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私はいつも私
片岡義男 恋愛短篇セレクション 別れ
片岡義男
目 次
別れて以後の妻
雨の降る駐車場にて
離婚して最初の日曜日
私はいつも私
膝までブルースにつかって
スーパー・マーケットを出て電話ブースの中へ
幸福な女性の謎
あとがき          片 岡 義 男
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[#2字下げ]別れて以後の妻
五月なかば、美しい快晴の日の、午後だ。ほんのりと、風がある。その風が、きわめて軽い。全身に風を受けとめると、自分の体もふと軽くなるような楽しい錯覚がある。
陽ざしが明るい。そして、すでにかなり強い。軽い風が吹くたびに、陽ざしは充分に透明な状態からさらにいちだんと透明なものへと、濾過《ろか》されていくようだ。
美しく透明な陽ざしのなかに、芳《かんば》しい香りが微妙に溶けこんでいる。彼はいま、自由な時間のなかでのんびりと歩いているから、その香りをはっきりと受けとめて楽しむことが出来る。しかし、たとえば忙しく仕事に追いたてられているようなときには、この香りには気づかないかもしれない。
今日の仕事は、すでに終わっている。仕事といっても、ほんのすこしだけ責任のともなうことを、ごく短い時間おこなえば、それでいいのだった。
いま彼が歩いているこの街は、彼にとってはほとんど知らないと言っていい場所だ。今日のような美しい日の午後まだ早い時間に、見知らぬ街で解放されると、気持ちはたいへんに楽だ。
夜になるまで、彼はこのまま自由だ。夜になったら、いっしょにこの街へ来た人たちと落ちあい、夕食をとったあと、新幹線で東京に帰る。そして、明日は、土曜日だ。
彼がいまひとりで歩いているのは、この街を南北にまっすぐにつらぬいている広い道路のなかの、遊歩道だ。建物に沿って歩道のある部分が、この広い道路の片側の縁となっている。その歩道のすぐ内側に、幅広く芝生を植えた緑地帯がある。さらにその内側に、四車線の道路がとおっている。こちら側のこの四車線は、この街では西線と呼ばれている。その四車線をこえたむこうに広く芝生の生えた緑地帯がもういちどあり、そのさらにむこうに、歩道がある。その歩道からもういちど芝生をこえると、遊歩道だ。この遊歩道が、この広い道路の中心であり、ここから反対側にむかって、歩道と道路と緑地帯が、東線のために、西線とおなじ配置でくりかえされていく。
西線のいちばん外側の歩道のすぐ内側に沿って帯状にのびている芝生のうえを、彼は歩いて来た。陽ざしの明るい透明さと、軽い風のなかにある香りとを楽しみながら、彼は南へむかってゆっくり歩いた。
彼の背後から、路線バスが一台、走って来た。彼が歩いていくすぐ前方にバス停があった。バス停のところだけは、芝生のなかにコンクリートのスペースが長方形にひろがっている。陽ざしを斜めうしろから受けて輝いているオレンジ色のバスは、歩いていく彼を追いこし、減速した。そして、バス停に入っていった。長方形のスペースのまんなかに、バスはぴたりと停まった。
バス停には、雨の日のための待合室の建物と、ふたつならんでいる電話ボックスとが、あった。停まったバスから、人がひとりだけ、降りた。自動ドアが鷹揚《おうよう》に閉じ、バスは重くおもむろに発進した。
ひとりだけ降りたのは、女性だった。バスの車体がバス停のコンクリートのうえにつくっていた濃い影が、ゆっくりと動いて去った。影は彼女を置き去りにし、彼女は陽ざしのなかに出た。そして、彼がむかっているのとおなじ方向へ、歩いていった。
路線バスから女性がひとり陽ざしのなかに降りたった、というごく単純な認識だけを彼は持っていたのだが、まえを歩いている女性は、そのうしろ姿がたいへんに美しいということに、やがて気づいた。
芝生のうえを浅い角度で斜めに歩いていった彼女は、いちばん外の歩道に出た。そしてその歩道を、自分自身のリズムで歩いていった。
風になびく髪からはじまってハイヒールのスリムなヒールの先端で完結する姿かたちの美しさに加えて、彼女の歩きかたもまた、素晴らしいものだった。彼女の姿の美しさと、歩いていく足さばきのテンポとに視線をとられた彼は、彼女のうしろにすこしだけ距離をとり、おなじ歩道のうえを歩いた。
彼女とほぼおなじテンポで歩きながら、彼は、彼女のうしろ姿ぜんたいを、客観的に鑑賞する人の視線で見つめた。
この美しいうしろ姿を、自分は言葉で描写することが出来るだろうか、と彼は思った。ノンフィクションを書くことを職業としている彼には、すでに数冊の著作がある。そのどれもが、高い評価を得ている。まだ三十三歳だが、書き手としては練達と言ってよく、たいていのことは書けるのだという自信を、彼自身、持ってもいる。
この女性のうしろ姿を、自分が書くノンフィクションの一部分としてどうしても描写しなくてはならないのだと仮定して、どのような言葉をどんなふうに組み立てていけば、いま自分が見ている美しさを的確に描き出すことが出来るだろうか。そう思いながら、彼女のうしろについて歩き、彼は彼女を観察した。
優しい丸みと量感をたたえたふくらはぎが、くるぶしでひきしまって完結するそのくるぶしの、可憐《かれん》で同時に精悍《せいかん》な表情と、しっかりと広い肩との、視覚的にたいへん安定したバランスが、彼女のうしろ姿の美しさの中心軸となっている、と彼は描写のための手がかりをまずひとつ、つくった。彼がなにごとかを描写するときの、お得意のやりかただ。
今日のような初夏の日に彼女にはいてもらうことによって、まるで生きもののように精彩を放っているハイヒールの色を言いあらわすために、たとえばベージュという言葉を使ったなら、その言葉は死んだ言葉となるにちがいない、と彼は思った。
ひと言をまず選ぶなら、ナチュラルという言葉になるだろう。そのナチュラルのなかに、淡いピンクがきわめてうっすらと、かさなりあっている。そして、そのピンクは、対《つい》になっているジャケットとスカートのピンクの影響を、受けている。
ジャケットとスカートの、いまにも消えそうに淡いピンクは、今日の風の香りを色にしたらひょっとしてこんな色になるかもしれない、と思うような出来ばえの色だった。うしろから見ると、ジャケットのつくりは、そっけないほどに簡潔だ。軽く彼女の上体をつつみ、たいへんに着心地がよさそうだ。ジャケット本来の形と、そのすぐ内側に息づいている彼女の体との相関関係は、まさに絶妙だ。彼女のヒップや太腿《ふともも》の張りぐあいに対してちょうど完璧《かんぺき》になるだけの、そしてそれ以上でも以下でもないゆとりを持たせたスカートは、ふくらはぎと足首そしてスリムなヒールをほどよくひき立てるためにそこにある。
彼女の軽快な歩きかたを描写するためには、自分としては彼女の骨盤の出来ぐあいと、その骨盤にはまりこんでいる二本の大腿骨《だいたいこつ》のはまりぐあいとについてまず書かなくてはいけないのではないだろうか、と彼は思った。
そして、そこから、彼女の顔へと、彼の想像力は飛躍した。歩きかたを正確に書くためには、彼女の表情を見る必要がある。彼は、意識と無意識との中間あたりで、そう思った。
彼女の三〇メートルほど前方に、大きな交差点がある。そこの横断歩道を、まっすぐにむこうへ渡るのだろう。いまの彼女の歩き方から、そう判断できる。数メートルの距離を保って、彼は彼女のうしろから歩いていった。
彼女は、ふと、立ちどまった。交差点までには、まだすこし距離がある。明るい色のコンクリートのうえに出来ている彼女の影も、とまった。立ちどまってから、なにかに対してごく軽く身構えるような姿勢を、彼女はとった。それがうしろから歩いていく自分に対しておこなわれたことだとはとうてい気づかないまま、彼はそれまでとおなじテンポで歩いていった。あと二、三歩で彼女を追いこすというとき、彼女は右へふりかえった。
ふりかえってまっすぐに視線をのばしたさきに、彼の顔があった。彼は、彼女の視線を正面から受けとめた。かつてどこかで見た女性だ、という認識がほんの一瞬、あった。そして、そのあと、彼は正真正銘、心の底から驚いた。
驚きのあまり立ちどまり、スラックスのポケットから両手を出し、口を開いた。開いたその口を撫《な》でるようにして、軽く風が吹いた。開いた口をさらに大きくし、
「美代子!」
と、彼女の名を、不覚にもなかば叫んだ。
彼女は、微笑した。彼が記憶しているとおり、彼女が本気で微笑すると、その微笑は彼女の全身に広がる。
「こんにちは」
落ち着いて涼しく、彼女はそう言っている。しかし、彼は再び、
「美代子!」
と、叫んでしまった。
「お久しぶり」
明るい陽ざしを正面から受けとめている美代子の顔を、彼は見た。もともと美しい彼女の顔立ちは、この四年間ずっと会わずにいたあいだに、別人と見まちがえるほどくっきりと鮮やかに、美しさを増していた。
「美代子」
今度は叫ばずに、彼が言った。
まっすぐ彼にむきなおって立った彼女は、微笑を深めた。首をかすかに片方に傾け、まぶしそうに彼を見た。
「これは驚いた。びっくりした」
「どうして?」
「こんなところで、こんなふうに、偶然に会えるとは。姿のきれいな人だなあと、うしろから見て思いながら、歩いていたんだ」
「知ってたわ」
「知っていた?」
尻《しり》あがりにききかえした自分の口調は、かなり間が抜けているのではないかと、彼は頭のなかのすこし遠いところで思った。
「知ってました」
「さっき、バスを降りただろう」
「ええ」
「そこからずっと、僕はついて来た」
彼の言葉に、美代子はうなずいた。
「バスを降りたとたんに、あなただと気がついたのよ」
「しかし」
彼は一歩だけ、彼女に歩みよった。
「しかし、美代子だとは」
「どうなさったの?」
「美代子だとは、これっぽっちも、思ってなかった」
「こんなふうに偶然に会うことって、やはりあるのね」
「これは驚いた」
「お元気そうね」
「ぼくは、だいたいにおいて、元気だよ。しかし、そんなことは、もうどうでもいい」
「バスを降りたとたんにあなただとわかって、私もかなり動揺しました」
彼女が着ている麻のジャケットを、彼は見た。広い肩幅が、やはり素晴らしい。この肩幅は重要だと思いつつ、まるでシャツのようにこなしているそのジャケットは一枚仕立てなのだと、彼は気づいた。
「ぼくだって、驚いた」
「そうかしら」
「ほんとうにびっくりしたのは、ぼくのほうだ」
バス停のほうをなかばふりかえって片手をあげ、彼は示した。
「あそこからここまで、きみのあとをついて歩きながら、なんて姿のきれいな人なのだろう、とぼくは思っていた」
笑顔の美代子は、ジャケットのポケットに片手を入れた。顔の造作は、すっかり彫りかえたように、すっきりと深くなって見える。そのぶん、美しさは確実に高まっている。ひとつの表情がその顔に生まれるとき、そしてその表情が消えるとき、落ち着いた成熟の日々が充実してすでにはじまっていることが、はっきりと読みとれる。
「いつのまに」
と、彼が言った。
「どうしたの?」
「きみは、いつのまに、そんなにきれいになったのだ」
「あれから、四年、たっているのですもの」
彼女の言葉が、香りのある風のなかに舞った。ふたりが離婚したとき、彼女は二十七歳だった。簡単な足し算を、たいへんな数式を処理するかのように頭のなかで扱い、彼女はいま三十一歳だというこたえを、彼は手に入れた。
「時間だけでそんなにきれいになるのか」
「四年は、長いわ」
「誰がきみをそんなにきれいにしたんだ」
彼の言葉に、美代子は、首を反対側に傾けなおした。
「完璧じゃないか」
と、彼が言った。そして、彼女の足もとを指さした。
「ほら、見てみろ。影ですら、美人の影だ」
彼の言いかたに、美代子は声をあげて笑った。
「あなたは、少しも変わっていません」
「健一は元気か」
「元気よ。七歳になったわ」
健一は、彼らふたりのあいだに出来た息子だ。離婚するときに、美代子が彼を引きとった。健一は自分が育てると彼女は言い張り、彼もおなじことを主張した。じゃんけんで決めましょうと彼女は言い、そのとおりにふたりはじゃんけんをした。美代子が、勝った。じゃんけんをしたときの状況を、彼はいまでもよく覚えている。なぜだかそのとき美代子は黒いタイト・スカートをはいていた。両脚を大きく開いて腰を充分に落とし、じゃんけん、ぽん、と勢いよく美代子は石を出したのだ。彼は、鋏《はさみ》だった。
「健一には、一年以上、会っていない」
「そうね」
「ぼくたちは、なぜ離婚したのだろう」
「大喧嘩《おおげんか》をしたでしょう。忘れたの?」
「まだ怒っているのか」
「ときどき思い出して、そのたびにいまでも、かっとなるわ」
「いまのきみは、なぜそんなにきれいなんだ」
彼がそう言い、美代子は空を仰いだ。
「いい気持ちだから、もっと褒めて」
と、彼女は言った。
「この四年間、なにをやってたのだ」
「育児と仕事よ」
「なにをやってると、そんなにきれいになれるんだ」
「育児と仕事よ」
おなじ言葉を、彼女はくりかえした。
「それは、そんなに美容にきくのか」
「おかげさまで」
「ほんとに、驚いた」
「女がひとりで子供を育てながら仕事をしていれば、すこしはきれいになったりもするでしょう。そんなに驚かないで。みっともないわ」
「驚くに値いするほどに、きみはきれいだ」
「お元気そうで、うれしいわ」
強い透明な光が射してくる方向に目をむけ、まぶしそうな表情をつくってから、彼女は彼に目をむけなおした。
「すこし、歩きましょうか」
彼女がそう言い、彼はうなずいた。ふたりは、さきほどとおなじ方向にむかって、ゆっくりと歩きはじめた。
「本は読んでるのよ」
と、彼女が言った。
「読書は、すべきだ」
「あなたの本を読んでるのよ、という意味なの」
「そうか。読んでくれてるのか」
「なにを書いてるのか知らないのは口惜《くや》しいから、読むの」
「うん」
「本屋さんで買ってるのよ」
「こんどから、送るよ」
「買うわよ」
「送ろう。サイン入りで」
「サインは、どんなふうにしてくださるの?」
「まず、謹呈、と書いて、そのあとに、後藤美代子様、だろうな」
後藤美代子は、彼女の本来の苗字《みようじ》だ。彼の妻であったころは、藤田美代子といった。
「買うときは口惜しいけれど、読むと面白いわ」
「ありがとう」
「お仕事は、うまくいってるみたいね」
「うん」
うなずいてそう言い、彼は足をとめた。彼女にむきなおり、彼女の足さき、スカートの裾《すそ》、そしてジャケットの下の白いサマー・セーターなどを、彼は順番に見た。
「仕事で思い出した」
と、彼は言った。
「きみを、取材しようか」
「なぜ?」
「ノンフィクションの材料だ」
「私が?」
「きみが」
「冗談だわ」
「冗談ではない。材料だ」
「どうして?」
「きみとは、四年まえに別れた」
「ええ」
「別れてからの四年間、きみがなにをしてきたのか、ぼくはまったく知らない」
「そうね」
「だから、取材するんだ。その四年間を、取材するんだ」
「まさか」
「さっきうしろからついて歩いて、うしろ姿を見ながら、きれいだなあと思っていたその女性が、じつは四年まえに別れた妻だったという複雑な驚きは、一冊のノンフィクションのきっかけになりうる」
彼の説明に、美代子は軽やかに笑った。
「四年間、なにをやってたんだ」
「だから、さっき言ったでしょう」
「育児と仕事か」
「そうよ」
「それだけか」
「ほかになにがあるの?」
「ぼくは、知らない。だから、取材したくなった。別れて以後の四年間の妻を、取材したくなった」
「おもしろい材料なんて、なにもないわ」
「一冊のノンフィクションになりうる」
真剣な顔をしてそう言う彼をうながして、美代子は歩きはじめた。彼も、歩いた。やがて二、三歩おくれて彼女のうしろにまわり、彼女のくるぶしから髪まで、彼は自分の視覚のなかにとらえた。
斜めうしろから見る彼女のうしろ姿に、快晴の五月の陽が、明るくあたっていた。視線を彼女の広い肩の線にとめ、そのあとすぐに前方の空間にむけて視線をのばしていくまでのごくみじかい時間、彼は、強い衝動にかられた。自分と離婚してからの、かつての妻の四年間にわたる日々を克明に取材して一冊のノンフィクションにまとめ、まず誰よりもさきに自分がそれを読みたいと、彼は強く思った。
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[#2字下げ]雨の降る駐車場にて
二階建ての家が二軒つながって、一軒になっている。外観はすっきりとまとまっている。洒落《しやれ》てはいるけれど、それがいやみにはなっていない。住みやすそうな雰囲気は、外観にも充分に出ている。まだ出来たばかりだ。新築の建物の雰囲気が、敷地も含めて、その家のぜんたいに漂っている。二軒で共有する庭が、まだ完成していない。
木曜日の朝、九時をまわったところだ。関東一円で桜が散ってから、一週間たっている、曇った日の朝だ。風がなく、気温は高い。二軒つながったその家の外の道路に、フル・サイズのステーション・ワゴンが一台、停まっていた。運転席のドアが、開いていた。その運転席に、三十二歳の平野美保子《ひらのみほこ》がすわっていた。
軽いスカートに春のジャケット、そしてほどよく化粧をした顔によく調和した、造りすぎない髪の彼女は、うしろへかなり下げたシートに、居心地良さそうにおさまっていた。右手をステアリング・ホイールにかけ、左手は隣りのシートの背にまわしていた。彼女がシートのなかで居心地良さそうに見えるのは、彼女が大柄であり、したがって運転席の空間に彼女の雰囲気がよくいきわたるからでもあるのだが、彼女はどこでなにをしていても、居心地良さそうに見える。彼女の、得な特徴のひとつだ。
美人のバレー・ボール選手のように見える平野美保子の、さっぱりとした性格は、表情に出ていた。曇りのないきれいな表情は頭が良さそうであり、心から笑った直後あるいは、これからそのように笑う寸前のような印象が、口もとや目もとにほとんどいつもあった。自分ではまったく自覚していないのだが、いま自分の目のまえにあることがらにすんなりと気持ちを集中させているような表情は、大人としてきちんと成熟した女性の色気のようなものへと変化することが、しばしばあった。
二軒つながっている家の、片方の玄関のドアが開いた。四歳になる息子、浩之《ひろゆき》が、弁当の入った小さなバッグを持って家の外に出てくるのを、運転席の美保子は見守った。ドアを閉じた息子は、鍵《かぎ》をかけた。いかにも四歳の子供の手つきで、彼はキーを抜いた。そして、ステーション・ワゴンのほうを見た。美保子が手をあげた。
玄関の階段を降りた浩之は、前庭を横切り、花壇のわきをとおり、外の道路に出てきた。接しあっているもう一軒の家のドアが開き、美保子の姉、美代子が顔を出した。ふりかえった浩之に彼女は手を振り、ステーション・ワゴンの美保子にも手を振った。再び手をあげて、美保子はそれにこたえた。
ステーション・ワゴンのうしろをまわった浩之は、後部の左側のドアを開き、なかに入った。シートにすわり、ドアを閉じ、ロックした。美保子が、ふりかえった。
「どちらまで?」
彼女が、きいた。
「若葉幼稚園まで、お願いします」
と、浩之はこたえた。
運転席のドアを閉じ、美保子はステーション・ワゴンのエンジンをスタートさせた。そして、おだやかに発進した。
「猿のお面は、どうしたの?」
美保子が、きいた。
「今日、帰ってから、作る」
「色を塗るの?」
「そうだよ」
「お猿さんの顔は描けたのかしら」
「描いた」
「切り抜くのでしょう?」
「切り抜いてボール紙に貼るんだ」
「耳にかけられるようにしないといけないわね」
「先生が手伝ってくれるよ」
浩之がかよっている幼稚園では、やがてバザーがおこなわれる。そのバザーの余興のひとつとして、園児たちによる劇が上演される。浩之は、その芝居のなかで、アカミドリ猿、という役名の猿を演じる。
猿の顔を描いたお面を彼はかぶるのだが、そのお面は、右側がまっ赤、そして左側が鮮やかなグリーンになるのだという。客席に対して右の横顔をむけているときには彼はアカ猿であり、左の横顔をむけると、そのとたん、ミドリ猿となる。このアカミドリ猿が、ぱっと左をむいたり、くるっと右をむいたりすることが、その劇のなかで重要な意味を持つのだ。劇は、幼稚園の先生が書いた。
幼稚園まで、ステーション・ワゴンで十分ちょっとだった。信号のある交差点をこえたところで、美保子はステーション・ワゴンを停めた。浩之はドアを開き、外に出た。
「いってきます」
彼はそう言い、
「三時に迎えにくるわ」
と、美保子は言った。
うなずいて、浩之は、歩道を走りはじめた。いつもここで母親のステーション・ワゴンを降りる浩之は、幼稚園の入口まで走っていく。入口には、劇を書いた若い女性の保母が、園児たちを迎えるために立っている。彼女の姿を、美保子は見た。若い保母さんは、入口に立って林檎《りんご》を食べていた。
走っていく息子のあとから、美保子はステーション・ワゴンを徐行させた。入口のまえをとおり過ぎるとき、美保子は笑顔で保母さんに会釈した。
加速しながら、美保子はミラーのなかに幼稚園の建物を見た。二流以下の会社の社員寮にしか見えない建物に、なんのイマジネーションもない遊び場がくっついている。こうしてミラーを介して見ても、若葉幼稚園は社員寮にしか見えないと、美保子は思った。
数分後には、美保子のステーション・ワゴンは、七階建ての共同住宅の駐車場に入っていた。自分の専用のスペースにステーション・ワゴンを停め、彼女は外に出た。ジュラルミンのアタシェ・ケースと、弁当の入った小さなカメラ・バッグとを、彼女は持っていた。
駐車場から建物の正面へまわっていき、彼女はなかに入った。ロビーの奥にエレヴェーターがあり、それで五階へあがった。
自分の名義になっていて、自分の持ち物である部屋に、美保子は入った。間取りは、単純だ。両側にクロゼットのある玄関を入ると、そこは奥まで広い居間だ。居間の奥、左側はダイニングのためのアルコーヴになっていて、キチンとつながっている。居間の隣りは、寝室だ。寝室に入る手まえに、ウォークイン・クロゼットや浴室、そしてさらにいくつかのクロゼットが、要領よくまとめてある。
ひとりで住むには充分な広さだが、息子の浩之とふたりだと、せまい。夫と離婚したときに美保子はこの部屋を買った。ここに四歳の息子といっしょに住もうと思っていたのだが、姉夫婦が家を買うことになり、その家は二軒つながった一軒家だった。隣りを買うべきだとすすめられた美保子は、そちらも買った。姉の夫が持っているコネクションをとおして買う建物であり、価格は破格に安く、離婚するにあたって処分した家と土地の代金で両方の支払いを済ませることが出来た。ただし、父親に多少の借金が出来た。
彼女は居間の奥へ歩いた。ほんのちょっとしたバルコニーに面して、その全面がガラス戸になっている。ガラス戸を、彼女は開いた。曇り空はさらにその灰色を濃くしていた。夜になるまえに、雨が降りはじめるのではないだろうか。
隣りの寝室に、美保子は入った。この部屋は、いまの彼女にとって、仕事場となっていた。本棚が片方の壁にあり、もう一方の壁には、作業用のテーブルがあった。窓に面してライティング・テーブルがあり、そのわきに、ファイル・キャビネットを兼ねたサイド・テーブルが、おなじ高さで接していた。ライティング・テーブルの上には、ワード・プロセサーがあった。
ジュラルミンのアタシェ・ケースを作業テーブルに置いた彼女は、弁当を持って部屋を出た。キチンへいき、冷蔵庫に弁当を入れた。ホット・プレートにケトルをかけ、湯をわかした。
このキチンには、なにも入っていない冷蔵庫、ケトル、コーヒー・メーカー、コーヒーの粉、紅茶の缶、紅茶とコーヒーのカップなどしか、置いてない。この部屋を仕事場としてのみ使っている美保子にとって、それだけあれば充分だった。
すぐに、湯がわいた。彼女は、コーヒーをいれた。好みの濃いめのコーヒーをいっぱいに注いだカップを持ち、隣りの部屋に戻った。
作業テーブルのまえに立ち、コーヒーを飲みながら、アタシェ・ケースを開いた。昨日の午後と夜の時間を使い、自宅で作った翻訳原稿やテキストのコピーを、アタシェ・ケースから出した。テーブルの上の小型コピー・マシーンで原稿をコピーし、オリジナルをトレイに入れた。自宅とこの部屋とのあいだは、彼女は原稿とテキストのコピーだけを持って往復している。
平野美保子は、翻訳家だ。翻訳によって得られる印税その他の収入によって、自分と息子との生活を支えている。彼女が翻訳した本は、すでに十数冊ある。
ライティング・テーブルの椅子に、彼女はすわった。コーヒーを飲みながら、いま翻訳している小説の原本を開いた。アメリカの女性作家が書いた、一種の私小説だ。こまかなエピソードをぎっちりとつめこんだ、ひとりの女性の身の上の物語だ。エピソードのひとつひとつは面白すぎるほどに面白く、書きかたはクールで鼻っ柱の強いユーモアにあふれている。女性がひとりで生きていくことのなかにともすれば生まれがちなあやふやさを支柱に、主人公の女性はきわめて魅力的に造形してあった。
美保子は、この小説の翻訳にとりかかってすぐに、作者の女性に手紙を書いた。エピソードのひとつひとつはたいへんに面白く、主人公の女性は魅力に満ちているが、この物語は作者の身の上とどの程度までつながっているのかと、美保子はその手紙で質問した。気になったからだ。
返事が届いた。あなたの手紙が気にいったから本当のことを教えますが、あの小説はみんな嘘で、いかなるディテールもすべて自分自身の身の上とは関係のないところから材料を集めて書いたものだと、手紙のなかで作者は言っていた。すこしずつメモをとっていき、そのメモがデスクいっぱいになってから書きはじめ、六か月で書きおえたという。そのうち会えるチャンスがあるでしょう、とその作者は、美保子をはげましていた。
美保子は、小学校の途中で、ボストンへ移り住んだ。父親の仕事の関係で、姉と母もいっしょに、ボストンへ移った。そして、高等学校を卒業するまで、そこに住んだ。大学へはいかずに、父親の仕事を手伝って働いた。二十三歳で日本に帰ってきて、二十五歳で結婚した。一人息子の浩之が生まれたのは、美保子が二十八歳のときだった。息子に手がかからなくなったら、再びアメリカへいき、大学で勉強することに美保子はきめている。
コーヒーを飲みおえた美保子は、仕事をはじめた。この小説を翻訳する仕事は、明日の午後には終わる。その次の仕事は、詩集だ。そして次は、映画のシナリオから書きおこした小説だ。映画はすでにアメリカで封切られていて、たいへんなヒットだという。日本でも公開されるから、それにあわせて小説も翻訳して出版するのだ。映画のシナリオをもとにして書いた小説はだいたいにおいて退屈だが、かなりの部数がたやすく売れていく。たまにはそのような仕事も、経済的な意味で必要だった。映画の本と詩集とは、その順番がいれかわるかもしれない。そしてさらにその次には、ミステリーを翻訳する。女性の私立探偵が登場する、女性作家によるミステリーだ。そのあとにも、ミステリーを翻訳する予定が、いくつかある。
午後二時三十分まで、美保子は仕事に気持ちを集中させた。途中で休んだのは、弁当を食べたときだけだ。この部屋の電話番号は、親しい友人や幼稚園を別にすると、ほとんど誰にも教えていない。友人以外の人からの電話はかかってこない。そして、友人たちからの電話なら、息抜きにちょうどいい。
原稿のコピーをとり、それをテキストのコピーといっしょにアタシェ・ケースに入れ、彼女は部屋を出た。居間のバルコニーから外をながめ、ガラス戸を閉じ、キチンに入った。コーヒーの粉が残りすくなくなっていた。
部屋を出て一階へ降り、駐車場へまわった。ステーション・ワゴンで幼稚園へむかった。三時までに二、三分を残して、美保子のステーション・ワゴンは幼稚園の入口に到着した。三時の鐘が幼稚園のなかのどこかで鳴り、園児たちが建物の外へ出てきた。
浩之を朝とおなじようにうしろのシートに乗せ、美保子は自宅へ戻った。今日は、買い物はない。食料品と日常の品のほかに、美保子が買うものはほとんどない。本はニューヨークの書店に注文する。クラシック音楽のテープを、ときたま何本かまとめて買う。かつての夫は、服やアクセサリー、化粧品などをもっと買うようにといつも美保子に言っていた。
浩之が鍵《かぎ》をあけてくれたドアを入ると、電話のブザーが鳴っていた。浩之の遊び場として広くあけてある居間の片隅で、美保子は電話の受話器をとった。
電話の相手は、山下という編集者だった。あと二年か三年で、山下は四十歳となる。結婚していて、子供がふたりいる。仕事の進めかたは、要領がいい。ユーモアも、かなりのところまで、理解してくれる。彼女よりも背が高く、いい男、と言ってもいい。しかし、服装がよくないので、損をしている。
「午前中と午後と、電話をしたのですよ」
と、山下は言っていた。
「ごめんなさい。でかけていて、たったいま、帰ってきたの」
「元気ですか」
「どこが?」
美保子が笑顔で冗談を言っていることを、山下は知っている。
「頭のなかの、複雑な迷路の片隅とか。あるいは、足の指の先端」
「どこも元気です」
「よかった」
「そちらは?」
「すんなりと、元気です、とは言えないみたいだなあ」
「まあ」
「マンネリを右わきあたりに感じつつ、なんとかやってます」
「やがてそれは、左わきにもやってくるわよ」
「はさみ打ちですね」
「それから、正面。そしてうしろからも」
美保子の言葉に、山下は電話のむこうで笑っていた。
「そんなふうにして、年月《ねんげつ》は経過していくんだね」
「年月のうちは、まだいいのよ。年月、という言いかたは、まだ若い人の言いかたなの。やがて、歳月《さいげつ》、と言いはじめたら、もう老境なのよ」
「なるほど」
山下は、面白そうに言った。そして、
「幾歳月《いくとしつき》、というのもあります」
と、つけ加えた。
「そうなったら、エンド・マークも近いわ」
笑った山下は、
「年月と歳月の、ニュアンスの違いですね。さすが平野さんだ」
と、結論を下した。
「ところで」
「はい」
「あの映画の小説の、版権が取れましたよ」
「よかったですね」
「予定は、だいじょうぶでしょうね」
「予定してあります」
「急ぐことになるかもしれませんよ」
「どうぞ」
「心強いなあ。映画の公開予定が、もうじき決定します。それによっては、特急の作業になるかもしれない」
映画は、代理母の問題をテーマにしている。契約して母体を提供し、代理に子供を生んだ女性が、その子供を契約相手に引き渡してのち、やはり自分の手もとに欲しいと言いはじめて養育権を主張するところから、およそ考え得るありとあらゆるすったもんだが起こってくるドラマだ。現実にあった出来事をもとに映画はつくられていて、その映画のシナリオにもとづいて小説は書かれている。
「映画は、日本で当たるかなあ」
「どうかしら。面白い話ではあるのよ」
「そうですね。その面白さが、日本に入ってくると、どうなるかという心配はあるんですけどね」
「私の予定は、作ってあります」
「打ち合わせをしましょう。しばらくお会いしてないし。たまには、会ってくださいよ」
「いまかかっている仕事が、明日、終わるの。だから、来週には、お目にかかれるわ」
「ということは、次の仕事は、この映画の本ですね」
「そう」
「それはいい。予定など、話し合いましょう。久しぶりに、酒など、どうですか。ビリヤードをやりましょうよ」
美保子がボストンで過ごした家には、ポケット・ビリヤードのテーブルを置いた部屋があった。毎日のように親しんできた美保子は、プロに近いと言っていいほどの腕前だ。山下もビリヤードは好きだが、とても美保子の相手ではない。
「時間をかけてゲームをしたいですね」
「しましょう。いつかいったあのバーが、休みの日でも特別に店を開けてくれると言っているんです。ぼくたち大人たちの楽しみのために」
「いいですね」
「やりましょう。ずいぶん間があいてしまったから、そろそろつきあって下さい」
受話器から聞こえてくる山下の声を聞きながら、美保子は、たとえば彼と酒やビリヤードで三時間ほどをいっしょに過ごしたとして、そのあいだの世間話の内容や展開がどんなふうになるか、あらかじめ正確に見当をつけることが出来た。いつも最後はおなじような話になり、そのおなじ話はいつもと似た展開のしかたをとる。ビリヤードはいいだろう。あのバーも悪くはない。酒も、たまにはいい。しかし、美保子の気持ちは、いまひとつ動かなかった。
「月曜の午前中に、私のほうから電話します。そして、お会いする日や時間をきめましょう。いまきめると、あとで変更するようなことになりそうなので」
電話は、やがて終わった。途中から浩之が彼女のかたわらに来て、電話で喋《しやべ》る彼女の言葉を聞いていた。
「なにか食べる?」
浩之にかがみこんで、美保子はきいた。
「卵サンドイッチ」
と、浩之は答えた。
「お弁当で食べたでしょう」
「もう一度、食べたい」
「どうして?」
「おいしかった。だから、もう一度」
四歳のひとり息子に、おいしかったからと言われれば、いつでもなにでも、美保子は作る。
「では、卵サンドね。すぐに作るわ。着替えてくるから、待っててね。手と顔は、洗いましたか」
「よく洗った」
美保子は、二階の寝室に上がった。浩之が、あとからついてきた。寝室のなかで、彼女は服を脱いだ。下着だけになった彼女のへそにむけて、浩之が人さし指を突き立てようとしてまつわりついていると、電話のブザーが鳴った。
ベッドまで歩いてその縁にすわった彼女は、ナイト・テーブルの電話機を引き寄せ、受話器を取った。
電話の相手は、今度も編集者だった。二十八歳の独身の女性で、酒田《さかた》という。いま美保子がおこなっている翻訳の仕事の、直接の担当者だ。酒田のことを、美保子は、いっしょに仕事をするようになってまだ間もない頃は、妙な意地悪だと思っていたが、いまでは考えをあらためていた。美保子とはまったく異なった思考の経路をたどって、酒田はじつは親切だし丁寧でもあるのだ。美人と言っていい顔立ちなのだが、朗らかに元気よく、限度いっぱいに彼女が笑うのを、美保子はまだ見ていない。
「電話をいただいてたかしら」
酒田も留守のあいだにここへ電話をかけていたのではないかと思い、美保子はそう聞いてみた。
「二度、かけました」
と、酒田は言った。
「幼稚園へいったりしてたので。いま、帰ってきたところなの」
「原稿はどうかしらと思って、電話してみました。終わりが近いとおっしゃってたので」
「明日の午後には、終わるわ」
「そうですか」
と、いつもの静かな口調で、しかし彼女なりに熱意をこめて、酒田は言った。
「それは、うれしいです」
「来週、月曜日にでも、お渡し出来るわ」
「でも、明日には出来るのでしたら、土曜日の午後、そちらにおうかがいしましょうか」
酒田のこのような丁寧さに対して、大きくバランスを失することのない丁寧さで自分も応じなくてはいけない。しかし、どのようにすればいいのか、美保子には正確には見当がつかない。
息子の浩之は、ベッドの下にもぐって遊んでいた。へそに人さし指を突き立てようとする彼に、美保子が好きなようにさせておいたら、すぐに彼はへそに興味を失った。酒田と電話で話をしながら、美保子は、自分の指先をへそに入れてみた。面白くもなんともなかった。
「月曜日には、私は、午後からきっと外出すると思うの。そちらの近くまでいくことは出来るので、そのときに会いましょう」
美保子の提案に対して、酒田は、せっかく出来た原稿だからなるべく早く受け取りたいと、なおも丁寧に主張した。
「明日、とりあえず仕上がって、ぜんたいを一度だけでも見ておきたいの」
美保子が言った。
「見ていくと、細かな部分が気になって、土曜日はその修正にとられてしまうような気がするので、やはり月曜日の午後、早い時間にお会いするのがいいと思うわ」
ではそうしましょうと酒田は言い、原稿が出来たお祝いに夕食をいっしょにしようと、提案した。脚を開いてベッドの縁にすわっている美保子の、その脚のあいだから、浩之が這《は》って出てきた。脚のあいだで彼は立ち上がり、美保子にむきなおり、裸の彼女の胴に両腕をまわした。
酒田には、恋人の男性がいる。一度、待ち合わせの場所でちらっといきちがったことがある。酒田と夕食をとれば、後半はその男性に関する遠慮がちなのろけを聞くことになるのだと、美保子は思った。
一週間を二ページで見渡すことの出来るウィークリー・プランナーが、隣りの仕事部屋にある。来週の予定は、ひとりでおこなう仕事のほかは、まだなにもない。酒田と会うついでに、とりあえず山下と会うことも出来るだろう、と美保子は思った。酒田と夕食をともにするなら、山下とは映画の本の予定を打ち合わせるだけになるだろう。酒やビリヤードは、後日にまわすことになる。酒田との夕食の席に山下が同席してもいいと美保子は思うのだが、美保子には思いつかない微妙な理由によって、ふたりともそれぞれに同席はいやがるだろう。
「前半の校正が、ひょっとしたら月曜の夕方までには、出てくると思います」
電話のむこうで、酒田はそう言っていた。明日には翻訳しおえる小説の、前半の原稿を酒田はすでに入稿している。その校正が、早くも出てくるのだ。校正を見る作業を、来週の予定のなかに加えなくてはならない。校正を酒田に返すときに、山下と会ってお酒にしてもいい。
月曜日の午前中にこちらから必ず電話をする、と美保子は言い、月曜日の夕方からは空けておくと、酒田は答えた。電話は、やがて終わった。
浩之は一階へ降りていき、美保子は服を着た。すぐにキチンへ降り、卵サンドイッチのための卵をふたつ、ゆではじめた。
卵がゆだると、そこから先はたいへんなスピードで美保子はサンドイッチを作りあげた。手順がそれほどいいわけでもないのだが、見事なスピードだ。料理はいつもこうだし、家の中でのほかの用事も、早くにこなしてしまう。ただし、かなりの音がともなうのが、美保子の特徴だ。食器を収納している棚のドアを足で蹴《け》りとばして閉じるし、使ったまま洗っていない食器を水につけておく深い専用のシンクに、スプーンその他をひとつかみ投げ込んだりする。乱暴ではないし、雑でもないのだが、彼女の作業には音が連続してともなう。夫は、これをいやがった。
ベーコンの使いかたが巧みな、したがってぜんたいがよくひきしまった味と感触の卵サンドイッチ、グリーン・ピーズの残りを温めたもの、そして絞ったばかりのオレンジ・ジュースが、カウンターにならんだ。いまのような軽食のときには、このカウンターを使う。
サンドイッチを食べる浩之の隣りに美保子がすわり、話をしていると、玄関のドアの開く気配があった。
「こんにちは」
と、美保子の姉が語尾をのばして言いながら、居間に入ってきた。大きな両手のなかに、姉はアヴォカードをいくつも持っていた。
「食べない?」
と、彼女はそのアヴォカードを美保子に見せた。ふたりとも、アヴォカードが好きだ。 美保子がアヴォカードを切り、皿にならべた。ふたりもカウンターの席にすわり、アヴォカードを食べた。
「ああ、ああ、ああ」
と、美保子の姉、美代子は、浩之のグラスを指さして言った。笑いながら、彼女は美保子をふりかえった。半分ほど飲んだオレンジ・ジュースのグラスのなかに、浩之は、グリーン・ピーズをすべて入れてしまっていた。グラスを持ちあげた彼は、ジュースといっしょにグリーン・ピーズを口のなかに入れた。
「でも、きれいだわ」
と、美代子は言った。
「ねえ」
美保子は、うなずいた。
「うちの亭主がここにいたら、きっと写真に撮るわ。なにかの成りゆきでふとそうなってふとそこにあるものを、写真に撮るのが彼は好きなのよ。スライドで撮って、何枚もためておいて、映写して見せるの」
三人が食べおえて、美保子はすべての食器をシンクの水のなかにつけた。この家を買うとき、キチンや浴室の造りに関しては、こまかな注文を出すことが出来た。本来のシンクの隣りに、美保子は、特別に深いシンクをもうひとつ、造ってもらった。ここに湯を張り、使った食器を沈めておくのだ。一日分をすべてつけておき、夕食が終わったあと、まとめていっせいに洗う。食事のたびにいちいち食器を洗うのが、美保子は大嫌いだ。しかし、夫は、これもいやがった。美保子は、生ごみに関して、特別に神経質だ。見るのはいやだし、その臭いはさらに嫌いだ。生ごみは、そのつど、外にある密閉容器に処分している。
姉妹が居間で話をしていると、美代子の娘、啓子が学校から帰ってきた。いま啓子は十歳だ。早熟で機転のきく、それでいて愛嬌《あいきよう》のある、いい娘だ。浩之の遊び相手を、喜んでつとめてくれる。ふたりが遊びはじめて、姉は隣りへ帰っていった。美保子は丁寧にコーヒーをいれ、それを持って二階の仕事部屋へ上がった。
部屋に入ってデスクの椅子にすわり、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。そして、仕事をはじめた。夕方まで、そして夕食の時間がくるまで、美保子は仕事に気持ちを集中させて過ごした。途中、隣りの家の姉から電話があった。今夜は夫が外食なので、そちらのキチンで私が夕食を作る、と姉は言っていた。美保子のキチンで作っていっしょに食べれば、かたづけや洗いものをしなくてすむ。姉も、洗いものは好きではない。彼女たちの母親も、そうだ。おなじ気質を受けついだ、つまりは家系なのよと、いつだったか三人で語り合ったことがある。
姉がこちらのキチンで夕食を作ってくれるのは、美保子にとっては都合がいい。夕食が出来てテーブルにならぶまで、自分は部屋にこもって仕事をしていることが出来る。料理をせずにすむなら、洗いものはいとわない。朝からためてあるのだし、姉と娘の分が増えるだけだ。
美保子は、夕食の時間になるまで、仕事を続けた。電話は、かかってこなかった。浩之と啓子の声が階下に聞こえ、ほどなくそれに姉の声が重なるようになった。
四人で夕食を食べてすぐに、電話のブザーが鳴った。美保子と仕事のつながりを持っている編集者のひとり、木村という男性だった。いま、彼とのあいだに仕事はない。近いうちに翻訳の仕事がまわってくることになっているが、しばらく先だ。さしあたって用はなくても、木村はときどき電話をかけてくる。
「お邪魔をします、ひょっとして夕食の途中ですか」
と、善意の人の口調で、木村は言っていた。
「いま、終わったところです」
「お邪魔ではないですか」
「いいえ」
「なんだか、にぎやかですね」
「姉の娘と、私の息子と、そして姉と」
その三人は、居間の中央で遊んでいた。
「いいですねえ、なごやかで。ぼくは、そういうのに憧《あこが》れます」
「まだお仕事ですか」
「これからですよ」
「お家《うち》へお帰りになれば、木村さんのところもにぎやかでしょう」
木村には、男ばかり三人の子供がいる。
「家は、戦争ですよ。にぎやかさをとっくにとおり越しています」
「楽しいですわ」
「夕食はなにだったのですかと、きいていいですか」
木村の質問に、美保子は笑いながら料理の名を思いつくままにあげていった。
「いいなあ」
と、木村は、甘えた声をあげた。
「平野さんは、いつも、そんな素敵なものを食べているのですか」
「今夜は、姉が作ってくれました」
「ぼくも、食べたいです」
「いつでも、いらして下さい」
「ほんとですか」
「姉の料理でよければ。あるいは、私の料理でよければ」
「食べたいです」
「どうぞ」
「本気にしていいですか」
「どうぞ。ほんとに」
「ゆっくりと、落ち着いて、平野さんのような素敵な人と、夕食を食べてみたいですねえ。ぼくは、このところ、テーブル・クロスのかかったところで夕食をとってないですよ」
「そんなに忙しいの?」
「あれやこれや。あっちやこっちや」
「今夜これからのお仕事は、どっちなのかしら。あっちかしら、それとも、こっちかしら」
美保子の冗談に、木村は笑った。そして、けなげにも、
「さあ、どっちでしょう」
と、答えた。
ほとんどなんの意味もないやりとりを、美保子はしばらく続けた。近いうちに会いましょうという、漠然とした約束を交わして、電話は終わった。
「誰なの?」
と、姉がきいた。
「木村さんという、編集のかた」
「いまのような電話で、なにが達成出来たの?」
「なにも。すくなくとも、私は」
「彼は、なんの用があって、かけてくるの?」
「別に、用はないのよ」
「じつは口説かれてるということに、美保子は気づいてないのかもしれないのよ」
「まさか」
美保子は、笑った。
「仕事にせよなににせよ、あなたを見ていて、なんとかしたいなあと思う男性は多いはずなのよ」
「旦那《だんな》さんも、そう言ってたのでしょう?」
「言ってたわ」
「どうにも出来るわけないでしょう」
美保子は、姉を見下ろしてそう言った。姉はフロアによつん這《ば》いとなり、その背中に浩之と啓子とを乗せていた。
三人が遊んでいるあいだに、美保子は洗いものをすませた。気にしはじめたら相当に気になるような音をたてながら、彼女は素晴らしいスピードで食器その他を洗いあげた。音とスピードから察すると、雑な洗いかたではないのかと思ってしまうが、そうでもない。
姉と啓子は隣りへ帰っていき、浩之は風呂《ふろ》に入る時間となった。風呂の用意を、美保子は調えた。浩之が風呂に入っているあいだ、美保子は洗面台とその周囲とを整理した。浩之はまだ四歳だ。風呂に入っているときはすぐそばにいる必要があった。
風呂を出た浩之が二階の自分の部屋でパジャマに着替えた頃、美保子も二階へ上がった。廊下から、浩之に声をかけた。
「お話を読んでください」
と、浩之は部屋のなかから言った。美保子は部屋に入った。
枕をベッドのヘッド・ボードに立てかけてクッションのかわりにし、浩之はそれにもたれてすわっていた。本を一冊、持っていた。浩之は、その本を開いた。開いて、美保子に差し出した。
ベッドの縁にすわった彼女は、本を受け取った。今夜もまた、読む話は笠地蔵《かさじぞう》だ。浩之は、笠地蔵の話をなぜだかことのほか好いている。これまでに何度この話を読んだかわからない。
ときどき、美保子は、英語のストーリーを浩之に読んで聞かせる。彼は、熱心にじっと聞いている。読みおえて、どうだった、と美保子が聞くと、彼は、とても面白かったと答える。どんな話だったのと彼女が聞くと、浩之は、自分でストーリーを作りながら答えていく。そのストーリーは、いつの場合でも、笠地蔵のヴァリエーションなのだ。
本を読んで聞かせると、最後の部分では浩之はすでになかば以上、眠っていた。寝かしつけて部屋の明かりを消し、美保子は階下へ降りていった。
美保子も風呂に入り、二階の自分の寝室へ上がった。XLサイズの男物の木綿のシャツをパジャマのかわりに着て、ベッドに入って本を読んだ。彼女は、英語の本しか読まない。
本のなかへ入りこんで快適になった頃、ナイト・テーブルの電話が低く鳴った。腕をのばし、彼女は受話器を取った。
「もし、もし」
と、電話をかけてきた男性は言っていた。誰なのか、すぐにわかった。かつての同僚の男性だ。彼女は、彼がいま勤めている出版社で、社員として仕事をしていたことがある。あまりの退屈さに、彼女は一年で辞めた。彼女に翻訳の仕事を最初に勧めてくれ、仕事をみつけてきてくれたのは、この男性だ。彼女より五つ年上で、家庭を持っている。
「もし、もし」
と、彼はもう一度、言った。
「こんばんは」
とこたえながら、美保子は、夕食のあとの姉の言葉を思い出した。このかつての同僚も、自分のことをなんとかしたいと思っているのだろうかと思うと、美保子は笑顔になってしまう。
「美保子さん」
「こんばんは。久しぶりですね」
笑顔は声の調子となって出ていた。
「元気そうですね。楽しそうだ」
と、彼は言った。
「楽しいです」
「それはいい。この時間、電話してもいいですか。遅すぎるかな、とも思ったのだけど」
「いいえ。だいじょうぶです」
「最近は、どうしてる?」
「あまり変化はないですよ。育児と生計を立てることと」
「いま、ぼくは家にいるんですよ。ひとりで。女房と子供は女房の実家へ遊びにいって、ぼくは珍しくここでひとりです。しばらく会ってないなあと思って、電話してみたのです。電話で浮気をしようと思って」
と彼は言い、即座に照れて打ち消すかのように、はははと笑った。美保子も笑った。
彼といっしょに食事をして酒を飲んでいると、彼はいろんな話をする。あっちに飛び、こっちに飛び、それなりに面白い話だ。しかし、最後には、子供がいるとはいえひとりで寂しくないか、という話になる。彼が言う寂しいという言葉には、きわめて露骨な意味がふくまれていることを、美保子は最近になって知った。
しばらく、ふたりは世間話をした。そして、近いうちにぜひ会おう、と彼は言い、出来ることなら来週の後半がいい、と自分の都合を先に述べた。では、来週の後半に会いましょう、と美保子は答えた。来週のいつにするかは、来週になって美保子のほうから彼に電話をすることにした。
電話を終わり、美保子は再び本を読みはじめた。すぐに、電話のブザーが鳴った。今度は、同性の友人からだった。アメリカで知りあった日本人女性だ。美保子の実家のある神戸で、いまは仕事をしている。
たまには神戸へ出ていらっしゃいという、気楽な誘いの電話だった。彼女も、ビリヤードが好きだ。美保子の叔父《おじ》の家が芦屋《あしや》にあり、そこへいくとビリヤード・テーブルを据えつけた広い部屋がある。そこで何度か、美保子は彼女とナイン・ボールに熱中した。
五月の終わり近くに、美保子は神戸へいく予定でいる。その予定を、電話のむこうにいる友人に教えた。おたがいの近況を報告しあって、電話は終わった。
深夜をすこしまわるまで、美保子は本を読んだ。その本の面白さに対して、眠さのほうが健康的に勝ちはじめて、彼女は本を閉じ、ベッドを出た。
一階に降り、家のなかを見てまわった。玄関のドアを開いて外を見ると、姉の夫のセダンが、隣りの玄関のまえに停まっていた。ドアを閉じて二階へ上がり、寝室でベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
明くる日、いつもの時間に美保子は起きた。浩之を起こし、階下に降り、朝食のしたくをはじめた。外には雨が降っていた。浩之と朝食をとり、彼に服を着替えさせ、自分も服を替えた。浩之の弁当は、朝食といっしょに作った。美保子が先に外に出て、ステーション・ワゴンのなかで浩之を待つ。いつもとおなじ順番で、いつもどおりにことは進行した。
幼稚園の入口では、先生が傘をさして立っていた。園児を、彼女はひとりひとり笑顔で迎えていた。
幼稚園から、美保子は仕事場の部屋にむかった。部屋に入り、いつものようにコーヒーをいれてひとりで飲み、それから仕事をはじめた。今日は、姉が幼稚園へ浩之を迎えにいってくれる。
五時近くまで、美保子は仕事に没頭した。一冊の分厚い小説を翻訳する作業は、思っていたとおり終わった。最後の一行を訳しおえると、ほんのすこしだけ晴れやかな気分となった。作者にまた手紙を書こう、と美保子は思った。
原稿のコピーをとり、コーヒーをいれて隣りの居間でカーペットにすわってそれを飲んだ。そして、原稿のオリジナルとテキストとをアタシェ・ケースにおさめ、部屋を出た。 食料品その他の買い物を、美保子はいつも金曜日にすませる。だから、彼女は、ステーション・ワゴンでスーパー・マーケットにむかった。
駐車場に入り、空いたスペースをみつけ、そこにステーション・ワゴンを停めた。エンジンを停止させ、パーキング・ブレーキをかけて、彼女はシートのなかで体の力を抜いた。正面のガラスごしに、ぼんやりと外を見た。広い駐車場には雨が降っていて、ところどころに空いたスペースがあった。そしてそのむこうに、スーパー・マーケットの平たい大きな建物が、白く横たわっていた。
とりとめなく、美保子は考えた。土曜日と日曜日は、おそらくなにごともなく平凡に過ぎていくだろう。月曜日には、午前中に電話をしなければいけない。山下、そして酒田だ。酒田とは、夕方に会って原稿を渡し、そのあといっしょに夕食になるだろう。山下には、午後の適当な時間に会えばいい。恋人を連れていらっしゃいと言ったなら、酒田はその恋人を連れてくるだろうか。連れてくるなら、自分も男性を伴ったほうがいい。木村を誘おうか。あるいは、ほかの誰かにしようか。誰でもいいような気もする。
山下と会うのは、週の後半にしてもいい。夕食、ビリヤード、そして酒、となっても構わない。かつての同僚の男性を誘おうか。近いうち会いましょう、と約束したその約束は、果たせる。友人を連れていきます、と山下に言えばいい。その友人を、女性だと山下が思ったなら、山下は男性の友人を連れてきて、女性は自分ひとりとなり、三対一のバランスの悪さは、うまくいけば面白さにつながる。三人に対して自分が均等に優しくしたなら、どんなことになるだろう。友人を男性だと山下が思ったなら、彼は女性を連れてきて、逆の三対一となり、これも面白い。三人の女性がそろって山下に優しくしたなら、山下はどうするか。
いっそのこと、全員が一堂に集まるといいかもしれない、と美保子は思った。たとえば、自分の家に。姉が料理を作り、自分がホステスとなる。いつもとは大いに異なった自分を演じると、面白いにちがいない。姉は、普段は化粧っ気のない顔に無造作な髪、そしてさらに無造作な服装だが、その気になるとびっくりするほどに美しい別人へと変身する。
姉の夫も、加わるといい。山下、酒田、その恋人、木村、かつての同僚の男性、神戸の友人、その他、身近にいる人たちがたくさん集まると面白い。姉の夫も、ナイン・ボールが好きだ。いま住んでいる新しい家の庭に、ビリヤード・テーブルだけを置いた離れのような建物を、簡単な造りでいいから建てたいと、彼は言っている。
早くにそれを建てさせ、完成したなら人をたくさん呼んでパーティーをするといい。きっと両親もくるだろう。芦屋の叔父も、銀縁の眼鏡を光らせて、ナイン・ボールの腕の見せどころだ。その日は、きっと雨になる。そして自分は、窓から外を見ているだろう。たとえば、いまのように、想像は、とりとめなく流れた。
グラヴ・コンパートメントを開き、美保子はカセット・テープの入っているケースを出した。なかから、透明なプラスティックのケースに入ったテープをひとつ、選び出した。エドヴァルド・グリーグの抒情《じよじよう》小曲集だ。エミール・ギレリスがピアノを弾いている。この音楽を、美保子は聴こうと思った。指先でケースの蓋《ふた》を開いたり閉じたりしながら、彼女はなおも想像をした。
このテープにおさめてある音楽は、よく知っている。両面とも、小曲のタイトルはすべて順番に記憶している。サイド1は、次のとおりだ。アリエッタ。子守歌。蝶々《ちようちよう》。孤独なさすらい人。音楽帳。メロディー。ノルウェーの踊り。夜想曲。スケルツォ。郷愁。
子守歌は浩之のために。そして自分は、ひょっとして孤独なさすらい人だろうか。そうではあっても、なんらかのメロディーを、自分のものとして持ちたい。それは、夜想曲か。郷愁は、ボストンへの郷愁だろうか。ボストンのあの家では、庭からチャールズ河が見えた。
サイド2に入っている曲のタイトルは、次のようだ。小川。家路。バラード風に。おばあさんのメヌエット。あなたのおそばに。ゆりかごの歌。昔々。パック。過去。余韻。
ボストンは、郷愁というよりも、家路だろう。そうだ、自分はバラード風に生きたい。あなたのおそばに、というような気持ちには、久しく縁がない。これからも、ないのではないか。そのような気持ちになりたいとも思わない。
昔々。そう、あと三十年もすれば、いまこうしてここにいる自分は、昔々の出来事になってしまう。三十年も必要としないかもしれない。二十年で充分だろう。二十年後、自分はどこでなにをやっているだろうか。三十年、そして四十年。すべては、過去となる。そして、過ぎ去った時間は、余韻となってそれだけが自分の手のなかに残る。これからの自分の半生が、この音楽のなかにあるようだ。
雨の降る駐車場にて、と彼女は思った。
[#改ページ]
[#2字下げ]離婚して最初の日曜日
四月なかば、木曜日、関東地方の南海上に気圧の谷があり、停滞していた。雨模様の日が続いていた。週末は確実に雨、という予報が出ていた。桜前線は東北地方まで北上していた。
福岡からの定期便は定刻に羽田に到着した。なにごともなく着陸した機体は、フィンガーにむけて移動していった。ほぼ満員の乗客たちは、平凡な日常の見本のような顔つき、服装、そして雰囲気だった。いつものバスから降りるように、彼らは機体から外の通路へ出た。三十五歳の宮沢亜希子も、そのうちのひとりだった。
彼女の荷物はシートの下に入るバッグとショルダー・バッグだけだった。長いスカートにダークブルーのジャケット、そしてその下には襟を立てたポロ・シャツという平凡な服装が、亜希子にはよく似合っていた。あどけなさの残る整った顔に対して、これがもっとも正解、と誰もが言うような髪のまとめかたをしていた。そして眼鏡が、仕上げだった。
到着便のロビーに出て来た彼女は、遠くの壁の時計を見た。電話ブースのならんでいる壁にむけて、彼女はロビーをまっすぐに横切った。空いているブースを見つけ、ドアを開いた。バッグを降ろしてそのドアのストッパーにし、亜希子はブースに入った。夫の宮沢敏彦とともに住んでいる自分たちの部屋に、亜希子は電話をかけた。敏彦はすぐに電話に出た。
「いま着きました」
と亜希子は彼に言った。
「空港かい」
「そう」
「お帰り」
「まだ出ないの?」
「もうじき出る」
「私はこれから東京駅へまわるわ」
「タクシーには乗らないほうがいいよ」
「もちろん。今夜の段取りは、どうしましょうか」
「午後遅く、どこかで落ち合おう」
「時間はあるのかしら」
「僕は大丈夫だ。きみは?」
「いいわよ」
「五時頃かな」
「ええ」
「銀座で」
「はい」
待ち合わせの場所をふたりはきめた。
「そこで五時に待ち合わせ」
「わかったわ」
「東京駅から、両親はまっすぐに旅館だろう?」
「そうよ」
「僕たちは、待ち合わせのあと、タクシーでその旅館へいけばいい。そして両親を乗せて、夕食の店へむかおう」
「そうしましょう」
「仕事は終わったのかい」
「福岡のは、終わったわ。私たちは、別れるのね」
日常のほんのちょっとしたことを確認するような口調で、亜希子が言った。
「別れるよ」
敏彦が答えた。
「離婚ね」
「離婚だね」
「確定なのね」
「決定だ」
「わかったわ」
「僕も、よくわかっている。僕はもうじき出かける」
「のちほど」
「うん」
うん、という言葉は変な言葉だ、と思いながら亜希子は電話を終わった。カードを抜き取ってジャケットのポケットに落とし、亜希子はモノレールの乗り場にむかった。
浜松町からJRに乗り換え、東京駅までいった。新幹線の中央改札口のまえに、十数分の余裕を持って亜希子は着いた。改札口のぜんたいを見渡すことの出来る場所で、彼女は待った。
両親が乗って来る予定のひかり号到着時間から数分が経過して、亜希子の両親の姿が改札のむこうに見えた。バッグを持ち上げた彼女は改札口にむけて歩いた。
改札を出て来て、ふたりは娘の亜希子に気づいた。
「忙しいのに、すまんね」
父親が言った。亜希子は母親に似ていた。
母親のバッグを亜希子が持った。三人は八重洲口《やえすぐち》のタクシー乗り場へ歩いた。二十人ほどの列のうしろについた。
「ここから遠いのかい」
父親が亜希子にきいた。
「旅館?」
ききかえした亜希子に、父親は煙草をくわえながらうなずいた。
「すぐよ。お堀りに沿って九段《くだん》までいって。そこからすぐ」
マッチを捜しながら、父親はうなずいた。
両親のために亜希子は都心のホテルに部屋を予約しておいた。だが彼らはホテルよりも旅館のほうがいいと言った。気楽なほうが性分に合うと言う彼らの希望に合わせて、亜希子は旅館に部屋を取った。おもて通りから奥へ入った行きどまりのような、思いがけず静かな一角にふとある、商人宿にしては雰囲気のある旅館だった。
三人はタクシーでその旅館へむかった。
雨の降りそうなウイークデーの午後、見るからに多忙そうな東京の町なみを外に見ながら、
「桜は散ったかね」
と、うしろの席から父親が言った。
助手席の亜希子は、ふりかえった。居場所を間違えた人たちのように、両親がうしろの席に離れてすわっているのを、亜希子は見た。自分が二十代だった頃に比べると、両親はひとまわり老けた、と亜希子は思った。
「まだ咲いてるわよ」
「雨が続いたからね」
父親が言った。
「雨が続いて寒いと、咲くのは遅れるけれど寿命は長くなる」
父親のその言葉を最後に、旅館に着くまでタクシーのなかでは沈黙が続いた。
旅館を両親は気にいった。部屋にとおされると、ふたりともにこにこしていた。なにもないと言えばなにもなく、ただ床の間があるだけの、控えの間つきの八畳の部屋だった。浴室とトイレットは廊下のむこうにあって共同だ。部屋の係の女性がお茶を持って来た。亜希子がお茶をいれた。テーブルのむこうに両親がならんですわり、亜希子が彼らにむき合っていた。
「つつじがきれい」
湯飲みを両手のなかに持ち、母親は顔をかがめた。彼女の視線は亜希子のかたわらをかすめ、亜希子の背後へのびていった。
亜希子はふりかえった。障子の下三分の一ほどのところに透明なガラスがはめてあり、そのガラスごしに庭が見えていた。箱庭、という言いかたがぴったりとあてはまるような出来ばえの庭だった。つつじの花が色鮮やかに咲いていた。
「きれいね」
母親が言った。
「木蓮《もくれん》はすっかり散って」
お茶を飲む両親を、亜希子は見た。部屋を見渡した。ただ泊まるだけならこの部屋でも充分なのだと、亜希子は思った。彼女は腕の時計を見た。
「さて。私は出ます」
亜希子は立ち上がった。
「荷物はここに置かせておいて」
隅に置いたバッグを亜希子は示した。
「迎えに来るわ」
「何時頃かな」
「六時前後」
父親はうなずいた。
「迎えに来るから、待ってて」
「そのあいだに、東京ドームを見物してくる」
「どうぞ」
襖《ふすま》が引き戸になった出入り口に、亜希子はショルダー・バッグを持って立った。大柄な娘を両親はテーブルから見上げた。
「ドームでは野球をやってるのかしら」
亜希子が言った。
「だから、切符があるんだよ」
上着の内ポケットから父親は手帳を取り出した。はさんである入場券を亜希子に見せた。
「野球を見るの?」
「せっかくだから、のぞいてくる」
「終わりまでは見られないわね」
「途中をちっと見るだけでいいんだよ」
「ファウル・ボールに気をつけて」
亜希子が言った。
「外野席だよ」
「ホームランに気をつけて」
「今年のジャイアンツは」
と言いかけて、父親は言葉を切った。
「駅まで歩いて七、八分。電車に乗って、お茶の水にむけてひと駅。降りてすぐ。詳しくは旅館の人にきくといいわ」
父親はうなずいた。手帳に入場券をはさみなおし、内ポケットにしまった。
「六時前後。迎えに来ます」
亜希子は引き戸を開いた。
旅館から駅まで歩き、亜希子は中央線に乗った。東京駅までいき、仕事のための待ち合わせの場所へ彼女は歩いた。
五時すこしまえにその仕事は終わった。地下鉄で銀座へ出た。約束の時間ちょうどに、夫との待ち合わせのコーヒー・ショップに亜希子は到着した。木製の階段を上がった、二階の店だった。
宮沢敏彦はすでに来ていた。宮沢というこの人と離婚すると、自分は三輪という姓に戻るのだと思いながら、亜希子は彼のいるテーブルへ歩いた。
「両親は?」
彼がきいた。
「予定どおりよ」
「旅館へ送り届けたのか」
「ええ。気にいってたわ」
「それはよかった」
「東京ドームの見物ですって」
亜希子の言葉に敏彦はうなずいた。
ドゥミタスで一杯ずつのコーヒーを飲んで、ふたりはその店を出た。夕方の銀座を、どこへむかうでもなく、肩をならべて歩いた。
「夕食は、無理してつきあってくれなくてもいいのよ」
亜希子が言った。
亜希子の言葉を受けとめてから、敏彦は次のように言った。
「おたがいのためだから、きっちりと復習して、はっきりさせておいたほうがいい。僕がきみと離婚する理由は、きみがけちだからだ。ものの考えかたや、ものごとのとらえかたのなかに、けちがしみついている。治る見込みはない。これ以上、ふたりで生活を続けても、無駄だ。なんら得るところはない。いまのきみの言葉なんか、けちの見本だ。無理してつきあってくれなくてもいいとは、いったいどういうけちな気持ちから出て来る言葉なんだ。僕たちの離婚を、僕たちはまだきみの両親には伝えていない。すくなくとも今日は伝えない。久しぶりにいっしょに夕食を食べる約束をして、店の予約もした。だから僕はその約束を守る。無理してつきあってあげる、というようなことでは絶対にないんだ」
「相手にけちをつける気になれば、どんなところにでもけちはつくわ」
「きみはなにもわかっていない。きみはテイカーだ。テイクする人。テイクだけする人。ギヴ・アンド・テイクと言うけれど、テイクだけは当然のことのようにいくらでもするけれど、ギヴはないんだよ。根っからのけちだ。克服は難しい」
敏彦の言葉を受けとめながら、この男性となぜ自分は結婚したのかについて、亜希子は考えた。彼に魅力があったからだ。その魅力の中心はものの考えかたであり、それは自分にはなかったものだった。その人から、克服の難しいけちと言われたなら、もはや決定的だ、救いはどこにもなかった。
歩きながら、さらにふたりはしばらく話をした。
「二年続かなかったね」
敏彦が言った。
「そうね」
「いまなら、離婚もやっかいではない。財産なんてなにもないから、おたがいに引っ越せばそれでおしまいだ」
「私はあの部屋を引き払います」
「僕も」
「不動産屋さんには、私から話をしておきます。敷金が返ってくるけど、半分を振り込んでおくわ」
「共同で買ったものが、なにかあっただろうか」
「なにもないわ」
「ますます簡単だ。口座は別だったし。共同の口座がゼロになれば、それでいい。僕の名前だから、僕が解約しておく」
「本やCDが、いっしょになってるわ」
「きみが買ったものだけ、抜き出せばいい」
タクシー乗り場があった。歩道の縁に立って待ち、やがてやって来た個人タクシーにふたりは乗った。
二十分後には旅館に到着した。門のまえで待ってもらい、亜希子がタクシーを降りて玄関を入った。両親はロビーのソファにすわってTVを見ていた。敏彦が玄関に入って来た。
四人は旅館を出た。タクシーに乗り人形町へむかった。ドームのなかにいるあいだにホームランを三本も見たと言って、亜希子の父親は上機嫌だった。
人形町へむかう途中、雨がすこしだけ降った。店は亜希子が知っている割烹《かつぽう》だった。二階のきれいな座敷に上がった。いい和食を出す店だった。出てくる料理に、亜希子の両親はひとつずつ感心していた。一時間ちょっとで、食後の菓子まで到達した。新茶の香りがすべての仕上げとなった。
夕食を終わって、四人は店を出た。支払いは敏彦がカードで済ませた。交差点の近くまで歩き、四人はタクシーに乗った。旅館へ戻り、亜希子の両親を降ろした。亜希子は部屋からバッグを持って来た。敏彦とともに、待っていたタクシーに乗った。敏彦は銀座でさらに人に会うと言った。だからふたりは銀座へむかった。
「きみはけちだ」
亜希子に顔をむけて、敏彦がいきなり言った。
「どうして?」
低い声で、亜希子はききかえした。
「夕食のあいだずっと、きみは僕にひと言も話しかけなかった」
「たまたまそうなっただけでしょう」
「きみがそうしたから、そうなった」
「好きにすれば」
「それに、ぼくの話をきみは一度も引き取らなかった。きみはけちだ」
「わかりました」
「僕はこれからまた人に会う。そのあと部屋へ帰る。早くに寝て、明日は出発のしたくをして、午後の飛行機に乗る。昼には部屋を出ていると思う」
「今日でお別れね」
「そういうことになるかな」
「お元気で」
「きみも」
銀座につくまで亜希子は黙っていた。銀座で敏彦はタクシーを降りた。そこからすこしだけ走ったところで、亜希子もそのタクシーを降りた。別のタクシーに乗り換えるまえに、今夜の自分はどうすればいいか、考えた。
部屋へ帰るのは嫌だった。夫とはたったいま別れの挨拶《あいさつ》をした。敏彦は十日間の予定で外国へ出る。仕事だ。明日の午後以後なら、自分はあの部屋へ戻ってもいいのだと、亜希子はきめた。
旅館へいき両親の部屋に泊めてもらう。このアイディアも、亜希子は否定した。そして思い出した。あの旅館に部屋を取るまえに、ホテルにツインの部屋を予約した。その予約がそのままになっていた。亜希子は電話ブースを捜した。
ホテルに電話をかけた。予約を確認した亜希子は、三十分後にはチェック・インすると、フロント・デスクに告げた。そして歩道の縁に出てタクシーを止めた。
三十分かからずに亜希子はホテルに到着した。チェック・インしてひとりで九階へ上がり、部屋に入った。顔と両手を洗ったあと、彼女は部屋の明かりをドレッサーのランプだけにして、イージー・チェアにすわった。そろえた両膝《りようひざ》に両手を置き、その自分の手に視線を伏せて、亜希子は考えごとをした。気持ちを集中させ、これからどうすべきかに関して、方針をしぼり出した。
今日は木曜日だ。明日は金曜日だ。離婚は決定した。もう離婚して独身に戻ったも同然だ。週末が来る。離婚して最初の週末だ。
日曜日をどうすべきか。あの部屋で過ごすのか。宮沢敏彦は不在だから、自分ひとりにはなれる。しかし、離婚した自分が、これまで夫とふたりで住んで来た部屋に日曜日にひとりでいる様子を想像すると、それは亜希子にとっては耐えることの出来ない光景として、頭のなかに浮かんだ。
新しい部屋をどこかに見つけよう。日曜日までにその部屋のキーを手にしている、という状態を作り出していよう。絶対にそうすべきだし、そうでなければならない、と亜希子はひとりで固く決定した。
亜希子は椅子を立った。部屋の空間にむきなおった。きれいにメイクしたベッドがふたつ、静かにならんでいた。
次の日の朝、亜希子は寝坊をした。十時過ぎにベッドを出たのは、久しぶりだった。したくをととのえ、部屋を出た。チェック・アウトし、駅まで数分の距離を彼女は歩いた。いまにも雨の降りそうな空が、灰色に広がっていた。
私鉄の急行に乗り、いつもの駅で亜希子は降りた。駅から部屋のある建物まで、十分かからなかった。部屋に敏彦はいなかった。旅行に出発したあとだということは、気配でわかった。
シャワーを浴びて着替えをした亜希子は、食事を作った。朝食と昼食をひとつにした食事だった。そのあと化粧をし、キャッシュ・カードや銀行の通帳、印鑑などをすべて持ち、部屋を出た。駅へ歩き、下りの各駅停車に乗った。五つめの駅で彼女は降りた。住む場所を変えるとしたら、次はここがいいのではないかと昨年の夏にふと思ったことを、昨夜、ホテルのベッドのなかで亜希子は思い出した。だから、ここへ来てみた。駅の出口には北口と南口があった。北口へ出てみた。商店街を歩いてみた。かならずあるはずだと思っていた不動産屋は、すぐに見つかった。その店へ亜希子は入った。
店主らしい初老の男性が、奥のデスクで白いカヴァーをかけた椅子にすわり、電話で話をしていた。客はいなかった。隣りの部屋から女性が出て来た。四十代なかばの、妙に色気のある、魅力的な顔立ちをした女性だった。
「こんにちは、いらっしゃい、おうかがいします、お部屋ですか?」
優しい抑揚をつけてひと息に、その女性は亜希子に言った。片手で壁のまえのソファを示した。低いテーブルをあいだにはさんで、店の女性は亜希子の斜めまえにすわった。ひとり暮らしの部屋をこの近辺に見つけたいのだと、亜希子はその女性に言った。
物件のファイルを彼女はすでに膝の上に持っていた。名刺を亜希子に渡し、ファイルを開こうとしてすぐに閉じた。
「そうだわ」
と言って奥をふりかえった。初老の男性は電話を終えたところだった。
「こちらのお客さま。おひとりでお住まいのお部屋を捜していらっしゃるのですけど、あそこの空きはどうなりましたかしら」
「空いてるよ」
「ご案内してきます」
「ひとりには広いかな。広すぎて困るということはないけど」
亜希子を見て彼は笑顔でそう言った。予算は超過しますよ、という意味なのだと亜希子は解釈した。
村瀬というその女性は、亜希子にむきなおった。
「いまお時間、よろしいかしら。とってもいいお部屋が、空いたばかりなの。四月の転勤で。子供さんがひとりいらっしゃるご夫婦がお住まいだったのですけれど、ぜひご覧になっていただきたいの。見るだけでも。駅から三分のところですから。ほかにもいくつか、ついでに見てまわることにして」
亜希子は同意した。村瀬はソファを立ち、自分のデスクからタッグのついたキーをいくつか持って来た。ファイルとクラッチ・バッグとを持ち、
「三十分ほど出て来ます」
と店主に言った。そして物件の名をいくつか、彼女は列挙した。
「参りましょう、ここからすぐなのよ」
亜希子をともなって、村瀬は店を出た。
駅まえをとおって商店街を歩き、交差する道へ入り、もう一度だけわき道に入ると、静かな住宅地の一角だった。そのなかにある坂道の両側に、めざす建物があった。駅から文字どおり三分だった。
淡いピンクの化粧タイルに覆われた三階建ての建物が、坂道の両側にひと棟ずつあった。
「おなじ建物ですけど、左右に分かれているのね。こちらが1で、むこうが2」
と村瀬は道のむこうを示した。手入れと管理の良さそうな、感じのいい建物だった。ここにきめてもいい、と亜希子は思った。空いている部屋は三階にあった。ふたりは肩をならべて階段を上がった。
「ここでひとり暮らしが出来れば、最高ですよ。すべてうちで管理してるのですけれど、ご夫婦かあるいは、お子さんがいらっしゃるかたばかりね。管理は厳しくてうるさいんですけど、きれいでしょう。生活の土台ですもの、きちんとしておかないと、という社長の主義なのね。私も同感だわ」
空いた部屋は三階のいちばん奥の部屋だった。3LDKがこぎれいにまとまっていた。ひととおり見て、ここにきめよう、と亜希子は思った。
「明るくて、見晴らしが良くて、まわりは静かで駅には近いし。お店に置いてある品物も、いいものが多いのよ。買い物は便利。ひとつ先の駅までいくと、デパートが四つもあるし。建物はしっかりしてるの。出来てまだ三年たってないのね」
村瀬の説明を聞いたあと、亜希子は部屋代をたずねてみた。予算の大枠を越えていた。だが亜希子は、
「ここにきめます。この部屋を、ぜひお願いします」
と村瀬に言った。
店へ引きかえし、手続きをととのえた。近くにある銀行へいき、必要な額を引き出して来た亜希子は、現金で支払いをすませた。
「あっさりきまって、なんだか嘘みたい。でもよかったわ、いいかたに入ってもらえて」
タッグのついていないキーを三つ、村瀬は自分のデスクから持って来た。亜希子に渡した。
「このふたつが、お玄関。ひとつはスペアね。そしてこれは、お台所の奥にドアがあったでしょう。ドアの外は、小さいけれどもバルコニーなのよ。そのドアのキーね」
村瀬は亜希子にコーヒーをいれて出した。亜希子がすくなからず驚いたほどに、よく出来たコーヒーだった。それを飲みながら、ふたりの女性は世間話をした。
土曜日の亜希子は、部屋で引っ越しのための準備をした。そして雨の日曜日の午後、新しい部屋へいってみた。不動産屋に寄ったが、村瀬はいなかった。日曜だけの代役のような女性が、村瀬は日曜日は休みだと、亜希子に告げた。
がらんとしてなにもない部屋で、亜希子は一時間ほど過ごした。キチンや浴室で、蛇口をひねって水を出してみた。明かりはすべて灯《とも》った。どの窓をも、亜希子は開いてみた。窓ごとに外の景色を眺めた。キチンの奥のドアを開くと、花の散りはじめた桜の木の頂上が目のまえにあった。雨に濡《ぬ》れる桜を、亜希子はしばらく眺めた。そしてドアを閉じた。
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[#2字下げ]私はいつも私
[#3字下げ]1
彼は四月に離婚した。二年と九か月。三年続かなかった。離婚が成立し、部屋を引き払い、彼と彼女がそれぞれに別々の生活に入ったとき、これでもう彼女に会うこともないだろう、と彼は思った。
会わなくてもいっこうにかまわないし、会う必要もおそらくないはずだ、と彼は考えた。なにか連絡する必要が起こったなら、手紙やファクシミリで充分なはずだ、と彼は結論した。この結論は最終的なものだ、と彼は自信を持って思った。
梅雨がはじまるまで、彼は妙に多忙な日が続いた。仕事は自宅でする翻訳の仕事なのだが、仕事の量は一定のまま、外へ出る機会が多かった。四月から梅雨のはじまるまでに、彼は三度も外国へ出た。
仕事を、彼は部屋にこもってこなしていった。静かな日々が連続した。そしてその静かさを、彼はたいへんに好いていた。離婚した妻のことは、ほとんど忘れていた。
たまにふと思い出すと、彼はかなり驚いた。思い出すということ自体に驚くのではなく、なにかのきっかけに突つかれて思い出さないかぎり、別れた妻はすくなくとも心の表面からは完全に消えていることに対して、彼は驚きを覚えた。
こんなにも早くに忘れることが出来るのかと思うと、彼は気が楽になった。その余裕のせいだろうか、梅雨が終わっていきなり夏が始まると、それほど時間を置かずに彼女に会うことがあるかもしれないな、と彼は思い始めた。盛夏にむけて暑い日が連続する頃、彼女に会いたい、と彼は思った。離婚して以来はじめてのことだった。そして夏の終わりには、急に長くなった陽影のなかに、相当に強烈なせつなさを彼は覚えた。自分の妻だったひとりの女性と離婚し、そのまま彼女に会わずに日々が経過していくことに対する、どこ
へも持っていきようのない、せつない気持ちだ。
秋になった。自分とはなになのだろうか、などと彼は思うようになった。自分がいまこうして生きていることの意味は、いったいどのへんにあるのだろうかと、彼は考えてみた。これまでの時間は、いったいなにだったのか。たとえばひとりの女性を妻にし、彼女とふたりで過ごして来た時間は、自分にとってどこにどのような意味をあたえる時間なのだろうかと、彼はしきりに思った。彼女に会いたいという気持ちは、日ましにつのった。
せつない日が続いた。始まった秋は、最初のうちは進行していく速度が遅かった。しばらくすると、秋はおもむろにその速度を早めた。彼は我慢をした。会いたい、という気持ちを努力して抑えた。
歳末の売り出しや正月の海外旅行の話が、季節感として届いてくる頃になると、彼は彼女に会いたくてたまらなくなった。我慢したり気持ちを抑えたりすることに、なんの意味があるのだろうかと、彼は真剣に考えた。彼女は会ってくれなくても、とにかく彼女に電話をかけ、会いたい、というひと言を自分は彼女に言うべきだと、彼は結論した。
会いたくてたまらなかった。もう会うこともないだろうし、二度と会わなくてもいっこうに構わないという、ほんの数か月まえの結論とは、なんという隔たりだろうかと、彼はその隔たりに対して、第三者的な感銘を覚えた。
[#3字下げ]2
彼は彼女に電話をかけた。彼女は仕事を変わっていなかった。アドレス・ブックにかつて記入したままの電話番号をとおして、彼は、
「はい、五十嵐です」
と受話器にむけて言う彼女の声を、久しぶりに聞いた。そうだ、彼女は五十嵐という名前の人なのだと、彼は思った。
「僕は北村です」
と彼は言った。
かつて北村優子という名になっていた女性は、電話のむこうで黙っていた。
「会いたい」
と彼は言った。
「たいへん会いたい」
と、くりかえした。
しばらく沈黙の時間があった。そして彼女は、
「私も」
と答えた。
会うための約束を、彼は彼女から取りつけた。日時、そして待ち合わせの場所を決めて、電話は終わった。たいへんなうれしさと、相当な怖さとがひとつになったような、複雑な気持ちに彼は支配された。ひとりの女性に会うことをめぐって、自分がこれほどまでの気持ちになったのははじめてだと、彼は自分で自分に認めた。しかも会う相手の女性は、二年九か月とはいえ、自分の妻であった女性なのに。
会う約束の日、決めた時間のとおりに、彼は待ち合わせの場所で彼女に会った。緊張している自分に対して、彼女は平静にいつものとおりの彼女でいるらしい様子に、彼はふと頼もしさに近い気持ちを覚えた。会うには会うけれど、自分を最初からなかば拒絶し、なかば対抗する姿勢で彼女は自分に接するのではないかなどと思った自分を、彼は心のなかで叱った。自分にとって譲ることの出来ない大切な基準を守り抜こうとすることから生まれる、厳しくて鋭い選別あるいは取捨選択は得意だが、拒絶や対抗の姿勢はもともと彼女には希薄なのだと、彼はひとりで確認しなおした。
彼らは夕食をともにした。そのあと、少し静かになった夜の街を散歩した。そして彼はタクシーで彼女を部屋の近くまで送っていった。ふたりで過ごした時間の充実度を、ひとりになってから彼はさまざまに検証した。彼女とふたりでいた時間が、これほどまでに密度高く充実していたのは、今回がはじめてではないかと、彼は思った。匹敵するほどの時間を、自分たちが夫婦であった過去のなかに捜したが、彼はそれを見つけることが出来なかった。
彼女に会ってよかった、と彼は思った。彼女に会うのは、正解のなかでももっとも純度の高い正解だったのだと、彼は結論した。そして不思議に思った。彼女と自分が夫婦だったあいだに、なぜ今日のような緊密な時間がなかったのか、という思いからくる不思議な気持ちだ。
彼女は自分にとっていったいなになのだろうか、と彼は自分にきいてみた。答えは出なかった。なにだかよくわからないが、とにかく大変に大事な存在であることを、彼はあっさり認めた。ではなぜ離婚したのか、という質問が、彼の心の画面にスクロールされて出て来た。
結婚したということ、そしてそのことだけがいけなかったのだと、彼は考えた。結婚がいけなかった。ふたりとも結婚には適合する部分がじつはきわめて少ないし、結婚するための必然性も希薄だった。結婚して、そこからどうするのか、なにも考えないままにとにかく結婚してしまった。結婚など自分たちには必要ではなかった。結婚する以前の関係をそのまま続けていればよかったのだ。
彼女に会ったことを、そして彼女に会えたことを、彼はたいへんにうれしく思った。彼女は彼が知っている彼女のままだった。端正に抑制した雰囲気のある、そして感覚の鋭さをもの静かな様子でくるみこんだ、話相手としてなんら不足のない彼女だった。
彼にとってもっともうれしいのは、正月のプランが出来たことだった。正月の休みをもう一度ふたりだけで過ごしてみたらどんなだろうか、という彼のアイディアの提示を、彼女はすんなりと受け入れた。正月の休みをふたりだけで過ごすことに、彼女は賛成した。ふたりの合意は成立した。
どこでどのようにして過ごすかはこれから決めるのだが、それがどこになるにせよ、十二月三十日にそれぞれ現地に到着し、いっしょになる。そして一月一日から三日いっぱいをともに過ごし、四日には別れるというプランを、ふたりは夕食のあいだに作った。
今日のように夕食をともにする機会をさらに何度か持ち、正月の休みをどこで過ごすかに関してふたりは相談していくことになった。海外ではなく、国内でどこかふさわしい場所を見つけることに、まずふたりの意見は一致した。
[#3字下げ]3
どこがいいか彼は考えた。地図帳ではなく、日本のぜんたいが一枚の大きな紙に印刷してある地図を買い、それを壁にピンで止めて、彼は検討を重ねた。そして淡路島を、自分が考えた最終候補として、手のなかに得た。
二度めに会ったとき、ふたりは候補地に関するおたがいのアイディアを披露しあった。彼女も淡路島を選び出していた。ふたりでほぼ同時に、淡路島という地名を声に出した。ふたりの考えは一致していた。その一致を彼らは喜んだ。そして、不思議がった。
「なぜかしら」
「僕は地図を観察しては、考えた。東京よりも寒そうな印象のある地方をとりあえずはずすと、あとは西へむかうだけなんだよ」
「私はまず京都を考えて、そこから西へ移動していったの。島へ渡るのはとてもいいと思いついて、淡路島と小豆島《しようどしま》を考え、淡路島に決定したわ」
「ぜひとも、そこにしよう」
「私はとてもうれしいです」
いつも控えめでもの静かな彼女がうれしさを表現するとき、彼女は独特の魅力を発揮した。彼としては、無防備、としか表現しようのない、自分の弱みのすべてを完全に公開してしかもそのことに当人は気づいていない、ほんのすこしだけ痛々しい感触のある魅力だ。
「正月は故郷かあるいはその近くで過ごすと、私はもっとも幸せです。子供の頃からそうだわ。故郷の近くだと、正月には陽ざしはもう春の色なのね。風の感触がほかとはまったくちがうし、空の色や空気の匂いも、そして食べるものも、私の肉体的な、そして精神的な生理に、ぴったりと一致するの。歩いていてふと見える海や、路地の奥での地元のおばあさんたちの会話なども、私にとっては大事なの。一年に一回、特にお正月には、そうね、神戸から西にいるのがいちばん幸せです」
彼女が生まれ育ったのは宇和島だ。
そうだったか、と彼は思った。いまのような話を彼女から直接に聞くのは、彼にとってはじめてだった。七月に結婚し、二年九か月後の四月に離婚した自分たちについて、彼は思った。正月は三回あったではないか。そしてその三回とも、山陽や瀬戸内ではない場所で過ごした。一回めの正月には彼らはニュージーランドにいた。二回めは三浦半島のホテルで過ごし、横浜にある彼の実家に寄ったりもした。三回めの正月は温泉で過ごした。
「自分にとってそれだけ大事なことなのに、なぜ言わなかったんだ」
と彼は彼女にきいてみた。
「僕たちは夫婦として正月を三度も過ごしたけれど、その三度とも、きみがもっとも幸せになれる場所ではないところで、僕たちは過ごしてしまった。なぜひと言、言わなかったんだ」
彼のおだやかな質問に、彼女は優しく顔を左右に振った。
「言いたいのに無理をして言わずにいたのではないのよ。正月のたびに、ちがった過ごしかたのプランが出てくると、それはそれで楽しそうでした」
夕方の待ち合わせの席で淡路島に意見が一致したふたりは、そこを出てから書店に寄った。ガイドブックが並んでいる棚に、全国の観光ホテルを紹介してある本を見つけた。淡路島のページは何ページもあった。いくつものホテルのなかから、ふたりはひとつを選び出した。そして彼が電話ブースからそのホテルに電話をかけた。
部屋は予約することが出来た。
「デラックス・ダブルという部屋と、ツインの部屋。ツインのほうは、もっともスタンダードなツイン。どっちがいい?」
「私はダブルにしてください。なにがどんなふうにデラックスなのか、確認しないと気がすまない性質なの」
「では僕はツインだ。夜中に起きて隣のベッドに移る」
夕食のための店を、彼はまだきめていなかった。焼き鳥がいい、と彼女は言った。焼き鳥、という言葉が彼女の口から出て来たことすら、すくなくとも自分にとってはいまが最初ではないかと、彼は驚きながら思った。焼き鳥と彼女とは、およそ結びつかなかった。端正な清潔さと身だしなみの良さが、ほんのりとだが潔癖症を感じさせる彼女にふさわしいのは、ひっそりと落ち着いた、あくまでも美しく整った店だけだと、彼は思っていた。
「焼き鳥?」
と驚いて聞きかえす彼に、彼女は楽しそうにうなずいた。
「なぜ?」
「ずっと憧《あこが》れてたの」
「焼き鳥に?」
「買って来てひとりで食べるのではなく、焼き鳥屋さんのカウンターで食べることに。煙が立ちこめていて、カウンターには人がいっぱいいて、話し声や笑い声が大きなひとつのかたまりになっていて、そのなかを店員の声が飛んで。カウンターで食べている人たちのうしろでは、ずらっと次の人たちが待ってるの」
「そういう店で焼き鳥を食べることに、きみは憧れていたのか」
「誰も連れていってくれないのよ」
「なぜ僕に言わなかった。いまきみが言ったとおりの店を、僕は何軒か知ってるよ」
「いきましょう」
「なぜ僕に言わなかったんだ」
「言わなかったことって、おたがいに多いのよ」
そう答えた彼女は、彼は見つめた。彼女は言葉を続けた。
「カウンターで食べているときには、肩や膝《ひざ》が触れ合ったりするのね。そして食べ終わって店を出て、肩をならべて夜のなかを歩いていくと、ガードの下をとおるのよ。ちょうど電車が走っていったりして。そんなことに私は憧れてます」
だから彼は彼女を焼き鳥屋へ連れていった。カウンターも奥の座敷も満席だった。カウンターの席で食べている人たちの背後に、順番を待っている人たちが並んで立っていた。ふたりもその人たちのなかに加わった。
長いカウンターのなかほどの席に、ふたりはしばらくしてすわることが出来た。客は絶えることがなく、ふたりのうしろにはすぐに順番待ちの人が立った。いちいち注文しなくても、席につけばひととおりすべて出て来ることになっていた。途中どこで止めてもいいのだ。彼女は最後まで食べた。ビールはギネス・スタウトが合うはずだとかねてより想像していたと彼女は言い、スタウトを飲んだ。彼もおなじものを飲んだ。焼き鳥にスタウトが合うか合わないか、彼は判断を下しかねた。
焼き鳥の夕食を終わって、ふたりは肩をならべて夜の街を歩いた。駅まで歩いていき、西側からJRの高架をくぐって東側へまわった。高架の下にいるとき、彼は立ちどまった。彼女も足を止めた。立ちどまったままの彼を、やがて彼女はけげんそうに見た。
「なにをしてるの?」
彼女がきいた。
「電車がとおるのを待っている」
と彼は答えた。
「きみがかねてより抱いていたイメージでは、ガードの下を歩いていると頭上を電車が走っていくことになっていた」
彼の説明に彼女は微笑した。相手に対して自分のすべてを公開してしまうような、完全に無防備な瞬間を頂点にして、微笑はきれいに薄れて消えていった。公開した彼女のすべても、きっちりと折りたたんで収納されてしまうように、どこかへ消えた。
「そういうところが、あなたの面白いところよ」
歩きはじめながら、彼女が言った。
「あるとき突然、前触れなしにそれが出てくるのね」
ふたりはそのあとエスプレッソを飲んだ。そして彼は地下鉄の駅まで彼女を送った。階段を降りていく彼女を、彼は入口に立って見送った。
それから年内に二度、ふたりは会った。焼き鳥の延長で彼は彼女をおでん屋へ連れていき、その次はもんじゃ焼きの店へ案内した。ふたりだけの小さな座敷で、テーブルのむこうになんの無理もなくきれいに正座して、彼女は静かな笑顔で彼に言った。
「あなたは少しだけ無理をしてるわ。私に合わせようとしてます。合わせることはしないでください。もちろん、おでんも、そしてもんじゃ焼きも、楽しいわ。でも、合わせきれなくなったとき、勢い良くはずれることになるから、合わせるのはよして」
二度とも彼にとってはたいへんに充実した、楽しい時間となった。彼女にとってもほぼおなじはずだと、彼は思った。正月のための打ち合わせは完了した。十二月三十日に淡路島のホテルで落ち合う。一月三日いっぱいまでともにそこで過ごし、四日にチェック・アウトして彼女は実家のある宇和島へむかう。彼は淡路島のあとの予定を決めかねていた。
「ホテルの部屋が取れるなら、どこでもいいことにしておこう。神戸、大阪、それに京都と、近いことだし。京都かなあ。僕は大学は京都だったから、ガイドブックにはないような案内が、いまでも出来るよ。しかし、きみとは一度もいってないね」
「いかなかったわね」
「春に、どうだろうか」
「いいですね」
「案内するよ」
「いきましょう」
正月の次は桜の花が散る頃まで、彼女と自分のふたりだけの予定が出来たことを、彼はかつてなかったほどにうれしく思った。
[#3字下げ]4
彼は東京駅から新神戸まで新幹線に乗った。三宮までタクシーでいき、そこからJRの快速に乗り、明石で降りた。駅からフェリー乗り場まで歩き、淡路島へ渡った。船の発着場からホテルまで、バスに乗った。明るく晴れて気温の高い、風のないおだやかな十二月三十日の午後三時、彼はホテルにチェック・インした。
お連れさまはご到着なさっております、とフロント・デスクのクラークは彼に告げた。彼女の部屋の番号を彼は教えてもらった。そして自分の部屋へいき、ダウン・ジャケットからセーターに着替えた。彼女の部屋に電話をしてみた。彼女は部屋にいなかった。
彼は部屋を出てロビーへ降りた。ホテルは高台にあった。ロビーの奥から、瀬戸内海を見渡す庭園に出ることが出来た。彼が庭に出ると、ひとりで歩いて来る彼女を正面に見た。
彼女は微笑した。カフェ・オレ色のスーツを彼女は着ていた。軽くて温かそうな生地だった。彼女によく似合っていた。スカートの丈が膝の下までだった。癖のない形をした、ひきしまってまっすぐな脚を、ストッキングがぴったりと包んでいた。陽ざしを受けてストッキングの曲面がおだやかに輝いて見えた。
おたがいに歩み寄り、ふたりはむかい合って立った。彼女が着ているスーツのカフェ・オレ色を、彼は見た。朝食にいつも彼女がカフェ・オレを飲んでいたのを、彼は久しぶりに思い出した。自分たちの朝食のテーブル周辺に漂う匂いは、カフェ・オレが主役だったことを、彼は思った。
彼女が着ているスーツには、正面に七つのボタンが一列に並んでいた。大きな真珠を半分に切ったようなボタンだと、彼は思った。ボタンの白い落ち着いた輝きは、彼女の好みそのものだと、彼は感じた。おなじボタンがもうひとつ、左胸にあるポケットにも飾りとしてついていた。
「いいお正月になりそう」
と彼女が言った。
彼はうなずいた。
「温かい。正月のあいだ、いい天気だという予報が出てる。ここまで来ただけで、風がまったくちがうね」
空を仰いで見渡しながら、彼が言った。
「空気の感触がとてもいい。おだやかで、なごやかだ。時間が直線で突っ走ったりしてない。時間はいいテンポで歩いてるよ」
きわめておだやかに、ふたりの間を風が吹き抜けた。
「ほら、いまの風」
彼の言葉に彼女は再び微笑した。
「ここに決めてよかった」
「このところ正解が続きますね」
そう言った彼女の顔に残っていた微笑は、消えていく後半にせつなさの頂点に達したように、彼は感じた。
[#3字下げ]5
庭園を散歩したあと、夕食までの時間をそれぞれに部屋で落ち着いて過ごすことにした。だからふたりは部屋のあるフロアへ上がった。
「夕食のために私は着替えをします」
と彼女は言った。
「僕はシャツの着替えは持っているけれど、セーターとジャケットは一着だけだ」
「そのセーターでいいですよ。ツインの部屋はどんなふうなのかしら。見せて」
彼は部屋を彼女に見せた。スペースには充分なゆとりのある、きれいに整った部屋だった。居心地は悪くなかった。
部屋のすべてを、彼女は丁寧に見てまわった。ドレッサーの上に、ピンクの可憐な花が、ガラスの花瓶に活《い》けてあった。
「私の部屋にもおなじ花があるわ」
と彼女は言った。
「私のデラックス・ダブルも見てください」
おなじフロアにある彼女の部屋へ、彼は彼女とともに入ってみた。彼の部屋とは雰囲気がまったく異なっていた。
「こっちのほうが、はるかにいいね」
と彼は評した。
ゆったりしたL字型の部屋だった。もっとも奥まった部分にダブル・ベッドがあった。ベッドのあるスペースはカーテンを引いてほかから完全に仕切ることが出来た。
「面白い部屋だわ」
「いいよ。とてもいい。雰囲気がある。住む部屋として欲しいくらいだ」
「いいでしょうね」
ドレッサーの上には、花瓶はちがうがおなじピンクの花が、活けてあった。海の見える窓辺にラヴ・チェアと丸いテーブル、そしてアーム・チェアがあった。彼女はラヴ・チェアに、そして彼はテーブルを間にはさんでアーム・チェアに、それぞれすわった。
すわると彼女のスカートの裾《すそ》が上がった。そろえたふたつの膝《ひざ》が、テーブルの縁よりも高い位置に見えていた。ジャケットの裾を軽く引き降ろした両手を、彼女は喉《のど》もとに上げた。ジャケットの正面に七つ並んでいるボタンの、いちばん上の半球のボタンに、彼女の指先は触れた。
「静かだ。こういう時間は、とてもいいね」
と彼が言った。
背をのばして静かにすわっている彼女の、思いのほか広い肩幅を彼は観察した。そして彼女の肩から視線をはずし、部屋のなかのあちこちを見た。ドレッサーの上にあるピンクの花を見てから、彼の視線は彼女に戻った。
「きみにはピンクがよく似合う」
と彼は言った。
「そう?」
「しかし、きみがピンクの服を着ているのを、僕は一度も見たことがない」
「母が買ってくれる服には、ピンクのものが多いわ。いまでもそうよ」
「お母さんはよくわかってるわけだ」
彼の言葉に彼女は首をかしげた。
「似合うよ。でも嫌いなのか」
「自分ではピンクはすこしも似合わないと思ってるわ」
彼は立ち上がった。ドレッサーまで歩いていき、花の活けてあるガラスの花瓶をテーブルまで持って来た。花が彼女の顔と並ぶように花瓶を持ち、花と彼女とを見くらべた。
「ただ似合うだけではない。ものすごく似合う」
と彼は言った。彼は椅子にすわりなおした。
「どんなふうに?」
「はかなく美しい。今日は完璧《かんぺき》だけど、明日は影も形もない、というような」
「明日はあったほうがいいわ」
「表現のしかたとしてだよ。きみがピンクを着ると、おそらくそんな雰囲気になる。誰もそれを手に入れることが出来ないような」
片手を膝に置き、もういっぽうの手を喉もとに上げ、ジャケットのいちばん上のボタンに彼女は指先を触れていた。彼は花瓶をテーブルに置いた。
「母が買ってくれるピンクの服は、たくさんあるわ」
と彼女は言った。
「着ないのか」
「着ないわね」
「どうするんだい」
「人にあげます。社内のバザーにも出します。人気があるのよ」
彼女はいちばん上のボタンをはずした。そしてその手を膝に降ろした。
「仕事は大変なの?」
彼女がきいた。
彼は首を振った。
「楽ではないけれど、大変でもないよ。今月は二十五日にはすべて終わったし、一月は十日過ぎてからでいい」
「お部屋にいることが多いの?」
「仕事は部屋にいないと出来ないから。外にいるときは、準備とか段取りのための時間になるね」
「自分の好きなように時間が使えて、いいわね」
「みんな自分の責任だよ。僕たちがいっしょに過ごした三回の正月も、いまのようにして過ごせばよかった。いま思えば残念なことがたくさんある」
「どんなことがあるの?」
低い声で静かに、彼女がきいた。
「ふと思いつくのは、たとえば、時間に関するおたがいの感覚の相違だ」
「説明して」
「きみは外で数多くの人たちとともに、多忙に仕事をするのが好きだ。僕は基本的にはいつも部屋にいる人だ。午後の三時から七時くらいにかけて、僕は一日のうちの最高潮を迎える。たとえばその時間帯には、血液の温度が最高に達したりする。そんな時間には、きみといっしょにいたかった。ふたりで静かに、一日が暮れていくのを見るとか。午後の白い小さな月や、はかない雲も素晴らしい。いまの季節の、晴れた日が暮れていく時間は、最高だよ。バルコニーできみと紅茶を飲んだら、素敵だと思う。しかしきみは部屋にいなかった」
「そんな時間帯が一日のなかにあるなんて、思ってもみなかったことです。外で仕事をしていると、いちばん忙しいときだから。でも、なぜいまになってそんなことを言うの? なぜ一度も、言ってくれなかったの?」
上からふたつめのボタンにさきほどから指先を触れさせていた彼女は、そのボタンをはずした。両手を膝に降ろした。
「結婚したのが良くなかった」
と彼は言った。
「僕たちはいま、とても仲良しだ」
「無理しないでね」
「無理なんかしていない」
「私は無理をしている人に見えます。無理に無理を重ね、自分を抑えに抑えている人のような印象があるの。でも、見た目とはまったくちがうのよ」
「離婚の話し合いのとき、きみは無理をし過ぎる人だ、と僕は言った覚えがある」
「私は無理をしてません」
彼女はジャケットの三つめのボタンに指先をかけた。その指先の動きを、彼は見守った。神経質そうに見えて当然の、白く細い指だった。色を塗っていない爪《つめ》は、良く手入れされてつるつるに磨いてあった。
「あなたは無理をしてます」
と彼女は言った。
「してないよ。少なくとも、いまは」
「いろんな無理のしかたがあるのよ」
「たとえば?」
と彼は質問した。彼女は次のように答えた。
「私には言ってないこと、言わないこと、言わなかったことなどが、あなたにはたくさんあるのよ。午後の三時から七時にかけて、あなたの血液の温度が最高に達するなんて、聞いたこともなかったわ。そんなときのあなたを、私は知りたいです。あなたにとって大事な時間には、私はいっしょにいたいです。そのためには、仕事は辞めてもいいのよ」
そう言いきって、彼女は三つめのボタンをはずした。
「なぜ私に言ってくれなかったの?」
「いっしょにいると、気がつかない。いったん離れると、いろいろ考えているうちに、どんどん気づいてくる。いつもは忘れてる」
「無理をしてるから、いつも一部分だけで私と接するようになるのよ」
「結婚というものが、いけない」
と彼は言った。
「僕たちは結婚する必要はなかった。結婚するまえの、仲良しのままでいればよかった。だから時間をかけてもとに戻ろう。結婚という形を作るために費やしたエネルギーや時間は、僕たち自身のためではなく、なにかもっと別の、ほかのもののために使われ、なににもならずにあとかたもなく消えてしまった。結婚することは、社会ぜんたいからのプレッシャーをすべて受けとめることにならざるを得ない。ありとあらゆるプレッシャーがかかってくる。そのくだらないプレッシャーの代表者が、たとえばご主人だったりする」
「私には言わなかったことが、あなたにはたくさんあるのよ。いちばんひどいのは、おにぎりの話だわ」
上から四つめのボタンをはずした彼女は、そう言って泣きはじめた。彼女は手ばなしで泣いた。耐えがたい悲しみの底に沈んだ子供のように、彼女は泣きじゃくった。離婚を進行させていたとき、彼女は二度泣いた。これで三度めだった。ジャケットの正面に並んでいる七つのボタンの上、その周辺、そしてスカートに、彼女の涙がこぼれ落ちた。
「あのおにぎりの話は、いちばんひどいわ」
いまの自分のありったけをこめて、心の底から泣いている彼女には、声のコントロールが出来なかった。抑揚ははげしく上下し、声は大きくふるえた。いちばんひどい、と泣きながら彼女が言うおにぎりの話とは、彼らがついには離婚に至った過程にとっての、発端となった出来事だった。
ふたりの離婚が成立したのは今年の四月だ。離婚の話は三月いっぱい続いた。始まったのは二月の終わり近くだった。
仕事の打ち合わせを兼ねて、二月の終わりに近いある日、彼は何人かの知人と夕食をともにした。そのあと、席をほかに移してからの酒の時間に、友人がふたり合流した。誰もがおなじような仕事をしていて、全員が知り合いだった。合流した友人のひとりに、真理子という女性がいた。彼は数年まえから真理子を知っていて、彼の妻も真理子とは親しかった。
酒の席で真理子と彼は次のような会話をした。
「人に言えない秘密、というテーマで連載を書かなくてはいけなくなったのよ。私がひとりで材料を集めて、書くのですって。人に言えない秘密なのだから、誰も私には語ってくれるはずがなく、したがってそんな企画は理論的にも成立しません、と私は編集長に抵抗したのだけど、冗談だと思われて笑われてしまったわ」
そう前置きした真理子は、
「人に言えない秘密を教えて」
と彼に言った。
「言えないほどの秘密だから、誰にも言わないんだよ」
と彼は答えた。
「でも、誰かに言いたいでしょう」
「そうだね。秘密であり続けることには、苦痛を覚えるかもしれないね」
「心の秘密とは、たいていの場合、密《ひそ》かな願望でしょう。願望は実現させたくないかしら」
「それも、確かにある」
「あなたの場合の、人に言えない秘密を、私に教えて」
「たいした秘密ではないよ」
「どんなことでもいいの。きわめて個人的な領域の出来事だから、ほんとに、なんでもいいわ」
「おにぎりを作ってもらって、食べたい」
と彼は答えた。
真理子は笑うだろう、と彼は思ったのだが、真理子の反応は逆だった。真理子は真剣になった。
「おにぎり?」
「そう」
「作ってもらいたいの?」
「そうだね」
「誰に?」
「女性に」
「女性なら誰でもいいの?」
「そんなことはない。この人なら、と選び抜いた人」
「おたがいに知ってる女性のなかに、もしかしたらその人はいるのかしら」
真理子は質問を重ねた。
「すまないが、きみではない」
彼の言いかたに真理子は笑った。
「いいわよ、気にしなくてもいいのよ。自分でもよくわかってるから。男の人になにかしてあげるタイプではないのよ、私は。共通して知っている女性のなかに、この人なら、と言える人はいるかしら」
「節子さん」
彼は即座に答えた。
「ああ、わかるわ」
と真理子は言った。
「節子さん、あるいは、節子さんのような人に、あなたはおにぎりを作ってもらって食べたいのね」
「そうだよ」
「それが、人に言えない心の秘密なのね」
「節子さんには言わないでくれ」
「秘密は守ります」
真理子の言いかたに今度は彼が笑った。
「面白い秘密だわ」
真理子が言った。
「母性への憧《あこが》れかしら」
真理子の質問に彼は首をかしげた。
「彼女は、お母さん、というタイプでもないわね。彼女は色っぽい人だわ。生まれつき、本能的に、たいへん女なのよ。媚《こ》びた色気ではないの。水商売ふうのご期待に合わせた色っぽさではなくて、もっと基本的なもの。抱擁力かしら。受けとめてくれる幅や奥行きの、優しい度胸。腰のすわった色気。ほんとに正しい、地に足のついた、女性らしさのようなもの」
「だいたい表現出来てるよ。さすがだ」
「節子さんがいいのね」
「顔も体つきも、声も気質も、すべていい」
「そんなにいいのなら、おにぎりを作ってもらったら?」
「そんなこと、とても出来ない。それに、あるとき突然、おにぎりを作ってもらっても、あまり楽しくない。なにかの折りに、ふと、そしてぱっと、おにぎりを作ってもらえるような関係が、ずっと以前から出来ていないといけない」
「いっしょに住んでないと駄目だわ」
「そうかもしれない」
「おにぎりって、性的でしょう。お米だし、形だって生命の素《もと》のようだし。おにぎりには性的な意味があるという話を、以前、どこかで読んだ記憶があるわ」
「性的であることは認める」
「口説いてホテルの部屋へいって、というようなことではなく、もっと深い、根源的ななにかなのね」
「作ってもらって食べたい」
「よく出来た、的確な、おいしいおにぎりでなくてはいけないでしょう」
「そのとおりだよ」
「簡単そうで、じつは難しいわ。お米がまず問題になるでしょうし、炊きかただって、大変だわ。なかになにを入れるか。握る手の力とか。おにぎりに適してる手とそうではない手があるわ」
「きみは?」
「駄目ですよ」
真理子は全身を使って否定した。
「母を手伝って、遊び半分に作ってみたことが、その昔あったかもしれないという程度ね。作ったことはないです。作ってくれと言われたら、かなり困るわ。ぎちぎちと固く握って、球のようになるでしょうね」
「その人のすべてが、一個のおにぎりに出てしまう」
「そしてあなたは、節子さんがいいのね」
「節子さん、あるいは、節子さんのような人」
「奥さんは?」
真理子の当然の質問に、彼は首を振った。
「奥さんにおにぎりのリクエストをしないの?」
彼は重ねて首を振った。
「しないのね」
「しない」
「タイプではないのね」
「そうだよ」
「節子さんと奥さんとでは、正反対だわ。体型から言っても」
「うん」
「しかし、それは残念なことよ」
というような話を、後日、真理子は彼の妻に伝えた。言いつける、というようなことではなく、彼とふたりでした話を彼の妻にも公開するという、ごく軽い世間話のつもりだった。しかし真理子は、おにぎりに隠された深層心理的な性の世界を、面白く強調して語った。節子あるいは節子のような女性に対して、彼が誰にも語ることなく抱いている深い性的な感情について、彼の妻は友人の真理子から聞かされるはめになった。
彼女は彼を責めた。なぜ私にはなにも語らないのか。そして、なぜ真理子には語ったのか。というところから始まり、なぜ私と結婚したのか、節子のような人と結婚して、毎日でもおにぎりを作ってもらって食べればいいではないか、と彼女は言い張った。
私とはまるっきりちがうタイプの女性にそんな気持ちを密《ひそ》かに持っていて、私にはおにぎりなど作ってもらいたくはないと、私以外の人に平気で言う人に私は耐えられない、と彼女は言った。彼女が自分の理論を隙間《すきま》なく展開させていくと、残るのは離婚だけとなった。離婚を避けるための説得を彼はおこなったが、途中でやめた。彼女の理論を尊重することにしたからだ。だから彼らは離婚した。
ラヴ・チェアの中央に端正にすわって、彼女は泣き続けた。泣いているあいだに、彼女はジャケットのボタンの残りをすべてはずしていた。泣きながら彼女はジャケットを脱いだ。白いシャツの白さや出来ばえそして着こなしは、これもまた彼女そのものだと、彼は思った。脱いだジャケットを彼女は膝《ひざ》の上で畳んだ。畳んで膝の上に置いた。胸のポケットにひとつだけついている飾りボタンが上になっていた。両手の指先でそのボタンに触れながら、彼女は泣き続けた。
「泣くなよ」
彼は言った。
「これから四日間、いっしょなのだから」
「はじめに泣いておけば、あとはすっきりします」
と彼女は答えた。
泣く彼女を見ながら、彼は閃《ひらめ》くものを自覚した。自分も泣けばいいのだ、という閃きだ。テーブルのすぐむこう、彼の正面に、彼女の膝が見えていた。たとえばあの膝に顔を伏せ、両脚を抱き、ふくらはぎや足首を撫《な》でながら、自分も泣くといいのだと、彼ははっきり思った。自分が泣くための強いきっかけはどこにあるのか、彼は真剣に心のなかを捜し始めた。
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[#2字下げ]膝までブルースにつかって
急行電車を降りた三浦茜は階段にむかって歩いた。機内持ち込み用の黒い大きなショルダー・バッグを右肩にかけ、左手にはこうもり傘を持っていた。バッグはいっぱいにふくらんでいた。三十六歳の彼女は、膝をのばしてきれいに歩いた。身長が充分にあって肩幅が広く、ぜんたいのバランスは視覚的に心地良く整っていた。正面から見ても相当な美人だが、うしろ姿にはさらに風情があった。
茜は階段を上がっていった。線路をまたぐかたちで駅の建物があった。改札口は線路のちょうど真上だった。ジャケットのポケットから切符をつまみ出した茜は、どことなく優美な腕と手の動きで、切符を改札の台の上に置いた。そして改札口を抜けた。肩にかかる長さの髪を左手でうなじにむけてときつけながら、茜はふりかえった。改札口の上に時計が下がっていて、その左右に、南口、北口と、矢印とともに書いた標識が下がっていた。茜は南口にむかった。
低いヒールの靴にややタイトぎみなスカートの茜は、南口の階段を降りた。どこにでもありそうな駅前の、雑然とした光景が彼女の目のまえにあった。夕方の七時だった。六月なかば、梅雨の雨降りの日だが、いま雨は止まっていた。
おもての道路まで出ていくと、すぐ左側にT字の交差点があった。高野綾子から届いた葉書を、茜はジャケットのポケットから出した。ふたつに折ってあるのを開き、描いてある略図を見た。道路を渡ったむこう側、左の角にマクドナルドがある、と綾子は略図に描きこんでいる。そのとおりにマクドナルドがあった。葉書をポケットに戻し、茜は信号が変わるのを待った。
信号がグリーンになり、茜は交差点を渡った。左側の歩道を、駅から遠ざかるかたちで、まっすぐに歩いていった。綾子が描いたとおり、路線バスの停留所があった。それをとおりこしてさらに歩いていく、道の反対側にセヴンス・デイ・アドヴェンティストの教会があった。その教会の斜めまえが、綾子の指定した一軒家のレストランだった。雨に濡《ぬ》れた生け垣に囲まれて、入口があった。内部に照明のある看板が、イタリー料理の店であることを、夜のなかに告げていた。
茜は店の玄関にむかった。花壇のなかを歩き、軒の下に立った。ドアが開き、主人らしい中年の女性が静かな笑顔で迎えてくれた。
「高野さんのお席ですけれど」
三浦茜が言った。
「お見えになっていらっしゃいます」
店の女性が答えた。
傘を傘立てに入れ、バッグを茜は彼女に預けた。そして店のなかに入った。ほどよく広い店の、いちばん奥、内庭を見渡す窓辺の小さなテーブルに、高野綾子が待っていた。綾子は茜にむけて手を上げ、茜は笑顔で応《こた》えた。綾子のいる席へ茜は歩いた。
おなじ年齢のふたりの女性は、テーブルをはさんでむきあい、微笑を交わしあった。
「ここにひとりですわっている様子を、店に入って来てぱっと見ると、きれいな大人の女が、ひとりでなにをしているのだろうかと思うわ」
と茜が言った。
綾子は顔を左右に振りながら、笑った。
「大人の女、というような言いかたは、やめましょうよ。大人なんて、処世術を全面的に引き受けただけの人たちなのだから」
綾子の言いかたに茜も笑った。
「処世術を引き受けたにしては、私たちはどちらも不幸なのではないかしら」
店の主人が今日の料理の説明に来た。ふたりの女性はその説明を聞いた。綾子がひとつふたつ質問をした。主人がふたりのテーブルを離れてから、
「なんだか期待が高まるわ」
と、茜はナプキン・リングからナプキンを抜き取りながら言った。そして店ぜんたいを見渡し、
「いいお店なのね」
とつけ加えた。
「むこうにも部屋があって、人数の多いグループの席がいくつかあるの。二階も客席なのよ」
「よかったわ、久しぶりに会えて」
「電車で来たの?」
「そう。電車。乗り継いで」
「今夜の行く先は、中央林間でしたっけ?」
「そう」
「途中で乗り換えるのよ。線路がふたつの方向に分かれてる駅があって、その駅で藤沢や江ノ島行きの電車に乗り換えるの」
「わかったわ」
「乗り換えてすぐよ」
「兄が四十一になるのよ。今年の秋には四十二歳かな。自分の家を建てて、いまのこんな世の中だから、うれしくてたまらないのね。今年の春に出来たのだけど、見に来てくれ、来てくれと言われてて、六月になってしまった。電話でも言ったとおり、しかたないからとにかく出むいて、今夜はそこに一泊。兄夫婦は子供はひとりなのよ。明日は横浜を案内してくれるのですって。外人墓地や大桟橋かしら」
「ベイ・ブリッジというのがあるわ」
「お昼は中華街?」
「そうね。赤い靴をはいていくといいわ」
綾子が冗談を言い、茜は明るく笑った。
「どなたか連れ去りに来てくれるかしら」
最初の前菜がふたりのテーブルに届いた。持って来たウエイターは、内容を丁寧に説明して去った。ふたりとも酒にさほど興味がないから、ワインを注文するのを忘れていた。綾子がカリフォルニアの白ワインを注文した。
「明日のあなたは、では、横浜見物なのね」
綾子が言った。
「そうでしょうね。明日は雨かしら」
「おそらく」
「いいわ。たまには悪くないわ」
「こんど私といきましょう」
「ぜひ。ついでだから明日は横浜ですこし買い物をして、せっかくだからタクシーでベイ・ブリッジを走って、そのまま湾岸を帰るわ」
三浦茜は三年まえに離婚した。実家は成田空港から車で三十分ほどのところにある町で、手広く商売をしていた。その商売のなかに、スーパー・マーケットがあった。離婚してからの茜は、そのマーケットの責任者として仕事をしていた。
茜の夫は空港に勤務していた。空港の近くにふたりで住んでいた。離婚したすぐあと、彼は羽田空港へ転勤になった。茜は家を引き払い、実家へ戻った。高野綾子も離婚していた。ふたりともいまは独身だった。
「一年になる?」
茜がきいた。綾子が離婚してからの期間のことだ。親友の平凡な質問に、綾子はフォークを使いながらうなずいた。
「夏でちょうど一年。昨年のいま頃は、離婚に至るプロセスの、最初の出来事があった頃よ」
――――――――――――――――――――――――――――――
一年まえ、高野綾子は三十五歳だった。六月なかば、梅雨の雨が降る土曜日、綾子は用事があって午前中から外出した。忙しくて手のまわらなかった用事が、いくつもそのままになっていた。それをかたづけるためだった。夫は自宅にいた。
外で昼食を食べ、午後二時過ぎには、予定していた用事をすべて終わることが出来た。妙にほっとした綾子は、そのあと買い物をした。これからの季節のための服、下着、そしてその他、日常生活のためのさまざまなものを、綾子は買いこんだ。
そして自動車で自宅へ帰った。都心から郊外にある一軒家の自宅まで、車で一時間かかった。電車に乗るよりはましだと思いながら、CDを気持半分で聴きながら考えごとをして、綾子は渋滞ぎみの道路に耐えた。
住宅地の奥まった一角に、彼女が夫とともに住んでいた家があった。綾子が十代の終わり頃に建てられた、懐かしさを感じさせる木造の平屋建ての民家だ。仕事の関係をとおして、夫が見つけて借りた家だった。持ち主の年配の夫婦は、すでに現役を引退し、四国の太平洋側の小さな町に移り住んでいた。結婚したとき、綾子の夫が自分の好みに忠実に、根気良くさがして見つけた。
道に面して敷地の横幅ぜんたいにわたって、丈の高い生け垣があった。その生け垣に一か所、自動車が一台とおり抜けることの出来る空きがあり、そこが敷地への出入り口となっていた。
外の道から生け垣のなかにむけて、大きくステアリング操作をしながら、綾子は登り坂をクリアして敷地のなかに入った。敷地の横幅いっぱいに、なににも使われていない漠然とした庭が広くあり、そのむこうに家の建物があった。
玄関にむけてステーション・ワゴンを斜めに停め、綾子はエンジンを停止させた。ダッシュボードの時計を見た。午後五時ちょうどだった。車の外に出た彼女は、雨を髪や肩に受けとめながら、トランクへまわった。トランクを開き、なかから買い物の荷物すべてを一度に取り出した。トランクを閉じ玄関へ歩いた。
玄関のドアを開いてなかに入った綾子は、
「ただいま」
と、いつものように明るく、廊下の奥にむけて言った。
居間のてまえ、本来なら応接間として使う部屋から、軽い足どりでふっと、女性がひとり廊下へ出て来た。
来客だ、と綾子は思った。はじめて見る女性だった。魅力のあるきれいな人だ、と綾子は思った。来客の予定があることを夫から聞いてはいなかったが、土曜日のこんな時間に誰だろうか、と綾子は思った。その女性が着ている服を、綾子は見た。どこかで見たような服だ、と綾子は感じた。
「おかえりなさい」
声は男のまま、しかし身のこなしや雰囲気は女性になりきって、綾子の夫が言った。いま自分の目の前に女性として立っているのは自分の夫なのだということに、綾子は気づいた。見たような服は、彼女自身の服だった。
髪はやや平凡だが女性らしいスタンダードな髪に作り、巧みに化粧をし、きれいにドレスを着こなして女性になりきっている夫を、綾子は玄関に立ったまま見た。
「お帰りなさい」
今度は女性の声で、夫が言った。
「まあ」
と綾子は言った。
「面白いお出迎えだわ」
「用事は済んだのかしら」
夫がきいた。
綾子はうなずいた。
「みんなすっきりとかたづけたわ」
「よかったわね。それは買い物?」
板張りの玄関に綾子が置いたいくつものショッピング・バッグを、夫は指さした。
「そうよ」
「なにを買ったの?」
「私の服や下着。それから、いろんなもの。あなたがしきりに言ってたあのアイロンも、ついに買って来たわ」
「あら、うれしい」
歩み寄った夫がショッピング・バッグのかたわらに優美な動作でしゃがむのを、綾子は見守った。この人は自分よりもはるかに女らしい、と綾子は思った。
「どんな服なのかしら。着てみたいわ。私たちは服のサイズがおなじなのよ。知ってた?」
自分を見上げて艶然《えんぜん》と微笑する夫を、綾子は見た。綾子は胸に両手を組んだ。
「あなた」
「そんな怖い顔しないで」
「なんですか、これは。そんな趣味があったの?」
「趣味ではないのよ」
「では、なになの?」
「これからの私の生きかたよ」
「やめて、気持ち悪い。冗談なら、もうたくさん。あなたは女になったほうが素敵だわ。それは認めてあげるから、もうやめて」
「私はこれからずっと、こうなのよ」
「なぜ?」
「女になるの」
「だって、あなた、男でしょう」
「女になるのだから、女なのよ」
「下着まで女物なの?」
「そうよ」
「私のを着たの?」
「そうよ」
「嫌だ、脱いで、気持ち悪い、返して!」
と綾子は叫んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――
「あのときは、本当に驚いたし、腹も立ったのよ。買い物をして帰って来たら、夫は女になってるのですもの。しかも、私よりずっと女らしくて」
高野綾子が言った。
三浦茜が笑っていた。
「いい体験だったわね」
「いま思いかえすなら、茜が言うとおり、確かにいい体験なのよ。彼が密《ひそ》かに女装して性的に楽しむ、というような趣味の人ではないことは、話し合いでよくわかったし、おかまさんになって男の相手をしようというわけでもなかったのよ」
「芸術家なのよ、彼は」
茜の言葉に綾子は首をかしげた。
「翻訳家が芸術家と言えるかどうか、私にはわからないけれど、そうね、芸術的なところはあるわね。彼は言葉が好きなのよ。英語、フランス語、スペイン語が堪能《たんのう》で、東洋の言葉は日本語しか知らないのは残念だと言って、ヴェトナムの言葉と広東語を勉強してたわ。言葉のむこうにある文化の総体、とでも言えばいいのかしら、そういうことに真剣な興味を持っていて、それを一生の仕事にしたいと言ってたわ。それはそれで、たいへんいいことなのよ。そして、いろんな言葉を勉強するには、受け身でいたほうがずっとよくて、心身ともに受け身になるひとつの強力な手段として、男から女になって生きるのだと、彼は言ったのよ。手術して男を変えてしまうわけではなく、要するに外見を女にして、それを梃子《てこ》のようにして内面も女にしていこう、という試みね」
「芸術的だわ」
「その日以来、彼は本当に女なのよ。まいったわ。私よりずっと女らしくて」
「女ふたりでは、うまくいかなくて離婚になったのね」
茜が言った。その茜の言葉に、綾子は首を振った。
「彼が私のまえではじめて女になってみせた、一年まえのあの雨の土曜日は、彼にしてみれば私に対するお別れのメッセージを伝えた日でもあったのよ」
「お別れのメッセージ」
「そう」
「どういうことかしら」
「男の自分を頭のなかで女に作りかえていくのだけど、そのときの手助けとして、現実の生身の女性から、女性らしさを自分のなかへ取りこむことが大切だ、と彼は言うの。彼が女になってみせたということは、女である私に対する挑戦なのね。しかもその挑戦は、一方的な宣言でもあるの。女としてのおまえに、自分はもはや興味はない、という宣言」
「綾子が女らしくないとでも言うの?」
「そうですって」
「とんでもない、ものの見事に女でしょう、あなたは。誰がどこからどう見ても、女そのものだわ。しかも、完熟にむかいつつある、きれいないい女」
「見た目にはたいへんいいから、きみと別れるのは残念でもある、と彼は言ってたわ」
「外見は女でも、内面は女ではないと言うの?」
「そのとおり。いつもいっしょにいて、女らしさを取りこみ、真似していく相手として、私では不足なのですって」
「まあ、なんということ、それは」
「はっきりとそう言われれば、私だってわからないわけではないのよ。女らしさなんて、私は嫌だから。女に生まれて女として育ったから、しかたなく女だけど、私は女であることをうれしがってるわけではないのよ。ところが彼は、うれしがって女になってるし、自分にむけて女らしさをどんどん放射してくれるような女の人を、相手としてそばに欲しいと思ってたの」
「複雑と言えば、相当に複雑だわ」
「でも、それが本当の自分なら、そういう自分に忠実に生きればいいのよ」
「というわけで、離婚」
「そう。というわけで。彼は、私にはもはや用がないのですもの」
「女が三十もなかばに達すると、そういう目にも会うのね」
ふたりの女性は笑った。
「いまは、どうしてるのかしら」
茜が言った。
「彼?」
綾子がきいた。
「そう。かつてのご主人」
「いまでもあの家に住んでるわ。仕事場にしてる部屋が、別にあるのよ。そこへ毎日おなじ時間にきちんと出かけていき、一日じゅう翻訳の仕事をしてるわ」
「そしていまは、女なの?」
「きっと、そうでしょう。会わないからよくはわからないけれど、話に聞くところによると、いつも女ですって。離婚届を私といっしょに提出しにいくとき、彼は女だったから。昼間に外を歩いても、まったくおかしくないのよ。と言うよりも、結構ないい女なのね。名前は博美といって、もともと女のような名前だし」
七番目の前菜がふたりのテーブルに届いた。前菜が一種類ずつ、小さな皿でテンポ良く出て来るのが、この店の特長だった。茜と綾子は、それぞれ八種類の前菜を注文していた。
「こういう料理は、いまの私には珍しいわ」
茜が言った。
「いつもの私は、完全に和食だから」
「私もそうよ。魚を焼いたり、野菜を和風に煮たり」
綾子が言った。
「そして彼は、女としてひとり暮らしなの?」
茜が質問した。
「そのへんの話は、まだしてなかったわね」
綾子が答えた。
「続きのお話があるの?」
「あるわよ」
「聞かせて」
「簡単なことなのよ」
「どんなふうに?」
「博美さんには相手が見つかったの」
「相手が」
「そう。いまいっしょに住んでるみたい」
「相手とは、つまり、女性でしょう?」
茜がきいた。
「そうよ」
と綾子は答えた。
「私の友人なのよ。離婚してしばらくして、私はひらめいたの。その友人は、女の私から見ても、たいへんに女らしい人なの。あまりにも女らしいので、私としてはちょっと辟易《へきえき》なのだけれど、博美さんには最適なのではないかと思って、紹介したのよ。彼女も離婚してひとり暮らしなのだけれど、会ったとたんにひと目|惚《ぼ》れというのかしら、熱烈な関係になって、いまは同棲《どうせい》中だわ」
「面白い」
「博美さんにとって彼女は、女らしさを全開で自分にむけて発揮してくれる人なの」
「女らしさを吸収することが出来て、彼としてはうれしいわけね」
「彼女も、うれしいのよ。女らしさを思う存分に発散することが出来るし、相手はそれを熱心に受け止めてくれて、しかも評価してくれるわけだから。愛し合うとは、ひょっとしたら、このようなことよ」
綾子の話を聞き終わって、茜は静かにフォークを置いた。七番目の前菜を、ふたりとも食べ終えていた。しばらく考えていた茜は、やがて次のように言った。
「男でありながら女になっている人から、おまえは女らしくないから嫌だ、と綾子は言われたのね」
「簡単に言ってしまうと、そういうことだわ」
「わ、愉快」
「いまとなっては、私も愉快よ。彼を支持すらしてるわ。翻訳の仕事や言葉の勉強には、女性的な受け身でいたほうがいいのですって。全般的に受け身でいたほうが何倍も快適だと言う人だから、女になってしまったのよ。そして、女らしさを発散してくれる人といっしょに住んで、いまはとても幸せ」
「乾杯してあげたいほどね」
「ほんとに」
「しかし、かなり珍しい離婚よ」
「一年たつと、すべてがふと遠のいて、なんだか他人《ひと》ごとみたい」
店の主人がふたりのテーブルへ来た。パスタの説明をした。何種類もある魅力的なパスタのなかから、ふたりの女性はそれぞれひとつを選んだ。
「綾子はいま、完全にひとり暮らしなの?」
茜がきいた。
「そうよ。ここから歩いて十分かからないところに部屋があって、ひっそりと静かに、ひとりだわ」
「相手は欲しくないの?」
茜がきいた。
「相手とは、なにかしら」
「ふと甘えてみたりする相手」
茜の言葉に綾子は顔を左右に振った。そして、
「それが私は駄目なのよ。甘えることが出来ないの」
と言った。
「私もそうよ」
茜が言った。
「そういう感じはあるわね」
「私たちふたりの、共通した点だわ」
「美点かしら、それとも欠点?」
綾子の質問に対して、
「欠点よ」
と即座に茜は答えた。そしてふたりは笑った。
「甘えると言えば、先週、私は本当に久しぶりに、男の人に甘えたわ」
と茜が言った。
「聞かせて」
笑顔で綾子が言った。
「そういう話は、ぜひとも聞かなくては」
「ほんの一瞬の出来事なのよ。でも、さかのぼるなら、かなり昔から続いてるような、続いてはいないような」
「面白そう。人の話を聞くのが楽しい年齢になって来たのかしら」
「いまの綾子の話だって、面白さでは大変なものよ」
「早く聞かせて」
親友に促された茜は、
「時間に添って語るなら、私が高校生だった頃までさかのぼるの」
と、発端をワン・センテンスで言った。
「十五、十六、十七歳」
「そうね。その三年間ずっとおなじクラスだった男のこがいて、私は彼のガール・フレンドで、彼は私のボーイ・フレンド。とは言っても、体の関係はまったくなくて、おなじ年齢のおなじクラスの、なんでも語り合うことの出来る、おたがいにいちばん好きな相手どうし」
「それは素敵だわ」
「正彦というのよ」
「正彦くん」
「仲田正彦」
美しいクロスのかかったテーブルの上へ、白く長い指先でそっと置くように、三浦茜が言った。
――――――――――――――――――――――――――――――
仲田正彦がステーション・ワゴンを運転していた。うしろの席には、妻の美幸がふたりの子供といっしょにいた。正彦と美幸は、おなじ三十六歳だ。二十七歳のときに結婚し、二年後に長女が生まれた。長女はいま七歳で、ふたりめの子供は男で四歳だった。
国道は梅雨の雨に濡《ぬ》れていた。国道の両側に広がる畑や林などの景色も、雨の降る空の下で淡く灰色に煙《けむ》っていた。気温は低く、正彦はポロ・シャツの上に木綿のセーターを着ていた。
「よく降るわね」
うしろの席から美幸が言った。やや退屈そうな言いかたによる平凡な言葉は、もっとも遅い速度でガラスの外を往復しているワイパーの動きに、よく似合っていた。
「先週からずっと雨だね。もう十日以上になるよ」
「今年は空梅雨だということではなかったかしら」
「異常であることは確からしい」
「そうなの?」
「黒潮の蛇行が止まっている、と気象庁の友だちが言っていた。冷水塊が消えてるんだってさ」
「梅雨は雨が降ったほうがいいわね」
「水がなかったら、どうにもならない」
「この季節の花は、みんな雨に似合うのね」
「紫陽花《あじさい》」
「紫陽花こそ、雨がなかったら絵にならないわ」
「菖蒲《しようぶ》」
「いいわね」
「梅を漬ける季節だよ。思い出した。お祖母《ばあ》さんを手伝って、しその葉を摘んだ。雨のなかを、傘をさして。番傘だった。油のしみた紙に雨が当たる音を、いまでも覚えている」
「私たちの世代でも、そんな記憶があるの?」
「あるよ。二十年まえだもの」
「私も、じっと考えてると、思い出すことがいろいろあるわ」
「ふたりしずか」
「ちょうどいまの花ね」
「花菖蒲」
「そうだわ。葉に宿る雨滴が、銀色に見えるのよ」
「はまなすはまだ咲いてるかな」
「北国の花ね」
「大待宵草」
と言った夫に、
「懐かしい言葉だわ」
と美幸が答えた。
「花だよ」
「ええ」
「なに色だか知ってるかい」
「紫?」
「黄色だよ」
「そうだった?」
「黄色。ちょうど今日のような雨の日の灰色のなかに、きれいな黄色が、ぱっとあるんだ」
そう答えた仲田は、ミラーを介してうしろを見た。そしてステーション・ワゴンの速度を落としながら、ステアリングをかかえこむようにして上体を前に倒した。ワイパーがぬぐうガラスごしに、前方の光景のあちこちに視線を配った。
「どうしたの?」
うしろから美幸がきいた。
「確かこのあたりだった」
仲田が答えた。
「なにが?」
車線の左へ寄ってさらに速度を落とし、仲田は国道の右側に視線を走らせた。
「あそこだ」
と彼は言った。そのまま徐行していき、うしろから来る車と対向車がともにないことを確認して、右の車線を越えた。国道を斜めに離れるわき道へ、彼はステーション・ワゴンを入れた。
「どこへいくの?」
「思い出した。灯台を見ていこう」
「灯台?」
「岬の突端にあるんだよ」
畑のなかに民家が点在する光景のなかをしばらくいくと、やがて畑は終わった。いきなり池があった。その池をまわり、坂道を上がった。灌木《かんぼく》の生えたスロープでその道は行きどまりになるように見えた。だがスロープの裏に急坂があり、ステーション・ワゴンはその坂を上がった。
坂はやがておだやかな登りとなった。両側に松林が続いた。右側の松林ごしに、畑の広がる光景を低い位置に見下ろすことが出来た。左側の松林の奥には丘が連続していた。
そのまましばらくいくと、右側の松林が終わりになった。視界が開けた。雨を受け止めている畑と国道の景色の外側に、太平洋が見えた。陸上の景色の雑然さに対して、海は海以外にすっきりとなにもなく、濃く重い緑色をして平坦だった。
「海ね」
うしろで美幸が言った。ふたりの子供たちに彼女は海を見せた。道の左側は垂直に近い崖《がけ》に変わった。ゆるやかな登り坂のまま、小さな岬の突端のすぐ手前まで出た。
そして道はいったん下り坂になり、坂を降りきったところが岬の突端だった。岬の反対側へまわりこみ、急な登り坂をループのように巻いていくと、岬の突端の頂上に出た。頂上は平坦で背後に松林があり、平坦なスペースの中央に灯台が立っていた。
「ほら」
と仲田が言った。
「ほんとだわ」
「海がよく見えるんだよ」
顔をかがめて、美幸はドアのガラスごしに灯台を見た。
「いい場所だわ。晴れてたら、絵に描いたような灯台でしょうね」
「いまも白いなあ」
「ほんと、まっ白」
無骨に作った高い台座の上に立つ灯台は、根もとから先端のガラスの部分まで、ぜんたいがまっ白だった。
「晴れてると白がきれいなんだよ。まぶしくて」
「ほら、これが灯台」
美幸が子供たちに言った。下の男のこは灯台という言葉をまだ知らず、長女は言葉は知っていても現物を見るのはこれがはじめてだった。
海を広く正面に見る頑丈な手すりのすぐ前まで、仲田はステーション・ワゴンを徐行させていった。そしてそこにいったん停止し、梅雨の太平洋を眺めた。
「飛行機で太平洋を越えて帰って来ると、いまの季節なら梅雨前線のなかを飛ぶよ」
そう言って仲田はステーション・ワゴンをリヴァースで発進させた。灯台までさがっていき、台座のわきに停めた。エンジンを切った。
「ほんとにここは、いい場所だよ」
仲田が言った。
「しかし雨の日に来るのは、おそらくはじめてだ」
「灯台はこんなに細いビルなの?」
長女が母親にきいた。
「夜になると、いちばん上に明かりがつくのよ。海のずっとむこうでも、光が見えるの。船の人たちがそれを見て、方向をきめるのね」
「なぜ?」
長女がききかえした。
「陸にぶつかったら嫌でしょう」
「船が?」
「そうよ」
「写真を撮ろう」
仲田が言った。隣りのシートに置いてあるショルダー・バッグに、彼は手をのばした。なかから小さなオート・フォーカスのカメラを取り出した。
「灯台といっしょに写真を撮ろう」
ふりかえって子供たちにそう言い、仲田はドアを開いた。雨のなかに出た彼に続いて、長女が傘を持って出て来た。彼女は傘を開き、弟の手を取って傘の下に入れた。美幸が傘をもう一本、仲田にむけて差し出した。
「三人になると嫌だから、私はここにいるわ」
そう言って彼女は傘を仲田に渡した。仲田は傘を開き、車と灯台がファインダーのなかにおさまる位置まで、歩いていった。
「傘をもうすこし高く持って」
自分の傘を高くかかげて、仲田は娘に言った。長女はそのとおりにした。雨の灯台を背後に、片手に傘をかかげもう一方の手を弟の肩にかけている彼女を、仲田は一枚だけ写真に撮った。
「上へいってみよう」
台座の上につながる階段を、仲田は娘に示した。そしてステーション・ワゴンへ歩み寄り、
「出てこいよ。上で写真を撮ろう」
と、車のなかにいる美幸に言った。美幸は車を出た。仲田と彼女が大きな傘をさし、長女とその弟が小さな傘に入って、台座の上へ階段を上がっていった。
台座の上はただ雨で濡《ぬ》れているだけだった。展望台のつもりの台座だから、灯台そのものとはなんの関係もなく、したがって灯台への入口はそこにはなかった。灯台の背後にコンクリートの四角い建物があり、なかへ入るのはそこからだった。夏休みのあいだのある期間、子供たちのために灯台の内部が公開された。
海は台座の上からもおなじように見えた。真夏の晴天の日には、まっ白い灯台は見た目に軽快で、見る人の気持ちを爽快《そうかい》にさせた。だが梅雨の雨に濡れているいまは、どっしりと重く固く、無言だった。
「写真を撮ってくれ」
仲田は長女に言った。
「ママとパパの写真」
彼が差し出すカメラを、長女は受け取った。
「ファインダーから僕たちを見て、シャッター・ボタンを押してくれればいい」
重い丸みのある灯台をうしろにして、仲田は美幸とならんで立った。傘をうしろにむけて倒すように持った仲田は、もう一方の手を美幸の肩にかけた。その腕に美幸が指をかけた。弟を寄り添わせて傘を高く持ち、長女はカメラを顔のまえに構えた。小さなファインダーごしに両親をとらえ、シャッターを押した。ストロボが光った。
「ぶれてないかしら」
「だいじょうぶだよ。撮り慣れている。ストロボは光ったし」
カメラを受け取った仲田は、美幸とともに階段にむけて歩いた。そのうしろから、長女が弟の手を取ってしたがった。四人は台座を降りた。砂利の上を歩き、ステーション・ワゴンまで戻った。四人はさきほどとおなじように車のなかに入り、やがてステーション・ワゴンは発進した。
国道に戻り実家にむけてステーション・ワゴンを走らせながら、仲田正彦は考えごとをした。ついさっき灯台を背にして美幸と写真を撮ったとき、彼は三浦茜のことを思い出していた。この地元の高等学校で、一年から三年まで、仲田は茜とおなじクラスだった。彼にとって茜は、高校の三年間をとおして、いちばん気にいっていた女性だった。したがって彼は、茜ともっとも親しく友だちづきあいをした。
一年から三年まで、毎年の夏休みのちょうどまんなかあたりに、自分が茜といっしょにさきほどの灯台へ来て、夏の陽ざしに白く輝く灯台を背景に写真を撮ったことを、彼は思っていた。そのときの写真はいまでもアルバムに貼ってあるはずだと、彼は思った。
高校一年から三年まで、真夏になると毎年、あの灯台へいってふたりで写真を撮るというおなじ行為を、自分と茜はくりかえした。三度ともまったくおなじような、真夏らしく暑い晴天の日だった。なぜあの灯台へいったのか、そしてなぜ自分たちは毎年おなじ写真を撮ったのか、その理由を仲田は記憶のなかを手さぐりして捜していた。なぜ茜とふたりでおなじ写真を三年にわたって三度、くりかえして撮ったのか、その理由を仲田は思い出せずにいた。
昨日、大安の金曜日、仲田の兄の娘の結婚式が、実家のある地元の町でおこなわれた。仲田は美幸とふたりの子供とともに、その披露宴に出席した。今日はさらに一泊し、明日は帰ることになっていた。実家から海まで、車で三十分ほどだった。仲田たち四人は午前中に実家を出て、漁港の町を見物し、有名な魚料理の店で昼食を食べた。いまはその帰り道だった。
実家のある町まで戻って来て、仲田はふと思いついた。
「マーケットへ寄っていこう」
彼が言った。
「なにか買うの?」
美幸がきいた。
「子供たちは、欲しいんじゃないかな」
スーパー・マーケットでなにか買うことに関して、ふたりの子供たちは大賛成だった。
町のちょうどまんなかに、三浦茜の実家が経営しているスーパー・マーケットがあった。店に入れば,まずまちがいなく茜に会えるはずだと、仲田は思った。駐車場に車を停め、側面の入口から目立つ白い建物に四人は入った。
店に入ったとたんに、仲田は思い出した。灯台のまえで真夏に毎年ふたりで写真を撮ったのは、その真夏の日が茜の誕生日だったからだ。この町で高校生だった三年間、茜とふたりだけで彼女の誕生日の記念写真を撮ったという事実は、仲田の胸のなかで、なくしたものとしてあきらめた貴重品が思いがけず見つかったときとおなじ感触だった。なくしたとばかり思いこんで過ごした期間について、彼はひとり思った。
人が食事として食べるものとはとうてい思えないような食品ばかりならんでいる棚を、仲田はみるともなく見て歩いた。ふたりの子供たらは早くもスナック菓子の棚の前にいた。好きなものをひとつずつ手に取っては、母親に見せていた。なぜそれを食べてはいけないか、美幸はひとつずつ説明していた。
酒の売り場の近くで、
「正彦さん」
と彼は呼びとめられた。
立ちどまってふりかえった。三浦茜が微笑して立っていた。カーキー色の平凡なスカートに、きれいなグリーンのポロ・シャツを着ていた。足もとはなぜか赤い鼻緒の女物の下駄だった。
「久しぶり」
仲田が言った。
「結婚式で?」
茜の質問に彼はうなずいた。
「うちの兄が、お兄さんと同級だったのよ。だから兄は、披露宴に出させてもらったわ」
「兄きの、いちばん上の娘。まだ二十歳なんだよ」
「そうなのよねえ、早い結婚だわ」
「元気?」
仲田の質問に茜は両腕を広げてみせた。
「見てのとおり」
「元気そうだ」
「ひとりなの?」
茜がきいた。レジスターのほうに、仲田は視線をむけた。子供たちのリクエストに抗しきれない美幸が、なにか買っていた。彼らを、仲田は茜に片手で示した。
「ご家族?」
「そうだよ」
「私はいまひとりなのよ」
そう言って茜は笑った。
「聞いてる」
仲田が答えた。
両側から食品の棚にはさまれて、ふたりは微笑してむき合っていた。
「こうして会うと、懐かしいわ」
「ほんとだね」
「また灯台の前で写真を撮って」
言葉だけではなく、全身を甘く切なくして、しかもきわめて自然にすんなりと、茜が言った。
「誕生日に」
仲田が言った。
「覚えていてくれてるの?」
気持ちが切なく切迫しているときの早口で、茜が言った。
――――――――――――――――――――――――――――――
「甘えた台詞《せりふ》が、ごくすんなりと出て来たのよ。自分でもびっくりして、あとですこしだけ気まり悪かったわ」
テーブルのむこうの魅力的な綾子に、茜は言った。
「相手の男性に、茜は気持ちを許してたからよ」
綾子が言った。
「そうかしら」
「きっとそう」
「家から車なら二十分ほどのところに、小さな岬があるの。その岬の突端に、まるで絵に描いたような白い灯台があるのよ。高校の三年間、毎年、夏休みのまんなかにある私の誕生日に、その彼とふたりで灯台へいって、おなじ構図で写真を撮ったのよ。いまでもアルバムに三枚とも貼ってあるわ」
「いい話よ」
「昔の話」
「茜の話を聞きながら、高校生だったのは何年前かなと、私は計算してたの。そして思い出したの。昔と言えば、あれからもう十年でしょう」
「あれから?」
茜がききかえした。
「そう。あれから」
くりかえした綾子の言葉に、茜は視線をテーブルに伏せた。伏せたまま一度だけうなずき、顔を上げた。
「来年で十年よ。いまは九年」
「あのとき私たちは、二十代のなかばだったのね」
「早いわね」
静かに、綾子が言った。
「彼はどうしてるかしら」
茜が言った。
「さあ、彼は私たちより三つ年上だったから、もうじき四十よ」
「完全に音さたなしね」
「あれっきりだわ」
「最後に話をしたときの彼の台詞を、私はいまでも覚えてるわ。これで僕は解放された、と彼は言ったのよ。解放と言うからには、私たちは彼らを閉じこめていたのかしら」
「私にも、おなじようなことを言ったわ。これで僕は脱出することが出来る、と彼は言ったの」
「脱出と解放」
「おなじようなものね」
彼女たちふたりがまだ二十代のなかばだった頃、彼女たちにはそれぞれ男性の恋人がいた。彼女たちふたりはそれ以前からの仲良しだったから、ふたりの男性はおたがいの恋人である彼女たちを仲介して、知り合うこととなった。
普通なら男女ふた組による四人だが、彼らの場合は四組による四人に、やがてなった。綾子は茜の恋人と、いわゆる出来ている関係になってしまい、茜は綾子の恋人と出来た。そしてそうなっても、はじめの恋人との関係も、並列して続いた。
そのような四人の関係が二年続いたあと、男性のうちのひとりが急死した。綾子と茜がともに関係を持つ男性がひとり残り、三人の関係となり、その三人の関係はただちに消滅した。その男性は彼女たちの前からいなくなり、綾子と茜のふたりだけが残った。
「どこでなにをしてるのかしら」
綾子が言った。
「わからないわ」
「消息不明ね」
「完全に切れたわね」
「彼のほうでも、ときどき思ってるわよ。あの女たちは、どこでなにをしてるのかと」
「ここでこうしてます」
ふたりは笑った。
メイン・ディシュをふたりはすでに終わっていた。デザートを選び、二杯ずつのエスプレッソでそれをやがて平らげた。食べたものすべてがすっかりお腹のなかに落ち着いてからさらにしばらく、ふたりはその席で話をした。
代金は割り勘にして、ふたりはやがて店を出た。雨は止まったままだった。ふたりとも傘を持ち、茜は機内バッグを肩にかけ、駅にむけて歩いた。
「今度、ゆっくり泊まりに来て」
綾子が言った。
「ぜひ来るわ」
茜が答えた。
バスの停留所に人が列を作っていた。そこをとおり抜けるため、ふたりの女性は前後して歩いた。綾子のうしろ姿を茜は観察した。
停留所を過ぎて再び肩をならべて歩きながら、
「綾子の歩きかたは、昔とおんなじ。きれいな大股《おおまた》で、しっかり歩くのね」
と茜が言った。
「じつは膝《ひざ》までブルースにつかって歩いてるわよ」
艷《えん》をこめて笑い、綾子が答えた。
「膝までブルースにつかって」
茜が復唱した。
「そうよ」
「明日という奈落にむかいながら」
茜がつけ加え、綾子は笑った。
ふたりは駅の階段を上がった。
「途中の相模大野《さがみおおの》で乗り換えるのよ」
綾子が言った。
「ええ」
「ホームはおなじ。一本の電車が切り離されて二本になり、ふたつの方向に分かれることもあるの」
「わかったわ」
茜は切符を買い、綾子は改札のわきで待った。歩いて来た茜の肘《ひじ》のすぐ上を一度だけ優しく握り、綾子はすぐに離した。
「泊まりに来てね」
綾子が言った。
「来たい。連絡するわ」
「私も電話します」
茜は改札を入り、ホームへ降りる階段にむかった。階段の前で彼女はふりかえった。ふたりの女性は手を振って別れた。
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スーパー・マーケットを出て
電話ブースの中へ
純子は買い物をすませた。スーパー・マーケットの正面の出入り口から、建物の外へ出た。十一月も終わりに近い日の夕方、建物のまえに広がっている駐車場は、すでに夜の暗さだった。照明灯の明かりが、その暗さとの対抗を試みていた。雨が降っていた。
大きく張り出した軒の下に立ち、純子は雨の降る夜の駐車場を見渡した。彼女がこのスーパー・マーケットに入ったとき、雨はまだ降っていなかった。雨の気配もなかった。しかしいま、彼女の目のまえに横たわる光景は、完全に雨の日だった。空気の冷たい香りも、雨の夜のものだった。
いつのまに降りはじめたのだろうかと、純子はぼんやり思った。雨は激しく降っていた。買い物で大きくふくらんでいるマーケットの紙袋を、彼女は両腕で胸にかかえなおした。袋のなかのものが、不安定に動いた。
彼女のステーション・ワゴンは、駐車場の向こうの端に停めてあった。その方向に、彼女は視線をこらしてみた。彼女からもっとも遠い照明灯が投げ降ろす光の輪のすぐ外に、自分のステーション・ワゴンがあいまいに見えているのを、彼女は確認した。
あそこまで歩くと、この雨ではかなり濡《ぬ》れるはずだと、彼女は思った。店のなかにひきかえしてヴィニールの傘を買ってこようか、と彼女は思った。そして、その思いを、ゆっくりと否定した。
両腕でかかえている重い袋を右腕だけに預け、左手首の腕時計を彼女は見た。電話をします、と約束した時間までに、あと数分だった。時間どおりに自分がことを運んでいるのを自覚して、純子は、奇妙に口惜《くや》しい気持ちを持った。
長方形の駐車場は、彼女から見て雨のなかへ縦長に広がっていた。駐車場の右側の縁、ちょうど中間あたりに、電話ブースが三つならんでいるのを、純子は見た。
純子は軒の縁まで歩いた。重くふくらんだ袋をかかえなおし、三段だけの階段を下り、雨のなかへ出ていった。足早に、彼女は電話ブースに向けて歩いた。大きくて冷たい雨滴が、いっせいに彼女に降りかかってきた。肩をすぼめて顔を伏せ、まっすぐ斜めに、彼女は電話ブースに向かった。
服の肩や腕が、思っていたよりもはるかに急速に、濡れていった。かかえている紙袋に雨が当たり、髪を雨滴が叩《たた》いた。顔をすこしでも上げると、その顔に雨滴がかかった。
三つならんでいる電話ブースは、どれも空いていた。まんなかのブースのまえに立ち、紙袋から右手を離し、ドアに伸ばした。その手は、ドアを開くよりも先に、たちまち濡れた。
ブースのなかに入った純子は、電話機の下にある小さな棚に、ふくらんだ紙袋を乗せた。膝《ひざ》で袋の側面を支えつつ、袋の丈を低くし、棚のスペースに袋を押しこめた。
まっすぐに体を伸ばし、頭を振って髪のなかの雨滴をはねとばした。肩や腕から、雨を指先で払い落とした。電話は店のなかからかけることも出来たのだと、ブースの外に視線を向けて彼女は思った。
ツイードのジャケットのポケットから、純子は、小さなメモ用紙を一枚、取り出した。電話番号がひとつ書いてあった。ならんでいる大きな数字を、純子は見た。そしてその番号に、カードを使って電話をかけた。
コールのブザーが電話の向こうで鳴りはじめるのを、彼女は聞いた。すぐに受話器が上がり、平凡な事務員のような口調で、若い女性が応対した。
「おそれいります」
と、純子は言った。
「佐々木敏彦さんというかたが、そちらにお邪魔しているはずなのですが、とりついでいただけますか」
「お待ちください」
相手の女性が言った。
まったく無音の時間がしばらくあったのち、
「佐々木です」
と、佐々木が電話の向こうで言った。
「純子です」
「どうした」
「電話をすると約束した時間です」
「そうだ」
「どうしましょうか」
「僕は、用事がもうじき終わる」
「雨が降っているわ」
「雨が」
「そうよ」
「知らなかった」
「どうしましょう」
「純子は?」
「私は、もう、個人的な時間よ」
「もうすぐ七時だ」
「夕食は?」
「まだだ。純子は?」
「まだよ」
「食べよう。いっしょに」
「どこかで落ち合わないといけないわね」
「そうだね」
「どこなのかしら、そこは」
純子の質問に、電話の向こうの佐々木は、場所を説明した。いま自分がいるスーパー・マーケットの駐車場から、佐々木が説明したその場所まで、ごく単純なルートだった。よく知っているその道順を、純子はたやすく思い描くことが出来た。
「私がそこまで、いきましょうか」
「どこにいるんだい」
「あなたがいるところから二十分とかからない場所」
「歩いて?」
「車で」
「車なのか」
「はい」
「来てくれるか」
「どこかで私があなたを待つよりも、私があなたのいる場所へこれから向かうほうが、私は好きだわ」
「では、ここで待っている」
友人の事務所だと、佐々木は言っていた。
建物のある場所を、佐々木は、丁寧に説明した。
「二十分かからないと思うわ」
「待ってる」
電話はそこで終わった。
カードを抜き取ってジャケットのポケットに入れた純子は、ブースの外を見た。夜はそのままであり、雨も重く降り続いていた。
電話機に向きなおった純子は、ゆっくり膝を折り、しゃがんだ。電話機の下の棚に置いた、買い物でふくらんでいるスーパー・マーケットの袋を、両手で棚から出してかかえ上げた。左腕でその袋を胸に抱くように持ち、彼女は電話ブースのドアを開いた。雨の降る夜の、冷たい空気を、彼女はまず顔で感じとった。
駐車場の奥へ、純子は視線をのばした。自分のステーション・ワゴンが停めてある位置を確認してから、彼女はブースを出た。そしてステーション・ワゴンまでの最短距離を、彼女は足早に歩いた。彼女の髪や肩、そして袋をかかえている両腕に、雨が降りかかった。
かかえている袋のなかで、詰めているものが再び不安定に動いた。いつもなら、買い物の袋のなかは、もっと安定していた。二十歳の夏から、純子はひとり暮らしを続けてきた。いまの彼女は、三十五歳だ。自分ひとりだけのための食事の材料を、これまで何度買ったことだろう。
買いととのえる品物も、買う手順も、いまではすっかり純子の身についていた。しかし、今日は、いつもとはちがっていた。買ったものが、普段にくらべると、微妙に異なっていた。だから、袋のなかは、どことなく落ち着かず、したがって不安定に動くのだ。
そのことを充分に自覚しつつ、純子は自分のステーション・ワゴンまで歩いた。車体の右側に立ち、ポケットからキーを出し、運転席のドアを開いた。買い物の袋をいったん運転席に置き、上半身を車のなかに入れてから、彼女は袋を再び持ち上げた。片足を濡《ぬ》れた路面に残し、片方の膝をシートについて、純子は左側の席に向けて体を伸ばした。袋を、そのシートの上に置いた。
路面に残してまっすぐに伸ばしている脚の、膝の裏やふくらはぎに、冷たく雨が落ちた。太腿《ふともも》の裏側に当たる雨滴の位置によって、スカートがどのあたりまでたくし上がっているのか、純子にはよくわかった。
最初から車体の左側にまわっていれば、こんなぶざまなポーズはとらなくてすんだのにと、純子は思った。ものごとをおこなう手順や身のこなしなどが、いつもの自分らしい滑らかさを欠いている事実を、純子は心のなかで認めた。
彼女は運転席に体をおさめた。ドアを開いたままエンジンを始動させた。そしてしばらくそのまま、雨の降る夜の駐車場を彼女は見ていた。
やがて、彼女はドアを閉じた。左手首の時計を見た。ヘッド・ライトを点灯させた。ステーション・ワゴンを、停めてあるスペースからゆっくり、外へ出していった。
佐々木敏彦が待っている場所まで、ちょうど二十分で到着した。彼の友人の事務所があるという建物のまえへ、道路の左側に沿って純子はステーション・ワゴンを徐行させた。建物の外に、人がいた。ふたりの男性が、建物の入口のまえに立っていた。ひとりは佐々木であることが、純子にはすぐにわかった。
建物のまえで、純子はステーション・ワゴンを停止させた。純子は正面を向いたままでいた。外にいる佐々木が、左側のドアを開いた。シートには買い物の袋が乗せてあることを、純子は忘れていた。
左へ体をひねり、純子はドアごしに外の佐々木を見上げた。そして、
「うしろに、すわって」
と、言った。自分の口調がきわめて優しくなっていることに、純子は、満足を覚えると同時に、不満足でもあった。
さらに大きく左うしろに向けて体をひねった純子は、後部左側のドアのストッパーを解除した。
外にいる佐々木は、いったん開いたドアを閉じ、うしろのドアを外から開いた。雨のなかで上体をかがめている友人になにか言いながら、佐々木は、ステーション・ワゴンに入ってきた。そしてドアを閉じた。
純子は、左側のドアの窓ごしに、外を見ていた。彼女がステアリング・ホイールに向けて体をかがめるのと、外にいる男性が運転席をのぞきこむのと、ほぼ同時だった。笑顔で黙礼するその男性に対して、純子は、自分のもっとも効果の高い笑顔を、華やかに作ってみせた。
「用事が終わったの?」
うしろの佐々木に向けて、純子が言った。
「終わった」
佐々木は、外にいる友人に手を振った。純子はステーション・ワゴンを発進させた。
海に沿った国道に出てから、
「さて」
と、純子が言った。
「どうしましょうか」
「久しぶりだ」
「あらためて言われなくても、よくわかってることだわ」
「懐かしいその声」
「よく聞いておいて」
「僕は、懐かしくないか」
「私が覚えていたとおりのあなたよ」
「覚えていてくれたのか」
「忘れましょうか」
「待ってくれ」
佐々木が言った。
「どうしたの?」
「忘れるのは、まだ待ってくれ」
「夕食は?」
「それも、まだだ」
「このあと、なにか予定があるの?」
「なにもない」
「夕食にしましょう」
「食べよう。どこへ行こうか」
「レストランの夕食がいいのかしら」
「なんでも」
「レストランのテーブルで差し向かい、という気分でもないのよ、私は」
「では、僕もそうだ」
「私が作るから、手伝って」
「僕は野菜を洗おう」
「野菜を、私は買ったかしら」
ステアリング・ホイールから離した左手を、純子は隣りのシートに向けて伸ばした。大きくふくらんでいるスーパー・マーケットの袋を手に置き、左右に揺すってみた。
「買い物をしてきたのか」
「毎週の、週末の買い物」
「たくさんあるね」
「一週間、これでなんとか足りるわ」
「ひとり分かい」
なんと答えれば気がきいているだろうかと、純子は考えた。気の聞いた台詞《せりふ》を思いつかないままに、
「ひとりよ」
と、純子は答えた。
「私ひとり」
「これから僕はきみの部屋に、招待してもらえるのか」
「どうぞ。来ていただけるなら」
「ここから、遠いのか」
「いいえ。買い物をしたマーケットまで、ここから二十分。いつものマーケットよ。いつも、そのマーケットで、私は買い物をするの。そしてマーケットから私の部屋まで、ほんの数分」
ふたりの会話は、そこでしばらく途切れた。沈黙の時間を、ふたりのどちらもが、そのままにしておいた。
やがて、佐々木が、
「ほんとに、久しぶりだ」
と、言った。
「久しぶりだと、どうかするのかしら」
「語尾の、かしら、というところが、特に懐かしい。気の強そうな、独特の色気を感じる」
「そうかしら」
純子が言い、ふたりは笑った。
「そうだよ。そのとおりだ」
「私も、あなたは久しぶりだわ」
「元気そうじゃないか」
「私は元気よ」
「僕もだ」
「よかったわ」
「僕が覚えていたとおりの純子だ」
「忘れたかな、とも思っていたのよ」
「忘れようか」
「忘れられるものなら、どうぞ」
「強気に出たな」
「さっきあなたが言ったとおり、私は気の強さで知られてます」
「僕の好みだ」
「好みのものをほったらかしておく癖は、すこしも変わってないのね」
「いつも思ってはいた」
「なにを思っていたの?」
「きみのこと」
「私の、なにを?」
「きみの、すべて」
「私のすべてを、どんなふうに思うの?」
「懐かしく。愛《いと》しく」
「電話もくれなければ、年賀状も暑中見舞いも、なしなのね」
「わずか二年じゃないか」
「二年は、いまとなっては、大きいわ。二年まえの私は、まだ三十代の前半だったのよ。でも、いまは、三十代のちょうどなかばだわ」
「僕もだ」
「おなじ生まれ年だったわね」
「なにかの縁だ」
「誕生日は、三日と離れていなかったでしょう」
「よく覚えていてくれて、うれしい」
「お誕生日おめでとう。これは、今年のぶんよ。お誕生日、おめでとう。これは、昨年のぶんだわ。一昨年には、お祝いをしたかしら」
「してない」
「では、一昨年ぶんも、いま言っておくわ。お誕生日おめでとう」
「これで早くも一昨年まで、よりが戻ったわけだ」
「簡単なことなのね」
「わずか二年だもの」
「今度は、どのくらい間をあけるつもりなの?」
「これからは、頻繁に会おう」
「頻繁とは、二年おきくらいかしら」
「毎日でもいい」
「守れない約束は、しないほうが楽よ」
「守れなくはない」
「お好きなように」
「少し、細ったか」
「私?」
「きみ」
「そう見えるだけよ。気がとがめると、やつれて細ったように見えたりするのよ」
「変化はないのか」
「体重は、変化してないわ」
「なにを食べているんだ」
「この袋のなかに入っているようなものよ」
「野菜は、僕が洗う」
純子と佐々木は、二十六歳のときに知り合った。二年後、二十八歳のとき、純子は結婚した。佐々木との関係は、そこでいったん終わった。二年後、純子は離婚した。彼女が三十歳のときだった。
すぐに、佐々木との関係が、再びはじまった。そしてその関係は二年続き、三十三歳のときから現在まで、二年間、ふたりのあいだには空白の期間があった。つい昨日、二年ぶりに、純子は佐々木の声を聞いた。突然、佐々木が彼女のところへ電話をかけてきたからだ。
「元気かい」
電話の向こうで、佐々木はきいていた。
「誰が?」
純子は、ききかえした。
「きみだよ」
「いつの私?」
「いま、この瞬間の、きみだ」
「元気よ」
「それはよかった」
「昨日の私も、元気だったわ」
「それは、いい」
「一昨日の私も元気でした」
「うれしい」
「三日前の私も」
「よかった」
「ずっと元気でした」
「うん」
「二年以上も、ひとりで元気だったわ」
「僕もだ」
「よかったわね」
「会わせてくれ」
「私に?」
「そうさ」
「いつでも、どうぞ」
「明日」
「はい」
「いいかい」
「いつでも、どうぞ。この二年間、いつでもどうぞ」
「二年になるか」
「早いものね」
「早い」
「忘れたでしょう」
「なにをだい」
「いろんなことを」
「覚えてる」
「私は一度だけ、引っ越しをしたわ」
「そのようだ」
「いいわよ、会いましょう」
午後から夕方まで友人の事務所にいるから、そこへ電話をくれるといい、と佐々木は純子に言った。
「仕事は、続けてるのか」
ステーション・ワゴンのうしろの席から、佐々木がきいた。
「続けてます」
「身辺の変化は」
「これといって、ないのよ」
「男たちは、きみに目をつけないのか」
「あなたが二年も、ほっておくほどですもの」
海に沿った国道から、浅い角度で海から遠のいていく道路があった。その分岐点が、雨の夜の前方に見えてきた。分岐点を、純子のステーション・ワゴンは通過した。
「いまのところを海から離れていくと、すぐにマーケットがあるのよ」
と、彼女が言った。
「買い物は、もういいのかい」
佐々木が、きいた。
「充分だわ」
「さらになにか、買っていこうか」
「たとえば、なにを?」
「たとえば、花を」
「花は、私よ」
うまく言いかえすことが出来て、純子は満足だった。
「そうだ、そのとおりだ。うっかりしていた」
と、佐々木が言った。
「もうじきだわ」
「きみの部屋か」
「そう」
「ときめく」
「なにが?」
「僕の胸が」
「ただの部屋よ。ひとり暮らしの女の部屋でしかないわ」
「雨の夜だね」
「それがどうしたの?」
「金曜日でもあることだし」
「そうがどうかしたかしら」
「十一月。もう冬だ」
「季節は、ほっておいても、きちんとめぐって来るのね」
「一年に四つも季節があるのは、せわしないね」
「そうね。私もそう思うわ。つい先日、真夏日で暑かったのに、いまはもうツイードのジャケットですもの。早すぎるわ。季節は、一年にふたつでいいわね」
「ひとつの季節が、二倍に延びるわけだ」
「私には、そのくらいがちょうどいいわ」
ステーション・ワゴンを、純子は右の車線へ寄せていった。いったん赤信号で停められたのち、海に沿った国道から直角に右へ離れた。そこから五分で、純子が住んでいる部屋のある建物のまえに出た。
道路に面して、アプローチをかねて駐車場があった。その奥に、四階建ての複雑なかたちの建物が、「コ」の字型に建っていた。
「あの建物の、四階のいちばん端」
駐車場にステーション・ワゴンを入れながら、ステアリング・ホイールから指を一本だけ離し、正面のガラスごしに純子は示した。
「いいところに住んでいる。安心した」
佐々木が言った。
ステーション・ワゴンを所定のスペースにおさめて、純子はヘッド・ライトを消した。佐々木は車の外に出た。雨は激しく降り続いていた。
佐々木がドアを閉じ、なかから純子がロックした。佐々木は前部左側のドアを開いた。
「僕がこれを持つ」
大きくふくらんだ買い物の袋を、彼はかかえ上げた。膝《ひざ》でドアを閉じ、そのドアも内部から純子はロックした。
純子はステーション・ワゴンの外へ出てきた。頭や肩に雨を受けながらドアをロックし、雨のなかに立っている佐々木に歩み寄った。彼がかかえていた紙袋を、純子は受け取った。
「これは、私のものよ」
ふくらんで重い袋を、彼女は胸にかかえた。ツイードのジャケットをとおして、袋のなかにある品物の重みが、彼女の胸のふくらみを押していた。歩くと、胸のふくらみを左右から交互に優しく変形させるように、袋の中身が刺激した。
建物のなかに、ふたりは入った。奥のロビーに向かった。
「このロビーをとおらずに入ることも出来るのよ。建物の外の階段を上がっていけばいいの。四階まで上がると内庭のようなスペースがあって、私の部屋はその奥」
ロビーの奥でふたりはエレヴェーターに乗った。四階へ上がった。エレヴェーターを出て、純子は自分の部屋のドアまで歩いた。かたわらに、佐々木が従った。
「きれいな、いい建物だ」
「野菜を洗ってくださるのだったわね」
「洗うよ」
純子は、ドアを開いた。
「どうぞ」
佐々木を促し、先になかへ入らせた。自分があとから入り、片腕で袋を胸にかかえ、もう一方の手でドアを閉じた。
「ただいま!」
と、純子は、声を張り上げた。
返事はなかった。
「聞こえないのかしら」
ひとり言のように言いながら、彼女は靴を脱いだ。
「誰か、いるのか」
佐々木が、きいた。
「あら。言わなかったかしら。娘がいるわ。ひとり娘」
「えっ」
一瞬、佐々木は驚いた。その表情を、純子は楽しんだ。そして、彼女は笑った。
「いるわけないでしょう」
「そうとも言いきれない」
廊下に上がった純子は、佐々木を振りかえった。純子が脱いだ赤い靴のかたわらに、佐々木は立っていた。
「上がってきて。誰もいないわよ」
「ごめんください」
佐々木が言った。そして、
「お邪魔します」
と、言葉を重ねた。
「馬鹿ねえ。誰もいないのよ」
「たとえば、猫は?」
「嫌いだわ。昔から」
佐々木は、ブーツを脱いだ。
「まず、どこへお通しすればいいかしら」
笑いながら、純子が言った。
純子は、佐々木をキチンへ連れていった。
「複雑な間取りだね」
廊下を歩きながら、佐々木が言った。
「飽きなくて、いいわ。あ、そうだ、こんな間取りだったのかと、あらためて気づくことがいつまでたってもあるような、そんな間取りなのね」
キチンに入り、純子が明かりを灯《つ》けた。
生活の匂いがほのかにある、しかしきれいに整った使いやすそうなキチンを、佐々木は見渡した。
「なるほど」
彼はひとりで納得していた。
「なにが、なるほどなの?」
ふくらんでいる紙袋を、純子は長方形の作業テーブルに降ろした。食事のための丸いテーブルは、向こうのダイニング・アルコーヴのなかにあった。そのテーブルに、椅子は二脚あった。
「間取りのぜんたいを、お見せしましょうか」
純子がいった。
「そうだね」
「見たい?」
「見せてくれ」
純子が先に、キチンを出た。
浴室、納戸、ウォークイン・クロゼット、化粧室、洗濯などの作業をする部屋、居間、畳の敷いてある和風の部屋、書斎、寝室などを、純子は順番に佐々木に見せていった。
キチンへひきかえしながら、
「生活は、以前とほとんど変わっていないわ」
と、純子が言った。
「以前とは、いつのことだ」
「離婚したあと」
「かつての亭主は、どこでどうしてる」
「私が知るものですか」
「連絡はないのか」
「必要ないわ、そんなもの」
「風の便りは」
「ないわ」
「それも必要ないのか」
「まったく必要ないわ」
ふたりは、キチンに入りなおした。
「あなた、お腹は空《す》いているの?」
「空いてきた」
「私もよ」
「なにか作ろう。手伝う。僕だって、料理は出来るんだ。伊達《だて》にひとり暮らしはしていない」
「ほんとに、ひとりなの?」
「ひとりだよ」
「ずっと?」
「ずっと」
「これからも?」
「そうだろうね」
「かつての奥さんは?」
「どこでどうしているものやら」
「すこしは気になるの?」
「すこしは」
「風の便りは?」
「ないです」
佐々木は作業テーブルに向きなおった。
置いてある大きな紙袋の口を広げ、彼はなかをのぞきこんだ。
「いつも、どんなものを買うんだい」
「出してみましょうか」
佐々木のかたわらに立った彼女は、袋のなかにあるものをひとつずつ出し、テーブルに置いていった。彼女の手と、それにつかまれて袋から出てくるものを、佐々木は見ていた。
すべて出し終わると、テーブルの上はほぼいっぱいに埋まった。
「こういうものよ」
品物を、純子は片手で示した。
佐々木はうなずいた。
「どうかしら」
「なかなか」
「野菜を洗って」
「まかせてくれ」
「買ったものが、いつもとはすこし、ちがうのよ」
テーブルの上の品物を再び片手で示して、純子が言った。
「なぜ」
「いつもの私ひとりの買い物に、今日はあなたのが加わっているから」
「どれが僕のだい」
これが全部そうよ、とあやうく言いかけて、純子は抑えた。そして、彼女は笑った。
「どれだと思う?」
「どれかな」
「当ててごらんなさい」
あのスーパー・マーケットのなかで買い物をしていたときの自分を、純子は思い出した。
棚から棚へめぐって歩きながら、いつもの自分のための買い物とは別に、佐々木とふたりのための材料を買ったのは、本当だった。
はじめのうち、作る料理のことを考えながら品物を選んでいった。だが、選択の仕方は、やがて混乱しはじめた。佐々木の好みを思い出そうとすると、なおさら混乱した。いまこうしてテーブルを見渡すと、なにを思って買ったのか自分でもはっきりとしないものが、いくつもあることに純子は気づいた。
「いっしょに夕食を作ろう」
「野菜を洗って」
「まかせてくれ。どこにあるんだい」
「どこかしら」
今日は佐々木を部屋に招くことになるにちがいない、と純子は昨日から思っていた。そのとおりになった。いま、自分のキチンのなかで、純子は佐々木とふたりだけだった。純子はツイードのジャケットを脱いだ。佐々木がそれを受け取り、椅子の背にかけた。
「寒くないか。そんな薄いシャツで」
「寒いわ」
佐々木に対して、純子は、斜めに背を向けた姿勢でいた。自分の右の肩をとらえた佐々木を、純子は無視した。
「純子」
佐々木が言った。
「どうかしましたか」
「純子」
彼女の肩に置いた佐々木の手に力がこもった。その力に促されて、純子は、佐々木に向けてうしろから抱き寄せられた。佐々木は純子の正面へまわりこみ、純子も佐々木に向きなおった。ふたりの動作は滑らかに同調した。
ふたりは抱きあった。
「ちょっと、待って」
佐々木の腕のなかで、純子は体をうしろへ引いた。佐々木のジャケットのボタンをはずし、前を大きく広げた。そして、彼のシャツの胸に自分の胸を重ねた。彼女は佐々木の腕のなかに抱きこまれた。佐々木はシャツ姿の純子の背に腕をまわし、純子も、佐々木のジャケットの下で、彼の背に腕をまわしていた。
ふたりは口づけを交わした。佐々木の胸に押しつけている自分の胸のふくらみに、純子は痛いほどの快感を感じていた。その快感は、胸からわき腹を走り抜け、太腿《ふともも》の裏側へ到達し、純子をけしかけた。
さまざまに唇を重ね合う、長く続く口づけの途中で、純子は、「野菜を洗って」
と、一度だけ言った。
スーパー・マーケットのなかで買い物をしていたときの自分を、さきほどの続きとして、純子はさらに思い出した。
買い物を終わり、チェックアウト・カウンターで支払いをすませて、店の外に出て来た自分を、想像のなかに彼女は第三者の目で見た。
夜の雨。その雨を受けとめ、濡《ぬ》れて鈍く光っている駐車場。ならんで停まっている自動車の列。三つならんでいる電話ブースの明かり。その電話ブースに向けて、買い物で大きくふくらんだ袋を胸にかかえ、歩いていく自分。
佐々木の腕のなかで、彼女は彼の胸に自分の胸をさらに強く押しつけた。胸のふくらみから走り出していく快感は、買い物の袋を胸にかかえて電話ブースへ歩いたあのときからすでにはじまっていたのだと、純子は心のなかであっさりと認めた。
佐々木の体に自分の体をゆだねきり、純子は口づけに熱中した。その熱中のなかで、彼女は、深くせつなく嘆息をついた。
スーパー・マーケットを出て電話ブースに入る自分を思い起こしつつ、佐々木に会わずにいたこの二年間についても、純子は思った。好きな男性とこうして抱きあい、心おきなく口づけを交わすのにも、かなりの手間がかかるものなのだと、純子は思っていた。
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[#2字下げ]幸福な女性の謎
秋いっぱいまでコートなしで着ることの出来るこのスーツを、彼女はたいへん気にいっていた。ストッキングも含めて下着そしてシャツの選択は今日も正しく、どれもがスーツとよくなじみ合っていた。着ているものが自分の体を包んでいる感触は心地良く、したがって今日の彼女は幸福な気持ちだった。
体調は良くも悪くもなく、きわめて普通だ。だから、自分のどこか一部分をほかにくらべて強く意識し、その影響でぜんたいのバランスが崩れるようなことがなく、そのことも彼女の幸せな気持ちを土台の部分で支えていた。このようなとき、彼女は自分をまんべんなく自分らしく感じることが出来るから、好きだった。そのような自分とは、気持ちが沈んでいるように見られることがなくもない。もの静かに鎮静した、ややもの憂い、入力と出力とが愛《いと》しいほどに釣り合った、とりあえずなんの不足もない自分だ。
駅の南口からまっすぐに歩いて五分で、めざしているホテルの高層の建物が彼女の正面に見えて来た。見なれた光景だった。貧相な並木のある、ゆるやかな下り坂の歩道を、そのホテルの建物にむけて彼女は歩いていった。四センチのヒールのあるパンプスが、歩道の化粧タイルの上で、小さく引き締まった足音を作った。
彼女が歩いていく道は、中央分離帯のある六車線の道路と、直角に交差した。その道路のすぐむこうに、道路に面して、ホテルが高く建っていた。ホテルにむけて横断歩道があった。歩行者のための信号は赤だった。だから彼女は、立ちどまった。左肩にショルダー・バッグ、そして右手には一、二泊の出張にいつも使っている、オーヴァー・ナイターを下げていた。
十一月第三週、気温は高めの、灰色に曇った木曜日の午後二時過ぎだった。目の前の道路を、そしてその左右を、彼女は眺めた。平凡なウイークデーの光景だけが、そこにあった。東京は夜から雨になる、とTVの気象ニュースで言っていたのを、彼女は思い出した。
信号がグリーンに戻り、彼女は横断歩道を渡っていった。側面からホテルの建物に入り、ロビーへの階段を上がり、フロント・デスクまで歩いた。予約してある部屋に彼女はチェック・インした。杉本夏子という名前と三十歳という年齢、そして勤務している会社の名前を、いつものとおりカードに記入し、部屋のキーを受け取った。
案内のベル・ボーイを彼女は断り、煙草だけを売っている小さな売店でナット・シャーマンをひと箱買った。そしてエレヴェーターにひとりで乗った。
十八階で降りて廊下に出ると、少しだけ怖い感じがあった。けっして明るくはない廊下がまっすぐに長く、前方にむけて続いていた。この廊下は長過ぎる、と歩きながら彼女は思った。人の姿がなく、ドアだけが廊下の両側に連続していた。淡く聞こえている音楽が、なにか予期せぬ不吉な出来事のバックグラウンド・ミュージックのように、彼女にはいつも思えた。
部屋のドアの前に立ち、キーを使ってドアを開き、彼女は急いで部屋に入った。すぐにドアを閉じ、オート・ロックに重ねてストッパーをかけた。そしてその場所に、彼女はじっと立ったままでいた。部屋のなかは静かだった。気配というものが、いっさいどこにもなかった。ホテルの部屋の匂いが、宿泊客のための空間のなかに沈澱《ちんでん》していた。部屋のなかにむけて、静かに、彼女は歩いた。
左側は壁、そして右側には浴室のドアがあった。そのドアを越えると、右奥にむけて細長いアルコーヴのような空間があり、いちばん奥の壁に姿見が取り付けてあった。その鏡にむかって左側がクロゼットになっていた。
ベッドがふたつならんでいる、広くも狭くもない、ごく普通の部屋が彼女を迎えた。調度も含めて部屋の作りぜんたいに、センスのなさが均一にいきわたっていた。気持ちを高揚させる楽しさなどどこにもない、ただ泊まるだけの部屋だと、彼女は思った。
ドレッサーの手前の荷物を置く台にオーヴァー・ナイターを降ろし、ドレッサーにショルダー・バッグを置いた彼女は、スーツのジャケットを脱いだ。クロゼットのアルコーヴに入って明かりをつけ、クロゼットのなかのハンガーにジャケットを掛けた。クロゼットのドアを閉じ、彼女は奥の壁ぜんたいをふさいでいる鏡にむきなおった。
鏡に写った自分を、杉本夏子はしばらく眺めた。背丈の充分にある、姿のいい、三十歳で独身の、きれいな女性だった。顔立ちも体つきも、その美しさの基本は静かさだった。なんらかの理由によってなにごとかに憂いたまま、美しさはそのままに、鎮静した雰囲気を深めつつあるという印象が、夏子の魅力の中心だった。
両手の指でスカートをつまんだ彼女は、スカートをたくし上げていった。太腿《ふともも》のすべてがあらわになり、ハイレグのショーツがストッキングの下に透けて見えるようになるまで、彼女はスカートを上げた。すんなりとのびた形のいい脚を、彼女は観察した。鏡に対して斜めに体をむけ、脚を側面から彼女は見た。鏡に背をむけ、ふりかえってうしろからも、彼女は自分の両脚を見た。やがてスカートを降ろし、夏子はクロゼットのアルコーヴを出た。
浴室に入り、洗面台で彼女は手を洗った。浴室を出て窓へ歩き、眼下に広がる光景を見下ろした。ふたつのベッドの、それぞれのヘッド・ボードにある明かりを、ひとつだけつけた。ドレッサーの上のランプも灯《とも》し、ほかの明かりをすべて消した。彼女は腕時計を見た。彼女はルーム・サーヴィスにコーヒーを注文した。喉《のど》の奥から無理なくまっすぐに出て来る低い静かな声は、彼女ぜんたいの見た目の印象と、よく調和していた。
ふたつのベッドのあいだに立って、彼女はベッドを見くらべた。壁側のベッドの上に、カヴァーのかかったまま、彼女はあおむけに体を横たえた。枕に頭を載せ、両脚をまっすぐにのばし、足首で重ね合わせた。腹の上で両手の指を組み合わせ、天井を見上げたまま彼女は動かなくなった。ドア・チャイムが鳴るまで、夏子はその姿勢でいた。
チャイムが鳴って彼女は起き上がり、ベッドを降りた。腰から太腿にかけて両手でスカートを撫《な》で降ろし、その手を頭に上げて髪をうなじで整えながら、ドアにむけて歩いた。
制服を着た中年の男性が、ポットやカップの載ったトレイをドレッサーに置き、夏子のサインを伝票にもらい、部屋を出ていった。彼女はカップにコーヒーを注いだ。立ったままコーヒーを飲み、やがてドレッサーの椅子にすわった。ドレッサーの鏡に写っている自分の顔を斜めに見ながら、彼女はカップのコーヒーを飲みほした。
カップを受け皿に置き、夏子は立ち上がった。世のなかのすべてに関して、ごく淡く億劫《おつくう》そうな様子は、バランスのいい彼女の体の動きのなかに潜む鋭い部分を、ほぼ完全に中和していた。中和されると、そこには、彼女自身の意図とはまったく関係なしに、大人の女性の色気が自動的に生まれた。
コーヒーを注ぎ足し、窓辺へ歩き、外を見下ろしながら、彼女はコーヒーを飲んだ。飲み終わってドレッサーへ戻り、ポットのかたわらにカップを置いた。
腕時計を見た夏子は、ショルダー・バッグから手帳を取り出した。あちこちページをくりながら見たあと、はさんであった一枚の紙を指先につまむように持った。都内の電話番号、そしてエリカと、片仮名で名前がひとつ、書いてあった。ベッドのあいだへ入っていき、片側のベッドの縁にすわった夏子は、その紙きれに書いてある番号に電話をかけた。 すぐに中年の女性が出た。
「エリカさん、いらっしゃいますか」
と言った夏子に、その女性は、
「お客さまのご指名かしら、それともお友だち?」
と、きわめて親しい口調でききかえした。
「指名です」
夏子は答えた。
「出張ですよねえ」
電話のむこうからの質問に、
「私ですか?」
と夏子はききかえした。
「いいえ、エリカさん。お客さまは、あなたご自身?」
「そうです」
「ご希望のところへエリカさんをお呼びになりたいのね」
いま自分がいるホテルの名と部屋の番号を、夏子は相手に伝えた。書き取っているらしい間を置いたのち、
「おひとり?」
と、相手の女性は夏子にきいた。
「私ですか」
「そうよ。お客さま」
「私ひとりです」
「声はほんとに女性のいい声だけど、お客さまは女のかたですよねえ」
「そうです」
「お名前をちょうだい出来ますかしら」
「杉本夏子です」
「これからすぐに向かわせます。三十分くらいかかるかしら。お待ちいただける?」
「待っています」
ホテルの名と部屋の番号、そして夏子の名を確認したあと、相手の女性は料金システムを夏子に伝えた。夏子は承知した。
「では、さっそく向かわせます。エリカさんはほんとに素敵な人ですから、くれぐれもよろしくね」
「お待ちしてます」
「毎度ありがとうございます。これは参考までですけれど、エリカさんのことをどちらでお知りになったのでしょうか」
「友だちからです」
「今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
電話はそれで終わった。
受話器を置いた夏子は、立ち上がった。中年の女性とのやりとりは、かなり不思議な感触を、あと味のように夏子に残した。ドレッサーに戻り、ポットからコーヒーを注ぎ足した。椅子にすわって飲みながら、夏子は手帳のページを前後しつつ熱心にくっていき、書きこんであることを見ていった。ショルダー・バッグからもう一冊、ひとまわり大きい手帳を取り出し、二冊の手帳を相手にしきりに書きこみをして、彼女は三十分を過ごした。
電話のブザーが鳴った。椅子を立った夏子は、ベッドのあいだへ歩いていった。ナイト・テーブルにかがみこみ、受話器を取って耳に当てた。
「杉本夏子さんでいらっしゃいますか」
若い女性の声が、電話のむこうから夏子にきいた。曇ったところのないきれいな声であることに、夏子は軽く安堵《あんど》を覚えた。
「そうです」
「エリカです。ホテルが見えるところまで来ています」
「どうぞ、部屋まで」
「よろしいですか?」
「待ってるわ」
「二、三分でお部屋のドアをノックします」
そう言ったエリカは、部屋の番号を確認した。
「ノックしてお返事をいただいたら、私です、と言いますから」
「待ってるわ」
電話を終わり、夏子はドレッサーに戻った。二冊の手帳をショルダー・バッグにおさめ、それをオーヴァー・ナイターのかたわらに置きなおした。そしてその場に立って、ドアにノックがあるのを待った。
ほどなくノックの音がした。夏子はドアへ歩いた。のぞき穴からのぞいて見た。女性の姿が湾曲されて小さく見えていた。一歩だけ下がった夏子は、
「はい」
と言った。
「私です」
と、返事があった。
ストッパーをはずし、夏子はドアを開いた。エリカと向き合い、さらにドアを開き、夏子はうしろに下がった。エリカが部屋に入って来た。ドアがひとりでに閉じ、ロックされた。夏子はストッパーをかけた。そしてエリカとふたたび向き合って立った。
おたがいにひと目で、一瞬のうちに、彼女たちは相手を鑑定し、判断を下した。エリカに関して、夏子はひとまず全面的に肯定の評価をした。自分とまったくおなじ背丈の、おそらく三歳くらい年下の、品のある落ち着いた美人のエリカを、夏子は好ましく受けとめた。エリカもおなじだった。見るからに仕事をしている女性であるこの年上の人は、自分とおなじ商売に入っても充分にやっていけるのではないか、と彼女は思った。
「年上?」
ときいて、
「よね」
と、きれいに甘く、エリカは念を押した。
夏子はうなずいた。
「もう三十よ。エリカさんという名前は、どんな字を書くの?」
「江戸の江に利子の利を書いて、そのあと花です」
「きれいだわ。私は夏子」
「うらやましいです。名前にきちんとイメージがあって。私のはただの当て字です。本名ですけれど」
「江利花さん、なにか飲む?」
「水をください」
江利花の返事に、夏子は冷蔵庫へ歩いた。しゃがんでドアを開き、なかを見た。江利花がかたわらへ来て、おなじようにしゃがんだ。
「お姉さま。私がします」
夏子はヴィッテルのプラスティック・ボトルを一本、取り出した。冷えているそれを江利花に渡し、ミニ・バーのグラスを手に取った。
「ちょっと待ってね」
と江利花に言い、浴室に入ってグラスのなかを洗った。その間に江利花はヴィッテルのボトルの栓を取った。浴室から出てきた夏子は、江利花からボトルを受け取った。そしてグラスに水を満たした。グラスを彼女は江利花に渡した。
グラスを唇につけて水を飲む江利花のすぐそばに、夏子は寄り添うようにして立った。水を飲む江利花を夏子は見守った。水を飲むという行為が表現している江利花の生命力を、夏子は至近距離で感じた。
江利花の口のなかに入った冷たい水は、それを飲み下すための命令を脳から受けた口腔《こうこう》内の筋肉の連動によって、食道を下っていく。その水がひとまず落ち着く胃のなか、そして水を受け入れて動き始める胃などを想像していると、江利花というひとりの人が持つ生命の息づかいを、夏子は自分の内部へ導き入れるようにして、感じることが出来た。
夏子が注いだ水を、江利花はほとんど飲んだ。グラスを唇から離した江利花に、夏子はラヴ・チェアを示した。淡く微笑してうなずいた江利花は、ラヴ・チェアまで歩いた。低いテーブルにグラスを置き、江利花はトレンチ・コートを脱いだ。
バックルから布のベルトを抜いていく江利花の指の動きを、夏子は見守った。脱いだトレンチ・コートをふたつにたたみ、それを江利花はラヴ・チェアの端に置いた。江利花はきれいなブルーのセーターに黒いスカートをはいていた。パンプスはセーターとよく似たブルーだった。江利花はラヴ・チェアにすわった。
ショルダー・バッグから財布を取り出し、必要な金額を出した夏子は、それを持ってラヴ・チェアへ歩いた。江利花のすぐそばにすわり、
「前払いだったわね」
と言い、電話で言われたとおりの料金を江利花に渡した。受け取った江利花は、それをトレンチ・コートのポケットにおさめた。
「お姉さまは、妙な器具をお使いになるタイプ?」
と江利花がきいた。
「キグ?」
夏子はききかえした。
「バイブレーターのような」
なんのことだかとっさにはわからず、夏子はなにも反応せずにいた。
「張り形」
と、江利花は言い換えた。
気づいた夏子は、驚いて首を振った。
「いいえ。とんでもない」
「最近、多いんですよ」
「まあ」
「お姉さんは、タチですか」
これも夏子にはすぐには理解出来なかった。二、三拍の間があったあと、
「どっちということはないのよ。でも、そんなことはしなくていいの」
と、言った。
今度は江利花が、夏子の言葉の意味を取りかねた。不思議そうな表情を淡く浮かべて自分を見ている江利花に、
「とても素敵な人だからという評判を友だちから聞いたので、会ってみたくなったの」
と、夏子は言った。
黙っている江利花に、
「私の友だちから聞いたのよ。電話番号とお名前を、教えてもらったの」
「八十分ありますよ、なにもしないのですか?」
江利花がきいた。
「お話をしていましょう」
「猥談《わいだん》ですか」
「え?」
と、夏子はききかえした。
「私を定期的に呼んでくださるお客さまで、ずっと年上のかたがいるんですよ。偶然ですけど、いつもこのホテルなのです。そのかたも、なにもしなくて、そのかわりに猥談なのです。下のコーヒー・ショップで、ロビーのソファで、あるいは夜はバーで。いっしょにお食事のこともありますけど、初めからおしまいまで、すごい話ばかりです。ほんとにあからさまで、恥ずかしくなるような話をなさるのですけど、内容にはひかれるものもあるから、お相手させてもらってます。なにもしないのなら、お姉さまもその方向かな、と思ったの」
「そうではないわ」
「なにかしましょうよ。お姉さまのこと、私は好きですから」
「私もよ」
「だったら、しましょうよ」
「でも、出会いがしらに、そんな」
「初対面で五分もたたないうちにいきなり、というのも燃えるのよ」
「気持ちはよくわかるわ」
という夏子の言葉のあと、しばらく沈黙があった。
「わかるだけ?」
と、江利花が促した。
夏子は微笑していた。
「なにもなさらないの?」
江利花の重ねての質問に、
「体を見せて」
と、聞こえるか聞こえないほどの小さな声で、夏子は答えた。江利花はすぐに反応した。すわったままスカートを両手でつまみ、裾《すそ》を引き上げていった。裾は膝《ひざ》を越え、太腿《ふともも》のなかばを越え、脚のつけ根まで上がった。ストッキングに包まれた魅力的な女性の脚のすべてが、夏子の目の前で花のように開いた。
その脚を、江利花は広げた。夏子にむきなおり、膝で深く折った右脚をラヴ・チェアに横たえた。太腿の裏側が、ショーツに隠された股間《こかん》とともに、夏子のためにあらわになった。腰を引きぎみにして背をのばし、江利花は左脚を限度いっぱいに広げた。ポーズをきめた江利花の全身に、こういうことのプロフェッショナルとしての雰囲気が、漂った。スカートをたくし上げ、両脚を開いていくあいだずっと、江利花は夏子の顔を見ていた。
「お姉さまは」
と江利花は言った。
「こういうのがお好きなの?」
「好きよ」
静かな水面にそっと浮かべるように、夏子は短い言葉で答えた。
「とってもきれい」
「裸になりましょうか」
「体をもっと見せて」
「ここではなく、ベッドのほうがいいわ」
開いていた脚を閉じた江利花は、足をフロアに降ろし、立ち上がった。スカートの裾を両手で撫《な》で降ろした。夏子も立った。窓側のベッドへ歩いた夏子は、カヴァーをはいでそれを隣りのベッドに置いた。枕もとへいき、ブランケットとシーツも斜にはいだ。
見守る夏子の視線のなかで、江利花はセーターを脱いだ。夏子が受け取り、たたんでうしろのベッドに置いた。江利花はシャツを脱いだ。それもおなじように、夏子が受け取った。スカートとストッキングを脱ぎ、江利花は下着だけとなった。その下着も、江利花は取った。脱いでいく江利花の動作は、ただ単に服を脱ぐ動作ではなく、脱いでいく様子を相手に見せて性的に興奮させるための、動作だった。
向かい側のベッドに夏子は腰を降ろした。その夏子の視線のなかで裸になった江利花は、下着を夏子に手渡した。レースを多用したブルー・グレーの薄い下着は、江利花の体を離れたとたん、ちょっと見ただけではなにだかわからないほどに、形を失っていた。受け取った夏子は、それをたたんだ。無意識に動く彼女の指を、江利花は見ていた。
夏子は江利花のストッキングもたたんだ。左右を合わせてひとつにし、縦に長く垂れたところを三つに折った。下着のかたわらに丁寧に置いた。江利花は素足にパンプスをはきなおし、夏子の前に太腿をそろえて立った。
夏子が視線に少しだけ角度をあたえて見上げる位置に、江利花の胸があった。胸のふくらみを中心に、夏子は江利花の裸を鑑賞した。きれいな出来ばえの江利花の体ぜんたいに、魅力はいきわたっていた。そのなかでもっとも強く夏子をとらえたのは、胸のふたつのふくらみだった。
いかり肩と言っていい水平な肩には幅が充分にあり、指先でさまざまに触れてみたくなるような鎖骨の下に、広い胸板があった。厚みのある左右の胸筋の、それぞれのまんなかから、印象としてはきわめて鋭角的に、裾野のせまい、しかしそれに反して全長のある三角錐《さんかくすい》となって、江利花の乳房は水平に突き出ていた。小ぶりに見えるが容積に不足はない、作りもののような雰囲気がなくもないその三角錐の乳房は、いったいなにに支えられてこれほどまでに水平に突き出ていることが出来るのかと、夏子は不思議に思った。
江利花は夏子に近寄った。膝を夏子の膝に押し当て、促すかのように軽く左右に動かした。夏子は江利花の両手を取った。そして江利花が夏子の手を左右の手に取りなおし、両腕を広げた。その動作と同調させて、裸にパンプスだけの江利花は、夏子の太腿にまたがった。深くまたがり、腰を降ろした。夏子のそろえた太腿の上に、江利花は自分の体重のなかばをゆだね、残りはフロアに降ろしている両足で支えた。
夏子の目の前で胸を張って乳房を見せ、江利花は体を左右にゆすった。突き出ている三角錐の乳房は、思いのほか重そうに、上下に、そして左右に、揺れた。左右の三角錐の、それぞれの中心線の延長に、先端の丸い乳首が一センチほどの長さで、まっすぐに立っていた。
夏子は江利花の腰に両手を当てた。その手に上にむけて優しく力をこめて促し、自分も立ち上がった。夏子にまたがっていた江利花は、体を離して立ち上がり、すぐに体を寄せ、胸のふくらみを夏子の腕に押しつけようとした。
「駄目よ」
笑顔で甘くそう言い、夏子は江利花の両手を取った。
「江利花さん、お風呂《ふろ》に入って」
と夏子は言った。
「ごいっしょに?」
江利花はきいた。
夏子は首を振った。
「あなただけ」
夏子のその答えに、江利花は片手を夏子に取られたまま、もう一方の手を自分のわきの下にまわし、掌をそこに押し当てた。彼女の胸のふくらみは、その腕の手首から肘《ひじ》にかけての上に支えられつつ、左右から押されて中央に寄った。江利花は夏子の視線をとらえて微笑した。意味をこめた微笑だった。
その意味をはかりかねて、夏子は首を傾げた。
「お姉さまも、そうなの?」
江利花がきいた。
「なにのこと?」
「服を脱がせて、お風呂に入らせるの。そのあいだに、私の脱いだ服を広げて触ったり、顔に当てたり」
江利花の説明に夏子は首を振った。
「ちがうのよ。そうではないわ」
「お姉さまにもフェティシズムはあります」
「そう?」
「見ればわかります」
「どんなふうに?」
「お化粧のしかた。服の選びかた。着かた。お姉さまは、整理魔でしょう」
「よくわかるわね」
「私もそうだから」
と言って、江利花は自分の脱いだ服を示した。
「こんなにきれいにたたんでくださって。お姉さまは、きちんときれいに整理するのが好きです。まわりをきちんと整理したあと、今度は自分が、思いっきり乱れるために」
夏子は深く息を吸いこんだ。ゆっくりそれを吐き出し、江利花を見て微笑した。そして、
「そんなことまで、わかるの?」
と言った。
「私もそうですから」
うなずいて、江利花はそう答えた。
「お湯を入れて来るわね」
夏子はふたつのベッドの間を出ていった。浴室に入り、浴槽に栓をし、湯を出して温度を調節した。浴槽のなかに落ちていく湯をしばらく見てから、彼女は浴室を出た。
ベッドに戻ると、江利花はシーツとブランケットの下に体を横たえ、顔だけ出してこちらを見ていた。そろえて脱いである江利花のパンプスのかたわらに、夏子はしゃがんだ。
「お姉さま」
と江利花は言った。
「裸になって、ここへ入って来て」
夏子は江利花を見た。ふたりの顔の位置はおなじ高さにあった。ブランケットとその下のシーツの端を持ち上げた夏子は、シーツの下へ右手を入れていった。その手を江利花の両手がとらえた。見えないところでふたりは手を握り合い、目を見つめ合った。浴槽へ湯が落ちていく音が、浴室から聞こえていた。
「いろんなお客がいるみたいね」
優しく、親密に、夏子が言った。
「ほんとにいろいろよ。私にいつもウエディング・ドレスを着せる女性の社長がいます。私の体に合わせて、あつらえて作ったウエディング・ドレスなの。何十万円もすると思うわ。素晴らしいのよ。いつも自分で持って来て、それを私に着せるの。ご自分は、まっ裸」
「頭がくらくらしてくるわね」
夏子の言いかたに江利花は笑った。夏子の右手を、江利花は自分の胸にむけて引き寄せた。夏子の手を江利花は自分の胸のふくらみに、さまざまに触れさせた。江利花の乳房は、体を横にしているいまでも、胸から突き出ていた。夏子の手を相手に、ふたつのふくらみは、芯《しん》のある軟体の生き物のように、揺れ動いた。
「お湯を見てくるわ」
夏子は囁《ささや》いた。江利花は手を離し、夏子は立ち上がった。立ち上がる動作に合わせて、彼女はスカートを撫《な》で降ろした。
浴室のなかには湯気の香りがあった。浴槽のかたわらにしゃがみ、栓を止め、夏子は湯のなかに手を入れてみた。入口に気配を感じ、夏子はふりかえった。裸の江利花が浴室に入って来た。
洗面台に用意してある洗面用具のなかから、江利花はヘア・ピンを捜し出した。長いピンを一本だけ使って、うしろにまとめた髪を彼女は器用にアップに止めた。
浴槽へ歩いて来た江利花に、
「ちょうどいい温度よ」
と夏子は言った。夏子の片手を取り、江利花は脚を上げて浴槽の縁をまたいだ。そして湯の中に立った。
「お姉さまも入って来て」
「私は見るだけよ」
江利花は夏子の手を離した。湯にむけて江利花はしゃがんだ。湯のなかにすわり、両脚をのばした。肩まで湯のなかにつかった。浴槽のかたわらに夏子はしゃがんだ。
「髪を上げると可愛くなるのね」
夏子が言った。
「うなじが、とってもきれい。シャワー・キャップは、使う?」
江利花は首を振った。
「石鹸《せつけん》は?」
「使います」
立ち上がった夏子は洗面台の石鹸を箱から出し、包装紙を破って小さな石鹸を取り出した。それを持って浴槽のかたわらへいき、しゃがんで江利花に渡した。受け取った江利花は壁の石鹸置きのくぼみにそれを置いた。開いてのばした江利花の両脚、左右そろって平行にそして水平に突き出ている胸のふくらみなどを、夏子は湯のなかに見た。
江利花は石鹸を手に取った。片足を浴槽の縁に上げた。足の裏を、そして足の甲ぜんたいを、江利花は石鹸をつけて洗い始めた。
「足を洗うのが好きなの」
と、彼女は言った。
「足を洗うと、今度は顔を洗いたくなるの」
「目のまわりは、リムーヴァーでよく落としてから洗ったほうがいいわよ」
そう言って夏子は立ち上がった。
「持ってくるわね」
浴室を出ていく夏子のうしろ姿を、浴槽の湯のなかから江利花は見守った。
夏子はすぐに戻って来た。リムーヴァーの液をしみこませた、はがして使うコットン・スワッブを、彼女は指先に持っていた。さきほどまでとおなじ場所に、彼女はしゃがんだ。
両足を洗い終わって、江利花は目の周囲の化粧を落とした。そのあと浴槽のなかで顔を洗った。その途中で夏子は立ち上がり、トイレットの蓋《ふた》を降ろしてそこにすわった。そして江利花を見続けた。
化粧を落とし終わってから、
「ああ、さっぱりした」
と、江利花は言った。
両手で何度も湯をすくっては顔にかけた。そして立ち上がり、夏子に背をむけて、浴槽の縁にすわった。ふりかえって江利花は微笑した。
「せっかくですから、流してください」
「お背中?」
トイレットの蓋から、夏子は立ち上がった。ウオッシュ・タオルを一枚、手に取った。浴槽へ歩き、縁にすわっている江利花のうしろに夏子はしゃがんだ。シャツの両袖《りようそで》をまくった。
ウオッシュ・タオルを受け取り、江利花はそれを湯にひたした。そして右の太腿《ふともも》の上に広げ、濡《ぬ》れたタオルに石鹸をつけた。それを夏子は受け取った。浴槽の縁にすわっている江利花のまうしろに位置を取りなおし、夏子は左手を江利花の肩にかけた。そして彼女の背中を洗い始めた。
肩から腰まで、その全域を、夏子は洗った。石鹸の泡を含んだ湯が、江利花の体から浴槽の縁へ流れ落ち続けた。夏子が洗い終わって、江利花は湯のなかにすわりなおした。ウオッシュ・タオルを受け取り、湯のなかにつけた。
夏子は立ち上がり、洗面台で両手から石鹸を流し、ハンド・タオルでぬぐった。そしてトイレットの蓋にすわり、まくったシャツの袖を降ろした。
しばらくして、
「出ていい?」
と、江利花はきいた。
「どうぞ」
浴槽のなかで江利花は立ちあがった。栓を抜き、シャワー・ヘッドから湯を出し、その湯を体ぜんたいにまんべんなくかけていった。上がり湯をそのようにして使う江利花を、夏子は眺めた。湯を止めた江利花は、シャワー・ヘッドを壁のホルダーに戻した。
立ち上がった夏子は、バス・タオルを棚から取った。広げながら浴槽へ歩いていき、縁をまたいで出て来た江利花を、その大きなタオルのなかに迎えた。湯のしたたる、濡れた江利花の体は、タオルのなかにくるみこまれた。
夏子は江利花とむき合って立ち、タオルの上から江利花の体のあちこちをごく軽く叩《たた》き、タオルに湯を吸い取らせた。そのあと、タオルを江利花の体から取り、片方の端を江利花の肩にかけ、もう一方の端を手のなかに持ち、夏子は江利花の体をふいていった。
喉《のど》から胸へ、そして胸のふくらみをへて腹とわき腹。肩から背中ぜんたい、そして腰をぬぐい、尻《しり》の水滴を取って夏子は江利花を自分にむきなおらせた。しゃがんで江利花の腰から足の先までタオルを使ってから、
「脚を開いて」
と夏子は言った。江利花は脚を開き、夏子は彼女の股間《こかん》に、何度も丁寧に、タオルを接しさせた。
夏子はバス・タオルを両手に持ちなおし、江利花は髪を止めているピンを抜き、髪を降ろした。洗面台の鏡の前に江利花は立ち、そのかたわらに夏子も立った。鏡に写る自分たちを、彼女たちはおたがいに見た。
「私たち、似てますね」
江利花が鏡のなかの夏子に言った。夏子はうなずいた。
「似てるわ」
「どことなく。人の感じが」
「そうなのね」
「抱いてくださいよ」
鏡のなかで自分の目をとらえている江利花の視線を、夏子はバス・タオルでさえぎった。ひろげた大きなタオルを顔の前に高くかかげ、左右にたたんだ。縦長になったところを、まんなかから、そしてさらにもう一度まんなかからたたみ、厚みのある四角にまとめた。それを洗面台の隅に置く夏子を、江利花は見ていた。
ふたりは浴室を出た。江利花はふたつのベッドの間へ入っていき、ベッドの縁にすわった。夏子はさきほど使ったグラスにヴィッテルを注ぎ足し、それを持ってベッドの間へ歩いた。
江利花の右隣りに腰を降ろし、夏子はグラスを江利花に渡した。受け取った江利花は、まだ冷たいままの水を半分以上、飲んだ。グラスを持った手を静かに太腿へ降ろし、江利花は夏子に顔をむけた。
「お姉さま」
と、彼女は呼びかけた。
ごく淡く困りながらも、相手を全面的に許容している表情で、夏子も江利花に顔をむけた。
「せっかくだから、しましょうよ」
あっさりとそう言った江利花に、夏子の困ったような表情は、微妙に複雑さを増した。そろえた膝《ひざ》に両手を置き、夏子は首を傾げてみせた。
「怖いの?」
江利花がきいた。
「なにが?」
「なにがって。私は大丈夫なのよ」
夏子は首を振った。
「そういうことではないのよ」
数秒のあいだ、ふたりとも無言でいた。グラスを持った手を上げた江利花は、グラスを夏子に差し出した。夏子は受け取った。江利花は両手の人さし指と親指で、左右の乳首をそれぞれにつまんだ。つまんでもみほぐすように指を動かした。水平に突き出たふくらみの先端から、さらにまっすぐに、乳首が立っていくのを彼女は見た。夏子もその様子を見ていた。
乳首からふと手を離した江利花は、腰を浮かせた。たたんで向かい側のベッドに置いてある自分の下着に、彼女は手をのばした。すわったまま、江利花はショーツをはいた。そして立ち上がった。夏子の目の前に、江利花の尻があった。うしろから間近に見ると、江利花の形のいい尻には、もの静かで控えめな印象があった。ショーツの位置を直す江利花の指を、夏子は見守った。
江利花はストッキングをはいた。そしてブラジャーをつけ、シャツを着た。立ち上がってスカートをはき、パンプスに両足を入れてすっきりと立ち、セーターを着た。見上げていた夏子も立ち上がった。ふたりはベッドの間を出ていった。
立ちどまってふりかえり、江利花は夏子の手からグラスを受け取った。残っていた水を江利花は飲みほした。そして夏子に顔をむけた。
「お姉さま」
低い声で江利花は言った。その江利花のぜんたいを受けとめて、夏子は無言でいた。
「お姉さまは、幸せ?」
と、江利花はきいた。
微笑を浮かべた夏子は、その微笑を深めた。そして、
「幸せよ」
と、はっきり答えた。
ぱっと内面から輝くかのように、江利花は華やいだ笑顔になった。それまでの彼女の雰囲気の中心であった、もの憂いけだるさが、ほんの一、二秒の間、嘘のように消えた。
「私も」
と、江利花は囁《ささや》いた。
「でも、お姉さまがなぜ、どんなふうに幸せなのか、わからないわ。だから、お姉さまは謎です」
江利花の言葉に、
「あなたも、謎よ」
と、夏子は返した。
「私たちはおんなじです」
江利花が言った。夏子はうなずいた。
「おんなじ」
江利花が夏子の目を見ているあいだ、その短い言葉は彼女たちを取り巻く空間のなかにあり続けた。肩ごしにふりかえって夏子の視線をとらえたまま、江利花はラヴ・チェアまで歩いた。トレンチ・コートを手に取り、広げて肩にはおり、袖《そで》に両腕をとおした。前を合わせてボタンを掛け、ベルトを締めた。その様子を夏子は観察した。江利花は夏子にむきなおった。
「とってもいいわ。素敵。きれいな人」
夏子は言った。
「でも、口紅をつけたほうがいいわ」
「お姉さまの口紅をつけてください」
夏子はドレッサーへ歩いた。ショルダー・バッグから小さな化粧パウチを出し、なかから口紅を取り出した。ふたりの女性はおたがいに歩み寄った。立ちどまった江利花の前で、夏子は口紅のキャップを取った。
江利花の肩に片手を置き、目を閉じた彼女の唇に、夏子は口紅をつけていった。唇の粘膜の縁に沿って、夏子はくっきりと口紅をつけた。江利花は夏子の肘《ひじ》に手を当てて自分を支えた。
夏子は一歩だけ下がった。口紅のキャップを閉じた。江利花は目を開けた。夏子にむけて手を差しのべ、その手を夏子が取って、ふたりはドアまで歩いた。夏子がドアを開いた。江利花は外へ出た。よく似た質の微笑を交わし合って、夏子はドアを閉じた。ロックが自動的にかかる音のむこうに、歩み去る江利花の気配を夏子は感じた。
夏子はドレッサーへ戻った。口紅を化粧パウチに返し、そのかわりに煙草を取り出した。チェック・インしたあとに売店で買ったナット・シャーマンだ。透明な包装紙を取り去り、箱を開き、細い紙巻きを一本、夏子は箱のなかから指先につまみ取った。
それを唇にくわえ、箱と包装紙をドレッサーに置き、腕をのばして灰皿のなかのマッチを指先に取った。ドレッサーからドアにむけて、夏子は歩いた。途中で壁に寄って立ちどまり、壁に背をもたせかけ、マッチを開いた。一本を指先でちぎり、こすって火をつけた。その小さな火を、唇にくわえている煙草の先に移した。
最初の煙を吸いこんで吐き出し、壁にもたれたまま彼女は足もとに目を伏せた。煙草をはさんだ指を口へ持っていき、ふたたび彼女は煙を口の中に吸いこんだ。そしてそれを吐き出しながら、顔を上げた。正面を見た。クロゼットのアルコーヴの奥にある壁の鏡に、壁にもたれて煙草を喫っている自分の全身が写っているのを、彼女は見た。
[#改ページ]
[#3字下げ]あとがき
この文庫に収録されているいくつかの短編小説は、これはいったいなになのか、とさきほどから僕は考えている。短編小説であることは確かだ。そしてそれらはすべて僕が書いた。では、僕が書いた短編小説とは、なになのか。
どれもみな僕が書いた。だから材料は僕自身だ。どんなに直接であったにせよ、あるいはいかに間接的なものであったにせよ、いまの僕はすでにとっくに忘れている数多くの他者との関係をとおして、いつかどこかで僕のなかに入ってそこにとどまったものが、ひとつひとつのストーリーを作るにあたっての必要性に促され、ストーリーを紡ぐ言葉のつらなりとして出てきたのだ。ではそのストーリーとは、なになのか。
書いたのは僕だが、勝手に書いたものではない。書いてほしいという依頼を受けて、いくつかの雑誌に書いた。書いてほしい、と僕に依頼した他者の存在は、ここにあるいくつかの短編がなにであるかを解く鍵《かぎ》になるのではないか、と僕は考える。その人が僕に依頼したのは、なぜか。読むに耐えるだけではなく、読んで充分に面白い短編が欲しかったからだ。読んで充分に面白いとは、どういうことなのか。
完成した短編を読むのは、依頼してくれたその人を含めて、いつどこで読者となってくれるのか誰にもわからない、不特定なしかもかなり多数の人たちだ。その人たちすべてに対して、面白さを保証することが、書き手の僕に出来るだろうか。出来るわけがない。
ストーリーのぜんたいや細部など、すべてを考えるのは僕ひとりだし、書いていくときにも僕がひとりで書く。その僕ひとりに出来ることといえば、僕らしいものを僕らしく書く、ということがせいぜいではないか。僕らしさがいきわたっているなら、依頼した人もひとまずは満足するのではないか。
あらたに書く短編小説というかたちのなかで、僕は言葉を使って僕らしさを作り出しては、確認している。書いているときの僕がどのような僕であるかを、この言いかたがもっともよくあらわしている。なぜなら、この僕らしさというものは、個々の短編を等しく貫いて読者に到達する、おそらくは唯一のものだからだ。
ストーリーや登場人物たちのありかた、そしてそれらを描いていくにあたっての、言葉づかいとしてまずあらわれる僕らしさは、登場人物たちそれぞれの彼らしさや彼女らしさへと、転換されて直接につながっている。どの短編でも僕好みの彼や彼女を描く、というような意味ではない。書いている僕が僕らしさを作り出しては確認しているのとおなじく、ストーリーのなかの彼女や彼も、すでに持っている自分らしさに沿ってストーリーのなかを動いていくことによって、自分らしさの前線へとさらに入っていく、というような意味だ。
書き手である僕が発揮する僕らしさを検証するのは、ストーリーのなかの登場人物たちという他者であり、ストーリーのなかの彼と彼女においては、おたがい他者どうしである自分たちが、たとえば相手の言動によって、自分の自分らしさを刺激されることをとおして、さらに自分らしさの領域を手に入れる。
この文庫に収録されている短編小説はいったいなになのか、という問いに対する答えは、ごくおおまかに基本だけを書くと、以上のようになる。他者によって作り出されていく自分らしさの物語だ。書き手の僕にとっても、登場人物たちにとっても。
二〇〇二年五月二十二日
[#地付き]片 岡 義 男
出典一覧
別れて以後の妻       『ふたとおりの終点』 角川文庫
雨の降る駐車場にて     『嘘はほんのり赤い』 角川文庫
離婚して最初の日曜日    『離婚しました』 角川文庫
私はいつも私        『私はいつも私』 角川文庫
膝までブルースにつかって  『離婚しました』 角川文庫
スーパー・マーケットを出て電話ブースの中へ
『赤い靴が悲しい』 祥伝社ノン・ポシェット
幸福な女性の謎       『恋愛小説3』 角川文庫
角川文庫『私はいつも私 片岡義男 恋愛短篇セレクション 別れ』平成14年6月25日初版発行