浜崎達也
絶対少年〜神隠しの秋〜穴森
目 次
第一章 切れた携帯電話を、手に
第二章 異界に誘う人
第三章 蛇の棲む村
第四章 谷
第五章 匂う音
第六章 イリスは見ていた
第一章 切れた携帯電話を、手に
『おかけになった電話番号は現在、電波の届かないところにおられるか、電源が入っておりません――――』
携帯電話を切ると、御子柴《みこしば》千里人は盛大にため息をついた。
「最悪……」
と廊下に吐き捨てたくなるような、胸焼けのする二限目がようやく終わった。
「あの先生、厳しいんだって」
友人の山下勇がダメ人間を見る目で慰める。
「そりゃあ授業中にメール打ってたのは、こっちが悪いけど……せっかく久しぶりに授業に出てみれば」
「千里人、それ自慢できない」
「どうして日本語のできない外国人に、英語を教わらなきゃいけないんだろう」
「それも微妙に間違ってるし」
「むー……」
――自分のいってることが支離滅裂なのは、わかる。
「他の講義はともかく、語学落とすと来年が悲惨だぞ……後輩ばかりに混ざって、授業受けるか?」
「それはみじめかもしれない」
千里人は学食で定番のカレーライスを頼むと、空いていた席に座った。
夏休みが終わってからずっと、ほとんど毎日のように、学食で遅い朝食を取っている気がした。
「ようするに、午前の講義はさぼり倒しか」
「やっぱり朝食抜きで授業なんか受けるもんじゃないなと。眠いやら、腹が減るやら」
「そういう問題?」
他人ごとのように答える千里人を、勇が諦観のまなざしで見詰めた。
「ふむ」
「おれは人生の落伍者が生まれる瞬間を、リアルタイムで目撃しているらしいな……」
勇とは実家が近い、静岡だ。
三島の高校で同級生だった。特別、親しかったわけではないが、こうして同じ大学に進学すれば同郷の友ということになる。スキューバダイビングのサークルに入っている勇は、夏には沖縄に行ってきた。飛行機にも乗ったことがない千里人にとっては、遠い外国のことのようだ。
「わたくし、こんなにもダメ人間だったでしょうか」
「重いな、おい――」
ランチどきにする会話じゃない。
大学生活を楽しんでいる勇と自分を比べると、スタートラインは同じだったはずなのに、半年でずいぶん差がついたなと千里人は思った。
天久保大学の文学部のキャンパスは東京近郊の沿線にある。大学生活の利便という点では環境は整っていた。コンビニやスーパーは当然として、ショッピングモール、シネコン、大きな書店、漫画喫茶、バッティングセンターなどの施設も一通り市内でまかなえる。まったり暮らすにはよい土地だ。車があれば、なお快適。海もぐっと近くなる。
入試の偏差値は……そこそこ。微妙。見栄っ張りな千里人の母親によれば、ご近所、親戚に自慢の息子とまではいかない。現役受験生だったころ、世界のヒエラルキーを啓示した聖典のようだった大学の偏差値ランク表は、とっくにゴミ箱行きだ。
「燃え尽きたな」
とは、勇の弁。
バーンアウト――千里人は受験勉強で燃え尽きてしまった。
大学受験に合格することより、大学で学ぶことのほうが大切で大変だとは、高校の先生は教えてくれなかった。
――詐欺だよな、と。
昼時、文学部ということもあって学食には女学生の姿が目につく。構内にはおしゃれなカフェやレストランもあった。立地は都心から外れているが、環境が良く、施設が新しいので受験生の女の子の評判はいい。
「ところで、美土《みづち》さん見なかった?」
千里人は勇に尋ねた。
「沙綾ちゃん?」
「授業、いなかったから」
「……そういや欠席だったな」
二人して量だけは満足の学食カレーをかきまぜる。
沙綾とは、あまり講義が被っていなかったが、必修科目の語学は同じ教室だ。
「さっきからメール入れてるんだけど、返事ないし」
食べながら携帯電話を操作した。パケット定額制でメール放題のコースに入っていたので、連絡にはもっぱらメールを使っていた。通話はあまりしない。携帯電話だけで固定電話にも加入していなかった。
「てか、何で自分の彼女のこと『美土さん』?」
「変か」
「変じゃないけどさ……」
腑に落ちないといった顔をされる。
「人前で、なれなれしくしたくない」
「ダメ人間のくせに妙なところが古風というか」
勇が苦笑した。
自分のことを勇はよくわかっているなと千里人は思う。親よりも、男同士だから沙綾よりも。お互いのアパートに入り浸って、本やマンガを貸したり、映画の鑑賞会をしたり、ノートを見せてもらったり、パソコン音痴の勇のためにネットオークションを代行して売ったり買ったり……。
居心地のいい共生関係というやつだ。
「メールの返事がないし、電話かけてもつながらない」
「出ない?」
「いや、電源切ってるっぽい」
千里人はあきらめて携帯電話を閉じた。
昨日、さぼるなといわれたから朝から授業に出たのに、肝心の沙綾が休みでは。
「風邪でもひいたんじゃないか?」
「昨日は元気だったんだけどな……」
「帰りにでも、家に寄れ」
「ああ……」
言葉を濁した。
勇はまめなやつだ。みんなに好かれる、多分リーダーの資質があるタイプ。千里人はといえば――自分の気持ちに溺れて相手の気持ちを考えられない、とは高校時代の一ヶ月半だけの彼女に告げられた、別れの言葉で。
「ま、しかし」
「なんだよ」
にやにやする勇の目を見返した。
「御子柴千里人にすきたるものが二つあり。中古のミニと沙綾ちゃん」
「石田三成ですか」
「お、知ってる」
「なんかの本で読んだ」
三成は島左近となんとかの城だ。確か。
「納車したんだろ、いいなぁ……車かぁ……」
勇が羨望のまなざしを向けた。こんなことは大学生活始まって以来だろう。
「夏休み、おまえがボンベ入りの空気を買って海に潜っているあいだ、おれはバイトで稼いでたわけ」
「どんなバイト……?
パン屋では働いてたよな」
千里人はパン屋で働いている。このへんではちょっと有名な店で、わざわざインターネットで遠くから注文する常連客もいた。くるみパンの焼きたてがおすすめ。
「ほかの人が急に辞めて、夏休みだけ車で出張販売やった。時給あがったし、運転に慣れたから良かったけど」
「ほかには?」
「いろいろ……短期でイベントスタッフとか。あと新薬のモニター」
「クスリ?そういうのほんとうにあるんだ」
興味があるらしく、勇が身を乗り出した。
「ほかのバイトで一緒だった人に教えてもらった」
イベント会場で知り合った三十五歳フリーターの人だった。
「どんな感じ?」
「施設に泊まり込んで、出された薬を飲んで、血を抜かれて検査のくり返し。働くわけじゃないから……あとは三泊四日、ずっと部屋で寝て漫画と本とビデオ三昧」
「モルモット?」
「投薬ボランティアだよ。新薬開発のための善意の協力。謝礼はもらえるけど」
「おれは、そういうのだめだな……怖くて」
勇が肩をすくめた。
「それがふつうだろ……人体実験には違わない。今になって怖くなってきたよ……お金はよかったけど、もうやらないと思う」
薬に副作用はつきものだが、肝炎になることもあるという。相部屋なのもストレスがたまった。時間は潰せたし退屈はしなかったが、食事は決められたものしか口にできず、カフェインを摂れないのも辛い。
「でも都市伝説っぽいよな……原発清掃だの、死体洗いだの、そういうバイトの話」
「死体洗いって、あれだろ? 大学の医学部の地下にホルマリンのプールがあって」
「そうそう」
「浮き上がってきた死体を棒で沈める」
白いご飯をスプーンで掬《すく》って褐色のカレーにぼちゃっと沈めると、それを見た勇が素敵な表情をした。
「ベトナム戦争とき、米兵の遺体に死化粧するバイトの話もあったな。なにせ戦場だから酷い状態の死体もあって……」
「それはエンバーミングっていって、ちゃんとしたプロがやる仕事」
遺体を戦場から本国に送り返すとき、土葬が主流のアメリカでは、腐敗を防ぐために遺体の殺菌、防腐処理と修復を行う必要があったらしい。日本は火葬がほとんどだからあまりなじみがないが、海外ではエンバーマーの社会的地位は高い。
「――戦争でなくとも、日本でも、交通事故で遺体が壊れたときは縫い合わせるし、事件がらみで司法解剖された遺体なんかすごいらしいけど、それもきれいにして遺族に返すって」
「それも、なんかの本で読んだ知識なわけ?」
「それ系のホームページのアドレス、教えようか」
「グロ系は勘弁です」
勇はいさぎよく辞退した。
学食は混雑してきた。隣のテーブルに女の子の四人グループが座る。柑橘系の香水の臭いが空気を華やかにする。彼女たちは最近行ってきたらしいコンサートの話で盛り上がっていた。
「まぁ、死体洗いは都市伝説」
千里人はいった。
「だろうな」
「死化粧ってことなら、うちの祖父さんが死んだときは、看護婦さんが体を洗ってくれたけど」
千里人の祖父が癌で死んだばかりだ。
じめじめした梅雨の時期で体力が落ちて、もう持たなかったのだろう。臨終の死に水を取らせたあと、ガーゼで体を拭いてアルコール消毒して、鼻や耳や、ほかの体の孔に割り箸で脱脂綿を詰めて、爪を切ってくれた。綿を詰めるのは腐汁が漏れないようにするためだといっていた。
そんな話をしていると、勇がふといった。
「千里人と沙綾ちゃんは」
「ん」
「似た者夫婦」
にやにやと失笑された。
「似てはいないと思う……彼女の興味は、どっちかというとオカルト系の気がする」
「千里人はアングラ系」
「は?」
「アパートで大麻とか、いけないキノコとか栽培していそうな」
それはどうだろうか。大麻の栽培方法や爆弾や偽札の製造方法をインターネットで調べたことはあるが、実際に作ろうと思ったことはない。そういう『違法』に触れるのが楽しい時期はほとんど高校生で終わった。だいたい千里人は夏休みのアサガオの観察さえ面倒で、一週間で枯らして絵日記に「完」と文字を打ったほどだし、生き物を飼えば飼育箱は蠱毒《こどく》の壺のような地獄絵図になるし、図工や技術の授業で3以上を取ったこともない。
――といい返そうとしたが、隣にいる女の子のグループがひどく奇異な視線でこちらを見ていたので、その話題を引っ張るのはやめた。
「そういえば、夏休み、実家には帰ったんだっけ?」
勇が話題を変えた。
「少しだけ」
祖父の四十九日の法要があった。墓地に納骨して卒塔婆《そとば》を立てた。忌明け。そのためだけに帰ったようなものだ。
「おまえん家って牛飼ってたよな。田菜牛乳」
「酪農家、な」
ローカルな話題。伊豆の田菜盆地は千里人の故郷だ。静岡県東部で『田菜牛乳』は名の通ったレーベルで、地元の学校では給食にも出る。
「おれも、おまえん家の牛の乳を飲んで育ったのかもな」
実家が酪農家だと知ると、たいていの相手は雄大な大自然の中の牧場を思い浮かべる。残念ながら千里人の家は、北海道でもアメリカでもないから放牧なんてしていない。乳牛は品質と乳量を一定にするためにふつうは牛舎で飼われて、餌も飼料で管理されている。
「家の手伝いとか、しなくていいの?」
「高校までは手伝ってたよ。でも……家の手伝いじゃ一円もバイト代が出ない」
千里人は息をついた。
「そこは親に交渉とか」
「無理。うちの親父、頭固いから」
千里人の父親は、息子が大学を出たら家業の酪農を継ぐものと思っている。それが息子が生まれる前からの決まりごとのように信じて疑わない人だ。家族にバイト代を払うという発想は千里人の父親にはない。いくら就職氷河期とはいえ、そんな魅力のない仕事に就きたいやつがいるだろうか。大人になってからも、ずっと父親に怒られ続ける仕事なんて。
「――だから金にならないから、帰ってきた」
帰ってきた、といった。
千里人にとっては、大学生活のあるこちらのほうが帰るべき家のように思えた。
沙綾がいる、こちらの家のほうが。
「でも偉いよ千里人くんは……おれのために車を買ってくれるなんて」
勇がうんうんと頷いた。
「いや、それ違うし。間違ってるし」
「実家に帰るときは乗せてくれ」
「ガス代、割り勘だぞ」
スキューバダイビングを趣味にしている勇の私生活は、貧しい。それでもウエットスーツを着て海に身をゆだね、外界から遮断されて、自分の呼吸の音を聞きながら世界でたったひとりの己の存在を感じたとき、生命あることの感動とともに、なにものにも代えがたい幸せを感じるという。でも、勇のその台詞が有名人のパクりだということを千里人は知っている。
「でも最初に助手席に乗せるのは沙綾ちゃんと決めているわけだ」
「そこは順序です」
「うわ、マジなんだ……」
「そこで、ひくな」
水向けたのはそっちだと千里人は抗議した。
「まぁ……でも、よかったな。千里人に彼女がいてな……沙綾ちゃんいなかったらおまえ大学に来そうにないもん」
否定はできなかった。
千里人は、たとえれば海ほども大きな部分を彼女に依存していた。そして、そんな自分を心地よく感じることがあった。
――自分の気持ちに溺れている。
それは、つまりそういうことなのだと。
カレンダーをめくれば日脚は短くなっていく。
最後の講義が終わったころ、あたりはすっかり暗くなっていた。
構内の駐車場に止めた、サーフブルーホワイト先代ミニクーパーに乗ってエンジンをかけた。コンパクトな車体が振動する。翼をモチーフにしたエムブレムは活力を意味する。昨日の夜、納車したばかりだ。この色が欲しくてあちこち探しまわった。
出会いは高校生のころ。
初めて見た瞬間に、この車だと決めていた。時代に媚びないデザインと固有の肌ざわり――車の持った匂いとでもいうべきもの。それらが千里人を捉えて放さなかった。
ダイレクトなステアリングの感触を確かめながら夜道を飛ばす。ミニは笑い話になるくらい故障が多いが、この車は当たりだと思う。中古車を買ったばかりのときは誰でもそう思うのかな、とも。前のオーナーが手を入れていたおかげでホイールやペダルなどのパーツは交換済みだ。デッキもCDに換装済み。さすがに今どきカセットデッキは使えない。
頭金はアルバイトの稼ぎと、お年玉を貯めていたやつに、祖父がくれた入学祝いを掻き集めた。それでも残りのローンが三十回以上。千里人の大学生活はローンの返済生活に決定した。
沙綾のアパートの近くに車を停めると、階段を上がって二〇三号室の呼び鈴を押した。
二回、三回――
応答がない。
格子のはめられた窓は真っ暗だ。試しに携帯電話にかけてみるが、部屋の中から沙綾の携帯の呼び出し音、黒電話のジリリリリという音は聞こえない。
『おかけになった電話は現在、電波の――――』
もう聞き飽きた自動応答メッセージを切った。
「おかしいな」
千里人はドアの前で途方に暮れた。
階段を下りて、あたりを気にしながら二〇三号室のポストを覗くと、外灯に照らされて、チラシの束の上にあった一枚の絵葉書が目に留まった。
なにかの祭りだろうか。絵葉書の写真には平安時代のような衣装の男女が写っている。
どうしたのだろうかと案じながら、千里人は車に戻った。
車を買ったことは沙綾には内緒だった。ない頭をひねって考えた彼女へのバースディプレゼントのつもり。ちょっとしたサプライズってやつ。勘のいい沙綾も、千里人が車で迎えにくるとは考えていなかっただろう。
驚いた表情で、ミニをかわいいと褒めてくれた沙綾が、助手席に座る。
それからドライブ。
どこにだって行けるだろう。道路がつながっていれば。
「携帯、つながらないんじゃ……」
どうしようもなく、思案に余った。
車に戻り、暗い気持ちを吹き払うようにアクセルを踏み込んだ。ステアリングがひどく重たく感じた。
千里人が沙綾と出会ったのは梅雨の前、まだ祖父が亡くなる前だった。
正確には、新入生歓迎のオリエンテーションや、同じ教室の講義の時間に、見かけてはいたはずだった。しかし彼女はまだ同じ学部の、百人近くもいる、たぶん顔も名前も覚えきれない女の子のひとりでしかなかった。
初めて彼女を意識したのはアルバイト先のパン屋だ。働きはじめたばかりのころ、かわいい女の子が店に入ってきて目を奪われた。だから、どうするわけでもなく。そこまでは不純なバイトくんによくある光景で。
「どれが、おすすめですか?」
エプロンと帽子をかぶってパンを並べていた千里人に、彼女は屈託なく声をかけてきた。
思いがけず声をかけられて、千里人はまごつきながらとっさにてにしたトレイを見て「これ、焼きたてです」といった。彼女はそれじゃあと笑んで、くるみパンを二個と紅茶を買っていった。おつりを渡したとき、ほかのお客のときはそんなこと意識したことはなかったのに、わずかにふれた指先の記憶がいつまでも残った。
指先がふれた瞬間の、彼女の、甘く、澄んだ匂いとともに。
また来るかなという仄かな期待と、もう二度と会えないなというさめた気持ちとが複雑に混ざり合った。
「――パン屋さん?」
次の日、千里人は大学で彼女と再会する。――――
………………………………
天井が、ゆれていた。
ちかちか ちかちか……
丸い蛍光灯が目障りに明滅している。
テレビがつけっぱなしだった。
雑音のような深夜番組から、芸人の笑声が小さく聞こえた。
――どうしてたんだっけ…………
沙綾の夢を見ていた。初めて会ったときの夢だ。
耳が遠くなったような感覚がする。
意識の定まらないまま、切れかけた蛍光灯を仰いだ。
コンビニ袋が転がっていた。
……………………
沙綾の家に寄ったあと、自分のアパートに帰って弁当で夕食を済ませた。
別れ話が持ち上がったカップルが互いを罵り合う理不尽なバラエティ番組を観ながら、また電話をした。
沙綾には、つながらなかった。
腑に落ちないまま、敷きっぱなしの潰れた布団に寝転がった千里人は、そのまま眠ってしまったらしい。
意識は夢の中に飛び、そのまま記憶が途切れた。
――――こつ、
こつ、
窓を叩く音が千里人の意識をノックする。
思いがけず、懐かしい匂いとともに古い記憶がフラッシュバックした。
六畳間の真ん中に二段ベッドが置かれている。それは千里人の実家の子供部屋だった。ベッドが仕切りになって、姉と、千里人のそれぞれの勉強机が置かれていた。千里人は中学に入るころまで姉と同じ部屋で眠っていた。そのあと家を増築して姉とは別の部屋になった。だからこれは小学生のときの記憶だ。それも、ずっと幼いころの。
――夜のことだ。
千里人がひとりで部屋にいると、こつ、こつ、とガラスの窓が鳴った。
なにかと思ってカーテンを開けると、大きな蛾が、明かりに誘われて窓にぶつかっていた。
怖くて窓を開けられなかった。蝶はきれいだけど蛾は気持ち悪いから。触覚がギザギザで、鱗粉を散らして、ひらひらと空を飛ぶくせにいびつに太い。
なによりも、蛾の羽音は、ざらついた鉄錆のような臭気がしたから。
こつ、こつ――
蛾は、あきらめずに何度も何度もガラスにぶつかった。
――開けて、開けて。
音はいつしか言葉になって聞こえた。
幼い千里人は布団をかぶって怯えていた。
翌朝。
蛾は、軒下で、ぼろぼろになって死んでいた。
羽を広げると子供の掌よりも大きな目玉模様の蛾だった。二つの目が睨んでいるようだった。千里人は蛾をつまみ上げると、スコップで穴を掘って庭の隅に蛾を埋めた。
捨てたのではない。
埋めたのだ、と。
それで千里人は許しを請うた。仏壇から持ってきた線香を立てて、だから恨まないでと手を合わせた。滑稽かもしれない。子供の考えたこと、子供の思い込み、七つにもならない子供のしたことだから。
体が……動かない。
金縛り。
きぃんと耳鳴りが。テレビが異音を。ざぁざぁと土砂降りのようなゴーストがブラウン管を引っ掻きまわす。意識の乱れ。寿命の切れかけた蛍光灯は不愉快な明滅をくり返して、そして、
――――こつ、
こつ、
こつ……
切れた。
部屋が暗くなったのと同時に息を呑んだ。
そこに光≠ェいた。
すりガラス越しに異様の気配が、臭いが滲み出した。
それは、いうならば現実の膜をかぶった、異物、会ってはならないもの、見えてはならない存在の表出――
闇。
水が如き闇をたゆたうもの。
ゆらゆらと影絵を窓に映して悪戯ながら、己の存在を否応なくあきらかにすると音もなく移動し、
ガラスを叩いた。
――開けて、開けて。
音はいつしか声になって聞こえる。
蛾ではない。
しかし今、千里人の眼球の底に映ったものは灼けるような熱の臭いを発して、意識のスープの中で煮沸される。
無意識に窓を開けていた。
よどんだ部屋の空気と、それよりも冷たい外気とが体にまとわりついてからみ合う。肌が粟立った。雑菌混じりの口のなかの苦い味。早まる鼓動とともに指先から感覚が溶け落ちていく。
そして吸い込まれるように窓の外の闇に首を差し出した。
――もう、そこにはいなかった。
腰高窓の外には、ゆるんだ物干しロープと隣の家の壁があるだけだ。
「今のは……」
テレビが、つけっぱなしだった。
深夜番組ではグラビアアイドルが嬌声を上げている。
肉体から剥離した意識が、すうっと自分の囲いに引き戻されるのを感じた。たちまち体温が冷めていく感覚とともに鼓動は落ち着いていく。
すりガラスに掌をあてて、茫然と窓の外を眺めていた自分に、われに返った。
「あのときと、同じ……」
既視感。
そのことを思い出すのは、故郷を、田菜を思い出すことだ。
二年前の奇妙な夏、あの猫おどりの祭りの夜。
あの日から千里人に見える世界は変わった。
翌日、寝坊がちの学生にとっては鬼門ともいえる一限目の語学に沙綾が現れなかったことで、千里人はいよいよ不安を抑え切れなくなった。
携帯電話がつながらない。
つながらないのだ。言葉を送ることも、受け取ることもできない。
それは人の縁が切れてしまったような欠落の感覚だった。
「連絡つかない?」
「昨日、アパートに寄ったけど、留守だった」
廊下を歩きながら千里人は勇にいった。
「ちょっと心配だな」
「かなりだよ」
千里人はいらだって答えた。自分の気になることがあると、眼前の相手にも全く気を払えなくなる。悪い癖だとわかっていても、どうしようもなかった。
「実家に帰ってるとかじゃないのか? なにか急なことで――」
「……そうか」
勇にいわれて、冷静になって考えると、その可能性が高いような気がしてきた。
「彼女の実家は?」
「いや、わかんない」
沙綾の実家の連絡先は知らない。出身は、確か北陸のほうだったはずだが。
「しょうがないな……聞いてないのか」
「いや、彼女の実家の連絡先まで、ふつうは知らない」
沙綾だって千里人の実家の連絡先は知らないはずだ。しかし今は、そんなことをいってもはじまらない。
「学生課に行けば教えてくれるんじゃないか?」
「……じゃ、おれ次の講義だから」
勇は大教室に。千里人は渡り廊下から学生課のある本館にむかった。
学生課の対応は期待を裏切るものだった。
「教えられない?」
「はい」
チェックのネクタイをぶら下げた30代の職員は拒絶の表情で千里人を見た。
「……でも、友達なんですけど」
「教えられません」
憤りさえ覚えるような、ひややかな態度だった。
「昨日から連絡が取れないんです。家にもいなくて、携帯も……もしかしたら実家に返ったのかもしれないと思って。用事があって、どうしても連絡が取りたいんです」
「あのね」
プライバシー保護の問題なの――整髪料の臭いを頭になすりつけた大学職員は食い下がる千里人にマニュアル通りの対応をした。
「一年生だから知らないかもしれないけど、以前に、うちの学生のストーカー騒ぎがあったんだ。ストーカー側の男子学生が、女子学生の実家にまで押しかけたんだけど……その実家の住所をどうやったか学生課から聞き出したらしい。週刊誌沙汰になって大問題になった」
傷害事件を起こしたという。その事件がきっかけで、個人情報のガードが固くなったということだった。確かに大学にとっては受験生の人気に関わる死活問題だろうが――
「問題なんか起こしませんよ」
自分がストーカーだといわれたようで不愉快だった。
「そういうこといってるんじゃないの……とにかく申し訳ないけど、学生からのそういった問い合わせには応じられないと決まってるので」
学生課の職員は千里人を残してカウンターから立ち去った。
あとの講義はうわの空だった。なにを聞いたのか覚えていない。ルーズリーフには一行も板書を写していない。ぽっかりと空白のような時間が過ぎた。
千里は探した。
知り合いとは呼べないような、これまで話したことがない女の子にも沙綾の行方を尋ねてまわった。しかし手がかりになるような情報はなかった。
沙綾は消えた。
――楽しみだから。
そういっていた誕生日のプレゼント、千里人の車の助手席に乗ることもなく、携帯電話を切ってどこかに行ってしまった。
それは味わったことのない喪失感だ。
不安。携帯電話の向こうに沙綾がいないことの、不安。
メール履歴を確かめる。日に十回、数十回。――他愛のない短いメールのやりとり。それを毎日。メモリから溢れ出すほどのテキストの交換。
>好き
>大好き
赤面してしまうような甘美な言葉の相乗り。
千里人と沙綾との関係は、よほどメールに多くを依存していたのだと。いつも思ったことを文章にしてメールで気持ちを伝え合っていた。
その携帯電話の向こう側に沙綾がいない。
伝えるすべを失って、千里人の心は行き場を失った。
それは絶望につながる孤独だ。
千里人はそして、沙綾のことを、実はたいして知らなかったと気づかされた。
彼女の実家を知らない。
彼女がどんな講義を取っているのかもあまり知らない。彼女が大学でどんなふうにすごしているのかも知らない。友人関係にも疎い。むしろ自分といるとき以外の沙綾のことを考えることを、意図的に避けていた。
――ほんとうに、つき合ってたのか?
千里人は、いつも携帯電話の向こう側にいる沙綾と話していた。さらにいえば言葉のむこうにいる沙綾と。
電波のむこうにいる彼女のイメージを作り上げていたのだろう。
それはお手軽だった。
そのぶん危うかった。
携帯電話という線が切れたとき、二人の関係はとても脆《もろ》いものだと思えた。それが痛みになって胸を切り裂く。
「…………」
そうして千里人は、最後に沙綾と別れたあの神社の前に車を停めて、茫然と立ち尽くすしかなかった。
鳥居を仰いだ。
境内を冷たく外灯が照らしていた。
あの日の沙綾の姿を、彼女の残り香を求めて、千里人は記憶をさまよう。
「夕暮れ時の、神隠し……」
――神隠し。
その言葉を聞けば、思い出すのは姉のことだ。
二年前……さらに遡ること二年、四年前のことだ。田菜で神隠し騒ぎがあった。
消えてしまったのは酒屋の三姉妹の末っ子で、深山美玖《みやまみく》という小学校低学年の女の子。それが食事時になっても家に帰らない。家族が探しまわって、それでも見つからず、消防団が出て男が総出で探すことになった。
中学生だった千里人も駆り出された。父親には、危険な場所には近づくなときつく注意された。大人たちは川を浚って山狩りまではじめていた。
「持っていきなさい」
出かけようとした千里人を、姉が呼び止めた。
姉が手渡したのは鉦《かね》だった。真鍮の皿と、それを打ち鳴らす撞木《しゅもく》。千里人は黙ってそれを受け取ると、酒屋の末っ子を捜しに外に出た。
途中で顔見知りの老人と出会った。ロクという名の麦わら帽子をかぶせた犬を連れた老人は、千里人を見ると、その鉦《かね》を鳴らして探してみなさいといった。
「神隠しのときは昔からそうやって探すんだ」
と。
――結局、深山美玖は見つかった。生きて戻った。大人たちの心配をよそに、川でも山でもなく頭屋の森からひょっこりと現れたという。頭屋の森は、田菜盆地のまんなかにある小さな森だ。千里人は現場にいなかったから詳しいことはわからないが、頭屋の森は神聖なところで、田菜の子供であれば親や先生に「入ってはいけない」と口酸っぱく注意される場所だった。首なし武者の亡霊が出るとか、子供を近づけないようにするための怖い話はたくさんあった。森の前を通るときは、かならずお辞儀をしたものだ。
ともかく深山美玖の一件は幼い少女の迷子事件として処理された。誘拐などと事件性はなく、たいしたケガもなかったので、半日ほどで見つかったこともあり大きなニュースにはならなかった。
けれども、千里人にとってその事件はただの迷子事件ではなく神隠しだった。
――姉さんが、鉦《かね》を手渡したから。
鉦《かね》を鳴らしながら行方不明の子供を探したその体験を、千里人は実際にあった神隠しとして記憶することになった。
「夕暮れ時の、神隠し……」
なぜ、沙綾はあのとき、そんな謎めいた話をしたのだろう。
そして沙綾は、まるで自分が語った通りに、どこかに消えてしまった。
きーこ、きーこ、と、誰もいないはずの神社の隅で、錆びついたブランコがゆれていた。
このまま自分も鳥居をくぐれば、沙綾が笑って待っているような気がした。
闇の溶かし込まれた静謐《せいひつ》な空間に、聖俗の境界をまたいで、誘われるように足を踏み出しかけた千里人を――
着信音が呼び止めた。
反射的に携帯電話を開いてメールを確認する。
>山下勇
それは沙綾ではなく、勇からのメールだった。
>美土さん、民俗学の研究室に出入りしてた
「民俗学……?」
初耳だった。勇は、沙綾について思い出したか、誰かに聞いたかして伝えてくれたらしい。
停めてあった車に戻ると、タイヤを鳴らしてUターンする。急いで大学に取って返した。
学生の気配が失せた夜の大学構内は、昼間とは異質な空気に包まれていた。
研究棟に入ったのは初めてだったかもしれない。まだ一年の千里人には敷居の高い場所だ。そこは高校までの職員室とはまったく違う。多くの教授にとっては、自分の研究こそが本業であって、講義はそれに付随するものでしかない。高校の先生は生徒を教えることが仕事だが、大学の教授は授業についてこない学生に情をかける義理はない。大学教官と教育者は必ずしもイコールでは結べない。なにしろ彼らに教員免許は不要だ。
湿気のこもった薄暗い廊下を通って、ようやく探し当てた民俗学の高原教授の部屋は、研究棟の外れにあった。
かなり遅い時間だったが、暗い廊下にドアの下の隙間から明かりが漏れていた。
まだ帰っていないようだ。千里人は緊張しながらドアをノックした。
「…………」
応答がない。
もう一度ノックするが反応はない。
思い切ってノブをまわした。失礼します、と断ってドアを開けた。
すぐに黴っぽい濃密な空気が肺に吸い込まれた。
本の臭い。
壁一面の棚に学術書や資料が溢れんばかりに差してある。震度4の地震でこの部屋は土砂崩れを起こすはずだ。
「きみの故郷は」
声が飛んだ。
涼やかな声に、千里人は聞いていなかった授業中に先生に指されたような錯覚を覚えた。
「…………?」
「きみの故郷にある民話や伝承、祭り、あるいは都市伝説について述べよ」
それが千里人を異界に誘う人との出会いだった。
第二章 異界に誘う人
「きみの故郷にある民話や伝承、祭り、あるいは都市伝説について述べよ」
研究室にいた女性が、千里人に声をかけた。
タートルネックにロングスカート、黒いセルフレームの眼鏡の三点セット。研究室に棲みついた本の虫だ。ストレートの長い黒髪に、まっすぐそろった前髪が印象的だった。
「故郷は、伊豆の……田菜……」
「で」
レンズの下でアーモンド型の目がきらりと千里人を値踏みする。射すくめるような厳しい視線だ。瞳の窓に、濡れた刃を思わせる内面の鋭気が漲っていた。
「祭り……といえば、猫おどり」
「ほほう、猫が踊るか」
黒髪の女性は、ぽんと手を合わせた。
「――猫が踊るという言い伝えは日本各地にある。猫は鼠を捕るから、昔から人間に飼われて大切にされてきた。古代エジプトでは穀物を、仏教寺院では経典を、養蚕《ようさん》が盛んな地域では蚕《かいこ》を鼠害から守ってきた。
夏目漱石の『吾輩は猫である』では、雑煮を食べようとした猫が牙にひっついた餅を取ろうともがいて踊った。横浜市営地下鉄の踊場駅は、昔そこで猫どもが集まって、手ぬぐいを被って踊ったという民話に由来する。行けばわかるが猫だらけで楽しい駅だ。それから……水俣病は、水銀中毒の猫が狂ったように暴れたことから猫踊り病ともいったか」
「あの……」
「それで、きみは何者でなんの用?」
つっけんどんに誰何《すいか》される。
「高原先生、いますか」
「留守」
まるで部屋の主のように眼中人なくふるまっている彼女は、かといって教授には見えない。先生と話しているような年上の態度でありながら、化粧っ気のない同級生のようでもあり、ともすると素材丸出しの高校生のお嬢さんのようでもあった。
「あの……」
「なーに? はっきりいいなよ……きみはウジ虫くん?」
――なぜ知ってるんだろう。千里人はカウンター気味に古傷を抉られた。小さいころの忌まわしいあだ名を。
ずけずけとものをいう相手の態度に困惑して、内心むっとしながら、千里人は冷静につとめていった。
「美土さん……文学部一年の美土沙綾さんが、この研究室に出入りしているって聞いて」
「…………」
「ここに、来てないかと思って」
「きみは、もしや千里人くん?」
初めてあった彼女に、名前を呼ばれた。
「一年の御子柴千里人だけど……」
「そうか、きみが千里人くんか」
また違った色を見せた瞳で、頭から爪先まで観察された。くるくる表情がよく変わる人だ。
「なんで知ってるの……?」
「沙綾に聞いた」
その人はずいぶん親しそうに彼女のことを口にした。
「高原教授はフィールドワークに出かけてて、留守」
さっきより少しだけ丁寧に教えてくれた。
「フィールドワーク……」
「現地調査。休講の通知が出てたから、しばらく帰らないはず」
「美土さんも?」
千里人はもしかしてと思い、いった。
「同行しているのは助手の人だけ。私は今回お留守番……沙綾は当然、行ってない」
「そう……」
「わたし、邑崎詢《むらさきまこと》――文学部四年。先輩だぞ」
四年生……
――二十歳すぎ?
うっかり叫びかけた千里人は、あわてて言葉遣いをあらためた。
「美土さん……昨日から、こちらに来ましたか?」
「来てないと思う」
急にしおらしくなったねと失笑された。
「そうですか……」
「でも、何で自分の彼女のこと『美土さん』?」
邑崎詢は興味深そうにいった。千里人はそのことにはふれず、
「実は、彼女と二日ばかり連絡がつきません。携帯つながらないし、アパートもずっと留守で……」
千里人がいうと、詢は自分の携帯電話を手にした。
「…………なるほど、つながらない」
コールを続けたあと、携帯電話から耳を離して千里人にむき直った。
「最後に沙綾と会ったのは、きみなの?」
「ぼくの知っている限りは」
千里人は研究室の入り口に突っ立ったまま答えた。
「連絡がつかなくなったのは、おととい?」
「はい……その前の日は一緒に帰ったんですが」
「それで、きみは二日も沙綾と連絡がつかないのに、なにをそんなにのんびりしてるわけ?」
立ち上がった詢から叱責の言葉が飛んだ。
「だから探してるんです……! 事故に遭ったのかもって新聞も読みました。実家に帰ったのかとも思って、学生課に行ったけど、プライバシーの問題とかで実家の連絡先は教えてもらえなくて……」
「言い訳はやめよう」
きりっとした眉と唇には有無をいわせない強さがあった。
「沙綾は、二日も大学さぼって遊び呆けてるような子じゃない。連絡もしないで、どっかに家出しちゃうような子?」
「違います」
それだけは、はっきりと答えた。
「電話連絡もない。これは失踪ね」
あらためて、『失踪』という言葉を突きつけられて、さあっと血の気が引いた。
連絡がつかないのではない。
沙綾は、なんらかの事情で連絡ができないのだ。千里人は、わかっていたのにその事実から目をそらしていた。
――いつまでも一緒にいられるから。
だから明日になれば沙綾は帰ってくると怠惰に信じていた。
「警察……!」
「あわてない」
110番にかけようとして、千里人は制止された。
「でも」
「事件性がない限り、警察は人探しはしない」
詢は首をふった。
「だって行方不明ですよ?」
「脅迫電話があったとか、小さな子供がいなくなったとかでない限り……今どきの女子大生が、二日くらい連絡が取れない程度じゃ、警察は対応しない」
「捜索願とか……」
「基本的に、捜索願って家族か保護者しか出せないし」
――そういえばミステリー小説で読んだことがあった。捜索願は年間数万件出されるが、警察はそれをデータベースに登録するだけで、探すことはしない。行方不明者が多すぎて人員が割けないのだ。
だから警察から連絡がくるのは、最悪の事態が起こってから――
死体の身元が判明したときだと。
「沙綾の実家に連絡しようとしたのはいいとして……プライバシーだって? そういや去年、ストーカーの傷害騒ぎがあったか……でも学生課にそんなこといわれて、おめおめ引き下がったの」
「そういわれても……」
詢が学生課の番号を調べて電話したが、かなり遅い時間だったので誰も出なかったようだ。
「こんな時間じゃ、学生課にも人、残ってないか――」
詢はパソコンのマウスを操作した。千里人は彼女の後ろにまわり込んでディスプレイを覗いた。
「ああ……沙綾は、まだ名簿に入れてなかったか」
画面には住所録が表示されていた。この研究室の名簿らしいが、そこには、まだ一年生でゼミにも所属していない沙綾の名前はない。
教授、聞いてなかったかな……とつぶやきながら詢は携帯電話をかけた。
数回のコールのあとで、どうやらつながった。
「――高原先生ですか? 留守番の邑崎です」
調査に出かけている高原教授にかけたらしい。電話口で沙綾の実家のことを尋ねる。
そうですか、と通話を切った詢の声の調子で、高原教授の返事は推し量れた。
「……だめでしたか」
「教授も聞いてないって……うーん、市名までは知ってるんだけど」
「市名?」
「△△県もみじ野市」
詢は答えると、逆に聞いた。
「沙綾がうちの研究室に出入りするようになったいきさつ、聞いてる?」
「いいえ、この研究室のことはさっき知ったので」
もみじ野市という名にも千里人は覚えがなかった。
「沙綾が履修している民俗学の講義、うちの高原教授が担当なんだけど……前期試験の代わりに、自分の故郷にある民話や伝承、祭り、あるいは都市伝説についてのレポートを、夏休みの課題に出したの。わたしも読ませてもらったけど……沙綾のレポートは点数をつければ文句なしでA評価だった。で、個人的に興味を持ってね。講義のあとで声かけたら、彼女、民俗学志望だっていうから。だったら――ってことで。もちろんまだ一年生だし、見学とかレクリエーション程度だけど」
具体的には研究室の飲み会に誘った、と詢はいった。
「彼女が研究室に出入りするようになったの、じゃあ、最近なんだ……」
ここ一ヶ月ね、と答えて詢はパソコンを操作した。ブックマークしたホームページにアクセスする。
「もみじ野市のホームページ」
市の紹介、広報、生活ガイド、観光案内などの項目が並び、BBSや市長のメールボックスが公開されている。自治体らしい堅いページ作りだ。
「この写真……」
トップページの画像に目を奪われた。
「生き雛行列、ね」
詢がいった。
観光イメージの写真だろう。平安時代のような装束を着た男女は、なるほど、いわれてみればお内裏様とお雛様で、それは雛人形に扮した祭り行列だった。
「……どうしたの?」
「心あたりが」
そういったときには千里人は研究室を飛び出していた。
車から降りると沙綾のアパートに走った。助手席から詢が降りて、後に続いた。
「生き雛行列の絵葉書って……」
「昨日、ポストに入ってました」
千里人は『美土』と書かれたポストを開けようとした。近所の目を気にしている場合ではない。しかし鍵がかかっていた。
「隙間から、手、入らない……?」
「この鍵なら」
開けられますといって、千里人はダイヤル式の鍵をまわした。カチリと音がして、ポストの鍵はすぐに開く。
「……どうやったの?」
「ちょっとしたコツです」
鍵開け遊びは男の子ならやったことがあるだろう。このタイプのダイヤル式の鍵は数字がわからなくとも開けられる。ほかにも簡単な自転車の鍵くらいなら硬い針金があれば開けられた。
千里人は絵葉書を手に取った。
表書きを見る。宛名は『美土沙綾』、差出人は『美土未歩』――誰だろうか。親族には違いないはずだ。肝心の差出人の住所も書かれていた。
△△県もみじ野市|樹谷《こだまだに》…………
「104」
「はい」
指摘されて、千里人はNTTの番号案内にかけた。
オペレーターに住所を伝えて、確認を取ったあと、千里人は携帯電話を切った。
「……だめ?」
「電話帳に登録されていないので」
住所から電話番号はわからなかった。
千里人は絵葉書を手に立ち尽くした。悪いとは思いながら、つい手紙に目がいってしまう。
――――沙綾おねえちゃん元気?
うちは、みんな元気です
こんどのおまつりでは、
沙綾おねえちゃんが
おひなさまになれるといいね
……………………
絵葉書なので多くは書かれていなかったが、そんな文面だ。漢字の一文字が大きな、あきらかに子供の字だった。沙綾に妹はいただろうか。
「ぼく、行きます」
「行くって……」
「この住所をあたります。たぶん彼女の実家だと思います」
――自分でいいだしたことに、自分でも驚いた。
「今から……? ここって北陸の山奥よ」
「明日になったら、教授通すなりして学生課に照会するけど……」
冷静になってと詢が諫めた。
連絡がない――それは千里人にとって脅迫電話も同然のことだった。千里人の心は、確かに、沙綾がいないことの不安に追い詰められていた。
「邑崎さんはそうしてもらえますか。今から行けば、たぶん明日の早いうちには着きます。ここで待っているなら、それが一番早いから」
絵葉書を指でなぞった。
その文字にふれたとき、ほんの幽かな……紙と鉛筆に付着したものの臭いを嗅いだ。その違和感は――それにふれることができるのは、おそらく自分だけだから。だから千里人は詢の制止を問題にしなかった。
その感覚と、その感覚が希求するものを千里人は無視できない。
それが常識のものさしでは到底まともでない判断であってもだ。
それは他人に訴えても理解され難く、理解してもらおうとすれば、その行為そのものが辛い。だから千里人はなにもいわず、なにも説明せず、ただ決意した。
自分のその感覚が求めるままに――
「実家に帰っていれば、それでいいんです。とにかく彼女の家族に、連絡が取れないことを伝えないと。彼女が失踪していることに気づいてるの……今、沙綾のためになにかできるの、自分だけだから」
アルバイト先のパン屋で初めてあった次の日に、大学で彼女と再会した。
「――パン屋さん?」
昨日バイト先で会った女の子が、同じ語学のクラスにいたことに千里人は声を失った。
「くるみパン、おいしかったよ」と、ほほえみをむけられた。
千里人はそのとき、初めて沙綾の名前を知った。
それからしばらくした、梅雨の晴れ間――祖父が死んだころ。異常に熱かった夏日に、授業が終わって教室で座っている沙綾を見かけた。声をかけると、貧血だという。千里人は構内の保健室まで付き添った。
「生まれつき、体が弱いの」
沙綾は千里人に打ちあけた。
小さいころには、医者が「覚悟だけはしてください」と家族に告げるような容体になったこともあったらしい。今でも薬は手放せず、体育などは体に負担のかからない特別な授業を選択しているという。
千里人は思い切って沙綾を映画に誘った。
沙綾は、最初はきょとんとしていたが、すぐに笑って頷いた。あとから聞いたが、パン屋さんだから危ないことはしない人だ、と思ったらしい。らしいといえば沙綾らしい判断基準だったが。
千里人は沙綾に惹かれた。
生きること――生と死の濃密な匂いを美土沙綾は折れてしまいそうな痩躯に咲かせていた。それは彼女が病弱なことと無関係ではなかっただろう。おとなしそうな素朴な顔立ちと、裏腹に、生まれつき命に枷をかけられているがゆえの内に持つ強さに、千里人の心はたちまち虜になった。現実に車が欲しいと思い立ったのも、きっかけは沙綾の日々の暮らしの少しでも役に立ちたかったから。
それから、ふたりは近づいた。
携帯電話を絆に、いつも一緒に、いつまでも一緒にいられると千里人は信じた。
――最初に乗せるのは、だから沙綾のつもりだった。
「ほんとうによかったんですか……? つき合ってもらって……」
「明日は講義ないし、どうせ教授は留守だし」
けれどもミニクーパーの助手席には、邑崎詢という、出会ったばかりの先輩の四年生が腰を落ち着けている。
「ぼくは、このままだと心配で授業どころじゃないので」
どうせ夜も眠れないだろう。
詢は研究室にいたときの姿のまま同行していた。荷物はバッグ一つだけだ。
「きみ、ひとりだと心配だし」
「そんなに頼りなく見えます……?」
――頼りないという自覚はあったが。
「それこそストーカーだとか沙綾の家族に思われて、警察に通報されたらきみが悲惨だと思って。わたしとふたりで行けば、それはない」
「はい……一緒に来てもらえて助かりますけど。でも、学生課に照会するほうは……」
「そっちは、それこそ電話で済む。高原教授には明日の朝イチで連絡入れてもらう」
「ありがとうございます」
「これ、かわいい車ね。ミニっていうんだっけ」
またしても沙綾がいってくれるはずだった台詞を取られてしまう。完璧だったはずの誕生日の計画は変更に変更だ。
「音楽とか聞きたかったら、CDとか」
千里人がいうと、詢は物入れのケースを手に取った。そこにはCD−Rが十数枚入っている。
千里人の実家には、仕事の経理の関係で昔からパソコンがあった。
CD−Rドライブが一般家庭にあまり普及していなかったころは、クラスのCD焼き係として重宝がられた。『ウジ虫』を脱出していじめられなくなったのも、そういえばそのころ。千里人はクラスのみんなのためにCDをコピーし続けた。クラス一の不良とも、秀才とも、一番かわいかった女の子とも知り合いになった。その後はそれぞれの高校に進んだが、不良は恐喝で鑑別所送りになって、秀才は受験に失敗してひきこもりになって、女の子は在学中に結婚してしまったらしい。
――どれも、ぼくとは縁遠い人生。
でも、彼らと共感することはなかなか難しいが、拒絶はしないだろう。
千里人は彼らのためにCDを焼いたことがあるから。彼らはそのとき、「ありがとう」と礼をいった。そこには千里人を中心にした小さなネットワークがあった。
同じ場所で、同じ目線で話したから。
その共通の体験がある限り、忘れない限り千里人は、彼らを関係ない≠烽フだとは思わないだろう。
……完全に著作権法違反だが。今では、もう自分用のしか焼かない。
「こういうヒーリング系、聴くんだ」
詢はCD−Rの盤面に油性ペンで書いたタイトルを確かめた。エニグマ、アディエマス、デレリアム、ディープフォレスト……千里人を知る相手がそれを見れば、ああなるほどねという顔をする。
「音楽を聴いていると、匂いがしてきませんか……? 水の匂いだったり、石の匂いだったり、……そういう澄んだ匂いのする音楽が好きです」
「匂い、ね……そういう捉えかたをする人?」
「……趣味に合わないかな。ラジオつけます?」
「なにかしらスピリチュアルなものへの共鳴はあるんだね」
――こんなときに。沙綾が行方不明のとき、こんなふつうの会話ができるのは奇妙だった。
かといって、これから数時間も、同じ社内で重苦しい空気を吸い続けるのは、お互い耐えられないだろう。
どのみち今の千里人はまともな精神状態ではない。そのことは千里人自身が自覚している。
「スピリチュアルですか……そういうジャンル分け?」
「音楽の趣味や、車の趣味を見る限りは。わざわざ、こういう古くて不便な車を選ぶのも、この車が持っているなにかに惹かれたわけでしょう」
――匂いに惹かれた、といっても他人には理解してもらえないだろう。
追越車線をベンツが猛スピードで抜いていった。
スリー・ポインテッド・スターのエムブレムは空と海と大地を力で制覇するエンジンの象徴だ。千里人は、ああいう他人を押しのけて勝とうとする車には乗りたいと思わない。まぁ、ミニクーパーも本来はスポーツカーなのだが。
「音楽に魂が宿るなら、自動車にも魂は宿ると思う」
詢は暗示的なことをつぶやいた。
「そんなふうにいわれたのは初めてだな……単に好みとか、趣味とか、思ってました」
「わたしも好きだよ、この車」
詢はウッド調のダッシュボードを撫でた。
エンジンブレーキをかける。
前方が明るくなった。速度を落としながら手動で窓を開けて、高速道路の料金所をすぎさると、窓を閉めながら再び加速する。
「眠かったら無理しないで休んで」
「はい……人、乗せてますからね」
保険は自賠責しか入っていない。
夜の高速は空いていた。
――気がつくとつい速度超過になりがちだ。会話をしていないと、焦りと不安から際限なくアクセルを踏んでしまいそうだ。燃料計がずいぶん減っていた。ミニのガソリンタンクは小さい。燃費もよくはない。休憩がてら給油したほうがいいだろう。
「千里人くんはなにを志望してるの?」
「大学ですか?」
答えに詰まった。志望のコースについては漠然としたイメージさえない。今の成績で希望のコースに進めるかは甚だ疑問だ。
「……まだ決めていません」
「まじめに講義、出てないんだっけ」
「沙綾から聞いたんですか?」
――『美土さん』はもうやめた。変に意識していると、ない腹を探られるほうが面倒だ。
「心配してたよ。……きみは心配かける男?」
お灸を据えられた。
年上の女の人に声に出されると、いい返せない正確は直らない。たぶん姉さんのせいだと千里人は思った。
「民俗学って、どんな感じですか?」
話題を変えようと、千里人は何となく訊いた。
詢は短い間、吟味すると答えた。
「主として自民族の伝統的な生活文化、伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問――」
その説明は、千里人の頭からこぼれ落ちた。
「と、いうのは広辞苑からの引用だけど」
「……次、サービスエリア寄ります」
方向指示器を出して、車を左車線に寄せた。
サービスエリアの駐車場に車を停めて、少し休憩した。
長距離トラックの運転手に混ざってトイレを済ませると、一足先に車に戻った。
夜気が肌を切るように寒い。ドアに寄りかかって、ホットコーヒーで手を暖めながら携帯電話を手にする。
つながらない電話。
何度、かけてもつながらない電話。それでもリダイヤルし続ける。
コールを続けた。
鳴らし続けた。
呼び続けた。
続けて――
そして、また、ため息をつく。千里人と沙綾をつなぐ線は切れたままだ。
天球には、いつもよりも遙かに多くの星々が鏤《ちりば》められていた。
田菜で、故郷で見ていたのと同じくらい。
遠くに来たのだと思う。
――いつか、お互いの故郷に遊びにいこうね。
沙綾がいっていた。
――田舎だから、遊ぶとこないよ。
――牛さん見せてよ。
――いや、実家かよ……。
他愛のない会話が思い出された。
寒さに耐えきれずに車の中に入った。
ポケットを探った。
千里人と沙綾をつなぐ唯一の線は、その生き雛行列の絵葉書だけだ。
こんなタイミングで車を買ったのも、なにかの、めぐり合わせなのだろうか。
千里人は沙綾の故郷に行こうとしている。
……窓を叩く音がした。
ドアロックは開いている。千里人は、開いてますよ、と声だけを返した。
――――こつ、
こつ、
しかし窓を叩いたのは詢ではなかった。
驚いて外を見た。
記憶の闇の中で落とし物を探すように、意識が光を照らし、はっきりと過去につながった。
――明瞭に。
今度は、はっきりと。
「…………!」
無意識にドアを開けていた。
車から降りて、佇み、夜を仰ぐ。
それは星ではなかった。
月ではなかった。
あの日から世界は変わった。
いや、変わったのは千里人のほうなのかもしれない。あれは一生忘れ得ぬ体験だったから。
そして今、車のドアを開けたとき、そこは日常と非日常をまたぐ異界への扉になった。
千里人は――
その光≠ェいた≠ニ直感していた。
その光≠ェいる≠ニいう認識。それは奇妙だが、千里人にとっては記憶と体験に裏づけられた、ゆるぎない価値観だ。
千里人にとってのリアルは。
未明の来訪者を、千里人は受け入れる。
――やっぱり、いたんだ…………
二年前、
田菜で、
千里人は――ぼくとそいつは、奇妙な夏を体験していたから。
そしてぼくとそいつの、異相の秋の、はじまりだった。
天の海から星が剥がれ落ちたように、その光≠ヘ千里人の頭上にふわふわと浮かんでいた。
――いいや。昨夜アパートの窓を叩いたそいつは、今また、あらためて千里人の前に現れたのだと。
近くを、あちこちが尖った改造ワゴン車から出てきた、数人の若者のグループが通りすぎた。
――誰も。誰もその光≠ノは気づかない。あきらかに尋常のものではない輝く光球の存在を騒ぎ立てるものはいない。
それは、つまり、見えていないのだ。
それは千里人の世界だけに存在した。
二年前も、たぶん……なんの確証もないが、そいつは見える人と見えない人がいる。認識できる人と認識できない人がいる。
そして千里人には、そいつが見えるようになった。
二年前、
夏、
田菜、
猫踊りの祭りの夜、
あの、奇妙な体験――
そのときから。千里人のなかに、それが肉体的なものなのか、精神的なものなのかはわからないが、そいつを光≠ニして感じることができる部分、見えない器官のようなものができた。
では、そいつは何者なのか
その当然の問いかけに対する回答を、千里人は残念ながら持たない。
しかし、その呼び名だけは知っていた。
つまり――
「マテリアルフェアリー……これが……!」
千里人は光≠ノ語りかける。
けれども光は返す言葉を持たない。千里人がマテリアルフェアリーと呼んだものは、明滅して、あたかもなにかを訴えようとする意志を示す。
マテリアルフェアリーは舞い降りた。
ハンドボールほどの輝きのなかに、その実態の輪郭がおぼろげに浮かぶ。
あるべき重力を無視して、フェアリー、翼ある妖精のようにふうわりと千里人の掌に収まった。
熱くはなかった。しかし冷たくもない。
オーラのように仄かな橙色の光≠フ実体――片手に乗るほどの小さな姿を喩えることは、詩人でも難しい。おもちゃのメカのようにディフォルメされた、かといってそれは動かぬオブジェではなく、架空の生き物、例えばロボットペットのAIBOのようなイメージが近しい。想像力は無限に広がり、しかし、それを定義することはできそうになかった。なめらかな流線型のフォルムに、カメラアイのようなパーツや翼らしき部分は機械のようだが、それにはふしぎと人間の作り物の匂いがしない。
――生きものみたいだ。
その存在は水面の下の魚のように、あやふやで、光の反射のなかで現れては消えるようだったが、その動きの源はあきらかに意志を宿したものだ。
「…………?」
不意にマテリアルフェアリーが輝いた。
虹色に。
めまぐるしく七つの色を変化させて千里人を幻惑する。わずかに体をふるわせて千里人の掌に伝えた。
「!」
自分の携帯電話の着信音に、驚いた。
あわてて画面を確認する。
>美土沙綾
差出人の名前に、数年ぶりにもらった手紙のような懐かしさと安堵とが溢れ出した。
>どうしたらいいの…
たった、それだけのメール。
それだけを待ちわびていた千里人にはあまりに短すぎる文面だった。
沙綾の携帯電話に電話した。
『おかけになった電話は、現在――――』
――しかし、つながらない。しかたなくメールに返信を入れた。
待つ――
何度もそうしたように、待つ。
待ち続ける――――
せつなさとやるせなさで胸が張り裂けそうになった。
「……どうかした?」
気がつくと、村崎詢がそこに立っていた。
千里人は反射的にマテリアルフェアリーを握った方の手を後ろに隠した。
しかし、すぐにその行動の無意味さに気づいた。詢は眼鏡のブリッジをつまんで怪訝そうにしたが、それは千里人のそうした行動に対してであって、マテリアルフェアリーの存在に気づいた様子はない。
「沙綾からメールが」
千里人は携帯電話を詢に見せた。
「『どうしたらいいの…』って……これだけ?」
メールは来た。
だが、その内容がさっぱり理解できない。
連絡をくれるように何度もメールをした。心配していると。どうしているか伝えて欲しいと。通話はできなくても、メールは受信すればいつでも確認できるだろう。
「…………」
沙綾からメールが来たのは、一安心したが、居場所も、いなくなった理由も、いっこうに事態がつかめない。
「どうしたらいいのかわからないのは、こっちのほうだ……」
「いったい、沙綾……どういう状況なの」
詢は、おそらく千里人と同じ気持ちで考え込んだ。
千里人は携帯電話を見詰め、そしてマテリアルフェアリーを見詰めた。先ほど虹色に輝いたそれは明度を落として、眠ったように翼をたたみ、千里人の手の中で暖色の光を仄かに灯らせているだけだ。
――なんて、澄んだ匂いが…………。
その手ざわりは、現実の膜のむこう側の香気を伴っていた。
「事情が、あるんだろうね」
詢がいった。
「それを確かめます」
――ここまで来たのだから、沙綾の実家まで行く。
千里人は携帯電話を上着のポケットに入れた。そして、詢にしぐさを気取られないようにマテリアルフェアリーをそっと同じポケットに収めた。
マテリアルフェアリーは千里人を見ていた。
時速100キロ超――まばゆい高速道路の照明が、現れては背後に流れていく。
そして、その光≠ヘ千里人の上着のポケットのなかで仄かな暖色系の輝きをまとっている。
――この人も気づいてはいない。
助手席の詢も、光≠フ、マテリアルフェアリーの存在には気づかない。
千里人は思った。高速道路を走るミニクーパーの小さな随星《すいせい》の存在を識るのは、自分だけなのだと。
時計は、とうに午前0時をまわっている。
沙綾がいなくなって三日め。
明日があることの意味を失いかけて三日め。沙綾からのメールと、思いがけないもの――マテリアルフェアリーとの遭遇とで、千里人の心は混乱した。インターチェンジをいくつか通過するあいだ車内は沈黙に包まれた。
「邑崎さん」
「なーに?」
詢はすぐに反応した。まどろんでいたように見えたが、彼女の意識ははっきりと覚めていた。
「話、戻りますけど……民俗学」
「お……? 興味があるの?」
「沙綾が興味を持っていた――ということが興味です」
千里人は正直にいった。
「じゃああ逆に訊こうか……民俗学と聞いたとき、きみのイメージは」
「……なんか古いことを調べる学問、みたいな」
「それだけだと歴史学や考古学との線引きがあいまい」
「んー……」
落第点をもらったようだ。
「フォークロアって言葉、知ってる?」
「いいえ」
耳にしたことがあるようなないような、そんな程度だ。
「よく『伝承』と訳されるけど……フォークロアっていうのは、人々が、その土地であったこととして語り継いできたこと」
「民話ですか?」
「それも含まれる。言い換えれば『人々に共有された記憶』ね」
詢の言葉はだいぶ観念的だ。
「記憶……?」
「その土地の人々が、そのお話を知っているから、記憶しているから民話として語り継がれるわけよね。同時に民俗学そのものをフォークロアともいうけど……」
「フォークロア……」
「なんだか、ぱっとしない?」
「研究室、人が少ないみたいでしたが」
名簿を見た限りでは、詢と院生を含めても片手の指で足りた。
「高原教授は研究畑の虫だから……学生に媚を売ったちょろい授業をする気はないし、板書はしないし、出席は厳しいし、レポートを提出してもD評価で落とすときは落とす。そのくせ自分の高い著書を教材に買わせる」
「だから人気がないんですね」
「はっきりいったね……まぁ事実だけど。それを差し引いても、今どき民俗学なんか流行らないってこと。だから一年生が顔を出して、高原教授は喜んでたな」
「…………」
「眠気覚ましに、きみの話を聞かせてよ」
詢は眼鏡を直して、千里人を見た。
「ぼくの、ですか?」
ステアリングを握りながら、横目で詢を見る。
「きみが記憶している物語……フォークロアを。例えば小さいころ誰かに聞かされたお話を」
詢はバッグから小さな銀色の機械、ICレコーダーを出した。
「用意がいいですね」
「聞き取り調査は民俗学の基本」
詢はメモ帳を取り出すと、レコーダーの録音ボタンを押して本格的に取材の体勢だ。
「そうですね……こういうのが邑崎さんが言うフォークロアなのかどうか、わかんないですけど」
「詢でいいよ。そっちのほうが慣れてる」
「……じゃ、詢さん」
「うん」
エンジンの暖気でぬくんだ車内で、高速道路の照明に滲んだ表情がぼうっと語りかけた。
千里人は古い記憶の箱を探った。
「河童の話でも、いいですか?」
「ほう、河童ときたか」
詢は豊かに表情を輝かせた。
「ぼくの実家は、さっきもいいましたけど、伊豆にある田菜っていう盆地です」
「田舎?」
「すごい田舎……信号機がありません。店らしい店は酒屋が一軒とコンビニが一軒きり。盆地のほとんどは田んぼで、ぼくの実家は酪農家なんですけど」
「うんうん」
いい雰囲気、と詢は頷いた。
「啼沢川《なきざわがわ》っていう川があって、上流は原生林の森なんですが、そこで河童を見たというやつがいました」
「見たの……それ、いつの話?」
「十年ちょっと前かな……ぼくが小学生のころです。河童を見たのは亮介っていう――」
「フルネームは」
「阪倉亮介……自動車修理屋の息子で」
「そういうディティールも重要なの」
詢は手の上でシャーペンをくるりとまわした。千里人は、小さいころそれができなくて、必死に練習したことを思い出した。
「……で、その亮介が、啼沢川の上流で、河童と猫が戦っているところを見たことがあるって、いつもいっていました」
「河童と、猫? 化け猫?」
「化け猫じゃないけど……オカカ婆っていう野良猫」
「オカカ婆……」
「うちの実家にもよく来てて、エサあげてました。オカカが好物だからオカカ婆……でも飼ってたわけじゃなく、野良です。さわらせてくれなかったし……」
詢がメモするのに合わせて、ゆっくりと話した。
「歳、取ってるんだ」
「十年前におばあちゃんでしたからね……でも、まだ生きてますよ。ぼくが大学に入る前までは、確かに……高校卒業したころ最後に見かけましたから」
「立派な猫又ね」
「正確にはわからないけど、ぼくより年上かも」
飼い猫ならまだしも、野良猫でそれだけ生きているのは驚きだ。
「オカカ婆と河童はどうして戦ったの?」
「そういう状況説明いっさいなしで……ただオカカ婆と河童が戦ってた、片耳をちぎられたけどオカカ婆が勝ったの一点張りで……話が具体的じゃない。リアリティなさすぎ」
「子供の話ね」
「誰も信じなくて、亮介はみんなにバカにされました。小さな学校だったから……学年で縦割りの班もあって、みんな知り合いみたいなものだったので」
「きみは?」
「ぼくですか? どうだったかな……ノーコメント、静観……みたいな」
「そのへんドライなんだ」
――そんな、かっこいいものではない。どちらかといえば小学校を通じていじめられっ子だった千里人は、亮介が入学してきてから、その河童騒ぎのおかげで、みんなの矛先が亮介のほうに行って都合がよかっただけだ。
「……で、負けず嫌いの亮介は、河童を探して、オカカ婆を追いかけはじめたんです。ずっと……中学に入っても」
「ずいぶんとピュアな子なのね」
「体でかくて、剣道やってて、あまりそういう印象はなかったけど……バカにされたのがよっぽど悔しかったんでしょうね」
「それは河童の存在を科学的に証明できるか、ということとは無関係だから」
詢はレコーダーにつぶやいた。
「…………?」
「亮介くんは河童を見たと、信じているんだもの。でも、その河童を見た記憶を誰も共有してくれない限り、その物語が、きみのいた田菜の小学校の小さなフォークロアになることはない」
「ただのホラ話」
「嘘ってことで、処理される」
「フォークロアになるのは嘘つきの亮介の話のほうなんだ」
「そうね……でも、千里人くんの話しかたを聞いていると、きみは河童の存在を疑ってはいないように感じるけど」
詢にいわれて、千里人はちらっと上着を見た。
ポケットのなかで、マテリアルフェアリーは仄かに、しかし確かな重みとともに輝いていた。
「どうかな……わかんないです。でも二年前……亮介、オカカ婆を追いかけるのはやめたみたいですよ」
「それはまた、具体的に、どういう心境の変化で?」
「さぁ……そのころは亮介とは、もう、つき合いがなかったので。追いかけるのやめたって話も、また聞きで」
「案外、彼女ができたとか」
「あるかもしれません」
もう、化け猫を追いかける歳じゃなくなった、というだけなのかもしれない。
「それで」
「それでおしまいです。オチもなにもなし……つまんないでしょ?」
「ウケ取らなくてもいいの」
詢は口元をゆるめた。
「……ですか?」
「オチがある話っていうのは、ほとんどが手を加えられた話だから。寓話であったり、風刺を利かせるために、今の亮介くんの河童の話みたいなおおもとのネタに、あれこれ手を加えて、それらしいオチをつけると」
「なるほど」
「そうして話を改竄《かいざん》してしまう行為そのものも、そうしたことが行われてしまう社会風景を含めて、わたしの研究対象ってわけ」
詢は学者らしいことをいった。千里人は、自分が四年生になったらこんなに賢くなれるだろうかと考えた。たぶん、無理だと。
「おもしろいですね」
「もしそうなら、きみも民俗学志望だね」
スカウトされた。結局、それが目的なんじゃないかとも思えた。
「考えておきます」
――次のインターチェンジで国道に下りた。
詢に山越えの峠ルートを地図で示してもらいながら、夜道をさらに進む。こんなときナビがあればと思うが、なにしろ値段が高い。
ミニクーパーはよく走った。
途中、ハイオクガソリンを二杯もおかわりしたけれど。財布の中身を見るのが怖かった。それでも数百キロ走って車の癖がつかめてきた。車との一体感は増して、クラッチでミスすることもなくなった。なにぶん旧式のエンジンは馬力不足で、急勾配の峠ではもたついたが、この調子なら、時期に目的地のもみじ野市につくことができるだろう。
「――詢さんも、何か話してください」
ナビ席の四年生にいった。
「なにを」
「フォークロア……詢さんが知っている物語」
沈黙が続くのは気を使ってしまう。それに、千里人の過去ばかり話しているのは不公平でもあった。
「そうね、じゃあ……」
高速道路を下りてから大きな街並みを見ることはなかった。気がつけば人家すら絶えていた。あたりには山野の闇ばかりが広がっている。
「あるところに穴森というところがあった」
詢は静かに語りはじめた。
「…………」
「深い山間の村よ。昭和の終わりごろに新しい道路が整備されるまでは、特に雪の積もる冬は、村の外との行き来にも苦労するような、隔絶した場所だったようね」
「そんなに最近まで」
「憑きもの筋って、知ってる?」
声が陰った。
「あまり詳しくは――」
――ピンと来ない。憑きものというと、イタコの口寄せとか祟りとか、そんな雑多なイメージが浮かび上がった。
「憑くとされるものには様々な種類がある。わかりやすいイメージだと、巫女が憑依状態になって神の託宣を授かったりする。それらは神の霊。ほかにも東北地方のオシラサマやコンセイサマ……『遠野物語』に出てくるでしょう。それらは家に憑くという。
「家が栄えるんですよね」
「少し神格は落ちて、精霊や妖怪に近いけど、座敷童子もそうね」
「座敷童子が現れるという宿があって、数年先まで予約でいっぱいになっているって話を、テレビで見たことがあります」
その宿の部屋には、実際にそこに泊まって幸せになったという人から贈られた日本人形がたくさん置かれていた。
「男は出世して、女は玉の輿――でしょ? その宿、うちの母が泊まったことあるって」
「へぇ……どうだったのかな」
「さて、それはともかく……座敷童子がいると信じることで、幸せになれることもあるということ。少なくとも、その宿に泊まった人たちは座敷童子が憑くというフォークロアを信じていた。この物質と科学が支配する現代に」
「神様だけに良いイメージがありますね」
「もちろん邪な神様もいるけど」
「貧乏神とか」
食事中に茶碗を鳴らすと祖父や姉に叱られたものだ。――貧乏神がくる、と。
「ふふ……きみはおもしろい話を知ってるね。うちの研究室には憑いてるかもね……でも憑くのは神様だけではない。人の霊も憑く」
――とたんに話の温度が下がった。
「怨霊……とか」
それを口にしただけで、くさった空気を肺に詰め込まれた気がした。
「下世話なところだと、男に裏切られた女の恨みとか……心あたり、ない?」
「まったく」
――どちらかといえば裏切られるキャラだと思う。
「丑の刻参りに代表されるような生き霊は、大半が怨霊ね。律令には、呪詛をしたものは死罪と定められていた。死霊――死んだ人の霊は祖霊であれば守護霊と捉えられるけど、そうでない霊はやっぱりマイナス……問題のあるものが多い。日本史上に残る怨霊といわれているのは、藤原氏との政争に敗れて太宰府に左遷された菅原道真――」
「天神様」
受験のとき親戚にお守りを送ってもらった。御利益があったのかどうかは、やっぱり微妙だ。
「怨霊は、しばしば神として祀られることで鎮護される。なかでももっとも畏れられ続けたのが崇徳上皇《すとくじょうこう》の怨霊」
「保元の乱でしたっけ」
一一五六年――いちおう受験は日本史で、得意科目だった。
「保元の乱に破れて讃岐に流刑された崇徳上皇《すとくじょうこう》は、改悛《かいしゅん》の証として、自らの生き血で写した五部大乗経を京に送ったが、写経は送り返された。そのことを怨んだ上皇は、『この写経の善行を三悪道《さんあくどう》に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁《だいまえん》となり、皇を民となし、民を皇となさん』と呪詛した。そして、爪も髪も切らず、生きながら天狗になったという。
崇徳上皇《すとくじょうこう》の死後――これは時の二条天皇による暗殺ともいわれているけど、都では凶事が相次いだ。二条天皇の夭死、疫病の流行、大火事、飢饉……すべては崇徳上皇《すとくじょうこう》の祟りだと都は畏れおののいた。
朝廷は怨霊を鎮めるために『崇徳院』の諡号《おくりごう》をしたけど、祟りは収まらなかった。保元の乱で権力を手中にした平清盛は怪死し、源平の争乱――その後も、ことあるごとに崇徳上皇《すとくじょうこう》の祟りは噂された。その霊威は死後八百年たった明治維新ときも続いていた。幕末の戊辰戦争の最中、祟りを畏れた明治天皇は、京都に御陵を移して、崇徳上皇《すとくじょうこう》の命日に、讃岐から上皇の霊を迎え入れたの。ようやく京都に帰れたわけね。明治の世は、崇徳上皇《すとくじょうこう》の怨霊を鎮めることからはじまった――というのはオーバーかな。
ちなみに崇徳上皇《すとくじょうこう》を祀った京都の白峰宮が神宮に昇格されたのは、太平洋戦争の前年のこと。なぜかしらね」
日本の歴史に憑いた怨霊、そこまでいくと完全に神のように思えた。
「…………」
「そして動物霊もまた人に憑く」
詢の言葉がさらに温度を下げた。
車は峠をくり抜いたような狭いトンネルに突っ込んだ。
一瞬、照明に惑わされて視野が狭窄《きょうさく》した。トンネルの道はゆるやかに蛇行しながら、かなりの急勾配で峠を登っていく。千里人は小さくふるえた。寒さばかりではない。それは心が感じる違和感だ。
そこはまるで蛇の体内の管のようだった。
「憑くとされる動物は数多いけど、これは一時的に憑く場合と、一生憑きまとう場合とがある。イズナ、オサキ、クダ、四国の犬神……この種の憑きもの筋の特徴は、家系や血筋に憑くといわれること」
「血筋に?」
「憑きものは遺伝する」
民俗学の話に、科学用語が混ざり込んで、千里人はやや困惑した。
「動物霊が……DNAにですか」
「それが科学的に立証できるかどうかは問題じゃない」
「ああ……」
少しだけ詢がいうことのフィーリングがつかめてきた。
「その霊が血筋に憑くと、その土地の人々に信じられていること――それが憑きもの筋の俗信の土壌になる。さらに言及すれば、それが神霊であるのか、人間霊であるのか、動物霊であるのか、守護霊であるのか怨霊であるのか。それを判断するのも、結局は、土地の人々の解釈の問題よね。人間霊は時に神となり、動物霊もまた神となりうる。自分たちにとって、その存在はプラスなのかマイナスなのか……人は見ようとしたものを見るから」
「…………」
「穴森村の場合、それはミガミ筋だった」
アナモリムラ――
「ミガミ……?」
「穴森村のとある血筋では、何人かに一人の割合で、家系の女に生まれつき紐のような痣が出たそうなの」
「痣……」
千里人は、白い女の肌に浮かんだ、紐のような傷を思い浮かべた。
「紐痣というのは蛇のような……つまり蛇神憑きを連想させる。蛇神は長縄神ともいう。ミガミ筋のものはいわゆる長者で、家は栄えたけど、一方で紐痣のある娘を嫁にやると不幸が起こるともいった。だから紐痣の娘は恋をすることも許されなかったそうよ。ミガミサマは憑き神であり、祟り神でもあった。明治以前――ずっと昔には、紐痣のある娘は石を抱かせて生きながら淵に沈められたともいう」
対向車線に幽霊のように現れたヘッドライトが千里人の顔を照らして、
「…………?」
轟然と、すぎ去った。
龍のマークの、引っ越し会社のトラックだったような気がした。しかし運転中では、ふり返って確かめることができない。
バックミラーを見ようとしたとき、車がトンネルを抜けてようやく峠を越えた。
「お話、よ」
詢はやんわりといった。
否定でも肯定でもなかった。
「…………」
「明治以降の、近代医学の普及と民族的なムラ社会の解体によって、憑きもの信仰は多くの迷信や差別意識とともに消滅しつつある。男尊女卑を基にしたイエ制度の衰退とともに、憑きもの筋も風化していった……けど」
「けど……?」
「穴森村では最近までミガミ筋が信じられていた」
ぱぁっと山の稜線から朝日が射した。
標高の高い峠では、松の濃緑のなかに、ブナやカエデが鮮やかに色づきはじめている。
橋に行きあたったとき、対岸に古びた看板が見えた。
――ようこそ穴森村へ
虚構と現実の溝に落とされた。
ここらが臆したようにアクセルを踏んだ右足がゆるむ。
「詢さん……?」
この人は、まるで魔女のようだ。
――そういうことか。
千里人は息を呑んだ。
ポケットのマテリアルフェアリーがなにかに反応するように、おぼろげに明滅した。
「もみじ野市……合併前の名前は、穴森村。沙綾の実家があるところよ」
第三章 蛇の棲む村
もみじ野市は、旧穴森村を含む町村合併で、数年前に成立した新市だ。
「――市の名称は、合併委員会の選考で決まったみたいね」
詢《まこと》が膝の上で地図を広げた。
旧穴森村は地域を貫く岸間川の上流域にある。高速道路を下りてからは、国道の一本道で迷うことはなかった。それは、ほかにこの山間の村に通じる主要道路がないということだ。
「広いですね」
千里人《ちさと》はちらりと地図を見た。
複数の町村を併せたもみじ野市の面積は広大だ。山脈を背にしながら一部は海にも接している。
「山間部と海側に必ずしも地勢的な強いつながりがあるわけではない」
行政上の境界でしかないと詢がいった。
「名前も変わってますね」
ひらがなと漢字を合成した名前はひどく人工的な匂いがする。もみじ野ニュータウン、とでも続くのであれば、ふさわしい名前だとは思えた。
「紅葉の名所にしたかったようね……確かに自然の豊かな場所だけど。この穴森村については交通の便がよくないから。スキー場やめぼしい温泉地があるわけじゃなし、観光地としての飛躍は前途多難か――」
あるいは合併の時はそうした気運も高まったのかもしれないが、先ほどの撤去されていない旧村の看板といい、どうも、その余熱さえ感じない。どこかで鶏の声が聞こえた。
狭隘《きょうあい》な農地では、稲作と畑作が行われていた。冷夏と長雨の影響で遅れていた稲刈り後の田はどこか寂しげで、落ち穂を探す鳥の姿さえ滅多にない。
「千里人くんの実家も、こんな感じ?」
千里人は、いいえと答えた。同じ田舎でも、田菜とは風景が異なった。
「うまくはいえないけど、……田菜は、丸いから」
「まる?」
「丸い盆地だから……歩いて回れるほど狭いけど、空は広くて、案外、息苦しさはありません。四方に道が通じているし−−」
「ここは村と外部をつなぐ道は、この川沿いの国道だけだものね」
詢はあえて村と、穴森と、この土地を呼んでいた。彼女にとっては、歴史や地誌と無関係のキャッチフレーズのような新市の名称は、どうも色気のないものと映るらしい。
「田菜は通り道です。通りすぎていく場所」
「人の出入りはあるわけだ」
「パラグライダーのスポットだし、ちょっと行けばゴルフ場もある。富士山が見える丘陵には別荘地があります。南欧風っていうのかな……きれいな別荘がたくさん建っていて」
「レジャー、別荘地、それと酪農だっけ……都会から田舎としての機能を期待されているわけだ。ある意味『田舎』っていうテーマパークみたいな」
詢のいったことがすべてあてはまるわけではないが、田菜という土地にはそういった都会との関わりのなかで人為的に作られた側面もあるのかもしれないと千里人は思った。
「それと比べると……」
比べてどうなるものでもないが、熱海や箱根、三島といった町と、ひと山隔てて隣接している田菜よりも――
「ここは行き止まり、か」
詢はいった。
「気候や風土もあると思うけど、ここは、もっと厳しい土地だと感じます」
「……過疎の村だね」
ただ人が出て行くだけの場所。
沙綾も大学に進学するとき、この道を通ったのだろうか。
そして、思う。
沙綾は大学を卒業したら、この道を戻って村に帰るつもりだったのだろうか。
それは別れを意味した。
千里人は、彼女の、そんな少し先の未来の希望さえ知らないのだ。知ろうとはしていなかった。いつでも沙綾には会えると思っていた。数年後の自分たちの姿を描くことさえせず、ただ今の幸せが永遠に続くと怠惰に信じて。
それがあっけなく断たれたとき、千里人は子供のように泣き喚いて、つながらない携帯電話を握り、彼女の匂いに焦がれて、数百キロを隔てたこの地を訪れていた。
――いつか、お互いの故郷に遊びにいこうね。
そんな約束に、すがっていたのかもしれない。
旧穴森村の中心である本守という地区の、駐在所を訪ねた。
沙綾の実家を尋ねると、朝食の最中だったらしい駐在は地図を示して、大まかな場所を教えてくれた。
「その家に、どんな用なの?」
「はい?」
「どんな用事で来たの?」
駐在はしきりに確認した。
「その家のお嬢さんの、大学の友人なんですが……」
やや奇異に感じながらも千里人は答えた。
「ああ、そう」
といった駐在の目には、何か疑いの念さえ含まれている気がした。
岸間川に沿って道なりに車を走らせた。
人の土地は狭くなり、次第に、左右から山がそこまで押し寄せてくる。裾野近くは針葉樹だったが、少し標高が上がれば色づきはじめた広葉樹がまだらに山肌を覆っていた。二つの異なる森は、朝日を照り返しながら、あまりにも異なる表情を浮かび上がらせる。
「さっきの駐在さん……変な目で見てましたね」
「こんな朝早くからよそ者の若いのに道を訊かれれば、怪訝な顔くらいする……地図くれたじゃん。親切なお巡りさんだよ」
詢は村の地図を手にした。防災マップの残り物らしい。千里人の持っていた地図は、縮尺が大きすぎて、細かい道までは載っていないのでだいぶ助かる。
その地図をちらりと見た千里人の視界を、突然、まぶしい光が遮った。
一瞬のことだった。フラッシュをたかれたように思わず目を閉じた。
「ブレーキ!」
詢の声に、とっさに急ブレーキを踏んだ。
利きの悪いミニのブレーキが苦しい音を立てる。車は見通しの悪いカーブに突っ込んで、タイヤを鳴らしながら停止した。
詢が、車から飛び出した。
千里人はポケットからマテリアルフェアリーを取り出した。眠っていたように沈黙していたそれが、予期せず、激しいほど強く輝いて千里人の視界を塞いだのだ。
「これって……」
気のせいか――いや、橙色の光のなかで、あやふやに漂うようだったマテリアルフェアリーの実体が、以前よりもくっきりと見て取れた。
より確かな存在として、実在して。
翼あるマテリアルフェアリーは、機械とも生きものともつかない丸みを帯びた姿を、千里人の掌のなかであらわにしていた。おそらくはじめて、千里人はマテリアルフェアリーの確かな感触を手にしていた。
ともかく千里人は、詢を追って車から降りた。
道路には黒くスリップ跡が残っていた。実は、かなり危なかったのだと気づく。ブレーキを踏まなければ、カーブを曲がりきれずガードレールを突き破っていたところだ。冷や汗をかいた。急な土手の下には川が流れてる。
しかし、千里人はすぐに別のものに意識を奪われた。
カーブの両側の木の高いところから、道路の上に注連縄《しめなわ》のようなものが渡されていた。
「これ……?」
千里人は立ち尽くして見上げた。
縄には片方だけの草鞋《わらじ》や藁で編んだ蛇のようなもの、刀飾りなどが吊されている。
「道切り」
詢が答えた。
「…………」
「道切りは民族社会における村境、ムラの境界……人家に悪霊が入ってこないように、こうして道に縄を張る。悪いものは道を伝ってやってくると考えられているから、ムラの境に標《しるべ》をおいて防ごうというの」
「でも、ここは村境じゃないですよね」
「民族上のムラと行政上の村とは一致しない。ムラとは数十戸を単位にした、もっと小さな集落……」
詢はふと、かたわらの森に目を遣った。
そこに地蔵が祀られていた。石材屋で売っているような地蔵ではなく、石の塊を削って、おおまかに人の形に整えただけのものだ。布をまかれて赤い衣を着せられていた。
「…………!」
千里人は足元がぞわっとした。
地蔵の、その首が折れていた。見れば丸い石の塊が草藪に転がっている。
――『へのへのも』
墨で顔が書かれた、地蔵の頭。
「折られてる……?」
詢は、まるで何者かが地蔵の首を折ったようにいった。
胸郭のなかで濁ったガスが膨張して息が詰まる思いがした。石の割れ目はまだ鮮やかで、首が折れたのは最近のようにも思えた。
「詢さん……これ」
千里人は杉の幹を撫でた。
ちょうど乗用車のバンパーの高さあたりで樹皮が激しく削られていた。その傷も、漏れだした樹液の状態からして、まだ新しい。さらに路肩には、カーブミラーを立てていたらしいコンクリートの土台と支柱の根本の部分が残されていた。
交通事故。
そのことが脳裏に浮かんだ。実際に、首なし地蔵の前には線香の燃え残りがあり、新しい花束が供えられていた。しかしカーブミラーはともかく、仮に事故で地蔵が壊れたのなら、そのままにしておくはずもない。
「さっきの駐在さんに知らせたほうがいいね」
詢は地図を手にした。地図の裏面には、役所、学校や図書館などの公共施設のほか、駐在所の電話番号も載っていた。
「あれ……?」
どうしました、と千里人が訊くと、詢は携帯電話を見せた。
千里人は自分の携帯電話を確かめた。
「圏外……」
いつから、そうだったのだろう――
ここでは携帯電話はつながらない。
掌のなかの小さな精密機械が、ただの石ころになってしまった気がした。千里人の携帯は買い換えたばかりだが、これではせいぜいデジカメと時計代わりにしかならない。
「しかたない……申し訳ないけどこのままにしておこうか」
「地元の人が連絡してくれますよ」
地蔵の首を胴体のそばに置くと、ふたりは車に乗った。
――『へのへのも』
ものいわぬ地蔵の顔が千里人の脳裏に強く焼きついていた。これは夢に出るなと覚悟した。
そして、その首にふれたときの臭いは。
抉られた木の幹を撫でたときの臭いは。道切りの縄が張られた場所にあるもの、すべてがあの臭いを漂わせていた。
生き雛行列の、鉛筆書きの子供の文字の臭いが呼び覚まされた。
――この土地の、臭いだ。
そう覚えて、千里人は記憶に留めた。
圏外になった携帯電話とは裏腹に、ちょうど同じくらいの大きさのマテリアルフェアリーは、やはり以前よりもはっきりと見えていた。その存在の度合いを、いっそう確かなものにしているようだ。
千里人は再び車を走らせた。圏外の、さらに奥へと。
「現代の異界ね」
詢がいった。
「異界……」
「携帯の電波も届かない場所」
それは一つの境界のむこう側、ともいえる。ここからさき、どこまで車を走らせても携帯のアンテナは立たないだろう。喩え道が絶えるところまで走っても。
ここは行き止まりのムラなのだ。
渓流沿いに、どうにか車がすれ違えるほどの道を抜けると、山間の小さな集落に出た。
そこを樹谷《こだまだに》という。
「これって『こだまだに』と読むんだ」
詢がつぶやいた。
コンビニなどがあるはずもなく、そればかりか、あの道切りの場所をすぎてから、一台の車とも出会っていない。千里人は車を停めて、ようやく通りがかった人に道を尋ねた。
腰の曲がったお婆さんは、よそ者の若者を睨むようにして、
「あんたら、その家になんの用だ」
駐在と同じことを訊かれた。
千里人は戸惑いながら、さっきと同じように答えた。老婆は、ちゃんと聞こえているかどうかもあやしい様子で、無言で千里人の受け答えを聞いている。
集団登校の小学生とすれ違った。
「おはようございます」
「おはようございます」
口々に元気な朝の挨拶をされる。学校で、そう教えられているのだ。紺のジャージの男の子は坊主頭。えんじ色のジャージの女の子も、都会のように親が手をかけた髪型の子はいない。
「あの家だ」
皺に埋まった老婆の目が一軒の家を指した。礼をいうのも聞かずに、老婆は手押し車を押して立ち去った。
『美土』
門にかけられた古い木の表札を見て、千里人に強い想いが去来した。
夜通し運転した疲労など消えてしまった。
――やっと、たどり着いた。
門のむこうには母屋があり、納屋と土蔵が見える。
「沙綾の家、こんな大きいんだ……」
詢がいった。少し気が引けるくらいの立派な日本家屋だった。
まだ早朝だったが、ためらっている場合でもなく、千里人は呼び鈴に手を伸ばした。
そのとき、門のむこうに子供が現れた。
黄色い帽子をかぶった、ジャージに赤いランドセルの女の子。この集落に学校があるとは思えないから、本守地区にある小学校まで歩いていくのではないだろうか。子供なら一時間はかかる道のりだ。
「ミホ」
女の子を呼ぶ声がした。回り縁のむこうから、母親らしい女性が現れる。
「――ほんとうに送っていかなくていいの? 無理して学校に行かなくてもいいのよ」
「いい。登校班の人と行く」
「これ、傘……午後から雨が降りそうだから」
「いらない」
「いいから」
母親は押し着せるようにランドセルに黄色い傘を差した。女の子は庭を走って、ちらっと千里人たちを見て、門を通り抜けていった。さっきの小学生たちと一緒に学校に行くのだろう。
――二年一組 美土未歩
胸の名札に、そう書かれていた。
その小さな背中を見送りながら、千里人はふと奇妙な印象にゆさぶられた。
あらためて表札を確認する。『美土』の表札の下にある新しいプレートには『健一郎』『加奈子』そして『未歩』――と三人の名前がある。
絵葉書の差出人だ。
しかし千里人が感じたのは、そのことではない。その奇妙な印象が何であるのか、はっきりとしないうちに、気がつくと母親がこちらを見ていた。
千里人はあわてて会釈をした。
女の子の母親が戸惑いながら小さく頭を下げる。
詢が前に出て、おはようございます、と挨拶した。
「はい……?」
「突然、失礼します。私たち美土沙綾さんの大学の友人で――」
「邑崎詢です」
「御子柴千里人といいます」
ふたりは縁側の座敷に通された。
燻したような色合いの太い柱と梁が、古い日本家屋を支えていた。千里人に工芸の審美眼などはないが、欄間に彫られた波と雲にからみついた龍などは、今にもずるりと這い出しそうなほど生き生きとした、見事なものだ。それだけのものを家に使うには相応の資産力がいるだろう。地元の名士なのかもしれない。
――確かに、お嬢さんっぽかったけど。
沙綾の人となりを思い浮かべた。自分の平凡な生い立ちを呪うような、家柄の違いがないことを願った。
「こんな遠くまで、わざわざ車でいらしたんですか……?」
女の子の母親の反応は、まず当然ではあった。
美土加奈子――沙綾の実の姉だそうだ。外見は三十代前半。少し年が離れた姉妹のようだ。なにしろ平日の朝の予期せぬ来訪のこと、化粧などはしていなかったが、整った顔立ちをしている。これできちんと着飾れば人目を引くことだろう。
「住所は知っていたので、なんとか」
千里人は答えた。ポストの鍵を開けて郵便物を調べたとは、さすがにいえない。
「大変だったでしょう」
「でも、安心しました……美土さんが実家に帰っていて」
千里人は息をついた。まず今は、それ以外の感情が出てこない。
加奈子の話では――
あの日、沙綾は神社で千里人と別れたあとすぐに実家に帰ったらしい。最終の新幹線から在来線とタクシーを乗り継げば、深夜にはもみじ野市にたどり着けただろう。
「ごめんなさいね。妹が、ずいぶん心配かけたみたいで」
「いえ、携帯が通じなかったので、連絡が取れなかったものですから」
「あの子、出かける前にお伝えしていけばよかったのに……ほんとうにごめんなさい」
加奈子は重ねて謝った。
謝らせるつもりで来たわけではなく、千里人は恐縮した。こういうときどう応じたらいいのか、とっさによい言葉が浮かばない。
「あの……沙綾は、今、どこに?」
ともかく、一番訊きたかったことを尋ねた。
加奈子は――ところが、なぜか黙ってしまった。
訊いてはいけないことを口にした、そんな気まずい空気が漂った。
「実はね……この家にはいないの」
「え……?」
「妹は病院です」
予期せぬ返事に、千里人は足元が崩れ落ちたような気持ちに襲われた。
「病院……? 沙綾……妹さん、どこか悪いんですかっ?」
「千里人くん」
詢にたしなめられて、千里人はさっきから加奈子を問い詰めるような口調になっていたと気づいて、また恐縮した。
「さしつかえなければ」
話してもらえないか、と詢が言葉を受け継いだ。加奈子の様子に、ただならないものを感じたのは同じだったようだ。
加奈子は、諸々の感情を内に隠した、乾いた声でいった
「実は、わたしの夫が交通事故で」
「え……」
「亡くなりました。搬送先の病院で……沙綾が帰ったのは夫の葬儀のためです」
思いがけないことに、千里人も詢も言葉を失った。
表札に並んだ名前を思い返した。健一郎――つまり沙綾の義理のお兄さんが、交通事故で死んだと。
「妹は夫によくなついていましたから。父親代わりのようなところもあって……」
「父親……」
「わたしと妹の両親は、ずいぶん前に離婚していて……もう二十年も前です。だから沙綾に父の記憶はありません。婿だった父とはそれきり縁が切れて、家を出たきり音信不通で……母の葬儀にも、とうとう顔を出しませんでした」
母親はもともと病弱な人で、沙綾の出産のあとは病院を出たり入ったりで、数年前に病死したという。もちろん千里人はそのことを初めて聞いた。
「わたしの夫は妹の父親でもおかしくない歳でしたから……妹の進学を支援してくれたのも夫でした。祖母は、沙綾が大学に行くことは反対だったので。妹は生まれつき体が弱いんです」
「はい、それは聞いています」
詢がいった。
「母と同じで……家系、なんでしょうかね。わたしはなんともないのに、妹ばかりが辛い思いをして……可哀想に。だから祖母は、独り暮らしが心配だったんでしょう。それでも夫が祖母を説得して、どうにか大学まで生かせてあげられたのに……」
そんな加奈子の夫が、急なことで、交通事故で亡くなった――
「…………」
「よほどショックだったのだと思います。長旅の疲れもあってか、倒れてしまって……」
加奈子の話を聞きながら、千里人は言葉を失っていた。
連絡がつかないのではなかった。
現実には、連絡もよこせなくなるような事態が沙綾を襲っていた。
そして千里人はすぐ、目の前にいる加奈子も夫を亡くしたばかりだということに気づかされた。
一家の柱を失い、小さな娘さんとふたりで残された加奈子に対して、千里人に、なにができるのだろう。これ以上ここで、むき合うことはできそうになかった。こんな朝早くに押しかけて、辛いことを根掘り葉掘り聞き出しただけだ。
千里人は、しかし、この家の様子のことで、気になることがあった。
健一郎氏の交通事故は、おそらく沙綾と最後に会った三日前のことだろう、であれば、なぜ、今、この家は……
「では、ご葬儀は?」
「内々で済ませました」
千里人の疑問を代弁した詢の問いに、加奈子は答えた。
ご焼香だけでも、と詢がいうと、加奈子は言葉を選ぶように間を置いた。
「実は、仏式ではなかったもので」
「……クリスチャンで?」
「いえ、夫は、生前から無宗教の葬儀を望んでいました。ですので告別式も行っていません」
加奈子はいいよどみながら答えた。
千里人は祖父が死んだときのことを思い出した。医者に死亡診断書をもらったら、通夜、告別式、火葬場で荼毘に伏してお骨を家に持ち帰り、初七日――四十九日の法要のあとで墓地に納骨した。
無宗教、ということは、当然、お坊さんは呼ばない。内々でというのは密葬みたいなものだろうが、宗教色のない葬儀というのは想像できなかった。
「仏壇はありますが、夫の位牌はありませんので……」
「では、もうお骨は」
「山に……お山に」
加奈子はふと、どこか遠くを見遣った。
山を所有していて、そこに代々の墓地があるという意味だろうか。千里人の実家も昔は山持ちだったらしいが、酪農をはじめたときにすべて手放してしまったらしい。
「お悔やみ申し上げます」
詢がいったのに合わせて、千里人も頭を下げた。
墓参はできますか、と詢が尋ねた。
「それも……山に散骨しましたので」
無宗教というのはつまりそういうことなのだと。先祖代々の墓に入るわけにもいかない。
お気持ちだけでもありがとうございます、と加奈子は頭を下げた。
「あの……美土さんが入院している病院を教えていただけませんか」
千里人は気後れしながら尋ねた。
「病院ですか」
「はい。面会できるかどうかわかりませんが、いちおう行ってみます」
千里人の言葉に、加奈子はしかし、また顔を伏せた。
「ほんとうにごめんなさいね……せっかく遠いところを来ていただいたのに。だから正直にいうのだけど……沙綾ね……体のほうは過労だから、それほど心配ないのだけど、だいぶ……心のほうが参ってるようなの」
「え……?」
「誰にも会いたくないって……わたしが行ってもいい顔しないんです。だから……邑崎さん、御子柴さん……沙綾の調子がよくなったら、妹から連絡させるようにするので……しばらく、そっとしておいてあげていただけませんか」
加奈子はしゃべることも辛そうになっていた。
千里人と詢の存在は、この加奈子にとっては苦痛でしかないのだと。
「加奈子さん」
襖がぴしゃりと開いた。
お婆さん――加奈子と沙綾の祖母だとすぐに思い、千里人は頭を下げた。
きれいな白髪のお婆さんだ。背筋などはしゃんと伸びている。日舞のお師匠とか、そんな役でドラマにでも出演していそうな、すっと整った空気感のある人だ。
「何事ですか」
こんな朝から、と厳しい言葉が容赦なく飛んだ。
「お婆ちゃん……あの、こちらは沙綾の大学のお友達で」
「非常識だね、都会の若いのは」
沙綾の祖母は、千里人を眇めた。
冷水を浴びせられたように身が縮む。ざらりとした空気が座敷を閉ざした。非常識なのは間違いないから、千里人はなにもいえない。自分が、もうこれ以上、ここに留まってはいけないことだけはわかった。
「そろそろ失礼しましょうか」
詢がいった。千里人は背中を打たれたように立ち上がった。
美土家をあとにした。
加奈子に自宅の電話番号を教わり、携帯電話の番号を伝えて、沙綾の容態などに変化があれば連絡をもらえるようにお願いした。
「厳しそうなお婆さんでしたね」
車を運転しながら、千里人は沙綾の祖母――美土ヨミのことを思い出した。千里人の祖母は、いつも祖父に従っている物腰のおとなしい人だったから、余計にそう思えた。
「そぉ……? うちのお婆ちゃんも、あんなもんだけどな……思ったことはずけずけいうタイプ。わたしの母もそうだし」
――血は争えない。だから詢もそうなんだ、と千里人は納得した。
「…………」
「でも、すっきりはしたでしょ」
詢が息をついた。
「行方不明でないとわかって安心しました」
千里人は正直な気持ちを吐き出した。不安が喉から溢れそうだったそれまでと比べて、今は、景色を眺めながら運転する余裕くらいはある。
親族の交通事故という予期せぬ不幸はともかく、わかってみれば、沙綾は決して失踪したわけでも、ましてや神隠しに遭ったわけでもなかった。
「沙綾と、携帯つながらなかったわけだね」
「ですね……実家が圏外じゃあ」
「今は病院だし」
「そっか。携帯、使えないか」
昨夜くれたメールは医者や看護婦の目を盗んで送ったのだろうか。
「でも、お義兄さんが交通事故で亡くなっていたなんて……」
詢の声がくもった。
「無宗教の葬儀って、珍しいですね」
「家族葬ともいうみたいね。最近は少なくないみたいだけど」
「まぁ、自分が死んだあとで、信仰もしていなかったお寺のお坊さんに戒名をつけられるのは、抵抗がありますけど……」
お寺に渡すお金で戒名にランクがあるという話などを聞くと、やはり違和感があった。
「わたしも海や山に散骨する自然葬には、どことなく憧れるかな」
「父親代わりっていってましたね」
沙綾は父親を知らずに育った。実父とは縁が切れて、母親も病弱だったというから、沙綾は、たぶん祖母や姉に育てられて、姉が結婚してからは義兄の健一郎を父親代わりと思っていたのだろう。
「沙綾の親のことは……? 聞いてなかった」
「はい」
母親は数年前に亡くなり、その義兄までが交通事故で死んだ。
「まぁ、軽々しく他人にいうようなことじゃないけど」
ふっと出た詢の言葉が、思いのほか重くのしかかった。
大黒柱を失った美土家に残されたのは、沙綾、姉の加奈子と姪の未歩、そして祖母のヨミだけだ。
「…………」
「ショックなわけね」
詢に無言の心の内を見透かされた。
「少し」
ほんとうは、かなり。
――他人。
自分は沙綾にとって他人のひとりにすぎなかったという、実態。
入院するほど辛く身も心も追い詰められているときに、どんな手助けもできなくて、どうして彼女とつき合っているといえるのだろう。
しかし沙綾は、千里人を頼ろうとはしなかった。
それは遠慮という体裁の拒絶だった。
実家に帰るときに、実家に帰ってからでも、電話一本入れることはできなかったのだろうか。それができないほど義兄の死がショックだったのだろう。千里人に心配をかけたくなかったのかもしれない。そしてまもなく入院してしまったということなのだろう。
だが――
千里人と沙綾のあいだを見えない壁が閉ざしていた。
それは千里人が自分の想像力で、壁を築いてしまったのだが。
この壁が自力では容易に崩せないことは、昔、高校の一時期つき合っていた子との別れの時に味わった。あのときは進級して、別のクラスになったのがはじまりだ。きっかけなんて、そんなものだ。教室の壁を隔てて彼女が別のクラスに組み込まれていったとき、千里人は疎外されたと感じた。
「彼女が別のクラスの男子と話しているだけで、まともじゃいられなかった。取られるんじゃないかと思った。そんな嫉妬深い男は嫌われるに決まってるから、彼女と顔を合わせづらくなって……そしたら、いつの間にか彼女とは他人になっていました」
まるで初めから、別れるきっかけを探しながら、彼女とつき合っていたように思えた。
「それは、きみがそれを望んだんでしょう」
「……そうか」
「自分に自信がない。彼女を自分につなぎとめておく自信がない。だから誰かに取られるんじゃないかと怯えていた」
「…………」
「取られるのは傷つくから、自分から手放したようにふるまった……自己満足かな。大切なのは、相手と一緒にいて楽しいかどうかだもの。きみが知らないところで彼女も傷ついていたはず。クラス分けなんて自分の意志でどうなるものでもない」
――この人は、ささいな心の隙間から相手を見透かそうとする人だ。
自分の、底の浅さをあらわにしてしまう人だと。千里人は詢を怖いと思い、同時に、そこに惹かれた。
「そのとき、どうすればよかったのかはわからないけど……結局、ぼくの望んだ通りになったんですね」
「世の中は自分の思ったようにしか見えない。望んだようにしか」
「…………」
「それに、取られるとか、どうとか……女の子はモノじゃない」
とことんヘコまされた。なんで、そこまでっていうくらい。
千里人と、沙綾は、これからどうなるのだろう。
高校の時のような過ちはくり返したくなかった。恋人という楽しい関係の思い出は、いずれ薄れ消滅しても、辛い記憶は一生、胸のつかえになって残留する。こびりついた癌のように心を蝕み続けるだろう。
次々と相手を変えて、次々と忘れる人もいるだろう。
それがふつうかもしれない。世界の半分は女――恋愛を神聖視するやつは重くてやってられない。
でも千里人にはそういう感覚こそ理解できない。できもしない。
「まぁ」
詢が息をついた。
ふたりきりのドライブ。夢で見たときの相手は違ったが、しかし詢は、そういうことを意識させない。どこか超然と構えた人だ。
この人でも恋をすることがあるのだろうか――
「会いたくない気分の時もあるよ。女の子だしね」
気分を軽くするように、詢はにこりと笑って、ぽんと肩を叩いた。
とくんと鼓動が高鳴った。
肩にふれられた瞬間に鼻腔に広がった、この、甘く、澄んだ――
眼鏡の位置がいつも少し下がっているのは、睫毛が長くて、ふつうにかけるとレンズにあたってしまうからだと気づいた。もっともその眼鏡は、刃のような本性を隠す羊の皮であることを千里人はすでに知っている。
緊張から解かれて心がゆるんだのか、千里人は詢の横顔に見とれていた。
今どき黒髪のロングヘアはそれだけで希少価値だ。それが彼女のシルエットを、はっきりと、同世代の女性のありふれた流行とは異質なものにしていた。野暮ったいとか、垢抜けないとか、そういった印象ではない。それは大多数と比較されるうちにスポイルされ、迎合を強要されるタイプの人間への修辞だ。
これは異相の人だ。
詢のまとった空気を意識した。
彼女の生まれ持った存在のギャップが生じる、匂いが、かつてないほど強く千里人の記憶に焼きついた。
「会いたくない、なんてこと、あるんですか」
千里人は尋ねた。
「自分の気持ちがまとまらないときは、会っても、心にもないことをいってしまうことがある。迷ったとき、時間と距離を置くことは悪いことじゃない」
そういうもの――詢がいうなら、そうなのだろう。
「沙綾が、一番辛いところにいることを忘れないで」
「はい……」
沙綾のことは、今は、胸に秘めた。
そして詢が同行してくれてよかったと、このとき思った。千里人ひとりだったら、今の落ち着いた心境にはたどり着けなかっただろう。そこにたどり着くまでに、アクセルを踏みすぎて事故を起こしていた――かもしれない。
「さて」
どうしようかと詢がこちらを窺った。
晩秋の山間を、ミニクーパーは目的地もなく来た道を戻っていた。
「朝ごはんかな」
千里人はいつものペースでふるまった。暗くしていても空気が重くなるだけだ。
「おなかはすくよね」
詢は小さく笑った。
旧穴森村の本守地区には、もとは村役場だった市の出張所のほか、公共施設、商業店舗の大半が集まっている。地域の生活の中心だった。
ようやく一軒、開いていた喫茶店のような店でトーストを食べながら、千里人は地図を眺めた。
「穴森っていう地名は、どこにもないんですね」
旧穴森村に『穴森』という地区はない。小学校も、村で唯一の中学校も本守中学校だ。
「合併で村がなくなったことで、行政上は『穴森』という名称は消えてしまったわけか」
詢が頷いた。
商店名などには残っているかもしれないが、穴森という村があったことを偲ばせるものは案外、少ない。
「……よく食べますね」
千里人はさっきから目を丸くしていた。
詢の皿には、三人前のモーニングセットがてんこ盛りになっていた。それらはもうサラダとコーヒーを残すだけだ。
「ヤセの大食い」
たちまちサラダも陥落する。詢はまだ余裕といった様子で、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを口に含む。食いしん坊の見えない妖精をふたりくらい連れている勢いの胃袋だ。
「好きな食べ物とか聞いていいですか」
「焼き肉」
「食費が大変そう……」
「千里人くんのおごりだしー」
――いや、聞いてないし。千里人は次の言葉を失くした。
「や、冗談だって」
「や、メシくらいおごりますよ!」
せめてもの感謝の気持ちだった。
――というか、帰ってから焼き肉をおごるよりはましだ。帰りの交通費を考えれば、千里人の財布の中身は崖っぷちだった。
「んじゃ、ごちそうになる」
詢はすがすがしくいってコーヒーを飲んだ。可愛らしい、というと怒られるだろうが、食事をしているときの詢はとても幸せな顔をする。
「携帯、通じるみたいです」
千里人は携帯電話を確認した。この本守では、かろうじてアンテナが立つようだ。
そして、ポケットのマテリアルフェアリーをちらりと見た。
樹谷《こだまだに》の道切りをすぎるときに強く光ったそれは、今は、静かな光を湛えているだけだ。
まるで、ほんとうに眠っているように。機械であれば眠ることなどないだろう。千里人はマテリアルフェアリーの不可思議さに、しだいに興味を惹かれはじめた。
「加奈子さんから連絡があるかもしれませんね」
「だね」
少し様子を見よう、と詢が同意する。もうしばらく穴森に留まることにした。明日は休みだから帰るのは遅くなってもいい。
「せっかくだから、このあたりを見てまわりたいですね」
沙綾の故郷をもう少し知りたい。
それはつまり、どんな形であっても沙綾と関わっていたいという気持ちだろう。彼女とつながっていたいという気持ち。
彼女が育ったこの村の匂いに、ふれていたいと――
「では、つき合ってもらおう」
薄茶色の瞳を好奇心で輝かせた詢は、食事をしながら、これからのスケジュールをとっくに組んでいたようだった。
詢の行動は早かった。
市役所の出張所に赴くと、職員に掛け合って、地元の郷土史家と面会の段取りを整えてしまった。
彼女はフィールドワークをはじめたのだ。
「――失礼ですが、邑崎さんとおっしゃいますと」
詢が出した名刺を老眼鏡で検めると、初老の職員は、この長い黒髪の娘をどう扱ったものかと思案していた。
「邑崎昴は、わたしの母です」
さらりと答えた詢の横顔と名刺を、千里人もまた驚きの顔で見た。
――邑崎昴事務所
マネージャー 邑崎詢
まず「ムラサキマコト」を漢字で書いたときの、思いがけない字面の難しさと、学生の彼女が名刺を出したことに驚いた。
邑崎昴といえば有名なベストセラー作家だ。
著作は多く、千里人も熱心な読者ではなかったが、それでも何冊かは読んだことがある。テレビにもよく出ていて、タレント作家としても名を馳せていた。詢はその作家・邑崎昴の娘で、学業のかたわら母親の個人事務所を手伝っているという。
「邑崎って、あの邑崎昴なんですか?」
「プロットは緻密にして投げっぱなし、考証は資料を重視しつつ話とは無関係、冒頭の五枚で人が死なず、冒頭の二十枚で濡れ場がなければ邑崎にあらず。二時間ドラマ原作四天王のひとり、あの邑崎昴よ」
邑崎女史はやや皮肉っぽい笑みを浮かべた。
ドラマ原作も手がけるタレント作家の知名度は、大学教授の名刺並みに通用するという。そもそも一介の学生の身分では、民俗調査に訪れてもけんもほろろに扱われるのが、あたりまえだと。役所の職員との話がすんなりいったのは邑崎昴の娘という肩書きの力だった。邑崎ミステリーのファンだという職員に、詢はサイン本を贈る約束をしていた。
――この穴森が本になるんですか?
初老の職員は無邪気に喜んでいた。詢は、あくまで次回作の素材探しの一環ですので、と含ませた。
郷土史家との面会は午後ということもあり、千里人と詢は空き時間を使って地元の図書館にむかった。
もともと一自治体だったこともあり、本守にある公共施設は人工や経済規模といった身の丈よりも、ずいぶん立派なように感じた。
「フォークロアというのは、本来はヨーロッパから俯瞰したアフリカやアジアの、民族レベルの歴史や文化を論じるときに用いられていた言葉」
図書館の待合室で、詢は講義のように千里人に語った。
「――なにしろ民俗学の定義は多様であって、その体系付けの数だけ民俗学がある。形のない文化遺産であるフォークロアを、体系づけて解釈する行為そのものが自説の確立につながる。多くの人々の過去を見詰め直すことは、自分たちの現在と未来を見詰めることにもつながると思う。
でも、都市伝説――アーバンフォークロアという言葉もあるように、その言葉が意味するところは少しずつ変容している。『文献以外の手がかり』……民俗学とは、研究対象を昔からの口承文化に限定した学問とする定義もあるが。しかし、現代には様々な情報メディアがある。溢れる出版物、家庭に普及したビデオカメラ、世界をつなぐインターネット……」
「携帯電話」
「そう、過去とは比較にならない量の情報が、民間レベルで記録されている。そしてまた口承にしろインターネットにしろ、人々の記憶……お話はコミュニケーションによって伝播する。現代人はメディアを支配し、メディアに支配されている。そして現代社会では、情報はあらゆる境と空間を飛び越えて容易に共有されうる。
伝承という時間の縦軸だけでなく、伝播という空間の横軸も意識したい。
わたしが追っているのは現代のフォークロア……ざっくばらんにいって、人々の心を惹きつける話――噂話は、すべてフォークロアと呼んでいいのかもしれない。たとえば学校の怪談話なんかも含められるかな」
「死体洗いのバイトの話とか」
「病院も学校と並んで都市伝説の宝庫ね」
――だが、小説や漫画のネタならともかく、そういったことが大学の研究対象になるのだろうか。
「そういう、噂を研究するんですか?」
「そんなのは学問じゃないっていう人もいるでしょうね。同じ民俗学のなかでも」
千里人の表情を読み取って、誠が話を続けた。
「…………」
「その伝承、フォークロアが真実であるか、科学的に立証できるかといったことは、わたしの民俗学ではあまり争点にならない。ポイントは、そのフォークロアが生きて、人々に信じられているかどうか。
それらの現象を切り口に、その土地、その社会の有り様をあきらかにしていくこと。日本人の価値観、世界観、精神を描き出すこと。今を生きる人々の心の風景を民俗的に描き出すこと。僭越ながら、それがわたしの目指す学問――というか、わたしのスタイルなわけ」
詢は饒舌に語った。
そして沙綾が、そうした民俗学に興味があったことを、千里人は知った。どんなきっかけがあったのだろう。オカルト好きが長じて――ということなのかもしれないが。
詢は図書館で調べものをするといって書架のほうに歩いていった。千里人は徹夜で運転した疲れから、睡魔に襲われて、待合室のソファーにもたれかかって休んだ。
小さな、マテリアルフェアリーを手に取る。
なめらかな金属のような表面を撫でた。呼吸のように、わずかに光を明滅させている。眠っているあいだにどこかに飛んでいってしまわないように、千里人はそれをバッグにしまって、しっかりとファスナーを閉じた。
午後になって、本守神社を訪れた。
大鳥居をくぐると冷厳な空気が肺を満たした。参道の両側にある石灯籠や、石柱の一柱ごとに寄進者の名前が彫られている。境内は奥行きがあり、背後の森と一体化した神社のたたずまいは村の鎮守としての格式を十分に備えていた。
「ぼくは、どうしていれば?」
これから話を聞くにあたって、千里人は自分の立ち位置が不安になった。
「うちの研究室の学生ってことにしておいた。相手の話を聞いて、うんうん頷いてればいい」
社務所を訪れると、宮司の笹岡氏は快く迎えてくれた。
笹岡は七十がらみの小柄な老人で、宮司であり郷土史家でもあるという。郷土史家というのは地元の歴史研究者、ひらたくいえば素人学者のこと。
「あの邑崎先生のお子さんとか」
笹岡の話題はどうしてもその点に集中した。気さくな田舎の老人を前にして、詢も、自分の質問に話を持っていくのにひと苦労する。
「穴森村と本守神社の由来から」
伺いたいといって、詢はICレコーダーの録音スイッチを入れた。
笹岡は喜色を浮かべて語りはじめた。普段学会という権威に注目されない地元の史家が、学生相手とはいえ、請われて語ることができるのは気分の悪いものでもないようだ。
「もっとも古い記録は十世紀に、この土地についての記録があります。穴森という名の由来については諸説ありますが、古くは『穴社』と記された文献があり、オロチ――大蛇の棲む洞穴があったという伝承があります。大蛇は川の神であり、つまり水神を祀った土地だということです」
「水神……それが、こちらの本守神社でしょうか」
「創建の時期は不明ですが、やはり十世紀ごろではないかと。明治のころ、周辺の九つのムラを併せて穴森村になったとき、それぞれのムラの神社が、本守神社を総鎮守として合祀《ごうし》されました。
「本守神社の祭神は」
「須佐之男命《スサノオノミコト》です」
――須佐之男命《スサノオノミコト》は千里人でも知っている。
天照大神《アマテラスオオミカミ》の弟で、高天原《たかまがはら》を追われて出雲に下り、八岐大蛇《やまたのおろち》を退治した。
「現在は、どのような祭事が」
「それはもちろん行き雛行列ですよ」
笹岡の言葉に、千里人はすぐにあの絵葉書のことを思い出した。
ビデオがあるのでお見せしましょうか、と笹岡がいうと、詢がぜひと答えた。笹岡はいったん奥に引っ込んで、ビデオテープを持ってくるとデッキにセットした。
ノイズのあとでテレビに映像が映った。おそらくホームビデオで撮ったものだ。簡単なテロップが入ってPRビデオのように編集されていたが、撮影者はあきらかに素人だった。
季節は早春。
青空のもと、遠方の山々はまだ白い雪をかぶっている。本守神社の鳥居から、右大臣、左大臣、内裏様、お雛様、三人官女といった生き雛行列が出発していった。まだ色淡い春、北陸の山村の景色のなかを、鮮やかな衣装の生き雛たちが練り歩く姿は、過疎の村とは思えないほど、あでやかだった。
「生き雛の役は、その年の村の新成人から選ばれていました。近ごろは人数が足りずに、進学や就職などで村を出て行った若者を含めて公募しています」
笹岡もまた、村――穴森村と、今では存在しないはずの村の名前を連呼していた。
場面が変わって、岸間川の川原に人々が集まっていた。
注連縄《しめなわ》の張られたなかで宮司の笹岡本人が祈祷神事を行っている。川原には焚き上げの場所が設けられて、古い人形などが燃やされていた。
そこに行き雛行列が到着して、最後に、稚児行列の晴れ着姿の幼女たちが河原に並んだ。地元の小学生だという。カメラがその手元に寄った。
「この土地には、流し雛の風習が残っているのですね?」
詢がいった。子供たちが持っていたのは、藁で編んだ小舟に乗せた千代紙の雛人形だった。
「はい。祭りのクライマックスです」
藁の小舟は岸間川を流れていく。
それを見送った、ひとりの幼い少女の顔がアップになったとき、千里人は目を見張った。
「このビデオ、いつ撮ったものですか?」
それまで存在感のなかった若い学生の突然の質問に、笹岡は少し戸惑った顔をした。
「今年ですよ。今年の四月です」
本来は旧暦三月三日に行うのだが、観光客のことを考えて四月第一週の日曜日に行うのだという。
「今年……」
ホームビデオで撮ったものをVHSにダビングしたのだろう。テープは画質が粗く、映像が古く感じられた。しかし、よく見れば携帯電話のデジカメで祭りを撮影している人がいる。確かに最近の映像だった。少なくとも十年以上も前のものではない。
ビデオは十数分ほどで終わった。
「よろしければテープを差し上げます」
笹岡は自分も登場しているビデオのできに、すっかり満足していた。
しばらく生き雛行列や穴森村のことについて話したあと、邑崎詢がふと、
「ところで……笹岡さんは河童についてなにかご存じですか?」
と訊いた。
「ははぁ、邑崎先生は河童がご専門で? それで水神ですか」
笹岡は詢を先生と呼ぶ。詢は、それを心地よくは感じていないようだが、あえて、あらためてもらうことはしなかった。こういった学問のある老人は、自分の思い通りにならないことがあるとへそを曲げるから、気を使ったのだろう。
「いえ……ただフィールドワークの折にふれて、話を集めていますが」
猫をかぶるのもうまいようだ。こんなよくできた孫娘がいたら、目に入れても痛くないだろうと。
「河童か……そうだ、村の祖父さんに聞いた話ですがね――
昔、このあたりではたいていの家で馬を飼っていたのです。どの家にも馬家がありました。……それで馬に悪さをするやつがいるという。それは河童に違いないという話になった。
あるとき祭りの帰りに、村の若者の一団が、橋のところで妙なものが眠っているのを見つけた。あれはなんだと騒いでいると、老人がやってきて、『あれは河童だ。酔いつぶれて寝てしまったに違いない』と。河童は、ふだんは見えないが、眠っているときには見えるようになるらしい」
「眠っているときだけ見える河童ですか……おもしろいですね」
詢が笑った。
老人というのはお話を語るのがうまい。千里人も、いつの間にか笹岡の話に聞き入っていた。
「でしょう? 川に投げ落とされた河童は目を覚まして、そのとたんに見えなくなったそうです」
「いつごろの話でしょう」
「はっはっは……いくらここが田舎でも、二十一世紀にもなって河童は出ません。わたしが子供のころ村の爺さんに聞いた話で、話に出てきた若いののひとりが、ほかならぬ爺さん本人といいますから、かれこれ百年以上は前でしょうか」
「それでは……この土地に水神信仰にまつわる逸話は残っていませんか?」
詢が続けて訊いた。
「スサノオ神は、水神でもありますが……」
「はい」
「この村では神様といえば水神様なのですよ……どれ。境内をご案内しながら話しましょう」
千里人と詢は、笹岡について社務所を出た。
拝殿に参拝し、本殿を巡ったあとで小社を一つ一つ見てまわった。社史によれば、明治初期に九つの神社を合祀《ごうし》したのち、戦後、社殿をすべて新しくしたという。
「さきほどもいったように、この穴森では、神様を祀るといえば水神様のことなのです」
笹岡は由縁を語りながらいった。
それぞれのムラで祀られていた神社を一カ所に移して社寺を整理することは、明治政府の政策だった。小社には弁財天や、由縁の知れない水神なども含めて、やはり水にまつわる神が多く祀られていた。
「水神信仰が盛んというのは、産土神《ウブスナガミ》を祀るということでは自然ですね」
詢が小社を一つずつ検めながらいった。
「流し雛も、水神様とは切っても切り離せません。そもそも水神様のお力で、流し雛で穢《ケガ》れを祓《ハラ》って頂くのだと村のものは考えています」
「ところで……一つ、足りないようですが」
七つ並んだ小社を前に、詢がいった。
「はい?」
「先ほど九つのムラの神社が合祀《ごうし》されたとおっしゃいましたね。ここにある小社は七つ。本殿を合わせても八つしかありません」
「…………」
「あとの一つは」
詢の問いかけに、笹岡はしばらく言葉を閉ざしたあと、答えた。
「ありません」
「それは」
「……移せなかったのですそのムラの神社のご神体は山そのものでした」
笹岡の答えに詢は、ああなるほどといった顔をした。
つまり、こういうことだという。古代には、ご神体とは山であり、そこにあった巨木や奇岩だった。現在でも諏訪大社などは山や神木をご神体としており、拝殿のみで本殿は存在しない。
「その山は、どこにあるのでしょう」
「それがわからないのです。今となっては合祀《ごうし》されたという記録以外、ほかの八つのムラの神社の由縁は社史にも残っていません」
笹岡は詢をうながして、境内のさらに奥へと歩いた。
「?」
千里人は、なにかが動くのを感じた。バッグのなかでマテリアルフェアリーがふるえているのだ。ここでファスナーを開ければ飛び出していってしまいそうな勢いだ。
「これは……蛇石、ですか」
詢はしゃがみ込んだ。
境内の隅にひと抱えほどの石が置かれていた。灰緑色の石に、白く紐のような模様が浮き上がっている。いわゆる蛇石だ。
「由縁がわからないといえば、この蛇石も……こうしてお祭りはしているのですが、いったい、どういったものなのか……」
「この土地に、蛇神にまつわる信仰、あるいは憑きもの筋の伝承は残っていますか」
邑崎詢は――ほんとうは笹岡にそのことを訊きたかったのだろう。
「邑崎先生……?」
「ミガミ筋をご存知ですね、笹岡さん」
それを口にしたとたん和やかだった空気は瞬時に凍てついた。
「あんた、どこでそれを聞きなさった」
笹岡は低くうなった。
その眼光は闇を睨むように冥い。それはしかし、この宮司がミガミ筋についてなにか知ってるということでもあった。
「とあるレポートで目にしました。女系遺伝する憑きもの筋のようですね。紐痣という遺伝的形質を伴い、おそらく、この土地の水神信仰とも無関係ではないと思いますが」
「ミガミ筋は絶えた」
笹岡がいい捨てた。
「絶えた、ということは確かに実在した」
「紐痣の娘を淵に沈めて、水神を祀り、豊作を祈願した――とでもそのレポートとやらに書いてあったのですか……? ミガミ筋の家は明治維新のころに断絶して、戸籍にも残っていない。そんな人身御供《ひとみごくう》の風習が残っているわけがない。ミガミ筋なんてものは、もう、この村にありはしませんよ」
笹岡はすっかり機嫌を悪くしてしまった。
憑きもの筋は社会の暗部としての側面を持つ。たとえば「あの家はキツネ憑きだ」とレッテルを貼られ、村八分のような境遇に置かれた家が実際にあったことを考えれば、その過去を抉って表沙汰にすることは当事者たちにとっては決して望ましいことではないだろう。
「わかりました。お気を悪くなさったのなら申し訳ありません」
邑崎詢はその知性的な雰囲気を崩すことなく、それが癖なのか、ブリッジをつまんで眼鏡の位置を直した。ミガミ筋の話を持ち出せば笹岡がこうした反応を示すことは、民俗調査の経験から、ある程度は予想していたのかもしれない。
「いいえ……こちらこそ」
「では、先ほどの話に戻りますが……九つあったムラのうち、山をご神体にしていたムラの名前は?」
詢の最後の質問に、笹岡は重たい沈黙のあとで、短く答えた。
「樹谷《こだまだに》です」
第四章 谷
山の尾根を灰白色に滲んだ雲が這い下りてくる。空は崩れるように泣きはじめた。ワイパーのスイッチを入れると、拭き残しの水の筋がつうっとフロントウィンドウに線を引いた。
「千里人《ちさと》くん、女の姉妹はいる?」
助手席の詢《まこと》がいった。
「姉が」
「じゃあ、家に雛飾りがあった」
「はい」
姉は、田菜で両親と暮らしている。今は、田菜に一軒だけあるコンビニで働いていた。
弟の口からいうのは妙なことだが、姉はとてもきれいな人だ。アイドルや女優を初めて肉眼で見たとき、顔が小さいとかスタイルがいいと確かに思ったが、姉と比べたときの彼女たちのオーラの輝きは褪せた。それは容姿のことではなく、そばにいてくれる相手と、遠くにいて想いなど通じない相手との違いだろう。千里人の父親は寡黙で頑固、口を開くのは怒鳴るときで、息子を容赦なく殴った。母親は教育熱心で勉強のことで叱られてばかりだった。姉のいちばん好きなところは、そんな両親にまったく似ていないところだ。千里人はよく母方の顔だといわれたが、姉は両親のどちらにも似ていない。
そして姉だけは、いつも優しかった。
「雛祭りが、雛人形を飾って女の子の成長を願う現在のような形になったのは、江戸時代以降のことだという」
詢が雛祭りの由来について話しはじめた。
「――徳川幕府が定めた五節句というのがあって、一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日……七種の節句、桃の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句ね。それらが式日と定められた。奇数が重なる日が選ばれているのは、同じ数字が重なる日は、より強い神の力が得られるという重日思想に基づいている。なかでも三月三日は上巳の節句ともいった。上巳というのは月の初めの巳の日のこと」
「巳は……蛇ですね」
「古代中国ではこの日を忌日として川辺で身を清めて主演を催したという。その風習が日本にも伝わった。水で身を浄めるという考えは古来、日本にもあった。イザナギが黄泉の国に行ったイザナミを訪ねたあと、川で、穢《けが》れを祓《はら》う禊《みそ》ぎを行ったように。いやなことを『水に流す』というのは、この禊ぎから来る言葉だともいう。
禊ぎは、やがて形代《かたしろ》の呪法と結びついて、紙や布や木で人形《ひとがた》を作り、それに罪や病気などの穢れを移して、水に流すことで祓えを行うようになった。この祓えの道具である人形《ひとがた》と、貴族の娘たちが遊びに使っていた『ひいな』という人形《にんぎょう》が結びついて、雛人形の原型になったと考えられている」
日本の雛祭りは、中国の『上巳の節句』と、日本の『祓え』の神事、そして女の子の『ひいな遊び』が結びついたものだと考えられる。だから雛人形を川に流す流し雛の風習が各地にあって、これは禊祓いの神事を伝えるものだともいう。
「流し雛のほうが、古いわけですか」
「現在のような雛人形が一般に普及したのは、明治以降、人形が商品として大量に流通するようになってからね。人形そのものもどんどん豪華になって、毎年くり返して使うようになった。雛人形を早く片づけないとお嫁に行けなくなるという俗信は、流し雛の時代の名残りかもしれない。
そして巳の日は水神祭の日でもある。古来、日本では蛇や龍が、水神の化身であり使者であると考えられてきた」
「穴森っていう地名の由来は、大蛇が棲む洞穴があったからという話でしたね……」
千里人は笹岡老人の話を思い出した。
「本守神社の祭神である須佐之男命《スサノオノミコト》自信が水神であり蛇神でもある」
「そうなんですか?」
「穴森村に伝わる水神信仰、流し雛の風習、そして紐痣の娘を人身御供《ひとみごくう》にして淵に沈めたというミガミ筋の言い伝え……」
それらをつなげる、手ごたえを感じているように。
岸間川が切り崩した山間に広がる穴森村の地に、詢は想像力を投げ込んだ。
「人身御供《ひとみごくう》って、生贄ですよね」
「須佐之男命《スサノオノミコト》の八岐大蛇《やまたのおろち》退治の話からして、奇稲田姫《しいなだひめ》の人身御供《ひとみごくう》の話ね」
「よく話に聞きますけど、ほんとうにそんなことが……?」
「それが実際にあったかどうかを、歴史的、科学的に立証することが、必ずしもわたしの目的ではないから」
――つまり、詢にとっては、
「そうした人身御供《ひとみごくう》のフォークロアが残されて、信じられてきた土地に住む人々の、心を描き出すこと……」
「少し、フィーリングが合ってきた?」
詢はおそらく褒め言葉でいった。
「詢さんがミガミ筋のことを知ったレポートって、もしかして……」
「そう、沙綾のレポートよ」
例の夏休みの課題レポートに書かれていたという。
「それって、ちょっと……ふしぎですね」
「なぜ?」
「故郷の民話や伝承、祭り……というなら、ぼくが穴森村の出身だったら生き雛行列のことを書くと思うけど」
千里人がいうと、確かに――と答えて、詢は眼鏡のブリッジの位置を直した。
「身近に生き雛行列という大きな祭りがありながら、それをレポートの題材に選ばなかったのは、ふしぎといえばふしぎ……」
祭りを題材に選んだ学生は、たいていは観光客が集まるような大きな祭りを扱っていたし、また学生の多くはネットのどこかからコピーしてきたような、全国的に広まっている都市伝説について書いてきたという。
憑きもの筋というテーマはそれだけで異彩を放っていた。だからこそ詢の印象にも強く残ったのだろう。
「ミガミ筋って、宮司さんの話じゃもうないみたいだし……どうやって調べたのか」
「図書館でざっと資料をあたったけど、ミガミ筋に関するものは見つからなかった。まぁ……こういう小さな村の図書館には、あまり学術的な資料はそろってないんだけど」
旧穴森村が編纂した明治以降の村史があったくらいだという。
「…………」
「沙綾にとって本守神社の生き雛行列は、故郷の祭りではないのかもしれない」
詢は思索した。
「故郷じゃない……?」
「沙綾の実家は本守ではなく樹谷《こだまだに》だということ……自分がどの土地に帰属しているかという意識は、行政上の区分とはかならずしも一致しない」
――確かに、千里人は田菜の生まれだが、田菜は盆地の名前であって村や町ではない。沙綾にしても出身地といえば穴森村であってもみじ野市だという意識は薄いのではないだろうか。
国道をそれて、川岸につながる道を下りた。流し雛の行われるあたりは護岸工事が施されていて、堤には桜の木が植えられて公園のように整備されていた。
雨脚は強まる一方だ。車を駐車場に停める。詢はバッグから折りたたみ傘を出してドアを開けた。
「あれ……?」
つぶやいた詢の声に、千里人はそちらを見遣った。
黄色い傘が、川辺で開いて転がっていた。
だが、すぐにそれは傘が転がっているのではなく、小さな子供が傘を差して座っているのだと気がついた。
車から降りた千里人は、歩み寄ると、黄色い傘のそばにしゃがんだ。
「ここにいると危ないよ」
驚かさないようにいった。
「…………」
「雨が降ってるから、川の水が増えてくる」
千里人が重ねていうと、黄色い傘の下から子供が顔を覗かせた。はっと、幼い少女の顔を見た。
――ああ、そうか……。
今朝、この沙綾の姪とすれ違ったときに感じた奇妙な印象の正体に、このとき千里人はようやく気がついた。
少女のほうも、あれ……といった様子で、今朝、家の前ですれ違ったふたり連れを見た。
「美土、未歩ちゃんだよね。覚えてるかな……今朝、おうちの前で会った」
名札を確かめて語りかけると、未歩は表情をこわばらせたまま、こくりと頷いた。
リコーダーの差さったランドセルの脇にポーチがついていた。そこに警備会社のロゴが入っている。
「ここで、なにしてるの?」
千里人が尋ねると、未歩は黙って千里人に手を突き出した。
――『へのへのも』
顔のかかれた得体の知れないものを目の前につきつけられて、千里人は一瞬ぎょっとなった。
工作で使う紙粘土と、木枝を組み合わせた小さな人形《にんぎょう》だった。だがそれは、かわいいものが好きなはずの幼い女の子の手には不似合いな、グロテスクな形をしている。粗雑で飾り気がなく、きちんと五体がそろっているのが、かえって生々しい。おもちゃの人形からは決して感じない、人の念のようなものが魂められていた。
未歩は人形を無言で川に投じた。
人形は流れに呑まれて、すぐに見えなくなった。
「お婆ちゃんに教わったの」
未歩がいった。
千里人にではない。まるで見えない誰かにつぶやくように。
「お婆ちゃん……」
「悪いことがあったときは、こうやってお人形を川に流すの」
悪いこと、というのは父親の死だとすぐに察せられた。この子は父親を失ったばかりなのだ。まだ七つかそこらで。親を失った経験のない千里人には、目の前の少女の心が、危うく、容易にふれることのできない薄いガラスのように思えた。
「流し雛のことかな……?」
詢が尋ねると、未歩は、違う、とかぶりをふった。
「おまつりするの」
「未歩ちゃん……未歩ちゃんはお人形を投げて、誰にお願いしているの?」
「ミガミ様だよ」
未歩は川にむかっていうと、立ち上がって、ぷいっと川原を走っていった。
「ミガミ様……」
「――待って!」
千里人が呼び止めると、黄色い傘が立ち止まった。
「これから、歩いて、おうちまで帰るの?」
「塾のない日は、いつも歩いて帰るの」
「雨が降って大変だから……送っていこうか?」
「…………」
未歩にじいっと見詰められた千里人は、ああ、疑われているのだと思い、
「ぼくたち、沙綾お姉さんの学校の友達なんだ」
近くの駐車場に停めた車を指差した。
「お兄ちゃん、名前は」
「みこしば、ちさと……だよ」
千里人が答えると、未歩は初めて表情を崩した。
最初はおとなしいと思っていたが、未歩は思ったよりもしゃべる子供だった。父親を失った辛さを、おそらく表情には出さずにふるまえる大人びた側面さえ見せた。外車に乗ったのは初めてだといって後部座席ではしゃぎ、ミニをかわいいと褒めてくれて、千里人たちは東京から来たのかと訊いた。
「東京じゃないんだ……近くだけどね」
「未歩も東京の大学に行く」
まだ小学校二年生の子供の口から、大学という単語が出てきたことに面食らった。千里人も小学校のころから塾通いはしていたが、大学入試を意識したのは高校二年くらいだ。
「だから塾に通ってるんだ」
「塾はお母さんが行けって」
「なにを勉強してるの?」
「英語とか、いろいろ――」
――そんな会話をする。子供と、ましてや女の子と会話をするのは大変だ。学校のことくらいしか話題がない。
「東京、行きたいんだ」
「だって、ここは嫌いだから」
「なんで? 田舎だから……?」
「…………」
未歩は口を尖らせて、急に塞ぎ込んだ。子供の考えていることは千里人でなくてもよくわからないものだ。七つまでは神のうち――気まぐれさという点では、子供は神様のようなものかもしれない。
「お姉ちゃんは、お兄ちゃんと仲がいいの?」
未歩はふと妙なことを口走った。助手席の詢にむかっていっている。
「千里人くん? どうかなぁ……」
どうもなにも、昨日、会ったばかりだろう。
「お兄ちゃんは沙綾お姉ちゃんの恋人だから、じゃましちゃだめ」
――牛乳を飲んでいたら吹き出していた。
「そっかぁ……邪魔したら、未歩ちゃんに怒られちゃうね」
詢が面白がって未歩に話を合わせているのを、千里人は嵐がすぎるのを待つようにじっと耐えるしかなかった。いったい沙綾は姪っ子に、どんなことを吹き込んでいたのだろう。
「登校するときは、みんなと一緒に行くんだよね」
詢が未歩に訊いた。
「……うん」
「下校は、ひとり?」
「うちの地区、低学年の子、未歩だけなの」
――高学年と低学年では下校時間が違うから、たぶん帰りは低学年の子だけで集団下校するのだろう。千里人の小学校もそうだった。
「じゃあ、ひとりで帰ってるんだ」
「塾の日は、お母さんが迎えにくるけど」
「加奈子さん……優しいお母さんだね」
未歩は、母親の話題になると、また押し黙った。
「ねぇ、さっき川にお人形を流してたよね?」
今度は詢が話しかけた。
「うん」
「あれって未歩ちゃんはミガミ様にお願いしていたんだよね……?
ミガミ様は、どんな神様なのかな?」
詢は小学校二年生の子供に聞き取り調査をはじめていた。
「ミガミ様はミガミ様だよ」
「じゃあミガミ様の、どんなお話を聞いたことがある?」
詢の質問に、未歩はなにかを口にしかけたが、それは言葉になることはなかった。
「……いっちゃ、だめって」
「?」
「ミガミ様のことは、よその人に話しちゃだめなの」
それきり未歩は、とうとう貝のように口を閉ざしてしまった。詢がなにを話しかけても、まったく反応がなくなってしまう。本守から樹谷《こだまだに》までは、子供の足なら一時間はかかるだろうが、車なら十分ほどだ。
沙綾の実家の前に車を停めると、未歩を門まで送った。
すると雨の中、納屋のガレージに、軽自動車に乗り込もうとしていた加奈子が立っていた。
「お母さん」
帰宅した娘の姿を見た加奈子は、はっと、ふり返った。
「未歩……! どうして電話しなかったの!」
加奈子は顔を歪ませて、厳しい調子でいった。
警備会社の名前を口に出して、場所を調べたが電波が圏外で見つからなかった旨のことをいう。千里人は未歩のランドセルの脇についていた警備会社のポーチのことを思い出した。位置通報システムに加入しているのだろう。しかし、それは子供には難しいことで、未歩は母親のいっていることがよくわからない様子で、不安そうに加奈子を見上げた。どうも雨のひどい日は加奈子が学校まで迎えに行く決まりになっていたらしい。それで心配して、祖母のヨミに家をまかせて、車で探しに出るところだったようだ。
加奈子は興奮して子供を叱るばかりで、未歩はなにも答えず黙ってしまったので、事態はいっこうによくならない。
見かねた詢が声を挟んだ。川辺で遊んでいたところを見かけたので、雨も降っていたので車で送ったのですと説明する。
「未歩っ」
予期せず、黄色い傘が飛んだ。
加奈子が娘の頬を平手で打った。千里人は足元がすくみ上がった。
「どうして知らない人の車なんかに乗ったの!」
加奈子は金切り声を上げた。
道草して川で遊んでいたことも加奈子の逆鱗にふれた。未歩は口をきつく結んで、母親の怒りの嵐がすぎるのを待つように、雨に濡れながらじっと耐えていた。
「すいません……わたし達が悪いんです」
やや蒼白になった詢が取りなそうとするが、加奈子はそれを受け入れようとしない。落ちた傘を拾うと娘の腕を引っ張った。
ちらりと、未歩が悲しそうな目で千里人を見て、回り縁のむこうに消えた。
後味の悪さを噛み締めながら、千里人は車を走らせた。
詢も、配慮が足らなかったと落ち込んでいた。電話番号は教わっていたのだから、未歩を送るにしても、まず連絡を入れるべきだったと。
「未歩ちゃんに、かわいそうなことしたな……」
結果として、川で遊んでいたことを告げ口したような形になってしまった。恨まれているかもしれない。未歩の最後の視線が、いつまでも引っかかった。
「でも……驚いたな。加奈子さん、穏やかそうな人なのに……」
娘のことになると、母親とはあそこまで激しく豹変するのだろうか。
「それだけ大切に育ててるんでしょう。警備会社と契約しているくらいだから」
未歩のランドセルの脇には、位置測定システムの端末がついていた。近頃は警備会社と提携した専用ランドセルも売られている。子供だけでなく放浪癖のある老人や、車やバイクの盗難対策だったり、ペット用のものもある。
だが、携帯電話の通信網を利用しているので、自宅のある樹谷《こだまだに》はサービス圏外のはずだ。穴森村のような僻地ではあまり実用的とは思えなかったが、本守や小学校にいるあいだは圏内だから契約しているのだろう。川原は圏外で、それで見つけられなかったのかもしれない。
千里人は、自分が子供のころに位置測定システムのついた端末や携帯電話を持たされていたらと考えた。
「おちおち道草も出来ないですね」
息をついた。きっと窮屈な思いをしていただろうなとと思った。未歩にしても、あと数年もして独立心が増せば、そう思うのではないだろうか。
いずれにしても加奈子が、子供を大切にしていることは痛いほどわかった。愛情が強すぎて頬を叩くという行動につながったのだろう。端から見ていると衝動的な躾のようにも見えたが、なにしろ夫を交通事故で失った直後のことだ。過敏になるのはあたりまえだろう。
「本守神社で見たビデオ……流し雛のシーンに出ていた晴れ着の女の子、未歩ちゃんだったね」
詢がいった。
――千里人が宮司の笹岡に、ビデオがいつ撮られたものかを尋ねたのは、そのことを確認するためだった。
「はい」
「千里人くん、あのビデオの子が、小さいころの沙綾だと思ったんでしょう」
「よく似ていたので」
それは十年前の沙綾の写真を見れば、きっと未歩と生き写しかもしれないと思えるほどだった。
「ほんと、よく似てたね……沙綾と未歩ちゃん」
「今朝、未歩ちゃんとすれ違ったときに妙な感じがしました。そのときは、それがなんのなのかわからなくて……でも、さっき川原で未歩ちゃんに会ったときにわかりました。沙綾とそっくりだって。それで……ああ、あのビデオに出ていたのは未歩ちゃんなんだと」
「そういえば加奈子さんは、お婆さんのヨミさん似だった。
「ですよね」
詢の同意を得て、千里人は美土家の人々の印象を整理した。そのふたりは、どちらかというと整った美人系の顔立ちをしている。沙綾と未歩はもう少し印象が柔らかい。
「沙綾と未歩ちゃんがよく似てるってことは、お父さんの健一郎さんではなく、美土の家の顔ってことね」
「でも、加奈子さんとヨミさんも似てるんですよね」
「うん。沙綾の死んだお母さんも婿を取っていたということは、ヨミさんの娘で、美土の家の出身――女系家族ね。もともと美土の家には二つのタイプがあるのかもしれない」
誠と話をしているうちに、千里人は心のどこかに違和感を感じていた。話の内容が、民俗学という学問ではなく、いつの間にか家庭のプライバシーにふれる部分に立ち入っている気がしたのだ。
そのとき不意に、千里人の眼前を強い光が遮った。
――またっ…………!
後部座席のバッグに入れておいたはずのマテリアルフェアリーが、どうやったか抜け出して、狭い車内で光を散らしながら羽虫のように巧みに舞って――
「!」
虹色に輝いた。
すぐに、その光を受けるようにして、千里人の携帯電話の着信音が鳴る。
ブレーキペダルを踏んだ。明滅するマテリアルフェアリーに幻惑されながら、なんとか車を路肩に寄せて停めた。
「……千里人くん?」
獣でも道をよぎったのかと、詢が、急ブレーキを踏んだドライバーを驚いた表情で見た。
「…………」
マテリアルフェアリーは千里人の目の前に浮かんでいた。
高速道路のサービスエリアで、沙綾からメールが届いたときのように七色に輝きながら。
そして、初めてこの樹谷《こだまだに》の道を通ったときと同じように。光のなかで、翼ある小さなものは、まさに実体化の度合いを増していた。
丸みを帯びた、機械とも生きものともつかない、その小さな姿をあらわにしていた。
千里人は携帯電話を手にした。
>美土沙綾
差出人の名を見て、メールを確認した。
>車、買ったんだね
また、たった一文だけのメール。
その前は『好き』――と。それだけでは前後の話がつながらない、沙綾から送られてくる脈絡のないメールに千里人は困惑した。
「……沙綾からです」
詢に携帯電話を見せた。
「『車、買ったんだね』って……」
詢もまた反応に困っていた。
「どういうことなのか」
「加奈子さんが沙綾に連絡して、私たちが車で来たことを知ったのかな」
――としか思えなかった。もしかすると勇あたりが、以前に口を滑らせて話していたのかもしれないが。
「…………」
「でも」詢がいった。
「ここ、圏外よ」
携帯電話のアンテナは立っておらず、『圏外』と表示されている。なにかの拍子に、たまたま電波が届いたのだろうか。
「詢さん……?」
詢がドアを開けて、傘を差して外に出た。
開いたドアから外に出ようとしたマテリアルフェアリーを、千里人はとっさに手でつかまえた。
森を抜けるカーブのところで、ふたりは車を降りて道路脇の茂みに入った。
「地蔵が……」
折れた首も、胴体もそこにはなかった。地元の人が処置してくれたのだろう。雨に打たれて痛んだ花束が残されている。
「もしかして、ここで沙綾のお義兄さんが……?」
千里人の憶測について、詢はなにも応えなかった。
両側の木から、道路の上に張られた縄を見上げた。縄の結ばれた、樹皮を抉られた木の幹を撫でる。
――道切り。
注連縄《しめなわ》は水を吸って重くゆるんでいる。
「気になるみたいね」
ざあざあ降りの雨のなかで、詢がいった。
「とても……強い印象がするので」
「地蔵よりも、より視覚的に、はっきりと境界を標すものだから」
視覚――いいや。千里人の感じ方は違った。
強い、臭いがした。それがこの樹谷《こだまだに》の香りだ。行き雛行列の絵葉書の臭い。
強い、異界の臭いだ。
「行政上の村と民俗上のムラの違いについては、簡単に話したと思うけど」
といって詢が語りはじめた。
「はい」
「かつての地域社会では、ムラとは家のある集落だけを指して、耕地である田畑や、採集の場である山林は含まなかった。ムラ=ノラ=ヤマの三つの区分ね。ムラとノラの境が民俗的な意味での村境であって、そこにはウチとソトを分ける標が置かれた」
「標……それが道切り……」
「道切りの風習は房総半島や近畿圏を中心に日本各地に残っている。道に渡された縄に、草鞋《わらじ》や蛇、刀、あるいは男性器をかたどったもの……酒筒やサイコロを吊るす土地もある。酒筒やサイコロは村人の酒や博打を戒めるためのものだと考えられる。人も、有象無象の霊も、不吉や悪意のようなものさえ、あらゆるものは道をつたってムラに出入りすると考えられていた」
「ここは、あちらとこちらの境界なんですね」
千里人は道切りを仰いだ。
「道祖神や地蔵も、道切りと同じような役割を果たしている。こうした標に守られた安全な空間がムラであって、そのソトにはムラのしきたりも神仏の加護も及ばない。ソトには悪いもの……悪霊や悪人が溢れている。だから村八分になった家はムラの外に住むように追放されることもあった」
「毎年、虫送りをしていました」
千里人がいうと、雨の中、詢は静かな目で見詰め返した。
「そう……虫送りを知っているの」
「毎年、六月に、田菜に住んでいる地区の子供が集められました。中学生は小学生の面倒を見ないといけなかった。小学生がつかまえて袋に入れてきた虫を、提灯やお菓子と交換してあげる。その提灯を持って、みんなで太鼓や鉦《かね》を鳴らしながら、盆地の田んぼを歩いてまわった。最後は川原で、つかまえた虫を提灯と一緒に燃やしました」
虫送りに必要な物の手配や、お金のことも、すべて子供だけでしないといけなかった。
「子供がムラの社会にはいるための通過儀礼か」
「そうなんですよね……子供がやるのは虫送りごっこで、本番は、夕方から大人がやるんです」
大人たちは、装束を着て、松明と、大きな藁人形を掲げて、大騒ぎしながら田んぼを練り歩いたあと、それらを川原まで運んで焚いた。炭と灰は啼沢川に流した。
「川には、ムラとノラの、さらに外部との接点にあたる。藁人形などの形代を掲げてノラを駆け回り、悪いものをそこに移してソトに追いやる」
炎や水は穢れを祓う。稲を食い荒らす虫は悪いものの象徴だった。
「この穴森と、樹谷《こだまだに》には、そういった昔からのフォークロアが生きている……」
「たぶん、きみの故郷の田菜と同じようにね……民俗的には、とてもよく保存された土地だと思う」
詢は濡れた眼鏡をハンカチで拭いた。
「…………」
「泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』に、こんな一節があった」
千里人の目を視線で誘いながら、詢は、雨靄《あまもや》に浸された緑深い樹谷《こだまだに》をふり返った。
この土地、この里――この谷が、一個《ひとつ》の魔法つかいだというんだよ
天久保大学に戻ってからの千里人の生活には大変革が待っていた。
それは非日常のものであるマテリアルフェアリーとの出会いに象徴されるように。それまでの日常生活は、ひっくり返った。
「うちでバイトしない?」
邑崎詢の誘いに、千里人は魔女に攫《さら》われた子供のように従った。パン屋のバイトは謝って辞めた。沙綾の実家に行ったときに無断欠勤して気まずかったので、ちょうどよいかなとも思った。二、三日で、「うちでバイト」とは大学の高原民俗学研究室ではなく、邑崎昴事務所で働くという意味だったことがわかった。つまり詢は、雑用兼お付のドライバーとして千里人を雇ったのだ。もっとも、どう申請したものか構内に職員用駐車場を借りてしまったのだから、立場は微妙だったりする。
黒髪の小町娘のような容姿とは裏腹な強引さに、千里人は太刀打ちできなかった。それでも構内の駐車場を自由に利用できるというのは魅力だ。大学の指定駐車場の学生割り当ては少ない。抽選に漏れた学生は路駐する。そして油断したころに違反キップを切られる。
大学の研究棟に行くのが習慣になった。フィールドワークから帰ってきた高原教授にも紹介されて、挨拶をした。
「邑崎くんの弟子かい?」
「まさか、わたしごときが弟子を取るなんて」
「それじゃあ年下の彼氏?」
「下僕です」
――ロマンスグレイの高原教授が身内には物腰の砕けた方で、詢が冗談にも恐ろしい人だということは、おいおいわかった。
千里人に与えられた仕事は、実際のところ毎日のスクラップ作業だけだった。情報収集。新聞やニュースサイトなどから、詢に指定されたテーマ、民俗学や都市伝説に類する情報、千里人自身が興味を持ったことをクリップし、ファイリングして提出する。それは直接、詢の仕事の手助けになるものではなかったが、
「膨大な情報を、使いやすいように体系付けてまとめたものが知識である」
とのこと。
同時に情報を体系づけてまとめる能力が知性だと。詢は作業を通じて、知性、そして想像力を磨けと暗に命じていた。できなければクビだということ。それがバイトとしての千里人の試用期間なのだろう。
「あと、授業には出ること」
指定された単位を取れなければ、やはりクビだという。授業に出ればほかのことをする時間は削られる。
「時間は足りないものだと気づいた?」
お金を払っても欲しいものだということ。セルフレームの黒眼鏡がぎらっと光った。どうやって退屈な時間を安く潰すか、惰眠を貪って考えていた千里人には、それはショックなことであった。
「最後に――わたしは強制していない。これは、すべてきみが選んだこと」
他人のせいにはするなと釘をさされた。
数日がすぎた。
沙綾のアパートの近くの、あの神社で、千里人は境内に隣接した小さな公園のブランコに座っていた。
携帯電話を握って。
ストラップの穴にはホームセンターで買った金具と細いチェーンが通してあり、長いチェーンのもう片方は、同じ金具でマテリアルフェアリーとつながっている。マテリアルフェアリーのへりには小さな穴が開いていた。それがなんのための穴なのか千里人にはわからなかったが、チェーンをつなげる役には立った。
マテリアルフェアリーを飼い犬のように鎖につないだのは、どこかに飛んでいってしまわないようにするためだ。千里人はマテリアルフェアリーがいなくなることを恐れた。
この一週間で気づいたことがある。
穴森からの帰路――村を離れるにしたがって、マテリアルフェアリーはみずからの光のなかに溶けるようにして実態の輪郭がぼやけていった。ところが、行きの道中に初めてマテリアルフェアリーを手にしたサービスエリアの付近では、再び、同じようにおぼろげな形を捉えることができた。しかし千里人が自宅のアパートに帰ったときには、ちょうど初めてマテリアルフェアリーが窓の外を叩いたあの晩のように、ただの橙色の光の球に戻ってしまった。その状態では、マテリアルフェアリーの、あの機械とも生きものともつかない実態を想像することはできない。
「なにかに反応している……反応して、見えたり、見えなくなったりする……」
想像力を働かせて、そう推理する。
それはマテリアルフェアリー自体が変質しているのかもしれないし、あるいは千里人の見える能力の、感度のせいかもしれない。
どちらにせよ、マテリアルフェアリーの視認性について問題になるのは、おそらく場所だ。
穴森では見えた。アパートや大学では光としてしか見えない。
「でも……ここでは、見える」
ここでは匂う。
この宮司もいない寂れた境内では、光のなかにマテリアルフェアリーの輪郭を認めることができた。
あれから千里人は、マテリアルフェアリーとともに町のあちこちをまわった。神社、寺、教会、墓地、学校、病院、駅前――多少の傾向こそあったが、かならずしも神社仏閣のような場所でマテリアルフェアリーがよく見えるとは限らなかった。一方で、たとえ光だけのように見えていてもチェーンの金具がすり抜けてしまうようなことはない。
マテリアルフェアリーの変化は、結論は出せないが、どちらかというと千里人の問題であるように思えた。
「イリス」
千里人はマテリアルフェアリーを呼んだ。
犬のように鎖につないだから、というわけでもないが、名前がないのは不都合だ。マテリアルフェアリーはどこか人の心を理解しているように思えることがある。何度か話して聞かせることで、ポケットに入れて外出しているときは、だいたいおとなしくしているようになったし、家にいるときチェーンを外して部屋に放すと、それこそ犬を公園に放したようにうれしそうに飛びまわる。そのあたりは本物のペットロボットのような感覚。
イリスという名は、ギリシア神話の女神からもらった。このマテリアルフェアリーの翼ある姿は妖精のようでもあり、小さな女神のようにも思えた。狡猾ぞろいのオリュンポスの神々のなかで、善良な心を持つイリスは神々の伝令役や、お触れ役を務めていたという。
――イリスが虹色に輝けば、沙綾からメールが届く。
それが、このマテリアルフェアリーについて千里人が確実にいえること。
なぜなのかは、わからない。
最初にイリスを手にした高速道路のサービスエリアで、樹谷《こだまだに》の道切りの下で、このマテリアルフェアリーが虹色に輝いたときには、必ず沙綾からメールが届いた。
>美土沙綾
千里人は携帯電話のメール履歴を確かめた。
沙綾のメールが届くことだけが重要だった。ほかのことは、厳密には、どうでもよかったのかもしれない。だから、このあたりでいちばんマテリアルフェアリーがよく見えるこの神社で、暇さえあればブランコに座って、ぼんやりとイリスが七色に光るのを待った。
>ごめん…会えない
この神社で、虹色の光とともに受け取ったメールも数通になっていた。
前後の脈絡のない短い一行メールばかり。千里人にとっては圧倒的に足らなかった。心の渇きと飢餓感は増した。メールの内容は、今の沙綾の気持ちの断面を切り取ったように辛い感情を忍ばせるものばかりだったが、そのことが彼女を想う千里人にとっては、せめてもの癒しにさえなった。少なくとも沙綾の心なかに、どんな形にしても、自分がいることだけはわかったから。
「行こうか、イリス」
――今日は待ちぼうけだ。
翼あるマテリアルフェアリーの鎖を引いた。
イリスの手ざわりは、澄んだ、むこう側の匂いがした。
大学の民俗学研究室の前に着くと、もめているような声が聞こえた。
「――だから嶋さん、大学には来ないでっていったはずですけど」
詢の声だ。
外の階段の踊り場からだった。千里人は外につながる非常扉に近寄った。
「そんなこといったって詢さん、ほとんど大学にいるか、居留守じゃないですか」
「あたりまえです。わたしは学生なんだから」
「そう邪険にしないでください……! 邑崎先生、今回は、ほんとうにピンチなんです!」
嶋、という名らしい扉のむこうの話し相手は同情を誘うようにいった。
「今回も、でしょ」
「なんとか……なんとか今月の原稿お願いします! 先生の代わりに……」
「大きい声、出さない! 人に聞かれて困るのはそっち――」
とまで聞こえたところで、千里人の眼前で急に扉が開いた。
「あ……」
立ち尽くした千里人の前には、聞かれてはいけないことを聞かれてしまった詢の顔があった。機を織っているところを見られた鶴女房……いいや、包丁を研いでいるところを見られた山姥――
「千里人くん……聞いてた」
「いや……その……」
「聞いたね」
「はい、ごめんなさい」
「嶋さん……その件については、あとで連絡する」
「引き受けてくれるんですね!」
嶋は神に感謝するように両手を合わせた。
「その代わり頼みごとがあるから」
「焼き肉ですね?」
「それは別腹……! 用件はメールで」
詢は嶋を置いて、千里人を引っ張っていった。
「ど……どこに行くんですか?」
「ついてきなさい」
丸い盆地が、星を湛えた天球の器を支えている。
ただ、静かに。聞こえてくるのは、車体を通じて伝わる、翼のマークを冠したミニクーパーのエンジン音だけだ。
盆地の周囲を巡る道路沿いに集まった人家には、明かりが灯っていた。その仄かな光のリングのなかには、文字通り田の字に区切られた暗い闇があった。
「夜……空のほうが明るい」
車の窓越しに詢は心地よさそうに星空を眺めた。
「ですね」
千里人にとっては、十八年間、仰ぎ続けた空。
「プラネタリウムみたい」
まるで自然が置き忘れた天文台のようなところだと、詢が笑う。
田菜に行くように詢にいわれたとき、千里人はただ狼狽するしかなかった。渋滞に捕まらなければ伊豆までは長旅というほどの距離ではなかったが、故郷に帰るというのは、それなりの心の準備がいる。
――きみの故郷に行きたい。
なぜ田菜に行くのかという千里人の当然の質問に、詢はしれっと答えた。その理由に納得はできなかったが、かといって千里人がその決定を覆せる理由もない。それは詢の希望であって、千里人は彼女のアルバイトだった。
「でも……返す返す驚きです。詢さんが、お母さん……邑崎昴のゴーストライターなんて」
千里人は田菜に来るまでの車中、ずっと話していたことを蒸し返した。
「他言無用――てか、きみも事務所のアルバイトなんだから……守秘義務!」
詢はきつく口止めした。うっかりリークしたら存在を抹殺されそうな険相だ。
「嶋さんは出版社の方なんですね」
某大手出版社の三十九歳。独身。特技は泣き落としというところまで詢から聞き出した。
「そう、うちの先生担当」
詢は、母親を「うちの先生」と呼ぶ。それはそれで親への敬意がなければできないことだろう。
「どんな文章を書くんですか?」
「旅行雑誌のコラム、論評、書評、でっち上げのインタビュー……なんでも書く」
でもって原稿料はしっかりいただくという。
「小説も?」
「さすがにそれは……ああ、でも短編で、手直しされて載ったことはあった」
――熱心な読者には聞かせられない内幕話だ。
「それで、ふだんは先生の作品のために資料集めをして、大学にも出ていて……」
「今は卒論書いてる」
お金を払っても時間が欲しいわけだ。
幹線道路から盆地へと下りた。
田菜盆地は、太古には森だったという。
昭和四十年代というから、千里人が生まれるよりずっと昔のことだ。田んぼの土壌改善工事が行われて、地面を深く掘り返したことがあった。すると地下の火山灰の地層から、土木機械でも容易に取り出せないような、半分化石になった杉の巨木がいくつも出土した。
「神代杉《じんだいすぎ》」
「さすが、ご存知ですね」
詢の知識の底を掘り返すことは、千里人にはできそうもない。神代杉《じんだいすぎ》には独特の光沢があり、工芸品の素材として珍重される。
「そう……ここは富士山に近い」
「谷間の森林だった場所が、やがて葦原の湿地――湖に変わって、富士山の火山灰に埋もれたといいます」
千里人は小学校の郷土学習の時間に教えられたことを口にしながら、農道に車を停めた。
ハザードランプはつけない。目立ちたくなかった。
エンジンを切ると、空隙を埋めるように静寂が押し寄せた。闇が肌にふれた。光や音の絶えた場所があれば、たちまち水のように押し寄せて存在を塗りつぶしてしまうもの。
これは故郷の、田菜の臭いだ。
「あそこが、頭屋の森です」
畦道のむこうに、小さな森があった。
田んぼの広がる盆地内部にあって、そこは、より暗くて濃密な闇を凝縮していた。
「このあたりが湖だったころから、あの頭屋の森のあたりは湖に浮かぶ島だったといいます。姉さんは盆地のヘソと呼んでいました」
「お姉さん……」
「あ……そういういいかた、する人で」
千里人はうまくいえなかった。うっかりしたことをいって、姉のことを変な人だと思われたくはなかった。
「少し、人とは違う?」
「……です」
それは、ちょうど詢のように――だ。
畦道を歩く。
月明かりが足元を照らしていた。
「ヘソ、ね……あの森はこの盆地の中心にある」
「頭屋というのは――」
「ムラの祭事を主催する家があった」
「……はい」
釈迦に説法とはこのことだ。
樹葉の衣をまとって佇む、頭屋の森の前に立った。
島だった――という話が残るだけあって、そこは周囲の田んぼよりも土地が盛り上がって、こんもりと小さな山のようになっている。森の縁には朽ちた竹垣と門が残されていた。奥には破れた廃屋の屋根にも見える。もう何十年、ここで竈《かまど》の火が灯ったことはないのだろう。
「頭屋の家は残っているの?」
「いいえ……いえ、ぼくが知らないだけかもしれませんが」
田菜の地域社会についてはわからないことばかりだ。千里人は田菜で生まれ育ったが、たとえ虫送りのようなかりそめの通過儀礼を経ても、今の子供はいずれムラを出て高校に行き、大学に行く。家業を継ぐでもない限りは都会で就職するだろう。この狭い盆地に新しい働き口はほとんど期待できない。
千里人のような子供は、田菜の大人にはなれないのだ。
それはこのムラに帰属していないという意味でもある。それでは田菜の社会をほんとうの意味で知ることはできないのだろう。
「ここにあった家は、守谷という名前だったそうです」
「モリヤ……谷を守る?」
「はい。この盆地の谷を、代々守ってきたんだと姉さんはいっていました。守谷の家は頭屋であり庄屋でもあったようです」
庄屋は、領主に命じられて主に年貢を管理していたムラの長だ。今でいう村長のようなものだ。
「盆地のヘソに住み、田菜のムラの政教の中心だった」
「…………」
「ムラである集落が、ノラである田を取り囲み、それらの中心にヤマとしての頭屋の森がある。ムラ=ノラ=ヤマ――通常は外向きに広がっていくはずの三層構造が、この盆地では内向きに広がっているとも見て取れる」
「入れませんよ」
廃屋の門から続く森の小径を覗いた詢を、千里人は呼び止めた。
「ん」
「ここは入ってはいけない場所です」
千里人はいった。親も、先生も、田菜の大人たちはみなそういった。用事がなければ近寄ることさえ憚った。それでも森の前を通るときはかならずお辞儀をした。
ここは神聖な場所だから。
風に――その森の闇にふれるだけで臭うほどに。
「興味がある」
「詢さんでも、それはだめです」
千里人は首をふった。
「きみがわたしを戒める?」
詢はじいっと睨んだ。可笑しいわね、と。
「……すいません。うまくいえないけど、たとえ学問のためでも、立ち入っては行けない場所はあると思います」
「よそ者には」
「はい……失礼ですが」
口に渇きを覚えながら、千里人はそれでも踏みとどまって詢を止めた。
「ふふ」
詢は嗤う。
「?」
「きみは、あるんだね……この頭屋の森に入ったことが」
千里人の記憶をゆさぶる言葉を投げた。
「詢さん……?」
「きみのような異相の子が、十八年間、こんな禁忌の森のそばに育ち、我慢が、できるはずがない」
その嗤いに邪気はない。しかし心の奥底にまでふれてしまう危うい視線だった。
詢は――また千里人の過去を見透かしたのだから。
「…………」
「ここで、なにを見たか話して」
抗うことはできなかった。
この人は……だから千里人にとっては人攫《さら》いの魔女なのだと。
深く息をついた。
けっして開けることのなかった記憶の匣、封じていた子供のころの記憶を、千里人は告白した。
「七つのときに……」
「そう」
「その夜は地区の集まりで、親は家を空けていました。姉さんは、確か学校の旅行で泊まりだったと思う。だからぼくは、ひとりで留守番をすることになった……」
――今なら誰にも怒られないと思った。
千里人は懐中電灯を持ち出して、こっそり頭屋の森に行くことにした。大人たちは集会所でお酒を呑んで酔っ払っている。誰よりもしたい、庇護し戒めてくれた姉は、幸か不幸か、その日に限って千里人のそばにはいなかった。
その夜、盆地を出歩いていたのは自分だけのような気がした。
誰にも会うことはなかった。頭屋の森の前に着くと、あたりを気にしながら廃屋の門をくぐって森の小径に入った。父親の平手打ちの痛さが脳裏をよぎったが、子供の好奇心と冒険心がまさった。懐中電灯はいらなかった。月が出ていたから……ほんとうに? よく覚えていないが、そのときは恐ろしいほど夜目が利いた。
森の奥に踏みいるにしたがって方向感覚がなくなった。学校のグラウンドくらいだと思っていた森が、盆地よりも広く、どこまでも続いている……そして、どこか見知らぬところまでつながっている。正体がわからない予感にふるえた。古井戸と釣瓶があった。やかましかった蛙の鳴き声まで、気がつけばぷっつりと失せていた。
「そこに道切りがありました」
びっしょりと汗をかいていた。
――七つのときと同じように。まるで過去に戻って、もう一度、頭屋の森に迷い込んだ気分がした。いや、千里人はそのとき間違いなく記憶の森をさまよっていた。
「ムラのソトではなく、中心であるはずの守谷の家の跡に、道切りが……」
「頭屋の森は、そういう場所です。ここは田菜であって田菜ではない場所。ここは境界だから」
そう――
そのときからもう、七つの、千里人に見える世界は変わっていたのだろう。
「きみは、なにを見た」
「光≠……」
「どんな」
「電球のような暖かい色の光……道切りのそばを漂っていた」
「それで七つの千里人は、どうしたの?」
「……逃げて、家に戻りました」
闇のむこうから現れた大きな蛾が、ぶわっと鼻先をかすめて、懐中電灯めがけてぶつかってきた。驚いた千里人は前後をなくして森を逃げ戻った。
「いくじなしね」
七つの子供にむかって、そこまで言える人だ――詢は。
「草鞋《わらじ》が吊るされた道切り……そのときは、それがなんなのかわからなかったけど……それ以上、入ってはいけないというのは子供心にわかった。それ以上、行ったら戻れなくなると」
――その先は現実の膜のむこう側。
異界だった。
「会えなくなる」
「姉さんに……もう会えなくなるって」
結局、千里人を救ってくれたのは、そこにいなかった姉だったのかもしれない。
気がつくと、幼い千里人は家に帰って、自分の部屋でふるえていた。
ようやく落ち着いてきたとき、千里人は懐中電灯を失くしていることに気がついた。頭屋の森で落としたのだろう。だが、とても探しに戻る気にはならなかった。両親が帰ってきて、懐中電灯が失くなっていることに気づいたらどうしようかと、そればかりが不安だった。懐中電灯には御子柴と名前が入っている。頭屋の森に入ったことがばれたら、大人たちにどれほど叱られるか。学校でも、どれほど後ろ指をさされるか。
これは小学生のときの記憶。それも、ずっと幼いころの。
――夜のことだ。
千里人がひとりで部屋にいると、こつ、こつ、とガラスの窓がなった。
なにかと思ってカーテンを開けると、大きな蛾が、明かりに誘われて窓にぶつかっていた。
怖くて窓を開けられなかった。蝶はきれいだけど蛾は気持ち悪いから。触覚がギザギザで、鱗粉を散らして、ひらひらと空を飛ぶくせにいびつに太い。
なによりも、蛾の羽音は、ざらついた鉄錆のような臭気がしたから。
それは頭屋の森から千里人を追って現れたように思えたから。千里人はそう思ったから。
こつ、こつ――
蛾は、あきらめずに何度も何度もガラスにぶつかった。
――開けて、開けて。
音はいつしか言葉になって聞こえた。
幼い千里人は布団をかぶって怯えていた。
「……懐中電灯のことは、知らないとごまかし続けました」
ごまかし続けることはできた。立ち入り禁止の頭屋の森で落とした名前入りの懐中電灯が、誰かに拾われることはなかった。
「今から、探しに行こう」
「やめてください……!」
千里人はこのときばかりは本気で、廃屋の門をくぐろうとした詢の手首を強く握って、止めた。
「――きみは『電球のような暖かい色の光』といった」
詢は背中でいった。
「…………」
「もしきみが、その光≠恐れているのであれば、そんないいかたはしない。人魂や鬼火のようにいうでしょうね。七つのきみは、事実光≠恐れたはず……だから逃げた。であれば……きみは、そののちに光≠ノついての印象を改めるような体験をしたのか」
「それは……」
そのときマテリアルフェアリーが輝いた。
上着のポケットのなかでイリスがふるえながら発光する。
虹色に。
千里人は、とっさに詢の腕を放して引き下がった。翼あるマテリアルフェアリーの存在を、無意識に詢から隠すように半身になる。チェーンでつなぎとめた。
「…………!」
七色の光のなかで、イリスの実体はくっきりと見えた。
これほど鮮明に見えたのは樹谷《こだまだに》以来だ。やはり場所――マテリアルフェアリーは頭屋の森や樹谷《こだまだに》の道切りのような場所で、より顕在化する。
ありきたりな推理をすれば、より霊的な場で。
むこう側に近い場所。
異界との境界――
「メール」
「? っはい……?」
「千里人くんの携帯」
着信音が、鳴っていた。
差出人は、わかっていた。イリスが虹色に輝いたから。千里人は携帯電話でメールを確認した。
>なぜ、こんなことになったんだろう…
「……沙綾から、です」
悲嘆のような短いメールを目でなぞった。
なぜ、こんなことになったのだろう……それは千里人のほうが沙綾に確かめたいことだ。しかし、その想いを伝えるすべは千里人には残されていない。ただ沙綾から送られてくる感情の断片のような短文のメールを受け取って、途方に暮れるばかり――
「千里人くん」
「っ……?」
背中をむけていたはずの詢が、目の前にいた。
音を殺して立った詢は、千里人の顔をじいっと覗き込んだ。零れ落ちた長い黒髪の匂いが鼻腔を愛撫した。
優しく――好きな車のシートに腰を沈めたときのような、母体に抱かれるようなやすらぎ。
「きみは」
魔女は囁く。
その双眸に魅入られた。
七色の光を映した瞳と瞳に。
「……なっ」
言葉は失われた。呼吸を止められた。
最後に残された千里人の秘密さえ、詢は曝け出したのだ。
「きみには、それが見えている」
第五章 匂う音
邑崎詢《むらさきまこと》はイリスを見ていた。
呆然と彼女を見詰めた千里人《ちさと》の手から、イリスがするりと抜け出した。月を目指して飛び上がろうとしたそれは、携帯電話につながったチェーンに引かれて、糸をつけられたトンボのように、くるくると舞った。
「…………!」
「きみには見えないものが見える」
虹色の光を映した詢の瞳は、あきらかにイリスを捉えていた。
千里人にしか見えないはずのものが、その姿をあらわにしていたのだ。
「いつから……」
「きみを初めて見たときから」
いつからイリスが見えていたのか、という千里人の問いに、詢は淡々と答えた。
「初めて研究室を訪ねたとき……?」
「そのとき、きみには見えていなかったようだけど……わたしには見えた。それは、まだ実体としてはおろか光としても幽か存在だった。けれども、それは確かにきみとともにあった」
初めて研究室の詢のもとを訪れた日の、前の夜――千里人のアパートの窓を叩いたものがあった。
半分夢のような感覚のなかで窓を開けたとき、それは、いなくなっていた。
――しかし、いたのだと。
それは開けた窓からアパートの中に入ってきていた。そのときイリスは、まだ千里人にも見えないほど希薄な存在だった。
「わたしは失踪した恋人を探すきみである前に、妖精憑きの少年であるきみの来訪を受けたの。それは秋の夜長の、思いがけない出来事だった」
――だが、詢には見えていたのだと。深遠を透かし見ることのできるこの異相の人には。
「沙綾の実家に行く途中……高速道路のサービスエリアで、ぼくは初めてイリスを見た」
あの夜、星空から舞い降りた光≠見た。
「イリス?」
「名前をつけました」
携帯電話につないだチェーンのさきに浮かぶ、翼あるものを見る。
「ギリシア神話のイリスは、空を翔れば七色の光がかかったといい、虹の女神でもあった……そう、あのときも虹色に輝いていた」
あのときも詢は見ていたのだ。見えていたにもかかわらず、見えないふりをした。
「イリスが虹色に輝くと、ぼくの携帯に、かならず沙綾からメールが届きます」
女神の名の由来を、千里人はもともと知っていたわけではない。情報スクラップをしていたときに偶然ネットで拾った知識だ。
「その法則性は興味深い」
「いったいイリスは、なにを伝えようとしているのか……」
虹色の光には、大切な意味があるはずだった。
「でも、女神の名を与えたものを鎖で縛るなんて……ふふ。可笑しい」
詢は苦笑を浮かべた。
「…………」
「所有欲の強さの表れ、かな。きみはそういう子だもの……きみは相手に理想を捧げ、理想の見返りを望む人。頼れると思った相手にはとことん依存して、独占欲が強くて、だから嫉妬深い。慈悲深い女神でもなければ、きみの相手はつとまらないわ」
――姉のように。
沙綾のように。
そして詢のように優しく強い人でなければ。
「マテリアルフェアリーを犬のように鎖でつなぐなんて」
詢はついに、過去――この田菜の地に遡って千里人の秘密を暴きはじめた。
二年前、
夏、
田菜、
猫おどりの祭りの夜、
あの、奇妙な体験――星の群れのようなマテリアルフェアリーとの遭遇。
「その名前さえ、あなたは知ってるんですか」
千里人は嘆じた。
あきらめのような賛美と、恐怖のようなあこがれとが入り混じった、説明しがたい感情が溢れ出した。
「きみも、この本を読んだ」
詢が手にした一冊の本を、千里人は知っていた。
「『妖精たちの夏』……」
広げたページには頭屋の森の写真が使われていた。
「『妖精たちの夏〜マテリアルフェアリー』……この本は、二年前の夏、この田菜で行われた猫おどりを取材した、地元のテレビ局の人間が書いたもの。著者であるスガワラ晶は……」
「スカワラ……濁りません」
「……ほんとうだ」
イリスの光を電球代わりにして本の著者プロフィールを確かめると、本の袖の著者プロフィールを確かめると、詢は自分の犯したささいな読み損じを認めた。
「地元のケーブルテレビ局の女子アナです……39ケーブルテレビ」
「サンキュー?」
「三島急行ケーブルテレビで39です。今は辞めて、フリーになったらしいですけど」
二年前の夏、本の著者である須河原晶は、田菜を取材に訪れていた。
テレビ局の車が盆地を走りまわっていたので、落ち着かない気分にさせられる夏休みだったのを覚えている。ローカル局とはいえ、静かな田舎の日常生活を騒がせれば苦情の一つも出そうなものだったが、子供から大人まで地元のお茶の間で広く人気を集めていた名物女子アナの人徳か、そういった意味では、たいしたトラブルは起こらなかった。
須河原晶は、田菜の、なにを取材していたのか。
別荘地のエメラルドランドの幽霊騒ぎとも、産業廃棄物の不法投棄を探っていたとも、大人たちはいろいろ噂した。そして、煩雑な日々の暮らしのなかに噂を置き忘れていった。
けれども田菜の子供たちは知っていた。忘れなかった。
須河原晶はあの夏――見えないけれど見えるものを探っていたのだと。
「案内して」
詢はいった。千里人にはそれを拒むことはできなかった。
田菜盆地は歩いてめぐるには少し広く、車でめぐるには狭すぎる。
農道を折れると、用水路の近くの三叉路で千里人は車を停めた。
「猫ガ辻……です」
三叉路を折れて坂道を上がるとすぐに断層公園があり、エメラルドランド方面に続いている。あたりは集落で、用水路と道路のあいだは小さな空き地になっていた。
車を降りると空き地に建てられた地蔵堂の前に立った。千里人の実家は盆地の反対側だったが、顔見知りに会いはしないかと、あたりの目が気になった。
「田菜で猫おどりがはじまったのは二十年くらい前だそうね」
詢がいった。
「はい」
「でもここは、それ以上前から猫ガ辻と呼ばれていた」
――本で読んだのだろう。であれば詢は、須河原晶の調査を通じて、田菜の風土に関する知識をざっと共有していることになる。
「詢さん、前に、地下鉄の駅名の由来の話をしてましたね……手ぬぐいを被って踊る猫たちが集まった場所。田菜にも猫が踊る民話があります」
千里人は地蔵の頭を撫でながらいった。
「守谷の家のシロ」
「はい」
千里人は小さく頷いた。それも本に書いてあったはずだ。
田菜の子供ならたいていは聞かされる民話を、詢は諳んじはじめた。
「江戸時代、天保年間のこと……守谷の家の使用人|某《なにがし》が、使いを終えての帰りの道、ちょうどこのあたりにさしかかると、どこからか人の声がする。
――ああ、来た来た。
――遅いじゃないか、シロ。
――シロがいないと、踊りがはじまらない。
――まぁまぁ、トラもブチもタマも、もうシロも来たんだからいいじゃないか。
声はするのに、あたりには背の低い藪があるばかりで、人の姿は見あたらない。納付は眉に唾をつけた。これは狸のしわざか……騙されてはなるまいぞ。某は、そっと声のほうに近づいた。
――さあ、シロ、笛を吹いてくれ。
――おぉ、そうさ。踊ろうぞ踊ろうぞ。
ところがシロは悲しそうにいったそうな。
――主《あるじ》の戯れで、熱いおじやを食わされた。舌の先をヤケドしてしまって、今夜は笛が吹けないよ。
藪を覗き込んだ農夫は、そのとき、ガサと藪を揺らしてしまい、その音に、集会を開いていたものたちが一斉に逃げた。そう、猫だった。猫と判ってみれば、シロというのは自分が奉公している守谷の家にいる猫ではないか。不思議なこともあるものだ。某は主に報告した。すると主は、
――確かに、シロにおじやを食わせた。シロはたいそうあわてて、どこかへ逃げていったが……これは大変な化け猫を飼ってしまった。
なんとか追い払う手だてはないものかと、結局、その役目を某に押しつけた。考えあぐねた某は、直接、シロに話してみることにした。
――この家でおまえを飼ってるのは笛を吹いたり踊りを踊ったりさせるためじゃないのだよ。もし、おまえがそんなことをやっているのなら、この家に置くわけにはいかない。どこかよそへ行っておくれ。
するとその日から、猫のシロの姿は見えなくなったという」
詢はよどみなくいった。この人は天性の語り部なのだと、あらためて痛感する。
「学校の図書室にある絵本は、そこで終わりです」
「でも、この話には後日談があるのよね」
詢のいう通りだった。千里人は、その話を姉から聞かされた
「はい」
「…………
笛を吹き、踊る猫といえば控えめに見ても化け猫だ。そんな猫を追い出して、祟りをなされては堪らないと、主は地所の一画に小さな塚を立てて追い出したシロを祀った。ところが……それ以来、守谷の家では怪異が頻発するようになった。塚が、逆に依代になってしまったのかもしれない。困り果てた主は、年に一度、自分らがシロたちになり代わって踊ることで、幾多の怪異を鎮めようとした……」
「それが田菜の猫おどりのはじまりです……そのころからここは猫ガ辻になり、もしかすると、守谷が頭屋になったのかもしれません」
千里人は地蔵の頭を撫でながら、この昔語りの猫が踊った地の匂いを確かめた。
「もっとも今ではすっかり、もとの『猫踊り』の内実は失われてるようだけど」
「今の猫おどりは、供養ではなく、楽しむためのお祭りですから」
夏祭りを盛り上げるための企画に、地域に伝わる民話を利用したのだろう。
「祭りでは、猫の仮装大会があるんでしょう……? 千里人くんは猫おどりに参加したの?」
「小学生のころは」
その記憶は苦い味がした。
「写真とか、見たいな」
詢はふと俗っぽくねだった。
「…………」
「あらら……あまりいい思い出ではないみたい」
くすっと苦笑いをする。
猫おどりは毎年の夏、田菜小学校のグラウンドで行われる。校庭の特設ステージで、思い思いの猫の仮装をした参加者たちがダンスを披露する。それを偉い大人たちがお酒を呑みながら審査する。
「かわいい猫の衣装を着た子供が、かわいらしく踊る。大人たちはよろこんで喝采する。審査員が順位をつけて、できのいい子供にご褒美の賞品をくれる。優勝賞品のマウンテンバイクが欲しくてしかたなかった」
千里人は小さいころ、父親が知り合いの家からもらってきた、変なキャラクターが描いてある自転車に乗っていた。それは友達の嘲笑の的だった。そのことを両親はわかっていなかったし、それを訴えれば物欲しそうなことをいうなと父に叩かれた。
「きみは、もらえなかった」
「衣装も、踊りも、うまくできませんでしたから」
あの子にはできる。
自分にはできない。だから自分はマウンテンバイクをもらえないのだと気づいてしまったとき、不器用な子供にとって、猫おどりはただの憂鬱なイベントに代わった。
「その車は、きみの小さいころからの怨嗟の決勝みたいね」
「マウンテンバイクが欲しければ、自分で買うしかないから」
――絶対に両親だけは頼らないという気持ちは。
つまらない、子供のころの意趣返しだ。
「うちの子はだめだから、って、母さんいつも知り合いのおばさんと話してた。よその子ばかりを褒めていた」
「悲しかったのね」
「でも……姉さんはわかってくれたんです。自転車は無理だけど、自分のお小遣いから出して、夜店で綿菓子を買ってくれた」
――がんばったね。
そのときの手のぬくもり。優しく頭を撫でてくれた姉の匂いを、千里人は忘れられない。
「きみの故郷は、田菜ではなく、そこにあるのね」
「…………?」
「心の故郷の話よ」
小学校に行きましょう――詢がいった。
夜の小学校は無人だ。校舎も、校門も、グラウンドもそこにある遊具も、なにもかもが小さく見えた。変わったのは千里人のほうだ。小学校のときはずっと背の順が一番前だった。伸びたのは中学のとき。今では平均くらいだろう。
「二年前の夏も、ここで猫おどりが開催された」
校庭に立った詢は、星空の下で語りはじめた。
「祭りの前の日からずっと、当日まで雨が降っていました。あまり乗り気じゃなかったけど、夕食は祭り会場で適当に食べるようにいわれてたし雨もやんできたので夕方から出かけました。夜店をひと通りまわって、ステージの猫おどりを見ていたときです……」
「突然光≠フ大群が現れた」
そのときの様子は『妖精たちの夏』に書かれていた。
「はい」
「それは、きみが七つのときに頭屋の森で見た?」
詢の物語のなかで、千里人は、自身の過去の記憶の旅にいざなわれていく。
「同じだと感じました。十年ぶりだったけど……でも、すぐに思い出した」
幼い記憶は甦った。頭屋の森に落とした懐中電灯のことまで。
「会場にいた人たちは、全員が光≠見たのだろうか」
「……見えていた人たちは大勢いたようだけど、まわりが驚いているのを見て、わけもわからずパニックになった人も多いのかもしれない。光を見たのか、マテリアルフェアリーの実体を見たのかもわかりません」
千里人はイリスを見詰めた。二年前の祭りの夜、ここで表出した現実の膜のむこう側のものの名残に反応するように、イリスはしっかりと実体化していた。
「人それぞれだった、ということかも」
詢はつぶやいた。
「光≠フ出現で騒ぎが起こったとき、ステージの袖から猫が現れました。猫の大群です。先頭には、例のオカカ婆がいた」
「河童と戦った猫」
阪倉亮介が追い続けていた、ちぎれ耳の猫だ。
「猫の行列は、まるで民話に語られていたように踊りながら光≠フあとに続いて、ここにあるステージから、あっち……校門のほうに行進しました」
ふたりは校庭から校門のほうに歩いた。歩きながら千里人は続けた。
「祭り会場にいた人たちが猫を追って移動しはじめました。あのときは不思議な感じだった。まず子供たちが猫を追いかけて、大人たちがそれに続いた。ぼくも……」
「そのとき裏山が崩れた」
背後をふり仰いだ。
あのときの、この世の終わりのような凄まじい地響きを思い出すと、今でも膝がふるえる。
あれこそ天変地異というのだろう。
そこには二年前のがけ崩れの爪痕をはっきりと残した、山の斜面があった。
「土砂がステージを壊して、校庭からむこうのプールまで埋め尽くしました」
グラウンドを覆った大量の土砂は取り除かれたが、小学校を危険なこの場所から移転しようという案も出ているらしい。
「それほどの大災害にもかかわらず、奇跡的にひとりの犠牲者もなかった」
「はい」
――それは結果だけを俯瞰すれば、光≠ェ猫を導き、人々を導いて危機から救ったようにも思えた。さもなければ多数の死傷者が出ていたことだろう。
「著者の須河原晶は、がけ崩れから人々を救った謎の光≠フ乱舞を前にしたそのとき、まさにこう実況したという。この本によれば――
『不可思議な発光体、突然の猫の大行進、その直後に起こった崖崩れ――それらはすべて、この前兆だったのでしょうか? それにしても、これは一体……飛んでいる姿は生物のごとく、静止した様子は機械のごとく、しかし、実際には、そのどちらでもなく――まるで真夏の夜の夢のような……そう。しいていうなら、妖精。二一世紀のフェアリーたち――』……」
詢はイリスをマテリアルフェアリーの群れに見立て、その光に照らした本を台本にして、二年前の須河原晶を演じた。
鎖でつながれた翼ある小さなものは仄かな橙色に輝きながら、妖精憑きの少年のかたわらをたゆたう。
それは猫おどりの夜に見た光≠サのままに。
「イリスは……」
「『そうこれは――物にやどった現代の妖精』……マテリアルフェアリーであると」
命名者である須河原晶はいったという。
「でも、その取材の映像はテレビには流れなかった」
39ケーブルテレビをチェックしたが、須河原晶があれほど取材していた二年前の夏の田菜のことが番組になることはなく、がけ崩れのニュースも肝心の光≠フ映像がテレビで流れることはなかった。
「映像には、彼女がマテリアルフェアリーと呼んだ物は映っていなかったようね」
本にはそう記述されていた。
「はい」
「映像にはノイズだけが残されていた。彼女はそのノイズこそが、その夜、マテリアルフェアリーがそこに在った証だとして、その章を結んでいる。しかし、いかにもそれは論文としては苦しい――」
詢は自分の携帯電話のカメラをイリスにむけた。
「マテリアルフェアリーはカメラに捉えられないから」
千里人も同じことを試したことがあったが、イリスの姿はデジタルカメラには記録されなかった。
「この本に書かれていることは一つの報告ね……これは資料。著者の須河原晶は記者であり、この本は小説の体裁を取ってはいるものの、とてもジャーナリスティックな文章で書かれている。取材と情報収集という点では申し分ない。きみという目撃者を得たことで、わたしはこの本の信憑性を大いに補強できた」
「…………」
初めて研究室で会ったときから、詢は――千里人と、マテリアルフェアリーと、田菜、須河原晶の本、そして二年前の猫おどりの夜のことを、体系づけて捉えていたのだろうか。
それは詢の知性の翼がつないだ線だ。
「でも、著者の言葉から歯がゆさを感じたのは、わたしだけかな」
「それは……感じました」
須河原晶はマテリアルフェアリーを目撃した。しかしそれは、ともすると『UFOを見た』というたぐいのトンデモ本と紙一重の内容でもあった。
「誰より著者自身が、マテリアルフェアリーを描き出すことができない自分に、もどかしさを感じているでしょうね。彼女はジャーナリストだから、目に見えない、映像に残らないものを論じることに無意識の抵抗があるようにも感じられる。ジャーナリズムは信憑性を第一とする。主張には証拠がなくてはならない」
「須河原晶は、その本で、マテリアルフェアリーの実在を証明することに重きを置いていると感じました」
「そこに著者と、この本の困難がある」
そういった詢は、民俗学者であり、かならずしも実在を問題にしていない。
「須河原晶は、今もマテリアルフェアリーの証拠を探しているかもしれませんね……」
「実在を問題にしていないわたしが、こうしてそのマテリアルフェアリーを目のあたりにして、実在の証明を目的とする彼女が、証拠を得られずに苦しんでいるとしたら……皮肉ね。この本に書かれた出来事を体系づけて考えるのは学者の仕事かもしれない」
二年前の面影をなぞるように、詢は田菜小学校の校庭を見詰めた。
「詢さんは、いつから見えるんですか?」
――異界のものが見えるようになったのか、と。
「きっかけは記憶にないわ。よほど幼いころだったのかも」
「マテリアルフェアリー以外にも……見えたり、します?」
「企業秘密」
詢はまた俗っぽく笑った。彼女がごまかしのような表情をするのは珍しいと思った。
「そろそろ、帰りましょう」
二年前の夏の夜の、記憶の旅はそこでおしまいだ。
千里人は校門前に停めた車のドアを開けて、シートに腰を着いた。
「帰るって、どこに?」
「田菜には旅館なんてありませんよ」
「奇妙なことをいうのね……帰るって? あなたは帰ってきたんでしょう。ここは、あなたの故郷」
「…………」
「実家には依らないの?」
「はい」
千里人は、片足を車の外に出したまま、うつむいて答えた。
「敷居が高い、と」
詢は御子柴家の家庭の事情を汲み取った。
「ぼくがいると、父さんと母さんがけんかになるから」
「なぜ、そう思うの」
詢は開いたドアに手をかけて、ミニクーパーに寄りかかっていった。
「父さんは、ぼくが大学を出たら酪農を継がせる気なんです。でも母さんは、先行きが不安な酪農よりも、名前のしれた大企業に就職しろって。そのことで、かならず父さんと母さんは争いになるんです」
「どっちにしても簡単にいうなってことね」
家業を継ぐことも、大企業に就職することも、どちらも簡単なことではない。
「限界だったんです……あれ以上家にいると、ぼくはきっと親にいってしまった。あなたたちのいうことを聞いていれば幸せになれるんですかと。あなたたちは十八年間、ぼくを幸せにはしてくれなかった……自転車を買ってくれなかった。よその子供ばかり褒めた。酪農も、就職も、ぼくの問題なのに、ぼくがどうしたいかを一言も訊きはしない。あの人たちにとって大問題なのは結果だけで、ぼくの過程を見ようとはしないんだ。いちばん辛いときに、いっしょにはいてくれないのに、結果だけを共にしようとする」
「じゃあ千里人くんはどうしたいの」
「ぼくは――」
詢を直視できず、沈黙する。
「……答えられないのね。それはきみのご両親だけでなく、きみの問題でもあるのだから」
「わかってますよ……ぼくは、自分のいちばん嫌いなところが父さんと母さんにそっくりだ。自分の思い通りにならないと許せない……」
「千里人くん」
思いがけず、詢に頭を抱き寄せられた。
千里人は、車のシートから半分身を乗り出した姿勢で詢に抱かれた。温かい手のぬくもりの匂いが千里人を優しく包んだ。
「詢さん……姉さんに、似てます」
「そう」
「同じ匂いがする人です」
水蜜桃のような、甘く、澄んだ匂いを纏った、異相の人だった。
「きみは、きみが今いったとおり過程≠フなかにいる――それは通過儀礼」
「ぼくは田菜の大人にはなれません」
千里人は詢の胸の中でいった。
「――かといって都会の大人になる道も見えない。両親の示した道を拒絶しておきながら、自分の望む未来さえ見えない」
「…………」
「昨日、宿題に出したわね――通過儀礼にある三つの期間とは」
詢が千里人の頭に手を置いたまま、囁く。
「『分離』『移行』……『再統合』」
詢に出された情報ファイルの課題のなかに、通過儀礼に関する項目があった。
「よろしい……きみは田菜を離れ、大学に進学して独り暮らしをはじめた。これは『分離』といえるのかもしれない」
「大学は『移行』の期間ですか」
「それは、いってみれば祭りの夜のようなもの。日常から非日常に分離し、神を降ろして祀り、そして――祭りはかならず終わる」
「…………」
「通過儀礼は、かならず終わるの。それまで身をゆだねていた田菜の社会の秩序から分離し、移行の境界に身を置いて、日常に再統合されたとき、きみは新しい社会の秩序のなかでようやく安定を得るでしょう。心が望んだ安定を。それが田菜で成されるのか、別の場所であるのかは、きみの選択」
「ぼくは……」
「望むなら子供から大人になるといい換えてもいい。でも、きみは自ら望んで自分を境界に置き続けようとしているように見える。だから、きみは異界のものに惹かれる。それは自分を境界につなぎとめてくれるから」
詢はイリスをつないだ鎖を見た。
「ぼくがマテリアルフェアリーをつないでいるのではなく、マテリアルフェアリーが、ぼくをつなぎとめている……?」
「わたしの目にはそう見える」
痛烈な皮肉だった。
「…………」
「きみは異界の記憶の糸にからめ取られた虫のよう……でも、そこにはきみを守ってくれる社会はない。依るべき秩序も、確かな肩書きも、生涯消えることのない血の縁さえも。きみの心はすべてを否定した。でもね……すべてを拒否して、ただの名もない千里人であることを求められたとき、いったいきみにどれほどのものが残るのかしら。
きみが立っているのは、境界――
そこでは生身がさらされる。緊張の張り詰めた傷つきやすい場所。長く、そこに留まることは苦痛でしかないわ。きみは、人を、拒んだ。そして自分にとって優しい相手だけをきみの心の家に招くことにした。それは、沙綾だけだったのね。きみの心は、たったふたりだけで完成してしまうほど純粋で幼稚な、お菓子の家」
「ぼくは幼いんでしょうか」
「それは自覚の問題……わたしは唯一無二の心の同居人を失った、きみの心を土足で踏み荒らしている、居候だから」
詢は千里人の頭からそっと手を離した。
その感触の残り香を――その感覚はおそらく千里人だけのものだった。
「行きましょう……」
千里人は車のキーを差した。
「お姉さんに会いたくないの」
むしろ詢は、千里人の姉に興味を持ったようでもあった。
「姉さん……結婚するんです」
「まぁ、おめでとう」
「祖父が死んで、先延ばしになってましたけど……来年には」
「取られるのがいやなんだ」
皮肉っぽくいわれた。
それに対する千里人の沈黙は、肯定だった。詢のいったことは、その通りだったから。
キーをまわしてエンジンをかける。
そして、田菜をあとにした。
――そして数日後。千里人は呆然と沙綾のアパートの前に立っていた。
アパートを訪れたのは、郵便ポストのことを思い出したからだ。鍵を開けっ放しだったし、郵便物やチラシが溜まったままでは留守だとわかって無用心だと思い、いちおう沙綾に断りのメールを入れたあとで掃除をしに行った。
「…………?」
ところが沙綾の住んでいる二〇三号室のドアは開け放たれていて、数人の男がひっきりなしに出入りしていた。アパートの前には龍のマークのついた引越し会社のトラックが停まっていた。男たちは、同じ龍のマークがついたツナギを着て、見覚えのある家具を部屋から運び出していた。
千里人は驚いて男のひとりに声をかけた。
「引越しです。ご迷惑かけます」
近所の住人だと思われたのか、男は丁寧に答えた。
部屋に住んでいた人はどうしたのかと尋ねたが、自分たちは派遣された作業員なので住人のことはわからないという。
「お客様が立ち会えないそうなので、鍵は預かっていました」
オプションで部屋のクリーニングサービスが選択されていることも作業員は教えてくれた。掃除のあとでアパートの管理会社に鍵を返す段取りになっているという。
「引越し先は、△△県の、もみじ野市ですか?」
「はい」
男は頷くと、仲間に呼ばれて作業に戻っていった。
荷物は次々にトラックの荷台に積み込まれていく。一緒に映画を見た小さなテレビ。食器と本が同居していた白いキャビネット。ノートパソコンが乗っていた白い机。六畳一間には大きすぎるソファー代わりの大きなベッドさえ。なんて手際がいいのだろう。千里人は作業員たちに理不尽な敵意さえ抱いた。彼らにかかれば、部屋にある家財は、あと数分もすればすべてなくなってしまうはずだ。
――奪われる。
沙綾のものが、ほかの男の手で乱雑に運ばれているだけで、胸の奥が痛み、心が焦げるようだった。
やがてクリーニングの作業員が来て、引越しの作業員と仕事の受け渡しをはじめた。
――消される。
なかったことにされる。彼女のためにやってきたことが、すべて。千里人が愛した沙綾との甘美な生活の匂いさえ、クリーニングの消毒液で拭き取られてしまう。
ものの十分あまりで、引越し会社のトラックは走り去った。クリーニングの作業員が郵便ポストを開けて中身をきれいにする。一連の作業は葬儀のように粛々と進められた。千里人はそれを参列者のように傍観するしかなかった。
『――沙綾は大学を辞めました』
千里人が沙綾の実家に連絡を入れると、電話に出たのは姉の加奈子だった。
「辞めたって……?」
『ですから退学しました』
加奈子はひどく淡々と答えた。もう大学には退学届けを提出したという。それでアパートも引き払ったのだと。
「なぜです?」
『健康上のことです。沙綾の体が弱いことは、御子柴さんもご存知でしたよね』
――もちろん知っている。だが沙綾が入院したのは披露が原因で、病気の問題ではなかったはずだ。
『心の疲労は、体にも負担がかかるでしょう……? あれから容態が思わしくなくて……』
「でも、いきなり辞めるなんて……!」
――自分になにも伝えず、沙綾がそんなことを決めるはずがなかった。メールでも、ひとことも辞めるなんてことはいってなかった。どうしたらよいかわからないと、悩んでいるようではあったが。
『沙綾本人が決めたことです』
「そのことを……加奈子さんは、ご家族はどう思っているんでしょうか」
千里人は自分でも驚くほど立ち入ったことを口にした。なりふりかまってはいられなかった。
『わたしも祖母も同じ気持ちです。やっぱり、あの子には独り暮らしは無理だったんですね……身近に世話ができる家族がいたほうが、あの子も、わたしたちも安心できます』
「…………」
『なにか、沙綾に貸していたものがあるんですか? もしあるなら、荷物はかならず、そちらに送り返しますので』
「いえ……そうではなくて」
確かCDやハードカバーを貸したままだったが、そんなことはどうでもよかった。
『あのね、御子柴さん』
「はい……」
『あなたと沙綾のことは聞いています。妹と仲良くしてくれて、よくしてくれて、そのことはお礼をいいます。ただ、沙綾はもう大学には戻りません。沙綾は……少し辛いことをいうけれど、あなたを忘れたいそうです』
「…………! 彼女が、そんなことをいったんですかっ?」
そのひと言で、膝が崩れるように千里人は動揺したが、加奈子の言葉は台本でもあるかのようにゆるぎなかった。
『沙綾が悪いわけでも、もちろんあなたが悪いわけでもありません。世の中には、どうしようもないこともあるんですよ……御子柴さんは、まだ一年生でしょう。しっかり沙綾のぶんまで勉強してあげてください』
美辞麗句とはこういうことをいうのだろう。綺麗すぎる言葉が虚しく心をすり抜けていく。残らない。なにも残らない。その言葉には匂いがしない。
「沙綾と……妹さんと、話をさせてください」
『わかってあげてください……辛いのは沙綾も同じです。話しても、どうにもならないことでしょう』
――黙って別れてあげて欲しい、と。
加奈子はつまり、そういっていた。
「…………」
そんな理不尽に引き裂かれた別れを、千里人はとうてい受け入れられなかった。
健康上のことで大学を辞めるというのはわかる。しかし、なぜ沙綾は自分になにもいってくれないのか。相談一つしないのか。意味のつながらない短いメールだけを送るのか。理由がわからない。
「いったい、なぜ……沙綾と話もできないんですか」
問い質した千里人に、加奈子は、辛いことをいうけれど――と重ねて前置きをして、いった。
『あなたと話しても、なにも解決できないからです。あなたはお医者様でもない、ただの学生でしょう。そして、あなたがいる場所とうちはあまりにも遠い』
穴森は、遠い――
「…………」
『だから、もう、うちに電話もしないでいただけますか』
それでは、といって電話は突然に切られた。
「だから……」
なにが「だから」なのか。
加奈子の声を伝えた受話器が、最後に、ざらついた鉄錆のような臭いを放った。
血のような――
学生課をあたった詢によれば――詢は学生課にも親しい協力者がいるらしい――沙綾の退学の理由は、やはり健康上の理由だという。数日前に書類を提出したのは本人ではなく親族で、背格好からおそらく加奈子だったとも。大学に来ていたのだ。おそらくそのときに沙綾のアパートを引き払う手続きも済ませたのだろう。
「高原教授が思いとどまるように実家に電話を入れたんだけど、加奈子さんに丁重に断られたそうよ。理由が健康上のことだから、沙綾の体が丈夫じゃないことは教授も知ってるし、それ以上は引き止められなかった」
大学の空き教室で、詢は千里人に伝えた。沙綾はまだ入院中だといい、教授も直接、話すことはできなかったという。
「ぼくが電話したときも同じでした。それと、もう電話はしないでくれって……忘れてあげて欲しいって」
加奈子の声が帯びた臭いが、ずっと鼻にこびりついていた。
「それが沙綾のためというようないいかたね……」
詢は息をついた。
「忘れられるはずがない……こんなの……こんな別れかた……!」
千里人は感情が破れて声を上げた。
「落ち着いて」
「落ち着けって……冷静じゃないですよ……だって……」
なぜなのか、わからないからだ。
計画は完璧だった。車を買った。沙綾の誕生日を祝うはずだった。ドライブに行くはずだった。
どこにでも、どこまでもいけるはずだった。
でも、なに一つままならないまま、気がつけば千里人は大切なものをすべて失っていた。
「…………」
「ほんとうに……神隠しだと思ったんです」
千里人の言葉は記憶のなかに沈んでいった。
あのひ、神社で、最後に沙綾と別れたときのことを思い浮かべる。
夕暮れ時の神隠し――
「神隠し……?」
「携帯つながらなくて、アパートが留守で、どこにもいない……誰も沙綾の居場所を知らない。いなくなった。だから鉦《かね》を鳴らして沙綾を探そうと思った」
酒屋の末っ子、深山美玖の神隠し。男総出で探しまわった。千里人も幼い少女を探した。鉦《かね》を鳴らしながら。姉に手渡された鉦《かね》を鳴らしながら。その半日のあいだ、田菜は、千里人は、間違いなく日常から非日常に足を踏み入れていた。
――臭いがしたから。
空気が、風が、あの現実の膜のむこう側の臭いを運んでいた。鉦《かね》を鳴らすたびに千里人の鼻腔は異界の臭いで満たされた。
「そう……きみは鉦《かね》をならして、神隠しにあったものを探したことがあるの」
詢は多く語らずとも千里人の事情を察した。
千里人は携帯電話を手にした。
その先にチェーンでつながったイリスは、大学の教室では、あいまいな光として見えるだけだ。
「マテリアルフェアリーがここにいるんですよ……? 河童だっているかもしれない。神隠しだって、ほんとうにあったのかもしれない。酒屋の三姉妹の末っ子は、あのまま行方不明になっていたかもしれない……ぼくは……このまま一生、会えないかもしれない……これが神隠しなら……!」
「千里人くん……」
「でも」
――そんなのはいやだった。
短縮ダイヤルで沙綾の携帯に電話した。
コールを続けた。
鳴らし続けた。
呼び続けた。
続けて――――
続けて…………
「沙綾の答えは、もうでているじゃない」
詢が手を伸ばして、携帯電話を切った。
怜悧で滑らかな、それまで聞いたことのない冷たい声色に戸惑っていると、詢はそのまま千里人から携帯電話とイリスを取り上げた。
「…………?」
「沙綾は黙ってきみのもとを去った。それが沙綾の、千里人くんの思いに対する返事でしょう」
イリスの光はふわふわと千里人の元に戻ろうとしたが、詢は携帯電話につながったチェーンを引いて、それを許さない。
「なにがいいたいんですか」
「沙綾は、きみに忘れて欲しいといった……別れて欲しいということ。それが沙綾の結論なんでしょう」
「理由が、わかりません」
「健康上の理由」
「そうではなく……体を壊して入院したのはわかります。大学を辞めなくちゃならないほど、容態が悪くなったのかもしれない。でも……なぜ沙綾は、ぼくと話してくれないのか。話せない理由でもあるのか……? 沙綾は……沙綾だけじゃない、加奈子さんも……ぼくに、なにを隠している」
――なぜ、なにも話してくれないのか。
「隠しているのではなく……きみには、私たちには話す必要のないことだと考えられているのではないかしら」
「だって、ぼくと沙綾は……」
「他人だと思われているから。きみ自身が、そう感じたように」
壁――自分で作り上げてしまった壁が、沙綾とのあいだに立ちはだかっていた。
それは気がつけば記憶のなかにまでしっかりと根を張って、そのとき沙綾の顔をとっさに思い浮かべられなかった自分に千里人は愕然とした。
もう、沙綾はここにはいない。
千里人の心の故郷にはいない。心の、壁のむこう側にいた。ほんのしばらくのあいだ会っていないだけなのに。
「わたしと一緒にいればいい」
詢の声が、とろけるような甘い匂いを帯びた。
「詢……さん?」
「きみは沙綾に惹かれていたのではない。沙綾の中に見た、異相に、惹かれていた」
――まるで過去の、終わったことのようにいう。
「違う」
しかし詢の言葉は、ついに核心を探しあててしまった。
「沙綾じゃなくてもいいのよ」
「違う……」
「ほんとうに沙綾が好きなの……? 嫌われたくないから、そばにいて欲しいから、上澄みだけの言葉を重ねたのではなくて」
「そんなことはありません」
――大学に進学して、両親のもとから逃げ出すことはできたが、それは姉との別れも意味した。しかし千里人は大学に行かなくてはならなかった。選択の余地はなかった。田菜の大人になることを拒んだからだ。
詢は、携帯電話とイリスを人質に取りながら、もう片方の手で千里人の頭を撫でた。
「千里人くんは現役で合格したのよね」
「……はい」
「沙綾も現役だけど……でも彼女、小さいころ病気で一年間小学校休んでるんだってね。だから一つ年上なんだ。沙綾の誕生日は十一月十一日……」
もうすぐ彼女は二十歳になる。
「…………」
「きみは誰でもいいの。お姉さんの代わりを探しているだけだから」
――わかっていた。
この人も。
髪の毛を撫でる手の匂いに身をゆだねた。
邑崎詢という異相の人も、水蜜桃のように、甘く、澄んだ匂いをまとっていたから。
「わたしと一緒にいればいい」
誘惑だった。
千里人は拒否できない。
詢の言葉は霊性を帯びる。それは千里人の心の故郷、原風景からの、心の内面から響く薫り立つようなささやきだったから。
その匂いは麻薬のように千里人を捉えて放さないから。
だから千里人は、そこにいたかった。
日常と非日常。
現実の膜。
境界。
そんな異界の匂いを、臭いを、肌で感じられるところに。
「ただ姉と同じ異相の人を求めて、迷いながら、永遠に終わらない通過儀礼のなかをさまよっている」
「…………」
「わたしといれば、もっといいものをあなたに見せてあげる。聞かせてあげる。あなたの好きな音楽のように心地よく薫る、異界のものを……ふれさせてあげる。その体ごと味わわせてあげる」
詢の掌が、千里人の髪の毛から頬をなぞって、首筋から肩を撫で、腕を――手を取ると、柔らかな胸元にいざなった。
「そんなことをされたら……ぼくは、どこまでも詢さんを頼ってしまいます」
「頼ればいい。だって、わたしがいなければきみは迷ってしまうもの。沙綾は、もうここにはいない。お姉さんはもういない。きみが立っている、こちらとあちらの境界はとても危険なところ。きみは、独りでは、たちまち異界のものに取り隠されてしまう。わたしにいわせれば、このままでは神隠しに遭ってしまうのは、きみよ……千里人くん。きみは、この携帯電話につながったマテリアルフェアリーにかどかされてしまう。月を頼りに飛びながら、その本能に迷わされ、人家の明かりを月と見誤って、ぐるぐると同じところを飛びまわって死ぬ蛾のように……きみのような子には心の保護者が必要なの。
きみは、そのことを本能でわかっている。だから異相の人を探すのね――」
詢は描き出そうとしていた。
この民俗学者は実在を問題にはしない。ただ、それを信じる人の心を描き出すのだと。妖精憑きのフォークロアを引きずって現れた千里人の心は、洗いざらい曝け出された。
「共感覚を知っていますか」
千里人は、詢の手を握り返した。
「……文字を見ると色が見えたり、音楽を聴くと色が見えたりする、特殊な感覚のことね」
詢はしゃべる字引のように答えた。
「鍵盤が色分けされて見えたり、絵を見ると特定の音が聞こえたりする。なにかを食べると指先に手ざわりを感じる人もいるそうです。砂糖は丸い、果物は尖っている……それは言葉の比喩や幻覚ではなくて、実際に感覚を伴っている」
音楽を聴くと色が見える――その場合は、聴覚によって視覚が喚起されている状態だ。これは一説には、脳のなかの色彩を司る部分が、言語、音楽を司る部分とつながってしまっていることで起こるという。オカルトでいうオーラリーダー――他人の感情をオーラの光の色で見分けることができると称する能力者は、共感覚者であるともいわれている。
「五感の一つの感覚が刺激されることで、不随意的に別の五感の感覚が生じる……一般には、脳の未分化が原因とされているはず」
「共感覚は、脳の混線……一種の機能障害のように捉えられることもあります。でも生まれて間もない赤ん坊は、脳神経の分化がまだ進んでいないから、みんな共感覚を持っているともいいます。それは本来、人間の脳が持っている知覚能力だと。著名な詩人や芸術家のなかには共感覚の持ち主がいたともいいます」
ただ、その共感覚が意識レベルにまで上る人間は少ないのだ。
「そのことを、どこで知ったの」
「高校のころネットで調べました」
幼いころから心に秘めていた自分の不思議な感覚の正体を、そのとき、ようやく知ることができた気がしたものだ。
「きみは……匂い……? 嗅覚の共感覚を……?」
詢の言葉に千里人は自信なく首を傾けた。
「よく――わかりません。ぼくのこの感覚は、共感覚というべきものなのか。共感覚者の感性……たとえばどの音階の音を聞くと何色の色が見えるかというプロセスは、人それぞれ違う。あと、嗅覚を生じる共感覚の事例はあまり多くはないみたいでした。ただぼくの場合には、特定の人やものにふれたり、ふれられたりすると嗅覚が刺激されます。一度覚えた匂いは、次からは、見たり、声を聞いたりするだけで匂うこともある」
「あなたのお姉さんだけが、それを知っていたのね」
「……姉だけは気づいていたようです。だから、姉さんだけはわかってくれた」
子供のころ、なにかにさわって、たとえば猫ガ辻のお地蔵さんにさわって「ふしぎなにおいがする」といっても、親は聞く耳を持たなかった。わけのわからないことをいうなと父親に叩かれもした。母親には気味の悪い顔をされた。だから、この共感覚のことは誰にもいわなくなった。
たったひとり、姉以外には。
「姉さんと、同じ匂いがしたんです。甘い――香水や砂糖菓子みたいな媚びた甘さじゃない。もっと澄んだ、蜜のような匂い」
沙綾も――詢も。
「それが、きみにしかわからない匂い」
「異相の女《ひと》の匂いです」
その匂いに千里人はどうしようもなく惹かれた。その人になら依存してもいいのだと思えた。たとえ、どこかに攫《さら》われてしまっても。
「異相の、女《ひと》ね」
「いい匂いでも、いやな臭いでも……この共感覚に働きかける人やものは、良くも悪くも、ぼくにとっては特別だ」
「臭いのしない相手は、他人だと?」
――そう思えてしかたがない。
姉も、沙綾も、詢も……千里人の心の窓を叩いたのはみな特別な相手だった。
千里人は、詢から携帯電話とマテリアルフェアリーを取り戻した。
「イリスは、とてもいい匂いがします」
決して手放したくないと思った。だから鎖でつないだのだ。
たとえ鎖につながれているのが千里人自身のほうであってもかまわなかった。
夕方を誰そ彼時という。人の顔を見分けるのが難くなる時分だと。人は家路につき、異界のものは夜の闇にまぎれて動き始める。そんな境界の刻を逢魔が時ともいった。
千里人は、あの小さな神社のブランコに座っていた。
――沙綾は黙って、きみのもとを去った。
詢はいった。
――沙綾じゃなくてもいいのよ。
千里人はわかっていた。
――きみは誰でもいいの。お姉さんの代わりを探しているだけ。
「姉さん」
日は没していく。闇に輪郭を沈めていく境内の景色とは裏腹に、光のなかに、実体をあらわにしたマテリアルフェアリーを見詰めた。
気がつくと携帯電話のボタンを押していた。
「千里人だけど……」
電話のむこうの相手にいった。
応えた声は、甘く、澄んだ匂いがした。
――姉さん。
すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。彼女ができたこと。その子が行方不明になったこと。そのまま大学を辞めてしまったこと。最後に夕暮れの神社で別れたきり一度も会っていないこと。電話で話もできないこと。イリスのこと。マテリアルフェアリーのことさえ――姉はすべて受け止めてくれるだろう。
しかし、思い留まる。
嫁ぐ姉を、これまでのように頼ることはもうできないとわかっていたから。
この携帯電話のむこうにいるいとしい女は、もう千里人の姉である前にどこかの誰かの妻であり、やがて産まれてくる新しい命の母だった。
「四年くらい前のこと……覚えてるかな。酒屋の三姉妹の末っ子……そう、神隠し。あのとき姉さん、ぼくに鉦《かね》を持たせたよね」
深山美玖の失踪事件を。
行方不明になった幼い少女を、千里人は、姉に手渡された鉦《かね》を鳴らしながら探した。
「鉦《かね》を鳴らすことに、どんな意味があったのかな」
大きな音の出る楽器を鳴らして、どこかで迷っている相手に呼びかけたのだろうという意図はわかる。あるいは探す側の人間が山に入ったとき、音を出し合うことで危険な獣や二重遭難を避けようとしたのかもしれない。だが、それだけでは説明しきれなかった。つまり千里人が、あのとき鉦《かね》を鳴らすたびに、あの異界の臭いを嗅ぎ取ったことの理由がわからなかった。
……………………
子守歌のような優しい音色のする声で、姉は、神隠しのフォークロアを千里人に話して聞かせてくれた。
――姉さんは。
見返りを求めない。その優しさは無償の慈しみだ。物心ついたころから姉に頼りきりだった千里人は、そのことが恥ずかしく思えた。だから姉さんは幸せにならなくてはいけないと。顔も知らぬ姉の結婚相手に願った。そのことについて千里人は願うことしかできない。
「…………あの鉦《かね》に、そんな意味があったんだ」
ありがとう、と。
千里人は名残惜しくなるのが怖くて、姉を頼ってしまうのが怖くて、すぐに携帯電話を切った。
ブランコから立ち上がって本殿のほうに歩いた。
ふと、チェーンの先のイリスを見る。
いとおしい異界のものの香気をまとった翼あるマテリアルフェアリーは、たゆたいながら、優しい暖色の光で千里人を照らしていた。
賽銭箱の上から吊された紐を握った。
凛――
鈴は鳴る。
澄んだ音色が冷たい水のように心を洗った。同時に千里人は神隠しの日に鳴らした鉦《かね》の音とよく似た匂いを感じた。
鈴の音は、神に呼びかける音だ。
「あちらと、こちらをつなぐ……」
鉦《かね》の音もまた。
日常と非日常をつなぐ音。この世とあの世をつなぐ音。音は時として霊性を帯びる。異界のものに働きかける。巫女は鈴を鳴らして神に舞を納め、山伏は法螺貝《ほらがい》で魔物を退治し、都の衛士《えいし》は梓弓《あずさゆみ》の弦《げん》を鳴らして邪気を祓った。
神隠しによって異界のものに連れ去られてしまった子供に呼びかけるためには、ただの音ではなく――祭器である鉦《かね》の音でなければならなかった。
だから姉は、鉦《かね》を手渡したのだと。
「鳴らし続けた」
携帯電話を握った。
千里人は、鉦《かね》を鳴らし続けたのだ。
神隠しのように、どこかに消えてしまった沙綾を携帯電話で呼び続けた。鳴らし続けた。
「ぼくは沙綾を、忘れてはいない」
探すことをあきらめてはいない。
そのとき、
「…………!」
イリスが虹色に輝いた。
決まりごとのように携帯電話の着信音が鳴る。千里人はメールを確かめた。
>美土沙綾
――なぜ。
忘れて欲しいと。別れて欲しいといったはずの彼女からメールが届くのか。
>会いたいよ…
なぜ、こんな迷わせるような短いメールばかりを送るのか。
「理由が、ある」
理由もなく、こんなことをする子ではなかったから。
その断片のメールはまるで、異界に攫《さら》われた子供の叫び声にも聞こえた。
『――穴森に、行く?』
携帯電話のむこうの詢が、確かめるように千里人に訊き返した。
「はい」
『行って、どうするの?』
「沙綾と会って話をします」
千里人は決意を語った。
『沙綾は、それを望んでいない。忘れて欲しいと、きみに願っている』
「彼女の口からそれを聞かない限りは、信じません」
加奈子のいうことを信じないのではない。沙綾のいうこと以外を、信じたくないだけだ。
『思い詰めないで……時分が、とても危ういことをしようとしていることを自覚しなさい』
詢が千里人を制した。
そういわれることは、わかっていた。それでも、ここで詢に決意を挫かれるようであれば、自分は穴森に行く資格がないと思った。だから詢に連絡を入れたのだ。
「沙綾も、異相の人です……それは姉さんや詢さんというよりは、むしろ……ぼくに近い。彼女は神隠しにあって、異界のものにさらわれてしまう側の人間です」
『匂いが、そう教える?』
「でなければ、こんなストーカー同然のことをしようとは思わない……穴森に行こうとは思わない。加奈子さんの話を聞いて、それで、あきらめていた。でも、これは健康上の理由とか、そういうふつうのことで説明しきれる出来事じゃない気がする。ぼくは……感じるから。これは――」
これは異界の。
境界のむこう側と関わった非日常のできごとだと。
最初にふれた生き雛行列の絵葉書が。
胸の中のイリスが、それを伝えた。
『きみの、不思議な共感覚を疑うわけではないけど……かといって、きみを犯罪者にするわけにはいかない。きみはうちの事務所のアルバイトだから』
「ご迷惑がかかるなら、辞めます」
『そうはいかない。さっきもいったはずよ……きみはわたしのそばにいればいい。きみは、わたしのもの』
「それでは独りで行きます」
『待ちなさい』
詢は強く呼び止めた。
「…………」
『なぜ、そこまで沙綾を求めるの……? お姉さんの代わりだったら、わたしがなってあげるといっている』
その声は電話越しにも薫った。激しい依存症のある、この匂いはまるで脳を侵す麻薬だ。その詢の匂いが奏でる波に身をまかせ、外界から遮断されて、世界でたったひとりの己の存在を感じたいと思った。それは、なにものにも代えがたい幸せだったから。
「初めてだったんです」
千里人は告白した。
『…………』
「初めて、こんなふうに人を愛した。依存するのではなく、その人に好かれようと甘えるのではなく、そのために自分に嘘を塗り重ねたりするのではなく、ただ、その人のために――なにかができればと思った。力になれたらと思った」
『同情か、所有欲ではなくて』
「沙綾となら、ふたりで一緒にいる未来が、見える気がした」
『だから車を買ったの』
「自分の力の証が形として欲しかった。ぼくは沙綾といるために、自分を変えたいと思った」
『人は簡単には変われない』
「沙綾のためなら、変われると思ったんです――」
千里人はミニクーパーのドアを開けた。
「きみの、その決意が聞きたかった」
大学の駐車場に車を停めた千里人のもとに現れた、詢は、耳元にあてた彼女の携帯電話を切った。
「詢さん……」
「偽りない、きみの言葉が聞きたかった。きみが、わたしに心をさらけ出してくれるのを」
「…………」
「きみが沙綾の正面に立てるかどうか、今の彼女を、受け止められるかどうか。その強い意志がなければ、きみはたやすく彼女に依存してしまうから。そして彼女と手を取って、異界の闇に取り隠されてしまうでしょう」
詢の言葉は、千里人が未だ知らぬなにかを暗示していた。
「…………?」
「穴森の闇は、深いから――」
第六章 イリスは見ていた
詢《まこと》とともに再び穴森村を訪れた千里人《ちさと》を、意外な人物が待っていた。以前に大学の研究棟の階段で詢と話していた、あの編集者の嶋である。
「御子柴くんだったね」
嶋は名刺を出すと、これからよろしく頼むよと言外に含ませた。
名刺を渡された経験などなかった千里人は、その紙片をどう受け取ればよいのか作法に困りながら手にした。大学生憧れのマスコミ業界だ。就職試験は倍率千倍、コネがなければ書類で撥ねられるとか、いろいろ噂は聞く。
大出版社の編集者である嶋友次があいさつをしたのは、有名作家の邑崎昴事務所でアルバイトをしている御子柴千里人なのだと、痛感した。これがコネだと。人の縁のことだ。人と縁をなすのは難しく、保つのはさらに難しく、切れるのは水が流れるようにたやすい。
「おつかれさま、嶋さん……例の原稿はメールで送りました」
詢がいった。
「はい、確認しました」
「うちの先生のチェックは通ってます」
あのとき研究棟の階段で詢がいっていたのは、このことだった。そして嶋は、詢の原稿を受け取るために、いわば交換条件として、この数日間もみじ野市に滞在して詢に頼まれた調査をしていたらしい。
詢の慧眼はまるで、もう一度、もみじ野市を訪れることを見通していたようだった。
「交通事故の新聞記事です」
どこから話しましょうか、と前置きした嶋はファイルを見せた。
地元新聞のコピーには、沙綾の義兄である健一郎氏の交通事故が小さく記事になっていた。事故があった日付は、千里人が沙綾と最後に神社で別れた日で間違いない。
死亡したのはもみじ野市在住の林業、英田健一郎さん(52)とある。事故現場は同市|樹谷《こだまだに》で、カーブを曲がりけれずに衝突死したらしい。
「英田?」
千里人はすぐに記事に載っていた苗字の齟齬に気がついた。なぜ美土ではないのか。
「――酒気帯びおよび運転の疑いがあり、警察は飲酒運転による単独事故と判断しました。その日は地元の商工会かなにかの会合があって、出席した健一郎氏も昼間から軽く酒が入っていたようですね。難しい会議ではなく、親睦会のようなもので……」
嶋は、詢が名刺を渡したあの初老の市役所職員を呑みに誘って、邑崎昴のサイン本を土産に、いろいろと内情を聞き出したらしい。職員と健一郎氏は親しい釣り仲間だったという。
何事もおおざっぱな田舎では、そういった席で昼間から酒が入ることも、ある話だ。飲酒運転も、取り締まるべき警察官が駐在一人しかいないような過疎の村では、自制心が働かず常習犯も多い。
「事故があったのは午後、夕方前よね……? 事故現場は樹谷《こだまだに》……健一郎氏はなぜ、そんな早い時間に帰宅したのかしら」
「それが……記事にはなっていませんが、どうも娘さんを家に送るために会合を中座したようです」
「……雨だった?」
詢がいった。雨の日は未歩の下校を車で送っていたという話だ。
「そうなんです。急に激しい雨が降りはじめて、下校時間の娘さんを心配した加奈子さんから、健一郎氏の携帯に電話がかかってきたようです。加奈子さんは娘さんを非常に大切にしていて……傍目には過保護なくらいだったと、釣り仲間の職員はいっていました。以前、いじめが発覚したときなどは、学校に怒鳴り込んで、いじめっ子の親にも謝らせたという話も……」
千里人は、加奈子が未歩を叩いたときのことを思い出した。娘のすべてを時間単位で警備会社と契約して場所まで把握していないと耐えられない母親の、厳しく追い詰められた顔を。
「娘への強すぎる愛情と、裏返しの神経質さ。それが裏切られたときの激情……か」
詢がつぶやいた。
そんな加奈子が、雨の中、ひとりで一時間はかかる道のりを下校する娘を気にかけるのは、当然のことだった。
「その日、加奈子さんは町に買い物に出ていたようです。自分の代わりに娘を家まで送って欲しいと加奈子さんから電話を受けた健一郎氏は『勤務中なのに、うちのは』と苦笑しながら会合の場を出て行ったようです。本守から樹谷《こだまだに》へは一本道ですから、おそらく途中で、下校中の娘さんを拾うつもりだったのではないでしょうか」
「未歩ちゃんを乗せて事故を起こしたわけではないのね?」
「はい、娘さんを追って急ぐあまり、濡れた路面でスリップしたのかもしれません……健一郎氏が乗っていたのは、エアバッグなどもついていない古いスカイラインでした」
まだビール一杯程度だから平気だろうとか、そんな気持ちだったのだろうが、軽率といえばあまりにも軽率だ。
「あの……なぜ英田、なんですか?」
千里人は苗字のことを嶋に確認した。
「詢さんにはざっと電話で話しましたが……そのあたりから少し話が込み入ってきます。まず、亡くなった英田健一郎氏は、美土加奈子さんの内縁の夫です」
内縁――つまり入籍はしていない事実婚だったという。
千里人は美土家の表札を思い出した。古い『美土』の表札の下に『健一郎』『加奈子』『未歩』と名前の入った新しいプレートがあった。しかし確かに、プレートに苗字は書かれていなかった。
「話を聞いたその職員が、口をすべらせたところによるとですね……十年ほど前です。当時、まだ合併前に、となり町に住んでいた健一郎氏は、同じ職場で働いていた加奈子さんと知り合ったようです。健一郎氏は当時、妻に先立たれて息子がひとりだけ。加奈子さんは高校を卒業して間もないころで、年は二十歳ほども離れていましたが、ふたりは親しくなり愛し合うようになった。そのころには健一郎氏の息子も大学に入って手が離れたこともあって、それを契機に、健一郎さんは加奈子さんとの再婚を望んだようです」
「なぜ、健一郎氏は再婚しなかったの?」
「加奈子さんが、相手方の親族に、財産目当ての女だと思われたようです。一人っ子の孫を溺愛していた健一郎氏の両親は再婚に反対しました。もし健一郎さんが死んだ場合――奇しくもそういう事態になってしまったわけですが、健一郎氏の財産は、妻である加奈子さんに行ってしまう」
「自分の孫に残される財産が半分になってしまうから」
一般的には、配偶者である妻が1/2で、残りの1/2を子供で等分するはずだ。死亡保険金の受け取りも、おそらく加奈子さんになるだろう。
「健一郎氏の両親にとっては、とても受け入れられない腹立たしい話だったのでしょう」
――わかる話ね、と詢がつぶやいた。
「その再婚は、健一郎氏の両親にとっては略奪のように思えたのかもしれない」
当然と信じていた権利を脅かされた人間は、他者に対してどこまでも残酷になれる。自分は被害者であり犠牲者だからだ。愛する孫のためなら、加奈子をどれほど悪しざまに罵ろうが良心が咎めることはないだろう。それは彼らの正義を守るための戦いだから。
「両親の手前、健一郎氏は再婚せずに内縁関係を選びました。加奈子さんに子供が生まれたころから、穴森の民林の会社に仕事を見つけてこちらに引越し、美土家で同居するようになったようです。まぁ、祖母のヨミさんとはひと悶着あったようですが、それでも家族は幸せに暮らしていたみたいですね」
嶋は、英田健一郎氏の人となりと交通事故のことを、ざっと語った。
民林管理の仕事は、山が雪に閉ざされる冬のあいだは、いったん退職して失業保険で暮らすらしい。そして春になると再び働く――ということが行われているという。
「未歩ちゃんが産まれたころっていうと、おばあさん……加奈子さんと沙綾のお母さんも、まだ生きていた?」
「巳沙子さん、といったようです。亡くなったのは四年前で……」
そこまでいって嶋は、ちらっと詢を見た。
「嶋さん……?」
千里人は嶋の表情の変化を読み取った。
「彼なら……千里人くんならすべてを受け止める覚悟はできてる。……そうね?」
詢が念を押した。千里人は頷いた。
「その巳沙子さんなんですが、これがまた難しいことになっていまして……」
嶋が千里人を見た。
心を整理しておけというのだろう。千里人は、健一郎氏の交通事故と加奈子のことを、ひとまず脇に置いた。
「…………」
「ミガミ筋を知ってるね、御子柴くん」
嶋は思いがけないことをいった。
「穴森村に伝わる、憑きもの筋の伝承ですか……?」
千里人は戸惑いながら問い返した。
「そう。それで……美土の家はそのミガミ筋だという噂があったのですよ」
嶋は禁忌を口にするようにいった。
千里人はたちまち、嘔吐感から口と鼻を押さえた。
――穴森村の、闇の臭いだ。
ざらりとした鉄錆の臭いだった。千里人は違和感に身をすくませた。他人のプライベートに土足で踏み込むときの、あの罪悪感だ。しかし、ここで引き下がることはできなかった。千里人はすでに穴森村を訪れることを選んだのだから。
これを見てください、といって嶋が別の新聞のコピーを見せた。地元新聞の小さな記事だ。
「幼児虐待……?」
最近とかく耳にする言葉だが、その新聞の日付は二十年前の十二月のものだ。
嶋の語る話は、この穴森村の時間をさらに十年、巻き戻した。
千里人が生まれるよりも前の十数行ほどの記事には、簡略に、事実が書かれていた。赤ん坊が泣き止まないことに腹を立てて、生後一ヶ月の次女を傷つけた父親が傷害容疑で逮捕されたという。容疑者の名前は△△県穴森村|樹谷《こだまだに》、無職、美土育三(33)――
「沙綾の父親ですか……?」
千里人は言葉を失った。
次女とあるだけで名前は載っていないが、虐待された赤ん坊が沙綾であることは、年齢的に間違いない。沙綾は千里人より一つ年上で十一月生まれだ。
「加奈子さんと沙綾の両親の離婚の原因は、この事件だったのね」
詢がいった。
沙綾は父親の顔を知らずに育った。そして十歳のころ、姉の加奈子と内縁関係になった健一郎を父親のように慕って育った。
そして今に至る――
「でも……この事件とミガミ筋が、どう関係するんですか」
千里人は嶋に尋ねた。
「この二十年前の傷害事件には、記事になっていないもう一つの事実があります。これは当時を知る地元の人間しか知らないことのようですが……事件のあった日、巳沙子さんは夫に傷つけられた娘を守るために、逆に、夫を包丁で刺しています」
「…………?」
「夫の美土育三氏は、逮捕されたときは、パトカーではなく救急車で病院に搬送されたようです。もちろん巳沙子さんの行為は娘を守るためのもので、罪に問われることはありませんでしたが……何しろこんな田舎のことです。パトカーが来ることさえめったにないでしょうから……」
それは全国的には記事にもならない事件でも、穴森村では、大変な話題になったのではないだろうか。たとえば田菜であった、酒屋の三姉妹の末っ子の失踪事件のように。事件当時、樹谷《こだまだに》の集落は大騒ぎになったはずだ。
「美土家は、樹谷《こだまだに》でも指折りの長者の家だった」
詢が、眼鏡の位置を直して、つぶやいた。
「はい、江戸時代から続く名家だったようです。ただ……家系的にはあまり恵まれているとはいえないようでした。金銭トラブルが絶えず、戸籍を調べましたが、男は早死にするものが多く……」
「戸籍とか、勝手に見られるんですか?」
「戸籍の写しを勝手に取ることはできないが、それと同じ内容を調べる方法はあるよ」
嶋は探偵のようなことを千里人にいった。その方法については具体的にはいわなかった。たぶん法の抜け道のようなグレーゾーンなのだろう。ばれなければ罪にならない方法だ。
「容疑者の美土育三は、巳沙子さんとは中学の同級生だったようです。今も生きていれば五十過ぎですが」
「よく調べましたね……」
千里人は息をついた。まるで本物の探偵のようだ。
「嶋さん、以前は週刊誌畑だったから」
その雑誌の企画がらみで邑崎昴の担当になり、文芸畑に移って今に至るという。
「中学校の当時の同級生も、釣り仲間で……何しろ狭い村ですから」
嶋は肩をすくめた。
「外部に対して閉鎖した村である反面、内部には都会のようなプライバシーはない」
詢が嶋の言葉に頷く。
「隣の家の晩ご飯まで筒抜けというやつです。若いころの巳沙子さんはとても可愛らしいかたで、憧れの的だったといいます。なんで育三みたいなチンピラと……とまぁ、同級生の男子は誰もが思ったそうですよ」
「巳沙子さんと育三氏が結婚したのは、たぶん加奈子さんの生まれたころになるわね?」
「ふたりは当時二十歳すぎ……できちゃった婚ですか、今でいう。育三氏は村でも札付きの不良……チンピラで、ヨミさんは育三氏とのことを認めていなかったようですが、子供ができたことで少しは落ち着いてくれるかと思い、婿に迎えたようです。しかし育三氏は、仕事は続かず、家の金を持ち出してはパチンコやギャンブルに明け暮れる、それはひどい男だったようです。巳沙子さんや娘の加奈子さんにも日常的な暴力を」
「ドメスティックバイオレンス……でも当時は、そんな言葉はなかった」
「とにかく生傷が絶えないような暮らしをしていたようです。そんな結婚生活が十年……とうとう産まれたばかりの娘にまで暴力をふるった夫に、巳沙子さんも限界が来た。こういう問題はいつもそうなんですよ……事件は結果にすぎない。きっかけは別のところにあって、そして表沙汰になるときはいつも遅い」
「…………」
「ともかく育三氏は逮捕されて、離婚が成立し、美土家はようやく平穏を取り戻すはずだったのですが……」
「そのあと、なにがあったんですか?」
千里人は尋ねた。
「その二十年前の傷害事件のあとで、穴森村で噂が広がりました。美土の家はミガミ筋だと」
「…………?」
千里人は耳を疑った。
それはにわかには結びつかない噂にも思えた。
「不幸なできごとが続く、金銭トラブルの絶えないムラの名家……穴森村の人々はその原因を土地に伝わるミガミ様の伝承に結びつけたのね」
「詢さん……?」
――そう。しかしそれは、かならずしも実在を問題にしない詢にとっては――
「あの家は憑きもの筋だから、という理由づけをして、この静かな土地にはなじまない流血の惨事を、人々は理解しようとした。そして忌避した」
「そんな……」
「でも、それだけでは美土家の不幸とミガミ筋の伝承が結びついて、忌まわしいマイナスのフォークロアとして甦るには、まだ足りない気がする」
詢は、二十年前の穴森村の人々の心を描き出そうとしていた。
「これは県立図書館で調べた資料です」
嶋は別のファイルを出した。
「ミガミ筋に関する民俗資料ね」
詢は眼を通しはじめた。詢も、その資料はまだ読んでいなかったようだ。明治時代のものだという。
「実のところ、その資料を探しあてるのに、ほとんどの時間を費やしました。ようやく昨日、見つけたときは金脈でも掘りあてた気分でしたよ……本守の名家に仕えていた某の人物の日記のようです。わたし程度の浅学の素人では、どうにも読みにくかったのですが……」
「本守の人間から見た、樹谷《こだまだに》の憑きもの筋信仰の風聞ね。明治時代に生きた筆者が、村の老人から聞いた話として伝えている」
詢がいった。
千里人はファイルを覗き込んだ。ハンドスキャナで取り込んだものらしい。筆で書かれた草書体の日記は千里人には読めなかった。これを調べあてた嶋が浅学の素人だというのは、詢を相手にしたときの謙遜だろう。
「要約すると、こう書かれている」
資料には、ミガミ筋の家では紐痣の娘を嫁がせると不幸が起こるとか、石を抱かせて淵に沈めたという、例の人身御供《ひとみごくう》の伝承が記されていた。
「――樹谷《こだまだに》の一部の家では今も、その年の豊作を願って、芋や土で作った人形を供物と一緒に川に流して、水神を祀る風習が残っている……」
「それって、未歩ちゃんが川に投げていた?」
千里人は未歩が岸間川に流していた紙粘土の人形を思い出した。
「おそらくは……」詢は思考の井戸に潜った。「未歩ちゃんは、それをおばあちゃんに教わったといっていたけど……あれはあきらかに人形《ヒトガタ》を形代にした祓えの神事の姿」
穴森村は明治時代に九つのムラを併せて誕生した。
本守神社に合祀《ごうし》された他の八つのムラの神社――しかし樹谷《こだまだに》の鎮守は、移されなかったという。
「なぜ、樹谷《こだまだに》の鎮守は移されなかったのか」
「ご神体が山だったからですよね?」
宮司の笹岡老人はそういっていた。
「ほんとうに……?人形《ヒトガタ》を川に流す神事が樹谷《こだまだに》に伝わっていたとすれば、その雛形は、ミガミ筋の憑きもの信仰にある……ミガミサマは樹谷《こだまだに》のムラの水神であり、産土神《ウブスナガミ》だった?」
つまり樹谷《こだまだに》では、憑きもの筋としてのミガミ筋がムラの民俗信仰だったと。
だから抹消された。
だから社はない。
ミガミサマはミガミ筋の紐痣の娘に伝えられるから。
――それは道切りを越えたむこう側のこと。
樹谷《こだまだに》は、穴森村にあってさえ、ムラの内部に抱かれたむこう側の異界だったのではないか。詢の魔眼は樹谷《こだまだに》の闇に潜っていく。
「水の名前?」
そのとき、詢がうなった。
「その記述に気づいたときは、さすがに背筋が凍りました」
嶋の言葉もまた沈んでいく。
「ミガミ筋の家の紐痣のある娘には、水にまつわる名前がつけられていた……?」
詢が資料を読んでつぶやいた。
「穴森の人々は、そのことを知っていた。二十年前の昭和のころにも、ミガミ筋はまだこの村に生きて、伝えられていたのではないでしょうか」
「巳沙子さんは水の名前だということ……? いや、二十年前に穴森の人々はそう捉えた。信じた……ましてや巳沙子の巳は、そのまま蛇――水神、ミガミサマにつながる」
詢のなかで仮説の点が一つの線を結んだ。
「わたしが話を聞いた市役所の職員がいっていました……死んだ健さんには悪いが、美土の家は、ほんとうにミガミ筋なのかもしれないと。でなければ、こんな不幸ばかりが続くはずがないと……」
嶋が重たく息をついた。
「それをいったら……」
千里人は言葉を失くした。
「沙綾も」
詢も、同じことに気がついた。
二十年前の傷害事件のとき産まれたばかりだった沙綾も、沙の綾、岸間川の流れを表したような水の名前ではないのかと。たとえそれが母親の一字をもらった名であったとしても。
「不幸な事件と……樹谷《こだまだに》という土地と、名前とが鍵となって、穴森に伝わるミガミ筋のフォークロアの扉を開けて現代に甦らせてしまった。そして……」
それは偶然か必然か。
邑崎詢はかならずしも実在を問題にはしない。ただ人の心を見る。
しかし千里人は知っていた。詢でさえ知らない、知るはずのないもう一つのことを。沙綾のことを。そして千里人にとってミガミ筋は、このとき確かに存在する、現実の膜のむこう側のできごとになった。
沙綾は――
胸のポケットのイリスを握った。ミガミ筋のフォークロアが臭う。マテリアルフェアリーと同じ現実に存在する異界のものの臭い。ざらついた血と鉄錆の臭い。それは千里人だけの感覚だ。ふしぎな共感覚はみずから訴えた。
それは千里人だけの、ゆるがぬリアルだから。
「もう一つ……健一郎氏のことで」嶋がいった。「健一郎氏の遺体は、家族葬で葬られて、山に散骨したといっていましたね」
「加奈子さんは、そういっていました」
千里人は答えた。
「それは嘘です。交通事故で亡くなった健一郎氏の遺体は、実家に引き取られて火葬されています。通夜も告別式も行われています」
「なんですって?」
千里人は耳を疑った。
「確かめました。わたしは健一郎氏の実家にまで行って、以前に仕事でお世話になった人間だといって、仏壇とお骨を拝んできましたから」
嶋の言葉が嘘であるはずがなかった。
つまり嘘をついているのは加奈子なのだ。
「なぜ……」
なんのために加奈子は、そんな嘘を千里人についたのか。ほんとうに沙綾は過労で入院しているのか。ほんとうに健康上の理由で大学を退学したのか。ほんとうに忘れて欲しいと願っているのか。
千里人は加奈子のいっていたこと、すべてが信じられなくなった。
「あと、美土沙綾さんが入院している病院ですが……すいません。まだ確認がとれていません」
嶋がいった。
千里人が沈黙していると、詢が千里人の戸惑いを察したように、
「もう一度、考えなさい……千里人くん。きみは沙綾と、美土の家と、それでも関わり抜く覚悟があるのか」
今なら引き返せた。
しかし、あの道切りを越えたとき、もう後戻りはできない。
千里人は沈黙した。詢はそれを迷いと思ったことだろう。しかし千里人はすでに決意していた。樹谷《こだまだに》に――ミガミ筋のフォークロアに踏み込むことを。七つのときに頭屋の森に入ったように。そして今度は逃げ帰りはしない。この血と鉄錆の臭いがする限り。異界が薫る限り。たとえ闇に取り隠されようと。
イリスが、ふたりをつなぐ限りは。
千里人は、決して沙綾の他人にはならないと。それが千里人の選択だった。
北陸の風は冷たく湿っていて、前に訪れてからさほど経っていなかったが、山村の景色は晩秋の色を濃くしていた。空は鬱に陰り、雨がぱらつきはじめていた。あとひと月もすれば初雪。厳しい冬のあいだ村は雪に閉ざされる。こうした土地は長く自給自足に近い暮らしを営んできたという。それだけに農作物の豊凶は、直接、ムラの人間の生死に関わったとも。
――少し考えさせてください。
千里人は詢にそう断って旅館から出た。詢は「先走ったことはしないように」と念を押して車のキーを渡すようにいった。連絡がつくように、携帯の圏外には行かないようにも注意された。
本守の小さなメインストリートを歩いて時間を潰したあと、千里人は高台にある小学校にむかった。よそ者の若いのが、小学校の前に立っていたら目立つだろうから、チャイムを聞いて、低学年の授業が終わる頃合いを見計らった。あの駐在が来るようなことになるのは困る。学校に通じる道の入り口に古びた雑貨屋のような店があった。小学生用の文房具などを売っているほか、駄菓子やカード類といったおもちゃ、店の前にはカプセルトイの自動販売機も置かれていた。どこの小学校でも買い食いはするなといった校則はあるだろうが、持ちつ持たれつという言葉が田舎ではよく適用する。
本守小学校の校舎は、穴森の公共施設の多くがそうであるように、過疎の村の学校にしてはモダンな建物だった。田菜の小学校よりもずっと新しくて立派だ。しかし生徒数は少なく、児童は各学年に一桁しかいない。事前に本守小学校のホームページは調べてあった。そこからリンクをたどっていくと、ある児童の個人ホームページに学校の時間割が載っていた。少し無用心だと思った。
「未歩ちゃん」
校門から出てきた、沙綾の面影のある彼女の姪を、千里人は呼び止めた。
黄色い傘を差した未歩は、千里人の顔を見るとすぐに誰であったか思い出したようで、なにかをいいかけたが、子供なりに考え込むような表情をして顔を伏せた。母親の加奈子から、なにかしらいい聞かせられているのかもしれない。
「こんにちは」
「こんにちは……」
未歩は伏し目がちに答えた。そういえば未歩は水≠フ名前ではない。
「このあいだはごめんね。お母さんにいってから、家に送ればよかった」
千里人が先日のことを謝ると、未歩は首をふった。きらわれている感じでなかったのは安堵した。むしろ千里人になにかをいいたそうで、いえないでいる。そんな様子だった。
「未歩ちゃんは、おばあさんのことを覚えている?」
千里人はいった。
「おばあちゃん……?」
「お人形、川に流すことを教えてくれたんだよね。未歩ちゃんのおばあちゃん……巳沙子さんが死んだのは四年前だっけ」
未歩にとってのおばあちゃんは、加奈子と沙綾の母親である巳沙子だ。もっとも未歩が生まれた当時はまだ四十代で、おばあさんと呼ばれるには若かっただろう。
父親が死んで間もない子供に、死んだ肉親のことを尋ねるのは気が引けたが、千里人はそれでも尋ねた。
「覚えてるよ。小さかったから、ちょっとだけだけど……」
「おばあちゃんは、お母さんと沙綾お姉ちゃん、どっちに似ていたかな?」
「沙綾お姉ちゃんかな……」
「じゃあ、おばあちゃんは未歩ちゃんに似ていたんだ」
「そう。未歩はおばあちゃん似だって、よくいわれた」
沙綾に生き写しの幼い少女はいった。
「おばあちゃんには、傷があったかな?」
「傷?」
「うん……傷」
千里人が尋ねると、未歩はしばらく考えていたが、ややあって口を開いた。
「あったよ。一緒にお風呂に入ったとき、見た」
「どこに」
「いろんなところ……痣になってた」
そういって未歩は、自分の胸のあたりを上から下に指先でつっとなぞった。
「お母さんと、ひいおばあちゃんには?」
「傷……? ないとおもう」
「そう」
「なんで、おにいちゃんは知っているの?」
未歩がふしぎそうに問い返したとき、男の子たちが大声で騒ぎながら校門から出てきた。クラスメイトだろうか。みな、じろっと千里人を睨んでいく。場所を移したかったが、車がない。
ふと気がつくと、未歩が泣いていた。
千里人は焦った。いきなり泣きだすとは思ってもいなかった。
「未歩ちゃん……なにか、いやなこといったかな……? ごめん……ごめんね」
「おにいちゃんのせいじゃないから……」
未歩はクラスメイトの男子の視線を避けるように傘の陰に隠れた。今の子供たちの悪意の視線が未歩を脅えさせたのだ。
「今の男の子たちに、いじめられてるの?」
千里人はあけすけにいった。
「過保護だって」
「……お母さんが?」
小学校二年生が使うにはやや大人びた言葉だ。
「未歩の家は過保護だって……未歩はすぐ親に告げ口するって。未歩のお母さんは頭がへんだって」
加奈子は、未歩をいじめた子供の親を呼び出して謝らせたという話だった。加奈子にとってはそれは娘を守るための正義の戦いだったろう。だが親がしゃしゃり出れば、結局また、それを口実にからかいと揶揄の対象になる。出口はない。告げ口と親がいじめの誘因である以上、子供は母親にも教師にも助けを求めるサインを出すことができず、すべて自分のなかに隠して耐えるしかない。
それは子供の心をいずれ捩じ曲げるだろう。――たとえば千里人のように。千里人は自分でそう思えた。
「どうしたらいいか、わかんないよね」
自分の過去を重ね合わせた。
ただ石のように黙って一日がすぎるのを待つだけの日々だった。クラスのなかで、自分の存在が完全に無視された日を幸せと思うことさえあった。いっそシカトして欲しいと思うことさえ。
「それに、未歩の家はミガミ筋だって」
未歩は真っ赤に目を腫らしていた。
「さっきの子たちがいったの」
「怖い上級生……ミガミ筋だから、お父さんは事故で死んじゃったって。おじいちゃんは警察に捕まったって」
「お父さんが……?」
健一郎氏の交通事故ばかりでなく、二十年前の事件のことを今の小学生までが知っているのだ。
穴森村には未だにミガミ筋の伝承が生きている。なにより未歩がミガミ筋を信じ、マイナスのフォークロアの登場人物として生きながらこうして呪縛されていることに、胸が痛んだ。
「ミガミ筋だから悪いことが起こるって。でも、みんなは知らない……ミガミサマは未歩を守ってくれる神様なのに。おばあちゃんはそういっていたのに」
だから未歩は人形《ヒトガタ》を川に流していた。
樹谷《こだまだに》の美土家にとってミガミ筋はプラスなのだ。それが憑きもの筋の負の歴史とされて本守神社に合祀《ごうし》もされずに抹殺された――
「だからお人形を流すんだ」
「悪いことがおきないように。川にお人形を流すの。ミガミサマに守ってもらうために」
この子は、その神事のカタチだけを祖母に教わっていたのだろう。
それはこの幼い少女にとって、記憶のなかの優しい祖母の思い出とともに、自分だけが独占している――
異界のことだ。
「お兄ちゃんは……今でも沙綾お姉ちゃんが好きなの?」
未歩は素直に尋ねた。
「好きだよ」
「…………」
「合いたいと思ってる。だから来たんだ……未歩ちゃん、沙綾が入院している病院知らないかな……?」
お母さんには絶対、内緒にするからと千里人は持ちかけた。
「お姉ちゃん、泣いてた」
未歩がつぶやいた。その言葉の意味するところを千里人はとっさに量りかねたが、
「沙綾と会ったの?」
「お姉ちゃん、部屋で泣いてたから」
「家にいるの?」
千里人は顔色を変えた。
「…………」
少女はまた頑なに口を閉ざした。
「未歩ちゃん」
「塾があるから、行くね」
未歩は答えずに走り去っていった。
千里人は未歩を追いかけることもできず、言葉もなく立ち尽くした。
「…………」
――いる。
彼女の名を心で叫んだ。狂おしく求めた。
>会いたいよ…
携帯電話に残された沙綾のメールを。
イリスを握りしめた。
千里人が信じられるのは、その短いメールが伝えた沙綾の思いだけだった。
初めて彼女と寝たのは夏休みだ。沙綾の部屋で。引き払われてしまったアパートの大きなベッドで彼女を抱いた。そばにいたかった。いちばんそばにいたかったから。千里人がどれだけ激しく彼女を求めても沙綾はそれを受け入れてくれた。あのときの自分の拙さといえば思い出しただけで顔が赤くなるほど気恥ずかしい。実際、抱かれていたのは千里人のほうだった。それから何度か体を重ねても、ことが終わったあと千里人はいつも不安だった。沙綾は初めての相手だった。だから比べるべき対象がない。これでいいのだろうかと、はたして沙綾は、どう思っているのだろうかと。沙綾はいつも喘ぎ声一つあげなかった。いつも電気を消すようにいわれていたから表情もよくわからない。ベッドで添い寝したとき、細い体から発せられた熱だけが彼女の言葉だった。
千里人は沙綾を求めていた。
しかし沙綾は、千里人を求めていたのだろうか。千里人には自信がなかったし、確かめる言葉を持たなかった。証が欲しかった。確かな証を。自分が彼女にできることの目に見える証が。だから車を買った。そして沙綾の確かな言葉の見返りが欲しかった。
ひなびた旅館の砂利敷きの駐車場に停めた、サーフブルーホワイトのミニクーパーの前に立った。
隣には嶋の白いミニバンが止まっている。宿の部屋から駐車場は死角になっていた。千里人はキーホルダーを手にした。アパートの鍵、実家の鍵、自転車の鍵……そして車のスペアキーでドアを開ける。
エンジンをかけて駐車場から道路に飛び出した。
交差点を折れてアクセルを踏み込んだ。ここから先に信号機はない。
――未歩は、沙綾が部屋で泣いていたといった。
沙綾は実家にいる。美土家にいる。樹谷《こだまだに》にいるのだ。加奈子は嘘をついている。加奈子のいったことを信じてはいけない。沙綾が別れて欲しいといったことなど、信じてはいけない。
携帯電話の呼び出し音が鳴った。
指定メロディは詢からのものだ。勘のいい人だ。千里人は約束を破って本守から出ようとしていた。
だから電話には出ない。千里人は詢の信頼を裏切ったのだ。
山は迫る。
彩の晩秋、岸間川の支流を挟んだ両側の山からはがらがらと季節が崩れ落ちてくる。カーブと起伏の続く空谷の道をミニクーパーはタイヤを軋ませて走った。雨はしだいに本降りになった。交換し忘れていたワイパーラバーがフロントウィンドに拭き残しの線を引いた。
――沙綾の胸には、痣があった。
暗がりでベッドに横たわる上気した白い肌には紐のような傷が浮かんでいた。それは詢でさえ考え及ばぬ、沙綾と肌を重ねた千里人だけが知ることだ。千里人の心を抑えるものはなにもない。信号も、戒めてくれる姉も、助手席には詢もいない。携帯電話の呼び出し音は絶えた。ここは圏外。電波は届かない。ここで千里人は誰ともつながらない。そして翼はあった。翼のエンブレムを冠した車は、翼あるマテリアルフェアリーを胸に抱き、詢が呼び止めるのも聞かずに、望んで異界に足を踏み入れた。たとえ闇にかどわかされることになっても。千里人は神隠しに遭った沙綾を探しに行くのだから。
「…………!」
出会い頭にカーブのむこうから現れた影に、ステアリングを握った千里人の手は固まった。
そこは――道切り。
すべてがスローモーションのように流れる。
車のテールがどこまでも流れる。景色がまわる。雨に濡れた路面、水を吸ってたれた注連縄《しめなわ》、えぐれた樹皮、あるはずのない首の折れた地蔵……引越し会社の龍のマークがフロントウィンドウいっぱいに巨大な牙を剥き、フラッシュアウトした脳裏に、雨滴が血痕のように飛び散った――
マテリアルフェアリーは千里人を見ていた。
イリスを見ていた。翼はいざなう。樹谷《こだまだに》の道切りを越えて、樹葉が傘を差した渓流沿いの道を抜けて、人気のない集落にたどり着いたかと思うと、寂れた谷を横切ってさらに奥へ。人跡の絶えた山懐へと、めまぐるしく変わる景色のなかをイリスは飛んだ。
千里人はイリスを追った。
追い求めた。森を。明と暗が折り重なった深山の森を分ける隘路を抜けていく。世界は灰色だった。すべての色は消失していた。そして世界は現れては消えた。千里人はイリスの輝きだけを頼りに。
そこには鉛色の水を湛えた鏡があった。
水面は光を映す。
淵。
そこを見下ろす巖《いわ》に、娘が立っていた。沙綾のようでもあり、未歩のようでもあり、どちらにも瓜二つな晴れ着の娘だ。
ぐらり、と細い体が傾いだときには娘は巖《いわ》から身を投げていた。
イリスは娘とともに淵へと落ちた。
いいや――ぎょっとなって気づいたのは、いつの間にか娘の胸元が目の前にあり、娘とともに淵へと落ちていたことだった。
痣。
羽をもがれた鳥のように落ちながら着物の前をはだけた娘の白い肌に、赤い、そこだけは鮮やかに赤い、紐のような痣が浮かんでいた。
足先がそっと抜けるような、夢のなかで落ちたときの感覚がして、千里人はわれに返った。
目の前には杉の幹が立っていた。
一メートルも先は、川原へと落ちる崖だ。ミニクーパーはすんでの所で路肩に踏みとどまっていた。バックミラーを見るとトラックが止まっていた。龍のマーク。目の錯覚ではなく、あの引越し会社のトラックだった。青いツナギの作業員たちが車から降りて、ふたりはあわてた様相で荷台にまわり、ひとりがこちらにやってくる。
「…………」
今の夢――映像は、いったい……。
引越し会社の作業員が車の窓を叩いた。
千里人はドアを開けて外に出た。車の状態を確認する。……どこもぶつかっていない。濡れた路面にはブレーキの跡が黒く残っていた。千里人から見て右曲がりのカーブに、トラックは荷重からあきらかに外にふくらみながら突入し、スピードを出していたミニクーパーはカーブを曲がるために必然的にインに寄っていた。新しいカーブミラーはまだ設置されていなかった。ほとんど真正面に現れたトラックを左によれながら避けられたのは奇跡のように思えた。
「だいじょうぶですか……?」
引越し会社の作業員がやや蒼白になって尋ねた。こちらも、むこうも自分に過失があったという意識があるのだろう。叱責するような強い言葉は出なかった。トラックもどうやら大事にはなっていないようだ。では、今しがたのあの眼底に焼きついた映像はなんだったのか。
千里人はイリスとともに飛んでいた。空に浮かんだ翼あるマテリアルフェアリーと同じ速さで、同じ場所を。そんなことがあるはずがなかった。であれば夢。であれば幻。見通しの悪いカーブにさしかかり、出会い頭の衝突を避けようと無意識に急ブレーキを踏んだほんの数秒のあいだに、あれほど長い映像を見た。この道切りのある場所で、此方と彼方の境界で、それはまるで意識が刹那のあいだあちら側に旅したのかと――
「…………!」
ふとポケットに手をやったとき、千里人は違和感に身をふるわせた。
あわてて携帯電話を取り出すと、そこに、チェーンでつながっているはずのマテリアルフェアリーがいない。鎖は引きちぎれて、その先につなぎとめていたはずのイリスの姿がなかった。
「イリス!」
千里人は車に乗り込んだ。泥を跳ね上げてバックで道路に戻ると、呆然としている作業員を置き去りにしてアクセルを踏み込んだ。
消えてしまう。
消えてしまう前に。今の映像が、忘れるばかりの記憶から流されてしまう前に。記憶の道をたどる。渓流沿いの道を通り、樹谷《こだまだに》の集落を横切って、さらに奥へ。山懐へ。千里人は見えないイリスを追っていたのだ。なんてことだろう。幻は現実に重なっていく。そこにある景色は、初めての場所さえすでに刹那の夢に見たものだ。そこを通り抜けたとたんに、記憶はがらがらと崩れ落ちていった。それはムラを雪に閉ざす暗い冬の足音か。
止まることはできなかった。忘却という恐怖の足音は常に千里人の背中を追っていた。止まることはできない。忘れたくなければ走るしかない。舗装されたアスファルトは途絶えて、泥沼のような土くれの道に突っ込んだ。霧のような雨は降りしきる。ミニクーパーの挙動は水を吸った羽毛のように重い。
車を乗り捨てると、大切な車に鍵もかけず自分の足で走った。隘路を抜ける。明と暗の森の扉を開ける。忘却の奈落はすぐ背中にいた。卒塔婆《そとば》のようにまっすぐな樅はゴシックの大聖堂のようだ。自分の吐息だけが音だった。濡れた手で携帯電話を握った。メール。沙綾との最後の絆。しかしそれは絆というには脆《もろ》く、危うく、もはやそれを信じることさえ千里人はできなくなっていた。言葉は想いを乗せるだろう。言葉は想いを伝えるだろう。しかし、しかし携帯のむこうにいるのは沙綾なのか。ほんとうに沙綾なのか。メールなど、沙綾の携帯電話さえあれば誰であっても送れるのだ。たとえ沙綾がもう、千里人の携帯電話のむこうにはいなくても。神隠しに遭って、電波など届かぬ異界に取り隠されていても。
千里人は迷わなかった。イリスが風に焼きつけたひと筋の光の道をなぞる。どれほど山を走ったのかわからない。ぬかるんだ地面に足を取られながら藪を分けて進むと、突然、暗い森は色に破れた。鬱蒼とした針葉樹は鮮烈な広葉樹の森に変わった。
木々の命は輝いていた。秋の風に化学反応を起こした樹葉は燦々《さんさん》と燃えさかる。落葉。湿った、地面に敷き詰められた発光した落ち葉の臭い。真っ赤に焼けただれたひとひらの葉が頬を撫でたとき、千里人のふしぎな共感覚はふるえた。梅雨時に死んだ祖父の遺体にふれた臭い。幼いとき蛾の死体にふれて埋めたときの臭い。それは死の臭い。その臭いを、しかし千里人はきらいではない。忌避してはいない。死。それは異相である千里人により近しいものだ。
森の音が破れた。
滝が巖《いわ》を叩きながら落ち、雄々しくそそぐ流れを、淵は女陰のように受け止めていた。美しく紅葉した木々を映した水は鏡さながらで、鋭いほどに冴えわたり魚さえ棲めそうにない。
千里人はついに忘却をふり切った。
それは夢に見たままの景色だった。ただ一つ、巖の上に着物の娘だけがいない。
「イリス……!」
翼あるマテリアルフェアリーは淵の上に浮かんでいた。
そして、虹色に輝いた。
千里人の手の中で着信音がふるえる。携帯電話にメールが届く。なぜ……こんな山奥に電波が届くはずもない。
「――――」
そのとき千里人は思い出した。
虹色に輝くのは。イリスが七色に輝く光の、わけは……
なぜ、これまで気づかなかったのか。
そのときイリスは光を失い、ぷつりと糸が切れたように淵に落ちた。
幻のなかで見た晴れ着の少女のように、鏡の水面に波紋を起こして淵に沈むと、それきり浮かび上がってはこない。そして千里人もまた夢と同じ、イリスを追ってためらいなく淵に身を投げていた。水の冷たさも感じない。澄み切った水の、ざらりとした鉄錆のような、血の臭いに包まれて異界の淵に潜った。
そして千里人は、水底に沈んだ彼女の白い手を握った。