンビは、じっくりと順路を進み続けた。
「わ、白姫君見てみてっ」
後半にさしかかった辺りで、突然委員長が大きな声を上げた。彼女は後ろを向いて、今まで歩いてきた道を指差している。
「はいはい、お次はなんです……か……?」
言葉は、途中で途切れてしまった。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド。
地響きが足下を揺らし、狭い通路の中を、たくさんの足音が反響する。
「え?」
――大群、だった。委員長が歓声を上げる。
「すごいね白姫君っ! みんな来てくれたよっ」
みんなというのは、これまでに出会った。お化け≠スち。
狼男がもふもふと、吸血鬼は牙を外して、河童はやけに鋭敏に、サハギンは河童の後ろにいるため影が薄い。その他、包帯男やろくろ首、落ち武者に……全身白タイツの人。手にこんにゃくを吊《つる》した竿《さお》を持っているところを見ると、どうやらそれが役割のようだ。なんだか切ない気持ちになる。
(あとは、宇宙人に大仏……自由の女神?? あんなのいたっけ?)
とにかく、全員だ。全員が、この薄暗い路地をひしめき合い、こちらに迫ってくる。
「あの、いいんちょ。なんであの人たち、こっちに向かってくるんですか?」
「ん〜……さあ?」
委員長は小首を傾げ、かわいらしくも投げやりな答えを言ってのけた。
「とにかくっ、逃げましょう!」
ボクは彼女の手を引き、走り出す。
後ろから、ポフポフ、ドスドス、ベチベチ、ペタペタ、ガシャガシャ、様々な足音が近づいてくるのがわかる。
振り向いて表情を見てみると、誰もが鬼気迫る顔でこちらを睨《にら》んでいた。そこから感じ取れるのは、あふれんばかりの敵意。
「なんであんなに必死なんですーっ!?」
「ふふっ、すごいねーっ!」
本気で逃げているボクと、引っ張られながらも笑っている委員長。
この逃走劇は、どこまでも続く――。
――それより五分ほど前のデバカメコンビ。
「まったく、なにやってるのさ!」
「もとはといえばアナタが原因ですの!」
「グレ子があんな所で見つかるから!」
「だ、か、ら、元々の原因はアナタが裏口から入れなどと言うから!」
彼方たちを追ってアトラクションの裏口から入ったところを、お化け役の一人に見つかってしまい逃走中の一人と一匹。
狭くて暗いお化け屋敷の内部は一本道だが進みにくい。順路をさかのぼっているため、現在地もよく分からなくなっている。
「…………」
モエルとの言い争いがふとした拍子に途切れ、グレイスは胸中に漠然とした不安を抱えていた。
ゴク、ン。喉を鳴らした音が、肌全体に伝わってくる気がする。
汗ばんだ手が、ひやりとした風にさらされてなんだか気持ち悪い。
「あ、あの――」
不安に耐えかね口を開いた、彼女の、頬に。
――ピトン。冷たい感触が襲った。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
声も出せず、グレイスは飛び上がった。それから闇雲に走りだし――曲がり角に気づかず激突、そのときに顔面をしたたかに打ち付け、しゃがみ込む。
「……あのさ」
「ひっ?」
肩の上から聞こえてきた声にも、グレイスはびくりと反応した。
「……。もしかしてと思ってたんだけど、キミ、おばけ恐い人?」
モエルが、|冷たい感触がする《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》肉球で、少女の肩を叩いてみせた。
「! そっ、そんなわけないですの! どうしてチューナーである私がおばけ如《こと》き――」
ガサガサガサッ。
「きゃ――……ッ!」
「……よく見なよ。あれ、作り物の茂みを動かしてるだけだよ」
指摘されて気がついたグレイスは、バツが悪そうに俯《うつむ》く。
「ほら、さっさと進むよ」
「……?」
「? なにさ、意外そうな顔して」
「いえ、てっきり、もっとからかわれるものだと……」
その言葉にモエルはふん、と鼻を鳴らすと、
「人の恐いもので責め立てるほど、おいらは悪趣味じゃない」
自信を持って言い切った。それを聞いたグレイスは、モエルに聞こえないよう小声で咳く。
「……。少し、見直しましたの」
「それにおいらは、かなたんじゃないと萌《も》えないんだ」
「前言撤回ですの。やっぱりアナタわぷっ!」
いきなりモエルが、グレイスの口を無理やり塞《ふさ》いで小声で囁く。
「シッ、静かにグレ子」
口を押さえられた少女は一瞬怒ろうとしたが、
『あ、狼男!』『……こんなもふもふした着ぐるみの何を怖がれと』
という聞き覚えのある声が聞こえ、血の気が一気に引いた。とにかく肩の上の猫に、耳打ちで声を掛ける。
「どうするんですか! 彼方さんたちが来てますの! このままじゃ鉢合わせしてしまいますの……!」
「見つかったらおいらたちは終わりだ……とにかく一旦引き返して、距離を取ろう」
頷《うなず》き合い、グレイスが来た道を戻ろうとしたそのとき。
『おい! 裏口から入ったヤツ、見つかったか!?』
後ろからそんな声が聞こえてきた。
「! まずいですの、追っ手が!」
「こんな時にっ――仕方ないグレ子、奴らを死なない程度に――」
「できるわけないでしょうっ!」
『吸血鬼〜!』『……牙はせめてズレないように付けてほしかった』
前から彼方たちの声が迫ってくる。
『しらみつぶしに探せ! 見つけ出して俺たちの怖さを思い知らせてやるんだ!』
後ろからは、お化け役の職員が。
「くっ、こうなったら……っ!」
挟み撃ちになる寸前、彼女は最後の賭けに出た。急いで通路の壁際に身を寄せ――、
(私は背景ですの、私は背景ですの、私は背景ですの……!)
――完全に、固まる。
『赤い魔女と金色の猫!』
(〜ッ)
メガネの少女に指を差され、グレイスの心拍数は急上昇する。肩の上で微動だにしないモエルも、目を見開いたまま冷や汗を滴《したた》らせた。
『はいはい、もう突っ込む気力すら……』
幸いにも彼方は、一人と一匹の方は見ずに通り過ぎる。
(………………………………ほっ)
モエルとグレイスは、何とかやり過ごせたことに胸を撫で下ろす。
そうしたのも束の間。
『!? ちょっと今なんか変なっ――』
彼方が大声を上げて振り向いた。
しかし、そのときには既に。
「逃げるですのーーーっ!」「逃げるんだーーーっ!」
一人と一匹は脱兎《だっと》のごとく、入り口の方へ向かって走りだしていた。
「――はぁ、はぁ……まったく、つくづく貧乏くじです……のっ?」
館を抜けだしても、グレイスは走り続ける。どうやらお化け屋敷の中ではいまだに裏口から入った不審人物を探しているらしく、地響きがするほど多くの足音が内部から聞こえてきていた。
「そう? ちょっと楽しかったよ」
「そりゃアナタは走ってないから楽しいでしょうけど……ッ」
彼女が文句を言うためにモエルの方を見た、そのとき。
「いぉわっ!」
グレイスは、歩いていた人にぶつかってしまう。
「あらっ、ごめんなさいですの」
「いつつ……あぁぁっ――デジカメ落としたッ!?」
尻餅《しりもち》をついた若い男性客は、ぶつかってきたことを怒るでもなくまず自分の荷物の心配をした。傍《かたわ》らに落ちていたデジカメを慌てて拾い上げると、異常がないかをくまなく調べ始める。
あまりに必死な形相だったので、グレイスはつい、声をかけてしまっていた。
[#挿絵(img\mb681_147.jpg)]
「だ……大丈夫、ですの?」
しばらくの間デジカメを調べていた男性客は、壊れていないことを確認すると、心からの安堵《あんど》の溜息《ためいき》を吐《つ》き、ようやくグレイスの存在に気づいて視線を合わせた。
「おう、何とか大丈夫だったよ。データも消えてないし、動作異常もない」
男は軽い調子でグレイスに言った。
「それで、お体の方は……」
結構な勢いで転《こ》けていたのだが、案外けろっとしている。
「? ああ、気にしなくていいよ。この程度の衝撃、アイツのツッコミに比べたら撫《な》でられるようなもんさ」
「はぁ。そう、ですの?」
胸をドンと叩き、体の頑丈さをアピールする男。叩いた後に思いっきり咳《せき》込んでいたが、敢《あ》えてグレイスは何も言わなかった。
「おっと、それじゃ俺《おれ》は行く場所があるんで。歩くときは前を見なよ、赤いお嬢さん!」
軽い調子の男は、慌ただしくグレイスの前から去っていった。
「……随分、変わった人ですの」
背中に隠れていたモエルが、ひょいと出てきた。
「あれは、確か――」
頬に肉球を当て、頭を捻《ひね》り、男の去っていった方向を見ている。
「知り合いですの?」
「なんで、こんなとこに一人で……?」
「……?」
グレイスはワケがわからなかったが、その話はいきなりの叫びによって強引に打ち切られてしまう。
「あっ! かなたんたちだ! 目標はメリーゴーラウンドに乗る模様! グレ子、撃つんだ! 貫け! あの同じとこをぐるぐる回るだけのぼったくりな乗り物を!」
肩の上に乗っている金色の猫が、視線をメリーゴーラウンドに向けて指示を飛ばす。確かにそこには二人がいた。どうしてだか、やけに疲れている様子である。
「関係者を敵に回すようなことを言わないでほしいですの……」
いい加減使われるのにも慣れてきた、とばかりに、グレイスは足を進める。
だが数歩進んで、何かに気づいたように立ち止まった。
「グレ子?」
――ザ――。
「……ノイズか?」
モエルは緊張したグレイスの表情から、即座にそれを読み取った。
「……ええ。でも、近くにチューナーがいます。この感じは、幾瀬《いくせ》さん――」
「幾瀬?」
「この付近を担当している人ですの。しょっちゅう出かけては管轄《かんかつ》外のノイズを倒してる、変わった人です」
それはまるっきり自分のことでもあったが、グレイスは小さく溜息を吐いて、心の中で呟いた。
(場所は私の家の近く……。また……来たんですの)
幾度となく自分の元を訪れ、余計なお節介ばかりを焼く女性。グレイスは、依のことをそう思っていた。
「この距離なら、あの人が先に倒すでしょう。……仕方がないですの」
名残《なごり》惜しそうにノイズのことを諦《あきら》め、溜息を吐く。そこにモエルが質問を投げかけた。
「強いのかい、その子」
「強いですの。私以上に」
あっさりと言ったその言葉に、モエルが意外そうな声を投げる。
「へぇ。もう少し自分に自信を持ってると思ってたけど、意外と謙虚じゃないか」
「……そういうのじゃないですの」
眉《まゆ》をひそめ、囁くように呟く。
「あっ、グレ子っ! ぼおっとしてる場合じゃない! 早くオリジンキーであのメリーゴーラウンドをぶち抜くんだ!」
「あなたはこの遊園地を潰すつもりですの?」
モエルの無茶な指示にうんざりとしながらも、グレイスは周囲を見回した。
色とりどりの建物が立ち並ぶ。
人の喜びに満ちた声が響く。
誰もが、顔に微笑みを浮かべている。
「……とても幸せそう、ですのね」
笑い合う家族を、遙か遠《はる》い空でも望むかのように見つめ、グレイスは呟いた。
「ほらグレ子、目標がまた動き出したよ!」
ぺちん、と肩の上から、肉球で頭をこづかれる。
「……まったく」
魔法少女グレイス・チャペルは、苦笑する。
笑う。それは、ただ高く猛々《たけだけ》しく燃えようとしていた彼女に起きた、わずかな変化。
その小さく、大きな変化に、彼女はまだ、気づいていない――。
ファストフード店で昼食を取り、それから怒濤《どとう》の絶叫マシンコンボに付き合わされたボクは、予想以上に体力を磨《す》り減らしていることに気がついた。
陽も傾き、そろそろ夕暮れにさしかかろうとしている。
それなのに――。
「白姫君、次あれ乗ろっ!」
どうしてこんなにタフなんだろう。この人は。
指差しているのは、二本のアームでぶら下げられたゴンドラが空中でグルグル捻られるという、基本コンセプトからして絶叫以外のなにものでもない乗り物だった。
どうしてスリルをお金で買う必要があるのか。そんな疑問を浮かべながらボクは、ハイテンションな委員長に引っ張られる。
だが道すがら、ふと立ち止まり、委員長が口を開いた。
「もしかしなくても、疲れてるよね……白姫君」
「い、いいえっ、そんなわけはないですよ? ボクも十分楽しんでますし!」
「じゃあ次は観覧車行こっ。ゆっくりできるよ」
跳《は》ねるように進む方向を変える委員長。
(観覧車か……それなら)
落ち着いて景色を楽しめる。願ったり叶《かな》ったりな乗り物だ。
――確かこの遊園地の観覧車は、一周を回りきるのに二十分はかかるというひたすら大きなものだった。カップルばかりの行列に並ぶには若干の抵抗があったが、無事、ゴンドラの中へ案内される。
「いいんちょって、結構タフですよね……」
狭い室内を向かい合わせに座ったボクの、第一声がそれだった。
椅子に浅く腰掛けたおさげの少女は、疲れを感じさせない微笑みを浮かべている。
「楽しいから、疲れなんて感じないよ」
そう言って笑う彼女は、傾いた陽射しの輝きも合わせて、本当に眩《まぶ》しく輝いて見えた。
ゆっくりと上昇してゆくゴンドラの中で、自然と言葉が途切れてしまう。不自然ではない、沈黙。ただ穏やかなだけの空気が、二人の間に流れていた。
ボクは、だんだんと高くなる視点に合わせ、外の景色を見る。
まだ半分も上がっていないのに、結構な距離を見通すことができる。最も目を惹くのはこの遊園地の目玉の一つである、白亜のお城。大小様々な塔がいくつも並んで組み上がっている、この世のものとは思えない絢燗《けんらん》なお城だった。
空に伸びる一番高い塔、その後ろに見える茜《あかね》色の空と、少しずつ距離が縮まってゆく。
この景色を見ているだけで、心に水が注がれるように思えた。
「綺麗だね」
その呟きは、委員長のもの。
「そうですね」
短く、でも心の底から相槌《あいつち》を打つ。
「……わかったかな」
次の呟きには、首を傾《かし》げるしかできなかった。外を見るのを止め、視線を委員長へと向ける。
すると、彼女もまたこちらを見返していた。
――無表情に近い、顔で。
「何が……ですか?」
待ち合わせのときに見た、無表情。何を考えているのかわからない、無色の双眸《そうぼう》。
「今日、私が白姫君を誘った理由」
聞こうとして何度もはぐらかされた疑問。その答えを、彼女が求めてくる。
「いえ、まだわからないです」
「そうだよね……」
彼女はその言葉に一人で納得し、すっくと、立ち上がった。
立ち上がり、感情の見えない視線でこちらを見つめる。
なぜか、鼓動の音が速まるのを感じた。
ゴンドラの中は、高度を上げるにつれ少しずつ揺れが増している。
「いいんちょ、危ないですよ――」
その瞬間。
頂点に達したゴンドラが、ぐらん、と揺れた。
委員長の体が、よろめく。
腕を伸ばし、彼女の腕を掴《つか》んだ。
ボクと委員長は、狭いゴンドラの中、抱き合う形になる――。
「…………」
「…………」
体が密着して、言葉が止まる。
「……………………、あの」
動こうとする気配のない彼女に、声をかける。耳元で囁く形になってしまうが、していられない。
すると彼女は、
「ドキドキする?」
同じように耳元で囁き、そんなことを聞いてきた。
「……そりゃ、まぁ」
ボクは、言葉を濁して返事をする。
「ショックだなぁ……」
「何がです?」
「女の子とこんな風になっても、白姫君あんまり慌てないんだもん。まるで、女の子の扱いに慣れてるみたい」
「……ははは」
乾いた笑いが自然と出てきた。
(確かに、慣れてるかも……)
扱いに慣れているのとは少し違うが、ボクはこれまで|一番身近な女の子《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に、覗き、色仕掛け、お風呂でばったり、などなど思い出すのも一苦労なほど、様々なイベントを仕掛けられてきた。
万年小学生並みの容姿で、ボクをそのまま女の子にしたような姿。行動のほとんどは思いつきとその場のノリ。あの人のやってくるえげつない行為の数々と比べれば、ちょっと抱き合うくらい……少し驚くくらいで、慌てる程ではない。
(これは嘆くべきことですよね――母様《ヽヽ》?)
「う〜ん、手強《てごわ》いね」
委員長はあっさりとボクの体から離れ、そのままボクの隣に座り直し、言った。残念そうなその言葉は、いつも聞いている小悪魔のような、微笑み混じりの声だった。
「また困らせようとか思ってたんですね……それなら、正攻法の方がいいと思いますよ。いいんちょが思ってる以上に、ボクは妙なことに慣れてますから」
どうして自分の首を絞めるようなことを言ってしまったのかは謎だが、言っていて悲しくなったのは確かだ。
「正攻法ね。わかった、覚えとく」
「いや、しなくてもいいんですより? っていうかボクを困らせて喜ぶ人は一人で十分ですって……」
身近な人を思い浮かべ嘆くボクを見て、委員長はくすくすと微笑んでいた。
「…………」
「モエルさん……」
「…………」
「っ、ほら、アレは観覧車が揺れただけで不可抗力のようなものですの!」
グレイスは、肩の上で黙りこくったモエルに、つい励ましの言葉をかけていた。
落ち込むのも無理はない。あれだけ執心していた彼方が、観覧車の中で他の女と抱き合うのを見てしまったのだ。不可抗力なのは間違いないが、それにしたってショックだろう。
ちゃっかりと彼方のゴンドラの、一つ隣に乗り込んでいた一人と一匹は、狭い室内をもの凄く微妙な空気で満たしていた。
「…………」
視線を下に向け、モエルは動かない。
「それに、それに……」
(……なんで、私まで)
彼方が抱き合っているのを見たグレイスもまた、確かに胸の痛みを感じていた。今まで感じたことのない、
(心臓を掃除機で吸い込まれるような痛み、ですの)
たとえが恐ろしく無骨なグレイスは、その感情の正体について考え、一つの答えに至る。
それはつまり、今日一日中ずっと一途に彼方を追っていたモエルに、同調してしまったからだと、そういう風に思い込むことにした。
グレイスの心配や葛藤《かっとう》はよそに、モエルの胸中はまったく別の不安に満たされていた。
モエルが目の当たりにした光景。
それは、背を向けて座っている彼方に、少女が抱きつくという内容のもの。ゴンドラが揺れるのを見たし、自然な流れによってそうなってしまったことはわかっている。
だが。
――見られていた。
呼吸が浅くなっている。モエルは、自分が緊張していることに気づく。
眼鏡《めがね》を掛けた少女の瞳は、一つ隣のゴンドラにいる金色の猫を捉えていた。猫もまた、その視線を受け止めていた。深い漆黒を湛《たた》えた瞳と、紅玉を思わせる紅い瞳。どちらにも、互いの姿が映し出されていた。
それは、全身が総毛立つようなほんの一瞬の交差。
だがモエルは鮮明に思い出すことができる。感じた寒気も……そのときに見た、表情も。
彼女は、微笑んでいた。
(偶然、こちらを見ただけかもしれない。……けど)
脳裏から離れない。
優しい、薄ら寒さを感じるほどに完璧な微笑み。そして――。
(――色のない、眼《め》……)
ゆっくりと回る観覧車の中、モエルの疑念だけが膨らんでゆく。
二人が降りてからグレイスたちは尾行を再開する。だがモエルの視線は彼方ではなく、その隣にいる少女へと向けられていた。
「え〜、と」
グレイスは、モエルがショックで口を利《き》けないのだと思い、声をかけることを躊躇《ためら》っている。
そんな状態のまま時間が過ぎ、完全に日が暮れかけた頃《ころ》。
尾行対象の二人は、とある開けた場所へとやってきた。モエルが見上げると目の前には大きな垂れ幕があり、そこで行われるイベントのタイトルがでかでかと掲げられていた。
赤髪の少女と金色の猫は、それを目の当たりにして、
「……はい?」
綺麗に声を揃《そろ》え、一緒に小首を傾げた。
「コスプレボーカルショー――って何ですかこれ!?」
委員長にこっちこっちと連れてこられた場所は、この遊園地内でのイベントの一切を取り仕切る、ステージ区画だった。
中央には段差の高い大きなステージ、その周囲を囲む座席。軽く二千人程度は集めることができるらしいその区画にボクたちは来ていた。ステージの上は現在遊園地の職員らしき人たちが行き交い、巨大なスピーカーやマイク、照明器具などのセットにてんてこまいしている。
座席にはもう既に多くの人が座っていた。どうやら、そこそこに気合いの入ったイベントらしい。ただ、集まっている人間はどうにもきな臭い器具をそれぞれに持ち寄っている。一眼レフカメラに凶悪な長さの望遠レンズ。各々《おのおの》が持つ得物≠ノは、邪《よこしま》な野望が見え隠れしていた。
ボクが思考を巡らしている間にも、委員長はボクを引っ張ってゆく。
そして、その区画の傍《そば》に付設されていた参加窓口≠フ前で立ち止まり、
「さあ!」
胸の前で拳をぐっと握りしめ、ボクの目を真摯《しんし》に見据《みす》えた。
だからボクも素直な気持ちで即答することができた。
「イヤです♪」
彼女の言いたいことは、言葉以上に視線が物語っている。というか、参加窓口にジリジリと引っ張っていくのはやめてください委員長。
「だって白姫君、正攻法の方がいいって……」
「いやそれはそういうことではなくてですね! とにかく、こんなカメラ構えた怪しげなお兄さんばかり集まるイベント参加しませんってば!」
「……だめ?」
上手《うま》すぎる上目遣い。少しだけズレた眼鏡の魅力も相まって、そのテの人には一撃必死の破壊力を秘めた一撃となっている、
(だけどっ!)
「ダメです!」
一撃をいなし、ボクはハッキリと拒否した。すると彼女は諦めてくれたのか、後ろを向いて、おもむろに鞄《かばん》の中に手を突っ込んでごそごそと漁《あさ》り始める。
「残念……」
そして、取り出した長細い機械のスイッチを押した。
『――いいんちょ、ほんとそれだけは勘弁してください。っていうかあなたは二人きりで、しかもそんな格好させてナニをする気ですか!? ホントなんでもしますからそれだけはっ!』
大音量で、ボクの声が再生される。
「それは……っ!?」
「ほら。白姫君、こないだの追いかけっこで」
手のひらを合わせ、委員長が話を切り出した。
「追いかけっこ……」
思い出すのも忌々《いまいま》しい話だが、数日前にボクは、クラス内で開催されたイベントの景品と化し、学校内を逃げ回る羽目となった。捕まったら相手の指定する格好をしなければいけない、という凶悪な条件付きで。
その対決でボクは委員長に掴まってしまい、その際、彼女の提案してきた衣装があまりにも危険なものだったため、頼み込んでなんとか女生徒用の制服を着るということで勘弁してもらったのだ。
ちなみに、一昨日教室で丈《じょう》が披露していた写真は、そのときに生まれてしまったものである。
「白姫君、そこでなんて言ったか覚えてるよね?」
委員長にお願いをしたときだろうか? 確か――、
「いいんちょ、ほんとそれだけは勘弁してください。っていうかあなたは二人きりで、しかもそんな格好させてナニをする気ですか!? ホントなんでもしますからそれだけはっ!=v
ボイスレコーダーに保存されているセリフをそっくりそのまま、暗唱する。
「なんでもしますから」
にっこり笑って、その部分だけを繰り返す。
「……っ、でもそれはあくまで学校内での約束で――」
「約束、だったのにな……」
食らい付こうとすると、彼女はいきなり俯《うつむ》いて寂しそうな声を出した。腰の辺りで両手を組み合わせ、仕草《しぐさ》までもが悲しげに見える。
(それにしたって、これはさすがに……)
「……しゅん」
口でしょげた様子を表しているのは若干気になったが、もしかしたら、このイベントを本当に楽しみにしていたのかもしれない。そんな風に思ってしまうくらい、真に迫った動作だった。
だがここで押し切られるわけにはいかない。もしここで負けたら、こういうパターンが癖になってしまいそうな、そんな現実めいた予感があった。
「……え〜と――」
断固として拒否しよう、う心に決めた、そのとき。
ツ、ゥ――。
彼女の瞳からあふれ出る、一筋の涙。
「白姫君の、嘘《うそ》つき」
涙で潤んだ上目遣いの視線が、ボクを射抜く。
(うぅッ! 泣きながらそんな目で、しかも嘘つきなんて言われたら――ッ! でもっ、決めたんだ! もう流されるだけのボクじゃない! 今日からボクは生まれ変わる! 自分の意志をしっかり持って、ちゃんと示すんだ! さあ、行くぞ――)
「くすん」
「――やりますっ!」
決然とした意志は、コンマ一秒で粉々になっていた。
そして、ボクがやりますと言った瞬間、委員長は、
「やったぁ!」
飛び上がった。
「…………」
ボクはただ、悟っていた。
(男は女の涙に弱い≠ネんて言うけど、そうじゃない。女の子の涙は、最終兵器だよ)
「飛び入り参加一人で〜す!」
楽しげに受付の人に声をかける委員長は、計略を成功させた喜びに満ちている。
それから、あまりにも呆気《あつけ》なく登録されて、しかも時間ぎりぎりだったので大トリになってしまったボクは、衣装を選ぷ特設小屋へ足を運んでいた。
「……自分で選んでいいんだよね、これは……」
小屋の中に用意された様々な衣装。どれも過剰な装飾のものばかりで、唯一の救いといえば、ちゃんと男性用の衣装も用意されていたことだろう。
「白姫君、これが似合うんじゃないかな?」
委員長がなんの疑問もない澄んだ瞳で取り出した衣装は、布面積が非常に少ないものだった。
セパレートの、肩紐《ひも》を首の後ろで結ぶタイプで、擾水《はっすい》性が高そうな、
「へえ、かわいいですね――ってそれ水着でしょうがっ! しかも女の子用!」
「ナイスノリツッコミだね♪ じゃあ、これっ」
さらりとボクの追及をスルーし、彼女は次の衣装を手に取ってボクに見せた。
さっきより少しだけマシになっている、が、しかしそれはもの凄い勢いでスリットの入ったチャイナ服。やっぱり女の子用である。
「女装はデフォですか」
「う〜ん、あ! これはっ? ちょっとスタンダードだけど、白姫君にピッタリかも」
こちらを完全にシカトし、ぺかー、と輝きを放ちそうなノリで、委員長が続けて衣装を掲げた。
それはミニスカートにワイシャツというスタンダードな組み合わせのコスチュームだった。
上のシャツは清潔感を感じさせる白で、下のミニスカートは爽《さわ》やかさを感じさせる青。
これまでと比べると一番マシだったかもしれない、だがボクはその衣装を見た瞬間から、完全に言葉を失ってしまっていた。
「白姫君も気に入ったみたいだし、これに決まりっ!」
彼女はその衣装をきゅうっと抱きしめる。
「ちょっ、それはないです! それだけはないです!」
なぜボクがこんなにも拒否反応を示しているのか。それは、酷似《こくじ》しているからだ。委員長が胸に抱いているそれが――魔法少女の衣装に。
「え〜。でも似合うよ? きっと」
ボクの体に衣装を合わせ、「うん、ぴったり♪」と呟く。
「でもでも、この衣装はちょっと――ああわかりました、わかりましたよ! 着ます! 着ますからそのボイスレコーダーしまってください!」
「良かった♪」
なんて綺麗な笑顔だろうか。これぞ天使な小悪魔だ。
「脅迫されるの慣れてきたかも……」
衣装ごと更衣室に押し込まれ、渋々と服を脱ぎにかかる。
「着替え、手伝わなくていい?」
ちょうどシャツを脱こうとしていたところでカーテンをいきなり開き、中を覗き込んでくる委員長。
「わあっ、結構です! っていうか着替えを覗こうとしないっ!」
丁重に断ってカーテンを閉め直すと、向こうからぶー、とブーイングが聞こえた。
「はあ。……水着とかチャイナとかよりはマシなはず。マシなんだ……」
用意された衣装に袖を通しながら、呪文《じゆもん》のように唱え続ける。そうでもしないと自分を見失ってしまいそうな気がしていた。
そして、すべてを身につけた頃には、見慣れた自分がそこにいた。
「うわあ白姫君すっごいかわいい!」
更衣室から出た直後、感銘を受けた表情をしている委員長がそんな言葉をかけてきた。
「ありがとうございます。涙が出そうですよ」
褒められたはずなのに、心は嘆き悲しんでいる。
何より嘆かわしいのは、当初はあれだけ感じていた女装への違和感というヤツが、段々と薄れてきていることだった。……本当に慣れというもの恐ろしい。
(このままいくとボクの趣味は女装になってしまうのかな……。いや! そんな未来は認めないっ! それだけは許してなるものか!)
「ねぇねぇ白姫君」
「? なんです?」
彼女は「ちょっとごめんね」と前置きして、
ぺろん。
「…………」
「あ、やっぱり下はスパッツなんだ」
「…………」
「白姫君ほんとスパッツ似合うよね」
「…………」
「白姫君?」
「……ッ!」
かなりの時間を経て、ようやく意識が戻ってきた。
「ななっ、なんてことをするんですかいきなりっ! いいんちょ女の子なんですから、いきなり男のスカートをめくるとかそういう――」
(あれ、なんか言ってることおかしい)
必死なボクの言葉も、委員長は持ち前のふわふわな雰囲気で受け止める。
「前から憧《あこが》れてたんだ。スカートめくり」
[#挿絵(img\mb681_169.jpg)]
「そんなものに憧れを抱かないっ!」
叫んだものの、彼女に何を言っても通用しない気がして、一気に疲れが押し寄せてくる。
「あ、そろそろ時間だよっ、白姫君!」
誰にも止めようがないマイペースで、委員長はボクを引っ張ってゆくのだった。
グレイスはなるべくステージから遠い、見つかりにくい位置に席を決めて着席した。
「本当にコレにかなたんが……?」
周りに見咎《みとが》められないよう、ひそひそとモエルが耳打ちをする。
「受付に行くのを見ましたし、間違いはないかと」
グレイスもひそひそ声で返事をする。
コスプレボーカルショー。
現在、彼女たちの目には、壇上で舞い踊り歌うコスプレイヤーの姿が映っている。
お世辞にも歌唱力があるとは言えない、服飾だけが派手な女性。ステージの下には、彼女への包囲網であるかの如《ごと》く、カメラを構えた中年の男たちが集まっていた。参加者の写真を撮るため、という名目にしては、カメラの角度が少々深い。
「かなたん、こういうのが大っ嫌いなはずだけど……」
「嫌がってはいたようですけど、あの女性の方と会話していたら、急に項垂《うなだ》れて……」
モエルの耳がぴぴん、と立った。
「なんか弱みを握られてるのかも!」
「まさか。相手の女性の方、そんなコトするタイプには見えませんでしたの」
実はモエルの答えが正解であった。だがそんなことに気づくわけもなく、次々と舞台上の人間は入れ替わってゆく。自前の衣装を用意しているものもいれば、冗談のようなウケ狙いのモノまで。ショーはその異様性もあって盛り上がっている。
「……やれやれ。一位になったら賞品が出る、なんて言ってこれだけ集まるんだから。平和なものだね、この街は」
呆《あき》れたような、安堵のような。どちらとも取れない言葉に、グレイスは言葉を返す。
「自分の実力でほしいモノを得ようとすることは人の本能。悪いことではないですの」
ステージ上のきらびやかな光を見つめ。
「――キミが必死になってノイズを倒すのも、本能かな?」
聞こえてくる歌声に耳を澄ませ。
「アナタには関係ないことですの」
視線を合わせずに言葉を重ねる。
「確かに、キミの家庭事情なんておいらにゃまったくもって関係ないことだね。……ただ。ノイズを倒すことによってもらえる賞与。それが、キミの目当てだというのなら。
おいらはやっぱり、キミが嫌いだよ。――グレイス・チャペル」
「……。名前、覚えてたんですのね」
グレイスの軽口に付き合うこともなく、モエルが続ける。
「別に否定するつもりはないさ。お金は誰だって必要だからね」
「随分いい子ちゃんですのね。人を脅してこき使うわりには」
互いに言葉をやりとりしてはいるが、その内容はちぐはぐだ。
「……キミのオリジンキー。コインの姿をしているね。もちろん、チューナーならわかっているよね。原初の鍵≠ェ、どういう性質を持ったものか」
モエルの声は鋭く、容赦は欠片《かけら》もない。
「…………」
グレイスが、口を開くのをやめた。モエルは続けて言う。
「心の底にある、根底の想い。原初の鍵≠ヘ、使用者の想いを読み取り、反映する。
行使する魔法は、使用者のイメージ。キミの場合は――金への執着ってところかな?」
少女の揺るぎない瞳がモエルの方を向いた。射抜くような紅《あか》い瞳を受け止め、グレイスは一度息を吐く。そして軽く笑いながら認めた。
「ええ、その通りですの。私はお金が目当てで――」
「――違うだろ」
言葉の途中でキッパリと否定してきたモエルに、グレイスは言葉を詰まらせた。
また一人、ステージの上から参加者が去っていく。
「キミは金に執着しているんじゃない。そういう自分を装っているだけだ。そうやって、自分を誤魔化《ごまか》しているだけだ。……確かにそれでも戦えている。キミは強いよ。おいらが断言してもいい。……けど」
新たな参加者が壇上に上がる。一斉に焚《た》かれるカメラのフラッシュ。
「見てられないんだよ、そのオリジンキー。すごく寂しい光を湛えてる」
白い閃光《せんこう》が、モエルの赤い瞳と、グレイスの炎の衣装を、真っ白に染めた。
「もう一度言うよ。オリジンキーは自分自身。
キミが何を考えているか、おいらにはわからないけど――」
光の明滅の中、モエルがグレイスを真正面から見据え、よく通る声で言い放つ。
「――妙な意地を張って戦うのは、やめるんだ。いつか大怪我《おおけが》するよ」
曲が始まるまでの無音の中、モエルの声がハッキリと、グレイスの耳に届く。
少女は何かを言おうと、口を開いた。
その瞬間、曲が始まった。会場近辺に響き渡る大音響が言葉を掻《か》き消す。音量の調整ミスだったらしく、すぐに音は小さくなっていった。
「…………」
グレイスが何を言おうとしたのか、モエルにはわからない。
だが、彼女もまた、自分が何と言おうとしたのか、頭の中に明確な答えがあったわけではなかった。
ただ、
「……心配してくれてありがとう、ですの」
もうそれだけしか、口にすることができなかった。
「なんでおいらがキミの心配しなきゃならないんだ。これは単なる忠告だよ」
ぶっきらぼうに言い放つモエルは、視線をステージに向け直し、グレイスの方を見ることはなかった。
歌い終えたコスプレイヤーが、ステージ上から降りてゆく。
「次は……最後か。結局、かなたんは出てこなかっ」
モエルの口が開いたまま、動きを止めた。
「……? ッ!」
グレイスもまた、ステージ上の異変に気づいた。
会場が、一斉に沸いた。
今までの出場者の比ではない。ここに集まった総勢二千人超の人が、ステージに上がった一人の少年≠見て、高まった熱を声にして解き放ったのだ。
「かなたんっ!?」「彼方さんっ!?」
驚愕《きょうがく》の声を同時に放つ一人と一匹。その驚きをよそに、ステージ上の少年はまず、おずおずと挨拶《あいさつ》をした。
『こ、こんにち、は……え、いや、こんばんは、かな……もう』
「ウオォォォォォォォォォ!」
『ひゃつ!?』
ステージ上で、少年は一歩退いた。それは、ステージ周囲の人々から送られてくる気迫にやられたからであろう。
数百にも及ぶ、フラッシュの光が一斉に瞬いた。
『あ、あの、ちょっ、撮らないで……ください』
少年は、とびきり短いスカートを両手で押さえ、前屈《まえかが》みに後ずさる。
「ウゴォォォォォォォォォ!」
会場が沸いた。沸き上がった。沸点をノーウェイトで突破、無数の野獣が生まれた。
『ええっ、なんでーーー!?』
フラッシュが黒い夜空を白く染め上げるほどに、途絶えぬ光を放ち続ける。
ステージ上で顔を真っ赤に染め、嗜虐《しぎゃく》心をそそる仕草を無意識で行う彼方は、視線を舞台脇に動かし、その先にいる眼鏡の少女にアイコンタクトで助けを求める。
しかし眼鏡の少女は、やや頬を上気させて右手親指を立ててみせるだけだった。
『そんなあ〜〜〜っ!』
彼方の叫びを聞いて、モエルは背筋がゾクゾク、とするのを感じていた。
「……グレ子」
「なんですの」
素っ気ない声で返答するグレイスもまた、彼方から視線を外すことができないようだ。
一人と一匹の間には、わずかな言葉のやりとりしか存在しない。しかし。
「行け」
「合点」
コンビネーションは完璧だった。
グレイスは、魔法少女の力をもって人混みをかき分け、ステージの一番前――彼方を最も見やすい場所を陣取った。押しのけられた人々は往々にして不快な顔をするものの、それを行った人物の印象をはっきり思い浮かべることができないという、不思議な感覚にとらわれる。
「かなたんがこんな衆人環視の中、変身もせずに女装してるなんて……」
成長した我が子を見守るが如く、恍惚《こうこつ》とした表情で呟くモエル。
「彼方さん、完全に女の子ですの……」
[#挿絵(img\mb681_177.jpg)]
舞台上、白銀の主役を凝視《ぎょうし》したままグレイスが呟いた。その台詞《せりふ》にモエルは勝ち誇ったような顔をして「ふっ」と笑い、
「まだまだだねグレ子。――女の子のように見えて本当は男の子。重要なのはそこさ」
何もかもを見透かしたその態度に、グレイスは世界の広さを見た気がした。
「なんか、負けた気分……ですの」
そんな会話が交わされた後、舞台のスピーカーから増幅された彼方の声が流れ出す。
『ええっと、その……歌うん、ですよね、これ』
もじもじと不特定多数に問いかける。もちろん返事はなく、困ったように彼方は視線をさまよわせる――
「……ちょっとマズくありません?」
「何がさ。今イイ所なんだから話しかけないでよ」
「いえあの、彼方さんがこっちを」
そのときには既に。
視線が、
「…………」
止まっていた。
「…………」
この瞬間、集まった人々の喧騒など軽く吹き飛ばし、舞台上と座席側の空気が凍りついた。
『――ッ?』
彼方は叫びそうになりつつも、音にならないところで押し止《とど》める。
グレイスは、
「……――ご、ご機嫌ようっ♪」
わきわきと手を開閉し、乾いた笑みで挨拶なんかをしてみた。
『〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!』
彼方は何も口には出していないが、確実に何かを言っている。
殺意だけをマイクが拾い、最大ボリュームに増幅されて押し寄せてくる。グレイスはそんな恐ろしい感覚をひしひしと感じていた。
「こうなったらグレ子、もう開き直るしかないよ!」
「ううう背水に自ら飛び込むようなものですの〜」
ぼやきながら彼女は、おもむろに手を叩いた。
それは拍手。
グレイスの起こした小さな音の波紋が、次々と大きく、音の波を作る。
気がついたときには、グレイスから始まった拍手は周囲を巻き込み、盛大な彼方への祝福の波へと変わっていた。
『う……ぁ……』
自分一人に押し寄せる期待の波濤《はとう》を受け、さらに後ずさる彼方。
舞台袖では、委員長もぱちぱちと手を叩いている。
『――あぁ、もうっ!』
大きな声を上げた彼方の目に、決意の色が宿る。そして流暢《りゅうちょう》に、半ばヤケ気味に彼方は自己紹介をした。
『エントリーナンバー十七番、白姫彼方ですっ!
すっごく乗り気じゃありませんので、さっさと終わらせたいと思いますっ!』
できる限り不作法に、心のままを宣言すると、なぜか会場が沸いた。
あちこちからツンだのデレだのいう単語が聞こえてくるのだが、グレイスには何のことだかわからなかった。モエルは、観客と一緒になって彼方にコールを飛ばしている。
やがて、曲のイントロが流れ始める。
壇上でライトアップされた今夜限りのアイドルは、視線は誰とも合わせず正面を見据え、闇に包まれた空へ左手をかざし、右手に持ったマイクを胸元に構えた。
リズムと呼吸が重なり合い、彼方が、最初の一声を解き放つ――。
「それじゃ、いいんちょ。……今日は楽しかったです」
「うん。私も楽しかった」
辺りはすっかり暗くなってしまった。遊園地の出入り口で、ボクと委員長は言葉を交わしている。
「でしょうね……」
手に大きな紙袋を抱えた委員長が、嬉しそうに笑っているのを見て、言葉に嘘偽りがないことを確信する。
「本当に、家まで送らなくていいんですか?」
彼女とはここでお別れである。
「うん。これから、用事があるからね」
「夜が更けてからの用事だなんて、危ないコトじゃないでしょうね」
冗談で言ったつもりだったのだが、彼女は口を結んだまま笑い、
「ふふっ。――だとしたら、どうする?」
試すように、ボクの顔を下から覗き込んできた。妖艶《ようえん》、と言ってもいいものか、彼女のこういう仕草は心臓に悪い。外見は真面目の塊《かたまり》のようだから、尚更にギャップを増長させてくるのだ。
しかし。
「止めますよ」
断言できる。そのボクの言葉に、委員長は毒気《どくけ》を抜かれたようにきょとんとして、いきなりぷっ、と噴き出した。そしてひとしきりお腹《なか》を押さえて笑い、
「白姫君って、卑怯《ひきょう》」
とだけ言って、眼鏡の下、うっすらと濡れた瞳を、人差し指で拭う。笑いすぎたらしい。彼女のそんな姿を見たのは、初めてだった。
「人が真面目に言ってるのに卑怯はないでしょ、いいんちょ。
素直な言葉は、素直に受け止めろ。母様――、ボクの母が言ってました」
微妙に笑っている顔を見られたくないのか、委員長はボクに背を向けた。
「いいお母さんなんだね」
さっきよりも落ち着いた声で、言ってくる。
「白姫君がこんなに綺麗に育った理由、わかる気がする。見た目じゃなくて中身が、ね」
「……いい、母親……?」
素直に受け止めようとしてもかなり本気で考えさせられるその言葉に、ボクがたじろいでいると、
「あ、そだ。コレ、ありがとね」
手元の紙袋に視線を落とし、胸元まで持ち上げて委員長がお礼の言葉を告げてくる。
忌々しい、戦果だ。
「帰りの交通費まで持ってもらっちゃって何もお返しできないのはあんまりなんで。って言っても、もらい物な上に必要かもわからないですけど……」
さっきの大会で手に入れた賞品で、中にはこの遊園地にまつわる様々なグッズが入っているらしい。規模のわりにせこい気がする。
「ううん、これとか気に入ったよ」
取り出したのは、この遊園地のマスコットキャラの一つであるらしい、種族判別の極めて難しい生物のストラップ。どうも顔が小憎たらしい。
「気に入ってもらえたなら、色々なモノを失ってまで頑張った甲斐《かい》がありましたよ」
「ふふ。白姫君、歌、凄く上手だったね?」
ついさっき終了したイベントだが、正直もう思い出したくはない。
「……褒め言葉ですかね、それ」
ボクがあの場で歌ったのは童謡である。スローテンポで、歌詞の間違えようもない曲。流行《はや》りの曲などに疎《うと》いボクには、それくらいしか歌えなかったのだ。
だというのに結果は最優秀賞。さっさと逃げ出したかったのにその後の表彰まで受けさせられ、肝心要の一人と一匹を見失ってしまった。
「うん。だって白姫君の歌声、すごく感動したもん。会場のみんな、泣いてたでしょ? なんていうか、胸の中まで透き通ってくるような歌声、って言うのかな。とにかく、凄いことだよ」
確かに、会場のそこらから嗚咽《おえつ》が聞こえたり、ハンカチで目元を拭う人がいたりもしていたが……凄いのだろうか。衣装でいっぱいいっぱいだったボクに、そんなことはわかりようがない。
「白姫君の新しい一面、見れちゃったな」
今日一番の笑顔で、彼女は言った。
照れくさくなって、目を逸らしてしまう。
その隙《すき》に――、
「!?」
頬に触れる、温かい感触。
「今日一日、ありがとう。それと、これからも、よろしく。
その……気持ち」
ほのかに頬を赤らめ、自分の唇《くちびる》をさすりながら、委員長はくすりと微笑んだ。
「それじゃ、ね」
短く別れを告げて、一方的に彼女が走り去る。
途中、一度だけ振り向いて、小さく手を振った。
ボクは、手を振り返すことも忘れ、呆然《ぽうぜん》と立ちつくしていた。
頬がまだ少し……温かい。
(確かに正攻法に弱いな、ボクは)
自分の言ったことながら、再度納得してしまった。
「……さて」
一日はまだ、終わりではない。
きらめくネオンの光を背に、空に手をかざす。
「遍く空の果てへ」
人を超越した力を手に、ボクは再び、園内へと戻る。
閉園時間少し前となってもまだ、中には大半の人が残っている。
そんな中、わざわざボクが変身して戻ってきた理由は一つ。
「…………」
この遊園地の目玉の一つである、中央広場のお城。
――ボクは今、その最も高い塔の上にいる。
そこで目を閉じ、全身の感覚を周囲に広げる。この遊園地全体を、体の感覚で見渡す。
吹きつけてくる風のざわめきと一緒に、リボンがしなやかなダンスを披露する。
一日を堪能《たんのう》し、心地良い疲れに包まれている人々の声、眼下に広がる楽園にたくさん詰まつた、嬉《きき》々とした想い。意識を集中することで見えてくる、共通した意識の欠片たち。
しかしそれとはまったく別に、ただ邪なだけの思いも存在している。
「見つけた」
お城の頂上から、空へと身を躍らせる。
夜の海に、開幕の言葉を放つ。
「さあ、ショータイムだ」
体を包む浮遊感に身を任せ、地上へと墜《お》ちてゆく。地上が段々と迫ってくるのを少しだけ寂しく思いながら、空中で身をひねる。
ズダンッ。
着地は、綺麗なものだった。
「……ひっ!?」
ボクが空から舞い降りたと同時に、近くで悲鳴が上がった。突然目の前に人が落ちてくれば、それは驚くだろう。それが知り合いなら、なおさらだ――。
「いい夜だね。二人とも」
空を見上げ、ボクは声を放つ。月は少し欠けているが、くっきりと空に浮かび、こちらを照らしている。
一人の赤い肩がビクンと震え、一匹の小さな体がぞわ、と総毛立つ。
「……こ、こんばんは、ですの」
「……や〜、奇遇だねかなたん」
ボクは心穏やかに、波のない海のような寛容さを心に抱き、声を出す。
「君たちには情状|酌量《しゃくりょう》の余地も黙秘権も、人権もない」
「人権まで?」
「ちょっ、かなたん、オーヴァゼアが光ってる! なんか危ないよその光!?」
一歩退いた被告人たちに、ボクは恭しく頭を下げ、告げた。
「せっかくだから……夜のデートと、参りましょうか(意訳・こんのデバカメども、ただで家に帰れると思うなよ?)」
あくまでも心穏やかに言い放った言葉は、夜空に一人と一匹の叫声《きょうせい》を咲かせた。
「グレイスちゃん……いないの〜?」
彼方たちが遊園地にいたその日。グレイスがノイズの反応を感じたちょうどその頃。
依は主不在の家を眺め、首を傾げていた。
「グレイスちゃ〜ん」
公園の隅にひっそりと設置された真っ赤なテントの前で、依はその家≠フ主の名を呼び続けた。
キャンプ用のテント。ドーム型のスペースが広いものだ。そこが留真《るま》の現在住んでいる場所。
書類上では違う住所になっているのだが、彼女はそこで衣食住をまかなっていた。
「ちょっと失礼するよー」
腰を屈めて、依はテントの中へ入る。
テントの内部は、機能的に生活用品が配置されており、紛《まぎ》れもない生活感が漂っていた。
「う〜ん……毎度思うけど、こんな生活しててよく風邪引かないなあ」
微妙にズレている依の意見だが、内部は意外にも暖かく、小綺麗にまとめられている。
彼女の置かれている境遇をある程度理解しているつもりの依だが、それでも、自分よりも幼い少女がこんな環境で生活していることに、心配は隠せない。
「う〜ん、出かけちゃってるみたいだね……残念。じゃあ――」
依はバッグから取り出したかわいいイラスト付きのメモ帳に、うさぎのマスコットが付いたシヤープペンを走らせる。
心配になって様子を見に来たこと、ここ最近のノイズ増加のこと。そこまでを書いてメモ紙を丁寧《ていねい》に破り、テントの隅に置かれているミニテーブルの上に置く、
「よしっ、と……。あ、そうだ♪」
置いたメモ紙のあいている部分に、砕けた文字で書き足す。
『気が向いたらでいいから、家に遊びに来てくれると嬉しいな?』
欲望混じりのメッセージは、本文よりも大きな字で記された。
「さて。今からどうしよっかな。彼方ちゃんの家に遊びに行っちゃおうかな」
などと虎視眈々《こしたんたん》と彼方を狙っている依なのだったが、
ザ――。
「あらら」
時を選ばないノイズによって、その野望は差し止められる。
「……グレイスちゃんもいないことだし。私が相手、したげようかな」
大きく伸びをし、バッグの位置を直す。そこにぶら下がる幾つものキーホルダーが、チャリ、と綺麗な響きを立てた。
休日で人があふれる街中を見下ろし、チューナーは街の高所を駆ける。
魔力反応に近づくに従い、街の風景が流れてゆく。数分もすると、一転して命の脈動をまったく感じられない場所へと、依はたどり着いていた。
「変な感じ」
ザ、ザ、ザ。短い、連続した騒音。
「反応はそんなに強くない……けど」
自身の中にある魔力をざわめかせるノイズ。強い反応ではない、だが、弱いのに安定している。この音は、一定のリズム、一定の強さで先ほどから鳴り続けている。
まるで、誰かを呼んでいるかのように。
既に変身済みの状態で、鎖のオリジンキーリンカーズ≠たすき掛けに身につけている彼女は、その区域≠ノ足を踏み入れる前に、立ち止まった。
「ここは、廃棄工事区=c…」
彼女の目の前に広がるのは大規模な敷地と、無数に立ち並ぶ建物。以前、この区域は大規模な都市型ショッビングセンターの開発が予定されていた場所だった。だが、その大もととなる会社が経営|破綻《はたん》を起こし、開発途中であったこの区域は、未完成の建造物を残すだけとなってしまったのだ。規模が規模だけに、簡単に後を継ぐ経営母体が見つかるわけもなく、いまだにこの場所は未完成のまま、街の一角を占めている。
この街の人々は、この廃棄工事区と呼ばれる区域を、避けるようにして進む。
何故なら、退廃的な光景は心に翳《かげ》りを落としてしまう。
様々な思いによって生まれ、その思いが消え去った後に残った抜け殻=B残留する人の思いが、心の形が、この場所に根付いている。
「寂しい場所……」
ここは人の心に負の影響しかもたらさない。人は、そうした場所に近寄りたいとは思わないのだから。
依は目を閉じ、ノイズの場所を探り始める。さっさと終わらせて、この場所から離れよう、彼女はそう思っていた。
ザ――。
「みっけ」
留真と同じく長年の経験を積んでいる彼女にしてみれば、ノイズの場所を特定することなど造作もない。
感知した場所は、その区域の中でも最大の建造物の内部。このセンターの核となる、ショッピングモールの中である。
上空から見ると綺麗な八角形になっているビル。全五階建ての、近未来風のデザイン。
支柱、外壁とほとんど完成しているように見える建物だが、入り口の自動ドアは粉々に粉砕され、ガラスが散らばっている。
中に足を踏み入れると、想像以上に開けた空間を目の当たりにする。
まだ塗装途中だったのか、鈍色《にびいろ》の骨格がところどころ見えるものの、内部構成もほぼ完成していた。足りないのは、ここに集う人のみ、である。
「なんか映画で見た、地球が崩壊する未来って感じかな……」
警戒しながら歩く。
建物内部は、中央フロアを軸《じく》にして、周囲の壁側にテナントフロアが並ぶというスタイル。
中央フロアは一階から五階までぶち抜いた吹き抜けになっていて、陽の高い時間であったならば、陽光をこのフロアに降り注がせることができるのだろう。
その光景を想像して、依は悲しくなった。現実に広がるこの場所は、理想は理想でしかない、と如実に告げてくるようだった。
同時に、疑問も浮かぶ。
これだけ完成しているというのに、どうしてこの場所は誰も手を付けないのか。
権利の関係などはよくわからない、だが、破綻したにしろこの場所は利用価値があるのではないだろうか。
「勿体《もったい》ないなあ……ここが完成したら、グレイスちゃんや彼方ちゃんと一緒にショッピングできたかもしれないのに」
妄想の世界に入ろうとした瞬間、目の前の空間が歪《ゆが》んだ。
中央フロアにノイズが奔《はし》ったと同時、依はすぐにオリジンキーを腕に巻き付け、臨戦態勢を整えた。
歪んだレンズ越しに風景を見ているような、局地的なゆがみ――その中から、騒音を伴う雫《しずく》がこぼれ落ちた。一滴の雫は、床に触れた瞬聞に冠のようなしぶきを上げ、外に広がり延びる。
「また……?」
現れたノイズは、彼女たちチューナーがなり損ないと呼んでいる存在だった。
「う〜ん……異常発生も問題だけど、それが全部コレっていうのも、面倒な話だよ……」
ぼやきながら、無造作に依はノイズへと近づく。
「まあいいや。今度こそ彼方ちゃんの家に押し掛けよ――」
――ゴキ、ン――。
骨が軋《きし》む音。いや、折れる音かもしれない。
依の体は横に吹き飛んでいた。判断が追いつく暇もなく、衝撃によって中央のフロアから一気に壁際まで弾《はじ》き飛ばされ、コンクリートの見え隠れする壁に衝突する。
「……っか……ハッ――!」
呼吸が乱れ、体の内部から痛みが押し寄せてきた。
(な、何……っ?)
確実に理解できるのは、自分が何らかの攻撃を受けたこと、そして魔法少女化していなければやばかったこと。その二点。体を動かすための神経を一気に繋ぎ直し、依は立ち上がった。
出所不明の激痛が体中を駆け巡ったものの、立ち上がり、敵の姿を探す。
……が。
見回す必要などなかった。
「?」
ソイツは、そこにいた。
依が弾き飛ばされた地点、つまり攻撃を仕掛けた地点から動いていなかった。
黒い人影。彼女たちがなり損ない≠ニ呼ぶ存在。それが人の形を摸し、黒いシルエットとして立っていた。
「なり損ない……じゃ、ない?」
彼女たちがそう呼ぶものは、明確な形を持たない、言葉どおりのなり損ない≠ナある。
本来、ノイズとは一貫した強い思いから生まれてくるもの。
しかし時折、様々な雑念が集まって生まれてきてしまう例外がある。定形を持たず、目的もなく、力も弱い。そういうものを、チューナーの間ではなり損ない、と呼んでいた。
自分を守ろうとする本能くらいはあるが、放っておいても害はない。つまり、なり損ないが自分から攻撃を仕掛けることなど、ましてや、自分から姿を固定し立つことなど、有り得るはずがない。
「どういうこと……?」
依は、呆然としている場合ではないことを思い出す。目先の敵を警戒しながら、両手を何度か握り、感覚を確かめた。
(……よし。少し痛いけど、動く)
力を込める際に伝わってくる体内の痛みを把握し、自分の行動に支障がないことを確かめる。
「いろいろ気になることはあるけど――」
ジャララッ!
巻いた鎖を鳴らし、依は弾けるように飛び出した。
両腕は胸の前、背を丸めるように体勢を低く、地面を音もなく蹴る。
依の戦闘スタイルは、近接戦の中でも拳をメインに戦う、拳闘――つまりはボクシングを用いたもの。滑るように相手との距離を縮める独特のステップ移動は、強化されている彼女の身体能力と組み合わさると、瞬間移動しているような錯覚《さっかく》さえ起こさせる。
「倒すっ!」
高速接近、微動だにしない棒立ちの敵へ、拳を突き出す――。
ジャガッ!
鎖が、空と擦れ合い鋭い音を立てた。
「!?」
拳は――何もない空間を貫いていた。正面から捉えていた黒い影が、目の前にない。
意識に空白が生まれる。依はそれでも、できる限りの行動を取った。
「リンカーズッ!」
拳から肘《ひじ》にかけて巻き付いていた鎖が一瞬で解け、彼女の周囲に広がった。一本の鎖が正円を作ると、魔力で構成された鎖の分身が次々と周りを守るようにして回転運動を始める。魔力を用いた障壁。チューナーの基本とも言える防御法である。
案の定、防御の外から攻撃が加えられた。
(防いだっ!)
安堵も束《つか》の間、依の耳に信じられない音が聞こえる。
バキン、というそれは亀裂音のようだった。鳴った場所は、張り巡らした魔力障壁の一部分。
黒い影が拳を打ち込んでいる、その部分だった。
「……うそ」
落ち着いて驚く暇さえも与えられない。ヒビの入った障壁はそのまま、たった一度の攻撃で打ち破られてしまった。貫いてきた敵の拳が、反射的に構えたガードの上にめり込んでくる。
大きな丸太が突っ込んでくるような衝撃に、依の体は簡単に弾き飛ばされた。
白塗りの壁に背中からぶち当たる直前、体を捻って壁に足をつく。
(まともに、喰らってたら……)
間違いなく終わっていた。そう確信できるだけの威力。防いだ腕に感覚が戻ってきていない。
辛うじて持ち直した依は、着地してから頭を切り換える。
「普通のノイズじゃない――」
人型のノイズは、追撃するつもりもないという態度でフロア中央に根差している。空気中を舞う埃《ほこり》が、黒塗りの体を不気味に彩っている。
(――勝てない)
障壁を簡単に破られた時点で、力の差は歴然としていた。だが依は、圧倒的な実力差を確信しながらも、感覚のない腕に無理やり意識を集中させ、何とかファイテイングポーズを取った。
(でも、私がここで負けちゃったら次はきっと、あの子が戦おうとするんだろうな……)
彼女の頭の中には――一人の少女の姿があった。
「……留真ちゃん」
五年もの間、一人で戦い続けていた少女。その姿を見続けてきた依は、ずっと彼女を助けたいと思っていた。すべてを拒否して一人で戦おうとする留真の、寄《よ》る辺《べ》となれたら。そう思っていた。だが、彼女の覚悟は固く、自分が踏み込める場所などありはしなかった。
しかし依は、余計なお世話だとわかっていても、留真の所へ通うのを止めなかった。
「嫌われたって……いい」
彼女がノイズと戦っていれば、怒鳴られても割り込んで助けた。
お腹《なか》を空かせているときは、強引にでも食事を食べさせた。
一人で泣いているときは――ただずっと、傍《そば》にいた。
どうしてそこまで入れ込むのか、自分でもわからない。
ただ、そうすることだけが正しいと、彼女は確信していた。
「留真ちゃんの敵は、私が――倒すっ!」
――守る。
それこそが、彼女のオリジンキーに刻まれた原初の想い=B
その想いを拳に集中させ、依は疾駆《しっく》した。
速度を乗せ、魔力を乗せ、想いを乗せて。
「ハアァァァァァァァッ!」
彼女の持ちうるすべての力を集め、拳が奔る。
――儚《はかな》い金色の光の中、鈍色の鎖が、静かに、音もなく、舞った。
[#改ページ]
Other side.幾瀬依《いくせより》
彼女と初めて出会ったのは、私がチューナーになってまだ間もない頃《ころ》だった。
戦うことにも慣れていなくて、ノイズが出現するたびにどきどきしていた、そんな初々しい頃。
「なんとなくで引き受けちゃったけど、いいのかな……」
私は夕暮れの街を走りながら、自分の格好に違和感を感じていた。
「この衣装も変に目立つし」
強化された感覚は敵の発生をしっかりとキャッチしている。
「でも……興味はあったし」
その頃の私は、安定した毎日がなんだか空っぽに思えていた。特にやりたいこともなく、日々を適当に過ごす。その繰り返しに、嫌気が差していた。
――そんなときに私は、チューナーに誘われたのだ。
はじめは、そんな作り物めいた話まったく信じていなかった。だけどその反面、そんなことがあればいいな、なんて思っていたのも事実。
やる≠ニ答えた理由は、本当に|なんとなく《ヽヽヽヽヽ》だった。
「よくよく考えると、結構危ないことなんだよね……」
動機は浅はかで、中途半端。
チューナーは想《おも》いを力にするというのに、どうして私が選ばれたのだろう。
「……いいのかな。私なんかで」
私のオリジンキーリンカーズ≠ヘ、答えをくれはしない。
非日常に足を踏み入れ、超常的な力を手に入れても。
世界を破壊しようとするノイズを退治しても。
不特定多数の人々を、影ながら救っているのだとしても。
――空っぽな気持ちは、変わらず胸の中にあるのだった。
だがその日、世界が赤く染まるそのときに――私は、出会う。
「……!」
一目見ただけで、体が熱くなった。
鋭さを感じさせる顔立ちに、幼い体付き。その小さな体に身につけた紅《あか》いドレスは少し豪華すぎる気もしたが、それに負けない気の強さを、雰囲気として身に纏《まと》っていた。
「女、の子……?」
紅い、少女。
向かった先で私より先に敵を倒していた彼女は、ノイズの散り際の燐光《りんこう》に煽《あお》られ、本当に燃えているようだった。
私の半端な想いを焼き尽くす、そのために、そこにいたかのような――。
「――誰?」
初めてかけられた言葉は、とても素っ気ない一言だった。まるっきり子供の声だというのに妙な迫力を感じて、言葉を失った。同時に、なぜか……悲しく感じた。
それがなぜなのか、そのときはわからなかったのだけれど。
「ああ、あなたも……。ノイズなら、もう倒したですの」
自分より一回り小さい女の子が、大人の自分ですら恐いと思っていた化け物を倒している。
そのことに驚いているのもあったし、目の前の少女がとても……そう、極上だったのも一つの要因かもしれない。
とにかく私は、そのとき、すでに。
「は〜〜〜〜〜っ、ぐ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ♪」
――暴走、しちゃっていた。
「!? なっ、なにするんですのっ! はっ、離して! 離しなさいっ! こらっ、抱っこするな! なでなでするなーーーーーっ!」
じたばた暴れる赤毛の女の子を、ぎゅうっと腕の中に抱きしめて聞く。
「ね、ね、かわいいお嬢ちゃん、お名前なんて言うの?」
傍《はた》から見たら危険人物そのものだったに違いない。
「言うから離して!」
大人も顔負けの力で引き離しにかかる少女だが、力ではこちらの方が上だった。
「離すから教えて?」
「っ、――グレイス。グレイス・チャペル……ですの。ほら、はやく離してください!」
「うん、あと三十分|愛《め》でたらね〜っ」
「! うそつきっ! 子供をだまして恥ずかしくないんですのっ!?」
さらに暴れる少女と、それを抱きすくめる私。
「ね、グレイスちゃん」
「……なんですか、知らない人」
力で敵《かな》わないと悟ったのか、暴れるのをやめ、すねた口調で話し始めた。
「グレイスちゃんはどうして、戦ってるの?」
どうして会ったばかりの子にこんなことを聞いているのか。
ただ、教えてほしかった。
彼女の戦う理由。それと……。
私の、戦う理由を。
「……かんけーないですの。あなたには」
不自然なまでの声の変化。強く、頑《かたく》なな意志を含んだその声に心が震《ふる》えた。
空っぽ≠セと思っている部分を、きっと彼女は持っている。
そのとき私に芽生えたのは、羨《うらや》ましさや、憧《あこが》れや、尊敬……そんなモノを超えた、何の脈絡もなく、きっかけも曖昧《あいまい》で、だけど、確かなもの。
「うん。そっか」
それは理屈とかじゃない――。
「そろそろ離してください」
「ううん。やだ」
――想い。
「守る」
「……は?」
「私、グレイスちゃんを守る。自分でもよくわかんないけど、今、そう決めた。いろいろ中途半端だったけど、やっと……なんか、見つかった気がする」
「何を言ってるんですの? そんないきなり、守るとか」
「じゃあグレイスちゃん、まず呼び方から変えていこっか! 私のことお姉ちゃんって呼んでみて?」
「なっ、名前も知らない人になんでいきな――んくっ!?」
思いっきりグレイスの顔を胸元に押し付ける。
「呼んでくれないと離さないもんっ」
「ぷはっ! だからあなたはなんなんですの! どうしてそんなにベタベタと――……」
思えば、単純なものだった。
――私の始まりは、ただの一目惚《ひとめぼ》れから、だったのだ。
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4.幾瀬依《いくせより》の理由
ボクがその知らせを聞いたのは、二日後のことだった。
「依さんっ!」
清潔感のある白亜の扉を開け放つと、白い部屋が目の前に広がる。八畳程度の広さがある個室に、ベッドが一つ。ベッドの傍《かたわ》らには簡素な棚が備え付けられていて、その上には見舞い品らしきものが置かれている。
「静かに。病院の中ですのよ」
ベッド脇のパイプ椅子に座っていた、白の中でも一際目立つ赤髪の少女が、静かな声を病室に響かせた。
「――ごめんなさい……」
ここは隣町の病院である。いつも通りに学校を終え、家に帰った直後に、留真《るま》から電話がかかってきたのだ。その内容は――。
「それで、依さんは?」
「全身打撲。それと、ところどころ骨にヒビが入っているらしいです。命に別状はありませんが、しばらくは入院生活ですの」
ベッドの上で寝息を立てる依お姉さんを、留真は感情の読み取りにくい無表情で眺めていた。……学校から直接来たのだろう、紺色の制服を着たままだ。
「倒れていたのは私の家の近く。……自分のエリアとはまったく関係ない場所ですの」
声を出すときも俯《うつむ》きがちに、視線を彼女から外さない。
「ノイズ、だよね。やっぱり」
「間違いないでしょう。彼女、普段から格闘技やってましたから。普通の人間にやられるようなことはありませんわ」
昔|馴染《なじ》みだけあって、依お姉さんのことに関してはボクよりも詳しい。しかしそれを語る留真は、どこか突き放したような喋《しゃべ》り方をしている気がした。
「まったく。――バカな人ですの」
見下ろして呟《つぶや》いた冷たい言葉に、ボクは思わず言い返してしまった。
「バカなって、……そんな言い方しなくてもいいじゃないか。依さん、ずっと留真ちゃんのこと心配してたんだよ? これだってきっと、留真ちゃんの負担を減らすために――」
彼女は露骨に溜息《ためいき》を吐《つ》くと、椅子《いす》から立ち上がりながら言った。
「その結果がこれです」
「!」
「いつもいつも余計なお節介ばかり焼いて、仕舞いにはこのありさま。
――愚かだとしか、言いようがない」
厳しい言葉を吐き捨てて、留真はすたすたと病室から出ようとする。
「留真ちゃん!」
扉の前で立ち止まった彼女は、こちらに背中を向けたまま最後にこう告げた。
「どうやら少々、厄介なノイズがいるみたいですの。アナタも気をつけた方がいいでしょう。……まあ、すぐに私が片付けますが」
それだけ言って彼女は、病室から出ていってしまった。
「……。――?」
彼女がドアを閉めた後に、緑色の葉|屑《くず》が落ちているのに気づく。
(……なんだろ? 外から入り込んできたのかな)
一人になった病室の中は静かなもので、小さな呼吸の音しか聞こえてこない。鼻を突くのは、薬っぽい病院特有の匂《にお》い。窓の外にはある程度の緑が見えるが、アルミの枠組みで仕切られた外は、味気なく感じる。
とりあえずボクは、今まで留真が座っていたパイプ椅子に腰を下ろした。
「……やっぱり、怒ってるよね」
「!」
いきなり近くから声がして、驚く。
「起きてたんですか、依さん……」
彼女はこっちを向いて体を起こそうとした。だが痛みで顔をしかめたため、慌てて体を支える。
「動いちゃ駄目ですよ!」
「大丈夫、だよ。そんなに酷《ひど》く、ないから」
「そんなわけないでしょう。骨にヒビ入ってるらしいじゃないですか」
それでも起きようとするので、上半身だけ起こすのを手伝う。
「ふう。ありがと、彼方《かなた》ちゃん」
礼を言ってしとやかに微笑《ほほえ》む依お姉さん。今はリスの尻尾《しっぽ》のようなポニーテールは解かれており、随分と大人しそうに見える。
「え、えーとですね依さん、留真ちゃんは――」
「いいよ。聞いてたから」
気丈に振る舞ってはいるが、心身共に弱っているのが傍目《はため》にもわかる。表情だけは笑っているようだが、声に力がない。
「はあ。かっこ悪いとこ見せちゃったな。留真ちゃんにも、彼方ちゃんにも」
空《そら》笑いしながら依お姉さんが肩を落とす。
「余計、嫌われちゃったか……」
痛みを堪《こら》えて笑っている。でもその顔は、受けた傷が痛むとか、そういう風には見えない。
もっと別の、深い場所が傷ついている。そんな気がした。
「……。ええっと、こっ、この病室広いですよねっ。もしかして依さん、お嬢様だったりしますか?」
本当はこういうとき、さりげなく話をすり替えたりするのが紳士というものなのだろう。だがボクにはどうやら紳士になる才能はなかったらしい。自分でも情けなく感じるほど露骨に話をねじ曲げてしまった。
「……あははっ、ちがうちがう。私はお嬢様なんかじゃないよ」
それでも彼女はこちらの意図を酌《く》んで、話をこちらに合わせてくれた。
「この病室は、向こうの指示じゃないかな」
「向こう?」
「うん。チューナーの、スポンサーさん」
「スポンサー?」
不可解な単語に首を傾《かし》げる。
「あ、そっか彼方ちゃん新人さんだったね。――あのね、私たちチューナーがノイズと戦って、もしも怪我《けが》しちゃったときは、ちゃんとこんな風に措置《そち》してくれるんだよ」
病室を手で指し示し、誇らしげに依さんが胸を張る。その後すぐにイタタ、と言いながら背中を丸めてしまったが。
「大きな組織が後ろにいるんだろうねぇ」
「魔法少女なんて言いながら、リアルな背景があるんですね……」
何気なく言った言葉だったのだが、彼女がなぜか渋い表情をしている。
「依さん?」
「……彼方ちゃん。魔法少女って言うのはだめ」
「え? でも魔法少女じゃ」
「違うの――私たちはチューナーなの!」
目には半分涙。言い張る口調は必死そのもの。なにか言ってはならないことを言ってしまったのだろうかと、自分の言った言葉を思い出すものの、まったく思い当たらない。
狼狽《ろうばい》していると、彼女は真っ赤に染まった頬《ほお》を両手で隠し、ポツリと言った。
「私もう二十四なんだよ? ……魔法少女なんて歳《とし》じゃないもの。魔法お姉さんだもの」
「いやその呼び方はどうかと」
年頃《としごろ》のお姉さんには、色々と複雑な悩みが多いらしい。
(十分若いですよ、なんて言っても気休めに聞こえるだけだろうし、男性と女性の年齢感覚は大きなズレがあるって言うしなあ……。こういうときは)
「……ええと、どうして依さんはまほ、……チューナーを?」
またも、無理やりに話題を変える。
「? かわいい女の子」
質問から答えまでの所要時間、少なくとも一秒以下。
(というよりも答えなのだろうか、これは……)
我の強さにかけては留真以上かもしれない。そんなことを思っていると、話し疲れたのか、胸を軽く膨らませてから一気に息を吐き出し、大人しい声で彼女は言った。
「……守り……たかったの」
突然の台詞《せりふ》に何のことかと考えたが、彼女が先に答えを口にした。
「私が本気でチューナーやろうと思った理由。あんまり格好良くないんだけどね」
「守るって、留真ちゃんを……ですか?」
彼女は顔を窓の方に向けた。風景を見るのではなく、もっと遠くを見ているような視線を送る。
「私ってその頃、将来のこととか何も考えてなかったから。チューナーのことも結構軽い気分でやってみようかな、なんて思ってたりしてたの」
膝《ひざ》元に置いた手と手を絡ませ、照れくさそうに言う。
「けどそしたら周りのみんな、私よりも若い子ばっかりなのに、何かしらの目的を持って戦ってたから、びっくりしちゃって、私なんて、中途半端な気持ちでこっちに来たから」
「へ、へぇ……そうだったんですか……」
自分の境遇を考えると、ちくちくと棘《とげ》で刺されている気分になる。
「そんな中でも一際目立ってた子がグレイスちゃん。一番ちっちゃかったのに、一番必死で、一番……ぶあいそだった」
子供時代の留真が、ハッキリと頭の中で浮かぶ。
「思えば、初めて見たときだったかな――守ってあげたい、この子は守らなきゃって思ったのは。今考えてみると、ホントいきなりだったかな。嫌がられるのも当然か」
照れくさそうな微笑みが、とても綺麗《きれい》だった。
「……きっかけがどんなに些細《ささい》なことでも、本当に大事だと思えるのなら。
その想いはきっと、間違いじゃないと思いますよ」
ボクの言葉に依お姉さんは動きを止め、こちらを見た。
「今の依さん、すごく格好いいです」
素直な気持ちでそう伝えると、彼女はいきなりこんなことを言い出した。
「――……。もし、彼方ちゃんが男の子だったら……惚《ほ》れてたかも」
「? なっ、何を言い出すんですかいきなり?」
椅子からずり落ちそうになるのを、何とか持ち直す。
「だって彼方ちゃん、時々|凄《すご》く男らしいもの。見た目はこんなにかわいいのに。そういうアンバランスさって、凄く魅力的に見えるんだよ?」
「っ! いや、そもそも、というかこの際だから言いますけど、ボクは――」
「――でも、良かった」
せっかく男だと告白できそうな場面だったのに、その言葉に遮《さえぎ》られてしまった。
「彼方ちゃんみたいなコが、留真ちゃんの傍《そば》にいてくれて」
起こしていた体をぼすん、と倒して横になった彼女は、あくまでも胸の内にある寂しさを悟らせないように、軽い口調で言葉を放つ。
「留真ちゃん、私の前だと笑ってくれないから」
汚れ一つないシーツに身を埋め、真っ白な天井に目を向けたままで、
「……嫌われてる私じゃ、留真ちゃんの支えにはなれないから。さっきの留真ちゃん、彼方ちゃんには気を許してた。これは絶対だよ。お姉さんの勘」
ボクは黙ってそれを聞きながら、視線を傍らに置いてある花瓶に向けた。
「きっと彼方ちゃんなら、あの子を変えてあげられると――」
「――ダメです」
自然と、言葉が出ていた。
「え?」
気を伏せっぱなしの彼女にはっきり届くように、少しだけ厳しい口調で言う。
「それは人に押し付けていいものじゃない。アナタの想いは、叶《かな》えたい願いは、誰かが代わりにやればいいってものじゃない」
「……彼方ちゃん?」
突然のことに驚いているのか、依お姉さんは目をぱちくりとさせている。
ボクは、彼女の膝元に組まれた手を取り、告げる。
「留真ちゃんはアナタを嫌ってなんかないですよ」
握る手に力を込め、自信を持って断言する。
「少し。素直じゃないだけです。――どっかの誰かと同じで、ね」
病院を出てすぐ、ボクの元にモエルが走り寄ってくる。
「かなたんっ! どうだった?」
さすがに病院にまでは入れないモエルは、面会の間ずっと外で待っていたのだ。
「ごめんモエル、遅くなって。……とりあえず、元気そうだったよ」
「それは良かった。……で、その人を傷つけたノイズの話は聞けた?」
「うん。とは言っても、謎だらけだけどね」
依お姉さんから聞いた話をまとめると、ソイツは人の形を真似《まね》していたらしい。
しかも彼女を圧倒する力で、手も足も出せなかった、とも言っていた。
「人型の、ノイズ」
真剣な目で話を聞いていたモエルが、呟く。
「それで変身も解けて、もう駄目かなってときに……逃がしてくれた、って」
「……逃がしてくれた?」
「というか、逃げても追ってこなかったって。そんなこと、あるのかな」
ノイズには意思がない。つまり、一度外敵だと認識されてしまうと、その存在を完璧に排除するまで、動物的な野性で攻撃を仕掛けてくる、とモエルは言っていた。
「気まぐれとかだったら、まるで意思があるみたいだし」
モエルはそのことについて、意外なほどあっさりと答えを出した。
「運が良かったんだよ。きっと」
いつもは話しかけても聞こえないくらいまで考えるくせに、不自然に素早い答えだった。
「……それならそれで、いいんだけどね」
秘密主義はいつものことだと諦《あきら》め、モエルを肩に乗せる。
「とにかくかなたん、そろそろ帰ろう。もう暗くなるよ」
肩の上で体勢を整えながらモエルが言う。確かにもう陽《ひ》はほとんど沈み、夜が訪れようとしている。だが、
「いや、これから行くところがある」
「こんな時間に? 買い物ならまた明日行けばいいよ。買い溜めしてる分がまだあるし」
「ううん。買い物じゃなくて……留真ちゃんの家」
「なおさらまた今度にしよう。むしろ一生行かなくていいと思う」
露骨に拒否反応を見せるモエルだったが、
「もう行くって決めてるから」
この一言で黙り込む。そして、溜息と一緒に呟いた。
「思いついたら即特攻。こなたん譲りだね、ほんとにさ」
「特攻させられるのはボクなんだけどね」
依お姉さんに聞き出した彼女の家の場所は、ここからそう遠くなかった。教えるときに妙に躊躇《ためら》っていたことと、教えてくれた後の「公園を見たらわかるから」という言葉が気になったが、とりあえずボクは歩き出す。
歩き出して数秒で「変身すればいいのに」とか言ってくれる肩乗り猫を落としたり投げ飛ばしたりすること数十分。
――たどり着いて間もなく、ボクは絶句させられる。
「ええと……」
「かなたん。住所間違えたんじゃない?」
「いや、そんなことは……」
公園の隅、隠れるようにひっそりと建てられたテントの前で立ち往生しているボクとモエル。
傍《はた》から見たらもの凄く怪しい光景だが、街外れにあるこの場所は、先にあるのが小高い山だけということもあって、人の姿がまったく見えない。
(……よくよく考えてみると、留真ちゃんと初めて出会ったのってこの山の上だったな)
そんなに時間が経《た》っていないはずなのに、その記憶は奥の方にまで仕舞われていた。ここ最近のできごとは内容が濃すぎて、頭の処理が追いついていないのかもしれない。
「……とりあえず……どうしよう?」
少し色の裾《あ》せた、赤色のテント。
「おいらに聞かれても……。とりあえず、呼んでみたら?」
さすがにモエルも引いている。
「それしかないよね……。じゃあ――る」
入り口の方へ向けて声を出そうとした、そのとき。
――顔を近づけた一瞬の隙《すき》を突いて。
入り口の隙間から伸びてきた手が、ボクの首を掴《つか》んだ。
「かなたん!?」
いきなり足場がぐらついて、モエルが振り落とされる。
ボクは首を掴まれたままテントの中に体を引きずり込まれると、振りほどこうとする前に首回りを腕で固められ、完全に動きを封じられてしまう。
鮮やかな手並みでそこまでの動作を行ったテント内の少女は、次に怖気《おじけ》を誘う冷たい声を放つ。
「動けば首を折ります」
……中学生の台詞じゃない。言いたいことを口に出せず黙っていると、詰問《きつもん》口調の声が続けて聞こえてきた。
「目的は何ですの!? 金品の類《たぐい》ならここにはないですの。まあどちらにしろ、私の家を狙った時点でタダでは――って、彼方さん?」
「くぉらグレ子っ――かなたんに何してくれてんのさ!」
中に入ってきたモエルが留真の手に噛《か》みついた。拘束が解け、なんとか呼吸を取り戻す。
「いたっイタタっ! モエルさんっ、もう離してますって――それに今は留真ですの!」
落ち着いて中を見回すと、テントの中はそこそこの広さがあった。さすがに二人もいると狭苦しくは感じるものの、身を縮めるほどではない。
「……留真ちゃん、まさか近づく人みんな締め上げてるの……?」
「! まさかっ! 表で人の気配がして、しかもなんか一人でぶつぶつ言ってたものですから……物盗りか何かかと」
いまだに食らい付いて離さないモエルをぶんぶんと振り回しながら、留真は否定する。
「それよりちょっ、彼方さん! 一人で冷静にしてないでコレ、外してくださいな!」
スッポンさながらに噛みついているモエルは、少しだけ楽しそうだ。しかしこれでは話が進まないので、仕方なく尻尾を掴む。
「はぅんっ?」
例の如《ごと》く、モエルは脱力して崩れ落ちる。これでしばらくの間は大人しくなっているだろう。
「そんなかなたん人の見てる前で」
とか言っているヤツは無視して、気を取り直し言葉を切り出す。
「いきなりお邪魔してごめんなさい。……ワイルドな家ですね」
噛まれた右腕をさすりながら、留真が迷惑そうな顔をした。
「幾瀬さんが教えたんですね。まったく、あの人は余計なことばかり……」
「あの花……」
「!」
花という言葉に反応する留真。構わずボクは、話を続ける。
「依さんの病室にあった花。……店で売ってるような形のいいものばかりじゃなかった。留真ちゃん、わざわざ探し回って集めたんだよね。……依さんのために」
その指摘に彼女は首が回転するくらいの勢いで顔を背けると、「それは……っ、見舞いに行くのに手ぶらでは失礼ですし」
頬を真っ赤に染めて、言い訳する。
「それでも、すごく綺麗だった。選んだ人の想いが伝わって来ましたよ」
「〜〜〜っ! だから違うって言ってるでしょう!」
素直に思ったことを伝えると、彼女は完全に後ろを向いてしまった。その背に、ショックから立ち直ったモエルが声を掛ける。
「だめだよグレ子。かなたんはこういうことに敏感だから、否定すればするほど真っ直ぐな言葉で返されるだけさ。……ったく、ほんと女ったらしなんだから」
「復活が早くなってきてるね……そろそろ別の手段を編み出さないと」
「ちょっとかなたん!? おいら今ちゃんと話に参加してたよね? え、なにその手に持ってる猫じゃらし? まさかおいらがそんなものに飛び付くとでもうにゃあああああっ!」
効果は抜群だ。
「……あなたたち、何しに来たんですの? からかいに来ただけなら、放り出しますよ」
しばらくモエルで遊んでいると、留真がジト目でこちらを見ていた。頬にはまだほんのりと赤みが残っていたが、なんとか気を落ち着けたらしい。
「あ、そうだった」
呼吸を置いてボクは、思いつきを口にする。
「――留真ちゃん。ボクに修行つけてくれないかな」
「えっ!?」「はあっ!?」
彼女の呆《ほう》けた顔と、モエルが飛び起きて見せた顔。どちらも、驚きに満ちていた。
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5.樋野留真《ひのるま》の理由
「もっと集中するですのっ!」
大きな声が木々を軋《きし》ませる。
「現実とイメージとの差異が大きければ大きいほど、魔法は不安定になっていきますの。
魔法を撃つ≠ニ思うのではなく、ただ手を伸ばす=Aそう意識するですの!」
魔法少女の衣装に身を包んだ少女は、鋭い顔立ちに似合った厳しい声音《こわね》でボクを導いてくれていた。
「それ、難しいです……」
額に流れる嫌な汗が、極度の緊張状態にあるボクを邪魔する。
「難しくてもやるんですっ!」
――ここは、留真と出会った森の中。
修行をつけてほしいとお願いしてから、もう一週間が経《た》とうとしていた。「どうせ断ったところで聞くつもりはないんでしょう」と言って思ったより簡単にボクの頼みを聞いてくれた彼女だが、その指導は予想を上回るスパルタ振りであった。
「ほら、軌跡《きせき》が揺らいでますの。もっと意識を集中して、でも自然体で!」
今は魔法を自然に撃つための訓練中である。まずは蒼《あお》の軌跡を調節して撃ち分けられるよう、射出前のラインを描いた段階で止め、そこから魔力を抑えていく、ということを繰り返している。
「あの、グレちゃん……集中しながら自然体って無茶」
「や・る・で・す・の!」
――なんとも厳しい先生である。
ちなみに、ボクが突然修行なんてことをお願いしたのにはちゃんとした理由がある。
まずは、依《より》お姉さんに代わってグレイスの様子を見に来ること。話によると彼女は、食事をまともに摂《と》らないことが多いらしい。だから、会いに行くときは必ず弁当を持っていったという。
というわけで、ボクも行くときは軽い弁当を作って行くようにしている。
最初のうちは「いらないですの!」なんて言っていた彼女だが、無理やり口の中に入れてあげるとちゃんと食べてくれた。
(……そのあと、修行が厳しくなった気がするけど)
次に、依お姉さんを襲った謎のノイズ。まったく正体がわからない以上、一人で戦うのは得策ではない。こうしてグレイスと一緒にいることで、共闘の態勢を作る。それが二つ目の狙い。
最後の理由は、そのまま自分の修行である。なんとか扱える魔法を増やしたい。
(ダメならせめて、蒼の軌跡の無茶な威力だけでも、抑えられるようにしておかないと)
ちなみにモエルは家で留守番中である。ふてくされている、というべきかもしれない。
学校の帰りに一緒に行こうと誘ったら、
『やだよ。おいらは家で留守番してるのさ。夫が不倫してるとわかっていながら家で待ち続ける薄幸の美人妻を演じるのさ――かなたんはおいらの体だけが目当てだったんだーっ!』
という明らかにメディアに毒された感じの叫びを残し、走り去ってしまつたのである。
(最近母様の漫画が出しっぱなしになってたり、覚えのないテレビドラマが録画されてたりするんだよね……。やっぱりモエルか。少し、控えさせないと)。
「! こらっ、気が散っているですの、またッ!」
グレイスの焦り混じりの怒鳴り声が鼓膜を揺らした。びっくりして、頭の中が真っ白になる。
「……あ」
制御を取り戻そうとするには遅かった。
蒼い光が世界に波紋を生む。ボク自身の手で生み出された不安定な魔力の形が――イメージという枠を失い暴発、魔力が飛礫《つぶて》となり、散弾のように周囲に撒《ま》き散らされる。
「まったく……っ!」
咄嗟《とつさ》にグレイスがボクの前に躍り出て、両手に生み出した数十枚のコインをばらまいた。
金貨一枚一枚が赤い光で結ばれ、薄い、半透明の膜を作り出す。
ボクとグレイスを守るように、ドーム状に張られた見た目通りのバリア――赤い障壁は、暴発した魔力の飛礫を受け、ビリビリと振動する。
「……く……ぅ……ッ!」
グレイスの顔が、苦渋に歪《ゆが》む。
「グレちゃん!」
手伝おうにも、いまだにボクは障壁すら扱えない。
放たれた力が止《や》む頃《ころ》にはグレイスは膝《ひざ》をつき、息を荒らげてしまっていた。
「グレちゃん、ごめんっ!」
暴走、飛散した魔力は、周囲に少なからず破壊の跡を残した。直撃した木は抉《えぐ》れ、地面には細かなクレーターを穿《うが》ち、生き物たちが一斉にその場から逃げ出し、森の中を一時騒然とさせた。
「はあ……、本当にへたっぴですの。威力は申し分ないのに」
溜息《ためいき》を吐《つ》きながら変身を解き、制服姿に戻った留真が手厳しく言う。
「大体、あなたはこの山を禿《は》げ山にするつもりですの? 特訓開始から毎度毎度このパターンなんですが。……せめて魔力全開で暴走させるのはやめてほしいですの」
額にうっすらと汗を滲《にじ》ませた留真がぼやく。
彼女がこうして呆《あき》れるのも無理はない。ここ数日、ボクの魔力の扱い方はほんの数ミリも上手《うま》くなっていない。というか、できることは相変わらず一つだけ。
――全魔力消費の一撃。
教える側にとっても、頭が痛いことだろう。
「ほんと、なんでこんなに融通が利《き》かないのかな……」
彼女を比較的|綺麗《きれい》な草場に座らせてボクもその隣に腰を下ろす。座った途端に、大きな溜息が口から漏れる。
「……誰でも――」
呼吸を整えながら、素っ気ない口調で彼女が何かを言ったが、よく聞こえなかった。
「?」
「〜ッ、誰でも最初は、こんなものです! 変な風に落ち込んだらもっと下手になりますわよ!」
なぜか怒られてしまう。でも、少し考えたらわかった。
(ああ……励ましてくれてたのか)
「ありがと、留真ちゃん」
彼女の目を見て、感謝の言葉を伝える。
「……モエルさんが心配する理由がわかったですの。こんな真っ直ぐな目で見られたら、誰だってイチコロですの」
すぐに目を逸《そ》らした留真は、後ろを向いてごにょごにょと何かを呟《つぶや》いている。
「? なんですか?」
次にこっちを向いたときの留真の視線は、なぜかモエルを連想させるものだった。
「とにかく、今日はここまでですね。というかこれまで一時間すら持ったことがないわけですけど」
苦笑しながら、なんとなく視線を辺りにさまよわせる。
やはりこの山には人の気配がない。だからこそ、人が残すゴミなどもほとんど散らかっていない。彼女の言っていた通り、本当に人が近寄らない場所のようだ。
少し奥へと進んだ場所に古ぼけた礼拝堂があったが、近づこうとしたところを留真に止められてしまった。
「…………」
周りを見るのを止めて隣に視線を戻すと、明らかにさっきまでの視線とは違う色めいた瞳が、ボクの方を向いていた。
「! ――みっ、見とれていたわけじゃありませんですの!」
ボクと目が合った途端、留真は慌てて顔を逸らす。
毎日見ていればすぐにわかるが、彼女は嘘《うそ》がつけない人だ。面白いくらい不器用で意地っ張り。それでいて抜けてるところもあって、戦っているときの雄々《おお》しい姿からは想像できないくらい、かわいらしい。
「構いませんよ。……珍しいですもんね」
自分の髪を一束手に取り、夕暮れの木洩《こも》れ日と重ね合わせる。透き通るような白が、赤く染まっていく。
「ち、違いますの! 珍しいとかじゃなくて――そ、そう! 綺麗な顔してて羨《うらや》ましい、とか……ってこれも違うっ」
「……ふふ」
一人であたふたしている彼女を見ていると、自然と笑いが込み上げてくる。
「そんな微笑《ほほえ》ましい顔をしないでほしいですの!」
「はいはい。……でも、ボクより留真ちゃんの方が綺麗だと思いますよ。髪だって、燃えるような夕陽《ゆうひ》の色。すごく、温かそうで……」
彼女はボクの言葉に少しだけ照れくさそうにして頬《ほお》を掻《か》くと、上目遣いで聞いてきた。
「――男の方、なんですよね?」
「まだ疑われてたのか……。え〜と、もう何度となく言ってると思いますけど、生物学的見地から見てもれっきとした男です」
「いえ、そういうわけではなくて。……そうすると、納得できるんですの」
「え?」
男である、ということで納得されるのは初めてだ。ボクが男だと明かすと、大抵の人はいきなり遠耳になるか、はなから信じないかのどちらかなのだ。
ボクはちょっとした期待を膨らませつつ、次の言葉を待った。が、少しの溜《た》めを作ってから放たれた言葉は、
「魔力の扱いが極端に下手なことですの」
という、容赦のない台詞《せりふ》だった。
がっかり半分、下手だと言われたことに対するショック半分、ボクの内心はボコボコである。
なんとか頭を切り換え、聞き返す。
「何が……納得できるんですか?」
留真はゆっくりと頷《うなず》き、語り始めた。
「――元来、魔力というのは女性に色濃く宿るもの。そう聞いたことがあります。
簡単な理屈としてはこうです。
男性には生まれながらにして女性を超える肉体的な体力≠ェある。
だからこそ力的にどうしても劣ってしまう女性には魔力≠ェある。
つまり、生まれながらに女性は、魔力の扱いに関しての素養を持っている、と」
「じゃ、じゃあっ、ボクが魔法の使い方が下手なのは……」
「もしかしたら、ですの。推測ですが、そういう部分もあるのではないかと。なにしろ、男性が魔法少女なんて前例のないことですし……」
留真はそうと決まったわけではない、と付け足すが、目の前に原因でありそうな理由をちらつかせられると、それが絶対であるかのように思えてしまう。
よくよく考えれば、男が魔法少女、という時点でおかしいのだ。古くから存在していたシステムに、いきなりボクのような異分子が割り込んだのだ。すべてが上手くいくはずなど、ないのではないだろうか。
「母様やモエルはそれをわかってて、ボクを……?」
――考え込む彼方《かなた》を見つめながら、留真は両手で握り拳を作る。
(彼方さんの潜在魔力は恐らく、私を軽く超えている)
小さな拳に力が込められる。そうでもしなければ、震《ふる》えが隠せそうになかった。
(イメージ構築すらされてない魔力放射で、あの威力――)
彼方の魔力を障壁で受け止めたときに感じた圧倒的な力、そして恐怖。
(男でありながら、女としての魅力を併せ持つ魔法少女)
矛盾の塊《かたまり》のような、銀髪の少年。
「ではもし、彼方さんが女性だったなら――。
あの膨大な魔力を、コントロールできていたなら……どうなって、いたんですの……?」
留真の呟きは落ちる夕陽と共に、答えなく沈んでゆく。
陽が完全に沈むと、今度は暗闇が顔を出す。それはどんな場所にでも平等に訪れる、自然の摂理である。……しかし、時代が進むにつれ街|灯《あか》りが増えてゆき、本当の暗闇というものは少なくなってきていた。
そんな中――時代に取り残された、闇を有する場所≠ェあった。
夜の空に突き刺さる、円柱のシルエット。廃棄工事区と呼ばれるこの場所で最も異彩を放つショッピングモール。塔のようなその建物は天井がガラス窓となっているため、月の光を建物の内部まで行き渡らせることができる。
そして――黄金色の光の下に、それはいた。
『…………』
人の形をした黒い影。
ノイズ。世界の敵とされるもの。
真っ黒な体が光に照らされ浮かび上がり、一対の白い双眸《そうぼう》は空を望んでいた。
それはこの打ち棄《す》てられた空箱の中にふさわしく、静かに佇《たたず》んでいる。
それが生まれてきた理由は何だったのか。
ノイズを生み出すのが思いだというのなら、どんな思いが、それを生み出してしまったのか。
黒い影はガラス越しの夜空を見上げている。
感情など読み取れはしない。
しかし、延々と続く無言の中には、小さな感情の揺らぎがあるようにも思えた。
『…………』
ひとしきり空を眺めた後、顔は正面を向く。
視線の先には――もう一つの人影があった。
この場所にそぐわない、命を感じさせる人の姿。月明かりから逃れるように影の中に立つ少女。
人間と、ノイズ。
雲が月光を遮《さえぎ》った次の瞬間に、それらはもう、その場から消えている――。
修行を始めてから、二週目に入った頃。
「でよ、そこでまた破れた衣装が――、おおい彼方どうした? ボーッとして」
どんなことがあっても日常は止まらないのだと実感している。
起きて学校へ行き、終わってからは魔法の修行、ノイズが出ればそのたびに現地へ向かい退治する。しかも最近はグレちゃんが無理をしないよう、二人がかりでノイズと戦っている。
とは言っても毎回訓練で魔力を使い果たすボクは、ほとんど役に立てず、いつもグレイス一人で倒してしまうのだが、
(必要ないですの! ……って、何回言われたことやら)
そんな過密な生活を続けているためか、朝から夕方にかけてはどうにも体が休息を求めてしまう。授業中に寝る時間は変わらず、むしろ増えてしまっていた。
「おーい、彼方ー?」
「…………」
依お姉さんは今も変わらず、病院で退屈そうに過ごしている。働いている彼女としては「降って湧《わ》いた休日だよ」なんて言っておどけてみせてはいたが、やっぱりいきなり環境を変えられてしまうのは辛《つら》いだろうと思う。
「なんか毎回スルーされるよな俺《おれ》……しかぁし! 今日の俺には秘策があるんだぜ!」
ここ数日の間に、ボクの心にはわずかな変化が訪れたように思う。
体が動かなくなるまで戦おうとしたグレイスや、傷ついてもなお、彼女を守るために戦った依お姉さん。
ノイズを倒すことに自身を捧げている二人を見てから、心のどこかが、ざわめいていた。
「彼方ー、これ以上無視するようならこの写真をお前のファンクラブに売り込むぞ!」
円形のステージの上にワイシャツとミニスカート、手にはマイクを握った人物。一見すると歌手のコンサート、そんな光景が、いきなり目に飛び込んできた。
「!? コレは……? なんで!?」
目の前にちらつかせられた写真に光の速さで手を伸ばすと、それを上回る回避力をもって写真は後退した。
「気づいてるじゃないか」
さっきから隣にいたっぽい丈《じょう》が、呆《あき》れたような表情でこちらを見ていた。どうやら考え事をしている間、ずっと彼を無視していたようだ。
だが今はそんなことはどうでもいい。机を蹴倒しかねない勢いで立ち上がり、ボクはひょいひょいと逃げ回る写真に手を伸ばす。丈はこちらの動きを完全に見切っているのか、上手い具合に手から逃れてゆく。
「どうしてこの写真を! どこで!」
クラスメイトたちの『ああ、またいつものか』的な視線に晒《さら》されながら、ボクは丈の握った写真を奪うために手を伸ばし続けた。しかし悲しいかな身長差、ボクと彼の間には決定的な体躯《たいく》の差がある。ぴょんぴょん跳《と》びはねても、届かない。
「この写真か。これはな、先日偶然俺が見に行っていたコスプレショーに出ていた、とある優勝者の写真なんだが……どうした彼方。頭を抱えて」
(あの場所にいたのかこの男……ッ)
頭を抱えたくもなるというものだ。あれはボクの記憶の中でも黒歴史認定、記憶の中から早急に始末され、抹消されなくてはならない思い出なのだ。
それなのにあろうことか、写真を残されてしまっているなんて……。
「本当に、見れば見るほど彼方にそっくりだな。どうもエントリーネームもお前と同姓同名のようだったし。でもまさか、お前が都合良くこんな遊園地にいるわけはないしな」
しめた。
「そっ、そうですよ……。ボクがそんな遊園地で女装して歌ってるなんてあるわけないじゃないですか。やだなあ丈君は。あはははははは」
「ふむ。やはりそうだよな。いるもんなんだな、同姓同名で外見まで似ている人間が。それはともかく彼方、俺の腕を握りつぶそうとするのはやめてくれないか」
ぎりぎりと彼の右腕を掴《つか》んだ手に力を込めながら、ボクは極《きわ》めて冷静に言葉を選ぶ。
ここからは知恵と知略の駆け引きだ。
優れた計略を用い、この写真を奪取しなくてはならない。
まずは軽く、
「写真を寄越せ、でなきゃ折る」
「おぉいっ! いきなり実力行使か!?」
叫び逃れようとする彼の腕をがっちりと掴んだまま、
「違う、取引だよ。ただし断った瞬間丈君の腕はいたたまれない状態になる」
口調を抑えて、相手にボクの誠意を伝える。言葉だけじゃ足りないかもしれないので、とりあえず彼の右腕を組み伏せて力の具合を調整しておくことにする。
「くっ、武力による脅迫に俺は屈しない! 力で人の心を折ることは不可能だと知れ! どわイタタタタタタタタタやめろ彼方、肘《ひじ》は三百六十度回転しない! しないんだ!」
「ボクはこの世界に不可能なんて存在しないと思う。
――わずか一秒の間にも、可能性は無限に生まれてると思うんだ。いいよね可能性。言葉の響きが」
「いいセリフだが場面と合っていない! 言葉の響きだけで適当なこと言われても! そもそも俺の腕が回転する可能性なんぞいらないと思うんだがっ!」
写真を握る手の力が、緩《ゆる》み始めた。
「よし、もう少しで折れっ、じゃなかった取れる!」
そう叫んだ瞬間、何者かがひょい、と彼の手から写真を取り上げた。
「わあ、こないだの白姫君だ。よく撮れてるね。明日野《あすの》君、これ焼き増しできるかな?」
ほわほわとした爆弾が、すべての努力を灰儘《かいじん》に。
「…………」
「…………」
いつの間にか横にいた委員長は悪気なんてまったくない顔で、完全に沈黙したボクと、組み伏された丈とを、交互に見るのだった。
――各方面に多大な誤解を与えたまま、放課後を迎えた。
「彼方ー、帰ろうぜ」
いつものように丈が誘いに来た。登校時と同様、帰宅時にも彼はずるずるとボクの足を止めにかかるわけなのだが、ここのところその妨害は受けていない。なぜなら、
「あー、すみません丈君、このあと用があって……」
鞄《かばん》に教科書を詰め込みながら、ボクは彼の誘いをやんわりと断った。
「なに? またかよ。……なんだ、最近用が多いな。もしかして彼氏でもできたのか?」
至極《しごく》真面目《まじめ》な顔をしてそんなことを言ってくるのは彼くらいなものだ。だからボクは、
「そのセリフ本気で言ってるんだったら、へし折っちゃいますよ?」
冗談には冗談で返す。とてもフレンドリーなやりとりだ。
「待ってくれ彼方、なんか気がついたら俺の足がクラッチされてるんだが……」
「うわあ白姫君、凄《すご》い通な技かけてるね……テキサスクローバーホールド?」
通りがかった委員長が、さらりとその技名を当ててみせる。
「いいんちょ、博識ですね。前に母様にかけられたのを試してみたんですけど、意外とあっさり折れそうですよ。色々と」
「……折らないでくれ」
呻《うめ》くので精一杯の丈は、息も絶え絶えに見えないロープを探している。
「でも白姫君、最近帰るの早いよね」
「そうなんだよ委員長。だから俺は、彼方に彼氏でもできたんじゃゴファアッ!」
まだ言うか、という思いを込めてボクは、体勢を逆エビ固めへと移行する。伸ばしていた手がぱたん、と床に落ちる。
「ええーーーっ!? 白姫君に彼氏……でも私、女の子なのに……?」
かわいく小首を傾《かし》げ、彼女は言った。
「いいんちょまで妙な乗り方をしないでくださいッ!」
「ふふー。冗談だよ」
「ふふーって、そんなうさんくさい笑い方する人初めて見ましたよ……」
久し振りの収拾がつかないやりとりに、ボクは大きく息を吐く。
(久し振り?)
そしてふと、気がついた。
(ああ、そっか……)
体が、段々と比率を増してゆく非日常に慣れ始めてしまっている。
魔法少女という役割、ノイズとの戦い。いつの間にかそれらを日常≠セと認識している自分がいる。
(ダメだな、ボクは)
心の底からそう思った。この数日の間、昔からの友人である丈や、いつも良くしてくれる委員長を蔑《ないがし》ろにしていたのだ。しかもそれを忙しいから、なんて理由で正当化しようとしていた。
「正義の味方だからって日常を蔑ろにしていいわけじゃない、か……。モエルの言った通りだよね、ほんとに……」
前に屋上で言われた言葉を聞き流してしまっていた自分に呆れてしまう。
「丈君」
「なんだ彼方。俺の足ならもうすぐ限界だぞ」
限界を超えて逆に冷静になるという境地に達してしまった彼に、小さく告げる。
「……今日は、一緒に帰りましょうか」
技から解放すると、彼はよろよろと立ち上がって長い前髪を一度かき上げ、
「……おうっ」
気持ちの良い声で、答えてくれた。
「私もご一緒していい?」
流れを見守っていた委員長が、変わらぬ笑顔で入ってくる。
「それじゃ、三人で帰りましょうか」
友人たちに微笑み返す。
(少し修行に遅れちゃうけど……グレちゃん、謝ったら許してくれるかな……)
一抹の不安を覚えながらも、ボクはのんびりと他愛《たわい》のない時間を噛《か》みしめる。
陽はほとんど沈み、空は夜のヴェールを纏《まと》おうとしている。街の灯りがぽつぽつと増え、風も冷たくなってきた。
特訓からの帰り道、変身しているというのに体が重い。
「う〜。グレちゃんたら、ほんと厳しいんだから……」
修行に遅刻したことを彼女は、別段怒っていないように見えた。しかし、遅れたことを平謝りするボクに向かって、グレイスはにこやかに言い放った。
『……今日は実戦訓練ですの♪』
それから鬼のようなコインの集中砲火に晒され、身も心もボロボロにされたあげく、魔力を使うことなく訓練が終わってしまった。
「あれ、本気だったよね……」
体をかすめるコインの迫力を思い出し、背筋が震える。
(……一人で待ってるの、寂しかったのかな)
頭の中をそんな考えがよぎるが、もし彼女にそんなことを言ってしまったら、コインの山に埋められてしまいそうだ。
でも多分、その考えは当たっているだろう。いつも一人で平気そうにしているけれど、無理をしているのは見ていればわかる。
(依さんが心配するのもわかるよ……)
冷えきった夜風を体に受けながら、街の上空を駆けていると。
ザ――。
「! ノイズ……?」
走っている最中に、小さな騒音が聞こえた。それは意識を集中させなければ感じ取ることができないほど小さなものだったが、ただの耳鳴りでないことはハッキリとわかる。反応はすぐに消えてしまったが、気のせいだと放っておくわけにもいかない。
現在地は、街中と言うには微妙に外れた場所。近くに住宅街があるわけでもなく、ここいらにあるのは建築途中で取りやめになってしまった建物ばかり。工事しようとすると妙な事故が多発する、そんな三流のホラー番組で取り上げられそうな設定が、この場所にはよく似合っていた。
(なんか変な名前が付けられてたような……)
ザ――。
「! また……」
さっきとほとんど同じ、短い単発のノイズ。
今ので音の発生点はわかった。……というよりもなぜかその音は、自分のいる場所をわざと明かしているような、そんな感じがした。
ボクは空から、その広大な敷地の中へと降り立つ。
中央には巨大な建物。空から見たら八角形をしているらしいこの建物は、真下から見上げると、空を突き刺そうとする塔のように見える。各階層に付けられたたくさんの透明なガラス窓がこの建物の透明さを表しており、中に入る人の閉鎖感を取り払うようにできているようだ。
外のガラス窓から中を覗《のぞ》いてみるが、暗くてよく見通せない。
てまた、単音のノイズが聞こえた。
「――……」
それが聞こえたとき、体は勝手に動き出していた。
朽ち果てた塔の内部へと――誘われるかのように。
「遅いっ!」
モエルは怒鳴り、手で食卓のテーブルを思いきり叩《たた》いた。その後にフィードバックしてくる手の痺《しび》れに、金色の猫はうずくまる。
「一体何をやってるんだかなたんは……! もしかして、あの女にそそのかされてるんじゃっ!?」
モエルの脳内に次々と展開されてゆくありがち≠ネビジョン。
「……そんで、手と手が触れ合ったりしてそのままその手はかなたんの下腹部へ……」
明らかに展開が加速しすぎであることにも気づかず、脳内イメージはモエルが想像する最悪な状態にまでたどり着いてしまった。
「そんなこと……っ! ヤらせるかぁッ!」
モエルが勢いよく立ち上がり駆け出そうとしたそのとき、電話のベルが鳴った。
無視して家から出るべきか、少し逡巡《しゅんじゅん》しつつもモエルは冷静に心を落ち着ける。
(この電話がかなたんからかもしれないし……)
『絶対に電話には出ないでよ! いいね!?』
と、先日も彼方に散々念を押されているため、彼方から電話がかかってくるかどうかはさておき、
「――もしもし」
モエルはいとも簡単に約束をスルーし、受話器の置いてある台の上にのぼり、電話機に点滅している手放し通話のボタンを押した。
『もしもし』
聞こえてきた声はモエルにとっては予想外で、しかも、今最も聞きたくない声だった。
「…………」
『もしもしっ? 彼方さんですのっ?』
「……グレ子。なんでキミが」
険悪な態度を隠しもしないように、ぶっきらぼうな声を放つ。
『……! その声は、モエルさん?』
「ああそうだよ。かなたんのベストパートナーこと」
『そんなことはどうでもいいですのっ! 十円しか入れてないんですから手短に話すですの!』
「人の話を途中で切るなっ!」
モエルは完全に臨戦態勢、喧嘩腰《けんかごし》になっている。受話器に向かって猫が叫ぶ光景は、なかなかにシュールである。
『それより、彼方さんはっ?』
「まさか眠れないからかなたんの声が聞きたいとかそういう類《たぐい》の電話? 切るよ?」
『違いますっ! 何をすっとぼけたことを言ってるんですか、感じてないんですの?』
そこでようやく、電話越しの留真の声がどこか、焦りを含んだものであることに気がついた。
『この妙な魔力を』
「……!?」
『街全体を覆うくらいの巨大な魔力ですの! ノイズではないみたいですが、だとしたら、誰がこんな魔法を!」
「――そこにかなたんはいないんだね?」
『ええ。一時間くらい前に別れましたの。帰る途中、彼方さんの魔力の反応が掻き消えたので、気になって電話したんですけど――って聞いてますの?』
それを確認したモエルは、言葉の途中で黙って電話台から飛び降りた。
そして、弾《はじ》けるように飛び出す。
『ちょっと、モエルさん!? モエルさ――』
受話器の向こうから聞こえてくる声もまた、ブツ、という音と共に、途切れてしまった。
――このとき、予兆は兆し≠フ枠を超え、動き始めていた。
「なんなんだ……この空気」
引き込まれるように中に入ってしまったが、入ってすぐに後悔が襲ってくる。
――空気が重い。
一歩足を進めるごとに肺に淀《よど》んだ空気が入ってくる、とでも言えばいいのか、とにかく、息をすることさえも不快に感じる、そんな雰囲気。
「変なガスとか出てないだろうね……」
独り言が反響して聞こえる。
一階から上を見上げれば、天井までが丸見えだ。ガラス張りの天井に、金色の円が写り込んでいる。
「月が……捕らえられてるみたい」
自分でも意識しないうちに、発想がマイナスの方向へ向かっている。この建物の中はどうも気分が乱されてしまう。がらんとしたこの雰囲気が、何かを訴えかけてくるようだ。
「それにしても本当に何もないな。柱ばっかり」
軽く柱を叩いてみると、硬い感触だけが手に返ってくる。
「先進的って言うのかな。こんな建物、見たことないや」
どんな仕組みで建っているのかわからないが、この建物を支えているのはこの柱だけらしい。
上の階層までずっと、合計八本の柱が支えているのみ。つまりこの柱がすべて倒れたら……。
嫌な考えが頭をよぎるが、そんなことはまずありえないだろう。
足下をしっかりと確かめながら、ゆっくりと歩を進める。
「あぁもう、いるならさっさと出てきてほしいよ」
感じていることがつい独り言として口から出てしまう。
「それに……体がなんか重いし」
廃墟《はいきょ》という場所から来る本能的な恐れ、その精神的なプレッシャーだと思っていたが、それとはまた少し違う。この空気は本当に体の自由を奪っている。変身した状態だからこそ感じ取れる、些細《ささい》なものではあるのだが。
「もしかしてこれ……」
顔を上げた先にあるのは金色のフロア。
降り注ぐ月光の帯が、空気中の微細な塵《ちり》を照らし出す。
棄てられた場所に救いのように存在する、幻想の領域。
不可侵と思えた月のステージに――、
――闇が、差す。
「!」
ぞくん、と背筋に走る寒気、それを感じたときには、両腕を胸の前で交差させ、防御の体勢を作っていた。刹那《せつな》、壮絶な手応《てごた》えが音もなく体を打った。
自分の意思とは関係なく体が宙に浮き、後ろに吹っ飛ばされる。意識だけがその場に取り残されるような錯覚《さっかく》を覚える。
「ぐぅッ!」
そんな悠長《ゆうちょう》な錯覚をねじ伏せるように背後の壁に衝突、息が止まりそうになる。すぐに呼吸を取り戻すが、今度はいきなり体内に入ってきた空気に体が悲鳴を上げた。
体の感覚が取り戻せず、そのまま床にずるずると崩れ落ちる。
(なんだ……何が……?)
衝突の痛みを堪《こら》え、とにかく立ち上がる。
腕に残る鈍い痛み。なにか、とてつもなく重たい何かがぶつかってきたようだ。
(影みたいなのが見えた……けど、ノイズは聞こえてない)
次の攻撃を警戒しながら、状況を整理する。
まず、入ったときから感じていた重い空気。落ち着いて、意識を研《と》ぎ澄ませるとわかる。これは微細な魔力だ。そしてこの魔力には色≠ェある。といっても目に見えるものではなく、漠然とした……意識の色、とでも言うべきだろうか。
ボクが青、グレちゃんが赤だとするなら、この感覚は――黒。
「いや……」
限りなく黒に近い、濁色《だくしょく》。様々な色が混ざり合って濃度を増し、結果的にそれが黒に近い色になった……曖昧《あいまい》な感覚ではあるが、そんな気がする。そしてこの空気は、恐らくこの周辺一帯に張り巡らされている。
ザ――。
「!」
ノイズが聞こえた瞬間、オーヴァゼアをその方向に構える。しかしそこにいたのは、拍子抜けするほど小さな――。
「……なり損ない、って奴《やつ》?」
ここ最近になってよく見る、不定形の影が、宙に浮いていた。
(さっきのを、コイツが……?)
先ほどの攻撃の鋭さと、目の前に浮かんでいる存在。どうにも結びつかないものを感じたが、とにかくオリジンキーを構え、ノイズに向けて攻撃を仕掛ける。
「たぁっ!」
――ヴンッ!
跳躍《ちょうやく》して放った一振りがむなしく空中を薙《な》いだ。こちらの攻撃が当たる瞬間、相手の水袋のような体が器用に空中を滑り、杖《つえ》の軌道から逃れたのだ。
……今までのノイズとは違い、動きに柔軟性がある。
攻撃を外してしまったボクは、杖を振り切った状態で完全に無防備となっていた。
攻撃を仕掛けられた敵の体に、変化が起きる。
「!?」
サイズの小さなノイズから無数の触手が生えた。その量は明らかに本体の質量を超えている。続いてその内の一本があっという間に太股《ふともも》に絡みついてきた。妙にスベスベした触感に、えもいわれぬ嫌悪感を感じる。
「っ!」
巻き付いた触手が圧力を加えてきた。体勢を立て直すこともできず、そのまま逆さに吊《つる》されてしまう。
「うわわっ!」
敵に捕らえられた状況というのも非常に危険なのだが、ボクの身にもう一つ、最大級の危険が降りかかっていた。
「スカートが――」
ボクはめくれ上がったスカートを左手で押さえながら、
「めくれるだろっ!」
オーヴァゼアをノイズの本体に向かって投げ放つ。モエルがいたらまた怒鳴られていただろうが、この状況では仕方がない。
投げた杖が真っ直ぐに本体を射抜くと、触手の束縛が一時的に緩んだ。すかさず触手を振り払い、投げた杖を急いで取りに行く。
その間に黒い水袋は、水たまりのような形に戻ってゆく。
「これも……ノイズなのか……?」
『――相違ない』
「!?」
声がした。
聞いたことのないその声は、この建物の中でまったく反響というものをしていなかった。
『何を探す?』
声量が小さいわけでもないのにまったく反響せず、不気味なほどにはっきりと聞き取れる。
高くも低くもない、中途半端な声だ。短い言葉しか放っていないためか、どうにも印象が掴みづらい。
「誰だっ?」
声から方向が掴めない。まるで脳に直接声が響いているような感覚。
『いま言ったはずだ』
「…………」
もう、有り得る可能性は一つしかない。
この声の主は、目の前に存在している――ノイズ。
「口もないのに喋《しゃべ》るなんて非常識な……」
独り言のつもりだったが、ソイツは言葉を返してきた。
『魔力振動に人間の言語を乗せているだけだ』
黒い影はこちらの言葉に応答してくる。言葉を完全に理解しているらしい。
(テレパシーってやつ? 便利だね……でも言葉が通じるってことは……意思が、ある?)
はじめにモエルから説明を受けたとき、ノイズというのは意思がなく、ただ本能に基づいて動く獣のようなものだと教えられた。今まで見てきたノイズは確かにそんな感じだったが、どうやら目の前にいるコイツは例外であるらしい。
「ええっと、あなたは……ノイズなんですよね?」
『そうらしい』
「…………」
長い言葉を期待していたわけじゃないが、あまりにも話が続かない。
(どうしろと?)
自分でノイズと名乗っている以上間違いはないのだろうが、初めての状況であるため、どうしたらいいかわからない。このまま倒してしまう、というのも後味が悪い。
世界の敵≠セなんて教えられてはいるが、言葉が通じる相手であれば、なんとかしようもあるのではないだろうか。危害を加えないように頼む、とか。
「あ、あの……」
『――面倒だな』
影は初めて言葉の中に感情を表すと同時に、いきなりその定形のない体から一斉に触手を伸ばしてきた。
(……まるで無視かっ!)
前方から弧を描き、高速で追りくる触手の束。支柱の後ろに隠れてやりすごそうとするが、触手は柱を迂回《うかい》してこちらを襲ってきた。
「襲ってくるっていうんなら――」
オーヴァゼアを上段に振り上げ、
「こっちもそれなりの対応をさせてもらうよっ!」
向かってくる触手を、斬《き》り落とす。切り離された触手は地面につくことなく、闇に溶けて消えた。見たところ相手にダメージはないらしく、平然と本数を増やし、ただ黙々とこちらに仕掛けてくる。
将《らち》があかないので、こちらから前に出る。矢継ぎ早に繰り出される敵の攻撃を防ぎ、叩き斬りながら力任せに前進、強引に距離を縮め、口を開く。
「五日前、依さんを襲ったのはお前か?」
『鎖使いの女か』
淡々と、短く、感慨のない返事。それだけで答えはわかった。
「どうして人を襲うんだっ!」
最も得意とする間合いから、オーヴァゼアを縦一文字に振り下ろす。
『どうして』
ノイズはオウム返しに言葉を繰り返すと、滑らかな動きで杖の走る軌道から逃れる。
――攻撃が当たらない。水面に浮かんだ花びらのように、掴もうとした瞬間にはすり抜けられている。
だが、敵は接近されても距離を離そうとしない。それどころか、その場から動こうとすらしない。畳み掛ける絶好のチャンスなのだが……無駄だろう。相手に絶対の自信がなければ、戦闘中に動きを止めたりするわけがない。現に今、攻撃のほとんどは回避され続けている。
何秒だろうか。もしかしたら数分は経ったかもしれない。
影は、ようやくその答えを出した。
『特にない』
「な……?」
影はそれだけ伝えると、重々しいプレッシャーを放ちながら、ゆっくりと下がり始めた。
「理由もなく、依さんを襲ったって言うのか……?」
『そういうことになるか』
ドクン、と心蔵が弾む。体に冷たい水を流し込まれたように、心が冷えていくのがわかる。
「気紛《きまぐ》れで人を傷つけられるのか」
今度は相手も考えなかった。たった一言で、決定的な答えを出す。
『――そうだ』
今までの曖昧な返答とは違う、迷いのない肯定。
ボクは数歩分後ろに飛び退《の》き、攻撃態勢を解く。
『…………』
「決めた」
数秒の間、目を閉じる。
「倒すよ。あなたを」
次に瞳に映すとき、目の前にいるソイツは、敵≠セ。絶対に倒さなくてはならない、この世を乱す騒音だ。
『空気が変わったな……心地良い』
相手の言葉の途中で、ボクはもう加速の中にいた。
瞬間的に後ろに回り込むと、横薙ぎに杖を振る。
『無駄だ』
「親切にどうもっ」
杖を振った遠心力を利用して回転し、蹴りを放つ。
『グッ!?』
元に戻しかけていた体に回し蹴りを受け、苦悶《くもん》の声を上げるノイズ。
「警戒するのはやめた。こっからは自分なりに戦わせてもらうよ」
歪んだ体は、みるみるうちに元に戻ってしまう。
『油断していたな』
「……ずっと油断してればいいのに」
淡々と自分の失敗を認める影にブーイングを飛ばしてみたものの、さらりと無視され、ぐにょぐにょのノイズは突然、自分の体を小さく圧縮し始めた。
限界まで収縮した黒い塊が完成すると、そこから更に姿が変わり始める。
影は、見たことのある形へと徐々に変貌《へんぼう》してゆく――。
『これなら、もっと楽しめるか』
――最終的に影は、一頭一胴二手二足、つまり、人間の姿へと変わった。
あくまでも全身は真っ黒だが、その眼《め》に当たる場所には白い光がついている。
指一本一本の感覚を確かめるように握り拳を作っていく影。両手の感覚を確かめた後に、は傍《かたわ》らに立つ支柱を叩いた。
ゴガンッ!
いともたやすく柱が砕け、瓦礫《がれき》が弾け飛ぶ。
『調律師よ、名は?』
白い眼を向けられ、その視線を真っ向から見返しながら名乗る。
「彼方。……白姫、彼方」
調律師と呼ばれたことに多少の抵抗はあったが、否定はしなかった。
『カナタか。――私は』
(? 見失っ……)
気づいた瞬間、背後に気配が生まれる。同時に、はっきりと聞き取れた。
時が止まったかのような空白の一瞬が生まれ、声だけが脳に情報として刻まれる。
「ディスコードエフェクト=v
挨拶《あいさつ》代わりの一撃が、体を打った。
彼方が未知の相手と戦闘を始めた頃、グレイスもまた動き出していた。
「あの猫ったら、人の話も聞かずに……!」
十円分の役目を果たした公衆電話から出る。
「…………」
先の電話でわかったのは、彼方がまだ家には戻っていないということだけ。
帰る途中で魔力の反応が消えたのは、てっきり変身を解いたからだと思っていたのだが……帰ってきてないとなると、話が変わってくる。
「魔力が消えたのは工事区の辺り……依さんが倒れていた場所に近い」
今もひしひしと感じているこの魔力。明確なイメージの掴めない、茫洋《ぼうよう》とした印象を受ける。
こんな曖昧な魔力を使うチューナーを彼女は知らない。
そもそも、チューナーがノイズの存在なしに魔法を使うことなどあるはずがない。
胸元のコインに手を掛け、グレイスは空を見る。
「――胸騒ぎがする」
まずは現地へ向かおうと、少女が意識を切り替えた、その瞬間。
ザザザザザッ!
「こんなときにノイズですの!? しかも――」
グレイスの胸中を掻き乱す、騒音。
「大きい……っ!」
全身が総毛立ち、危険を訴えている。
(これほどの大物、年に一度来るか来ないか……)
巨大なノイズの反応を感じ、彼女は何かに迷う素振りを見せた。だがそれも一瞬のことで、すぐに表情を引き締め、駆け出す。
得体のしれない魔力と大きなノイズ、同時に起きた二つの事象。そして、ここ最近急増しているノイズの発生。何もかもが繋《つな》がっているような気がしてならない。
何かが、起きようとしている。
漠然とした予感でしかない、だが、人よりも多く戦いの経験を積んできた彼女の予感が、そう囁《ささや》いていた。
(とりあえず、このノイズを先に片付けないと……)
彼方のことは気にかかったが、出現したノイズの気配は放置できるものではない。
「面倒なことにならなければいいのですけれど――」
――妙な意地を張って戦うのは、やめるんだ。いつか大怪我《おおけが》するよ。
モエルに言われた言葉が、こんなときに限って思い浮かんでくる。まるで、本当にそうなってしまうかのようなタイミングの悪さ。
しかし、そんな予感|如《ごと》きでグレイスは立ち止まらない。
「意地なんかじゃ、ない……」
口から出た言葉は、彼女にしては珍しい、迷いを含んだものだった――。
「あぐッ!?」
軽々と、重力の縛りなどほとんど受けずに吹き飛ぶ。
そのまま、またしても壁に衝突した。叩きつけられた壁に亀裂が入る。
「ディスコード、だって……?」
どこかで聞いたことのある単語だった。
たしか、音楽の授業で英語かぶれな教師が使っていた気がする。
その意味は――。
『意思なき騒音とは違う――意思在る不協和音=x
エフェクトと名乗ったソイツは、トーンの上下しない声で言う。
これまで戦ってきたノイズはまさしく野生動物で、一つ一つの行動が荒々しい存在だった。
しかし、意思を持つというコイツは――まったく別のシロモノだ。
(厄介だけど……でも決めたんだ。倒すって!)
一度決意したことは、どんなことがあっても貫く。
『立っているだけで良いのか』
視界からまたしてもエフェクトが消えた。
(視線は外してないのに、何で……!)
気配が生まれるのと攻撃は同時。左後方からのストレートを辛うじて、左腕でブロックする。
受けた腕に衝撃が通り、踏ん張っていた足にまで響いてくる。
『反射は良い』
こちらを値踏み、品定めするような物言い。いや、恐らくはその通りだろう。
振り向いたときにはまた姿を消し、こちらの死角へと移動している。
「……スピードの問題じゃない……!」
段々とベースを早くしてくる攻撃をなんとか気配だけで感知し、ぎりぎりの線で防御し続ける。攻撃を受けるたびに頭の芯が揺れるが、直撃よりはマシだ。
『前の調律師より身体能力が高いか』
「っ……!」
攻撃のチャンスは一向に巡ってこない。反撃しようとすれば、即座に一撃を見舞われてしまう。しかし相手の消える瞬間を何度か見ていくうちに、どうして相手の動きが捉《とら》えられないのか、何となく掴めてきた。
『しかし、体の線が細いな』
その言葉にはむかっと来たが、そんなことを考えている暇はない。
相手の攻撃に耐えながら、消える瞬間をもう一度見る。
(やっぱり……っ!)
――移動する際に起きるはずの予備動作が、ない。
人間で言えば、動くときの呼吸の変化、筋肉の動き、視線の推移。
黒一色のシルエットからは、それがまったく読み取れないのだ。
直立の体勢からいきなり、真横にスライドする。そんなでたらめな動きは頭の中で予測できない。ふわふわと浮いている風船が突然高速で水平移動するようなものだ。意識して処理しようとしても、一瞬の迷いが生まれる。
おまけにこの暗闇。
黒一色であるために姿が同化し、位置の把握すら困難になっている。
『では、少し速めるぞ』
今はまだ、相手が本気で倒しにかかってきていない、だがこちらから攻めようがなく、防戦一方のこの状況。嫌な考えしか頭に浮かんでこない。
オーヴァゼアで顔面を狙ってきた手刀を受け流す。だが反応に遅れが生じ、手刀は軽く頬を擦った。灼《や》ける痛みが顔に伝わる。
(くそ、ダメだ、負けることなんて考えるな!)
気持ちで負ければ、勝ちを掴むことなどできはしない。母からの受け売りだが、ボクの中に根付いている、一つの信念だ。
(気持ちを奮わせろ――どんなことでもいい、心を強く持て――)
だが――奮い立つ心を、衝撃が砕く。
『この辺りが限界のようだな』
完全に追いつけなかった。真正面に現れたエフェクトの拳が、腹部に突き刺さっている。
……敵の言う通りだった。自分自身が一番よくわかっている。己の限界というものを。
『では……』
敵の姿が再度、闇に融《と》ける。
意識が朦朧としていた。気配の生まれた場所すらも、感じ取れない。……ただ、攻撃が迫ってきていることだけはわかる。
『別れだな』
最後の瞬間まで端的な、エフェクトの言葉。
(最期に聞くには、味気ない――)
『少女よ』
味気ない最期の言葉は心に深く刻み込まれた。
そりゃあもう、かなり深い場所に。
「……少女、だと?」
そのときボクは、自分の体がどんな動きをしたのかわかっていなかった。
心の中にあったのは――ぶっ飛ばす。たったそれだけの、シンプルな、思い。
『ぬおっ!?』
というエフェクトの驚愕《きょうがく》の叫びと、オーヴァゼアから放たれるスカイブルーの光。
闇に弧を刻む空色の線。限界速度を超えて奔《はし》る、強力無比の一撃。
「だぁれがっ――少女だァァァァァァァァァッ!」
敵の気配など感じる必要はない。ただ、両手で握りしめたこの武器を。
――ぶん回す。
狙いなどない攻撃が、初めて敵の体にめり込んだ。
『ッ!?』
そのまま腹部にめり込んだ杖は、エフェクトの体を半分に切り裂き、元の水袋のような姿へと強制回帰させた。
『……グ……今の反応、どういう、ことだ』
「ボクは」
オリジンキーの光が、体にまで及んでいる。蒼い光を帯《お》びた自分の体に何が起こっているかを、本能的に感じ取る。
『……!』
今度は相手の動きがはっきりと見えた、距離を取ろうとしたエフェクトを逃すまいと地面を蹴り、追い詰める。
『――魔力による身体強化か!』
切っ掛けはちょっと格好悪かったが、魔力の使い方を一つ理解することができた。それはオリジンキーを媒介に、魔力を直接体内で弾けさせるという、単純ながら強力な方法。
時間稼ぎのつもりか、敵は大量の黒腕を放つ。
構わずに突っ込み、腕の通るルートを正確に読みながら、敵の本体へと突っ込んでゆく。
『なんと……!』
この力を使い、思い知らせなければならないことがある。
急いで人型に形態変化したエフェクトの右腕を掴み上げ、吸気を体内に取り込む。
体内を循環する気迫を、腹の底から解き放った。
「オ、ト、コ、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
――至近距離から思いの丈を出し切り、後に残ったのは大きな沈黙だった。
『…………』
腕を掴まれた体勢のまま、エフェクトは動きを止めている。
「……はぁ……はぁ」
とりあえずスッキリしたボクは、荒れた呼吸を整えつつ、相手の出方を待つ。
表情が読めないというのはやっぱり不便だ。意思があるというのなら、それを表面にさらけ出すための外見変化がほしい。駄目ならせめて、声に何らかの色を付けてほしいところだ。……まあ、相手が相手だけに期待はできないが。
時間にして十数秒ほど。
エフェクトは、
『……………………――すまなかった』
謝った。
腕を振りほどいたり、攻撃してくるわけでもなく。
気のせいか、困惑しているような口調だった。
「わかってくれたなら、いいんだ」
そう言って相手の腕を放すと、エフェクトは後ろに移動、ボクとの距離を離した。
『詫《わ》びというわけではないが』
言葉を放ちながら、目の前から姿を消す。
気配が真上に出現した瞬間、ボクもまた相手の動きに合わせ杖を構えていた。
危機察知だけで対応していた前とは違う。相手の動きを見て、そこから体を動かすまでのラグがほとんどない。
頭上からの打ち下ろしを、確実に杖で防いだ。
だが。
全身が圧倒的な重圧を受けて沈む。踏ん張っていた足が硬質の床に亀裂を入れ、陥没させた。
(耐え、きれない……っ!?)
一撃の威力が段違いに重くなっている。
「ぐっ!」
力任せに杖で薙ぎ払うと、重力を感じさせない動きでエフェクトは宙に浮き上がった。
わざわざこちらの体勢を立て直す暇を与えながら、
『本気で征《い》こう。――どうやらお前は、そういう相手のようだ』
不協和音は、言い放つ。
時を同じくして。
「ギャァァァァァァッ!」
獣が断末魔の雄叫《おたけ》びを上げ、散った。
「ふう……これで、三匹目……。どういうことですの……?」
グレイスは肩で息をしながら、疲れた声で呟いた。
モエルとの会話を終えたときから、連続してノイズが発生している。週に一匹出てくるか来ないか、その程度の発生率しかないはずなのに、ここしばらくの間はほとんど毎日。
そして今日になって連続して三匹。
「…………」
彼女は相継ぐ戦闘による呼吸の乱れを整えるため、思いっきり深呼吸をする。
――今の状況が異常であることは確信している。
(でも……好都合)
戦えば戦うほどに、目的に近づいてゆける。本来であるならば、異常箏態の際はチューナーの本部に対して連絡しなければならない。だがグレイスはそうすることを避けていた、
「妙な魔力はまだ、消えていない」
街全体を覆う、奇妙な魔力。
「一ヶ所だけ……やけに濃い……」
恐らく、その場所に何らかの原因≠ェある。グレイスはそう考えていた。
だが……。
ザザザザザザッ。
「!」
たった今倒した敵が完全に消滅したと見るや、次のノイズが聞こえてくる。グレイスは、妙な魔力とノイズ、それぞれの方向を見て、呟いた。
「……方角は正反対」
チューナーは原則としてノイズを感知次第、討伐《とうばつ》に向かわなくてはならない。妙な魔力が発生しているのは確かだが、優先すべきは目先の敵である。
「まさか、意図的に……遠ざけられている?」
浮かんだ考えをグレイスは完全に否定した。
「いや、それはありえないですの……」
この世界のシステムを考えると、それはありえない。
――ノイズの出現を操れるはずがない。
とにかく次のノイズがいる方へ、グレイスが跳ぼうとした、そのとき。
「グレイスちゃん!」
彼女を呼び止める声。聞き覚えのあったその声に、グレイスは驚く前に怒鳴った。
「っ、幾瀬《いくせ》さん! アナタ怪我してるくせに何をしているんですの!?」
駆けつけてきた魔法少女は、チュニックワンピースに黒のロングタイツ、鎖をたすき掛けにした、幾瀬依、その人だった。
グレイスの目の前まで走ってきた依は、どう見ても不調そうなしかめっ面で、
「平気、へーき……。ところで、何が起こってるの? さっきからノイズがたくさん、それにこの変な魔力!」
変身していても痛みが消えるわけではない。体内から来る痛みならなおさらだ。それでも依は、異常を察知して駆けつけたのだ。
「とにかく、こんな状況じゃ寝てるわけにもいかないよ。一緒に戦おう?」
そんな彼女に、グレイスは。
「……。この地域の問題は私が解決します。病人は大人しく寝ているですの」
険しい表情で言った。
「そんな、グレイスちゃん……」
依がノイズに敗れたあの日、グレイスは自分の家に置かれていた手紙を読んでいた。心配されているということも、わかっていた。
だが――。
「ご心配をおかけしていることは謝ります。ですが、余計な手助けは無用ですの」
「謝るとか、そんな……っ」
近づこうとした依の横を、グレイスは黙って通り過ぎる。
「――っ」
依は手を伸ばそうとして躊躇《ためら》う。代わりに、少女の後ろ姿に声を放つ。
「どうしてっ、独りで戦おうとするの!」
声が揺れている。
「失礼。敵がいますので」
聞こえない振りをして、紅の魔法少女は跳ぶ。
「あっ……!」
取り残された依は、伸ばした手を向ける相手を失い、立ち尽くす。
守りたい=B
彼女の想いはただ、空回りするだけで。
その想いを理解していながらも、振り払ってしまった少女は、空を駆けながら思う。
『――一緒に戦おう?』
ダメだ。
『ボクを、頼ってください』
それでは、ダメなのだ。
彼方に頼ってくれと言われたとき。正直、心が揺れ動いた。
あの少年と一緒にいると、頑《かたく》なに守り続けてきた決意が簡単に破られそうになってしまう。
気づかないうちに、近づこうとしてしまう。外見じゃない、まったく別の魅力を持っている不思議な人。そして彼は、自分のことをこう言った。
「……友達」
そしてもう一人、心を惑わす人がいる。
昔から何かあるとすぐに駆けつけてきて、余計な世話ばかりを焼いてくる女性。
何度怒っても、何度突き放しても、言うことを聞かない。
何を考えているのかまったく理解できない――、
「――はず、なのに」
怒る度、突き放すたびに、心が悲鳴を上げる。棘《とげ》が食い込んでくるような痛みだけが、心に残ってゆく。
「私は……」
自分の意思で戦ってきた。
――捨てられてしまった、かつての居場所を取り戻す。そのためだけに。
それを成し遂げることで、一人でも大丈夫だと証明したかった。
「私は一人で、何でもできるんだから……」
誰かを頼ったりしない。誰かに守られる必要などない。私は、私一人の力で生きていくことができる。
『本当にそう?』
「っー!?」
突如脳裏に介入してくる声。同時に響いてきた頭痛に顔をしかめ、グレイスは建物の屋上で立ち止まった。
「誰、ですの……!」
『一人で何でもできる?』
声は直接脳に響いてくる。
(魔力伝達? いや:……)
『本当にそう思ってる?』
耳を塞《ふさ》いでも声は止むことなく、それどころか、より鮮明に聞こえてくる。
(この声は……)
『――居場所がなくなるのが、恐《こわ》い』
「!?」
グレイスの顔に、動揺が浮かんだ。
『貴女《あなた》の育った場所。失うのが恐いって、ずっと思ってたよね』
「……!」
『それはどうしてかな。思い出の詰まった、大切な場所だから?』
(私の、声……)
『違うよね。そんな表面的な理由じゃない』
「……やめ、て」
自分でも驚くほど弱々しい声が、口をついて出た、
『似てるから。周りに見捨てられたあの場所と――』
「やめてっ!」
『――生まれてすぐに見捨てられた、貴女』
全身が強張《こわば》り、紅の少女は自分の肩を抱く。
『あの礼拝堂はまさしく、貴女そのもの。もし、それがなくなってしまったりしたら』
自身の声は、残忍に告げる。
『否定されてしまう。自分自身が』
心の深層にあった思いが、迫ってくる。肩を抱いた両手に、骨を軋ませるほどの力が加えられる。
『一人でいようとするのは、証明するため?』
見下した嘲笑《ちょうしょう》が聞こえ、
『――繁がりを持つことが恐いから、でしょ』
声は、彼女の心を穿つ。
『居場所を失うのが恐い。居場所を作るのが恐い。
それが貴女の心の中。幼い頃から何一つとして変わらない、貴女自身の真実。
貴女にとってこの世界は、恐いものだらけ』
グレイスの体から、何かが抜けた。それは自分の足で立つための力であり、戦うための気力でもあり、これまで彼女を支えていた――想い≠ナもある。
それに合わせて、オリジンキーの輝きが失われてゆく。銀色のコインが、静かにその色を無くそうとしていた。
不意に、声は優しく語りかけてくる。
『楽になりたいと思わない?』
ザザ、ザ――。
『叶《かな》えてあげるよ!?
――ワタシの、願い』
ノイズが、聞こえる。
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6.繋《つな》がる想《おも》い
オリジンキーオーヴァゼア≠軽く一振りし、目の前の敵を視線で射抜く。
足を一歩引き、杖《つえ》の端を握り、体と水平に構える。一刀にすべてを懸ける侍のように。
目前の敵――エフェクトから放たれるビリつくような強者のプレッシャーを浴びながらも、全身を奮い立たせる。
無理やりに落ち着かせている、規則正しい呼吸が口から漏れてゆく。
パラパラと、瓦礫《がれき》の粉が崩れ落ちる音が、耳元で聞こえたような錯覚《さっかく》を覚えた。
そして、
呼吸が――、
――止まった。
杖が袈裟懸《けさが》けに奔《はし》る。
闇色の腕が迫りくる。
二つが邂逅《かいこう》した瞬間、時は止まることを忘れ、互いのどちらかが停止するまでの終わりなき一瞬を刻み始める。
「ああぁぁっ!」
ぶつかり合い、拮抗《きっこう》する互いの攻撃。
強化された体に、更なる魔力を上乗せしたボクの力。
意思を持ち、いまだに底の見えないディスコードの力。
威力のすべてを伝え終えた後に、双方が同じ距離だけ吹き飛ぶ。互いの攻撃による衝撃がその場に取り残され自壊、風圧となって吹き荒れる。
「――……ッ!」
吹き飛んだ反動で地面を滑りながら、杖を地面に突き立て、止まる。そしてすぐさま杖を持つ手にカを込め、地面から抜くと同時に今度は押すように地面を叩く。反動によって体を押し、続けざまの攻撃を仕掛ける。
エフェクトは着地点から黒い飛礫《つぶて》を放ってきた。魔力を感じるその飛礫を杖で捌《さば》きながら、止まらずに駆け抜け、杖を横一閃《よこいっせん》に振るう。
――ズドンッ!
『ガッ!?』
腕に感じた手応《てごた》えを信じて振り切る。今度は切り裂くところまではいかず、エフェクトを弾《はじ》き飛ばすだけに終わる。
「まだだっ!」
この程度で喜んではならない。すぐさま空中へ追撃に移ろうとしたとき――巨大な黒塊《こつかい》が無音で飛んできた。
「なっ――」
転がるようにしてかわすと、その黒塊は背後の壁に衝突し、その壁をえぐり取った。外と繋ぐ円形の穴が完成する。
「これ、は……」
壁はくりぬかれたように綺麗《きれい》な断面をしている。もしもあの黒塊に当たればどうなるのか、この様子を見る限り想像に難くない。
『なかなか難しいものだな。魔力の扱いというヤツは』
世間話のような軽さの言葉と一緒に、二発目の黒塊が飛んでくる。容赦というものがまるでない、強力な魔力球。
「才能があるみたいで羨《うらや》ましいねっ!」
どれほどの威力かわからないため、迂闊《うかつ》に触れるわけにはいかない。速度自体は緩慢《かんまん》なため、とにかく避けることに専念する。黒い塊《かたまり》に削り取られてゆく外壁を後目《しりめ》に、次の攻撃を警戒する。
だがエフェクトはこちらの警戒などどこ吹く風で、いきなり問いかけてきた。
『――迷いのない戦い方――それは恐れを知らぬが故か』
ゆっくりと空中から降りてくるエフェクトは、ほとんど戦闘を始める前と様子が変わっていない。ダメージを与えることができているのか、それとも、今までの攻撃は一切通じていないのか。もし後者なら、それはまさに絶望的。そして敵の余裕を見る限り、どちらの可能性が濃いかなど火を見るよりも明らかだ。
(少しは強くなったと思ったんだけどな……アイツは、それ以上か)
蒼《あお》の軌跡《きせき》を当てることができたら何とかなるかもしれないが、どうにも油断をしてくれそうな相手ではない。それに攻撃のバリエーションはもう尽きている。現時点で魔法を完全に操れていない自分では、とてもじゃないが太刀打ちできない。
『――知ってなお戦わなければならないほどの理由を持っているのか』
今できることは、エフェクトの問いかけに答えることだけだった。
「う〜ん、正直|恐《こわ》いし、できれば今すぐにでも逃げ出したいんだけどね」
『ならば何故《なぜ》立ち向かう。なぜその眼《め》を我に向ける。……使命感、というヤツか』
「……。ないよ。理由なんか、ない」
『どういう意味だ』
訝《いぶか》しげな声が伝わってくる。変化のない白い瞳を真っ直《す》ぐに見返し、断言する。
「嫌だから」
『…………?』
エフェクトは沈黙していたが、疑問を感じているようだ。
「決めたんだ」
ちゃんと聞こえるように、一つ一つ言葉を紡《つむ》ぐ。
「アンタを倒すって」
逃げの意志などないことを、言葉に込める。
「立ち上がるのに大層な理由なんかない。魔法少女の使命とか、ほんの少しも考えたことないよ。むしろボクは、毎日空でも眺めてのんびり暮らしたいんだ。
――でも今は、心が叫んでるんだ。アンタを倒すと決めたボクの決意を、裏切るなって。なにがなんでもアンタを倒せって。……ま、単なる負けず嫌いなのかも」
子供のわがままと同じ感情。我を通したい、それだけ。握る拳に力が入り、どこまでも固く、強く、想いがわき上がる。
『支離滅裂な理由だ。命懸けの戦いをするには似つかわしくないのではないか?』
「自分でもそう思うよ」
即答し、杖をくるん、と手の中で回す。
『……少なくとも、前に戦った女は何らかの覚悟を決め、己の義を貫こうとし、何かを背負い戦っていた。――それゆえの強さもあった。それは我もまた、同じだと思っている』
「そんなもの、ボクにはない」
答えながら杖を手の中で躍らせ、底が地面に当たったところで止める。
『課せられた十字架の重みも知らぬ者が、我に勝てると?』
重みを知る者≠フ声は、どこまでも鋭かった。
だけど。
「――勝てるさ」
何も知らないボクに、迷いなどなかった。
暗闇にこだまする足音がある。
絶え間なく刻まれる高速のリズム。その音に感情があるとするなら、それは焦り。
奏者は体に溜まった熱を荒い息にして吐き出しながら、走り続ける。
「くっ――」
足音の主であるモエルは、強く口の端を噛《か》んだ。顔を左右にまんべんなく動かし、視線を夜の街に走らせ、尖《とが》った耳で可能な限り音を聞き分ける。
人より優れた聴力が拾ってくるのは道行く人々の話し声や車の走る音。
一番聞きたい声は、聞こえてこない。
モエルは焦っていることを隠そうともせずに、叫んだ。
「かなたん! どこだっ!」
あれから彼方《かなた》をずっと探し続けていたモエルは、焦燥《しょうそう》に焦燥を重ねた表情で、辺りを見回し続けていた。
(……グレ子は、かなたんの魔力反応が途中で掻《か》き消えたって言ってた)
電話でグレイスが言っていたことを思いだし、嫌な予感が沸き上がってくる。
(結界か何かか……とにかく、普通のノイズにそんなことができるわけない……。もし相手が、ディスコードだったら……!)
決して賑《にぎ》わっているわけではないこの街にも、夜を徘徊《はいかい》する人々はいる。そんな人々が見ることさえもできない速度で、モエルは文字通り駆けずり回っていた。四本の手足は黒く薄汚れ、金色の毛は輝きを失っている。そんなことはまったく気にもせず、モエルは足を動かし続ける。
「どこだ、どこに――ッ!?」
ぽつぽつと点在する人々の中に、一瞬、彼方に似た姿が見えた気がして、モエルは立ち止まった。
「かなたんっ!」
――声を放つ。
それが失敗だったことに気づくには、遅すぎた。
「……おい、今なんか……」
真上から聞こえた声にモエルが顔を上げると、そこには。
「ん、ああ……コイツ――だよな?」
どこか死んだような瞳でモエルを見る、二つの視線があった。
「何コイツ、変わった鳴き声してんね」
あからさま≠ネ二人の若者だった。しわくちゃのTシャツを着崩し、耳にだらりと長いピアスをつけている男。同じように個性のない服装で、ニットキャップをかぶっている男。
ピアスの男が、無造作にモエルの首根っこを掴《つか》んだ。咄嗟《とっさ》のことで反応が遅れるモエル。それでも視線は先ほど見えた気がした彼方の影を追うことに必死だった。
「こいつ、なんか珍しい種類なんじゃね? 毛とか金色してるぜ? 売ったら高《た》けえかも」
モエルを掴んだ男は、痩《こ》けた頬《ほお》にしわを作る。
「あ〜あ! その前に、喋《しゃべ》る猫とかいってテレビ出せるぜ?」
肩を上下させて、痙攣《けいれん》するように笑うニットの男。
「あ、ソレいい! ゲーノージンに会えるかも!」
二人はモエルを摘《つま》んだまま、夜にしては大きく、下卑《げび》た声で笑った。
「――邪魔だ」
「ギャハハ……――あ?」
笑い声がピタリと止《や》む。視線は自分たちが摘んでいるモノへ注がれた。
「薄汚れた手で触るな。どうした? お前|等《ら》が使っている言葉も理解できないか。ならもう一度、わかりやすく言ってやる」
モエルは一呼吸置いて、声を口に出した。
「――おいらの目の前から、消えろ」
容赦のない声だった。
その言葉には少しの冗長もなく、告げるべきことだけが込められていた。
二人の男を見据《みす》えるルビー色の瞳は、小動物とは思えないほどの迫力を秘めていた。言い換えればそれは殺意≠ノも近い――。
男たちが本能的な恐怖を感じ、顔を引きつらせるのを見ても、モエルは容赦のない視線を外さなかった。
「……っ、おいっ、何ビビッてんだよ! こいつ喋ってんだぞ!? すっ、すげえじゃんか!」
「! ば、バカ、ビビッてんのはお前だろ? とにかくコイツ、持ってこうぜ!」
真っ向からモエルの視線を受け止めきれなかった男たちは、それでもわずかなプライドが残っていたのか、掴んでいた手を離さなかった。
そんな男たちを見て、はあ、とモエルが溜息《ためいき》を吐《つ》き、
「馬鹿だな」
と小さく呟《つぶや》いた。
――二人の若者はまったく気づいていない。
モエルを覆う金色の体毛が、わずかながら輝きを増していることになど――。
ゴッガンッ!
突然の轟音《ごうおん》にモエルの集中は解かれた。コンクリートの地面が揺れ、周りを歩いている人々がその場でふらつく。
「――っ! どうしてこう、次々と――!」
ソイツ≠ヘ、二つの黒い瞳でこちらを見ていた。
時が凍るような一瞬、そして。
悲鳴が、夜の繁華街を引き裂いた。
「なっ、ンだっ、よ、コレ……!」
モエルの眼前にそびえるのは、牛がベースとなっている巨大なノイズ。細い二本の足で大きな体躯《たいく》を支えている姿は、地獄にいるという鬼の姿に見えなくもなかった。
「な、こっ、れちょっと……マジ、やばくね?」
男たちは、ノイズが足を擦り合わせるたびに起こる大地の振動で、カチカチと歯を噛み合わせる。危険だということはわかっているはずなのに、男たちはその場から動かなかった。
(認識|阻害《そがい》が効いてない……)
モエルは周囲の混乱を見て、冷静に状況を分析した。
魔法少女の変身と同時に展開する認識阻害には、大きく分けて二つの役割がある。
一つは正体がバレないようにするため。
そしてもう一つは――こちらの方が主立った理由であるのだが――普通に暮らす人々がこういった存在を知ることなく生きてゆくため、である。
恐怖や疑心といった負の感情は、意図せずとも強い思い≠ニなってしまう。そして、思いは更なるノイズを呼ぶ。もし、この騒音の存在をすべての人が知ってしまったとしたら。そこから生まれる膨大な思いは、この世界全体に取り返しのつかない影響を与えてしまうだろう。
時折、街中のうわさ話などに上ってくる幽霊、化け物といった怪異≠フ類《たぐい》は、認識阻害でもフォローしきれないほどに強大な存在が現れた際の、記憶の名残《なごり》である。
(グレイスは何をしてるんだ? この辺はあの子のテリトリーのはず。それに……)
「かなたん……っ!」
『ブゴォォォォッ』
牛型ノイズは口から勢いよく蒸気を噴き出しながら、今まさに眼下にいる倭小《わいしょう》な獲物を見据えると、見境なく襲いかかった。モエルは自分を掴んだまま呆《ほう》けている男の腕に思いきり噛みつき脱出すると、地面に着地し、四肢を低くして構える。
上半身全体を大きく仰《の》け反《ぞ》らせ、振り下ろされる巨体の両腕。無骨な腕は、圧倒的な威力を秘めたハンマーと化している。
「くそおっ!」
舌打ちを一つした後、低くした佐勢から跳《と》ぶ。そして全力で、今まで自分を掴まえていた男を蹴った。
「うあッ!?」
なされるがままに男は数メートルを跳ぶ。
普通は猫が全力でぶつかってきたとしても、人間を弾《はじ》き飛ばせるだけの力は発揮することができない。しかしモエルはそれをやってのけた。
次に、着地と同時にその場から跳んで逃げる。
コンマ数秒置いて、巨大なノイズの腕が、ガラスを割るように地面を軽々と叩き崩した。
「なんて凶暴なっ!」
勝ち目がないことはわかり切っている。退路を確認するためにモエルが振り向いた、その先は――。
「グレ子!?」
変身を解いた、留真《るま》の姿があった。
「何やってるんだ、いるのならっ……!」
モエルが彼女の傍《そば》に近寄ったとき、留真は、
「私は、一人で……」
断片的な言葉を、俯《うつむ》き、表情を隠し、全身の力を抜いて、呟き続けていた。
(! これは、前のかなたんと同じ……)
自分に迷い、変身できなくなったときと同じ。
――変身するための想い≠失った状態。
(言わんこっちゃないっ、意地なんてもので戦うから!)
『オオオオォォォォッ!』
ズガン、ズガンと爆撃のような音を立て、ノイズが歩み寄ってくる。
「……っ、グレ子! 逃げるんだ!」
精一杯の声で怒鳴るが、留真は虚《うつ》ろな眼差《まなざ》しで立ち尽くすだけだった。
「グレ子!」
振動で体が浮きそうになるのを何とか踏ん張り、モエルは敵の方を振り向いた。
ちょうど巨体の影が真上に差してくる。
モエルはもう一度傍にいる留真を見て、
「ちくしょうっ!」
そのとき悪態を吐き、ルビー色の瞳に覚悟を宿す。
「なんでおいらがこんなことをっ!」
言葉とは裏腹に、体はしっかりと臨戦態勢を整えている。
スゥ――。モエルは自分の十倍以上もある相手にも怯《ひる》まず、息を吸う。呼吸のためではなく、力を、循環させるために。
力と破壊、最も単純な騒音は、覚悟を決めた一匹の猫と、動くことのない少女へ向けて、その腕を振り上げた。
「来い、ノイズッ!」
決意の叫びが騒音にぶつかる。
『ォォォォォォッ!』
比較するのも無意味なほど圧倒的な存在の差が、両者の間にはある。
絶え間なく進み続ける絶体絶命の時間。
しかし――ノイズの豪腕を見上げていたモエルの視界を、輝く何かが遮《さえぎ》った。
それは、
「リンカーズッ!」
――繋がり続ける鋼の連鎖。
攻撃の軌道上に割り込む長身のシルエット。
留真の瞳に映る、栗色の髪。
「はぁぁぁっ!」
俊足のステップで、チューナー、幾瀬依《いくせより》は拳を振り上げる。
ゴ――ッン! 岩塊《がんかい》と岩塊が衝突し、互いに砕け散った様を思わせる轟音。
「…………?」
咄嗟に顔を伏せたモエルが次に目を開いたとき、ノイズの腕は、空中で停止していた。止まった豪腕の支えとなっているのは、女性の細腕から繰り出された拳。鎖を幾重にも巻いた、右拳だった。
(あの攻撃を止めた!?)
素直に驚くモエル、だが次の瞬間、大地の震《ふる》えと共にコンクリートの地面が陥没した。
「くぅ、ンッ……!」
攻撃を受け止めた依の足は、震えていた。
変身することによって無理やり痛みを抑えている依の体は、ここまでの重圧を軽々と受け止められる状態ではない。むしろ、止めることができたこと自体が奇跡に近い。
『ンオォォォォォォォォォォォォォッ!』
さらなる重圧が依の体を襲い、圧力に押され、膝《ひざ》を地面についてしまった。
「〜〜〜ッ!」
(だめだっ、潰《つぶ》される!)
モエルは動こうとした。しかしこの状況で聞こえてきた小さな声に、足を止める。
「絶対に――」
耳を澄まさなければ聞こえない声。
「倒れない――」
誰かに届けたいわけではなく、自分の胸に秘める言葉。
「留真ちゃんを――」
その声を紡いでいるのは、他《ほか》ならぬ、依だった。
「守る≠チて。決めたんだから……!」
紡がれる言葉に反応を見せたのは、赤い少女。
「幾瀬、さん……どうしてそこまで……そんなになってまで……」
それは困惑した顔というよりも、今にも泣き出しそうな子供の顔。細い体を悲しみに震わせて、明るい赤髪は火が消えてしまったように艶《つや》を失っている。
力を失った留真は、か弱いただの少女でしかなかった。
その視線の先には、彼女を守るために身を挺《てい》する背中がある。
「……えへへ。なんでだろ」
敵の攻撃を一身に受け止めながらも振り向き、依は留真に向けて微笑《ほほえ》んだ。モエルはその笑顔の中に、強い想いを見た気がした。
「私は……私は、アナタなんかに守られなくても!」
語気を荒く、感情を吐き出してゆく彼女は、痛みを堪《こら》えた顔をしていた。まるで、茨《いばら》の棘《とげ》を自分から握り締めるような、自虐の表情。
「一人で、戦える……っ!」
「――それじゃ、だめだよ」
激情に駆られた留真の言葉を、依の穏やかな声が止めた。
「! アナタに何がわかると――っ!」
それは今、怒りを向けるべき相手ではない。わかっていながらも、彼女は叫んでいた。
依は激しい言葉を一身に受け、たった一言、断言する。
「全部」
言葉に込められた重みは、留真の怒りを抑え込むには十分だった。
「――留真ちゃんのことなら全部、わかるよ」
とつとつと、依は言葉を並べてゆく。
「子供の頃《ころ》から、いつも強気な目をしてた。
周りのもの全部寄せ付けないような、意地っ張りな目。
でも私は、留真ちゃんを初めて見たとき、なんて寂しそうな目だろうって思った。
自分の居場所がなくて、泣いてるような――」
『ゥォォォッ!』
ノイズから噴き出す蒸気が宵闇《よいやみ》を焦がす。無尽蔵とも思える力が、さらに魔法少女の体にのしかかった。
その様子を見て、思わずモエルが叫ぶ。
「限界だっ! 退《ひ》くんだ、このままだとっ!」
「――っ。初めは……留真ちゃんが羨ましかった。一つの目標を見据えて、あんなに強く燃えることのできるあなたが」
すでに声が届かなくなっているのか、依は言葉を紡ぎながら耐え続ける。
「だから、守るなんて言いながら、勝手に憧《あこが》れて、勝手にお節介焼いて」
「……幾瀬さん……」
留真がその名を呼ぶ。
「でもね、それ以上に大好きだった。きっかけは一目惚《ひとめぼ》れだったけど……本当に好きだったよ。……妹みたいに思ってた」
両足が支える力をなくし、依の体が地面に沈む。
「より、さ――」
だが、体は崩れ落ちても彼女の想いの結晶であるオリジンキーは、その存在をもってノイズの攻撃を止めていた。
「そんな子が、必死に思い込もうとしてる。居場所がどこにもないって、一人でいるのが当たり前だって。寂しさで自分を縛ってる。……放っておけるわけ、ないよ」
――リンカーズ。繋がり≠示すその名は、それを断ち切ろうとする少女を、救うために、守るために力を振るう。
「まずいっ! グレイス、このままじゃ彼女のオリジンキーが壊れるぞ!」
鎖が甲高い悲鳴を上げている。その兆候に気づいたモエルは、留真の体に駆け上って告げた。
「でもっ、変身できないんです……! どうやってもオリジンキーが呼び出せないの! 何を想って戦えばいいのかわからない――声が、邪魔をするの!」
「声……?」
ノイズは振り下ろしていた両腕を一旦《いったん》、空に跳ね上げた。上半身を仰け反らせて力を溜め、さらに強力な次撃の用意をする。依とグレイス、そしてモエルは、ノイズが振り上げた両腕の真下に固まって動くこともできず、相手の攻撃を待つしかなかった。
留真は、何度も、叫ぶようにして唱えた。慣れ親しんでいたはずの変身の言葉を。
しかし炎は、灯《とも》らない。
『オオオオオオオオオオオオ!』
ノイズの上半身がビキビキという軋《きし》む音を立て、膨張してゆく。集まってゆく力がその体に変異を及ぼしていた。
「っ!」
ドンッ。
いきなり、強い衝撃が留真の体を押した。
「なっ……!?」
彼女の体を押した人物は、お節介な笑顔を浮かべて、笑っていた。
(……依、さん……?)
遠のいてゆく微笑みは、停《はかな》くも優しい。
その口元が動くのを、留真は妙にゆっくりとした時間の中で見つめていた。
「――守るよ」
依の言葉が、留真に届く。
言葉には想いが。言葉の意味以上の、たくさんの想いが込められていた。
『どうして余計なことをするの』
自分自身の声が囁《ささや》く。
『私は守られる必要なんてない』
とても残酷で、冷徹な、汚泥の詰まったような声。
「…………」
『私に居場所なんてないんだから』
「違う」
『私は独り』
「違うっ!」
(何を想って戦えばいいのかわからない?)
――何を、甘えたことを。
ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
ノイズが極限まで高めた力を解き放つ。
『目の前で友達が傷付くの――嫌です』
「……私を、友達って呼んでくれた人がいる」
『私、グレイスちゃんを守る』
「……ずっと、守ってくれた人がいる」
(意地を張るな……恐れるな……)
「居場所なら、ここに――」
(失うことが恐いなら、絶対になくさないように守ればいいだけのこと!)
瞳に炎を宿し、少女は叫ぶ。
「――想いなら、ここにある!」
左手を前に突き出し、紡ぐ。
「――絶えなく廻《まわ》れ――」
言霊に想いを乗せ。
「――金華《きんか》の――」
己の心を奮わせる。
「――焔《ほのお》」
夜を、焼き尽くす。
光が集い、一枚の金貨が暗闇に生まれる。純然たる黄金、曇りなき想いの結晶。
「ウィズ・インタレスト」
指先に乗せ、唱え、放つ。
電光石火、一筋の光と化したコインは、腕を振り下ろしたノイズと、迫る豪腕の数センチ下にいる依の、わずかな間隙《かんげき》を縫《ぬ》い――すべてを超えた速度で、敵の腹部にめり込んだ。
たかが一枚のコイン。巨体の千分の一にも満たない小さな塊。だがそれは、敵の体に触れてもなお止まることをやめない。込められた力が巨体を押す。押して、揺るがす。ノイズの質量を超えた重さが、そこにある。
『……ッ!』
ノイズが足を曲げ、腕を体に引き寄せてコインを真っ向から受け止めた。力そのものを体現した騒音には、退くという概念自体が存在しない。踏みとどまる足がガリガリと大地を削り、そのまま威力を押し止《とど》める……、かに見えた。
「――覚悟は想いを炎に変える」
焼けつくほどに熱い、囁きが零《こぼ》れる。その瞬間、ウィズ・インタレストが炎に包まれる。鮮やかな紅の火が、込められた想いを象徴し、煌々《こうこう》と燃え上がる。
『グォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!』
頭の中を引っかき回す断末魔の叫びを上げ、ノイズの体に炎が引火した。
キィンッ――。
二発目のコインが巨体の顎を撃ち抜いた。足が地面から離れ、巨体が宙に浮き上がる。
「……さっきから思ってたんですが」
キィンッ。三発目が、宙に浮いた敵の腹を撃った。それによつて巨体は後方へと流れる。吹き飛んでいる最中に四発目がまた腹を撃った。続く五発目も、まったく同じ場所を撃つ。
気がつくとノイズは数十メートルもの距離を吹き飛ばされ、地面に転がっていた。
「そこのノイズ――」
大気を焦がす熱とは正反対の、冷徹な声。
紅炎のドレス。
舞い散る火花。
胸元に輝く、金色≠フコイン。
「五月蝿《うるさ》い、ですの」
紅一色に包まれた少女は、篝火《かがりび》の如く立っていた。
唖然《あぜん》としていたモエルが彼女の名を呟く。
「……グレ子」
「あらモエルさん、いたんですの」
「んなっ!」
すぐさまモエルは言い返そうとして、やめた。グレイスはつかつかと依に近づいていき、の体を抱き上げる。
「……留真、ちゃん」
小さな腕の中で、依は呻《うめ》くように名前を呟いた。
「グレイスですの」
「……どうして……助けて、くれたの……?」
紅の魔法少女は、自信を持って答えた。
「あなたに貸しを作ると、何されるかわかりませんから」
いつの間にか近くにいたモエルが「素直じゃないね」と呟いたのを耳ざとく聞き、「アナタに言われたくないですの」と軽く返しながら、依の体を道の端へと避《よ》けて、横たわらせる。
「少し、お休みなさい」
「うん……」
グレイスが温かな声で告げると、依は頷《うなず》き、ゆっくりと眠りについた。
その寝顔をしばらく見つめていたグレイスは、ほんのわずかに、よく見なければわからないほどに薄く、微笑んでいた。
「戦えるんだね? グレイス・チャペル」
モエルの鋭い視線を受け止め、グレイスは右手を胸元のコインに触れさせた。
「……恐かった」
ぽつん、と呟く。
「誰かに頼ったり、誰かに守られたり。大切なものを作ってしまうのが恐かった」
暗い胸の内を明るみにさらけ出し、弱さを吐き出す。
「だから私は、一人になることを選んだ。……これ以上何も、失わないように」
そんな彼女を、澄んだ瞳でモエルは見つめていた。決して茶化さず、ただ沈黙し、言葉に耳を立てていた。
「正直、まだ恐い。胸の深いところが、凍るように冷たい」
冷たい月明かりを反射し、彼女の鍵≠ヘ輝く。
その色は――金。今までの冷たい銀色ではなく、暖かさを持った色。
「けれど」
その光ごと、グレイスは力強く握りしめる。
「オリジンキーが応えてくれている。私の心そのものが、この体を熱くさせる。
守る≠スめの力を、与えてくれる」
決然とした彼女の姿に、モエルは優しく声を放つ。
「そっか。……なら、いいんだ」
思わぬ優しさの込められた返事に、グレイスは照れくさそうに頬を掻《か》くと、そっぽを向いて言った。
「そっ、そういえばモエルさん、彼方さんを探していたのでは?」
「! そうだよ! どこにいるかわかるか?」
突然の大きな声にびっくりしながら、グレイスは不自然なことに気づく。
「あなた――魔力を感じないんですの?」
モエルは口をつぐむ。
「あなたはチューナー、私たちを選定する立場の方だと聞きましたが――それは本当ですの?」
言葉はすべて耳に届いているはずなのに、何の反応も見せないモエル。
グレイスは、核心を突く言葉を口にした。
「私は少なくともこれまで、話す動物なんていうものは見たことがありません。それと動物に変化する魔法なんていうのも知りません。いえ、知るわけがありません。
――不可能ですから」
「…………」
「どんな魔法をもってしても、存在の形を変えることはできない。いえ、できてはならない。
視覚情報を誤魔化《ごまか》すまでが限度なんです。魔法に関《かか》わる者ならば誰もが知っていること。……なら、あなたは? 魔力を感知することができない……魔力を持っていないあなたは一体、何ですの? こちらの事情にも精通していて、彼方さんに力を与えた――」
モエルは黙ったまま、口を強く結ぶ。そこにグレイスは少し躊躇《ためら》いがちに、続きを口にしようとした。
「……あなたは、もしかして――」
『――グルルルォォォォォッ――』
言葉に重なるようにして、止めたはずの唸《うな》り声が上がった。吹き飛んだ場所から黒く焼け焦げた猛牛が駆け出してくる。自分の体が傷つくのも構わず周りの建造物を薙《な》ぎ倒してくる姿は、暴走した牛そのもの。
「まだ生きてたんですのっ? でもそうこなくてはっ!」
グレイスは依の居る場所から遠ざかるように動き、敵の突進してくる方向を自分へと誘導する。ダンプカーが突っ込んでくるという比喩《ひゆ》抜きでの迫力に、彼女は余裕の笑みを浮かべた。
「モエルさん――廃棄工事区ですの!」
大声で告げ、道を指し示す。それから数秒で追ってきたノイズを、身軽になった体で悠然《ゆうぜん》とかわすと、闘牛士のように敵の背後へ回る。
「この路地をずっと真っ直《す》ぐに行ったところに廃墟《はいきょ》だらけの場所があります。きっと、彼方さんはそこですの!」
モエルは目を見開き、グレイスと視線を交差させる。
「な、なんで――」
ブォンッ!
轟風が吹き荒れた。咄嗟にしゃがんだグレイスの真上を、引き抜かれた交通標識が槍《やり》投げの要領で貫いてゆく。猛牛はまさしく、我を忘れた獣と化していた。
グレイスは逡巡《しゅんじゅん》するモエルを怒鳴る。
「早く行きなさいっ!」
「――あ、ありがとっ!」
モエルは、言われた方向へと走り出した。
走り去る猫の姿が見えなくなってから、一度息を吐き、グレイスは巨大なノイズと対峙《たいじ》する。
牛型のノイズはせわしなく何度も首を左右に振り乱している。それだけで、かなり頭に血が上っていることが見て取れる。
「……ふう。五月蝿《うるさ》い、と言ったはずですが」
何もないところからコインを出現させ、一枚だけ、大きく空に弾いた。
「今日の私は、一味違いますのよ」
炎のドレスを風になびかせ、嬉《うれ》しそうに微笑む。
それからスカートを両手でしとやかにつまみ上げると、空から戻ってきたコインを広げたスカートの上に落とす。
「それでは、少しだけ。……本気でいきますの」
グレイス・チャペル――樋野《ひの》留真の瞳は、爛々《らんらん》とした炎のような光を湛《たた》えていた。
「何故、勝てると断言できる』
差し向けられた問いに、ボクは続けて断言した。
「なんとなく」
割れた窓から吹きつける冷たい風が、スカートを揺らしていく。
『……おかしな奴《やつ》だ』
闇色の人――ディスコード・エフェクト≠ヘ、短くそう言って、消えた。
次の瞬間、自分の体の一部が警報を上げた。それに対応する前に、体は壁に激突していた。
痛みは遅れてやってきて、更に肺が締め上げられるような苦痛に見舞われる。
相手はさらに加速している。どこまで力を隠しているのか、計り知れないにも程がある。しかもそこで攻撃は止まなかった。
倒れかかった体を下から持ち上げられる。それは、蹴り上げだった。体が空中に上がる。と思った瞬間には下に落ちている。蹴り上げ、打ち下ろし。頭の中でやられた攻撃を理解した頃には、次の攻撃が当たっている。
跳ねる体が自分のモノではないようで、現実味を伴わない。だが、伝わってくる痛みだけはリアルで、どうしようもない。
痛烈な一撃で地面に叩きつけられる。自分の体を見ると、服がボロボロになっていた。かわいいデザインが見る影もない。露出している肌も、血と砂礫《されき》で汚れてしまっている。
「――あ〜あ、ぼろぼろだ」
呟いたつもりだが、それが声になっていたかはわからない。こんなときだからこそ、魔法少女化していることのありがたさが身にしみてわかる。もしもこれで生身だったなら……死んでいるかもしれない。それだけの猛攻撃だ。もっとも、このままやられ続ければどちらにしろ末路は同じだろう。
『理解できたか?』
わざわざ攻撃を休み、問いかけてくる。
「……。いいや」
ボクが答えると、エフェクトは静かにかぶりを振り、黙ったまま気配を消した。
攻撃されるのを待つだけでは意味がない。痺《しび》れる足で上の階層へと跳び上がる。
『今さら逃げる気か?』
二階に着地した瞬間、敵の気配が左にあった。防御の姿勢を取ったが、それをまったく無視して、エフェクトはガードの上から攻撃を浴びせてくる。
「ぐっ!」
瞬間移動の勢いを乗せた掌底《しようてい》を両腕で防ぐと、次にこちらの腹部目掛けて膝が跳んでくる。
こちらも足を上げて防ぐが、受けた衝撃で体が後ろに下がる。上半身のガードがわずかに浮いたのを見逃すはずもなく、膝蹴りで上げていた足をそのまま弾くように伸ばし、的確に腹を蹴り抜いてくる。
ド!
短い打撃音。実際はそれ以上の音がしていたのだろうが、意識が飛びかけたため聞こえない。
くの字に折れた体をなんとか起こそうとして、背に更なる衝撃が突き抜けた。喰らったのは恐らくかかと落としだろう。
これだけ叩きのめされると、痛みを感じている場所すらわからなくなる。
二階を駆け巡り、攻撃を喰らいながら一周、今度は三階へと跳ぶ。
『逃げ回るだけか』
「しつこいっ……!」
淡々とした声から逃れ、駆け抜ける。
四階に至るまでに受けた攻撃の数は四、五十にも及んでいた。段々と追い詰められ、最上階である五階にたどり着く。
――今、ボクを突き動かしているものはなんだろうか。
そう考えたときに思い浮かぶのは、意地っ張りな少女と、不器用なお姉さんの姿だった。
その二人は強い力を持っている。形はまるで違うけれど、それぞれの心に真っ直ぐな想いを持っている。すれ違いながらも、交わっている……そういう力もあるのだとわかった。人の心の強さを知った。
自分のことではないのに、なぜか力がわく気がした。
こんなヤツには負けない。そう、思った。
『鈍くなっているぞ』
いきなり前に現れたエフェクトは、片手を前にかざし黒い魔力の塊を撃ち出してくる。そのときちょうど、足がもつれて床に倒れた。結果的にかわすことになったが、今度は起き上がれない。
エフェクトは悠然と近づいてきて、倒れたボクの襟を掴み、片手で持ち上げた。
『結局は、ただの虚勢だったわけか?』
パシンッ。
掴んでいた手を、杖で払いのける。
『――……ッ』
呼吸などしていないはずのエフェクトが、苛立《いらだ》ち混じりの呼気を吐いた。立つことができず床に崩れ落ちたボクは、それでも声を放った。
「なんだ……。少しは、怒ったり……できるんだ――ッ!?」
倒れている体に容赦のない蹴りが加えられた。吹き飛ぶボクの体は、落下防止の手すりガラスにぶつかり、ガラスを砕いて――吹き抜けの階下へと、落下を始めた。
落下しながら、円形の空を見上げる。
月明かりは眩《まぶ》しく、ボクに向かって降り注いでいる。
『終わりだ』
月を遮る、黒い影。
上空から地上まで一気に叩きつけ、終わりにするつもりだろう。
「邪魔だよ、ノイズ」
声にならない程度に呟き、杖の先端を、遠のいてゆく空に向けてかざす。
「月が――見えないじゃないか」
先には、うっすらとした輝きを放つ空色の宝玉。
『!? この魔力……!?』
気づいたエフェクトはすぐさま追撃を止め姿を消した。ほとんど勝ちが確定した状態だというのに、どこまでも慎重に、的確な判断を下す。
だが、相手の動きなどボクにはどうでも良かった。考えていることは、戦いの駆け引きや流れとは全然無関係な、反省や開き直りのようなものだったのだから。
(制御しようとするから、だめなんだ)
描いた軌跡を魔力衝撃として飛ばすのが、ボクの使える唯一の魔法。どれだけ頑張っても魔力の制御ができず、一度発動してしまえば、ボクの中にある力はすべて放出されてしまう。
たった一本軌跡を描いてしまえば、そこにはすべての力が込められる。
(どうしたって魔力全部撃っちゃうんだから)
今まで修行してきたことをすべて忘れ、イメージを創《つく》る。
想いを形にするのが、魔法だというのなら。
(ならもう、逆に――)
――解き放とう。
|今まで描き続けてきた軌跡を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、すべて《ヽヽヽ》。
一階から五階までを駆け巡り完成した、一本の軌跡。デタラメにねじれ、ひたすら長く、この建物の内部を縦横無尽に彩り尽くす。
さしずめそれは――、
「蒼の螺旋《らせん》=v
発動の言葉と共に、オーヴァゼアが天に向けて蒼い光を放つ。
『なん、だと……?』
名の通り、螺旋を描く蒼いラインが廃墟の中を埋め尽くした。
目がかすむ。
体中が痛い。
力が抜けてゆく。
意識の終わりが近づいてきた。
自分の体が、このまま消えてしまう気がする。
(もう、限界だ)
オーヴァゼアを握る手が緩んだ。杖が手から離れてしまえぱ、魔法の発動は失敗に終わる。
敗北が、決定してしまう。
(負けたら……どうなる?)
空を眺めることができなくなる。
(いやだ)
魔法少女に変身できなくなる。
(……。いや、かな……?)
母様やモエル、グレちゃん、依さん、丈君やいいんちょ。みんなに会えなくなる。
(絶対に、いやだ)
オーヴァゼアが、指先から完全に離れようとしていた。
「やっぱり……」
それを――、
「負けられないや……」
――掴みとる。
そして、月明かりの中心へ――突き立てる。
「――吹き飛べ」
ヴゥンッ! 突き立てた杖を中心に、螺旋の渦が放出される。
[#挿絵(img\mb681_311.jpg)]
その瞬間、石材で仕上げられた床が粉砕、隆起し、魔力の発動だけで一階から五階までのすべての窓が割れて散った。
天窓も砕け、粉々になったガラスが輝く雨となって降り注いでくる。
ガラスの雨は月の光を透過させ乱反射、そこら中で同じ現象が起き、光の世界が生まれる。
建物内を蹂躙《じゅうりん》する破壊の力は、降り注ぐガラスを空気中でさらに微細化させ、地に届く前に消えてゆく。
『……なんという膨大な力――……、だが』
対するエフェクトの対処は冷静そのものだった。いきなりそこら中に現れた軌跡を、防御ではなく、回避し始めた。避けられた軌跡は建物の支柱に当たると、それを丸ごと削って、外壁までも壊してゆく。
圧倒的な無差別破壊を繰り返す蒼色のラインが、無数に走り抜ける。しかしそれ自体は細いために、避けることはたやすい。巡る軌跡をデイスコードは避け続けた。
そうすることはわかっていたため、一応、忠告してみる。
「ごめん。制御とか全然考えてなかったから……それ=A多分暴走するよ」
予想通り、軌跡は螺旋を描きながらそのサイズを肥大化させていた。
『!?』
明らかに大きくなった蒼の軌跡が、エフェクトの腕をかすめた。
――力を増した空色の光は、闇を呑《の》み込む。
触れるか触れないか程度のわずかな接触だったが、一瞬でも干渉してしまった左腕は根こそぎえぐり取られていた。
『……!』
脅威を改めて感じたときにはもう遅い。さらに大きさを増した螺旋が、幾重もの壁となり、エフェクトの前を埋め尽くす。
『グッ――オアァアァアアアアアアアアア――ッ!』
ボクは、消えゆく意識の中、空を仰ぐ。
薄く開いた瞳の向こうに――丸く輝く金色の空が、あった。
彼方のいる場所へと走るモエルの目の前で、一つの建物が光を放った。
「あの光は……――かなたんっ!」
モエルはその建物から放出された蒼い光を一目見て、それが彼方のものであることを確信した。同時に、戦標《せんりつ》を覚える。
「この、魔法は……? 何が、起きてるんだ……?」
塔のような建物から放たれた光の螺旋は、周囲の建築物にまで影響を及ぼしていた。立ち並ぶいくつもの廃墟を消し飛ばし、根こそぎ破壊してゆく。暴力的かつ破壊的な光景。
「でも――」
しかしその光景を前に、モエルは立ち止まり、呟いた。
「なんて綺麗な……」
閉ざされきった夜の中、天をつく光は。
「蒼――」
どこまでも澄み渡る、空の色をしていた。
――限界だった。体に響いてくるこの痛みは致命的ではないだろうか。散々殴られ蹴られ、ボコボコにされ、皮肉なことに、痛みによって生きていることを実感している。
正真正銘、すべての力を絞りきったのだと、脳も体も訴えてきている。
「あいたたた……」
辛うじて残った瓦礫の上に腰を下ろす。
ボクが最後に放った蒼の螺旋は、一つの建造物を跡形もなく崩壊させた。今いる場所は、外以外のなにものでもない。
風が、ボクの体を気遣うように吹き撫《な》でてゆく。
「…………」
捕らわれていた月が、広大な夜の海に身を沈ませている。
蒼い魔力の名残がまだ周囲に残っている。空気中を漂う魔力光はぼんやりと揺らめき、オーロラを思わせる光の美を描き出していた。
「……終わった」
自然と、口から言葉が漏れる。
込み上げてくる感情があるのはわかるのだが、その感情が単なる喜びだけではないのもわかっていた。
エフェクトが言っていた、今の自分に足りないもの。
――背負う想い。
確かに、エフェクトは強かった。その戦い振りには、実力以上の何かを感じた。それはたとえば、愉悦《ゆえつ》――戦うことに快楽を求める、貧欲《どんよく》なる意思。
「戦う理由、か……」
考えてみた。
――たとえば、世界を守るため。
「規模が大きすぎてピンとこない」
――もっと範囲を狭めて、誰かを守るため。
「母様やモエル……友達のみんなも、もちろん守りたい。……でも」
なぜかしっくりとこない。考えれば考えるほど答えが遠のいているような気がする。
(考えてもわからない問題は……わからないんだよね、やっぱり)
疲れた頭で考え事なんてするものじゃない。早々に考えるのをやめ、このまま寝ようとする。
今必要なのは、何よりも休息だった。
「――たーん」
「……?」
声が聞こえた気がしたが、それを探す気になれないほど心身共に疲れ果てていた。
「――なた〜ん!」
だんだんと声が近づいてくる。
「……モエル?」
聞き間違えようもなくモエルの声だ。
半日も経《た》っていないが、それは随分と懐かしい声に思えた。
「かなたんっ? 無事かいっ!?」
「ちょっ、まっ!」
ドスッ!
腹にめり込んでくる肉球四つ。
「もうダメ……げふっ」
「ああっ、かなたん! かなたーん!」
「叫ぶ前に……どいて……」
「あ、ごめんごめん」
危うくトドメを刺されるところだった。
モエルはお腹《なか》の上からそっと降り、また口を開く。
「生きてるんだね!? 死んでないんだよねっ!?」
必死な表情だ。その必死さだけでどれだけ心配されていたのか伝わってくる。
「生きてるよ。まあ……たった今殺されかけたけど」
今できる精一杯の微笑を浮かべそう言うと、ようやくボクが生きていることを実感できたのか、モエルは今にも涙をこぼしそうなくらい大袈裟《おおげさ》に安堵《あんど》した。
「……良かった……」
「心配かけたね。モエル」
ゆっくりと頭を撫でると、その手を押し返すように擦りついてくる。そうやってしばらく、喜びをわかち合った。
「! そういえばかなたん! 今まで誰と戦ってたの!?」
突然モエルが顔を上げ、大きな声を出してくる。
「確か、ディスコードつて言ってたけど」
「……。それでまさか、勝ったの?」
「うん。多分」
「――……」
モエルの体が小刻みに震え始める。
「モエル?」
「キミってヤツは――」
「……えっ、と嫌な予感?」
その予感は一秒後、的中する。
「大好きだーーーっ!」
肉球四つが再び腹に。しかも鳩尾《みぞおち》に深くめり込んできた。
「ちょ、落ち着いてモエルっ! 死ぬから! 肉球で死ぬ!」
そんな抗議は今のモエルには届かないらしい。体の上でゴロンゴロンと甘えてくるばかりで、すこしずつ遠のいていく意識は、その行動によって更に遠のいてゆく。
そのまま意識が消えるのには、さして時間はかからなかった――。
「……ふぅ」
うつぶせに倒れている牛型ノイズの背中に座り、グレイスは溜息を吐いた。敵の体からは小さな炎が爆《は》ぜており、パチパチと破裂音を立てている。
「こっちは片付いたみたい、ですの」
グレイスは、胸元から金色のコインを外し親指に乗せると、高く、空にまで届くような強さで弾き上げた。
「あちらも、終わったみたいですの」
空に迸《ほとばし》る蒼光《そうこう》の螺旋を見て、確信する。少女は消えゆくノイズを踏み台にしてストン、と地面に降りると、真っ直ぐに歩き始める。
その行く手に、一人の女性が立っていた。
「……幾瀬さん」
依は変身が解け、病室で着ていた服に戻っている。栗色のポニーテールはところどころほつれており、身だしなみも何もあったものではない。
黙って紅の魔法少女は歩く。距離が縮まってゆく最中に、炎のドレスが光となって解けた。
「留真ちゃん、あの、私っ――」
あと数歩ですれ違ってしまう。
依は口を開き、何かを伝えようとしたが、言葉が上手《うま》くまとまらない。
そんな彼女の胸に、
――ぽふっ。
「……っ!?」
グレイスの顔が埋もれた。
「?????」
何が何やらわからない依は、両腕を開き、手のひらをあわあわとばたつかせた。
「――少し、疲れましたの」
ふくよかな胸に顔を埋《うず》めたまま、呟きが聞こえた。
「え、えっ……つ」
慌てふためいていた依は、もたれかかっている留真がずり落ちないよう、ばたつかせていた両腕でおそるおそるその体を抱き、支えた。
少女の体にこもる熱は、依にとっても心地良い。
「幾瀬さん」
「はいっ?」
依はびくん、と体を震わせ、留真の言葉を怯えながら待つ。
「これからも私は、一人で戦い続けますの」
「…………。そっ、か」
寂しそうに依は顔を伏せた。そこに、小さな声が続く。
「でも」
[#挿絵(img\mb681_321.jpg)]
留真が顔を上げないのは、目を合わせないため。
これから言おうとしている台詞《せりふ》は、恥ずかしすぎる。
それでも言おうと思ったのはきっと、繋がりを恐れた少女の、些細な変化。
「……たまに、なら」
普段の突き放した口調よりもさらにつんけんとした、聞きようによっては照れ隠しにも聞こえる、そんな切り出し方だった。
――樋野留真。
強気でぶっきらぼうで意地っ張りな少女は、ありったけの勇気を持って言う。
「たまになら――甘えてあげても、いいですの」
やっぱり素直ではない、不器用な言葉。
腕の中にいる留真に、守りたいと思っていた少女に想いを告げられた依は、
「――……っ」
声をなくし、唇を噛みしめ、込み上げてくる感情に瞳を潤ませた。
優しく受け止めるだけだった腕に、力が入る。
「留真、ちゃん」
ぎゅっ、と。
出てこない言葉の代わりに、抱き締める。
「…………」
留真は、それだけで伝わってくる気がしていた。
触れ合った体が熱を分かち合うように。
想いが伝わる。
――そんな気が、していた。
二人の傍ら、空を目指した金貨が、ゆるやかに地面に落ちてゆく――。
崩れた瓦礫が積み重ねられ、一つの山となっている。
小さな風が吹くたびに灰色の粉が舞い、欠けた瓦礫が少しずつ風に消えてゆく。灰色の風と粉々に壊れた建造物。
――生み出すものの何もない、それは戦いの果ての風景。
彼方とモエルが慌ただしいやりとりを行っている場所から離れた位置で……崩れた瓦礫の中から染み出してくる黒い何かがあった。
『――あぁ』
明確な形を成していないそれは、散り散りになった黒い塊を集め、吸収していく。
『――消える』
一定の大きさまで吸収し終わった後に、その黒い塊――エフェクトは、緩慢な動きで再び人の形を取ろうとする。だが、形成しようとする傍から少しずつ体は消滅してゆく。
『これ、ほどとは……シラヒメ、カナタ……』
その途中でエフェクトは、離れた場所で気を失っている彼方に目を止めた。
『――アレは――』
そのときエフェクトは、彼方と一緒にいる一匹の猫を見つけた。
金色の毛並みと、遠距離からでも確認できるルビーアイ。外見は猫以外のなにものでもない。しかしエフェクトは、ソレを見てわずかな驚きを抱いた。
体のほとんどを吹き飛ばされ、動くこともままならないエフェクトの上に影が差す。
「ごくろうさま」
崩れた瓦礫の上に、少女が立っていた。
『……お前か』
その姿を確認し、エフェクトは少女に向けて声を飛ばす。
「強かったでしょ? ――白姫君」
『……ああ』
素直に肯定し、エフェクトはその少女の表情をうかがう。
「これで、白姫君はもっと強くなる」
感情の機微などまだよくわからないエフェクトだったが、少女の表情を見ただけで、何を思っているかは理解できた。
喜び、だ。そうでなければこんなにも優しく、こんなにも穏やかに、微笑むはずがない。
「それで、どうするかな? 前は断られちゃったけど……気、変わった!?」
彼方の方に向けられていた視線がエフェクトの方へ向く。仕方がなく、意思を持つノイズは答えた。
『……手を貸せという話か……この状態では……仕方あるまいな』
残っているのはほとんど欠片《かけら》に過ぎず、崩壊はいまだに進んでいる。このままでは、さしたる時間もかけずに自分が消滅することを、エフェクトはわかっていた。
「うん。来た甲斐《かい》があったよ」
少女がのんびりとそう言うと、エフェクトの姿がその場から消えた。そこには何もなかったかのように、建物の残骸《ざんがい》だけが残る。
少女は虚空にかざしていた手を下ろし、学生服のスカートを翻《ひるがえ》す。その際に、背中のおさげがくるん、と跳ねる。
この街全体を覆っていた妙な魔力≠ヘそのとき、完全に消え去った。
彼女は掛けている眼鏡《めがね》を外して胸ポケットにしまい、結んでいる髪をほどき、夜風になびかせた。
闇より艶《あで》やかな漆黒色の髪が、夜と同化する。
穏やかな色を秘めた視線がわずかに動き、彼方の方を見た。そして、
「また学校で、ね。――白姫君」
大枝《おおえだ》中学校一年B組、クラスをまとめる委員長は。
――人当たりの良い笑顔で、微笑んだ。
[#改ページ]
エピローグ
病室の中は賑《にぎ》やかなことになっていた。
「それにしても見つけたときはびっくりでしたの。あの建物が跡形もなく崩れ去っていたわけですし。一体何をどうすれば、そんな馬鹿げた真似《まね》ができるんですの?」
あの戦いで負った傷によって、ボクは入院する羽目になってしまっていた。
しゃりしゃりと隣でリンゴの皮を剥《む》いている留真《るま》は、手元に目をやったまま話しかけてくる。
その視線はいやに鋭い。
「いたっ!」
果物ナイフで指を切った留真は、親指を口にくわえて涙ぐむ。
ちなみに、指をくわえている彼女を見るのはこれでもう四度目だ。何度も代わろうとしたのだが、こんなときでも意地っ張りな留真であった。
「私が本部に連絡してなかったら今頃《いまごろ》大騒ぎですの。……はむ」
途切れてしまったリンゴの皮を口に運び、続きを話し出す。
あのとき放った蒼《あお》の螺旋《らせん》は、結果としてあの廃棄工事区を更地にしてしまった。いくら認識|阻害《そがい》があっても、そこまで大きな違和感を処理することはできない。
そこで留真がチューナーの本部に連絡し、なんとかしてもらったわけだ。
さっきお手洗いに行くときに見かけたニュースでは、とある大企業が廃棄工事区の土地を買収、今日から早速工事に取りかかるということだ。あの敷地は現在、工事用のシートで覆われ、中を見ることはできなくなっている。
その手回しの早さには驚くべきものがあるが、それ以上にスポンサーとやらの存在がどれだけ巨大であるのか、今回の一件で垣間見た気がする。
「痛ッ!」
五度目。
「ねぇグレ子。キミはリンゴを血の味にする気かな?」
学校のバッグに詰められているモエルが、見るに見かねてか顔だけ外に出して喋《しやべ》る。病院に動物を入れるのはまずいのだが、留真に連れてきてもらったそうだ。
「こんなリンゴの皮剥きごときっ、簡単にできますの――あと今は留真ですっ」
「ってかおいらの方が上手《うま》いと思うよ? ……るま子」
「なんで子を付けることにこだわるんですかアナタはっ!」
いつもの言い争いが始まりそうになって、ボクは慌てて声を上げる。
「あーあのっ、留真ちゃん、モエル。ここ病室だから」
「! ごほん」「! ちえっ」
仲の悪さは相変わらずだが、それも前とは違っている。今はどちらかというと、想《おも》いを伝え合うための儀式として喧嘩《けんか》をしているような、そんな感じだ。
「…………」
ボクがあの戦いで負った怪我《けが》は、信じられないほどに軽微だった。
全身打撲と擦り傷、それだけだ。これにはさすがに、留真やモエルも驚きを隠せないようだった。もちろんボク自身も驚いている。
あのとき受けていたダメージはこんな軽いものではない。たったの三日で治るような、そんなものではなかったはずだ。骨の数十本くらいは覚悟していたのだが……。
これについてモエルが言うには、
『魔法少女に変身すれば当然治癒能力も上昇するわけだけど、キミはどうやら、身体的な能力に対しての強化が桁違《けたちが》いらしい。……これはさすがのおいらもびっくりだよ。まるでこなたんみたいだ』
ということだが……母に対しての謎が一段と深まっただけである。
「はい、剥けましたわよ」
リンゴが皿の上に一口分に切り分けられた。形が歪《いびつ》で、身があんまりないのが愛嬌《あいきょう》たっぷりだ。
「ん、ありがと留真ちゃん」
受け取ろうとすると、彼女は手を引いて皿をボクから遠ざけた。
「?」
「あ、の……えっと」
そんな自分の行動に、彼女自身が一番戸惑っている。ボクの顔と手に持ったリンゴの皿とを交互に見比べ、彼女はいきなり素手でリンゴの一つを掴《つか》んだ。そして、
「……ど、どうぞ」
俯《うつむ》いて上目遣いに、ボクの口元に差し出してくる。
「え、あ……どうも」
しゃく。流されるままにボクはそのリンゴを口に入れる。心地良い歯応《はごた》えをしたそれは、蜜がよく入っているため噛《か》んだだけでも甘い。果汁があふれて、ほどよい酸味が口の中に広がってゆく。
(あ、美味《おい》し……、ってこんなことしてたらモエルが怒って――)
もう遅い気もしたが、ベッドの脇に置いてあったバッグを見る。しかし、そこにモエルの顔はなく、どうやら中に潜っているようだった。
(……!? 珍しいな)
もしかしたら、騒がしくしないよう気を使ってくれたのだろうか。
[#挿絵(img\mb681_331.jpg)]
「彼方《かなた》さん、もう一つ……いかがです?」
次を差し出そうとする彼女を見ると、その顔はリンゴのように真っ赤になっている。
(恥ずかしいならしなくても――っ!?)
釣られてこっちまで恥ずかしくなってきた。けど、言葉に甘えて口を開く。
そのとき、遠くから何かが聞こえてきた。
「――ちゃーんっ!」
病室の外の通路から聞こえてくる声は、段々と音量が大きくなってくる。
「か〜な〜た〜ちゃ〜〜〜んっ!」
「!?」
ボクと留真は顔を見合わせ、目をぱちくりとさせる。間もなくこの病室のドアが勢いよく開かれ、
「彼方ちゃん! 体だいじょうぶっ!?」
慌てた女性が室内に飛び込んできた。
「依《より》さんっ!」「幾瀬《いくせ》さんっ!」
同時に彼女の名を呼ぶ。依お姉さんはポニーテールを躍らせ、慌ただしくベッド脇にまで駆け寄ってくると、間髪入れずに両手を広げ――。
「はぐっ!」
問答無用で、熱い抱擁《ほうよう》を仕掛けてきた。
「ちょっ、依さんっ」
「心配したんだよっ!」
ぎゅむっ、と体に圧力がかけられ、心配がそのまま物理的な形で伝わってくる。
「うわわっ、依さんちょっと落ち着いて! ボクまだ体がっ!」
「……ほんと、心配だったんだよ……」
見ると彼女は、瞳を潤ませていた。それを見られたくなかったのか、顔をボクの体に埋めてくる。それから何度も、鼻をすすり上げた。
その様子を留真は、柔らかい表情で見守っている。
「依……さん」
「…………」
すすり上げる音は、止まない。
「ありがとうございます。ボクは大丈夫ですから」
「…………」
何度も、何度も、彼女はボクの体に顔を埋めたままで――。
「えっと、だからあの、そろそろ」
「…………………………………………いい匂い」
ぼそっ。
「…………え?」
小さな、聞き取れないくらいの呟《つぶや》きが聞こえた瞬間、猛烈な既視感が襲ってきた。
留真ががたん、と席を立ってそそくさと|逃げる準備《ヽヽヽヽヽ》を始めた。これから何が起こるのか、彼女は身をもって理解している。
しかし……逃げようとした少女の手を、別の手が掴《つか》む。
「!? っ! ――彼方さん――!? 離すですの!」
高まりつつある気配《ヽヽ》に、ボクは儚《はかな》い笑顔を浮かべて言った。
『留真ちゃん、ボクたち、友達だよね……』
「ひっ、そんな、そんなっ!」
ボクが掴んだ手を勢いよく引っ張ると、大切な友達はベッドの上に寝転がる。
やがて、
「――は」
依お姉さんは、
「ぐ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
爆発する。
「かわいい子が二人もっ! し・あ・わ・せ〜〜〜〜〜っ」
「いたたたたたっ! 依さん、手加減! 手加減忘れてますっ!」
「もう無理ですの! この人完全にあっちに行ってますの!」
「っ! そうだ、依さんっ! 実はボク、女の子じゃなくて、男なんですけど――」
助かるための、苦肉の策――だったのだが。
「そうなの? でもかわいいからぜぇんぜんおっけ〜!」
「ああああダメだった!?」
「幾瀬さん――どさくさに紛《まぎ》れてどこ触って――んっ」
病室の中は一気に騒がしくなってしまった。
「……女三人寄ればかしましい、か。なるほど、言えてる」
絡み合う三人をほくほく顔で眺めているモエルが、言った。
「こらっ、モエル! 見てないで助けろおっ!」
病室の中だということを忘れて叫んでしまう。
「んん〜〜〜っ、二人とも柔らかすぎだよ〜っ!」
「こ〜の〜っ、その生意気な胸を押し付けるなですの!」
「留真ちゃんっ、さっきから肘《ひじ》がボクのお腹《なか》にめり込んでるっ!」
「い〜匂《にお》い〜」
「あっ、すみません、でも力を緩《ゆる》めるわけには!」
「ひゃっ、依さん、そんなトコ嗅《か》いじゃヤですっ!」
そんな大騒ぎの中、ボクはさっきから怒鳴り続けている赤髪の少女を見た。
「幾瀬さんっ! アナタはもう少し落ち着きってものを――」
そのときの彼女は、いつもみたいに厳しい顔で怒っているのだけれど。
「いつもいつもアナタは――」
でも、心の中では笑っているような。
「――……」
冷たいけど、温かい――。
――なんだか優しい、顔をしていた。
[#改ページ]
おまけ
「は〜っ、空気が美味《おい》しい〜♪」
両手を広げ、少女は体中に自然の息吹を取り込んだ。
彼女の周りには確かに新鮮、かつ清涼な空気が満ちあふれている。
雷のような爆音が断続的に轟《とどろ》き続けるその場所は、飛び散る水しぶきによって視界が閉ざされてしまうほど、圧倒的な水量が周囲を埋め尽くしている。
――瀑布《ばくふ》。そこは自然にできた断層を河水が落下してゆく、滝見物の観光名所である。空から見下ろすと窪《くぼ》みのようになっているその断崖《だんがい》周域は、落ち続ける水によって真っ白に染まっている。
「う〜ん、テレビや写真で見るのとはまったく違うな。やっぱり絶景は自分の目で見て、体で感じてこそよね〜っ」
貸し切りの遊覧船に乗って、白姫此方《しらひめこなた》は絶景を満喫していた。
波立つロングヘア、白銀色をした髪は、空気中に含まれた多量の水分によって潤沢に輝く。
楽しい、嬉《うれ》しい、面白いと、明るい感情だけを映し出すぱっちりした瞳が、きょろきょろと物珍しげに動いている。
「ひゃ〜っ、つめた〜!」
船の二階デッキは風当たりも強く、舞い上がる水の粒がほとんど雨のように降り注いでくる。
本来であれば船の乗船前に手渡されるレインコートを着て挑むのだが、この白銀の少女にそれを着る様子はまったくなかった。
おかげで着ている服は既にびしょ濡《ぬ》れ、桃色のシャツがぴったりと肌に張り付いてしまっている。
しかもその控えめな胸元は、それを覆う着衣を着けていないため、体のラインそのままが浮き彫りになっている。着ている服の色が白だったら大変なことだ。
「あはは。これじゃ水もしたたる〜ってものじゃないわね〜」
それでも彼女は不快な顔一つ見せず、何もかもを楽しむ。それからじっくり二十分もの間、此方はびしょ濡れになりながら絶景観光を楽しみ、船を降りていった。
「ふぁ〜、楽しかった」
濡れ鼠《ねずみ》になって降りてきた絶世の美少女を見て、周りの観光客は一様に驚く。全身びしょ濡れであることも材料の一つだが、それよりも、その少女の持つ神秘。清楚《せいそ》で絢爛《けんらん》、端麗かつ気品に満ちあふれた雰囲気に、目を奪われてしまう。
だが当の此方はそんな視線もどこ吹く風で、猫のように勢いよく身震《みぶる》いし、付着している水滴を軽く弾《はじ》き飛ばす。
「堪能《たんのう》たんの〜っ、ぷしゅんっ」
かわいらしい声で此方がくしゃみをする。あれだけ濡れれば無理もなく、このままでは風邪を引いてしまうのは時間の問題だ。
そこで此方は、落ち着いてまず呪文《じゅもん》を唱えた。
「此処《ここ》に芽吹け――命の花」
――それは意味在る言葉=B人を超えた力に触れる、魔法の言葉だった。
此方を中心に巻き起こる桜色の光。
温かさを秘めたその光は、濡れ放題になっている衣服を一瞬で消し飛ばし、そこに新たな生地を生む。
数十秒の変身プロセスが終わる頃《ころ》には、桜色の魔法少女が一人、その場に立っていた。
フリル盛りだくさんのドレスに身を包み、薄生地のショールを肩に羽織り、満開のフレアスカートをひらりと舞い上がらせて。
「まじかるこなたん、ここに参上〜、なんてねっ♪」
自分の独り言に、てへりと笑う。
一人の少女がいきなり姿を変えたのを見ても、周りの観光客が騒いだりすることはなかった。
それは変身した瞬間から、視覚認識を曖昧《あいまい》にするフィールドが形成されているからだが……そんなことなど、此方はまったく考えていない。ただ、濡れていない自分のドレスをさわさわと撫《な》でながら、
「便利ね〜変身って♪」
などと、実感しているだけであった。
「ん〜、でも体は冷えちゃってるかしら。なんか温まるものでも!」
と、此方が周囲に目を配ったとき。突然、軽快な音楽が鳴り響いた。その音の出所は彼女の懐からで、この弾けるようなポップサウンドは、彼女の携帯電話の着信音であった。
「あらあら」
此方は防水加工された携帯を手に取り、まず着信画面を確認する。
「――……」
発信者の名前を見た此方はそのまま通話ボタンを押す。そして繋《つな》がると同時に言った。
「何かあった?」
単刀直入な一言がこの通話の重要さを物語っている。
『彼方《かなた》のことです』
携帯電話から聞こえてきたのは、男の声。
それから数分間、此方は黙って電話口の相手の声を聞いていた。
「……そう」
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軽く三分ほどが経《た》ち、一言も声を発しなかった此方が頷いた。用件が終わるとすぐに、手早く通話を切って携帯を懐にしまう。
彼女は、その顔から天真燗漫《らんまん》な笑顔を消していた。
「ノイズの異常発生、ディスコードの出現……」
彼女が受けた報告は、大枝《おおえだ》町で起きている異変≠ノ関してのことだった。
ノイズが連続発生していること、ディスコードが現れたこと。
「そして――心を惑わす声」
どの異変にも自分の息子である、彼方が関わっていた。
「かなちゃん……」
惚《うつむ》いて家族の名を呟《つぶや》きながら、両手をきつく握りしめる。幼い少女と言っても過言ではない小さな体が、震《ふる》えている。
その顔に浮かべているのは、子に対する心配や、不安といった憂いの表情――。
「さすがだわっ♪」
――などではなく。
喜び、そのものであった。
「ディスコードを倒しちゃうなんて、こんな短期間ですごい成長ねっ♪」
嬉しさを全身で表現しようと、此方はその場で回転する。
ドレスがふわりと咲き誇り、波打つ白銀が花を飾る。
そのまま此方は、ところかまわず踊り始めてしまった。
大きな花びらがくるくる舞っているかのようなその光景に、道行く人々が目を留める。認識|阻害《そがい》も、自ら存在を主張する此方の前には無力であった。
そこにいるのが誰なのかは認識できない。しかし、周りの人々は一目見ただけで、その正体を確信する。
――そこにいるのは、妖精だ。
大地の上を舞い踊り、人々に笑顔と喜びを振りまく妖精なのだ、と。
「〜♪」
此方が舞うたびに羽織ったショールから桜色の魔力光があふれ、周りに振り撒《ま》いてゆく。
魔法少女が身軽な体でリズムを刻むと、人々は元気を漲《みなぎ》らせ、彼女の周りで頭《こうべ》を垂《た》れていた花々は活力を取り戻し、命を花咲かせた。
いつしかその場所は、妖精の踊る場所として人を集めていた。
偶然そこにいた楽師が陽気なダンスミュージックを奏でると、あまりに楽しそうに踊る妖精に釣られ、見物客も一緒になって踊り出す、
――やがて一人の魔法少女は、青空の下に囲いのないダンスフロアを作り上げてしまっていた。
騒ぎの中心となっていることなどまったく気にしていない此方は、踊りながら空を見上げ、その蒼《あお》い世界の向こうに、愛《いと》おしい子の姿を見る。
「かなちゃん、頑張ってるみたいね」
空に語りかけるその表情は、とても母性に満ちた顔をしている。
「……恋しくなってきちゃったかな」
そう言ってはにかみ、頬《ほお》を赤らめる仕草《しぐさ》は、恋する乙女の顔でもあり。
「そろそろ――」
最後に桜色の妖精は、彼女を彼女たらしめる、純真|無垢《むく》の笑顔を浮かべ。
「――帰ろうかしら、ね♪」
楽曲のフィナーレと共に、その場から姿を消した。
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あとがき
お久しぶりです、白瀬修《しらせしゅう》です。
二巻から手にとってくださいました方々は初めましてでございます。
後戻りできない道を突っ走るこの「おと×まほ」ですが、今回めでたく二冊目が発売されることとなりました。これも全て応援してくださいました皆様のおかげです。
しかし正直なところ、一巻が発売されてからというもの、読者様の反応が気になって仕方がありませんでした。
正統派なストーリーを真っ直ぐ進みつつ、根本的な設定が斜め上を向いている作品ですので、もし受け入れられなかったらどうしようと不安な部分は多々ありました。
しかし、「これはアリじゃない?」「どうでもよくなってきた!」「かなたんはオレの嫁」などなど、心強いお言葉を頂き、不安なんて一気に吹っ飛びました。(……嫁?)
と、なれば許される限りこの道を突き進んでみたいと思いますので、これからも見守っていただけたら感謝の極みでございます。
今回はグレイスチャペル、樋野留真《ひのるま》のお話です。一巻ではあまり出番がなかったにもかかわらず結構な反響を頂くという、とても幸せな子です。
そして、新しい魔法少女として幾瀬依《いくせより》が登場しています。二十四歳で魔法少女ってどうなんでしょうね?(聞くな)……とにかく、彼方達より一回り上のお姉さんです。胸は大きめで、かわいい女の子をハグするのが癖《くせ》の、外に出したらまず捕まってしまいそうな人です。
いきなり話が変わりますが、自分の知り合いにお姉様のマスター、つまりお姉さマスター≠ネどと呼ばれている友人がいるのですが、これがまた――え? あ、すいません二巻の話でしたね。
相変わらず彼方は弄《いじ》くられ、恥《は》ずかしがっています。そろそろそれが快感に……なってきたりしたら、この作品はきっとお子さまには読ませられなくなりますね。でもそういったご要望があれば、どうなるかはわかりません。……可能性って言葉、いいですよね。
モエルも相変わらずの脅迫者です。今回、新たに脅迫ネタを握られてしまった子もいますが。
いいんちょはどんどんエロく、丈《じよう》君はどんどん不死身に。
一巻、二巻と出番の少ない此方《こなた》ですが、彼女もそろそろ――と、まあこんな感じです。
今回も、イラストを手掛けてくださいましたヤス様。店頭に並んでいるのを見るたびにレジに持って行ってしまいそうになるくらい素敵なイラストを、ありがとうございました。そして、今回もご協力いただきました編集の皆様、感謝を申し上げます。
――それではまた、再びお会いできることを心より願っています。