紅 〜醜悪祭〜 (下)
片山憲太郎
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第六章 生還
紅《くれない》真九郎《しんくろう》は、占いがあまり好きではなかった。
特に、テレビや雑誌の占いは嫌いとさえ言っていい。テレビで「次は、今日の占いコーナーでーす」とアナウンサーが報《しら》せればすぐにチャンネルを変えるし、雑誌で『今週の星座占い!』などのぺージがあったら、それを飛ばしている。特に望んでもいないのに、自分の運勢を知らされる。それが嫌なのだ。同様に感じる者は、おそらく少数派ではないはず。それなのに、テレビや雑誌の占いは続く。根強く続く。決してなくなることはない。これはどういうことか。マスコミの地味な嫌がらせでなければ、「運勢を知りたがるのは人間の本質であり、その欲求からは誰も逃れられない」、という思想が根底にあるのかもしれない。だとすれば、それは多分、正しいのだろう。普段は避けている真九郎も、今は己《おのれ》の運勢を知りたい。とても知りたい。近くにテレビがあれば、占いコーナーが始まるのを待とう。手元に雑誌があれば、真っ先にそのページを開こう。何だったら、占い師を捜してもいいくらいだ。
これから自分がどうなるのか、どうすればいいのか、是非《ぜひ》とも教えて欲しい。
まだ当分は夜明けの来ない空の下、真九郎はそんなことを思った。
十二月十七日。木曜日。午前二時三十五分。
真九郎の現在位置は、繁華街《はんかがい》。
より詳細《しょうさい》には、都心に程近い位置にある、深夜の繁華街。居酒屋や量販店、カラオケボックスなどが並ぶ大通りを、一人で歩いているところだった。どれだけ夜が更《ふ》けようと、この種の土地は眠らない。前後を行き交《か》うのは、仕事帰りのサラリーマンや、学生らしき若者たち。コンビニからはクリスマス関連の曲が流れ、シャッターの下りたドラッグストアの前では、酔っ払いが大声で談笑中。
煌々《こうこう》と光るネオン。雑多《ざった》な活気。前方から吹きつける、真冬の風。
「寒い……」
真九郎は思わず背中を丸め、肩をブルッと震わせた。
天気予報によれば、昨日の最低気温は六度。日付の変わった今日は、それ以下だろう。空《から》っぽの胃袋。蓄積した疲労。胸の鈍痛《どんつう》。おまけに上着もない状態では、冷たい風は体に毒。ただ歩いているだけでも、自然と体力を消耗《しょうもう》してしまう。もし近くに暖かい布団《ふとん》があれば、すぐにでも滑り込みたい気分である。
しかし、堪《こら》えよう。我慢《がまん》しよう。
この空腹も、疲れも、痛みも、寒さも、まだ生きている証拠。
まだ希望が残っている証拠。
そのことを、素直に喜ぶべきなのだ。
白い息を吐きながら進み、駅前に差しかかったところで、真九郎は初めて足を止めた。
横断歩道の向こう側に、苦手なものを発見。
二十四時間営業。年中無休の公僕《こうぼく》。
しかも運の悪いことに、相手側もこちらに気づいている。
道を変えるのは簡単だが、もし追われたら無駄に気力と体力を使うだろう。
さて、どうするか?
手をこすり合わせながらしばらく悩み、真九郎は決断。
あまり気は乗らないが、ものは試しだ。
ここは思い切って、前進してみるとしよう。
職務質問をしてきた年配の警官は、真九郎が警察に抱く信頼を五割ほど向上させるくらいに親切だった。些細《ささい》な行き違いで親と口論《こうろん》になり家を飛び出して街をうろついていたら妙な連中に絡《から》まれて上着と財布を剥《は》ぎ取られて途方に暮れていました、という情けない説明が疑われなかったのは、多分、今の真九郎の姿が本当に情けなく見えたからだろう。警官は、「そりゃあ災難だったなあ……。まあ、若い頃はいろいろあるわな」と同情するように肩を叩《たた》き、真九郎を近くの交番に保護。電車賃を融通《ゆうずう》し、始発が動くまでの滞在も許可。「話しづらいのはわかるが、親御《おやご》さんにはきちんと連絡しておくんだよ?」と厳《きび》しい顔で言い置き、再び深夜の巡回へと戻って行った。その後ろ姿に、真九郎は深々と頭を下げる。
世情《せじょう》の悪化が叫ぼれ、日夜|不愉快《ふゆかい》な事件の続く世の中であるが、それが全《すべ》てではない。一握りの善意によって、ちゃんと支えられている。だから、まだ完全には終わらない。まだ完全には腐らない。その片鱗《へんりん》にこのタイミングで触れられたのは、自分がまだ運から見放されてはいないということか。
交番には若い警官が一人残っていたが、真九郎には特に関心がないようで、まったくの無言だった。調書とボールペンを投げるようにして渡すと、すぐ事務机に戻り、週刊誌を広げる。ぼったくりバーの被害を訴《うった》えるサラリーマンや、ヤクザに絡まれた酔っ払いなど、避難所代わりに交番を利用する者は特に珍《めずら》しくない。ただのカツアゲ被害程度、自分で書けということだろう。しきりに欠伸《あくび》を漏《も》らす様子からして、夜勤が心底《しんそこ》不満なのかもしれない。真九郎は「お世話になります」と声をかけ、ロッカーの並んだ奥へ。椅子《いす》がなかったので、床に腰を下ろすことにした。歩道からは丸見えの位置だが、風が凌《しの》げるだけでも上等か。空腹と胸の痛みは、気合で堪えるとしよう。
「やれやれだ……」
壁に背を預けて眼《め》を閉じ、真九郎は深呼吸。
そうして静かに、ゆっくりと、全身の緊張を緩《ゆる》めていく。
五月雨《さみだれ》荘まではまだ遠いが、これで、ひとまずは落ち着くことができたわけである。ここなら安全性も高い。難問だった帰宅手段も、どうにか解決。家出やカツアゲの話は嘘《うそ》でも、財布がないのは真実なので、電車賃はありがたかった。いつ何処《どこ》で財布を失《な》くしたのかは、真九郎にもわからない。多分、走っている最中だろうが、記憶していない。そんなことを気にする暇《ひま》は、なかったのだ。無我夢中で、周りを見ている余裕などなかった。
何しろほんの数時間前、紅真九郎は、怪物と対峙《たいじ》していたのである。
幼《おさな》い少女、瀬川《せがわ》静之《しずの》の訪問に端《たん》を発する今回の仕事は、人捜し。
目的の人物は彼女の姉であり、名前は瀬川|早紀《さき》。その捜索のため、真九郎は行動を起こした。数日かけて情報を収集。瀬川早紀の人柄を知り、彼女が身辺整理を行っていたことを知り、一年前、何者かによって両親が殺害されていることなどを知った。そして目撃証言に基《もと》づき、違法カジノに潜入。失踪《しっそう》に関《かか》わる重要人物を特定。そこまでは順調だったのだが、そこから先がまずかった。大|失態《しったい》だった。お互いの求める情報を賭《か》けて、赤毛の少女と強奪戦。苦戦の末に、真九郎は店から逃亡。しかし結局は、追い込まれてしまったのだ。
冷静に振り返ることのできる今なら、よくわかる。
あれこそは絶体絶命。真九郎に抵抗の術《すべ》はなく、相手には逃走を許す隙《すき》もなかった。
にもかかわらず、危機を脱することができたのは何故《なぜ》か?
疲れ果てながらも、こうして無事でいられるのは何故か?
それは、真九郎にもうまく説明できない。予想外の事態が起きた、としか言えない。
無様《ぶざま》に一撃を喰《く》らい、崩《くず》れ落ちた真九郎の目の前が突然、暗く染まったのだ。
視界を埋め尽くす、闇《やみ》。
……ああ、意識が落ちたのか。
そう錯覚《さっかく》する真九郎の耳元に、救いの響き。
「十秒で復旧します。お急ぎを」
若い女性の声だった。
これは人為《じんい》的な停電。闇がホームを包む今こそ好機。瞬時にそう理解し、行動を起こせたのは、まだ頭に冷静な部分が残っていたからだろう。真九郎は床から跳《は》ね起きると、記憶を頼りに暗闇の中を走った。近くの階段を転がるようにして駆け下り、自動改札を飛び越えて街へ。背後で駅に灯《あか》りが戻るのに気づいても、ひたすら疾走《しっそう》。一心不乱に走り続け、ようやく繁華街に辿《たど》り着いた。
そうして、現在に至《いた》るわけである。
『真九郎。万一のときは、臨機《りんき》応変《おうへん》に対応するのよ? 危険を感じたら、すぐ引き返す。やばいと思ったら、さっさと逃げる。わかった?』
敗北で失うものを考えれば、今夜は逃げるが勝ち。まったくもって、村上《むらかみ》銀子《ぎんこ》は正しいということだ。彼女は常《つね》に正しい。その判断で唯一《ゆいいつ》理解できないのは、こんな不甲斐《ふがい》ない自分と、いつまでも親友でいてくれること。それだけだと思う。
腕時計を見ると、午前三時半を過ぎたところだった。
電車の始発が動くまで、あと一時間程度。五月雨荘に着いた頃には、もう日が昇っているだろう。部屋に帰ったら、まずは怪我《けが》の治療、そして食事。それから素早く制服に着替えて、学校。寝る暇はなさそうなので、睡眠は授業中に取るしかあるまい。
それにしても、あのとき助けてくれたのは誰だったのだろう?
迷わず信じたのは前に聞いた覚えのある声だから、だと思う。しかし記憶を探ってみても、該当《がいとう》する声は何故か見つからなかった。抑揚《よくよう》を抑え、あえて特徴を殺した声。相手の意識に、意味だけを残す発声法。それを用いる何者かが、あのとき、あの場所に……。
床の振動。誰かの足音。
止めどなく考え事をしつつ、少しまどろんでいた真九郎は、欠伸を漏らしながら顔を上げた。さっきの警官が帰って来たのかな、などと思いながら交番の入り口へ目をやる。
呼吸が止まった。
視線の先にいたのは、見覚えのある巨漢《きょかん》。
黒服に身を包み、何もかも鉄でできているような男。
「あんたはたしか……カジノの……」
呆気《あっけ》に取られる真九郎を気にせず、男は前に踏み出した。緩慢《かんまん》な動作で接近し、丸太のごとく太い脚《あし》が無造作《むぞうさ》に跳ね上がる。風圧。前蹴《まえげ》り。真九郎は咄嗟《とっさ》に左腕で受けるも、腕が痺《しび》れ、胸の傷に響き、結んだ口から「くぅ」と情けない声を漏らしつつ、後方へ跳躍《ちょうやく》。着地と同時に、その場にうずくまる。
真九郎の頭上から、男は無感情に名乗った。
「俺は、悪宇《あくう》商会のゲルギエフだ。記憶したかね?」
「記憶したよ」
あの違法カジノは、悪宇商会の傘下《さんか》。支配人が組織の人間であるのも道理だ。
こみ上げる苦痛を呑《の》み込みながら、真九郎は悔《くや》しさに歯噛《はが》み。
……ったく、何てしつこさだ!
危機はまだ去っていない。依然《いぜん》として継続中。
この巨漢が自分の前に現れたのは、そういう意味だろう。
そして多分、あの怪物も近くにいる。
「表に出ろ、小僧《こぞう》」
有無《うむ》を言わさぬ口調で、ゲルギエフは命令。事態の変遷《へんせん》に混乱しながらも、真九郎はそれに逆らわなかった。どの道この狭い空間では、逃げも隠れもできない。
警官の方を窺《うかが》ってみると、今の一部始終を見て、干渉《かんしょう》を放棄《ほうき》したようだった。壁際まで下がり、視線も外している。誰だって命が惜《お》しい。職業上は問題でも、生物としては賢明な判断だ。真九郎は責める気もなく、立ち上がって調書とボールペンを返すと、「失礼しました」と一礼してから交番の外へ。
そして迎えてくれたのは、冷たい風と明るい声。
「おー、出てきた出てきた!」
予想は当たった。
片手にボトルを持ち、ガードレールに腰掛けているのは、赤毛の少女。
裏世界の通り名は、〈孤人《こじん》要塞《ようさい》〉。
「えーと、あれから……三時間四十分くらいかな? 君、本当に逃げるのが上手《うま》いわね。駅の停電は、見事なタイミングだったわ。あれって、事前に仕掛けてたの? それともまさか、偶然? だったらすごーい!」
星噛《ほしがみ》絶奈《ぜな》はそう言って、愉快そうに笑った。
どうして居場所がわかったのか?
その方法については、絶奈があっさりと明かしてくれた。
要するに、真九郎は二つのミスを犯していたのである。
一つは、逃げ場所に繁華街を選んだこと。
もう一つは、自分と悪宇商会の関係を失念《しつねん》していたこと。
「部下から報告を受けて驚いちゃったわ。君の名前、うちの会社のブラックリストに載ってるのよね……。〈鉄腕〉と〈ビッグフット〉をぶっ飛ばして、〈ギロチン〉とは引き分けたんだって? 立派《りっぱ》な戦績ね。だからこそ、捜すのはとっても簡単だったけど」
組織に害を為《な》す者は、当然のごとく監視の対象。その手段の一つとして、組織はある物を利用していた。今のご時世、人の多い場所には必ず存在する物。疲れを知らない、機械の眼。無数の監視カメラだ。普段から監視下にある要注意人物、『紅真九郎』の所在《しょざい》を検索。ヒット。現地へ直行。つまりは、そういう流れ。必死の逃走も、知恵を絞《しぼ》った潜伏《せんぷく》も無意味。組織の力というものを、真九郎は甘く見ていたということだろう。
前方には、赤ら顔の星噛絶奈。後方には、無言で立つゲルギエフ。
対するこちらは深手を負い、体力も残り僅《わず》か。
置かれた現状を端的《たんてき》に評するなら、こう言うしかない。
……最悪だな。
希望を抱ける要素はゼロ。無事に乗り切るのは、どう考えても不可能だった。
項垂《うなだ》れながらため息をつき、それでもかろうじて拳《こぶし》を握る真九郎を見て、絶奈は「ん?」と不思議そうな顔。
「君、さっきから何でそんなに暗いの?」
「何でって、それは……」
「あー、強奪戦ね! ごめん。その件ならもういいのよ。今日はこれで、お開きだから」
「………」
「それがさー、君が逃げ回っている間に、トラブルが起きちゃって」
あっけらかんと笑う彼女の前で、真九郎は言葉が出てこなかった。
今夜は、あまりにもいろんなことがあり過ぎる。そろそろ許容を超えそうな勢いだ。
お開きとは、すなわち中断の意だろう。
駅で自分を追い詰めた際、彼女は「中途半端は嫌い」と言っていた。
それが、どういう心境の変化なのか。
この期《ご》に及んで、これほど有利な状況で、何故そんなことを?
当惑《とうわく》するしかない真九郎を気にせず、絶奈は悠々《ゆうゆう》とボトルに口をつけていた。アルコール度数四十五度のブランデー、グラッパ。イタリアでは食後酒として飲まれるもの。それを三分の一ほど飲んでから熱い息を吐き、絶奈は説明を始める。
トラブルが発生したのは、真九郎が駅から逃亡して数分後。絶奈も街へと繰り出し、まさに追跡を開始しようとしていたとき。彼女の携帯電話が、一通のメールを着信したのだ。送信者は不明。文面は、『本社ビルに爆弾を仕掛けた』、という簡素なもの。それを単なる妄言《もうげん》として処理しなかったのは、続けて送られてきた、二通目のメールを見たからである。
「第一級機密。うちの本社の住所と、その警備について詳細に記されてたわ……。どこのどいつか知らないけど、只者《ただもの》じゃないでしょうね。もしかして、紅くんの知り合いだったりする?」
探るような視線を向けられたが、真九郎は何も反応しなかった。
心当たりがなくとも、ここは沈黙を貫くのが正解。
今の自分にできる、なけなしの抵抗である。
特に気にした様子もなく、絶奈は説明を続けた。
「でね、その種の脅迫《きょうはく》はいつもなら相手にしないんだけど、今回は万一を考えて対応することにしたのよ。あちこち連絡して、人を動かして、安全確認が終わったのが一時間くらい前。で、君の居場所も同じ頃に判明したんだけどさ……なーんか興醒《きょうざ》めしちゃって。今から君を拉致《らち》して、ぶちのめしても、あんまり楽しくないっていうか、そんな感じ? だから、今夜はもうおしまい。メールの犯人捜しは社の方に任せて、わたしは明日の会議に備えて一眠りすることにしたわけ。どう? 事情は把握《はあく》してくれた?」
「……まあ、一応は」
魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》が俳徊《はいかい》し、権謀《けんぼう》術数《じゅっすう》の渦巻《うずま》く裏世界。悪宇商会ほどの組織になれば、降りかかる悪意も多いということだろう。真九郎の立場としては、思わぬ幸運と解釈するべきか。
しかし一つだけ、腑《ふ》に落ちない点がある。
「あの、それを伝えるために……わざわざここに?」
この程度の伝言なら、部下に任せれぽ済むこと。いかに彼女自身が始めた強奪戦とはいえ、こんな時間に、こんな場所まで本人が足を運ぶ必要はあるまい。
その疑問に対し、彼女は笑顔で回答。
「わたしがここに来たのはね、君に、どうしても訊《き》きたいことがあったからよ」
「何ですか……?」
「今夜の感想」
直《ただ》ちに意味を理解し、真九郎は少し呆《あき》れてしまった。
彼女が求めているのは、単なる感想ではない。どちらが勝者で、どちらが敗者か。どちらが強者で、どちらが弱者か。その確認をしたいのだ。それを相手の口から言わせるためだけに、会いに来たのだ。くだらないこだわり。それもまた、彼女の特性か。
真九郎は誤魔化《ごまか》す気もなく、正直に告げる。
「……俺の負けですよ」
「ありがとう、認めてくれて」
絶奈は眼を細め、ニッコリと笑った。
それは紛《まご》うことなき、勝者の笑み。
「そこをハッキリさせてくれたら、もう十分かしらね……。大きな収穫もあったことだし」
大きな収穫。
詳しい説明が欲しくとも、敗者の真九郎に問い詰める権利はなし。
目的を果たしてスッキリしたのか、絶奈は上機嫌でガードレールから腰を上げると、残りのブランデーを一気に飲み干した。
空のボトルを近くのゴミ箱へと放り投げ、だるそうに欠伸を一つ。
「じゃあ紅くん、いろいろお疲れさま。いずれ、また連絡するわ」
「……いずれって、いつですか?」
こちらの質問を受け流し、絶奈はロングジャケットを翻《ひるがえ》した。
真九郎に背を向け、ブーツを鳴らしながら緩やかに前進。その後ろに影のように従う、ゲルギエフの巨体。二人の姿が視界から消え、さらに一分ほど経過したところで、真九郎はやっと拳を解いた。途端《とたん》、その場にへたり込む。
体力の限界。加えて、予想外の展開に拍子《ひょうし》抜《ぬ》けし、緊張感が完全に切れてしまったのだ。もはや立ち上がる気力も湧《わ》かず、真九郎は思い切ってアスファルトに寝転がり、手足を伸ばしてみた。地面は氷のように冷たいが、かまうものか。通行人にジロジロ見られようと、そんなもの無視。星一つない空を眺《なが》め、深く長い息を吐き出しながら、考える。
一方的にやり込められ、何もできなかった自分。
敵は強大。問題は山積み。
果たしてこの仕事に夜明けが来るのかどうか、それさえわからない。
でも、それでも、今この瞬間くらいは前向きに捉えるとしよう。
そうするべきなのだ。
とにもかくにも、今夜は命拾いをしたのである。
体に傷と、心に謎を残して。
第七章 猶予《ゆうよ》
十二月二十二日。火曜日。
病《や》み上がりからの早期復帰には、まず生活リズムを取り戻すべし。そう考えた真九郎《しんくろう》は、朝日が昇る前に起床し、すぐに活動を始めた。布団《ふとん》を畳《たた》み、部屋の掃除。続いて廊下のモップがけ。階段に差しかかったところで、「神様、あたしに彼氏をください……」と落ち込みながら泥酔《でいすい》しているグータラ大学生を発見。彼女を自室に運び、ついでに空《あ》き缶などのゴミを処分。溜《た》まっていた洗濯物も処理。それから制服に着替え、朝食を済ませ、余裕を持って登校。
真っ先に職員室へ。
のんびりお茶を飲んでいた担任教師の園田《そのだ》と、
「紅《くれない》くんて、わりとちょくちょく休むけど……虚弱《きょじゃく》体質ってわけでもないわよね? 何かやってるの?」
「実は、バイトをしてまして……」
「どんなバイト?」
「……まあ、主に肉体労働ですかね」
などと会話し、欠席の理由を適当に伝えてから退出。その足で教室に向かおうとするも、ちょっと考え、一度購買部に寄って行くことにした。
静寂《せいじゃく》の支配する、早朝の校舎。真冬の冷気が漂う、無機質な廊下。空は濁《にご》り、空気も乾燥しているが、それらがあまり不快でないのは比較的体調が良いからだろう。
先週の半《なか》ばから休んでいたので、こうして学校に来るのは久しぶりである。
あの晩、星噛《ほしがみ》絶奈《ぜな》と別れた真九郎は、山浦《やまうら》医院に直行。怪我《けが》の治療を受けてから五月雨《さみだれ》荘に戻り、布団を敷く間もなく、倒れるように就寝《しゅうしん》。そのまま十時間近くも目が覚めなかった。ガス欠寸前の上に無理を重ねた影響は、かなり深刻だったのだ。遊びに来た環《たまき》に邪魔されたり、暇潰《ひまつぶ》しに来た闇絵《やみえ》に、「少年。女は恋で輝くが、男は苦難で輝くものだよ」と微妙に励《はげ》まされたりしつつ、真九郎は自室で静養。しばらくは怪我の回復に努めていたわけである。学校より体調を優先したのは、まだ終わっていないから。
近日中に、あの赤毛の怪物とまた会うことになるからだ。
彼女からまだ連絡はないが、強奪戦の再開は必至《ひっし》。こちらとしては、今のうちに可能な限り事態を把握《はあく》し、心身ともに迎撃《げいげき》準備を整えるべきなのだが。
「……どうも、イマイチなんだよな」
ぼやきながら頭を掻《か》き、真九郎は深いため息を漏《も》らした。
学校を休んでいる間、まったく何もしていなかったわけではない。痛む体を引きずりながらも、静之《しずの》に会いに行き、現状を報告。銀子《ぎんこ》には、電話を介《かい》して新たな調査を依頼しておいた。しかしそこから先、肝心《かんじん》の事件に関しては、まだ上手《うま》く整理もできていなかったのだ。
肉体ほどには、精神が回復していないということ。
あの晩に切れてしまった緊張の糸を、未《いま》だに繋《つな》げていないということか。
この調子ではまずいなあと思いつつ、真九郎は購買部に到着。朝練を終えた運動部の生徒たちに交ざりながら並び、アンパンと牛乳を購入。それを袋に入れて抱え持ち、階段を上がって一年一組へ。
薄暗い教室内にいたのは、相変わらず村上《むらかみ》銀子だけだった。ノートパソコンと向き合い、いつも通り仕事中。真九郎は蛍光灯のスイッチを押し、まずは教室に明かりを満たしてから移動。窓を開けるか少し悩んだが、今朝は寒いので断念。彼女のもとへ向かい、アンパンと牛乳を渡しながら「おはよう」と挨拶《あいさつ》。毎度のごとく返事はなかったが、受け取る動作から察するに、機嫌は悪くないようだった。
近くの窓に寄りかかり、その理知的な横顔を眺《なが》めつつ、真九郎はふと考える。
自己管理の徹底している銀子は、基本的に好調。仕事においても、「調子が悪い」という類《たぐい》の言葉を口にしたことは一度もない。だからこそ、彼女は情報屋として第一線で活躍していられるのだろう。未熟な揉《も》め事処理屋としては、ぜひとも見習いたい部分だ。
真九郎は、「なあ、銀子……」と試しに質問。
「何かさ、こう、パーッと頭が冴《さ》える方法ないかな?」
「先月の支払い」
「えっ?」
「払える目処《めど》、ついたの?」
「いや、それはまだ……ちょっと……」
「もしダメな場合は?」
「あー……冬休みの間、粉骨《ふんこつ》砕身《さいしん》、お店に従事させていただきます」
よろしい、と頷《うなず》き、銀子は続ける。
「あんたに頼まれてたものは、机に入れておいたわ。休み中のノートも、コピーしておいた。他に必要なものがあるなら、あとで聞いてあげる」
「……はい、いつもありがとうございます」
真九郎が頭を下げると、彼女はきっぱり会話を終了。そして再び、作業に没頭《ぼっとう》し始めた。
しばしその場に立ち竦《すく》みながら、真九郎は軽いため息。ただし、苦笑を添えて。
やや無理やりではあるが、少し目が覚めたような気がしたのだ。
五月雨荘の業務よりも、担任教師の言葉よりも、朝の冷たい空気よりも、幼《おさな》なじみの厳《きび》しい言葉の方が紅真九郎には効果的ということか。多分、昔からあまりにも頻繁《ひんぱん》に叱《しか》られているので、直《ただ》ちに覚醒《かくせい》するよう本能に刷《す》り込まれているのだろう。自分の人生において、最も多く叱責《しっせき》を受けたのはもちろん母親だが、その次は、間違いなく村上銀子なのだ。
真九郎は別の話題を出そうとするも、仕事を邪魔するのは悪いし、そろそろ他の生徒たちが教室に現れたので、おとなしく自分の席に帰還《きかん》。机の中に、A4サイズのコピー用紙の束を確認した。両手で軽く頬《ほお》を叩《たた》き、「……よし」と小声で一喝《いっかつ》。
英気は十分。
頭も多少は醒《さ》めた。
そろそろ、気合いを入れ直すとしよう。
世の中には多種多様な問題があり、それらに対する人間のスタンスは、およそ三つに分けられる。解決するか、上手《うま》く付き合うか、無視するかだ。無視するには「決断」が、上手く付き合うには「妥協《だきょう》」が、そして解決するには「知恵」が不可欠。
揉め事処理屋が選ぶのは当然、問題の解決だろう。
紅真九郎は、生憎《あいにく》と知恵は少々足りないが、周囲の善意や協力によってどうにかやっていられる状態。今回も、助けられっぱなしである。
午前の授業時間の大半を、真九郎は銀子から受け取った情報の入力と、整理に充《あ》てることにした。学生としては不真面目《ふまじめ》極《きわ》まりないが、仕方あるまい。
新たに調査を依頼したのは二点。
それに関しては、ある程度の回答が得られた。
まずは、星噛絶奈。通り名は〈孤人《こじん》要塞《ようさい》〉。悪宇《あくう》商会の最高|顧問《こもん》。彼女が若くしてその地位にいるのは、家柄が理由とのことだった。裏十三家の一つである〈星噛〉は、悪宇商会の設立に深く関《かか》わった一族。会社経営に参加するのが伝統。血筋だけでなく、その役職に相応《ふさわ》しい物理的な力まで備えているのは、裏世界ならではだろう。
身をもって体験した真九郎は、納得できる。あれほどの暴力があれば、たしかに柔沢《じゅうざわ》紅香《べにか》の命も狙《ねら》えるはずだ。車に乗ろうとしていた彼女の不意を衝《つ》き、戦闘用の義手で攻撃。それと同時に、地下駐車場に仕掛けた数十個の爆弾を作動。反撃も出口も封じて生き埋めにし、自分だけは余裕で脱出。異常な耐久力を誇る絶奈だけに可能な、メチャクチャな戦法である。
柔沢紅香は、裏世界の多くの組織にとって仇敵《きゅうてき》。悪宇商会も例外ではなく、絶奈は組織を代表して制裁《せいさい》を加えたというところか。あの紅香が簡単に奇襲《きしゅう》を喰《く》らった点は不自然だが、それは考えても意味がない。真九郎としては、大先輩である彼女を信じるのみ。
次に、赤い手紙について。これに関しては、真九郎は現物を見ておらず、怪《あや》しいと思う根拠は静之の証言だけ。なので、前回は調査に含めなかったのだが、今回は藁《わら》をも掴《つか》む思いで頼んだのだ。赤い手紙の絡《から》んだ失踪《しっそう》事件が他にも起きているか、一応調べて欲しいと。
結果は、意外なものだった。
今年だけで五十件近く。過去に遡《さかのぼ》れば、その数倍。警察に届けられた捜索願の中に、似たような事例がいくつもあったのだ。「失踪前に赤い手紙が来ていた」という証言。失踪した本人以外、誰も手紙の中身を見ていない点なども同様。ろくに報道されていないのは、現代社会の歪《ゆが》みだろう。今や、年間の失踪者は数十万人。不可解な理由で消える人間はいくらでもいる。明確な事件性がない限り警察は着手せず、派手《はで》好きのマスコミにしても、食いつく価値はないということだ。失踪した者のデータは表にまとめられていたが、出身、年齢、性別、何もかもバラバラで、特に共通点は見当たらなかった。
ここまでが真九郎の依頼で、さらに銀子から追加事項が二つ。
一つは残念な報告。瀬川《せがわ》夫妻の殺人事件に関しては、捜査の遅延《ちえん》に不審《ふしん》な部分はあれど、その詳細《しょうさい》は不明とのこと。ただ、上層部から何か圧力があったのだけは間違いないらしい。
もう一つは嬉《うれ》しい報告。瀬川|早紀《さき》の、新たな目撃情報だ。日付は十二月九日。時刻は午後一時ごろ。場所は千葉県にある古い寺で、目的は両親の墓参りと推測される。花束を持ち、平日の昼間に訪れる光景はかなり目立つので、地元の人間に記憶されていた。時間からして、違法カジノ店に向かう前のことだろう。
なるほどね……。
指先でシャーペンを回しながら、真九郎は小さく頷いた。周りで居眠りする生徒たちを横目に、落ち着いて考えてみる。
駆け落ちの線は、消えたとみていいはずだ。相手の男が実在しているなら、何処《どこ》かで目撃されていなければおかしい。日常生活、バイト先、墓参り、タクシーの車内。いずれにおいても姿がないことから、その可能性は除外。赤い手紙については、失踪とワンセットの関係にあると判明した。ならば、赤い手紙にも悪宇商会が絡んでいると考えるのが自然。瀬川夫妻の殺人事件が放置されている点は、取り敢《あ》えずは保留。
今までの情報を整理すると、要するにこういうことか。
姉妹で暮らすアパートに、ある日突然、一通の赤い手紙が届いた。送り主は悪宇商会。手紙を読んだ姉は、ヤクザから拳銃を入手し、妹を残して外出。まずは両親の墓参りに赴《おもむ》き、その後、タクシーに乗って違法カジノ店に向かった。
それが事件のおおまかな流れであり、わかっているのもそこまで。
真九郎は、静之に会いに行ったときのことを思い出す。
簡単な報告を済ませると、彼女はこちらをじっと見つめ、こう言ったのだ。
「もめごとしょりやさん。しつもんしてもいいですか?」
「どうぞ」
「アニメでいうと、今、どのへん?」
「……アニメ?」
真九郎は一瞬言葉に詰まるも、「まあ……CMに入った辺《あた》りかな」と答え、静之は「はんぶん……」と納得するように頷いていたが、どうやらそれは、随分《ずいぶん》と甘い見通しのようだった。
外枠《そとわく》はハッキリしても、核心部分は空《から》っぽ。
半分どころか、まだ尻尾《しっぽ》を掴んだに過ぎまい。
しかも、これ以上捜査を進めるなら、あの赤毛の怪物をどうにかする必要がある。
今さらながらに、真九郎は痛感。
これは、過去最年少の依頼人が持ち込んだ、過去最大の仕事なのだ。
この難関を、自分は越えられるのだろうか?
学校とは、長期でやってる大規模な合コンみたいなものである。
というのは隣近所に住む女空手家の持論であり、真九郎としては大きな疑問符を付けたいところだが、もしそのような観点があるなら自分は脱落者。何の見込みもなく、周りの輪《わ》から完全に外れている状態だろうな、とは思う。しかし、そんな紅真九郎にも、進んで交流してくれる女子生徒が二名いる。
昼休み。久しぶりに学食を利用しようと思い立ち、真九郎が廊下を歩いていると、そのうちの一人に笑顔で呼び止められた。
相手は二年生。名前は、崩月《ほうづき》夕乃《ゆうの》。
「真九郎さん。お話したいことは、い――っぱいありますが、あえて語らないでおきます」
顔と口調が柔らかくとも、真九郎にはわかる。彼女が不機嫌なのが、よくわかる。即座にその理由も察し、「……申し訳ありません」と真九郎は謝罪した。
当主代行ともなれぽ、様々な情報が耳に入る立場。先週の件も、ある程度は知られてしまっているのだろう。不肖《ふしょう》の弟子としては、ただ平身《へいしん》低頭《ていとう》するのみ。
「わたしは、真九郎さんを信じます。愛は、信じることですから」
夕乃は大きく頷き、「どうぞ」と白い包みを差し出す。
中身は、温かい容器。手作りのお弁当。
真九郎はその心|遣《づか》いに感謝し、もう一度、深々と頭を下げることにした。
昔から野球好きで、夕飯時にテレビのプロ野球中継を楽しむことも多い真九郎だが、生《なま》で試合を観戦したことは一度もない。
ただし、観《み》に行こうとした経験ならある。
まだ小学生の頃の話で、きっかけは単純なものだった。同じクラスの男子から野球観戦の楽しさを自慢され、いてもたってもいられなくなったのである。真九郎はすぐ観に行こうと思い、その方法を考えた。家族はダメだ。いきなり頼もうにも、お父さんは会社から帰ってくるのが遅い。お母さんは家事がある。お姉ちゃんには部活がある。しばらく悩んだ末に、親友の力を借りることにした。ラーメン屋の銀子ちゃん。彼女は「読みたい本があるから」と最初は断ったが、真九郎がしつこく頼み続けると、「まったくもう……」と妥協。渋々《しぶしぶ》ながらも準備を開始。浮かれた真九郎が鏡の前に立ち、野球帽はどの角度で被《かぶ》るのが一番カッコイイかを研究している間に、彼女は現地までの道のりを調べ、必要な交通費を計算し、以後のスケジュールを決定。「さ、行くわよ」と真九郎の手を引いて出発。その道中、真九郎は胸がドキドキしてたまらなかった。憧《あこが》れの選手の活躍を、近くで見られる。バットの音やボールの動きは、テレビと違うのだろうか。僕の応援する声は、ちゃんと届くのだろうか。そんなことを思いながら電車に乗り、野球場前に到着。しかしそこで、銀子が不思議なことを言い出した。「真九郎、チケットは?」「ちけっと?」。当時の真九郎は、チケットの存在をよく知らなかった。遊園地でも映画館でも、真九郎の頭にあるのは、いかに楽しむかということだけ。両親が係員にチケットを渡すところを、ろくに見ていなかったのである。よくわからないけど大丈夫だろう、と真九郎は思った。野球場は、野球が好きな人たちが集まる場所なのだ。僕は、ボールを投げるのも打つのも下手だけど、野球が大好き。銀子ちゃんだって、こうして一緒に来てくれるんだし、嫌いではないはず。だから中に入れる。真九郎はそう思った。銀子が何も反論しなかったのは、真九郎の熱意に押されたからか。それとも、言っても聞かないと諦《あきら》めたからか。とにかく二人は、野球場に進行。入り口へと吸い込まれる長い列に加わった。やがて真九郎たちの番が来ると、係員の男がこちらを見下ろし、手を差し出した。「君たち、チケットは?」「ありません」。二人は列から追い出された。真九郎と銀子を残し、次々と入場していく客たち。こちらを指差しながら、何人かが笑っていた。真九郎と同じくらいの歳《とし》の子も、馬鹿《ばか》にするように笑っていた。おかしい。こんなはずはない。制止する銀子の切り、真九郎は係員に詰め寄った。僕は野球が大好きなんです。試合が見たいんです。応援したいんです。ここはファンが入れる場所なんだから、僕と銀子ちゃんも中に入れてください。係員は言った。「坊や、お金は?」。お金ならある。真九郎はポケットに手を入れ、持っているお金を全《すべ》て差し出した。硬貨が数枚。帰りの電車賃。係員はそれを一瞥《いちべつ》すると、近くにいた同僚と顔を見合わせて、笑った。それだけだった。
そして真九郎は、途方に暮れたのだった。言うまでもなく、悪いのは自分。チケットがないのが悪い。お金がないのが悪い。だから周りの人たちを責めるのは筋違い。でもそのときの真九郎は、とても大きなショックを受けた。それまで、他人から冷たくされることに慣れていなかったから。この世界の人たちは、みんな優しいと思っていたから。お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、銀子ちゃんも優しいから、ここは優しい人たちが住む世界だと思っていたのだ。真九郎はそのとき初めて、それが間違いであると気づき、「現実社会」というものを認識したのだろう。そしてほんの少しだけ、子供ではなくなってしまったのかもしれない。
学校帰りの道すがら、茜《あかね》色の空を見上げながら、真九郎はそんなことを考えた。
時刻は夕方。
放課後、真九郎は銀子と並んで下校中。風は相変わらず冷たいが、クリスマスイブを明日に控《ひか》えた辺りの景色は、実に華《はな》やかなものだった。商店には煌《きら》びやかな飾りが施《ほどこ》され、あちこちから聞こえるのはジングルベル。道行く人たちの表情は一様《いちよう》に柔らかく、まるで街全体が浮かれているかのようである。
惜《お》しむらくは、その明るい雰囲気《ふんいき》に、二人は特に関心がないということだろう。
同じクラスにいながら、真九郎と銀子の下校時間が重なることは滅多《めった》にない。入学当初から数えても、かなり珍《めずら》しいことだった。彼女がいつものように部室に寄らなかったのは、もうすぐ年末だから。商店は何処も忙しくなる時期であり、看板娘としては家業を優先。真九郎も、このあと予定が一つ。帰り際にメールがあり、紫《むらさき》と会う約束。
かくして久しぶりに、一緒に下校することになったわけである。
二人は特に会話もなく商店街を抜け、やがて駅に到着。周りの流れに乗って改札口を通り、階段でホームに上がった。タイミング良く走りこんで来た電車に乗ったところ、これまたいい具合に空席を発見。真九郎は銀子に端を譲《ゆず》り、自分はその隣へ。扉が閉まって電車が動き出すと、彼女はすぐに鞄《かばん》を開き、文庫本を取り出す。電車やバスの移動中は、たいてい読書。それが、村上銀子の生活スタイルなのだ。
マイペースに読書を始める銀子の隣で、真九郎は一度深呼吸。そして、少し考察してみることにする。対象は〈孤人要塞〉。破格の耐久力を誇る、赤毛の少女。彼女自身は「強いから」と言ってのけたものだが、あの打たれ強さには、何か仕掛けがあるとしか思えなかった。
だとすれば、どんなものが考えられるか?
普通に思いつくのは、防護服の類。一般的に、防護服といえば機能|一辺倒《いっぺんとう》で無骨な品を連想されがちだが、それは昔のこと。最近は、アラミド繊維《せんい》を使ったジャケットやスーツ、ネクタイ、下着なども流通している。一部のメーカーでは、鋼鉄の十倍近い強度の物すら販売中。無論、そこまでになると値段も高級車並みであり、客は世界的なVIPに限定されるが、星噛絶奈なら余裕で含まれるはずだ。電車に撥《は》ねられても破れなかった衣服は、おそらく特注品と考えて間違いあるまい。
しかし、それではまだ不十分。あの馬鹿げた耐久力の説明には足りない。
最も可能性が高いのは、やはり血統。
裏十三家の一つ、〈星噛〉の特性とみるべきだろうか。
残念ながら、そればかりは銀子に調査を委《ゆだ》ねるわけにもいかなかった。裏十三家の情報は、完全に禁忌《きんき》。迂闊《うかつ》に探ればどうなるかわからないのだ。かといって、崩月家に頼るのも論外。自分の都合で家を出ておきながら、仕事でいちいち泣きつくなど許されないだろう。
結局は、出たとこ勝負ってことになりそうだな……。
頭の後ろで指を組み、真九郎がしばし唸《うな》っていると、電車が大きくガタンと揺れた。近くにいたサラリーマンが僅《わず》かによろめき、女子高生たちは小さく悲鳴を上げたが、隣の銀子は無反応。周囲をまるで気にせず、熱心に本を読みふける姿は、書店のポスターに使えそうなほど見事なものであった。
その様子に苦笑しながらも、稀《まれ》な機会なので、真九郎は何か話題を振ることにする。
少し考えてから、彼女の華奢《きゃしゃ》な肩を指先でノック。
「銀子。今の仕事が片付いたらさ、デートでもしないか?」
「どこで?」
「どこでって……それは、まあ、美術館とか映画館とか、植物園とか、いろいろあるよ。買い物や、公園を散策するのでもいいし……」
「美術は興味がない、映画はレンタルで充分、植物園は嫌い、買い物はネットで済む、公園は時間の無駄」
「あー……」
「いい場所が浮かんだら、また誘いなさい」
返す言葉がなく、真九郎は呆気《あっけ》なく敗退。たまには年頃の若者らしい発想をと思ったのだが、なかなか上手くいかないもの。これもまた、自分が未熟であるゆえだろうか。
車内に流れるアナウンス。徐々《じょじょ》に速度を緩《ゆる》める、電車。
自分の降りる駅が近づいて来たところで、銀子はようやく読書を終了。栞《しおり》を挟《はさ》んで本を閉じると、それを鞄に仕舞《しま》ってから静かに腰を上げた。
真九郎へと振り返り、「一応確認しておくけど……」と、厳しい口調。
「あんた、今週の土曜日が何の日か、忘れてないでしょうね?」
「終業式だろ?」
「支払いの期限よ」
「………」
「ギリギリまで待ってあげるから、ちゃんと全力を尽くすこと。あんたもプロなら、プロとしての誠意をみせなさい」
「……はい、善処《ぜんしょ》します」
銀子と別れた後、真九郎は彼女の座っていた位置に移動。やがて自分の降りる駅に到着したが、腕時計を見ると紫との待ち合わせにはまだ余裕があるので、もうしばらく電車に乗っていることにした。
鞄を膝に置いて深く座り直し、中吊《なかづ》り広告の並ぶ天井を見上げながら、考察を続行。
事件の真相や星噛絶奈の攻略法以外にも、真九郎にはもう一つ問題があった。
深夜の駅のホームで聞いた、謎の声。
自分に助言を残し、絶奈に感づかれることなく姿を消した若い女性。
それに関しても、まだ一切掴めていないのである。思考の末に浮かんだものといえぽ、『あの声の主と絶奈にメールを送信した人物は、同一ではないか』、という仮説のみ。
駅の停電と、脅迫《きょうはく》まがいのメール。その二つが短時間に重なることで、絶奈のやる気は削《そ》がれ、勝負は中断に導かれた。単なる偶然にしては、出来すぎな話。ならば、何者かが意図的に仕組んだと捉《とら》える方が自然だろう。だが、仮説が正しいとしても、狙いがわからない。
利益もなしに動く者など、裏世界には皆無《かいむ》。
まさか、見ず知らずの他人が、純粋な善意で真九郎を救ってくれたわけでもあるまい。
いったい何者が、何のために横槍《よこやり》を入れたのか?
電車が速度を落とし、駅に停《と》まった。サラリーマンや学生に加え、老人の姿も増えて来たのを見て、真九郎はそろそろ席を立つことにする。鞄を掴み、近くにいた高齢の女性に席を譲ってから移動。車内を見回し、乗車口の脇《わき》へ。しかし、何気なく上部の液晶画面を眺めたところで、思わず唖然《あぜん》としてしまった。画面に映っているのは、東京都の地図と天気予報、そして現在の時刻。その時刻が、予想を大幅に過ぎていたのである。慌《あわ》てて腕時計に目をやるも、さらに唖然。文字盤の秒針は完全に不動。どうやら壊れている模様。
税込み千円の安物とはいえ、購入して二ヵ月程度で故障するとは考えにくいのだが。
……あのときか。
真九郎は理由に思い至《いた》り、大きなため息を漏らした。一週間ほど前の夜、自分は交番で襲撃《しゅうげき》を受けている。相手は鋼鉄の巨漢《きょかん》、ゲルギエフ。多分、あの男の猛烈な蹴《け》りを喰らった際に壊れたのだろう。久しぶりに身に着けたので、気づかなかったというわけか。
あの野郎今度会ったら逆に蹴飛《けと》ばしてやる、と心に誓《ちか》いながらも、真九郎は行動。
今にも閉まりかけていた扉を手で押さえると、素早く電車から飛び降りた。
時計というのは、社会や他人との関わりを円滑にするための道具だ。
ゆえに、この世界にいるのがもし自分一人なら必要ない。
そんなくだらないことを考えつつ真九郎が目的の駅に着いたのは、逆方向の電車に乗り換えて五分後。約束の時間を、十分ほど過ぎてからのことだった。駅前に出た真九郎は、ひたすら小走りで移動。横断歩道を渡り、駐車場を通り抜け、待ち合わせ場所であるスーパー『猿丸《さるまる》』へ。周辺は賑《にぎ》わっていたが、目的の人物は幸いにしてよく目立つ。買い物客を避けながら進んだところで、入り口脇に並ぶアルミ製のベンチに、紫の姿を発見。真九郎が急いで駆け寄ると、彼女はすぐに気づいてくれた。
「真九郎!」
嬉しそうに立ち上がり、跳《は》ねるような勢いでダッシュ。
全力で抱きついて来る彼女を、真九郎は柔らかく受け止める。
「ごめん、少し遅れた……」
「かまわん、許す!」
遅刻の罪を、彼女はあっさり赦免《しゃめん》。上機嫌の笑顔。
表御三家の姫たる九鳳院《くほういん》紫は、本日も快調のようであった。
その様子に真九郎は安堵《あんど》するも、彼女に触れた手が反省を促《うなが》す。己《おのれ》の失態《しったい》を、強く責める。多分、かなり前からここで待っていてくれたのだろう。彼女の小さな体は、冬の外気ですっかり冷たくなってしまっていたのだ。
真九郎は、紫の頬を両手で挟むようにしてこすり、「ごめんな……」と改めて謝罪。彼女は気持ち良さそうに笑いながら、大きな目でこちらを見上げた。
「心配は無用だ。ちょっと寒かったが、今は、真九郎がとても温かいからな……。それよりも、大丈夫なのか? 少し、調子が良くないように見えるぞ」
相変わらず鋭い。
彼女はいとも簡単に、心労を見抜いたらしい。
「……紫、お腹空《なかす》いてないか?」
「お腹?」
反応に窮《きゅう》した真九郎は、ひとまず食事を提案。空は真っ赤な夕焼けであり、時間帯を考慮しても自然な流れだろう。紫は「ふむ……」と思案顔になるも、間もなく快諾《かいだく》。
二人は手を繋《つな》ぎ、夕飯に向かうことにした。
駅の近辺にある唯一《ゆいいつ》のファミレスは、大手の系列店『スマイルアップ』。
夕方の混雑時とあって二人はしばらく待たされたが、順番が来ると、希望通り禁煙席に案内された。「こちらへどうぞ」と若い女性の店員に導かれ、二人は窓際のテーブルへ。向かい合うようにして着席。大衆レストラン初体験の紫は、「和洋中がどれも食べられるとは、便利な店だな……」と感心し、少し興奮《こうふん》気味の模様。
彼女はさっそくメニューを開き、料理の写真を眺める。
「わたしは……この目玉焼きの載ったハンバーグにしよう! 真九郎は何にするのだ?」
「俺も、ハンバーグにしようかな……。昼の弁当は、和食だったし」
「弁当?」
「ああ、たまたま今日、夕乃さんが作ってくれたんだよ」
「……ほう」
紫は突然|真顔《まがお》になり、メニューをパタンと閉じた。そのまま席を離れ、とことこ歩き、真九郎の隣へ。怪訝《けげん》に思う真九郎に対し、彼女は無言で行動。真九郎の顔に手を添え、頬にそっと唇《くちびる》を押し当てる。あまりにも柔らかい感触に、真九郎はただ硬直。「これで良し……」と彼女が満足そうに離れて席に戻るまで、まったく動けなかった。
取り敢えず質問。
「……何だよ、急に?」
「大事な確認である」
澄《す》まし顔でそう答え、「さて、デザートは何にするか……」と彼女は再びメニューを開く。
いかなる意味の確認なのか、真九郎にはよくわからないが、まだ幼くとも相手は一応女性だ。自分には想像もつかない理由があるのだろうと解釈し、まあ良しとする。近くのテーブルにいる若いカップルがこちらを見てクスクス笑っているようだったが、それは無視。
テーブルの隅《すみ》にあるチャイムで店員を呼び、二人はそれぞれ注文。紫は、目玉焼きハンバーグセットとメロンジュースと練乳《れんにゅう》イチゴサンデー。真九郎は、デミグラスハンバーグセットとアメリカンコーヒー。
店員が去るのを見届けると、紫はグラスの氷水を一口だけ飲んだ。
そして彼女はテーブルに両|肘《ひじ》をつき、手に顎《あご》を乗せ、真九郎をまっすぐ見据《みす》える。
「それで、何があったのだ、真九郎?」
「えっ?」
「仕事のことで、何か困っているのだろ?」
食事で誤魔化《ごまか》したつもりが、どうも通じなかったらしい。
彼女が誘いに乗ったのは、こうして落ち着いて話を聞くため、ということか。
本日の紅真九郎は、師匠《ししょう》の孫娘に叱《しか》られ、幼なじみに注意され、七歳の子供からは心配される始末。何とも情けない有様《ありさま》である。
真九郎は答えに詰まるも、紫の大きな瞳《ひとみ》を見返しているうちに、抵抗する気が失《う》せてしまった。この幼い少女と一緒にいるとき、真九郎は、たまにそういう気持ちになるのだ。この子にだけは負けてもいい、意地を張らなくてもいい、何故《なぜ》かそう思ってしまう。
いずれ解明すべき心理だが、今は後回し。真九郎は話せる範囲で、紫に事件のあらましを説明。人捜しの件は以前に伝えてあるので、赤い手紙などの部分を簡単に補足《ほそく》した。
事情を聞いた彼女は、自信を持ってこう断言。
「それは、どこかにいる悪い奴《やつ》が、悪いことを考えて、悪いことをしているに違いない!」
「……まあ、そうだろうな」
子供らしい単純な発想に、真九郎は苦笑。
しかし一瞬、脳裏《のうり》に閃《ひらめ》き。
悪い奴が、悪いことを考えて、か……。
事件の規模や、絶奈の実力にばかり気を取られていたが、たしかにそれは大前提。紫の言うとおり、全ては悪意で為《な》されていることなのだろう。根底にあるのが負の感情だとすれぽ、おぼろげに全容が見えてくるような気もする。少なくとも、真相に繋がる糸口ではあるか。真九郎は、「……ありがとう、参考にするよ」と彼女に礼を述《の》べ、一応記憶。頭の隅に、留めておくことにした。
やがて店員が銀色のトレイを持って現れ、テーブルに注文の料理が並び、二人は食事を開始。ナイフとフォークを器用に扱《あつか》う紫に、真九郎が少し驚いていると、彼女が言った。
「真九郎。今夜はこれから、何か予定はあるのか?」
「んー、特にはないけど……」
「そうか。では、わたしの部屋に招待しよう」
「は?」
呆《ほう》ける真九郎をよそに、紫は無邪気な態度。
切り分けたハンバーグを頬張《ほおば》りながら、彼女は続ける。
「前から招こうと思っていたのだ。わたしは、真九郎の部屋に何度も遊びに行っているのに、真九郎は、まだ一度もわたしの部屋に来ていないからな」
「あー、でも……今日は遠慮しておくよ。時間も遅いし……」
「泊まっていけば良い」
紫お嬢様は、ニッコリ微笑《ほほえ》んだ。
彼女が言うには、蓮丈《れんじょう》と夫人は年末まで海外に滞在中。屋敷の管理は執事《しつじ》長に任されているが、懐《ふところ》の深い人物なので、何も問題ないとのこと。
「わたしに恋人がいると話したら、ぜひ会いたいと言っていた。将来のことも考えて、紹介しておいた方が良かろう。他の使用人たちにも、早く顔を覚えてもらわなければな」
「いや、それは、ちょっと……」
「今夜は久しぶりに、一緒に風呂に入って、一緒に寝るぞ! 明日の学校も一緒に行くのだ!」
「いや、でもな……」
嬉しそうに声を弾《はず》ませる紫の前で、真九郎は必死に抵抗する。
こればかりは、さすがに折れるわけにもいかなかった。
いかに紫の実家とはいえ、九鳳院|財閥《ざいばつ》の屋敷。一般|庶民《しょみん》の真九郎が宿泊するなど、あり得ない暴挙。大貴族の館《やかた》に、田舎《いなか》育ちの小僧《こぞう》が入り込むようなものだ。
困った真九郎は、「そういえばさ……」と話題を変更。
「おまえ、明後日《あさって》はイギリス大使館のクリスマスパーティーに出席するんだよな? 向こうの祝い方は日本よりも盛大だから、いろいろと凄い物が……」
話しながら反応を探った真九郎は、そこで言葉を呑《の》み込む。機嫌良く食事をしていたはずの紫の手が、急に止まったのだ。「どうした?」と真九郎が尋《たず》ねると、彼女はナイフとフォークを皿の脇に置き、小さく口を開く。
「……実は、いくつか真九郎に訊きたいことがあるのだ」
「訊きたいこと?」
「前に教えてもらった、サンタクロースの話なのだが……」
サンタクロースの話題。
かろうじて平静を装いながら、真九郎は内心でドキッとしていた。
サンタクロースの存在を信じる子供は、今や圧倒的に少数派。情報過多の社会に生きていれば、どこかで真実を耳にしてしまう可能性が高いからである。彼女も、何か聞いてしまったのか。
もしそうなら、年長者として自分はどうする?
この場で適切な対応は、何だろう?
姿勢を正しつつ、真九郎は待機。
紙ナプキンで口元を拭《ふ》いてから、紫は静かに問う。
「……あの話は、本当のことなのか?」
「ああ、本当だよ」
「サンタクロースは、クリスマスイブの夜に、世界中の良い子のところにやって来るのか?」
「うん、もちろん」
基本部分を否定しては始まらないので、真九郎は続けて肯定。
すると紫は視線をテーブルに落とし、膝の上で小さな手を握った。
いつも快活な彼女にしては、珍しい現象。
何やら躊躇《ためら》うような素振り。
彼女は上目遣《うわめづか》いに真九郎を見上げると、声を潜《ひそ》め、最後の質問をする。
「真九郎……」
「ん?」
「わたしは…………ちゃんと良い子だろうか?」
とてもとても不安そうな、九鳳院紫。
今まで一度もサンタクロースが現れなかったのは、もしかしたら、自分が悪い子だからなのかもしれない。どうやら彼女は、そう思っているらしい。
真九郎は一瞬笑いかけるも、己の為《な》すべき事を、すぐ実行することにした。
この親愛なる少女に、紅真九郎としての見解を伝えたのである。
食事を済ませ、二人がファミレスの外に出てみると、世界の支配権はとっくに夜へと移っていた。辺りを煌々《こうこう》と照らすのは、賑《にぎ》やかな街の灯《あか》り。
紫は口に手を当てながら欠伸《あくび》を漏らし、眠気を堪《こら》えている様子。たくさん話した上に、お腹がいっぱいになったからだろう。加えて、サンタクロースの件を確認したことで、少し安心したのかもしれない。「眠いのか?」と真九郎が訊くと、彼女はコクンと頷いた。
「でも、今日はこれから真九郎を部屋に招いて、使用人たちにも紹介を……」
「まあまあ、それはまた、別の機会に頼むよ」
「……むう」
紫は少し残念そうだったが、よほど眠気が強いのか、「……仕方あるまい」と納得。せめてもの慰《なぐさ》めにと思い、真九郎は紫に手を伸ばし、そっと抱き上げる。彼女は真九郎の肩に頭を乗せ、素直に身を任せた。
勤め帰りのサラリーマンや、学生の行き交《か》う歩道を、二人は駅に向かって進む。今夜は気温が低く、風も強いが、街に活気があるように見えるのはやはりクリスマスの効果だろう。街路樹には、無数の青白い電球。夜空の下に続く星屑《ほしくず》のような輝きは、なかなかに幻想的な光景。
それをぼんやり眺めていた紫が、不意にこんなことを言った。
「……真九郎の夢は、何だ?」
「えっ?」
「真九郎には、どんな夢があるのだ?」
眠そうにしながらも、彼女は興味|津々《しんしん》の面持《おもも》ち。
唐突《とうとつ》な問いは、まどろみに沈みかけているからか。
「んー、俺の夢は……」
真九郎は咄嗟《とっさ》に答えを探すも、夢といえるようなものは、何故か思いつかなかった。子供の頃はたくさんあったはずだが、いつの間にか全部消えていたのだ。多分、八年前の事件で心に穴が空《あ》き、そこからポロポロと零《こぼ》れ落ちてしまったのだろう。それは決して塞《ふさ》げない穴。どうにもならない傷。だから今の自分に、夢はない。それでかまわない、と真九郎は思う。夢というのは、宗教と同じだ。なくても生きられる。人間は、ちゃんと生きていける。ただし、強く生きるのは難しい。それだけのことなのである。
だがまさか、紫にそう答えるわけにもいくまい。
例《たと》えば、と真九郎はわかりやすい仮定。
今この瞬間、雲の上にいる偉い存在が目の前に降臨《こうりん》し、「おまえの夢を叶《かな》えてやろう!」などと言ってきたら、自分はどう答えるか?
どんな願望も叶うなら、何が思い浮かぶか?
真九郎は考える。真剣に考える。多分、自分はこう答えるだろう。
どうか、九鳳院紫を幸せにしてあげてください。
それが最も自然で、最も力強く、最も純粋な紅真九郎の望み。心の奥から湧《わ》き出てくる、唯一の願い。ならばそれこそが、自分の夢ということになるのか。
飛躍《ひやく》しすぎだな……。
慣れない方向ゆえに、どうも思考が迷走しているらしい。この場は回答を保留にするのが無難か。真九郎は気を取り直し、「……おまえは、どんな夢があるんだ?」と紫に問い返す。
彼女は小さく欠伸を漏らしてから、自信ありげにフフッと笑った。
「わたしの夢は、すごいぞ……」
「すごい?」
「うむ。わたしの夢はな……」
歩きながら耳を澄《す》まし、真九郎はしばらく待ったが、どうすごいのかは結局不明。まもなく聞こえてきたのは、穏《おだ》やかな寝息。小さな手で真九郎の服を掴み、紫は眠りの国へ旅立ってしまっていた。
たくさんの遊びと、たくさんの睡眠は、子供に与えられた大いなる特権だ。
この子の抱く夢がどんなものか、それはとても興味あるが、今度会うときの楽しみにとっておくことにする。
人|混《ご》みを避けつつ歩道をゆっくり進み、真九郎は駅前に到着。道の脇に停まった黒塗りの車と、その側《そば》に立つ初老の男、騎場《きば》を発見。
そちらに近づくと、騎場はすぐに気づき、銜《くわ》えていたタバコを携帯用の灰皿に収めた。ぐっすり眠っている紫を見て、「いつもありがとうございます」と丁寧《ていねい》なお辞儀《じぎ》。ヤクザのような外見に反し、相変わらず腰が低い。「いえ、とんでもありません」と慌てて恐縮《きょうしゅく》しながら、真九郎はふと思いつく。
騎場|大作《だいさく》は、九鳳院|近衛《このえ》隊の所属。階級は第二位。副隊長。裏世界の事情にも深く通じており、紅香の死亡説も、もう耳に入っていることだろう。事が事だけに、闇絵や環には話し辛《づら》いのだが、誰かに意見を尋ねたいのが本音だ。
真九郎が試しに訊いてみると、やはり騎場は、既《すで》に承知《しょうち》している模様。太い指で顎を擦《さす》りながら、「そうですなあ……」と渋い声で答えてくれた。
「たしかに今回の件は、いろいろな点で柔沢紅香らしくない。裏に、何か事情があるのは間違いないでしょう」
「騎場さんは、どんな事情だと思います?」
「まあ、奴のことですから……。きっと、単純なものでしょうな」
「単純なもの、ですか」
イマイチよくわからない。それでも何となく納得してしまったのは、騎場の人徳、あるいは年の功《こう》ということか。紅香を「奴」と表現する彼の口調は普段より軽妙で、深刻さは皆無。取り敢えず、彼女の生存に関しては、真九郎と見解が一致しているらしい。
真九郎は、寝ている紫を騎場の腕に託《たく》し、「よろしくお願いします」と深く一礼。車が静かに走り去るのを見届けてから、駅前を離れ、帰路に就《つ》いた。
それからおよそ四時間後。
真九郎の携帯電話に、一通のメールが届いた。
送信者の名前は、星噛絶奈。
文面は以下の通り。
『ごきげんよう、紅くん。体調はいかが? 十二月二十四日の夜に会いましょう』
決戦の日取りが、決まった。
[#改ページ]
第八章 最後の決断
十二月二十三日。水曜日。
厳《きび》しい冬空の下に広がる街並みは、普段よりいくらか静謐《せいひつ》に見えた。建物は景色に溶け込むように存在感を薄め、樹木の気配《けはい》はやや淡白。日差しは弱く、流れる風も穏《おだ》やか。明日のクリスマスに備えて、いろんなものが、少し休んでいるのかもしれない。
葉の落ちた木々を眺《なが》めつつ温《ぬる》いコーヒーを飲み干した真九郎《しんくろう》は、片手を上げてウエイトレスを呼び止め、お代わりを注文。大学生のバイトであろうウエイトレスは、一瞬だけ不審《ふしん》そうな顔をするも、「少々お待ちください」と営業スマイルで承諾《しょうだく》。カップにコーヒーを注ぎ、足早にテーブルを離れるその姿を見ながら、真九郎は苦笑を漏《も》らした。向こうがどう思っているのか、何となく想像がついたからだ。妙な少年、というところだろう。平日の昼間から一人でテーブルに居座り、注文するのはお代わり自由のコーヒーのみ。おまけに、本を読むでも勉強するでもなく、ただぼんやりしているだけとなれば、そう思われても無理はない。店側からしても、やや迷惑なはず。寒さのせいで、そもそも客が少ないのが幸いか。
真九郎がいるのは、カフェのオープンテラス。デパートや量販店の建つ通りからは少し外れ、背の高いイチョウ並木の途中にある、小さな店だった。
平日に街に出た目的は、無論《むろん》、事件の調査。残された時間はあと僅《わず》かだが、ここで諦《あきら》めては癪《しゃく》に障《さわ》る。どうにかして、一歩でも真相に近づくべし。真九郎はそう考え、悩んだ末に、携帯電話のメモリーからとある番号を呼び出すことにしたのである。それは、もう二度とかけないだろうと思いながらも、一応残していた番号。苦い記憶。一か八かの賭《か》け。もはや、手段を選んでいる余裕はないということだ。
店の壁時計によれば、今は午前十一時前。そろそろ、こちらの指定した時間。「会って欲しい」と電話で伝えはしたのだが、果たして現れるかどうか。
……ダメかもな。
軽くため息をつき、コーヒーカップに手を伸ばしかけた真九郎は、そこで「あっ」と小さく歓喜の声。慌《あわ》てて居住《いず》まいを正し、顎《あご》を引いた。
イチョウ並木の向こうから、目当ての人物が歩いてくるのが見えたからだ。
サイズの大きい厚手のコートと、やはりサイズの大きい眼鏡《めがね》、頭にはニット帽。どことなくやぼったさを感じさせる、地味な女性。彼女は石畳《いしだたみ》を踏みながら店に入り、真九郎のいるテーブルに迷わず接近。正面で足を止め、椅子《いす》を引いて静かに着席。注文を取りに来たウエイトレスには、「ミルクティー」と無愛想《ぶあいそう》な返事。
そしてこちらを見据《みす》えると、挨拶《あいさつ》もなしに切り出す。
「紅《くれない》さん、念のために断っておきますが、勘違《かんちが》いしないでくださいよ?」
悪宇《あくう》商会の人事部副部長であるルーシー・メイは、いきなり不機嫌のようだった。
彼女は胸の前で腕を組み、最初から抗戦の構え。
「わたし、あなたと馴《な》れ合うつもりはまったく、全然、一ミリもありません。こうして呼び出されるのも、大変迷惑です。大変|不愉快《ふゆかい》です」
「……じゃあ、どうして来てくれたんですか?」
多少の警戒心《けいかいしん》を込めつつ、真九郎は自然な質問。
ルーシーは、しれっとした顔で答える。
「マニアだからです」
「マニア?」
「裏十三家に関しては、わたし、ちょっとしたマニアなんですよ。暇《ひま》を見つけては、断絶した家の痕跡《こんせき》を調べたり、廃業した家の末裔《まつえい》を追ったり、古い記録に目を通したりしてるんです。なかなか面白《おもしろ》いですよ。例《たと》えば過去百年間、〈崩月《ほうづき》〉から何人の弟子が生まれたか、ご存知ですか?」
「いえ……」
「三人です。あなたを入れても、たったの三人。それほど貴重な存在と、多少なりともパイプがあるわけですから、まあ、可能な限り維持《いじ》するべきかと思いましてね」
一応下心あり、ということか。真九郎を通じて、崩月家に近づく機会でも狙《ねら》っているのかもしれない。いずれにせよ、これで賭けの前段階はクリア。ここからが本番である。
ウエイトレスがミルクティーを持って現れ、ルーシーの前に置いていった。
彼女はミルク用の小さな器《うつわ》を掴《つか》み、中身をカップに注入。スプーンで四周ほど掻《か》き回してからカップを手に持ち、香りを楽しむように口の前で揺らす。
「で、紅さん、用件はなんです? まさか、何か割のいい仕事を回して欲しいとでも?」
「……あの、こっちの事情は、もうご存知じゃないんですか?」
「事情?」
ルーシーは訝《いぶか》しげな顔。
全《すべ》ての社員に知れ渡っているわけでもないのは、大組織ゆえのことか。真九郎が手短に事件や現状を伝えると、「……あー、例の、星噛《ほしがみ》さんが仕切ってるやつですか」と、彼女はすぐに察したようだった。
ミルクティーを一口飲み、嫌味っぽくニヤリと笑う。
「それはそれは、ご愁傷様《しゅうしょうさま》です……。あんなものに関《かか》わってしまうとは、あなたも相当に運が悪い。つまり今日の用件は、こういうことですね? 以前の行《おこな》いを深く反省し、あなたは謝罪する。心を入れ替え、これからは悪宇商会のために働く。だから星噛さんとの仲を、わたしに取《と》り成《な》して欲しいと?」
「全然違います。事件の解決に、協力して欲しいんです」
「は?」
「何でもいいので、情報をください。お願いします」
真九郎はペコリと頭を下げ、彼女に懇願《こんがん》。駆け引きは時間の無駄。単刀《たんとう》直入《ちょくにゅう》に本音で勝負。この無茶な要求に対し、「……存外《ぞんがい》、あなたも図々《ずうずう》しい人ですね」と、彼女は当然のごとく眉《まゆ》をひそめる。
「紅さん。ひょっとして、わたしのことバカにしてます?」
「いえ、まったく」
「ならどうして、わたしに連絡を?」
口調は変わらず、彼女の声から熱だけが綺麗《きれい》に抜け落ちるのがわかった。外気に劣らぬ冷たさ。そこに含まれるのは、酷薄《こくはく》で暗い響き。
真九郎が、この場で何か仕掛けてくると考えているのだろう。
鼻の頭を掻きながら、真九郎は正直に答える。
「連絡した理由は、とても単純でして……。悪宇商会の内情に詳《くわ》しく、俺が顔見知りで、電話番号を知っている人物。その条件を満たすのが、あなただったからです」
「……それだけですか?」
「はい、それだけです」
真九郎が素直に頷《うなず》くと、彼女はメガネの奥の目を細め、こちらをじっと見返した。
長い沈黙。無言の凝視《ぎょうし》。
そして次の瞬間、拍子抜《ひょうしぬ》けしたようにフッと口元を緩《ゆる》める。
それは呆《あき》れるとも感心するともつかない、微妙な笑み。
「前に切彦《きりひこ》くんも言ってましたが、紅さんは、本当に変わってますね……。基本的には世間《せけん》知らずの間抜《まぬ》けで、単なるバカだと思いますけど、いろいろと理解しがたい」
散々《さんざん》な批評だ。
どう反応していいのかわからず、真九郎はコーヒーカップを握ってただ俯《うつむ》く。その困り顔を見て少し笑ってから、「……ま、いいでしょう」と、彼女は仕方なさそうに承諾した。
「あなたを助ける義理は欠片《かけら》もないが、いざとなれば敵でも何でも利用するという、その図太《ずぶと》さは評価できる。それに、個人的に、星噛さんのやり方は好きじゃありませんからね……。今回は、ちょっぴり力を貸してあげますよ」
ルーシーは近くのウエイトレスを呼びつけ、シフォンケーキを注文。
そしてコートのポケットに手を入れ、分厚い革《かわ》手帳を取り出す。
文字や写真の一切ない、ルーシー・メイ独自の記憶検索装置。
彼女は白紙のページに指をかけると、にこやかに言った。
「で、紅さん、あなたは何を知りたいんですか?」
十二月二十四日。木曜日。クリスマスイブ。
人は、生まれる場所も死ぬ場所も選べないが、死ぬかもしれない場所なら選べる。
朝、目が覚めると、真九郎の頭の中に何故《なぜ》かそんな言葉が漂っていた。それを言ったのは隣近所に住む魔女で、聞いたのは夕飯を食べているときで、その日の献立《こんだて》は肉じゃがと玉子丼だったなあ、などと思い出しながら身支度《みじたく》を整え、真九郎は五月雨《さみだれ》荘を出発。電車に乗り、学校へと向かった。
本日の天候は、昨日と同じ曇《くも》り空。寒冷前線の影響で気温は急激に下がり、テレビの予報によれば、最低気温は三度。この冬一番の冷え込みとのこと。
着膨《きぶく》れした乗客で車内はかなり混《こ》んでいたが、真九郎は運良く空《あ》いていた吊《つ》り革を獲得。そのまま姿勢を維持し、結露《けつろ》した窓の水滴を見ながら、昨日のことを考える。
少しだけなら質問に答えるというルーシーに対し、真九郎が求めたのは、〈星噛〉についての情報だった。あえてそれを優先したのは、やはり絶奈《ぜな》に脅威《きょうい》を感じているから。そして彼女をどうにかしなければ、何も解決しそうにないからである。
それについてルーシーがどんな感想を抱いたかは不明だが、彼女は一応、答えてくれた。
裏十三家の一つ、〈星噛〉。義手や義足を始めとする、人体のあらゆる箇所の代替品《だいたいひん》を作り出す一族で、その技術力は裏世界|屈指《くっし》。そして門外不出。稀《まれ》に、星噛製の人工臓器などが市場に出回った場合は、同じ重さの宝石で取引されるほど。一族全員が、生身《なまみ》の部分をあえて人工物と交換しているのが特徴。ルーシーが言うには、赤ん坊の頃から片腕を切り落とし、義手で哺乳瓶《ほにゅうびん》を掴ませるほど徹底しているらしい。
一族直系の絶奈もその例に漏れず、体の大部分が代替品。戦闘用に特化した右腕だけでなく、残りの手足も、骨も筋肉も子宮《しきゅう》も内臓も、全て星噛製。あの異常な耐久力は、まさに技術力の賜物《たまもの》だったというわけだ。酒を暴飲するのは、彼女にとっては単なる遊戯《ゆうぎ》。頑丈《がんじょう》すぎる肉体を持て余し、過度にアルコールを摂取《せっしゅ》することで、わざと感覚を揺らしているだけ。自《みずか》ら神経に障害を発生させ、それを楽しんでいるだけなのだ。
抱えていた疑問が、これで一つ解消。にもかかわらず真九郎の気持ちが浮かないのは、星噛絶奈には弱点などないという事実が、ハッキリしてしまったからだろう。
依然《いぜん》として、〈孤人要塞《こじんようさい》〉の攻略法はなし。
それでも今夜、真九郎は彼女と会わねばならない。対峙《たいじ》しなければならない。
この期《ご》に及んでジタバタするよりは、せめて心を平静に保ち、迎え撃つのが得策《とくさく》か。
真九郎はそう思考を整理すると、気持ちを切り替え、本日の予定を確認することにした。絶奈との再戦は避けられないが、その前に、自分には済ませるべき用事があるのである。
その日の午前の時間割は、英語、古典、世界史。英語では苦手な文法に頭を悩ませ、古典では『伊勢《いせ》物語』を興味深く読み、世界史では教師の雑学を聞き、授業は終了。そして昼休み。真九郎は新聞部の部室に足を運び、銀子《ぎんこ》と毎年|恒例《こうれい》のプレゼント交換を行った。
彼女がくれたのは、渋い色をしたブリキ製のコップ。元は軍用で、コーヒーでも淹《い》れて飲めば美味《うま》さが際立《きわだ》ちそうな、レトロな一品。色気のない実用品であるのが、いかにも村上《むらかみ》銀子らしい。
真九郎が贈ったのは、商売|繁盛《はんじょう》を祈願《きがん》する招き猫。瀬戸物《せともの》で、手の平に載《の》るような小さなサイズ。選んだポイントは、凛《りん》とした佇《たたず》まいが少し彼女に似ていたからだ。
銀子は「へえ……」とつぶやき、一応お気に召した様子。招き猫を指先で掴むと、ノートパソコンの脇《わき》にちょこんと置いてくれた。
「あんた、今日は崩月先輩の家に行くんでしょ?」
「……まあ、取り敢《あ》えずはな」
苦笑を浮かべ、真九郎は曖昧《あいまい》な返事。仕事が理由と察したのか、銀子もそれ以上は詮索《せんさく》してこなかった。「今夜は遅くまで起きてるから、何かあったら電話しなさい」と彼女は一言。真九郎は素直に感謝し、「……うん、そうするよ」と了解。
午後の時間割は、地理と体育。地理では日本地図を眺め、体育ではバレーボールを適当にやり過ごし、本日の授業は全て終了。|HR《ホームルーム》が終わると同時に鞄《かばん》を掴み、真九郎は下校。まずは静之《しずの》の住むアパートへと赴《おもむ》き、彼女に経過報告。帰り際に、大家さんに挨拶。
そして次に、崩月家へ向かった。
屋敷の玄関先で出迎えてくれた夕乃《ゆうの》は、ワンピース風《ふう》のエプロン姿。右手にはお玉を持ち、料理の途中とのことだった。真九郎は事情を話し、今夜は仕事を優先させて欲しい旨《むね》を通達。無念そうに肩を落とすも、「……理解しました」と夕乃。クリスマスの方が大事です、などと反対しないのは、さすがに武門の娘である。
彼女が奥に一旦《いったん》引っ込み、戻って来たところで、お互いのプレゼントを交換。
「今年は、真九郎さんが独《ひと》り立ちした記念の年です。わたしが自信を持って厳選しましたから、どうぞ受け取ってください」
彼女が手渡してくれたのは、上品な装飾を施《ほどこ》された革張りのアルバム。以前、繁華街《はんかがい》で遭遇《そうぐう》した際は、これを買い求めていたらしい。開いてみると、それは紅真九郎の記録。崩月家に居候《いそうろう》していた八年間、その修行と生活の様子を収めた、数十枚の写真であった。意識していたものから、撮られたのを気づかなかったものまで。最後のページは、高校の入学式だ。人生の一部を丁寧《ていねい》に保存してもらったようで、真九郎はちょっと感激。「ありがとう……」と礼を述《の》べ、お返しに、こちらの贈り物を差し出した。
散鶴《ちづる》には、可愛《かわい》いイラストで構成された『神さま幼稚園』という絵本。夕乃には、ピンクのリボンを巻いた大きな花束。赤いバラと、白いカスミソウである。色鮮やかな花々に目元を和《やわ》らげ、「ありがとうございます」と夕乃は明るい笑顔。
その反応を見て、真九郎はホッと胸を撫《な》で下ろす。
「俺、花を贈るときって、何故かいつも緊張するんだ……。まあ、夕乃さんにしか贈ったことないんだけどね」
「えっ? 村上さんや、紫《むらさき》ちゃんには、贈ったことないんですか?」
「うん。夕乃さんだけだよ」
「……わたしだけ?」
不思議そうな夕乃に、真九郎は短い昔話。まだ幼《おさな》い頃、母に教えられた大事なこと。そのうちの一つに、「親しい女性にプレゼントをするときは、花にしなさい」というものがあったことを説明。
「銀子は、花があんまり好きじゃないし、紫は、まだ子供だからさ。俺が花を贈るのは、夕乃さんだけなんだよ。もし他のものが良ければ、来年は……」
真九郎はまだ話を続けていたが、夕乃はもう聞いていないようだった。彼女は頬《ほお》を上気《じょうき》させ、「わたしだけ、わたしだけ……」とブツブツつぶやき、「……あとで、幸せ日記に書いておかなきゃ」と熱いため息。
何故か上機嫌の夕乃に見送られながら、真九郎は崩月家をあとにした。
五月雨荘に帰還《きかん》したのは、午後五時半頃。
真九郎は制服から私服に着替えると、干していた洗濯物を取り入れ、手早く畳《たた》んでタンスに収納。そして、帰り道に商店街で買った蛍光灯や電球を物置に補充しているところで、飲み会に出発しようとする環《たまき》を廊下で発見。
真九郎は彼女を呼び止め、台所に隠していた一升瓶《いっしょうびん》を進呈《しんてい》した。
「おーっ、これは薩摩《さつま》の芋焼酎《いもじょうちゅう》、『森偉蔵《もりいぞう》』! 予約|必須《ひっす》の限定品じゃん!」
「前に、一度飲んでみたいって言ってましたからね。酒屋に、頼んでおいたんですよ」
「……真九郎くん。やっぱりあたしのことを!」
「いえ、違います」
歓喜する環を門の前まで送り、真九郎は次に、闇絵《やみえ》の姿を捜索。
しかし、黒猫のダビデは庭で見つかるも、その飼い主は既《すで》に外出した後の模様。仕方がないので、4号室の扉の前に包みを置いた。ちなみに中身は、銅製の薄い灰皿。骨董《こっとう》屋で見つけた、年代物の品である。
五月雨荘の業務を終えた真九郎は、自分の部屋に戻り、ついでにダビデも招き入れ、熱いお茶で軽く一服。テレビ画面に目をやると、海外との比較映像を交えながら、クリスマスに沸《わ》く街の様子が流れていた。空気は凍《こお》りつきそうなほど冷たいが、人出にはまったく影響なし。年末最大のイベントとあって、今夜は何処《どこ》も大賑《おおにぎ》わいらしい。
番組が人気グルメスポットの特集に移ったのを見て、真九郎は休憩《きゅうけい》を終了。
「さてと……」
押入れから手編みのマフラーを取り出し、最後の作業を行うことにした。
まずは、糸のほつれを念入りに点検。次に、全体のバランスや感触を点検。どれも問題なく、完成品と判断。一瞬、自分の首に巻いてみたい誘惑に駆《か》られたが、それは我慢《がまん》。やはり最初に使うのは、九鳳院《くほういん》紫であるべきだろう。
真九郎はマフラーを丁寧に畳み、贈答《ぞうとう》用の白い紙で包装。それに真っ赤なリボンを巻き、ちゃぶ台の上に花柄のメッセージカードを置いてから、ボールペンを手に取る。
ここからが、少し難題であった。
サンタクロース役としては、プレゼントだけではやや物足りない。何かメッセージを添えるのが良案だと考えるも、肝心《かんじん》の文面を、まだ思いついていないのだ。あまり迂闊《うかつ》なことを書けば、紫に勘繰《かんぐ》られる。かといって、素《そ》っ気《け》ないものでは書く意味がない。さりげなく、それでいて心を打つ文はないものか。
……意外と難しいな。
大人はどうして、子供の幻想を守るのに苦心するのだろう。そうすることで、自分の中にある大事なものも守れるような気がするからか。
ボールペンを指先で回し、真九郎がそんなことを考えていると、視界の隅《すみ》で動くものあり。電気ストーブの前で静かに丸まっていたはずのダビデが、急に顔を上げた。
「ん、どうした?」
真九郎が声をかけるも、ダビデの耳はピンと立ち、その視線が向かうのは窓の外。寝るのが大好きなダビデだが、来客には敏感。表に誰か来ているのは、間違いないだろう。
それも、じっと監視するように動かないことからして、初めての来訪者だ。
誰だろ……?
怪訝《けげん》に思いながら腰を上げ、真九郎は廊下を通って階段を下り、一階に移動。
寒さに震えつつ外に出てみると、五月雨荘の門の前に、見慣れぬ車が一台|停《と》まっていた。紺《こん》色の、大型のライトバン。真九郎がそちらに近づくと、ライトバンのドアが横滑りに開き、中から四つの人影を吐き出す。体格は不揃《ふぞろ》いだが、いずれも革ジャン姿で坊主《ぼうず》頭。そして、殺気を孕《はら》んだ物腰。
思わず立ち止まる真九郎に対し、男の一人が足音を立てずに接近。
青白い顔でこちらを見つめ、事務的な口調で問う。
「紅真九郎だな?」
「はあ、そうですけど……」
「我々は悪宇商会の者だ。絶奈様の指示で、貴様を迎えに来た。車に乗れ」
「……迎え?」
どうにか受け答えをしながらも、真九郎は愕然《がくぜん》。
絶奈のメールにあったのは夜という指定だけで、具体的な時間や場所は未定。てっきり、また連絡がくるものとばかり思っていたのだ。まさか部下を直接|寄越《よこ》すとは、完全に予想外。
「待ってください! 行くのはかまいませんが、もう少し時間を……!」
男たちが一斉《いっせい》に拳銃を構えた。
真九郎が言葉を止めたのは、武器を出されたからではなく、その動作がまるで見えなかったからだ。常識外の速度は、まさに裏世界の技《わざ》。おそらく全員が、かなりの手練《てだ》れ。力ずくで連行するように命じられている、ということだろう。
問答無用ってわけか……。
四方に意識を向けながら、真九郎は行動を模索した。
残る用事はあと一つ、紫にマフラーを届けること。しかし、猶予《ゆうよ》を求めたところで、返事は鉛玉《なまりだま》に違いない。マフラーを諦め、素直に従うか。それともこの場を振り切り、意地を通すか。幸いにして、ここは五月雨荘。戦闘行為を禁じる土地。その利を活用すれば、男たちを追い返すことも不可能ではあるまい。
そうだ、それがいい、と真九郎は思った。
そもそも絶奈が間《ま》を置いたのは、何かの準備期間のためであり、この先に待つのは明らかに罠《わな》。そして真九郎には、彼女の指示に服従する理由などないのである。
取り敢えず今夜は、絶奈の誘いを断る。
さらに多くの情報を集め、万全《ばんぜん》の態勢を整えてから、改めて対決する。
それが最も賢明な道だ。もちろん、時間は相当にかかるが、仕方がない。もっと楽な依頼が入れば、そちらを優先するかもしれないが、仕方がない。静之には当分の間、待ってもらえばいい。どのくらい調査が進んだのかまた訊《き》かれても、相手は六歳の子供。言いくるめるのは容易。頑張っているとアピールすれば、どうせバレはしない。銀子への支払いは、早紀《さき》から受け取った迷惑料を充《あ》てれば完済。残った分は生活費。それで概《おおむ》ね解決。当面は問題なし。真九郎は今夜、九鳳院家の屋敷へ向かい、マフラーを届ける。明日は紫と会い、感想を訊く。サンタクロースの実在を感じた彼女が何と言うのか、とても楽しみだ。彼女の反応を見るのが、とても楽しみだ。そのときはきっと、自分も笑っていることだろう。
……最低だな、それは。
自然に浮かんだ己《おのれ》の愚考《ぐこう》、その浅はかな流れに、真九郎は口元を歪《ゆが》めた。これが紅真九郎の本性。いつまでもいつまでも変わらない中身。真っ先に逃避を思いつく自分に、嫌気が差す。情けなさを通り越して、泣きたくなる。
今日の帰り、真九郎は静之に会った。彼女にも何か贈れたらと思い、それとなく尋《たず》ねた。彼女は真顔《まがお》でこう言った。「……今年はいいの。それどころじゃないし」。今の彼女が願うのは、姉が無事に戻ることのみ。そして、それを叶《かな》えられるのはサンタクロースではないのである。
真九郎が揉《も》め事処理屋を名乗るなら、この場は引けない。
いかに不利でも、引いてはいけない。
自分は未熟者で小心者で愚《おろ》か者であるけれど、卑怯者《ひきょうもの》にだけはなるわけにいかないのだ。
瀬川《せがわ》早紀の消息を確認し、静之のもとに連れ帰る。
そのために、この場は進む。ああ、進んでやるさ。
迷いを断ち切るように、真九郎は大きく深呼吸。マフラーの件が頭をよぎるも、何とか今夜中に戻ればいいと判断。事件を解決してから、堂々と届けることにしょう。
「……どうぞ、好きにしてください」
真九郎が両手を上げて降参《こうさん》を示すと、男たちは素早く行動。手錠《てじょう》とアイマスクでこちらの自由を封じ、ライトバンの中へと押し込めた。
行き先を尋ねてみるも、返答はなし。男たちは無言。
硬《かた》い椅子に腰を下ろし、ドアの閉じる冷たい音を聞きながら、真九郎は思う。
さて、行き先は地獄か黄泉《よみ》か、それとも冥界《めいかい》か。
いずれにせよ、聖夜に相応《ふさわ》しい場所でないことだけはたしかだった。
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第九章 奈落《ならく》の底
退屈なドライブは、かなりの長時間続いた。
一般道や高速道路を何度も乗り継ぎ、体感で二時間以上。男たちとの会話は一切なく、車内の重苦しい空気に真九郎《しんくろう》がげんなりし始めた頃に、ようやく到着。真横のドアが勢い良く開かれ、真九郎は男に背中を押されて車外へ。地面に降り立つと、手錠《てじょう》は外され、顔のアイマスクも除去された。
あっさり拘束《こうそく》を解かれたことに、真九郎はちょっと拍子抜《ひょうしぬ》け。軽く瞬《まばた》きをし、手錠の痕《あと》を手で擦《こす》りながら、辺《あた》りの様子を確認する。
正面にそびえ立つのは、巨大な黒い影。電気の消えた建造物。月明かりを頼りに見たところ、地上二十階建て程度のビルで、窓の多い近代的なデザインだ。玄関前には赤|絨毯《じゅうたん》が敷かれ、両|脇《わき》には大理石の柱。近くには球体のオブジェなどもあったが、人の手で整備されているのは敷地内のみ。視線を外へ向ければ、周りに見えるのは無数の山。濃密な霧《きり》と、鬱蒼《うっそう》とした森林が、見渡す限りに広がっていた。
標高は五百メートル程度。どこか地方の山間部。
閑散《かんさん》とした雰囲気《ふんいき》から、目の前の建物は廃業したホテル、と真九郎は推測。
男たちが拘束を解いたのは、自力での逃走は困難とみたからか。近所に民家はなく、こちらには地図も土地|勘《かん》も水も食料も懐中電灯もない。たしかに妥当《だとう》な判断だ。しかし。
……なんか、妙だな。
一通りの観察を終えたところで、真九郎は首を傾《かし》げてしまった。
今夜の目的は、強奪戦。要するにケンカである。
なるべく人目は避けたいが、それでも、さすがにこんな山奥を選ぶ必要性はないだろう。もっと便利な無法地帯が、他にいくらでもあるはず。単なる罠《わな》だとしても、自分一人を潰《つぶ》すのに、これほどの手間をかけるとは思えない。
疑問を深めつつ、真九郎が景色を眺《なが》めていると、男たちが急に姿勢を正した。彼らの向かう先に目をやり、納得。
黒いロングジャケットを夜風に揺らし、ホテルから歩いてくるのは、今夜の相手。
悪宇《あくう》商会最高|顧問《こもん》、〈孤人要塞《こじんようさい》〉星噛《ほしがみ》絶奈《ぜな》であった。自然と拳《こぶし》を握り、真九郎は臨戦態勢。対する彼女は、余裕の表情。直立不動で立つ男たちの間を通り抜け、「久しぶりー」と軽い調子で挨拶《あいさつ》する。
「ごめんねー、紅《くれない》くん、急にこんなとこまで呼び出しちゃって。こいつら、何か悪さしなかった? 車酔いとか大丈夫? 夕飯は? もしお腹《なか》が空《す》いてるなら、何か用意するけど」
「結構です。それよりも、こんな場所で強奪戦をやるんですか?」
「やんないわよ」
「え……」
「実は、今日は君に、ちょっと手伝って欲しいことがあるの。もちろん、お礼ならするわ。君の捜してる瀬川《せがわ》早紀《さき》ちゃんの居場所、教えてあげる」
リゾート地として開発されるも、見通しの甘さから破綻《はたん》。母体となった企業の倒産や解体費用などの諸問題で、建物一切を放置。いわゆる負の遺産と呼ぼれる物が、国内にはいくつも存在する。無論《むろん》、そのほとんどは廃嘘《はいきょ》。自然に朽《く》ち果てるのみだが、中には例外的に、何らかの組織に利用される場合もある。
山間部に位置するここも、そういう建物の一つであった。かつては温泉を名物としていた高級ホテル、『貴泉郷《きせんきょう》』。悪宇商会が管轄《かんかつ》に置く今の呼称《こしょう》は、『|KILLING《キリング》 |FLOOR《フロア》』。絶奈の弁によれば、建物の明かりが消されているのは周辺の目を欺《あざむ》くのが理由で、使用しているのは主に地下。とある目的のための、専用施設らしい。
「……とある目的って、具体的には何ですか?」
「んー、簡単に言っちゃえばイベントみたいなものね」
「イベント?」
「まあまあ、そんなに焦《あせ》らないでよ。今日は、きちんと話してあげるからさ」
機嫌良さそうにクスクス笑いながら、絶奈は片手に握ったボトルに口をつける。中身はポーランド産のウォッカ、スピリタス。世界最強の名酒だ。その赤ら顔を見た真九郎は、この場での追及を断念。おとなしく口を閉じ、彼女のあとに続くことにした。
脇道を通り、ホテルの裏手に向かい始めて早数分。
状況は、未《いま》だ流動的である。
真九郎に手伝って欲しいことがあるという、唐突《とうとつ》な提案。
しかもその見返りは、瀬川早紀の情報という甘さ。
あまりに胡散臭《うさんくさ》い流れであり、とても鵜呑《うの》みにできるものではあるまい。
そう感じながらも真九郎が異議を唱《とな》えず、ひとまず話に乗ってみせたのは、いわば苦肉の選択。彼女の提案を蹴《け》っても、事態は一歩も進展しないからだった。ここまで来ておいて、現状|維持《いじ》では意味がない。ならば、これを核心に近づく好機と捉《とら》え、あえて飛び込んでみるのも手だろう。
上手《うま》くすれば、今夜で真相が判明し、事件は万事《ばんじ》解決。
悪くすれば、さてどうなるか?
静寂《せいじゃく》に包まれた夜道を、真九郎は恐る恐る、彼女は慣れた歩調で前進。ホテルの裏にあったのは、枯れた噴水《ふんすい》を中心とした広場。途中まで解体作業が進んでいたのか、地面は土が剥《む》き出しの荒れ放題。外灯なども全《すべ》て撤去《てっきょ》され、木製のベンチが一つ残っているだけだった。
絶奈はべンチの前で足を止めると、降り積もった落ち葉を手で払って着席。それに倣《なら》うようにして隣に腰を下ろしながら、真九郎は感覚を研《と》ぎ澄《す》ませる。
皮膚《ひふ》を撫《な》でるのは、冬の冷たい風。鼓膜《こまく》に響くのは、木々や葉の擦れる音。辺りに佇《たたず》むのは、深い闇《やみ》。連行役を務めた男たちはホテル内に消え、他に人影は見当たらないが、ここは悪宇商会の縄張《なわば》り。油断は禁物だ。
それにしても、と真九郎は思う。
暗がりで出会った者とは、暗がりでしか再会できない。
外国にはそういう言葉があるそうだが、あながち迷信でもないらしい。
最初に星噛絶奈と会ったのは、電気の消えた階段。その後は、薄暗い駅のホーム、真夜中の繁華街《はんかがい》、今日は深夜の山間部。つくづく、闇と縁《えん》がある。
周囲を警戒《けいかい》しつつ、真九郎がそんなことを考えていると、絶奈はウォッカをまた一口。
そして、おもむろに語り始めた。
「んー、こういう場合、まずは君の要件を優先するのが礼儀ってものよね……じゃあ、発端《ほったん》から。これ、手前《てまえ》味噌《みそ》な話になるんだけど、うちの会社って繁盛《はんじょう》してるのよ。業績は毎年上がってるし、人材もどんどん増えてるし、海外支部も増加中。組織の規模としても、裏世界で五本の指に入るわ」
脈絡《みゃくらく》がない上に、無意味な自慢話。
こちらが呆《あき》れるのも意に介《かい》さず、絶奈は軽い口調で続ける。
「でね、まあ事業自体は順調なんだけどさ、困ったこともいくつかあるの。特に面倒《めんどう》なのが、ストレス。ほら、うちの連中って、基本的に荒っぽいのが多いでしょ? 仕事以外の殺傷行為は社則で禁じてるから、中には、露骨《ろこつ》に不満を訴《うった》える奴《やつ》もいるのよ。そういう奴にはどうするかっていうと、しょうがないから、ガス抜きのエサを与えてやるわけ」
「エサ……?」
「無垢《むく》な一般人よ」
真九郎は、何も言わなかった。
少しだけ俯《うつむ》き、膝《ひざ》の上で拳を握りはしたが、声は出さなかった。
沈黙の隣で、饒舌《じょうぜつ》は続く。
「そこで問題になるのが、エサを確保をする手段。誘拐《ゆうかい》しちゃえば簡単だけど、それじゃあ殺人鬼と同じ。あまりに低俗すぎて、会社の品格にも関《かか》わるわ。で、わたしは考えたの。何か上手い方法はないかなーって……」
彼女はそこで言葉を切ると、握ったボトルを豪快に呷《あお》り、「ふーっ」と満足げな息。
そして濡《ぬ》れた唇《くちびる》をペロリと舐《な》め、真九郎に顔を向けた。
眼《め》が、爛々《らんらん》と輝いている。
ここからが本題か。
「紅くん。人間が最も高いモチベーションを発揮《はっき》する要素が何か、わかる?」
「いえ……」
「それは、怒りよ。特に、親しい者を奪われた人間の怒りは、生存本能すら上回るわ」
だから星噛絶奈は、それを利用することにしたのだ。
第一に選定。無数の個人データを入手し、適当な候補者のリストを作る。
第二に下準備。会社内の不満分子に、殺害を許可する。対象は、候補者の家族、友人、恋人など。そして一定の間を空《あ》け、会社から候補者に手紙を送付する。
赤い手紙だ。
中身は、便箋《びんせん》が一枚と写真が十数枚。写真に写っているのは、被害者が殺害される細かい過程。便箋には、無機質な文面。
『仇討《あだう》ちをご希望の方は、ルールをよくお読みのうえ、指定された日時に下記の住所までお越しください』
つまり、招待状というわけである。
「犯人はこっちにいます。泣き寝入りするか、復讐《ふくしゅう》するかを選んでください……ってことね。手紙をすぐに送らないのは、冷却期間を置いて、篩《ふるい》にかけるためよ。時間が経《た》っても収まらない。いつまでも消えない。そういう本物の怒りを持った者だけを、選別するの」
参加資格があるのは、宛名《あてな》に記された候補者のみ。武器の持ち込みは自由。通信機器は不可。他言無用。誰かに報《しら》せた、もしくは知られた場合は、その時点で失格。
参加の意思を固めた候補者たちは、手紙に指定された日時に集合。場所は、悪宇商会の傘下《さんか》にある違法カジノ店。そこの特別室で、持ち物検査と、本人確認のチェックを受ける。稀《まれ》に、腕の立つ知人などを代理にする者もいるが、ルール違反として即処分。それらが終了後、会場の『KILLING FLOOR』までバスで搬送《はんそう》。
そして彼ら彼女らは、憎《にく》い仇敵《きゅうてき》と対戦するのだ。
「最初は『無抵抗のエサ』。次は『活きの良いエサ』。二種類のエサを味わえるのが、この方法の醍醐味《だいごみ》ね。特に、本命である後者は素晴らしい! みんな必死な顔で挑《いど》んで来るし、壮観《そうかん》なのよ! あんまり面白《おもしろ》いから、最近は観客も呼んでるわ」
父の仇、母の仇、兄の仇、姉の仇、弟の仇、妹の仇、息子の仇、娘の仇、恋人の仇、親友の仇、孫の仇……。
人の感情を弄《もてあそ》ぶ、最悪の行事。
それが絶奈のいう『イベント』か。
真九郎は、ため息混じりに確認する。
「……要するに、会社ぐるみで無差別殺人をしてるってことですね?」
「んー、そのへんは、企業努力と表現して欲しいかな。一般企業が保養地を設けたり、慰安《いあん》旅行をしたりする福利《ふくり》厚生《こうせい》を、うちのやり方でやってるだけなんだし」
「……警察とは、裏で話がついてるわけですか?」
「もちろん、取り引き済みよ」
悪宇商会の顧客《こきゃく》は、裏世界だけに限らない。警察内にも多数の人材を派遣《はけん》しており、関係は濃密。腐敗した幹部と、懇意《こんい》になるのも容易。瀬川夫妻が殺された事件の捜査が進まないのも、赤い手紙による失踪《しっそう》事件が放置されているのも、それで辻褄《つじつま》が合う。
断片的だった情報が、頭の中でようやく繋《つな》がった。形を成した。
それでも真九郎は、不思議と冷静だった。
まだ、足りないからだ。
まだ、肝心《かんじん》なことを訊《き》いていないからだ。
「……教えてください。瀬川早紀は今、どこにいるんです?」
「あー、彼女の居場所ね」
問われた絶奈は、苦笑を浮かべる。
「この辺一帯は、前からゴミ捨て場として使ってるの。穴を掘って、いっぱいになったら埋めて、また別の場所を掘ってる。で、最近掘ったのはたしか……」
革《かわ》手袋に包まれた右手が上がり、彼女が指し示したのは、前方に広がる闇の一点。
真九郎は無言でベンチから腰を上げ、その方角に進む。寒さで鈍《にぶ》っていた嗅覚《きゅうかく》が何かを感じ取るも、足は止めない。何も考えない。乾いた土を踏み締め、無心で前に進んだ。
そこにはあったのは、絶奈の言う通りのもの。
暗い穴が、地面にぽっかりと空《あ》いていた。
直径は三メートル程度。深さは不明。ショベルで適当に掘ったものらしく、酷《ひど》く歪《ゆが》んだ円形。穴の端で立ち止まり、真九郎は中を覗《のぞ》き込む。僅《わず》かな月明かりに照らされているのは、野菜の切れ端や魚の骨、料理の食べ残し、食器の破片、ビニールやプラスチック等の廃棄物《はいきぶつ》。
そして死体。髪の毛が乱れ、衣服を血で赤く染めた、無数の死体であった。空気があまり汚染されておらず、飛び交《か》う蝿《はえ》や蛆虫《うじむし》も少ないのは、季節のお陰《かげ》だろう。ここ数週間続く真冬の外気が、腐敗の進行をかろうじて抑えているのだ。だからこそ、よく見える。その姿がよく見える。首をへし折られた中年の男。喉元《のどもと》を喰《く》い千切《ちぎ》られた白髪の老婆《ろうば》、下半身を黒焦《くろこ》げにされた若い女、手足をミンチにされた少年、両目と口にタバコの吸い殻《がら》を詰め込まれた少女、その周辺に散らばる幾多《いくた》の肉片……。
それは、気紛《きまぐ》れのような悪意で大切な人を奪われ、人生を狂わされた者たち。
「参加者は、延《の》べ百三十一人。仇討ちを果たした者は、今のところゼロよ」
真九郎の隣まで歩いて来た絶奈は、残りのウォッカを飲み干すと、空《から》のボトルを穴に投擲《とうてき》。何ら躊躇《ためら》いのない、単なるゴミ捨て場に対するような動作。
ボトルは死体に命中し、グジュッという嫌な音を立てながら、端の方へと転がった。
「瀬川早紀ちゃんが負けたのは、先々週のことね……。まだ息のあるうちに廃棄したから、そんなに腐ってないと思う。下の方を漁《あさ》れば、見つかるんじゃないかしら?」
「………星噛さん。自分が何をしてるのか、わかってるんですか?」
「もちろん」
彼女はあっさり肯定。
「君には、もしかしたらわたしが悪党に見えるのかもしれないけど、それは誤解よ。間違ってるわ。これは、双方合意の上でやってるイベント。わたしは、脅迫《きょうはく》も強制も一切してない。みんな自分の意思で判断して、イベントに参加したの。だからどんな結果に終わろうと、それを招いたのは自分自身。悪いのは自分たちであり、非があるのは自分たちであり、もし恨《うら》むなら、やっぱり自分たちよ」
「そんなわけないだろ、バカ野郎」
真九郎の左手が跳《は》ね上がり、絶奈のネクタイを掴《つか》んだ。
思い切り引き寄せ、正面から見据《みす》える。
睨《にら》みつける。
「星噛絶奈! 何もかも、おまえが悪いに決まってるじゃないか!」
彼女は平然としていた。
怒声《どせい》を浴びても、顔色一つ変えなかった。
その反応、その表情、その態度。何処《どこ》にも後ろめたさがないのは、彼女が詭弁《きべん》を弄《ろう》しているわけではない証拠。本心から、何も感じてないのだろう。
正論を寄せ付けず、そこにあるのは別次元の倫理《りんり》。
不動の理不尽《りふじん》。
この赤毛の少女こそは、裏世界の本質を具現化《ぐげんか》した存在なのかもしれない。
怒りに駆《か》られ、真九郎は拳を振り上げるも、そこで停止。無論、己《おのれ》の意思ではなかった。背後から伸びてきた強靭《きょうじん》な腕によって、一瞬で羽交《はが》い絞《じ》めにされたのだ。
こいつ、いつの間に……!
振り返った先にいたのは鋼鉄の巨漢《きょかん》、ゲルギエフ。真九郎は必死に暴《あば》れたが、ゲルギエフは頑強。動きを完全に封殺。
その無様《ぶざま》な光景を見て、絶奈はクスッと笑う。
「熱くなってるところ悪いんだけどさ、そろそろこっちの要件を伝えてもいいかしら? ちなみに、君の相手をする気はないわ。強奪戦も終了」
「……終了?」
もはや、紅真九郎には興味なし。再戦の必要もなし。
それが星噛絶奈の結論なのか。
歯噛《はが》みする真九郎を気にせず、彼女は自分の胸元に手を伸ばす。
そして、緩《ゆる》んだネクタイを締め直しながら、こう言った。
「君にお願いしたいのは、とっても大事な仕事よ。今夜の主役。特別ゲスト。全部終わったら瀬川早紀ちゃんと同じ穴に捨ててあげるから……頑張ってね?」
心から納得できる展開なんて、人生にそう何度もあるものではない。
そんな言葉が、ふと頭をよぎった。
誰が言ったかはわからない。
もしかすると、真九郎自身の言葉かもしれない。
大型の倉庫から棚を排除し、床に薄い絨毯を敷いただけの簡素な内装。壁に窓はなく、椅子《いす》やテーブルもなく、明かりは天井の蛍光灯のみ。
ゲルギエフに捕まってから、約三十分後。
その殺風景《さっぷうけい》な部屋に、真九郎は一人で監禁されていた。
自力での脱出は、到底《とうてい》困難だった。両腕には、強化チタン製の手錠。それを繋ぐのは、太さ二十ミリのスチール製ワイヤー。どちらも猛獣用。さらにここは地下二階に位置し、通路には武装した男たちが巡回中。おまけに携帯電話を奪われ、外部との連絡も不可能という始末。
悪宇商会福利厚生用施設、『KILLING FLOOR』。
これからここで何が始まるのか、自分の身がどう扱《あつか》われるのか、真九郎は知っている。
ご丁寧《ていねい》にも、絶奈がいろいろと説明してくれたのだ。
最悪の行事は、今夜も開催。年内最後、さらにクリスマスということもあり、第一試合を飾るのは普段と一味違う組み合わせ。悪宇商会の猛者《もさ》と、悪宇商会に逆らう揉《も》め事処理屋。因縁《いんねん》の対決。つまり、試合の形を借りた制裁である。一応とはいえ、紅真九郎は裏十三家に連なる者。衆人《しゅうじん》環視《かんし》の中で潰《つぶ》せば、組織力の宣伝としても、十分な効果が見込めるということなのだろう。他の参加者たちも、じきに到着予定。真九郎の後には、四歳の娘を殺された母親や、婚約者を殺された青年などが続くことになっているらしい。
この部屋は、参加者たちが試合を待つための場所。
すなわち、控《ひか》え室。
およそ二週間ほど前、瀬川早紀も、ここに連れて来られたのだ。
今となってみれば、そこに至《いた》る過程が真九郎には想像できる。
両親が殺されてから一年後。彼女は自宅の郵便受けで、赤い手紙を見つけた。中身は、両親の殺害現場の写真と招待状。加害者からの、挑戦。心の傷口をさらに抉《えぐ》られる行為であり、遺族にとっては耐え難い苦痛だ。そのまま錯乱《さくらん》状態に陥《おちい》ってもおかしくはあるまい。
しかし彼女は、無駄に騒いだりしなかった。
さすがに、静之《しずの》が自慢する姉だけのことはあった。
文面に目を通した彼女は、すぐに仇討ちを決意。以後も冷静に行動。周りの誰にも相談しなかったのは、ルールに抵触《ていしょく》するため。ヤクザからトカレフを購入したのは、仇討ちの武器にするため。事前に両親の墓参りをしたのは、自分の決意を告げるため。そして彼女は手紙を書いた。おそらくは、悟っていたのだ。悪辣《あくらつ》で大胆《だいたん》な手口から、相手は巨大な違法組織。もう生きては帰れない。自分が突然消えてしまったら、幼い妹や、年老いた祖母は心配するだろう。きっと捜そうとするだろう。
そんなことはしなくていい。
こんな恐ろしいことに関わるのは、自分だけでいい。
だから彼女は、手紙を残した。
『好きな人ができたので駆け落ちします』
記されていたあの言葉は、冷たい真実などではない。
むしろ、温かいウソだったのである。
絶望の手紙を受け取りながら、気遣《きづか》いの手紙を残した、瀬川早紀。
彼女はこの部屋で、何をしていたのだろう?
自分の順番が来るのを待ちながら、何を考えていたのだろう?
殺された両親との思い出か。部屋に一人残してきた、妹の行く末か。自分が歩むはずだった、人生か。それとも、杉原《すぎはら》麻里子《まりこ》に紹介された、若い揉め事処理屋のことか。
……ちくしょう。
己《おのれ》の不甲斐《ふがい》なさに、真九郎は奥歯を噛《か》み締める。
腕の力を入れたところで、ワイヤーが微《かす》かに軋《きし》み、手錠が手首に食い込むだけ。スニーカーで床を蹴っても、部屋の空気が揺れるだけ。現状は変わらない。少しも改善しない。
事件を仕組んだ犯人を前に、自分は何もできなかった。相手にされなかった。
強奪戦は終了。絶奈の語った理由は、実に単純なもの。
要するに、先週の時点で、真九郎は重大な失敗を犯していたということ。
絶奈が狙《ねら》っているのは、柔沢《じゅうざわ》紅香《べにか》の血を引く子供。捜索は進めていたが、調査範囲は小規模。根拠となるものが腕時計しかなく、まだハッキリとは確信を持っていなかったからだ。
しかしあの日の晩、絶奈は真九郎と出会った。
情報の取り引きを頑《かたく》なに拒《こば》み、全力で歯向《はむ》かう揉め事処理屋。しかもその少年は、〈崩月《ほうづき》〉の戦鬼《せんき》。真九郎の存在、反応、抵抗、それら全てが、『柔沢紅香に子供がいる』という仮説に強い信憑性《しんぴょうせい》を与えてしまったのである。
ついに確信を抱いた絶奈は、会議を開き、大規模な捜索を決定。悪宇商会が総力を挙げれば、時間はかかってもいずれ狩り出せる。ゆえに、真九郎の持つ情報はもう不要。ここに呼びつけたのは、身柄を会社の利益に利用する、そのためだけ。
瀬川静之の依頼を果たせず、紅香にも害を及ぼす最低の展開だった。
何もかも、真九郎の責任だった。
あの晩、絶奈の変心の裏に何があるのかを、まるで読みきれなかったのだ。命拾いできたことを、ただ安堵《あんど》していたのだ。自分は、どれだけ未熟なのか。どれだけ愚《おろ》かなのか。どれだけ失態《しったい》を重ねれば、気が済むのか。
悔《くや》し涙で視界が滲《にじ》み、真九郎が項垂《うなだ》れたそのとき。
「あなたは、どうしてここに来たのですか?」
若い女性の声。
先週の夜、駅のホームで聞いたのと同じ声が聞こえた。
真九郎はぼんやりと顔を上げ、周囲に目を凝《こ》らすも、どこにも姿はなし。
室内にいるのは、自分一人。視線を巡《めぐ》らせ続ける真九郎の耳に、再び女性の声。
「残念ながら、今日は後始末《あとしまつ》を優先させていただきます。この場からお救いすることは、できません」
「………あんた、何者なんだ?」
「犬です」
犬。それがあの晩、絶奈との勝負を妨害した人物の名か。
それともこれは、単なる幻聴なのか。
困惑《こんわく》する真九郎を試すように、女性は静かに最初の質問を繰り返す。
「紅真九郎さん。あなたは、どうしてここに来たのですか?」
自分は、どうしてここに来たのか。
罠があるのを半《なか》ば予想しながら、絶奈の誘いに応じたのは何故《なぜ》か。
矢継《やつ》ぎ早《ばや》の展開に疲れ、頭がもう満足に働かなかった。
真九郎の口から零《こぼ》れ出たのは、心の真ん中にある、当たり前の理由。
「……俺が、揉め事処理屋だからだ」
納得したのか呆《あき》れたのか、女性は沈黙。
そして、もう二度と、その声が聞こえてくることはなかった。
部屋には冷たい静寂が満ち、後悔に囚《とら》われる愚か者だけが、残された。
紅真九郎だけが、残された。
人は、自分の身に降りかかるそのときまで、死をリアルなものとは感じない。
午前|零《れい》時。
真九郎は、控え室から連れ出された。武装した男たちに囲まれながらホテルの廊下を歩き、エレベーターに搭乗《とうじょう》。地下四階で停止。ドアが開き、目の前に広がったのは、半ば闇に侵《おか》された通路。明かりは非常灯のみで、澱《よど》んだ空気から漂うのは下水の臭《にお》い。真九郎は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》するも、背中を銃口で押され、渋々《しぶしぶ》ながら前へ。靴音を反響させながら、トンネルのように長い通路を連行された。
手錠といい、男たちの扱いといい、まるで罪人の気分だった。
ならば、罪とは何だろう?
自分の犯した罪とは、いったい何なのだろう?
この事件を、一人で解決できると考えた。身の程知らずにも、そう考えた。そして結果的に、瀬川静之の期待を裏切り、紅香にも迷惑をかけた。それが罪か。その思い上がりが罪か。そして自分は、これから報《むく》いを受けようとしているのか。
答えを出す間もなく、目的地に到着。通路を抜け、しばらく歩いたところで、男たちが止まるよう指示。真九郎が素直に従うと、それを合図に蛍光灯が一斉《いっせい》に点灯。頭上から明かりが降り注ぎ、周囲を照らし出す。
そこはホテルの真下に設けられた空間。
広大な、地下駐車場であった。
リゾート地ならではの贅沢《ぜいたく》な作りで、天井の高さは三メートル程度。壁と床は、滑らかなコンクリート。視界に入るだけで数十台の車が並んでおり、総面積は、野球場を丸ごと呑《の》み込めるほどあるだろう。
一見する限りは、何の変哲《へんてつ》もない光景。だが注意してみれば、妙な部分が二点。天井付近には、撮影用と思《おぼ》しきビデオカメラがいくつも設置。そして、辺りに点在する暗がりには無数の人影。総勢、百人前後。人種は多様だが、その面相《めんそう》や身なりからして、まともな職業の者ではあるまい。おそらくは、今夜の宴《うたげ》を楽しむために集まった観客たちだ。
これが、『KILLING FLOOR』。仇討ちのために設けられた舞台。
絶奈の姿は何処にもないが、主催者として、別室で観戦というところか。
真九郎が立ち竦《すく》んでいる間にも、試合の準備は着々と進行。両手の手錠が外され、係の男たちが離れると、近くの薄闇から人影が出現。重々しい足取りで、対戦相手がこちらに歩いて来た。
悪宇商会が用意したのは、見上げるような大男。
黒服に身を包んだ、ゲルギエフ。
「……また、あんたか」
「絶奈様の計《はか》らいだ。感謝するがいい」
「感謝?」
「瀬川早紀の肩を砕《くだ》き、背骨をへし折り、足を潰して廃棄したのは、この俺だ。ゆえに、貴様の相手に相応《ふさわ》しいだろうと、絶奈様が判断されたのだ」
真九郎は、思わず言葉を失った。
この巨漢が、瀬川早紀の仇討ちの相手。
普通の高校生が、素人《しろうと》の少女が、こんな奴と命懸《いのちが》けで戦ったというのか。
無駄と知りつつも、真九郎はこう問わずにはいられない。
「……あんた、何でこんな行事に参加してる? プロとして、恥《は》ずかしくないのか?」
「気分転換だ」
答えはそれだけだった。
本当に、それだけが理由なのだろう。絶奈の語った通り、全ては単なるガス抜き。福利厚生の一環《いっかん》。それ以上でもそれ以下でもなし。それが、残酷《ざんこく》な事実か。
「この地で試合をする場合、通常は、ハンデとして武器は使わん。だが、今宵《こよい》はその範疇《はんちゅう》にあらず」
ゲルギエフは上着を脱ぎ、係の男に手渡すと、代わりに何かを受け取った。右手に握り込んだのは、刃渡り四十センチを越える凶器。刀身《とうしん》が不気味に濡れ光る、大振りのナイフ。
「客が待ち兼《か》ねている。さっそく、始めるとしようか」
ナイフを逆手《さかて》に構え、僅かに腰を落としながら、ゲルギエフは試合開始を宣言。
それに応じて拳を握ろうとした真九郎は、しかし、そこで違和感を覚えた。
気づいてしまった。
心音が、あまりに静か過ぎる。両膝が、少しも震えていない。緊張感を乗り越えたのでも克服したのでもなく、何も感じていないからだ。これからどうするのか、自分が何をすればいいのか、まったくわかっていないからだ。
紅真九郎。おまえはこれから、いったい何をする?
もう全ては手遅れなのに、ここで絶奈の思惑《おもわく》に従って、どうするつもりか?
憂《うれ》いに沈んだのは数秒。だが実戦においては、致命的な隙《すき》。
正面から吹きつける殺気に真九郎が顔を上げた瞬間、その顎《あご》に、分厚い革靴が命中した。鉄柱のような足による、ゲルギエフの蹴り。声もなくのけぞる真九郎に、ゲルギエフは無慈悲《むじひ》な猛攻《もうこう》。縦横《じゅうおう》無尽《むじん》に刃《やいば》を躍《おど》らせ、真九郎の胸を斜《なな》めに、脇腹《わきばら》を真横に、左肩を垂直に切り裂き、辺りに血と肉片を撒《ま》き散らす。
……くっ!
真九郎は苦し紛《まぎ》れに下段蹴りを放つも、難なく避《よ》けられ空転。体勢を崩《くず》したところを狙われ、ゲルギエフはさらに蹴り。蹴り。蹴り。重い連撃に骨が軋《きし》み、内臓が捩《ねじ》れ、神経が悲鳴を上げる。口から苦い胃液を吐き出しながら、真九郎は小走りで後退する。
「興醒《きょうざ》めだな、小僧《こぞう》」
ゲルギエフは失笑。
刃を構え、さらに猛追《もうつい》せんとする巨体を見て、真九郎は生存本能に従った。
素早く視線を巡らせ、手近な柱の陰に飛び込むと、そのまま逃げた。何度か足がもつれ、車や壁にぶつかりながらも、速度は緩めない。汗《あせ》が眼に入り、口からまた胃液が逆流してきたが、足は止めない。止められない。
笑っていた。周りにいる観客たちが、その有様を見てゲラゲラと笑っていた。
そこに渦巻《うずま》くのは、悪意、敵意、害意、負の饗宴《きょうえん》。総じて愉悦《ゆえつ》。
参加者たちは、みんなこうやって笑われたのだろう。
この空気の中で、殺されたのだろう。
やはりこの世界は、悪の方が強いのだ。
がむしゃらに走った真九郎は、僅かな段差に気づかず、転倒。かろうじて受身を取りながら立ち上がると、柱の陰に隠れつつ、辺りの様子を探った。荒い息が邪魔なので、呼吸を止める。耳をじっと澄ませる。ゲルギエフの足音は、聞こえない。こちらの居場所を、まだ掴みかねているのだろう。
地下駐車場を試合に使っている理由が、真九郎は何となくわかったような気がした。
ただ正面からぶつかっては、味気ない短期決戦。盛り上がりに欠ける。ゆえに、逃げ回れる程度の広さと、多数の障害物。その両方を兼ね備えた場として、ここが使用されているのだ。停《と》まっている車は、どれも組織が用意したもの。照明を増設しないのは、暗がりを増やし、身を隠しやすくするため。なるべく長引くように、なるべく楽しめるように、工夫が成されているというわけである。
真九郎は柱に背を預けると、流れる汗を拭ってから、傷口に手をやった。激痛。ぬるりとした、嫌な感触。ポケットから医療用の針を取り出し、せめて出血だけでも止めようとしたが、指が痺《しび》れて落下。拾おうと伸ばした手も、途中で感覚を失った。
軽い目眩《めまい》と、吐き気。
……毒か。
即効性の猛毒。どうやら、ゲルギエフの持つナイフにたっぷりと塗り込んであったらしい。背後をすぐに追って来なかったのは、これを計算してのことか。
無惨《むざん》な傷口を見つめ、血塗《ちまみ》れた手の平を見つめ、ああ死ぬのかな、と真九郎は思う。
それも仕方がないのかな、と思う。
自分は失敗したのだ。何もかも、失敗してしまったのだ。
仕事をやり遂《と》げられず、周囲に迷惑をかけた末に、敵地で玉砕《ぎょくさい》。
このどうしょうもない結末は、未熟な自分に相応しいといえるのかもしれない。
真九郎は治療を諦《あきら》めると、重い体に鞭《むち》を打ち、場所を変えることにする。この地で朽《く》ちるにしても、娯楽《ごらく》の糧《かて》になるのは御免《ごめん》だ。動ける間は、逃げ回ってみよう。ゲルギエフからも、観客の目からも、逃れてみよう。真九郎は足元に残る血痕《けっこん》を、スニーカーの底で消去。そして車と壁の隙間を選んで、慎重に移動を始めた。
背中を丸め、息を殺すようにして暗がりを進みながら、ぼんやりと考える。
心残りは、何だろう?
死んだあとのことは、特に問題はないはずだ。真九郎の親友も恩人も隣人も知人も、みんな強くて賢《かしこ》い人たちぼかりだから、急に自分が消えても、それほど大きな影響はあるまい。みんな呆れたり、怒ったりはするかもしれないが、わかってくれるだろう。紅真九郎らしいと、わかってくれるだろう。こんな場所で、一人ぼっちで死ぬのは寂しいけれど、本当は嫌でたまらないけれど、これはある意味、当然の帰結なのだ。自分は一人、八年前から、ずっと一人。だから、最後にまた一人になるのは当たり前で、どうしょうもないことで、諦めるしかない、と思う。
真九郎は、寒気がしてきた。
氷水の中を泳いでいるかのように、体が冷える。動きが鈍い。頭が重い。息が苦しい。それでも壁に手をつきながら、手足に力を込め、歩き続けた。逃げ続けた。
悔《く》いがあるとすれば、未練があるとすれば、親友でも恩人でも隣人でも知人でもない、あの子のこと。九鳳院《くほういん》紫《むらさき》。あの子の側《そば》に、もっといてあげたかったなあと思う。この世界の良いところ、ステキなところを、もっと教えてあげたかったなあと思う。もっとたくさん、喜ばせてあげたかったなあと思う。強く、そう思う。ああそうか、そういうことか、と真九郎は気づいた。夢は何かと訊かれたとき、おぼろげに浮かんだあれは、間違いではなかった。あの子を幸せにすることは、自分にとって、とても大きな価値がある。とても大きな意義がある。それは、彼女に出会ってから生まれた、穴だらけの自分の心に生まれた、新しい夢なのだ。
真九郎は、酷《ひど》い寒気がしてきた。
さっきまで歩いていたはずなのに、いつの間にか、床に倒れていた。いつの間にか、瞼《まぶた》が下りかけていた。慌《あわ》てて起き上がろうとするも、途中で力を失い、顔から床に落ちる。何も感じない。痛みを感じない。コンクリートの冷たさも、感じない。もう一度|試《こころ》みたが、平衡《へいこう》感覚が狂い、仰向《あおむ》けに横転。周囲の景色が、徐々《じょじょ》に歪んでいく。黒カビのようなものが目を覆《おお》い、鼻や口を塞《ふさ》いでいく。視界が閉鎖《へいさ》し、呼吸が細くなり、手足の先から力が抜け……。
…………ん?
朦朧《もうろう》とする意識の片隅《かたすみ》で、真九郎の耳が、何かを拾った。
観客の嘲笑《ちょうしょう》、ではない。話し声や足音でもない。
それは泣き声だった。
小さな小さな声で、誰かが泣いていた。
誰だろう。こんなところで、誰が泣いているのだろう。どうして泣いているのだろう。
真九郎は、何故か気になった。とても気になった。砂のような気力をかき集め、どうにか形にし、瞼を開く。視界が霞《かす》む。よく見えない。それでも必死に眼球を動かし、声の方に目を向け、焦点《しょうてん》を合わせる。
九鳳院紫が、そこにいた。
初めて出会った頃のように、彼女はドレス姿。腰に大きなリボンをあしらえた、優雅《ゆうが》な正装。目に涙を浮かべ、心配そうな面持《おもも》ちで、彼女はこちらを見つめている。
何て都合の良い幻《まぼろし》だろう、と真九郎は思う。この状況、このタイミングで脳が誤作動し、現実逃避。己の脆弱《ぜいじゃく》さに呆れながらも、真九郎はそれを拒めない。打ち消せない。それにすがる。幻や妄想《もうそう》でも構わない。死ぬ前にあの子と話せるなら、構わない。
薄く口を開き、消え入るような声で、真九郎は問う。
最後に会った晩の、最後の会話。
その続き。
「……おまえの夢って、何だ?」
九鳳院紫は、答える。
「わたしの夢は、真九郎を幸せにすることだ……」
それが彼女の抱く夢。
二人は、お互いを幸せにしたい。そう願っている。そう望んでいる。だから、どちらも欠けてはならない。失ってはならない。消えてはならない。死んではならない。
こんなくだらないところで、人生を閉じては、いけない。
……起きろ!
心の中で、誰かがそう言った。
真九郎は歯を食い縛《しば》り、拡散した意識を集中。結束。統合。そして、黄泉《よみ》の鎖《くさり》を断ち切るようにしながら、上体を起こす。大きく口を開け、深呼吸。痛みと痺れはぶり返すも、同時に知覚が回復。周囲を見回し、天井を見上げ、床を見つめ、それから再び側に視線を戻す。
彼女は消えなかった。
九鳳院紫は、消えなかった。
妄想でも幻でもなく、現実に、今、目の前に存在していた。
それでもまだ信じ切れず、真九郎は紫へと手を伸ばす。滑《なめ》らかな髪や、柔らかな頬《ほお》に触れると、彼女は少しくすぐったそうに目を細め、真九郎の手をギュッと掴んだ。触れた部分から、体温が伝わる。冷たい体に熱が戻る。
間違いなく、本物。
あまりの事態に、真九郎はしばし呆然《ぼうぜん》。
数秒してから我《われ》に返り、当然の疑問を発した。
「おまえ……どうして、ここにいるんだよ? イギリス大使館のパーティーは?」
「途中で抜けて来た」
「……抜けて来た?」
「キンキュージタイというやつだ。真九郎が、仕事でピンチと聞いたからな」
「いや、聞いたって、誰から……」
巨影接近。
重い足音に続き、ワゴン車の向こうに姿を見せたのは、ゲルギエフ。感情の薄い双眸《そうぼう》がこちらを捉《とら》え、僅かに困惑の相を浮かべるも、身にまとう殺気は不変。戦闘を中断する気配はなし。部外者が紛れ込んだのなら、諸共《もろとも》に粉砕《ふんさい》。それが、この巨漢の性格なのだ。
真九郎は床に膝をつき、紫を抱き寄せながら、急いで方策《ほうさく》を探した。
詳《くわ》しい事情はさっぱりわからない。でも、紫はいる。今ここにいる。何としても、彼女だけは無事に逃がさなければならない。とにかくこの場を離れ、使えそうな非常口を見つけて、ドアを壊す。もしくは、ここで自分が時間を稼《かせ》ぎ、その隙に紫を……。
「案ずるな、真九郎」
紫の穏《おだ》やかな声。
目に少し涙を残しながらも、腕の中にいる彼女には、慌てた様子はなし。
この小さな少女は、いつもそう。
真九郎と共にあるときは、決して揺るがない。
彼女はこちらを見上げると、力強い口調でこう言った。
「わたしとおまえが一緒にいれば、きっと全てが上手くいく!」
その突拍子《とっぴょうし》もない確信を自然に受け入れられたのは、何故だろう。
体から強張《こわば》りが消え、余計な気負いが抜け落ち、真九郎は思い出す。自分が本当にやるべきことを、思い出す。それは、逃げることでも隠れることでもない。
今やるべきなのは、そんなことではない。
真九郎は考える。
置かれた現状を、知り得た情報を、よく吟味《ぎんみ》する。
絶奈が持っている腕時計。犬を名乗る人物。息のあるうちに捨てられた瀬川早紀。極度の低温。無造作《むぞうさ》に積まれたゴミと死体。衆人環視の試合場。
それら全てが絡《から》み合い、渦となり、頭に浮かんだ結論は。
……もしかしたら。
可能性は、あった。ほんの僅かだけれど、可能性はあった。
ひょっとすると、上手くいくかもしれない。
「貴様、何を呆《ほう》けておるか!」
怒声とともに、ゲルギエフが刃を構えて突進。
視界の隅でそれを確認しながら、真九郎は己の行動を定めた。心の奥のスイッチを切り替え、コンマゼロ一秒で右腕の封《ふう》を解放。鋭利な角《つの》が皮膚を突き破り、細胞に喝《かつ》を入れ、筋肉を活性化。〈崩月〉の剛力《ごうりき》を顕現《けんげん》。と同時に、紫を胸に抱いたまま跳躍《ちょうやく》。寸前で刃をやり過ごし、ゲルギエフの頭上を飛び越えて空中で一回転。そして暗がりを抜け出し、蛍光灯の明かりが満ちる空間へと着地した。
鋭い声で、宣告。
「ゲルギエフ。悪いが、急用ができた。もうあんたに構ってる暇《ひま》はない」
「何を生意気な……!」
「沈め」
真九郎の右足が緩やかに可動し、加速。空気を切り裂くような下段蹴りが、ゲルギエフの膝を粉砕。あっけなく傾く巨体に、真九郎は追撃の足刀《そくとう》。狙いは顎。顔の下半分がぐしゃりと潰れ、「ぐっ」と短い呻《うめ》きを漏らし、巨体は倒壊。手からナイフが零《こぼ》れ落ち、数秒の痙攣《けいれん》に続いて、ゲルギエフは白目を剥《む》いた。
さて……。
その傍《かたわ》らに膝をつき、真九郎はゲルギエフのポケットを探る。毒物を扱うならば、解毒薬《げどくやく》の備えは常識。案の定、容器に入った錠剤《じょうざい》をすぐに発見。中身を口に放り込み、それを齧《かじ》りながら、真九郎はゆっくりとその場を離れた。
地下駐車場内は、完全に静まり返っていた。
傷を負って逃げたはずの獲物《えもの》が、いきなり子供を抱いて現れるや、逆転勝利。あまりに想定外の展開に、観客たちの誰もが、どう捉えて良いのかわからないのだろう。
しかし、想定外の展開はまだ終わらない。
真九郎が次に取った行動は、それに拍車《はくしゃ》をかけるもの。
少し歩いたところで、真九郎はこちらにレンズを向ける撮影用のカメラを一台発見。その前で足を止め、紫を強く抱き締めると、大きく息をついた。そして、胸いっぱいに息を吸い込んでから、レンズを指差す。
溜《た》まりに溜まった感情を、声にして吐き出す。
「出て来い、星噛絶奈! 紅真九郎が、あんたに強奪戦を申し込む!」
場内は一気に騒然《そうぜん》。波紋《はもん》となって広がる、動揺。
これこそが、真九郎の思いついた挽回《ばんかい》の策であった。
観客の見ている前で、堂々たる挑戦。しかも挑《いど》むのは、揉め事処理屋を営《いとな》む〈崩月〉の戦鬼。組織のトップとしても、〈星噛〉の眷属《けんぞく》としても、容易に無視はできまい。ここで退《ひ》いては事態が収拾《しゅうしゅう》できず、彼女の沽券《こけん》にも関わるはず。今夜、この状況でしか使えない、最後の賭《か》けである。
果たしてどう出るか、と推移《すいい》を見守りつつ、真九郎は決戦に備えて次の行動。
九鳳院紫の、安全確保。
これも、解決策を思いついていた。知り合いに頼むことにしたのである。
絶奈のやり方は好きじゃないと言っていたが、裏十三家のマニアなら、今夜の試合は必見。現地に足を運んでいる可能性が濃厚。捜してみると予想通り、太い柱の陰で、ルーシー・メイがこっそり観戦していた。ばつが悪そうにする彼女に、「こんばんは」と真九郎は笑顔で挨拶。そして、しぼらく紫を保護してくれるよう依頼。ここは悪宇商会の支配地であり、他の観客たちの素性《すじょう》が知れない以上、彼女に託《たく》す方がまだ安全。こちらが健在でいるうちは、妙なことも考えないだろう。
「あなた、本当に図々《ずうずう》しい人ですね……」
ぼやきながらも、これから起きることへの好奇心が勝《まさ》ったのか、ルーシーは了承《りょうしょう》。
紫に手を伸ばす。
「では、お姫様はこちらへ」
「……おまえ、いつぞやのウソつき女ではないか」
「はい、そうです。でも、今日はウソをついてませんよ?」
「………」
「ついてませんよ?」
二人は視線をぶつけ合うも、真九郎の邪魔をする気がない点で、利害が一致。取り敢《あ》えずは、休戦に落ち着いたようであった。
事態が動いたのは、それから一分後。
場内の喧騒《けんそう》が、耳が痛いほど高まった頃。悪宇商会最高顧問、〈孤人要塞〉星噛絶奈は、奥の通路から颯爽《さっそう》と姿を現した。
酒のボトルはなく、手ぶらで来たのは、この混乱をそれなりに憂慮《ゆうりょ》してのことか。
彼女は真九郎の前で立ち止まると、まずは感想。
「君、無害そうな顔して、結構えぐいこと企《たくら》むわね? まさか、この局面を逆手に取るとは思わなかったわ」
「で、俺の挑戦は受けてもらえるんですか?」
迫る真九郎に対し、絶奈はいつもと変わらぬ笑み。
彼女は歴戦の強者だ。
想定外のトラブルであろうと、焦りや戸惑《とまど》いは微塵《みじん》も見せない。
「勝負なら一度ついてるし、いろいろ不可解で、訊きたいこともあるんだけど……。ま、いいわ。やってあげる」
両者は、さっそく協議を開始。
ルール設定。以前と同じく、時間無制限のテンカウント制。
要求。真九郎が求めたのは、この施設の破棄《はき》、犠牲《ぎせい》者の遺族や関係者への謝罪、紅香の腕時計の返還、さらに、今後は紅香の内情に関わらないこと。「えらく欲張ったものね……」と苦笑しつつも、絶奈は承諾《しょうだく》。そして、「こっちはメンツを潰されたわけだし、責任取って、君には自殺してもらいましょうか?」と求める。真九郎は承諾。
かくして、強奪戦の準備は整った。
二人は地下駐車場の中心地点、最も見晴らしの良い場所へと移動する。
さあ、正念場《しょうねんば》だ……。
絶奈のあとに続きながら、真九郎は胸に手を当て、軽く息を吐いた。
どうにか活路は作ったが、状況は依然《いぜん》として不利。足元には断崖《だんがい》絶壁《ぜっぺき》。そうと理解しながらも尻込《しりご》みしないのは、ちゃんと前に進めるのは、あの子のお陰だろう。
真九郎はちらりと視線を飛ばし、ルーシーの側にいる紫に、小さな笑みを送る。
そして前方を歩く絶奈に、質問。
最後の確認をすることにした。
「……星噛さん。あんた、少しも後悔してないんですか?」
「後悔?」
「自分のやってることに、ほんの少しも、罪悪感はないんですか?」
肩越しに振り返った絶奈は、薄笑いを浮かべていた。
それが彼女の返事であり、本心。
星噛絶奈は、そういう人間か。
一際《ひときわ》明るい中心地点に来たところで、二人は自然と距離を空け、停止。
間合いは五メートル程度。
「さあどうぞ、紅くん。どっからでも、いくらでも、何度でもかかってらっしゃい。君のなけなしの根性、受け止めてあげるわ」
絶奈は拳を握らず、構えもしない棒立ち。
相手の暴力を受け切り、さらなる暴力で蹂躙《じゅうりん》するのが、彼女の戦闘スタイルだ。
極《きわ》めて単純なゆえに、弱点も攻略法もなし。
真九郎は、それについて悩むのをもうやめていた。今の問答で覚悟が決まり、こっちも単純に考えることにしたのだ。紫の指摘《してき》した通り、悪い奴が悪いことを考えて悪いことをしていた。相手は人工物で構成され、理不尽を旨《むね》とする存在。もはや女とは思うまい。人とも思うまい。容赦《ようしゃ》は無用。一片の情けすら不要。目前に立ち塞がっているのは、単なる敵だ。
ならば、最大戦力をもってぶち壊すのみ。
真九郎は右拳を固く握り締めると、腰を大きく捻《ひね》り、戦闘に必要な生物的装置を全て作動。爆発的な戦意を点火。燃料は、怒り。心臓が狂ったような稼動《かどう》を始め、体温が急上昇。血が煮えたぎり、細胞が沸騰《ふっとう》し、筋肉の枷《かせ》が外れ、右腕に異変。角の根元に亀裂《きれつ》が生《しょう》じ、極限まで高まる内圧を調節するように、そこから凄《すさ》まじい蒸気を噴《ふ》き上げた。
無言で目を見張る絶奈に、真九郎は告げる。
「……行くぞ、〈孤人要塞〉!」
床を蹴り飛ばし、突貫《とっかん》。重力無視の大加速。その運動エネルギーに腕力を乗せ、まとめて打撃に変換。真九郎の右拳が、ロケット砲のような勢いで絶奈の顔面を打ち抜いた。
大気を震わす轟音《ごうおん》。
絶奈の体が弾《はじ》け飛び、とんでもない速度で床を転がり、派手《はで》にバウンドした末にライトバンに激突。凄まじい衝撃に車体が潰れ、ガラスが全壊。外装に半ば埋まった絶奈は、砕《くだ》けたガラス片を浴びたまま、しぼらく動かなかった。
流れる静寂。
周囲の観客たちが、息を呑《の》む気配。
絶奈は五秒ほど経ってから、反応。指を動かし、足を動かし、顔を上げ、頭を左右に振るも、すぐには起きない。起き上がれない。彼女を襲《おそ》っているのは、アルコールとは別種の酩酊《めいてい》感。加えて、体が訴える危険信号。苦痛。一分ほどしてライトバンから身を剥《は》がした絶奈の顔には、青黒い痣《あざ》と、流れる鼻血が生まれていた。
場内は狂乱。飛び交う罵声《ばせい》と声援。
それらを背に受け、こちらに向かって歩いてくる絶奈の表情には、もう普段の笑みはなかった。完全に消えていた。余裕も傲慢《ごうまん》もなし。
そこにあるのは、対等の敵を得た闘士《とうし》の面持ち。
鼻血を手の甲で拭い、左手をベルトに伸ばしながら、「前言撤回」と彼女は言う。
「……紅くん。君、とってもステキ。最高よ」
「あんたは最低だ」
「ぶっ壊してあげる」
「やってみろ」
右|肘《ひじ》から蒸気を揺らめかせ、真九郎は拳を握って前進。
ベルトから抜き取った薬莢《やっきょう》を義手に装填《そうてん》し、絶奈は拳を握って前進。
「崩月流甲一種第二級戦鬼、紅真九郎」
「星噛製陸戦|壱《いち》式百四号、星噛絶奈」
何の迷いもなく、両者は前へ。
そして、長い夜を締め括《くく》る争いが、ようやく始まった。
真九郎がハッキリと覚えているのは、そこまでだ。
(特別収録 アニメ「紅」第一話     省略しました)
(巻末特別企画 ……用語集・Q&A   省略しました)
2008年4月30日 第1刷発行
紅 公式ファンブック 書き下ろし小説 「祭の後」
片山憲太郎
終演
目を覚ますと、わたしは病室にいた。
蛍光灯の明かりの下、白く清潔なシーツに覆われて、ベッドに寝かされていた。枕はふかふか。消毒薬の匂い。ベッドの脇にあるのは、赤いひなげしが挿《さ》された花瓶と、心電図を示すモニター、そして点滴棒。冷たい風を感じたので目を向けると、頭上の窓が、少しだけ開いているようだった。わたしは鼻から息を吸い込み、口から吐き出す。ゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を繰り返す。何故だろう。風を浴びるのも、こうして穏やかに息をするのも、とても久しぶりのような気がする。ずっと、していなかったような気がする。それにしても、ここは何処《どこ》なのか。内装から、病院だということはわかるけれど、現状がまるで掴《つか》めない。頭がぼうっとしていて、体にも力が入らない。わたしは考える。記憶を探る。自分の名前、年齢、家族。どれもちゃんと覚えていた。わたしは、記憶をもっと掘り起こしてみる。ここ数日の、自分の行動。学校で体育の授業があって、運動場で転んで、膝《ひざ》を何箇所か擦《す》り剥《む》いて、バイトに行って、杉原《すぎはら》さんからたくさん絆創膏《ばんそうこう》をもらって、お礼を言って、商店街で夕飯の買い物をして、そしてわたしは、家のポストで赤い手紙を見つけた。写真を見て、中身を読んで、決断した。薄暗くて広い場所に連れて行かれ、大きな男と戦った。お父さんとお母さんを殺した憎い仇《かたき》と、戦った。でも、わたしはメチャクチャに殴られて、メチャクチャに蹴られて、周りのみんなに笑われて、落とされた。暗くて深い穴に、落とされた。それが最後。記憶にあるのは、そこまで。わたしは思い出した。全部、思い出した。そうだ、わたしは死んだのだ。仇討《あだう》ちの誘いに応じて、敗れて、殺されたのだ。そのはず、なのに……。病室の右端にあるドアが静かに開き、誰か入ってきた。胸にカルテを抱えた、若い看護師さん。「リハビリに少し時間は掛かるけど、大丈夫よ。必ず元に戻るわ」。わたしを見てニコリと微笑み、看護師さんはそう言った。リハビリ。大丈夫。わたしの頭はまだ鈍く、重く、それが何を意味するのか、よくわからなかった。これが現実なのか、悪夢の続きなのかも、わからなかった。看護師さんは心電図のモニターを調べ、点滴の量を確認し、「ちょっと待っててね」と言い置くと、再びドアの向こうへ。聞こえてくる、小さな足音。廊下からベッドに駆け寄ってきたのは、幼い女の子。部屋に残してきたはずの、妹だった。「お姉ちゃん!」。妹は泣いていた。寝ているわたしにすがりつき、わんわん泣いていた。その小さな手が頬《ほお》に触れ、聞き慣れた声を聞いたとき、わたしはようやく理解した。自分は生きている。あの深い穴から、あの暗闇から、抜け出したのだ。助かったのだ。でも、どうして。何がどうなっているのか、わからない。わたしは、妹に訊《き》いてみる。いったい誰が、助けてくれたのかと。
涙を手で拭《ぬぐ》い、鼻をすすってから、妹は教えてくれた。
「もめごとしょりやさんだよ」
「……揉《も》め事……処理屋……?」
わたしの声に大きく頷《うなず》き、妹は続ける。
ほんのちょっぴり、誇らしげな顔で。
「もめごとしょりやの、くれないしんくろうさん」
十二月二十六日。土曜日。
どこの学校でもそうであろうが、校長の話はたいてい長引くものだ。
星領《せいりょう》学園、二学期の終業式もその例に漏《も》れず、軽い世間話から始まった校長の式辞《しきじ》は、最近|素行《そこう》の乱れが目立つという嘆きになり、自分の子供時代の追想に繋《つな》がり、苛酷《かこく》な戦争体験の力説に発展し、世情の悲観にまで及んだ末に、規則正しい生活を送りましょうという結論に収束。式は、午前十一時過ぎにようやく閉幕。その間、真九郎《しんくろう》はほとんど居眠りしていたのだが、それでも一応は立ち続け、体育館から教室まで戻って来れるのだから人間の習性は凄いなあ、などと感心しているうちに通信簿《つうしんぼ》が配られ、担任教師の園田《そのだ》から休み中の諸注意があり、「それではみなさん、また来学期に会いましょうね」という別れの挨拶《あいさつ》で帰りの|HR《ホームルーム》は終了。掃除当番や日直を残し、生徒たちは下校。真九郎も鞄を掴《つか》んで教室を後にし、学校を出て紫《むらさき》と合流。騎場《きば》に近所まで送ってもらうと、駅前で紫と車を降り、スーパー『猿丸《さるまる》』に寄っていくことにした。
真九郎は、入り口脇に積まれた買い物カゴの山から一つを手に取り、肘《ひじ》にかけ、まずは野菜売り場に移動。
「えーと、大根に春菊。それと、白ネギもいるか……」
今夜の献立《こんだて》は、白菜鍋。希望したのは、武藤《むとう》環《たまき》。何処《どこ》からか大量の白菜をもらってきた彼女が、「もうすぐ年末だしさー、これ使って、みんなでワイワイ鍋でもしない?」と提案し、真九郎がそれに乗ったのである。白菜の量を考え、銀子《ぎんこ》や夕乃《ゆうの》にも声をかけてみたところ、二人はそれぞれ、「……ま、たまにはね」「もちろん行きます!」とすんなり了承。後から、何かしら料理を持って来る予定。帰りの車中で紫も参加すると言い出したので、部屋は、かなり騒がしい状況になるはずだ。
真九郎は目的の物をカゴに入れ、次に、生鮮食品売り場に進行。紫の姿を目で捜すと、試食コーナーで発見。食材の並ぶ鉄板を眺めながら、売り場の女性と会話中であった。
「これは、何を焼いているのだ?」
「魚肉ソーセージよ」
「ぎょにく?」
「魚の身をすり潰《つぶ》して作った、ソーセージ」
「……ほう、珍味《ちんみ》というやつだな」
ふむふむと頷く紫を見て、女性は爪楊枝《つまようじ》を手に持ち、鉄板から焼きたての物を紫へ。紫はちょっと驚いたような顔をするも、すぐにお礼の言葉。魚肉ソーセージを受け取り、フーフーと冷ましてから、美味《おい》しそうに頬張《ほおば》っていた。
その光景に真九郎は笑いかけたが、顎《あご》の辺りに鈍痛《どんつう》を感じ、あえなく断念。加えて、周りの買い物客の何人かが、こちらに怪訝《けげん》な目を向けていることに気づいた。
それに愛想《あいそ》笑いを返しつつ、真九郎は内心でため息。
……まあ、当然か。
不審に思われるのも、無理はないだろう。今の自分の顔は、まるで十二ラウンドを戦い抜いたボクサーの様相。痣《あざ》と絆創膏《ばんそうこう》だらけ。健全な学生には、見えないはずなのである。
試しに、近くのガラスケースに顔を映してみたが、まだ当分は腫《は》れが引いてくれそうになかった。痛々しい傷は、苦戦の跡が濃厚。ただし、そこに敗者の憂いがあるのかまでは、わからない。正直なところ、真九郎にはよくわからない。
今回の仕事が上手くいったのか、それとも失敗したのか、解釈が難しいのだ。
その後の経緯について、少し語ろう。
最初に、『|KILLING《キリング》 |FLOOR《フロア》』の顛末《てんまつ》。
とにかく大変だった。それが率直なところで、星噛《ほしがみ》絶奈《ぜな》との物理的な応酬《おうしゅう》については殆《ほとん》ど記憶していない。気がつくと、真九郎は床に両|膝《ひざ》を着きながら脱力していて、絶奈は柱を背に座り込んでいた。二人の拳《こぶし》は血で真っ赤に濡れ、お互いに疲労|困憊《こんぱい》。もはや自力では立ち上がれぬ、酷《ひど》い有様。客観的に見れば、両者KOが妥当《だとう》。それを冷静に認め、先に終了を宣言したのは、意外にも絶奈の方であった。彼女が呆気《あっけ》なく退《しりぞ》いたのは、おそらくはプライドだろう。組織の大幹部としては、これ以上の醜態《しゅうたい》を衆目《しゅうもく》にさらすわけにいかないという判断。
「わたしと君では、立場が違うからね……」
絶奈はそうつぶやき、真九郎の要求にも応じてみせた。施設の破棄《はき》。腕時計の返還。今後は紅香《べにか》の内情に関わらないこと。ただ一点、遺族と関係者に対する謝罪だけは、断固として拒否。それもまた、彼女なりのプライドということかもしれない。
悪宇《あくう》商会福利厚生用施設、『|KILLING《キリング》 |FLOOR《フロア》』の終焉《しゅうえん》。人の心と命を大雑把《おおざっぱ》に扱う最低の行為であったが、その杜撰《ずさん》さが、瀬川《せがわ》早紀《さき》を救ったともいえた。積み重なった無数の死体とゴミが、落下の衝撃を緩和《かんわ》。そして、山間部における極度の低温が、傷ついた体を仮死状態に導いていたのだ。希望的観測も込めた真九郎の読みが、的中していたわけである。その事実に安堵《あんど》しながらも、真九郎は、少しだけ世界を見直そうと思った。自分の生きるこの世界は、悪の方が強い。それは間違いない。でも、常に悪の味方でもないらしい。たまには、都合の良い偶然を起こしてくれることもあるというわけだ。早紀と同じ条件が重なり、穴から救い出された者たちは他に数名。真九郎の話を聞き、救助から病院の手配まで一切を取り仕切ったのは、ルーシーであった。「今夜は、堪能《たんのう》させていただきましたから」。マニア心を満たされた礼のつもりか、以後の治療やその費用に関しても、悪宇商会が負担すると彼女は確約。異議を唱える状況でもないので、真九郎も任せることにした。
瀬川早紀の受けた体の傷は、いずれ回復するだろう。心の傷は、医学ではどうにもならないが、彼女には妹がいる。たった一人だが、自分を想ってくれる家族がいるのだ。いつかは、また元の平穏な生活に戻れると思う。真九郎は、そう願う。早紀からの依頼は果たせなかったので、手紙に同封してあった迷惑料は返却。アパートの大家に預け、彼女が部屋に戻ってきた際に渡して欲しいと頼んでおいた。
銀子の支払いに関しては、ひたすら頭を下げた。
結果として完済《かんさい》できなかった以上、真九郎としてはただ謝罪するのみ。銀子は眉をしかめ、しばらく睨《にら》むようにこちらを凝視《ぎょうし》していたが、やがて「まったくもう……」と大きなため息。支払いの延期を承諾《しょうだく》。そして、「……その顔じゃ、接客も無理ね」と、楓味亭《ふうみてい》を手伝う件も妥協《だきょう》。「あんた、今度からはもう少し上手く立ち回りなさい」と叱りのことばを放つも、以後はもう追求しては来なかった。気持ちの良い潔《いさぎよ》さは、さすが村上銀子。顔の腫《は》れから仕事の失敗を想像するも、努力した点だけは認めてくれた、ということなのかもしれない。
柔沢《じゅうざわ》紅香《べにか》の安否《あんぴ》については、一応の確認が出来た。
それを伝えたのは、自らを「犬」と名乗る人物。
今回の件で暗躍した若き忍者、犬塚《いぬづか》弥生《やよい》。
「紅《くれない》さん、いろいろとお疲れさまでした」
労《ねぎら》いのつもりか、己の任務も含めて、彼女が様々なことを明かしてくれたのである。弥生の本来の狙いは、絶奈の手元にある腕時計。絶奈の推理した通り、腕時計は、紅香が子供に用意したクリスマスプレゼント。それを取り戻すため、弥生は絶奈の動向を監視していたのだ。ところがそこに、予想外の邪魔が闖入《ちんにゅう》。新米の揉め事処理屋、紅《くれない》真九郎。迂闊《うかつ》に絶奈と接触し、紅香の件でドジを踏む様子は、弥生としては腹立たしかったに違いあるまい。それでも、深夜の駅で助力してくれたのは、彼女の独断であり気遣い。だが真九郎は、またも不用意に絶奈と会い、今度は捕縛《ほばく》の身に転落してしまった。弥生は急遽《きゅうきょ》、自分の主《あるじ》に連絡を取り、指示を求めた。答えは一言。「起爆剤を届けてやれ」。弥生は了解。彼女はすぐに現場を離れ、イギリス大使館に直行。近衛隊の騎場|大作《だいさく》と交渉。そして、大臣の娘と歓談中だった九鳳院《くほういん》紫を連れ、再び戻って来たわけである。
犬塚弥生の仕える主とは、もちろん柔沢紅香。
紅香は健在だった。絶奈に受けた傷は多少あれど、とっくに完治《かんち》したらしい。事件にまつわる不可解な点は、弥生が簡潔に解答。
「お子様が、急に熱を出されまして」
「あー……なるほど」
真九郎は、全て納得。つまり、こういう流れか。子供が熱を出したと知り、紅香は海外から帰国することにした。多分、彼女は珍しく焦《あせ》っていたのだろう。一刻も早く、子供のもとに駆けつけたかったのだろう。そこに、普段の彼女なら絶対にあり得ない隙《すき》が生まれた。絶奈は、それを見事に突くことに成功したのだ。
目撃情報が途絶えていたのは、子供の側にいるため。看病に専念するため。紅香は、自分自身の名誉や勝利よりも、子供の方を選んだ。それは、裏世界の常識に照らせば理解できないこと。死亡説が流れても無理はない、異常な行動。しかし、母親としてはまったく正しいと真九郎は思う。
子供の容態《ようだい》を訊《き》いてみると、既《すで》に回復。紅香は、そのまま自宅で年末休暇とのこと。周りの騒ぎを気にもしない姿勢は、やはり規格外の大物というべきか。
唐突な話でありながら、騎場が紫の身柄を預けたのは驚きで、紅香との仲が少し気になるも、口に出したりはしなかった。野暮《やぼ》な詮索《せんさく》もしない。今わからないことはたくさんあるが、その大半は、いつか一人前になればわかることだ。
控え室で弥生が漏《も》らした、「後始末」という言葉。それが、具体的にどんなものを予定していたかについても、尋《たず》ねなかった。犬塚弥生は、鋼《はがね》の忠誠心を持つ忍者。主の秘密に迫らんとする絶奈を葬《ほうむ》り、なおかつ腕時計を奪還するべく、かなり過激な手を目論《もくろ》んでいたのかもしれないが、触れぬ方が賢明であろう。
取り戻した腕時計を弥生に手渡す際、真九郎が最後に尋《たず》ねたのは、自分に関わること。
あのとき、弥生はどうして紅真九郎を見捨てなかったのか?
判断を誤《あやま》り、窮地《きゅうち》に陥《おちい》ったのは真九郎自身の責任。弥生には優先するべき任務があり、無謀《むぼう》な若造《わかぞう》を何度も助ける義理などあるまい。にも関わらず、彼女はわざわざ紅香に連絡を取った。それは何故なのか。
犬塚弥生は、感情の薄い声でこう言った。
「あなたは未熟ですが、あの状況でも己が何者かを忘れていない点は、評価いたしました」
揉め事処理屋だからここに来た、という真九郎の答え。
そのなけなしの気概を、弥生は汲《く》んでくれたらしい。
彼女の寛大《かんだい》な配慮に、真九郎はただ頭を下げるしかなかった。
今回の件をどう捉《とら》えればよいのかは、まだわからない。
毎度のことながら、反省材料は山盛り。
至る所で失敗だらけ。
それでも、自分にやれることはやった、とひとまず満足するべきだろうか。
あるいは、自分にやれることしかやれなかった、と落ち込むべきだろうか。
とにもかくにも、瀬川静之から受けた依頼は、どうにか収束したのである。
買い物に要した時間は、四十分少々。真九郎はレジの長い列に並び、精算を完了。紫と手分けをして、食材をカゴから買い物袋に移動。カゴを片付け、二人は出口へ。しかし、自動ドアを通って外に出た途端、思わず足を止めてしまった。
氷を混ぜ込んだような、冷たい大気。空一面は厚い雲に覆われ、よく見れば、ちらちらと降り落ちてくる物あり。雲の欠片《かけら》にも思えるそれは、冬の深まりを告げる繊細《せんさい》な結晶体。すなわち雪。「おー」と感嘆《かんたん》の声を漏らす紫の隣で、真九郎は思案する。
……ちょうどいいかもな。
荷物を足元に置いて学生|鞄《かばん》を開き、真九郎は、中から防寒具を取り出した。部屋から持参してきた、自作のマフラー。渡す機会に迷い、一応鞄に入れていたのだ。
真九郎は両手でマフラーを広げると、雪を眺《なが》める紫の首に緩やかに巻きつける。思った通り、彼女の長い黒髪には、白いマフラーが良く似合っていた。
不思議そうに見上げてくる紫に、自分からの贈り物だと説明。
「真九郎が……わたしにか?」
「ほら、俺のせいで、クリスマスがふいになったわけだしさ……。その、お詫《わ》びみたいなもんだよ」
少々苦しいが、理屈は通っているはず。彼女自身は潔《いさぎよ》く割り切れていても、真九郎が申し訳なく思っているのは本当のことなのだ。当初の予定とは大分違うが、それは良しとしよう。
よほど驚いたらしく、紫は数秒の沈黙。首元のマフラーをじっと見つめ、それに指で触れ、優しく握り、「ありがとう……」と嬉しそうに頬を緩める。既製品よりは劣るので、念のために手編《てあ》みであることも付け加えると、彼女は目を丸くしていた。
「真九郎は、すごいな! 何でも出来るし、いつも、わたしを幸せにしてくれる!」
「いや、そんな大げさな……」
「紅真九郎は、すごい!」
「……紫。それは違うよ」
彼女の喜びが大き過ぎて、その笑顔が眩《まぶ》し過ぎて、真九郎の口から苦笑が零《こぼ》れた。
それは多分、極《きわ》めて自嘲《じちょう》に近いもの。
本音《ほんね》に近いもの。
「俺は、紅真九郎は、そんなたいした奴じゃないんだ。いつまでもいつまでも、過去にこだわって、何度も何度も立ち止まって、その度に、後ろを振り返ってさ……」
「それがどうかしたのか?」
「えっ?」
「別に、おかしいことではないと思うぞ」
真九郎の苦悩を、紫はあっさり肯定。
大きな瞳でこちらを見つめながら、彼女は言った。
「昔を思い出すことなら、わたしにだってある。奥ノ院を思い出すこともあるし、お母《かあ》様を思い出すことも、たまにある……。これからもそうだろう。でも、それはおかしいことではない。後ろを振り返るのは、自分が前に進んでいるという証拠だ」
「……そう、なのかな?」
不安げな真九郎に、紫は「うむ!」と力強い笑顔。両手を腰に当て、自信満々の態度。真九郎は一瞬|呆気《あっけ》に取られるも、その姿を見ているうちに、自然と笑ってしまっていた。
彼女の言葉が自分に当てはまるかどうかは、わからない。
でも、そうだといいな、と思う。そうあって欲しいな、と思う。
ほんの少しでも前に進んでいるといいな、と紅真九郎は思う。
一際冷たい風が辺りを吹き抜け、雪の量も増えてきたので、二人はそろそろ帰ることにした。真九郎は軽い方の買い物袋を紫に渡し、空いた手で彼女と手を繋《つな》ぐ。柔らかな手を、そっと握る。そして歩き出す。
雪の舞い落ちる静かな道を、二人はゆっくりと歩いていく。
行き先は、もちろん五月雨《さみだれ》荘。
今夜はきっと賑《にぎ》やかになるであろう、その5号室だ。
2008年5月28日 第1刷発行
2008/05/27 作成