飛剣術士アグリー
−非恋−
白井信隆
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)飛剣術士《ソードシューター》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)胸|躍《おど》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〈終〉
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[#表紙(飛剣術士 アグリー 非恋c.jpg)]
[#挿絵(飛剣術士 アグリー 非恋g.jpg)]
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アグリーは
独り言を呟くように
静かな口調で
語り始めた……
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最も弱い戦士のサーガ
飛剣術士《ソードシューター》アグリー −非恋−
[#地から2字上げ]著◎…………………白井信隆
[#地から2字上げ]イラスト◎…………ヤスダスズヒト
Profile
白井信隆
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○ 犬のくせに小説を書くナイスガイ。ただ、犬なのでやっぱり『強気に弱く、弱気に強い』ところが玉にきず。現在、イヌ科史上初のノーベル文学賞を目指し修行中(オイオイ)。得意技は、お腹を見せての『ゴメンなさい』。第5回電撃ゲーム小説大賞金賞受賞作家。
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やすだすずひと
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○ ワサビとミニスカートに固執する大阪人。なんにでもワサビをつけて食べるがキムチの素も捨てがたい。特技は季節の変化についていけないこと。毎年15回は風邪ひいてます。ご意見ご感想等待ってます。
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数多《あまた》の小王国が、騎士《きし》の槍《やり》と軍馬の数で覇権《はけん》を争い続ける、ガーランド地方。
百数十年にわたる戦乱で、荒廃《こうはい》し尽《つ》くしたガーランドに、異彩を放つ大都市があった。
『|常春の都《パーペチュアル・スプリング》』ムルシアである。
その並外れた文化と技術を誇《ほこ》る百万人都市《メガロポリス》ムルシアの、巨大な石造りの街並みが広がる商業区の一角で、少年は右手に木剣《ぼっけん》を握《にぎ》りしめたまま、倒《たお》れていた。
一三歳を過ぎ、やっと人並みに背が伸び始めたばかりの彼は、同世代の子供達と比べるとかなり小さい。そして、石畳《いしだたみ》の上に横たわる小さな体は、今や擦《す》り傷と痣《あざ》だらけである。
痛みと疲労《ひろう》で息の荒い少年を、四人の男達が取り囲んでいた。
少年へ侮蔑《ぶべつ》の視線を向ける彼らは、特注の全身用鎖鎧《チェインメイル》に身を包み、二本の剣を十字に交差させたような護拳《ごけん》の片手剣《ノーマルソード》を腰に吊《つ》っている。
少年が知る限り、このチェインメイルと十字の護拳は、ガーランド広しといえども、ムルシアで一、二を争うエリート警護団、『飛剣戦士《ひけんせんし》』の団員だけだ。
「けっ、しぶといガキだ。まだ、こんなモン握ってやがる」
いまいましげに呟《つぶや》き、四人組のひとりは少年が右手に握った木剣を――最後の最後まで抵抗《ていこう》の意思の表れとして離さなかった木剣を、思い切り蹴《け》り飛ばす。
石畳の上を滑《すべ》ると、木剣は広場の噴水にぶつかり、乾いた音を立てた。
――ちくしょう、オレの剣になにしやがる!
もう四年来のつき合いとなる、自分の愛剣が足蹴《あしげ》にされたことに、少年は内心、抗議の声を上げる。しかし、体も口も、全く少年の意志に従わない。
その時、怒《いか》りに顔引きつらせた、四人組のリーダーらしいひげ面《づら》の男が、少年の前へと歩みでた。男は全身、牛乳まみれだった。
「これだけなめたマネをしてくれたんだ。それなりの落とし前をつけてもらわないとな」
ひげ面の男は、怒気《どき》をはらんだ冷徹《れいてつ》な声で、そう告げた。続いて、剣を鞘《さや》から引き抜く時の、擦《こす》るような金属音。
――げげっ、やばい……!
内心で焦《あせ》りつつ、少年は必死になって、顔を上げる。同時に、その鼻面へ、ノーマルソードの切っ先が突《つ》きつけられた。
「…………」
銀色の死神を眼前にして、少年は無言のまま、恐怖に固まる――。
事の発端《ほったん》は、詰《つ》まらないことだった。
毎朝の日課となっている牛乳の買い出しに、少年は朝市へとやってきた。そこで、この四人組に因縁《いんねん》をつけられ、絡《から》まれたのである。
「靴《くつ》をなめたら、許してやるぜ」
この言葉に、少年のプライドは刺激された。
思わず、少年は背中のミルクボトルを、四人組のひとり――ひげ面へ投げつけ、頭から牛乳をぶっかけてしまったのだ。
当然、少年は素早く逃げようとしたのだが、あっさりと捕まってしまい、瞬《またた》く間に袋叩《ふくろだた》きにされ、今こうして石畳の上に転がされている。
もちろん、少年とて、いつも持ち歩いている腰の木剣で、激しく抵抗した。しかし、彼の我流《がりゅう》剣術など、手練《てだれ》ばかりを集めた『飛剣戦士』の団員に、通じるわけがなかったのである。
「まずは、右手だ」
宣言すると、報復に燃えるひげ面は、ノーマルソードをゆっくり振り上げた。この後に訪れるであろう、激痛と惨劇《さんげき》を想像し、少年は恐《おそ》ろしさのあまり、目を見開く。
「そこまでだ!」
突然《とつぜん》、見物人達の中から、凜《りん》とした女性の声が飛んだ。次の刹那《せつな》、一瞬にして数メートルの距離を詰め、灰色の髪の女性が、少年をかばうような形で、ひげ面の前へ立ちはだかる。
不意に、女性の全身をすっぽりと覆《おお》うコートの前面が、勢いよく跳《は》ね上がった。直後、彼女の右手に握られた刀が、電光石火の速さで翻《ひるがえ》り、ひげ面の眼前に銀の閃光《せんこう》を描く。
その斬撃《ざんげき》に遅《おく》れること数瞬、ひげ面の振り上げたノーマルソードの刀身が、半ばで折れ、石畳の上へ落ちたのである。そして、折れた刀身は、鈴のように美しい音色を立てた。
刀で剣を切るという、絶技を前にして、少年は感動に胸|躍《おど》り、見物人達は賞賛《しょうさん》の溜《た》め息を吐《つ》き、ひげ面と残りの三人は恐怖に震え上がる。
そんな四人組を、女性はコートの裾《すそ》から刀の切っ先を斜《なな》め下に垂らしたまま、睨《にら》む。
「まったく、守るべき市民に、剣を向けるとはな。よくもまあ、そこまで『飛剣戦士』のレベルを落としてくれたものだ」
女性が言い放つと、ひげ面は突如《とつじょ》、弾《はじ》かれたように仲間三人のところまで飛び退《すさ》った。そのまま、青い顔で、滝のような汗を流す。
「も、もしや、あんたがあの『白き鋼《はがね》のアグリー』なのか……?」
「ご名答」
ひげ面の問いに、女性――『白き鋼のアグリー』は、不敵な笑みを口元に浮かべる。
『白き鋼のアグリー』の名が出た途端《とたん》、中央広場で声を発する者はいなくなった。
なにしろ、彼女は去年の戦《いくさ》で、東の大国シャー・ボスニアの精鋭《せいえい》『エステノバ巨人兵団』の一〇〇名近い部隊を、たったひとりで壊滅《かいめつ》させたという、凄腕《すごうで》の剣士である。
――この女《ひと》が、『白き鋼のアグリー』……。
思わぬ大物の登場に、少年は胸の高鳴りを覚えつつも、アグリーを改めて見上げてみる。
ボーイッシュな感じで短く整えられた灰色の髪に、艶《あで》やかな褐色《かっしょく》の肌に、抜けるような空色の瞳《ひとみ》に、少し低めな鼻に、厳しく真一文字に閉ざされた唇《くちびる》に、引き締《し》まった美しい首筋。
アグリーの特徴的な容姿は、少年にとって鮮烈《せんれつ》であった。
数秒の静寂《せいじゃく》の後、アグリーは再び口を開く。
「弱い者にしか剣を向けられぬ『|腰抜け野郎《ミルクサップ》』の汚名か、大人しく家に帰ってぐっすり眠るか、好きな方を選ぶがいい。ちなみに、三つ数えても、まだここにいたら、即座《そくざ》に首を落とすからな。じゃあ、いくぞ。ひとつ、ふた……」
「……ただ今より、全速で帰還いたします!」
ひげ面の男が絶叫しながら敬礼したかと思うと、四人は一斉《いっせい》に回れ右をして、脱兎《だっと》の如《ごと》く中央広場から走り去る。
しばらくして、アグリーへ周囲の見物人達より、まばらな拍手が起こった。しかし、アグリーは拍手に応ずる様子もなく、冷ややかな感じで、黙《だま》って刀を腰の鞘へ収めただけだった。
そのせいか、見物人達は騒《さわ》ぎの終焉《しゅうえん》と共に、潮が退《ひ》くようにいなくなってしまう。
朝市が普段の活気を取り戻していく中、アグリーは広場の噴水まで歩き、蹴り飛ばされた少年の木剣を拾い上げる。そして、少年の目前に戻ると、木剣の柄《つか》を差し出した。
「自分の足で、立て」
「…………」
無言のまま、少年は木剣を受け取る。それから、たっぷり十数秒かけて、木剣を杖《つえ》代わりに、痛む体に鞭打《むちう》ち、なんとか立ち上がった。
しかし、両膝《りょうひざ》がガクガクと笑うのだけは、どうしても止められない。それが、ろくな抵抗もできぬまま、四人組に手酷《てひど》くやられたのだという現実を、少年に改めて強く認識させる。
――くそっ、早く止まれってば。カッコ悪いだろ!
女性であるアグリーの手前、少年は自分の弱さが急に恥《は》ずかしくなり、他人の足みたいになった両膝に、内心で八つ当たりを始めた。
すると、アグリーは突然、中腰になって、少年と目線を合わせる。
「少年、戦いに負ければ当然、痛みや犠牲《ぎせい》が伴うものだ。それでも、覚悟《かくご》の上で、勝負を挑《いど》んだのだろう? ならば、その体の傷も痛みも、誇りに思うがいい」
そう告げて、一度うなずくと、アグリーは少年へ背中を向け、歩き始める。
まるで、自分の心を見透《みす》かしたかのようなアグリーの言葉に、少年は驚き、しばらくの間、呆然《ぼうぜん》としていた。しかし、歩み去るアグリーが中央広場端の大きな常緑樹《エバーグリーン》の下に差し掛《か》かった時、少年ははたと我へ返る。
「ま、待ってくれ、アグリーさん! オレを弟子《でし》にしてくれっ」
大声で呼びかけながら、少年はおぼつかない足取りで、必死にアグリーの後を追う。
「弟子……?」
巨木の陰《かげ》で立ち止まり、不審げに問い返すアグリーへ、少年は真剣な視線を注ぐ。
「そう、弟子だっ。なんでもするから、オレに剣を教えてくれ。頼《たの》む!」
ようやく、アグリーの背中に追いすがると、少年はふらつく体を木剣で支え、深く頭を下げた。しかし、立ち止まりこそしたものの、アグリーはなにを思っているのか、肩越しに視線を向けただけで、少年の懇願《こんがん》に一言も返さない。
瞬間、アグリーの沈黙《ちんもく》を拒否の意思表示だと解釈《かいしゃく》し、少年は勢いよく頭を上げて、叫《さけ》ぶ。
「そりゃあ、オレは小さいから、剣術に向かないかもしれないけど……。でも、オレは絶対に腕を磨《みが》いて、今日の連中なんかに負けないような、強くて勇気のある男になりたいんだ!」
アグリーの目を真《ま》っ直《す》ぐ見詰める少年の瞳に、うっすらと悔《くや》し涙が浮かんだ。ひときわ大きい常緑樹の下で、少年は辛抱《しんぼう》強く、アグリーの返答を待つ。その時、なんの前触《まえぶ》れもなく、雪が堰《せき》を切ったように降り始めた。瞬く間に、少年の視界は、灰色一色に染まる。
――やべえ、完全に降りこめられちまった。
思わぬ突然の大雪に、少年は身震いしながら、すぐに戻るからと、薄着で家を出たことを後悔《こうかい》した。これでは、雪の降りが弱まるまで、梢《こずえ》の下から出られそうにもない。
――待てよ。当分の間、身動きが取れなくなったってことは、つまりアグリーさんを口説《くど》くチャンスってワケか。
ふと考え直し、少年は再び、アグリーの方へ向き直る。ところが、降りしきる雪を優《やさ》しく見詰めるアグリーの表情に、少年は心を奪《うば》われ、そのまま言葉を失ってしまった。遠くを見るようなアグリーの横顔は、とても寂《さび》しげで、とても切なげだった。それなのに、どこか楽しそうであり、幸せそうでもある。
「ここで雪が降るのも、なにかの縁か……」
不意に呟くと、アグリーは振り返り、黙り込む少年へ問いかける。
「少年。お前は確か、強くて勇気のある男になりたい、といっていたな?」
「おう……じゃなくて、はい」
反射的に、いつもの言葉づかいで返事をしてから、少年は慌《あわ》てていい直した。
そんな少年を横目に、アグリーは密《ひそ》かに微笑《ほほえ》むと、常緑樹の幹に腰を下ろし、言葉を継《つ》ぐ。
「私は昔、本当に強くて、本当に勇気のある戦士と、会ったことがある。時を待つ間、その戦士の話をしてやろう。どうだ?」
「………えっと、その、お願いします」
一瞬だけ迷ってから、少年は頭を下げ、アグリーの隣《となり》に素早く座った。
正直、弟子入りの一件をはぐらかされたような気もしたが、少年はひとまず、アグリーの話を最後まで聞くことに決める。
純粋《じゅんすい》に英雄へ憧《あこが》れている彼は、一日二度の食事よりも、武勇談《サーガ》を聞くことが好きなのだ。
胸をときめかせた少年の横で、アグリーは降りしきる雪の方へ、ちらりと視線を送った。しばし、続々と降っては、次々と溶けていく雪を眺《なが》め、慈《いつく》しむように目を細める。
それから、アグリーは独り言を呟くように、静かな口調で語り始めた。
「そう、あれはまだ、私が『飛剣戦士』の第二級剣士だった頃《ころ》………」
日の出前の、夜と朝の間《はざま》と言うべき、時刻《とき》。
薄暗い空を頭上に、朝霧《あさぎり》の立ちこめる平原を、私は重い足取りで歩いていた。
時が止まったような、静けさに溝ちた夜明けや、胸の中を洗い流してくれるような、朝の冷たく澄《す》んだ空気が、私は結構、好きだった。
これが、いつもの朝なら、私は軽やかな足取りで、鼻歌のひとつでも歌いつつ、近所の卵屋で大盛りのスクランブルエッグと黒パンを食べてから、朝稽古《あさげいこ》に向かったことだろう。
だが、残念なことに今朝ばかりは、どれひとつとして、期待するだけムダであった。
まず、私の体は、物理的に重すぎる。なぜなら、防寒用の分厚いマントの下には、全身用の|鋲付き革鎧《スタディッド・レザーアーマー》を着け、背中には刀身が一六〇センチを超す両手長剣《ロングソード》を背負い、腰には片手剣《ノーマルソード》を差す、という完全武装中なのだ。
これで、軽い足取りは、少々難しい。
更《さら》に、私はかなり、不機嫌《ふきげん》だった。なにしろ、鋲付き革鎧の上には、無数の返り血が乾いてこびりつき、体の至るところには、血の滲《にじ》んだ包帯が巻かれていた。包帯の下は、どれもこれも軽傷ではあるが、歩くたびにかなり痛む。
はっきりいって、鼻歌を歌う気分ではない。
止《とど》めに、私の歩いている平原は、血生臭《ちなまぐさ》い戦場跡だった。
当然、温かい特製スクランブルエッグなんて、夢のまた夢である。
「ふう……」
小さく息を吐《は》いてから、もう一度、周囲を見回してみる。
何度見ても、私の周りには、無数の死体が転がっていた。朝霧のせいで、平原全体は見渡せないが、どこも同じようなものだろう。
戦場跡といっても、ここで戦があったのは、たった二日前。
小さな林の点在するこの平原で、ガーランド地方|随一《ずいいち》の商業都市ムルシアを盟主とする自由都市連合軍本隊と、パンディウム教|圏《けん》の大国シャー・ボスニアの精鋭『エステノバ巨人兵団』が、交通の要所たる水上都市ザオバーの領有権を巡《めぐ》って、激戦を繰《く》り広げたばかりであった。
一七もの大型都市《メトロポリス》の全兵力と、大国の主力部隊が正面から激突する、総力戦。
これ程《ほど》の大きな戦は、四度の従軍経験を持つ私でも、初めての経験だ。
現在、私の身分は、自由都市連合軍の将校、ということになっている。
といっても、私は決して、専業軍人ではない。日頃は、大都市ムルシアのエリート警護団、『飛剣戦士』の一員。簡単にいえば、本業はボディガードだ。
本名は、アグリーニという。
ただ、異郷生まれの私の名前が発音しにくいのか、ガーランドの人間はみんな、『アグリー』と縮めて呼ぶ。ガーランドの言語では、語尾に『ニ』を付けるか付けないかで、発音の手間がずいぶんと違うらしい。
とにかく、女のくせに、ボディガードだの軍人だの、荒っぽい仕事ばかりしている。
そして、生まれはガーランドから遙《はる》か南、砂漠の多いサーマカルド地方の小国チャナム。
だから、基本的に金髪|碧眼《へきがん》で肌の白いガーランド人と違い、私は灰色の髪と空色の瞳、加えて褐色の肌を持っていた。更に、ガーランドの平均的な女より、よい意味でも悪い意味でも、引き締まった肉体をしている。
白色人種《ホワイト》のガーランド人が大多数の大陸北部において、有色人種《カラード》たるサーマカルド人は、厳しい差別を受けていた。したがって、カラードの上に女、というハンデを持つ私が、ホワイトの男ばかりで構成された『飛剣戦士』に入団できたのは、破格の出世だった。
さて、警護団『飛剣戦士』から一時的に軍属となり、私は今回の『ザオバー攻略戦』に参加していた。まあ、自由都市連合の盟主たるムルシアの精鋭軍団『飛剣戦士』が、大局の趨勢《すうせい》を占う戦に出陣《しゅつじん》しないわけにはいくまい。
そうでなければ、私も戦争になど出なかったろう。だいたい、敵のシャー・ボスニアに恨《うら》みはないし、人殺しも好きじゃない。
ともかく、私は今、ふたつの大きな問題に直面していた。
ひとつは、私が一昨日《おととい》の昼から、なにも食べていないこと。
もうひとつは、今回の『ザオバー攻略戦』で、自由都市連合軍が戦に敗れたこと。
かくして、総|崩《くず》れとなった連合軍本隊は、昨夜のうちに転進し、本陣のムルシアへ引き上げを開始している。シャー・ボスニアの敗残兵狩《はいざんへいが》りが始まる前に、私も早く生き残った部下を集めて、撤退《てったい》しなければならなかった。
だからこそ、こんな死体だらけの平原を、私は重い体に鞭打って、うろついているのだ。
ただ、戦の半ばで、騎馬を失った私は、徒歩で生き残りの部下を捜《さが》す破目《はめ》になっていた。
「くそっ。せめて、馬が一頭あれば………」
愚痴《ぐち》をこぼしつつ、私は部下の姿を求め、視線を周囲へ走らせる。その私の目に映る死体の数々は、ほぼ例外なく異形《いぎょう》だった。
そう、私が率いている部隊の兵士は、カラードや奴隷《どれい》どころか、人間ですらない。彼らは、人間に極《きわ》めて似ているが、全く非なる存在たる、亜《あ》人種族であった。
普通、亜人種族といえば、有名な森精《エルフ》や地精《ドワーフ》といった『優等種《メタヒューマン》』が、誰《だれ》の頭にもすぐに思い浮ぶ。しかし、私の部隊の構成種族は、地妖《ゴブリン》や犬妖《コボルト》や|トカゲ人《リザードマン》といった、辛《かろ》うじて人間の言語を解する程度の、奴隷よりひどい待遇を受ける『劣等種《デミヒューマン》』だった。
連中によって構成された軍団は、外人部隊《フォーリン・レジオン》ですらなく、人外部隊《デミヒューマン・ユニット》と呼ばれる。
そして、常に最前線の激戦区へと送られ、捨て駒《ごま》のように扱われていた。
そんなわけで、今回の痛烈な負け戦において、私の率いる第三人外部隊もやはり、人間の部隊と比べて、かなりの割を食わされている。
なにしろ、連合軍本隊が戦場から離脱するまでの時間|稼《かせ》ぎとして、私の部隊は一切の後方支援もなしに、追撃してくる敵の主力兵団と正面からぶつけられたのだ。
第三人外部隊は決して弱くなかったけれど、その戦いで、全滅に近い打撃を受けている。果たして、雑兵《ぞうひょう》以下の扱いを受けていたデミヒューマンどもに、撤退可能な生き残りが、何人いるか。
実際、生き残りを捜し始めて、すでに一時間が過ぎているけれど、朝霧による視界の悪さもあって、無言の死体や、死を待つばかりの重傷者としか、まだ出会っていない。
正直な話、私は焦り始めていた。
こんなところをうろついていれば、シャー・ボスニアの敗残兵狩りにいつ遭遇《そうぐう》しても、不思議はないのだ。職務とはいえ、人間ですらない『劣等種』のため、敗残兵狩りに遭遇する危険を冒《おか》すというのも、我ながらバカバカしい。
――まともな生き残りなど、見つかりそうもないし。いっそ、ひとりでムルシアへ戻るか?
そんな考えが頭をよぎった瞬間、私の耳に断末魔の呻《うめ》きが、かすかに響《ひび》く。
「!」
声のした方へ視線を飛ばしながら、私は素早く身をかがめ、腰に帯びた片手剣《ノーマルソード》の柄へ右手を掛けた。同時に、耳へ全神経を集中する。
わずかに遅れて、もう一度、呻き声。
――シャー・ボスニアの敗残兵狩り、か?
緊張《きんちょう》に唾《つば》を飲みつつ、私は呻き声のした方へと、低い姿勢のまま油断なく進む。そして、霧の向こうを見通そうと、目をこらした。
私の目に飛び込んできたのは、黄土色の硬《かた》い皮膚《ひふ》を持つワニ人兵――リザードマンの中でも特に凶暴《きょうぼう》な種族――の死体を荒らす、盗賊《とうぞく》崩れの男の姿だった。ところが、このワニ人達は私の配下たる第三人外部隊の一員であり、盗賊崩れも装備品を見る限り、同じ自由都市連合軍の兵士に間違いない。
――こいつ、まだ生きている友軍の負傷兵を殺して、略奪《りゃくだつ》を………?
私が愕然《がくぜん》としている間にも、死体の物色《ぶっしょく》を終えた盗賊崩れは、手持ちの短剣《ダガー》を翻し、新たな犠牲者――珍《めずら》しく白い皮膚を持ったワニ人兵へ、狙《ねら》いをつけている。
それに気づくや否《いな》や、私は思わず、盗賊崩れの元へ駆《か》け寄り、ヤツの胸倉をつかんでいた。
そのまま、大声で、叫ぶ。
「キサマ、何をしているっ?」
「……!」
私の怒声に、盗賊崩れは一瞬、心の底から驚いた様子だった。
しかし、ヤツはすぐに、私の褐色の肌と、灰色の髪に気づき、安堵《あんど》の息を吐《つ》いた。それから、あからさまにサーマカルド人の私を見下した目で、侮蔑の言葉を投げつけてくる。
「なんだ、カラードかよ。驚かせやがって、このクソガキが」
短髪の私を男だと勘違《かんちが》いしている盗賊崩れは、軍規違反の現場を押さえられたわりに、落ち着いていた。ようは、カラードに友軍殺しをいくら目撃されても、ホワイトの自分が潔白を主張すればまかり通るはず、というわけだ。
まあ、確かに普通ならば、私がいくら訴《うった》えても、結果は盗賊崩れの想像通りだろう。
そう、普通ならば。
「………」
無言のまま険しい表情で目を細めると、私は盗賊崩れの胸倉をつかんだ右手一本で、ヤツの体を持ち上げて見せた。そのまま、左の逆手で腰のノーマルソードを鞘ごと引き抜き、盗賊崩れの眼前へ突きつける。
刹那、盗賊崩れは不思議そうな表情をしていたが、間もなく真っ青になって震え始めた。
ヤツはようやく気がついたのだ、私のノーマルソードの鍔《つば》の造りに。
「ク、クロッシングソードの護拳………。ってこたあ、まさか、あんた……?」
「そう、私は『飛剣戦士』の第二級剣士だ」
淡々《たんたん》と告げ、私は不意に、盗賊崩れの胸倉から手を離した。焦りきっているヤツは、立つこともできず、不様《ぶざま》に尻餅《しりもち》をつく。
盗賊崩れが口にした『十字剣《クロッシングソード》』とは、『飛剣戦士』の団旗にも描かれている、二本の剣を交差させた紋章《もんしょう》の呼び名である。『十字剣』は『飛剣戦士』の証《あかし》であり、団員の剣の鍔は必ず、その形の護拳になっていた。
呆然と尻餅をついたままの盗賊崩れを睨みつけ、私はノーマルソードを腰へ差し直すと、間を置かずに一喝《いっかつ》する。
「さっさと立て!」
「は、はいっ」
返事をしながら、盗賊崩れは素早く立ち上がり、反射的な動作で「|気をつけ《アテンション》」の姿勢を取った。余程、従軍経験が長いのだろう。
「私は、アグリー。所属は第三人外部隊、階級は百騎将だ。キサマの名前と、所属と、階級を聞こうか」
「はい。あっしはカートっていいやして、所属は第二レンジャー部隊の第三小隊、階級は十人長《じゅうにんちょう》です」
私の問い掛けに、盗賊崩れ――カートは敬礼すると、冷や汗を流しつつ答えた。
ちなみに、百騎将の私は十人長のカートより、三階級上に当たる。つまり単純にいえば、私は一〇〇人単位の騎馬軍の指揮官で、カートは一〇人前後の小隊の隊長というわけだ。更に、『飛剣戦士』の第二級剣士はムルシアや自由都市連合領内で、第一級市民の――つまり、男爵《だんしゃく》といった下級貴族と同じ――待遇を受ける。それに対し、カートは所属と階級から考えて、平民たる第四級市民あたりか。
結論をいえば、私が今ここで、カートを斬《き》り殺したとしても、軍では間違いなく、不問に付《ふ》されるだろう。
「カート十人長。キサマ、相手が動けないのをいいことに、私の部下を殺していたな?」
問い掛けというよりは確認のため、私が冷たい口調で告げると、カートは引きつった笑みを浮かべ、首を小刻みに横へ振った。
「待って下さいよ、誤解ですって。あっしはただ、死にきれずに苦しんでたから、楽にしてやろうと、止めを刺《さ》してやってただけで……」
「ほほう。そのわりに、ずいぶんと大きな断末魔の声が聞こえていたぞ。しかも、死体からなにか盗《と》っていたようだが?」
腰のノーマルソードの柄に再び右手を掛けつつ、私が凄味を利《き》かせて問い詰めると、カートは半泣きになった。
「そりゃまあ、盗むのは悪いと思いましたよ。でも、死人にゃ、食い物はいらんでしょう?」
必死に訴えつつ、カートは肩から下げている麻袋《あさぶくろ》の口を、大きく開いてみせる。
麻袋の中には、泥《どろ》に汚れた堅《かた》パンが、七つ。
この堅パンは、自由都市連合軍で支給されている、携帯食料だった。
恐《おそ》らく、カートは私と同じように、連合軍本隊に置き去りにされ、それからなにも食べていないのだろう。そして、胃を焼くような飢《う》えに負け、友軍殺しに至った、というところか。
――気持ちは分からないこともないが……。
思わず、私が同情の苦笑いを浮かべ、溜め息を漏《も》らすと、カートは黙って、堅パンの入った麻袋を手渡してきた。
略奪を見逃《みのが》してもらうためのワイロか、自分と同じく空腹だろう仲間への気づかいか。
それとも、その両方か――。
「礼はいわんぞ」
感謝のかけらもない口調でいうと、私は剣の柄から手を離し、麻袋を受け取る。内心、胸を撫《な》で下ろしているのだろうカートは、肩を竦《すく》めただけで、なにもいわなかった。
色々と思うところもあったが、私はひとまず、カートの友軍殺しを見逃すことにする。
もちろん、デミヒューマンとはいえ部下を殺されたことに腹は立っていたし、略奪を容認する気もさらさらない。しかし、重傷者に止めを刺したり、死体から食料や装備を奪うぐらい、戦時中は珍しくもないのが、現実であった。
むしろ、重傷者や死体を放っておけば、山犬のような野生動物か近隣の農民達に、間違いなく荒らされてしまう。ならば、その食料を味方のために活用したい、というのが人情だ。
少なくとも、カートの主張どおり、死んだ兵士に食料は必要ないのだから。
他《ほか》の生き残りを捜す気など少しもなさそうなカートをよそに、私はヤツが殺そうとしていた白いワニ人兵を抱《だ》き起こそうとする。
だが、鍛《きた》え込《こ》んだ私の腕力でも、その巨体は微動《びどう》だにしない。更に、私の手の平に伝わってくるのは、金属を連想させる硬質な感触《かんしょく》。
「なるほど、命令を聞く部下じゃなけりゃ、まさしくモンスターってわけだ………」
ぼやきつつ、私は改めて、ワニ人の岩のような重さと、鉄のような皮膚の硬さを思い知り、舌を巻く。
リザードマンの中でも、ワニ人は特に巨体で、装甲と表現すべき黄土色の皮膚を持つ、凶暴な種族だ。平均的に見ても、ワニ人の戦士は二三〇センチ前後の身長と、三〇〇キロオーバーの体重を誇る。大きな体に反比例しているかのような、低い知能がネックだけれど、ワニ人達は戦わせれば優秀な兵士であった。
ただし、この白いワニ人兵は他の同族と比べてかなり小さく、身長が二メートル弱しかない。
皮膚も白いし、もしかすると、こいつはまだ子供なのだろうか。
それとも、なにか特別な存在なのだろうか。
とりあえず、抱き起こすのを諦《あきら》め、私は意識を失っているらしい白いワニ人兵の様子を、ざっと見てみる。周囲で倒れている、無惨な刺殺体と化した同族達と反対に、こいつは目立つ外傷を受けていなかった。
――カートのヤツ、デミヒューマンとはいえ、無傷の相手を殺そうとしてたのか。
内心で毒づきながら、私が睨むと、カートはしれっとした顔のまま、明後日《あさって》の方向を向く。
そうこうしているうちに、私とカートのやり取りが刺激になったのか、白いワニ人兵は唐突《とうとつ》に目を覚ました。それから、緩慢《かんまん》な動作で身を起こすと、意識にかかったもや[#「もや」に傍点]を払うように、頭を軽く振る。
表情など微塵《みじん》も存在しない、白いワニ人兵のトカゲ顔を見ながら、私はコミュニケーションに大きな障害を感じていた。
なにしろ、外から見ただけでは、なにを考えているのか、全く分からないのだ。
――表情が、全然読めん。本当に、人間の言葉が通じるんだろうな………?
強い不安に駆られつつも、私は恐る恐る、白いワニ人兵へ話しかけてみる。
「おい、しっかりしろ。私は第三人外部隊司令官の、アグリーだ。私の言葉が、分かるか?」
「は、はいっ。隊長の言葉、分かります」
私の予想を覆《くつがえ》し、白いワニ人兵は流暢《りゅうちょう》な共通語《コモン》で返事をした。そして、ふらふらと立ち上がり、ぎこちない動きで敬礼をする。
「ボクはギア族の戦士で、ガムといいます。所属は第三人外部隊、階級はありません」
人間の私やカートよりも丁寧《ていねい》な口調で、白いワニ人兵――ガムは、そう告げた。
人間並みの受け答えができるところを見ると、一般に知能の低いワニ人の中で、ガムは相当、優秀な部類に入るようだ。やはり、彼の部族の中で、白い肌を持つガムは、特殊《とくしゅ》な存在なのかもしれない。
――人間……いや、生き物は意外と、見かけによらないものだな。
軽いカルチャーショックを受けながらも、私は平静を装《よそお》って、ガムへ問いを重ねる。
「ガム、ケガはないか? 見たところ、お前以外の同族は、昨日の乱戦で、全滅してしまったようだが……」
「昨日? では、ボクは丸一日、気を失っていたわけですか!」
驚きの声を上げ、ガムは――恐らく感慨《かんがい》深げに――同族達の死体を見回した。次いで、彼らの死を悼《いた》むように、自分の左胸に手の平を当てると、私の方へ視線を戻す。
「剣で止めを刺されている仲間達と違って、ボクは敵の軍馬に蹴り倒されただけですから、大丈夫《だいじょうぶ》だと思います」
「な、なるほど。軍馬に蹴り倒されただけ[#「軍馬に蹴り倒されただけ」に傍点]、ね」
うなずき返しつつ、私はワニ人の化け物じみた頑丈《がんじょう》さを肌身で感じ、苦笑いを浮かべた。
ともかく、気を取り直し、私は話を続ける。
「ガム。これより私達は、友軍の生き残りを捜しつつ、ムルシアまで撤退せねばならん。ついてこれるな?」
「……頑張ります………」
なぜか、ガムは自信なさそうに返事をした。それから、少し言い淀《よど》んだ後、再び口を開く。
「隊長、お願いがあります。どうか、仲間達の弔《とむら》いをさせて下さい」
「…………」
一瞬、私は迷った。なにしろ、時間がない。
しかし、ガムの純粋そうな――あくまでも、私個人の印象だけれど――黒いつぶらな瞳に負けて、思わず許可を出してしまう。
「ああ、かまわん。ただし、短くな」
私が念を押すと、ガムは黙ってうなずき、死んだ仲間達の元へ歩いていった。そこで、なにやら立ったり座ったりと、ガムの一族に伝わっているのだろう、弔いの儀式を始める。
そんなガムの後ろ姿を見詰めながら、私は唐突に、自分が仲間の死すら悼まなくなっていることに気づいた。
――昔は、誰かが殺《や》られたら、時間がなくても黙祷《もくとう》を捧《ささ》げたっけ。……いつから、私は人の死に、なにも感じなくなったんだろう?
一抹《いちまつ》の寂しさと共に、私は頭のどこかで、そんなことを考える。
しかし、今は感傷に浸《ひた》っている時間など、少しもない。すぐに思考を切り替《か》えると、私はカートの方へ向き直った。
「カート十人長。最短ルートで、我々をムルシアまで、案内ができるか?」
「へい。そういう任務は、あっしらレンジャー部隊の十八番《おはこ》ですからね。大船に乗ったつもりで、安心してて下さいよ」
へらへらと無責任そうな笑みを浮かべ、カートが自分の胸を叩く。しかし、どこからどう見ても、安請《やすう》け合いしているように見える。
――大船ねえ。どちらかというと、泥船って感じだけど……。
カートの言葉を話半分に聞きながらも、私は内心で、ほっと一息ついた。
地図上では、ガーランド地方南部にこの平原が位置し、そのすぐ南東に水上都市ザオバーが存在する。そして、平原とザオバーを挟《はさ》み、西側に自由都市連合が、東側にシャー・ボスニアが、それぞれ勢力図を広げていた。
私達が向かうべきムルシアは、平原から北西。だいたい、徒歩で七日の距離である。
とはいえ、この位置関係も距離も、大まかに考えれば、の話だ。
連合軍が戦に大敗し、領有権の多くを失った以上、ムルシアまでの帰路の途中、町や村での補給はほぼ期待できない。そんな状況下で、馬もなしに、わずかな食料と最低限の装備で、敵や農民の敗残兵狩りに見つからず、スムーズにムルシアへ帰還するのは、白兵戦専門の私やガムにとってかなり難しかった。そのくせ、真冬という過酷《かこく》な気候条件を考えれば、道に迷ってムダ足を喰《く》うことは即《そく》、死へつながる。
だから、カートの人間性はさておき、レンジャーの案内がつくのはありがたかった。これで悪くとも、道に迷って同じところをぐるぐる回るような事態は、避《さ》けられるはずだ。
逃走の算段も整い、私が一安心していると、カートは視線でガムを指しつつ、そっと耳打ちをしてきた。
「しかし、あのウロコヤローを連れていくのは、どうですかね。じきに吹雪《ふぶ》くでしょうし……」
どうやら、カートは遠回しに、足手まといのガムを見捨てろ、と勧《すす》めているらしい。
瞬間、カートの進言に、私は不快感を覚え、眉根《まゆね》を寄せる。
だが、カートの指摘《してき》も、もっともだった。
強靭《きょうじん》な肉体を持つとはいえ、ワニ人を含めたリザードマン達は、極端に寒さに弱い。ワニ人のガムを連れていくのならば、移動速度が半減するのを覚悟しなければならなかった。
まあ、そんな話を始めるのならば、こんな季節に、ワニ人を戦場へ駆り出すこと自体が、間違っているともいえよう。
とにかく、ガムを同行させれば、敗残兵狩りに追いつかれる確率が、格段に高くなる。
――どうすれば、いい……?
仲間を弔うガムの後ろ姿と、嫌《いや》な笑みを浮かべるカートの横顔を、私は交互に見てから、腕を組んで、悩む。
現在、私の中では、理性が声高《こわだか》に見捨てるべきだと主張し、感情が涙ながらに連れていくべきだと訴えていた。そして、いつもの私なら、すぐに理性の声へ耳を傾けるはずだった。
ところが、今日に限って私は、凶悪なトカゲ顔にちょこんと載《の》った、ガムのつぶらな二つの瞳を、頭から追い払えずにいたのである。
――なぜだ。なぜ、デミヒューマン一匹が見捨てられない? 理論的に考えれば、迷うことなんてないのに………。
判断に弱ってしまい、私は思わず、天を仰《あお》ぐ。
その時、太陽が地平線から頭を出し、まるで朝霧を追い払うかのように、金色《こんじき》の光を平原中へ放った。同時に、強い朝陽を受け、私から見て右斜め前の霧の中に、人間らしいシルエットがいくつか、ぼんやりと浮かび上がる。
――生き残りか?
刹那、新たな友軍の敗残兵に出会えたのか、と私は思った。だが、こちらへ徐々《じょじょ》に近づいてくるシルエットをしかと視認した途端、私は希望的な観測を捨てる。
シルエットは例外なく、全員が二メートル近い長身であり、見覚えのある独特な槍《スピア》を携《たずさ》えていた。その長身とスピアから見て、こいつらは絶対に、『エステノバ巨人兵団』である。
つまり、シャー・ボスニアの敗残兵狩り、というわけだ。
シルエットの数は、三つ。そして、距離は、一五メートル強。
日の出とともに霧が薄れつつある今、気づかれずに逃げ出すには、余りに近過ぎる。
――殺《や》るしかない!
そう即断すると、私は単身、背負ったロングソードの長い柄へ両手をかけつつ、三人組に向かって全速力で駆け出す。
三名という少ない人数から考えて、こいつらは敗残兵狩りの斥候《せっこう》と見て、まず間違いあるまい。となると、私はこの斥候どもに声を立てる隙《すき》すら与えず、一撃で全員を斬り殺さなければならなかった。でなければ、ヤツらは後続の大人数で構成された部隊に、私達のことを知らせてしまうだろう。そして、私とガムとカートの三人だけで、敗残兵狩りの一部隊と戦えば、待っているのは確実な死だけだ。
柄に両手をかけただけで、ロングソードを抜かずに、私は薄い霧のカーテンを突き抜け、斥候との距離を詰める。
間髪容《かんぱつい》れず、柄を握る右手の人差し指で、鍔元《つばもと》に取りつけられた|引き金《トリガー》を引く。
次の瞬間、長い刀身を覆う革製の鞘が開き、ロングソードは私の背中を発射台として、弾かれたように真上へ撃ち出される[#「撃ち出される」に傍点]。
「つぁ!」
小さく気合い声を上げ、私は柄を握る両手で、刀身を袈裟《けさ》切りに軌道《きどう》修正した。わずかに遅れて、ロングソードの切っ先が人間の反射速度を遙かに超えたスピードで斜めの弧《こ》を描き、哀《あわ》れな三人の斥候をあっと言う間すらなく襲う。
始めに一言断っておくが、このもの凄い剣速は、私の純粋な力ではない。
背中の鞘に、石弓《クロスボウ》や投石機《カタパルト》の技術を応用した『抜剣装置《ソード・ドロウァー》』という仕掛けがあり、それでロングソードを機械的に射出しているのだ。
鍔元のトリガーを引くだけで、ロングソードが勝手に鞘から飛び出すため、剣を抜いて振りかぶる、などというタイムラグなしに、一動作《ワンアクション》で斬りつけることも可能であった。
この『飛剣戦士』のみが持つ、高価な特殊兵装・抜剣装置を用いての必殺の剣撃は、『カタパルト・スマッシュ』と呼ばれている。
刀身が一六〇センチを超すロングソードの不意の抜き打ち――カタパルト・スマッシュは、斥候達に反応すら許さぬまま、凶悪な疾走《しっそう》を一瞬にして終えた。直後、斥候三人のうち、右の男は首を、真ん中の男は上半身を、左の男は左足を、それぞれ斬り飛ばされ、地面へ倒れる。
そう、他のふたりはさておき、左端の男が失ったのは、左足だけだった。恐らく、致命傷だろうが、即死はするまい。
――くっ! 踏《ふ》み込みが、甘かったか?
振り抜いたロングソードを返しながら、私は基本的なミスに、唇を噛《か》む。
どうやら、死体だらけの平原という、足場の悪さを気にする余り、斬り込みが少しばかり浅くなってしまったらしい。
かくして、翻したロングソードの一撃よりもわずかに早く、男は激痛に絶叫してしまう。
「くそったれがっ」
悪態を吐きつつ、私は男に止めを刺すと、ガムとカートのところへ、急いで戻った。そして、怪訝《けげん》そうな顔つきのカートと、のんきに仲間を弔っているガムのふたりへ、大声で叫ぶ。
「敗残兵狩りだ。逃げるぞ!」
そういうや否や、少し遠くから、敗残兵狩りだろう連中の怒声ともに、複数の弦音《つるおと》が響く。
――弓?
小回りの利かないロングソードを投げ捨てつつ、私は空を見上げる。果たせるかな、急速に薄れゆく霧の中、唸《うな》りを上げて飛来する十数の矢影を、私の目は捉《とら》えた。
間髪容れず、私は腰のノーマルソードを抜き放つと、剣技のひとつ『|矢止めの術《プロテクション・フロム・アロウ》』を駆使《くし》して、襲い来る矢を叩き落とす。
私が矢を払っている間、カートは素早い身のこなしで、ガムの巨体の陰に隠《かく》れ、難を逃れていた。一方、盾《たて》にされているガムの方は、右手で両目をカバーしただけで、矢を避けるような様子など全くない。
――なるほど、その手もありか。
カートの自己中心ぶりに呆《あき》れつつも、私はその機転に、心中で唸る。
生まれつき、ワニ人は全身に、鱗状片鎧《スケイルアーマー》にも匹敵するウロコを持つ。そこに加え、ワニ人の戦士達は、幼い頃より、ただでさえ堅いウロコの体に鉄片などを植え込み、皮膚装甲を並の鎧以上に硬化させていた。
私が聞くところによれば、東ガーランドあたりの鎧屋は時々、見事な皮膚装甲を持つワニ人の死体を、本物の鎧に加工し直して、かなりの高値で売っているらしい。
ともかく、眼球や急所に直撃しない限り、人間の腕力で引ける程度の弓で、ワニ人の戦士を倒すことなど、不可能だ。現に、ガムに命中した矢も、その純白の皮膚装甲にかすり傷すら負わせられぬまま、ことごとく砕《くだ》け散っている。
つまり、ガムを盾にしたカートの判断は、非常に合理的であった。
もちろん、盾に使われるガムの気持ちを一切考えなければ、の話だけれど。
間もなくして、つがえた分を撃ち尽くしたのか、矢の雨がひとまず止《や》んだ。その隙に、カートは盾にしたガムと私を置き去りにして、脱兎の如く逃げ始める。
「カート、待て!」
叫んでみたものの、カートは振り返りもせず、走っていく。
「くそ。ガム、急げっ」
状況が呑《の》み込めずに立ち尽くすガムへ、私は早口で命じると、急いでカートの後を追った。
このままカートとはぐれたら最後、地理に弱い私とガムは、死ぬまで道に迷うに決まっている。生きてムルシアへたどり着くため、私とガムは絶対、カートに追いつく必要があった。
ところが、カートを追いかけ始めてすぐ、遠ざかるヤツの後ろ姿を横目に、私は泣く泣く足を止める破目になった。
視界の隅《すみ》に、ガムの背後へと迫《せま》る、敗残兵狩りどもの姿が見えたのだ。
まるで歩いているかのようなガムのスピードでは、もうじき敗残兵狩りに追いつかれ、間違いなく取り囲まれ、袋叩きにされる。かといって、ほとんど霧が晴れてしまった今、隠れてやりすごせ、というのも無理な相談だ。
逃走を諦めると、私は駆け戻った。そして、ゆっくりと歩む――もちろん、本人は全力疾走しているつもりなのだろう――ガムの大きな背中に、ぴたりと張りつき、命令を下す。
「これより、私達ふたりで敵兵を迎《むか》え撃つ。乱戦の間、私から決して離れるな。そうやって、お互いの背後を守り合うんだ。分かったか?」
「……は、はい」
緊張しているらしいガムの返事を背中越しに聞くと、私は横目で、敵の数を確認した。
敗残兵狩りの人数は、二〇名強。
歩兵ばかりの小規模な部隊だが、相手はシャー・ボスニアの精鋭『エステノバ巨人兵団』の一員である。寒さで力を発揮《はっき》できないだろうガムを戦力から除くと、疲《つか》れ切った今の私一人では、まず勝てまい。
――ガムさえいなければ………。
胸の奥で、私は一瞬、ガムを見捨てるべきだったか、とも考えた。しかし、すぐに頭を強く振って、無意味な後悔を追い払う。
確かに、私一人なら、しばらくの間、逃げ回っていられるかもしれない。しかし、敗残兵狩りとの距離と、その機動力を考えれば、ほんの少し時が延びるだけの話で、結局は私も捕まってしまうだろう。
間を置かず、背中合わせの私とガムは、敗残兵狩りの前衛六名に取り囲まれる。
一瞬の静寂の後、前衛のリーダー格らしい男が、口を開いた。
「投降すれば、捕虜《ほりょ》として……」
「断るっ!」
リーダーの降伏勧告を、私は途中で遮《さえぎ》り、大声で叫ぶ。
実際の話、ガムと私が大人しく投降したところで、殺されるのは目に見えている。
百騎将とはいえカラードや、まして亜人種のために、多額の身代金を払うような物好きなどいない。ならば、人質として価値のない私達が、生きて帰れるわけなかった。しかも、女の私は殺される前に、なぶり者にされるだろう。
投降するぐらいなら、斬り死にした方がマシなのである。
私の返答を聞くや、前衛の六名は一斉に、スピアを構え、襲いかかってきた。私はノーマルソードの柄を握り直し、正面の三人と斬り結ぶ。
相手の三人は『エステノバ巨人兵団』の名に恥じず、身長が二メートル近い、堂々とした巨漢。しかも、その巨体を板金付鎖鎧《プレートメイル》で包み、一八〇センチを超すスピアで武装している。
それに対し、私の身長は一六八センチ。装備もスタディッド・レザーアーマーと、刀身が九〇センチ弱のノーマルソードのみ。
誰の目にも、明らかに分が悪い。
それでも、三人が次々と繰り出すスピアの鋭《するど》い切っ先を、私は右手のノーマルソードと左の革製手甲《レザー・ガントレット》で、素早く受け流し続けた。
更に、わずかな隙をついては、受け流しの最中、体|捌《さば》きを使って、スピアを手前へ引き込んでいく。当然、スピアが引き込まれれば、使っている人間の体も、前へ泳いだ。その瞬間を狙いすまし、私はノーマルソードの刀身を、受け流したスピアの上で、一気に滑らせる。
もちろん、長いスピアに対して、ノーマルソードのリーチが短すぎるから、刃は相手の体に届かない。しかし、体が前へ泳いでいるため、スピアの柄を握る手なら、叩き切れた。
そうして、私は続けざまに、敵兵三人の手首を、正確無比に切り落とす。
なにしろ、相手が握っている[#「相手が握っている」に傍点]スピアの柄の上を、剣で薙《な》ぐのだ。目をつぶっていても、外れるわけがない。
これぞ、私が得意とする剣技『|得物取り《ディザーム》』の一種、|槍止めの術《パリィングスラッシュ・トウ・スビア》である。
利き腕の手首を失った三人のうち、ひとりの眉間《みけん》をノーマルソードで叩き割ってやると、残りのふたりは素直に逃げ出した。
「ふぅ」
一息つくと、私は肩越しに、背後で戦うガムの様子をうかがってみる。
やみくもに両手を振り回すガムの足元には、殴《なぐ》り倒されたのだろう敵兵がひとり、転がっていた。残りのふたりは、ガムの皮膚装甲の硬さに攻めあぐねたのか、スピアを構えつつも、遠巻きに見ているだけだ。
油断なくノーマルソードを構えたまま、私はガムへ囁《ささや》き声で問いかける。
「ガム、ケガはないか?」
「は、はい! ボボボ…ボクは、大丈夫です、アグリー隊長。ケ、ケガはしていません。とても健康です」
興奮《こうふん》のためか緊張のためか、ガムは私の言葉に狼狽《ろうばい》すると、どもりまくりながら答えた。とにかく、ガムも、なんとか無事らしい。
なぜか、私は内心で、我《わ》がことのように、ほっとする。そして、ガムの慌てぶりに、自分でも知らず知らず、微笑みを浮かべていた。
――んっ? デミヒューマン一匹が無事なくらいで、私はなにを安心している? しかも、生きるか死ぬかって時に、笑うなんて……。
自分の妙《みょう》なリアクションに戸惑《とまど》っていると、ガムと対時《たいじ》していた前衛の生き残りふたりが急に、スピアの穂先を降ろし、後続の敗残兵狩り部隊の元へ戻る。思ったよりも、私達の抵抗が激しいので、上官の指示を仰ぎにいった、というところか。
その間に、私は三〇メートルほど先に陣取る敗残兵狩りどもの、人数を数えてみた。そして、連中がまだ、正確には一七名もいる事実を確認し、これ以上ないぐらいうんざりする。
程なくして、前衛ふたりの報告も終わったのか、敗残兵狩りの指揮官らしい、ひときわ巨体の男が、なにか叫ぶ。すると、新たにチェインメイルの敵兵が六人、前へ進み出た。
とはいえ、私達とチェインメイルの敵兵六人は、二五メートル以上離れている。
「……まさか」
嫌な予感に駆られ、私は目をこらすと、敵兵六人の手元を見た。
こういう時に限って、不安は的中し、敵兵六人の全員が、大型のクロスボウを構えていたのである。しかも、クロスボウに装填《そうてん》されているのは、鈍《にぶ》い光を放つ鉄製の矢。
クロスボウは抜剣装置の原形となっている強力な飛び道具で、特別製のものならば、矢を一キロ以上、飛ばすことも可能だった。
人の手で引く弓と違って、大型クロスボウで鉄製の矢を撃ちだせば、ワニ人の皮膚装甲すら貫《つらぬ》ける。私程度の矢止めの術で、クロスボウの矢を迎撃するのは、まず不可能だった。
「だめか……!」
六つの大型クロスボウに狙われ、私は思わず、絶望の呻きを漏らす。
その時、ガムが無言で、六人の弓兵《アーチャー》の方へと、一歩踏みでた。続けて、ワニ人の皮膚装甲も役に立たない、という事実を知らないのか、ガムはその大きな背中で、六つのクロスボウから私をかばおうとする。
「な、なんのつもりだっ? このバカ!」
ガムの行動が唐突だったので、私はすっかり動転し、かなりの言葉を投げつけてしまった。
さておき、六人のアーチャーが必殺の鉄矢を放つ、寸前のことである。
金属的な禍々《まがまが》しい異音が六つ、立て続けに響き、私は反射的に目を閉じた。てっきり、六つの異音を、クロスボウが矢を放つ時の、弦音かと思ったのだ。
しかし、よくよく考えてみると、弦音というよりは、打撃音に近い気がする。おまけに、矢が飛んでくるような気配も、一向にない。
不審に思い、私はそっと目を開き、アーチャー達の方を見てみた。
そして、愕然とする。
なんと、六人のアーチャーは一矢も放たぬまま、ことごとく地に倒れていたのだ。あまつさえ、丸太の一撃でも喰ったかのように、チェインメイルごと半身を粉砕《ふんさい》されて………。
倒れ伏《ふ》すアーチャー達の中心には、彼らをもの言わぬ死体に変えた張本人だろう、男の戦士がひとり、胸を張って堂々と立っていた。
いや、男[#「男」に傍点]とかひとりとかいう、人間に対しての形容詞は、正確じゃないかもしれない。
なぜなら、光沢のある黒い|硬質革鎧《ハード・レザーアーマー》に包まれた戦士の体が、遠目にも分かるほど、はっきりと異形だったからだ。
まず、だらりと垂らした両手が、膝から下へ届くほど、人間と比べて圧倒的に長かった。その上、実用的な意味で、要所に宝石を散りばめた漆黒《しっこく》のガントレット――手先から肩まで覆う凶悪な打撃戦用腕鎧――を装着している拳《こぶし》は、大人の頭よりも、まだ一回り大きい。
こういうタイプの、異様に長い手と巨大な拳は、『|疾走と連拳《スタックァード》』という拳打中心の民族武芸を使う、地妖《ちよう》とも呼ばれるデミヒューマン、ゴブリン族の典型的な特徴である。
外見から考えて、アーチャー達を葬《ほうむ》り去った漆黒の戦士は間違いなく、ゴブリンだろう。
黒衣のゴブリンの意外な登場に驚きながらも、私はある事実に思い至っていた。
確か、私の第三人外部隊と同じく、今回の戦に投入された第一人外部隊には、スレンという名の、黒|尽《ず》くめのゴブリンがいたはず。
私が知る限り、彼は『疾風のスレン』という異名を取るほどの、凄《すさ》まじいスピードを持った、強力な戦士である。重装甲の騎士さえも素手で叩き殺すという、スレンの高い武名は、人間の私ですら常々、耳にしていた。
風聞によれば、スレンはゴブリンの貴種《ノーブル》――人間の世界でいうと、王族にあたる――のみに伝えられる、『|疾走と連拳《スタックァード》』を昇華《しょうか》した高等武術・『風鳴拳《ふうめいけん》』を体得しているという。
――黒いハードレザーに、一瞬で六人を倒すスピード……。このゴブリンが、スレン!
その正体を私が確信した頃、黒衣のゴブリンはなんの前触れもなく、アーチャー達の惨死に動揺する敗残兵狩りどもの、陣中へと飛び込んだ。そのまま、一陣の黒い疾風と化し、敵兵を蹴散らしながら、部隊の大柄な指揮官の元へ、真一文字に駆け抜ける。
途中、私の耳に届くのは、敗残兵狩りどもの悲鳴と、金属的な重々しい打撃音。同時に、敵兵の体が、鎧ごと砕け散っていく。
やはり、私がクロスボウの弦音と勘違いした異音は、黒衣のゴブリンの仕業《しわざ》に間違いなかった。どうやら、彼はガントレットを装着した拳の一撃で、敵兵をプレートメイルやチェインメイルごと粉砕し、叩き殺しているらしい。
もし、黒衣のゴブリンがスレンならば、噂《うわさ》に違《たが》わぬ――いや、噂以上の強さである。
瞬く間に、黒衣のゴブリンは敵兵三名を血祭りに上げ、指揮官の元までたどり着いてしまった。次いで、指揮官が繰り出したスピアの一撃を、地を這《は》うように、しゃがみ込んで躱《かわ》す。
スピアをやり過ごすと同時に、黒衣のゴブリンは低い姿勢から、左手を真横に払って、指揮官の無防備な両足を刈《か》る。次の瞬間、指揮官の体は見事なくらい、鮮《あざ》やかに宙を舞った。
恐るべきことに、手で足払いを掛けたらしい。
間髪を容れず、黒衣のゴブリンは、払った左手を振り抜く力を利用して、まだ空中を舞っている指揮官の腹部へ、右の掌底打《しょうていだ》をしたたかに喰らわせる。しかし、重そうな一撃にもかかわらず、指揮官はどうしたわけか、少しも後ろへ吹き飛ばない。
その代わりといってはなんだけれど、地面に倒れるや否や、指揮官は大量の血を吐いた。それはもう、体の中身が全《すべ》て吐き出されたんじゃないか、と思えるぐらいの、異常な量だった。
想像を絶する指揮官の異常な死に様を見て、敗残兵狩りどもは一斉に、浮き足立つ。
――チャンスか!
形勢が一気に逆転したことを知り、私はノーマルソードを地に刺すと、すぐさまガムの脇《わき》を駆け抜け、敗残兵狩りどもの方へ向かった。
「ガム、この場で防御専念。動くなよっ」
そういい残すと、私は走りながら、思い切り上半身を下げ、さっき捨てたロングソードの柄に手をかける。そして、拾い上げ様に、敗残兵狩りどもへ斬り込んだ――。
結局、私が三名を斬り殺した時点で、敗残兵狩りは黒衣のゴブリンの手によって全滅した。
戦いを終えると、私は荒い呼吸を無理矢理に整えた。そして、こちらに歩いてくる黒衣のゴブリンの方へ向き直る。
「私は、アグリー。所属は第三人外部隊で、階級は百騎将だ。今回の助力、本当に礼をいう」
自己紹介に続いて、私は感謝の意を告げた。
危機を救ってもらったわりに、礼がいい加減に聞こえるかもしれないが、デミヒューマンに対してならば、これでも最大級の謝辞である。
私の言葉に、黒衣のゴブリンは陽気な笑みを浮かべ、鋭い犬歯を口からこぼす。
「なあに、気にしないでくれ。なんせ、オレたちゃ仲間なんだからな」
それから、黒衣のゴブリンは思い出したように、再び口を開く。
「そういや、こっちの自己紹介が、まだだっけか。オレは、スレン。第一人外部隊ってところで、副隊長ってのをやってる。んでもって、階級は、見てのとおりさ」
|粗野な共通語《ロウ・コモン》を操りつつ、黒衣のゴブリン――やはり、スレンだった――は人差し指で、黒いハードレザーアーマーの肩当てを指した。
その先には、自由都市連合軍において、百人長――百騎将に次ぐ高階級で、歩兵の最高位――の待遇《たいぐう》を受けていることを示す、緑の肩章がへばりついている。
通常、奴隷以下の扱いを受けるデミヒューマンが百人長とは、明らかに破格の厚遇だった。
ただ、流れの戦士たるスレンが、専業軍人なはずがない。その高い武名を連合軍本部に請《こ》われ、一時的な軍属になったのだろうか?
さておき、よく表情の動くスレンの顔を見ながら、私は内心、ガムに会った時と同じように、軽いカルチャーショックを受けていた。
『疾風のスレン』の武勇伝を聞いて以来、私はずっと、モンスターと呼ぶべき凶悪で獰猛《どうもう》なゴブリンを、想像してきたのだ。にもかかわらず、実際に会ってみると、その凄まじい戦闘能力を除き、スレンの全てが私を裏切っている。
これほど強いゴブリンも、これほど気さくなゴブリンも、生まれて初めてであった。
――うーむ。世の中、自分の目で見るまでは、本当に分からんものだな。
しばし、そんな思いに捕らわれていたが、私はとりあえず、動揺を頭のどこかへ追いやる。
「スレン百人長。恥《はじ》を承知で率直にいえば、私の第三人外部隊は昨日の撤収作戦で、ほぼ壊滅している。一応、こうして生き残りを捜してはいるが、ろくに見つからん始末だ。そちらの第一人外部隊は、どうなった?」
「いやあ、それがどうなったのやら、オレにもさっぱり分からねぇんだ。だいたい、先の一戦で、第一人外部隊が敵さんのケツに食いついてすぐ、はぐれちまったからなあ。んで、昨日の夜からずっと、仲間の部隊を捜して、ここらあたりをうろうろしてたんだが、今朝になってようやく、あんたらを見つけたってわけさ」
スレンの返事を聞きながら、私は内心、冷水を浴びせられたような心地になっていた。彼の言葉をそのまま信じれば、私達が捜索している平原中部には事実上、生き残りの友軍はいないことになる。
――どういうことだ? いくら激戦だったとはいえ、生き残りが少なすぎる……。もしや、すでに撤退した後なのか?
仮に、私達がただの間抜けな逃げ遅れだとしたら、友軍と全く遭遇しないはずであった。ようするに、この平原には出会うべき友軍など、すでに存在しないのだ。
いるとすれば、私達のような逃げ遅れを狙う、シャー・ボスニアの敗残兵狩りだけ、か。
強い不安に襲われつつも、私はポーカーフェイスで、スレンに確認を取る。
「スレン百人長、改めて訊《き》く。昨晩からの捜索《そうさく》の末、初めて出会った友軍が、私達なんだな?」
「ああ、そうさ。昨日の夜から歩きっぱなしで、腹はへるし、道には迷うし、朝霧はでるし、ムルシアへの帰り道は分からねぇし、困ってたんだ。あんたらに会えて、助かったぜ」
そういって、スレンはさも安心したように、げらげらと笑った。
どうやら、スレンは残念なことに、私やガムと同類らしい。道案内なしには、ムルシアへ帰れない、という点において。
その時、地響きを鳴らして、ガムがのろのろと――恐らく、本人は急いで――私の側《そば》までやって来た。続いて、申し訳なさそうに――あくまでも、私の主観だが――口を開く。
「隊長、お話の途中、すみません」
「どうした?」
「はあ、何といいますか。その、実は……」
私の問いかけに、ガムは非常に話しにくそうな口調で応じてから、後ろを振り返る。その歯切れの悪さを不審に思いつつも、私はとりあえず、首を巡らせてガムの視線を追った。
直後、私は驚きのあまり、目が点になる。
なんと、ガムの視線の先には、いつの間に戻ってきたのか、私とガムを置き去りに逃げたはずのカートが、さも仲間面で立っていたのだ。
あまつさえ――
「いやいや、さっきは大変でしたねえ。あっしも、一時はどうなるかと、心配しましたよ」
――などと、私達を見捨てたことなどもう忘れました、といわんばかりのセリフを、いけしゃあしゃあと吐いている。
「カート、キサマ……。いまさら、どの面を下げて、戻ってきた?」
怒りに声を震わせながら、私はノーマルソードを腰から引き抜き、勢いよく詰め寄った。そして、カートの喉元《のどもと》へ切っ先を突きつける。
「殺す前に、懺悔《ざんげ》ぐらいは聞いてやる。さあ、なにかいってみろ」
「ま、待って下さいってば。だいたい、あっしはレンジャーですよ。白兵戦は願い下げってのが、スジってもんでしょう?」
慌てて、両手を上げながら、カートは私の言葉に、反論した。
なるほど、カートの主張にも、一理ある。……一理あるが、この程度の屁理屈《へりくつ》で、私の感情を納得《なっとく》させられるはずもない。
「にしても、私やガムを置き去りにした事実には、変わりあるまい?」
「ひどいなあ。人聞きの悪いこと、いわないで下さいよ」
冷や汗を垂らしつつも、カートはいやらしい笑みを浮かべると、不敵な口調で言葉を継ぐ。
「それより、あっしを殺しちまったら、ムルシアには帰れませんぜ。いいんですかい?」
「……」
カートの切り札に、私は言葉を失った。
確かに、スレンが地理に弱く、友軍も当てにならない以上、本人の主張どおり、私達にとってレンジャーのカートは、生命線ともいうべき必要不可欠な存在である。
数秒の葛藤《かっとう》の末、私の頭の中で、打算がかろうじて、怒りを打ち破った。そんなわけで、私は泣く泣く、カートの血に飢えたノーマルソードを鞘に収める。
代わりに、カートを視線で射殺さんばかりに睨みつけながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……よし、今回の一件は、忘れてやろう。だが、次は遠慮なく殺すから、しっかり肝《きも》に銘《めい》じておけよ、|肝の小さい《チキンリバード》カート君」
「へいへい、分かりました」
私の嫌みにも、カートはいい加減な返事をしながら、肩を竦めただけだった。
ともかく、差し迫った現状を思い起すと、私は頭を切り替え、その場の全員へ語りかける。
「諸君。スレン百人長の話によれば、ここらあたりで友軍が作戦行動をしている可能性は、極めて低い。そのくせ、シャー・ボスニアの敗残兵狩りは、山ほどうろついている」
話しつつ、私は視線でちらりと、敗残兵狩りどもの死体を指した。
「恐らく、こいつらの全滅も、いずれ敵の知るところとなり、じきに大規模な捜索が行われるだろう。その前に、我々は少なくとも、この平原から脱出せねばならん。したがって、友軍との合流は諦め、我々四人だけでムルシアへ撤退しようと思うのだが……、どうだ?」
いい終えてから、私は一応、ガムとスレンとカート三人の顔を、順番に見てみる。当然、異を唱えるものなど、一人もいない。
全員の意思を確認すると、私は早速《さっそく》、目でカートを促《うなが》す。
「じゃあ、ありがたく、ご案内させていただきますか」
私の視線に、カートは気怠《けだる》そうな口調で答え、先に歩き始めた。その後ろに、まず私が、次にガムとスレンが続く。
四人で黙々と歩く最中、私は何気なく、天を仰いだ。すると、いつの間にやら東の空に、鉛色《なまりいろ》の雪雲が起こり始めている。
――頼むから、吹雪いてくれるなよ………。
体の芯《しん》まで響くような寒さと、いい知れぬ不安に身震いしつつ、私は胸の奥で呟いた。
少しも信用ならないレンジャー――というよりは盗賊《シーフ》のカートに、戦うことしか能のないカラードの私とゴブリンのスレンに、寒さに弱いワニ人のガム。
こうして、考えられる限りの最悪なメンバーで、私達四人の逃避行が、幕を開けたのである。
友軍の捜索を打ち切り、平原から北西に位置するムルシアへ撤退を始めて、三日目の夜。
平原西部の小さな林の中で、私達四人はバラバラになって、野宿の準備をしていた。
どうして、バラバラかというと、カートが初日の夜、個別の野宿を強硬に主張したからだ。
恐らく、白色人種《ホワイト》のカートは、亜人種族《デミヒューマン》や有色人種《カラード》の私達と、同列に枕を並べたくなかったのだろう。まあ、本人は『野外と違って林の中は、単独で休む方が逆に見つかりにくい』とか、もっともらしいことをいってたけれど。
カートの思惑はさておき、恥ずかしながら私もひとりの女として、ヤツのような男と一緒《いっしょ》に眠りたくはない。そこで、私はすんなりと、カートの身勝手な提案を受け入れたのである。
カートの寝床からかなり離れたところで、適当な木のうろを見つけると、私は手早く、枯れ葉を敷き詰め、上から連合軍支給の薄い安物の毛布をかぶせた。
そのまま、枯れ葉のベッドに座り込み、最後の堅パンを麻袋から取り出す。
――まだ、平原西部。このスピードだと、敗残兵狩りの綱《あみ》にかかるのも、時間の問題だな。
心の中でぼやきながら、私は味気のない堅パンをかじる。
そう、私達の野営地の場所は、平原の西部。
ムルシアへの帰路について三日も経《た》つというのに、私達はまだ、敗残兵狩りどものうろつく危険な戦場跡を抜けていないのだ。
平原の中央から西部までというと、強行軍なら、わずか一日の距離にすぎない。
にもかかわらず、私達はなぜ、敗残兵狩りに追いつかれるリスクを冒し、通常の三倍の時間をかけてまで、のろのろと移動しているのか? もちろん、寒さで動きの鈍くなったワニ人のガムを連れているのが、原因の全てであった。
――やはり、ガムを見捨てるべきなのか? いや、それはいくらなんでも……。
頭を悩ませつつ、堅パンを飲み下した時、枯れ葉を踏みつける乾いた音とともに、カートとスレンが倒木の向こうから姿を見せる。
座ったまま、ふたりを見上げると、カートは嫌な笑みを、スレンは浮かない表情を、それぞれ顔に浮かべていた。
思わぬふたりの登場に、私はなんとなく、悪い予感を覚える。
「なんの用だ?」
わざと愛想《あいそ》のない声で問うと、カートはおどけた感じで肩を竦めながら、スレンと一緒に私の正面へ腰を降ろした。すぐさま、カートは軽快な語り口で、話し始める。
「実はですねえ、あのノロマなウロコヤローについて、姐《あね》さんに御相談があるんですよ」
一拍の間を置き、カートは私とスレンの顔を交互に見てから、言葉を継ぐ。
「いっちまえば、あのウロコヤローを捨てよう、って話なんですけどね。ええ、ええ、分かってますって。そりゃあ、仲間を捨てるのは悲しいことですよ。だけど、今回ばかりはしかたないでしょう? なんせ、このままあいつを連れていったら、ムルシアへ着く前に、必ず敗残兵狩りに取っ捕まりますから。これは、あっしらのせいじゃない。不可抗力ってヤツですよ」
やたらとうなずきつつ、カートは形だけ神妙な顔で、自己弁護を力説した。それから、決断を急《せ》かすように、私へ視線を向ける。
ようは、四人の中で最高階級の私が命令を下せば、なんの気兼《きが》ねなく、晴れてガムを見捨てられるというわけだ。
ここで、私がカートの言葉にうなずけば、ガムは寒空の下、右も左も分からない敵地で置き去りにされるだろう。もちろん、それは寒さに弱いワニ人のガムにとって、実質的に死刑の宣告を意味していた。
自分の一存がガムの命運を握っていることを知り、私は知らずと、暗い気持ちになる。
「分かった。ここは平等に、多数決を取ろう」
気がつけば、私はとっさに、そんなことを口走っていた。
正直な話、なぜ多数決なんていいだしたのか、自分でもよく分からない。ただ、私が使った『平等に』なんて言葉は、間違いなく建前《たてまえ》だ。
ガムを見捨てるという結果は同じでも、多数決にすれば、私ひとりが恨まれずにすむ。
それこそが、我ながら情けないけれど、私の偽《いつわ》らざる本心だったと思う。
私の責任逃れ的な発言を受けると、カートは待ってましたとばかりに、明るい口調で返す。
「ははあ、多数決ですか。そいつは、話が早い。実はこの話、あっしだけの考えじゃなくて、ゴブリンの旦那《だんな》もさっき、賛成《さんせい》してくれてるんですよ。ねえ、旦那?」
そういって、カートは横目で、スレンを見る。
当のスレンは、つらそうな顔でうなだれていたが、カートの言葉を否定しなかった。
やはり、ガムが致命的な足手まといになっていると、スレンも感じているのだろう。ただ、同じデミヒューマンとして、ガムを見捨てるのは心苦しい、というわけだ。
――なるほど。どうも、先ほどから、浮かない顔をしていると思っていたが………。
スレンの暗い表情の意味に思い至りつつ、私は胸の奥で、安堵の息を吐く。
多数決である以上、カートとスレンのふたりがガムを見捨てる方へ票を投じれば、結果は動かない。これで、ガムの処置について、私は態度を明確にしなくてもよくなったのである。
ほっとするのも束《つか》の間《ま》、うなだれていたスレンが突然、勢いよく顔を上げた。そして、首を横に振ると、張りのある声で叫ぶ。
「いや、やっぱダメだっ。オレは、ガムを見捨てられない!」
急の変心に驚く私とカートをよそに、スレンは先ほどまでと明らかに違う、彼らしい晴れやかな表情で、自分の思いを語り始める。
「実は、オレには長いこと生き別れになってた、腹違いの妹がいる。この前、その妹のレアを、やっと見つけ出した。だけど、せっかく会えたってのに、レアは今、黒死病《ブレイグ》とかいう厄介《やっかい》な病気にかかってて、死にかけてるんだ。いうなりゃ、流れの戦士のオレが、ムルシアへ寄ったのも、この戦に参加したのも、病気のレアを有名な医者に診《み》てもらうためさ。だから、オレは絶対に、レアの待つムルシアへ、生きて帰らなくちゃならない」
ここで、スレンは胸を張り、巨大な手の平を握り締めると、右の拳で天を突く。
「けど、オレはゴブリン族の戦士にして、王者の武技『風鳴拳《ふうめいけん》』の拳士だ。力ある戦士は、力なき仲間のために全てをかけて戦い、風鳴拳の拳士は、守るべき誇りのために戦う。病気に苦しむレアに、オレはそう教えた。レアも、そう信じてくれてる」
熱く語るスレンの――劣等なデミヒューマンのはずのゴブリンの顔は、人間の私やカートと違って、誇りに満ちていた。
「でも、今のガムを見捨てるのは、戦士の誇りを捨てるってことと同じだ。どうしたって、戦士の誇りを捨てた惨《みじ》めな姿じゃあ、レアのところへは戻れない。いいや、戻る意味がない。だいたい、そんなオレを見たら、レアは絶対に、泣く。んでもって、泣いたレアは、メチャクチャおっかねえからな[#「おっかねえからな」に傍点]。オレはやっぱ、ガムを見捨てられない」
いいながら、スレンは口の端から鋭い犬歯をこぼし、満面に爽快《そうかい》な笑みを浮かべる。それから、穏《おだ》やかな瞳で、私とカートを見た。
「もち、おたくらは、好きにすりゃいい。ただ、オレはガムと一緒に、這ってでもムルシアへ帰る。それだけさ」
話を終えると、スレンは心の底から楽しそうに、首の後ろで両手を組んだ。
――先ほどのスレンとは、まるで別人だな。誇りが、スレンに自信を取り戻させたのか。
言葉もなく毛布の上へ座り込んだまま、私は唐突なスレンの変化を、そんな風に結論づける。
一方、予想外の裏切りにあったカートは、ひたすらスレンへ非難の視線を向けていた。しかし、すぐに思い直すと、救世主を見るような目で、私へ話を振る。
「これで、一対一になっちまいましたが……。後は、姐さん次第《しだい》ですぜ?」
「あ、ああ」
小さく返事した後、私は黙り込んでしまう。
なにか、なにかいわなければ。
そう思うのだが、言葉は一つも出てこなかった。ただただ、『誇り』という言葉が、私の胸の奥へ、痛いほど突き刺さっている。
「………少し、考えさせてくれ」
それだけ告げると、私は無意識のうちに、立ち上がっていた。そのまま、カートとスレンのふたりを残し、逃げるように林を飛び出る。
遮るものがなにもない、林の外では、身を切るような北風が吹き荒れていた。
寒さに身震いしながら、ひとり立ち尽くし、私は自分の不甲斐《ふがい》なさに唇を噛む。
――分かってる。ガムは見捨てるべきなんだ。そんなことは、とっくに分かってるのに!
心の中で叫ぶと、私は苦々しい表情のまま、空を見上げる。
同時に、私の視界の隅を、白いなにかが、ふわふわとかすめていった。続けて、白くて小さな塊《かたまり》が大量に、天から舞い降りてくる。
ついに、雪が降り始めたのだ。
この三日間、寒さこそ厳しかったが、幸いなことに、雪は一度も降っていなかった。それにもかかわらず、ガムを連れているだけで、移動に通常の三倍の時間を要したのである。
この上、雪が降ったら、どうなる?
しばらくの間、強い絶望感とともに降りしきる雪を見詰めていたが、私はすぐに、信じられない光景を目撃し、仰天《ぎょうてん》する破目になった。
林の中で、早々に休んでいるはずのガムが、私の立つ場所から少し離れた、小岩の上に座っていたのだ。そう、雪混じりの寒風が、容赦《ようしゃ》なく吹きつける岩の上で、ぼんやりと――私には、そう見えた――空を眺めている。
私の驚きが怒りへ形を変えるのに、さして時間はかからなかった。
「ただでさえ、寒さに弱くて足を引っ張ってるくせに、こんなところで、なにをしてるっ?」
すぐさま、小岩まで駆け寄ると、私はガムへ、怒りを込めて叫ぶ。
私の叫びが夜の闇《やみ》に吸い込まれてから、たっぷり一呼吸の間の後、ガムはゆっくり振り返る。
私の心配どおり、日没後の野外という、より厳しい寒さにさらされて、ガムの動きは更に鈍くなっていた。いや、鈍くなるどころか、このまま放っておけば、動けなくなって、凍死《とうし》してしまうかもしれない。
だが、現状を分かっているのかいないのか、ガムは至って明るい声で返事をする。
「隊長、すみません。実は、雪が降り出しそうだったので、待ってたんです」
寒さに弱いワニ人のセリフとも思えぬ、ガムののんきな言葉に、私は瞬間、固まってしまう。
――こ、こいつ……!
唖然《あぜん》としていると、ガムは空を見詰めたまま、少しためらいがちに、私へ話しかけてきた。
「隊長、……雪って良いですよね」
まるで詩でも朗読するかのように、ガムは優しく繊細《せんさい》な口調で、喋《しゃべ》り始める。
「雪は最初、無心に降り続け、どんどん溶けていく。そのうち、大地が冷えてきて、後に続く雪はやっと、降り積もれるようになります。つまり、最初に降った雪は、必ず溶けてしまうって分かってるのに、恐れず天から舞い降りるんです。当然、勇気ある彼らがいなければ、一面の銀世界なんて起こりません。それなのに、最初に降って溶けてしまった雪の孤独《こどく》な戦いは、人の目に触れることも、ましてや誰かに称《たた》えられることなんて、決してありえない。だけど、彼らは自分が生まれた環境や時代に、文句をつけないんです。いえ、文句をつけるどころか、自分の辛《つら》い運命を嘆くことなく、ただ全力を尽くし続ける。みんなのために自分を投げ出し、誰にも知られず消えていく、雪の強さ……」
刹那、降りゆく雪を労《いたわ》るように、目を細めてから、ガムは言葉を継ぐ。
「ボク、雪のそんな強さが、好きなんです。寒いのは苦手だけど、好きなんです」
降りしきる雪の下、必死に思いを語るガムの声は、純粋|無垢《むく》な少年のようだった。
ガムの話に耳を傾けるうちに、先ほどまでの怒りも萎《な》えてしまい、私はいつの間にか、苦笑いを浮かべていた。
どうすれば、南方生まれの私よりも寒さに弱いワニ人が、過酷な戦場で、敗残兵狩りに追われる恐怖の中、天敵と呼ぶべき雪を好きだ、なんていえるのか?
私には、理解できない。きっと、ガムは子供のように世間知らずで、バカなのだろう。
だが、ガムの純粋な感性を、私は今、自分でも信じられないことに、うらやましいと感じている。そして、強烈に、ねたましかった。
自分の気持ちに戸惑いながらも、私は冷静に対処しようと、理性を総動員する。
「ふん、雪が自分の運命に文句をいわんだと? 当然だろうさ。なにしろ、雪には文句をいうための口がないからな。……ガム、お前はたいした詩人だよ」
結局、私の口をついて出たのは、自分の動揺《どうよう》を押し隠すための、くだらない嫌みだった。
ところが、私の嫌みへ、ガムはこれ以上ないほど嬉《うれ》しそうに――私の印象だけども、恐らく間違いない――言葉を返す。
「ありがとうございます、隊長。本当はボク、詩人になりたかったんです」
「…………」
嫌みにここまで喜ばれてしまっては、最早《もはや》、黙るしかない。
私達ふたりはしばらく、無言のまま、雪を眺め、風の音を聞いていた。すると、ガムが唐突に、再び口を開く。
「つい最近、ボク達ギア族は、人間との戦いに敗れ、故郷を追われました。その時、折り悪く冬が迫っていたので、一番手近なムルシアの人工|湿地《しっち》へ、一族全員で移り住むしかなかったんです。もちろん、ボクらワニ人は、人工湿地の居住権を買い取るような、お金なんて持っていません。そこで、ギア族の長ゴーンと湿地の管理者が話し合い、ムルシアに無償《むしょう》で一族の戦士を貸すことに決まりました。戦士を貸し続ける限り、ギア族の女子供は、豊かな人工湿地で、安心して暮らすことができるんです………」
一旦《いったん》、言葉を切ると、ガムは冷たい夜の空気を、胸一杯に吸い込む。
「だから、今回の戦に、ギア族の戦士は参加しました。残念ながら、季節の問題もあって、ボク達はほとんど役に立てませんでしたけど……。でも、一族のためですから、死んだみんなの分まで、ボクは頑張ろうと思ってます」
ガムの告白を聞いた途端、私が以前から感じていた『なぜ、時期外れの真冬に、ワニ人の戦士達を戦いへ投入したのか』という疑問は、驚きとともに、氷解する。
結論からいうと、ワニ人の戦士達は、焼け石に水というべき、無意味な捨て駒だったのだ。
一族の居住権のために、早く手柄《てがら》を立てたいワニ人の戦士達と、劣勢必至の戦を前に、猫の手も借りたい自由都市連合軍。
その両者の利害が一致する時、あまりにも愚《おろ》かな悲劇は起こった。
連合軍の無茶《むちゃ》な要請を断るはずもなく、一族を守るべきワニ人の勇敢《ゆうかん》な戦士達は、全滅を前提とした戦場へと駆り出されていった、というわけである。
――『力ある戦士は、力なき仲間のために、全てをかけて戦う』……か。
ギア族の戦士達の愚直《ぐちょく》な、しかし壮絶な覚悟を知り、私はスレンの言葉を思い出さざるをえなかった。
一言もない私へ、ガムは更に、言葉を重ねる。
「隊長は人間ですから、ギア族の考え方を、変だと思われるかもしれません。でも、長生きしてせいぜい三〇年の、他の種族と比べて短命なワニ人は、子孫や後の者を中心に考えることが、当たり前なんです。だから、真っ先に降って、真っ先に溶けてしまう、『ひとひらの雪』になることを、ワニ人の戦士は最高の誇りとします。もちろん、命を軽んじる気などありませんが、死んだ同胞達は少なくとも、誇りを感じていたと……ああっ、すみません!」
話の途中、ガムは突然、私に大声で謝《あやま》った。
私の長い沈黙を、ガムの話に聞き飽《あ》きているのだと、勝手に早合点《はやがてん》したらしい。
「だいたい、こんな話、隊長には関係ありませんでしたね。本当に、すみません。ただ、誰かに聞いて欲しくて、つい………」
少し悲しげな声で、話を締めくくり、ガムは再び天を仰ぎ見る。
その瞬間、ガムが一族や自分のことをやたらと話す理由《わけ》を、私は直感した。
自分が置き去りにされると、ガムは気づき、すでに死を覚悟しているのだ。だから、せめて最後に好きな雪を見ようと、寒さに耐えつつ、外で待っていたに違いあるまい。
その潔《いさぎよ》さをみるに、ガムは全滅覚悟の戦場へ出た以上、死んだ仲間達と同様に、生きて帰る気など最初からなかったのだろう。
――信じられん思考パターンだな………。
驚きつつも呆れながら、私は唐突に、ずっと気になっていた、もうひとつの疑問を、ガムへぶつけてみたくなる。
「ガム、訊きたいことがある。いいか?」
「な…ななな、なんでしょう?」
不意をつかれたのか、盛大にどもるガムへ、私はストレートに問いかけた。
「三日前、敗残兵狩りどものクロスボウに狙われた時、お前は私をかばったな。だが、いくらワニ人でも、クロスボウを喰らえば、間違いなく死ぬ。それを知ってて、私をかばったのか?」
「……」
刹那の間、いい淀んだ後、ガムは申し訳なさそうな声で、答える。
「はい、クロスボウの破壊力は充分《じゅうぶん》、知っていました。で、ですが、別に恩を売ろうなどと、思っていたわけではありません。ただ、ボクは、隊長のことを、その、あの……」
「そうか、知ってたのか。それなら、別にいい」
慌てふためくガムの言葉を途中で遮ると、私は小岩にもたれかかり、空を見上げた。それから、胸の奥で、決意する。
決して、ガムを見捨てない、と。
ただし、私を動かしたのは、純粋な善意やガムから受けた恩義だけではない。いや、正直にいえば、嫌いなカートの思いどおりにいかせたくないという気持ちの方が、大きかったと思う。
自分の意志をはっきり決めると、まるで肩の荷が下りたように、私の心は軽くなった。
一息ついてから、私は岩の下から、ガムの右手をつかみ、軽く引っ張る。
「明日も、早い。もう、寝るぞ」
一瞬、ガムは意外そうにしていたが、すぐに黙って岩を降りた。そのまま、林へ向かって歩く私に、おっかなびっくりついてくる。
ふたりで私の寝床へ戻ると、カートもスレンも辛抱強く、座って待っていた。
私に気づくや否や、カートは期待に満ちた目を、スレンは緊張した目を、向けてくる。思惑の違う二つの視線を受け、私は極力感情を交えずに、宣言した。
「明日の予定を伝える。いつもどおり、出発は、夜明け前。メンバーは、私とカートとスレンと、ガムの四人だ。分かったら、就寝!」
号令を終えると、林の中を数秒、沈黙が支配ずる。
「了解っ」
突如、スレンが大声で静寂を破ると、直立不動の姿勢を取り、素早く敬礼した。続けて、喜色満面でウィンクし、自分の寝床へ足取りも軽く去っていく。
一方、カートはゆっくりと立ち上がりながら、「裏切り者め!」といわんばかりの視線を、私へ浴びせかけてくる。しかし、私が知らん顔をしていると、カートは諦めたのか、大きな舌打ちの音を残し、姿を消した。
スレンとカートがいなくなったのを確認してから、私は頭をかきかき、寝床の上に座り込んだ。そして、咳払《せきばら》いをしつつ、私は自分の左隣を指で差すと、ぼんやりしている――ようにしか見えない――ガムへ、小さく呼びかける。
「ガム、私の隣で眠れ」
「ええっ? その、あの……」
予想どおり、ガムが華々しく狼狽したので、私は素早く、唇に人差し指を当てた。次に、これまた予想どおり、ガムが慌てて両手で自分の口に蓋《ふた》をしたので、私は強い意志を込め、大きく手招きする。
「ガム、これは、命令だ」
「は、はい………」
情けないぐらい、弱々しい声で返事をすると、ガムは私の横まで、のそのそ歩いてきた。それから、女を知らない少年のような、異様に緊張した動作で、私の隣に純白の体を横たえる。
しかし、ふたりの間に、まだ少し距離があったので、私は思い切って、ガムの巨体にぴたりと身を寄せた。遅れて、ガムの硬い体から、激しい心臓の鼓動《こどう》音と、氷のような冷たさが、じわっと伝わってくる。
――さすがに、冷えるな……。
ひどい寒さに、体を震わせながら、私は固まっているガムへ、愛想のない声で釘《くぎ》を刺す。
「ガム、勘違いするなよ。私がお前に添い寝してやってるのは、みんなのためなんだからな」
「どういうことですか……?」
暗がりの中、小首を傾《かし》げるガムに、私は努めて事務的な口調で説明した。
「私が横で寝ていれば、お前の体の冷えも、少しはましになる。そうすれば、明日はもう少し、早く歩けるようになるだろう? つまり、私はあくまでも、百騎将として全体のことを考え、行軍スピードを上げるため、お前に添い寝しているんだ。……分かったか?」
話し終えてから、もう少し優しくいってやればよかったと、私は早速、後悔する。
軽い自己嫌悪に襲われつつ、私はガムに寄り添ったまま、しばし無言で時を過ごした。すると、私と同じく黙り込んでいたガムが、唐突に口を開く。
「……隊長。もしボクが死んだら、その時は、ボクの体を貴女《あなた》の鎧にして下さい」
「なっ?」
驚く私をよそに、ガムは話を続ける。
「隊長から見ると、変かもしれませんけど、死んだ後、本当の恩人に自分の体を鎧として使ってもらうことが、ワニ人には最高の名誉《めいよ》であり、恩返しなんです。だから、お願いします」
ガムの話を聞くうちに、私はようやく、事の次第を飲み込んだ。
どうやら、ガムは死後、自分の体を鎧として、私に譲《ゆず》ってくれるつもりらしい。
兵器開発の進んだ東ガーランドでは、ワニ人の体を高価な鎧として売買している。
不覚にも、私がそんな話を思い出していた時、ガムは懇願するような声で、言葉を継ぐ。
「隊長。どうか、ボクが死んだ後は……」
「そういう『もしも』を口にするなっ!」
ガムが自分の死を暗示する言葉を繰り返した瞬間、私は一喝し、遮った。
戦場で遺言めいた言葉は、基本的にタブーなのである。
心残りがなくなると、人間は時として、土壇場で生への執着《しゅうちゃく》を失ってしまう。それは、生を諦めた者から、情け容赦なしに死んでいく戦場において、致命的な状態といえた。
――散々悩んだ末、添い寝までしてやっているのに、そう簡単に死なれてたまるか!
私の怒気に、ガムはしばらく、黙り込んでいた。しかし、何度か深呼吸をすると、恐る恐るといった感じで、再び口を開く。
「隊長、すみませんでした。……でも、ありがとうございます」
小さな声でいってから、ガムは気持ちを抑《おさ》えきれないとばかりに、更に言葉を重ねる。
「本当に、ありがとうございます。この御恩は、一生忘れません」
「………」
ガムの言葉に、私は即答しなかった。いや、できなかったのだ。
はっきりいうと、照れまくっていたのである。もし暗がりでなければ、私はかなり情けない真っ赤な顔を、ガムに目撃されていただろう。
「一生忘れないだと? ふん、今すぐ、忘れてもらって結構だ」
激しく動揺する私の口をついて出たのは、またもや、照れ隠しのつまらない嫌みだった。
部下へ優しい言葉のひとつもかけられない自分に落ち込んでいると、隣のガムが不意に、寝息を立て始めた。ガムが眠ったことを知り、私は様々な意味で、ほっとする。
途端、私の瞼《まぶた》は、急に重くなった。その重さから、自分の疲労の深さを自覚しつつ、私は深い眠りへと、坂を転がるように落ちていく。
意識が途切れる直前、私は暗い眠りの淵《ふち》で、ぼんやりと思う。
スレンはゴブリンの戦士であることに、ガムはワニ人であることに、誇りを持っている。更に、スレンは妹のレアのため、ガムは守るべき同族達のため、身命を賭《と》して戦っている。
それに比べ、私はどうだ?
サーマカルド人であることに誇りもなければ、なにかのために戦っているわけでもない。
いや、誇りどころか、自分がカラードだという事実を、私はただの足かせと感じている。
その上、異民族――ガーランドの更に南西に巨大な版図を広げる、黄色人種《イエロー》の瓜人《タウガス》――に侵略《しんりゃく》された、生まれ故郷たるチャナムを捨て、ムルシアへ移って以来、私は残された同族達のことを、一度たりとも、顧《かえり》みたことがなかった。かといって、ムルシアを第二の故郷と定め、ガーランド人の役に立とうと働くわけでもなく、ただ自分の保身のためだけに戦っている。
確かに、私は『飛剣戦士』の第二級剣士という地位とともに、他のカラードやチャナムの同族達が想像もできないような、豊かな生活を手に入れた。しかし、それらと引き替えに、私は大切ななにかを、失ってしまった気がする。
カートを含めて多くの人間が、今の私に頭を下げるけれども、それは間違いなく、第二級剣士や百騎将という、高い地位のおかげだ。仮に、私が地位を失えば、初対面の時のカートと同じく、誰も敬意を払わないだろう。
物理的な支えを失った時、私にいったい、なにが残るのか。
思えば思うほど、漠然《ばくぜん》とした不安と、『誇り』という言葉が、私の胸を強く抉《えぐ》った。
そのまま、胸の疼《うず》きとともに、私の意識は泥のような眠りへ、沈み込んでいったのである。
翌朝、私が目を覚ますと、カートは姿を消していた。
冬場にワニ人のガムを連れて行くと主張する私やスレンに愛想を尽かし、自分独りだけで逃げたらしい。だが、今回ばかりは私も、カートを責める気にはなれなかった。
どちらかというと、おかしいのは、私やスレンの方なのである。
ちなみに、カートが寝床にしていたらしい、枯れ木の幹にナイフで、こう彫《ほ》ってあった。
『私こと不肖《ふしょう》・|肝の小さい《チキンリバード》カートは、一身上の都合により、お先に失礼します。どうぞ、気の合う者同士、吹雪の中で路頭に御迷い下さいませ。|がみがみ女《スピットファイアー》のアグリー様へ』
これは、私がカートにつけてやった『|肝の小さい《チキンリバード》』というあだ名への、ヤツなりのささやかな仕返しなのだろう。ということは、全く気にしていないような顔をしていたが、カラードの私に『|肝の小さい《チキンリバード》』と呼ばれ、カートも内心、傷ついていたのか。
もちろん、罪悪感など微塵もないが、少々意外だった。
ガムやスレンと出発の準備を整えた後、私は木々の合間から、外の様子をうかがう。
外では、平原を白一色に染め抜いてもなお、雪がまだ降り続けている。
――吹雪いてないだけ、マシと思うか……。
心の中で、そう呟き、自分を慰《なぐさ》めると、私はスレンとガムの方へ振り返った。
「いくぞ」
かくして、レンジャーの案内なしという、より絶望的な要素を加えた私達の逃避行が、再び始まったのである。
カートが逃げ出してから、二日目の昼過ぎ。
膝までの雪をかき分けて進む、私とガムとスレンの三人は、レンジャーの必要性を痛感する破目になっていた。
小雪のちらつく中、私達の正面に、ガムを捨てる捨てないで論争し、カートと別れることになった林が、遠目にもはっきりと見えたのだ。
どこをどう歩いたのか、私達は二日かけて、同じところへ戻ってきたらしい。
「なんてことだ……」
思わず呻いてから、私は後ろをそっと振り返り、スレンとガムの様子を見てみる。
どうやら、スレンもガムも自分達の堂々巡りに気づいているらしく、無言のまま愕然としていた。がっくりと肩を落とした、ふたりの落胆《らくたん》ぶりは、見た目にも哀れである。
――こういう時は、励《はげ》ましてやるべきなんだろうけど………。
しかし、私の口からは、言葉が出てこない。
はっきりいえば、私とてスレンやガムと同じく、強い精神的打撃を受けていたし、体の方もボロボロで、ふたりを励ますような気力など残っていなかった。しかも、私は今朝から高熱を出していて、脱力感と鈍い関節痛のため、すでに歩くのもつらい状態にある。
冬という季節がら食糧を確保できず、ただでさえ栄養不足なところへ、雪中の強行軍。そこへ更に、ガムとの添い寝だ。
熱が出たとしても、不思議はあるまい。
しばらく、私達三人は歩みを止め、雪の中で呆然と立ち尽くしていた。
その時、鋭い笛の音が突然、どこからともなく響き渡る。
この独特の音色、シャー・ボスニア兵がよく使う、伝令用の角笛に間違いない。
――くっ、敗残兵狩りか?
戦慄《せんりつ》を覚えながら、私は急いで周囲を見回す。
案《あん》の定《じょう》、私達の歩いている場所から、少し離れた小高い丘の上に、角笛を吹き鳴らす人影が、五つ。
並の身長とレンジャー的装備を見る限り、『エステノバ巨人兵団』ではないだろうが、シャー・ボスニアの敗残兵狩りに変わりなかった。
私達を発見した斥候どもが、角笛で敗残兵狩りの本隊を呼んでいる、というわけだ。
「敵本隊の到着前に、正面の林まで退避!」
背後のスレンとガムへ、大声で指示を下すと、私は腰の片手剣《ノーマルソード》を抜きながら、林に向かって逃げ始めた。だが、スレンは別にしても、病気の私とガムの動きは、泣けてくるほどに遅い。
これでは絶対に、逃げ切れないだろう。
すぐに、背後から大勢の気配が伝わってきたので、私は走りつつも、反射的に振り返る。
小高い丘の上には、斥候五人の他に、角笛の合図に駆けつけてきた敗残兵狩りの部隊が、三〇名近くも立っていた。その上、敵兵全員が、長弓《ロングボウ》の弦を引き絞り、私達を狙っている。
「まずいっ!」
失意に叫ぶや否や、敗残兵狩りどもが一斉に、矢を放つ。
放物線を描いて迫る大量の矢を迎撃すべく、ノーマルソードを無意識に構えつつも、私は心のどこかで、じきに訪れるだろう自分の死を受け入れそうになっていた。実際、今の私の体調では、これだけの矢に対する|連続した矢止めの術《マルチ・プロテクション・フロム・アロウ》など、不可能に等しいのだ。
降り注ぐ矢の雨を前に、硬直する私を、ガムが間一髪で、横から抱き締める。そうして、白いスケイルアーマーと呼ぶべき堅固な体で、ガムは敵の矢から私を守ってくれた。
一方、私がガムに助けられている横で、スレンは長い両手を風車のように回し、矢を次々と打ち払っていく。
どうやら、スレンほどの使い手になると、無手での矢止めの術も、そう難しくはないらしい。全く、色々な意味で、たいした腕[#「腕」に傍点]だ。
さて、矢の雨が降り終わった、刹那である。
風を切る音とともに、私の視界の隅を、なにかがすごい速さで過ぎ去っていった。直後、スレンが弾かれたように吹き飛び、そのまま前のめりに、雪の上へ崩れ落ちる。
倒れたスレンの背中には、黒光りする金属製の矢が、深々と突き刺さっていた。つまり、何者かが、|矢止め《プロテクティング》を終えたわずかな隙をつき、恐らくクロスボウで、スレンを狙撃《そげき》したのだ。
――どこのどいつが、こんなマネをっ!
心で怒りの叫びを上げ、私はガムの腕の中から、狙撃者を捜して視線を走らせる。程なく、私の目は右斜め後方二〇メートルに、使用済みのクロスボウを捨てる、狙撃者の姿を捉えた。
狙撃者の正体は、なんと……カートだった。
訳が分からず驚く私へ、カートはいやらしい笑みを向けた後、左右の手で腰から短剣を二本引き抜き、こちらへゆっくりと進み始める。
カートの笑みを見て、私はようやく、事の真相を理解した。
カートは私の想像と違って、ムルシアへ逃げなかったのだ。逃げる代わりに、シャー・ボスニアへ寝返り、私達三人を売ったのである。
たった三人とはいえ、高名な戦士のスレンや、百騎将の私も売ったのだから、カートのヤツはさぞかし儲《もう》けたことだろう。しかも、仲間を売っただけでは飽きたらず、一儲けついでに敗残兵狩りを自ら案内し、敵に回すと厄介な手練のスレンを真っ先に潰《つぶ》した、ということか。
「おのれえっ」
叫ぶと、私は怒りのままに、カートへ斬りかかろうとした。ところが、ガムはなぜか、私を離さない。
「ガム、離せ! あいつだけは、許せん。絶対に、道連れにしてやるっ」
岩みたいに重くて、ぴくりとも動かないガムの手の中で、私は駄々《だだ》っ子のように、暴れる。
すでに、弓を射かけ終えた敗残兵狩り三五名は全員、片手小剣《ショートソード》を抜き放ち、丘を駆け降りている最中だった。加えて、彼らの背後には、ゆうに一〇〇名を超す本隊が続いていた。
驚くべきことに、わずか三名の敗残兵相手に、総勢一五〇名近い大部隊である。
スレンの高い武名に余程の用心をしたのか、カートに妙なことを吹き込まれたのか。
なににせよ、頼りのスレンが死んだ以上、これだけの大人数を敵に回しては、私達に勝ち目などない。どうせ死ぬのなら、憎《にっく》き裏切り者のカートを巻き添えに、というのが人情だ。
そんなわけで、私は絶対にカートを殺すことに決めたのだけれど、肝心《かんじん》のガムが手を離してくれなければ、どうにもならなかった。
「離せってばっ」
怒鳴りながらもがくうちに、私はふと、妙な唸り声を耳にする。
不審に思って耳を澄ませると、その手負いの獣《けもの》を連想させる唸りは、倒れたスレンから発せられていた。しかも、死んだはずのスレンが、上半身を起こそうとしている。
――スレンは、まだ生きているのか!
私が確信した次の瞬間、スレンは勢いよく、立ち上がった。
「うおぉっ。もういっぺん、レアに会うまで、死んでたまるかあぁぁっ!」
そう絶叫を上げるが早いか、スレンは一目散に、丘を駆け降りてくる敗残兵狩りどもへ向かって、もの凄いスピードで突撃したのである。そして、文字どおり疾風と化したスレンが、拳を振るうたびに、敗残兵狩りどもの体は紙細工のように宙を舞い、鎧ごと爆砕していった。
断っておくが、この爆砕という表現は、決して私の誇張ではない。本当に、スレンの拳撃を受けた者は、例外なく、木《こ》っ端《ぱ》微塵に吹き飛んでいくのだ。
もちろん、いくらスレンが強くても、多勢に無勢である以上、いずれは力尽きる。だが、一〇〇人以上の敗残兵狩りの進軍を、今はスレンがたったの独りで、完全に止めてしまっていた。
まさしく鬼神と呼ぶべきスレンの強さに、さすがにガムも度肝を抜かれたのか、私を押さえている手の力を、思わず緩《ゆる》める。
そのチャンスを見逃さず、私は素早くガムの両手の間から抜け出し、走り始めた。
「隊長、いけませんっ」
背後から聞こえるガムの制止をあえて無視し、私はノーマルソードを構え直しながら、カートの元へ一直線に、膝まで積もった雪をかき分けて進む。
そのまま、にやつき顔のカートの手前一〇メートル付近まで、迫った時だった。
「へへ、おたくも単細胞だねえ」
嘲《あざけ》りの言葉とともに、カートは電光石火の早業で、両手のダガーを投げつけてくる。
間一髪のところで、私は矢止めの術を応用し、唸りを上げて死を運ぶ二本のダガーを、ノーマルソードの腹で叩き落とした。少しふらつきながらも、私はすかさず、カートへ斬りつけようと、距離を詰める。
しかし、私が進んだ分だけ、カートは飛び下がり、再び腰からダガーを二本引き抜く。
私とカートの距離は、一〇メートル強。決して、剣の間合いではない。
「この距離でやり合ったら、無芸な戦士ごときが、盗賊に勝てるわけねえだろうが。バカじゃねえの、おたく。それとも、捨て鉢《ばち》になっちまったのか?」
小馬鹿《こばか》にするような口調で言い放ち、カートはげらげらと笑った。
相変わらず、カートの指摘は合理的だった。
恐らく、弱りきった私では、カートの投げるダガーを、受け続けることができないだろう。かといって、直接斬りつけたくても、今の私の足では、逃げ回るヤツに追いつけないだろう。
――カートのヤツ、思ったよりも、やる[#「やる」に傍点]。
追い詰められていたが、私はカートへの意地もあり、あえて口元に微笑みを浮かべる。
「捨て鉢になんかなっていないさ。それよりも、次は遠慮なく殺す……と、私はいったはずだぞ。覚えているかな、|肝の小さい《チキンリバード》カート君?」
そう嫌みたっぷりにいって、私はノーマルソードを捨てると、一気にカートに向かって駆けだした。続けて、背中のロングソードの柄へ、手をかけておく。
「このアマ!」
やはり、『|肝の小さい《チキンリバード》』というあだ名が嫌だったのか、カートは本気で怒声を上げ、先ほどと同じく、ダガーを投げつけようとする。
その動きを先読みし、私は柄を握る右手の人差し指で、鍔元のトリガーを引いた。次の刹那、革製の鞘から、ロングソードの長い刀身が、凄まじい速さで撃ち出される。
そう、抜剣装置による必殺の剣撃・カタパルト・スマッシュだ。
「てぇりゃあっ」
気合い声を上げ、私はカートの放った二本のダガーを、ロングソードの巨大な腹を使って打ち払った。それと同時に、ロングソードの柄から、手を離す。
当然、私という回転軸を失ったロングソードは、遠心力を推進力へと転換され、風を巻いて宙を飛ぶ。
これこそ、カタパルト・スマッシュを使って、超重量兵器のロングソードを投げつけるという、私独自の必殺飛剣『シューティング・ディザスター』である。
刹那の後、圧倒的な速力と破壊力を与えられ、巨大な『投げナイフ』と化したロングソードは、カートに抵抗する時間など与えず、軌道上にあるヤツの胴体を、バターのようにやすやすと斬り裂いた。それから、遙か後方の雪の上へ、斜めに突き刺さり、凶悪な飛行を終える。
「これで、私達がなぜ、『飛剣戦士』――ソード・シューターと呼ばれるのか、よく分かったろう。飛剣術《ソード・シューティング》なら、シーフのキサマ如きに、遅れは取らんのさ……」
もう聞こえないと知りつつも、私はカートの死体へ語りかけた。
途端、私はぐらりとバランスを崩し、両膝をついてしまう。今までの疲労に加え、大技のシューティング・ディザスターを使用した負担で、体力が一気に限界へ達したのだ。
そのまま、雪の中に倒れ込むかという時、追いついてきたガムが、私の体を抱き留める。
「隊長、しっかりして下さい!」
焦り気味に呼びかけつつ、ガムは私を抱えたまま、スレンが独り戦う戦場から、全速力で離れていく。
ちなみに、私がカートと戦っているわずかな間に、スレンは敵兵を五〇名近く叩き殺していた。全くもって、驚異的な話だが、敵はまだ、一〇〇名以上も生き残っている。カートから受けたクロスボウのダメージを考えれば、スレンの体力もじきに限界を超えるだろう。
「ガム、ムダだ。どうせ、逃げ切れない……」
私が呟くと、ガムは首を横に振った。
「いえ、ボク達にも、まだチャンスは残っています。ただ、スレンさんが狂戦士化《バーサーク》した以上、一刻も早く、彼から離れなければなりません。さもないと……」
ガムがなにか説明しようとした刹那、大気を引き裂くような爆音に、その声はかき消される。
思わず、私は爆音の中心――一〇〇名以上の敗残兵狩りに取り囲まれ、絶望的な戦いを繰り広げるスレンの方を振り返り、愕然とした。
敵陣のど真ん中で踏ん張るスレンから、半径一〇〇メートルにわたって、衝撃波《しょうげきは》のようなものが走っていたのである。
衝撃波らしきものが到達した空間の敗残兵符りどもは、舞い上がる雪の白い霧にまかれながら、ことごとく凄まじい量の血を吐いていた。まるで、口から体が裏返り、体液も骨も内臓も全て、吐き出しているようだった。
そう、私達が初めて敗残兵狩りに遭遇した時の戦いで、スレンに掌《しょう》で打たれ、大量に吐血して死んだ大柄な指揮官と同じように。
かくして、我が目を疑うような恐ろしい現象とともに、一〇〇名以上の敗残兵狩りは、一瞬にして壊滅したのである。
しかしながら、スレンが放ったのだろう『死の衝撃波』は、私とガムのすぐ真後ろまで迫ってきていた。結局、ぎりぎりのところで巻き込まれなかったけれど、もしガムが私を無理矢理にでも運んでくれていなければ、今頃………。
無惨な最期を迎えた敗残兵狩りどもの死体を横目に、私は心底、ぞっとする。
一方、ガムはやっと足を止めると、私を抱きかかえたまま、急に頭を下げた。
「隊長、乱暴なマネをして、すみません。しかし、詳しい話をする時間がなかったんです」
そう謝罪してから、ガムは事情の分からない私に、説明を始める。
「シャー・ボスニア兵を皆殺しにした技は、スレンさんが使う風鳴拳《ふうめいけん》の奥義《おうぎ》、『空震《くうしん》』だと思います。以前、ゴブリン族の貴種《ノーブル》と交流を持つ、武術家の父ゴーンから、この技の存在は聞いたことがあるんです。確か、己の全身の筋肉を断ち切るほど振動させて、『鳴響《めいきょう》』という特殊な風を生み出し、周囲の生物を敵味方関係なく、全て死に至らしめる禁じ手、だとか。正直いって、父から話を聞かされた時は、ここまで凄まじい技だとは、思いもしませんでしたが……。ともかく、風鳴拳の拳士が死地に陥ったりバーサークした際、空震に巻き込まれないよう遠くへ離れるのは、ボク達デミヒューマンの貴種《ノーブル》の間では、常識なんです」
少し震える声で、ガムが解説を終えても、私は黙ったまま、身動きひとつしなかった。
九死に一生を得たという強烈な安堵感と、人間の常識を遙かに超えた敗残兵狩りどもの全滅劇に、ただ頭が真っ白になっていたのである。
そのせいか、ガムが貴種《ノーブル》――ギア族の長ゴーンの息子らしい――という重大な事実を、あっさりと聞き逃してしまっていた。
少しの間、私は無言のまま、敗残兵狩りどもの死体をぼんやりと眺めていたが、じきにひとつの問題に気づき、はたと我に返る。
――そういえば、『空震』とかいう技は、全身の筋肉を断ち切るといっていたが………。じゃあ、スレンは、どうなったんだ?
我々の救い主というべき、スレンの身の危険にようやく思い至り、私はガムの腕の中から、彼の姿を求め、敗残兵狩りどもの死体の山へ視線を走らせた。
ところが、探し始めるや否や、私の視界は突然、ぐにゃりと歪《ゆが》んだ。
――な、なっ?
やはり体力の限界に達していたのか、私の気持ちに関係なく、意識が急速に遠のき、瞼も閉じられていく。
――ダメだ、アグリー。まだ眠るな!
心の叫びも虚《むな》しく、私はあっという間に、ガムの手の中で、眠りへと落ちていったのである。
スレンが化け物じみた力を見せつけた、敗残兵狩りの大部隊との遭遇から、四日。
つまり、逃避行の開始から数えて、九日目。
降りしきる雪の中、私はガムの手に寄りかかるようにして、ふらふらと歩いていた。
今や、飢えと連日の高熱に体力を奪いつくされ、私はガムに支えてもらわなければ、満足に歩くこともできない。その上、私の歩みは、ガムよりも遅くなっている。
最早、足手まといなのは、私の方だった。
更に、ガムは私以外に、もうひとつの『お荷物』を背負い込んでいた。文字どおり、ガムが背負った、満身創痍《まんしんそうい》のスレンである。
そう、信じがたいことに、あれだけの負傷の末、スレンはまだ生きていた。
もちろん、クロスボウで背中から腹部を撃ち抜かれ、風鳴拳の奥義『空震』によって全身の筋肉が断裂し、スレンは瀕死《ひんし》の重体にある。
実際、この四日の間、スレンは半分眠ったように、ほとんど意識がなかった。
それでも、スレンはやはり、生きている。
恐らく、鋼のように鍛え込まれた肉体と、妹のレアを想《おも》うスレンの強い一念が、彼の命を奇跡的につなぎ止めているのだろう。
ガムの話によれば、先の戦いで私が疲労のあまり気絶した後、敵の死体に埋《う》もれたスレンを探し出し、応急処置をした、とのこと。それから、敗残兵狩り部隊の全滅がシャー・ボスニア軍本隊へ知れる前に、ガムは気絶した私とスレンを両脇に抱え、戦場を急いで離れたらしい。
かくして、ケガこそないものの、自分とてかなり弱っているのに、ガムは重傷のスレンを背負い、ひとりで歩けない私を支え、ムルシアへ向かう破目になった、というわけである。
さて、時刻も昼を過ぎた、という頃。
小休止すべく、私達は遠目に見える枯れ木林へ、雪をかき分けて進んでいた。
ところが、枯れ木林まで残り三〇〇メートルほど、という時、ふいに猛然と吹雪き始めたのだ。瞬く間に、視界は白い闇に覆われ、吹きつける雪で顔を正面へ向けてもいられなくなる。
すごい風鳴りの中、ガムは私の耳元へ口を寄せ、怒鳴るように大声で叫ぶ。
「いけないっ、急ぎましょう!」
そういって、ガムは先ほどまで見えていた、枯れ木林の方を指した。もっともな提案に、私が無言でうなずき返すと、ガムは歩調を早める。
横殴りの強烈な吹雪を受けて、足元のおぼつかない私は、何度も何度も風で飛ばされそうになり、その度にガムに助けてもらった。そんな調子で、数時間とも思える十分が過ぎ去り、私達はなんとか、枯れ木林までたどり着く。
――くそっ、なんて眠さだ……!
疲れと寒さによる強い眠気に襲われながら、私は大きな枯れ木を風よけにすると、根元に座り込んだ。その途端、死ぬと分かっているのに、そのまま眠ってしまいそうになる。
しかし、間一髪のところで、ガムが私を揺り起こす。
「隊長、眠ってはいけません! すぐに、雪壕《せつごう》を掘りますから、それまで頑張って下さい。いいですね?」
念を押しつつ、私の横にスレンを座らせると、ガムは風の吹き込みにくい倒木の陰に、雪壕を造り始めた。
まず、雪の積もりの浅いところを堀り、地面を露出《ろしゅつ》させると、その上に動物の脂《あぶら》で防水した毛布を敷く。次に、穴の横壁を押し固め、雪でドーム状の低い天井《てんじょう》を造る。最後に、ガムは私とスレンを毛布の上に寝かせ、入り口を内側から空気穴程度の大きさに塞《ふさ》いだ。
完成した雪壕の中で、私はうつ伏せになり、寒さで固まった全身を伸ばす。
「……うぅん」
一息吐くと、私は何気なしに、左右のスレンとガムの様子を、それぞれうかがい見た。
薄暗い雪壕の中、私の左側では、スレンが傷だらけの体を、あお向けに横たえている。そして、スレンは夢現《ゆめうつつ》のまま、黒死病《ブレイグ》に侵《おか》された妹の名を、必死に呼んでいた。
といっても、今に始まったことではなく、スレンは狂戦士化して倒れて以来、妹レアの名をずっと口にしている。
――もうじき、自分は死ぬかもしれんのに、それでも、病気の妹が心配か。腹違いとかいっていたけど、スレンにとっては、よっぽど大切な妹なんだろうな……。
レアに対するスレンの強い愛情から、私は改めて、彼の誇り高さを痛感した。
譫言《うわごと》で名前を呼ぶほど会いたいと思っているのに、スレンは戦士としての誇りを守るため、レアの元へ帰れなくなる危険を冒し、ガムを見捨てなかったのだ。
ただし、妹のレアよりも誇りの方が重かった、というわけではないと、私は個人的に思っている。きっと、スレンにとって『レア』と『戦士の誇り』はどちらも、比べようがないほど、大切な存在なのだろう。
まあ、人と思想を同列に考える価値観が、正しいか正しくないかの問題は、おいておく。
――誇り、か………。
憧れと胸の痛みを同時に感じつつ、私は内心で、その言葉を呟いた。
それから、うつ伏せのまま、私はアゴの下で両手を組み、枕の代わりにすると、右隣のガムを横目でちらりと見てみる。
私と同じく、ガムはうつ伏せに寝転がり、斜め上の空気穴から、熱心に外の雪を眺めていた。
――こ、こりないヤツだなあ。雪のせいで、こんなにひどい目に遭ってるのに………。
本当に雪が好きらしいガムを見て、私は半ば呆れつつも、思わず口元に笑みを浮かべる。
命を懸《か》けた極限状態にあっても、ガムはある意味でバカげたことに、雪を愛《め》でる繊細な感性を、決して失っていない。
そんなガムと一緒にいることが、私はなぜか、心地よかった。しかも、絶望的な現実に直面しているにもかかわらず、ガムの横に寝ているだけで、根拠のない希望が湧《わ》いてくる。
こんな気持ちは、子供の時以来だった。
――そうだ。確か、チャナムに住んでいた……七、八歳の頃は、なにをしても、なにを見ても、不思議なぐらいワクワクしたっけ。確かに、貧しかったけれど、焦りや不安なんて、少しもなかったな。
すっかり忘れていた、昔懐かしい感覚を思い起こしながら、私は反射的に、心の奥でガムやスレンに激しく嫉妬《しっと》してしまう。
私が失ったものを、スレンは『戦士の誇り』という形で、ガムは『繊細な感性と優しさ』という形で、はっきりと持っている。同時に、力や地位や金という、目に見えるものだけを追って生きてきた、私には決してえられないのだろう、確固たる信念も………。
ゆっくりと、しかし、確実に、私の価値観は揺《ゆ》らぎ始めていた。そこへ、私と同じぐらい強烈な合理主義者だった、カートの惨めな死に様が拍車をかける。
しかし、ガムやスレンのような生き方を、嫉妬するほど憧れているくせに、私はとても素直に肯定《こうてい》できそうになかった。
もし、肯定すれば、今まで積み上げてきた地位も名誉も、それによって手に入れた自尊心も、全てが意味を失ってしまう。
そう、ホワイトばかりのガーランドで、カラードや女に生まれついたというハンデと戦い続けてきた、私なりの努力の全てが。
ガムとスレンに憧れれば憧れるほど、なにかが、私の中で大きくなり、私を縛《しば》っていく。
それは、嫉妬を栄養として、心の底に根を張り巡らした、鉄のように硬く、炎のように熱い、意地だった。
――私には、私のやり方がある。ガムやスレンのマネをしても、しかたない。いくら、憧れたって、意味はないんだ。
必死になって、私は自分にいい聞かせる。そして、知らず知らずのうちに、口を開いていた。
「ガム、お前に、訊いておきたいことがある」
「はい、なんでしょう?」
ガムが控え目な口調で返すや否や、私は素早く、疑問を叩きつける。
「なぜ、私やスレンを捨てていかない? お前ひとりなら、助かるかもしれないんだぞ。自分の命が、惜《お》しくないのか?」
私の口調は自然と、いやらしくなっていた。
ガムとて、死にたくないに決まっている。ならば、ここまでストレートに訊かれたら、さすがに一瞬でも迷うはず。
私が見たいのは、その迷いだった。
よく分からないけれど、ガムが己の保身に走るところを目にできれば、私は救われるような気になっていたのである……。
予想どおり、私の意地悪な問いかけに、ガムはしばらく、答えなかった。
ただし、我が身|可愛《かわい》さのあまり返答に窮《きゅう》していた、わけではないらしい。
なぜかといえば、私を見詰める、ガムのつぶらな二つの瞳を満たしていたのは、焦りや迷いではなく、悲しみと怒りだったのだから。
――ガムが、怒ってる……!
恐怖とともに、私がそう直感した途端、ガムは堅固な意志を秘めた力強い語り口で、質問に答え始める。
「自分の命が惜しいかと訊かれれば、確かに惜しいです。やっぱり、ボクも、死にたくはありませんから……」
数瞬の間の後、ガムは私へ告げた。
「……だけど、足手まといのボクを見捨てずにいてくれた、隊長とスレンさんの命は、ボクの命と同じぐらい惜しいです。比べることなんて、決してできません」
そういうガムの声は、感情の高ぶりで、少し震えている。
温厚なガムが怒ったとしても、仕方あるまい。なにしろ、自分も相当つらい中、必死で助けてやっているのに、その私が恩義を感じるどころか、逆にガムの純粋な真心を踏みにじろうとしてきたのだ。
「すまん。私が、悪かった。許してくれ……」
反射的に、私は小さな声で、謝罪の言葉を口走ると、手枕に顔を突っ伏した。間を置かずして、自分への嫌悪感に、胸を抉られる。
――私はいったい、なにをしてるんだ? 感情もコントロールできず、自己満足のために、命の恩人のガムを平気で傷つけるなんて……。
あまりに自分が情けなくて、私は思わず、泣きそうになった。
『飛剣戦士』の二級剣士だという、ホワイト達から与えられた、ちっぽけな自尊心と、私とスレンの命運を担《にな》ったガムの、誰に強制されたわけでもない、本当の真心。
どちらが大切かなんて、考えるまでもないはずなのに。
そのはずなのに、私はガムを怒らせるまで、本当に大切なものを見失い、ガラクタのような意地を、宝物だと思い込んでいたのである。
誇りのない人間は、いざという時、こんなに弱く、こんなに迷うものなのか?
愕然と自分を責める、私の気持ちを知ってか知らずか、ガムが不意に、雪壕の空気穴から外へ視線を向けたまま、言葉を継ぐ。
「そ…それに、ボクは隊長のことが、好きです。だから、絶対に見捨てられません。たとえ、隊長の命令でも……殺すって脅《おど》されても、それだけは無理です」
少しどもりながらも、ガムははっきりといい切った。
「……!」
思わず、私は勢いよく顔を上げ、ガムの方へ視線を向ける。そのまま、言葉もなく、ガムの横顔を、呆然と見詰めるしかなかった。
もしかすると、ガムは私が落ち込んだのを察して、元気づけようと、ウソをついたのかもしれない。こういう過酷な環境で気落ちすると、生命力をダイレクトに失って、あっさり死にかねないからだ。
それとも、ガムは本気なのだろうか? もし、本気だとしたら………。
もちろん、私は人間《ヒューマン》で、ガムは亜人種族《デミヒューマン》。
当然、恋愛感情など抱《いだ》くはずがないし、仮に抱いたとしても、結ばれることはあり得ない。そんなことは、はなっから分かっている。
分かっているのに、私は胸の動悸《どうき》を抑えることができなかった。じきに、寒さを忘れるほど、体がかあっと熱くなり始める。
なんというか、月並みな表現で恐縮だが、私はメチャクチャ嬉しかった。
恋とか愛とかいう問題ではなく、こんな状況でこんな私を、『好きだ』と断言してくれるガムの存在が、たとえようもないほど嬉しい。変な話、たったこれだけのことで、今の絶望的な状況ですら、生き抜けるような気がする。
急に、ときめいている自分が気恥ずかしくなり、私は暗がりの中、そっと下を向いた。そして、横目でガムを見ながら、勇気を奮《ふる》い起こし、改めて口を開く。
「ガム、もうひとつ、訊いていいか?」
「………はい」
一拍の間の後、ガムは怖《お》ず怖《お》ずといった雰囲気《ふんいき》で、返事する。
どうやら、私のろくでもない質問が、ガムに強い警戒心を植えつけてしまったらしい。
――まったく、私って女は………。
内心で、己の言動を激しく悔《く》やみつつも、私は問いを重ねた。
「前々から気になってたんだが……人間は――特にガーランド人は、親愛の情を示す時、抱き合ったり、キスをしたりする。そんな時、ワニ人はいったい、どうするんだ?」
「親愛の表現ですか………」
小さく呟き、ガムは雪壕の天井を見上げる。
いきなり、私の質問の方向性が大きく変わったので、ガムは少し戸惑っている様子だった。しかし、ほっとしてもいるのか、先ほどよりは明るい口調で、答えた。
「ワニ人も、戦士が友情を確かめあう時なんかに、抱きあったりはします。ですが、人間のように、唇を重ねる習慣はありません。まあ、意味合いだけを考えれば、キスに近いものは存在しますが………」
「近いもの?」
私が問い返すと、ガムは数秒、話しにくそうに黙っていたけれど、じきに説明を加える。
「……はい、ワニ人の言葉で『ギリ』といいまして、人間に分かりやすく訳せば、『絆《きずな》』という意味になります。ともかく、自分が好意を抱く、異性に対してのみ使用される、感情表現の方法でして……。うーん、何と説明しましょうか。まあ、具体的にいってしまえば、お互いに舌を出して、何重にも絡め合う、ってことになるんですけど」
「舌を……?」
想像もできず、小首を傾げる私に、ガムはうなずき返した。
「もちろん、人間には不可能でしょう。しかし、ボク達ワニ人は、舌が長いですからね」
そういって、ガムは私の方へ向き直り、凶悪な牙《きば》が並ぶ口から、にょろりと舌を出す。
次の瞬間、まさしく蛇《へび》を思わせるガムの舌は、私の鼻先まで――つまり、ゆうに三〇センチ以上、伸びたのである。
――な、なるほど……。
さすがに驚いたが、私はすぐに納得した。
同時に、私は眼前のガムの舌へ、不意に唇を近づける。そのまま、目を閉じると、舌を伸ばし、ガムの舌先に触れた。
すぐさま、ガムの冷たい舌から、ざらざらとした独特の感触――しかし、決して不愉快ではない感触が、伝わってくる。
「………」
舌を合わせながら、私はひとときの間、不思議な安堵感に身を任せていた。
しかし、当のガムが私の不意打ちに、驚きのためか緊張のためか、舌を伸ばしたまま、完全に固まってしまっている。今のガムに、ワニ人のキスである『ギリ』の特徴――舌の絡め合いなど、期待する方が無理というものだ。
ひとまず、私はガムの舌から顔を離す。
「……『ギリ』っていうのは、こんな感じでいいのか?」
照れ隠しに咳払いをしてから、私がたずねると、ガムは正気に返り、何度もうなずいた。
「は、|はひ《はい》っ。|こへで《これで》、|だいひょうふえふ《大丈夫です》」
焦るあまり、ガムは舌を戻すのも忘れたまま、返事をしている。
「ふふふ……」
ガムの慌てぶりが可笑《おか》しくて、私は思わず、笑みをこぼした。そのまま、体を起こすと、私は指先で、ガムの舌先を優しく叩く。
「早く、舌をしまえ。こんなに長い舌を、出したままにしていたら、体が冷えるだろう?」
「す、すみません………」
私の指摘を受け、ガムは急いで、舌を引っ込める。それから、じっとしていられないといった様子で、体を起こし、あぐらをかいた。
「……ボクは今、とても嬉しいです」
唐突に、ガムが明るい口調で、話し始める。
「はっきりいって、ボクはノロマだし、気が利かないし、……それに人間から見れば、ずいぶんと不細工でしょう? だから、隊長には嫌われてるって、ずっと思ってました。でも、そうじゃないと分かって、とても嬉しいです」
そう告げると、ガムは急に恥ずかしくなったのか、私から視線を逸《そ》らす。
再び空気穴から外へ目を向けた途端、ガムは突然、身を乗り出した。そして、低く押さえつつも、喜びの声を上げる。
「隊長、雪ウサギです!」
「なにっ?」
ガムの言葉に、私は素早く身を起こし、ガムと同じように空気穴から外を覗《のぞ》き込む。
いつの間にやら、外では吹雪が、少しばかり弱まっていた。おかげで、視界もいくらか回復し、枯れ木林の外れぐらいまでなら、かろうじて見渡せる。
そして、ガムの視線の先を追ってみると、雪壕から三〇メートルほど離れた、枯れ木の根元に、件《くだん》の雪ウサギは身を寄せていた。
ちなみに、白い体毛を持つ雪ウサギは、その名のとおり積雪の多い地方に、生息している。基本的に、肉質は食用に向かず、猟師《りょうし》もあまり獲《と》らないという。
だが、飢えに飢えまくった、現在の私達からすれば、味など全く関係ない。
しばし、ふたりで雪ウサギを見詰めた後、私はとてつもなく期待を込めた視線を、ガムの方へ向けた。すると、ガムは私に大きくうなずき応え、空気穴の周辺を一気に崩し、雪壕に出入り可能な大穴を空ける。
「捕まえてきますっ!」
力強い口調で、ガムは小さく叫び、広げた空気穴から、這い出ようとした。その直前、私はガムの耳元へ、唇を寄せる。
「雪ウサギを捕まえられたら、お祝いに、もう一回『ギリ』をしよう! だから、頼んだぞ」
「……ま、任せて下さいっ」
私の囁きに、ガムはガッツポーズとともに答え、冬場のワニ人とは思えない元気さで、雪をかき分けて進んでいった。そんなガムの背中を、私は頬笑《ほほえ》ましいような、それでいて頼もしいような気持ちで、見送る。
雪壕の中から、ガムの後ろ姿を見ているうちに、私は改めて、強い生への執着を感じた。
ガムと一緒に、生きてムルシアに帰りたい。
心の底から、そう思う。
この気持ちが、いわゆる愛とか恋とかいう感情なのか、私には正直、分からないし、どうでもいいことだった。ただ、私にとってガムは、数少ない心の許せる存在なのである。
ムルシアへ戻れたら、『飛剣戦士』の仕事帰りに、ギア族が住むという人工湿地に必ず出向き、毎日でもガムと会おう。そして、ガムのことを色々と訊いたり、私のことを色々と話したりしよう。ついでに、ちょくちょくは、ガムをからかったり、イジメたりしてしまおう。
ガムのいる生活を想像し、私は理屈抜きで、子供のようにワクワクした。
――それと……。
内心で呟きながら、私は横目でちらりと、倒れ伏したスレンを見る。
なんとしても、スレンを生きたまま連れ帰り、妹のレアに会わせてやりたかった。それぐらいしか、私にできるスレンへの恩返しはない。
そして、もしスレンと私が生き延びて、更に彼に許してもらえるなら、無手の武術を教えてもらおう。今の私が使っているような、相手を殺すためだけのものではなく、自分の誇りを自分の意志で守り抜くための、本物の戦士の技を。
人知れず決意を固め、私が何気なしに、空気穴の方へと視線を戻した、その瞬間だった。
雪ウサギを追うガムが急に、枯れ木林の外れあたりで、膝の上まで積もった雪の中へ潜《もぐ》ってしまったのである。
――雪ウサギを捕まえるために、隠れたのか? それにしては、いまさらだけど……。
雪に潜るという、ガムの意図が読めず、私はただただ呆然としてしまった。
しかし、十数秒後、ガムの隠れている場所の近くに、四つの人影が現れたことにより、私の疑念はあっさりと解ける。
なにかを探しているような、四つの人影はそれぞれ、熊手《フォーク》や鍬《ホウ》といった農具で武装していた。
当然ながら、獲物の少ない吹雪の中を、弓さえ持たずにうろついている以上、こいつらは猟師じゃない。ましてや、荷物の少なさから考えて、旅人という可能性も、ほぼゼロだ。
ならば、四つの人影の正体は、ただひとつ。
戦場近くの寒村で農民によって組織された、私的な敗残兵狩りである。
冬期に飢餓《きが》の最高潮を迎える寒村の農民達が、戦の後、敗残兵を狩って生活の足しにすることは、別段珍しい話でもなかった。
増税の続く戦時中は、大都市ですら、多かれ少なかれ犠牲を払って、冬を越す。当然、貧しい村となれば、大量の餓死者や凍死者が出る。
たとえ、残酷な上に危険だとしても、敗残兵を狩らなければ、彼らは間違いなく、自分の命か家族の誰かを失うのだ。
それが、『常春の都』ムルシアとは違う、一般的な世界の現実であった。
とにかく、四人の農民は私達にとって、かなり危険な存在だった。
いってしまえば、たかが農民なんだが、今のガムには戦う余力も、逃げ切る足もない。しかも、ガムが見つかって殺されれば、四人の農民は仲間のいる可能性を考えて、すぐに村人を呼び寄せ、この周辺を捜索するだろう。そうなれば、私とスレンも発見され、絶対に殺される。
つまり、ガムが農民四人に見つかるか見つからないか、その一点に、私とスレンの命運はかかっていた。
かくして、打つ手を持たぬガムは、雪の中に隠れるしかなかった、というわけだ。
――ガムが、殺される!
現状を理解した途端、内臓を引き裂《さ》くような痛みと共に、全身を嫌な冷や汗が流れ始める。
「頼むから、ガムのことは諦めて、とっとと帰ってくれ。頼むから……」
震える声で独り言をいいつつ、私は雪壕の穴から、四人の農民の様子をうかがった。
吹雪にさらされながら、四人は辛抱強く、枯れ木林の外れをうろついている。しかし、彼らの足取りや探し方には、獲物の存在に対する確信が、あまり感じられなかった。どちらかといえば、半信半疑といった感じである。
遠目にガムの姿をちらりと見かけたものの、吹雪のせいもあって確信を持てぬまま、ここまでやって来た、というところか。
――ああ、神様。どうか、ガムが見つかりませんよう………。
暗い雪壕の中で、私は無意識のうちに、両膝をつき手を合わせ、日頃から全く信じていない神に、ガムの無事を祈っていた。ガムと同様に、農民四人を倒す力すら残っていない以上、私にできるのは、神に祈ることぐらいなのだ。
祈り始めてから、五分……いや、十分が過ぎた頃だったろうか。
不意に、四人の農民達は捜索を打ち切り、吹雪の向こうへと姿を消したのである。
――よ、よかった。
四人の農民の姿が完全に見えなくなってから、私は安堵の息を吐き、胸を撫で下ろす。
雪の中に隠れたガムは、純白の肌を持つためか、見つからずにすんだらしい。恐らく、弱いが吹雪いていたことも、幸いしたのだろう。
雪の中に隠れるという、ガムの機転により、私達全員が助かったのだ。
とはいえ、先の四人と遭遇した以上、他の敗残兵狩りが、この近辺を捜索している可能性は充分にあり、まだまだ油断できなかった。やはり、ここは大事をとって、暗くなるまで雪壕で身を潜めなければなるまい。
――ガム、雪ウサギはもういいから、今のうちに帰ってこい。早く!
心で呼びかけつつ、私はガムの帰還を待ち続ける。ところが、待てども待てども、ガムは戻ってこなかった。
すぐに待ちきれなくなり、私は雪壕の大穴から顔を出して、目をこらしてみる。しかし、雪に埋もれたガムは、微塵も動く気配がない。
――四人組が立ち去ったことに、まだ気づいてない、とか?
穴から顔を出したまま、私は少しの間、ガムが立ち上がらない理由をあれこれと考えた。そのうち、私はある事実に、はたと思い至る。
ただでさえ寒さに弱いワニ人が、弱りきった状態で長時間、雪に埋もれたとしたら?
恐ろしいことに、答えは考えるまでもない。
「ガム!」
一声叫ぶと、私は我を忘れて、雪壕から飛び出していた。それから、動かぬ体へ鞭打って、雪に埋もれたガムの側まで、夢中で這い進んだ。すぐさま、ガムを覆い隠す雪を、両手で払う。
冷たい雪の下、うつ伏せになったガムは、きつく目を閉じていた。そして、大きく両手を伸ばし、雪に爪を立てている。
寒さに耐えながら、絶対に見つかるまいと、最後の最後まで懸命に雪をかき、下へ潜ろうとしていたのか。
「……ガム………」
小さな声で呼びかけてから、私は恐怖と期待の双方を胸に、眠っているかのようなガムの頬《ほお》へ、怖ず怖ずと右手の手の平で触れてみる。
雪と見分けがつかない程、真っ白なガムの体は、文字どおり凍りついていた。
まるで、雪を固めて作り上げた、美しい彫像のようだった。
「ガム。まだいってなかったけど、お前に訊きたいことがあったんだ。どこで生まれたのかとか、どんな風に育ってきたのかとか……。それだけじゃない。お前に話したいことも、いっぱいある。ガム、私は……私はお前のこと……」
呟きながら、私は両手で優しくガムを抱き締め、そっと首筋へ頬を寄せる。
その途端、ワニ人特有の凶悪な皮膚装甲に、私の頼はあっさりと裂け、真っ赤な血がガムの純白の体へ滴《したた》り落ちた。
わずかな痛みが、私の意識を刺激し、失《う》せかけた現実感を回復させる。
瞬間、私は反射的に、現実の認識を拒否しようとした。しかし、抵抗も虚しく、ガムの死という現実が、心へ無理矢理に染み込んでくる。
「いやあぁぁっ」
次の瞬間、私は悲鳴を上げていた。
「目を開けてっ。お願いだから、目を開けて! ガム、お願いだからっ!」
再び強くなり始めた吹雪の中、私は子供のように、大声で泣き叫んだ。
声を上げれば、敗残兵狩りに見つかるかもしれないという事実も、自分が『飛剣戦士』の第二級剣士にして百騎将だという自尊心も、私は全て忘れて、ただひたすら泣き続ける。
そのまま、ガムの亡骸《なきなら》を胸に抱き、私は涙が涸《か》れ果てるまで、泣いた。
正直、ガムが死んだ後のことは、よく憶《おぼ》えていない。
次に、私が正気を取り戻したのは、護衛団『飛剣戦士』の兵舎の一室である。
戦時中、『飛剣戦士』の兵舎の一部は、常に負傷兵の病室として割り当てられており、私もそこへ担《かつ》ぎ込まれたわけだ。
その病室のベッドの上で、治療を担当してくれた若い僧侶《そうりょ》から、私は色々な話を聞いた。
まず、連合軍の生き残りがほぼ撤退を終えていたにもかかわらず、平原を必死にさまよっていた私達は、運の悪い逃げ遅れだったらしい、ということ。
次に、作戦行動中だった都市連合の神官戦士部隊『|神の盾《ゴッド・シールズ》』が偶然、枯れ木林の雪壕を発見し、私達を救助してくれた、ということ。
加えて、私と同じく、スレンも無事救助された、ということ。
最後に、雪壕の中で、私が白いワニ人兵の死体を抱き締めていて、引き離すのにかなり苦労した、ということ。
どうやら、話を聞く限りだと、どこにそんな力が残っていたのか、私はたったひとりで、ガムの鉄の如き巨体を、枯れ木林の雪壕へ運び込んだらしい。そして、私はガムの亡骸や意識のないスレンとともに、救助されるまでの数日間、あの雪壕に身を潜めていたことになる。
あれから更に数日、飲まず食わずで、よくもまあ死ななかったものだと、我ながらに思う。
とにかく、私とスレンは、生きてムルシアへ戻った。
そう、生き延びたのだ。
こうして、『ザオバー攻略戦』から十二日にわたる、私達の逃避行は、幕を閉じたのである。
「……兵舎に担ぎ込まれてから一ヶ月が過ぎ、傷も癒《い》えると、私はすぐに『飛剣戦士』を辞《や》めて、流れの剣士になった。ただし、ムルシアを離れた後も、今の季節になると、必ずギア族の住む人工湿地を訪ねて、ガムの墓へ参ることにしていてな。その墓参りの帰り道、木剣を振るう小さな戦士を、目撃したというわけだ」
軽く冗談《じょうだん》めかした口調で告げると、アグリーは大きな常緑樹の幹に背を預けながら、空色の瞳だけを動かして、右隣の少年を見た。
「少年。これで、『本当に強くて、本当に勇気のある戦士』のお話は終わりだ。ただ、お前の期待していたような、勇ましい英雄|譚《たん》とは、少し違ったかもしれんが……。まあ、許せ」
「…………」
謝罪するアグリーに、少年はうつむいたまま、言葉を発することもできない。
生まれて初めて経験する、生き様や死に様への感動に、少年の魂は痺《しび》れていたのだ。
確かに、ガムという白いワニ人は、お世辞にも勇ましくなかった。いや、少年の知る多くの武勇談の中の、どの戦士よりも、ガムは弱い。
しかし、少年はガムのことを、アグリーの言うとおり、『本当に強くて、本当に勇気のある戦士』だと思った。
そして、理屈抜きで、どんな勇者よりも、格好良いと思う。
「……少年」
唐突なアグリーの呼びかけに、少年ははっと顔を上げる。すると、アグリーは少年の方へ振り返り、言葉を継ぐ。
「お前は私に、強くて勇気のある男になりたい、といったな? だが、お前はすでに、強さも勇気も持っている。だいたい、勇気のない男が泣く子も黙る『飛剣戦士』の団員へ、牛乳をぶっかけたりはせん」
少年へ語りかけるアグリーの口元に、優しい微笑みが浮かぶ。
「そして、『強さ』とは、勝敗に関係なく、どんな時でも、どんな相手とでも、大切なもののためなら戦える、ということだ。例えば、意地を守るため、『飛剣戦士』の団員へ勝ち目のないケンカを売った、お前のようにな……」
一旦、言葉を切ると、アグリーはおもむろに立ち上がり、降り行く雪へ視線を戻した。つられて、少年も何となしに、外へ目を向ける。
話を聞いているうちに、ひどかった雪の降りも、いつの間にか、ずいぶんと弱まっていた。
「少年。人殺しの技など学ぶヒマがあったら、お前の『強さ』も『勇気』も、もっと大切なことに使え。なにより、大切なもののために戦ったのならば、勝っても負けても、受けた傷は誇りに思うがいい」
再び口を開きつつ、アグリーは手早く、コートを脱いだ。そして、広げたコートを、いきなり少年の頭へかける。
「!」
驚きつつ、少年は慌てて、コートの下から顔を出した。次の瞬間、コートを脱いだアグリーの姿に、少年は目を見張る。
まるで、白鳥の羽毛で作られたような、純白のスケイルアーマーを、アグリーはその引き締まったしなやかな肢体《したい》にまとっていた。
これこそ、アグリーが『白き鋼』という異名で呼ばれる、原因だった。
――ガムさん……?
刹那、少年は直感だけで、このスケイルアーマーがガムの死体を加工して作り上げた、世界でただひとつの鎧であることを理解する。
「少年、風邪《かぜ》をひくなよ。……さらばだ」
立ち尽くす少年に、アグリーは別れを告げると、常緑樹の下から歩み出た。その足で、中央広場を突っ切って、ムルシアの南門へとつながる大通りを目指す。
「アグリーさん!」
ゆっくりと遠ざかっていくアグリーの背中に、いい知れぬ焦りと不安を覚えた少年は、思わず声を上げる。
「もしかして、あんたも『ひとひらの雪』になっちまうのかっ?」
歩みを止めると、アグリーは数秒、雲に覆われた天を仰ぎ、舞い降りる雪を眺めた。そのまま、振り返らずに、返事をする。
「正直いって、私はガムのようには、考えられない。誰かのために、人知れず犠牲になるなんて、ガマンできないだろうな」
灰色の髪と褐色の肌と、そして純白のスケイルアーマーに、舞い散る雪を浴びながら、アグリーは言葉を続けた。
「しかし、私が生き延びられたのは、ガムっていう、バカがつくぐらいお人好《ひとよ》しな雪が、先に溶けてくれたおかげだ。つまり、『ひとひらの雪』のガムと違って、私は『降り積もった雪』の方ってことになる」
そういうと、アグリーは少年の方へ向き直り、ウィンクしながら、満面に笑みを浮かべる。
「……だから、積もった雪らしく、ガムとは真反対に、派手に目立ちながら、強く生きていくことにするよ」
屈託《くったく》のないアグリーの笑顔へ、少年は反射的にガッツポーズで応え、また叫んでいた。
「オレ、がんばるよっ。だから、アグリーさんも、なんていうか……がんばってくれ!」
「ああ」
少年の声援に短く返すと、アグリーは今度こそ、中央広場を抜け、大通りへ入る。
雪の降りが弱まっているとはいえ、少し距離を置くだけで、アグリーの姿は簡単に、ぼやけた人影になってしまった。それでも、少年は根気よく、アグリーらしい人影を目で追い続ける。
すると、アグリーらしい人影は大通りの半ばで、ふたつの新たな人影と合流した。
ふたつの人影のうち、片方は、遠目にも分かるほど、やたらと手が長くて大きい。更に、もう片方は、体のラインがかなり華奢《きゃしゃ》な感じで、どうも女性のようだった。
――きっと、手が大きい方は『疾風のスレン』さんで、体の細い方は妹のレアさんだ!
根拠もないまま、少年は内心で、断定する。
三つの人影が背景の灰色に滲んで無くなるまで、少年はアグリーとスレンとレア――あくまでも、彼の独断による――を、立って背筋を伸ばしたまま、最敬礼で見送った。
「いっちゃった………」
呟くと、少年は脱力したように、常緑樹の幹に座り込んだ。
それから、少年は何気なく、アグリーにかけてもらったコートに鼻を近づけ、息を吸ってみる。途端、糖蜜《とうみつ》のような甘い香りが、胸一杯に広がった。
「………」
目を閉じ、少年は両手で、木剣の柄を強く握り締める。
自分の中に芽生えた、新しい決意の存在を、そっと確かめるように。
[#地付き]〈終〉
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底本
電撃hp Volume 9
発 行 二〇〇一年一月五日 発行
著 者 白井信隆
発行者 佐藤辰男
発行所 株式会社メディアワークス
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訂正部分
P.131 一段一〇行目
飛び退《しさ》った。
―――飛び退《すさ》った。
P.146 二段九行目
黒死病《ブレイグ》
P.157 一段二四行目
黒死病《プレイグ》
―――黒死病《ブレイグ》に統一。
[#地付き]校正M 2007.10.28