妖魔夜行 月に濡れた刃
白井英
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銘刀と謳《うた》われた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
[#ここから3字下げ]
『妖魔夜行』世界とあらすじ
東京の渋谷に不思議なBARがあるという。人の力で解決できない事件に巻きこまれ、困っている者がそこを探しあてれば、不思議な力で助けてもらえる。そう、そのBAR <うさぎの穴> に集うのは、妖怪といわれる生き物なのだ。
妖怪は、人の想いから生まれる。長い時間、強い想いが積み重なって、命を得たものが妖怪になるのだ。
BAR <うさぎの穴> はそんな妖怪たちの互助組織、ネットワークである。人間社会に生活する妖怪たちは、自分の秘密を守ったり、人に害なす妖怪と戦ったりするためにネットワークを利用している。東京には <うさぎの穴> 以外にもいくつかのネットワークがある。またネットワークは、何らかの理由で消滅してしまうこともある。
今回のお話は、『妖魔夜行 悪魔がささやく』(角川スニーカー文庫刊)収録の「妖刀」の後日談。『コンプRPG』読者にはおなじみの彼[#「彼」に傍点]が、 <うさぎの穴> に加入する前のお話になる。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
序章
いかにも梅雨期らしい空模様となった六月の某日、雨の四谷駅前交差点――
シグナルが変わり、信号待ちをしていた人々が歩きはじめる。
駿河予備校に通う吉永《よしなが》華蓮《かれん》は、昼休みに遠出してしまったことを後悔しながら、真っ先に横断歩道に飛び出していった。
車道を左折して、一台の白いカローラがやってくる。
華蓮は間もなく横断歩道を渡り終えようとしていた。どれほど無茶なドライバーでも、歩行者をやり過ごすために一時停止するであろう状況だ。
しかし、カローラは止まらなかった。
横断歩道を走る華蓮に向かって、まともにぶつかっていったのだ。
左折したときの速度をゆるめるどころか、ハンドルを切ってよけようとする様子すらなく。華蓮の姿が、まるで見えていないかのように。
そして――
だむっ、という鈍い音とともに、華蓮の身体が宙にはね上げられた。
きりきりと回転しながら、華蓮の身体が落ちてゆく。まるで、空中でバランスを崩した棒高跳びの選手のように。
信号待ちをしていた人々がなす術もなく見守るなか、華蓮は頭からアスファルトに叩きつけられた。
「……華蓮ッ!」
外村《とのむら》美咲《みさき》は横断歩道に足を踏み出しかけたまま信じがたい光景を前に慄然と立ちつくしていた。
カローラは迷走しながら歩道に乗り上げ、レストランのウインドウに突っ込んでゆく。ガラスの砕け散る甲高い音が、美咲の耳に突き刺さった。
その音で我に返ったのか、人々は呪縛から解かれたかのように、車道に倒れた華蓮のもとへ走り出した。路肩に駐車し、わざわざ車を降りて駆けつけようとするドライバーもいる。
「救急車を呼ぶんだ。早く! それから歩道に運んでやらないと……」
「いや、頭を打ったようだから動かすのはよくない!」
口々に叫びながら、人々は美咲の横を駆けぬけてゆく。
交差点は大混乱だ。
歩道のシグナルが赤に変わっても、人々は車道から出ようとはしない。そのため自動車の列は動けず、何事が生じたのか分からない後方の車は、けたたましいクラクションを響かせている。
華蓮は、美咲の数少ない友人のひとりだった。
本当なら、誰よりも先に彼女のもとに駆けつけ、その安否を確かめてしかるべきなのだ。
どこか現実離れした、TVドラマの一場面めいた喧噪のなか、美咲は華蓮のもとにふらふらと向かっていった。
華蓮の倒れているあたりには、数人の人間がいた。携帯電話で救急車を呼んでいた年かさの男と、その連れか部下らしき背広姿の青年たちと。
華蓮のそばに立っていた年かさの男が、美咲が来るのに気付いて顔を上げる。
「……」
痛ましげに目を伏せて、男は首を横に振った。
その沈痛な表情を見て、美咲はすべてを悟っていた。
(ああ……華蓮)
まさか、という思いが半分。やはり、という思いが半分だった。だらりと手足を投げ出して仰向けに倒れたまま、ずっと華蓮は身動きひとつしていなかったのだ。
ようやく華蓮のもとにたどり着いた美咲は、膝が砕けてしまったかのように、ぺたりとその場に座りこんだ。
華蓮はすでに息絶えていた。
じっと美咲を見上げている、焦点を失った虚ろな瞳。何かを語りかけるかのように、ぽかんと開かれたままの口。耳の穴から流れ出し、アスファルトに染みを作っているひと筋の赤黒い血。
それらすべてを目にしても、美咲にはなお、華蓮の死が信じられなかった。
つい先ほどまで、華蓮は昨夜見たTV番組のことを、とても楽しそうに美咲に喋っていたのだから。次の瞬間には、「ああびっくりした」と言ってむっくり起き上がるのではないかと、そんな気すらした。
やがて、凶々《まがまが》しいサイレンと共に救急車が到着し、華蓮は救急隊員の手によって担架で運ばれてゆく。
「この人のお知り合いですか?」
蒼白な顔で立ちつくす美咲に向かって、一人の救急隊員が尋ねた。
はい、と即座に答えようとして、美咲はなぜか躊躇《ちゅうちょ》を覚えた。
華蓮と美咲は、共に大学受験に失敗し、この春、から駿河予備校の四谷校に通っていた。
今ではそれほど珍しくないものの、女子の浪人生はやはり多くはない。だから二人は自然と言葉を交わすようになり、そして親しくなった。華蓮がいなければ、美咲の予備校生活は恐ろしく孤独で、閉塞感に満ちたものになっていたはずだ。
(それなのに……)
と、美咲はぼんやり思った。
涙が出てこないのはどうしてだろう? 担架に横たえられ、運ばれてゆく華蓮の姿を、こうして目の当たりにしているというのに。
美咲は不意に、自らの内に潜むある思い[#「ある思い」に傍点]を強く意識した。彼女が常日頃、努めて抑えこもうとしている思い。
華蓮と美咲は、共に都内にある名門の女子大を、志望していた。華蓮の成績なら合格は間違いないと、美咲は羨望を抱いたものだ。しかし、華蓮は死んでしまった。
ということは……。
「お知り合いの方でしたら、一緒に救急車に乗ってもらえませんか」
白衣に身を包んだ救急隊員が、そっと美咲をうながす。
しかし、美咲は頭を振って、目を見開いたままの華蓮の顔から視線をそらせた。
「いいえ。あたしには、そんな資格はありませんから……」
行き交う雑踏に紛れて、彼[#「彼」に傍点]は悲惨な事故現場を瞬きもせず凝視していた。
――素晴らしい。
理不尽に生命を断ち切られた人の、無念と絶望の思い。
それが、こんなにも甘美なものだったとは。
これまで彼は、人間の生命を奪うことを禁忌とされていた。人間たちに些細な災いをもたらし、彼らの不満や悲しみを糧とするだけだった。
しかし、これからは違う。
不幸な死を遂げた吉永華蓮の思いが、膨大なエネルギーとなって流れ込んでくる。
歓喜に身を震わせ、彼はこらえきれない恍惚の吐息をもらした。
――この至上の歓びなくして、もはや生きてはゆけぬ。
1 雨の夜の来訪者
雨が降っている。
梅雨の時期に特有の、人を苛立たせる陰鬱な雨ではない。
このままの勢いで降り続けば、世界は水の底に沈んでしまうのではないか――そんな恐怖すら抱かせるような、すさまじい豪雨だ。
外村美咲は机に頬杖をついて、放心した表情で窓の外を眺めていた。
新宿通りから少し裏道を入った所にある、小さな二階建てアパートの一室である。
地方からやって来る女子生徒のために設けられた、駿河予備校の寮だ。部屋数は一階と二階にそれぞれ四部屋ずつ。美咲の部屋は二階の角部屋で、死んだ吉永葦連は美咲の部屋の二軒隣に暮らしていた。
降りそそぐ雨が街灯に照らされ、銀色のナイフのように闇に浮かび上がる。流れ落ちる滝にも似た激しい雨音を聞きながら、美咲は華蓮のことを思った。
吉永華蓮が不幸な事故に見舞われ、生命を落としてから一週間が過ぎた。後に分かったところでは、華蓮をはねたドライバーは運転中、急に脳溢血《のういっけつ》を起こして意識を失ったらしい。
衝撃はいまだ醒めやらぬものの、美咲は彼女のいない日々にゆっくりと慣れつつある。しかし、華蓮の死体を前にしたときに浮かんだ思いは、美咲の心にこびりついて離れることがなかった。
あのとき美咲は思ったのだ。華蓮がいなくなれば敵がひとり減る、と。
むろん、頭で分かってはいるのだ。そのような事は確率的にほとんどありえないし、仮に美咲が不合格になったところで、それが華蓮のせいではないことくらいは。
受験の重圧に心がささくれ、敵意と警戒心が過敏になっているのだと思う。そして、愚かな考えにとらわれている自分自身に対して、嫌悪を抱かずにはおれない。
けれど、華蓮の死を心から悼《いた》めない美咲がどこかにいる。それもまた否定できない事実だった。
美咲は深い吐息をついて、机に開いた数学の参考書に視線を落とした。
ページに書きこよれた華蓮の字が、ふと美咲の目に入る。繊細で丸みを帯びた、いかにも女の子らしい数字と記号の列。美咲に解けなかった空間ベクトルの難題を、分かりやすく教えてくれたときのものだ。
(華蓮……ごめんなさい)
不意に、熱い何かが胸にこみ上げ、じんわりと視界がぼやけた。瞬《まばた》きをすると、目から溢れた温かな滴が、頬を伝ってページにしたたり落ちる。
華蓮が死んでから、初めて流した涙だった。涙は染みとなってページに広がり、華蓮の遺《のこ》した数列を悲しくにじませてゆく。
美咲は掛けていた縁なし眼鏡を外すと、机に突っ伏し、激しく声を上げて泣いた。華蓮の死を悲しめなかったこれまでの自分を、必死で取り戻そうとするかのように。
そして、どれほどの時間が号泣とともに過ぎ去っただろうか。
ふと気が付くと、机に置かれたデジタル時計は午前二時を示していた。
泣き疲れて、いつの間にかまどろんでしまったらしい。思いきり涙を流したおかげか、心がいくぶん軽くなったような気がする。
美咲は鼻をすすりながら、ぼんやりとした頭で部屋の中を見回した。
勉強机、CDラジカセにTV、冷蔵庫、そしてエアコン――ユニットバス付きの六畳の一DK。独り暮らしの若者の部屋としては悪くない環境だった。
キッチンには包丁とまな板、鍋にフライパンなど、調理道具一式が並んでいる。上京した当初は自炊すると意気込んでいたものだ。結局は長続きしなかったのだが。
置かれている生活用品は、美咲を東京に送り出すことを決めた両親が、ひとつひとつ選んでくれたものだ。それらを眺めていると、美咲は両親の期待の大きさを感じずにはいられない。そして、期待されることの喜びよりも重圧感を覚えてしまうのだった。
ため息と同時に頭を振って、美咲は参考書をぱたりと閉じた。
明日も朝から授業があるのだ。そろそろ床に就いた方がよかった。こんなに暗く沈んだ気持ちでは、いい夢など見られそうにないけれど。
勢いはかなり弱まったものの、まだ雨は降り続いている。
本とノートを机の隅に片付けて、美咲は席から立ち上がった。
そして、何気なく窓の外に目をやって、彼女は小さく首をかしげた。
(何だろう……?)
街灯の下を、ちらりとほの白い影がよぎったように見えたのだ。
眼鏡を掛けて、今度はしっかりと目を凝らしてみる。
見間違いではなかった。
寮の建物に面した通りに、ひとりの人間が立っていたのだ。
全身の輪郭がおぼろげに見えるだけで、性別や年齢は定かではなかった。外は暗い上に、霧のような雨のせいで視界が利かないのだ。
その人物は、裾が足首まである白い服を着ていた。おそらくレインコートかガウンなのだろうが、まるで時代劇などで見かける白い着物――死装束のように見える。雨にうたれながら身じろぎひとつせず、じっと寮の建物を見上げているその人物の様子は、あまりに不気味だった。
(幽霊?……まさか、ね)
ふと頭をよぎった考えを、美咲は笑って打ち消そうとする。しかし、心の底でうごめく本能的な恐怖を、完全に抑えることはできなかった。
雨のなかで立ちつくしていた白い人影が、不意にゆっくりと動き出した。
(………なんだ。ちゃんと二本の足で歩いてるじゃない)
美咲は思わず、ほっと胸をなで下ろしていた。
おぼつかない足取りで、人影は一歩ずつ寮の建物に近づいてくる。その右手に野球バットのような、銀色に光る棒状の物が握られているのを、美咲は見た。
非理性的な恐怖は去り、痴漢か変質者ではないかという現実的な考えが頭をもたげる。
美咲は窓際から離れ、戸締まりを確かめてから受話器を取り上げた。電話のそばに置いてある手帳のページをくって、そこに書かれた番号をプッシュする。
美咲が電話をかけたのは、寮の管理人である榊《さかき》長造《ちょうぞう》の部屋だった。
榊は四十代半ばの痩せた長身の男で、寮の一階のひと部屋に住みこんでいる。むろん、寮生たちに門限を守らせるのが役目なのではなく、女性しかいない寮の安全を考えてのことだ。
だが、いくら待っても電話はつながらない。二十数回目のコール音を聞いてから、美咲は受話器を置いた。
窓際に戻り、もういちど外の様子を確認する。
白い服を着た人影は、今はもうどこにも見当たらなかった。
(取越し苦労だったのかな……?)
安堵感と、拍子抜けしたような気持ちがないまぜになった、どこか複雑な心境だった。
しばらく迷ってから、美咲はカーテンを閉ざした。押し入れから布団を取り出し、パジャマに着替えようとする。
そのとき、階下から人の声が聞こえてきた。
管理人の榊長造だ。言っている内容までは聞き取れないが、熱っぽくまくしたてるかのような口調だった。
先ほど見た人間は、やはりまだ寮の周りにいるのだろうか。そして、榊はそれを追い払おうとしている――?
そう考えると、美咲は気が気ではなかった。
扉を細目に開け、首だけを出して恐る恐る外を覗いてみる。
美咲の想像は、半分だけ当たっていた。
確かに、階下には管理人の榊長造と、先ほど見た白い服の人間がいた。
しかし、榊はその人物を追い払おうとはしていなかった。むしろ、そのまったく逆だ。
相手の肩を押して、自分の部屋に招き入れようとしていたのである。
「榊さん!」
不審に思った美咲が声をかけると、榊はぎくりとした様子で二階を見上げた。
「ああ……外村さんですか。こんばんは」
美咲のいぶかしげな表情に気付いたのか、榊は問われもしないのに説明を始めた。
「この人は私の知り合いなんです。今夜泊まる所がないと言うので、私の部屋に泊めてやろうかと思いましてね」
「知り合いなんですか……?」
美咲は廊下に出て、榊の知己《ちき》だという人物に視線を向けた。
十五、六歳の少年だった。どこか古風な印象の、武者人形めいた美しい顔だちをしている。しかし、その表情はうつろで、まったく生気が感じられなかった。ぼんやりと前方に視線をさまよわせたまま、美咲の方を見ようともしない。
少年が身にまとっているのは、驚くべきことに一枚の着物だった。時代劇の侍が着るような、白無垢の薄い着物だ。じっとりと雨に濡れた生地の下からは、素肌の色がかすかに透けて見える。
そして――
驚きのあまり、美咲は声をあげそうになった。
だらりと下げた少年の右手に握られているもの。先ほど窓ごしに見たときには、野球のバットか何かだろうと思った。
「か、刀……?」
そう。凶々しい銀色に輝くそれは、抜き身の日本刀に他ならなかった。
放心したような表情でたたずむ、刀を手にした白い着物姿の少年。
まるで数百年前の世界からやって来たかのような、とても現実とは思えない姿だった。
「真物《ほんもの》じゃありませんよ。決まってるでしょう?」
笑みを含んだ榊の声。美咲はようやく我に返ると、もぎ離すように少年から視線をそらせた。
確かに榊の言うとおりだ、と思った。常識で考えても、抜き身の真剣を堂々と持ち歩く人間などいるはずがない。とはいえ少年がいったい何者で、どのような素性の持ち主なのか、美咲には想像もつかなかった。
「なんていうんですか、その人の名前」
自分自身を納得させるために、美咲は尋ねた。榊はかすかに眉根を寄せ、やや困惑した様子で口を開きかける。
そのとき、少年が初めて唇を動かし、抑揚を欠いた声で呟いた。
てるのすけ、と。
少年の持つ刀をちらりと一瞥してから、榊は美咲に視線を戻して言った。
「たち……そう、館《たち》輝之介《てるのすけ》といいます」
2 呪われた家
館輝之介という名の少年が四谷寮を訪れてから、数日後の日曜日。
美咲は隣に住む畑中《はたなか》妙子《たえこ》と共に、ハンバーガーショップで遅めの昼食を摂っていた。予備校の自習室から帰る途中のことである。
店内は若い男女で一杯だった。楽しげに響くカップルの笑い声が、美咲の心に冷たく突き刺さる。
「……それで、何か分かった? あの館っていう男の子のこと」
「ぜーんぜんダメね」
氷の溶けたコーラをまずそうにすすって、妙子は肩をすくめてみせた。
「榊のおじさん、どうしても教えてくれないのよ。本人に聞こうにも、滅多に部屋から出てこないから捕まえられないし。まさに謎の美少年って感じ。四谷女子寮も、ますます怪しくなっていくわね」
「ますますって……どういうこと?」
美咲が尋ねると、妙子は目を丸くして逆に問い返した。
「あれ、知らないの? そっか、じゃあ教えない方がいいかもね」
「ひどい。そんなふうに言われたら、余計に気になるじゃない」
美咲が口をとがらせる。妙子は笑ってごまかそうとしたが、美咲が重ねてうながすと、渋々といった感じで話しはじめた。
「まあ、どこにでもある怪談なんだけど。四谷寮の建っている場所には、昔は <九十九堂《つくもどう》> っていう骨董品の店があってね。店の主人が死んだ後、うちの予備校が土地を買い取ったそうなの。で、店を取り壊して今のアパートを建てたんだって」
「ふーん……」
美咲は大人しくあいづちを打った。
「問題は、九十九堂の主人が死んだ理由なのよ。押しこみ強盗に刺し殺されたとか、地上げ屋の脅しを苦にして自殺したとか言われてて、本当のことはよく分からないんだけどね。まあ何にせよ、無念の死を遂げた主人の怨みのせいで、四谷寮に住む生徒たちには色んな不幸な出来事が起こるって言われてるのよ。お財布を落としたり、彼氏にふられたり、ふとしたはずみで怪我したり……ばかばかしいと思う?」
「ううん、思わない。だって、華蓮はあんな死に方をしたんだもの」
悲しげなため息をついて、美咲は頭を振った。
妙子も顔を曇らせ、
「だよね。ドライバーが脳溢血で意識を失ってたなんて、偶然とはいえ余りにも不幸すぎるよね。寮を出て引っ越そうかなって、あたし本気で思っちゃった」
二人の間に沈黙が落ちる。暗くなりかけた雰囲気を変えようとしたのか、妙子がちらりと笑みを作って言った。
「でも、知らなかったな。美咲があの男の子に興味あっただなんて」
「そんなのじゃないってば!」
否定する美咲の声が、必要以上に大きくなる。
館輝之介、と榊が美咲に紹介した少年は、あの夜から榊の部屋で寝起きしていた。
むろん、本来なら女子専用の寮に、若い男性が住むことなど許されない。しかし、寮に住む生徒たちの間では、予備校の教務に告げ口したりしない、という暗黙の約束が交わされていた。
いくら謎めいた風情の美少年だからとはいえ、あまりに無警戒ではないかと美咲は思う。実際のところ、美咲は館輝之介に対して警戒心を抱きこそすれ、とても興味を覚えるどころではない。彼女は輝之介が初めて来たときの、あの異様な姿を目撃しているのだから。
だが、美咲が強い口調で否定した理由を、妙子は誤解したらしい。悪戯《いたずら》っぼい表情で、美咲の顔をじっとのぞきこんでいる。
「彼氏なんていつでも作れるんだから。ちゃんと今のうちに勉強しないと、あたしみたいになっちゃうぞ」
「妙子……」
友人の言葉に込められた自嘲の響きを、美咲は感じた。
大学受験を早々にあきらめ、遊び暮らしている妙子は、美咲にとって羨望の対象だった。あんなに自由に遊べたら、どんなに楽しいだろうと思っていた。
しかし、それは間違いだった。妙子が持っているのは未来の見えない自由、袋小路の自由だったまるで鬼のいない隠れんぼのような。
「そろそろ出ようか」
ふんぎりを付けるように言って、妙子は席を立った。自分のと美咲のと、空になった二つのトレイを両手に持って、すたすたと歩き出す。
「……ごめんね、妙子」
つややかな髪が揺れる背中に向かって、美咲はささやきかけた。さまざまな思いが入り交じって、彼女にそう言わせたのだ。
妙子はびっくりしたような表情で振り返り、美咲の顔をまじまじと見た。
「やだ。そんな真剣な顔で言われるほどのことじゃないってば」
妙子は勘違いしていた。美咲が口にしたのは、自分のトレイを下げてくれたことに対する礼の言葉ではないのに。とはいえ、その真意を正確に伝えるのはおそらく不可能だろう。
店から出ると、外は梅雨どきには珍しいほどの晴天だった。部屋にこもっているのがもったいないような青空を、美咲と妙子はまぶしそうに見上げた。
「じゃあね、美咲。あたし、ちょっと約束あるから……」
ちらりと腕時計をのぞいてから、妙子がすまなさそうに言った。美咲はうなずき、笑顔で手を振ってみせる。
「館っていう子のこと、何か分かったらまた教えたげるね」
そう言い残すと、妙子はきびすを返して雑踏の中に消えてゆく。美咲はその後ろ姿をしばらく見送ってから、新宿通りを寮の方角に向かって歩き出した。
寮に近づく一歩ごとに、美咲の心のなかで不安が膨れ上がってゆくような気がした。妙子にはすまないが、四谷寮の怪談など聞かなければよかったと思う。
館輝之介の素性も、依然として謎のままだ。直後、榊か輝之介本人に尋ねてみようとも思うが、口下手な美咲ではとうてい埒があかないだろう。あの活発な妙子でさえ何も聞き出せなかったのだから。
美咲は浮かない気分のまま、うつむきがちに歩き続けた。新宿通りを四谷駅の方向に十数分ほど行き、そこで寮へと続く裏道に入る。
そして、ようやく寮の建物が見えるあたりまで帰り着いたとき。
美咲の目に、凶々しく明滅する赤い光が飛び込んできた。
寮の真正面に、一台のパトカーと救急車が停《と》められていたのだ。
一階の一室から出てきた数人の暫官が、今まさに担架に乗せた人間を救急車に運びこもうとしていた。
その部屋の住人が誰であるか、もちろん美咲は知っている。名前は瀬川《せがわ》ひとみ。プライベートな付き合いはないが、予備校で顔を合わせたときには言葉を交わす仲だった。
担架に被せられた白い布は、ひとみの頭から足先までをすっぽりと隠していた。その事実が何を意味するのか、むろん美咲にも見当はつく。
吉永華蓮に続いて、寮の住人がまたひとり死んだのだ。
先刻の妙子の話が、美咲の脳裏に忌まわしくよみがえる。
呪われた家――駿河予備校四谷寮。
華蓮の死が、四谷寮にまつわる呪いのせいだなどと、本気で考えていたわけではない。
しかし、わずかひと月と経たない間に、二人もの住人が還らぬ人となろうとは。
次は自分が死ぬ番ではないか、という非理性的な恐怖が陶にこみ上げてくる。
どきどきと鼓動が速くなり、膝が頼りなく震えていた。
(逃げなきゃ)
恐怖で錯乱しかけた頭に、そんな思いがちらりと浮かぶ。
足音を忍ばせて後ずさり、きびすを返しかけて、美咲はぴたりと動きをとめた。
(あれは……)
寮の建物から少し離れた所に、榊長造と館輝之介が立っているのを見つけたのだ。二人はべつだん取り乱すでもなく、立ち動く警官たちの様子を眺めていた。
美咲はしばらく躊躇してから、意を決して二人の方に歩いていった。彼らには、どうしても聞いておきたいことがある。
「ああ、外村さん」
近づいてくる美咲の姿を認めて、榊が神妙な表情で一礼した。隣に立っていた輝之介も、半瞬遅れてそれにならう。
輝之介が着ているのは着物ではなく、ごくありふれた若者らしい洋服だった。しかし、肩にゴルフのクラブケースを担いでいるのが奇異に映る。
美咲は我知らず身構えていた。初めて輝之介が現われた夜、その右手に握られていた刀を連想したのだ。あの凶々しい銀色の輝きは、今でも鮮烈に脳裏に焼きついていた。
輝之介は身じろぎもせずに、美咲の視線を真正面から受け止めている。
「館さん。あなたはどういう人なの。いったいどこから来て、何をしてるの?」
美咲はあえて、短刀直人に質問をぶつけてみる ことにした。
輝之介は、しばしの間沈黙していた。すらりとした全身から漂う雰囲気は鋼のように冷たく、そして動かしがたい。美咲の問いに答えてくれるとはとても思えなかった。
だから、輝之介がゆっくりと口を開いたとき、美咲はむしろ驚いてしまった。もっとも、その返答は美咲を得心させるものではなかったのだが。
「……分からない」
と、輝之介は言った。張りをまったく欠いたうつろな声で。
「何も思い出せない。ただ、ここに来なければならないような気がして……」
「記憶を失っているんですよ」
榊が助け船を出す。美咲は眉をひそめて、輝之介と榊を交互に見比べた。
記憶喪失などという、まるでフィクションのような言い種は、にわかには信用しがたいものだ。ただ、少なくとも輝之介の表情や雰囲気から察する限り、偽りを述べているとは感じられなかった。
美咲はそれ以上の追及をあきらめて、榊に向き直った。
「瀬川さんは、どうして死んだんですか」
「部屋で首を吊ったんですよ。可哀想に、よほどショックな事があったんでしょう……」
「この寮はいったい、どうなってるんですか!?」
美咲の声が、尻上がりに甲高くなってゆく。淡々とした榊の口調に、感情を逆なでされたのだ。だが、榊はまるで動じたふうもなく、
「外村さん、あなたも信じているのですか。この寮にまつわる伝承を」
「信じてたらどうだっていうんですか」
「有難いことです。あなたのような人がいるからこそ、私は生きてゆける」
謎めいた含み笑いを浮かべて、榊はさらに言葉を続けた。
「この寮が本当に呪われているとしたら、どうするつもりですか」
「出て行くに決まってるじゃないの!」
美咲はヒステリックに叫び、きずすを返して二人のもとから走り去った。
寮の前身に関する話や、輝之介と榊の関係など、本当なら聞いておきたいことはいくつもある。しかし、美咲の神経は異常なほどたかぶっていて、とても落ち着いて話のできる状態ではなかった。
「……」
遠ざかってゆく美咲を、輝之介がつと追いかけようとする。
その肩を掴んで、榊は冷たい表情で頭を振った。
「放っておくのだ。あの女は、しょせん私たちとは違う存在なのだからな」
3 何処《どこ》にも行けない
霧のように細かな雨が、夜の街の風景をぼんやりとにじませている。
美咲はあてもなく街をさまよい、疲れ果てて公園のベンチに座りこんでいた。
生暖かい梅雨の夜であるにも拘《かかわ》らず、雨に濡れそぼった身体は凍えそうに冷たい。両手で自分の肩を抱いて、美咲はがたがたと震えた。
「どうしたんですか。どこか具合でも?」
人の好さそうな、ずんぐりしたひとりの中年女性が、美咲にそう声をかけてきた。
「そんなに雨にうたれて。よろしければ傘をお貸ししましょうか」
「……いえ、平気です。だいじょうぶですから」
美咲は弱々しい笑みを浮かべて、美咲は頭《かぶり》を振ってみせた。
ふらふらとベンチから立ち上がり、その場から歩み去ろうとする。心配してもらえるのはありがたいが、今は誰とも話したくない気分だった。
とはいえ、これからいったいどこに行けばいいのだろうか。
分からない。分からない……。
ただ、少なくとも寮に戻るつもりはなかった。
「どこにも行けぬよ」
不意に、背後からそんな声が聞こえてきた。聞き憶えのある男の声。
「……榊さん!?」
美咲は跳び上がるほど驚き、ぎょっとして後ろを振り返る。
榊はいなかった。
そこには先ほどの中年女性が、ベンチに座って美咲を見ているだけだ。
彼女は美咲をじっと見つめ、そして言った。
「おまえの戻るべき場所は、ただひとつ」
それは、紛れもなく榊の声だった。
自分の耳で聞き、自分の目で見ている現実が、美咲にはどうしても信じられなかった。
(もしかして洋画の吹き替えみたいに、この人の口の動きに合わせて、どこかに隠れた榊が喋っているんじゃ……)
それとも実は、榊には女装癖があったとか。そのような、馬鹿げた考えすら浮かんでくる。目の前にいる小柄で太った中年女は、長身の榊とは似ても似つかないというのに。
はたりと傘をたたんで、眼前の人物が立ち上がった。
水たまりをよけようともせず、美咲に向かってまっすぐに歩き出す。
瞬きもせずに美咲を凝視しながら、女の唇が半月の形に吊り上がってゆく。その不気味な笑みを目にしたとき、美咲の背筋に冷たい戦慄が走りぬけた。
美咲は相手に背を向けると、弾かれたような勢いで駆け出した。
捕まったら殺される、という本能的な恐怖が、美咲に尋常でない力を与えていた。足首まで届くジャンパースカートのボタンがちぎれ、裾がはだけるのにも構わず、美咲は髪を振り乱して夢中でひた走った。
陶が燃えるように熱く、息苦しさに目がくらむ。先ほどの女は追いかけてこなかったが、それでも美咲は走るのをやめなかった。
工事中のビルの角を曲がると、新宿通りが見えてきた。
もうすぐだ。大通りに出れば人気もある。とにかく、明るくて人のたくさんいる場所に出れば、少しは安心できるだろう。
かすかな希望に元気づけられて、美咲はさらに足を速めようとした。
しかし――
「ああ……!」
ようやく奮い起こした最後の気力が、雲散霧消してゆくのを美咲は感じた。
美咲の前方から、すさまじい速さで向かってくる者がいたのだ。
館輝之介だった。榊が知己だと言って部屋にかくまっていた、謎めいた不気味な少年。
驚愕と戦慄のなかで、美咲は悟っていた。
姿形こそ人のものであっても、輝之介が人間ではありえないことを。
輝之介はまるで夜光虫のように、全身から青白い光を放っていたのだ。身に着けている着物も、同じ色にぼうっと光っている。ただ、腰の帯に差した太刀の鞘だけが、闇そのもので造られたような黒だった。
人間には不可能な速度で疾走しながら、輝之介は腰に手を伸ばすと、鞘に納めた刀をぎらりと抜き放った。
(……あたしを斬り殺すつもりなんだ!)
その凶々しい銀色に光る刃を見たとたん、美咲の身体から急激に力がぬけていった。もとよりとうに体力の限界は超えていたのだ。
美咲は足をもつれさせ、硬いアスファルトの上に倒れこんだ。
水しぶきがはね上がり、顔や衣服に薄汚れた染みとなって広がってゆく。
(もう……だめ……)
ばっさりと斬り殺される自分の姿を脳裏に描きながら、美咲は気を失った。
輝之介は美咲との距離を瞬時に詰めるべく、一陣の風のように跳躍した。
烈しい気合いの声をほとばしらせ、両手で構えた刀を一閃《いっせん》させる。
ぎいいんっ、という異様な音が、夜の空気を震わせた。
「何とか間に合ったか……」
安堵の息をついて刀を鞘に納め、自らが両断したものを無表情に眺めやった。
ひと抱えほどの太さをした[#「ひと抱えほどの太さをした」に傍点]、一本の鉄骨[#「一本の鉄骨」に傍点]。
工事中のビルの屋上に積まれていたそれは、美咲が真下を通りがかった瞬間、彼女の頭上めがけて落ちてきたのだ。もしも輝之介が両断しなければ、美咲は頭部を直撃され、即死していただろう。
ぼうっと青白く輝くおのれの姿を、輝之介は不思議そうに観察した。
「この俺の姿――榊が言っていたのは、こういう事だったのか」
人々のさまざまな想い≠ノよって、無から生命が誕生することがある。あるいは、本来なら生命を持つはずのないものが、生命や自我を具《そな》えるようになることも。人々が信じ続けることによって、伝説が現実となることもある。
そういった、通常ならざる存在が「妖怪」と呼ばれるものだ。ある者は人間の社会に溶けこみ、またある者は人里離れた地に隠れて、妖怪たちは生きているのである。
幻の銘刀と謳《うた》われた五代目村正――それが輝之介の本性だった。輝之介とは彼をもっとも愛し、必要としてくれた若い侍の名だ。
「だが……分からぬ」
輝之介は口の中でつぶやいて、ぐったりと倒れている美咲を見下ろした。
「何故だ。何故に俺は、この人間を救わねばならぬと思ったのだろうか」
人の生命を奪うための道具として、この世に生を享《う》けた自分が。
4 今一度《いまひとたび》の目覚め
「ようやく思い出したようだな、輝之介。自分が、いったいいかなる存在であったのか」
古めかしい安楽椅子に深々と腰かけて、榊は謎めいた笑みを浮かべている。口髭をたくわえたその端正な顔を、輝之介は黙然と見つめていた。
ここは、四谷寮の一階にある榊長造の部屋だ。
生徒用の部屋よりもゆったりと造られているのだが、ほとんど家具が置かれていないせいか、実際以上に広く見える。
「おまえは、取るに足らぬ愚かな人間とは違うのだ。人間どもを、自分と対等の存在だなどと考える必要はないのだよ」
榊がさらに言葉を続けようとしたとき、輝之介が初めて口を開いた。
「榊どの。そなたの本性は何なのだ」
「まだ、記憶が完全には戻っていないのか」
榊の問いに、輝之介は小さく首をうなずかせた。
輝之介が思い出したのは、五代目村正という自分の本性と、かつて自分を所持していた侍にまつわる記憶だけだ。雨の街をさまよい、四谷寮にたどり着くまで何をしていたのか、それはいまだ定かではなかった。
「かつて、この場所には一軒の店があった」
しばしの沈黙の後、榊はそう切り出した。
「名を <九十九堂> という。古い美術品を扱う店だったのだが、おまえのような、生命を得た器物の妖怪たちが寄り集まる場所でもあった。人間どもの目から隠れて、妖怪たちはひっそりと暮らしていたのだ。しかし、あるとき争いが起こったのだよ……」
榊は言いながら、ちらちらと探るような視線を輝之介に注いでいる。輝之介はいぶかしく感じながらも、榊の話をうながした。
「争い?」
「そう。些細な考えの行き違いから、九十九の妖怪たちはふた手に分かれて相争ったのだ。死力を尽くした戦いの末、妖怪たちは滅んでしまった……生き残ったのは私ひとりだけだ。いや、おまえを含めて二人と言うべきか」
「俺を含めて……ということは、俺はかつて九十九にいたことがあるのか」
「そうだ。だからこそ、記憶を失いながらもここに戻ってきたのだろう。本当に、憶えていないのか?」
榊は相変わらず、輝之介の表情を慎重に観察している。その視線を意識しながら、輝之介は暗然とうなずいた。
「九十九の妖怪たちが争ったとき、俺はどうしていたのだ? そもそも、何故に妖怪たちが争わねばならなかったのか、それすらも思い出せぬのだ……」
「ならばあえて知る必要はあるまい。私が語らずとも、おのずと記憶がよみがえることもあろうよ」
榊はそう言って口をつぐんだ。それ以上、詳しい説明をするつもりはないらしい。輝之介は追及をあきらめ、話の矛先を元に戻した。
「そなたの本性が何であるのか、まだ教えてもらっていないようだが」
「逆さ柱だよ。人間どもは信じているのだ――切り出した木の上下を逆さまにして柱にすえると、その家の住人に災いが振りかかると」
輝之介の顔色をうかがいながら、榊は思いきったように言った。
「伝説にあるとおり、私はこの家に住む人間どもに災いをもたらすものだ」
「人間に災いをもたらすだと?」
輝之介が眉をつり上げると、榊は肩をすくめて言い放った。
「人間どもが肉や魚を喰らうように、私は人間の嘆きや絶望の念を糧としている。それだけのことではないか」
「……」
輝之介は言葉に詰まった。榊の言い分は理解できるが、心のどこかに納得しかねる部分がある。だが、なぜ納得できないのかは分からなかった。
「妖怪の中には、人間に肩入れする愚かな者もいるのだが、おまえもそういった連中のひとりなのか、輝之介よ」
榊の声に、ふとしたたるような憎悪がにじむ。その口調から、輝之介はおぼろげに推測した。九十九に集《つど》った妖怪たちが争った原因とは、人間に対するとらえ方の相違によるものではないか、と。
「有りえざる生命を得た者として、あらゆる妖怪は同朋のはずだ。なぜ人間ごときをかばい、同朋である妖怪を滅ぼそうとする?」
沈黙する輝之介に向かって、榊が口惜しそうに言いつのる。よほど凄惨な妖怪どうしの殺し合いを、おそらく榊は見てきたのだろう。
安楽椅子の肘かけを苛々《いらいら》と指で叩いて、榊が立ち上がった。見守る輝之介を歯牙《しが》にもかけぬ様子で、扉に向かってすたすたと歩き出す。
「どこに行くのだ?」
輝之介が問うと、榊は首だけを振り返らせ、怒りの余韻を漂わせて輝之介を見やった。
「食事だ」
無雑作に言い捨て、榊が部屋を出てゆく。
妖怪どうしがなぜ争うのか、という榊の悲しみは分かる。しかし、榊が人間に災いをもたらすのを、肯定することはどうしてもできなかった。
(どうすればよいのだ、俺は……?)
扉の閉ざされる音を背中に聞きながら、取り残された輝之介は、答えを決めかねて独り立ちつくしていた。
(ここは……?)
美咲が目を覚ますと、そこはいつもの見慣れた彼女の部屋だった。
枕元の夜光時計は、午後十一時五十分を示していた。中天に差しかかった満月の光が、室内をうっすらと照らしている。
先ほどの異常な体験はすべて夢だったのではないかと、美咲はふと思った。服を着たままとはいえ、彼女はきちんと布団に横になっていたのだから……。
しかし、全身に満ちた並々ならぬ疲労感と、服についた泥水の染みが、あれは紛れもない現実だったのだと美咲に告げていた。
(じゃあ、あたしはどうして自分の部屋に? あの男は、確かに刀であたしを……)
布団からはね起きて、美咲は蛍光灯のスイッチを点《つ》けた。身体に痛みは感じないが、いちおう斬られた傷がないか確かめてみる。
どこにも怪我はなかった。転んだときに膝をすりむいた程度だ。気を失ってから、いったい何があったのだろうか。いぶかしみながらも、美咲は自分が生きていることに安堵せずにはいられなかった。
榊と輝之介が何者なのかは分からない。四谷寮にまつわる呪いによって、本当に二人もの人間が生命を落としたのか、それも明らかではない。ただ、ひとつだけ言えることは、常識や科学の範疇を超える現実が、確かに存在するということだ。
化け物の住む呪われた家にとどまるのは、もはや一瞬たりともごめんだった。財布と銀行の通帳だけを手にして、美咲は部屋を飛び出そうとした。
と、そのとき。
カツ……カツ……誰かが廊下を歩く足音が、扉ごしに聞こえてきた。
(館だ! それとも榊!?)
確たる根拠はなかったが、直感的にそう思った。
美咲は扉のノブから手を離し、逃げ場所を求めて室内を忙しく見回した。
むろん、六畳とユニットバスだけの狭い部屋に、逃げ隠れする場所など見つからない。代わって美咲の目にとまったのは、洗い物用の籠に置かれた包丁だった。
美咲はキッチンに行って包丁を引っ掴むと、ふたたび扉の前に戻った。
扉の覗き穴に顔を近づけ、外の様子を恐る恐るうかがう。
廊下を行く人物は、今まさに、美咲の部屋の前に差しかかったところだった。
(ああ……!)
絶望と恐怖が、美咲の胸を苦しいほどに締めつけてゆく。
やはり、榊だった。鍵束を手に、舌なめずりするような笑みを浮かべている。
美咲は腰をかがめ、包丁の柄をしっかりと握り直した。
榊が入ってきたら、思いきり身体ごとぶつかってゆく。一連の動きを頭の中で何度も反復しながら、美咲は、扉の開けられる決定的な瞬間を待った。
全身をがたがたと震わせながら、それでも必死の勇気をふり絞って待ち受けるうちに、どれほどの時間が過ぎただろうか。
扉が開けられる気配はなかった。
榊の足音は、美咲の部屋の前を通り過ぎ、やがてだんだんと遠ざかっていった。
「よかった……」
美咲は思わず声に出してつぶやき、深い深い吐息をついた。助かったのだという安堵感が、甘い美酒のように心身に広がってゆく。
しかし、美咲の部屋から数歩離れた所で足音が止まり、鍵束をまさぐるガチャガチャという音を耳にしたとき、心地よい虚脱感は一瞬にして消し飛んでいた。
榊の狙いは美咲ではなく、彼女の隣室の住人だったのだ。
陽気で活発な美咲の友人、畑中妙子。
(このままじゃ妙子が殺されちゃう……どうしよう!?)
美咲は、内心で悲痛な叫びをもらした。
警察を呼ぼうか? いや、それではとうてい間に合わない。榊は今にも凶行に及ぼうとしているのだから。
分かっているのだ。妙子を救えるのは、自分しかいないということは。
妙子を助けたいと願う気持ち、危険を冒したくないという気持ち。ふたつの思いに揺さぶられ、美咲は髪をかきむしった。
しかし、ふと脳裏に浮かんだ吉永華蓮の顔が、美咲の心を決めさせていた。
かつて、車にはねられた華蓮の死を目の当たりにしたとき、美咲はある過ちを犯した。
理不尽に生命を断ち切られた華蓮に対し、友人としてあるまじき気持ちを抱いてしまったのだ。
自分よりも成績の良い華蓮がいなくなれば、すなわちライバルがひとり減るのだと。
もしも妙子を見殺しにすれば、自分はまたしても過ちを犯すことになってしまう。
美咲は扉を押し開け、決然と部屋の外に飛び出した。
かつて犯した過ちを、今こそ償うべき時だった。
榊はまだ、妙子の部屋に入ってはいなかった。包丁を構え、決死の形相で現われた美咲を、驚いた様子で振り返っている。
しかし、端正なその顔に浮かんだ驚愕の表情は、すぐに不気味なほど落ち着いたそれに取って代わった。
「ほほう――これはこれは」
まるで虫けらでも見るような、蔑《さげす》みに満ちた目で榊は美咲に一瞥をくれた。
「刃物など持ち出して、勇敢なことだ。だが、そんなもので私をどうにかできると思っているのか?」
「うわああーッ!」
悲鳴とも、気合いの声ともつかない叫びが、美咲の喉からほとばしった。
美咲は身体の真ん中に包丁を構えると、悠然とたたずむ榊めがけて思いきりぶつかっていった。
両手で構えた包丁の刃は、確かに榊の身体をとらえていた。
しかし、榊はまるで痛痒《つうよう》を覚えた様子を見せない。切り裂かれた服の下にのぞく榊の肌からは、一滴の血すら流れてはいなかった。
愕然と立ちすくむ美咲を、榊が無雑作に殴りつける。
それほど力を込めたようには見えなかったが、美咲の身体は凄まじい勢いで宙を飛び、背後にある廊下の鉄柵に叩きつけられた。
美咲の手から包丁が離れ、回転しながら階下に落ちてゆく。鉄柵にぶつかった衝撃の激しさに、美咲は立ち上がることすらできず、ずるずるとその場にくずおれた。
残忍な笑みに唇を歪めて、榊が美咲に向かって足を踏み出そうとする。
そのときだった。
「待つのだ」
榊の後方から、きっぱりとした声が聞こえてきた。
輝之介だった。妖怪の本性を顕わし、全身を青白く光らせている。刀を腰に差したまま、輝之介は榊と美咲の間に立ちはだかった。
「榊よ。人に災いをもたらすのが糧とはいえ、生命まで奪うことはあるまい」
「妖怪としての本性を取り戻したばかりで、まだよく分かっておらんようだな、輝之介。人間の無念さや悲しみを私が必要とするのは、ただ生命をつなぐためだけではなく、至上の歓びを求めてのことだ」
榊はクックッと笑った。
「そして、私にとって人間の死にまさる甘美な味わいはない。それも不幸な偶然の産物ではなく、自らの手で直接もたらす死がな。我ながら欲が深いとは思うが、この貪欲さはそもそも人間から授かった性なのだよ」
「……確かに俺は、人間について深く理解しているとは言えぬかもしれない」
青白く光る全身の輪郭をゆらめかせ、輝之介は懊悩した。かつて、自分を所持していたある男のことを、輝之介は思い出していた。
中里啓介という名のその男は、権力を欲する野心家だった。輝之介は生命《いのち》がけで仕えたものの、忠誠が報われることはなかったのだ。
「だが、この娘はおそらく友を守るために、生命がけで榊に向かっていった。その勇気はかけがえのないものではないか……」
それに、と輝之介は思う。
確かに、人間は醜さや貪欲さを抱えた存在だ。高潔な部分もあるにせよ、それは葛藤なくして示されるものではない。しかし、その葛藤があるからこそ、人間とは貴い存在なのではないか。
「この娘の示した勇気、友を思う心……それらは俺の内にもある。妖怪が、人間の想いから生命を授かった存在であるならば、俺の内にある侍の魂もまた、人間から授かったものであるはずだ。それゆえ、俺は人間を信じる」
「私の邪魔をする者は、たとえ同朋であろうと容赦はせんよ。おまえはなかなか手ごわそうだが、この私とて捨てたものではないぞ」
榊の全身から、めらめらと殺気が立ちのぼる。
「さあ、輝之介よ。始めようではないか」
輝之介は、刀に手をかけようとはしなかった。
だらりと両手を下げたまま、目を伏せて頭《かぷり》を振るばかりだ。
榊は不敵に笑い、さらに言葉を続けようとする。
そのとき、輝之介が意を決したように、ゆっくりと刀を抜き放った。
幻の銘刀と謳われた五代目村正――凶々しくも美しい銀色の刃が、月明かりに濡れて冴えざえと輝きわたる。
限りない悲しみをにじませて、輝之介は静かに告げた。
「……始めるのではない。これでもう終わりにするのだ」
[#地付き] <了>
「コンプRPG」96年6月号 掲載