絶対少年 携帯小説版
序章 夕暮れ時の神隠し
――――の話を知ってる?
階段の最後の一段に足をかけると、沙綾(さあや)が振り返っていった。
肩の上でそろった古風なシルエットのボブヘアが夕冷えの風にさらわれる。ほっと和むような、素朴なほほえみに惹きつけられた。スカイブルーに錆色(さびいろ)の影が差した透明な空と、まだらの鱗雲を背にした彼女の輪郭を、斜陽があやふやに滲ませた。
「神隠し……?」
「夕暮れ時の、神隠し。子供のころ、夕方に隠れんぼうをして遊んじゃだめっていわれなかった?」
「……なぜ」
「神隠しにあって、どこかに攫(さら)われてしまうから」
沙綾は時折ふしぎなことをいう。
霊とか、占いとか、オカルトとかそんな幻妖のものが好きだった。彼女の見ている世界はよほど深く色鮮やかなのだろう。千里人(ちさと)の想像力はたいてい置いてけぼりになる。そんなときの彼女は無性にいとおしく、そばにつなぎとめておきたいと強く願わせた。
「それって、遅くまで外で遊んでないで、明るいうちに家に帰れってこと?」
「ん……それも一つの正解かな」
沙綾が手をさしのべた。
「…………」
「こんな話もあるよ……神社で隠れんぼうをしてはいけない」
彼女の白い手を握って――
それも子供が神社でいたずらをしないようにするための作り話かなと感じながら、沙綾の隣に立った。
そこには二車線の道路が通っていて、むこう側には鳥居が立っていた。
ちいさな神社がぽつんと住宅地の中に在った。
境内の木々は鬱蒼として、あたりの街路樹や庭木と比べて、もっと原始的な生命力で満ちていた。それは数百年も生きた樹木だけが根を張ることのできる、地中のとても深い部分から吸い上げられたエネルギーとも感じられた。
「だったら」
沙綾の頬をそっと撫でた。
肌のぬくもりが、強く香り、千里人の手を優しく包み込んだ。
甘く、澄んだ匂いは――
「…………」
「だったら夕暮れ時の神社は、もっと危ない」
ぷくっと肉厚のある彼女の唇に口づけた。
折れてしまいそうに細くデリケートな、まだ少女の形を残した沙綾の外見の中で、唇だけは、蜜を溜めた花弁のように成熟したジェンダーな匂いを漂わせていた。
「……そう。神隠しの定番」
軽いキスの余韻を胸に飲み込むようにして応じる。
互いの言葉はインクのようにしみこんでいく。沈黙にさえ意味はあった。その馨(かぐわ)しい情景の中で、ふたりはいつも、つがいだった。依って立つ限り、心の紙に活字を刻んでいく物語は永遠を感じさせた。
千里人は沙綾を求めている。
「家まで送る?」
沙綾のアパートはこのさきにある。神社を通り抜けていくと近道だった。
「ここでいい……講義さぼっちゃだめだよ。一緒に卒業できなくなっちゃう」
諭すように頭を撫でられた。そうしてふれられることで、沙綾の匂いは幾重にも鼻腔の襞を満たす。その感覚はおそらく自分だけのものだと――そのとき千里人は沙綾を独占できた。
千里人は首をすくめて、
「不吉なこというな」
「だって」
「沙綾の占い、よく当たるから……」
千里人は占いを信じやすいね、と沙綾が目尻を下げた。携帯サイトの占いで、よく今日の相性を診断するくらいだから、たぶんそうなのだろう。
「じゃあ、またね」
「また、明日」
また、明日、沙綾に会える。
それだけで次の日があることの意味は満たされた。
「……忘れてないよね」
「何日だっけ」
「十一月十一日」
蠍座のAB型。覚えやすいから忘れない。
「なにがもらえるか楽しみだなぁ」
「……いや、催促かよ」
「千里人がお祝いしてくれる初めての誕生日だから」
「ない頭ひねって、いいもの贈るよ」
サプライズを期待してるよ、と笑って答えながら、沙綾は小走りに道路を渡った。
むこう側につくと、もう一度だけふり返って手をふった。
「楽しみだから!」
彼女の後ろ姿が鳥居の下をくぐっていった。
そのとき、――スピードを上げて走ってきたトラックの、フロントガラスが西日を反射した。
眩しさに思わず目を閉じた。
トラックはカーブで大きく外側にふくらみ、路肩に立っていた千里人の驚くほど近くをかすめて、猛然と通り過ぎていった。
蛇――。
いや、龍だ。トラックの荷台に描かれたディフォルメされた東洋の龍が、燃える夕日のなかを流れるようによぎっていった。CMをたくさん流している大手の引っ越し会社のマークだ。
「……危ないな」
階段から落ちそうになりながら、焦げた臭いのする黒い排気ガスを吐き出して遠ざかっていくトラックを、むっと見送った。
ふり返る。
境内は無人だった。
そんなに長く、目を閉じていただろうか。
そんなに長く、乱暴運転のトラックを睨んでいただろうかと。神社に人影はなく、鳥居と対の狛犬、寂れた社祠、後は境内の木々の葉が、かさこそと騒ぐ音が聞こえるだけだった。
沙綾は――
「…………」
ささいな違和感はすぐに心の底に沈んだ。
家路につく。
肌にふれる風は季節の声を孕んで、一吹きごとに秋の彩度を増していく。
そして沙綾は、千里人の前からいなくなった。