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しゃばけ
畠中 恵
女婆気(しゃばけ) 俗世間における、名誉・利得などのさまざまな欲望にとらわれる心
[#地付き]国語大辞典『言泉』(小学館)より
[#改ページ]
[#小見出し]  一 暗  夜
[#挿絵(img/syabake005.jpg、横149×縦312、下寄せ)]
厚い雲が月を隠すと、江戸の夜の闇《やみ》は、ずしりとのしかかるように重かった。
前も後ろもない、うっかりその闇の中に踏み込んだら、そのまま落ちていきそうな、ひやりとする暗さ。その黒一面の中を、提灯《ちょうちん》の明かりがぽつりと、わずかに夜をわけて進んでゆく。
先刻まで雲はときおり切れては、月の光の中、町屋の姿とわずかな風に揺れる木の影を、浮かび上がらせていた。
だが、その青い光も隠れてしまえば、いっそう闇を濃く思わせるだけだ。北へ行けば中山道《なかせんどう》に続く道を、急ぎ足でお堀の方角に下る。小さな手元の光は、持ち主の足元を照らすばかりで心もとなかった。右手にあるはずの、湯島聖堂の塀の白壁にさえ、それは届きはしない。神社の外壁が続く坂道には、夜商う振り売りがともす明かりもなく、すれ違う人の影すらない。犬一匹、追い越してはいかなかった。かすかな甘い香だけが、遠くないところに咲く花があることを教えている。
「遅くなってしまった。これでは仁吉《にきち》たちに、出かけたのが分かってしまう……」
ため息と共に出されたその声も、濃い夜の中、行方しれずになりそうだ。提灯と連れ立っている足音が、暗闇にせかされるように、せわしない音をきざんでいる。
そこに突然、声がかかった。
「若だんな、お一人なんですか?」
柔らかな若い響きの、女の言葉。呼ばれた若だんなの歩みが、からめとられたかのごとくに、ぴたりと止まった。
「誰?」
五つをとうに過ぎた刻限の、闇の中からの問いかけ。
相手も分からず、常ならば身構えるだろうそれに向かって返された声は、大してこわばった様子でもない。手にしていた提灯が顔の側《そば》に掲げられ、声が来た方を照らす。
明かりは若だんなと呼ばれた者の、白い細面、縞《しま》の着物をかすめたが、他の姿を見せはしなかった。
提灯が、闇を見据えるように、ゆっくりと上下する。
「私はその先の道の傍にある、お稲荷《いなり》様にお仕えしているもので……」
再び漆黒から言葉がわく。その艶《つや》のある話し声に、かすかに鈴の音が重なっていた。はかない音色を聞いた若だんなの口元に笑みが浮かび、体の固さがとれていく。
「付喪神《つくもがみ》! 鈴彦姫か」
誰ぞに稲荷に納められたのだろうか、鈴が化して妖《あやかし》と成ったものは、眷属《けんぞく》の中では鈴彦姫との名で呼びならわされていた。器物が百年の時を経て成る妖怪《ようかい》、付喪神という。この世の尋常のものから、一つ離れた存在だ。
だが、そんなものに声をかけられたというのに、いぶかしむでも怖がるでもない。若だんなは人の身で付喪神の名をあっさり言い当てると、それ以上は気にする様子もなく、また提灯をめぐらせて夜道を急ぎ始めた。
その足元の闇の中、先ほどのうら若い声が付いてくる。
「なぜ今日は、犬神《いぬがみ》さんも白沢《はくたく》さんもお供していないのですか? こんな月のない夜に、危ないことで……」
「おや、お前、二人を知っているのかい?」
わずかに驚いたような声が返る。おもしろがっている風でもあった。
「ここいらの妖ならば、たいていの者は存じ上げております。私のような小妖怪とは比べものにならないくらい、力の強い方《かたがた》々ですから」
「今日は二人に付いてきてもらう訳にはいかなかったのさ……そう、少し散歩に出ただけだからね」
「この闇の中をですか? こんな刻限にですか?」
付喪神の声が低くなる。明らかに信用の二文字が欠けた返事だった。
「本当は、乳母《うば》やの具合が悪くて、見舞いに行っていたのさ。いや、この言い訳はまずいか。乳母やはぴんぴんしているのに、怒られてしまう」
自分の言葉を言った先から否定して笑うと、また別のことを言いはじめる。
「実は遠くにいる兄さんに会いに行ったのだよ。それで帰るのが遅くなった」
「からかっちゃぁいけません。若だんなは一人っ子じゃありませんか」
「知っていたのかい? 物知りだね」
のんびりとした返事に、鈴彦姫の声が少しばかりとがった。
「そうやってごまかすところをみると、お二人には内緒で他出《たしゅつ》なさったんですね? はめを外して、本当に危うい目に遭っても知りませんからね」
「窮奇《かまいたち》と鉢合わせして、切りつけられるか? それとも邪魅《じゃみ》に見つかって、夜の中を引き回されるか?」
今度は、はっきりと笑いをふくんだ声に、鈴彦姫は語気を少し強めた。
「若だんな、笑い事じゃぁ、ありません。妖の中には、質《たち》の悪いのもいるんですから。今日は私がお店までお送りしましょう」
「この坂を過ぎれば、いくらも行かないで昌平橋《しょうへいばし》に出るよ。渡って筋違橋御門《すじかいばしごもん》からは繁華な通町《とおりちょう》だ。夜鳴き蕎麦《そば》も麦湯の店も出ているだろう。心配ないよ」
「そんな風におっしやったって、離れませんよ。ここで若だんなをひとりで行かせたら、犬神さんや白沢さんに後で何て言えばいいんです? 大体、一番危ないのは……」
言いかけた鈴彦姫の声の端が、すうっと夜にとけて消えた。
その沈黙が、若だんなの足を止める。
「どうした?」
「……急に、血の臭《にお》いがしてきたんです」
「どこから? 分かるかい?」
「たぶん、その先の……右手の路地辺りから」
聖堂の塀はすぐ先で暗闇に包まれていて、小道のありかも分からない。提灯を向けてみるが、光が届かないのは相変わらずで、黒く夜の壁が立ちはだかるだけだ。
「若だんな、行きましょう。血の臭いなんて気味悪いですよ」
「ああ……」
気にはかかったが、木戸が閉まる四つまでには店に帰っておきたかった。提灯の灯を足元に向けると、振り切るようにまた道を急ぎはじめる。
そのとき。ほんの二、三|間《げん》後ろから、という気がした。首筋のうぶ毛が総毛立つほど、思いもかけない近さで、人の声がしたのだ。
「香りがする……する、する……」
思わず振り返った若だんなの提灯の明かりの先に、男と分かる姿が見て取れた。それよりもはっきりと分かったのは、その男の手元に不気味に光をはじくものがあることだ。
(短い。刀じゃないな)
とっさにそれは判別できた。だがひと安心とは到底いきそうもない。今度は鈴彦姫に言われるまでもなく、若だんなの鼻にも血の臭いが届いていた。
「寄越せ……寄越せ……」
(物取りか!)
分かったとたん、慌《あわ》てて駆け出したものの、足に自信はまったくない。おまけにこの暗さの中、提灯の明かり一つでは、死に物狂いで駆けると必定転びそうだった。草履《ぞうり》が石を踏んで体がよろける。提灯を持っていないようなのに、違《たが》えずにすぐ後を足音が追ってきていた。鈴彦姫が泣き声を上げる。
「若だんな、あたしにはあいつから若だんなをお守りする力は、無いかもと……」
「分かっている。お前は鈴だもの。しかしまだ追ってくるよ、しつこい奴《やつ》だね」
しゃべると息があがる。振り向くとそこに夜盗がいそうで、身が震える。
「提灯ですよ。その明かりを追ってきているんです」
聞くなり、唯一《ゆいいつ》の明かりを吹き消した。若だんなはとっさに、光がなくなる前に目に入った右手の路地に走り込み、道の傍に身を寄せてしゃがみこむ。後ろに張りついてきた土塀の冷たさが背中を這《は》って、ぞくりと震えが走った。手がかりの明かりと足音が消えて、もう己の手の先も見えない闇に包まれ、追っ手の足も止まったようだった。辺りを手さぐりで探している様子が感じられる。
(若だんな、ここにいてもそのうち来るだろうし、逃げ出せば足音で居場所が分かる。見つかっちゃいますよう)
(もっと声を小さくして!)
二人は吐く息の音すら何とか抑え込んで、必死に気配を消す。しかし付喪神に言われるまでもなく、このままで逃げきれるとは到底思えない状況だった。足音が少しずつ近づいて来ている。血の臭いと肌を粟立《あわだ》たせる感触が、そこまで迫っていた。
このままでは……。
若だんなが連れの方を振り向いた。常闇《とこやみ》の中、見えはしなかったが。
(鈴彦姫、お前この辺りのお稲荷様にお仕えしていると言っていたよね。近くにお稲荷様があるんだね?)
(そうです。このすぐ先の……)
(妖は耳が良い。ならば呼べるかもしれないね。運が良ければ、だ)
(は?)
(まずいことになったら、お前だけ逃げるんだよ。妖の身ならできるだろう)
その物言いに驚いたが、くわしい話を聞く暇もない。若だんなはせっかく隠れていた塀の隅から、なにを思ったか突然大きな声を闇に向かって上げた。
「お稲荷様にお仕えする身なら、この声を聞いておくれ。来い、来い、来い、ふらり火! 頼むから!」
(若だんな、どうして……)
鈴彦姫がこわばって震える。惑《まど》っていた人殺しの足音が、すぐに二人に向いた。(ひいっ……)妖の小さな悲鳴が重なる。
その男は路地の近くまで来たようだった。もうそれほど離れていない。ほどなく人の気配が感じとれるほど、側に来るに違いなく、そして……。
不意にぽかりと明かりが向かいの土塀の上に浮んだ。
白い光の玉だった。
闇の中で目にまばゆい。大振りな提灯ほどの大きさで、自在に飛べるらしく、ゆっくりと上下している。その明かりの中に、羽が見えて、足がある。真ん中に犬のような顔が浮んでおり、かしこそうな黒い瞳《ひとみ》がきょろりと動いて、眼下の人影をとらえた。
(呼んだか? 若だんな)
(ありがたい、来てくれたか……。夜盗に追われて困っている。ふらり火、お前の光で誘って、あいつをどこぞに連れ去ってくれないか)
(ああ、こっちに来るあいつか。嫌だねぇ。血の臭いをさせているよ)
すでに明かり目指して近寄ってきていた男の少し前を突っ切り、ふらり火が低く飛んでゆく。闇一面の中、男はそのいざないに釣られた様子だった。
「逃がしはしない! 逃がすものか!」
声と共に、男の足音が離れだす。早くなり細くなって、急速に遠ざかっていった。
「やれやれ、何とか逃げることができたね。怖い怖い」
わずかに間を置いて、ほっとした声。若だんなの口調はまだ、固かった。
「ほんとに厭《いと》わしい。行き合って間が悪いことでしたね。まだ血の臭いが濃く残ってますよ。あいつ何をやったんだか」
「こっちの顔、見られただろうか?」
「この暗さですからね。分かっちゃぁいないと思いますが」
若だんなは立ち上がって着物の裾《すそ》を適当にはらった。土塀の隅にしゃがみこんでいたのだから、着物を汚しているかもしれないが、まだ明かりの無いなか、着ているものの縞模様すらろくに見えない。困ったように手の中の提灯《ちょうちん》を振った。
「しばらくは、これを使っちゃぁまずいかな。あいつが引き返してきたら困るしねぇ」
「まったく、妖より恐ろしいのは人でございますよ。先刻私が申し上げたかったのは、そのことで」
鈴彦姫は確信をもって言ったあと、若だんなの着物の袖《そで》をちょいとつまんだ。
「火はつけられないが、この闇の中じゃぁ、何も見えない。若だんなは歩けないでしよう。あたしが提灯代わりに、若だんなをお連れしますよ。なに、もう少しで橋に行き着きますから、明かりもそこで灯《とも》せます。それまで」
「そうだね。お願いするかな」
二人は連れだって、入り込んでいた路地から人気《ひとけ》のない聖堂沿いの道へ戻っていく。すると、広い道に着くか着かないうちに、不意に雲が切れて、夜の景色が辺りに戻ってきた。張り切っていた鈴彦姫の残念そうな声に、若だんながおかしそうに礼を言う声が重なる。
だが辺りがうかがえるようになって、首を回した両人の声は、すぐに途切れた。言葉にならない驚きが、淡い月光と共に、その体を包む。
二人の視線の先、今しがたたどってきた路地の奥、ほんの十何間か先に、土塀と寄り添うように、三本の松の木が生えている。その根元の間に押し込まれるように、五十|絡《がら》みの男が転がっていたのだ。両の手を松の幹にもたれかけさせて、足は駆けている風に開いている。遠目には踊っているみたいにも見える格好だった。
だが、男はわずかも動いてはいなかった。ざっくりと切られた首筋から流れた血が、月の光の下、暗い赤で着物を染めている。濃い臭い。ついさっきまで自分達を追いかけていた男の、その手の中でぎらついていた物を、己の首筋辺りに感じさせる異臭だった。
若だんなは思わず口元を押さえていた。
「本当に、人を呼ばなくてもよかったんだろうか」
月の顔が見えて夜道は歩きやすくはなっていたが、足取りは重くなっている。歩きながらも迷う言葉が思わず口に出る。その思いを断ちきるように、鈴彦姫の声が決め込んだ。
「あの人はもう死んでいました。若だんなだって、確かめたじゃぁないですか」
「それは分かっているけど……」
「なら、あしたの朝、誰か別の人に見つけられたって、全然不都合はありませんよ。死人がちょいと起き上がって、寒かったって文句言うはずないですからね」
「でも、あの男の家の者が、心配しているよ、きっと」
「若だんな、賭《か》けてもいいですけどね、犬神《いぬがみ》さんも白沢《はくたく》さんも今ごろ若だんなのこと、血相変えて探してますよ。騒ぎに巻き込まれて、これ以上帰るのが遅くなるのは、まずいんじゃないですか?」
「職人みたいだったね、死んでた男の格好」
聖堂前の坂を過ぎ、橋にかかってもまだ、若だんなの気持ちから先刻の出来事が離れないようだった。昌平橋《しょうへいばし》に近づけば橋番もいる。鈴彦姫も黙り込んで影の中を追うのみだ。
橋の手前でつけた提灯《ちょうちん》の灯は、足元を照らしながら、ゆるく弧を描いて進んだ。橋番の小屋の前を抜け、少しばかり開けた場所に出ると、先に夜目にも黒々と大店《おおだな》の瓦《かわら》屋根の連なりが影となって見えた。これでひと安心と、ほっと息が漏れた。
今ならまだ開いているはずの木戸へと足を向ける。だがかなり手前で、目の前に並んだ二つの提灯に行く手を塞《ふさ》がれた。
「あ……の、いたのか」
月明かりの下でさえ、提灯を持って前に立っている二人が、渋い顔をしているのが見て取れる。向かい合った三人の言葉が続かない中、足元の暗がりから取りなすように、割って入る声があった。
「犬神さん、白沢さん、お久しぶりでございます。鈴彦姫でございます」
呼ばれた二人の顔が、瞬間、一層の険しさを帯びた。
「その名を呼ぶな! 誰が聞いているやもしれないだろうに」
「申し訳ありません、今は……手代でいらっしゃるんでしたっけ」
「佐助、仁吉《にきち》、迎えに来てくれたのか」
見つかるかもとの不安の中にいるよりも、事が起こってしまえばいっそ落ち着くのか、あっさりと若だんなが側《そば》に寄っていく。すると、二人の手代は両脇《りょうわき》から守るように、その細い姿に寄り添った。
「こんな夜に、どこに行っていたんです?」
早々に聞いてきたのは、佐助……鈴彦姫が犬神と呼んだ方だ。
六尺とはいかないまでも、背の高い偉丈夫で、実際大層力が強かった。そのおかげで父の店、廻船《かいせん》問屋長崎屋に出入りの水夫《かこ》たちにも一目置かれているらしい。顔もごつくて睨《にら》みがきく。今もその目でじっと若だんなを見下ろしていた。
だが答えなかった。
器用にその強い視線を外して、返事をしないまま歩き出そうとする。だが、今度は仁吉が目を合わせてきて、先にはいけなかった。
仁吉……白沢と呼ばれた手代は、切れ長の目といい、整った顔立ちといい、呉服屋の店先にでも置いておけば、反物の売り上げも上がろうという色男だ。利休鼠《りきゅうねずみ》の縞《しま》の着物なぞ着こなして得意先を回れば、帰りには付け文が袂《たもと》をにぎわせる。
だが今日のように、聞いて欲しくないことがあるときは、仁吉の方がごまかしにくい。思わずこみ上げてきたため息を押し殺していると、目の前の白い顔が、にこりと笑った。
若だんなには覚えのある笑い方で、あんまり見たいものではない。朝焼けの後は雨なのと同じで、その後に小言が山盛りで来ること、請け合いだからだ。
「若だんな、佐助が他出《たしゅつ》の理由を聞いているでしょう? おや、言いたくないんですか? それは……」
話をしていた仁吉が突然言葉を切る。その顔つきが、みるみる引きつった。
「血の臭《にお》いがする! 一太郎ぼっちゃん、怪我《けが》をしたんですか?」
「もう、ぼっちゃんはよせと言っているのに! いつまでも子どもじゃぁないんだから」
「怪我!? どこに?」
言い返した若だんなの言葉なぞ聞いてもいない。あっと言う間に佐助の手が伸びて、赤子のように軽々と抱え上げ、傷の有無を確かめにかかる。
「怪我なぞないわ!」
思わず声を上げたが、こうなると手代たちは、確認するまで引き下がりはしない。
幼い日、祖父に連れられた二人が、寝ついていた一太郎の枕元《まくらもと》に来て挨拶《あいさつ》をした。二人とも十ばかり。幼く見えたが、廻船問屋長崎屋に奉公するという。祖父に仕込まれ、店で暮すようになった二人の態度は、その日から一貫している。
一太郎がとにかく第一で、二からが無いのだ。
(おじい様が、この子を頼む、守れと言い残したりするから)
実際にあの日から、一太郎の周りには、夜となく昼となく不可思議な者たちが、添うようにいる。佐助は母のおたえよりも長く、病で寝込みがちの一太郎に付き添っていた。仁吉は一太郎にはいない兄代わり、商売で忙しくて側についていられない父の代わり、爺《じい》やそのもの、薬種《やくしゅ》の商いを切り回してもらっている片腕だ。
いつもいて、側にいて、息苦しく感じ、守られてきた。
だが、妖《あやかし》の感覚はやはり人とは微妙にずれていて、今日のように困ることがある。
「犬神……じゃぁなかった、佐助さん。若だんなは傷なぞ負ってはいませんよ。道の途中で人殺しと行き合ったものだから、臭いが移ったんでしょう」
困った顔の若だんなを助けるつもりだったのだろう、鈴彦姫が影の中から口を挟んだ。
「鈴彦姫、お前、それは……」
そのことは黙っていてくれと、店に入る前に、気の良い小|妖怪《ようかい》に、念を押しておくつもりだった。うっかり夜道で、危ない目に遭ったなぞと言おうものなら、今夜の一人きりでの他出に対するお小言が、かゆにした米みたいに膨れ上がること間違いなしだからだ。
「人殺し……!」
手代たちの視線が、一太郎のたどってきた道を、木戸から橋へとすばやく走った。
雲が流れて、月を覆《おお》ってきていた。また闇《やみ》の勢いが増してくるなか、目に入るのは、橋の袂《たもと》辺りに、二八|蕎麦《そば》の振り売りと、旨《うま》そうに蕎麦をたぐっている客が一人。その手前に少々気の早い茶飯売りが、のんびりと煙草《たばこ》をふかしながら腰を下ろしている。
他に人影も刃物のぎらつきもない。ただ、一段と暗くなってゆくだけだ。
佐助はゆっくり振り返ると、
「鈴彦姫、ご苦労だった、もう帰れ」
小妖怪にはやさしげに告げる。
「早く店に入るのが、上策でしょう」
仁吉も一太郎の背に手をかけて促した。やっとまた、木戸の方へ歩き出した一太郎だったが、すぐに足を止めると振り返って、小声でささやいた。
「鈴彦姫、今日はお前がいて助かったよ」
すぐに澄んだ音色が、かすかに伝わってくる。妖が返した情味のあるいらえは、夜の中未練げにとけていった。
江戸の大店の軒下、大戸を立てた外側は、夜になると道として使われている。夜なべの仕事でもあるのか、まだ起きている家からの明かりが、所々この通路にこぼれている。こちらのほうが少しは明るいことと、暗い中、通りにある天水桶《てんすいおけ》などにぶつかっても剣呑《けんのん》なので、一太郎たちはこの一間ほどの幅を通っていった。
筋違橋御門《すじかいばしごもん》前から須田《すだ》町を通り、そのまま真《ま》っ直《す》ぐ日本橋を渡る。さらに道なりに歩めば父親の店、長崎屋に行き着く訳だが、一太郎は先ほどからずっと、何とも居心地の悪い思いにかられていた。佐助も仁吉も、口をきかないのだった。
駄目だと言われていた夜の外出《そとで》をした上に、二人の顔を引きつらせるような物騒な者に出会ってしまったのだ。それみたことかと、口うるさい説教を海の波のように繰り返し繰り返し、道すがらにぶつけてくるかと思っていれば、言わず語らず、一言も無い。
初めは説教がなければその方がありがたいと歩んでいた若だんなだったが、蚊帳《かや》と畳表《たたみおもて》の大店の立看板の横を過ぎる頃になると、総身を走るむずがゆさに、口を閉じていられなくなってきた。
「佐助、仁吉、聞こえているかい?」
「何です? 若だんな」
佐助の返事はそっけない。
「何で一言も無いのさ。お説教が待っているのかと思ったのだけど」
「小言が欲しいんですか?」
「そうじゃぁないよ。ただ、妙に黙っているからさ」
「こんな町中で、若だんなをどやしつける訳にはいかないでしょうが」
そう言って振り向いたのは、一歩先を歩いていた仁吉で、顔の下から提灯の明かりが当たっているせいで、顔が凄味《すごみ》をおびている。
「お店が見えてきました。帰ったらたんと、今日のことを話していただきますからね」
京橋もほど近いところに、瓦の屋根に漆喰《しっくい》の壁、土蔵作りである長崎屋の店が、大きな影となって姿を見せていた。十間《じっけん》もある間口は他の店と同様、すでに固く立て切られている。仁吉が通用口の前に立つと、小僧を呼んだ風も無いのに、戸口が中から開いた。
「お帰りなさいまし」
帰宅したところを出迎えたのは、鳴家《やなり》という妖だった。身の丈数寸というところの小鬼だ。家の中のあちこちで、軋《きし》むような物音を立てる他は、これといって何をする訳でもない。一太郎の部屋には幾人《いくたり》もが姿を見せ、時には茶菓子などを貰《もら》ってゆくのだが、不思議なことに、家の者がこれを見かけたと聞いたことがない。
三人は店の横手から、裏庭の小さな稲荷《いなり》の前を通って、そのまま若だんなが寝起きをしている、以前は隠居の住まいだった離れに向かう。長崎屋の店の方から、誰ぞが起き出してくる気配はなかった。
「おとっつあんには、他出のこと言っていないの?」
「旦那《だんな》様にそんなことを言ったら、大騒ぎですよ。店の者総出で、夜の中を探し回ることになりますからね」
言われてみればその通りで、心配性の父親に見つかりたくないのは、一太郎も同じだった。ついでに手代にもそうとは知れないように、手を打っておいたつもりだったのだが。
(どうしてばれたのやら)
理由が分からないまま、一つ首をかしげて風雅な離れに上がる。建物のあがりはなにある柱は、巳《み》年に作ったからと、くねる蛇の様子を写した形のものだったし、衝立《ついたて》には祖父の友人だったという浮世絵師が、酔って描き散らしたという、雀《すずめ》が遊ぶ姿があった。
だがこの夜の離れに趣《おもむき》は縁がないようだった。寝間《ねま》に使っている十畳間の襖《ふすま》を開けると行灯《あんどん》がついていて、畳の真ん中、鉄瓶《てつびん》のかかった火鉢の横に、掻《か》い巻きで巻かれた上から紐《ひも》をかけられた妖が転がっていた。
上からも周りからも、数多《あまた》の小鬼達がそれを押さえ込んでいて、身動きもできない状態だ。
「屏風《びょうぶ》のぞき……お前、見つかっていたのか」
古い屏風が化した付喪神《つくもがみ》は、部屋の隅に置かれている屏風の絵そのままに、市松模様とあだ名のついた、派手な石畳紋《いしだたみもん》の着物をぞろりと着て、役者絵のような姿を見せる。人型をなしていたので、若だんなはこれまでも時々、身代わりを頼んでいた。
長崎屋の大甘の主人夫婦は、寒いと言っては一人息子を店から出さず、暑いと言っては他出は体に障《さわ》ると止める。くしゃみでもしようものなら、目と鼻の先の、菓子屋に行くのでさえ良い顔をしないのだから、若だんなは業《ごう》を煮やして何とか抜け出そうとする。
さいわい暖かくして寝ていれば、親達は安心しているようだった。それではと、掻い巻きを屏風のぞきの頭からかぶせて身代わりに寝かせては、一太郎は三春屋《みはるや》に菓子を食べに行ったりしていたのだが……。
「若だんなが常々屏風のぞきと成り代わっていたこと、あたしらが気づいていないとでも思っていたのですか?」
佐助が若だんなを、布団《ふとん》巻きの前に座らせる。小鬼達が梅模様の掻い巻きの上から引いて、薄暗い部屋の隅に散った。
「とうに知っていたの?」
「甘い物を食べに行くくらいかまわないと、見逃していたのがいけませんでしたかね」
仁吉が一太郎の正面に、たいへんきちんとした姿勢で座った。若だんなはため息をついて、海苔巻《のりまき》の格好に巻かれた布団を指さした。
「ねえ、出してやってくれないか。私が頼んだことなのにこのままじゃぁ、胸が痛んでいけないよ」
「頼まれたからって、体の弱い若だんなを夜歩きに出すなんて、論外ですよ」
仁吉の返事には険があった。
「こやつは勝手を楽しむ癖《くせ》がある。生半《なまなか》なことじゃぁ、悔い改めたりしませんからね」
「いっそ、この格好のまま、井戸にでもつるしておきましょうか。一晩もすりゃあ、少しは後悔しようってもので」
「佐助、それは使える考えだよ。ねぇ」
「やめておくれよ。元もとが紙なんだもの。水に落ちたら、ほどけて溶けてしまうよ」
若だんなは膝《ひざ》の前の畳の目を見ながら思う。仁吉も佐助も一見、屏風のぞきを怒っているようで、実は一太郎のことを器用に責めている。済まなかったの一言で二人が引き下がる当てもなく、それでも謝るしかないことに、かなりなところうんざりしていた。
「勝手に出かけて悪かったよ。屏風のぞきを代わりに立てたことも、気がとがめているよ。だからさ……」
精一杯困った顔を手代に向けて、力なく笑ってみせる。自分は悔いているんだよ、怖い思いもしたよ、だから疲れてもいるし、お願いだから、そう険しい顔をしないでおくれ、と。
いつもなら佐助なぞ、この辺であきらめて笑ってくれるのだが、今日はやけに慎重な手つきで、鉄瓶から湯を注いで、茶を淹れてくれただけだった。話の方は仁吉が続けた。
「他出の理由は後できっちり聞くとして。若だんな、人殺しに行き合ったんですって?」
「うん……話すから、さ。屏風のぞきを許してやってよ」
「しょうがないですね」佐助の手が掻い巻きを縛っている紐の端を引っ張ると、あれほど幾重にも巻かれていた縛《いまし》めがはらりと解かれて落ちた。中から現れた派手な妖は、手代たちを睨《にら》みつけると、「ごめんよ」という若だんなの声にも答えずに屏風に戻っていったので、仁吉が不機嫌な顔をまた新しく作ることとなった。
(この分じゃ屏風のぞきが絵の中に収まっているうちに、焼き払ってしまえとでも言いかねない気配だね)
こうなったら、お白州に引き出された罪人より神妙にしないと、手代たちの眉間《みけん》のしわが取れそうもない。一太郎は湯島聖堂前の土塀にはさまれた坂道で、刃物を持った男に追われた話を、漏らさずすることとなった。
「追ってきたその人殺しは、間違いなく男だったのですね」
「そうだよ。がっしりした体つきに見えたね。町人だと思うよ、あれは」
「暗くて、周りが見えなかったと言っていたのに、よくそこまで分かりましたね」
「そりゃあ、必死だったもの。あいつ、しつこく追ってきたからね」
「若だんなの前に立った時はもう、松の木の根元にいた男を、殺した後だったんですね」
「そうさね。その前から血の臭《にお》いがしていたし。鈴彦姫が気がついたんだよ」
話すにつれて、少しは和らいでくるかと思っていた手代の表情が、ますます曇ってゆく。考えを巡らすように湯飲みからひと口茶を飲んで間をとると、しぶい顔で言った。
「まずいですね。若だんな、顔を見られたかもしれませんね」
「えっ……」
突然仁吉に言われて、一太郎は戸惑いの表情を見せた。あの場を逃げ切ったことで、人殺しとの縁は切れたつもりでいたのだ。
「あのね、本当に暗かったんだよ。提灯《ちょうちん》を持っていても、いくらも先が見えなかった。私だってそいつの顔までは、見ちゃぁいないよ」
「その男は自分の提灯は持っていなかった。そうですね?」
佐助が横から口を挟む。こちらも苦い薬湯《やくとう》を飲んだ後のような顔だ。
「では、明かりは若だんなの手元にあった提灯一つだ。若だんなの姿が一番明るく見えたはずです。そいつは顔を覚えたかもしれない」
「それでなくとも提灯には屋号があったはずです。薬種、長崎屋、と。これは顔よりも見やすい」
と、仁吉。
「すぐに吹き消したんだけど……」
一太郎は、また畳に視線を落とした。行灯からはなれた部屋の周りの暗がりで、小鬼達が小さな声を盛んに立てている。思っていたよりまずいことになっていると、じわじわと呑《の》み込めてくる。仁吉達は一太郎の身を案ずべき、剣呑《けんのん》な事態だと思っているのだ。
「あたしがその人殺しなら、若だんなを放っちゃぁおきません。こいつが人殺しだと、お役人の前で言われるかもと思うと、きっと夜も眠れない」
「私は顔を見ちゃぁいないのに……」
一太郎の声に力がない。言われてみればそのとおりで、言い返す言葉が見当たらない。
「そんなこと、下手人には分からないでしょう?」と、仁吉。
「でも人殺しが必ず私の顔を見たとは限らないよ。とっさに提灯の字を読んだとも決まってないじゃないか」
「どっちが真実だか、そいつの腹の中をここで見抜くことはできませんよ。だから人殺しが捕まるまで、若だんな、今度こそ何があっても家から出ないで下さいましよ」
「そんな。いつまでかかる話なんだよ」
「八丁堀の旦那にお尋ねして下さいまし。岡っ引きの清七《せいしち》親分さんなら、どんなお調べの様子か、聞けば少しは教えてくれるやもしれません」
「捕まらなかったら、どうするんだい? ずっと家にいることなんか、できやしないよ」
一応文句を言うが、佐助も仁吉も聞く耳持たずといった風情《ふぜい》で、今後のことについて話をしている。
(おもしろくないね)ではといって二人の話し合いに口を出す程の代案がある訳ではない。ただこの身の危険と言われたこととて、何とも実感に乏しかった。そうしている間に手代たちの間で考えがまとまったらしく、仁吉が若だんなの方に身を向けた。
「とりあえず見知った妖《あやかし》に、殺された男のことを聞いて回ってもらうことにしました」
単なる夜盗だとしたら、下手人を知るのは難しい。だが物取りではないかもしれない。恨みによる殺しなら、下手人は殺された男の知り人だ。
「どっちにしても物騒この上ない話です。若だんな、しばらくは本当に気をつけて下さいよ」
「うん、分かっているよ。大丈夫、おとなしくしているから」
「では人殺しのことは、今日はここまでで」
やっと説教が終わったと、若だんなはさっそく羽織を脱いで寝間着に着替えはじめた。仁吉がすぐに着なれた木綿の寝間着を差し出し、着物を受け取ってたたむ。佐助が後ろで乱れていた布団と掻い巻きを丁寧に敷きなおしている。
「それじゃぁお休み」
そう言って眠ろうとするが、佐助が手に枕《まくら》を持ったまま、置こうとしない。
「若だんな、寝る前にもう一つ、言うことがあるでしょう?」
火鉢の火の始末をしながら、仁吉がちらりと若だんなの方を見る。
「どうして夜に外出なんかしたんですか?」
「息抜きしたかったんだよ。だって先《せん》に喉《のど》を腫《は》らして以来、まだ寒い、埃《ほこり》っぽいって出してくれないんだもの」
「それは分かるんですがね」
仁吉はどうにも納得がいかないらしく、またきっちりと膝《ひざ》を揃《そろ》えて若だんなの方を向く。佐助が一太郎の肩に羽織をかけてきた。その暖かさに、この話が終わるまで二人が引かないつもりだと知れた。
「それで三春屋にわらび餅《もち》を食べに行ったとか、まだ残っている八重桜を見に行ったとか、それなら分かります。若だんなも十七なんだから、もしかしたら吉原《よしわら》へひやかしに行きたくなるということもある。三春屋の栄吉《えいきち》さんに連れていってと頼むとかね。そうだったら、こうは聞きはしないんですがね」
仁吉の目が真《ま》っ直《す》ぐに自分に向いている。その強さを感じて、若だんなは顔をあげなかった。ほとんど布団と睨《にら》めっこの風で、同じことを繰り返す。
「だから違うことをしたかったんだよ。夜歩きなんかしたことないからさ」
「それなら何で人っ子一人いないような、夜の聖堂|脇《わき》になんか行ったんですか? 麦湯を飲むなり蕎麦《そば》をたぐるなり、夜を楽しむなら妙な方角だ」
「初めてだもの、どっちへ行ったがいいかなんて、分かりゃあしなかったんだよ」
妖には、糠《ぬか》に釘《くぎ》の感じがしたに違いない。得心がいかない様子の仁吉がさらに言葉を重ねようとしたとき、唐突に部屋にいた小鬼たちが姿を掻《か》き消した。
仁吉も佐助も一瞬身構える。だが離れに入ってくるその足音で、訪れたのが誰か分かったらしく体の力を抜き、部屋の隅に座りなおした。
「一太郎、まだ起きていたのか」
襖《ふすま》を開けるなり、そう心配げな声を出したのは、長崎屋の主人|藤兵衛《とうべえ》だ。今年で五十二を迎えたとは思えない力強さを感じさせる男で、五尺五寸の背丈がある。店や町内での評判は大体のところで大層よい人物だった。
何もかもとはいかないのは、おかみも含めて長崎屋の主人夫婦は子どもにとんでもなく甘いと噂《うわさ》が立っているからだ。口の悪い近所の呉服屋の主人が、長崎屋が一太郎を甘やかすこと、大福餅の上に砂糖をてんこ盛りにして、その上から黒蜜《くろみつ》をかけたみたいだと言ったことがある。
金もある、大いに甘い親もいるで、これでは息子が勘当間違いなしの極道者になってしまいそうなものだったが、その息子はしょっちゅう寝込み、時々死にかけていて道を外す暇がない。そのことがまた長崎屋の親心に訴えると見えて、息子への哀れは一層ますのだった。
「もう四つになるじゃないか。早く寝ないと体に障《さわ》るよ」
「驚いた、おとっつあんこそ、もう寝ているとばかり……」
見れば藤兵衛のいでたちは松葉模様の寝間着に羽織をはおったもので、寝支度は済んでいる。
「厨《かわや》に行ったら、離れから明かりが漏れているのが見えたから、来てみたんだよ。佐助、仁吉、一太郎をもっと早く寝かさなきゃあ駄目じゃないか」
「申し訳ございません」
二人の妖はそろって頭を下げた。手代として両人とも、日ごろからちゃんと主人は立てている。だが、
(なにか、死んだじい様に対する態度と違う……)
一太郎にはそう思えて仕方がなかった。
そんな考えのよりどころは、仁吉達が父に妖の性を見せていないということで、長崎屋は普通の奉公人として二人を扱っている。父は婿《むこ》に来たもので、長崎屋の血は引いていない。そのせいなのかと、若だんなは不可思議に思っている。
「お前、前の冬に長患《ながわずら》いをしたばかりじゃないか。お願いだから体を大事にしておくれ」
「おとっつあんそれ、もう三月も前の話だよ。心配ないってば」
「そんなこと言ってこの前の夏みたいに、生きるか死ぬかの大病をしたらどうするんだい?」
「麻疹《はしか》には二度はかからないよ」
どう返事をしても、結局心配なのは変わらないらしく、一太郎はその場で寝床に追い立てられた。仁吉達もこうなってはいつまでも問答を続ける訳にはいかず、行灯《あんどん》の灯を落とすと、藤兵衛に続いて部屋を出る。後にはまた手の先も見えない闇《やみ》が残った。
ほっと一つ息をつく。やっと横になって体を休めると、何とも大変な夜だったように思えて苦笑いが浮んだ。
(佐助たちは人殺しの話ばかりしてたね)
一太郎にとって、この後どんなに困ることになろうとも、殺しの場に行き合ったことはある意味ありがたかった。聞かれたくないことは、他にあったからだ。手代たちはまた襲われたらどうするのかと騒いでいたが、そんなことになるとは、とても思えなかった。
あの闇の中でまいたのだ。もう一度あの下手人と会うことなぞ、あるはずもない。
寝返りを打つと、袂《たもと》に手を入れる。着替えるときに移しておいた書き付けを掴《つか》むとかさりと微《かす》かな音がした。布団《ふとん》の中ですぐに、にぎりつぶす。書いてあることはもう頭に入っていて読み返すまでもなかった。明日、佐助たちに見つからないように、火にくべてしまわなければならない。
(はあー……)
思わずこぼれたため息に煽《あお》られたように、ぞろりと闇の中で妖の気配が動いた。若だんながまだ眠りについていないと見て、うかがっているのだ。
それでも言葉をかけずに横になっていると、あちこちから妖達の話が小さく聞こえだした。一応押し殺した声ではあるものの、口にしている内容は今日の若だんなのことで、どうにも評判はよろしくない。
(ふらり火に助けてもらったらしいよ)
(あれが都合よくお助けできるところにいて、よかったこと)
何とも耳に甘い声がするのは、琴の妖、琴古主《ことふるぬし》まで出てきているからだろう。
(離れたところにいるふらり火を、若だんなが大声で呼ばわったんだ。声が届いてめっけ物だったってことさ)
(それは危ないことを!)
(そうさね、誰が聞くかも分からないのに危ういことを)
(妖が皆、若だんなの味方とは限らないのに)
闇にひそむ者たちの声は更に密《ひそ》やかになって続く。
(いやいや、どんな妖が来るにしたって、人よりはましさね。怖いのは奴《やつこ》だよ)
(一番怖いのは犬神だよ、白沢だよ)
(違いない、違いない)
疲れてはいたものの妙に目が冴《さ》えていて、一太郎はなかなか寝つけなかった。妖の言葉は今日は効き目が薄いが、普段なら子守|唄《うた》代わりのものだ。聞こえればかえってよく寝られた。若だんなはそれほど妖になじんでいるのだ。
(そうだね、まだ小さくって寝込んでいたあの日から……)
祖父が仁吉と佐助を連れてきた日から、妖は毎日の一部、一太郎の半身と言ってもいいものになっていた。
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[#小見出し]  二 妖《あやかし》
[#挿絵(img/syabake039.jpg、横188×縦260、下寄せ)]
1
確か五つの時のことだったと一太郎は覚えていた。
その年の夏は、とりわけ暑い日が続いていた。他に誰かが寝ついたという記憶がないから、そう感じていたのは一太郎だけだったかもしれない。とにかく体の中から茄《ゆ》でられているようで、頭が上にあがらなくなった。
思い出すのは、床の高さから見上げた、空や木や花の風景だ。
飴《あめ》や金魚の振り売りの、長く伸びた声が塀の外に近づいても、見に行くこともできない。目に入るのは同じものばかりで、白く夏の光をはねかえしていて余計に暑さが増す。萌葱色《もえぎいろ》の麻の蚊帳《かや》をつった寝間で、日がな蝉《せみ》の声を聞いて横になっていると、乾いていくばかりでどうにも食が進まなかった。
かゆが食べられないのならと、親が白玉や甘酒の振り売りを呼び止めては、枕元《まくらもと》にまで持ってきてくれるのだが、これも満足に喉《のど》を通らない。
寝込むこと一月を超えると、診察に来る医者の顔が渋いものになってきた。一太郎のほうも明け暮れぼんやりしてきて、なにを聞かれても返事をするのもうるさい。とにかく気力が出てこないので、いい加減に声を出すか黙り込むかだ。
そんな中こちらが寝ていると思うのか、蚊帳の外に見舞いに来ている親戚《しんせき》の会話が、遠慮のないものになっていった。いわく、
「もうおかみさんには、次の子を望むのは無理だろうからな。これだけの大店《おおだな》、先はどうするつもりかね。跡取りは養子でも、貰《もら》うしかない」
「だとしたら、うちには四人も子がいるのだから……」
聞きたくなくても耳に飛び込んでくる話はたんとあって、もちろん両の親がいるところで話されず、一太郎と親戚の一群の秘密だった。口を利《き》くのも厄介になっていたから、親に伯父や叔母の、生き生きとした会話のことを告げる気はなかった。だが、こんな話を日々聞いていると、行き着く思いはあった。
(このまま死ぬんだろうか……)
先《せん》の年に長崎屋で飼っていた老犬の甲斐《かい》が突然、呼んでも顔を上げなくなった。さわると冷たい。これは死んだのだと言われ、店の者が裏庭に埋めてくれた。姿が土で見えなくなったとき、もう会えないのだと分かって、祖父にすがってひどく泣いたのを覚えている。
動かなくなって固くなって、もう一緒にいることができなくなる。五つの一太郎にとって、死とはそういうことだった。
だが、自分が消えたら、自分が犬のために泣きべそをかいたように、あのはかなげな母が泣くに違いなかった。
それは嫌だなあと思う。
父も祖父も男だけれど、嘆くかもしれない。長崎屋は船を使って遠くの地と商売をしていると父が教えてくれたが、最近その荷のなかに方々から来た薬が増えていると、いつだか店の番頭が言っていた。自分には今までとんと効いたことがないし、本音を言えば苦い薬は嫌いだ。
だが、そんなにしてもらっているのに、死んだらいけないのではないか。
「一太郎、起きているかい?」
庭先から声がかかった。蚊帳越しに、夏の日ざしの中に立つ、背の高い祖父の姿が目に入る。珍しいことに他にも小さな影が二つ側《そば》にいた。もっとよく見ようと、苦労して久しぶりに起きあがった一太郎の身を、部屋の中に入ってきた祖父が、茜色《あかねいろ》の縁《へり》をめくって蚊帳の外に出してくれた。
「お前たち、ここに来なさい」
言われて寝間《ねま》の端に上がってきたのは、十ばかりに見える二人の子どもだった。「佐助でございます」「仁吉《にきち》でございます」手をついて、丁寧に挨拶《あいさつ》をする。
「今度うちに奉公に来た子らだよ」
祖父の言葉に、布団《ふとん》のうえに座り込んだ格好の一太郎は、少し首をかしげた。
長崎屋にはいつも十人からの小僧がいる。入ったばかりの者は子どもと言ってもいい年だから、一太郎も興味|津々《しんしん》、できたら一緒に遊びたい。だが皆、店で言いつかった仕事をせっせとこなしていて、離れに来ることはない。
「小僧が奥に来るなんて初めてだけど。じい様、なんでこの二人だけ連れてきたの?」
一太郎の問いに笑い声を返したのは、驚いたことに当の小僧のほうだった。
「なかなか利発なお子だ」
「気に入りましてございます」
「お仕えすること、お約束申し上げる」
交互に話す言い方が、なんとも子どもらしさがない。目を丸くする一太郎を見て、祖父が苦笑した。
「これこれ、お前たちは十の子どもなんだ。そんな物言いをするものかね」
「はい。すみません」
そろって謝る声。祖父は笑いを浮べたまま一太郎のほうを向くと、唐突に尋ねてきた。
「お前に死んだ兄がいたことは知っているね」
首を縦に振る孫に、物事を一つ一つ確認するかのように、祖父は頷《うなず》いた。元武士だったという、きちんとしたことが好きな人だった。
「兄さんが死んだあと、おっかさんはなかなか子どもに恵まれなかったんだよ。子どもが欲しかったおたえはお稲荷《いなり》様に願をかけることにしてね。庭に祠《ほこら》も作って、毎日毎日、そりゃあ熱心にお願いしていたのさ」
連れてきた子ども等のことなどそっちのけで、祖父が突然こんな話を始めた訳は分からなかったが、自分が生まれたときの話に一太郎は耳を澄ました。
「お供えもしてお百度も踏んで、おっかさんの必死の気持ちが伝わったんだろうね。おたえはお稲荷様のおかげで、お前を授かったんだよ。お前という子は、そうやって生まれてきたんだ。だから……」
祖父はちらりと二人の子を見やる。
「一太郎はお稲荷様から、生まれてこのかた守られているんだ。そう、時にはご自分の代わりに妖《あやかし》を遣わして下さって」
「妖! この子たち人じゃぁないの?」
思わず目をやった佐助の顔。そのとき子どもの口が耳まで裂けた気がして、一太郎は蚊帳の中に夢中で逃げ込んだ。となりにいる仁吉が相方の頭を手ではたくのを、祖父が落ち着いて見ている。
「お前は体の弱い子だから心配なんだよ。できる限りは私がついていようと思っているが、年だからね。それでお稲荷様にお願いしたのだ。孫を守るものをお遣わしになって下さいと。一生|側《そば》にいられるように今は若い姿でお願いしますと」
「……」
人でないものを昼間っから、真正面で見たのは初めてだった。不思議と怖い気がしない。一太郎をそれはかわいがってくれている祖父が、落ち着いた顔で部屋にいるせいだろうか。今一度蚊帳からゆるゆると這《は》い出すと、祖父の横にぴたりと張りついた。そこから首を伸ばして二人をうかがう。
「遊んでくれるの?」
そう問うと頷いたので、目の前の二人は味方なのだと子どもながらに判じて、用心を解く。祖父の言うところによると、もちろん二人は小僧なのだから店で働くし、仕事も覚えなくてはならない。だが、小僧のできる仕事は限られているし、祖父が暇を作って、一太郎の相手をするのに離れに寄越してくれるという。
「うん……」
一太郎は分かったつもりで返事をした。この妖達は人としてこれから長崎屋で暮してゆくこと。だから妖であるとは言っちゃぁいけないこと。自分がそうして良い子にしていれば、遊んでもらえること。
床につきがちでろくに遊び相手もいない五つの子にとって、これは嬉《うれ》しい知らせだったので、話の不思議なことも、世の中にはそういう考えもあるのかと思って終わってしまった。新しい友達に手を振ると、にこにこした顔が返ってくる。大事なこととはそういうことで、それでよかった。
祖父は一太郎の楽しげな顔を見て、意を得たとばかり頷く。それからおもむろに、枕元においてある美しい青いギヤマンの水差しから湯飲みに水をつぎ、懐《ふところ》から小さな紙包みを取り出した。開くと大人の指先ほどの黒い丸薬《がんやく》が一つ、入っていた。
「弱った体に大層よく効く薬がいただけたんだよ。飲み込むのに大きいかもしれないけど、我慢して飲んでおくれ」
寝込んでこのかた色々な薬を飲んだが、とんと体は良くならない。祖父もそれは知っているはずだ。その祖父が特別効くと言うなら、これは何という薬で、そんなもの誰がくれたのかと少しばかり興味があったが、それきり祖父は詳しくは語らない。黒い粒を飲み下すには苦労はなかった。子どもながら薬のことなら一太郎はすでに、古強者《ふるつわもの》だったからだ。
蝉|時雨《しぐれ》がうるさいのに、薬のせいか飲んだ後ほどなくして眠気が襲ってきた。今は寝るより遊びたかった。ぐずると、仁吉たちはこれからずっと側にいるからと言われて安心する。そのまま眠気に身をまかせ……ふと、一つだけ聞きたくなってまぶたを開いた。
「ねえ、佐助たちは何ていう妖なの? お堀の河童《かっぱ》? それともお墓の幽霊?」
この問いに祖父や妖達が笑っている。どうやら河童ではないようだった。
「犬神《いぬがみ》と申します」
「白沢《はくたく》と申します」
佐助と仁吉はそう返事を寄越したが、言われても一太郎には、それがどんなものか見当もつかない。それでも聞き続けることはできなかった。もうまぶたが開かなかったのだ。
暑さも気にならない、久しぶりに気持ちの良い眠りが待っていた。
目が覚めても板戸を立ててある部屋は薄暗かった。
だが毎朝布団の上に身を起こすと、不可思議なほどすぐに佐助が姿を現して部屋の戸を開ける。今日も早々に寝間《ねま》の襖《ふすま》が開き、いつものごつい顔がひょいと顔を出した。
「おはようございます、若だんな。よく眠れましたか?」
言いながら顔色を確かめ(たぶん、生きていると分かると)安心したようにさっさと一太郎の身支度にかかる。
佐助の好みである千草色《ちぐさいろ》の地に緑青《ろくしよう》の細縞《ほそじま》の着物を着せつけ、すばやく髪の乱れを直す。足袋《たび》をはかせ、若だんなが紙入れの中身を確かめてから懐に入れている間に、そそくさと夜具を片づける。
今では妖《あやかし》がこうして側にいるということが、どんなにとんでもなく尋常でないことか、一太郎にも分かっている。だがなぜ自分の側にだけ彼らがいるのか、くわしい話を聞こうにも、肝心の祖父はもうとうに他界していなかった。その上若だんなのほうも、今の毎日に慣れ切っている。廊下を歩けば足で蹴飛《けと》ばすほどいる鳴家《やなり》も、呼べば姿を見せる幾人《いくたり》かの妖も、いるのが当たりまえな毎日で、他の暮らしは考えようもなかった。
佐助や仁吉《にきち》がいなかったら、自分はどうするのか? 思ってみたことはあるのだが、想像がつかない。
「今日は店のほうで朝餉《あさげ》にしますか?」
佐助の問いにすぐに頷く。体の具合が悪ければ、隣の日当たりの良い小部屋で食べることとなるのだが、ここのところ調子の良い一太郎は、手代とそのまま長崎屋の母屋《おもや》に向かった。
朝四つを回っていて、店の廊下を忙しそうに行き交う奉公人の姿が見えた。若だんなは表に回ろうと台所を抜ける。朝餉のあとすでに掃除も終わり、昼の算段をしていた女中たちが、若だんなの姿に一斉に頭を下げ、朝の挨拶《あいさつ》を寄越す。
水夫《かこ》たちに飯を出すこともある長崎屋の台所は大きい。片側にはずらりと六つも竈《かまど》が並ぶ。土間を挟んで向かいは大きな素通しの棚になっており、桶《おけ》や狙板《まないた》、膳《ぜん》などが所狭しと置いてあった。奥は一段高い板間になっていて、右手は味噌《みそ》やら塩やら、蓄えのものを入れておく部屋、反対側の隅に椀《わん》や皿などを入れておく棚がある。
水は内井戸から汲《く》むようになっていた。それは庭の奥、一番蔵と土塀の間に作られた、内湯のある離れの土間にある。長崎屋は大勢の水夫を抱えた大店《おおだな》であるということで、湯殿を持つ許しを特別に得ていたが、やはり火事は怖い。そのせいで風呂《ふろ》は母屋からはかなり離れた場所にあった。雨が降れば水を汲むには不便だがしょうがない。毎朝女中が棚の横にある三つの大瓶《おおがめ》を満たしておくのが日課だ。
台所で五人の女中を仕切っているのがおくまという女だ。これは気の荒い水夫に向かってさえ、ずけずけとものを言う。だが主人夫婦に倣《なら》うように、若だんなにはやさしい顔ばかり向ける。乳の出が大層悪かったおたえに代わって、一太郎の乳母《うば》やになっていたせいもあって、今も子ども扱いしてくることが若だんなの悩みの種を増やしていた。
「おはようございます、ぼっちゃん。今日はお好きな蜆《しじみ》汁ですよ。すぐ支度しますからね」
「ありがとうね、乳母や。毎日手数をかけて、すまないね」
「嫌ですよ、当然のことじゃありませんか。ぼっちゃんは本当に優しくておいでだから」
おくまは未《いま》だに若だんなとは呼ばない。自分の子どものような一太郎が、さっさと大人になってしまうのは寂しいのだろうと、仁吉は言う。
一太郎が朝餉前に店のほうに姿を見せるのは調子の良い証拠で、おくまは機嫌よく自分の手で遅い朝食の支度にかかる。
その間に二人は廊下を抜けて、廻船《かいせん》問屋長崎屋の方に向かった。板間である店表《みせおもて》のすぐ奥に、十畳ほどの部屋がある。声をかけて襖を開けると、手代が帳面を読みあげて、番頭が算盤《そろばん》を入れているところだった。銭箱の横でそれを見ていた藤兵衛《とうべい》が、息子の姿に顔を上げて笑いかけた。
「目が覚めたんだね。今日は体の具合はどうだい?」
「おはようございます、おとっつあん。いい調子ですよ」
「そりゃよかった。じゃぁ、ご飯を食べておいで。たんとあがるんだよ」
「はい。番頭さん、途中で邪魔をしてごめんなさいよ」
とんでもなく朝寝坊の息子に、叱《しか》るでもなく心配ばかりして、本当に甘い親だと思う。いつものこととはいえ、何だか遅く起きたことが悪いという気が余計にしながら、廊下を今度は店の奥へと取って返す。一番端の南東の角が、おかみが日ごろ使う居間だ。庭が見渡せ日当たりが良くて暖かい。一太郎が遅い朝飯を食べるのは、たいがいこの部屋だった。
「おっかさん、おはようございます」
一人息子が無事朝餉を食べに来たので、長火鉢《ながひばち》の横にいたおたえの顔がほころんだ。
(飯を食べるだけで、こんなにも喜ばれる奴《やつ》って、私くらいのもんだろうね)
いささか情けない気もするが、調子が悪くて表に来ない日の多さを考えると、母が大げさだとは言えない。前に一太郎が朝起きて店にくるかどうかを、手代が賭《か》けていたことがあったほどで、あの時は藤兵衛が顔を真っ赤な鬼みたいにして怒ったものだ。
おたえがいそいそと茶を淹《い》れる。その姿は四十路《よそじ》に近いとはとても見えなかった。
(若だんなのおっか様は、若いころこのあたりの小町、いや江戸一番の弁天様と呼ばれなすったものだよ。今でも本当にきれいでいなさる)
いつだか三春屋《みはる》の親父《おやじ》さんに、教えてもらったことがある。若い時たえは、雪でできた花のようだと言われていたそうだ。きらきらと美しくはかなげで、守ってやらなくてはならないと思わせる娘。まだ十五にもならないうちから、ひきも切らない婚姻の申し込みに、祖父が困るほどだったというのだ。
身分の高いお武家から、一旦《いったん》武家の養女にしてから、妻に迎えたいと申し込みがあったこともある。江戸でも名の知れた大店の若主人など、相手は選びほうだいだった。
そのたえが、店の手代だった父を婿《むこ》に迎えたときは、やっかみ半分|瓦版《かわらばん》が出たほどだという。
(おとっつあんを選んだのは、じい様だったのか、おっかさん自身だったのか)
今さら母に聞くのも照れるので、答えは知らなかった。
茶を飲んでいると佐助が朝の膳を運んでくる。若だんなは母親とこの朝の話題、種を蒔《ま》く予定の朝顔の、新しい花の形、色のことを神妙に話しながら、(わざわざ遅くに朝餉を用意しなくても、昼と一緒でいいのに)などと思っていた。
思ってはいたが、恐ろしくて言い出せなかった。以前に一度、言ってみたことがある。そのときは二親《ふたおや》が、また息子が体を損ねたのではないかと大騒ぎをし、医者が呼ばれ、布団にむりに寝かされ、薬を何杯も飲むということになってしまったからだ。
さすがに炊《た》きたての飯とはいかないので、佐助が熱い湯をそそいで湯づけにしてくれる。朝は佐助が、昼は仁吉が一太郎の給仕をするのが常で、具合が良くて表に出られた時は、おたえは大概、一緒にいるのだった。
(贅沢《ぜいたく》なんだろうな、これは……)
若だんなが思うのもどうりで、膳には朝から卵焼きや干物が並んでいる。香の物、蜆の味噌汁、膳《なます》まであって、あと一時《いっとき》もすれば昼を迎えようというころの食事としては、やや重い。
それでもあれこれ言う立場ではなく、一太郎はもそもそと何とか一杯口に流し込んだ。
大人なら朝から四杯はかっこんでも、それは人並みなことだったから、お代わりが差し出せないことに情けなさがつのる。食べ終わると佐助は慣れているのかなにも言わずに、残り物の多い膳を抱えて、廻船問屋の手代としての仕事に消えた。
いつもならここで母に挨拶をした後、若だんなも薬種《やくしゅ》問屋長崎屋のほうに向かう。だが、今日はおかみが息子を引き止めた。
「朝店を開けてほどないころにね、日限《ひぎり》の親分が下っぴきを二人連れて、日本橋のほうへ急いでたんだそうな。聞いたかい?」
「いえ、まだ……」
一太郎は立ちかけたのを母のほうに向かって座り直す。岡っ引きが朝から北に向かったというのなら、昨日殺された哀れな職人風の男が、誰ぞに見つけてもらえたのかもしれない。
日限の親分というのは、通町界隈《とおりちょうかいわい》を縄張りにしている岡っ引き、清七《せいしち》のことだ。通一丁目を西に入った所の西河岸町にある、日限地蔵の近くに住まわっているところから、この名のほうが通りがよかった。
(下手人の見当はついたんだろうか)
若だんなの関心はあの殺しのことに向かった。だが母の心配は別のところに行っていた。
「人が殺《あや》められていたんだそうな。あたしは思わず仁吉を掴《つか》まえて、お前がちゃんと部屋で寝ているかどうか聞いてしまったよ。だって一太郎、お前昨夜外に出ていたろう?」
「おっかさん……! 知っていなさったの?」
一太郎は驚きの目を母に向けた。仁吉たちが話したはずもなく、この母はいつもながらに見透かすことが巧みだった。
「月もない晩にどこに行っていたんだい? お前は体の性が弱いんだから、ことに気をつけておくれでないと、心配でならないよ」
火ばしで長火鉢の灰をかき混ぜながら話すおたえの目に、涙が浮んでくるのを見て、一太郎は慌《あわ》てた。
「夜に出たことがなかったから、つい……。悪かったから、おっかさん、そんな顔しないで下さいよ。親分のご用だって、わたしが殺された訳じゃぁないんだから」
「当たりまえだよ。そんなことになったら、おっかさん、生きてはいないから……」
結局慰めるのに四半時もかかる始末で、一太郎は当たり障《さわ》りのない言葉で謝りつづけた。だがその裏で、こみ上げてくる思いがある。それを目の前の親に知られぬように呑《の》み込むのに、どうにも苦労していた。
(毎日毎日心配のしどうしで。いっそ、この子も兄のところに行ってくれたら後が楽だと、そう思ったことはないのかしら……)
今日生き延びていたところで、不安を重ねていく日々が明日に続くだけの気がする。
毎年寝込まないことはなく、生きるか死ぬかの騒ぎにならなければ、親達は胸を撫《な》で下ろしている。
(だけど心配が、しゃぼんの泡のように消えてなくなる訳じゃぁなし……)
もう疲れて胃の腑《ふ》が痛くて、いい加減にしてほしいとは思わないのだろうか。
(いっそすっぱり死んでくれたら……)
そう思うのが、普通なような気がするのだ。
聞いてみたくて、親に顔を向けたことがある。
どうにも口にはできなかった。そう分かって黙りこむしかなかった。
長崎屋は江戸十組の株をもつ、廻船《かいせん》問屋の大店《おおだな》だった。
日本橋から通町《とおりちょう》を南に歩いて京橋近く、間口が十間もあり、桟瓦《さんがわら》の屋根に漆喰《しつくい》仕上げの壁の、土蔵作り二階建ての店構えだ。大坂からの船荷の扱いを許されていたのはこの十組の仲間だけで、長崎屋は自身の菱垣《ひがき》廻船も三|艘《そう》持っている。それ以上に持つ数が多かったのは茶舟《ちゃぶね》という名のはしけで、品川沖に着いた大坂からの菱垣廻船や樽《たる》廻船からの荷を、小分けにして運ぶ舟だ。
長崎屋の店で働いているのは番頭以下、手代、小僧に女中や下男を合わせても、せいぜい三十人ばかり。しかもそのうち八人は、新しく始めた薬種《やくしゅ》問屋のほうにいる。
しかし水夫《かこ》の数は店にいる奉公人の人数をはるかに上回っていて、長崎屋の商売は大きかった。
水夫たちは全員が店に来る訳でも、いつもいる訳でもない。まだ廻船問屋を手伝っていない一太郎には、店|縁《ゆかり》の者の人数すら確かには分からなかった。荷は船からはしけに移された後、それぞれの品が集まる河岸《かし》や荷主の蔵などに行くので、長崎屋に直接集まる品は扱う量からすると、わずかだった。
もう一つの長崎屋、薬種問屋のほうは、廻船問屋長崎屋の南東隣の角地を小さめに一角占めていた。若だんなのために薬種を方々から集めているうちに、商いが大きくなって、とうとう一本立ちさせたものだ。もとより息子を助けたくて始めたことだから、良心的な値で良い物がそろっていると評判で、なかなかの商売になっていた。店先で出している白冬湯《はくとうゆ》という薬湯《やくとう》も、風邪の季節にはことに喉《のど》にいいと名が上がっている。
若だんなと呼ばれるようになってから、一太郎は薬種問屋のほうを任されている。とはいえ十七では真実店が切り回せる訳ではないので、実際店は番頭の忠七と三人の手代が主になって営んでいた。
「おはようございます、若だんな」
一太郎が昼も近くなって現れるのには皆、慣れっこなので驚きもない。
「おはようございます。今日の調子はいかがですか?」
「うん、おはよう。大丈夫だよ」
ここでも気遣いが山のように一太郎の上に降ってきて、いささか疲れる思いだ。おまけに店先に掛かりつけの医者、源信《げんしん》の供を連れた姿があった。挨拶《あいさつ》をしない訳にもいかず近寄ると、さつと手が伸びてきて、有無を言わさず若だんなの口を開かせ、喉のはれがないかを見る始末。
「先生、風邪なんか引いちゃぁいませんよ」
あわてて身を引いてふくれつらを見せるが、源信も側《そば》にいた仁吉《にきち》も、若だんなの都合などいっこうに気にしない様子。さすがにこれしきのことで医者も見立て代は求めないが、こういうときは仁吉がそっと、源信が買った薬種のかさを足しておく。そのせいか、源信はこまめに若だんなの様子を気にかけるのだった。
だが一太郎はこれが嫌でたまらない。店の左奥にある帳場に逃げ込むと、源信は「今日は大事ないようだ」そう笑って帰っていった。
帳場では番頭の忠七が帳簿を見せてくれたが、仕事は算盤《そろばん》の立つ忠七がきれいに済ませていてやることがない。若だんなは何か手を出せることがないか、店の中を見回した。
間口|三間《さんげん》ほどの薬種問屋は、夜になると通路になる軒下を土間代わりに、ちょうど腰掛けるにいい高さに広い畳敷きになっていた。入って右手には大きな作りつけの棚が並んでいて、引き出しや年期の入った瓶の中にそれぞれ薬種が入っていた。真ん中に置かれたついたての奥では、よく仁吉が小さな秤《はかり》を使って調薬をしている。その横で、今小僧が一人、薬研《やげん》で生薬《しょうやく》を刻んでいた。
長崎屋は卸しと共に小売りもするので、店の一番前で小袋に入ったあかぎれ、打ち身用の膏薬《こうやく》も売っている。その右隣の長火鉢には、喉や風邪にいい白冬湯入りの薬缶《やかん》がかかっており、小僧がひとりついて老人に湯をすすめていた。
「ねえ、お前、なにを刻んでいるの?」
ちょうど仁吉が秤の前にいないのをいいことに、一太郎は調剤の机の前に座り込んで隣の小僧に聞く。「せんぶりです」その答えと机に用意されている他の生薬とで、仁吉が名代の胃薬、健命丸《けんめいがん》を作る予定なのが分かる。その薬は効くのは大したものなのだが、苦さも一番で、口元が曲がるような味だった。
「じゃぁ、今日は私が作るよ」
そう言っていそいそと天秤《てんびん》を使い始める。だがまだ最初の薬を計り終えないうちに、仁吉がとんできて若だんなから天秤の重りを取り上げた。
「若だんな、そんなことはあたしがしますから……」
「だいじょうぶだよ、仁吉。ちゃんと作れるって。私が薬にくわしいのは、お前だって知っているだろう?」
「そんな問題じゃぁないんですよ。健命丸は作るのを急いでいるというものではなし、疲れるようなことはしないで、若だんなは休んでいて下さいまし」
そう言うと仁吉は一太郎を机から追い立ててしまった。それならというので、今度は暇なことの多い白冬湯の側に行く。「私が見ているから」と、小僧に言うよりも早く、また仁吉がやってきて引きはがす。
「薬缶の湯をかぶったら、大|火傷《やけど》です。近寄らないで下さい」
「そんな間抜けはしないよ。小僧にもできる仕事じゃぁないか」
「駄目です!」
これでは誰が主人か分かったものではない。妖《あやかし》ならではの傍若無人ぶりに、一太郎がふくれつらになって帳場に座り込んでいると、
「おや、若だんな、浮かぬ顔でどうなさったね」
表から声がかかった。
「日限《ひぎり》の親分さん」
仁吉がほっとしたような声を上げて、岡っ引きを迎える。客が来れば若だんなに押しつけて、店から引き離せるからだ。
このとき手代の考えが、ギヤマン越しに見るかのように見通せた若だんなは、おもしろくなかった。思うとおりになど動いてやるものかと身構える。だが、来た客が日限の親分というのは、何ともまずいと思う。あの殺しの話を知っているに違いないからだ。
「親分さん、今朝方、怖いことがあったそうで……」
仁吉がさっそく水を向けると、親分は「耳が早いな」と、話に乗ってくる。手代は、
(そんな話は店先ではなんですんで)
そう小声で言って、さあさあと親分を店の奥へと通す。そうしておいて若だんなに、
「親分さんのお相手、お願いしますね」
しれっと言う。一太郎はこの場ばかりは何としても、仁吉の言葉なんか聞きたくなくてそっぽを向いていた。
少なくとも十ほど数える間は……。
しかし当の仁吉は茶菓子の用意のためなのか、さっさと姿を消してしまい、不機嫌な顔をしたところで見せる相手がいない。それにやっぱり知りたかった。あの人殺しは誰なのか。殺された職人風の男は誰か。どうして人なんか殺したんだろう。あんな闇《やみ》の中で人を殺す自分が、恐ろしくはなかったんだろうか。
結局腰が浮いてしまい、客が訪れた時に使う裏庭に面した一室に向かう。障子を開け放つと、古い椿《つばき》の木が見える六畳ほどの角部屋だ。部屋に入るなり、岡っ引きの清七が感心したように、襖《ふすま》に墨で描かれた猫を眺めた。
「さすがに長崎屋ともなると、襖絵も違うね。凝ってるよ」
親分の言葉に、いつの間にか茶と菓子鉢をもって現れた仁吉が笑う。
「日限の親分さん、そりゃあ若だんなが描いたもので」
「そうなのかい。すごいもんだね。動き出しそうだよ」
「私はそんなことしか、させてもらえないんですよ」
ほめられても渋い顔の一太郎は、すねた口調で座布団《ざぶとん》の上に座り込んだ。その表情を見て、五十|絡《がら》みの岡っ引きは唇の端を上げる。
「そいつはうらやましいことで。墓に入る前に、一度そういう身分になってみたいね」
仁吉はその言葉に笑みを浮べながら、茶菓子を出すと部屋から消えた。さっそく一つつまむ岡っ引きに、若だんなは闇夜の殺しの一件を語ってくれとせがむ。
「血なまぐさい話だよ」
清七はそうことわりを入れてから、朝見たことの顛末《てんまつ》を語った。
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[#小見出し]  三 大  工
[#挿絵(img/syabake063.jpg、横113×縦276、下寄せ)]
「人が殺《あや》められたのはもう聞いているみたいだな。見つけたのは近所に住まうご隠居でね。毎朝聖堂の周りを掃き清めるのが日課なんだそうな。信心深いというのに、とんだものと出会っちまった」
清七《せいしち》は話しながらぺろりと饅頭《まんじゅう》をたいらげ、さらにもう一つ、つまんだ。甘いものも酒も共にいける口だが、一つを選ぶなら酒だ。最近少々手元|不如意《ふにょい》で菓子のたぐいは慎んでいたので、鷹揚《おうよう》に鉢に盛られた茶饅頭が嬉《うれ》しかった。
「殺されたのは大工の徳兵衛《とくべえ》という者だ。印半纏《しるしばんてん》を着ていたんでね、早くにどこの者か分かったってことさ」
「大工……」
やはり職人だったかという思いを一太郎は飲み込んだ。人殺しの場にいたなどと、親分に今さら言えたものではないからだ。なぜすぐに番屋に届け出なかったのかと言われたあげくに、うさん臭そうな目で見られて、あれこれ山ほど聞かれるに違いなかった。
「奴《やつ》は棟梁《とうりょう》として六人ばかりも人を使っていたそうだ。多少気の回らないところはあっても、あけっぴろげな質《たち》の腕の立つ大工だったらしい。何で殺されたのやら、今のところ見当もついちゃぁいない」
「賭《か》け事が好きだったとか、借金があったとか……」
「駆けつけた女房、弟子に聞いたが、そんな話はなかったね」
「女のことで揉《も》めていたんじゃ?」
「色っぽい事柄に縁があるとは思えなかったがね。俺よりも年上で、しかも屋根にのぼっていたら鬼瓦《おにがわら》と間違えられそうなご面相だ。首が落とされていて、いつもとは違うことを差し引いても、男前とは程遠い奴だったぜ」
「は……? 首が切り落とされていた?」
この親分の言葉に、一太郎は一瞬言葉を失ってしまった。どう思い返しても……自分が見たときは、あの気の毒な死体は首と胴がつながっていた。月の光の下、血が着物をぐっしょりと濡《ぬ》らしている姿を見たのだ。首のない胴だけの形だったら、気づかないはずがない。あのとき首は肩の上に乗っていて、頭はそう、右の松の木の根を見ている格好だった。
どういうことだろうか。若だんなは座布団《ざぶとん》の上で体を真《ま》っ直《す》ぐにして考え込んだ。
誰かが一太郎たちが去った後、真っ暗な夜の下、すでに殺されている大工の所にまで行き、わざわざその首を落としたということになる……。
(何でそんなことを)
理解できない出来事に若だんなが黙ってしまうと、日限《ひぎり》の親分は少々|慌《あわ》てた。血なまぐさい話に、か弱い若だんなが、眩暈《めまい》でも起こしたかと思ったからだ。だから一太郎が平気な顔で、
「親分さん、どうして誰がそんなことしたんだと思いますか?」
そう聞いてきたときはほっとして、八丁堀の旦那《だんな》の考えまでしゃべっていた。
お調べのことをよそで言うのは、ほめられたことではないが、体が弱くて外出《そとで》もままならない若だんなに言ったところで、話の広がる気遣いはない。町のことを聞くのが好きな一太郎に、これまでも色々手柄話をしてやったが、それで清七が困ったことはなかったのだ。
「定廻りの旦那の考えじゃぁ、お武家の試し切りじゃないかってことだ。すっぱりときれいには切られてなかったが、最近のお侍は腕より刀のほうが上等っていう手合いも、多いらしいからね」
「はあ……」
こう言われても若だんなには得心がいかない。第一、昨夜見た下手人の持っていた刃物は、刀ではなかった。もっとずっと短いものだ。武士だったとは考えにくい。
「それにしても大工の棟梁が居残り仕事の後に、何で聖堂前のあんな所に行ったのかね。棟梁が今かかっている普請《ふしん》とも住まいとも、方向違いもいいところなんだが」
「誰ぞに会いに行っての帰りとか……」
若だんなが言う。だがこれに親分は頷《うなず》けない様子だ。
「棟梁は日本橋の近く、通《とおり》一丁目辺りの生まれ育ちだと言っていたがな。おかみさんは深川の出だそうだが。どっちにしろ昌平橋《しょうへいばし》を渡った先とは縁がない。まあ、大工なんだから、何かの拍子に離れた所の仕事を受けていて、顔|馴染《なじ》みがいたかもしれないが」
「不可思議なことですねぇ」
「今のところはな」
(なあに、ちょいと待ってな。すぐに俺が事の顛末《てんまつ》を話してやるから)
清七の顔と鼻息は言外にそう言っている。だが一太郎には(これは難儀だよ、親分さん)としか思えない。
「失礼しますよ」
そのとき仁吉《にきち》が茶の換えをもって姿を見せた。
「日限の親分、下っぴきの正吾《しょうご》さんが店に親分を探しに来てますよ」
「これはいけねえ。長《なが》っ尻《ちり》になったかの」
慌てて立ちあがったその袂《たもと》に、仁吉がしのばせたものがあって、清七の顔がほころぶ。その上に仁吉は竹の皮に十ばかりも包んだ饅頭を、「これはおかみさんに」と言って、親分に持たせた。
「こりゃあ、いつもすまないの。じゃぁ、若だんな、またな」
換えた茶を飲む間もなく、清七が手代に送られて表に消える。
その後ろ姿を見送りながら、若だんなに見当がついたことが一つあった。岡っ引きの饅頭の食いっぷりからして、親分の妻、おさきはまだ具合が悪いのだろうということだ。先《せん》の年に高熱を出して以来、寝たり起きたりなのだ。
いったいに岡っ引きが同心から、十分なお手当てをもらうことはないらしい。他に女房の稼ぎでもあれば暮らしは楽になる。日限の親分のおかみさん、おさきも、縫い物の腕がたいそう良いとの話で、しっかりと稼いでいたらしい。
そういう妻がいれば、岡っ引きは関わりになった者に袖《そで》の下を寄越せと言わずにすむ。つまりはおさきに寝込まれた日限の親分は、金に細かくなっているということで、こういう岡っ引きは概して、ゆすりたかりに走って評判が悪い。それが何とか悪くも言われずにやっていかれるのは、ひとえに清七の縄張りが大店《おおだな》の集まる日本橋|界隈《かいわい》だからだ。
(何かありましたら、その時はひとつ、お願いしますよ)
そういう言葉と共に袖の下に入ってくる金の重さも、他とはだいぶ違うという訳だ。
「親分、なんて言っておいででしたか?」
戻ってきた仁吉が菓子鉢や茶を片づけながら聞いてくる。
「お武家の仕業だと思っているみたいだったよ」
若だんなの返事に、仁吉の眉《まゆ》が片側だけ上がる。
「下手人が持っていたのは刀じゃないって、昨日おっしやってましたよね?」
一太郎が頷く。仁吉はがっかりしたようなため息をついて、
「やはりあたしたちが調べないことには、下手人のめぐしもつかない、なんてことになりかねませんね」と言う。
そのとき奥庭に面した廊下から、佐助が部屋に立ち寄った。仁吉が日限の親分の考察を佐助に伝えると、答えは短く「けっ!」というものだった。
「まったく役に立たない親分さんで。袖の下を取るしか能がないなら、いないほうがましってもんで」
妖《あやかし》の遠慮のない言葉に、若だんなは「よそではそんなこと言うんじゃぁないよ」と、釘《くぎ》を刺した。人と違う二人には、ときおりひやりとする紙一重の危うさが目につく。
「心得ていますから、心配は無用ですよ。あたしはできる手代ですからね」
「その優秀な佐助が、何の用だい? 珍しいじゃないか、こっちの店に日中《ひなか》から顔を出すなんて」
ふたりは揃《そろ》って若だんなの側《そば》に多くいるものの、仕事先は分かれている。仁吉は番頭と共に豊富な薬の知識で薬種《やくしゅ》問屋を背負い、佐助は皆から慕われる、がき大将のような気質で水夫《かこ》たちを仕切って、廻船《かいせん》問屋を支える一人となっていた。店にいる間は、行き来などないのが普通だ。
「先ほど知らせが来ましてね、品川沖にうちの常盤《ときわ》丸が着いたそうなんで。あの船には例の荷を積んでますんで……」
「ああ、長崎からの。で、いつこっちに来るの?」
「今晩にもという話で。薬種を入れてある三番蔵に運び込む手はずです。物がものだけに、旦那様はしばらくの間、蔵の鍵《かぎ》を若だんなに持っていてほしいそうで。何かのはずみで小僧か誰かが蔵に入ったあげく、あれを見かけて騒ぎになるのは嫌だからと」
「分かったよ、そうしよう」
あっさりと言う若だんなに、横にいた仁吉が不安げな視線を向ける。指先でお茶うけの菓子器を鋭くはじく音がした。
(仁吉は私が箸《はし》より重いものを持ったら、疲れて死んじまうと思ってるんじゃないかね)
聞くのも馬鹿《ばか》らしい質問だった。聞いたら、もちろんそうだ、との返事が来そうだった。
だが現実には仁吉とそうしてじゃれあう間もなく、京橋近くに茶舟《ちゃぶね》の第一陣が来たと小僧が知らせに来る。長崎屋の店にまで運ばれる荷には、薬種問屋用の物が多い。仁吉が佐助と廻船問屋のほうに走り、若だんなは番頭と打ち合わせに店に帰った。
こうなるといくら気になるからといっても、若だんなも手代たちも、人殺しの下手人探しどころではない。生きていくための、日々の仕事が追いかけてきているのだ。
入ってくる荷は讃岐《さぬき》の砂糖、阿波《あわ》の砂糖、琉球《りゅうきゅうう》の黒砂糖。他に鬱金《うこん》や甘草《かんぞう》、木通《あけび》、大棗《たいそう》など薬草類も多くあるはずだった。
船が港に着いたあとは、一日二日は薬種問屋のほうも大忙しで、手が足りない。仁吉は平素、長く若だんなが目の届かない所にいるのを嫌がるが、こういう日はそうもいかないでいた。
運ばれてきた薬はまず、店の奥、土蔵の向かいに当たる場所にある、風通しの良い広々とした板間で広げられる。
そこで物の良し悪《あ》し、産地、値段、量を蔵に納める前に確認するのだが、まだ他の手代では見る目に不安があり、仁吉が仕切るしかない。店のほうは、大概のことは他の手代で足りたが、やはり薬の調剤となると、任せきりにはできない。番頭は数には強くて帳簿はよく見るが、元々廻船問屋勤めで、肝心の薬種については今一つ弱かった。
結局、若だんなが薬のことを預かり、番頭と小僧一人が一緒に店に残ることとなった。後の者は船からの荷にかかりきりだ。
自分の船を持つ長崎屋の荷は値がおさえられている。砂糖などは小体《こてい》な菓子屋からの内約も多く、ほんの数斤《すうきん》のものから、様々な量に分けられて、端から届け先に配られていった。
若だんなは念願通り黒光りのする天秤《てんびん》ばかりの前に座り込んだ訳だが、こういうときに限ってたいした注文もなければ忙しくもない。仕方なく先に薬研《やげん》で刻まれたせんぶりをつかい、衝立《ついたて》の奥の机の上で健命丸《けんめいがん》を調剤して過ごすこととなった。だが、心配性の妖達が側にいないおかげで、やれたこともある。
昨日から懐《ふところ》に入れたままだった、握りつぶされた紙。火鉢の中で灰となって消えた。
日が落ちて店は板戸をたてた。
五つをいくらか過ぎたころ、京橋よりの廻船《かいせん》問屋横手奥にある通用口の内側に、明かりが二つ、ぽっかりと浮んだ。手代たちが持つ手燭《てしょく》の灯で、小さい光だったが月夜のこととて、勝手知った店の庭を動くには不自由はない。二人の後ろにいる若だんなが、気になる様子で塀の外の物音に耳を澄ましているが、未《いま》だ人の足音さえ聞こえてこなかった。
「まだかしらね」
「ほどなく来るでしょう。ところで若だんな。旦那《だんな》様は、あの荷が来るっていうのに、夕餉《ゆうげ》の後どちらに行かれたんです?」
「発句《ほっく》の会ですよ。大店《おおだな》の旦那衆も多いという、例の会」
答えたのは佐助のほうだった。
「そりゃあ珍しい荷ではあるけれど、初めて扱うもんじゃなし、心配はないんでしょう。それより、ああいう会の噂《うわさ》話は、大切なものですからねぇ」
発句の会、囲碁の会、祭りの打ち合わせ、そういうものの中で、さまざまな根回しが行われ、貴重な噂……たとえば左前の店の名がひそかに語られたりする。店がつぶれてしまっては、掛け取りもできなくなるから、これは押さえておかなくてはいけないことだった。旦那衆にとって一見遊びにもみえる付き合いは、大切な仕事の一部なのだ。
「よきかな、よきかな。拙僧《せっそう》も趣味の付き合いというものをしてみたい。酒や魚がつけば、なお良しということで」
「私は甘いものがいい。若だんな、饅頭《まんじゅう》の一つもお持ちでないか?」
くぐり戸の向こうで、佐助の話を受けるような会話があった。仁吉《にきち》がとっさに「誰か」とするどく声をかけると、
「わしじゃ、わしじゃ」
のんびりしたいらえがあった。
仁吉にはそれだけで誰か分かったらしく、戸が開けられる。
夜の中に二人の人影が立っていた。背の低い、擦りきれた僧衣をまとった貧乏臭い坊主《ぼうず》と、錦《にしき》の鮮やかな振り袖《そで》を着た小姓姿の美童で、何とも釣り合わない組み合わせだ。
「野寺坊《のでらぼう》と獺《かわうそ》か。人目もある時刻に出てくるとは、大胆なことで」
顔を出した若だんながそう言うと、「人型をしておるで、かまわんだろう」野寺坊がそう言って返した。
確かに一見|妖《あやかし》には見えない。だが、人ならばなお、夜に浮き上がるこの取り合わせは、うさん臭いことこの上ない。
「何だ? もう荷が来る。立ち話している余裕はないのだが」
仁吉の言葉に野寺坊は笑った。
「あの妙なものだったら、まだ水の上だよ。それにすぐ用は済む。若だんなが襲われた、あの話のことだよ。われら妖に探れと言ったのは、ぬしたちだろうが」
三人は野寺坊たちを、塀の内に入れた。
「殺された男の名が分かったよ。大工の徳兵衛だ。棟梁《とうりょう》だよ」
長崎屋の店からは見渡せない一番蔵と塀に挟まれた陰で、鼻高々に言う野寺坊の言葉に、「他に分かったことは?」と、佐助の返事はそっけない。
「なんだよ、お気に召さなかったのか? 日中《ひなか》から出て人に聞いてやったのに……」
「そのことなら昼のうちに、日限《ひぎり》の親分が言い置いていったんでね。もう分かっているのさね」
「じゃぁ、金を借りるのが嫌いだったことも? 女の影がなかったことも?」
「他に新しい話はないのかえ?」
顔を見合わせる珍奇な組み合わせの二人に、仁吉がため息をつく。何とも身の置き所のない様子の妖達に、若だんなが袖から出した甘い物を渡した。
「またなんぞ、話を聞きつけたら知らせておくれ。今日は仕事の合間だからね、こんなものしか礼にあげられないけれど」
紙袋に入っていたのはとりどりの色の飴《あめ》と、花林糖《かりんとう》。貰《もら》った二人の顔はほころんだが、手代たちは眉《まゆ》をひそめる。
「若だんな、食事の合間にそんな物を食べているから、飯が喉《のど》を通らないんですよ」
「飴は固くて舌を切るから嫌だって、言ってませんでしたかね」
左右から降ってくる文句に、一太郎が首をかしげた。
「なに言ってるんだい。買ってくれたのはお前たちじゃぁないか。おやつだと言ったり、喉に良いと言ったりで」
「おや……そうでしたかね」
とぼけた返事の手代たちに、麗《うるわ》しく化けるのが好みの獺が、大きな花柄の袂《たもと》を口に当てて笑い声を立てる。
「物忘れは誰にでもあることで。殺された大工の棟梁も大工道具を一つ失《な》くして、盗まれたのか自分でどこぞに失くしてしまったのか、考え込んでいたそうですよ」
「いつの話だい?」
「仕事道具を失くしたなんて大事じゃないか。物はなんだい? 聞かなかったのか?」
急に手代二人に注目されて、美童姿の妖は思い出そうと頭を両の手で抱え込む。
「そう前の話ではないようだったが、……道具が消えた確かな日時は、棟梁にも分かっていなかったようですよ。もちろん何を失くしたかは心得ていたはずだ。でも棟梁、人にはそれを言ってなかったらしく、今では誰にも分からない。大工が道具を失くすなんて、気恥ずかしかったんでしょう」
「なに言ってるんだい、残った道具箱を見てみればいいことじゃないか」
若だんなの言葉に頷いたのは、二人の手代だけだった。
「あれ、先ほど申しませんでしたっけ? 殺された日、棟梁は仕事場から直接聖堂前に行ったらしく、道具も持っていたはずなんで。だけど首を切られた後には、そんなもの残っていなかった」
美童の言葉に、
「大工道具は、箱ごと盗まれたんです。下手人がとったか、後から誰ぞが盗んだか。まあ、あの大工、首が落とされていたそうで、おかみさんも気が動転して大工道具どころの話じゃぁないんでしょう。誰も大してそんな物のことを、気にかけちゃぁいませんよ」
野寺坊も続けて言う。若だんなたち三人は顔を見合わせた。
「なんでそのことを先に言わないんだい? 下手人が持っていったとすれば、玄人《くろうと》の道具を自分で使うはずもなし、どこぞで売り払っているかもしれないじゃないか」
「買った店の者に聞けば、人殺しの姿形が分かる。年ごろも掴《つか》める。すぐその道具を追うんだよ」
勢い込んで言う手代たちに、ちぐはぐな組み合わせの二人は、首をかしげた。
「追えって言われても……どうすればいいんで」
「道具屋を回るんだよ。古いものを買い取ってくれる店を」
「ああ、そういうことで」
妖と人とは五感がずれているのか、どうもときどき会話が噛《か》み合わない。もう少し細かく今後の指示を出したほうがいいかと、若だんなが口を開きかけたとき、表から低く抑えた感じの人の声が聞こえてきた。
「これは、荷が届いたようで」
「我らはこれにて……」
妖たちが蔵の横の闇《やみ》に姿を隠したそのとき、通用口を三度続けて打つ、固い音が聞こえた。
「佐助さん、権八《ごんばち》で」
その声に戸口を開けると、夜の中、木の軋《きし》む音が低く響いた。大きな長持《ながもち》のような箱を積んだ戸板が、四人の水夫《かこ》によって庭に運び込まれた。そのまま仁吉たちの先導する明かりが、夜風にわずかに揺れる楓《かえで》の木の下にある、稲荷《いなり》の前を通りすぎる。裏庭を突っ切ると、先にあるのは薬種《やくしゅ》蔵と呼ばれている三番蔵の黒く大きな影だ。
若だんなが渡した鍵《かぎ》で、仁吉がごつい鉄の錠前を開く。蔵の中には闇夜のように、明かりが先まで届かない暗さがあった。四人の水夫は入ってすぐの土間のうえに、戸板ごと木箱を置く。大きさの割りには重くはないのか、身軽な動きだった。
「それじゃぁ、あっしらはこれで」
水夫たちの役目はここまでと決まっているらしく、若だんなに頭を下げ、そのままきびすを返す。
「あ、ちょっとお待ちよ」
権八の肩をぽんとたたく。振り返ったその手に、若だんなは今度は金平糖《こんぺいとう》をのせた。
「これはご馳走になります」
貰った紙袋の中身を見て、もう五十に近い権八は思わず顔をほころばせた。去ってゆく四人の足音に、かりかりという砂糖をかみ砕く小さな音が交じっていた。
「いったい、袂にいくつ、紙包みを入れているんですか?」
蔵に残った佐助たちの問いに、若だんなは笑ってもう一つ紙袋を見せる。中の黒砂糖はかなり砕けていた。
「金平糖はおとっつあんが買ってくれたんだよ。こっちのほうは体にいいからって、おっかさんが食べなさいって」
こう甘いものを山のように買い与えていたのでは、長崎屋の若だんなは今に砂糖漬けになってしまうと、近所で噂されても、仕方がないかもしれない。顔を見合わせた手代たちは、苦笑を浮べて肩をすくめる。
佐助が蔵の戸からひょいと顔を出し、水夫たちの姿がくぐり戸の外に消えるのを確認する。鳴家《やなり》をやって戸を内から閉めさせた後、手代たちは土蔵の右奥に敷いてあるすのこを片づけて、床の上に鉄の取っ手のついた戸を現した。船箪笥《ふなだんす》のように、四方にぐるりと細工された鉄がはめられている。
佐助が重く軋む音とともにその戸を引き開けると、たたみ半畳ほどの四角い穴が姿を現す。暗闇が下におりる階段を半ばから呑み込んでいた。
若だんなが手燭を掲げて、先に立って地下室に降りていった。白い足を階段に降ろすごとに、ぎしりと軋む音がはっきりと響いた。二人の手代は前後になって戸板の端を抱え、慎重に若だんなの後に続く。
階段は二十段以上はあったろうか、途切れると、十畳ほどの土間に出る。一つの手燭が常闇《とこやみ》に光を運んでいるだけなので、端に置いてあるいくつもの行李《こうり》や箪笥らしいものには、明かりがどれほども届かず、中はよく見えなかった。階段を降りて突き当たりにある、運んだものより二倍は大きい木箱の上に、長持は据えられた。
「中を確認します」
佐助が木箱の封印をすばやくといて、蓋《ふた》を横に置く。傍に立つ仁吉が中の包みを手早く開けてゆく。がさがさとした渋色の紙を何回も剥《は》ぐと、一瞬手を止め、やおら中から何かを掴み出した。
「うわっ!」
干からびた猿の顔のようなものを、突然目の前に突きつけられて、佐助はのけぞった。
薄暗いなか、目の前に見えているものは確かに目鼻口をもっている。だが目といっても暗い穴のようなもので、口は声も無く叫んでいるように、薄く開いている。
「これは……」
よく見ると、古い木でできた木像のように、固そうでもあった。大きさは小柄な若だんなよりも、さらに二回りほど小さかった。
頭の傍に光を掲げた若だんなが視線を落として頷き、仁吉に確認する。
「間違いないみたいだね」
「木乃伊《ミイラ》ですね」
昔人だったものの、手、足、体、頭。
不老長寿の薬として、珍重されてきたものだ。人は即身|成仏《じようぶつ》したその体を飲み込むことで、己がその力を手に入れようとしてきたのだ。
だが薬とはいえ、人だったものを切り売りするのは、さすがにはばかられることだった。それで皆の口に蓋をして、こうしてこっそり、土蔵の地下に運び込んだわけだ。暗い中で見ると、木像のようでいて、顔に生々しい表情があるようで、どうにも物凄《ものすご》い。だが仁吉の顔は、変わり果てたその姿を見ても揺るぎもしなかった。
「前回と変わりがない……そう、良い状態のようです」
にやりと笑った仁吉を見て、佐助が唇を噛んで低く稔《うな》った。二人が木や土と変わらない色になるまで干からびた木乃伊を調べているのを、佐助は気味が悪そうに一歩引いて見ている。この手代に言わせれば、こんなものの欠片《かけら》を飲んで、不老長寿を得ようとする人という生き物は、妖よりはるかに物恐ろしいという。
「大体、これを飲むと本当に不老長寿になるんですかね」
「私に聞かないでおくれよ。これを買う人たちは、そう言っているようだね」
「売っているのに、分からないんですか? 若だんな。そいつはひどいな。これ高直《こうじき》なんでしょう?」
「一回分、ひとかけで、銀七十|匁《もんめ》、つまり一両さ。米で言えば百升分だよ」
「こんなものに! そんなに払うんですか」
「まいったね、佐助。それこそ売っている店の者の言葉じゃぁないよ」
笑っているのか皮肉を含んでいるのか、若だんなの顔に何ともいえない表情が浮んでいる。暗い中で蝋燭《ろうそく》の光が顔の上をちらちらと嘗《な》めていた。
「人が欲しくてたまらないものは、それぞれなんだろうね。煩悩《ぼんのう》がつのれば、金をつぎ込んでも惜しくなくなる。欲が深いよね、我々は……」
「毎年、大晦日《おおみそか》ごとに百八つもの煩悩を、鐘の音で落としてもらっているのに、きりがないんですから」
仁吉は笑みを浮べて言うと、木乃伊を包み直す。はるか遠い異国から運ばれてきたという妙薬は、めったに入ってくるものではなく、高価であるにもかかわらず、ひとたび店にあると噂《うわさ》が広まると、一年|経《た》たずに売り切れるという。
「だけど、まあ、木乃伊なんてあんまり大っぴらに売るものじゃなし、しばらくはこいつに気を使うね。早く売り切れればいいんだけど」
若だんなのぼやきと共に、長持の蓋が閉められる。階段を上がると一太郎の口からほっと息が漏れた。三人は蔵の鍵を閉めると、やっと今日の仕事が終わったとばかりに早足で離れに引き上げた。
若だんなだけでなく、手代二人の寝間《ねま》も離れの端にある。夜、一太郎がいつ何時具合を悪くしても、すぐ呼べるようにだ。いつもの寝間に布団《ふとん》を敷き、掻《か》い巻きを重ねる。若だんなの寝支度をしながら、佐助が横にいる相棒に尋ねた。
「仁吉、さっきの妙薬、あれは不老長寿の薬なんだろう?」
「そういうことになっている」
「じゃぁ、先《せん》に仕入れたとき、若だんなに飲ませたのかい?」
薬のことは仁吉の采配《さいはい》だ。だが若だんなに珍しい木乃伊の薬を飲ませたのなら、佐助の耳にも入りそうな話だが覚えがない。佐助の質問に、乱れ箱を手にしている仁吉のすました口調の答えが返った。
「そんな馬鹿《ばか》はしないよ。人参を飲ませたほうが、どれほどかましさね」
「ああ、そういうことなんだね」
佐助は得心した顔になって、さっさと若だんなに柔らかな木綿の寝間着を着せかけた。
一太郎には珍しく、今日は横になるとすぐ眠気に襲われた。その様子に満足げな顔を見せながら、二人の妖《あやかし》が音もなく襖《ふすま》を閉めて下がる。
(あの殺しの一件以来、仁吉たちは他出《たしゅつ》に良い顔しないけれど……明日は何としても栄吉の所に行かなくっちゃぁね)
一人になると、一太郎は明日の算段を頭の中ですばやく立て始めた。眠りに落ちる前に、考えておかなくてはならないことが、たくさんあった。
三春屋へ行くこと。大工の道具箱のこと。木乃伊のこと。親族のこと……。
思案しなくてはならないことは多い……だが、たかだか少しだけいつもより忙しかったせいで、あっと言う間に眠気に絡《から》めとられていく。これでは情けない。まだ、遅い刻限でもないものをと思う……。
あとは覚えていなかった。
「久しぶりじゃないか、若だんな。また熱でも出しているのかと思ったよ」
「ご挨拶《あいさつ》だね、栄吉《えいきち》。年中寝ついているわけじゃぁなし」
「そうだったかね」
いつもの遅い朝餉《あさげ》がすむと、一太郎は薬種《やくしゅ》問屋の北隣にある三春屋《みはるや》に向かった。通町《とおりちょう》の大通りから横に延びた、三間ほどの道沿いにある表長屋の一軒だ。外へ出るというと仁吉《にきち》も佐助も良い顔はしなかったが、行き先は三春屋で、くぐり戸から出てほんの十歩も歩きはしない先だ。行きたいと言われれば、母も駄目とは言わなかった。
「何をこさえているの?」
一間半ほどの店の表から、すぐ奥の作業場で菓子を作っている幼|馴染《なじ》みに聞くと、大福|餅《もち》だという。
(相変わらず下手くそだね。大きさがまちまちだし、餅の厚さが揃《そろ》ってないよ)
そうは思ったものの、口には出さずに三つ求める。一つを、こんな近くの店にまで仁吉がつけて寄越した小僧にやり、長崎屋に帰す。もう一つは若だんなの姿を目ざとく見つけて寄ってきた、妖《あやかし》らしい物もらいにやった。坊主《ぼうず》頭だったが、僧籍を名乗るには身なりがいい加減すぎる。残りを口にしながら、若だんなは遠慮なく、店の奥に入っていった。
「おや、若だんな、いらっしゃい」
「今お茶淹れますね」
どこかへ届けるのか、饅頭《まんじゆう》を箱に詰めている三春屋夫婦が笑顔を見せ、末っ子のお春が新しいのを淹れようと、急須《きゅうす》の中の茶葉を取り換えにかかる。お春はことし十五になる、愛くるしい三春屋の看板娘だ。
寝込んでばかりで遊び相手のほとんどいない一太郎にとって、一つ年上の栄吉は大事な幼馴染みだったし、三春屋は、しょっちゅう上がり込んでいる二軒目の我が家だ。勝手知ったる様子で奥の間に入り、主人夫婦の側《そば》の、引き出しがいくつもある長火鉢の脇《わき》に座り込む。出された茶で大福餅を飲み込むと、小僧に持ってきてもらった上白糖を一斤《いつきん》、三春屋にさしだした。
「昨日ついた荷なんだけど、いいものだから一回、三春屋さんに使ってみてもらいなさいって」
「これはいつもすみませんねぇ」
おかみのおみねが、にこにこと押しいただいて受け取る。
表長屋の一店にすぎない三春屋と、通町の大店《おおだな》である長崎屋では、店の格が違いすぎる。普通ならば親しく付き合うような相手ではないのだ。縁はもっぱら子どもどうしの親しさから生まれたもので、砂糖を扱う薬種問屋との関わりは、菓子屋の三春屋にとって、ありがたいものだった。
だが当の子どもたち、むつきも取れないうちから遊んでいた者らにとっては、お互い今さら何の遠慮をする相手ではない。一太郎のみやげを見て、手を粉だらけにしながら大福餅を作っていた栄吉が、羊羹《ようかん》を作りたいと言い出した。それを聞いた若だんなが、なんともそっけない言葉を返す。
「やめときなよ栄吉、これは讃岐《さぬき》の上物の上白糖なんだよ」
「だから作ってみたいんじゃぁないか」
「だってさ、先《せん》に栄吉が作った羊羹、楊枝《ようじ》にさしたら端からくずれて食べられなかったじゃないか。それじゃぁもったいないよ」
「今度は上手《うま》くいくよ!」
二人の言い合いは、三春屋の主人|多喜次《たきじ》の、
「やめときな。うちにはこれ以上、上物の砂糖を無駄にできる余裕はないからね」
という一言で終わりとなった。枯茶色《からちゃいろ》の風呂敷《ふろしき》に菓子箱を包んで、「若だんな、届け物がありますんで、ちょいと失礼しますよ」と、部屋を出た多喜次の目に、不満げな息子の顔が飛び込んでくる。作業台の上の木箱に並んだ大福餅を見て、菓子屋の主人は深い息を漏らした。
「栄吉、お前上物の砂糖を使いたいと言う前に、せめて大福餅くらい一人前に作っておくれでないかい」
「ちゃんとできているじゃないか」
「いい加減な物でも大丈夫と思ってしまうから、上達しないんだよ。いいかい、栄吉、うちは職人をおけるような店じゃないんだからね。主人が菓子を作れなかったら、店はやっていけないんだよ」
言い捨てると多喜次は息子の顔も見ずに、表に出て行く。気まずいのか、おみねも台所に行ってしまい、気を使って栄吉の茶を換えにいったお春は、かえって邪魔にされて二階に追い払われてしまった。
一階に二人で残る格好になった若だんなは、長火鉢から離れて、作業場の板間にいる幼馴染みの傍に並んだ。栄吉は木箱の菓子を左脇の素通しの棚に置き、取り分けておいた大福餅を一つ、木皿にのせて店先に並べる。後はしばしの間若だんなの隣で、いい加減だと親に言われた餅菓子と、しぶい顔で睨《にら》めっこを続けていた。
しばらくの後、ため息が一つ。やおら栄吉は奥に首を伸ばし、お春やおみねが戻っていないのを確かめる。懐《ふところ》に手を突っ込んで、そっと出された指先には、小さくたたんだ書き付けが挟まれていた。
紙は一太郎の手に渡されると、するりとその懐に消える。幼馴染みは
「まだ続けるの?」と問い、頷《うなず》く若だんなに、またため息をついた。
「おいらぁかまわないけどさ。そんなこと調べてどうするんだ。親だけじゃない、仁吉さんたちにも内緒なんだろう?」
「仁吉たちは私が何か隠していると疑ってるよ。勘がいいんだから」
「無理をするなよ。周りは心配する。おれなんか、一月お前さんの顔を見ないと、またぞろ死にかけているのかと思うくらいだもの」
「きついことを」
「生きていると、自分の思いどおりにならないことがいっぱいあるのさ」
「どうしたのさ。今日は妙に悟った口調じゃぁないか」
一太郎が驚いた顔で幼馴染みを見たところに、
「ごめんなさいよ」と、客の声が表にする。見ればいつもの煙草屋《たばこや》の隠居で、山羊《やぎ》のような細面の顔をして、いつものようにしゃんと腰を伸ばして歩いている。将棋の仲間が集まる日に、餅菓子などを買ってゆく常連だ。
老人の目が大福に止まったのを見て、
「作りたてだよ」と、栄吉が声をかける。隠居はちらりと奥に目をやって、主人がいないのを見ると、作りたて≠フ餅菓子を買うのをためらった。
「ご隠居さん、菓子を作ったのは栄吉だけれど、餡《あん》をこさえたのはおじさんだよ」
迷う様子を見て、内から一太郎が声をかける。驚いたのは隠居よりも栄吉の方だった。
「なんでそうと分かったんだい? 誰もそんなこと話さなかっただろうが……」
「さっき一つ食べたからね」
言われた栄吉の顔が赤くなる。一つ食べてはっきりと差が分かるほど、まだ栄吉の腕は未熟なのだ。話を聞いていた隠居は笑いだして、大福餅を十ばかり求めて帰った。
客の後ろ姿をしばらく見ていた栄吉は、銭箱に金子《きんす》をほうり込むと、元の場所に座った。視線がだんだん下に落ちる。そのうち床にまで届いて、もうどうにも先に行きようがなくなってから、吐き出すようにぼそっと言った。
「昨日な、餡をひと鍋《なべ》駄目にした」
一太郎が、隣に目を向ける。幼馴染みは下を向いたままだ。
「自分だけで作ってみたんだ。親父《おやじ》に最初、煮方が足りないと言われ、次に水の足しようが悪いと言われ……何としても上手くできなかった。最後には鍋底を焦《こ》がしてしまって。焦げの臭いが回ると、餡は使い物にならなくなる……」
それで今日は三春屋の主人の口調が厳しかったのかと、合点《がてん》がいった。
「おいらあ、一太郎がうらやましいよ」
「この死に損ないが? それは初耳だね」
「ずっと思っていたんだ。でも生きるか死ぬかで寝込むことの多いお前に、面と向かって言えなかっただけさ。病人に言うことじゃぁないもの」
だってさ、と言う栄吉の声が少し震えている。もう見るのも嫌なのか、店先の菓子の皿から顔を背けていた。
「うらやましくてたまらないんだよ。長崎屋くらいの大店になれば、若だんなが体が弱くったって、困らない。店を切り回すのは、番頭やそれを支える手代の仕事だ。現におじさんは、仕事をしないからってお前を叱《しか》ることはないんだろう?」
幼馴染みの言葉に、一太郎は大笑いの発作を起こしそうになった。店ではたびたび小言が降ってくる。ただしそれは、張り切って仕事をしようとすると、言われるのだ。父が、母が、妖達が一太郎の指先から仕事を大急ぎで取り上げてゆく。ときどき己が、何もできない幼子のような気分になってたまらないと、そう目の前の幼馴染みに言えたらと思う。実際、やっていることときたら、子どものころから大して増えているとは思えなかった。
だがそんな気持ちを訴えたとて、いつものように、皆が口を揃えて言うように、贅沢《ぜいたく》な考えだと言われるのがおちだった。まったくそのとおりだと、一太郎自身、そう思っているのだから。
笑い出したいのか、泣き言を言いたいのか、喉《のど》の奥が震えて返す言葉が出ない。栄吉は返事を求めていたのではないらしく、言葉を続けた。
「もっと小さいころは、毎日が楽しかったよ。小さいながら店の跡取りに生まれて、奉公に行かなくてもいいし、体だって丈夫だ。菓子を作らせてみて下手でも、親だってまだまだ気にしていなかったし。そのうち上手くなるはずだと。普通、そうだろう?」
だが職人の技は思うように上達しなかった。親の顔の中に、日に日に浮かんで増えていく失望を、栄吉は毎日眺めてきたのだろうと思う。
いつも明るく陽気なのも、遊び仲間を作って最近家をあけることが多いのも、菓子から逃げているせいかもしれない。逃げ続ける訳にはいかないことが、栄吉を今、追い詰めているのだ。
「餡一つ満足に作れないんじゃ、菓子屋はやっていけないよ。そんなことは分かってるけど、他にできることがある訳じゃなし。そうしたらおれはどうすればいいんだろう」
「大丈夫さね。おじさんだってまだ若いんだし、ゆっくり修業をしていけばいいのさ」
あまり慰めにはならないと承知で、一太郎は言葉をかけた。栄吉は下手だが、菓子作りは嫌いではないらしい。ならばこう言うしかないが、修業を続けても、栄吉のたどる道は、行き着く先の見えない迷路であるに違いない。友のことを思う一太郎は、出そうになるため息を押し殺した。
(確かに物事、なかなか思うとおりにはいかないね……)
若だんなは先に貰《もら》った書き付けに、そっともう一度手をやるのだった。
[#改ページ]
[#小見出し]  四 人殺し
[#挿絵(img/syabake095.jpg、横218×縦268、下寄せ)]
若だんなが人殺しに追いかけられた暗い夜から、七日ほどが過ぎようとしていた。
手代たちの機嫌も、日に日に良くなってきていた。時が経《た》つにつれ、下手人が若だんなのことを狙《ねら》ってくるかもしれないという心配が、薄れてきたからに違いない。
大工の首が落とされた今度の殺しはなんとも派手で、目立つ話なのだろう。とんでもなく大仰に首が飛んでいる絵がついた瓦版《かわらばん》が出て、佐助が一枚手に入れてきた。目新しいことなぞ何も出ていなかったが、殺しを見た者がいないとも書かれていた。
「湯屋で、床山《とこやま》で、これは格好の話題ですよ」
仁吉《にきち》は、噂《うわさ》は人から人へと伝わって、下手人にも届くはずだという。
あの夜、下手人と擦れ違った者には、番屋に訴えて出る気はないと、分かってくれればいい。そうなればわざわざ、若だんなの口を封じようとすることもないに違いなかった。新しい事件など起こすより、放っておく方がどう考えても身の安泰だからだ。
一太郎の頭の中には、引っかかりが残っていた。なぜ殺された者の首が落とされたかが分かっていないとか、下手人が知りたいとか、色々ある。だが、妖達《あやかし》にとって大切なのは、若だんなの安全であって、他人の生き死には興味の外だった。
関わった以上、もっとこの件を突き詰めた方がよいのではないかとも思う。妖達に協力をしてもらえば、並みの者よりは動きもとれる。分かることも多いだろう。
(でも……ね)
今の若だんなには、他に何とかしたいことがあった。人殺しの件に時間を割く余裕はないのだ。
(人というのは、本当に身勝手なんだな)
おのれのこととなってみれば、よく分かった。胸の中にちくりと痛むものを抱えながら、そこから目をそらしている。
そうして毎日は、いつもの、もの慣れた日々に戻ってきていた。
「あの薬に買い手がついたのだがね。一太郎、手燭《てしょく》を持って付いて来ておくれかい?」
離れに顔を見せた甘い甘い父親は、息子を喜ばせにかかっていた。三番蔵までは、離れからほんの目と鼻の先、隣の三春屋《みはるや》に顔を出すよりも更に近いのだが、とりあえず薬を売るとなれば、仕事だ。ここ何日もの間、咳《せき》が出ていると言われて、店に出してもらえなかった若だんなは、明るい顔を見せた。
客は札差《ふださし》の升田屋《ますだや》だった。明かりを持った仁吉の傍で、蔵の向かいにある板間の端に腰掛けている。やってきた長崎屋の後ろに一太郎がくっついているのを見かけると、
「若だんな、これはお珍しい」
立ち上がってそう、声をかけてきた。
蔵に金が稔《うな》っていると評判の升田屋は、下駄《げた》に目鼻をつけて、その口元にほくろを加えたような顔をしている。体もいかつく、武家相手に強面《こわもて》で商売を切り回すそのやり口からも、大枚をはたいて不老長寿の夢を買うようには見えないのだが、人とは分からない。
木乃伊《ミイラ》を買う客は、たいていの者が薬が本物か、自分の目で確かめたがった。それで薬に形のあるうちは、客を地下室に導くことになる。仁吉の先導で暗い部屋に下りた四人は、二つの明かりが灯《とも》るだけの闇《やみ》の中で、干からびた木像のような薬と対面した。
「おう、これだ、これだ!」
間違いなしの木乃伊と確認して喜ぶ升田屋の姿に、若だんなはそっぽを向く。
(偽物《にせもの》じゃないと見定めたのはいいとして、真実効くかどうか、何で知ろうとしないんだか……)
一太郎には飲ませようともしない薬を、仁吉は神妙な顔をして小さな天秤《てんびん》ばかりで計っている。破片一つで一両もするものを、札差はいっぺんに十も求めていった。普段升田屋に借金を断られている御家人が見たら、刀を思い切りよく振り回して、札差を縦半分にしてみたくなるかもしれない。そう思って若だんなは口をゆがめた。そこに、
(さて、十両でどれだけ長生きする算段なのやら……)
背後からひそやかな声。
若だんなはびくりと振り返った。行李《こうり》の陰に、小さな顔を出しているものがいる。
(鳴家《やなり》!)
客がいるのに何で顔を出したのかと、若だんなは慌《あわ》てた。土蔵の地下室は狭く、声に出せば響く。親たちに聞こえてしまう。それなのに鳴家たちは言いたいことがあるらしく、話しかけてくる。手振りで黙らせようとするが、静かにしてはくれなかった。
(急いでお知らせしたきことがありまして)
「何か言ったかね、一太郎?」
やはり聞こえてしまったらしく、父親が振り返る。鳴家は不思議と人目につかないことが多い妖なのだが、軋《きし》むような響きのその声は、一太郎以外の者でも聞くことができるのだ。
「いえ、何も……」
ごまかすと、慌てて口をつぐまない一匹を袂《たもと》にほうり込んで、その口に蓋《ふた》をする。それでもなお、他の鳴家が言い募ろうとするのを、急いで若だんなの側《そば》に来た仁吉が、口元をひねりあげて黙らせる。
(ふえ、ひえ、はやや……)
鳴家が抗議と悲鳴を混ぜ合わせた声を上げる。これは升田屋の耳にも届いてしまった。
「今の若だんなの声ですか? どうしたんです?」
まさかここにいる妖が、場所をわきまえない声を出しましてすみません、とは言えない。
「暗いので、行李につまずいてしまって……」
若だんなは苦しい言い訳をすることになる。地下室の闇の中だからごまかせたが、これ以上、鳴家の暴走に付き合うのはたまらない。仁吉が急いで木乃伊の長持《ながもち》を片づけ、四人は日の下に出た。鳴家は土蔵の外、日の下にまでは付いてこられない。ほっとひと安心だ。
「めったに見られないものを、拝ましてもらいました」
代わってしゃべり始めたのは十両の客で、暇があるのかすぐには帰ろうとしない。先日、岡っ引きの親分が饅頭《まんじゅう》を食べていたのと同じ部屋で、これも茶菓子の接待をうけて腰を落ち着けてしまった。長崎屋|藤兵衛《とうべえ》も、相手が江戸でも聞こえた大店《おおだな》の主人では、お帰りですかとは言えない様子だ。一太郎も親の後ろに座って、話を聞くこととなった。
(はて、薬は買ったのに、何用で居続けるのか……)
部屋の隅にいる仁吉の方を見ると、うんざりした目をしてそっぽを向いている。その様子で、若だんなにも升田屋の用向きが思い当たった。
(うわぁ、これは危ないかも)
若だんなは離れから出てきたことを、少しばかり後悔しはじめた。父親たちは一見、なごやかそうに話をかわしている。
「ほんとうに珍しいものを買わせてもらって。これで長生きできそうですわ」
「升田屋さんなら、百までも元気でおられますよ」
「丈夫な質《たち》でも、鶴《つる》を食べたみたいにはいきませんよ。でもねぇ、長生きしなくっちやあならないんですよ。家にはまだ小さな娘がおりますからね」
こう話が出たら、どうでも次は、「おや、お嬢さんおいくつになられましたか」と、聞かなくてはならないところだ。だが一人息子が十七をすぎて、急に年ごろの娘の話題に囲まれるようになった藤兵衛は、苦笑して話を進めなかった。
だが、そんなことで初志貫徹できなかったら、武士相手の商売である札差なぞやっていられない。そういう心意気なのか、升田屋は一人で話をついでゆく。
「うちのおしまは今年で十五なんですよ。親が言うのもなんですが、きれいな子でしてね。そろそろ嫁入り先を考える年でしょう? いろいろ気にかかりますよ」
「娘さんは若いうちに嫁入りが決まりますからな。うちのは男ですから、まだまだですよ」
「跡取りでおられるのだから、そろそろじゃぁないんですか」
「体も弱いですし。先の話ですな」
「これは悠長なことを言われる……」
本人を無視してかわされる話に、若だんなはそっとため息をつく。
(どうしてこう、不思議なくらいどこのお店でも、年ごろの娘や妹や姪《めい》がいるのかしら)
それが揃《そろ》って器量良しでおしとやかということになっている。その上どの娘も持参金があったり、お稽古《けいこ》ごとが達者だったりと、逃したら後悔するような飛び切りの小町というふれこみだ。
(二年も前までは、そんな評判の小町がいるなどという話、とんと聞かなかったものなのに)
相手に長崎屋の跡取りという箔《はく》がつくと、娘をほめる言葉も格別、大盤振舞いになるらしい。
(私が嫁とりをする年になるまで、生きていればのことなのにさ……)
そのとき小さな音とともに、奥の襖《ふすま》が少し開いた。小僧がぎこちなく半分顔を出してきて、仁吉に目くばせをする。手代は頭を一つ下げて部屋から出たが、すぐに戻って、岡っ引きが店表《みせおもて》に来ていることを主人に告げる。
「若だんなに用がおありとかで……」
「そりゃ、待たせちゃぁ悪い。一太郎、行きなさい」
やっと不毛な話題から抜け出せた若だんなは、部屋から出てほっとした顔だ。手代の方はもっと、とがった気分らしく、閉めた襖を睨《にら》みつけている。
「まったく升田屋さんはしつっこい。だいたいあそこのお嬢さんがきれいだなんて、そんな話聞いたこともない。親|馬鹿《ばか》もいい加減にしてほしいところで」
「これ、聞こえるよ」
「親に少しでも似ていれば、下駄の親類みたいな顔、間違いなしですよ。若だんなの嫁御がそんな顔なんて、とんでもない!」
「まだ私に嫁は早いよ。そんなに言わなくてよろしい」
「もちろん、長崎屋の嫁になるひとは、江戸一の小町でなければね。ええ、我らは皆、そう思っていますよ」
「仁吉、お前私の話を聞いてるかい?」
いつものことながら、妙に話がずれる。
若だんながくたびれたような顔で薬種《やくしゅ》問屋に顔を出すと、岡っ引きは帳場の後ろにある部屋に上がり込んでいた。奥座敷には先客がいるからと、番頭が気をきかせたらしい。
あの人殺しは、もう一太郎に手出しはしてこないと踏んだらしく、仁吉は親分の話に興味を失ったらしい。一緒に部屋に入って来もしなかった。だが、帳場にいれば襖一枚隔てるだけ。話は丸聞こえだ。日限《ひぎり》の親分は茶菓子が存分に出ていれば、話をする場所を選ぶことはないようだ。今日は三春屋のものらしい、花の形の練りきりを口にしている。
「若だんな、お客だったんじゃぁないのかい? 悪いことをしたかな。おれは例の大工殺しの話の続きをね、ちょいとしに来ただけなんだが……」
「来て下さって、こんなに嬉《うれ》しいことはないですよ」
一太郎は、これは嘘《うそ》いつわりない笑顔を清七《せいしち》に向けた。升田屋から救い出してくれたのだから、親分には今日もたっぷりと甘いものを食べていってもらいたい気分だ。
そう言われれば日限の親分の機嫌もいい。さっそく若だんなが聞きたがるあの話をきりだした。
「例の大工殺しの話なんだが、実は棟梁《とうりょう》の大工道具が盗まれていてな」
「おや、そうなんですか」
これはとうに妖達から聞いていたことだ。だから若だんなは驚かなかったが、岡っ引きが話し出すと、袂がびくびくと動いた。
(あれま、さっき鳴家を一匹、ほうり込んだままだったかね)
うっかりしていた。悪いことをしたとは思ったが、まさか清七親分の前で妖を放す訳にはいかない。掌《てのひら》でなだめるように撫《な》でると、着物の袖《そで》は動かなくなった。
「鑿《のみ》や鉋《かんな》なんか、素人《しろうと》が持っていたって扱いきれるものじゃなし、下手人が盗んでどこぞに売り飛ばしたかと思ってな、古道具屋を調べたんだ」
(おや、日限の親分、私らと同じことを考えなすったか)
若だんなは目の前でせっせと練りきりを食べている岡っ引きを、ちょいとばかり見直した。妖達に襤褸糞《ぼろくそ》に言われていた岡っ引きだが、どうして筋だった考え方をしている。
実際に調べるとなれば、店から動くこともままならない若だんなよりも、お調べの玄人《くろうと》、下っぴきもいる清七のほうが、はるかに上手《うま》くやれるに違いなかった。
「うちの正吾《しょうご》たちをあちこちの店にやったんだ。下手人の人相が分かるかと思ってな。まあ、そのことは古道具屋から聞けたんだが、妙な具合でな」
「妙な?」
若だんなは手にしていた湯飲みを置いて、首をかしげた。大工道具がどういう話になるというのだろう。若だんなの興味をそそられた様子に、親分の語り口にも熱が入る。身をぐっと乗り出し、手振りも交えて言うその内容は、一太郎の思いもしないものだった。
「思ったとおり、道具は売られていた。だけどな、ばらばらに売り飛ばされていたんだ」
「は? あっちの店で金槌《かなづち》、こっちの店で鋸《のこぎり》を一本て具合にですか?」
「そうさね。おかしな話だろう? 棟梁の道具は箱ごと盗まれたんだぜ。売るにしたってそのままいっぺんに売り払ったほうが楽だし、第一、その方が高く買ってもらえただろう。どういうつもりでそんなことをしたのか……」
「箱に棟梁の名でも書いてあって、そのままじゃ危なくて売れなかったとか……」
「それにしたって、ああもご丁寧にあっちこっちに売り払うことはない。離れた店にばらまかれたおかげで、まだ半分も見つかっていないんだ」
まとめて売られたものならともかく、金槌一本では、それが死んだ棟梁のものかどうか、確かめるのも大変だ。
「そりゃあ、親分、大事でしたね。すごい、一つ一つ調べたんですか」
「まあな。だがこれがおれたち岡っ引きの務めだからな」
真面目《まじめ》に返事をしているが、若だんなに賞賛されて、ちょいと照れたような、得意そうな表情を浮かべている。ところがこれを聞いておもしろくなかった者がいた。若だんなの袖がまたそろ跳ね始めたのだ。
(これっ)
小声で叱《しか》っても、今回はやめようとしない。何やら小さな声で言っているようなので、袂を探るふりをして腕を上げ、耳を近づけてみる。
(くやしや、くやしや! 我らが一番乗りで掴《つか》んだ話なのに。若だんなが早くに聞いて下さらぬから、岡っ引きなぞに先を越されて……。くやしや)
どうやら妖《あやかし》達は、大工道具をたどって、新しい情報を掴んだのだ。いの一番に一太郎に報告をしようと、さっき蔵の中に現れたにちがいない。若だんなと仁吉に無理やり黙らされた上に、今度は日限の親分に話を先んじられて、怒りに身もだえているのだ。
(ごめんよ)
あとでゆっくり聞くからと、やさしく言ってやりたいところだが、何しろ身を乗り出せば、触れるほど近くに岡っ引きがいるのだ。どうにもならない。
その上、練りきりを飲み込んだ親分が、調子よく話の続きをしゃべり始めて、若だんなはいっそう跳ね始めた袂を押さえるのに、ひと苦労することになった。
(これ、お前、やめないか!)
「古道具屋たちから、道具を売りに来た奴《やつ》の人相も聞けたんですがね。これがなんとも上手くない話で。どいつもこれといって特徴のない顔だとぬかすんです。背も高からず、低からず。やせても太ってもいないと。年の頃は、三十路《みそじ》は過ぎていたというんですが」
若だんなは岡っ引きに聞きたい事柄が出てきて、しようことなく袂を思い切り抱え込んだ。質問に、岡っ引きは喜んで返事を返すだろう。二人の間の話が盛り上がれば、余計に腹を立てた鳴家が跳ね回ること、請け合いだからだ。
この所作に岡っ引きが首をかしげる。
「若だんな、腕をどうかしなすったか?」
「いや、その、少しばかり痒《かゆ》くて……」
妖がらみのことを言いつくろうのはいつも苦しい。若だんなは早々に話題を切り替えた。
「身なりはどうだったんです? 親分が使っておいでの正吾さんたちなら、当然そのことも聞いたにちがいない。そうでしょう?」
「それも抜かりなく聞き出してるさ」
時を得た質問だったのだろう、清七親分の鼻が、心なしか天井を向いた気がする。
「だが、そいつの答えも似たようなものでね。そこらへんにある、縞《しま》の着物だったと言うんで。地味な色合いのね」
「なるほど……ね」
この親分の返答に、若だんなは何やら考える風だったが、何も言い返しはしなかった。
「まあ、まだ見つかっていない大工道具を買った店の主人たちが、何か覚えているかもしれないんでね、根気よく探すさね」
「それじゃぁ、当分大変ですね、親分さん」
今日の話は大体のところ、終わったのだろう。日限の親分がひと息ついて茶を飲み終わると、すばらしく壺《つぼ》にはまった頃合いに、仁吉が部屋に姿を現す。店に寄ってくれたことへの礼を言う間に、手代は例によって包みを親分の袖にすべりこませる。重さを確かめるように袂《たもと》をひと振りすると、それを機に岡っ引きは腰を上げた。
「また寄って下さいまし」
店を出て行く岡っ引きにかけられた手代の言葉には、(若だんなの暇をつぶすために)という文句が隠されているように思える。いつもの一太郎だったら、ここでふてくされた顔をして、仁吉に文句の一つも言うところだが、今はそれどころではなかった。
袖の中でまたぞろ妖がもがきはじめていた。今の鳴家は放すと止める間もなく何かを言い始めそうだ。声が店表に丸聞こえの六畳間で、袖から出してやる訳にはいかない。
「ちょいと離れに行ってるから」
若だんなはそう番頭に声をかけると、袖を抱え込んで自分の寝間《ねま》に急いだ。
「だからそう怒らないでおくれよ。しゃべり出した親分を止める訳にはいかないじゃないか」
袖《そで》から取り出した小鬼は、案の定赤い顔でむくれていた。若だんなが謝りを入れても、珍しくそっぽを向いている。そのうえ土蔵で振り切った三匹や、他の鳴家《やなり》までぞろぞろと現れてきた。周りを取り囲んだ小鬼が四方から若だんなに文句を言って、離れの十畳間はなんとも険悪な雰囲気になっていく。
「ねえ、こうしてお前たちの話も聞いているじゃぁないか。ほら、話しておくれよ」
この一言がいけなかったらしい。ますますいきりたった様子の鳴家が、一太郎の膝《ひざ》に飛び乗った。
「もう言うことなんか残っちゃいませんよ。親分が全部話してしまったんだもの。また前とおんなじさ。せっかく調べたのに、残らず親分の手柄で……」
「私らが先に話そうとしたのに、若だんなは聞かないんだから」
「調べるように言ったのは、若だんなじゃぁないですか!」
鳴家たちに口々に責められて、一太郎には返す言葉もない。「だから悪かったってば」そう言ってなだめようとすると、
「若だんなは人だものねぇ。我らのことを分かって下さらない」
笑いを含んだ口ぶりの横やりがはいる。部屋の隅を見ると、派手な衣装の屏風《びょうぶ》のぞきが、立て膝で屏風の中からこちらを見ていた。
「屏風のぞき。お前もまだ、怒っていたのか……」
こちらは日ごろからおとなしい手合いではないから、ますます扱いにくい。若だんなは鳴家を膝に乗せたまま、屏風のぞきのほうに向き直った。
「お前にもすまなかったと思っているよ。お願いだから堪忍《かんにん》しておくれよ」
「若だんなは謝らなくちゃぁいけないことばかりしている、という訳ですね」
屏風からずるりと出てきた妖《あやかし》は、その白い手を若だんなの肩にかけて、ここぞとばかりからんでくる。
「我々はいつも役に立っているでしょう? もう少し優しくしてくれても、いいんじゃないですか」
「そう思っているよ。本当だよ」
「おや、そうなんですか? 初耳だな。本心ですかね」
「その疑い方はないだろう? 屏風のぞきや」
「本当にそう思っているのなら、そうですね、まずこれからは若だんな並みの待遇でもして下さい。我らの好きなときに、甘いものでも出してもらいましょうかね」
そう言って、茜《あかね》ぼかしの扇子《せんす》で、一太郎の頬を軽く二度、三度とはたく。若だんなは、大きくため息をついた。
(なんともへそを曲げていたんだな……)
だが、その場はため息だけではすまなかった。
「お前、若だんなに何をしているんだい」
低い声に思わず振り向くと、いつの間に来たのか襖《ふすま》が開いて、仁吉《にきち》が顔を出している。一太郎が急いで部屋に引っ込んだので、様子を見にきたのだろう。その体からかもしだされる雰囲気に、鳴家たちがいっせいにざわめく。膝の上の一匹が転がり降りた。隣にいる屏風のぞきが身を固くする。
「仁吉、なんでもないんだからね! 分かっているか……」
言いかけたときには遅く、若だんなの横から屏風のぞきが吹っ飛んだ。部屋の端、文机《ふづくえ》の横まで転がると、そのまま殴られた頬を押さえてうずくまった。中庭に向いた障子からのやわらかい光をうけて、妖の美しい衣装がいっそう華やいでいる。仁吉を見返す妖の目つきは、先日見た闇《やみ》の中の刃《やいば》を思い起こさせた。
一太郎には、妖たちの力関係は今一つ分かっていない。だが、少なくとも長崎屋にいる妖の中で、仁吉や佐助にかなうものはいない様子だった。妖は人にはないものがある分、それぞれの力の差が大きい。仁吉は見た目には屏風のぞきといい勝負の優男だが、そこいらへんの妖怪《ようかい》なぞ相手にならないほどの大物なのだ。少なくとも若だんなが知る、店の周りの妖怪たちの間では、そうだった。
「なにもそんなに強く張り飛ばすことないじゃぁないか」
一太郎は手代に文句を言うと、這《は》いつくばったままでいる付喪神《つくもがみ》の様子を見に行こうと立ち上がる。だが、仁吉がその体を腕一本で抱えて止めた。目つきは物騒な光を含んで、まだ数回は殴らないと気がおさまらないと告げている。
「このろくでなしが。主人の顔を扇子で殴るとは、気でも狂ったかえ?」
「仁吉、私は殴られたという訳じゃぁないよ。あれしきのこと……」
止めに入る若だんなの言葉は、仁吉の耳を右から左に抜けて、壁の向こうに消えてしまうようだった。腕の力を抜いてくれない。一太郎は動けない。この妖は、とんでもなく甘いくせに、時々都合悪く若だんなの言葉を聞かなくなるのだ。
「誰が主人だ。えっ? 俺は付喪神。主《あるじ》は俺自身だ!」
「言ったな!」
「仁吉、やめろ!」
抱えられていた腕に逆にすがって、手代の体を止める。そうやって怒る手代を足止めしたはずだった。なのにその背中越しに、屏風のぞきの「ぐええっ」という声が聞こえてくる。何かがぶつかる音、障子の破れる音が続いた。
「なんだ?」
振り返るといつの間に姿を見せたのか、佐助が拳《こぶし》を振るっているところだった。こっちはものも言わずに一発、二発と屏風のぞきを殴り倒している。
「佐助、いつ来たんだい? 珍しいじゃないか。私が寝ついてもいないときに、日中《ひなか》から来るなんて」
若だんながなんとか手を止めようと話しかけると、大男の手代は凄味《すごみ》のある表情で口の端を上げた。
「旦那《だんな》様が若だんなを見てくるように、おっしゃったんですよ。さっき急いで離れに行きなすったでしょう? 心配なさったようで」
そういえば父親は薬種《やくしゅ》問屋の奥座敷にいたから、障子を開けるか外廊下から客を送るかしていれば、離れに向かって中庭を通る一太郎の姿を見ることになる。
まずいときに佐助を寄越したものだと、舌打ちしたい気分だ。怒ったときの二人をいっぺんに止めるなど、一太郎の手に余ることなのだから。
「とにかく二人とも座っておくれよ。私は鳴家に聞きたいことがあるんだよ。だから今は静かにして……」
「駄目ですよ、未《ま》だ」
言いながら佐助が腕を高々とあげる。首元を掴まれ、片手で持ち上げられた格好の屏風のぞきが、苦しそうに顔をゆがめ細かく息をつく。
「まだこいつが反省していないですからね」
「なんで反省しなくちゃぁならないんだ!」
言った口が閉じないうちに、鋭い平手が飛んでまた返る。その勢いの鋭さに慌《あわ》てて駆け寄ろうと、一太郎が手代の体を離したとき、今度は自由になった仁吉が動いた。
若だんなが佐助たちの所に行ったとき、背後から、小さくぴりっという音が聞こえた。
それまで突っ張り続けていた屏風のぞきの顔が、大きくゆがんで引きつる。震え始めた妖の視線をたどって振り向くと、視線の先に仁吉がいた。衣桁《いこう》の前に置いてある屏風の端に爪《つめ》を立てて、今まさに引き裂こうとしている。
「こんな役に立たないもの、早々に破いて捨てるが一番ですよ」
そう言うと、指の先が紙にもぐった。「ひっ……」という、つぶれた声が屏風のぞきの口から漏れていた。
「用立つどころか、この付喪神ときたら、若だんなに何をするか分かったものではない。かまわないよ、仁吉、破いてしまいな。風呂《ふろ》の焚《た》きつけだ」
一太郎は唇を強く噛《か》んだ。止められない。二人は言うことをきかない。もどかしいような、腹立たしいような、こういう感覚は時々味わわされることがあり、それはいつも疑問との道連れだった。
「仁吉や、お前の主人は誰なの?」
こう聞くと手代は破きかけていた手をいったん止めた。
「もちろん若だんなですよ。決まっているじゃぁありませんか」
「二人に大事にされているのは分かってる。感謝もしているよ。でも私が主人という気がしない」
一太郎は胸にためて言えなかったことを吐き出してみた。これほど大切にされていて、さらに文句を言うようで、手代たちに悪い気がしていたのだ。ところがなんと言おうと手を止めなかった二人が、今静かに若だんなの言葉だけに耳を傾けている。
「ねえ、他の誰の言うことを聞いているの? おとっつあんじゃぁないよね。死んだじい様? でも亡《な》くなってもう十年以上も経《た》つのに妙で……」
大体、いったい誰の命を受けて、一太郎を守り始めたのだろう。
(じい様? でもただの人の言うことを、なんで妖がきくんだ?)
なぜ、妖が一太郎だけを特別に大事にしているのか。
小さいころに聞かされた話は、御伽草子《おとぎぞうし》と同じで今は信じられなかった。若だんながお稲荷《いなり》様に願って生まれた子どもだからというものだ。願をかける夫婦はたんといる。だがそうして生まれた子どもを、妖が守っているという話はとんと聞かなかった。
「若だんな、あたしたちが言うことを聞かないから、すねているんですか?」
仁吉がうっすらと笑いを浮べて聞いてきた。その気圧《けお》されるような気迫に驚いてよく見ると、手代たちの黒目が、猫のそれのように縦に細長くなっている。
(怖いこと。妖の本性が表に出ているじゃぁないか)
いつもなら決して、こんなことはしない二人なのにと思う。
(よほどこの話、私に問いただされたくなかったのか……)
若だんなは上目使いで手代たちを見返しながら言う。
「仁吉、佐助、目が変だよ」
はっきりそう告げると、二人の顔が、紙つぶてをくらったようになった。互いに向き合って……頷《うなず》きあう。途端、妖達の顔に笑いが走って、怒りの糸が切れた。目が人のそれに戻る。屏風のぞきを掴《つか》んでいた手が退き、仁吉が指を屏風から引き抜いた。
「なんと言われようと、あたしたちの主人は、若だんなですよ」
佐助は軽く息をつくと、屏風のぞきを振り返り、睨《にら》みつけるように言う。
「若だんなが助けるようおっしゃるから、今回限りは見逃そう。さっさと屏風に帰りな」
息が荒い屏風のぞきはすぐには動けないでいる。それを見た佐助は付喪神の襟首《えりくび》を掴んで、強引に屏風の前まで引きずっていった。なんとか元に戻った妖は、いつもと違って壁の方に顔をそむけている。その絵に向かって、仁吉が念押しの一言を言い捨てる。
「お前、次はないからね」
今度気にくわないことをしたら、一太郎がどう言おうが、始末すると言っているのだ。
(同じ口で、私が主人だと平気で言うんだからね)
手代たちはそれで押し通すつもりらしい。疑問は残ったままだが、とにかく屏風のぞきのことが収まったのだから、今はそれで良しとしなくてはならない。一太郎は部屋の中ほど、火鉢の横に座ると、二人の手代に聞こえるように大きく息をついた。
「そうだ、私は鳴家《やなり》たちに聞きたいことがあったんだよ」
仁吉が若だんなの横に来て、何事も無かったかのように、茶を淹れはじめている。
「鳴家や、出ておいで」
妖を呼ぶ。今の騒ぎにおののいた小鬼たちは、なかなか姿を見せない。
「出てこい! 若だんながお呼びだろうが」
側《そば》に座った佐助が、鋭い声を出す。途端、部屋の隅、西から東からころころと、小鬼が転がり出てきた。
「いや、幾人《いくたり》か、いればいいんだが……」
若だんなは苦笑すると、先ほど膝《ひざ》の上に上がり込んでいた一匹を見つけて、抱き上げた。鳴家は恐ろしい顔をしているが、気は小さい。その背を軽くたたいて落ち着かせると、調べていた大工殺しの下手人について、また質問を始める。
「お前たちも大工道具を古道具屋に売った者の話を、仕入れて来たんだろう?」
こくりと頷く鳴家に、質問が重なる。
「ところでそいつの格好の話なんだがね、もっと詳しく聞いてないかい? 地味などこにでもある姿というだけじゃぁなくて」
「へっ?」
「たとえばさ、道具屋の主人がそいつのことを、普通の格好だと思ったのだから、まず下手人は町人の持っているような着物を着ていたはずだ。武士じゃぁない。そうだろう?」
「あ……」
その言葉に鳴家たちが考え込む。仁吉が隣で「へえ、口実じゃぁなくて、ほんとうに小鬼たちに用があったんですね」と言うのを聞いて、一太郎はしかめつらを作った。
「町人の着るものにしたって、なりわいによってずいぶんと違うよね? そりゃあ着物なんか古着屋であつらえればすむ話で、当てにはならない。だけど、長屋住まいなら行李《こうり》に入っているのは、二、三枚くらいかね。着物は高いものなんだ。道具を売るために、わざわざ買ったり変えたりしたとも思えない」
この話に驚いたのは若だんなを囲んでいる手代たちだ。
「なんでそんなこと知っているんですか」
筋金入りのぼっちゃまである若だんな、箱いり娘より層倍、世間知らずでも無理もない一太郎なのだ。もちろん長屋になぞ、住んだことはない。行ったことすらないはずだ。
仁吉の疑問に、
「三春屋《みはるや》の栄吉《えいきち》さんから聞いたんだよ」
そう答えると、手代はなるほどという顔をした。隣の菓子屋は裏店《うらだな》住まいではない。若だんなの話よりもう少しは裕福だろうが、周りにその日暮らしは多いし、栄吉は顔が広かった。
「八百屋と油売りでは同じ町人でも格好が違う。油売りは油が跳ねないように前掛けをかけていることが多いからね。ういろう売りなら腰のものがあるし、大工や左官の職人たちは、着ているものは半纏《はんてん》などの短いものだろう?」
言われてみればそのとおりで、小鬼たちは、古道具屋の主人たちがなんと言っていたか、必死に思い出そうとしているのだろう、首を盛んにかしげている。だが、鳴家が思い出せないのか、はなから店主たちが着物のことなど気にかけてなく、言わなかったのか、何一つ確かなことは浮んでこなかった。
「先ほど若だんなにごねていた割りには、いざとなると役立たずだこと」
小鬼たちを見下ろす仁吉の言葉がきつい。鳴家が若だんなに話を聞いてくれぬと文句を言ったからに違いない。小さな妖《あやかし》はすっかり縮こまってしまった。
(やれやれ……)
かわいそうになって掌《てのひら》で小鬼の頭を撫《な》でてやる。鳴家は目を細めて、見るからに気持ちよさそうだ。その様子を見て、我も我もと、周りにいたのも競って膝にのぼってくる。若だんなが小鬼まみれになったのを見て、佐助が一声でそれを払った。
「うぬら、若だんなが知りたいと言うことが、分からないのだろう? だったらさつさと調べてこい!」
鳴家の影はあっと言う間に部屋から散る。後には一太郎と二人の手代だけが残った。
(鳴家に怒鳴ることないのにさ)
とにかくこれで先ほどからのひと騒ぎは収まったことになる。一太郎はほっとして茶をすすった。
「やれやれ、くたびれたこと。何をした訳でもないのに、気ぜわしくて……」
言ってから(しまった)そう気がついても、もう遅い。若だんなの独り言を耳ざとく聞きつけた仁吉が、すぐに立ち上がって布団《ふとん》を敷き始める。
「やめろよ、寝るとは言ってないだろう」
そんな声はいつものように手代たちには届かず、佐助も夜着をとりだし乱れ箱を引き寄せている。
おのれの顔がしかめつらになっているのが分かる。やっと表に出ていけたと思ったら、半日で半病人に逆戻りだ。寝つきたくない。それでも両の側から手代に挟まれて、寝間着を着せられてしまう。一太郎は仕方なく夜具をかぶった。
「こんなに日の高いうちじゃぁ、眠れないよ」
「横になっているだけでいいんですよ」
「枕元《まくらもと》に白湯《さゆ》でも持ってきますか? 本を読むのは疲れますから、おすすめできませんが」
手代たちの言葉に
「いらないよ」と声を返す。
恐ろしいことに、一太郎は体を横たえると、すぐに眠くなってきたのだ。
(まだ八つ時前じゃないか。情けない……)
自分の体はおよそ役に立たない代物《しろもの》だ。こういうときに、いつも思い知らされる。こんな自分が気にくわない。嫌なのだ。心の奥底の方では、火の出るくらいの恥ずかしさがある。なのに、頭が布団からあがらない。
二人の妖が静かに側を離れ、襖《ふすま》を閉めたことすら、一太郎は覚えていなかった。
二日間、鳴家《やなり》や他の妖《あやかし》から、これといった知らせはなかった。
忙しいのか、日限《ひぎり》の親分すら店に来ない。八つ半といった刻限で、日中《ひなか》の店は穴が開いたように暇だった。今日は無事に起き出した若だんなが、帳場の奥の六畳間、長火鉢の横で大福|餅《もち》を食べながら、深いため息をついていた。
「どうなさいました? 具合でも悪いんですか?」
すぐに襖が開いて、仁吉《にきち》が顔を出す。
「なんでもないよ、大丈夫。ただ……」
「ただ?」
「大福餅を食べたから……」
「喉に詰まったんですか?」
「ううん、まずかっただけ」
「栄吉《えいきち》さんが作ったんですか、それ」
「そうなんだ。何で分かったの?」
笑うまいと手代が唇を噛みしめている。一太郎は目を仁吉から大福餅に移し、もう一度ため息をついた。
まずいと言っただけで、栄吉の名が出てくるなんて縁起でもない話だが、それもこの味では仕方がない。本人は腕のないことを気にして真面目《まじめ》に作っているのに、どうしてこう、煮損なった上に焦《こ》がしてしまった煮豆のような風味になるのだろう。
若だんなの前にある菓子鉢に、仁吉が手を伸ばした。ひとつ口にした顔が、しかめつらを作る。おもむろに懐《ふところ》から出した懐紙に餅をすべて移すと、抱えて部屋から出て行く。
「大福餅をどうするの?」
おそるおそる聞いてみると、「誰ぞにあげますから」という返事。「若だんなには別の菓子を持ってきますからね」と言う。
「それにしても、やろうと思ったってなかなか、こうまずくは作れないですよねぇ」
少し開けた襖の間から、店の前に出ていった仁吉が、通りかかった物もらいの坊主《ぼうず》と話しているのが見える。いくばくか渡したのだろう、笑い顔の、背の高い坊主に大福餅を指さすと、喜んで手を出している。餅菓子は無事に食べてくれる者を見つけられたようだ。若だんなはちょっとほっとして、湯飲みに手を伸ばした。
(あの味じゃぁ、私も全部はとても食べられなかったものなあ)
それでも若だんなは、幼|馴染《なじ》みの作った菓子をよく買う。できるだけ食べる。それは友と自分への励ましでもあった。
お互い悩みはつきないからだ。そのことが若だんなと隣の幼馴染みを、一つの船に乗った者どうしのような結び付きにしていた。たとえその船が、泥舟かもしれなくても……二人とも降りることもできないのだ。
「お客さん、そう言われましても……」
表からの声にはっとして顔を上げた。店先から聞こえてくる小僧の言葉が、かん高い。襖を少しだけ開けて目をやると、小僧頭が貧しげな身なりの男の相手をしている。仁吉が表の道から急いで戻ってきて、客の相手を引き継いだ。
「どうしたんだい? 大きな声を出して」
手代の問いに答えたのは、問われた小僧ではなくて、客だった。
「ここに薬があるだろう? 特別な薬だよ。命をあがなう奴だ。それをおくれ……」
若だんなは思わず客を見つめた。仁吉もそのなりをみて、戸惑っているようだ。
不老長寿の薬、木乃伊《ミイラ》は高直《こうじき》な秘薬だ。
買いに来た男の身なりは、いかにもその日暮らしの感じで、着物には盛大につぎがあたっている。その裾《すそ》をはしょった、頑丈そうな姿からすると、振り売りでもしているのかもしれない。日に焼けた顔は浅黒く、団子っ鼻が顔の真ん中にでんと場所をとっていた。
顔つきからすると、ちょっと間の抜けた人のよさそうな働き盛りの男のはずなのだが、どうにもその雰囲気に肌をぴりぴりとさせるものがあった。
薬種《やくしゅ》問屋長崎屋は、品物の割りには安く売る店であるし、小売りもしないではない。馴染《なじ》みのあるような生薬《しようやく》は小袋に入れて、表から見えるように壁際《かべぎわ》の棚に並べてあった。
だが、それにしてもこういう、日々の稼ぎと米代が競っているような客は珍しい。とりたてて高いものでなくとも、薬を買えば稼ぎがかなりなところ持っていかれるからだ。種類によっては、この男の一日の稼ぎがそっくりとんでしまうかもしれない。ましてや木乃伊を買う金が、店先にいる振り売りらしき男にあるとは思えなかった。
「お客様、こちらへ……」
仁吉がその男を、土間の端の方に連れていった。木乃伊は確かに薬だが、大きな声でここにあると言えるものではない。
「その、手前どもの店では確かに色々な薬を揃《そろ》えておりますが、その……。珍かな薬はそれなりの値がいたしますんで」
「おうさ、分かっている」
言うと、男は懐《ふところ》から銭を入れた巾着《きんちやく》を取り出してきた。いかにもずしりと重たげな藍地《あいじ》の布袋だが、開けて見せた中身は、銭ばかりのようだ。これでは全部数えてもいくらになるか分からないと、仁吉は眉《まゆ》をひそめる。
「足りないのか? いくら足りない? 売ってくれ、お願いだから!」
銭の袋を握り締めて男は声を震わせる。そのあまりの真剣さに、(病の家族でもいるのだろうか)いつも若だんなの看病をしている手代の心が、少しばかり動いた。
「仕方ありませんね。とにかくいくらあるのか、銭を数えてみましょうか」
そう言ったときだ。奥の六畳間から二人に声がかかった。
「仁吉、お客様をこちらにお連れして」
襖が大きく開いていて、中から渋い顔つきの若だんなが、店表を向いているのが見えた。
いつにない若だんなの表情に、手代は番頭と顔を見合わせていた。
「間違いない、臭《にお》いがする……。薬をくれ。早くしておくれ」
六畳間に通された団子っ鼻の男は、一太郎の前に巾着《きんちゃく》を置いて、もう話は決まったとばかりに先をせかした。その袋を開けようともせずに、若だんなは長火鉢の横に座って、男の顔を見ながら話しはじめる。
「お客さん、失礼ですが、家にご病人でもいなさるか?」
若だんなの問いに、人の顔を見ようともせずにきょろきょろと、部屋を見回していた三十男の視線が定まる。
「病人? いないよ。いるはずがない! 皆元気さ。なぜそんなことを聞く?」
突然、男の顔が気色ばんでいた。とんでもないことを聞く奴《やつ》だと言わんばかりの面持ちで、若だんなを睨《にら》みつけている。
「なぜって……うちは薬種《やくしゅ》問屋ですんでね。ご家族に病人を抱えた方が、見えることが多いんですよ」
言われればその通りの話で、男の肩から力が抜けてゆくのが分かる。座り直した客に、若だんなはあっさりと告げた。
「身内に病人がいないならば、悪いことは言わない、薬は買わずにおきなさいな」
一太郎の一言に、客の視線がまたきつくなる。しかし今度は口はあけなかった。
「お金は商売の元手にするなり、滋養のある物を食べるなりした方がよほど役に立ちますよ」
木乃伊《ミイラ》は希少な秘薬だ。万能薬のようなふれ込みになっていて、世間もそう信じている。だがもし値段の半分でも効能があるのなら、父親と手代たちが、金のことなどおかまいなしで一太郎に浴びせるほど飲ませたはずだ。それなのに口にしたことがない。
つまり、はっきりと言えば、高いだけで効かないのだ。
買い手が升田屋《ますだや》のように、小判を抱えすぎて歩くのも難儀な者なら、薬種問屋で身を軽くするのも悪い話ではない。だが目の前の者は、日々、少しずつ細かく必死に金をためたに違いないのだ。それでも雨が続けば僅《わず》かばかりの蓄えなぞ、あっと言う間に消えてしまう暮らしぶりなのだと思う。役に立たないもので、高い金を取る気にはなれなかった。
「つまりなにかい、あっしが裕福でないから、そんな贅沢《ぜいたく》なものは売れないと言うんですかい?」
険のある声が返ってきた。
一太郎を睨《にら》みつける男の顔に凄味《すごみ》がある。
(よほど木乃伊に執着しているんだな……)
いったい、誰になんと言われて、そんなものが欲しくなったんだろうか。男の藍染《あいぞめ》の袋は銭で丸々と太っている。
(これを元手に上手《うま》くやれば、いくらか先には小さな店が持てるかもしれない。そうは思わないんだろうか?)
雨の日も、からっ風の寒い日もある。振り売りをしないで済むようになるほうが、怪しげな薬よりどれほどましなことか。
(なのに、どうしてかね? この男……)
これ以上なんと言ったらいいものか、一太郎には分からない。火ばしで灰を掻《か》き混ぜながら困った顔をしていると、横から仁吉《にきち》が口を挟んできた。
「若だんな、お気持ちは分かりますが、ここまで欲しがっておいでなんだから、お譲りしましょう」
「仁吉?」
「薬が手に入らないと、この人はひどく後悔を残しそうだ。それに……」
(たかが木乃伊ひとかけのことで、若だんなが恨まれちゃぁ、かないませんからね)
金を捨てたいのなら、勝手にしろということか。客が若だんなにすごんだのが気に入らないのだろう、手代の態度は冷たいものになってきていた。
「分かったよ……。では売らせていただきます」
一太郎は客のためというより、手代の気持ちを落ち着かせるために、こう告げた。
ここのところ仁吉たちの機嫌を悪くする出来事が続いている。若だんなはこれからのためにも、手代の堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒の強さを試すようなことはしたくなかった。
「こちらへ……」
どう見ても足りはしない金子《きんす》の袋には手も触れずに、若だんなは客を促すと蔵へ向かう。仁吉が手燭《てしょく》を掲げて、後から付いてきた。男はその傍で何やらぶつぶつと、抑えきれないように独り言を漏らしている。
「間違いない……この香りだ……間違いない!」
(香り……?)
あの干からびたものに、蔵の外からでも分かる臭いなぞあっただろうか。若だんなは少しばかり首をかしげた。扉の前で、鉄の錠を外すときに気をつけてみたが、特別な臭いなど感じられない。第一、店の中はさまざまな薬種であふれている。生薬の臭いも、よほど近くに引き寄せたときでないと、どの香りかも分かりづらいものなのだ。
(はて……)
どうにも不可思議な客だった。
人には違いない。それは一目見れば分かる。だがこの男が今、自分の後ろから降りてきているだけで、どうにも肌が総毛立つ気がしてくる。いつもより暗く思える地下に行くのが、なんとも気が乗らない。階段が二、三段長く感じられるのは、気のせいだろうか。
(早いところ薬を渡して、帰ってもらおう)
それがいい。地下室に着くと、若だんなは手燭を傍の棚に置いて、すばやく木乃伊の木箱を開けはじめた。仁吉が中から人型の薬を抱えあげる。包んである薄い和紙を剥《は》がそうとしているところへ、後ろの闇《やみ》から客の手が、手代の肩ごしに割り込んできた。
「お客さん、何をなさる!」
「薬だな。これで助かる。これで……あっしは……」
高直《こうじき》なものに触れるという感じは微塵《こうじき》もない。ものすごい勢いで木乃伊に掴《つか》みかかる。
「やめないか!」
さすがに仁吉が怒った声を出しても、ものともしない。男は木乃伊の足を握ると離さず、仁吉と引き合いになった。引っ張られた薬がみしりと裂ける音を出して、慌《あわ》てて仁吉が手を離す。見た目より軽いそれははずみで宙を舞い、男が飛びついて抱え込む。手代の眉《まゆ》がつり上がった。
「お客さん、それは高いんですよっ……」
今にも飛びかかろうとする構えで、仁吉が怒鳴った。だが男は返事もしない。ただ両の手で秘薬を握り締めたまま……目を見開いていた。
「違う! これじゃない!」
薄暗い地下室の中に、声が響いて、そして消える。
一瞬、一太郎たちには客が何を言っているのか分からなかった。「は?」であり、「何を言い出したんだ?」でもあった。
「お客さん、これが木乃伊じゃなくって、なんだって言うんです?」
「騙《だま》したな。これじゃない。違う!」
それでも客だと思って、時の間我慢して対応したのがまずかった。手代よりわずかに早く動いた客は、手にしていた高貴薬で思いきり、妖《あやかし》の頭を殴りつけたのだ。
「仁吉っ」
手代の方は値段を知っているぶん、むげに払いのけられなかったのだろう。木乃伊をまともにくらって声もなく、長持《ながもち》の横の床に這《は》いつくばる。見た目より立ち合い向きの妖が、一発で立てなくなったことに若だんなは目を見張った。
「いきなり何をする! 仁吉、大丈夫か……」
若だんなのおろおろとした声が、暗く狭い地下に響く。己ではなく、この妖のほうが気を失って倒れているなど、初めてのことだった。手代を抱き起こそうとして側《そば》に駆け寄ったその目と鼻の先に、客は突っ立ったままだ。木乃伊の端が男の手の中で折れてぶらさがっている。
仁吉が襲われたというのに、目の前の男を怖いと思う気持ちは、不思議とわかない。
(だってさ、なんでこんなことになったのか、どうにも呑《の》み込めなくて)
客が薬が欲しいと言い、こちらは売ると言ったのだ。なぜ殴りかかってくるのだろう。
(騙したとはなんだ? これじゃぁないって、いったい何を買うつもりだったんだ?)
貧しげな姿に似合わないものを買いに来た客、背中から手燭の小さな明かりを受けて、薄暗いなかで黒く影に見える。
その姿……。
若だんなの目が見開かれた。仁吉を抱え込んだ指先に、かすかに震えが走る。
しびれるような恐怖がやってきていた。
地下室の中は暗かった。わずかに手燭二本の細い明かりのみだ。その中に浮かび上がっている、目の前の客のおぼろな姿。若だんなはその、闇の中の人影に覚えがあったのだ。
どこにでもあるような、平凡な町人の着物を着ている者。三十路《みそじ》くらいだ。これといって目立つところのない、人に紛れやすい顔。
(こういう人のこと、少し前に聞いたことがある……)
そう、つい最近、日限《ひぎり》の親分が得意げに話していたではないか。
そして間違いなく見たこともあった。
暗い暗い底無しの夜の中、聖堂の前の道で、わずかな提灯《ちょうちん》の明かりの先に見たのは、同じような人影ではなかったか? 高くも低くもない背丈で、しつこい奴だった。手に刃物を持っていた。提灯の明かりを受けて、よく切れそうに光っていたものを……。
(まずいよ。ここは地下だし、私じゃぁとてもこいつから仁吉を守れやしない)
気を失ったままの手代を抱え込む手に力がこもる。妖をかばうどころか、相手が今日も刃物を持っていたら、おのれの身一つ逃がすことだって、できそうもない。
(私を殺しに来たのだろうか……)
なぜ今ごろになって、やって来たのか見当もつかない。だがどういう訳にせよ、危ないことには変わりがない。若だんなは手代の体を引きずって、何とか後ろに逃れようとする。
(鳴家《やなり》、いないのかい? 大きな声は出せないんだよ、鳴家)
男の姿を見据えたまま、必死に小声で小鬼の名を口にした。声が漏れない土蔵の中でも呼べるのは、家に巣くう妖くらいのものだからだ。
「騙された……これじゃぁ役に立たない。ちくしょう……」
同じようなことを繰り返す客の声が震えて、奇妙にかん高いものになってきている。男の怒りが爆発しそうなのが、手にとるように分かった。
(鳴家、早く来ておくれ)
その小さな声が聞こえたのか、木乃伊に向いていた客の顔がぐるりと回って、目が一太郎の上に落ちる。「ちくしょう……」こちらを見据えながら、手がゆっくりと懐《ふところ》に入ってゆく。
(まずいね。持っているよ、今日も)
顔をしかめたとき、鳴家が一匹、若だんなのすぐ後ろの暗がりから顔を出した。のんきに挨拶《あいさつ》しようとした小|妖怪《ようかい》の目に、出刃包丁の物騒な光が入ったから、たまらない。
「ひいっ!」
その短い声を合図にしたように、男が動いた。刃物が一太郎の顔をかすめる。
(外れた……)
横に転がって床から顔を上げると、小鬼たちが、必死に男の顔に、足に取りついている。(それで狙《ねら》いがそれたのか)ありがたかったが、足先にいた一匹は早々に蹴飛《けと》ばされた。助《すけ》っ人《と》はあっと言う間もなく、やっつけられてしまいそうだ。
「鳴家っ、佐助だ。佐助を呼んできてくれ! 早く」
一人では倒れている仁吉を動かせない。小鬼の力では、この先助けにならない。とにかく逃げ回っている間に、加勢を呼ぶしかなかった。
「早くっ」
幾人《いくたり》かの小さな姿が影の中に消えた。これでのぞみは出てきたが、残ったのは二、三匹の鳴家と倒れたままの手代、そして若だんなだ。男が顔から鳴家を振り払ったらしく、再びこちらに向いて構えを取る。
(どうする?)
焦《あせ》るばかりで、何一つ良い考えが浮かばない。若だんなの力であの刃物を跳ね返すしかないが、こちらに適当な武器はなかった。この近さで見ると、男が持っているのは出刃包丁であるらしかった。光をはじいて、そこにあることをことさらのように示している。
(光……? そうだ、あの光!)
鳴家に棚に置かれた二つの手燭を示す。(消せ!)小声で言うと、小鬼たちはすぐさま地下室に常闇《とこやみ》を作った。互いの姿が黒一面の中に消える。
(これでひと息つけるに違いない)
先日とは違ってここは狭い。手探りでもそのうち見つかってしまうかもしれないが、いくらかは時間が稼げる。
いきなり襲う相手が見えなくなったので、腹が立ったらしい。「ちくしょう、ちくしょう」と言う男の声が聞こえてきた。こちらにも相手の居場所は分からない。すぐ耳元から聞こえるようで、何とも心の臓が縮み上がる思いの時が過ぎてゆく。
(佐助、早く来ておくれ)
一太郎は祈るような気持ちで、横たわった手代の着物の端を握り締めた。
そのとき、とん、とん、と、何やら規則的な物音が聞こえてきた。
(はて、なんだろうか……)
とん、とん、と音は続く。そのうち何やら上の方から聞こえてくる気がしはじめた。
(上? あ……)
何が起こっているのか思いついて、一太郎は総毛立った。
(階段を見つけて、登っているんだ)
地下室に入ってくるとき、入口の戸にはもちろん鍵《かぎ》はかけてこなかった。簡単に開く。半畳ほどの入口から光がさせば、地下室にもう隠れる闇はない。
(仁吉、まずいよ。気がついておくれ。仁吉!)
必死に揺さぶってみる。だが手代のまぶたはまだ開かない。
(……顔が分かるっていうことは)
男が階段の上の出入口を開けたのだ。
振り仰ぐと階段がはっきりと見え、その一番先が明るい。男が段のてっぺんから、こちらを見下ろしていた。顔は影になって見えなかったが、手の中の刃物がひらひらと揺れている。はやく血を吸わせたいのだろう。
「来る……」
抵抗する術《すべ》すら思いつかないのに、男は来てしまう。どうしようもない。
若だんなは側にあった木箱の蓋《ふた》を掴んだ。こんなものがどれほど役に立つかは分からなかったが、何か手に持っていないと不安だったのだ。
男の体が階段を滑るように降りてくる。(早い!)そう思ったときは、もう目の前に来ていた。考えるより先に、木の蓋を前に出していたが、それは男が振り下ろした刃物の一撃で、あっけなく砕かれてしまった。
重ねて突き出された出刃を避けた拍子《ひょうし》に、足がもつれて床にひっくり返った。仁吉がすぐ側に横たわっているのが見える。立ち上がって逃げる間もなさそうだった。男の足が手代よりも近くにあったからだ。
(死ぬのかな)
恐れより、奇妙な思いに包まれていた。
これまで何度も何度も病で死にかけてきた。なのに、布団《ふとん》の上で死ぬのではなく殺されることになろうとは、思いもしなかった。目の端に降りてくる光の筋が見える。
刃物は振り下ろされて……かなり見当違いな所に突き刺さった。
「えっ」
訳が分からず体を起こして見ると、男がつんのめって倒れ込んでいた。足首を掴まれて転んだのだ。仁吉の手だった。気がついたのだ。
「若だんな、早く……」
わずかに仁吉が顔を上げ、目で一間ばかり先の階段を示す。足を掴んでいる間に、早く逃げろと言っているのだ。
それは分かった。それしかないと思った。
だが一太郎が逃げたら、目の前の男は仁吉を切り刻むに違いない。手代はまだろくに動けないようなのだから。男は腹を立てて無益な殺生《せっしょう》をするだろう。
では一太郎が残れば仁吉が助かるかと言えば、そういう望みは薄かった。なのになぜか逃げることができない。仁吉は一太郎の育ての親と言ってもいい妖なのだ。
おのれは馬鹿《ばか》だと思う。身に染《し》みて思う。
「若だんな!」
「離せっ」
男が怒声とともに出刃包丁を振るった。
一太郎の目の前に、赤く細いしぶきが上がる。男が足を握る手代の手に、切りかかったのだ。それでも離さない妖に向かって、もう一度刃物を振り上げる。そこに一太郎が足元に転がっていた塊を、必死の態《てい》で、思い切り投げつけた。
ぶつかる音はたいして大きくはなかったが、男の体は部屋の隅に転がった。仁吉の血塗《ちまみ》れの左手が、ゆっくりと体の上に落ちてゆく。そのそばに木乃伊《ミイラ》の一部があるのが分かった。男にぶつけたのは、先に男が仁吉を殴りつけた秘薬のなれの果てだったらしい。
(気を失うか……せめてしばらくは動けないように、なっていてくれないかな)
たった一回木乃伊を投げつけただけで、若だんなの息はあがっている。ところが願いに反して、男はすぐに立ち上がってきた。おまけに手にはしっかりと離さなかったらしい出刃包丁さえ握っている。
(なんでこんなに頑丈なんだ!)
文句を言っても止まってくれはしないだろう。男は今度こそ外さない気に違いない。黙って真《ま》っ直《す》ぐに一太郎に向かってきた。
二歩、三歩と足が下がる。不意に一太郎の草履《ぞうり》が何か固いものを踏みつけて、まだ切りつけられてもいないのに、体がひっくり返った。
「げふっ……」
背中から落ちて、時の間息が詰まった。それでも寝転がったままではまずい。何とか身を起こそうともがき、肘《ひじ》を立てると、掌《てのひら》で袖《そで》の中の何かをつぶしたらしく、がさりと紙の音がした。
(なんと、こんなときに……)
菓子の袋が一つ、入れたまま残っていたのだ。水夫《かこ》や妖《あやかし》達にやった残りの一袋。
さっきから何度も袂《たもと》をぶつけているから、中身はくだかれて粉々だろう。
「もう食べられやしないねぇ、これは」
荒い息を吐きながら、上目使いに若だんなはつぶやいていた。目と鼻の先に、こちらを見下ろす男の顔と、今度こそは外す気はないらしい、出刃包丁がある。一太郎の周りには、もう木の蓋も木乃伊もない。男がゆっくりと刃物を振りかざした。
「だからお前が食らえ!」
若だんなの手から粉が飛ぶ。顔面に散った黒っぽい粉末は目にも入ったらしく、男は「ひやぁっ」と、声にならない叫びを上げて飛び下がった。両の手で顔面を押さえた男の足元に、包丁が転がる。一太郎は必死に手を伸ばすと柄を掴《つか》んで、隅に放り投げた。
(黒砂糖……。そんなに目にしみるのかね)
顔を上げられない男の様子を見て、一太郎は唇をゆがめる。袂に残っていた最後の菓子、黒砂糖のくだけた粉を、男の目めがけて投げつけたのだ。
(痛いか。そうだね。細かな埃《ほこり》でもたまらないもの)
とにかく今度こそ、仁吉を何とか連れ出して、逃げなくてはならない。だがもう、自分自身の体ですら、思うように持ち上がらなかった。息も苦しい。先ほど転んだときに打ったところがよくなかったのかもしれない。
そのとき、階段の上に、影がよぎった。
「若だんな、大丈夫ですか?」
心配げな声は、佐助のものだ。
一太郎は最初に「仁吉を助けておくれ」そう言おうとしたのだが、苦しげな咳《せき》が出ただけだった。手代が急いで階段を下ってくる。他の足音も続いている。駆け降りたところで顔を押さえた男を見つけて、佐助が立ち止まる。
「……そいつが仁吉を刺した」
しぼりだした若だんなの言葉を聞くなり、佐助の後ろにいたものが、さっと飛び降りてきて、男をはがいじめにする。暴れる様子を見せると、倒れている仁吉に目をやった日限《ひぎり》の親分は、十手《じって》で男を殴り伏せてしまった。
(強くて乱暴だ。親分さんらしいや)
久しぶりに店に来ていたものだろうか。親分が手代と来てくれて、自分たちは今度こそ助かったのだと分かる。ほっと息がつけた。
「あ……」
気が抜けるとともに、目の前が暗くなってきた。闇《やみ》になるのを承知で、誰かが階段の上の出入口を塞《ふさ》いだ訳ではないだろう。
(まだ、駄目だよ、今倒れちゃぁ……)
何が起こったか、佐助に説明する必要がある。放り投げた包丁のことも、親分に教えなくては。こいつが大工殺しだと、言わなくては。なにより仁吉の怪我《けが》の様子を見なくては。
闇は手燭《てしょく》を吹き消したときのように、あっと言う間もなく来た。
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[#小見出し]  五 薬種問屋
[#挿絵(img/syabake147.jpg、横189×縦153、下寄せ)]
仁吉《にきち》の頭に巻いた晒《さらし》の布は取れたというのに、寝ついた若だんなの具合は、一向に良くならなかった。
殺されかけた日から、三日も目を覚まさなかった上に高い熱まで出て、数日は親の顔色が藍《あい》で染めたようになっていたらしい。どうにか気がついたものの、その後も掛かりつけの医者|源信《げんしん》が、離れに通い続けている。
下手人に切られたのは仁吉の方なのだ。その手代に看病されているのだから、何とも情けない。だが強がってみても、転んで打った背中が痛み、息をするのも苦しい毎日だ。かゆすらあまり喉を通らない。薬湯《やくとう》だけが、食事代わりかという気がするほど多かった。
そんな病状が、もう二十日あまりも続いている。
それでも頭の方がはっきりしてくると、一太郎は事の次第や、下手人のその後のことを知りたがった。
「聞いているのに疲れたら、すぐに言うんですよ。あまりしゃべるんじゃありませんよ」
念を押してから口を開いたのは、この二十日あまり、ほとんど一太郎から離れないでいる佐助だ。仁吉もまた一時寝ついたので、今度の看病は佐助が仕切っている。ここのところ一太郎は一人で過ごすということがなかった。
(寝てばかりいる自分より、佐助の方が疲れていると思うけど)
そう思ったが、言っても返事もしてもらえないと思う。一太郎は布団《ふとん》の上で素直に頷《うなず》くだけにしておいた。
顔を横に向けたとき、達磨《だるま》柄の火鉢《ひばち》の上の薬缶《やかん》から、かすかに白い湯気が出ているのが見えた。障子に午後の日ざしが当たって、なんとも明るい。部屋にはゆったりとした居心地良さが広がっている。この長崎屋で襲われたことが、信じられないような静かな午後だ。
佐助は一太郎の枕元《まくらもと》に白湯《さゆ》を用意してから、話す声が聞きやすいように、布団の傍に座り直した。
「若だんなを殺そうとした男ですがね、長五郎《ちょうごろう》という名です。ぼてふりだそうですよ。野菜を商っていたとか」
(やっぱり町人だったか)
布団の中で頷く。ここまでは分かっていたことだ。問題はその先、なぜ、どうしての疑問の先だ。
「長五郎は殺した大工の徳兵衛《とくべえ》とは顔見知りでした。棟梁《とうりよう》の家の隣にある長屋に住んでいたんです」
だが相長屋《あいながや》という訳ではないので、毎日顔を合わせた様子はない。角突き合わせる揉《も》め事など、なかったはずだと周りの者は言っていたという。
そんな中で唯一《ゆいいつ》引っかかる話があるとすれば、長五郎の子どものことらしい。
「ぼてふりは十になった上の子を、大工にしたかった。奉公させてくれと徳兵衛に頼んだ。だが徳兵衛の所では人手が足りていたので、他をあたるように言って、断ったそうです」
珍しい話ではなかった。長五郎が大工を殺したいと思うほど、ひどい出来事とも思えない。子どもを大工にしたければ、他の棟梁にも聞けばいい話だ。真面目《まじめ》に勤めさえすれば、いくつも奉公の話はあるはずだからだ。
それなのに、長五郎はどうして顔見知りの大工を殺したのだろうか。
「お役人は子どもの奉公を断られたぼてふりが、それを恨んで大工を殺したと思ってます。そのあと殺しをしてしまったことに怯《おび》えた長五郎が、何とか大工を生き返らせたいと、秘薬を求めて薬種《やくしゅ》問屋の長崎屋に押しかけた。だがそんな都合のいい薬がないことに腹を立て、ふたたび刃物を振り回した、と」
一見、筋の通った考え方だった。よく考えると、大工殺しの理由からして変。長崎屋での振舞いはもっと奇妙だった。
「ねえ佐助、おかしいと思わないかい? なんでぼてふりの長五郎、人を生き返らせる薬を買いに来たんだろう。そんなもの売っている店なんかある訳ない」
「どこかにあると思ったんじゃないですか。貧乏人だから知らないが、金さえ払えば買えると」
「そんな薬があったら、とっくに瓦版《かわらばん》が大騒ぎしているよ。誰もが知っている有名な秘薬になっているさね」
「売れるでしょうね」
「あっと言う間に、蔵が五戸前《いつとまえ》くらい建つんじゃぁないかい?」
若だんなは苦笑した。
「でもどの薬種問屋でもそれは売りに出さないよ。飲んで生き返る生薬《しょうやく》はないもの。偽薬だとすぐにばれてしまう。不老長寿の木乃伊《ミイラ》だって、眉《まゆ》つばものもいいところだけどさ」
「そんなにしゃべるとまた咳が出ますよ」
佐助はどんどん話しだした若だんなに、眉をひそめた。白湯を手にとると、一太郎の口元に運んでくる。なにやら粉薬まで飲めと懐《ふところ》から出してくる。いい加減薬を飲むことにも飽きが来ていたが仕方がない、言われるままに飲み下した。
「木乃伊はもう売りに出していたから、うちの店に、めったにない秘薬があると噂《うわさ》になっていたのかもしれない。あのぼてふりは、何か薬を欲しがっていた。それが長崎屋にあると思った。きっとそうだよ」
「木乃伊以外に、うちには秘薬と言える程のものはありませんよ」
「分かっているよ。ぼてふりだって、目当ての物がないから怒ったようだったしね。だけど、欲しかったものって、何だったんだろう?」
親分さんから聞いているかと手代に問うても、首を振るばかり。そうしているとほどなく、眠けが襲ってきた。
「いやだよ、また昼間っから眠い……。まだ話が途中なのに」
「またあした話してあげますよ。疲れたんでしょう、ゆっくり寝て下さい」
「疲れるほど、しゃべっちゃぁいないじゃないか……まったく……」
まぶたが重い。
(聞きたいことがあったのに)佐助はぼてふりの奇妙なやり方をどう思っているのだろう。(ああ……)ぼんやりとしてきて、考えがまとまらなかった。
目をかすかに開ける。もう半分夢の中に入っているようだった。
佐助の黒目が、人ならぬ妖《あやかし》であることを示す、猫のような細い縦長になっている。
怒られたときの夢を見ているに違いない。寝込んだままの一太郎は、手代に叱《しか》られるようなことはしていないし、できもしないからだ。
佐助はその目のまま、じっと一太郎を見つめている。
目はだんだん大きくなって、やがて手代は天井まで届くような大きな目だけの姿になってしまった。一太郎はその背よりも高くなった細長い裂け目の中に入って行こうとする。分からないことの答えが、その中にあると知れたからだ。
尋ねても答えは得られない。なぜなら佐助にはもう口がないからで、一太郎はどうしても目の中に入らなくてはならないのだ。
中に行かなくては。立ち上がった。意外なほど体が軽い。
佐助の瞳《ひとみ》の中は、ただ真っ暗だった。すぐにどちらが上なのかも分からなくなる。立っているか浮いているか、落ちているかさえ、一太郎には分からなかった。
程近いそこに何かの答えがあるはずだった。そのままそれを追って、ゆっくりと奥へ奥へと流れていった。
「やっと少しは良くなったようだね。ほっとしたよ」
ぐっすりと一時ほど寝て目を覚ますと、三春屋《みはるや》の栄吉《えいきち》さんが見舞いに来なさっていると、佐助が言う。親しい間柄とはいえ身内でない者を寝間《ねま》に通すのは、一太郎が恢復《かいふく》してきた証拠で、それを心得ている栄吉は、明るい顔で枕元《まくらもと》に、にじりよってきた。
「これ、お見舞いです」
はにかんだような声に頭を巡らせると、今日は珍しくお春が付いてきている。栄吉の妹が見舞いに来るのは、めったにないことだった。自分自身では分からないが、今回の容体はよほどのこと悪かったようだ。たぶん何回目かで死にかけたというところだろう。
礼を言う若だんなの横で、幼|馴染《なじ》みは包みをほどいて、中のこし餡《あん》を佐助に見せた。
「具合がひどく悪いときは、一太郎は飲み下すようなものしか、口に入らないでしょう? これなら汁粉にすればいいから」
赤ん坊のころからの付き合いだと、心得たものだ。
「安心しろ、この餡はおとっつあんが作ったんだ」
そう一太郎に説明しながら見舞いを手代に渡したものだから、佐助は笑いを押し隠して急いで台所に向かった。「兄さんたら!」笑えない妹が眉をひそめている。
「それにしても、今度のことは運が悪かったよな。一太郎はおとなしく家の中にいたのに、人殺しが出張って来るなんてさ」
栄吉は妹の怖い顔なぞ、どこ吹く風と、明るく話をはじめる。若だんなは町で皆が何と言っているのか知りたくて、話を促した。
「ぼてふりのこと? 馬鹿《ばか》な奴《やつ》だと皆言ってるよ」
それが町の噂《うわさ》で一番多い意見らしい。
「子どもの奉公を断られたからって、棟梁《とうりょう》を殺してどうなるというんだい? おのれが人殺しになるだけ。残された家族は生きていくにも困るだけさね」
「なんでそんなに子どもを大工にしたかったんだろう? 分からないよ」
一太郎のつぶやきに、布団の縁《へり》に並んだ兄妹は顔を見合わせた。
「そうね、一太郎さんには、どうにも合点《がてん》がいかないことかもね」
「実入りがいいんだよ、大工ってのは」
にやにや笑いを浮べて、幼馴染みが説明にかかる。
一太郎はこの栄吉から、世間の話を教えてもらうことが多かった。大店《おおだな》の主《あるじ》夫婦である親は、普通の暮らしからは遠かった。育ての親ともいうべき妖《あやかし》達は、感覚がずれている。この友がいなかったら、一太郎はとんでもなく世間知らずになるところだった。
「大工は手間賃が一日銀五|匁《もんめ》だ。朝出をしてもらうと五割増に払う決まりだし、その上夕方まで仕事をしてもらいたきゃあ、朝出居残りで、倍払うことになる。火事にでもなって人手が足りなけりゃ、二時《ふたとき》ばかり働くだけで、一日銀十匁になるんだぜ」
「それって、多いのかい?」
「そうか、お前さんには分からないか……」
菓子屋の二人は、また目を合わせるとため息をついた。
長崎屋はこの通町《とおりちょう》の店に三戸前の蔵、他にも河岸《かし》にいくつもの蔵を持つという大店だ。その店の一人息子は、算術は得意だったが、どうにも世間の通り相場というものにうとい。一太郎にとって、米や味噌《みそ》は台所にあるもの、金とは千石船《せんごくぶね》での商売単位、何百両という金額で動かすものだった。
(まあ、しょうがないか。こいつときたら膨らんだ紙入れを持っているのに、うちの店で饅頭《まんじゅう》買うくらいしか金を使ったことないんだから)
さてどう説明したら分かるかと、栄吉はちょいと首をかしげてから口を開く。
「お前さんは飯を食べるとき、一度に一杯がせいぜいだっけ。でも、普通の者はまあ、三杯から五杯、一日に十杯というところが相場なんだ」
「なんだい、いちいち私を引き合いに出すことはないよ」
「そりゃあそうだ。悪い」
ぺろりと舌を出すと、栄吉は説明を続けた。
「今米は……お春、いくらくらいかね?」
「一升で四十文というところかしら」
「一升は十合だ。大人一人が一日に五合米を食べる。食い盛りの子どもを三人も抱えてりゃあ、夫婦と子ども、一家で一日に二升は必要だな。米代は八十文」
「一日で二升……」
若だんなにはこの米の量の方が驚きだ。二升もあれば若だんな一人、一月の半分位の間、食べてゆける。
「下手人はぼてふりだった。まあ、担《かつ》いで商うといっても色々な商売があるから、決まってはいないがね、少ない奴だと、一日の稼ぎは米代の倍にしかならない」
「倍って……二百文にもならないってことかい?」
「野菜を売るとなれば、次の日の仕入れの元手もかかる。もっと売れる日もあろうが、雨が降れば商売あがったりだ。残るのはそんなものかもな」
「一日働いて百六十文……。大工は銀十匁になる日もあるって言ったよね。一匁は七十文だから、七百文の稼ぎか。なるほど違う」
同じ裏店《うらだな》に住んでいても、暮らしにいくらかの差はあるのだ。毎日つましくしてゆかなくてはいけない分、もしかしたらその違いは、いっそう際《きわ》だつものかもしれなかった。
「だから子どもを大工や左官にしたいって親は多い。別にぼてふりの子どもじゃなれないって訳ではないが、棟梁の手が足りていれば、奉公は無理だな。まあ、運しだいさね」
「運ねぇ……」
始まりはほんのささいなことだったんだろうと、若だんなは枕の上でため息をついた。どうせどこかに奉公にやる年になったのなら、親として子にできるだけ夢が持てる職を選んでやりたかったのだろう。大工になって真面目に働けば、そこそこ余裕のある暮らしができる。運が良ければ、いつか棟梁になって人を使うこともあるかもしれない。
親心だ。珍しくもないその思いが転がっていき、しまいには月の光も届かない夜の道で、知り合いの頭を刃物で切り落とすことになった……。
(でもなぜわざわざ戻って、頭を切り落とすほどの大事《だいじ》をしたんだ? 分からない……)
下手人が捕まって幕は引かれたというのに、どうにも腑《ふ》に落ちない事柄が多すぎる。
(なぜ……)
なぜささいなことで殺したのか。なぜ首を落としたのか。なぜ奪った大工道具をばらばらに売り払ったのか。死んで葬儀も済ませた大工に、なぜ薬を飲ませようとしたのか。
木乃伊《ミイラ》を見たとき、これじゃないと言ったのはなぜか。
柔らかな光が満ちている部屋の中で、謎《なぞ》ばかりが若だんなの心に澱《おり》のように残っているのだ。そのすっきりしない心とは対照的な、明るい声が枕元でした。
「日限《ひぎり》の親分さんに聞いたの。下手人は棟梁が死んだのが怖くなったから、生き返らせる薬を長崎屋で買うつもりだったって。本当にそんなものを買いに来たの?」
噂話をするのが好きなお春の問いかけに、「はて、なんて言ってたかね」一太郎は、はっきりとは答えなかった。店に来てからのぼてふりの様子に、未《ま》だ納得がいかないからだ。
「真実そんな薬、あるのかい?」
興味|津々《しんしん》、顔を近づけて聞く幼馴染みの言葉に、ため息が出る。
「お前まで何を言ってるんだい。そんなものを売ってたら、私が真っ先に飲んでるよ」
「一太郎はしょっちゅう死にかけて大騒ぎを繰り返している。なるほど、そんな薬はない、と」
妙な納得の仕方に、若だんなは布団《ふとん》の中で苦笑を浮べた。
「あったらいいなと思うけどね。世の中、願ってもどうにもかなわないことはあるもんだ」
「おや、今ごろそんなことを悟ったかい? 現《うつ》し世はきびしいのさ」
「なんだい、心得た風の口をきくじゃないか」
若だんなは友に、にやりと笑いかけた。栄吉は確かに世慣れているし、遊びもいくらか減ってきて、下手なりに家業にも精を出している。だが、親にはまだまだ心労をかけているのも事実。明鏡止水《めいきょうしすい》の心持ちとは、言い難いはずと踏んでいる。
「おいらあ、身に染《し》みているのさね」
それでもしゃあしゃあと言ってのける友人に、
「何を、だい?」
一太郎は笑いながら問いかける。返ってきた返事は、思いがけなく真摯《しんし》なものだった。
「どうにもならないことは、あるものなのさ。たとえばおれの場合、菓子作りの腕だな」
さらりと言った。顔が笑っていなかった。
「兄さん、それは……これから精進していけば……」
「お春、お前にだって心得ておかなきゃいけないことはある。一太郎のことを好きでも、お前さんは長崎屋の若おかみにはなれないよ」
「兄さん!」
さっと顔を伏せると、お春は慌《あわ》てて立ち上がり、袂《たもと》で顔を隠したまま部屋から走り出ていった。栄吉は妹の方を振り向きもしない。「栄吉!」眉間《みけん》にしわを寄せながら低く声をかけると、幼馴染みは妹が開けたままにした襖《ふすま》を、きちんと閉めに立った。
「仕方ないだろう。一度言っておく必要があったのさ。どう願ってもかなわないことはある。お前さんが急に丈夫になれないのと同じだ」
「だからってあの言い方は……きついじゃないか」
「一太郎、お前お春を嫁にできるかい? 妹のようにしか思ってないくせに」
振り返った栄吉の顔が苦笑している。まさに言われたとおりで、返す言葉がすぐには見つからなかった。
「だいたい長崎屋さんが表長屋から嫁を迎えることを、許す訳がない。お前の嫁は、大店から来ることになる。いざとなったら蒲柳《ほりゅう》の質のお前を、支えてくれることができる大店の出。それが嫁の条件だろう?」
「頭がいいねぇ。菓子屋の若主人にしておくのは惜しいくらいさね」
一太郎は友を上目使いに見つめた。
実際、栄吉の上に、もうひとり男の子がいたらと思うときがあった。幼馴染みは人当たりがよく、才がある。長崎屋に奉公していれば、大勢の水夫《かこ》に慕われ大金を平気で動かす、やり手の番頭になったかもしれない。
長崎屋程の店の番頭を勤めあげれば、二百両からのまとまった金が渡される。その後は店での勤めを続けるもよし、新しく自分で店を開くもよし。好きな習い事をして、隠居してもいい。相性の良くない菓子と格闘するより、よほど似合った毎日になったと思う。
だが……。
(色々と考えたところで、どうにかなった訳じゃなし)
菓子屋の一人息子は菓子屋に、廻船《かいせん》問屋に生まれればその店から、逃げる訳にはいかない。そのことが身に染みているという幼馴染みの言葉が、なんとも切なかった。
ふと気づくと、その栄吉が枕元に来ていて、若だんなの顔をのぞき込んでいる。
「なんだよ」
「これを渡そうかどうしようか、迷っていたのさ」
指にいつもの書き付けを挟んでいる。布団から手を伸ばすと紙がすっと後ろに引いた。
「一太郎はお春に惚《ほ》れられるほど、きれいな顔をしているよね。芝居をやっていたら、千両稼げたかもしれない」
「栄吉?」
「頭だって俺なんかよりも上等さね。医者の源信先生がほめていたもの。寝込んでばかりいるようで、一太郎は薬種《やくしゅ》問屋の薬のことはすっかり把握しているって。そこいらの藪《やぶ》に診せるくらいなら、一太郎に薬を調合してもらったほうが、病は良くなるってさ」
「書き付けをおくれでないか」
「でもお前のその才は役には立たないかもしれない。いつぞや言っていたよね。大店の主人の務めは、店を切り回すことじゃない。それは番頭のやること。主人は外での付き合いをこなし、雇い人を選ぶ。丈夫で長生きをし、跡取りをこさえて……」
「栄吉、何が言いたいんだい?」
自分の声がすこしばかりとんがるのが分かった。布団の上から見上げると、栄吉は笑っているのか泣いているのか分からないような、変な顔をしている。
「もうこんなことはよせって言っているんだよ。お前、自分で立つこともできないのに、どうしようっていうんだい? 何とかしたくても出来ないことはあるって……」
「分かってる!」
体を起こして、書き付けを引ったくった。(かっ)その拍子に咳《せき》が出はじめ、すぐに止められなくなる。(げふっ)栄吉が慌てて薬缶《やかん》から白湯《さゆ》をついで口元に運んできた。
「大丈夫か」
喉《のど》をしめらせ、横になったまま背中をさすってもらうと、ひゅうひゅうと息が口から抜けていく。
そのまましばし……。
一太郎の体のこわばりが解けてきた。ほっとした顔の栄吉が、湯飲みを枕元《まくらもと》の盆に置く。息があがって話どころではない。しばらくはどちらも黙っていた。
若だんなの様子が落ち着いてきたころ、ぽつりと栄吉が話し出した。
「先にな、お春に縁談があったんだ」
「えっ……」
突然の話に目を見開く。先ほどお春はそんな素振りは見せなかったからだ。
「相手は表通りの小間物屋の主人でな。お春を三味線の稽古《けいこ》のときに見かけたそうなんだ。あいつはまだ十五だが、そりゃあ良い話だからと親類の者がもってきた」
お春は断った。これは一太郎を好いているのだから、しょうがないと幼友達は言う。だが二親《ふたおや》までその場で縁談に断りを入れたのには、訳があったという。
「うちには職人を雇う余裕はない。もし俺がどうでも使い物にならなければ、お春に職人の婿《むこ》を取るしかない。だから今、嫁に出す訳にはいかなかったのさ」
「お春ちゃんに婿って……」
「そうでもしなければ店がつぶれると、親父《おやじ》が叔父貴に言われたらしい」
「大きなお世話さね」
一太郎は吐き捨てる。
(栄吉がいらないというのなら、何で最初から、いやもう少しでいいから早めに家から出してやらなかったのさ。今さらどうしようっていうの。もう十八だろう?)
商家に奉公に出て、早い者なら小僧頭や手代になっているかもという年だ。大工の棟梁《とうりょう》など職人に奉公に出ても、一人前になるのに十年、それからさらにお礼奉公が待っている。何になるにしても、小僧と呼べない年から始めるのは大いにきついに違いなかった。雇う方にしても、この年齢では二の足を踏むだろう。
「まあ、おれとしても他にやれることがあるわけじゃなし、菓子作り、がんばるつもりだよ。だがまあ、そんな訳でさ、お春にはきついことを言った」
幼|馴染《なじ》みの落ち着いた言葉に、若だんなは少しいらだっている。だが何とも声のかけようがなかった。
「嫁に行くにしろ婿を取るにしろ、お春はもうすぐ自分の縁談と向き合わなくちゃぁならないから」
「栄吉、親戚《しんせき》の意見なぞ、簡単に聞くんじゃぁないよ」
「分かってるって。それじゃぁ、長居はお前さんの体に毒だから、おれはそろそろ帰るよ」
そう言って腰を上げたところに、
「遅くなりました」廊下から声がかかって、仁吉《にきち》が土鍋《どなべ》を抱えて入ってきた。
「食べて行かないのかい」
「自分の家の餡《あん》こだもの。少しばかり飽きているんだよ」
手代に頭を下げると、そそくさと帰ってゆく。
「支度が遅くなって申し訳ありません。佐助が急に店から呼ばれましてね、私と代わったりしていたものだから」
栄吉の消えた廊下の方を見ながら、仁吉が何とも情けなさそうにつぶやく。
(放っておいてくれてよかったよ。仁吉たちの前じゃぁ、しにくい話ばかりだったもの)
火鉢に置かれた小振りな鍋を見て、若だんなは体を起こした。
「お汁粉、ついでよ、飲むから」
「おや、食欲がありそうですね。あられか餅《もち》でも入れましょうか?」
「じゃぁ、あられ」
「はいはい」
羽織を肩に着せかけてから、手代は機嫌良く小粒のあられが入っている茶筒に手を伸ばす。固いものが喉を通るようになると、一太郎の体の具合もぐっと良くなってくる。ほどなく普通の飯が食べられるようになる徴《しるし》なのだ。
甘い汁の入った木の椀《わん》をもらうと、そろそろとすすり始める。なるほど、甘みがとがっていなくて濃《こく》のあるところが、間違いなく三春屋の主人の手になるものだ。
(栄吉も早く、これくらいのものが作れるようになるといいのにね)
思いを巡らす若だんなに向かって、傍にひかえた仁吉がため息をついた。若だんなが寝込んでこの方、百回は嘆息している。どうしたのかと、手代に聞きはしなかった。
自分を助けようとしたから、若だんなが死ぬほどの目に遭った≠フを嘆いているのであり、あたしとしたことが、若だんなを守れなかったなんて≠ニいう気持ちの表れでもある。
最初のうちは仁吉がため息をつくたびに、お前のせいじゃない≠ニか、妖《あやかし》のお前を殴り倒すなんて、よほどの怪力の主だったのさ≠ニか話をしていたのだが、いい加減飽きてしまった。
(要するに私も仁吉も助かったのだから、それでいいじゃないか)
そう言って話を終わらせた。だが仁吉はそれでは心が収まらないらしい。
若だんなは気分を変えようと、仕入れたばかりの話を口の端《ま》に掛けた。
「今日、栄吉から聞いて驚いたよ。お春ちゃんにね、縁談があったんだってさ」
「おや、初耳ですね」
この話題には手代も乗ってきた。布団の上で汁粉をすすりつつ話を進めていきながら、一太郎は追い詰められている幼馴染みのことを思っていた。
(何事にも、時期というのは大切なのに違いない)
胸元にしまってある書き付けのことを考えてみる。今回、自分は死んでいたかもしれない。そうしたらことはどうなっていただろう。
(とにかく一回、会った方がいいだろう。今までのように、こっそり様子を確かめるだけじゃぁなくってさ)
かみ砕いたあられが、喉を下ってゆく。ほどなく立ち上がれるようになるだろう。いつか考えた通り、駕籠《かご》を雇って朱引きの端まで一気に行ってもらうのだ。
抜け出す機会は、そのうちやってくるはずだ。
ひゅうひゅうと耳元で音がする。それが走っているから感じる風の音なのか、いい加減あがってきている息を、おのれで聞いているのかは、今は分からなかった。
その余裕がない。
追いかけられてもう四半時《しはんとき》経《た》っていた。一時《いつとき》神社の前、人の多い四《よ》つ辻《つじ》に出た頃、店が続く場所の中、追いかけてくる影が見えなくなった。追いはぎか何かだろうと踏んでいたので、これで諦《あきら》めるだろうとたかをくくって、ひと息ついたのがいけなかった。
後を付いてきている。
ただの金目当てではないのかもしれない。さっき通りかかった店の辺りには、自分よりはるかに膨らんだ紙入れを持っていそうな老人が、幾人《いくたり》も話をしていた。なのに、その者たちには目もくれず、一心に自分を目指してきている。
(まずい……この道を選ぶんじゃぁなかったよ)
昌平橋《しょうへいばし》に出るには、一番近道になるからと水戸様の屋敷に向かう道を歩いていたのだ。
両側に武家屋敷が続いていて、行けども行けども白い塀ばかり。昼間だというのに人影がない。天気も良く、風もさほど吹かなかった。塀越しに手入れの行き届いた、木の枝の蒼《あお》い影が見え、空には途切れ途切れの雲が小さくいくつかあるばかり。いたって歩きやすい日中《ひなか》の風景は、ただ水底のように静まり返っていた。
こんな道では商いする者も無く、人影も見えず、何となく心細い。
(お侍でもいい、通りかかってくれないだろうか)
そうしたら、不安な気持ちも幾分薄れる。良い天気にさそわれて歩いてはみたものの、のんきな散歩とはとてもいかなかった。繁華な辺りに出たら、そこで今度こそ駕籠を雇うつもりだった。
はなからそうすればよかったのだと、一人でぶつぶつ言っているときに、傍の道から出てきた職人風の男と出会った。初めは人を見てほっとした。だが、その手に刃物を見たとき、口がきけないくらいのしびれが体に走った。
それからずっと逃げている。
必死に走っていて気がついた時には、もう水戸様の屋敷の横手に来たようだった。右側は、はるか先まで途切れることなく白い塀が続いている。左手はと顔を向けても、こちらもあるのは武家屋敷の塀ばかり。水戸様と違って、しばらく行くと細い道を挟んで違う塀が現れる。それくらいの差しかなかった。
「はあ……」
もう息があがって走れない。足がもつれてきていた。元々走るのは得意な方ではない。
ふと気がつくと、後ろから付いて来ていた足音がなくなっていた。どなたの屋敷とも分からない門の前で足が止まる。汗で背中が濡《ぬ》れているのが分かった。はあはあと犬のように忙《せわ》しく息をつく。
「助かった」
そのひと言を口にすると、疲れがどっと手にも足にも染《し》みだしてくる。もう一歩も動けない心地で、その場に根が生えたように下を向いて立ちつくして、しばし……。
「薬を渡しな。持っているんじゃないのかい?」
低い声に飛び上がった。左側の細い道の奥からだ。見るのが怖かった。見ないのはもっと恐ろしくて、芯《しん》から震えてくる体の向きを、必死に変えてみる。
あの職人が立っていた。
右手に光るものを握ったままだ。まだ若そうな顔は一心にこちらを見つめている。
「薬? そりゃあ私は薬種屋《やくしゅや》だが……」
懐《ふところ》を探った。(金目当ての物取りじゃないのか)いくら薬を生業《なりわい》にしているとはいえ、出先でろくなものは携えていない。印籠《いんろう》を取り出し、それをそのまま男に差し出した。
「今持っているのはこれくらいで……」
「今度こそ、今度こそ!」
男が凝ったまき絵細工を引ったくる。だが印籠を開けてもみないうちから、その顔がみるみるこわばっていく。
「これじゃない! 騙《だま》したな」
「? 何を言ってるんだ?」
いきなり騙したと言われても、訳が分からない。目当ての薬が入っていなかったのだろうか。懐から紙入れの方を取り出すと、顔つきが険しく変わった男にまるごと差し出す。金は惜しいが、命より金子《きんす》が重いと思ったことはない。日中にできた離れ小島のような、人も通らないこの道の上では、うっかりしたことをすると、大怪我《おおけが》をしそうだった。
「あげるから、望みの薬を買えばいい。これが持ち金のすべてだよ」
男が上目使いにこちらを見たまま、紙入れの方に近づく。
(とにかく、けりがつきそうだ)
そう思ったとき、男が刃物に体を預けて、思いきり懐に飛び込んできた。
「あっ……」
起こったことが信じられなかった。刺されるようなことは何もしていない。
(なのに)
すぐに立っていられなくなって、地面に崩れ落ちる。頬を砂が噛《か》んできた。痛みより不思議と頭に浮んだのは、家の者の顔だった。
(駕籠《かご》に乗るんだった。いや、小僧の一人も連れてくるんだった……)
近くで何やら大きな音がするのが分かった。人の声も聞こえる。だがもう首を上げることもできない。見えていた土塀が、ほどなく消えていった。
「若だんな、いるかい?」
日限《ひぎり》の親分が顔を出したとき、馴染《なじ》みの店はいつになくざわついていた。
「これは親分さん、いらっしゃいませ」
挨拶《あいさつ》をしてきたのも、いつもすぐに顔を出してくる手代ではなくて番頭だ。もっとも若だんなが伏せっているときは、あの男前の手代はいつも側《そば》に付いているそうだから、今日も奥の離れにいるのかもしれなかった。
「若だんなを襲ったあの下手人だがね、刑が決まったんだよ。知らせておこうと思ってね」
「それはありがとうございます」
丁寧に頭は下げるが、番頭はいつものように座敷に上げるのをためらっている。
(はて?)十手《じって》持ちが首をかしげていると、奥から現れたのは。常には廻船《かいせん》問屋のほうにいる大柄な手代だった。
一応の挨拶をせわしなく終えると、奥に来て欲しいという。こちらは饅頭《まんじゆう》の一つも出してもらって、ゆっくり話をしようと思って来たのだから、異存はなかった。
しかし案内された先は、いつもの薬種《やくしゅ》問屋の奥座敷ではなかった。土塀を挟んで渡り廊下でつながった先、廻船問屋長崎屋の方だ。
長崎屋では薬種問屋を建て増しするときに、火事の時を考えて、わざと土塀を中に挟み廊下でつながる作りにしたのだと、以前親分は若だんなから聞いたことがあった。火が近くなったら、廊下の一部を壊して火が移らないようにするのだそうだ。
(金持ちはやることが違うね)
その時はやっかみ半分そう思った。だが、こうして初めて長崎屋本体の奥を見ると、大身代なのが肌で感じられる。今まで店先に腰を下ろすことはあっても、中に通されたことはなかったのだ。
きらきらしい飾りはない。だが薄っぺらな長屋の作りを見慣れている目には、柱一つにしろ、その太さが違う、そこから感じられる重みが違う。庭の右奥に構えている二戸前の土蔵の大きさも目に付く。横手にある、信心で作ったらしい稲荷《いなり》神社も、細工が見事なのが離れた廊下からも見て取れる、大した代物《しろもの》だった。
(まあ、ここいらじゃぁ、これくらいの金持ちはいくらもいるんだろうが)
通町《とおりちょう》は江戸でも大店《おおだな》が集まる一番の表通りなのだから。
「こちらへどうぞ」
手代にうながされて入った所は、奥庭が見える十畳ばかりの座敷だった。目立つほど華やかではない。だが床の間には達筆な誰ぞの書の掛け軸がかかり、その手前には美しい薄蒼の花瓶に、清楚《せいそ》な白い花が控え目に活《い》けられている。使われている木材なども、十手持ちなぞには分からないが、高直《こうじき》なにおいがする。
そこに長崎屋の主人が待っていた。
「これはお久しぶりです」
思わず言葉が改まってしまうほど、この藤兵衛《とうべえ》には貫禄《かんろく》があった。上背もあり、がっしりとしている。細っこくて風に吹かれたらよろけてしまいそうな若だんなとは、ずいぶんと違うものだと思う。
「親分さん、先日は息子を助けていただいて、ありがとうございました。ご挨拶がおそくなりまして」
「いえ、とんでもない。あの時は過分にお礼などいただきまして」
いきなり主人に頭を下げられて、清七《せいしち》は慌《あわ》てた。先日の若だんなを助けた働きに対しては、思わず顔がゆるむほどの付け届けをもらっている。改めて大店の主人本人から頭を下げられるとは、思ってもいなかったのだ。
「ところで若だんなのお加減はいかがですか? もうだいぶ良くなってきたと聞いているんですが」
挨拶のつもりで言った言葉に、長崎屋が顔をゆがめた。
「どうかしなすったか」
さては病が重くなったかと尋ねると、なんと昼頃から息子の姿が見えないのだという。
「ずっと寝込んでいて、二日ほど前からやっと飯が喉《のど》を通るようになったばかりなのです。それなのに部屋にいない。もう店の者総出で、探しているのですが」
三春屋《みはるや》にもいない、近所で見かけた者もないと、藤兵衛は声を震わせている。おかみのたえなど、心配のあまり眩暈《めまい》がして立てなくなり部屋にいるという。
(そういえばここの二親《ふたおや》は、一粒種に甘いことで有名だったかね)
清七は苦笑を飲み込んだ。こうしてわざわざ自分を奥に通して話をしたのは、探して欲しいからだと納得がいく。
(まあ、先にたっぷりと礼金をもらったんだ。ここで力を貸さなけりゃあ、不人情ってものだぜ)
自分が若だんなを見つけましょうと告げると、大店の主人は手を取らんばかりに喜んだ。それほど案じているのだろうが、清七にはさほどの出来事とも思えなかった。若だんなはもう十七なのだ。一時、二時姿が見えないからといって騒ぐ年ではない。
(寝てばかりで、いい加減じれてきたんだろうさ)
桜の季節はとうに過ぎているが、陽気はいい。若い者が毎日毎日伏せってばかりでは、気持ちの中にたまるものもあるに違いない。それでなくともこの家の者は若だんなを大事にしすぎて、赤ん坊よりも目を離さずに世話を焼く。あれではいい年をした若い者は、窮屈でしょうがないだろう。
大体、ここの若だんなは、その母親似の外見より、よほどのこと大胆な性格をしていると親分は見ている。話してみると受け答えはしっかりしているし、考え方にもそつがない。中身は父親に似たのだろう。
「さてと。いつもの手代さん、いますかね?」
今は三春屋に行っていると聞いて、それは好都合と十手持ちは菓子屋に向かった。
行方知れずが隣の息子なら、清七はかなりな範囲で聞き込みをしなくてはならないところだ。だが若だんななら話は違う。体が弱く知り合いも少ない十七歳が外出《そとで》をしているのだ。聞きに行く先は限られていた。
「ちょいとごめんよ」
声をかけて菓子屋に顔を出すと、仁吉《にきち》が店先で栄吉《えいきち》と話をしているところだった。
「おや、栄吉さん、いなさったか」
では二人で出かけたのではないということだ。意外だという心が親分の顔に出たのだろう、目の前で栄吉が口元をゆがめている。清七が聞くよりも早く、菓子屋の跡取りは答えを寄越した。
「一太郎の行方なら知りませんよ。会ったのは三日前が最後です。どこへ行ったか知らないけれど今日もここには寄らなかった。今、仁吉さんに同じことを言ったところです」
察しがいいなと言って、日限の親分は笑い声を立てた。
「先に話したとき、若だんなは何か言っていなかったかね。どこかへ行きたいとか、場所の名前とか」
「聞いていたら、仁吉さんに話していますよ。そうでしょう?」
「そうか……」
そうと聞いても帰る訳でなく、いや一層腰を落ち着ける構えで、清七は仁吉の横に腰を下ろした。栄吉が襟元に手をやりながら、居心地悪そうにみじろぎをする。
「こういっちゃぁ何ですが、親分さんに店先で構えられちゃ、お客が入って来づらいですよ」
「じゃぁ、教えてくれまいか。体が弱くて病み上がりの幼馴染みが行方知れずだっていうのに、お前さん、なんで落ち着いて店にいるんだい?」
「今日は店番が他にいないものですから」
「おや、お春ちゃんもおかみさんも留守かい? そんなことはないだろう。今朝方見かけたがね」
栄吉の視線が二人から離れて大福|餅《もち》の上をさまよい、床に落ちていく。その様子に、日限の親分がたたみかけてきた。
「何か知っているね。嘘《うそ》はついていないが、本当のことも話していない訳だ。そうだろう?」
「栄吉さん、どういうことなんですか」
仁吉がその言葉に食らいついてくる。この手代が二親と競うほど若だんなに甘い、育ての親だということは幼馴染みも心得ている。目の前の二人に追い詰められて、菓子屋の跡取りは顔をゆがめた。
そのとき、店の表から十手持ちを呼ぶ声がかかった。
「ああ、いたいた。親分、探しました」
現れたのは下っぴきの正吾《しょうご》だった。まだ清七の下で働くようになってから日が浅いので、気働きは今一つできていないが、体力は人一倍の若者だ。丈夫な足にまかせてどこにでも飛んで行くから、日限の親分はけっこう重宝して使っていた。
「どうした。今長崎屋さんからの頼まれごとをしているんだ。細かいことは後にしろよ」
「水戸様に行く途中の道で、薬種屋が殺されたとかで」
「なに!」
店にいた三人が、いっせいに腰を浮かした。
「いつのことだ」
清七の問いに、一時《いつとき》ほど前のことだと返事が返った。亡《な》くなったのがどこの誰かは聞いていない。
下手人はすでに捕まっていた。屋敷の前での騒ぎを聞き、様子を見に行った門番に、返り血で身を染めた下手人が切りかかったのだという。あげくに屋敷の侍に取り押さえられたのだ。
「親分の縄張りのことじゃぁないんですがね、下手人が訳の分からないことを言っているらしいんです。白壁《しらかべ》の親分が、親分に来て欲しいと使いを寄越されて……」
三人に食い入るような目で見られて、正吾はどうにも及び腰だった。長崎屋の手代など、具合が悪いのか顔色が真っ白になっている。
「何か、長崎屋さんを襲った人殺しと、言ってることが似てるようだからと」
「水戸様に行く道って、どの辺りですかね。昌平橋《しようへいばし》の近く?」
栄吉の声が割って入る。こちらの顔もこわばっている。
「それはあっしには……見てきた訳じゃぁないんで」
下っぴきの答えに、十手持ちの声が重なる。
「栄吉さん、若だんながそっちへ行ったと、心当たりがあるのかい?」
「栄吉さん、どうなんだ!」
言葉に詰まっている菓子屋の跡取りを、手代の手がとらえて引き寄せる。十手持ちが止める間もなく、胸ぐらを掴《つか》んで腕一本で高々と掴みあげたからたまらない。
「若だんなはどこに行ったんだ」
「やめろ、仁吉さん。それじゃぁ話もできないじゃないか」
親分に言われてしぶしぶと腕を下げたものの、仁吉の怒りはすさまじい。後ろでその様子を見ていた正吾が、目を皿のように開いて手代を見ている。細面の優男が見せた腕の力と怒気が、信じられないのだろう。
(いやはや、この手代は怒らせるもんじゃぁないな)
清七はいつもやさしげな笑みを浮かべて菓子を運ぶ仁吉を知っている。長崎屋の面々は、どうにも表から見える顔とは違う者が多いようだった。
「若だんなが殺されたんだと思うかね?」
仁吉から逃れて、大きく肩で息をついている栄吉に、清七は端的に尋ねた。その体が震えて、ゆっくりと顔が前を向く。
(この跡取りは、一太郎さんほど胆力はないな。そろそろ答えてくれるか)
これが当の若だんなだったら、脅そうが取り引きを申し出ようが、しゃべらないとなったらてこでも口を開かないに違いない。
「分からないよ」
ほどなく半泣きの声が細くした。
「一太郎に、黙っていてくれと言われたんだ。このことだけは後生だからと」
「何のことです? 聞いてない……」
仁吉が眉間《みけん》にしわを寄せて若だんなの幼|馴染《なじ》みの方を向く。自分達にも言わないことを、この友に告げていたということが、信じられない様子だ。
「特に仁吉さん達には内緒にと頼まれていたんだ。きっと止められるからって」
「だから何を?」
「……松之助さんだよ。一太郎の兄さん。あいつ、ずっと気にしていたんだ」
「松之助?」
日限の親分にはそうと言われても、すぐにはぴんとこなかった。(兄さん?)記憶の底をさらってみると、そういえばずいぶん昔、長崎屋でなにか騒ぎがあったような。だが、まだそのころは自分は下っぴきかなにかで……よく覚えてもいなかった。
(若だんなに兄貴がいた? どういうことだい)
思わぬ告白に言葉が続かない。
「それで何で昌平橋が出てくるんです? さっき橋のことを聞いていましたよね」
「松之助さんは……今、北の方に奉公に行っているんだ。加州《かしゅう》様の近く。ぎりぎり朱引きの内の、東屋《あずまや》という桶屋《おけや》に……」
「それでいつぞやの晩も」
仁吉は合点《がてん》がいって、唇を噛《か》んだ。先の襲われた夜も一太郎は昌平橋を渡っていた。
「こっそり兄弟で会っていたという訳ですか」
「まだ……会ってはいないと思うけど。松之助さんの居所が分かるまで、ずいぶんかかったんだ。誰に聞く訳にもいかなかったし」
他出《たしゅつ》がままならない一太郎に頼まれて、栄吉が調べていたのだという。松之助の母親が、とうに亡くなっていたこともあり、子どもの所在が掴めなかった。
「やっと桶屋に奉公に行っているのが分かったのが、この春で。一太郎は会いたくなって遠出した。顔は見たと言ってたよ。でも声はかけられなかった。何を話していいか思いつかなかったって。親には内緒だし。それにその後……」
栄吉は若だんなが夜更《よふ》けに襲われたことを知っている。
「あの人はもう、長崎屋とは無関係だ。誰が若だんなに松之助さんのことを教えたのか」
怒りのためか顔が赤くなってきた手代に、今度はあっさりと栄吉が返事を返した。
「長崎屋さんの親戚《しんせき》の人たちだよ。割りと小さいころから知っていたと言ってた」
「小さいころから……?」
栄吉の言葉に、手代は体をこわばらせている。自分で育てたも同然の若だんなが、長い年月こんな大事なことを黙っていたのが、信じられないのだろう。
(やっぱりあの若だんなは強者《つわもの》だよ)
一見母親に似た、優しげな子だ。だが十年以上もの間秘密を守り通せる意志の強さがある。これで体が丈夫だったら、親が自慢の鼻を高くする跡取りになっていただろう。
だが幸運を独り占めとはいかないのが、世の常だ。
「とにかく白壁の親分に会いに行こう。殺された薬種屋の身元も確かめなくっちゃぁならない。若だんなが行方不明なんだから」
「若だんな……長崎屋の?」
言われた言葉に驚いて、下っぴきの正吾が棒を飲んだように立ちつくす。
「栄吉さん、旦那《だんな》様たちも心配しているんです。長崎屋の方に子細を話しに行ってくれませんか」
手代の言葉に「自分で説明しないのかい?」日限の親分が尋ねる。仁吉は首を振った。
「あたしは親分と行きます。ぼっちゃまを探さなくては……」
二人が正吾を従えて走っていく。栄吉は体を支える力が抜けてしまったかのように、店の床に座り込んだ。幼馴染みが昌平橋の近くで襲われたのだとしたら、自分が災難への道筋を案内したようなものだった。
「一太郎……殺されたんだろうか」
誰も答えてくれる者はいない。
しばらくは立ち上がることもできなかった。
[#改ページ]
[#小見出し]  六 昔《せき》  日《じつ》
[#挿絵(img/syabake187.jpg、横170×縦310、下寄せ)]
「殺された場所が水戸様の塀の横だったものでね。仏をそんなところに置いておけないだろう? すぐに移したのさ」
白髪まじりの白壁《しらかべ》の親分が、手代と清七《せいしち》を案内した先は、水戸様の屋敷から大分、昌平橋《しょうへいばし》の方に寄った所、学問所からは細い道を二つばかりまたいだ場所にある番屋だった。
入ると六畳間の部屋の向こうに、お決まりの突棒《つくぼう》や刺股《さすまた》、袖搦《そでがら》みなどの捕物道具が見える。手前の二坪ほどが土間になっており、その端に死体が寝かされていた。筵《むしろ》の上に置かれている体には、上からも一枚掛けてあって、見えるのは足先だけだ。
だが入口に立った仁吉《にきち》は、これを見て大きく安堵《あんど》の息をついた。
「よかった、若だんなじゃない」
「おや、長崎屋の手代さん。そこからで誰だか分かりますんで?」
初老の十手《じって》持ちが笑いを口元に浮べた。白壁町に住んでいることで、その名で呼ばれることの多い岡っ引きは、実直な人柄で皆に親しまれていた。しかし幽霊も手妻《てづま》も好きではなく、奇妙きてれつな事件はもっと嫌いだった。
「若だんなの足には目印でもあるのかね」
「うちの若だんなは、はいている下駄《げた》と間違えそうな、ごつい足はしていませんのでね」
そう言いつつも、確認せずにはいられないのか、近寄って莚をめくりあげる。現れたのは仁吉より年上と見える男の死体だった。
手代の肩から、力が抜けるのが分かる。
「やはり若だんなじゃぁ、なかったか」
白壁の親分の言葉に、清七の方が短く答えた。
「若だんなは役者なら千両稼げそうな、いい男でね」
「そりゃあ、こいつとは違うな」
笑ったものの、そうなると身元を一から探らなければならない。岡っ引きは、手間を考えてため息を漏らした。分かっていることは、門番が屋敷の内で聞いたという、事件が起こった時の言葉だけだ。
「薬種屋《やくしゅや》だというけれど、さて、他には見当もつかない」
ぶつぶつとこぼす岡っ引きに、仁吉があっさりと答えた。
「この人は本町《ほんちょう》三丁目の、薬種問屋西村屋のご主人ですよ」
二人の岡っ引きが揃《そろ》って振り向いた。
「知っているのか」
「うちと同業ですし、廻船《かいせん》問屋長崎屋が西村屋の店の荷を運んでいるんですよ。うちは薬種を扱うことが多いんです」
殺されたのが一太郎でないのならいいのだ。仁吉は落ち着きを取り戻して答える。
「たしか今年が厄年で。西村屋には息子がいない。娘さんが婿《むこ》をとってらしたはずです」
「詳しいね。おい、正吾《しょうご》」
日限《ひぎり》の親分が、下っぴきを呼んだ。本町三丁目に知らせに行くよう言いつける。
「誰か家の者に来てもらえ。一応家人に顔を見てもらわなけりゃぁならないしな」
若い者を送り出すと、清七は白壁の親分に向き直った。
「本町の者が仏なら、俺にも関係のあるこった。この件、調べさせてもらうよ」
頷《うなず》く岡っ引きに、清七はさらに尋ねた。
「だが今まで身元も分かっていなかったのに、どういう訳で俺を呼んだのかね。うちの縄張りで扱った件と、この殺しが似ているんだと、正吾は言っていたが」
「そのことなんだが」
一旦《いったん》はほっとした白壁の親分、源兵衛の顔がくもる。まずはと二人を座らせて茶を淹れてくれた。話したいことはあるのだが、どう切り出したらいいか、本人も掴んでいないらしい。
「あっしに十手を下さっている同心の旦那《だんな》は、話好きでね。先に日限の親分が扱った件のことも話して下さった。大工を殺した奴《やつ》が、仏につける薬欲しさに薬種問屋に押し込んだとか」
「ああ、長崎屋さんで暴れたんだ。それで?」
「その時の下手人は死罪と決まったんだろう? だが牢《ろう》での様子がどうにもおかしかったらしい。聞いていなさるか?」
「おかしい?」
「人を殺すような奴らだ。己が処刑されるときになっても、反省しない者はいる。だがそいつは捕まってからずっと、泣くでも喚《わめ》くでもなく、薬の話ばかりしているというんだ。殺した大工のことも、家族のことも言わない。ずっと薬のことだけを言い続けている。うちの旦那はそれが、ちーっとばかし薄気味悪かったって言っていなさるよ」
日限の親分は、手代と顔を見合わせた。
「ここにいる仏さんを殺《あや》めた下手人も、刺したとき薬を寄越せと言ったそうだ。そいつを捕らえた屋敷の門番が、聞いていたんだよ。変な物取りだろう? しかも印籠《いんろう》も紙入れも遺体の周りに転がっていた。この薬種屋は懐《ふところ》にあるものを全部差し出したんだ」
「それなのになんで、殺されたんだ?」
清七の問いに、白壁の親分は首を振る。それが分かっていたら、通町《とおりちょう》が縄張りの岡っ引きなぞ、呼んだりはしていないだろう。
「人殺しは伊勢《いせ》町に住む左官で治助というものだ。二十三になる。十二年も奉公して、この春やっと親方から独立したばかりでな。嫁を取る話もあったという」
「もう身元が分かったのかい? そんな奴が何で……」
「修業中、この辺りの武家屋敷にも出入りしていたんでな。顔を知られていたのさ」
借金はない。揉《も》め事もない。病気だった様子もない。喧嘩《けんか》っぱやいこともなく、評判はよかった。なぜこんなことを仕出かしたのか、知る者は首をかしげるばかりだという。
「いやだね、長崎屋に押し入った、ぼてふりの長五郎《ちょうごろう》みたいじゃないか」
日限の親分はしぶい顔を浮べ、思わずといった風情《ふぜい》でこぼす。その様子をじっと白壁の親分が見つめていた。
「やっぱり似ているかい? その長五郎も、何で人殺しなぞしたのか、得心がいかなかったのかい?」
「ああ……」
岡っ引きたちは顔を見合わせる。清七は自分が呼ばれた訳が、だんだん分かってきたようだった。
「治助だがな、ここの番屋につながれている間も、薬を欲しがっていたんだ。ただ、印籠の中の薬は違うんだとさ。どういうことかと聞いても、違うと繰り返すばかり。気味が悪かったさ。同心の旦那がお調べのために連れていって下さって、ほっとしたよ」
親分は清七に、どうだ、奇妙な話だろうと視線を向ける。
実際何とも合点《がてん》のいかないことだった。印籠と紙入れを差し出されても、それを奪わずに相手を殺してしまう物取り。いったいどんな薬が欲しかったというのだろう。
「なあ、仁吉さん」
日限の親分が、番屋の隅で黙って話を聞いていた手代に、いきなり水を向ける。
「先にぼてふりが長崎屋に押し入ったとき、最初は客のふりをしていたと言ってたね」
「それは申し上げましたとおりで」
今さら何だという顔をして、知り合いの岡っ引きを見つめる。
「あの時は大したことじゃないと聞かなかった。そいつは何の薬を買いに来たんだね?」
「それは……」
ほんの短い間、手代は言いよどんだ。だがすぐに、口元に少しばかり笑いを浮かべながら答える。
「特別な薬、命をあがなう薬をくれ……確かなことは覚えていませんが、大体そのような言葉を聞いた気がします」
「そんなことを言ってきた奴を、奥に入れたのか?」
日限の親分の言葉に、手代は苦笑を返した。
「仕方がないんですよ。店に木乃伊《ミイラ》がありましたからね」
その言葉に岡っ引きたちは顔を上げた。
「木乃伊って……あの、不老長寿の薬かい? 長崎屋さんには、すごいものがあるんだね。それを狙《ねら》っていたのか」
「こちらはてっきりそうだと思ったんですがね、間違っていました。木乃伊を見たとたん、違う、これじゃないと喚いて、襲いかかってきましたからね」
「いったい、本心は何が欲しかったんだ?」
三人が顔を見合わせる。手代がゆっくりと首を振る。番屋の内に、この問いに答えられる者はいなかった。
「あいつときたら怒って、高直《こうじき》な薬を粉々に壊してしまったんですよ。大層な損害です」
「その薬は、その……本当に不老長寿の秘薬なのかい?」
胡麻塩《ごましお》頭の岡っ引きは熱を込めた口ぶりで、薬種問屋の手代に聞いてくる。そういう言葉に、ぐっと心引かれる年ごろなのだろう。
「白壁の親分さん、今何か病んでいなさるか?」
「いや……まあ、年だからね、若いころみたいにはいかないが」
「それなら高い薬を買うよりも、長生きには良い方法がある。もし体のことを思うのなら、食べる物に気を使うことです。卵でも毎日取るようにした方がいいですよ」
「本当かい」
二人の岡っ引きが庭に鶏でも飼おうかと真剣に考え始めたとき、番屋の表から声がかかった。正吾が西村屋の者を連れて帰ってきたのだ。
帰宅しない主人を探している家人に、途中で行き合ったらしい。娘らしい女の、早くも目に涙を浮べた顔に、応対に出た白壁の親分はちっとばかり顔を赤くした。番屋での話がいつの間にか人殺しの件から逸《そ》れていたからだ。
親分が西村屋の相手をし始めたのを機に、仁吉は挨拶《あいさつ》をすると番屋を出た。そもそも若だんなを探しに来たのだ。殺されたのではないとすれば、まだこの辺を歩いているかもしれない。
(松之助の桶屋《おけや》は加州《かしゅう》様の近くだっけ。そっちへ行ったとすると、ここは道が違うか)
仁吉は学問所傍の小道を、左へ抜けていった。すぐに神田明神前からの太い道に出る。たどっていくと、先で中山道《なかせんどう》に出ることになる通りだ。北に急いで踏み出した足が、そこから何歩も行かないうちに止まる。手代はふと空を見上げるようなしぐさで振り返った。そのまましばし動かない。が、急に口元に笑みを浮かべると、きびすを返して明神様の方に向かった。
お社の前にかかると、再び足が止まる。すぐに何か納得がいったらしく、道からそれて神社の境内に入っていった。良い天気の下、人出は多かったが、広い敷地の中には、いるのは雀《すずめ》ばかりという所もある。仁吉は迷う様子もなく右手の細い参道に入ると、そんな場所の一つに向かった。
枝を張り出した松の木陰の下に、子馬ほどもある平たい大きな石が横たわっている。
かすかに風もそよいで気持ちがよいのだろう、にこやかな顔をした若だんなが、その上に座り込んでいるのを見つけた。
怪我《けが》をしている様子はない。具合も悪くないようだ。仁吉は心からわき上がった安堵《あんど》に、ほっと息をつく。だがすぐさま気を引き締め眉間《みけん》にしわを作ると、固い声を出した。
「ぼっちゃま、こっそり抜け出したりしたから疲れたんですか?」
「あれまあ……仁吉じゃないか」
手代を見つめる若だんなの顔が、引きつっている。まさかこの境内で見つかるとは思ってもいなかったらしい。
「若だんな、今日、この近くで薬種問屋が殺されましてね」
「えっ……」
さすがにこの言葉には驚いたらしく、言葉を失っている。仁吉は嫌味っぽく唇の片端だけ上げた。
「若だんながいなくなっただけでも、大騒ぎだったんですからね。この知らせに今ごろ店中引っくり返ってますよ。ついさっきまで、仏の身元は分かっていなかった。おかみさんは寝ついたかもしれない」
「私はなにも……そんなときに出てくる気じゃぁなかったんだよ」
「言い訳は店に帰ってから、聞きます」
ぴしゃりと言われて、若だんなは言い返すこともできない。眉毛《まゆげ》が下がって見えて、情けなさそうな顔になっている。
「さあ、早く帰りますよ」手代に促されて石から降りた。そのとき、
「あ、ちょっと待って下さい。言っておくことが未《ま》だあった」
仁吉が振り向いた。
「鈴彦姫! そこにいるのだろう?」
鈴の付喪神《つくもがみ》の名を呼ばわると、かすかな音色が返事として返ってくる。仁吉はこの鈴の音で、若だんなの居所を知ったのだ。用もないのに大した力もない妖《あやかし》が、昼間から動きだして、誰ぞと話をしているとも思えなかった。
(若だんなといるに違いないよ)それでここまで来られたのだ。
「あれに気がついていたのかい、鋭いね」
若だんなの呆《あき》れ顔を横目に、仁吉の方は顔をしかめている。付喪神にかける言葉がきつい口調になる。
「お前、若だんなの他出《たしゅつ》先のこと、知っていてあたしらに黙っていたね?」
「仁吉、お前私がどこへ行ったか、分かっているのかい?」
まさかそれまでばれているとは思わなかったのだろう、一太郎の声が固い。手代はそれにかまわず、付喪神に話を続けた。
「栄吉《えいきち》さんの調べにも助力していたのかい? 若だんなに頼まれれば、お前は嫌とは言えまいがね、なぜあたしに黙っていた?」
許しでも請うているのか、か弱げな響きが聞こえてくる。それに若だんなの憂鬱《ゆううつ》そうな声が重なった。
「……そう、栄吉がしゃべったの」
「今日、松之助という人に、会ってきたのでしょう?」
真《ま》っ直《す》ぐな視線が見据えてくる。若だんなは顔を振った。
「会わなかった。いなかったんだよ。店の用で出てたんだ。それで帰ってきたのだけど」
江戸の端までやっと行き着いてみれば、当の相手は留守だった。またすぐに帰りの駕籠《かご》に乗ったが、なんとも疲れる。ここなら近くでまた辻《つじ》駕籠を拾えるので、途中で降りて境内でひと休みすることにしたのだという。
「で、もう十分休めましたか? 早く帰りましょう。言っときますけどね、店は本当に大騒ぎになってますからね」
いつもより何倍も迫力を増した仁吉の顔に、ただ頷《うなず》くしかない。手代は若だんなを抱え込むようにして帰りを急がせる。だが、また足を止めると振り返りざま、
「お前の話は、もう一回、後で聞くからね」
付喪神にそう言い残して境内を出ていく。
「ごめんよ、鈴彦姫」
若だんなの声が最後に小さく神社の中に消えた。
「いったいどこの馬鹿《ばか》が、お前に松之助の名前を教えたんだい?」
久しぶりに見る父親の怒った顔に、若だんなは作りものでなく恐縮していた。
廻船《かいせん》問屋の奥座敷、普段長崎屋|藤兵衛《とうべえ》が使っている居間と次の間が開け放たれて、一つになっている。そこに長崎屋をはじめ、若だんな、手代たち、それに番頭や乳母《うば》やのおくままでいた。母親の姿が見えないのは、この騒ぎで気分が悪くなり、伏せってしまったからだ。
居間に来る前に、一応母の寝間《ねま》に顔を見せて安心させたものの、床の中でおたえに泣かれて一太郎は困った。
(そりゃあ……いつか騒ぎは起こすことになるとは思ってたけどね)
松之助の名が出れば、何もないでは済まないと分かっていた。でもそこに人殺しの話が噛《か》んでくるとは思いもよらなかったのだ。
「一太郎! おとっつあんは本当に、生きた心地もしなかったんだよ。栄吉《えいきち》が、薬種屋《やくしゅや》が殺されたらしいって知らせに来て……仁吉《にきち》が飛び出して行ったと言うし……」
この話を聞いたとたん、おたえは倒れ込む。佐助は廻船問屋の仕事をほうり出して、子細を聞くために外に走り出る。店表《みせおもて》から飛んできた番頭の知らせに、藤兵衛は一瞬声を失い……そのあと店は文字どおり、箱の荷を引っくり返したような騒ぎになったのだ。
「旦那《だんな》様は……跡取り息子になにかあったら、長崎屋をたたむとおっしゃって……。急いで今日は店を閉めて、皆総出で若だんなを探したんですよ」
廻船問屋の方の番頭が、目に溢《あふ》れんばかりの涙を浮べて一太郎に訴える。若だんなの身が心配だったのか、突然店を廃業すると言われてこたえたのか、心の底は分からないが、番頭にとっても今日は涙目になるような日であったのだ。
(今日限り店を閉めると言われたんじゃ、奉公人はたまったものではないよね)
まさか父親がそんなことを言い出すとは、思ってもいなかった。跡取り息子は確かに大事なものかもしれない。しかし、若だんなはもう何度も死にかけてきたのだ。今度こそ駄目だと思うことも、今までに多くあったはずで……父親も母親も、心の底では覚悟ができているものと、一太郎は何となく思っていた。跡を継ぐ者がいなくなれば、養子をもらって店を継がせるのが世の習いだ。長崎屋も当然そうするはずだ。
ところが父親には別の考えがあるという。
二親《ふたおや》や手代たちだけでなく、奉公人たちにも、無茶をしたことを責められる立場になった訳だ。あとはもう、頭を下げるしかなかった。
「栄吉が、親戚《しんせき》の者がお前に松之助の名を教えたんだと言っていたが……本当なのかい?」
藤兵衛が身を乗り出すようにして聞いてくる。部屋の中に並ぶ者の頭が、風にそよぐ葦《あし》のように揃って一太郎の方に向く。だんまりなど、とてもできそうもない。ごまかそうとしようものなら、どこまでも追及されそうだ。若だんなはしようがなく首を縦に振った。
「親戚の誰だい?」
父親の声がとがっている。だがこの問いに若だんなは苦笑を返すしかなかった。
「覚えていないよ。ほとんど皆、話していた気がするから」
「皆? 誰も彼もが、お前に松之助の話をしたっていうのかい?」
「おとっつあん、伯父さんたちがわざわざ私に、兄さんのことを言いに来た訳じゃぁないんです。つまり……私が具合が悪いときに、見舞いに来てくれるでしょう? そのときにね」
病人が寝込んでいる部屋で、一太郎が死んだ後、誰が跡を取るかという話をしていた訳だ。すると当然のように、よそに出された藤兵衛の子である松之助の話が出たという。
(おとっつあんに、他にも子どもがいた? よその女に産ませた子が?)
伏せっている一太郎に分かるような話し方を、全員がした訳ではない。だが、何回も聞いているうちに、話がつながって意味が通ったという。
「まあ、伯父さんや叔母さんたちとしては、兄さんより自分たちの子どもの方に、この店を継いでもらいたいという気持ちがあったみたいで」
「苦しんでいる若だんなの枕元《まくらもと》で、この子が死んだら、店が自分の子のものになるかもと、そういう話をしていたんですか?」
佐助の声が今日は妙に低い。一太郎はおしゃべりな親戚連中が、この場に来ていなくてよかったと思わずにはいられなかった。何しろこの手代は力が強いし、妖達《あやかし》は微妙に世間の常識から、感覚がずれているのだから。はっきりいえば、主人の親戚であろうと、お構いなしに、のしてしまいそうな気がする。伯父たちは当分店に近づかない方がいいだろう。
上座で藤兵衛が、店一番の苦い薬を飲み込んだような顔をしていた。
「馬鹿な親戚連中だ。私は元々手代、おたえの婿《むこ》になったから店をまかされているだけの者だよ。長崎屋の血は引いていないんだ。唯一《ゆいいつ》の血筋のお前に何かあれば、長崎屋は店を閉じる。誰にも譲りはしない。そう決めてある。おたえもそれは承知しているよ」
「おとっつあん、何でなの? お武家じゃあるまいし、血筋なんてそこまで気にしなくったってさ。婿の里方や、嫁の実家から養子が入るなんて、珍しいことでもないじゃないか」
一太郎が死ななくては起こらない話を、当の本人がしているのだから、奇妙な話だった。だが若だんなの質問は真剣で、藤兵衛の答えの方は取りつくしまもない。
「要するにお前さえ無事でいてくれればいいんだよ。そうだろう?」
「でもそれじゃぁ、店の皆は心配でならないよ。私は体が弱いし……」
「だから松之助と連絡を取ろうとしたのかい? 言っておくがね、長崎屋は松之助とは、もういっさい関係がない。これまでも、これからも、だ。お前もわきまえていておくれ」
「でもおとっつあん……」
「一太郎!」
大声で一喝されて、若だんなは首をすくめた。店の者はおよそ見たこともない光景に、目を丸くしている。砂糖菓子より息子に甘い藤兵衛が、一太郎を大声で叱《しか》りつけているのだ。季節外れ、常識外れの赤い雪でも降るのかもしれない。使用人たちの目が落ち着かなげに泳いでいる。
「この話は終わりだ。もう松之助に関わっちゃぁいけない。それと、二度と店を抜け出して皆に心配をかけないでおくれ。最近はどうにも物騒だよ。いいね、分かったね?」
「……はい」
「おたえにこれ以上、心配かけちゃぁいけないだろう?」
父親の声が、急に柔らかな、疲れたようなものになる。やさしく言われる方が、より身に染《し》みてくる。一太郎が頭をうなだれるのを見て、藤兵衛は話を切り上げた。
「さあ、皆、そろそろ仕事に戻っておくれ。今日はやらなくちゃいけないことが、たまっているだろうからね」
昼過ぎから店の者総がかりで若だんなを探していたのだ。荷は土間に積み上げられたまま、仕分けも配達もされずにいる。夕餉《ゆうげ》の支度も、遅れているに違いなかった。番頭やおくまが、そそくさと持ち場に急いだ。
そのとき、入れ違うように店表から小僧頭が飛んできた。藤兵衛の目の前に、水に飛び込むような勢いで座り込む。
「旦那様、大変です。若だんなが!」
「何だというんだい?」
「殺されたかもしれないと、今、知らせが」
「……死んでいるようには見えないがね」
首をかしげて、奥を見て言う藤兵衛の声に、小僧頭が振り向く。「えっ?」短い声を出すなり、後ろに大きく尻餅《しりもち》をついた。
「私は今のところ、大丈夫だよ」
居間の端の方にいた一太郎が、ぽんぽんと体をたたいてみせる。
「足もあるし、影も濃い。昼間からのこのこ現れた幽霊じゃぁないよ」
「誰がそのことを言って寄越したんだい?」
藤兵衛が何とも言いようのない顔で聞くと、小僧頭は顔を赤くして答えた。
「今店に、下っぴきの正吾《しょうご》さんが来て……」
「誰ぞ、その人をここに呼んできておくれ」
飛んで戻った小僧頭が、すぐさま話の出所を部屋に連れてくる。下っぴきは座るより早く、若だんなの顔を認めると、大きく眉尻《まゆじり》を下げて笑い顔を作った。
「よかった、ご無事でしたか」
「どうしたんだい、いましがた私が死んだと聞かされたところだよ」
当の本人から笑って言われて、下っぴきは頭を掻《か》いた。
「実は薬種屋が襲われまして。若だんなが行方知れずと聞いておりましたんで、つい」
「そのことなら、もう亡《な》くなったのは誰か、分かっているじゃぁありませんか」
横から仁吉の声が割って入る。手代は遺体と白壁の親分から別れてきたばかりだ。
「正吾さんがあの仏の家族を、番屋まで案内したんじゃぁないですか」
「そりゃあ、薬種問屋、西村屋のご主人のことでしょう? その件じゃないんです。今度はまだ襲われた人の名も分かっちゃぁいない。刺されたあげく、両国橋から大川に突き落とされたんです」
「殺されたの? また薬種屋が?」
若だんなは目を見開いた。部屋に残っていた者が皆、息を飲む。一太郎のことも入れれば、いくらもたたないうちに三人の薬種屋が襲われ、うち二人が死んだことになる。
「何で……」
「今度は下手人がまだ捕まっていないんです。まだ何一つくわしいことは……」
「うちに来たところをみると、仏の身元も分からないのかい?」
「じゃぁ、何で薬種屋と分かったんです?」
藤兵衛や手代に次々に聞かれて、下っぴきは必死に答える。
「橋番のじいさんが聞いていたんで。今日は陽気もいいので、じいさん、番屋の戸口を大きく開けていた。だから下手人をちらっと見たんです。己とたいして違わない年ごろの、胡麻塩《ごましお》頭だったっていうんですがね、そいつが妙なことを言っていたというんです」
老人が番小屋の前を通った時は、これといって変わった様子もなく、一人で将棋を指していた橋番は特に注意して見もしなかった。だが、
「あんた、薬種屋かね?」
そんな言葉が聞こえてきたとき、何か引っかかるものがあって、様子を見ようと腰をあげた。すると表からの声が大きくなってきて、しかも助けを求めているではないか。
橋番のじいさんが外に飛び出ると、胡麻塩頭の男が、あっと言う間もなく出刃らしいものを人に突き刺したところだった。
「何をしやがる!」
そんな声など耳に届いてない様子で、下手人が刺した男を振り払う。男は乗りかかる格好になった欄干の上をすべって、下の川に落ちていった。
「胡麻塩頭はまず声をかけて、相手が薬種屋かどうか確かめた。次に薬が欲しいと言ったそうです。薬種屋が印籠《いんろう》の薬を差し出すと、それは違うと突然怒って、そいつは相手を襲ったということで……」
日中《ひなか》のことで人通りも多かったのだが、目の前で刃物が振り回され、大の男が川にほうり込まれて、皆すくんでしまったのだという。刺した男はあっと言う間に繁華な町屋の方に逃げてしまい、すぐに人混みに紛れて見えなくなったらしい。
橋番のじいさんは大急ぎで川岸にいた船頭に、人が落ちたことを知らせるのが、精一杯だったという。正吾が番小屋に行ったときには、落ちた薬種屋は、まだ見つかっていなかった。
「それで一太郎のことを心配して、うちに知らせに来てくれたのかい。済まなかったね」
藤兵衛の言葉に正吾が「早とちりでお騒がせしまして」と、頭を掻く。その照れ笑いに、人殺しと聞いて張り詰めていた部屋の雰囲気もなごんだ。だが一太郎が横を向くと、手代の顔が一人、こわばったままだ。
「どうしたの、仁吉。怖い顔をして」
若だんなの問いに、手代は眉をひそめている。
「今朝西村屋を襲った下手人が、同じようなことを言っていたと聞いたんです。初めに薬を欲しがっていたとか。印籠は手に入れたものの、気に入らなかった。そのあげく、怒ってすぐに相手を殺したんです」
「じゃぁ、同じ下手人かもしれないね。そいつがまた別の人を殺《あや》めたのかも……」
その言葉に、正吾が首を振った。
「それはありませんよ、若だんな。白壁《しらかべ》の親分さんに聞いたんですがね、西村屋を襲った奴《やつ》は若かったし、すぐに捕まったと。今ごろお調べの最中でしょう」
「何で違う下手人が似たようなことを言って、薬種屋を襲うんだい?」
誰の心にも浮んだに違いない問いだった。答えはどこからも返ってこない。話が途切れたまま、口を開ける者がいなかった。暖かい日中だというのに、何やらうそ寒い気までしてくるようで、首をすぼめている者も何人かいた。
そのとき下っぴきがひょいと藤兵衛に頭を下げた。
「とにかく若だんなさえご無事なら、ひと安心ということで。あっしは親分にそのことを知らせなくっちゃぁなりませんから、これで」
「ご苦労さまで。こちらも十分に気をつけますから」
入ってきたときと同じように、あっと言う間に正吾はその姿を消した。
あとに、消えない不安を残していった。
「ねえ、仁吉《にきち》、いったいどういうことだと思う?」
「何がです?」
「薬種屋《やくしゅや》が襲われていることだよ。何で訳の分からないことを言われて、殺されなきゃぁならないんだい?」
「この陽気で、頭がおかしくなった奴が、うろついているんでしょうよ」
「うちを襲ったぼてふりを入れて、三人だよ。全員いかれてたっていうのかい?」
若だんなは不満そうな顔をして、草団子にかぶりついた。勝手に他出《たしゅつ》してからもう三日、若だんなは離れに留められている。寝込んでもいないのに店にも出られないのは、半分は先日のお仕置き、半分は三日前の人殺しの下手人がまだ捕まっていないせいであった。
また人殺しと店先で出くわしたら恐ろしいと、一太郎が店に出るのを、おたえが嫌がっているのだ。長崎屋だけでなく、薬種屋と呼ばれる店はどこも、ここ最近ぴりぴりした毎日を送っている。続けざまに三軒もの同業者が襲われたのだ。次はどの店が理不尽な刃《やいば》の的になるのかと、物騒な噂《うわさ》が市中に広がるなか、一人で出歩く薬種屋は誰もいなかった。
店の奉公人ですら、外に出る時は必ず二人連れだ。
(これじゃぁ、本当にいつになったら外に出られるのか……)
やはり最初に夜道で襲われた時、事を放っておいたのがいけなかった気がする。兄、松之助のことが気にかかって、今一つ人殺しの件にかかりきりになれなかった。そのうちに己の店の中で暴れた下手人が捕まり、それで終わってしまったのだ。分からない謎《なぞ》を残して。
「あの時何もかも説明できるようにしておいたら、何人も襲われることはなかったんじゃないかしら。そう思わないかい?」
「若だんな、妙な理由をこさえて、外に出ようなんて思わないで下さいましね」
「そんなことを言っているんじゃないだろう?」
相変わらず妖《あやかし》との話は、どうにもずれる。一太郎は淹《い》れてもらった香りの高い茶で団子を流し込むと、考えにふけりながら、黄粉《きなこ》にまみれたのをもう一つつまんだ。
「おや、今日は食が進んでますね」
妖の喜ぶ顔を見ながら、もっちりとした草団子を口にほうり込む。
「栄吉《えいきち》が作ったんだよ。あいつ、餡《あん》こがない生菓子なら、このところ少しは腕を上げているんだよ」
「餡このない生菓子ですか。団子とか、素甘《すあま》とかですかね。あまり思いつきませんが」
「まあねぇ」
一太郎に言われるまま、松之助を探すのに協力していたというので、栄吉もとんでもない目に遭ったらしい。
手代たちには直に、きつい文句を言われる。長崎屋|藤兵衛《とうべえ》からも、今後は松之助に関わるなと、念を押しに使いが三春屋《みはるや》に行く。それで親にことがばれて、嫌というほど説教をくらったらしい。
それでなくとも己の書き付けが元で、一太郎が殺されたかもしれないと、しばらくは生きた心地がしなかったと言っていた栄吉だ。
自分のせいで、幼|馴染《なじ》みに迷惑をかけてしまった。それでもこうして部屋にこもつていると、見舞いの団子など届けてくれる友を、若だんなは本心ありがたいと思っている。
(私の方もあいつの悩みを消すのに、力を貸せるといいんだけど)
そうは思うのだが、問題が栄吉の菓子作りの腕では、一太郎が首を突っ込む隙間《すきま》がない。仕方なく、ときどき友の話を聞くだけになってしまっている。
(まあ、やれることから、していくしかないか……)
若だんながおとなしく達磨柄《だるまがら》の火鉢《ひばち》の横で、八つ時の菓子を食べているのに安心したのか、仁吉はほどなく店に出ていった。仁吉も若だんなもいないのでは、薬の調合に困ることがある。二人してそう長くは店をあけてはいられないのだ。
一人になると一太郎は団子をいくつか小皿に取り分けた。こういう季節ものの菓子は、屏風《びょうぶ》のぞきの好物なのだ。茶と一緒に小さな盆にのせると、若だんなは久しぶりに出てくるようにと、派手好きの妖を誘った。
「仁吉もいなくなったからさ。一緒に団子を食べようよ」
「おや怖いこと。いつになく優しいじゃないか、若だんな。何をたくらんでいるのやら」
それでも草団子は今年初めてのもので、気をそそられたらしい妖が、屏風からまず袂《たもと》を現す。
「栄吉が作ったそうだけど、本当にうまいのかい?」
「食べてみれば分かる話じゃないか」
言われて一つ口にほうり込み、屏風のぞきはにやりと笑う。どうやらお気に召したようだった。
「いつもこのくらいに作れれば、親にあれこれ言われなくても済むのにな」
「餡こがねぇ。どうにも相性が悪いというか……」
笑いながら妖は若だんなの向かいに座り込む。うまい団子と聞いて、隅の陰から、鳴家《やなり》たちの声がぎしぎしと聞こえ出す。そのうちに姿が転がり出てきて、部屋はにぎやかになった。膝《ひざ》に乗ってきた鳴家に団子をやる一太郎に、屏風のぞきが注意する。
「一つ残らず鳴家にやったち、どう言い訳するつもりだい? この鉢の中身全部、自分で食べたとは言えまいに」
「大丈夫。仁吉が物もらいに残りをあげた、ということにしてもらうから。いつものことだから、分からないよ」
口の広い茶碗《ちゃわん》に入れてもらった茶を皆で飲んで、鳴家たちはご機嫌だ。中の一匹が屏風のぞきの湯飲みに手をつけようとして、妖に指先ではじかれて転んでいた。
「これ、それはお前のじゃぁないよ」
ひっくり返ったのを起こしている若だんなを、屏風のぞきが正面からじっと見ている。その強い視線を受けて、一太郎が口を開いた。
「なんだい? 何か言いたそうじゃないか」
「それは若だんなの方だろう? 聞きたいことがあるから、あたしを呼び出した。そうでなけりゃあ、こんなに振舞ってくれるものかね」
「それはひどいよ。何度も菓子を屏風の前に置いたじゃないか。出てこなかったのは、このところお前がすねていたからだろう?」
「ふんっ。で、知りたいことはなんだい?」
畳の表に視線を落として、一太郎は言いよどんだ。だがすぐに顔を上げると、真《ま》っ直《す》ぐに妖に問う。
「屏風のぞき、お前は松之助兄さんが生まれたとき、もうこの家にいたんだろう?」
言われて妖は目を見開いた。
「なるほど、聞きたかったのはそのことか」
離れにいる屏風のぞきには、若だんなの表での細かな行いは伝わってはこない。しかしここ何日か、若だんなが寝込んでもいないのに離れにいるのには、松之助の名が絡《から》んでいることを、この妖も承知していた。
「佐助たちがこの家に来たときは、兄さんは長崎屋から縁を切られていた。でも昔からいるお前なら知っているだろう? おとっつあんは何で松之助兄さんによそよそしいの?」
「なんでと言われてもねぇ。そりゃあ、色々あったからだろうね」
「色々って、どういうこと?」
「いいのかい? 親の嫌なところも聞くことになるよ」
屏風のぞきに薄く笑って言われて、一太郎は寸の間、鼻白んだ。だがすぐに「いいから教えてよ」そう、うながす。
今度ははっきりとした笑いが返ってきた。
「ならば言うがね、そりゃ長崎屋のおかみ、お前の母、おたえが絡んでいるからさ」
「おっかさんが? どういうこと?」
呑《の》み込めない顔の一太郎に、屏風のぞきは十数年以上前の話を語りはじめた。
「長崎屋を始めたのは、若だんなのじい様、長崎屋|伊三郎《いさぶろう》だよ。何でも西国の出らしいが、詳しいことはあたしも知らないよ。あたしがこの家に来たときは、もういっぱしのお店《たな》の主人として通町《とおりちょう》でやっていたからね」
屏風のぞきが主人の間に飾られたころには、一つしかなかったとはいえ、すでに蔵も建っていたし、一人娘のおたえも十の年になっていた。
「おかみさんは今でもきれいだけれどね、あのころは本当に、人形のようだったよ」
長崎屋は年ごとに儲《もう》かっていき、おたえはその器量で名を知られるようになっていったという。そもそも亡《な》くなった祖母、一太郎の知らないおぎんという人が、その麗《うるわ》しさで有名な人だったそうだ。母似のおたえに、早くから皆の目が集まっていたのだという。
「十四くらいになると、待ちかねていたように縁談が舞い込み始めたのさ。おたえは一人娘だったから、嫁にやる訳にはいかないと言っているのに、なんとか欲しいという話が、ひきも切らなかったよ。そのうち名の知れた大店や、身分の高いお武家からも内々に話が来るようになって、断りにくくて旦那《だんな》は頭を痛めていた」
そういうこともあって、早めに縁談を決めようとしたのだという。娘に意向を聞いたところ、いきなり店の手代の名を上げられて伊三郎はひどく戸惑っていたと、妖は笑った。
降るほどの良縁の山の中で、なぜ手代を選ぶのかと問う親に、娘は初めて恋しいと言われた相手だからと、あっさり答えた。
「藤兵衛は暇を作っては、歯が浮いてむずがゆくなるような言葉を、たんとお嬢さんに言っていたのさ。おたえは知らない男より、自分に夢中の手代が好ましかったんだろう」
初めはその気のなかった伊三郎だったが、一人娘には甘かった。子どもに甘いのは、長崎屋の伝統なのかもしれない。
「藤兵衛は仕事のできる男だ。店を任せるには畑違いの大店から迎える婿《むこ》より、自分で仕込んできた手代の方が安心だと、伊三郎はそう踏んで二人が夫婦になるのを許したんだ」
婿取りの話が伝わると、手代が数多《あまた》のりっぱな婿がねを蹴散《けち》らしたと、瓦版《かわらばん》が出るわ、床山《とこやま》ではこの話で持ち切りになるわの騒ぎとなったそうだ。
この縁は上手《うま》くいき、長崎屋は良い跡取りを得て、ますます栄えた。夫婦仲も良く、伊三郎は妻のおぎんに、婿のことを自慢していたという。
だが、ただ一つ、欠けたものがあった。子どもがなかなか生まれなかったのだ。
長崎屋は元もとが西国からやってきた伊三郎が始めたものだったから、親戚《しんせき》というものがいなかった。伊三郎はぜひにも跡継ぎを欲しがっていたのだ。
それでも生まれないものは仕方がない。まだ夫婦とも若いからと、待って待って六年目、ついに待望の子どもができた。
「おかみさんも旦那さんもそれは喜んだ。月が満ちて生まれた子が男の子だったから、なおさら沸き立ったものさ」
「それ……死んだという兄さんのこと?」
「知っていたか。その子は生まれて三日も生きなかった。まだ名もつけていないうちに、身罷《みまか》ったんだ」
「おっかさんは泣いただろうね」
きれいだが頼りなげな風情《ふぜい》のあるおたえだ。待ち望んでいた子が亡くなったのでは、立つこともできなかったに違いない。
「初めてのお産は難産でね。おかみさんはもう子どもが望めないと言われたんだ。だからなおさらこたえた様子だった」
「えっ……だって私がいるじゃないか」
若だんなの驚いた顔に、屏風のぞきが笑い出す。二人の話に聞き入っていた鳴家たちも、床に座り込んだまま、きょろきょろと目を動かしている。
「医者の言うことなんか、大して当てになるものか。自分で医者だと名乗れば、その日から医者になれる世の中なんだぜ。でも言われた夫婦には重い言葉だ」
おたえは子を失ってから、寝込みがちだったという。妻を花のように大事に大事にしてきた藤兵衛は、子を失った上に妻の身を心配しなくてはならなくなった。
「おまけに孫を失い、一人娘が体をこわしたことに、長崎屋の主人夫婦が気落ちした。もう跡取りが生まれることもない。いっそ店を売り払って、おたえの体に良い湯治場にでも引きこもろうかと言い出したんだ」
「そんな……おとっつあんはなんと言ったんだい?」
「藤兵衛旦那は、そのころはまだ、店を継いじゃぁいなかった。入り婿だし、長屋住まいの職人の子だ。何か言える立場じゃぁなかったのさ」
そんなとき、店に藤兵衛の親戚の者が訪ねてきたという。後で一太郎に松之助の名を教えることになる、あの親戚連中の一人だ。それからの話は店の外で行われたとみえて、屏風のぞきには分からない。ただ、話の結果は一年後、店中が知ることとなった。
藤兵衛は外に子を作ったのだ。その子を連れてきて、引き取って育てないかとおたえに持ちかけた。
「それが……松之助兄さん?」
「そういうこと。いやぁ、それはすごい大騒ぎだったよ」
おたえはうんと言わなかった。それどころか藤兵衛の心が離れたと言って泣き出し、離縁する、しないの話になったのだ。おたえは一太郎にはとても甘いが、子どもと見れば誰でもかわいがる質《たち》ではなかったらしい。
おまけにおたえの母おぎんが、婿の子どもを入れることに大反対をした。それくらいなら、店を閉めた方がよいという。女二人に受け入れられず、子どもはすぐに産みの親の元に返された。
「本当に離縁になるかと思ったのだがね、おたえが藤兵衛に未練があったらしく、別れなかった。子どもの母親に対する意地もあるのではと、女中が噂《うわさ》していたよ」
「おとっつあんは何で、よそで産ませた子を、おっかさんに育てろと言ったんだろう?」
訳が分からないと首を振る。その様子に、「子どもだねぇ、若だんなは、まだ」屏風のぞきが唇の片端だけを上げる。
「藤兵衛旦那は別れたくなかったのさ。おかみさんとも、せっかく入り婿になった店とも。伊三郎旦那は店を閉めて、おたえを連れて消えかねなかった。子どもさえいれば、おたえが受け入れてくれれば、何とかなるかもしれない。それに賭《か》けたんだろうよ」
だが、おたえは他の女が産んだ子どもを嫌った。
その上、無理だと言われているにもかかわらず、何としても自分で子どもを産みたいと言い出した。子どもを授けて欲しいと、近くの稲荷《いなり》に信心のお参りを始める。体をこわしているのだからと、周りが止めても言うことを聞かない。朝も晩も、思い詰めたように繰り返し足を運ぶ。
おたえのために、遠出せずに済むように、伊三郎が店の敷地内に小さな稲荷神社を作ったのはこの時だ。
「そんな訳だから、結局子どもは引き取られないことになった。それなりの金を貰《もら》い、母親は赤子《あかご》連れで、本郷の職人と夫婦になったのだと聞いたよ」
そうして少しは落ち着いてきたと思った矢先、まだ若いのに、突然おかみのおぎんが亡くなってしまった。
「藤兵衛旦那は、義理の父が今度こそ店をたたむことにする、おかみさんとは別れることになると、腹をくくったと思うよ。けちのつきはじめは松之助だ。子を作ったことを、藤兵衛旦那はたいそう後悔している様子だった。ろくなことにならなかったからな。今でもかわいいと思えないのは、そのせいだろう」
「……それは兄さんのせいじゃぁないのに」
「そうだが、人は勝手なものさ。ところがそこに来て、話が変わった」
もう望めないと言われていたのに、おたえに子ができたのだ。「お前さんだよ」無事生まれてみれば男の子で、跡取りができたと、誰もが喜んだ。
「この時から松之助のことは皆にとって、疎《うと》ましい話になったんだな、たぶん」
夫婦仲も戻った。店も続いていくことになった。おもしろくない思い出は、おとといの向こうに捨てて、楽しい毎日を送りたい。それが本音なのだ。
「だから今さら松之助の名前が出てきて、皆めんくらっているのさ。とっくに忘れた名前、忘れたふりをしてきた名前だもの」
屏風《びょうぶ》のぞきはにやりと笑って話をくくった。身を前のめりにすると、若だんなの顔をのぞき込む。
「お前さんこそなんで、松之助なのさ。長崎屋は大店だけど、店のためとは思えないけどね。どういう訳なんだい?」
「ただ……会ってみたかったんだよ。兄さんがいると分かったんだもの。それだけだよ」
「本当に? こう言っちゃぁなんだが、金持ちに妾《めかけ》やその子どもがいることなぞ、珍しくもない。そんなに興味がわくものかね」
妖《あやかし》は一太郎から視線を離さない。ついに若だんなが本音を吐くまで、そのままだった。
「分かったよ、言うよ。生まれた子が男だって聞いたから……見てみたかったのさ」
「男の子だから?」
「その男の子は、きっと体も強くて、おとっつあんに似て大柄で。こういう風に生まれたらうれしかったと思えるような、そんな子に違いない。きっと寝込むことも、死にかけてしょっちゅう心配をかけることもないんだよ。私と入れ替わって生まれていたら、皆も喜んだに違いないというような。そう考えたら、忘れられなくなったのさ」
親しみの気持ちだけだったとは、己でも思えないよと、若だんなが笑う。屏風のぞきがその様子を目を離さずに見ていた。
だが実際に兄に会うとなると、なかなか顔も見られなかった。皆、松之助のことなど忘れたかのようだったから。父に兄のことを聞いたら、赤子のときに死んだ兄のことだけ説明された。それ以上聞けない雰囲気だった。仕方なく古参の番頭に松之助の名を出したら、その名を口にしてはいけないときつく言われた。旦那様もおかみさんも喜ばないと。
「あの日から、兄さんのことを、長崎屋で聞いてはいけない気がしてたよ」
仕方なく栄吉に調べてもらうと、松之助の立場は寂しいものだった。母はとうに死に、長崎屋からもらった金で開いた小体《こてい》な桶屋《おけや》は、弟が継ぐことになったらしく、松之助は別の桶屋に奉公に出されている。義父との間は、上手くいっていないようだった。
「それでよけい会ってみなくちゃと思って、奉公先まで出かけたんだ。帰りに人殺しに出会うとは思わなかった」
「若だんなが松之助に会いに行って殺されかけた。こりゃあお前の兄さんにとっては、ますますまずい話だよね」
おたえが松之助のことを、疫病神《やくびょうがみ》のように言っていたのを女中が聞いたという。その言葉に、一太郎が頭を抱えた。
「兄さんにはしばらく会えそうもないね」
「なかなか思う通りにはいかないものさね」
めずらしく皮肉でない意見が屏風のぞきの口から漏れる。
妖と自分のために茶を淹れ直して出したとき、突然、若だんなの居間の襖《ふすま》が驚くような勢いで開いた。
「佐助! どうしたんだい、血相変えて」
たぶん店から走ってきたのだろう、廊下に立ちつくしている手代の息が荒い。若だんなたちの姿を見て、こわばっていたらしい顔つきが少しずつ和らいだ。
「どうしたんだい、犬神《いぬがみ》。あたしがまた表に出てきたんで、不満なのかい?」
皮肉を含んだ屏風のぞきの言葉など、耳に入っていないかのようだった。佐助は眉間《みけん》にしわを寄せると、凶事を告げる。
「胃の腑《ふ》の薬、安香湯《あんこうとう》で有名な柳屋さん。あそこの若主人が殺されました」
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[#小見出し]  七 |所  以《ゆえん》
[#挿絵(img/syabake228.jpg、横121×縦214、下寄せ)]
柳屋の通夜《つや》の席に、同業の薬種屋《やくしゅや》の姿は少なかった。
長崎屋も仕事で縁があったからと、藤兵衛《とうべえ》は出かけたものの、一太郎は家に留め置かれた。皆不吉な事件にどうしてよいか分からないのだ。うっかり外に出ると、薬種を扱っているというだけで、殺されかねない。短い間に襲われた薬種屋はこれで四人目。先日両国橋で刺された薬種屋は、堀江町の天城屋だと身元は割れたが、まだ遺体は見つかっていない。
下手人は捕まったり、姿を見られたりしている。どの一件も襲ってきたのは別人にもかかわらず、似たようなことを言って、薬種屋に切りかかっている。皆、薬を欲しがり、印籠《いんろう》や紙入れまですべて差し出されたにもかかわらず、相手を襲撃しているのだ。
おまけに凶徒たちは、それまで刃傷沙汰《にんじょうざた》を起こすなど考えられなかった、おとなしく真面目《まじめ》な男ばかりだという。
その奇妙さが人の口の端《は》にのぼり、瓦版《かわらばん》にまでなった。添えられた、おどろおどろしい挿絵はなかなか達者な筆遣いで、哀れな薬種屋が、役者のように隈取《くまど》りをほどこした雲つくような大男に切り刻まれている。
書いてあることを読むと、薬種屋は何かに祟《たた》られているのではないかという。
そんな気もしてこようかという、柳屋の不幸だった。柳屋では己の家業が狙《ねら》われているとの噂《うわさ》を気にして、外出の時は必ず二人以上で出かけ、主人や若主人は駕籠《かご》を使っていた。用心深いと言える振舞いで、襲われることはないはずだった。
ところが。
跡取り息子は店の中で切りつけられたのだ。下手人は長年出入りしてきた植木職人。前の三件と同じように、なぜ刃物を振り回したのか、周りのものにはとんと分からないような、実直な働き盛りの人物だった。
「ねえ、いくらなんでも、これはおかしいと思わないかい?」
長崎屋の離れで茶をすすりながら、一太郎が傍の友に聞く。やっと手代の怒りがおさまって、離れに通してもらえるようになった栄吉《えいきち》が、開け放った障子の前で、持ってきた団子を小皿に移していた。天気も良く、柔らかい日ざしをたたえた縁側で、醤油《しょうゆ》をつけた焼きたての餅《もち》は、こうばしい香りを立てている。
「薬種屋の件かい? お前さんもまた襲われたら大変だ。気をつけるんだよ」
「私はこれ以上ないくらい、平穏だよ。なにせここのところ、両の親と手代たちとしか、顔を合わさないんだもの」
柳屋が店の中で出入りの職人に殺されたことを聞いて、おかみのおたえが、うろたえた。また誰ぞが一人息子を襲うかもしれないと、医者にかかるほど心配しだしたのだ。二度狙われたためしはないからと言っても、首を振るばかり。
おかげで一太郎は、ようやく出してもらえるかもと思っていた離れに、押し込められたままになってしまった。
それも一日や二日のことではないし、先の見通しがある訳でもない。いい加減じれてきたのを察して、手代たちが栄吉を呼んでくれたのだ。この際、松之助の件は都合良く忘れることにしたらしい。
「見なよ、この瓦版《かわらばん》の大仰《おおぎょう》なこと。私を襲ったぼてふりがこんな奴《やつ》だったら、今ごろ生きちゃぁいないよ」
団子の皿と交換に渡された瓦版を見て、栄吉が苦笑を浮かべた。
「すごいねぇ、その下手人。相撲取りだって、そんなに大きくはないよ」
団子を頬ばりながら、幼|馴染《なじ》みは妙な感心をしている。自分でも餡《あん》を使わない餅菓子の方が相性がいいと分かったのか、このところ差し入れは、この手のものが多かった。
「それを見ていると、下手人はまるで妖怪《ようかい》か、伴天連《バテレン》の妖術つかいのように見えるね」
「術?……」
団子の小皿から視線を外して、栄吉を見た。
「なんだい、怪しげな技が使われていたと思う訳?」
「そんなこと分からないよ。ただ、えらく奇妙だなと思うだけさね」
(奇妙……)
確かに一連の凶行には納得のいかない話が多すぎる。首筋をそっと撫《な》でられたような、そそけだつ違和感は、聖堂前での夜の出来事から続いている。もっと突き詰めて考えなくてはならなかったのに、他のことにかまけて見過ごしていたいくつかの不思議。
(下手人の妙な行い……)
その日の午後、一太郎は何やら考え込んでいる様子だった。幼馴染みが帰ったあとも、妖《あやかし》を呼び出して遊ぶこともなく、一人であらぬ方を向いている。そうして日が傾き、ぐっと涼しい風が吹くころになっても、離れの障子戸が開いているので、それを見つけた手代が血相を変えて飛んできた。
「若だんな、ご無事ですか!」
「? どうしたんだい、仁吉《にきち》。そろそろ夕餉《ゆうげ》かい?」
のんびりしたいらえに、手代は肩の力を抜く。誰ぞに襲われた訳ではないらしい。
ただ心ここにあらずといった様子に、どうしたのかと聞かずにはいられなかった。
その問いに対して、一太郎は手代の前に瓦版を置いた。
「考えていたんだけどね、今度の一連の殺しの真相は、こういうことだったんじゃないかと思うんだ」
言われて仁吉が見た先にあるのは、瓦版に描かれた怖《おそろ》しげな絵だ。仁吉はこれ見よがしなため息をついた。
「若だんな! お願いですから危ないことに首を突っ込まないで下さいな」
「突っ込みたくなくても、首までどっぷりと浸《つ》かっているじゃないか。この件が何とかならなくっちゃ、おっかさんが落ち着かない。店にすら出られないよ」
ふくれつらの若だんなは、瓦版から目を離さない。
「それにもしかしたら、一連の事件は、私がなんとかしなくちゃいけないものかもしれない。いや、私たちでなけりゃ、どうにもできないことかもしれないよ」
視線が紙からはみ出さんばかりの人殺しに向いている。
「若だんな、何を言い出すんです?」
突然の言葉に、仁吉が片方の眉《まゆ》を、器用に上げる。一太郎はかまわず先を続けた。
「まあ、見なさいよ。これは瓦版だから、買ってもらうためにわざと、こんなに尋常でない風に描いてある。けれどもしかしたら、それが事の真相じゃないのかね」
仁吉はその意を察したようだった。だが、それに賛成するかといえば、また別な考えを持っている様子だ。
「つまり人ならぬものが、関わっているということですか?」
「そうとしか考えられないよ。あまりにおかしなことが多すぎる」
「だから我々でなくては、一件を解決できないと言うんですか。そりゃあ、妖が相手では、日限《ひぎり》の親分は首をかしげるばかりでしょうが」
一太郎にそう言われても、手代は首を縦には振らないでいる。火鉢を挟んで若だんなと向き合って座ると、先《せん》に自分と一太郎が、蔵の地下室で襲われた時の話をし始めた。
「確かにあの時のぼてふりは、どうにも様子が変でしたよ。でもあれは人です。私たち妖には、人ならぬものは分かります。だからこれまで若だんなを守るのに、人にだけ用心してきたんですよ。相手が妖なら、また別の手を打っています」
本性が妖である手代の、しごくもつともな言葉に、若だんなは頷《うなず》いた。
「私だって、ずっとそう思っていたさ。初めて人殺しを見たあの暗い夜だって、行き合ったのは確かに人だった。私にも分かるからね。だけど、もしかしたらと思うことがある」
「何です?」
一連の下手人たちは、一人の妖に、次々と愚《つ》かれているんじゃないかしら。取り愚いた人が捕まって役に立たなくなると、別のものに乗り移っていく奴がいる。そう思うようになったんだ。だから私たちにも相手が妖だとは、分からなかった」
「今までの殺生《せっしょう》は、その妖怪のせいだと?」
「そう考えると、辻褄《つじつま》があうことが、多いんだよ」
一太郎は文机《ふづくえ》の側《そば》に手代を連れていく。置かれている凝った彫りの硯《すずり》は、兎《うさぎ》が野に遊ぶ図のものだ。その横の紙の上に鮮やかな文字で、半日考えていたことを書き出した。
一連の事件では、分からないことが多すぎる。それで私自身納得のいっていないことを、並べてみたんだ」
一、聖堂傍の事件。大工の首はなぜ落とされたのか。
二、なぜぼてふりは、些細《ささい》なことで大工を殺したのか。
三、盗んだ大工道具をばらばらに細かく分けて売り払ったのは、なぜか。
四、以前|棟梁《とうりょう》は何か盗まれていたという。今回の件と、関係はあるか。
五、下手人たちの欲しがっている薬とは、どんなものなのか。
六、別々の下手人が、同じことを言って、薬種屋ばかりを襲うのはなぜか。
七、下手人たちが簡単に薬種屋を殺してしまうのは、どうしてか。
「他に思いつくことがあるかい?」
一太郎の問いに、「今のところは……」と、手代は首を振る。
「驚いた。こんなことを考えていたんですか」
「これは皆、私が納得できないと思っていることだよ」
言われて見てみれば、説明できるものがない。
「私が考えた通り妖が一枚|噛《か》んでいるとしたら、いくつかは説明がつく。たとえばさ」
言いさした若だんなの言葉を止めるように、「若だんな」と、声がかかって、かたりと襖の開く音がした。佐助が夕餉の膳《ぜん》を持って姿を現す。薄暗くなってきた部屋の中に仁吉がいるのを見て、驚いたように目を見開いた。
「仁吉、いたのかい。もう暮れてきたんだから、行灯《あんどん》くらいつけたらどうだい」
後に女中の姿も見える。部屋にいた二人はそのまま会話を切った。火鉢を囲むように、三人分の膳が並べられたのは、一人で食べさせると、若だんなは、とんと食が進まないからだ。離れに押し込められてからは、手代二人が食事のお相伴をすることになっていた。
女中が姿を消すやいなや、思い付きを話そうとする若だんなを、佐助が押しとどめた。
「なんぞ話があるのなら、食べ終わってから聞きます。たんと食べないと、おしゃべりは抜きにしてすぐに寝かしつけてしまいますよ」
「そういうことを言っているから、調べが進まない。本物の下手人が捕まらないんだよ」
上目使いに文句を言う一太郎の目の先に、佐助は大盛りに盛った飯を差し出した。
「捕物の真似《まね》ごとをするおつもりですか。ならば、これくらいは食べなきゃあね」
結局一太郎がなまり節の煮つけや豆腐、お浸しなどと格闘して、手代たちに及第点をもらい、膳が片づけられるまでに、半時ほどもかかってしまった。
やっと先に書いたものを佐助にも見せる。妖が一枚噛んでいるのではとの考えを示すと、手代は目を見開いた。
「六の、別々の下手人が、同じことを言って、薬種屋を襲う訳は、同じ妖に取り愚かれていたとしたら、それで説明がつく。一と二と七、簡単に人を傷つけたり襲ったことについて。ひどく恐ろしげに見えるけど、これが妖の行いとしたら、少しは納得がいかないかい? 妖と人とは物差しが違うのだから」
「大概の妖は、凶暴じゃぁありませんよ」
おもしろくなさそうな手代の言葉に、若だんなは苦笑した。
「誰も妖全部が粗暴だなんて言ってやしないよ。ただ事の善悪の基準が、人と妖とは違う。感じ方だって、考え方だって、ずれているものだしね」
「そうなんですか?」
「……気がついていなかったの?」
佐助の言葉に、やはりと思った。これから一層、気をつけなければならないとも思う。
「さて、あと、三と四、大工道具のことだ。これは以前妖達に聞いてもらっていたね。下手人が捕まった格好になって、それきりになったのだけど。仁吉、もう一回妖達に頼んで調べ直してもらえるかな」
「伝えておきましょう」
「残りは五だ。妖が欲しがっていた薬とは何か。これが一番の難物だという気がする」
若だんながひとつ間を置いたところで、佐助が火鉢の薬缶《やかん》の湯で、茶を淹《い》れて差し出す。茶をすすっている若だんなより先に、仁吉が口を開いた。
「こればかりは、あたしらには分かりませんよ。大体、下手人が欲しがっているという薬が、本当にあるものかどうかも定かではない。夢の産物かもしれませんからね」
「人を殺してまで欲しいという。どんな薬のためなら、そんな風に思えるんだい?」
若だんなは分からないよと首を振る。
「そういえば、うちの店に来たとき、命をあがなう薬、とか言っていなかったっけ」
ふと思いついて隣にいる手代に聞いてみると、仁吉は火鉢と睨《にら》めっこをしていた。
「仁吉?」
「はい? ああ、あの時は店に木乃伊《ミイラ》がありましたからね」
「でも木乃伊は欲しがった薬ではなかった。それで騙《だま》したな、と言われて、お前、木乃伊で殴られたんだろう?」
「そうでしたね」
「そういえばあの日、ぼてふりは香りがするって、言ってなかったかい? 店表《みせおもて》で……」
あまりに小さなことだったので、忘れていた。あの後襲われて殺されそうになるわ、寝込むわで、それどころではなかったのだ。だが思い返してみれば、ぼてふりは店にいるときは、目当ての薬があることを、疑っていないみたいだった。
「いったいどの薬の香に、引かれたのやら……」
聞いてみたくとも、ぼてふりはしょっぴかれてしまって、今さら確かめようもない。考え込む若だんなの様子を見て、仁吉がその推察を否定するように、顔をしかめている。
「店には数多《あまた》の生薬《しょうやく》があって、臭いも混じっています。あの中でただ一つの香りを嗅《か》ぎわけたとは思えませんけどね」
「まあ……それはそうだけど」
ちょっとの間、言葉が切れる。その間を佐助がつかまえた。
「若だんな、お考えはありがたく拝聴していますよ。でも、そろそろ五つを過ぎています。風呂《ふろ》がまだでしょう、入って下さらないと」
佐助の言葉に、若だんなはいつもの毎日に、突然引きもどされた。
「おや、いけない」
抱える水夫《かこ》が多いからと、長崎屋が金も、誼《よしみ》も大いに活用して、やっと作る許しをいただいた内風呂であった。ここから火を出して火元になることがあれば、店がつぶれる。ためにそれは庭の土蔵|脇《わき》に離れとして作られていたし、火の管理はことに厳しかった。若だんなといえども、五つ半までには風呂から出ておかないと、火を落とされてしまう。
「あたしはもう、済ませましたので」
仁吉はそう言うと、若だんなと佐助を送り出す。二人が姿を消した後、夜具を整える仁吉の口から、重いため息が漏れた。目がどこか、ここでない一点を見つめている。そのとき一人で残ったはずの部屋のなかで突然声をかけられて、仁吉の黒目は針のように細くなる。
「仁吉さん、いつまで若だんなに隠しておけるかね?」
手代がゆっくりと振り向いた先に、華やかな屏風《びょうぶ》絵があった。今日は中から出てくるつもりはないらしい。
「何を言いだす気だい?」
仁吉の声が低い。屏風のぞきは絵の中で身を引いた。
「怖い顔をおしでないよ。あのことに関しては、あたしは何も言う気はないよ。頼まれたってごめんさね。だけどさ」
派手な妖《あやかし》の声が、はばかるように小さくなる。
「さっきの話が聞こえたから言うんだよ。若だんなの言う通り、妖が一枚|噛《か》んでいるとしたら、何も言わなくて大丈夫なのかい? たぶん、狙《ねら》いは若だんなじゃないのかい?」
「お前がどうこう言うことじゃぁないよ」
手代の言葉は不機嫌なものだった。だが今日はそれに怯《おび》えることなく、屏風のぞきが言葉を続けてくる。
「お前さんたちのことなら放っておくけどね。あたしはね、これでも若だんなのことは気に入っているんだよ。あの子が離れに来てから、菓子はたんと食べられるし、一緒に碁で遊ぶのもいいもんだ。若だんなのことが心配なのは、お前さんたちだけじゃないんだよ」
つけつけと言われたにもかかわらず、それを聞いた手代の顔がなごむ。
「そういえばお前さん、なんだかんだと言いながら、若だんなのために留守番したり暇|潰《つぶ》しの相手をしたり。ご苦労なことだよね」
いつもはきついことしか言わない手代に、急にやさしげな言葉をかけられて、かえって不安がつのったようだ。きょろきょろと目が泳いで、落ち着かなげなのに何を言ったらよいか分からない様子の付喪神《つくもがみ》に、仁吉が請け合った。
「大丈夫、私たちは若だんなを守ると約束申し上げた。必ずそうする」
手代は布団《ふとん》を敷き、乱れ箱や水差しを手早く用意する。背中にまだ付喪神の視線があることが分かっている。仕方なく背を向けたまま、言葉を続ける。
「できるなら、若だんなにいらぬことは言いたくないんだよ。やさしい子だからね。妙に……己のことで悩むことになったら、たまらない」
「……うん……」
珍しくも意見が合って、それからは部屋には声も無い。程なく若だんなが部屋に帰ってくる頃合いになって、もうよかろうと、仁吉は火鉢の炭の始末にかかった。
「若だんな、大工道具の行方、皆分かりましてございます」
「ご苦労さま……何とも早いことだね」
頼んでから二日目。きょうは早寝をすると言って、夕餉《ゆうげ》の後ほどなく戸締まりをした離れに、ぞろぞろと妖《あやかし》たちが集まってきた。鳴家《やなり》たちや、いつぞや会った美童とむさくるしい坊主《ぽうず》。他にも初めて見る顔すらあったが、手代たちは見知っている顔ぶれのようだった。
知らせを受けた若だんなが、日中《ひなか》に求めておいた三春屋《みはるや》の菓子にありついて、皆、機嫌がいい。饅頭《まんじゅう》や団子、餅《もち》菓子などをせっせと口にほうり込んでゆく。もっとも中にはふらり火のように、顔はあるけれど体は見かけない、はて食べたものはどこに行ったのか、考え込むような妖もいたりした。
茶で締めくくってひと息つくと、我さきにと報告が始まる。仁吉《にきち》が仕切って、金槌《かなづち》の一本一本から、行き先を確認した。聞いてみると、妖たちは初めに頼んだときからずっと、物探しを続けていたらしい。下手人が捕まえられたことを知っている者もいたが、頼まれていたことを止《や》めようとは、誰も思わなかったようなのだ。
「それでこんなに早く分かったのか。ありがたいことだね」
ここでもまた、妖の感覚が人とは違うというのが分かる。
大工道具は細かな釘《くぎ》にいたるまで行き先が分かったが、なぜ分けて売ったか?≠ニいう疑問の答えを知っていた古道具屋はいなかった。
「店主だって、そんな品だとは思いもしないからねぇ」
首を振り振り鳴家の一人が答える。元々ひと揃《そろ》いをいっぺんに売りに来る客の方が珍しい。一つ、二つと道具を売りに来た客を、いぶかしむ者はいなかったのだ。
「理由は分からないままか」
「若だんな、こうして売られた道具がみな、揃ったのなら、はなに棟梁《とうりょう》が大工道具の中から盗まれた一品が何か、分かるんじゃありませんか?」
一太郎が考えた四つ目の疑問だ。仁吉に言われて皆の視線が、部屋の中ほどに据えられた、文机《ふづくえ》の上の、道具の名を書き出した紙に集まった。
「鋸《のこぎり》、手斧《ちょうな》、錐《きり》、鑢《やすり》……」
妖たちが読み上げる。
「木槌《こづち》、金槌、玄翁《げんのう》……こりゃあ、げんのうって読むのかね。大工道具は読みがむつかしいよ」
「釘袋、曲尺《さしがね》、あれ、また別の店で釘を売っているよ。よくもばらまいたもんだ」
「あと、砥石《といし》、鉋《かんな》、鑿《のみ》。これで全部だね」
手代の言葉に、妖たちが揃って頷《うなず》く。
「さて、それじゃぁ、消えた道具の名は……」
「その名前は……」
若だんなの声が聞こえたあと、寸の間、部屋には息詰まるような静けさがあった。だが、すぐに一太郎が笑い出す。
「駄目だよ、私じゃぁ何が足りないのか分かりゃしない。大工がどんな道具を使っているか知らないんだもの。誰ぞ詳しい者はいないかい?」
「それならばあたしが」
名乗り出てきたのは、織部《おりべ》の茶器を名乗る付喪神《つくもがみ》だ。今は小さき人の形を取っていた。
「こう見えても織部焼というのは、千利休の弟子である古田織部様の好みで作られた美濃《みの》の古陶器でね。高直《こうじき》なものなんだよ。だからあたしなぞ、それは大切にされたから、年を経てこうして付喪神にもなれた訳で……」
「講釈はいいから、すぱっと言いねぇ」
じれた妖から文句が入ると、付喪神は言い返す。
「だから今、説明しているじゃないか。そんな訳で品の良いあたしは骨董屋《こっとうや》に行くこともあったんだけどね、そこに墨壺《すみつぼ》がときどき来ていたよ」
「墨壺?」
聞けば大工道具の一つで、材木に線を引くために使われるものだという。木を細工して墨池《ぼくち》をつくり、そこに墨を含ませた綿を入れる。大人の握り拳《こぶし》二つ分ほどの道具の片方には糸巻き車があって、そこから繰り出された糸に墨池の墨を含ませ、指ではじいて木材に真《ま》っ直《す》ぐな線を引く。便利で格好の良い要具に見えたという。
「こいつは他の大工道具と違って、凝った細工をしたものが多いそうで。棟梁ともなれば、使い勝手がいいだけでなく、細工のすてきな墨壺を欲しがるとそいつは言っていました。それで骨董屋でよく見かけたんです」
「墨壼……確かにそれはなかったよね」
紙を見かえしてみても道具の中に含まれていなかった。弟子を抱えていた大工の長が、墨壷を持っていなかったとは考えにくい。
「となると、棟梁が失《な》くしたのは、墨壺に間違いないみたいだね。でもこのことは、こんどの一件と関係があるだろうか?」
「今のところ、あるとは言えませんね。関わりが見えてこない」
仁吉の言葉はもっともで、せっかく妖に調べてもらったのに、謎《なぞ》解きはとんと進まないということになった。情けない結果に終わりはしたが、はりきって事に当たってくれた妖のために、一太郎は礼だといって酒を出した。いつの間に用意したのか、手代たちが卵焼きに蒲鉾《かまぼこ》まで出してきて、妖達はご機嫌だ。
まあ、若だんながご苦労だったと言ってくれれば、それでいいのだ。本音から言えば、人が何人か死んでも、あまり興味がないようだった。「ここ百五十年ばかりは、人の死ぬのも昔に比べて少ないからねぇ」などと言う妖すらいた。
ひと通り酒もまわると、今度の道具探しの自慢話が飛び交い始める。その中の一人、老婆《ろうば》の姿をした蛇骨婆《じゃこつばば》が、嬉《うれ》しそうにぐい飲みの酒を嘗《な》めながら、思い出したことを語っていた。
「そういえば、私が金槌を見つけた店にねぇ、かわいそうな墨壼があったよ。そりゃあ凝った細工で……確か人の手が墨壺を掴《つか》んでいる格好の彫り物があったっけね。細かい模様もびっしりとあって、良いものだったに違いないのに、底のところの木が、大きく縦に割れていたんだよ。あれじゃぁ道具としては使い物にならないね」
「それなら我も見たぞ。鑿を見つけた質屋にあったんだ。手は左手だったろう?」
破《や》れ衣《ぎぬ》をまとった野寺坊《のでらぼう》の言葉に、他からも声が上がる。
「あたしもそれは知ってますよ。ぼてふりから鋸を買いとった店に置いてあったんです」
鳴家の一人が酒を喉《のど》に流し込みながら言う。古ぼけた店に似合わない立派な細工物が安くある。客がいぶかしんで理由を聞くと、大きく割れた墨壼の腹を見せたという。
「あわれだったねぇ。あれは職人が魂を込めて作ったものだよ。そうとう古い道具に見えたから、上手《うま》くいけば遠からず、付喪神にもなれたかもしれないのに」
「でもああ損なわれてしまっちゃねぇ。とてものこと付喪神にはなれまい」
酒と肴《さかな》で盛り上がる妖達を見ながら、若だんなが首をかしげている。仁吉が気がついた時には、ぐい飲みをもって顔を赤くしていたから、もうだいぶきこしめしているようだ。
「若だんな、いつの間に飲んでいたんですか」
「ほんのひと嘗めだよ。それより仁吉、百年を経た古いものでも、壊れていては付喪神になれないの?」
「そりゃあそうですよ、若だんな。ただの道具が、妖になろうっていうんですよ。その身を損なっていては、金輪際《こんりんざい》、なれたものじゃぁありません」
返事をしたのは酔っ払ったふらり火で、先ほどから名前を示すかのように、部屋の天井近くを右に左に漂っている。仁吉が頷くのを見て、若だんなは熱い息を吐きながら考えているようだった。しばしの後……。
「ねえ、さっき割れた墨壺を見たといったのは、誰だったかね?」
「あたしですよ」
「我も」
「私が話を始めまして」
名乗った三人に若だんなは、その墨壺を買った者を見たかと問うた。
「いえ、私が見かけたときは、置いてあっただけで」
「我も知りませんが」
一人、鳴家だけが首を縦に振った。
「あたしが墨壼に気がついたのは、ちょうど客が安さに引かれてそれを買おうとしていたからで。大工ではないから、道具として使えなくてもかまわない。飾っておくのにいいからと言って、求めていきました」
「そいつはどういう奴《やつ》だった? 覚えているかい?」
「年の頃なら、三十路《みそじ》の後半から、四十路《よそじ》にかかるかというところでしょうか。働き盛りの職人でしたよ」
「大工でないと言ったのなら、その人のなりわいは何だったのだろうか」
この問いに、鳴家はあっさりと答えた。客は店主とのおしゃべりの中で、色々なことを言っていたのだ。
「ええと、植木職人じゃぁなかったかと」
大きく息を飲んだのは、一太郎だけではなかった。手代たちも思い当たったに違いない。顔を見合わせている。
(確か柳屋の若だんなを襲ったのは……出入りの植木職人だった)
偶然だろうか。一太郎は下手人は妖に取り愚《つ》かれていたと見ている。最初に殺された棟梁が失くしたのは墨壼。底の裂けた古い墨壼を買った者は、四人目の下手人を思い起こさせる職人だった。
(何かありそうな)
一太郎はとっくりを抱え込んでいる妖に声をかけた。
「ねえ……蛇骨婆に野寺坊、頼みがあるのだけど」
「おや、なんです?」
良い機嫌になった二人が顔を向けてくる。若だんなが、
「それぞれが見かけた店から、底の裂けた墨壺を買ったはずの者を知りたいんだ。調べてくれないか」
そう告げると、飲み足りない様子の妖たちは良い顔をしない。若だんなが笑って言う。
「今から調べに行ったとて、店は閉まっている。明日からでいい話だから」
言われてにわかに元気づいた顔の付喪神たちが、「おまかせを。必ず探ってまいります」約束してぐい飲みをあけた。再び浮かれだして、酒とほら話で盛り上がる座から視線を外すと、一太郎は部屋の隅に下がって、小声で手代たちに話しかける。
「二人とも、いまの話どう思う?」
「何かを推測する前に、知っておかなくてはならないことがありますよね」
佐助が己に言い聞かせるように言う。
「殺された棟梁の持っていた墨壺が、その底の裂けたものと同じかどうか、確かめることが先です。こいつは棟梁のおかみさんに聞いてみればすぐ分かることで」
「日限《ひぎり》の親分さんに尋ねてもらいましょう。このごろ若だんなが店に出ないので、心配なすって、ちょくちょく寄って下さるんですよ」
「そうだね、話はその後……か」
もし墨壺が棟梁の持ち物だったとしたら。もし下手人たちが皆、裂けた墨壼を手にしていたとしたら。話の中心にはその大工道具があることになる。
妖達はいちだんと盛り上がってきている。普段ならいくらなんでも騒ぎすぎだと、三人のうちの誰かから、一言あるはずだ。だが今夜は誰も止めはしない。
ただじっと考えに沈み込んでいる。ぐい飲みも空のまま、そこに置かれたままだった。
知りたいことが向こうからやってくるのに、二日とかからなかった。
「若だんな、思ったより元気そうでよかった。ここのところ奥にずっといたからね、よほど悪いのかと思っていたよ」
この頃の暖かな日ざしが庭中に満ちて、なんとも心地の良い日だった。日限《ひぎり》の親分が薬種《やくしゅ》問屋の奥座敷、開け放たれた障子の内に座って言うには、棟梁《とうりよう》の墨壺は大きな左手が彫り込まれたものであったという。
「でもどうして墨壺のことなぞ、気にかかったんで?」
「若だんなと最近の殺しのことを話していたんですよ。たまたま棟梁のところから盗まれたという道具のことが話題にのぼったもので。すみませんねぇ、下らないことを親分さんにお聞きしてしまって」
言い訳をしながら、仁吉《にきち》が大きな菓子鉢を運んできた。菓子屋は気が早いのか、今日の練り菓子は、四角に切ったきらきらとした寒天で飾られた、花の形のものだった。
「おや、これは紫陽花《あじさい》かね。いいねぇ、しっとりとした気分になるよ」
風情《ふぜい》を感じているという割りには、最初の一つを二口ばかりで飲み込んでしまう。さらにいくつか口にしながら、清七《せいしち》はさりげなく若だんなに注意をした。
「若だんなは襲われた口だから、昨今の殺しが気になるのは分かるがね、あまり考えなさんなよ。体に障《さわ》る」
そうですねと、おとなしく答える若だんなに、日限の親分は笑って請け合った。
「嫌な殺しが続いているが、下手人は捕まっている。凶事は続くもんじゃないよ」
お決まりの金と甘いものの包み。それを抱えて親分が帰っていった後には、徳利《とっくり》と焼いた干物が用意された。もちろん奥座敷に妖《あやかし》は呼べないから、三人は離れに引っ込んだ。
「あたしの調べた店の墨壺は、売れていました。買ったのはまだ若い男です。半纏《はんてん》を着ていて、大工か左官のようだったが、はっきりとはしないと古道具屋に言われましたよ」
蛇骨婆《じゃこつばば》の報告に続いて、野寺坊《のでらぼう》が口を開く。早く酒が飲みたそうな感じだ。
「我が訪ねた店で墨壷を買ったのは、胡麻塩《ごましお》頭のじいさんだったとか。伊勢《いせ》町に小体《こてい》な店を出している小間物屋の隠居だそうで。あまり高くない古道具を、ときどき買っていくと申しておりました」
「そう……左官と胡麻塩頭のじいさん、か」
思っていたとおり、というべきだろうか。やはり壊れてしまった墨壺は、突然人を殺してしまった三人の手に渡っていた。元々が殺された大工の持ち物だったことを考えると、短い間に四人もの殺しに関わっていたことになる。
「偶然とは思えないよ」
手代たちもこれには頷《うなず》いている。
二人の妖は褒美《ほうび》を貰《もら》い、たいそう喜んで消えた。一太郎たちは離れの火鉢の周りに座り込むと、集めた話を検討にかかった。
「この墨壺が、人に憑いて、人を殺していた張本人だと思う。どうだい?」
若だんなの言葉に、仁吉は素直に頷かない。顔つきが、なかなか噛《か》み砕けない湿気《しけ》た煎餅《せんべい》でも口にしている様子に似ている。
「確かにこいつは怪しいですがね。ただ、妖たちは壊れた墨壷が付喪神《つくもがみ》になっているとは言わなかった。将来なれたかもしれないのにと、惜しんでいたんです。妖でないのなら、どうやって人に憑くんです?」
「これは私が考えた話だから、裏打ちがあるわけじゃないけど……今集まっている皆の話から考えたんだ。ちょっと聞いてほしい」
そういって一太郎が始めたのは、この件の初手からの話だった。
「始まりはやはり、ぼてふりの親心からだと思うんだよ」
ぼてふりの長五郎《ちょうごろう》は、息子にだけはもう少しましな暮らしをさせたかった。思いついて大工の棟梁のところに頼み込んでみるが、人手は足りているからと、あっさり断られる。
「思うに、ここで長五郎は墨壼《すみつぼ》を盗んだんじゃないかな。棟梁が気に入っている古い大工道具。軽くあしらわれたと恨んで、意趣返しのつもりで持ち出したのさ。その後うっかり壊してしまったか、己の手でわざと傷つけたか。まあ、修理もできないくらいに裂かれていたのだから、たぶん故意にやったんだろう」
棟梁は道具が失くなったことと、ぼてふりが来ていたことをつないで、返すように言ったのかもしれない。だが怒りにまかせて、ぼてふりは墨壺を壊してしまっている。ただ返す訳にはいかなくなって、人気《ひとけ》のない聖堂の塀脇に、大工を呼び出したのだ。
「なぜそんな手間をかけたんですかね。家を訪ねて、悪かったと謝ればいい話で」
佐助の疑問に、若だんなはため息をついた。
(栄吉《えいきち》は私が世間知らずだって言うけど、手代たちよりはましだと思うよ)
「ぼてふりは道具を盗んだんだよ。そのことを人のいるところで言うのは、嫌だったんだろうさ。それに墨壺は凝った細工の上物だった。大きく底が裂けていても、売り物になる品だよ。弁償すると言ったって、ぼてふりの稼ぎでは大変だろう」
間違いなく、話はこじれたのだ。だが、はなから大工の首が落とされるような物凄《ものすご》いことになったとは思えない。一太郎は、ここで墨壺が関係してくると思っている。
「墨壺は古い古いものだった。こうして何人もの人に取り憑いたくらいだ。たぶん、付喪神になりかかっていたのじゃないかしら。だが、もう少しというところで、無残に裂かれてしまった。無念だったろうね」
そのなりそこない≠ェ、暴発するようなことが起こったのだ。
「暴発? 狂ったのですか?」
「多分血だよ。血の臭《にお》いでとんでもないことをする妖は、時々いるだろう? そいつが壊れた墨壺の上にかかったとしたら?」
「推測です。誰もそれは見ちゃぁいない」
佐助の言葉に、若だんなは指摘する。
「大工が殺された夜、私は刃物を血に濡《ぬ》らしたぼてふりに行き合っているんだよ。私が見たときは、ぼてふりはもう、なりそこないに取っ憑かれていたんだろうね」
大工と話すのに、ぼてふりは刃物を持っていったのだ。話がこじれて、そいつを使うはめになった。つけたのは小さな傷だったのかもしれないが、その血でなりそこないが狂った。ぼてふりに取り憑くと、己の不満を吐き出して、大工を殺してしまったのだろう。
「だから、初めはくっついていた棟梁の首が、後で落とされることになった。通りかかった私を逃がしてしまって、なりそこないの奴、腹が立ってやったのさ」
人ならば躊躇《ちゅうちょ》するところだが、妖は感覚が違う。
「ここまでの話は、当たっているんじゃないかと思うんだよ。己の名が表に出ないように、墨壺は道具をばらばらに売り払った。だがここからが難物なんだ。そいつは人殺しを繰り返している。こうとなったら、大工につける薬欲しさとは、とても思えない。下手人は、なりそこないなんだよ。さて、どうして罪を重ね続けるんだか」
考えが途切れたらしく、若だんなはひと息いれた。佐助がすかさず火鉢の上の鉄瓶をとって、茶を淹れる。濃い茶に添えられたあられを、一太郎は一つ二つ、口にほうり込んだ。
仁吉がここで、口を開いた。
「もし若だんなの言うことが正しければ……当たっている気がしますがね……一連の殺しは、ほどなく止《や》みますよ」
「なぜだい?」
大きく目を見開いた一太郎に、佐助の方が説明をする。
「なりそこないってものは、要するに付喪神になれなかった奴ですからね。妖力《ようりょく》は強くないし続かない。しばらくすれば、ただの壊れた道具に戻るはずです」
「そうなの?」
一太郎は目を丸くする。妖の世界にも、それなりの定めがあるらしい。
「では人殺しの噂《うわさ》がなくなるまで、おとなしく家にいてもらいましょうね。屏風《びょうぶ》のぞき、協力しておくれだね? 私たちが側《そば》におれないときは、若だんなを見ていてもらいたい」
「おや、あたしに頼むのかい? 珍しいことで」
派手な付喪神と手代たちは仲が悪い。居間の隅から聞こえてくる声は、てっきり断るかと思ったのに、承知だとの返事。若だんなは慌《あわ》てた。
「あれま、なんで今日に限って、仲よしなのさ!」
「では店に戻りますので、素直に休んでいるんですよ」
「お待ちよ、聞きたいことが残っているんだよ」
「なんです?」
「そのなりそこないは、何を欲しがっているのか、ということさ。大工に使いたいとの考えは違うにしても、人を三人まで殺してでも、手に入れようとしているもの。なんだと思う?」
「分かりませんね」
「私らは若だんなが無事なら、それでいいんで」
あっさり言って、手代たちは消えてしまう。若だんなは怖い顔であられの残りを、ばりばりと噛んだ。
「まずい話だ。なりそこない≠ヘ、あの薬を探しているのじゃぁないかね」
「やはりそうかというところだね。薬のことを、いったいどこから聞いたのやら」
「あれがあれば、なりそこないは付喪神になれるのかね」
「たぶん……あればの話だが」
手代たちは離れから出たものの、店には戻らず、人目につかない三番蔵の傍で話し込んでいた。
「なりそこないにはあまり時間が残ってないだろう。嗅《か》ぎつけたら、なりふりかまわず襲ってくるかもしれないよ」
「人に取り憑《つ》いて近寄ってきたら、やっかいだ。見張りを増したほうがいいね」
軋《きし》むような音がして、鳴家《やなり》が幾人《いくたり》か顔を見せたかと思うと、すぐに消える。庭木が揺れると、ちょっとの間、幹の上に毛だらけの顔のようなものが浮んで、これもかき消える。手代たちは頷くと、別れてそれぞれの店表《みせおもて》に向かった。
(下手人が欲しがっていたのは、何かの薬だよ。だから薬種屋ばかりが襲われた。問題はなりそこないが欲しがる薬を、思いつかないっていうことさ)
若だんなは相変わらず部屋に押し込められっぱなしで、機嫌が悪い。手代たちの頼みを聞いたというので、ふてくされて屏風《びょうぶ》のぞきとも、碁を打つことをしないでいる。
(ぼてふりは確かに香りがすると、言っていた……長崎屋にあるかもしれないんだけどねぇ)
暇にあかせていくら考えても、答えが出ない。なりそこない≠ェ欲しがる薬と言えば、本物の付喪神《つくもがみ》になれる、奇跡の一服、というものしかないと思うが、そんな妖《あやかし》用の特効薬なぞ、薬種問屋に置いてあるはずもなかった。
「若だんな、栄吉《えいきち》さんですよ」
佐助の声が襖の向こうからかかって、幼|馴染《なじ》みが姿を現した。いつものように菓子の包みを下げている。そそくさと茶を淹れると、佐助は二人を残してすぐに店に戻った。船が港に入ったらしい。廻船《かいせん》問屋の手代は、忙しいようであった。
「相変わらず、出してもらえないようだね」
幼馴染みの今日の差し入れは、黄粉《きなこ》でまぶした餅《もち》に、黒蜜《くろみつ》をかけたものだった。
「これはいけるんじゃないかい」
火鉢の周りで縁側を眺めつつ、一太郎がそう請け合って食べていると、栄吉が無言で擦り寄ってくる。その様子に若だんなは思わず屏風絵に目をやった。
「一太郎……言うべきかどうか、迷ったんだけど」
言いにくそうであるが、言わずにはいられないらしい。「兄さんのこと?」一太郎が聞くと、すぐに首を縦に振った。
「みんなからこっぴどく叱《しか》られたからね。もうこの話はご法度《はつと》なんだろうが……」
「言いなよ。気になるじゃないか」
「これ以上松之助さんのことに関わっちゃいけないと言われたんだけど、気にかかってね。あれからもこっそり様子を見ていたんだ。今、松之助さん、大事《おおごと》になってしまっているんだ」
「何かあったの?」
栄吉が言うのには、松之助が奉公している桶屋《おけや》、東屋《あずまや》には二人の子どもがいる。跡取りの息子と、二つ年下の娘だ。この娘の方が松之助を憎からず思っているのが分かって、揉《も》めているという。
「東屋の若だんなは、おれが言うのもなんだが、できの良い方じゃないのさ。そこへもって、妹が仕事のできる奉公人とくっつきでもしたら、若隠居でもと言われかねない。おかみも息子がかわいいし、娘にはもっと良い縁をと望んでいるしで、松之助のことが気にくわない。ありていに言うと、追い出されかけているのさ」
「そんな。店を出されたら、兄さんどうするのさ」
「まあ、若いし体も丈夫だ。どこぞの口入れ屋にいって、奉公の口を探すしかないだろうね。義理の親の家には帰れまいしね」
それは何とも心もとない話だった。親はなし、育った家といえる奉公先も出されてしまうのでは、己が身を浮き草よりも、よるべなく思えてしまうのではないか。一太郎は立ち上がると、部屋の隅の小箪笥《こだんす》を開けて、紙入れを取り出した。
「栄吉、見つかったらまた、嫌なことを言われるかもしれない。それでも頼まれてくれるかい?」
「おれから言い出した話だからね」
こころよく請け合った幼馴染みに、若だんなは一朱銀、二朱銀合わせて二両ほどの金をかき集め、紙に包んで渡した。
「これでとりあえずはどこぞに落ち着く足しになるかも……ああ、でもどこの誰かも分からない者の金では、受け取らないか」
紙の上に短く、廻船問屋長崎屋の弟より、桶屋東屋の松之助様へと書く。これに栄吉の顔が曇った。
「いいのかい? こんなことしたら、店を訪ねて来るかもしれないよ。またひと騒動だよ」
「それでも……放っておけないじゃないか」
ちらりと奥にある屏風に目をやる。しかし妖はなんの徴《しるし》も示さなかった。
「それじゃぁ、いいんだね。行ってくるよ」
「栄吉、本当に迷惑ばかりかけてすまない。いつかきつとお返しはするからね」
「期待してるよ」
幼馴染みはそそくさと部屋を出て行く。一太郎はそれを見送るしかなかった。
[#改ページ]
[#小見出し]  八 虚  実
[#挿絵(img/syabake265.jpg、横152×縦325、下寄せ)]
その知らせは、友を送り出して一時《いつとき》もしないうちに、長崎屋に届いた。
「若だんな、栄吉《えいきち》さんが刺された!」
離れに飛び込んで来たのは仁吉《にきち》。今、下っぴきの正吾《しょうご》が店表《みせおもて》に来て、三春屋《みはるや》の跡取りが筋違橋御門《すじかいばしごもん》の辺りで襲われたと告げていったという。
「傷は重いのかい? 栄吉は……生きているんだろうね」
手代に聞くと、手近な医者に運ばれたものの、容体のことは分からないという。ただ、たいそう血が出ていて、着物が赤く濡《ぬ》れていたのを正吾が見たそうだ。
「栄吉、死ぬの……?」
自分ならともかく、幼|馴染《なじ》みのほうが先立つなど、考えてみたこともなかった。じわじわと頭の中に染《し》みこんでくる現実に、一太郎の顔が蒼《あお》くなってくる。
「若だんな、大丈夫ですか? 床をのべましょうか?」
心配する手代に首を振ると、若だんなは「店に行くよ」と、離れを走り出た。
「栄吉さんの所に行くのは駄目ですよ。下手人は逃げているようです。外へ出るのは危ない」
「行きゃしないよ。手当ての邪魔になるだけだ」
そう言って母屋《おもや》に入ると、真《ま》っ直《す》ぐに廻船《かいせん》問屋のほうに向かう。長い廊下を抜けて店の奥にある、父親のいつもいる部屋に出た。
「おとっつあん、栄吉のこと聞いた?」
入るなり尋ねると、番頭と帳面をつけていた藤兵衛《とうべえ》も、心配げな顔を息子に向ける。
「つい今、刺されたと聞いたところだよ。ここのところ、本当に物騒なことで。薬種屋《やくしゅや》以外の者も、用心しなくちゃならなかったとはね。大丈夫だろうか」
気にはしているが、心底不安に思う訳ではない風だ。そもそも三春屋とは息子どうしの繋がりから縁ができた間柄だ。藤兵衛自身が親しい訳ではないので、これは仕方がないのかもしれなかった。だが若だんなは父親の前に座り込むと、腕を掴《つか》んで懇願する。
「おとっつあん、お願いだよ。源信《げんしん》先生を呼んで。栄吉を診てもらってよ。着物が血に濡れていたと正吾さんが言ってたって。藪《やぶ》に見立てられたんじゃ、助からないよ」
「お前、それを私に頼むのかい? 栄吉には親がいるんだよ」
「源信先生は謝礼が高いので有名だもの。三春屋じゃぁ呼べないよ。おとっつあん! たった一人の幼馴染みが死んだら、私は寝込んじまうからね!」
「やれやれ、それはいけないね」
それで本当に医者を、栄吉が運び込まれた家にやったのだから、長崎屋はまたまた大甘の親|馬鹿《ばか》として、近所で噂《うわさ》にのぼることとなった。
源信が大枚の謝礼に見合う腕を振るったのか、運が良かったのか、栄吉は助かった。何日も経《た》たないうちに、戸板にのせられて家に帰ることすらできたのだ。三春屋に幼馴染みが戻ると、若だんなは見舞いに行くと言いだしてきかない。どうにも止められなくて、手代たちを連れての、用心しながらの訪問となる。
一太郎にとっては、久しぶりの外出《そとで》でもあった。
「まったく私が栄吉の見舞いに来る日があるなんて、思いもしなかったよ」
三春屋一階の奥の間に、栄吉は寝かされている。脇腹《わきばら》をかなり深く切りつけられて傷は深かったが、幸運なことに臓脇《ぞうふ》は無事だった。食べるに困らないので、若だんなは友に船で各地から運ばれてきた、珍かな名物を届けた。今日持参したのは、大坂|津《つ》の清《せ》の岩おこしだ。
「見舞いの品にするには、ちと固すぎる菓子かなとは思ったんだけど」
栄吉が無理なら、家族で食べて下さいといって差し出された梅鉢柄の箱を、幼馴染みは床の脇に引き寄せて、せっせと甘味にかじりついている。米を蜜《みつ》でかためた菓子は、名が通っているだけあって、さすがに美味だった。
「医者のことといい、見舞いの品といい、本当に良くしてもらって……」
小さなおこしを噛《か》み砕いた栄吉が、寝床でしみじみとした口をきく。一太郎は視線を畳に落とすと、小声で答えた。
「だって……栄吉が襲われたのは、私のせいだもの」
この言葉に、三春屋まで付いてきていた手代たちが、驚いた顔を向けてくる。当の病人までびっくりした顔で若だんなを、まじまじと見ることになった。
「おれに切りつけたのは、白髪頭のお武家だったけどねぇ。一太郎、お前さんいつから二本差しになったんだい?」
笑って言われても、一太郎に笑顔はない。ちらりと手代たちに目をやってから、栄吉に頭を下げた。
「……私がお前さんに用を頼まなきゃ、筋違橋御門なぞには近寄らなかっただろう?」
「筋違橋御門って……若だんな、あれだけ叱《しか》られたのに、また松之助さんと会おうとでもしていたんですか」
佐助たちの顔が厳しくなる。
「金をいくらか届けてもらうよう、頼んだんだよ。なんでも松之助さん、店のお嬢さんに惚《ほ》れられてしまって、困っているみたいで。奉公先を出されそうだというんだ」
「だからって、なんで若だんなが金を出さなきゃあならないんです?」
仁吉の言葉がきつい。そこに栄吉の声が割ってはいった。
「仁吉さん、そう言わないでおくれなさいよ。じつは一太郎から預かった金のおかげで、生き延びたんだ」
「どういうこと?」
三人の目が、寝ている病人に集まる。栄吉は腹のところに手をやった。
「もうすぐ昌平橋《しょうへいばし》が見えるっていう辺りで、いきなり小刀を抜いたお武家に刺されたんだ。腹のど真ん中を切りつけられたんだけどね、懐《ふところ》に金の包みを入れていた。一朱銀、二朱銀合わせて三十枚もあったかね。そいつで刃先がすべって、脇腹を切られただけですんだんだよ」
その金は、栄吉への見舞金になっていた。なんにせよ、金子《きんす》で幼馴染みの命が助かったのなら、ありがたい話であった。
「そういえば、おれを切りつけたお武家は、何か変だったよ」
もう大分、具合も良くなってきたに違いない。栄吉のしゃべりは続く。
「そりゃあ、昼間から人を切ろうとするやからは、まともじゃぁありませんよ」
「正気かどうかは別として、妙な塩梅《あんばい》だった。第一、なんで大刀のほうを抜かなかったんだろう」
「それはそうだね」
一太郎も首をかしげる。侍が人に切りつけるのに、小刀のほうを抜くのは、何とも腋《ふ》に落ちない話だ。
「そいつはいきなり近づいてきて、香りがする、する、お前、持っているだろうと言ってきたんだ。訳が分からないだろう?」
「は?」
「金に困って懐の紙入れを狙《ねら》っているのかと思った。それで自分のものは出したのに、切りつけてきたんだ。これを聞いた日限《ひぎり》の親分も、頭を抱えてたよ。それでなくとも相手がお武家では、親分さんが関われることじゃぁないけどね」
「あ……ああ」
寝ている栄吉に見られないように気を配りながら、三人が目くばせをする。幼馴染みを襲ったのは、なりそこない≠ノ違いなかった。今度は武士に取り憑《つ》いたらしい。
(でも、薬種屋でもない栄吉を、なんで襲ったんだ?)
いったい何が、なりそこないを幼馴染みに引きつけたのだろう。奴《やつ》が探しているのは、何かの薬……少なくとも薬種屋と関係があるもののはずなのだ。
「栄吉、切られた日のことだけど、印籠《いんろう》を持っていたかい? 香りのするものはどう?」
聞かれて友は枕《まくら》の上で首を振る。
「親分さんにも聞かれたけれど、そんなもの平素は持っていないよ。ああ、いけない」
なにか思い出したらしく、栄吉が顔をしかめる。
「そういえば、一太郎が書いたあの書き付け、そのお武家にとられてしまったんだよ。ごめんよ」
「書き付け?」
言われなければ書いたことも忘れていたような、紙一枚。長崎屋の名と東屋《あずまや》の松之助の名が書かれていたと、手代たちに説明する。
「なんだってそんなものを……。拾ったって、紙屑屋《かみくずや》にしか売れやしない」
「切られたとき、金子と一緒に、懐から落ちたんだ。侍はもう一回振り上げていた刀を下ろして、金には目もくれずにあの紙を拾うと、そのままどこぞへ行ってしまった。変だなとは思ったけれど、ほっとするのが先だったのさ。それで今まであの紙のことなど忘れていた」
「何も覚えていなくともいいさ。養生して早く良くなることだよ」
「本当に、いつもと逆だ。何だか妙な気分だよ」
一太郎が側《そば》にいると、栄吉が際限なく話をするので、ここいらへんでと、三人は三春屋を辞した。
表長屋から長崎屋まではほんのひとまたぎ。塀をくぐってから離れに行くほうが、時間がかかるような具合だ。帰る間も、己の部屋についてからも、若だんなは口をきかなかった。佐助がすぐに火鉢の火をかきたて、茶の支度をする。空は曇っていて日ざしもなかったから、手代は障子を開けはしなかった。一太郎は達磨柄《だるまがら》の火鉢の前に陣取ると、無言のまま、二人の手代に手招きをする。
「何ですか、若だんな。怖い顔をして」
仁吉が愛想よく笑って腰を下ろす。この手代がこういう顔をするときは、用心しなくてはならない。そのことを一太郎はよく知っていた。
「ねえ、仁吉、佐助、栄吉は私と間違えられて、切られたんじゃないかい?」
「驚いた。若だんな、なんで突然そんなことを言うんです?」
仁吉が大いにびっくりしたような顔を見せる。一太郎はいちだんと声を低くした。
「仁吉と一緒にぼてふりに襲われた日に、あいつは私の前で、香りがする、間違いないと店の奥の間で言ってたよ。ただ、ここは薬種問屋、どこから香りがするんだか、なりそこないにも分からなかったんだろう」
手代たちが顔を見合わせている。もう仁吉が笑っていないのが、目に入った。
「そして、栄吉が襲われた。あいつは私が渡した包みと、書き付けを持っていたんだよ。おまけに侍は書き付けを手に入れると、振りかざした刀を下ろして、どこぞに消えてしまったという」
「栄吉さんが薬種屋と間違われて怪我《けが》をしたなら、気の毒なことです」
「そういうことじゃぁないだろう? 私の周りに、なりそこないが目当てにしている香りがあるんだよ。でも、私は家では印籠なぞ持っていないし、第一、その中には特別なものなど入ってない。いったいなんの香りなんだい? どういうことだい?」
「それをあたしらに聞くんですか? なりそこないが何を考えているかは、どうにも分かりかねます」
突っぱねた返事を返す手代に、若だんなが食い下がる。
「私のことなら、二人のほうが私自身よりよく知っているじゃぁないか。じい様に連れられてきたときから、妙に心得ていたくせして」
「どう言われましょうと、知らぬことを答えたりできませんよ」
そのまま睨《にら》み合うこと、しばし……。
中に挟まれた格好の火鉢の達磨が冷や汗でもたらしそうな沈黙が、部屋に満ちていた。どちらも口を開かない。今日ばかりは双方引かない構えに見えた。
そのとき。
「若だんな、ちょっといいですか」
部屋の隅からのひと声が、その張り詰めた空気を破る。さっと顔を険しくして、佐助が声を荒らげ、振り向いた。
「屏風《びょうぶ》のぞき! お前の出てくる場ではないよ。黙ってな!」
「犬神《いぬがみ》さん、白沢《はくたく》さん、お客がお見えで」
付喪神《つくもがみ》から珍しくも本性の名で呼ばれて、手代たちは顔を奥に向ける。そのとき屏風の後ろの暗がりから、やおら現れたのは、背が高く貧乏臭いいでたちをした、一人の入道《にゅうどう》だった。
「これは見越《みこし》の入道様。わざわざのおいでとは知りませんで……」
頭を下げた二人は、早速に座布団《ざぶとん》を用意し、席をすすめる。どう考えてもそれは二人よりも上席の扱いだった。一太郎は手代たちより上位に位置するらしい妖《あやかし》を、初めて目にした。
「ちょっとお邪魔しますよ、若だんな。おお、今日は具合もいいようだ。まずはよかった」
「……それはどうも」
いきなり姿を見せた坊主《ぽうず》だが、どこかで見かけた気がする。まじまじとその細くひょろりとした坊主姿を見ていて、あっと思い出した。
「その……いつぞや栄吉が作った大福餅を、仁吉《にきち》から貰《もら》ってくれたお坊さん?」
「これはこれは、見ていなさったか」
見越の入道は、大きな口を開けて、あははと笑う。
「あれは変わった味の大福餅であった。だがわしの周りでは好まれておったぞ」
にやにやとしながら言う。機嫌がよさそうな入道の前で、手代たちは下を向いて顔をこわばらせている。
「ところで今日来た訳だがな」見越は若だんなに笑い顔を向けた。「聞きなれないことを話すかもしれないが、若だんな、お前さんのことだ。よく聞いておくれ」
「はい」
一太郎はそうと答えるしかない。出された茶をひと口すすると、入道は口を開いた。
「わしがここに来たのは、皮衣《かわごろも》どのの頼みによる」
手代たちの顔がさっと見越のほうを向く。言われた名に、覚えがあるようであった。
「犬神たちが、このところ派手に妖らを動かしているからな。なんぞあったのかと、体の弱い若だんなのことが、心配になったんだろうて」
「私のことがですか? その方はどなたなんですか?」
おずおずといった感じで一太郎が聞くと、見越はまた笑った。
「ああ、その名では分からぬか。おぎんのことだよ。長崎屋|伊三郎《いさぶろう》の妻、ぎん。おたえの母。お前さんの祖母だわな」
「えっ……」
言われても、一太郎にはとっさにその言葉が頭に入ってこなかった。
「祖母のぎんは早くに亡《な》くなったと聞いてます。でも皮衣って……どういうことですか?」
「なんの、聞いての通りだわな。ぎんの本性は妖。齢《よわい》三千年の大妖さね。わしとは昔からの知り合いでな」
「あやか……し?」
おのれの祖母が大妖だと言われて、いきなり納得できる訳がない。ただ目を見開いて声もなく黙り込む一太郎に、機嫌のよい見越の声が続く。
「おやおや、まったく信じられぬのか? 若だんなに妖達がついているのは、なぜだと思うかな。それにお前さん、妖がいたら、そうと分かるだろう? たとえ上手《うま》く人の姿に化けていてもだ」
「あ……」
言われてみればそのとおりで、一太郎には妖が見える。店の者の目には映らない鳴家《やなり》の姿だって、手にとるように分かるのだ。兄《にい》やは妖の手代二人。遊び相手は付喪神《つくもがみ》の屏風《びょうぶ》のぞきだ。
雨が乾いた庭に染《し》みこむように、入道の言葉がじわじわと頭に入ってくる。そうだったのかと、得心してきてしまう。
「じゃぁ……私も妖なんですか?」
真剣な顔をして聞かれて、見越の入道はかかと高く笑い声を立てた。
「古来、妖狐《ようこ》や幽鬼とまじわり、子をなした人はけっこうな数いてな、生まれた子らは人として生をうける。もつとも尋常ならざる力が、多少は受け継がれるようだがの」
一太郎は大きく息をついた。やっと何とか少し、気が落ち着いてくると、二人の手代がそっぽを向いているのが目に入る。二人は同じ妖である祖母のことを知っていたに違いない。長い間、一太郎には教えてくれなかったのだ。
妙にむかついてきて、手代たちに背を向けると、見越の顔をのぞき込む。
「あの、もし分かっているのなら、教えていただきたいことがあるのですが」
「わしが知ることならばな」
手代たちが様づけで呼ぶ大妖は、いたって気さくな性格のようだった。気が変わらぬうちにと、一太郎は思い浮んだことをせっせと聞き始めた。
「おっかさんは祖母が妖だったことを、知っていなさるのですか?」
「それは分かっているじゃろうて。お前と同じように、おたえにも妖は分かる。おぎんはお前が生まれる前の年まで、ここで暮していたのだからな」
「そうか……じゃぁ、祖父は? 分かっていて祖母と一緒になったのですか?」
「思い思われの、間柄でなぁ。伊三郎どのはおぎんと出会ったころ、武士で許嫁《いいなずけ》までおった。それをすべて捨てて、妖と分かっているおぎんと添ったのだ。おぎんの同族からは、人ながら大したものと思われたようだぞ」
西国から江戸へ、手に手をとって逃げた。互いだけが頼りであった二人を、おぎんの一門は大いに助けたらしいと、見越は語る。
「それでじい様一代で、通町《とおりちょう》に店を構えることができたんですね」
そうしてすべてを捨ててきた祖母も、妖の身なのに早死にをしてしまって……そして今、一太郎のことを案じているとは、どういうことだろう?
「ちょっと待って下さい。祖母は私が生まれる前に、死んだんですよ。なぜ今の私を心配できるんです?」
「おや、皮衣どのは、亡くなったか。知らなんだの」
ぺろりと言う入道に、若だんなは事の真相を悟った。
「生きているんですね」
「わしが先に会った時は、元気であった。今、神なる荼枳尼天《だきにてん》様にお仕え申し上げておる」
「なんと」
目に入る世界だけが、この世にあるのではない。妖と親しい一太郎は、そのことを分かっているつもりだった。だがまだ、神≠名乗るものに会ったことはない。入道がさらりと言ってのけたのを信じれば、神もまた、どこかに実際におわしますようだ。
「祖母は何もかも捨てて祖父と一緒になったのに、なぜ祖父と別れて家を出たんですか」
これも答えてもらえるものと、気軽に聞いたその問いを、いきなり手代の声が遮った。
「入道様。皮衣様はすべてを若だんなに言えと、おっしゃいましたか?」
襖《ふすま》の前に座った仁吉が、こわばった顔を見越の入道に向けてきている。大妖は手代に見下ろすような視線を向けると、苦笑いをした。
「お前さんは相変わらず一太郎どのを、子ども扱いしているようだの。まあ、妖の年から見れば、ほんの生まれたてというところだが。人の身なれば、いつまでも甘えてばかりではおられまいよ」
入道はそう言うと、一太郎のほうに向き直り、その顔をのぞき込む。口を開くと、一太郎が聞いたこととは別の話をしはじめた。
「鳴家たちが、かしましい。人殺しが続いているんだとか。その騒ぎに、付喪神のなりそこないが関わっているそうだの」
「はい。そこまでは分かったのですが」
でも、なりそこないが何を求めているのかが分からない。
「ただ、奴《やつ》は欲しいものを私が持っていると思っている。そういう気がするのですが」
「そやつはよほどのこと、付喪神になりたかったのだろうよ。己が欲にとらわれすぎると、周りのことなど見えなくなるものだ」
少し前にも、そんな者がいたと、見越は笑った。
「まだ若い女だったがな、子どもに恵まれなかった。一人生まれたのだが、すぐに亡くなってしまったのだ。そのときもう子は望めないと医者に言われたそうだ。だが、女は子を欲しがった。何にも換え難く、それこそ狂ったように見えるくらい、望んだのだ」
どこかで聞いたような話だと思った。手代たちを振り返ると、あらぬほうを向いている。これといった理由もないのに、何やら落ち着かなげな気分になってくる。仁吉は先ほどなぜ、入道の言葉を遮ったのだろうか。
「己の命に換えても子が欲しいと、女は神に祈ったんだ。この気持ちに女の母が負けた。このさき自分が従者となることと引き換えに、荼枳尼天様から秘薬をいただいたのだ。死者の魂を蘇《よみがえ》らせる神の薬でな、百里をわたる芳香をもつ。これを返魂香《はんごんこう》という」
「死者の魂!」
若だんなの顔色が蒼《あお》くなってきている。指が強く火鉢の縁を掴《つか》んでいた。それをちらりと見はしたが、見越は話を止《や》めなかった。
「女は母を引き換えにするつもりではなかったが、母は香を残して去ったあとで、どうしようもない。それで荼枳尼天様より授かった香を使ったのだ」
「……生まれたのですか? その香のおかげで」
「死んだ子の魂が、この世に引き戻された。そう、おたえは母になれたんだ」
大きく息をつく。
名前が出るまでもなく、母たえと、祖母の話だと察しはついていた。
(自分は死んだはずの子どもだった……)
いきなり言われても、この考えは何にも増して受け入れがたく、頭の中を行きつ戻りつして、収まりがつかない。
(でも…嘘をついているとは思えない。そうだよ、話の辻褄《つじつま》が、それであうもの)
では今の己は、神の薬を使ってこの世に戻ってきた、元物故者ということになる。それは人でも妖でもない、なにかいわく言い難い奇妙な生き物に思えた。返魂香……百里に芳香を放つという霊薬《れいやく》は、いったいどこから一太郎を引き戻したのだろうか。
(薬の……香り?)
もしかしたら、今でもそれを使った一太郎から、香るのだろうか。なりそこないは、人を襲うとき、しきりと香りのことを言っていた。欠けてしまった己の魂を取り戻すために、墨壺《すみつぼ》はその霊薬を求めているのだろうか。
「仁吉、佐助、なりそこないはその返魂香を求めていると、そう察しをつけていたのじゃぁないのかい?」
いきなり声をかけられて、若だんなの後ろにいた二人は、はじかれたように顔を上げた。どうしたらいいか分からない若だんなに、やけくそで睨《にら》み付けられて、おろおろと取り乱す。見越の入道がそこに助けを出した。
「まあ、怒りなさんな。返魂香のことをもっと早くに突きとめたとて、どうこうできた訳ではない。神の庭山にある返魂樹《はんごんじゅ》より作られる霊香、めったなことでは手にできぬ。おたえが入手したときとて、大妖である皮衣どのがその身と引き換えに、やっと一服手にしたというものだ。今この世にはないのだよ」
「は? 手に入らない?」
一太郎は呆然《ぽうぜん》と目を見開く。
「それでは墨壺に香を渡してやって、それで事を収める訳にはいかないのですね?」
「無理だろうね」
見越にはっきりと言われて、一太郎は頭を抱えた。
そうとなれば、残された道は二つしかない。一つはとにかく、いつかなりそこないが力を使い果たして消えるまで、おとなしく店にこもって待つ。
あと一つは墨壺との対決の道だ。霊香がどこにもないことを話して、納得すればよし。言って得心しなければ、力ずくでさせるのだ。
ただ今までのなりそこないの振舞いを見ても、話し合いで済むこととは思えなかった。
(一応人の身の私が、狂った妖《あやかし》のなりそこないを、どうこうできるだろうか)
未《いま》だに受け入れがたいことだが、この身は尋常のものとは言い難いらしい。しかし、妖を見るという力を別にすれば、何ができる訳でもない。相手がただの人殺しだったとしても、行き合えば逃げることを考えるのが精一杯の一太郎なのだ。
「若だんな、そういうことであるなら、しばらくはおとなしく店にいて下さい。この店だけなら、何があっても付喪神のなりそこないなぞに、入り込ませたりするもんじゃぁありません。きっちりと守ってみせますよ」
「お願いです。そうして下さいな」
二人の手代に口々にそう言われて、若だんなもそれが一番の策だと思う。人の身で怪しい力と対峙《たいじ》することなぞ、できそうもない。
第一、そんな怖いこと、やりたくない。
ちゃんと守ってくれる者がいるのに、のこのこ出かけてゆくことはない。父が母が心配するだろう。無理をすればこの弱い体は悲鳴を上げて、なりそこないに殺される前に、病になって命を落とすかもしれない。馬鹿《ばか》なことは考えないことだ。それが利口な考えというものだ。
だけど。
一太郎はきちんと姿勢を正したまま、畳の目を食い入るように見つめ続けた。考えなくてはならないことがある。答えを出さずには済まないことが、確かに目の前にあった。
このまま返魂香が手に入らなければ、なりそこないはただの壊れた道具になるしかない。力の消える時期が迫れば、それこそ死に物狂いで香を手にしようとするだろう。今ですら人を殺すのに、なんのためらいもないのだ。放っておけば、いつくるか分からない消え去る日までに、どんな被害が出るか分かったものではない。
(薬種屋《やくしゅや》の人たちは殺された。栄吉《えいきち》は切りつけられて寝込んでいる。お前、安全な長崎屋の中で、そんな人たちが増えていくのを見ていられるかい? 自分のせいで人が死んで行く。それを仕方ないと言えるかい?)
若だんなは黙って火鉢《ひばち》の達磨《だるま》と睨み合う。答えはどこからも返って来ない。部屋の内の誰も口をきかなかった。今は一太郎が決めなければならない時なのだ。己の命をかけた決断に、余人の言葉を挟む余地はなかった。
(ここで逃げたら、生まれてこなければよかったと思うことになる。自分さえいなければ、たくさんの人が死ななくて済んだのだから。おっかさんが返魂香を使ったことを、この身自身を、呪《のろ》ってしまうかもしれない)
そうなればどのみち生きていくこともむずかしい。
「なんてことだろう。私はその、なりそこないを、何とかしなけりゃあならないらしい」
一太郎は半ば捨て鉢な態度を承知で、なりそこないと相対することを部屋にいる妖に告げた。
「何を言い出すんです!」
手代が悲鳴にも似た声を上げる。それを突然の高笑いが遮った。
「いや、あっぱれだの。寝込んでばかり、しょっちゅう死にかけていると聞いていたのに、中身はどうして剛の者のようだ」
嬉《うれ》しそうに笑う見越の入道に、若だんなはしぶい顔を向けた。
「やらなくっちゃならないと思うから、なりそこないを止めにかかりますがね、どうしたらできるかという案がある訳じゃない。無謀といえば当たっているのかもしれない」
「それでもお前さんはやってみるという、いや、冥加《みようが》なことだ」
見越はうんうんと頷《うなず》くと、大きくにやりと笑った。するとその笑いは急速に広がって、入道の姿を超えてふくらみはじめる。それを見て、大きく目を見開く一太郎の前で、体の線は曖昧《あいまい》になり、床の上を走り天井を覆《おお》って、部屋は薄暗くなってきた。突拍子もなく大きくなって、もう手も足もさだかではないのに、にやにや笑いだけがはっきりと残って、若だんなにまつわりつく。
「皮衣どのがの、一太郎どののことでこれ以上人に迷惑がかかるなら、お前さんを人の世から切り離して、自分のところに連れてきてほしいと、こう言わしゃってな」
「えっ……」
一太郎だけでなく、二人の手代や屏風《びょうぶ》のぞきまで、思わず短い声を上げる。見越はただ若だんなの身を心配して、店に来たのではなかったのだ。
「皮衣どのは今、神に仕える身だからの。己が孫をこの世に呼び戻したことで、禍《わざわい》をまき散らすことになってはいけないと思ったのだろう。いや、己で何とかすると言ってくれてよかったわ」
あっさりと言う。薄い墨の幕のごときになった見越は、今や渦を巻いて部屋の空《くう》を回っている。風を起こすその影に包まれたまま、一太郎は呆然《ぽうぜん》としていた。
「つまり店に閉じこもって災厄をやり過ごそうとしていたら、死ななくちゃならなかった訳ですか?」
「まさか。皮衣どのがたった一人の孫を殺す訳もなかろう。ただ、人の世を離れるだけだ。お前は皮衣どのの孫だから、荼枳尼天様の御庭の隅にでも、おいていただけるのだろうよ」
(それじゃぁ、あの世に行くのと大して変わりがないじゃないか)
気づかぬ間に、長崎屋の一太郎という存在をかけての問答をしていた訳だ。今さらながら冷や汗がにじみ出してきたころには、離れに広がっていた妖の幕はいっそう薄くなり、やがてどこまでも広がって、その気配ごと消えてしまった。
「では、お手並み拝見」
姿もないまま明るい声が天井から聞こえると、最後にかすかな笑いだけを一瞬見せて、見越の入道は帰っていった。入道の渦に巻きこまれた格好の三人は、離れに尻餅《しりもち》をついた姿で残されていた。
「相変わらず、あのお方はすさまじい……」
佐助が吐き出すように言う。何とか立ち上がって若だんなに近づくと、「大丈夫ですか?」心配げに体を抱えるようにして無事を確認する。横で仁吉が這《は》いつくばって、その目を細くとがらせていた。
「あたしは……もう少しで若だんなをこの世から、はじき出してしまうところだった」
己たちが勧めた道を選べば、一太郎は今、ここから連れ去られてしまっていたに違いない。衝撃を受けた妖は、全身を震わせて立ち上がれないでいる。
その手代に一太郎はわざとつけつけとした口調で、言葉をかけた。
「仁吉、震えている暇はないからね。私はこの店にとどまりたかったら、あのなりそこない≠どうにかしなくちゃならない。お前さんの力が必要なんだからね」
言われて妖は顔を上げる。
「佐助もそうだよ。この際私の体のことより、考えなくちゃいけないのは、どうやってなりそこない≠ニ対峙するかだ。助けておくれだよね?」
「もちろん」
まさか狂った付喪神より恐ろしいものが、出てこようとは思わなかった三人だ。
とにかく打てる手をすべて考え出して、勝たなくてはならない。失敗すれば、一太郎はこの毎日の中から消えなくてはならないのだ。
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[#小見出し]  九 炎《ほむら》
[#挿絵(img/syabake291.jpg、横167×縦433、下寄せ)]
「若だんな、本当にそんな護符《ごふ》、効くんですか?」
三日後の朝餉《あさげ》の後。離れで妖《あやかし》を封じ込めるという護符を扱っている若だんなに、妖二人が猜疑《さいぎ》の目を向けてきている。文机《ふづくえ》の上にあるのは、上野の寺に店の者を使いに出してもらい受けた、ありがたいと世間の太鼓判を押されている呪符《じゅふ》だ。
「効いてもらわねば困る。上野、広徳寺《こうとくじ》の寛朝《かんちょう》様も、東叡《とうえい》山の寿真《じゅしん》様も、ともに妖封じで高名な方だ。だからこそ、万金の寄進を行って、こうして護符をいただいたのだからね」
何やら梵字《ぼんじ》のようなものが書かれている紙切れが五十枚束になって、二十五両。
「広徳寺でいただいたんだよ」
大した作りとも見えない、妖が切れるという守り刀が一本、これも二十五両。出所は東叡山だ。
双方の寺には他にも金子《きんす》を出しているから、大枚七十両が消えたらしい。
「近ごろの坊主《ぼうず》は業突《ごうつく》く張りだこと」
手代たちにとって、ただでさえ妖封じなどとは、聞くだけで気に入らないのに、それに当然のように大金を要求してくる僧らが腹立たしい。御利益《ごりやく》なぞ疑わしいものだったが、若だんなは人の身で、狂ったなりそこないから身を守る術《すべ》を持たない。欲しいと言われれば、是非もなかった。
「ところで若だんな、その金はどうしたんです? いくらなんでも紙入れに七十両も入っていた訳ではないでしょう?」
「何となくおとっつあんには言いづらくてさ、おっかさんから貰《もら》ったんだよ。百両欲しいと言ったら、小判でくれたよ」
「……よくそんなに下さいましたね。なんに使うって言ったんです?」
「何も言わなかったよ。おっかさん、どう思ったのかしらね」
「はあ……」
あっけらかんと言うところが、若だんならしいといえばそうだったが、佐助は体の力が抜ける思いがする。
「やはり筋違橋御門《すじかいばしごもん》のところから、不忍池《しのばずのいけ》に向かう道がいいかしらね」
かかった金子のことなど気にもせず、文机に陣取って、若だんなは己で描いた地図の上に護符の印をつけている。すでに呪符を配し、封じた場所を示すものだった。
なりそこないは返魂香《はんごんこう》の香りにつられて、通町《とおりちょう》近くをうろついている。被害者もここの者が多い。若だんなはまず、繁華で人の通りが多い通町や店を護符で封じて、そこから何とかなりそこないを遠ざけようとしていた。
争い事になるとしたら、なるべく人も家も少ないところがいい。一旦《いったん》、長崎屋付近に近づけないようにしておいてから、そこからわざと若だんなが離れたところに向かう。そうすれば墨壷《すみつぼ》は、若だんなの香りに誘われて、後を付いてくるはずであった。
「場所は上野の東叡山をお考えですか?」
仁吉《にきち》の問いに頷く。江戸はどこでも町屋や武家屋敷が広がっていて、なりそこないが暴れてもいいようなところは、そうそうなかった。通町からはかなり離れていたが、東叡山の境内なら広さは申し分がない。
おまけに上野には寛朝も寿真もいる。万が一、なりそこないが一太郎の手に負えなかったとき、目にあまる暴挙があれば、封じてもらえるかもしれなかった。
手代たちが不審な目で見ている護符だが、一太郎は効き目はあると思っている。それには立派な理由があった。
護符が手に入った日、離れに戻ると屏風《びょうぶ》のぞきが出てきていた。
「ねえ、ちょっと効き目を見てもらっていいかな」
そんな言葉とともに、呪符を見せた。反応は素早かった。
「ぎゃっ!」
気がついたときは、短い悲鳴だけが部屋に残っていて、屏風のぞきの姿はどこにもない。絵の中に戻ってしまったのだ。
「あの、もしかしてこれ効いたのかい?」
おそるおそる聞くと、うらめしげな声が返ってきた。
「それは妖封じの護符だろう! 若だんなはあたしを封じこめようとするのかい?」
「違うって。ちょっとこれの効き目を見てみたかったんだよ。ちょっとだけ……」
「ひどいよ! あたしはこれでも今まで若だんなのために尽くしてきたのにっ」
「ごめん。怒らないでおくれな。こんなに効くとは思わなかったんだよ」
どう謝ろうが、納得するものではない。それから口をきいてくれないから、よほど効いたものとみえる。そういえば呪符を持ち込んでから、鳴家《やなり》の姿も見えなかった。
だが一方、仁吉や佐助は残りの護符が束になっている側《そば》を、平気で行き来している。
(なりそこないにどれほど効くかは……賭《か》けだわな)
できれば二十五両分効いて欲しいところだが、そうそう商人《あきんど》が望むようにはいかないだろう。元手が取れるように、祈るしかない。
「通町を護符で封じ、東叡山に来るよう仕向けて、そこで討つ」
若だんなが立てた計画は単純なものだ。
妖どうしの対決となれば、なりそこないなどよりは、佐助たちのほうに分があると思う。しかし困ったことがあった。一つは、墨壺が人に取り憑《つ》くということだ。手代として暮している二人に、人殺しをさせる訳にはいかない。
「さて、どうしたらいいかね」
さらなる悩みは、うまく墨壺を誘《おび》き寄せることができるかということだった。なりそこないはこれまでに、一太郎以外の者を何人も襲っている。一太郎が生まれる前に使われたという返魂香の香りも、二十年近い時と共に、たいそう薄れて来ているに違いなかった。
こちらの都合のよい日に、うまく引きつけられるか。それが問題なのだ。
一太郎にとってまさに命を賭けたこの事態で、引っかかってくるのは、親の目だった。東叡山に行き、なりそこないと対峙《たいじ》するとなれば、一日仕事になる。相手次第では、夜まで事は延びるだろう。二親《ふたおや》が心配して騒ぐこと、請け合いだった。
手代たちと出かけたのでは店の者に内緒という訳にもいかない。三人で纏《まと》まって、たった一回出かけることすら、大変なのだ。あらかじめ日を決めておかなくてはならない。
そのときなりそこないが香りに気がつかず来なかったら、最悪の事態だ。
「はあ……」
思わず漏れ出た声に、佐助が振り返る。
「若だんな、お疲れですか?」
このところ気が休まらず、一太郎は今一つ顔色が良くない。それでもこの家から消えたくなければ、今はひたすら努力しなくてはならなかった。
「香りのことで頭を痛めているんだよ」
問題点を手代に相談していると、思わぬほうから救いの手が来た。
「若だんな、香りだけでいいのなら、なんとか調達できるやもしれませんよ」
天井からの声に、上を見上げれば鳴家たちが幾人《いくたり》も隅に張りついて、引きつった顔で護符の方を見ている。若だんなは大急ぎで紙の束を隅の小引き出しに隠した。
「これで降りてこられるかい?」
下に招くと、ちょろちょろと何人かが下ってくる。火鉢の周りに向き合って、今の話の訳を尋ねた。
「昔おたえさまが焚《た》きあげて、煙をお吸いになった何やら高貴なお薬。それは小さな薄桃色の紙で包まれておりまして」
「そうか、お前たちもあのころ、この家にいたんだね」
「はい。荼枳尼天《だきにてん》様のお使いが来るなど、めったにあることではありませんので、陰ながら拝見しておりました」
返魂香で子を得ても、生まれるのは幾月も先の話だ。おたえは今度こそ無事に生まれるようにと、香を包んでいた薄紙を他の供え物と一緒に、庭の稲荷《いなり》神社に奉《たてまつ》ったという。
「あの紙ならば、香りが強く残っているかもしれません。わずかに香の屑さえ、ついていてもおかしくない」
「それならきっと使えるよ。若だんな、そいつを見てみましょう」
今にも庭に駆け出しそうな手代を、一太郎が袖《そで》を掴《つか》んで引き留めた。
「お待ちよ。昼間からお稲荷様のお社を開けていたら、店の者に見つかるよ。なんて説明する気だい? 夜だ、夜!」
「……そうですか?」
不満げな手代たちに、若だんなはため息だ。
(相変わらず妖というのは、ときどき危なっかしいよ)
とにかく夜を待つしかない。そのときに備えて、若だんなが店の守りの護符を貼《は》って回ったので、鳴家たちは早々に消えてしまった。
雲は低く、月の光は遮られてしまっている。そんな常闇《とこやみ》に近い夜だったのは、稲荷に近づく三人にとって、好都合な話だった。
しばらくの間、開けていないお社をひらくというので、埃避《ほこりよ》けに三人とも豆絞《まめしぼ》りの手ぬぐいを頭からかぶって、腰にも一本下げている。手代たちは手に小さめの箒《ほうき》と雑巾《ぞうきん》を持ち、若だんなはお供え物を運んで行く。人目を忍ぶことであれば、音を立てないように気配りをして庭を歩いた。
若だんなの口からぼそりと、文句がたれる。
「なんだか泥棒にでも入りに行く気分だよ。人殺しのなりそこないと対決しているはずなのに、古《いにしえ》の英雄豪傑とは、ずいぶんやっていることが違う気がするんだけどね」
これに、押し殺したような笑い声が横から応《こた》えた。
「仕方ありませんよ、若だんな。あたしらは商人。様式を守って格好に命を賭けている武士とは違います。仕事も日々のことも、放っておく訳にはいかないですからね。船荷を仕分けて薬を調合する間に、血にまみれた妖物《ようぶつ》を倒すんですよ」
「気分の乗らない話だよ、まったく」
土蔵近くにある稲荷は小さいながら、名人と言われる宮大工の作だけあって、全体に凝った作りだった。前面の扉は花や木の透かし彫りと二重になっていて、なんとも美しい。手前には今でもおたえが毎日欠かさない、団子やお神酒《みき》が供えてあった。
「失礼いたします」
仁吉が声をかけてから、それらを横にどかせる。小さな扉を手前に引いて開けると、中から甘いとも清《すがすが》々しいとも言える、思わず立ちすくんで目を見張るような香りが漂った。
「なるほど、これが返魂香の香りか……」
一太郎が小振りな祠《ほこら》の中に目をやる。小さな酒樽《さかだる》や鏡、玉などが並ぶ中に、大事そうに布の上に置かれた紙切れがあった。
不思議なほど新しいものに見えた。埃をかぶることもなく、薄桃色が色あせていることもなかった。手に取ると、薄い紙が砕けて散ってしまいそうに感じる。いっそう立ち上る芳香に、眩暈《めまい》がしてきそうだった。
「私からこんな香りがしたことがあったのかね?」
首をかしげる若だんなに、二人の手代はなんとも言い難い表情だ。二人とも一太郎の近くにいすぎて、慣れすぎている。かすかな匂いなど、今さら気づきはしないというところなのだろう。
返魂香の紙をお借りするお礼に、三人で稲荷の中を清め、新しいお供え物を置く。
(おばあ様、なにとぞこの一件を乗り越えられますように、お見守り下さい)
庭から出ていく前に、一太郎は熱心に稲荷に祈った。天地に祈ったら、あとは己の責任だ。我が身を信じて、やれるだけのことをやるのみだった。
「仁吉、店から薬研《やげん》と茶臼《ちゃうす》、それに秤《はかり》を持ってきておくれでないか」
離れの部屋に帰ってくるなり若だんなに言われて、仁吉は顔をしかめた。
「若だんな、もう五つを過ぎていますよ。何を始める気か知りませんが、まだ事を起こすには日がある。今日は寝て下さいまし」
このところあれこれと忙しい日が続いている。疲れ気味であったし、いつもならあっさりと手代の言うことをきいて、床に入るところだが、この夜の一太郎は頷《うなず》かなかった。
「精一杯やっておかないと、もしも上手《うま》く行かなかったときに、諦《あきら》めがつかない。もう少し見逃しておくれ」
「……分かりました。薬でも作るんですか? 無理をしないで下さいましよ」
仁吉もここ三日は態度が違う。すぐに引き下がって、店表《みせおもて》から薬を作るための道具を取ってきてくれた。そのことが、いつもの日々との隔たりを一太郎に感じさせる。文机《ふづくえ》の前に座って、日中《ひなか》のうちに選んでおいた生薬《しょうやく》を刻みはじめると、背後から佐助の顔が近づいてきた。
「若だんな、寝る時間を削って、何を作っているんです?」
「薬だよ。実はね、あの薄桃色の包みの中に、返魂香に見せかけた薬を一つ、入れておこうと思って。その方がいかにも本物があるみたいで、なりそこないを呼びやすいだろう」
「まさかその中に、毒でも仕込もうなんて、考えてないですよね。そいつで相手を倒そうなんて」
「……やっぱり効かないと思うかい?」
「あたしらには人と同じものは効きません。妖《あやかし》に効く毒がないとは言いませんがね。それぞれに違うんです。よく知りもしない妖を、毒で仕留めることはひどくむずかしい」
あっさり言われて、若だんなはがっかりしたようであった。それでも体裁を整えるのだと言って薬を調合し、四寸四方の紙にちょうど包めるくらいの、茶色の小振りな塊を作り上げる。茶巾絞りを作る要領で紙の上をひねると、いかにも香らしい、小さな包みができ上がった。
一太郎はそれを丁寧に懐紙《かいし》に包むと、紙入れの中に入れる。
「そろそろ四つ近くになります。お願いですから寝てくれませんか。これじゃぁ上野に行く前に、寝込んでしまう」
仁吉の言葉に今度はすぐに頷くと、さっさと着替えて床につく。
「格好悪いねぇ。鬼退治に行く武将は、疲れたからって寝込んだりしないものだよ。そうだろう?」
「寝ようが休もうが、勝てばいいんですよ。勝負ですから」
「佐助は商人《あきんど》だねぇ」
床の中で笑っているうちに、早くも眠くなってくる。護符を貼る場所を決め、小僧を動かし封じて回って、これで三日。本当になりそこないに対抗するのは大変だ。だが通町は、ほぼ封じることができたはずだ。その証拠に、このところ被害は出ていなかった。
封じ込めが終わったのに、まだ少しの間動けないのは、店が忙しいせいだ。佐助は今来ている荷の始末が、あと五日もあれば出来ると言っている。その後、一気になりそこないを片づけようと、手代たちと話し合っていた。
「早く終わらないと、それこそ私は寝込みかねないな」
とにかく明日は、ゆっくりしていた方がよさそうな体の調子だった。朝寝を決め込んでも誰も何も言わないことを感謝しながら、一太郎は眠りに引き込まれていった。
目が覚めたとき、一太郎は不機嫌だった。まだ眠たくてたまらなかったのだ。板戸を閉めた部屋の中はいつものように暗い。しばらく顔をしかめていて、ふと気がついた。一太郎が目覚めるとすぐに部屋に来る佐助が、今日は来ない。
(はて、どうしたんだろう)
乱れ箱にある羽織を肩に引っかけて、部屋から出る。廊下の小窓を開けてみると、まだ辺りは夜の中だった。明六つの鐘も鳴っていないに違いない。いつもよりたいそう早く目が覚めてしまったらしい。
(珍しいこともあるもんだ)
小首をかしげながら離れの玄関を出て、店の方を見てみる。人の声がしていて、何やら騒がしそうであった。
「若だんな、もう起きたんですか」
声に目をやると、手代が二人、庭を横切って来るところだった。
「なにがあったの?」
そう問う側から、返事より早く半鐘《はんしょう》の音が暗い空を伝わっていく。
「火事か! 突き方が一つだから、近くはないね。どこいらへんか分かるかい?」
「北の方角ですが、はっきりとはまだ。今番頭さんが誰ぞを様子見にやっています」
「北?」
話している最中にも、店の者が土蔵の方に走ってゆく。半鐘の音が聞こえたのだから、皆が起きだしてざわついているのも無理なかった。
いったん大火になってしまえば、簡単に消すことなど出来はしない。燃え移ることを覚悟して、大店《おおだな》ならば火が近づく前に、土蔵の窓や出入口を塗り込めなくてはならなかった。また長崎屋では店の床下に掘ってある深い穴蔵の中に、店にある荷や家財道具を落とす仕組みになっている。穴の戸を閉め上から備えてある土をかけて、火から守るのだ。
それから身軽な身一つで逃げる。店の者が行く先は、いくつかの寺が決められていた。風向きによって、逃げる先を変える。
いざとなれば、近火になる前に、それだけのことをしなくてはならない。半鐘の音というよりは、店の者の動き回る気配とざわめきで、一太郎は目を覚ましたらしかった。
「とにかくそのなりでは風邪を引きます。着替えて下さいまし」
手代に離れに戻るよう促される。火の向きが分かるまでは、佐助ももう一度寝ていうとは言えないのだ。その時店表の方から、大きな声が聞こえてきた。仁吉《にきち》が声の方に走る。ほどなくして戻ってきた時は、ほっとした顔つきになっていた。
「火元はかなり北の方……加州《かしゅう》様の辺りのようです。風は東よりですから、今のところ火がお堀を越えて、こちらの方角に来ることはないでしょう」
「加州様?」
そうと聞いた若だんなの顔が曇る。
「どうなさったんです?」佐助の問いに、若だんなは短く答えた。
「松之助兄さんの奉公先が、あの辺りだよ」
「そういえば……」
三人が顔を見合わせる。
長崎屋の中は、今入った知らせに、落ち着きを取り戻してきたようであった。店に駆けつけてきていた出入りの左官も、まだ土蔵の戸前《とまえ》を塗って塞《ふさ》ぐ必要はないと見て、とりあえず帰ってゆく。番頭はしばらく用心を続けるようであったが、他の者は部屋に帰って、いつもより少しばかり早い一日を始める支度にかかった。もう一回寝直すほどの暇は、なかったからだ。
「二人とも、ちょっと来ておくれ」
若だんなが手代たちを離れに呼んだ。もう寝ても大丈夫だと言っているのに、行灯《あんどん》の灯をつけてもらうと、寝間着を脱いで着替えてしまう。その間に佐助が夜具を片づけ、仁吉が達磨柄《だるまがら》の火鉢《ひばち》に火をおこす。ただ、板戸はまだ開けないままで、三人は話し始めた。
「あのね、私はこの火事が不安なんだよ」
若だんなの言葉に、仁吉が片方の眉《まゆ》を上げた。
「不安? とはどういうことですか?」
「今、通町《とおりちょう》は護符で封じられている。そして昨日の夜、この店から、強い返魂香《はんごんこう》りがしたはずだよ。その香《か》は百里四方に届くと言われた霊香だ。きっと香を探しているなりそこないの鼻にも届いただろう」
「そうやもしれません。しかしそれが……」
「あいつはこの店に来ようとしたはずだ。でも、近くにも来られなかった。いったいその後、どうしたと思う?」
「……」
手代たちもこれは考えていなかったようであった。
「なりそこないは、どうでも香を手に入れたいのだ。あると思っている香を、みすみす諦めはしないはずだ。あいつは焦《あせ》っているのだから」
佐助が声を低めて尋ねてきた。
「若だんなは、墨壺《すみつぼ》がこの火事に関係していると思っておいでか? どうしてです?」
「先に栄吉があいつに襲われたとき、私が書いた書き付けを盗まれている。松之助さんの名と奉公先の店が書いてあった。弟の私よりと、添え書きをしたよ」
「この店に近寄れないので、代わりに桶屋《おけや》の辺りで火を出して、松之助さんを襲ったというんですか。どうやって? 墨壺に火をおこす力があったとは思えませんが」
「あやつは人に取り憑《つ》けるだろう。憑いた奴《やつ》に、付け火させればいい話だ」
言われればそのとおりで、佐助は捻《うな》るしかなかった。
「どうして桶屋に行ったというんです? そっちには香はないでしょうが」
「香を持っているはずの私を、店から離して北へ引き寄せたい腹積もりだろうと思う。兄を心配して、結界から出てくると踏んでいるのかね。付喪神《つくもがみ》になろうという奴だ。器物も百年を経るくらい古いと、いろいろ知恵をつけてるもんだね」
「冗談ではありませんよ。わざわざ火事のさなかに行くなんて! 死にに出かけるようなもんです」
「絶対にそんなこと許しませんからね」
怖い顔の仁吉たちに、若だんなの方は少しばかり疲れたような様子だ。火鉢の縁《へり》に手をかけてにこりと笑うと、一太郎は手代に聞いた。
「じゃぁ、火事もこちらには来ないようだし、離れでおとなしくしていようか?」
「おや、素直ですね」
仁吉が疑わしそうな顔つきで、若だんなを見ている。湯が沸いてきたので、茶を淹れる支度をしている佐助も、顔が(本当ですか)と聞いている。
「私が北に行かなければ、なりそこないは怒っていっそう、火を広げるかもしれない。大勢人が死ぬだろうね。迷子や行方知れずも出るだろう。その間私はここでぬくぬくと過ごすことにする。そしたら、どうなる?」
一太郎はいったん、言葉を切った。どうしても出かけなくてはならない。だから、一緒に来てもらう必要がある二人には、ぜひとも事を理解してもらわなくてはならなかった。
「見越《みこし》の入道《にゅうどう》は、私をさっさとおばあ様の所に連れていくと思うね。私を人の世に残しておくと、人が死ぬ。荼枳尼天《だきにてん》様にお仕えするおばあ様がが放っておける訳がなかろう?」
「それは……」
手代たちが息を飲む。二人はとにかく若だんなが一番で二からがないという手合いだから、火事の被害よりも、一太郎の災難の方が心を動かすのだ。
「行かなければ、ならない。己だけ安全でいることは出来ないんだよ。腹を決めて、なりそこないを葬《ほうむ》るしかないのさ」
「……昨日も夜が遅かったし、若だんなはお疲れでしょうに」
まだ仁吉がぶつぶつと言っている。佐助も予定外のことに、不安を隠せないようだった。
「上野に仕掛けておいた護符は無駄になりますね。護符のところに追い込んであたしと仁吉で退治するという案は、もう使えない」
「おびき出すつもりが、誘い出されているのだから、まいったよね」
苦笑するしかないかもしれない。
「まだ護符は残っている。これで動きを止めて、守り刀でしとめるしかない」
二人の手代は、命を賭《か》けて協力してくれるはずだ。「ただ」と若だんなは唇を噛《か》んだ。
「憑いている人間から、なりそこないを引きはがす方法が未《いま》だに分からないんだよ」
「なに、こう言っちゃぁなんですが、火事場でなら死人も目立ちませんよ。今日それだけは助かりますね」
あっさりと佐助がぶっそうな話をする。
「冗談じゃないよ!」
一応|釘《くぎ》を刺してはおいたが、妖《あやかし》二人、実際に墨壺と対峙《たいじ》したときなんと思ってどう振舞うか、はなはだあやしいものであった。
「行くと決まったなら、暗いうちに店を出ましょう。遠いとはいえ、火事が起こっているのです。旦那《だんな》様に見つかったら、若だんなは金輪際《こんりんざい》外へは出してもらえませんよ」
仁吉の言葉に促され、護符や紙入れなどを懐《ふところ》に突っ込むと、三人は急いで三春屋《みはるや》に行くときに使う、薬種《やくしゅ》問屋寄りの通用口から外に出る。
「若だんなをすぐ駕籠《かご》に乗せたいところですがね」
一太郎を歩かせたのでは、はかがいかないのは分かっている。しかしまだ夜明け前では駕籠を拾うのもままならない。諦《あきら》めて三人で歩き出したその時、三春屋の並びにある辻《つじ》駕籠屋の入口が不意に開いた。どうやら半鐘の音が気になって、誰か出てきたらしい。
「これは助かった!」
さっそく仁吉がたっぷりと酒手《さかて》を掴《つか》ませて、駕籠を出させる。若だんなは普段使わない、安い四つ手駕籠だったが、この際文句は言えない。おかげで三人は、思いのほか早くに、昌平橋《しようへいばし》に着くことが出来たのだった。
「これは……この先、駕籠は無理だね」
担《かつ》ぎ手に言われて降りる頃には、辺りはほの明るさを増していた。避難していくのか、止めた駕籠の側を、荷物を抱え、子をおぶった人の流れが過ぎていく。着物は乱れ髪はほつれて、慌《あわ》てふためいた人々の心の底を映している。顔にも手足にも黒くついた煤《すす》が、そこから逃げてきた火勢の恐ろしさを見せているようだ。子どもの泣き声が、まだ明け切らない空の下、かん高く伝わってゆく。
「本当に昌平橋の向こうに行きなさるんで? 若だんなも一緒に? 危のうございますよ」
顔見知りの辻駕籠屋は心配顔を向けてくる。それにもう一度金を握らせて無理やり帰すと、手代たちは若だんなの両脇《りょうわき》を挟む格好で北に歩き出した。
橋の袂《たもと》からは、北の空が赤くなっているのが、はっきりと見て取れる。いがらっぽい臭《にお》いすら、漂ってきているようだった。
風は今も西へ吹いているのだから、火元の辺りからなら東の上野の寺に逃げ込めれば一番よいのだろうが、火に追い立てられれば、思うに任せないのだろう。たくさんの者が神田明神の前をさらに南に下ろうとしていた。この辺りまで来れば安心と思うのか、足取りは緩やかになっていたが、顔には一様に疲れたようなこわばりが張りついている。子どもの手を離すまいと、手を固く握り締めている者。やっと運び出した家財道具をひたすら抱え込む者。どこを目指しているのか、前へ前へと進んでいく。
その波に逆らうように、すれ違って北に歩む。いくらも歩かないうちに、空にはっきりと赤い火の手が見えてきた。
「これは……もうかなり広がっているようだ」
若だんながしかめつらを作った。先《せん》に来たときに、明神様の周りには小さな武家の屋敷が多いなと思ったものだが、この辺りも北の方は火を貰《もら》った様子だ。燃えた跡は西に広がっていて、近辺に住まう者がうっかりそちらに逃げたとしたら、いつまでも火に追いかけられたかもしれない。
「げふっ……」
いがらっぽい臭いに咳込《せきこ》み始めた一太郎に、慌てて仁吉が手ぬぐいを渡す。口を布でおおうと、今度は流れてきた煙で、目から涙がこぼれて止まらない。
「私は今、みっともない顔をしているだろうね」
若だんなの言葉に、手代が笑う。二人は人との違いを見せつけて、この状況の中でも平気な顔をしていた。
「確かにこれから、付け火と人殺しを仕出かした、極悪ななりそこないの妖怪《ようかい》を倒しに行く人物には見えませんね」
「げほっ、げふっ……」
妖たちにいいように言われても、咳込むだけで、言い返すこともできない。仁吉たちは一太郎を抱えるようにして、だんだんと熱くなってくるなか、さらに進んでいった。人とすれ違うことも少なくなってきている。たまに見かけるのは、煙にまかれたのか動けなくなって倒れている者だ。もう息もないのかもしれない。
さらに北へ。ほどなくして大きな武家屋敷の塀の端が見えてくる。(あれが加州様だろうか)道の両側の家は軒並み焼けていて、形を留めていない。小さな屋敷の門は、見事なまでに黒焦《くろこ》げになって落ち、煤けた瓦《かわら》が砕けていた。熱さが右や左の足元から、三人をあおるように巻きあがってくる。
そんななかをなんとか歩き続けてゆけたのは、火事の一番激しい場所が、すでに加州様の前辺りから、風にあおられてかなり西にはずれていたからだ。そのせいかこの辺りには火消しの鳶人足《とびにんそく》の姿もない。今ごろ火消したちは火の最前線のそのまた先の家を、打ち壊しているはずだ。
右手に煤で燻《いぶ》されたような塀が続く場所に出た。道の周りの家はすでに焼け落ちて、黒い炭の骨をさらしているばかりだった。
「これだけ火に近いところにいられるのは、風上だからこそでしょうね」
佐助の顔が、左の焼け野原に残る炎を映してか、かすかに赤い。気がつけばそれが分かるほど、夜が明けてきていた。
「しかしこれではどこが東屋《あずまや》だったかは、見分けがつきませんね」
仁吉が言うとおり、一太郎は二度も見たはずの桶屋《おけや》の位置が分からない。江戸も外れとはいえ、まだ朱引きの内、この辺りまでは家も店も立て込んでいたのだ。それが目印になるものすべてと一緒に、火の中に消えてしまい、小さいながら二階建てであった桶屋は、影も形もない。熱い風にあおられながら、若だんなが考え込んでしまったとき、手代がするどい警告の声を上げた。
「ぼっちゃまっ!」
一太郎が顔をあげるのと、佐助が体を横に引っ張るのが同時だった。目の前で大きな炎の柱が突然あがり、真っ黒に焦げていた家の残骸《ざんがい》が、道に崩れて落ちてきたのだ。
「危ない……もう少しで下敷きになるところだった。ありがとうよ、佐助」
一太郎が大きく肩で息をつく。佐助が目をつり上げ、唇を噛んだ。
「若だんな、これは残り火のせいじゃぁありません。群れ鼬《いたち》の仕業、妖ですよ。お気をつけになって!」
言われてすぐに、また側《そば》で火柱が立った。見れば火の中に尾と胴の長い鼠《ねずみ》に似た獣が、高く何匹も重なっている。不意にその姿が消えると、火の勢いがいっそう大きくなった。いったん火が消えていたはずの場所が、また燃え始める。
「こいつら、なりそこないの手のものなのかね」
一太郎が咳込みながら首をかしげる。墨壺はまだ、付喪神にもなっていない。妖の味方がいるとは思っていなかったのだ。
「違いますね。あたしはそんな獣など、知りませんよ」
いきなりの声に、新たな火を見ていた三人が、振り返る。煙でかすんだように見える火事場の無残な風景の中に、奇妙にござつばりとした羽織姿の若者が立っていた。
二十四、五に見える男の顔に、若だんなは見覚えがあった。
「東屋の跡取り息子、与吉さん!」
「群れ鼬は火事場が好きなんですよ。特に大きな火事が大好きだ。焼け死んだ人の魂を食って、さらに強くなる妖なんだそうで」
松之助に辛《つら》く当たっていたという不出来な息子が、肝が据わっているという話はなかった。もうほかには人もいない無残な火事場で、落ち着いて話しているからには、考えられることは一つだ。
「お前さん、墨壺《すみつぼ》だね」
若だんなの問いに、にやりとした顔が返ってくる。
「やっぱり来ましたね」そう言うなりそこないに「松之助兄さんはどこ?」聞くと、覚えていないという。殺した場所など、いちいち思い出さないと。若だんなの顔が蒼《あお》くなった。
「殺したの? なぜ!」
「あたしに薬を渡さないからだよ。思い知らせてやらなくっちゃぁならないからね」
「この……なりそこないが……」
言われた方の、顔から笑いが消えた。
「あたしは墨壷と呼ばれるのは好きなんだよ。なにしろ競って凝った作りにする、きれいな道具なんだからね。だからそんな名で呼ぶんじゃない! 気に入らないよ!」
だんだん目がつり上がってくる相手の言葉に、仁吉がおもしろそうに唇をゆがめる。
「おや、なりそこないは、そう呼ばれるのが嫌いなのか」
「あたしはなりそこない≠ネぞではない! すぐに付喪神になるのだから! 薬をお寄越し」
言うなり、懐からどすのような短い刀を取り出す。その様子を見た佐助が、にたにた笑いを顔中に浮べた。
「お前さん、本当にただのなりそこない≠ネんだねぇ。そんなもので我らに何をする気かえ?」
言うなり、佐助の体が、思いもかけないほどの勢いで墨壼の方に飛び込んだ。なりそこないは必死に跳び下がったが、避けきれるものではない。佐助はただ、手で空《くう》を払っただけのように見えたのに、墨壼の着物の袂《たもと》は、爪《つめ》で幾筋にも切り裂かれていた。
「逃がしやしないよ。若だんなにとんだ迷惑をかけて、ろくでもない奴《やつ》だからね」
熱い風にあおられながら、墨壼は顔をゆがめて、黒い骨になった家の残骸の間を、必死に手代の攻撃から逃げている。今まで自分が殺したり取り憑《つ》いたりしてきた、ただの人とは違う次元の相手が現れたのが、分かったらしい。
一太郎は余裕が出てきて、この悲惨な火事場の風景の中で、まだ若だんなのことを言い募る手代に、本心から感心していた。ここまでくればいっそ筋金入りだ。
(それにしても、なりそこない≠ヘ力が弱いよ。これは思ったより、簡単に片づくかね)
「佐助、殺さずに抑え込むことはできないかい? 与吉さんを殺したくはないんだよ」
声をかけてみた。何とか出来るかもしれないと、そう思えてきたのだ。
なりそこないは逃げ、佐助が焼けた家の柱の間を追いかけていく。残り火と幾筋も立ち上る、いがらっぽい煙が伴走だ。一方的な追跡だった。相手を殺す気なら、もうとっくにかたがついているかもしれなかった。そうして余裕をもって焼け跡を走る二人を眺めていた若だんなだったが、奇妙なことにわずかに不安がわいてくる。もうどうしようもないはずなのに、なりそこないの口が笑っているように見えるのだ。
(何をする気だい? 佐助には手も足も出なさそうに見えるけど……)
ちょろちょろと逃げ惑う墨壺の行く手を塞《ふさ》ぐために、仁吉が一太郎の側を離れ、先回りして前方に立った。焼け跡にいる三人の足が止まる。
「さあ、与吉さんから出るんだよ。もう逃げられやしないんだから」
若だんなが道の上から声をかける。声の方を振り向いたなりそこないの笑い顔は、いっそうはっきりとしていた。
「若だんなさんよ、これであたしに勝ったと思っているんだろうね。でもね、あたしは火事が好きなんだ。気に入ったんだよ。もっと起こそうかなと思ってるくらいだ。いや、きっと大火事を起こす!」
「は? 何を言っているんだ」
佐助が怪訝《けげん》な顔をしている。空威張りでも命|乞《ご》いでもない。不可思議な言葉だった。
若だんなが不安に包まれて震えてくる。そこに、なりそこないの声が響いた。
「群れ鼬、こいつらを燃やしてしまいな! 礼にまた、大火事を起こしてやるよ!」
言った直後だった。
一気に十本近く束になった巨大な火柱が、二手に分かれてあがる。手代たちのいた場所付近は踊り狂う火の塊となって、天に突き刺さろうかという勢いだ。二人の手代はその火の中に手妻《てづま》のように姿を消して見えなくなった。火勢と競うかのような高笑いが、火事場に響き渡る。
「はっはぁ。我こそは本物の妖《あやかし》と、威張りくさるからさ。いい気味だ。ざまあみろさ」
「仁吉っ! 佐助っ!」
悲鳴のような声を上げて駆け寄る一太郎の前を、なりそこないが塞ぐ。力関係が、一気に逆転していた。
「さあ、若だんな、薬を寄越しな。あるんだろう? 香りがする。分かるんだよ」
なりそこないが近寄ってくる。足の下の炭が、軽い音を立てて、砕けていく。
「薬、薬って、お前、自分の欲しいものの名も知らないのかい? この香りは返魂香っていうのさ。神の庭の木から作る香だ。飲むんじゃない。火をつけてその煙を嗅《か》ぐんだ」
「香か……」
墨壺の顔が、興奮で赤くなる。寄越せと言わんばかりに、右手が差し出される。若だんなは懐《ふところ》に手を入れた……そして取り出した護符を振りかざすと、二つの火柱に向かって投げつけた。
「何をする!」
墨壷が怒って着物を掴《つか》むと一太郎を引き倒した。だが護符はすでに手を離れて空《くう》をただよっている。いつもならば、軽い紙はそう先の方まで飛ぶことはない。だが今は勢いよく燃える火があった。火は周りの風を巻き込み、上へと吹き上げる。紙のうちの何枚かは、その流れに乗って、二つの火柱に吸い込まれていった。
「ぎゃあっ」
とたんに短い悲鳴が上がって、火柱はいくつもの小火《ぼや》に分かれると、風とともに消え去る。なりそこないは鬼のような顔になって、一太郎の顔を黒い地面に押しつけた。
「おとなしくしているかと思えば、嘗《な》めたことをして! 無駄だ。あいつらなら、もう燃えてしまっているさ」
こんどこそと、若だんなの懐に手を入れてくる。だがすぐに「わあっ」という声とともに、焼け跡に引っくり返った。取り出した手を押さえている。返魂香は取れなかったようだった。
「この上、何を持っているんだ」
そう言われ、自分で着物の中に手を入れて気がついた。僧にもらった守り刀を持ってきていた。
「効くねぇ、二十五両」
起き上がり、肩で息をしながら、それでも笑いが浮んできた。思いの外お買得な品だったようだ。しかし、いくら妖をも切れる刀があるといっても、若だんなの腕っぷしでは、なりそこないと切りあって勝つというのは、無理な話だろう。己でもそれが分かっているから、一太郎は煙の中|咳《せき》を繰り返しながら、目の前のなりそこないを説得しはじめた。
「ねえ、火をつけてまで、たくさんの命を奪ってまで、どうしてこんな香が欲しいと思ったのさ。そんなに付喪神になることが大事かい?」
「人に何が分かる。あたしはもうほとんど付喪神になりかかっていたんだ!」
墨壷は目を剥《む》いて一太郎を睨《にら》みつけた。
作られて百年近くがたち、力が集まってきているのが分かった。墨壺は意思を持ち、他の妖と話をするようになっていた。それは笑いながら宙に浮いているごとくの気持ちがしたという。
ところが始まるはずだった付喪神としての毎日が、一人のぼてふりの下らぬ意趣返しによって、壊されてしまった。手に入るはずだった力が、逃げていく。しゃべり考える己という存在が、日々消えてゆくのが分かる。このままでは、ただの大工道具に戻ることすら出来ずに、捨てられる運命だ。
何がなんでも付喪神になる。もう墨壼の中には、その思いしか残っていないのだ。
「それでも、なぜ人を切ったと問いたいよ。お前さん、長年大工に大切にされてきたんだろう? 百年近くもだ」
「そのあげくがこのざまだ。甘い菓子で釣っておいて、後で騙《だま》すようなものさ。いっそうたまらない味わいだ」
「自分の欲で人を刺したとき、後悔はなかったのかい? 今まで長い年月、人とともに暮してきたんじゃないか」
なぜ自分が妖にこんなことを言っているのか、一太郎自身にも説明がつかなかった。
妖の感覚が人とずれていることは、身に染《し》みて分かっている。人の考え、人の基準でものを言っても、妖達には理解の外かもしれないのだ。しかし、それでも言葉が止まらない。
(たぶんきっと……自分を納得させるために言ってるんだ)
己の中にも見える欲望がある。今日、ここに来たことさえ、この世に、長崎屋に留まりたいという欲からなのだから。
しかし、それだけではないと思っている。一太郎のことが原因で人が切られた。火事で大勢が家を失《な》くし、死んだに違いなかった。その現実の中で、己だけ逃げることはできなかったのだ。
逃げたら、体だけでなく、心まで弱くて使いものにならないと、自分で認めなくてはならなくなる。母は自分を授けてほしいと、お百度を踏んだ。祖母はその身と引き換えに、一太郎を世の中に送ってくれた。育ちにくい子どもを、祖父が、父が、手代たちが、友が支えてくれたから、生まれて、今まで生きてこられたのだ。
そうして支えられてきたのに、己の香りがきっかけになって、人を巻き込む大事が起こってしまった。自分が不運だなどと嘆いて、逃げていいはずがなかった。
自分を哀れみ、それに溺《おぼ》れることだけはしたくない。唇を噛《か》む。
「強くなりたい。たとえ心地よくないことでも、受け止めるだけの強さを身につけたい……」
「俺はお前たち人よりもはるかに強い。なのにこのまま消えたくない、消えはしない! さあ、香を寄越せ!」
だんだん話を聞くことにいきりたってきたなりそこないが、その懐に飛び込むように掴みかかってくると、若だんなを激しく揺さぶった。そのとき若だんなの脇《わき》に、紙入れが転がり出る。それを見たなりそこないが、一太郎が手を伸ばす前に、引ったくった。
「香りがする! 香はここだな?」
紙入れをすばやく引っくり返すと、薄桃色の薄紙に包まれた香り高い包みが、なりそこないの手の上に落ちた。
「これだ! 返魂香《はんごんこう》……これを嗅げば魂が戻る……完璧《かんべき》な付喪神に今度こそなれる」
墨壺は一太郎を放り出して、まだ火がくすぶっているところまで飛んで行くと、口が裂けるかと思うほどの笑みを浮かべた。ゆっくりと火を香に移す。いちだんと香りが立った。なりそこないは少しも逃すものかと、精一杯吸い込んでいるようであった。
「ああ、心地よい。これで、これで、あたしは……」
若だんながゆっくりと立ち上がる。走ったり地面に打ち据えられたり、いい加減体にこたえて来たらしく、息が苦しい。打ち身でもしたのかと、顔をしかめながら懐に手を入れた。
そのときなりそこないが、はげしく咳込んだ。
「なんだ、これは……力がかえって抜けていくような。そんなことがある訳ない……」
「そいつが本物の返魂香なら、よかったのだろうけど。あいにく返魂香はもうこの世にはないんだ」
「嘘《うそ》だ。これは本物だ。あたしは香りを知っている。間違いない!」
崩れ落ちて片膝《かたひざ》をつきながら、なおも墨壺は否定する。偽《にせ》の香だとは、何がなんでも認めたくないようであった。
「包み紙だけが、本物だったのさ。香は私が勝手に作ったものだ。中にね、入れたものがある。だからさっき、わざと渡したんだよ」
ちらりとなりそこないに取り憑かれた与吉に目をやる。見る間に体を支えていられなくなって、両の膝をついた。手で燃え残った柱を掴んでいる。
「香の中に、妖封じの護符を入れといたのさ。よく効いたようだね」
さらにもう一枚、一太郎が懐から取り出すと、与吉の体が大きく震える。若だんなは守り刀を抜きはなった。
「さあ、与吉さんから出てくるんだよ。今ここで、すっぱりと消してあげる」
そう言われて、なりそこないの体の揺れはいちだんと大きくなった。
「かわいそうだがこれ以上、人を襲わせることは出来ない。火事を起こさせる訳にはいかない」
目が向き合った。その時すばやく近づいて額に護符を貼る。大きくのけぞった与吉の口から、黒い影がもわもわと立った。それが一尺ほども出てきたとき、若だんなが守り刀を渾身《こんしん》の力を込めて、振りおろした。
薄い煙のようなものしかないはずなのに、妙にはっきりとした手応《てごた》えがあった。刀の刃は与吉の顔をかすめて、膝のすぐ上で止まる。影は切られると同時に霧散して、そのまま残り火の煙と混じって、分からなくなってゆく。血も出ず、遺体も残らない。
影が末期《まつご》の言葉をしゃべることもなかった。
なのに声にならない叫びが、火事場に響き渡って、風に舞っている気がする。いつまでも残っているようで、耳を塞ぎたい気持ちになった。
己の欲に走って、自分しか見えなくなったものの断末魔。我が身を止めるだけの強さも、他を見るゆとりも持たなかった。
「きっと、強くなる……」
それは己に言い聞かせる言葉であった。
しばらくそのままで立っていた。足にも手にも鉛を込められたようで、一歩も動けない気がしていた。己の息が荒いのが分かる。吐き気もする。だが、いつまでもそうしてはいられない。一太郎は気力を振りしぼって振り返ると、まだ熱く、出来たばかりの炭だらけで足元の危なっかしい焼け跡の中を、先ほど火柱が立っていたところに向かった。
佐助たちが無事でいるとの確信があった。理由はない。ただ、小さい頃から二人が近くにいると、なんとなく分かったのだ。今も側《そば》にいると感じていた。生きている証拠だと思う。
火柱があがっていた所に、たくさんの焼けた材木が、饅頭《まんじゆゅう》のように盛り上がって重なった場所があった。一本、二本と粘り強く掘ってみると、その下から佐助が出てきた。もののみごとに全身|黒焦《くろこ》げだが、それは着物だけのことらしく、顔も無事なら、ほかのどこにも火傷《やけど》はないらしい。一つ落ち着いて、二箇所めの炭の山をどけると、仁吉《にきち》が現れた。こちらも怪我《けが》は皆無だというところが、並の妖《あやかし》ではない。
二人が無事で、一太郎は心底ほっとしたのだった。
三人で歩いて焼け跡から帰途につく。桶屋《おけや》の与吉は気を失っているだけのようだったので、そのまま寝かせておいた。しばらくすれば目を覚まして、一人火事場で寝ている己に、びっくりして飛び起きるかもしれない。
こうして無事に事がすんで、一太郎の口元には笑みが浮んでいた。だが手代二人の方は、大いに傷ついたところがあるらしかった。己の衿持《きょうじ》がそこなわれたのだ。
よりにもよってなりそこないにはめられたあげく、若だんなに助けられたのだから、気持ちは複雑だろう。二人とも一太郎を守りに来たのに、逆の立場になった訳だ。おまけにみっともないことに、着物はほとんど焼け焦げて、全身黒いだけの裸に近い。
「なんか、河童《かっば》みたいだね」
帰り道で一太郎がうっかりきいた軽口が、いっそう手代たちを気落ちさせたようで、二人から言葉が出ない。
幸いにと言うべきか、火から逃げるときに落としたらしい誰ぞの荷物が道端に残っていたので、二人の着物を拝借することにした。背の高い手代たちにはおよそ丈があわなかったが、とりあえず河童は卒業できた。昌平橋《しょうへいばし》を渡る前に、焼けないでいた顔見知りの辻駕籠屋《つじかごや》で井戸を借り、駕籠をあつらえることになった。
(これならなんとか大騒ぎにならないうちに、静かに長崎屋に帰れるかもしれないね)
火事が去り、なりそこないが去り、返魂香《はんごんこう》の残りの、夢のような香りが消えていった。
やっといつもの毎日が帰ってくるかと思うと、揺れる駕籠の中で、若だんなは大きなあくびをいくつか続けた。今日は朝がとても早かったのだ。
そろそろ昼九つになろうとしていた。
「若だんな、早いお目覚めですね」
いつものように離れで目を覚ますとすぐに、佐助がやってくる。火事から五日ほどたって、暮らしは平素の調子に戻ってきていた。
今度の騒ぎでは、店に帰り着いたあと、若だんなは二日しか寝込まなかった。打ち身をし、咳込んでいた割りには、大事にはならなかったのだ。おとついからは、いつものように普通の食事を取っている。
あれきり見越《みこし》の入道《にゅうどう》は現れない。どうやら若だんなはこの店に留まってもいいようであった。あの一見やさしげな大物の妖《あやかし》に会うのは、やや怖いが、いつか祖母の話などしてくれたらなと思わないでもない一太郎だ。
手代に板戸を開けてもらうと、日の色がなるほどまだ早い時刻を告げている。だが先の時とは違って、佐助が落ち着いているから、外で火事があった訳ではない。
はて、どうして目が覚めたのかと、首をひねっている若だんなの元に、仁吉《にきち》が小さな盆に茶をのせて運んできた。まだ火鉢の湯が沸いていないからというのが理由だったが、珍しい話だ。若だんなが仁吉の目をのぞき込むと、手代たちが目くばせをしている。店表《みせおもて》で何かあったらしかった。それで何やらざわついているのだ。
「実はですね、若だんな。今朝方、松之助さんが廻船《かいせん》問屋長崎屋を訪ねてみえまして」
「……生きていたの?」
これには驚いた一太郎が目を見張る。確かなりそこないが殺したと言っていたはずであった。どうやら嘘《うそ》をつかれたらしい。
「松之助さんの話では、火事が起きたのは、すでに店を出た後だったようです。大方|墨壺《すみつぼ》は最初は松之助さんに取り憑《つ》く気で、東屋《あずまや》に行ったのでしょうが」
「だが、すでに松之助さんは暇を出された後でいない。それで仕方なく与吉さんに取り憑いたんでしょう」
手代たちは交互に話している。つまり松之助は運のいいことに、なりそこないとすれ違って、難を逃れていたのだ。早くに桶屋《おけや》を出たおかげで、火事からも逃れられた。
松之助はいったん口入れ屋で仕事を探し、一人でやっていこうと決めていたらしい。ただ、この火事で燃えた店も多く、仕事にあぶれたものが多く出てしまい、落ち着く先が見つからない。
とりあえず火事から逃れた人と一緒に身を寄せた寺も、そろそろ出なくてはならない。金もない。困り果てて仕方なく、松之助は父と聞いていた人を訪ねてきた訳だ。
一太郎は達磨柄《だるまがら》の火鉢にもたれかかるようにしながら、尋ねた。
「で、おとっつあん、何と言ってるの?」
「今、旦那《だんな》様もおかみさんも機嫌がよろしくないですからね」
「……まだ、駄目かい?」
「若だんな、当分の間、無茶はできませんよ」
あの火事の日のことは、実際に火事場で起こったことから言えば、後のことは穏便にすんだ方だとは思う。だが母親が心配しなかった訳ではなく、火事場見物に出かけたのを(そういうことにしておいたのだ)父|藤兵衛《とうべえ》が怒らなかった訳ではない。おまけに手代二人は他出《たしゅつ》を止めなければいけないのに、付いていってしまうし、店に帰ってきたときは、二人とも着物がみすぼらしいものに変わっていた。
いったい何をしていたのかと、三人ともこってりと怒られたのだ。特に使用人である手代たちには、風当たりが強かった。
「だから今、あたしたちからは松之助さんについて、なんの口添えもできませんからね」
先んじて佐助に断られて、若だんなはすねた顔をした。
「だって……兄さんは困っているんだろう?」
「そういえば栄吉《えいきち》さんが襲われたので、手紙も金子《きんす》も、届かなかったんですよね」
仁吉の言葉に、若だんなが頷《うなず》く。それに佐助がぼやいた。
「あれは結局は助かりましたよ。今旦那様は大いに怒っておいでです。松之助さんの口から、若だんなと文のやり取りをしていた、なんてことが告げられたら、旦那様は離れに座敷|牢《ろう》でも作りかねませんでしたよ」
「冗談言わないでおくれ。あるかもしれないってところが怖いよ」
一太郎はため息をつく。
今度の一件に一太郎が関わったのは、松之助の顔を見に行っての帰り、夜道でなりそこないに行き合ったのが始まりだ。おかみは一太郎が松之助と関わったので、危ない目に遭ったと、確信している。
(兄さんのことを、おっかさんに認めさせるのはむずかしいよね)
とにかく人の思いは色々で、皆が満足するのは簡単ではない。だがなんとか松之助の力にはなりたい。頭を抱えていると、仁吉が一つの案を示してくれた。火事場の事件以来、手代たちが一太郎の扱いを少し変えた。
言うなれば、大人扱いしてきている感じがする。
「若だんな、とにかくこの件の柱はおかみさんです。ここを越えなければ旦那様もうんとは言わない」
「それはそうだね。でもきっと、手ごわいよね」
「ものは言いようですよ」
朝の障子《しょうじ》越しの柔らかい光の中で、仁吉がそのきれいな顔を、やや人が悪そうにして笑う。いわく、
「おかみさんはとにかく若だんなが大事なのだから、松之助さんを厚遇することが、若だんなの幸せにつながればいいんです。そうすればおかみさんも承知なすった上で、晴れて兄さんと対面できますよ」
「あれ、若だんなはまだ松之助さんに会ったことがなかったんですか?」
佐助の問いに、一太郎は首を縦に振った。
「遠目に顔を見ただけだよ。さて、おっかさんになんと言ってみようかね」
若だんなはしきりと頭をひねっている。墨壺がもたらしたような大きな禍《わざわい》でなくとも、長崎屋には解決しなくてはならないことが一杯だ。今日とて突然兄が店に来るし、このところさぼりぎみだった仕事もたまっている。寺に寄進をしに行く予定もある。今度の火事で焼け出された人への炊《た》き出しのために、使ってもらうのだ。
昼近くなれば、日限《ひぎり》の親分がまた何か事件が起こったと、話をしに寄ってくれるかもしれない。栄吉も床を払ったそうだから、今日あたり来るだろう。
「けっこう忙しいね。寝込んでいる暇がないよ」
手代たちが顔を合わせて笑っている。茶を飲み終えると、一太郎はいつもより早めに母のもとへ朝餉《あさげ》を食べに行った。
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かわいらしくてこわい江戸の幻想|奇謳《きたん》
[#地付き]小谷真理
本書は、二〇〇一年度の第十三回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞した『しゃばけ』の文庫版です。
舞台は、江戸時代の中心、将軍のお膝元《ひざもと》である花のお江戸。主人公は、江戸で有数の豪商、廻船《かいせん》問屋・長崎屋のひとり息子、一太郎です。十七歳という若さにもかかわらず、非常に体が弱くて、両親からは将来を心配されている一太郎ですが、そこは大店《おおだな》の坊ちゃん、現在では薬種《やくしゅ》問屋を一軒まかされている、ということのようです。
さて、ある晩、たまたま出かけた先で、一太郎は殺人事件に行きあたってしまいました。でも、その光景は、なんだかとてもヘンでした。普通の殺人現場のようではありません。
いったいなにがヘンかというと、一太郎の危機を知らせてくれるのが、他ならぬ妖怪《ようかい》なのです。それも、小さな小さな妖《あやかし》のたぐいです。そう。一太郎のまわりには、妖怪たちが次から次へと、これでもか、というほどたくさんあらわれるのです。
さらに、もつと驚くべきことが明かされます。一太郎の経営するお店は、手代《てだい》たちが妖怪で、お屋敷にもたくさん、いろいろな妖が住んでいるのです。体が弱くても、大店をきりまわせるのは、そんな事情があったからというわけなのでしょうか。
とくにふたりの妖怪、佐助と仁吉《にきち》は、それぞれ犬神《いぬがみ》と白沢《はくたく》という名称があり、不思議な力を持っているのはむろんのこと、とても個性的であり、佐助は力持ち、仁吉などはとってもハンサムなのです。
それにしても、たくさんの妖にかしずかれているなんて、なんだか一太郎って、妖怪の王子様みたいですね。
こんなふうに摩訶《まか》不思議な妖怪が見える一太郎の目を中心にした本書は、やはり普通の江戸を描いたものではないのでしょう。暗がりにもどこにでも、物《もの》の怪《け》がちゃんと潜んでいる、昔の人が信じていたかもしれない怪しい江戸の姿が浮かび上がってくる、という仕掛けなのですね。
花や草や動物だけではなく、日常の物品にさえ魂が宿り、時を経て、妖のたぐいへと変身する――これは、神や仏、悪魔や天使といった体系のある信仰というよりは、もうすこし、森羅万象を生き物たちの総計として見立てようとする、やさしく、にぎやかな自然観ではないでしょうか。科学万能主義のわたしたち現代人からは、遠ざかってしまった世界観です。考えてみれば、もともと近代以前の世界では、そんなふうに怪しくにぎやかな世界観のなかで人々が生きていたのかもしれません。
本書に描かれる妖は、ことばをしゃべる虫や動物のように、そこら中に住んでいて、小さな生を生き、ごくたまに気まぐれに人々の生活に関わってきます。彼らの営みに精力がとりついて格段に大きくなってしまったとき、人の目にはっきりとふれるような奇怪な事件が多発するのです。そんなわけで、江戸の町をさわがせる連続殺人事件の背後に、妖怪たちの、もうひとつの物語が見え隠れします。
したがって本書は、実際の殺人事件と妖怪との関わりを一太郎に推理させる、という従来のミステリの謎解《なぞと》きばかりではなく、妖怪自体の謎解きをもくろんでいるわけですから、まさしくこれは、幻想と怪奇と推理ものを混合させてダイナミックに謎解きするという、いっぷう変わったお江戸の幻想|捕物帖《とりものちょう》と言えるでしょう。
妖怪とは、なんでしょうか。それを解き明かすのに、事件の背後に妖怪を妖怪にしてしまう「情」のからくりを明らかにしていくという方法をとっているようです。喜怒哀楽、ヒトの生活にはいつもついて回る、いわく言い難い「情」。しかも、生きとし生けるもののまつろわぬ「情」が、妖怪の形をとって現れてしまうこと。そこを理解することが、事件解決への道であり、同時に江戸の自然観を眺めることに他ならない、本書のそうした視点が、「情」という仕掛けを解き明かす数々のヒントになっているところも、読みどころといえます。
こんなふうに、江戸を幻想的に描き出していく、という手法は、とても新鮮に見えました。時代小説は江戸の人情|噺《ばなし》など、風流でなかなか趣がある「粋《いき》」なものが多くて魅力的なのですが、本書を読んでいると、その世界がさらに若々しくてかなり活気を帯びている、とでもいうのでしょうか、日本の古典世界を、非常に現代的な感性で描いている点が光っています。
この新鮮さは、どこからやってきたのでしょうか。
ひとつには、幻想性そのものがモダンに演出されていることが見逃せません。
日本の古典世界は、たびたび、後世の時代の感覚で再解釈されて、現代的によみがえり、読み継がれてきたものです。
だから今までにも、そのような動きが見られたことがありました。たとえば六〇年代から七〇年代前半まで、対抗文化すなわちカウンター・カルチュア華やかなりし時代にも、ジャパネスク・ブームと呼ばれるものはありました。これは、反体制という立場から、ひとつのイデオロギーの発露として、古典が見直される、ということだったのですね。
もちろん、そのような文学上の運動は、しばしばアナクロニズム(ここでは懐古趣味のことです)と解釈されることが多かったのも事実です。今でも、そういう見方は少なくないでしょう。とはいえ、古典的な世界が復活するのは、たいてい何か時代の変化があったときのことが多いのです。
したがって、このところの「むかし着物ブーム」や「妖怪ブーム」に代表されるように、ふたたび日本の古典がなにかしらのきっかけで再発見される時代にはいったという見方もできると思います。とくに若い世代にとって、古いモノを新しい感覚で着こなす軽さが再評価されているのです。エスニック・カルチュア探訪と同じように、一種のエキゾチシズムをともなったツーリズム(観光旅行)にちかい感覚なのかもしれませんね。
こんなところから、まるで異世界ファンタジーを構築するかのように、日本の文化や東洋文化が、ぜんぜん異なった意匠で登場してきたのではないでしょうか。そういえば、ここで描かれている妖は、英国の妖精にずっと近い印象がありますね。
実は、コンピュータ・サイエンスを扱ったSFがとても流行した一九九〇年代に、英語圏ではなぜか、ガス灯ほのめくヴィクトリア時代の物語をサイバー感覚いっぱいに語りおろす、という歴史改変物語がたくさん描かれたことがありました。ディケンズやドイルの描いた大英帝国に、蒸気エンジン搭載のコンピュータが登場したり、上流階級の集う世界の真裏に、ロンドン・アンダーグラウンド・カルチュアが、現在のクラブ・カルチュアのイメージで描かれてみたり、アナクロニズムのもたらす時間倒錯は、トンチンカンで違和感をかもしだすどころか、なんだか活気がみなぎり、かえって新鮮な気がしたものでした。
そう、上品で正しいヴィクトリア・ロマンスに、ちょっぴり下品で妖《あや》しい全く反対の感覚が入り込んだだけで、光景はここまで新鮮になるのか、と驚くことしきりでありました。
わたしが、本書をよんだときの衝撃は、まさにそうした感覚にちかいものでした。
平素は、丁稚《でっち》、手代、ねえやたちが働く、いっけん普通の江戸の問屋。でも、ひとたび人気《ひとけ》が絶えてしまうと、現世では見えない、異なった生き物がどっとはびこる世界。生き物は、道具の精であったり、神社・仏閣にまつわる物の怪だったりする。人間の世界と別格のそれらの妖精たちの巣が、実は、本書の一番のナゾと絡《から》んでくる
……このすばらしい着想を得た時点で、本書の成功はきまったも同然ではないかという気がします。
日本の江戸、という時代劇の裏側にある、妖しくもなつかしい世界。むかし着物をちょいと、ポストモダンふうに着付けながら、やっぱりわたしは、まんま伝統を継承するより、まんまお作法通りより、ちょっとずらしてしまったその倒錯したパロディ感性に、かえって、江戸の「粋」の本質を見るように思うのですが、みなさんは、いかがでしたか?
[#地付き](平成十六年三月評論家)
この作品は平成十三年十二月新潮社より刊行された。