紅 〜ギロチン〜
片山憲太郎
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第一章 甘い水
第二章 一年三組出席番号八番 九鳳院紫
第三章 斬島の刃
第四章 ウソつき
第五章 だから彼女は死ぬことにした
第六章 君と、一緒に
第七章 約束
あとがき
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第一章 甘い水
工藤《くどう》|綾《あや》が襲《おそ》われたのは、ピアノ教室の帰り道だった。
四歳の頃から通い始めて二年になるピアノ教室は、綾の住むマンションの近所。レッスンは月曜日と金曜日。綾の母親は中学校で音楽の教師をしており、ピアノはその母親の指示で始めた。ピアノと相性が良いらしい綾は、先生に褒《ほ》められることが多く、母親は「きっとわたしからの遺伝ね」と喜んでいた。綾の家には「お父さん」がいないので、綾にとって家族は「お母さん」が全《すべ》て。だから、本当はそんなにピアノは好きではなかったし、もっと友達と遊びたかったけれど、お母さんが喜んでくれるならそれでいいかな、と綾は思っていた。
月曜日に先生から注意された部分を家で練習し、『子犬のワルツ』を上手《うま》く弾けるようになった綾は、金曜日の夕方、幼稚園から帰って来るとすぐに着替えて、ピアノ教室に向かった。レッスンは二時間。綾の上達を認めた先生は、今度の発表会に出てもいいと言ってくれた。綾はその場で「やったーっ!」と何度も飛び跳《は》ね、先生に少し叱《しか》られたけれど、それでも嬉《うれ》しさは消えなかった。夕飯のとき、お母さんに話そう。お母さんは褒めてくれる。もしかしたら、ご褒美《ほうび》に、綾が前から欲しがっていた自転車を買ってくれるかもしれない。早く話したくてウズウズしながら、綾はピアノ教室を出た。
綾はピアノ教室は嫌いではなかったが、その帰り道は大嫌いだった。街灯が少なくて道が暗いし、大きな野良《のら》犬や、怖い顔をした学生などと、よくすれ違うからだ。その日は、髪と髭《ひげ》が伸び放題で、汚い服をたくさん身につけた「ほーむれす」と呼ぼれる人が向こうからやってくるのが見えた。綾は、鞄《かばん》につけた防犯ブザーをギュッと握り締める。防犯ブザーはお母さんに持たされた物。いざとなったら大きな声を出すか、これのピンを引きなさいと、言われていたのだ。両手に紙袋を持っていた「ほーむれす」は、道の端で身構える綾をじっと見てはいたが、何もしてはこなかった。その姿が見えなくなったところで、綾はようやく防犯ブザーから手を離し、先を急いだ。角を曲がり、スーパーの前を早足で通り過ぎる。今夜は寒いなあと思いながら、タバコ屋の側《そば》まで来たところで、綾は路上に誰かうずくまっているのを見つけた。近づいてみると、それはお爺《じい》さん。右手に杖《つえ》を持ったお爺さんが、辛《つら》そうな顔で腰をさすっていた。綾は心配になり、声をかける。「どうしたんですか?」「ああ、ちょっと腰がね……」。お爺さんの脇《わき》には、スーパーの白いビニール袋が一つ。買い物に行った帰りに、腰が痛くて歩けなくなってしまったらしい。綾は周りを見回したが、道行く人たちは誰もこちらを気にしていない。みんな、なんて冷たいんだろう。「一日に何か一つ、いいことをしなさい」と母親から教えられていた綾は、今日はまだ何もいいことをしてないと思い出し、お爺さんを手伝うことにした。お爺さんは「いいよいいよ。じっとしてれば治るから」と言ったが、綾は「大丈夫です。手伝います」と言い、スーパーの白いビニール袋を持ち上げた。かなり重かった。中身は缶ビールがたくさん。綾がそれを両手で持つと、お爺さんは「すまないねえ」と言いながら、杖をついてゆっくり立ち上がる。お爺さんの家が何処《どこ》か尋《たず》ねてみると、綾と同じマンションだった。ここから近い。頑張ろう。よいしょ、と力を入れ、綾はお爺さんと一緒にマンションに向かう。駐輪場を通り、玄関ロビーの自動ドアを開け、どうにかエレベーターの前へ。重い荷物のせいで手は痛いし、綾はもうヘトヘトだったが、お爺さんが何度も「ありがとう」と言うので嬉しくなり、このままお爺さんの部屋まで荷物を運ぶことにした。お爺さんと一緒にエレベーターに乗って、三階で降りる。廊下を進み、お爺さんが部屋のドアを開けた。中に入ると、玄関は暗かったが、部屋の奥には電気がついていて、誰かいるようだった。ガチャリ、と綾の後ろでドアの鍵《かぎ》が閉まる。そしてお爺さんが言った。
「ありがとう、綾ちゃん」
……どうしてわたしの名前を知ってるんだろう?
不思議に思った綾の口が、後ろから手で塞《ふさ》がれた。しわくちゃの手で。お爺さんの手で。綾は咄嵯《とっさ》に鞄の防犯ブザーのピンを引こうとしたが、その腕をお爺さんにねじり上げられた。痛い。息もできない。綾は必死に手足をバタバタと動かし、でもどうにもならず、そうしているうちに、まるで玄関の暗闇《くらやみ》に溶けるように、意識を失った。
目が覚めると、綾は知らない部屋の中にいた。白い壁に囲まれた、何もない小さな部屋。暗い。窓には板が打ち付けられていて、天井には裸電球が一つ。扉もあるが、いくら力を加えても開かない。ここが何処なのかわからず、何がどうなったのかわからず、綾は泣いた。大声で泣いた。「出して! 出して! 出して! ここから出して!」。すると扉が開き、お爺さんが部屋の中に入ってきた。綾は叫んだ。「ここから出して! 家に帰して!」。お爺さんは無言で、綾を殴り飛ばした。綾の小さな体が壁にぶつかり、床に転がる。血の混じった唾液《だえき》と、折れた前歯が一本、口からこぼれ落ちた。呆然《ぼうぜん》とする綾に、お爺さんは言った。「騒ぐんじゃねえ、ボケ! その舌《した》、引っこ抜くぞ!」。綾が今まで聞いたこともない、恐ろしい声と言葉。震え上がる綾の下腹部を、お爺さんは気持ちの悪い手つきで撫《な》でる。そして説明した。前から綾を狙《ねら》っていたこと。お爺さんは、まだ、まだ、たくさん長生きしたくて、そのためには「わかいしきゅう」がたくさん必要で、綾の「けがれ」が落ちきったら、「しきゅう」を「せっしゅ」すること。今までにもたくさんの「わかいしきゅう」を「せっしゅ」してきたこと。だからお爺さんは、とても力が強いこと。逆らえば殴ること。「前に、何度殴っても言うことをきかないバカな子がいてね。前歯を全部|叩《たた》き折って、手と足の指をトンカチで潰《つぶ》して、それでようやくおとなしくなったんだが、あれは面倒《めんどう》だったなあ」。お爺さんはヒヒヒと笑い、綾の服をめくると、粘《ねば》つくような指で下腹部に直接触れた。綾は抵抗しなかった。手の指を潰されたら、もうピアノを弾けなくなってしまう。お母さんが悲しむ。お爺さんは空洞のような暗い瞳《ひとみ》で宙を見つめ、「綾ちゃんのしきゅうは、どんな味かなあ」と呟《つぶや》き、興奮《こうふん》して垂《た》れてきた口元のよだれを手で拭《ぬぐ》ってから、部屋を出て行った。
それから何日|経《た》ったのか、綾にはわからない。お爺さんは時々やって来て、部屋の中を覗《のぞ》いたりはするけれど、食べ物も飲み物も与えてはくれず、トイレは、部屋の隅《すみ》に置かれたオマルで済ませた。窓から明かりが入らないので、昼か夜かもわからない。少しでも体力の消耗《しょうもう》を防ぐため、床に寝転がりながら、綾は考えた。お爺さんは何かを待っている。お爺さんが自分をどうするつもりなのか、よくわからないけれど、何かを待っている。多分、自分が完全に弱りきるのを待っているのだろう。だから綾は、お爺さんが部屋の中を覗きに来ると、わざと動かないようにした。もう観念した。もう逆らう力はない。かろうじて息をする程度の力しか、もう残っていない。お爺さんに、そう思い込ませるように。実際に綾の体力は限界に近づいていたので、その演技はそれほど難しくはなく、お爺さんも疑いはしなかった。殴っても蹴《け》っても、ただ虚《うつ》ろな視線を向けるだけの綾に、お爺さんは大きな鍋《なベ》を持ってきて見せた。「この鍋で、いろんな『しきゅう』を料理してきたんだよ。最近は『りょうこちゃん』と『まさみちゃん』のときに使ったね。二人は姉妹で、とてもいい子だったよ。綾ちゃんも、この鍋を使ってあげよう」。綾は思い出した。何ヵ月か前に、ニュース番組を観《み》ていた母親の顔が、青ざめていたことを。あれはたしか、子供が行方《ゆくえ》不明になったというニュースを観ているときだった。
その子供の名前が、「りょうこちゃん」と「まさみちゃん」だった、と思う。二人はまだ見つかっていない。このお爺さんが、何かしたのか。鍋を使って、何をしたのか。わからない。疲れた頭でそんなことを考えながら、綾はチャンスを待った。
ほどなくして、そのときは訪れた。部屋の中を覗きに来たお爺さんが、綾の肩を揺すり、動かないのを見て、呼吸の有無《うむ》を確認しようとし、綾の口の前に手を持ってきたのだ。その指に、綾は噛《か》みついた。思い切り噛みついた。「ギャァ!」と悲鳴を上げ、指を押さえてうずくまるお爺さんの横を、綾は体を起こして走り抜ける。力が入らずに足がもつれ、転がるようにして部屋の外へ。頭と肩が廊下の壁に当たり、かなり痛かったけれど我慢《がまん》。逃げよう。早く。急がないと。綾は、とにかく明るい方へ走った。差し込む光から今が昼間なのだとわかり、綾は窓を開いてベランダに出る。背後からお爺さんが追ってきた。その手に杖はない。お爺さんは普通に歩けるのだ。
「綾ちゃーん。いけない子だなあ。まだ、けがれが落ちてないなあ」
お爺さんは声を荒げない。焦《あせ》っていない。ベランダの下を見て、綾はその理由がわかった。ここは三階だ。高い。下にある植え込みまで、何メートルあるのかわからない。お爺さんは、綾はどうせ逃げられないと思っているのだ。綾は迷わなかった。ベランダの手すりを乗り越え、そこから跳《と》んだ。落ちるのは怖かったが、お爺さんに何かされる方がもっと怖かったし、嫌だったのだ。植え込みの上に落ちた衝撃と痛みで、綾は眩暈《めまい》を起こし、涙が出そうになったが、それでもどうにか立ち上がった。顔にも手にも脚《あし》にも、小さな枝が刺さっている。痛い。落ちたときに打ったらしい右|膝《ひざ》は、もっと痛い。それでもじっとしているわけにはいかず、綾はそこから動いた。植え込みのすぐ側は駐輪場で、綾は右足を引きずりながらアスファルトの上を進み、辺《あた》りを見回したが、誰もいない。ここは綾も住んでいるマンションだ。八階まで行けば、お母さんがいる。きっと心配している。でも綾がそうすることは、お爺さんにもわかっているだろう。今の綾は走れない。八階に行く前に捕まってしまう。だから今は、とにかく誰か人を呼ぼう。綾は大声を出そうと何度か試したが、ずっと栄養を取っていないため、お腹《なか》に力が入らなかった。小さな声しか出ない。こうしているうちにも、お爺さんがここに来るかもしれない。誰か探そう。痛む右足を引きずり、綾は道路の方へ進むことにした。道に出ると通行人もいたが、みんな足が速く、こちらに気を留めることもない。綾は息を切らせながらもう少し進み、もっと人の多そうなところを探す。見つけた。ラーメン屋の前の行列。綾も、母親とよく食べに行く店だ。いつも人がたくさんいる。あそこまで行こう。
そちらへ踏み出そうとした綾に、誰かが声をかけた。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
顔を向けると、そこにはお婆《ばあ》さんがいて、心配そうに綾を見つめていた。綾は、カラカラに乾いた口の中に唾液を溜《た》めて飲み込み、どうにか声を出す。
「…た……たすけて…」
何度も咳《せ》き込みながらも、綾はお婆さんに事情を説明した。話を聞いたお婆さんは頷《うなず》き、すぐに警察を呼んでくれると言った。巾着袋《きんちゃく》から携帯電話を出し、お婆さんは電話をかける。
助かった。お母さんに、会える……。
疲れ果て、その場に座り込もうとした綾の顔から、血の気が引いた。こちらに向かって歩いてくる、お爺さんの姿が見えたのだ。綾はお婆さんに、あれが犯人なのだと訴える。
お婆さんは、笑顔で頷いた。
「ええ、わかってますよ」
それがどういう意味なのかは、お爺さんが近くに来るとわかった。親しげに話す、お爺さんとお婆さん。二人は夫婦だったのだ。「ダメじゃないですか、逃がすなんて。手際《てぎわ》の悪い……」とお婆さんが叱り、「いや、なかなか、賢《かしこ》い子でねえ」と、お爺さんは笑っていた。
「さあ帰ろうか」
お爺さんの手が綾の腕を掴《つか》み、後ろにはお婆さんが立つ。
もう逃げられない。
お爺さんに抱えられるようにして歩き出した綾は、近くを通る人たちに視線で助けを求めたが、祖父母と孫にしか見えないらしく、誰もまともには反応してくれなかった。
助けてください。誰か助けてください。
視界が涙で滲《にじ》み、自然と下を向いた綾の耳が、誰かの声を拾った。
少年の声だった。
「おまえ、携帯電話はオモチャじゃないんだから、やたらとかけてくるなよ。何か用があるときだけに……えっ? いや、夕乃《ゆうの》さんとも、滅多《めった》に電話なんかしないぞ。本当だって。ほら、そういうのは……」
最後の力を振り絞《しぼ》り、綾はその声の方へと顔を向ける。すぐ側を、携帯電話で話しながら一人の少年が通り過ぎようとしていた。高校生くらいの、あまり目立たない感じの少年。
綾は少年を見る。願いを込めて。
……たすけて……。
電話をしていた少年は、その視線に気づいた。少年は綾の姿を目で追い、「紫《むらさき》、またあとでな。ちょっと急用ができた」と言って、電話を切る。
少年は小走りで綾たちの前へと回り込み、お爺さんに声をかけた。
「あの、すいません。少しお話いいですか?」
怪訝《けげん》そうに、お爺さんは立ち止まる。
「何かな?」
「その子、お孫さんですか? なんか怪我《けが》してるし、泣いてるみたいなんで……」
「ああ、これは……ちょっと派手《はで》なケンカをしてしまってね」
お爺さんは苦笑を浮かべ、「そうだよな、綾?」と綾に目を向けた。その手は綾の首の後ろを掴んでいる。綾は少年を見上げ、口を開いた。たすけて。そう言いたいけれど、言えない。恐ろしくて言えない。空洞のように暗い、お爺さんの瞳。首の後ろを掴む、お爺さんの手。強い力。伝わってくる明確な殺意。余計なことを言えば、今ここで殺される。自分は殺される。この少年も一緒に殺される。
「……なんでも……ない…です…」
綾はそれだけを言い、視線を足元に落とした。
綾自身が否定したのだ。これでもう、少年は行ってしまうだろう。
ああこれでわたしは終わりなんだ。そう思った。
綾の言葉を聞いた少年は、「ははあ、なるほど」と頷く。
「だいたいわかりました」
少年の右足が、お爺さんの股間《こかん》を蹴り上げた。その衝撃でお爺さんの体が一瞬浮き、綾の首から手が離れ、股間を押さえながら崩《くず》れ落ちる。「クソ! なんでわかった……!」というお爺さんの悔《くや》しげな声に、少年は平然と答えた。
「孫に殺気を向ける祖父《じい》さんなんて、いるわけないだろ」
力が抜けそうになる綾の背後から、しわくちゃの腕が伸び、首に巻きつく。お婆さんの腕。巾着袋から取り出したナイフを綾の首に当て、お婆さんは高い声で巾着袋から取り出したナイフを綾の首に当て、お婆さんは高い声で吼《ほ》えた。
「てめえ! そこを動くんじゃ……」
問答無用で、少年はお婆さんの喉《のど》に貫手《ぬきて》を打ち込む。「グエッ」と呻《うめ》き声を漏《も》らし、お婆さんは白目を剥《む》いて卒倒《そっとう》。解放され、地面に倒れかかった綾を、少年は抱き止めてくれた。
優しい手だな、と綾は思った。
「大丈夫?」
少年にそう言われ、綾の目から涙が溢《あふ》れてくる。綾は泣いた。綾の大きな泣き声に、周りにどんどん人が集まってきて、少年がそれに困っているのがわかっても、涙は止まらなかった。今の綾は、とにかく思い切り泣きたかったのだ。
真九郎《しんくろう》が警察から解放されたのは、夕方おそくになってからのこと。
ただの事情聴取ではあるが、何度も同じことを話すのは、やたらと疲れた。まあ仕方がないだろう。誘拐未遂《ゆうかいみすい》かと思いきや、真九郎が想像するよりもずっと悪質な事件だったのだ。捕まった老夫婦の部屋を調べたところ、異常なものを多数発見したそうで、「これじゃあ今夜は徹夜だ、ちくしょう」と、刑事らしき中年の男がぼやいていた。敬老精神を封じて、ぶん殴っておくんだった、と真九郎は少しだけ後悔。詳《くわ》しい事情も知りたいところだが、揉《も》め事処理屋を営《いとな》む真九郎も、警察からすれば一般人でしかなく、そこまで教えてくれるわけもない。とにかく女の子の精神面を気遣《きづか》ってやって欲しい、とだけ意見し、真九郎はさっさと帰ろうとした。ところが、そうもいかなかった。助けた女の子が、真九郎の服から手を離してくれなかったのだ。涙を浮かべた目でじっと見上げられると、どうにもならない。結局、しばらく留まることになり、到着した母親と女の子が再会するのを見届けてから、真九郎はようやくその場を離れた。母親に抱きつき、わんわん泣いている女の子。まだ幼い。大丈夫だろう。なんとか忘れられるだろう。嫌なことは、なるべく早く忘れた方がいいのだ。
いつまでも忘れられないと、自分のようになってしまう。
ありがとう、と女の子がお礼を言う声が背中に聞こえたが、真九郎は振り返らず、手を振るだけで済ませた。
自分の顔も、忘れてくれていい。嫌な記憶と一緒に。
「さてと……」
警察署から出た真九郎は、周りの警察官の目を気にしながら欠伸《あくび》を漏らし、当初の目的を果たすことにする。偶然、事件に巻き込まれはしたが、そもそも真九郎は、昼飯を食べに行く途中だったのだ。
「へい、らっしゃい!」
暖簾《のれん》を潜《くぐ》って店内に入った真九郎を、従業員の元気な声が出迎えた。『楓味《ふうみ》亭』は、老舗《しにせ》のラーメン屋だ。奇抜《きばつ》なメニューはないが、乱立する競合店にも負けないしっかりとした味が自慢であり、ファンは多い。
運良く空《あ》いた席に真九郎が腰を下ろすと、従業員の一人が注文を取りに来た。この店の看板娘だ。水の入ったコップをテーブルの上に置き、愛想《あいそ》の欠片《かけら》もない声で言う。
「ロリコン」
エプロン姿でお盆を脇に抱え、いつものように不機嫌そうな顔の銀子《ぎんこ》。
水を一口飲んでから、真九郎は静かに抗議した。
「……それが客に対する態度か?」
「薄っぺらな笑顔が欲しいなら、そこらのファーストフード店にでも行けば?」
「おまえな……」
「さっさと注文して。こっちは忙しいのよ、ロリコン」
「……もやしラーメン大盛り」
銀子は、ふん、と鼻から息を吐き、きびきびとした足取りで別のテーブルへと向かう。夕飯時は過ぎても、店内は活気に溢れていた。客足は上々のようだ。銀子の母親の姿が見えないが、おそらく出前に行っているのだろう。いつもは部屋に引っ込んでいる銀子が手伝っていることからしても、忙しいのがわかる。厨房《ちゅうぼう》では銀子の父、村上《むらかみ》|銀正《ぎんせい》が頭にタオルを巻き、従業員たちに指示を出していた。どんな換気扇《かんきせん》の音にも負けない、大きな声。相変わらず元気そうだなあ、と真九郎が苦笑していると、その視線に気づいた銀正が、「よう、シンちゃん!」と大きく手を振る。真九郎は、片手を上げてそれに応《こた》えた。
「シンちゃん、久しぶりじゃねえか。元気か?」
「まあまあですね」
「たまにはこっち来て、手伝えよ。ほら、うちに婿《むこ》入りしたときに備えてさ」
「いやあ、それは……」
「お父さん!」
叩きつけるようにしてお盆をカウンター席に置き、会話を断ち切る銀子。
「バカ言ってないで、塩ラーメン三つと、もやしラーメン大盛りを一つ。あと餃子《ぎようざ》を一つ」
「何だよ銀子、おまえだって結構……」
「お父さん!」
「おー、怖い怖い」
娘から睨《にら》みつけられ、銀正はおどけるように肩をすくめた。
今でこそラーメン屋の店主をしている村上銀正だが、昔は喧嘩《けんか》師として相当に鳴らした人物だったらしい。父の銀次《ぎんじ》は凄腕《すごうで》の情報屋であることから、そのままいけば二代目となり裏世界に一直線。しかし銀正は、父の仕事を継がず、喧嘩師もやめた。色白でおとなしいラーメン屋の娘に、一目|惚《ぼ》れしてしまったのだ。そしてラーメン屋を継ぐことに決めた。愛する人を見つけてすんなりこの店に収まった彼の生き方に、真九郎は多少の憧《あこが》れを感じる。迷いなく自分の居場所を定めた決断力が、凄《すご》いと思うのだ。かつて借金苦でヤクザが押しかけてきたときも、銀正は絶対に暴力を使わなかった。妻と娘がいる身として、そういう解決手段を選ばなかった精神力も凄いと思う。決断力と精神力、どちらも真九郎には欠けているものだ。
椅子《いす》の背にもたれ、真九郎はゆっくりと店内を見回した。手書きのメニューが並ぶ壁。染《し》みのある天井。漂う脂《あぶら》の匂《にお》い。幼い頃から何度も通った店の雰囲気《ふんいき》は、真九郎には心地が良かった。馴染《なじ》みの場所に来ると、不意に古い記憶が再生される。大晦日《おおみそか》には必ず家族でここに来て、食事したこと。店の手伝いをしていた銀子が大人ぶった口調で注文を取り、銀子ちゃん変なのー、と真九郎が笑うと、うるさいバカ、とお盆で頭を叩かれたこと。開店時間の前にテーブルを借り、銀子と夏休みの宿題をしたこと。祭りのあった日に大人に酒を勧《すす》められ、銀子と二人で酔っ払い、ここの椅子で寝てしまったこともある。
昔と変わらぬ場所があることは、自分の一部が保存されているようで嬉しい。最近はこ無沙汰《ぷさた》だったので久しぶりに寄ったわけだが、やはり来て良かったと思う。
銀子の態度を除いては。
「はい、もやしラーメン大盛り、お待ちどうさま。ロリコン」
「……銀子」
「何よ?」
「それ、いつまで続くんだ?」
「あんたがめげるまで」
「おまえな、いい加減にしないと、俺も怒るってことを……」
「幼稚園のとき、一緒にお風呂に入ったあたしの胸を触りたがった紅《くれない》真九郎くん。ちゃんと触らせてあげた慈悲《じひ》深いあたしに、何か文句でも?」
「……ありません」
「きちんと味わって食べなさいよ」
「……はい、いただきます」
胸の前で手を合わせ、真九郎は静かに一礼。
昔のことを持ち出すのは卑怯《ひきょう》だ、と真九郎は思う。あれは、女であるはずなのにまったく起伏のない銀子の胸が不思議で仕方がなくて、ちょっと好奇心が湧《わ》いただけなのに。
スープの香りを嗅《か》ぎながら箸《はし》を割り、真九郎はラーメンを食べる。美味《うま》い。歯応《はごた》えのいいもやしと、ちょっと濃い目に味付けされた挽《ひ》き肉が、麺《めん》と良く合う。
これで銀子の態度がああでなければ、最高なんだけどな……。
銀子が不機嫌な理由は、真九郎にも何となく察しがついている。
九鳳院《くほういん》紫。あの七歳児が原因だ。
取り敢《あ》えず事態は収束《しゅうそく》したわけであるし、今後のことも考慮《こうりょ》して、真九郎は銀子に事情を打ち明けた。もちろん細かい点は省いて、である。特に|奥ノ院《おくのいん》については、知らない方が良いだろうと思い、話していない。事情を聞い銀子は、九鳳院家に世間《せけん》から隠された娘がいたということに驚き、紅香《べにか》が絡《から》んでいたことに眉《まゆ》を顰《ひそ》め、なぜか「やらしい」を連発した末に、真九郎を「ロリコン」と評した。
完全な誤解だったが、それを解くには、時間がかかりそうである。
丼《どんぶり》を持ち、残ったスープを飲もうとした真九郎の懐《ふところ》で、電話が鳴った。
通りかかった銀子が、それを目ざとく見つけて注意。
「店内でのケータイの使用は、ご遠慮ください。他のお客様に迷惑です」
「銀子」
「何よ?」
「エプロン、良く似合ってるな」
「うるさいバカ!」
お盆で後頭部を叩かれながら、「もしもし」と真九郎は電話に出る。
和《なご》んでいた気分が、一瞬で消えた。
電話の相手は、真九郎の知らない女性。
「紅真九郎さん、ですね?」
真九郎が肯定すると、彼女は丁寧《ていねい》な口調で、こう言った。
「わたし、悪宇《あくう》商会のルーシー・メイと申します」
そもそも公園とは休む場所なのか、遊ぶ場所なのか。
この無駄ともいえる空間は、何のためにあるのか。
子供の頃、真九郎は真面目《まじめ》にそれを考えたことがあるが、答えは出なかったし、調べなかったし、未《いま》だに答えを知らない。その真相はともかく、今日の真九郎にとって、公園は働く場所だった。冬晴れの日曜日。住宅街の側にある、わりと大きな公園だ。暖かい日差《ひざ》しのなか、芝生《しばふ》の上で昼寝する老人や、ベンチで参考書を広げる学生、ボールを蹴って遊ぶ子供たちの姿などが見える。
公園の、ちょうど真ん中にある噴水《ふんすい》。その縁《ふち》に腰かけていた真九郎は、あまりの陽気の良さに睡魔《すいま》に襲われそうになったが、頬《ほお》を叩いてどうにか堪《こら》えた。数日前、悪宇商会から来た一通の電話。「直接会って話したいことがある」という誘いに従い、真九郎は今日ここに来たのだ。
悪宇商会は、裏世界の人材|派遣《はけん》会社。そんな組織が自分に何の用か、それはわからない。紫の件で、真九郎は悪宇商会に所属する戦闘屋を倒しており、その復讐《ふくしゅう》という可能性も考えたが、それならわざわざ電話で会う約束をするだろうか。どうも向こうの意図が読めず、事態を動かすには会ってみるしかないな、というのが真九郎の出した結論だった。
真九郎は、公園の時計で約束の時間を確認。待ち合わせの相手は、そろそろ来るはずだ。
噴水の周りには、真九郎の他にも待ち合わせをしている若者の姿がいくつかある。特に合図や目印《めじるし》を決めなかったのだが、大丈夫だろうか。ちゃんと真九郎がわかるのか。普通に考えれば写真だが、やはり裏世界の住人らしく、相手の気配で判別するのかもしれない。
暇潰《ひまつぶ》しのつもりで真九郎はいろいろと予想し、そして全て外れた。
かなり大きな声で、こんなのが聞こえてきたのだ。
「星領《せいりょう》学園一年一組の、紅真九郎さーん! いらっしゃいますかー? いらっしゃるなら、返事してくださーい!」
名前を呼ぶのか……。
周りの若者たちから失笑が漏れるのを耳にし、真九郎は慌《あわ》てて声の方へと駆け寄る。
「紅真九郎さーん! いらっしゃらないんですかー?」
「こっちです! ここにいます!」
手を振る真九郎を見つけ、「あー良かった」と胸を撫で下ろしたのは、若い女性。電話の事務的なやりとりから、真九郎はキャリアウーマン風《ふう》の外見を想像していたのだが、実際は全然違っていた。見たところ、歳《とし》は二十代前半。サイズの大きい厚手のコートと、これまたサイズの大きい眼鏡《めがね》、頭にはニット帽。どことなくやぼったい感じの、地味な女性だ。
「どうも初めまして、紅さん。いやあ、合図や目印を決めるのをうっかり忘れてたもので、これで会えなかったらどうしようって、ちょっと焦りましたよ」
「……あの、悪宇商会の方ですよね?」
真九郎が一応確認すると、彼女は「はい」と頷いた。
「悪宇商会から参りました、ルーシー・メイと申します」
刺客《しかく》である可能性もあったわけだが、普通に会話が通じそうな相手とわかり、真九郎は少しだけ安堵《あんど》する。二人は、丸太で出来たべンチに腰を下ろした。真九郎は周囲を確認。伏兵《ふくへい》はいない。今日来ているのは、ルーシー・メイと名乗るこの女性だけか。
「お会いできて嬉しいです、紅さん」
「はあ……」
「で、さっそくで申し訳ないのですが、一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何です?」
いきなりだな、と身構える真九郎に、ルーシーは言う。
「お金、貸してください」
「えっ?」
相手が悪宇商会の人間なので、真九郎は遠回しに恐喝《きょうかつ》されてるのかと思ったが、彼女はこう補足《ほそく》した。
「わたし、財布を忘れてしまいまして……」
ポケットにいくらかあったのでここまでは来れたが、帰りの電車賃を考えるとあまり使えず、しかし空腹なので何か食べたい、ということらしい。
「別にいいですけど……」
真九郎がお金を渡すと、ルーシーは公園前のコンビニまで駆けて行った。しばらくして、白いビニール袋を持った彼女がベンチに戻ってくる。透けて見える中身はオニギリ。
「すみません、すみません。本当に助かりました。朝食抜きだったので」
「……あの、もう一度確認しますが、本当に悪宇商会の方ですよね?」
「はい、そうですよ」
真九郎が半信半疑《はんしんはんぎ》なのを見て、ルーシーは口にオニギリを銜《くわ》えたままコートのポケットに手を入れた。ゴソゴソと中を探り、ガムの包み紙、ポケットティッシュ、携帯用カイロなどをベンチの上に出したあとで、真九郎に一枚の名刺を渡す。
簡素な名刺だ。電話番号と『悪宇商会 人事部副部長 ルーシー・メイ』という表記のみ。
オニギリを飲み込んでから、ルーシーは言う。
「本当は社員証でもあれば良いのですが、生憎《あいにく》とそういうものはなくて。でも、我が社の人間を騙《かた》る者はいませんから、それで信用していただけないでしょうか?」
「どうして、騙る者はいないと断言できるんです?」
「そういった不将《ふらち》な輩《やから》には、必ず制裁を加えるからです。うちの社長、人を利用するのは大好きなんですが、人に利用されるのは大嫌いなんですよ。だから、必ず制裁を加えます。それは有名な話ですので、それでも我が社の人間を騙る命知らずは、いないと思いますね」
ここは経験の浅い三流の悲しさ。
ハッキリした確認手段を知らない真九郎としては、ルーシーの言葉を信用するしかない。
悪宇商会を騙って自分と接したところで、特に利益もないだろう、と一応納得。
名刺をポケットにしまう真九郎を見て、ルーシーは言う。
「あの、大変申し訳ないのですが、もう一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何です?」
「お金貸してください」
またかよ。
飲み物を買い忘れた、ということだった。げんなりしつつ、真九郎は硬貨を渡す。近くの自販機でウーロン茶を購入したルーシーは、それを飲みながら「あー美味《おい》しい」と笑顔。
「本当にすみません。必ず返しますので。あ、半分飲みます?」
「結構です。それより……」
「せっかくの休日なのに、こちらの都合で急がせてしまったことも、すみません。デートのお約束とか、ありましたよね?」
「前置きはいいですから、早く本題に入ってください」
「はい、それでは」
ベンチの上にウーロン茶の缶を置き、ルーシーは言った。
「あなたが欲しいのです、紅さん」
「……えっ?」
どういう意味か。
戸惑《とまど》う真九郎の目を見つめながら、ルーシーは繰り返した。
「あなたが欲しいのです、紅さん。我が社に、悪宇商会に来ませんか?」
普通に生活していれば、自然と耳にし、嫌でも覚えてしまう組織名はある。表世界の場合、例《たと》えばそれは電機メーカー、ゲーム会社、化粧品会社、食品会社など。裏世界の場合、それに当てはまるのが悪宇商会だろう。裏世界で最もメジャーな人材派遣会社であり、その顧客《こきゃく》には政治家や財界人も多いという。真九郎も詳しいわけではないが、噂《うわさ》なら、情報屋をしている銀子からよく聞いていた。「あんた、絶対に関《かか》わるんじゃないわよ」という忠告とともに。
陽光が翳《かげ》り始めた。見上げる空には、いつの間にか雲が広がっている。
日陰《ひかげ》になったべンチで、二人の会話は続いた。
「先日の一件は、報告書を読みました。〈鉄腕〉ダニエル・ブランチャードに勝利したあなたのお力を、我が社は高く評価します。ぜひとも、我が社に来ていただきたいのです」
「……スカウトってことですか?」
「我が社は、紅さんとの契約を希望しています」
それで人事部の人間が来たのか……。
合点《がてん》がいった部分もあるが、真九郎としてはどうも釈然《しゃくぜん》としない。
「……あの、俺、そちらの戦闘屋を倒したわけですよね? それって、そちらの損害《そんがい》でもあるし、そんなことをした奴《やつ》をスカウトするんですか?」
「もちろん。有能な人材なら、スカウトします。そこに感情は挟《はさ》みません」
事務的な口調で、ルーシーは言った。
「悪宇商会は、必要な場所に最適な人材を派遣することを仕事とする、会社組織ですから」
「噂は聞いてます、いろいろと」
「金さえ出せばどんな犯罪にも加担《かたん》する悪の秘密結社、とかですか?」
「それは……」
「まあ、誤解されてもしょうがないんですけどね。そもそも、悪宇商会という名前が良くない。もっと別の、横文字でカッコイイ名前なら、大分イメージが違うと思うんですが、うちの社長、そのへんの融通《ゆをずう》が利《き》かない人で……」
困っちゃいますよ、と軽く笑い、ウーロン茶を一口飲んでからルーシーは続ける。
「たしかに、我が社の過去の業績のなかには、血生臭《ちなまぐさ》いものが多い。それは事実。でも、我が社は悪の組織ではない。そんなの、少し考えればわかるはずですよ。いくら闇と暴力が渦巻《うずま》く裏世界であろうと、ただ悪いことをしているだけの組織が、やっていけるわけがない」
それはそうだろう、と真九郎は声には出さずに同意した。
マフィアなどを例にとってみても、一面では無慈悲《むじひ》な暴力や殺識《さつりく》を行う組織でありながら、弱者を救い、貧しい者に施《ほどこ》しを与えるような、別の一面も持っていたりする。そのバランス感覚に長《た》けた組織しか、存続できない。ルーシーの言う通り、ただ悪いことをしているだけの組織など、やっていけるわけがないのだ。逆に言えば、どんなに悪い組織に見えても、長く続いていることが、すなわち世界を構築するシステムの一部としてきちんと機能している、という証明になるか。
「我が社は、犯罪に協力します。犯罪の解決にも協力します。誰かを貶《おとし》めることもあれば、誰かを救うこともある。善悪の区別なく、お客様の望む条件に最適な人材を派遣する。それが、我が社の仕事なのです」
無節操《むせつそう》な組織、と非難するのは簡単だが、現代にはそういう力を求める風潮《ふうちょう》があるのもたしかだった。犯罪を起こしたい者も、犯罪から身を守りたい者も、大勢いる。今は、誘拐された我が子を救って欲しいと親が警察を頼っても、「そのうち帰ってくるんじゃないですか?」と冷たく対応されてしまいかねない世の中なのだ。そんなときに、悪宇商会が子供を無事に奪還《だっかん》する人材を派遣してくれるのであれば、親は喜んで金を払うだろう。それが違法な組織であろうと関係ない。
悪宇商会が提供するのは、ただ純粋な力。それをどう使うのかは、依頼者|次第《しだい》。
それがルーシーの言い分だった。
真九郎の顔を見ながら、彼女は話を続ける。
「我が社は常《つね》に人材を求めています。優秀な人材をです。紅さん、あなたのお力を、我が社は評価しました。欲しいのです。これから、我が社で働いてみませんか?」
真九郎は頭を掻《か》き、ため息をついてから返答。
「お断りします」
ルーシーの話はわかる。世間《せけん》の風評ほど、悪宇商会は酷《ひど》い組織でもないのだろう。多少なりとも裏世界で生きてきた真九郎は、その理屈が呑《の》み込めないわけではない。それでも真九郎が誘いを拒否したのは、組織というものに属するのが嫌だったからだ。組織自体を否定するわけではないが、仕事は自分で判断し、自分で選びたい。なぜなら、これは自分の人生なのだ。他人に干渉《かんしよう》されるなど、まっぴら御免《ごめん》である。
「ありがたい話だとは思いますが、俺としては……」
「ガキですね、意外と」
「……ガキ?」
「はい。考え方がガキです、まるっきり」
小馬鹿《こばか》にするように、ルーシーはクスリと笑った。
少しムッとした真九郎を気にせず、彼女は言う。
「紅さん。あなたは、ご自分の将来についてどの程度お考えですか?」
「将来?」
「あなたは今、十六歳。高校一年生。これからの進路をどうお考えです?」
「それは……」
「大学に進学なさいますか? それとも、揉め事処理屋に専念なさいますか?」
真九郎が言葉に詰まっているのを見たルーシーは、ポケットから分厚い革《かわ》手帳を取り出すと、それをパラパラとめくり始めた。
「あなたのようなフリーの揉め事処理屋は……ああ、たくさんいますね。競争は激しい」
その手帳を覗いた真九郎は、中身に驚く。完全な白紙。そこには、文字も写真も一切なかったのだ。
「これ、わたし流の記憶整理法です。仕事に必要な情報は全て頭に入れてあるんですが、この手順を踏まないと、上手《うま》く引き出せなくて」
「……全て、頭に?」
「はい。一番安全ですから」
人事部のデータも全て頭の中で管理しているとするなら、尋常《じんじょう》な記憶力ではない。
悪宇商会においては、事務職の人間も只者《ただもの》ではないということか。
手帳をポケットに戻し、ルーシーは話を続ける。
「まことに失礼ながら、紅さんの今の稼《かせ》ぎでは、ろくな貯金もないのでは? 高校の学費と生活費で、精一杯ですよね?」
痛いところを突きやがる……。
真九郎は苛立《いらだ》たしげに息を吐き、噴水の水しぶきを眺《なが》めた。
揉め事処理屋としての紅真九郎は、順風満帆《じゅんぷうまんぱん》とはいえないのが現状だ。紫の件では結局、紅香に報酬《ほうしゅう》を返してしまったし、それ以後は何も仕事をしていない。蓄《たくわ》えも少ない。将来を考えると不安だらけ。悔しいが、ルーシーの指摘《してき》は正しい。
それでも真九郎は一応、反論した。
意地になっている、と自分でもわかりながら。
「……たしかに、そちらのおっしゃる通りです。でもこういうことは、地道に頑張っていくしかないと思ってますから」
「とにかく地道に頑張る、ですか?」
「はい」
「あー、もしかして、地道に頑張ってればどうにかなると思ってます?」
真九郎の甘い考えを、ルーシーは平然と打ち砕《くだ》く。
「紅さん、あなたは勘違《かんちが》いしてますね」
「勘違い?」
「小さな仕事を重ねていれば、一生懸命にこなしていれば、いずれは大きな仕事に関われるようになる。いつか一流になれる。それは幻想です。映画やドラマの話です。現実には、そんなことありません。みんな、夢は夢のままで死んでいきます」
地道に頑張っていれば、そのうち何とかなるのではないか。
ルーシーの言う通り、その考えは真九郎の中にあるもの。
そんなものは、ガキの夢想だというのか。現実が見えていないというのか。
「夢を実現できるのは、ほんの一握りの者だけ。運と実力に恵まれた者だけ。紅さんも、それに含まれます」
「俺は……」
「紅さんの夢、目標は、どのへんですか?」
それはやはり、柔沢《じゅうざわ》紅香。
真九郎は彼女に憧れ、彼女のようになりたいと思っている。
「今のままのやり方で、それに近づくことはできますか?」
「いや、それは……」
「今のままではダメ、無理かもしれない、と少しでも思うなら、行動を起こすべきです」
「でも、いきなり組織とか言われても……」
「組織に属することへの不安? それはわかります。当然のことですね。でもそれを乗り越えてこそ、大きな成長があるのです。良い例を出しましょう。柔沢紅香という人を、ご存知ありませんか?」
まさかルーシーの口から紅香の名前が出るとは思わず、真九郎は驚いたが、その反応を見ながら、彼女はゆっくりと言葉を続ける。
「柔沢紅香は、世界最高クラスと称される揉め事処理屋です。今はフリーで活躍している彼女ですが、かつては組織に属していた時期があります」
真九郎は思い出す。
そういえば以前に、紅香は言っていた。
自分は昔、九鳳院家で働いていたことがあると。
「ちょうど、あなたと同じ年頃のときですよ。彼女は組織の中で腕を磨《みが》き、人脈を作り、資金を蓄えた。今の成功は、その時期があったからこそでしょう」
柔沢紅香といえど、いきなり天辺《てっぺん》に上り詰めたわけではない。組織に属して経験を積み、上に行くための土台を作った。ルーシーが言いたいのは、そういうことのようだった。
あの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な紅香でさえも必要とした過程。
それを回避しようとする真九郎の姿勢は、ただの怠慢《たいまん》なのか。
「あなたは未熟です、紅さん」
未熟。それは、真九郎にとって最も親しみ深い言葉。
他人から言われたくない言葉。
膝の上で指を組み、俯《うつむ》く真九郎に、ルーシーは追い討《う》ちをかける。
「揉め事処理屋として独《ひと》り立ちするには、あなたは、あまりにも未熟すぎる。今日、こうして話しているだけでも、それはわかります。わたしは事前に電話で、悪宇商会の人間であると名乗った。話があるとも言った。ならば、どのような話になるのかを想定し、予《あらかじ》めいくつか答えを用意しておくものです。そんなことも怠《おこた》っているから、あなたはろくな返答もできない。反論の一つもできない。話し合いの場で沈黙してしまうのは、それが計算ずくでない限りは、負けを認めるのと同じですよ」
負け。たしかにこれは自分の負けだ、と真九郎は思った。
これが学校なら、「答えがわかりません」でも通る。しかしここは学校ではなく、相手は教師ではなく、自分も生徒ではない。悪宇商会人事部の人間と、揉め事処理屋の会話なのだ。ここで沈黙してしまうのは負けと同じ。未熟さの証明。
「紅さん、あなたは原石です」
真九郎を慰《なぐさ》めるように、ルーシーは口調を和《やわ》らげる。
「磨きようによっては、素晴らしい輝きを放つでしょう。我が社は、そのお手伝いがしたい。あなたは、ご自分のステップアップのために、我が社を利用するつもりでかまいません。どうでしょう? お考えいただけませんか?」
「俺は……」
「何も、あなたの自由を奪おうというわけではありません。そんな堅苦しい話ではない。我が社は、あなたに仕事を提供するだけです。あなたが仕事をこなし、実績を積んでいけば、こちらはより大きな仕事を提供できる。もちろん、その労力に応じた収入も保証いたします。組織に属するという経験は、人間としての幅《はば》を、そして見聞を広めることにもなる。あなたにとって、決して損ではない。あなたが少しでも早く目標に近づけるよう、どうか我が社にお手伝いさせてください」
「……なかなか、乗せるのが上手いですね」
「口説《くど》くのも仕事ですから」
人事部として、普段からスカウト活動をしているということか。
真九郎は、返す言葉が浮かばなかった。ルーシーの弁を全て真《ま》に受けるわけではないが、いくらか当たっていることは認めないわけにもいかないのだ。
今のまま続けていても何とかなるだろう。漠然《ばくぜん》とそう思っていた。深く考えるのを避けていた、ともいえる。それは、ただ現状に甘んじているだけではないのか。逃げているだけではないのか。また逃げるのか、俺は。
いきなり現実的な問題に埋め尽くされた頭が、やたらと重く感じられる。
紅真九郎は、どういう道を進めばいいのか。
「……少し、考えさせてください」
今の真九郎に言えたのは、それだけだった。
ルーシーが去ってから数分後、真九郎は携帯電話で連絡をした。相手は出ない。仕方がないのでベンチから腰を上げ、公園内を捜すことにする。一周したが見つからず、まさかなあと思いながら、公園の端にあるビニールテントの並ぶ辺りへ。酒の匂いが漂うその空間を覗いてみると、武藤《むとうた》|環《たまき》を発見。環はラベルの剥《は》がれた酒瓶《さかびん》を抱え、ホームレスたちに混じるようにして寝転がり、爆睡していた。
人選を間違えたかな……。
真九郎は念のための保険として、ルーシーとの話し合いを見張ってくれるよう、環に頼んでいたのだ。アパートで暇そうにしていたから連れて来たのだが、この調子ではどこまで見ていてくれたものか。
環が邪魔したことを真九郎が詫《わ》びると、周りのホームレスたちは「別にかまわねえよ」と意外に好反応。普通なら一般人は忌避《きひ》されるものだが、環の独特の空気は彼らに受け入れられたのだろうか。このまま放っておくと定住してしまいそうなので、真九郎は中身が僅《わず》かしか残ってない酒瓶を環の手から取り上げ、ホームレスに返してから、彼女の肩を揺する。
「環さん、帰りますよ」
「いやーん、もう、真九郎くんのエッチ……。そんな道具使っちゃ、ダメ……」
どんな夢見てるんだ。
「環さん、起きてください」
「……ふわぁーい」
顎《あご》が外れるんじゃないか、と心配になるほど大きな欠伸をし、お尻《しり》をボリボリと掻きながら環は体を起こす。だるそうに首を左右に曲げ、「げふっ」と酒臭いゲップを一回。
きちんとしていれば美人なのに、どうしてこんな山猿《やまざる》みたいな習性なんだろうか。
うんざりしながら、真九郎は環の手を引いた。
「もう帰りますよ」
「あー、まだ飲み足りない」
「じゃあ置いていきます」
「んー、観たいテレビあるし、やっぱ帰る。真九郎くん、おんぶしてー」
「嫌です」
「やーだー、おんぶー」
あんた何歳だよ……。
駄々《だだ》をこねる環を仕方なく背負い、真九郎は公園を離れて駅に向かう。ジャージ姿で下駄《げた》を履《は》き、酒臭い息を吐く彼女の姿は周囲から目立っていたが、気にしないことにした。
真九郎の背中で、環がムフフと笑う。
「何だかんだいって優しいから、真九郎くん、好きー」
「はあ、そうですか」
ルーシーに言われた言葉が、まだ頭の中で渦巻いている。
悪宇商会からの勧誘《かんゆう》。予想外の事態。
これはチャンスなのか、それともトラブルなのか、判断が難しいところだ。
「真九郎くん、ちゃんと話は終わったの?」
「まあ、何とか……。休みの日に面倒なこと頼んで、すいませんでした」
「さっきのメガネの人、カタギじゃないっしょ?」
「……わかります?」
「気をつけなよー。ああいうのは、怖いから」
間近で会った真九郎よりも、遠目に見ただけの環の方が、冷静な分析《ぶんせき》ができているのかもしれない。大酒飲みのグータラでも、武藤環は真九郎の尊敬する格闘家だ。
「今日は、難しい話をいっぱいされました」
「へえ……」
「環さんは、自分の将来とか考えてます?」
「んー、真九郎くんに養ってもらうー」
「嫌です」
「じゃあ、あたしが真九郎くんを養ってあげるー」
「それも嫌です」
「なんだよー、もう、わがまま言うなよ、年下のくせにぃ」
環に頭をポカポカ叩かれながら、真九郎は交差点を渡った。
酔っ払いに真面目な質問をしても、しょうがないか。
ため息を一つ吐《つ》き、空を見上げる。
紅真九郎は、今のままで良いのだろうか。
どれだけ空を見つめようと、そこに求める答えが見つかるわけもなかった。
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第二章 一年三組出席番号八番 九鳳院紫
早朝、真九郎《しんくろう》は寝不足の頭を抱えたまま校門を通った。人気《ひとけ》の少ない静かな廊下を歩き、職員室の前を通りかかったとき、ふと掲示板に目をやる。部活動の報告や校内新聞。それに混じるようにしてあるのは、三年生を対象とした進路説明会のお報せ。真九郎はまだ一年生。揉め事処理屋としても一年生。しかし、先のことは決めておかなければならない。
これから、自分はどうするのだろう?
昨日、ルーシーと別れてから何度も考えていることだ。揉め事処理屋になった以上、その道で一流を目指すのは当然。柔沢《じゅうざわ》|紅香《べにか》のような活躍ができるようになれば最高。だがそれは、今の自分にとってあまりにも遠い目標だ。現実味の薄い、夢物語。自分は努力してきた、と思う。崩月《ほうづき》家で鍛《きた》えた八年間は真九郎にとって誇りであるし、多少の自信にもなっている。しかしそれは、基礎に過ぎない。問題はこれから。もっと腕を磨《みが》く。経験を積む。そのためには、仕事をこなすしかない。それも、できる限り有意義な仕事をだ。家出人を捜すとか、落書きの常習犯を見つけるために徹夜で見張りをするとか、商店街で暴れる不良集団を追い払うとか、そんな仕事ではなく、もっと大きな、自分を磨けるような仕事をしなければならない。今のままでは多分、ダメなのだろう。
階段を上がりながら、真九郎は思う。
学校はそれなりに好きだし、もしかしたら、そのうち大学への進学を考えるかもしれない。そのとき、自分はどうするつもりなのか。不思議と、そういうことはあまり考えたことがなかった。心配したこともなかった。今の稼《かせ》ぎでは、高校の学費と、生活するだけで精一杯なのに。ろくな貯蓄もありはしないのに。そういうことを心配していなかったのは、何故《なぜ》だろう。
その理由らしきものに思い至《いた》り、真九郎は自分自身に胸糞《むなくそ》悪くなった。
……俺は、崩月家に頼るつもりだったのかもしれない。
崩月家は裕福だ。師匠《ししょう》に頼めば、援助をしてくれるだろう。
でも、そんなの、絶対にダメだ。
あまりにも卑《いや》しい。
今まで散々《さんざん》世話になっておいて、まだ世話になろうというのか、紅《くれない》真九郎は。
自分は、変わらなければいけない。成長しなければいけない。悪宇《あくう》商会からの誘いは、そのいい機会なのか。しかし、心のどこかで躊躇《ちゅうちょ》する自分がいる。肝心《かんじん》な一歩が踏み出せない自分がいる。まるで、幼稚園に初めて行った日と同じだ。幼稚園の前まで来たはいいが、仲良く遊ぶ同年代の子供たちを遠目に見るだけで、いつまで経《た》っても母親の手を離せなかった自分。動けなかった自分。困った母親が何か言っても真九郎は聞かず、幼稚園の先生が優しく声をかけてくれても聞かず、あのときは結局、どうしたのだったか。
真九郎は、憂欝《ゆううつ》な気分で教室の扉を開けた。相変わらず教室に一番乗りで、ノートパンコンを開いている幼なじみを見て、ああそうだ、と思い出す。
あのときは、銀子《ぎんこ》が俺を連れて行ったんだっけ……。
母親の手を離そうとしない真九郎の側《そば》に、メガネをかけた女の子がやって来て、真九郎の手を掴《つか》むと、強引に歩き出したのだ。それはもう完全に真九郎の意思を無視した行動で、真九郎は必死になって手を振り払おうと抵抗したが、当時は銀子の方が力が強く、引きずられるようにして部屋の隅《すみ》に移動させられてしまった。何て怖い女の子だろう、と怯《おび》え、泣き出しそうになった真九郎の前に、銀子はぬっと本を差し出した。題名も内容も忘れてしまったが、可愛《かわい》い絵と綺麗《きれい》な色使いの絵本。真九郎はそれに目を奪われ、手に取って開いた。そして気がつくと、銀子と並んで床に座りながら、二人で絵本を読んでいたのだ。その様子に安心したのか、母親はいつの間にか帰ってしまっていたが、真九郎は何故か寂しくも怖くもなかった。
あのとき何で俺の手を掴んだんだ、と中学の頃に銀子に訊《き》いてみたことがある。ウジウジしてる奴《やつ》を見るとイライラするから、というのが銀子の答え。
あの頃の自分と、今の自分。もう十年以上も経っているのに、真九郎はそれほど変わってないような気がする。
自分の席に鞄《かばん》を置いた真九郎は、教室の電気をつけ、窓を少し開けて空気を入れ換えてから、銀子の前の席の椅子《いす》を引き、そこに腰を下ろした。
何となく質問。
「おまえ、貯蓄ってしてる?」
沈黙が流れた。何事も無いようにキーを叩《たた》き続ける銀子に、真九郎は来る途中のコンビニで買ってきた白いビニール袋を差し出す。中身はいつものアンパンと牛乳。
片手でそれを受け取り、ようやく銀子は反応。
「何の話?」
真九郎は少し考え、改めて言った。
「おまえ、貯金とかしてるか?」
「貯金?」
銀子は眉根《まゆね》を寄せ、はあ、と軽く息を吐いた。
そしてパンコンの画面から顔を上げる。
「で、いくら必要なの?」
「えっ?」
「利子は勘弁《かんべん》してあげるから、言ってみなさい。いつまでに、いくら必要なの?」
「いや、別に、借金したいってわけじゃ……ていうか、その放蕩《ほうとう》息子を見る母親みたいな目はやめろ。だいたい、俺、おまえから金を借りたことなんてないぞ」
「小学校一年のとき、プールの帰りにアイスクリームを食べたいって言うあんたに、百円貸したことが七回。二年のとき、駄菓子屋でクジを引きたいからって十円貸したことが五回。遠足のおやつを買うお金を落として泣いてたあんたに、三百円貸したことが一回。それに……」
「わかった。わかりました。今度まとめて返します」
どうしてこいつは、昔のことをこんなに細かく覚えているのだろう。
単純に記憶力の問題なのか、それとも別の理由か。
「それで、いきなり何なの? どういう意図の質問?」
「あ、まあ、貯金とかしてるのかなって、何となく気になって……」
「してるわよ」
「どれくらい?」
「八ケタ」
訊かなければ良かった、と真九郎は後悔。
二人の経済力の差は、ほとんどジョークの域《いき》だ。
現代社会において、情報は多くの利益を生む。銀子は仕事で稼いだその金を、さらに株などで運用しているらしい。
情報屋として、彼女は立派《りつば》に一人立ちしているといえるだろう。
真九郎とは大違い。
「……ちなみに、仕事の方は繁盛《はんじよう》してるか?」
「暇《ひま》に見える?」
その忙しさも、真九郎とは雲泥《うんでい》の差か。
こっちは今のところ、何も仕事が入ってないしな……。
ガックリと落ち込む真九郎を、銀子は怪訝《けげん》そうに見つめた。
「いったい何なのよ、さっきから」
「おまえ、自分の将来について考えたことある?」
「は?」
「いや、ほら、なんていうか、素朴《そぼく》な疑問。たわいもない質問だよ。で、どうなんだ?」
「将来ね……」
銀子は思案するように黙り、メガネを外して布で拭《ふ》いた。自分の家族と真九郎の前以外では、彼女は滅多《めった》にメガネを外さない。無防備になるような気がして嫌だから、ということらしい。たしかに、メガネを外したその顔は、普段よりいくらか穏《おだ》やかで、ほんの少し儚《はかな》くも見える。銀子にとって、メガネは一種の心理的な防具なのかもしれない。
銀子はメガネをかけ直すと、いつもの口調で言った。
「あんたの将来なら、簡単に想像がつくけど」
「へえ、どうなるんだ?」
「数年後には、路頭に迷ってるわね」
極《きわ》めて冷静な分析《ぶんせき》だ、と真九郎は思う。
それを否定するだけの材料を、今の真九郎は持っていない。
銀子は、揉め事処理屋がいかに儲《もう》からないか、いかに危険か、いかに廃業する者が多いか、ここぞとばかりに説明したが、真九郎が何も反論しないのを見て少し哀《あわ》れに思ったようで、「まあそうなったら、うちの店で雇《やと》ってあげるわよ」と、いかにも仕方がなさそうに付け加えた。
「あんたバカで、要領悪いけど、体力だけはあるしね」
散々な言われようだな……。
銀子から言われると、不思議と腹も立たないのだが。
真九郎は想像する。
銀子と一緒にラーメン屋。かつて思い描いた未来像。懐《なつ》かしい幻《まぼろし》。
「いいかもな、そういうのも……」
そういう人生も悪くない、と一瞬だけ思う。
決して実現しないからこそ、そう思えるのだろう。
おそらく、そんな幸せな人生は自分には無理だ。理由はよくわからない。多分、自分の中にそういう欲求がないから。具体的なイメージが湧《わ》いてこないから。きっと八年前のあのときに、真九郎の中で何かが壊れてしまったのだ。もう二度と直らない、何かが。
黙り込む真九郎を、銀子は拍子抜《ひようしぬ》けしたような顔で見ていた。
「本当に、どうかしたの?」
「……このままでやっていけるのか、ちょっと心配になってさ」
「今頃気づいたわけ?」
「今頃気づいた」
「相変わらずバカね……。まあようやく、あんたも現実を直視したってわけか。それで、ちゃんと考えた?」
「考えたよ」
「で?」
「難しい問題だなあ、と思う」
銀子に頭を叩かれた。
幼なじみは、手厳《てきび》しい。
「あんたね、『難しい』は出発点であって、結論じゃないのよ? 中間点ですらない。それじゃあ、何も考えてないのと同じでしょ」
まったくその通りだ。いつもながら、銀子の意見は正しい。
しかし、そんな彼女の意見を無視して、自分は揉め事処理屋になったのだ。
教室の扉が開き、他の生徒たちが入ってきた。銀子はパンコンの画面へ視線を戻し、真九郎は自分の席に戻りながら考える。
「難しい」は出発点。自分は、まだ出発点にいる。
そして、そこから、一歩も動けていないのかもしれない。
犯罪発生率の上昇に伴《ともな》って増えた事件といえば、銃火器を用いた殺傷事件と、幼児を狙《ねら》った誘拐《ゆうかい》事件が挙げられる。社会が歪《ゆが》んだとき、その歪みの先端が獲物《えもの》に選ぶのは弱者、つまりは子供だ。海外では、年間数千人の子供が誘拐され、その大半が帰ってこないところもあると聞くが、それがこの国でも他人事《ひとごと》ではなくなりつつある。身代金《みのしろきん》、変態趣味、遊びたかった。そんな理由で子供たちはさらわれ、物言わぬ死体になる。あるいは、心に大きな傷を残す。この現状に対し、小学校側ではいくつかの改善策を取っていた。例《たと》えば、星領《せいりょう》学園から百メートルほど離れたところにある小学校はどうしているかというと、低学年の生徒は親が迎えに来ることを奨励《しょうれい》。そして黄色い帽子を廃止。そもそもは安全のために始めた黄色い帽子だが、一目で低学年だとわかってしまうため、今では逆に危険というわけだ。小さな小さな改善策。まあそんなところだろう、と真九郎は思う。大々的な改善も、完壁《かんぺき》な防犯体制も、それを言うのは簡単で、実行はひたすらに困難。凄惨《せいさん》な幼児誘拐事件の顛末《てんまつ》が報道されるなどすれば、しぼらくは集団下校をさせたりもするが、その危機感は半年も続かない。もっとも、その種の対策では先を行くアメリカでも、子供が犠牲《ぎせい》になる犯罪は増加する一方なのだから、本当の意味で有効な手段などないのかもしれないのだが。
「子供の犠牲は悲しい。しかし、それはある種の生贄《いけにえ》のようなものだ。そのお陰《かげ》で、大多数の人間は平和に暮らしていけるのさ」
悪趣味な見解を示したのは、五月雨《さみだれ》荘4号室に住む、タバコを愛する魔女。
みんなが幸せを掴める夢の国は、夢の中にしかないのだろうか、いつまでも。
そんなことを考えながら、真九郎は小学校のすぐ側にある文房具屋に入り、ラムネを一本購入した。中身が溢《あふ》れないよう注意してビー玉を落として栓《せん》を開け、それを飲みつつ新聞を広げる。銀子が読み終わったものを、もらってきたのだ。トップニュースは、つい最近、地下鉄で起きた事件。走行中に、車両の扉が開いてしまったというもの。朝のラッシュアワーだったということもあり、多数の乗客が外に投げ出されて死傷。この大|惨事《さんじ》がシステム上のトラブルではなく、運転手を含む数人が仕組んだものと判明したからさあ大変、というわけだ。その動機や今後の防止策、そして遺族への対応などで、マスコミは連日盛り上がっていた。小さな事件に目を移してみると、相変わらず陰欝《いんうつ》なものばかり。まだ幼い自分の娘を犯し、その様子を撮影したビデオをネットで販売していた父親。寝ている両親をガンリンで焼き殺した小学生の息子。改造手術と称して生後二ヵ月の我が子の腹をカッターナイフで小さく切り開き、その傷口に部屋のガラクタを詰めこんで殺した十代の父親などもいる。その光景を、これまた十代の母親が側で笑って見ていたというのだから、真九郎としてはコメントのしようもなかった。
海外のニュースに目を移してみる。こちらは派手《はで》だ。中でも特に目を惹かれるのは、とある豪邸で起きた殺人事件。ハリウッドの大物プロデューサーが、自宅の豪邸で首を切断された死体で見つかったというもの。豪邸には専属のボディガードが十人以上もいたようだが、全員が、やはり首を切断された死体で発見された。その大物プロデューサーは、多額の寄付を惜《お》しまない有名な慈善《じぜん》家だったらしく、彼の死を悲しみ、犯人を憎《にく》む著名人たちのコメントがいくつか載っていた。犯人の手がかりは未《いま》だ掴めていない。おそらく殺し屋の仕業《しわざ》だろうな、と真九郎は思う。首の切断にこだわるのは、変質的な理由ではなく、一流の証拠。腕のいい殺し屋は、標的を絶対に治療不可能なところまで壊す、と紅香から聞いたことがある。「そうしないと、たまに生き返る奴がいるんだよ」と紅香は言っていた。
とにかく怖い世の中だ。うんざりしながら、真九郎は新聞をめくる。いつもは気にならない記事に、ふと目が留まった。現代の若者を嘆《なげ》く、学者の記事だ。そのうち何とかなるだろう、という何の根拠もない考えを支えに、漫然《まんぜん》と日々を過ごす現代の若者たち。
自分もその一人ではないのか、と真九郎は思う。
ろくな貯金もなく、これから仕事を続けられる当てもない。それなのに、何の対策も打たない自分は、考えなしの若者ではないのか。今の状況では、五年後の自分の姿すら容易には想像できない。銀子の言っていたように、路頭に迷っているかもしれない。
正直なところ、悪宇商会からの誘いに、真九郎はかなり揺れていた。定期的に仕事を紹介してくれる、というのは魅力だ。悪宇商会ほどの組織なら、大きな仕事に関《かか》わることもできるだろう。今までにない経験も積める。自分を磨ける。意にそぐわない仕事なら拒否すればいい。その選択権は真九郎にある、とルーシーも言っていた。悪くない話だ。
では、何が真九郎を躊躇《ちゅうちょ》させるのだろう。
組織というものに関わるのが怖い、だけなのかもしれない。
それは真九郎にとって、未知のものだから。
幼稚園初日に母親の手を放せなかった臆病《おくびょう》な自分は、まだ心の中にいる。
「……そろそろか」
真九郎は腕時計で時間を確認し、新聞とラムネの空《あ》き瓶《びん》をゴミ箱に捨てると、小学校の校門に向かった。校門の側には、真九郎と同じ目的で来た者たちの姿がちらほら見える。子供を迎えに来た親たちだ。下駄《げた》箱から校門へと歩いてくる、低学年の集団。その中に、一際《ひときわ》目立つ生徒がいた。男の子のような半ズボン姿だが、長い髪と愛らしい顔立ちから、紛《まぎ》れもない少女だとわかる。慣れない赤いランドセルを背負いながらも、堂々とした足取りで進む少女。胸の名札には『一年三組くほういんむらさき』とある。
クラスメイトの少女たちと校門で別れた紫《むらさき》は、小さく手を振る真九郎に気づくと、途端《とたん》に駆け出した。クラスで一番だという俊足《しゅんそく》。こちらに向かって勢い良く飛びこんできた紫を、真九郎は柔らかく受け止める。
「真九郎!」
紫は真九郎の腰のあたりに抱きつき、嬉《うれ》しそうに顔を見上げた。
「出迎えごくろう!」
「どういたしまして」
周りでも似たような光景が広がっていたが、真九郎と紫のように、まったく血縁関係のない者は稀《まれ》だろう。二人の関係を訝《いぶか》しく見る者もいるが、興味本意で九鳳院《くほういん》家に関わろうとする者は意外と少ない。大|財閥《ざいばつ》、九鳳院の娘。それも、つい最近まではその存在すら伏せられていた少女。マスコミが一切それに触れないのは、九鳳院の権力が成せる技《わざ》。しかしそれも、一般市民にまでは及ばない。紫を特別|扱《あつか》いすれば、他の生徒の親たちから反発されるのは必至《ひっし》。それを予想してか、学校側はまるで開き直ったかのように、紫を普通に扱っていた。もしかしたら、九鳳院側から指示があったのかもしれないが、それでも現状は上手《うま》くいっているのだから良いのだろう。当初こそ、紫を珍獣《ちんじゅう》のように見物に来る者たちもいたが、今では遠巻きに見る者がいくらかいる程度で、紫は問題なく学校生活に馴染《なじ》もうとしている。子供の適応力は高い。特に紫のそれが高いことを、一緒に暮らしていたこともある真九郎はよく知っていた。
「真九郎、これを見ろ! これを見ろ!」
紫が、真九郎の前で一枚のプリントを広げる。国語のテスト用紙。点数は、赤ペンで百点と記されていた。よくできました、という担任のコメントつき。
「お、やるな」
真九郎が頭を撫《な》でると、紫は気持ち良さそうに目を細める。
学校に通い始めてまだ間もない紫だが、成績は良い。なぜ真九郎がそれを知っているのかというと、テストがあるたびに紫が見せるからだった。ときには悪い点数もあるのだが、それでも臆《おく》さず、紫は真九郎に見せる。まるで、真九郎には自分の全《すべ》てを知ってほしいとでもいうように、何も隠さない。
「よし、帰るぞ真九郎!」
真九郎の手を取り、紫は元気良く歩き出す。
こうして二人で下校するのは、もう何度目か。時間の都合がつくときに限り、真九郎は紫を迎えに行くことにしていた。そのために午後の授業や、帰りのHRをサボることも多々あり、銀子はいい顔をしないが、些細《ささい》な問題だろう。大事な方を優先する。当たり前の判断だ、と真九郎は思う。
「学校は楽しいか?」
「うむ、楽しい」
感慨《かんがい》深そうに頷《うなず》く紫。給食の時間に学校を抜け出し、真九郎と手作りの弁当を食べるなどの無茶な行動があったのは最初の頃だけ。今では「小学校のルール」というものを、紫はきちんと理解していた。同年代の子供たちと過ごす学校生活は彼女には新鮮のようで、前よりさらに元気が増したようにさえ見える。
「世の中には、まだわたしの知らないことがたくさんあるのだな。高校にまで行った真九郎の向学心を、わたしは尊敬するぞ」
「それはどうも……」
紫の大袈裟《おおげさ》な物言いに、真九郎は苦笑した。
真九郎はどうして高校に進学したのか?
本当は、中学も途中でやめ、すぐに揉め事処理屋を始めるつもりだったのだが、夕乃《ゆうの》が反対し、銀子が大反対し、何となく卒業。そして高校を受験、という流れだった。星領学園を選んだのは、夕乃が「星領学園は良いですよ」とことあるごとに真九郎に言い、願書を用意され、気がついたら受験票を渡されていた、という流れ。何故か銀子も同じ学校を受験していたし、上級生には夕乃もいるし、結果から見れば不満はないのだが、真九郎は自分が情けないような気もした。やはり自分には、精神力と決断力が欠けていると思う。
多分、俺よりこいつの方がしっかりしてるんだろうなあ……。
頭の隅でそんなことを考えながら、真九郎は紫に尋《たず》ねた。
「家の方は、どうだ? 何か困ったことはないか?」
九鳳院の屋敷で暮らし始めた紫から、その生活に不自由がないことはすでに聞いている。しかし、状況が変わらないとも限らない。
僅《わず》かな沈黙のあと、紫はぽつりと答えた。
「……ある」
深刻な表情で俯《うつむ》く紫を見て、真九郎の胸に不安が広がる。
もし、万が一、紫が理不尽な扱いを受けているようなことがあれば、真九郎は黙っているわけにはいかない。九鳳院|蓮丈《れんじょう》をぶっ飛ばしてでも、どうにかしてやる。
無意識のうちに拳《こぶし》を握る真九郎に、紫は言葉を続けた。
「屋敷は快適だ。使用人たちは、みんな優しい。でも一つだけ、困ったことがある」
「何だ?」
「真九郎が、いない」
「………」
「真九郎が、側にいない。わたしが困っているのは、それだけだ」
普通なら何重にもフィルターをかけたくなるようなことを、紫はそのまま口に出す。
それは子供だからか。それとも九鳳院紫だからか。
言葉を失う真九郎の隣で、紫は少し寂しげに言った。
「でもそれは、仕方のないことだからな……」
真九郎と繋《つな》いだ手。
その小さな指にギュッと力を込め、紫は顔を上げる。
「こうして真九郎が迎えに来てくれるだけでも、わたしは嬉しい。こうして会えるだけでも、わたしは満足だ」
こんなときは、どんな言葉を返すのが適切なのか。
どう答えれば、この子が一番喜ぶのか。
今の真九郎にはわからない。
何も言えず、繋いだ紫の手を少し強く握ってやると、彼女は小さく笑った。
「そうだ! 今日学校で、変な手紙をもらったぞ!」
「変な手紙?」
「同じクラスの仲村《なかむら》という男が、何やら赤い顔をしながらわたしに手紙を渡してな。中身を見ると、付き合って欲しい、とか書いてあった。意味がわからん、とその場で返したら、なぜか廊下に走り去って行った。真九郎、どういうことかわかるか?」
ませた子供もいるなあ、と思いながら真九郎は答える。
「明日、その仲村くんに会ったら、少し優しくしてやれ」
「よくわからんが、真九郎がそう言うならそうしよう」
七歳でラブレターか……。
裏表のない紫の性格は、クラスでも人気があるのだろう。そういう話を聞くと、真九郎は安心する。|奥ノ院《おくのいん》という暗部から、紫をこの現実社会へ引っ張り出してしまったのは、真九郎の責任。紫が幸せに過ごしているのなら、それに越したことはない。
強い風が商店街を吹き抜け、紫が微《かす》かに身を震わせた。
「今日は、寒いな」
冬だからと我が子を着脹《きぶく》れさせる、過保護な親も多いご時世だが、子供は風の子という古臭い考えに真九郎は賛同する。自分も小学生の頃は、一年中半ズボン姿だった。とはいえ、女の子である紫には多少の気を遣《つか》うべきかと思い、真九郎は視線を巡《めぐ》らせた。温かな湯気を漂わせる屋台を発見。暖簾《のれん》には『たこ焼き』。ちょうどいいな、と真九郎はそちらへ向かおうとしたが、どういうわけか紫は渋った。クラスの担任から「帰り道で買い食いをしてはいけません!」と、きつく注意されているらしい。
苦笑しつつ、真九郎は言う。
「保護者同伴なら、別にいいんだよ」
「そうなのか?」
「そうそう」
紫を連れて、真九郎は屋台に近づいた。たこ焼きを食べるのは初めてという紫は、鉄板の上で転がるたこ焼きを「ほう、まん丸だな……」と珍《めずら》しそうに見つめ、それから紙に書かれたメニューに目をやる。ソースは三種類。『甘い』、『辛《から》い』、そして『激辛(大人向け)』。
「……真九郎、この一番右のは何と読むのだ?」
「げきから」
「では、わたしはそれにしよう」
驚く真九郎の前で、紫は自慢げに胸を張った。
「わたしを侮《あなど》るなよ。わたしはな、砂糖をたった五個入れるだけで、コーヒーを飲むことすら可能なのだ。大人と同等の味覚と言っても、過言ではあるまい」
いや、過言だろ。
そうは思ったが口には出さず、真九郎は甘いソースと激辛ソースを注文。たこ焼きができあがると、紫はポケットからクレジットカードを取り出した。
「店主! 支払いは……」
「こっちでお願いします」
紫にカードを引っ込めさせ、真九郎は小銭で会計を済ませる。不満そうな紫には「こういうときは、年上が奢《おご》るもんなんだ」と説明。改めて育ちの差を感じる。紫が持っているのは、真九郎が一生かけても所有することはないであろう、限度額が無制限のカード。普通の子供と違い、紫は家から小遣《こづか》いをもらっていない。紫名義の口座があるので、そこから自分の裁量で使えと言われているらしい。子供の頃から自分の口座を管理させる九鳳院の教育方針は、上流階級特有のものだろうか。真九郎が紫と同じ年の頃など、カードどころか財布すら持っていなかったものだが。
薬局と団子《だんご》屋の間にベンチがあったので、二人はそこに腰を下ろすことにした。念のため、真九郎はその前に自販機でジュースを一缶購入。
「ふむ、これがたこ焼きか……」
発泡《はっぽう》スチロールの容器に並ぶたこ焼きを、紫はしばらく見つめていた。匂《にお》いを嗅《か》ぎ、湯気で踊る鰹節《かつおぶし》を不思議そうに指で摘《つま》むなどしてから、ようやく爪楊枝《つまようじ》を突き刺す。フーフーと息をかけて冷まし、たこ焼きを口に入れた。途端に顔をしかめ、紫は口を引き結ぶ。想像した以上に辛かったのだろう。自分が希望したものなので文句も言えず、紫は残りのたこ焼きを恨《うら》めしそうに見下ろしていた。
「俺のと交換するか?」
紫は、素直にコクンと頷く。口を開かないのは、辛さに耐えているからか。真九郎はまだ手をつけていない自分の容器と交換し、ついでに缶ジュースも紫に渡した。ごくごくとジュースを飲んだ紫は、「はふう」と息を吐き、少し警戒《けいかい》しながら甘いソースのたこ焼きを口に入れる。慎重にモグモグと噛《か》み、そして「おお!」と声を漏《も》らした。気に入ったのだろう。激辛ソースの方は、頑張って真九郎が食べることにした。
「良いものだな、帰り道の買い食いというのは……。なぜ学校が禁止するのか、わからん」
どこの学校でも、低学年のうちは様々な注意を受ける。だがそれは、紫にとってイマイチ納得できないことばかりらしい。
「例えばだ。暗くなったら外には出るな、と先生は言う。それはなぜだ?」
「夜に子供が出歩いていると、悪い奴が、酷《ひど》いことをしようとするからだよ」
誘拐、性犯罪、暴力など、詳《くわ》しく言えば様々あるのだが、真九郎は言葉を選ぶ。
はふはふ、と熱そうにたこ焼きを食べながら、紫は真九郎の顔を見上げた。
「それは、何か、変ではないか?」
「変?」
「だって、悪い奴らのために、わたしたちの自由が制限されているのだろ? 悪い奴らは自由にやってるのに、わたしたちはそれに遠慮《えんりょ》しなければならんとは、何か変だぞ。それではまるで、この世界は悪の方が強いみたいだ」
紫の言う通りかもしれない、と真九郎も思う。
誰も表立っては口にしないが、この世界は悪の方が強いのかもしれない。
そうでなければ説明できないことが、たくさんある。
しかし。
「………そんなことは、ないよ」
真九郎が否定したのは、年長者としての態度を意識したから。たとえ本当に悪の方が強かろうと、そんなことを子供の前で認めるわけにはいかない。子供を絶望させてはいけない。
「ほら、口のとこが汚れてるぞ」
口の周りを真九郎にティッシュで拭いてもらい、「ありがとう」と笑顔で礼を言う紫。子供の笑顔はいい。子供に悪事を働く人間の心理は、真九郎にとって欠片《かけら》も理解できないものだ。
「授業の方は大丈夫か? わからないことがあったら、ちゃんと先生に訊けよ?」
「うむ、問題ない。教科書を読めば、だいたいわかる。担任の菅原《すがわら》先生も、よく教えてくれるしな。ただ、残念なこともあるが……」
「何だ? 俺で良ければ、教えるけど」
小学校一年のレベルなら、どの教科も楽に対応可能。
軽い気持ちの真九郎に、紫は言う。
「二学期の最初の頃、視聴覚室でビデオ上映会があったらしい。それを見逃したのが、残念だ」
「へえ、何のビデオだ?」
「性教育のビデオだ」
「………」
「人形を用いた、なかなかショッキングな映像が観《み》れた、とクラスの女子たちは楽しそうに言うのだが、詳しくは誰も教えてくれなくてな。無理に聞き出すのも気が引ける。真九郎、おまえが教えてくれないか?」
「……それは、今度、夕乃さんにでも訊いてみたらいいんじゃないかな」
「わたしは、真九郎に教えて欲しいのだ」
「無理」
「なぜだ? 真九郎は、すでに義務教育を修了した身であろう」
「いや、そういうのはさ、男子と女子で教え方が違うんだよ」
「違う? どう違うのだ?」
「どうって……」
どう違うんだろう?
そもそも、男女で何故教え方が違うんだろう?
あまり深く考えたことはないので、真九郎にもよくわからなかった。幼い頃に銀子に訊いたことがあったが、答えは「やらしい!」の一言。しばらく冷たくされた記憶がある。
紫は不満顔だが、真九郎としてもどう答えたものか。
「真九郎に教えてもらえぬなら、仕方がない。今度、環《たまき》にでも訊いて……」
「待った。それはやめとけ」
環は危険だ。間違いなく、余計な知識まで教える。
「では、真九郎が教えてくれるのか?」
「あー、んー…………わかったよ」
期待の眼差《まなざ》しで見上げてくる紫に、真九郎はぎこちなく頷いた。
紫は満足げに笑い、念を押す。
「約束だぞ?」
「はいはい」
無難な解説が載ってる本を探して、読ませるとしよう……。
暇なとき図書館にでも行ってみるか、と真九郎は一応覚えておく。
紫が食べ終わったところで、容器をゴミ箱に捨て、二人は並んで出発。体育の授業での活躍を紫から聞いているうちに、駅前に到着。黒塗りの高級車が、いつもの位置に停《と》められていた。その側に立つ男が、銜《くわ》えていたタバコを靴底で踏み消し、ゆったりと真九郎たちの方へ顔を向ける。
「お帰りなさい、お嬢様」
「うむ、待たせたな」
紫は横柄《おうへい》に応じ、足元に散らばるタバコの吸い殻《がら》を見た。
「タバコは、ちゃんと片付けろ」
「これは失礼を……」
背中を丸めて吸い殻を拾う男に、真九郎は軽く頭を下げる。
「ちょっと寄り道してました。遅れて、すいません」
「いえ、自分、これが仕事ですから」
相変わらず渋い声だ、と真九郎は思う。
この男の名前は、騎場《きば》|大作《だいさく》。黒ずくめのスーツに身を固め、なおかつ飛び道具を持たない、すなわち九鳳院|近衛《このえ》隊の幹部である。年齢は、髪に白いものが混じる初老。黒いソフト帽を被《かぶ》り、左目に眼帯をした姿は、古い仁侠《にんきょう》映画に出てくるヤクザというところだが、その外見に反して腰は低い。九鳳院家にとって部外者の真九郎に対してさえも、礼儀を忘れないほどだ。
騎場が車のドアを開き、紫が乗り込む。紫の護衛《ごえい》と、車の運転手。それが騎場の仕事。
真九郎と紫は、ここでお別れだ。
「じゃあな、紫」
「真九郎も乗れ」
「えっ?」
「五月雨《さみだれ》荘まで送ってやる。乗れ」
「いや、俺は電車で……」
「騎場! 途中で五月雨荘に寄り、真九郎を降ろす。よいな?」
騎場が黙礼するのを見て、真九郎は恐縮《きょうしゅく》しながら頭を下げた。
「すいません、騎場さん、ご迷惑かけて……」
「何が迷惑なものか。わたしがよいと言うのだから、よいのだ。なあ、騎場?」
騎場は再び黙礼。幼い子供相手でも対応に隙《すき》はない。
その姿に、プロだなあと感嘆《かんたん》しつつ、真九郎は紫に言う。
「できれば五月雨荘じゃなくて、別の所で降ろしてもらえると助かるよ」
「どこだ、真九郎?」
「崩月の屋敷」
「……夕乃のところか」
急に不機嫌そうになる紫に、真九郎は説明した。
「しばらくは帰りに寄るって、夕乃さんと約束してるんだよ」
力を入れると、まだ痺《しび》れが残る右腕。角《つの》を使った後遺症だ。これが完全に消えるまでは週に何度か通うように、真九郎は夕乃から厳しく言われていた。
渋々《しぶしぶ》ながらも、紫は納得。
「……約束では仕方がないな。まあ良い。わたしは、真九郎を信じる」
さあ乗れ、と促《うなが》され、真九郎は紫の隣に腰を下ろした。
騎場がハンドルを握り、車は緩《ゆる》やかに走り出す。紅香の車も乗り心地は良かったが、あれはどちらかというと走行性を重視した仕様《しよう》。だがこの車は、居住性を重視した仕様であり、後部座席には圧迫感のない十分な空間が取られていた。内装には上質な木材を使用し、窓はスモークガラス。もちろん車体は防弾仕様。
慣れている紫は堂々と座っているが、真九郎の方は少し落ち着かなかった。どこかに触って傷でもつけたら大変だ、などと小市民的な思考ばかり働いてしまう。
「真九郎?」
「……あー、何でもない」
紫が心配そうにこちらを見るので、真九郎は顔の前で手を振った。そして思う。
もう自分にできることなんかないんだよな、と。
ただ屋敷に住まわせるだけでなく、紫の希望通りに普通の小学校に入学させ、送り迎えには近衛隊の幹部を当てる。屋敷での生活も、紫から聞く限りは快適。問題児である竜士《りゅうじ》は、頭を冷やすよう海外へ飛ばされたというし、蓮丈《れんじょう》のやり方には文句をつける余地がない。
総合すると、紫の生活は万事順調ということになる。
真九郎にできることなど、たまに下校に付き合うくらいだろう。
紫のために真九郎が役立つことは、もうない。
少しだけ寂しくもあるが、彼女が幸せならそれでいい、と思う。
流れる景色を見ないと走っているのかどうかもわからないほど、車内には震動がほとんどなかった。騎場のハンドルさばきは慣れたもので、運転手姿も板についている。周りの車の流れに合わせながらも先へと進む動きは、熟練のものだろうか。
「運転が上手いな、騎場さん」
「うむ。騎場は達者《たっしゃ》だ」
「片目だと、サイドミラーとか見にくそうだけどな……」
「あの目は昔、柔沢紅香に潰《つぶ》されたらしいぞ」
「は? おまえ、何で知って……」
「最初に会ったときに訊いたら、そう言ってた」
初対面で、そういうこと本人に訊くなよ……。
このへんの遠慮のなさは、まだ子供か。
「気にせんでください。こいつは、自分にとって勲章《くんしょう》のようなもんですから」
二人の会話が聞こえていたらしく、騎場が言う。
「あの、じゃあ本当に……?」
「昔、柔沢紅香と決闘し、生き残った証《あかし》です」
片目を潰されたというのに、騎場の表情はどこか誇らしげでさえあった。
納得のいく結果だった、ということだろう。あの柔沢紅香を相手にそんな戦いをしたということからも、騎場の実力が窺《うかが》い知れる。九鳳院蓮丈は、近衛隊の中でも相当な腕利《うでき》きを紫に割り当てたわけだ。好きにはなれないが、悪と断ずることもできない妙な老人だ、と真九郎は思う。紅香とも個人的に関係があるようだが、どんなものやら。
渋滞気味の道を車が上手く抜けたところで、紫が唐突《とうとつ》に言った。
「真九郎、それを取ってくれ」
「えっ?」
紫は、真九郎の足元を指差す。座席の下にある隙間《すきま》に真九郎が手を入れてみると、そこにはスーツケースが一つ。それを引っ張り出し、座席の上に置いて蓋《ふた》を開く。中身は、一着のドレスだった。子供らしくも清楚《せいそ》なデザインの、イブニングドレスだ。紫が言うには、これからパーティーに出席するとのこと。財界の関係者が顔を揃《そろ》える、年に何回も催《もよお》されるもので、九鳳院家の人間として紫も招待されているらしい。
「おまえ、そういう大事な用があるなら早く言えよ。それなら寄り道なんかせずに……」
「気にすることはない」
紫は、気楽な口調で断言。
「わたしには、真九郎の方が大事だ」
何も言えなくなる真九郎をよそに、紫は上着を脱ぎ始めた。時間が惜しいので、車内で着替えを済ませるつもりなのだ。上着は簡単に脱げた紫だが、シャツを脱こうとして頭が引っ掛かり、「うー」と困ったように唸《うな》る。
やれやれ、と苦笑しつつ、真九郎は着替えを手伝うことにした。
「紫、バンザーイしろ」
「バンザーイ!」
両手を上に伸ばした紫からシャツを抜き取り、真九郎はそれを丁寧《ていねい》に折り畳《たた》む。紫は躊躇なく下着も脱ぎ、真九郎はそれも折り畳む。空間に余裕のある後部座席の作りは、こういう事態も想定してのことなのかもしれない。
それにしても、学校が終わってすぐにこれじゃなあ……。
真九郎が小学一年生の頃など、ひたすら遊び回っていたものだ。家や大人の都合で行事があると、それに関わるのが面倒《めんどう》くさくて仕方がなかった。
しかし紫は、あっけらかんと言う。
「こんなの、たいしたことではない。わたしは九鳳院紫だ。そしてこれは、九鳳院家の者の義務だからな」
苦痛とは思わずに義務をこなす。それが上流階級の資質か。いろんな人間と会うパーティーという場は、紫にとっては刺激的で、それなりに得られるものがあるのかもしれない。
それでも真九郎は、少し心配だ。
「おまえ、何か困ったことがあったら、ちゃんと俺に言えよ?」
「うん」
全幅《ぜんぷく》の信頼を込めた笑顔で真九郎を見つめ、紫は頷いた。
そして、二種類の下着を持ち上げる。
「さあ真九郎。これとこれ、どっちが可愛い?」
「どっちでもいいから、早く着ろ」
「どっちだ!」
「……じゃあ、その、白いやつ」
これか、と下着を穿《は》き替える紫。
「これが真九郎の好みなのだな。覚えておこう」
「いや、覚えなくていいよ……」
もたつく紫の足に靴下を履《は》かせながら、ふとバックミラーを見ると、運転席の騎場が声を出さずに笑っていた。意外と優しい笑顔。孫ほども歳《とし》の離れた紫の護衛を任されながら、特に不満そうでもないのは、蓮丈への忠誠心ゆえか、それとも歴戦のプロとしての余裕か。紫がそれなりに信用しているところからして、悪い人間ではない。
ドレスに着替え、真九郎に背中のボタンを留めてもらいながら、紫は言った。
「真九郎、今日はどうかしたのか? 学校で、嫌なことでもあったか?」
「何で?」
「少し、元気がないような気がするぞ。相談なら乗る。何でも言うがいい」
小さな手で拳を握り、ドン、と自分の胸を叩く紫。
それで車に同乗するように誘ったわけか……。
子供に気を遣われるとは、なんと情けない自分だろう。
苦笑しながら、真九郎は答える。
「まあ、大雑把《おおざっぱ》に言えば、自分が何をしたらいいのかわからない状態でな……」
子供に相談してどうする、と頭の片隅では思っているのに、こうして本音で語ってしまう自分が不思議だった。この子の前だと、心の扉にあるはずの鍵《かぎ》が、どうも貧弱になる。
紫は胸の前で腕を組み、「ふむ」と一つ頷く。
「何をしたらいいのかわからない、というのは、何でもできるということだ」
「何でも……?」
「真九郎は何でもできる。やりたいことを、やればいい」
あっさり言ってのける紫に、真九郎は言葉を失った。
迷いも悩みも無縁《むえん》か、こいつは……。
まるで確固たる何かをすでに得ているかのように、彼女の言葉は純粋で力強い。
それは何の抵抗もなく、真九郎の心に入りこむ。
自分はよほど単純なのだろう、と半《なか》ば呆《あき》れつつも、真九郎は言う。
「………そうだな。やりたいことを、やればいいか」
「うむ、それがいい」
車が緩やかにカーブを曲がったところで、どうにか着替えは完了。
手鏡を見るより先に、紫は真九郎に尋ねる。
「どうだ、真九郎!」
「可愛いよ」
普段の少年のような服装も似合うが、やはり女の子。ドレスを着た姿は、紛れもなく良家の子女だ。どこに出しても恥《は》ずかしくない、と真九郎は父親のような気分になる。
そうかそうか、と満足そうに頷いていた紫は、急に「あっ」と口を開いた。
「忘れていた! 真九郎に、頼みたいことがあるのだ!」
「頼み?」
「真九郎は、授業参観というものを知っているか?」
「そりゃあ知ってるけど……」
紫は今日、担任から職員室に来るよう呼ぼれたらしい。行ってみると「近々、授業参観があるんだけれども、ご両親のご予定は大丈夫?」と訊かれたという。紫を普通の生徒として扱っている学校側だが、これにはさすがに気を遣い、事前に確認しておきたかったのだろう。もしも九鳳院蓮丈が来るような事態になれば、対応に困る。ここで「家に帰って訊いてみます」と答えるのは普通の子供。紫は自分でよく考え、こう答えた。「両親は来ません」。
紫の判断は正しい、と真九郎は思う。あの蓮丈が、たかが学校の行事に顔を見せるわけがない。紫と血の繋がりのない夫人や、竜士を含む兄たちが参加するとも思えない。
紫にはかわいそうだが、こればかりは仕方がないだろう。
「で、俺に頼みって?」
「真九郎に来て欲しい」
「俺に?」
蓮丈が来ないと知って安堵する担任に、紫は言ったらしい。「両親は来ませんが、代わりの者が来ます」と。
俺なんかが行ってもなあ、と困惑《こんわく》する真九郎を、紫は上目遣《うわめづか》いで見つめる。
「………ダメか?」
甘えるような、その表情。意識してやっているのではないだろうが、真九郎はどうもこれに弱い。真九郎は真面目《まじめ》に検討してみる。授業参観に行くくらい、たいした労力ではない。それに、紫が学校でどんなふうにしているのか、興味もある。
結論は出た。
「わかった、行くよ」
「約束だぞ?」
「約束だ」
真九郎が学校に来ると決まり、紫は嬉しそうに足を、バタバタさせる。
「真九郎を、みんなに紹介するぞ! わたしの恋人として!」
「それはやめてくれ」
崩月家の屋敷前に着き、真九郎は騎場に礼を言ってから車を降りた。だが、ドアを閉めようとしたところで、紫に呼びとめられる。
「真九郎」
手を伸ばしてくる紫を、真九郎は抱き上げた。
紫は真九郎の首に腕を回し、嬉しそうに頬《ほお》をすり寄せる。
「今日は、迎えに来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
「崩月の当主によろしくな。いつぞやは、世話になったと」
「わかった、伝えとく」
「夕乃にもよろしくな。胸が大きいからといって、あまり偉《えら》そうにするなと」
「……可能なら伝えとく」
「では、またな」
真九郎の頬にそっと唇《くちびる》を寄せてから、紫は車に戻る。ドアを閉めると、「騎場、出せ!」と命令。走り去る車を見送りながら、貫禄《かんろく》ある態度はまさしくお嬢様だ、と真九郎は感心した。
人生は面白《おもしろ》い。思いがけない出会いばかり。幼稚園の初日にウジウジしていなければ、銀子とも出会わなかっただろうし、誘拐事件に巻き込まれなければ、紅香とも出会わなかっただろうし、そうすれば夕乃とも、そして紫とも出会わなかっただろう。本当に人生は面白い、と思う。何がきっかけでどう変わるのか、予想がつかない。
悪宇商会からの勧誘《かんゆう》も、そうなのだろうか。
この話に乗れば、何か変わるのか。迷っているのは、変わりたくないからか。
そんなことを考えながら崩月家の門に向かった真九郎は、門が少し開いていることに気づいた。しかも、その隙間からこちらを覗《のぞ》いている者が一人。
「……何やってんの、夕乃さん」
「真九郎さん。ちょっと、道場の方に行きましょうか」
「えっ? 俺、まだ本調子じゃ……」
「お返事は?」
夕乃はニッコリ微笑《ほほえ》んだ。
その笑顔に、真九郎は抵抗が無駄だと悟る。
「……はい、行きます」
本当に、人生は予想がつかない。ほんの僅かな先のことさえも。
紫との出会いを発端《ほったん》として関わることになった、九鳳院家の秘事《ひじ》。真九郎は紫を自由にするため、九鳳院と争い、右腕の角を解放した。それは崩月家の修行で移植されたもの。許しがあるまでは使用を禁じられていた力。何代にもわたる凄《すさ》まじい肉体改良の末、血族に宿るようになった異形《いぎよう》の物質だ。幸いにして、日が経てば回復する程度の後遺症で済んだが、それでも禁を破ったことに変わりはなく、真九郎は罰《ばつ》を受ける覚悟で師匠である法泉《ほうせん》に事の次第《しだい》を報告した。
しかし、話を聞いた法泉は、叱《しか》るどころか大笑い。
「女のために思わず使っちまうとは、さすが俺の弟子! 男の生き様《ざま》をわかってる! そこでためらうようなら、破門《はもん》にしてやるところだ」
恐縮する真九郎の肩を叩き、法泉は言った。
「女はな、生まれながらにして女だ。しかし男は、努力しなけりゃ男になれねえ。真九郎、おめえは男になった。女のために命張れるようになったら、もう一人前よ」
祖父が許した以上、夕乃も怒りはしなかったが、それでもしっかりと釘《くぎ》は刺す。
「いいですか、真九郎さん? 強い力というのは、使わないことに意味があるんです。強い力を持ちながら、無闇《むやみ》にそれを使うことなく制御《せいぎょ》する。そうすることによって、己《おのれ》の内面を鍛えるのです。優《すぐ》れた武士が、軽はずみには決して腰の刀《かたな》を抜かないのと同じ。今回の件を責める気はありませんが、少なくとも腕の痺れが抜けるまでは、自重してください」
己の内面を鍛える。
それは自分にとって最も必要なことだと、真九郎は思う。
しかし、こうも思うのだ。肉体を鍛えれば、それは目に見える。鏡にも映る。でも内面は、鍛えられたかどうか、確認する術《すべ》はあるのだろうか。こんなことを考えてしまうことが、すなわち自分の未熟さなのだろうか、と。
「真九郎さん、何か悩み事ですか?」
急須《きゅうす》にお茶の葉を入れながら、夕乃がそう言った。
法泉は碁会所《ごかいしょ》、冥理《めいり》は買い物に行っており、屋敷にいるのは真九郎と夕乃、そして散鶴《ちづる》の三人だ。いつにも増して厳しい稽古《けいこ》を終え、井戸水で汗《あせ》を流し、炬燵《こたつ》に入って散鶴の相手をしていた真九郎は、俺って顔に出やすいのかな、と思いつつ頬をさする。紫に続いて、夕乃にまで指摘《してき》されてしまうとは。
「右腕、まだ痛みます? それでしたら何か薬を……」
「あ、いや、それはもう平気」
「では、他に何か?」
「まだまだ未熟だなって、そんなことを、ちょっとね」
将来は柔沢紅香のようになりたいから今は組織に属して経験を積むべきか、などと話せるわけもない。夕乃は紅香を嫌っており、「わたしと真九郎さんを会わせてくれたことが、あの人のした唯一《ゆいいつ》の善行ですね」とさえ言うほどなのだ。崩月夕乃と柔沢紅香、どちらも尊敬する真九郎としては、発言には気を遣うところ。
「はい、お兄ちゃん」
すぐ隣に座っていた散鶴が、真九郎にミカンを渡した。白い筋《すじ》を一つも残さず、丁寧に皮を剥《む》かれたミカン。小さな手で、散鶴がせっせと剥いてくれたものだ。
「ありがと」
真九郎はミカンを口に入れ、散鶴の首の辺《あた》りを指でくすぐった。散鶴は嬉しそうに笑い、再びテーブルの上のミカンを手に取る。実はこれでもう十個目で、真九郎としてはそろそろキツイのだが、散鶴がご機嫌なので止めようがなかった。
その様子を微笑ましげに見ながら、夕乃は温かいお茶を真九郎の前に置く。
「真九郎さん、今度、神社の方に遊びに来ませんか?」
「……ああ、例のバイトしてるところ?」
夕乃が巫女《みこ》のバイトをしているのは、法泉の知り合いだという神主《かんぬし》のいる神社。
真九郎は、まだ一度も足を運んだことはなかった。
「真九郎さんが来てくれたら、わたし、サービスしちゃいます」
「サービス?」
「はい。もういろいろと、しちゃいます」
神社で、いろいろとサービス?
安くお祓《はら》いをしてくれる、とかだろうか。あまり想像がつかない。
夕乃の好意はありがたいが、ここは遠慮しておくことにする。
「せっかくだけど、今はあんまり余裕がなくて……」
悪宇商会の件を保留にしている現状では、遊んでいる気分ではない。もう随分《ずいぶん》と前から、真九郎は「遊ぶ」ということと縁遠くなっているのだが。
夕乃はしばらく真九郎の顔を見つめ、「そうですか……」と肩を落とす。
そして寂しげに言った。
「真九郎さんが来てくれたら嬉しいなって、ずっと思ってたんですけど、そんなことあるわけないですよね。夕乃さんお疲れさま。夕乃さん頑張ってるね。夕乃さん可愛いね。そんなふうに、真九郎さんが働いているわたしを励《はげ》ましに来てくれるなんて甘い話、あるわけないですよね。わたし、バカだな。自分勝手な夢を見ちゃってました。恥ずかしいなあ……」
両手で湯呑《ゆの》み茶碗《ちゃわん》を持ち、視線を落としながらお茶を飲む夕乃。
「わたし最近、思うんです。人生は虚《むな》しいって。昔はあんなに素直だった真九郎さんが、いつも夕乃さん夕乃さんて頼ってくれた、優しい真九郎さんが、今はこんなにつれない態度。夕乃さんが何処《どこ》でバイトしようが俺には関係ないじゃんて感じの無関心。年月の流れって残酷《ざんこく》ですね。ああ、もう……」
夕乃はクスンと鼻を鳴らし、炬燵テーブルの上に突っ伏した。
「………わたし、泣いちゃおうかな」
表情を隠すように顔を伏せたまま、夕乃は悲しげに問いかける。
「………真九郎さん、わたし、泣いちゃってもいいですか?」
こうなっては、真九郎には降参《こうさん》する以外に手はない。
「すいませんでした。今度、必ず行きます、お土産《みやげ》とか持って」
夕乃は答えない。
「夕乃さん、あの……」
「……大好きって、言ってみてください」
「えっ?」
「夕乃さん大好きって、言ってみてください」
「あー、夕乃さん大好き」
夕乃はパッと顔を上げると、両手を胸の前で合わせ、うっとりと目を閉じた。
「もう今の言葉だけで、今週は頑張れちゃいます!」
そんな大袈裟な、とは思ったが、夕乃の機嫌が直ったようなので真九郎は追及しないことにした。女性の思考はよくわからない。
「はい、お兄ちゃん」
「ありがと」
マイペースで皮を剥き続けていた散鶴から、真九郎は通算十一個目の、ミカンを受け取る。産地直送の品で、スーパーの安物とは比べ物にならないほど甘いが、さすがに食べ過ぎ。口の中がミカンの味一色になっていた。
「ちーちゃん、もういいよ。手が疲れたろ?」
「だいじょうぶ。ちづる、がんばる」
新たなミカンを手に取り、皮剥きに精を出す散鶴。
すごい集中力だ。邪魔できない。散鶴の膝《ひざ》の上に溜《た》まった皮をテーブルの上に置き、幼稚園でもこの調子なのかなあ、などと考えた真九郎は、そこで授業参観のことを思い出す。
夕乃の意見はどうだろう。話してみるか。
「さっき、紫から変なこと頼まれちゃってさ……」
話を聞いた夕乃は、思案するように頬に手を添えた。
「たしかに、九鳳院の方々が学校に来るとは思えませんね。表御三家の格式の高さからいっても、学校行事に参加することを恥《はじ》とすら思うかもしれません」
「やっぱりそうだろうね」
あの九鳳院蓮丈が小学校の教室に現れる光景は、ちょっと想像しにくい。代わりに真九郎が行くという案に、夕乃は少しだけ不満そうな表情を見せたが、「まあ、ここは意見を控《ひか》えましょう」と折れる。
「それにしても、小学校の授業参観とは懐かしいですねえ……」
過去を振り返るように、夕乃は視線を天井へ。
そしてフフッと微笑む。
「あの頃の真九郎さん、とっても可愛かったし、授業参観では、必ず活躍してましたよね」
「あれは、まあ……」
崩月家に居候《いそうろう》していた間、授業参観に来てくれたのは、いつも夕乃。この問題わかる奴いるか、と教師が言うたびに、教室の後ろで夕乃が「真九郎さん、ファイト!」と応援するので、得意でない教科でも真九郎は沈黙を通すわけにはいかなかった。真九郎が手を上げて答えると、教師が誉《ほ》める前に夕乃が大きな拍手《はくしゅ》をし、周りの失笑を買っていたこともよく覚えている。少しだけ恥ずかしくもあったが、それでもやはり、誰かが自分のために来てくれているということが、真九郎は嬉しかったものだ。
誰も来ないのでは、紫も寂しいだろう。自分が見る側に回るというのも、面白い経験。ただ、九鳳院紫の保護者代わりとして教室に行けば、周りの親たちから好奇の眼差しを向けられるのは避けられない。真九郎の居心地は悪い。それを表情に出せば、紫も不安に思うだろうし、上手く平静を保てるだろうか。夕乃が不満そうなのは、その点を危惧《きぐ》してのことか。
お茶を一口飲んだところで、真九郎はまた散鶴からミカンを渡された。
「はい、お兄ちゃん」
「……ありがと」
通算十二個目のミカンを受け取った真九郎は、口に入れるのを少し迷ったが、散鶴が悲しそうな目をするので、何とか飲み込んだ。これ以上は無理だ。散鶴がまたミカンを手に取りそうなのを見越して、真九郎は彼女を持ち上げて肩車。髪の毛を掴み、キャッキャッと喜ぶ散鶴をあやしながら、真九郎はふと思いつく。
「もし暇だったらでいいんだけどさ、夕乃さんも、来てくれない?」
「何にです?」
「授業参観。まだ詳しい日時は聞いてないんだけど、一緒に来てくれたら心強いし」
「わたし、ですか?」
胸に手を当てる夕乃に、真九郎は頷く。
一人では心細い、というのは情けないが、ここは紫のためにも安全策を取るとしよう。
「えーと、ちょっと待ってください。それってつまり……」
額《ひたい》に指先を当て、目を閉じる夕乃。
「真九郎さんが紫ちゃんのお父さん役で、わたしがお母さん役、ということですか?」
「そんな感じかな」
「わたしと真九郎さんで、夫婦役をやるわけですね?」
「うん、まあ」
「それは素晴らしいアイデアです!」
目を開くと同時にグッと拳を握り、夕乃は満面の笑みを浮かべる。
「ぜひ、ぜひやりましょう! 将来の予行練習にもなりますし!」
「将来?」
「それに、これは紫ちゃんへの良い牽制《けんせい》にもなります!」
「牽制?」
「ああでも、周りの人から『奥さん』て呼ばれたら、どうしましょう……」
頬に手を添え、恥ずかしそうに身悶《みもだ》えする夕乃。
真九郎には何だかよくわからないが、夕乃が楽しそうなので良しとすることにした。
「ねえ、お兄ちゃん」
真九郎の髪の毛を掴み、上から顔を覗き込んでくる散鶴。
「お姉ちゃんが、お兄ちゃんのおくさんになるの?」
「あー、役割的に、だけどね……」
「じゃあ、ちづるは、お兄ちゃんのおよめさんになるね」
「ありがと」
無邪気に未来を語る散鶴に笑いかけながら、真九郎は思った。
散鶴と同じ歳の頃、自分の抱いた夢は何だろう。
紅真九郎が最初に思い描いた未来は、いったい何だったか。
その未来と今の現実には、どれほどの差があるのか。
「真九郎さん。当日はわたしと真九郎さんで、立派に夫婦役を務めましょう! 周りの人たちの度肝《どぎも》を抜くつもりで!」
「………まあ、よろしくお願いします」
その日の夜、五月雨荘の5号室で、ささやかな鍋《なべ》パーティーが開かれた。
昨日の件のお礼で環に夕飯をご馳走《ちそう》することになり、どうせならと、闇絵《やみえ》も誘ったのだ。真九郎は卓上コンロの上に鍋を置き、豆腐《とうふ》、白菜《はくさい》、長ネギ、油揚げ、そして豚《ぶた》肉を入れ、そこに赤|味噌《みそ》を加えて味を整える。
いつものことながら、女性二人は料理に無関心。環は缶ビール片手に「腹減ったーっ!」と喚《わめ》き、闇絵は煮え立つ鍋を見ながらビールをちびちび飲んでいた。
「少年。男子|厨房《ちゅうぼう》に入らず、という言葉を知っているか?」
「知ってますけど」
「それは、明治《めいじ》以降の話でな。富国強兵の流れで生まれた思想だ。江戸《えど》時代には、書、和歌、障子《しょうじ》張りすらも男のたしなみで、家事をやることも珍しくはなかった」
「へえ……」
「だからわたしは手伝わない」
雑学を利用した言い訳だったらしい。
いろんな女性がいるもんだよな……。
家事全般に優れた夕乃をよく知る真九郎からすれば、年上の女性は何でもできるような印象があるのだが、その点、五月雨荘の女性二人はかなり異端《いたん》だ。
闇絵ほど「何もしない」姿が堂に入ってる人間を、真九郎は他に知らない。
環のだらしなさも、ある意味で堂々としたものではある。
豚肉を皿に載せ、物欲しそうにしている黒猫のダビデの前に置きながら、真九郎は思う。
悪宇商会に勧誘された件。
この二人なら、なんて言うだろう?
真九郎は詳しい部分を省《はぶ》いて説明し、環と闇絵の意見を聞いてみることにした。
二人の反応は。
「ま、いいんじゃない。ねえ、闇絵さん?」
「そうだな。ま、いいんじゃないか」
軽い……。
予想していた以上に軽い反応だった。
所詮《しょせん》はは他人事《ひとごと》であるし、こんなものか、と落胆《らくたん》する真九郎の肩を、ほろ酔い気分の環がバシバシと叩く。
「そんなさあ、心配することないって! 案ずるよりうぬがネッシーって言うじゃん! 大変なこともあるだろうけど、何とかなるよ、きっと」
「そうですかね……」
「あのねー、何とかなるって思ってない人は、本当に何とかならないんだよ」
「じゃあ、何とかなるって思えば、何とかなりますか?」
「わかんない」
ガハハ、と大笑いする環。
「そんなことよりさー、聞いてよ、この前の合コンでね……」
「はいはい、あとで聞きます」
抱きついてくる環を適当にあしらいながら、真九郎は器《うつわ》に豆腐や豚肉を山盛りに入れ、上から白ゴマをかける。それを環の前に置くと、彼女はすぐ食事に熱中し始めた。「やっぱ冬は鍋だよねー、酒も進むしー」とご満悦《まんえつ》。食べる様子は、何処《どこ》となく紫と似ているような気もする。精神年齢が近いのかもしれない。
真九郎は闇絵の器にも煮えた具を入れ、それに白ゴマをかけてから渡した。
「闇絵さんは、何かご意見ありませんか?」
「少年」
受け取った器をちゃぶ台の上に置き、闇絵は優雅《ゆうが》な仕草《しぐさ》でタバコを吹かす。
そして、漂う紫煙《しえん》を見つめながら言った。
「その前に、大事なことを伝えておこう」
「何です?」
「わたしは労働というものをしたことがない」
「……恥ずかしいこと、堂々と言わないでください」
「恥ずかしい?」
闇絵は、不思議そうに首を傾《かし》げる。
「働かずに暮らす。それは、人類共通の夢じゃないか」
「それは、まあ……」
働かずに暮らせたらどんなに良いか、とは思う。
いや、それは本当に良いことなのか?
仕事をせず、人生を遊んで暮らす自分の姿を、真九郎は想像できない。揉め事処理屋を辞めてしまったら、真九郎はまた昔に戻ってしまうような気がする。何もない自分。空《から》っぽの自分。ただ弱いだけの、どうしようもない自分に。
缶ビールに軽く口をつけ、闇絵は言った。
「少年。本当に大事なことは、他人に相談してはいけない」
「……そう、ですか?」
「人は、他人に指摘されたことよりも、自分で気づいたことを重視するものさ」
部屋に充満したタバコの煙が、真九郎の鼻腔《ぴこう》をくすぐる。真九郎は銘柄《めいがら》に関係なくタバコの煙は嫌いなのだが、闇絵の吸うタバコの煙は、何故か不愉快《ふゆかい》ではなかった。彼女の息が混じっているから、だろうか。
闇絵は灰皿を引き寄せ、長くなったタバコの灰を静かに落とす。
「まあ、少年がどうしてもというなら、助言らしきものをしておこうか」
「お願いします」
かしこまる真九郎に、闇絵は言う。
「一つ、見つけておくといい」
「一つ?」
「そうだ。一つでいいから、何か答えを見つけておくといい。それさえあれば、たいていのことは乗り越えられる」
答え……。
もっと具体的な説明が欲しいところだが、求めても応じる彼女ではないだろう。
「ちなみに、闇絵さんの答えって何です?」
闇絵は片眉を上げ、「さて」と微笑んだ。
「それが見つけられなかったから、わたしはここで、こうしているのかもしれんな……」
腹を満たし、膝の上によじ登ってきたダビデを、闇絵の長い指がそっと撫でる。
もしかしたらこの人も、自分と同じように、ここへ逃げてきたのだろうか。
真九郎は、ふとそう思ったが、もちろん口には出さなかった。
鍋の火加減を見ながら、言われた言葉を反劉《はんすう》してみる。
答え。それがあれば、たいていのことは乗り越えられる。
それはそうだろう。
しかし、そんなもの、今の自分にあるだろうか?
鍋パーティーがお開きになり、酔い潰れた環を真九郎が6号室に寝かせに行っている間に、闇絵の姿は消えていた。常《つね》に灯《あか》りのない4号室。闇の停《たたず》むそこに、彼女は帰ったのだろう。
真九郎は窓を開けて空気を入れ換え、鍋の後片付けをしてから布団《ふとん》を敷く。その上に腰を下ろし、一度目を閉じた。
右手には携帯電話。左手にはルーシーにもらった名刺。
話を受けるにしろ、断るにしろ、数日中に連絡が欲しい。
ルーシーから、そう言われていた。
真九郎の頭に浮かぶのは、紫の姿。新たな生活を始めた紫は、あんな小さいのに頑張っている。初めての学校、見知らぬ他人ばかりの屋敷、九鳳院家の人間としての義務。どれも楽なものではないはずなのに、弱音を吐かず、あの子は頑張っている。頑張って生きている。
七歳の彼女と比べて、十六歳の自分はどうか?
たかが組織に属するかどうかでビクビクしやがって、情けない。
この程度の決断ができなくて、この先、裏世界でやっていけると思うのか。
九鳳院紫は、前に進んだのだ。
紅真九郎も、進もう。
深呼吸してから腹を据《す》え、真九郎は目を開けると、通話ボタンに親指を乗せた。
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第三章 斬島の刃
人生には分岐《ぷんき》点があり、そこには選ばれなかった選択|肢《し》、実現しなかった未来もある。真九郎《しんくろう》の最初の分岐点は、多分、幼稚園の年長組の頃だ。大の野球好きだった父親の影響でバットとゴムボールを買ってもらった真九郎は、プロ野球の選手を目指し、近所の駐車場で練習を始めた。しかし、いくら、バットを振ろうと銀子《ぎんこ》の投げる球にかすりもせず、投げるボールは見当違いの方角へ飛んで行く自分のセンスのなさにショックを受け、真九郎はすぐに挫折《ざせつ》。プロ野球選手になるのを諦《あきら》めた。それから以後、野球はやるものではなく、観戦して楽しむものと決めた。今ならわかる。真九郎に足りなかったのは、野球のセンスではない。努力だ。努力が足りなかった。真九郎は、何の努力もしなかった。必死になって努力したことが、あの頃の真九郎には一度もなかった。家族を失い、一人ぽっちになり、必要に迫られるまで、真九郎は何も努力をしてこなかったのだ。ただ漠然《ばくぜん》と、生きていた。家族の庇護《ひご》の下、無償《むしょう》の愛に包まれ、ただ生きていた。
もしあの頃、ちゃんと努力をしていたら。諦めずに努力をしていたら。それなりに野球の実力が身について、少年野球チームの二軍くらいには入れたかもしれない。そうしたら自分の周りもいろいろと変化し、その後の運命も変わり、家族が死ぬこともなかったかもしれない。不毛な妄想《もうそう》だ。タイムマシンなんか、どこにもありはしないのに。
土曜日の午後、五月雨《さみだれ》荘の5号室。日本人メジャーリーガーの活躍を称《たた》える新聞記事を見ながら、真九郎はそんなことを思った。視線をすぐ側《そば》に移すと、ちゃぶ台の上で、紫《むらさき》が計算ドリルと睨《にら》めっこ中。両手の指を折り曲げながら、必死に問題を解いていた。紫は、算数があまり得意ではないらしい。おそらくは、育った環境のためだ。|奥ノ院《おくのいん》という特殊な閉鎖《へいさ》空間では、計算能力が必要になる機会など特になかったのだろう。
「……むう、わからん。真九郎、ここを教えてくれ」
紫が音《ね》を上げ、真九郎に助けを請《こ》う。
「どれどれ……」
真九郎は新聞を折り畳《たた》み、計算ドリルに目をやった。これは、紫の宿題だ。授業で宿題を出されると、紫はたいてい真九郎の部屋に持ってくる。屋敷よりここの方が落ちつく、というのが本人の弁。拒《こば》む理由もないので、真九郎は彼女の好きにさせていた。いつでも紫が自由に入れるように、部屋の鍵《かぎ》もかけなくなったくらいだ。闇絵《やみえ》や環《たまき》のことは信用しているし、そもそも盗られて困る物など真九郎の部屋にはない。それでも真九郎が必ず鍵をかけていたのは、心理的な理由だろうか。そして今は、それが取り除かれたのか。
「……なるほど、そうか」
真九郎から問題の解き方を教わり、紫は再び計算ドリルに挑《いど》む。小さな手で鉛筆を握り、意外と綺麗《きれい》な数字を書きこむ様子に、真九郎の頬《ほお》が自然と緩《ゆる》んだ。苦手な教科を勉強していると、こんなこと学んで何の役に立つのか、という愚痴《ぐち》が誰でも口から出てしまうものだが、紫にはそれがない。わからないことを、わかりたい。知らないことを、知りたい。それは単純な向学心では説明できないもの。問題に正面から立ち向かい、逃げることを知らない、九鳳院《くほういん》紫という少女の本質。それは多分、この世界で生きるには不利なものだ。この世界には解決できない問題があり、諦めるしかないことがあり、忘れるしかないことがある。考えるのをやめるしかないこともある。今はまだ幼いからこそ、紫は己《おのれ》の本質を維持《いじ》しながら生きていられるが、いつか挫折を知り、どうにもならないことを学び、問題から逃避するようになるのだろうか。奥ノ院という枠《わく》から飛び出したこの子が、これからどうなるのか、それは真九郎にも想像がつかない。ただ、自分にできることは全《すべ》てしてあげようと思う。紅《くれない》真九郎にできることなど限られているが、それでも、この子の望みに自分の力が必要なら、それを出し惜《お》しむようなことはしない。それだけは、心に誓《ちか》っている。
「真九郎、ここを教えてくれ」
渋い顔で、紫が計算ドリルの問題を指差す。その問題を見た真九郎は、少し違和感を覚えた。さっきから、似たようなところにばかり引っ掛かっている。この子の賢《かしこ》さからすると、やや不自然。真九郎の教え方が悪いのか。
それとも……。
「……なあ、紫」
「何だ?」
「おまえ、わざと間違えてないか?」
「そ、そんなことはないぞ……」
紫は、視線をちゃぶ台の上に落とす。ウソを見抜くことに長《た》けた彼女は、ウソをつくのがヘタだ。素直な気性が、すぐ表情に出てしまう。
こういうときは言葉を尽くすより、無言の方が効果的。真九郎は静かに紫を見つめ、彼女が口を開くのを待った。
しばらくして、紫はポツリと呟《つぶや》く。
「……だって、真九郎は行ってしまうだろ?」
「何処《どこ》に?」
小さな指で鉛筆を弄《いじ》りながら、紫は少しすねるように口を尖《とが》らせた。
「わたしの宿題が終わったら、真九郎は仕事に行ってしまうだろ? だから……」
寂しそうに消え入る紫の声を聞き、真九郎は苦笑。
それで、わざと間違えて、長引かせていたわけか。
「大丈夫だよ。仕事はない」
「………そうなのか?」
探るように見つめてくる紫に、真九郎は頷《うなず》く。
途端《とたん》、紫はパッと笑顔になった。
「そうか、仕事はないのか! それは良かった!」
いや、全然良くないんだけどな、本当は……。
無邪気に喜ぶ紫を見ながら、真九郎は内心でため息を吐《つ》いた。
悪宇《あくう》商会と契約する意思をルーシーに伝えたところ、快く了承《りょうしょう》されたが、一応テストのようなものはあるらしく、それまでは開店休業状態なのだ。
「今日は一日、真九郎はわたしと一緒だな!」
「ま、そうなるか」
元気を取り戻した紫は、いきなり立ち上がる。計算ドリルと鉛筆、それに消しゴムを手に持ち、移動開始。そして、あぐらをかく真九郎の膝《ひざ》の上に腰を下ろした。
「……何でここなんだよ」
「ダメか?」
「いや、ダメじゃないけど……」
「ここが一番、温かいのだ」
紫は真九郎の顔を見上げ、目が合うと、恥《は》ずかしそうに笑った。
部屋では電気ストーブが一台作動中なのだが、まだ寒いのかな、と真九郎は思う。
まあいい。こうしていると温かいのは本当だ。膝の上に感じる心地良い重さ、そして柔らかさ。ちょうど真九郎の顎《あご》のあたりに紫の頭があり、髪からは不思議な匂《にお》いがする。紫が、まだ赤ん坊であった頃の残り香《が》のような、心を和《なご》ませる匂い。
「ん? 紫、そこの計算は間違ってるぞ」
「こっちの方が、数字の並びが綺麗だ」
「真面目《まじめ》にやれ」
真九郎が後ろから頬を摘《つま》んでも、紫はニコニコ笑うばかり。上機嫌らしい。
「……おまえな、遊んでたら、宿題なんてずっと終わらないだろ」
「だったら、ずっと一緒にいよう」
「そうもいかない」
「結婚すれば良いではないか」
「無理」
「……むう」
「そんな顔しても、ダメだ」
「真九郎は、他に誰か結婚したい相手でもいるのか?」
「それは……」
真九郎は、少し驚いた。誰も思い浮かばなかったのだ。小さい頃は、考えたこともあったのに、今は誰も思い浮かばない。何年ぶりかに、ちょっとだけ想像してみる。いつか自分が、誰かと結ぼれたとする。世界は広い。こんな自分を本気で好いてくれる女性も、何処かにいるかもしれない。そういう人と出会い、結ばれる。そして子供を授かる。それは、例《たと》えば紫のような子供かもしれない。そして家族ができる。自分の好きな人がいて、自分を好きでいてくれる人がいて、二人の間に子供がいる。ああそれは幸せだろうな、と真九郎は思った。あまりに幸せすぎて、現実味が希薄ではあるけれど。
「どうなのだ? 結婚したい相手はいるのか?」
膝の上で、不満そうにこちらを見ている紫。
この子にウソが通じないことは承知《しょうち》しているので、真九郎は慎重に答える。
「あー、まあ、今のとこ、結婚とかは……」
「何の話です?」
後ろから夕乃《ゆうの》の声。
真九郎が振り向くと、開かれた部屋の扉の側に、夕乃が立っていた。
「……夕乃さん、部屋に入るときはノックしてください」
「しましたよ、心の中で」
「現実世界でお願いします」
「ごめんなさい。次からは気をつけますね」
ニッコリ微笑《ほほえ》む夕乃。
「それで、真九郎さん、今、結婚がどうとか聞こえたのですけれど……」
「あ、何でもないです」
紫の口を手で塞《ふさ》ぎ、真九郎は曖昧《あいまい》な笑みで応じる。
真九郎の顔と、モゴモゴ言う紫を、夕乃はしばらく無言で見ていたが、やがて息を吐く。
「……まあ、いいでしょう。もうすぐ夫婦役ですものね」
ウフフ、と勝ち誇るように笑う夕乃。
真九郎が口から手を離すと、紫はまず真九郎を軽く睨み、次に夕乃をジロッと睨んだ。
「何の用だ、夕乃?」
紫は胸の前で腕を組み、真九郎の膝の上で偉《えら》そうにふんぞり返る。
その仏頂面《ぶっちょうづら》に対しても、夕乃は笑顔を崩《くず》さない。
「良いおイモが手に入りましたので、久しぶりに作ってみました」
手に持っていた風呂敷《ふろしき》包みを、夕乃は顔の前に持ち上げる。渡されたそれを真九郎が開いてみると、保存容器が一つ。中身は夕乃の作った大学イモだった。
「真九郎さん、お好きでしょう?」
持参した爪楊枝《つまようじ》もちゃぶ台の上に置き、夕乃は慣れた手つきでエプロンを身に着けると、薬缶《やかん》を火にかけてお湯を沸かし始める。機嫌の悪そうな紫だったが、やはりまだ子供。ちゃぶ台の上の大学イモを、興味|津々《しんしん》で見つめていた。
「真九郎。美味《うま》いのか、これは?」
論より証拠ということで、真九郎は適当な大きさの大学イモを、紫の口に入れてやる。最初は怪《あや》しむように噛《か》んでいた紫だが、それはすぐに笑顔に変わった。美味いものを食べると、誰でも笑うのだ。しぼらくして夕乃が二人の正面に腰を下ろし、三人分のお茶を掩れる。ちゃぶ台の上の計算ドリルを見て、「あら……」と夕乃は懐《なつ》かしそうに微笑んだ。
「紫ちゃん、お勉強中だったんですね。よければ、わたしが教えましょうか?」
「いらぬ世話だ」
素っ気無く答えながらも、大学イモを頬張《ほおば》り続ける紫。
真九郎も大学イモを一つ口に入れた。水飴とイモの相性が絶品だな、と感心してしまう。
「夕乃さんは、何を作っても上手《うま》いよね」
「ありがとうございます。でもこれくらい、女としては当然のたしなみですよ」
口に手を当て、ほほほ、と上品に笑う夕乃。
それをしかめっ面《つら》で見ていた紫は、横柄《おうへい》な口調で反論する。
「ふん、これくらい、わたしにもできるぞ。わたしがいかに料理上手かは、真九郎もよく知るところだ。なあ、真九郎?」
「………」
「なぜこっちを見ない?」
「いや、ここで頷くのは俺の良心に反するというか……」
真九郎が答えに真九郎が答えに窮《きゅう》していると、懐《ふところ》から電話が鳴った。
これ幸いと電話に出る。
「もしもし?」
「お世話になっております。悪宇商会の、ルーシーです」
……来たか。
子供に聞かせる話ではないので、真九郎は紫に膝の上からどいてもらい、電話を持って部屋の隅《すみ》へと移動。小声で話す。
「例の、テストってやつですか?」
「それです。今、お時間いいでしょうか?」
「はい、別に……」
チラッと、ちゃぶ台の方に目を向ける真九郎。
「紅《くれない》夕乃。慎《つつし》み深くも美しいこの組み合わせは、まさに運命的といえるでしょうね」
「ふん、紅紫の方がスゴイぞ。たった二文字だが、完壁《かんぺき》だ」
「崩月《ほうづき》真九郎。どうです、この流麗にして力強い響きは!」
「九鳳院真九郎の方がスゴイ! 六文字だぞ!」
いったい何を張り合ってるんだ……。
二人のやり取りに呆《あき》れながらも、真九郎は控《ひか》えめに注意する。
「あのー、今、電話中なんで、もう少し静かに……」
二人から睨《にら》まれた。ちょっと怖かった。
「……どうぞ続けてください」
真九郎は電話を持ち、廊下に移動。
明日会えないか、というのがルーシーからの用件だった。そこでテストを行うらしい。詳《くわ》しい内容は当日に教えてくれるということで、待ち合わせの時間と場所を聞き、真九郎は電話を切る。
悪宇商会のテストか……。
試されることに文句はない。仕事を続ける限り、越えるべきハードルはこれからいくらでもあるだろう。右腕の痺《しぴ》れは残っているが、多少なら荒事《あらごと》にも対応可能だ。何を試されるのか、期待と不安が半々。
真九郎が部屋に戻ると、紫と夕乃の議論はまだ続いていた。話の断片を拾う限りでは、婿養子《むこようし》がどうとか、お嫁さんがどうとか、そんな話題。迂闊《うかつ》に口を挟《はさ》むとこちらに矛先《ほこさき》が向きそうなので、取り敢《あ》えず、真九郎は二人のためにお茶を淹れ直すことにした。
ルーシーに指定されたのは、日曜日の正午。
空は厚い雲で覆《おお》われ、気温は十度以下という寒い日だった。天気予報によると、午後から天気が崩れるとのこと。雨を伝えるテレビのキャスターは、どうしていつも申し訳なさそうな顔をするのか、真九郎は不思議に思う。吉凶に関《かか》わることなのか。それとも、歩くのに傘《かさ》が邪魔ですよねということなのか。
待ち合わせの店に行くため、真九郎は電車に乗り、繁華街《はんかがい》に出た。人で溢《あふ》れる休日の繁華街は、ちょっと特殊な空間だ。そこを歩いていると、真九郎はたまに考えてしまう。マスコミが日々伝える社会情勢の悪化は、ウソではないのかと。出生率の低下、自殺者の増加、景気の低迷、そして多発する凶悪犯罪。一つ一つを真面目に考えれば、とても危機的な状況。それなのに、街は活気に満ち、人々の顔から悲愴《ひそう》感は窺《うかが》えない。まるで何かが麻痺《まひ》したかのように、楽観的な空気が蔓延《まんえん》している。どうにかなると思っているのか、どうでもいいと思っているのか。実際、少なくとも今のところは破綻《はたん》していないのだし、社会というものは意外としぶとい。そう簡単には壊れない。人々はそれを、本能的に知っているのかもしれない。
コンビニの前でたむろし、趣味の話に興《きょう》じる少年たち。腕を組み、笑顔で冗談を言い合うカップル。母親の手を引っ張りながら、何かをねだる幼い子供。それらの光景を、真九郎は憧《あこが》れの目で眺《なが》めた。ほんの少しだけだ。心の栄養補給のようなもの。たまには、そういうことも必要だろう。特に今日は、これから難問が待っているのだ。
悪宇商会と契約できるかどうか、それを決めるテスト。高校受験のときも散々《さんざん》緊張した真九郎だったが、そのときには銀子が側にいたし、夕乃も応援してくれた。しかし、これは仕事の一環《いっかん》。自分一人でクリアしなければならない。
腕時計を見ると、待ち合わせの時間にはまだ早かった。僅《わず》かな尿意《にょうい》を解消しておくため、真九郎は近くのゲームセンターへと進路変更。中に入り、トイレを探す。天井に吊《つ》り下げられた表示板を見ると、奥の方にあるらしい。騒がしい音と、充満するタバコの煙に辟易《へきえき》しつつ、真九郎はゲームセンターの中を通った。眩《まぶ》しいほど色鮮やかなゲーム画面を、横目で見る。自分がこういうもので遊ばなくなってから、何年|経《た》つだろう。昔は人並みに興味を持っていたこともあったのに、今は特にやりたいとは感じない。心に余裕がない、ということなのか。それともこれは、成長なのか。
そんなことを考えながら店内を歩いていると、ギャラリーの集まった一角から歓声が上がった。真九郎は、ちょっとそこを覗《のぞ》いてみる。ゲームの筐体《きょうたい》を挟んで二人が座り、対戦中。画面ではドレッドヘアの黒人がトンファーを振り回し、その攻撃を女剣士が避《よ》けていた。筐体の上に表示されている数字は、勝ち抜いた人数を表しているようで、現在三十九人抜き。女剣士が刀《かたな》を一閃《いっせん》し、黒人が倒れて勝負あり。数字が変わる。四十人抜きだ。筐体の向こう側から、悔《くや》しそうな呻《うめ》き声が聞こえてきた。
見事に連勝を重ねるプレイヤーはどんな人物かと、真九郎はそちらを見やる。最初に目に入ったのは、茶色の髪を結ぶ黒いリボン。顔にまだ幼さの残る、十代前半らしき少女だった。上はスタジャン、下はホットパンツで、そこから伸びた長い脚《あし》の先にはブーツ。首に巻いたマフラーで口元を覆い、少女は眠たげな眼差《まなざ》しで画面を見つめている。スタジャンの背中には、大きなドクロマークと、『Fuck off!』という挑発的《ちょうはつ》な文字。
目立つ子だな……。
おとなしそうな雰囲気《ふんいき》と、派手《はで》な外見が、妙にアンバランスで印象に残る。新たな挑戦者が現れ、少女は四十一人抜きに挑み始めた。レバーとボタンを操作する少女の動きは、実に手慣れたもの。かなりやり込んでいるのだろう。もう少し見ていたいような気もしたが、真九郎は本来の目的を優先し、その場を離れる。
非常階段の側でトイレを発見。そこで用を済ませ、洗面所で手を洗ってから鏡を見た。
笑ってみる。表情が硬《かた》い。紫に叱《しか》られた、不細工《ぶさいく》な笑顔だ。
頬を叩《たた》き、真九郎は気合いを入れる。
「……頑張れよ、俺」
今日これから、どんなことを試されるのかはわからない。誰かと戦う可能性もある。
あの〈鉄腕〉ダニエル・ブランチャードのような戦闘屋が、待っているかもしれない。
たとえそうであっても、進むと決めたのだから、こんなところで尻込《しりご》みするな。
自分に説教し、軽く息を吐いてから、真九郎はトイレを出た。店を出る前に、何となく気になり、さっきのゲーム台へと足を向ける。ギャラリーの隙間《すきま》から目をやると、現在五十人抜きに挑戦中。対戦キャラは両手に銃を持つガンマンだったが、女剣士は難なく銃弾の雨を避け、相手の首を刎《は》ね落とす。数秒で勝負が決し、ギャラリーが沸いた。
「おい、ふざけんな、てめえ!」
その怒声《どせい》は、筐体の向こう側から。今の対戦相手だ。鼻にピアスをしたその男が、椅子《いす》を蹴飛《けと》ばしながら立ち上がるのを見て、ギャラリーは一斉《いっせい》に散っていく。鼻ピアスの男の背後には、仲間らしき者たちが数人。いずれも人相が悪く、どこかのヤクザかもしれない。最近はこういう連中もゲームをするのか、と真九郎が少し驚いているうちに、鼻ピアスの男が少女の座っている椅子を蹴り倒した。その拍子《ひょうし》に少女は床に転び、「あ……」と小さな声を漏《も》らす。視線の先はゲーム画面。まだゲームやってる最中なのに、という顔だ。その反応が気に障《さわ》ったのか、鼻ピアスの男は椅子を持ち上げ、ゲーム画面に叩きつけた。ガラスの砕《くだ》ける音が響き、店内が静まり返る。
「何が五十人抜きだ! 俺とリアルファイトすっか? ああっ!」
たかがゲームが理由でも、人を傷つけるのが現代社会。
店員が止めに入る気配もない。こんなところで怪我《けが》でもしたら損《そん》、ということだろう。周りにいる他の客たちも同意見のようで、みんな視線を逸《そ》らしていた。誰かが警察へ通報してくれるのを期待するのは、時間の無駄か。
「何とか言えや!」
鼻ピアスの男は尻ポケットからナイフを出し、少女の眼前に突きつける。少女はそれを、ぼーっと見つめていた。この事態に思考が対応し切れていないのか、顔に怯《おび》えの色はない。
これから大事な用がある真九郎としては、面倒事《めんどうごと》には関わらない方が無難。しかし、ここに紫がいたら絶対に助けに行くよなあ、などと一瞬思ってしまい、そうなると自然に体も動く。真九郎は、近くにあった灰皿を手に取った。お店の人ごめんなさい、と心の中で詫《わ》びてから、天井に並ぶ蛍光灯を目がけ、灰皿を投げる。狙《ねち》いは男たちの頭上。命中し、火花を散らしながら降ってくる蛍光灯の破片に、男たちが僅かに怯《ひる》んだ。その隙に、真九郎は少女に駆け寄る。腰に手を回して助け起こし、無言でダッシュ。もちろん、少女を連れてだ。そのまま通路を走り抜け、背後から「待て、コラァ!」と男たちが追ってくる声を聞き、二人は近くにあったトイレに飛び込む。真九郎がさっき利用した、男子トイレ。ドアを閉めて数秒後、男たちの走る音がトイレの前を通過。まだ外に何人かいる可能性を考慮《こうりょ》して、真九郎は少し待つことにする。できる限り、暴力は避けたい。
「……あの」
背後にいた少女が、真九郎の背中を指でつつく。
そして申し訳なさそうに言った。
「……わたし、処女です」
「は?」
振り返った真九郎の顔をぼんやりと見つめ、少女は小声で続ける。
「……お気持ちは嬉《うれ》しいのですが、いきなりトイレというのは、ちょっと、どうかと」
何やら誤解を生んでいるようなので、真九郎は一応説明。
少女は「……ああ」と小さく頷く。
「……そうだったんですか。わたし、てっきり、ナンパされたのかと思いました」
「ナンパ……」
あの状況でそんな発想をするのか。
呆れる真九郎に、少女は淡々《たんたん》と言った。
「……お兄さん、いい人なんですね」
真九郎の顔を指差す。
「ゆーあーないすがい」
「……どうも」
メチャクチャ棒読みの英語だが、一応感謝されているのだろう。
苦笑する真九郎にペコリと頭を下げ、さっさとドアに向かって歩き出す少女。まだ外は危ない。真九郎は慌《あわ》てて止めようとしたが、その前に少女は立ち止まり、クルリと振り返った。
「……あの、ちょっと、お尋《たず》ねしたいのですが」
少女は、ポケットからメモ用紙を出す。そこに名前の書かれた店が何処か探している、ということだった。よく見ると、それは真九郎が今から行こうとしている店。
「そこなら俺も行くけど……。一緒に行く?」
「……いいんですか?」
「かまわないよ」
何となく、危なっかしい子だ。
この子を一人にして、もしもさっきの連中と遭遇《そうぐう》してしまったら、助けた意味もない。
「……やさしい」
感激したのか、少女は僅かに目を見開き、再び真九郎の顔を指差した。
「ゆーあーないすがい」
「……どうも」
男たちの姿が通路にないのを確認してから、二人は駆け足で店内から外へ出た。休日の繁華街だ。人込みに紛《まぎ》れてしまえば、追って来たとしても見つけるのは困難。なるべく人の多い大通りを選んで進み、店から十分に離れたところで、二人はやっと歩調を緩める。
「……都会は、怖いです。悪い大人でいっぱいです」
あまり体力がないらしく、少女は「ふう」と疲れたように息を吐いていた。
真九郎は、もう少し歩調を緩めることにする。
「まあ、あんな奴《やつ》らばかりでもないけどね」
「……もう少し、遊びたかったです」
冷たい風が大通りを吹き抜けると、少女は凍《こご》えるように身を震わせ、くしゃみを一回。ズルズルと鼻水をすする様子を見て、真九郎はポケットティッシュを渡した。少女は礼を言って受け取り、鼻をかむ。
「風邪ひいてるの?」
「……いいえ。寒いの、苦手なんです」
暑いのも寒いのもダメな虚弱体質で、おまけに花粉症だという。
「………地球は、わたしの敵です」
少女は外気から身を守るように背中を丸め、両手をポケットに入れた。
寒いなら冬のホットパンツはやめた方がいいんじゃないだろうか、と真九郎は思ったが、そこはファッションなのだろう。前に、銀子も言っていた。「男と女では、服装にかける意気込みが違うのよ」と。
道中の暇潰《ひまつぶ》しもかねて、真九郎は少女と会話を続ける。少女はしばらく海外で暮らしていたそうで、最近帰国したばかり。知り合いに呼ばれて繁華街に出たが、目的地を探して歩いているうちにゲームセンターを見つけてしまい、懐かしさも手伝って、思わず入ってしまったとのこと。眠そうに見えるのは、時差ボケが残っているせいか。
「海外って、どこ?」
「……いろいろです」
「いろいろ?」
「……仕事によって、変わりましたから」
親の都合、というやつだろうか。
小国から大国まで、少女はかなりの国々を転々としてきたらしい。
「大変そうだね」
「……いっとわずぐっど」
「えっ?」
「……結構、楽しかったです。わたし、英語は得意なので、不自由もなかったです」
「ああ、なるほど……」
そんな発音で通じるのか、真九郎には大いに疑問だったが、意外といけるのかもしれない。
どんなことでも、鍵を握るのは度胸《どきょう》。おそらく、この少女にはそれがあるのだろう。真九郎には、それが欠けているのだが。
事前に調べておいた住所を思い出しながら、真九郎は目的のビルを探す。まだ余裕はあるな、と時間を確認していると、隣の少女も時間を気にしているようだった。
「……お昼に、仕事の打ち合わせがあるんです。新人さんの紹介と、テストもやるそうなので、遅れると、ちょっと気まずいです」
お昼。新人の紹介とテスト。真九郎が約束しているのと同じ店。
偶然にしては、符合《ふごう》する点が多い。
まさかなあ、と思いながらも、真九郎は一応尋ねてみた。
「あの、君、ひょっとして悪宇商会の人?」
「……はい」
コクン、と頷く少女。
こんな子が悪宇商会の人間……?
衝撃を受ける真九郎の隣で、少女は首を傾《かし》げる。
「……あれ? どうして、ご存知なんです?」
真九郎が事情を話すと、「………あなたが新人さん」と、少女はすぐに納得し、自分もルーシーに呼び出されたのだと教えてくれた。
「……では、ご挨拶《あいさつ》を。わたし、斬島《きりしま》|切彦《きりひこ》です」
こういう字です、と指で宙に描《か》いて見せてから、切彦は真九郎に片手を差し出す。
「あ、どうも………。紅真九郎です」
戸惑《とまど》いつつも、真九郎は切彦と握手。ふにゃふにゃした、柔らかい手だった。
本当にこの子が?
まだ衝撃から抜け出せない真九郎の思考に、ふと違和感。
………切彦って、男の名前だよな。
口には出さずとも、それは真九郎の表情に出てしまったらしい。切彦は説明に困った様子で「んー」と唸《うな》り、いきなり真九郎の手を引いた。そして自分の胸に押しつける。真九郎の手の平に伝わる、ムニュッという感触。
「……小さいけど、あります」
たしかにサイズは控え目だが、それは女の子の胸に違いない。
胸に真九郎の手を押しつけたまま、切彦は続ける。
「……まだ信じられないようでしたら、下も」
「いや、もう十分!」
真九郎は、逃げるようにして切彦から離れた。周りを窺うと、こちらを見て笑っている通行人が結構いる。二人は、今時の大胆《だいたん》なカップルと思われたのだろう。
あまりの恥ずかしさに顔を赤くする真九郎とは対照的に、切彦は平然としたもの。
「……納得してもらえたなら、幸いです」
さあ行きましょう、と促《うなが》す切彦。
真九郎はどうにか心臓の鼓動《こどう》を落ち着け、彼女とともに歩き出した。
車の多い大通りから細道に入り、いくつか角を曲がり、ようやく目的のビルを発見。待ち合わせの店は十階なので、二人はエレベーターが来るのを待つ。
真九郎の隣で、切彦は階を示すランプをぼんやりと見ていた。
ルーシー以外に誰か来るなら〈鉄腕〉のような男、と真九郎は予想していたのだが、まきかこんな少女が来るとは。これは幸運な誤算、というべきか。
しかし、それにしても。
どう見ても素人《しろうと》にしか思えないこんな子が、本当に悪宇商会の人間なのか?
悪宇商会に所属しているということは、もちろん裏世界の住人。
何かしらの技能があり、しかも相当な腕利《うでき》きであるはずだが。
「斬島さん、君って……」
「ぶりーずこーるみーキリヒコ」
真九郎は、少し考える。
「えーと、じゃあ……切彦ちゃん。ちょっと訊《き》いてもいいかな?」
「……切彦、ちゃん?」
よほど意外だったのか、切彦は驚いたように真九郎の顔を見上げた。
そしてポツリと呟《つぶや》く。
「……かわいい」
「あ、嫌だった?」
「……そんなふうに呼ばれるの、初めてです」
海外暮らしが長いので、名前を呼び捨てにされる方が慣れている、ということだろうか。
そう解釈し、真九郎は再度質問。
「切彦ちゃんは、何が専門なの?」
「……専門?」
「何が得意なのかってこと」
切彦は納得したように小さく頷き、淡々と答えた。
「……切るのは、得意です」
「切る?」
「……特に、人を切るのは、上手いです」
「人って、それ……」
困惑《こんわく》する真九郎に、切彦は答えを告げる。
「……わたし、殺し屋ですから」
ルーシーが指定した店は、十階にある高級ステーキハウス。十階はレストラン街で、昼時ということもあり、どの店も賑《にぎ》わっていた。
人込みを避けて通路を進みながら、真九郎は隣を歩く切彦の横顔を見る。
他人に危害を加える要素など皆無《かいむ》としか思えないこの少女が、殺し屋。
通り名は〈ギロチン〉。得意な武器は刃物。でも、気持ちが舞い上がってしまうので、普段はあまり刃物を持ち歩かない。切彦は、そんなことも教えてくれた。
真九郎は、今まで本物の殺し屋と会ったことはない。しかし、映画のような、いかにもな外見の者ばかりではないということは知っている。凶器を扱《あつか》う訓練をすれば、子供でも殺し屋になれる。だから外見など当てにならない。しかし、そうとわかっていても、隣にいる少女と断頭台を意味する物騒《ぶっそう》な通り名は、まるで結びつかなかった。
からかわれてる、わけじゃないよなあ……。
首を捻《ひね》り、真九郎がそんなことを考えていると、切彦にクイッと袖《そで》を引っ張られた。
「……ここです」
店の前を通り過ぎていたらしい。切彦に礼を言い、真九郎は店の中へ。店内の壁は鮮やかな赤い煉瓦《れんが》作りで、天井は高く、かなり広かった。大きな鉄板を囲むカウンター席はすでに満席だが、ルーシーが予約しているらしいので、店員を呼び止めて名前を告げる。二人は店員に案内され、焼けた肉の匂いが漂う店内を進み、奥の個室へ。
扉を開けて個室に入ると、先に来ていたルーシーが「あ、どうもどうも」と席を立つ。
「あら、紅さんと切彦くんが、ご一緒ですか……」
途中で偶然、と切彦が隣で説明するのを、真九郎は上《うわ》の空で聞いていた。
それどころではない。
……何だろう、あれは?
ルーシーの隣にいる生物。例えるなら、服を着たゴリラか。真九郎のウエストより太い手足を持つ、肉厚な巨体だ。二つ並べた椅子の上に腰かけ、背中を丸めている様子は、無理やり人間の作法を教え込まれた野生動物にも見える。このままでも十分に、海外のホラー映画に出演できるだろう。もちろん、怪人役で。
「フランク。こちらが紅さんです」
ルーシーに促され、フランクと呼ぼれた巨漢が立ち上がる。調教師に命令された動物のような動き。その重さで、床が軋《きし》んだような気がした。フランクは裸足《はだし》だ。この異常なサイズに合う靴などないだろう。身長は二メートル二十台、体重は三百キロ強、と真九郎は推測。
「紅真九郎です。よろしく」
「お、おで、フランク・ブランカ!」
唾液《だえき》を飛ばしながら、濁《にご》った声でフランクは名乗る。
ルーシーの説明によると、フランクは戦闘屋で、通り名は〈ビッグフット〉。切彦の〈ギロチン〉と違い、外見に相応《ふさわ》しい通り名だった。深い山中で不意に遭遇すれば、まず間違いなく未確認生物の一種と騒がれるはずだ。
〈ギロチン〉斬島切彦。
〈ビッグフット〉フランク・ブランカ。
今日この二人が同席することに、どういう意味があるのか。
「みなさん、ご着席ください。お話は、食事をしながらということで」
場を仕切るルーシーの指示で、三人は席に着いた。
真九郎と切彦が並び、その正面にはルーシーとフランク。
ルーシーはテーブルの上のボタンを押し、店員を呼ぶ。やって来た店員は、個室の入り口で立ち止まった。ポカンと口を開け、フランクを見つめる店員。「どうかしました?」とルーシーに声をかけられ、店員はようやく動いたが、テーブルに氷水の入ったグラスを置き、注文を聞きながらも、その目はフランクの方へ向けられたままだった。戸惑いの眼差しを残し、店員は足早に去っていく。
妙だな……。
真九郎は首を傾げる。店員が驚くのも無理はない。しかしそれは、常識外の巨漢に対するものだけではないように感じられたのだ。まるで、フランクがこの部屋にいるのを知らなかったとでもいうような反応。この巨体が店の入り口を通る姿を見逃すなど、あり得るだろうか。
まあいい、と気持ちを切り替え、真九郎は三人をさりげなく観察。笑顔でストローを銜え、アイスティーを飲むルーシー。食事を待ちかね、口の端から唾液を垂《た》らすフランク。ぼんやりと宙を見つめる切彦。これが裏世界で最大手の人材|派遣《はけん》会社、悪宇商会の面子《メンツ》。噂《うわさ》に聞くほど凶悪な集団には見えないが、まだ気は抜けない。
しばらくして、さっきと別の店員が現れ、テーブルにナイフとフォークを並べてから、湯気を立てるスープを置いた。そして、やはりフランクの方を戸惑うように見つめながら去る。
さっきと同種の反応だ。どういうことだろう。
思考を働かせようとした真九郎は、隣にいる切彦が硬直していることに気づいた。彼女はスプーンを握ったまま、口一杯に梅干《うめぼ》しでも詰め込んだかのように顔をしかめている。
「どうしたの?」
「……あひゅい」
スープが熱かったらしい。その熱さが口から消えるのを、じっと待っているようだった。真九郎が氷水の入ったグラスを渡すと、切彦はそれを両手で持ち、舌《した》を浸《ひた》す。ちょっと涙目。かなりの猫舌なのだろう。
弱りきったその様子に苦笑しつつ、真九郎は本題に入ることにする。
「そろそろ聞かせてください。どんなテストなんです?」
ストローを銜えたまま、ルーシーは微笑んだ。
「どんなテストだと思います?」
「こちらの二人と戦え、とか?」
「まさか、そんな無茶は言いませんよ」
ルーシーは笑って否定し、コートのポケットに手を入れた。ゴソゴソと動かし、取り出した一枚の写真を真九郎に渡す。それは誰かの顔写真。写っているのは十代前半と思《おぽ》しき少女で、写真の下には『志具原《しぐはら》|理津《りつ》』とボールペンで名前が書かれていた。
「これがテストです」
「これが……? あ、じゃあ、人捜しですか?」
「いいえ。人殺しです」
「人殺し?」
「はい」
ルーシーは笑顔で頷いた。
「初めての人殺し。それが、紅さんにやって欲しいテストです」
その意味が、真九郎にはすぐには理解できなかった。
……殺す?
この写真の子を?
「……どういうつもりですか?」
真九郎の声は自然と低くなったが、ルーシーは平然と話を続ける。
「紅さんは、人を殺した経験はないですよね?」
「ありません」
「悪宇商会に所属する人間は全員、人殺しを経験済みなんですよ。だから、新たにお仲間になる紅さんにも、その条件をクリアしていただきたい。そういうことです」
「人殺しの経験が必要だっていうんですか?」
「はい」
「バカげてる!」
「いっといずいんぽーたんと」
隣にいる切彦が、両手でグラスを持ったまま言った。
「……それ、重要なことです。人を殺せない敵なんて、怖くないです」
それは、殺し屋として裏世界を生き抜いてきた者の言葉か。
切彦はまだ何か言いたげだったが、真九郎が狼狽しているのを見て口を閉じる。
切彦の言葉を引き継ぐようにして、ルーシーは話を続けた。
「人を殺した経験があれば、いざというとき、殺すか、殺さないか、二つの選択肢から選べる。行動の幅が広がります。でも、その経験がなければ、選択肢は自然と一つになってしまう。もしもそれが敵に知れたら、こいつはどうせ殺せやしないと、舐《な》められる」
「それは……」
「紅さんも、覚えがあるはずでは? 例えばヤクザと争った場合、人殺しの経験があるヤクザと、それがないヤクザでは、同じ対応をしましたか? 違うでしょう?」
人を殺せる者とそうでない者とでは、確実に違いがある。それは真九郎も知っている。目つき、呼吸、踏み込みの位置、力加減、タイミング、説明しきれないほど様々なものが違う。
「人を殺せる、というのは、一種の武器なのですよ。使いようによっては、それだけで、戦わずして場を収めることもできます」
正論だな、と真九郎は思った。
ルーシーが言っているのは、裏世界における正論。ためらうことなく人を殺せる。それは、裏世界では武器なのだ。効率よく仕事を遂行《すいこう》するためには、必要な武器。
真九郎の憧れる柔沢《じゅうざわ》|紅香《べにか》も、それを持っている。
「誤解して欲しくないのは、別に殺人を奨励《しょうれい》しているわけではない、ということです。誰も殺さないに越したことはありません。それは当然です。しかし、必要なときに、そうしなければならないときに、躊躇するようでは困る。我が社が欲しているのは、現場で、迷わず最善の策を実行できる者なのです」
「……要するに、こういうことですか。暗殺の仕事にかこつけて、ご親切にも、俺に人殺しの経験をさせてやろうと?」
「ま、そういうことです」
ルーシーは、あっさり肯定。
「これ、本当ならフランクが一人でやる仕事だったんですよ。でも、ちょっと面倒な連中に嗅《か》ぎつけられて、難易度がグッと上がっちゃったんですよね。だから、帰国したばかりで申し訳なかったんですが、切彦くんにも参加してもらうことになりました。しかしそうなると、今度は難易度がググッと下がってしまう。そこで、ちょうどいいから紅さんのテストも一緒にやっちゃおうかなと、まあそう考えたわけです」
個室の扉がノックされた。店員が現れ、テーブルの上にステーキセットが並べられる。熱した鉄板の上で焼ける、分厚い肉。ガラスの容器に盛られた、新鮮な野菜サラダ。焼きたてのパン。熱いコーヒー。普通なら食欲を刺激されるそれらも、今の真九郎にとっては胸焼けの元としか感じられない。
店員が去ると、フランクが手掴《てづか》みで肉にかぶりついた。一心不乱に肉を貧《むさば》るフランクを気にせず、ルーシーはコーヒーカップに軽く口をつける。
「これは通過儀礼ですよ、紅真九郎さん」
ルーシーの声は優しい。
迷う者の背中をそっと押すように、優しい。
彼女は笑顔で言葉を続けた。
「このテストをクリアし、我が社で働くようになれば、必ず、あなたは成長します。変われます。これは、あなたが裏世界で大成するための、その最初の一歩なんです」
真九郎にはわかる。これは正念場だ。
自分は今、試されている。どの程度の器《うつわ》なのかを、試されている。
悪宇商会にとって、これは新人の度胸試しのようなものなのだろう。
真九郎の憧れは、柔沢紅香。少しでも彼女に近づきたいなら、本当にそう望んでいるなら、ここで選ぶべき道はわかりきっている。こんなところで、つまずいている場合ではない。
真九郎の長い沈黙を納得と受け取ったのか、ルーシーはポケットから分厚い革《かわ》手帳を出し、パラパラとめくり始める。
「では、詳しい説明を……」
「できません」
「……えっ?」
ルーシーの笑みが凍《こお》りついたように見えたが、真九郎はかまわずに言った。
「俺には、できません」
崩月家に伝わるのは、人を壊し、殺すための技《わざ》。全てを承知で、真九郎はそれを学んだ。だから真九郎も、特に不殺の信念を持っているわけではない。しかし、それでも、ただ自分が経験を積むために、自分の利益のために、誰かを殺すなどできるわけがなかった。
「すいません」
真九郎は頭を下げる。
まさか断られるとは予想していなかったようで、ルーシーは手帳を持ったまま動かない。
ここまでか……。
甘かったな、と真九郎は思う。
大組織に属するなど、やはり自分には無理なのだ。
この程度の毒を飲めないようでは、その資格がない。
「このお話は、なかったことにしてください」
もう一度頭を下げ、テーブルを離れようとした真九郎の背後から、笑い声が聞こえた。
人を小馬鹿《こばか》にするような笑い声。
「くっだらねえ!」
振り向いた真九郎は、自分の目を疑う。
笑っているのはルーシーではない。フランクでもない。
下品なほど大口を開け、腹を抱えてゲラゲラ笑っているのは、間違いなく切彦だった。しかし、これが本当に、あのおとなしかった彼女なのか。彼女はこんな笑い方をする子なのか。
いや違う、と真九郎は直感で否定した。
これは彼女ではない。同じ姿をした、別の何かだ。
「久しぶりに帰国してみれば、くだらねえ仕事に、くだらねえ新人かよ!」
切彦は、跳《は》ねるような勢いで椅子から立ち上がる。軽い動作、荒い声、そして口元に浮かぶ笑みは、少女というよりも少年に近い。中性的ですらある。少年のような少女。あるいは少女のような少年か。
さっきまでの切彦と、外見上の差異《さい》はただ一点。
真九郎の視線が、切彦の右手に握られたステーキナイフを捉《とらえ》える。彼女は言っていた。刃物を扱うのは得意だが、気持ちが舞い上がるので普段は持ち歩かないと。
この変貌《へんぼう》がそれなのか。
「あんたさあ、ここまで来ておいて、つまんねえこと言うなよ」
大きく開いた瞳《ひとみ》にあるのは、好戦的な色。残虐《ざんぎゃく》な意思。破壊願望。
自分以外の全ての存在に宣戦布告するような、傲慢《ごうまん》な姿勢。
何もかもが裏返っている、と真九郎は感じた。さっきまでの、真九郎が好感を抱いていたあの少女の持っていた要素が全て、その真逆《まぎゃく》になっている。無害だったものが、刃物を加えることで化学変化を起こし、猛毒に成り果てたかのように。
右手のナイフを指先で回しながら、切彦は言う。
「せっかくこっちが手を差し伸べてるんだ。テストしてやるって言ってんだ。やればいいじゃん? 何が不満だ? え? 言ってみろよ?」
「………暗殺なんか、手伝えない」
「何で?」
「何でって、それは……」
「どうせあれだろ? 罪悪感とか正義感とか、そのへんだろ?」
テーブルの上に置かれた写真に目をやり、切彦はつまらなそうに続けた。
「名前は志具原理津、歳《とし》は十七、八ってところかな。何処の誰がこの子を殺したいのかは、知らねえよ。どんな一方的で、理不尽《りふじん》で、胸糞《むなくそ》悪い理由があるのか、それは知らねえよ。可哀相《かわいそう》だろうな。哀《あわ》れだろうな。酷《ひど》い話だな。でも……」 切彦は首だけで真九郎の方を向き、笑った。
「それ、どーでもいいんじゃねえの?」
「……どうでも、いい?」
「どーでもいいね。オレは、全然興味ねえよ」
テーブルの上のグラスに手を伸ばし、切彦は氷水を一息に飲み干す。
そして、中に残っていた氷を乱暴に噛み砕いた。
「……君は、誰だ?」
真九郎が思わずそう訊いてしまったのは、今の切彦が、さっきまでの彼女と同一人物とはどうしても信じられなかったから。
この変貌が、演技であるはずがない。こいつは誰なんだ。
切彦は答える。当然の答え。
「オレは、斬島切彦」
………そうか、〈斬島〉だ。
真九郎は思い出す。以前、夕乃から聞いた裏十三家の話。その中に〈斬島〉という名前があった。それは〈崩月〉と同じく、裏世界で知らぬ者はいない家系。
切彦は、そこの人間か。
なんという迂闊《うかつ》さ。なんという無警戒《むけいかい》。そんな大事なことに、今頃気づくなんて……。
「おい」
軽く手首を曲げ、切彦が空《から》のグラスを投げる。狙いは真九郎の顔。それを片手で払いのけた 真九郎は、グラスが床で割れる音を聞き、そして、自分の胸に信じられないものを見た。
「……え」
ナイフが刺さっている。切彦の右手に握られたステーキナイフが、自分の胸に刺さっている。ちょうど心臓の位置だ。深々と突き刺さった刃《やいば》は、真九郎の心臓を完全に貫いていた。
今の、ほんの一瞬の、隙に……!
見えなかった。切彦がナイフを突き出す動きは、全然見えなかった。ナイフを持っているのはわかっていたのに、こんな簡単に急所を刺されるなんて。
壮絶な痛みがこみ上げ、声も出ない真九郎に、切彦は冷ややかに言う。
「テストを受けないのは、あんたの勝手だよ。けどさ、暗殺の仕事を聞いておいて、ボクそんなことできませーん、じゃあサヨナラ! ……で、帰せるわけねえだろ?」
そうだ。真九郎は標的の顔を見て、名前も知ってしまった。志具原理津という少女が、悪宇商会によって殺されるということを知ってしまったのだ。その情報は、組織として外部に漏れては困るもの。
「さーて、何が見える?」
切彦は刃を捻《ひね》った。
まるで電気のスイッチでも切るように、気軽に。
「……かはっ……」
真九郎の心臓が、止まった。鼓動を止めた心臓から、何かがジワジワと広がっていく。体中を侵食していく。それは負の波動。胃も肺も腎臓《じんぞう》も肝臓《かんぞう》も脾臓《ひぞう》も、その他の臓器も次々と活動を止め、血液の流れも止まる。
「…はっ……はっ……」
目を見開き、脂汗《あぶらあせ》を流し、空気を求めて喘《あえ》ぐ真九郎の耳に、切彦は囁《ささや》いた。
「すぐそこまで来てるぞ。よく見ろ。よく聞け。よく味わえ。それが、死だ」
視界を犯していく、黒い染《し》み。鼓膜《こまく》に響く、ミシミシという不快な音。足元から溶けていくような脱力感。体中が乾いていく。自分という存在が薄くなっていく。紅真九郎が薄くなっていく。なにもわからなくなっていく。
死。これが死なのか。これが終わりなのか。ここで終わるのか。
「何が見える? 花畑か? 地獄か? それとも無か?」
真九郎は目を凝《こ》らす。心の目を凝らす。
暗かった。ただ暗かった。
意識がそれに吸いこまれる。呑《の》みこまれる。落ちていく。
消える。
「おーい、まだ聞こえるか? 謝るなら、許してやってもいいぜ。返事は瞬《まばた》きでしろ。YESなら瞬き二回。NOなら一回。どうする?」
真九郎は答えた。理性ではなく、本能が答えた。
瞬き二回。
切彦がナイフを引き抜く。
真九郎の心臓が、思い出したように鼓動を再開した。腰が抜け、真九郎はその場に膝をつく。大きく口を開き、肺一杯に空気を吸いこむと、徐々《じょじょ》に視界が明るくなり、意識が覚醒《かくせい》。他の内臓も活動を再開し、紅真九郎は、己の生存を確認した。
助かった。生きてる。俺は生きてる。
真九郎は胸に触れたが、何もなかった。傷口などなかった。
……今のは、幻覚?
そうじゃない。真九郎の想像を超える速度と角度で、刃が振るわれたのだ。
これが〈ギロチン〉と呼ばれる者の力か。
真九郎が顔を上げると、切彦はこちらを見て笑っていた。明らかな侮蔑《ぶべつ》をこめて、真九郎を笑っていた。
「土下座《どげざ》だ」
「……ど…げざ…?」
「そうだよ。オレに謝れよ。悪いことしたんだから、謝れよ。オレ、帰国したばっかだからさ、だるいし、眠いんだよ。このくだらねえ打ち合わせがなかったら、ゆっくりぐっすり寝てるとこなんだよ。あんたのせいで、早起きしてこんなとこに来てんだよ。だから土下座だ!」
切彦はブーツで、真九郎の頬を蹴り飛ばした。体に力が入らず、真九郎は床に転がる。
自分は今、この状況でどうするべきなのか。
頭で考えるより先に、本能が、生存の確率が高い方を選択していた。
真九郎は床に手をつき、無言で頭を下げる。
「黙ってんじゃねーよ! 詫びの言葉だ!」
ブーツで頭を踏まれ、真九郎の口から言葉が出た。
「……すいません…でした…」
ギャハ、と獣《けもの》のような笑い声が室内に響く。ギャハギャハ、と何度も響く。
真九郎の土下座を見て、フランクが笑っているのだ。
「そうそう。そういう殊勝《ししゅしょう》な態度を見せてくれたらさ、こっちも少しは譲歩《じょうほ》してやろうってもんだよ。ほら、顔を上げな」
切彦は左手で真九郎の顎を掴《つか》み、右手でナイフを揺らす。真九郎の視線は、そのナイフに釘付《くぎづ》けになっていた。何の変哲《へんてつ》もないステーキナイフが、どうしてこれほど恐ろしいのか。天井の照明が反射したナイフは、血を求める魔剣のように濡《ぬ》れ光って見える。
「あんたみたいなのは、目と耳を潰《つぶ》し、舌を切り取ってポイってのが普通なんだが……」
切彦は唇《くちびる》を舐め、続けた。
「んー、こういうのはどうだ? あんた、その写真の女を守れよ」
「……守る?」
「そう、あんたは守れ。こっちは攻める。守りきれたら、今回の件はチャラにしてやるよ。悪宇商会は、もうあんたには関わらない。うん、いいね。ちょっとゲームっぽいし、そうしよう。決めた」
守りきれたらチャラ?
ゲームっぽい?
当惑《とうわく》する真九郎をよそに、切彦は話を進める。
「こっちはオレとフランクの二人だが、そっちは何人連れてきてもいいぜ。どれだけいたってかまわない。そこはハンデさ。どうせ楽勝の仕事だし……」
「ちょっと切彦くん!」
強引な話の流れに強引な話の流れに堪《たま》りかねたのか、今まで黙っていたルーシーもさすがに口を挟んだ。
「そんな勝手なことが許されると……」
「Shut the fuck up!」
さっきまでの棒読みの英語ではない、流暢《りゅうちょう》なスラング。
切彦に一喝《いっかつ》されたルーシーは、おとなしく引き下がる。フランクも無言。
この場において、絶対者は〈ギロチン〉なのだ。
テーブルの上の顔写真を、切彦は床に放り投げた。
「それ持ってけ。今日は見逃してやるよ。次に会ったときに、楽しもう」
真九郎は、その場に立ち尽くす。
思考がまとまらない。
守る。志具原理津を。それで自分も助かる、のか?
「おい、ちんたらしてんじゃねーよ! いつまでそこにいるんだ!」
切彦の怒声に、真九郎の足がビクッと震えた。慌てて写真を拾い、一度も振り返ることなく、真九郎は個室を出る。足元がおぼつかない。店員や客と何度もぶつかりながら店内を通り抜け、通路を走り、タイミングよく開いていたエレベーターに乗り、一階のボタンを押す。心臓の鼓動が速い。八階で停止。客が乗る。七階で停止。また客が乗る。五階で停止。また客が乗る。非常階段を使うべきだったか、と後悔したくなるほどの時間をかけて一階に着き、エレベーターのドアが開くと、真九郎は一目散《いちもくさん》に飛び出した。外の通りに出ると、まだ陽《ひ》は高い。汗で濡れた肌《はだ》に、外気が酷く冷たく感じられる。
平和な街。平和な人々。早くここに紛れてしまおう。
辺《あた》りに目をやり、買い物客の流れに乗るようにして、真九郎は歩道を進んだ。
五分ほどは早足。それから歩調を戻し、何度か深呼吸する。
良かった、と思う。危うく殺されるところだったのに、どうにか助かった。
自分は幸運だ。
本当に良かった。
「違う!」
近くを歩いていたカップルが、顔に嫌悪感を浮かべて真九郎から遠ざかっていく。親子連れも、真九郎から距離を置いて歩き出した。真九郎は足を止める。横を見ると、すぐ側にブティックがあった。そのショーウインドウに、自分の姿を映す。そして睨《にら》む。
自分で自分を睨む。
真九郎は、腹が立っていた。本気で腹が立っていた。
殺しをテスト課題にしたルーシーにではない。
一瞬とはいえ死を見せた切彦にではない。真九郎を笑ったフランクにでもない。
何も抵抗しなかった、抵抗できなかった、自分自身にだ。
今こうして、焦《あせ》って逃げ帰ろうとしている自分自身にだ。
あの場で簡単に土下座をしてしまった、自分自身にだ。
今までも、土下座をしたことはある。不良を相手に、ヤクザを相手に、したことはある。何度もある。だがそれは、物事を穏便《おんびん》に済ませるため、仕方なくやっただけ。でも今回は違う。全然違う。真九郎は、斬島切彦に屈した。あの力に屈した。戦わずして敗北を認め、降伏《こうふく》した。なんという情けなさだろう。
何なんだよ、紅真九郎……。
こんな無様《ぶざま》な小心者が、こんな奴が、どうして柔沢紅香に近づける?
あのとき、真九郎の胸からナイフを抜いたとき、切彦は数秒間だけ何もしなかった。そのあとで笑った。あの数秒間が何だったのか、どうして笑ったのか、今ならわかる。ナイフを抜かれ、自由を取り戻した真九郎がどう反撃してくるのか、切彦は試していたのだ。ところが真九郎は、何もできなかった。ただ空気を求め、生きていることを喜ぶばかりで、何もできなかった。抵抗など考えもしなかった。だから切彦は、笑った。
自分など、所詮《しょせん》はこの程度の資質ということか。
この業界で大成しようなど、夢のまた夢。
柔沢紅香は、いつまでも殿上人《てんじょうびと》。永遠に届かない。
ショーウインドウの前から動かない真九郎は、不審者《ふしんしゃ》にでも見えたのだろう。中にいた店員が不愉快《ふゆかい》そうに近寄って来たので、真九郎はそこを離れる。
俺はこの程度の人間だ。でも、そんなの、前からわかっていたことじゃないか。
自己嫌悪も後悔も、全部後回しにしろ。時間のあるときにやればいい。大丈夫。紅真九郎は、嫌なことを忘却《ぼうきゃく》するのが苦手なのだ。いつまでも覚えている。
交差点で信号を待ちながら、真九郎は頭の中で事態を整理する。
優先して考えるべきは、志具原理津という少女が暗殺される件だ。
どうする。どうすればいい。
信号が青に変わり、真九郎は歩き出す。近くにいた幼い子供が、風船を持っていた。ふわふわと風に揺れる、赤い風船。何気なくそれに目をやった真九郎の脇《わき》を、誰かがすり抜ける。
黒いリボンが見えた。
まさか、と真九郎は慌てて振り向いたが、そこに斬島切彦の姿はない。立ち止まった真九郎を邪魔そうに避けながら、通行人が左右に流れていく。どれだけ見回しても、黒いリボンを付けた者などいなかった。そうしているうちに信号が変わり、車のクラクションに追いやられ、真九郎は交差点を渡り終える。
呼吸を整え、改めて周りを確認。いない。怪しい老はいない。自分を見ている者もいない。もちろん、切彦もいない。あの場の異様な雰囲気がまだ頭の中に残り、それがありもしないものを見せたのか。これは重症だ。
券売機で切符を購入して改札口を通り、ホームに上がって電車に乗る。念のため、警戒は解かなかった。神経を尖らせながら電車の中をやり過ごし、駅に到着すると、乗客が階段を下りるのを見届けてから、真九郎も階段を下りる。毎日利用している駅だ。周辺の地理なら完壁に頭に入っているし、いざとなれば駆け込める派出所の場所もわかる。見慣れた商店街を通り、周りに主婦の姿が目立ってきたところで、少しだけ心に余裕が生まれ、真九郎は自販機でタバコを一箱購入。それをポケットに入れて並木道を進むと、豊かな自然に囲まれたアパートが視界に入ってくる。門の側にある大木。その枝に黒ずくめの女性が腰かけているのを見つけ、真九郎はようやく肩から力を抜いた。
五月雨荘まで戻れば安全だ。悪宇商会も、斬島切彦も、ここには手出しできない。
「やあ、少年」
いつものように、のんびりと片手を上げる闇絵。
「随分《ずいぶん》と疲れた顔をしているな。まるで、殺し屋にでも襲《おそ》われたかのようだぞ」
的確すぎる闇絵の表現に、真九郎は苦笑で応《こた》える。
「いろいろありまして」
「例の、組織がどうとかいうやつか。で、どうだったんだ?」
「それは……」
ダメだった。何もかもダメだった。最後までダメだった。自分はダメだった。
黙りこむ真九郎を見て、闇絵はゆったりと言葉を続ける。
「気にすることはない。調子が悪いときは、誰にでもあるさ」
「そう、ですかね……」
「ちなみに、わたしは絶好調だよ。中国古来の陰陽五行説《おんみょうごぎょう》では、色と季節を対応させている。春が青、夏は赤、秋は白、冬は黒だ。今は冬。つまり、まさにわたしの季節が来たというわけだからな」
「はあ、なるほど」
「冬は特に、タバコが美味い」
「へえ……」
「タバコが美味い」
どうも催促《さいそく》されているようだったので、真九郎はタバコを出そうとポケットに手を入れる。すると、普段ならやってくるはずの黒猫のダビデは動かず、その代わりに、とても珍《めずら》しいことに、闇絵自身が動いた。枝から宙へと身を躍《おど》らせ、片手で帽子を押さえながら音もなく着地。
ダビデを肩に乗せ、闇絵は真九郎に近づく。
「いつもすまんね」
「あ、いえ……」
手を差し出してきた闇絵に、真九郎はタバコを渡した。闇絵は、箱を撫《な》でるようにして一本抜き取り、口に銜えてマッチで火をつける。
「ああ、やはり美味い」
優雅《ゆうが》に煙を吐き出し、闇絵は目を細めた。
よっぽど早く吸いたかったのかな……。
そう解釈し、部屋に戻ろうとした真九郎を、闇絵は呼び止める。
「少年、そこを動くな」
「えっ?」
「あとの掃除が面倒だ。ま、掃除係は君だし、無理にとは言わんがね」
「……何の話です?」
「少年、携帯電話を貸してくれ」
「はあ……」
わけがわからなかったが、真九郎は素直に従った。闇絵は、時計や電話などを一切持ち歩かない性格で、部屋にも電話がない。電話が必要なときは、いつも真九郎が貸していた。かつてアフリカまで電話をかけられた経験もあるので、真九郎は少し不安だったが、闇絵が電話をした相手は真九郎もよく知る人物。
山浦《やまうら》医院の、山浦医師。
「闇絵だ。急患が出た。五月雨荘まで来い」
それだけ言って、闇絵は電話を切った。
急患……?
怪訝《けげん》に思い、真九郎は尋ねる。
「誰か、怪我でもしたんですか?」
「君だ」
タバコを持つ闇絵の長い指が、真九郎の下腹部を指し示す。そこに目を向けた真九郎は、自分の足元に小さな水溜《た》まりが出来ていることに気づいた。まるで小便でも漏らしたかのように、ズボンも濡れている。しかしそれは、よく見ると水ではない。
赤い。人体にある中で、最も鮮烈な色。
……血?
何で、どうして、どこから……。
真九郎は下腹部に手をやり、服が切られていることを知る。鋭利《えいり》な刃物で裂かれたような、見事な切り口。布の内側にある真九郎の皮膚《ひふ》もまた、同じように切られていた。ぱっくりと開いた真っ赤な傷口から、ドクドクと流れ続ける血。
交差点で見たあの黒いリボン。あれは幻《まぼろし》ではなく、本当だったのか。
〈ギロチン〉斬島切彦。あいつがやったのか。
傷口を押さえた指先が、温かくてヌルッとした塊《かたまり》に触れ、それがはみ出してきた腸《ちょう》だとわかり、必死に止めようとしたが両手を使っても腸は流れるように出続け、急激に体温が下がり、視界が上の方から暗く染まり、両脚から力が抜け、アスファルトが目の前に迫ってくるのが見えた。
そのまま地面に激突したのかどうかは、よくわからなった。
その前に、真九郎の意識は途絶《とだ》えていたから。
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第四章 ウソつき
保健室の窓を開くと、校庭の喧騒《けんそう》が聞こえてきた。
今日の四時限目は、一年生と二年生が合同で行う体育。男子は校庭でサッカー、女子は体育館でバレーボールだ。学年対抗ということで、盛り上がっているようだった。真九郎《しんくろう》も体育は嫌いではないが、今日は休むしかない。
風の冷たさを感じて、真九郎は窓を閉じる。保健室にいるのは、真九郎だけだ。保健医は薬箱持参で校庭に行っており、ここを訪れる生徒も今のところなし。この静かな空間を一人で占有するのは、何だか贅沢《ぜいたく》のような気さえする。保健医からは寝ているように言われているが、眠気もないのに横になっているのは退屈。真九郎は保健室内をウロウロし、机の上に折り畳《たた》んだ新聞があったので手に取った。いくつか記事を読み、ああそういうことか、と納得する。体育の授業を休む際、真九郎は風邪《かぜ》を言い訳にした。もちろん仮病。教師がそれを疑わず、休みを認めた理由を、何となく察したのだ。風邪を引いた生徒を無理やり体育に参加させ、それが原因で死に至《いた》った事件の記事が新聞に載っている。全国で、同様の事件が多数報告されているという補足《ほそく》記事もあり。今は、体罰《たいばつ》一つで親が学校を訴える時代だ。教師も気を遣《つか》っているのだろう。もし生徒に死なれでもしたら裁判|沙汰《ざた》であり、学校側の損害も大きいというわけだ。
自分が死んでも、学校を訴える親はもういないけどな……。
少し自嘲《じちょう》気味に笑ってから、真九郎は軽くため息を吐《つ》く。
どうも思考が後ろ向きだ。
まあ無理もない。昨日は、とにかく酷《ひど》い一日だったのだ。悪夢のような一日だった。
いや、まだ過去形にしてはいけないか。事態は継続中。
終わらせる方法は、二つある。
立ち向かうか、逃げるかだ。
立ち向かえば、命を失う可能性がある。しかし、逃げれば確実にプライドを失うだろう。
プライド。そんなものが自分にあるのか。
あの場で無様《ぷざま》に土下座《どげざ》までした自分に、そんなものがあるのか。
甦《よみがえ》ってくる屈辱《くつじょく》を、真九郎は呑《の》みこむ。消化できずとも呑みこむ。そして考える。
答えはすでに、出ているのかもしれない。
暗殺の話を聞きながら、未《いま》だ何の行動も起こしていない自分。いつも通り学校に来ている自分。それが答えだ。自分は、このまま普段の生活を続け、ほとぼりが冷めるのを待とうとしている。事態から逃げようとしている。無意識のうちに、選択している。
悪宇《あくう》商会に立ち向かっても勝ち目はない。だから逃げる。それが賢明。それが最善。
……でも、本当にそれでいいのか?
紅《くれない》真九郎は、それでいいのか?
廊下から人が近づいてくる気配を感じたので、真九郎は新聞を机に戻し、ベッドの上に戻った。そして仕切りのカーテンを引く。隙間《すまま》から覗《のぞ》いてみると、保健室に入ってきたのは二人の女子生徒。どちらも白い体操服姿。
真九郎は慌《あわ》てて頭からシーツを被《かぶ》り、息を殺した。
二人とも二年生。片方は知らない顔だが、もう片方は、とてもよく知っている。
「ごめんね、崩月《ほうづき》さん。試合中なのに付き合わせちゃって……」
「気にしないでください。わたし、学級委員ですから」
バレーボールの試合で足を怪我《けが》したクラスメイトに、夕乃《ゆうの》が付き添ってきたらしい。保健医が不在なので、代わりに夕乃が手際《てぎわ》良く処置をしていた。
二人の意識がこちらに向かぬよう、真九郎はベッドの上で動かない。
今の自分を夕乃に見られたくはない。たまらない恥《はじ》だ。
治療は数分で済み、「崩月さんて、包帯巻くの上手いね。もう全然痛くないよ」「それは良かったです」という二人の会話が聞こえ、保健室の扉が開いた。遠ざかる足音。
それが完全に聞こえなくなるのを待ち、真九郎がホッとしたのも束《つか》の間、仕切りのカーテンが勢い良く開かれた。被っていたシーツも剥《は》ぎ取られる。
「やっぱりそこにいましたね、真九郎さん!」
両手を腰に当て、仁王立《におうだ》ちしているのは崩月夕乃。
真九郎はぎこちない笑みを返す。
「夕乃さん、行ったんじゃ……」
「今のは忍法『行ったふり』です」
「忍法?」
「女というものは、生まれながらに忍法や魔法が使えるんです」
自信満々にそう断言し、夕乃は真九郎を少し睨《にら》む。
「それはそうとして、真九郎さん」
「はい」
真九郎は、自然とベッドの上で正座をしていた。条件反射に近い。
夕乃は言葉を続けようと口を開いたが、そこで何かを思い立つ。
「……あ、そういえば、今日が初めてですよね」
「何が?」
「真九郎さんが、わたしの体操服姿を見るの」
「まあ、そうだけど……」
二人は学年が違うので、当たり前だ。
それでは、と夕乃は両手を真横に伸ばし、その場でクルリと一回転。
長い髪がふわりと舞い、僅《わず》かにめくれた体操服から、滑《なめ》らかな脇腹《わきばら》が見えた。
「どうでしょう?」
夕乃はニッコリ微笑《ほほえ》み、感想を求める。
美人は何を着ても得。その好例だな、と真九郎は思った。
「うん、似合ってるよ」
「ムラムラします?」
「……まあ、なかなかに」
「ギュッと抱き締めたいなあとか、思います?」
「……あー、多少は」
よしっ、と夕乃は小さくガッツポーズ。
「リサーチが済んだところで、さて真九郎さん」
夕乃は両手を腰に当て、真九郎の顔をじーっと見つめた。
「あなた、何か、やましいことがありますね?」
「えっ?」
「わたしからコンコン隠れようとするんですから、何かあるはずです」
「あ、まあ、それは……」
図星だ。夕乃は勘《かん》が鋭い。
言葉を濁《にご》す真九郎に、夕乃は顔を近づける。
「正直に言わないと、キスしてもらいますよ。正直に言えば、キスしてあげます。どっちにしますか?」
「………それ、どう違うの?」
「わかりません。ちょっと試してみましょうか?」
唇《くちびる》に人差し指を当て、妖《あや》しく微笑んでみせる夕乃。
なんかやばい。
真九郎は、早目に降参《こうさん》。
「実は仕事で、失敗して」
「失敗……?」
夕乃の視線が、真九郎の下腹部で留まった。
その顔から笑みが消える。
「誰にやられたんですか、それ?」
「えーと……」
真九郎はとぼけようとしたが、抵抗する間もなくベッドの上に押し倒され、夕乃の手で制服と下着をめくられた。真九郎の下腹部にあるのは、定規でも当てたかのごとく真一文字に切られた傷跡。昨日のことが夢ではないという、証拠だ。
「あの、夕乃さん、これは……」
「黙って」
夕乃の指先が、傷跡をなぞるようにして動く。傷の大きさに反して、チクチクした小さな痛みしか真九郎は感じない。
目を細めながら、夕乃は静かに評した。
「なかなか、面白《おもしろ》い傷ですね」
「……面白い?」
「これ、帰り道にやられたんじゃないですか?」
「あ、まあ……」
「自室に戻り、あーあ今日も疲れたな、と大きく伸びをした拍子《ひようし》に傷口がパカッと開き、血がドバッと膨き出して、内臓がドロドロ流れ出す。そういう切り方です。それでありながら、完全に傷が開く前なら治療しやすいように、一応の配慮《はいりょ》もなされている。それは、真九郎さんと自分の力量差を示すもの。つまり、警告の意味も含まれているわけです」
その説明を聞き、真九郎の疑問が一つ解ける。
昨日、真九郎は五月雨《さみだれ》荘の前で気を失い、目覚めたときにはもう、傷口は縫《ぬ》われ、出血も止まっていた。治療してくれた山浦《やまうら》医師が「派手《はで》な傷だが、なんか妙だな……」と、しきりに首を傾《かし》げていたが、まさか切り方にそんな意図が込められていたとは。
それを読み取る夕乃は、さすがというところ。
しかし、不可解である。
切彦はいろいろ言いながら、真九郎を襲《おそ》い、しかもあえて殺さなかったのか。それどころか、わざわざ警告を与えた。考えが、どうも読めない。
あの恐るべき刃《やいば》の使い手は、何を企《たくら》んでいるのか。
「真九郎さん、誰にやられたんです? 教えてください」
「何で?」
「わたし、ちょっと会ってみたいなあ、とか思いまして」
「……会ってどうするの?」
「そんな、心配しなくても大丈夫ですよ」
フフ、と微笑む夕乃。
真九郎はよく知っている。
崩月夕乃は、怒っているときでも微笑む人なのだ。
「ちゃんと手加減はします。わたし、得意なんですよ、半殺し」
「あの、夕乃さん……」
「うちの愛弟子《まなでし》にこんな舐《な》めた真似《まね》をされたら、放っておけないじゃないですか」
「いや、でも……」
夕乃を止めながらも、真九郎は思う。
そうか、その手があったか……。
切彦は言っていた。真九郎の方は何人連れて来てもいいと。ハンデだと。
それなら、夕乃の力を借りたっていいはずだ。
崩月夕乃と斬島《きりしま》|切彦《きりひこ》。戦鬼《せんき》と〈ギロチン〉。
両者が戦ったらどうなるか、真九郎は想像した。
すぐにやめた。
……ダメだ、そんなの。
自分は弱くて情けない男だけれど、絶対にしてはいけないことくらい、心得ている。
崩月夕乃は、真九郎にとって家族にも等しい人。姉も同然の女性。そんな彼女を、自分の都合で危険に巻き込んではいけない。自分の力で何とかしなければいけない。
「……夕乃さん。これは、俺の仕事だ」
仕事。口に出してから初めて気づく。やっと気づく。
切彦はゲームなどと言ったが、これは暗殺。
それを食い止めるのは、まさしく揉《も》め事処理屋である自分の仕事ではないか。
「俺が、自分の力で何とかするよ。だから……」
決意の言葉は、最後まで言えなかった。
いきなり、夕乃に抱き寄せられたのだ。
「偉《えら》い!」
夕乃は瞳《ひとみ》を潤《うる》ませ、真九郎の顔を自分の胸に埋めるようにして抱きしめる。柔らかい。あまりにも柔らかい感触。真九郎は離れようとしたが、無理だった。真九郎より細身でも、女性でも、彼女は師匠《ししょう》格。弟子の動きなど、簡単に封じてしまう。
「立派《りっぱ》になりましたね、真九郎さん! 殿方《とのがた》は、そうでなくてはいけません! 苦難に立ち向かう勇気! その背中に、女は惚れるのです!」
「……そ、そうなの?」
「そうなんです! でも、困ったことがあったら、本当に困ったことがあったら、ちゃんと言うんですよ? 悪い奴《やつ》は、わたしがコテンパンにやっつけてあげますからね?」
コテンパン……。
その表現に、真九郎は少し笑ってしまったが、ここで頷《うなず》かないと夕乃が納得してくれそうにないので、「もしものときは、よろしく」と伝える。
「夕乃さん、そろそろ授業に戻った方がいいんじゃ……」
「んー、もうちょっとだけ」
十秒ほど真九郎を強く強く抱きしめ、「続きはまたいつか……」と名残惜《なごりお》しそうに夕乃は手を離した。そして、自分の頭に白いハチマキを締め直す。
「では、わたしは授業に戻ることにします」
「頑張ってね、夕乃さん」
「何を言ってるんです? 真九郎さんも、一緒に来るんですよ」
えっ、と驚く真九郎の手を、夕乃はガッチリ掴《つか》んだ。
「その程度の怪我なら、体は動くはずです」
「はあ……」
その程度の怪我、か……。
斬島切彦が聞いたら、どんな顔をするだろう。
それを想像して苦笑する真九郎に、夕乃は言った。
「とはいえ、途中から授業に参加しては、真九郎さんも気まずいでしょう。ここは、わたしの応援をするというのはどうですか?」
「あー、でも……」
「お返事は?」
「……はい」
夕乃に手を引かれて保健室を出ながら、ああそうだった、と真九郎は再び苦笑。
すごく優しいのに、激しくスパルタ。
これが、崩月流の鍛《きた》え方なのだ。
体育館では、熱戦が繰り広げられていた。
複数のコートで、一年と二年、それぞれのチームが全力をぶつけ合っている。ネットの上を飛び交《か》う白球。その応酬《おうしゅう》に、生徒たちは一喜一憂《いっきいちゆう》だ。試合を応援する生徒の中には、男子もかなり混じっていた。女子の何割かは校庭でサッカーを応援しているようなので、管理が緩《ゆる》いというべきか、交流が活発というべきか。
「では、行ってきます!」
真九郎の肩を叩《たた》き、コートに向かって駆け出す夕乃。それを出迎えるクラスメイトたちが歓声を上げ、夕乃はすぐに試合に参加する。たちまち周りから、特に男子生徒から、やかましいほどの声援が沸き出した。相変わらずの人気だ。
ここに来る途中でも、夕乃はいろんな生徒から挨拶《あいさつ》されていた。真九郎に声をかける者は皆無《かいむ》だったが、それは、そもそも影が薄いので仕方がないだろう。
真九郎は、体育館の中を見回した。
夕乃の応援もしたいところだが、今は先に済ませるべき用がある。暗くて静かそうな位置にいるはず、と捜していると、体育館の隅《すみ》の方に発見。制服姿の女子生徒が、床に腰を下ろしていた。膝《ひざ》の上にはノートパンコン。確認するまでもなく、村上《むらかみ》|銀子《ぎんこ》だ。
銀子に近寄り、真九郎は声をかける。
「おまえ、今日は見学か?」
「そう」
「俺も見学なんだよ。昨日、凄《すご》い奴に会って、バッサリ切られてさ……」
「そう」
銀子は、パンコンの画面から顔も上げない、素っ気無い反応はいつものこと。しかし今日は、それにため息も加わっていた。キーを叩く手の動きも、少しリズムがおかしい。
真九郎がそれを指摘《してき》すると、銀子は一言。
「生理」
「……あ、なるほど」
真九郎は納得。
男の自分にはよくわからない感覚、あまり触れてはいけない話題だ。
小学生の頃、真九郎が興味本位で「銀子ちゃん、生理ってどんな気持ちなの?」と訊《き》くと、
銀子は「世界を呪《のろ》いたくなる気持ちよ」と真顔《まがお》で答えていたことを思い出す。
試合中のコートから、大きな歓声が上がった。真九郎がそちらを見ると、どうやら見事にスパイクを決めたらしい夕乃が、クラスメイトたちと手を叩き合っていた。応援してくれた男子生徒たちにも、片手を上げて微笑む夕乃。
小さく拍手《はくしゅ》する真九郎の側《そば》で、銀子がぼそりと言う。
「……少しも嫌味のないところが、嫌味よね」
「えっ?」
「何でもない。それで、用は?」
「ちょっと頼みがある」
真九郎は懐《ふところ》から写真を取り出し、銀子に渡した。
志具原《しぐはら》|理津《りつ》の写真だ。
「この子について、調べて欲しい。現住所と、他にも、わかる範囲で」
「急ぎ?」
「急ぐ」
わかった、と銀子は頷き、真九郎は体育館の壁に背を預けながら考える。
これからどうするべきか?
敵は〈ギロチン〉斬島切彦と、〈ビッグフット〉フランク・ブランカ。
夕乃には勇ましいことを言ったが、真九郎に何か勝算があるわけではなかった。
勝ち目がないなら、やはりここは退《ひ》くのが賢明なのだろう。
でも、ダメだ。それじゃあ、ダメだ。
このまま引き下がったら、ここで諦《あきら》めたら、自分はこの先、揉め事処理屋をやっていけないような気がする。そういえばあのときはダメだった。今回もあのときと同じ。だから諦めよう。引き下がろう。しょうがない。
そんな前例を、思考の逃げ道を、作りたくはない。
そんなものがあったら、自分は今よりもっとダメになる。もっともっとダメになる。
やれることをやってみようと思う。力を尽くしてみようと思う。
「……やるか」
まだ痺《しび》れの残る右手で拳《こぶし》を握り、真九郎は呟《つぶや》いた。
自分は三流の揉め事処理屋だ。
ならば、三流の意地を見せてやる。
志具原理津、十七歳。旧家の流れを汲む志具原家の一人娘。両親は、八年前に海外で事件に巻き込まれて死亡。その際に理津も重傷を負い、現在も病院暮らし。祖父母がいたが、二人も数年前に相次《あいつ》いで病死し、志具原家で残っているのは理津だけ。
学校の帰りに銀子から渡された資料は、簡単なものだった。それはつまり、志具原家は後ろ暗い部分がないという意味でもある。他人から暗い部分がないという意味でもある。他人から恨《うら》まれる要素もなさそうだが、悪宇商会が動いた以上、誰かが暗殺の依頼をしたのは確実。何か得られないかと思い、真九郎はルーシーに何度か電話をかけてみたが、いずれも不通だった。この件が片付くまでは静観する、ということか。
真九郎は、理津の顔写真を見る。少し冷たい感じはするが、なかなかの美人だ。生気が薄く思えるのは、長い病院生活のためだろう。
問題は、この子と会った後、どう事情を説明するかだな……。
台所で薬缶《やかん》が鳴った。真九郎は腰を上げ、火を止める。作りは古い五月雨荘だが、ガスや電気などはきちんとしていて、意外と火力も強い。お湯はすぐに沸く。真九郎は湯呑み茶碗《ぢゃわん》を二つ用意。ちゃぶ台の方を窺《うかが》うと、紫《むらさき》の小さな背中が見えた。両手で本を持ち、読書中だ。さっきからずっと、何かの本を読んでいる。ちょうどいいので、真九郎も資料に目を通していたわけだが、それにしても静かだった。
読書感想文の宿題でも出たのかな………。
そんなことを思いながら、真九郎がお茶を淹れていると、「……わからん」という紫の弱りきった声がした。
真九郎は湯呑み茶碗を持ち、ちゃぶ台に向かう。
「読めない漢字でもあるのか?」
「それもあるが、とにかく内容が難しい。何をやってるのか、よくわからん……」
紫は、疲れたようにちゃぶ台の上に突っ伏していた。
湯呑み茶碗を置き、どれどれ、と真九郎は本を覗きこむ。
少し読んでわかった。それは明らかに官能《かんのう》小説。
「……紫、その本どこから持ってきた?」
「環《たまき》が貸してくれた。読んでおくと、いろいろためになるらしい」
あのエロ女……。
隣の6号室に怒鳴り込もうか、真九郎は五秒ほど真剣に悩んだが、やめておいた。環が相手では、どんな注意も不毛だ。面白がって余計にエスカレートする可能性もある。
せめてもの幸いは、卑猥《ひわい》な挿絵《さしえ》がないことか。
何もわかってない紫は、開いたページを指差しながら無邪気に問う。
「この部分も、よくわからん。ここで女が言ってる『わたしの中にぶちまけて!』とは、男に何をぶちまけてほしいのだ?」
「何をって、それは…………愚痴《ぐち》だよ」
「ああ、なるほどな」
うんうん、と納得したように頷く紫。
「この男女はとても仲が良いし、そういう意味だったか。ありがとう、真九郎」
「どういたしまして」
「真九郎も、わたしの中にぶちまけて良いぞ」
「……気持ちだけもらっておく」
「遠慮《えんりょ》するな」
「いや、本当に、気持ちだけで」
「そうか……。ん、ここも教えてくれ。この『体位』とはどういう……」
「まあまあ、読書はそれくらいにして、ほら」
真九郎はさりげなく紫の手から本を抜き取り、代わりにミカンを握らせた。崩月家から貰《もら》ったミカンだ。数日前に届いたもので、環と闇絵《やみえ》に分けてもまだ余るほど大量にある。
「何だこれは?」
ちゃぶ台の上で、不思議そうにミカンを転がす紫。
九鳳院《くほういん》家では食べないのだろう。
真九郎はミカンをいくつかちゃぶ台の上に置き、ゆっくりと皮を剥《む》いてみせる。
紫は、まるで手品でも見るような顔で黙っていた。
「ほら剥けた。紫、あーんしろ」
「あーん」
大きく開いた紫の口に、真九郎は果肉《かにく》の一つを入れる。
紫の表情が、すぐに緩んだ。
「少し酸《す》っぱいが、甘いな!」
真九郎が残りのミカンも口に入れてやると、紫はそれを頬張《ほおば》りながら、自分もミカンを手に取る。皮剥きに挑戦。ぎこちない手つきだったが、真九郎がお茶を飲んでいる間に、どうにか剥き終わった。その出来栄《できば》えを満足げに見てから、紫は真九郎に差し出す。
「真九郎、あーんしろ」
「いや、俺は……」
「あーんしろ!」
唇に押しつけられそうな勢いだったので、真九郎は観念してミカンを口に入れた。崩月家で散々《さんざん》食べた身としては、当分の間は遠慮したかったところだが、まあ仕方がない。
真九郎がミカンを食べる様子を、紫はじっと見つめていた。
「どうだ? わたしの剥いたミカンは、美味《うま》いか?」
「ああ、まあ……」
「よし!」
紫は嬉《うれ》しそうにニンマリと笑い、新たなミカンを手に取る。そして、皮剥きに没頭《ぼっとう》し始めた。
真九郎はその隙にそっと腰を上げ、部屋の隅のダンボール箱を押入れに移動させることにする。中身は全部ミカンだ。紫には、ちゃぶ台の上のミカンだけで済ませてもらおう。
「……ん? 真九郎、何をしているのだ?」
「いや、別に……」
ついでに官能小説も押入れに放り込んでから襖《ふすま》を閉め、それを背にして真九郎は言った。「それよりも、おまえ、今日は宿題とかないのか?」
紫は「む」と小さく唸《うな》り、ポケットに手を入れる。用事があったのを思い出したらしい。
彼女がポケットから出したのは、一枚のプリント。
「これだ! 今日は、これを届けにきたのだ!」
保護者|宛《あ》てのプリントで、タイトルは『授業参観のお報《しら》せ』だった。
真九郎は頭を掻《か》く。
そうか、行く予定だったな……。
悪宇商会との件が強烈すぎたこともあり、真九郎はすっかり忘れていた。プリントによると、授業参観が行われるのは今度の日曜日。だが、それまでに悪宇商会との件が片付く保証などあるわけもない。全《すべ》ては斬島切彦の出方|次第《しだい》。真九郎は、それに合わせるしかないのだ。
「……なあ、紫」
「何だ?」
大きな瞳がこちらを見つめる。純粋な瞳。真九郎への信頼がこめられた瞳。
少し迷ったが、真九郎は正直に言うことにした。
「悪い。授業参観、行けそうにないんだ」
「……えっ?」
「急な仕事が入ってさ……」
悪宇商会とのトラブル。そして斬島切彦との対決。
この事態を乗り切ることが、今の真九郎にとっての最優先事項。
それを放置して、呑気《のんき》に小学校の授業参観になど行けるわけもない。
「ごめんな」
なるべく優しく伝わるよう真九郎は意識したが、紫は目を瞬《まばた》き、戸惑《とまど》うような口調で言う。
「……でも、でも真九郎は、約束したぞ? わたしと約束したぞ?」
「まあ、それはそうなんだけど……」
紫の表情が曇《くも》っていく。どんどん曇っていく。それがわかっても、真九郎にはどうしようもなかった。人命と学校行事では、どちらが重要か、比べるまでもない。
紫はミカンから手を放し、力をなくしたように俯《うつむ》くと、それきり黙ってしまった。
壁に掛けた時計の音。冷蔵庫の作動音。窓の外で、風にざわめく木々の葉。普段は気にもしないそれらが、やけに大きく聞こえる。紫は傭いたまま、いつまで待っても何も言わない。
気まずい沈黙。それを破ろうと真九郎は口を開き、すぐに閉じた。
紫は、泣いていたのだ。
顔を上げ、真九郎を見つめる大きな瞳には、涙が浮かんでいた。
声を震わせながら、紫は言う。
「……真九郎は、わたしと、約束した」
「それは……」
「約束した!」
「………」
「真九郎は、わたしと約束した!」
涙が頬を伝わり、ちゃぶ台の上に落ちる。
紫は口元を引き結び、小さな拳を握って、真九郎を睨みつけていた。
その強い瞳に気圧《けお》され、真九郎は返す言葉がない。
脳震盪《のうしんとう》でも起こしたかのように、頭の芯《しん》がグラグラと揺れる。何も考えられない。
「……ちゃんと…約束……したのに…」
鼻をすすり、涙を手の甲《こう》でゴシゴシとこすってから、紫は部屋を飛び出した。それに少し遅れて、真九郎はあとを追う。しかし、共同玄関から外に出たときにはもう、紫の姿は車の中に消えるところだった。五月雨荘の前で待機していた、騎場《きば》の運転する車。真九郎が声をかける間もなくドアは閉まり、車は静かに走り出す。
「紫!」
無駄と知りつつそう叫び、真九郎は奥歯を噛《か》み締めた。
いったい何なんだ?
何であんなに怒るんだ?
何であんなに泣くんだ?
真九郎には、わけがわからない。
約束を守れないのは、悪いと思う。紫が怒るのも無理はない。
でも、それにしたって、どうしてあんなに……。
混乱する思考を落ち着けようと、真九郎は深呼吸。しかし何の役にも立たず、車の去った方角を未練がましく眺《なが》めた。
「それが、僕が見た彼女の最後の姿だったのです」
「……変なモノローグ入れないでください、闇絵さん」
いつからそこにいたのか。
五月雨荘の門柱にもたれるようにして、闇絵が立っていた。
目元だけでふっと笑い、彼女は言う。
「子供の涙は良いな。まるで感情の物質化。とても、美しい」
「何が言いたいんです?」
「和解するなら早い方がいい、ということさ」
「和解って……」
「少年、愛情は食べ物と一緒だよ。温め直すのと、温め続けるのとでは、味が違う。一度でも冷えてしまえば、それはもう、前と同じものではない」
「いや、そんな大袈裟《おおげさ》な話じゃ……」
これはただのケンカ。
ちょっとした意見の食い違い。
些細《ささい》なトラブル。たいしたことじゃない。
真九郎は一度|俯《うつむ》き、何か反論しようとしたが、闇絵の姿はすでにそこにはなかった。どこにもいない。門柱の影にでも溶けてしまったのか。
ため息を吐き、真九郎は部屋に戻る。ちゃぶ台の上には、半分だけ皮が剥かれたミカンと、涙の跡。紫の感情が、まだ部屋に漂っているような気がした。
紫がどうしてあんなに怒ったのか。どうしてあんなに泣いたのか。
真九郎にはわからない。
……今度会ったときに、ちゃんと話をしよう。
あの子は賢《かしこ》い。きちんと話せば大丈夫。
真九郎は、半分だけ皮が剥かれたミカンを手に取り、齧《かじ》ってみた。
どういうわけか、甘さは感じなかった。
志具原理津の入院している病院は、都心から大分離れたところにある。
考え事をしながら電車を乗り継ぎ、真九郎が目的の駅に到着した頃には、すっかり日が暮れていた。本当は明日、学校を休んで行く予定だったが、部屋でじっとしていられなくなったのだ。紫の怒り。涙。その罪悪感だろうか。
駅から出て、真九郎は地図を確認。小さい町だ。病院は駅から遠いが、タクシーの来る気配もないので、諦めて徒歩で向かった。駅前を離れると、高い建物は見当たらなくなる。いくつか民家やコンビニがあるだけの、寂しい光景。一時間ほど歩いたところで、真九郎は小さな商店に寄り、ミネラルウォーターを購入。ついでに道を尋《たず》ねた。すぐ近くまで来ているとわかり、ミネラルウォーターを飲み干してから、街灯のない暗い道を進む。数分で、目的地が見えてきた。
西里《にしざと》総合病院。この辺《あた》りで最も背の高い建物だ。
真九郎は、試しに塀《へい》の外を一周。たっぷり三十分もかかった。広い敷地、その中心には七階建ての病棟。これほどの施設なら、もっと大々的に道案内の看板があっても良さそうなものだが、町の外れにひっそりと建っているのが少し不思議だ。
正面の門は、すでに閉じられている。建物の暗さからして、面会時間はもちろん、消灯時間も過ぎているのだろう。無理に入ろうとすれば、不審《ふしん》人物として警察に通報される可能性が高い。それならそれで、警察に事情を説明するという手もあるが、はたしてこちらの言葉を信じてくれるかどうか。
お巡《まわ》りさん、大変です。悪宇商会の刺客《しかく》が暗殺を企んでます。
わかった。じゃあ警備を手配しよう。
「……あるわけないな」
そんな話を真《ま》に受ける者が、いるわけがない。
もちろん警察にも、裏世界の事情に精通した者は少なからずいる。ただ、それはかなり上層部の人間であり、そこまで自分の言葉を届けるパイプを、真九郎は持っていないのだ。
例《たと》えば紅香《べにか》なら、警察でも何でも動かして、もっと上手《うま》く片付けるだろう。
それが一流と三流の差。
まだ駆け出しの三流である真九郎は、自分の体を動かすしかない。
真九郎は門から離れる。病院なら夜でも緊急用の入り口が開いているものだが、何故か見当たらなかったので、なるべく暗い場所を探した。大きな木で陰《かげ》になった一角を見つけ、そこから塀を登り、木の枝へ飛び移る。上から敷地内を見渡すと、各所に警備員らしき人影が見える。
とにかく、志具原理津に会わなければ始まらないのだ。事情は、詳《くわ》しく説明すればわかってくれると思う。わかってくれなかったときは、さてどうするか。
まるで泥棒《どろぼう》だな、と苦笑しつつ、真九郎は木の枝から飛び降り、足音を消して敷地内を走る。理津の病室は七〇二号室。正面の玄関ロビーはまずいであろうから、適当に入れそうな裏口を見つけることにした。
警備員らしき人影が通過するのを待ち、真九郎は壁際を移動。すると真九郎の目の前に、上からポトンと何かが落ちてきた。小さなスリッパだ。形からして右足用、だろうか。
何で上から……?
不思議に思い、真九郎は視線を上に。七階の病室の窓が一つ、開いていた。しかも、そのすぐ側には人影。目を凝《こ》らして見ると、どうやら女性らしい。その手はカーテンを掴み、足は窓枠を踏み、病室の窓から外へ身を乗り出そうとしている。
……飛び降りるつもりか!
病院で患者が自殺。特に珍《めずら》しい話ではない。
真九郎が慌てて病室の真下に移動した瞬間、彼女の足が窓枠を離れた。それが彼女の意志でないのは、その口から漏《も》れた甲高《かんだか》い悲鳴でわかる。悲鳴とともに落下してくるその体を、真九郎は両腕で受け止めた。歯を食いしぼり、限界まで膝を曲げて、落下の衝撃を殺す。共倒れにならずに済んだのは、衝撃が弱かったから。彼女の体は予想外に軽かったのだ。
「び、びっくりした、びっくりした……!」
胸に手を当て、目を瞬かせる彼女は、見たところ真九郎と同年代。そしてパジャマ姿。
「危ないじゃないか! いったい何を考えて……」
真九郎はそこで、言葉を止める。彼女の顔をよく見た。
それは写真と同じ顔。
「あー、まだクラクラする……」
額《ひたい》に手を当て、うえーっと気持ち悪そうに舌《した》を出しながら、彼女は言った。
「ところで、あんた誰さ?」
命を助けられたというのに、ぞんざいな口調。
……この子が、志具原理津?
当惑《とうわく》する真九郎を、さらなる事態が襲った。一斉《いっせい》に集まってくる人の気配。そして真九郎の顔や胸に浮かび上がる、無数の赤い光点。レーザーサイト。理津を抱きかかえた真九郎に、周囲から銃口が向けられたのだ。病院の警備員が、銃を携帯しているわけがない。
真九郎を包囲した男たちは、全員が黒服を着用していた。
まさか、と言葉を失う真九郎の前で包囲の一部が崩《くず》れ、そこから誰かが進み出る。鋭い目をした、東洋系の女性。長い三つ編みと、左腰に差した二本の刀《かたな》を、真九郎はよく覚えていた。深手を負わされた相手なら、忘れはしない。
九鳳院|近衛《このえ》隊の幹部、リン・チェンシン。紫の件で真九郎と争った人物だ。
蓮丈《れんじょう》に付き従っていた彼女が、なぜこんなところに?
鞘《さや》から刀を抜き放ち、リン・チェンシンは冷たく言う。
「賊《ぞく》め。一人とは、いい度胸《どきょう》だ」
真九郎には状況がわからない。
窓から志具原理津が落ちてきて、受け止めてみたら、九鳳院近衛隊が現れたのだ。
いったい何がどうなっているのか。
「二秒やる。遺言《ゆいごん》があるなら、言ってみろ」
二秒……。
言い訳、説明、冷静な話し合い、どれも二秒では難しい。
だから真九郎は言った。端的《たんてき》な言葉で、自分の目的を。
「あの……」
「何だ?」
「揉め事処理屋を、雇《やと》いませんか?」
ずっと昔、真九郎がまだ小学校になったばかりの頃。名前は覚えていないが、同じクラスの男の子が交通事故で入院したことがある。朝、担任の教師は出席の確認をしたあとで生徒たちにそれを報せ、「○○くんの怪我が早く治るように、みんなでお祈りをしてあげましょう」と言い、みんなで一分間ほど手を合わせて目を閉じることになった。真九郎は、一応それに従ったが、薄目を開けて周りの様子を観察し、みんなが真面目《まじめ》な顔でお祈りしているのを見て、なんだかバカみたいだなあ、と思った。祈ってどうにかなるくらいなら、世の中に不幸な人なんていない。僕たちがどんなにお祈りしようと、実際に頑張るのは入院している彼であり、治療するお医者さんであり、看病する家族じゃないか。神様なんかいるかどうかもわからないんだし、こんなのバカ。バカしい。当時の真九郎は、そう思った。お化けや幽霊《ゆうれい》なんかいないし、超能力も予言もデタラメで、UFOもウソ、と何でも否定するのがカッコイイと思い込んでいた年頃だ。入院した男の子と特に親しくもなかったという、気楽さもあっただろう。自分の考え方が大人びていると思った真九郎は、休み時間になると、さっそく銀子に話してみた。
頭を叩かれた。
「……痛いよ、銀子ちゃん」
「あんた、もしあたしが大きな怪我をしても、お祈りしてくれないわけ? どうせ無駄なんだから、やなこったって」
「それは……お祈りするけどさ」
「バカバカしいと思いながら?」
「ちゃんとやるよ」
「じゃあ、みんながお祈りするのをバカにしたらダメ。わかった?」
「よくわかんない」
銀子にまた頭を叩かれたが、当時の真九郎には、さっぱり理解できなかった。
多少は成長した今なら、まあわかる。真九郎自身は、神様に祈ることは八年前からやめているけれど、それでも、誰かが真剣に祈る姿をバカバカしいとは思わない。目には見えず、言葉でも説明できず、全ては心の中で行われているのに、何かに祈るという行為には、たしかに神聖さがあるような気がするからだ。
両手を握り合わせて目を閉じ、静かに祈り続ける志具原理津を見ながら、真九郎はそんなことを思った。
窓から朝日の差しこむ、広い病室。そこにあるのは大きなベッド、サイドテーブル、来客用のソファ、私物を入れる棚、そして壁際に液晶テレビ。専用の。バスルームもあるが、基本的には簡素な部屋だ。室内にいるのは三人。真九郎とリン・チェンシン、そしてベッドの上で体を起こした理津だけ。
理津は真九郎より一つ年上だが、中学生くらいに見えるほど小柄だった。長い病院生活によるものなのだろう。手足は細く、贅肉《ぜいにく》も筋肉もほとんどない。それでも弱々しさが感じられないのは、理津個人の気性のためか。
数分が経《た》ち、お祈りを終えた理津は、白く清潔な枕にもたれかかる。朝と就寝前にお祈りをするのが、彼女の日課であるらしい。病院では珍しい光景ではない。かつて真九郎も、病院に入院していたときは、周りの患者たちのそういう姿をよく見かけた。早く治りますように。もう少し生きられますように。みんな祈っていた。あのとき、真九郎は自分のために祈らなかった。代わりに祈ってくれたのは、銀子だ。
理津は小さく欠伸《あくび》を漏らし、そして真九郎の存在に気づいた。
「おはよう。あー、んー……」
眉間《みけん》に雛《しわ》を寄せ、理津は続ける。
「……紅真九郎くん、だっけ? じゃあ真九郎くんと呼ぶわ。そっちが年下だし、別にいいわよね?」
「ご自由に、どうぞ」
「なんか疲れてない?」
「気にしないでください」
真九郎に元気がないのは、徹夜をしたからだ。
隣にいるリン・チェンシンを少し睨んでみたが、彼女はそ知らぬ顔で直立不動。
昨晩、降伏《こうふく》した真九郎を待っていたのは、長く厳《きび》しい取り調べだった。自分は揉め事処理屋であること。窓から落ちてきた理津を受け止めただけで、彼女に危害を加えるつもりはないこと。真九郎はそれを必死に訴えたが、信じてもらえなかった。リン・チェンシンは真九郎のことを知っているし、身分の証明は必要ないだろう、という考えからして誤算。リン・チェンシンは、真九郎のことを覚えていなかったのだ。真九郎が紫との件を話すと、「貴様、どこからその情報を盗んだ!」と殺気を込めた刃を向けられる始末。困り果てた真九郎は脇腹の刀傷を見せ、するとリン・チェンシンは「……ああ、あのときの生意気な小僧《こぞう》か」とようやく納得。顔は忘れても、自分が与えた傷だけは正確に記憶しているらしい。
一応は刀を収めてくれたが、リン・チェンシンによる取り調べは続いた。
「それで、揉め事処理屋である貴様が、ここへ何しに来た?」
一番簡単なのは、真実を語ること。
しかし、頭の固そうなリン・チェンシンがそれでわかってくれるとは思えない。
「どうした? 答えられないのか?」
リン・チェンシンの目が細まり、その手が腰の刀に伸びるのを見て、真九郎は咄嵯《とっさ》にこう言った。志具原理津さんの命が狙《ねら》われているという情報を、信頼できる筋《すじ》から得た。そして、自分を護衛《ごえい》として雇ってもらえないかと思い、ここに来たのだ、と。
苦し紛《まぎ》れの言い訳だ。
当然のごとく、その「信頼できる筋」とは何なのか問われ、心の中で銀子に詫《わ》びながら、「村上|銀次《ぎんじ》の孫だよ」と、真九郎は答えた。銀子の祖父である村上銀次は、知る人ぞ知る腕利《うでき》きの情報屋。銀子が若くして情報屋としてやっていけるのも、祖父の地盤を引き継いだからこそ。数年前に海外で消息を絶っている村上銀次だが、その名は未だに裏世界で有効だ。リン・チェンシンがただの武術家なら通じない説明であるが、そこは九鳳院近衛隊の幹部。「妙な人脈があるようだな……」と驚きながらも、一応は納得した様子だった。
どうにか身の潔白《けっぱく》を証明した真九郎は、こちらからもリン・チェンシンに質問。
どうして九鳳院近衛隊がここにいる?
リン・チェンシンは答えた。
「全ては、蓮丈様のご配慮だ」
九鳳院家の情報|網《もう》は、裏世界にまで及ぶ。悪宇商会に関しても監視の目を光らせており、今回の件も、事前に察知《さっち》したのだという。志具原家は蓮丈の妻の遠縁《とおえん》。それでは、蓮丈としても軽く扱《あつか》えない。志具原家の最後の一人、理津の身を守るために、懐刀《ふところがたな》である幹部も付けて近衛隊を派遣《はけん》したというわけだ。
話を聞いて、真九郎はようやく理解する。
ルーシーの言っていた、「面倒《めんどう》な連中に嗅《か》ぎつけられた」という言葉の意味。
それは九鳳院近衛隊のことか。近衛隊は、銃火器で武装した戦闘集団。さらに今回は、幹部のリン・チェンシンまで派遣されている。フランクだけでは、少々荷が重い。そこで、ルーシーは斬島切彦を呼んだというわけか。ついでに、真九郎のテストまで済まそうと考えた。
あの日の屈辱が甦《よみがえ》り、真九郎は拳を握り締めるが、今優先すべきはそれではない。
今朝、こうして理津との面会を申し出たのは、仕事のためなのだ。
「あの、志具原さん、実は……」
「呼ぶなら『理津さん』にしてね。わたし、うちの苗字《みょうじ》あんまり好きじゃないから。で、その件ならいいわよ」
「えっ?」
「君、まだ若いのに、揉め事処理屋なんでしょ? リンさんから聞いたわ。わたしに、雇って欲しいって話」
「はあ、まあ……」
「オッケー」
理津は、右手の人差し指と親指で丸を作って即答。真九郎は呆気《あつけ》に取られたが、冗談で言っているわけではないらしい。
これが志具原理津か……。
窓から落ちた件は、彼女いわく「寝ほけてやっちゃっただけ」というし、かなり変わった子のようだ。周りが何も追及しないのも、理津の言動に慣れているからか。
隣にいるリン・チェンシンは、まったくの無表情だった。理津の決定に異議を唱《とな》えないのは、自分にその権限がないと思ってのことかもしれない。
「じゃあ、話は終わりね」
理津は口に手を当て、また欠伸を漏らす。もうちょっと寝るわよ、という意思表示。
昨晩はいろいろあったので、寝不足なのだろう。
「あとよろしくー」
白い枕に頭を沈め、布団を顎《あご》まで引き上げると、理津は犬でも追いやるように手を振る。真九郎は病室から退出し、少し遅れてリン・チェンシンも廊下に現れ、扉を閉めた。ひっそりと静まり返った廊下に、人影はなし。
徹夜疲れの重い頭を働かせ、真九郎は言う。
「あんたにいくつか質問があるんだけど、いいか?」
「わたしの名前はリン・チェンシン。所属は九鳳院近衛隊。階級は第八位。誕生日は五月三日。年齢は十九歳。スリーサイズは上から七十六、五十一、八十。趣味は時代劇鑑賞。好きな俳優は『隠密侍《おんみつざむらい》千人|斬《ざ》り』の佐東《さとう》|剛《ごう》だ。他に、何か質問は?」
「……意外と若いんだな」
「それは感想だ。質問は?」
「あ、じゃあ……近衛隊は何人くらい配備してるんだ?」
「貴様が知る必要はない」
そっちは秘密かよ。
彼女の場合、自分の個人情報の方が、仕事に関する情報より順位が下なのだろう。
「質問がないなら、こちらの話に移る」
邪魔になるので警察には通報していないこと。病院側とはすでに話がついており、職員たちは仕事に干渉《かんしょう》してこないこと。そして、他の患者たちには内密なので、近衛隊の大半は外で警備していることなどを、リン・チェンシンは真九郎に説明した。拳銃を携帯した黒服の男たちが集団で病院内を歩くのは、あまりにも非常識。当然の判断ではある。
「ここは病院だ。貴様も、目立つような行動はするなよ」
「気をつけるけど……。あの、あんたのそれは?」
リン・チェンシンの左腰には、いつも通り二本の刀。
しかし、彼女は少しも悪びれない。
「これはアクセサリーだ」
それで押し切るのか……。
彼女が相手では、文句を言える者もいないのだろう。
「理津様の決定なら、わたしは口を挟《はさ》まない。だが、貴様が少しでもこちらの足を引っ張るようなら、すぐに排除する。無能は害悪だ」
無能は害悪。耳の痛い言葉だ。
そう自覚しながらも、真九郎は一応反撃。
「蓮丈の方は、あんたが側に居なくていいのか?」
「近衛は人材の宝庫。貴様が心配するほど底は浅くない。それよりも、敵が〈ギロチン〉斬島切彦と、〈ビッグフット〉フランク・ブランカだという情報は、間違いないな?」
「間違いないよ」
本人たちから聞いたしね、とまでは説明できないが、ここでも村上銀次の名前を活用し、どうにか納得してもらう。他人を利用できるようになったら一人前だろうか。それとも、他人を利用しているうちは半人前だろうか。どちらにせよ、呪うべきは自分の非力さである。
「斬島切彦か……」
刀の柄《つか》を握り締め、二本の鞘をカチカチと当て鳴らすリン・チェンシン。表情は変わらないが、それは彼女なりの感情表現のように見えた。
「〈斬島〉で、しかも『切彦』を名乗るなら、紛れもなく本家の直系だろう。現代の切彦がどの程度の者か、会うのが楽しみだ」
「現代って?」
リン・チェンシンの話によると、〈斬島〉では、代々殺し屋稼業を継いだ者が『切彦』を名乗るらしい。たいていは男だが、稀《まれ》に女が名乗る場合もあるとか。
それで女の子なのに、名前は切彦か……。
納得する真九郎を、リン・チェンシンは怪訝《けげん》そうに見ていた。
「貴様、あの崩月|法泉《ほうせん》の弟子で、おまけに柔沢《じゅうざわ》紅香の子分でもあるくせに、意外と無知だな。まあ、貴様の力量では、この種の知識は毒になるのかもしれんが……」
「いや、俺、別に紅香さんの子分じゃ……」
「とにかく、こちらの邪魔はするなよ」
真九郎の言葉を遮《さえぎ》り、彼女は己《おのれ》の意見だけを押す。
「〈斬島〉は剣士の敵。剣を学ぶ全ての者にとっての、憎むべき敵だ。それを倒す機会を邪魔することは、許さん」
「……剣士の、敵?」
どういう意味なのか気になったが、リン・チェンシンは詳しくは語らなかった。それもまた、真九郎の力量では毒になる知識、ということだろうか。
「以上で話は終わりだ。最後に一つ、わたしに従ってもらう」
「何だ?」
「電話を渡せ」
携帯電話の没収《ぼっしゅう》。病院だから電磁波《でんじは》の悪影響を考慮して、ではなく、自由に外部と連絡できないようにするためだという。真九郎は、まったく信用されていないらしい。いきなり現れて、「雇ってくれ」と言い出す男を疑うのは当然。むしろ、簡単に雇ってしまった理津の判断の方が異常か。真九郎が携帯電話を渡そうとすると、「最後に一度だけかけてもいい」とリン・チェンシンから情けの言葉。
さて誰に電話するか。
昨日のことも気がかりなので、紫にかけておきたいところ。しかし腕時計を見ると、そろそろ小学校は授業開始の時間だ。電話に出るのは無理だろう。
真九郎は少し考え、番号を押す。
「何?」
電話でも反応が素っ気無い、村上銀子。
「あー、しばらく学校を休む」
「そう」
「あとで、ノート借りるかもしれない」
「わかった」
真九郎は勝手に名前を利用したことを謝ろうか迷ったが、リン・チェンシンの目もあり、今はまずい。軽く冗談でも言って、会話を終えるとしようか。何がいいだろう。
「えーと……」
「用があるなら、早くして」
「……銀子、あのさ」
「何?」
「愛してる」
「あたしもよ」
真っ向から切り返された。なんか悔《くや》しい。
真九郎が言葉に詰まっていると、電話の向こうで銀子の疲れたようなため息が一つ。
「……くだらないことしてないで、仕事に集中しなさい」
「ひょっとして、まだ生理なのか?」
電話を切られた。
仕方なく、真九郎はリン・チェンシンに携帯電話を渡す。返してもらえるのは、全てが終わってから。まあいい。銀子の言う通り、仕事に集中するとしよう。
この件を片付けなければ、自分は前に進めないのだ。
警備のためには、環境の把握《はあく》も重要。
真九郎は病院内やその周辺を、しばらく歩いてみることにした。銀子にもらった資料によると、この西里総合病院は、かなり裕福な層だけが利用できる施設らしい。旧家の流れを汲むという志具原家は、その裕福な層というわけだ。たしかに、いい場所である。周りは自然に囲まれ、空気は極《きわ》めて清浄。車の通りは少ないので、煩《わずら》わしい騒音もない。病気の療養地としては最適だろう。施設内も立派なものだ。ゴミ一つ落ちてない、ピカピカに磨《みが》かれた床。見事な大理石の壁。振動の少ないエレベーターとエスカレーター。自然光を多く取り入れるため、各所につけられた窓。玄関ロビーは七階まで吹き抜けの構造で、天窓には色鮮やかなステンドグラス。空調に微量のラベンダーや柑橘《かんきつ》系の香りが混ぜてあり、病院特有の薬品臭さも最小限。さらに、プールと小さな劇場まである。問題があるとすれば、美観や居住性を優先しているため、防犯に関しては貧弱なところか。監視カメラの類《たぐ》いが建物の外にないのも、見栄《みば》えが悪いから、という理由らしい。そのくせ、緊急時には全ての出入り口のシャッターが閉まり、外部からの侵入が不可能になるシステムはあるというのだから、真九郎もよくわからない。シェルターに近い発想だろうか。
リン・チェンシンの策は、それを利用したものだった。〈ギロチン〉と〈ビッグフット〉が来るのは、当然外から。そこで、近衛隊を主に病院の周辺に配備し、敵を発見した場合は即座にシャッターを閉鎖《へいさ》。全ての決着を屋外でつける。シャッターがあれば内部への侵入は困難になるし、窓も覆《おお》われるので、一般人に殺傷沙汰を目撃されずに済む。一石二鳥というわけだ。
真九郎としても、反対意見はない。患者のいる病院内で戦うなど愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》。外で全てを終わらせるのが最善だろう。
悪宇商会に理津の暗殺依頼をしたのは誰か、という点については、近衛隊の方で現在調査中とのこと。真九郎としては、こちらに専念するしかない。
真九郎は病室も少し見回ってみたが、大半は高齢で、寝たきりの患者たちだった。なかには幼稚園児くらいの子供もいたが、鼻と喉《のど》にチューブを通し、寝ている者ばかり。
だからなのか、病院内は静かだ。静か過ぎるくらい、静かだ。町の中心地から外れているとはいえ、奇妙なほどの静寂さ。正面の玄関ロビーに行ったところで、真九郎はその理由を知る。この病院には、外から訪れる者がほとんどいないのだ。玄関ロビーにある自動ドアは、職員が使う以外は滅多《めった》に開くこともない。
いかに裕福な層が相手とはいえ、あまりにも来訪者が少なすぎる。
入院専用の施設らしいのに、見舞い客が少ない。
エレベーター前に白衣の女性がいたので、真九郎は試しにそのことを訊いてみると「そうですねえ。ここ、あんまり人が来ませんけど、静かだし、患者さんにはその方がいいんじゃないですかねえ」という曖昧《あいまい》な返事。
そんなものだろうか。
静けさにも、種類がある。心が安らぐ静けさもあれば、ただ寂しい静けさもある。
ここにあるのは、寂しい静けさではないか。
明るく、清潔で、しかし人気《ひとけ》のない玄関ロビーを見ながら、真九郎はそう思った。
〈ギロチン〉と〈ビッグフット〉は、いつ来るか?
真九郎の考えでは、昼間だ。夜はないと思う。
二人のうち、主導権を握っているのは切彦であろうし、そしてあの切彦の性格からして、明るいうちに堂々と来るような気がするのだ。夜の闇《やみ》に紛れて、というのは考えにくかった。
真九郎の右腕は、痺れがまだ抜けきっておらず、角《つの》を使用するのはやや不安なところ。角を使用できても、果たしてあの斬島切彦に対抗できるか、それはわからない。
頼みの綱《つな》は、九鳳院近衛隊か。
他力本願《たりきほんがん》だな……。
「ねえちょっと、真九郎くん!」
物思いにふけっていた真九郎は、理津に耳を引っ張られた。
「君、わたしの話、ちゃんと聞いてる?」
「……あ、はい、聞いてます、一応」
真九郎が頷いて見せると、理津はようやく耳から手を放す。
施設内を一回りした真九郎は、二階にカフェテリアを発見した。テーブルと椅子《いす》は木製で、照明の角度にも配慮し、コーヒーカップも高そうな磁器《じき》を使っている、洒落《しやれ》た店だ。メニューによると、塩分や食品添加物を制限した料理しかないが、昨日の夜から何も食べてない真九郎としては、それでも十分。真九郎はさっそく遅めの朝食を取ろうとしたのだが、そこで理津に見つかってしまったのだ。
そして、
「君、どうせ暇《ひま》だろうから付き合いなさいよ」
と言われ、この現状となった。もう一時間ほど理津の話を聞いている。正確には愚痴というべきか。「薬で満腹にさせられるって、最悪よ。その気持ちわかる?」。「この前の祝日、有名な歌舞伎《かぶき》役者だか何だかを呼んで、くっだらない劇をやってさ。爺《じい》さん婆《ばあ》さんは大喜び。ここは老人ホームかっての!」。「このあたり自然ばっかで、もう見飽きたわ。自然、うざい」。「つーかさ、八年よ? わたし八年間も、ここにいるの。マジな話、これって監禁|凌辱《りょうじょく》罪で立件できないの?」等々。
理津は日ごろの欝憤《うっぷん》が溜《た》まっているようで、とにかく喋《しゃべ》り通しだった。
「ここ、わたしと同年代の人がいなくてさ。すっごく上か、すっごく下ばっかなのよ」
だから話し相手として真九郎はちょうどいい、ということらしい。
自分はこのために雇われたんじゃないだろうか、と真九郎は少し憂欝《ゆううつ》なり、一応尋ねてみることにした。あまりにもあっさりした対応は、こちらとしては助かる反面、釈然《しゃくぜん》としない部分も残るのだ。
「……今さら訊くのもなんですけど、どうして俺を雇ってくれたんですか?」
理津は、何だそんなこと、とでも言いたげな顔をし、何故《なぜ》かビシっとVサイン。
「理由は二つよ」
「二つ?」
「まず一つは、生きる努力はするべきだと思うから」
「生きる、努力……?」
「わたしは今、命を狙われてるわ。蓮丈様のご好意で、リンさんが来てくれてるけど、わたし自身としては何も行動してない。殺されるかもしれないのに、何もしないなんて、自殺と同じでしょ? だから、わたしは君を雇ったわけ」
「はあ、なるほど……」
「どうせなら、もっとイケメンが良かったけどね、ケビン・コスナーみたいな。でもまあ、高望みしてもしょうがないし、妥協《だきょう》するわ」
「……それはどうも」
真九郎としては、曖昧な笑みで応じるしかない。
「で、もう一つの理由ってのは何です?」
「それは、また今度ね」
問いをさらっと受け流し、理津は自分の愚痴を再開。
いつまで続くんだろ……。
真九郎は抵抗を諦め、もう四杯目になるコーヒーを飲んだ。理津が紅茶のスプーンを振りながら「いかに最近のバラエティ番組がたるんでるか」を力説していると、看護師が「理津さん、お昼の検査ですよ」と呼びにやって来た。わかったわかった、と不愉快《ふゆかい》そうに手を振って看護師を追いやり、理津は椅子から腰を上げる。看護師が苦笑しているのは、理津の態度がいつもこんなものだからだろう。
「んじゃ、またあとで話を聞いてね」
スリッパをペタペタと鳴らし、理津はカフェテリアを出て行った。八年間も入院しているようには見えない、軽い足取りだ。あれで体の何処《どこ》が悪いのか。さすがに正面きっては訊けないが、やや疑問に感じてしまう。
気を取り直すため、真九郎は店員を呼び、コーヒーをもう一杯注文。
カフェテリアの中を見回すと、真九郎以外の客は、老人が数人いるだけだった。湯呑み茶碗を握ったまま動かない者や、店の隅に置かれた液晶テレビをじっと見つめる者、そして黙々と箸《はし》を動かして食事をする者など。
なるほど、ここには理津の話し相手になりそうな患者はいない、と真九郎は思う。
いかに設備が整っていようと、理津がストレスを感じるのも無理はないか。
店員が来て、真九郎のカップに新しいコーヒーを入れた。真九郎はそれを半分ほど飲んでから、液晶テレビに目を向ける。気象予報士の女性が、天気予報を伝えていた。今週の天気は曇り続き。しかし日曜日は快晴らしい。
日曜日。それは、紫の授業参観がある日だ。
まだ怒ってるかな、あいつ……。
紫の泣き顔と、責めるような眼差《まなざ》しを思い出し、真九郎の口からため息が漏れる。
まさかあんなことで、紫があれほど怒るなんて思わなかった。泣くなんて、思わなかった。考えてみれば、紫を泣かせたのは、真九郎はこれが初めての経験なのだ。
たかが子供が泣いただけ。たかが子供が怒っただけ。
真九郎には、そう考えることができない。あの子のことに関しては、自分でも驚くほど、いい加減に扱うことができない。真面目にしか考えられないのだ。
子供は、感情表現にブレーキをかけないもの。楽しければ笑うし、悲しければ泣く。そこにウソはない。だから、子供が泣いているときは、本当に悲しいとき。泣くことで伝えたいものが、泣くことでしか伝えられないものが、自分の中にあるとき。
紫は、全身で怒りと悲しみを表していた。
それを受け止めるべきは真九郎。
それなのに、自分は中途半端にあの子と別れ、ここに来てしまったのだ。
一度思い出してしまうと、紫の泣き顔が頭から離れない。どうしても離れない。
この罪悪感を抱えたままで、〈ギロチン〉と〈ビッグフット〉を迎え撃つのか。
自分は死ぬかもしれないのに、あの子とケンカ別れしたままでは、悔《く》いが残る。
真九郎は壁の時計を見て、ここから小学校までの所要時間を計算。
今から出れば、間に合う。
少し、ここを離れたい。
真九郎は、リン・チェンシンにその許可を求めた。
「好きにしろ」
「………いいのか?」
拍子抜《ひょうしぬ》けする真九郎に対し、「貴様一人いなくとも、影響はない」とリン・チェンシンは冷たい返事。近衛隊からすれば、真九郎など余剰《よじょう》戦力ということか。
真九郎は、病室で検査中の理津にも許可をもらいに行った。扉のところで看護師に止められたが、「別にいいわよ」という理津の声が中から聞こえ、真九郎は扉を開ける。室内には、真九郎の背丈《せたけ》よりも大きな機械が何台も並んでいた。ベッドは厚いカーテンで囲まれ、そこに寝ているはずの理津の姿は見えない。機械から伸びた細いチューブは、全てベッドに集まっている。理津の体に繋がれているのだろう。
真九郎が用件を伝えると、ベッドの上から理津の声。
「何か大事な用があんの?」
「はい、ちょっと……」
「誰かと会う?」
「はい」
「それって、君の特別な人?」
特別。九鳳院紫は、紅真九郎にとって特別な人間なのか。
少なくとも、その他大勢ではない。
真九郎の心を容易に動かしてしまうあの子は、この世に一人しかいないのだ。
「はい、特別な奴です」
真九郎がそう答えると、理津は沈黙した。病室内に響く機械の作動音。皮膚《ひふ》の内側にまで染《し》みるような、じっと聞いていると内臓が痒《かゆ》くなるような、嫌な音だった。
「……ならいいわ」
しばらくして返ってきた理津の声は、やや乾いたもの。
少しだけ寂しそうな、悔しそうな、そんな声。
理津はそれ以上何も言わなかったので、真九郎は一礼し、病室を出た。
さあ急ごう。
あいつはきっと、俺を待っている。
何かを決めるとき、理性と本能、どちらが優先されるかは場合による。
真九郎は理性で、紫との約束より仕事を優先した。では、今こうしてここに来ている自分は、仕事を抜け出して紫に会いに来ている自分の判断は、理性と本能のどちらが強く働いたものだろう。駅から走り、小学校の前に到着した真九郎は、いつもの文房具屋でラムネを買って喉を潤《うるお》しながら、そんなことを思う。
もしかしたら、闇絵に言われたことを気にしているだけなのかもしれなかった。
和解するなら早い方がいい。遅くなれば、変わってしまう。
真九郎は、自分自身の変化を望みながらも、周りが変化するのは嫌なのだ。心地良いものは、ずっとそのままでいて欲しい。身勝手な願望。そのためなら、こうして仕事も抜け出す。プロ意識の薄弱さは、まさしく三流というわけだ。
真九郎がラムネの瓶《びん》をゴミ箱に捨て、その数分後に、校門は開いた。親たちに混じるのは恥《は》ずかしいので、いつもなら少し離れたところで待つのだが、今日は一番前に行く。校舎から流れ出てくる生徒たちの中に、紫をすぐに見つけた。クラスメイトの少女たちと話しながら、こちらにやってくる。紫は笑っている。機嫌が悪そうでもない。
それにホッとしつつ、真九郎は紫に声をかけた。
「よう!」
やたらと明るい声が出てしまったのは、罪悪感の裏返しか。
紫を含む少女たちが立ち止まり、こちらを見上げてきた。
無垢《むく》な視線。何だろうこの人、という表情。
それに照《て》れくさいものを感じながらも、真九郎は目的を果たすことにする。
「紫、話があるんだ。今日は一緒に帰ろう」
驚いたように、顔を見合わせる少女たち。
真九郎の口から紫の名前が出たのが、意外なのだろう。兄妹には見えないはずだ。
当の本人である紫は、無言だった。
その隣にいた髪の短い少女が、紫に訊く。
「知ってる人?」
「知らない」
紫はそう言った。何の感情も込められていない、無機質な声で。
呆然《ぼうぜん》とする真九郎を残し、紫たちは離れていく。校門を通り、クラスメイトの少女たちと手を振って別れ、一人で歩き出す紫。
まだ怒ってるみたいだな……。
真九郎は頭を掻き、紫のあとを追った。
やはり、ちゃんと説明しよう。ここですっきりしておかないと、仕事にも支障が出る。
真九郎はすぐに追いつき、隣を歩きながら紫に声をかけた。
「昨日の……」
紫がこっちを見る。その眼差しに、真九郎の頭から言い訳の言葉が消し飛んだ。
それは、どうでもいい人間を見る目だった。
相手をする価値のない人間を見る目だった。
紫は怒っていない。怒ってすらいない。その瞳にあるのは怒りではなく、ただ無関心。
さっき紫は言った。「知らない」と。真九郎のことを「知らない」と言った。
あれはウソではない本心。
紫にとって、真九郎はもう「知らない人」なのだ。
真九郎の足が自然と遅れ、紫から離れる。近づけない。
九鳳院紫は、もとから整った顔立ちをしている子だ。だから、彼女から人懐《ひとなつ》っこさが失《う》せると、途端《とたん》に冷徹さが浮かび上がる。それは九鳳院家の子女としての誇り。他者を寄せつけない気品。人間としての格が、真九郎とは違う。圧倒的に違う。
自分はこんな子に、今まで気安く接していたのか。
先へ進む紫を、真九郎はのろのろと追った。
「お、おい……」
声が掠《かす》れているのがわかる。酷い声だ。どうしてこんな声しか出ないのか。どうしてこんな言葉しか出ないのか。もっと優しく、もっと温かく、もっと心を込めたことを言いたいのに。口の中はカラカラだ。冷や汗《あせ》が出る。呼吸も苦しい。
紫の小さな背中。それを必死に追いながら、真九郎は考える。
わからない。どうして、こんなことになった。
たかが約束を守れないことくらいで、その程度のことで、何でこんな……。
自分の思考に、真九郎は愕然《がくぜん》とした。
…たかが、約束?
……その程度?
紅真九郎にとって、九鳳院紫との約束はそんなものなのか?
破ってもいい。守れなくてもしょうがない。
そんな軽いものなのか?
そんなわけがない。
約束とは、守らなければならないもの。長く生きていれば、どんなに努力しても、約束を守れないときもあるだろう。でも本当は、約束とは、必ず守るべきもの。
幼く、純粋な紫にとって約束は、きっと真九郎が思う以上に重い。とても重いものなのだ。
それを真九郎は、軽々しく扱った。彼女の気持ちを弄《もてあそ》んだも同然の罪。
真九郎がかける言葉を探しているうちに、紫は黒塗りの車に到着し、騎場の開けたドアの中に消える。閉じたドアに触れようとした真九郎を、騎場が体で遮った。
「お嬢様は、今日はもうお帰りになるそうです」
「騎場さん、お願いします! 紫と話をさせてください!」
「お引き取りを」
「お願いします!」
騎場は答えず、真九郎は思わずその肩に手をかけたが、ビクともしなかった。
まるで岩のごとき重量感。
「紅さん。どうか、お引き取りを」
静かに頭を下げる騎場の前で、真九郎は拳を握る。
車に目をやっても、スモークガラスの向こうにいるはずの紫の姿は見えない。
騎場を、力ずくで排除してやろうか……。
でも、それからどうする。
紫を車から無理やり引きずり出して、それで、何を話すというのか。
今の自分に何が言えるというのか。
謝ればいいのか。言い訳すればいいのか。何を言えばいいんだ、こんなときは。
わからない。全然わからない。
騎場が運転席に消え、車は静かに動き出した。走り去る車を見ながら、真九郎はようやく気づいた。今頃になって気づいた。
自分は、取り返しのつかない過《あやま》ちを犯してしまったのだ。
何も考えずにぼんやりしていようと、時間は流れる。
電車の揺れに身を任せていた真九郎は、腕時計を見て、あれから三時間以上も経過していることを知った。紫と別れてから三時間。紫に拒絶されてから三時間。頭はたいして働かずとも、こうして電車に乗り、仕事場へ向かっている自分。仕事への意欲だけは、まだあるということか。それさえなくしてしまったら、自分の存在意義は消えてしまう。
真九郎の向かい側の席に座っているのは、仲の良さそうな親子。幼稚園で楽しいことでもあったのか、幼い男の子が身振り手振りを交えて、母親に何かを話していた。母親が笑って頭を撫《な》でると、男の子も笑う。その男の子の気持ちが、真九郎にはよくわかった。嬉しいだろうなということが、よくわかった。真九郎にわからないのは、むしろ思春期の子供の気持ちだ。親の干渉をうっとうしく思い、反発するという気持ちが、真九郎にはわからない。真九郎が思春期を迎えるずっと前に、家族は消えてしまったのだ。だから、理解できるのは幼い子供の感情だけ。あの頃の真九郎は、たくさん見てほしかった。両親に、自分のことを見てほしかった。鉄棒をするから、見ててね。走るから、見ててね。でんぐりがえしができるようになったから、見ててね。誉められたいからではない。ただ、自分を見てほしかった。それだけで安心できたし、嬉しかった。こっちを見て、両親が笑ってくれる。それだけで繋がりが感じられて、自分は一人ぽっちじゃないと安心できた。だから学校の授業参観も、真九郎にはとても嬉しいものだったのだ。
しかし。
心の奥にこびりついた、嫌な記憶が甦る。
あれはまだ、真九郎が銀子の家に厄介《やっかい》になっていた頃。アメリカでテロ事件に遭遇《そうぐう》し、家族を亡くして帰ってきた真九郎が、周りから好奇の視線を浴びていた頃。久しぶりに教室に現れた真九郎に、みんなは言った。ねえ、どんな感じだったの? どんな爆発だったの? どんなふうに助かったの? 死体いっぱいあった? 死体って臭《くさ》い? どんな怪我したの? ねえねえ傷を見せてよ。話を聞かせてよ。
幼い子供にとって、外国で起きた事件など絵空事《えそらごと》。テレビドラマと同じ。真九郎はどんな質問をされても、何一つ答えなかった。どうでもよかった。全てを聞き流した。でも、そうできなかったときもある。授業参観の日だ。登校した真九郎はすぐ席に着き、いつものように黙って前だけを見ていた。教室の後ろに集まった親たちはどうでもよかったし、はしゃぎ回るクラスメイトたちも、やはりどうでもよかった。
最初に言ったのは誰だったのか、それはわからない。まだ授業が始まる前に、雑談していた親の一人が言ったのだ。小さい声だったが、真九郎には聞こえた。
例のテロで生き残ったのって、あの子?
親たちの視線が一斉に自分に集まってくるのを、真九郎は感じた。でも、前だけを見ていた。どうでもよかったから。その場に銀子がいれば、この時点で怒って何か言っていたかもしれない。でも当時の真九郎は、銀子とは違うクラス。彫像のように動かない真九郎を見て、その席を数人の男子が囲んだ。授業参観という状況が、彼らを興奮《こうふん》させていたのかもしれない。「おい、幽霊!」。男子の一人が、真九郎の机を蹴った。「幽霊」というのは、真九郎のあだ名。全てを無言で通す真九郎を、クラスメイトたちはそう呼んでいた。「おまえ、誰も来ねえの?」「黙ってねえで、なんか言えよ!」。真九郎の机を蹴り、髪を引っ張り、頭を叩き、それでも真九郎が無言でいると、クラスで一番大柄の男子が前に出てきた。真九郎を「幽霊」と呼び始めたのは彼で、何か嫌なことがあると、気晴らしに真九郎を殴る男子だ。「幽霊、いいもん持ってきてやったぞ」。男子は、一冊の週刊誌を開いてみせた。見開きのページには『禁断の写真、大公開!』という大きな文字。その下には、小さなモノクロ写真がいくつか載っていた。それはテロ事件当日の、現場の写真。瓦礫《がれき》に埋もれた被害者たちの写真。「うえっ、グローい!」「やめろよ、気色悪い!」「グチャグチャかよー」。顔をしかめるクラスメイトたちをよそに、男子は真九郎の机の上に週刊誌を広げた。写真の一つを指差す。「ほら、これ、おまえの親じやねえの?」。大きなコンクリートの瓦礫に押し潰《つぶ》され、僅かな隙間から、上半身の一部と左腕が見える写真。写真の横に解説はない。男子は、ただ適当に言っただけだろう。でも、真九郎にはわかった。当日の服装を覚えている。腕につけた時計を覚えている。写真に写っているのは、真九郎の母親だった。「おまえ、誰も来てないみたいだからさ、これでも持ってろよ。な?」。真九郎の肩を叩き、ヒヒヒと笑ったその男子の名前を、真九郎はもう覚えていない。でもそのとき自分がどうしたか、それはよく覚えている。立ち上がって、そいつに殴りかかったのだ。まともな拳の握り方など、まだ知らなかった。怪我の後遺症で、少し力《りき》むだけでも全身が痛んだ。それでもかまわずに、真九郎は殴った。相手の方が体が大きく、簡単に殴り返された。親たちが何か言っていた。「きっと事件のときに頭を打ったから、あんな凶暴に……」「施設に入れなきゃダメじゃないの?」「うちの子供に悪い影響が出たら、どうしてくれんのよ」。相手の男子が笑いながら真九郎を殴りつけ、他の男子たちもそれに加わり、女子たちが非難と歓声を浴びせる。真九郎は一方的にやられるだけだったが、それでも殴った。蹴った。手当たり次第に殴って蹴った。でも真九郎が本当に殴りたかったのは、本当に蹴りたかったのは、心無い言葉を発した男子ではなかった。周りで騒ぐクラスメイトたちでも、親たちでもなかった。どこを、どこを、どこを殴れば、どこを蹴れば、この世界は壊れるんだ。どうやったらこの世界は壊れるんだ。どうしたらいいんだ。どうして僕はこんな目に遭《あ》うんだ。誰が悪いんだ。僕はどうすればいいんだ。真九郎は、家族を失った自分がとても惨《みじ》めで、とても下等で、この世界に居場所のない、どうしようもない邪魔者に思えた。それを救ってくれたのは、崩月家の人たち。翌年、夕乃が授業参観に来てくれたとき、真九郎は泣きたくなるほど嬉しかった。心が安定した。生きられると思った。子供にとって、誰かが自分を見ていてくれるというのは、とても大切なことなのだ。必要なことなのだ。
紫はどうだろうか。|奥ノ院《おくのいん》に紫を閉じ込めていた蓮丈たちに、普通の家族としての愛情は期待できない。紫も、それはわかっている。口には出さずとも、彼女はわかっている。だから紫は、真九郎に頼んだのだ。学校に来てほしいと。自分を見てほしいと。家族の代わりに、真九郎に自分という存在を見ていてほしいと、紫は望んだ。
あの子のそんな気持ちを、自分は裏切ってしまったのか。
「何やってんだ、俺は……」
真九郎は、紫を奥ノ院から救い出した。それは彼女の幸せを望んでのこと。そのはずだった。それなのに、彼女を泣かせてしまってどうするのか。傷つけてしまってどうするのか。自分が許せない。悔やんでいるのに、ここから引き返して紫に謝りに行けない自分の意気地のなさが、許せない。
電車が駅に着く。決断を迫るように、ドアが開いた。数秒間の躊躇《ちゅうちょ》。閉まろうとするドアを手で押さえ、真九郎は電車を降りる。
自分は紫から逃げたのか。それとも仕事に立ち向かったのか。
どちらだろう。わからない。
真九郎の背後で、電車のドアが閉まる。
冷たい音だった。
それはまるで、真九郎の退路を絶つかのように。
「なんか真九郎くん、わたしより顔色悪くない?」
病院に戻ってきた真九郎を見るなり、理津はそう言って笑った。理由をあれこれと詮索《せんさく》されたが、全て生《なま》返事でやり過ごし、真九郎は一礼して病室を出る。それと入れ替わるようにして何台もの機械が運び込まれ、病室では理津の検査が始まった。
リン・チェンシンの姿が見えず、近くにいた黒服の男に尋ねると、九鳳院家に定時連絡中とのこと。近衛隊の幹部として、逐一《ちくいち》報告する義務があるらしい。自分のことも蓮丈に伝わっているのだろうか、と真九郎は少し思う。
状況は、まったく変わっていなかった。真九郎がここを離れている間、特に異常はなし。それだけは幸運だ。これでもしも、真九郎が不在の間に理津が殺されでもしたら、自己嫌悪も限界に達してしまう。
頭を冷やすために、真九郎は病院の外を見回ることにした。昨日の徹夜の影響が今ごろになって出てきたのか、頭と体が重い。やたらと重い。数時間前の記憶を振り返ろうとするだけで、酷い頭痛に襲われる。さっきのことを思い出すな。忘れろ。本能が、そう訴えているのかもしれない。
早々に見回りを終え、理津の病室を覗いてみると、ちょうど検査が終わったところだった。
大きな枕にもたれかかった理津が、真九郎を手招きする。
「ちょっとこっち来なさいよ」
「何です?」
また愚痴でも聞かされるのか。それならそれで、今は気が紛れていいか。
そう思いながら真九郎が側に行くと、理津は悪戯《いたずら》っぼく微笑んだ。
「君に、いいもの見せてあげる」
「いいもの?」
「なかなか見られないわよ。驚くことは保証する」
そう言って、理津の手がパジャマのボタンにかかる。
真九郎は慌てて視線を逸《そ》らそうとしたが、理津は「あー、違う違う」と笑った。
「わたし、露出《ろしゅつ》で興奮する人じゃないから。これはそういうのじゃないの」
「いや、でも……」
うろたえる真九郎を無視してボタンを外し、理津はパジャマの前を開く。
真九郎の呼吸が、一瞬だけ止まった。
「どう、すごいでしょ?」
理津の体にあるのは、無数の傷痕《あと》だった。普通の傷痕ではない。何度も何度も切って、何度も何度も何度も縫《ぬ》われたものだ。酷使《こくし》された肌《はだ》の色は濁《にご》り、いびつに歪《ゆが》んでさえいた。首から上が無傷であるだけに、その対比がより一層傷の凄惨《せいさん》さを際立《きわだ》たせている。
「みーんなビビるのよね、これを見ると」
理津は声を立てて笑う。するとそれに合わせて、傷痕がビクビクと波打った。
「これはね、八年前、どっかのクソ野郎が空港で起こした事件に巻きこまれたときの傷よ」
八年前に、空港で起きた事件。
まさか……。
驚く真九郎の顔を見て、理津は「正解」と頷いた。
「わたしもいたの、あそこに」
彼女は語る。今から八年前にアメリカで起きた、国際空港爆破事件。膨大《ぼうだい》な死傷者を出したその場所に、理津もいた。当時九歳だった彼女は、久しぶりの家族旅行を終えた帰りに、事件に巻き込まれた。そして両親を失い、自分だけが生き残ったのだ。
「君があの事件の生き残りの一人だってことは、すぐにわかったわ。珍しい名前だしね」
事件当時は、犠牲者《ぎせいしゃ》だけでなく、救出された者の名前も全て公表されていた。生還《せいかん》した子供は、そう多くない。日本人に限れば、さらに少数。その子供の中に「紅真九郎」という名前があったのを、理津は覚えていたのだ。当時の真九郎は事件の情報に触れることを拒《こば》み、新聞もテレビも一切見ていなかったが、もし目を通していたら、覚えていたかもしれない。自分と同じく生き残った日本人の子供の中に、「志具原理津」という少女の名前があったことを。
「君を雇ったもう一つの理由が、それよ。わたしも君も、あのとき、あそこにいた。そして今、わたしはここにいて、君は揉め事処理屋をやってる。面白い流れよね。だから雇ったの」
あの日、あの場所で、多くの人間の運命が狂った。
真九郎と理津は、その流れの中にいる。今でも。
「幸い、というべきでしょうね。うちは裕福だったから、わたしは何とか助かった。入れ替えたのよ、体中の臓器を。人工の物や、どこかの誰かの物とね。もうわたし自身の臓器は、ほとんど残ってないわ。プチ改造人間よ。あんまりいじり過ぎたから、一日に何度も手入れをしないとバランスが崩れる。手入れを怠《おこた》ると、内臓が反乱を起こして、生命活動も止まる」
だから理津は、ここに留まるしかなかった。
八年間も、ここで暮らすしかなかった。
「ねえ、真九郎くん」
理津はパジャマのボタンを閉じ、少し疲れたように息を吐く。
そして、立ちすくむ真九郎に言った。
「君の八年間は、幸せだった?」
目を開けると、暗闇《くらやみ》だった。真九郎は急いで光を探し、非常灯を見つけてホッとする。
そうだ。病院の玄関ロビーのソファを借り、自分は寝ていたのだ。今は何時だろう。妙に喉が渇く。体中が汗で濡《ぬ》れている。毛布をソファの上に置き、真九郎は洗面所を探して歩き出す。靴底がベタベタした。床に粘りついて、歩きにくい。それを気にしながら進んでいると、真九郎は何故か七階に上がっていた。理津の病室の前だ。扉に手をかけると、それは音もなく開く。広い病室の真ん中にあるのは、大きなベッド。サイドテーブルのランプが、微《かす》かな光を発していた。理津は起きている。その傍《かたわ》らで、誰かが丸椅子に座っている。真九郎は目を疑った。丸椅子に座っているのは、銀子だった。どうしてここに、と声に出そうとして、真九郎は気づく。ベッドに寝ているのは、理津ではない。銀子と話しているのは、理津ではない。それは自分だ。ベッドに寝ているのは、紅真九郎だ。真九郎は廊下に戻り、病室のプレートを見る。『紅真九郎』という文字。ああそうか、と真九郎は悟る。夢だ。今までのことは、全て夢だ。夢だったんだ。そうして真九郎の意識は、ベッドの上に帰還《きかん》する。傍らにいる銀子が、悲しげな目でこちらを見つめていた。それを何とか和《なご》ませようとして、真九郎は話をする。今見ていた夢の話をする。瓦礫の下から救出されたあと、自分はジュウザワベニカという女性と出会い、彼女の導きで、ホウヅキリュウというものを学んだ。修行は厳《きび》しかったけれど、その家の人たちはとても優しくて、自分はどうにか頑張れた。そして、モメゴトショリヤになった。すごいだろ、と真九郎が笑って見せると、すごいわね、と銀子も笑ってくれた。それから、クホウインという家の娘と出会って、仲良くなったんだ。すごく賢くて、いい子だった。でも、俺はその子を傷つけて、泣かせちゃったんだ。嫌われちゃったよ。仲直りは、できなかったよ。仲直り、したかったよ。俺はあの子と、仲直り、したかったよ。
喉に疾《たん》が絡《から》んで真九郎は咳《せ》きこみ、乱れた呼吸を何とか整えようとするが、咳《せき》は止まらない。真九郎の後頭部に手を添え、銀子が水を飲ませてくれた。本当は自分で飲みたいけれど、無理なのだ。瓦礫に押し潰された真九郎の手足は、まともには治らなかった。もう歩けない。自分一人では、ベッドから体を起こすこともできない。悲しくはなかった。八年間もこうしていれば、嫌でも慣れてしまう。真九郎はまだ話し足りなかったが、銀子は腕時計を見てから立ち上がった。高校の制服を着た銀子。立派に十六歳になった銀子。真九郎は、高校生になどなれなかった。ベッドの上で歳《とし》を重ね、十六歳になった。ずっとここにいる。ずっとここで寝ている。今までも、これからも。サイドテーブルのランプを消し、銀子がベッドから離れていく。その姿を、真九郎はしばらく目で追う。今日で最後だ。もう銀子は来ない。彼女には彼女の生活があり、いつまでも治ることがない自分の世話など見ている余裕はない。これでいい。また夢を見ればいい。夢の中なら、自由に動ける。夢の中の紅真九郎は、ホウヅキリュウを使い、モメゴトショリヤを仕事とし、困っている人を助けて、悪い奴をやっつけるのだ。また夢を見よう。
真九郎は、目を閉じた。
真九郎は、目を開けた。
最初に長い脚《あし》が見え、視線を上に向けていくと、目の細い、東洋系の女性の顔があった。
こちらを見下ろしている、リン・チェンシン。
……あ、れ?
真九郎は軽く頭を振り、周囲を見回しながら、現状を確認する。
ここは西里総合病院の玄関ロビー。真九郎が寝ているのは、そこに置かれたソファだった。壁の時計を見ると、もう昼を過ぎている。外の天気は曇り。少し肌寒い。
……俺は、何でここにいるんだ?
記憶を繋いでいく。ルーシーに誘われて、切彦に挑《いど》まれて、紫を傷つけて、泣かせて、嫌われて、そして昨日の夜、理津に八年前の事件の話をされた、と思う。
頭が重い。熱い。煮えた泥《どう》でも詰められたように、いろんなものがドロドロと混じり合っている。整理できない。視界も少し、歪んで見える。
「家でも恋しくなったか?」
小馬鹿《こばか》にするようなリン・チェンシンの声を聞き、真九郎は自分の目尻《めじり》に涙が浮かんでいることにやっと気づいた。自分は泣いていたのか。どうしてだろう。
「昨日も言ったが、無能は害悪。脆抜《ふぬ》けがいると士気が下がる。やる気がないなら、帰れ」
「……帰る?」
どこに帰るんだ?
真九郎にとっての帰る場所は、どこだ?
五月雨荘ではない。崩月家でもない。自分が帰る場所は、家族の待つ場所は、もうこの世界にはない。だから帰れない。自分はもう帰れない。永遠に帰れない。
涙を手で拭《ぬぐ》い、真九郎はリン・チェンシンを見上げる。
「なあ、これって現実……だよな?」
答えは鋭い一撃。
鞘《さや》で頬を殴り飛ばされ、真九郎はよろけながらもソファに手をつき、どうにか堪《こら》えた。
「痛みは?」
「……ある」
頬がジンジンと熱を持っている。
痛みがあるから現実か。夢と現実の差は、痛覚の有無《うむ》か。たったそれだけか。
項垂《うなだ》れる真九郎を見て呆《あき》れたのか、リン・チェンシンは無言で踵《きびす》を返した。そして廊下を歩き去る。真九郎はそのあとを追おうとしたが、足がもつれ、ソファに倒れこんだ。
嫌な夢を見た、と思う。詳しくは思い出せないが、その方がいいような気がする。
まだ痛む頬。これは現実なのだ、多分。
でも、これが現実だとわかっても、少しも嬉しくないのは何故だろう。
その日、真九郎は揉め事処理屋になって以来、最も無駄に時間を過ごした。
空気が綺麗《きれい》だ。気候は寒い。少し腹が減った。そんなどうでもいい思考を垂《た》れ流しているうちに日は暮れ、真九郎はカフェテリアで食事を済ませてから、人気のない玄関ロビーのソファに再び腰を下ろした。出歩く患者の姿は、ほとんど見えない。定期的な検査と投薬が患者を縛《しば》りつけ、行動する気力を奪っているのかもしれない、と真九郎は思う。
この西里総合病院がどういう場所かは、リン・チェンシンが教えてくれた。ここにいるのは、回復する見込みのない重症患者たちばかり。一種のホスピスのようなものなのだ。だからここに入る者はいても、ここから出て行く者はいない。患者は、たいてい数年以内に死去する。理津は八年前からここにいる古株《ふるかぶ》だ。
見舞い客が少ないのは、家の事情なのか、すでに別れを済ませたからなのか。テレビドラマのような家族愛など、現実にはないということなのか。
銀子の資料にテロ事件のことが明記されていなかった理由は、何となくわかる。彼女は気を遣ったのだろう。最近でこそ真九郎は平静を保てるようになったが、ほんの数年前までは、事件のことを耳にするだけで泣いていたのだ。
真九郎は、壁に掛けられた時計をぼんやりと見る。今日は、行かなかった。行くこともできたのに、真九郎は紫に会いに行かなかった。理由はハッキリしている。怖かったからだ。会いに行き、そこでまた紫に拒絶されたら、どうすればいいのか。それがたまらなく怖い。
だからどうした?
別にいいじゃないか。友達が一人減った。それだけのことだろ。
あんな子供のことを、いつまでも気にかけるな。
心の何処《どこ》かで、誰かがそう言う。真九郎の中にある最も冷たい部分が、そう言う。こんなのたいしたことじゃない。そんなことより仕事に専念しろと。
そう、たいしたことじゃない。そもそもが、真九郎と紫は違い過ぎるのだ。九鳳院紫は、九鳳院|財閥《ざいばつ》の一人娘で、これから先には輝かしい人生がある。でも紅真九郎の人生は、ほんの数年先すらも見通せない不確かなもの。今回の仕事で死に、それで終わるかもしれない。もし今回生き延びても、次の仕事で死ぬかもしれない。そんな自分が、紫とこれから先もずっと関《かか》わっていけるだろうか。今回のことは、いい機会だったと考えよう。これで距離を置いても、会えなくなっても、紫は消えてしまうわけじゃない。あの子が何か困ったとき、自分がそれを助けることもできるだろう。陰ながらでも、それはできる。別に、会えなくたっていい。話せなくたっていい。
どうしてそう思えないのだろう。
「……ちくしょう」
それは自分に対する罵倒《ばとう》。自分に対する失望。
どうしてこんなに紫のことが気にかかるのか、真九郎は薄々わかっている。
自分と紫との間に、絆《きずな》があると思っていたのだ。絆ができたと思っていたのだ。生まれながらに絆で結ばれた家族を、真九郎は全て失った。だから、誰かと絆を結べたと感じると、たまらなく嬉しくて、それにすがってしまう。みっともなく、すがってしまう。真九郎は、そうしないと生きていけない人間だ。
今更《いまさら》ながらに、真九郎は思い知る。
真九郎が、紫の相手をしていたのではない。紫が、真九郎の相手をしてくれていたのだ。
なんて情けなさ。これで十六歳。これで揉め事処理屋。お笑いじゃないか。
ああだから、これで良かったのだ、本当に。
真九郎は自分を笑ってやる。思い切り、バカにしてやる。
こんなつまらない男に、どうしようもない奴に、あの子がいつまでも付き合う必要はない。
それは害悪。リン・チェンシンが言ったように、無能である自分は、あの子にとって害悪だ。
だから、ああこれで良かった。これで良かったのだ、あの子のためには。
自分のためにはどうかって?
知るか、そんなこと!
眠れない夜は、それ自体が一種の悪夢だ。
疲れはあっても眠気はなく、真九郎はソファに身を横たえながら、暗い天井を見上げる。非常灯のみを残し、明かりの消された病院内。ナースセンターには看護師が、外には近衛隊がいるはずだが、そうとは信じられないほどの静けさだった。夜は玄関ロビーの暖房が消されているので、じっとしていると寒さが身に染みる。これなら歩き回っていた方がましかと思い、真九郎はソファから体を起こした。
微かな金属音が聞こえた。
真九郎は低い姿勢になり、床を這《は》うようにして壁際に移動。耳を澄《す》ませ、音のした方へと視線を向ける。非常灯の下にある扉が、妙にゆっくりと開いていくのが見えた。時刻は深夜だ。
職員や患者の出歩く時間ではないし、近衛隊の見回りは病院の外のみ。
では誰か?
真九郎は昼間と予想したが、切彦たちの夜襲《やしゆう》がないとは言い切れない。
警戒《けいかい》しつつ近くの非常ベルに手を伸ばした真九郎は、しかし、それを押さなかった。非常口から出てきたのは、見知った顔だったのだ。
パジャマ姿の志具原理津。
「理津さん、何でこんな時間に……」
理津は口の前に人差し指を立て、「しーっ」と静寂を要求。そしてキョロキョロと周囲を見回してから、小声で言う。
「静かにしてよ。見つかったら、怒られるじゃん」
「あの、だから何でこんな時間に……」
理津は再び「しっ!」と静寂を要求。
素直に口を閉じる真九郎に、理津は言った。
「君、わたしに雇われている身よね?」
「はあ、まあ」
「だったらさ……」
ニヤっと笑い、理津は命令。
「ちょっと付き合いなさい」
病院からタクシーで三十分ほどの距離にあるそこは、古い民家の建ち並ぶ、静かな住宅地だった。深夜ということもあり、酔っ払いや若者がたまに道を通る程度で、人影は少ない。こちらに注目する者がいないのは幸いか。万が一、警察官にでも見つかったら面倒である。本人の希望とはいえ、真九郎は病院から患者を連れ出してしまったのだから。
「うっわー、全然変わってない!」
真九郎の憂欝《ゆううつ》さとは対照的に、理津は大喜び。
隣を歩きながら、辺りの景色を懐《なつ》かしそうに眺めていた。
いい気なもんだ……。
真九郎は横を向き、そっとため息を吐《つ》く。
理津の希望に従い、真九郎は彼女をここに連れて来た。無論、楽に病院を抜け出せたわけではない。一部の職員しか知らないような非常用の通路を使い、近衛隊を数人殴り倒して出てきたのだ。リン・チェンシンに見つかったら、こう上手《うま》くはいかなかっただろう。しかし彼女は、九鳳院本家と連絡を取っている最中だった。定時連絡の時間を知る理津は、そのタイミングを見計らって行動を起こしたわけだ。この場合、主犯は理津で、真九郎はその共犯となるのだろうか。
「あー、あの店、潰れちゃったのね。不味《まず》かったし、当然かな。おっ、あそこも……」
「理津さん、これを」
上機嫌であちこち指差す理津の肩に、真九郎は自分の上着を羽織《はお》らせた。理津はパジャマの上に薄手のカーディガンを着ているが、冬の夜にそれでは厳しい。
理津は少し驚いたような顔をしてから、「……あ、寒いのね、今夜は」と頷く。
変な反応だった。
怪訝《けげん》に思う真九郎に、理津は言う。
「わたし、寒いとか暑いとかいう感覚、もうないのよ、かなり前から」
見かけがあまりに元気なので健康と錯覚《さっかく》してしまうが、彼女は定期的な投薬と検査でバランスを取り、どうにか生きているのだ。暑さや寒さを感じないというのは、その弊害《へいがい》なのだろう。それでもこうして出歩く体力があるのは、彼女の意志の強さが、肉体を支えているからなのかもしれない。
重病人である彼女を、夜に外出させるなど非常識。
それを理解しつつも真九郎が理津に協力したのは、おそらくは同情だ。
この辺りは、かつて理津が家族と暮らしていたところらしい。八年間を病院で過ごし、一度も家に帰ってないという理津。短い時間でもいいから「家に帰りたい」という彼女の希望を、真九郎は無視できなかったのだ。家に帰りたいというその気持ちは、真九郎にも、痛いほどわかる。
肩に羽織った真九郎の上着に指で触れ、理津は「ふーん」と感心するように唸《うな》った。
「君、なかなか優しいね……。わたしのワガママにも付き合ってくれたしさ。こんなに優しいのに、彼女には振られちゃうんだから、世の中は残酷《ざんこく》だわ」
「は?」
「昨日、メッチャ落ち込んで帰って来たの、彼女に振られたからじゃないの?」
「いや、別に彼女じゃないし、振られたというよりも、ケンカで……」
「仲直りできそう?」
多分、無理だろう。真九郎は今日、紫に会いに行かなかった。謝りに行かなかった。
真九郎は逃げた。問題から逃げた。困難から逃げた。
あの子から、逃げたのだ。
黙り込む真九郎の横顔を見て、理津はクスッと笑う。
「ああ、いい流れね……」
スキップでもするような足取りで、理津は先に進んだ。まったく病人らしくない。
しぼらく歩いたところで、理津は足を止める。彼女が見上げる先にあるのは、一軒の屋敷。それほど大きくはないが、伝統の重さが感じられる古めかしい造りだった。
「ここが、わたしんち」
門にある表札には、『志具原』の文字。理津はパジャマのポケットから鍵《かぎ》を出し、門の錠前《じょうまえ》を外す。
「開けて、真九郎くん」
真九郎が門を押し開くと、理津はその横を通って敷地内に入った。
雲間《くもま》に浮かぶ月が、広い庭と、二階建ての屋敷を照らし出す。明かりの消えた、無人の屋敷だ。彼女の両親も、祖父母も、すでに死去している。落ち葉を踏みしめながら、理津は屋敷の周りをゆっくりと一周し、庭に置かれた大きな石に腰を下ろした。
「真九郎くん、付き合ってくれてありがとね。わたし、どうしても来ておきたかったのよ、ここに。君のお陰でどうにかなったわ」
「あの、ひょっとして……」
真九郎が病院を訪れた初日。理津は窓から外に出ようとしていた。
あれは、一人でここに来るつもりだったのではないか。
真九郎がそれを口にすると、理津は素直に認めた。
「ほら、テレビや映画だと、わりかし簡単にやってるじゃない? だから、わたしでもいけるんじゃないかと思って、試してみたの」
あのとき、医者や看護師が特に追及してこなかったのは、今までにも理津が似たようなことをしていたのが理由らしい。
なんて無茶な、と呆れる真九郎を気にせず、理津は腰かけた庭石を手で叩いた。
「この石、よく覚えてるわ。頭を打ったことがあるのよ。まだ小さい頃だけど、ここを走り回ってね、雨上がりだったから足が滑って、それで転んだの。ゴロンゴロンゴチン、て感じで。わたしが泣くと、お父様がすぐに飛んできて抱きしめてくれたわ。お母様なんか顔が真っ青になって、『救急車を! お医者様を!』って、そりゃもう大騒ぎよ。わたしは、頭に大きなたんこぶが一つできただけで、五分後にはピンピンしてたけどね。お母様は信心深い人だったから、これは神様のお陰だって言って、それから朝と眠る前にお祈りする習慣を義務付けられたの。それが、今でも残ってるわけ」
その記憶を懐かしむように、理津は庭石を撫でる。
彼女の顔にあるのは、優しげな笑み。しかしそれは、不意に消える。
「……真九郎くん、あのとき何を考えてた?」
「あのとき?」
「あのとき、瓦礫の下で、暗い闇の中で、何を考えてた?」
それは、あの日のことか。
八年前の、あの日のことか。
表情を消したまま、理津は言葉を続ける。
「わたしはね、最初は、どうしてわたしがこんな目に遭うのって、そう考えた」
「俺も、同じです」
「それからね、祈った。助かりますようにって」
「同じです」
「他のみんなはどうでもいいから、わたしだけは助かりますようにって、祈ったのよ」
「………」
「わたし、自分で言うのもなんだけど、わりと頭は良かったからね。何かの爆発が起きて、空港が崩れたのはわかったし、自分がその瓦礫の下に埋もれていることもわかった。たくさんの人が埋もれているのもわかった。とても全員は助からないだろうってこともね。わたし、死ぬのは嫌だったのよ。死ぬのは怖かった。たまらなく怖かった。本当に怖かった。絶対に、絶対に、絶対に、死にたくなかった。だからもう必死になって、神様に祈ったわ。ああ神様。他のみんなは死んでもいいですから、わたしだけは助かりますようにって……」
無言を通す真九郎の隣で、理津は自嘲気味に微笑んだ。
真九郎はよく覚えている。あのとき、自分が祈ったことは何か。望んだことは何か。
それは、みんなにもう一度会うこと。僕は、お父さんと、お母さんと、お姉ちゃんと、銀子ちゃんに、会いたいです。もう一度会いたいです。それが真九郎の願い。でもそれは、ほとんど叶《かな》わなかった。
あのとき、瓦礫の下に埋もれた多くの人たちが、祈ったはずだ。
自分の無事を、家族の無事を、恋人の無事を、友人の無事を。
神様は、それをどういう基準で拾い上げたのだろう。
「わたしは、どうにか助かったわ。神様ば、わたしの願いを叶えてくれたの。祈りが届いたの。体中が酷く痛かったけれど、もう嬉しくてね。病院のベッドの上で、わたし、こう思ったのよ。ああ、わたしは特別な人間なんだって。神様に愛されてるんだって。ありがとう神様!」
両手を大きく広げ、理津は笑った。乾いた声で、笑った。
その響きは、静かな庭に染《し》みこむようにして消えていく。
そして理津の顔からまた表情が消える。
「それでね、少しは心に余裕が戻ってきてから、そこでようやく、わたしは思い出した」
お父様とお母様は、無事なのかな?
ちゃんと助かったのかな?
きっと助かったよね。同じ病院にいるのかな。
周りで飛び交《か》うのは英語ばかりで、理津には意味がわからなかったが、大使館から派遣《はけん》されてきたらしい日本人の職員が、理津に教えてくれた。親切にも教えてくれた。理津の両親は助からなかったことを。二人が、理津を庇《かば》うようにして瓦礫に潰されていたことを。
「あのとき、お父様とお母様は、わたしを助けることを考えてくれたのよ。あの暗闇の中で、わたしのことを考えてくれた。わたしの無事を祈ってくれた。そして体を張って、命をかけて、わたしを助けてくれた」
理津は屋敷を見上げる。
今は無人の冷たい屋敷。かつて彼女が家族と過ごした、温かい屋敷。
「ほら、よく言うじゃない? 人間は、追い詰められると本性を表すって。極限状況になると、普段は隠れてる、その人の本性が見えるって。だから、つまり、そういうことよ……」
理津の顔が歪む。
悲しみと怒りと後悔が入り混じり、彼女の顔はただ歪む。
「お父様とお母様は、命がけで愛を示してくれた。でもわたしは、二人の娘であるわたしは、自分のことしか考えなかった。それが、わたしの本性。志具原理津は、そういう人間だった」
足元にある自分の影を、理津は踏みつけた。憎しみを込めるようにして。
「わたしだって、お父様とお母様を愛していたわ。本当に、愛していたのよ。でもそれは、そんなのは、表面的で、まやかしで、ウソで、わたしはただの身勝手な人間だった。最低の人間だった」
自分は幼いから仕方がない。子供だから仕方がない。
そう開き直ることもできただろうに、思考を止めることもできただろうに、彼女はそうしなかった。否応《いやおう》なしに己の本性を見せつけられた彼女は、自分という人間に絶望したのか。
真九郎は、無意識のうちに手をこすり合わせていた。何故か寒気がしたのだ。辺りの闇が次第に濃くなり、庭に降り積もった落ち葉を、夜風が小さく巻き上げる。
その冷たい風を浴びながら、理津は平然と話を続けた。
「わたしは泣いて、泣いて、泣いて、それから怒ったわ、犯人に。みんなそいつのせいだから。みんなそいつのせいにしたかったから。でもそいつは、何処の誰かもわからない」
理津は、様々な人間に依頼して犯人を調べてもらったという。彼女と同じようなことをした者は、大勢いるだろう。犠牲者の遺族たちは、みんな知りたかったはずだ。誰が犯人なのか。どういう目的でやったのか。真九郎も、銀子に頼んで調べてもらったことがある。
しかし、それはわからなかった。
事件発生直後には、複数のテログループが声明を発表し、何人もの犯人が捕まり、裁判の末に処罰《しょばつ》された。だが、主犯は捕まっていない。全てを計画し、指揮したという人物だけは、未だに捕まっていない。名前も年齢も国籍も性別も不明の首謀者《しゅぼうしゃ》。世界|屈指《くっし》の賞金首でありながら、写真一枚すらもない人物。あの柔沢紅香でも、そいつを捕まえることはできない。この世界には、それほどの悪党がいる。
まるで、この世界は悪の方が強いみたいではないか。
そう指摘したのは、九鳳院紫。
彼女の考えは正しい。今の真九郎はそう思う。
この世界はきっと、悪の方が強くできているのだ。
「犯人を恨《うら》もうにも見つからなくて、警察もマスコミも次々と諦めていって、それで、わたしは病院のベッドの上で、毎日毎日、体に薬を流しこまれながら、思ったの。ああこれって罰《ばつ》なんだなって。この体は、自分のことしか考えなかった愚《おろ》かなわたしへの罰。罰を受けるべきなのは、犯人だけじゃなかったわけ……」
傷痕を確かめるように、理津はパジャマの上から自分の体に触れる。
「真九郎くん、本当にありがとね、ここに連れて来てくれて」
「あ、いや、別に……」
「わたし、あの病院から出られないのよ。そうなってるの」
「……出られない?」
「病院と契約してあるの。志具原理津を外に出さないようにって。契約したのは、うちのお祖父《じい》様よ」
「なんで、そんな……」
「汚らわしいってさ」
唖然《あぜん》とする真九郎を見て微かに笑い、理津は語る。
何十回目かの手術を終えた理津のもとに、祖父母は見舞いにやって来た。そのときの二人の顔を、理津はよく覚えている。二人は理津を見て、何箇所も切られて縫われた彼女を見て、いくつもチューブを繋がれた彼女を見て、絶えず嘔吐《おうと》を繰り返す彼女を見て、隠しようもない嫌悪感を顔に浮かべたのだ。理津が手を伸ばすと、祖母は咄嵯に身を引き、しかし周囲の目があることに気づいたのか、慌てて愛想《あいそ》笑いを浮かべると、理津の手を握った。ただし、ハンカチ越しにだ。これではもう子供は産めない。婿《むこ》は取れない。嫁にも出せない。ならば理津は施設で養生させ、いずれ親戚《しんせき》筋から養子を迎えるとしよう。祖父はそう言った。それが古き家のやり方か。志具原家のやり方か。
「もとから冷たい人だったけど、さすがに参ったわよ。わたしをあそこの病院に入れるときも、ここなら屋敷から近いし、いつでも見舞いに来れる……とか言っときながら、ついに一度も来やしなかったしね」
真九郎は思う。西里総合病院の、緊急時に閉まるシャッター。それは、もしかしたら防犯対策としてだけではなく、患者の逃走を防ぐ意味もあるのではないかと。周りに民家が少なく、道路に車が滅多に通らないという地理的条件も、患者が逃げにくいようにするためか。あの静か過ぎる病院は、そういう場所なのか。それともこれは、真九郎の考えすぎだろうか。
言葉を失う真九郎を見ながら、理津は晴れ晴れとした口調で言う。
「とにかくこれで、もう思い残すことはなくなったわ」
「えっ?」
「わたし、もうすぐ死ぬから」
「そんなことは……」
真九郎が否定しようとすると、「ああ、誤解しないで」と理津は笑った。
「別に、君やリンさんを信用してないわけじゃないのよ。今回の件とは、全然関係ないの。わたしの体、もうそんなに長くはもたないのよね。医者はまだまだ大丈夫とか言ってるけど、こんだけいじりまくった体、八年間生きただけでも奇跡みたいなもんよ。自分の体だし、限界は自分でわかる。わたしはもう、長くない」
「いや、でも……」
「そろそろ帰りましょう。リンさん、怒ってるだろうしね」
理津は会話を強引に打ち切り、腰を上げた。
そして最後にもう一度だけ屋敷を見て、目を閉じ、胸の前で手を握り合わせる。
彼女は祈る。神に祈る。
その姿を見ながら、真九郎は少し不思議に思った。
理津は、もうすぐ自分は死ぬという。でも今の彼女からは、そのことへの恐怖が窺えない。幼い頃は心底《しんそこ》恐れたそれを、八年の月日で克服《こくふく》した、ということか。もう覚悟を決めてしまっている、ということか。
理津は、いったい何を神に祈っているのだろう。
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第五章 だから彼女は死ぬことにした
その日は、朝から曇《くも》り空だった。
太陽はろくに顔を見せず、辺《あた》りに漂うのは濃い霧《きり》。ずっと窓の外を眺《なが》めていると、時間の感覚が狂いそうになる。ぼやけた頭を少しでも覚ますため、真九郎《しんくろう》は洗面所で顔を洗うことにした。凍《こご》えそうなほど冷たい水を、顔にぶつける。やけくそのように何度もぶつける。少しだけさっぱりしたが、鏡に映った自分の顔に、真九郎は苦笑を漏《も》らした。まるで、砂漠で遭難《そうなん》した旅行者のような顔だ。目に力がない。これでボロを身にまとい、公園で寝転がれば、若いホームレスと間違われるかもしれない。
食欲は皆無《かいむ》だったが、空腹でいてはさらに力をなくすので、真九郎はカフェテリアへ。しかし、店に一歩入ったところで足を止めた。天気の悪さが影響してか、患者の姿はなし。客は一人だ。真ん中のテーブルに、リン・チェンシンが座っている。電話中。おそらく、周辺を警備する部下たちと連絡を取り合っているのだろう。
真九郎としては、今は顔を合わせたくない相手だ。
早々に立ち去ろうとした真九郎の背に、リン・チェンシンの声。
「紅《くれない》、話がある。座れ」
電話を持ちながらも、その鋭い視線は真九郎を捉《とら》えている。真九郎は少し迷い、近くのテーブルに着いた。リン・チェンシンは、かなり機嫌が悪そうだ。当たり前だろう。
理津《りつ》は今、集中治療室にいる。昨晩、彼女は倒れたのだ。それは病院に戻ってきた直後のこと。怒りの形相《ぎょうそう》を浮かべたリン・チェンシンが現れ、真九郎が弁解の言葉を口にしようとしたとき、理津は嘔吐《おうと》した。体中の水分を全《すべ》て廃棄《はいき》するかのように吐き続け、彼女は気を失ったのだ。すぐに病室で治療を受けるも回復せず、集中治療室へ移送。未《いま》だに意識は戻らない。
ある程度は予期していたらしく、病院側の対応は淡々《たんたん》としていたが、真九郎は責任を感じざるを得なかった。理津の命は、危ういバランスの上に成り立っている。それを、自分が崩《くず》してしまったのかもしれないと思う。夜間の無理な外出。そして、かつて住んでいた屋敷を見たことが、何らかの悪影響を及ぼした可能性もあるのだ。
リン・チェンシンが自分を呼び止めたのは、昨日の件で説教でもするつもりだろう。
真九郎は、カフェテリアの隅《すみ》に置かれた液晶テレビを観《み》た。くだらないワイドショーが流れている。新作映画、グルメスポット、有名女優の不倫《ふりん》、繁華街《はんかがい》で暴れた薬物中毒者。どれも、今の真九郎には興味のない話題。無関係の話題。それを瞳《ひとみ》に映しながら、真九郎の頭が僅《わず》かに働いた。
切彦《きりひこ》たちは来る。確実に来る。しかし、あまりにも馬鹿《ばか》げた話だと思う。
理津の命は、もう長くはない。それは理津本人も言っていること。病院側の対応からもわかること。このまま放っておいても、彼女はいずれ死ぬだろう。
それなのに、彼女の命が狙《ねら》われているのだ。
悪宇《あくう》商会に殺しを依頼した人物は、理津の状態を知らないのか。
それとも、それを知りながら依頼したのか。
彼女が自然に死ぬのを待てない。早く殺す必要がある。そういうことなのか。
今回の件は、何かおかしい。納得がいかない。
真九郎が気づくようなことだ。リン・チェンシンも、とっくに同じ点に考えが及んでいるはずだが、そのことをどう思っているのか。答えは聞くまでもない、という気もする。蓮丈《れんじょう》の命令だから理津を守る。リン・チェンシンは、そう割り切っているのだろう。一流のプロとはそういうものだ。
電話を終えたリン・チェンシンは、それを懐《ふところ》へ戻し、店員にコーヒーを二つ注文。
そして、刃《やいば》のように細い目で真九郎を見据《みす》えた。
「部下からの定時連絡によると、周辺に異常なし。今なら貴様と話すくらいの余裕はある」
やはり説教。
反論の余地がない真九郎は、おとなしく叱責《しつせき》を受けることにする。しかし、何故《なぜ》かリン・チェンシンは無言になり、真九郎の顔を苦々しそうに一分ほど見つめてから、「……やめだ」と息を吐いた。
「今の貴様を見ていると、怒鳴る気も失《う》せる」
問題児を抱えた教師みたいな表情だな、と真九郎は思う。
今の自分がどうしようもない状態なのは、真九郎にもわかっていること。
一言で表すなら絶不調。あるいは最悪。
常時、まとわりつくような倦怠感《けんたいかん》がある。
悪宇商会に関《かか》わってから、何かがおかしくなってしまったのだ。もっとよく考えるべきだった。悪宇商会の誘いは、考えに考えてから、返事を決めるべきだった。甘かった。あまりにも甘かった。その迂澗《うかつ》さ、思慮《しりょ》のなさが、紫《むらさき》をも傷つけた。そして彼女は、自分から去って行った。真九郎は、いろんなことを間違ってしまったのだ。
店員がコーヒーを二つ持って現れ、テーブルに置いていく。リン・チェンシンはカップを手に持ち、香りを楽しむように顔の前で小さく揺らした。
「……わからんな。貴様、あのときの覇気《はき》はどこにいった?」
「あのとき?」
「蓮丈様の前で啖呵《たんか》を切ったときだ。あのときの貴様には、わたしを圧倒するほどの覇気があった。だが今の貴様からは、その欠片《かけら》も感じられない」
「あれは……」
あのときは、一人じゃなかったから。
あの子が側《そば》にいたから。自分の側に、いてくれたから。
黙り込む真九郎を見ながらコーヒーを一口飲み、リン・チェンシンは言う。
「貴様がなぜ不調なのか、それは訊《き》かない。察するところ、どうせ恋煩《こいわずら》いだろ」
「は?」
「ベタ惚《ぼ》れしてる女に振られ、いつまでも未練タラタラという顔だ」
「……理津さんも似たようなこと言ってたけど、それ、完壁《かんぺき》に誤解だよ」
「仕事を抜け出して会いに行った相手は、女じゃないのか?」
「女………………か、まあ、うん」
「詳《くわ》しい経緯《いきさつ》は知らん。知りたくもない。だがこれだけは言っておく。この世で取り返しがつかないのは、命くらいのものだ。それ以外は、たいてい何とかなる。取り返しはつく。やり直せる。諦《あきら》めず、逃げなければ、どうにでもなる」
そう言って、リン・チェンシンは再びコーヒーを飲んだ。
……ひょっとして、慰《なぐさ》められているのだろうか。
苦笑しながらも、真九郎は考える。
諦めること。逃げること。
それは、真九郎が得意とするものだ。今までにも、たくさんのことを諦めた。たくさんのことから逃げた。九鳳院《くほういん》紫も、その一つで終えるのか。それでいいのか。
カップを両手で持ち、真九郎はコーヒーに映った自分の顔を見る。
これは、臆病者《おくびょう》の顔か。勇気ある者の顔か。
それとも、卑怯《ひきょう》者の顔か。
リン・チェンシンは店員を呼びつけ、コーヒーのお代わりを注文。そして腕時計で時間を確認。そろそろ無駄話は終わり、ということ。
「貴様、ここの屋上には、もう行ったか?」
「いや……」
「行ってみろ。なかなか景色がいい」
おまけに風も冷たそうだな、と真九郎は思う。
まあ、それもいい。堅物《かたぶつ》の彼女が、ここまで気を遣ってくれるのだ。
いつまでも、しょぼくれてる場合ではない。
コーヒーを飲み干し、真九郎は椅子《いす》から腰を上げた。
「少し、頭を冷やしてくるよ」
「……そうか」
紫のことは取り返しがつくのかどうか、わからない。
でも今は、とにかくこの仕事を終えよう。
紅真九郎の、ささやかなブライドにかけて、やり遂《と》げよう。
全ては、それからだ。
真九郎は屋上に行く前に、理津のところへ寄ることにした。彼女の容態を知っておこうと思ったのだ。もしも意識が戻っているなら、少し話したいこともある。緩《ゆる》やかに動くエスカレーターに乗り、真九郎は七階へ。窓の外を見ると、太陽が少し顔を出し始めていた。天気が良くなれば、気分も上向きになるだろうか。
七階に着いたところで、真九郎は自分の間違いに気づく。やはり頭がぼやけているらしい。
理津は集中治療室に移されており、病室にはいないのだ。集中治療室は何処《どこ》だったか、と記憶を探り、エスカレーターで引き返そうとした真九郎は、そこで足を止めた。辺りが静かだ。いつも静かな病院だが、それにしても静か過ぎる。エスカレーターの作動音以外、物音一つしない。リン・チェンシンに入った定時連絡で、異常がないことはすでに確認されている。病院周辺の警備は機能している。しかし、何か変だった。胸の奥がざわつく、嫌な感覚。
念のため、真九郎はナースセンターを覗《のぞ》いてみる。
「すいません、あの……」
中で、白衣の女性たちが倒れていた。床に四人、壁際に一人。全て死体だ。どれも手足が奇妙に折れ曲がり、巨大な鈍器《どんき》で殴られたように頭が陥没《かんぼつ》している。辺りに散った小さな肉片を踏みながら、真九郎は死体の一つに近寄った。心は平静。呼吸も正常。真九郎は死体を恐れない。幼い頃に、この世で最も惨《むご》いもの、自分の家族の腐乱《ふらん》死体を間近で見ているのだ。だから、それを見てしまった真九郎にとって、他の死体などそれ以下でしかない。
真九郎は死体の前で軽く手を合わせてから、指で触れる。まだ温かかった。
間違いなく敵に侵入されたのだ。それも、つい数分前。
でも、この警備の中をどうやって?
早くリン・チェンシンに報《しらせ》せないと……。
「しぐはらりつ、どこだ?」
静まり返っていた空間に、濁《にご》った声が響いた。
ナースセンターの外にいるのは、天井に届きそうなほどの巨体。
〈ビッグフット〉フランク・ブランカ。
「そんな……」
この巨体に、こんなに接近されるまで気づかなかったのか。
自分の知覚は、そこまで鈍《にぶ》ってしまったのか。
呆然《ぼうぜん》とする真九郎に、フランクは繰り返す。
「しぐはらりつ、どこだっ!」
まるで獣《けもの》の雄叫《おたけ》び。殺意と敵意が込められたその声に、真九郎の足がブルブルと震え出した。これが武者震《むしゃぶる》いだったら、どれだけいいだろう。
真九郎は恐怖心を呑《の》み込み、フランクを見据えながら横に手を伸ばす。看護師たちが使うテーブル。その上に置かれていたカップを掴《つか》み、フランクの顔に投げつけた。カップが砕《くだ》け、中に残っていた紅茶がフランクの視界を塞《ふさ》いだ隙《すき》に、真九郎は跳躍《ちょうやく》。フランクの顔面に膝蹴《ひざげ》りを叩《たた》き込む。角度も勢いも悪くない一撃。それなのに、フランクは微動だにしなかった。真九郎は以前、環《たまき》のの部屋でビデオを観たことがある。表には流通しないビデオで、格闘家と、薬で興奮《こうふん》させられたマウンテンゴリラが戦うという内容だ。結果はゴリラの圧勝。格闘家がどれだけ攻めようとゴリラには通じず、逆に、ゴリラの振るうパンチで三メートルも殴り飛ばされていた。「修行が足りんよ、修行が!」と環はビールを飲みながら笑っていたが、真九郎は、どうせ半分以上はヤラセだろうと思っていた。しかし、そうではなかったらしい。ゴリラ並みの筋肉量があれば、生半可《なまはんか》な攻撃など通じないのだ。フランクは人間だが、ビデオに映っていたゴリラより二回り以上も巨体。その筋肉量はどれほどか。
真九郎に蹴《け》られた部分を指でボリボリと掻《か》き、濡《ぬ》れた顔を手で拭《ぬぐ》い、フランクは拳《こぶし》を握る。常人《じょうじん》の頭よりも大きい拳。それを、枯れ枝でも薙《な》ぎ払うように振るった。体重六十キロにも満たない真九郎など、その威力《いりょく》の前ではハリボテの人形も同然。フランクの拳を両腕で受け止めた真九郎は、そのまま吹っ飛ばされた。一直線に飛んだ体は廊下の窓ガラスを突き破り、病院の外へ。嫌な浮遊感。病院の屋上が見える。眼下《がんか》には駐車場が見える。
ここは七階。
見えざる重力の手が、真九郎を捕らえた。全身に猛烈《もうれつ》な風を浴びながら落下。ほんの一瞬だけ、意識が途絶《とだ》える。それは多分、人間の防衛本能だ。全身がバラバラになるかと思うような衝撃があり、視界にノイズが走り、小さく二回バウンドしてから、真九郎の体はアスファルトの上に転がった。あまりの事態に感覚が麻痺《まひ》したのだろう。痛みは徐々《じょじょ》に、遅れてやってきた。
「がっ……」
脳が焼ける。涙と鼻水と唾液《だえき》が溢《あふ》れ、真九郎はアスファルトの上をのた打ち回った。痛い。痛い。痛い。でも痛みを感じるということは、まだ感覚は生きている。神経は無事。震えながら背中を丸め、真九郎は考える。痛みに意識が向かわぬように、考え続ける。
フランクはどうやって侵入したのか?
あれほどの巨体、あんな目立つ人間を、近衛《このえ》隊は見逃したのか?
そんなことはあり得ない。しかし現実に、奴《やつ》は病院内にいた。近衛隊の中に裏切り者がいる可能性。リン・チェンシンが裏切った可能性。どちらもゼロだろう。悪宇商会に買収され、手引きした職員がいるとも考えにくい。何か盲点がある。忘れている。気づいていない。
真九郎は考え続けた。そして。
そうか、あれは……。
ステーキハウスでの、店員の反応。フランクを見たときの、妙な反応。
一つの仮説を立てる。奴の通り名は〈ビッグフット〉。それは未確認生物。異常な外見を持ちながらも、その姿が完全に確認されることはない生物。目立つのに目立たない。つまり、そういうことなのか。フランクは、あれほどの巨体でありながら、隠密《おんみつ》行動も得意としているのか。野生動物が森に身を潜《ひそ》めるように、気配を消せるのか。そう考えればあのときの店員の反応も辻褄《つじつま》が合う。店員は、フランクがいつ店に入ったのか、わからなかったのだ。フランクは、いつの間にか店の奥にある個室にいた。そして今日は、病院の中にいた。
巨体にばかり目を奪われ、正面から力で押し通るタイプだと勝手に思っていたが、まさかこんなふうに侵入してくるとは。理津が自分の病室にいなかったのは、幸運というべきだろう。
しかし、見つかるのは時間の問題。
重々しい金属音が聞こえた。真九郎は顔を上げ、そして何が起きているのかを知る。出入り口のシャッターが下りていく。窓のシャッターが下りていく。緊急時のシステムを、誰かが作動させたのか。リン・チェンシンの策は、敵を外で食い止めて繊滅《せんめつ》するというもの。だが、そのためには有効だったシステムも、敵に侵入された時点で完全な裏目となってしまう。これでは誰も逃げられない。
どうすればいい?
今からでも警察を呼ぶか。そうするにしても電話が……。
足音がした。そして真九郎の視界に、見覚えのあるブーツが映り込む。視線を上に向けたそこには、黒いリボンの少女。
〈ギロチン〉斬島《きりしま》|切彦《きりひこ》。
「何だ、もうリタイアか?」
挑発《ちょうはつ》するような笑みを浮かべ、切彦は真九郎を見下ろす。その手に握られているのは、肉切り包丁《ぼうちょう》だ。ここに来る途中の店で買ったばかりなのか、値札《ねふだ》まで付いてる。千六百円。
これが切彦の凶器であり狂気か。
「別にいいぜ、逃げても」
どうでも良さそうにそう言い、切彦は歩き出した。リボンとマフラーを風で揺らしながら、包丁を持った少女が病院へと向かう。
待て!
真九郎は叫んだ。でもそれは声にならず、開いた口から出たのは弱々しい呼吸音だけで、それが痛みのせいなのか、それとも自分の意思なのか、それを考えているうちに、真九郎の意識を痛みが侵《おか》していった。
意識が混濁《こんだく》したまま数分が、あるいは数十分が経過した。
真九郎はアスファルトに爪《つめ》を立て、植込みの木まで這《は》って行き、それを支えにして膝に力を込める。立ち上がり、背筋《せすじ》を伸ばしたところで胃が痙攣《けいれん》。胃の中身が空《から》になるまで吐いてから、真九郎は前に踏み出した。鉛《なまり》でも詰めたように体は重かったが、どうにか進む。
病院の外は静寂。この近くを通った者がいても、異変に気づくことはないだろう。でも真九郎には聞こえる。耳を澄《す》ませれば、聞こえる。シャッターの向こう側から、銃声と悲鳴が聞こえる。病院内では、すでに戦闘が始まっているのだ。
……ちくしょう!
真九郎は、病院の中に入れる場所を探した。近衛隊の主力は外にいたのだ。この危機に、内部へ突入しているはず。そのために壊した部分か、あるいは手動で開けられる場所はないかと歩き回り、それを見つけた。おそらく切彦がやったものだろう。職員用の入り口を塞ぐ大きなシャッターの下半分が、見事に切断されていた。
僅かな逡巡《しゅんじゅん》のあと、真九郎は倒れ込むようにしてシャッターの下を通り、病院の中に入る。痛みで意識が朦朧《もうろう》としながらも、廊下を進んだ。病院の中は明るかった。シャッターで外界の光は遮断《しゃだん》されているが、天井の照明はきちんと機能している。だから、よく見える。廊下にある無数の死体が、よく見える。死体は二種類。首を切断されたもの。力ずくで破壊されたもの。〈ギロチン〉と〈ビッグフット〉が、ここを通ったのだ。逃げ場のない病院内は、今や二人の狩場《かりば》も同然。辺りに漂う臭気《しゅうき》は、空調に混じったラベンダーと、死体の血がブレンドされたものか。地獄は、こういう香りがするのかもしれない。開いていた病室の扉の向こうに、ベッドごと切断された幼い子供の死体を見つけ、真九郎は拳を握る。
あの二人は、無差別に殺しているのだ。手当たり次第《しだい》に殺しているのだ。
このままでは、どれだけの犠牲者《ぎせいしゃ》が出るかわからない。
微《かす》かに聞こえてくる銃声を頼りに、真九郎は先を急ぐ。
二人はどこだ。どこにいる。
焦《あせ》りが疲労を生み、疲労が体の痛みを増幅し、何度か転びながらも進んでいた真九郎は、柱の陰《かげ》でうずくまる白衣の女性を見つけた。女性は「こっち来ないで!」と泣き叫び、消火器を振り回してきたが、真九郎はそれを避《よ》け、落ち着かせてから話を訊き出す。怯《おび》えつつも、女性は語った。医局内に突然、化け物みたいにでかい人間が現れ、暴れていったのだと。もちろん、フランクだ。フランクは人も物も壊していったという。シャッターが下りたのは、その破壊行為のもたらした最悪の偶然か。こんな事態を想定した対応マニュアルがあるわけもなく、職員はただパニックになり、患者のことも忘れて逃げ惑《まど》っているらしい。どれだけの人が殺されたのか、まったくわからない。「だってしょうがないでしょ! だってしょうがないでしょ!」。言い訳を繰り返す女性に、真九郎は言う。
「ここはもう、戦場です。患者を連れて逃げてください」
真九郎が自分の入ってきたシャッターの場所を教えると、女性は一目散《いちもくさん》に走り出した。一人で逃げるのかもしれないが、真九郎は止めない。病院内には怪物が二匹。ここは逃げるのが正常な判断。どんな職業|倫理《りんり》も、生存本能には敵《かな》わない。
再び廊下を進みながら、真九郎は考える。
理津のいる集中治療室は、一階の奥。切彦とフランクは、まだそこに侵略してはいないだろう。すでに理津を殺しているなら、病院内に長居せず、もう去っているはず。それともあの二人は、ここの人たちを皆殺しにするつもりなのか。
集中治療室に行き、理津を病院から連れ出す。
近衛隊と合流し、奴らと戦う。
今、優先するべきはどちらか。
迷っているうちに、真九郎は広い空間に出た。七階まで吹き抜けになっている玄関ロビー。おそらく、ここが総力戦の場だったのだろう。床には、無数の薬棊《やっきょう》に交じるようにして、黒服の男たちが倒れていた。全員、首がない。あまりにも綺麗に切断されているので、まるで何かのオブジェのようにも見える。題名を付けるなら『首無したちの午睡《ごすい》』か。
そして近衛隊の最後の一人が、玄関ロビーの中央に立っていた。リン・チェンシン。彼女が対峙《たいじ》しているのは、〈ギロチン〉斬島切彦。その手に握られた肉切り包丁は、赤ペンキにでも浸《ひた》したかのように血で濡れている。安物の肉切り包丁で、切彦はいったい何人殺したのか。何人の首を刈《か》ったのか。
「どうしたサムライ? もう終わりか?」
切彦は笑っていた。荒事《あらごと》が大好き。楽しくてしょうがない。そういう類《たぐ》いの笑み。
対するリン・チェンシンは、いつもの無表情だった。しかし、肩を上下する荒い呼吸、そして流れる汗《あせ》の量からして、決して善戦ではないとわかる。
肌《はだ》を刺すような二人の濃密な殺気に、真九郎は声が出ない。
「勝負!」
リン・チェンシンが動いた。眼前で一度だけ双刀《そうとう》を交差し、気合いを高めて床を蹴る。相討《あいう》ち覚悟とも思える、正面からの突進。己《おのれ》の殺気を全て込めるようにして、彼女は刃を走らせる。それは、真九郎の動体視力《どうたいしりょく》でも追えない速度。紛《まぎ》れもない達人《たつじん》の技《わざ》。にも拘《かか》わらず、切彦は難なくかわしてみせた。つまらなそうに、雑な動きで。そして包丁が牙《きば》を剥《む》く。まずリン・チェンシンの左腕を切断し、返す刃で右腕も切断。血を撒《ま》き散らしながら、リン・チェンシンの両腕が宙に舞った。
裏十三家の〈斬島〉を、リン・チェンシンは「剣士の敵」と呼んでいた。その意味を、真九郎は理解する。切彦の動きは、剣士のものではない。合理的ではない。洗練されていない。技でもなんでもない。切彦は、ただ刃物を扱《あつか》うのが上手《うま》いだけだ。切るのが上手いだけだ。とてつもないレベルで刃物を振るう、完全な素人《しろうと》なのだ。たしかに、真面目《まじめ》に修行を積んだ剣士からすれば、切彦は敵以外の何者でもないだろう。
「こんな……」
リン・チェンシンは先を失った自分の肘《ひじ》を見つめ、床に落ちた腕を見つめ、笑っている切彦を見つめ、よろよろと後退し、壁に背中をぶつけて止まる。
鍛《きた》え上げた剣の腕。磨《みが》き上げた技。長い長い彼女の努力。
それらは今、全て消えた。消えてしまった。
「こんな、ことが……」
そして彼女は、自分を見る真九郎の存在に気づいた。
彼女のように強い人でも、こんな表情をするのか。
今にも泣き出しそうに顔を歪《ゆが》め、リン・チェンシンの口から声が漏れる。
「紅……!」
彼女は何を言うつもりだったのだろう。真九郎に何を伝えたかったのだろう。
それは、永久にわからない。
切彦は無造作《むぞうさ》に包丁を一閃《いっせん》。リン・チェンシンの首が、根元から切断された。噴《ふ》き出す血で肩と背中を濡らしながら、ゴロリと床に転がる彼女の首。
「刃物の勝負なら、剣豪も、剣王も、剣聖も、オレの敵じゃねえよ」
無慈悲《むじひ》に、呆気《あっけ》なく死を与えるその刃、その切れ味は、まさしく悪《あ》しき処刑道具。
断頭台。すなわちギロチン。
今、自分の目の前で何が起きたのか、真九郎は考えたくなかった。
冷静な分析《ぶんせき》、現状の把握《はあく》、そんなものクソ食らえだ。
「おー、あんた、逃げなかったんだ!」
真九郎を見つけ、切彦が笑顔で手を振った。真九郎は動けない。足がすくんで動けない。斬島切彦の力。それを改めて目の当たりにしてしまった今、もうどうすることもできないことだけがわかる。リン・チェンシンを死体へと変えたその刃が、もし自分に向かってきたら、それを防ぐ術《すべ》はないのだ。
「どうした? 来いよ。さあ来いよ。殺してやるから」
子供が遊びに誘うように、切彦は真九郎を手招き。
真九郎の両足は、動かなかった。床に張り付いたかのごとく、前進も後退も不可能。
戦うことも逃げることもできない。
ブルブルと震え出した真九郎の足を見て、「何だそりゃ?」と切彦は顔をしかめる。ブーツの踵《かかと》で床を蹴り、失望のため息を吐《つ》いた。
「……あんた、もういいや。オレの見込み違いだ。そこで震えてろ。ずっと震えてろ。ただ震えてろ。声も出すなよ。何か一言でも喋《しゃべ》ったら、殺すからな」
おとなしく口を閉ざす真九郎の側を、生温《なまぬる》い風が吹き抜ける。足音もなく、玄関ロビーに現れたのはフランク。どれだけ殺したのか。その手も服も、返り血で真っ赤に染まっていた。服にある無数の穴は、銃撃によるものだろう。しかし、その皮膚《ひふ》に傷はない。弾丸は、分厚い皮膚と筋肉に全て阻《はば》まれたのだ。フランクは真九郎の方を見たが、「そいつはいいよ」と切彦が言うと、すぐに興味を失った。
「フランク、向こうのフロアに志具原《しぐはら》理津はいたか?」
「い、いねえ」
「病室にはいないし、話を聞こうにも、職員はあらかた殺しちまったしなあ……。ま、いいか。どうせここは、死にかけが集まったところだ。みんな殺しちまおう。みんなみんな、殺しちまおう。それで終わりだ」
こいつら……。
真九郎は愕然《がくぜん》とした。
この二人は知っている。ここがどういう場所なのか、知っている。その上で、殺獄《さつりく》を続けているのだ。どうせ助からない者たちだから、どれだけ殺してもかまわないと。
悪宇商会は、死神を派遣《はけん》してきたのか。
玄関ロビーを離れ、二匹の死神は奥へと歩み出す。
切彦はこちらを見ていない。フランクもこちらを見ていない。
今なら逃げられる。ここから逃げられる。真九郎の足が、床から離れた。後退する。どんどん後退する。これは逃げるんじゃない。警察を呼びに行くんだ。救急車を呼びに行くんだ。みんなを助けるためにここを離れるんだ。だからいいんだ。
逃げよう。
近くの壁に、真九郎は自分の額《ひたい》を打ちつけた。何度も打ちつけた。
………逃げてどうする真九郎!
あの二人を放っておいたら、理津は殺されてしまう。他の人たちも殺されてしまう。みんな殺されてしまう。それを見過ごすのか。逃げるのか。何のために、おまえはここに来たんだ。
何のために、紫を傷つけて、泣かせまでして、おまえはここに来たんだ。ここで逃げたら、逃げてしまったら、全部無意味じゃないか。自分は無意味なことで、あの子を悲しませ、絆《きずな》を失ったことになるじゃないか。それでもいいのか。
さあ言えよ、真九郎。
「……待て」
二人は止まらない。切彦とフランクは止まらない。
声が小さいのだ。
もう一度。今度は腹の底から、もっと大きな声で。
「待て!」
玄関ロビーから奥へ進もうとしていた二人の顔が、こちらに向いた。その視線を浴びただけで、真九郎の足はすくみあがる。後悔する。
もう遅い。
「フランク!」
切彦が叫び、そして真九郎の頭上が陰った。上を向いた真九郎が見たのは、軽やかに跳躍したフランクの巨体。「ギャハ!」。振り下ろされた拳を、真九郎は横に跳《と》んで回避。床を二回転して起きたところで、フランクに顔を掴まれた。投げ飛ばされる。コンクリートの柱に激突。呼吸が一瞬止まり、目が眩《くら》んだ。
「言ったよな? オレ、言ったよな? 一言でも喋ったら、殺すってさ。それでも喋るってことは、もう殺してくださいってサインだと、オレは受け取る。だから、死ね」
床に倒れた真九郎を冷たく一瞥《いちべつ》し、切彦は背を向けた。
自分が手を下す価値はない、という態度。もはや真九郎への興味をなくした彼女は、右手の包丁を揺らしながら、壁の館内地図を眺め始める。
「結構広いな。上の階からぶっ殺していくか……」
ダメだ。これ以上は殺させない。
誰も殺させない。
起き上がろうとした真九郎の脚をフランクが掴み、軽々と放り投げる。受付に置かれたパソコンのモニターを薙ぎ倒し、真九郎は再び柱に激突。
「……かはっ、かはっ」
倒れて胃液を吐く真九郎の近くに、誰かの首が転がっていた。細い瞳。髪は長い三つ編み。
リン・チェンシンだ。全ての感情が消えたその顔を、フランクの巨大な足が踏みつける。肉が潰《つぶ》れ、骨が砕け、リン・チェンシンだったものは細かい破片となった。衝撃で飛び出した彼女の眼球。紐《ひも》のような神経の繋《つな》がったそれを見て、これは右目だろうか、それとも左目だろうか、と真九郎は意味もなく考えた。
「キリヒコ! こいつ、まだ、し、しなねえ!」
「頭だ。そういう頑丈《がんじょう》な奴は、頭をやれ」
「こ、こうか」
跳び上がって勢いを乗せ、フランクが真九郎の頭を踏む。何度も何度も踏む。頭蓋骨《ずがいこつ》が軋《きし》んだ。嫌な音。壊れる前触れ。痛い。苦しい。頭が割れる。真九郎の視線が、助けを求めて彷徨《さまよ》った。でもそこにあるのは、リン・チェンシンの眼球。首無しの死体。もう終わりだ。
真九郎の思考が、泥《どう》のように濁っていく。
ああ俺はここで何をやってるんだろう。
こんなところで、吐いて、殴られて、踏まれて、何をやってるんだろう。
家族が死んでから今まで、自分は何をしてきたか。ちゃんと頑張ってきた、と思う。一人でも頑張ってきた、と思う。そのはずだ。そのはずなんだ。でも俺は、あの子を傷つけた。紫を、傷つけて泣かせた。ろくに約束も守れないような、そんな人間になった。なってしまった。どこで間違えたのだろう。何を間違えたのだろう。そもそも、あの子は本当にいたのか。
ひょっとして自分の妄想《もうそう》ではないのか。寂しい自分の妄想が生んだ、架空《かくう》の存在ではないのか。だって、おかしいじゃないか。こんな自分が、あの子を救えるわけがない。九鳳院蓮丈と対決して救うなんて、できるわけがない。紅真九郎になんか、何もできない。何もできやしない。だからあの子も、きっと妄想だ。全て妄想だ。九鳳院紫は実在しない。今は、そんな気がする。
フランクが笑っていた。頭が痛い。もうすぐ潰れる。もうすぐ死ぬ。
それもいいか。この世界に未練はない。ないと思う。
もう、全て、どうでも……。
電話が鳴った。
玄関ロビーに鳴り響く、携帯電話の音。
切彦が、首のないリン・チェンシンの死体に近寄り、その懐《ふところ》を漁《あさ》って電話を見つける。真九郎の電話だ。リン・チェンシンが、ずっと持っていたのか。
「これ、あんたの?」
真九郎の視線から気づいたらしく、切彦は電話を放り投げる。電話は床を滑り、真九郎の顔に当たった。
「フランク、ちょっと待て」
切彦の指示で、フランクは真九郎の頭を解放。
重圧が消え、それでも頭痛に苦しむ真九郎を見下ろし、切彦は言う。
「これから殺されるところに、電話が来る。面白《おもしろ》い偶然だよな。出ていいぜ。遺言《ゆいごん》でも泣き言でも、好きなことを話せばいい。それが終わったら、フランクがあんたを殺す」
最後の電話。くだらない情けをかけやがる。
もう、どうでもいいのに。全部諦めたのに。
真九郎は手を伸ばして電話を掴み、震える指でボタンを押し、耳に当てた。
相手は誰だ。誰でもいいか。
声は、聞こえなかった。何も聞こえない。
真九郎は、ただじっと耳を澄ませる。
すると、電話の向こうで、小さな呼吸音が聞こえたような気がした。
「……わたしだ」
紫の声。何日ぶりかに耳にする、あの子の声。
これは幻聴《げんちょう》だろうか?
違う。本物だ。こんな声を、心に響く声を、真九郎の妄想が生み出せるはずがない。
「……真九郎、まだ怒っているか?」
怒ってる?
俺が、何を、怒るというんだ。
「……この前は、すまなかった。わたしが悪い。真九郎は仕事があるのに、無理を言った、わたしが悪い。どうか許してほしい」
いや、あれは……。
真九郎は何か返事をしようとしたが、紫の声が震えていることに気づいて黙る。
紫は、泣いているのだ。
「……真九郎は、もう、わたしのことを嫌いになったか?」
そんなこと、あるわけがない。
絶対あるわけがない。
「……わたしは、真九郎が大事だ」
震える声で、途切れ途切れになりながらも、紫は続ける。
「……本当に…本当に……わたしは、真九郎が大事だ。大事なのだ。おまえがいてくれないと、わたしは、どうしていいかわからない。どうして生きたらいいか、わからない。どうして生きているのか、もう、わからない……」
鼻をすすり上げる音。荒い呼吸。
紫は言葉を続ける。
「……真九郎に……会いたい……」
目の奥が熱くなり、真九郎はまぶたを閉じた。
紅真九郎は、魔法の存在を信じていない。そんなものは空想の産物。
でもこのとき、もしかしたらあるのかもしれないと、そう思った。
だって、そうでもなければ説明がつかない。
ただ声を聞いているだけで、傷の痛みが消えていくなんて。
こんなに体が軽くなるなんて。こんなに心が沸き立つなんて。
自分の置かれたこの絶望的な状況が、自分の命が風前の灯《ともしび》であることが、そんなことが、些細《ささい》な問題に思えてくる。どうにでもなるように思えてくる。
魔法でもなければ、こんなことあり得ない。
あの子は、九鳳院紫という名の幼い少女は、紅真九郎に魔法を使ったのか。
真九郎は電話を握る。強く握る。
紫に返事をしようとした真九郎を、巨大な拳が襲《おそ》った。待ちきれなくなったフランクの力任せの一撃が、真九郎の脳天に叩き込まれる。顔面から床に激突。
かなり効《き》いた。
でも真九郎は、電話を放さなかった。歯を食いしばる。もう苦鳴《くめい》一つも漏らすものか。
「こ、こいつ、まだ、こわれねえ!」
ギャハギャハ、とサルのように手を叩き、喜ぶフランク。
それを冷静に見上げながら、電話を耳に当て、真九郎は軽く息を吸った。
そして言う。
「紫」
自分でも驚くほど鮮明な声だった。
その声に、電話の向こうで紫が強く反応するのがわかる。姿が見えずともわかる。
「し、真九郎! わたしは、わたしは……」
「ごめんな、紫。ちょっと待ってくれ。五分……いや、一分でいい。待てるか?」
「うん」
紫は納得してくれた。真九郎が答えたことで、声には微かな安堵《あんど》が含まれている。
真九郎は保留のボタンを押し、電話をポケットに入れて立ち上がった。
さあいくぞ。心の奥にあるスイッチを、真九郎は切り替える。右腕の角《つの》を解放。皮膚が裂けて血が滴《したた》り、水晶のごとく輝く角が右肘から出現。熱いエネルギーが全身を駆け巡り、細胞が活性化。〈崩月〉に伝わる剛力が、紅真九郎に宿る。痛みは前回より少ない。体が慣れたのだろう。真九郎にはわかる。自分は今、バカみたいに元気だ。頭も体も軽い。絶好調。
溢れる力に押し出されるように、真九郎はフランクの巨体に向かった。
「ギャハ!」
巨大な拳を振り上げ、フランクが豪腕を放つ。頭上から迫るそれを、真九郎は左腕で受け止めた。ズシン、と圧《の》しかかる衝撃。足元の床がひび割れ、体が僅かに痺《しぴ》れる。でも、それだけだ。今の真九郎には、何でもない刺激。
自分の腕力で潰れない人間を見るのは、初めてなのか。驚いた様子で後退するフランクに、真九郎は迫る。今度はこっちの番だ。
「おい、フランク。おまえはマナーを知らないな」
「あ?」
「俺は電話中だ、バカ野郎!」
真九郎の右足が、凄《すさ》まじい勢いで跳《は》ね上がった。咄嵯《とっさ》に腕で防御《ぼうぎょ》したフランクの動きは、野性の勘《かん》が働いたものか。しかし無駄。真九郎の蹴りは、フランクの腕の肉を潰し、骨を砕き、それでもまだ威力は衰《おとろ》えず、三百キロを超える巨体を五メートル先の壁まで弾《はじ》き飛ばした。
「ゲバッ!」と衝撃に喘《あえ》ぐフランクに、真九郎は追撃。
「おまえ、うるさいよ。寝てろ」
フランクの頭を右手で鷲掴《わしづか》みにし、真九郎は大理石の壁に思い切り叩きつける。叫びも抵抗も無視して五回ほど叩きつけると、壁は陥没。フランクが白目を剥き、口から泡《あわ》を吹いているのを見て、真九郎はようやく手を離した。
指についたフランクの血と髪の毛を服で拭い、電話を再開。
「待たせて悪かったな、紫」
「真九郎、大丈夫なのか? 仕事か?」
「たいしたことないよ。今、半分は片付けたし。残り半分は、これからやる」
真九郎が切彦に目を向けると、彼女は絶句していた。
たった一分、しかも肉弾戦でフランクが負けるとは、予想もしていなかったのだろう。
切彦に軽く手を振りながら、真九郎は話を続ける。
「紫、授業参観はいつだっけ?」
「えっ?」
「授業参観、いつだ?」
「それは、もう、真九郎を困らせる気は……」
「いいから言ってみろ。いつだ?」
僅かな沈黙のあと、紫は答える。
「……今度の日曜日」
そうだ。日曜日だった。
それで今日は、何曜日なのだろう?
真九郎は受付の壁にあるカレンダーを見て、今日が木曜日だと知る。そして頭の中で計算。ここで仕事を済ませ、金曜日は体を休めて、土曜日は学校に行き、銀子にノートを借りたり、夕乃《ゆうの》と会ったりする。そして次の日は授業参観。余裕のスケジュールだ。
「わかった。行くよ、授業参観」
「でも、でも……」
「大丈夫。心配するな。必ず行くから」
「……本当か?」
「ああ、約束する」
電話の向こうの紫には見えずとも、真九郎は頷《うなず》いた。
「せっかく見に行くんだから、おまえ、活躍しろよ」
「……うん」
「たくさん手を上げて、しっかり目立てよな」
「……うん」
「じゃあ、日曜日に会おう」
うん、うん、と電話の向こうから紫の声が聞こえる。泣いている声が聞こえる。
真九郎は謝ろうかどうか迷い、やめておいた。
謝るのは、全て終わってからにしよう。紫の顔を見ながら、謝りたい。
そして真九郎は、電話を静かに切った。ポケットに入れる。
「さあ〈ギロチン〉、決着をつけようか」
「……なるほどねえ」
切彦の口元に、もはや侮蔑《ぶべつ》の笑みはない。
紅真九郎を、正しく、敵と認めたのだ。
「あんた、〈崩月《ほうづき》〉の戦鬼《せんき》だったのか。うちの祖父《じい》さんや親父《おやじ》から話には聞いたことあるが、これが本物。ルーシーがスカウトするわけだな。しっかしまあ、電話一本で、雑魚《ざこ》から化けやがるとはね……」
右手の包丁を揺らしながら、切彦は問う。
「ちなみに今の電話、相手は誰? 天使?」
「ああ」
真九郎は頷いた。力強く、堂々と、誇らしげに。
「不公平で悪いなあと思うけど、実は俺、守護天使がついてるんだよ」
さあ問題を片付けよう。何も難しいことはない。単純だ。
斬島切彦を倒す。それだけ。
こいつを倒せば殺戮は止まり、理津は救われ、授業参観にも行ける。
拳を構える真九郎を見て、切彦は笑った。満面の笑み。派手《はで》に暴れられる予感。
「今日はいい日だ! 久しぶりに、すっげーワクワクするぜ!……あー、でもこの包丁じゃダメだな。〈崩月〉の戦鬼を殺すには、これじゃ足りない。殺しきれない」
切彦は、リン・チェンシンの腕の近くに落ちていた刀を、爪先《つまさき》で蹴り上げる。そして刀を掴み取り、血に塗《まみ》れた包丁を捨てた。
指で刃をゆっくりと撫《な》で、満足そうに笑う。
「……備前長船《びぜんおさふね》か。さっすが優遇されてんなあ、九鳳院の犬は」
長さも強度も殺傷力も、包丁を遙《はる》かに凌駕《りょうが》する日本刀。しかも名刀。安物の包丁でリン・チエンシンを殺した切彦が使えば、それはどれほどの力を発揮《はっき》するのか。
「さあ、楽しもう。オレを殺してみろ。あんたを殺してやる」
刀を構えず、手をだらりと下げたまま歩き出す切彦。真九郎にはわかる。彼女には、構えなど必要ないのだ。ただ刃を振り、獲物《えもの》を切る。それが〈斬島〉の戦法。
真九郎と切彦。二人はともに名乗りを上げた。
「崩月流甲一種第二級戦鬼、紅真九郎」
「〈斬島〉第六十六代目切彦!」
真九郎は静かに、切彦は高らかに。二人の声が、玄関ロビーに響き渡る。
真九郎は思考を働かせた。ここ数日で最高の集中力。
自分と切彦の差はどれほどか。
実戦経験は、確実に切彦が上。さらに切彦には、〈斬島〉本家直系としての、天分の才がある。生粋《きっすい》の殺し屋。生まれながらの超一流。真九郎がまともに対抗できるのは、〈崩月〉から受け継いだ技と、剛力《ごうりき》のみ。それを駆使《くし》しても、勝てる望みはない。
しかし、退《ひ》くものか。やってやる。自分は、紫と約束したのだ。
もうこれ以上、あの子を泣かせるわけにはいかない。
真九郎の闘志と切彦の殺意。混じり合ったそれが大気を満たし、二人が同時に動こうとした瞬間、第三者の声が割って入った。
「……良かった。間に合ったのね」
玄関ロビーに現れたのは、志具原理津。集中治療室から、自力でここまで来たのか。理津は通路の壁にもたれながらも、そこに立っていた。それからの数秒間に、様々なことが起きた。真九郎は理津へと走り、切彦も理津へと走り、その姿を見て理津は笑い、そして、フランクがむくりと起き上がったのだ。
「ギャハ!」
爆発。
轟音《ごうおん》とともに、フランクの巨体が四散。
そして嵐のごとき爆風が、辺りのものを全て吹き飛ばした。
……自爆か!
紙クズのように床を転がりつつ、真九郎は飛んできたソファを受け流し、ガラスの破片から目を守る。爆風が収まり、耳鳴りが止《や》むまでに三十秒ほど要した。真九郎は顔を上げたが、宙を漂う粉塵《ふんじん》で視界は利《き》かない。この隙に切彦が来るかと警戒《けいかい》。しかし、その様子はなかった。切彦は真九郎よりも小柄だ。今の爆風で、どこかへ吹き飛ばされたのかもしれない。
腕を振って粉塵を掻き分けながら、真九郎は周囲に目を凝《こ》らす。爆風で照明が落ちていたが、穴の開いた天井や、壊れたシャッターの隙間から、外の明かりが差し込んでいた。しばらくすると、その惨状《さんじょう》が浮かび上がってくる。被害は一階の三分の一以上。柱も壁も、大半が崩れている。この破壊力からして、フランクが体に内蔵していたのは軍事用の爆弾だろう。悪宇商会なら簡単に調達できるはずだ。フランクのいた辺りに残るのは、クレーターのような大穴だけ。未確認生物はまともな死体を残さない、というわけか。
「理津さん!」
真九郎は邪魔な瓦礫《がれき》を飛び越え、粉塵で息が詰まりそうになりながらも、理津を探した。彼女は何故、この場に現れたのか。間に合ったとは、どういう意味か。彼女が何を考えているのか、真九郎にはわからない。
理津が最後に立っていた場所には、大きなコンクリートの破片がいくつも重なっていた。真九郎はそれを力ずくで脇《わき》へどかし、ちょうど隙間にできた空間に、理津の姿を見つける。彼女は壁を背にし、疲れ切った様子で座っていた。
良かった。無事だ。
真九郎は彼女が目を開けていることにホッとし、近づいて声をかけようとしたが、そこで息を呑む。天井から落ちてきたのだろう。理津の腹部には、ステンドグラスの破片が突き刺さっていた。背中まで貫通している。床には、大きな血溜《ちだ》まり。
「……ああ、なかなか理想的だわ」
側に来た真九郎に、理津は弱々しい笑顔を浮かべて見せた。
真九郎は傷の深さを確かめ、それが致命傷であるとわかったが、口は別のことを告げる。
「理津さん、大丈夫です。ここは病院だし、何とか……」
「もういいのよ」
「いいって……」
「ねえ、真九郎くん」
その体は、もはや傷の痛みも感じないのか、理津の表情は穏《おだ》やかだ。
世間《せけん》話でもするような気軽な口調で、彼女は言葉を続ける。
「人は死んだら、何処へいくと思う?」
「それは……」
「死んだら、みんな同じところへいく? わたしは違うと思う。お母様も、そう言ってた」
天井から差し込む、光の筋《すじ》。
細かな塵《ちり》をキラキラと照らすその光を見つめながら、理津は言う。
「お父様とお母様は、『殺されて』死んだわ。『事故死』でも『病死』でも『自然死』でも『自殺』でもなく、悪党に『殺されて』、向こうの世界にいった。だから、お父様とお母様のいるところへいくには、同じところへいくには、わたしも悪党に『殺されて』死ぬ必要がある。わたし、それがわかったとき絶望したわ。どうすればいいのかわからなくてね。でも、考えたの。そして、方法を見つけた」
「まさか……」
そうよ、と理津は頷いた。
「悪宇商会に依頼したのは、わたし。もうすぐ寿命《じゅみょう》が尽きるから、その前に殺して欲しいと、頼んだの」
間に合ったとは、そういう意味か。
「でも、それじゃあ、自殺と同じで……」
「自殺じゃないわ。だってわたし、生きる努力はしたもの。蓮丈様のご好意を受け入れ、リンさんを側に置いた。あなたという揉《も》め事処理屋も雇《やと》った。ね? わたし、生きる努力をしたでしょ? あとはどんな悪党が来るかが問題だったけど、この状況を見ると、なかなかみたいね」
床の血溜まりは、真九郎の靴を濡らすほどに広がっていた。それでも理津の顔に、苦痛の色はない。今ここで全ての生命力を使い切ろうとしているかのように、彼女は冷静だ。
どうすることもできず、悔《くや》しくて歯噛《はが》みする真九郎を、理津は不思議そうに見ていた。
「君、怒らないの?」
「……怒りません」
「何で? こんなつまんない女の、面倒《めんどう》なことに巻きこまれたのに?」
「……気持ち、少しだけ、わかりますから」
八年前のあの日。救出された真九郎は、病院に見舞いに来てくれた銀子《ぎんこ》に頼んだことがある。「銀子ちゃん、僕を殺して」と。あれは一時的な衝動でも、事件のショックから来る現実逃避でもなかった。真剣だった。本当の気持ちだった。真九郎は真剣に、本気で、死にたかったのだ。家族と一緒に死ねなかった自分の境遇が、恨《うら》めしかったのだ。あのときの真九郎の気持ちは、まだ心のどこかで燻《くす》ぶっている。それは、いつか燃《も》え上がるかもしれない火種《ひだね》。一生消えない。だから真九郎は、理津に対しても、特に怒りの感情は湧いてこなかった。
真九郎は死にたかった。でも今は生きている。
理津は死にたかった。今、死のうとしている。
結果は違っても、二人の望みは同じだ。
「真九郎くん、手を」
真九郎が手を差し出すと、理津はそれを握った。
折れてしまいそうなほど細い指で、しっかりと握る。
「ねえ、君も一緒にいかない? 君の魂《たましい》も、わたしが導いてあげる」
理津は微笑《ほほえ》んだ。それは、これから救いが与えられることを、苦しみから解放されることを、知っている者の笑み。その救いを、彼女は真九郎にも分け与えようとする。
「家族が死んで、寂しいでしょ?」
「……寂しいです」
「夜、一人で泣いたりするでしょ?」
「……泣きます」
「その悲しみは、ずっと続くのよ?」
「……知ってます」
「これから先も、一人で生きていけると思う?」
「……わかりません」
「でしょう? だから、わたしと一緒に……」
「でも俺、約束したんです」
「……約束?」
真九郎は頷いた。こんな状況なのに、心は静かだ。
きっと、あの子を思い出しているから。
「俺、あいつのこと傷つけて、泣かせたのに……。あいつ、俺を許してくれて、また約束できたんです。だから、今度は、絶対に守りたい」
天井から理津の上に落ちようとしていたコンクリートの塊《かたまり》を、真九郎は拳で打ち砕く。
飛び散る細かい破片。それをぼんやりと見ながら、理津は呟《つぶや》いた。
「……そっか。恋人さんと、仲直りできたんだ。じゃあ、死ねないよね」
理津の指から力が抜け、彼女は真九郎の手を離す。
床に落ちた彼女の細い手は、自《みずか》らの血溜まりに沈んだ。
「あー、ちょっと寒くなってきた。久しぶりに寒いわ。これが死なのね。なるほど」
「理津さん!」
「そんな、大きな声出さないでよ……。わたしには、やることがあるの。やらないといけないことが、あるの……」
静かな呼吸音に交じるように、理津の声は次第に小さくなる。
その口元に耳を寄せ、真九郎は彼女の言葉を聞き取った。
「向こうにいって、ちゃんと、謝らなきゃ……。ごめんなさいって……言わなきゃ……」
真九郎は察する。
理津は、ただ死にたいのではない。彼女は謝りたいのだ、両親に。
そのためには、両親と同じところにいくしかない。彼女はそう思っている。
彼女がいつも祈っていたのは、神様に祈っていたのは、きっとそのこと。
死んだ自分が両親のもとにいけますように。
彼女は毎日、それだけを祈ってきたのだろう。
二人の頭上で、嫌な音が鳴った。天井が崩れ始めている。破片から守るため、理津の上に覆《おお》い被《かぶ》さろうとする真九郎を、彼女は止めた。
「もういいの。迷惑かけて、ごめんなさいね。側にいてくれて、ありがとう。君がいるから、そんなに怖くないわ。最後に……」
口の端から血の泡が溢れ出し、理津の瞳から急速に生気が失《う》せていく。
残った気力を振り絞《しぼ》り、彼女は言葉を続けた。
「……最後に、頼みが、あるの……」
虚《うつ》ろな眼差《まなざ》しで真九郎を見つめ、彼女は願う。
「いつか、もしも、犯人を見つけたら、クソッたれな犯人を見つけたら、ぶっ飛ばしてやってね、わたしの分も……」
そして理津は目を閉じた。その目は、二度と開かなかった。
まるでそれを待っていたかのごとく、周りから軋む音が響き始める。一階が吹き飛んだ影響で、建物全体が崩壊《ほうかい》しようとしているのだ。降り注ぐコンクリートの破片を浴びながら、真九郎は考えた。これからどうするべきか。自分はどうするべきか。
それを邪魔するかのように、死神の声。
「……ったく、フランクの野郎! オレまで巻き添えにしやがって!」
半《なか》ば壊れたシャッターを切断し、現れたのは斬島切彦。さっきの爆風で外まで飛ばされたらしく、服は土埃《つちぼこり》で汚れていた。その右手には、変わらず日本刀が握られている。
切彦は、無言で佇《たたず》む真九郎を見つけ、その側にある理津の死体を見つけ、ガックリと肩を落とした。「何だよ、もう死んじまったのかよ……」と子供がすねるようにぼやき、足元の瓦礫を蹴飛《けと》ばしてから、刀を肩に担《かつ》ぐ。
「まあ、標的は死んでも、あんたは無事なんだ。続きをやろうぜ。〈崩月〉と〈斬島〉の決闘は、裏の歴史でもそうそうあるもんじゃ……」
「手伝え」
「………はあ?」
意味がわからず呆《ほう》ける切彦に、真九郎は言う。
「この建物は、もう危ない。残ってる人たちを避難させる。手伝え」
「手伝うって……オレが?」
「そうだ」
「おいおい……」
切彦は笑い出した。
真顔《まがお》の真九郎に、笑いながら言う。
「てめえ、ふざけんじゃ……」
「ふざけてるのはおまえだ!」
真九郎の右手が、切彦の胸倉《むなぐら》を掴んだ。
切彦の顔から笑みが消えたのは、その動きが自分の予測を超えるものだったからか。
真九郎は切彦を引き寄せ、鼻がぶつかるほどの距離で睨《にら》みつける。
「おまえ、それだけの腕があるなら、無抵抗の病人なんか殺すな! もっと考えろ!」
「うるせえ! オレは殺し屋だぞ!」
「なら仕事を選べ!」
「てめえに言われる筋合《すじあ》いは……」
「少しは考えろ! 腕は超一流でも、おまえの頭は三流だ!」
「……オレが、三流?」
「おまえのやってることは、そこらの殺人鬼と同じじゃないか!」
「オレは……」
「考えろ! ちゃんと考えてから動け!」
「……てめえ、このっ、くそっ……」
「おまえが、今すべきことは何だ? 俺との勝負か? そんなもの、あとでいくらでもやってやる! いつでも相手をしてやる! だから今は、手伝え!」
「………」
「手伝え、斬島切彦!」
店にある缶コーヒーは、アイスとホットの二種類だった。真九郎は少し悩んでから、ホットを二つ買うことにする。レジにいる中年の女性に代金を払うと、「ねえちょっとあんた、さっきの音聞いた? なんか爆発したみたいな、すごい大きな音。あそこの病院の方から聞こえたんだけど、なんかあったのかしらね? 救急車や消防車も、じゃんじゃん来てるしさあ」と早口で訊かれたので、「ガス爆発じゃないですか」と適当に答え、真九郎は店を出た。切彦は、店のすぐ脇にある赤い郵便ポストのところで腰を下ろし、あぐらをかいていた。真九郎がそちらへ近づき、缶コーヒーを渡すと、「……ホットかよ」と嫌そうな顔をしつつも、切彦はそれを受け取る。
二人の前の道路を、サイレンを鳴らした救急車と消防車が、かなりの勢いで通り過ぎていった。これで何台目だろう。パトカーはまだ一台も通らない。相変わらずの怠慢《たいまん》か。
ここは、西里《にしざと》総合病院の近所にある小さな商店。真九郎と切彦は、休憩中《きゅうけい》だ。
缶コーヒーを開けながら、真九郎は病院の様子を遠目に窺《うかが》った。小さな煙は上がっているが、火事と呼べるほどのものではない。現場では、救急隊員たちが忙しく動き回っているはずだ。真九郎と切彦も、やれることはやった。建物に残っていた患者と職員たちを全員、外へ避難させたのだ。エレベーターは使えず、階段も崩れていたが、真九郎と切彦はその困難をものともせず、邪魔な瓦礫は砕き、あるいは切断しながら道を作り、目的を達した。建物が半分倒壊したのは、それから数分後のこと。その衝撃に紛れるようにして、二人は現場を離れた。
また一台、救急車が目の前の道路を通り過ぎていく。場所柄、来るのにもっと時間がかかるのではと危惧《きぐ》していたのだが、意外と早い。もしかすると、最悪の事態を想定して、リン・チェンシンが根回しでもしていたのかもしれない。この調子なら、日が暮れる前に作業は終わるだろう。理津を含む、全ての死体を置き去りにしてしまったが、あの場で生者を優先した自分の判断は間違ってない、と真九郎は思う。もし間違いなら、そのうち報《むく》いを受けるだろう。
そよ風が吹き、真九郎の髪を揺らした。ここに来て初めて、真九郎は風を気持ちいいと感じる。汗と埃にまみれた体を労《いた》わるような、優しい風。視線を下げると、切彦が手の平で缶コーヒーを転がしていた。右手には、未だに日本刀が握られている。
缶コーヒーを一口飲み、その熱が空《から》っぽの胃に伝わるのを感じながら、真九郎は言う。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいか?」
無言でこちらを見上げる切彦に、真九郎は続ける。
「あの日の帰り、どうして俺に警告の傷を与えたんだ?」
「あの日? ………あーあー、それね」
切彦は、器用に片手で缶コーヒーを開けながら答えた。
「あんたには、ゲーセンでの借りがあったからな。貸し借りの清算はしとかねえと、気分が悪い。だから、今回の件からあんたが逃げても、オレは追わなかったよ」
逃げてもいいぜ、という切彦の言葉は、挑発の意味だけではなかったのか。
無差別に人を殺す非情さ。小さなことも借りと思う律儀《りちぎ》さ。そして、渋々《しぶしぶ》ながらも真九郎の言葉に従い、患者と職員たちの避難を手伝った柔軟さ。
よくわからない子だ、と真九郎は思う。
「あんた、さっき言ったよな? いつでも相手をするって」
「言ったよ」
「じゃあ、今でもいいな」
真九郎の右腕の角は、すでに消えていた。傷も痛むし、体力も限界に近い。今この場で切彦に挑《いど》まれたら、一瞬で殺されてしまうだろう。
無言の真九郎に、切彦は缶コーヒーを掲げ持ってみせる。
その口元には、好戦的な笑み。
「これを飲み終わったら、始めようぜ。殺してやるよ。その首、落としてやる」
切彦は、缶コーヒーを一気に呷《あお》った。
そして。
「………あひゅい」
刃を持っても、猫舌《ねこじた》は変わらないらしい。切彦は弱ったように顔をしかめ、手で口を押さえていた。その仕種《しぐさ》が妙に可愛《かわい》らしく、真九郎は思わず笑ってしまう。切彦が恨めしそうにこちらを見ているのに気づいても、笑いは消えない。切彦は「うっせーな、ちくしょう」と小さくぼやき、もう一口だけコーヒーを飲んでから、缶を足元に置いて立ち上がった。
「………変な奴だな、あんた。なんか調子狂うっていうか、興《きょう》が削《そ》がれるっていうか、とにかく変だよ。話に聞いてた〈崩月〉の戦鬼とは、大分違う」
「そうかもね」
真九郎の笑みが力のないものに変わるのを見て、切彦は「ま、いいか」とため息を一つ。
「楽しみは、あとにとっておくさ……」
切彦は周囲を見回し、ゴミ箱を見つけると、無造作に日本刀を突っ込んだ。刃物の扱いは得意でも、品に執着はないのだろう。途端《とたん》に、まるで省エネモードにでも切り替えたかのように、切彦の気迫が消えた。吹きつける風に震え、マフラーで口元を覆い、眠たげな目をして、両手はポケットへ。
「……今日は、疲れたです」
ふう、と背中を丸め、鼻水をすする切彦。
「……それじゃあ、いずれ、どこかで」
歩き出そうとした切彦に、真九郎は言った。
「ありがとう、切彦ちゃん」
彼女は加害者の一味だ。本当は、礼なんか言うべきではないのかもしれない。でも何となく、真九郎は言ってしまった。あれだけのことをされたのに、どうも憎《にく》みきれない。それもまた、斬島切彦の恐ろしさか。
切彦は、かなり驚いた様子で真九郎の目を見つめていたが、やがて笑った。
それは歳《とし》相応の少女の笑み。
「………まだ、わたしを、そう呼んでくれるんですね」
真九郎を指差す。
「ゆーあーないすがい」
そして〈ギロチン〉斬島切彦は、病院とは反対の方角へと去っていった。
真九郎は、再び病院の様子を遠目に窺う。立ち昇る小さな煙。天に吸いこまれるように消えていくその白い筋を見ながら、真九郎は思った。理津の魂は、どこにいったのか。ちゃんと向こうの世界にいけたのか。家族に会えたのか。
余韻《よいん》に浸る間もなく、真九郎の電話が鳴った。
相手は。
「紅さん、お疲れさまでした。ルーシー・メイでございます」
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第六章 君と、一緒に
都心の高級ホテル。その四階にある喫茶店。
店に入ってきた真九郎《しんくろう》を、店員は咎《とが》めるような眼差《まなざ》しで迎えた。険悪な表情が原因だろう。
ここに来るまでに、二度も警察官から職務質問を受けたほどなので、当然ともいえる。しかし真九郎は、「お客様……」と呼び止める店員を無視して、店の中へと進んだ。アンティーク調のテーブルと椅子《いす》が揃《そろ》えられた店内。静かに談笑していた客たちが、真九郎の姿を見て眉《まゆ》をひそめる。真九郎は気にしない。今はどうでもいい。
目指すは店の一番奥の席。
そこに、笑顔で手を振るルーシーの姿があった。
「どうもすみませんね。お疲れのところを、呼び出してしまって」
真九郎は彼女と視線も合わせず、その正面の席に着く。軽く深呼吸。
ルーシーから電話を受けた真九郎は、すぐにこの場所へと向かったのだ。傷と疲労で、肉体は休息を要求していたが、気持ちがそれを許さなかった。
注文を取りにきた店員が、真九郎を迷惑そうに見ながら、水の入ったグラスを置く。店内で暴れるのではないか、と警戒《けいかい》されているのかもしれない。
「紅《くれない》さん、ご注文は何にします? この店は、チェリーパイが美味《おい》しいんですよ」
「結構です」
「まあ、そう言わずに。ここはわたしが奢《おご》りますから。紅さんには、前にお金を借りてましたしね」
ルーシーは、店員に紅茶とチェリーパイを二人分注文。
店員がテーブルを離れるのを見てから、真九郎が話の口火《くちび》を切る。
「いったい何の用なんですか? 今さら……」
「おめでとうございます」
「えっ?」
「あなたは合格ですよ、紅真九郎さん」
訝《いぶか》しむ真九郎に、ルーシーは事務的な口調で言った。
「フランク・ブランカは死にました。あなたが直接手を下したわけではありませんが、まあ、これをもって合格としてもいいでしょう。人事部として、わたしはそう判断します」
「……どういうことです?」
「志具原《しぐはら》|理津《りつ》さんからの依頼と、あなたのテスト。その二つを同時に行えてラッキー、ということです」
「まさか、最初からそのつもりで……」
「あー、違います。切彦《きりひこ》くんの暴走に便乗したってだけで、途中は、本気でヒヤヒヤしましたよ。切彦くんて、殺しの腕は抜群《ばつぐん》だけど、ハッキリ言ってバカでしょ? これで、志具原理津も、フランクも、紅さんも死んじゃったら、我が社は大損《おおぞん》でしたが、あのバカが気紛《きまぐ》れで紅さんを見逃したので、取り敢《あ》えず最悪の事態は避けられたわけです。こういうの、なんて言うんですかね? 転んでもタダでは起きない? 一石二鳥? まあなんでもいいですけど……」
店員が紅茶とチェリーパイを持って現れ、二人の前に置いていった。
紅茶のカップを手に取り、一口飲んでから、ルーシーは言う。
「とにかく、あなたは合格です。〈ビッグフット〉フランク・ブランカ以上の人材として、我が社はあなたと契約します」
コートのポケットから折り畳《たた》んだ紙を取り出し、ルーシーはテーブルの上に広げた。
それは悪宇《あくう》商会との契約書。
「さあ、こちらにサインを」
真九郎は動かない。
「あ、ペンがないんですね? ちょっとお待ちください。えー……」
ポケットを探り始めたルーシーに、真九郎は低い声で言う。
「……何人死んだと思ってるんですか?」
「えっ、何がです?」
「……今回の件で、何人死んだと思ってるんですか?」
「はあ?」
「何人死んだと思ってんだ!」
声を荒らげる真九郎に、店内の視線が集まった。真九郎がルーシーの呼び出しに応じたのは、どうしても、ひとこと言ってやらねば気が済まなかったから。あの惨状《さんじょう》を見た者として、悪宇商会に何も言わないわけにはいかない。
ルーシーは渋い顔をする店員に頭を下げ、紅茶に角砂糖を一個落とし、スプーンでクルクルっと掻《か》き混ぜてから、平然と言う。
「で、紅さん。何人死んだんです?」
「あんた……」
「そりゃあもちろん、犠牲《ぎせい》は少ないに越したことはありません。でも、まあ、我が社としては、依頼の遂行《すいこう》が最優先ですから。それに伴《ともな》う犠牲の大小には、あまり関心ありませんねえ」
善にも悪にも与《くみ》せず、ただひたすらビジネスとして仕事をする組織。感情を挟《はさ》まずに、何人でも殺し、何人でも救う組織。それが悪宇商会。
真九郎に、その是非《ぜひ》を問う気はない。こういう組織も、世界には必要なのだろう。
だが根本的に、自分とは相容《あいい》れない。絶対に理解できない。
それだけはわかった。
「俺は、悪宇予商会に入る気はありません」
「そんな焦《あせ》らないでくださいよ、紅さん。ゆっくりお話を……」
「結構です」
「まあまあ冷静に。例《たと》えば、ほら、知りたくないですか?」
「何を?」
「国際空港爆破事件。あのテロの犯人が誰か、知りたくないですか?」
「……あんた、何か知ってるのか!」
テーブルに身を乗り出し、真九郎は詰め寄ったが、ルーシーは静かに微笑《ほほえ》むだけ。
パイをフォークで崩《くず》しながら、彼女は言った。
「やっぱり、犯人のことは知りたいですよね。あなたと理津さん、その他にも大勢の人たちの人生を狂わせた、張本人ですから」
「まさか、悪宇商会の人間とでも言うんじゃ……」
「違います。でも、情報は得ています。あなたが我が社と契約してくだされば、全《すべ》てお話ししましょう」
「……ここで、あんたから聞き出す手もある」
「力ずく、ですか?」
パイをクチャクチャと噛《か》み、ルーシーは笑っている。
そんなことできるわけがないと、彼女はわかっているのだろう。
疲れきった今の真九郎に、力が未知数のルーシーを相手にすることなど不可能。
「紅さん、よく考えてみてください。いろいろと不愉快《ふゆかい》なこともあったでしょうが、今回の件、勉強にもなったでしょ?」
「勉強?」
「社会勉強というやつですよ。自分にはどれくらいのことができるのか、できないのか、少しはわかったはずです。個人の限界なんかも」
「それは……」
「この数日間のことはまったくの無駄。ただ早く忘れたい。あなたがそう思うなら、ええどうぞ、この場を去ってください。でも、少しでも、ほんの少しでも成長の糧《かて》になると思ったなら、そう感じたなら、どうか我が社と契約してください。あなたには学ぶべきものがあり、我が社は、それをあなたに提供できます」
「……誰弁《きべん》だ」
「我が社と関《かか》われば今回のような経験がたくさんできる、と言っているだけですよ」
涼しい顔で、ルーシーはパイを口に入れる。
「さっき死者の数を気にしていましたが、それも、あなた次第《しだい》では救えたかもしれない。もちろん、過去は変えられません。でも、未来は未定です。あなたが今より腕を磨《みが》けば、これから先、また今回のようなことに関わっても、一人の死者も出さずに済ませることもできるでしょう。あなたには才能がある。わたし、他人の才能を見抜くのは得意なんです。あなたは伸びる。まだまだ伸びる。でも、今のあなたのやり方では、今より上にはいけません。あなたは今のままです。いつか、また今回のようなことに関わっても、たくさんの人が死ぬでしょう。でも我が社で働けば、あなたは変われる」
ルーシーの声が、緩《ゆる》やかな流れとなって真九郎の耳に響いた。
反論を思いつかない真九郎に、ルーシーの言葉が流れ込み続ける。
「紅さん、よく考えてみてください。今回の件、あなたはとても不愉快に思っている。で、それからどうします? これから家に帰って、体を癒《いや》して、学校に行って、勉強して、それからまた仕事が来るのを待つんですか? 下着|泥棒《どろぼう》を追っかけたり、落書きの犯人を捕まえたり、そんな仕事を? 今回の件は、ああ昔そんな事件に関わったことがあるなあ、という思い出になって終わりですか? そんなんじゃ、意味ないでしょ? 今回の件を教訓としなければ、何の意味もない。これをきっかけに、あなたは変わるんです。変われるんです。紅さん、あなたは変わる。今よりもっと上にいけます。そうすれば、あなたのもう一つの望みも叶《かな》う」
「……もう一つの、望み?」
「例の犯人です。あなたが犯人に復讐《ふくしゅう》できるよう、必要な情報と人材を紹介します。ご家族の仇《かたき》が討《う》てますよ」
復讐。
真九郎は、犯人への復讐を考えたことはない。だがそれは、犯人がどこの誰なのか、何を考えてあんなことをしたのか、わからなかったからだ。憎《にく》みたくとも、恨《うら》みたくとも、情報が少なすぎたからだ。しかし、それがわかったら、わかってしまったら、どうするだろう。
とても平静でいられるとは思えない。
「さあ、紅さん。契約書にサインしましょう」
ルーシーは、にこやかにペンを差し出す。
血のごとき赤いインクで満たされたペン。
「我が社は、あなたの力になります。あなたも、我が社の力になってください」
ルーシーの声に誘われるように、真九郎はペンを握っていた。
頭が重い。疲れた。
あまりにも、いろんなことがあり過ぎたのだ。もうわからない。
自分がこれからどうしたいのかも、わからない。
八年前のあのときから、自分はどうやって生きてきたのか。八年前のあのとき、どうしてあんなことが起きたのか。何が狂ったのか。どうして狂ったのか。
いったい誰が狂わせたのか。
悪宇予商会との契約。それもいいだろう。真九郎は、犯人を知りたい。どうしても知りたい。
その情報を得られるというなら、それだけでも、契約する価値はある。
この毒を飲み込み、自分は前に進む。
真九郎は、ペンの先を契約書へと下ろした。
「ウソだな」
聞こえたのは幼い声。
真九郎とルーシー、二人の視線が向かった先にいたのは、一人の少女。
九鳳院《くほういん》|紫《むらさき》だった。
紫はいつもの半ズボン姿で、腰に手を当て、睨《にら》むようにこちらを見ている。
「おまえ、どうやってここに……」
「それはあとだ」
紫は、真九郎の疑問を一蹴《いつしゅう》。そして唖然《あぜん》とする真九郎の膝《ひざ》の上に、腰を下ろした。
真九郎は感じる。心地よい重さ、柔らかな感触、体温、ホッとする匂《にお》い。
間違いなく、九鳳院紫だ。
夢ではない。
「さあ、話を続けるがいい。わたしも聞いてやる」
突然現れ、ふてぶてしい態度で参加する紫に、ルーシーも面食《めんく》らっていた。
これは、ルーシーにとっても予想外の展開なのだろう。
「……紅さん、この子、あなたのお知り合いですか?」
「はあ、まあ……」
「どうして、この場に呼んだんです?」
「いや、呼んだわけじゃ……」
「いいから話を続けろ、ウソつき女!」
胸の前で腕を組み、徹底抗戦の構えを見せる紫。
わがままな子供に対するように、ルーシーは笑顔で言った。
「お嬢ちゃん、どうして、わたしがウソつき女なの?」
「ウソつきだからだ」
紫はテーブルの上のパイと紅茶に気づき、「食べてもいいか?」と真九郎の顔を見上げる。真九郎が頷《うなず》くと、小さな手でフォークを持ち、パイを崩し始めた。
「わたしは耳がいい。さっきから、ここの会話は聞いていた。終わるまで待っているつもりだったが、あまりに。バカバカしいので、こうして出てきたのだ」
「何がバカバカしいの?」
笑顔のルーシーを見つめ、紫は口の中のパイを飲み込んでから言う。
「上に行くとか、変わるとか、経験とか、難しいことはわからん。だが、おまえの言ってることはわかる。みんなウソだと、わかる」
「ウソじゃないわ」
「それもウソだ。おまえは、真九郎のことなんか考えてない。そういうのは……」
紫はフォークをテーブルに置き、上着のポケットから小さな本を取り出した。子供用の辞書だ。それをめくり、とあるページで止まる。
「あった、これだな。おまえが言ってるのは『おためごかし』だ」
「……は?」
「知らんのか? 真九郎、頼む」
真九郎に辞書を渡し、紫は再びパイを食べ始めた。
紫の示した部分を、真九郎は声に出して読む。
「えっと、意味は………『表向きは相手のためであるかのように見せて、実際は自分の利益をはかること』」
読みながら、なるほどなあ、と納得する真九郎。
重かったはずの頭が、今は軽い。すっきりしている。まるで、頭の中に漂っていた濃い霧《きり》が、清々《すがすが》しい風で一掃《いっそう》されたかのようだ。これは紫のお陰《かげ》だろうか。
「……なかなか、賢《かしこ》いお嬢ちゃんですね」
笑顔を引きつらせながらも、ルーシーは慌《あわ》てなかった。紅茶のカップを持ち、ゆっくりと一口飲んでから静かに息を吐く。
「でもお嬢ちゃん、あなた……」
「質問がある」
ルーシーの顔を、紫はフォークで指し示した。
「おまえは、どこで生まれた?」
「アメリカのフロリダ州よ」
「ウソだな。歳《とし》はいくつだ?」
「二十四歳」
「ウソだな。おまえの名前は?」
「ルーシー・メィ」
「それもウソだ。おまえはウソばかりだな。まさか、女に見えるのもウソではあるまいな」
今やルーシーの顔からは、完全に笑みが抜け落ちていた。その代わりに、明らかな動揺が浮かんでいる。紫は理屈ではなく、理論でもなく、ただ直感のみでルーシーの虚偽《きょぎ》を看破《かんぱ》しているのだ。悪宇商会の人事部員として多くの人間と接してきたルーシーも、こんな子供を相手にするのは初めてなのだろう。
紫を敵に回すことの恐ろしさを、真九郎も感じていた。
この子は直感で真実を悟る。まやかしが通用しない。
紫が普通の子供ではないとようやく察したのか、ルーシーはコートから分厚い革《かわ》手帳を取り出した。それをパラパラとめくる彼女の表情が、驚愕《きょうがく》で歪《ゆが》む。
「……表御三家ですか、なるほど。これは調査不足でしたね。〈鉄腕〉との一件から、まさか紅さんとこれほど仲良くなっているとは」
「ただの仲良しではないそ! わたしと真九郎は相思相愛の……」
悪宇商会にまで誤解を与えたくないので、真九郎は紫の口を手で塞《ふさ》いだ。紫は不満そうにこちらを見上げてきたが、真九郎の顔が真剣なのを見て、すぐにおとなしくなる。
ごめんな、と真九郎は心の中で謝った。
でもこの件は、紫とは関係ないのだ。
これは揉《も》め事処理屋の紅真九郎と、悪宇商会人事部のルーシー・メイ、二人の話し合い。
真九郎は紫の口から手を離し、その柔らかい頬《ほお》を軽く撫《な》でてから、ルーシーに問う。
「確認したいことがあります。犯人を知ってるというさっきの話、ウソだったんですか?」
「そのことは……」
「どうなんです?」
「……まあ、調査中と言っておきましょう」
「それは本当だな」
平然と口を挟む紫を、ルーシーは憎らしげに睨みつけたが、それでもまだ勝算はあると思ったのか、話を続ける。
「紅さん。流しかに、わたしの言ったことは全てが真実というわけではありません。その子の言う通り、偽《いつわ》りも混ざっている。それは認めます。ですが、我が社に所属すれば……」
「お断りします」
無理なく、自然に、真九郎はそう答えることができた。
今の自分が、驚くほど安定しているのがわかる。
真九郎は一度天井を見上げ、息を吐き、それからルーシーに視線を戻した。
「この先どうなるかわかりませんけど、でも俺は、俺なりのやり方で進んで行きますよ」
「わたしと一緒にな」
膝の上にいる紫が、当然のようにそう付け加える。ルーシーがまた睨んできたが、そんなもの意に介《かい》さず、紫はナプキンで口の周りを拭《ふ》き、真九郎の膝から下りた。
「話は終わりだ。さあ行くそ、真九郎」
さっさと歩き出す紫。
真九郎も席を立ち、ルーシーに軽く頭を下げる。
「いろいろと、勉強になりました」
「ああそうですか」
ルーシーは悔《くや》しそうに唇《くちびる》を曲げ、紅茶の入ったカップを手で揺らしていた。
「もう少しで〈崩月《ほうづき》〉の戦鬼《せんき》が手に入ると思ったのに……。あわよくば、〈崩月〉とのコネも作れると思ってたんですが、生意気なクソガキのせいで、全部パーです」
そういう魂胆《こんたん》もあったか……。
崩月家に迷惑をかける可能性もあったわけだ。
やはり自分は甘い、経験が浅い、警戒心が薄い、と真九郎は自戒《じかい》する。
「紅さん、これは忠告ですけどね。あのクソガキとは、早く縁《えん》を切った方がいいですよ」
ルーシーの顔には、また笑みが戻っていた。
それは、他者を侮辱《ぶじょく》する笑み。紫を侮辱する笑み。
「あのクソガキがどこから来たか、あなた知ってます? あのクソガキの本質を、あなた知ってます? 表御三家の娘なんてのは看板だけで、中身はクズですよ、あんなの。あのクソガキはね、能無しの淫乱《いんらん》女を育てる奥《おく》ノ……」
「黙れ」
真九郎は無表情だった。紫には決して見せられない顔。見せてはいけない顔。
心の奥深く、その暗い暗い暗い場所から、冷たい声が這《は》い上がってくる。
「それ以上、くだらねえこと言ったら、その舌《した》、千切《ちぎ》る」
真九郎の意志とは無関係に、あるいは忠実に、右手がルーシーへと伸びた。その手が止まったのは、ルーシーが笑っていたからだ。彼女は愉快そうに笑っていた。
「……やっぱり、わたしの目に狂いはない!」
僅《わず》かに冷や汗《あせ》を流しながらも、ルーシーは笑い続ける。
「あなた、才能ありますよ! 我が社に来れば、立派《りっぱ》な『人でなし』に育ててあげます!」
これが悪宇商会か。
紅真九郎には、絶対に理解できない組織だ。これでハッキリした。
笑い続けるルーシーを残し、真九郎はテーブルを離れる。その背中にルーシーが何か言っていたが、もうどうでもいい。耳を貸す価値もない。
悪宇商会のルーシー・メイ。二度と会うことはないだろう。
もし会うことがあっても、そのときは敵か。
「真九郎、何をしてる! 早く来い!」
「はいはい」
店の出口で待つ紫のもとへ、真九郎は小走りで駆けて行った。
どうして真九郎の居場所がわかったのか。
詳《くわ》しい事情は、ホテルの外で待っていた騎場《きば》が教えてくれた。
「監視衛星です」
「……あの、それ、軍事用の?」
「自分、近衛《このえ》の副隊長を務めておりまして。そのくらいの権限は与えられています」
さすがは九鳳院家。軍事衛星の一つや二つ、自由に使えるということか。
さらに騎場は、部下であるリン・チェンシンから定期的に報告を受けていたという。
ここ数日の真九郎の行動も知っていた、というわけだ。
リン・チェンシンが死んだことについては、「殉職《じゅんしょく》なら、奴《やつ》も本望《ほんもう》でしょう」と短い言葉。
淡々《たんたん》としたものだが、そこにはプロの冷徹さが感じられた。近衛隊の副隊長ということは、九鳳院家の警備に関してトップクラスの地位。責任者としての覚悟は、真九郎の想像が及ぶところではないだろう。
先日の非礼を真九郎が詫びると、騎場は少し笑った。
「物事と真剣に向き合えば、感情なんて、そうそう制御《せいぎょ》できるもんじゃありませんよ」
未熟な若者にも大らかに接する態度。
器《うつわ》が違うなと思い、真九郎は頭を下げる。
「お恥《は》ずかしい限りです。俺は……」
「二人とも! 難しい話はそのへんで終えろ!」
近くで聞いていた紫が、プンプン怒りながら話を中断させた。
大人の会話など、子供には退屈なだけだ。
「騎場! わたしは真九郎と散歩する。おまえはここで待て。……ついてくるなよ?」
黙礼する騎場に背を向け、紫は歩き出す。
散歩?
何でそんなことを……。
首を傾《かし》げる真九郎へ振り返り、紫は苛立《いらだ》つように言った。
「真九郎!」
「はいはい」
従った方が良さそうな雰囲気《ふんいき》なので、真九郎は紫と並んで歩くことにする。
すでに日も暮れた繁華街《はんかがい》。飲み屋の前で集合している学生たちや、ファーストフード店の前で待ち合わせするカップルなどを見ながら、真九郎は紫の歩調に合わせてゆっくりと進んだ。
ようやくの収束《しゅうそく》。まったくもって、ここ数日はろくなものじゃなかった。切られて、落とされて、殴られて、踏まれて、体中がガタガタだ。
こうして生きていられるのは、ちょっとした奇跡。
その奇跡を起こした主は、真九郎の隣にいる。
紫の様子を窺うと、彼女は前を向き、無言で歩いていた。さっきから一言も喋《しゃべ》らない。
散歩を希望したのは、何か話があるからだと思っていたのだが、静かなものだ。
……そういえば、まだきちんと謝ってなかったな。
真九郎は、ここで謝ることにした。
まずは先に、感謝。
「さっきは助かったよ。ありがとな」
「わたしを蔑《ないがし》ろにするから、あんな女に騙《だま》されそうになるのだ」
「……そうだな」
そうかもしれない。ここ数日のことは、この子を傷つけた罰《ばつ》だったのかもしれない。
今は、そんなふうにも思える。
真九郎は視線を上げた。街の明かりのせいで、星も見えない暗い夜空。
神様はいるのか。ちゃんと地上を見てるのか。
「真九郎。仕事の方は、もういいのか?」
「ああ、どうにか終わった。大丈夫だよ。日曜日には、ちゃんと行くから」
「……うん」
紫は頷《うなず》き、そして何を言うか迷うように唇を噛み締めた。
しぼらくしてから、小さな声。
「……真九郎」
「ん?」
「今夜は冷えるな」
真九郎には平気な寒さだが、幼い子供にとっては別だろう。
騎場のところに戻るか、それとも適当な店にでも入るか。
思案する真九郎に、紫は言葉を続ける。
「わたしは、寒い」
「そうか。じゃあ、あそこの団子《だんご》屋にでも……」
紫は足を止めた。それを見て、真九郎も足を止める。
真九郎の顔をじっと見上げ、紫は繰り返した。
「わたしは、寒い」
伝えることはそれが全て。それ以上、紫は何も言わない。
紫が今、何を欲しているのか。真九郎は正しく察することができた。理由はわからない。
人生には、そういうときもある。
真九郎は紫の脇《わき》の下に手を入れ、そっと抱き上げた。それを待ち佗《わ》びていたように、紫は真九郎の肩に頭を乗せ、両手を首に回す。小さな手が、真九郎の服をギュッと握った。
「ごめんな、紫」
背中を優しく叩《たた》きながら、真九郎は言いたかった言葉を告げる。
「俺が悪い。全部俺が悪い。謝るよ。ごめんな」
紫は、何も答えない。少し心配になって真九郎が顔を覗《のぞ》きこむと、彼女の瞳《ひとみ》は涙で濡《ぬ》れていた。声を詰まらせながら、紫は言う。怖かったのだと。ずっと怖かったのだと。真九郎が約束を破り、ショックだった。頭にきた。怒った。だから次の日、学校に来てくれた真九郎を無視した。でもすぐに後悔した。約束を破るのは悪いこと。でも、わがままを言った自分も悪いのではないか。だからその翌日には、謝ろうと思った。真九郎に、謝ろうと思った。でも、真九郎は来なかった。校門の前で、ずっと待っていたけれど、来なかった。五月雨《さみだれ》荘の部屋にも、真九郎はいない。帰ってこない。紫はゾッとした。真九郎が消えてしまったと思った。自分がわがままを言ったせいで、真九郎は怒って、紫に愛想《あいそ》を尽かして、消えてしまったと思った。
そして今日、紫は祈るような気持ちで電話をかけた。それは繋《つな》がった。
真九郎にとっての救いの電話は、紫にとっても同じだったのか。
鼻をすすり、何度もしゃくり上げながら、紫は訴える。
「……さ、さみし……かった……さみしかったよぉ……」
額《ひたい》を真九郎の肩に押しつけ、紫は堰《せき》を切ったように大声で泣き出した。
真九郎は、その小さな背中を優しく撫でる。
世の中には、泣いている子供をうるさいという者がいる。
子供の泣き声が迷惑だという者がいる。
真九郎は、そんなふうに思ったことは一度もない。
素直に感情を発露《はつろ》する子供を、子供の涙を、真九郎は愛《いと》しいとさえ感じる。
「……真九郎。もう、どこにも行かないか?」
「行かないよ」
「……ずっと、一緒にいてくれるか?」
「一緒にいるよ。ほら、鼻水出てるぞ」
真九郎はポケットからティッシュを取り出し、紫に鼻をかませた。そして、冷たい風を避けるように、映画館前の柱に背を預ける。こちらを奇異《きい》の眼差しで見ている者もいるが、かまうものか。どうでもいい。
九鳳院紫は、紅真九郎を必要としている。紅真九郎は、九鳳院紫を必要としている。どうしてなのか、それはわからないが、今、こうしていると心が落ち着くのは本当で、この気持ちは真実で、ならば、余計なことを考えるのはやめよう。
肩を濡らす紫の涙、震える小さな体、心に響く声。
それらを感じながら、真九郎は不意に、闇絵《やみえ》に言われたことを思い出した。
一つでいいから、答えを持て。それがあれば、たいていのことは乗り越えられる。
真九郎にとっての答え。それは、この子なのだろうか。
そんなわけないか……。
真九郎は苦笑し、でも、一つだけハッキリしていることがあると思った。
死んだ者がいくところ。
向こうの世界に、家族はいる。父と母と姉がいる。
でも紫は、この子は、ここにしかいない。
だからまだ、自分は向こうへはいけないのかもしれない。
真九郎は、そう思った。
[#改ページ]
第七章 約束
数日ぶりの学校。その放課後。
真九郎《しんくろう》は、新聞部の部室に籠《こ》もっていた。学校を休んで何が困るかといえば、それはもちろん、授業についていけなくなること。毎回平均点をキープする程度の学力しかない真九郎としては、わりと深刻な問題。というわけで、幼なじみの秀才に頼ることにしたのだ。
部室の机に、自分のノートと銀子《ぎんこ》から借りたノートを広げ、真九郎はひたすら書き写す。本当は借りて帰ろうとしたのだが、「じゃあ有料」と言われたので、仕方なく部室でやることになった。どうして部室内だと無料《ただ》なのか、それはわからない。
シャーペンを持つ真九郎の右手は、少し痺《しぴ》れている。体もあちこち痛いが、まあ我慢《がまん》だ。昨日一日は寝て過ごしたお陰《かげ》で、体調は多少回復。環《たまき》に「つまんなーい、つまんなーい、遊んでくれないと、一緒に寝ちゃうぞー」と騒がれながらも、不思議と休めた。五月雨《さみだれ》荘は、自分にとって心休まる場所になりつつあるのかもしれない、と思う。
右手の痺れが酷《ひど》くなってきたので、真九郎は作業を一度止《や》め、銀子のノートを眺《なが》めた。他人のノートを見るのは、その思考を覗《のぞ》くようでもあり面白《おもしろ》い。銀子のノートは、さすがに学年で十番以内の成績を誇るだけあり、要点のまとめ方といい、字の美しさといい、真九郎とは段違いだ。きっと頭の中も、こうしてきちんと整理されているのだろう。
銀子の方を盗み見ると、彼女はいつも通り、ノートパンコンと睨《にら》めっこ中。室内には、軽やかにキーを叩《たた》く音だけが響いていた。真九郎が怪我《けが》をしても、学校を休んでも、銀子はその理由を深く詮索《せんさく》したりはしない。真九郎も、銀子がどんな相手と情報の売買をしているのかは知らないが、それでいいと思う。何でも話せた昔とは、もう違う。お互いに不可侵《ふかしん》の領域ができたのは、大人になったと喜ぶべきか。それとも、子供ではなくなったと悲しむべきか。
事情は話せずとも、勝手に名前を使った件だけは、真九郎は銀子に謝っておいた。銀子は「そう」と短い返事。そしてどうでもよさそうに、こう言った。
「あんたには山ほど貸しがあるんだから、今さらそれが少し増えたところで、どうってことないわよ。せいぜい長生きして、返してちょうだいよね」
長生きは約束できない。でも、借りはきちんと返そうと真九郎は思う。
今後、そういう機会があればいいのだが。
程良く暖房の効《き》いた室内の空気は、眠気を誘う。欠伸《あくび》を噛《か》み殺し、真九郎が再びノートを書き写そうとしたところで、部室の扉がノックされた。ここを誰かが訪れるのは珍しい。
怪訝《けげん》そうにしながらも、「どうぞ」と銀子が応じる。
「失礼しまーす」
涼やかな声とともに扉が開き、現れたのは崩月《ほうづき》|夕乃《ゆうの》。
「夕乃さん……」
「ここでしたか、真九郎さん。いろいろ捜しちゃいましたよ」
夕乃はまず真九郎に微笑《ほほえ》みかけ、部室の中を見回す。
「初めて来ましたけど、いいですね、ここ……。なんか、秘密の小部屋みたい」
「狭くて悪かったですね」
そう言ったのは、部屋の主《あるじ》である銀子。
無愛想《ぶあいそう》な銀子にも、夕乃は笑顔で挨拶《あいさつ》する。
「あら、村上《むらかみ》さん、お久しぶり」
「どうも」
「ごめんなさいね。うちの真九郎さんが、いつもお世話になってるみたいで」
「……うちの?」
「はい。うちの真九郎さんです」
ニッコリ微笑む夕乃を見て、銀子は不愉快《ふゆかい》そうに目を細めた。
何を怒ってるんだろ……。
真九郎にはよくわからなかったが、取り敢《あ》えず、夕乃に来訪の理由を尋《たず》ねることにした。この部室について夕乃に話したことはあるが、彼女が足を運ぶのは初めてだ。
「用件はですね、えーと、ここじゃ何ですから、廊下で……」
「かまいませんよ、崩月先輩。どうぞ、ここで話してください」
銀子はさっさと背を向け、再びノートパンコンに集中。キーの叩き方がやや荒いのは、自分の縄張《なわば》りを夕乃に荒らされた怒りを表現したものか。
「では、こちらで」
真九郎の手を引き、部室の端に移動する夕乃。
顔を寄せ、彼女は囁《ささや》くように言う。
「あの、実はですね、例の件がダメになってしまいまして……」
「例の件?」
「明日の、です」
「ああ……」
意味深な言い方をするので何かと思えば、授業参観のことか。
理由を訊《き》いてみると、法泉《ほうせん》の代理で、夕乃は裏世界の会合に参加することになったらしい。
権力闘争からは身を引いた〈崩月〉だが、全《すべ》ての関係が断ち切れているわけではない。真九郎も詳《くわ》しくは知らないが、その種の集まりに崩月家の人間が顔を出すことも、たまにはあるようだった。
「師匠《ししょう》が行けないってことは、まさか、体の調子でも悪いの?」
「デートです」
老いてなお盛んな崩月法泉は、交際中の女性を伴《ともな》い、温泉旅行。
色恋|沙汰《ざた》を優先するのはいかにも師匠らしいな、と真九郎は思う。
「本当にごめんなさいね、真九郎さん……」
夕乃は、心底《しんそこ》無念そうに謝罪した。
「気にしなくていいよ。こっちが無理に頼んだようなもんだしさ」
「でも真九郎さん、わたしとの夫婦役を、すごく楽しみにしてたでしょう?」
「いや、それほど……」
「してましたよね?」
「……あ、はい、もちろん」
「わたしも、すっごく楽しみにしてたんです。それなのに……」
お祖父《じい》ちゃんのバカ、と小声で呟《つぶや》き、軽く息を吐いてから、夕乃は気を取り直す。
そして、真九郎の目をじーっと見つめた。
「で、真九郎さん。例の件その二は、どうでした?」
「その二? ……ああ」
さてどう言ったものか。
真九郎は少し考え、頭を掻《か》きながら答える。
「まあ引き分け、かな」
西里《にしざと》総合病院の事件は、大量殺人と倒壊《とうかい》事故の扱《あつか》いに、マスコミも苦慮《くりょ》しているようだった。事件の規模に反して、報道は少ない。おそらく九鳳院《くほういん》家の力が働いているのだろう。患者の親族たちも、それを希望しているのかもしれない。斬島《きりしま》|切彦《きりひこ》との決着の仕方については、あれで良かった、と思う。そう思うことにする。
「引き分け……」
夕乃は頬《ほお》に手を添え、「んー」と悩むように唸《うな》った。
「真九郎さんが勝ったら、あーんなことしてあげようとか、負けたら、こーんなことしてもらおうとか、わたし、ちゃんと考えてたんですが……保留ですね」
具体的に何なのか少し気になるが、真九郎は追及しないことにする。
夕乃は「次の機会には必ず誘ってくださいね」と真九郎に言い置き、部室の扉を開けた。
銀子に向かって、静かに一礼。
「それでは村上さん、お邪魔しました」
「どうも」
「今後とも、うちの真九郎さんと仲良くしてあげてくださいね」
「長い付き合いですから」
「わたしと真九郎さんは、深い付き合いです」
「そうですか」
「そうです」
ほんの数秒間だけ見つめ合い、会話を終える二人。
夕乃が去り、部室の扉が閉まる。
ノートの書き写しを再開しようとした真九郎に、銀子はため息混じりに言った。
「顔に似合わず好戦的よね、崩月先輩って……」
「そうか? 夕乃さんは優しいだろ」
「……鈍《にぶ》いあんたには、わからんか。それで、さっきのは何?」
「さっきの?」
「明日、例の件、夫婦役がどうのってやつ、何なの?」
どうでもよさそうだったのに、しっかり聞き耳を立てていたらしい。
「いや、銀子には関係が……」
「言いなさい」
すごい目で睨まれた。
真九郎が素直に白状すると、銀子は「なるほど……」と目を細める。
「いいわね、楽しそうね、良かったわね。綺麗《きれい》な先輩や、可愛《かわい》い子供と仲良くできて」
「別に、それは……」
「で、その授業参観は明日?」
「そうだけど……」
「行ってあげるわよ」
「えっ?」
「崩月先輩の代わりに、あたしが行ってあげる」
「……おまえが?」
「不服?」
また睨まれたので、真九郎は首を横に振った。
まあ、それもいいか。
一人で行くよりは、心強いだろう。
翌日の日曜日。早起きした真九郎は、押入れの奥からスーツを引っ張り出し、久しぶりに袖《そで》を通した。一人暮らしを始める際、何かで必要になることを考え、買っておいたもの。まさか、初めて使うのが小学校の授業参観とは夢にも思わなかったが。
闇絵《やみえ》や環に見つかると確実に冷やかされるので、真九郎は足早に五月雨荘を出る。銀子との待ち合わせ時間を確認しながら歩いていると、道路からクラクションを鳴らされた。振り向いた視界に入り込んでくるのは、漆黒《しつこく》の流線型。どこのカタログにも載ってない特注車。
運転席の窓が下がり、タバコを銜《くわ》えた世界|屈指《くっし》の揉《も》め事処理屋が、不敵に微笑む。
「よう、真九郎」
「……紅香《べにか》さん」
「乗ってけ。送ってやるよ」
助手席のドアが開き、真九郎はそちらから車に乗りこんだ。真九郎が行き先を告げると、紅香はアクセルを軽く踏み、道路にタイヤ痕《こん》を残すような急発進。制限速度など気にしない加速で、車は道路を突っ走っていく。それに目をつけた白バイもあったが、紅香は鼻歌交じりでシフトチェンジ。さらにアクセルを踏み込む。
真九郎が後方を窺うと、もう白バイの姿は見えない。
前回乗ったときは真九郎も気にしなかったが、かなり荒っぽい運転だ。
「……念のために訊きますけど、紅香さんて免許持ってます?」
「そんなものはな、十年も運転してれば免除されるんだよ」
本気でそう信じてそうな口調なので、真九郎はコメントを避ける。世の中には、こういう傲慢《ごうまん》が許される人間も稀《まれ》にいるのだ。紅香が教習所に通い、試験を受ける姿など、真九郎には想像できない。
「真九郎。紫とは、上手《うま》くやってるか?」
「……どうにか」
「どうにか?」
真九郎の微妙な反応が面白かったのか、紅香は大声で笑った。
相変わらず豪快な人だ。
紫《むらさき》との件はあまり触れて欲しくないので、真九郎は話題を変える。
「しぼらく見ませんでしたけど、仕事ですか?」
「まあな。東南アジアの臓器密輸組織とか、フランスの人喰い姉妹とか、悪魔教団の変態ロリコン坊主《ぼうず》とか、いろいろ追ってるよ。ハリウッドの首切り事件も、頼まれた」
「……あ、新聞で読みました」
大物プロデューサーが、十数人のボディガードとともに、自宅で首を切断された殺人事件。
手口が派手《はで》ということもあって、未《いま》だに報道が続く有名な事件である。
「ちなみにその犯人は、悪宇《あくう》商会の殺し屋で、〈ギロチン〉と呼ぼれてる奴《やつ》だ」
えっ、と声を出しそうになり、真九郎は慌《あわ》てて口を閉じた。
切彦ちゃんの仕業《しわざ》だったのか……。
たしかに彼女の力なら、それくらい造作《ぞうさ》もないだろう。
「どうやら今は日本にいるってとこまでは突き止めてるが、悪宇商会はガードが堅い。そこから先は、さっぱりだ。おまえ、何か知らないか?」
「知りません」
紅香の仕事を邪魔するのは、心苦しい。でもここは、とぼけることにする。
真九郎は、切彦という少女が嫌いではないのだ。
紅香は真九郎の横顔を不審《ふしん》そうに見つめていたが、「ま、いいか」と笑った。
「正直、わたしも乗り気じゃない」
素早い手さばきでシフトチェンジ。紅香はアクセルを踏みこみ、車はさらに加速。
そして紅香は教えてくれた。マスコミの報じない、裏を。
殺された大物プロデューサーは、表向きの顔は慈善《じぜん》家。しかし裏では、貧困層から子供を買い上げ、金持ちに「玩具《がんぐ》」として売り渡す組織を運営していたらしい。
かなりの悪党だよ、と紅香は言った。
仕事であれば、どんな悪人も殺し、どんな病人も殺す。それが悪宇商会。
真九郎は今回の件を全て話し、紅香に意見を求めようか一瞬だけ迷う。しかし、やめておいた。悪宇商会との決別も、理津《りつ》の死も、自分の中にだけ抱えておこう。この仕事を続けるのなら、これから先もきっと、いろんなことを抱えていくのだろう。いつか自分は壊れるかもしれない。今だってすでに、どこか壊れている。多分、壊れている。それでもまともな人間のように見えるのは、かろうじて生きていられるのは、周りに支えてくれる人たちがいるから。
でもそれは、これからも期待していいものだろうか。
紅真九郎は、いつまで周りに支えられ続けるつもりなのか。
流れる景色を見ながら、真九郎は言ってみる。
「……俺は、こっちの世界に向いてますかね?」
初めての質問。揉め事処理屋を始めるときも、紅香に訊かなかったこと。
怖かったのだ。もし彼女に否定されたら、それで終わってしまうから。
「今さらなんですけど、俺……」
言葉を続けようとした真九郎は、紅香の方を見てため息が出る。
紅香は笑っていた。必死に笑いを噛み殺している。
「……真面目《まじめ》な話、してるんですけど」
「だってなあ、おまえ、辛気臭《しんきくさ》い顔で何を言うかと思えば……」
「俺は……」
「天職と適職は違う」
タバコを灰皿に押しつけ、紅香は新たな一本を銜えた。ジッポライターで着火。そして、ゆったりと紫煙《しえん》を吐き出す。
「わたしが思うに、揉め事処理屋はおまえの天職だ」
「えっ?」
「というのは間違いで、実は適職かもしれない」
「……真面目にお願いします」
「まあ、わたしが言いたいのはな……」
紅香は座席の下に手を伸ばし、折り畳《たた》んだ新聞を真九郎に放り投げた。新聞の社会面には、老夫婦による猟奇《りょうき》殺人事件の記事。数年|毎《ごと》に全国各地に移り住み、幼児ばかりを狙《ねら》って犯行を重ねてきたというその事件の全容について、詳しく書かれていた。断固|厳罰《げんばつ》に処すべし、と主張する専門家のコメントの下には、犯人の逮捕に民間人の協力があったことが、小さく載っている。
「それ、おまえだろ?」
タバコを銜えたまま、紅香は言った。
「そういうことができる自分を、少しは好きになってやれよ」
「でも、こんなの、偶然で……」
「アホ」
真九郎の苦悩を、紅香はあっさり切り捨てる。
「偶然で人を救えるなんて、最高じゃないか」
煙《けむ》に巻かれた気分だったが、真九郎は、おぼろげながらわかったような気もした。
真九郎の求める答えは、紅香も持ってないのだ。それは当たり前。自分のことなのに、他人に答えを求める真九郎の方が間違っている。むしろ、安易に答えらしきものを示さない紅香に、ここは感謝するべきか。そんなことをされたら、真九郎は、それにいつまでもすがってしまうだろう。
日曜の朝で空《す》いている道路に紅香の運転もあって、真九郎は予定よりかなり早く駅前に到着した。
車のドアを開け、降りようとした真九郎に、紅香は言う。
「そういえば、おまえ、その格好《かっこう》はどうした?」
「……あー、実は、これから紫の通ってる小学校に行くんです」
「小学校?」
「授業参観ですよ」
「何だそれ? 日本語か?」
露《つゆ》ほども興味がなさそうな反応だった。子供のいる母親としては、かなり問題。
真九郎が詳しく説明すると、紅香は「へえ」と驚いたように口を開く。
まったくの初耳らしい。
「……余計なお世話かもしれませんけど、お子さん、大事にしてあげてくださいね」
紅香は笑っていた。それは誤魔化《ごまか》しの笑みか、承知《しょうち》の笑みか、ただ愉快《ゆかい》なのか。
未熟な真九郎には、よくわからなかった。
駅前に銀子が現れたのは、待ち合わせ時間のきっかり五分前。
真九郎とのバランスを考えたのか、銀子はカジュアルなスーツ姿で、足元は上品なヒールだった。この姿をクラスメイトたちが見たら、少しは村上銀子の評価も変わるだろう、と真九郎は思う。
もちろん、良い方にだ。
無言で見つめる真九郎に、銀子は言った。
「感想は?」
「いいんじゃないか」
「それだけ?」
「うん」
銀子は不満そうだが、真九郎としては驚くことでもない。
真九郎の生まれて初めての友達は、メガネをかけていて、気が強くて、ちょっと怖いところもあるけれど、でも、とても優しくて可愛い女の子。
「おまえが美人だってことは、昔から知ってるよ」
真九郎が正直に告げると、銀子は少し驚いた顔をしてから、「……そう」と微《かす》かに笑う。
今日は…機嫌がいいようだ。
銀子と並び、真九郎は小学校へ向かった。
授業参観の形式は、学校によって様々。かつて真九郎の通っていた小学校では、主に土曜日の午前中に行われたが、紫の通う小学校では日曜日の午前中。その代わりに、翌日の月曜日は代休となる。
紫の担任に、一応挨拶した方がいいか。その場合、自分の立場をどう説明するか。
真九郎がそんなことを考えていると、隣を歩く銀子が言った。
「少し真面目な話するけど、いい?」
「どうぞ」
「九鳳院の娘と親密になって、それで、どうする気なの?」
「どうするって?」
「まさか、本気で逆玉《ぎゃくたま》を狙ってるわけじゃないでしょ」
遠慮《えんりょ》のない質問だな、と苦笑しながらも、真九郎は答える。
「おまえ、桃組の甲野《こうの》先生って覚えてるか?」
「……いきなり古いこと言うわね」
幼稚園のとき、真九郎と銀子のいた桃組を担当していた女性。
それが甲野先生だった。
「俺、甲野先生のことが好きでさ。あの頃は、大人になったらお嫁さんにしたいとか、そんなこと思ってた」
「へえ……」
「でも今は、もう、顔も覚えちゃいないよ」
とても優しい人で、ひらがなやカタカナを教えてくれたし、泣いたときには慰《なぐさ》めてくれたし、つまらない話でもじっと聞いてくれたし、真九郎は本当に大好きだったのに。
もう、ほとんど覚えていない。声も、顔の輪郭《りんかく》すらも、思い出せない。
真九郎にとって、完全に過去の人だ。
「年月の流れってのは、そんなもんだろ」
「……だから九鳳院の娘も、そのうち、あんたなんかどうでもよくなるってこと?」
「ああ」
銀子に遠慮がないように、真九郎も彼女には遠慮がない。だからこれは、飾る言葉を排除した、真九郎の本音だった。今はまだ世間《せけん》に知り合いが少なく、慣れないことも多い紫だが、いずれ、そう遠くないうちに成熟し、真九郎と会う機会も減っていくだろう。やがて真九郎は紫の過去になる。それでいいと、真九郎は思う。
しかし幼なじみの少女は、真九郎の考えを「甘い」と言った。
「甘いって、何が?」
「あんたの言うことも一理あるけど、でも、そうとも限らないわ。昔の気持ちを、ずっと持ち続けてることだってある。昔言われた些細《ささい》な一言を、ずっと覚えていることだってある。それが、一生を照らす光になることだってある。あたしは、そう思う」
「……そんなことあるかな」
「ある」
そうだろうか。そんなこと、あるのだろうか。
銀子は、まだ何か言いたそうだったが、真九郎は前を見た。前だけを。
小学校の校門が近づいてくるにつれ、道には大人の姿が増え始めた。目的は真九郎たちと同じだろう。派手に着飾った者もいれば、ラフな普段着の者もいる。校門を通って校舎に入り、二人は下駄《げた》箱でスリッパに履《は》き替えた。周りと比べると、明らかに自分たちは若過ぎるので、真九郎は少し緊張。しかし、隣の銀子が堂々としているのを見て、真九郎は自分もそうあるように努める。
二人の通った小学校はここではないが、それほど差はなかった。廊下の掲示板には『正しい交通ルール』や『正しい歯の磨《みが》き方』などがイラストつきで説明され、その側《そば》にはメダカの泳ぐ小さな水槽《すいそう》が一つ。窓や掲示板の位置は、高校よりも少し低い子供サイズ。真九郎は、時の流れを感じる。自分はもう、ここにいられる人間ではない。ほんの少しだけ寂しい。
授業参観は全学年が同じ日に行うため、校内はかなりの混雑ぶりだった。大きな声で立ち話に興《きょう》じる母親たちや、名刺を交わして挨拶する父親たちを避《よ》けながら、真九郎と銀子は廊下を進む。紫にもらったプリントで位置を確認し、ようやく教室を見つけたが、すでに黒山の人だかり。教室は満員状態だ。
隣にいる銀子が、真九郎を横目で見る。
「どうするの?」
「行くしかないだろ……」
とにかく自分が来ていることを伝えるため、真九郎は人ごみの中心を突っ切るつもりで前進。しかし、捜している相手は向こうからやって来た。
「真九郎!」
親たちの足元を通り抜け、教室から飛び出してくる紫。
勢いよく抱きついてきた小さな体を、真九郎は柔らかく受け止める。
「調子はどうだ?」
「真九郎がいてくれるなら、わたしはいつでも元気だ!」
「それは結構」
「そのスーツ、よく似合っているな。カッコイイぞ!」
「ありがと」
真九郎に頬を撫《な》でられ、幸せそうに笑う紫。
その視線が、真九郎の隣にいる銀子に向けられた。
「……おまえは誰だ?」
「こんにちは、紫ちゃん」
膝《ひざ》を曲げて紫と目の高さを合わせ、銀子は軽く微笑む。普段は無愛想な銀子だが、実は意外と子供好き。学校では決して見せない笑顔も、子供が相手なら素直に見せる。
自分が真九郎の古い友人であることを、銀子は紫に説明。それは、まるで教育テレビのお姉さんみたいな口調だったが、子供相手だと自然に対応が柔らかくなる銀子の性格が、真九郎は好きだ。
話を聞いた紫は、そうかそうか、と鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いてみせる。
「よく来たな、銀子! 遠慮せずに、くつろぐが良い」
紫の大げさな言い回しに、銀子は少し笑っていた。
その周りでは「あれが例の九鳳院の子?」「妾《めかけ》の子って噂《うわさ》よ」「じゃあ、あの二人も九鳳院?」などと親たちが噂話をしていたが、真九郎は気にしないことにする。銀子と紫も、気にしていない。そんなものは雑音だ。雑音に反論しても仕方がない。
「真九郎、こっちへ来い! クラスのみんなに紹介するぞ!」
「いや、それはしなくていいから」
「絶対する! 真九郎はわたしの……」
真九郎の手を引っ張っていた紫は、急に言葉を止めた。真九郎の顔をじっと見つめ、そして、何かを決意したように頷く。
「よし! 真九郎、こっちだ!」
「えっ?」
紫が手を引く方向は、教室ではなかった。廊下の端にある階段だ。
真九郎は銀子に「悪いけど待っててくれ」と目で合図。「了解」と銀子が手を振るのを見ながら、紫に引っ張られて階段を上がっていく。真九郎が抵抗しないのは、この子がやることに悪いことはないと、確信しているから。真九郎に何か用があるなら、それは本当に重要なことなのだろう。
そう思いつつも、真九郎は年長者として一応常識を示した。
「紫、もうすぐ授業があるから……」
「真九郎の方が大事だ!」
必殺のセリフ。真九郎は、もう何も言えなくなる。
紫の目的地は最上階のさらに上。鉄の扉を押し開くと、すぐに強い風が吹きつけてきた。それに押されそうになる紫の体をそっと支え、真九郎は外に出る。
金網《かなあみ》の柵《さく》で囲まれた、学校の屋上。もちろん無人だ。
頭上には、目に痛いほど鮮やかな青空が広がっていた。
「で、どうしようってんだ?」
「少し待て」
紫は日当たりの良い位置を選ぶと、何故《なぜ》かそこで正座。
そして自分の膝を、パンパンと手で叩いた。
「さ、良いそ。準備万端だ」
「何が?」
「これは、膝枕というものなのだ」
「………はあ?」
「知らんのか、膝枕を?」
「いや、それは知ってるけど、何で今……」
「真九郎は疲れている」
「えっ?」
「この前のウソつき女との話を、まだ気にしているのではないか?」
「それは……」
どうしてこの子には、すぐわかってしまうのだろう。
頭を掻き、真九郎は紫から視線を外す。
悪宇商会のことは、結局、真九郎が何かを選んだわけではない。選択|肢《し》を一つ捨てただけ。 真九郎は何も変わっていないし、変わる見込みもない。
どうにか生き延びたあとに残ったのは、いつも通りの自分。
これからどうするか、何もわからない自分。
真九郎は紫に言う言葉を考えようとして、すぐにやめる。
余計な思考だ。誤魔化してどうする。
この子にウソはつきたくない。
「……ま、おまえの言う通りかもな」
暖昧《あいまい》に肯定。この暖昧さが、真九郎のささやかなプライド。
紫は「やっぱりそうか」と頷き、再び膝をパンバンと叩く。
「そこで、膝枕だ」
「何で?」
「女の膝枕には、男を癒《いや》す力がある」
「誰だよ、そんなこと言ったの……」
「お母様だ」
「………」
「お母様は、ウソなど言わない。だから、真九郎もその効果を試してみるがよかろう」
笑顔で膝を叩き、さあさあ、と促《うなが》す紫。
まあいいか……。
簡単に提案を受け入れてしまう自分が、真九郎は不思議だった。本当に不思議だった。この子が相手だと、そういうことがよくある。
真九郎は紫に手を掴《つか》まれ、導かれるようにして、その小さな膝の上に頭を乗せた。
視界が自然と上を向く。そして。
「どうだ、真九郎?」
空が見えた。透き通るような青い空。
そんなものはさっきから見えていたけれど、でも、なんか違う。
説明できないけれど、なんか違う。
なんだろう、これは。
頭の後ろに感じる柔らかさ。体温。それだけで、こんなに変わるものなのか。
こんなに心が落ち着くものなのか。
「お母様の言ったことは、ウソだったか?」
「……いや、おまえのお母さんは、凄《すご》いよ」
蓮丈《れんじょう》を愛し、紫を産み、紅香が親友のように語る女性だ。凄いに決まっている。
そしてこの子も、凄い。真九郎はそう思う。
自分の行動が真九郎を満足させたとわかり、紫はニコニコ笑っていた。
「真九郎。今日は、来てくれてありがとう」
「約束したからな……」
「うむ。でも、ありがとう。わたしは嬉《うれ》しい。すごく、嬉しいぞ」
紫の小さな手が、真九郎の頭を撫でた。慈《いつく》しむような、優しい手つき。おでこに触れる柔らかい指先から、真九郎を労《いた》わる紫の気持ちが伝わってくるようだった。
思わず眠りに誘われそうな心地良さに、疲れも悩みも何処《どこ》かへ消えていく。
「真九郎、知っていたか? 授業参観というものは、毎年あるらしい」
「ああ、知ってるよ」
「そうか。それで、実はな……」
真九郎の頭を撫でながら、紫が見下ろしてくる。
「わたしは、また来年も、真九郎に来て欲しいのだ」
そこまで言ったところで、紫は急に不安げな表情になった。
彼女らしくない弱々しい声で、探るように言葉を続ける。
「……そういう約束は、ダメか?」
真九郎は目を閉じた。
ああ、約束ってものは大事だ。本当に本当に、大事なものなんだ。そう思う。
守りたい約束があるという、ただそれだけで、心に力が湧《わ》いてくる。
これからも生きよう。そう思えてくる。
約束を守るために生きよう。そう思えてくる。
真九郎は目を開け、紫を安心させるために微笑んだ。
「わかった。来年も来るよ。約束だ」
「本当か?」
真九郎が頷くと、紫は感激したように目を見開き、ホッと息を吐く。そして、とても幸せそうに笑いながら、「………ありがとう」と、小声で眩いた。
その笑顔を見て、真九郎は思う。自分は、この子の恋人にはならない。もちろん、この子と結婚もしない。でも、一緒にいてあげようと思う。一緒にいたいと思う。いつか誰かが、この子を愛してくれる誰かが、この子を幸せにしてくれる誰かが現れるまでは、紅真九郎は九鳳院紫のために生きていようと思う。それを理由にして、自分は生きられると思う。
……その誰かが現れなかったら?
心の何処かでそんな声。
……もしも、この子を幸せにする男が現れなかったら、どうするんだ?
真九郎は考える。真面目に考える。
それは、そのときは……。
「……やらしい」
銀子の声がした。
真九郎は慌てて体を起こし、声のした方角に目を向ける。
屋上の入り口の側に、かつてないほど険しい顔で、村上銀子が立っていた。
「帰ってこないからどうしたかと思えば……。あんた、何やってんの?」
「いや、これは、ちょっと、寝不足だから、昼寝を……」
「膝枕で真九郎を癒していたのだ」
真九郎の弁解を、紫はあっさり打ち砕《くだ》いた。事実は強い。
「膝枕、ね……」
頭痛を堪《こら》えるように眉間《みけん》に鐵《しわ》を寄せ、こちらにやって来る銀子。
さらなる弁解の言葉を探す真九郎をよそに、紫は元気のいい声を上げた。
「そうだ! 真九郎、約束を一つ忘れているぞ!」
「えっ?」
まだ何か約束してたか?
あったような、なかったような……。
「性教育だ! 真九郎がわたしに教えてくれると、約束した!」
「あー……」
……完全に忘れていた。
銀子の様子を窺うと、これ以上ないほど冷たい視線。
「真九郎。あんた、そんな約束したの?」
「した……かな」
「かな?」
「しました。はい、しました」
「へえ、それはそれは……」
怒りと軽蔑《けいべつ》をこめ、銀子の目が細まる。
しかし、そこで何か思いついたのか、銀子は口元を微かに曲げ、紫の隣に腰を下ろした。
「紫ちゃん、あたしもいい?」
「銀子も知らないのか?」
「実は、よく知らないのよ」
「では銀子も、わたしと一緒に真九郎から教えてもらおう!」
「そうね。真九郎先生がどんなお話をするのか、とっても興味あるわ」
二人から見つめられ、真九郎は言葉に詰まった。
「えーと………」
幼なじみは意地悪で、幼い少女はただ無邪気で、空は快晴で、さてどうしよう。
真九郎は思う。
神様なんて、きっと、ろくな奴じゃない。家族を奪ってみたり、紫のような子と会わせてみたり、いろいろやって、こっちが困り果てる様《さま》を見て、ほくそ笑んでいるに違いないのだ。今も、どうせ笑っているのだろう。だから、やっぱり、祈ってやるものか。どれだけ困ろうと、祈ってなどやらない。
真九郎は一度だけ天を睨みつけ、それから頭を掻き、この場を切り抜けるための、何か関連のありそうな話題を探し、自分の知る中でもっとも無難な、それでいて情熱的な話をすることにした。ずっと昔に聞いた、両親の馴《な》れ初《そ》め。
いわゆる、愛の話というやつだ。
――おわり――
[#改ページ]
あとがき
人生には、「〜〜しておけばよかった!」という後悔がよくあります。ただ、その後悔にも種類がありまして、思い返すと腹が立つもの、苦笑してしまうもの、虚《むな》しくなるものなど様々。わたしの記憶にある後悔の大半は虚しくなるものなのですが、一つだけ、何だか不思議な気持ちになるものがあったりします。
それは小学校のときにもらった、手紙のことです。
その頃、わたしは親の仕事の都合で何度か転校を経験していました。二年近く過ごした学校を去ることが決まったある日、担任の先生がクラスのみんなに原稿用紙を配り、こう言い出したのです。「みんなで、片山《かたやま》くんとの思い出を書きましょう」。その原稿用紙は、わたしの机にも置かれました。「片山くんは、この学校に来てからの思い出を書きましょうね」と先生。
しかし、当時も今も、わたしは作文が大の苦手です。思い出はあるけれど、それをどうやって文章にすればいいのか、さっぱりわかりません。どうしよう。何を書いて原稿用紙を埋めよう。しんと静まり返った教室で、みんなが鉛筆を動かすなか、わたしは頭を抱えていました。
考えても何も浮かばず、ぼんやりと教室内を眺《なが》めたとき、一人の生徒が席から立ち上がったのが見えました。小柄な女の子です。彼女は先生のいる教卓の前まで行くと、小声で何かを伝え、新しい原稿用紙をもらってから再び自分の席へ。そして彼女は下を向き、黙々と鉛筆を動かし始めました。クラスのみんなに配られた原稿用紙は、それぞれ一枚。しかし彼女は、二枚目を要求したのです。一枚では足りなかったのです。そのときのクラスのみんなの表情、そして自分の戸惑《とまど》いを、よく覚えています。彼女は、いつも虐《いじ》められている子でした。どうして虐められているのか、その理由は知りません。わたしが転校してきたときには、すでにそういう構図が出来上がっていて、彼女を「汚いもの」として扱《あつか》うのが普通になっていました。彼女に触れると汚い。彼女の机や持ち物に触れると汚い。彼女と会話すると汚い。そうなっていました。わたしの、彼女に対する印象はどうかというと、「話す声が小さくて、なんか暗い女の子だなあ」というもの。好感を抱くことはありませんでしたが、周りに合わせて彼女を虐めるのはカッコワルイと思ったので、普通に接していました。普通に挨拶《あいさつ》したり、会話したり、プリントを渡したり。特に親しかったわけではありません。友達と呼べるかどうかも微妙なところでしょう。でもそんな彼女が、わたしとの思い出を、クラスで一番たくさん書いてくれたのです。そのことを周りで冷やかす者もいましたが、彼女は意に介《かい》さず、ただ鉛筆を動かしていました。
彼女が何を書いたのか、それはわかりません。
わたしが、読んでいないからです。
先生からみんなの手紙を受け取った際、わたしは「あとで落ち着いてから読もう」と思い、引越しの荷物と一緒に片付けてしまったのです。ところが業者の、ミスで、何故《なぜ》か、その手紙が入っていたダンボール箱だけが紛失《ふんしつ》……。
当時は「受け取ってすぐ読んでおけば!」と、自分の判断に腹が立ちましたが、しばらく経《た》ってみると、「わからないままでもいいか」という気になり、今では「わからなくていいや」と頭の中で一応整理しています。後悔は後悔でも、どう分類すればいいのか難しい、何だか曖昧《あいまい》な後悔。でも、暖昧なものというのは、ハッキリしないからこそ可能性を秘めている。人の心の中には、きっと曖昧なものがたくさん漂っていて、たまに、それに都合のいい解釈を加え、自分を慰《なぐ》さめたり、鼓舞《こぶ》してみたりするんじゃないでしょうか。
ここからは謝辞《しやじ》を。
今回は、わたしの不手際《ふてぎわ》で各方面にご迷惑をおかけし、本当にすみませんでした。
反省しております。
八年近くも付き合ってくれたわたしのパンコンよ、さようなら。
痺《しび》れるようなイラストを描いてくださった山本《やまもと》さん、粘り強く耐えてくださった担当の藤田《ふじた》さん、編集部のみなさま、そしてこの本を読んでくださった読者のみなさまに、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
[#地付き]片山 憲太郎