[#表紙(表紙.jpg)]
日本語の外へ(上)
片岡義男
目 次[#「目 次」はゴシック体]
第1部 アメリカ
湾岸戦争を観察した[#「湾岸戦争を観察した」はゴシック体]
八月二日、軽井沢、快晴
犬にでもくれてやれ
ウエイ・オヴ・ライフを守る
町を囲んだ黄色いリボン
「日本はアメリカとともにあります」と首相は言った
「神の目から見れば」
仕事をすませて家へ帰ろう
大統領の得点
帰って来る死体の映像
ヘリコプターは上昇し飛び去った
メモリアル・デイにまた泣く
第九条
フリーダムを実行する[#「フリーダムを実行する」はゴシック体]
個人主義にもとづく自由と民主の視点
真実はまだ明かされない
遠近法のなかへ[#「遠近法のなかへ」はゴシック体]
『クレイジー』というテーマ曲
エルヴィス・プレスリー・エコノミックス
現状は好転していかない
「彼らはとにかく頑固だよ」
ラディカルさの筋道
ヒラリー・ロダム
ヴァージニア・ケリーの死
グレン・ミラー楽団とともに
もっとも良く送られた人生
大統領が引き受けたこと
小さく三角形に折りたたんだ星条旗
煙草をお喫いになりますか
午後を過ごす最高の場所
キノコ雲の切手
ジープが来た日
ちょっと外出してピストルを買って来る
キャロル・ホルトグリーン
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第1部 アメリカ
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湾岸戦争を観察した[#「湾岸戦争を観察した」はゴシック体]
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八月二日、軽井沢、快晴
その年の夏、七月の終わり、僕は軽井沢にいた。仕事は例によって多忙だった。そうではなくても、軽井沢に本来なら僕はなんの用もない。そのときそこにいたのは、美術館の展覧会を見たかったからだ。アンドリュー・ワイエスがヘルガを描いた絵が、下絵も含めて数多く公開される展覧会だった。これはぜひ見たかった。
ホテルに泊まって仕事をして過ごし、八月の二日、夏らしい美しく晴れた暑い日、僕は午前中にその美術館へ出かけていった。ワイエスの作品を見て、僕は幸福な時間を過ごした。お昼になった。美術館のカフェテリアには屋外の部分があった。強い陽ざしが直射するテーブルを選び、僕はひとり昼食を食べた。
ふたたび、僕はワイエスの絵を見た。つきることのない散歩道を歩くような気分で、いくつもの絵を僕は何度も見てまわった。そして庭へ出た。自然の地形をうまく利用した庭園だった。そこをも、僕はさまざまに歩いた。広く芝生のスペースがあり、僕はそこに寝そべり、晴れた夏の日の空を眺めて過ごした。
横たえた体の下に草と土地の厚みを感じながら、高く広がる快晴の空と夏の陽光を、全身の感覚で僕は受けとめた。遠くにつらなる山なみの造形と、そこに直射する陽ざしの様子を見ていた僕は、いつだったかこれとそっくりの体験をしたことがある、と思った。デジャヴーではなく、それは現実の体験だった。二、三年前、おなじ季節におなじ美術館で、僕はサム・フランシスの抽象画の展覧会を見た。より遠いほうのそのとき、僕は近いほうのこのときと、まったくおなじ時間の過ごしかたをしたのだった。
山なみに当たる陽光の角度の変化が明らかに見て取れるようになってから、僕はもういちど美術館のなかに入った。本なら序文にあたるような位置に、日本語による解説のパネルが掲げてあった。読むともなく、僕はそれを読んでみた。私の絵にペシミスティックな感触があるのは、いま自分が見ているこの瞬間を、いつまでも自分のものとして持っていたいと私が願うからだろう、という意味のワイエスの言葉を僕は記憶に残した。
この言葉を彼自身の英語で読んでみたい、と僕は思った。自宅に持っているワイエスの画集には、英文の解説がかなり長く入っている。彼のこの言葉は、おそらくそこにあるだろう。帰ったらさっそく探してみよう。そう思いながら、僕は美術館を出た。ホテルまでかなりの距離があった。いい散歩だ。僕はそこからホテルまで歩くことにした。僕は歩いた。
ペシミズムの出発点について、僕は考えた。いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ。少なくともワイエスによれば、そうだ。時間は経過していく。経過してかたっぱしから消える。そのなかで、すべてのものは変化していく。消えるものも多い。そのこと自体が、ペシミズムの土台だ。生きてこの世にあるということは、ペシミスティックにとらえてこそ、正解なのか。ペシミズムは子供の頃からの僕の趣味だ。
ホテルまで歩いて戻り、僕はロビーに入った。そこにあるすべてのものが、平凡さの権化のようだった。これをいったいどうすればいいのか、などと思いながら、その平凡さの一部分として、僕はフロント・デスクへ歩いた。デスクのカウンターには、その横幅いっぱいに、人だかりがしていた。だから僕はさらに奥へ歩き、窓に沿って配置してある革張りのソファの、空席にすわった。
テーブルをはさんで向かい側の席には、中年の男性がひとりすわっていた。日本の会社のおっさんだ。されるほうなのか、あるいはするほうなのか、接待ゴルフ以外にいまは世界を持たないまま、凡庸さを絵に描いたような服装で、心の貧しさをそのまま体つきと表情に出して、彼は地元の夕刊を読んでいた。僕に向けて広げている一面のいちばん上に、かなり大きな黒い文字で、「イラク、クエートに侵攻」とあるのを、僕は見た。
あ、戦争になる、と僕は反射的に思った。待ち構えたようにアメリカが出ていって、アラビア半島で戦争が起こる。イラクについて知っているほんの少しのことが、僕の頭のなかにスクロールされてきた。バグダッドもバスラもイラクにある。バグダッドはアラビアン・ナイトの舞台だ。バスラは、一九五〇年代のハリウッドが盛んに作った、娯楽時代劇の舞台だ。どちらも、アメリカによって、第二次大戦後のドレスデンのようになるのだろうか。イラン・イラク戦争が終わったばかりだ。軍事力その他、イラクはほとんどすべてを使い果たしているはずだ。アメリカの工作により、クエートへ侵攻したというかたちで引っぱり出され、イラクはアメリカによって叩きつぶされるのか。
フロント・デスクの前から人が少なくなっていた。僕は部屋の鍵をもらい、二階だったか三階だったかの、僕の部屋へ歩いた。部屋のあるフロアに上がると、階段のホールからいちばん奥の突き当たりに向けて、廊下がまっすぐにのびていた。階段から上がってきてその廊下へ曲がり込む角のところに、首相の警護の人がひとりだけ立っていた。首相はいちばん奥のスイートに宿泊していた。僕の部屋はそのいくつか手前だった。黙礼くらいはマナーだろうと思い、僕はその警護の人に黙礼した。その人は、きわめて丁寧に、黙礼を返してくれた。
犬にでもくれてやれ
クエートという国は、イギリスの都合によって、あるときいきなり作られた。都合とは、中東に対するイラクの影響力を削ぐことだ。イラクにとっての障害物として、イギリスは勝手に線を引いて、クエートを作った。一九二一年のことだ。同族経営の石油会社、という内容の国だ。自由や民主という観点から言うなら、現在でもこの国は箸にも棒にもかからない。
中東の石油はヨーロッパによって支配されてきた。中心であったイギリスに、やがてアメリカがとって代わった。一九五八年から、アメリカは中東へ好き勝手な干渉を開始した。こちらの政府をつぶし、情勢が変わるとこんどはそちらの政府をくつがえす、というような工作の連続のなかで、石油の支配とそのための軍事プレゼンスの確立を、アメリカは画策していった。
一九八〇年にイラン・イラク戦争が始まった。これはアメリカの工作によるものだ。アメリカの承認を得て、イラクがイランに戦争をしかけた。アメリカはどちらの国にも援助をし、戦争を八年間も続けさせた。この戦争が終わるとすぐに、こんどはイラクを、アメリカは敵として想定し始めた。このことの延長線の上に、湾岸戦争はある。
サウディ・アラビアには、アメリカの最先端軍事技術の詰まった、アメリカによるアメリカのための軍事施設が、すでに完成していた。基地だけで二十か所を数え、地下の巨大で堅牢ないくつかの基地を含めて、全体としての能力はすさまじい攻撃力であるという、まさに支配のための、国外での最前線のひとつだ。準備は整っていた。路線は敷いてあった。
ペルシア湾地域への支配権を獲得しようとする外部勢力によるすべての試みは、アメリカにとっての死活的な国益に対する挑戦や攻撃であると理解し、それらをアメリカは徹底的に攻撃して撃退する、というような意志と方針の決定が、一九八〇年に、アメリカの上下両院でなされた。カーター大統領の頃だ。そしてこの二年ほどあとには、徹底的に攻撃して撃退するための、緊急展開部隊が創設されたと、僕は記憶している。
国連が決議したとかいう、イラクに対する最後通牒としての撤退期限というものを、記憶しているだろうか。一九九一年一月十六日、東部標準時で午後七時。この時刻が過ぎたなら、イラクに対する攻撃を開始するよう、ブッシュ大統領はアーノルド・シュワルツコフに命令した。「戦争がリアル・タイムで茶の間に飛び込んでくる」という馬鹿げた言いかたが日本のTV報道でなされたが、この馬鹿げた言いかたも、連合軍による攻撃開始だけに関しては、正しいと言ってもいい。アメリカ国内での、夜の時間の最初のニュースという、TVのプライム・タイムに合わせた撤退期限の時間だったのだから。
中東にもし石油がなかったなら、中東に対するアメリカの態度は、「犬にでもくれてやれでしかない」と、アメリカのTVニュースの記者が、アラビアの砂漠を歩きながら報道していた。クエートやイラクのあたりには膨大な埋蔵量の石油がある。どの国もその石油を売って自国の経済の土台としている。イラクもそうだ。石油の価格は安定しているのがもっとも好ましい。だがクエートは、価格安定という基本ルールを無視して増産に増産を重ね、結果として原油価格を下落させた。
そのつどイラクは交渉で問題を解決しようとした。土中深くを斜めに掘削する技術をアメリカから提供してもらい、イラクの油田に向けて斜めに掘り、クエートは原油を盗んだという。交渉で解決しようとするイラクに対して、クエートは一貫して挑戦的だった。アメリカは戦争の準備を続け、イラクを孤立させるためのキャンペーンを展開した。核、化学、生物などの兵器を持ってなおも軍備を拡大しているイラクは、中東全域とその石油の支配を企てている、という情報戦争だ。このキャンペーンは、西側によるイラクに対する経済制裁へと実ったし、悪者としてのサダムのイメージを巨大に拡大することにも成功した。
イラクがクエートに侵攻してからのアメリカの動きは、素晴らしく速かった。イラクを可能なかぎり悪者に仕立て上げること。国連を使って西側を連合国としてひとつにまとめること。そして戦争のために世界じゅうからアメリカの軍隊をサウディ・アラビアに向けて大動員すること。この三つが重なって突進していく様子を、こういうものを見るのもひょっとしたらこれが最後かもしれない、と思いながら僕は間接的に見た。
これは石油のためにアメリカが勝手におこなおうとしている戦争だ、という意見は日本のなかでも最初からあった。それは言ってはいけない、とたしなめる意見もあった。現代の世界では許しがたい軍事暴力に対する、自由と民主の世界ぜんたいからの応戦である、ととらえるべきだと説く意見だ。どの意見に加担しようとも、間違いなくはっきりと見えてくるものが、ひとつあったはずだ。西側つまり先進国における生活は、すべて安い石油の上に成立していて、その石油は中東で産出されているという、どうごまかしようもない事実だ。
石油は驚嘆するほど安い。この当時、原油は一バレルにつき二十四ドル、そしてガソリンはアメリカ国内で一ガロンにつき一ドル三十八セントだった。先進国の生活は、中東からのこのような安い石油の上に立って、一蓮托生だ。先進国以外の国、つまり生活の土台が安い石油であるという段階にまでまだ到達していない国は、この構図にまったく関係ない。ちなみに、高度経済成長期の日本は、原油を一バレル五ドルで買えていた。これは高くなってからの値段であり、それ以前は二ドルしなかった。
九月十五日、アメリカ軍の動員には遅れが出ているという報道を、アメリカ国内のTVニュースで僕は見た。海路による輸送のための予備の船舶群が、軍事予算の削減の影響を受けて機能が落ちているからだ、という説明がされていた。部分的には機能不全のところがあっても、ぜんたいとしてアメリカ軍の動員はすさまじい速度で進行していた。九月十七日には、八月二日からの動員総数は十七万七千名に達し、その経費は二十億ドルに達したという。動員開始から五十五日めになると、動員数はこれより二万名増え、経費は三十億ドルに達したそうだ。必要がなくなればただちに引き上げるが、必要なあいだはいつまでも無期限に、六か月交替で中東に駐在する、という方針が決定された。アメリカ市場での原油の価格は、早くも四十ドル近くまで上昇していた。
ウエイ・オヴ・ライフを守る
アメリカによる中東の石油の支配とは、その価格をそのときどきの自分のつごうに合わせて、上げたりも下げたりも自由にしたい、ということだ。そのためには、中東の産油国のなかで、アメリカは発言権を強化しなくてはいけない。さらにそのためには、攻撃力の大きな軍事プレゼンスを、アメリカは中東に持っていなければならない。ここでなにかあったとき、ここを守れるのはアメリカだけだ、と常に言っていられる状態を作っておくためだ。
イラクを悪者にするキャンペーンを画策していったアメリカは、一九九〇年二月のある日を境にして、サダムをアラビアの砂漠に暴力で君臨しようとする悪の大王にし始めた。そのキャンペーンは西側によるイラクの経済制裁を引き出した。クエートはイラクを挑発し続けた。交渉で解決しようとするイラクに対して、アメリカの後ろ楯に全面的に頼っていたクエートは、イラクの求めにまともには応じなかった。
イランのイスラム原理主義を敵とした西側によって、イラン・イラク戦争を八年間も戦わされたイラクは、国力をほとんど使い果たしていた。疲労しきった国内には、莫大な額の借金だけが残っていた。石油を売るほかに国家としての収入のないイラクにとって、石油の値段は高いほうがいいが、とにかくせめて、値段は安定していてほしい、と願っていた。石油価格を安定させることに協力してほしい、とイラクはオペックの会議で求め続けた。
いっさいを無視して、クエートは石油を増産した。増産すれば価格は下がる。一バレルにつき五十セントの低下でも、イラクにとっては文字どおり壊滅的な意味を持った。ほとんどなんの根拠もなしに砂漠の悪者に仕立て上げられる。経済制裁は受ける。周辺国は相手にしてくれない。石油の価格は下がる。イラクは追い込まれた。尊厳なしに生きるならその命に意味はなにもない、と言ってサダムはクエートとの国境に軍を集結させた。クエートを威嚇するためだ。威嚇は功を奏さないまま、クエートとの最終交渉は決裂した。イラク軍は国境を越えてクエートに侵攻した。
その侵攻は事実だが、アメリカが盛んに言い立てたように、サウディ・アラビアまで攻め込むつもりは、サダムにはまったくなかった。というよりも、イラクの軍事力にとっては、そんなことは到底出来ないことだった。稼働率が五十パーセントを切るような状態の、ソ連製や中国製の戦車で、あの砂漠を延々といかなければならない。その戦車隊に、補給能力を含めて、軍事力のありったけを注ぎ込む必要がある。出来ないことであるよりも先に、それはサダムにとっては、思いもしないことだった。イラン・イラク戦争の経験をとおして、サダムはアメリカの力というものを、嫌というほどに知っていた。サウディ・アラビアに攻め込むのは思いもしないことだし、いわゆるアラブの大義にもそれは大きく反することだ。そしてアメリカとの戦争など、サダムにとってはとんでもないことだった。
イラクがクエートに侵攻しても我々はそれに干渉しない、とアメリカはイラクに思わせた。アメリカによるこのプロセス作りには、奸計というような言葉を使ってもいい。詳しく書くことが馬鹿ばかしく感じられるほどに、そのプロセスは一定の方向への意図に満ちていた。イラクを軍事攻撃する計画は、アメリカにはとっくに出来ていた。その計画に沿ってブッシュ大統領は強引に走った。本来の彼は慎重な政治家であり、その慎重さゆえに、ウィムプ(弱虫)とすら呼ばれていた人だ。八月二日のうちに彼がしたことだけを列挙しても、列挙される事実の果敢な直進性は、ウィムプが乗ることの出来た計画の、事前における確実な存在を示している。八月二日のうちに早くも轟々たる動きを開始したアメリカ軍が、その計画を支えていた。
アメリカ国内で放映されているTV番組としての、ニュースあるいはニュース解説番組のいくつかが、日本の地上波局から放映されている。趣味のひとつとして、それらを僕は以前から見ていた。たとえば三十分のニュース番組を見るとき、僕はその三十分だけは居ながらにしてアメリカへいっている、などと僕は冗談を言っていた。湾岸戦争をアメリカのTVのニュース番組だけで追ってみる、という試みを僕は八月のなかばに思いついた。アメリカの国内文脈としての湾岸戦争をTVで観察すれば、この戦争をつらぬくアメリカの意図はおのずから見えてくるはずだ、と僕は思った。
ブッシュ大統領はサダムをヒトラーになぞらえた。キャンプ・デイヴィッドで会ったマーガレット・サッチャーに「徹底的に叩いとかないと、サダムは第二のヒトラーになんのよ」と言われたからだ。ブッシュの世代にとって、ヒトラーというひと言はたいへん効果的だった。ヒトラーの再来である巨悪によって、世界は深刻な威嚇にさらされている、と彼は説き始めた。その巨悪を退治して、アメリカは世界に新しい秩序を樹立するのだ、と彼は宣言した。八月なかば、彼がペンタゴンでスピーチをしたとき、そのなかに次のような一節があった。
[#ここから2字下げ]
Our job, our way of life, our own freedom and the freedom of friendly countries around the world would all suffer if control of world crude oil reserve fell into the hand of that one man, Saddam Hussein.
(世界の原油の供給が、サダム・フセインというこのひとりの男の手に落ちたなら、私たちの雇用、私たちの生活様式、私たちのフリーダム、そして世界の友好諸国のフリーダムが、被害を受けることになります)
[#ここで字下げ終わり]
ブッシュ大統領の使う英語は、簡潔明瞭で力強く、わかりやすくてたいへんいい、と褒める人たちがいるようだが、僕はそのような意見を採らない。誰にとっても好ましく喜ばしいことについて語るときには、アメリカらしくてこういうのもいいかな、と思うことがあるのは確かだが、いま引用したこの一節のような文脈になってくると、アメリカの大統領が正式に使う言葉としては、あからさまに過ぎるゆえに真意が透けて見え、したがって品位に欠けると僕は思う。
このような言葉づかいは、明快ではあるけれど、同時に攻撃的に深く踏み込んでいる。徹底的にやるぜ、とこの大統領は言っている。そうすることにきまっていたし、そのための準備は整っていた。湾岸戦争をとおして、アメリカは、自分がかかえている問題の多くを、世界に向けて公開した。なかば居直るようなかたちでの公開だった。公開された問題のほとんどが、この短い一節のなかに含まれている。その意味では、このスピーチは一種の名文だと言っていい。
大統領は後段で石油について触れている。そして前半では、自国のウエイ・オヴ・ライフやフリーダムに言及している。どちらも最終的にはおなじところへ帰結する。だからどちらを取り上げてもいいのだが、ウエイ・オヴ・ライフについてまず書いておこう。
ウエイ・オヴ・ライフというものを、アメリカが、しかも大統領が、このようなかたちで出してきたなら、あとは戦争しかない。必要ならいつでも戦争をするという決意と準備が、ウエイ・オヴ・ライフという言葉を支える。そしてその戦争は、アメリカにとっては、相手に対して圧倒的な勝利で終わる戦争でなければならない。アメリカはイラクに対して戦争をしかけ、その戦争に完全な勝利をおさめるという、ただひとつしかあり得ないコースの上に、大統領は立っていた。
ウエイ・オヴ・ライフという言葉は、片仮名で書かれると、いまでは日本語としても通用しているようだ。享楽的な消費を積み重ねることをとおして、人とのあいだに差をつけつつ営まれる、あらゆる意味において安逸な生活、というような意味のイメージ用語だ。しかしアメリカでは、ウエイ・オヴ・ライフは戦争と直結している。
アメリカで現役の兵士になると、入隊してすぐに、さまざまな教科書やマニュアルなどの印刷物を、かなり多く支給される。どのような部隊に所属するかによって異なるが、漫画になったマニュアルもある。きわめて陽気な漫画をとおして、最新鋭の戦車や攻撃ヘリコプター、銃器などの扱いかたからメインテナンスまで、新兵さんはこなせるようになったりする。このようなマニュアルでは、新しい部分はどんどん新しくなっていくが、少しも変わらない基本的な部分も多くあり、それらはたとえば第二次大戦の頃とくらべて、現在もたいして変わっていない。細かい活字と、当然のことながらやや陰気な図解や写真を使って編まれたマニュアルが、いまも数多く使用されている。
海兵隊員になると支給されるマニュアルのなかに、『アメリカ海兵隊 エッセンシャル・サブジェクツ』という表題の、もっとも基本的なマニュアルが一冊ある。文庫本をひとまわり大きくしたサイズの、厚さが三センチほどの本だ。このマニュアルの第一章には、コード・オヴ・コンダクト、軍隊の法規、そして戦争における行動の三点について、ごく簡潔に述べてある。第一章のセクション・ワンは、コード・オヴ・コンダクトについてだ。コード・オヴ・コンダクトは、行動規範、とでも訳せばいいのだろうか。
そのセクション・ワンのAは、コード・オヴ・コンダクトに関するいくつかの項目に分かれている。その項目の第一番目、アーティクル・ワンには、次のような記載がある。
[#ここから2字下げ]
I am an American fighting man. I serve in the forces which guard my country and our way of life. I am prepared to give my life in their defence.
(自分はアメリカの兵士であります。自分の国および生活様式を守る軍隊に自分は身を置き、挺身するものであります。国および生活様式を守るにあたり、自分は生命を捧げる用意を持つものであります)
[#ここで字下げ終わり]
これは海兵隊員だけではなく、全軍に等しく共通するものだ。一般の民間人から兵士になったとたん、それまでとはまったく異なった世界の人となるのであり、そのような存在として最後まで守り抜かなければならない、絶対と言っていい基本的な規範のなかのもっとも基本的なものが、このアーティクル・ワンだ。兵士になるとは、必要とあらばいつでも国に命を捧げることだ。そして国とは、ウエイ・オヴ・ライフだ。
ウエイ・オヴ・ライフという英語の言葉を、字面だけ日本語に置き換えると、一例として、生活様式、となる。これではあまりにも手ざわりがなさ過ぎるから、もう少し具体的に言葉数を多くするなら、ウエイ・オヴ・ライフとはたとえば次のようなことだ。「これ以外の生活のしかたを、ごく短い期間ならともかく、長期にわたって、あるいは無期限にいつまでも、失ったり放棄したりすることが、自分にとっては体の底から、心の底から、とうてい耐えることの不可能な、日々すでにもっとも慣れ親しみ、それはもう自分自身であると言っていいほどに自分のものとなっている、毎日の生活のしかた」
これが敵国の威嚇によって危険にさらされたなら、その敵国を相手に最後まで戦うほかない、とアメリカは反射的に反応する。アメリカの歴史は、建国から現在にいたるまで、ほんの少しだけ誇張して言うなら、戦争の連続だ。しかし、アメリカがことさらに好戦的である、というわけではない。なにかことがあるそのつど、ただちに武力に訴えたがるトリガー・ハッピーでもない。建国以来、アメリカとアメリカ人を支えてきた理念が、戦争につながる性質を明確に持っているだけだ。そしてその理念をひと言で言うなら、さきほど引用した大統領のスピーチのなかにある、フリーダムだ。
普遍的な概念としての自由と区別するため、アメリカの文脈のなかでは、フリーダムという言葉を僕は使うことにしよう。アメリカがフリーダムをどのようにとらえたか。それをどう解釈したか。それにもとづいてどんな世界を作ってきたか。それがそっくりそのまま、アメリカという国であり、その文化だ。フリーダムが国内だけに限られるなら、さほど問題はないかもしれない。しかし、国外へ持ち出してもそのままでは普遍的な機能をもはや持たないフリーダムを、湾岸戦争のようなかたちで国外へ突出させると、そのフリーダムが保証しているウエイ・オヴ・ライフのいびつさや矛盾が、そのままじつに正直に、全世界に向けて公開されてしまうことになる。湾岸戦争のなかに効用を求めるなら、そのもっとも大きなものはこれだった、と僕は思う。
ウエイ・オヴ・ライフとはなにだろうか。日常生活のディテールから始まって、文化、政治、経済、軍事、外交その他、自分の国のすべてが、ウエイ・オヴ・ライフだ。湾岸へ兵士として出ていったひとりのアメリカ人の位置から言うなら、なんのことはない、それはhome とjob だ。このふたつの、一見したところきわめて単純そうな言葉は、湾岸戦争が続いていたあいだずっと、その報道のなかに登場するアメリカ軍兵士の口から、頻出した。さきほど引用した大統領のスピーチの冒頭にも、jobという言葉が出てくる。
ホームとジョッブによって作り出される彼らのウエイ・オヴ・ライフは、もちろんたいへんにアメリカ的なものだ。どのような点においてもっともアメリカ的であるかというと、外国から買った安い石油の上にのみ営み得るものである、という点においてだ。
国内で消費する石油の七十パーセントを、アメリカは外国に依存している。一九八五年から一九九〇年までの五年間に、外国の石油に対するアメリカの依存度は倍になった。国民ひとりにつき日本人の倍の石油を使う、という統計数字もある。あらゆることが安い石油の上に乗っている事実は、どう言い逃れることも不可能だ。外国からの石油の非常に大きな部分を、アメリカはサウディ・アラビアに負っている。アメリカとサウディ・アラビアとの、これまでのつきあいの全プロセスは、石油のみがテーマだった。それ以外のことがテーマになったことは、一度もない。
アメリカが採択した、イラクに対する全力をあげての軍事行動の、理念的な根拠としてアメリカが掲げた世界の民主主義を守るという大義、そして民主主義によって運営されているアメリカそのものも、とにかくすべては安い石油の上だ。安い石油の上に成立しているものすべてを、これまでどおりに存続させるために、アメリカはイラクという敵を意図的に作った。
地球上にまだいくつかしかない先進国は、どれもみな、はっきりと知ったはずだ。正面きっては言われたくないことを、これ以上にはわかりやすくなり得ないような言葉で、言われてしまった。自分たちの毎日が安い石油の上に立っている事実を、アメリカの軍事行動をとおして、先進国のどこもが、いまさらながらに思い知らされるかたちで、知ったはずだ。日本もその先進国のひとつだ。
現在の先進国の存立の土台は、基本的にみなおなじだ。先進国はその意味で一蓮托生だ。湾岸戦争は、自由世界を代表するアメリカが、悪に対して立ち上がって正義を守ったのではなく、先進国の生活の土台がなにであるかを、率先して正直にさらけ出した出来事だった。
町を囲んだ黄色いリボン
八月の第一週、CBS『イーヴニング・ニュース』のアンカー、ダン・ラザーは、釣りにいっていた。つまり休暇を取っていた。八月六日のアンカーを務めたコニー・チャンは、ダンはヨルダンへいっていると言い、彼によるヨルダン国王フセインのインタヴューを紹介した。
例のとおりアメリカ的に脚を組み、唇を両側へつり上げぎみに引っ張り、目を丸くして相手を見るというしぐさおよび表情で、ダン・ラザーはヨルダン国王と向き合っていた。
「これは敬意とともに申し上げるのですが、陛下はたいそうお疲れのご様子にお見受けします」
とラザーは言った。
彼が言うとおりの、疲労に心労の重なりきった様子をしていたヨルダン国王は、
「サダム大統領が取ったクエート侵攻という行為は、アラブ世界をばらばらにするものであり、アメリカの軍事力によるそこへの介入は、アラブ世界を最終的には崩壊へと導くものだ」
という意味のことを答えた。正解ではあるけれど、表向きのあたりさわりのない言葉と表現を選ばなければならないこのような状況は、彼の心労をさらに深くしたのではないか。
ヨルダン国王は、アラブにおけるアメリカの画策を、知り抜いていたはずだ。アメリカの支援に安心したクエートは、交渉を望むイラクに挑戦的な態度を取り続けた。ヨルダン国王フセインはあちこち飛びまわり、調停役を務めようと必死だった。しかしことは思いどおりに運ばず、アメリカへいってブッシュに会っても相手にされず、敵国のような扱いさえ受けた。そのような疲労と心労の蓄積を、国王は見せていた。ダン・ラザーはそのことを知っていたのだろうか。
おなじ頃、国防長官のリチャード・チェイニーはサウディ・アラビアにいた。サウディへのアメリカ軍の出動を、サウディに認めさせるためだ。出動を認めさせたのち、その出動はサウディの要請にもとづくものである、とアメリカは言いたいと思っていた。そしてすべてをそのとおりにした。
ダン・ラザーはかなり長く中東に滞在した。八月十四日には、横須賀を母港とするインディペンデンス号というアメリカの航空母艦から、彼はレポートを送っていた。このときのインディペンデンスは、彼の言葉によれば、「位置は明言出来かねるけれど、ホルムーズ海峡を出た海域のどこかにいる」ということだった。インディペンデンスは一九五〇年代に建造された、八万トンの空母だ。乗組員の数は五千人を越える。戦闘機を七十機はかかえ込むことが可能で、デッキには一千フィートの滑走路がある。都会のなかの建物になぞらえるなら、二十五階建てのビルディングに匹敵する大きさだ。ペルシア湾での戦略にとって、重要な中心となるひとつだった。
このときのインディペンデンスは、すでに臨戦態勢だったのではないか。あるいは、臨戦態勢の一歩手前の状態だ。こういう状態にある八万トンの空母の船体深くもぐり込んで取材すると、戦争という異常事態が生み出す異様なまでに強力なエネルギーの集積と集中に、誰もがかならず圧倒される。空母の内部という、限定され閉ざされた場所では、集積と集中の密度は耐えがたいほどに強い。
インディペンデンスのダウン・ビローで、ダン・ラザーも興奮ぎみだった。「百十度という高温のなかで一日じゅうたいへんな作業が連続しているここは、映画のなかの一場面ではない。トム・クルーズが演じたような役は、ここにはどこにもない」などと彼は言っていた。乗組員の年齢は、十八歳から二十二歳くらいまでが中心だ。その若いクルー・メンバーのひとりが、ラザーからアメリカへのメッセージを求められた。Hi, Mom. Dad. と言ったきり、あとは照れて言葉にならなかった。若くあどけない、頼りなさそうでおだやかな、そしてたいそう純な笑顔で、彼はヴィデオ・カメラのレンズを見ていた。「あなたの知っている人がこの空母に乗り組んでいるなら、どうか手紙を書いてあげてください」と、ラザーはレポートを結んだ。
海上封鎖の様子。クエートにいるアメリカ人たちに向けて、勝手に国境を出ようとするな、と伝えているVOA。サウディからバグダッドまで、F‐15で往復四時間の飛行となる、夜間訓練の様子。ジェット燃料の補給基地としてもっとも近いのはシンガポールであること。ヴァージニア州の基地からサウディまで、F‐15一機の片道の飛行にかかる費用は、二十五万ドルであること。サウディに向かう軍艦が、非常緊急時の最高速度で航行すると、一隻につき五十万ドルも費用が増加すること。
このような途方もない費用の総額を、いったい誰が支払うのか。平和の配当はすべて中東に消えるのではないか。アメリカの本土から十分おきにサウディに到着している、補給のための輸送機。アメリカの米作農業にとってクエートは最大の輸入国だったが、イラクの侵攻によって米が輸出不可能になったこと。典型的な戦車カントリーであるクエートやイラクの砂漠での戦争では、制空権を手にすることが絶対の条件であること。アメリカの偵察衛星はイラクのどのような動きも見逃しはしないはずであること。戦争は何か月も続くとして、米軍の死傷者を国民はどのように受けとめるか。
というようなことが、おなじ日の三十分のニュース番組のなかに、ぎっちりと詰め込まれていた。アメリカの軍事偵察衛星の性能には、恐るべきものがある。僕になぞらえて言うなら、僕が自動車で外出すると、そのことは写真を分析するまでもなく、見ればすぐにわかる。二階のヴェランダで新聞を読めば、もしそれがスポーツ紙なら、少なくとも一面の見出しは、三百キロの上空から衛星のカメラは読み取ってしまう。クエート国境に集結したイラク軍がたいした兵力ではないことは、最初からわかっていた。サウディに攻め込むに足る兵力ではないことも、はっきりしていた。しかしアメリカは、サダムの率いる精鋭の大群がサウディに侵攻しようとしている、と言い続けた。戦争が始まってからは、通称をJスターという、ボーイング702を改造したレーダー機が、戦場の上空を飛んだ。上空からレーダー偵察した地上の様子は、地上のアメリカ軍に送られた。地上でのイラク軍の車輛の動きは、一台ずつくっきりと明瞭に、レーダー・スクリーンに映し出されて、筒抜けだった。
八月のうちに四万七千名のナショナル・ガードが招集された。国家危機の状況下では、大統領はナショナル・ガードに招集をかけることが出来る。しかしそれも二万三千名までであり、それを越える数の場合は議会の承認が必要だ。ナショナル・ガードが四万七千名もコール・アップされるのは、たいへんなことだ。ナショナル・ガードは、陸軍と空軍の、志願による予備兵たちだ。それぞれの州、テリトリー、そしてワシントン特別区にナショナル・ガードのユニットがあり、総勢は五十万名ほどだ。パートタイム・ソルジャーと呼ばれている彼らには、年間に四十八回の演習と二週間のトレーニング・キャンプが、義務づけられている。そして給料が支払われる。本職での収入に加わる別途収入となる。戦争ごっこを中心にした、男たちの同志愛や愛国心の発露などの機会でもあり、平時のナショナル・ガードはなかなか快適だ。
最前線の戦闘要員としては訓練不足だしソフトに過ぎるけれど、本業での専門知識と経験は、兵士としてそれが生かされるなら、たいへんに貴重だ。招集されたナショナル・ガードたちは、ひと言で言うなら、一般市民社会でのそれぞれに重要な現場での、熟練した技術者および責任者たちだ。彼らを安い給料で予備兵としてつなぎとめておけば、いざというとき、ただちに、高度な現場要員を大量に動員することが出来る。
自宅へ夜明けにかかってくる電話一本で、出頭命令が言い渡される。そのまま車で直行し、基地のゲートを入って出頭したなら、その瞬間からはひとりのアメリカ軍兵士であり、兵士としてあらゆる命令に従わなくてはいけない。どこへ配属されるのか、いつ帰ることが出来るのかなど、まったくわからない。本業の収入はゼロになるから、家計は半減以下となる。ローンをかかえていたりすると、その手当てに留守家族は途方に暮れたりもする。招集されるのは男性だけではない。妻や母が、アメリカ兵士として、大量にサウディに向かった。
マサチューセッツ州のナショナル・ガードとして騎兵隊に籍を置いていた、五十七歳のサージャント・ファースト・クラスのレイ・バーソロミューは、かつて陸軍に七年間いたことがあった。年金がつく状態になることをめざして、ナショナル・ガードはすでに十一年続けていた。彼が招集されたとき、取材に来たTVニュースの記者に、彼は所信を次のように述べた。
[#ここから2字下げ]
My commitment to my country is that when I'm needed, I'm ready to go.
(自分が必要とされるときが来れば、出動する用意はいつでも整っているというのが、自分の国に対する自分のコミットメントです)
[#ここで字下げ終わり]
サウディの軍事基地に大量動員され続けたアメリカ軍の中心のひとつに、F‐15というよく知られた新鋭の戦闘機があった。ひと目見ただけではなんのことかわからないのも一興だと思いつつ片仮名で書くと、ファースト・タクティカル・ファイター・ウイング・オヴ・ザ・ユーエス・エア・フォースは、このF‐15を数多くかかえていた。コマンダーのひとり、ジョン・マクブルームという大佐は、ヴェトナム戦争当時の最新鋭機であり、サウディでの戦争準備にも参加したF‐4を、F‐15と比較して次のようなことを言っていた。
「F‐4を車にたとえるなら、一九四九年のシェヴィーですよ。そしていまのF‐15は、たとえるならアキュラやレジェンドです」
そのF‐15にかかわるすべての兵士たちを、TVニュースの記者たちが、たとえば「アメリカン・ファイティング・メン・アンド・ウィメン」と表現し、その映像が若いアメリカの女性兵士だったりすると、そこにきわめてアメリカ的な光景が生まれるのを、僕はTVのスクリーンに興味深く見た。見たところごく普通の若い女性が、F‐15に装着する各種のロケット弾の、メインテナンスや装填の専門技術者であったりする。百数十名の男性部下を従え、楽しげにさえ見える態度で、砂漠の炎天下で作業をこなしていく。アメリカの人たちのみが作り出し得る、徹底して屈託のない、合理的な風とおしの良さのようなものを、彼女たちの姿は感じさせた。
砂漠の現場での発言だったと思うが、ジム・マティスという中佐の次のような言葉が、僕のメモに書きとめてある。
[#ここから2字下げ]
I hope the lessons of Vietnam is not forgotten, but I think the clear cut moral issue, the outrage of the entire world community, leaves no doubt we are the good guys.
(ヴェトナム戦争の苦い体験を忘れていないことを私は願いますけれど、道義上の明確な問題として、世界全体が今回のことに関して怒りを表明しているのですから、今度は私たちが正義の味方であることになんら疑問はありません)
[#ここで字下げ終わり]
当事者として事態の末端に深く巻き込まれている人たちの、典型的な発言の一例だ。自分は当事者ではないし、なんら巻き込まれてもいないとしか思っていない人の典型的な発言は、たとえば、「イラクによるクエートの侵攻は国際法違反であり、人道上も許せない」というようなものとなるだろう。中東の五か国を歴訪中だった当時の日本の外相は、トルコのアンカラでこう発言し、日本へ帰っていった。バグダッドには日本人の人質もいたのだが。
アメリカの町のいたるところに黄色いリボンが結んである光景を、僕はTVニュースの画面のなかに、八月中だけでも何度も見た。戦場におもむいた兵士たちが無事に帰って来ることを祈って、近親者や友人、知人たちが結んだリボンだ。玄関の柱に、郵便受けに、電信柱に、立木の幹に、人々は数多くの黄色いリボンを結んだ。湾岸戦争に関して、TVでもっとも頻繁に見たのは、この黄色いリボンの映像ではなかったか。黄色いリボンを結ぶ行為は、TVニュースによって全米へ広く伝播したのだろう、と僕は思う。銃後であるホームフロントは戦場の兵士たちを全面的に支持しつつ無事な帰還を祈っている、というかたちでの愛国心の表現手段として、黄色いリボンは中心的な役割を果たした。
ひとつひとつのリボンを結んだ人たちのもっとも切実な気持ちは、なんでもいいからとにかく無事に帰って来てほしい、ということであったはずだ。ヴェトナム戦争のときの、続々と死体で帰還する兵士たちの、悪夢としか言いようのない映像は、湾岸戦争では町のいたるところに結ばれた黄色いリボンの映像に変わった。リボンを結ぶこの風習は、南北戦争の頃からあった。当時は緑色で、時代とともに色は変化した。朝鮮戦争のときは白だった、と僕は記憶している。いまはなぜだか黄色だ。
反戦運動の映像を、八月二十八日になって、僕は初めて見た。八月中旬、サンフランシスコのベイ・エリアにある市民団体が二十いくつか参加して、中東でのアメリカによる戦争を阻止する緊急委員会というものを、急いで作った。この委員会がおこなったデモは、二十七日の午後、石油会社シェヴロンの社屋前にいた。戦争反対を訴える人たちが持つプラカードのひとつに、18 males to the gallon. という文句を僕は読んだ。自動車の燃費を言いあらわすための、定型的な言いかたをもじったものだ。日本語にするなら、「戦費はガロン当たり十八人の兵士」とでもなるだろうか。そしてその戦費としての兵士たちだが、地上戦になったときに攻撃の最前線に立つスピアヘッドの海兵隊員たちは、TVニュースの画面のなかで圧倒的に若かった。あどけなく率直な、つまりこの上なく頼りなさそうに見える、少年や青年たちだった。「自分はいま自分がいるべき場所に来ています。やるべきことにそなえて、準備をしています。あとは、あとは……」と、彼らはTVニュースの記者に語っていた。彼ら若い兵士たちに対して、砂漠の強烈な陽ざしのなかで、中年の指揮官が叱咤していた。「あとは実戦あるのみだ。人がばたばた死ぬぞ。めちゃくちゃになるぞ。すさまじいリアリティだぞ。映画じゃないぞ」
若いとは、非常に多くの場合、無知ということだ。無知が言い過ぎなら、世界を知らない、と言い換えておこう。世界のなかで自分の国であるアメリカがなにをしようとしているのか、表向きの大義名分のいちばん外側しか知らないでいる、ということだ。
「日本はアメリカとともにあります」と首相は言った
八月三十一日の夜、国連事務総長デクエヤルと、イラクの外相テリーク・アジズとのあいだに、二回めの会談が二時間にわたっておこなわれた。国連安全保障理事会の決議にもとづいた、イラク軍のクエートからの即時撤退と人質の解放とを、デクエヤルはアジズに要求した。「問題の解決はアラブのなかでなされるべきだ」と、アジズは回答した。言葉と言いかたを選んでいくと、こうとしか言いようがなかったのだろう。そして、そうとしか言いようのないイラクを見越して、国連つまりアメリカは、そのような要求をした。
国連の決議を取りつけたアメリカは、この戦争は西側の先進文明国およびその側につく国々と、孤立する悪のイラクとの対決である、という図式を作り出すことに成功した。世界を守るアメリカの正義という大義名分を押しとおすために、アメリカは国連を介して西側諸国を巻き込み、表面上の体裁を整えた、という見かたは正しいと思う。その向こうに、自信がなかったアメリカ、あるいは自分の弱点をよく知っていたアメリカというものが見える、と僕は思う。
ソ連を相手にした二極対立の冷戦という構図が崩れた直後に、世界で最強の軍事大国としての実力を、アメリカは石油の供給元という現場で、実際に試してみなくてはいけないことになった。経済力におけるアメリカの大きな弱点は、誰でも知っている。途方もない額になるはずの戦費をまかなうためには、西側の連合がどうしても必要だった。インフレーションの年間上昇率が現在は十六・六パーセントである、とアメリカのTVニュースの記者があげる数字を、残暑の夜に僕はメモした。前年の同時期にくらべて、ガソリンの価格は十六・九パーセント上昇し、ホーム・ヒーティング・オイルは三十八・八パーセントの上昇を見たという。オイルとガソリンの価格が上がると、アメリカではかならずリセッションとなるから、今度もきっとそうなるだろう、と経済記者は伝えていた。
石油会社がガソリンの価格を上げることに関して、ブッシュ大統領がTVをとおして語った言葉が、僕のメモのなかにある。彼の言葉は次のとおりだった。
[#ここから2字下げ]
I'm asking the oil companies to do their fair share. They should show restraint, and not abuse today's uncertainties.
(石油各社にも正当な負担的協力を要請してあります。価格に関しては抑制力を発揮してもらわなければいけませんし、現在の不安材料を価格の上昇に結びつけるようなことがあってはいけないのですから)
[#ここで字下げ終わり]
彼のこのような言いかたは、たいへんにソフトだ。意図的にソフトにしてある、と言ってもいい。イラクとサダムに対して彼が使っていた言葉、あるいはアメリカが自由世界の民主と平和を守るのだ、というようなことについて彼が使っていた言葉と比較すると、石油会社に向けたこういう言いかたの柔らかさは、際立ってくる。石油の価格に関して、大統領はエア・フォース・ワンのなかで、記者たちに次のようにも言った。
[#2字下げ] There's nothing we can do on an Opec decision.
この時期のアメリカの市場での原油の価格は、TVニュースの記者が間違っていなければ、一バレルにつき三十一ドルだった。「オペックの価格決定に関して、自分たちアメリカはまったく無力である」という大統領の言葉は、皮肉でもなんでもなく、含蓄に富んでいる。
九月の十日前後だったと思うが、アメリカのTVニュースによる湾岸戦争の報道のなかに、日本が登場するのを、僕としては初めて見た。ケンタッキー選出の民主党下院議員、キャロル・ハバッドが議会でおこなった発言のなかに、次のような一節があった。
[#ここから2字下げ]
The ongoing contemptible tokenism of the Japanese government merits the world's contempt and American hostility. US awaits Japan's commitment to equitably share the international responsibilities of the world power.
(この戦争に関していま日本政府がおこなっている、唾棄すべきほんのおしるし主義は、世界じゅうから軽蔑の対象とされ、アメリカからは敵意の標的とされてしかるべきであります。世界の大国としての、国際的な責任を正しく公正に分担していくことへの彼らのコミットメントを、アメリカは待つものであります)
[#ここで字下げ終わり]
いわゆる日本叩きの、例によって例のごとき発言としてこれをとらえるなら、では叩かれた日本はどう反応すればいいのかという問題が、日本のものとして出てくる。叩かれなければならない理由は、日本にはない。しかし、このさい中立などはあり得ず、だとすればアメリカにつくほかないと判断し、相応のアクションに出た国々に比較すると、日本の反応は国内文脈としての反応であり過ぎた。
湾岸戦争が国外から日本国内に入って来ると、アメリカから要求されている戦費の負担額を国家予算のどこから持って来るかという、大蔵省内部の事務処理へと変質した。中東での戦争は、日本に入ると、家計のやりくりへと変わった。自動車を外国に輸出するときに使う輸送船を、アメリカの軍事車輛を中東へ運ぶ作業にまわしてほしいと頼まれた日本は、船の予定はびっしりとつまっているし、戦地へ出向いてなにかあった場合、誰がどのように保障してくれるのか、と言って日本は断った。アメリカがおこなおうとしている戦争への参加を、日本の会社が業務のつごうで断ったという、記念すべき出来事だった。イラクとクエートを相手にアメリカがなにをしようとしているのか、そのためにアメリカがどのような準備を重ねてきたかについて、日本はどの程度まで知り、どこまで見通していたのだろうか。イラクによるクエートの侵攻が報じられたその日、あるいはその次の日、「日本には、まあ、たいした影響はないだろう」と、日本の首相が言ったという記事を、僕はあとで新聞で読んだ。
アメリカよ、あなたは画策しただろう、その画策に我々は同調しかねる、とはとても言えないなら、とにかくまっさきに、アメリカにとって日本は敵か味方なのかを、はっきりさせるべきだった。最初だから言葉ありきだけでいいわけで、言葉ではっきりと、連合国側であることを、日本は明言すれば良かった。そしてその言葉に、ほかの国には言えない日本独特のものがあったなら、なお良かった。日本のアメリカ軍基地、特に沖縄のそれへの五十年におよぶ深い関与は、日本にとってたいへん有利な事実だったのに。敵か味方なのかはっきりしない状態を、味方であることの言明を避けつつ日本は引き延ばしている、とアメリカは解釈した。戦費が出るのも遅かったようだ。しぶしぶ戦費を少しずつ出した、と一方的に言われた日本は、アメリカにとっては敵とおなじなのだと、アメリカに判断された。戦争が終わってから、日本は敗戦国として扱われた。そのなかには、必死になって調停役を務めようとしてアメリカに嫌われた、ヨルダンもあった。
アメリカが西側の同盟国を国連でまとめ、イラクに軍事的に対抗する連合国軍をたやすく作ることが出来たのは、西側の各国の国益が中東に密度高く集まっていたからだ。西側の国益の、中東における集積を、イラクへの対抗力としてアメリカがリードした。このようなアメリカに、現実問題として日本は相当に一方的に、加担しなければならない位置ないしは状態にある。しかし、アメリカに対する単純で一方的な加担を宣言してしまうと、その宣言は、アメリカにとっての当面の敵への、宣戦布告となる。どちらか一方への完全な加担は、もう一方を無視したり敵にしたりすることへ直接につながっていく。そのような間違いを世界に向けて公表することを避けながら、世界ぜんたいの利益に対して日本は貢献するのだということを、最初にはっきりと具体的に、日本は世界に向けて言えば良かった。
ではその貢献はどのようなものかと言うと、どこからも文句の出てこないものとしては、戦後の復興に役立つあらゆる平和的な技術を提供することしかない。日本はかつての連合国との戦争を、二発もの原爆という人類史上でまだ一度しかない、すさまじい終わりかたで体験している。そしてその終わりかたのなかから復興していき、現在にまでなった。復興にかかわる技術だけではなく、敗戦と復興をとおして学んだことのすべてを、世界に通用する理念として掲げている国なのだということを、湾岸戦争に関する自分の態度として、日本は世界に発信すれば良かった。言いかたにもよるが、これは説得力として最大のものになり得たはずだ。こんなふうに考えていくと、湾岸戦争と日本の憲法の第九条は、ほとんどなんの関係もない。
湾岸戦争が終わったあと、ニューポート・ビーチでのブッシュ大統領との会談で、日本の当時の首相は大統領をジョージと呼び、ジョージ当人と関係者たちを不愉快な気持ちに、あるいは場違いな奇妙な気持ちにさせてなお、「日本はアメリカとともにあります」と、明言した。彼は日本語で言ったから、この言葉の真意をあとで厳しく問いただされたなら、言い訳はなんとでも出来ただろう。しかし英語に翻訳されると、日本はアメリカとともに戦う国であります、という意味に最終的にはまっすぐにつながる。
サウディ・アラビアに到着したアメリカ兵たちの様子は、TVニュースの画面で何度も見ることが出来た。戦争が始まったなら戦闘要員として中心的な役割を果たすはずの彼らの、なんという年齢的な若さであることか。戦闘要員は、訓練がゆき届いていて、なおかつ若く健康でなければ、なんの役にも立たない。したがって彼らは若い。前線へ送られて来た若い兵士たちに、統合参謀本部議長のコリン・パウエルが、砂漠の陽ざしのなかで次のように言っていた。「アメリカとソ連は協力する時代になったんだよ。国連も動き始めたよ。でも世のなかには、まだ悪い奴がいるんだ。ミスタ・サダム・フセインはその悪い奴なんだよ」
TVの映像のなかに見るコリン・パウエルには、最初から最後まで、少しだけだが確実に、不思議な印象があった。映像という微妙な外側だけを見ていた僕の判断としての印象だが、大動員による戦争に対して、不本意ないしは賛成出来かねる気持ちを持っている人、と僕は感じた。こういう雰囲気が彼の持ち味なのかな、とも僕は思った。戦争には彼は正面から反対で、経済制裁そしてあくまでも示威的な軍事動員にのみ賛成していたことを、僕はあとになって知った。
アメリカ軍の最新のハイテク武器、そしてやや旧式あるいは期限切れの武器や弾薬など、ありとあらゆる物資が、すさまじい勢いでサウディ・アラビアに向けて集結されていく様子は、武器というものが人によって見られたとたんに持つ、威圧的な効果というものをあらためて認識させてくれた。その時代の技術のすべてが注ぎ込まれている軍事兵器という現代の最先端が、聖書に描かれている背景といまもなんら変わるところのない砂漠に、大量に持ち込まれた。砂漠に出会ったハイテク、という光景には興味深いものがあった。
海兵隊が使っているハリアーというジャンプ・ジェットは、離着陸のときに使う重要な部分に、故障が続発することがわかった。製作したノースロップ社は、テスト結果に虚偽の報告をしていた事実が判明した。マクドネル・ダグラス社が製作したアパッチという攻撃ヘリコプターは、コンバット・レディの状態に達し得るのが、五十パーセントでしかないことが明らかになった。構造が複雑すぎてメインテナンスに難点が多くあり、故障や作動不良も多発し、根本的なデザインのやり直しが必要だとわかった。経費がかかりすぎるという理由で、設計や製作の段階で手を抜いたことが大きく影響している、ということだった。
砂漠の砂嵐のなかを飛ぶヘリコプターは、視界ゼロの霧のなかに入ったのとおなじような状態となる。空と地表との境界が見えなくなる。敵のレーダーを避けて地上五十フィートほどのところを飛ぶから、砂丘が前方に見えたときにはすでに遅い。回転するローターが強力に巻き上げる砂は、機体と擦れ合って静電気を発生させる。その放電によって、機体ぜんたいは、すっぽりと包み込まれてしまう。放電のさいに発生する明かりで、夜間には乗員は外が見えなくなる。アメリカ軍のヘリコプターは、ハロウィーンまでに七機が墜落した。
ちょうどおなじ頃、アメリカのシカゴでは、八十年以上にわたって存続してきたコミスキー・パークという球場で、そこでの最後のプロ野球の試合がおこなわれた。この球場を本拠地としているシカゴ・ホワイトソックスは、シアトル・マリナーズとの試合を二対一で勝った。球場はすぐに取り壊され、駐車場となった。道路をへだてた向かい側に、ニュー・コミスキー・パークが出来ている。その新しい球場での試合で最初にホームランを打ったのは、阪神タイガースにいたセシル・フィールダーだった。
さらにおなじ頃、カーティス・ルメイが他界した。ベルリンを空襲するにあたって、戦略爆撃という無差別大量殺戮を考え出したアメリカの軍人だ。その考えはベルリンだけではなく、日本にも応用された。きわめて破壊力の強い高性能な爆弾を大量にかかえた巨大な爆撃機が、何度となく敵国の上空に出撃し、あらかじめ狙いをつけた効果のありそうな場所に、爆弾を投下していく。第二次大戦での死者の半分は一般市民だったという事実は、この戦略爆撃が作り出した。「北ヴェトナムには核爆弾を落とし、石器時代へ叩き返してしまえ」という彼の言葉は、記憶しておくといい。
「神の目から見れば」
ブッシュ大統領は、最初からイラクに宣戦布告するつもりだった。しかし、戦争をすると明言する代わりに、史上初のとまで言われたほどの、大動員を続けた。十一月の第一週の終わりには、動員数は四十万に増やされた。海兵隊の三分の二、そして海軍の半分が、そのときすでにサウディ・アラビアにいた。「食わせるだけでもたいへんだよ」と、コリン・パウエルは言っていた。必要とあらば武器を使うということ、つまり示威だけではなく実戦という軍事行動の選択は大前提ではあったが、クエートから出ていかないと戦争だぞ、というメッセージをイラクに伝えるだけにしては、この動員は大き過ぎた。示威というディフェンシヴな動きをはるかに越えて、それは明らかにオフェンシヴな動きだった。
イラクとの戦争は、初めは単なるひとつのプロスペクト、つまり前方に予測し得るもののひとつだった。続いていく大増員のなかで、プロスペクトは事実上の確定へと、急速に変化していった。現場ではクリスマスから三か月ほどの期間が、気候的に見て戦争にもっとも適しているという事実が大動員に重なると、アメリカが軍事攻撃しようとしているのはバグダッドなのではないのか、という推測が語られ始めた。戦争をするつもりなら、ブッシュ大統領ははっきりそう言うべきだ、という意見が出始めたのもこの頃だ。
そしてその頃、ブッシュ大統領は、一例として次のように言っていた。
[#ここから2字下げ]
We are the United States of America. We are standing for principle and that principle must prevail.
(我々はアメリカ合衆国であります。我々は理念とともにあり、その理念を守り抜かなくてはならないのです)
[#ここで字下げ終わり]
あるいは次のようにも言っていた。
[#ここから2字下げ]
Saddam is still playing fun and games with the U.S.A. and not taking the U.S. seriously.
(サダムはアメリカを相手にふざけた態度を取り続けています。アメリカの言うことを真剣に受けとめようとはしていないのです)
[#ここで字下げ終わり]
来るべき選挙にそなえて、共和党のキャンペーンに出た先での、演説の一部分だ。中東の話と愛国心という、誰もが賛成する話題だけを、大統領は取り上げていた。そうすることによって、あらゆる問題を自分がきちんとリードしている印象を、彼は人々にあたえようとした。少しだけ長い射程で見るなら、その行為は彼にとってマイナスとなって返って来ることは、予測出来たはずだが。
十一月三十日の記者会見での大統領の発言も、その一部分が僕のメモのなかにある。次のとおりだ。
[#ここから2字下げ]
Let me assure you should military action be required this will not be another Vietnam. And I pledge to you there will not be murky ending. And I will do my best to bring those kids home without one single shot fired in anger. I want to guarantee each person that their kid whose life is in harms way will have maximum support and will have the best chance to come home alive and will be backed up to their hilt.
(アメリカの軍事行動が必要となった場合には、ヴェトナムの繰り返しにはならないことを私が確約します。曖昧な終結にはならないことも、私はみなさんに誓います。ヴェトナムのときのように、アメリカの若い兵士たちが途方に暮れて射ちまくるというようなことはいっさいなしに、彼らを戦地から帰還させるために、私は最善をつくす所存です。戦地へご子息を送られるかたたちのひとりひとりに、私はお約束申し上げます。ご子息たちは最大限の支援のもとに戦地へおもむきます。無事に生還する率は最大に高め、徹底した支援をほどこします)
[#ここで字下げ終わり]
大統領による、This is not going to go on forever. というワン・センテンスも、僕はメモしておいた。字面の上では、「この状態が永久に続くわけではない」と、彼は言っただけだ。この状態とは、いっこうにアメリカの忠告を聞こうとしないイラクのことだ。アメリカの警告を無視してイラクは挑戦的な態度を取り続けている、というイメージを作り出すための、小さいけれどもそれなりに有効な念押しのひとつだ。アメリカの忍耐にも限界がある、という方向への世論の誘導として、そのような念押しは機能する。その誘導に対しては、忍耐の限界を開戦の理由にしてはいけないという言論が、市民の側からのアクションとして、出てきていた。
大統領の盟友であり、腹心の部下であったジェームズ・ベーカー国務長官の言葉が三とおり、僕のメモのなかにあった。十一月五日の彼の言葉のなかの、exercise any option that might be available という部分。「手に入るであろうオプションのどれをも自由に選んで行使する」と彼は言う。手に入るであろうオプションつまり選択肢とは、政治的あるいは外交的な解決という平和なオプションか経済制裁、さらには軍事行動というオプションであり、結局のところ我々の手に入ることとなった唯一のオプションは軍事行動であった、という結論をあらかじめ彼の言葉は見越していた。
十一月三十日には、アメリカによるイラクに対する軍事行動は、「平和を継続させるためのもっとも優れた方法」The best way to give peace a chance. であると彼は言った。そして十二月七日には、サダムに関して、「彼が正しい選択をするよう願っている」I hope he makes the right choice. と彼は言った。願う、という言葉を使っておけば、現実の事態はどちらとなっても、正当性は自分のほうにある、というしかけだ。彼は正しい選択をし損なった、したがって残念ではあるが我々は軍事行動に訴えるほかない、というわけだ。
一九九一年の一月九日、ジュネーヴで、国務長官はアジズ外相と会談した。そのとき国務長官は、大統領からのサダム宛の親書を、外相に手渡した。アジズは親書を注意深く読んだ。そしてそれの受け取りを拒否した。そのときの彼の言葉は次のとおりだ。
[#2字下げ] I told him I'm sorry I can't receive this letter. The reason is that the language in this letter is not compatible with the language that should be used in correspondence between heads of state.
「この親書のなかの言葉づかいは、ふたつの国の元首のあいだに交わされるものとして、ふさわしいものではない」と、アジズは言っている。よほど強い調子の、つまり威嚇し罵倒する言葉が、親書のなかには意図的につらねてあったのだ。我がほうには核があることを忘れるな、というような言葉もあったという。平和的な解決を模索する大統領からの最後の手段であった親書を、イラクは受け取ることすら拒否した、という状況を作り出すために、親書は意図的にそのような言葉を用いて書かれた。
国防長官が、「サダムが尻尾を巻いてバグダッドに戻るまで」アメリカは手をゆるめない、と発言するのを僕は聞いた。サダムが人質をすべて解放すると、ブッシュ大統領はクエートの惨状について語ることをとおして、サダムをさらに攻撃した。
公聴会でのロバート・マクナマラの発言の一部分が、僕のメモのなかにある。ここに採録しておこう。当時のマクナマラは、ヴェトナムで犯した失敗について、すでに充分に自覚していた。その自覚のなかからだろう、彼は次のように言った。
[#ここから2字下げ]
Who can doubt that a year of blockade will be cheaper than a wake of war. The point is it's going to be bloody. There's going to be thousands and thousands and thousands of casualties, particularly for the U.S. but also for Iraq. And there's going to be destabilization politically, economically and militarily in that area. We are going to live in caos.
(軍事行動よりも一年間の経済封鎖のほうがはるかに安くあがることは、誰の目にも明らかです。軍事行動をおこせば血まみれになるというのが、最大の問題点です。何千、何万という数の死傷者が出ます。特にアメリカにとってそうですが、イラクにとってもおなじです。そして中東には、そのような軍事行動の結果としての、政治的な経済的な、そして軍事的な不安定状況がもたらされるのです。我々は深い混迷のなかを生きることとなります)
[#ここで字下げ終わり]
ヴェトナム戦争が続いていたあいだ、当時の国防長官だったロバート・マクナマラは、アメリカが勝つということにかけてもっとも自信に満ちた主戦派の中心だった。アメリカは負けるかもしれない、この戦争は失敗だったかもしれない、といった懐疑の念に対して、マクナマラは徹底して挑戦的であり続けた。あらゆる反対をしりぞけ、彼は戦争を最大限に遂行した。しかし、じつはそのあいだずっと、彼はヴェトナム戦争に関してきわめて悲観的な考えを、内面に持っていた。その内面を、二十年以上にわたって、彼は隠し続けた。
アーサー・シュレジンジャーは、「中東についてアメリカはなにひとつ知らない。制裁をゆっくりおこなうのが、もっとも正しい」と、発言した。世界が初めて見るほどの大動員が続いていくなかで、かならず戦争になるという考えかたが主流となっていき、それにともなって慎重論が登場してきた。慎重論のなかでもっとも大衆感情に近かったのは、マクナマラが言ったように、アメリカ兵の戦死者数がどのくらいになるかという推測だった。
戦死者の推定は、casualty estimate と言う。戦死者にはいろんな言いかたがあるが、生々しい感じを出来るかぎり削ぎ落とした言いかたとしては、たとえばpersonnel loses という言いかたがある。予想される戦死者が多過ぎるためこの戦争は引き合わない、というようなことを言いあらわすには、too costly in terms of manpower というふうに言葉をつなげる。もっとも単純にはhigh casualty と言えば充分だが、それだと心理的な衝撃が大き過ぎる。だから言葉数を多くして言い換える。
戦死者数の予測について討議がなされた議会で、「わずか数百名の戦死者」only a few hundred American casualties という言いかたをめぐって、議員たちは議論していた。only とはいったいなになのか、という議論だ。戦死した兵士の家族にとって、only という言葉はいっさい肯定的な意味は持たないという、根源的な意見には興味深いものがあった。
死傷者は軽微、という意味の英語の言いかたは、light casualty だ。軽微とは言いがたいときには、heavy あるいはhigh casualty という反対語がある。しかしheavy へいくまでにもうひとつ、heavier という便利な言いかたがある。軽微であることを越えた範囲での、より多い死傷者の可能性を、この比較級の単語は意味している。
light であるかheavy であるかは後の問題として、casualty とはいったいなになのかという根源的な問題も、アメリカでは討議された。戦地で戦死したまま、生きては二度と戻って来ることのない、十九歳から二十四歳くらいまでの青年たち、それがカジュアルティだ。カジュアルティという言葉の具体的意味が、命を失った人という、それ以上にはもはやどうすることも不可能な、問答無用な確固たる現実であるとき、light だのheavy だのという形容語を使うことにいったいどれほどの意味があるというのか、と人々は議論した。若い兵士が大量に死んでいく地上戦をともなった従来どおりの戦争を、アメリカはもはや出来なくなった、という意味だ。
豊かな先進文明国の、豊かな先進性は、厚みのある広い範囲での経済活動によって、作り出され支えられている。国のなかでも外でも、長期間にわたって平和が維持されないと、そのような経済活動の維持と拡大は不可能だ。貧しい後進国では、内外に深刻な紛争がほとんど常にある。宗教が近代化の足を引っぱり、紛争のもととなり、民衆はあっけなく兵士として動員され、死んでいく。軍備に国の資金は消えていく。生産のためには人も物もまわらず、生活の水準は落ちていくいっぽうとなる。豊かな国がその豊かさを維持していくために、ときとして戦死者というコストを払おうとする。豊かな国は、では貧しい国を救うために、どのようなコストを払う用意があるのか。クリスマスが近くなるにつれて、アメリカではこのような議論も、TVをとおして人々に伝えられた。
アメリカが発表した数字によるなら、クエートへの侵略とその全土の制圧のためにイラクが動員した兵士は、五十三万名ということだった。すさまじい攻撃力を暗示するには、充分すぎるほどの数だ。クエートを制圧したまま、撤退に関するアメリカの警告を聞こうとせず、自由世界ぜんたいを相手に、弁解の余地のまったくない軍事暴力を行使し続けようとするイラク、というイメージは急速に出来上がっていった。あまりにもそのイメージが出来上がりすぎると、フセインという男はちょっと馬鹿なのではないか、と人々は思い始めた。
けっして馬鹿ではないサダムについて、ブッシュ大統領は、「この男はなにを考えているのか、よくわからないよ」I can't figure this man out. と言った。ジュネーヴで国務長官がアジズ外相と会っていることに関しては、One last attempt to go the last mile. と、大統領は表現した。平和的解決のための外交的な努力の最後のものであるこの話し合いが決裂したならそれが最後通牒となる、というような意味の発言だと思っていい。
報道官がなにを言ってもたいしたことはないが、マーリン・フィッツウオーター報道官は、イラクに対するアメリカの態度を、no negotiations, no compromise, no attempt at face・saving and no awards for aggression. と、表現した。「早くに戦争となるだろう。すべてをやりつくしたあとの、それは最後の手段だ」と、ジョージ・ミッチェルは発言した。「戦争という最終的な手段を採択する前に、経済制裁を徹底的にやりつくすべきだ」という発言は、リチャード・ゲプハート上院議員のものだ。「すでに我々はルビコンの河を渡った。戦争になるかどうかではなく、その戦争に勝つかどうかが、最重要な問題だ」と、ヴァーモント州選出のパトリック・リーヒィー議員は発言した。「イラクがクエートから撤退しなければ、イラクは壊滅的な結果を迎えることとなる」と、国務長官は言った。一月の初め頃には、アメリカ議会はまだ戦争に関して懐疑的だった。
国連の事務総長はOnly God knows if there will be war or peace. と言い、国務長官は、国連がきめた一月十五日という撤退期限について、serious deadline, very, very real deadline と、十三日に言っていた。リアルとシリアスとの対比が興味深い。リアルとシリアスとは、同義語だ。と言うよりも、シリアスをさらにふくらませた上での同義語が、リアルなのだ。There is a fatal moment when one must act, and this moment, alas, has arrived. と、フランスの首相は、撤退期限の日に所感を述べた。
Just to save face, he has to do something. So something is coming. とノーマン・シュワルツコフは言い、一月十五日の『イーヴニング・ニュース』の最後で、サンフランシスコのアメリカ軍基地に暮れていく冬の陽の映像にかぶせて、No one knows what next sunrise may bring. と、記者は言った。
一月十七日、イラク軍に対する連合軍の戦闘が開始された。その戦争は「砂漠の嵐」と命名された。三十一日、カフジという場所での攻防戦で、アメリカ軍に初の戦死者が出た。二月十三日にはバグダッドが爆撃された。十八日にはゴルバチョフが新たな和平の提案をした。邪魔くさい、とはっきり言ったも同然に、二月二十二日、ブッシュ大統領は、クエートからのイラク軍の撤退期限を二十三日ときめた。このような期限はいわゆる物理的に不可能というものであり、二十四日、地上戦が始まった。二十六日にサダムはクエートからの撤退を自分の軍隊に命じた。その日にクエートは解放され、二十七日にブッシュ大統領は勝利と停戦を宣言した。
一月三十日にブッシュ大統領がおこなった国家教書のスピーチのなかに、「リーダーが背負うもの」burden of leadership という言葉があった。リーダーとはアメリカであり、背負うものとは、おなじスピーチのなかでの彼の言葉によれば、the moral standing and the means to back it up ということだった。
フランクリン・デラノ・ロウザヴェルトの孫にあたる、アン・ロウザヴェルトという女性が、大統領が言ってきたこと、そしてその頃まだ言っていたことすべてに対する、反対意見のスピーチをおこなった。淡々と言葉を積み重ねていく様子は、たとえば二月十日にサダムが言った、「神の目から見ればすでにイラクは勝利している」という言葉と、対等であるように僕には見えた。まったく対等ではなかったのは、つまりかなり下位に位置せざるを得ないと僕が感じたのは、二月十一日にブッシュ大統領が言った次のような言葉だ。
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I've always felt confident we are on the right path. I feel even more so now.
(自分たちのめざしている方向は正しいのだと、私はいつも自信を持っていました。その自信はいまいっそう強くなっています)
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仕事をすませて家へ帰ろう
十二月七日に日本で放映されたCBS『イーヴニング・ニュース』のなかに、大量に招集されたナショナル・ガードが、彼らのコミュニティである小さな町から出動していく様子をとらえた部分があった。これは本当に良く出来ていた。秀逸だった。まるで映画のようだった。この取材テープのここからはこの部分、そのテープからはここ、というふうに的確に選び出したものを、ものすごく自然な流れのなかで、きわめて巧みにつないだものに、全篇にわたって記者の語りが重なっていた。要所要所では、息子が招集された老いた父親、小学校の歴史の先生、ヴェトナム戦争のヴェテランたち、夫が招集された妻などの声が、拾ってあった。
日本の映画用語で言うところのカット割りを、内容とともに細かく正確にメモしておけば良かった、といま僕は軽く後悔している。全体は映像による短篇小説のようだった。上質の情緒がぜんたいを明確につらぬいていく様子は、感動的ですらあった。見事な出来ばえだった。こういうものを作らせると、アメリカの人たちはうまい。なんということもない平凡な状況と材料なのだが、そこから感動的な映像短篇を彼らは作り出す。いざとなれば誰もが強固に共有することの出来る精神的な支柱、つまり世界のどこに対してもおなじように主張することの出来る、明確な歴史観がそのようなものを彼らに作らせる。
その町から出動していくナショナル・ガードたちは、何台かのトラックに分乗していた。トラックは列を作っていた。コンヴォイだ。かなりの数の人たちが招集されたのだろう。映像によるレポートは、このコンヴォイが出発する日の朝の情景を、中心にしていた。見送りの人たちが、旗を持って外に出ている。幼い子供を抱き上げて別れを惜しんでいる、いまはもう軍服姿のお父さん。複雑な感情の高まりを抑制しようと努めている、初老となっているヴェトナム・ヴェテランたち。道からはずれて少しだけ高くなったところにトラクターを停め、その単座のシートにすわって息子を見送る七十二歳の父親。トラックの列は出発する。見送りの人たちと合わせて、ぜんたいの光景はなにかのパレードのようだ。妻の車がコンヴォイを追いかけて来る。トラックの列を停め、トラックを降り、軍服姿の夫は彼女ともう一度だけ抱き合う。
ヒューマンなタッチ、などと日本語では表現される世界だ。しかしそのヒューマンなタッチは、世界で最強の攻撃力を持った軍隊が、戦後から数えても五十年間にわたって、ひたすら拡大されるなかで維持され続けてきたという、おそろしく硬質な事実が支えている。国のなかの小さな町、つまりコミュニティ。そのコミュニティを構成するいくつもの家族。ファミリーと国と愛国心。それらがひとつに溶け合って、思いっきり高まる機会、それがアメリカの人たちにとっては、戦争というものだ。
ジョージア州のハインツヴィルという町のレポートも、僕は見た。この町は、陸軍の基地があることによって成立している町だ。アメリカにはこのような町がたくさんある。湾岸戦争に招集されて、町から男たちつまり兵士たちが、ごっそりといなくなってしまった。残された女性たちが毎日の生活を支え、維持していかなくてはならない。陸軍の基地の町だけに、いったん戦争となったらいつ終わるかわからない、という思いは深い。高校では中東の歴史や地理を教える科目が新設された。出動した兵士たち、つまり学校で学ぶ生徒たちの親が、大量に戦死するという最悪の事態にそなえて、親を失った生徒たちの悲しみのカウンセリングの準備を学校は開始した。
第二次世界大戦以来のものだというスケールの動員を、TVニュースの画面のなかに見ているだけでも、アメリカ国内からだけではなく世界じゅうのアメリカ軍基地から、およそありとあらゆる兵器がサウディ・アラビアに集結していったことは、よくわかった。有事緊急展開の日本の基地から、戦艦や弾薬が現地へ出ていった。日本にある基地は、最終的には攻撃力に結びつく。そしてその攻撃力は、日本の人たちが普通に思い描いているよりも、はるかに強く高い。日本という外国のなかにある、アメリカ軍による軍事攻撃の、最前線だと思ったほうがいい。
イラク軍の戦闘能力がどの程度であるのか、アメリカ軍は正確に知っていたはずだ。まったくたいしたことはない、と判断するのが世界の常識だとするなら、アメリカ軍がおこなった動員は、常識をはずれていたと言っていい。イラクとの戦争は、戦争であると同時に、おなじスケールで、そしてひょっとしたらそれを越えて、実弾演習や実弾実験でもあったのではないか。アメリカの全軍がそこに参加した。やや旧式の兵器や期限切れの迫った弾薬類は、いっきょにそこで始末出来た。新しい兵器にとっては、実戦で使ってみるという、最高の機会となった。たとえばM‐1戦車は、それまで実戦では使ったことがなかった。巡航ミサイルのトマホークもそうだ。横須賀からはトマホーク装備艦であるバンカーヒルやファイフが出動した。LAVという軽装甲車両は、時速六十マイルから七十マイルという機動性が能力の中心となった、偵察用の車輛だ。戦車部隊と戦う役ではなく、アメリカの海兵隊にとってはまだ実戦で試されたことのない、新しいコンセプトだった。
イオージーマ(硫黄島)という名のアメリカの軍艦は、メインテナンスを重ねて三十年を生きてきた、このタイプとしては最古のヘリコプター・キャリアーだ。ボイラー・ルームで高圧の蒸気のとおる部分が破裂し、十名の兵士が命を落とした。昼間の砂漠では、トラックで移動していた海兵隊員が、友軍に射たれて死亡した。ハロウィーンまでに墜落した八機のアメリカ軍のヘリコプターのうち、七機は夜に落ちた。いくら夜間暗視装置があっても、なにもない砂漠のなかでは周辺視界はゼロとおなじだ。海と空の区別がつかず、海に突っ込むというようなことが起こった。戦争の準備は、明らかに戦争の一部分だ。動員はすでに実戦だった。
ナッソーという航空母艦では、クエートへの上陸にそなえて、オマーンで上陸演習がおこなわれた。砲撃とエア・カヴァーの下を、戦車を積んだホーヴァー・クラフトが、海の波の上を陸へ向かって走った。このような光景を、ハードウエアの機能する典型的な光景だとすると、ウィスコンシンという軍艦から四十五日めに踏む陸として、兵士の一部がサウディに上陸する光景は、ソフトウエアの最底辺の光景だ。限定された区域を兵士たちは笑いながら陽気に歩き、二杯までという制限つきのビールを楽しんだ。
夜の砂漠へ訓練に出た戦車は、しばしば迷子になった。砂漠には目標となるものがない。砂の広がりがあるだけだ。つらなる起伏は見当をすぐに狂わせる。夜ともなるとなおさらだ。海兵隊は迷子にならないと言われているが、GNS(グローバル・ナヴィゲーション・システム)のレシーヴァーが支給されるまでは、動きがとれなかった。レシーヴァーがあれば、砂漠の上空の衛星から発信される地理的なインフォメーションによって、正確な行動が可能になる。レシーヴァーを寄付してください、と民間の企業宛てに手紙を書いている海兵隊員が、ニュースの画面に登場した。軍からの正式な支給の予定は、ずっとあとだったという。
ヨーロッパからサウディの砂漠へ移動した戦車隊の兵士たち全員が、遺書を書いている場面も僕はニュースで見た。動員とひと口に言うが、じつは極大から極小まで、俯瞰すると気が遠くなるような、複雑で多岐におよぶ大事業だ。ヨーロッパから砂漠へ移動したなら、現地の気候に体を順応させるクライマタイゼーションの訓練が必要だ。アメリカにとって第二次大戦以来の動員であるとは、人類にとって少なくとも現代や近代においては、史上最大の動員であることを意味する。十二月いっぱいまでに四十数名のアメリカ兵が、事故で死亡した。動員には事故はつきものだ。第八十二空挺師団という精鋭の兵士たちに向かって、ポール・トロッティという中佐が、ニュース報道の画面のなかで、次のように言っていた。
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It's a dangerous business. If you can't do it in peace time, then you are going to shoot your own men in war time.
(危険な世界だよ。普段ちゃんと出来ない奴は、戦場では間違えて友軍を射ったりするんだ)
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中東へすでに到着しているアメリカ兵たちは、実戦が始まってからのいざというときにそなえて、訓練のときには節約のために実弾を使用せず、子供の戦争ごっこさながらに、バング、バング、バングと口で射撃音を真似ながら訓練しているという、ちょっと信じがたい不思議な報道も僕は見た。「こういうことをやってると、勘は鈍りますよ」と、兵士のひとりは言っていた。飛行機から地上を機銃掃射するときにも、パイロットが口真似する射撃音をマイクで拾い、スピーカーで地上に向けて放っている、とその報道は伝えていた。第二次大戦ではロンメル将軍と対峙した、イギリスのあの有名な砂漠の鼠と呼ばれた部隊の名をそのままいまも引き継いでいる部隊が中東に来ていて、彼等は訓練時にも実弾を豊富に使っている、とそのニュースは伝えた。冗談である可能性もなくはないが、おそらく本当なのだろう。だとしたらその状況はブラック・ユーモアに到達している、と僕は思う。
湾岸戦争という戦争のなかのブラック・ユーモアでもっとも面白いのは、ジャン・ボードリヤールが『湾岸戦争は起こらなかった』(邦訳は紀伊國屋書店出版部)のなかで書いていた、次のような状況だ。前線でイギリスの砲兵隊が二十四時間ぶっとおしで砲撃を続けている。砲撃目標地点には、破壊すべき攻撃目標など、なにひとつない。前線に向けて接近中の機甲部隊の音を消すために、砲撃を続けているのだ。前線、つまり敵兵に向けて、機甲部隊は接近していきつつあるのだが、その敵兵はとっくに逃亡してしまって、前線にはもはや誰ひとりいない。
インディアナ州のマディスンというところにある、アメリカ軍の弾薬テスト場についての報道を、僕はいまも記憶している。広大な土地の全域が、長い期間にわたって、あらゆる弾丸や弾薬のテスト場として機能してきた。しかし経費節約のため、このテスト場はまもなく閉鎖されるという。閉鎖するのはいいとして、広い敷地ぜんたいに不発弾がいくつあるか誰にもわからない、という状況があとに残る。テストで射ち込み、不発だった弾丸はそのままに放置してある。敷地ぜんたいを安全な土地にするためのテクノロジーは、いまのところ皆無だ。こうしたテスト場を閉鎖すると、正式に軍に支給される弾薬のなかに、基準を満たさない不良品が増えるのではないか、と担当者は語っていた。
中東のアメリカ兵に向けて、本国のたとえば家族たちから、大量の郵便物が届く。仕分けして配達するのがたいへんであり、作業は大幅に遅れている、というようなレポートもあった。おりからクリスマスのシーズンだった。We love you, Dad. などと大きく書いたパッケージの山が、砂漠の陽光のなかで文字どおり山を作っていた。アメリカ本土からサウディへの、AT&Tの電話代は一分につき一ドル六十セントだった。通話は一回十五分の制限つきだ。料金の半分はサウディに対して支払う、とAT&Tは言っていた。衛星を使って直接に送っても、代金の半分はサウディに払うということだった。サウディへ出動した夫と何度か電話で連絡を取り合った奥さんが、その電話代がいまの私には払えない、とニュース画面のなかで言っていた。AT&Tにとって、湾岸戦争にかかわる収支は、いわゆるとんとんだったそうだ。
フランスからは外人部隊もサウディに来ていた。この部隊には日本人も多い、とアメリカのTVニュースはレポートしていた。イギリスからは、さきほども書いた砂漠の鼠が来ていた。人はもちろん違うが、第二次大戦のときの砂漠の鼠とおなじ部隊だ。チャレンジャー戦車の彼らは、M‐1のアメリカ兵にくらべると、ずいぶんと雰囲気が異なっていた。イギリスの彼らは、フランスからの部隊とおなじく、静かであり、抑制が効いていた。沈着そうな様子のなかに、アメリカ的に浮いたものがなかった。違うというなら、アメリカ兵たちも、たとえば第二次大戦や朝鮮戦争の頃にくらべると、ずいぶん違っていた。体つき、動きかた、ヘルメット、軍服、装備の持ちかたなどで、昔のアメリカ兵たちは、遠くからでもひと目でアメリカ兵だとわかった。いまは、たとえば体型がじつにさまざまだ。昔は白人という枠のなかでのさまざまな体型だったが、現在は白人以外のいくつもの人種が混在するなかでの、文字どおりさまざまな体型だ。
アラブの人たちは一日に五回、祈る。兵士たちでもそのことに変わりはない。彼らにとってはイスラムが唯一の宗教だ。他はすべて異教徒だ。異教徒とは、あってはならない存在のことだ。征服し、殺してようやく、異教徒は他者となる。征服することも殺すことも出来ない場合は、異教徒は一時的に招き入れられた客人だ。兵士であることを抜きにして考えると、サウディに出動したアメリカ兵たちは、一時的に滞在して仕事をしている労働者たちだ。
十字架やスター・オヴ・デイヴィッドは目につかないようにしておくこと、という通達がアメリカの兵士たちに出された。女性兵士が立ち混じるなど、アラブの人たちにとってはとんでもないことだった。テントのなかでおこなわれる礼拝や説教は、アメリカ軍の基地の内部に限定された。軍隊つきの牧師は、たとえばチャプレンやミニスターという伝統的な言いかたから、モラール・オフィサーなどと、呼びかたが一時的に変更された。
それでも、とにかく、どちらの側の兵士たちも、それぞれの神に祈った。戦闘機のパイロットたちは、砂漠のテントのなかで、バイブル・スタディのクラスを欠かさなかった。最終的には誰もが祈るほかなかった。兵士たちも、そして母国に残された家族や親族、友人や知人、そして顔も名前も知らない人たちも、兵士たちの無事を祈った。祈るという行為の背後にある宗教感情は、神という唯一絶対の人を介して、おたがいが少なくともそのときは、結ばれてあるということだ。
母国を遠く離れた異教徒の国での、制約の多いクリスマスを、アメリカの兵士たちは過ごした。母国の軍事基地のゲートには、アメリカの兵士たちに祈りを、という意味の言葉を書いた看板が掲げられた。そのクリスマスに、メリー・クリスマスの言葉や感情とともに、サウディのアメリカ兵に届けられたのは、たとえば母国にいる父親からの、Go get them! という、少なくともアメリカ的な文脈では普遍性のある言葉だった。戦闘機のパイロットであるダニーという息子の姿を、自宅の居間のTVのスクリーンに見ながら、彼の父親がスクリーンに向かってそう言っていた。そのような言葉を受ける兵士たちのほうでも、To go and get the job done. That's what we are here for. という言葉でおたがいを確認し合っていた。
クリスマスは過ぎ去り、砂漠のなかでは中年の将校が若い兵士たちに向かって、一例として次のように叱咤した。「実戦になってとことん最後のどたん場に身を置いたら、敵と戦うのは愛国心のためじゃないんだよ。お母さんのためでも、アップル・パイのためでもないんだ。サラ・リーなんてどうでもいい、すぐかたわらにいる戦友たちのために、誰もが戦うんだ」
そのような若い兵士たちに、再び取材に来たCBSのダン・ラザーが、いまの気持ち、というやつを聞いてまわった。世界経済が独裁者の手に落ちるとか、自分の国のためには戦うほかないとか、平凡な感想を述べる彼らのなかに、「私個人としては、ほんとのことを言って、納得はいってないです」I myself don't see the point. Tell you the truth. と答える若いGIがいたりもした。
大統領の得点
二月二十六日、サダムが自分の軍隊にクエートからの撤退を命じた日、そして連合軍がクエートを解放した日、ブッシュ大統領が語ったことのなかに、次のような部分があった。
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The liberation of Kuwait is on course and on schedule, and we have the initiative. We intend to keep it. We must guard against euphoria. There are battles yet to come, and casualties to be borne.
(クエートの解放は作戦どおりそして予定どおりに進行していて、我がほうが主導権を握っています。主導権を敵に渡すことはあり得ません。戦いはまだ続くでしょう。受けとめなければならない死傷者も出るはずです)
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さらには次のような部分もあった。
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Our success in the Gulf will bring with it not just a new opportunity for peace and stability in a critical part of the world, but a chance to build a new world order based upon the principles of collective security and the rule of law.
(湾岸における我らが勝利は、世界ぜんたいにとって致命的な地域に平和と安定をもたらすだけではなく、集団の安全保障と法による支配という土台の上に、新たなる世界秩序を作っていく機会をも、もたらすのです)
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このときブッシュ大統領がアメリカ国内で獲得していた支持率は、八十七パーセントという高い率だった。第二次大戦がヨーロッパで終結した直後の、トルーマン大統領に対する支持率とおなじだ。ブッシュ大統領の支持率はこのあとさらに高まり、九十パーセントを越えた。
いま僕が引用した後半の部分に、ニュー・ワールド・オーダーつまり世界の新しい秩序という言葉がある。冷戦という巨大な構図が消えたあと、世界には局地紛争が多発していく。さまざまに複雑な背景を持ったいくつもの局地紛争のうち、アメリカにとって死活的な意味を持つものに関しては、アメリカは紛争を力ずくでも抑えていく。そしてそのような意味を持たない局地紛争については、興味を示さずしたがって行動もおこさない、というのがアメリカにとっての新しい世界秩序であることを読み取った人たちが、九十パーセントを越えた大統領の支持率のなかに、どれくらい存在しただろうか。
二月二十七日、ブッシュ大統領が湾岸戦争の停戦と勝利を宣言した日、クエートから中継されたアメリカ国内向けのTVニュースの、冒頭のひと言は、They have been given a job, and they have done it. というワン・センテンスだった。CBSのダン・ラザーはクエートにいた。「クエートの人たちから私は礼を言われたが、それはきまり悪く、居心地のけっして良くはない気持ちだった」と、彼はカメラに向かって言っていた。そして彼は次のように言葉を続けた。
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The press did not win the war, but since we had to accept the thanks, we'll just pass it on to those who really earned it――Dhe men and women of U.S. armed forces, their lives and their commanders. Thank you.
(報道機関が戦いを勝ち取ったのではありません。私たちがクエートの人たちから受けとめた感謝の気持ちは、真にそれを受けるに値する人たちへ、手渡したいと思います。その人たちとは、アメリカ軍の兵士たちであり、彼らの命、そして指揮官たちであります。ありがとう、と私たちは彼らに言います)
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まだ停戦前だったと思うが、戦況について伝える記者会見でアーノルド・シュワルツコフはいつもの調子で次のように語り、記者たちを笑わせていた。
「サダムは戦術家ではないですよ。戦略家でもないですね。将軍でもありません。さらに言うなら、彼は一介の兵士ですらないんです。彼は、なんでもないんです。そしてそれ以外の点においては、彼は偉大なる軍人と言っていいですね」
ニュース番組のなかで、アメリカの女性記者が次のようなことを語るのを、僕は聞いた。「イラクがサウディに向けて射ったミサイルが、アメリカ軍のパトリオットで射ち落とされたときには、フットボールの試合でタッチダウンがおこなわれたときとおなじ歓声が上がりました」
スポーツへのアナロジーは、この湾岸戦争をめぐるアメリカの人たちの言葉のなかに、たくさんあった。国防長官のリチャード・チェイニーは、停戦前のいつだったか、次のように言った。
[#ここから2字下げ]
A military operation of this intensity and complexity cannot be scored every evening like a college track meet or a baseball game.
(これほどに密度の高いしかも複雑な軍事行動ですから、その成果をまるで陸上競技や野球の試合の結果のように、点数で毎日あらわすことなんて不可能なのです)
[#ここで字下げ終わり]
野球の試合ではあるまいし、スコアをつけては一日ごとにかたづけていくというわけにはいかないですよ、というわけだ。
湾岸戦争をスポーツになぞらえるとしたら、それはフットボールしかないだろう。フットボールは勝たなければなんの意味もないスポーツだ。勝つためにするスポーツ、それがフットボールだ。湾岸戦争も、勝つためにする戦争だった。徹底した職能制にもとづく精鋭たちが、おなじく徹底した分業のなかで、攻守のための動きを分担する。動きは同時多発的であり、その動きのすべてを律しているのは、作戦とフォーメーションだ。ランニング・バックが敵陣へ深く入っていくタイミングに完璧に同調させて、クオーターバックは正確無比なロング・パスをきめる。敵陣に入りきっているランニング・バックはそれをレシーヴし、強力に走り抜いてタッチダウンする。砂漠のイラク軍だけではなく、かつての太平洋の日本軍も、アメリカ軍のおなじような作戦とフォーメーションに取り込まれ、完敗を重ねていったではないか。
砂漠での戦争に向けてアメリカ軍の動員が巨大に高まっていきつつあった頃、『ニューズウイーク』のアメリカ版を読んでいたら、ブッシュ大統領を田舎の高校のフットボール・コーチに、そしてサダムを昔のハリウッドの中東ものの時代劇に出てくる邪悪な異教の暴君に、それぞれなぞらえている一ページの文章があった。湾岸戦争に関してアメリカが使っている言葉からアナロジーの対象をさぐり出してイメージすると、ブッシュはこうなりサダムはこのようである、という趣旨の文章だったと僕は記憶している。
アメリカ兵の母国への帰還が始まった頃、まもなく帰っていくセヴンス・アーミーの兵士たちを前にしてシュワルツコフがおこなったスピーチのなかに、次のような一節があった。
[#ここから2字下げ]
It's hard for me to put into words how proud I am of you. How proud I've been to be the commander of their force. I'm proud of you. Your country is proud of you. The world is proud of you. God bless you, and God speed your trip back home. God bless America.
(私がきみたちをどれほど誇りに思っているか、言葉で言いあらわすのは難しい。指揮官である私がいかにきみたちを誇りに思うか。きみたちは私の誇りだ。きみたちは国の誇りだ。世界じゅうがきみたちを誇りに思っている。帰還の旅に神の加護がありますように。神がアメリカを祝福されんことを)
[#ここで字下げ終わり]
帰って来た兵士たちを迎える基地の式典に参加して、ブッシュ大統領もスピーチをおこなった。感情の高まりと、高まったところでの一致を目的としたこのような式典を、大統領は早くも政治集会として理解し、巧みに利用しようとしていたのではなかったか。政治集会とは、次の大統領選挙のための、選挙運動の一端ということだ。フォート・サムターという基地での彼のスピーチのなかから、一節を僕はメモしておいた。
[#ここから2字下げ]
You not only helped liberate Kuwait, you helped this country liberate itself from old ghosts and doubts. No one in the whole world doubts us any more.
(あなたがたはクエートを解放しただけではない。いまだに立ちあらわれる亡霊や疑念から、あなたがたは我々を解き放ってくれた。我々の戦いの正当性を疑う者は、もはや世界にひとりもいない)
[#ここで字下げ終わり]
大統領は拍手大喝采を受けていた。この一節の後段は、ヴェトナムについてだ。古い亡霊と懐疑の念という言葉、そしてそれに続く、私たちに疑念をはさむ人は世界のどこにももういないのです、というような言葉は、いわゆるヴェトナム・シンドロームを受けたものだ。湾岸戦争の勝利によって、ヴェトナムの後遺症も一掃に近いかたちで払拭されるという期待感を、兵士の帰還の場に重ねて、大統領は人々に提供した。それに対する人々からの拍手は、少なくともそのときは、大統領にとっての得点だった。
帰って来る死体の映像
湾岸戦争の主としてTVによる報道の基本方針について、No pictures of returning bodies this time. という言いかたがなされるのを、僕は八月のうちに、少なくともまだ季節的に暑いうちに、アメリカのTVニュースで聞いたと記憶している。「今回」とは、ヴェトナム戦争を前回に位置させた上での、今回だ。そして「帰って来る死体の映像」とは、戦死した兵士たちの遺体が金属製の容器に収められ、輸送機で太平洋を越えてカリフォルニアの基地に戻って来る様子、あるいは現地で輸送機に積み込まれたりする光景をとらえた映像を意味している。
ヴェトナム戦争のときには、報道関係者による現場の取材は、ほとんど自由だった。危険を承知なら、取材をする人は、どこへでもいくことが出来た。撮影も自由だった。その結果として、戦場という現場から、戦争によって生まれるありとあらゆる破壊の映像が、検閲なしで、雑誌に掲載される写真として、あるいはTVで放映される実写フィルム映像として、社会に向けて大量に放たれることとなった。
あの戦争の戦場で、どこが最前線なのか特定することは、常に不可能に近かった。いたるところに、そして思いもかけない場所に、それがごく当然のことのように、最前線は存在していた。出かけていけば至近距離でかならず猛烈な戦闘になることがわかりきっている場所にでも、取材者はカメラ・クルーとともに出向いていくことが自由に出来た。軍の車輛やヘリコプターにヒッチ・ハイクの感覚で乗り込み、現場に到着したら上官のひとりにも挨拶すれば、そこから先の行動は自由だった。
ジャングルのなかで作戦行動している兵士たちとともに進んでいき、たとえば休憩時に、兵士たちの様子や会話をフィルムで撮影する。遅くとも二日遅れほどで、そのフィルムはアメリカ国内のTVニュースの材料となる。居間で夜のニュースを見ている人たちは、ジャングルのアメリカ兵のなかに、知った顔を見つける。「あそこの家の、あの息子さん」と指さして驚くことはしばしばあったし、「あ、うちの息子!」という劇的な場合もあった。
休憩は終わり、兵士たちの行動は再開される。丈の高い熱帯の草のなかを、どこへとも知れずに歩いていくと、突然、前方のジャングルから、彼らは銃撃を受ける。現実の、本物の、戦闘が始まる。アメリカ兵が被弾する。血まみれになって彼は草のなかに倒れる。カメラマンも倒れる。倒れた位置から撮影を続ける。被弾した兵士の顔を左端にとらえている画面の右側で、さらにひとり、アメリカ兵が射たれて倒れる。このような映像がニュース番組のなかで放映されると、射たれて血まみれの、命があるのかどうかすらさだかではない兵士たちは、あそこの家のあの息子さんであり、うちの息子なのだった。
救援のヘリコプターが来る。ローターの風で草をなぎ倒しつつ、ヘリコプターは着地する。射たれた戦友をかついで、兵士たちは身をかがめつつ、ヘリコプターに向けて走る。その兵士たちが被弾して草のなかに倒れる。カメラマンが無事にその場を脱出出来たなら、彼の撮影したフィルムはサイゴンで現像され、アメリカへ空輸される。東京へ運んでそこから衛星でアメリカへ送る、という手段もあったようだ。
制限のほとんどない取材による戦争の映像は、アメリカが敵としていた相手の強靭さによって、いわゆる地獄絵図的な様相を、極限に近いところまで高められていた。これをTVで毎日のように見ていると、やがて確実に効いてくる。「視覚をとおして心の内部に蓄積されていくボディ・ブロー」という言いかたを、僕はどこかで目にし、いまも記憶している。ボディを越えて、ブローはマインドに効いた。いったいこれはなになのか、なにのためにアメリカはこんな戦争をしているのか、という根源的な疑問を、人々に意識させずにはおかない効きかただ。
ヴェトナム戦争に反対する気持ちは、人々のあいだに充分に高まった。しかしその反戦意識は、いわゆる戦争反対ではなく、自分の国とはなになのか、アメリカとはなにか、政府とはなにか、そして自分とはなになのかという、深刻をきわめた根源的な懐疑の念の、相当に徹底した掘り起こしとしての反戦だった。シンドロームとして尾を引いて当然の出来事だ。
ごく簡略に言って以上のようなことを、今回の湾岸戦争の報道では、可能なかぎり避けたい、という軍および政府の基本方針を、この文章の冒頭に書いたNo pictures of returning bodies this time. というひと言が、象徴している。湾岸戦争の取材に関して、軍当局が禁止事項としてあげたものは、無数に近くたくさんあった。ほとんどのことが、禁止かあるいは申し出ても許可されないかの、どちらかだった。報道関係者のあいだに不満は大きく、当局の方針に反対する人たちは数多くいた。しかしぜんたいの結果として、当局の取材コントロールは、成功した。報道する側の完敗であった、という自覚の向こうから、戦争の報道とはいったいなになのか、という根源的な問いが出てきた。
湾岸戦争は本当の戦争だったのだろうか、と僕は思う。生きた敵兵とその国を相手におこなった実弾演習のような、きわめて変則的な戦争ではなかったのか、という思いが消えない。アメリカ軍の動員は巨大だった。必要がないものまで、つまり全軍が、いろいろと試してみる絶好の機会として、動員されたのではないか。しかし、戦場らしい戦場は少なかった。戦場らしい戦場がいたるところに生まれるような戦争、つまり死傷兵が続々と出るような戦争は徹底的に避けた結果だとも言えるが、爆撃や砲撃の多さにくらべると、戦場はどこにもなかったと言っていいほどに少なかった。報道のコントロールがうまくいった陰には、このことも大きく関係しているのではないか。
可能なかぎりコントロールされた状況のなかから出てくる、主としてTV放映用のヴィデオ映像というものに関して、湾岸戦争はさまざまに考えるきっかけをあたえてくれた。弾頭のレーダーが目標物をとらえ、その目標物に向かって正確に飛んでいき、見事に命中して自ら破裂する場面の、いわゆるピンポイント爆撃の映像は、平凡な人々を相当に驚かせたようだ。軍事目標だけをこのように正確に狙って爆撃するから、今回のこの戦争はクリーンな戦争である、という説明がその映像のあとを追った。命中したところだけの映像、しかも本物であるかどうか誰にもわからないような映像だけが公開されるというコントロールに、言葉によるさらなるコントロールが加えられていく。
バグダッドへの爆撃では、一般市民のための施設が爆撃を受けた。大きな被害が出たはずだし、死傷者も少なくはなかったはずだ。無差別に爆撃したのか、それともピンポイントの狙いがはずれた結果なのか。一般市民の施設への爆撃は、サダムが作り出したフィクションなのか。確かなことはなにひとつわからないなかで、アメリカ軍当局からの次のような説明が、もっとも広く受け入れられていく可能性は充分にあり得る。イラク軍の本来の軍事施設が爆撃で破壊されたため、軍は一般の施設に移ってきた。軍の車輛が出入りし、軍の電波が出ている事実を確認したのち、軍事施設として、アメリカ軍は正当な爆撃をおこなった、という説明だ。これを正確に具体的に反証するのは、たいへんに難しい。
TV用のヴィデオ映像は、付随しているはずの説明どおり、その現実をそのまま撮影したものではあっても、限定された狭い範囲内の現実を写したのであることには、間違いない。撮影カメラがそのときそこにいたということは、そのときのそこだけしか撮影出来ないことであり、画面に映るのはレンズの画角内にあるものだけだ。いくらパンしてもズームしても、カメラがそのときはそこだけにいたという事実に、なんら変わりはない。
このことから、ヴィデオ映像に対する基本的な不信感、ないしは仮想されたあるいは捏造された現実感が、確実に生まれてくる。別な説明に変えると、おなじ映像がまったく別のものになってしまう。たまたま撮ったもの、意図的に撮ったもの、ずっと以前に撮ったもの、別の場所で撮ったまったく関係ないもの、でっち上げられたものなどが、現実のなかに自由に複雑に入り込み、現実は本当の現実とは違ったものにされていく。現実は意図に沿って誘導される。一方の側による取捨選択がさらにここに重なるのだから、TVで人々が見る映像の、その発生地点を彼ら自身がつきとめることは、事実上は不可能だ。彼らは、ただとにかく見るほかないという、受け身の位置にまわらざるを得ない。そこから脱出するには、見かたというものを習得しなければならない。
戦争そのものの映像が極端に少なかったのに反して、銃後の愛国心的な場面や事柄についての映像は、じつに豊富にあった、と僕は感じた。愛国心と言えば国旗であり、その色は赤、白、青だ。それに今回は黄色が加わった。兵士たちの無事を祈る、黄色いリボンだ。黄色いリボンの需要は大きく、大量の注文に応えて全力で生産してなお品不足である、という報道を僕は見た。平和や兵士たちの無事を祈る言葉が印刷してある黄色いリボンもあった。そのようなリボンで町ぜんたいを囲んだ大学生たちのことを、話題のひとつとしてニュース番組は取り上げていた。アイダホ州のマウンテンホームという町には、戦闘機のパイロットのトレーニング基地がある。その基地から湾岸戦争に出動した父親をいつも身近に感じていたいと思い、父親のパジャマを着て学校へいく子供のことも、ニュース番組に登場した。二月なかば、湾岸戦争で命を落としたアメリカ兵の、最初の葬送の儀式がアーリントンでおこなわれた様子を報道したなかで、三角に折りたたんだ国旗を、この戦争に関して僕は初めて見た。棺を覆っていた国旗を、縦に二度たたんだあと、端から三角形にたたんでいく。そしてそれは遺族に手渡される。
銃後の愛国的なシーンが報道のなかで占めた多さは、そのままこの戦争に関する一般大衆の気持ちの反映だったはずだ、と僕は思う。ヴェトナム戦争のときのように、意味もなく大量にアメリカ兵が死ぬことだけはなしにしたい、とにかく生きて帰って来てほしい、という気持ちだ。アメリカの愛国心は陰影を深めた。そしてその深まりは、外国の戦争にアメリカの兵士たちが出ていくのはもう嫌だ、やめにしたいという感情に、はっきりした輪郭をあたえたようだ。
市民の思考や行動の自由度において、少なくともいまのところ、世界でもっともその度合いが高いのは、アメリカだ。このアメリカで、政府や軍当局が市民ぜんたいを意のままにコントロールすることなど、とうてい不可能なことだ。湾岸戦争の報道に関して、政府や軍は、彼らに出来ることとして残されている最後の部分を、限度いっぱいに使った。情報の出口を徹底的にコントロールすることをとおして、その出口からもっとも遠いところにいる普通の市民たちの考え方や反応のしかた、感情の動きなどを、最終的に大きく一本の流れにまとめていくという操作を、彼らは試みた。その試みは成功した、と僕は思う。
湾岸戦争に出動したアメリカ兵の平均年齢は、二十七歳だということだ。なんという若さだろうと思うが、中年の予備兵が多く招集されたことによって、兵士の平均年齢はこれでもずいぶん上がっているという。肉体的にもっとも負担の大きい歩兵の平均年齢は、ちょうど二十歳だった。「夜の砂漠で今夜も彼らは眠る」と、取材に来たダン・ラザーは言っていた。「彼らはなにを思うのか。彼らの明日は、どうなるのか。今夜、もしあなたがなにごとかについて考えたい気持ちになったなら、砂漠にいる歩兵たちのことを思ってほしい」と、彼はある日のレポートをしめくくった。
兵士たちは、たとえばTVニュースの取材カメラに向かってなにかを語らなくてはならないとき、ホームとジョッブという言葉を多用した。ホームとは、自分の国であるアメリカ、そして出動前に住んでいた町、そのなかにある自分の家などを広く意味している。ジョッブとは、兵士として戦場へ来ている自分の仕事、つまり敵と戦ってそこから生きて抜け出てくることだ。
「イラクに向けて北へ攻めていけばいくほど、自分はホームに近くなる」と、地上戦が始まったとき、若いアメリカ兵のひとりは言っていた。「人を殺すのは良くないことだけど、とにかく戦ってジョッブを終わりにして、早くホームに帰りたい」と、兵士たちは言った。家族からの便りも、兵士たちにとってはホームだ。家族だけではなく、アメリカの人たち全員の関心や祈りも、彼らにとってはホームだった。ホームとは愛国心であり、いつものライフ・スタイルでもあった。ライフ・スタイルを守り抜くのが愛国心であり、その両者を結びつけるものは、必要なら軍事行動を採択するというリアリズムだ。
輸送船で帰って来た兵士たちを、港の埠頭で家族が出迎える。軍服姿に個人装備を持ったまま、兵士たちは妻と抱き合い、腰を落として幼い子供を抱き寄せる。そのとき彼は片手にまだライフルを持ったままだ。ライフ・スタイルという日常と、それを守るための戦争とは、愛国心によってどこまでもひとつにつながったリアリティだ。
「私の恋人を戦場にいかせたくない」という気持ちは、原理的にはたいへん正しくて美しい。しかし、妻も母親も、誰かの恋人である独身の女性も戦場へいったというリアリズムのなかでは、そのような気持ちは、きわめて主観的で自己中心的な、脆弱さをきわめた幻想でしかない。そのような幻想は、ほとんどすべての現実を、じつは引き受けることが出来ないし、引き受けることをあらかじめ拒否してもいる。
ヘリコプターは上昇し飛び去った
クエートの若い人たちは、戦争のあいだ、カイロに逃げていた。そこでいつもとおなじような生活をしていた。夜になればディスコという毎日だ。イラクの軍隊によって、クエートは確かに破壊された。廃墟のようになった町には、電気もなく水もなかった。燃えるいくつもの油田からの煙が、クエートの空を覆った。晴天の日の朝、まだ十時なのに、空はそのぜんたいが濃い灰色であり、奇妙にうす暗い空間がその空と地表とのあいだに横たわっていた。外を歩くにはかなり性能の高いマスクが必要だった。マスクがないと咳がとまらず、目は痛くて開けていられなかった。
ただ燃え続け、空に向けて黒い煙を広げ続ける、砂漠のなかのいくつもの油田の光景を表現するとき、TVニュースの記者のひとりは、サイエンス・フィクション・ストレンジネスと言っていた。サイエンス・フィクションのなかに描かれているような奇怪な光景、というような意味だ。見る人の気持ちを強くとらえるその光景に、アメリカの街角のガス・ステーションの光景や自動車でいっぱいのハイウエイの光景がつながると、TVの映像をただ見るだけという立場そのものが、サイエンス・フィクションのなかの奇怪な光景となった。
破壊され瓦礫の山のようになっているクエートの町を、サングラスをかけた若い女性が、いっさいなにごともなかったかのように、歩いていく。アメリカのTVニュースの記者が彼女に取材する。「これからたいへんですね」と、記者は言う。「なぜ?」と、彼女は聞き返す。瓦礫の山を示した記者は、「こういうものをすべてかたづけて、以前のとおり建設して復興しなくてはいけないでしょう」と言う。彼女は声を上げて笑う。そして、「私、そんなこと、したくない」と答える。クエートはたいそう裕福だから、下積みの仕事は外国から雇った人たちにまかせきりだ。フィリピンやパキスタンから、労働者が数多く入っている。
瓦礫の山といえば、戦死兵はどうするのだろうか。イラクの兵士たちは二十万、三十万と戦死したのではないのか。戦場となった砂漠のいたるところに、たとえばアメリカが停戦と勝利を宣言したとき、戦死兵の遺体は急速に腐敗しつつ、転がったままであったはずだ。瓦礫の山も戦死兵も、かたづけなければならない。瓦礫の山はいいとして、戦死兵をかたづけるには、どのような作業が必要なのか。
停戦後ではあっても、敵兵の死骸を仮にアメリカ軍が処理するとなったら、正式な命令や作戦が必要だ。死骸はひとつひとつ集めてまわるのだろうか。ひとりひとり氏名や所属部隊などが確認されるのだろうか。イラクまで運んでそこで墓地に入れられるのか。トラックで拾ってまわり、ある程度の数になったら、砂漠のなかにブルドーザーで大きな穴を掘り、そこにひとまとめに落として埋めるのか。埋葬した場所は、なんの目印もない砂漠のなかでも、衛星を使って正確にその位置を記録することは出来る。記録されるなら、そしてその記録が正確なら、砂漠のどこにどのくらいの戦死兵が埋まっているのかくらいは、あとからでもわかる。
撃破された戦車の狭いコックピットの壁に、半分は溶けてなくなり、残った半分が浮き彫りのようになって貼りついている死骸の映像を、僕は見た。砲塔の装甲を難なく溶解しつつ突き破り、内部で炸裂して数千度の灼熱空間を作り出す対戦車砲弾の、ごく当然の成果のひとつだ。この死骸に必要最低限の威厳を保たせるためには、処理をするアメリカ兵は彼を壁からはがさなくてはいけない。
砂漠に転がって強い陽光の直射を受け、腐敗で生じたガスで腹から胸にかけて丸々とふくれ上がった死骸をアメリカ兵が処理している場面の映像も、僕は見た。熱い砂の上にブランケットを広げ、その上へ死骸を転がして乗せる。ブランケットのなかにそれをくるみ込み、両端をしぼってふたりで持ち上げる。映像はそこまでだ。そこからあとを、僕は想像する。もっとも楽な方法でトラックに積み、共同墓地つまり大きな穴のあるところまで、運搬していく。おそらくダンプ・トラックだろう。ブランケットにくるまれた数多くの死骸は、あるときいっせいに、斜めになった荷台から穴のなかへ滑り落ちていく。
連合軍の捕虜になったイラク兵が十五万人からいたという。イラクに引き渡されたとして、彼らをまともな市民生活に復帰させる余裕など、そのときのイラクにはなかったはずだ。引き取ったその場で動員を解除し、あとは各自の幸運にまかせる、ということになったのではないか。砂漠は不発弾という悪夢もかかえ込むことになった。連合軍が引き上げたあとには、その悪夢はそのまま砂漠に残ったのか。地雷の撤去作業はニュース画面に登場していた。引き上げるありとあらゆる軍用車輛や戦車を、水で洗い流すという途方もない作業も、ニュースのなかに数十秒、拾い上げられた。砂漠の微生物を車輛や戦車につけたまま帰還すると、その微生物はやがて本国の農作物に悪い影響をあたえていくという。
イラクの南部、全国土の十五パーセントにあたる地域を、アメリカ軍が占領した。やがて彼らは引き上げることになった。ひとまず国境沿いのバッファー・ゾーンへ、そしてそこからアメリカへ。すぐにサダムの軍隊がやって来て私たちは殺される、と捕虜や脱走兵たちが言っていた。アメリカ軍がいるあいだなら、そして彼らが望むなら、彼らはサウディに引き渡されることになっていた。アメリカ軍が帰ったあと、どうなったのか。引き上げていくアメリカ兵たちは、レッツ・ゴー・ホームと例によって屈託がなく、戦闘服にブーツ、ヘルメット、そして銃を持ち、トラックに乗って笑顔で走り去っていく。あらゆるものを失い、裸足で見送るイラクの男性の、民族衣装の裾が風にはためく。「ほかの国で人々が普通に生きているのとおなじように、私たちも生きたいだけだ」と、彼は去っていくアメリカ兵にさきほど必死に語った。その彼を僕は映像で見る。彼がひとまず無力なら、違った意味で僕もまったく無力だ。
トルコとイラクとの国境にある山岳地帯に、クルド人の難民が十万単位で避難し、移動していった。避難した先は、樹木の乏しい山岳地帯で、あるものと言えば細い川が一本だけだ。世界は彼らに対してなにもすることが出来ない。隣りの国であるトルコすら、なにも出来ない。難民として彼らを受け入れたら、もともと余裕のないトルコ自体がたいへんなことになる。だからトルコは彼らを難民として認めない。認めたなら、国際協定で受け入れが義務となる。難民を絵に描いたような難民を、不法移民となる可能性のある人たち、としてしかトルコは扱わない。
この難民のいる場所へ、アメリカの国務長官がヘリコプターで来た。「この現状はヒューマニティに対する冒涜だ」という言葉を残した彼は、そこに六分間だけ滞在したのち、十数万の難民にヘリコプターの腹を見せつつ、飛び去った。現場のただなかでは、世界最強国の国務長官もまた、無力なのだ。
見渡すかぎりなにもない山岳地帯にびっしりと貼りついて、少しずつ移動している難民の大群をヘリコプターの上から見て、「ホウリー・マッカレル」と叫んで、アメリカ兵が驚いていた。難民のキャンプでは、一日に千人ほどが命を落としていた。主に子供たちだ。一本の細い水の流れだけが、難民にとっては唯一の頼りだ。難民も十五万、二十万という数になると、統率などいっさいなしだ。川のすぐそばでたくさんの人が用を足す。その汚物が川に入る。その水を飲んで、子供たちが次々に倒れていく。「アメリカへ帰ったら、トイレットで水洗を流すたびに、僕はうれしくて声を上げて笑ってしまうだろうね。あの音を、ほんとに長いあいだ、僕は聞いてないから」と、若いアメリカの兵士が言う。
TVニュースの映像も、見かたによっては、受けとめかたによっては、見るだけという立場の人をも、その立場を充分にぐらつかせ、脅かすことが可能だ。四月なかば、きれいに晴れた美しく静かな日の正午、いつもの自分の場所でいつもの昼食という、ものすごく平和な状況のなかで、僕はFENのニュースを聞いている。クルド人の難民キャンプの様子について、ナショナル・パブリック・レイディオの記者が伝えている。
それを聞きながら、そして昼食を食べながら、僕はTVニュースで見た映像を思い出す。救援の物資や食料を積んで、アメリカ軍のヘリコプターが難民キャンプへ飛んで来る。あらかじめ定められた空き地のような場所の上空にホウヴァリングするヘリコプターは、少しずつ高度を下げる。地面まであとほんの数メートルのところまで降りて来てそこにとどまり、積んできた物資を落とす。それをめがけて、難民が駆け寄ろうとする。地上の兵士たちが彼らを阻止する。ローターの巻き上げる強風が、あたり一面にいる難民の服を激しくはためかせる。すべての物資を落としきると、ヘリコプターは上昇して飛び去る。兵士たちはもはや難民を制止しきれない。地面に転がって積み重なる物資や食料の包みに向けて、難民たちは突進していく。
メモリアル・デイにまた泣く
サダムに対してブッシュ大統領は最初からたいへんに強硬だった。その強硬さは、少なくともアメリカの勝利と停戦までは、まったく変わることなく維持された。ひとつの国の元首に対して、別の国の元首がこのような言葉づかいや態度を取り続けることが、自由や民主という正義を守ることにつながるのだろうか、と僕は疑問に思った。サダムの側における裁量や判断はいっさい許さず、自分たちの側の決断だけを、ブッシュ大統領は強行した。交渉やフェイス・セイヴィングの余地をサダムにあたえず、無条件撤退だけをきつく要求した。アラブ的な反応のしかた、アラブ的なものの考えかたや進めかたをよく知った上で、アメリカはサダムを追いつめた。そして自らの開戦用意が整う直後を、アメリカはイラクの撤退期限に定めた。
冷戦の構造は消滅した。そのあとに残った世界ぜんたいの特徴は、多極化だという。これはおそらくそのとおりだろう。それぞれの国がそれぞれに、ということだ。多極化よりも、相対化と言ったほうがいいようだ、と僕は思う。多極化した世界と、世界最強国としてひとつ残ったアメリカ。この構図は正しくない。世界がほんとうに多極化したなら、アメリカもまたその多極のなかのひとつであるはずだ。そのことの認識のなかにのみ、今後のアメリカの進む道がある。
湾岸戦争の起こしかたとそれの利用のしかたを見ていくと、次の時代への理性的な適応のしかたの発見に、アメリカは興味を持っていないように僕は思う。複雑な相互依存を土台にした、これまでどこにもなかったような協調主義を世界ぜんたいが作っていかなくてはいけないのだが、アメリカの世界意識はまだ旧式なもののなかにとどまっている。自分たちの政治や経済、文化などのシステムだけを、良くて正しい唯一のありかただとする、従来となんら変わるところのない意識のなかに、アメリカは湾岸戦争をへて、さらにいちだんと深く入り込んだのではないか。
アメリカを世界のなかのひとつだとするなら、残るすべては、途方もない多様さの集まりだ。多様なものがそれぞれに協調し、対抗する。そのなかのひとつという、新しい時代のなかでの立場は、アメリカにとってやっかい過ぎるのかもしれない。自分というひとつ、そしてそれ以外をすべてひとまとめにして、もうひとつ。世界をそのような二者にして、自分は他を支配するほうでありたい、とアメリカは思う。
ソ連という悪が消えたあと、イラクという悪を作ってそれと戦争をし、自由世界の民主と平和をアメリカは守る、という構造を作りなおす。その構造は、旧来のものとなんら変わってはいない、まったくおなじだ。自分たちだけは正義であり、他の多様なありかたは完全に無視するという立場は、アメリカにとってこの上なく快適なのだろう。
中東からアメリカの病院船が帰って来る。病院船は船体がまっ白だ。四月の終わり近い、晴れた日のサンフランシスコ湾に、その船は入って来る。ゴールデン・ゲート橋に向かって、ゆっくりと進んでいく。何隻いるのかわからないほどにたくさんのタグ・ボートが、白い病院船を出迎える。どのタグ・ボートも盛大に放水し、霧笛を鳴らす。ゴッド・ブレス・アメリカ的な光景だ。
このときのタグ・ボートのうちの一隻、ハーキュリーズは、蒸気エンジンの船だった。昔の船だ。七十代の男たちが、かつて乗り組んだ蒸気エンジンのタグ・ボートを、六年かけてリストアした。リストアは完成した。そして処女航海は病院船を出迎えるこの日となった。エンジンを手がけた男は、積み重なるあまりのストレスに耐えかね、胃潰瘍を悪化させて入院してしまった。処女航海は彼に捧げられた。
五月になって、アーノルド・シュワルツコフは議会で演説した。その一部分は次のとおりだ。
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I also want to thank the families. It's you who endured the hardships and the separations simply because you chose to love a soldier, a sailor, an airman, a Marine or a coastguardsman. But it's your love that truly gave us strength in our darkest hours. We knew you'd never let us down. By golly, you didn't. Thank you, the great people of the United States of America.
(家族のかたがたにもお礼を申し述べたい。愛する人たちを戦場へ送り出し、別れ別れになるという苦難に耐えてくださったのは、家族のみなさんです。兵士を愛すればこそ出来たことです。水兵、航空兵、海兵、沿岸警備隊員など、すべての兵士をみなさんは愛してくれています。最悪の暗い時間のなかで私たちに力をあたえてくれたのは、みなさんの愛でした。支えてくださるみなさんの力を、私たちは最後まで信じていました。ものの見事に、みなさんは支えてくださいました。アメリカの偉大なる人々であるみなさまがたに、私はお礼を申し上げます)
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砂漠の戦争に動員され、戦争をくぐり抜けて母国へ帰還した兵士たちは、もとの日常に適応しなければならなかった。日常への再エントリーに際して体験するさまざまなストレスは、ホームカミング・ストレスと呼ばれることとなった。兵士としての砂漠での日々こそたいへんなストレスで、そこから日常へ戻ればストレスは大きく軽減されるか消えるのではないか、というのが部外者の考えかただが、実際はそうではないらしい。
兵士でいるあいだは、自分というものが明確だ。役割も位置も、はっきりしている。作戦に沿って、上官の命令どおり、的確に迅速に行動し、ひとつずつ目的を達成していけばそれでいい。戦死したり重傷を負う可能性は常につきまとうが、平凡で退屈でありながらやっかいな複雑さに満ち、なにひとつ思うように達成されないままに時間だけ経過していくことがしばしばである日常にくらべると、ストレスは軽くて単純だ。
湾岸戦争に動員されたアメリカ兵士のうち半数は、結婚していた。夫がいないあいだ、奥さんが判断のすべてを引き受け、ひとりで生活のぜんたいを取り仕切った。そこへ夫が帰って来る。感動的な再会の直後から、ふたりはかつての日常のなかの人となる。判断や取り仕切りのかなり大きな部分を、妻は夫に引き渡さなくてはいけない。これは彼女にとってストレスだ。夫の判断との食い違いや意見の調整なども、ストレスとして重なっていく。幼い子供は思いのほか成長している。突然に帰って来た父親、つまり乱入者としての父親に、子供たちはなじまない。もっと年齢のいっている子供たちは、父親が戦場へいったこと、そして突然に帰って来てすでに出来ている秩序を乱すことに、複雑な感情をはさんで接する。
一家を支える人が砂漠の戦争にいっていたことの損失は、思いもかけない方面に、意外にたくさん、しかも大きく、存在している。動員された予備兵の家庭のために、地元の放送局が支援運動をした町があった。予備兵の家庭では収入が半減以下になるから、ローンも家賃も払えない。食費にもこと欠き、光熱費さえ払えない。帰って来た夫がもとの仕事に戻ろうとすると、その仕事はもうなかったりする。
親がサウディにいっているあいだも、子供は成長する。久しぶりに帰ってみると、彼らは別人のようだ。兵士として動員された父あるいは母を、彼らはなかば忘れてしまっている。家庭に残されたほうとの関係がすでに出来上がっているところへ、出ていったほうが帰って来る。なんの問題もなしにその人がもとの場所に収まることが出来ると思うのは、早計らしい。帰って来たほうは、自分のまったく知らない関係のなかに、遠慮がちに割り込むという矛盾した態度で、入っていかなくてはならない。
母あるいは父ひとりが、家庭のことすべてを引き受けていた状態にちょうどなじんだところへ、父あるいは母が、戦争から帰って来る。家庭のことを引き受ける人が、子供にとっては突然にふたりとなる。どちらにとっても、それはストレスの発生点となる。さまざまなカウンセリングがおこなわれる。人々はそれに参加する。自分が置かれている状況、そのなかでの自分の気持ちや体験を、集まった人たちに語る。そして泣く。最近のアメリカ人はよく泣いている。泣くことに対する抑制力が弱くなったのだろうか。泣くほかない、あるいは泣かざるを得ないほどに、状況はつらいのだろうか。
五月二十五日のニュースでは、一八六六年にメモリアル・デイが始まった町であるという、ニューヨーク州のウォータルーという町が紹介されていた。メモリアル・デイは、ただ遊んで過ごすなら、海岸へいったり庭でバーベキューをして盛り上がる三日続きの週末でしかない。アメリカの夏はここから始まる。本来は、戦争で命を落とした人たちのことを思う日だ。二度と戦争などないようにと、過去の悲しみを胸のなかに確認しつつ、人々は祈る。
五月二十六日のニュースでは、メモリアル・デイは最終項目だった。インディアナ州のキャメルトンという町に住む、湾岸戦争でマークという名の息子をなくしたミラーという夫妻が、紹介された。若くして国に命を捧げた彼の、新しい墓に五月の陽がさしている様子を伝える画面のあと、自宅で彼の母はカメラに向かって次のように気持ちを述べた。
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God kept him in the palm of his hand and took him home just a little sooner than we would have wanted to happen, and I know Mark is at rest now.
(息子は神の手のなかにありました。私たちが望んでいたのよりも少しだけ早めに、息子は神のもとに戻ったのです。息子のマークはいまそこで安らかです)
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息子の墓の前に膝をついて泣いている父親は、泣きながら次のように語った。
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As the time goes on it gets harder. I find myself going to the cemetery, sitting there talking. I just miss him a whole lot.
(時間がたつにつれて、つらさが増していきます。墓地へ出かけていっては、息子の墓の前にしゃがんで、語りかけてますよ。息子がもういないというのは、たいへん辛いです)
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墓地の光景に父親のすすり泣く声をかぶせて、画面はそのまましばらく続いた。メモリアル・デイまで見届けるなら、戦争とはこういうことだ。
メモリアル・デイになぜ人々は戦死者のことを思うのか。きみがこの世にいなくて悲しいよとか、うちの息子も生きていれば今年で三十歳だ、というような個人的な感慨を越えたところに、戦死者は眠っているからだ。戦死者は公共の財産だ。私のように戦死する人をあなたたちは作り出してはいけない、と彼らは安らかであるはずの長い眠りのなかで、現世に向けて言い続けている。私がおちいった道とは別の、もっと賢明な道を選びなさい、と彼らは言い続けている。
メモリアル・デイのあと、ワシントン特別区では、ナショナル・ヴィクトリー・セレブレーションという祝勝会がおこなわれた。地上では第二次大戦以来というスケールのパレードがおこなわれた。上空では、湾岸戦争に参加したすべての飛行機が、編隊を組んで飛んだ。このためにワシントンの空港は閉鎖された。
六月十日のニューヨークでは、これも史上空前のものとなったはずの、ティッカー・テープ・パレードがおこなわれた。ティッカー・テープとは、株式やニュースをオフィスで受信する機械に使用されていた紙テープだ。昔はほとんどのオフィスにこの機械があり、いらなくなったテープをちぎり、高い建物の窓から下をとおっていくパレードに向けて投げると、落ちていくときの様子は、単なる紙切れにくらべて見栄えがした。パレードに向けて投げるためのテープ、という意味もある。ビルの谷間、としばしば形容されるマンハッタンの目抜き通りを進んでいくパレードに向けて、道路の両側に立ちならぶ建物のありとあらゆる窓から、ティッカー・テープが降り注ぐ。真にアメリカ的と言っていい光景だ。
宇宙飛行士ジョン・グレンのときのパレードには、三千四百七十四トンのテープや紙切れが、ビルの谷間に降ったという記録がある。湾岸戦争のパレードでは、このように降る紙の量はおよそ倍になるだろう、という予測がされていた。あとかたづけは、すべてニューヨーク市のサニテーション・デパートメントの仕事だ。わずか二、三時間のなかで、とてつもない仕事が空から降ってくる。このパレードよりも二日前、ニューヨーク港では、湾岸戦争で命を失った三百四十一名のアメリカ軍人を追悼して、三百四十一本の薔薇が、四軍の代表者によって、軍艦の舳先から海に投げられた。
第九条
僕が小学校の一年生だったとき、「天皇は日本の国のシンボルです」と、先生が教えてくれた。シンボルという言葉を、片仮名で書いて日本語として使うことに、すでに人々のあいだに違和感はまったくなかったようだ。しかし当時の僕にとっては、シンボルという英語は記号という意味だった。地図のなかのお寺の記号、というような場合の、記号だ。象徴という意味があることは、もちろん知っていた。シンボルよりも象徴という日本語のほうがはるかにいい、と幼い僕は思った。少なくとも見た目にも心理的にも、象徴という漢字のほうが、すわりはずっといい。
何年か前の夏、終戦記念日にちなんで制作されたいくつかのTV番組のなかに、日本国憲法が作られていく過程をテーマにしたものがあった。これを僕は幸運な偶然によって、見ることが出来た。この番組のなかに、シンボルの話が出てきた。タイプライターで打たれた英文の憲法草稿のコピーのようなものが、画面いっぱいにアップになった。天皇の位置や役割を規定した冒頭の部分だった。日本の天皇の位置はat the head of the state であると、草稿には書かれていた。この言いかただと、天皇は国家元首ということになる。国の最高権力は天皇のものとなる。これでは明治憲法とおなじではないかと判断したひとりのアメリカ人が、at the head の部分を一本の線で無造作に消し、その上にis the symbol と書きなおした。年配だが少なくともその頃はまだ健在だったそのアメリカ人は、日本で憲法の作成にたずさわったひとりだった。ケイディスという人だったと思うが、「そうです、これは私が書きなおしたものです。これは私の字ですよ」と、日本のTVのインタヴューアーに語っていた。
なぜシンボルなのかという、僕にとっての謎は、こうしてあっけなく解けてしまった。彼が線を引いて消した瞬間は、戦後の日本で天皇制が存続することに決定した瞬間のひとつに、数えていいのではないか。このTV番組の放映は、終戦記念日であることを忘れるなら、そして身辺になにごともないならば、夏の頂点を向こう側へ越えてまもない日の、まことに日本の夏らしい、しかしなんとも言いようのないほどに平凡な夜の小さな出来事だった。
僕はじつはある私立大学の法学部を卒業している。日本国憲法は一年のときの必修科目だった。そのときの僕が知り得たかぎりをいま書くなら、憲法そのものよりも、それが成立していくプロセス、そしてそれ以後の日々のほうが、より興味深い物語だ。一九四五年の十月に、憲法を改正することをGHQは日本政府に示唆した。政府はすぐに作業に着手し、十一月には草案を天皇に報告した。日本史年表を見ていくと、それ以後はおよそ次のような展開をたどったということがわかる。
十二月には、憲法研究会という団体の草案要綱が出来た。四六年一月には自由党の草案が出来た。そして二月には、日本政府は改正試案をGHQに提出した。年表に記載してあることだけを見ているとよくはわからないが、日本政府の改正試案が出来るよりも前に、マッカーサーはGHQの民政部に、新しい日本国憲法の草案を作ることを命じていた。一夜づけの勉強のようなことをしながら、何人かのアメリカ人たちが、大急ぎで草案を作成した。草案は九日間で出来たということだ。GHQは日本政府が提出した改正案を拒否した。
進歩党、そして社会党の草案も出来た。極東委員会の第一回がワシントンで開催された。三月には改正草案要綱が政府から発表された。主権在民、天皇の象徴制、戦争放棄などが、いまの言葉で言うところの目玉だった。日本の憲法を改正するにあたっては日本の世論を尊重せよ、と極東委員会は決定したと年表に出ている。
四月には草案の正文が政府から発表された。平仮名の入った口語体の文章だった。天皇は戦争責任において訴追されない、とキーナン検事は六月に発表した。おなじ月に共産党の草案が出来た。七月には極東委員会が改正案に盛り込まれた基本原則を採択した。十月には衆議院と貴族院が改正案に同意し、改正は成立した。そして十一月に公布され、次の年、一九四七年の五月三日、施行された。
憲法の改正は占領軍によるものだった。かつては交戦国であり、いまは敗戦国である日本を占領している占領国であるアメリカが、日本の改正憲法を作った。基本的にはこれはルール違反だ。かたちとしては、天皇の発案による明治憲法の改正、ということだった。明治憲法のもとでは、ある部分は憲法のとおりに日本は営まれ、ある部分は憲法とは完全に関係のないところで運営され、後者が天皇制を支えた。天皇を戦犯から除外すること、そして天皇制を存続させることと引き換えに改正憲法は生まれた、というのが定説であるようだ。
新しい憲法が公布されたとき、日本の進む方向はすでにきまっていた。アメリカとの関係を外の世界ぜんたいに対するバリアーのように使い、そのバリアーのなかで経済至上主義で国を復興させていく、という方向だ。振り返る歴史というものは、本当に良く出来た物語だ。新憲法の公布は朝鮮戦争と重なっている。この戦争による特需は、敗戦後の欠乏と混乱から日本を引き上げるための、巨大な力として作用した。すぐに高度成長期が来た。改憲も含めて、憲法に関する根源的な論議は、国の方向に反するという暗黙の了解のようなものを、多くの人が了解事項として引き受けた。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」という文章が、日本国憲法の前文にある。この決意の主体は日本国民だ。そしてその決意が「念願」するのは、「恒久の平和」というものだ。日本国民は、おなじ前文のなかでもうひとつ、決意している。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という決意だ。諸国民とは、国民の皆さんではなく、世界の国々という意味だ。平和に関して自分たちが自分の側でおこなうのは決意であり、自分たち以外の他者に対しておこなうのは、信頼だ。
恒久の平和のためのこの決意および信頼という行為には、前文のなかで国際的な広がりがあたえてある。「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」日本国民は、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と信じている、と新しい出発をするにあたって、「われら」はあらかじめ自らを諫めている。
国際的な広がりのなかでの、恒久の平和のための決意と信頼を、日本がなし得るもっとも大切で具体的なこととしてとにかく最初に規定したのが、「戦争」と「武力による威嚇」と「武力の行使」の永久の放棄をうたった第九条だ。この永久の放棄を支えるさらに具体的な行為として、日本国民は「戦力は、これを保持しない」し、「国の交戦権は、これを認めない」と、明言した。
無条件降伏した日本が受諾したポツダム宣言は、日本に武装の完全な解除を求め、家庭に戻って平和な生産をしなさい、と説いていた。これを日本は実行した。そして平和な生産行為は現在の日本を作り出した。いったん完全に解除された武装は、しかし、再びおこなわれることとなった。日本国憲法を国際的な広がりのなかに置いて考えると、自衛権と自衛のための戦争は否定されないと僕は思う。そのこととは別に、日本を占領していた連合国によって、憲法では認められていないはずの戦力を、日本は持つこととなった。新しい憲法を連合国側が作ったという現実の内部に、日本がふたたび軍事力を持つという新たな現実が、連合国側によって作られた。
一九四六年の四月に、憲法改正草案の口語体による正文が、日本政府によって発表された。その二か月後、六月に、吉田首相は、自衛のための戦争も交戦権も日本は放棄した、と衆議院で言明した。この言明は、四年間、有効だった。四年後、一九五〇年の一月一日、日本の新憲法は自衛権を否定していない、とマッカーサーは言った。その二年前、アメリカ陸軍の長官は、日本は共産主義に対する防壁である、と演説した。日本の敗戦からずっと、沖縄のアメリカ軍基地は、本格的なものに向けて整備され続けてきた。日本の自衛権に関するマッカーサーの発言に続いて、アメリカの国防長官や統合参謀本部議長が日本を訪れ、沖縄だけではなく日本のアメリカ軍の基地を、ぜんたいとして強化していく方針を明らかにした。
沖縄の基地が恒久的なものになることが、二月にはGHQによって発表された。六月には統合参謀本部議長が今度は国防長官とともに来日した。それからひと月もたたないうちに、警察予備隊という組織の創設と、海上保安庁の増員を、マッカーサーは指令した。七万五千人という規模の警察予備隊は、朝鮮戦争に出動したアメリカ軍の空白を補填するもの、ということだった。少なくとも名称の上では、それは軍隊ではなく、警察の、予備の、隊だった。憲法という最高であるはずのルールに対して、自分たちがルール違反を犯していることを、連合国最高司令官はもちろん知っていたはずだ。
日本の憲法とは別に、もうひとつ、連合国側のルールが厳しく存在している、という現実がここではっきりした。法規の二本立てだ。連合国側のルールは、連合国の都合だけで運営される。だからそれには、日本国内の法規との調節は必要ない。調節しなければならないのは日本の法規だ。なにか問題があると、そのつど新たな解釈を編み出してはそれによって運営していく、という政治的な方法を政府は採択せざるを得なかった。裁判所がその政治手法を追認し、国民はその全体を、日本で生きていくにあたっての了解事項のひとつとして、きわめて柔軟に了解してきた。
一九五二年、GHQは廃止され、日本に対する平和条約と、日米安保条約とが発効した。日米安保条約のほうは、国民にはなにも知らされないままに作られたものだった。日本には戦力はないから、占領アメリカ軍がそのまま今度は駐留軍として残ることを日本は希望し、アメリカがそれに応えるというかたちで、日本にこのときで二十六万のアメリカ軍が残ることになった。警察予備隊という戦力の存在と、これは論理の上では矛盾していた。しかし現実の問題としては、保安庁法が出来て保安庁が発足し、続いてそれまでの警察予備隊は保安隊に組み込まれた。地上、そして海と空とを合わせると、このとき保安隊は十二万の軍だった。新国軍の土台となってほしい、と吉田首相は演説した。
一九五三年の十月には、日本の防衛力を少しずつ大きくしていくことに関して、日本とアメリカの共同声明が発表された。五四年の一月には、沖縄のアメリカ軍基地をアメリカが無期限に保有することを、アイゼンハワー大統領が発表した。二月には日米相互防衛援助協定が調印され、五月には日米艦艇貸与協定というものも調印を見た。そして七月には防衛庁と自衛隊が発足した。アメリカの同盟軍の戦力である自衛隊は、アメリカ軍との密接な関係のなかで拡大を続け、現在にいたっている。
安全保障条約は一九六〇年に新しい条約に改定された。社会主義国からの威嚇に対抗するためのものだったこの条約に、経済協力のための規定が新しく設けられた。社会主義国の威嚇からおたがいを守るという旧来の守備範囲から、ともに資本主義を守っていくというより広い範囲へと、この条約の守備は広げられた。そして現在も条約はそのまま続いている。ということは、日本におけるアメリカ軍とその基地は、日本を守るための別の国の軍隊であるから日本の憲法とは関係はないとする解釈や、自衛隊はフル・スケールの現代戦争を遂行するに足る戦力ではないという解釈も、そのまま続いていることになる。なにか問題があれば第九条をそのつど新たに解釈して運営していくという政治的な手法を裁判所が追認しているということは、そのような政治的な手法が国益の選択として正しいと裁判所が認めていることだと思っていい。そしてどのようなかたちであれ国益にもっともかなう手法が採択されることを、国民はあらかじめすべて了解している、と僕は解釈する。
第九条をめぐって湾岸戦争とともになされた論議は、僕なりに整理すると、次の三点にまとまる。ひとつは、第九条が実行に移されたなら、それはすさまじく前衛的な思想であり、世界を震撼させるに足るおそるべき理想主義である、という論だ。第九条はたいへんにいいものだから、日本人はこれを世界に広めるべきだ、という言いかたに直すとわかりやすい。
第二の点は、いまあげた理想主義という論点と関係しつつ、別な方向へのびていく。軍事力というものを持たない国家というものが、想定出来るものかどうか、そしてそのような国家は、現実にあり得るのかどうか、という論だ。軍事力に当然のこととして付随する力も、軍事力とともに放棄されるのか。あるいは、他の力にともなって発生してくる軍事力というものは、考えないのか。たとえば外交力も、軍事力とともに放棄するのか。
第三の点は、新憲法は占領下のごく一時的なものであったはずだ、という論だ。やがて占領は解かれ、日本は独立する。そのときは自分の問題として日本自身が、憲法を点検しなおせば良かった、とこの論は展開する。
日本との戦争が続いているあいだずっと、アメリカの軍事力の攻撃性は、日本の軍事力の攻撃性と、正面から衝突していた。日本を敗戦に追い込んだあとのアメリカは、戦争のあいだ受けとめ続けた日本の軍事力とは対極にあるものを、戦争終結直後の時期の問題として日本に求めた。それは、軍事力を日本が完全に解除して消し去り、軍事力が自分たちの内部から二度と立ち上がってこないことを、日本が誓うことだった。アメリカが日本に求めたそのようなものは、当時のアメリカにとっての国益だった。その国益に沿った憲法を、アメリカは日本のために作った。
戦後の日本は、三つの論点のどれをも、迂回したようだ。日本は原爆を二発も投下された。世界史上初めての、そしていまのところ唯一の、途方もなく高いコストを日本は戦争で支払った。このコストの高さに懲りているという意味では、日本は心から平和を願っている。
百年もたてば原爆のことは忘れられるかもしれない。しかしいまは忘れられていない。戦争の放棄は、言葉にとどまるかぎりでは、そういう道もあり得るかもしれないという程度のものだが、実行され続けるなら、つまり日本が世界に向けて掲げた理念として、たとえば軍事のつきまとうあらゆる世界の現実と戦い続けるという実行がなされるなら、戦争の放棄はたいへんに素晴らしい。そのような戦いのなかには、自衛権は含まれるだろう。
第九条の存在を理由にして思考も実践もすべて停止させてはいないか、つまり平和という理念のための戦いという、やっかいでつらいことはしたくないと思ってそのとおりにしてはいないか、という指摘は第九条があるかぎり有効だ。理念なき平和というものは、しかし、現実にあり得る。理念のための努力はいっさいすることなしに、ある日のこと手に入った平和、思考という範疇に入る活動はいっさい放棄して維持されてきた平和というものは、日本国内では実現した。国内文脈では、そのような平和があり得た。そしていまもその平和のなかにある。このような平和は、日本にとって、戦後最大の既得権益となったのではないか。あまりにもその権益に慣れきったため、日本人は世界のどこでも、その権益が自分たちには通じると思っているのではないか、という指摘も第九条と等価で存在し続ける。通じないですよ、とたとえば外国から言われると、既得権益を侵されているかのように受けとめる習性のようなものを、自分たちは持っていないだろうか。
既得権益を侵されて喜ぶ人はいない。しかし、既得権益は侵されやすい。侵されないように自分たちの既得権益を守るのは、国家の役目のひとつだ。それでは既得権益を守るとはどういうことなのか、という問題が立ち上がってくる。敗戦後の日本に現在まで続いた平和は、他からあたえられた平和、あるいは他から保障された平和だった。そのような平和を手に入れることと引き換えに、日本は国家観や歴史観を放棄した。それらはもはやほとんど役に立たないから、という理由による放棄だったのだろう、と僕は思う。平和のただなかに自分たちはありながら、平和とはなんのことだかなにもわからない、という状態を手に入れたと言い換えてもいい。
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個人主義にもとづく自由と民主の視点
アメリカについて自分にはどのようなことが書けるのか。体験を私有物のようにして少しずつ披露するのではなく、紀行文でも旅の思い出でもなく、仕事で赴任した場所での見聞録でもなしに。興味を抱いたアメリカというものの核心とはなになのか、そしてそれについてわかっていると思うなら、ではどの程度にそれについて自分は書き得るのか。
アメリカについて僕がこれまで書いてきたことすべては、個人主義にもとづく自由と民主の視点からのもの、という範疇に入るはずだと、書いた当人である僕は思う。枝葉末節について多くを書いたとするなら、それらのことはすべて、自由と民主を土台にした大衆消費社会という、人類史上の異常事態と言っていいほどの豊かさの内部での出来事だったはずだ。自由と民主は建前だが、アメリカではこの建前は社会のなかで機能している。建前と本音があり、建前はあくまでもただの建前でなんの機能もせず、機能するのは本音だけであるという日本のルールの内部から見ると、建前が巨大に機能するアメリカの様子は、わかりにくいかもしれない。
この本の最初の章である「湾岸戦争を観察した」は、いわゆる湾岸戦争を遂行していったアメリカについての記述だ。記述されていることの内部にもぐり込み、すべての発生源までいくと、アメリカが世界に向けて言うところの、という限定ないしは形容つきでの自由と民主がやはりそこにもある。何年か前に僕が書いた文章の全文を、まずひとつ採録したい。『エスクワイア』という雑誌の日本版の、アメリカの西部について特集した増刊号に依頼されて書いた文章だ。西部についてどのようなアプローチを試みる特集であるのかは聞かないままに、僕は次のような文章を書いた。
アメリカのあの広い大陸を西から東へ陸路で横断したとき、アルバカーキのモーテルのコーヒー・ショップでなにげなく言葉を交わした中年の白人男性の雰囲気や言葉を、いまでも僕は記憶している。僕が東京から来てアメリカを旅していることを知った彼は、「太平洋の東側からここまでを、きみはどんなふうに好いてるかね」と僕にきいた。素晴らしいです、と僕は答えた。北アメリカ大陸の地形と気候は、本当に圧倒的に素晴らしかった。僕がなにに感動しているのかきちんと伝えたつもりだったが、その男性は顔をしかめて首を振り、「ここにはなんにもないよ」と言った。こことは、西部から南西部一帯にかけての、広大な土地を意味していた。「なんにもありはしないよ。なんにもおこってはいないよ。これはつまらんよ。岩と砂しかない。これではなんにも出来ないね」と言った彼の言葉と口調を、僕はそっくりに真似ることが出来る。僕は真似るだけだが、彼は本気でそう言っていた。彼が連れていた妻と三人の子供たちの様子が目に浮かぶ。
このときの僕は、来訪者あるいはゲストでしかなかった。ひと言で西部や南西部全域を否定した彼は、自分たちの文化の文脈に完全に呑み込まれた当事者だった。あの可哀そうな当事者は、その後どうしただろうか。自分の生活を作りつつ、日々を送っていったはずだ。どのような生活を彼は作ろうとしていたのか。いまの言いかたをするなら、たとえば石油を浪費してやまないような生活だろう。そして自分たちを上まわる浪費の世代を、子供たちとして世に送り出したはずだ。
人をその内部にしっかりととらえて離さない固有の文脈を離れたところから観察すると、アメリカ大陸の西部や南西部、そして中央部も東部も、自然の環境としてはたいへんにスリリングで感動的だ。アメリカではなくとも、どこのどのような地形や気候でも、みな等しく人を圧倒する魅力を持っているものだが、ほかの大陸を知らない僕にとっては、アメリカ大陸の自然はいつもの自分をまったく異なった場所へ引き戻し、連れ戻し、内省や懐疑、あるいは自戒などの領域へ導いてくれる強力なカウンターとして作用する。「こんなとこにはなんにもないよ」とアルバカーキのモーテルで言った男は、自分たちの文化の文脈の外へ出ることが出来なかっただけだ。
その彼にとっての、自分たちの文化の文脈とは、なにだろうか。重ねていく日々の生活こそ文脈そのものだが、ではその生活とはいったいなになのか。極限的な状況に目を向けると、わかりやすくなるかもしれない。たとえば湾岸戦争のときアメリカの兵士たちは、「このために自分たちは訓練されてきたのだし、これがいまの自分たちにとっての仕事だから」と言って、膨大な量の武器や戦争物資とともに、アラビア半島へ向かっていった。若い男性たちだけではなく、中年の男性も、若い女性も、そして母親たちも、おなじ場所へ兵士として出ていった。
そしてアラビアの砂漠では、「早く終わって家へ帰りたい」と、TVニュースの記者たちに彼らは言っていた。戦争が始まると、「こうして北に向けて攻めていけばいくほど、自分たちにとっては家が近くなるんだよ」と、アメリカの兵士たちは言った。仕事はジョッブ、そして家はホームだ。重ねていく日々の生活は、ウエイ・オヴ・ライフだろう。ウエイ・オヴ・ライフとは、なんのことはない、ジョッブとホームなのだ。兵士になった人たち全員に配付される、もっとも基本的な訓練用教科書の冒頭に、アメリカ兵としての心がまえがコード・オヴ・コンダクトとして説いてある。兵士とはウエイ・オヴ・ライフを命を懸けて守る人だ、とそこには明記してある。
湾岸戦争を始めようとするとき、ペンタゴンでおこなったブッシュ大統領の演説のなかにも、ジョッブやウエイ・オヴ・ライフという言葉が、きわめてわかりやすいかたちで登場していた。「サダム・フセインに石油をコントロールされたなら、私たちのジョッブやウエイ・オヴ・ライフ、自由、そして私たちと考えをともにするほかの国々の自由が、被害を受ける」と彼は語った。
ウエイ・オヴ・ライフとはジョッブとホームであり、そのウエイ・オヴ・ライフは自由の上に立っている。だからそのような自由をおびやかす存在を相手にまわして、ウエイ・オヴ・ライフを守り抜くため、アメリカは必要とあれば戦争をする。そしてその戦争は、アメリカという文脈のなかでは、正義のための良い戦争だ。
サウディ・アラビアから帰って来る兵士たちを家族が出迎える。兵士たちは妻や恋人と抱き合い、子供たちを腕にかかえ上げる。そのときの兵士たちの片手には銃がある。銃やそれを使っておこなう戦争という、おそろしくハードなリアリティが、アメリカでは日常生活のリアリティと最短距離で直結されている。
ウエイ・オヴ・ライフはすでに日本語としても通用している。しばしば言われるところの平和ぼけにふさわしく、あくなき消費的欲望の追求を当然の権利と混同する人たちの意識のありかたという意味のほかには、ほとんどなんのリアリティも持たない片仮名言葉だ。日常生活がなんの無理もなく戦争と直接につながり得るリアリティというものに、いまの日本の人たちの心理は耐えられないだろう。そしてそのようなかたちで成立している正義や自由を、おそらく拒否し嫌うだろう。
建国してから現在にいたるまで、アメリカはたいへんにわかりやすく一貫している。守り抜かずにはおかないウエイ・オヴ・ライフであるジョッブとホームの土台は、フリーダムだ。ではそのフリーダム、自由とはなにだろうか。建国の瞬間に、自由のひとつの典型がある。自分たちで掲げた理想に沿って、これから自分たちだけでひとつの国を作ってみますという、文字どおりの自由のスタートがそこにある。
自由とは、ひとりの人の人生にあてはめて考えるなら、出来るだけ広い範囲のなかで自主的に取捨選択することの可能な人生だ。自主的な取捨選択の人生とは、個別におこなわれるアクションによる人生だ。依存の関係を極端に嫌うかわりに、個別に全責任を引き受ける。そして個別なアクションと責任の引き受けは、楽天的におこなわれる。多少の人生経験がある人なら誰でも知っているとおり、自由というものは楽天的である人により有効に作用してくれるからだ。
建国以来、アメリカではあらゆることが実験だ。民主主義をいかに機能させるかにかかわる、国をあげての壮大な実験だ。アメリカの真骨頂と言われているビジネスも、民主主義の機能のさせかたにかかわる実験だと言っていい。こういうことも、ひとりの人の人生に重ねると、わかりやすくなる。自分ひとりで世のなかに打って出て、頭の上がらない相手を持つことなく、自分の才覚と腕ひとつで金持ちになっていくこと、これがアメリカン・ドリームの最小単位だ。単なるかね儲けとは基本的に違っている。かねは儲かるに越したことはないが、問題はかねだけではない。かねを越えるもの、つまり自分の人生にどれだけの自由があるか、身をもって確認してみる作業をするかしないかが、理想論としては儲けるかねよりも上に来る。
西部の開拓は、若いアメリカの成長過程のなかに巨大な位置および意味を持って存在する、すさまじいスケールの実験だ。あの大陸の西半分を舞台に、資源とエネルギーと人材とを思う存分に投入して、その実験はおこなわれた。そしてその実験は成功した。西部は意のままに征服された。障害となって立ちふさがったものは、先住民族を別にすると、なにもなかった。そして先住民族は、現在の彼らが置かれている位置から言うなら、西部の開拓実験の成功とともに消滅させられたと言っていい。彼らから取り上げた土地のほかは、メキシコやスペインと戦争をして勝ち取った。
あの時代にあれだけのスケールでおこなわれた実験に、若い成長段階で成功したのだから、その成功によって正当と見なされたありとあらゆることが、少しだけ冗談めかして言うなら、アメリカの人たちの遣伝子のなかに組み込まれている。推進した側から見た西部開拓の大成功は、最終的にはアメリカにとってのフリーダムの象徴にさえなった。
自分の側の正義を押しとおすことによって生まれてくる文化のなかで生活する人たちは、そこで生活を送っているかぎり、そのような文化の正当化を続けるだろう。ひとつしかない自分たちのありかたに対して、世界のなかには途方もない多様性でさまざまなありかたが存在するのだが、そういったものは目に入らなくなる。たまたまなにかの拍子に目に入れば、それらはなにほどか目ざわりなものであり、と同時に、なにほども興味を示す必要のないものでもある。そして、それらのうちどれかひとつでも、自分たちの価値観に対して立ちふさがるようなことがあれば、それはただちに自分たちの敵つまり倒すべき相手となる。
このことも湾岸戦争のなかにはっきりと出ていた。クエートからのイラク軍の無条件撤退を、ブッシュ大統領は強硬にかたくなに主張した。難なく勝てるはずの戦争に持ちこむための作戦としての強硬さ、という側面を認めるにしても、一方のウエイ・オヴ・ライフを守ろうとすればするほど、そしてそれを確立しようとすればするほど、他方のウエイ・オヴ・ライフの可能性が抹殺され排除されていく力学を、湾岸戦争のアメリカはわかりやすく具体的に、はからずも全世界に示した。
ウエイ・オヴ・ライフは最初から戦争的だ。他のさまざまなウエイ・オヴ・ライフとの、深刻な衝突の可能性を内蔵している。巨大な力、つまり戦争で、一方のウエイ・オヴ・ライフを守ろうとすると、もう一方のウエイ・オヴ・ライフは文字どおり殺されてしまう。無条件撤退以外、絶対に譲れないことを表現した大統領の言葉の一例は、オン・アワ・タームズというたいへんに平凡なものだった。湾岸戦争は、アメリカにかかわる基本的なキー・ワードのほとんどが、陳腐で奥行きを欠いたかたちでいたるところに露出する、というきわ立った特徴を持っていた。
ひとつの国にとってたいへんに重要なことがらを表現するはずの言葉が、いまなぜこれほどに陳腐であり平凡であるのかについて、僕は考えてみた。そのような言葉が体現するもののありかたすべてが、進展していく時代のなかですでにその効用を失っているからだ、という結論を僕は得た。間違っているなら訂正しなければならないが、いまのところそれが結論だ。
自分たちが信じている文化のシステムだけのなかにひたっていると、それとは対抗するさまざまに多様な文化のありかたとの、正面きっての共存からわきへ逃げていく道を選んでしまう。文化にはそのような強制力がそなわっている。もっともたやすい、そしてもっとも大義名分を立てやすい逃げ道は、自分たちを正義とし相手を悪とする方法だ。ソ連との冷戦がそうだったし、湾岸戦争もその実例のひとつだった。自分たちだけの正義を突出させ、他の数多くのありかたを完全に否定するという構図は、なんら修正をほどこされないままさらに強化だけがなされた。
軍事的にしろ経済的にしろ、一国だけの突出は、もはや世界のどこにとっても有効ではない。なにが有効かひと言で言うなら、それはインタディペンデンスだ。世界が舞台になる場合には、トランスナショナルという言葉を頭につけ加えてもいい。協調、協力、相互依存と、言いかたはさまざまにあるが、要するに自分たちの国の外へ持ち出し可能な、しかもたいていのところで広く役に立つものだけをおたがいに出し合っていくという、複雑で微妙な相互依存的な関係の継続だ。
いままでどおりでいくのか、あるいは新しい考えかたが示す方向へ向かうのか、いまアメリカは大きな分岐点にさしかかっている。アメリカだけではなく、日本も含めて先進文明国はすべてそうだ。新しい方向の第一段階は、自分たちの政治、経済、文化などにかかわる徹底した自省につきる。そして自省は、とうてい承服しがたいような大転換として具体化していかないかぎり、あまり意味はない。なぜ承服しがたいかと言うと、相互依存的な協力関係は、相手にとっても自分にとっても、自由の制限を意味するからだ。国外でも国内でも、いま起こりつつある大問題はすべて、自省による大転換の必要を切実に示している。
いまのアメリカでたとえば失職がある程度以上の勢いで進行しつつある。人々にとって最大の恐怖の発生源はこの失職だ。あらゆる年齢、あらゆる職種、あらゆる地域で、ちょっと信じられないほどのスケールの失職が続き、さらに進んでいきそうな気配だ。仕事を失えば、中産階級はあっというまに貧困層に転落する。大量生産にもとづく大量消費という文化のシステムが高度に進んだ結果、ブルーカラーはもちろんホワイトカラーも、ほとんどの人が要素別に区分けされたベルト・コンヴェアーに貼りつき、流れ作業をこなしているだけとなった。そして物を作り得ない状況が生まれてきたとき、コンヴェアーは停止し人は失職する。大量生産と大量消費のシステムをほかのものに転換させるには、ほとんどすべてを白紙に戻して出なおすほどの革命を必要とするだろう。
アメリカふうなフリーダムの日常的な具現であった自動車は、労働のありかたの転換を図りそこなった結果、少しだけ違った労働に支えられた日本製の自動車に取って代わられそうになった時期があった。ハーンダ(ホンダ)とニッサーアン(ニッサン)そしてタヨーラ(トヨタ)がいまやアメリカのビッグ・スリーだと、TVニュースの記者が完全にあきらめきって言っていた時期もあった。
西部だけにとどまらず、アメリカンネスぜんたいの象徴であったカウボーイは、日本の企業に雇われ始めている。肉牛を育てるための牧場を、かつて日本の資本がさかんに買収した。アメリカの基準では取るに足らないような規模の牧場でも、日本の基準で見ると広大な牧場である場合が多い。そのような小さな牧場が次々に日本の資本下に入りつつある。牧場ごと買い取り、そこで日本向けに肉牛を育て、日本へ運んで売ろうというのだ。アメリカのカウボーイが日本の会社に雇われて働く。アメリカン・カウボーイズ・オン・ジャパニーズ・ペイロールという信じがたい光景を、アメリカ国内のニュース番組で僕が見たのは数年まえのことだった。
「日本の人たちはハリウッドの西部劇をとおして、アメリカの西部にはよく親しんできたのです」とそのニュース番組で記者は語った。いまの日本の都会にある住宅密集地を上空からとらえた光景が、画面に登場した。記者は続けて次のように語った。「その日本は、肉牛の巨大なマーケットです。アメリカの西部は、西部開拓後も西へ西へと移動を重ね、ついには太平洋を越えて日本へたどり着いたのです」。東寺の五重の塔が夕陽にシルエットになった京都の一角のショットで、そのニュースは終わった。日本へのからかいも反発も抗議もそこにはなく、ただ完璧な自嘲だけがあった。
アメリカを土台から支えていたはずのファミリー・ファームが、深刻な経営難により次々に姿を消していきつつある。ファミリー・ファームに住んでいる人たちの数は、全人口の二パーセントだ。その二パーセントのうちの七十パーセント以上の人たちが、引退の年齢にさしかかっている。息子や娘たちは都会へ出ていく。ファーム・タウンはゴースト・タウンになる。土地は大企業が買い上げる。農業を続けて営む人たちは、その企業から給料を受け取る。
一九二五年から代々続いてきたファミリー・ファームの当主と奥さんが、ファミリー・ファームとしての生活を少しずつたたんでいく様子を、アメリカ国内のTVニュースで僕は見た。切々と胸にせまる崩壊ないしは消失のストーリーがそこにあった。しかし、個人ではどうにも抗することの不可能な、時代というものがもたらす状況変化、といったものをその映像に読むのは間違いだ。国のありかたぜんたいが乗っているシステムに対する、自省力に満ちた総点検の必要性こそを、読まなくてはいけない。
銃もアメリカでは個人の自由の象徴だ。銃を手にする自由、そしてその銃で自らを守る権利は、憲法で保証されている。自由というこの巨大なシステムの一端は、たいへんな悲劇の発生源でもある。悲劇を子供たちだけに限っても、状況は発狂的にすさまじい。任意に抽出した小学生二十人に、あなたの身近で殺された人はいますか、と質問する。八十パーセントがイエスと答える。その人たちが殺されたときの様子を絵に描いてくださいと頼むと、血みどろの殺人現場ばかりが出来上がってくる。銃によって射殺された場合が圧倒的に多い。
ティーンエージャーの死因として、いまアメリカで自然死をはるかに抜いて第一位にあるのは、銃による射殺と誤射だ。年間に六万人ものティーンエージャーが銃で射たれて死んでいる。黒人は白人の十一倍だという。このような悲劇に対して、システムはなんの対策も講じていない。
レーガン大統領の暗殺を試みた青年は、ある日のことガン・ショップへふらりと入っていき、「これください」と指さして買った安物の拳銃で大統領を射った。このときの銃弾を身に受けたため、終生を車椅子で送ることとなったブレイディという補佐官は、奥さんが中心になってブレイディ法と呼ばれている法案の立法をめざして活動を続けた。
銃を買いに来た人にその場では現物を渡さず、七日間の待機時間を置くことを義務づけるという内容の法案だ。セヴン・デイ・クーリング・ピリオドあるいはウェイティング・ピリオドなどと言われているその七日間に、銃を買おうとする人の背景を調査し、場合によっては売らない。そして七日間待たせることにより、感情の高揚にまかせて銃を手に入れることを、少しでも防ごうというのだ。
この法案が議会に提出されるのは今度で二度めだ。過去二回は、ナショナル・ライフル・アソシエーションという大きな団体の強力なロビー活動で、廃案になった。暗殺者に射たれても私は銃の規制には賛成しないと言っていたレーガンは、ブレイディ法に賛成しそれを支持することをおおやけに表明した。
軍隊の装備とおなじと言っていいような自動小銃や機関銃が、ほとんどなんの規制もなしに自由に誰の手にでも入る事実、そしてそのような銃を使った犯罪が激増していることを話題にした記者会見の席で、ブッシュ大統領は記者たちのまえを歩きまわりながら、「だからといって、ハンティングに使うような半自動のライフルまでをも禁止する法律を私が作るなんてことは、絶対にあり得ないですよ」と、掌を拳で叩きつつ力説していた。
大陸の自然環境そのものも、一方的に消費された結果として惨状を呈している。西ではグランド・キャニオン、東ではシェナンドアといった象徴的な名所が、いまではほとんどいつもスモッグにかすんでいて、ろくに見えない日が恒常的に続いている。国立公園の内部と言ってもいいような近い場所に工場がいくつもあり、排煙はいまのところ野放しだ。排煙は霧と重なって視界ゼロの濃密な霧の海を作り出す。その海にハイウエイが呑み込まれ大事故が連続している。
西部開拓のなかで人々が遭遇したすべての河が、それぞれに伝説の河や象徴の河になっている。たとえばリオ・グランデは、いまでは汚染されきった汚水の河だ。支流に向けてメキシコから下水や工場排水その他、いっさいなんの対策もなしに流れこんでくる。人が泳ぐのは危険という状態にすでに達しているから、生態系のデリケートなバランスなどひとたまりもない。あのあたり一帯に広がる荒野や砂漠にとっての、貴重でわずかな水は、いまでは誰にとっても明白な危険物として流れている。
カリフォルニアでは五年ごしの旱魃が続いている。山の灌木は徹底的に立ち枯れ、火をつけると爆発のように燃え上がる。水の無駄使いを監視して罰金を課すパトロールが町をめぐっている。ワシントン州からタンカーでカリフォルニアまで水を運んでこよう、という計画が真剣に検討されている。大陸の西の縁に沿って海底にパイプラインを敷き、おなじくワシントン州の水をカリフォルニアへ運んできて、ウエイ・オヴ・ライフというものをつらぬいていこうという計画もある。自省力のなさの見本は、破壊され汚染された環境のなかに、無限に近く存在している。
数年前の夏の終わりに、カリフォルニア州でスタニスラフという名の河が蘇った。ダムによって出来た湖の底になった河だ。湖になる以前は、ホワイト・ウオーターとして知られたいい河だった。九月のはじめには、その河にかかっていた橋が、当時のままに見えてきた。その橋に立って見渡す両側の景色は、かつての緑豊かな美しいものではなく、荒涼さをきわめたものだった。人間が奪った自然を、旱魃というもうひとつの自然が、あるときふと、もとに戻して見せた。昔の河を知る人たちが、河を見るためにたくさん集まってきた。
惨状を呈している自然環境のなかにまだ少しは残っている手つかずの部分を、保存しよう、守っていこう、と試みている活動は数多い。真剣なものはたくさんあるし、成果を上げてもいる。学ぶべき点は多くある。しかし、生活のありかたそのものを変質させないかぎり、すべては対症療法に終わりつつ、少しずつ惨状は確実に広がる。
アメリカのフリーダムの象徴となった西部は、そのフリーダムの総点検と内容的な方向転換のために、もう一度、力を発揮することが出来るだろうか。人々は西部をさらなる自己正当化のためにだけ使うのだろうか。しかし、そのための西部は、すでに崩壊したと言っていい。では西部は、単なる輝かしい過去でしかないのか。いまふりかえると、輝きは確実にくすんでいる。
フリーダムの点検や方向の転換は、苦痛に満ちた不愉快きわまりないことだろう。僕の直感では、自然の偉大さも先住民族の知恵も、すべてはすぐれた書き手による本のなかでのみかろうじて存在を続け、きわめて少数の人たちがそれを愛でる、ということになるのではないか。これからのアメリカが国の外へ持ち出して広く役に立て得るものは、フリーダムを総点検しなおした結果に生まれてくる、これまでとは質的に大きく異なったものだけだろう。
自分が見つけ出し受けとめた素晴らしいものを、気前よく他の人たちにも手渡していくことに関して、アメリカはきわめて純度の高い名手だ。何年か前のハロウィーンにコロラド州の田舎で実際にあった小さな出来事について、僕はぜひ書いておきたい。ニック・ヴェネトゥーチというひとりの老いた男性が作るカボチャ畑に、ハロウィーンの二週間ほどまえから、車をつらねて人々が子供たちを連れてやって来る。自分のカボチャ畑に実ったカボチャを、ハロウィーンのためにニックは人々に無料で進呈しているからだ。過去四十年にわたって彼はそのことを続けてきた。四十台のスクール・バスが子供たちを乗せていっときに到着したりもする。合計で三万五千から四万の人たちが来て、彼のカボチャ畑からカボチャを持って帰った。地元には彼を記念してヴェネトゥーチ小学校と命名した小学校がある。「やがてこの国を支えることになる人たちに、喜びというものを私は体験させておいてあげたい。神はこれまで私に良くしてくれた。だから私はそれを他の人たちに手渡していくのだ」。取材に来たTVニュースの撮影カメラに向かって、ニック・ヴェネトゥーチはそんなふうに語っていた。
かつて自分が書いた文章を、時間をへて第三者的に読みなおすと、不思議な気持ちになる。あたえられたスペースのなかにいろんなことを詰め込み、それらをとおしてひとつの主題について語ろうとしているかつての自分をいま僕は見る。おそらく一般論にはしないでおくためだろう、詰め込むさまざまなことの取り合わせに、この文章を書いたときの僕はやや苦労しているようにも思える。しかし、言わんとしていることは、よくわかる。これまでのアメリカが言ってきた自由と民主はすでに古典的なものであり、これからはどちらにも大幅な修正がほどこされなければならないのではないか、という趣旨だ。人権にはこれからは厳しい制限が必要だ、という考えかたにもとづいている。
アメリカの自由と民主は、建国から開拓の時代のなかでふくらんでいき、第二次大戦で頂点に達してアメリカの繁栄を作り出した。そして現在では、資本主義、デモクラシー、人権などの複雑にからみ合う領域、つまり致命的な部分に、解決は不可能にも見える矛盾が、誰の目にもはっきりと生じている。そしてそのすべてを支えている理念は、いまも変わることのない自由と民主だ。ほぼおなじ時期に書いたもうひとつの文章も、ここに全文を採録してみたい。『芸術新潮』という雑誌の、アメリカの絵画についての特集号に書いたものだ。アメリカのリアリティとはなにか、というテーマだった。
この文章のなかでも、いきついたところは初めに採録した文章とおなじだ。アメリカのリアリティは自由や民主という観念のなかにある、と僕は冒頭で書いている。個人に許された自由の大きさは多様性を生み、自由競争をとおしてアメリカはそれを国の力にしていった。その結果としてアメリカの繁栄があった。その自由と民主は、これからの世界のなかで、共通したひとつの理念として、世界的な公共性を持つことが出来るのかどうか。そのようなことを、僕は次の文章のなかで書いている。一般論として書くことが、書き手である僕に対して、制約のように作用している。そのためにわかりにくい書きかたをしている部分がいくつかある。原稿を受け取った編集者は、少しだけ困ったのではないか。
アメリカのリアリティの本質をごく簡単に表現するなら、それはここにはない、というひと言につきる。アメリカのリアリティは観念のなかに存在している。観念は理想と言い換えてもいい。これからはここで誰にも邪魔されることなく自分たちだけで理想的な国を作っていきます、とアメリカを建国したとき、そこに参加した全員が共有する価値として合意した、たとえば十三州の契約つまり独立宣言の文章がめざした彼方のどこか遠くに、アメリカのリアリティは常にある。そしてそれはそこにしかない。
だからアメリカは、ちょっと信じられないほどに抽象的な、観念の国家だ。この抽象度の高さは、ナショナリズムなど軽く越えているはずだ。抽象度の高さとは、理想の巨大さでもある。たいへんに大きな理想を、アメリカは建国の瞬間から、自分たちのめざすべき目標として、持ってしまった。これを越えるほどに大きな理想は、ほかにないだろう。
十三州の契約は、まだ国などなんにもなかったときに、作成された。契約はルールであり、ルールとは理念だ。その理念はどのようなものかというと、前進主義、改革主義、未来主義など、アメリカを特徴づけるすべての理念だ。リアリティは、今日ここにはない。しかし、明日以後のどこかには、あるかもしれない。比較の誘惑を断ち切れないままに乱暴な比較をするなら、日本のリアリティは誰もの身のまわりと気の持ちようのなかにいつもある。
アメリカのこのようなリアリティのありかたは、とにかくあらゆる場所にかたっぱしから問題を掘り起こさずにはおかない。現在のアメリカは数多くの難問を国内問題としてかかえていると言われている。そのようなアメリカは、じつはたいへんにアメリカらしいアメリカだ。昨日のアメリカよりも今日のアメリカのほうが、もっとアメリカらしい。ありとあらゆる問題を掘り起こさざるを得ない基本的な性格は、自分たちの視野を社会のぜんたいへと、広げずにはおかない性質の世界観や価値観の原点でもある。
抽象的で観念的なアメリカではあるけれど、ものごとのおこないかたや進めかたには、白紙に戻してやりなおす好みを土台とする、きわめて理にかなったプラグマティズムが横たわっている。きわめて理にかなったとはいっても、アメリカ的という枠の内部でのことだが、このプラグマティズムは僕の私見では哲学にまで達していると言っていい。たとえばアメリカが独立したとき、その独立のしかたも観念的で理想論的であったかというと、そんなことはない。当時のヨーロッパを支配していた力の関係を慎重に秤にかけ、その隙間をじつに現実的に巧妙に突いて、アメリカは独立した。
アメリカではさほどつきつめるまでもなく、国家よりも個人のほうが上にある。アメリカの原動力は個人のマン・パワーのなかに存在する。そしてその個人は、よりいっそうアメリカ的なアメリカ人になるための努力を一生続けていく、というリアリティを引き受ける。建国の理想の個人版だ。自分にとってのそれまでの場所を捨て、新しい場所であるアメリカへ来た人たちによって、アメリカは作られていった。新しくアメリカへ来る人たちは、アメリカにとってのマン・パワーの源泉だった。
そして新しくアメリカへ来た人たちは、それ以後長く保持し続けるそれぞれの出身国の文化を背景とした自分とは別に、もうひとり、完全に白紙に戻った自分を持たなくてはならなかった。いったん白紙に返り、そこからアメリカ人になっていく。白紙に戻ることは、遠い彼方にあるはずの理想の共有にとって、欠かせない儀式だった。アメリカン・インディアンとかつては呼ばれた先住民を事実上の絶滅に追い込んだ史実に、いったん白紙に戻るというこの儀式は、重要な役を果たしたと僕は思う。殺す必要などどこにもなかった友好的な先住民を、自分たちとはまったく異なった物語を持って、しかも自分たちよりもずっと早くからそこにいた人として、アメリカ人は認めるわけにはいかなかったのだろう。
国の出来かたやありかたとして、これほどまでに観念的に興味深い例を、僕はほかに知らない。このような観念的な出来かたやありかたに対して、それは無理だよ、そんなこと言ったって駄目だよ、といったん言ったなら、無理と呼べるものは際限なく広がってしまう。だからアメリカでは、そのような無理を相手に、どこまでも本気で渡り合わなくてはいけない。そうしないでいることは、自らの内部にあるべきアメリカらしさを、放棄することにつながる。
アメリカでは国家よりも上に個人がある。個人とは、人の単なるひとりひとりではなく、個性のことだ。人は誰もみなだいたい似たようなもの、という前提に立たない文化のなかでは、個性は言うまでもなくさまざまな多様性の土台だ。人の多様さは、アメリカ的な前進的変化の文化にとって、これ以上に重要なものはないと言っていいほどに重要な、推進力の出発点だ。
個性の多様さとは、もののとらえかたや考えかた、つまり発想の多様さだ。そして発想は、ほとんどの場合、なんらかのアクションに結びつく。そしてそのアクションは、行動のための行動や、自己完結するためだけの行動も含めて、それまでは存在しなかった状況への移行や変化、より良い状態への変化、よりいっそう前進していくための変化などに、つながってくる。いったん行動を起こしたなら、その行動の主体も、そして周囲にいる人たちや周囲にある状況なども、ともに変化していくという責任を引き受けざるを得ない。アメリカ的な変化、つまり発展の発生源は個人にある。
建国の理想は契約というルールにかたちを変えた。そのルールは個人に適用されていく。個人とは個性であり、個性とは多様性と同義だ。個性の多様性は発想の多様さであり、発想は行動に結びつく。さまざまな行動が、変化、改革、前進への力として、遠近法のずっと奥にある遠い彼方で、一点に結び合う。理想、契約、ルール、個人、個性の多様性、行動、より新しい、より良い方向への変化。アメリカのリアリティはここにはない、と僕は冒頭に書いたが、リアリティとは要するに理想だ。それは遠くに掲げられ続けられるものであるという意味において、ここにはない。
自由主義社会のなかで、数多くの個人が多様性を原動力にして行動を起こすとき、そこにもたらされる行動のかたちは、個人の力を可能なかぎり大きな結果として実証していく競争という形態になる。アメリカは競争社会だと、多くの人が言ってきた。その競争は熾烈さをきわめる、とも言われてきた。競争の熾烈さとは、自分たちの社会が広く共通して信じている価値体系の内部へ、人々を強制していく力のすさまじい強さでもあることも、理解しておくべきだ。
数多くの人たちが競争をしていくとき、これがなければお話にならないという絶対に近い唯一のものは、自由だ。だからアメリカでは、個人に許された自由の範囲の広さというものが、たいへんに重要なものとなっていく。個人に許された自由の範囲の広さとは、いま自分は可能なかぎりの自由のなかにいるのだと、その人が全存在をかけて実感出来る状況のことだ。そして競争とは、契約のなかで自分の責任をどのように果たしていくかだ。契約つまり自分の責任を果たすと、そこには報酬がある。
民主主義、資本主義、そして代議制にもとづく政党政治などは、契約による個人の競争活動、つまり商業活動全般の安定的で継続的な維持の、社会的な基盤を保証する役を果たす。国家の長期的な計画運営によって国民の全員が等しく平等である、というような国の運営のしかたよりも、個人の自由な競争のほうが無理は少ない。だから自由と民主は、少なくともいまのところ、アメリカにおいてもっとも普及し成熟した。そしてそれに代わり得るものを、世界はまだ持っていない。
民主主義の向かう方向はひとつだ。多くの多様な個人、多くの異質なものを、多様さや異質さを生かしつつ、民主主義はひとつの方向へ向かわせる。異質なものに対して自らを閉ざした文化は、その当然の結果として質を低下させていくほかないということが法則のように言えるなら、少なくともこれまでのアメリカは、まさにその反対を実行してきた。
それぞれに異質で多様な数多くの個人というものの典型的な見本は、アメリカにこれまで移民してアメリカ人となった人たちの全員だ。アメリカという国の富にしろ力にしろ、それは移民を生かしきることによって高められてきた。そのことはアメリカの力の土台であり、もっとも大きい魅力でもあった。その魅力に引きつけられて、さらに多くの移民がアメリカに渡った。
異質な要素を常に大量に自らの内部へ輸入し続けることをとおして、ほとんどどこに対しても自分のゲートを開いておくという体質あるいは伝統のようなものを、アメリカは自分で自分のなかに作った。異質なものを輸入し続け、自分の内部に混沌とした状況をいつも作ってきたから、混沌に対する対応のシステムや能力もまた、アメリカの国力的な伝統となった。異質さも混沌も変化も、アメリカでは、積極的に肯定されてしかるべき新しい次の状況への、またとないチャンスとしてとらえられる。理想的に見るなら、このようなシステムは停滞を知らない。システムはより良いものへと、常にその内部で再編成されていく。
一九四〇年代から始まってつい昨日まで、旧ソ連を相手にアメリカは冷戦という巨大なシステムを維持してきた。ソ連はアメリカによって最終的には囲いこまれてしまい、その内部での社会主義の腐敗的な運営により自己崩壊を遂げた。冷戦を維持していくためには、ソ連もアメリカも絶えることない軍拡を必要とした。ソ連の軍事国家ぶりは、固定観念的なイメージであるにせよ、多くの人が承知している。そのソ連をはるかに上まわる、およそ信じがたい巨大で強力な軍事国家が、アメリカだ。軍事においても、自由や民主はもっとも有効的に作用したらしい。アメリカが維持し続けたすさまじい軍事国家ぶりは、一九四〇年代から七〇年代あたりまでにかけての、地球をひとりで食いつぶしてしまうと言っても過言ではないような、ものすごい生産力によって可能となった。
一九四〇年代から現在までのあいだに、アメリカは激変した。その激変のなかでももっとも大きく変化したもの、つまりもっとも大きく広がったものは、個人の権利だと僕は思う。ソ連を囲い込んで出口なしにした軍事力、すなわち生産力は、この五十年ほどをかけて、じつは人権の拡大に関してもっとも大きく寄与してきた事実を知ると、アメリカにとってのリアリティがどのようなものであるのか、ぼやけていた像があるときいきなり焦点を結ぶように、はっきりと見えてくるはずだ。
社会主義に対して民主主義が勝利した、という言いかたがしばしばなされているが、この言いかたはまったく正しくない。社会主義が理想的に運営されたことは、おそらく一度もないはずだ。最初から無理をきわめたシステムが腐敗的に運営されながら、それにふさわしい時間の経過のなかで自己崩壊を遂げただけだ。そしてちょうどその頃、アメリカの軍事力は頂点に達した。その軍事力を支えたのは民主主義だが、その民主主義といえども、ほかにいい方法がなさそうだからとりあえずこれでいってみよう、という程度のものだ。
何度も繰り返すが、しかしそれにしてもすさまじい生産力ではないだろうか。第二次大戦中から戦後、そして一九六〇年代をへてごく最近にいたるまで、その生産力は維持された。大量生産と大量消費というシステムは、民主主義と結びついて限度いっぱいに、豊かなアメリカを作り出したことは確かなようだ。
およそ考え得るありとあらゆる方法で、人々はその豊かさを享受した。しかし、それだけにとどまらなかったところに、アメリカが持つ真の興味深さがあると僕は思う。この四、五十年のあいだのアメリカで、人権の拡大を法制化されたもののなかで拾い上げていくと、その範囲と深さに、アメリカのリアリティを確実に見ることが出来る。アメリカではそうならざるを得ないから、そうなったのだ。
ここにはないはずの、したがってめざす理想として常に追いかけるほかないリアリティは、自由や民主そして人権などによって支えられている。多彩に異質な個人たちの自由競争を支えるこれらの理念は、ごくわかりやすいひとつの言葉に言い換えるなら、なんのことはない、公共性なのだ。個人の私的な世界をあっさり飛び越える、絶対的なものとしての公共性がどのようなものであるかを知るには、たとえばエイズのような問題がもっともいい。エイズに関する意識や対応のしかたの、アメリカにおける大衆次元での変化の過程は、まるで絵に描いたかのように素晴らしくアメリカ的だ。
初めのうちエイズは、ホモセクシュアルや麻薬常習者たちなど、限られた一部の人たちのものだとほとんどの人は思っていた。自分とは関係のない世界の出来事だ、と誰もがエイズをとらえていた。エイズはマイノリティの問題だった。しかし、時をへずして、エイズは普通の人たちの身近に次々に発生していった。
人々の気持ちはパニックを起こした。学童にエイズ感染者のいることがわかったりすると、排斥や攻撃などの動きがあった。エイズは彼らの身辺でさらに増加していった。普通の人が普通の世界で感染すること、血液製剤や輸血でも感染すること、そして胎内で母から子供にも伝えられることなどがわかってくる頃になると、正確で冷静な情報が正しいかたちで末端までいきわたるようになった。
人々はエイズを自分たち全員の問題として、真剣に受けとめ始めた。そしていま、エイズ感染者たちに対して差しのべられるさまざまな救済の手の、どれをも共通してつらぬくひとつの信念をごく日常的な言いかたで表現するなら、それはたとえばWe can't let them go alone. というような言いかたとなる。go' という一見したところ単純そうな動詞の、このように使われるときの語感が理解出来ないことにはどうにもならないが、このように表明される信念は、純度のきわめて高い公共性そのものだと言っていい。そしてその公共性には、宗教というものが強く持っている公共性が重なっている。個人をたやすく超越する絶対的なもの、つまり宗教的な確信としての信念は、アメリカが持つアメリカらしさの根源に位置するもののひとつだ。そのような信念を、アメリカ英語の開かれた性格は、きわめて日常的なひと言のなかにも、表明せずにはおかない。
思考のありかたを出来るだけ普遍的なものに接近させようと試みることは、アメリカのリアリティのひとつだ。そしてそのようなリアリティは、アメリカ英語のアメリカ的な使いかたのなかにある。マイノリティだったHIVポジティヴ者そして発症者たちは、このような信念が持つ公共性によって、ステレオタイプとしての扱いから救い出されることとなった。アメリカのリアリティは、たとえばこのように機能する。
自分たちに共通する価値判断の基準は、ほぼ自動的にそのまま世界のどこでも通用しなければおかしい、とこれまでのアメリカは思ってきた。自分たちの考えかたや物事の進めかたは、世界のなかでただひとつ正しいものだ、とアメリカは信じてきた。アメリカと対立するものがあるならそれは要するに悪でしかなく、その悪は退治されて当然のものだった。内部に異質なものを取り込んで国力に変換していく伝統があるかたわら、アメリカはこのようなかたちで順応を強制する力もあわせ持っていた。
アメリカにとって、価値判断の基準でもっとも大切なものをひと言で取り出すなら、それは汎用性の高い公共性に裏打ちされた、あるいは最終的にはそのような公共性に帰結する、自由というものだと僕は思う。その自由は国内では自由競争を支え、国外に持ち出されたときには、世界じゅうをアメリカとおなじような民主主義の場にしようとする行動となった。そして現在のアメリカは、世界のなかでの競争を維持させていく力を自分たちは失いつつある、という自覚を持つにいたっている。アメリカにとっての根本的な不安や自信喪失に、直接につながる種類の自覚だ。建国から二百年にわたって信じてきた、そしてたいへんに有効であったアメリカのフリーダムが、そのままではこれからの世界のなかで充分に機能してはいかないものになりつつあるのではないかということに、アメリカはどこまで気づいているだろう。
気づいていなければ、社会構造における本質的な変化の進行にも、気づかないままとなるだろう。本質的な構造変化とは、たとえば大量生産による大量消費というようなシステムの終わりのことだ。これまでどおりのフリーダムをとおしておこなわれる世界や人々のとらえかたに、限界が来ている事実に気づいたとき、アメリカはどうするだろうか。
これほどの変化に対応するには、システムを作りなおすほかない。システムの作りなおしは、同時に、そのシステムを支えてきた理念の、根本からの修正をかならずともなう。アメリカはそのフリーダムを修正しなければいけないところまで、すでに来ている。そんなことをするのは嫌だとか、そのような必要はない、あるいは出来ないと言うなら、アメリカの歴史はいったんそこで終わる。昨日の段階で、それまでのアメリカは終わる。そして次の日からは、普遍的な理念も哲学も、もはや必要ではない。世界のさまざまな現場で起こってくる利害の衝突を、自分のつごうに合わせてねじ曲げたりへし折ったりする戦略的技術にたけた国に、なっていかざるを得ない。
アメリカにとってもっとも重要なフリーダムは、誰もがどんなことをも好き勝手に遂行していくことの許された自由などではないことは、言うまでもない。フリーダムには、じつはきわめて厳しい倫理的な、観念的な枠が、はめられている。その枠を手がかりにして、フリーダムという言葉をほかの言葉に置き換えるなら、その言葉は公共性以外ではあり得ない。
アメリカはこれから自分のシステムを修正しなくてはいけない、と僕はいま書いた。システムの修正とは、公共性というものをその土台から考えなおしていくための、途方もない作業の全体だ。アメリカとはなにか、アメリカ人とはなにか、自由とはなにか、人権とはなにか、という基本まで戻り、そこからの根本的な検討を始めなければならない。
アメリカとは、そしてアメリカ人とは、多くの異質な人々の協力関係だった。初等から中等にかけての歴史教育の現場に、この原点を問いなおしかねない動きが、いま強く存在している。これまでのアメリカ史は、ヨーロッパから来た白人を主役にすえた上での歴史だった。この、ただひとつの視点からの歴史というものが、理屈で言うなら移民の出身国の数に対応して、それと等しい数のヴァージョンへと書き改められなければならないと主張する力が、たとえば自治体内部で社会的な問題となっている。
全国の学校で生徒たちに先生がなにをどう教えるべきか、中央の政府が全国統一の指令を発するというようなことは、少なくとも現在のアメリカでは、教育に関してなされ得るもっとも馬鹿げた、あるいは最悪の、アイディアでしかない。この考えかたにもとづいて、立場によるアメリカ史のヴァージョンの違いを推し進めるなら、アメリカは内部でいくつにも分断され、それぞれが内向して自己完結しつつ、おたがいに自らを主張してゆずらないままという、崩壊のきざしをかかえ込むことにもなる。
これからの国際社会は、相互依存的な協力関係の、複雑な網の目のなかにおいてのみ構成される、と多くの人が言っている。そのとおりだろう。アメリカが大事にする公共性が、今後の世界のこのようなありかたと、どんなふうに重なり合う可能性を持つかあるいは持たないか。建国からの歴史をへて、アメリカはもっとも興味深い局面へすでに入っている。
自由と民主の視点からアメリカについて書いていくと、戦争を避けてとおることは出来ない。アメリカ史のなかを、戦争を避けて歩くことは出来ない。戦争そのもの、ないしはそれと緊密に結びついた項目が、建国から現在まで、アメリカ史の年表のなかには連続している。この本を書いている時期に、別な本のために、冷戦について僕は次のような文章を書いた。それも引用してみたい。次のとおりだ。
一九五〇年代のアメリカ、ミドル・クラス家庭の居間の、そのための位置として有利な場所に、TVの受像機が置いてある。ゆったりした大きさのあるキャビネットに、それは収まっている。キャビネットのサイズに比較して、ブラウン管の画面が小さい。画面の四隅は丸く角が落ちていて、それに呼応したかのように、四辺のまんなかが、それぞれ楕円の一部分のように、外に向けてふくらんでいる。いまそのTVはオンになっている。白黒の画面には世界地図が映し出されている。
共産主義の威嚇について、男性の声が煽るように語っている。現在ならたとえば大統領選挙中のTVにおけるネガティヴ・キャンペーンで、対立候補に関してあることないことおかまいなしに否定的なことを並べたてる、あのアメリカ的にすごんだような調子で、共産主義がいかに世界制覇を試み続けているかを、その声は語っていく。共産主義に転じた国、共産主義によって乗っ取られた国などが、次々に黒い色に変わっていく。西側の自由主義陣営は白のままであり、白と黒の対立の図面がTVの画面に出来上がる。
当時のアメリカの人たちにとっての日常的な感覚として、冷戦という言いかたは我慢ならないほどにインテレクチュアルなものの言いかたに属した。冷戦という言いかたに、どっちつかずの印象を持った彼らは、冷戦というような言葉を使う人を、ひょっとしたら向こう側の味方なのかもしれない、などと判断していた。
冷戦の相手は日常的にはレッズ(赤)の奴らであり、彼らとの戦いは、奴らに世界は渡せない、断固として我々は自由世界を守るのだ、という戦いだった。戦いの決意の固さは、共産主義つまり自分たちの理念とは相容れることのない理念に対して、当時の人たちが感じていた恐怖の大きさだ。冷戦はおそろしくアメリカ的な出来事だった、と僕は思う。アメリカの敵、西側の敵、自由と民主の敵としてとらえた共産主義の中心地である旧ソ連に対する、軍事的な包囲網を世界スケールで作り上げ、五十年近くにわたって二十四時間の迎撃臨戦態勢を、相手を上まわるスケールでアメリカは維持し続けた。
そのためにアメリカが注ぎ込んだ国力たるや、どう表現していいのかまったくわからないほどに、とにかく半端ではなかった。自らが掲げた理念に敵対するものを捜し出し、それに対して戦いを挑むことで自らの理念をさらに強固なものとしていくという、アメリカらしさに満ちた冷戦という営為は、第二次大戦が終結する前からすでに始まっていた。
冷戦を支え継続させていくにあたっての、わかりやすい武器として最大だったものは、東西のどちら側にとっても核兵器だった。相手の核攻撃能力に対する、自分たちの核による迎撃能力の、拡大とバランスの維持が、核による核の抑制力として、おたがいに作用し合った。その結果、核によるとりあえずの平和の傘が、西側ではアメリカを中心にして広がっていた。
直接にあるいは間接に冷戦と関係した出来事を、原爆から水爆まで歴史年表のなかに追ってみよう。ごく簡略なアメリカ史年表ではあっても、そこから拾い出す項目がある程度まで重なると、それらの出来事のつらなりは冷戦がやはり戦争以外のなにものでもなかった事実を語ってくれる。
日本軍による真珠湾攻撃の次の年、一九四二年の一月一日には、連合国宣言がワシントンで調印された。戦時生産局や緊急物価統制法などを、一月のうちにアメリカは作った。四月には、この戦争による最初の空襲を、東京は体験した。戦時人的資源委員会、というものもアメリカは作った。六月にはミッドウエー海戦がおこなわれ、アメリカ軍は初めて日本軍に大勝した。戦争情報局が出来、八月には原爆を製造するためのマンハッタン計画が開始された。十二月にはガソリンや食糧品が割り当て制となった。
歴史年表のなかの一九四三年からは、連合国食糧農業会議の開催、戦時動員局の設立、戦時労働争議法の成立、といった項目が拾える。戦後の国際平和を維持するための機構の設立を求める決議を、上院は採択した。四四年には国際通貨基金が設立された。アメリカ軍はサイパン島を占領した。八月にはパリが解放され、ソ連の勢力圏を設定するための、第二次モスクワ会議が開催された。
四五年の一月、アメリカ軍はルソン島に上陸した。二月にはヤルタ会談がおこなわれた。おなじ月に硫黄島をアメリカ軍は侵攻し、五月にはベルリンが陥落し、六月には沖縄の日本軍が全滅した。七月にポツダム会談、そして八月には広島への原爆の投下があった。アメリカによる日本の占領が開始されたのは、八月二十七日だった。
一九四六年の三月、イギリスの首相チャーチルはミズリー州の大学で演説をおこない、そのなかで鉄のカーテンという言葉を使った。七月にはビキニ環礁でアメリカは原爆の実験をおこなった。アメリカとソ連は協力し合うべきだと説いたウォレス商務長官を、トルーマン大統領は辞任させた。十一月にはCIOが共産主義者の排除を決議し、十二月三十一日、大統領は戦争状態の終結を宣言した。四七年の三月、連邦政府職員の忠誠審査に関する行政命令を、大統領は発表した。忠誠とは、共産主義に賛成するかしないか、ということだ。八月には審査が開始され、審査の結果による解雇の法的正当性を、最高裁は認めた。国家安全保障法が出来、陸海空の三軍を統合した国防総省が設置された。
一九四八年についての年表の記載のなかからは、三月のソ連への武器輸出の停止声明、六月の選抜徴兵法の成立、非米活動調査委員会がふたりの人物をスパイであると証言した、というような項目を拾うことが出来る。トルーマン大統領は再選され、議会でも民主党が勝った。一九四九年には北大西洋条約がワシントンで調印された。大統領は赤狩りを非難したが、共産主義者取り締まり法が、上院の司法委員会によって承認された。九月になって、ソ連は水爆を保有している、と大統領は発表した。
一九五〇年の一月、国務長官のアチスンは、極東の防衛に関する演説のなかで、太平洋防衛線というものを披露した。大統領は原子力委員会に水爆の製造を命令した。マッカーシー上院議員による、マッカーシー旋風と呼ばれた共産主義者狩りが始まった。対ソ連総力外交六原則を、国務長官が発表した。六月に朝鮮戦争が始まり、七月一日、アメリカの地上軍の第一陣が半島に上陸した。予備役六万二千名が招集された。九月には国連軍が仁川に上陸し、十月、三十八度線を越えた。十一月には中国の義勇軍に押されて南へ撤退し、十二月に大統領は国家非常事態を宣言した。
一九五一年一月、中国と北朝鮮の軍によって京城が占領された。三月には国連軍は京城を奪回し、総司令官のマッカーサーは中国本土の爆撃を要求した。国連のソ連代表が朝鮮戦争の休戦を提案し、七月には第一回の休戦会議が開かれた。太平洋安全保障条約、対日講和条約、日米安全保障条約などが調印された。対外経済、軍事、技術援助を統合した、相互安全保障法が成立した。一九五二年、日米行政協定が東京で調印された。インドシナへの軍事援助をアメリカは発表した。そして十一月、大統領は水爆実験の成功を発表した。
マンハッタン計画から十年後には、アメリカは水爆を完成させた。冷戦のためのアメリカの軍備の技術革新、そして拡大や増強の動きを支えた中心軸は、原爆とそれに続いた水爆だ。原爆から水爆への十年のなかに、朝鮮戦争という共産主義を敵とした実戦を、アメリカはおこなった。国連でのソ連の提案による休戦という終わりかたは、その後の冷戦の展開を暗示して興味深い。
冷戦という戦争の戦いかたは、自分の国から遠く離れた場所に軍事的な前線を徹底的に敷き、それによってソ連を包囲し続けるというものだった。包囲し続けるとは、東側の全体を、その外にある世界の全体から、完全に断ち切ることだ。外からは包囲されつくされ断ち切られ、内側においては運営の不手際によって、東側は自己崩壊した。崩壊するにあたっては、軍事的にだけではなく経済的にもなされた外の世界との断絶が、大きな力を発揮した。東側は崩壊したが、社会主義に対して民主主義が勝利したわけでは、けっしてない。冷戦という世界スケールの暴力行為で、アメリカの力が勝っただけに過ぎない。自らのアメリカらしさを、冷戦においてアメリカは堪能した。
冷戦は、アメリカという価値の体系が、その外にある世界とどのように接するものであるかを、端的な一例としてあらわしたものだった。東側を徹底的に包囲するための、軍事的あるいは経済的な前線は、西側にとっては、西側としての結束力という強制として作用した。その結束力のすべてを支えたのは、アメリカが理念として掲げていた自由と民主だ。少なくとも西側には、そして少なくとも冷戦の期間中には、アメリカの自由と民主は、自国の価値体系の外にあるどの世界へも、持ち出しが可能だった。
レッズに対する恐怖は、まず間違いなく大きかったようだ。その大きさに正しく比例して、自分たちをレッズから守ろうとする力が大きくなっていった。軍拡の競争を自分たちがリードしているという安心感のなかで、一九五〇年代のアメリカの自由と民主はふくらんでいった。
そのふくらみの内部での支配的な価値観は、世界とは自分たちのことであるという、自己充足だった。その自己充足に生じるあらゆる隙間を即座に埋める彩りとして作用すると同時に、全体を増幅する役を担っていたのが、豊かさというものだ。世界とは自分たちだという自己充足を、世界史始まって以来の異常事態のような豊かさのなかで引き受けていると、多くの人は世界に対する好奇心を失って退屈する。自由と民主にもとづく個人主義は、基本的には反順応だが、世界とは自分たちだという自己充足の内部では、その充足への順応を強いる力として、強大なものとなった。レッズに対する恐怖と敵対の感情は、順応しないものへの強い攻撃力へとかたちを変えた。
豊かさは、一九五〇年代の前半においてすでに、明らかに過剰な商業主義の産物だった。それに支えられて、過剰な生産と過剰な消費とが、社会をつらぬく基本的な価値観念にまで高まっていた。当時のアメリカは、国をあげて過剰に物を作っていた。五〇年代のアメリカは、物を作る人たちの国だった。もっとはっきり言うなら、工場での自分の持ち分をほぼ自動的にこなすことで給料を取っていた、工場労働者たちの国だった。
過剰な生産と消費は、早くも途方もない次元に到達しつつあった。そこに生まれた大衆消費社会は、自由と民主を建前としていた。そしてその建前は、実態との距離がきわめて小さかったから、過剰な生産と消費は、市民の権利の際限のない拡張へと、機能した。
消費者という大衆は、商業主義によって作り出された新たな欲望へと、常に動いていく人たちだ。このような基本的にまったくあてにならない人たちが、生産や消費という大きな局面での主役だった。そこになにかと言えば自由や民主が重なるから、主役の欲望はそのまま、世論となっていった。大衆のために生産と消費の仲介をすると同時に、彼らの欲望の表現を代行したのが、マス・メディア、特にTVだ。デモクラシーとは、そのようにして形成される世論を受けとめ、出来るだけそれに逆らわずにことを進めるか、あるいは誤魔化し続けるかという、操作作業となった。
冷戦という世界スケールの暴力行為が一方で遂行されていき、もう一方においては、ろくな意見も判断力も持ってはいない大衆という圧倒的多数の人たちが、自分たちの望むとおりに世のなかが推移していくらしいことに満足を覚えるという、工場労働者たちの退屈な休日があった。
そこではすべてのことが当然の権利だった。すべてが当然の権利である毎日のなかで、大衆は、常になにか不満を訴えていた。不満を言うことをとおして権利の拡大を常に図っていないと、自分たちの権利は削られ失われていくに違いないという不安が、その根底にあった。冷戦も、質的にはおなじ不安の上に立っていた。大衆という市民にろくな判断が出来ず、したがって彼らがろくな意見を持っていない最大の理由の発生源は、常になんらかの仕事をしていなければならない彼らの、その仕事のしかたにある。
ほとんどと言っていいほど圧倒的に多くの人たちは、仕事をして報酬を得るために、職能という小さな世界のなかに入る。そこは小さいと同時に、他の多くから、そしておたがいから、分断された世界だ。すべてを無理なく自分の領域として持ち、トータルでひとつに統合された世界のなかで仕事をしていくことは、ほとんどの人にとって、とうてい望めることではない。夢のような理想論のなかにしか、そのような世界は存在しない。誰もがごく小さな職能のなかで仕事を続け、そのことの蓄積のなかでしか、判断力も意見も持つことは出来ない。考えたことも体験したこともないようなさまざまな重要な問題に関して、彼らはその程度の判断力や意見で、接していこうとする。
アメリカという国は、最初から、仕事をする人たちの国だった。ヨーロッパからの移住、建国、そして開拓から発展へという歴史は、すべてを自らの労働のなかで作り出していかなくてはならない日々なのだから、仕事そのものだ。独立独歩の強靭な自助精神、独創力、周到な科学性、攻撃的な戦略、駄目とわかったらあっさり白紙に戻ってやりなおす自己改革能力など、すべては歴史を進行させていくにあたって、なくてはならないものだった。だからそれらはアメリカで特別に顕著に生まれ、発展し、アメリカにとっての伝統的な価値となった。その裏には個人主義にもとづく自由と民主があり、さらにその裏には、戦争という仕事が強固な支柱として、ほとんど常にあった。
存在の全体性、そしてそのなかに身を置くことによってなんの無理もなく得られる、自然と一体となった生の喜びといったものは、かたっぱしからめちゃくちゃに破壊されていくのが、アメリカの歴史の基本的な主流だった。人工的ななにごとかを、強引に無理やりに作っていくこと、それがアメリカの歴史だった。先住民との関係の歴史が、そのことをよく証明している。
昔はインディアンと呼ばれた北アメリカ大陸の先住民たちは、ヨーロッパから移住してきた人たちとは、悲劇的なまでに正反対の生の哲学を、そのまま生きていた。大陸の雄大な自然のなかで、彼らの存在は自然と分かちがたく一体で、全体としてのひとつの生のみが、彼らにとってのこの世での生だった。仕事というものは基本的には存在せず、すべてはなんらかのかたちで儀式から遊びまでの広がりのなかのどこかに、無理なく位置していた。自然とともに毎日を遊戯して生きるのが、彼らにとっては最高の生の喜びだった。
しかしそのような先住民は、ヨーロッパから移住してきた人たちにとっては、単なる野蛮人でしかなかった。先住民たちはきわめて友好的であり、彼らを殺さなければならない理由はなにひとつなかったが、ヨーロッパから来た人たちは先住民を殺戮し、事実上の絶滅にまで追い込んだ。移住してきた人たちが先住民を殺さなければならなかった理由は、価値観が違うという一点だけだった。
すべてを取り込んだ上で、トータルにひとつであるという生のありかたのための場所は、自然環境のただなかにしかあり得ない。細かく小さく分裂した職能のなかで誰もが仕事をし、その結果のトータルが文明となっていくという生のありかたのための場所は、人工的な文明環境のなか以外ではあり得ない。後者を維持し拡大させ、絶えず発展させ前進させていくにあたっての、すべての営為を支える宗教的と言っていい理念ないしは信条のようなもの、それがアメリカのフリーダムだ。建国とそのあとに続いた開拓のなかで、そのフリーダムが先住民と衝突し、そのことが気にくわず、それだけを理由に先住民を絶滅させた事実は、記憶しておいたほうがいい。
おなじフリーダムが冷戦を始め、それを支えた。冷戦の相手は崩壊した。西側をひとつにつないでいたアメリカのフリーダムは、東側が崩壊して混迷をきわめていくことと重なるようにして、消えたと言っていいほどに力を失った。西側もかつての東側も、そして南も、冷戦が続いていたあいだずっと、複雑な問題をさまざまにかかえていた。冷戦という巨大な蓋がかぶさっているあいだは、それらの問題はあたかも存在していないかのように、見えないままだった。冷戦が終結して、その巨大な蓋は取れた。世界があらわになった。それぞれの国益をめぐって、複雑にさまざまに衝突していくほかない世界という、現実そのものがあらわになった。
東西や南北の方位など、意味はなくなった。しかし、今後の北は南の発展によって支えられるはずだ、とは誰もが思っているようだ。南の発展とは、一次資源を北に売ることだ。その意味で重要なかぎりにおいて、南は北の支配下となる。その他の南は、切り捨てられるのではないか。
冷戦で世界を支えてきたアメリカは、冷戦に勝つことによって、世界に対する自らの影響力の、いきなり桁はずれした低下を体験しなければならなくなった。ペルシャ湾岸での危機は、なんとか抑えることが出来た。あとは手の出しようもないのが、それ以後の、そして現在も続いている状態だ。リーダーシップも取れない。取ろうとすると、余計なお世話だ、と言われたりもしている。もはやリーダーシップの取りようがなく、取ろうとしてはいけない事態が出現しているのかもしれない。世界というものの蓋をすべて開けてみると、アメリカのフリーダムとはこの程度のものだったのかと思わざるを得ないが、いまの世界をかろうじて支えているのは、アメリカが世界へ持ち出したフリーダムであるという事実は、そのまま事実として残っている。
アメリカのフリーダムとはその程度のものだったのか、という言いかたは、明らかにそれをおとしめた言いかただ。しかしそれをおとしめることは、どのようなかたちにせよ、まったく正当ではない。冷戦の終結によって蓋をはずされた世界の、その複雑さを目のあたりにしたときの、ふとした感情的なものの言いかたとして、アメリカのフリーダムとはその程度のものだったのか、という言いかたをしたくなるにせよ、アメリカのフリーダムは、冷戦という巨大な蓋を世界にかぶせ得るほどに、途方もないものだった。と同時に、冷戦が終わると、蓋のはずれた世界というものを前にして、アメリカのフリーダムは立ちどまらざるを得ない。
それぞれに複雑な事情を内部にかかえたいくつもの国が、この地球の上にある。世界とはそういう状態の便宜的な総称であり、世界というひとつにまとまったものはどこにも存在しない。冷戦で世界を背負っていたアメリカは、冷戦が終わったとたん、その世界の複雑さに驚いている。
地域紛争は、その根の深さを理解することすら、第三者にはたいへん困難だ。小さな国とはいっても、いったんそれを救うとなると、とにかく無から国を作っていくことを全面的に手伝わなければならない。汚れた水を飲んでその国の子供たちがばたばた死んでいくという馬鹿げた現状といったものを、なぜアメリカだけが背負わなくてはいけないのかという、当然と言えば当然の考えかたが、アメリカの大衆のなかにすでに底流として存在している。
世界を背負おうとする試みのなかで、たとえひとりでもアメリカの若い兵士が命を落とすなら、大統領といえども任期が明ければ確実にその仕事をくびになるという状況は、冷戦後の世界にたいへんふさわしい。世界をひとまとめにして自分がかかえていようと試みた冷戦という実験は、なんとアメリカ的でしかも果敢な試みであったことか。
アメリカのフリーダムは内外から挑戦を受けている。フリーダムや民主、そして人権の定義のしなおしにまで、やがては到達するはずだと僕は思う。フリーダムは冷戦だった。冷戦が終わりその相手が崩壊してみれば、冷戦はとてつもない無駄だった。なぜアメリカだけが世界を背負わなくてはいけないのかという基本的な疑問は、冷戦という軍事活動がじつは無駄であったということの発見と、直接につながっている。
その無駄こそ、アメリカだった。無駄という余裕のなかで可能になったことのすべて、それがアメリカ文化だった。その無駄が、いまあらゆる方向から挑戦を受けている。無駄を続けていく余裕は、とっくになくなっているからだ。強いアメリカ、アメリカの再建、アメリカが世界で一番、というような願望は、アメリカが経済大国になることによってのみ、実現される。経済とは、日本を例にして考えると、やはり効率なのだろうか。日本が達成した効率の高さは、そのために捨てたものの大きさだ。あるいは、捨てるものがあらかじめなかったという、一種の幸運の大きさだ。
なにを捨ててなにを取るかというたいへんに厳しい選択には、いわゆる痛みや出血がともなう。それは長期にわたって続き、しかも先を正確に見通すことは誰にも出来ない。次のものをなににするか、そしてそれをどこに見つけるかに関する意見の一致点は、一九九二年の大統領選挙で明らかにされたとおり、我々は変革を求めている、ということだった。そして変革という合言葉には、経済という言葉が、裏としてあるいは表として、貼りついていた。
大衆が求めた変革とは、なにだったのだろうか。アメリカ国内という文脈のなかでの、さらに地方自治体という小さな枠の内部における、生活の向上への確かな見通しや手ごたえ、という程度のものだったのだろうか。あるいは、自分たちの国というシステムを支える理念の、根本的な見直しだったのか。アメリカの強さを六つの漢字で言うなら、それは自己改革能力だ。より良い方向に向けて自分で自分を変えていく能力だ。国の深い内部の草の根に、強く供給され続ける適材適所の人材というかたちを取って、その力はこれまで常に存在し続けた。
草の根の適材適所について思うとき、移民をはずすことは絶対に出来ない。移民というと日本語にはマイナスのイメージがある。アメリカに入って来る移民にも、やっかいなお荷物でしかない部分は確実にあるとしても、適材適所として国の力となる部分もまた、確実にそして巨大に存在した。内部に入ってそこでつちかわれ、多様で個性的な高い才能として、国の内部からシステムを改革したり理念に磨きをかけたりする力として、それはアメリカにとって作用し続けた。その力が国内でフリーダムを機能させ、冷戦で世界を背負う試みをとおして、フリーダムを世界へ持ち出し可能にした。
国内に第三世界が強力にいくつもあり、それらがひとつにまとまって肯定的に機能することなどもはやとうてい望めないようにも見える現状を目のあたりにするとき、移民に関する以上のような理想論は過去のものになったのか、と僕も思うときがある。それぞれに異質な立場があまりにも多くあり、そのどれもが異質な多くの他者のなかでおたがいに力を増幅させ合っている状況を見ると、移民社会も限度を越えたかと、悲観的な気持ちになる。そのような悲観的な気持ちの底から、異質な要素がどれほど多くなっても健全に運営していくことの可能な、現在のそれをはるかに越えたさらなる民主主義を、アメリカの人たちは生むかもしれない、とも僕は思う。
真実はまだ明かされない
ケネディ大統領が暗殺されてから四十年近くになる。ケネディについて語るとき、この暗殺の当日にあなたはどこにいてなにをしていたか、という言いかたがアメリカではいまでも枕言葉のように使われている。そのとき誰がどこにいてなにをしていたかなど、暗殺の本質にはなんの関係もない。暗殺はおこなわれた。しかもライフルで、正確に狙われて。これが本質だ。
アメリカの大統領が、至近距離ではないところからライフルで射たれて暗殺されたのは、ケネディが最初だ。それまでの大統領暗殺は、未遂も含めて、すぐ目の前と言っていいところからの、拳銃による試みだった。試みたのは狂信者であり、暗殺という目的のために、彼らはあらかじめ自分の命を投げ出していた。
ライフルの場合、意味は完全に違ってくる。狙って引き金を引く人は、請け負い仕事をしている。人の頭を遠くからライフルで射ち、西瓜や南瓜のように吹き飛ばすことをなんとも思っていない射手たちが、射つところは見られたくない、射ったあとは逃げたい、つかまりたくない、という願望のもとにすべてを計画し実行したことを、ライフルというものは雄弁に物語っている。
オズワルドの単独犯行という説が、仕立て上げられた作り話であることは確実なようだ。オズワルドひとりの犯行ではないことを示す、いくつもの有力な証拠や証言がある。そのうちのひとつは、皮肉にもライフルに関するものだ。教科書倉庫という建物の六階の窓から、昔のイタリー製のマンリカー・カルカノというボルト・アクションのライフルで、オズワルドは三発の弾丸を射ち、大統領に命中させて殺した、ということになっている。当日は現場にいて8ミリ撮影機でモーターケードを撮影した、エイブラハム・ザプルーダーという一般民間人のフィルムを分析していくと、オズワルド単独犯行説はあっけなくひっくり返る。
この8ミリ・フィルムの全齣を拡大プリントし、ライト・テーブルの上にならべてルーペで観察しながら、ケネディとおなじ車に乗っていたコナリー知事夫妻が検証していくという記事が、『ライフ』の一九六六年十一月二十八日号に掲載された。専門家の分析によってすでに導き出されていた結論を、おなじ車に乗っていたコナリー夫妻が裏付けするという趣向の記事だ。
『ライフ』のこの号が、いまも僕の手もとにある。さきほど僕はその記事を読みなおし、写真を観察しなおした。ケネディと自分が被弾した順番とタイミングを、フィルムの齣をひとつずつ追いながら、コナリーは確定していく。最初の被弾からケネディの後頭部が吹き飛ぶ致命傷の瞬間まで、フィルムの齣数によって経過時間を正確に算出することが出来る。
フィルムには現場の道路や標識など多くのものが映っているから、被弾ごとに、その瞬間の場所も、正確に確定することが可能だ。こうした分析の結果、背後から来た弾丸だけでも、とうていひとりで射てるものではなく、ましてや後頭部を破壊した前方からの弾丸は、単独犯行説では完全に説明不可能だということが、ザプルーダーのフィルムによってわかる。こう断定する説が、少なくとも説としては、充分に成立する。
おなじ型のライフルと練達の射手を使って、FBIは狙撃を再現してみた。マンリカー・カルカノを射つためには、機関部の右側に突き出ているボルトの梃子を右手で持ち上げ、手前へいっぱいに引いたのち、今度は前方へ押し戻す。そして梃子を下げる。この一連の動作によって、クリップのなかの初弾は薬室に送り込まれ、射撃メカニズムの用意が整う。右手をストックのグリップに戻し、標的を狙って引き金を絞る。続けて射つためには、以上の動作を繰り返さなくてはいけない。梃子を持ち上げ、手前に引いて空になった薬莢を排出させ、梃子つまりボルトを押し戻して次弾を送り込み、梃子を下げて右手をストックと引き金に戻す。そして狙いなおして引き金を絞る。
射手にとって狙いの角度を刻々と変化させつつ遠のいていく標的を、狙いなおす余裕などまったくなしに、とにかく射つだけでも、ひとりでは絶対に無理だという結論が出た。ケネディとコナリーのふたりに着弾した三発の、初弾の着弾から三発めの着弾までの経過時間内では、少なくともマンリカー・カルカノでは、命中させることは論外として、おおまかに標的の方向に向けて射つことすら、不可能であることがわかった。オズワルドの単独犯行説にとっては、このことはたいへんにつごうが悪い。
射手がひとりでは時間が足らない。足らない時間は引きのばせばいいではないかという理論にもとづいて、FBIはモーターケードそのものを再現し、ザプルーダーのフィルムとおなじ位置から8ミリで撮影した。ただし、三発それぞれが着弾した地点、つまり一発ごとの発射時間を特定する鍵となる道路標識の位置を、FBIは前もって変更しておいた。こうして再現されたフィルムによると、ひとりでも狙撃は充分に可能だったということになった。
狙撃者がひとりではなかったことに関する、何人もの目撃者による重要な証言は、結果としてきわめてぞんざいに扱われるか、あるいは無視された。現場にいた一般の人たちの多くは、銃声は三発から七発くらいまで聞いた、と証言した。モーターケードが進んでいくエルム・ストリートの道路や歩道に、標的をはずれた何発かの弾丸が当たるのを見た、という証言もたくさんある。弾丸が当たってえぐり取られた跡のある歩道のコンクリート部分、という証拠も存在していた。えぐり取られた跡から直線を後方に向けてのばしていくと、教科書倉庫の六階のあの窓にはたどり着かず、右隣りの一階建ての建物へとたどり着いたという。
エルム・ストリート、メイン・ストリート、そしてコマース・ストリートの三本の道路は、前方で立体交差の下をくぐる。このくぐる部分の分離支柱の前に立っていた男性の顔に、標的をはずれた弾丸は、間接的に傷を負わせた。標的に当たらなかった弾丸は道路に当たり、コンクリートの破片をはね飛ばし、それが彼に当たった。
モーターケードから見て右側前方の、芝生の生えた小高い丘の頂上にあった板塀の向こうから狙撃がおこなわれた、といういくつもの証言が抹殺された。丘の上からの狙撃に関する証言者を含めて、単独犯行説にとって都合の悪い証言をした十八名もの人が、その後のごく短い期間のなかで、とりあえず三名を除いて相当に不自然な死にかたで他界した。
ケネディの暗殺は、オズワルドという人ひとりによる犯行であると結論づけたウオーレン報告書は、強引でなおかつ杜撰のひと言につきるようだ。オズワルドの単独犯行という説を成立させるための、その意図に沿ったつじつま合わせ、言葉づかい、表現の工夫、ものの言いかたの調子などによって、かろうじてその膨大な全体は支えられている。
まともに考えるなら誰にでもわかるとおり、特定の現場という範囲のなかでの時間の経過と、その時間のなかで主要人物たちがとった行動のシンクロナイゼーションの創作、つまりでっち上げは、たいへんに難しい。しかもことは大統領の暗殺であり、目撃者、調査担当者、調査を指令する人たちなど、関係者の数は絶望的に多い。
暗殺がおこなわれる直前から映画館で逮捕されるまでのオズワルドの動きに関して採用された証言者や目撃者たちの証言の、ウオーレン報告書という作り替えられた結果のなかにおける破綻は、時間と行動のつじつま合わせの困難さの象徴としての様相を呈している。真実、つまりオズワルドが実際にとった行動は、ひとつしかない。その真実のかわりに、別なストーリーを作って同一時間帯のなかにはめこむことがいかに困難であるかを、ウオーレン委員会の報告書は自ら証明している。
オズワルドの単独犯行説を採択することにあらかじめきまっていたウオーレン委員会のために、地元の警察を中心にして政府機構が協力した結果として出来上がったのが、膨大な量のウオーレン報告書だった。そして、政府機構の内部にいる人たちが深く関与して遂行された暗殺のカヴァー・アップが、これほどまでに強引で粗雑で幼稚であるという事実は、暗殺による傷を決定的に深める役だけを果たした。
ケネディを暗殺しなければならなかった理由は、自分たちの存在のしかたやそれを支える理念などすべてを、戦争という巨大なメカニズムの上に置いていた人たちの側にある。当時は冷戦のまっただなかにあった。冷戦とは、じつは、途方もないスケールの戦争だった。戦争は、そのスケールに比例して、たいへん広い範囲にわたって、巨額の利益を生み出す。
ケネディは、この戦争という機構を、なしにしようとした。ヴェトナムからは撤兵し、キューバには手を出さず、ソ連とは話し合いをとおして、たとえば核実験停止の協定を結ぼうとした。戦争に自分たちのすべてが乗っている人たちにとって、ケネディは倒すべき敵だった。アメリカがヴェトナムから手を引けばアジアぜんたいが共産主義となる、ソ連とも手を結ぶケネディは容共のファシストだ、という次元の薄気味悪い愛国の感情に、そのような人たちは支えられていた。
アメリカがそれまで世界に向けて広げてきた、そしてさらに続けて広げようとしていた自由と民主主義は、ケネディの暗殺によってその信頼性の裏書きを大きく失った。自由と民主主義は高く掲げた理想であり、とりあえずアメリカにおいてそれはもっとも成熟してはいるけれど、その裏には戦争つまり自分の都合と利益を暴力で確保するための機構が裏地として貼りついている事実を、世界に対してもっともわかりやすいかたちで、アメリカは自ら明らかにしてしまった。
一連のカヴァー・アップは、そのわかりやすさをさらにわかりやすくした。自由と民主主義を社会システムとしてもっとも成熟させ、それを世界に対してお手本として広めてきたアメリカにおいてすら、システムはこのような欠陥を常に持ち得るのだということを、人々に教えた世界史的な教訓となった。
以上のような文章を、ひとつの試みとして、僕は一時間ほどかけて書いてみた。昔ふうの言いかたをするなら、四百字詰めの原稿用紙で十二枚ほどのエッセイだ。いちおう良くまとまっている。大統領の暗殺は陰謀であったとする説に立って、マンリカー・カルカノ、ザプルーダー・フィルム、FBIによる狙撃の再現など、陰謀説から派生してくる興味を、字数の許すかぎり取り込んでいる。そして陰謀説とそのカヴァー・アップを、冷戦さなかのアメリカの、戦争や軍事産業の側の暴力的な世界観と結びつけて結論とし、たいへんもっともらしい。
こういう文章の虚しさというものについて、いま僕は思っている。そこに書いてあることは、無数と言っていいほどに多くの人たちが、すでに知っていることだ。それらをいかに簡潔に一篇のエッセイにまとめようとも、なにひとつくつがえらないし、新たに明らかになることもなにひとつありはしない。
陰謀説に関して可能なかぎり詳しく書いた膨大な本を作っても、その結果はいま僕が試しに書いたエッセイと、なんら変わらないはずだ。オズワルド単独犯行説でも、そのことはまったくおなじだ。どちらを試しても、真実は明らかにならない、という虚しさに突き当たるだけだ。虚しさ、と言ってはいけないのだと、僕は思いなおす。少なくとも現在の段階では、真実は明らかになっていないという現実の、巨大で強固な様子は確認することが出来る、というふうに考えるといい。なにひとつまともには明らかになっていないという現実のなかに、大統領暗殺に関するすべてがある。
『JFK』と『ダラスの熱い日』という二本の映画のヴィデオを買って来て、僕は見た。大統領の暗殺をめぐって陰謀があり、カヴァー・アップがおこなわれ、真相は葬り去られたも同然であるという主張においては、このふたつの作品は基本をおなじくしている。『ダラスの熱い日』には、暗殺に関してすべてをとりしきる四人の男性たちが、最初から登場する。ほとんどなんの予備知識もなしに見ると、この四人がどういう立場のどんな人なのか、わかりにくいだろう。映画のなかでも説明はされていないから、言葉づかい、つまり彼ら四人の台詞の端々と風貌から、推測するほかない。バート・ランカスターが演じているファーリントンという男は、もとCIAだ。ロバート・ライアンが扮しているのは、もとFBIだろう。そして、ほとんどいつも白いスーツを着ていて、「ご老体」と呼ばれたりしている男は、石油産業の大物という設定だ。もうひとり、もと軍人の男がいる。
庶民とはかけ離れたところで、常になにごとか良からぬ計画を考えては実行に移すのを仕事にしている男たち、という印象をこの四人はあたえる。ケネディに対しては強く反感を持っていて、やっちまえ、といういちばん最初の決意から暗殺の計画と実行まで、トップからボトムにいたるまでのすべてを、少なくともこの映画のなかでは、彼ら四人、特にファーリントンが、とりしきる。この四人を中心にして、つまり主人公にして、暗殺への段取りを、一種の娯楽映画の枠の中で、『ダラスの熱い日』は描いていく。それで持ち時間はいっぱいとなる。分類するならいわゆるB級犯罪物という種類の映画であり、そのような映画としてこの作品は明らかに小作りだ。
トップからボトムまで、とさきほど僕は書いたが、ファーリントンによる暗殺計画の手配のうち、トップに関する描写がほとんどない。このような映画では、トップが描かれないことには、真の恐怖感は観客に伝わらない。軍隊式にトップから命令が下り、命令系統をひとつずつ下っていくプロセスのなかで、絶対服従で命令はすべて遂行されていく様子が、暗殺を主題とした映画では基本となるべき怖さを生むのだが。
ボトムに近いところでは、狙撃者として雇われた男とのコンタクトが、一度だけ描かれている。庶民に扮装したファーリントンが、街道沿いのメキシコ料理の食堂で狙撃者と落ち合う。当座の報酬である封筒に入った現金を、ファーリントンは狙撃者に渡す。そして、仕事が終わったあとの狙撃者たちの逃亡手段や逃亡先、報酬などについて、ファーリントンは話をする。段取りの複雑さや報酬の多さなどから、暗殺の対象は大統領だということが、このとき狙撃者にわかるというしかけだ。
トップは誰だかわからないとして、ファーリントンのような人たちを含めて、CIA、FBI、地元の警察、マフィアのような犯罪組織、そしてそのような団体や組織の請け負い人、手先、反カストロやキューバ侵攻などを中心に影や闇の活動をしている得体の知れない、しかし決定的に下級な人たち、そして傭兵など、トップからボトムまで、現実には多彩で複雑な人物模様が交錯したはずだが、『ダラスの熱い日』という映画は、大統領という標的をライフルで射つまでの準備過程にかなりの力点を置いている。
標的を乗せた台車をロープでジープにつなぎ、荒野のなかを引いて走る。その標的を三角形のなかにとらえるかたちで、三点に位置した狙撃者がそれぞれに射つ。標的の動いていく速度が一定の限度を越えると、狙撃の精度が落ちるという当然のことがわかる。大統領のモーターケードの速度を落とす工夫が必要だ、という結論が出る。その結論を、「なんとかする」と、ファーリントンが引き受ける。
引き受けたファーリントンは、暗殺当日のダラスでのモーターケードのルートを変更させる。メイン・ストリートを進んで来たモーターケードは、ヒューストン・ストリートとの交差点で右へ直角に、ヒューストン・ストリートへ曲がり込む。ヒューストン・ストリートをほんの少しだけ走ったあと、今度は左へ直角以上に曲がり、問題のエルム・ストリートへと入っていく。直角以上に曲がったあとだけに、モーターケードの速度は充分に落ちている。
このようなルートの変更が、誰による発案でどのような手続きをへて可能になったのか。暗殺に向けて命令系統が冷厳に作動していく過程こそ、画面を見ている人たちにとっては怖さの源泉なのだが、この映画ではそれは描かれていない。当時のダラスの市長が、誰かの命令を受ければ、ルートはたやすく変更出来たかもしれない。当時の市長はアール・キャンベルといい、カストロ政権を倒すCIAのキューバ侵攻作戦の責任者としてケネディに退官させられた、チャールズ・キャンベルの弟だ。キューバ侵攻にアメリカの正規軍を投入するよう、侵攻が開始されてからチャールズ・キャンベルはケネディに承認を求め、あっさり断られている。
モンタナ州のビリングという町へケネディがおもむいたときには、それを利用して狙撃の予行演習がおこなわれたと、日付を特定してその様子を映画は描いていく。望遠レンズを装着したカメラを、あたかもライフルを構えるかのように持つことが出来るホルダーに組みつけ、シャッターは引き金を引くと落ちるように工夫してある装置を持った三人の狙撃者が、町なかをパレードしていく大統領を三角形のなかに置き、望遠レンズのクロス・ヘヤのなかにとらえ、狙撃とほとんどおなじ動作で撮影していく。撮影した写真をのちほど検討し合い、よし、これでいける、という決断が下される。
オズワルドの所持品であり、オズワルドが大統領を射ったライフルだとされているマンリカー・カルカノとおなじライフルが、狙撃者のひとりに渡る描写もこの映画のなかにある。ふたりでひと組、合計三チームの狙撃者のうちのひとりは、マンリカー・カルカノで狙撃したということだろうか。映画のなかでの暗殺現場の描写によると、三人のうちふたりの狙撃者は、テイクダウンしたライフルをケースに入れて持ち、現場へ来る。もうひとりは、長いままのライフルをレインコートの下に隠して、現場に現れる。彼は芝生の生えた丘の上へいく。ここから射った人がカルカノを使用した、という意味が持たせてあるのだろうと僕は思う。
大統領に向けて発射される弾丸は、ひとチーム一発ずつ、計三発だ。着弾の様子がわかりやすく再現されている。一発めはケネディの首に当たる。二発めは前の席にいるコナリーに当たり、三発めは大統領の後頭部を吹き飛ばす。ケネディに少しだけ似た人が、射たれるケネディを演じている。狙撃が終わり、狙撃者たちが逃亡していく様子も、この映画では描かれている。ひと組は飛行機でヨーロッパへ、もうひと組は汽車でどこかへ、そしてさらにもうひと組は船で、どこかへ逃げる。逃亡した先では、彼らの誰もが、CIAの用意した新しいアイデンティティーのもとに、別人になって暮らす手はずだ。
暗殺は成功する。やってしまったことの大きさを、ファーリントンたち四人は、それぞれに受けとめる。大統領の葬儀がおこなわれる。心臓病で薬を手放すことが出来ないという伏線が、ファーリントンに関して何度か劇中に出てくる。そのファーリントンは心臓発作を起こし、パークランド・メモリアル病院に運ばれて死亡したと、間接的に語られる。
ホワイト・ハウスを去るにあたってTV番組のインタヴューに応じたジョンソン大統領は、そのなかでケネディの暗殺をめぐって陰謀があったようだという懸念を、はっきりと表明した。この部分は、しかし、オン・エアされた部分からは削除されたという事実を、この映画は字幕で述べる。そしてもうひとつ、暗殺現場での狙撃者複数説を裏づけるいくつもの確かな目撃と証言をした人たちのうち十八名までもが、ごく短い期間のなかでたいへんに不自然な死にかたをした事実も、字幕で述べている。彼ら十八名が短い期間のなかに集中して不審な死を迎えた事実を確率になおすと、何万兆分の一などという途方もない数字になることを字幕で語って、この映画は終わっている。
一九四〇年代から一九五〇年代いっぱいにかけて、しばしばB級と呼ばれている犯罪やサスペンスを主題とした映画が、アメリカで数多く製作された。そのような映画の再来として、僕は『ダラスの熱い日』をとらえた。僕がかつて見た範囲内での、思い起こすことの出来るそれらB級映画の基本的な感触が、『ダラスの熱い日』には共通して存在していると僕は思う。
『ダラスの熱い日』の監督や撮影監督たちは、ハードボイルドな描写をクールに積み重ね、暗殺なら暗殺のプロセスを冷たく的確に画面に展開させたつもりだと、僕は推測する。しかし実際に僕なら僕が画面に見るものは、全体は存分に主観で支えられ、描写はいまひとつ垢抜けせず、展開はもたっとしている。もっと複雑な過程が必要なはずだと僕ですら思う部分が、安直さに落ちる寸前のようなかたちで処理されている。そして、たいした重みは持たないはずの箇所に、妙に手間がかけてある。
これとよく似た感触を、かつて僕はなにかの映画で体験したはずだ、と僕は『ダラスの熱い日』を見終わって思った。それはなんという映画だったか、過去に見た映画の数々を思い浮かべているうちに、回答は出た。『拳銃魔』という映画だ。原題を『ガン・クレイジー』という、一九五三年に公開されたこの映画は、『俺たちに明日はない』の原形だなどと言われて、いまではカルト・ムーヴィーの地位を獲得している。面白い映画ではあるのだが、切れ味が鋭いのか鈍いのか判断しかねるところがあり、そこが『ダラスの熱い日』とそっくりだ。『ガン・クレイジー』の脚本を担当したのはダルトン・トランボであり、『ダラスの熱い日』も脚本はトランボが書いた。だからと言うわけではないが、時代をかなりへだてながらも、この二本の映画はよく似ている。『ダラスの熱い日』は、ケネディの暗殺に材を取った、愛すべきB級ムーヴィーだ。
実写フィルム、そしてその実写フィルムの主として前後を補う再現フィルム、それからドラマとしてのフィルムの三種類を、手ぎわ良くつないで物語を進めつつ緊迫感も高めていくという映像表現の手法を、『JFK』は『ダラスの熱い日』から直接に受けついでいる。『JFK』にも主人公がいる。ケヴィン・コスナーの演じる、ジム・ギャリスンだ。彼の活動に沿って、ケネディの暗殺がかなり幅広く、したがって細部はわかりにくく、『JFK』では描かれていく。
ギャリスンの行動とは、ケネディ暗殺を独自に調査し、たとえばウオーレン委員会の報告書に対して異議を唱えることだ。その最初のとっかかりとして、彼はクレイ・ショーという人物を法廷へ引き出す。陪審員たちを前にしてギャリスンがおこなう、真の正義と愛国についての一種の演説が、『JFK』という映画がドラマとして高く盛り上がる頂点だ。陪審員たちはじつにあっけなく、クレイ・ショーに無罪を言い渡す。作戦の間違いの上にいくつかの不利な条件が重なった結果、ギャリスンは法の手続きでは負けたことになる。しかし内容としては彼は勝っているのであり、真実は彼の側にある、というのがこの映画に託されたメッセージだ。
『JFK』は半分まで成功し、残りの半分は失敗している、と僕は思う。カストロを倒すためにキューバに侵攻しようとする計画を中心にして、CIAやFBIあるいはマフィア、地元の警察、まともとは言いがたい実業家などの、請け負い人となって動いた得体の知れない人物や街のごろつきのような人たちに関するさまざまな部分の不充分に描かれたつらなりが、陰謀説というものの背後にあるべき怖さを大きく削いでいる。暗殺現場での主要人物たちの動きを画面で見るときの怖さが、政府機構内部の高いところから暗殺への段取りが命令として下っていく怖さと直接につながったなら、いくつもの事実をひとつのつながりに再構成して画面で見せるという映像効果は、その機能をもっと大きく発揮したはずだと僕は思う。
そのような意味で、ドナルド・サザランドが扮する人物にギャリスンがワシントンで会って話を聞く場面が、この映画のなかではもっとも怖さを感じさせる。暗殺に関する陰謀が、政府機構のトップからいかに発せられて下っていったかが、フレッチャー・プラウティという実在の人物に該当するサザランドの語りと、断片的な再現フィルムによって描かれていく。サザランドの演技力も加わって、ここに僕はもっとも強く怖さというものを感じた。そのかわりに、ほかはすべて少しも怖くない。
主人公という妙なものを設定せず、サザランドが語ったことを前半のドラマにし、後半の暗殺現場の再構成につなげたなら、『JFK』ははるかに問題の核心に迫ることが出来たのではないか。問題の核心とは、暗殺命令とその遂行の怖さなのだから。実写フィルムと再現フィルムのつなぎかた、つまり見せかたは、『JFK』では『ダラスの熱い日』よりも手がこんでいる。手のこみかたは、しかし、わかりにくさをともなっている。細部にわたってかなりの知識を持っている人たち以外にとっては、なんのことだかわからない部分が連続したりするのではないだろうか。
実写フィルムと再現フィルムのつなぎかたの失敗は、オズワルドに関する部分でもっともはっきりしている。オズワルドは犯人に仕立て上げられた人であることが、画面を見た結果としてはっきりとわからなければ、実写も再現も、そしてそれをどのようにつないでも、意味はない。オズワルドをめぐって、なにがどうなったのか、暗殺の現場とその周辺だけに限定しても、『JFK』ではぜんぜんわからない。
先に僕が書いた、一定の場所で経過した一定の時間内での、ひとりの人間の実際の行動と創作された行動との、いくつもの要所ごとの同調の困難さが、映画を作るという作業のなかにも影響をおよぼしている。オズワルドが誰にも見られていないなら、彼の行動をつごう良く創作することはたやすい。しかし、オズワルドは、多くの人にいろんな場所で、目撃されている。それぞれの場所とタイミングを、創作に同調させなければならない。時間だけではなく内容的にも、無理のない同調が必要だ。なぜオズワルドはその時間にそこにいたか、という問題だ。とても同調させきれない部分においては、政府機構は目撃者の証言を改変したり無視したりしたのであり、そのことも併せながら、一本の流れとして、すべてを映像で画面に提示しなければならない。出来ない作業ではないと僕は思うが、『JFK』はここで失敗している。こういった失敗を観客にとって埋め合わせるものとして、エイブラハム・ザプルーダーの撮影した8ミリ・フィルムが法廷で映写されるのを、観客は見ることが出来る。このフィルムは、いまはタイム・ライフ社の所有物だ。
暗殺の現場での狙撃に関してもっとも重要な問題は、射ったのはオズワルドであるのかないのかとか、射った弾丸は何発かというようなことではない。もっとも重要なのは、正面から来た弾丸、つまり大統領の頭の前から入ってうしろへ貫通し、後頭部の頭蓋骨を脳とともに吹き飛ばした弾丸だ。
この弾丸は、「芝生の生えた丘」とほとんどの人が呼んでいる場所から来た、と定説は言う。モーターケードの進んでいく右側前方の、小高くなって木が何本か立ち、板塀のあるスロープの頂上だ。この板塀の向こうから、狙撃者は致命弾を射った。『ダラスの熱い日』では、ここからの狙撃がはっきりと描かれている。『JFK』でも、狙撃者が位置につく描写があったように思う。少なくとも発射は描写されたし、多くの人が見たと証言した、発射後の白い煙も描写された。
ふたりでひと組の狙撃者たちは、当日はシークレット・サーヴィスの良く出来た贋物のバッジを持ち、シークレット・サーヴィスを装っていた。狙撃者ふたりのほかにも、おなじくシークレット・サーヴィスを装った男たちがいて、狙撃者の周囲にいた人あるいは近くへ来ようとした人たちを、彼らが追い払った。
致命弾を射った狙撃者たちはそこで仲間にライフルを渡し、丘の裏側のスロープを駆け降り、駐車場の向こうにある何本もの鉄道引き込み線を越え、発車寸前の貨物列車に乗った。貨物列車で移動する浮浪者のような人を装い、あらかじめ定めてある場所へ計画どおりひとまず逃げようとした。この様子のほとんどすべてを、貨物列車の動きを指令する鉄道員が、高い指令塔から見ていたと証言した。暗殺直後の、丘の上そしてその向こうでの騒ぎに、その鉄道員は気づいていた。さらに、狙撃者たちが位置につく以前、駐車場で不審な動きをしていた乗用車も、彼は気になっていた。だから彼は、ふたりの男たちが乗った貨物列車を、発車させずにおいた。
暗殺現場一帯を、多数の警官その他、オフィシャルな立場の人たちが捜査にあたった。貨物列車に乗った男たちはシェリフのオフィスへ連行された。そしてそこですぐに、FBIによって釈放された。連行されていく彼らを新聞社の写真担当者が写真に撮った。この写真の現物ではなく、良く似せた再現写真が、『JFK』のなかに何度か出てくる。その写真について説明されてしかるべき内容の三分の一ほどが、映画のなかでは説明される。知らない人にとっては、その写真がどういうことを意味するのか、『JFK』を見るだけではなにもわからない。
写真から判断するかぎりにおいて、連行のしかたが非常に不思議あるいは不自然だ、という指摘がいまも力を失っていない。逮捕ではなくただの連行だからこんな連行のしかたでもいいのだという意見もあるが、大統領が暗殺された直後なのだから、もう少しきちんとした連行のしかたがなされるべきではないか、という意見と対立している。ほとんどなんの取り調べもないまま、FBIによって釈放されそれっきりというたいへんな奇妙さに加え、写真に映っている二人の男たちは一見したところ浮浪者に見えなくもないが、少し注意深く見ていくとまったく浮浪者ではないことがわかる。
三人映っている浮浪者のうちふたりは、「芝生の生えた丘」の上の狙撃者だ。『芝生の生えた丘の上の男』という本の著者たちによれば、背の高いほうの男はチャールズ・ハラースンといい、ケネディ暗殺のあとは、それまでのような小さな犯罪歴を重ねる人生からプロの暗殺業に転じ、南部のどこだったか僕は忘れたが、知事ないしは市長のような人をライフルで請け負い暗殺し、逮捕された。彼はいまイリノイ州のマリオン連邦刑務所で服役している。「ケネディを射ったのは自分だ」と、彼は発言しているという。背の低いほうの男は、チャールズ・ロジャーズという。彼はケネディの暗殺後、ダラスで同居していた両親を殺害したあと、現在にいたるまで行方不明だ。
指令塔の鉄道員は、暗殺後の短い期間内に不自然な死を遂げた、十八名の証言者たちのうちのひとりとなった。不自然としか言いようのない自動車事故で、彼は死亡した。陰謀説を構成する部分品は無数にあると言っていい。それらのなかの、出来るだけ中心に位置するもの、あるいは陰謀を有力に支えるものを的確に選び、一本の娯楽映画の展開として観客に見せ、陰謀説とはなにであるかを理解させることは、不可能ではない。しかし、その作業はたいへんに難しい。
その難しさに取り組むにあたって、まず最初に越えなければならないハードルは、陰謀説と正面から向き合うことだ。しかし『JFK』ではジム・ギャリスンを主人公にし、その必然的な結果としてクレイ・ショーという末端の、しかも歪んだ人物をとおして、陰謀説を語ることとなった。この意味で判断するなら、『JFK』はほとんどトータルに失敗している。
『ダラスの熱い日』と『JFK』の二本の映画に共通する最大の弱点は、オズワルドだ。どちらも陰謀説を語りながら、オズワルドにおいて失敗するという落とし穴に落ちている。陰謀説は二本の柱の上に立っている。ひとつは、いわゆるケネディ神話だ。ケネディ神話を支持する大衆は、アメリカの白人社会のいちばん外側の縁にかろうじて引っかかっていたオズワルドのような半端な男に、自分たちの大統領をあっさりと射殺されたということを、それが事実であってもなくても認めるのを拒否している。ケネディがオズワルドひとりに狙撃されて死んだのなら、その死はあまりにもくだらなさ過ぎる。そのようなくだらなさは、たちまち自分たちに跳ね返ってくる。ケネディの死をそのようなくだらない死にだけはしたくないという大衆の願望が、暗殺陰謀説を支える。国家の陰謀による死なら、神話と釣り合う。そしてその陰謀は、出来るだけ複雑怪奇でスケールは大きいほうが好ましい。
陰謀説を支えるもうひとつの柱は、ウオーレン委員会が作成した報告書に対する、信頼性のゼロに近い希薄さだ。オズワルドの単独犯行だと結論したその報告書の信頼性のなさは、もっとも単純に推論するなら、陰謀説をカヴァー・アップしようとする努力の、とても隠蔽しきれないことから来る無数のほころびだ。これが陰謀説を外側から支えてきた。
『ダラスの熱い日』と『JFK』のどちらにも、オズワルドは登場する。どちらのオズワルドも、画面に出てはくるけれど、ほとんど役は果たさない。オズワルドにどこまで似た俳優を探して来て、その人をさらにどこまでオズワルドに似せることが出来るか、ということの競い合いだ。その勝負は互角だと僕は思う。オズワルドはどこにでもいそうな男だ。よくあるタイプだ。しかし、似せるのは難しい。体格ぜんたい、そして顔や頭の、あの独特な細さは、似せようとして似るものではない。
どちらの映画のオズワルドも、たまたま暗殺計画の周辺にいて、便利に犯人役を引き受けさせられ、そのあとすぐに射殺された間抜けで半端な男、という域を出ていない。オズワルドとは、いったいなになのか。ケネディの暗殺をめぐる問題のなかで、もっとも知られていない領域、そして大衆によってもっとも関心を示されなかった領域は、オズワルドとはなになのか、という問題だ。
ドン・デ・リーロがオズワルドを主題として、『リブラ』(邦訳は『リブラ 時の秤』文藝春秋)というすぐれた小説を書いている。僕の知っているかぎりでは、きちんと描かれたオズワルドはこれだけだ。単独犯行説のためのオズワルドなら、たとえばジェラルド・ポスナーの『ケース・クローズド』のなかに、暗殺への必然に満ちた過程としての彼の半生が、丹念に描いてある。最後には自分たちの大統領を射殺するにいたるほどに自分を失い判断力を狂わせ、唯一よりかかることの出来た銃による暴力行為のなかに自分のすべてを注ぎ込んだ、思えば哀れな男としてのオズワルドだ。
一九六三年十一月二十二日、ケネディ大統領はテキサス州のフォート・ワースにいた。次の日、ダラスまでの短い距離を、彼は飛行機で飛んだ。ダラス市内のモーターケードのルートは、事前に公表されていた。数多くの人がそのルートに出ていた。メイン・ストリートをいく大統領とその夫人ジャクリーヌを、多くの人が見物した。
モーターケードのルートには変更があった。ヒューストン・ストリートとの交差点を越えたあと、そのままメイン・ストリートを直進するはずだったのだが、ヒューストン・ストリートとの交差点を右折し、次の交差点までの短い距離を直進したのち、その交差点へ西から斜めにつながっているエルム・ストリートに向けて、モーターケードは百二十度の左折をするという変更だ。
そして、ゆるやかな登り坂であるエルム・ストリートをそのまま進み、トリプル・アンダパスをくぐってステモンズ・フリーウエイに入る。トリプル・アンダパスとは、まっすぐにのびていくメイン・ストリートに、エルム・ストリートとコマース・ストリートがそれぞれ左右から寄っていき、三本並んでアンダパスをくぐっていく、というような意味だ。変更はもうひとつあった。大統領のリムジーンには、防弾の性能はないが透明なプラスティックのバブルがかぶさることになっていた。ハードトップのようなかたちをしたバブルだ。このバブルは使用されず、大統領のリムジーンは完全にオープンとなることに変更された。
ヒューストン・ストリートからエルム・ストリートに向けて、モーターケードが百二十度の左折をしたのは十二時三十分だった。晴れた日だった。太陽が強くまぶしく、ディーリー・プラザに照り降ろしていた。北から南へ、かなり強い風が吹いていた。ヒューストン・ストリートとエルム・ストリート、そしてコマース・ストリートの三本の道路が作る三角形を中心にしたそのあたり一帯が、ディーリー・プラザだ。
エルム・ストリートに入って来たモーターケードを、エイブラハム・ザプルーダーという人が、8ミリのホーム・ムーヴィーで撮影していた。進んで来るモーターケードをその右側から見る位置に、ザプルーダーは立っていた。歩道から小高く丘のようなスロープとなっていく地形を歩道から少しだけ上がったところにあった、コンクリートで作った小さな塀のようなものの上だ。モーターケードを、浅いけれども見物人としては有利な角度で、彼は見下ろすことが出来た。
第一弾の銃声から最後の銃声まで、暗殺現場での出来事の重要な部分を陰謀説から拾い、つなげてみよう。銃声、銃弾の数、発射された方向、大統領の反応、ごく近くにいた人たちの反応や目撃など、すべて連結している。そしてその連結のされかたは、当然のことながら、陰謀説と単独犯行説とでは、多くの場合まったく正反対に違ってくる。
第一弾は狙撃者が狙った標的には当たらなかった。第二弾は前方から来て、大統領の喉に命中した。第三弾が大統領の背中に命中した。肩の線から六インチ下がった、背骨の右側だ。大統領の前の席には、すぐ前にテキサス州知事のコナリー、そしてその左には彼の妻がすわっていた。背後の気配にコナリーはうしろを見ようとして右を向いた。そしてすぐに左へ顔を向けなおした。第四弾が彼の右脇の下に当たった。この銃弾は彼の胸を貫通し、右の乳首の近くから外へ出た。コナリーは危うく命を落とすところだった。
このときのモーターケードの速度は、停止したも同然だった。大統領のリムジーンの運転をしていた五十五歳のビル・グリアは、振り返って大統領を見ていた。大統領の頭に致命的な被弾があるまで、彼はブレーキ・ペダルを踏んだまま振り返って見ていた。大統領の次の車に乗っていたエージェントの何人かが背後を振り返ったほかは、先行する一台の車、そして後続の何台かの車とエスコートの警官たちのモーターサイクルは、このときまだなにもアクションを起こしていなかった。大統領の車の次の車のなかで、シークレット・サーヴィスのエージェントのうしろにいたジョンソン副大統領は、すでに体を伏せていた。
銃声はさらに重なった。現場にいた人たちの証言によるなら、乱射と言っていい状態で、いくつかの方向から、何発もの銃撃があったということだ。そのいちばん最初の弾、つまり陰謀説にとっての第五弾は、大統領の車の、ウインドシールドの内側の金属枠に当たった。そして第六弾は車のすぐそばの歩道に当たった。第七弾と第八弾が、同時と言っていいほどのごく短い間隔で、大統領の頭に命中した。第七弾は後方から来た。その衝撃で前へ出た彼の頭を、第八弾が前から来てとらえ、大統領の体をうしろのシートに向けて、強く突き飛ばしたように動かした。
前方から来た弾丸は、大統領の右目の近くから頭のなかに入った。入った瞬間の衝撃で、頭の右側側面の骨がほぼ丸く、まるで蓋を開いたかのように、ぱっくりと開いて垂れ下がった。その銃弾は頭を貫通し、後頭部の右に寄った位置から外へ出た。出るにあたっては後頭部の骨を砕き、大きな射出口を作った。なかば液状になった脳、血液、そして骨のいくつものかけらが、射出口からリムジーンの左後方に向けて噴き飛んだ。この第八弾が命中したときのリムジーンの位置から計測して二十五フィート左後方の位置で、ビリー・ハーパーという男性が骨の破片を拾った。人間の後頭部の骨であることが確認された。
ほとんど停止していたそのリムジーンの左後方には、ボビー・ハーギスという警官が、モーターサイクルにまたがって位置していた。大統領からの血しぶきを顔に浴びた彼は、大統領の頭をとらえた銃弾の発射された方向を正しく判断し、モーターサイクルをその場に停め、芝生の生えた丘を塀に向けて駆け上がった。
大統領に第八弾が命中した〇・六秒後に、第九弾がコナリーの手首に当たってその骨を砕き、彼の右太腿の皮下にめり込んだ。さらにもう一発、第十弾が背後から発射された。モーターケードの前方の歩道にその銃弾は当たり、コンクリートの破片はトリプル・アンダパスの下にいたジェームズ・ティーグという見物人の顔に当たり、軽い怪我をさせた。
後部トランクの上に飛んでいった夫の頭の骨と脳を拾おうとして、ジャクリーヌはシートからトランクに身を乗り出した。トランクの上にあった骨の破片を彼女は手に取った。すぐうしろにいた一九五六年型のキャデラックのコンヴァーティブルから、クリント・ヒルというシークレット・サーヴィスのエージェントが飛び降り、大統領の車に駆け寄った。そして彼はその車の後部バンパーに乗り、ジャクリーヌをシートに戻そうとした。大統領の車、そしてモーターケードの全体が、このときもまだ停止したも同然の状態だった。
モーターケードは動き始めた。大統領の車も速度を上げていった。クリント・ヒルは上着を脱いでジャクリーヌに渡した。それでジャクリーヌは夫の頭から肩にかけての部分を完全にくるみ込んだ。夫が頭部に受けた大きな損傷を人に見られたくない、とジャクリーヌは思ったからだ。
テキサス教科書倉庫の建物の六階のあの窓から、モーターケードの大統領を狙って、ボルト・アクションの強力なライフルによって三発の弾丸が発射されたことは、どう動かすことも操作することも不可能な確かな事実と見ていいようだ。オズワルド単独犯行説そして陰謀説のどちらも、この三発は重要な中心として認めている。
六階のあの窓の直下、五階の窓から、教科書倉庫で働いていたふたりの男性が、モーターケードを見物していた。六階のフロアを張り替える作業がおこなわれていた途中であり、すぐ上の階での物音は、下の五階でたいへん良く聞き取ることが出来た、とふたりは証言した。たて続けの三発の銃声、ボルト操作が二度おこなわれる音、そして排莢された空の薬莢がフロアに落ちて転がる音を、ふたりははっきり聞いたという。初弾は前もってチェインバーに送り込んであるから、ボルト操作の音は二度だけだ。
三発の銃声のあとすぐに、ふたりは窓から身を乗り出させ、真上の六階の窓を見上げた。そのときのふたりを目撃した人が何人かいる。六階の窓のなかに狙撃者を見た人もいる。二十代のやや細い体つきの白人男性で、冷静で冷たい印象があり、射ったあとの満足そうな達成感を、目撃者はその男性から感じたそうだ。狙撃者は、けっしてあわててはいなかった、とも目撃者は証言している。
六階の窓の内側には、段ボールの箱がいくつも積んであった。初めに見たときには箱は見えなかったが、あとでまた見たら窓ごしに箱が見えた、という証言がある。教科書を入れる段ボールの箱で窓の内側を取り囲み、銃を構える狙撃者の腕や体を支えるための、スナイパーズ・ネストとして機能させたことは間違いない。
このスナイパーズ・ネストに、空の薬莢が三個、暗殺のすぐあとに発見された。この三個の薬莢は、単独犯行説では、発射された銃弾が三発であることを裏づける重要な証拠となっている。しかし狙撃の現場に残してあった空の薬莢は、証拠としてはほとんど役に立たない。オズワルドが射ったとされているマンリカー・カルカノというイタリー製のライフルに使う銃弾の薬莢ではあったが、三個のうちひとつには、何度も繰り返して排莢した痕跡がはっきりあったという。
多くの目撃者たちの証言は、大統領のリムジーンがエルム・ストリートへ曲がり込んだ直後に第一弾は発射された、という点で一致している。第一弾が発射された時間を正確にピンポイントするのは、しかしたいへんに難しい。オズワルドの単独犯行説によると、彼が射った三発の銃弾の経過はおよそ次のようだ。
第一弾は標的には当たらなかった。狙撃者と大統領のほぼ中間、エルム・ストリートの北側の歩道に、かなりの大きさのオークの樹が立っていた。枝を何本も広げ、葉がたくさんついていた。長方形を横置きにしたかたちの道路案内標識も、狙撃者と大統領とのあいだで、支柱に支えられて位置していた。もうひとつ、街灯の柱が、狙撃者と大統領とのあいだにあった。狙撃者が第一弾を射ったのは、リムジーンの大統領がオークの葉の陰にかくれようとする寸前だった。
的をはずれた第一弾はオークの樹の枝に当たり、メタル・ジャケットは裂けて飛び散った。内部にある本体の鉛の先端の部分が、モーターケードのずっと前方に向けて飛んでいった。それはトリプル・アンダパスの近くでメイン・ストリートの歩道に当たり、そこに短い溝を掘ったようにコンクリートを欠き砕き、跳ね返ってさらに飛んでいった。そのときのコンクリートの砕片で、アンダパスの下にいたジェームズ・ティーグという見物人が、顔に軽く怪我をした。歩道に刻まれたこの短い溝からは、鉛とアンティモニーが検出された。
第二弾が発射された。秒速二千フィートで銃口を出たその弾丸は、秒速千七百フィートから千八百フィートの速度で、大統領の肩のすぐ下に命中した。首の骨をすれすれにかすめた弾丸は、かすかに弾道を変化させつつ、大統領の首の前側面から外へ出た。弾丸は尻を持ち上げ始め、つまり頭を下げていき、飛びながら縦に回転を始めた。大統領のリムジーンのすぐうしろを走っていた、一九五六年型のキャデラックのコンヴァーティブルにいたシークレット・サーヴィスのエージェント、グレン・ベネットは、この第二弾が大統領の背中に当たるのを見ていた。
大統領の首のなかで縦方向の回転を始めたその弾丸は、首を出て完全に半回転したのち、弾頭を下にして直立した全長一インチ四分の一の物体として、大統領のすぐ前の席にいたコナリー・テキサス州知事の右脇の下に命中した。縦に立ってなおも回転しながら、弾丸は彼の胸を抜けていった。五番めの肋骨を砕き、方向を少し変え、右の乳首の下から外へ出た。直径二インチの射出口が出来た。
弾丸はまだ縦方向に回転していた。速度は秒速九百フィートまで落ちていた。弾丸は尻から知事の右手首に入ってその骨を砕き、貫通し、左の太腿にめり込んだ。このときの速度は時速四百フィートだった。太腿の皮下になんとかめり込むだけの力を、弾丸は残していた。パークランド病院に到着した彼が、担架に乗せられて救急室に運び込まれるあいだに、この弾丸は太腿から抜け落ちた。そしてすぐあとにその担架から回収された。
致命傷の第三弾は、大統領の後頭部のやや右に寄ったところから頭のなかに入り、右側頭部に大きな外傷を作りつつ、右目の近くから外へ出た。オズワルド説を採択するなら、狙撃者は彼ひとりだから、前方から来たという銃弾はすべて完全に否定しなければいけない。芝生の生えた丘の上にある塀の近辺から銃声を聞いたと証言する多くの人の存在は、机上ではたやすく否定することが可能だ。教科書倉庫の方向からすべての銃声を聞いたという人を故意に多く取り、前方からも聞いたと言う人を少なく取ってその比率を出すなら、前方からも銃声を聞いたと言う人はじつはきわめて少数である、とすることが出来る。銃声の数についても、同様の操作は可能だ。
第一弾がオークの樹の枝に当たり、メタル・ジャケットは裂けて飛び散り、内部の鉛の部分だけが前方へ飛んだということは、充分に、というよりも、ごく普通に、あり得る。大きなオークの樹ともなると、樹はたいへんに強靭だ。非常に多くの場合、銃弾のほうが負ける。第二弾は、陰謀説によれば、シングル・ブレット(銃弾)説あるいはマジック・ブレット(魔法の銃弾)説と呼ばれ、絶好の攻撃対象となっている。ケネディとコナリーの位置をほんの少しだけ変えると、ふたりを貫いた一発の銃弾は、途中で直角に方向を変えたり、いきなり下へ向かったりしなければならないからだ。
六階の窓、大統領の受けた傷、そしてコナリーが受けた傷を、無理なく直線で結ぶことが出来るのかどうか。ふたりを真上から見たかぎりでは、オズワルド単独説が説く弾道に、無理はまったくないように思える。ふたりの上下の位置関係にも、ふたりの姿勢や体の向いていた方向などを含めて、つじつまの合った説明はなされている。
担架の上から回収された弾丸は、ほとんど変形していないように伝えられているが、実際は相当にひしゃげている。真横から見るとなんの変形もないように見えつつ、断面においては万力にはさんで力をかけ、平たく押しつぶしたような変形を受けている。銃弾がふたりの体を貫通しつつも、この程度の変形でおさまることは、しかし、ごく普通にあり得る。
コナリーの体のなかからは、鉛のごく小さな破片がいくつか回収されている。縦に回転しつつコナリーの体に入った銃弾は、メタル・ジャケットの尻の、鉛の露出した部分から、いくつもの破片を飛び散らせた。大統領の頭をうしろから貫通した第三弾は、彼の頭のなかでジャケットが裂け、鉛の破片はウインドシールドの金属枠に当たり、ガラスにひび割れを作った。リムジーンのなかから、かなりの量の鉛の小破片が回収された。
モーターケードの平凡な見物人であったエイブラハム・ザプルーダーは、暗殺の初弾から最終弾までを、大統領を中心にして、一本につながった8ミリのカラー・フィルムのなかに写し取った。彼が使用した撮影機は、ゼンマイを巻いて駆動させる方式の、小さな四角い箱のような形をした普及品だった。ゼンマイを完全に巻き上げてから三十秒間は、平均で秒速十八・三齣の速度でフィルムを送った。当時のアメリカ人たちの多くは、このような簡便な8ミリ撮影機をなにかと言えば持ち歩き、いろんな情景を撮影していた。
オズワルドの単独犯行説と陰謀説の両方にとって、ザプルーダー・フィルムは動かすことの出来ない重要な、そしてある意味ではどちらにとっても便利な、証拠物件だ。単独説が主張する三発も、陰謀説が主張する九発も、ともにこのフィルムのタイム・フレームのなかに存在している。フィルムの小さな画面のなかだけではなく、その外のパーフォレーションの部分にまで、レンズの画角がとらえた世界がカラーで映っている。さまざまなことが、その画面のなかから、事実として読み取れる。と同時に、フィルムに映っているものは、さまざまに、時としては正反対に、解釈することが可能だ。
陰謀説にも単独説にも加担することなく、フィルムに写し取られていることだけを冷静に検討すると、第一弾が発射された瞬間は、ザプルーダー・フィルムの155齣から156齣にかけてになるという。撃発の瞬間よりもほんの少しだけ遅れて、銃声は轟き渡る。人々がその銃声を聞きとめ、それに対して反応を開始している齣から逆算していくと、発射の瞬間は155齣と156齣になる。
当日は赤いスカートをはいていた、そして当時は十歳だったローズマリー・ウイリアムズという女性が、大統領のリムジーンに合わせて走っている。160齣で、彼女は後方を振り返り始めている。後方とはテキサス教科書倉庫の建物だ。「銃声を聞いたから振り返ったのです」と、彼女は証言した。一・五秒後の187齣では、彼女は完全に立ちどまって後方を見ている。
大統領の反応は157齣からスタートしている。それまで人々に向けて手を振っていた大統領は、162齣で手を振るのをやめている。けげんそうにジャクリーヌに顔を向けている。銃声を聞いたことに対する、彼の反応だ。158齣から160齣にかけて、画面はぶれている。ザプルーダーの手が銃声に反応して動いたからだ。以後、銃声のたびに、画面はおなじようにぶれている。
第二弾が大統領に命中したのは、189齣から191齣にかけてだ。陰謀説によると、この弾丸は前方から来て大統領の首に当たったことになっている。被弾に対して反射的に反応し、大統領は首のあたりへ手を持っていった、と陰謀説の人たちは画面を解釈する。彼の左にいたジャクリーヌは、主として左側の人たちに手を振っていた。夫の反応に気づいた彼女は、彼に顔を向けた。そして彼の手首に手を添えた。
単独説では、この第二弾は後方から来て大統領の肩のすぐ下から体内に入り、首を貫通して前から出た。貫通した弾丸は首の骨を損傷することはなかったが、強力なエネルギーですれすれにかすめていったことにより、首の骨のなかを走る神経にトラウマをあたえた。大統領が見せた反応は、このトラウマに対する、人間という生体にとってのきわめて特徴的な反応だった、という医学的な解釈がある。
その特徴的な反応は、およそ次のようだ。両手を強く拳に握る。その両手は、左右対称に、反射的に、顎の下、首のすぐ前へと動く。ただし首には触れない。曲げた両肘が、おなじく左右対称に、肩と並行に跳ね上がる。そしてそのままの姿勢で、関係するすべての筋肉が強く硬直する。フィルムのなかで大統領が見せている反応は、間違いなくこの反応だ。かたわらの夫がいきなり奇妙なポーズを取ったから、ジャクリーヌは彼に顔を向けた。彼の手首に彼女が手を添えたのは、上げたままの彼の腕を降ろそうとするためだ。硬直は固く、彼の腕は降りなかった。
第一弾が発射された瞬間から第二弾が発射された瞬間までを、ザプルーダー・フィルムのなかで仮に156齣から189齣までと取るなら、齣数を時間に換算すると二秒ないことがわかる。ボルトを操作して排莢と次弾の装填をおこない、スコープごしに狙いなおして命中させるという作業を、二秒以下でおこなうことは不可能ではないかと僕は思う。
第三弾の命中は、312齣と313齣だ。160齣から313齣までの時間は、八秒から八・四秒だ。この時間のなかで三発を射ち、そのうちの二発を肩と頭に命中させることなら、平凡な射手にもたやすく出来る。この第三弾も後方から来たとする単独説は、銃弾が貫通するとともに脳の混じった血しぶきが射出口から前方へ飛び、リムジーンの右後方にいたモーターサイクルがそのしぶきのなかへ入っていくのがわかる、とフィルムの映像を読む。すでに書いたとおり、陰謀説によると、大統領からの血しぶきをリムジーンの左後方で浴びたボビー・ハーギスというモーターサイクル警官は、血しぶきから弾道を読んでモーターサイクルを降り、芝生の生えた丘を頂上の塀に向けて駆け上がったのだが。
大統領の右側頭部に出来た大きな損傷を、ザプルーダー・フィルムでは大統領の右側から正面に見ることが出来る。右側頭部の骨が内側から丸く割れて弾け、お椀の蓋のように頬に垂れ下がっている。骨をそのように割り取られた側頭部自体も、開かれた蓋のような骨とほぼ相似形をなして、丸く内部が露出している。そしてそのどちらもが、当日のダラスの強い陽ざしを受けとめて、白みを帯びた淡いピンクに光っている。
オズワルド説によるなら、この右側頭部の大きな外傷は、射出口だということになる。射出口として、あり得ない傷ではない。陰謀説によるなら、これは前方から来た弾丸が頭に入った瞬間のすさまじい衝撃で、弱い頭部側面の骨が蓋を開くように割れたのだ、と説明されている。これも、あり得る。陰謀説では射出口をフィルムのなかに読んでいる。後頭部のやや右に寄ったところに、たいへんに大きな穴が出来た。その射出口が出来たことによって大きく変形した後頭部を、ザプルーダー・フィルムの335齣から337齣にかけて、真横から見ることが出来るようだ、と僕も思っている。
エルム・ストリートをへだてて、ザプルーダーとは反対側にいたフィリップ・ウィリアムズという男性が、ザプルーダー・フィルムの208齣から211齣にかけて、とらえられている。彼はリムジーンの大統領をカメラで写真に撮っている。「銃弾が大統領に命中したのを目撃した自分は、それに対する反応として写真を撮った」と彼は証言した。彼とおなじ側で、おなじ瞬間の大統領を目撃した人たちは、大統領の左のこめかみにひどい穴が出来るのを見た、と証言した。
たいへんに重要なザプルーダー・フィルムは、すぐにタイム・ライフ社に買い取られ、現在もその社のものとなっている。タイム・ライフ社にはマネジメント・レヴェルでCIAのエージェントが何人かいるから、ザプルーダー・フィルムに関しては発表する齣の操作や解釈そして分析など、つごうに合わせて好きなように出来るという説がある。陰謀説によると、このことの実例を、ほとんど際限なく列挙することが可能だという。
ザプルーダー以外の人が暗殺現場を撮影したホーム・ムーヴィーというものは、あるのだろうかないのだろうか。ディーリー・プラザでモーターケードの大統領を撮影したのは、ザプルーダーひとりだけだったということはまずあり得ない。彼以外の何人かが撮ったはずのフィルムについての多少とも詳しい記述を、しかし僕は読んだことがない。ザプルーダー・フィルム以外のフィルムはどこかへ消えてしまい、したがってそれらのフィルムに関してはなにも書かれないままである、ということなのだろうか。どこかへ消えたとするなら、それらのフィルムが雄弁になにかを語っているからだ、と推測してもいいのか。
モーターケードがディーリー・プラザに入って来たときから暗殺の終わりまで、あるいは途中まででもいい、ザプルーダー以外の人がホーム・ムーヴィーを撮影し、そのフィルムは後日FBIの求めに応じて提供したがいつまでたっても返却してもらえず、現在ではそのフィルムはとっくに行方不明であるだけではなく、そのようなフィルムをそもそも受け取っていないという正式な回答がFBIから届いている、というような話をなぜか聞かない。僕が知らないだけで、調べれば類似の話は現実にたくさんあるのだろうか。
大統領が夫人をともなってダラスへ来て、市内をモーターケードするという出来事は、かなり大きな出来事なのではないか。かなり大きな出来事なら、それはニュースだと言っていい。ニュースなら取材され報道されるはずだ。記事を書くのが専門の記者たちのほかに、写真を撮るのが仕事であるスティルのフォトグラファーが、ダラスでの大統領夫妻とそのモーターケードを、かなり大量の写真に撮ったはずだ。大統領の車がディーリー・プラザに入ってからも、そして暗殺が開始されてからも、彼らの撮影行動は続いたはずだ。それらの写真を可能なかぎり集め、厳密に中立的な立場から子細に科学的に観察する作業は、おこなわれても良かったのではないか。写真機が思いがけないものを偶然にとらえる可能性は大きい。
当時のTVのニュース番組では、動く映像は16ミリのムーヴィーで撮影されていた。社に帰って現像し、編集してつなぎ合わせ、ニュースとして放映するのだ。スティルのフォトグラファーとおなじく、かなりの数のムーヴィー・カメラマンが、空港からディーリー・プラザまでの大統領をフィルムに収めた。モーターケードがディーリー・プラザに入ったとたん、彼らムーヴィー・カメラマンの全員が、いっせいに撮影を中止したことは考えにくいし、現実にもそのようなことはまずあり得ない。ムーヴィー・カメラによる撮影は、たとえば最初の銃声がプラザに轟いたのちも続いた、と考えていい。
彼らが撮影したフィルムは、ひとつに集めると膨大な量になるのではないか。スティル写真とおなじように、それらのフィルムは詳細に検討していく価値を充分すぎるほどに持っている。フィルムは四散したのだろうか。個々のTV局の映像資料保管室に眠っているのだろうか。発表される機会が多く、したがってしばしば目にすることになるあのモーターケードの写真とは別に、モーターケードを取材している人たちをとらえた写真をたまに見ると、何台ものムーヴィー・カメラがモーターケードを撮影していたことがわかる。
円盤状のフィルム・マガジンが前後につき、レンズが前方へ突き出ている撮影機は、いまの業務用のヴィデオ・カメラよりもはるかに小さくすっきりとまとまった造形の機械だ。これを肩に乗せ、ファインダーに目をつけて撮影している数多くの中年の男性たちを、そのような写真のなかに見ることが出来る。モーターケードを中心に、彼らはさまざまな場面や人そして状況を撮影したはずだ。彼らが使用した撮影機のレンズの画角が、スティル写真の場合とおなじく、思いがけないものをとらえた可能性について僕は思い続けている。
一九九六年の夏の初め、16ミリのムーヴィー・フィルムがひと缶、アメリカのある民間人の提供によって、ナショナル・アーカイヴという公的機関に渡った。缶とは、ムーヴィー・フィルムを入れておく、あの円形の平たい金属製の缶だ。ダラスでの暗殺の日から三十数年、民家の地下室でそれはがらくたに埋もれて眠っていた。幸運にもフィルムの保存状態はたいへんに良かった。
暗殺のあった当時、TV局でニュース・カメラマンつまりムーヴィー・カメラで動く映像の撮影を仕事にしていたあるひとりの男性が、ほかの多くのカメラマンとおなじように、空港からディーリー・プラザまで、ムーヴィーで撮影した。現像された彼のフィルムはニュース番組用に編集され、大統領の暗殺という大事件を報道するために使用された。編集室のフロアには、編集の作業で切って捨てられ、したがって放映に使われる可能性のほとんどないフィルムの断片が、大量に散っていた。
普段ならそのようなフィルムはなんのためらいもなしに捨てられてしまう。しかし、暗殺の現場を最後としている、空港からその現場までのモーターケードを撮影したフィルムだ。このフィルムだけは普段のNGフィルムとはまったく意味が異なるのだと認識したその男性は、フロアに散っているフィルムを集め、仮につなぎ合わせてスプールに巻き、缶に収めた。そしてそれを、これは貴重品だからと言って、友人に預けた。友人は缶を地下室に置いた。カメラマンはすでに死亡し、フィルムを預かった友人は、地下室にそのフィルムがあることを完全に忘れたまま、三十数年が経過した。
このフィルムのごく一部分が、アメリカ国内のTVニュースで放映された。オズワルドを射殺したジャック・ルビーが、さまざまな場所でフィルムにとらえられている事実を、放映された部分的なフィルムは伝えていた。この事実がなにを意味するのか、そしてほかにどのような人や状況が、なにも知らずに撮影したニュース・カメラマンのフィルムにはからずもとらえられているのか、これからなされるはずの分析を待たなくてはいけない。
遺体というものは、きわめて雄弁な証拠だ。豊富な経験を積んだ、冷静で正しい判断力を持った何人かの専門家が、大統領の頭とその内部を子細に観察したなら、致命傷をあたえた銃弾が何発だったのか、そしてそれがどの方向から来たかなど、比較的簡単に、しかも確実に、判明するはずだ。
大統領の遺体に関して、どのような記録が残っているのだろうか。最初に運び込まれたパークランド病院から、検死のおこなわれたメリーランド州のベセスダ海軍病院にいたるまで、遺体に関する記録は、陰謀説と単独説とでは、完全にふたつに分かれる。両者はおたがいに完全に対立する。どちらが本当なのか、もはや誰にもわからない、両者対等の謎の関係がそこにあるだけという、恐るべき状況だけが残っている、と僕は理解せざるを得ない。
パークランド病院で医師たちが大統領に対しておこなったのは、オズワルド単独説の側の説明によるなら、死にかけている大統領をなんとか救い生かすための、応急ではあるけれどしかし普通の処置だった。傷の点検やその手当てではなく、なんとか生かし続けておきたいという一点にすべてを集中させた作業が、そこではおこなわれたという。
大統領の体はずっとあお向けに保たれたままだった。彼の頭の頂上側には、応急の処置をおこなった医師たちの中心的なひとりの医師が、ずっと立っていた。だから大統領の頭は、特に頭頂側からは、誰も詳しくは見ることが出来なかった。大統領の頭は血まみれであり、濃い髪は血と脳でべっとりと貼りつき、あるいは逆立ち、なにがどうなっているのか、ちょっと見ただけではとうていわかりかねる状態だったという。
大統領の頭の傷を、医師たちは見なかった。あるいは、気づかなかった。見なければならないという必要、そして見ようという意志がなかったから、大統領の頭は誰も見なかった。大統領の死亡が確定されてからは、遺体とともに過ごす時間は夫人のものであり、遺体を観察し続けることはルールとして避けるべきだから、医師たちはそうした。だから彼らはその部屋を出た。そして遺体は、ありあわせのビニールのシートやシーツなどでくるまれ、棺に収められたという。単独犯行説の側からなされた、パークランド病院での状況の説明は、要点だけを書くと以上のようだ。
陰謀説では、致命傷をあたえた銃弾は前方から来たことになっている。貫通したその銃弾は、大統領の後頭部に大きな穴を開けたはずだ。単独説との最大の争点は、後頭部にそのような穴があったかなかったかに、絞ることが出来る。大統領の後頭部に巨大な穴があるのを、何人もの医師や看護婦たちがはっきり見た、と陰謀説は言う。クレランドという医師が描いたその穴の図面は、すさまじいものだ。穴はほぼ四角であり、四辺の骨と頭皮は外に向けてめくれ上がり、ぼっかりとした虚空がその穴のなかにある。単独説の側から言うなら、このような穴についての証言は、当然のことながらまったくのでたらめだということになる。
大統領の遺体の検死は、ベセスダ海軍病院に移されてから、おこなわれた。この検死に関する評価も、単独説と陰謀説とでは、まっぷたつに分かれて正面から対立する。陰謀説によるなら、検死は話にならないでたらめなものだった。人選もプロセスも、意図的に杜撰でいい加減なものであり、軍隊組織のなかでの上からの命令により、正しい証言はすべて隠蔽されたか嘘の証言にすり換えられた。記録は嘘で固めた作り換えでしかなく、写真もエックス線写真も贋物であり、大統領の脳はナショナル・アーカイヴから紛失したままであるという。
単独説によれば、検死は過不足のどこにもない、絵に描いたようなまともな検死だったという。まさに適任の検死官たちは、なにひとつ見逃すことなく、見るべきところはすべて見て、正しい記録を残している。記録も証言も彼らが残したそのままであり、写真やエックス線写真も本物以外ではあり得ないという。最大の争点は、ここでも、大統領の後頭部に巨大な射出口があったかなかったか、ということだ。あったと言う側と、それはなかったと主張する側とは、まったく対等に均衡している。
教科書倉庫の六階の窓から射たれた三発の銃弾とその銃声は、ザプルーダー・フィルムから逆に読み取ることが出来る。だからその三発は、否定出来ない。単独説にとってその三発は中心的な土台であり、陰謀説にとってもその三発はたいそう重要だ。後方からの三発だけなら、オズワルドひとりに充分に射てる、と単独説は主張する。狙撃者がオズワルドひとりなら、六階の窓以外の場所からは絶対に射てないのであり、この三発のほかに銃声と銃弾を認めたなら、単独説はあっさりくつがえり、暗殺は陰謀であったことになる。
大統領を狙って発射されたのは、本当に三発だけだったのか。陰謀説を採らなくとも、自分が聞いた銃声は六発から七発あるいはそれ以上だったと証言した人は、かなりの数になった。ディーリー・プラザの道路や周辺の建物に反響し合ったとはいえ、たて続けと言っていい短い間隔のなかでの三発を、その倍の六発そしてそれ以上として受けとめる人が、どのくらいいるだろう。
三発だったにしろ六発あるいはそれ以上だったにしろ、その音はすでにとっくに消えてしまった。正確に記憶している人は、いまとなってはもうひとりもいないと言っていい。全部の銃声が、当日の誰かが持っていたテープ・レコーダーに録音されていた、というような可能性はないのだろうか。録音されたものがひとつだけ残っている。ダラス警察のいわゆる本署とモーターサイクルの警官たちとを結ぶ、交信用のシステムによる録音だ。モトローラが製作したこの通信システムには、一チャンネルと二チャンネルの、ふたつのチャンネルがあった。
暗殺が始まる少し前から、一チャンネルのマイクがオープンになったままだった。「誰か一チャンネルをオープンにしたままの奴がいる。閉じるように言ってくれ」という本署のディスパッチャーの声が、録音されて残っている。一チャンネルのマイクはオープンになったまま、暗殺が経過していった。射たれた大統領を乗せたモーターケードが発進して速度を上げていき、ステモンズ・フリーウエイに上がる前でいったん停止するまで、そのマイクはオープンになったままだった。
そのマイクが拾った音は、本署にあったディクタベルトという録音システムに、すべて録音された。聞こえたはずのすべての銃声は、その録音のなかに記録されている。ベルトとはつまり長いテープであり、消しながら何度も繰り返して使用するのだが、少なくとも一日分くらいは、常に録音されたものが残っているという状態だった。録音するにあたっては、レコード・プレーヤーにあるような針が使用されていたようだ。
オープンになっていたマイクの拾った音が録音されたディクタベルトの、コピーが残っている。なぜそれがコピーだとわかるかというと、おなじ周期のハム音がふたつ、録音されているからだ。オリジナルにあったハム音が、おなじハム音を発生させてコピーしつつあるテープに、コピーされた。オリジナルは暗殺の直後にFBIが持ち去ったということだ。オープンになっていたマイクは、H・B・マクレインという警官が乗っていたモーターサイクルの、車体の左側にあったマイクだ。「そのマイクをしばしばオープンにしておく癖が自分にはあった」と、彼はのちに証言した。
ディクタベルトに録音されたものは、録音した機械にとっても、あるいは録音されたものを再生したりさまざまに分析したりする機械にとっても、電気的な信号に過ぎない。人の耳はたとえばモーターサイクルのバックファイアを銃声と間違えることがあり得るが、録音された電気的な信号としての銃声はきわめて特徴的であり、他のどの音からも、それははっきりと区別することが可能だ。ディクタベルトのなかから銃声を拾い出すと、これは銃声だと完全に言いきることの出来るものが、四発あった。そして、断定は出来ないものの、限りなく銃声に近いものがさらに二発、録音されていることがわかった。
それぞれの銃声がどの方向からマイクに届いたかも、正確に判明した。そしてディーリー・プラザにマイクをいくつも配置し、教科書倉庫のあの窓も含めて、何か所かからライフルを発射して録音し、その音響特性とディクタベルトの内容を綿密につき合わせていくと、ある特定の時間に警官マクレインのオートバイがどこにいたか、その位置を正確に確定することが出来た。分析の結果では、マクレインのオートバイの位置は、大統領のリムジーンの後方百五十四フィートという数字が出た。マクレイン自身の証言では百五十フィートだった。モーターケードをとらえた何点もの写真に、マクレインは映っていた。それらの写真からも、分析によって割り出したマクレインの位置は、正しいことがわかった。
ディクタベルトの分析によると、確実に銃声である四発のうち、初めの二発はモーターケードの後方から来た。そして三発めは前方から来て、それにほとんど重なるようにして、後方から四発めが来たという。第三弾の音の瞬間を、ザプルーダー・フィルムのなかで大統領が第三弾を被弾した瞬間の齣と重ねると、他のすべてが全体にわたってきれいに一致するそうだ。六発のなかには、ひとりではとても射つことの不可能なたて続けの部分があり、銃声の方向も二か所以上であるというようなディクタベルトの分析結果を、単独説を採る『ケース・クローズド』では二ページほどの反論でごく簡単にしりぞけている。
国のすべてが冷戦で支えられているという異常きわまりない状態が、アメリカにとっては第二次大戦が終わるとすでに始まっていた。冷戦のスケールとその意味は、一九六〇年代の初めにはひとつの頂点に達していた。ひとつの頂点に達していた、といま僕が書く理由は、キューバ危機の恐怖をいまもまだ記憶しているからだ。当時のアメリカの、軍も含めた報道機関からの報道が身近だった僕は、これはほぼかならず第三次世界大戦になる、とキューバ危機のとき思った。キューバの向こうにはソ連があった。アメリカにとって、冷戦を互角に戦っていた相手だ。
どちらが先に相手を核で攻撃するにせよ、アメリカが核攻撃を受けたなら、自動的にモスクワが核で壊滅する。と同時にアメリカの主要都市も、それまでとは天地が逆にひっくり返り、被爆都市となる。悪夢が最初に現実となるのはいつだろうか、そしてその場所はどこだろうかと、刻一刻その時を待つというのが、僕の感じていた恐怖の中心だ。
外交としての冷戦や平和としての冷戦などではなく、途方もなくビルド・アップされた武力のみを頼りに、本気で遂行する冷戦が、アメリカにとってのもっとも具体的な冷戦だった。それは、国家が持っているあらゆる機関を総動員して徹底的におこなう、究極の暴力行為だ。アメリカのトップからボトムまでを、そのようなシステムが強力に支配していた。
暗殺がオズワルドひとりの行為なら、たまたまダラスでボトムにいた男の、それまでの人生が最終的には暗殺に注ぎ込まれたという、アメリカン・ドリームの絵に描いたようなすぐ外の景色のなかでの、どうしようもなく不幸で暴力的な出来事だ。暗殺が陰謀だったなら、トップからボトムまで全体が、冷戦を大義名分にして暴力行為を遂行した一例だ。あくまでも一例にしか過ぎず、したがってそれは希有でもなんでもない。
当時のダラスには、いまここでこうして書くことがすさまじく馬鹿げたことのように思えるほどの、冷戦のボトムにおける暴力的で戦闘的な集団や組織が複雑怪奇に重層し、得体の知れない世界を作っていた。暗殺の実行、暗殺者のでっちあげ、その後の隠蔽工作など、すべてに関して、ダラスには条件がそろっていた。ケネディはそこへ引き出された、と僕は思っている。冷戦の遂行は国家の利益のためになされるのだが、ひとつ回路を間違えると、国家にとっての巨大な損失となることも、おなじように遂行される。
ケネディはこの世から消すべきだと本気で思う力の重なり合いのなかで、彼の暗殺は可能になった。亡命キューバ人を中心とするキューバ侵攻作戦は、前の大統領のときからCIAが独自に進展させていた。ケネディはそれを引き継ぐかたちとなった。侵攻が始まってからアメリカの正規軍の投入を要請したCIAを、ケネディは断った。侵攻は失敗に終わり、多くの関係者たちにとってケネディは許しがたい裏切り者となった。
マフィア、つまり非合法の犯罪組織とケネディ家のつながりは、驚くほど直接的で太い。マフィアに頼み込んで難題を解決してもらっては、そのつど報酬の約束を反故にするというパターンを、父のジョセフ・ケネディは繰り返し、そのパターンは息子のジョンの大統領選挙のときに最大に達した。ジョンが大統領になると、父ジョセフのマフィアに対する態度は、おまえらとはもうなんの関係もない、というものに変わった。そして大統領の弟は司法長官としてマフィア狩りを始めた。マフィアが報復を考えるなら、その標的が誰になるかは明らかだ。
ヴェトナムからの撤兵やソ連との政治的な話し合いの路線は、当時のアメリカの有力な一部では、ただそれだけで許しがたい容共だったし、軍事力や戦争といったものに存在のかかっていた人たちにとっては、最大の威嚇だった。公民権に関するケネディの前進的な考えかたや態度も、おなじ程度の憎悪や恐れの対象となった。ケネディをなきものにしたいと願う力のこのような重なり合いのなかから、暗殺を立案して実行したメカニズムを正確に摘出するのは至難の業だ。しかし、暗殺するだけなら、文字どおり手を染めるというかたちの参加者をごく少数に抑えたまま、思いのほかたやすく可能だったはずだ。
ケネディが希望の星であった事実は、現実がすでに手のほどこしようがない事態におちいっていたことの、反対像だ。彼の就任演説は、まさに理想だった。そしてそれと対立する現実のほんの一例は、彼の頭を吹き飛ばした銃弾だ。あとに残ったケネディ神話は、なんの役にも立たない。神話をはるかに越える大きさと意味において、暴力行為のほうを、コンスタントなリマインダーとして、残しておかなくてはいけない。そこにこそ、アメリカがあるのだから。
一九六九年の夏の初め、僕はダラスで一九六二年のあのプレジデンシャル・モーターケードとおなじルートを、自動車で走ってみた。せっかくだから車はオープンにしたいと思い、オールズモビールのコンヴァーティブルを調達した。現場から四ブロックほど南の、新聞社の建物の前でふたりの友人を拾い、それは悪い趣味だと言われながら、僕はうしろの席の右側に入った。ぐるっとまわってメイン・ストリートに出た僕たちの車は、ヒューストン・ストリートへ向かった。ヒューストン・ストリートに出てそれを右折し、ワン・ブロックだけ北のエルム・ストリートで、大きく百二十度、コンヴァーティブルは左折した。
エルム・ストリートに接近していくときから、テキサス教科書倉庫の建物が左前方に見えていた。左折のさなか、その建物は正面にあった。左折を終えるにしたがって、建物は背後へとまわっていった。すぐうしろに見上げた六階の窓は、アメリカの地方都市にいまもたくさんある、なんの変哲もない、重そうな四角の、やや暗い印象のある、ただの建物の窓だった。この建物はいまでは歴史的建造物のようなものに指定されている。コナリー元知事夫人がデディケートする様子を、僕はTVニュースで見た。
うしろのシートのなかで、僕は前に向きなおった。ディーリー・プラザは思っていたよりもはるかに狭い。その狭さは、後方にあるあの建物の六階の窓の、たいそう怖い近さでもある。芝生の生えた丘が右前方にあった。トリプル・アンダパスが正面に見えた。ザプルーダーが8ミリを撮影した場所を、コンヴァーティブルはゆっくりと通過していった。アンダパスをくぐるまでのあいだ、僕は自分の後頭部を狙撃者のスコープをとおして、想像のなかに見ていた。
狙撃者が使用したとされている、しかし確かなことはなにひとつわからない、マンリカー・カルカノというイタリー製のライフルには、日本製の四倍のスコープがついていた。四倍とは、標的までの距離が四分の一になることだ。距離が四分の一に縮まると、六階の窓から、そしてそれ以外のどの場所からも、僕の頭まで驚くほどに近い。狙撃者の視界はスコープが丸く切り取る視界だ。クロス・ヘアが直角に交差する点を標的の後頭部に重ね、引き金を絞る。スコープの取り付けかたにもよるが、命中させることはけっして難しくはない。
アンダパスをくぐってから、
「引き返そうか」
と、運転していた友人が言った。
「なぜ?」
と、僕は聞いた。
「きみの頭の骨のかけらを拾うために」
彼の冗談に僕たちは笑った。
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遠近法のなかへ[#「遠近法のなかへ」はゴシック体]
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『クレイジー』というテーマ曲
一九九〇年の上院と下院の議員改選にあたって、どの現職議員も候補者たちも市民からはNOTAと呼ばれた。NOTAとは、None of the above. の略だ。略語として広く使用されているわけではないが、ナノヴジアバヴと言い合えば、人々のあいだで気持ちは通じた。政党やプロの政治家としての議員たち、そして彼らによる政治あるいは政府の運営のされかた、そしてそれらの最終的な結論である自分たちの暮らし向きとその前途に関して、いまのアメリカの人たちのあいだには、攻撃的な批判や不信の念がきわめて強く存在している。
その強さは、政治の最終的な結論である、自分たちの暮らし向きとその前途に対する、もはや恐怖だと言っていいほどの不安感の反映だ。あいも変わらぬ政治のプロたちに自分たちの窮状を立てなおすことはとうてい期待出来そうにないし、さらなる現状維持をはかられては、いまの自分たちが置かれている現状のひどさはよりいっそう大きく深くなっていくだけだ、と人々は思っている。
一九九二年の大統領選挙でも、出そろった候補者たちに対する一般の反応はNOTAだった。彼らに対してNOTAと言った人たちの、もっとも中核を構成していたはずの、どちらの政党をも支持しかねる中間からやや下にかけての層にとって、ロス・ペローは仮に一時的ではあったとしても、充分に情熱的になり得る対象だった。ロス・ペローは健闘したと言っていい。ブッシュとクリントンの両方を好きなように攻撃出来る立場、あの気質、そして人々を確実に笑わせるワン・ライナーはすべて自分の手のなかにあるというエンタテインメント・ヴァリューは、選挙戦の最終盤をかなり面白くしてくれた。
ロス・ペローという人物は、実業のなかに見つけて広げた彼独特の世界で、自分だけのやりかたを徹底してつらぬくことによって、成功をおさめた人だ。しかし、成功したアメリカン・ビジネスマンの好ましい見本かというと、けっしてそんなことはない。良く言って変わり者のジャンルに彼は属する。アメリカの大統領の器ではない。
戦後のアメリカの大統領たちは、知的な教養のなかでの屈折を誰もがそれなりに体験し、自分のものとして持っていた。それゆえに、無償の許容力のようなものを、誰もが大統領の基本的な資質ないしは度量のひとつとして、持っていた。相手に対してかならず残しておく余地のようなもの、あるいは、これ以上には踏み込まないはっきりとした限度のようなものを、彼らは持っていた。ペローにはそれがなかった。たとえば報道、ジャーナリズム、マス・コミュニケーションといったものに対する基本的な価値の共有が彼にはないことが、TVニュースにあらわれる断片だけを見ていても、断片がある程度まで蓄積されるとはっきりとわかったりした。
当時すでに四兆ドルを軽く越えていたアメリカの赤字を解消するための、これがもっとも有効的だと彼が信じる案というものを、彼は自分のためのPR活動のなかで発表していた。その案とは、政府による無駄な支出を極限まで削減する、低所得者層にも高所得者層にも共通しておこなわれている福祉を高所得者層には放棄してもらう、冷戦期間中の平和代金とも言うべきものを日本とドイツに請求し取り立てる、というものだ。この三点を金額に直して合計すると、ぴったり四兆ドルになっていた。
ペローはクレイジーだ、とブッシュに言われたことのお返しに、本拠地での集会にギターの演奏者を二、三人用意しておき、聴衆に向かって彼は、「私にはじつはテーマ・ソングがあるんですよ、ぜひここでそれを聴いてやってください」と言い、『クレイジー』という曲を演奏させた。ウィリー・ネルスンが作った、カントリー・アンド・ウエスタンの佳曲だ。
半分は冗談、そして残りの半分は本気で彼がおこなうこのようなことは、集まっていた支持者たちから大喝采を受けていた。感きわまって泣いている人もいた。ペロー自身は、その歌に合わせて、愛娘と踊ってみせた。ペローのリズム感はなかなかだったが、端正な顔立ちをした聡明そうな愛娘の、地味なスーツに包まれたお尻のリズム感は、久しぶりに見る佳きアメリカだった。
ブッシュはとうてい許せないが、かといってクリントンにも一票を投じる気持ちになれずにいた人たちが、ロス・ペローに投票した。第三党というものの可能性の一端を草の根に見せたことの、草の根による評価が、ペローの得票だったと僕は思う。
選挙活動のなかで彼が一貫して見せていた最大の関心事は、アメリカ国家とその財政赤字だった。「アメリカは動脈から大出血を続けている。なによりも先にそれを止めなければいけない」と、彼は言い続けた。ブッシュ、クリントン、そして彼の三人でおこなった討論会の第三回めでだったと思うが、「あなたがたはふたりとも、ビジネスというものがまったくわかってない」とふたりに言ったのは、面白い場面だった。国家の運営も、政府と市民の関係も、彼にとってはビジネスのひと言で割り切ることが出来る世界だ。そのビジネスがわかっていないとは、政府が市民にこれだけのサーヴィスをしたいのなら、それに見合った税金を奴らから取り立てろ、ということだ。納税市民の納税額に対する受益率のアメリカ的な低さ、という視点からは絶対に見ないのが彼の言うビジネスだ。
エルヴィス・プレスリー・エコノミックス
選挙運動中のブッシュとクリントンのスピーチを、TVニュースの断片でもいいから聞きくらべていくと、断片の蓄積はやがて両者のあいだにある差異を、はっきりと僕なら僕に見せてくれるようになった。ブッシュのスピーチは、選挙戦が終盤に近くなるにつれて、ひどさの度合いを急速に深めていった。本質があからさまに露呈されていくことが、自分および自分の陣営にとってどのくらい不利に働くのか本人も側近も気づかないのだろうか、と不思議に思わなければならないほどに、彼はスピーチのなかで自らの本質を明らかにした。
ブッシュ大統領のスピーチは、もともと魅力のあるものではない。本人が誠実な人であることは間違いないと思うが、その誠実さに基礎を置いたある種の明快さや単純さを軸にして、平板で風格のない言葉がつらなる。当人と資質とスピーチ・ライターの責任とが、そのようなところに合致点を見つけていたのだろう。陳腐なジェスチュアをまじえつつ、一本調子な怒りをあらわにしたような力説のしかたで、「アメリカは負けないのです。やるんです。達成するんです」などと、彼はしきりに言っていた。
負けずに達成して一番になるためには、私に対抗したり反対したりするすべての力を抑えていくほかない、と大統領は言外に明白に言っていた。言葉づかいに陰影や微妙さなどないから、言外の意味は誰にでもよくわかった。なぜあなたがたはこの私を再選しようとしないのか、という意味だ。抑えるぞ、コントロールするぞ、反撃に出るぞ、断固たる態度に出るぞ、と彼はスピーチのなかで反復した。これは要するにパワーの論理であり、パワーの論理はなりふり構わない態度へと、彼の選挙戦ではつながっていった。
「クリントンの言っている経済政策なんて、エルヴィス・プレスリー・エコノミックスですよ。ああいう話を真に受けていると、たちまちハートブレイク・ホテルの宿泊人となる羽目におちいりますよ。あんな政策は、いますぐに、リターン・トゥ・センダーですよ」と、夏も終わりに近い頃、ブッシュはスピーチのなかで言っていた。『ハートブレイク・ホテル』も『リターン・トゥ・センダー』も、エルヴィスの歌として有名なものだ。
キャンプ・デイヴィッドやケネバンクポークの奥深く、外部へは絶対に漏れていかないところで言うならともかく、市民の面前で、しかも選挙戦での対抗候補をただこきおろすだけのために、現職の大統領がこんなことを言うようになったら、その大統領が再選される見込みはもはやどこにもないと僕は思った。
ブッシュがあらわにした地とは、少なくともいまの時代にあっては、複雑な現実に正しく適応して機能出来る範囲がきわめて狭い人物である、ということだ。「再選されるためになら私はなんでもする」と彼は言ったと伝えられている。おそらく本当だろう。そして彼は、夏以降、自分の再選にしか関心がないことを、急速に明らかにしていった。
自分に対する支持率が低下を続ける理由に気づかないままに苛立ちをつのらせ、これはひど過ぎると国民の半数が思うほどのネガティヴ・キャンペーンを、彼はTVでおこない続けた。根拠のなにもない数字や言葉でクリントンを攻撃しつつ、自分への支持の低さに対して枯渇した一本調子の怒りを見せながら、私はこの選挙に勝つのだ、と彼は叫んでばかりいた。
前面に打ち出したファミリー・ヴァリューの問題提起は、完全に裏目に出た。彼の提唱しようとしたファミリー・ヴァリューが、じつはクリントンの幼少年期の家庭事情に対する、相当にあからさまな嫌がらせであることが、一般の人たちによってたやすく見抜かれてしまった。そしてそれよりも先に、アメリカの現実というものに関する、現役の大統領の認識や理解の浅さと狭さを、ファミリー・ヴァリューの問題は明らかにしてしまった。
彼が思い描いて唱えたような従来型のファミリーは、いまのアメリカではもはやマイノリティでしかない。シングル・パレントのファミリーは一千万を軽く越えている。子供の数で言うなら十人のうち六人までが、子供であるあいだにシングル・パレント・ファミリーを体験するまでにいたっている。五人にひとりは貧困層であり、十八歳になるまでにじつに総数の三分の一の子供たちが、社会福祉の受益者となる。党大会の壇上に孫を何人出しても、そしてそのなかに黒い髪の子供がいても、なにをいまさらと人々は思っただろう。彼が提示した自らのファミリーの光景は、現実との対比で考察すると、認識の浅さや狭さの問題を越えて、アンフェアネスにすら到達していた、と僕は思う。
「ちっぽけな州の落第知事」と、ブッシュはクリントンを呼び続けた。クレイジーと呼び、嘘つきと言い、イナカモンとまで呼んだ。そのような言葉の裏に、この私がなぜ再選されないんだ、という彼の地がはっきりと見えていた。「タートル・ネックを着た変わり者」と呼ばれていたジェリー・ブラウンを相手に、TVに出演して議論をしていた頃のクリントンには、どうなることやらという印象を持たざるを得なかったが、選挙戦が進行していくにつれて、クリントンの言っていることがもっともまともである事実が、少しずつはっきりしていった。
単なるコンセプトでしかない状態ではあったにせよ、少なくとももっとも正しい内容のことを、彼は繰り返し語った。
「アメリカという国が再生していくためには、アメリカ人のひとりひとりがなにをどれだけ学んで身につけることが出来るか、その能力の開発にすべてがかかっている」と彼は言った。製造業の再生も雇用の創出も、そしてアメリカ経済の強い復興も、この基本的な土台を無視しては成立しないという彼の主張はたいへんまともであり、言わんとしていることは当然過ぎるほどに当然のことだから、ごくあたりまえのこととして受け流されがちだった。
「アメリカという国の力を最終的に決定していくのは、国民のひとりひとりがなにをどれだけ学ぶことが出来るかにかかっている」という彼の主張は、一見したところ基本的ではあるけれど平凡でもある。だから彼のこのような主張を真の広がりにおいて理解した人は、少なくとも選挙戦のさなかにはまだ少なかったのではないか。
国民のひとりひとりがおこなわなくてはいけないことが、たとえば徹底した学びなおし、つまり根源的な変革でしかない可能性は、充分にある。というよりも、それしかない、と僕は思う。クリントンが言おうとしていたのは、ここではなかったのか。これまでのアメリカとは明確に一線を画する方向に機能する、根源的な変革への意志と実践を、クリントンは選挙民に訴えていたのではなかったか。
いくつかの女性問題、徴兵回避の問題、ブッシュが言ったとおり小さな州での経験しかないことなど、そしてその経験内ではクリントンがスリック・ウィリー(駆け引き上手の抜け目ない、油断のならないウィリー)というあだ名を獲得している事実などが、彼の主張のラディカルさにフィルターをかけて曇らせる役を果たしたように僕は思う。反対陣営からなされるクリントンへのさまざまな攻撃は、クリントンの考えていることのラディカルさを、充分に覆い隠したようだ。
「さらに四年、私にやらせてください」と、現職の大統領は言った。「変化を!」と、クリントンは主張した。彼の言うその「変化」の、根源的な真の深さを理解した人は少なかったままに、多くの人は現状維持よりは変化のほうに票を投じた。ちなみに、アメリカの人口は一九九〇年で二億五千万近くあった。国家のかかえ込んだ赤字を減らすための、たとえ年間百ドルの増税でも絶対に反対だという人が、選挙中の調査で国民の半数を占めていた。カーター大統領のときから始まった税制の矛盾は、レーガンとブッシュの十二年間で極限に近いところまで拡大された。その結果の、普通の人たちにとっての高い税金という圧迫感は、たとえばガソリンにかかる当時で一ガロンにつき四・三セントの間接物品税を二年間で十セント上げることにも、普通の人たちに強く反対させた。一九九一年十月なかばで、ガソリンは一ガロンが一ドル十三セントだった。
マンハッタンのダウンタウンの、小さな変わりばえのしない建物の二階だか三階だかに相当する高さのところに、アワ・ナショナル・デット・クロックと称する横に長い電光表示板が、かつてあった。大統領選挙中には、この表示板に朝から夜まで、数字が電光で出ていた。アメリカ国家の赤字額の数字だ。選挙中にはその総額はまだ四兆ドルには達していなかったはずだ。十月の第二週のある日、三一八二六三七三八九六四八・〇五ドルの赤字、という数字を僕はメモした。
メモしてどうなるものでもないが、小数点のすぐ左から桁を数えていくと、確かにその額は三兆ドルを越えていることがわかった。セントの桁も含めて、下のほうの七桁ほどにおいては、数字がかなりの高速で次々に更新されていた。アメリカ国民ひとり当たり毎分十三ドルというペースで国家の赤字は増えつつあった、という数字が僕のメモのなかにある。国民の頭数で単純に割って、ひとりにつき一万六千ドルを供出するなら、国家の赤字は一瞬にして消えると言われていた。
赤字を解消するために、国家に対して現金を供出することを広く市民に訴える運動、というものを果敢にも試みている女性のことがTVニュースで報道されたのを、僕は記憶している。国家に対する現金の提供を促すダイレクト・メールを、年間におよそ一万通、自ら宛名を手書きした封筒で、彼女は発送し続けているということだった。直訳すると公共借金局というような局が財務省のなかにあり、現金の送り先はその局宛てだった。
現状は好転していかない
第四十二代アメリカ合衆国大統領を選ぶ選挙の、ポピュラー・ヴォートの投票率は何十年ぶりという高率だった。多くの人たちが投票所へ出向いた。多くの人たちが現状に反対だったからだ。現状のままでいいなら、自宅でTVでも見ていればそれで充分だ。
現状に反対であるとは、変化を求めているということだ。変化は、今回の選挙に対する、選挙民の側からの期待の、中心的なテーマだった。変化と言うと聞こえはいいが、本当の気持ちとしては、現状のひどさから少しでも抜け出したい、ということだ。長期的にはアメリカの作りなおしであり、短期的には日々の暮らし向きの安定や向上、そして子供や孫の代における前途の、もう少しましな見通しだ。
変化を、と大衆は声高く求めた。いま彼らが言うその変化とは、これまでのものがほとんど機能しなくなっている事実に全面的に対応すること、つまり国の作りなおしであるはずだが、大衆はまだそこまでは気づいていなかったようだ。そのかわりに、大衆は、いっこうに好転していかない現状、たとえば企業の成績の上昇はかならずしも雇用増には結びつかないといった状態の末端を、現実として身にしみて知っている。
現状が好転していかない原因を彼らが政府に見るとき、それは大統領も含めた既存の政府に対する、反感や離反の気持ちの高まりとなった。大衆のなかに強く芽生えたそのような感情を、野党は見逃さない。与党である民主党を攻撃するにあたっての土台として、野党はそのような大衆感情をさまざまに利用する。そしてそれが効果を上げるなら、大衆の支持や共感は民主党を離れて共和党へ大きく振れていく。ただそれだけのことだが、そのときの野党は問題の単純な解決だけを旗印にする。
誰もが問題の解決を合い言葉のように使う。この十年ほどの期間のなかで、アメリカは問題への対処のしかたを、解決志向へと強めてきた。山積みされていく難問は大衆の足を引っぱる。民意は分裂する。その分裂を利用して自分たちの陣営へ大衆を牽引しようとするとき、民意を納得させることの出来る範囲内での、かたをつける、結論を出す、という解決策をリーダーたちは約束する。とうてい解決は不可能な難問の解決を、どちらの陣営も交互に約束する。
大統領候補として選挙運動をしていたときにおこなった、守ることなどとうてい不可能な約束を、大統領になってから誰もが修正したり削除したりしなければならない。一九八〇年の大統領選挙のとき、政府に対して大衆が持っていた反感に税金の圧迫感が重なっているのを、候補者のレーガンはそのまま自分の政策およびその約束にしてしまった。減税を約束して大統領になった彼は、カーター大統領の頃からのインフレーションを引き継いだ。金融は引き締められ、八一年と八二年は不況となり、八二年はマイナス成長だった。しかし八一年には大幅な減税の法案が成立し、その効果は八三年そして八四年とあらわれていき、そのおかげでレーガン大統領は再選を果たした。八四年はじつに六・二パーセントの成長だった。
再びインフレーションぎみとなり、金融は引き締められた。八五年そして八六年は成長が鈍くなった。しかし八六年には、きわめて大胆な、したがって草の根にはわかりやすい減税法案を、大統領は成立させた。この減税は財政赤字の拡大と短期的な景気の向上という、ふたつの効果をあげた。短期的な景気の向上で八八年の成長は三・九パーセントとなり、レーガンをそのまま引き継ぐかたちで、共和党からのブッシュ候補が大統領になった。
意図的にこんなふうに書いていくと、アメリカの大統領選挙の内容のなさが、いきなり目立ってきて興味深い。ブッシュは九二年にクリントンの挑戦を受けて破れた。財政赤字の累積がいかに巨大であるかは、すでに誰の目にも明らかだった。増税は避けてとおることの出来る問題ではなく、Read my lips. No new taxes.(私の言ってることを読唇してください。新しい税金はなしです)と約束したブッシュは増税せざるを得なくなり、そのとおりにした。Read my lips. I lied. と、彼はからかわれることになった。やがて増税しますとはとうてい言えないから、その代わりに「変化を!」と訴えたクリントンが大統領となった。
「彼らはとにかく頑固だよ」
東京サミットのために日本へ来たクリントン大統領は、日本のあと韓国を訪問した。アメリカの大統領としては初めて、北側との軍事境界線にある警備区域を視察した。軍用の服を着た大統領は、境界線にかかる橋を、北側に向けて少しだけ歩いてみた。国連軍の監視塔に上がった大統領は、双眼鏡で北側を眺めた。レンズに蓋をしたままの双眼鏡を目に当て、蓋をはずさなくてはいけないことに気づいて蓋をはずし、彼は双眼鏡を目に当てなおした。
「いかがでしたか」と取材者に質問された大統領は、「私は向こうを見たけれど、向こうも私を見ていたよ」と、笑いながら答えた。Did you wave?(向こうの人たちに向けて大統領は手を振ったりしましたか)という質問には、「こっちへおいでよ、という意味では手を振りたいですよ」と、彼は答えた。
「北朝鮮が核を使用するようなことがあれば、それは北朝鮮の終わりをも意味する」と、北朝鮮の核問題に関して大統領は発言した。孤立した小さな一部分にとどまり続けようとする北朝鮮というものが持つ、それを除いた全体にとっての不都合さ、威嚇、好ましくなさなどを北朝鮮自らに排除させ、全体のなかに加わるように促すという考えかたを、もっともわかりやすいかたちで、以上のようにクリントン大統領は表現した。
大統領の日本訪問と関連させて、日本の市場の閉鎖性について、アメリカのあるTVニュースはリンゴとスロット・マシーンを取り上げ、短いスケッチのようなレポートをした。日本の市場の閉鎖性とは、全体というものに関する日本の側からの関心の薄さのことだ、と理解すればいい。
アメリカの北西部でリンゴ園を経営している初老の男性は、リンゴ園のなかで取材を受け次のように語っていた。「アメリカのリンゴなんかいらない、と日本はきめてるんだね。いったんこうときめたら、日本の人たちはすさまじく頑固でね。絶対に考えを変えないよ。会えば慇懃で丁寧かもしれないけど、とにかく頑固だよ。要するに、アメリカのリンゴは、いらないということなんだね」
ネヴァダ州のリーノでスロット・マシーンを製作している会社が紹介された。リーノの賭博場における日本製のスロット・マシーンのシェアは間もなく五十パーセントにも届こうというのに、その会社のマシーンはなかなか日本の市場に入ることが出来なかった。難くせとしか言いようのない細かな規制や注文に徹底的に対応し、何年もかけ、ようやく七千台を日本に入れることが出来たという。日本は国土が狭い。その狭いところで効率を上げるには、マシーンをびっしりと無駄なくならべなくてはいけない。そのために、マシーンの右側についている、ガチャンと引き倒してスロットを回転させるためのアームを取り払ってくれ、という注文はもっとも日本的だったという。
客からおかねをまき上げることを目的としているスロット・マシーンは、右側だけにあるアームによって、ワン・アームド・バンディットと呼ばれてきた。しかし日本へ入るにあたっては、そのワン・アームをも落とさなくてはならなかった。文化論的には面白い話だが、機械の改造としては造作もないことだった。そのスロット・マシーンの会社の社長は、次のように語っていた。「これほど入りにくいとね、こっちだってはっきりと意図的に、向こうに対して厳しい措置を取るほかないね。こっちが向こうに入れないなら、いまこっちに入ってる向こうのものを、ここには居られなくしてしまうほかないんだよ」
全体というものに対する日本の関心の薄さ、つまり展望や長期的な戦略のなさは、閉鎖市場のさまざまな実体として、こうしてそのイメージをふくらませていく。そしてそのようなイメージの上に立って、日本に向けてかくも一方的に傾いた巨額の貿易黒字はもはや悪である、とアメリカの大統領は言う。製品だけが行き交い、その他の領域ではいっさいなんの交流もないなら話は別だが、赤字国であるアメリカの赤字を補填する資本輸出国としての日本の貿易黒字は、悪などというスリリングなものではなく、面白くもなんともない単なる必然でしかない。
大統領を補佐するそれぞれの専門家たちが、このことを知らないはずはないし、知っているなら大統領に語って聞かせるはずだ。しかし、自分の国の巨額な赤字を前にして、これは必然ですよとも言っていられない。だから安全保障と経済とを密接に結びつける考えかたを、大統領は明らかにしている。安全保障とは経済であり、経済は安全保障なのだと、きわめてわかりやすく大統領は言っている。
安全保障も経済も、誰もが参加する全体のことだ。安全保障の主軸としてのアメリカの力を、自分たち全員にとっての安全という背景を作り出すためにアジアが巧みに使うなら、そのことと一体になった関係の重要な一部分として、アジアの経済発展をアメリカは自分のためにも使うことが可能になる、ということだ。キー・ワードは全体ということ、そしてそこへの巧みな参加だ。
韓国からハワイへ戻ったクリントン大統領は、ヒッカム空軍基地では米軍兵士の楽士たちとともにジャズを演奏した。大統領はテナー・サックスを吹いた。僕の意見では、テナー・サックスを演奏しているとき、この大統領はもっとも彼自身らしく見える。
選挙運動中にTVで人気のある深夜番組に彼は出演し、サングラスをかけてテナー・サックスで『ハートブレイク・ホテル』を演奏した。TVニュースのなかでほんの数小節を聴いただけだから、テナー・マンとしての彼の腕前の判定はまだ僕には出来ない。けっして下手ではない、とだけ言っておこう。アンプレジデンシャル(大統領らしくない)という批判もあったが、大統領らしくないことと交換に彼らしさを見ることが出来るなら、僕は迷うことなく後者を取る。後にヨーロッパを訪問したとき、彼はバツラフ・ハヴェルからサクソフォーンを贈られた。そしてヨーロッパのジャズメンと『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』など、ジャズ曲をいくつか演奏したという。これを僕は聴いてみたいと願うのだが、かなうだろうか。
彼らしさに関してもうひとつ加えておくなら、それは選挙戦中にいわゆる喉をつぶした状態となり、声が出なくなったことだ。声帯とその周辺の筋肉が、声を出すときに不必要に緊張する癖がついているのだろうか、本来の強さをともなっては出てこない自分の声を補うために、少しだけ大きな声で普通に喋ればいいときでも、彼は半ば叫んでしまう。過酷なスケジュールで選挙演説を繰り返すなかで、ついに彼の声は半日ほど失われた。
ウィリアム・ジェファスン・クリントンというこの人を、けっしてあなどってはいけないと僕は思う。わかりにくさを特徴のひとつとして持っている彼は、そのわかりにくさゆえに、軽く見られたりあなどられたりすることが、よくあるようだ。田舎町に生まれたときには父親はすでに他界していて、義父はアルコール中毒であったという出発をした彼は、人文系としては最高と言っていい教育を受けるまでになった。これだけの幅とその後の経歴および体験のなかに、彼のすべてはある。
変化を、という選挙民からの強い要求に、クリントンは自分が旧世代とは根本的に違っていることを訴えた。なにが違うのかというと、それは考えかただ。考えかたとは、問題の解決のしかただ。現在の難問を解決していくにあたっては、コンセプト自体を変革しなくてはいけない、とクリントンは主張した。これまでのような、単なる分配のしかたにかかわる政治ではなく、誰もが恩恵を受けることの可能なシステムを作り出すこと、つまり全体のシステムの変革を、彼はコンセプトとしては最大の目標に掲げた。
アメリカもここまで来ると、解決はとうてい不可能である問題を数多くかかえざるを得なくなっている。大統領や政府が変わっても出来ないことは出来ないのだが、選挙民はすべての不可能を実現させるように要求し、大統領候補は絶対に守ることの出来ない約束をかたっぱしから結ばなくてはならなかった。各派のとりまとめがうまくいき、ビル・クリントンは大統領になった。アメリカの大統領になるという、彼にとっておそらくは最大の目標を彼は達成した。
クリントン大統領が生い立ちや経歴のなかで高度な知力を獲得したとするなら、その知力は、なにについてどんなふうに、どこまで考え抜くことが出来るか、その次元の高さであるはずだ。たとえばアメリカの再建に関して彼が考えていることは、単なるアイディアやコンセプトの段階を抜け出ているようだ。大統領になってから彼がしてきたこと、あるいはしようとしてきたことは相当にラディカルであり、論理の筋道はきちんととおっている。自分が信条として持っているものの考えかたに対する、忠誠度の高い共鳴者を慎重に選んだ組閣や重要ポストの人事は、大統領の資質を反映しているという点において興味深いものがあった。
女性およびマイノリティの比率は高率であり、司法長官に、そして最高裁判事の空席に、まっとうな論理の強靭さで知られた女性を彼は選んだ。大統領になってからの最初の重要アジェンダのひとつは、軍隊におけるゲイおよびレズビアンの無差別扱いという、果敢なものだった。大統領の思っているとおりにはとうてい進むことのない問題だ。彼という人のものの考えかたから必然的に出てくる優先順位というものだろうか。選挙中のいわゆる弱者票への約束というような次元では、これは説明出来ない。
現実の政治の運営では、信条や利害を中心にして結びついているいくつかの派を巧みにとりまとめつつ、そのどれをも満足させていかなくてはならない。ここにはこれ、あそこにはそれというふうに、政策が小出しになることは最初からわかっているし、状況に応じた修正や取り消し、前言訂正、事実上の棚上げなどが、プロセスを縫い合わせるものとしてかならず加わってくる。そのようなプロセスのなかで、大統領の力は少しずつ確実に失われていくのではないか、という見かたは表層的だと僕は思う。プロにとっての武器である妥協を、大統領は巧みに使っている。しかし大衆は妥協を好まない。だから妥協は常に反対派にとっては絶好の攻撃目標となる。大統領に対する攻撃や批判の多さを、彼の力の減少と取り違えてはいけない。
ラディカルさの筋道
一九四二年十二月のあの日曜日、ジョージ・ブッシュは教会での礼拝へいく途中、あるいは帰り道、大学のキャンパス内を歩いていた。日本軍による真珠湾攻撃を、そのとき彼は知った。一年後、十八歳になると同時に、彼は空軍に入隊した。パイロットになった彼は、通称をアヴェンジャーという復座の魚雷爆撃機に乗り組んだ。太平洋の戦場に出て実戦のなかにいたとき、彼は小笠原の近くで撃墜されて太平洋を漂い、潜水艦に救助された。
愛国的な兵士として、彼は戦場で体を張った。それはそれでいいとして、大統領選挙でクリントンを攻撃するきっかけやとどめとして、戦争に参加した事実を何度も持ち出すと、従軍経験というものの持つべき意味が、少しずつ変化していく。旧世界の陳腐な価値観のなかへ、それは少しずつ確実に落ちていき、最後は彼自身に対してマイナスとして作用するまでになった。
ヴェトナム戦争時に徴兵適齢の青年だったビル・クリントンが、なんらかの徴兵回避の工作をおこなったことは、確かだと言っていいようだ。そのことに関する彼による説明の内容が、そのたびに少しずつ違ったりしているのは、彼らしさの出た興味深い部分だ。隠しとおさなければならないものを避けながら、どの視点で説明するかによって、内容はそのつど微妙に異なったものとなるということだろう、と僕は理解している。状況に応じて修正していく傾向は、彼らしさというものを構成する要素のひとつだ。
そのような彼をドラフト・ドッジャー(徴兵逃れをした男)として絶対に許さない人たちが多く存在すると同時に、五十年前に愛国的な兵士として戦ったかどうかは、大統領としてこれからのアメリカをリードしていく能力とは本質的になんの関係もないとする考えかたも、原則論ではあるけれど草の根に存在している。
奴はドラフト・ドッジャーだと言ってしまうと、すべてはそこで停止し、デッド・エンドとなる。いっさいの思考がそこで停止し、終わりとなる。兵役の有無は関係ないとする論のほうでは、思考は停止せず前方に向けて開かれている。思考は継続されていく。人々の知力が国の力だとするなら、どんな問題にせよそれをどこまでどんなふうに考え抜くことが出来るかが、もっとも重要な財産としての資質になるはずだ。
クリントンが大統領としておこなってきたこと、あるいはしようとしたことは、すべて相当にラディカルであり、彼自身のラディカルさの筋道にきちんと沿ったものだった、と僕は思っている。そのようなラディカルさがある限度を越えて発揮されると、それに対する反対の勢力を強く掘り起こすことになるのではないか。一九九五年の一月だったと思うが、大統領夫妻がアメリカ国内のどこかの小学校を訪問したとき、幼い女性の生徒から大統領は次のような質問を受けた。
「大統領に激しく反対している人たちと対処していくにあたって、あなたがもっとも留意していることはなにですか」。この質問に対して、大統領は彼女と完璧に対等な立場にきわめて無理なく自分を置き、真正面から次のように答えた。「ほとんどの攻撃の陰には、私を個人的に攻撃してなんらかのダメージをあたえようとする試みがあります。個人的にダメージを受けるということを、絶対に自分に許してはならないのです」
クリントン大統領は、全体というもののなかにいる対等な当事者のひとつとして日本を見ることの出来る、最初のアメリカ大統領ではないだろうか。ごく単純に図式化するなら、五十代なかば以上の年齢のアメリカの人たち、特に政府や財界で要職についている人たちが日本を理解するとき、その理解のしかたのなかには、アメリカの属国としての日本というものがかならずある。アメリカとの無謀きわまりない戦いに当然の負けを体験した日本は、戦後の復興にかかわるほとんどすべてをアメリカに負ったのであり、その後もアメリカによる安全保障のなかに居続けて経済力を持つにいたったのだから、アメリカにしたがうかたちで、アメリカの利益を損なわない範囲内で、その機能を発揮すべきだ、というような日本のとらえかたを彼らはしている。世代的にだけではなく価値観的にも、クリントン大統領はこのような日本のとらえかたから遠く隔たっている、という期待は持っていい。
戦後からつい昨日まで継続されてきたアメリカと日本との関係は、日本にとっては日本の大好きな上下関係だった。上がアメリカで下が日本だ。上にあるものは下にあるものをさまざまに擁護し便宜をはかり、下はその傘のなかで自己の利益の追求を最大限におこなう、という旧来の関係から脱出する絶好の機会を、クリントン大統領という外因のなかに、じつは日本は持っているのではないのか。
ヒラリー・ロダム
ビル・クリントンが大統領になってからずっと、アメリカ国内で放映されるTVニュースの画面に彼の妻、ヒラリー・ロダム・クリントンが現れるたびに、僕は彼女の姿を不安と期待の重なり合った気持ちで受けとめてきた。ヒラリーの髪が、僕は気になっていた。
髪の作りは、服や靴その他、身につけるものすべてと密接な関連を持っている。だから彼女の髪が気になるとは、彼女のいわゆるファッションの全体が気になる、ということだ。気になるとは、不安や心配、そして期待が、半々に重なるという意味だ。自分のヘア・スタイルを彼女はもう見つけただろうか、という期待。それをまだ見つけてはいず、したがって今度も前回とはまったく違うヘア・スタイルなのだろうか、という不安と心配。
知力や才能、理解力や行動力、組織力などを別にして考えても、彼女は素材としてけっして悪くないと僕は思う。就任式のときのボールガウン姿は、たいへんに素晴らしかった。ヒラリーにはイーヴニング・ドレスが似合う。これはたいへんなことだ。それから、スーツもいい。まだ選挙運動中の一九九二年十一月、バーバラ・ブッシュとともにどこだったかに現れたときのヒラリーは、バーバラがブルーの服で来ることをおそらく前もって知っていたのだろう、じつに良く似合う小気味のいいブルーのスーツで登場した。
バーバラのブルーは、いかにも地位と生活を保証された、家庭を守る年配の婦人そのもののようなブルーであり、アクセサリーは首もとの三連の真珠だった。ヒラリーのブルーは、顔の肌の色と髪によく調和した、若くて行動的で、なおかつ充分過ぎるほどに知的なブルーだった。スカーフもアクセサリーも完璧と言ってよく、このときは髪も良く出来ていた。
似合う服と髪が、ヒラリーには確かにある。ファッションにおけるパーソナル・スタイルを、充分に発揮することの出来る素材だ。そのことに間違いはない。しかし、この一年、ヒラリーの髪と服は次々に変化した。かなりうまくいったときと、まったくうまくいかないときとが、交互して繰り返された。なんとかして自分のスタイルを発見しようとしている苦労が、服と髪の変化の連続から伝わってきて、僕はその変化を楽しみつつも、次の変化を心配し期待したというわけだ。
若い頃から、あるいは子供の頃から、そして現在までずっと、ヒラリーはファッション・パワー(見かけやイメージ)の人ではなく、ブレイン・パワー(頭脳力)の人であったことは確かだ。服や髪などに興味はなかったのだ。一般的には人気投票以外のなにものでもない大統領選挙中でも、ヒラリーが自ら表現した自分の価値は、「ひとつの値段でふたつ手に入る」ということだった。うちのビルを大統領に選ぶなら私の頭脳もついてくる、というわけだ。ヒラリーの頭脳に期待をかけてのビル、という意味で、ビルとヒラリーを造語的にかけ合わせ、ビラリーという呼び名すら出来たほどだ。
そのヒラリーは、自分がファースト・レディと呼ばれるのを嫌っているという。ファースト・レディではなくプレジデンシャル・パートナーと呼んでほしい、と彼女はおおやけに発言しているという。これまでの大統領夫人たちのような、単なるセレモニアルなあるいはデコレーショナルな役割を越えた次元に私はいます、という意志と知力の表明だ。
医療保険制度の改革という大難問を、ヒラリーは引き受けた。こういう難問を大統領はその正面に掲げるべきではない、というような意見があるが、それは純粋にポリティカルな意見というものだろう。ヒラリーは本気だ。改革案に関して議会を前に公聴を受けたときのヒラリーは、素晴らしい出来ばえだった。彼女はこういうことの得意な女性であるらしい。
ヒラリーのような女性は、ある程度以上の階層になると、いたるところにいるのがアメリカだ。現在の、そして今後のアメリカ女性にとってのロール・モデルとして、あるいはプレジデンシャル・パートナーとして、この公聴会でのヒラリーは、早くもひとつの高みに到達した感があった。あまりの出来ばえに感激した議長のダン・ロステンカウスキーは、「いまの大統領は将来の歴史のなかでは、あなたのご主人として記憶されることになるでしょう」とまで言った。
さて、そのヒラリーの、髪だ。一九九三年から九四年にかけての一年間、彼女の髪はいったい何度、変わっただろう。プレジデンシャル・パートナーを越えて、プレジデンシャル・マテリアルとしてのヒラリーのような女性は、いまの日本からはやはり存分に遠いのだろう、彼女の髪は日本での話題ではないが、アメリカではたいへんな関心を広く集めた問題だ。女性の髪や服は、日本では単なるファッションのセンス、お洒落、身だしなみ、個性の表現、生活信条の表明などにとどまるが、アメリカでは自分の意見をどこまで真剣に聞いてもらえるかに核心的にかかわる、生きるか死ぬかの大問題だ。
「なかなかいいじゃないか、これでいけばいいんだよ」と言えるヘア・スタイルから、「うわっ、駄目、やめろ、似合わない」と言わざるを得ないスタイルまで、ヒラリーの髪は僕を楽しませてくれた。髪をひとつのスタイルにまとめることを総称してヘア・ドゥーと言うが、ヒラリーの場合はヘア・ドント(してはいけないヘア・スタイル、というほどの意味の造語)であることのほうが、圧倒的に多かったようだ。
だらんと垂れる長いボブはまったく良くない。ヘア・バンドもアウト。いかにも仕事に生きるふうの、よくあるいまふうの髪も駄目。昔の映画に出てくる仕事をしている女ふうの、いまではパワー・パームと呼ばれているようなパーマをかけた髪も、古くて好ましくない。服は、昔からあるいわゆる女性服のような服は、着ないほうがいい。現代の、すっきりとシャープなスーツが、彼女にはもっとも似合う。
一年がかりでヒラリーは正しい髪になんとかたどり着いたようだ。どちらかと言えば短めの、夜も昼も兼用出来る、無理をまったく感じさせない、すっきりとした、これが頂点で完成、と宣言していいスタイルだ。女性のブレイン・パワーは髪をとおして相手に届く。髪が不出来だと、ブレイン・パワーは自動的に割り引きされてしまう。ヒラリーの髪は、しかし、これからも変化を続けるかもしれない。将来に関するそのような予測を過去に対してあてはめてみると、彼女のブレイン・パワーを別の視点から見ることが出来るような気がする。
ヘア・スタイルが何度も変わったのは、これというひとつのスタイルをみつけることの難しさであると同時に、ヒラリーのブレイン・パワーの、たとえばホワイト・ハウスにおける、いまのアメリカといえどもけっしてないわけではない、すわりの悪さやおさまりの悪さなどのあらわれであるかもしれない、と僕は思う。ヒラリーを大統領にふさわしい人材だととらえている人は、僕の勘ではアメリカに三分の一はすでにいると思う。と同時に、大統領のかたわらにいるもうひとりの大統領として、ヒラリーを良く思っていない人たちもまた多い。
切り抜けていく道はただひとつ、これこそアメリカと言えるような種類の、プラグマティズムだ。ヒラリーのブレイン・パワーは、要するにアメリカの高等教育で鍛え抜かれたことをとおして生まれたものだ。ご主人のビルも、高等教育では奥さんにひけをとらないどころか、もっとも高等な高みを体験した人だ。高等教育とは、どんな問題にせよ、ありとあらゆる視点から、およそ考え得るすべての選択肢について、考えられる限度いっぱいに考え抜く能力のことだ。ヒラリーにおけるヘア・スタイルの模索は、この能力がまだ全面的には受け入れられていないことを、物語っているのではないか。
一九九六年十月現在では、ヒラリーの髪はひとつの完成域に達している。あるいは、自分にはこの髪だ、と心から思えるようなスタイルを、彼女は見つけている。ヒラリーの髪に、少なくともいまは、僕は心配も不安も持っていない。
ヴァージニア・ケリーの死
その日の僕がたまたま見たCBSの『イーヴニング・ニュース』の冒頭で、クリントン大統領のお母さんが亡くなったことが報じられていた。大統領の母、ヴァージニア・ケリーが、ガンにより七十歳で死亡した事実を、アンカーのコニー・チャンが簡単に伝えたあと、ホワイト・ハウスからのレポートを受け持っているリータ・ブレイヴァーが引きついだ。
特別なことはなにもない、ごく普通の、要領良くまとめたこの短いレポートについて、これから僕は書こうとしている。アメリカ国内での日常生活文脈内の、大統領の母だからといって構えたところなどいっさいないこのようなレポートのなかに、あまりにも暗黙の大前提であるがゆえに普段はおもてに出てこないアメリカの神髄が、固い構えや余計な飾りをいっさい排した姿で、なにげなくふっと、しかしきわめて明確に、立ち現れる。僕がいま書こうとしているのは、そのようなことについてだ。
僕がメモしたかぎりでは、この短いレポートは、十九から二十のカットで成立していた。日本語としてのカットとは、この場合は、つないである映像テープの断片数、という意味だ。コニー・チャンの最初のリードを1とすると、2以下はおよそ次のような内容と展開だった。
2 ホワイト・ハウスの庭に待機するヘリコプターに向けて、夫人に送られて大統領が歩いていく。ヘリコプターのかたわらでふたりは抱き合う。あとからいくことになっている夫人が、大統領の背中を軽く叩いて慰める。「大統領がアーカンソーへ帰る、もっとも悲しい場合です」とリータ・ブレイヴァーが語る。このレポートでは、彼女は最後まで画面には登場せず、声だけだった。守るべきマナーを守った、ということだろう。
3 一九九二年七月、大統領選挙中のビル・クリントンの演説からの引用。「私が持っているファイティング・スピリットはすべて母から受けついだものです。お母さん、ありがとう。アイ・ラヴ・ユー」と、ビル・クリントンが語り、聴衆のひとりであるヴァージニア・ケリーがそれを聴いている。
4 ヴァージニア・ケリーの半生が多難であったことが、手短に語られる。四人めの夫、ウィリアム・ジェファスン・ブライスの墓が画面に出る。彼は一九四六年、ビル・クリントンがまだ母のお腹にいたとき、他界した。
5 ビル・クリントンの幼い頃の写真が画面に出る。幼いビルは祖父母に預けられたことが語られていく。
6 もう一枚、昔の写真が画面に出る。ビルの母親は、当時は看護婦で生計を立てるべく、そのための訓練や教育を受けることに時間を使っていたことが、ブレイヴァーの語りでわかる。
7 大統領選挙中のCMが引用される。ビル・クリントンが、母親の思い出について、いい表情で語っている。
8 昔の写真が画面に出る。幼いビルが、ふたりめの父親とともに映っている。この父親はアルコール中毒者だった。
9 ヴァージニア・ケリーのもうひとりの息子、ロジャーについての説明がある。薬物中毒の問題をかかえていた彼の姿が、画面に出る。
10 なにかのパーティ会場へ現れたヴァージニア・ケリーの姿が画面に出る。
11 バーブラ・ストライザンドのコンサートに来たヴァージニア・ケリーの様子が映る。彼女はエルヴィス・プレスリーの大ファンでもあり、その他に好きなものは、競馬とホンキートンクであると紹介される。
12 大統領選挙中にTVの深夜番組に登場したビル・クリントンが、サングラスをかけてテナー・サックスを吹いている様子が引用される。彼が吹いているのは、『ハートブレイク・ホテル』だ。
13 ヴァージニア・ケリーがTVの取材記者に語ったときの、彼女の顔のショット。「子供をホンキートンクに連れていくなんて、私もちょっとした母親ねえ」などと彼女は言う。ビルがテナー・サックスを吹くのは、母親とともに何度もいったホンキートンクで、リズム・アンド・ブルースを聴いたことがきっかけとなっている。
14 大統領就任式での、母親と息子の姿。その映像に、大統領一家の友人であるベッツィー・ライトの語りが重なっていく。
15 「息子が大統領であろうが、アーカンソー州ホットスプリングスの清掃局で一生を終わろうが、どちらでも大満足の出来る母親、それがヴァージニアですよ」と、ライトは語る。
16 ヴァージニア・ケリーにとっての、唯一の孫娘、チェルシーの映像が出る。「煙草をやめてほしいとチェルシーに言われ、孫娘へのプレゼントとしてヴァージニアは煙草を絶ったのよ」と、ライトは涙声で語る。
17 大統領一家が昨年のクリスマスの数日後、アーカンソーを訪れたときの映像が出る。母親のガンがもはや治療の域を越えている事実をこのとき大統領は知っていた、と語られる。
18 クリスマスに大統領がアーカンソーを去るとき、彼が母親と交わす接吻のこれが最後のものとなった、という語りとともに、そのときの映像がフリーズになる。ヴァージニア・ケリーの顔の、やつれようがはっきりとわかる。
初めに僕が書いたとおり、この報道は特別なことなどなにもない、ごく普通の、しかし盛り込むべきことは的確に要領良く盛り込んだ、きわめてなにげない、そしてそれゆえに、完全にアメリカ的な内容の報道だ。
アメリカの人たちにとって、母親はたいへんに重要だ。アップル・パイと母親ほどアメリカ的なものはほかにない、とアメリカ人たち自らが昔から言っている。アメリカの人たちは、ことのほか母親が好きなのだろうか。他の国の人たちにくらべて、アメリカの人たちは、はるかに母親孝行なのだろうか。
母親とは、自分がこの世で果たすべき義務と責任を自ら明確にし、それを自らはっきりと選び取り、その義務と責任に対して忠実であることを自分の一生をつらぬく中心軸にするという、アメリカ的な営為の象徴ないしは権化だ。それでなければ母親はただの女親だ。
アメリカにとって大事な母親は、自由というものと深く関係してくる。アメリカ的な自由、と言ったほうが正確だろう。そのアメリカ的な自由とは、自分が進む道を、誰の妨害も強制も受けることなく、神との一対一の契約にもとづいて、自分のものとして選び取り、その道を自分の思うとおりに進んでいくことだ。
自由はただちに責任と義務であり、責任と義務は、それに忠実であることによってのみ、果たされる。義務と責任に忠実であり続けることをとおして、自分の自由も、自らの手によって、守られていくことになる。自分たちの社会を支える最重要な理念を、もっともわかりやすく、もっとも日常的に、ほとんど誰にも身に覚えのあるかたちで、もっともたやすく理解させることの出来る存在、それがアメリカン・マザーだ。ヴァージニア・ケリーは、自分の義務と責任に忠実であることを自分の一生とした母親の、たいそう好ましい見本だった。
自分の義務と責任とは、なにだろうか。おなじ日の『イーヴニング・ニュース』の終わりに近い部分で、ヴァージニア・ケリーについての項目がふたたび登場した。コニーの番組である『アイ・トゥ・アイ』で、かつてコニーが大統領の母親をインタヴューしたときの映像からの、引用だった。
ヴァージニア・ケリー自身の言葉によるなら、彼女の一生の義務と責任とは、正しいことと正しくないことの違いを、息子たちに徹底して教えこむことだった。「ビルは大統領になる素材だと思いましたか」という質問に、母親は「ノー」と当然のように答えていた。彼女には息子がふたりいる。どちらかひとりを特別視することは、母親の義務と責任に反することだから。
グレン・ミラー楽団とともに
アメリカがいちばん良くわかるのはメモリアル・デイだと、僕は子供の頃から思っている。メモリアル・デイは、要するにアメリカの戦争の歴史であり、アメリカの歴史は戦争なのだから。そしてメモリアル・デイのすぐあとに、Dデイが来る。メモリアル・デイとDデイとは、事実上はひとつに重なっている。
一九九四年のDデイ、六月六日は、ノーマンディの海岸に連合軍が上陸した一九四四年から数えて、五十年めにあたる記念日でもあった。記念の式典が現地でおこなわれ、アメリカ国内のTVニュースは多くの時間をDデイに関連した報道に当てた。CBSの『イーヴニング・ニュース』では、アンカーのダン・ラザーはトレンチ・コートを着てノーマンディに立ち、ほとんどがDデイ関係だったその日のニュースをさばいていた。
戦争のなかからは感動的な物語がいつも数多く生まれる。そのうちのいくつかを、僕は『イーヴニング・ニュース』で見ることとなった。西へ向かうヒトラーの戦車隊のひとつが、途中で通りかかったフランスの小さな村を、なんの理由もなしに壊滅させた。人口が三百人くらいだったその村は破壊され、住人は虐殺された。からくも生きのびた人が数人だけいて、そのうちのひとりが取材に応じて体験を語っていた。この村は、いまも破壊されたときのままの姿で、遺跡のように残っているという。
Dデイに参加した若いアメリカ兵が、身ごもっている新婚の妻に宛てて書いた何通もの手紙、そしていまは故人であるその妻が産み、父親である兵士にはついにひと目見ることもかなわなかった娘の物語が、紹介された。母親の死後何年か経過したのち、遺品を整理していた娘は、自分にとっては何枚かのスナップ写真のなかの人でしかない父親が、ノーマンディに向かう船のなかから、そしてノーマンディから、妻に宛てて書き送った何通もの手紙を発見する。なにげなく日付順に読んでいったいまはもう中年の娘は、五十年前に母親が夫からの手紙をとおして体験した、愛する人を戦争で失うという恐怖を、追体験することとなった。その娘には娘がいる。戦死した父親にとっては孫娘だ。娘は娘をともなって父親の墓へ出向き、あなたが一度も会うことのなかった娘が私で、そして私のかたわらには私の娘がいます、と語りかけた。
五十周年記念式典にクリントン大統領は出席した。ヴェトナム・メモリアルの前へコマンダー・イン・チーフとしての彼が初めて立ったときにも、さまざまな意見が報道された。今回もそうだったに違いない。僕の見た『イーヴニング・ニュース』は、じつにバランス良く中立だった、と僕は感じた。
クリントン大統領はDデイ以後に生まれている。兵役というものをいっさい体験していない。軍隊に関する、自分の体をとおした理解が、彼には皆無だ。ヴェトナム戦争の頃の彼は徴兵適齢だった。徴兵を回避するための工作を彼がおこなったことは、まず間違いない。オックスフォード大学で学んでいた期間には、ヴェトナム戦争に対する反対運動を彼はおこなっていた。
その彼がいま大統領であるのは、誰の画策でもなく、単に時代のめぐり合わせでしかないはずだ。しかし大統領はアメリカ全軍の最高司令官でもあるから、軍内部には彼をめぐって複雑な気持ちが重層し、一般には彼の兵役体験のなさやそれの回避工作は、彼について言われ続けるキャラクター・プロブレムの発生源とされている。
兵役体験のなさなどまったく問題ではない、重要なのは将来に向けての大統領としての能力だという意見から、奴は逃げたから許さんという意見まで、つまりありとあらゆる意見の人たちが、ヴェトナム・メモリアルの前に立った彼を見た。そして今度は、ノーマンディの海岸をひとりで歩く彼を見た。ノーマンディへ来たとはいっても、敵陣へパラシュートで降下したわけではないし、砲撃の雨のまっただなかの海岸へ、ヒギンズ・ボートで上陸したわけでもない。予定どおり進行していく式次第のなかに身を置き、多少とも緊張した表情を保っていればそれでいい。
大統領は緊張している、とTVニュースの語り手たちは言っていた。彼は居心地悪そうに見える、とも彼らは語った。ノーマンディで大統領がなにを思ったか知るすべもないが、アメリカの歴史観の明快な一貫性は、強大な軍事力とその行使である戦争から生まれ出たものであることについて、大統領も思いを新たにしたはずだ。
CBS『イーヴニング・ニュース』のDデイ特集が終わり、クレディットの背景に流れる映像を僕は見た。いまは年配者となったアメリカの退役軍人たちが、記念式典のなかをパレードしていく。そのなかのひとりが、行進しながら大統領のほうに顔を向け、きわめて攻撃的で批判的な、したがって憎悪にまで達していると言っていい表情でコマンダー・イン・チーフをにらみつけ、勢いを込めてなにか盛んに言葉を発していた。
背景の映像だから音は聞こえない。しかし、いまは老いの日々のなかにあるその退役軍人の表情は、充分すぎるほどに雄弁だった。その人に可能なかぎりの言葉を駆使し、ありったけのエネルギーを注いで、その人は大統領をこきおろし、ののしっていることを明確に伝えていた。
その部分の映像を、編集の段階で何人もの人たちが何度も、見たに違いない。あの部分を使わなくとも、ふさわしい映像はほかにたくさんあっただろう。しかしあえてその部分を使った彼らの判断の向こう側に、一瞬の閃光のように見えたものが僕にはあった。
アメリカが自国に関してきわめて一貫した歴史観を持った国であることは、多くの人が知っている。その歴史観は、どの時代でも世界一だった強大な軍事力に裏打ちされている。強大な軍事力の歴史とは、アメリカの場合、ヴェトナム戦争まではどの戦争にも勝ってきた、という歴史だ。
このことは、単純明快で強い一本の直線のような歴史観を形成せずにはおかない。そしてその直線は、ヴェトナム戦争で、はっきりと大きくひとつ、折れ曲がった。力強い単純な直線は、その歴史のなかで初めて、複雑な屈折を体験することとなった。ヴェトナム戦争を、自らの歴史観の大きな変更はともなわなくともすむかたちで、なんとか乗り越えようとする思いが、アメリカのなかには底流のひとつとしていまも強く存在している。
建国以来のアメリカを支えてきた真のアメリカらしさが、自らをへし折ったという巨大な出来事がヴェトナム戦争だと理解するなら、ヴェトナム戦争までの歴史観をそのまま維持しようとする願望は、ヴェトナム戦争と同質の単なる蛮行だ。ビル・クリントンがオックスフォードで学んでいた頃、オックスフォードから見たヴェトナム戦争は、核以外の最新兵器の殺傷力を限度いっぱいに駆使した、おそるべき一方的な虐殺だった。
その戦争への徴兵を工作で回避し、オックスフォードでは反戦運動をした青年が、いまは大統領として五十周年記念式典のノーマンディの海岸を歩いた。五十年前に実戦でそうしたのとまったくおなじに、パラシュートで降下してみせた高齢の落下傘兵たち。式典を見物するため、Dデイ的な歴史観にまさにふさわしいボブ・ホープとグレン・ミラー楽団とともに、クイーン・エリザベス二世号でノーマンディの沖へニューヨークから向かった年配の乗客たち。どの人のなかにも等量に、強大な軍事力がもはや歴史とは一体になどなり得ない時代が、とっくに流れ始めている。
しかしそのような時代にあっても、アメリカの底流は、選挙権のある人たちの数にして半数以上において、時間はDデイ直後で止まっている。第二次世界大戦の戦勝国として、世界で唯一の、世界史上の異常事態と言っていい、軍事、政治、経済そして文化など、あらゆる面で超大国だったときのアメリカのなかで、その時間は止まっている。
Dデイのパレードに参加して行進しつつも、大統領を力いっぱいののしるひとりの退役老兵の姿に託して、これからもこれまでどおりのアメリカでいいのだとする勢力を、夕方の三十分のニュース番組は、そのしめくくりの映像のなかで象徴的に見せた。クリントンの到達しているラディカルな次元と、それの敵と言っていい従来どおりのアメリカが正面から対立する様子を、僕はその映像のなかに見た。
もっとも良く送られた人生
アメリカというシステムは、世界じゅうから才能のある人材を集めるシステムだと理解すると、それはもっとも正解に近い。それぞれに独特で優秀な人材を、適材適所でフルに使い抜くことがものすごく巧みであるシステムだ。システムの全体がおそろしいまでに開かれているから、こういうことが可能になる。優秀な人材が世界から集まり続けるところには、当然のこととして資本も集まる。人材と資本に困ることがなく、それらを巧みに使っていくシステム。それがアメリカだ。
資本の市場での、資金の配分に関する効率は、世界でアメリカがずば抜けて高い。そうしようとしたからそうなっているのであり、金融システムはただ単にいろいろあってすべて自由というだけではなく、その裏にはなにごとにも揺らぐことのない強靭な革新性が常に心棒としてとおっている。ヴェンチャー・キャピタルの現実など、日本を判断の基準にして観察すると、信じられない別世界のようだ。
これでは駄目だとわかってからの、やりなおしや立ちなおりの素早さと周到な革新性は、システムの根本的な作り換えに関して、最大限の機能を発揮する。大企業による長期にわたる研究と開発の結果として生み出されてくるものも、革新性を基本的な共通点として持っている。これからは一般的には見えにくいところで、そのような革新性が具体的に実を結んでいくはずだ。裾野の広い基礎研究と開発は、アメリカにとっての知的な資本蓄積の土台だ。社会的な資本とは、単に資金やインフラストラクチャーだけではない。革新していく知的な発想力、という資本が土台にないかぎり、どんなことも健全には機能していかない。
アメリカというこのようなシステムは、人生を経営的にとらえる人にとっては、理想郷だと言っていい。考えられるかぎりのすぐれたアイディアを、どのようにして最善のかたちで実現させるかが、もっとも良く送られた人生であるという考えかたにとって、アメリカは理想の地だ。企業にとっても、そのことは変わらない。
アメリカは債務国として世界じゅうに赤字をばらまき、ドルはいまや一触大暴落の危機をはらんでいるというような通説は、世界スケールでひとつに集めたアメリカの力の内側から見直すと、なんの説にもならないことが多い。世界じゅうのアメリカ国籍の企業をまとめると、アメリカは赤字ではなく黒字だし、その競争力は世界のなかでいまも最強だ。ドルは安定している。価値の下がりようは、この二十年で十パーセントほどだ。国際通貨としてのドルの地位は変わらない。円から見たドルは世界のすべてだが、ドルから見ると円はいくつもある通貨のうちのひとつであり、たとえば円高ドル安はそこでのことにしか過ぎない。
他の国がどれもなんらかの意味においてアメリカにおよばないから、アメリカのシステムの良さや強さはそれだけ増幅される。世界でいまのところもっともすぐれたシステムであるアメリカにくらべると、たとえば日本は、駄目の見本としてユニークな極にあると言っていい。世界でもっともすぐれた、もっとも強いシステムとは、それが生まれてくるにいたる根源的な地点までさかのぼるなら、自由ですぐれた独創、というものだ。自由ですぐれた独創は、まず最初に、あるひとりの個人の頭のなかに閃く。自由ですぐれた個人的な独創は、異質な者どうしが交わす無限に近い対話のなかから生まれてくる。
こういうシステムだからこそ、アメリカは二極へ分化していく。二極分化への決定的な傾向を、その基本的な性質のひとつとして、アメリカは最初から持っている。はっきりとふたつに分かれていくアメリカから世界を見ると、世界もまたはっきりと二つに別れつつあるのではないか。落ちていく側はとめどなく落ちる。凡庸な中加減ではこれからの世界を上位で渡っていくことは出来ないことを、落ちない側の高度な人たちは知り抜いている。
アメリカの経済とは、大衆による大量生産と大量消費だった。世界最強の軍事および政治の力が支える経済として、それは隆盛をきわめた。作り出され消費され続ける商品は、同時にイメージでもあり、そのイメージとは、アメリカが唱え普及させたデモクラシーだった。アメリカの力は、経済システムや商品を世界に広げ、そのことと同時に、デモクラシーも世界に広げようとした。そしてそれは、事実かなりのところまで広がった。
アメリカというシステムにとって、もっとも大事なのはおそらくここだろう。到達し完成することなどありっこないデモクラシーという理念を、世界に向けて掲げ続けたこと。それがアメリカにとってもっとも大事なことであり、そのこと自体がアメリカだった。デモクラシーは幻であり、その幻にとってもっとも大切なものは、個人の頭にすぐれた独創が閃くチャンスを最大に広げることだった。そしてその独創を実現させるための、ありとあらゆる支援という社会的システム、さらにはそれが失敗したときの再挑戦への、開かれた道だ。
大統領が引き受けたこと
一九九五年二月の教書演説でクリントン大統領は、中間層を広げ貧困層を小さくしていくことを、国内における最大の課題として力説した。すでに成功している中間層を守っていくには、分厚く広い底辺を構成している貧困層を狭めることによって、中間層をあらたに広げていくほかない、と大統領は言った。貧困層とは、夫と妻がともにいる家庭がその層にあると仮定して、彼らに子供がふたりいて年収が一万四千ドル以下の層を、正式な用語として貧困層と呼んだものだ。数にすると三千万人であり、総人口に対する比率は十四パーセントほどになる。
なるほど、アメリカはふたつに引き裂かれつつあるのか、とその演説を聞いてたいていの人は思うだろう。アメリカが二極分化を始めて久しいということは、日本でも多くの人が知っている。救済策のないままに取り残されて貧困層へと落下していく人たちの層が、底辺およびそれに近いところから不気味に上昇を続け、いまでは中間層のまさに中間に、二極に大きく分化していく裂け目がある。一九七〇年代に始まったアメリカのいわゆる国力の低下の、もっとも目につきやすい部分だ。
しばしば言われているとおり、二極分化のその二極とは、ひとつは高度な頭脳労働をする人たちであり、もうひとつはマニュアルどおりにこなせばそれでいい単純なサーヴィス労働に従事する人たちを意味する。このふたとおりの人たちの中間に位置していた人々が、大量に抜け落ちていきつつある。中間に位置していた人たちとは、僕の言いかたでは、これまで長くやってきたことをこれまでどおりにやっていた人たちだ。かつてのアメリカがそのままいつまでも続いていくと思って、かつてとおなじようにしてきた人たちだ。
かつてのアメリカとは、たとえば一九五〇年代のアメリカだ。資本主義がアメリカふうの個人主義および自由と民主で営まれることによって可能となった、大衆における大量生産と大量消費というデモクラシーの一種のなかで、その頃のアメリカは盛大に物を作った。工場労働者の国は、世界のGNPの半分を自分のところで持つという、もっとも豊かな国となった。最強の軍事力と政治力は最強の経済力を生み出し、それはそのままアメリカが言うところのデモクラシーになり得た。そしてそのデモクラシーの全体は、素朴な時代のなかでは能率良く機能した。
夫は工場でマニュアルどおりの仕事をし、けっして高くはないけれども安定した給料を取る。広い庭のある広い家に彼の家族は住み、自動車は二台、そして湖の近くには小さいけれどもサマー・ハウス。妻は主婦で、子供たちは大学までいく。こういう生活がそのままいつまでも続くのだと、豊かだった国の人たちは信じた。
続かないことはすでにはっきりしている。この十年以上にわたって、自分たちの生活程度が目に見えて低下していくのを体験しつつ、中間的な層の人たちはさらにその下の層に向けて、大量に落下していった。落下はいまも続いている。これまでのアメリカは、もうない。しかし、これからのアメリカがないわけでは、けっしてない。
自由競争というシステムは、その結果をくっきりと見せてくれる。成功と失敗の差は、アメリカでは劇的だ。圧倒的に市場を埋めている普通の普及品とは別の世界には、いったい誰がどこで買うのだろうかと不思議に思うほどに、美しく手のかかった素晴らしい高級品が存在する。いわゆる金持ちたちの豪邸がならぶ地域とインナー・シティとの対比は、まさに二極分化の現物による図解だ。インナー・シティの荒廃ぶりは、怖さや不気味さをすでにとおり越し、その次の次元に到達している。アメリカの基本的な性格のひとつである二極分化は、次の時代に向けての構造変化という局面のなかで、中間層が打撃を受けることによってその際立ちかたが増幅されている。
資本主義は、起こってくる状況をすべて呑み込みながら、突進していく性格を持っている。アメリカでは、その突進は、これまでを完全に過去として、次の段階に入ろうとしている。これまでのアメリカふうな資本主義の限界の上に立って、アメリカふうな次の展開である、根本的と言っていい変質の過程のなかにアメリカはある。
建国から百年間、アメリカは成長を続けた。六〇年代にはヨーロッパや日本の成長率がアメリカを越えるほどになり、それと比較するとアメリカの力は縮小したと言っていい状況が生まれた。七〇年代に入ると、七一年にアメリカの貿易収支は戦後初の赤字を出したし、七四年と七五年には、おなじく初のマイナス成長を記録した。アメリカの力の低下のスタートだ。
七〇年代の終わりには、所得配分の不平等が盛んに言われるようになった。実質賃金は低下した。労働生産性も落ちた。労働生産性とは、労働時間のなかでどれだけの価値を生むことが出来るかだが、これのもっともわかりやすい理解のしかたは、労働生産性が一パーセント落ちると少なくとも自分の代では給料はもう上がらない、という理解のしかただろう。労働人口の増加によって補われたにせよ、労働生産性は全体として低下した。
普通の人の身の上で、あるいはその周辺で、多くのことの水準が低下する現象の中心にあってもっともわかりやすく目立ったのは、製造業の減少していく速度だった。これは速かった。減少すれば当然のこととして雇用が減る。大量の解雇やレイオフが次々に衝撃的なニュースとなった。
製造業の減少にはいくつかの局面があった。どうでもいいようなごく普通の消費財はもはや永久に製造しない、という意味での製造業の消滅があった。そのような製造業は安い労働力を求めて海外へ出ていってしまう、という意味での消滅もあった。高度で独特な技術による、付加価値の高い物を作る製造業への移行、そしてそこでの生産性の向上は、従来型の普通の雇用を減少させた。どの局面を見ても、失われた職はもう二度と戻っては来ない性質のものであった、と言うことが出来そうだ。
国外で生産される比率が二十パーセントを越えると、つまりそれまでは国内にあった製造業のうち二十パーセントが海外へ消えると、アメリカの国内ではジャンク・ジョッブの比率が飛躍的に増えたという。ジャンク・ジョッブとは、向上や上昇の展望のいっさいない、安い時給のつまらない仕事の総称だ。
長年勤めてきた工場があるとき突然消えたアメリカの小さな町というものを、八〇年代からいくつ見ただろう。食肉の加工工場が閉鎖される。大衆的な普及品として名のとおっていたブーツのメーカーが、アジアへ工場を移転する。それらの町に住む多くの人たちが、ずっとその工場で働いてきた。町はその工場によって支えられてきた。父母はその工場で勤め上げて定年となり、いまは自分がそこで働き、子供たちもそこに職を得る予定でいた。そういった生活のすべてを支える中心的な柱である工場が、突然に消えてしまう。
途方に暮れ、神に見捨てられたという深刻な心理状態におちいりつつ、ほかに仕事を捜してみる。時給七ドルのジャンク・ジョッブしかない。その時給が次に紹介所へいったときには、六ドルにそして五ドルに、落ちている。時給五ドルの仕事で暮らすには、いっさいのプライドを捨てなくてはいけない。部屋も家も借りることは出来ない。なんとか走ることは走るという中古の自動車に寝泊まりし、もし白人ならばホワイト・トラッシュというカテゴリーに属して、地を這う日々を送るほかない。
とある町に住むある夫婦の夫が、青年の頃から勤めてきた工場がアジアへ移ることになった。すっかり年配の人となったその主人は、ディスエイブルドでもある。仕事は失われたまま、次の仕事は見つからない。というよりも、そんなものは身辺のどこにもない、という状況だ。奥さんがパートに出る。時給は四ドル五十セントだ。家はあるけれど、その収入では生活の全体を支えていくことは不可能だ。だから彼女は地元のフード・バンクへいき、食品メーカーその他から寄贈された食糧品をもらって来る。
居間のソファにその夫婦がならんですわり、TVニュースの取材を受ける。「一生ずっと真面目に暮らして一生懸命に働いてきて、これまで他人の世話になったことは一度もなかったのに、この年齢になって自分が夕食に食べるものをほどこし物としてもらって来なくてはいけないなんて」と語って奥さんは泣き出す。かたわらの主人が彼女の肩に腕をまわし、「泣くなよ」と言う。
従来型の製造業を中心に、ブルー・カラーそしてその単なる延長でしかなかったホワイト・カラーの仕事が、数千、数万の単位で、次々に大量に失われていった。「この三か月で二十万の人が職を失い、失職者の累計は八百万に達しました。夏までにさらに百万の人が失業する見通しです」などとTVニュースのアンカーが語る。大量のレイオフや解雇のニュースのなかに、有名な大企業の名がいくつもあがっていく。これはすさまじい、と誰もが思う。恐怖が背中を走る。
アメリカの労働者は怠け者だから品質は悪く、したがって競争力もない、というような次元の出来事ではない。もちろんそのようなことも含めて、出来事はまったく違う次元の出来事だ。レイオフ。ストリームライニング。リストラクチャリング。リエンジニアリング。といった言葉の流れの内容をよく考えるなら、売れない、だから作らない、したがって余った人を解雇する、という単純な段階ではなく、産業全体そして社会全体を根本から別のものに作りなおしていく流れが、もはや動かしがたい底流として存在している事実が見えてくるはずだ。
大量のレイオフや解雇という現実の問題を、たとえばTVニュースの画面で見せようとするとき、もっとも取材しやすかったのは、そして居間のTVで見る人たちにとってもっともわかりやすかったのは、自動車工場のそれだったはずだ。Don't drive jobs away, drive GM. などと標語を掲げた出入り口から、明日からは仕事がないという労働者たちが出てくる。その様子を見ているだけで、いまの社会のなかでなにがどうなっているのか、基本的な概略はわかった。
労働者自身たちは、流れ作業のなかで領域別に単純な仕事を繰り返す人だ。生産性は低い。作っているもの自体が、もはやすぐれているとは言いがたい。したがって競争相手から受ける打撃が深刻だ。より安い労働力へと、彼らはあっさり交換されてしまう。そしてそのあと、売るべき製品としての能力を、彼らは持っていない。
一九五〇年代、そして一九六〇年代は、あまりにも豊かだった。その豊かさのなかで、アメリカの自動車は、消費者の好みを常にリードしつつ、ひとまずアメリカ的な頂点をきわめた。そしてそこで進化を停止した。大量生産システムのなかで、いま作っているこれはいったいなになのか、という根本的な問いなおしがまず最初に放棄された。ボトムからトップまで、巨大なピラミッド型の組織は深く官僚化していき、労使の関係は悪化し続けた。
品質の低化は競争力を海外から招き寄せた。品質の低下とは、設計や開発における二流以下の技術とか、現場の生産性の低さ、労働者の扱いの悪さ、企業組織の肥大した官僚化など良くないことすべてが、自動車という工業製品のなかに実った結果だ。アメリカの自動車はこれでいい、ここから先はこのままでいい、と勝手にきめてそのまま進化を停止してしばらくたつと、たとえば海を越えて日本から、強力な競争相手としての日本製の自動車が、ある日、彼らの目の前に現れた。日本車はけしからん、という意味のない批判や攻撃の時代は、遠い過去のものだ。日本製の自動車をハンマーで叩いてみせるというような議員の演出など、気恥ずかしさをともなった懐かしい思い出だ。
アメリカの製造業の減少や力の低下、そしてそこからの作りなおしという根本的な改革を、アメリカ文化の強力な象徴のひとつであった自動車において、アメリカ自身が、そして世界が、見ることになった。そこに出てくるもっとも基本的な問題は、人の能力とはなにか、ということだ。
能力という製品をフルに開発して機能させるにはどうすればいいかを考えていくと、たとえば組織の平坦化は最初に出てくる課題だ。平坦化された組織のなかでは、これまでにくらべると格段に高い能力が要求される。これでいいと思って開発を停止してきた大量の人たちの、再教育による能力の開発や育成は至難事だ。しかし、これまでどおりのやりかた、というものはすべて失敗したかあるいは消えていくしかないことがはっきりしたのだから、根本的な作りなおしは避けてとおることが出来ない。
大企業による大量の解雇は、これまでどおり、というものがいっさい崩れ去っていくプロセスが生んだものだ。IBMが発表した一万人の人員削減、アップルが宣告した創業以来のレイオフなど、すべての勤労者にとってたいへんなショックであったはずだ。IBMに職を得て一生を保障されたつもりでいながらその職を失った人たちどうしが、持ちまわりで仲間の家に集まり、それぞれに問題や気持ちを語り合い、そのことをとおして自己カウンセリングをおたがいにほどこす。そして最後には全員で手をつないで頭を垂れ、失った職が戻って来ることを神に祈る。
世界の超優良企業と言われていたIBMが発表しなくてはいけなかった最初の苦境は、世界のとらえかたの失敗と直接につながっていた。世界はメインフレームでとらえられる、とそのときまでのIBMは思っていた。しかし世界におけるコンピューターの使われかたは、劇的に変化していった。ユーザーは自分の目的に合わせて自在に装置を組み合わせるというオープン・システムをプラットフォームにして、その上でソフトウエアを駆使していくこととなった。メインフレームとは反対のいきかたであるダウンサイジィングは必然であり、組み合わせるいくつもの装置は、誰が作ってもいい普通の電気製品の位置へと移っていた。メインフレームの解体は、それを使っておこなわれる、中央における集中管理の社会システムの崩壊だった。
シェアスン・レーマンで副社長をしていた人が、その職を失った。次の職を求めて、彼は失職このかた五百通のレジュメを書き、ひょっとしてここならば、と思うところへかたっぱしから送った。職はまだ見つからないまま、彼はパートタイムでファクス・マシーンのセールスをしている。奥さんは学校の先生だ。なんとか食いつなぐ不安で空疎な日々のなかで、「私のどこが間違っているのだろうか」と、彼はTVニュースの取材記者に問いかける。彼に間違いを見つけるなら、それはレジュメを書き送り続けたことだ。つまり、既存の会社組織のなかに、それまでの経歴や能力で、仕事を得ようとしたことだ。
解雇やレイオフは単純なものではない。それによって失われた仕事は、二度と戻っては来ない。リエンジニアリングがおこなわれたなら、そこで必要とされる能力は、それまでとは一線を画した別物でなければならない。そうでなければ、リエンジニアリングは失職の絶好機だ。仕事を失ったその人の問題としてではなく、いまはまだ仕事を持っている人たち全体の問題、つまり社会全体の問題として、安定した仕事あるいはそのままずっと続く仕事などは、もはやあり得ない。
仕事において人が発揮する能力は、情報やサーヴィスも含めて、なんらかの製品となって人の手に渡る。そしてこんどはその人がその物から、どれだけの価値を引き出すことが出来るかが、その物を作った人の真の能力であるという時代のなかに、全員がすでに入っている。引き出し得る価値の幅と奥行きとが、これまでとは比較にならないほどに広く深い製品を作る能力が、仕事をする人の標準的な能力となっている時代だ。ひとつあるかないかの能力で三十年にわたって給料をもらうという時代は、全員にとっての終わりではないが、どうやら終わったようだ。これからは、自分の能力という製品を、二年、五年という単位で、改変していかなければならない時代だ。
アメリカの大企業がかつて盛んにおこない、現在も継続させている大量の解雇は、次の時代の要求に応えられない質の労働しか出来ない、しかし給料だけは世界一の社員という高コスト・システム、つまり旧時代そのものを、なしにしてしまおうという試みだと理解すればいい。生産性の質において時代に適合しない労働者たちは、解雇すれば彼らの人件費はいっきょに消える。必要ないもの、そこにあってはいけないものは、掃いて捨てるほかないではないか。掃いて捨てる大量解雇は、じつは時代の作りなおしなのだ。
失職した従来型の労働者の再教育は、部分的には可能だろう。ふたたび職を手にすることの出来る人も、いるだろう。何年かごとに、計画的に自分を教育しなおしていく職業生活というものも、部分的には成立するはずだ。しかし、どのような内容を持った労働者であれ、彼らが安定して雇用されるかされないかは、雇用主の判断による。雇用主の判断とは、利益追求原理の私企業が、どのような労働者を必要とするか、あるいは、必要としないか、ということだ。私企業は自己のつごうでのみ雇用をおこなう。労働者たちが自らをどんなに再教育しても、私企業に彼らの必要がなければ彼らは雇用されない。
私企業にとっての都合と、社会ぜんたいにとってなくてはならない仕事というものとのあいだには、巨大な乖離がすでに存在している。そのような乖離の存在は、社会ぜんたいにとって、マイナスとして作用し続けているはずだ。私企業による雇用の都合とは、私企業が雇用する労働者の潜在的な能力のほとんどが、私企業の利益とつごうだけに消費されているということにほかならない。こういうことが、その社会ぜんたいにとって、絶対と言っていいほどの中心軸となっている状態は、どんな視点から見てももはや異様としか言えないのではないか。
社会ぜんたいの、複雑で多岐にわたる、そしてかならずしも直接的にはなんら利益にはつながらない要求は、これまではいわゆる進歩や発展、開発、拡大、繁栄、物量的な豊かさなどの内部へ吸収されたかたちで、なんとか応えられてきた。余剰としてまかなわれた福祉が、そのことの中心だった。企業の都合は社会ぜんたいの要求にはまったくと言っていいほど応えられないということが、先進文明国の先進性がある限度を越えると、その社会にとっての失点のようにして、あらわになってきた。
私企業のつごうが社会ぜんたいを圧倒的にリードしているという状態が、その社会自体に対して持たずにはおかない機能的な限界に気づくことは、先進文明国にとっては一種の特権のようなものだろう。私企業的な意味での利益は約束しないが、社会ぜんたいにとってはなくてはならない仕事、というものが無限に近く存在する。労働者という人的資源を、そのような仕事に配分しなおす作業を、私企業が引き受けるだろうか。もし引き受けないとしたら、それは政府の仕事だろうか。
先進国に出現しつつある大量の失職者は、私企業が社会のなかで大きな位置を占めすぎてきたことの、裏返しのあらわれだ。私企業でもなければ政府でもない。その中間にある膨大な日常という世界を支えるシステムの不備が、日ごとに大きく露呈されていく。そしてそのただなかを、起こってくる状況のすべてを呑み込みながら、資本主義は突進を続けている。
自分の能力によって作り出されるもっとも広い意味での製品を、短い期間を単位にして人は恒常的に改変し程度を高め、他に対してより素早く的確に適応出来るよう、作り換え続けていかなくてはいけない。付加価値の高い高度な頭脳労働とは、ひと言で言うなら、すぐれた独創のことだ。すぐれた独創によって、これまでどおりの世界というものは、次のものへとひっくり返る。このこと全体は、コンピューターの構成と機能によく似ている。そしてこれまでどおりの世界は、自動車に似ている。
いまでも使われているかどうか不明だが、NIKESという言葉がかつて少しだけ流行した。ナイクスあるいはナイキーズと言う。ノー・インカム・キッズ・ウィズ・エデュケーション(大学は出たけれど)のことだ。子供のいない共働きの都会の夫婦を、ダブル・インカム・ノー・キッズと規定して頭文字を取り、ディンクスと呼んだのとおなじ発想の造語だ。
「この大学の今年の新卒は、五十パーセントが実家へ帰ります。仕事がないからです」というコメントを、二、三年前に僕はアメリカのTVニュースで聞いた記憶がある。僕の聞き違いであってほしいとも思うが、こんな単純なことは聞き違えるのも難しい。帰る先である実家のひとつが、続いて紹介された。「人がひとり増えるのですから、生活の予算を考えなおさなくてはねえ」と、そこに住む父親がまったく弱気で語っていた。母親は裏庭に畑を作っていた。裏庭といっても、固い地面のただの空き地だが、老境に入っている母親はその地面を何本か細く掘り返し、「ここには豆を植えたのよ。ここは馬鈴薯。好物だから出来るのが待ち遠しくて」と言っていた。趣味の園芸ではない。野菜を自分で作り、少しでも家計の足しにしようという、果敢な試みだ。
ニューヨーク大学の九一年度卒業生には仕事がない、というニュースも僕は見た。毎日『ヴィレッジ・ヴォイス』を買い、求人欄を広げてかたっぱしから電話をかけて一日が暮れていくという日々を一年送って、まだ仕事が見つからない、とひとりの新卒は語っていた。生活のレヴェルをある程度のところに維持するためには、いったんは引退した年配の人たちも、仕事につく必要にせまられることとなった。職業紹介所には年配者の長い列が出来る。彼らが受ける仕事は時給が四ドルや五ドルといった仕事だ。質屋が盛業中であるという話はよく聞いた。Somebody else's loss is your gain. とウインドーに金色で書いた店で品物を見たら、普通に買うよりもそこで買うほうがはるかに得であるような印象を僕は持った。グリーティング・カードには失業をテーマにしたものが増えていき、ローンが払えなくて家を手放す人とそれの競売が盛んだとも聞いた。
貧困層は確かに厚くなりつつある。そのことをさまざまに証拠立てる数字が、捜せばたくさんありそうだ。フード・バンクやスープ・キチンは、どこでもすっかり社会に定着した感がある。しかし、寄贈は明らかに減っているという。低い仕切りのある四角い盆のような皿に盛る食事の量が、明らかに少なくなっている。そのような施設にかつてはおかねを寄付していた人たちが、いまでは一家で食べに来る。食べたりもらったりしている彼らの姿は、これは自分にとって当然のことだと言っているようであり、その人が身を置いている層の前途を、たいへん暗いものに感じさせる。あっと思ったら人は貧困層のなかにいて、そこから脱出する見通しはまったく立たない。
アメリカの内部にあるこのような経済的な苦境の話は、際限なく続く。これまでの社会が、質的に構造的に、おそらく根本から変化して次の時代になろうとしている過渡期に、いまはある。これまでどおりのものがそこで大量に脱落し、これからのものはまだはっきりとは見えていない、という状況だ。
ニューヨークの財政は徹底的に破綻をきたしている。セントラル・パークの動物園は閉鎖されるかもしれない、という話があった。「経済的にいかに苦しいかを理解してもらうには、閉鎖するのがもっとも効果的です」というようなコメントを責任者が述べていた。かつてのアイ・ラヴ・ニューヨークのTシャツに代わって、いまのスタンダードはアイ・ヘイト・ニューヨークなのだと、ニューヨークに住む人が言っていた。そのTシャツを売っている店には、わざわざ店へ入って来てTシャツに強い共感を表明する人がたくさんいるにもかかわらず、Tシャツそのものを買っていく人は少ないという。それだけの余裕がないからだ。そのようなニューヨークでも、公共の乗り物としての路線バスは、高齢者やハンディキャップのある人たちが乗りやすいよう、歩道に向けてあの大きな車体が傾く。ニーリング・バスと呼ばれている、ひざまずくバスだ。
カリフォルニアはかつては豊かなアメリカを象徴するような場所だった。そのカリフォルニアでももっとも豊かだったオレンジ・カウンティが、デリヴァティヴの運用の失敗で破産してしまった。これはそれほど珍しい話ではない。たとえばあるひとつの企業の内部で、企業年金がなくなってしまうということがしばしば起こっている。ある企業が買収される。買収したほうは企業内年金基金に手をつけ、たとえばジャンク・ボンドで失敗して基金が底をついてしまう。あるいは、基金を運用している会社がジャンク・ボンドに手を出し、失敗して巨額の損失を出す。その企業の年金をもらっていた定年引退者たちに、年金の小切手は届かなくなる。救済の手段はない。
アメリカの勤労者の半数近くは、定年引退後の年金計画など持ってはいない。ソーシャル・セキュリティだけだ。自分のことは自分でしてください、と国家から宣告されているのとおなじだ。そのソーシャル・セキュリティは、四十年ほどあとには破綻すると予測されている。アメリカが豊かだった頃には、ひとりのソーシャル・セキュリティ受給者の背後に、百五十人ほどの現役の勤労者がいた。それがどんどん減少していき、二〇一〇年には四人になる、いやもっと少なくて二人だ、というような試算もある。二〇三〇年あたりで、受給と歳入は釣り合ってしまうことになっている。
失職のショック、あるいは今日にも明日にも自分は職を失うのではないかという不安や恐怖、憂鬱感、強い苛立ちなどに対して、カウンセリング・サーヴィスがおこなわれている。どんなことに関してもたちどころにカウンセリング・サーヴィスがおこなわれるのがアメリカだが、解雇されることの不安や恐怖を、自分だけではとうていコントロール出来ない人たちが数多く存在していることは確かだ。殺人がもっとも多いのは職場である、という統計結果を僕は聞いたことがある。その殺人のなかでパーセンテージを拡大しつつあるのは、解雇されたことへの反射的な反応として、あるいは解雇されるかもしれないという恐怖感から、直属の上司や同僚を殺すという種類の殺人だ。
コミュニティの経済、つまりその地域での大きな雇用主としての産業が消えることが、長期にわたってあたえるマイナスの影響への恐怖も、すでに覆い隠しがたいものとなっている。雇い主がなくなると、人々の収入がなくなる、あるいは減る。彼らは物を買わなくなる。売り上げが減る。売り上げ税が減る。その税で学校をまかなっている地域では、カリキュラムの削減、クラスの閉鎖、先生のレイオフなどが起こる。
そしてもっと進展した段階になると、学校の学期が資金不足により途中で終わってしまう。「なんか変」「寂しい」「学校以外のことをするチャンスだから、それはそれでいいかも」などと言いながら、生徒たちは卒業のパーティを三月の初めにおこなったりする。北西部のその季節はまだ冬だ。肩や背中を大きく出したドレスに、空気は存分に冷たい。もっとひどい場合には、学校そのものが閉鎖される。早くて十年後くらいには社会を担う世代にとっての、能力の開発準備という重要な段階に、こうして大きな風穴があいていく。
アメリカの州、そしてそのなかの自治体は、予算を均衡させることを法律できめられている。自治体の収入が減ってくると、増税と支出の削減が検討されていく。教育の現場では、レーガンとブッシュの時代に、大幅な予算の削減を体験した。すでに相当につらい状況の上にさらなる削減が重なると、たとえば小学校に鉛筆がない、という事態になる。子供たちは親に買ってもらえないから、鉛筆を持たずに学校へ来る。先生がポケットマネーで人数分の鉛筆を買い、一本ずつ貸しあたえる。クラスが終わるとそれを先生は回収する。敗戦直後の日本の小学校に僕はかよったことがある。そのときですら、鉛筆の貸与と回収ということは、なかった。
固定資産税が払えなくなった親は、ほかへ引っ越していく。学童の数はそれだけ減る。減少がある程度までつのると、学校は閉鎖されたり合併されたりする。先生は失職する。次の仕事はもうない。このような状況は単なる経済的な苦境や貧困ではない。社会的な大混乱だ。現在の混乱は、次の世代のなかでさらに深く根をおろし、さらに大きく拡大されていく。ドント・ノー・イナフ、キャント・ドゥー・イナフ(知らない、出来ない)の子供たちがそのまま大人になっていく。
ゴールズ二〇〇〇という計画のために、「二〇〇〇年にはアメリカにおける数学と科学の教育とその成果を世界で一番にしたい」と、かつてブッシュ大統領は語った。学校教育での数学や科学の程度が低いのは昔からのこととして、いまでは言葉の能力もオールタイム・ロウ(史上初の最低)であるという調査発表を、ほんの二、三年前に僕は聞いた。言葉の能力のそれだけの低下は、社会全体の質の低下であることに間違いはない。
アメリカの初等、中等教育は、かつてのアメリカの自動車がたどったのと似た道を歩いている。豊かさの頂点に達したとき、これでいいんだ、あとはこのままいけばいいときめて、それ以後の進化を停止させてしまった。世界の質的な激変に気づかないまま、現在まで来た。これからの人が知っていなくてはならないこと、心の準備など、これから必要なことといま学校で教えられていることとのあいだに、落差があり過ぎる。資金の不平等がそこに重なる。高低の差は三倍から五倍はある。ブッシュ大統領が提案したゴールズ二〇〇〇は、教育の程度をある程度以上のレヴェルで全国的に統一出来ないものだろうか、ということへの提案でもあった。
メリーランド州のプリンス・ジョージズ・カウンティのパブリック・スクール・システムだったと思うが、高校の卒業生に卒業証書とは別に、雇用適格者証明とも言うべきものを添える、という試みをかつておこなっていたが、その後どうなっただろう。必須教科を履修習得し、高卒者としての基本能力、そしてエントリー・レヴェルの仕事につくにあたっての基本的な能力を身につけていることを、その証明書で証明しようというのだ。雇用者からその卒業生が不適格だと言われたなら、呼び戻して再教育をするという。もっとも基本的なレヴェルでとにかくまず役に立つ人材を社会に送り出そうとする、二度手間のような試みだ。
パブリック・スクールの荒廃がアメリカでは全土にわたってあまりにもひどく、いまではホーム・スクールが法律で許可されている。家庭で子供たちが親から教育を受けるのがホーム・スクールだ。かつては主として宗教上の理由からおこなわれていたことだが、現在では公的な教育システムの欠陥を埋める機能を、部分的に果たしている。初等、中等教育の根本的な改善は、アメリカにとって切迫した大問題だ。しかし、改革はやりやすいのではないか、と僕は思う。教育は地方自治体の自由だ。少しだけ極端に言うなら、教育は学校ごとに自由だ。文部省も文部官僚も、そこには存在しない。高等教育の水準は現在でも世界一だから、質的にあるいはシステム的に、そことつなげればいい。世界はひとつではなく、混沌として雑多で複雑だ。しかも状況は急速に変化を続けていく。予想もしなかった事態というものが、数限りなく連続する。可能なかぎり考え抜く人というものは、これまでの需要をはるかに越えて必要だ。
惨憺たる境遇のさなかにいるアメリカの子供たちに関して、さまざまな視点からの数字が、捜すならいくらでもある。妊娠中の母親がアルコールやドラッグスを常用したことによって、重い障害をもって生まれてくる子供たちが年間で三十七万五千人に達する、という数字がある。介護と治療という、膨大な負担がこの数字を中心にして広がる。日常的に世話をすべき人がドラッグスやアルコールでそれどころではなく、したがって放置されたも同然の子供たちが、少なく見積って七十万人いる。孤児院のような施設に入っている子供の数は三十五万人。これは一九八六年に比較すると三十パーセントの上昇だという。
ナショナル・コミッション・オン・チルドレンという組織が二年六か月にわたって観察した結果をひと言で言うと、子供たちの置かれている状況は国家的な危機だという。四人にひとりは片親の家庭にいる。これは数になおすと千六百万人だ。五人にひとりが貧困層のなかにあり、黒人だとこれは二人にひとりという割合にまで高まる。未婚の十代の母親に生まれてくる子供の数は年間に五十万人だ。その母親たちの多くはアルコールやドラッグスの依存者だ。十八歳までの未婚女性の妊娠に対して、全員の健康保険を作ろうというような提案はあり続けるが、いまのアメリカにとってそのようなシステムはラディカル過ぎるし財源はどこにもない。
現在の議会で多数党である共和党は、未婚の母親への援助の全体を削減しようと提案している。このようなきわめてわかりやすく、したがって支持も取りつけやすい政策に、子供を作るならちゃんと結婚して家庭を作ってからにしろ、という宗教的と言っていい信条を共和党はからめていく。子供たちの窮状に関して、なんらかの手を打とうと試みる統一された全国的な政策は、現在のところひとつもない。
不健康である、字が読めない、書けない、仕事に雇おうにも使いものにならない、ちゃんとやっていこうという意欲もない、というような状況はすべて貧困から発生する。そしてそのまま貧困のなかで再生産されていく。当人のかかえ込んだストレスはすさまじいものがあり、そのストレスは怒りとなり失われた希望となり、暴力やアルコール、ドラッグスへと、かたちを変えていく。これらのことすべてを社会的なコストになおすと、それこそ天文学的な数字になるはずだ。ロスト・ジェネレーション(失われた世代)というものがかつて文芸的に存在したが、これ以上に現実ではあり得ないほどの現実のなかに、文字どおりの失われた世代が、年齢別に見たアメリカの人口構成のなかに、いくつも大きく横たわっている。
このような状況は、ただ単に経済的に困っている人が底辺としてたくさんいる、という問題ではない。根は深い。根が深いとは、問題は基本とつながっているということだ。基本とは、いまのアメリカのシステムだ、としか言いようがない。子供たちを「救う」という発想にとどめるとしても、そのためのシステムはいまのアメリカのシステムと、おそらく正面から衝突する。ただ単に「あたえる」だけではなく、「支援」し「援助」していくというかたちの救済をするなら、苦境にある子供たちをなんらかのかたちで保護しなくてはならない。親とともに住む住居、学校、病院などが集まった施設が全国にいくつも必要だ。そこで親も教育や訓練を受け、仕事につき、保護されてきたことのコストを、少しずつでも支払っていく。ある程度以上の給料を安定して取ることの出来る仕事というものも、彼らに支給されなくてはいけないだろう。施設はしたがって特別区のようになっていく。
刑務所が営利の民間事業へと移行するように、このような施設も民間で運営出来るのだろうか。インナー・シティの現状が、姿を変えただけのものに過ぎないのではないか。インナー・シティとは、都市の中心部に多い、もっとも荒廃した暴力と貧困の地帯を、現在は意味している。都市の中心部は、これまでは中産より上の階層の人たちの場所だった。財政赤字と増税、そしてそれでも追いつかない荒廃を捨てて、その階層の人たちは逃げていき、あとには貧困や暴力だけが残った。逃げた人たちは高度な頭脳労働の出来る人たちであり、彼らが集まって住む地帯は、インナーに対比してエッジ・シティと呼ばれている。
インナー・シティに残っている人たちには、売るべき能力がなにもない。給料は低いけれども、それを足場にして社会の階段というやつを登っていくための、エントリー・レヴェルの仕事というものが、消えてしまっている。小さくあることを人々が理想としている政府に出来るのは、法律に抵触する部分に最小限の手当てをしながら、あとは個々人の自助努力にまかせることだけではないだろうか。
小さく三角形に折りたたんだ星条旗
ハンティントン・ビーチから海に向けて突き出ている桟橋の途中にある食堂で、僕は彼とふたりで遅い昼食を食べていた。彼は僕より年上の白人の男性で、広い意味でジャーナリストとして活動していた。カウンターの海側の席にいた僕の前にまっすぐに腕をのばした彼は、桟橋の突端の向こうに広がる海を示した。
「僕たちが食べ終わるまでのあいだに、あそこでさらに何人ものアメリカの兵士たちが、虐殺行為の加担者として無意味に死んでいくんだ」と彼は言った。あそことは、ヴェトナムのことだ。そしてそこでそのときはまだおこなわれていたヴェトナム戦争は、彼によれば、アメリカのパラノイア的な思い込みによる一方的な虐殺行為以外のなにものでもなく、ヴェトナムとアメリカの双方が受ける打撃をそのとき以上にはしないために、ジャーナリストとしてありとあらゆる活動を必死でしていた。
彼にとってのいわゆる専門分野は電子工学だった。その広い領域のなかでもっとも専門にしていたのは、コンピューターだ。アメリカによる北爆は、メインフレームが作り出した作戦にもとづく爆撃だった。コンピューターのそのような使われかたに対する、生理的な嫌悪感とも言うべき反対の論理を、僕は彼からしばしば聞いた。反対の論理、ないしは論理的な反対だ。当時のアメリカの、主として若い世代による体制批判の活動全般が、カウンター・カルチャーと呼ばれていた。カウンターとは、彼のような発想による対抗を意味している。
メインフレームを駆使して、国家のなかの軍部という巨大組織が、爆撃なら爆撃のための情報を集中的に管理し、そこから爆撃の作戦を導き出したりすることへの、論理的で生理的な嫌悪と対抗の意志は、カウンター・カルチャーのなかのもっとも前衛的な部分だった。
ヴェトナム戦争に関しては、僕は小さくない興味を抱いていた。アメリカに関心があるなら、アメリカがおこなう戦争にも関心があって当然だった。建国以来、アメリカは戦争ばかりしてきた。日本を相手の太平洋での戦争のときには、僕は乳児だった。朝鮮戦争のときにはまだ子供だったが、米軍というものの背後にある途方もない物量と攻撃力は、目のあたりに見た。
十八歳のときに徴兵登録をしてあった僕は、ヴェトナム戦争が盛んだった頃、すでに二十代の後半という年齢だった。ほかにどんな理由があったのか僕は知らないが、僕のところに出頭命令は来なかった。その僕にとって、ヴェトナム戦争への関心を作った最初のきっかけは、ヴェトナムのメコン・デルタに広がるあのジャングルと、その上空を低く飛ぶ米軍の攻撃用のヘリコプターという、悪夢的な構図の無数と言っていい数の報道写真だった。
ジャングルは、まったくアメリカ的ではないもの、アメリカが意のままにすることはまず不可能な世界の象徴として、僕の目に映じた。攻撃ヘリコプターは、そもそも建国のときから戦争であり、それ以後戦争ばかりしてきたアメリカそのものの、象徴だ。そのふたつの取り合わせを何度も写真のなかに見た僕は、これはやばいのではないか、と最終的には思うようになった。やばいとは、少なくともこの戦争にはアメリカは勝てない、ということだ。ほどなくアメリカはヴェトナムから自国の軍隊を引き揚げた。
僕はアメリカで軍隊の攻撃用ヘリコプターについて取材してみた。当時のアメリカでは、ヴェトナム戦争に関しての取材には、まったく制限がなかった。地獄絵図、という古い言いかたがあるが、取材に制限がないおかげで、まさに地獄絵図としか言いようのない写真やフィルムが、ヴェトナム戦争をめぐって大量に一般に出まわっていた。僕のように取材の真似ごとをする人ですら、ほんとに自由に、なんでも取材することが出来た。
TVで毎日のニュースとして放映される戦況は、すさまじいものだった。ヴェトナムの現地ではどこが最前線なのか判然としないのだが、たとえば数人の戦闘グループがジャングルのなかで敵と遭遇して射ち合う様子のすべてが、夕方のTVニュースで家庭の居間に届いた。当時はまだ撮影はフィルムだった。文字どおり決死で撮影されたムーヴィー・フィルムはサイゴンで現像され、アメリカへ空輸されていた。衛星を経由して日本からも送られていた、という話を僕は聞いたことがある。
ジャングルのなかを数人の米軍兵士が歩いていく。突然、銃撃の音がする。兵士たちは地面に伏せる。先頭を歩いていた兵士は頭に被弾し、頭が吹き飛び、首から上のない死体となって、どっさりと草のなかへ倒れ込む。すぐうしろにいたカメラマンは、全身に血しぶきを浴びる。肩にかついでいる撮影機のレンズに血がかかる。画面は妙な赤い色に曇る。カメラマンの指先が、レンズの上でその血を拭う。拭いながら彼も地面に伏せる。横倒しになった撮影機は、先ほどの首なしの兵士の、まさに首のない様子を、偶然にもとらえ続ける。このようなフィルムが検閲なしで、夕方のニュースの項目のひとつとして、毎日かならず放映されていた。居間のTVでこれを見ていると、その居間もやがて悪夢のまっただなかとなった。
とはいえ、そこはヴェトナムのジャングルなどではない、太平洋をへだてたカリフォルニアならカリフォルニアの、平和な民家の居間だ。明かりを消して部屋をほの暗くし、カラーTVのスクリーンのニュースを見ては、好き勝手なことを市民たちはおたがいに言い合った。彼らは、戦争報道をTVで見ているだけの、ごく平凡な一般市民なのだと僕は思っていた。
しかし、やがて僕は、彼らはただ単なる傍観者ではない、と思いなおすようになった。彼らは彼らの方法で、この戦争に参加している、と僕は思い始めた。TVを見てああだこうだと言っているだけなら、その行動にも発言の内容にも、責任はいっさいともなわない。だが、彼らの好き勝手な発言は、次第にひとつの方向に向けて、大きく傾いていくようになった。ヴェトナムでアメリカが遂行している戦争に対する、否定や嫌悪の感情に向けて傾き始めた。
それらの感情を、居間のなかだけではなく、社会的な文脈で、彼らは表明していった。ヴェトナムでおこなわれている戦争に対する、じつにニュアンスの豊富な嫌悪や否定、そして批判の論理や感情は、ヴェトナム戦争に対抗する力として大きくひとつにくくると、ヴェトナム戦争反対、ということになった。
この意味で、居間のTVの視聴者たちは、強く批判的に、激しく複雑な感情に支えられて、ヴェトナム戦争に参加したと言っていい。悲惨な戦争には反対だという、古典的な図式を越えたところでの、戦争への対抗だった。ヴェトナム戦争のこちら側には、その戦争の遂行者であるアメリカがあった。その文脈でのアメリカはアメリカ政府であり、政府とは自分たちの直接の延長であるはずだ、とアメリカ市民は思った。自分たちの延長ではないアメリカ政府というものをそこに見た市民たちは、それに対するニュアンス豊かな嫌悪や反対、批判、攻撃、対抗などの論理と感情を、大きくふくらませた。そのことは、以後のヴェトナム・シンドロームへとつながった。ヴェトナム・シンドロームは、それ以後の政府への、強い不信や不支持の感情への、橋渡し役として機能した。
今週のヴェトナムで戦死したアメリカの兵士たち、という特集を雑誌の『ライフ』が掲載した。一週間のうちに戦死した兵士たち全員を、顔写真つきで誌面いっぱいに何ページにもわたってならべ、記事を添えたものだ。反戦への高まりを決定的にしたもののひとつであり、『ライフ』のこの号をいまも僕は持っている。太平洋を越えて帰って来る戦死した兵士たちを取材することを僕が思いついたのは、この特集を見たときだ。
戦死兵たちの遺体は、アルミ合金のケースに収納され、スター・リフターという素晴らしくロマンティックな愛称を持った輸送機の胴体いっぱいにかかえ込まれ、戻って来る。ケースは棺という最終的なものではなく、あくまでも運搬するための収納ケースだ。長さがずいぶんあるので、なにも知らずにそれを見ると、戦死兵を収めるものとは思えないかもしれない。
モーティシャンのもとできれいに整えられた遺体は、さまざまなかたちの葬儀を経由し、しかるべき墓地に埋葬される。最終的に棺を覆っていた星条旗は、小さく三角形に折りたたまれ、たとえば故郷の町にいる母親のもとに、届けられる。軍服を着た若い真面目そうな彼は、もはやけっして動くことはない一枚の写真として、額縁に収まって実家の居間の飾り棚の上だ。
こういうことの取材のひとつとして、大きな町の墓地のなかを歩いてみると、ヴェトナムで死んだ兵士の墓はすぐにわかる。墓石に刻まれた生年と死亡した年とのあいだを埋める期間が、十八年、十九年、二十年と、どれもみなたいそう短いから。そのような光景に、僕の頭のなかでは、ジミ・ヘンドリクスの『星条旗よ永遠なれ』が、じつによく調和していた。
米軍がヴェトナムで使用していた武器についても、僕は多くのことを知った。たとえば飛行機で上空から落とす爆弾には何種類もあり、そのどれもが悪夢の一部分としか言いようがなく、どのひとつも悪夢にふさわしく強烈に個性的だった。そのひとつに次のようなのがあった。
ソフト・ボールほどの大きさのその爆弾を、あらかじめ探索して見当をつけておいた区域に、低空からばらまく。ジャングルのなかではなく、人が歩く可能性の高い平地であることが多い。平地とはいっても、熱帯の草が膝を楽に越えて強靭に生い茂っている。作戦行動中の敵の兵士たちが、そこをとおりかかる。まいてある爆弾は草に隠されて見えない。歩いていく兵士の足が、その爆弾を踏む。あ、なにか危険なものを踏んだ、と思って反射的に足をはずすと、その爆弾は彼の腹の高さあたりまで、突然に跳ね上がる。
跳ね上がった頂点で、それは爆発する。ほどよい大きさの鋭い破片となって爆弾のすべてが強力に周囲ぜんたいへ飛び散るよう、それは巧みに設計されている。歩いていた兵士たちに破片は当たり、ときとして命を奪い、非常に多くの場合、何人もの兵士たちに相当な傷を負わせる。
殺すことが第一の目的ではなく、重傷を負わせることを目的とした爆弾だ。数人で作戦行動をとっているとき、そのなかの何人かが重傷を負うと、行動力も戦闘力も極端に落ちる。踏まれると起動装置が働き、踏んでいる足がはずれると、それは飛び上がる。爆発威力のさまたげとなる熱帯の強靭な草を避けると同時に、立っているときの人体のまんなかあたりで爆発させるためだ。破片が体のどこかに当たる率は格段に高くなる。こういう爆弾を、たとえばカリフォルニア大学が開発したりしていた。
ヴェトナム戦争はアメリカが犯した大失敗だった。失敗は愚行と言い換えてもいい。そのさい、愚行にも大の字がつく。なおかつ、アメリカ国家は、自分たちはこの戦争に勝っているのだし、充分に勝てるのだ、と市民を欺いた。そしてアメリカ兵を大量に戦死させた。ヴェトナムの側から見るなら、アメリカ国家は大殺戮をおこなった。
こうなったときの国家とはいったいなにか、という根源的な疑問をアメリカ市民たちは持った。国家とは、端的に言って、あいつらだ。あいつらとは、たとえばもっとも目につきやすかったひとりを挙げるなら、国防長官のロバート・マクナマラだ。マクナマラはもっとも自信に満ちた主戦派の筆頭だった。あいつらをひとり特定すると、そこから自分につながる経路を、誰もが頭のなかに描くことが出来た。あいつらとはつまり自分たちだ、という発見を市民たちはおこなった。
自分たちとは、いったいなになのか。アメリカとはなにか。疑問は本質に向けて深まり続けるのに反して、その疑問に対する回答はどこにもなかった。回答はひとまずないという点において、いっさいがそこでいったん引っくり返った。根源的な疑問の底に落ちた市民たちは、どこから手をつけて立ちなおればいいのか、見当もつかなかった。対外戦争で初めて体験する負けをとおしてアメリカは大国としての自信を喪失した、などという言いかたにはなんの意味もない。心理の深層のもっともデリケートな部分で、アメリカは治療や回復が不可能であるかもしれない傷を負った。
そのような敗北は、市民の誰にとっても、許しがたいことだった。絶対に認めたくない、たいへんに嫌なことだった。アメリカはきわめて硬質な理念の国だ。その理念が揺らぐことはないとしても、許しがたく認めがたい敗北を引き受けるにあたって、市民たちは精神のバランスをなんとかぎりぎりのところで保つためのひとつの便法として、ヴェトナムで戦った自国の兵士たちに、きわめて攻撃的に冷酷な態度で接するという方法を選んだりもした。
アメリカがヴェトナムに対しておこなっていること、つまり壊滅的な殺戮という悪夢、そしてアメリカがアメリカ市民に対して、つまり自らに対しておこなったことという悪夢が重なってひとつになり、これがやがてTVニュースのヴェトナム報道を支える主たる底流となった。ヴェトナムに対してアメリカ国家がおこなっていることを、自分たちに対して国家がおこなっていることとして、アメリカの市民たちは受け取ることが出来るようになっていった。そしてそこから、反戦のための力が立ち上がってきた。ヴェトナムに対するアメリカの暴力が、屈折した経路をへて、国家がおこなう戦争に反対するアメリカ市民たちの力となった。ふたつの力はイークオルで結ばれていた。
TVを初めとして、メディアは長いあいだ戦争を支持する側にいた。単なる戦争批判や反対ではなく、アメリカ国家が犯した巨大な失敗に対する批判として、市民のなかから反戦への力が隆起してくると、そのことについてもメディアは報道するようになった。これだけの批判が国のなかにあるよ、という報道が市民たちの批判力に重なった。最初から市民とメディアが反戦を訴え、ひとつにまとまりつつ力を拡大していったのではなかった。構造はもっと複雑だった。
ヴェトナムに対してアメリカがしたことは、すべて失敗だった。世界史上空前のスケールによる殺戮が、じつは失敗や愚行だったのだから、その内容的な失敗や愚行のスケールはすさまじい。しかも長い期間にわたって自国の戦死者を大量に出しつつ、国家は市民を欺いた。事の起こりからひとまずの終結点まで、事態の経過や推移を簡単に追っていくのは、アメリカの試みたことがいかに馬鹿げていたかを知るための、いまも有効な方法のひとつだ。
一九四五年にヴェトナム民主共和国が独立を宣言した。ヴェトナムを植民地として支配していたいと思ったフランスは、この独立に干渉した。それに抵抗するインドシナでの戦いが始まり、一九五四年まで続くことになった。共産主義国を最大の敵国としていたアメリカは、中国での共産党の勝利からドミノ理論というものを引き出した。ソ連と中国という巨大な中心からその周辺に向けて、次々に共産化が進んでいくというこの理論を、アメリカは本気で信じた。
インドシナでの戦争の戦費の半分を引き受ける、という援助をアメリカはフランスに対しておこない始めた。フランスはヴェトナムから手を引き、戦争はアメリカのものとなった。一九五五年にアメリカはゴ・ディン・ディエムを傀儡にして、ヴェトナム共和国を成立させた。目的はヴェトナムの統一を阻止し、北と南とに分けておくことだった。日本は南のこのヴェトナム共和国とだけ戦後賠償の交渉をし、一九五九年に協定を結んだ。北に対してたいへんなマイナスをあたえる、というかたちで日本は機能することとなった。そのことをとおして、アメリカによるヴェトナムの分断政策に日本は加担した。
一九六〇年、南ヴェトナム民族解放戦線が組織された。これはヴェトコンと呼ばれた。一九六一年にケネディがアメリカの大統領になった。アメリカはヴェトナムへの介入を深めていった。この年の末には、三千二百名の米軍がヴェトナムにいた。次の年には援助軍司令部が作られた。この頃のアメリカは宿敵のソ連に押されぎみだった。そのことへの批判に対抗する策のひとつとして、ケネディはヴェトナムに軍事力をさらに投入した。一九六二年にはヴェトナムの米軍の数は一万三千名となった。
一九六三年にゴ・ディン・ディエム政権が倒れた。ケネディが暗殺された。六四年にはトンキン湾事件があった。米軍は敗北を続けていた。六五年には米軍による北爆がルーティーンとなった。ローリング・サンダー作戦だ。ダナンへ米軍は上陸し、アメリカは地上での戦闘部隊をヴェトナムに本格的に投入し始めた。戦争はもはや完全にアメリカのものとなっていた。そしてそれまでとは比較にならない拡大を、アメリカは試みた。北でも南でも爆撃は常におこなわれた。陸軍だけで八万七千名の米軍がこの頃のヴェトナムにいた。他もすべて合計すると、米軍の数は十五万近くになった。
一九六八年には、米軍の数は四十万人近くにのぼった。戦死者の数も急激に増えていった。単なる殺戮としか言いようのない作戦が、米軍によって恒常的に展開された。ちょうどこの頃、上空を飛んだ飛行機から、僕はこの戦場を見た。肥沃な水田とジャングルは、本来なら強靭な緑を猛烈な密度で持っているはずなのに、窓から見下ろす地表はそのほとんどの部分が淡い褐色のむき出しの土地で、しかもその土地には丸い穴が無数に重なり合っていた。米軍による爆撃で投下された、爆弾の穴だ。かなり長いあいだ、見下ろす地表にはこのような光景だけが続いた。ヴェトナム戦争をとおして、上空からは八百万トンの爆弾が投下され、地上からもおなじく八百万トンの砲撃がなされた、という数字がある。
一九六九年にニクソンが大統領になった。この年の四月、ヴェトナムでの米軍の戦死者は三万三千六百四十一名に達したという発表があった。六月に米軍は最初の撤退をおこなった。七月には、この戦争の展開に関する、アメリカにとっての悲観的な見通しを、グアム島で大統領は宣言した。米軍の配置と展開の縮小が始まっていった。七一年、七二年と撤退が続くなか、戦場はラオスやカンボディアに広がり、ホー・チ・ミン・ルートが爆撃の対象となった。七一年、ヴェトナム戦争に関してアメリカ市民が国家によっていかに騙されてきたかを明らかにする文書を、『ニューヨーク・タイムズ』が掲載した。北爆はなおも続き、七二年にニクソンは再選され、北爆は頂点に達した。米軍が最後の兵をヴェトナムから引き揚げたのは、七三年の三月だった。
アメリカのなかのヴェトナム戦争を、僕がこのようにして感じていた期間はごく短い。長くなればなるほど、僕自身、ある種のシンドロームの深みに落ちていく予感が確実にあった。この期間は、アメリカの新しいロック音楽が、急速にその力やスケールを大きくしていった時期でもあった。アート・ロックやサイケデリック・ロックなどと呼ばれていた。
ザ・ドアーズ。ビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニー。そこで歌っていたジャニス・ジョプリン。クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス。ジェファスン・エアプレーン。ザ・グレイトフル・デッド。いろんなグループや歌手を僕は見た。だからといってなにがどうということもないが、当時の僕の感じかたでは、こうした新しいロック音楽の発生は、ブリティッシュ・インヴェージョン(イギリスからの侵攻)に対抗してアメリカの草の根が底力を見せた、その動きだ。
西海岸、特にサンフランシスコだけが拠点のように思われているとしたら、それは間違いだ。内陸にいくつもの強力な拠点があった。ザ・ビートルズにアメリカで初めて対抗し得たグループとしていまも語られているザ・チャーラタンズは、内陸で生まれた。アメリカの草の根が持っている創造力と実行力とは、イギリスからの侵攻をすぐに呑み込んだ巨大な力となった。
ウッドストックは、そのことのごくわかりやすい目印だ。『ザ・ヴィレッジ・ヴォイス』のような新聞の片隅に、ギターと鳩をデザインした広告が小さく出ていた。はじめに開催地とした場所は自治体の反対で使えなくなり、ウッドストックという別な場所を見つけ、ポスターも作りなおされたというようなことを、いま僕は久しぶりに思い出している。このウッドストックを重要な契機のひとつにして、ロック音楽はその内部にハイエラルキーを構築し、外部からの資本参加も始まった。ロックはビジネスとして成功していくこととなった。
そのことも含めて、さまざまなロック音楽のそれぞれが、声であったことは確かだ。声とは、音声による言葉、つまり言葉としてもっとも正しい姿による言語活動、というような意味だ。歌や音楽は、アメリカの歴史のなかでは、情報や考えかたを多くの人々に伝え広めるという、社会的な役割を持ってきた。英語は音声言語であり、ロック音楽の言語活動としての機能を見落としてはいけない。
音声による言語活動という、英語にとっての正しいありかたは、余計な迂回路なしに、いっきに高度に抽象化されて本質に迫ることを、たやすく可能にする。かたちは音楽活動であっても、たとえばそのときそこでの歌手や演奏者たち、そしてステージと観客席というような、具体的な関係をあっさり離れ、じつは抽象の次元での言語活動がおこなわれていた。
過去を振り返り、あの頃のロック、としてとらえられるロック音楽は、ひとまとめにされやすい。さらには、観客や購買者を厳しく想定した上での音楽活動、という具体的な姿で理解されることがほとんどだ。しかしロックは言語活動だった。そしてウッドストックをへてそのスケールが拡大されたときには、早くもその言語だけでは不足となった。時代の進展は、社会がかかえる問題のやっかいな複雑さを、加速度的に深めていくいっぽうだったから。
煙草をお喫いになりますか
十六世紀に船で初めて南アメリカ大陸へ渡ったスペイン人によって、煙草はヨーロッパにもたらされた。そこから世界へと広がっていく煙草の歴史のなかで圧倒的に大きな役割を果たしたのは、二十世紀のアメリカという大衆消費社会だ。その証拠に、あるいはその名残りとしてと言うべきか、アメリカの煙草の生産量は世界で群を抜いて一位だ。中国、インド、そして旧ソ連が、アメリカのあとにその順番で続いている。
アメリカの先住民たちも煙草を喫っていた。ごく軽い幻覚作用を、日常から非日常へと出ていくための儀式の一部分として、彼らは用いていた。十九世紀に入って紙巻きの煙草が考案され、生産され始めた。煙草を喫うのはごく日常的な行為になり、二十世紀のアメリカに生まれた大衆消費社会のなかでその拡大と重なって、煙草は大衆にとっての消費商品となっていった。煙草を喫うことは、自分がいまという時代の最先端にいることの、なによりの証明であり得た時代がかつてあった。来るべき新しい時代の輝かしい先取りとして、煙草を喫う行為やしぐさは美しいきらめきのある、楽しく華やいだ行為として、大衆のなかへ強力に浸透した。
そしていま煙草は、アメリカでは大衆のなかに広まりきった直後の、もっとも高い峠を向こう側へ越えたばかりのときなのだと、僕は思う。大衆のなかに広まりきったところから、その大衆によって、煙草というものが否定されていく歴史がすでに始まっている。
アメリカの医務総監による大衆への警告メッセージが、煙草のパッケージの側面に印刷されることになった一九六六年、大衆による煙草の否定の歴史は確実にスタートした。煙草を喫うことはあなたの健康に甚大な被害をもたらすと公衆衛生局長は断定しました、というような意味の警告が印刷された煙草のパッケージを初めて見たとき、僕は強い印象をそれから受けた。いったんは喜んで受けとめた煙草というものを、大衆が否定し始める歴史の明確なスタート地点を、僕はそこに見たからだ。
煙草のパッケージの側面に印刷される警告文は、現在のアメリカでは相当に具体的でしかも多様だ。警告文はひとつだけではなく何種類もある。日本ではかつては「健康のため喫いすぎに注意しましょう」という名文が印刷されていただけだ。煙草を売る側が責任を認めたくないので、喫う側に対してなんら具体的な警告をなし得ないという、日本という社会のシステムを見事に映しているから、この短いワン・センテンスを僕は名文と呼ぶ。現在の警告文は別のものになっている。言葉数を多くして具体性を装ってはいるけれど、じつはなにも言っていないという態度は以前のものとおなじだ。
煙草が大衆に広まりきると、その大衆のなかから、煙草の害が主張され始めた。喫う人の数が多くなれば、発生する害も多くしかも多様になる。発生した害を煙草と結びつけ、まともなかたちで煙草を批判する人たちが、大衆のなかから出てくる。当然のことだ。
煙草を生産し販売しているのは大企業だ。大企業はもともと悪だという思想が、アメリカの草の根にはある。その大企業は、煙草を売って巨大な利益を上げながら、煙草の人体にあたえるさまざまな害については、なにひとつ認めようとしない。煙草の害について煙草会社はよく知っていながら、知らないふりをしたり嘘をついたりして大衆を騙し続けているという認識が、売れる煙草のひと箱ごとに、過去のあるときから、大衆のあいだに広まり始めた。
訴訟という大衆行為によって、煙草という大衆商品が、大衆自らの手によって否定されていく歴史という興味深いものを、アメリカはすでに持っている。日本も大衆社会だが、その大衆は、ひとつのまとまった力にはなり得ないシステムのなかでの大衆だから、「健康のため喫いすぎに注意しましょう」という名文ひとつで抑えておくことがたやすく可能だ。煙草はアメリカでは敗北に向かっている、と僕は思う。大衆の力、つまり大衆がひとつにまとまった力となっていくための経路が、システムとして社会のなかに確実に存在している事実の証明例として、煙草は敗北に向かっている。
アメリカは世界で最大の煙草生産国でありつつ、TVでは煙草の宣伝が出来ないし、雑誌にも広告の掲載が出来なくなる日は遠くない。公共の場での喫煙に関する状況は厳しくなるばかりだ。州や市だけではなく連邦政府も、ついに喫煙規制案を提出した。この案がとおると、たとえばレストランでは、喫煙はトイレットの控えの間のような、小さく閉じこめられた部屋でしかおこなえなくなる。
この人が肺ガンで死亡したのは煙草のせいだとして、大衆が煙草会社を訴える行為は、あらゆる観点から見て興味つきることなく深い。乗客が喫う煙草の煙を、職業環境のなかで不本意ながら吸っているうちに肺ガンになったとして煙草会社を訴えたフライト・アテンダントは、つきることなく興味深い問題をさらによりいっそう興味深くしてくれた。隣りの席で煙草を喫っている人から自分の顔の前に漂ってくる煙を、セカンドハンド・スモークやパッシヴ・スモーキングと定義し、国をあげての法律問題にし得る国、それがアメリカだ。
セカンドハンド・スモークが直接の原因となって、アメリカ国内で年間三千人が死亡している、と環境保護局が一九九三年に発表した。これに関して煙草会社は政府を提訴することしか出来ないが、大衆はもっと深いことが可能だ。煙草とはなになのかという、根源的な問題について、大衆はついに真剣に考え始めた。
煙草がなぜ煙草として商品であり得るかというと、煙草はうまい、好きである、心理的に欠かせない、というような根拠しか見つからない。うまい、好き、欠かせない、と人々に言わしめている、煙草にとってのもっとも核心的な化学成分はなになのか、ということがいまアメリカでは問題の中心になっている。煙草を好んで、あるいは中毒的に、継続して人に喫わせるための、もっとも中心的な役割を果たす化学的な成分は、いったいなになのか。もしかしたら、それはニコチンなのか。では、ニコチンとはなになのか。問題は核心に向けて急速に進展している。
煙草を広告することが禁止されている領域が、アメリカでは少しずつ広がっていった。ある日のこと一律に禁止されたのではなく、さまざまな視点からの論理の蓄積の上に、ひとつずつ領域はつぶされていった。たとえばプロのテニスの試合のような、スポーツ・イヴェントのスポンサーシップだ。プロがおこなうテニスの試合の平均的な所要時間のなかで、煙草が原因となって死亡していく人が百人いるという数字がある。
激しく体を使うスポーツに煙草の広告を重ねると、喫煙と高度な健康状態は両立するという、まったく根拠のない、あるいは誤った理解ないしは印象が、確実に生まれる。人々を正しくない方向へ導こうとする広告スポンサーからの資金が、そのスポンサーにとって重要な広告の場の維持に使われるという矛盾が明らかになると、たとえばTV中継のときに煙草の銘柄がその場の光景の一部として頻繁に画面に現れるというような作為が、禁止されることとなる。
企業の責任に関する論理のなかでも、煙草はいまやたいへんに不利だ。正しい情報を人々に公開するという企業責任のひとつに、煙草の製造と販売そして広告は明らかに違反している。健康を損ねるとわかっているものを製造し販売しているのだし、それを広告する行為は健康に対する人々の態度を誤らせるものだ。
いまもっとも多く煙草を喫っているのは、社会的に見て低い位置にある、したがって多数の人をかかえた層であるようだ。アメリカでははっきりとそうなっている。若い奴ら、貧乏人、女、そして馬鹿が煙草を喫う、と煙草会社の内部資料が言っている。だから煙草の広告も、煙草を喫っている自分はそれだけでなにごとかを行動的に達成しつつあり、その意味でいまこの瞬間の自分の人生はうまくいっている、と錯覚させるようなものとなっている。最大の喫煙者層は、そのような錯覚に対して抵抗力が弱い。
アップタウンという名の煙草が、何年か前にアメリカで発売されたことがあった。名前からしてあからさまに黒人向けであり、反対する声は最初から高く、おおやけの機関でも問題となり、煙草会社はすぐに販売を停止した。いまもあるかどうか僕は知らないが、ダコータという名の煙草も、おなじようにあからさまだった。これは白人の低教育、低所得者層向けだ。中心的なターゲットはVF(ヴィリル・フィーメール)だった。男まさりで問題解決への行動力に満ち、肝のすわった逞しくて強い女性、というイメージだが、現実には高卒以下の教育しかないブルーカラーの女性で、精神的にはTVのメロドラマ、そして肉体的にはジャンク・フードによって支えられているという、見通しの暗い人たちだ。その暗さのなかで、煙草がある種の心理的な役割を果たすことは、確かだ。
視野を世界ぜんたいに広げると、アジアはすぐれたマーケットに該当するのではないか。収益の半分以上をアメリカ国外であげている煙草会社もある。アメリカの煙草会社がもっともあてにしているアジアの顧客は、若い人と女性だ。若い人のなかには子供も含まれている。日本では男性のふたりにひとりが、本格的な喫煙者であるということだ。男性の喫煙者が少しずつではあるが減っているのに反して、女性の喫煙者は増えている。女性が自立すると煙草を喫うという説があるが、日本の場合は社会的な位置の低さを思い知らされるというかたちで自覚することに、女性の喫煙はより大きく結びついていると僕は思う。
「アメリカが売らなくても、煙草を買って喫う人はかならずいる」と、アメリカの煙草会社のスポークスマンは言う。「アジアで煙草を売るのは貿易の問題であり、健康の問題ではない」という理屈も僕はアメリカのTVで聞いたことがある。「確実にマーケットが存在するとき、そのマーケットに向けて私企業が商品を作り出して売る。なにが悪い」という発言も聞いた。
日本の煙草会社が、煙草の製造と販売は殺人および殺人未遂であるとして、市民から告発状を提出されるという出来事が、一九九五年の五月にあった。そのことを報じた新聞から引用すると、「法律に基づいて誠実に業務を遂行している。なぜ殺人罪にあたるのか理解できない」というのが煙草会社の反応だった。日本の会社男による典型的な反応例だ。誠実であるかどうかは他者が判断することだとして、法律は現実のあとを追う。それまでは考えられもしなかった新しい事態は、非常にしばしば、法律の外で起こってくる。そんな基本的なことすらわかっていない。
ニコチンはドラッグなのか。煙草には中毒性があるのか。もしあるなら、それはニコチンによるものなのか。ニコチンがドラッグなら、それはしかるべき法的な規制のもとに置かれるべきではないか、と煙草に反対する側の人たちは主張している。誰でも買うことのできる店頭やマシーンでの販売という、現在の入手方法は劇的に制限されることになるだろう。さらに進んで、煙草の全面的な禁止だってあり得ないことではない。
煙草の成分は企業秘密であると称して、これまで煙草会社は煙草の成分を公開しなかった。煙草の製造と販売が企業による犯罪行為であるかもしれない、という観点から公的な調査が開始されて、煙草会社は成分を公表した。数百種類の成分が列挙してあるだけのリストだ。どの成分がどのように人体に有害であるのか、因果関係の立証は不可能に近いと判断しての公表だろう。
確かに、ひとつひとつの成分が人体と結び得るマイナスの因果関係の証明は、困難をきわめるかもしれない。しかしその困難は科学的に医学的に、克服されつつある。喫煙と肺ガンは関係ない、という説のほうがいまでは立証がはるかに困難だ。煙草会社にくらべると大衆のほうが、アメリカでははるかに戦略的だ。煙草会社は製造の段階でニコチンの量を意図的に増やしているという説が、新聞やTVなどをとおして、ある日を境にして急激に広まる。この説に仮になんの根拠がなくとも、煙草会社は対応しなくてはいけない。当然、ニコチンの加減はいっさいおこなっていない、という発表を煙草会社はおこなう。
ブラウン・アンド・ウィリアムスンという煙草会社は、ニコチンの含有量が従来のものの二倍に達する葉を、遺伝子工学によって作り出した。ブラジルで特許を取り、一九九三年にはアメリカ国内でヴァイスロイその他の製品に、その葉を使用した。これはいったいなにごとなのか、ニコチンの意図的な増量ではないのかと、下院の公聴会でブラウン・アンド・ウィリアムスンのCEOは問いただされた。タールの量を低く抑えた煙草を作ろうとするとニコチンの量も減る。そのことを逆に利用して、ニコチンの多い葉はタールを減らすためだ、とCEOは証言した。
肺ガンで死んだのは喫煙が原因だとして、個人が煙草会社に製造物責任で損害賠償の提訴をするのは、もはや珍しくもなんともない。裁判の結果は、いまのところ煙草会社の勝訴だったり敗訴だったりしている。喫煙は個人の判断によるもの、と考える陪審は煙草という製品と肺ガンで死亡した個人とのあいだの距離を、長すぎるものとして判断し因果関係を認めない。しかし、煙草の中毒性を煙草会社が充分に知っていた事実を示す内部資料が証拠として提出されると、その証拠は煙草会社に責任を認めさせる方向へと、陪審を強く動かしていく。
自治体も盛んに煙草会社を提訴している。一九九六年の十月現在で、十四の州が煙草会社を訴えている。喫煙と深く関係している疾病の治療に州として必要とした経費を年間で合計し、煙草会社に返還を求めて提訴するのだ。州だけではなく市も煙草会社を訴える。人口が七百八十万というニューヨーク市は、喫煙が原因となっている疾病の治療費が年間で三百三十億円になっているとして、その額の返還を煙草会社各社に求めた。
そしてクリントン大統領は、煙草を中毒性のある薬物に指定した。アルファベット順に言うなら、ニコチンはモルヒネと阿片のあいだに位置する、れっきとした薬物となった。煙草はFDA(食品医薬品局)の管理下に置かれ、未成年者への販売を中心にして、厳しい数多くの規制が段階的におこなわれていくことにきまった。最終的には煙草の販売は禁止されるだろう。
煙草は体に害をおよぼすからアメリカでは大統領が乗り出して規制するとか、害のあるものを売っている煙草会社はけしからん、といった次元の話ではない。自由と民主主義についてのところで書いたとおり、これからのアメリカの自由や民主主義にはさまざまなかたちで制限が加えられるようになり、制限事項は増える一方となる。煙草に対してなされている制限は、そのことのわかりやすい一例であり、クリントン大統領の考え抜く能力という資質が時代の要請のなかから摘出したものだ。時代の要請とは、問題の解決に向けて自分の頭で考え自分で行動する膨大な数の市民と、彼らを支えるきわめて効率のいいネットワークの存在のことだ。
午後を過ごす最高の場所
こともあろうに真夏にストライキだ。そしてそのストライキは妥結しないだろう、と僕は思う。したがって、アメリカのメジャー・リーグ・ベースボールの一九九四年のシーズンは、ここで終わってしまう。これまでの時代を終えて次の時代に向けて、アメリカというシステムを構成するさまざまな要素のひとつひとつが、大きく変質しようとしている。一九〇五年から続いてきたワールド・シリーズがおこなわれずにシーズンが終わるという、ちょっと信じられないような変形の体験もそのひとつだ。総量制限という考えかたは、今後の世界にとっては全地球的に作用する共通の方針だ。そしてその総量は、低く抑えておくに越したことはない。ベースボール・プレーヤーたちの年俸も例外ではないのだが。
メジャー・リーグの試合をいくつか見にいく予定でいた僕は、計画を変えようとしている。残されたシーズンにおける七回のストレッチのテーマ・ソングは、『テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・マイナー・リーグ・ボールゲーム』だ、というタイトルの署名記事が八月なかばの『ヘラルド・トリビューン』に掲載されていた。まさにそのとおりだ。喜んでマイナー・リーグの試合を見にいこう。僕はじつはメジャーよりもマイナーのほうが好きだ。アメリカのなかに住み、そこで生活を送っているわけではない僕にとって、年ごとのベースボールの出来事と自分の個人史が分かちがたく重なり合う、ということはあり得ない。もし公式試合を見るなら、文脈の外からあるとき突然に文脈のなかに一時的に入り込むことになる。それにはメジャーよりもマイナーのほうがはるかに適している、と僕は昔から感じている。
マイナー・リーグの入場料は五ドルでお釣りが来て、飲み物を買うことが出来る。広い駐車場は無料だ。地元の企業がひと試合を買い上げるフリー・ナイトには、入場料はただになる。いつもは二百人ほどの観客が、フリー・ナイトにはその十倍ほどになる。
アメリカという国の農業国的な田舎の部分と、シティ的な部分との、歴史的に伝統のある接点のなかの非常に大きなひとつが、ボールパーク(球場)だ。昔からあるボールパークも、そして新しく出来たボールパークも、そのような接点としての機能を、現在も発揮し続けている。その接点の機能をもっとも原初的な場やかたちで体験することが出来るのは、マイナー・リーグのボールパークだ。
技量の発揮のしかたにむらがあるがゆえに、いまはまだマイナーでプレーするほかないプレーヤーたちの動きを、好みの位置の最前列という、プレーの内部と言ってもいい至近距離から観察していると、ベースボールとはいったいどういうゲームなのか、つまりどう楽しめばいいものなのか、ベースボールというゲームの内側からわかってくる。
僕の好みのゲームは、Aチームがひとつのイニングのなかで獲得した得点が、対するBチームが九イニングをとおして獲得した得点の合計を越えている、というゲームだ。打たないと、しかも矢つぎ早に打たないと、このようなゲームは生まれない。打つとは、ストライクというものの理解のしかただ。どの打者にとっても、打ちごろの球がある。その打ちごろの球のなかでも、まさに打ちごろの球、それがストライクだ。ストライクとは、投手がストライク・ゾーンのなかのいいところに投げたいい球ではない。ストライクとは打者が打たなくてはいけない球だ。打者は待ってはいけない。投手も、ここはボール球で遊んでみる、などということをしてはいけない。
かんかん照りの午後、芝生にすわってマイナー・リーグの試合を見ながら、五十四個のアウトがすべて三振というようなゲームを夢想すると、ベースボールというアメリカの世界の内部へ完全に入り込める。五十四個のアウトがすべて三振だと、ゲームのあいだ動いているのは投手と捕手、そして打者だけだ。どの打者も素振りでアウトを作るだけであり、投手と捕手はキャッチボールをしただけに終わる。すべてはまっ平らだ。ボールは投手と捕手とのあいだを、きわめて線形に往復しただけとなる。これとは逆の世界のすべてが、ベースボールだ。
投手が投げたボールを打者が打ち返す。そのとたんに、すべてのものが魅力的な立体として立ち上がる。その立体のなかで、ボールはそれ自体の命を獲得する。野球ではなにが起こるかわからない、と日本語でも言うが、その真の意味は、ボールが獲得するそれ自体の命と動きのことだ。
打者がボールを打ったとたんに生まれるベースボールという立体世界の、もっともわかりやすい頂点は、度胆を抜くようなホームランだろう。中間的なところで立体を支えるのは、目の覚めるようなヒットだろうか。そしてもっとも基本的なところでこの立体にとっての土台となっているのは、的確で敏速な処理によるアウト、あるいはその反対の、よもやのエラーだ。打たれたボールはすべて生き物になるが、もっともベースボール的に生きているのは、エラーを引き出したときのボールではないか。
ベースボールの楽しみかたを、僕はマイナー・リーグの試合と数多くのすぐれた参考書で知った。メジャー・リーグの試合は、そのようにして僕が知ったことの、何度繰り返してもそのたびに胸のときめく、確認だ。ベースボールというゲームの立体感に関して、いま僕は残暑の東京の片隅で復習をしようと思う。二年ほど前、おなじ東京の別な片隅で買った、『ベースボール この完璧なるもの』という一冊の素晴らしい本が、復習のリードをしてくれる。
この本は本当に美しい本だ。ダニエール・ワイルという女性の写真家が撮影した数多くの写真がデュオ・トーンで再現してあり、デイヴィッド・ハルバスタムが文章を寄せ、ゲームそのもの、ボールパーク、試合前のウオーム・アップ、スプリング・トレーニングなどについて、ピーター・リッチモンドが書いている。ふたりの男性たちの文章は、言いたいことをあますところなく言っている。そしてダニエールの写真は、それをさらに越えている。
ベースボールの立体世界を、これ以上ではあり得ないほどに正確な遠近法で、的確に冷静に、そして美しく端正に、彼女の写真は抽象化している。ゲーム以外の光景、たとえば用具を撮った写真もスタジアムを撮ったものも、ものの見事にそれぞれの核心を彼女はカメラでとらえている。ゲームを撮影するとき、なぜ彼女はこれほどまでに正確で絶妙なタイミングで、シャッター・ボタンを押すことが出来るのか。
投手が投げたボールを打者が打ったとたんに生まれる立体世界の、ものすごく美しくわかりやすい一例を、ダニエールは一点の写真で見せてくれる。八十二ページの縦位置の写真だ。一九九〇年七月、ヤンキー・スタジアムでおこなわれたシカゴ・ホワイトソックス対ニューヨーク・ヤンキースの試合のなかで、当時のヤンキースで53の背番号をつけていたプレーヤーが、内野の上空に日本語で言うところのポップ・フライを打ち上げたその瞬間の様子を、ダニエールは一点の写真にとらえている。
ネット裏と言われている席の、まさに正解としか言いようのない高さから、画面の下半分のまんなかに、彼女はホームベースをとらえている。かなり左に寄った位置だ。ホームベースとバッター・ボックスを中心にした円形の土の部分のなかに、アンパイア、捕手、そして凡フライを打ち上げた打者がいる。投手と一塁手が、上がった打球を仰ぎ見ている。一塁には走者がいた。彼は二塁に向けて走ろうとしている。二塁手が打球の落下地点へ向かおうとしている。打球はひょっとしたら内野を越えていくのかもしれない。右翼手がおなじく落下地点へ向けて、全力で走り出している。
一塁に走者、そしてごく平凡なポップ・アップ。メジャー・リーグのゲームのなかで、何回繰り返されたかわからない、平凡と言うなら確かに平凡な、立体化の瞬間だ。しかしその平凡さを被写体にして、ダニエールは立体化の瞬間の神髄を、確実にフィルムの上に固定している。画面のなかにいる八人の人たちのどの動きも、たいへん美しい。画面の上方にはフェンスと外野席が映っているが、席のなかのどの観客の姿勢も、おそらく正解なのだろう。
打たれたボールが高く上がるという、立体化の瞬間の平凡な一例は、正確無比な遠近法のなかで撮影されたダニエールの写真によって、あっさりと時間を越えてしまった。少なくともベースボールの歴史のなかでは、この一点の写真は不滅の位置を獲得している。ベースボールというゲームの基本理念が、見て鳥肌の立つほどの正確さで、ひと思いに抽象化されたからだ。
ベースボールというゲームが立体性を獲得する瞬間の、見事な抽象化であるこの写真を見ていると、過去におこなわれたすべてのゲームが、時間をかいくぐって現在に到達している様子を僕は全身で感じる。過去とは要するに膨大な時間の蓄積であり、その膨大な時間の塊は、もっとも近いこちら側では、現在という突端を持っている。過去のすべてのなかをまっしぐらに駆け抜けて現在に到達する性質、あるいは逆に、現在のこの一瞬が、一瞬のうちに、過去のすべてのなかを走り抜けてみせる性質。そのような性質をベースボールの時間は基本理念として持っている。
シティとファームが出会う、コミュニティにとっての祭典場であるボールパークでは、ゲームが立体を獲得する瞬間ごとに、現在は過去のすべてと重なり、過去はそのすべてが現在となって目の前に蘇る。ベースボールの基本理念と根源的な情動はここにある。
ダニエール・ワイルが撮影したゲームの写真のなかで、どの人もどのプレーヤーも、なぜこれほどまでに優美なのか。写真のなかに固定されたその優美さは、永遠に静止したかたちでしかないが、飽きることなく観察している僕の頭のなかでは、静止した写真は動きを持つ。あのときのあのゲームのなかでのあの瞬間、という具体的な個別性を離れて、さきほど僕が書いたような、時間を超越した基本理念や根源的な情動などの具現としての優美さを、僕はその動きのなかに見る。プレーヤーたちの動きの優美さは、ホーム・ベースから一塁までの距離が持つ優雅さと、立体的に密接に関係していると僕は思う。あの距離の優雅さについて僕に最初に教えてくれたのは、僕の記憶に間違いがなければ、ロジャー・エンジェルだった。
『ベースボール この完璧なるもの』にイントロダクションの短文を寄せたデイヴィッド・ハルバスタムも、ダニエールの写真が持つ時間を超越した質について言及している。「私の知っている他のどのスポーツにも増して、ベースボールは過去を想起させる」と、ハルバスタムは書く。ボールパークでシティとファームが接する、と僕は書いたが、過去と現在が衝突するところ、とハルバスタムは表現する。「ベースボールにおいては、他のなににも増して、現在は単なる現在ではなく、それは同時に過去でもある」と彼は言う。
現在とはすべての過去であり、あらゆる過去が現在を作っているという状態は、明確な歴史観と言い換えることが出来る。望むらくはいつまでも揺らぐことのない、確固たるひとつの視点から時間の遠近法のなかを明瞭に見渡した、明確な歴史観だ。アメリカほど明確な歴史観を持ち得ている国はいまのところほかになく、そのアメリカにとって、現在が常にすべての過去と生きて接するベースボールというゲームほど、アメリカ的なものはほかにない。ここを見落とすと、ベースボールは真には楽しめない。
ジャーナリストであり歴史家であるハルバスタムは、メジャー・リーグの年代記を自分の個人史と重ねている。根っからのアメリカン・リーグの信奉者であり、ヤンキースの二代にわたるファンである彼は、幼い頃から現在にいたるまで、個人史のすべての節目をベースボールの出来事と重ねて記憶していると言う。明確な歴史観というものの、個人における典型的な例だ。彼の父親が夢中で追った一九四一年のヤンキースのゲームは、五十年後の自分が追うヤンキースのゲームと、ぴったり重なっている。父親像というものは、アメリカではたいへんに大切なもののひとつだ。ベースボールに関する記憶をその中心で支えているのは、ほとんどの人にとって、アメリカでは父親ではないだろうか。
ダニエールが撮影したボールパークの写真十八点を観察して、僕は僕の現在を過去に重ねる。外野のフェンスが無表情で均一な弧を描かず、少しずつ角度を変えていることがどれだけのスリルを生み出すかなどと考えていると、過去は際限がない。リグレー・フィールドの写真が一点ある。外野席の右翼側のいちばん手前、団体席に向けてクランクになって引っ込むところという、おそろしいほどの正解である場所を、ダニエールは撮影している。この席で僕はカブスの試合を見たことがあるよ、ミシガン湖から風が気持ち良く吹いてきて、初夏の晴れた日のアメリカの午後を過ごす場所としてここは最高だよ、と僕は写真のなかの一点を指先で押さえる。外野のフェンスは名物の蔦で深く覆われている。
なにしろベースボールはアメリカそのものなのだから、ボールパークがきわめてアメリカ的な時空間であることには、なんの不思議もない。由緒ある昔の球場でも、新しく出来たばかりの球場でも、そのことには変わりはない。リグレー・フィールドは、その典型例のひとつだ。
試合のある日は、試合の前一時間、そして試合のあと九十分だったと思うが、高架の電車がアディスンという駅に停車する。ここで降りてシェフィールド・アヴェニューを越えると、目の前にリグレー・フィールドがある。ゲートFから入ってアッパー・デッキまで上がり、さらにその上にあるアッパー・デッキ・リザーヴドの中央に、プレス席がある。
ここから真正面にホーム・ベースを見下ろし、二塁を越えてセンターへ、そしてブリーチャーズの向こう、ミシガン湖の西側の一角を北東に向けて遠望するのは、文芸的な言いかたでも極端な言いかたでもなく、アメリカを見ることそのものだと僕は思う。父親を中心軸とした、明快に見通すことのいつだって可能なすべてのアメリカの過去が、あらゆるボールパークのなかにある。
一九九四年のアメリカの大リーグ野球は、プレーヤーたちのストライキによって夏から中断したままだった。話し合いはまとまらず、ついにそのままゲームなしのシーズンになることにきまった。夏の男たちは、夏のさなかに、ボールパークではないところで、野球以外のことをしている。ワールド・シリーズもおこなわれない。
ワールド・シリーズがないのは、九十年ぶりの出来事だという。十年おまけして、百年に一度という種類の出来事を、いまアメリカは体験している。百年に一度の出来事というものは、時代の大きな曲がり角において生まれると仮定するなら、アメリカはいま大きな曲がり角のなかにいる。野球にとっての曲がり角ではなく、アメリカのアメリカらしさそのものにとっての、曲がり角だ。
大リーグ野球のプレーヤーたちは報酬の無限上昇を要求し、それをアメリカン・ドリームなどと呼んでいる。報酬には上限を設けたいとする球団オーナーたちとの話し合いは決裂し、ストライキとなり、どこのボールパークも空白のまま、今年のシーズンは終わろうとしている。プロ野球の報酬の無限上昇が、アメリカという国でかなう夢であるとは、なんとも幼稚で時代錯誤な認識と言わなくてはならない。なにごとにも地球規模で上限が厳しくつく時代に、世界はとっくに入っているというのに。
メジャーのボールパークはただの空白でも、マイナー・リーグは大人気でどこも盛況だ。いつかかならず、ひと夏をアメリカの3A野球めぐりで送ろうと念願している僕にとって、七回のストレッチのテーマ・ソングは、現場に身を置く前から、『テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・マイナー・リーグ・ボールゲーム』となった。そしてそれはそれでたいへんに喜ばしいことだ。
野球はアメリカのものだ、野球はアメリカそのものだ、としばしば言われている。これはどういう意味だろうか。子供の頃、まずたいていの男のこは野球をする。プロのプレーヤーに憧れ、自分もなりたいと思い、好きなチームを応援する。大人になっても野球は好きであり、ひいきのあるいは地元のチームが勝てば喜ぶ。しかし、野球はアメリカそのものだと言うからには、野球と人々の関係は、とてもこの程度の浅さにとどまるものではないはずだ。
アメリカに生きる人たちにとって、その日々は、よりアメリカ人になっていく日々だ。野球との関係は、自分がいかによりアメリカ人となったかを計る、自分史の年表だ。たとえば日本との戦争前に物心ついた人にとって、父親というものは昔の時代の父親らしい父親であり、その父親はいつもラジオで野球の中継を聞いていた。実況アナウンサーの声を頼りに、彼は真剣さそのものでゲームの展開に加担していた。少年としての息子が、そこから強い影響を受けないはずがない。少年は父親からキャッチボールを教わり、野球に関してさまざまな知識を受け取り、ため込んでいく。父親という人、そしてその息子である自分という人の歴史のなかの、記憶すべき出来事のひとつひとつが、あの年のあのゲームのあの場面と、分かちがたく結びついていく。
大人になってもそれは継続される。振り返るに足る過去が、彼の背後に少しずつ蓄積されていく。そしてその過去のなかにある重要な出来事つまり節目は、すべてベースボールというおそらくは唯一と言っていい普遍の中心軸に、ぴったりと沿っている。ベースボールという偉大な普遍のあるおかげで、誰の過去も都合よく整理された浅い主観の物語の羅列になることから、きっぱりと訣別出来ている。過去は振り返りやすい。そして振り返るとそこに見える過去は、ベースボールという基準器に沿っている。過去はきちんと過去になる。ごまかしようはない。
振り返るたびに、アメリカという自分の国における父親の日々、父親と自分の日々、そして自分の日々を、社会という全体のなかへベースボールによって、正しく位置させることが出来る。歪められず、ごまかされず、主観に染められることもなく、過去はひとつひとつきちんと過去になる。歴史観は一貫していくと同時に明確なものとなる。歴史と一体になり、歴史も自分も正しいパースペクティヴのなかに置くための、ベースボール。まさにそれはアメリカではないか。
歴史の遠近法のための唯一の正しい基準が、一九九四年は夏で中断してしまった。そう言えばあれからろくなことがないねとか、あれからいろんなことがおかしくなり始めたんだよ、と人々は将来というやがて来る時間のなかで、語り合うことになるのだろうか。ろくなことがない徴候、おかしくなり始める徴候は、ずっと以前からあった。それがベースボールという基準器のなかにあらわれ出てきたのが、記念すべき九四年の夏ということだ。
現在を基準にして考えると、ベースボールに沿った歴史が三代も続くと、それはたいそう好ましい見本のようになると僕は思う。一九四〇年に生まれた息子など、背景はたいへんな時代だし、区切りやすい年号だからとてもいいのではないか。父親は一九一〇年前後の生まれだろう。そして彼の息子つまり三代目は、二十代前半の青年として、どこかの3Aにいたりするかもしれない。ベースボールは基本的には父親のものだ。父親は仕事をする人であり、アメリカは仕事をする人の国だ。ベースボールは父親のもの、そして父親と息子のものだ。その間、母親と娘は、どこでどうしているのだろうか。彼女たちには、なにがあるのだろうか。
フットボールもアメリカそのものだと言われることがありますが、フットボールとベースボールとではいったいどう違うのですかと質問されたなら、フットボールは単なる男たちのものだと、まず僕は答える。ベースボールは父親という社会的な役割を持った人たちのものであり、それゆえにそれは、社会全体のなかに自分を正しい遠近法で置いていくための、普遍的な基準器として機能する。
しかしフットボールは、父親という役割とは関係ないという意味で、単なる男たちのものでしかない。その男たちは、それぞれに特種な技能別の職能集団に身を置く人であり、作戦に沿って的確に行動するから、たとえるなら軍隊だろう。単なる男たちのマーチョな部分が、職能と作戦によって限度いっぱいに拡大されるという、自己破壊的な性質をフットボールは基本的に持っている。
ベースボールは単なる勝った負けたではない。誰がホームランを打ったかでもない。ひいきのチームの順位の浮き沈みでもなければ、監督の交代劇などでもない。どのような状況のなかで、誰がなにを考え、それをどうアクションに移したか。それがベースボールの出来事だ。出来事は非常に多くの場合、結果として記録される。しかし、ベースボールの出来事は、結果だけではない。現在を確認し、未来を計る確実な指標として、その機能を永続させていく。単なる記録、つまり単なる過去には、それはけっしてならない。あらゆる期待と興奮が、そしてすべての喜びと落胆が、すべて正しい遠近法のなかにしっくりと落ち着く。ベースボールというゲームが持つ不思議な優雅さは、このあたりから生まれてくる。
練達の投手が投げ込んでくるあの小さなボールを、あの細いと言うなら確実に細いバットで叩き返し、ヒットやホームランにするのは相当に難しい。そして打者が打たないことには、ベースボールではいっさいなにごとも始まらない。打たれたその瞬間から、そのボールは、たとえどんなに平凡なキャッチャー・フライであっても、それ独自の命を持って動き出す。ベースボールという繊細なゲームの核心はそこにある。
キノコ雲の切手
第二次大戦シリーズという組み切手を、アメリカの郵便公社は一九九一年から発行してきた。やがてなにかあるかな、と僕は思わないでもなかったが、原爆のキノコ雲が登場したことには、少なからず驚いた。なんという二流以下の判断だろう、という意味での驚きだ。妙なキノコ雲だな、とも僕は思った。少なくとも三種類の写真の合成によるものだということだ。
この図柄で切手になったなら、郵便物に貼られてアメリカから全世界に向けて発信され、飛び交うことになる。そのときその切手が持つ現実的な意味は、原爆の使用は正しかった、必要ならまた核を使う、ということであるはずだ。必要ならまた使うというのは、冷戦が続いていたときのアメリカの思考だ。
冷戦が続いていた頃には、原爆記念日になると、アメリカ国内の少なくとも三大ネットワークのTVは、第二次大戦と原爆を中心に特集を組んでいた。コメンテーターが出てきて、必要ならまた使うとも言えないから、戦争の早期終結に導いたというきまり文句を軸に、ああでもないこうでもないと、つまり必要ならまた使うと、核について語っていたのを僕は記憶している。
戦争を早く終わらせたという肯定的な注釈つきのキノコ雲の図案を撤回したことの、アメリカにとっての意味は小さくない。それはまず第一に、大量無差別殺戮兵器としての原爆を、そのとおりにアメリカは二度使った、という事実の確定だ。そして第二には、原爆によって我々は悲惨な戦争を早くに終わらせ、さらなる犠牲を未然に防いだ、というこれまでの正当化の足場が決定的に近く崩れ落ちたことを意味する。
切手の図案に対する日本の反応は、国民感情の逆撫では不快であり、原爆を使用したことの正当化につながり誠に遺憾である、というものだった。遺憾の念はたいへんに正しい。もっと正しくするなら、アメリカによる原爆の使用を日本は絶対に許していない、と言うべきだった。正しさと同時に、原爆を使用された側の、圧倒的に被害者としての信条の絶対化という、おそらくは終わることのない戦後というものを、あの切手の図案に見た日本の人たちは多かったのではないか、と僕は推測する。
原爆によって戦争を早くに終わらせ、さらに犠牲者が増えるのをくいとめたという論は、五十年たつと使えなくなっていることをアメリカは知った。そして日本では、その戦争を回避出来なかった能力という、起点についての整理がまだ出来ていない事実が、浮かび上がった。ともに五十年めの進化だ。しかしアメリカにとって独立戦争と南北戦争は完全に聖域であり、第二次大戦もそうなりつつあることは確かだ。
一八五三年、太陽暦で七月八日、四隻の黒船が江戸湾の入口に現れた。大西洋そして南太平洋で鯨を捕りつくしたアメリカは、鯨が豊富にいた日本近海やオホーツク、ベーリングなどの海を漁場にし始めた。日本を捕鯨船の補給基地にしたいと思ったアメリカは、鎖国をしていた日本に、一方的にそして相当に威嚇的に、開国を迫った。
開国した日本がそこに発見したのは、ヨーロッパの列強がくりひろげる最後の帝国主義戦争の時代だった。当時の日本は江戸を中心に独自の文明を高めきっていた。アジアの一角の小さな日本は、アジアの他の部分とくらべると信じがたいほどに、アジアの他の部分とは別な国になっていた。それほどまでに江戸の文明は高度なものだった。
だからヨーロッパからのものを、キリスト教は別として、日本は難なく受け入れて自分のものにし、それを強国作りに役立てることが出来た。鎖国の江戸ですでにアジアとは言えないほどに文明を高めていた日本は、開国してアジアから脱出し、ヨーロッパ列強の帝国主義戦争に入っていった。そのコストの、あまりの高さの象徴が、キノコ雲だ。
アジアからは日本だけが帝国主義の戦いに参加したこと、そしてアジアの他の部分は、帝国主義国家による領土をめぐる戦いの犠牲者であり続けたこと。このふたつのなかに、日本とアジアとの関係の難しさの出発点がある。難しさはいまも続いている。これからも続くかどうかは、日本にかかっている。脱アジアによって他のアジアを犠牲者にした。この二重の反アジアのなかに、日本の戦後は続いている。
戦後という言葉は、いま僕が使っているような文脈では、途方もないコストを支払って敗戦国となった直後の日本の、貧困と混乱をまず意味している。と同時に、その次の意味は、そのような状態から脱出するための前進力の時期、つまり戦争なんてもうまっぴら御免、これからは平和だ、民主主義だ、経済復興だ、国の作りなおしだ、となった時期の日本、という意味を持つ。
そしてそのような戦後に対して、一九五六年に、もはや戦後ではない、と日本の経済白書は宣言した。一九六〇年には所得倍増計画が発表され、その後の十年間でその計画はほぼ現実となった。七二年には沖縄が返還され、二度の石油危機を日本は乗り越えた。安保は国際的に承認を得た。七六年には戦後生まれの人が五十パーセントを越えていた日本は、経済大国となった。
戦後は終わったかに見えた。戦後の風化、ということがしきりに言われた。学校の教科書からキノコ雲が消えたことが、問題になったような記憶が僕にはある。終わった戦後は確かにある。上野の地下道に浮浪児はもういない。闇市もない。終わっていない戦後は、すでに書いたとおり、アジアの全域で終わっていない。
徹底した非軍事。自分の国は自分で守るための再軍備。まずなによりも経済復興。この三つの選択肢のなかから、戦後の日本は経済復興という路線を選んだ。その路線を進むにあたって、アメリカはなくてはならない強力な手助けだった。すでに始まっていた冷戦のなかで、アメリカの意図に沿うべく、日本は小さな軍備を持つことにした。安保はいまも継続されている。安保を軸にして軍備についての考えかたがいくつかに分かれるという構造も、変わることなく続いている。いわゆる政界再編成に、それは影響力を持っている。戦後はここでも続いている。
アメリカは日本にとって巨大なマーケットでもあった。いまの日本が経済大国なら、その力はアメリカの赤字のなかに根を持っている。日本にとっての輸出先として、現在ではアジアの果たす役割がアメリカのそれを越えている。いかに安く作って大量に売るか。アメリカに対しておこなってきたことを、日本はアジアに対しても繰り返すのだろうか。もしそうだとしたら、いつか来た道とはそのことだ。
アジアは自分にとって巨大なマーケットである、と日本が考えているのだということは、アジアにおける日本の経済活動を見ればよくわかる。マーケットであること以外のアジアに関して、日本がどのような構想を持っているのか、アジアでどんなことを実現させようとしているのか、まったくわからない。そのようなことについて、日本からなにも聞こえてこないし、日本はなにも言っていない。不安や争いが起こるのは国や地域間の経済格差が原因だとするなら、それを埋めるための日本の役割の全体像くらい、とっくに明らかになっていていいはずだが、それはどこにもない。
戦後五十年、という言いかたがある。戦争が終わってから五十年、という単純な意味とともに、五十年たってもまだ続いている戦後、という複雑な意味も、その言いかたは持っている。そしてもうひとつ、その五十年間はほぼ冷戦の期間だったのだから、昨日までの敵が巨大な庇護者へと変化しただけで、じつは日本は戦後など本当はなにひとつ体験していないのだ、という意味だって考えることは充分に可能だ。
ジープが来た日
猛暑、と新聞もTVも呼んだ日の夕方、ふと入った書店の棚に、『ジープ 太平洋の旅』(ホビージャパン)という本を僕は見つけた。その本を買った僕は、次の日、まったくおなじ猛暑のなかで、その本に収録してある貴重な写真のすべてを飽きることなく観察し、的確な説明文をすべて読み、感銘の深い一日を過ごした。書名にある太平洋とは、日本がおこなった十五年戦争の最後の部分、いわゆる太平洋戦争の戦場としての太平洋のことだ。そしてジープとは、その戦場で大活躍をした、アメリカ軍の軽量多使途の車輛のことだ。
太平洋戦争に関して、僕はごくわずかな体験しか持っていない。小学校就学以前の子供として、敗戦直前の事柄や雰囲気をひとつふたつ、ごく淡く知っているだけだ。アメリカとの関係は幼い頃からけっして小さくはなかったけれど、たとえば戦後、アメリカ側に向けて大きく気持ちが傾くというようなことは、体験していない。そのことはいまも変わらず、したがって『ジープ 太平洋の旅』のなかの写真を、僕は中立的な位置から見ることが出来たと思う。
ほとんど出来上がった状態のジープが木箱に収められ、大量にアメリカからオーストラリアに届く。そこで組み立てられたジープは、まずニューギニアという熱帯の戦場へ渡る。そこからサイパン、硫黄島と、文字どおり太平洋へ、ジープの戦場は日本へ向けて拡大されていく。と同時に、大量のジープはフィリピンへも渡る。そこからさらにビルマ、中国へ、そして沖縄へと、ジープつまりアメリカ軍は、攻め返していく。第一章から第四章まで、その順番で数多くの写真が、非常に多くのことをきわめて雄弁に物語っていく。そして第五章は日本への進駐であり、第六章はジープにとってのエピローグとしての、朝鮮戦争だ。
第二次大戦のアメリカ軍がどのような存在であったか、ごく簡単に言うなら次のようにも言えるだろうか。周到をきわめた科学性と、それを創出させ維持し拡大していく豊富な人材、そして当時としては無限と言っていい物資とその生産態勢。これらのぜんたいを、アメリカふうの自由と民主が、誰の目にも明確に、つらぬいていた。
戦争をするためには、軍隊というものは移動をしなければならない。ニューギニアのような熱帯の地形や気候を始めとして、とにかくあらゆるものがただひたすら地獄であるような場所で、軍隊が効果的に移動する作業には想像を絶した苦労がともなう。その移動のために使用される車輛のなかで、もっとも多くの使途のために、もっとも多く動いたのが、ジープだった。
熱帯の島のジャングルという戦場で、戦闘にかかわるすべてのものが移動するとき、もっとも効果の高い最小単位としての車輛は、やはりこれしかないだろうなと思いつつ、木箱を解かれた新品のジープの写真を僕はつくづくと見た。さまざまな感慨が、いろんな方向に向けて、僕の頭のなかで広がっていった。
アメリカ軍によるジープのような車輛の模索は、第一次大戦が終わった頃にはすでに始まっていた。ジープの開発物語は、それだけでひとつの感動的なアメリカン・ストーリーだが、僕は詳しくは知らない。資料も少ないと聞いている。『ジープ 太平洋の旅』の著者、大塚康生氏はジープ研究の第一人者であり、著者の一冊に『軍用ジープ』という本がある。この文章を書くにあたって、僕はかならず持っているはずのその本を汗だくで捜したのだが、残念ながらあるべきところにそれはなかった。ジープの開発経過について、その本には可能なかぎり詳しい記述があるはずだ。
軍の言いかたではクオーター(4分の1)トンの4輪駆動トラックであるジープは、BRC(バンタム・レコニサンス・カー)、ウィリス・オーヴァーランドのMA(ミリタリーA)、そしてフォードのGP(ジェネラル・パーパス)という三種類のプロトタイプの、千五百台ずつの試作とそのテストをへて、バンタムの作った基本にウィリスを加え、フォードのGPおよびウィリスのMB(MAの次期改良型)となった。ジープという通称は、フォードがごく気楽につけたGP(ジェネラル・パーパス)という名を、おなじく気楽にジープと呼んだのが定着したものだ、ということになっている。
第二次大戦のジープ生産は、『ジープ 太平洋の旅』によると、日本軍のフランス・インドシナへの軍事展開とともに始まり、日本敗戦の玉音放送の日には生産ラインは停止していたという。生産期間はわずかに四年と十二か月ほどしかなかった。しかし南太平洋の熱帯の島々からヨーロッパそしてアフリカまで、アメリカおよびアメリカ軍の力のおよんだすべての地域を、ジープは走った。世界大戦を終結に導いたアメリカの象徴として、単なる軍用車輛のひとつであることをはるかに越えて、ジープは世界じゅうの人々の記憶にとどまることとなった。
第二次大戦のジープは日本の敗戦とともに終わったが、朝鮮戦争では使用可能なものをかき集めて使用された。ジープの物語は、どの部分を取り出しても、興味のつきることない、大きな感動をともなった物語だ。敗戦後の日本にも大量のジープが持ち込まれた。戦争から解放された日本の数多くの優秀な技術者たちによって、それらのジープは修復され主としてアジアへ出ていった。
敗戦後の占領下の日本で、アメリカ兵とそのジープに大きな衝撃を覚えた日本人の数は多い。しかし日本ではジープは民間には払い下げられず、視覚的なあるいは心理上の衝撃は人々に大きくあたえたものの、現物のジープの機能的な実体には、日本の人たちは触れないままだったようだと、いま僕は思う。
MBにいくつもの改良を加えつつ、軍用のジープは一九八三年まで続いた。日本もライセンス生産のジープを持つにいたったが、そのときのそのジープは、すでにいくつもある国産車のなかのひとつ、という位置にとどまることとなった。心理的な衝撃はたいへんに大きかったにもかかわらず、機能の実体にはほとんど触れずに終わった、アメリカの不思議な軍用車輛、それが日本におけるジープの基本ではないかと、僕はかねてより思っている。南の島の戦場で、何台かのジープを日本軍は捕獲した。そしてそれを使ったりもした。そのジープに対して日本の軍人がどのような感想を持ったか、少しでもいいから記録があれば、ジープ物語にまたひとつ、興味深い側面が加わるのだが。
戦後の日本で少しずつ復興していった日本の自動車産業は、ジープをどのようにとらえていたのだろうか。戦後の日本の悪路に対応するため、板バネを強くする加工方法を、日本の自動車はジープから学んだ。小型で軽量、用途は多く改造はたやすく、修理と保守も簡単であるジープは、経済を復興させることをとおして国を作りなおしていく時期の日本にとって、自動車というものの最適のお手本だったのではないかと僕は思うが、そのような思いはおそらく単純過ぎるのだろう。戦後から現在にいたるまで、ライトヴァンその他、すべての小型商用車の原点はじつはジープなのかもしれない。
歴史の必然はさまざまな要素が複雑にからみ合って作り出される。いろんな理由で、ジープは日本には適合しなかったのだ。軍用としていくら優秀でも、民間では特殊に過ぎたのかもしれない。自分で真面目に自動車を作るなら、ほとんど個性のない小さくて非力なセダンという、基本のひとつから始める必要があったのか、とも僕は思う。手のなかに持った一冊の本のなかでの、ジープによる僕の暑い一日の旅は、国産初期の小さなセダンのかたわらで、ひとまず終わった。
ちょっと外出してピストルを買って来る
アメリカ国内のTVニュース番組をふと見ると、画面にはたいへんにアメリカ的な光景が映っている。とある町の、銃砲店の内部だ。充分に広い店内のガラス・ケースのなかに、あるいは棚に、多数のハンドガンやライフル、そしてショットガンなどが、整然と陳列してある。見るからにアメリカ的な店主が、おなじく見るからにアメリカ的にカジュアルな客たちに、応対している。「売上の五十パーセント増しは、いまのところ確実ですよ。もっといくかもしれません。六十、七十パーセント増しまでね」と、店主は取材の記者に語る。
店主の言葉のなかにある「いま」とは、攻撃目的の殺傷力を高めた、自動ないしはなかば自動のライフルそして小さな機関銃やマシーン・ピストルなどの一般販売の規制が、おこなわれる以前を意味している。その「いま」、特に売れ行きがいいのは、一般への販売がやがて法的に規制されるはずの、アソールト・ウェポン類だ。銃口を向けた相手を可能なかぎり高効率で殺傷することをもっとも重要な主題とした、自動ライフルやマシーン・ピストルだ。
「法による規制は気にくわないね」「奴ら(政府)が取り締まる気なら、その前に俺は買っておくよ」「規制後は値打ちが出ます」というような態度を基本にして、ごく普通の市民たちが、すさまじい殺傷力を持った銃を買う。段ボール箱に入れてもらい、きわめて気楽にかかえて持ち、店を出ていく。彼らのうしろ姿に、アメリカそのものを僕は感じる。ここで言うアメリカそのものとは、自由というもののありかたの一例だ。
アソールト・ウェポンは、破壊力のある大きな弾丸を、高速で何発も、強力に連射することが出来る。だからこそそれらは、アソールト・ウェポンと呼ばれる。弾丸を二列に装填して合計で三十発も入るマガジンというものがある。これを二本、上下たがいちがいにしてガム・テープで貼り合わせておくと、一本を射ちつくしてそれを引き抜き、反対側にひっくり返して銃に差し込めば、ただちに三十発、さらに連射することが可能だ。
小型で扱いやすいマシーン・ピストルによる、六十発の機関銃的な連射に魅力と必要を感じる人は、いまのアメリカにたいへん多い。複数の相手をとにかくなぎ倒したいと願う人たちにとって、アソールト・ウェポンはうってつけだ。ごく平凡なM‐16でも、一発ずつ射つモードと三発ずつの高速連射、そして全弾をあっというまに射ちつくす機関銃的な連射の、三つのモードを持っている。
ハンドガンによる死傷事件は、アメリカぜんたいを計測の対象とするなら、三十秒や四十秒に一件という途方もない次元にすでに到達している。子供たちによる、「なんとなく射った」「気にくわないから射った」「喧嘩をしたから射った」というような事件が大量に発生しているから、こんな恐るべき数字が出てくる。
小中学校あるいは高校に警官や警備員が出張し、登校してくる生徒のひとりひとりに金属探知機を当てる、というような光景はもはや珍しくもなんともない、ごく日常的な光景だ。「怖いから」「身を守るために」「みんな持っているから」というような理由で、生徒たちは学校にハンドガンを持って来る。小学校では防火訓練とおなじように、発砲からいかに身を守るかという訓練がおこなわれている。
ニューヨークのブルックリンのある高校では、この四年間に七十人が射たれたり刺されたりし、そのうちの三十人が命を落とした。身近で人が殺された体験をした人はいますか、と小学校の生徒に聞くと、八十パーセントがイエスと答える。もっとも多いのは射殺だ。学校でのほんのちょっとしたいさかいが理由で放課後に呼び出され、ぽんと射たれて殺される。アメリカのティーン・エージャーの死因は、自然死を上まわって銃による死のほうがずっと多い。一年間に六万人もの十代の人たちが銃で射たれて死ぬ。黒人だと白人のなんと十一倍にも達する。こういったことに関して、いわゆる国の対策というようなものは、いっさいない。
衣服や鞄などのなかに隠し持てるハンドガンには、特有の匂いがある。この匂いを覚え込ませ、登校して来る生徒たちのあいだを嗅ぎまわり、ハンドガンを持っている生徒を見つける犬のいる学校がテキサス州にある。こんな話題も珍らしくない。学校へ持って来たハンドガンを隠しておく場所をなくせば、ハンドガンによる犯罪や事故を多少とも減らすことにつながるのではないかと、生徒たちのロッカーを全廃した学校もある。鞄を持つことを禁止している学校もある。信頼出来る筋が発表した統計によると、アメリカぜんたいで一日のうちに八万五千の学校へ、十三万五千丁のハンドガンが、生徒たちによって持ち込まれているという。
ほんの数秒ごとに一丁という速さで、あるいは多さで、いまもアメリカ国内ではハンドガンやライフルが製造されている。そして外国から輸入されるものも、ほとんど差のない数秒ごとに一丁という、信じがたいが正確な数字もある。いま弾丸を込めて引き金を引くなら、銃としてただちに機能する状態の小火器は、アメリカぜんたいで少なく見積もって二億二千万丁に達している、という統計数字もある。
どこからどう見ても、状況はひど過ぎる。なんとかしようではないかという気持ちや動きは、ごく普通の市民のあいだに広がりつつある。しかし、問題はあまりにも巨大だ。銃を買う人に現物が渡るまでの七日間の待機期間、そしてその期間内におこなわれる購入者の背景調査を義務づけたブレイディ法は、事実上はなんの役にも立たないという意見は正しいようだ。
「ナショナル・ライフル・アソシエーションにとって、ひとつの敗北と言っていい出来事がありました」と、TVニュースのアンカーが言う。どんなことがあったのかと画面を見ていてわかるのは、北東部の小さな州で、一般市民がひと月に買うことのできるハンドガンを、一丁に制限する法律が提案されたとかされないとか、そんな程度のことだ。
アメリカで銃を好きなだけ買いたいと思うなら、ディーラーになるといい。わずかな申請費用でほとんど誰でも自動的に、ディーラーの許可を連邦政府からもらうことができる。ディーラーになると、州を越えて、好きな銃を好きなだけ、卸値で購入することが可能だ。
ひとりでふらっと出向いて、ほとんどどのような銃でも気楽に買えるのは、いわゆるガン・ショーだ。物流の仮倉庫のような建物のなかで、数多くのディーラーがテーブルをならべ、それぞれに店を開き、客を待っている。いっさいなんの制約もなしに、すさまじい武器を買って持ち帰ることが、じつにたやすく可能だ。中国製の相当に優秀な出来ばえのさまざまな銃が、アメリカ製の同クラスのものの半値で、アメリカという市場に大量に流れ込む寸前だ。
どのような銃弾でもアメリカでは自由に手に入る。販売のシステムは、ひと言で言って野放しの状態だ。南カリフォルニアのパサディーナでは、銃弾の購入に規制をかけることになった。ロサンジェルスでもおなじような条例案が議会で可決された。市長が署名すれば発効する。購入時に身分証明書を提示し、書類に必要事項を記入し、店はそれを二年間にわたって保管しなければならないという条例だ。効果は上がるのだろうか。効果がほとんどない部分から、少しずつ手をつけているような気がしないでもない。というよりも、もはやどこから手をつけても効果は期待出来ないまでの状態になっている、と考えたほうが正しい。
アソールト・ウェポン十七種類の販売規制案に関しての報道で、当時の財務長官ロイド・ベンツェンがM‐16を射っている様子を僕はTVで見た。自宅の敷地内に飛行場があるという、テキサスの名門の出身で富豪の彼は、狩猟に関して経験は豊富なはずだ。射っている彼の様子は、そのことを物語っていた。何年か前、ジョージ・ブッシュが大統領だった頃にも、各種のアソールト・ウェポンの野放し的な販売が問題となった。椅子にすわっている記者たちの前を歩きまわり、片方の手を拳にして強い意志を込め、それでもう一方の掌を何度も叩いて強調しながら、「スポーツの領域にまたがる銃までも規制の対象にするつもりは、この大統領には絶対にありませんからね」と、彼は力説していた。
このときのジョージ・ブッシュも、いつものとおりたいそうアメリカ的であっただけだ。それ以上でもそれ以下でもないのだが、ハンドガンやライフルに対する自由なアクセスに関して、大統領自らがこういうことを言わなくてはならない国というアメリカは、世界ぜんたいのなかに置きなおして観察すると、たいそう奇異に映ることは否めない。
あのときはアブトマト・カラシニコフ47という銃が問題になっていたのだ、といま僕は思い出す。カラシニコフという人の設計にもとづいて旧ソ連が作り出し、自国の軍の正式銃となり、ソ連だけではなく多くの共産圏国でライセンス生産され、そろそろ一億丁にもなろうかという、共産圏を代表するアソールト・ライフルだ。
バナナ・クリップと呼ばれる、前方に向けて湾曲して突き出た、威圧的に大きな弾倉のうしろに引き金があり、さらにそのうしろにはピストル・グリップがある。このピストル・グリップが見た目の印象としていかにも攻撃的だから、印象を和らげる策として木製のストックの面積を前面に広げ、そこに親指を入れる穴を開けてグリップの代わりとするなら、そのカラシニコフはアソールト・ウェポンではなくスポーティング・ライフルになるという馬鹿げた話が、アメリカでは真面目に通用する。
アソールト・ウェポン十七種類の販売はいま法律で規制されている。この規制をなんとか緩和の方向へ持っていこうとする動きが、議会を中心にして強力に存在している。外出するとき護身用として銃を隠し持つことを大幅に許可する法律が、一九九五年じゅうにアメリカのおよそ半分の州で成立するだろう、という見通しもある。危険が増してきた世のなかで自己防衛をするにはそのような法律が必要だという、わかりやすい論理にもとづくものだ。
アメリカと銃との関係は建国にまでさかのぼる。そして建国の理念である自由や民主と、その後の歴史のなかで、銃は複雑に一体化している。税金だけは厳しく徴収しておきながら権利は認めないイギリスに対して、それでは自分たちだけで好きなようにやらせてくれ、と立ち上がったのがアメリカの建国だ。立ち上がったら戦争になった。アメリカふうの自由と民主は銃によって誕生し、銃によって維持されてきた。
アメリカがこれから銃とどのような関係を結んでいくかは、自由と民主を将来においてアメリカがどう定義しなおすかという問題と、根源的につながってひとつだ。銃というアメリカらしさによって、自由と民主というアメリカらしさのおそらくは質的な変化を、アメリカはその内部から迫られつつある。
キャロル・ホルトグリーン
キャロル・ホルトグリーンはF‐14という戦闘機のパイロットだった。アメリカの女性の軍人だ。航空母艦への着艦訓練をしていたとき、彼女の機体はエンジン不調におちいった。母艦のすぐそばで機体ごと海に墜落し、キャロルは命を失った。うしろの席にいた同僚は、墜落寸前にベイル・アウトして無事だった。
このときの様子はヴィデオに撮影されていた。その映像を僕はCBSの『イーヴニング・ニュース』で見た。航空母艦の着艦デッキが、こちら側から向こうへ、画面の下に縦位置にとらえられていた。そのデッキに向けて、海の上の超低空を、キャロルのF‐14が進入して来た。機体は左に傾いていた。左のエンジンは明らかに停止していた。着艦を誘導する担当者は、「ベイル・アウト! ベイル・アウト!」と、無線をとおしてキャロルに叫んでいた。機体はさらに左へ傾きつつ、大きく左へそれて海へ墜落した。
左エンジンの作動不良におちいった機体をなんとか救おうと、自分に出来るあらゆることを彼女は試みていたのであり、彼女の操縦ミスという可能性はゼロであるという正式な発表が、その事故からかなりあとになっておこなわれた。彼女の事故の直後から、彼女を中傷する文書が出まわった。キャロル・ホルトグリーンは女性であるという理由だけで特別扱いを受け、求められている水準に技量が達しないままにF‐14のパイロットになったのであり、今回の事故はそのことの当然の結果だ、という内容の文書だ。
この文書が男たちの側から発せられたものであることは、まず確実だ。内容の一部がおなじニュース番組で読み上げられるのを僕は聞いたが、なんとも言いようのないみじめなものだった。キャロルは戦闘機のパイロットとして充分に一人前であったという発表は、事故原因の発表であると同時に、この怪文書による中傷を正式に否定するためのものでもあった。女性の兵士たちについて考えるとき、彼女たちは女だから、という発想が思考の発端となる人がいまも多数いるに違いない。
ごく最近までは、軍隊は男だけの世界だった。そこへ女性が入って来た。いまでは軍隊のどの部署にも女性がいると言っていいほどに、女性兵士の数は増えた。そのこと自体に対する男性の側からの反感は、いまも根強い。男だけの世界を伝統として守ってきたミリタリー・アカデミーに女性が入学を試みると、アカデミーの内外からさまざまな反対意見が出て賛成意見と衝突しつつ、地域社会ぜんたいの問題となったりする。伝統を伝統として守ることには意味があるし、とにかくどこへでもいいから女性も進出すればいいというものでもない。しかし、軍のなかでの女性の数は増えるいっぽうだし、位置も向上を続けている。
アーリントンの儀礼兵に女性が加わるべく、連日の厳しい訓練を何人かの女性たちが受けている報道を、僕はごく最近に見た。女性のドリル・サージャントが、新兵をすさまじい勢いでいじめ抜いて基礎訓練をほどこしている様子も、ニュース番組のなかに見た。ブート・キャンプへ取材にいけば現実を目のあたりにすることが可能なはずだ。戦闘機の女性パイロットは珍しい存在ではない。
アメリカ海軍の航空母艦にドワイト・D・アイゼンハワーというのがある。乗組員の総数は五千人だ。五千人といえばちょっとした町の人口だ。この五千人のうち四百五十人が女性だ。六か月のトゥアー・オヴ・デューティを終えて母港に帰還したこの航空母艦を、『イーヴニング・ニュース』が取材していた。「航空母艦の乗組員であれなんであれ、女性が軍務に適していないという考えかたは完全に間違っている」と、艦長は語っていた。クルーの一割近くが女性であるこの航空母艦は、男女のじつに見事な共存組織だということだ。
着艦トレーニングのやりなおしのために離船を命じられた戦闘機のパイロットには、女性もいたし男性もいた。厳密に計測されるのは兵士としての能力であり、性別などではない。航海中に妊娠した女性が何人かいた。このためU・S・S・D・D・アイゼンハワーは、ラヴ・ボートという愛称を一時的にもらった。妊娠した、というのは正確ではない言いかただ。航海中に妊娠が進行した、と言うべきだろう。寄港先で配偶者が待っていれば、そこで妊娠があってもなんら不思議ではない。
「水の消費が激しいんですよ」と、艦長は語った。「女性の乗組員が頻繁にシャワーを使うせいかと思って調査したところ、まったく逆なんです。女性がいなければ二日に一回しかシャワーを浴びない男たちが、みんな一日に二回もシャワーを使うということが判明しましてね」
女性の戦闘機パイロットが敵との戦闘フライト・ミッションに加わることを、国防長官が許可するとかしないとかの話が出ていたのは、ほんの三、四年前のことだ。リチャード・チェイニーは賛成し、軍の上層部は反対し、公聴会が開かれるというようなことが、確かあったはずだ。狭い艦内に寝台が何層にも密集する航空母艦や潜水艦には、女性の乗組員は認められないという意見がこのとき出ていた。現実はそんな意見をとっくに置き去りにして、はるか先を進んでいる。
航空母艦の女性乗組員が総員の一割に達しようとしているとき、女性兵士というものに対して明らかに消極的だった陸軍と海兵隊が、合計で八万人分のポストを女性に開放することになった。これがそのまま実現されると、アメリカの全軍の八割以上が、男女の性別を問わない場所になるという。地上で敵兵と射ち合って戦争する任務の部隊と、そのような任務に直接に関係する部署にだけは、少なくともいまのところは女性は許可されていない。
女性の数が急激に増えていきつつあるアメリカの軍隊を取材する機会として、湾岸戦争は絶好だったはずだ。取材すればよかった、といまになって僕は思う。いまからでも遅くない。湾岸の映像は大量に残っているはずだし、現状というものは、それがあるところへいけばそのままそこにある。女性兵士が増えていく軍隊というものをとおして、アメリカという国家を描くことは充分に可能だし興味深い。
湾岸戦争のさなか、サウディ・アラビアの上空で、空中給油機から戦闘機に給油しているアメリカの女性兵士という存在について、ほんの一例として僕は思う。航空燃料を大量にかかえた巨大な給油機が、サウディの上空を飛んでいる。窓の外には、一見したところ強烈に晴れた空しかないが、じつは給油機を中心にして、燃料をほぼ使いきって補給を受けに来た戦闘機で大渋滞している。それらを一機ずつ無線でさばきながら、二十代の女性兵士が、ごくあたりまえのことのように、任務をこなしていく。
ひとつ前の世代の空中給油機では、給油をする管であるブームのオペレーターは、腹ばいになってブームを操った。いまの給油機ではオペレーターは座席にすわってブームを操作する。座席のすぐ前に四角い大きな穴がある。給油機の胴体後方の、真下だ。給油を受けに来たレシーヴァーである戦闘機を、この穴から直接に、オペレーターは見ることが出来る。穴の外の上方から、給油ブームが斜め下に向けて伸びていく。ブームには動翼があるから、オペレーターはそれを操舵することが可能だ。
給油ブームの長さは伸びきって十二メートルほどだ。つまり給油機の胴体のすぐ下、十二メートルほどのところに、レシーヴァーの戦闘機が位置することになる。高度は三千フィートほどだ。まわりは要するに空であり、下には雲や地表が見える。自分に向けて伸びているブームに向けて、戦闘機のパイロットは機体を接近させていく。
給油機のブーム・オペレーターは、ブームの鮮やかに彩色された先端で、レシーヴァーの受油口を狙う。F‐14なら左の主翼のつけ根の前方に衝突防止灯がある。このランプのすぐ左に受油口がある。ブームの先端が受油口に入ると、それは自動的に固定される。そして毎分千五百ガロンの航空燃料が、給油機からレシーヴァーに向けて流れ始める。ブーム・オペレーターの技量は、給油時間の増減に決定的に関係する。
給油機と戦闘機という、ふたつののっぴきならない現場の接点で、冷静に沈着に的確に、そして戦闘機のパイロットの冗談に言い返すことすらしながら、任務をまっとうしていく彼女のなんというアメリカらしさであることか。そのアメリカらしさの背後に、アメリカという国の力を僕は確実に見る。
日本についても、僕は思わざるを得ない。自立した女性とか、仕事を持って生きる女性というようなイメージを、現実というしがらみとどのように折り合いをつけていくか、というごく初歩的な段階の日本から見ると、アメリカの女性兵士たちは、比喩で言うなら何光年も引き離した前方にいると言っていい。初歩的なだけではなく、大きく欠落したものが、日本の遅れ具合のなかにあるようだ。欠落しているものとは、たとえば国家観あるいは歴史観だ。国家観とともに、軍隊や戦争、そしてその他の、国家とのさまざまな関係などについての思考や実践も、抜け落ちている。そういったことについて、考えようと試ることすらもはや出来ない状況が、いまの日本の人たちにはあるようだ。
新しい可能性としての、軍隊という組織。アメリカは、自分たちの軍隊に関して、このような可能性を見ている。男女の性差とともに、あるいはそれよりも先に人種差に関して、たとえばアファーマティヴ・アクションとはなんの関係もないまま、他に例のない白と黒との見事な共存をアメリカの軍隊は持ってきた。ずっと以前からそうなのではなく、以前には人種差は厳しく存在し機能してもいたが、ヴェトナム戦争よりこちら側という短い歴史で言うなら、アメリカの軍隊のなかでは白も黒も褐色も、差を設ける根拠としてはほとんど機能していない。
軍隊は完全な能力社会だ。部署のひとつひとつにファミリーとしての強いつながりがある。差はひとりひとりの兵士の能力や訓練度、そして階級だけだ。黒が白を怒鳴りつけ、しごき上げ、こき使う光景は、少なくとも軍隊のなかでは、ごく普通にあるものだ。軍隊のなかでは人はチームを組んで活動する。チームを構成する全員が、目的とその達成のための技術でつながっている。日常というしがらみから明確に切れた世界で、全員が等しく機能しなければならない。肌の色など、そのことになんの関係もない。出来る奴は昇進していく。あまり出来ないのは、おなじ位置にとどまる。ただそれだけのことだ。
しかし、将軍の位置になると、有色の人は極端に少なくなる。これは別の問題なのだろう。別の次元の問題を解決するには、もっと長い時間が必要なのだと考えなくてはいけない。志願兵の三十パーセントが黒人だ、という数字がある。黒人がこれだけの数になってくると、上層部にも変化が出来始めて当然だ。変化がもしなければ、そこでアメリカの軍隊は二流以下に転落する。
仮想敵国からの攻撃に対して、全軍のあらゆる部署が、一日二十四時間いつでも、一年三百六十五日いつでも、即座に迎撃と攻撃に移ることの出来る態勢というすさまじい機構を、世界最大のスケールで、この五十年間、アメリカは維持し続けてきた。技術開発力や生産能力のずば抜けた高さ、資源の途方もない豊かさなど、すべてのハードウエアの向こうに、明確きわまりない国家観と歴史観、そしてそれらのおなじく明確きわまりない市民的共有というソフトウエアが、アメリカの力として横たわっている。そしてそれが、たとえば旧ソ連を囲い込んで外とのつながりを断って密室として孤立させ、西側から完全に切り離して崩壊させることをとおして、西側へ引き込むことに成功した。まだ副大統領だった頃にニクソンが言ったとおりの展開となった。
昔、たとえば開拓時代には、男女の性差はあって当然だった。それがなければ社会は機能しなかったはずだ。開拓時代は終わって久しく、全土は基本的にはすべて都市化されたと言っていい。都市のなかで生きていくとは、頭脳労働の切り売りをいかに巧みにおこなうか、ということだ。頭脳労働をするにあたっては、そしてその質に関しては、男女のあいだに性による差などありはしない。そのような視点から、社会のなかにいまでも無数に残っている性差をあらためて観察すると、性差というものの異様さが浮かび上がる。その異様さを、ひとつひとつ消して普通にしていこうとする試みを、アメリカ社会は続けてきた。この意味で、アメリカは完全に都市化をとげただけではなく、少なくとも意識の上では、充分に成熟していると言っていい。
女は割りを食うという思いと、その思いを支える現実は、しかし、まだ社会のなかに強固に残っている。テキサス女子大学という大学が共学に変えたところ、女性の学生たちは反対した。反対の意思表示に込めた彼女たちの力は、たいへんに強いものだった。男性が入って来ると女性はかならず二次的な存在となり、すべての点において女性は割りを食うこととなり、大学ぜんたいが男性原理となってしまうから、というのが共学反対の理由だ。女子大としての伝統を守るというようなことではなく、女性が女性主導で教育をまっとう出来る場を確保しておきたい、ということだ。
上下両院の議員選挙に関する、男女比の数字は興味深い。選挙活動で使う資金は、男性の一ドルに対して女性は六十七セントだという。資金総額をくらべると男性と女性の比は二対一だ。資金になぜこのような差が出るかというと、女性の候補者には女性から寄付が多く集まるからだ。数としては比重は大きいのだが、寄付された金額の総計となると、さほど多くはならない。女性にも開かれている就労チャンスは男性にくらべて少なく、給与所得は男性より低い。その結果として、議員候補者に女性たちが選挙資金として寄付する金額は、男性からのものにくらべると低くなる。
両院のオフィス・ホールダー、つまり両院でなにかの部署の長になっている女性は、男性にくらべるとたいへん少ない。資金というものはオフィス・ホールダーに流れる。だから女性には資金は流れにくくなる。選出されて長の位置につくオフィスを、女性議員は男性にくらべて五分の一しか獲得していない。一九九三年の数字だったと思うが、女性のオフィス・ホールダーは下院で二十九名、上院では二名、そして知事は三名だった。
普通の日常生活にもっと近い領域の数字をあげるなら、一年間にアメリカ国内で殺される四千五百人の女性のうち、三人にひとりは夫ないしはボーイ・フレンドによって殺されるという、驚嘆すべき数字がある。女性は結婚すると殺される率が急上昇する、という言いかたがアメリカにはある。殺されるとは、夫によって、という意味だ。結婚すると、という言いかたを、男性とかなり親しくつきあうと、というふうに換えなければならない、と最近では言われている。アメリカの女性が殺されたり強姦されたりするのは、よく知っている男性や親しい男性、そして夫によってであるというのは、残念ながら正しい。
彼女は女だから割りを食わせても構わないという根強い考えかたは、キリスト教を背景にして成長してきた近代の自我のなかにある。その自我は、進歩や発展をしなければ、最終的には評価されない。発展したり進歩を遂げていくことが期待される領域のなかに、女性は含まれていなかった。女性のほかには、老いること、あるいは老いた人たち、病気、病気の人たち、そして死そのものなどがあった。老いには敬意が表されるべきとされ、病には進歩した治療があり、死に関しては尊厳が語られている。かなりのところまで女性もすくい上げられた。自分たちの近い過去である近代というものを、徹底的に懐疑的な視点から検証しなおすトータルな作業が、じつはフェミニズムだった。
片岡義男(かたおか・よしお)
一九四〇年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。作家。エッセイ、評論でも活躍している。一九七四年『白い波の荒野へ』でデビュー。『スローなブギにしてくれ』で野生時代新人賞受賞。著書に『ロンサム・カウボーイ』『彼のオートバイ、彼女の島』『メイン・テーマ』『彼女が演じた役』『東京青年』『映画を書く――日本映画の謎を解く』『道順は彼女に訊く』『小説作法』『赤いボディ、黒い屋根に2ドア』『日本語で生きるとは』など多数。
本作品は一九九七年五月、筑摩書房より刊行された。