第七章 秋が終わる
美土家の茶の間に通された千里人と詢は、家長である美土ヨミと対面していた。
外の庇から、落ちる雨粒の音が聞こえるほど静かだ。
千里人は服を着替えていた。釣りのときに着るようなウインドブレーカーとズボン。ウエストがずいぶんゆるい。淵に飛び込んでずぶ濡れになったので着替えを貸してもらった。亡くなった健一郎氏の服だという。
「ミガミ筋のことは、沙綾が教えたのですか」
ヨミが重い口を開いた。
千里人が樹谷(こだまだに)の山奥から戻ってきたとき、詢はすでに美土家で待っていた。車を運転してきた嶋は別室にいる。携帯電話が通じない、駐車場にミニクーパーがないとなれば、千里人の行き先は樹谷(こだまだに)しかないということだった。スペアキーのことを黙っていたこと、約束を破ってひとりで暴走したことは、あとで絞られるだろう。
「民俗学の課題レポートで」
詢が答えると、ヨミは表情をさらに顰めた。なぜ孫娘が、そんなことを大学のレポートに書いたのか理解できないというように苦渋の表情をする。
「……御子柴さん、でしたね」
ヨミが千里人を見た。
この老婦人には、千里人の父親のような頭ごなしに恫喝するのではない、静かな威厳があった。言葉をかけられると体の芯が引き締められるような思いがする。
「あの淵のことも、そのレポートで?」
「いいえ」
「では、どこでお知りになったのですか」
ヨミの問いかけに、千里人は顔を伏せた。
千里人を淵にいざなったマテリアルフェアリーのことを、ヨミがわかるように説明するのは困難に思えた。
「わたしはその淵に行ったことがないのですが……どういった場所なのでしょう」
詢が尋ねた。
「あの淵は――樹ヶ淵は神聖な場所です」
ヨミが簡潔に答えた。
「樹谷(こだまだに)の、村の鎮守が置かれていた場所ということですか?」
本守神社の宮司の笹岡は、かつて樹谷(こだまだに)で祀られていた御神体は山そのものだといっていた。
ヨミはやや考えたあと、ゆっくりと語りはじめた。
「わたしの祖母はこういっていました」
明治のころ、九つのムラを併せて穴森村ができる前の話だという。百数十年前の話だ。歴史の授業で習うようなとても昔のことようでいて、実は、千里人や沙綾の祖父や祖母の世代にとっては、彼らのおじいさんやおばあさんが生きていた時代のことだ――というと、ふしぎと最近のことのようにも感じる。
「――樹ヶ淵はミガミサマのいる場所だから、決して近づいてはいけない。神隠しに遭って取り隠されてしまうといいました。近所の男の子たちが度胸試しに行っただけで、顔が腫れるほどこっぴどく叱られたのを覚えています」
つまり田菜でいえば、まさに頭屋の森のような場所なのだと、千里人は理解した。
「穴森村ができた明治以降も、樹谷(こだまだに)ではミガミサマを祀る神事が行われていたのですね」
「はい……わたしが子供のころまででしょうか。戦前までは、豊作を祈願して、芋や団子で作った人形(ヒトガタ)を川に流すことが毎年行われていました」
樹谷(こだまだに)の土地の信仰として、産土神(ウブスナガミ)であるミガミサマを祀る神事が残っていたという。
「未歩ちゃんが、おばあちゃん……おそらく巳沙子さんに、人形(ヒトガタ)流しのことを教わっていたことは」
「娘に……巳沙子にミガミサマの神事を教えたのはわたしです。巳沙子が、未歩に教えていたのは知りませんでしたが……今では樹谷(こだまだに)のどの家でも、そんなことはしていません」
「ミガミサマを鎮守として祀る家がなくなったから」
「はい」
ヨミは頷いた。豊穣をもたらす信仰の対象としての神格を、ミガミサマは失ったのだ。
「本守神社の生き雛行列と流し雛は、昭和の終わりごろにはじまったもののようですね。ちょうど村に国道が開通して、交通の便が以前よりもよくなったころに、観光客を呼ぶためにはじまったものだった」
それは田菜の猫おどりと同じように、観光誘致のための祭り行事で、古来から行われていたものではなかった。
「流し雛と生き雛行列は、今の宮司さんの発案です」
笹岡老人のアイデアだったという。だからあの老人は、自分が発案し、自分が主役のひとりを演じるあの神事をビデオに収めてしきりに披露していた。
「しかし観光をあてこんだ祭りにも、一片の、土地に根づいた伝承は残されていた。本守神社には、もともと雛祭りに縁のある神事が行われていた形跡はありません。笹岡さんが観光行事に雛祭りを選んだのは、あるいは……樹谷(こだまだに)の人形(ヒトガタ)流しの神事を見たことがあったからではありませんか。それが流し雛を連想させたからではないでしょうか。あれはミガミサマを祀る神事の、笹岡さんなりのアレンジ……うわべだけの剽窃」
「…………」
詢の仮説に対してヨミは沈黙して言及を避けた。
「人身御供(ひとみごくう)というのは、自然の神威と、人間とのあいだの等価交換でもあります。農村であれば、子供を産む娘と、神のもたらす作物の実りとの交換です。……このあたりは冬は雪に閉ざされる。こういっては失礼かもしれませんが、とても貧しい土地だったようですね……。その土地で生きていく苦労は並大抵ではなかった。
人形(ヒトガタ)流しは、ミガミサマが娘を求めたという伝承を基にした、人身御供(ひとみごくう)を模した神事だったのではありませんか……? その人形(ヒトガタ)に使われた芋や団子でさえ、命を削るような貴重なものだったのかもしれません。あるいは……それは時には、ほんとうに娘が捧げられたこともあったかもしれません。その犠牲に選ばれていたのが、紐痣という遺伝形質を伴った家系の娘」
「邑崎さん」
ヨミが制するように呼んだが、詢は続けた。
「本守神社に蛇石がありました」
「…………」
「宮司の笹岡さんは、樹谷(こだまだに)の鎮守は山そのものだから合祀(ごうし)はされていないといった。蛇石の由縁もわからないと……それは真実でしょうか」
詢は、笹岡がなにかを偽っているのではないかと暗に質した。
「あの蛇石は樹谷(こだまだに)の御神体でした」
ヨミは、それを祖母から聞かされたという。
「やはり」
「ご存知だったのですか……?」
「いいえ……本守神社の由縁を調べるうちに、そう思えるようになりました。あの蛇石が樹谷(こだまだに)の御神体、ミガミサマの御神体であるならば、同じ蛇神としての性格を持つ、より強い神威を有した本守神社の祭神であるスサノオ神によって、土着の蛇――ミガミサマを封じようとしたのではないかと。
消し去ろうとしたものではないかと。
家系に伝わる憑きもの筋として娘の体に紐痣の印を刻み、ましてや人身御供(ひとみごくう)を求めるような古い蛇神が退治、鎮護されなくてはならないのはヤマタノオロチ以来の定めです。九つのムラを併せて穴森村となるときに、人身御供(ひとみごくう)のようなマイナスの性格を持った樹谷(こだまだに)の憑きもの信仰は、抹消されなければならなかった。だから穴森の人々はミガミ筋のことを伏せてきた。しかし伏せたことで、外部に対してはなかったこととされた代わりに、内向きにはミガミ筋の物語はより強いマイナスの魔力を得てしまった。かつては産土神(ウブスナガミ)として人に祀られ、また、その座を人によって追われた古い蛇神……ミガミサマは未だに、なお――禁忌だと」
「…………」
穴森の闇を抉るような詢の言葉を、ヨミは静かに聞いていた。
「沙綾は……」詢は続けた。「知りたかったのだと思います。憑きもの筋のことを。自分が生まれ育った土地に根づいたフォークロア……伝承のことを」
「そのために大学に進学した、と?」
話が孫娘のことになると、ヨミは言葉を返した。
「はっきりした目的意識があったのかもしれません。ご家族にはいっていなかったのですね」
「長年、家族を苦しめてきたことを、団欒の話題にしますか」
ヨミは思いひと言を落とした。
「……いいえ」
「いったいなぜ、あの子はミガミサマのことなどを、人の目にふれる場所に書き留めたのか」
ヨミは首をふった。
「沙綾はミガミ筋を外から眺めたかったのかもしれません」
「外……」
「穴森村の外からそれを眺めることで、それを知り、生まれ持った傷を乗り越えようとしていたのかもしれません。自分のなかでミガミ筋を一般化しようとした。それは彼女にとっては、自分と家族の客観視ということ」
詢とヨミは、ひどく言葉を選んだ薄氷を踏むような対話をした。千里人はそれを黙って聞いていた。髪はドライヤーを借りて乾かしたが、ずっと雨に打たれていたので体の芯が熱っぽく感じた。風邪をひくかもしれない。
「それがあの子なりの、ひとり立ちの手段だった……?」
「これまでの二十年間を背負って、これからを生きていくための、準備だったのかもしれません」
「……わたしには、やはり、わかりません」
「内に秘めることで、なかったことだと思い込むことはできます。しかし秘めている限り、ミガミ筋のフォークロアは魔力を保ち続ける。なにかのきっかけに、それは表出して、そのマイナスの魔力で人を傷つける」
「二十年前の事件のように……今回の交通事故のように」
「隠したものは、消えることはありません。むしろ外部に対して訴えることで、逆にミガミ筋の呪力を散逸させようとした。それは沙綾なりの努力だった」
「わかりません……」
老婦人はかたくなに理解を拒んだ。
「ところで、巳沙子さんというお名前は、どういった理由でつけられたのですか?」
詢がふと名前のことを尋ねた。
「ミサコは……当時、わたしの夫が好きだった女優の名前ですよ。それと巳年の生まれでしたので……あとは見た目のきれいな字を」
「巳年……そうでしたか」
「二十年前の事件のことも、お調べになったのですか」
「はい」
詢は隠さずに答えた。
「巳沙子はなぜ、あんな男と結婚したのか――」
ヨミは悔やんでいた。
巳沙子のことを。二十年前の刺傷事件と、それをきっかけに広まったミガミ筋の噂のことを。
加奈子のことを。学校でいじめを受けて、辛い思いをしたこと。
そして健一郎の交通事故のことを。曾孫の未歩にまでミガミ筋が牙を剥いたことを。
この老婦人は、それら、すべてを見てきたのだろう。
「こんな家構えばかり立派で、鞍までありますがね……あの男が……巳沙子の別れた夫が、留守中に古物商を家に入れて、鞍のなかのものまですべて、皿や掛け軸はおろか、箪笥や長持まで、めぼしいものはみな二束三文で売って金に代えてしまいました。あの男はこの家まで解体して、欄間や柱まで売りかねない勢いだった。あの男が残していったのは、傷だらけになった娘の巳沙子と、孫の加奈子と、まだ赤ん坊の沙綾……あとは買い手もつかないようなわずかばかりの山と、勝手に名義を使われた借金だけでした。巳沙子は心も体も壊して働くこともできず、それ以来、家系は火の車……着物まで売ってしのぎながら、加奈子を大学にやることもできず働いてもらい……」
それは名家の娘として育ったヨミにとっては、口にすることも屈辱的なことだったのかもしれない。声は震えていた。
「健一郎さんのことも、はじめ、わたしは信じていなかった。加奈子とは年が違いすぎましたから。その上、探偵まで使って過去をほじくり返して、孫を金めあての憑きもの呼ばわりするような家と縁続きになるのは、ごめんでした」
しかし、やがて健一郎の誠意と努力を信じて同居を認めたと。そして健一郎が来てからの美土家は、ミガミ筋の噂も下火になり、沙綾を大学にやることもできて、束の間、安らいだ日々が送れたと。
「それが……また、こんなことになるなんて――」
ヨミはまるで絶望を背負って生きていた。この老婦人の持っている厳しさは、苦しみの裏返しなのだと千里人は知った。
「財をなした家は、得てして、憑きもの筋のレッテルを貼られることがあります。樹谷(こだまだに)のような閉鎖されたムラ社会では、嫉妬の対象にもなったはずです。その土地に憑きもの筋のフォークロアが根づいていれば、なおさら……あの家は富める。この家は貧しい。なぜか……その不公平の理由を、ふつうでは説明できない、憑きものという異界のもののしわざに求めた」
「もし、そうであるなら、恐ろしいことです」
「人は感覚として、貨幣経済に置いて、財産には総量があることを知っています。財を成した家があれば、財を失った家が必ずある。持たない家の者は、持てる家のことを妬む。狐や犬神などの憑きものを使役して、自分たちの家から財産を奪うことで長者になったのだとさえ考える」
「うちに起こった不幸は因果応報だと……?」
「先祖がミガミサマの力で不正に財を成したから、今、その報いを受けていると――二十年前の事件、あるいは娘の病気、そしてまた今回の交通事故……この家に続くふつうでない不幸の理由を、やはり異界のもののしわざに求めた」
「憑きもの筋などが実在するのでしょうか」
「それはミガミ筋の実在とは、あまり関係がありません。人は、たやすく思い込みます。そして見ようとするものを見る」
――そんな物語が、ミガミ筋の噂を信じた穴森の人々に伝播していったのかもしれない。
「学生さんというのは聡明なのですね」ヨミは息をついた。「でも、よそ者が立ち入ってよい場所と、立ち入ってはならない場所はあると思います」
乱れかけていた老婦人の心は、厳しい空気のむこうに隠された。
「それはフィールドワークのとき、いつも直面する問題です」
憑きもの筋の取材は、差別問題と表裏一体だ。
「では、なぜ」
「わたしは闇から目をそらしません」
詢は毅然と答えた。
「うちの蔵を開けて、古文書でもお調べになりますか……? めぼしいものは残っていないでしょうが」
「いいえ」
詢は首をふった。
「…………」
「わたしが立ち入れるのは、ここまで。もしそれを調べるとすれば、それは、わたしの役目ではなく――」
詢がいいかけたとき、遠慮がちに襖が開いた。
「おばあちゃん」
現れたのは未歩だった。
そしてその後ろから、よく似た顔と髪型をした娘が、あどけない姪っ子を盾にするようにして、長い話の続いていた茶の間の様子を窺った。
「おばあちゃん……夕食の支度、できましたけど」
美土家での静かな夕食のあと、千里人は縁側でひとり夜を眺めていた。
嶋はひと足さきにに自分の車で宿に戻った。詢は別室で、ヨミと加奈子を交えて話しているようだった。
「雨、止んだね」
戸を開けて顔を見せたのは、沙綾だった。
千里人は、あの淵で彼女と再会したときのことを思い出した。
――樹谷(こだまだに)の山奥で。
燃えるような紅葉を映した水面の鏡を割って、淵に飛び込み、イリスを拾い上げたはずの千里人の手の中には一台の携帯電話があった。
そのとき千里人は思い出した。
虹色に輝くのは。イリスが七色に輝く光の、わけは……
「なんで、気づかなかったんだ……!」
自分の気の利かなさを恨んだ。
イリスは――
「沙綾の携帯電話だった……?」
にわかには信じられないことだ。
しかし千里人は、見覚えのある沙綾の携帯電話を淵の底から拾い上げていた。
沙綾の携帯電話は、メールを送信するときサブモニタのLEDランプが七色に光るのだ。沙綾がそう設定していた。バッテリーが切れているのか、水に落ちて壊れてしまったのか、画面は消えてしまっている。だがストラップの穴に通された金具と切れたチェーンは、千里人自身の携帯電話につけたのと同じものだ。
浅瀬に上がった千里人は自分の携帯電話を確認した。こちらも濡らしてしまったが、生活防水のおかげで壊れてはいなかった。
>美土沙綾
メールが着信していた。
>千里人
甘く、澄んだ匂いが薫る。
>好きだよ。
今は、その短い言葉で充分だった。
イリスは沙綾の携帯電話だった。
イリスは彼女の想いを伝えた。
そして千里人は、目を疑う。
淵を望む巖(いわ)の上に。
「千里人……!」
沙綾が。
あのとき、夕暮れ時の神社で別れたときと同じ服を着た彼女が、傘を差して立っていた。
――夜風が雲を吹き流して、時折、淡い月が射す。
「寒いよ」
「うん……冬は、もっと寒いよ」
沙綾が隣に座った。
「雪、たくさん降る?」
「すごく降るね……まっ白になる」
厳冬期には積雪二メートルを超えるという。地吹雪のようになる風の強い日が、年に数日あって特に大変だと。
「想像つかないな」
「千里人の故郷は?」
「田菜は、まず積もらないかな……それより平気なの?」
いくぶんやつれた印象はあるが、沙綾は、心配していたよりは元気そうではあった。
「ありがとう……でも病気とかじゃなくて、ほんとにただの疲労だったから。点滴打ったら体調はだいぶよくなったよ。もう退院したし」
沙綾が入院していたことは嘘ではなかった。もみじ野市内の総合病院にいたらしい。病気がちだった沙綾にとっては通い慣れた場所だという。
「よかった」
会話はゆっくりと交わされた。
――沈黙を胸に溜めながら。神社で別れたあの日から今日までの空白を埋めるように。
「千里人……?」
「あの淵、神聖な場所だから近づいちゃいけないんだってね……」
千里人がいうと、沙綾はちょっとばつが悪そうな顔をした。
「おばあちゃんに聞いた?」
「うん」
「あの淵はね、わたしの秘密の場所なの」
「秘密……?」
「あの淵の近くにうちが持っているお山があって……今思うと危ないことしたなぁと思うけど、子供のころひとりで山歩き……探検していたら、あの場所を見つけてね」
「……迷子にならなくてよかったね」
千里人はつぶやいた。
「それこそ行方不明になって――神隠しに遭っていたかも」
沙綾が苦笑する。
山は神の棲家だ。そして異界のものたちの棲家でもあるから。
「沙綾って、子供のころから、家でおとなしくしていたようなイメージだったけど」
探検ごっこは少し意外だった。
「小さいころは遊び友達ってほとんどいなかったから……知ってると思うけど、手術で一年間、学校休んだから、まわりは年下ばかりで……やっぱりクラスでも浮いてた。自分で浮いてるなって思い込んでいただけなんだけどね。樹谷(こだまだに)には同じ年ごろの女の子もいなかったし。だから家に帰って遊ぶときは、いつもひとりだった。いつもあの淵で遊んでた」
「歩いたら、あの淵までけっこうかかるね」
「うん」
樹ヶ淵はミガミサマの棲む神聖な場所だ。
そうヨミはいっていた。だから子供は決して近づいてはいけないと。
「この樹谷(こだまだに)の伝承……この土地で、あったことではなく、なかったことにされた物語……語り継がれることなく絶えていくフォークロア……」
「……詢さんの影響?」
「ん?」
「フォークロア、とか、千里人がいうの初めて聞いた」
沙綾は可笑しそうにいった。
「ああ――」
「邑崎昴事務所でバイトしてるんだって? すごいなぁ」
「まだ試用期間」
「パン屋さんは?」
「辞めた」
「そっか……千里人はもうパン屋さんじゃないんだ」
沙綾と出会ったのはパン屋だった。
ほんのしばらく会っていないだけだったのに。千里人はもう沙綾が知っている千里人ではないのかもしれない。そのことが少し怖い。
「千里人があの淵で見つけた……」
「ん……?」
「誰のものなんだろうね」
沙綾が息をついた。
あのとき――イリスを追って淵に飛び込んだ千里人は、そこで水底に沈んでいた白い腕を握った。
「まさか骨を見つけるとは」
それが白い、人間の腕の骨だと気づいて、千里人は驚いてそれを放した。そして、そばに沈んでいたイリスを――沙綾の携帯電話を拾って淵から上がったところで、人の気配に気づいて巖(いわ)の上から淵を覗き下ろした沙綾と再会したのだった。
「わたしもびっくりだよ……! 小さいころから通ってたあの淵に、死体が沈んでたなんて」
沙綾は肩をすくめた。
「詢さんは、江戸時代とか、そのころの骨かもしれないっていってたけど……」
「……とすると、事件というより発掘だね」
もしそうであるとすれば、それは警察ではなく考古学の領域かもしれない。
「あの淵……樹ヶ淵はこの樹谷(こだまだに)のムラの神聖な場所だった」
千里人は夜の風に思考を乗せた。
「うん」
「あの淵にはミガミサマが棲んでいた。それが、この土地の失われたフォークロア……だとすれば、もしかすると彼女の骨は……」
もしかすると、ほんとうに人身御供(ひとみごくう)として沈められた紐痣の娘ではなかったのか。
その言葉を千里人は胸に沈めた。
「なんで、女性?」
「ん?」
「今、千里人……『彼女』っていったよ」
沙綾がふしぎそうに見た。
それは……その白い、腕の骨を握ったとき、
「想像かな」
千里人は言葉をにごした。
ざらりとした血の臭いがする水の中で、甘く、澄んだ異相の女(ひと)の匂いがしたから。
――それは千里人だけの感覚だ。
沙綾と会えないあいだ、たくさんのことを考えた。
たくさんのことを省みて、後悔して、自分の心に切り刻んで、もし次に会えたら――と、そのことばかりを考えていた。再会の情景ばかりを夢に描いた。
なのに――
好きな人を目の前にすると、大切なことをなにもいいだせないのは、なぜなのだろう。
「自分をさらけ出すのが怖いから」
千里人は小さくつぶやいた。
「え?」
沙綾が訊き返す。
大切な相手に、自分を見せて、きらわれることが怖いから。
「いや……」
「千里人は、わたしが紐痣の娘だと思ったの?」
沙綾はいつも、そんな隠れんぼうのような千里人の心を探し出して、ふれる。
「傷があったから……」
沙綾の胸には痣があった。
「…………」
「その胸の傷、もしかして二十年前の事件のときの?」
産まれて間もなく父親につけられた傷なのか。彼女の家をミガミ筋というマイナスのフォークロアに引き込んだ、災禍の根となった跡なのか。
「知ってるんだ、それ……」
沙綾は静かにいった。
「嶋さん――さっきの編集者の人がいろいろ調べたから」
「違うよ」
「?」
あっさりと答えた沙綾に対して、千里人は反応に困った。
「わたしの胸の傷は小さいころの手術の跡……心臓に先天的な疾患があって、手術しないと生きていけないって言われたから」
「そう……なんだ」
沙綾と体を重ねたときは電気を消していた。暗がりで、彼女の胸に浮かんだその傷跡は、千里人の記憶のなかでは、白い肌に蛇が這っているように見えていた。
「わたし、千里人に謝らないといけない」
沙綾が切り出した。
「なにを?」
「千里人になにもいわなかったこと」
「…………」
どのことをいっているのだろうか。千里人が返事に困っていると、
「あの日ね……神社で千里人と別れたあと、姉さんから電話があった。姉さん泣きながら、義兄さんが事故に遭って病院に搬送されたって……わたし驚いて……頭ぐちゃぐちゃになって、気づいたときには駅に走って電車に飛び乗ってた。そしたら携帯失くしてることに気がついて……」
「失くした……?」
「学校には確かに持っていってたんだけど……新幹線乗って熱海すぎたあたりかな。トンネルで……ほら、あのあたり千里人の故郷でしょ?」
千里人にメールを打とうとしたときには、もう携帯電話を失くしていたという。
「…………」
「わたし、パニクっちゃって……! どこで落としたのかもわからないし、携帯が電話帳代わりだったから、千里人の電話番号もほかの友達の番号も、なにも覚えてなくて……」
話がわかってきた。
千里人にしても、いつも着信履歴や短縮ダイヤルを使って沙綾に連絡をしていた。沙綾の携帯番号やメールアドレスを覚えてはいなかった。固定電話には加入していない。それは沙綾も同じことだったのだろう。沙綾は連絡しなかったのではない。連絡できなかったのだと。
ただ、その理由は千里人が思っていたような――異界のもののしわざではなかった。
「誰かに拾われてないかと思って、公衆電話から自分の携帯にかけてみたんだけど、つながらなかった」
しかたなく、あとで電話会社を調べて携帯を止めてもらったという。
「携帯、止めてたんだ……」
千里人は静かにつぶやいた。
沙綾が携帯電話の利用を止めていたということは――
「タクシーで病院に着いたときは、もう夜中だった。義兄さんはもう亡くなってた。おばあちゃんも、姉さんも、未歩ちゃんも来ていて、その日は病院に泊まったの」
「そう……」
千里人は沙綾の説明を、やや、うわの空で聞いていた。
「次の日の朝早くね……義兄さんの実家の人、ご両親と息子さんが来て……」
葬儀社を手配して、健一郎氏の遺体を病院から運び出してしまったという。無宗教の葬儀、ましてや散骨など、とんでもないと。息子を奪っていったあげく骨まで持っていくのかと、加奈子はひどいこといわれたらしい。
「そんなんじゃないのに……! 義兄さんと姉さんの仲、理不尽にも認めなかったの、あの人たちだったのに」
「理不尽って……やっぱり、あの――」
「うちが憑きもの筋だっていう噂」
沙綾の声が陰る。
巳沙子さん事件のことを調べて、英田家の人々は、それを信じた。健一郎氏は前妻をさきに亡くして、息子が大学に入ったのをきっかけに加奈子と再婚するつもりだった。しかしそれは認められなかった。
ミガミ筋のフォークロアは穴森で生きていたから。
それはミガミ筋が実在するのか、美土家がほんとうにミガミ筋であるかどうかとは、関係がない。
ミガミサマは、この土地に暮らす人の心の闇に生きているのだから。
「わたしが大学で民俗学をやろうと思ったのは、知りたかったから……うちを、こんなに苦しめているミガミ筋って……どんなものなのか考えたかったから。逃げたくなかった」
――忘れていた。
この子は、沙綾は強い子だから。
千里人よりもずっと。フォークロアの闇に取り隠されるような弱い心は持っていなかった。
「義兄さんの遺体を持っていかれてしまって……葬儀に出ることさえ、向こうの家の人は認めてくれなかった。わたし、あんまりショックで倒れちゃって……そのまま病院に入院しちゃった」
沙綾は切ない表情をして、肩をすくめた。
「じゃあ加奈子さんが……」
葬儀は家族葬ですませて散骨したというのは、その場しのぎの嘘だったのだろう。
内縁の妻であること、ましてや遺体を夫の実家に取られたことを、そんな込み入った事情を、他人である千里人に開かすはずもない。必要もない。
しかし積み重ねられた嘘が、千里人の加奈子への不審になり、未歩の奇妙な人形(ヒトガタ)流しや、沙綾の胸の傷のことが重なって、千里人もまた、ミガミ筋のフォークロアにいつしかからめ取られていた。
――マテリアルフェアリーがいるのだから。
イリスがいたのだから。千里人は見たのだから。ふれたのだから。感じたのだから。
神隠しも憑きもの筋も、どうして、ないと、いい切れるのだろう。
「入院中に姉さんに頼まれたの……大学、辞めてくれって」
「酒気帯び運転だと、確か、保険が出ないんだよね」
それは父親としての責任がある健一郎氏の、過失だ。
「うん……わかってた。うちの家計は楽じゃないし。姉さんに頭下げられたら、なにもいえなかった。奨学金とかも考えたけど、義兄さんがいなくなって、姉さんは働かないといけない。わたしだけ……姉さんだって大学に行きたくても行けなかったんだから。わたしだけが、わがままはいえない」
「…………」
「千里人がうちに来たって聞いたときは、驚いたよ……」
「なぜ、電話してくれなかったの? 携帯を失くしたのはわかったけど」
連絡先は念のため加奈子にも伝えておいた。病院から、電話をかけることくらいはできたはずだ。
「……怖かった」
「怖い?」
少し意外だった。なにが怖いというのだろう。
「会えば……直接話せば嘘つけないし、別れるのも辛くなる……。千里人……こういうと傷つくかもしれないけど、とても思い詰めることがあるから……どうせ会えなくなるなら、このままでいいのかもって……わたしが黙って消えて千里人に嫌われれば、忘れてもらえれば、それでいいやって」
「それは……辛い。そんなことで嫌いになるくらいなら、好きにはならない」
「……勝手な考えだね。ちゃんとむかい合って……ちゃんと話すべきだった」
「いや……なんていうか」
「ごめん」
「責めてるんじゃない……ちょっとした気持ちの行き違いだから」
それだけの問題だ。
そして沙綾が辛かったのは、千里人よりもずっと辛かったのは、よくわかったから。
「だから……来てくれてありがとう」
沙綾がいった。
その勇気を、彼女と関わり続ける勇気を千里人にくれたのはメールだった。
感情の断片のような短いメール。
虹色の光が運んだメールだ。
「でも……なんでわたしの携帯、千里人が持ってたの?」
沙綾は自分の携帯電話を手にした。
千里人が、あの淵から拾い上げて、沙綾に返した。電源の切れた壊れた携帯電話。
イリス。
虹色に輝く翼ある小さなもの。
そのことを説明するのは、少しだけ時間がかかりそうだ。千里人のふしぎな共感覚のことも――
「マテリアルフェアリーを知ってる……?」
千里人は、とあるフォークロアを沙綾に語りはじめた。
樹谷(こだまだに)の道切りで、千里人は故人に語りかけた。
「服、お借りしていきます」
一度も会ったことのない英田健一郎という人にいうと、事故現場に手を合わせた。
ミニクーパーのヘッドライトが夜道を照らしている。詢が、家族に託された花を事故現場に捧げた。
詢は千里人の暴走を叱りはしなかった。ただ、あったこと見たことを、千里人の口からつぶさに丹念に語らせた。そうして詢に話す言葉の一つ一つが、千里人にとっては始末書のようなものでもあった。
「千里人くんは、なぜ沙綾がミガミ筋だと思い込んだの?」
詢が尋ねた。
「沙綾に、痣があったので」
「痣……? ほんとうに?」
「胸に、紐のような傷が」
それは詢に、沙綾と寝ましたと申告したようなものだ。
「だから沙綾は、淵に沈められて、人身御供(ひとみごくう)にされているんじゃないかと思った」
「そこまでは……」
千里人はただイリスに、マテリアルフェアリーに導かれて樹ヶ淵に行った。
そこで、なにが待っているか予期してはいなかった。実際、そこにいたのは沙綾だったのだが。
「すべての事象を、整理して、分類する必要があるかな」
そういった詢は、すっかり学者の顔になっていた。
「情報と知性の問題ですか?」
「そう……一つは現実のできごと。二十年前の美土育三氏による家族への傷害事件。今回の健一郎氏の交通事故。これらは不幸なことではあるけれども、あくまでも現実のできごと。そこには、いかなる異界の力も働いていない」
「もう一つは、フォークロアのできごと」
「物語のなかのできごとね……それは人の心が人に見せた……でも、それも現実のうちなのかもしれない。美土家が憑きもの筋と噂されたこと、加奈子さんと健一郎さんの結婚に関するトラブルも。もしかすると沙綾の病気さえ」
この土地の人々が、美土家に起こった不幸な事件や事故の誘因を、ミガミ筋のフォークロアにからめて、憑きものという異界の存在に求めたこと。
「ぼくの妄想のなかのできごとも」
「沙綾が実家に帰ったことを、神隠しと思い込み、また美土家がミガミ筋であると思い込み、そして沙綾が紐痣の娘であると思い込んだ。それもまた民族的なリアル――」
人の心が、人の心に見せたものだと。
「…………」
「もう一つは異界のできごと」
詢の声が内なる冷気を帯びる。
千里人は携帯電話の切れたチェーンの先を見詰めた。そこにつないでいた、つながれていたものの姿を思い浮かべる。
「マテリアルフェアリー………」
「ほんとうの異界のできごと。わたしにも、その在り様をとらえることはできない。マテリアルフェアリーが実在である以上は、まさしく異界のものと分類するしかないわね」
ただ、ふしぎなことだと――詢は嘆息した。
「…………」
「でも、イリスというあのマテリアルフェアリーが、事象の観測点であるきみ、御子柴千里人に及ぼしたことを検証することで、いくつかの推測を立てることはできる」
詢は、これまで千里人に語らせてきたできごとを吟味するように、いった。
「沙綾は携帯電話を失くして、電話を止めていました」
「うん」
詢は頷いて、千里人をうながした。
「なのに……ぼくの送ったメールはアドレス不在で差し戻されてはこなかった。受信はされていました。それに、沙綾の携帯に電話をかけたときのメッセージは、『おかけになった電話番号は現在、電波の届かないところにおられるか、電源が入っておりません』のパターンだった……でも、それはおかしい。電話を止めたのなら、『お客様のお申し出により、おつなぎできません』とか、そんな別のパターンになるはずです」
いつだか勇が、料金未納で電話を止められたときのメッセージは、『お客様のご都合により、おつなぎできません』だった。
「そうか……着信拒否なら話し中になるし」
詢は携帯電話を手にした。彼女の電話帳のブラックリストには載りたくないと、千里人は願った。
「…………」
「きみはいったい、どこに電話をかけていたの?」
詢は微笑を湛えた。
つまりイリスは、携帯の基地局を経由しないで、直接、電波を受け取っていたのか。
「――そうとも考えられますけど」
「けど?」
「ぼくには、イリスが……沙綾の想いを伝えてくれたような気がします」
千里人は夢のようなことをいった。
「たとえば?」
詢がうながした。
「沙綾の携帯電話から、ぼく宛にはメールが届きました。でも、沙綾本人はもちろんメールを打っていない」
「…………」
「イリスがメールを送っていた、というよりは、イリスが、そのときの沙綾の気持ちを伝えてくれた――そんな気がします」
千里人は、先ほど沙綾に語ったフォークロアを、詢にも語った。
「イリスは沙綾の携帯電話に戻ったでしょ。メモリに、きみが送ったメールは残っていたのかな」
「沙綾の引越し荷物をほどいて、充電器で充電してみました」
「どうだった」
「電源、入りませんでした。淵に落ちてしまったので、水に濡れて壊れたみたいです」
沙綾の携帯電話のメールBOXも、履歴も確認できなかった。
「そう」
「詢さんは……」
晩秋の夜の森は静かに、寂しく――
邑崎詢はどう思っているのだろう。
マテリアルフェアリーのことを、どう思っているのだろう。なにを感じているのだろう。千里人は言葉をうながした。
「付喪神(ツクモガミ)を知ってる?」
詢は眼鏡の位置を直した。
「からかさおばけ」
千里人は思いつきで答えた。
「ふふ……化けやすいとされるのは、木像や人形、面など人を模ったものだけど。一般的に付喪神(ツクモガミ)というときみのいった化け傘や下駄、釜などの日用品が化けたものを想像する。おそらく百鬼夜行のイメージに重ねているのだと思う。針供養や人形供養の行事は、それらの道具が、捨てたあとで付喪神(ツクモガミ)に化けないようにするための一種の呪術――」
「食事のあと、割り箸や楊枝を折る人がいるのも」
「あいかわらず、おもしろいことを知ってるのね……それもお姉さんに教わった?」
それも箸や楊枝が化けないようにするための、まじないの一種だという説もある。
「ええ……」
「室町時代の御伽草子にこうある。『陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑(たぶらか)す、これを付喪神(ツクモガミ)と号すと云へり』――日本には古来、万物には霊が宿るという考えがあった」
「アニミズム……ですか」
「自然のものだけではなく、人間の作ったものにも霊魂の存在を認めて、それらが宗教と結びついて、成仏できるとさえ考えられていた。御伽草子では、都を荒らした付喪神(ツクモガミ)たちは、改心して、真言密教の教えを受けて成仏している。
「イリスは……マテリアルフェアリーは付喪神(ツクモガミ)だった……?」
千里人は携帯電話の切れた鎖のさきを見てつぶやいた。
「イリスもまた、ものに霊的な働きが宿った存在ではないか。沙綾が落とした携帯電話に、沙綾の想いが宿ったとしたら……? それが遠く離れた場所にいる、沙綾の心とつながったとすれば……」
「沙綾が失くした携帯電話が、付喪神(ツクモガミ)である携帯電話のマテリアルフェアリーになって、ぼくの前に現れた……」
「そして、きみは、それが見える人だったということ」
詢は千里人をじっと見詰めた。
「この道切りや、神社や、頭屋の森……異界との境界のような場所で、決まってイリスが虹色に輝いてメールを受け取ったのは……」
「そこがイリスと沙綾がつながる場所だった、ということかもしれない。向こう側にも圏内と圏外がある、と推測してみる」
それはマテリアルフェアリーの見えやすさとも関係していた。千里人が初めてイリスの実体を見たと、あの高速道路のサービスエリアは古戦場の上にあったという。そこも異界との境界に近い場所なのかもしれない。
この樹谷(こだまだに)の道切りは、電波の圏外だ。
そして異界の圏内だった。
「マテリアルフェアリー……いったい、なにものなのか」
「それを調べるとすれば、それはきみの役目よ」
詢は千里人をけむに巻いた。
「結局……ぼくは、この樹谷(こだまだに)でなにを見ていたんだろう」
千里人は夜に眠る樹谷(こだまだに)をふり返った。
「狐に化かされたような顔ね」
詢はぺろっと指をなめると、眉に唾をつけた。
「嘘……かな」
「人は真実だけで人と接するわけではない。世間体を気にする旧家のプライド。内縁の妻という法的に弱い立場と、裏腹に夫の心だけは自分のものであるというプライド。人はいろいろな場合に嘘をつくけど、自尊心のために他人につく嘘は、とりわけ、かたくなね」
「…………」
「人は、しばしば見えないものを見る。あるはずのないものさえ見る。それは、わたしたちが見ている世界の大半は人の心が人の心に見せるものだから」
「世界は……自分が思ったようにしか見えないんですね」
千里人が見たものは穴森のフォークロア。
すべて、千里人が信じ、感じたことだと。
詢の言葉に、息をついた。
「でも、きみは沙綾への想いを信じて、貫いた」
「イリスがいなければ貫けたかどうか……」
マテリアルフェアリーが沙綾の想いをメールで伝えてくれなければ、今、この場所にたどり着けただろうか。
「その気持ちが嘘でないことは、言葉ではなく、千里人くん……きみの、これからの生き方で証明するしかない」
「…………」
「アドバイスをしてあげようか」
「ぜひ」
「想いの見返りを相手に求めるな。女に尽くしてもらえるような、いい男になれ」
それは千里人には難題ではあった。
詢は、そして樹谷(こだまだに)をふり返った。
長い黒髪が風に巻かれる。山間の村は、夜になりいっそう冷え込みが激しい。遠くから冬の足音が聞こえそうだった。
眼鏡の下の瞳は闇を見通し――
「わたしは幸せになりたかった」
土手の下を流れるせせらぎの音に乗せて、声を投じた。
「…………?」
「加奈子さんと話したわ」
詢が投げ入れたのは、加奈子が口にした言葉だった。
二十年前の事件。加奈子はそのころ思春期だったろう。そしてミガミ筋の家の娘という迫害を受けて育った。
「加奈子さんの気持ちが、今は、少しだけわかります」
千里人はいった。
加奈子も健一郎に恋をしたのだ。まわりの誰もが反対した誰もが祝福しない恋だった。
「でも、彼女は貫いたのね」
そのことだけで、千里人は加奈子という人に共感し、その人のことを少しだけ理解することができた。
その最愛の夫を亡くし、今また娘の未歩にまで、かつて加奈子を襲った樹谷(こだまだに)の古い蛇が牙を剥こうとしていた。
なら――いっそ。
「樹谷(こだまだに)の水底に沈む」
詢の横顔は、終わりの呪文を唱える魔女そのものだった。
「え……?」
「知らなかった……このムラは新しく作られるダムに沈むの」
思いがけないことを知らされた。
では、千里人がこの道切りのカーブで接触事故を起こしかけた、あの龍のマークのトラックは。
「ムラごと移り住むんですか……?」
「工事は数年後からみたいだけど、もう引越す家もあるって加奈子さんがいってた。穴森村に留まる家は少なくて、もみじ野市内の新しい造成地や、圏外に越す家も多いとか」
すべては水底に沈む。
あったことも、なかったことになるだろう。
ミガミサマも、ミガミ筋のフォークロアそのものが、樹谷(こだまだに)のムラごと消え去っていくのだ。
「淵で見つけた骨は……」
樹ヶ淵で見つけた遺骨はそのままだった。警察に届けなくてよいのかとも思ったが、詢は首を横にふった。また、噂が――ミガミサマが美土の家に牙を剥くことのないように。それは千里人の胸にだけ、秘めておくようにと。
「胸に秘めて生きていくのも悪くはない」
詢は囁く。
秘めることは魔力の源だから。