おと×まほ 1
白瀬 修
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目次
プロローグ
1.始まりは、大きな矛盾
2.チューナーとノイズ
Other side,モエル
3.紅の魔法少女
Other side,モエル
4.よこしまな騒音
5.彼方争奪戦
6.見えない空
エピローグ
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プロローグ
黒い空に、白銀が奔《はし》る。
濃紺色の宵闇に相反する、鮮烈な光。
街を駆《か》ける――魔法少女。
汚れ一つない白のワイシャツ、青と白のチェック柄《がら》のミニスカート。胸元に飾られた桜色のネクタイ。大きめのシャツの袖《そで》からちょこんと出た指先は、この幼い魔法少女の儚《はかな》さを顕《あらわ》すように白かった。右手には、何に使うか分からない、体より一回り長い棒を持っている。透明度の高い青色で構成されたそれは、先端に無色の宝石が付けられており、魔法少女という存在の放つ異彩に、拍車を掛けていた。
目を惹《ひ》く部分は多かったが、中でも最大の特徴は――背に向けて揺らめき、たゆたう、白銀色の髪。
人の営みが織りなす平凡な街中を、非凡な風貌を持つ存在が走る。細い体躯《たいく》からは想像もできない速度で、通行人の目に止まる頃には、銀色の残滓《ざんし》だけが残っている。わずかにも乱れることなく袂《たもと》にある銀糸は、見る者を圧倒し、その胸に優美な幻想を刻み込む。
輝きばかりが目に付くシルエット。しかし、その人並み外れた容姿とは裏腹に、走る魔法少女の吐く息は荒く、確かな疲労が現れていた。
「待てぇっ! ――はぁっ、ハァッ」
年相応の潤いを含んだ小さな唇が開き、中性的な、金管楽器を鳴らすような響きのある声が放たれる。緊張感と乱れた呼吸音の混ざり合った声は、前を走る影に向けられていた。
前方で一定の距離を取りながら高速移動する影。実体がなく、影のみが地面を這《は》うように移動しているように見えるそれは、その実、黒い獣であった。形状から言えば狼に最も近い、しかし、完全に黒一色のシルエットでは見分けようもない。
宵闇の中、さらに深く濃い黒影は、追跡してくる白銀の魔法少女から逃げている。
「ほんと、待って……」
走るペースを緩めることなく、しかし声には疲労を滲《にじ》ませながら、弱々しく呻《うめ》く。
「ほらほら。このままだと逃げられちゃうよーっ」
トーンの違う、弾むように快活な声が響く。先程からずっと少女の肩におぶさっていたそれは――金色の猫。
「がんばれ〜っ、あ、でもあんま揺らさないで。酔うから」
金色の猫は、まるっきり他人事のように言った。
人の言葉を話す猫。非凡な外見を持つ魔法少女の相方もまた、非凡な存在である。
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「モエル! 文句を言うんだったら降りてよ!」
「かなたん! 魔法少女の肩の上には小動物。これがセオリーなんだ。分かってよ」
「どこのセオリーだっ!? それとかなたん言うな! 何度も言うけどボクの名前は彼方《かなた》――か・な・た! ん≠付けるな!」
「たん≠ェ付いた方がかわいいっ!」
「そんなかわいさいらないっ!」
夜の街並みに轟《とどろ》き渡る一人と一匹の応酬。
その間に黒塗りの狼は、追跡者である魔法少女と猫――彼方とモエルから距離を離す。
「あっ、こら!」
「ほら! かなたんがよそ見するから!」
狼は、ちょうど街の灯火が消える場所――人のほとんど住んでいない、いくつかの寂《さび》れた廃ビルがあるだけの場所へと逃げ込んでしまった。周囲に灯りすらもないため、黒塗りであるその体は完全に見えなくなってしまう。
「こんな夜遅くにこんな街外れまで走ってるってのに、その言い草はなんだ!」
疲れと苛立ち、両方が限界点に達しつつある彼方。
「キミが変身するのを嫌がらなかったら、もっと早く終わってたかもしれないでしょ!」
「恥ずかしいんだってば! この衣装!」
自らの着ている服を指差し、彼方が叫ぶ。走る動きによって、ひらひらとスカートが揺れている。
「街の平和より羞恥心《しゅうちしん》かい? かなたんかわいいんだから、もっと自信を持てば良いのに」
かわいい、という言葉に反応して、彼方の顔がピク、と引きつった。
「――分かった。もういい……!」
彼方は抑えめに呟《つぶや》くと、いきなり走るのを止めた。体に逆方向からのGがかかり、捕まりきれず投げ出されるモエル。しかも着地に失敗し、ごろごろと地面を転がってゆく。
「いっ、いきなり止まるなんて酷《ひど》いじゃないか――っ!」
起き上がって叫んだモエルが、息を呑《の》む。動くことすら躊躇《ためら》われる。まるで薄く張られた氷の上に立たされているような、そんな緊張が体を止めさせていた。
その雰囲気を作り上げているのは、彼方である。静寂という脆《もろ》く細い糸に、全神経を集中させる魔法少女。今の彼方は、わずかな物音、小さな息づかいでさえも、水面を歪《ゆが》める波紋を見取るように、確実に感じ取ってしまうだろう。
研ぎ澄まされた意識は、乱雑に雑草が生い茂り、蔓《つる》が巻いている廃ビルの方へと向けられている。
五階建てのビル。長年人に使われた形跡のない、忘れられた建物。階層毎に窓が設置され、一階の窓は全て乱暴に割られている。恐らく、人為的なものだろう。
音すらも去ってしまった場所に、ざわめきがある。静かな場所に紛れ込んだ騒音=B
その二階、窓辺の影がわずかにブレた。
「――いた」
唇を動かし、彼方は右手に持っていた棒を真横に掲げた、すう、と小さく息を吸い込み、握る手に軽く力を込める。
ピィン。
張り詰めた場に澄んだ音色が響く。それをきっかけとして、輝きが生まれた。棒の先端に付いた宝石。これまで無色透明だった石に、光が灯る。
蒼《あお》い光。
透き通るように青く、少しだけ白みがかっても見えるその色は、晴れた日の青空によく似ていた。
彼方は、蒼色の光を灯した棒――いや、杖《つえ》≠、ゆっくりと天に向けてかざす。
目線は前、狼が逃げ込んだ廃ビルへと見据えられ、外さない。
空気がざわつく。迸《ほとばし》る威圧感に、周辺に生息している生き物が足を揃えてその場から離れてゆく。
そして魔法少女は、天を指す杖に左手を添え、
「蒼の軌跡=v
小さく呟き――振り下ろした。
上から下へと、半月を描く。
蒼い光が、尾を引きながら闇夜を切り裂いてゆく。
虚空に刻まれた軌跡。静寂に浮かぶ、蒼いハーフ・ムーン。
締めに彼方は、杖の先端、光を生み出した宝石で、自らの描いた軌跡を突いた。
静止していた光が――奔る。
ゴゥッ! 込められた威力の大きさが、そのまま風圧となって吹きつける。景色が陽炎《かげろう》のように歪み、大気が震え、その圧力に晒《さら》された周囲の石などが亀裂音を奏《かな》でる。
それは、人の知識の範疇《はんちゅう》を超えた光景――魔法の、行使。
放たれた魔力の余波で、少女の髪と服がはためいた。短いスカートが揺れ、その下に履いている、ピッタリと肌に張り付いた黒スパッツが見える。
「ちょっ、かなたん! それ撃つのはやり過――」
緊張状態から解放されたモエルが、焦りを浮かべた表情で叫ぶ。しかし、もう遅い。
蒼の軌跡は、目標との距離を数秒とかかることなくゼロへと変える。
スカイブルーの光が、廃ビルに触れた瞬間。
――破壊が、標的を蹂躙《じゅうりん》する。
一条の軌跡は数倍にも膨れあがる威力の爆発へと姿を変え、周囲の構造物から、空気中の塵も逃すことなく呑み込み、威力を吐き散らす。建物が蒼い光の中で崩壊していく様は、青という色の持つ爽快な印象とは対照的に、荒々しくも絶対的な破壊を描き出していた。
やがて光が止み――そこに存在していたものは、影も形もなくなっていた。廃ビルは丸ごと姿を消し、内部に潜んでいたはずの存在も、見事に消失している。
「ふぅ」
戻ってきた静寂の中で、白銀の魔法少女は安堵《あんど》の息を吐いた。
「え〜と、まあ、ちょっと……いや、かなり被害が出ちゃったけど……うん。おつかれさま、かなたん」
労《ねぎら》いの言葉をかけながら、モエルは苦い視線を先に向ける。ルビー色の目に映るのは、蒼の軌跡の着弾地点。呆《あき》れているような口調で呟く。
「こりゃ、ひとたまりもないわ」
――コンクリートの地面が不自然に陥没《かんぼつ》している。月のクレーターを思わせるそれが、先ほど放った魔法の威力によるものだというのは、見るも明らかだった。
「モエルが余計なことばかり言うからだよ」
頬《ほお》を膨らませて彼方が怒る。今までの緊張を秘めた表情からは少し変わって、今は無邪気な、心身の幼さを前面に押し出した表情であった。
「さて、さっさと変身解いて帰ろ」
「あ、待ったかなたん」
いそいそと帰り支度をしようとした彼方に、モエルがストップをかける。
「……なにさ?」
嫌な予感がする、といった表情で彼方が聞き返すと、
「そろそろさ……必要だと思うんだよね。
――決めポーズ」
シリアスに、声を不自然に重くしたモエルが囁《ささや》く。
「は?」
「いやいいんだ皆まで言わなくても。――ちゃんと、考えてきたから」
どこから取り出したのか、モエルの手には一枚の画用紙。それには彼方によく似た少女が、かなりファンシーに脚色されて描かれている。絵の中の少女は、自らのスカートをつまみ、膝《ひざ》を軽く曲げ、丁度カーテンコールの挨拶《あいさつ》のようにかわいらしく振る舞っている。
「どうだろう。ちょっとスタンダードだけど、スカートを少しつまみ上げるのがいいと思うんだ。何て言うんだろ、チラリズム?」
モエルは絵に示したポーズについて雄弁に語る。デフォルメされていながらもよく特徴を掴《つか》んだ絵であるが、現実の彼方とは、確実な相違点が存在していた。
「ミニスカートというただでさえギリギリな布きれを、自らの手でさらにつまみ上げるという背徳的行為。だんだんと露《あら》わになる柔らかな太股《ふともも》、それ以上は決して見せない、がゆえに生まれるもどかしさ――想像力という壁にひたすら爪を立てる、未完の美術品を思わせるこのポーズ! これをロマンといわずしてなんと言う――」
夢中であるがゆえに、気付いていない。絵の中の少女はふわりとした笑みを浮かべているのに、目の前にいる絵のモデルは、能面のように表情を微動だにさせていないという、その事実に。
ロマンとやらを散々口走ったあと、モエルはようやく現実に視線を戻し、大仰に言った。
「とりあえずやってみよう! 話はそれからだっ――!?」
気付いたときにはもう遅い。赤い瞳が見上げた先には、杖がある。高く、高く、天に向けて振り上げられた杖が。
「えーと、ちょっと、かなたさん?」
白銀の髪は清く輝き、表情を闇が覆い隠している。ただ、その両眼の中に、モエルは並々ならぬ殺意を感じた。
「ボクは――」
ぽつりと、冷気を含んだ声が漏れる。
「ボクは――」
ぽつりと、怒気を孕《はら》んだ声が漏れる。
脱兎《だっと》、モエルは一目散に体をひるがえし、逃げようとした。だが、絡みつくような冷たさと焦《こ》がされるような熱さからは、逃れられない。
彼方が、逃げるモエルに向けて、怒声と共に杖を振り降ろす。
「ボクは――ッ、オトコだと! 言ってるだろォォォッ!」
モエルが最後に見たのは、蒼い光と白銀の輝き、魔法少女の衣装を身に纏《まと》った、神秘なる容姿を持つ、少年の姿であった。
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1. 始まりは、大きな矛盾
ボクこと、白姫彼方《しらひめかなた》の住んでいる大枝《おおえだ》町は田舎町である。海に面し、森林にも恵まれている。
都会ほどではないが、賑《にぎ》やかさもそこそこにある、いたって平凡な田舎町。
都会には刺激が満ち溢《あふ》れているらしいが、この町には平和がある。どちらがいいかなんて、そこに生きる人間にしか決められない。両方を求めるのは贅沢というものだ。とにもかくにも、大枝町は穏やかな空気と共に、そこに住む人々を見守っている。
――そんな平和な町に、白姫家はあった。
その日も、いつもと変わらない一日だった。
普通に朝起きて、学校へ行き、帰ってきて、夕食の用意を手伝い。
「いただきますっ」
両手を合わせ、食事の開始を宣言する。
「たんと召し上がれっ♪」
テーブルの向かいで母が明るく言った。食卓の下には小皿が置いてあり、我が家のペットである猫のモエルが、何も言わずとも定位置に着いている。
食卓の上には数々の料理が並んでいる。トウモロコシの香り立つコーンスープ、ベーコンとほうれん草のバターソテー、醤油の味付けが絶妙な煮物、歯応え満点のキュウリのぬか漬け、と、和洋折衷の加減を微妙に間違えた、良く言えばバラエティ豊かな夕食である。
「あいかわらず落ち着きのないレパートリーですね。どうせまた――」
苦笑しているボクに対し、母は無邪気に笑い、
「ええ。料理の本を適当に開いて決めたの♪」
弾む声で言った。この人はいつだって幸せそうだ。満開に咲いた花びらのように、自分を綺麗《きれい》に咲き誇らせることのできる希有《けう》な人だ。
「母様。こないだみたいにギトギトのビーフシチューとこてこての味噌豚カツを同時に出すような真似はよしてくださいね。っていうか料理を運に任せるな!」
「いーじゃないっ、かーさまは楽しい食卓を作りたいのっ!」
ふりふりのワンピースから覗《のぞ》く甘いミルク色の肌、楽しいことを探し続けるくりくりの眼。瑞々《みずみず》しい桜色の唇は、微笑みがよく似合っている。柔らかなウェーブのかかった銀色の髪は、月光を乱反射しながら揺らめく、夜の海を彷彿《ほうふつ》とさせる。
見た目は小学生、ひいき目に見ても中学生が限度という、成長を拒否しているかのような幼い外見。そこから繰り出される発言のほとんどは、無邪気という弾丸に込められ、放たれる。
そんな母が、持っていた箸の動きを止めた。
「どうしたの? かなちゃん。ずっとかーさま見つめちゃって。惚れた? 大歓迎よ♪」
――これだ。これが母、白姫|此方《こなた》である。
「母様と付き合ったりしたら体が持ちそうにありません」
「あら。かーさまそんなに激しそう?」
箸を口の端に含み、頬《ほお》を赤く染めて聞いてくる。
「? 十分激しい人でしょ」
「あらあら。それじゃあ今度、試して……みる?」
上目遣いで悩ましげな視線を送ってくる。箸を口からつぷ、と抜き取る動きが、妙に艶《なま》めかしい。
「何をですか……」
意味が分からず聞き返す、すると母は頬に手をあて、急に照れ照れとした仕草をしだしたかと思うと、
「そりゃナニを……って言えるわけないじゃないっ♪」
一人で嬉しそうに呟《つぶや》き、煮物を箸でブスッと、皿まで突き破らんばかりの勢いで突き刺す。
成長を拒否しているというのはあながち間違っていないかもしれない。とにかくころころと表情を変え、せわしなく動き回る。我が道を征《ゆ》く、が、この人の行動理念。
テーブルの下を何気なく見ると、定位置での食事を止め、モエルがジッとこちらを見ていた。
少々落ち着きがないが、普段から人懐《ひとなつ》こく、賢い猫である。今の会話が理解できたのか、呆れた風な目線をこちらに向けている。
母と向かい合うと、いつも思う。
(本当にこの人は、ボクの母親なのだろうか……)
性格が違いすぎるとか、そういうことではない。
ボク、白姫彼方と、母、白姫此方は。
――姿形が、瓜二つなのだ。
街を二人で歩いていると、大抵の人がボク達を双子だと勘違いする。それも無理はない。違いは髪型だけなのだから。
母の髪は肩より少し下くらいのロングヘア。全体に綺麗なウェーブがかかっている。
対してボクは、腰の辺りまであるスーパーロング。母とは違い、ストレートだ。
異なる部分はそれだけ。身体的特徴はほとんど同じ。見分けもつかないはずだ。
「ね、ね、かなちゃん」
母が話しかけてきた。その顔には絶対無敵の微笑みが浮かんでいる。こういう笑顔の時は、大抵、ロクでもないことがその口から飛び出してくるのだ。
――まあ、ある程度のロクでもないこと≠ノは、慣れてしまっているのだが。
「明日から母様、ちょっと出かけてくるから――」
しかしその日はひと味違った。
「――今日から母様の代わりに、かなちゃんが魔法少女になってね♪」
迷いも躊躇《ためら》いも不信もない、自信に満ち溢れた弾丸≠セった。
だからボクも、冷静に言葉を受け止め――、
「あ、母様、そこの醤油取って貰《もら》えますか?」
冷静にスルーした。が、しかし。母は子の心をまったく汲み取らず、
「大丈夫よ。かなちゃんならできるわ。――ね? モエルちゃん」
強引に話を進め、猫にまで話を振ってしまった。
猫のモエルは、母と視線を合わせてこくんと頷《うなず》き、そして口を開いた。
「うん。かなたんなら大丈夫だと思うよ」
「…………」
ゴトンッ。手に取った醤油差しが、手からこぼれ落ちた。
――目の前にいるのは、モエルだ。猫のモエル。さざめく麦穂のような金色の毛並みを持ち、透けるように紅い、ルビー色の瞳を持つ。
七年前に母が拾ってきた、捨て猫。……今は立派な、家族。
その、捨て猫で今は家族のモエルが、
「さすがこなたんに鍛えられてるだけあって落ち着いてるね。もっと叫んだりしてもいいものだけど」
通りの良い、快活な声でペラペラと話す。後ろ足二本で体のバランスを取り、前足二本を胸(?)の前で器用に組んで。もちろん、そんな芸を仕込んだことはない。
「…………」
「ん? どったの、かなたん――」
黙って両脇から掴《つか》み上げる。
「こ、こら! 持ち上げるときは持ち上げると――ふわっ!?」
両手で持ったまま、体をくまなくまさぐる。整った毛並みをわしゃわしゃと、何らかの仕掛けを見つけるために。
「ちょっ、キミっ、こんなとこで……はぅ、こ、こらぁっ……耳、引っ張っちゃだめったら……! あっ、尻尾《しっぽ》だけは勘弁して、そ、そこは弱い……から――ぁ、んっ……」
鼻にかかった声を上げながら悶《もだ》えるモエルを無造作に離す。解放されたモエルはくた、とテーブルの上に座り込み、
「いっ、いきなり何するんだっ! こういうことは、両者の合意を持ってだねっ!?」
言っていること自体は微妙にずれているが、どうやらこの声はモエル自体から発せられていることに間違いはないようだ。ボクは母に向き直り、静かに尋ねる。
「……どういう仕組みですか」
母は、のんびりとお茶を口に含み、
「にが♪」
とか言っている。先にボクの理性が切れた。
「お茶なんて飲んでる場合っ!? モエルが喋《しゃべ》ってるんだよ!?」
「まぁまぁ、落ち着いて。ほら、かなちゃんも熱いお茶」
全然動じない母はお茶をまた一口|啜《すす》ると、ゆっくりと告白した。
「実はね、かーさま――魔法少女だったの」
久しく聞かない真面目な響きの込められた言葉だったのだが、その内容は、
「まほうしょうじょ!?」
――魔法少女。テレビアニメなんかでよく聞く、かわいい女の子が表を出歩けないような派手な衣装を着て、世界征服を目論《もくろ》む悪い奴らと戦う、あれだろうか。
「うん。それよ。だからモエルちゃんも話して当然なの」
にこやかに思考を読まないで欲しい。
「ごちそうさまでした」
これ以上は何も言わず、食器を持って席を立つ。
「こぉら、かなちゃん、逃げないの」
「逃げますよ。いつもの悪戯《いたずら》も厄介ですけど、今日のは付いていけません。どういう仕組みか知らないですけど、モエル、ちゃんと元に戻してくださいよ」
溜息を一つ吐き、食器の片付けに取りかかる。
「ほら、まったく信じないじゃないか」
自分の使った食器を流し台に下げていると、後ろからモエルと母の会話が聞こえてきた。
「ん〜、困ったわね……」
「困ってるように見えないってば。……普段からこなたんはやり過ぎなんだよ。だからかなたん、あんな年齢に釣り合わない落ち着き方しちゃってさ」
――放っておいて欲しい。
「そ〜ねえ……じゃあ、実際に見てもらった方が早いかも♪
それじゃ、かなちゃんちゅうも〜くっ!」
何を考えついたというのか、ハイテンションな母の呼び声がする。
「……なんなんですか、もぉ……」
ロクでもない内容であることは分かっていながらも、食器を洗い終わり、タオルで手を拭きながら食卓に戻る。
そしてやっぱり、後悔することになった。
『此処に芽吹け、命の花』
母の口から流れ出る言葉には、力があった。
何がそう感じさせたのか分からない。だけど確かに、母の、白姫此方の発した言葉には、見えない力があった。
「!? 桜……?」
ボクは一歩たりとも動いていない。だが今、自分の目の前を横切ったのは、確かに桜の花びら。ここは家の中であるというのに、桜花が空気中を舞っていた。
手の平に落ちた花片を掴み取ろうとすると――泡沫《うたかた》のように消える。それは、どこか暖かさを感じさせる、桜色の粒子の集まりだった。
「よく、見ておくのよ」
正面にいる母は、手に布を持っている。命の息吹を色に変えたかのような、優しい、桜色のショール。それを母がひるがえし、肩に掛けた瞬間、変化が始まった。
着ていたワンピースが粉のような光へと代わり、下からほどけるように消えてゆく。垣間見える艶《あで》やかな肌。淡雪のような光に覆われたその姿は、人並み外れた美しさを秘めている。全ての衣が消え、生まれたままの姿が外気に晒《さら》される前に、ショールが体を包む。薄布一枚隔て、次々と新たな生地が、母の体を覆ってゆく。
そうして数秒とかからず、母の格好はさっきまでと全く違うものへと変わった。
「変身、っと」
決めに、くるんと母がその場で回る。それだけで、花が部屋中に咲き乱れるような錯覚に襲われる。
――ピンクと白を基調としたドレス。お世辞にも起伏があるとは言えないスレンダーな体のラインをごまかすように、段々のフリルが咲き誇っている。下半身はふわりとした広がりを見せるフレアスカートで、これもまた繊細な技巧の光るフリルがあしらわれている。
花霞《はながすみ》のドレス。桜の樹そのものがそこにあるかのような存在感。天性のものとしか言い様のない無邪気な微笑みが、さらなる花を添える。
なびくショールを肩に羽織り直すと、母はボクを見て、聞いてくる。
「どうかな? 信じてもらえた?」
「え……?」
呆然《ほうぜん》としていたボクに返事はできなかった。ただ、
(……これもいつもの――タチの悪い悪戯……なんだよ、ね……?)
と、現実感のない状況をなんとかして否定しようとしていた。
母の悪ふざけはいつも、度が過ぎている。思いつきで行動を開始しては、ボクを振り回すだけ振り回す。
一つ例を出すならば、この母様≠ニいう呼び方。
ボクがまだ幼かったある日に突然、「母様、実はお姫様だったのっ」と言い切り、まだ年端《としは》のいかなかったボクを騙《だま》した。それだけであったならばまだ子供の頃の記憶として微笑ましいレベルである。しかし母は、その告白を事実に見せかけるために、この家にメイドや執事、よく分からない貴族っぽい人たち、それらを集めて大宴会を開いてみせる。子供心ながら、自分の母は姫なのだと刷り込まれてしまったのだ。
まあ、確かにこの人はどこか姫っぽさを感じさせるものを持っている。……我《わ》が侭《まま》加減とか。
とにかく、黒を白にも変えてしまう行動力をこの人は持っている。
(今見ているこれもきっと――)
「む〜、まだ信じてないみたいね。じゃ、外でよっか」
「……は? え?」
その格好で?≠ニ聞く暇もなかった。
あっという間に母の細い腕に抱きかかえられたボクは、問答無用で外へと連れ出されてしまった――。
空は既に真っ暗闇。なのにボクは今、身近な場所に明るさを感じている。
その原因の一つは、母が着ている衣装がほのかに散らしている、光の粉。
もう一つは、
「ど〜お? かなちゃん、空中散歩は?」
――圧倒的に近い、月の光。
飛んでいる。ボクは今、空を。お姫様だっこをされたボクは、なされるがままに今、空の中にいる。ずっと空中を飛んでいるわけではなく、跳んでいるのだ。恐ろしいほどのジャンブ力で、建ち並ぶ住宅の屋根の上を。
「どーだいかなたんっ、気持ちいいでしょーっ」
母の肩にしがみついているモエルが、こちらを向いて話しかけてくる。
頼むから話さないでくれ、と思ったが、気になっていたことを尋《たず》ねてしまう。
「さっきから……かなたんって何?」
「ん? 何って、かなたんはかなたんじゃないか。彼方だからかなたん。かわい〜でしょ? たん≠ヘ萌えキャラのシンボルらしいよ?」
「次そう呼んだら猫背矯正するから」
赤く純粋な目に、きっぱりと言い放つ。
人工の光が届かない空に、母の持つ白銀の輝きが眩《まぷ》しい。モエルの持つ金色の毛が、いつもよりキラキラして見える。
(それにしても――)
――綺麗だ。
感動は、言葉にすらならなかった。
わずかな時間で信じられないことが畳み掛けてきた。けれど、こういうのは悪くない。そんな風に思う自分がいる。願わくば、このまま夢として終わればなお、いいのだが――。
「あら、ちょうどいいところに♪」
「現れたの?」
「ええ。そう大きなものでもないけど」
――やっぱり、簡単には終わってくれないらしい。
「かなちゃん、ちょっとスピード上げるわよ」
「もうどうにでもしてください……」
諦《あきら》めて呟くことが、状況に流されているボクにできる、唯一のことだった。
グンッ。景色がいきなり見えなくなった。自分の体が母の体に思いきり密着する。こんなに似ているのに、体の柔らかさと、温かさは、違っている。
(母様の方が、柔らかいし、温かい。……あ〜でも、胸はぺったん――)
「落とすわよ♪」
「笑顔はやめてっ、逆に恐いですから! そもそもなんで思考が読めるの!?」
――少しして、地面に着地する。
地に足を付けるのが随分と久々な気がした。まだふわふわと浮いているような気がする。
「ここが……どうかしたんですか?」
そこは開けた場所だった。ところどころに乱暴な砕け方をしたコンクリートが落ちている。
何か、大きな建物が取り壊されたばかりのようだ。暗くてよく見えないが、かろうじて売地≠フ看板が見える。
後ろからボクの前へと歩み出た母は、落ち着いた声で言う。
「大丈夫、これから分かるわ。だから、その前に……」
小さな左手でそっと、ボクの右手を包み込む。基礎体温の高さを感じさせる手の平は、なぜかボクの心を高鳴らせた。いつもは見せないはにかんだ表情が、新鮮であると同時に、抱いてはならない感情を意識させる。
――この人とボクは、似すぎている。だけど、中身は全く違う。彼方が静で、此方は動。ボクにはないモノをこの人は持っている。尊敬することもある。羨《うらや》ましく思うこともある。そして、魅力を感じることも……、ある。
(いやでもそれは憧れみたいなものでっ、女の人として、とかそういうのじゃなくて!)
早まる鼓動を抑えるために、ボクが脳内否定を繰り返しているその間も、母は、ボクの右手を自分の胸元へと近づけてゆく。力強く引っ張るのではなく、こちらの動きを誘う、優しいエスコート。心臓の高鳴りが、繋《つな》がっている手と手を通じて、共鳴しあう。こちらの鼓動まで、この人に掌握されてしまう。伝わってくる体温が、脳の働きを緩慢にさせる。
(いやだから違うって! 確かにこの人は母親っぼくないんだけど! このままだと踏み越えちゃいけない一線を……いやでも、いつも仕掛けてくるのは母様だし……なんかもう、どうにでも!?)
数センチ先の幼い肢体。控えめな体付きだが、甘い、禁断の果実。あと少しで指が触れてしまう。小さく自己主張している胸。――の前、母の右手がかざしている契約書《ヽヽヽ》に――。
(……え?)
「ちょお待ていっ!」
慌てて手を振りほどき、後ろに下がる。
「ちっ、気付かれたか――」
いままでずっと母の右肩に乗っていたモエルが、思いっきり舌打ちをした。
「そこの猫、舌打ちしない――なんですかその契約書って!?」
「なんでもないただの契約よ。気にしない気にしない♪」
胸の前の紙切れをひらつかせながら、母がきゃるん、とした声で言う。
「気になるに決まってんでしょ!?」
「何も起きないわよ? ……ちょっと変身できるようになるだけ」
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「なんかさらっと小声で言ったけど、それ大問題ですよねッ!?」
ザリッ――小石の転がる地面に、母の足が一歩踏み出てきた。妙な圧力を放ちながら、また一歩、母がにじり近寄ってくる。
(本気だ、この人……)
「怯《おび》えなくてもいいんだよ、かなたん……」
モエルの声も、妙な迫力を感じさせるものとなっている。
「たん′セうな!」
今までさんざん状況に流されてきたが、ここが一つのターニングポイントな気がする。ここで判断を間違えば、何かが終わる――そんな気がした。
「くっ!」
反対側を向き、逃走を図る。
しかし、足を一歩踏み出した瞬間。
……ぞく、ん……。
「!?」
全身を駆《か》け巡る悪寒。
後ろの二人からではなく、前からだ。
一歩、ここ空き地の奥に――何かが、いる。
「さすがね、かなちゃん」
近づく気配を感じさせずに、母が隣に立っていた。母は、眼前に広がる暗闇を見据えている。
その視線には、普段の優しさなど一切感じさせない、容赦のない気迫があった。
「あれが、私たちの敵よ」
声からも、普段のような無邪気さは感じられない。隣に立っている人は、母の姿をしたまったくの別人ではないかとさえ思える。
暗闇に視線を戻すと――光の差し込まない暗闇に、わずかに揺らぐ何かがあった。
「……て、き……?」
闇の中で動いている、影。ザリ、と砂利が転がる音が響く。自分が立てた音ではない。もちろん、母もモエルも、微動だにしていない。
ザリッ。音が少しだけ近づいた。まだ姿が見えない。ただ、母が言った敵≠ニいう言葉がやけに心に引っかかっている。
砂利の擦《す》れ合う音が恐怖を煽《あお》る。意識をしっかりと持ち、視線だけは外さない。いつでも行動できるように、呼吸も整える。
次第に見えてくるシルエット。闇に浮かび上がる輪郭は足、胴、腕、頭と、順に確認できるようになる。
それは人の形をしていた。しかし同時に、人間ではあり得ないものも持っていた。
頭にあたる部分に二本、何かが突き出している。それはどう見ても。
「……、うさぎ!?」
ぴょこんと天を突く、長い耳。
影がさらに近づいてきて……月光の下に、姿が明らかになる。
白い体毛に覆われた頭。真っ赤な双眸《そうぼう》。それは、二足で立つウサギだった。いや、二足で立つことくらいあるのかもしれないが、コイツはひと味違っている。首から下は人間のソレなのである。しかも小癩《こしゃく》なことに服まで着ている。いかにも高そうなピリッとした紺のスーツだった。同じく白い体毛に覆われた手には、白塗りのステッキを携《たずさ》えている。
まったくの無表情であるその顔は、ウサギそのもの。何を考えているのかまったく分からない。しかし、時折ひくひくと動く鼻だけは、無駄に野性的だった。
「うさぎジェントル≠ヒ」
重々しく、不可思議な単語を口にする母。
「……なんです、それ」
「あの子の名前よ」
名が体を表しすぎだろう。
「間抜けですね」
「今考えたの」
「帰ります」
「ダメよ」
「帰る」
「……二人とも、真顔で緊張感のない会話するのやめようよ」
呆れた声でモエルが割り込んでくる。
「そうね。かなちゃんの大事なデビュー戦だものねっ♪」
ぺたん。
「ぺたん?」
ふと手元を見てみると、右手が何かに触れていた。
――契約書≠ニ書いてある、紙切れだった。
がっちりとボクの手を掴んでいた母は、ボクに気付かれないように、親指をしっかりと書面へと押し付けていた。
母の顔を見ると、まるで悪戯が大成功した子供のような、満面の笑顔を浮かべている。
すかさずモエルが、何かを読みあげ始める。
「原初の世界よ、此処《ここ》に契約を結ぶ」
儀礼じみた言葉には、物騒な重みがある。その言葉に呼応し、書面に押し付けられたボクの指が、灼《や》けるように熱くなった。思わず手を引いてしまう。
――契約書には、自分の指の跡がくっきりと、焼き印のように刻み込まれていた。
「汝《なんじ》、契約者――白姫彼方=I」
今ここに、一つの契約が結ばれる。
「契約者の意思がことごとく無視されてるんだけど――ッ!?」
ボクの悲痛な叫びなど、この状況は華麗にスルーしてしまう。契約書が眩《まばゆ》い閃光《せんこう》を放ち、空に浮かんでゆく。目の前の光景がどこか遠い世界で起きていることのようで、呆然とするしかない。
契約書はボクの頭上まで浮かび上がると、純白の紙面から大量の光を放った。一つ一つが文字のように見える光の粒子は、真下にいるボクへと降り注ぎ、体に染み込んでゆく。
――頭の中に、何かが入り込んでくる。
意味を直接脳に刻み込まれる感覚――とでも言えばいいのか。
気が付いた瞬間には、ボクはそれを知っていた。
無意識に、右手を空に伸ばす。
「そうよ、かなちゃん。それが、アナタの」
母の呟きが小さく、風に流れる。
「――来いっ!」
ボクの呼び声を引き金にして――蒼《あお》が、墜ちた。
空から一筋の光が降ってくる。天から放たれた、スカイブルーの光。
目の前に突き立ったそれは、空と大地を結ぶ架け橋となる。
無意識に、手を光の柱に伸ばす。触れる瞬間に一度躊躇い、しかし思い切って、光の中に手を差し込んだ。
指先が、何かに触れる。
これは、ボクのモノだ。
疑問に思うより先に、理解が訪れる。
――掴み取れ。
本能が命じるままに、それを、握り締める。
「っ!」
蒼柱が弾けた。思わず目を閉じる。まぶたの裏にまで蒼然とした光が届く。
光が止み、恐る恐る目を開ける。
「これは……」
――杖《つえ》。光の中で掴んだものの正体は、一本の杖だった。自分の身長よりも長い杖が、手の中にある。
よく見るとそれは、杖と言うには少し、奇妙なデザインをしていた。歪《ゆが》み一つなく直線に伸びた柄《え》は、空に似た淡い青色をしており、その先端には無色透明な宝石が、銀の装飾器によって固定されている。パッと見、何もないと思えるほどに透き通ったその宝石は、見る角度によって反射する色が変わって見えた。
限りなくシンプルなフォルムの杖である。仮にも魔法少女の持つ物ならば、もっと派手に装飾されたものだと思うのだが。……変な話だが、これは杖と言うよりも――。
「ペン……?」
そう、線を描く筆具のように感じた。空色のペン。それが一番しっくりくる。
「――かなたん、前ッ!」
茫洋《ぼうよう》としていた意識を唐突に引き戻す鋭い声。ジャリッ、という力強い跳躍音も継いで聞こえる。それが敵≠フ接近してきた音だということに気付くには、少々遅かった。
「ウサッ!」
気付いたときにはステッキによる横殴りの一撃が、既に放たれていた。体が反応しきれない。
様々な混乱がぶつかり合って、動くことを体が拒否していた。
致命的な一撃が頭部に命中する刹那《せつな》に、不意に体が引っ張られた。
「!?」
ステッキが空振りし、すぐ目の前を風圧だけが横切る。
振り向くとそこには、ボクの服の襟を掴んでいる母の姿。どうやら、当たる直前のところで助けてくれたらしい。
「油断しちゃダメよ? かなちゃん」
さっきまでの緊張が嘘のように、緊張感のない、いつもの母に戻っている。
「油断しちゃダメって……いきなり攻撃されたんですよ!?」
「敵にどんな文句を言っても無駄よ。ほら、それよりも早く変身しなきゃ♪」
「変身!?」
「ここから先はアナタ一人で戦うの。かーさまは一切、手出ししないから。
――紡《つむ》ぎなさい。貴方の意味在る言葉≠」
何を言っているか分からない。分かるはずがないのに――。
(どうして、分かるんだ!)
契約書の光を浴びた時に、理解したこと。それは、力を得る方法=B
媒体は手に入れた。あと一つ足りないもの。それは――?
たまらなく嫌な予感がした。それより何よりも、全てがこの人の思うがままに進んでいる、というのが。最大の恐怖だ。
しかし――それを拒否するほどの時間を、この珍妙な敵が許してくれない。
「ウゥサッ!」
溜めも何もない、腕を伸ばすだけの刺突《しとつ》。それだけのものが、空気の壁を突き破るような音を立て、脇腹を擦《かす》る。
「痛ッ!」
擦っただけで痛みが重く響く。本気の攻撃であることを改めて認識させられる。とにかく一旦距離を開けるために、なりふりかまわず敵に体当たりを仕掛けた。
「っ!」
全身で突っ込むだけという不格好な突進ではあるが、狙《ねら》い通りに相手は体勢を崩した。自分の体も一緒になって倒れ込むが、即座に起き上がり、何とか相手と距離を取る。
見た目にこだわるだけの余裕はない。いまはただ、この状況を受け止め、やれることをやるしかない。
とりあえず、分かっていることはたった一つ。
これは戦いで、やらなければやられるということ。とてもシンプルな事実。
「えぇいもおっ!」
そして、やれることは、頭の中にある。
手に持った杖に、語りかけるように自分の意識を流し込む。
そして唱える。
「遍《あまね》く空の果てへ」
意識は、空へと沈む。
次の瞬間、青一色の世界にボクは浮かんでいた。
とても暖かく、とても清《すがすが》々しい。
白姫彼方という存在を、なによりも受け入れてくれる場所。
――ボクだけの世界。
刹那《せつな》の夢を経て、次第に意識が冴えてくる。
垣間見た世界の心地よさはもう感じられない。だがその代わりに、自分の体の中に、異質な何かが巡っているのが感じられる。なぜか懐かしく思えるそれは、しっかりと体に馴染んでいた。
静かに、息を吐く。
――眼を、開ける。
視線を、落とす。
「…………」
今日何度目か。
驚かされるのにはもう飽きた。流れに身を任そうという覚悟まで決めた。
でも。
「なっ――! ななっ? な、に、コ、レェェェェェェェェーーーーーーーーーッ!?」
今日最大の叫声が、紺色の空に轟《とどろ》いた。
「へえ、予想以上に……」
「かわいいわね♪」
モエルと母が、しげしげとこちらを眺めながら互いに何か言い合っている。
こっちはそれどころではない。
(なんだ、どういうことだ……!?)
ボクの身に起きていた異変。結果だけを言うならば、服が、変わっていた。目を閉じて数秒もしていないというのに。どうやら、変身したということらしいが、問題はその格好にあった。
「とりあえず、ライトアーップ!」
母が手を高らかに空に掲げ、パチン、と指を鳴らす。するとこれまで薄暗闇に包まれていた空き地が、まるで劇の舞台のように強烈な光に包まれる。そして、その舞台の中心にいるのは、他でもない、自分自身。
光に照らし出されたボクを見て、
「うん、よく似合ってる――さすがはかなたん」
上から下まで視線を動かしながら、モエルが言う。
「はい♪」
どこから取り出したのか、でかい全身鏡を目の前に持ってくる母。それに映った自分の姿を見たとき、目眩《めまい》と一緒に、言葉を失った。
ボクの着ている服は――無駄に、かわいらしい服。
上半身は、妙にだぼだぼな純白のワイシャツに、桜色のネクタイが巻かれている。下半身はミニスカート。青と白のチェック柄《がら》で、丈《たけ》が太股《ふともも》の半分にも届いていない。おもむろに、スカートの中に触れる。やけにハリのある、吸い付きの良い生地がそこにあった。
頭にも妙な違和感がある。見てみると、髪型まで変わっていた。新体操で使われるような、長くて赤いリボンが、頭の両サイドで髪を尻尾のように束ねていた。その結び方も個性的で、細い生地が重力に逆らって、猫の耳のようにぴょこんと山を作っている。それでもなお余っている生地は、髪と一緒に背に流れ、緩やかになびいている。
「基本スペックが高い分、服装は抑えめに、そして小物で更なる彩りを加える、か。
……侮《あなど》れない」
解説者の口調でモエルが語る。
「侮れない、じゃなくて! いろんな意味で間違ってるだろ!?」
「ウサーっ!」
「ほら見ろ! ウサギもそう思うって!」
「それ違うかなたん!」
柔軟なバネを引き絞り、解き放つ。ウサギが弾丸のような加速で、間合いを詰めてくる。
「たん≠竄゚いっ!? うわっ!」
右上方からの振り下ろし。こちらはバックステップで間合いから逃れる。
その動きで短いスカートがふわりと、舞い上がった。
「――ぅゃっ!?」
慌ててスカートを押さえ、顔が紅潮するのを肌で感じながらも、悠長に見物している二人に叫ぶ。
「どうしてこんな格好しなきゃいけないの――!? ボクが! 大体なに!?
この――スパッツは!」
少し動いただけでも締め付けられるような黒色のスパッツ。もちろんこんなものは今まで一度も履いたことがないため、感じる違和感は尋常ではない。
「〜〜!」
――恥ずかしい。恥ずかしくてたまらない。おもわず、へたり込んでしまうほどに。
「んぅ〜っ、……、これ、キツ過ぎだよ……っ」
肌にぴっちりと張り付くスパッツを、指でつまみ上げる。離すと、パチンと音を立てて、肌に密着する。少し動くだけできめ細やかな繊維が皮膚と擦れ合い、むずむずと落ち着かない気分になる。
そんなボクの様子を見ていたモエルが、胸を押さえながら、熱に浮かされたような声でポツリと呟く。
「うぁ〜……かなりときめいた」
続けて母が小さく溜息を吐き、笑顔で言った。
「かなちゃん、あざとい♪」
「なんでこの人らは話が通じないの……」
どうも、話の流れがおかしい気がする。これはつまり。
(もしかしなくても……)
「ハメられた?」
呟いたと同時。
「ウサーーーーーーッ!」
強靱な足から繰り出される跳躍。うさぎジェントルはステッキを腰だめに構え、居合いを思わせる動作で一気に振り切る。どうしたらいいかを瞬間的に判断。すぐさま立ち上がり、後ろに跳ぶ、が――。
「!?」
――ほんの少しの油断だった。
魔法という言葉が飛び交う状況下で、それを失念していたのはまずかった。なにしろまだ、ボクは魔法というものを実際に見てはいなかったのだから。
ブゥンッ!
「なっ!」
ステッキが薙《な》ぎ払った空間から、何かがこちらに飛んできた。モエルが叫ぶ。
「衝撃だッ! かなたんっ!」
「――ぅくぁっ!」
直撃し、電撃を浴びせられたかのような衝撃が体を跳ねる。
ちょっとやそっと、などという威力ではない。相手を、確実に倒す≠スめの攻撃。
(これが……っ、魔法――ッ!?)
吹っ飛び、地面に転がる。起き上がろうとするものの、刺すように、締め付けるように、確かな痛みが体に襲ってくる。
視界の端で、モエルが飛び出そうとするのを静止する母が見える。
「こなたん! やっぱりまだかなたんにはっ!」
モエルから非難される母の表情に、笑顔はなかった。ただ、真剣な眼差しでボクを見ていた。行動が読めないことはいつものことだが、その行いに迷いや容赦はない。それがボクの母親であり、白姫此方という人。
正直、いまだにワケが分からない。いきなりこんなことをさせる母の意図も、こんな格好で戦っている自分自身のことも。
しかし……。
「ウサァッ!」
しゃがみ込んだ標的へ、追撃の刺突を放つ敵。
だからこそ。
「――決めた」
決意する。
「かなたんっ!」
モエルの叫びは、研ぎ澄まされた意識の中にあるボクには、届かなかった。
ギャリィッ!
「――!」
母の眼が、少しだけ驚きに見開かれた。そのことに小さな優越感を感じながら、ボクは杖を振り抜いた。
刺突を弾かれたうさぎは、弾けるように後ろへ下がり、遠距離から再びステッキを振る。斬撃が衝撃となり、見える威力となって向かってくる。
「はぁぁっ!」
振り抜いた杖を片手で回転させ、返し刀で衝撃を打つ。驚くほど簡単に威力はかき消え、霧散する。途中、先端についた宝石が蒼い光を放ったのが見えた。
衝撃を放った後の敵は隙だらけになっている。
――さっきまでゴチャゴチャしていた頭の中は、随分とスッキリしていた。
何故なら、
「どうせ何も分からない状況なら、何も考える必要はない。
ただやれることを――やるだけだっ!」
それが、ボクの信念だから。
間髪入れず、間合いの遙か外から杖を構え、一気に振り下ろす。そうすることで何かが起こるという確信があった。
振るった杖が空間を切り、宝石の輝きが虚空にラインを引く。
杖から延びた光の軌跡が、何もない空中に浮かび、顕現《けんげん》している。
蒼い線。今にも消えそうなほどに弱々しい光だが、それこそが、ボクの生み出した初めての魔法。
「征けぇっ!」
先端の宝石で、押し出すように描いた線を突く。それを合図に、不安定な魔法が前方へ放出された。
「ウッ――!?」
高速で迫り来る蒼い光を前に、うさぎジェントルは呻《うめ》くような声を上げただけだった。
威力が、敵の体に衝突する。
見て分かったのは、半月の線が敵に命中した瞬間――爆発した、ということだけだった。あまり大きな爆発ではなかったため、命中を確認してすぐに、ボクは駆け出す。
いちいちスカートがはためくのが欝陶《うつとう》しい。
「かなちゃ〜ん、もっとさーびすさーびす〜」
それを見ながら悦んでいる母も。
「やかましいです!」
スパッツといえど、見せるのにはかなりの抵抗があった。むしろ、普通の下着を見せるよりも、もっと恥ずかしいのではないだろうか。
(……防御するべき領域が多すぎるっ!)
魔力を直で受けた敵は、完全に動きを止めていた。
次の一撃を放つときでさえ、意識は全く別のところにある。要するに――、
――さっさと、終わらせたい。
「だからっ! 何もかも吹き飛んでしまえぇっ!」
間合いに入る直前、思い切り地面を踏み込み、更なる加速を行う。信じられないほどに体が軽く、速い。杖で地面を削りながら、間合いに――入る。
地に火花を咲かせ、夜に銀影を刻み、空を切り裂くように――杖を、振り上げる。
理屈なし、渾身《こんしん》の一撃。
宝石の湛《たた》える光は、蒼。
知っている。
この、杖の名は。
「オ〜ヴァー・ゼアーーーッ!」
顎《あご》を捉えた一撃は、紳士服に包まれた敵の体を宙に弾き上げた。重力という戒めすら解き放ち、まるで空へと墜ちていくかのように、上昇させる。
どこまでも高く――空へと、還る。その姿がこの地へ戻ることは、ない。
振り抜いた杖を軽く回し、地面に突き刺す。
乱れた髪を軽く、撫でる。
――街灯よりも月明かりの方が明るいと思える夜だった。ほのかな月光が、不可思議な服を着た二人と、月光色の猫を照らしている。
「……ふぅ」
上を向いて、溜息を吐いた。吐息は、この広大な空へと届くだろうか。
「空は、遠いね……」
夜空に感傷的な呟きを捨てる。それは、ボクの密《ひそ》かな夢。大きくて、広くて、透明な、大地から見上げるしかない青い世界。果てしない、空への想い。
自分自身に名付けられた、彼方への憧れ。
人の足を地に縛り付ける、悩みとか、煩《わずら》わしさとか。
あの澄み切った空には存在しない。そう、思う。
「いつかは届くかな。あの、空に」
呟いて、無意識に手を握る。手の中には硬い感触があった。それは、自分の背丈よりも長い杖。ほとんど重さを感じないこの杖は、シンプルな造りながら手に馴染む。喚《よ》びだしたときに感じたボクのモノ≠ニいう確信は、間違いないようだ。
さつきまで周囲を照らしていた明るい光は消え、元通りの薄暗い空き地に戻っている。そんな中でも、蒼い光の余韻を残すこの杖は、静かだが力強い存在感を放っていた。
母がボクの肩に手を置き、はっきりと告げる。
「それが、かなちゃんの武器よ」
――現実逃避はここまでだった。
「〜〜〜っ、ちょっと待って――武器なんて物騒な物、ボクの人生には必要ないですっ! ボクが欲しいのは、今すぐこの場所から飛んで逃げるための翼と――誰かさんに振り回されずに平凡に生きるための、ささやかな希望だけです!」
ボクの全てを現した絶叫に、母はきょとん、として、
「魔法少女に武器がないと、ただのコスプレになるわよ?」
穏《おだ》やかに酷《むご》い。しかもボクの願いは完全無視された。
「そもそもボクは魔法少女なんてやりません!」
「契約したじゃない。拇印《ぼいん》も押したし」
あからさまに、母のまとっている空気が変わった。有無を言わせない微笑み。だが、ここで言いくるめられてはいけない。こんな訳の分からないことからは一刻も早く縁を切り、元の暮らしに戻るべきだと本能が告げている。
「それは母様が無理やり――ッ」
どれだけ言おうとも、鉄壁の笑顔は変わる素振《そぷ》りすらない。こちらが不安に感じてしまうほど、完全無欠なスマイル。
笑顔という無敵の盾に守られた母は、ボクの目の前に先ほどの契約書を差し出した。
「……?」
細い指がパチン、と音を鳴らすと、またもや一点がライトアップ。どういう仕組みになっているのかは考えないようにする。どうせこの人だし。
母の指は、小難しい漢字の羅列する契約書の、とある一点を指し示していた。汚れやたわみ一つない契約書の端に目をやると、目を凝らさないといけないほど小さな文字で、見づらくこう書いてあった。
『この書面によって交わされた契約が、魔法少女の側から一方的に破棄された場合、天罰を与える』
「天罰……? 天罰ってなんですか!?」
母は、くすっ、とお茶目に微笑み、人差し指でボクの胸をつつ、と撫で下ろすと、
「男の子は、女の子に。女の子は、男の子に。変わっちゃいま〜す♪」
さらりと、そんなことを言った。
その言葉を頭の中で反芻《はんすう》し、ボクは笑った。
「まさか。冗談にしても……」
「魂取られたりするよりはマシだよね〜」
畳み掛けるように、母の肩に乗っているモエルが口を挟む。その口調に軽さがある。冗談、という軽さではない。それがたやすいことであるがゆえの、軽口。
「……あの、契約を破棄する方法は……?」
「かなちゃんが魔法少女を辞める方法は、この契約書を破り捨てる以外はないわ。ただしそれをするとかなちゃん……」
視線が何故かボクの下半身へと注がれている。
――脅迫だ。この人たちは脅迫という力を持ってボクを陥《おとしい》れようとしている。
「かなちゃん。母様――行かなくちゃいけないの」
肩に手を置いたまま、母が唐突に、どこか辛《つら》そうな、消え入りそうな声で呟いた。
「……? 行くって……」
俯《うつむ》いた表情からは感情が読み取れない。モエルに答えを求めても、顔をそらされる。
母が、俯いたまま一枚の紙を差し出した。恐る恐る、それを受け取る。どうやら何かのパンフレットらしい。そこに大きく書かれた文字は、
「世界各国ぶらり旅、貴方だけの心の故郷を見つけてみませんか? ……一人で行く秘境巡りの旅、カニ食べ放題もある、よ……」
「世界旅行なのにカニ食べ放題とか出してくる辺りが素敵♪」
「っ! そんなコメントいらない! これはどーゆーことですか母様!?」
「いえね、実はそのツアー先に敵が現れたらしくて、偉い人たちに母様が呼ばれちゃったのよ。それでかなちゃん一人残していくのは心苦しいけれど、世界のために仕方がなく母様は……(最近旅行とか行ってなかったから、ちょうどいい骨休めになるかなーなんて思って。※副音声)」
「副音声だだ漏れですよ」
「あらら♪」
てへ、と無邪気に笑う母。こういう仕草を見ると、どっちが年上だか分からなくなる。
「とにかくっ、いきなり戦えとか言われても困ります。さっきみたいなヤツがいっぱい出てくるんでしょう? そんなの、ボクが戦える相手じゃ――」
言葉を最後まで言う前に、柔らかい何かが、頭に触れた。
「……!」
いつのまにか顔と顔が触れあうくらいの距離に母が立っていて、ボクの頭を撫でていた。少しでも自分を大きく見せるためか、背伸びをしている。それがなんとも可笑しくて、こそばゆくて、だけど、心が安まる。
「――だいじょーぶ。絶対、大丈夫よ、かなちゃんならできるわ。モエルちゃんも付いていてくれるし。なによりかなちゃんは強いもの。母様なんかより、ずっとね」
言葉に何の疑いも持っていない。きっと根拠なんてないだろう。だけどこの人が言うと、大丈夫なんだと思わされてしまう。魔法なんて関係なく、母の言葉にはそんな魔力が秘められている。
相方として指名されたモエルは、二本足で立って腕を組み、無意味に自信に満ちた態度で言い放った。
「これからよろしくかなたんっ! おいらはキミを立派な魔法少女にしてみせるよ!」
母とモエルは、全てがうまくいったかのように笑いあう。そして何事もなかったかのように家路に着く。
「……え? やっぱりちょっと待って、そもそもボク男ですよ? あなたたちそれ忘れてません? ちょっと? ねぇ!?」
走って二人に追いつきながら説得を試みるものの、二人は全く聞く耳を持たなかった。
「ほら、倫理的に考えてダメでしょ? 男の子が魔法少女とか! 一歩間違えたら――」
「大丈夫よ」
力強く断定する。やけに自信が込められた表情だったので、淡い期待を抱いてしまったが……この人に、真っ当な答えを期待してはいけなかった。
「ニーズはあるわ♪」
杖を握り締めた手が、震える。
「…………」
ただ立ち止まって空を見上げる。そして、誰に届くのか分からないけれど、誰にも届かないかもしれないけれど、たった一言、呟く。
「誰の、ニーズだよ……」
空は呟きも消え失せるほどに暗く、どこまでも深く濃い青色をしていた。
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2. チューナーとノイズ
目を覚ますと、そこには真っ白な天井があった。
「……ん」
――夢を、見ていた。
随分とふざけた夢。母が飛んだり、猫が喋《しゃべ》ったり、なぜか男であるボクが女装をしていて、妙な生き物に追い回されるという、素《す》っ頓狂《とんきょう》な悪夢。
寝惚《ねぼ》けた頭で、無理やり体を起こす。いつまでも寝ていても仕方がない。意識が覚めたなら考える前に体を起こす。ちょっとした寝覚めのコツだ。
ボクの自室は白と青、透明感のある色で統一されている。空をイメージした内装で、陽が射すと、室内が一気に明るくなる。部屋に命が灯《とも》るようで、お気に入りだ。
体に染みついた動きで、陽射しを遮《さえぎ》っている薄いブルーのカーテンを開け、のそのそと乳白色のベッドから降り、隣に置いてある鏡台の前に座る。
「ふわ……っ」
あくびをしながら、鏡台に置いてある櫛《くし》を手に取る。起きたらまず、くしゃくしゃに散らばった白銀の髪を梳《す》く。とにかく長いために手入れは時間がかかる。しかし、怠るともっと大変なことになるので仕方がない。
「切ろうとすると怒るしね」
母の無垢な顔と、昔言われた「母様とお揃いはヤなの?」という言葉を思い出す。
――今はもう、ボクの方が長くなってしまったけれど。
くるくると、銀髪を指で弄《もてあそ》び、呟《つぶや》く。
「嫌いなわけじゃないけど、ね」
髪の手入れに約三十分。次は着替え。
密《ひそ》かにお気に入りである、水色と白の空|柄《がら》パジャマ。その前ボタンを、上から順に外してゆく。肌が外気に晒《さら》されると、身震いをした。少し肌寒い。日焼け一つしていない薄白い肌を両腕で抱きながら、自分の体温で自分を暖める。
「さむ……」
素早くカッターシャツを上に着て、ズボンを履く前に靴下を履く。順番がバラバラなのは、頭が上手く回っていないからだ。どちらにしても行き着くところは同じだから大丈夫。
袖《そで》の余っている制服(買うときに最も小さいサイズを選んだのに)に腕を通しながら、ベッドの脇に置いてある時計を見ると、予想していたよりも遅れていた。
少しだけ急いで階段を下り、食卓の上に置いてあるこんがり焼けたバターロールを三回に分けて口にすべて入れ、一気に飲み込むと、そのまま左手にある洗面所へと向かい、手早く顔を洗って歯を磨き、慌ただしく朝の支度を整える。
「それじゃ、いってきます」
誰にでもなく、挨拶《あいさつ》は自分へ向けて、そうすると意識が外へと向かう。あらかじめ玄関に置いてあった鞄を引っ掴《つか》み、玄関の中央に並べられたスニーカーを履く。
「いってらっしゃい、かなたん」
そして、いつも通りに出かけようとして――前につんのめった。
玄関先で一足先に待っていたモエルが四つ足付いて座っていた。
喋る猫。朝からヘヴィな光景だ。人の日常的起床風景を台なしにしてくれる。これの存在を除けば至って普通な朝の光景だというのに、この動く非日常は三日前から毎朝の挨拶を欠かさない。
「たんはやめてったら」
いい加減慣れてきた――いや、突飛なできごとには耐性がありすぎた、というべきか。
なるべく見ないようにして玄関の扉を開け放つと、待っていたかのように陽射しが降り注ぐ。
体がじんわりと目覚め、モヤがかかっていたような意識が少しずつ晴れてくるのが分かる。
つま先で地面を二度叩き、空を見上げた。空を指差し、呟く。
「……うん。今日も青い」
ちぎれ雲のさらに彼方。空はいつも通りに広く、青かった。
「ハンカチとちり紙、忘れてないね? あと、生理ようひにゃっ!」
うるさい猫の尻尾《しっぽ》を踏みつけ、ボクは走り出す。
――母が旅行へと出かけたのが、三日前。
荷物は意外に少なく、ボストンバッグ一つという軽装の母が、別れ際に言っていた言葉を思い出す。
『じゃあ母様行ってくるけど、来月には戻ってくるから。それまで世界と家のこと、頼んだわね。モエルちゃんもいるから大丈夫だと思うけど……無理はしないでね? かなちゃんは大事な……娘なんだから』
世界と家を同列に並べる辺りが、母らしかった。
――あと、あなたの子供は娘じゃありません。
「……魔法少女なんて任されてもなあ……」
通学路を走りながら溜息を吐く。
「なんでだ? いいじゃないか魔法少女」
ズギャアッ!
回想にふけっている最中に耳元で声が聞こえ、思わず急ブレーキ。
「おお、慣性を無視した停止。さすが彼方《かなた》」
「――ッ! 人の無意識にいきなり割り込まないでくださいっ、丈《じょう》君ッ!」
いつの間に現れたのか、隣にはクラスメイトである明日野《あすの》丈がいた。
「ははっ。まあいいじゃないか。モノローグに割り込むのは意外と楽しいんだぞ?」
「相変わらず訳の分からない……」
狐のように線の細い眼をしていて、口元には緩んだ笑みを絶えず浮かべている少年。
座右の銘は中肉中背ルックス人並み≠ニいう、妙というのも妙な友人である。しかもそういう割には細身の体をしており、ルックスはといえば――悪くはないと思うけれど、雰囲気がかなりミステリアス。学校内では情報屋≠ニいう妙な肩書きを持っていて、情報を操ることに喜びを感じているらしい。
「で、魔法少女がどうかしたか? 情報ならいくらでも用意できるぞ?」
「結構です」
彼は何よりも知識≠愛する。
伸び放題の前髪を軽く弄《いじ》りながら、彼はその感情の捉え難い瞳を前髪の間からのぞかせる。
前髪を弄るのは彼の癖であり、そこから始まるのは――。
「いいよな、魔法少女……何が良いかって、その魔法と少女という神秘の組み合わせ。元来魔術と女性とは切っても切り離せない関係にあるものの、そんな意味合い以上に人類の歴史において解き明かされることは永遠にないであろうロマンの結合、いや、昇華――」
――暴走である。
情報を操るというより、余計な情報を押し付けようとしてくる、と言うべきだろう。
「じゃあボク先に行ってるから!」
しゅた、っと手だけで別れを告げ、全速力で駆《か》け出す。
「魔法少女といえば最近のニーズは二人――、聞いてるか彼方?」
彼はそうなってしまったら最後、執拗《しつよう》なまでに聞き手を探し続ける貪欲なハンターと化す。
その時の運動神経は下手をすれば学校内でも有数の実力者といえるだろう。
(時間を取られすぎた……間に合うかな)
「彼方ー、待ってくれよ、一緒に知識を共有しようぜ」
「断固としてお断りですっ!」
住宅の建ち並ぶ通学路を全速力で逃げる。
学校に至る最後の直線。残る時間は一分を切っている。時間までに校門へ入らないと恐怖の漢字書き取りが待っている、何故遅刻したら漢字を書くのか?≠ニいう疑問との戦いだ。貴重な時聞を非建設的な作業に費やすのはご免である。
「彼方、ラストスパートだっ」
「うん!」
丈と示し合わせると、残った力を振り絞る。
「今日は――!?」
校門前にはいつも生徒の中から選抜された当番が立っている。登校時間を過ぎて入ってくる生徒をチェックするのが役目である。ただし、その当番が知り合いなら、何とか話のつけようもある。学校生活を送る上での暗黙の了解というヤツである。
校舎の時計の針は進む。差し迫る刻限。近づく校門。残り数メートル。
(よし、間に合――)
――キーンコーンカーンコーン。
「あ」
校門まであと数歩。三秒あれば行ける距離だったのだが、情け容赦なくチャイムが鳴った。
チャイムが鳴り終わった後で校門へとなだれ込み、膝《ひざ》に手を突く。
「はい、残念で〜す」
チャイムよりも無情な言葉が、やけに楽しそうなトーンで耳に入った。
声の主が、校門の影からひょこ、と現れる。
「――はぁっ、はぁ……ちょと、待ってよ、いいんちょ……」
息を整える暇もなく、かろうじて声を捻《ひね》り出す。本日の当番である声の主は、ゆっくりと近寄ってきて、ゆっくりと背中をさすってくれた。
顔を上げると、制服の右袖に風紀当番≠フ腕章を付けた、黒髪の少女と目が合う。
傷一つない綺麗《きれい》な指でボールペンを持ち、首から下げたボードにこつこつとリズムを刻んでいる彼女は、我がクラスの委員長である。
その彼女はこちらを見ながら口元をほころばせつつ、鼻歌なんて歌っちゃっている。心なしか肩越しに見える二つのおさげも弾んでいるようだ。
「おはよ、白姫《しらひめ》君」
モダンな銀縁フレームの眼鏡越しに見える、大きめのまん丸い瞳が、何か面白そうなモノを見つけたといわんばかりに輝いている。委員長という単語の持つお堅いイメージには到底そぐわない、子供っぽい眼差しだ。
「ふう、も、だめだ……」
ドサッ、と後ろで丈が崩れ落ちる音が聞こえたが、とりあえずそれは置いといて、今は目前の委員長に接触を図る。
「おはようございます、いいんちょ。すがすがしい朝ですねー」
何気なく、ソフトタッチな話題を投げてみる。
すると彼女はクス、と嫌みにならない笑みをこぼし、
[#挿絵(img\xy_065.jpg)]
「今日は久々に遅刻だね!? 最近はギリギリで間に合ってたのに。って言っても、あくまで秒単位で、だけどね?」
と、軽い皮肉混じりのお言葉。
「いや、ほんと申し訳ないです。途中で厄介なのに絡まれなければ、いつも通りだったんですけどね……」
無言で背後にプレッシャーを飛ばしつつ、苦笑する。合わせるようにして委員長も一緒に微《ほほえ》んだ。
「白姫君のいつも通り≠焉Aぎりぎりアウトなんだよ〜?」
顔は笑っているが、どこか迫力がある。怒っている証拠だ。
それから彼女は表情を素早く切り替え、判決を下す裁判官のような口調で言う。
「今日は本来なら遅刻なんだけど、私的には白姫君に貸しを作っておくのも悪くはありません。……と、いうわけで、今回は見逃してあげちゃいます」
偉ぶる姿が何とも不似合いな委員長である。それに今回は、と言うが、彼女は毎度毎度ギリギリの時間には目をつぶってくれる。彼女への借りは数え切れないくらい溜まっているのだが、どこまで覚えているのやら。
「いつもありがと、いいんちょ」
お礼をすると、委員長はにんまりと口元に笑みを浮かべ、
「いーよ。楽しいし」
と、鼻歌交じりに言った。
「……え?」
意味が分からず聞き返すと、彼女は雲のようにふわふわとした微笑みを浮かべて言った。
「こうやって立ってるだけって退屈だから。白姫君のギリギリ登校、いつも楽しみにしてるんだ。あ、でも……」
ふふ、と今度は小悪魔的な笑み。表情の豊かなこの委員長さんは、クラスの中でもまさしくリーダーである。狙《ねら》っている男子も少なくないとか。だが――。
「わたし以外の子と浮気しちゃ、ヤだよ?」
屈《かが》んでから眼鏡を下にずらし、上目遣いでこちらを見る。そんな男心を掌握した仕草も使いこなす強敵なのである。浮いた話ひとつないのは、彼女に立ち向かえる相手がそういないからだろう。
委員長という役職の持つカタい印象と、彼女の持つ無邪気さとのギャップは、一種の凶器である。自分の目から見ても、確かに委員長は魅力的だ。
「あ、あははは……」
かといってボク自身そういった話題に強いわけでもなく、ただ笑うことしかできない。
「はいはい、いちゃつくのはそこまで。せっかく見逃してくれたんだ、ここでホームルームに遅れたら意味ないぜ?」
いつの間にか復活した丈が、ボクと委員長の間を裂くようにして割り込んでくる。校舎の中央に掛けられた時計を見ると、もうじきホームルームが始まる時間だった。
「あ、ホントだっ! ――んじゃっ、いいんちょ、また教室で」
「うん、またあとでね。白姫くん」
こちらが軽く手を振ると、委員長もまた手を振り返してくる。少しだけ名残惜しい、とか考えてしまう。それはきっと、彼女の持つ独特の雰囲気が、自分にとって心地良いものだからだろう。
玄関へと向かいながら校門の方をもう一度だけ振り返ると、まだ委員長はこちらに向けて手を振っていた。
――校門の前に立つ少女の視線の遙か先。
雲一つない、青空。
朝の忙しい喧噪《けんそう》の中で何気なく上を見上げた人々が、心を奪われ、少しの間立ち止まってしまうほどに堂々たる、青一色の世界。
いつだって人の上にあって、ふとした心の空洞を埋めてくれる。生命が生まれた場所が海であるなら、人が帰る場所は空。見上げれば、そこには帰るべき場所がある。だからこそ命は、安心して今を生きることができる。
だが、誰も――気付いていなかった。
青の中に落とされた、一滴の黒。
これから始まる何か≠フ開幕を告げる、小さな予兆に。
――ろ。
(……?)
――きろ。
(…………?)
――なたん。
(なんだっけ……。そっか、教室に着いて授業始まったら、眠くなって……ええと?)
そう。心地良いまどろみの中で、聞き覚えのある声がしたのだ。無駄に快活で、ここにいるはずのない――。
「起きろ〜、かなた〜んっ!」
こんな感じの、声。
「!?」
ガタンッ!
勢いよく立ち上がると、椅子《いす》が後ろの席にぶつかり、大きな音を立てた。
「ん〜、どうした白姫? ようやくお目覚めかぁ?」
次に聞こえたのは男性教師の渋い声だった。いまいち状況が飲み込めず周りを見回すと、今は授業の真っ最中、時計を見ると、とっくに二時間目になっていた。一時間目は寝たまま終わったらしい。
「ぇ、あや、すみません……」
クラスメイト達の微笑に晒されながら、腰を下ろす。
(……幻聴、か。そうだよね。いくらなんでも……)
モエルの声が、学校で聞こえるはずはない。
照れ笑いしながら、視線を下に向ける。机の横にぶら下げたバッグと、眼が合った。
「はろ〜っ♪ 授業中に寝るのは感心しないよ?」
スガゴロガッシャーン。今度は座ろうとして、椅子からずり落ちた。
「さっきからなにやっとんだ白姫? んん? いまなんか声が聞こえな――」
「す、すみません先生ッ――ちょっと顔洗ってきます!」
教師が疑問を口にするのを大声で遮ると、机の横にあるバッグを引っ掴み、ポカンとした顔をしている教師の返事を待たず飛び出す。教室から出る途中、委員長と目が合うが、彼女は不思議そうな眼をしていながらも、どこか楽しそうに微笑んでいるのだった。
教室を出てすぐにボクは背を屈《かが》め、洗面所とは逆の方向へと走った。なるべく足音を立てないように廊下を駆け抜け、突き当たりの階段へ。
バッグをかかえたまま一段飛ばしで階段を昇り、鍵のかかっている扉の前に辿《たど》り着く。胸ポケットに常備しているヘアピンを取り出すと、数秒で鍵を開け放ち、扉を抜ける。
――空が、広がる。
学校の屋上。授業中であるからというのはもちろん、そもそも屋上は生徒立ち入り禁止であるため、人の姿は全くない。でもボクはここから空を眺めるのが好きだ。だからしょっちゅう来ては寝ころんでいる。ボクのプライベートかつ秘密の空間、というわけだ。
「どぉいうつもりだっ!?」
入り口の扉が閉まると同時に、張り裂けろと言わんばかりに怒鳴る。叫ぶ相手はもちろん、体操服が入っていたはずのバッグの中から顔を出している、金色の猫。
「学校には付いてくるなって言ったはずだよ!」
「……おいら的にはまず、ここの鍵を開けた方法が気になるよ」
「そんなことはどうでもいい!」
「うわ、勢いで押し切ろうとしてるよこの子は……」
「細かいことは気にしなくていいの! ボクの質問に答えろ!」
モエルが何食わぬ顔で答える。
「かなたんを任されてるおいらとしては、やっぱり一日中密着してないとさ。それはもう影のように。ぴったりと」
実のところ、モエルが学校に付いてきたのはこれが初めてではない。
「あ、でもプライベートなところまでは覗《のぞ》いてないから安心してよっ」
「なんだそのいい笑顔……」
ちなみに昨日は下駄箱の中に入っていた。何をどうすればそういうことになるのか、想像もつかない。いや想像したくもないが、開けた瞬間、とにもかくにも速攻で投げ飛ばした。一昨日は、教室のベランダからこちらを覗いていた。
とにかく母が出かけてからというもの、モエルは学校にあの手この手で付いてくるのだ。昨晩、たっぷりと時間をかけて叱っておいたので、流石《さすが》に懲りたかと思いきや――。
「ふぃぃ〜。でもあのバッグの中はさすがにきつかったよ。狭いし、揺れるし。唯一よかったのは、かなたんの体操着のい〜い香り、かな」
――この様だ。
「お日様のぽかぽかした香りの中に、かなたんの素肌の柔らかい香りがほのかにイタタタタタッ!? かなたんヒゲはまずい! 猫にとってヒゲは三半規管と同等の役割をッ!」
「だったらそのヒゲ全部ちぎって一生動けなくしてやる」
「アタタタッ、かなたん恐い! 眼に色がない!」
ヒゲを両サイドからまとめて掴んで引っ張りながら、どうすればこの猫がおとなしく家で猫らしくしてくれるのか本気で考える。
「だってさ、かなたん、三日経ってまるで緊張感なくしてない? いつ敵が出てくるか分かんないんだよ!?」
「ボクの敵は、平穏な学校生活を乱そうとするキミだ。敵なんかどうでも――、敵?」
モエルのヒゲを放す。するとモエルは一目散に走ってボクとの距離を離し、二本の足で立ち、ヒゲを両手で器用に押さえながら、
「敵だよ、て、き! 忘れたなんて言わせないよっ」
忘れていたわけではない。忘れていたわけではないのだが――。
「いや、なんとなくもういいかな〜、なんて……」
「んなわけあるか!」
このままうやむやになれば、とか思っていたがダメらしい。説教モードに入ったモエルが、語り始める。
「とにかく。キミは緊張感がなさ過ぎる。もっと魔法少女としてだね」
――ザザッ。
「……ねえ、モエル」
「正義の心構えと、……なにさ?」
「敵……、ノイズが出てくる時って、どうやって分かるの?」
「? ん〜、そうだね、距離にもよるけど、音≠ェ聞こえるはずさ。ほら、テレビで映らないチャンネルとかあるでしょ? 砂嵐の。アレによく似た音。近ければ近いほどハッキリと聞こえると思うよ」
「それは誰にでも?」
「んにゃ、魔法少女だけ、だね。理論としては、ノイズが発生することによって生じる歪みが、君達の持つ魔力に干渉する、ってことなんだけど……」
――ザザ、ザッ。
モエルは気付いていないようだ。
――この、鼓膜を直接撫でられているような、不愉快な音に。
「ってことは、やっぱこれがそうか……」
「!? まさか……!」
モエルの表情が一瞬で変わる。臨戦態勢――鋭い眼光へ。
「そのまさかだよっ。しかも――」
騒音が、止んだ。
「近い――」
ゴォン。
鈍い振動音と共に、屋上の周囲を囲む手すりが震えた。
注意深く辺りを見回すと、屋上一番奥の手すりの上に、何かが掴まっていた。ボクより一回り大きく、表面にテカリのある、緑色の何か。四肢で器用に手すりに掴まっているそれは――トカゲ。ツヤのない眼をこちらに向け、しゅた、と四つん這《ば》いで屋上に着地した。そして、むく、と起き上がる。
しっかりと後ろ二本足で立ち、前二本の手は掴む獲物でも探すようにわきわきと開閉を繰り返す。何より異質だったのは、ソイツの背に付いた羽。二枚ずつ対になった計四枚の、トンボに似た羽である。こんな生物、見たことがない。
緊張した声で、モエルが呟く。
「ノイズ。君達魔法少女にとっての……いや、この世界を生きる人々にとっての敵。ここにあってはならない――」
――雑音。
その敵≠フことを、モエルはそう呼んだ。世界の調律を乱し、破壊する者。
ノイズ。異形の姿を持ち、悪事を働く存在。
そして、その雑音に対抗する者達のことを、
調律するもの――チューナー≠ニ呼ぶ。
魔法少女を総じた名であり、各地に点在する魔法少女を統《す》べる組織の名でもある。
世界は、いくつもの調和の上で成り立っている。曰《いわ》く、生命の持つ様々な意思が、絡み合いながらもバランスを保ち、今の世界≠ェ形作られている、とのことだ。
それを崩そうとしているのがノイズで、調整するのがチューナー、ということだ。この仕組みは古くから存在しているらしく、魔法少女という概念がこんなにも世に浸透しているのも、実際に存在していたからだ、とモエルは言った。
ちなみにボクは、説明の半分以上を理解していない。分かろうとしていなかったというのもあるし、モエルの説明下手にも原因はある。……説明の仕方が小難しいのだ。
だからボクは簡潔に、一つだけ尋《たず》ねた。
『ノイズの目的は?』
敵のしたいこと。悪事を働く存在だ、と聞かされたものの、本当にそんな漠然とした悪が存在しているというのか。
この質問にモエルは明確な答えを出さなかった。
ただ、
『ノイズは敵だよ。それだけは間違いない』
意図的に視線を外し、ハッキリとした口調で断言した。なぜかその時、モエルの声音に敵意とは違う、別の感情を感じた。それは哀しみに近い、静の感情。
それ以上は聞くことができず、説明は終わる。
「……だけど、なんでよりによって学校に……」
「簡単なことさ。獲物を見つけたんだ」
モエルが吐き捨てるように言った。
「空からおいら達の姿を見つけたんだ。だから――」
「だから襲いに来た、って言うのか!? そんな無差別に!?」
ノイズ。ボクの考えていたイメージでは、もっと……そう、アニメで見る魔法少女モノのような、かわいげのある悪事≠行う存在だと思っていた。そんな甘い考えを、モエルは容赦なく切り捨てる。
「だから敵だ、と言ったんだ」
「……っ!」
それが本当なら、確かにコイツらは――ここにあってはならない存在だ。
「とにかくっ、さあ変身だ――アイツを倒すよっ!」
勢いよくモエルが叫んだ。だからボクは、
「断るっ!」
勢いよく拒否する。
「即答!?」
「その場のノリに騙されるもんか。どうせまた女装させるんだろう!」
「でも、だったらどうやって戦う気さ!?」
モエルは引き下がらない。だが、こちらとしても引き下がるわけにはいかない。
「このままで――」
ぺたん、と背筋に響く音を立てながら、トカゲが接近してきた。
「――やってやるさ!」
宣言と同時に、相手の間合いに飛び込む。先に動いたのはトカゲだった。こちらの動きに気付くと、腕を振り上げ、袈裟懸《けさが》けに振り下ろしてくる。それだけの動作だが、相手のひょろ長い五指の先には、鋭い爪が鈍く光っている。
だが至近距離でそんな大振りの攻撃を受けるバカはいない。相手の懐で体を思いっきり屈め、大振りの一撃を空振りさせる。そして、屈んだ体勢から相手の左足を抱え込み、そのまま空に向かって掴み上げた。
トカゲは立っていられずにバランスを崩し、床へと横倒しになる。
「凄いことするね、キミ……」
肩から落ちそうになっているモエルが、呆気《あっけ》にとられた声で呟いた。
「正しい戦い方なんて知らないもん」
――昔からボクの周りは騒がしかった。様々なトラブルが呼んでもいないのにやってきた。それらは全《すべ》て母、白姫|此方《こなた》が巻き起こす騒動で、なんか黒ずくめの男達に追われたり、謎の研究所から脱走した生物が襲ってきたり。それは夢でも現実でも見境なく訪れた。
ボクの戦い方は、そんな中で養われてきたもの。
戦う、というよりも現状を打開する&法を駆使しているだけなのだ。
「でもかなたん、メチャクチャだよ。変身を拒む魔法少女なんてさ」
「詐欺《さぎ》まがいの方法で変身させたヤツに言われたくないッ!」
「方法はともかく、契約破棄は天罰だよ、天罰っ。……おいらはそれでもいいけどね」
「倒せばいいんでしょ倒せば! 結果は同じなんだからっ!」
グルンッ。倒れていたトカゲが、爬虫類特有の気色の悪い動きで百八十度反転して見せた。
「!?」
「キシャアッ!」
背中の羽が小刻みに羽ばたいた。空気が悲鳴を上げているような鳴き声を上げた直後、トカゲは至近距離から飛び跳ねてきた。咄嗟《とっさ》に身を反らし、その突進をかわす。こちらを飛び越えた敵は、羽ばたきを止めて背後に着地する。
ゴガンッ!
着地点のコンクリートが、砕けてヘコんだ。
(……なんて威力っ! しかも公共物破損っ、あれボクの所為《せい》じゃないよね?)
別の意味での危機感を抱いていると、着地したトカゲの姿が消えた――ように見えた。
「わきゃっ!?」
無意識にしゃがむと、すぐ真上を目にも止まらぬ勢いで爬虫類が飛び越してゆく。爬虫類の俊敏な動きと、羽を使った自由機動。嫌な組み合わせだ。
モエルが顔を覗き込んできて、呑気《のんき》に聞いてくる。
「かなたん、そろそろ変身する気になったー?」
「かなたん――言うなっ!」
跳ね、飛び回る敵の着地点を狙い、跳び蹴りを放つ。完全に無防備な状態を突いたつもりの蹴りは――受け止められる。
「なっ!」
トカゲは、蹴りに使った右足を脇腹で受け止めると、こちらの体を持ち上げようとしてくる。
「くっ、りゃっ!」
その力をそのまま利用し、こちらから跳び、左足で敵の側頭部を蹴りぬく。全体重をかけた一撃によって、トカゲの体がぐらついた。同時に足の拘束も解かれる。
体勢を崩しながらも、なんとか着地できた。
(追い詰められてるな……)
自分の立ち位置を確認すると、中央から段々と、屋上の出入り口の方へと押し戻されているのが分かる。逃げるという手もあるが、こんな生き物を学校に放置するほど無責任ではない。
(だけどアイツ、全然手応えがないんだよね……。ゴムでも殴っているみたいだ)
――ドンドンドン
――突然、屋上の扉が叩かれた。そして、扉の向こうから声がする。
『白姫くん、ここでしょ〜? 先生が心配してるよー?』
「……は?」
緊張感をきれいに洗い流すようなほんわかした声。間違いなく、うちのクラスの委員長さんだ。どうやらなかなか戻ってこないのを見かねて、彼女がかり出されたらしい。
彼女はボクが暇なとき、いつも屋上にいることを知っている。
「いいんちょっ! 入っちゃ駄目だ!」
開き掛けたドアに向かって怒鳴る。
『はえ?』
「すぐ戻るから、いいんちょは先に戻ってて!」
扉の向こうにそう伝えるが、委員長は扉を半開きにしたまま、動く気配がない。
『だめだよー。クラスの委員長さんとして、非行に走るクラスメイトを放ってはおけません。だから私も入れてっ』
ドアが再び開き始めた。限界を超えた速度で開きかけた扉に体当たりする。
「!? ちょっと待って、いま枕見えた! いいんちょ枕持ってるでしょ! 持ってたよね、羊の絵が描いてあるやつ! すっごい眠れそうな! 寝る気満々じゃん!」
委員長が扉の向こうから、予想以上に強い力で押してくる。
『ううん、持って、ないよー。すみません先生、白姫君が学校中を逃げ回るから、授業に戻れませんでした≠ネんて言い訳も、考えてないよ〜』
モエルが感心して頷《うなず》く。
「……ふむ。突然授業を脱走したかなたん、連れ戻しに行ったクラスメイト。しかも委員長。残念だけどかなたん、これはもう完全な後手だ。なかなかの策士だね、彼女」
「いらない分析してないで、何か手伝えーっ!」
扉にピッタリと張り付いたまま小声で怒鳴る。だが、こちら側にはもう一匹、空気を読んでくれない存在がある。ぺたん、ぺたんとゆっくり近づいてくる、羽トカゲ。動けないというこちらの都合が分かっているかのような、いやらしい態度だ。
「なんて気の利かないノイズだ……っ! ええと、あの、いいんちょ! 実は今、見られたくないものがありまして――!」
「――かなたん、せっぱ詰まつた状態だと言い訳にキレがないね」
扉の向こうにいる委員長はしばらく無言だったが、何故か突然声を潜めて、
[#挿絵(img\xy_083.jpg)]
『……そんなに見られたらまずいものがあるの? それってもしかして…………ぽっ』
「いいんちょ、いま口でぽっ≠ト言ったよねっ? というかそれは誤解だよっ! 何を想像したか知んないけど、ボクはいいんちょのためを思って――」
委員長は声をひそめ、艶《つや》のある声を出す。
『わたしを想ってだなんて……白姫君……』
「なんかそれ漢字変換違うでしょっ!?」
『でも白姫君なら、わたし……』
どうしてボクの周りには話の通じないマイペースな人ばかりいるのか。
(前門のトカゲ、後門のいいんちょ。どちらにしてもボクは絶体絶命。このままだと委員長も巻き込んでしまうかもしれない。それだけは……だめだ)
最初から一つしか残されていない結論へと、ボクの思考は辿り着く。
「……あぁもう。モエル。――変身すればコイツ……何秒で片付けられる!?」
委員長に聞こえないよう、やるせない声で呟く。モエルはその呟きに首を傾《かし》げる。だが意味を理解した途端にその目を爛々《らんらん》と輝かせて、
「やっとへんしぐっ!?」
叫ぼうとしたので慌てて口を押さえる。
「声が大きい。で、何秒?」
モエルは、間近にまで迫ったトカゲをちらりと見て、
「――十秒だ」
そう、力強く断言した。
「ノッた」
口の端で笑い、手を空に掲げる。
空に話しかけるように、意味在る言葉≠放つ――。
「――遍《あまね》く空の果てへ」
ちぎれ雲を割り裂いて。
世界を、二つに分ける。
光が――落ちてくる。
トカゲ型のノイズがたじろいだ。動きを止め、明らかに怯《おび》えている。本能で感じたのだろうか。それが、自らを滅ぼすモノだということを。
地上に降り立った蒼《あお》い柱、その中央に突き立つ一本の杖《つえ》。
杖の先端、無色透明の宝石が主であるボクを見つめている。小さく息を吸い込み、手を伸ばす。蒼光の領域は透き通るように主の手を受け入れ――ボクは杖を、力強く、掴み取る。
全身の神経が奮い立つ。体中を巡る意識の流れが一瞬でリセットされ、新たな自分の在り方を創り出す。
改めて感じる。これが――、
「――魔力」
力を確信した瞬間。身につけていた服に変化が起きた。
まず、上半身から下半身にかけて、青い光が包み込む。眩《まばゆ》いその光は、暖かいのに何処か爽快な気分にさせる。
ところが、その光に包まれたと思ったら今度は、学生服が光の粒子となって消え始めた。
「ええっ!?」
止めようと思っても光は掴めない。衣服は解けるようにして消える。
「ちょっ、こら……!」
光が体を覆っているものの、何も身に纏《まと》っていない状態になると恥ずかしい。とにもかくにも恥ずかしい。
視線を動かすと……こちらを見ているモエルが見えた。それも、目を見開き皿のようにして、何かを見透かそうと躍起になっているモエルの姿。
光が邪魔で見えるはずはない。はずはないのだが――。慌てて手で体を隠す。
脳裏に、いつかの記憶がフラッシュバックする。
「――い〜い、かなちゃん。魔法少女の最大の見せ場は、変身にありよ!」
「ごめんなさい母様何を言っているのか全然分からない」
初めて変身した日のこと。ボクの自室で魔法少女の基本を教えていた母が、いきなり熱く断言した。
「紡《つむ》ぎ出される意味在る言葉、応じ現れる魔法の道具。弾ける衣服、露わになる若く生々しい柔肌《やわはだ》――」
陶酔しきった表情で母が呟く。
「最後のいらないでしょ」
もはやどうにでもなれと冷め切っているボクの言葉に、母は心底嘆いた様子で、
「かなちゃん……。魔法少女が脱がなくて誰が脱ぐの」
「誰も脱がない」
「……! そんな! ただかーさまはかなちゃんのあられもない姿が見たくて……!」
その頬《ほお》を伝う雫《しずく》は、紛れもなく、涙だった。
「おやすみなさい」
ベッドに潜り込む。
「まぁ。かーさまの話を無視して寝ちゃう悪い子は……ひんむいちゃえ♪」
「ちょっ、やめっ!」
ガバッ、と起きた時には――。
「もうおそい♪」
「うわわっ!? 瞬《またた》く間に上着のボタンがッ!?」
「素直に見せないからよ♪ それに、子供の成長を見るのは母親の特権よね♪」
「なに頬を赤く染めてるのっ!? なんで息が荒いのっ! ちょっ、母様ッ! 下は、下はダメッ、んっ……ああぁぁぁ――」
「かなたん……、かなたん! どうして変身するだけで汗だくになってるのさ?」
時間にして一瞬、五秒ほどもかからない変身の時間を経て、ボクの意識は既に満身創痍《まんしんそうい》となっていた。杖を支えにして立っているのがやっとなくらいだ。
過去からもたらされた精神ダメージは今日一日で最も致命的な威力を秘めていた。そしてさらに、自分の身を包む衣装を見て、追撃を喰らう羽目になる。
少しだけ期待をしてみたりもしていたのだが、やっぱり衣装は大きくてダボダボのワイシャツに、青と白のチェック柄のスカート、悪意さえ感じるほどにピチピチの黒スパッツ。頭の両サイドで銀髪をまとめる赤いリボンは、頂点がピンと立って風になびき、赤と白銀の彩りを生み出している。
相も変わらず、恥ずかしいままだった。
「……なんでもない。うん。なんでもなかったんだ――」
ガク、と膝から力が抜け落ちるのが分かった。
「ちょっとかなたんっ! 戦う前に負けてるよ!」
「キミのせいだっ!」
つい大声で怒鳴ってしまった。
『白姫くーん? なんか様子がおかしいけど、ほんとにどうしたのー? もしかして未知との遭遇?』
背にした扉の向こうから、どことなく楽しんでいる感の否めない声が聞こえてくる。
(そうだ、過去に負けてる場合じゃないんだ)
「モエル、どうやって戦えばいいっ?」
ボクの質問に、モエルは肩の上からビシッと、後ずさりしながらこちらを見ている――もしかしたら呆れ果てているのかもしれない――トカゲを指差し、
「どかーんとやっちゃえ!」
と、威勢良く吠えた。
「……で?」
沈黙。しばし穏やかな風が吹く。
「……?」
ぺしん。
心から不思議そうな顔をしてくれたモエルを、肩の上からはたき落とす。
べしゃ、と床に落ちたモエルはすぐさま起きあがり、非難めいた声を上げる。
「なっ、何するのさ!?」
「……そんな曖昧《あいまい》な説明があるかっ! もっとあるでしょ? どんな敵でも一撃で打ち砕くようなっ!」
「そんなの教えられるかっ、だいたい、魔法の使い方なんて教えてどうこうなるものじゃないんだよ。よくあるでしょ、初めて変身した魔法少女が教えてもない魔法を使ったりするの。あれは自我を構築する固有情報が自分に最も合った魔法を教えてくれるからで――とにかく、自身のイメージなんだよ!」
「何を言っているのか全然分からない!」
戦闘中であるという緊張感を忘れた、小声での言い争いが続く。そんな中、今まで動きを見せなかったトカゲが、意を決したように飛び掛かってきた。
「―――」
反射的に体が動いた。気が付けば肉迫していた敵に対して、腰を落とし、左手を床に着き、右足で弧を描く。相手の足首を狙っての水面蹴り。転《ころ》がすことができたら十分だったのだが、ヒットした水面蹴りは予想以上の結果をもたらした。
相手の軸足を払うと同時に、敵の体がぐりん、と空中で回転したのだ。さながら風車のように。そしてそのまま空中で回転している敵に対して、水面蹴りから立ち上がりながらの回し蹴りを放つ。
喰らった敵はまるで漫画のように、無様な姿で真横に吹っ飛んでゆく。そして屋上を囲む手すりに激突する。
流れるように一連の攻撃を放った後、蹴った足を下げることも忘れ呆然《ぼうぜん》としてしまう。
「……軽い」
思ったことがそのまま口から出てしまう。体の動きを風によって抑制されるのではなく、風と一体化している、そんな感覚。向かい風から追い風へと変わる瞬間――。
そんな解放された♀エ触があった。
(そういえば、こんな風に意識しながら戦うのは初めてだ……前は、混乱してたし)
「……気付いたようだね」
モエルが口の端をつり上げ、不敵に笑った。
「普段よりも体が動くでしょ。――今のキミは、ありとあらゆる戒めから解き放たれた状態にある。重力の足枷《あしかせ》から解き放たれ、空気抵抗もほとんど感じないはずさ」
なるほど、道理でさっきから体がむずむずしているはずである。初めて変身させられたときは服装のことばかり気にしていたが、今になってようやく実感できた。
「これが魔法少女……」
テレビや漫画で見る、人の持ち得ない力≠持つ存在。思っていたよりもその力は現実的な、戦う≠ニいう行動に重点が置かれていた。そして、冗談でも何でもなく、今、自分自身がそういう存在になってしまったことを改めて自覚させられる。
手の平を開いて、握る。たったそれだけの行動でも、今までと違った感覚がする。
――それが、少しだけ恐い気もした。
「だけど」
考えることは後でもできるし、迷うのは好きじゃないから。
「とにかく今は、コイツを片付ける!」
――そう、決めた。
扉越しの委員長に叫ぶ。
「いいんちょ! 十数えたらそこの扉、開けてもいいよ」
『……? うん。分かったー』
委貝長の返事を聞いた後、自分よりも大きな杖の真ん中あたりを両手で握りしめ、一気に駆け出す。
『十秒ね。――いーちっ』
委員長が声に出してカウントダウンを始めた。
踵《かかと》から踏み込み、爪先で床を蹴る。それだけで、体が感じたことのない未知の加速領域へと辿り着く。スカートをはためかせ、銀髪を風に踊らせながら、流れるように駆ける。
(今だけ、羞恥心《しゅうちしん》のことは忘れるっ!)
一秒とかからず手すりにもたれた敵の懐に飛び込むと、杖を左手に持ち、右拳を敵の腹部に撃ち込む。
『に〜いっ』
あれだけ手応えのなかった敵の体に、確実なダメージが貫通した。叫声を上げたトカゲが闇雲《やみくも》に腕を突き出す。上半身を反らせて腕の範囲から逃れながら、手を背後の床に付き、バク転と顎《あご》下を狙った蹴り上げを放つ。
『さ〜ん』
顎を蹴り抜くと、トカゲの体が宙に浮き上がった。
着地後、杖で床を付く。するとガツン、という音とともに、石屑をまき散らし、杖がめり込んだ。
『よーんっ』
「モエル、ちょっと降りてて」
乱れたスカートを両手で整えながら、モエルに言う。
「うぃ!」
妙な返事をして、モエルがしなやかに床に降り立つ。
『ごーおっ』
意識しながら息を吸い、一気に吐き出す。
(魔法の使い方なんて教えてどうこうなるものじゃない、か)
右手を杖に添え、空中で無防備になった敵へと、宣言する。
「悪いけど、試させてもらうよ」
――全ては自身のイメージ。前回の戦いで最後の一撃を放つ瞬間――思い描いたこと。
思い出しながら強く、脳裏に描いた瞬間、杖がキィン、と薄い水晶を弾いたような音を立て、震えたような気がした。
繋《つな》がった。そう確信する。それがきっかけとなって、体に力が満ちてくるのが分かる。肉体的な力とは違う。体内の空洞の部分を埋めてゆく、未知の力――魔力。
杖の先端に付いている宝石が、透き通った空を思わせる蒼色の輝きを放ちながら、その魔力を解き放つ時を今か今かと待ち望んでいるかのようだ。
あの時のボクは思っていた。
目の前に広がる理解しがたい光景。
なかば強制的に巻き込まれた戦い。
人の性別を無視した恥ずかしい服。
それら、日常から外れたモノに対して、ただ一つ、シンプルに。
――吹き飛んでしまえ≠ニ。
『は〜ちっ』
トカゲが空中で羽ばたき、体制を立て直した。
――杖を引き抜く。
その場でくるりと回転し、杖で地をなぞりながら遠心力を乗せる。白銀色の髪が円の流線を描きながら舞う。赤いリボンも一緒になって虚空を彩り、杖を握る手に力を込めた。
派手な魔法を撃つなんて器用なことができるわけじゃない。
今はただ、
「全力で!」
ダンッ!
床を蹴る。自分が弾丸になったかのような錯覚を憶えながら、空へと跳ぶ。
「――吹っ飛ばす!」
両手で握り締めた杖に込められる、腕力、遠心力、そして魔力。
『きゅ〜うっ』
蒼い魔力光が、杖の走るラインを彩る。
「オーヴァー――」
空と同じ色をした光の行く先は――ノイズ。
「ゼアーーーッ!」
魔法少女にあるまじき、原始的な一撃。音も光も超え、ただフルスイング。杖は敵の胴体へと吸い込まれ、止まることなく、威力をぶつけ、貫く。
重い手応えを残し、ノイズの体が空高く吹き飛んだ。敵の姿はぐんぐんと上昇し、小さくなってゆく。その姿が見えなくなっても、墜ち続ける。
重力の届かない遙か高み――空の、彼方へ。
「…………」
手に残った痺《しび》れが、戦いの終わりを確信させる。
勝利の余韻に浸る間もなく、大きな声のカウントが響いた。
『じゅうっ!』
「!?」
同時にバァン、と勢いよく鉄製の扉が開かれた。
「………………………………あれ?」
「……どうしたんですか? 委員長」
きょろきょろと辺りを見回し、明らかに拍子抜けした表情を見せる委員長。屋上は閑散としており、一秒前の光景など想像もできないくらい静かだ。間一髪で変身を解いたボクは、動悸《どうき》に気付かれないよう、平静を装っている。
「がっかり」
枕を両手に抱いた委員長が文字通り、がっかりとした溜息を吐く。
「何を期待していたんですか」
「それは……言えないっ」
――なんで頬を赤らめますか?
「え〜と……、っ! これっ、コイツを、見られたくなかっただけなんですよ!」
普通に肩に座っていたモエルを床に下ろす。するとモエルは「にゃん」と短く、わざとらしい声で鳴き、その場にしゃがみ込んだ。
話のつじつまを合わせるために咄嗟《とっさ》に出た設定だが、モエルはすぐに察してくれたらしい。最近ではめっきりと見せることのなくなった、猫っぽい振る舞いを見せる。
「……猫ちゃん? ちょっと鳴き声が変だったけど」
「ええ。ボクもまさかここまで鳴き真似、じゃなかった鳴き声が変だとは思ってませんでした」
頭を押さえながら、モエルを睨《にら》む。するとモエルは同じようにこちらを見返してきた。その眼は「失礼な! おいらの鳴き声のどこが変なんだ!」という感情が込められている。
「にゃあんっ」
よく聞け、とばかりにもう一度鳴き声を上げるモエル。しかしその声も……。
「……やっぱり鳴き声が変だね。なんか人間の鳴き真似みたいな……」
委員長はスカートを丁寧に押さえながら座り、モエルの喉《のど》元に触れようとすると、モエルは逃げるように素早く身を引いて、こちらに身を寄せてきた。
「…………」
ボクは黙って座り、モエルと視線を合わせる。口で語る以上に雄弁に、目で語る。
『どうして猫のくせに鳴き方が下手なんだ。そういや昔から全然鳴かなかったよね』
『うるさーいっ、この浮気者ーっ』
モエルが手に噛みついてきた。地味に痛い。
『浮気者!? なんだよそれ!?』
反撃に体ごとひっくり返してやる。すると今度は腕を前足で掴んできて、ネコキックを仕掛けてくる。ちなみに、この会話はあくまで視線のやりとりである。
「……ふふ。よくなついてるんだね」
そんなボク達のやりとりを見て、委員長はくすくすと笑っている。モエルを何とか振りほどき、言葉を選ぶ。
「え、ええ、まあ……時々、ここで餌をあげているから、かな」
正しくは毎日、家で、なのだが。とりあえず今はなんとか自然な形でごまかせるように、話を進めるしかない。しかし、委員長の穏やかな表情を見ていると、全部見透かされているような気分にさせられる。それもまた、彼女が委員長≠スる器を持った人間だからだろう。
これ以上ここにいるとボロが出てしまいそうなので、限りなく自然に声を上げる。
「あ、そろそろ戻らなきゃ――ね、いいんちょ」
『……なにその露骨な演技』
ボクだけに聞こえる声でモエルが突っ込んでくる。無視してボクはそそくさと立ち上がった。
委員長はボクに促されると、座ったまま首を傾《かし》げた。戻るってどこに?≠ニでも言い出しそうな雰囲気である。しかし、ボクを連れ戻すという当初の目的を思い出したのか、ちゃんと自分で立ち上がった。
「あ〜、そういえばそうだったね〜。……残念」
「いや、残念て。……っ、ダメですよ、そんな潤んだ目で見ても! そもそも教室から出るときに誰も突っ込まなかったのか! 枕持ってることに!」
「じゃあ、白姫君も……寝よ?」
一つの枕を胸の前で抱きしめ、彼女は誘う。柔らかそうな、弾力のある枕。眼鏡の奥にある純粋な瞳。小悪魔な睡魔の誘惑はどこまでも魅力的だった、が。
「ダーメーでーすっ!」
こちとら誘惑には慣れている。それをしてくる相手が実の母などとは口にも出せないが。
ぶー、と渋る委員長の手を引っ張り、屋上の扉を開ける。委員長に先を行かせ、その後をひょいひょいと付いていこうとしているモエルの首筋を指でつまみ、放り投げる。
「なっ、なにすんのさっ!」
「連れて行けるわけないでしょ?」
「こんな寒空においらを残していく気!? 鬼だよ、アンタ鬼だ……よ……」
モエルの言葉が途切れ途切れになって消えてゆく。ただボクは、にこ、と微笑んだだけだというのに。
「それじゃ、いいんちょが待ってるから」
「あ、ちょっと待って」
足を踏み出しかけて、止める。
「まだなにか?」
「――彼女は?」
その言葉は、質問として捉えるには少々言葉足らずだった。しかしこの場合、彼女≠指しているのは間違いなく委員長のことだろう。
「? 同じクラスの委員長だよ。見れば分かるでしょ?」
おさげと眼鏡、先入観でモノを言うのは良くないが、彼女を初めて見た人がまず抱く印象はやはり、委員長≠ニいう、誰もが共通したイメージを持っているソレだろう。
「仲、いいの?」
本来ならその質問の意図を尋ねたいところではあったが、多分委員長はボクが出てくるのを待っているだろう。仕方なく、簡潔に答える。
「う〜ん……悪くはない、と思う」
自信を持って仲が良いと言えないのは、彼女の人柄によるものだ。
彼女は誰とでも仲がいい。それはつまり、周りからすれば今一歩踏み込んだ関係になれない、ということでもある。友人とは言えても、親友と言うには……少しおこがましいような、そんな気がするのだ。
「ふぅん……」
モエルは首を傾げ、大きな瞳を細める。
「……? じゃ、行くからね」
ルビー色の瞳で空を見つめるモエルは、「うん」と返事をするだけだった。
人のいなくなった屋上で、モエルは考えていた。
「一週間で、ノイズが二体……?」
空を見上げる。
「いくらなんでも、ぺースが速すぎる。偶然なのか……」
――モエルもまた、気が付かない。
空の中に落とされた、小さな、だが確実に大きさを増す、その異点≠ノ。
その日の帰りのことだった。
「ねぇモエル」
帰り道で平然と肩に乗ってきたモエルに話しかける。
「ん!? なんだい?」
「今日の昼さ、もしボクがいいんちょに変身した姿を見られてたら、どうなってたのかな? 正直、あの姿を誰かに見られたりしたら、見た奴を全力で叩き伏せちゃうと思うんだ。記憶がなくなるまで」
「平然とした顔で恐いこと言わないでよ正義の味方が――」
声を荒げるモエルの口を慌てて押さえ、辺りを見回す。小声でモエルが続けた。
「いいかい、おいらだって、キミをこの町の有名人にしたいわけじゃないさ。そもそも、正義の味方の正体はバレちゃいけないって相場が決まってるし」
「どこの相場……?」
質問を軽くスルーして、モエルが言った。
「――認識阻害。
魔法少女化した際に自動的に展開する魔法で、知人に見られてもキミは別人にしか見えなくなる。……まあ、あくまでも視覚的なものだし、魔力を持っている人には効かないけど。普通にこの町の中とかなら、誰にもばれないと思うよ」
「なるほど、変身している間ボクは別人になるわけか。――マスクなしで強盗とかできる?」
「やっぱりこなたんの娘だね……一言一句同じことを言ってる」
「娘言うな」
どうやら血は争えないらしかった。
しかし、それが本当なら肩の重荷がかなり降りる。変身するのを認めるわけではないが。
「まぁキミの場合、正体がバレたところで困ることがあるようには思えないけどね。
――喜ばれこそすれ、嫌われるなんてこと……あるはずがない」
モエルが前足で、耳の後ろから額にかけて撫《な》でながら、聞き取ろうとしないと聞き取れないほど小さな声で、淡々と呟く。その声の冷たさに違和感を覚えるが、モエルは顔を洗う仕草を繰り返すだけで、いつもと変わりはないように見える。
ほんの些細《ささい》なことだが、モエルはいつも無駄に元気な声で話すので、こんな風に呟くなんてことは、珍しいことだった。
「……分かったならさっさと帰るよ」
おもむろに顔を上げたモエルと目線が合う。
ぱっちりとしたルビー色の瞳に見つめられ、思わずこちらが目を逸《そ》らしてしまう。
「う、うん。そうだね」
いつも通り肩に乗っているだけのモエルが、やけに重たく感じる。
恐らく、考え過ぎなのだろうが……。
(……モエルって、一体何者なんだろう?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
――知っているのは、母が七年前に拾ってきた猫で、好物はポン酢をかけた温豆腐。食べている姿を見た昔のボクは、それから三年に掛けて猫は豆腐を食べるものだと思っていた。ちなみにキャットフードは食べない。風呂好きで、風呂の温度は熱すぎず温《ぬる》すぎず。いつもは母と一緒に入っていた。たまに一緒に入ろうとすると、かなり嫌がられた記憶がある。それでも無理やり入ったときは、風呂場の隅でじっとしていた。最近は風呂に一人(一匹?)で入るという離れ技をやってのけている。その他、知っているといえぱそういった日常でのことばかり。
――ボクは、肝心なモエル自身のことをほとんど知らない。
いや、今まで気にもしていなかった。それもそうだろう。つい数日前までは普通の猫だと思っていたのだから。だけど今こうしてみると、モエルは言葉を話せて、その視点も考え方も人と何も変わりはない。モエルにはモエルの過去がちゃんとあるのだ。今のモエルを形作った過去が。
「七年間、一緒に暮らしてきて何も分からない、か……」
[#挿絵(img\xy_105.jpg)]
風に消えてしまうくらい小さな声で呟く。
「……!? 何か言った?」
肩の上で訝《いぶか》しげな顔をしているモエルに言う。
「帰ろうか。……モエル」
――それでもボクとモエルは、七年間という時を一緒に過ごしてきた家族≠セ。その時間の絆《きずな》は、間違いなく本物だ。
「? うん……?」
どこか釈然としない表情をするモエルに、笑って返す。
学校に付いてこられるのは迷惑だけど――こうやって二人で帰るっていうのは、いいかもしれない。
口には出さないけれど、その時のボクは確かに、そう感じていた。
[#改ページ]
Other side.モエル
「今日からここがあなたの家よ」
暖かい手に抱かれてやってきたのは、ごくありきたりな一軒家だった。普通のサラリーマンが人生の半分近くをかけて買うくらいの家。白塗りの二階建てで、外から見える庭は、バーベキューがギリギリできそうなくらいの広さだ。でも、キャッチボールとかはできそうにない。
外見はまるっきり少女にしか見えない女性≠フ腕に抱かれたまま、その家の中へと連れ込まれる。
女性の名前は――此方《こなた》。
「ただいま〜っ、かなちゃん、帰ったわよ〜」
此方は、玄関先でいきなり大声を上げた。どうやら二階に誰かがいるらしい。
――そんなにおっきい声で言わなくても聞こえますってば!」
廊下の奥にある階段から、大声が返ってきた。その声は此方とよく似て、高音でよく響く、澄んだ声だ。続いて、とたとたと階段を降りる音が聞こえてくる。足音を聞く限り、此方とは違う、落ち着いた性格であることが予測できた。
「おかえりなさいませ、かーさま」
階段上から降りてくる――女の子、だろうか。ぶかぶかのTシャツ一枚に身を包んだ、恐らく七歳くらいの少女。外見だけで判断するなら女の子だと断定できるのだが、限りなく勘に近い領域で訴えてくる違和感がある。
「……かーさま、その子は?」
此方とそっくりなその少女は、こちらを見て即座にそう聞いてきた。
「モエルちゃんよ」
此方は至極当然と言わんばかりに、床に下ろしてから自分を紹介した。
(そういうことを聞いてるんじゃないだろうに)
心の中でそう思ったが、少女の反応は予想していたものとは違ったものだった。
「そう。よろしくね、モエル」
近づいてきたと思ったら、いきなり頭に触れられた。それが撫でる≠ニいう行為であることに気付くのに時間がかかった。そんな経験はほとんどなかったため、ただ呆然とし、心地良い、と感じていたはずの自分の心にさえ気付けなかった。
「いい子でしょ、私の娘は。彼方《かなた》って言うのよ」
小声で此方が囁《ささや》く。
(彼方……)
その単語を聞いて思い浮かべるのは、やはり――空。なるほど確かに、漠然としたイメージで見るにこの子は蒼≠セ。燦然《さんぜん》とした青ではなく、ただただ透明な蒼。
そう納得していたら、彼方が納得のいかない顔で此方に向かって口を開いた。
「……かーさま、ウソはだめです。ボクは男ですよ。娘じゃないです」
「え!?」
その言葉を聞いた瞬間、思わず声をあげてしまった。慌てて口を塞ぐが、しっかりと彼方の両眼はこちらの目を捉えていた。
「今、この子――」
「てい♪」
気の抜ける掛け声が聞こえたと思ったら、そのすぐ後に彼方の体がガク、と崩れ落ちる。
先ほどまで彼方の顔があった辺りには、今は此方の手があった。手の形は、指をピンと伸ばしたいわゆる手刀≠フ形である。
「ちょっ、やりすぎじゃ――」
「大丈夫よ。そんなヤワな鍛え方してないもの」
首に手刀を喰らわされるのが、序の口だとでも言うのだろうか?
「さてっ、と!」
一言気合いを入れ、此方は床に崩れた彼方の体を抱き上げた。
「モエルちゃんはこの家の中、自由に見てきていいわよ。なにか分からないことがあったらいつでも聞いて」
そう言いながら、此方は腕に抱えた彼方を起こさないよう、そっと持ち直す。
「一つだけ……いいかな?」
「ん? トイレ? トイレならそこの廊下の突き当たりを右よ」
なんの疑いも抱いていない純粋な眼――それを前に、聞かずにはいられなかった。
「どうして……|助けた《ヽヽヽ》の?」
この人は何一つとして自分を疑っていない……なのに自分はこの人を疑っている。それがどのくらい失礼な話か、分かってはいるつもりだった。
しかし此方は、不快そうな顔など一切見せず、首を傾げた。何かを考えているという素振《そぷ》りではなく、こちらの質問の意図がまったく分からない、といった風な素振りだった。
此方の口から出てきた答えは――。
「……泣いている子を見ると放っておけないものなのよ。母親なんていう生き物はね」
何故か、笑う。楽しそうに、優しげに。
その笑顔に当てられてつい、迂闊《うかつ》にも、口元が緩んでしまった。
「今日からよろしくね、モエルちゃん」
「……うん」
モエルにとってそれは、随分と久しぶりの笑顔だった。
[#改ページ]
3.紅の魔法少女
「それじゃ、ヤってみて」
耳元でそっと囁《ささや》かれる声。
「う、うん……でも……、恐いよ……」
「大丈夫。周りには誰もいないよ。それに……痛くなんてないからさ」
声は優しく、耳元で緊張をほぐすように語りかけてくる。
「でもボク、初めてだし――」
「大丈夫だよ。ちゃんとおいらがリードしてあげるから。
ほら……力抜いて? 腕、上げてごらん」
「う、うん……」
おずおずと両腕を頭の上へ――。
「――ってコラァっ!」
そのまま勢いよく、肩からモエルを振り落とす。着地に失敗したモエルはごろごろと地面を転がり、先にあった木に頭からぶつかって止まった。
「何するのさ!?」
「……なんだか止めないといけない気がしたんだ」
「イタタ、こんな理不尽なツッコミは初めてだよ……」
猫が頭を抑えるしぐさはかわいい。そんなどうでもいい感想を頭に思い浮かべながら軽く息を吸うと、街中とは比べものにならないほど澄んだ空気が肺を満たしてゆく。それもそうだろう。周囲には木々が生い茂り、耳を澄ませばどこかにある水源のせせらぎが聞こえてくる。ボクが今いる場所は、こんなにも青々とした自然に満ち溢《あふ》れているのだから。
頭をさするのを止めたモエルが、ごほんと咳払《せきばら》い一つ、気を取り直して口を開く。
「あーもー、いいかい、もっかい説明するよ? 確かにキミは魔法の使い方を理解し始めてる。けど、それはまだ第一段階、体が理解しているに過ぎないんだ。重要なのは、知ること。自分にできることを頭で理解すること。そうすることによって、キミは本当の魔法少女に近づいていくのさ」
――魔法少女にされてはや一週間が経とうとしていた。前回の戦いでようやく魔法とやらの使い方が何となく分かり始めていたボクは、今日という休みの日を返上して、モエルの特訓に付き合わされている。
「そもそも、キミはまだほとんど魔法と言える魔法を撃っちゃいない。初めて変身したときの一回だけだ。こないだのトカゲを倒したのだって、ただ単に杖《つえ》に魔力込めて思いっきり殴っただけじゃないか。あんなの、オリジンキーの力をほんの少しも引き出せちゃいないわけであって――」
見られても平気だと分かっていながらもやはりこの格好は恥ずかしいということで、隣町にまで出向き、誰も近寄らないという山の頂上まで走ってきた。もちろん変身したままで、だ。
かなり本気で走れば誰の目に留まることもない。来る途中二、三人|轢《ひ》きそうになったのはご愛敬、である。
「本当の魔法少女……なんて取り返しのつかない響きだろう……」
うなだれながら呟《つぶや》く。
――ボクが休みを返上してまでこんなことをしているのには、ちゃんとした理由がある。
話は、今から一時間ほど前にさかのぼる。
「え? 特訓? やだよ」
自室の鏡台前で毎朝の日課である髪の手入れをしながら、ボクは即答した。起きたばかりだからまだ寝間着姿である。
「うわ、即答だよこの子は……」
朝っぱらから特訓だ!≠ネどと言い出したモエル。額《ひたい》にハチマキを巻き、どうやって作ったのか分からない猫サイズの竹刀《しない》を手に持っている金色の猫は、ボクの躊躇《ちゅうちょ》なしの拒否に肩を落とした。
「……あのねえかなたん。いくらなんでも、魔法少女が本能任せな体術一本で戦うのはどうかと思うよ? 最低でも、基本的な魔法の使い方くらい憶えてもらわないと――」
「ねえ。いつの間にボクが魔法少女やるってことになってるの!?」
ボクの問いかけに、モエルが心底驚いた表情を見せた。
「なっ!? だってこないだは!」
「あれは緊急事態だったから。あのままだったらいろいろ面倒だったし……。どちらにしろ、ボクはもう二度と魔法少女なんてやる気はない!」
もう既に二回も女装させられているのだ。状況が状況だからといって、これ以上あんな恥ずかしい真似をするつもりはない。これは確固たる決意である。
「まったく……キミって子は……」
モエルは片手を額に押し当て、苦悩する振りをしながら、しかしその陰で口の端をつり上げた。怖気《おぞけ》がするほどの邪悪な笑みを浮かべている。
「何か――忘れているんじゃないかな?」
笑みからポツリとこぼれた言葉は、余裕に満ちている。
「な……何を――」
妙な威圧感のある雰囲気に呑《の》まれ、ついたじろいでしまう。
ペシンッ! モエルが竹刀を、床に打ち付けた。
「アレをみなよ!」
竹刀を持っていない左手で、部屋のある一点を指差す。部屋に入ってすぐ右手にある、ウッドデッキ。上には様々な小物のインテリアが置かれている。その、さらに上――真っ白な壁に掛けられた、一枚の額縁。
(額縁……? そんなもの掛けた覚えは――ッ!)
ゴテゴテの装飾が付いた、金縁の額。花をデザインしているのかそれともイカの触手か。傍目《はため》にはそのどちらでも通りそうな、前衛的な形をした額縁である。部屋の中でも異様な存在感を放つソレは、今朝の時点ではなかったはずである。
付けるとしたらモエルしかいないが――あんな壁の上にどうやって付けたのだろう。
いや、問題はそこではない。その額に飾られた、一枚の紙だ。
「契約書……っ!」
「そうさ! キミが魔法少女になった日、拇印《ぼいん》を押しただろう――もしも契約者であるキミが魔法少女をやる≠ニいう契約を破棄するというのなら、あの書面に書かれてあるとおり、天罰が下される――」
『男の子は、女の子に。女の子は、男の子に。変わっちゃいま〜す♪』
ふと、数日前の母の言葉が脳裏をよぎった。
「……でも、冷静に考えてみたらそんなこと――」
「魔法の力を舐《な》めないことだね」
いきなり真面目な口調でモエルが言った。
「この世界に存在している魔法≠ヘ、際限のない力を秘めてる。
それこそ、可能性は無限さ。――だからこそ、おいらは――」
可能性は無限、のあとはうわごとのように呟いただけで、なんと言ったのか分からなかった。
「モエル?」
言っている最中に下を向いてしまったモエルは、バッと勢いよく顔を上げ、
「とにかく――契約破棄すればキミはめでたく彼方《かなた》ちゃん≠ノなるんだ! これだけは間違いない! それが嫌なら」
「結局、最後は脅迫なんだね……」
この強制力には逆らえない。契約なんてものを信じたわけではないのだが――この話には母が絡んでいる。あの白姫此方《しらひめこなた》という人に、魔法などという厄介な力が加わっているのだ。どう転がってもただで済むはずがない。
つまりボクはこれから先もずっと、この契約に怯《おび》えながら戦いを続けなければいけないというわけだ。どう考えても不条理である。
(魔法少女ってもっと、夢とか希望とか、そういうものに満ち溢れた存在じゃなかったかな……)
鏡に映る自分の姿を見て、一言呟く。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろ――」
「――今更文句を言わないの。ほら、とりあえずそこの岩に向かって思いっきり撃ってみて。心配はいらないよ。魔法少女の使う魔法はメルヘンさ重視だから。そんなに大それたことは起きないさ」
衝突した木の前から、モエルが指示してくる。
「メルヘンて……」
もうほとんど諦《あきら》め混じりで、とりあえず基本から思い出す。
オリジンキー。魔法少女に変身するために必要なアイテムで、使用者によってその形状は全く異なるモノである。使用者の分身、とも言える。
ボクのは長尺の杖で、名前はオーヴァゼア=B近接戦闘を主体とするボクのスタイルに合わせているのか、軽くて振り回しやすく、杖と言うよりは棒術に使われる棍《こん》≠ノ近い。
手にした日から既に体に馴染んでいる杖を、両手で握る。
次に、イメージ。
この世界における魔法とは、全てイメージによって形作られる。思い描いたものを、具現化する。それが魔法という力。これだけ聞けば万能のようにも思えるが、そんなに簡単なものでもない。
例えば世界が崩壊する、といった魔法を使おうとしても、オリジンキーは具現化することができない。あまりに漠然としすぎているのだ。
人にはそれぞれ、心に根ざすイメージがある、自然を好きだ、という人もいれば、機械のような無機物に囲まれて心安らぐ人もいる。そういった、自分の根底を定めている価値≠フようなもの。
ボクの場合は――空。
仰ぎ見ると、そこには一面の青。山の上だからか、空気も澄んでいる。雲一つ浮かんでいない空は、大きさという概念よりもその透明さに心|惹《ひ》かれるものがある。
この青い空こそが、ボクの心を占めるたった一つのイメージ。
手の中で杖が鳴動する。
―――キィン。
調律されたばかりのピアノを弾いた時のような、体の芯にまで響き渡る鳴動音。
繋《つな》がった。オリジンキーと一体化するような感覚によって確信する。
オーヴァゼアを天に向けて振り上げる。
(魔法には、使用者ごとの個性がある。だけど、誰もがまず使えるようになるのは、魔力衝撃、そして、魔力障壁。この二つが基本中の基本)
これから撃つのは魔力衝撃。
思い描く。自分の理想とする、魔法の形を。
「ハアーッ!」
杖を振り下ろすと、魔法の発動源となる宝石が空色に輝き、空から地へと、スカイブルーの軌跡が残る。
それこそがボクの理想とする魔法のカタチ。
――自らの手で空を描く。
望んだままに空中に描かれた、半月状の蒼《あお》い軌跡。だがこのままでは、これはただの線でしかない。
ピリオドの点を打つように、その軌跡をトン、と杖で押す。
空気が――爆発した。
錯覚ではない。軌跡に触れた瞬間に迸《ほとばし》ったプレッシャーが、局地的な台風のような現象を引き起こしたのだ。
(なにッ、この手応え……!?)
モエルが嬉しそうに叫ぶのが聞こえる。
「よし成功っ! これが基礎になる、魔力衝撃だ!」
周囲の草木を仰《の》け反《ぞ》らしながら飛翔する軌跡は、狙《ね》い通り目標の岩に接触する。
軌跡が目標に触れた瞬間、球形の爆発が拡がり、蒼い光がスパークとなって周囲に撒《ま》き散らされる。一定のサイズで拡大を止めた爆発は、触れるもの全てを呑み込み、破壊し続ける。
――炸裂音すらも呑み込んでしまう、威力の爆縮だった。
「…………」
「…………」
魔力の放出が止み、しばらく、沈黙の時が流れた。一人と一匹の間を乾いた風が過ぎ去ってゆく。そういえば随分と風通しが良くなった気がする。岩の周りにあった木が三本ほど、消し飛んだからだろうか。それとも、数歩先の地面に穿《うが》たれたクレーターのように、ボクの心にぽつかりと穴が開いてしまったからであろうか。
「ねぇ」
呆然《ぽうぜん》と、目線は真っ直ぐ前に向けたまま声を放つ。
「なんだい?」
モエルもまた、顔を前に固定したまま声を出した。
「……岩は?」
「粉微塵《こなみじん》」
げし。即答した猫の背を踏む。
「ぷふぁっ! なにするのさ!?」
足の下でジタバタとしながら蠢《うごめ》くモエルに、眼前で広がる惨状を指し示し、怒鳴る。
「ふーざーけーろぉっ! こんなむちゃな威力とは聞いてない! あんなに大きな岩や木が消し飛んでるうえに、このクレーターは何だ! こんなの町中で撃って人に当たったりしたらどうするんだっ!」
モエルは下敷きになったまま親指(?)を立て、自信満々に言い放つ。
「大丈夫、証拠は残ら――っ」
全てを口にする前に、オーヴァゼアを顔のすぐ横に突き立てる。
「ど、こ、が、メルヘン重視だっ! どう考えてもこれは殺戮《さつりく》重視じゃないかっ!」
「おいらだって驚いてるよっ! 普通、こんなむちゃな威力をした魔力衝撃は……ってちょっと待って。かなたん、もう一発さっきの撃てる?」
「……は? 嫌だよ、こんな物騒な魔法もう一度撃つなんて――」
「いいから。撃てる?」
真剣な声色のモエルに圧され、仕方なく杖と再度繋がる。
「ふう。行くよ?」
そう告げてから、杖を振り上げ――、
――振り、降ろす。
「…………」
「…………」
さっきと同じ沈黙が場に漂うのが分かった。
「あれ?」
杖を再度振り上げ、降ろす。
「あら?」
振り上げ、降ろす。
「あにゃ?」
降ろす。
何度動作を繰り返しても、起こるのは杖を振り下ろした際に起きるわずかな微風だけだった。
「……出ません」
「そりゃあそうだろうね」
「どーゆーこと?」
モエルは右手で頭を押さえながら、溜息まで一緒に出そうな声音で言った。
「かなたん、さっきの一撃で……全部使っちゃったんだよ」
「はい?」
「魔力だよま・りょ・く! どうするのさ……全部使っちゃつたら練習も何もできないじゃないかっ」
「だって、思い切り撃てって言ったのはモエルじゃないか」
「確かにそう言ったけど、普通は――……っ」
そこまで言って、黙り込んでしまう。
「……そうだ。普通はそんなことができるわけない。一発に全魔力を込めるなんて、体が許すはずがないんだ……本能的な部分でセーブするはずの境界線がないのか……初めて変身したときは、無意識で撃っていたのか……? やっぱり――だから……」
小さな声で呟いている。モエルは考え込むときにこれをよくやるのだが、こうなってしまっては考えがまとまるまでは気付いてもらえない。
「おーい、モエルー?」
呼びかけてみるが反応なし。完全に別の世界に行っている。
仕方がないから少し休憩しようと、考え込むモエルの隣に座る。そよ風は気持ちよく、自然に囲まれているためか空気が澄み切った清水のようにみずみずしい。体を通り抜ける清風はどれだけ吸い込んでも尽きることはなかった。
このまま寝てしまおうかとも思ったが、隣で思案中の小動物を見ていると、小さな悪戯《いたずら》心が芽生えてきた。
(……どこまで気付かないかな?)
おもむろに、前足の肉球を触ってみる。
――枕にしたいほどふにゅふにゅだ。
しばらくの間ふにゅふにゅして、それを両手ともにしてみても気付かない。
次は丸まった背中にロックオン。なだらかなラインに沿って撫でてみるが、この繊細な毛の感覚が何とも手に優しく、心地良い。
まあ当然として、これも気付かれなかった。
次は耳。ピンと尖った耳に触れる。一瞬、ピクンと動いて反応するが、無意識的なものらしく、何も言ってこない。
ふにょふにょでひんやりとしていて気持ちいい。
(うん。合格)
何が合格かは分からないが、とにかく合格。
次は――尻尾《しっぽ》。考えている最中もひょいひょいと動いていて、捉えるのに苦戦しそうだ。
(でも、変身している今ならこの程度……!)
パシッ!
「やたっ!」
「ひにゃぁっ!?」
見事捕まえて喜んだのもつかの間、モエルはすぐさま妙に甲高い鳴き声を上げ、飛び退いてしまった。
「き、き、キミはさっきからナニを……っ!」
「あれ、気付いてたの?」
「――そりゃっ……、気が付くに決まってるじゃないかぁ……」
段々とか細い声になってゆく。
「え、え、なんか怒ってる……?」
「当たり前だよっ……かなたんがいきなりっ……し、しっぽ……掴《つか》むから……はぅ」
尻すぼみな声で目を背け、俯《うつむ》いてしまう。何かを恥ずかしがっている。では何を、というまでもなく、ボクがさっきまでしていたことに対して、だろう。
湧きあがってくる、罪悪感。
そんなしおらしい態度を見せられてしまうと、自分のやったことがとんでもないことだったのではないかと思えてくる。確かに、体を撫で回したり、いろいろと、その……掴んだり。人間に当てはめると非常にまずいような気もする。
「ご、ごめん……」
最終的にはこつちまでも恥ずかしくなり、頬《ほお》が紅潮していくのがハッキリと分かった。
モエルだって女の子だ。たとえ猫とはいえ、無神経に体に触れるのはいかがなものだろう。
「うう……別に怒ってないけど……触りたいときは、ちゃんと言ってよね……こっちにも心の準備がさ……」
――なんだろう、この初々しい反応は。
打って変わって気まずくなってしまった。清涼感溢れる風はどこへ行ったのか。
お互いに照れて、何も言えない時間が続く。
耐えられなくなってボクは、とりあえず何か言おうと、口を開こうとした。
その時。
「――なんですの? 貴方《あなた》がたは」
話しかけられたのは突然のことだった。
だからだったのかもしれない。
「こんな山奥で……怪しすぎですの」
――炎。初めて見た瞬間、頭に思い浮かんだ。
声の主は、紅いドレスを身に纏《まと》っていた。荒々しい中にも気品を感じさせる、まさしく炎のドレス。ところどころにアクセントとして散りばめられている金粉が、豪華に舞い踊る火花のようだ。
振り向いた先にいたのは、母以外で初めて出会う魔法少女。
「ですの≠ニか言う人、ホントにいるんだぁ……」
初対面でのボクの第一声は、あまりにも的はずれだったかも……しれない。
一目見た瞬間にその人物を魔法少女だと断定できたのは他でもなく、こんな山中でこんな格好をしている人間は、それ以外に思い当たらないからだ。
「……?」
降り注ぐ木漏《こも》れ日が、少女の胸元に吊り下げられた何かに反射した。
(……コイン?)
少女の胸元で輝いている、銀色のコイン。首から細い紐《ひも》で吊されており、円形のホルダーに収められている。見たことのない細工をされた銀貨だが、興味よりも先に、何か本能的に惹《ひ》かれるものがあった。
顔立ちはかわいいというより美形な作りをしていて、ショートの髪はやはり燃えるような赤色。恐らく、年齢はボクと同じくらいだろう。髪の色と同じような強い気質の持ち主であることが、彼女の持つ雰囲気で分かる。
現在、その気の強さはものの見事にこちらへと向けられている。
彼女は切れ長の瞳を更に険《けわ》しくして、木々をも揺らす勢いで怒鳴ってきた。
「いきなり人の口調を天然記念物みたいに……っ! 失礼ですのっ!」
気の強そうな声。最初に思い浮かんだ炎というイメージがピッタリだ。
「どうしようモエル……怒られちゃったよ」
小声でモエルに話しかけると、半眼で見つめられてしまう。
「……キミがいきなり妙なコト口走るからだよ。とにかくこれ以上刺激しないように、さりげない会話から接触を試みるんだ」
(さりげなく、さりげなく、ね……)
「え、ええと……魔法少女の方ですよね?」
「そうそう、さりげなく――って思いっきりストレートじゃないか!?」
モエルが肩の上でノリツッコミをした。
しかしドレスの少女は質問に怒るかと思いきや、腰に手を当て、誇らしげに胸を反らせ、
「その通りですのっ! わたくしは魔法少女グレイス・チャペル=I」
声高に宣言した。声を小さく、モエルに尋《たず》ねる。
「……魔法少女ってこんなにオープンでいいの?」
「……人手不足なんじゃない?」
ひそひそと言い合っていたら、彼女はこちらに人差し指を突きつけ、声を荒げた。
「また人を天然記念物みたいに見ていますの!」
そしてつかつかとこちらに近づいてきて――。
「はたっ!?」
ズデン。
――転《こ》けた。
『ドジッ娘だ』
モエルとボクの、彼女に対するイメージが確定した。
「はたた……。――ハッ!? ど、どうしてそんな哀れなモノを見る眼でこちらを見るんですのっ!?」
「……ほら、グレちゃん砂付いてるよ」
涙目になりながらも怒っているグレイスの前にしゃがみ、顔に付いた砂を払ってあげる。
「あ、ありがと――ってどうしていきなりそんな親しげなんですの!? それにグレちゃんて誰ですの!?」
ボクは、彼女の頭を撫でながら言う。
「グレイス・チャペル。だからグレちゃん」
隣でモエルが「さすが白姫の血筋」などと微妙に褒めているのか判断しかねることを呟いているが、それはまあ気にしないでおく。
当のグレイスはわなわな≠ニいう効果音を目に見える領域まで発現しようとしていた。
「あ〜な〜たって人は〜っ!」
その怒りが臨界点に達しようとした瞬間。
ザザザッ――。
「――危ないっ!」
思うより先に体が動いていた。怒り爆発寸前だった彼女の体ごと、身を低く屈《かが》める。
「はたっ!?」
グレイスがまた妙な鳴き声を上げたが、押さえたまま離さない。
間一髪、ソイツ≠ヘ頭の真上を通り過ぎていった。胸の辺りでグレイスが呻《うめ》いているが、それよりも今は――。
「敵だねっ?」
「敵だよっ!」
質問と答えを、モエルと同時に叫ぶ。
先ほど頭の上を通り過ぎたアレは間違いなく、ノイズ。
「むぅぅぅー! むぅーーーっ!」
胸元でさらなる呻きが上がる。
「あ、ごめんグレちゃん」
一緒に屈んで覆い被さったままだったことを思い出し、慌てて退く。
「ぷはっ――、ぐ、グレちゃんはやめてですの!」
グレイスは圧迫されていたためか顔を真っ赤に染めながらも、抗議してくる。
「でももう決めちゃったし……」
あだ名というもののほとんどはその時の直感によって決まる。あだ名とその人のイメージがピッタリと組み合ってしまえば、変えることはかなわないと言ってもいいだろう。
「断固として異議を申し立てますですの!」
「あのさ……今それどころじゃ……」
モエルが呆れた様子でそう呟いた時だった。
「!?」
周りを囲む木々の間から、何かが飛んでくる。それは目で追うことも困難なほど高速でこちらの横を通り過ぎていった。
飛来物の動きを追って後ろを振り向いた、その先に――。
「――猿かっ、……?」
見た瞬間に猿だと分かる、赤い顔と濃茶の体毛。五十センチ程度の体躯《たいく》だが、しかし、肘《ひじ》に当たる部分から先が肥大化している。豪腕というにも大きすぎる、自らの体ほどもある両手。
掴《つか》まれたりしたら、そのまま骨まで握りつぶされてしまうだろう。
それに加えてここは森の中。猿にとっては得意だろうが、こちらには不利だ。
先手必勝、即座に杖を構え、止まっている相手に向けて魔力衝撃を放とうとする、が。
「あ、しまった」
たった一度の練習で全魔力を使い果たしていたことを思い出す。その一瞬の隙を敵は見逃さなかった。
「ギィィィィッ!」
金切り音に近い叫声。獣の叫び声というよりはガラスの摩擦《まさつ》音に近い。叫声をあげると同時にこちらに向き直り、巨大な手の平を地面に叩きつけた。その反動は恐ろしいもので、地面の揺れがハッキリと認識できるほどだった。叩きつけた反動で飛び込んでくる猿の突進攻撃は、隙を突かれているこの状況では、かわせるはずもなく――。
「くうっ!」
歪《いびつ》にゴツゴツと突き出た獣の牙が、ぬらりと光る。魔力的な攻撃ではない、物理的、それも極めて原始的な威力を秘めた攻撃。息が降りかかりそうなほど肉迫し、確実に首筋を狙っている獣の口腔から目が離せなかった。杖を構え、受け止める覚悟をした、その時。
唐突に、猿の突進軌道が直角に変化した。真横に吹き飛んだ猿は、隣の木に衝突する。
木に叩きつけられた猿の体から、ゆるやかに落ちてゆくのは――小さな、コイン。
後ろにいたグレイスが、ボクの前に歩み出た。
「……どうやら、あなた方にはわたくしの力をちゃんと見せて差し上げないといけないみたいですの」
その手には金色のコイン。彼女はそれを親指で空中へと弾きながら、異形の猿を見据えている。彼女の指によって真上へと弾かれたコインは、綺麗《きれい》な直線のラインを描きながら、吸い込まれるように再び同じ場所、同じ指先へ戻る。
「ふふ……」
赤髪の魔法少女は不敵に微笑《ほほえ》んだ。強気を体現している細い双眸《そうぼう》は、それだけで敵を圧倒する迫力を秘めていた。
――異形の敵に対してこの余裕。場慣れしているのが分かる。
モエルが肩に飛び乗りつつ、耳元で言う。
「ちょうどいい、よく見ておきなよ。魔法少女の戦いってものを」
グレイスは少しずつ敵に近づいていく。間合いを計りながら――というよりは、ただ適当に歩いているだけ。そんな感じがした。それくらい無造作な動きだった。しかしその歩みには、一切の躊躇《ためらい》もない。まるでモデルのように、自信と誇りをさらけだして――、
――べちんっ!
「あ、転けた」
「…………」
モエルはノーコメント。ただその目線は明らかに遠く……空を見ていた。
グレイスは「はたたた……」と立ち上がり、こっちを見て一言。
「よ、よぉく見ておくですの! これがわたくしの力――」
「っ、後ろ!」
隙を見つけた獣は、瞬時に無防備な獲物を狩るために動いた。素早く高所の木の枝まで登り、その枝を軸に回転し勢いをつけ、地上のグレイスを狙う。
「ですのっ!」
だが、グレイスは冷静に妙な掛け声を上げ、親指に置いてあったコインを弾いた。
親指がほとんど動いていないように見えるほどの速度でブレると、落下していたはずの猿の体が宙に浮いた。
(コインショットではじき飛ばした……!?)
思った瞬間、更なるコインが敵の体を打った。今度こそ、そのショットは目に見えなかった。
というより、コインが突然、全く別の方向から現れたようにしか見えなかった。さらに、それだけでは終わらなかった。コインはさらに虚空から現れ、敵の体を打ちのめす。
「ギッ、ギキィィィィィッ!」
為《な》す術《すべ》なく、猿は空中で体勢を整えようとするが、それもできない。ありとあらゆる方向から金色のコインが現れ、身動き一つ取らせはしない。花火を逆再生したような光景。
――集束する、火花。
全方位から現れる金貨は、標的を地に落とすことさえ許さない。足を撃ち、腕を撃ち、腹部を撃ち、頭部を撃ち、空中で躍り、狂わす。
「わたくしのオリジンキーはこのウィズ・インタレスト
一度その身に触れたなら……」
――キィン。
胸元のコインを軽く指で弾く。
「大金持ちに、なれますの♪」
ふわ、とコインが一度だけ宙に振れ――トン、と赤髪の少女の胸元へと戻った。
それと同時に攻撃は止み、異形の猿はようやくにして地に落ちる。間もなく、その体を光の粒子へと変え、世界から消滅していった。
「…………」
圧倒的。少しでも彼女に不安を感じた自分が愚かだったことに気付かされる。
「どうだい? これが魔法少女。世界を狂わすノイズを狩る――調律師さ」
あ然としているボクの耳元で、モエルが言った。
目線の先には――紅き魔法少女。
視線に気付いたグレイスは、ビシッ、とこちらを指差し、
「どーですのっ! これがわたくしの実力ですのっ!」
ですの≠ニ二回言った。
「すると、アナタはつい最近魔法少女になったばかりで、ここで魔法の練習をしていた、と言うんですの?」
「概《おおむ》ねその通りです。えと……樋野《ひの》さん」
「隣町の魔法少女、ねぇ……」
モエルがどこか不満げに呟いた。
グレイスこと、樋野|留真《るま》は変身を解いて紺と白の制服姿になっている。それは確かこの近辺にある学校のもので、これといった特徴のない、言ってしまえば地味な制服だ。変身時の豪華すぎる衣装とはまるでイメージが違うため、少し意外な気もする。
「このクレーターは!?」
「……ちょっと失敗しちゃいまして」
魔法で吹っ飛ばしました≠ネどと言えるはずもなく、濁《にご》した答えしか返せない。留真は怪訝《けげん》な顔をしていたが、ボクの後ろにある物に視線を止め、聞いてきた。
「その……荷物は、なんですの?」
「もちろんピクニック用です」
これには即答。家の押し入れから引っ張り出してきたピクニックバッグ。中身はブルーシートと朝早起きして作ったサンドイッチ。遊び道具も入っている。
その中から竹でできたバスケットを取り出して、昼食用のハムとチーズのサンドイッチを差し出す。
「食べますか? サンドイッチ」
「なっ――! まだわたくしはアナタを信用したわけではないですの! そんな施《ほどこ》しなんか……されるわけ……」
きゅるるるる。
「……ない……ですの」
彼女のお腹は正直だった。
数秒ほど恥ずかしそうに俯いていたが、ボクが黙ってサンドイッチを目の前まで持っていくと、凄い勢いでひったくるように奪い、はむ、と口に入れる。それからほとんど時間を掛けず、あっという間に呑み込んでしまった。
「野生動物の餌付けそのものだね」
モエルが喋るのを見て、留真が眼をひそめる。
「今の声は……そちらの猫、ですの……?」
まるで得体の知れないモノを見ているかのような眼差しである。魔法少女なら見慣れたものであるはずなのだが……と、こちらが口を開こうとした矢先に、モエルが説明する。
「サポーターだよ。この子はちょっと特殊な事例だから、おいらが付いてるんだ」
「特殊な事例呼ばわりかっ!」
留真は腑《ふ》に落ちないという顔をしていたが、とりあえず怪しい者ではないと信じて貰《もら》えたのか、少しだけ厳しい表情を緩めた。
「まあ、どうでもいいですけど……しかし……随分と頼りない魔法少女ですのね……」
言い返す余地もない――そう思ったのだが、その台詞《せりふ》にモエルが反応した。
「――キミに言われたくない」
その言葉には、明確な敵意が込められていた。
「こ、こらモエル!」
慌てて注意するが、一度口にした言葉が消えることはない。
「……あら、どういう意味ですの?」
口元は笑っているが、眼は鋭く射抜くような光を秘めている。再び、厳しい視線に晒《さら》されてしまう。しかもその矛先は、モエルではなくボクに向けられている。
「あ、いや違うんだよっ!」
「キミごときに、彼方《かなた》をばかにされるいわれはない。――そう言ったのさ」
火に油とはこういうのを言うのだろう。確実にモエルは目の前の魔法少女に喧嘩《けんか》をふっかけている。こちらのフォローすら簡単にぶち壊して。
(どうしたんだよモエル! 本当のことを言われただけだろ? ボクは気にしてないって! ……ん!? モエル?)
モエルの目線は留真に注がれていて、こちらを見ることはない。
「随分と自信があるようですの。魔法も満足に使いこなせてない、ひよっこさんが」
彼女も、もう引き下がれない領域まで行ってしまっている。
「あーもーどうしてこんなことに……」
小さく言葉を呟き、一度は解いた変身を再発動する留真。
それの意味するところは一つなわけだが、この流れはおかしい。というか、肝心|要《かなめ》のボクの意思が一ミリも介入していない。
(うん。ここはひとつ、落ち着いてもう一度――)
ピシュンッ。
右|頬《ほお》にぞわりとした感覚が奔《はし》った。
それがコインで、わざと外した攻撃であることは一秒後に分かる。二秒後には、もう自分の意思なんて介入する余地がないことに気付く。
「……冗談きついよ」
そして三秒後には、慌ててその場から逃げ出していた。
「――ッ、逃げるんですの!?」
「当たり前ですっ!」
今度は当てるつもりで放ってきたコインを前に転がりながら避けつつ、そのまま横に飛んで木を背にして隠れる。
「落ち着いてください――こんな無駄な戦いがありますかっ?」
「挑発してきたのはそっちですの! 利子は高く付くですの!」
「……完全に臨戦態勢、聞く耳持たず。モエル、何とか言ってよ」
「イヤだ。おいらは間違ったこと言ってない」
「そんな子供みたいな――ッ!」
嫌な予感がして咄嗟《とっさ》に前に飛ぶ。その後、今までいた場所に次々とコインが突き刺さってゆくのが見えた。
「よく避けたですの。逃げ足だけはお見事ですの」
グレイスは無制限に現れるコインを指先で弄《もてあそ》びながら迫ってくる。
「……かなたん、あのコインは標的をロックしてからの全方位集束攻撃だ。触れることでロックするらしいから、間違っても当たらないようにね。あと、アイツは中距離戦が得意みたいだ。間合いに気を付けて戦って」
器用に木の上を渡りながら付いて来ているモエル。
「冷静に戦力を分析しないでよ……ボクは戦うつもりなんて」
――キィンッ!
「……あぶなっ」
危なかった。立ち止まり、何とか杖で軌道を逸らすことができたが、どこから迫ってきたのかまったく分からなかった。
確かにこの攻撃は厄介だ。グレイスの指から放たれるコインを照準として、周囲に突然現れる無数のコイン。敵に直接当てなくとも、周りにある木に当てるだけでも自動的な威力を撒き散らす。
「あら、いいんですの? 悠長に立ち止まっていて」
自信と余裕に満ちた声が、後ろから聞こえた。
「――!?」
ぞくん、体を震わす恐怖。体が危険を察知している。
「かなたん、避けろっ!」
モエルの叫び。次の瞬間に自分を取り巻いている、無数のコイン。
「しまっ――」
(さっき杖で受けたからか……!)
「終わりですの。――ウィズ・インタレスト=I」
標的を定めたコインは、一斉に集束する。絶対に回避できない量の全方向射撃。一撃一撃が、魔力の光に包まれているのが見える。
しかし、この危機下において、相手の攻撃を冷静に見つめる自分がいる。何度目だろうか。こうした危機≠ノ出会うのは。
無尽蔵《むじんぞう》にトラブルを運んでくるあの人に、何度、窮地に立たされたか。
そんなとき、あの人はいつも、ボクにどうしろと言ってきた――?
『かなちゃんの好きにしなさい♪』
「ええ――分かってますよっ!」
単純に考えろ。かわせないのなら――。
「な!?」
杖を、振るった。
周りを囲む全てのコインを、叩き落とすために。コインがこちらの体に到達するよりも早く、自分の限界よりも速く。数十発のコインを次々と打ち落としてゆく。不思議なことに、体の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされている。これもイメージの力、というやつだろうか。自分が想い望んだ結果が、ここにある。そんな気がした。
「なっ、なんてメチャクチャな……っ」
「かなたんを甘く見すぎさ」
狙いの浅いものは体に擦《かす》らせながら、放たれたコインをほぼ防いでみせる。グレイスは驚きを隠せない様子でその場に立ちつくしていた。
カツッ――。
杖を地面に突き刺し、声を放つ。静かになった森の中で、純粋に声だけが響き渡る。
「グレちゃん。これ以上攻撃してくるなら、ボクも決めなくちゃいけない」
相手の目を見据える。目があった瞬間に彼女は少し後ずさったが、退こうとはしない。
「じょっ、上等ですの!」
右腕を地面と水平に構え、グレイスは、
「ウイズ・インタレストッ!」
――放つ。同時に、ボクは駆《か》けだした。
こちらと彼女の距離は、歩数にして三十、というところだろうか。変身している状態の脚力ならば、その程度の距離は三秒もかからない。
加速の中で、正確に狙いの定められたコインをかわす。瞬《またた》く間に、間合いまであと僅かのところまで接近し――、
「甘いですの」
グレイスが今まで腰元に引いていた左手を突き出した。
「両手撃ちっ!?」
モエルの声、そして右と同じ速度で放たれるコイン。
ズンッ! コインとは思えない衝撃が腹部から背にかけ、貫通した。それに引っ張られるようにして体が宙に浮く。
(さっきまでと威力が違う……っ!)
今の一撃は、先ほどまで見ていた一発とはまるで違う。今までの一撃を鋭いナイフだと表現するならば、こちらは歪《いびつ》な岩をくくりつけたハンマー、というところだろう。
鈍痛によって目に映る風景が途切れそうになる、が、皮肉なことに背後にあった木に叩きつけられることによって意識が戻ってきた。代償として、全ての痛みを自覚しなければならなくなったが。
ずるずると地面に崩れ落ちるボクを見据えたまま、グレイスは驕《おご》りのない、丁寧な口調で声を放つ。
「接近戦を得手とする者の陥りやすい考えですの。距離さえ詰めれば。一発でも当たれば。
……そういう考えで近づいてくる輩《やから》を撃ち倒すのは、さほど難しくない、ですの」
近づいた分――いや、それ以上の距離を吹き飛ばされてしまった。グレイスは一歩も動いていない。ただ、自らの有利とする領域に、凛《りん》と立っている。見た目の華々しさとは相反した、静かな戦意を放ちながら。
「かなたん!」
「来なくていい、モエル」
木の上から飛び降りようとするモエルを手で制すると、体に奔《はし》る鈍い痛みを我慢し、立ち上がる。モエルが苦い表情をするのが見えるが、なんとか笑ってみせる。
「……一応、動けなくなる程度の魔力は込めたつもりでしたが……随分とタフですのね。でもどうするんですの? 見たところ魔力がほとんど尽きているようですが」
――彼女は、強い。魔力の扱い方、戦いの経験、今のところ、勝てる部分がない。ほとんど誤解のようなものなのだから、このまま投降するって手もある。まあ、気を失うくらいは覚悟しなければならないだろうが。
しかし――。
『キミごときに、彼方をばかにされるいわれはない』
「……負けらんないじゃないか……そんなこと言われたら」
杖を握り締める。オリジンキー。魔法を介するための、魔法少女の杖。ボク自身を体現しているという、重要な武器。
「どうしたんですのー? もう諦《あきら》めたんですの? 負けを認めるのなら、謝っていただいてもよろしいですのよ。まあ、一発二発は覚悟してもらいますけど……――っ!?」
振りかぶり。
「ちょっ、アナタ……!」
「――いっけェェェッ!」
投てき。
「オリジンキーを投げるなぁぁぁっ!」
モエルが叫んだ。しかしもう既にオーヴァゼアは手から離れている。
空気の歪《ゆが》む音を響かせ、オーヴァゼアは真っ直《す》ぐにグレイスの元へと突き進む。流石に予想していなかったのか、彼女はあ然としていた、だが回避を忘れるほどではない。
「滅茶苦茶なっ、ですのっ……!」
グレイスは横に飛び、飛来するオリジンキーをかわす。後方の木に突き刺さるオーヴァゼア。そしてすぐさま、混乱に乗じて接近していたボクを見据えた。
「ですがまだ甘いですのっ!」
彼女が左手にコインを生み出す――動きに合わせ、こちらも右手を動かす。手首のスナップだけで放たれた、ただの石はグレイスの左手を打つ。
「あうぅっ!?」
放った石は生み出されたコインに当たり、見事に取り落とさせる。それでも彼女は、今度は右手に魔力を集中させようとする、が――。
「!」
「距離――詰めたよ」
間合いの内側にいる相手を見て、グレイス・チャペルは動きを止めた。彼女には今、両の拳《こぶし》を握りしめ、構えているボクの姿が見えているだろう。
地面を思い切り踏みしめる。
メキメキッ!
木の軋《きし》む音が響き渡る。
「――オーヴァー」
赤髪の少女は、目を閉じた。
「ゼアーーーッ!」
全身の力を込めて、拳を打ち貫く。
「――…」
ゆっくりと瞳を開き、グレイスは目をぱちくりさせた。
そんな彼女に、普通に声を掛ける。
「おはよ」
「……え?」
まだ状況がよく分かっていないのか、泳ぐ視線は周囲から自分の体へと行き渡り、数十秒も経ってからようやく、自分が何の攻撃も受けていないことに気付く。
パラッ――。
ぱらぱらと降り注いでくる木くずが、グレイスの頬に落ちた。
見上げて、驚く。
――今、彼女の頭の少し上には、巨木がある。折れて倒れた木が、彼女に当たる寸前で止まっていた。木が折れ始めている場所には、ちょうどオリジンキー、オーヴァゼアが突き刺さっている。見ようによっては、ボクが狙ってやったことのようにも見える。
「まさか、最初からこれが狙いで――? それにわざわざ……助けてくれたんですの?」
寝起きのような、惚《ほう》けた視線でこっちを見る。倒れかかっている巨木を拳で支えているのは、他でもなくボクである。しかし、一連の流れの真相は、
「いや、これ、計算外。まさかこんなおっきい木が折れるとは思わなかった。……行き当たりばったりはやっぱりよくない。それと、そろそろ、退《ど》いてくれると、助かる、かも」
息も絶え絶えな声を聞いてか、慌ててグレイスがその場から跳んで退いた。そろそろ限界だった腕の力を振り絞り、木を降ろす。
……近接型の魔法少女とはいえ、まさかここまで強化されているとは。自分が今まで支えていた巨木を見て、改めて脅威を感じた。
「女の子相手だと随分お優しいこと」
肩によじ登ってくるモエルが、無愛想な口調で言った。
「? なんだよそれ」
「……ふふ」
いきなりの笑い声に、同時にグレイスを見る。すると彼女は、今までの棘《とげ》が立っていたような鋭い表情を崩し、笑っていた。
かわいい≠ニ、素直に思える笑顔で。
「ふふっ……完敗ですの」
「負けたなんて言うのはやめてよ。魔法少女が戦うべき相手はノイズ、でしょ!? これは勝負とかじゃなくて、ただの……そう、特訓だよ」
「――! そう、ですの……。その通り、ですの……」
グレイスは変身を解き、こちらに手を差し出してきた。
「この樋野留真、あなたに敬意を表します」
差し出された手を振り払う理由などない。こちらも手を差し伸べ――。
「同じ女として」
そのまま、地面に崩れ落ちる。
その後、彼女にボクが男だと説明し終わったのは、日が暮れてしまった後のことだった。
[#改ページ]
Other side.モエル
どうしてこんなにも、ここは暖かいのだろうか。
季節は冬だというのに、どうしてだか確かな暖かさを感じる。
「ね、モエルってなんて種類の猫?」
銀髪の少年、彼方。少女と見紛《みまが》うばかりの容姿をした、恩人の息子。
この家に連れてこられてから一週間。理解できないことだらけだ。今も彼方の膝《ひざ》の上に丸くなって座らされ、一緒にテレビを見ている。ここではないどこかの映像を映し出しているテレビも珍しかったが、そんなものよりも自分の意識は、彼方の膝の柔らかさ、そしてゆっくりとした鼓動に向けられている。
時々、自分の鼓動を意識して感じてみる。すると、彼方の鼓動と合わさる瞬間がある。それがなんとも、体をぽかぽかとさせた。
隣で座っている母親――此方が、息子と同じ顔つきを少しだけ思案顔に変えて、考える。
「う〜んとね、ゴールデンレトリバー」
――それは犬では? 確かにゴールデンではあるけど。
「へえ、そうなんだ。なんかかっこいーね」
――信じちゃったよ、そこで微笑《ほほえ》ましく見つめるだけですか母親?
「ねえかなちゃん」
「なあに? かーさま」
なんて眩《まぶ》しいのだろう、この家族は。お互いがお互いを信頼しきって、心を許しきっている。
自分が、こんな中にいていいのか。
こんな自分≠ェ――。
「モエルちゃんのこと、好き?」
「うんっ。好きだよ」
彼方はあまりにも簡単に、その言葉を口にする。
子供の言葉だ。そこに深い意味などない。好きという言葉の意味はあまりにも浅く、そして果てしなく広く当てはめられるのだろう。
「そう。じゃあ、モエルちゃんのこと、ずっと好きでいてあげてね」
さっきから此方は何を言おうとしているのか。
「うんっ、まかせてよ!」
――やはり、分からないことがある。
どうしてここは、こんなに暖かいのだろう。
「……? どうしたの、モエル?」
こんなとき、どういう反応をすればいいのか分からなくて、顔を背《そむ》けることしかできない自分が、歯がゆかった。
「かなちゃん。頭、撫でてあげて」
ゆっくりと頭に触れる手の感触が、あまりにも心地良い。
――この暖かな手を守りたい。
そう、思った。
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4.よこしまな騒音
新たな魔法少女との出会いから、数日が経った。
一時限目終了のチャイムが鳴ると同時に机に突っ伏す。木の机にぺたりと額《ひたい》を当てると、ひんやりとしていて気持ちがいい。しばらくそうしていると、誰かが席に近づいてくる気配がした。とはいっても、大体誰なのかは予想が付くのだが。
「なあ、彼方《かなた》」
予想通り、聞こえたのは丈《じょう》の声。
「お前なんか最近、疲れてないか?」
――魔法少女として動く時間が増えても、日常は全く変わりなく進み続けている。確実に変わったのは、自分の疲労具合。肉体的にも、精神的にも。
「あふ……そんなことないですよぉ……」
机に突っ伏したまま、くぐもった声で返事をする。
昨夜の戦闘はなかなかに辛《つら》かった。夕食を食べ終わり、お風呂から上がって眠る直前に、敵に気付いたのだ。しかもそのノイズはすばしっこい犬タイプで、町内を隅々まで走り回る羽目になった。足の速さがほとんど互角だから追いつけないのなんの。
結局最後は力任せに魔力を放ち、倒したのだが……辺りにちょっとした被害(地面|陥没《かんぼつ》、廃ビル消滅)が出てしまった。
「おいおい、彼方観察日記≠つけてる俺に、そんな嘘が通用すると思ってるのか?」
懐《ふところ》からなにやら分厚い資料――表紙に『彼方観察日記〜第二集〜』と書かれている――を取り出しながら、丈は自信ありげに笑った。
パシン、スタスタスタ、ビシュッ。
「あ」
観察日記とやらを奪い取り、窓辺から校舎の外へと投てき。
「あああッ!? 何をする――」
「人を勝手に怪しげな日記に載せないでください――というか、第一集もあるんですね?」
「おう、もちろんだ」
――どうしてこの人は、ここまで揺るがない自信を保ち続けられるのか。
「お前、ここ一ヶ月くらい前からなんか考えこんでただろ? それでどうも最近、露骨に疲れている。……違うか? 絶対違わないけどな」
その洞察力には、驚かされる。
開いた窓の外から少し強い風が入り込んできて、髪を揺らした。表情を隠すには、ちょうど良かったかもしれない。ばらけた髪を直す仕草をしながら、呟《つぶや》くように言う。
「……聞いた質問に対して自分で答えを出すのはフェアじゃないです。……まあ、否定はできないですけど」
丈とは結構長い付き合いだ。その出会いは、ボクを女だと勘違いした彼がいきなり告白してくる、というとんでもないものだった。もちろんその場で断った。というか、アニメキャラに似てるから付き合ってくれ、などという告白をして、誰が付き合ってくれるというのか。子供の頃だとはいえ、本気で怒ったのを憶えている。
そんなロクでもない出会い方だったが、不思議なことに今やお互い、隠し事なんてしてもすぐにばれてしまうくらいの仲になってしまった。
だが、現在ボクが抱えている秘密は、何があったとしてもバラすわけにはいかない。
――巻き込んだりしたくないから。
「でも、言うつもりはないんだろ。だったらこっちはこっちで、隙を見て勝手にお前をフォローするさ。どんなカタチであれ、な」
丈はいい男だと思う。誰がなんと言おうと、ボクだけはそう断定できる。
「……うん。助かる」
丈は軽く笑うと、窓際の壁により掛かり、いつものように雑談モードに入った。彼には独自の噂話を仕入れる伝手《つて》でもあるのか、怪しげな障を持ってきては、嬉々《きき》として話す。それを聞くのもまた退屈しないで済むのだが、ほとんどが荒唐無稽《こうとうむけい》なものであるため、ついて行けない部分もある。
今日の情報は――、
「――そーいや最近、本物の魔法少女が出没してるらしいぞ」
「ぶふッ」
いきなりの言葉に、吸おうとしていた空気が逆流した。
「なっ、何を言ってるんですかっ! そんなのいるわけないでしょう!」
「いや、マジでいるらしいんだよ。絵に描いたようなかわいい魔法少女がさ」
丈の瞳は輝きに満ちている。それもそうだろう、彼は魔法少女アニメの大ファンなのだ。そういえば昔、ボクが似ていると言われたアニメキャラも確か魔法少女だった。
――とりあえず。
「ちょと失礼」
魔法少女の妄想をしている丈を置いて、廊下に出る。
一通り辺りを見回し、視界に入ったのは、学校への意見集計ボックス。各クラスに備え付けられているこの箱は、普段はほぼ飾りと化しているのだが……。
こんこん。
木で作られた箱をノック。
「入ってま〜す」
「…………」
「あ」
すぐさま開け放ち、のうのうと潜んでいたモエルを掴《つか》み上げて傍《そば》のトイレに連れ込む。
「返事をしてどうする返事をッ!」
個室に入ってすぐ、小さく怒鳴る。
「ごめん、つい」
てはっ♪ と笑うモエルは、まるで悪びれてはいなかった。とりあえずその問題は後回しにして、先に問い詰めなくてはならないことがある。
「どういうことなんだモエル! 魔法少女がいるってバレてるじゃないかっ!」
「魔法少女がバレるくらいは仕方がないさ」
当たり前のように言った。
「仕方がないって……、ボクが変態扱いされてもいいって言うのか!」
腕の中でモエルを締め上げる。
「痛い痛いイタイ! 猫背が矯正される! 真っ直《す》ぐになってしまう!
――だから、キミの正体はバレないってば!」
「……?」
「認識阻害がかかってるから、キミの正体はばれたりしないんだって。あくまでも噂で話されているだけでしょ!? 視覚情報が完全にすり替えられている以上、その姿と白姫《しらひめ》彼方っていう人物像が結びつくことはないんだよ」
「でも……!」
「大体そんなに簡単にバレてたら、この世界は今頃大混乱のただ中だよ。ノイズのことを人々が知らないのも、認識阻害のお陰なんだから!」
「ふぅん……なら、いいや。じゃね、モエル」
それだけ聞いて安心したボクは、モエルを置いて自分の教室へと戻る。
「ッ――こんなトコに置いてくなあ――」
後ろで何かの叫びが聞こえたが、それは気にしないことにした。
――教室に戻ると、丈が不可解そうな顔をしてこちらを見ていた。
「何してたんだ? なんかさっき猫がいたような気がするんだが……」
「白昼夢ですよ」
一言で切り捨てる。
丈は首を傾《かし》げたが、深く考えない性格が幸いして、すぐに意識を切り替えてくれた。
「ああっ、そうだよ! 昨日のアレ見たか? 魔法少女ミリオン・ベル!」
丈は目を輝かせながら夕方に放送されているアニメの話を始める。こうなってしまったら、たとえボクが「見てない」と答えようとも、自分が満足のいくまで話し続けるのだ。三十分弱の放送だというのに彼が話すと一時間でも二時間でも膨れあがっていくから恐ろしい。
「ほんといいよなあ〜……コスチュームが毎週変わっていくってのも斬新だしなぁ! ちなみに、今週のコスチュームはセラスクって……」
「…………」
――巻き込むとか巻き込まない以前にボクが最も恐いのは、もしこの人にボクが魔法少女だとバレた場合、一体どうなってしまうのかということだ。
「絶対にそれだけは避けなきゃ……」
「おい、彼方聞いてるか? それでな、うさ耳が――」
事件は、その日に起きた。
――昼休み、どうやって作っているかは知らないが、毎朝モエルに手渡される弁当箱の包みをほどきながら、今日のメニューは何だろうとわくわくしている自分がいた。
モエルの作る弁当は絶品で、味、彩り、栄養価に至るまできっちりと計算されている(丈談)あたり、プロの技を感じさせる。ちなみに、どうやって作っているか考えるのは早々に放棄した。美味しいものがある以上、そんなやぼなことを考える必要はないのだ。
長方形の弁当を開け放つと、丁寧に盛られた色とりどりの食材が目に入る。白ご飯は別の容器になっていて、おかずだけで埋まっている弁当箱は、眺めるだけで空腹を刺激してくる。
「さぁて、今日も頂きましょうか」
手の平を合わせ、食前のご挨拶《あいさつ》。いつでも礼儀は忘れずに。
「よし。食うか」
当然のように机をくっつけ前にいる丈も、自分の弁当箱を前にして手の平を合わせる。
「うん。食べちゃおう」
「「いただきます」」
――ザザザザザッ!
小さな喧噪《けんそう》だけがこだましていた教室内に、明らかな異音が響き渡った。
「オイッ! なっ、なんだよコイツっ!?」
続いて、大きく取り乱した叫び声が廊下側から聞こえた。ソレに追従するように、大勢の生徒の声が入り交じり始める。そのどれもが信じられないモノを見た、という、驚きと恐怖からきた声である。
「かなッ!――もぐふっ」
突如股の間から滑り込むように頭を出してきた金色の猫を、そのまま太股《ふともも》で挟み込む。
「呪われてるのかこの学校は……!」
「彼方。この騒ぎは――」
「丈君っ! 今から言うことを黙って聞いて」
同じく騒ぎの大きさに異常を感じている丈をしっかりと見据え、有無を言わせない雰囲気を作る。その目論見《もくろみ》は成功したらしく、丈は黙って頷《うなず》いた。
教室外のざわめきが大きくなるのを感じながら、単刀直入に話を切り出す。
「落ち着いて、パニックにならないように、避難してほしい。――できたら、他の人たちも誘導しながら」
「避難しろって……お前は?」
「……もちろん逃げるよ。ボクは上の方の避難誘導にかかるから。丈君はあっちからお願いしたいんだ。……頼めるかな?」
と、騒ぎの反対側へと誘導する。多少無理のある、というか内容の飛躍した会話だが、押し通すしかない。
ガシャァン、と、どこかで窓ガラスの割れた音がした。丈は少し考えるだけ考えるような素振《そぶ》りを見せたが、すぐに立ち上がり言った。
「分かった。じゃあ俺は下に行く。何が起きているか知らないが気を付けろよ」
「そっちこそ、くれぐれも気を付けて!」
見られないようにバッグにモエルを詰め込み、教室を出る。
「――おいみんな、抜き打ち避難訓練だってよ。一番遅いクラスは校庭掃除らしいぜー?」
後ろから丈の大声が聞こえた。なるほど、まだこの状況をよく掴めていない人間からすれば、効果的な台詞《せりふ》だろう。
(ここは彼に任せておけば何とかなりそうだ。よし、ボクは……)
廊下に躍り出たボクは、背後で大きくなる騒ぎをよそに、人目につかない場所を探した。
すぐに思いつく場所は、単純だが――。
一つ教室を通り過ぎた先にあるトイレの個室へと、モエル入りのバッグと共になだれ込み、手早くモエルをバッグから外に出す。
「ぷはっ! 乱暴に扱わないでよ、もー!」
と、文句をまず口にするモエル。
「それどころじゃないでしょっ! さっさと片付けるよっ!」
ピシャリと一蹴し、さっそく変身するための意味在る言葉≠読み上げようとする。
「……ずいぶんと素直になったねぇ? もしかして、病み付きになっちゃった?」
にやにやと含みのある笑みをこぼすモエルの首根っこを引っ掴み、狭い個室のちょうど真ん中当たりにぶら下げる。ここは用を足す場所であるため、当然その真下には……白い陶器でできた入り口≠ェ。
「ほんとごめんなさいもう言いません図に乗ってました……」
無抵抗にがくがくぶるぶると震えるモエルを投げ捨て、改めて右手を前に突き出す。
「――遍《あまね》く空の果てへ」
たとえ空とは縁の薄い場所でも、しっかりと変化は起きた。
蒼《あお》いラインと共に現れた杖《つえ》オーヴァゼア≠掴むと、言いしれぬ感覚が体中を占める。それは快感に近い種類のものだが、心を無心にしようと努める。
着ている服が一時的に光となって消えてゆく。学生服が消え、下に着ているワイシャツも消える。ズボンが消え、靴下――。一糸まとわぬ姿となりながらも、寒さは一切感じなかった。
モエル曰く、変身中は体が光っていて見えるモノも見えない、だそうだ。
次に上半身から順に衣装が現れる。大きめの白いワイシャツ、青と白のチェック柄《がら》のスカート、ぴつちりしすぎな黒スパッツ、かわいらしいアクセントの入った靴下、動きやすいが妙な装飾のされたスニーカー。
ばらけていた銀髪がまとまり、二つ結び――モエル曰くツインテール≠ノなる。動物の耳のように山を作る赤のリボン。余りは背中の方へと流れ、無風の中でも躍るようになびいた。
「――……っ」
変身が完了した。一瞬のこととはいえ、自分が女の子の格好に染まってゆく光景というのは気持ちのいいものではない。
「……行くよっ」
「あいさっ」
モエルを肩に乗せ、一緒に個室から出る――。
「……え?」
はた、と。
動きを止めてしまった。ちなみに、今の声はボクのものではない。モエルでもない。
そしてその時、目線は確実に交差≠オていた。
目の前で立ちつくしている、男子生徒と。
「は? え? オンナ……の子? ここ――」
――大丈夫、君は間違ってない。
後ろを振り向いて自分の入ってきた場所を再度確認する男子生徒。この騒ぎに気付いていないのか、ただ単に他人事なだけか。のんきにトイレなんかに来ている。
ジリリリリリリリリリリリリリッ!
恐らく丈が鳴らしたのだろう、耳を覆いたくなるほど大音量で、警報ベルが鳴り始めた。
それに一瞬気を取られた男子生徒は、完全に無防備だった。
「ゴメンナサイッ!」
謝って、神速で抜刀――いや、杖を繰り出す。
「ごふぅっ!?」
居合いの要領で繰り出された杖が、男子生徒の腹部にめり込む。トイレへ駆《か》け込んできただけの彼は、くの字に折れ、前に倒れ込む。
「ごめんね。ここなら、安全だと思うから」
トイレに倒れ伏した男子生徒を、一番奥の個室に入れる。そして、
「……とうとう、哀しい犠牲が出てしまった……」
沈痛な面持ちで呟くと、
「やったのキミだ」
モエルが冷たくツッコんできた。
「とにかく行こう!」
「ごまかした」
「うっさい!」
強引に話を切り、トイレから出ようとすると、
「おい、早く! こっちだ!」
廊下から聞こえる丈の声を聴いて、思わずトイレに舞い戻り身を隠す。
「なにやってるのさ、かなたんっ!」
「いや、だって……」
この姿で人前に出るのは、やっぱり恥ずかしい。
「何度も教えたでしょっ! 絶対、バレないから!」
恥ずかしいとか言っている場合でないことは重々承知だ。だがここは学校。知り合いでなくても顔見知りはいる、そういう場所なのだ。
「羞恥《しゅうち》プレイも慣れれば病み付きぐふぁ!」
アブないことを口走る猫を黙らせ、一度、深呼吸をする。
「これ以上騒ぎを大きくすると、もっとキミの姿が人目に付いちゃうんだよ?」
モエルが諭《さと》すように言う。半分は脅迫だが。
感覚も強化されているからなのか、目を閉じると、僅《わず》かな震動からでも学校の中がどれだけ混乱しているか、手に取るように分かる。
「……分かった。行こう」
意を決し、目を開く。
今度は立ち止まらないよう、廊下へと出た。
――まず目に入ったのは、駆け抜けていく数人の生徒。中にはクラスメイトもいた。さらに、数人の女子生徒がほとんど半裸の状態で走っている。運悪く着替え中だったのだろうか。生徒達はこちらを見た瞬間、何か奇異なモノを見たように驚くが、さほど深く考えることもなく横を通り抜けていく。次に、二つほど先の教室から、窓ガラスが割れて弾《はじ》けるのが確認できた。
二階には一年生の教室が三つ並んでいる……その、一番奥。
「……行くよっ!」
さっきと同じ掛け声を上げ、床を蹴る。
敵がいるらしい場所に向かう前に、一応人がいないかを確認するため、教室に目を通す。1―A、一つめの教室はクリア。次は1―B、自分たちの教室だ。自分たちのクラスは丈に任せたため大丈夫なはず――、と一気に通り過ぎようとした瞬間。
「――!?」
クラスの入り口から人が出てきたのを見て、急ブレーキをかける。
そこから出てきたのは、知っている人だった。おさげに眼鏡と、肩書きを体現した姿で、胸に大事そうに出席簿を抱えている……紛れもなく我がクラスの委員長だった。
逃げ遅れているという風ではない。全く慌てた様子を見せていないからだ。
(いや。彼女なら、ほんとの避難中でものんびりしてそうだ)
「……ん? アナタは……!?」
思わず立ち止まっていた。なおかつ、気付かれて話しかけられてしまった。彼女の表情は、不思議そうではあるが、怪しんでいる風ではない。
正体がばれないか冷や冷やしながら、言葉を選ぶ。
「え、ええとボクは……通りすがりの……」
「学校内でこんな格好した人間は通りすがらないと思う」
小声で聞こえるモエルの声。
どう続けるべきか迷っていると、委員長は手の平をパン、と合わせ、
「ああ! もしかして卒業生の方ですか? 先生でしたら今、避難訓練中なのでここにはいませんが――」
丁寧な対応だ。彼女がいかに優秀な人間かが分かる。そして、少し心配にもなる。
(……いつか悪い人に騙されそうだ)
とにかく、今はこれに乗じない手はない。
「あ……そうですか。なら、今度また伺ってみることにします。
それより……避難訓練なら、あなたも早く行った方がいいのでは?」
さりげない風を装い、言う。すると彼女はいかにも芯の通った笑みを返してきた。
「ええ。そうなんですけど、性格上、誰か残っていないか確認しておかないと気が済まなくて。……損な性分です」
くす、と上品な微笑《ほほえ》みを浮かべる。悪戯《いたずら》っ子でない方の委員長≠ヘ、はたから見てとても強そうに見えた。力ではなく、心が、である。
その笑顔に思わずこちらも微笑み返していると、モエルが小声で囁《ささや》いた。
「いいのかな? へらへら笑ってる場合じゃないんとちゃうか!?」
不機嫌だったり、なぜか関西弁なのはさておき、確かに言うとおりだ。
「あー、じゃあ、残りの教室はボクが見て回りますから、あなたは先に校庭の方へ。あなたがいないと、クラスの人たちもまとまらないでしょう」
これは事実だ。彼女がいなくてはあのクラスはまとまらないだろう。
「え、そんな……」
「いいからいいから」
迷おうとした彼女の肩を軽く押すようにして促す。少しの間考えて、委員長は言われたとおりに階段の方へと向かう。最後に一度だけ振り向いた彼女にほほえみかけ、ボクは再び移動を始めた。
――1―C。
自分のクラスと構造は全く変わらない。ただ、飾られた花や、床の汚れ具合、机の並び方。それぞれに細かい違いがあって、全く別の場所であるように感じる。
『シャァァァァァッ!』
こんな変な生き物がいるから、というわけではなくて。
ズヴァンッ!
鈍い断裂音。ソレの近くにあった机が真っ二つになる。
「……なかなかいい刃をお持ちのようで」
その鎌≠フ切れ味を見て、半ばげんなりしながら呟く。
ジャリン、と両手の刃を鳴らすノイズ。両腕が鎌の形をしているソイツは、体が緑色をしている。
「両手の鎌に緑の体、二足で立って獲物を狩る。
――さて、なーんだ?」
右肩の主と化しているモエルに意見を求めると、投げやりな答えが返ってきた。
「そういう変質者」
それは絶対出会いたくない人種だ。
一種の逃避行動ともいえる会話を止め、意識を眼前に戻す。
「趣旨を超越した答えをありがと。ちなみに答えは」
ジャキンッ。ノイズが、高速で刃を擦《す》り合わす。
「――カマキリ、ね」
しかし、その姿はカマキリと言うには少々――鋭利すぎる。昆虫といえば、有機体である以上、それなりの柔軟さを持った形状をしているはず。だがコイツはどちらかというと、生き物≠ニいうより、機械≠セ。
外皮の色が緑と言ったが、その緑は生物の色とはとても言えない、いわゆるメタリックグリーン。頭はプロテクターのようなものに覆われており、体はシャープなアーマー装備、歩くとガション、ガションという音が鳴りそうだ。鎌は生物上のソレでなく、斬《き》るために研ぎ澄まされた武器を思わせる。
唯一、生物であると感じられる部分――二つの白い双眸《そうぼう》が、ギョロリ、とこちらを睨《にら》んだ。
「どこの機動兵器ですかねコレは……」
ボクが呆れるのに対し、モエルはうっとりとした表情で、
「なかなか燃える造形だねえ」
と、意味不明な評価を下していた。
丈が見たら喜んで飛び付いたんじゃないだろうか……などと思いつつ、目の前のあからさまに強そうなノイズを観察する。
「レーザーとか撃ってきたりしてね〜」
他人事のように気楽な口調のモエル。
「…………」
「あれ? ちょっと彼方さん? つまみ上げて無言で敵の方に突き出すのはやめてくださいませんか?」
生《い》け賛《にえ》を捧げて様子を見ようと思ったのだが、
ヴンッ――バシュウッ!
モエルのヒゲの先が少し焦げる。……言っていたことが洒落でなくなってしまった。
「ほんとに撃ってくるじゃないかっ!?」
「冗談のつもりだったんだよ!? し、知らなかったんだってば!」
続けざまに三発、敵の両眼から放たれる赤い光線をかわす。教室内に狭苦しく並べられた机が酷《ひど》く邪魔で、杖で蹴散らしながらスペースを作る作業も同時に行った。
「次はロケットパンチだね。……ロケット鎌かな?」
モエルが懲りもせずに無責任な想像を呟いた瞬間――。
強烈な風切り音を鳴り響かせる飛来物を、ほとんど反射のみでしゃがんでかわす。
今まで頭があった位置を通り過ぎ、教室の壁を削りながら持ち主の元へ戻ってゆくソレは、間違いなく敵の両腕に付いていたはずの鎌だった。回転を加えて戻る鎌を、カマキリは見事に元の形に受け止めた。
肩の上で汗を浮かべているモエルに一言だけ告げる。
「……もう何も言うな」
『シャッ――』
およそ鳴き声と言うには適切すぎる鳴き声を上げ、カマキリが反対の刃を放ってくる。
――戦いは、本格的に動き出した。
教室を大きく回って壁際から飛んでくる刃を、跳んでかわす。足の辺りを狙《ねら》うように低空を飛ぶその斬撃は、適当に蹴散らした机の脚をことごとく切り裂いていく。
こちらもいちいち刃が戻るまで待つほどお人好しではない。一足で杖の届く間合いまで近寄り、刺突《しとつ》を繰り出す。
ガンッ!
「硬っ!?」
叫んだのはモエルだ。こっちは突いた際の反動で手が痺《しび》れて、声を出している場合ではなかった。どうやらコイツは余計なことに、外見のメタリックさ同様、鋼《はがね》のような外皮を持っているらしい。勢いをつけての刺突では、ぐらつかせる程度の威力にしかなっていない。
白い両眼がまたもこちらを向いた。
「っ!」
近距離、聞合いを詰めた状態から――眼が、光る。
「のぉわっ」
即座に背筋を逆に折る。鼻先を、赤い熱線が薙《な》ぐ。そのまま両手を床に突き、後ろに転がる。
その最中にむぎゅっ、と潰れたような音をモエルが立てたが、気にしない。熱線が過ぎた頃にしゃがんだ体勢から、床を蹴る。ちょうど陸上選手のスタートダッシュのように。
レーザーを放ち隙ができたカマキリの足を狙う。少し遅れ、カマキリが腕を振り上げた。
「遅いっ!」
すくい上げるように杖を動かし、足を狙う。
『ゲシャアッ!』
少し違う鳴き声が聞こえた瞬間、オーヴァゼアが空を切った。
「なっ!?」
完全に空振りし、勢い余って転《こ》けてしまう。その上では――メタルなカマキリが、飛んでいた。足の底から、炎を吐き出しながら。
「…………」
無言でモエルを睨む。
「何も言ってないったら! あ、あいつっ!」
宙に浮いたカマキリが、そのまま後退した。その後ろにあるのは、教室の窓。
「まさか――っ!」
モエルと同時に叫んだ。
――ガラスが、砕け散る。
メタルカマキリは炎を噴射しながら、外へと飛び出してしまった。
立ち上がって急いでそれを追い、窓から身を乗り出す。
『――なんだぁっ!? あれ!』
大量の視線が、たった今飛び出したカマキリの方向へと向けられていた。次に、そいつが出てきた場所にまで視線は移動し――こちらに注目しそうになった瞬間、脊髄反射で身を隠す。
グラウンドには現在、避難している生徒や教師が集まっている。そんな中を、あんなカマキリが飛んでいったのだ。気付いた皆が騒ぎ出すのがここからでも聞こえてくる。
「かなたんっ! 早く行かないと――」
「あんな人の群れの中に突っ込めって!? さすがにそれは――!」
「大丈夫ッ! 認識阻害はこの学校の敷地内くらいは軽くフォローできる! アイツだって空を飛んでいるからみんな騒いでるだけさ!」
そおっと校庭を覗《のぞ》いてみると、カマキリはグラウンドの最も目立つ位置である、中央に降り立っていた。
「なんだあれ!? 特撮か!?」「どうやって浮いてたんだ!?」「あれじゃないか!? 磁石と液体窒素使って――」「それ超伝導」「そんな大がかりな仕掛け見あたらないだろ」
注目の的《まと》だ。しかも周りの生徒達は距離を開けるだけで、逃げる気配がない。いまやメタルカマキリの周りは、綺麗《きれい》なエアポケットのようになっていた。
「このままじゃ――」
モエルの言いたいことは分かっている。でも、やはり抵抗がある。バレないという確信があっても、こんな目立つ姿で人前に出るのは辛い。元々ボクは、目立つのが好きではないのだ。
本当なら、こんな魔法少女なんて役割だって――。
「かなたんっ!」
「――っ、行くよ! 行けばいいんでしょっ!」
ヤケになって叫び、窓の縁に足をかけ、横の校舎の壁を杖で突く。
「りゃぁぁぁっ!」
思い切り杖に力を込めると、その力を全て勢いへと変え、目標地点へと跳ぶ。
景色が吹き飛ぶように流れ、常人の眼には捉えきれない速度で、飛来する隕石のように、ラウンドの中央へと着地する。
ドゥンッ!
着地の衝撃で、グラウンドの細かい砂塵が舞い上がった。
「……おい、誰だよあれ……」
「人……?」
「なんか杖みたいなの持ってるぜ……」
砂塵が次第に薄くなり、ノイズと、一人の魔法少女の姿が大衆の前に晒《さら》される。
「……――」
周りで囁《ささや》かれていた声は、次第に沈黙へと変わってゆく。
『シャァァァァァァ――』
ノイズは、邪魔をしてくる敵が目前に降りてきたのを確認すると、静かに吠えた。
「ここで仕留めよう」
モエルが誰にともなく呟いた。
ボクは――。
(み……見られてる……みんなに……)
――それどころではなかった。
周りから注がれているのは奇異の視線。認識阻害はあくまでも個人を断定できないよう、視覚情報をぼかすだけで、今ここにこうして魔法少女っぽい格好をした誰か≠ェいるのは見えている。
あまりに恥ずかしくて、体が火照《ほて》るのがハッキリと自覚できる。熱に浮かされ、顔は熟れたトマトのように真っ赤に染まっていることだろう。
「ちょっとかなたんっ、ぼおっとしてると――っ!」
離れていたはずの気配が急速に近寄ってくるのを感じた。カマキリが足に付けられているブースターによって、一気に間合いを詰めてきたのだ。
「うっ!?」
シャンッ!
風を切る鋭利な音を立てカマキリが一気に通り過ぎた。
「――……?」
だが、その後、痛みが襲ってくることはなかった。
そのかわり――。
パサッ。
「……ぱさ!?」
不可解な音が、自分のごく近くで聞こえた。
目線がモエルの方へ動く。すると、モエルは肩の上から首を下に向けて、ボクの体を凝視しているようだった。
「?」
それに釣られ、自分の体を見る。
(そういえば、なんかスースーする……)
「…………え?」
体だった。
体が、見えた。
少し白みがかった、肌色の素肌が、見えた。
他のなにものでもなく、自分の、素肌が、露出、されて、いた。
少し視線をずらすと、見覚えのある生地が地面に落ちている。青と、白のチェック柄をした、おそらくは、スカートと呼ばれる布地。
『うおぉ!』
周囲から男子生徒の捻《うな》るような歓声がした。
「〜〜! うゃあっ!?」
思わず意味の分からない悲鳴を上げながら、急いで体を隠してしゃがみこむ。
(? ええと……冷静に分析してみようか。さっき、カマキリのノイズに不意を突かれて、攻撃を受けた。それは間違いない。けど、怪我はしてない。でも、なぜか下には、ボクが今まで着ていたと思われるスカートが落ちている。着ているワイシャツの前がはだけている。……それから導き出される答えは?)
実際の時間にして一秒もかかっていないだろう。とにかく現時点の状況を、冷静に理解しようとする。
……が、なかなかまとまらない。
「キャーーーーッ!」
思考中の頭に水をかぶせるような悲鳴が響き渡った。
「!」
悲鳴がした方を見ると、そこには半裸の生徒がいた。その格好は上下共に下着一枚という、大変よろしくない格好。
『おおおぉぉぉーー!』
男子生徒は更なる歓声を上げた。沸き上がった雄叫《おたけ》びが、グラウンドにこだました。
奇妙なことに、下着姿の生徒は他にも複数人いた。
――女生徒の悲鳴と共に、また一人が半裸になった。そこにはやはり、カマキリの姿。
その時、分かった気がした。どうしてさっき、教室の廊下で女生徒が半裸になって逃げていたのかが。
「こらかなたんっ! ナニをジッと見てるのさ! いやらしいっ!」
モエルが耳元で怒鳴った。
「いやらしいって……、ちがっ! これはそんなんじゃ――」
「すけべ!」
「すけっ!? ――モエルだって! ボクの体をずっと見てたじゃないか!」
ボッ、とモエルの顔が、真っ赤に染まった。
「へ!? いやっ、アレは――」
ズバシュッ!
「っきゃん!?」
悲鳴は鳴りやむことがない。犠牲者は増え続けている。
こんな言い争いをしている場合ではないと、二人で目を見合わせ、同時に頷いた。
「……っと、その前に」
はだけたシャツをなおす。不幸中の幸いか、一番上のボタンだけは無事だった。そこだけ止めて、応急処置をする。スカートは……着直すのは無理そうだった。
今自分がしている格好を見ると、頭痛がする思いだ。
一番上だけしかボタンが止まっていないワイシャツ。下は黒のスパッツのみ。シャツの隙間からちらちらとおへそが見え隠れしているのがむず痒く、スカートがないというだけで、丸裸にされてるみたいな気になってくる。あんなひらひらした布でも、ないよりはマシだった。心からそう思う。
「う〜〜〜!」
ワイシャツを伸ばして下をなんとか隠そうとするが、
「かなたん。……そんな萌え動作はいいから」
などという身も蓋もないモエルの一言で終わってしまった。
「――なんでどうしてアイツは服だけを切るのっ!? しかも女の子だけ! そしてそこでなぜボクを狙った!」
重く首を横に振り、真顔でモエルが言った。
「女の子にしか見えないもん」
断言だった。まるでそれが世界の常識だとでも言わんばかりの。
「ッ! 真顔で言うなーーーッ!」
『シャアッー』
逃げまどう女生徒に、カマキリが再び鎌を振り上げる。
「! アイツ、またっ!」
間一髪でそこに割り込み、杖を掲げる。ガキィンッ、と互いの武器が重なり合った。
「こ〜の〜……変態カマキリめ……っ!」
尻餅《しりもち》を付いてしまっている女生徒に、早く逃げるよう促す。
『シャッ』
カマキリは空いた手を真横に振りかざし、がら空きになった脇を狙ってくる。
「やらせるかっ!」
スピードで負ける気はしない。相手が腕を振るより早く、相手の腹部を渾身《こんしん》の力で蹴り抜く。
硬い体を砕くことはできずとも、弾き飛ばすことはできた。蹴り飛ばされたカマキリは空中でブースターを点火、こちらには向かって来ずに、人気のない校舎側に逃走を図った。
その時、校舎から出てくる人の姿が――。
「――いいんちょっ!?」
今頃になって出てきた委員長が、絶対に状況を把握していない表情を浮かべ、立っていた。
そして自分に向かってくるカマキリの姿を見て、「?」と言いたげに首を傾げる。
カマキリが空中で体勢を整え、加速状態から両手の鎌を振り上げた。
「くそ、距離が――! 間に合えッ!」
その場で杖を握りしめ、イメージを繋《つな》ぐ。
「かなたんっ!? まだそれは――」
ビィン――杖が律を奏でた瞬間、制御などお構いなしに真横に一閃《いっせん》、半月の軌跡を描く。
「――きゃっ!?」
委員長が、身に迫る危険に気付いたのか、絶妙のタイミングで頭を抑えてしゃがんだ。
その上ギリギリを鎌の攻撃が過ぎ去り、カマキリはなおも、勢いを止めずに突き進む。
「蒼の――軌跡!」
コンマ数秒遅れで発動した魔力衝撃が、ノイズの後を追う。
速度は――軌跡の方が速い。蒼い魔力は、委員長を狩り損ない、校舎の中へと逃げようとしたカマキリを捉えた。
自分自身の魔力を空にする一撃が、標的に触れる。岩塊を粉微塵《こなみじん》にするほどの威力が込められた軌跡は、嫌が応にも周囲に多大な影響を及ぼす。その線≠ノ触れた瞬間、飽和した魔力が対象へと破壊を振りまく。あれだけ強固だったカマキリの装甲がいとも容易《たやす》く粉砕し、更に威力が弾けた。校庭に蒼い閃光《せんこう》が奔《はし》る。魔力が球体状に爆発、外へと拡がり、余波が、校庭の地面に亀裂を生む。
命中して数秒と経たずして――そこに存在していたノイズは、跡形もなく、消滅していた。
――こうして、学校での戦いは終わった、受けた被害が女生徒の制服とボクの衣装のみという、良かったのか良くなかったのか分からない結果ではあったが、とにかく終わったのだ。
「…………ふぅっ」
お腹の底から息を吐き出す。
「ごくろうさま、かなたんっ」
モエルからのねぎらいの言葉も、素直に受け取っておく。
(ほんっとに、疲れた……)
空を仰ぎ、その変わらぬ青さに心を落ち着かせていたときだった。
――パチ、パチパチ……。
周囲から小さな音が聞こえてきた。それが拍手の音であることに気付くのは、グラウンドが拍手の渦に呑《の》まれた後だった。
「ほら、キミの功績だ」
モエルが誇らしげに囁く。
どう答えていいか迷っているうちに、自分が今どういう格好をしているのか思い出し、忘れていた羞恥心が芽生えてくる。
「に、逃げるよモエルッ!」
「え? いいじゃん、もう少し」
「だめなの!」
割れんばかりの拍手と歓声の中、大きく息を吸って大きく息を吐き、つま先を踏み込んだ。脚力の全てを捧げ、
「行くよっ!」
――跳ぶ。
高く、真上の空へ。
喝采《かっさい》は、どこまで高く飛んでも、聞こえ続けていた――。
その日、学校で唐突に鳴り響いた非常警報。
今日起きたできごとを、学校側はタチの悪い生徒の悪戯、として認識した。
騒ぎが収まり、生徒達が教室へと戻ってゆく頃――。
「……つまんねぇの……こんな学校……マジでぶっ壊れればいいのに」
騒ぎの沈静を冷めた目で見つめていた生徒の一人が、そう、呟いた。
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5.彼方争奪戦
「おはよ、白姫《しらひめ》君」
「おはよう、いいんちょ」
校門に立っている委員長と挨拶《あいさつ》を交わす。時刻はまだ十分に余裕がある。なんと今日は久々に歩いて学校に来ることができたのだ。
「今日は早いんだね?」
ペンを口に咥《くわ》え、つまらなそうに首を傾《かし》げている委員長。おさげも残念そうに垂《た》れている。
どうやらあのおさげは感情と連動しているらしい。
「ええそりゃあもう。今日は厄介な人に会いませんでしたから」
そう。今日は通学路で丈《じょう》と出会わなかったのだ。いつもは狙《ねら》い澄ましたように現れ、朝から聞くには濃厚すぎる話を延々としているのだが。
「……? ああ、明日野《あすの》君ね」
少し考えて思い出すあたり、マイペースな彼女らしいと思う。
会話に間が開いた。特に言うこともなかったので、そろそろ行こうとしたとき――。
「! 白姫君。髪、はねてる」
委員長の顔が間近に来た。情けないことに身長は彼女の方が高いため、唇が目線の先に来る。
彼女は腕を伸ばし、ボクの後頭部に触れてきた。
(……抱きつかれるかと、思った)
彼女の行動はやはり読めない。ふわふわと、こちらの空洞にするりと入ってくるのだ。手|櫛《ぐし》で髪を梳《と》かされている間、目を閉じて大人しく待っていると、鼻をくすぐる香りに気付く。
心を直接撫でられたみたいだった。やわらかな香りが、心を軽く痺《しび》れさせた。香水や、整髪料の香りではない。作られた匂いではなく――もっと、自然な……。
「ほら、なおったよ。っ……! こら、匂いとかかいじゃだめだよ」
照れたように身を引く委員長を見て、
「あ、ごめんなさい、つい――」
こちらも、照れるのを隠せなかった。
「そりゃ」
「え?」
委員長が、今度こそ肩に手を回し、抱きついてきた。彼女の持つ体温が全身に被さってくる。少しだけ冷たく感じたのは、ずっと外で立っていたためだろうか。それとも、いきなりの抱擁で、ボクが熱を持ってしまったからだろうか。
「ちょっ、いいんちょっ!」
ぱっ、と、解放される。委員長はにんまりと、ものすっごく悪そうな表情をして、
「白姫君、顔真っ赤」
「あなたのせいでしょうっ! こんなとこ誰かに見られたら――っ!」
「大丈夫だよ」
返事がすぐに返ってくる。早すぎる。即答というヤツだ。あまりの早さに、彼女にとって今の行動は悪戯《いたずら》以外の何ものでもないんだと、はっきりと分かった。
「まったく、あなたって人は……」
「あはは」
小悪魔な少女は、口だけで笑った。
「……っと、話し込みすぎたかな。そろそろ時間だよ、白姫君」
委員長の顔が、肩書きに恥じないそれへと変わる。
「うあ、結局いつも通りにっ!? ごめんいいんちょ、またあとでっ!」
駆《か》け足で下駄箱へと向かいながら、ちら、といつものように委員長の方を振り向く。
彼女はやはり、微笑《ほほえ》みを浮かべて手を振っていた。
下駄箱に入り、廊下を早足で進む。
ホームルームへと向かう教師の姿がちらほらと見える。幸いまだ担任の姿はない。どうやらセーフみたいだ、と思って歩調を緩めると、視界の端の掲示物に目が留まった。
掲示板一杯を埋めるような巨大な紙。誰もが目にする、一番見えやすい位置を陣取ったその紙面には、大きなタイトルが掲げられている。
通り過ぎながら、その記事に目を通すと――。
「――なっ」
足が止まる。
「なぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーッ!?」
絶叫が、廊下中の窓を震わせた。
「じょぉぉぉぉぉぉぉうっ!」
「ん? ああ、彼方《かなた》じゃないか。今朝は悪かったな。早めに来てやらなきゃいけないことがあってな――あれ、どした、かな――」
明日野丈はそれ以上言葉を口にできない。
それも無理はない。いきなり首筋を掴《つか》まれては、思うように話せはしないだろう。だが、話さないことも許さない。
「あれはどういうことだ」
できる限りトーンを抑え、細目の少年に問う。
「あれ? ……ああ、掲示板見たのか? なかなか派手にできてただろ、アレ作るのに一週間――うぐ!」
手に力を込め、黙らせる。
「キミはボクの質問にだけ答えればいい。どういうつもりで、あんなものを作ったか、それだけを言えばいい」
「えっと、だから」
「言い訳なんか聞きたくない!」
『……暴君がいる……』
一部始終を見守っていたクラスメイト達の呟《つぶや》きが聞こえた気がしたが、そんなことはどうでもいい。今はこの主犯を裁く方が重要だ。もちろん死罪で。
――廊下にデカデカと張り出されていた掲示物。そもそもあの掲示板は、新聞部などが自主的に調査したことなどを、校内新聞として張り出す場所である。そして、その新聞部とは、この学校では明日野丈一人きり。つまりアレを書いたのは丈以外にありえないのであり、今ここでコイツさえ倒してしまえば、全てにケリは付く。
「待つんだ、彼方……俺はだな、情報屋として、真実を――」
「あの校内美少女ランキングトップテン 〜全校生徒に聞きました〜≠ェかっ!?」
タイトルを読みあげることすら忌《いまいま》々しい。
「別にランキングとかはどうだっていい! ただ――」
担任が教室に入ってきたことすらも気にせず、ボクは全身全霊の咆吼《ほうこう》を腹の底から解き放つ。
そう――掲示板に張り出されていたのは、校内の美少女ランキングだった。校内でも有数の美少女達がその名を上位に連ねている中、その頂点に君臨していた名前は、とても見覚えがあり、とても馴染み深く、とても場違いな名だった。
叫ばずには、いられなかった。
「どうしてボクが一位なんだ――」
静寂をつんざくシャウトに、その場にいる誰もが黙り込む。だが、ただ一人だけ例外がいた。
「白姫君一位なんだ。すごいすごい〜」
「……いいんちょ……そんな純粋に……」
無邪気極まりない声を聞いて、へなへなと力が抜けてゆく。担任の後から入ってきた委員長は、ぺちぺちと拍手をしながらボクを見つめていた。
解放された丈が、張りのある声で語る。
「彼方。俺が提供する情報に嘘はない。確かにお前は、校内一の美少女に選ばれたんだよ。名誉なことじゃないか!」
心から祝福した表情が、ひどく勘に障る。
ぱち……ぱち……。次第に、教室の中で拍手が生まれ始めた。数秒とせずに拍手は喝采へと変わる。
ただ、讃えられているはずのボクは、喜ぶべき部分が一欠片《ひとかけら》もなかった。
そして――災厄は、これだけでは終わらない。
その日一日、周囲の温かい讃辞と好奇の視線に晒《さら》されながら過ごしていたボクは、体力とか理性とかが限界に近づきつつあった。
「あと……少しで……終わる」
これほどまでに放課後が待ち遠しい日も初めてだ。
本日最後の授業はレクリエーション。基本的には自習、という流れになるため、生徒達の間では空白の自由時間として活用されている。ボクはとりあえずは寝て過ごそう、と机にうつぶせになり目を閉じた。
だが、いつもと違う雰囲気に気付き、顔を上げる。
「……?」
担任はいつも通りに、自習を宣告して教室から出て行っている。
普段ならば、この時点で教室はクラスメイトの喧噪《けんそう》で賑《にぎ》やかになるはずなのだが――。
(やけに静かだな……)
「ええと、みんな注目!」
ぱんぱん、と手を叩きながら、一人の生徒が教壇に立った。
――丈だ。
何を始める気なのか、彼はチョークを手に取り、黒板に文字を書き始める。
「今回のランキング集計結果において――我がクラスは権利≠手に入れました。
ランキング一位の生徒がいるクラスに与えられる、大いなる権利を……」
書き終え、丈が振り返り、教壇に勢いよく手を付くと、しん、と教室が静まりかえった。
(何を言っているんだあの人は……? そう……争奪戦?)
黒板に大きく書かれた文字。
『衣装決定権争奪・鬼ごっこ大会』
話し声一つ聞こえなくなってしまった室内に、丈の姿だけが浮いている。
黒板の上に掛けられたアナログ時計が、カチン、と小さな音を立てた。
瞬間。
『うぉおおおおおおーーーーーっっっ!』
堰《せき》を切ったように突如、静かだったクラスメイト達が沸き上がった。
「……!? なに!? なんなの!?」
丈が黒板に書いた文字をバン、と力強く叩くと、皆が口を一斉に閉じる。
「……皆がこの日を待っていた」
目を閉じ、おもむろに丈が語り始める。
「コスプレ――それは夢。常識などという枷《かせ》に縛られ、服飾の自由を奪われたこの世界の、最後の楽園」
料理対決番組かなにかの司会者よろしく、言い回しがくどい。
「だがしかし今日は! 非常識、大いに結構ッ!」
丈は熱の入った動きで手を大袈裟に振りかざし、雄々しく叫ぶ。
「校内一の美少女に、選んだ服を着せられる! 公然と! 自らの欲望を! 叩きつけることができる!」
――嫌な、予感がした。
丈と目が合ってしまった。にこ、と気持ちの悪い笑みを浮かべ、彼は、
「今回、美少女ランキング一位を勝ち取った――白姫彼方君。前へ」
手招きをしている。行きたくない。すこぶる行きたくない。でも、
(……なんなんだ……この期待の視線は)
クラスメイト達が、熱に浮かされたような視線をこちらに集中させている。仕方がなく、状況が掴めないながらも立ち上がり、教壇の前に移動する。
「彼方。もう理解できたな」
「ボクだけ別次元にいるみたいなんですが」
「ルールは簡単! 各自配っておいた紙に、彼方に着て欲しい服を書く。そして、ここにいる白姫彼方君を捕まえる。すると、捕まえた人間の希望通りの服を彼方が着てくれるってえ寸法だ!」
「はい? だからなんでボクが――」
「というわけで――これより彼方君にはこの学校内、グラウンドを含む、学校敷地内を逃げ回ってもらいます!」
「ちょっ、ボクの意見――」
『いえあーーーーーーーーーッッッ!』
「無視かっ! ボクの意思は完全に無視なのかッ!」
「時間制限は次のチャイムが鳴るまで! そして彼方を捕まえた者は、証拠としてこのタスキを取ってくること! 手段は問わない! 何人がかりで挑もうが万事オゥケイだっ!」
タスキが肩にかけられる。白い生地に景品≠ニ二文字だけ書かれた、簡素な物だ。
「ちょと、景品て! ボクの人権すらもスルー!? オゥケイじゃないっ! 全然オゥケイじゃないってば! そもそもこんなの、先生達が黙ってるわけ――」
「了承済みだ」
[#挿絵(img\xy_197.jpg)]
「は? え? なんで?」
この感覚――人の意思をまったく無視し、強引に、巧妙に、逃げ場のない窮地《きゅうち》のみを仕掛けてくるやり方――。
(あの人のやり口に似てる……!)
背筋にうすら寒いものを感じる。だがあの人はいま旅行中である。いるはずがない。
「さあ彼方。このコインが落ちた瞬間がスタートだ。
――コスプレが嫌なら、逃げ切ってみせろツ!」
ピンッ。丈の手から、コインが弾かれた。
上昇、そして下降。それだけの時間が、やけに長く感じられた。
「ッ!」
立ち止まっている場合ではない。教室の扉を開け放ち、廊下に躍り出る。
――チャリン。
洪水が、押し寄せる。
ガラララララッ!
クラスメイト達が、廊下に飛び出してきた。教室の出入り口からだけでなく、廊下側の窓を飛び越すようにして、ほぼ全員が飛び出してくる。その手には白い紙。その内の一人が持っている紙の中身が見えた。
『メイド服』
その紙を持った級友と目があった。目が、血走っている。
「くっ――」
言葉が通じそうな雰囲気ではない。とりあえずは逃げなければ。
一年生用の廊下を駆ける。背後から、追走してくる生徒達の足音。間にある教室から、歓声が聞こえてくる。
『がんばれーっ! ナース服、期待してるぞオッ!』
「ナースッ!?」
なぜ別のクラスの連中まで知っているのか。
――手回しが良すぎる。クラス単位ではないとすると、丈一人で企画したわけではないだろう。何より、教師達にまで話を通すほどの力を持った何者か≠ェいないと、こんなイベント実行不可だ。
あまり考えることもできずに、階段に辿《たど》り着く。
(上か、下か!?)
ドドドドドド。細い廊下を互いが押し合うように走ってくるので、追跡者達は幾分か足が遅い。だが、迷う暇があるほどではない。
「下っ!」
瞬間的に判断。下への階段を選ぶ。だがその時、
グイッ!
学生服が引っ張られる。
「――スプリンター≠ゥっ!」
振り向いた瞬間見えた顔。我がクラスの短距離走最速、スプリンターの異名を持つ男。どうやら自らの誇る足を、惜しみなく奮っているらしい。しかし、その顔が見えたのも一瞬だった。
学生服が引っ張られた瞬間、ボクが取った行動は、
「ごめん、手加減できない」
引っ張られた反動にそのまま乗っかり、体を相手に肉迫させる。肩を、スプリンターの腹部へ。後ろ足で、廊下の床を強く踏みしめる。
衝撃がリノリウムの床を揺らしたと同時、男子生徒の体が浮き上がり、背後へと吹っ飛び、転がる。追いつこうとしていたクラスメイト達が、その体に引っかかり足をもつれさせた。
「悪いね」
襲い来る群れに一言呟き、階段の手すりに足を引っかけ、滑り降りる。
『白姫ーッ!』
鬼と化した級友達の叫びが聞こえた気がしたが、今や追われる身となったボクが、立ち止まるはずはなかった。
学校で一つの戦いが幕を上げた頃。とある国、とあるビーチにて。
レインボーカラーのビーチパラソルの下、眩《まばゆ》い陽射しの中にぽっかりと空いた影の中。
「――はぅ。気持ちいい……」
白銀の髪。真珠の如き艶《あで》やかな肌を持つ少女が、ビーチチェアに横になっていた。水着という一枚の布きれにその身を包み、海を満喫している。
周りに人はいない。――いや、そこは大衆用のビーチであり、この真夏日、海辺に人がいないことなど有り得ない。見渡せば確かに、大勢の人はその浜辺に存在しており、賑やかさもある。しかし少女の周りだけは、まるで別の空間のように静かだった。
よく見れば、彼女から一定の距離を開けて存在している人々は、陶酔したような視線で白銀の少女を眺めている。暗闇しか知らなかった昆虫が、陽の光を知ったかのような。目を離せない。だが近づくこともできない。触れれば、溶けて、なくなってしまう。そんな好奇と羨望《せんぼう》の眼差しで。
外見年齢十代前半、そうとしか見えない幼い、お世辞にも起伏があるとは言えない肢体。強い陽射しは彼女を溶かしてしまうのではないだろうか。そんな危うさも感じさせる。
「ん」
ビーチチェアから延びた手が、傍らのトロピカルジュースへとかかった。
澄んだブルーソーダ。爽やかな色をした液体が、透明なストローを通り、細い喉《のど》へと流し込まれてゆく。
ごく、と見物客の一人が喉を鳴らした。
ことん。
みるみるうちに飲み干されたソーダのコップが、ミニテーブルの上へ。コップを置いた後、彩りとしてコップの縁に飾られたオレンジを手に取り、そのまま口に含む。ちゃく、という艶《なま》めかしい音が、ビーチの男達の耳に聞こえた気がした。
「うん。すっぱい♪」
少女は、観衆には分からない言語で、嬉しそうに呟いた。
それまで誰も近づこうとしなかった見物客のうち一人が、足を一歩進めた。それは勇気だったのだろうか。がっしりとした体付きの男は、ビーチに生まれた異空間の中心へと近づいてゆく。その男は地域住民が知る限り、海へと遊びに来る旅行客を口説き落としては遊び回る、評判のよろしくない男だった。
男は母国語で話しかける。何故か、言葉が通じないという発想は浮かばなかった。
「よ、よぉ。……一人かい」
「?」
「ええと、その……なんだ。随分と綺麗《きれい》な――…!」
目があった少女の清廉さたるや、男の言葉を封じ込め、継ぐ言葉を忘れさせてしまうほどだった。
突然話しかけてきて口をつぐんでしまった男を見て、少女は首を傾げてひとしきり考えた。
考え、何かに思い当たると、喜色のみを表情に浮かべ、
「ありがとう、褒めてくれて。でもお誘いは結構よ」
流暢《りゅうちょう》に返事をする。ヘタをすれば、男よりも言葉の使い方がしっかりしている。
「でも、なんだ……キミのような宝石が、こんな浜辺で、一人なんて。海の神も、そんなことを望んでやしない。なにより……俺のプライドが、許さない」
やんわりと断られた男はしかし、自らの衿侍《きようじ》に賭け、少女を口説きにかかる。あまりにも体格の離れた組み合わせではあったが、しかし、主導権を握るのは――。
「だめよ? 女の子を宝石だなんて。私たちは、飾り物じゃないもの。取っ替え引っ替え、するものじゃないわ」
見透かされていた。男は、目の前にいる少女の底知れなさを感じた。だが、プライドは時に理性の壁を脆《もろ》くする。プライドだけではない。目の前にいる白銀の乙女。判断を狂わせるには十分だった。
「ま、待てっ!」
浜辺から立ち去ろうとした少女の腕を、男は掴んだ。その力の入れ方は、傍目《はため》から見ても乱暴そのもの。しかし――。
フゥッ。
男がその呼気を聞いたとき、世界は反転し、巨体は砂浜の上に転がっていた。何が起きたのか、まったく理解できない。少女の腕を掴んでいたはずの右手は今、何も掴むことなく空を切っている。
理解できるはずもなかった。男が腕を掴んだ瞬間、少女がその腕を掴み返し、布でもひらつかせるように男の巨体を回転させた、などと。
「――もう一つ。女の子は、とっても脆《もろ》いの。触るときは優しく、ね♪」
男を上から一瞥《いちべつ》し、踵《きびす》を返す。
「ま……待ってくれ……」
「まだなにか?」
男は叩きつけられた衝撃で声を途切れ途切れに、気になっていたことを尋《たず》ねた。
「その……水着、なんなんだ……? 見たことがない……」
少女はワンピースタイブの水着に一度目をやり、
「これはね――。
すくみず≠チて言うのよ」
今までで最も不敵な笑みを浮かべ、言い放った。
倒れたままの男は、立ち上がることすら忘れ、陽射しを背負って輝く、白銀と紺色に見惚れていた。
見物客達の一人が、呟いた。
「天使だ……」
誰一人として、その呟きを否定するものは、いなかった。
天使の少女は、バスタオルを肩から羽織ると、一言。
「かなちゃん今頃、頑張っているかしら?」
誰にともなく、そう呟いた。
「悪魔め……」
気が付くと、ボクの口からは溜息と一緒にそんな呟きが漏れていた。
――ルールを確認しよう。
一、一人対三十人の鬼ごっこ。タスキを取られると負け。
二、範囲は学校敷地内。時間はチャイムが鳴るまで。
三、もし負けると捕まえた人の指定する服を着なければならない。
四、手段は、問わない。
改めて考えるとこの企画の荒唐無稽《こうとうむけい》さが分かる。なにより、強引すぎる。
こんなイベントを学校側がなぜ許したのか。思い当たる点があるからこそ、厄介だ。
あの、悪魔のような――ボクとまったく同じ容姿を持ちながら、ボクを窮地に陥れることを生き甲斐にしているような人。
「母様……」
あの人のやり方で最も恐いところ、それは、日常から非日常へとシフトする過程がほとんど予測できない、というところである。今までそこにあった日常が、一秒後にはまったくの非日常へと変わる。紅茶に砂糖を入れようとしていたのにいつのまにかカップに塩が山盛りになっている……というような、絶対に間違っているのに取り返しがつかない状況を、あまりにも唐突、かつボクの意思を挟むことなく、創り上げてしまうのだ。
ボクは、この状況にそれと同じ空気を感じ取っていた。
ほんの少し前までは日常の中。気が付くと今は逃走中の身。
「学校にまで影響力があった、ってことなのか……!」
もはや確信に近い。これは母、白姫|此方《こなた》の仕業だ――。
「――見ツケタ」
聞き覚えのある声。クラスメイトの一人、体力測定では垂直跳びが得意の――。
「フロッグ=I」
突然真横に現れた顔に、強烈な怖気《おぞけ》を感じる。失礼な話だが、顔が蛙に似ているのだ。
彼の跳躍力はクラス――いや、学校随一。あだ名の通り、蛙に取り懸《つ》かれているのではないかと思うくらい。だからこそ、こうして図書室の本棚の上によじ登り隠れていたボクを見つけることができたのだろう。寝そべっていれば視線が及ぶことはないと踏んでいたのだが、考えが甘かった。
「けろっ!」
彼の口調にはなまりがある。これはよく使う彼の語尾だ。決して鳴き声ではない。
本棚の縁に手をかけ、上ろうとしてきた彼の手を無理やり引きはがす。彼は無理せず自分から指を離して着地、だが彼は再び跳躍、そしてこちらへと腕を伸ばす。狙いはもちろん、このタスキ。
「取られてたまるかっ」
腕を伸ばされた瞬間、寝そべった状態から横に転がる。本棚を挟んでフロッグの反対側へと転がり降りる。着地し、足の痺《しび》れに襲われる。
(変身していれば……!)
と一瞬考え、その考えを思い浮かべた自分に恐怖した。
――あれも、一種のコスプレだろう?
「そっちは行き止まりけろ」
フロッグは、逃げ道はないとばかりに、ゆっくりとハエを追い詰めるように歩いてきた。
その油断が仇《あだ》になる。
「……けろ?」
既にボクは、図書室の窓から外へと飛び出している。
「もう少し図書館の間取りを知っておくべきだったね」
図書室の裏手、学校を囲む外壁沿いを走りながら呟く。
……しかし、潜む場所を失ったのは痛い。
「これからどうしよ」
「いたぞ! 白姫だ!」
考える暇すらない。校庭側にいた班が、道の先で仲間を呼んでいる。
「おい! こっちだ!」
後ろを振り返った瞬間、また別の班がこちらを見て、仲間に声を掛けていた。
(集まりが早い!?)
図書室の裏手は外壁に囲まれ一方通行、しかも木が生えていて道が狭い。前に三人、後ろにも三人。図書室に戻ろうにもそこにはフロッグが。
(どうする、強行突破しか――っ!)
前にいる三人に狙いを定め、拳を握り締める。
(でも、クラスメイトに拳を振るうのか――!?)
迷う。もう半年間、一緒に学んできた仲間達ではないか。こんな状況だけど、みんないい人たちばかりじゃないか。
「しぃぃぃらひめぇぇぇぇぇ!」
般若《はんにゃ》の形相《ぎょうそう》をした仲間達。その胸元に挿してある紙に、書いてある内容。
チャイナドレス、スリットは深めに
「…………」
最初の一人に、渾身《こんしん》の力で拳を突きいれた。
「ふふ……やるじゃないか、彼方……」
三階の窓から、彼方の動きの一部始終を見ていた一人の男。今、彼の目線の先には、三人の生徒が悶絶し倒れている。そして、そこに駆けつけてきた三人の生徒が、倒れた生徒達を抱きかかえ慟哭《どうこく》している。
ポケットから携帯電話を取り出し、親指を機械的に動かす。
『――アイドルは校庭へ』
携帯の液晶画面に文字が表示され、男は躊躇《ためら》いなく送信のキーを押した。
「確かにお前は強い。だが、残り時間は二十五分。この状況でどこまで持つかな……?」
理科実験室。グロテスクなオブジェが並ぶ室内で、男は――、
情報屋、明日野丈は笑う。
「くっ!」
苦し紛れに校庭に逃げ込んだが、その判断は間違いだったと気付く。
一チーム三人を基本とし、四組。校庭には合計にして十二人もの待ち伏せ班がいた。
(まさか、ボクが外に出た時点で手を回してたのか……?)
統制が取れすぎている。よく見れば、それぞれの班の先頭にいる人物は、携帯電話を片手に持っているようだ。
「誰かが、指揮してるっていうのか……!」
校庭の隅に植えられた木の影で、様子をうかがう。後ろからは追跡者が来ている。まもなく逃げ場は絶たれてしまうだろう。
変身しているときならともかく、この状態で十人を超えるクラスメイトを捌《さば》けるだろうか。
おそらくは不可能、つまり、正面突破は無理だ。だからといって校舎の中に隠れたとしても、半数は間違いなく校舎の巡回へと割いているだろう。……狭い場所で袋のネズミになることだけは、避けなくてはならない。
(ここから一番近い建物は……体育用具室)
校庭の隅にある薄汚れた倉庫。見つかればおしまいだが、一度でも隠れきることができれば、二度と目を向けられることもない。危険な賭だが、人員の多く割かれている校舎内よりはよほど、安全だろう。
「やるしか、ないのか……!」
校庭を巡回している級友達の視線を見る。まんべんなく警戒は張り巡らされていて、隙がない。なにか、気を引く方法があれば――。
「きゃーっ!」
その時校内から、けたたましい女生徒の悲鳴がした。校庭にも届いたその悲鳴を聞いた瞬間、外にいる全生徒の顔は、校舎へと注がれる。
(今だ!)
悲鳴の正体も気になったが、大方騒ぎすぎた他のクラスが騒ぎを起こしたのだろう。
それよりも今は、死にものぐるいで駆けた。駆け抜けた。
体育用具室には、錠がかかっていない。
「よしっ」
二枚組、押し開きのドアの片方を開け、滑り込むように潜り込む。
すぐに、視界が暗闇に包まれる。鼻を突くのは、独特の砂の籠《こ》もった匂い、そして、走り高跳びなどで使われるマットの、すすけた匂い。
(隠れる場所は――)
見つからない場所。この五畳もない倉庫内で、人の視界に入らない場所。
全ては密集して影となり、探されるときには嫌でも目が向けられてしまう。だが――。
押し開きの、ドアの影。
この室内を捜索するには、いやでも光が必要になる。つまり、この押し開きのドアを開いたまま、室内内側に固定し、探すはず。
……やはり危険な賭だ。だが、この危機を渡りきったときに得る安全は絶対的なものとなる。
壁に背を当て、ただ時を待つ。
時計はない。静かだ。
本当はこのまま、静かにチャイムを待ちたかった。
だがやはり、足音は来る。
「ねぇ。もしかして、ここに隠れてるんじゃない?」
女生徒の声。続いてギィィィィというドアの軋《きし》む音、差し込む光。光に映る、人の足の影。
「うわ、ほこりっぽ〜い……」
呟きながら入ってきたクラスメイト二人。いつも軽い調子で話す、元気が取り柄《え》の二人組み。
スプリンター、フロッグのように特殊な技能を持っているわけではない。だが安心はできない。彼女らは、どうにも――。
「ねえねえ、アンタさ、紙に何て書いた?」
「ええ〜、そりゃもちろん、ミニスカートって書いたよ。前から狙ってたんだよね〜」
「あ、やっぱり? それでさ、たくし上げて欲しいよね〜」
「うんうん分かる分かる! 見えるか見えないかぐらいで!」
どうにも、オヤジ臭い。
(この子らだけには、捕まりたくない!)
二人は扉を開けたまま、くまなく室内を調べてゆく。汚れるのはいやなはずなのに、本当に丁寧に探す。そこから本気が見て取れるようだった。
「いなくない?」
「ん〜、やっぱ違うかあ」
二人は倉庫を出て行き、再び、扉は閉じられた。
(勝ったっ!)
暗闇の中で心の中でガッツポーズを取り、胸をなで下ろす。
外では、女生徒が誰かと話している。恐らくは携帯電話で報告をしているのだろう。
「体育用具室、いなかったよ。うん。全然」
耳を澄ませて、それを聞く。
「うん。分かった。じゃあ校舎に戻る」
どうやら外にはいないと判断されたらしい。これで、本当に勝利だ。二人分の足音が少しずつ遠のいていく。最後に何度か言葉を交わし、電話は切られたようだ。
壁に背を預け、崩れ落ちるように座り込む。
今回もなんとか乗り切ることができた。危機的状況を、超えることができた。正直、これまで魔法少女とかやってたときよりも、今日が一番きつかった気がする、どうしてこうも、平凡な日常が縁遠いのだろうか……。
何も考えず、目を閉じて、意識を落とそうとした時。
『え? 用具室? 開いてたよ?』
電話を切る直前の、女生徒の報告した言葉が、ふと思い浮かんだ。
開いていた? 誰も使っていない、体育用具室の鍵が?
ゾクン――。
(この、悪寒は……!)
それは根本的な勘違いだった。ここに置かれた授業道具も、タダではないのだ。鍵が開いているはずがない。
誰かが開けていない限りは。
ガタン。
「誰だっ?」
何かが、落ちる音。
ひた、ひた。
ゆっくりとした、足音。
暗闇の中に、浮かび上がる――、
「やぁ――かなたん」
「……モエル?」
少しくぐもった、ひどく聞き覚えのある声。小さなシルエット。
暗闇の中から現れたのは金色の猫。モエルだった。そういえば今朝、玄関で見送られてから一度も姿を見ていなかった。学校に付いてきたことを怒るのは後だ。とりあえず今は、敵ではなかった安心の方が大きい。
「なんだ、モエルか。脅かさないでよ――」
安心しかけて、出てきた姿に違和感を憶える。
「モエル――何を咥《くわ》えて、いるんだ?」
口に何かを咥えている。それを咥えていたために、さっきの声がくぐもって聞こえたのか。
一緒に暮らしている、家族である猫。少し話したりすることを除けば、普通の猫だ。
家族である猫。七年間も一緒に暮らしてきた仲。
そのモエルの口から、紙切れが落ちた。
暗闇の中でよく見えない。何かが書いてあるのは確かだ。天井に開いた小さな穴、そこから零《こぼ》れている光が、ちょうど紙切れの文字を照らした。
『ネコミミ、裸ワイシャツ』
これまでで最も難解な――要望。
「キミも……敵かっ!」
あまりにも唐突な、家族の裏切り。狭い室内ではどうしようもない。扉を押し開け、出ようとする。
しかし。
(扉が開かない!?)
「忘れたのかい、かなたん。この扉は、外からの押し開き、なんだよ」
目の端を金色が閃く。振り返り、咄嗟《とっさ》に体を捻《ひね》る。一瞬で、タスキの端が裂けた。しかし、それを行ったであろうモエルの姿は見えない。
(暗闇に身を隠した――!?)
「モエル! 止めるんだ――どうしてボク達が争わなくちゃならない――」
説得を試みるが、返事は高速の斬撃だった。タスキがまた、裂ける。
――向こうは夜目が利く。圧倒的に不利なのはこちらだ。
「……朝は、随分と楽しそうだったね? かなたん」
声には、別の意味での重みが込められている。圧力、とも言えるものが。
「……朝? 何のことだ?」
暗闇に声を放つ。
「楽しそうに――抱き合っていたね」
ぞく、という悪寒に従い、前に体を投げだす。今までいた場所にモエルの爪が走る。ボクの体はマットの上に落ちる。
(抱き合っていた……? ――! いいんちょのことか!)
最初は何のことか見当も付かなかったが、いいんちょとの今朝のやり取りを思い出す。
倒れ込んだ後、すぐさま身を捻り、次なる攻撃に構える。しかしモエルは、倒れたボクの体に乗っかってきて、顔のすぐ前までやってきた。猫に、押し倒された体勢となる。
「決めたんだ。キミはあまりにも気が多すぎる。だから――」
モエルの紅い瞳が、目に焼き付く。
「力づくで、貰《もら》うよ」
「っ!」
渾身《こんしん》の力で起き上がる。
「にゃっ!?」
多少乱暴だが、モエルの体を引きはがして距離を作る。
(このままじゃやられる。仕方がない……っ)
空に手をかざし、イメージ。
「遍《あまね》く――」
「――いいのかい、かなたん?」
呼び出そうと力ある言葉を唱えようとした瞬間、それを遮《さえぎ》るモエルの声。
「あんなに嫌がってたじゃないか。いいのかな? 力を使って。この日常の中で魔法少女の力を借りるということは――キミは、魔法少女を、認めることになってしまうよ?」
悪役そのものの口調で、モエルは次第ににじり寄ってくる。
「いいじゃないか――少しだけ、恥ずかしいだけさ」
この場合、どちらが恥ずかしいのだろうか。
モエルの口車によって、変身するという選択肢がなくなろうとしている。
ボクは魔法少女を認めていない。だが確かに、ここでその力に頼ってしまっては、都合の良いときだけ力に頼る、駄目な人間になりかねない。
「く……」
「さあ、タスキを寄越すんだ」
ここが、最大の窮地。
(どうする?!)
モエルが痺れを切らし、タスキを奪おうと飛び掛かってきた。
もう一秒も迷えない。
――ぞく、ん。
「……!遍く空の彼方へ=I」
光の柱が空より落ちる。
「……はは」
笑い声が漏れる。
「ようやく認めたんだね、かなたん! 自分が、生粋《きっすい》の魔法少女であると!」
モエルの嬉しそうな声が耳に届く。しかし……。
「違う」
変身してもタスキは残ったままである。服と見なされなかったのだろうか。
「な? まだ、認めないって言うの!? おいらから逃げるために変身までしておきながら!?」
モエルが怒っている、が、そうではない。それどころではない。
「――悲鳴だ」
「へ?」
間の抜けたモエルの声。構わず、倉庫から抜け出す。そして、数倍に強化された脚力で跳ぶ。倉庫の上に着地し、次のジャンプで一気に校舎の壁にまで跳び上がり、その教室の開いた窓から、校舎内へと侵入する。
――教室内部は、騒然としていた。
三年の教室はどうやら真面目に自習をしていたらしい。ほぼ全員の生徒が揃っているようだった。しかし、生徒達は何かに驚き、教室の中央にエアポケットを作っている。
「退《ど》いてください」
堂々と周りの先輩達を押しのけ、その空けられた空間に目を向ける。
そこには、一人の女生徒が泣きながら、足を押さえている光景があった。机から転《こ》けて、足でも打ったのか、足が赤く腫《は》れている。
「何があったんです?」
先輩の一人に尋ねる。突然現れたボクに驚きながらも、先輩の一人が答える。
「見たこともないような虫が出てきて……驚いて、転んだんだ」
気まずそうに歯噛みしている。騒然とした雰囲気の中、女生徒のすすり声が聞こえている。
確かに、こういう状況の時はどうしたらいいか分からなくなるかもしれないが……。
「彼女を保健室に連れて行ってあげてください」
足を腫らした女生徒を抱き起こし、傍にいた男子の先輩に指示する。
「あ、ああ……」
今までやろうと思っても体が動かなかったのだろう。指示されてようやく、先輩達は動き始めた。行動力のなさに多少の苛立ちは感じる。だが――。
「見たことのない虫、というのは?」
引っかかった言葉。用具室に隠れようとしたとき、響き渡った悲鳴。あれは、その虫を見たときに彼女が叫んだものだろう。
「……なんか、黒くて、丸い……」「すっげぇ早くて……」「とにかくでかかったよな」
目配せをしながら口々に虫の特徴を言うが、どれも要領を得ない。
そんな中、後ろにいた男子生徒が叫んだ。
「ああ! アレだッ!」
教壇を指差す。目線を向けると――、
「……やっぱりか」
黒く塗りつぶされた、幾重もの足を持つ物体。長円形の甲虫……形だけを見ればコガネムシに近い。しかし、それだと断定できないのはやはり、その手の平大のサイズと、生物的な構造を感じさせない、黒一色の体にあるだろう。
遠くから見れば、黒い穴が開いているようにしか見えない。立体感すら希薄にさせる、完全な黒。
(――ノイズ)
右手に持っていた杖《つえ》を構え、男子生徒達の頭の上を飛び越すようにして跳躍。黒板をかさかさと這《は》っていた虫型ノイズを、オーヴァゼアで叩きつぶす。
虫は潰されると、あっという間に光と消えた。
(なんだ? 随分と呆気ない……)
しかし、現にノイズは消滅した。あまりにも呆気ないが、終わったのだ。
虫が消えると生徒達は、
「っつーかよ、教室に虫とか勘弁してくれよ。集中できねぇじゃん」
などと、何もなかったかのように話し始めた。そこには、日常的な喧噪が戻って来つつある。
認識阻害によって、視覚情報全てが誤魔化された、ということだろう。
黙って三年の教室から出る、
「……終わったの?」
廊下で待っていたモエルが、小さな声で聞いてくる。
「うん、やっぱりノイズだったよ。なんか、妙だなとは思ってたんだけど」
「……とりあえずご苦労様、かなたん」
「ああ。――ッ!?」
殺気を感じ、咄嗟《とっさ》にサイドステップ。
「ちっ、はずしたか!」
脈絡なく襲いかかってきたモエルは、悪意のある舌打ちをした。その眼は、ボクを獲物として捉えている。
「モエル! まだ諦《あきら》めてなかったのかっ!?」
「あったりまえさ――かなたん、なかなかサービスしてくれないんだもん!」
「サービスってなんだ――どうしてボクがしなきゃならない!?」
背後で、怒鳴り声を聞きつけた先輩達が覗《のぞ》こうとしている。
「っ!」
あらん限りの力で、走る。魔法少女化しているため、その速度は常人に追いつけるものではない。
「あ、かなたん! 卑怯なっ!」
モエルの叫びを遠くに聞きながら、ボクは、逃げた。
そうこうしているうちに、チャイムまで残り一分を切った。もうじき、ボクの勝ちを告げる鐘の音が鳴り響く。
変身を解くと、どつと疲れが押し寄せてきた。
「……ほんと、疲れた……」
目の前に広がる夕暮れに近い空の展望を眺め、ボクは呟く。
「ここは……静かだ」
学校の屋上。いつも鍵がかかっているが、ボクはそれを何とかする手段を持っている。母に教えられた技術の一つだ。もちろん、入った後に鍵を閉め直している。
――完璧な勝利。
屋上に寝転がり、空を眺める、至福の時。散々な一日だったが、乗り切ってみれば、この疲労もまた悪くない。
「二度と、ゴメンだけどね……」
目を閉じる。
「大体どうして、みんなしてボクに変な服を着せたがるんだ……」
必死の形相で追いかけてきた追跡者達の形相が脳裏をよぎる。
メイド服、ナース、チャイナミニ、ミニスカ、ネコミミ裸ワイシャツ。どれも、邪《よこしま》な夢ばかりだった。
「かわいいからだと思うよ。白姫君が」
「かわいいって、ボクは男なんですよ?」
「あはは。だってきっと似合うもの。白姫君、女の子みたいだし」
「あ、それひどいですよ! いいんちょ――う?」
すぽん。
「あ」
タスキが、外れた。
ニコニコとこちらを見下ろし、小悪魔的に微笑んでいた少女は、キーンコーンカーンコーン。
「わたしの勝ちだね、白姫君?」
同時に鳴り響いたチャイムの音をバックに、とても満足した表情で、勝利を宣言した。
次の日。
「カワイ〜ツ!」
女の子達の黄色い声。
「し、白姫…………ごくッ」
男どもの茶色い視線。
ボクは今日、学校を休むと言った、けれど、モエルが猛烈な勢いでそれを却下した。却下し、無理やりにボクを学校まで引っ張ってきた。
「ああぁぁぁ……」
そして、朝から周知の的……というか、羞恥の的となっている。
「彼方、お前凄いよ。いや、うん。何が凄いのか分かんないんだ。けど、凄い。
俺、きっと忘れない。今日という日のことを。この、歓喜の日を」
丈が手にデジカメを持ち、訳の分からない呟きを言い続けている。だから、とりあえずデジカメを奪って外へと放り投げた。
「ああ、何をする!」
骨を放られた犬のように、丈は窓の外へと飛び出していった。一応、ここは二階なのだが。
冷徹な目でそれを見送っていると、前に立っていた少女がブーイングをしてきた。
「ぶーぶー」
と、いまだにふくれっ面なのは委員長である。
――彼女の要望は、一文字だった。
端に小さくできたら二人きりで♪≠ニか書いてあったのは……見なかったことに。
文字で意識を失いそうになる経験など、この先二度とないだろう。さすがにそれだけは許すわけにはいかないので、その場で土下座までして変更を要求した。
そしてなんとか、ちゃんとした服には替えてもらえたのだが……タダではなかった。
『ん〜、しょうがないな〜。だったら、コレでいいよ。
あ、ただし、ちゃんと朝から、着て来てねっ?』
と、いうわけで。
ボクは今、学生服を着ています。
――女の子の。
「ほんともう、勘弁してください〜……」
ブラウンカラーのブレザーに、発色のいい赤のスカート。暖色で固められた制服は女生徒にも評判がよい。胸元のリボンがワンポイント、個性を光らせている。
恥ずかしいのはもちろんだが、それ以上に悔しかった。
こうして女の子の服を着ても違和感のない、自分が。
「ちょっと悔しいかな。白姫君、私の制服簡単に着ちゃうんだもの」
委員長がボクの腰の辺りをさすりながら言う。やってることがセクハラだ。
「あぅぅ〜……いいんちょ、手の動きがやらしいです……」
さっきからクラスメイトの玩具《おもちゃ》になっているボクは、まともな言葉すら発することができなくなっていた。ちなみに、廊下の外には興味本位で集まってきた他クラスの生徒達が山を作っている。
その山の中に、ルビーアイの双眸《そうぼう》も紛れ込んでいた。もう完全に隠れる気ゼロのモエルである。しかし猫が紛れ込んでいることに全く誰も気にした様子がないところを見ると、意識はやはりこちらに集中している、ということなのだろう。
あまりの恥ずかしさに、持っていた鞄で顔を隠す。
「うぉ〜〜〜おー!」
周囲が沸いた。
「口元を鞄で隠す仕草……照れ屋であるということを表すと同時に、守ってあげなくてはならないという華奢《きゃしゃ》な一面を垣間見せる、匠《たくみ》の技巧――! 恐ろしい子ッ!」
誰かが意味不明な解説を加えてきた。というかこの声はモエルだ。どさくさに紛れて、やりたい放題している。
(……あとで必ず仕留める)
決意を胸に、早くこの時間が終わることを望んだ。
「おい、お前らなにしてんだ! 教室戻れー! ホームルーム始まってるだろうが!」
少し遅れて来た男性教師が、生徒の山をかき分けて教室に入ってくる。その流れに従って、クラスメイトのみんなも各自の席へと着いた。
――ようやく、解放される……。心の底から安堵《あんど》した。
「……ん? 白姫、それ……」
担任が、ボクの格好を見て止まった。
「あ、や、すぐ、着替えてきます」
驚いて当然だろう。何しろ、自分のクラスに女装している生徒がいるのだ。これで驚かない人間はいない。
[#挿絵(img\xy_229.jpg)]
「…………」
動きを止めてしばらく、担任教師(今年で二十九、独身)は、視線をこちらからピクリとも逸らさなかった。
「……先、生?」
体育会系の男性教師。厳格であることで有名で、厳しいのは結婚を焦っているからだ、などと陰で言われているのを気に病んでいる。しかし、学校の規律を頑なに守ろうとする姿勢は、教師として恥じることのない、信念の表れだ。
嫌な予感がして呼びかけたが、反応がない。
たっぷり一分ほど停止して、担任はこほん、と咳払いをし、上気した表情で告げた。
「そのままでいいだろ。……というか、今日一日着替えるの禁止な」
クラスが、弾けた。
厳しいことで有名だった教師の、心の雪解け。
今初めて、このクラスは一つとなった。一体となった。一丸となった。
……ただ、一人を除いて。
がくりと膝《ひざ》を付き、ボクは――窓の外に見える空を、遠い目で見つめていた――。
――例えば、そう。
授業の最中に、一匹の虫が入り込んだとする。かわいこぶった女生徒が騒ぎ、混乱が生まれるだろう。
それだけで、授業は中断するだろう。
それだけで、退屈がなくなるだろう。
「あー、楽しかった……」
三年のとある教室。高校受験を控え、緊張感の漲《みなぎ》る教室の中。いくつも並ぶ机と椅子。それに座る生徒達。
しかし一つ、空席がある。
そこに座っていたはずの女生徒は昨日、教室で転んで足を怪我し、今日は自宅で休養、ということになっている。
その空席を眺めながら、笑いを噛みつぶすように、しかし体の揺れだけは隠しきれていない生徒がいた。
「最高だった……あの泣き顔」
ほくそ笑んでいる。昨日のできごとを、思い出しながら。
後ろに座っている生徒が、不気味に揺れ動く前座席の男を見て、首を傾げる。しかし、それを追求するような真似はしない。そこまでの、関係がない。関係しようとも思わない。目の前に座っている男は、そういう存在だった。
クラスの中に存在はしているが、クラスメイトの意識の中には、存在していない。特に仲の良い友入もいなければ、誰と仲が悪いわけでもない。
だからこそ、その生徒の呟きは、誰も聞いていなかった。その――。
「もっと面白いこと、起きねえかなあ……」
――とても些細《ささい》で、ゆえにタチの悪い、願望≠。
[#改ページ]
6.見えない空
確かにお前は、校内一の美少女に選ばれたんだよ。名誉なことじゃないか!
かわいいからだと思うよ。白姫《しらひめ》君が
ただの何気ない会話に紛れた、一言。
――割り切っていた。
自分は生まれたときからこの姿で、ずっと、このままなのだと……。
近寄りがたいモノ
小学生の頃、ボクはクラスメイトからそういう目で見られていた。この外見のお陰で男の友達はできず、女の子には一歩引いた目で見られる。子供の純粋な目から見れば、異質な存在でしかなかったのだろう。髪の色が普通とは違い、男女の区別すらもつかない、ボクなど。
明確な悪意をぶつけられたわけではない。それすらも、されない。
ずっと感じていた――違う世界に取り残されているような感覚。
この外見のせいで、決定的な何かがズレていた。
母の生き写しのような自分。それを恨んだことも正直、ある。
けれど、割り切って……生きてきた。
自分が嫌いなワケじゃない。この外見だって、女の子と間違われるのは嫌だけど、あの強さの溢《あふ》れている母にそっくりなのだ。
――ただ。
なんて思い通りにならないのだろう。
そう、思うだけだ。
いつだってこの世界は、ボクをただ呑《の》み込んで、揉《も》みくちゃにして、翻弄《ほんろう》するだけで。
もがいて、それでも流されてゆくことだけしかできなくて。
それは今も、続いていて。
時々、自分が分からなくなる。
ボクは、一体、何なのだろう?
頭の中で反響する問いは、重く、深く、暗闇の中へ沈んでいき――。
ゴトン。
確かな、音を、立てる。
止め損ねた目覚ましがベッドから落ちる音で、眠りから覚めた。
頭がスッキリしない。起きたばかりだから当然なのだが、それにしても重い。もしかしたら、嫌な夢でも見ていたのかもしれない。
今日は学校が休み。慌ただしかった昨日、一昨日のことを忘れ、思い切り休もうと心に決めていた。
とりあえず体を起こし、部屋のカーテンを開けてゆく。窓を開けて身を乗り出し、外を見ると、少し曇った空が見えた。雨が降りそうなほどではないが、もしかしたら近いうちに天気が崩れるかもしれない。
視線を下ろすと、家の玄関が見える。そこで――意外な人物が目に入った。
「……グレちゃん?」
「留真《るま》ですの!」
朝の挨拶《あいさつ》は、怒鳴り声から始まった。
「……ごほん。おはようございますの。……立派な家、ですのね」
薔薇の花があしらわれた茶色のブラウスに、同色のロングスカート。年齢不相応の落ち着きに満ちた出で立ちの彼女は、いきなり、家のことを褒《ほ》めてきた。傍目《はため》にも目立つ赤い髪は、後ろで一つにまとめている。ポニーテール、というやつだ。
「どうしたの? いきなり」
留真は何かを言いたげに、こちらをちらちらと見上げながら、胸の前で組んだ腕をせわしなく組み替えたりする。
「ええと……とりあえず、入る?」
なんとなく、誘ってみる。すると彼女は、
「……いいんですのっ?」
と、控えめだった態度を一変させて、喜びを顔に浮かべるのだった。
テーブルの上にモーニングコーヒーを置く。インスタントでなく、ちゃんと豆から挽《ひ》いたものである。
ウチにはミルやサイフォンといった本格的な道具がある。あの自制心がクッキーより脆《もろ》い母が、気分で買ってきて、使用法が分からずほったらかしにしたのだ。それではこの道具達にあんまりだと、ボクが使い方を憶えた、というわけである。
ちなみに、同じ境遇のかわいそうな道具達が、この家の中にはいくつも眠っている。
「砂糖は?」
「え? お砂糖!? いいんですの!?」
朝から素《す》っ頓狂《とんきょう》な会話である。自分がおかしなことを言っているのに気付いたのか、彼女は咳払いをして、
「ええと……じゃあとりあえず、お任せします」
粛々《しゅくしゅく》と、こちらに頭を下げる。
(……そんなにかしこまられても……)
砂糖を小さじで二杯、自分のカップには四杯入れる。
「ボク甘党なんですよね」
ティースプーンでかき混ぜて、行儀良く座っている留真にコーヒーを差し出す。
「……コーヒー」
何か得体の知れないものを見るかのような目をして、小声で呟《つぶや》く。
「どうぞ遠慮なく飲んでください。凝った入れ方は時間かかるんで、簡単に入れましたけど」
黒い液体をじっくりと凝視《ぎょうし》した後、留真はゆっくりと、慎重にコーヒーを口に含んだ。
「! これは!」
「どうです?」
目を見開き、赤髪の少女が語り始める。
「この、舌に触れた瞬間に走る濃厚なコク――脳に直接振動を与えるかのような、独特の渋み――たった一口でここまで胸が苦しくなるなんてっ――まさしくこれは――」
カップを右手に持ったまま、稲妻が駆《か》け抜けたような反応を見せる留真。
その口から、本心が語られる。
「――苦い……」
「…………」
無言でひょい、ひょい、と手早く砂糖を加え、かき混ぜる。
「ああ、そんな!?」
いちいちリアクションが大きい女の子である。
「どうぞ」
促すと、またも恐る恐る口にカップを付ける。今度は、喉《のど》を通しても冷静だった。
「ん。落ち着く、ですの……」
ほぅ、と息を吐く。どうやらお気に召したらしい。
「それにしても、よくボクの家が分かりましたね?」
自分の分を喉に通しながら、不思議に思っていたことを尋《たず》ねる。すると留真は、
「昨日の夜、大きな魔力の発生をこの辺りで感じましたから。その時ちょうど、こちらでも戦っていましたの」
なるほど。ボクの魔力を感じ取った、ということか。
「でも……昨日は誰と戦っていらしたんですの? 彼方《かなた》さんは随分と高速で移動してらしたのに、相手の魔力は感じませんでしたが」
「え? ああ、ちょっとお仕置――、魔法の練習ですよ。練習」
町中逃げ回るモエルを、本気で追い回してました。などと言えるはずもない。適当に当たり障りのないことを言って誤魔化す。留真は普通にそれを信じたのか、空になったコーヒーカップをテーブルに戻し、本題を切り出した。
「――最近何か、学校で変わったことはなかったですの?」
その真面目な口調からは、話の内容があまり愉快でないことが感じ取れる。
「ノイズのこと、か……そうだね、特に変わったことはない、と思うけど……」
おかしいと言えば、一昨日、鬼ごっこの最中の――。
「やけに弱いノイズならいたけど、やっぱり、そんなに気になるようなことはないね」
「……弱い、ノイズ……?」
留真が口の中で反芻《はんすう》する。
「もしかして、心配してくれたの?」
心配してわざわざここまで尋ねてきてくれたのだとしたら、感謝するべきだろう。しかし留真はその言葉に猛烈に反発し、
「ちっ、違いますの! ただ、ここ最近ノイズの発生率が増えてきているので、少し調査をしようと思っただけですの!」
驚くほど役目に熱心である。
「何も気になることがないのでしたら、これで失礼しますの!」
言葉の勢いに乗って、留真は立ち上がる。
チンッ。
「あ、パン焼けた」
香ばしい匂いが、キッチンから流れてくる。
ぐぅぅぅぅぅ。
お腹の音が、聞こえた。……自分のものではない。
「…………」
ふるふると、紅の少女は震えている。
「えっと……留真ちゃんの分も、ありますよ……?」
彼女は黙って、再び席に座るのだった。
――それから遠慮しながらも食パンを二枚平らげた留真は、家を出る間際に、真剣な口調で言った。
「最近、妙ですの」
「妙、って……何がです?」
玄関先、靴を履いた状態で留真はこちらを振り向く。厳しい表情。さっきまで食パンを丸かじりしていた平凡な少女とは違う。それは戦いの中に身を置く、戦士の顔。
「ノイズが、多すぎる」
「……多い……?」
「貴方《あなた》はまだ魔法少女に成り立てですし、実感は薄いかも知れませんが――。
とにかく、気を付けて。危ないと感じたらすぐに逃げることですの」
やはり、彼女なりに心配してくれているのだろう。それは素直に嬉しかった。
留真は最後に、最も強く、自分自身の確信を込めた言葉を口にする。
「生きることが――全てですから」
そう言い残し、彼女は帰っていった。
自分と留真の分の食器を軽く片付け、二階へと上がる。自室のベッドの上には、まだモエルがうなされながら眠っていた。
「ごめ、ごめんよぉ……かなたん……出来心《できごころ》だったんだ……あっ、やめ……それは違う……魔法はそんな風に使うものじゃな――」
昨夜行った一対一の狩猟≠ヘ、随分と心にダメージを与えたらしい。モエルは、ボクが部屋に入っても、起きる気配がない。
「そろそろ起きなよ」
体を揺すり、語りかける。するとモエルは、
「ねっ、猫にエビ反りはッ、猫にエビ反りは駄目だと何度言ったらっ!
……――ハッ!? かなたん!?」
カッ、と目を開いた瞬間、こちらを見て一目散に逃げた。
「やっと起きたか。もう朝ご飯作ってるよ。冷める前に食べるんだね」
「……タマネギ入ってない?」
部屋の隅で怯《おび》えながらそんなことを聞いてくる。そんなに昨日のお仕置きはきつかっただろうか。
「そりゃあもう。こなたんの血筋を感じたよ」
思い出して恐怖したのか、身を震わせながらモエルが何度も頷《うなず》きながら肯定した。
「思考を読むな。それとモエル。――ボクはあの人ほど酷《ひど》くない」
「――へくちっ」
世界で一番高い山の頂上で、一人の少女がクシャミをした。
その日の大枝《おおえだ》町はいつもと変わらぬ一日であった。
休みの学生達が街に溢れ、仕事のある大人達は汗を流し、それぞれが、それぞれの本分を、いつものように、いつもと変わらないように、過ごしていた。
刻み込まれた日常の流れは、そう簡単には変わらない。
ただ、一つ、例外があるとしたら――。
「はは……」
笑みがこぼれる。
「くく……はは……」
唇を噛み、押し殺したような笑い声を上げている少年。特に、何の外見的特徴も見受けられない、見た目だけで判断すると真面目そう≠ネどと、当たり障りのないことを言われて終わりそうな、ごく平凡な少年。
「……はァ……どうなンだろうなぁ……これ……」
そこは夕暮れの教室の中だった。休みの日であるがゆえに、学校には命の活気がない。そんな凍った場所に、少年はいた。傍目《はため》には痙攣《けいれん》しているようにしか見えない抱腹《ほうふく》を繰り返しながら。
ガサッ、ガサッ。
少年の手の中にある白いビニール袋が動いた。どこにでも、それこそ道端にも平気で落ちているような、ありふれたコンビニ袋だ。
少年は、袋の口を開き、教室の中にソレを放す。
――虫だった。
何の変哲《へんてつ》もない、人に危害を加えることもない、数匹の虫。嫌いな者が見れば少々嫌悪を催す外見をした、手の平半分ほどのサイズの、小さな昆虫。
「これでいいだろ……」
少年はしっかりと教室中の窓を点検し、どこにも隙間がないようにすると、きょろきょろと辺りを注意深く見回しながら、教室から出て行く。
「明日が楽しみだなァ……」
愉悦混じりの言葉の端に含まれていたのは、幼稚な、笑みだった。
少年が去っていったあとの教室には、数匹の虫が残される。
やがて……夕暮れが宵闇《よいやみ》へと変わる頃。
ザッ。
人のいない教室に、わずかな亀裂が奔《はし》った。ビデオのつなぎ目のような、白と黒の砂嵐によって表現される歪《ひず》みが、現実に、生まれ出る。
――ザッ――。
倭小《わいしょう》なノイズを響かせながら。
「――…?」
「どったの、かなたん。次、かなたんの番だよ」
夜の白姫家、私室でのこと。休みだというのに外に出歩くこともないまま、一日は終わりを迎えようとしている。
「ん? ああごめん、なんかちょっと……耳鳴りがしてね……」
パチン。歩兵を一歩前へ。
現在、ボクはモエルと将棋で対戦中だったりする。なぜこんなことをしているのかというと、これには深いワケがある。
今日の昼間。特にすることもなかったボクは、家の中にある玩具《おもちゃ》部屋≠ノ侵入を試みた。
二階の廊下奥にある小さな四畳ほどの部屋なのだが、この部屋は普段母が使っていて、そう滅多に入ることもない部屋なのだ。
部屋の中はまるっきりおもちゃ箱。しかも部屋という単位でひっくり返されているために、足の踏み場などない。転《こ》けたら間違いなく何かが刺さる。入手するだけ入手して使わなかったものや、どこから持ってきているのか分からない謎の道具を、母が適当に放り込んでいる、文字通りの玩具部屋≠ナある。
本当は片付けでもしてみようと思っていたのだが、確実に一日では終わらなさそうなので、目に付いた様々な卓上ゲームを持ち出し、しっかりと扉を閉めた。
それで……まあ、ゲームを持ち出したはいいものの、勝負するような相手といえば、この家の中には一匹しかいないわけで。
「――あっ! モエルそれちょっと待った!」
綺麗《きれい》に王将が囲まれている。どこに逃げても他の一手が首筋を狙《ねら》っている。完全な詰み≠フ状況である。
「待った、ねぇ。別に構わないけど、かなり戻さないと勝てないと思うよ」
モエルが肉球で駒を戻してゆく。棋譜《きふ》を完全に憶えているのか、その動きには迷いがない。
「なんかほとんど戻されてる気がするんだけど……もしかして、ボクは勝てない、って暗に言ってない? それは優しさかな? それとも同情かな?」
悔しさを堪《こら》えながらモエルに尋ねる。
「かなたん、今日一日で随分やさぐれたね」
「猫に全敗した気持ちを、上手く言葉にできないんだ……」
そう。今日一日、外に出なかった理由はそこにある。
勝てないのだ。オセロ、チェス、トランプ、将棋、野球盤なんてものもあった。
ありとあらゆるゲーム、その全てにボクは負け続けた。その戦績、軽く三十は超えただろうか。本当に、勝利数ゼロである。
「仕方がないよ。かなたんが弱いんじゃない」
モエルにとうとう慰められてしまった。ショックが数倍になって襲ってくる。
「それにしたって強すぎだよ、猫のくせに……」
モエルが特に強いのは、オセロや将棋と言った盤上ゲームだった。こちらが一分考えて打った手に対し、モエルは三秒も考えない。
「ん〜、猫のくせに、っていうのはあまり関係ないんだよ。結局、パターン化できるものだし、運の要素が絡むとしても、それなりにやりようは見つかるものさ」
「パターン化て……キミはコンピューターか」
いつもとは違う、理知的なモエルが恨めしかった。
「あはは……あながち、間違ってないかもね」
苦笑するモエル。
このまま負け続けというのも納得がいかない。ボクは、玩具部屋で見つけた最後のゲームを取り出す。
「モエル。これで最後だ……これでボクは、キミに勝つ!」
グリーンの平面なバトルフィールド。三四種類の長方形の牌《パイ》。
「――麻雀か」
金色の猫の瞳が、ギラリと輝いた。
「面子《メンツ》いないから、二人打ちだ。ルールは……分かる?」
何故ボクがこのゲームを最後まで出さなかったのか。それは、ボクの最も得意とするゲームが、この麻雀であるからだ。
かくいうこれも、我が家のわがまま姫様が放り投げた品物の一つ。「役憶えるの面倒〜」、などという世界の根本を覆すようなセリフを放ったのは、ボクがなんとか努力して、人に教えられるほどに上手くなった頃の話だった。それからしばらくして、ボクは一人麻雀なる遊びを確立させることになる。……全然、面白くなかったけど。
得意な物で挑むことを卑怯と言うことなかれ。これもまた、一つの勝負の世界という奴だ。
「もちろん分かるよ。おいらは一度もやったことないけどね。ところでねえかなたん?
麻雀ってさ、とっても面白いルールがあったよね?」
モエルが妙な猫撫で声で話しかけてくる。何かロクでもないことを企んでいる証拠だ。母といいモエルといい、どうしてこう露骨なのだろう。
「面白いルール?」
「うん。負けたら脱ぐの」
「……は?」
いきなり何を言い出すのか、この猫は。
「おいらの知ってる麻雀は、負けるごとに一枚服を脱ぐんだよ?」
「いや、意味が分からないし」
「おや? かなたん、最初から負ける気なの? こんな猫に?」
「っ!……いっ、いいよ、やってやろうじゃないか!」
負けた時のことなど、考える必要がない。モエルの知っているルールがそうであるというのなら、甘んじて受けてやろう。
「うん。じゃ、打とうか――」
――その時に、気付くべきだったのだ。
じゃ、打とうか≠サう言ったモエルの禍々《まがまが》しい、狂乱の笑みに、牌《パイ》を洗う手つきの、信じられないまでの素早さに。
ボクの体を見つめてくる、赤瞳の奥に渦巻くその情念に。
そしてなによりも……。
――猫には、脱ぐ物など一つもないということに。
一時間後。
「負けるつもりなんて、少しもなかったんじゃないかぁ……」
裸にバスタオル一枚という完全敗北を喫した姿で、白姫彼方はうなだれていた――。
翌日、午前八時四十分――。
「はぁっ、はぁっ……」
「おおい、彼方……カムバァァァック……」
今日も今日とて、いつも通りの登校風景。学校に通じる最後のストレート、周りには生徒が数えられるほどしかいない。それぞれが遅刻寸前だからか、息を切らせ、なおかつ走ることは止めずにいる。地面を擦《こす》るようにして走る丈《じょう》に構わず、ボクは一気に校門までの距離を駆け抜けてゆく。
友達甲斐がない、なんてのはひどく心外だ。こうも毎日毎日遅刻スレスレなのは、彼のせいなのだから。この男が登校中に人目も気にせずアニメの解説(演技込み)をしたりしなければ、こんな苦労はしないはずなのだ。……それでも学校に到着するのは五分前程度だが。
がむしゃらに走り、校門という名の境界線まで、あと数歩。
「よし、今日は間に合――」
しかし。
――キーンコーンカーンコーン。
鐘の音は無情だった。もしかしたら、ボクが校門の手前一メートルの距離まで近づくとセンサーか何かで音を鳴らすようにできているのではないだろうか。こうなってしまうと、このたった数メートル先にある学校が、完璧に隔絶された場所に見えてくる。
そんな被害妄想じみた現実逃避をしながら、今日の当番の姿を探す。
本来なら、チャイムの鳴る五分前には校門前に待ち伏せているはずなのだが……。
「いない……?」
正直に言うと、まず思い浮かんだのはラッキー≠ニいう単語。このまま何事もなかったかのように素通りして教室へと向かえば、誰一人として傷付くことはない。
「かなたんの誇りには傷が付くと思うよ」
良心という名の天使の声だろうか。とりあえず人をかなたん呼ばわりする天使を、遠心力の力を最大限に利用して黙らせる。
「……ひぃ、ふぅっ――どうしたんだ彼方? いきなりバッグ振り回したりして」
追いついてきた丈が、不思議そうな目でこちらを見ている。
「手軽な遠心力による加速度重力訓練です」
バッグの中では「きゅぅぅぅ」という間抜けな声が聞こえていたが、どうやらそれは丈の耳には届いていないらしい。意味の通りにくいボクの言葉には首を傾《かし》げるだけで、丈は周囲を見回した。
「当番は……いないのか。珍しいな。遅刻だけは厳しく取り締まる学校なのに」
「その言い方だと、遅刻以外どうでもいいみたいですね、ウチの学校」
しかしまあ、彼の言いたいことも分かる。
時間をないがしろにする奴は最低だ、とは校長の弁である。その方針もあってか、この学校は基本、時間厳守である。しかし中学生という時間にルーズなお年頃の子達には、それは一つの鎖でしかないわけで、引きちぎりたくなるのもまた道理。
「……自己正当化」
ボソリと、人の思考を読んだ天使の声。
回転していながらもツッコミを忘れない姿勢は認めようと思った。だからボクも呟いた。
「……天使なら飛べるよね……」
「えっ、ちょっ、かなたんそれどういう意味――」
鞄から手を放す。
「のぉぉぉぉぉーーーーーーーーー」
回転による遠心力がたっぷりとかかった鞄は、なかなかの飛距離を飛んでいった。
結局のところ、少し待ってみても当番は現れなかった。
このままホームルームの時間に遅れる方がマズイと思い、学校に入ったところで、ようやくボクは知ることになる。
「――虫?」
「ああ。三年の教室にばらまかれてたんだと」
職員室から出てきた丈が、遅刻を咎《とが》められることもなく、事情≠セけを聞いて戻ってきた。
当番がいなかったため、とりあえず職員室に寄ってから行こうという丈の提案。彼にしては真面目すぎるとは感じていたが、どうやら彼の情報に対する嗅覚というやつが働いていたらしい。
……ちなみにボクが職員室の前で待っていたのは、丈に先に行かせて教師の怒りを沈静化させようと思った、とかいう理由では決してない。
「……かませ犬」
「人聞きが悪いっ!」
人の考えを的確に読んでくれる天使様ことモエルは、もはや隠れるつもりなど毛ほどもないらしく、ボクにだけ聞こえる程度の声でツッコミを入れてくる。
「……? さっきから、バッグになんか入ってるのか?」
「いいえ何も。入ってたら振り回したりできませんよ、こんな風に」
「まあとにかくだな、最初に見つけた先輩が扉開けっ放しにしてたおかげで、虫たちは学校内に逃げちまった、ってさ」
ことの次第はこうである。
今朝の七時ちょっと過ぎ。三年の教室に一番乗りの生徒がやってくる。毎朝教室の花に水をやるため早めに登校してくるという彼女は、いつも通りに職員室から教室の鍵を手に取り、教室を開けた。
教室に入った彼女の耳にはまず、カサカサ、ワサワサ、という蠢動《しゅんどう》音が聞こえてきたそうな。
一抹《いちまつ》の恐怖を感じながらも彼女が教室に踏み入ると――。
「見たこともないような虫が大量に、ねぇ……」
想像しただけで恐ろしい。そんなに虫が好きでないボクとしては、その時の女生徒の気持ちは想像に難《かた》くない。
「それで、ばらまかれてた、って言うのは?」
丈は最初に、三年の教室にばらまかれてた、と言った。つまり、人為的な――犯人がいる、というニュアンスで。
丈は右手の親指と人差し指で前髪をひとつまみし、
「昨日は学校が休みで、校内には警備の人くらいしかいなかったわけだが……結果だけを言えば、昨日は何も起きていない」
くるくると、前髪を弄《いじ》る。彼の話すときの癖である。普段は前髪に隠れている細い双眸《そうぼう》が、ちらちらと垣間見える。
「何も起きていないんでしょう? だったらどうしてばらまかれた、なんて?」
ふと動きを止めた丈が、糸のように細い双眸を、薄く開いた。
「ああ、何も起きてはいない。
――一人の生徒が、忘れ物を取りに来た、ということを除けば」
それは……あまりにも分かりやすい状況ではないだろうか。
「……じゃあ、その生徒の仕業ってことじゃないですか?」
「ま、普通はそうなるわな」
丈は、言葉の中に別の可能性をちらつかせる。
「違う、と?」
「警備員の人|曰《いわ》く、その生徒が帰った後、ちゃんと全教室の点検はしたんだとさ。それで全部鍵もかかってて、異常もなかった。だからこそ、今日の朝まで何も起きなかった」
丁寧に要点のみを解説するその口調は、自分自身でも何らかの答えを導き出そうとしているような、それとも既に結論を持っているかのような、探偵の思慮を思わせる。
「……虫がいた位じゃ気付かない場合だってあるでしょう。警備員の人だって、そんなに目を皿にしてまで警備してるワケじゃないでしょうし」
「いいや、それはないな。何しろ」
前髪越しの薄い視線に射抜かれる。
「――百は、くだらないらしいからな」
「は?」
百はくだらない、という言葉が指しているのは何のことか。考えてみたが分からない、理解したくなかったのかもしれない。だからこそ、丈が口にした次の言葉で、心底震え上がることになる。
「件《くだん》の教室には、百を超える――いや数えたわけじゃないから曖昧《あいまい》なんだろうが……少なくとも、海≠ニ比喩できる程度の数はいたらしい。点検の時点で見つけられないわけはない。
想像を絶する光景だろうからな」
わさわさと動き回る虫の海。目《ま》の当たりにしたら卒倒ものだ。
丈は話しながら、廊下の壁により掛かる。
「第一発見者の先輩は可哀想だったな。その場で悲鳴を上げて卒倒、現在は保健室。話を聞くことはできたものの、小さな音に過剰反応しては怯えてるらしい」
「ボクだってそんなもの見ちゃったらトラウマものですよ」
一瞬でも想像してしまったものだから、十二分に精神にダメージを負ったが。
「とにかく、忘れ物を取りに来た生徒一人|云々《うんぬん》でどうこうなるような数でもなかった。それこそ一日で大量繁殖でもしたか……なんらかの超常現象でもない限りは」
「――超常現象……」
一つ呟き、その可能性を思い浮かべようとした瞬間、不意に背中が熱を帯びた。
「おはよ〜、白姫君」
ふんわりとした女性の声が、耳に吐息がかかるほどの近距離で聞こえた。次に、
「かぷ」
という口に出した効果音。
「……かぷ?」
右耳が生暖かい。まるで食べられているような――、
「って何するんですかいいんちょっ!?」
頭を振ってボクの耳を咥《くわ》えていた委員長を離そうとする。だが、体をだらんと預けきっているために振りほどくのが難しい。無理やり引きはがすと地面に落っこちそうだ。
なおも耳元で彼女は言葉を放つ。
「いつまでたっても教室に上がってこないクラスメイトが二人いたからね〜、仲良くお休みかと思って職員室にまで聞きに来たんだけど、そしたら当のお二人がのんびりと廊下で立ち話をしていたの。だから、食べてしまえと思ったの」
……かなり怒っている。口調にやる気が全く感じられず、抑揚が微塵《みじん》もない。
「あああゴメンナサイッ! 謝ります! 謝りますから耳を食べるのはやめて! ぅ……ん……力、入らな――」
立っていられず、膝《ひざ》が折れる。
「ほぅ、彼方は耳が弱い、と」
丈は興味深げにこちらを見ているだけで、公衆の面前で襲われている友人を助けようとか、そういった気概はまったく持っていないようだった。
「そこっ! 眺めてないで助けてよっ!」
「少女達の戯れに割って入るほど、無粋ではないつもりさ」
前髪をかき上げ、奥歯のきらめきを見せつける。
「ボクは男だっ!」
「白姫君の耳、おいひい――、ぴちゅ」
「んひゃああっ!? ちょっと、舌、入れないで――それ以上は、ほんとに……」
「おおお……朝からなんという桃源郷……!」
いつの間にかデジカメを構えている丈に――床に置いたままだったバッグの中で光る、一対のルビーアイ。
(モエルッ! なんとかして――)
わずかに開いたバッグの中からこちらを覗《のぞ》いていたモエルと目が合い、アイコンタクトで気持ちを伝える。長い付き合いだ、お互いの気持ちなんて目を見れば手に取るように分かるはず。
……いや、分かってくれ。
バッグの中のモエルは、瞳でこう語る。
『いいねかなたん、そのセクシーな表情もっとこっちに頂戴』
「どこのインチキカメラマンだお前はーッ!?」
アイコンタクトを忘れ腹から声を捻《ひね》り出す。
それからボクの絶叫を聞いた教師が職員室から飛び出してくるまで、この無意味な宴《うたげ》は繰り広げられたのだった――。
数分して、三人(と一匹)、仲良く教室へと続く廊下を歩く。
「……普通に怒られたじゃないですか」
職員室前であんな騒ぎをおこしていたのだから、当然の如く説教を喰らった。会議やら何やらでドタバタしているというのもあって、早々に切り上げられたが。
[#挿絵(img\xy_259.jpg)]
「俺はいいモン見れて幸せだぞ」
「ミルク味だったよ」
『萌えたよっ』
悪意の欠片《かけら》もない、二人と一匹。二階へと続く階段にさしかかり、
「もういいです。分かってましたから。どうせボクはおもちゃです。小さいし、女の子みたいだし。珍しい髪の色してるし。声も高いし、歩く音がかわいいとか言われるし――」
――じゃあもし、そうじゃなかったら?
ズクン。突然、体の奥から沸き上がる、小さな痛み。
――もしも君が、君の思うとおりの姿だったとしたら?
それは囁《ささや》き。痛みをもたらす、茨《いばら》の言葉。
――本当は、特別扱いされることに優越感を感じているんじゃない?
違う、ボクはもっと普通に……
――普通に、平凡に、退屈に。どれも君は望んでいないじゃないか。実は、普通だったら誰も自分には構ってくれないんじゃないかと、恐れているだろう? 魔法少女をやっていることがだんだんと楽しくなってきただろう? いつも面倒を起こす母がいなくなってから、物足りなく思っていただろう?
……ちがう
――違わないよ。――ザザ――君は、何も分かっていないんだね。自分のことなのにね。それとも、分かりたくないのかな――ザザ――自分のことを。自分自身のホントの願いを。
だんだんと足が重くなってきて、その場に座り込む。
――君はなぁに? どうありたい?
すべては自分の中にある迷い。それらが、抑えようとしても心の奥底から溢れ出る。
「ボクは……」
――言ってごらん。ボクの願いを。
ザ――――――――――――――。
「きゃっ!」
深い場所へと思考が沈みかけたところで、誰かの悲鳴を聞いた。その声は近くにいた委員長のもので、立ち上がり振り向いてすぐ目に入ったのは、彼女の驚いた表情だった。
委員長の驚いた表情などなかなか見られるものではない。そのまま見ていたいような気もしたが、そんなのんびりとしていられる事態ではなかった。
彼女の眼鏡越しにある双眸《そうぼう》の先、踊り場の壁にくっついていたのは、
「!? ノッ――」
イズ、と叫びかけて慌てて口を塞ぐ。丈は落ち着いたもので、
「これが例の逃げたって奴か。カミキリムシか? にしちゃバカみたいにでかいな」
という分析をしていた。
確かにその虫は、一般的にカミキリムシと呼ばれる虫と同じ造形をしている。二本の長い触覚に、漆黒の胴体から生える数本の足。手の平大という大きさを除けば、目にしたことのある生き物である。
(……? ノイズ、じゃないのか……?)
そういえば、いつもノイズが出てくるときに聞こえる砂嵐のような騒音は聞こえなかった。
もしかしたらこれはただの大きいだけの虫なのかもしれない。
「キィッ!」
カミキリムシが声を上げ突然飛び跳ねた。傍にいた委員長に向かって。
「――っ!」
いきなりの跳躍に委員長は――目を瞑《つむ》ったままで鞄を振った。
猛烈な勢いで空を切る鞄。空中を移動していた虫を薙《な》ぎ払うように、委員長は両腕を振り抜く。
ベシンッ!
鞄が踊り場の壁に衝突した。その時、淡い光の粒子が舞い散る。
(あれは……!)
静かになった場を、丈の呟きが壊した。
「委員長、それ、俺の鞄……」
確かに、彼女は自分の鞄を床に置いていた。ということはつまり、委員長がたった今振り抜き、虫を押し潰《つぶ》したと思われる鞄は、丈の物だということになる。
「! あっ、あれ? ごめんね、明日野《あすの》君っ」
慌てて鞄を差し出す委員長は、恥ずかしいのか、顔を隠すように下を向いた。
「い、いや、別に良いんだけど……」
あからさまに苦笑いしながら、自分の鞄を受け取り、恐る恐る、壁にぶつかった面を覗く。
「……? いない? うまく逃げたみたいだな」
ほっ、と安心してみせる丈。
「ほんとにごめんね、取り乱しちゃって……」
「いや、構わないさ。デジカメは手に持ってたし。特に大事な物なんて入ってないからさ」
「…………」
委員長と丈がそんな話をしている間、ボクはさっき見た光を思い出していた。
――粉のような、光の粒。見間違えるはずもない、ノイズの消滅光。だとすると……最悪な想像が思い浮かぶ。今の虫がノイズだとすると、今朝、大量に発見された虫の群というのは、全て――。
そしてそう考えると、辻褄《つじつま》が合ってしまう。
警備員が点検したときに見つからなかったというのも、それが発生した時間がもっと遅くだったから、という単純な理由。だが腑に落ちないのは、ボクが発生に気付かなかったということである。ノイズが発生するときは、耳障りな騒音を感じるものなのだが……。
「でも、随分と職員会議、長引いてるみたいだな」
「校内に虫が沢山《たくさん》、なんて先生方も初体験でしょう。このままだと、虫が嫌いな生徒達は間違いなく、怯えながら授業を受ける羽目になるだろうね」
「このまんま今日は解散になればいいのにな。そう思わないか? 彼方」
「不謹慎。明日野君」
ザ。
「!?」
ノイズ。
一瞬だったが確かに騒音を聞いた。ハッキリとした感覚ではなく、遠くから聞こえてくるような、気を付けていなければただの耳鳴りと勘違いしてしまいそうな――。
(耳鳴り……!)
「――た? おい、彼方?」
「白姫君?」
床に置いている自分の鞄。中にいるモエルと、目線を合わせる。一連のやりとりを見て、モエルも理解しているようだ。こちらを見て頷く。
戦わなくてはならない。ノイズの出現とはつまりそういうことだ。またあの女の子の衣装に身を包んで、危険な相手に立ち向かわなくてはならない。
――そんなこと、望んではいないのに。
「…………」
思考が再び、重くなる。
『……かなたん?』
「なんでもない……、です。教室、行きましょう」
その瞬間にも――それは、既に始まっていた。
午前、九時二十分。
職員会議が長引き、一時限目の時間にまで食い込んでいた。とりあえず自習を、という各クラス代表からの指示、それによって生徒達は普段とは違う時間の流れを楽しんでいた。
「誰かがすっげぇ数の虫をばらまいたんだってよ」
「気持ちわる〜」
「この教室なんでしょ?」
「らしいな、でももうどっか逃げたらしいぜ?」
学校の四階、三学年のクラス。
「でもよ、それでセンセー達来れねえんだろ? ちょっと得した気分じゃね?」
「あ〜、ワカる! 一時間目ってだりィよな」
自習、と言われて大人しく勉強をするような生徒はいない。ましてや、学校で奇妙な事件が起きているのだ。高校受験直前の三年生達も、浮き足立っていた。
非日常。
普段から同じ生活のサイクルを繰り返す生徒達には、その最たる学校≠ニいう環境での異常事態こそ、最も大きな非日常であった。
「くくっ……」
喧噪《けんそう》と色めき立った雰囲気の中で、一人、密《ひそ》かな笑い声を漏らす生徒がいた。
その生徒の周りには一人も生徒がいない。なりふり構わずに学年トップの学力を手に入れ、同時に孤独をも手に入れてしまった少年。
少年の口だけが動き、何らかの言葉を表す。
『オ、レ、ガ、ヤ、ッ、タ、ン、ダ、ヨ』
昨夕、忘れ物を取りに来た生徒、警備員の印象にも残らない、存在感の希薄な、特徴のない、真面目そうな、ただの少年。
――この教室に虫を撒《ま》いた張本人。
彼は机の上に広げた教科書に目を通す振りをして、幼稚な笑みを唇に浮かべている。
そして、自分が引き起こしたこの非日常に、喜びを感じていた。陶酔し、心の中で自分を褒《ほ》め称《たた》えた。
彼の望みは、叶っていた。しかし同時に、この少年は気付いていなかった。
決定的な食い違い≠ノ。
「くくく……」
彼はたった数匹、指で数えられる程度の虫をばらまいただけ。その数も、気付かれなかったらそのまま素通りしてしまうほどの、些細《ささい》なもの。自分がやったことのスケールと、現実に起こっている騒ぎのスケールが、釣り合っていない。
どこかで、何かが、決定的にズレたことに、少年は気付かない。
もちろん、今、この場所に迫りつつある存在にも。
――蠢《うごめ》く黒い影が、窓の外一面を、覆った。
教室の中が暗く染まる。影が差した、などというものではない。何かに、光を遮断されたのだ。それは蛍光灯の光すら心許《こころもと》なくさせる、本当の黒。情景だけでなく、心にまでも踏み込んでくる、黒色。
「え?」
歪《ゆが》んだ望みを叶えた少年は、ただだらしなく口を開き、その光景を見ていた。
三人で教室に入ると、やはりクラスの中は無法状態であった。大方、どこのクラスも同じようなものだろう。
「まったく、落ち着きのないもんだな、ウチの連中も」
呆れたように呟く丈だが、落ち着きのないメンバー筆頭が自分であることを自覚しているのかいないのか。
「もう、自習してなさいって言ったのに」
期待などしていなかったのだろう。委員長は軽く溜息を吐くだけで、皆をたしなめるようなことはしなかった。
クラスの中を飛び交う会話は、やはり学校内で起きた嫌がらせ≠フ議論に尽きる。どれもが思いつきだけの荒唐無稽な推測ではあるが、真実はそういった推測の延長上にある。
「ま、俺らも適当に時間潰して――彼方?」
騒々しい教室内を、ボクはただ黙って見つめていた。
今、この学校の中にはノイズがいる、それを倒すという役割を持っているのは、チューナー、魔法少女である、ボクだ。
「……。少し気分が悪いので……保健室、行ってきます」
「大丈夫か? 確かに、顔色が悪いが――」
気分が悪いというのは嘘だ。ただ、ここを出る口実が作りたかっただけである。でも確かに、いつもよりは調子が悪いかもしれない。
「白姫君、保健室まで付いて行ってあげようか?」
不安そうな表情でこちらを見ている委員長。どうやら、ボクは今自分が思っている以上に酷い表情をしているらしい。
「いえ、大丈夫です。どうせ自習ですし、少し休んですぐに戻ります」
そう告げると、目に止まらないようにモエルの入ったバッグだけ持って、教室を出た。
ざわついた雰囲気の廊下。学校全体が騒々しく、この雰囲気自体がノイズのように感じる。
(静かな場所に行きたい……)
――足は無意識に、屋上を目指していた。
いつもの場所から見る空は、翳《かげ》っている。
朝だというのに暗雲が立ちこめ、時間の感覚を曖昧にさせる。朝見た天気予報では快晴だと言っていたのだが。たった数十分で、天気は様変わりしていた。
「――かなたん、どうしたんだい? ホントに具合悪いの……?」
バッグの中からモエルが出てくる。ボクを見上げる視線は、不安に満ちていた。
「大丈夫。どっこも悪くないよ」
口の形だけを変えて笑ってみせると、モエルはいくらか不安を和らげたようだった。
「さ、変身してさっさと片付けようか」
意識を集中し、右手を空にかざす。
もはや意識せずとも口にできる、力在る言葉を唱える。
「遍《あまね》く空の果てへ」
言葉に呼応し、空から――。
「――…?」
モエルが首を傾げる。
「――遍く、空の、果てへ!」
もう一度、今度はもっと強く叫ぶ。
しかし……。
いつものように空から蒼《あお》い柱が突き立つどころか、空に集う雲は増すばかりで、何の変化も訪れない。
「……かなたん」
「なんで……? 遍く――」
「かなたんっ!」
もう一度試そうとしたところで、モエルに止められる。
「無理だよ。オリジンキーは自分自身。そして、使用者のもっとも心通わせやすい形をとる。……前にそう、教えたよね」
空にかざした手を、静かに下ろす。
「それが呼びかけに答えない。どういうことだか分かるかい?」
分からないなんて言えるはずがない。ボクの心は、理解している。
「相互理解。オリジンキーと使用者の間に、なくてはならないものだよ」
モエルの視線は、真っ直《す》ぐこちらを向いているだろう。でも、今のボクには、それを見つめ返す勇気がない。
「裏を返せばそれはつまり、自分自身を知るということ」
声のトーンが、少し下がった。
「自分を信じ、理解できる者の前にのみ、オリジンキーはその姿を現す」
金色の猫は、確信を口にする。
「キミは、迷ってる。答えてくれるはずがない」
そう、優しく諭《さと》すような口調で告げた。顔を上げると、どこか、哀しそうな目をしたモエルが目に入った。
「でも、戦えるのはボクしか――ッ」
「確かにそうさ、だけど今のキミじゃ戦えない」
切り捨てるようにハッキリと言う。
「――自分を見失ってる今のキミじゃ、戦わせることなんてできない」
ブゥゥゥゥゥッ!
異様な音が聞こえたのは、それからすぐのことだった。例えるなら、プロペラが高速回転している音を、耳のすぐ横で聞かされたような。
「!?」
「来たか……っ」
モエルの鋭い声。屋上の向こうから、黒い何かが沸き上がってくる。
――虫。
羽を生やした黒虫の大群が、学校の下から飛び上がってきた。その数は確かに数百を超えているだろう。羽鳴りの音が重なり合って、酷く不快な騒音と化している。
さっき委員長が潰した虫とは形状が違っている。どちらかというと、いま目の前を覆いつくしているこの虫は、蜂に近い形をしている。一匹一匹が大きめの虫は、その楕円に膨れた下半身に、鋭利な棘《とげ》を持っている。
「かなたんは学校の中に!」
モエルの緊迫した指示に、しかしボクは、即座に動くことができなかった。
「どうする気っ!?」
「この虫くらいならおいらだけでもなんとかなるっ! かなたんは――」
空中に浮かんでいた虫の一匹が、こちらの持つ敵意を察知したのか、弾丸のように直線に飛んできた。狙いは……ボクだ。
――避けなくては。しかし、変身していない状態では体の動きが鈍かった。
黒い棘の一差しが、瞬《またた》く間に迫ってくる。
当たる直前、視界を横切る影。
モエルだった。飛来した蜂を途中で捕らえ、床に押し付ける。
「早く教室に戻って! こいつらを校内に入れないようにするんだ!」
叱責に近いモエルの大声に、慌てて屋上の扉に手を掛ける。
そこで躊躇《ためら》い、振り向こうとして――、
「――大丈夫だから」
優しい声に後押しされて、振り向かずにそのまま、校内へと戻る。
バタンッ!
一枚の扉で、二人は分かたれた。
屋上に残ったモエルは、屋上の中央を陣取り、両手の先に力を込め、爪の感覚を確かめるように床に擦り合わす。
大きな赤瞳の先に、虫型ノイズの群。
「さあて……いつもは役に立たないと思われてるおいらだ。こういう時に活躍しないとね」
ブゥンッ!
ノイズが二匹、標的へと一直線に降り注ぐ。棘を尖塔《せんとう》のように突き出し、一撃を当てるために虫型ノイズは突進を仕掛けてくる。
モエルは四肢で床を踏みしめると、体全身を使って跳んだ。
「うにゃっ、と」
空中で小柄《こがら》な体をひるがえす。その脇を、棘を持つノイズが通り抜ける。思い切り体を反らし、二匹目もかわす。瞬時に、反らす体の勢いを利用して両手を振った。
ズシュッ――二匹のノイズが空中で両断され、虚空へと消える。
再び四肢を床に付いたモエルは、ノイズを切り裂いた爪で露払いの動作をし、
「おいらのスピード……舐《な》めないことだね」
赤い視線で宣戦布告をした。
空中に浮かぶ棘が、一斉にモエルの方へ向けられる。
モエルは、全方向から来る敵意を前にして、考えていた。
(……これだけの数のノイズが同時に? 有り得ない。どうなってるんだこの町は……)
斜め後方、気配が動く。モエルはその動きを音で感じた。すぐさまその場で反転、迫る敵をかわし、迎え撃つ。
若干の時間差をもって、次のノイズが動いた。そして、本格的な敵の猛襲《もうしゅう》が始まる。
一斉に襲うわけではない。ノイズに意思は存在せず、ゆえに統率はない。次々と、タイミングを計るのではなく、バラバラに標的へ突進を仕掛けるのみ。
運続した刺突をモエルは的確にかわしてゆく。余裕があれば敵の数を減らすことも忘れない。
猫の柔軟な体を活かした戦い振りだが、それ以上に、その動きには経験から来る自信があった。
(かなたんは……大丈夫だろうか――)
両爪を一匹のノイズに叩きつけ、貫いたまま次の敵へとぶつける。
空を覆う虫の数は――いまだ、減らない。
扉を閉めた後に、心の中にあるのは後悔だった。
モエルを残し、安全な場所へと逃げてしまった自分への――。
(でも今は、ノイズが入ってこないようにしないと!)
階段を駆け下り、三年生の廊下に出てまず目に入ったのは、尻餅《しりもち》を付いている男子生徒の姿だった。手で右の足首を押さえているようだが、視線は真っ直ぐに、何かを見ている。
「大丈夫ですかっ!?」
駆け寄って声を掛けると、驚きの表情を浮かべていた生徒はすぐにその表情を恐怖に変え、前方を指差した。
「あっ、ああ、あれっ!」
指の先には、床を這《は》っている一匹のノイズがいた。手の平ほどもある、甲虫型のノイズ。鬼ごっこをしたときに倒した奴と同じ奴だ。ところが、その様子がどうもおかしい。前の時はほとんど抵抗もなく、大きさ以外はただの虫と変わりなかったというのに、今はカサカサと廊下を縦横無尽に駆け回っている。
「……!」
見ると、男子生徒の押さえている足首から血が流れ出ていた。致命的ではないが、楽観できるほどのものでもない。
「い、いきなり迫ってきたから、潰そうとしたら……噛みついてきて……」
声が震えている。自分でも、何がどうなっているのか分からないのだろう。
「こいつらなんなんだよ、気持ち悪ィ……っ、おい!」
怯えた目が、大きく見開かれた。
同時に感じた嫌な予感に従うまま、座り込んだ生徒を掴《つか》んで強引に退く。
興奮状態だった虫が背中の羽を展開し、こちらに襲いかかってきたのだ。回避後、ソイツが床に着地するのを見計らい、靴底で踏み抜く。生物としての構造がないらしいノイズは、光となって消滅した。
(襲ってくる……! でも、これくらいなら……!)
変身せずとも倒すことができる。だが、もしも――強い奴がいたら。これまで戦ってきたような、人の力で太刀打ちできないような奴が出てきたら。
モエルはいない。ボクは変身できない。
『キャアアアアッ!』
悲鳴。それも複数。声の発生源は同じフロア――廊下の先に目をやると、二つ先の教室から黒い点が大量に吹き出していた。
全てノイズであることは、見ただけで分かった。その教室から、何人もの生徒が転がり出てくる。
並んだ教室の中から一斉に生徒が顔を出し、そして、誰もがその目を見張り、動きを止め、信じられない光景に目を見開いた。
かくいうボクも、その量には動きを止めるしかない。
百を超えるノイズが、ダムが決壊したような勢いで飛び出してくる。
各クラスから顔を出した生徒達は、それを呆然《ぼうぜん》と眺めている。
「……! 全員っ、教室に戻って全ての鍵を閉めろッ!」
咄嗟《とっさ》に大声で叫ぶ。
それが聞こえたのか、それとも自分で判断したのかは分からない。だが、廊下に出ていた生徒、出ようとしていた生徒達は慌ただしく教室へと流れ込み、それぞれのクラスの扉を閉めてゆく。奇跡的に、混乱して逃げまどう生徒はいなかった。
ノイズ達は、教室の扉が閉められると興味をなくしたように他の場所へと向かう。幸いにも、扉を破壊してまで入ろうとはしなかった。
「あなたも早くっ!」
後ろでいまだに尻餅を付いている生徒を担ぎ、最寄りの教室へと向かう。
「怪我をしてるから、応急処置お願いします!」
あ然とした表情の三年生に、怪我をしている生徒を預ける。
「おい、お前確か一年の白姫だろ――お前はどうするんだ?」
教室から出ようとした時、負傷した生徒が聞いてきた。
「下の階を見てきます。いいですか、絶対に教室から出たりしないでくださいよっ!」
引き留めようとする声を無視して、扉を閉める。
そして、ボクは――。
大量のノイズを前にして、迷っていた。
足を前に踏み出すのか、それとも、後ろ――階下へと、退くのか。
(ノイズの発生源は恐らく、あの教室……中にはもう、誰もいないだろうか……)
いまだにノイズがあふれ出す教室。生身でどうにかできる数ではない。
「っく!」
身をひるがえし、階段の方へ。
(……今行ってもどうしようもない! とにかく、学校内にいる全員の安全確保が先だ。後のことは、後で考える!)
「大量の虫が来ます――絶対に教室から出ないで下さいっ! 鍵を閉めて、とにかく大人しくしてて下さいっ」
下の階、二年の各クラスへ順番に、声を掛けてゆく。
自分がどんな表情をしているのかは分からない。ただ、反論させないために一気にまくし立てているのが効いているのか、上級生達は何も言わずに教室へと戻り、言われたとおりに鍵を閉めてくれる。緊張感のない顔で出てきた生徒が、戻るときには怯えた表情になっているのが若干気にはなるが。
「――よし、これで三階は終わり……」
続けて二階へと向かおうとした、その時。
かすかな地響きが聞こえてきた。そういえば、教室の窓がカタカタと細かい音を立てている。
空気も震えているような気がする。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!
不快な騒音。上の階に溢れていた虫たちが、下の階へと大挙してきたのだ。見ればちょうど、近くにある階段に、黒い斑点が降りてきたところだった。その光景はまさしく、黒い雪崩《なだれ》。
ノイズの群は、まだ無事な三階の廊下を見るやいなや動きを揃え、こちらへとなだれ込んでくる。
――つまり、ボクの方へ。
「いっ」
なりふり構わず、
「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっ!」
全速力でダッシュ。反対側へと走りだす。
そのあとを黒く蹂躙《じゅうりん》してゆく虫たち。
限界を超えて走る。とにかく早く、廊下を端から端まで。いつもは気にしたことなんてないのに、廊下というのはこんなにも長かったのか、と今さらになって痛感した。とにかく、足を回転させるように走り――階段のフロアにさしかかったところで、無理やり横に跳ぶ。すぐ後を、黒い雪崩が通り過ぎる。
着地のことを考えていなかったため、そのまま階段を転げ落ち、踊り場で止まる。
「――ッ」
耳に入ってくる音が、途切れた。ピィィィィィンという電子音に似た耳鳴りが頭の中を埋め尽くし、意識まで持っていこうとする。
しかし。
(まだ、だ……!)
やるべきことが残っている。モエルに託された役目が。
壁に手をつきながら立ち上がると、いくらか意識がハッキリとしてきた。体のどこかが痛みを訴えていたが、動く分には支障はない。
虫たちは恐らく、三階を掌握してから降りてくるのだろう。上から順々に制圧してゆくつもりのようだ。
ゆっくりと下の階へと降り、さっきと同じ要領で声を掛けていき、生徒達を教室に閉じこめてゆく。何度か心配される場面もあったが、ごまかして逃げた。
自分の教室は残して、一階へ、教員が会議をしているのにも構わずに職員室へと押し入り、とにかく全ての扉を閉める。
戸締まりをしている最中、教師が何かを言おうとしてきたが、
「今、忙しいんだっ!」
と相手も見ずに恫喝《どうかつ》。室内から出るなと半ば脅しのように警告し、あ然としている教師達をざっと眺め、教師が全員ここに集まっていることを確認し、出て行く。
そして二階へと戻る。最後に向かうのは、自分の教室。
(やれることは……やった)
扉に手を掛け、躊躇う。
――もしも君が、君の思うとおりの姿だったとしたら? 普通だったら、自分には誰も構ってくれないんじゃないか?
考えないようにしていた言葉が、意思とは別に語りかけてくる。
三階の制圧を終えて降りてきたノイズの羽音を聞いても、その扉を開けることができない。たった一歩分の境界を、超えることができない。
「ボクは――なんなんだ?」
ノイズが、迫る。
ガララッ!
「!?」
いきなり腕が引っ張られたかと思うと、ボクの体は、どうしても歩み出せなかった一歩を超えた。
「なにやってるんだ! 彼方!?」
教室の中にボクを引き込んだ丈はすぐさま扉を閉め、内側から錠を掛け、虫の進入を止める。
力なくへたり込んだボクを見下ろす丈。
「大丈夫か? なんかあったのか? 学生服、ボロボロだぞ」
いつも通りの友人の姿。
「白姫君。これ、水なんだけど」
丈の後ろから委員長が現れ、しゃがみ込んで透明なペットボトルを差し出してくる。
「……どうも」
緩慢な動きで委員長の手からペットボトルを受け取り、キャップを開け、口を付けた。
自分が思っていた以上に体は水分を求めていたようだ。ペットボトルの中の水はあっという間に空になり、喉《のど》を通って行く冷たい感触だけが残る。水分が体の芯まで浸透してゆく感覚が、手に取るように感じられた。と共に、忘れようとしていた痛みが、返ってくる。
「っ……、おいし」
短く感想を呟くと委員長は、
「うん。良かった」
と、ふわりとした笑みを浮かべた。
周りを見ると、クラスの面々がこちらを見て、状況を見守っている。
丈も、委員長も、ボクから目を逸らさない。心配……というよりも、ボクの言葉を待っているようだった。だからボクは最初に、
「ごめんなさい」
そう、謝った。
「? なっ、なんで謝るんだ?」
丈が慌てたように聞いてくる。
「白姫君?」
委員長が、ボクの顔を覗き込んでくる。その視線から目を逸らし、
「……何でも、ないです。でも――ごめんなさい」
謝ることしかできなかった。
誰に謝っているのか、分からない。
誰にでも構わないのかもしれない。
「そんな、いきなり謝られてもな……どうしたんだ? らしくない」
丈が困った顔をして前髪を弄りながら、聞いてくる。
(……らしくない、か)
顔を上げて真っ直ぐに友人の目を見据え、尋ねる。
「丈君はもし、ボクが普通だったら……どうしてましたか?」
「普通だったら? なんだそれ」
「ボクが普通の黒髪で、身長も高くて、もっと男らしい、平凡な一人の人間だったら」
我ながら滅茶苦茶なことを聞いている。けど、聞きたい。
「前提がよく分からんのだが……多分、友達になってないんじゃないか?」
(……やっぱり、ね)
丈とは元々、ボクの外見がきっかけで知り合ったのだ。そうでなければ、こんな風には――。
「だってよ、それ、彼方じゃないだろ」
「……?」
「俺の知ってるお前は、銀髪で長髪、ちっこくて女っぽい――けど、お人好しで、負けん気が強くて、意外とがさつで、滅茶苦茶なイベントも本気でやってくれる。
流されやすいくせに、絶対に逃げたりはしない。そういう、白姫彼方だよ。お前の言う平凡がどんなものかは分からないが、少なくとも、お前がお前でなくなるってんなら、関係も今とは違うだろうさ」
すらすらと、少しの淀みもなく、丈は語る。最後に彼は前髪から手を離すと、
「なんて、達観しすぎか」
少し、照れ笑いをした。
「…………」
そんな彼の顔を直視することができないでいると、今度は委員長が、
「白姫君が変わっちゃったら、寂しいよ。白姫君純粋だから。抱きついただけであんなに顔真っ赤にしちゃう子、いないもん。悪戯《いたずら》できる人がいなくなっちゃう」
「結局、悪戯したいだけじゃないですか」
「違うよ」
ふてくされたボクの言葉を、彼女は微笑《ほほえ》みを浮かべ否定した。
「白姫君は大事な人だよ。……とっても、ね」
正面切って言われると誤解を招きそうな言葉を、恥ずかしげもなく言ってくる。
二人の言葉に嘘なんてないことは、分かっていた。
だからこそ、心の奥底に渦巻いていた雑音≠掻き消して、ボクの心の奥底にまで、届いたのだろう。
気が付けば、ずっと遠くから響き続けていたノイズが――消えていた。
(……ああ、そうか)
一体ボクは、何を考えていたんだ。
「まったく、アナタ達は……」
呆れて、言葉も出ない。右手で顔を隠す。
「彼方?」
「白姫君?」
「フゥッ!」
腹に溜めた息を一気に吐き出し、勢いよく立ち上がる。目の前にいた二人は、驚いて後ろに仰《の》け反《ぞ》った。
今度はこちらが見下ろす形となり、正座して後ろに手を突いた二人に告げる。
「丈君。ボクは滅茶苦茶なイベントとやらを好きでやったわけじゃないんですけど。
あと、いいんちょ。もう少し、ボクを男として見てくれたら助かります」
言われた二人はきょとん、としていたが、すぐに笑って、
「おう」「うん」
と頷いた。
ボクは二人に背を向け、せっかく鍵を掛けた扉を、再び開く。
「またどっか行くのか? 外、危ないぞ」
という丈の心配混じりの質問に、
「面倒な仕事を忘れてました。
どうやらボクの仕事らしいので――さっさと、片付けてきます」
振り向かずに、答える。
「そっか……。行ってこい。気を付けてな」
「お仕事頑張ってね、白姫君」
何も聞かずに二人は、出て行くボクを見送ってくれる。
――ありがとう。
教室を出てから、小さく呟いた。
「っ、にゃあ!」
二匹のノイズが同時に消える。
だが、死角から迫っていたノイズが、モエルの前足をかすめていった、
「痛ッ!」
傷が徐々に増えてきた。
少し前から回避が紙一重になってきて、今はもう、かわすよりも迎え撃つことの方が多くなってきている。
(……ちっとも減ってる気がしない……マズイかも、ね)
痛みに顔を歪め、そんなことを思うモエル。底なしに降り注ぐ虫の弾丸を避け続け、疲労も限界に達しつつあった。
前方にいた数匹のノイズが、同時に動いた。
「くそぉっ!」
一匹目をサイドステップでかわし、二匹目を跳ぶことでやりすごす。が、二匹目の影になっていた三匹目に気付けなかった。
「っ!」
空中で無防備になっているため、避けることができない。生身の猫の体に、巨大化している蜂型ノイズの棘が突き刺さる。
痛みは、想像を遙かに超えていた。体中に走る裂傷の非ではない。右肩に突き刺さった棘が、体中を焼き焦がすほどの痛みを与えてくる。
「うアァッ!」
体を振り乱し、モエルは肩に刺さったノイズを払いのけた。
自分の仕事をやり遂げたノイズはすぐに消滅した。だがモエルの体には、耐えがたい痛みが残る。
金色の体毛を伝い、ルビー色の瞳よりも赤く濃い液体が、屋上の床を濡らす。
動きが鈍くなった標的へと、無数のノイズ達は狙いを定めた。
「ちぃっ……!?」
すぐにでもその場から離れようとするが、頭で命令しても、体は動かない。
表情が悲痛に歪む。
機械的に、無数のノイズが飛び出した。今までと何も変わらない動きで、モエルの頑張りを全て否定するように。
「……かなたん、ごめん」
かわせないことを悟ったモエルは、小さな声で呟いた。
――だが、その時。
何かが風を切り裂き、モエルの目の前でノイズが散る。
横から振り下ろされたその棒は、長尺の杖《つえ》。それは、幾度となく目にしてきた彼方のオリジンキー、オーヴァゼア。
「かなたん!?」
大きな喜びと共に、モエルは自らに差した影を仰ぎ見る。背の低い影は、手に持った杖を空に向かって振り上げている。
「!?」
大きな喜びが、驚愕へと変わった。
――杖が、振り下ろされる。
[#挿絵(img\xy_291.jpg)]
四階に辿《たど》り着く。虫の密度が最も濃い階層。そして、発生源である教室もここにある。
ダムの決壊のようなノイズの発生はもう止まり、廊下中をうじゃうじゃと虫がうろついている。途中の虫は全て無視し。迷わずに発生源である教室へと向かい、その中へと足を踏み入れる。
教室の内部に、人は誰もいない。
ただ、がらんとした教室の隅に――、
「!」
黒い、塊《かたまり》があった。
床から伸びる巨大な黒い塊。教室の床と天井を繋《つな》ぐほどの大きさを持っている。
「これが、原因……?」
確証はなかったが、それ以外に怪しい物は見あたらない。
警戒しながら近づいて行くと――、
ブゥンッ!
「っ!」
一匹の虫が、目の前をかすめた。どうやら、その塊に近づいたから、襲ってきたようだ。
「どうやら、間違いないみたいだな……」
不気味なその塊をしっかりと見据える。
すると、今まで動かなかった塊が――ブレた。
細かく振動し、その形が崩れる。
塊の一部が欠けて腕のように伸びてきた。欠けた部分を見て、理解する。
(この塊……全部虫かっ!)
虫が密集して塊となり、こちらへ伸びてくる。
かわそうとして――、
キィンッ。
金属の鳴らす、優雅な音を聞いた。
動かそうとしていた体を、強制的に止める。するとすぐ真横を、何かが通り過ぎていった。
何かは、ノイズの伸ばしてきた腕に当たり――増える。
ズドドドドドドドドツ!
次々と何もない空間から現れるコインが、密集した虫へと吸い込まれてゆく。腕を形作っていたノイズが消滅するのは、あっという間だった。
「やーっばり、妙なことになってるですの」
「留真ちゃん!」
輝く銀貨を首に下げ、教室の入り口に悠然と立っていたのは――、
「――グレイスですの!」
魔法少女、グレイス・チャペル。その人だった。
「変身もせずに何やってるんですの。どんな雑魚《ざこ》でも、油断は禁物ですのよ?」
助けに来て早々、お世話焼きな彼女らしいことを言う。
「グレちゃん、どうしてここに――」
「どうしてここに、じゃないですの――妙に大きなノイズが聞こえて、しかも彼方さんの魔力は感じませんし――おかげで、学校から抜け出す羽目になりましたの――」
烈火のようにまくし立ててくるグレイス。
「しかも!」
懲りずに結集した腕を伸ばしてきていたノイズに、グレイスはお賽銭《さいせん》でも投げるように軽くコインを放つ。
ズドドドドドドドドドドドドドドドッ!
「当のアナタは、こんな雑魚にかまけて!」
次々と淡い光を放って消えてゆくノイズが、少し哀れだった。
「こんなのよりまず上にいるでかい反応を何とかするのが、効率の良い――」
(……なに?)
「グレちゃん!」
両手で彼女の肩を掴む。
「な、なに!? なんですの!? いっ、いきなりそういうのは困るですの! 照れるですの!」
「今、屋上になんかいるの!?」
少し強引に、問い質《ただ》す。彼女はすぐにただならぬ雰囲気を察知し、答えてくれた。
「現在、この真上に大きな力を持ったノイズがいますけど……あ、ちょっと!」
聞いてからすぐに駆け出す。脇目も振らずに教室を出て、屋上へと続く階段へ――。
「ちょっと……コイツは、どうするんですの……?」
ぽつん、とノイズの蠢く教室に取り残されたグレイスの呟きは、誰にも届かなかった。
(屋上には、モエルがっ――!)
息が切れるのも気にせず、一気に屋上の扉前まで駆け上がってきた。扉に手を掛け、
大丈夫だから
別れる前に聞いたモエルの声を思い出す。
強かった。いつもふざけてばかりのモエルとは思えない、真っ直ぐな言葉だった。
胸騒ぎがする中、扉を開け放つ。
曇り空が広がる――その、下に。
横たわるモエル。
振り上げられた杖。
ソイツはこちらを見て、
言ってごらん。ボクの願いを
――嗤《わら》う。
ヒュンッ!
容赦ない一撃が振り下ろされる。
ボクの目の前で、モエルの体が床に叩きふせられた。完全に意識を失っているらしく、ピクリとも動かない。
ソイツは、倒れたモエルを前にして、さらに杖を振り上げた。
トドメを刺そうとしている。
こんなに小さなモエルに。
ボクの大事な――家族に。
扉を開いた瞬間から、体は反射的に動いていた。
ゴッ。
背中に亀裂が走ったと錯覚してしまう、強い衝撃。痛覚が一斉に悲鳴を上げる。
しかし、咄嗟《とっさ》に胸に抱いたモエルは無事なようだった。体中からおびただしい血が流れている。意識を失っていたが、すぐに、呻《うめ》きながら薄く瞳を開いた。
「……か……な……た……?」
胸の中で無事を確認し、安堵《あんど》したのも束の間。
ドズッ。
横から、脇腹に蹴り上げを喰らった。宙を浮き、為《な》す術《すべ》もなく床を転がる。視界がぼやけ、自分がどこまで跳んだのか分からない。しかし、モエルだけはしっかりと抱きかかえて離さない。
「かなたん……、本物……だね……」
痛みを押し殺した声。その苦痛が、伝わってくる
「……逃げるんだ、早く――」
ボクは、笑っている膝を片手で押さえ、ゆっくりと立ちあがる。
たった今モエルに杖を振り下ろし、ボクをここまで蹴り飛ばした相手は、その体よりも長い杖を肩に担ぎ、余裕か、笑みか、どちらにせよこちらを小馬鹿にしたような表情を浮かべていた。
「――ふぅ。さぁ、て」
グレイスは、彼方が去っていった方向を呆然と見つめてからしばらくして、溜息を吐いた。
「どうやらあちらは彼方さんが引き受けてくれるようですし……こちらは、私が」
くるりと、教室に根ざす黒い塊に向き直る。虫が大量に集まっている姿を見て、グレイスは半眼になって呻いた。
「……貧乏くじ、引いたですの」
ぼやきながらも右手に魔力の金貨を生み出し、相手を見据えた、その時だった。
『うあぁぁぁ――』
「!」
黒い塊から、くぐもった人の声が漏れてきた。目を凝らしてみると、数が減って散逸した塊の中に、わずかながら肌色が見える。……人が、呑み込まれている。
『ダズ、げて……違う、俺はただ、授業が、なくなればと……違う、こんな……』
怨嗟《えんさ》の声のように聞こえてくる言い訳≠ノ、グレイスは心底から溜息を吐き、
「……なるほど。アナタが発生源ですの」
下らなそうに言った。
「まあ、アナタが何を願ったかなんてどうでもいいですけど……よほど、お粗末な願いだったんですのね」
視線の中に同情すら含ませて、グレイスは眼下の虫共を見つめている。
「ノイズとは願い。どんな些末《さまつ》なものでも、わずかな確率を超えて形として生まれ出る。そして生まれるからには、それを願った誰かがいる。そんな中には……人が傷付くことを平気で望む奴らもいる」
焔のドレスを身に纏《まと》った魔法少女は、小さく歯を食いしばった。
「そうした歪んだ願い≠打ち砕くのが、私達、チューナー」
左手で胸の銀貨を握り締め、
「運がなかったですのね、自分の望みに呑み込まれてしまうなんて。でもすぐに、解放して差し上げますの」
右手を前に伸ばし、
「懺悔《ざんげ》も言い訳も、その後でなさい」
金貨を――弾く。
――目の前にいるのは、白姫彼方だった。
白く滑らかな肌。小さな顔つき。桃色の唇。大きな双眸。
鏡の前に立てぱ映し出される姿。
一つだけ違ったのは――灰色の、髪。
腰の辺りまで流れるストレートの髪が、輝きを一切放たない、つや消しの灰色と化している。
時折見える黒い光の粒子が、輝きを喰らっているようだった。光を喰らう粉は、全身からにじみ出ていて、首から下は黒く、ただ人の形の輪郭を作り出しているだけ。
張り付いたような笑顔は嘲笑《ちょうしょう》を現す。ノイズに感情はないらしいが、そうとは思えないほど、こちらを見下した表情だった。
「…………っ!」
生身の状態で一撃を喰らってしまった。尋常じゃない痛みに足が震える。もしかしたら、どこかが折れているかもしれない。痛みと痺《しび》れの違いが分からない。たった二回の攻撃を受けただけでこのザマだ。……しかも相手は本気で来てはいない。
「かなたん、コイツは――」
モエルが何かを言おうとする。それを遮《さえぎ》って、
「ノイズだろ、――ボク達の、敵だ」
自分の姿を模倣した敵≠前に、言い放つ。
「う、……うん。とにかく、コイツは今までのノイズとは違う。生身の人間が戦える相手じゃない!」
こんなに傷だらけになりながらも、モエルは声を張り上げる。やせ我慢をしているのが目に見えて分かるけど、それでも、元気な声を聞けて安心した。
「ね、え、モエル」
「おいらに任せて逃げろって、ば……?」
「……しないの?」
暴れるモエルを床に下ろす。そして、
「は? 一体何を――」
強い視線。ありったけの自信と、確信。全てを視線に込め、モエルの目を見た。
それ≠ェ、始めた理由だから。再びスタートを切るには、必要だと思った。
抗《あらが》いようのない、逃げようもない、世界一不条理で、宇宙一強引な――。
「――脅迫を、さ」
それを聞いた金色の猫は、驚き、言葉に詰まる。視界の端、赤い瞳に動こうとするノイズの姿が映った。ぐ、と詰まり、だがすぐに顔を勢いよく振って、声を張り上げる。
「ああもう分かったよ! いいかいっ!?
君がもし契約を破棄したら、女の子になっちゃうんだよっ! それでもいいのっ!?」
にこりと笑い、断言する。
「――絶対、お断りだね」
ボクは何なのか
それだけを、考えていた。
生まれたときから銀色の髪を持ち、男の子として生まれたのに女の子のような姿をしていて。そのことで人とは違った扱いを受けることが多くて、でも、変わることもできなくて。
小さくて、声が高くて、歩く音がかわいいとか言われて。
流されやすくて。
でも。
「それが、ボクだ」
ただ腕を伸ばし、上に突き上げる。
「他の誰でもない」
曇り空でも構わない。意識を集中し、心に思い浮かべる。
「白姫、彼方だ!」
青い空を。
「――遍く空の果てへ――」
街中の誰もが、その光を目撃した。
曇る空を突き破り、地上へと突き刺さる、蒼い、光を。
世界を暗く染めていた灰色の空に穴を開け、光は学校の屋上へと突き立った。
その屋上で相対する対照的な二つの人影の間に、不可侵のラインを引くように。
「我ながら嫌になるよ、まったく」
腕を伸ばし、柱の中に厳《おごそ》かに存在している杖を掴み取る。
対峙《たいじ》する敵、自分と同じ姿をしたノイズは、正反対の闇を周囲に降り撒きながら、色のない瞳をこちらに向けた。
「誰からどう見られているか。ボクは何なのか。そんなつまらないことで悩んでた」
変身が始まると同時に、ノイズが動いた。灰色の髪をひるがえし、杖を構える。深さを増した黒い粒子が空気中に迸《ほとばし》り、空気中を侵蝕してゆく。
手すりの向こうに見える街並み、見慣れた景色が、乱されてゆく。
「ボクはボクで、それ以上でもそれ以下でもない」
着ている服が消え、全身が蒼い光に包まれながらも、意識はハッキリとしていた。あれだけ嫌だった変身なのに、不思議と嫌な気分ではない。
屋上の大半は、ノイズの放つ闇で覆われてしまった。それどころか、漏れだした粉が、外へと流れ出そうとしている。
「ボクは、ボクが望むままに。
お人好しに、がさつに、負けん気強く、純粋に、流されながら――」
剥《む》き出しの敵意を放ち、ノイズが手に持つ杖を床に叩きつけた。衝撃による加速。砕けた床の粉塵《ふんじん》を纏《まと》い、黒い彼方が、こちらに向かって疾駆する。
黒と灰の尾を引いて。
「――行くよ」
ボクの心は、透き通っていた。
光子を放つ白のワイシャツ。
無風でも舞い踊る、青と白のミニスカート。
白銀の髪を両サイドでまとめる、赤い流線状のリボン。
空を描く筆具、オーヴァゼア。
全ての衣装を身に纏い、目を閉じてその場でターンする。髪を泳がせ、空中に銀の円を描く。
迫る黒の気配が、体に流れる魔力を荒々しく震わせた。敵が目と鼻の先にまで接近していることを、新たに生まれた感覚で感じ取る。だが、ボクの心は揺らいではいない。
次にその目を開けたとき、自分の真上にのみ広がる青空の下、宣言する。
「ボクは魔法少女」
空気を震わせ、名乗り――。
「魔法少女、白姫彼方だ!」
――空色の杖を、突き立てる。
溢れ出した力が振り撒かれていた闇を散らし、目前で杖を振り上げていたノイズの体をも、屋上端まで吹き飛ばした。学校周域を埋め尽くそうとした闇の粒子は、一瞬で霧散する。
自分の影は吹き飛ばされる直前、確かに顔を歪め、怨嵯の眼差しをこちらに向けた。
自分の姿に酷似した、人の形をしたノイズと、対峙する。
同じ顔の作りをしていて、灰色の長髪。手には長尺の杖。
ノイズが自分の姿をしているということに、どういう意味があるのかは分からない。だが、何となく分かったことがある。
――コイツはボクそのもの。ボクが認めようとしなかった様々な思いの、塊。
頭の中でずっと響いていたノイズ。それがコイツだ。おかげで、虫型ノイズの発生にも気付くことができなかった。
「よくもまあ、散々|煽《あお》ってくれたもんだね」
全て自分の中にあった思いだとはいえ、一気に吹き出してくるのは気持ちのいいものじゃなかった。
「良い機会だ! 叩きのめしてあげるよ」
「かなたんッ!」
ぴょい、とモエルが定位置に付いた。
「変身できたんだねっ! それに、自分で名乗るなんて! ようやく、本当の魔法少女に――いてて……」
傷だらけなのに浮かれまくるモエル。
「いいから落ち着きなって。こんなヤツ、すぐに――」
ビュオッ!
「ッ!?」
オーヴァゼアとオーヴァゼアが噛み合う。
腹部を狙った薙《な》ぎ払い。杖を縦にして受け止めたが、すぐに、足場の感覚がなくなった。
ガードごと薙ぎ払われたのだ。勢いのまま、背後の手すりに背骨を強打する。
「ぅっ!」
手すりがひしゃげ、大きく外側にはみ出した。
「く、そ……手加減なし、ってわけか」
次の攻撃を警戒して体を起こすと、ノイズは、ボクを弾き飛ばした場所から動いていなかった。杖を担ぎ、肩を叩きながら、変わらない嘲笑を浮かべている。
(――舐《な》めるな、ってことか)
悔しいことに、言いたいことはすぐに理解できた。ボクなら、そう思うからだ。
「かなたん、大丈夫?」
杖を軽く回して握り直し、戦闘態勢を整える。
「ああ。負けやしないよ!」
モエルに答えて、床を蹴る。
十メートルほどの距離を光の矢の如く駆け抜け、杖による一閃《いっせん》。やられたことを、そのままやり返す。
ガードされるところまで同じだったが、相手と同じように力で無理やり押し切ることができない。攻撃を防いでいる相手の嘲笑は変わっていないが、どこか優越感が増したように感じる。
しかし。
「フッ――」
全身の力を一気に抜き、拮抗《きっこう》を自分から崩す。相手がよろめいたところに、しゃがみ込んだボクの脛《すね》蹴りがヒットした。その時、何も言わずとも、モエルが肩から降りた。
「誰がコピー野郎の真似なんてするもんか」
右足を蹴り抜かれたノイズは完全に体勢を崩す。引いていた左足のみが床に接地した状態の前傾姿勢。そこに――、
しゃがんだ状態から肩を突き出し、起き上がる。
ゴスンッ!
零距離からの体当たり。普通の人間なら、悶絶してしまうところだ。
それに加え、魔法少女と化した状態による身体強化。威力は未知数である。
上空に投げ出される彼方もどき。その体は宙を舞い――屋上の柵を、超えた。
「よっしゃあっ! かなたんナイスッ!」
モエルが再び肩に飛び乗ってくる。
「! まだだっ!」
ノイズが飛んでいた地点から、何かが目にも止まらぬ速度で迫ってくる。
――灰色の線。
即座に横に逃れる。
半月を描く軌跡は、ボクの背後にあった屋上の手すりを切り裂いた。
「灰色の軌跡……? ここまでコピーしてるのか!」
外に投げ出されたはずのもどきが、屋上に着地した。どうやら、軌跡を撃つ反動で体勢を整えて来たらしい。着地したノイズは、すぐにまたコピー・オーヴァゼアを真横に振った。灰色の軌跡が虚空に描かれていく。
慣れた動きで、描いた軌跡を放つ。
「うわっ!?」
速度もこちらと変わらない。ただ違うのは、その威力の発現。ボクの蒼の軌跡≠ヘ、着弾対象とその周囲一体を巻き込んだ爆縮現象。コイツの放つ灰色の軌跡は、触れた物を切り裂いている。
彼方もどきが袈裟《けさ》切りに空間を撫でると、次の軌跡が生まれ、放たれる。
「連射が効くなんて、うらやましい……かなたんは一発きりの鉄砲玉なのに!」
モエルが叫んだ。
「放っておいてよ!」
半月の斬撃が次々と飛んでくる。スピードがかなり早く、避けるのに集中しなくてはならない。相手の描く線の方向を見て確実にかわさなければ、体の一部とお別れしてしまう。
(……どうする、一か八か、こっちも撃ち返すか……!)
いまだに制御が利かないボクの魔法は、モエルの言ったとおり一発きりの切り札である。あれだけの打撃で倒せなかった敵だ。決着を着けるには、これしかないだろう。だがもしこんなところで撃って、避けられたら――。
「落ち着いて隙を狙うしかない。今は耐えて、確実に魔法をぶつけるんだ、それしかないよ」
モエルが耳元で囁く。
敵の軌跡が、次第にボクを後ろへと追い詰めてゆく。
圧迫された状況。
打撃ではダメージが薄く、ボクに唯一あるのは、一発のみの切り札。
敵は連続攻撃を仕掛けてくる。ボクにはできない、軌跡の連射。
外へ出てしまえば、コイツの撃つ軌跡は周囲に深刻な被害を及ぼすだろう。
ここで勝負を決めなくては。
だが、切り札は一発。当てる隙もない。
追い詰められてる。
落ち着いて。
確実に。
隙を。
――あぁ、もう。
「めんどいや」
「……え? かなたん、なんか言――っ!?」
モエルの表情が一気に青ざめた。
「待って! それだけはやめて! わざわざ勝率を下げてどうするのさ!? だから、何度言ったら分かるかなぁっ、もう!」
ギリギリギリ、と、槍投げの構えをしたボクを見て叫んだ。
ボクが手に握っているのは、もちろんオーヴァゼア。
前から飛んできた軌跡が左の頬《ほお》をかすめた。流れ出た血を、ペロ、と舐め――。
「――喰らえええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
「オリジンキーを投げるなぁぁぁぁぁッ!」
ボクとモエルの叫びが、同時に空に木霊《こだま》した。
ギュゥンッ!
ドリルのような横回転を加え、ボクの分身が手から放たれた。
大気中をねじり、貫き、逆巻き、一直線に。
――ボクの姿をした、ノイズへと。
嘲笑が崩れたように見えたのは錯覚だろうか。驚愕という概念がないはずのノイズは、自分に向かってくる武器を、自らの持った模造品で防ぐ。本物のオーヴァゼアは、高く宙へと弾《はじ》かれる。
その時ボクは、既に構えていた。二投目を。
「ちょっ、かなたん? 待っ、――そういうことか! いや、やめてぇぇぇぇぇー!」
にこやかに。
「――行つてこい♪」
背負ったモエルを、投げ放った。
[#挿絵(img\xy_313.jpg)]
「人でなしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
轟《とどろ》く絶叫。それを合図に駆けだす。
敵は宙を舞うモエルを無視し、単身で突っ込んでくるボクの姿を見た。
待ちかまえる相手に向かって、バカ正直に飛び込んでゆく。
――それもまた、ボクらしさ。
右足を軸に、つむじ風のように回転、左足で回し蹴りを放つ。
相手は、自分の右側頭部へ襲い来る蹴りを、右腕で受け止め、その手に持っていた杖を素早く左手に向けて投げ放つ。瞬時に武器を持つ手をシフトした敵は、左手に掴んだ杖を、小さく突き出した。ガツン、と脳に電撃が走る。杖は額にヒットした、が、ボクは下がっていない。
額で杖を押し止めながら、右腕で止められた蹴りを下ろし――。
グルンッ!
左足を下ろす勢いで全身を小さく丸め、強引に回転した。押し当てられていた杖が額を削り、血液が溢れ出る。しかし、下ろした左足を強く床に打ち付け、回転した勢いのままに、右足を上に突き出す。
敵は反応できなかった。
側頭部に、右足の爪先がめり込む。顔をひずませ、一息に蹴り抜く。
自分と全く同じ細い体が、屋上に叩きつけられた。屋上のコンクリートが陥没《かんぽつ》し、衝撃でノイズの体が空中に跳ね上がる。無茶な体勢の蹴りから素早く体勢を立て直し、跳ねたノイズの体を、さらに上空へと蹴り上げた。
十数メートルも上空へと跳ね上げられたノイズはしかし、空中から杖を振り、軌跡を描く。
こちらの手に、オーヴァゼアがないことを見越して――嘲笑《あざわら》う。
「ふっ――」
相手に、こちらの笑みは見えていただろうか?
「かなたんっ! 受け取れっ!」
空中からモエルが、弾かれて宙を舞っていたオーヴァゼアを、アタック。
パシンッ! しっかりと、掴み取り
――空を、見上げる。
空中に浮かぶ一本の線。灰色の、軌跡。その先にいる、自分の偶像。これまでより長く、大きく引かれたその線は、終わりにしようという意識の表れか。
「見せてあげるよ」
ヒュヒュン、と杖を回し、両手で握る。
――ピィン。単音による、始まり。
真上に広がる空を、オーヴァゼアで二つに分ける。
刻まれる蒼い光。
「本物の空を」
自らが望むイメージを、ここに顕《あらわ》す。
発動までの旋律を、迷いなく奏でる――。
バシュンッ!
先に放たれたのは、灰色の軌跡だった。
上空から降り落ちる灰の光。全てを切り裂く、斬撃。
「――蒼の」
口を開き、唱える。
そしてまた、自分も。
オリジンキー・オーヴァゼアを、空に向かい――。
「軌跡!」
――振り上げる。
蒼の軌跡が、空へと昇る。
灰の軌跡は、地へと降りる。
空と地の中心で――二つは、激突する。
灰色と青、相反する色の雷が散った。
だが灰色は、蒼の軌跡の放つ光に抗うことさえできない。
「征け――っ!」
果てしなき蒼の中へと、灰は消える。
敵の攻撃を容易に打ち破った軌跡は、さらに高度を上昇させ――その先にいる、偽りの敵を捉えた。
その時、確かに見えた。
蒼い光に呑み込まれる偽者の嘲笑が、消え去るのを。
敵に命中してもなお空へと昇り続ける魔力が――雲の中へと吸い込まれる。
しばらくして、鮮烈な光が雲間から溢れた。
「! 雲が……!?」
モエルが屋上から身を乗り出す。
ボクの全魔力が引き起こした―――奇跡。
蒼の軌跡が爆発すると同時に、弾けた魔力の奔流《ほんりゅう》が雲を晴らし、覆い隠されていた空をさらけだす。
――青空が、広がる。
見る場所によって濃淡の変わる、無限の青。深い海のようなディープブルー、ほのかに白いミルキィブルー。胸を透くようなクリアブルー。空は数多《あまた》の顔を持ち、地で生きる命を見守っている。
そして、それは降ってきた。
「……雨?」
自分の手に落ちた、粒。しかし冷たくはない。
あっという間に視界を埋め尽くす、光のシャワー。キラキラと、晴れ渡る青空の色を透過して輝く、空の雨。
「かなたんの魔力が、降り注いでるんだ」
モエルが空を見つめたまま、呟いた。
四階の教室で、一人の生徒を足蹴《あしげ》にしている魔法少女。
「まったく、アナタのおかげで学校を休む羽目になったんですのよ!?」
「ひぃぃっ!?」
そこに根ざしていた全ての虫達は消え、残ったのは一人の魔法少女、そしてこの事件の発端である、一人の少年だった。
グレイスはぐりぐりと、丸くなった少年の背中を踏む。
「あうぅぅぅぅ……なんだか分からないけど、ごめんなさぁい……!」
踏まれながらも、少年はどこか嬉しそうである。
「なんで私が、こんな後片付けみたいなことをしてるんです――」
グレイスは溜息を吐き、窓の外を見る。
そこには。
「――の?」
青空と光る雨。
神秘の景観に彼女は、ただ怒りを忘れ、呆然と立ちつくした。
「おい、なんだよこれ……っ!」
一年のBクラス。
生徒の一人が窓の外を見て、驚きの声を上げた。
クラスの全員が、一斉に窓際にまで詰め寄る。
「雨が……青い?」「気のせい、じゃないな」「おいっ、おすっ、おすなけろっ」「きれえ……」「ちょっとベランダ出てみようぜ」「おい、まだ虫が……」「知るかよ」
生徒達は、窓を乗り越え、ベランダへと出て行く。
教室の中に、一人の少年と、一人の少女が残される。
「……青い、雨か」
前髪で目を隠した少年。明日野丈が、呟いた。
「とっても、綺麗だね」
おっとりと少女が呟く。おさげにメガネ。このクラスの委員長。
誰一人として、その奇跡から、目を離す者はいなかった。
「跳ぼうか」
見とれているモエルを引っ掴み、肩の上に乗せる。そして返事も待たずに、ボクは跳んだ。
少しでも近く空に近づくために、強く、強く。
落ちそうになりながらもモエルは、空から降り注ぐ魔力に身を委《ゆだ》ね、口を開く。
「気持ちいいねーっ」
「――うん」
空に浮かぶ感触。降り注ぐ雨。
そんな中で、ボクは。
このまま空の先――彼方へと、辿り着けそうな気がしていた。
[#改ページ]
エピローグ
翌日。
「いってらっしゃい。かなたん」
「……あのさ、どうせ付いてくるんだからやめない? 見送るの」
いつものように、朝はやってきた。
燦々《さんさん》と陽光が降り注ぎ、町は今日も眠りから覚める。
「何言ってるのさ。誰かに見送ってもらえるだけで、朝は随分と変わるものだよ」
モエルにしては真面目な意見。
(……そういえば、母様も同じように、いつもこうして見送ってくれてたっけ)
母様がいなくなってからだいぶ時間が経った。今頃あの人は、世界中を飛び回っているのだろうか。
一瞬、晴れ渡る空に母の笑顔が浮かんだ気がして、慌てて顔を逸《そ》らす。
「どしたの?」
「なんでもない。行ってくるよ……あ、言っても無駄だと思うけど、付いてこないでよ」
もはや形だけとなってしまった忠告を口にし、歩き出す。
「か〜なた〜っ!」
「朝からハイテンションですね丈《じょう》君。……とりゃっ!」
通学途中の道で、友人と合流する。
最後の掛け声は、背後から抱きつこうとしてきた友人を投げ飛ばした時の声だ。背中から地面に落ちた丈は、平然と起き上がっていつものように話し始める。
「良い投げだ! ところで彼方《かなた》、投げといえば昨日の深夜アニメで――」
「あ、おはよ、白姫《しらひめ》君」
「はぁ、はぁ。おはよう、ございます……いいんちょ」
学校の入り口で、遅刻してくる生徒の見張りをしている少女と出会う。
「今日も遅刻だね。貸し、また増えたよ〜。次は耳食べられるだけで済めばいいね〜?」
委員長はふわふわと笑いながら言ってくる。
しかしその内容は笑えたものではない。
「嬉《うれ》しそうに言わないでくださいよ……ああもぅ、丈君が絡んでこなければ……」
学校で起きた悪戯《いたずら》事件のその後、犯人である生徒が自分から名乗り出て、謝罪をしたそうだ。
教師が名乗り出た理由を尋ねると、その少年は、
「魔法少女に怒られたんです」
と、ワケの分からない答えを口にしたとか何とか。彼については正直に言ったということもあり、厳重注意のみで済んだらしい。
しかしそれから数日の間、学校内では魔法少女≠フ噂がまことしやかに囁《ささや》かれることなる。目撃者は多いのだが、ソレが誰なのかはまったく分からない。曖昧《あいまい》で茫洋《ぼうよう》とした情報だけが、一人歩きをしていた。
でも――噂の中に混じっている女王様、というのは一体なんのことだろう?
そんな突拍子のない噂も長続きはせず、三日も経つ頃には何事もなかったかのように、平凡な毎日が帰ってきた――。
――かと、思われた。
「かなたん、変身だっ!」
目の前でなにやら暴れている怪生物。夕食の買い物に来た矢先、騒音を聞いて駆けつけると、そこにはノイズの姿。商店街に並ぶ商品をむしゃむしゃと食い荒らし回っている。実に迷惑なヤツである。
「ええーっ」
「そこ、露骨に嫌な反応をしない!」
そう、ボクの役割がなくなったわけではないのだ。
夕方の商店街などという衆人環視の中、このパートナーを自称する猫は変身しろと言う。
「やだよ、こんなとこで変身したら完全な変態じゃないか」
いつものように断ると、モエルは自信を持って鼻を鳴らし、
「そう言うと思って持ち歩くようにしたのさ!」
どこからか取り出した紙筒を開くと、そこには契約書という文字。
「さあ、大事なモノを守りたければ変身するんだっ!」
自信たっぷりに言い放つ猫は、どこか活き活きとして見えた。
「板に付いてきたね、モエル……」
――魔法少女。
この日常の裏に存在している、正義の存在。
平和を掻き乱す騒音を調律し、消し去る者。
ある日ボクは、そんな役割を押し付けられた。無理やりな契約、そこに課せられた極悪な罰則を盾に取られて。
男であるボクが、女の子の格好をして戦うという非日常。
恥ずかしさと、不条理さに立ち向かう毎日。
それでもボクは、今日も空に手を伸ばす。
「遍《あまね》く空の果てへ」
[#改ページ]
あとがき
――お初にお目にかかります。この本の著者、白瀬修《しらせしゅう》と申します。
この度は私の初出版作となる「おと×まほ」を手に取っていただき、心より御礼申し上げます。そして、この本誕生に至るまでご尽力くださりました関係者の皆様にも、深く御礼申し上げます。
手に取ってもらえただけでもありがたいというのに、あまつさえそれをレジにまで持って行ってしまわれた方。本当に、本当にありがとうございます。
手にとってそのまま戻してしまった方。実はこの本、出版元であるソフトバンク クリエイティブ様の技術の粋を集めた、指紋認証システム≠ェ搭載されてあります。表紙に触れた時点でアナタの家へ送られます。降り注ぎます。
……ごめんなさい嘘です触れていただけただけでもありがたいです。
本来ならば感謝の言葉だけであとがき全て埋め尽くしても構わないくらいなのですが、さすがにそれだとあとがき先読み派の方々に恐怖を植え付けてしまいそうですね。
挨拶(?)はここまでにしておきまして、この作品について少しだけ語りたいと思います。
この「おと×まほ」ですが、自分にとっては初めて世に出る、いわゆるデビュー作となっております。執筆中に夢とか希望とか満ち溢れて垂れ流した感じの作品になってます。しかも溢れさせた挙げ句の果てに、暴走気味の妄想だけが残った感があります。
そんな処女作なのですが、話の要点のみをかいつまむと恐ろしいことになってしまうのです。
何と言っても、魔法少女が○○○ですからね。
本文の方を読んでいただければすぐに分かるのですが、これは完全な矛盾です。書こうと思ったとき、書いているとき、散々思い悩みました。これはアカンだろうと。
けれど私は、そうした苦悩の時を積み重ねて、一つの真理に辿《たど》り着きました。
――かわいいんならどっちでもいいじゃない。
理屈とか道理とか、人間を縛る常識はぶっちぎっちゃえ。真っ白なキャンバスを前にしてまずしてはならないこと≠考えるなんてナンセンス。自分にできる限りのことを目先の白紙にぶつけてこその、創作活動だろうと。
……ええ。そんなこと考えてたら真人間をぶっちぎっちゃいましたね自分。
しかし、少々外れた道ではありますが、この道の先にだってきっと輝かしい未来がある、ような気が、しないでも、ない……わけです、はい。こんな道にお付き合いいただける方、いらつしゃいましたら空に向かって思いのたけを叫んで頂けたら、次の日からはなにか色々と吹っ切れた気持ちで毎日をお過ごしいただけるかと。
次に、軽く登場キャラクターについて、お話ししたいと思います。
まず、主人公である白姫彼方。
思えば無茶な役回りを与えてしまったものです。完全な巻き込まれ、いじられ体質。
イメージカラーは作中でも散々出てくる通り、青です。深い色ではなく、透明度の高い空色とも呼ばれる色ですね。すっきりと晴れた日に、何気なく空を眺めていたら見える色。
母である白姫此方さんに昔からいじくり回されてます。その辺りのことに関しても書いていけたらいいな、と思っています。年齢のわりに大人びた子になってしまっているのは、全てこの母親のおかげです。
モエル。この猫に関してはもはや言うまでもなく、不文律である魔法少女のマスコット、的な存在です。しかしサポートをしている姿はほとんど見られませんね……。
白姫此方。この作品のある意味黒幕的な人です。語るより、その行動を追っていけばそれ自体が彼女の全てであります。胸のサイズ? 彼方と並んでも微々たる差です。ぺた。
樋野留真こと、グレイスチャペル。赤い人。一巻は出番が少なくて少し可哀想ですね。でも活躍どころはきっとある。
明日野丈。野郎に興味はない。とか言ってしまったら駄目ですかね? 名前の由来のわりにはボクシングなんてしませんよ? 彼のバトルフィールドはローアングル。
いいんちょ。天然風船。放っておいたらふわふわと飛んでいきそうなクラスの委員長です。
――この面々、スプリンターだのフロッグだの、謎の組織めいたあだ名を考えつく方々。一人一人もっとスポットを当てていきたいところですが、都合により見送らせていただきます。
でも時々妙な行動を起こしていたりする、愉快なクラスメイト達です。
この作品のイラストを手掛けていただいたのは、皆さんご存じのヤス様。
ライトノベル業界(?)第一線で戦い続けておられます偉大な方でございます。昔っからの大ファンで〜などとここで言うことではないですね。
この場を借りて、深くお礼申し上げさせていただきます。
鮮やかかつキュートなイラスト、ありがとうございました。
それでは最後に、重ねて御礼申し上げさせていただきます。
この本に関わった全ての皆様へ、心より――
「ありがとうございました」