終章 沙綾
あれから、いろいろなことがあった。
英田健一郎氏の遺産のこと。遺言もなく、内縁の加奈子さんには相続権はなかった。しかし娘の未歩ちゃんには、先妻の子供と等分の相続権が認められる。ダムの保証金などもあり、美土家は今すぐに生活に困るような事態は避けることができた。
健一郎氏の遺骨のこと。詢によれば、痛いの賞勇者というのは祭事継承者であり、それは相続権とは関係がない。この場合、健一郎氏が「散骨して欲しい」と、いずれは同じ山に眠ろうといったことから、おそらく祭事継承者は加奈子だと認められるという。英田家の遺族も、風向きがそのようになったのを認めたのか、やがて加奈子に対してせめて分骨をと願い出た。しかし遺体を引き裂くような分骨を嫌った加奈子は、それを拒否した。そして、すでに納骨が済んでいた夫の遺骨を取り出して、夫の望みどおり樹谷(こだまだに)の山に撒いた。釣りが好きだった健一郎氏は、彼の愛した渓流に近い山に眠っている。
それも、すべては水底に沈む。
ダムに沈む。あの燃えるような赤い森も。樹ヶ淵も。骨も。異界の臭いのするものは、みなーー。
美土家は穴森村から引越し、もみじ野市からも離れて、まったくゆかりのない海のそばの雪の少ない土地で、新しい暮らしを営みはじめた。娘の未歩ちゃんのことを慮ってのことだろう。加奈子さんと沙綾は働きはじめた。幸い祖母のヨミさんは壮健で、未歩ちゃんの面倒をみているという。
藍色の山は白い雪をかぶっている。まだ色淡い、春の目覚めのときを迎えた北陸の山村を、あでやかな生き雛行列が並ぶ。
絵葉書のように、きれいに。
沿道の観光客がしきりに携帯電話をむける。その年の新成人たちは緊張した面持ちで、着慣れない装束にどこかぎこちなく、デジカメのシャッターに祝福されながら練り歩く。
岸間川に千代紙で折った雛人形が投じられていく。
一つ、また一つ。
どんな願いをーー。
どんな悪いものを雛人形に移して、人々は雛人形をソトに流すのだろう。
「ぜんぶ、水に沈むんだね」
沙綾がいった。
流れる水は穢れを祓うという。
「もうミガミサマが紐痣の娘を求めることはない。」
千里人は答えた。
水は闇のフォークロアさえ流し清めるだろう。そして人は忘れるだろう。人は悪意さえ忘れるのだから。なかったことにするのだから。ダムに沈めば、ミガミ筋は秘められることさえなくなるのだから。
「だから魔力は水に溶けて消える」
「ふふ」
「ん」
「千里人、言葉遣いが誰かに似てきたよ」
沙綾がほほえんだ。
千里人はーーぼくは笑みを返す。
団子で作った人形(ひとがた)を手にした。
それが最後の樹谷(こだまだに)の神事だと。ふたりは、それを岸間川に投じた。
着信音が鳴った。
「……詢さんから」
沙綾が携帯を手にした。その誰かさんからのメールだ。
「なんだって?」
「流し雛の写真、メールしてって」
沙綾は携帯電話のカメラを川原にむけた。
新しい、真っ赤な携帯電話。ストラップにはちぎれたチェーンがつけられている。それは、もちろん千里人の携帯電話にも。その鎖の理由を知っているのは千里人と沙綾と、ほかには詢だけだった。ふたりだけの秘密でないことが少し惜しい。秘密は、それを知るものが少なければ少ないほど魔力を増すものだ。
「最近、詢さんはどうしてるの?」
「横浜の例の事件を追ってるよ……いっしょに」
去年の暮れに横浜に出現したなぞの巨大物体。
あの本の著者、須河原晶がマテリアルイーヴルと名づけたもの。それを追うことは千里人の問題でもある。だが、それは、また別の物語だ。携帯電話を手に、千里人は虹色に輝くイリスのことを思った。
<了>