泡坂妻夫
湖底のまつり
目 次
一章 紀《のり》 子《こ》
二章 晃《こう》 二《じ》
三章 粧《しよう》 子《こ》
四章 緋紗江《ひさえ》
終章
一章 紀《のり》 子《こ》
一
どのくらい、その樹《き》の下に立っていたのだろうか。
気が付くと、掌《て》の中に汗がにじみ出している。暑さのせいではない。樹の下を通る山間《やまあい》の風は、もう初冬の冷気があった。山道を登りつめたための汗なら、とっくに引いているはずだった。
道は狭い登りで、両側は痩《や》せた灌木《かんぼく》がまばらに並び、ところどころにアカマツや、ネズ、トチなどが、節《ふし》の多い枝を曲げて、積雪の多さを黙示している。その中でも、この樹の魁偉《かいい》な姿は、すぐ目に付いたのだ。
紀子《のりこ》はその樹に見覚えがあった。ふた抱えもあるヒノキで、著しい特徴は、梢《こずえ》がなくなっていることだった。いつの頃《ころ》か、雷にでも吹き飛ばされたのだろうが、幹の先は瘤《こぶ》のように固まり、失われた幹の下から、樹勢が太い枝をくの字に吹き出していた。現在、そのヒノキの幹には、藁《わら》が巻かれ、枝はすっかり剪定《せんてい》されて、わずかな葉を寒々と残すばかりだった。当然、以前の層累《そうるい》とした濃緑の面影《おもかげ》は失われていたが、紀子はその特異な大枝を見誤ることはなかった。
だが、この樹の立っている場所が、記憶とは全く違っているのだ。この樹の下に立ちつくし、小波《さざなみ》に似た恐怖が侵《しの》び入るのを感じながら、長い間時の経《た》つのを忘れていたのはそのためだった。ちぐはぐになった記憶と現実の風景とは、なかなかまとまりがつかなかった。
紀子の覚えではこうだ。
道はやがてつづら折れになり、山の尾根に出てから急な下りをたどって、渓間《たにま》に入る。険しく駈《か》け降りる山の斜面、青味がかった褐色《かつしよく》の岩肌《いわはだ》を背に、そのヒノキは立っていたのだ。葉の間からもれる高秋の陽《ひ》が、無数の真珠となって、道に散った。紀子は樹の傍に乱れた、ヤブデマリの群生が眼の底に残っている。
そのヒノキは道に倒れかかり、崩れた根元の土砂が道を半分ふさいでいた。地上に露《あら》わされた白い根が痛々しく目を刺した。前の月、台風がこの地を横切っているのを思い出した。まる一と月、倒れかかった樹と、ふさがれた道が放置されていたわけだ。荒れた土地だという印象は、この樹を見たとき、ひときわ深まった。
今、あの日の場所とは、全く違う風景の中に、あのときのヒノキが立っている。――それとも、全く違う樹木なのだろうか。
藁で包まれた樹の幹に、白い札が付けられているのを見付けた。――B131。あのときの樹にも番号札が付けられていたようにも思うが、番号の記憶は全くなかった。けれども、その番号札が、ある文字を想起させた。
ヒノキに近付いて、目の位置にある藁を指先で開いてみた。そして幹の肌に刻み込まれた二つの文字を見付けた。PとN。二つの文字は小さいが克明に彫られてあった。
――間違いはなかった。矢張りあのときのヒノキと同じ樹だったのである。とすれば、あのヒノキがここにある理由は一つだ。樹が自分で歩くのでない限り、誰かの手で、移植されたと考えなければならない。けれども、どうして元の場所でなく、かなり離れたこの地点でなければならなかったのだろう。
紀子は改めてあたりの景色《けしき》を見渡した。
違っているのだった。わずか、ふた月足らずの間に、この土地の風光は明らかに変貌《へんぼう》してしまった。際立《きわだ》った変化は、移植されたヒノキだったが、この樹を別にしても、崩れていた道の肩は修理され、雑草さえ目立って減っていた。胸まであったオヒシバやエノコログサも疎《まば》らで、総体に風通しよく、整理された感じだ。
こうした変容はかなり早い速度で進められているようだった。近いうちに、土地全体が別の姿にみづくろわれてしまう予感がした。それにもかかわらず、全く人影が見えないのが異常なことに思えた。その恐怖感が拡《ひろ》がるにつれ、見えない手は、自分一人に向けられていて、紀子がこの土地に抱《いだ》いているしたわしい想《おも》い出を、着実に夢の中の出来事と作り替えるために、わざわざ手の込んだ操作を続けているとさえ感じられるのだ。
紀子はヒノキの傍を離れ、掌《て》の汗を拭《ふ》いて、紺色《こんいろ》のトレーニングバッグを持ちなおした。漠然《ばくぜん》とした不安で、足取りは知らずに早くなった。そんな奇妙なことがあるわけはないと、自分に言い聞かせながら……
道がつづら折れにかかる手前で、再び立ち竦《すく》んだ。道端《みちばた》に置かれてある道祖神《どうそじん》が足を止めたのだ。
道祖神は自然石の前面に彫られたものである。抱き合った男女の像で、愛らしくしかも肉感的な姿体だった。男女とも同じように切れの長い目を閉じている。技術はつたないが、古雅といいたいような趣があった。この道の神を作った人は、自分の幸せを希《ねが》うためだったのだろうか。それとも幸せである感謝の心で?
そう、忘れてはいない。あのときもそう思ったのだ。この道祖神にも確かな見覚えがあった。しかし、ヒノキと同じように、道祖神の置かれてあった位置は、矢張り違っていた。しかも、道祖神は移動されたばかりでなく、綺麗《きれい》に苔《こけ》が取り除かれ、新しい雨除《あまよ》けの屋根まで作られている……
知らない何かが起っているようだった。その何かは予測することができなかった。
道がふた股《また》になっていた。ためらわず登りの道を選んだ。あのときもそうしたからだ。ふと傍道《わきみち》に目をやったとき、人影を見た。
真っ黒な後ろ姿だった。もつれた髪が肩にまでかかり、陽の強い日中、歩けば汗ばむ気候というのに、その男は裾《すそ》の摩《す》り切れた長いオーバーを着ていた。袖口《そでぐち》から出た指は、垢《あか》と脂《あぶら》で黒く光り、振り向けば髭《ひげ》むじゃな顔に、目だけが光っているはずだった。
男は左手でオーバーと同じように汚れた黒い袋を、道に引きずるように下げ、片方の手に白い物を握っていた。紀子が見ていると、男はゆっくり歩きながら、白い物を口に持って行くようだった。後ろ髪が小さく動いた。
――何かを食べている。
道祖神の前にこぼれていた飯粒を思い出した。あの男は供え物を食べているのだ。
――パーゾウは変っていない。
不思議にほっとした気持になった。パーゾウと呼ばれている男は、あのときも同じ姿で紀子の前に現われたのだ。呼び止めたい気持になったが声には出さなかった。その男は紀子の言葉に、一度も返事をしたことがなかった。パーゾウは黒い袋を下げたまま、紀子には気付かず、傍道の木の間に姿を消してしまった。
まさか、獅々吼峡《ししくきよう》まで変ってはいまい。いや、変るわけはない、と自分に言い聞かせた。紀子はいろいろな地名を忘れなかった。千字村《せんじむら》、場代川《ばだいがわ》、耳成《みみなり》神社、一銭岩《いつせんいわ》、重吉岩《じゆうきちいわ》、御来川《おんこいがわ》、粕山《かすやま》、五合山《ごごうやま》、叔父岳《おじがだけ》――そして、それを教えてくれた人は……
初めてそのヒノキを見たとき、幹に彫られたローマ字は、まだ新しかった。単なる思い付きにしては、刃《は》の痕《あと》が深く入念に過《すぎ》るようである。文字の位置から考えると、文字を残した人は、自分と同じくらいの背丈《せたけ》かと思われた。紀子は小柄ではなかったが、いつも、もう少し上背《うわぜい》があったらな、と思う。
すさんだ土地、という思いは、倒れかかったヒノキと出会ったからだけではなかった。それまでの道々、明らかに冬期の積雪のため、傷つき横倒しになったと思える樹木を見ている。そのいずれも、人の手が掛けられてはいなかった。肩が崩れたまま放却されている道も多く、雑草の繁《しげ》るにまかせた田畠も、数々目に止った。若者の手がない、というより、土地に対する愛情の希薄さを見るようだった。それとも他に怠慢の理由のあることとすれば、そのわけは大変気味の悪いものに思えた。紀子はこれまで、村人の姿を全く見かけなかったのだ。
身をかがめてヒノキの前を通り過ぎた。紀子は崩れた土砂に足を取られた。だが、このような荒涼とした風景は、必ずしも悪いものではなかった。
紀子の生活している世界は、あまりにも人工的だった。真四角なビル、透明なガラス、スチールの机、タイムレコーダー、時刻表、タイプの音、ビニール製の造花、お世辞笑い、きまり文句……算《かぞ》えたてればたてるほど、神経が人工物質に突きささって、悲鳴をあげた。その背後から、抱き竦《すく》めた男があった。田浦高志《たうらたかし》と言い、満員の通勤列車と即席食品とで鍛えられた男だった。田浦は一方的に紀子の身体《からだ》を汚辱《おじよく》し、紀子の心を攪拌《かくはん》した。紀子の均衡《きんこう》が保ち難くなった。眠られぬ夜が続き、うとうとすると、幻覚に似た夢を見るようにさえなった。
すぐにも必要なものは、雨のしみ入る大地、木の葉を通り抜ける風、柱の丸くなった茅葺《かやぶき》の家だった。地図が見落した曲った山道、時刻表どおりに動かない汽車、予約を必要としない宿にあこがれた。紀子は古い地図一枚を頼ることにし、目的のありすぎる旅のために、わざわざ行きずりの汽車に身をまかせた。
観光、名勝の地は、身震いして避けて通った。そのため、盛岡《もりおか》から田沢湖線《たざわこせん》に乗りついだときにも、田沢湖を見るわけではなかった。古ぼけた駅舎が気に入ったので夏瀬《なつせ》で降り、玉助《たますけ》温泉に投宿した。夏瀬から温泉まで、山間《やまあい》をバスで三時間の道のりである。温泉は秘境めいた離落の中にあった。客の全《すべ》ては近在の村人だった。紀子はその娘たちと同じように、戸外の岩風呂《いわぶろ》につかって、土地の言葉を聞いた。異性の前に裸身を曝《さら》すことにも無関心でいることができた。宿泊の人はそれを当然の習わしにしていることが判《わか》ったからだ。
玉助温泉には、朧《おぼろ》にも似たような心になって、三、四日を過した。古い地図を見ていると、温泉から更に奥まったところに、小さな渓流《けいりゆう》があるようだった。地図には獅々吼峡とだけあり、川の名も印されていなかった。名のない川というだけで、気が傾いた。翌朝、弁当を作ってもらい、行く先を告げずに宿を出た。それが成功するだろうという気がした。先入観だの期待だのの持ち合わせさえなければ、出会うのが例え平凡な谷川であるにしろ、草や石ころからでも、新鮮な驚きを受けるはずだった。
退屈な山道だったが、身体の重みを柔かく受けてくれる大地があることだけでよかった。二時間も歩くと、道はつづら折れになり、山の尾根に出たところで、道祖神を見付けた。無心に抱擁《ほうよう》した男女の姿が、おおらかで目のうるむほど羨《うらや》ましく、力の抜けるほどの親しみを感じた。石は苔に包まれ、久しく手を合わす人もいないようだった。紀子は道の神の前に、チョコレートの一とかけを置いた。
道はますます狭まり、岩の間をかなり急な傾斜をもって落ち込んでいた。倒れかかったヒノキを見たときでも、あらかじめ人に教えられていたものなら、小さな記憶として残ったに過ぎなかっただろう。その幹に二つの文字を見たにしても、少しだけ忘却が長びいたに過ぎなかったろう。
身をかがめてヒノキの傍を通り抜けたとき、ヤブデマリの群生を見付けた。
学生の頃、習ったことはあるが、実際の花を見るのは初めてだった。美しいけれども、種子を作ることのない装飾花。ただ花であるための花に強く心を引かれ、不思議なあでやかさに打たれて、しばらく目を見張っていた。
樹の間から、細く光る川を見た。当然、渓流に行き当るはずだとは思いながら、おかしいほど興奮していた。道はほとんどなくなり、岩場伝いに谷間を降りた。最後に濃い石板色の岩を曲ると、いきなり流れが現われた。
水際の砂利の上に立って、渓流を見渡した。川幅は十四、五メートルで比較的穏やかな水流だった。水は青く透《す》き通り、手を入れると、氷のように指を噛《か》んだ。
地図で見たとおりの、小さな峡谷らしかったが、この風物で目に立ったのは、立っている場所から五十メートルほど下流に屹立《きつりつ》している、巨大な岩石だった。青味がかった褐色の肌で、鏡面のような面が、幾何学的に組み合い、百メートルにも及ぶかと思われる高さで、水際に聳《そび》えているのだ。渓流はその岩に当って、激しく右側に屈曲しているようだった。
対岸の岩場は、やや視界が開け茶色の岩石が砕け散って見える。岩肌に新しく削られた跡が見え、前から抱いていた、矢張り荒廃している、という印象に重なった。
目の前の流れの中に、四角い灰皿のような形をした岩があった。河床の岩伝いに、たやすくその岩の上にたどり着けそうだった。流れに足を漬《ひた》したい心もわいて、靴《くつ》と靴下を脱ぎ、ジーンズの裾を深く折り返した。一、二度身体の均衡を崩しかけたが、服まで水にすることはなかった。紀子は水の冷たさを全身に伝わらせながら、岩の上に着いた。
ちょっとした冒険に満足だった。岩の上にバッグと靴を投げ出して足を伸ばした。今まで秋の日差しを一杯に浴びていたのだろう。岩肌は温かった。
渓流の中に坐《すわ》って見ると、川上の空は深いV字型に狭まって、灰色の霧で両側の山が烟《けむ》っている。渓谷の流れはむしろ繊細《せんさい》だが、遠く環囲する山勢は、野性的な豪放さがあった。
しばらく水の音の中にいた。すると、何度か太鼓の音を聞いたような気がした。その音は川下に聳《そび》えている大きな岩の後から風に乗って来るように思われる。だが聴覚を集中させると、その音はすぐに掻《か》き消されてしまうのだ。視線を集中させるとかえって小さな星などは見えにくい。紀子はそう教えられて、視線を外《はず》して星を見たことがあった。聴覚ではどうだろうか。身体の向きを変えて、上流に目を移した。山の間から黒い雲が出ている。いつの間にか日は陰っていたが、急に雨の降る気配はなさそうだった。そのとき、遠くの山肌に、白い糸のような滝を見付けた。今までその滝に気付かなかったのが、不思議なくらいだった。ふいに滝が現われたことにしよう、と紀子は思った。その方がよほど面白い。
今度は確実に太鼓の音がした。あわてて岩の方を見ると、その音は流れに消えてしまった。紀子は独りで苦笑した。傍の流れに目を移したとき、川底に小さく光る物を見た。珍しい石でもあるのだろうか。腕を伸して拾い上げると、ドーナッツ型をした大きなワッシャーだった。鉄はまだ新しく銀色の光を放っている。よく見ると、ワッシャーはまだ川底に散っていた。
ふと眼鏡《めがね》を連想した。更に眼鏡から田浦高志の顔を思い出した。人工的な機器の一部は、神経を逆撫《さかな》でたりはしなかったが、田浦のことを思い出したことが我慢ならなかった。あの男がまだ心のどこかにいて、ときどき顔を出すことが口惜しかった。
田浦が転勤する前の夜だった。送別会に出席した紀子は、少し酔っていた。しかも、田浦に対してはあまりにも無防備だった。
――君に渡したい物があるんだ。ちょっと家まで寄ってみてくれないか。
そんな言葉にも、少しの疑いも起こらなかった。田浦の家は古く暗かった。
――お母さん、お客さんですよ。
田浦は暗い奥に向って言った。あとで考えると、それも拙劣な芝居だった。それでも紀子は阿呆《あほう》のように鈍感だった。
田浦は電燈をつけ、紀子を奥に通した。部屋に入ったとたん、田浦は獣に変った。唐突のことで、とっさに田浦の本意を理解しかねた。むろん、男の痴行を静めるてだてを知らなかった。
紀子は強力な力で口を吸われた。髭《ひげ》が痛く不快だった。
――どうしても、君が好きだったんだ。これまで、言えなかった。
田浦は愚かしく哀訴した。軽蔑《けいべつ》を混えた拒絶にあうと、ただ一つだけ残っていた人間らしい惨《みじ》めささえかなぐり捨てた。田浦はあらあらしく紀子の衣服を剥《は》ぎ取り、ねじ切るばかりに乳房をつかんだ。酒と煙草《たばこ》の臭《にお》いの中で、紀子は何度も嘔気《はきけ》を催した。立て続けに田浦の顔を叩《たた》いたが、男は魯鈍《ろどん》のように怯《ひる》まなかった。眼鏡が飛び、目をしょぼつかせた顔は、ことさら醜怪だった。田浦は顔を歪《ゆが》ませたまま、しゃにむに紀子の身体に押し入って来て、すぐに力を失った。初めての経験だった。激しい痛みと不快だけが残り、ただ泣けてきた。
――こんなって、ある?
身体が腐草にも似た臭味のある体液と、おびただしい男の膏汗《あぶらあせ》にまみれていた。
――初めはみんな、こんなものだ。
田浦の言葉は紀子を激怒させた。
翌日から一週間、会社を休んだ。田浦の臭いが会社から消えた頃を見計って、出社した。田浦は転勤先から、しげしげと電話を掛けてきたが、ついに一と言も口をきかなかった。何通も手紙が来たが、手に触ることもせず、ちり紙に包んで焼き捨てた。
なんでもないワッシャーから、どうして田浦など連想したのだろう。紀子は岩の上に立ち上って、思い切り遠くヘワッシャーを投げ捨てた。ワッシャーは流れの白い泡《あわ》の中に消えた。
いつの間にか、水勢が変化しているのに気が付いた。川の水量が増し、流れが激しくなって、水面全体に白い泡が湧《わ》き立っていた。水の色が変り、黄ばんだ濁りが見えた。急いで荷物をまとめて立ち上ると、紀子のいる四角い岩が、ほとんど水没しそうになっていた。
信じられない勢いで、川上の峡間《はざま》から霧が吹き出し、両岸の山の影を覆い始めた。意外な気候の変化だった。
あたりを見て、覚悟を決めた。もと来た岩伝いで、濡《ぬ》れることさえ厭《いと》わなかったら、岸に戻《もど》ることが出来るだろう。もし、足を取られたにしても、泳ぎには多少の自信はあった。強い渓流を渡ったことはなかったが、岸までの十メートルぐらいなら、流され続けることもないだろう。ほとんど手の届きそうな距離だ。
すぐにでも戻れそうだと思った予測は甘すぎた。突然、川が大きくふくらむのを感じた。次の瞬間、紀子はいっぺんに岩から浮き上った。
――呑《の》まれた。
と、思ったときは、もう遅かった。いきなり、氷の中に叩き込まれた感じで、全身が冷たさに痺《しび》れ、手足の自由を失った。凄《すご》い勢いで流されているのが判る。強い水圧で、鼻から口から水が侵入する。これでは駄目《だめ》だと思い、夢中で手足を動かしたが、身体は容易に浮かなかった。深い淵《ふち》に流されているのだろう、足を伸しても川床には着かず、かえって水中に引き込まれてゆく感じだ。ふと川下に立ちはだかって、流れを蹴返《けかえ》していた巨大な岩壁が頭をかすめた。
――もし、あの岩に叩きつけられたら?
ふと死の影が傍に立ち寄るのを感じた。だが、不思議に恐怖感はともなわなかった。
そのとき、腕に何かがからみ付いたようだった。判らないまま、夢中でそれをつかんでいた。同時に、誰かが叫んでいるような声を聞いた。
腕の中の物が、ロープだと判ったときでもまだ、助かった、とは思わなかった。
強い重みが両腕にかかった。水流が身体をロープから引き剥《はが》そうとするからだった。ロープは水の流れとは逆の方向に引き寄せられている。何度か水を飲み、やっと首が水の上に出たときも、すぐには息がつけなかった。ロープをたぐろうと焦《あせ》るのだが、指が動かない。その間にも、ロープは少しずつ、確実に引かれている。
足が川床に着いたが、膝《ひざ》に力が入らなかった。流れに足を取られると、そのまましゃがみ込んだ。
岸の上にロープをにぎっている人影を見た。その人影はひどく頼もしい姿に思えた。頑張《がんば》らなければ駄目だと思い、力をふりしぼって立ち上った。半ば放心していた。紀子は相手の傍に駆け寄って、胸の中に倒れ込んだ。
――早く気が付いて、よかった。
その人の言葉を初めて聞いた。少し錆《さ》びのある、張りのきいた声だった。
――有難う。本当に……
若い顔が目の前にあった。強い第一印象を受けた。たった今、死に直面していたことすら忘れるほど、その印象は激しかった。それまで、この人のように澄んだ眸《ひとみ》に見られたことはなかったのだ。鼻筋が細く、唇《くちびる》が赤い。健康に陽焼《ひや》けした肌で、人柄が優しい空気に包容されているようだった。そのとき放心状態であったにしろ、素直に相手の胸に飛び込むことが出来たのは、抵抗を感じない雰囲気《ふんいき》のせいだろう。だが、相手の着ているジャンパーの皮の臭いを知って、見知らぬ人に飛び付いている自分に気付いた。
――ごめんなさい。無我夢中だったの。
あわてて、身を離した。
――いいんだ。こんなときだったら、僕だって、きっとそうするさ。
狼狽《ろうばい》を見て笑った。妖《あや》しさをさえ感じさせる笑顔《えがお》だった。
その人は手を取った。紀子の指は、まだ固くロープを握ったままだ。放せないでいるのに気付くと、指を一本一本伸して、ロープを放し、まだ硬直している手を押えて、静かに揉《も》みほぐした。細く長い、温い手だ。
――ごらん。
手を挟《はさ》んだまま、目を川の方に向けた。
信じられない光景があった。ついさっきまで、青く澄み、穏やかな流れのはずだった渓流が、すでに無数の白い牙《きば》を噛み立てる茶色の濁流と化して、轟音《ごうおん》とともに飛瀑《ひばく》を吹き上げていた。目の前に、根を空に向けた流木が岩に堰止《せきと》められ、引き裂かれた枝が流れ去るのを見た。今淀《よど》んだと思われる淵には泡の渦が巻きあがった。
紀子は相手の手を握りしめた。
――五合山に仙人滝がかかったので危いと思った。
と、その人は言った。
――仙人滝……川の上流に見えた滝?
すでに濃い霧が立ち籠《こ》め、その滝のかかっていた山すら見えなくなっていた。
――仙人滝は、上流に集中豪雨のあったときにだけ現われるんだ。この水勢が平常に戻れば、あの滝は消えてしまう。
――岩の上にいた私を見ていた?
――呼んだんだよ。でも、聞えなかったらしい。あの岩は、一銭岩という。
――わたし、他《ほか》のことに気を取られていたようだったわ。
やさしいが透《すか》すような視線を感じた。田浦のことが頭を占めていたのだ。紀子は心を見られるようで、言い訳する気になった。
――太鼓の音が聞えたと思ったの。
――太鼓の音? ああ、明日はおまけさん祭なんだ。
――おまけさん……それ、お祭?
――そう。でも、そんなことはあとで教えよう。怪我《けが》はなかった?
――怪我……
そう言われて、初めて我に返った。まだ、全身から水が流れていた。
――有難う。どこにも怪我はないわ。
改めて、鏡のような岩壁に激突している奔流《ほんりゆう》に、慄然《りつぜん》とした。その岩は目の前にあった。
――凄いでしょう。あれが、重吉岩。
――あなたがいなかったら……わたし駄目だったわね。
――そんなことはないさ。あなたは泳ぎが出来るでしょう。ロープがなくとも、ほとんど浮きあがってきた。
あのときの状態は、もう思い出せなかった。
――寒くない?
言われて、寒さが一度に襲った。自分の歯はさっきからがちがち鳴っていたし、唇も紫になっているに違いない。
――靴を流してしまったね。
と、岩を踏んでいる紀子の素足を見た。靴は無論、鞄《かばん》も手を放れてしまったのだ。
――僕のを貸そう。
その人は手早く自分の靴を脱いで、紀子の前に並べた。黒の短靴で、紀子の足には大きかったが、心|遣《づか》いがひどく嬉《うれ》しかった。右の踵《かかと》に大きな傷が付いている靴だ。鋭い物でも踏んだのだろうか。
――とに角、家へいらっしゃい。すぐ近くだ。車がある。
言われて、初めて車が置いてあるのに気が付いた。
真新しいスポーツカーである。ロープの端がバンパーに結び付けられてあった。ほとんど白に近いグレーの美しい車体が、黒い岩肌を背に、幻を見るように浮き立って見えた。
その人はロープを車のトランクに入れると、ドアを開けた。中に入ると、後ろ座席からタオルを取って、紀子に手渡した。
車の中はきちんと整理され、かすかに香水の匂《にお》いさえ漂《ただよ》っている。シートに肌触りのよい杉綾織《すぎあやお》りのファブリックが使われていた。ドアの内張りも同じ材質だ。フロントガラスに、小さな木彫りの人形がぶら下っている。胸と腰が突き出た黒い裸像だった。紀子は車の濡れるのを気にしながら、髪を拭《ふ》いた。
その人は紀子の隣に腰を下ろして、ちょっと髪を掻《か》き上げてからハンドルを握った。柔かそうな髪の下から透き通るような耳が覗《のぞ》いた。横顔に少年のような初々《ういうい》しさが残っている。
道は迂回《うかい》して、重吉岩の後ろを通ると、登りになった。一本の小道が別れ、黒い樹木の間から、灰色に朽《く》ちかかった大きな鳥居が見えた。
――神社ね。
と、紀子が言った。一銭岩の上で聞いた太鼓の音がまだ耳に残っている。
――耳成神社。
鳥居は霧の中に遠ざかった。
――今のが一の鳥居。鳥居をくぐると長い石段があって、登り切ると重吉岩の中腹でね、そこに古い社殿が建っている。割に大きな神社なんだけれど、今は神主さんもいなくなった。祭になると、村の誰かが、神主さんの役を受け持つんですよ。その人をたゆうさんと言います。
――もとは栄えていた土地なの?
――栄えていたって言うと大袈裟《おおげさ》だけれど、今みたいな過疎地じゃなかったことは確かでしょう。
倒れかかったままになっていた樹木を思い出した。きっと若い人たちが、極度に少なくなっている土地なのだ。
――僕みたいな人間が多くてね。
その人は笑いもせずに言った。
二
――あなたは、土地の人?
ヘッドライトがついて、灰色の道を照らした。霧が横に流れ、あたりは暗さを増していた。
――そう。
短い答の前に、少しの間があった。
――でも、訛《なま》りがないわ。
――永いこと東京にいた。名前ははにだこうじ。埴輪《はにわ》の埴に田圃《たんぼ》の田。晃は日の下に光という字で数字の二。
――埴田さんね。
――晃二さん、と呼ばれた方がいいんだがな。
――判ったわ、晃二さん。私は香島《かじま》紀子。
――紀子さん、でいいね。
――晃二さんは、お祭で帰って来たの?
――そう。明日の祭には、大切な役をしなけりゃならない。
――たゆうさんになるわけ?
――まさか。たゆうさんはもっと年配の人じゃなけりゃ……
車が大きく揺れた。石を乗り越したようだった。道は舗装されていないが、意外な道幅がある。紀子は道の広さに、なにか不釣合《ふつりあ》いなものを感じた。
――この道は、新しく出来た道なの?
と、紀子は訊《き》いた。
――そう。紀子さんはこの道を来たんじゃないの?
――違うわ。もっと狭い道だった。玉助温泉から歩いて来たの。山の尾根に、道祖神があったわ。
――玉助温泉からじゃ大変だ。物好きな人もいるもんだな。あなたは粕山《かすやま》の尾根を越えて来たんです。
――粕山……
――村長なんかは粕という響きを嫌《いや》がっていてね、文書などには春日山《かすがやま》と変えているらしいけれど、誰も春日山などとは言わない。粕山でなけりゃ通じない。
晃二は車を細い道に乗り入れた。タイヤが草を踏む音が続く。霧の中から、ライトに照らされた樹木が、次々と現われる。道の突き当りで晃二は車を止め、ドアを開けた。
――汚いですよ。でも、外にいるよりはいい。
汚いと言うとおり、傾きかかった家だった。農家造りで、茅葺の屋根が半分崩れかかっている。家の周《まわ》りには胸まであるヨモギがおい茂り、黒く錆び付いた井戸のポンプが見えた。
ふいに板戸ががたがた鳴り、戸が斜めに開くと、黒い人影が飛び出してきた。髭が伸び放題の、黒いオーバーを着た男だ。紀子が思わず身を退くと、男はじろりと二人を見ただけで車の傍を通り抜けようとした。
――パーゾウ。
と、晃二が呼び止めた。晃二は車の中から、煙草の箱を取って、男に投げ与えた。男は煙草を無器用に受け取ると相手の顔を見ていたが、何を思ったのか、煙草を捨てて霧の中に姿を消してしまった。
――誰? 晃二さんの家の人?
――違う。パーゾウと言う乞食《こじき》だ。
――乞食? でも、どうして煙草を捨てたのかしら。
――あれで気むずかしくてね。でも大丈夫、人の物など盗《と》りやしない。土間で寝ていただけだろう。
晃二はパーゾウの開けた戸から家の中に入った。すぐ電燈がつけられ、橙色《だいだいいろ》の光が家の中から洩《も》れた。
――早く入りなさい。霧が入るから。
――晃二さん、一人なの?
紀子はこわごわ家の中を覗いた。
――一人じゃ、困る?
それにしても、濡《ぬ》れて肌に吸い付いている衣服に我慢が出来なかった。覚悟をきめて家に入り、建てつけの悪い板戸を閉めた。
土間には錆びた農具やかまどが埃《ほこり》をかぶっている。それとは対照的にプロパンガスのボンベと、湯沸器《ゆわかしき》が真新しく光っていた。晃二は湯沸器に火を付けた。
――ガスが残っていてよかった。すぐ湯が沸きますよ。濡れた物はここに入れなさい。
言いながら、古い竹の籠《かご》を紀子の前に置き、土間に続く風呂場の戸を開けた。
風呂場は快適とは言い難かった。木の丸い湯船は真っ黒でぬるぬるし、長く使われていないとみえて、おりが湯の上に一面に浮きあがり、水漏れもひどい。だが、絶え間なく、熱い湯を送りこんでくれるので、紀子は冷え切った身体を温めるうち、人心地《ひとごこち》を取り戻していった。
湯船から出ると、肌が血の色に染っていた。紀子はしばらく立ったまま、ほてった身体を空気に晒《さら》した。
――晃二に見られているかも知れない。
ふと、そんなことを考えた。風呂場の戸は曲っていて、建て付けが悪かったし、腰板には隙間《すきま》ができている。だが、その想像はどういうわけか不快ではなかった。
そのとき風呂場のガラス戸の音がして、茶色になった曇りガラスの向うに、晃二の姿が映った。不快ではないと思ったものの、正面から見られれば、矢張り困った。
――あら、だめよ。
言おうとしたとき、細目に開いた戸の隙間から、赤い衣にくるまれた物が差し込まれ、濡れた衣服を入れた籠が引き出されると、戸が閉まった。赤い衣は真新しいガウンで、中に女物の下着まで包まれていた。
中央の部屋は板敷で、囲炉裏が切ってある。ほとんど家具のないがらんとした部屋で、薄く埃も積っているようだった。その隣の六畳の部屋に、晃二がいた。紀子の姿を見ると、棒立ちになった。
――有難う。お蔭《かげ》で生き返りました。
紀子は丁寧に礼を言った。
――本当に生き返った……
困るくらい、晃二の視線は熱っぽくなっていた。
紀子は赤がよく似合うのだ。湯で肌の色艶《いろつや》が増し、赤いガウンをまとった姿を見て、晃二が言葉を失うのも不思議はなかった。
その部屋は六畳敷だったが、畳の表は摩り切れ、床の弾力がなくなっている。古い茶箪笥《ちやだんす》が一つ置いてあるだけだし、その部屋も他の部屋と同じで、異様なほど品物が見当らなかった。二か所ばかり、部屋の隅《すみ》の畳が四角い跡を残しているのは、そこに置かれてあった品が持ち去られたためだと思われた。
部屋は暑かった。ガスストーブがたかれ、部屋に張られたロープに、濡れた衣服が掛けられていて、衣服からはもう白い湯気が立ち上り始めている。
晃二は珈琲《コーヒー》を入れているところだった。珈琲カップはなく、縁《ふち》の欠けた茶碗《ちやわん》が二つ、畳の上に並べられていた。だが、茶碗などより、珈琲の匂いが、たまらなく嬉しい。珈琲の熱さに、相手の細かい配慮が感じられた。今までこれほど味のよい珈琲は飲んだことがなかった。
気が付くと、ストーブの前に、ウインドブレーカーのポケットに入れて置いた身分証明書、定期券、地図、紙幣、ノートなどが拡げられていた。定期券などのインクは泣きだしていた。
――僕と、同じ年だ。
と、晃二は言った。
――すっかり、見られてしまったわね。
――定期だけ。嫌《いや》でも目に付いたんだもの。ノートは見なかったよ。
そのノートは板のようになったまま、畳の上で湯気を出していた。
――でも、その地図だから、今来た道は出ていないんだ。
――私、古い地図が好きだったの。判らないかしら。
――判る。僕も都会に住んでいたから。紀子さんは都会病の軽いやつなんだね。
――自分では重症だと思っているわ。
――でも、その顔色じゃ、すっかり治っているようだなあ。玉助温泉から歩いて粕山を越えたとき病気が大分落ちて、千字川では完全に流れてしまったでしょう。
――あの川、千字川と言うの?
――そう、この村と同じ名前。この村は千字村。
――地図には、獅々吼峡となっていたわ。わたしには獅々吼峡と言われるようになったわけが、判るような気がする。
――その名を付けた人も、流されかかったのかなあ。でも、昔は四宿谷《ししゆくだに》という名だったらしい。ここいら辺の天候は変化が激しくてね。雨量も多い。千字川付近は、いっけん穏やかな渓流だけれど、突然増水して、今のように恐《こわ》い顔をすることがある。
――重吉岩というのも、なにか謂《い》われがありそうね。
――そう。昔、このあたりは、よく川が氾濫《はんらん》したらしい。それで江戸時代に重吉という人が、川の流れを変えて、あの岩に水流をぶつけるようにした。岩に当った流れは、水勢が弱まって、それ以来下流にひどい洪水《こうずい》はなくなったというんです。
――そう言えば、重吉岩のところで、川が右に大きく曲っていたわね。
――千字川はもっと先で、場代川と合流するんです。川幅はもっと広くなって、それから下流は御来川《おんこいがわ》と名が変る。御来川なら地図に載っているでしょう。
――さあ、覚えがないけれど。
ストーブの前に置いてあるノートの表紙が、熱でまくれ上ってきた。晃二はノートを取ろうとした。
――だめよ。
指がからんだ。紀子はノートを取り戻して、胸に抱いた。
――何が書いてあるの?
――何も。
読まれて困ることが書いてあるわけではない。だが、紀子は自分の心を読まれるような気がしたのだ。
――それよりも、このガウンと下着は誰のもの? 奥さんのもの?
下着は洗濯《せんたく》されて清潔だったが、新しいものではなかった。
――違うよ。僕に奥さんなんかいない。
確かに部屋の中には、夫婦の使用しそうな道具類は、一つも見当らない。
――じゃあ、誰のもの? 私より大きい人らしいわね。
――気になる?
――なるわ。恋人のもの?
――そう、恋人の下着。それは、紀子さんのガウン……
晃二はじっと紀子を見て言った。その視線は、胸を突くほど真剣だった。紀子は軽いとまどいを感じ、茶碗を手にした。
――珈琲をもう一杯欲しいわ。
――お腹《なか》も空《す》いたでしょう。車から食べ物を持って来よう。
晃二は立ち上って外に出て行った。しばらくすると、両腕に紙包を抱えて来た。
――外はすっかり霧になった。雨も混ってきたから、当分、晴れそうにもない。
晃二は紀子の前にサンドイッチや牛乳や果物《くだもの》を並べた。
――でも、心配することはないよ。毛布もあるし、一と晩ぐらいなら、僕が車の中で寝てもいい。旅程は定っている?
――別に……気ままな旅にしたの。
晃二は一本の瓶《びん》を取り出した。面白いラベルだった。ラベルの中央にその瓶が印刷され、その瓶のラベルには同じようにその瓶がある。
――デュボネの赤ブドウ酒。珈琲より身体が温まるよ。
晃二は二つの紙コップにブドウ酒を注《つ》いだ。ブドウ酒は甘く、あとに柔かい渋みが残った。
小さなバスケットを開くと、綺麗にサンドイッチが並んでいた。口に入れた紀子はその風味に驚いた。野菜に添えられたドレッシングの味は本物だった。
――これ、誰が作ったの?
ふと、晃二の後ろに、女性の影を感じた。よく見ると、パンの切り方も機械ではなく、鋭い刃物で丁寧に切り揃《そろ》えてあるのだ。
――僕さ。
晃二は笑って答えた。
――でも驚いたなあ。君は味覚に鋭いんだね。
晃二は立ち上って、ロープに掛けてある紀子のセーターを裏返そうとした。
――私が、します。
紀子は立ち上った。だが晃二はセーターを放さなかった。晃二は乾きかけたセーターに顔を理めた。
――君は、バニラの匂いがする……
――晃二さん、嫌よ。
紀子は当惑した。肌を見られたようなむずがゆさと、軽い羞《はずか》しさとで、セーターを取り戻そうとした。
晃二はその手を握って引き寄せた。強い腕ではなかった。相手の力はむしろ柔かいほどだが、無理に振り切る気にはなれない強さがこめられていた。ふわっとした感じで、ごく自然に胸の中に包まれた。
紀子は目の奥を凝視《ぎようし》した。清らかな液の中に、漆黒《しつこく》の眸子《ぼうし》が浮いて、自分の顔がその眸《ひとみ》の中にはまりこんでいる。美しい球形は、これが人体の一部であるとは思えない。晃二はみつめたまま、背に腕を伸した。
――君の肌は綺麗だね。
紀子はその言葉を耳もとで聞いた。その声が、音楽のように快く耳に響いた。相手の眸の中に自分を見てから、不思議なことに、晃二に男を感じなくなっている。そればかりでなく、晃二の人格すら希薄に思えて、鏡の中にいる自分と向き合っているような情緒《じようちよ》さえ感じられた。
――でも、それは……
鏡の中の自分がすいと近寄り、視界がにじんだとき、唇を合わせられていた。軽く押す唇は柔かかった。紀子は花に包まれるように、相手の胸の中にあった。静かに分け入ってきた舌は、まだデュボネの味が残っていた。ふいのことで、心を取り繕《つくろ》おうとする間に、相手はちょっと唇を放した。だが鼻はまだ触れ合ったままだった。
――ひと目で、君が好きになってしまったみたいだ。君が、美しすぎるんだ……
と、晃二は言った。けれども、その意味を理解しなかった。ただ魅力に富む唇の動きを見ていただけだった。そして目を閉じた。
今度は大胆に舌をからませてくる。たちまち、柔軟な触覚だけの世界になった。君が美しい、君が好きだ、と肉感的に舌がまつわった。どう応答していいか判らず、ただ相手の動きに、そっと従うだけだった。そうすると、心の中に獅々吼峡の風景が、いつの間にか広がっていた。その眺望《ちようぼう》があのときの心を静めたように、晃二の愛撫《あいぶ》が田浦高志との厭《いと》わしい思い出を、みるみる拭《ふ》き消してくれるようだった。紀子は鼓動のたかまりを聞いた。身体に熱い血が駈けはじめる。バッカスの酒、ブドウ酒の酔いも、心をほぐしかかっているようだ。初めて味わうなまめかしい酔いと、未知の情感に吸い寄せられようとしている自分が、ふと恐くなった。
――もう、いいでしょ。
息苦しさを感じて、唇を放した。晃二は逆わなかった。いつの間にか、全身の力がなくなっている。畳の上に崩れると、相手も傍《そば》に腰を下ろした。
――いきなり……ごめん。
紀子は黙って中腰になり、ストーブの前に乾かしてあった定期券や身分証明書を一つに集めた。
――さっき助けたから、君が許すだろうと思ったわけじゃない。
紙類をまとめると、晃二の傍に身体を戻した。
――私だって、恩返しだと思って、じっとしていたわけじゃないの。
晃二は手を伸ばして、紀子の髪を撫《な》ぜた。髪はまだ濡れている。髪を掻《か》き上げて耳を露《あら》わにすると、耳の裏側から背中にかかる生え際を指が滑った。紀子を後ろから抱くようにして、自分の耳を相手の耳に合わせた。
――何か、聞えるの?
と、紀子が訊いた。
――千字川の、せせらぎ。
と、一句ずつ区切るように言った。しばらくじっとしていたが、また唇を合わせ、紀子の視界を奪いながら、ガウンの間から手を滑り込ませた。紀子が身体を固くすると、
――静かに……渓流の淵《ふち》の音が聞えてきそう。
と言いながら、胸に掌を押し当てた。
――淵の響きは、小鳩《こばと》の胸みたいな音がしている。僕の渦潮《うずしお》も早くなる。
押し当てた手で乳房を包むと、静かに動かした。されるままでいるうち、指はハープの弦を渡るようなしなやかさで肌着の下に滑り込み、直接に乳房を慰撫《いぶ》しはじめる。
――君の乳は、美しい形をしているね。
紀子は晃二の愛撫に翻弄《ほんろう》されかかっていた。柔かな刺戟《しげき》は、甘い痺《しび》れをともなって、もう全身に伝い、抵抗を奪い去られていた。思わず身をよじると、
――苦しい?
晃二は手の動きを止めた。
――いえ。
溜《た》め息が思わず言葉になって出てしまう。それが、抱擁を続けてほしい意味に聞えたかも知れない、と思うとかっとして、顔が赤くなるのが判った。
ごく自然に、晃二の手は、胸からそのまま下に移ろうとしている。軽い触覚だったが、肌が強く感受し、反射的に下肢《かし》を閉ざした。
――岩に当る渓流の音が聞きたい……
ささやきが、呪文《じゆもん》のように聞える。無意識のうちに、晃二の皮ジャンパーをつかんでいた。力を入れすぎて、指が痛んだ。
――困るわ。
紀子は手を放して指をもんだ。それが手を合わせているようにも見えて、自分でも変だった。
――あなたが困るんでは、僕はいけないことをしていたようだ。
晃二はあおのけに寝て、目を閉じた。あまりにすなおすぎて、急にいとおしい感情がわき、身をかがめると、上気した唇に軽く触れた。それを待っていたらしく紀子を抱きすくめると、横に倒した。
ほとんど、神秘的といいたいような手の舞いだった。いつの間にかガウンの紐《ひも》が解き放たれ、乳房が露《あら》わにされていた。晃二は緩急を心得ていて、肌の接触は溶けるような快美を伴った。それが上体にのみ寄せられていることが、かえって情感を募らせることにもなった。知らぬうちに、荒々しい息遣いになっている。目の底に淵の渦がゆっくりと速度を増しながら大きくなった。
――恥しいわ。こんなって……それに、暑い……
――下着を着ているからね。
晃二は立ち上って、ストーブを止めた。そう言う顔も上気していた。目がうるおい、唇に血の色が差し、胸が大きくはずんでいた。
――もう一度、渓流に流されてみない?
紀子はガウンの前を掻き合せた。情感が坂を駆け降り始めているようだった。この人なら、田浦高志の臭いを、身体の中から追い出してしまうに違いない。紀子は大きく息を吸った。
――また、あなたが助けてくれるなら……
――何で助けよう。
――ロ―プはもういいわ。毛布を放ってね。
晃二は部屋から出て行き、すぐ深紅色《しんくいろ》の毛布を抱えて戻って来た。紀子はその間に下着を脱ぎ去っていた。部屋の隅に置いた下着に、晃二は気付いたようだ。
――電気を消して。
と、その注意をそらせるように言った。
電気が消されると、部屋はとっぷりと闇《やみ》の中に沈んだ。闇の中でジャンパーを脱ぐ音が聞える。毛布が広げられる気配がし、晃二のいるあたりから、ほのかな昔の香を思わせる匂いが漂った。
きめ細かな肌が、吸い着くように触れてきて、伸された左腕が紀子の首に廻《まわ》って乳房を圧《お》し包み、その上に紀子の手を重ねさせた。乳房をくるんでいる相手の手を圧《おさ》えることで、強い肉感が高まる。横にされたので、右腕の自由はきかない。両手の拘束《こうそく》を受けていることが、不思議と嬉しかった。
すでに、全身が晃二の手にゆだねられている。女叢《じよそう》を探ってから、中心に届くと、紀子はもう浸《ひた》っていて、するすると迎え入れる。わずか往《ゆ》き来するだけで、すぐ核芯《かくしん》を捉《とら》えられた。やさしくむつまじいもつれに、ともすると声が洩れそうになる。
闇の中で相手の身体だけが、かすかに白い。暗さが楽にさせ、手の求めるまま、下肢を開いた。晃二の息も熱く、身体もしなやかな動きを伝えた。
――あなた、柔かだわ。
その言葉は唇でふさがれた。ややしてから、晃二は舌を喉《のど》もとに滑らせ、軽く遊ばせると、胸に移って乳房にそっと歯を当てる。ひとしきりの愛咬《あいこう》ののち、そのまま紀子の中心に顔を埋めてきた。前にもましたやさしさで、紀子が軽く唇の中に吸いこまれるときの、経験したことのなかった美響が、全身に突き抜けた。永遠とさえ感じる吸引のうち、目の裏に火が燃えたち、仙人滝のかかるのを見た。紀子は手を伸した。晃二の身体も含みたい衝動《しようどう》に駆られたのだ。
――あなたが、欲しい。
と、紀子は身をよじって沈吟《ちんぎん》した。暗闇が大胆にさせた。
だが、相手はもう待てないと解釈したようだ。身体を起して乗りあがり、紀子を開きながら、静かに肉を分けて来た。初め固い感じだったが、ゆとりのある圧《お》しのために、身体はいつとはなく晃二を迎え入れかかる。
――あなた、やさしく……
紀子は心の中で祈った。そう、晃二はやさしかった。静かだが確かな力で奥に達した。その瞬間、田浦が自分の中から追い出されたのを知った。充実した抱擁感に、烈《はげ》しい恋慕の情がわき起こった。密着していながら、もっと強い接近が欲しい。接していながら、更に完全な混合が欲しい。
相手が荒々しく野獣になるのではないかという最初の不安も消え去った。紀子はあおのけで、両腕は頭の上にあった。晃二はその掌にも慰撫の呪縛《じゆばく》をかけ続けた。
――やさしく、する……
そのとおり、深く紀子の中にありながら、わずかに汗ばんだ身体をぴったり密着させたまま、寛《ゆる》やかに蕩揺《とうよう》させて、酩酊《めいてい》をさそった。少しの動きにも紀子は、鋭く感応し、乱れかかった。身体の中にある晃二の充溢感《じゆういつかん》、一つに溶けあった接触感に、渓流が一度に盛り上るのを感じた。たちまち足をすくわれ、急流に巻き込まれた。流れに身をまかせる愉楽と、息のつまる苦しさが交互に押し寄せた。
渓流の響きが聞える。その獅々吼のなかに、晃二の押えた叫びも聞いた。その声は閉じ込められた嗚咽《おえつ》のようだった。同時に身体は紀子に快感を告げるように痙攣《けいれん》した。紀子はすぐに感応し、更に深い陶酔に包み込まれ、そのまま奔流の中で五体がばらばらになってゆくのを感じた。
――ここは、どこ?
それが、意識の最後になった。永遠に続きそうな悦楽と苦痛の混沌《こんとん》の中で、自分の声を聞くことさえ出来ない。
――あなた、もう、助けて!
と、紀子は叫んだようだった。とろけるような魘夢《えんむ》の深淵《しんえん》に奥深くまで引き込まれると、甘美な歓喜の境に飛び散った。
晃二はやさしくいたわり続けた。それがなによりも嬉しく思えた。いたわりはそのまま、次の大波に引き裂かれる前奏となった。いつ晃二が身体を放したのか判らなかった。気が付くと、ジャンパーを羽織り、ストーブに点火していた。
――君の身体は美しい……
紀子は赤い焔《ほのお》の中で、淳美《じゆんび》な交悦のあとの余韻として、初めて相手の目に裸身を晒《さら》すことの、ひそかな喜びを味わった。
――君の声は弦楽器の響きがする。
紀子はわざと視線を外していた。さっきから、古い茶箪笥の上に載っている黒い漆塗《うるしぬ》りの小箱を見ていた。箱の表面に鶴《つる》の模様が描かれているようだった。さっきまで、こんな箱には気付かなかった。きっと晃二がどこからか持って来たのだろう。まだうつうつとしている恍惚《こうこつ》の中で、ぼんやりと美しい小箱に目を遊ばせていた。
三
紀子は奇夢の中にいた。
その村ではたやすく他国者を受け入れる風習を持っていないようである。紀子がその村に入ることが出来たのは、叔母《おば》がその村に住んでおり、そのつれあいが死亡したためだ。村への入口は狭い一本の道であり、その道を見失うと、もう村から出られなくなる。紀子はその道を見失ったのだ。帰るつもりが、いつの間にか村の奥深く迷い込んでしまった。そこには信じられぬほど立派な神社が祀《まつ》られている。神社の奥には巨大な岩石で作られた、いくつもの真黒い奇怪な像が築かれていた。村人はその像を信仰しているらしい。たまたま祭礼があるらしく、村人の姿が群がると、一斉に意味の判らぬ祈祷《きとう》を唱和し始める。その声とともに、岩石の黒い像は、思い思いにゆらぎ始め、やがて大きな生動となった。
村の人たちはほとんど裸形《らぎよう》である。男たちはいずれも若く、女たちはみな妖《あや》しく美しい容姿を具《そな》えていた。神殿にはいつの間にか、麗人の官能的な舞いが始まっている。女は薄物を脱ぎ捨て、愛らしい前を露《あら》わした。観衆は乱れ、互いに相手を求めた。彼等は誰と交わろうがこだわりを持たなかった。どうやら、この快美な饗宴《きようえん》のために、この土地の人は他国者を避ける習俗が出来たようだった。紀子は自分もこの秘密の国の一員になったような気がした。太鼓の音の中を、紀子は彷徨《ほうこう》した。紀子の好奇心を咎《とが》める人物がいた。
――お前はまだ仲間じゃない。だが、すぐ仲間になれる方法がある……
紀子の前に土器に入った薬物が差し出された。交悦の前に飲まなければならないというのだ。紀子はその液体を飲み干した。味はもとより、喉《のど》を通ったという感覚もなかった。だが器《うつわ》が空《から》になったとたん、意識がかすんでしまった。自分はこのまま寝かされるのだ――紀子はわずかに残った判断力で、そう思った。
起きると、朝だった。
白い光が、戸の隙間《すきま》から差し込んでいる。見たばかりの夢の印象は鮮烈で、しばらくはまだ夢との境に行き来を続けた。
晃二はいなかった。いないと言うより、いた痕跡《こんせき》がなくなっていた。部屋の中は綺麗に片付けられ、瓶類《びんるい》や食器類も見当らず、包み紙の断片一つ落ちていなかった。紀子は茶箪笥《ちやだんす》の上を見た。漆塗りの黒い小箱もなくなっている。
――あれも夢だったのか?
だが、紀子の肌《はだ》は、晃二の身体を覚えている。……紀子は一銭岩の上で奔流に流された。晃二は流されている紀子に、ロープを投げ与えた。そのまま晃二の車に乗せられ、この家に運ばれた。一銭岩、重吉岩、仙人滝、千字川、耳成神社……晃二が教えなければ、そうした名を覚えているわけはない。そして紀子は晃二に抱かれ、目くるめく愛を経験した。
紀子は太鼓の音を耳にした。その音は夢の中からずっと続いていたようだった。
――明日の祭には、大切な役をしなけりゃならない。
晃二がそう言っていたのを思い出した。そのために、朝早く家を出たのに違いない。紀子は自分も耳成神社に行って見ようと思った。
気が付くと、真紅色の毛布にくるまっていた。毛布を引き寄せて顔に当ててみた。かすかに、晃二の匂いが残っている。紀子は素肌の上に赤いガウンを着て寝ていたのだ。乾いた衣服と晃二がくれた肌着が、きちんとたたまれて、枕《まくら》もとに置かれてあった。
――矢張り昨日のことは、夢ではなかった……
すると、やや気持が落ち着いた。紀子は身支度を整えた。水に濡らした定期類も、夕べのままになっている。土間に出ると、女物の靴と靴下が、きちんと揃えられてあった。靴はやや大き目だったが歩けないことはなかった。足に馴《な》じまぬ靴をはきながら、晃二の謎《なぞ》がもう一つ深まるのを知った。
女物の下着、ガウン、真紅色の毛布――それらの品々は、この家の中にあった物ではなかった。晃二が車の中から運び込んだ品である。晃二は自分の車の中に、女物の肌着まで持ち歩いていた。その上、女物の靴と、女体を知り抜いたような巧緻《こうち》極まる愛技……紀子は晃二の後ろに、女性の影を見ないわけにはゆかなかった。
――もう一度、晃二と会いたい。
晃二が身体の中に残した感触は、すでに限りない恋情に変ってゆくようだった。
――祭に行けば、晃二と会える。
そう思うと、烈しい再会の念に駆られた。急いで立てつけの悪い戸を引いた。
霧だった。霧の中を細かい秋雨《あきさめ》が降り続いている。降りは強くないが、昨夜からそうしてずっと雨が落ちているようだった。土は水を吸って柔かくなり、草は銀色の水玉を無数につけて、重そうにたわんでいる。
土の上に晃二の車の跡を見付けた。車は雨の土を踏んで、新道に出て行ったようである。タイヤの周囲に、いくつかの足跡があった。紀子はその一つに目を止めた。右の足跡で踵《かかと》に鋭いV字型の傷が付いている。見覚えのある傷だった。昨日、晃二がはいていて、紀子に貸し与えた靴に違いなかった。
雨は小降りになっているようだった。持ち物は何もない。紀子は板戸を閉めて歩き出した。霧が動いていた。山の天候のことは判らなかったが、雨は上っても霧まで晴れるとは思えなかった。ときどき木に宿った雨が、音を立てて落ちて来た。道に茂った草は、二本のタイヤに倒されていたが、半ば起き上って、足元をすぐに濡らした。草の様子を見ると、人の出入りがほとんどなく、道は晃二の家で行き止まりだった。
新道に出ると、車の跡は神社の方に曲っていたが、その先は消えていた。不規則な太鼓の音がずっと近くになった。
道を歩いている子供に会った。初めて見る千字村の人間だった。七、八歳ぐらいの四、五人で、紀子と前後して、耳成神社に行くらしい。
――お祭、見に行くの?
と、紀子は声を掛けた。子供たちは立ち止まって紀子を見て、きょとんとした。それから一斉にくすくす笑いだした。
――おまけさん祭だあ、おまけさん祭だあ。
そうして一斉に駈《か》け出した。
子供の後を追って、昨日見た鳥居の下に着いた。朽ちかかった木の鳥居は水を吸い、黒く沈んでいた。鳥居をくぐると、すぐ急な坂道で、左側は苔《こけ》の生えた岩肌だった。黒い岩肌は重吉岩の一部らしい。坂が尽きると、かなり急な石段が続いている。石段は自然石を組み合わせて築かれたようで、紀子は足元に気を配らなければならなかった。
石段を登り切ったとき、雨が止《や》んでいるのに気付いた。霧の方は晴れそうにもない。そこは開けた台地で、もう一つの鳥居が建てられ、その奥に社殿が見えた。
流造《ながれづく》りの古祠《こし》は、灰色の霧の中に、黒々とした杉林を背にして、墨絵の中にあるようなたたずまいを見せていた。建物の左右に篝火《かがりび》が燃え、朱色の光がきらめいている。社殿の戸は左右に開かれ、同じ色の蝋燭《ろうそく》の光が見えるが、人のいる気配はない。長い庇《ひさし》の下に賽銭箱《さいせんばこ》があり、社殿の横に二階建ての山車《だし》が置かれている。何人かの子供たちが、山車の中で代る代るに太鼓を叩いているところだ。
鳥居をくぐろうとしたとき、鳥居の傍の玉垣《たまがき》を背にして、黒くうずくまっている人影を見た。昨日、晃二の家から飛び出して来た、乞食のパーゾウだった。紀子はふとこの男に、晃二のことを訊《き》いてみようという気になった。
男の前にでこぼこになった黒い鑵《かん》が置いてある。紀子はその中に金を入れた。男は感情のない顔を起した。
――昨日、晃二さんの家にいた人ね?
男は何も答えなかった。男の頭の真中《まんなか》が禿《は》げているのが見えた。
――あなたは埴田晃二さんを知っているわね。
男の首が微《かす》かに動いたようだった。紀子はそれを肯定の意味に解釈した。
――今朝《けさ》、ここで晃二さんを見かけなかった?
男は黙ったまま、ちょっと困ったような表情になった。
――今朝、ここに晃二さんが来たでしょう。
男は口を結んだ。ことさら何も言うまいとしているように見えた。それ以上、追及する気にならず、諦《あきら》めて鳥居をくぐった。濡れた黒い敷石が、真っすぐに向拝《ごはい》に向かっている。敷石の左右は玉砂利が敷かれているが、ほとんどは土の中に埋め込まれた形だった。紀子はその土の上に、晃二の靴の跡を見付けた。
その跡は、ほとんど砂利のなくなった土の上に残されていたため、はっきりと右の踵にV字形の傷が印されていた。雨で柔かくなった土の上に、まだ跡は新しかった。
――彼はこの神社に来たのだ。
紀子は賽銭箱の前に立った。黒く木目《もくめ》の浮き立った正面に、九枚笹《くまいざさ》の紋章が彫り出されてある。もと金箔《きんぱく》の置かれてあった様子だが、ほとんど落剥《らくはく》している。向拝の上に張られた注連縄《しめなわ》だけが新しい。
社殿の奥は何本も蝋燭の火が動いているが、矢張り人の姿はなかった。新しい白木の三方《さんぽう》の上に、真っ白い見事な二股《ふたまた》大根が供えられている。紀子は手を合わせて目を閉じた。何を祈るでもなかった。ただそうして、自然に古祠の中に溶け込みたい気持だった。
晃二の足跡はその他にもまだ見付かった。その一つは社殿の後に向かっているようだった。紀子は自然にその跡を追うような足取りになった。そのとき、社殿の後から、わらわらと四、五人の子供たちが駈けて来た。紀子と前後して神社に来た子供らしい。
――おまけさん、おまけさん。
顔つきからして腕白《わんぱく》そうな男の子が先頭だった。子供の後から白い水干《すいかん》に袴《はかま》をはいた大人《おとな》が現われた。白髪の痩《や》せた男だった。
――この、わらしら。おまけさんの禊《みそぎ》さ見だら、目っこが潰《つぶ》れるど。
何かの儀式の最中で、子供たちが追い払われたのだろう。子供たちは右手の女坂の方に逃げて行き、紀子はその男と目を合わせた。何か言おうとすると、
――今、禊さ始まるところだす。
近寄ってはいけない、というばかりに言い捨てて、社殿の後に姿を消した。
一度、女坂の方に逃げた子供たちは、また舞い戻って、今度は太鼓の山車《だし》を占領することに決めたようだ。この連中の腕力は強く、すぐ前にいた子供たちは追い払われた。腕白らしいのが真っ先に撥《ばち》を取って、威勢よく太鼓を叩き出す。他の子供たちは音頭を取り始める。
――よっせい……どん。
――よっせい……どん。
さすが腕白だけあって、前の子供たちより、ちゃんと調子に乗っている。だが飽きるのにも早いようだ。紀子は境内《けいだい》を駈け廻っている子供の一人に話し掛けた。
――おまけさん、てなあに?
子供は珍しい物でも見るように紀子を見た。
――おまけさんは、おまけさんだあ。
――おまけさんのミソギ、見たんでしょう?
――見た。目っこさ潰れるなんて、嘘《うそ》だど。わしら、去年も見たども、何んともなかった。
――どんなことしていたの?
――毎年同じだあ。ですいに入るだよ。だども、今年のおまけさんのおっぺえは小さかったど。
――ですい、って?
――水のことだあ。
どうやら、おまけさんというのは、祭のために選ばれた一人の女性で、身を潔《きよ》める禊として水に入る例式になっているらしい。ですいというのは、多分社殿の後に湧《わ》き水でもあるのだろう。
おいおい境内に人が集って来るが、その数は多くはなかった。香具師《やし》の屋台が二台ばかり組み立てられた。一つの店には達磨《だるま》や招き猫《ねこ》などの縁起物《えんぎもの》や、子供のための風車や面などが並べられている。もう一つの店の横にはプロパンガスが置かれ、お好み焼きの店になった。朝からまだ何も食べていなかった。店の前に立ち、焼き上るのを待ちかねてひと皿買った。安手のソースがだぶだぶ掛けられ、恐ろしく塩辛い味だったが、胃に何でも入れることが出来たのが有難かった。
紀子はその間も鳥居を出入りする人たちに気を配っていたが、晃二の姿はどこにも見当らなかった。
社殿の左側に、傾きかかった社務所があった。戸や窓は閉められたままだが、今派手に柏手《かしわで》を打って拝礼した老人が、社務所の前に立ち寄って、角の丸くなった箱を取り上げた。老人は浴衣《ゆかた》の上に、羊羹色《ようかんいろ》になった、紋付きの羽織を着ていた。老人は箱に軽く一礼してから、逆さにして振り動かした。がらがらという音で、それが御籤《みくじ》の箱だということは判ったが、札らしいものはどこにも見当らなかった。そんなことは意に介さないらしく老人は箱を振り続けた。老人の左頬《ひだりほお》に大きな瘤《こぶ》があり、その瘤が両手と一緒になって動いた。やがて、手の中に一本の籤が落ちた。老人はその棒をじっと見ていたが、箱を元に戻して、今度は懐の中から小型の本を取り出して頁《ページ》を繰った。
さっきの子供たちが素早く見付けて、御籤の箱の奪い合いが始まる。
――順序よく並ばんかい。
老人が一喝《いつかつ》した。子供たちはたちまち静かになった。
――お辞儀をせんかい。
老人はいちいち指図をする。先頭の子供が箱を捧《ささ》げてぺこりと頭を下げた。
――おじいちゃん、六十一番だあ。
老人は本を拡げた。
――六十一番は半吉だでや。
――半吉かあ。つまらねえの。
――次い。
――わしは二十三番だあ。
――二十三番は吉だでや。
一と渡り子供たちが籤を引き終ると、老人は籤の箱を、傍にいた紀子に差し出した。
――あんた、引がねすか。
紀子は箱を受け取って籤を引いた。五十二番が掌の中に落ちた。
――五十二番が出たわ。
老人は本の頁を繰り、紀子に差し出した。茶色に変色した紙に、古い形の活字が印刷されていた。
――●此のみくじにあふ人はうんきあしくたとへばみのあやまちを人にうつたへられなんぎするていなり○やまひしん・・じんすればなほる○まち人きたらず○そしてやうかなはず○よろこびごとわるし○やづくりわたましこんれい半吉○たびだちわるし○うりかひ利なし○せいしあやふししん・・じんすべし
紀子はそのうちのいくつかを反芻《はんすう》した。――この御籤にあう人は運気悪しく、例えば身の過ちを人に訴えられ、難儀する体なり。待ち人来たらず。喜びごと悪し。旅立ち悪し?
紀子はもう一度読みなおしてから、本を老人に返した。
――凶だども気にするこどもねえすよ。凶さあ吉に帰るとも言います。
老人はちょっと紀子の顔をうかがった。
――御親切に有難う。別に気にはしませんわ。これからの行動に、少し気を付ければいいわけね。信仰心を持って。
瘤のある老人は、改めて紀子を見渡した。
――あなたは賢い女子《おなご》だど。東京のお人か?
――ええ。
――待ち人さあ?
――もう、とうに来ているはずですわ。
老人は屈託なく笑った。
――このお祭は、おまけさん祭というんですか?
紀子は老人の笑い顔に誘われて話し掛けた。
――んだす、おまけさん祭。本当は穂掛け祭といいましたです。秋さ穫《と》れた稲の穂を捧げて、神さんに感謝する祭です。わしら若え頃は、もっと賑《にぎ》やかなもんでしたよ。宮座だけでも、今の十倍もいました。また、後の直会《なおらい》さ盛大なもんで、皆楽しみにしていたす。今と違って、万事大事でした。おまけさんの物忌《ものい》みも、一週間宮さ籠《こも》らなければならねかったです。ところが、今じゃたゆうさんすらおらなくなった。
そのとき、誰かが呼ぶ声がした。老人は声のする方を見て手を上げた。そして紀子の方を見て、
――そろそろ支度さ出来たらしいす。ゆっくりと見物さっしゃい。わしがせんでも、ほれ、待ち人さ祭のことを聞きなさい。その方が、ずっと楽しかろう。
老人は声のする方に歩いて行った。見ると、同じような紋付の羽織を着た人たちが何人か集まっていて、並んで社殿の中に入るところだった。
境内の人数は増えていたが、とても祭を思わせるような賑やかさはなく、祭に付きもののカメラマンの姿さえ見えなかった。
社殿の中には何人かの人がうずくまり、その向こうに幣束《へいそく》を持った神主らしい姿が見える。たゆうさんと呼ばれる神主役の人なのだろう。神官が動かす幣束に、燭台《しよくだい》の光が揺らされている。神主の隣に、こちらを向いて坐っている白い姿があったが、人の形ということだけしか判らなかった。
除祓《はらい》が済むと、氏子たちは神殿を降りて来た。すでに御酒が廻されているようで、もう赤い顔になっている人も見える。
そのうち、どこからともなく十三、四の少年が境内に集まった。賽銭箱と同じ、九枚笹の紋を付けた白麻の水干にたっつけ袴、白い鉢巻《はちまき》に銀紙の穂先を付けた槍《やり》を手にしている。一人だけ陣羽織で、ところどころ禿げた鹿《しか》の首《かしら》をかぶり、笹の葉を持って、少年の中に入って来た。
瘤のある老人が笛を持って出て来た。老人の他に笛を持っている人が一人、太鼓が二人、鉦《しよう》が一人。揃いの浴衣の上に、黒羽二重《くろはぶたえ》五つ紋の羽織が、囃子方《はやしかた》の衣装だった。
笛と太鼓が始まると、少年たちは鹿の首をつけた人物を中心にして踊りだした。抑揚の少ない、単調な曲節で、それに合わせる踊りも、大まかでのんびりとした動きである。少年たちは鹿に近付くと思うと離れる、離れると思うと近付く。その繰り返しが、いつ終るともなく続いた。
初めのうちは珍しそうに見ていた子供たちも、すぐに飽きて境内を駈け廻っている。
そのうち、笛の調子が変り、鹿は一か所に止ったまま、くるくると廻った。それが最後のクライマックスだったらしい。鹿はうずくまり、少年たちは槍を合わせ、踊りは終った。拍手《はくしゆ》がまばらに起った。
踊りの終った少年たちに、土器の盃《さかずき》が廻される。境内には制服の巡査も散策しているが何も言わない。一人の村人と談笑している。しまいには、巡査の手にも盃が廻った。巡査はなみなみと注がれた盃の酒を、一と息に飲み干した。
鹿になった人は踊りが終っても首を取ろうとしない。首をつけたまま盃を口に運んだ。紀子からは顎《あご》が見えるばかりである。
拝殿に神官が現われた。色の黒い小柄な六十ばかりの男だった。痩《や》せていながら、横に広い顔である。ささくれた立烏帽子《たてえぼし》に草色の素袍《すおう》を着て、手に大きな幣束《へいそく》を持っている。神官の祝詞《のりと》は長々と続く。
――もういいど。
――六蔵|太夫《たゆう》、早くせい。
遠慮のない野次が飛ぶ。神官はしどろもどろになり、祝詞は途中で切り上げる気になったらしい。うやむやのうちに言葉を打ち切り、幣束を捧げて、大きく振った。
太鼓の山車《だし》が動かされ、拝殿の前に捉えられる。山車は低い二階建てで、屋根の深い反《そ》りに特徴があった。いっけんして派手やかな感じはないのだが、屋根を支える組物の肘木《ひじき》や、柱の間の蟇股《かえるまた》の彫りに入念な細工《さいく》が見られ、一つの美術品を見るようだった。
二階の正面の垂簾《すいれん》は巻き上げられ、三方には錦襴《きんらん》の幕が下ろされている。大きい亀甲形《きつこうがた》を並べた織物の金銀は時代にやけ、渋い光を放った。
屋台の高欄《こうらん》に梯子《はしご》が掛けられると、村人たちにかすかなどよめきが起こった。
――おまけさんだ。
これから祭の中心となるおまけさんの登場らしい。村人の視線は社殿の奥に集まった。紀子も村人たちの視線をたどった。そして、幽静として拝殿に現われた、おまけさんの姿を見た。
その瞬間、自分が現代にいることを忘れ去った。祭が人生の最も重要な部分を大きく占めていた時代。明神と邪神とが、現実に人間を支配している時代に呼吸し、村人と生活を共にしながら、今、祭の興奮の中で、子供のようにわけもなくおまけさんの登場に心をときめかせている時代の人と同体になった。
おまけさんは、裃《かみしも》姿《すがた》の氏子総代と思われる男に手を取られている。色の褪《あ》せたうす紅色《べにいろ》の地に、桜花を金銀の縫《ぬい》で散らした小袖《こそで》に朱色の帯を元禄風《げんろくふう》に前で結び、被衣《かつぎ》を眉《まゆ》の上までおろしている。濃く白粉《おしろい》を引いた顔に、小さく赤い口紅を落した化粧は、そのまま古い雛人形《ひなにんぎよう》を見るのと変らなかった。
――今度のおまけさんは、美人ですなあ。
と、紀子の傍にいた男が嘆声をあげた。目と口の大きい、がっしりとした身体つきの男だった。
――おまけさんにぁ、若え子が引き立つですよ。最後のおまけさんにふさわしいです。
通りがかった巡査が気易く口をきいている。巡査はほんのりと酔っているようだった。
――あれでは嫁の口が多くかかるでしょうね。
――んだすな。
――春のおまけさんは、深沢さんのおばあさんでしたね。
言葉の様子だと、村の人ではなさそうだが、耳成神社の祭にはよく見物に来る人のようだ。
――ほんだすが、まだ嫁っこには行がねすよ。
――お金は持っているでしょう。
――いや、おまけさんは若えがいいす。
――あなたの奥さんなら、若くて、美人でしょう。
――それだけは、ごめんだす。
巡査は手を振って、大きく笑った。
濃い化粧だが、若い女性だということは、遠目にも判った。おまけさんは手を取られながら、うつむき加減に歩を運んでいる。社殿の裳階《もこし》に白緒の草履《ぞうり》が揃えられる。おまけさんはそれをはくと、そのまま屋台の二階に登った。
巻き上げられた簾《すだれ》の奥の座についたおまけさんは、そのまま活《い》きた絵巻の中の人になった。続いて屋台の下に囃子方《はやしかた》が揃《そろ》うと、山車の引き綱が張られ、木製の車止めが外される。
紀子の網膜には、美しく新造されたばかりの、きらびやかな屋台が映っていた。磨《みが》き抜かれた主柱は、檜《ひのき》の香気を放ち、彫物は手の切れるほど鋭く切り立っている。金襴《きんらん》の幕は力強く張って、金銀の糸は日の光を弱めるほど眩《まばゆ》い。真の桜花よりなお鮮麗なおまけさん衣装。長く続く氏子の行列。鹿踊りの槍は氷のように光っている。大勢の囃子は、激しい踊りの所作《しよさ》を促進させる。神社を埋めつくした村人の興奮……
大太鼓が一つ大きく打ち鳴らされた。鹿踊りのときと、同じような旋律の囃子が始まる。引き綱に群がった子供に歓声が起る。
行列の先頭は、裃姿の氏子総代の何人かである。その後は幣束を持った神官が歩き出す。続くのが、さっき槍を持って踊った少年たちで、鹿の首を付けた村人もその中に混っている。後から山車の引き綱を持った子供や村人がわらわらと続き、山車の両側には、まちまちの半纏《はんてん》を着た若者たちが車輪に付いて舵《かじ》を取る役をしているようである。制服の巡査も若者の中に混って、山車の進行を見守っている。行列の最後は一としきり浴衣の上に紋付の羽織を着た村人たちが続く。半数の人は菅笠《すげがさ》をかぶり、あとは笠がない。笠が揃わなかったのだろうか。
紀子はその行列を、注意深く見守った。だが、どこにも晃二の姿が見えないのだ。
行列の人たちの足元にも気を配った。祭の役員は白足袋《しろたび》にわらじばき。靴をはいた足は見物人の中にあったが、どこにも特徴のある傷は見付からなかった。
紀子は綱を引いている村人たちの中に混った。行列の中で顔の見えない男は、鹿の首を付けた一人だけだった。
――あれが、晃二だろうか?
晃二にしては歩き方が気になった。男の歩き方は、癖のある外股《そとまた》である。
行列は鳥居の傍にある女坂にかかった。若い男が車軸から出ている棒に力を加えた。それがブレーキの役をするらしい。
――綱に力を入れるではねえ。
それでも綱を引く子供がいる。鹿の首が後を向き、その子供をどやしつける。子供も負けてはいない。鹿の首に組み付き、首をはね上げた。
――このがき、何すっか。
だみ声が飛んだ。鹿の首があみだになり、男の顔が現われた。四角い顔をした、初老の男だった。
――晃二ではない。
紀子は立ち竦《すく》んだ。
――行列の中に、晃二はいない。
行列は紀子を残して、ゆっくりと坂を下ってゆく。行列の最後に、いつの間にかパーゾウの黒い姿が、影のようについていた。紀子はそっとパーゾウの傍に寄った。
――私、知っているでしょう。昨日、会ったわね。
パーゾウの態度は変らなかった。ものうそうに顔を上げて紀子を見る。
――忘れたわけじゃ、ないわね。
紀子は詰問した。パーゾウはうなずいた。
――今朝、この神社に、昨日私と一緒にいた人が来たでしょう。
パーゾウは、又うなずいた。矢張り境内の地面に残っていた足跡は晃二のものだった。
――その人、ここから出て行った?
パーゾウはちょっと行列の方を見た。そして、首を振った。
神社に集まった人の数は、そんなに多くはないのだ。そのほとんどは、パーゾウと顔見知りだろう。顔見知りが鳥居に出入りすれば、当然パーゾウの目に止るはずだ。パーゾウのいた場所からは、女坂もひと目で見渡すことが出来る。……とすると、まだ晃二は神社の中にいる?
行列は遠ざかり始め、パーゾウも行列を追った。だが、紀子は立ったまま行列を見送り、後をつける気にはなれなかった。
神社の境内には香具師《やし》の二つの店だけが残されて、商人は無言で木の箱に坐り、動くことを止めていた。動いているものは、朱色の篝火《かがりび》と、灰色の霧だけだった。
――晃二はどこにいるのだろう?
紀子は戸が閉められている社務所の前に立った。おかしな考えだったが、その中に晃二が隠れていて、紀子の当惑をじっと待っている。そんな考えが風のように通りすぎた。だが戸は外から太い釘《くぎ》が打ち込まれていた。窓も同様に釘付けにされ、釘は木の中で錆《さ》び付き、動きそうにもなかった。
そのとき、人声を聞いたような気がした。紀子は社殿を廻って、裏の方に歩き出した。人声が近くなった。何人かの女の声だった。裏庭は岩に囲まれ、岩を割るように根を下ろしている何本かの樹木があった。
岩の間から落ちている細い水が見えた。水は瓢《ひさご》を割った形に彫られた石の中に落ちていた。その湧き水を中心にして、四方に青竹が建てられ、注連縄《しめなわ》が張りめぐらされている。注連縄の中には土器の鉢《はち》が置かれ、中に何かを焼いた灰が見える。
話し声は、建物の横にある厨房《ちゆうぼう》から聞えて来るようだった。戸が開かれ、中をうかがうと、大きな竈《かまど》が見えた。その前で、二、三人の女が話し合っている。
声をかけぬうち、女の方が紀子に気が付いて、話を止めた。
――人を探しているのですが。
と、紀子は言った。
――どんな人だべ。
一人が割烹着《かつぽうぎ》で濡れた手を拭いた。
――若い男の人なんです。埴田《はにだ》さんといいます。
――わしら、この村の者でねえだば、名さ言われても判んねすけど、ここにゃあ男衆は一人もいねえすよ。
――一人も?
――んだす。皆、山車に付いて行っちまったで、残っとる者さわしらだけですから。
そう、祭の場は移動したのだ。祭に参座しているはずの晃二がいないのは当然のことだった。だが、晃二は行列に加わっていなかったではないか。
――だども、あと一時間もすれば、山車さ戻って来るですから、その人も帰って来なさるでしょう。何ちゅう言いなさりました。その人のお名前。
ぼんやりしている紀子を見て女が言った。
――埴田晃二さん……
――ばっちゃあに聞いたら、判るが知れね。
女は奥に向って声を掛けた。暗がりから、腰の曲った老女が顔を出した。
――この方あ、埴田さんちゅう方さ尋ねていなさるど。
老女は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて紀子を見た。
――埴田……何と言いなさるかね?
――埴田晃二。
老女はじっと紀子を見た。
――埴田さん……下《しも》の埴田の晃二さんなら、ここへ来るわけはねえすよ。この間、死なさりましたですから。
――死んだ?
紀子はあっ気に取られて、老女を見返した。老女の表情は動かなかった。
――それは……いつですか。
――もう、ひと月も前のことになりますかねえ。知りなさらんでしたかい。誰やらに、毒さ飲まされて、殺されたですよ。
紀子は口もきけなかった。
――まんだ若えに、気の毒なことでした。
――すると、あの家は?
――今、誰も住んじゃいねえすよ。
晃二が死んだ? それでは、昨日、紀子を愛した埴田晃二と名乗った人は、誰だったのだろうか。
――前からの、お知り合いかね?
若い方の女が訊いた。そのお知り合いという言葉の調子に、好奇な響きを感じた。紀子は礼を言って駈けるようにしてその場所を去った。
――晃二は死んでいる。しかも、殺されて……だが、あの足跡は?
その足跡はすでに多くの人に踏み消されていた。紀子はもう一度、境内を見渡した。神社を出るには鳥居と女坂によるしかなかった。パーゾウが嘘を吐《つ》いたのだろうか。でも何のために?
紀子自身、境内に集った人たちに注意を怠らなかった。晃二が歩いていれば、すぐにでも判るはずだ。
――他に道でもあるのだろうか。
そして、紀子は木の間に、小さな鳥居を見付けた。社殿の左奥、重吉岩を背にして、ほとんど朽ち木のように立っていたが、鳥居には違いなかった。
ただ、その付近の土は、雨の後、人を通した跡がなかった。現に紀子が鳥居の前に立つと、はっきりと自分の足跡を残した。だが、その先に行って見なければ、満足できなかった。
鳥居をくぐると、すぐ狭い石段で、石段というより岩場に近かった。石の上に太い鎖《くさり》が渡されていた。その鎖の助けを借りなければ、到底登ることは出来なかったろう。
そこは、重吉岩の頂上だった。岩の上は、ひと目で見渡せる。だが、頂上には無論晃二の姿はおろか、生きている者は虫一匹すらなかった。
岩の中央には、礎石《そせき》と思われる四角な石が、ところどころに残っていた。昔、その上に小さな奥殿が建てられていたものと思われる。今ではその社を想像することも出来ないが、ただ中央に据えられた自然石の基壇の上に、半紙が敷かれ、稲のひと房が供えられてあった。半紙は、ほとんど破れるばかりに雨に打たれ、稲の穂はうなだれていた。
岩の上に立つと、獅々吼峡の全景が一望のうちに見渡すことが出来た。何の気もなく岩の端に出た紀子は、思わず足を竦《すく》ませた。切り立った崖《がけ》の突端は、そのまま垂直に近い傾斜で、谷底に落ち込んでいた。霧の底に、くの字に曲った獅々吼峡の流れが、鈍い銀色に細く膠着《こうちやく》していた。紀子は怖ろしさに包まれながらも、谷底から目を離すことが出来なかった。わずかでも目を外《そ》らせれば、身体の重心まで狂いそうな気がしたからだ。
紀子は谷底の渓流を見詰めたまま、ゆっくりと崖の端から退くと、ほっとしてあたりを見た。山はすでに霧の中に閉ざされて見えなかった。山も空もない、ただ灰色の世界だった。
連関のないことだったが、紀子は倒れかかったヒノキを思い出していた。あのままでは、ヒノキも枯れるだろう。最後の祭、箱だけの御籤、耳成神社も廃社となって消える運命なのかも知れない。村全体が消えかかっていた。紀子は自分の視界と同じように朦然《もうぜん》とした思考の中で、晃二が消えたのも、そうした大きな運命の中の一つに過ぎないと考えた。
岩のはるか下から、かすかな祭の囃子の音が聞えてきた。紀子はしばらく霧の中に動かなかった。
四
――にもかかわらず、この空の青さはどうだ。
つづら折れの道の途中で、紀子は歓声に驚かされた。
派手な緑色のセーターを着た、二人の子供が曲った道から飛び出して来たのだ。子供は肩から赤い水筒を下げていた。言葉から、土地の子ではないことが判った。子供はもつれながら紀子の傍を通り抜けた。
「そんなに、先に行っちゃ、いけませんよ」
子供を追う、母親らしい声がして、ひと組の男女が姿を現わした。行楽に来た家族のようだった。女は大きなバスケットを下げ、男はカメラを持っていた。
紀子は呆然《ぼうぜん》として、その家族連れを見送った。
ほどなくして紀子は一本の道標に会った。木は真新しく、ペンキの字は鮮明だった。前方の矢印には〈獅々吼遊歩道へ〇・五キロ〉と記されていた。後方の矢印は〈新指《あらゆび》バス停へ一・三キロ〉とあった。紀子の知らない地名だった。にしても、獅々吼遊歩道とは何のことか判らなかった。
手際《てぎわ》よく移植されたヒノキ、整備された道、苔《こけ》を洗われた道祖神、家族連れ、遊歩道……一体、ここは本当に獅々吼峡なのだろうか。かつて紀子が呼吸したことのある空気などありはしないのだ。
うす暗く樹木が重なり、陰気に荒廃した土地。雨が多く、霧の中に沈み勝ちで、渓流はすぐ増水して荒れ狂う。寒々として活力のない祭。古い神社には常住の神主もいず、御籤所にはただ箱が置いてあるだけだった。
――五十二番、凶、待ち人来たらず。
そう、待ち人は来なかった。晃二はあの日、最後まで紀子の前に姿を現わさなかった。
重吉岩の頂上から降りた紀子は、そのまま晃二の家に戻ったのだ。家は朝、紀子が出たときのままになっていた。
――あの家には、今、誰も住んじゃいねえすよ。
あの老女の言うとおりだった。家具類の運び出された跡、薄く積った埃《ほこり》、澱《おり》の浮いていた湯船。
――ガスがまだ残っていて、よかった。
と、晃二は言った。今思えばこの言い方は変だった。そのうち、誰もいないこの家に工事人が現われて、ガスボンベや湯沸器も持ち去られることになっていたのだろう。
その上、あの人は晃二ではなかった。何かの理由で埴田晃二を名乗ったが、本当は違う人物なのだ。千字村の人でもないと思われるふしもある。
――この村の人?
と、紀子が訊いたとき、肯定の言葉の前に、微妙な間《ま》があった。とすると、もうあの人はここには戻って来ることがないように思えた。
あの人は誰だろう? だが、紀子にとって、あの人が晃二以外の何者でもなかった。もしかすると、その晃二はこの家に姿を現わすかも知れない。可能性の薄い予想だった。一縷《いちる》の望みを託して、紀子は待った。
だが、晃二はついに戻らなかった。
翌朝、紀子は晃二の家を出た。霧は薄れ、弱い日が差していた。
もう一度、耳成神社に立ち寄ってみた。神殿は閉ざされ、篝火も片付けられていた。とても、去日、祭があったとは思えないたたずまいだ。紀子はぼんやりと御籤を引いた。
――八十九番。
それが、吉やら凶やら判らないのは承知の上でだった。紀子はそのまま道祖神の前を通って、玉助温泉に向った。
その土地を離れると、千字村での奇妙な体験は、みるみる現実感を失っていった。記憶だけが宙に浮き、夢の中の出来事と変移されていった。
だが、殺されたと言われる埴田晃二のことが、何か気がかりだった。紀子は図書館に出掛け、ひと月ばかり前の新聞の地方版を繰ってみた。埴田晃二の名は、確かに記載されていた。不鮮明だったが顔写真もあった。紀子の全く知らない顔だ。無論、紀子が知っている晃二とは似ても似つかなかった。
新聞の記事によると、埴田晃二殺害事件の経緯《けいい》はこうである。
屍体《したい》の発見者は、建設会社の工事人。たまたま千字川の川床に降りたとき、一銭岩の近くで、上半身を川に沈めている男の屍体を発見した。変死の疑いが濃厚であり、県警察が解剖した結果、体内から毒物が発見された。毒物は青酸性化合物だが、被害者の直接の死因は窒息によるもので、身体の変調に気付いた被害者が水を飲もうとして川辺に降り、そのまま力を失って水に沈んだものと推定される。
被害者は埴田晃二。二十三歳。定職はなく、それまで長いこと東京でガソリンスタンドの車整備工だった。近所の付き合いも少なく、人に怨《うら》まれるようなことはなかった。
晃二は妻帯している。妻の名は緋紗江《ひさえ》。結婚して二た月あまりだ。
犯人は不明。その頃、身元不明の若い女性が、千字荘という民宿に投宿していたが、晃二の死と前後して行方《ゆくえ》をくらましていることが判り、警察ではその女性を事件の重要な関係者として、聞き込みを続けている。
だいたい、新聞に報道されていたのは、以上のようなことだった。その後日については、晃二殺人事件の記事は見付からなかった。
紀子はすぐ興味を失った。その事件の埴田晃二と、紀子の知っている晃二とは、全く別人だったし、晃二の妻、緋紗江という女性も、行方不明になっているという謎《なぞ》の女も、全く自分と語りあった晃二とは関係がなく思えたからだった。
あの村で起った殺人事件は村人にどんな反響を起しただろうか。大騒ぎになるとは思えなかった。きっとおまけさんの祭のように静かなまま、自然と忘れ去られてゆくのだろう。
紀子が再び獅々吼峡を訪れる気になったのは、そうした事件とは関係がなかった。日がたつにつれ、あのときの風物がなつかしく思われたからだ。その印象が薄らいでゆくことに、恐怖さえ感じたのだ。冬期には獅々吼峡が雪に閉ざされると思うと、じっとしてはいられなくなった。獅々吼峡への思慕は、実は晃二への恋だということを知った。今となると、あのまま獅々吼峡を去る気になった自分を口惜しく思った。思い掛けない交情のあとの羞《はじ》らいがあったにしろ、なぜ、もっといろいろな人に、晃二のことを問いたださなかったのだろう。
晃二との再会は、初めから期待しなかった。後の絶望を恐れたためだ。だが、すっかり変貌《へんぼう》してしまった獅々吼峡の景色に、そのわずかな希望も更に薄らいでゆくのを感じた。
――千字川はどうなっているだろう?
耳成神社、重吉岩、一銭岩――そうしたものが変化しているとは思えなかった。とは言うものの、現在こうして、樹木から滲出《しんしゆつ》する木精《こだま》も感じられないのだ。
紀子は足を早めた。ほとんど一気に粕山の尾根に立った。
いきなり視界が開け、青い空が広がった。紀子は空の下を見た。そして、愕然《がくぜん》として立ち尽した。
獅々吼峡が消えていた!
紀子は目を疑った。だが、確固とした現実が、そこに広がっていた。
尾根をまたぐ道は、左側にそれて、粕山の山腹をはっている。紀子が前に通ったことのある、岩間伝いの険隘《けんあい》な道はどこにも見えなかった。その道のあったあたりに、満々とした水が打ち寄せていた。水は千字川を呑み尽したのだ。獅々吼峡は、穏やかな水をいっぱいに湛《たた》えた、湖になっていた。
紀子は遠くに目を移した。見覚えのある山頂が見えた。五合山、叔父岳。
山に囲まれた湖の面は、何万年の古代からそこにあったような顔をしていた。風が渡ると、湖は紀子に細やかな白いさざ波を立てて見せた。
湖の左手に、大きく突き出された岬《みさき》が見えた。それがわずかに残された重吉岩の頂上だった。――とすれば、一銭岩はおろか、晃二の家も、耳成神社も、いや、千字村の大半は、湖水の底深く沈んでしまったことになるのだった。
遊歩道は湖畔をめぐっているようだった。紀子は灰色の人工の道を歩いた。道は適当な上下の勾配がつけられ、歩行者を飽きさせない屈折が作られていた。開けた場所には、コンクリートのベンチがしつらえてあった。やがて、重吉岩に当ると、さすがこの岩壁は遠慮され、道は大きく重吉岩の裏側にそれていった。
耳成神社の奥殿に登る石段を見付けた。そこは重吉岩の頂上に近いところで、普通の歩行者なら、それが段であることさえ気付かぬだろうが、紀子は見逃さなかった。道の傍の段は、コンクリートで固められ、乗り越すことが出来ないようにされていたが、紀子は無理に這《は》い上った。コンクリートの上に立つと、まだ錆びた鎖が残されているのを見付けた。
重吉岩の頂上は、そのままの姿で残されていた。そのうち、この場所も新しい社が建てられ、柵《さく》が取り付けられて、恰好《かつこう》な展望台にされるのだろう。
重吉岩に立つと、湖面は一望のうちに視界に収めることが出来た。対岸の緑は、もうところどころに紅葉を混えていたが、紀子はそれを賞美する気にはなれなかった。
湖の左奥に、山に半分ほど隠れている白い物を認めた。幾何学的な、真白い壁だった。白い壁は日光をはね返し、水を堰《せ》き止めていた。
――ダムが作られたのだ。
あの日、霧がなければ、このダムを見たかも知れない。ひと月たらずの間に、ダムが建設されることはないだろう。あのとき、獅々吼峡はすでにダム工事の最中だったのだ。
とすれば、あのときの荒涼とした風景の謎も解けてくる。
湖底に水没するはずの田畠が放置されていた理由も判る。樹は移植が予定されていればこそ、手入れの時期を待っていたのだ。新しい道はダンプカーやパワーシャベルが通るために作られた。
――最後のおまけさんです。
そう、耳成神社も水没し、氏子もちりぢりに離村することになっていたのだ。
同じ理由で、屋根の傾いた晃二の家は、もう家人が転居した後の空《あ》き屋だった。
紀子は完全に晃二と出会う希望が切断されたことを知った。ダムの堤防の上に蟻《あり》のように這うバスが見えた。
紀子は堤防の上に立った。
堤防の端に立てられた説明を読んだばかりだった。
獅々吼ダム。高さ百六メートル、堤頂長二百二十メートル、貯水量五千万立方メートル、農業用|灌漑《かんがい》、発電、工業用水のために建設された多目的ダムであり……
紀子は最後まで目を通す気はなくなった。単語も数字も、無意味な羅列にすぎなかった。紀子はその傍を離れた。
堤防のたもとに太い松が立っていた。その松も剪定《せんてい》され、菰《こも》が巻かれてあった。その松の下にパーゾウが坐っていた。
紀子はパーゾウに近寄った。自分でも無意味な行動だということは知っていたが、どうせ堤防の上を歩く途中だった。
「私のこと、覚えている?」
と、紀子は声を掛けた。パーゾウはびくっとしたような顔で紀子を見た。あのときと、同じ表情だった。
「私のこと、覚えている?」
紀子は機械的に繰り返した。パーゾウは重く首を横に振った。
バスが着き、二十人ばかりの乗客が降りてきた。乗客の服装はいずれも派手やかだった。
乗客は思い思いに堤防の上に散った。
バスは駅に直結されているのだろう。その道は建設用の資材が運ばれるために作られたものに違いない。
紀子は長いこと堤防の上に立って水を見ていた。水は澄んでいれば澄んでいるほど、よそよそしく見えた。遊歩道のそこここに、小さな人の姿が動いていた。そのうち、観光地の一つとして、人々は獅々吼ダムを埋め尽すようになるだろう。
紀子の傍を、制服の巡査が通りかかった。紀子はその顔を覚えていた。祭のとき耳成神社の境内を巡邏《じゆんら》していた警官だった。
「ちょっとお尋ねしたいことがあります」
紀子は巡査の前に立った。
「ダム建設のために、水没した村の人のことで、お聞きしたいことがあるんですけれど……」
二章 晃《こう》 二《じ》
一
エンジンが軽い音をたてている。聞き飽きない音だった。ハンドルの触覚を心ゆくまで味わいながら、素晴らしい車だと、晃二は思う。
セラピムS5。優美なスポーツカーだ。クローズドボディの二座席。限りない贅沢《ぜいたく》さ、超高性能といった面では、無論不充分だが、それ以上の欲を出せば罰《ばち》が当りそうだ。これまでの晃二にとって、スポーツカーを手に入れるなど、夢にも思ってみないことだった。
一時、パンサーJ72に夢中だったことがある。まるで、熱病みたいだった。以来、同僚は晃二のことをパンサーと呼ぶようになったほどだ。
今までの晃二なら、ガソリンスタンドの整備工として、たまに乗り入れて来る客の、そうしたスポーツカーやラグジュアリカーを、溜《た》め息とともに触って満足するだけだ。そのうち俺《おれ》も一台という気持だけは強く、従って業務にはとりわけ熱心で、勤務態度もひと一倍|真面目《まじめ》だった。だから、突然の辞職は、営業主を驚かせ、惜しがらせたものだ。あのときの同僚も、パンサーがこうして、セラピムを乗り廻しているとは想像することだってできないはずだ。
セラピムの加速は、静かで迅速《じんそく》だった。高速道路での乗り心地《ごこち》は言うまでもなく、曲りくねって上り下りの激しい山道での走行に、セラピムは威力を発揮した。
キャビンはゆったりとして快適だった。シートに使われている杉綾織《すぎあやお》りのファブリックの肌触《はだざわ》りも抜群だ。ドアの内張りも同じ材質。アクセサリーも贅沢だ。AM、FM、カセットステレオ、エアコンディショナー、メーターパネルなど、メカニズムを強調したデザインで、カー好きの嗜好《しこう》を満足させている。
晃二はフロントガラスに、小さな木彫りの人形をぶら下げた。胸と腰が大きい黒い女の裸像で、昔、人からもらった気に入りのアフリカ土産《みやげ》だ。
キーには、まだホルダーを付けていなかった。
――どんなホルダーにしようかな。
そんなことを考えるだけでも、気がわくわくするのだ。
「目立つからな。昼間はあまり乗り廻《まわ》さない方がいいぜ」
と、セラピムの世話をした金海芳男《かなみよしお》が言った。
「どうしてだ?」
晃二は不満だったが、金海の気持はよく判《わか》る。彼はほとんど白に近い、セラピムを見る村人の目を気にしているのだ。
従って、晃二がセラピムの楽しさを味わうのは主に日が落ちてからか、日の登らぬ早朝に限られていた。ダムの資材を運ぶために作られた工事用道路から、高速道路に出ると、晃二の胸はいつも高鳴る。セラピムを疾走《しつそう》させると、自分のものになったという実感に、満ち足りた酔いを感じるのだ。
だが、この日のドライブは夜中ではなく、人目につく昼間だった。金海の気にする村人の全《すべ》ては、深沢《ふかざわ》の家の法要に招かれている。晃二は心のままにセラピムを走らせた後、重吉岩を廻って、車を千字川の傍に止めた。人目に付きにくい場所だった。工事用の道路は充分すぎる広さがあり、すぐ川の傍まで続いていたが、削岩《さくがん》が終った後で、工事人の姿はなかったし、村人も千字川に降りて来るような場所でもなかった。
晃二はセラピムを岩陰に停《と》めると車を出た。これから深沢の家まで、二キロの道を歩かなければならないと思うと、気が重かった。だが、人目をはばからなければならないのも、ここ一、二日が峠《とうげ》に違いない。金海もそっと教えた。もしかすると、帰りには村人の前にセラピムを誇らしげに乗り廻すことが出来るようになるかも知れない。
五月の日差しは強く、雲の動きは激しかった。湿度が高く、車から出た晃二は何度も汗を拭《ふ》いた。
それにしても、深沢|源吉《げんきち》の死は有難い出来事だった。源吉の死亡の知らせを受けたとき、晃二は内心で、しめたと思ったのだ。人の死を喜んだ経験などなかったが、これは晃二ばかりではなく、村人の半数以上は、ほっとした気持になったことは事実だろう。死因は咽喉癌《いんこうがん》。行年《ぎようねん》七十二歳。あまり多くのことを、大声で喋《しやべ》るようになったからだろうと、村人が噂《うわさ》し合った。それを教えてくれたのはパーゾウだった。
村人が噂《うわさ》し合うまでもなく、深沢源吉は実によく喋った。ここ一、二年、彼は物に憑《つ》かれたように喋った。喋るばかりではなく、どこで調べて来るのか、膨大《ぼうだい》な資料を集めて来ては、村人を自分の家に集めて、説明会を開いた。そしてよく遠い土地に出掛けて行った。同じ立場にあった人たちと会い、精《くわ》しい事情を聞きただして帰り、村人に報告した。精力的な源吉の活動は自分の死期を早めたという噂には、真実感が溢《あふ》れていた。
晃二が千字村に戻《もど》ったのは三月だった。獅々吼峡《ししくきよう》にはまだ深い雪が残っていた。母親の死の衝撃《しようげき》が収まらぬまま、晃二は久しく見なかった自分の、傾いた茅葺《かやぶき》の屋根の前に立った。
母親はまだ若かった。数年前、夫に先立たれたが、極めて元気だった。晃二が東京へ出るときにも、あえて反対はしなかった。自分一人で充分にやってゆける。彼女はそう言い切った。
突然の死だった。彼女は工事用に拡張された国道で、ボーリングマシンを運ぶトラクターに撥《は》ねられたのだ。即死だった。
そのときの面倒を一切見てくれたのも、源吉だった。
「おまきさんの仇は、きっと取ってやるからな」
と、源吉は言った。
源吉がダム建設反対運動の指導者であり、狂熱的なダム建設阻止運動を続けていることを、そのとき初めて知った。晃二は否応《いやおう》なく、反対期成会の一員として入会させられた。反対期成会は、ダム建設による水没住民たちから、下流の農民とも手を組み、近いうちに全日農と労組に働きかけ、労農|提携《ていけい》による反対運動にまで盛り上げるのだと、源吉は息まいた。
「低地農民というと、ダムによって灌漑《かんがい》の利益を受けるはずじゃないんですか?」
晃二は利益を受ける農民の反対ということが、初めのうち理解出来なかった。源吉は晃二の無知を笑った。
「受益地域の農民は、ダム建設の負担金を取られることさ恐ろしがってるだ」
「農民が負担金を出す?」
晃二は意外に思った。源吉は先祖が庄屋だったことを、いつも鼻にかけているような、頑固《がんこ》だが気のいいところもある老人だった。源吉は精《くわ》しく反対運動の経過を説明した。
源吉の話によると、こうである。
法律によると、ダム建設費は、一部国の財政負担となるが、残りは県、電力会社、受益農民で負担しなければならない。ところが、これまで方々のダム建設地を調査してみると、負担金の割当て方が、実に不明朗である。いずれも専門の工学者や経済学者の手になるのだが、いつの場合を見ても、割当ては農民に取って明らかに不利だと、源吉は断言する。そのうえに、負担金の割当てが円満に片付いたとしても、他の不安は消え去らない。
第一に洪水《こうずい》と旱魃《かんばつ》の心配。ダムが建設されて洪水と旱魅を心配するのは皮肉な話だが、電力会社がからんでくると必然的にそうなる。水力発電の原理は、高い所にある水が、低い所に落ちる、そのエネルギーを電力に変えることだ。水の落差と水量で発電出力の強弱が定まってしまう。ということは、電力会社はダムの水位をいつも一定にしておかないと、儲《もう》からないわけだ。従って、下流農民が水を欲しがっても、電力会社はなかなか放水したがらないのが通例である。また、豪雨などでいきなり水位が上ると、ダムの破損を恐れて、あわてて大量に放水し、その治水能力のない下流が、洪水にみまわれた例があちこちに起こっている。更に、それまで急流だった川が緩やかになったため、土砂が堆積《たいせき》して河床が上り、それが洪水の原因となった例もある。
農民の反対する第二の理由は、現在必ずしもダムの必要を認めない人が、意外に多いのである。負担金まで払っても、現在とそう変らなければ金を出したくないのは人情だ。今まで、下流は数多く氾濫《はんらん》の経験があったものの、重吉岩が教えるまでもなく、開発の歴史も長い。自然と足並みを揃《そろ》える沿岸住民の知慧《ちえ》で、これまで治水治山がゆき届き、比較的安定した河川だった。河畔《かはん》は樹木に恵まれ、灌漑《かんがい》や舟の運送、観光と、住民との付き合いは深かった。今、ここに突然ダムが建設されると、自然破壊がどんな形で環境の変化をもたらすか判らない。すでに、受益地返上を申し出た村もあるのだ。
こういう農民の反対を押し切り、なお工事を強行しようとするには、それだけの理由がなければならない。
「ここが一番重要だ。しっかと聞くだぞ」
と、源吉は言った。
つまり、ダム建設には電力会社が強い要望を持っているからであり、単なる電力ダムの建設では、会社が用地買収、電力設備、本体の築造に、巨額な資金が必要になる。ところが、洪水調整、灌漑などという公共の名目を付ければ、膨大な金を国と農民に負担させることが出来る。結果的に、防災ダムとは名ばかりで、これは公共を隠れ蓑《みの》にした電力会社及び、土建資本、大手工場のための計画に外《ほか》ならない。
水没住民のために、県の職員や学者が村に来て、何度も説明会を開いた。
「初めのうち、奴等《やつら》はやれ洪水調節だあ、灌漑用水だあとぬかしただ。発電と言う言葉あまり聞かねがった」
源吉がおかしいと気付いたのは、ダムの下流にパルプ工場が出来るという噂を耳にしてからだ。それまで、源吉はこうまで激しい反対論者ではなかった。感情的なこじれが、源吉の態度を硬化させた。
パルプ工場は下筋《しもすじ》製紙工場、下筋|清《きよし》という男の経営だった。下筋清の兄に、高志《たかし》という代議士がいる。下筋一家は千字川に合流する場代川、つまり千字村とは川を二つへだてた対岸に土地を持ち、強い勢力を張っていた。下筋の村は獅々吼峡にダムが建設されても、水没を免がれる場所にある。ダムが出来て一番利益を受けるのは、下筋一家とその門族である。おかしい、と思った源吉の予感は当っていた。
初め計画されていたダムサイトの予定地は、獅々吼峡ではなかったことが判った。場代川の上流、現在予定されているダムサイトの上流四キロの地点だった。このあたり雨谷《あまがや》は下筋代議士の選挙地盤である。
源吉はダムサイトの予定地の変更理由を糺《ただ》した。理由は整然としていた。最初の予定地雨谷の地盤が弱く、ダムサイトには不適性だというのだった。だが、源吉はひるまなかった。独自で何人もの学者を招聘《しようへい》し、現在のダムサイト予定地に活断層が走っていることを発見してしまった。
それについて、県の係官はこう説明した。活断層と言うと、いかにも不気味な響を持つが、それは活断層の意味をよく知らないからである。活断層とは地盤に割れ目が出来て地層がくいちがう現象だが、それは最近十数万年の間に少なくとも一度動いたことのある断層を呼ぶのである。獅々吼峡の断層は小さく、しかも十万年前に出来たもので、活断層という名もふさわしくなく、それよりも、地盤の軟弱であることの方が、はるかに危険性が強いというのだ。
自分を無学扱いにされた源吉は怒った。源吉は精力的に全国を廻り、ダム建設反対闘争の経験のある人々から、その実情を聞いて歩いた。
源吉の結論はこうである。ダム建設のとき、電力会社などの資本が介入すると、その利潤追求から公害の発生が起きやすく、その被害を受けるのは全て農民である。
源吉はただちに、獅々吼峡ダム建設反対期成会を結成した。反対理由をまとめると、次のようになる。
一、公共性への疑惑。これは公共性の名のもとに、一部の電力、土建、製紙工場の利益のための計画である。
二、ダムサイトの地質の不適性。
三、技術的不信。下流水害や旱魃回避の裏付けがない。
四、自然破壊による環境公害への不安。
五、下流農民のダム欲求感の欠如。
その他である。
源吉の言葉は熱っぽく、淀《よど》みがなかった。おそらく、繰返し繰返し村人を説得させ続けて来たのだろう。
最後に源吉はこう言った。
「おまきさんを殺したのも、建設会社の奴らだど。口惜しいべなあ」
晃二の怒りを煽《あお》りたて、若い強力な反対派を作ろうとしたのだ。
だが、晃二の立場は少し違っていた。母親の交通事故は口惜しいには違いないが、それがそのまま建設会社への怒りに連なることはないのだ。東京で生活すれば、至るところに事故を目撃する。交通事故の報道のない日はない。晃二にとって母親の交通事故は、もはや天災に遭遇《そうぐう》したときと同じ諦《あきら》めの心しか起こさなかった。
まきの死に関係会社の対応も誠意を尽したものだった。それは源吉の見えない場所で行なわれた。その場には、いつも金海芳男がいあわせた。
源吉の言い分は一々もっともだった。下筋一族の暗躍も目に見えるようだったし、大手資本の汚なさも充分に理解することが出来る。だが、晃二の場合、源吉と違うことは、自分の土地に愛着が薄いという点だった。
小さい時から馴《な》れ親しんで来た山川、自分の家畠が湖底に沈んでしまうと思えば、人並の残念さは感じる。ダム建設が中止になればなあとは思う。だが、源吉のように、生命までかけて反対するほどの気にはなれなかった。
晃二は母の死をきっかけに、この土地を手放す気で帰郷したのだ。
晃二の父は叔父《おじ》の死後、千字村に移って、この家を継いだのである。母も千字村の生れではない。そのためか、土地の人とは親密でなく、晃二はむしろ人の態度に軽い侮蔑《ぶべつ》の目さえ感じることがあった。「下《しも》の埴田《はにだ》」などと呼ばれるのも一例だ。母がおまけさんになった日のことを忘れることが出来ない。白く化粧《けしよう》し、おまけさんの衣装を着けて、山車《だし》に乗った母を、晃二はわくわくしながら見ほれていた。母は美しかった。あれが母だとは信じられない身のこなしに感動した。そのとき、見物の一人が、母に向かって卑猥《ひわい》な言葉を投げ掛けた。村人の多くがその野次に付和して笑い声をあげた。
はっきり言い切ってしまえば、この土地に未練などないのだ。もともと、土地さえ売れれば、母と都会生活を始める計画でいた。だから、始めて獅々吼峡にダムが出来る話を聞いたときには、密《ひそ》かにうまいぞと思ったのだ。
源吉の話には説得力があった。充分に納得《なつとく》がゆき、源吉の怒る理由も判った。だが、晃二は、頑強《がんきよう》な反対運動などは迷惑だった。ダム建設の計画が流れ、土地の買収がなくなれば、困るのは晃二なのだ。
だが、晃二は源吉の話にうなずき、ダム建設反対期成会に入会した。反対が強ければ、土地買収の地価が上るだろうと踏んだからだった。
源吉の家から戻ると、金海芳男が待っていた。金海は一升瓶《いつしようびん》をぶら下げていた。金海とは小学校を同級だったが、親しかったわけではない。むしろ逆で、言葉を交したことさえ思い出せない。金海は東京で働いていたはずだった。勤務先は下筋高志の事務所だ。晃二は金海の来意を知って苦笑した。
「俺は酒が飲めないんだ」
金海はもう抜け上り始めた額に、短い皺《しわ》を歪《ゆが》めた。
「ほう、そうだったか。一滴もだめか。知らなかったなあ」
金海は照れ隠しのように、昔の同級の噂など始め、しきりに懐かしがってから、
「ところで、源|爺《じ》いのところへ呼ばれたろう?」
と、本題に入って来た。
「たった今、ダム建設反対期成会というのに入会したばかりだ」
金海は自分だけで酒を飲んでいた。胸の内はすぐに判る。酔ったふりをして、いろいろなことを聞き出そうというのだろう。
「つまり、無理に入会させられたわけだろう」
「――いや、源爺いさんから精しく聞かされてね、大いに感じるところがあったんだ」
「それはそうだろう。だが、反対期成会の中には、本心で弱っている人も多いんだ。お前のために忠告しておくがね、源爺いは片意地を張っているのさ」
「片意地?」
「そうだ。源爺いは犬石《いぬいし》村長の向こうを張る気でいるんだ」
「犬石村長? そうかな」
犬石|六蔵《ろくぞう》、千字村の村長だった。深沢源吉とひどく仲が悪いことは晃二も知っていた。
「そうさ。聞いたかも知れないが、この前の村長選のとき、源爺いは惨敗したろう。自分の支持がないことは棚《たな》に上げて、犬石村長を逆怨《さかうら》みしているんだ」
それなら聞いている。晃二が聞いたところでは、犬石六蔵が極めて汚い手を使ったと言うのだった。
犬石がダム建設に対して、唯々諾々《いいだくだく》としている気持も判る。県に従順な態度を示しておけば、将来損のないことを秤《はかり》に掛けたのだろう。例え自分の家がダムの底に沈んだとしても。
「ここだけの話だが、源爺いの頑迷《がんめい》には皆が迷惑しているんだ。中には争いなど好まず、皆のためになることだから建設に協力しようと思っている人だっているだろう」
「それはそうだ」
「それが私怨《しえん》のためにわけもない反対をされては困るわけだ。若い者は皆そう言っている。晃二も源爺いの言い分ばかり聞いていては片手落だな。両方の意見も知ってから、自分の立場を定めた方がいい。晃二は永く村にいなかったから、事情が判りにくいかも知れないがね。県や建設会社の行き届いた説明会も、毎日のように開かれていたんだ」
その案内なら、東京にいる晃二のところへも届いていた。
「ダム建設当局は、誠意のありたけを尽したと思うな。調査隊だって、住民の知らぬ間にくり込んだわけじゃない。いざとなれば、地域開発関係法令を持ち出して、土地収用法を発動すれば、強制立退きということにもなるんだが、そんな手段があるなどとは態度に出したこともなかった。あくまで、民主的な話し合いを進めようとしているわけだ。まして、札束を積み上げたり、いわゆる泣き落しや脅《おど》しなどはもっての外だ。ほとんどの人は、下流住民が洪水の恐怖の解消や、旱魃対策に、ダムの建設を切望していると、諄《じゆん》々《じゆん》と説き聞かされて、心を動かされているところなんだ」
「源吉爺いさんをかたくなにさせたのは何だったのだい」
「さっきも話したとおり、犬石村長への反感さ、最初、県の高官が千字村に来たとき、犬石村長が大騒ぎしたのがよくなかったね。下へも置かないもてなしで、いい子になりたかったのだろう。自分の一存で、わしがいる限り、御心配さありませんと言って帰した。無論、源爺いさんなどに相談もなしにだ。あとでそれが源爺いさんの耳に入ったわけだが、源爺いさんも大人気《おとなげ》がないとは思わないか」
金海はダム建設当局の誠意をくどいほど話した。土地収用法など、そう簡単に発動されないことは、晃二もよく知っていた。だが当分は金海の手に乗る気でいた。晃二は熱心に金海の話を聞くふりをした。
「また、東京へ帰るんだろう?」
帰りがけに金海が訊《き》いた。
「そうだ」
「東京で仕事を続けるのだろう」
晃二はちょっと考えて答えた。
「久し振りに帰って見て、実は心が動いているんだ。東京にも飽きてしまった。所詮《しよせん》、俺は田舎者《いなかもの》だと気付いた。帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす、という心境になった」
金海は複雑な顔をした。
「――俺もそのうち東京に戻るんだ。どこかで会うかも知れないな」
金海はそう言うと帰って行った。
晃二は金海が置いて行った香典《こうでん》の包みを開けた。金海としては不相応な額が入っていた。
母の埋葬には、大勢の人が立ち会った。最初奇異な感じがしたが、その理由はほぼ察しがつく。村人は仲間外れを極度に恐れているのだ。言葉こそ少ないが、互いに相手の腹を探っているのが判った。そのいずれも、気力のない表情だった。朝から酒臭い息を吐いている男もあった。
墓地はまだ雪に覆われていた。雪が起こされると、黒い土が現われた。棺《ひつぎ》が置かれ読経《どきよう》とともに、雪の混った土が掛けられた。
群れの端にパーゾウの姿が見えた。晃二はそっと、あとで家に寄るように言った。
金海の言うことは、満更《まんざら》誇張だけでもないと晃二は思った。明らかに村を放棄している人間も目につく。朝から酒臭いのは、貰《もら》い物の酒に、働く気力を失った証拠《しようこ》である。その酒はダム公団、銀行、住宅会社からの差し入れに違いない。
家に戻ると、パーゾウが現われた。パーゾウの産まれはどこか誰も知らない。家族もない。雪の間は村を離れるが、どこに行くのか知る人はいない。村人が判っていることは、パーゾウが女嫌《おんなぎら》いのこと、村の情報を実によく知っていることの二つである。
晃二は金海の残して行った酒瓶をそっくりパーゾウに与えた。彼の話で晃二の推測はだいたい当っていることが判った。源吉と金海の話を混ぜて、二で割ったものが大体の村人の色あいだった。すでに、秘密のうちに土地売買の約束をした男もいる。
「一番早かったのは、北の埴田のおっさんだな。それから、駐在の三森《みつもり》の巡査さん」
と、パーゾウは教えた。三森巡査が県の計画に反対しないのは当然だった。北の埴田というのは埴田|栄吉《えいきち》のことだ。頬《ほお》に大きな瘤《こぶ》のある男で、普段はそう素走っこい男とは思えなかった。確か深沢源吉とも仲が良かったはずだ。
「北の埴田さんも反対期成会の一員だと思ったがな」
「そうすよ。だども期成会の中にも、北の埴田のおっさんのつてで、土地を売る約束さした人もたくさんいるす」
それによって、埴田もなにがしかの利も受けているようだった。
「埴田のおっさんは、だいぶ借金を抱えていなさったからな」
「借金?」
「んだす。博打《ばくち》の借金だす」
パーゾウの話によると、期成会のうち、約半数は土地売買の約束、もしくはそれに似た申し合わせをしている。残りの期成会員の中にも心が動きかけている人が何人かいるのだ。
「とすると、源吉爺いさんの反対運動の前途も、なかなか至難なわけだ」
「でもねえすよ。源爺いさんは、そんなこと百も承知だす。村の衆が頼りんならねえで、下の農家と手を握っているすよ」
源吉は下流農民と提携したと言った。そして、近いうちに全日農と労組を動かすのだといきまいていたのだ。パーゾウの話によると、こうした反対で、現に建設の中止にあったダム計画も各所にあるということだ。
パーゾウが帰った後、晃二は考えをめぐらしたが、結局自分はまだ立場を定めない方が得策のように思えた。翌日、晃二は東京に戻った。
東京で金海芳男と再会した。
思い掛けないことだった。「俺もそのうち東京に戻るんだ。どこかで会うかも知れないな」と別れ際にお世辞めいて言った金海の言葉が本当になった。
金海は黒い乗用車を運転して、晃二のいるガソリンスタンドに乗り入れたのだ。豪勢なラグジュアリカーだった。運転席の横に、三十前後の肥った女がいて、金海に手をからませていた。
金海は給油しているのが晃二だとは最後まで気付かなかった。晃二は帽子を取って、丁寧《ていねい》に頭を下げた。目が合うと、金海の表情が動揺した。晃二は片目を閉じ、そのまま事務所に戻った。
「パンサー、知り合いか?」
と、同僚が訊いた。晃二は笑って何も答えなかった。
翌日、金海から電話が掛って来た。喫茶店で会った金海は胸を張っていた。晃二にはそれが虚勢に見えた。
「千字村の、君の土地のことだが」
金海は物馴《ものな》れた態度で話しだした。カメラでも売買するような気易さだった。晃二にはそれも空威《からおど》しに見えた。
「君は国に帰って農業をする気でいるようだけれど、それは無理だぜ」
「どうして?」
「反対期成会のほとんどが、土地売買の約束をしてしまった」
「でも……」
「君だから教えるんだ。ぐずぐずしていると手遅れになるぜ、土地収用法が発動されれば、あぶはち取らずになる」
「全日農は動かないのか?」
「駄目《だめ》だね。いいかい、もしその気があるなら、今のうちだ。悪いようにはしない。他の人に言ってもらっては困るが、僕が直接下筋先生に当ってやる。どうだい」
「土地なんかより……」
晃二はわざと気のないような声を出した。
「今の俺は、欲しいものが一つだけあるんだがなあ」
「ほう?」
金海の目が輝いた。
「――女じゃ、ないぜ」
晃二は低い声で言った。金海は額の皺《しわ》を歪《ゆが》めた。
「早く言えよ」
「実はセラピムS5が気に入っているんだ」
「セラピムS5ね。こりゃ、流石《さすが》だよ、晃二」
金海は嬉《うれ》しそうに笑った。
「あの車はいいぜ。ほとんどの女がすぐ気に入る。山道にももってこいだ。まかしておけよ。何んとかする」
金海は喫茶店の伝票をポケットに入れた。
「――それから、昨日の……」
言いにくそうなので、晃二は助けてやった。
「俺のところは、お客さんが多くてね。誰が来たかなど、とても覚え切れるもんじゃないよ」
金海は手を差し伸べた。固い手だった。
金海が帰った後、晃二は昨日車の中にいた女を思い出していた。濃艶《のうえん》な感じのする女だった。晃二に見られたことを気にしているところをみると、わけのありそうな女に思えた。金海の言う、下筋先生の何かだろうか。だが、そんなことはどうでもよかった。セラピムがこの手に入りそうなのだ。ただそのことが晃二の心を占めていた。
一週間ほどすると、金海がセラピムを運転して来た。同僚の誰にもこのことは話さなかった。金海に頼まれたような顔をしてセラピムを運転した。満足だった。
晃二はその日のうちに辞表を書いた。理由は母が死んで、家を継がなければならないということにした。事務の整理が終わると、晃二はセラピムを駆って、千字村に戻った。
千字村は前にも増して荒涼とした姿になっていた。
雪は解け、緑は一斉《いつせい》にもえさかろうとしている。本来なら、最も忙しい季節なのだ。田植え祭も近いというのに、千字村では田畠の準備も怠《おこた》っていた。積雪による倒木もそのまま見捨てられてあった。
家の中に同窓会の通知が投げ込まれていた。幹事の中に金海芳男の名が見えた。会費は法外なほど安く、福引きの用意がありますと記されていた。ダム公団たちの、なし崩しの懐柔策が功を奏しているようだった。目には見えないが、手《て》土産《みやげ》を一杯抱えた銀行や保険会社や住宅会社の外交員が、村中を飛び廻っているに違いなかった。
源告は病床にあった。晃二の顔を見ると、涙を流した。涙は流すが、ダム反対への執念は一層強固になっていた。
「死んでも、千字村さあ水の底に沈めんぞ」
その声もほとんど出ないのだ。目だけが異様に光って見えた。
晃二は長々と反対闘争の作戦を聞かされた。その上、最後には下流農民の何人かを教えられ、その折衝《せつしよう》を依頼された。源吉は半分|妄想《もうそう》の中にあるようだった。晃二は鬼気さえ感じた。
晃二は源吉の依頼を抱えたまま、二、三日を過した。家のすぐ近くまで、工事用の新しい道が出来ていた。晃二の家の陰には、優美なセラピムが置いてあった。それを見ていると、源吉がどうあがいてみても、全く無駄な戦いのように思えるのだ。そこへ、源吉の死が告げられた。
その知らせを最初に持って来たのがパーゾウだった。
「源爺いさんの最後の言葉は恐かったす。死んで、ダムをぶち壊してやる。そう言ったす」
葬儀は派手やかだった。ひと目でそれからと判る供え物が山をなすばかりだった。その間に源吉の妻かねがおろおろ立ったり坐ったりしていた。
金海芳男の姿も見えた。金海は晃二に目くばせをして「俺の言うことを聞いておいて、よかったろう」というような顔をした。晃二は祭壇に積まれた香典の厚さが気になった。すでに、虚勢と浪費にひたり始めた村人の姿が、そこに見えるようだった。
こうして、事実上、ダム建設反対期成会は解体したのだった。改めて、ダム公団による説明会が開かれた。説明会と言っても、通り一遍の説明の後はすぐ酒となり、村人を気持よく遊ばせるだけだった。酒の飲めない晃二は馬鹿《ばか》らしくなり、一度だけで参加を止めてしまった。同窓会でも同じことだろう。出欠の葉書さえ出さず、行かないでいると、山のように土産が届いた。
それまで鳴りをひそめていた機械が、一度に動き出したようだった。村の中を歩く建設職員の姿も目立つようになった。
「工事は急ピッチで進められとりますよ。十月にはもう湛水《たんすい》だそうです」
と、パーゾウが言った。
「そんなに早く?」
晃二は驚いた。晃二の考えでは、完成はどう早くとも来年になると思っていたからだ。
「降雪の前に完成させるってことです」
又、反対派が再燃しないためにだろう、と晃二は思った。それにしても、余程準備期間に用意を整えたに違いない。村人の知らぬうちに、完成したのと同じほどの工事が進められていたものだろう。
説明会に出た記憶では、ダムの型式はコンクリートアーチダム、高さが百メートルほどで、堤防の長さは二百メートル余りである。規模は大して大きくはないのだが、最新のマシンと、最高の土木技術が投入されると言うことだった。古人の言う牛刀で鶏《とり》を割《さ》くことわざの通りで、それだけ公団は工事を急いでいることが判る。つまり公団は反対派の再挙をひどく恐れているのだ。
だが、下流農民はともかくも、水没地の住人の闘争意志は全く消滅したと言ってよかった。それが源吉の、四十九日の法要で決定的になる筈《はず》だった。
源吉の家に向かう途中で、埴田栄吉と一緒になった。栄吉の顔色は冴《さ》えなかった。パーゾウの話によると、財産分与のことで、息子《むすこ》たちとの間にいざこざが起こっているらしい。
「金ってもんは、いろんな悪戯《いたずら》をするもんですな」
パーゾウはぼんやりと晃二のセラピムを見ながらそう言った。
二
源吉の四十九日の法要は盛大だった。それが深沢家の意志というのではなく、村全体が寄ってたかって、派手にしてしまったという感じだった。
犬石村長の顔も見えた。痩《や》せていながら、横に広い顔が、いつも笑っていた。酔うと、
「明日の田植え祭にゃあ、おまけさんだど」
源吉の未亡人をからかった。
金海も来ていた。
「セラピムの調子、どうだい」
と、晃二に言った。晃二が満足していると答えると、
「外に置いてなかったぞ」
「今日は歩いて来た」
「まだ気を使っているのか。もう遠慮なく乗り廻したっていい」
と言って、晃二のジャンパーの肩を叩《たた》いた。
三森巡査は北の埴田栄吉に話し掛けられている。栄吉の表情は深刻だが、三森巡査はもう酔っているらしく、真面目《まじめ》な顔が続けられずに、ついに笑い顔になる。
座の半ばで、犬石村長が立つと挨拶《あいさつ》が始まった。型通りの故人の追悼《ついとう》が終ると、話を自然に建設中の獅々吼峡ダムに移していった。巧妙な話術だった。
晃二は不思議に思う。人が良く正直だが、頑迷だと言われる源吉、人当りはいいが腹では何を思っているか判らない犬石六蔵。二人は宿敵だったが、なぜか犬石の方に人気があった。と言って、村長は尊敬を集めていたわけではない。反対に馬鹿にされ笑われながら、犬石はいつも人気を集めることが出来た。源吉の思考は理知的だった。村人の不利を救おうとする情熱にも燃えていた。にもかかわらず、源吉は皆から背を向けられて敗れ去った。
犬石村長は言う。
「皆さん御承知のことと思いまするが、獅々吼峡にダムが建設されると聞いて、真っ先に反対をしたのは源吉さんでありました。源吉さんの考えは正しかった。わしらの先祖が血と汗さ流した土地を見捨てることは誰にも出来ない。だども、よく考えてみますれば、ダム建設ちゅうのは、わし等個人の問題ではないす。千字村五十戸が犠牲になって、何万の人さ幸せになれば御先祖も賛成してくれるはずだ。また犠牲と言っても、身一つで村を出るわげじゃないす。それに準じた補償があるわげだ。源吉さんに最後まで判ってもれえねかったことは残念でしたが、深沢未亡人に膝《ひざ》を割って話すと、そりゃ村長さんの言うことももっともだと理解してくれたんだ。したがって、残念なことではあるが、千字村全体はダム建設に協力することになったす」
つまり、反対期成会の解散宣言だった。
この後、いつやって来たのか、下筋代議士が現われて、談話を始めた。
下筋は薄い唇《くちびる》を天井《てんじよう》に向けるようにして喋《しやべ》った。強そうな筋肉が、顔中に動いた。法要の客は静かだった。静かに酒を飲んでいた。反感と憎悪と利害とを静める儀式として、いつものように酒を飲んでいるようだった。
下筋は深沢源吉の徳を讃《たた》えたが、白々しく客の頭の上を通りすぎるだけだった。話し合いは民主的だと強調したが、客のあくびを誘っただけだった。ダムの重要性はもう手応《てごた》えを示さなかった。協力を感謝する言葉にも、無感動だった。
下筋の話が終るのを待ちかまえて、法要の客は杯を取り交し、歌が始まった。
晃二はそっと座を抜け出して外に出た。下筋が車に乗り込むところだった。ドアを開けているのが金海だった。見覚えのある、黒い乗用車だった。後座席に女の姿が見えた。その女にも見覚えがあった。
車が走り去っても、何の感慨も起こらなかった。その女が誰でも、金海と関係があろうがなかろうが、どうでもよいことだった。晃二は道を歩きながら、自分も村の人と同じように無気力になったのではないかと思った。
時代は強い力で流れてゆく。源吉や犬石村長や下筋代議士がいなくとも、きっと誰かがその役を勤めることになるだろう。谷が獅々吼峡で、川が千字川でなくとも、結果は同じことになりそうだった。
今まで開発の波を受けなかったことが、むしろ不思議なほどだが、今、一気に押し流された人の姿を見るのは好まなかった。晃二は酒が飲めて唄《うた》が歌える人を羨《うらや》ましく思った。長くここにいるべきではない。故郷の荒廃を見るより、ダムの底に沈む方がいいのかも知れない。ダムはすぐに美しい風景となって、見知らぬ人の目を楽しませることになるだろう。
晃二は重吉岩を廻って、川岸に降り立った。白い優美なセラピムの姿を見て、自分の家に戻ったような安らぎを覚えた。晃二にとって、セラピムが故郷であり、自宅となった。
晃二は重吉岩をぼんやりと見上げた。この風景を見るのも最後になるかも知れない。晃二は首を川上に巡《めぐ》らせて、降ってきたなと思った。
そのとき、晃二は一銭岩の上に人影を見たのだ。
その人は川上の方を向いて坐り、足を伸ばしていた。岩の上には持ち物らしい品が見えた。後ろ姿なのでよくは判らないが、女性らしい。紺のセーターに水色のジーンズをはいている。無論、晃二の知っている人ではない。
川上を見ると、五合山の裾《すそ》に仙人滝がかかっていた。すでに山峡に黒い雲が群り、それが早い速度で広がっている。川面《かわも》には霧が立ち上りはじめた。
水源のあたりに、集中豪雨があった、と晃二は直感した。この土地で育った晃二は、変り易い天候をよく知っていた。五合山に仙人滝が現われると、またたくうちに川は増水し、荒れ狂う奔流《ほんりゆう》となるのだ。一銭岩は水面に没し、重吉岩に打ちつけられた水流は、高い飛沫《しぶき》となって響き渡る。そうとも知らず、その人は眠っているように動かなかった。
――危い。
と、晃二は思った。荒れた千字川は、鉄砲水と同じだ。一銭岩の人はひとたまりもなく押し流されるだろう。
晃二は人影に向かって叫んだ。だが、その人の耳には届かないようだ。
万一のことを思い、車のトランクを開けて、ロープを引き出した。
ロープの端はバンパーに結んだ。
そのとき、その人は岩の上に立ち上った。しきりに、あたりを見廻している。水量が増し、川が泡立《あわだ》っていることに気付いたらしい。いそいで岩の上にかがみ、持ち物をまとめ始めた。
「早く、そんな閑《ひま》はない!」
晃二が叫んだ瞬間だった。ひと際激しい大波のような水に、あっと言う間もなく一銭岩が呑《の》み込まれた。人影は横倒しに転倒して見えなくなった。
晃二は湧《わ》き立つ水面を見渡した。一銭岩まで百メートルばかり。岩に打ちつけられぬかぎり、多少水泳の心得があれば、浮いて来ると思った。その予測は当った。晃二の十メートルほど先に、黒い髪の毛らしいものがぽっかりと浮かんだ。
「しっかり、ロープにつかまるんだ」
晃二はそれに向かってロープを投げた。
手答えがあった。と思うと、すぐに強い力がロープにかかった。うっかりすれば自分も引きずり込まれる。
その人はロープを伝わって上って来た。足が川床に着いたようだったが、すぐには立てなかった。わずかに晃二を見ると、そのまま崩れそうになった。
若い女性だった。突然の恐怖に目が大きく見開かれ、呆然《ぼうぜん》と開けられた唇の間に、白い歯が見えていた。形のよい鼻の先から、顎《あご》の先から水滴が落ち続けた。服が肌《はだ》に吸い着いて、身体の曲線が露《あら》わに見えた。全身水に濡《ぬ》れて荒い息をはずませている姿は、不思議に性的な蠱惑感《こわくかん》をただよわせていた。
その人は力をふりしぼって立ち上ると、放心したように、晃二の胸の中に倒れ込んで来た。
「早く気が付いて、よかった」
晃二はその人を抱きかかえた。
短くカットされた髪は肌に密着し、漆黒《しつこく》に光る割れ目から小さめな耳が覗《のぞ》いた。健康そうな肌色だった。抱き止めた腋《わき》の肉が、張りのある弾力を晃二に伝えた。
すぐに、その人は我に返ったようだった。晃二の胸から離れると、羞《はずか》しそうにつぶやいた。
「ごめんなさい。無我夢中だったわ」
低音だがしっかりした声帯だった。晃二は久し振りに都会の女の言葉を聞いた。
「いいんだ。こんなときだったら、僕だって、きっとそうするさ」
だが、手はまだ固くロープを握りしめていた。指が動かなくなっているようだ。晃二は硬直した指を一本ずつ伸して、ロープを放した。ロープを放しても、何か持っていなければ不安らしく、晃二の手を求めた。晃二は冷たくなっている手をゆっくりと揉《も》んだ。その人は晃二の顔を見たまま、両手を預けていた。
「ごらん」
晃二は手を挟《はさ》んだまま、川の方に注意をうながした。
千字川は完全に変容していた。濁流は岩を噛《か》み、あちこちに流木を翻弄《ほんろう》しては呑《の》み込んだ。新しい恐怖が、その人を襲ったようだった。晃二の手に新しい力が加わった。
「五合山に仙人滝がかかったので、危いと思った」
と、晃二は言った。
「仙人滝……川上に見えた滝のこと?」
晃二はうなずいた。その人は視線を川上に移したが、五合山はもう濃い霧におおわれて、滝を見ることは出来なかった。
「仙人滝は上流に集中豪雨のあったときにだけ現われるんだ。この流れが平常に戻れば、あの滝は消えてしまう」
「前から私を見ていたの?」
「呼んだんだよ。でも、聞こえなかったらしい」
「真逆《まさか》、あの岩が沈むとは思わなかった」
「あの岩が、一銭岩」
「わたし、他のことに気を取られていたようだったわ」
肌に貼《は》り付いた額の髪を掻《か》きあげた。濃く長い眉《まゆ》だった。
「太鼓の音が聞えたと思ったの」
「明日は、おまけさんの祭だ」
「おまけさん……お祭なのね」
「それよりも、怪我《けが》はなかった?」
「怪我……」
言われて自分の身体を撫《な》ぜた。どこにも怪我はないようだった。ほっとする間もなく、その人は重吉岩の岩壁にぶつかり、怒号する激流を見て、唇をわななかせた。
「あなたがいあわせなかったら……」
改めて危険を思い知らされたように、おびえた目で晃二を見詰めた。晃二は笑い顔を見せた。
「その前に岸へ泳ぎ着いていますよ。あなたは泳ぎが出来るでしょう。ロープがなくとも、ほとんど浮きあがってきた」
その人の唇は紫色になっていた。とに角、ここでぼんやりしてはいられなかった。晃二はロープをまとめて車のトランクに戻し、ドアを開けてタオルを取り出した。
「少し汚れているかも知れないけれど、我慢してもらいましょう」
気が付くと、その人は素足だった。白い足が、尖《とが》った岩角を踏みそうにした。晃二は自分の靴《くつ》をぬいでその人の前に並べた。
「家までいらっしゃい。すぐ近くです。汚い家だけれどね」
「有難う」
濡れた身体を気にしながら、座席に腰を下ろして、しきりに髪を拭《ふ》いた。晃二はそのしぐさを踊りでも見るように賞翫《しようがん》した。髪を拭いた後、最後に眉を揃《そろ》え、両頬にタオルを押し当てた。それがちょうど、タオルの臭《にお》いを嗅《か》いでいるように見えた。
晃二は車を迂回《うかい》させ、重吉岩の後ろを廻って、砂利の新道に出た。
「――神社ね」
その人は窓の外を見て言った。
「あれは耳成神社」
と、晃二は教えた。
明日は耳成神社の、おまけさん祭だ。今夜は宵宮《よみや》で、子供たちが太鼓を叩いているのだろうが、晃二は大した関心を持っていなかった。祭は昔ほどの賑《にぎ》やかさはなくなったし、ことさら村の中心人物の一人だった深沢源吉の死で、祭は一層張りをなくすと思われる。だが、この人となら、祭見物も悪くはないと晃二は思った。耳成神社の社殿は、重吉岩の中腹に建てられている、と晃二は説明した。
「あなたは、土地の人?」
と、その人は訊いた。
「そう」
「でも、訛《なま》りがないわね」
「んだす。永《なげ》えこと東京さいだでね」
その人は初めて笑い顔を見せた。笑うと口元にえくぼに近い谷ができた。
「名前は埴田晃二。埴輪の埴に田、晃は日の下に光という字」
「埴田さんね」
「晃二さん、と呼ばれた方がいいんだがな」
「判ったわ、晃二さん」
「あなたは?」
「藤舎緋紗江《とうしやひさえ》」
珍しい名に聞き覚えがあったが、自分はその家系には関係がないのだと言った。
「緋紗江さん、でいいね」
「いいわ」
「緋紗江さんは東京?」
「ええ」
「旅の途中にも見えないな。どうして獅々吼峡に来たの」
「今日、お休みだから」
とするとどこかに勤めているようだ。だが近くに緋紗江が勤めそうな会社など思い当らなかった。あるとすればダムの工事現場だが、ダムの関係者は、ことさら村人を避けている様子があった。晃二はそれ以上、緋紗江の勤め先を問わないことにした。
「今日、休みだとすると、明日も?」
「そう。久し振りに休暇が取れたんです」
「じゃ、明日、おまけさん祭を案内しようか」
緋紗江はちょっと考え込んだ。霧が深くなり、晃二はヘッドライトをつけた。
「それとも、他に約束でも?」
「そうじゃないの。嬉しいわ、案内して頂戴《ちようだい》」
晃二は車を細い道に乗り入れた。道は晃二の家で行き止まりだった。村は同じ埴田姓が多い。晃二の家は「下《しも》の埴田」と呼ばれていた。なぜ下なのかは、はっきりした理由は、晃二も知らない。
家の前で晃二は車を止め、ドアを開けた。緋紗江は車から出ると、珍しそうに晃二の家を眺《なが》めた。珍しいには違いないだろう。晃二の家は茅葺《かやぶき》で、半分崩れかかり、家の囲りにはエノコログサが勢いよく伸びている。晩春の草むらの臭いの中に、晃二の家は、うずくまっているようだった。――草ぐらい刈っておくべきだったかな、と晃二は思った。
晃二は毀《こわ》しそうな音を立てて板戸を開け、土間の裸電球をつけた。
「早く入りなさい。霧が入るから」
緋紗江はためらい勝ちに家の中を覗いていたが、晃二に声を掛けられると、決心したように中に入り、板戸を閉めた。さっきは岩場で気が付かなかったが、平らな地面の上に立つと、緋紗江はかなり上背があった。
「今、湯を沸すよ。寒かったでしょう。うんと熱くしよう」
湯沸器は真新しかった。これも金海芳男が調達したものだった。
緋紗江はもうためらわなかった。言われるまま風呂場《ふろば》に入った。
「濡れた服は、ここに入れなさい」
晃二は古い籠《かご》を緋紗江に渡した。
湯の音がする。
晃二の思いは緋紗江の周辺につきまとっていた。
千字村に戻ってから、まだわずかな日数だった。にもかかわらず、ずいぶん長い時間に思える。都会のざわめきがなつかしく、都会の光が恋しかった。緋紗江との出会いは、晃二の心を揺り動かした。若い女性の、都会の言葉に感動し、何気ない動作にも都会の知性を見て、浮き立つ思いだった。
晃二は弾むような気持で、珈琲《コーヒー》を入れる用意にかかった。支度が済むと、緋紗江のための、着替えがないのに気が付いた。
古い箪笥《たんす》を探せば、何か出て来るか知れないが、永いこと蔵《しま》われたままになっている。急に引き出しても、手を通すことは出来ないだろう。晃二は考えて、自分の新しいカラーシャツと派手めなセーター、ジーンズをまとめて、風呂場に差し入れた。肌着まで添えられなかったのは仕方がない。
晃二は入れ替えに、緋紗江の濡れた衣服を部屋に運んでストーブをつけた。
シャツの胸ポケットから、蝶《ちよう》の柄のハンカチ、多くない紙幣と、身分証明書が出て来た。インクの文字は水に流れ出していた。
晃二は丁寧に皺《しわ》を伸して、ストーブの前に並べた。見るとはなく、身分証明書の文字に目が行った。
――藤舎緋紗江。
晃二が考えていた字より、美しい配列に思えた。生年月日を読むと、晃二より一つ年上だった。
――株式会社大南建設、測量士補。
矢張り思ったとおり、緋紗江はダム建設担当会社の、工事関係者の一員だった。測量士補というと、技師なのだろうか。すでに獅々吼峡は、ダム工事の轟音《ごうおん》の中にあった。
晃二は部屋に紐《ひも》を張って、緋紗江の衣服を掛けた。セーターの胸に、カエルの小さなマークが付けられていた。
風呂場の戸が開けられて、緋紗江が部屋に入って来た。
「有難う。お蔭《かげ》で助かりました」
緋紗江は丁寧に言った。
頬が上気し、唇がくっきりと朱をさしていた。緋紗江は見違えるほど生き生きとして見えた。
「本当に、生き返ったみたいだ」
緋紗江は男物のシャツと、セーターがよく似合っていた。もともと、知性的な顔立ちのところへ、表情に生気が戻ってきたためだろうが、男の衣服を着た緋紗江に、妖《あや》しい濃艶さが加えられたようだった。
「君は、男物がよく似合う」
晃二は緋紗江の胸元に目が移った。体格のいい割には小さい胸の隆起、それがこの人の魅力的な均衡《きんこう》を保っていることに気付いた。
「私、小さい時からおてんばだったの」
緋紗江は晃二の隣に腰を下ろした。
「それで、この仕事を?」
晃二はストーブの前に置いた、緋紗江の身分証明書を指した。
「ポケットを探したりして悪かったけれど、早く乾かさなければ、駄目になりそうだったんでね」
「いいわ。好意だったんですもの。でも、年齢も判ってしまったわね」
「僕の方が一つ下だった」
「わたし、もっと下かと思ったわ」
「ダムの仕事をしているんですね」
「そう。わたし、こんな仕事しか向かないの」
「仕事の方は、大分進んでいる?」
緋紗江はちょっと口を閉じてから、
「晃二さんは、ダム建設には反対なわけ?」
「一応、反対期成会の会員の一人でした」
「そうだったの……」
晃二は声を落した。
「でも、本当は大賛成なわけ。この土地を売らなければ、あの車の代金も払えない」
緋紗江はほっとしたように笑った。晃二はその顔を見ながら珈琲を入れた。
「つまり、緋紗江さんたちの仕事を歓迎しているわけです。お酒があるといいんですがね。あいにく僕は飲めない質《たち》なんで、珈琲で乾杯しましょう。合わせて、あなたの無事を祝って――」
「有難う」
二つの珈琲カップの肩が触れた。
「で、本当の話、工事は大分進んでいるんでしょう」
「そう、本当は言えないんだけれど、皆さんが考えている以上にね」
「つい先日、深沢源吉の爺いさんが死んだ。聞いているでしょう」
「ええ、ちょっとね」
「あの爺さんさえいなくなれば、反対期成会も、なしくずしに分裂してしまうと思うんです。期成会の三分の二は、ごちごちの反対派じゃないんです」
「それも、知っているわ」
「驚いたなあ。村のことは、皆|筒抜《つつぬ》けなんですね。きっと、金海芳男やパーゾウのせいなんだな」
「その人の名は知らないけれど、パーゾウって、渾名《あだな》なの?」
「そう。ほら、このあたりをうろうろしている乞食《こじき》がいるでしょう。あれがパーゾウ。本名は誰も知らない。油断の出来ない男なんです」
緋紗江は旨《うま》そうに珈琲を飲んだ。晃二がダム建設反対派でないのを知って、打ち解けた様子だった。
「――本当はわたしたち、二年も前から、測量を始めていたのよ」
「そんな前から。でも、途中で測量隊のダムサイト立入りの阻止に会ったでしょう」
「そんなときはアベックで。小型のトランシットを持って」
「村の人に見付かったら?」
「機具を鞄《かばん》に隠して、キスをするの」
緋紗江は笑った。
「緋紗江さんも、キスをした?」
「というような話を聞いたことがあるだけ。わたしがここに来たのは四月だから、まだ新米。残念ながらアベックで山歩きをすることもないわ」
「でも、山は歩くんでしょう」
「ええ、山歩きは好きですし。五合山、春日山……」
「違うな。あれは春日山じゃない。本当は粕山と言うんです。ほら、酒粕《さけかす》の粕という字を書いて、粕山」
「でも、わたしが見た文書には、ちゃんと春日山になっていたわ」
「あれは村長の趣味なんですよ。彼は顔に似ず見栄《みえ》が強いから、粕という字が自分の村にあるのを嫌《きら》ったんでしょう。村の人に春日山と訊いても、そんな高級な山さ知《す》らねどと言われるでしょう」
緋紗江の笑いは打ち解けたものになった。
「わたしたちの知らないことがまだ沢山あるのね。仙人滝というのも、今まで聞いたことがなかった。あの岩が、一銭岩だということも」
「重吉岩は?」
「あの頂上には、何度も行ったわ」
「じゃ、なぜ重吉岩なのか、知っている?」
「知らない。教えて頂戴」
「昔から千字川というのは、よく氾濫を起す川だった。特に場代川と合流して、御来川《おんこいがわ》となるあたり――ちょうど、今建設中のダムサイトの少し下流では定期的に被害をこうむってきたらしい。この地方の農民は、実に長い洪水との戦いを経験して来た。ところへ、何とかの重吉という偉い人が現われてね、千字川の傍に巨大な岩があるのに目を付けた。あの岩に千字川の激流を衝突させるようにすれば、水のエネルギーは相当|拡散《かくさん》することが出来るだろうと考えて、千字川の流れを変えたんです」
「素晴らしい知慧だわ」
「その結果、御来川は比較的安定した川になったそうです。上流に大雨があって、千字川のあたりで急激に増水したとしても、重吉岩のために下流でひどい洪水が起こることもなくなった」
「昔の人は自然をそのままの姿で利用することが上手《じようず》だったのね」
「そう、いきなり頑丈《がんじよう》なダムを作って、川を堰《せ》き止めたりはしない。今度のダム建設で、下流の農民は洪水と旱魃を心配しています。実際に土地を取られる僕たち以上にね」
「永いこと水と戦って来た人の、本能的な恐怖なのね」
「今度のダムは多目的ダム、つまり電力にも利用されるわけだから、当然電力会社の資本がからんでいるわけでしょう。で、電力会社はダムの水量を一定にしておかないと利益を損う。従って旱魃のときには放水をしぶるのではないかという不安。それに、大雨のときには限界まで水を貯《た》め、水位が急に上ると、ダムの破損を恐れて、あわてて大量に放水するから、今までにない新しい洪水の心配も出て来る。ダム建設反対派の気持も判るでしょう」
「そう言われればね。でも、よくいろいろなことを調べたのね」
「これでも、ダム建設反対期成会の一員だった。もっと多くのことを教えてもらった。本来なら、僕だって、気持の上ではダム建設に反対しようと思うこともある」
「結局、わたしも村を困らせる側の一人って言うわけね」
緋紗江は立ち上ると、ロープに掛っている服を打ち返した。服から水蒸気が上っていた。晃二も立ち上った。
「同時に、僕を助けてくれようとしている側の一員でもあるわけですよ」
晃二は甘酸っぱいような匂《にお》いを嗅《か》いだ。緋紗江の服からの匂いだった。衝動的に、晃二は緋紗江の肩に手を掛けた。
「村人が来る、どうしよう?」
「どう、するって?」
「だって、あなたは、測量隊員でしょう」
晃二は緋紗江を引き寄せて、眸《ひとみ》の中を覗《のぞ》いた。相手は何も言わなかった。そのまま、晃二は唇を合わせた。
緋紗江にかすかなためらいがあったようだ。追おうとすると、舌が固く引き込まれるので、それが判った。
「君はバニラの匂いがする……」
晃二は唇を放し、鼻の先をすり合わせた。
「匂いを嗅がれるなんて、きまりが悪いわ」
温かい空気が、口元のあたりで動いた。くすぐったい感触が快かった。
「ひと目で、君が好きになってしまったみたいだ。君が、美しすぎるんだ……」
相手の眸が晃二の唇の動きを見ていた。もっと何か言おうとしたとき、その瞼《まぶた》がすうっと閉じた。そのまま引き込まれるように、また唇を重ねた。
濡《ぬ》れた唇が柔《やわら》いでいて、もう逃げたりはしなかった。静かに誘うと、内気なダンスのパートナーのように、おずおずといった感じで、晃二の漂揺《ひようよう》に合わせてきた。晃二は大胆になった。混り合った口液を飲み、舌を自分の口に引き入れると、その導きに対して柔軟な反応を示しさえした。かえって、晃二の方が弾力のある触覚に、心の昂《たか》ぶりを押えることが出来なくなっていた。先に息苦しさを感じて、唇を放した。
緋紗江の唇は紅潮し、光っていた。その唇から長い息を吐くと、崩れるように坐った。
「いきなり……ごめん」
緋紗江の横に並んで腰を下ろした。
「さっき助けたから、君が許すだろうと思ったわけじゃない」
相手はうつむきかげんに、晃二の胸に目を移していた。
「私だって、恩返しのつもりで、おとなしくされるままになっていたわけじゃないわ」
目の前にある髪がまだ濡れていた。晃二は髪をかき分けて、耳を露《あら》わにした。しめり気を帯びた耳は極めて敏感になっているようだった。緋紗江は頬を痙攣《けいれん》させた。必死に首をすくめることを堪《た》えているのだ。晃二はそのまま耳の裏側の生え際に指を滑らせた。毛根が、精巧な細工を見るように美しく並んでいた。晃二は髪をかき分けながら、自分の耳を合わせた。
「君の中から、千字川のせせらぎが聞えて来る……」
「思い出すわ。千字川は、もう私の一部なのね」
晃二はそのまま首を廻して、頬を合わせ、眉を合わせ、再び唇を合わせた。緋紗江の首がよじれ、乱れた胸元から奥が見えそうだった。シャツのボタンを外そうとすると、
「でも、それは……」
「静かに……渓流の淵《ふち》の音が聞えそう……」
肌に手を滑らせると、熱く、しっとり汗ばんでいた。なだらかな乳房だった。晃二のひと握りに、苦もなく包み込まれた。掌の下に、鼓動を聞いた。
「淵の響きは、小鳩の胸みたいな音がしている。僕の渦潮《うずしお》も、きっと早くなっているだろう……」
緋紗江はもう逆らわなかった。晃二の手が肌の隆起を繰り返し掌握《しようあく》すると、こばもうとして当てられたはずの緋紗江の手が、ジャンパーの上から、二の腕のあたりを、しっかりとつかみかかった。
「君の乳房は柔かい」
と、緋紗江の耳元でささやいた。
「いかつい身体だって、皆から言われるわ」
「それは違う。こうして撫《な》でると、凄《すご》く女っぽい」
言いながら、乳首に軽い刺戟《しげき》を与えると、緋紗江はかすかに身をよじり、長い息を吐いた。膏《あぶら》の浮いた小鼻は膨張《ぼうちよう》し、鼻孔が開いていた。
「苦しい?」
晃二は手の動きを止めた。相手は何も言わなかった。ただ、晃二の腕に、痛いほど力が加えられた。
身動きしないのを知って、胸からひそかな起伏に手を伸そうとした。緋紗江の身体が固くなった。
「岩に当る渓流の音を……」
晃二は唇を吸おうとした。身体の重心が移って、緋紗江の腕から手を放そうとしたが、ロープを握ったときのように、指が硬直していた。支えを失い、そのまま横に倒れた。晃二は起こさなかった。そのまま、自分も横に添い、緋紗江の指を揉《も》みほぐした。
「痛かったじゃないか」
晃二は横に抱きすくめると、ジーンズに手を伸ばした。
「困るわ……」
「あなたが困るのでは、僕はいけないことをしているんだ」
晃二は手を放し、あおのけになって、じっと緋紗江を待った。
「困っても、仕方がないでしょう」
期待していたとおり、手を伸してきた。その手を引くと、身体を合わせながら、シャツのボタンを外した。
緋紗江の身体は起伏が少なく平坦だったが、肉に無駄《むだ》がなかった。鍛《きた》え抜かれたしなやかさを持ち、晃二に対して、実に入り組んだ蕩揺《とうよう》を見せた。少しすると、口で荒い息をしはじめた。女の春心が、ゆるやかな速度で募《つの》ってきたしるしだった。
「君は敏感だね」
「恥しいわ。こんなになって……それに暑い」
慰撫のせいばかりではなかった。陽春の空気はストーブがあるには暑すぎた。
晃二は身体を起こして、隣の部屋のベッドの方を見た。
「もう一度、渓流に流されてみない? 向こうの部屋で……」
緋紗江はシャツの前を掻《か》き合わせた。瞼《まぶた》が重そうに開き、眸が光っている。しばらく、晃二をみつめていた。晃二は手を伸ばした。緋紗江は大きく息を吸って、晃二の手を取った。
「また、あなたが、助けてくれるなら」
「勿論《もちろん》、今度はしっかりと抱きとめる」
四肢《しし》に力を抜いていた。抱きかかえると、たおやかな重みが、快く腕にかかる。
ベッドは新しかった。セラピムと同じように、贅沢《ぜいたく》なベッドは、かつて晃二の一部分だった。その上に緋紗江の白い裸身を置いた晃二は満足感に溢《あふ》れた。
緋紗江の乳暈《にゆううん》は桃色に上気し、乳首はきりっと固く突出していた。素肌に着けたジーンズを外すと、温い香気が散っていった。腰のくびれは浅く締まって、巧緻《こうち》な肌の起伏が光る中心に、薄墨をにじませたような香煙があった。晃二は柔かな女叢《じよそう》に手を重ねた。ひと握りのうちに神秘な生命が貴重に秘められているようだった。林泉はもう女水があふれるばかりになっていて、抵抗なく晃二を迎い入れた。指頭が女芯《じよしん》に戯れかかると、緋紗江の方から唇を求めてきた。舌が大胆さを増した。内気でいながら感性のあるパートナーが、わずかな導きで、見事な躍動を会得《えとく》したようだった。
緋紗江の手は晃二の髪を乱し、背にはいまわった。その手は密《ひそ》やかに移って、高起した晃二に触れた。緋紗江の手を感じると、全身に快美な震動が伝わった。
「いいね……」
晃二は半身を廻して、裸身にのりかかった。緋紗江は身体を開き、手を添えて晃二を誘い入れた。
「あなたでなければ、だめだわ」
ひとつになったとき、緋紗江が言った。渓谷は熱く滑《なめ》らかに結束し、緊縛《きんばく》のうちに押し流され、急流に巻き込まれているのは、むしろ晃二の方だった。晃二は渓流の響きを聞きながら身体を震わせた。白い霧が襲いかかり、肉が叫び声をあげた。
緋紗江は放さなかった。夢のようにぽっかりと目を開け、
「川がふくれあがったわ。わたし、流されているみたい」
と言って、すっと目を閉じた。
緋紗江は手を取って、乳房の上に当てがうと、その上に自分の手を重ねた。そうしているうち、再び情動が起こった。
羞恥《しゆうち》も脱いだように、胸が大きくはずみ、瞼の色が紫に変っていた。濃い眉が眉間《みけん》に寄せられ、その場所に美快が凝集《ぎようしゆう》された。
「重吉岩が、真《ま》っ赤《か》」
晃二は揉《も》み込まれるような気がした。その瞬間、
「あなた、これは、なんという色……」
急に四肢を巻きこんで、身をちぢめた。快美のために、最後の自分を捨て去ったのだろう。身を退くと、緋紗江は追って来た。
「あなた、もう、助けて!」
声がかすれて吹き千切れたとき、すでに苦痛さえをまじえた歓喜の渦に巻き込まれた緋紗江を知った。獅々吼峡に花が満ちた。パートナーは乱舞していた。言うなりに脚《あし》をあげ、前を開いた。晃二は弦楽器に似た緋紗江の歓声と熱い息との間に、快感さえちぎれちぎれて、再び自分が飛散していった。
緋紗江は目を開いた。放心した表情だった。そのまなじりから透明な水があふれていた。
「わたしから、離れないで……」
と、裸のままの緋紗江が言った。
「結婚しよう」
と、晃二は言った。
緋紗江はその言葉をじっと噛《か》みしめているようだった。深い息を一つ残すと、改めて晃二にもつれてきた。
三
翌日、緋紗江は約束どおり、朝早く現場の宿舎から、晃二のところへ来た。
晃二は早く目覚めた。青空が戻っていた。久し振りに窓や戸を開け放し、家の中を整理する気になった。
緋紗江は落着いた梨色《なしいろ》のワンピースに、オレンジ色のスカーフを巻いて、セラピムの前に立った。白い車体と、朝日を受けた緋紗江の姿態は、一つの世界を作っていた。緋紗江は薄く化粧しただけだが、表情の輝きを得て、ライトの中に浮き出されたようだった。
「――君は美しい」
自分のために粧《よそお》われたことに感動した。
「わたしだって、女っぽいところもあるわ」
緋紗江は身体をそらせ、服を示した。
「これでも、ここでは最上の晴れ着なの。皆から冷かされた」
「僕のこと、話した?」
緋紗江は笑って答えなかった。
「夜、夢を見た」
と、晃二は言った。
緋紗江が去って行った後、満ちていたものが、いきなり欠けた感じだった。激しい淋《さび》しさが襲い、なかなか寝つかれなかった。
「どんな夢? 教えてくれない」
答える代りに、引き寄せて唇を重ねた。
「ゆうべは、ずっと、君のことだけ考えていた」
「わたしだって、淋しかった」
「独りでいた時間を、取り戻そう」
初夏の朝日影にひたされた緋紗江の肢体は鮮麗だった。昨日の情感が、明るい光彩を加えて、再び立ち帰った。濃醇《のうじゆん》を喫しつくし、緋紗江が落花した後でも、放し難くなっていた。
「もう、祭なんか、どうでもよくなった」
と、晃二は告白した。
「それはわたしだって嬉しいけれど、怖いみたい」
「怖いことなんかないさ」
「それに、お祭で役があるんでしょう。遅くならない?」
緋紗江は上半身を起こした。愛撫のために、乳房が上気していた。晃二は小さな隆起の姿が好きになっていた。
「昔は祭の前の日から宮籠《みやごも》りだった。村の人は精進《しようじん》潔斎《けつさい》して、身を清めた」
「わたしたち、物忌《ものい》みを破ったわ。罰《ばち》が当るかも知れないわね」
「君となら、そんなもの恐くなんかない」
晃二は裸身にすがろうとしたが、緋紗江はその腕をかいくぐってベッドを降り、衣服を集めた。
「あまり御馳走《ごちそう》を召しあがりすぎると、食べ物もなく、ひもじい思いをしているものと同様、やはりお体を悪くなさるとか……」
「何の台詞《せりふ》?」
「シェイクスピアよ。〈ヴェニスの商人〉」
歌うような抑揚に、新しい緋紗江を見るようだった。夕ベ、あり合わせの材料を使い、手際《てぎわ》よく料理を作ってくれた。測量士という、男っぽい仕事を好む反面、料理も得意なのだと自慢した。
「お祭で、どんな役をするの?」
「角《かく》仙人」
「角仙人?」
「そう。鹿の首をかぶってね、最後にはやっつけられる」
緋紗江は面白がったが、初めから乗り気ではなかったのだ。もともと、何年も祭を見なかったし、千字村に戻ってから、祭があると聞かされても、関心が薄かった。
田植え祭のとき、ぜひ角仙人をとすすめたのは深沢源吉だった。永く土地を離れていた晃二に、住人意識を植えつけ、生地の愛情を強めようとする意図であろう。迷惑な気もしたが、逆らわないことにした。囃子《はやし》に合わせて踊るといっても、むずかしいところはどこにもない。だいたいの動きは子供の頃《ころ》の見覚えがある。二、三回の稽古《けいこ》で、晃二は鹿踊りを習得した。その源吉は田植え祭のとき、たゆうさんになるはずだった。
「本当はお祭には行かぬように言い渡されてあるの」
と、身支度を調《ととの》えた緋紗江が言った。建設会社は水没地の住民に神経を使っているようだ。
「でも、僕の妻なら、どうってことはないんだろう」
「わたしも、そのつもりで来たわ」
耳成神社は、わずかに祭らしい活気を呈していた。社殿の左右に篝火《かがりび》がたかれ、注連縄《しめなわ》も新しく、普段閉ざされたままの、正面の戸が開かれていた。二階建ての山車《だし》には、何人かの子供がまつわって、不規則に太鼓を鳴らす。鳥居の傍《そば》にはパーゾウの姿も見えた。
村人の中に混って、緋紗江の姿は際立《きわだ》っているように思えた。晃二はそれを誇らしく思った。金海芳男が傍に寄って来た。
「彼女、何者だ?」
目を丸くして、そっと訊く。
「大南建設の測量士。結婚する気だ」
「そうか。するなら、早く籍を入れた方がいい」
忠言めかして言う。
「納税のとき、扶養家族が増えるからな。それと……」
「承知しているよ。それよりも、カメラが欲しくなったんだ」
「そりゃ、そうだろう」
金海は緋紗江をちらちら見ながら言った。
埴田栄吉が、晃二の姿を見ると、瘤《こぶ》をふり立てながら駆けて来て、
「遅かったでねえか。早くせい」
と、せき立てた。栄吉は浴衣《ゆかた》の上に、古びた五つ紋の黒羽織を着ていた。
緋紗江を境内《けいだい》に残して、晃二は社殿に入って衣装を着けた。たっつけ袴《ばかま》に陣羽織。鹿の首は埃《ほこり》と古い汗の臭《にお》いで、踊る番になるまでかぶれない。すぐにおまけさんの禊《みそぎ》が始まった。
深沢源吉が死亡したので、たゆうさんの役は村長の犬石六蔵が勤めていた。たゆうさんは、これまでほぼ源吉と六蔵が交代で勤めてきた。犬石はささくれた立烏帽子《たてえぼし》に、草色の素袍《すおう》を着、しごくまともな顔で幣束《へいそく》を手にしていた。
禊の儀式は社殿の後で行なわれる。
とり囲む岩の中央に細い湧《わ》き水が落ち、瓢《ひさご》を割った形の石の中に溜《た》められている。清水を中心に、四方に青竹が建てられ、注連縄《しめなわ》が張ってある。裃《かみしも》姿《すがた》の氏子総代が揃《そろ》った。
おまけさんは深沢源吉の未亡人だった。かねは真白い帷子《かたびら》を着て、白い布に包んだ細長い物を持っていた。注連縄の中央に、土器が置かれ、火がたかれている。
大石の祝詞《のりと》が始まった。調子が外れ、何とも奇妙な節である。痩《や》せて横に広い顔から出す声も悪い。意味など無論判らない。
かねは手にした包みを火の中に入れた。すぐ火に包まれた中の品は、筆のようだった。
「源|爺《じ》いの筆だべ」
ささやき声がする。この筆を握って、源吉は無数の反対文、檄文《げきぶん》、声明文を書き続けたのだ。
それが終ると、かねは土の上にぬかずき、氏子の一人が清水を桶《おけ》に汲み込む。桶がかねに渡される。かねはその清水を、何杯か頭からかぶった。もともと小柄な年寄りで、水を浴びる姿が何とも痛々しい。すぐ薄い帷子が肌に貼り着き、張りのない乳首が透けて見えた。禊は、それで終った。
その後、かねはおまけさんに装われる。顔を真白に塗られ、色の褪《あ》せたうす紅色の小袖《こそで》の上に、白地に秋草模様の被衣《かつぎ》が掛けられる。衣装が着けられると、おまけさんは社殿の中央に坐り、犬石の祓《はら》えを受けた。
晃二は寒々とした気持で、古い儀式が行なわれてゆくのを見た。進行は活気がなく、参座の人たちにも感動が起こらなかった。社殿は暗く陰気で、白く塗られたおまけさんは醜怪だった。かねだって、こんな姿を晒《さら》されるのは嫌《いや》だったに違いない。晃二も迷惑だった。これまで、おまけさん祭が何の疑いもなく続けられて来たことが不思議だった。
祓えを受けて、晃二は境内に出た。これから鹿踊りだと思うと、気が重くなった。見物に緋紗江の姿が見える。晃二はすぐに臭い鹿の頭をかぶって、笹《ささ》の葉を手にした。素顔で踊らないことが、むしろ幸いだった。
埴田栄吉の合図で、囃子《はやし》が始まった。抑揚のない曲で、音色《ねいろ》も好きにはなれなかった。晃二は笹の葉を持って、いい加減に身体を動かした。晃二の囲りを、四、五人の少年が、穂先に銀紙を貼《は》った槍《やり》を持って往《ゆ》き来している。九枚笹の紋の付いた白麻の水干《すいかん》にたっつけ袴、白い鉢巻《はちまき》は勇ましいが、動作は緩慢である。晃二はぼんやりといくつもの草鞋《わらじ》が動くのを見ていた。
曲の調子が変るのを聞いて、ほっとした。やっと終曲に近付いたからだ。晃二はぐるぐると廻って、うずくまった。鹿の首の上に槍が合わせられる。それで鹿踊りはおしまい。
土器に入った酒が廻されたが、飲めない晃二は、ちょっと口を付けるだけ。そんなことも、実に無意味な羅列のように思えた。
緋紗江が傍に寄って来て、そっと言った。
「まるで、やる気がないみたい」
晃二は苦笑した。
「つまらなかっただろう」
「ううん、とても、面白かった」
緋紗江は目を輝かせていた。全てが物珍しいのだろう。陰気な神社も、活気のない踊りも。
「さっき、お御籤《みくじ》を引いたわ」
「うん」
晃二は気のない返事をした。
「ほら、頬に大きな瘤《こぶ》のある人が調べてくれたわ」
二人を三森巡査が見守っていた。緋紗江はその視線に気が付いたようだ。
「いよいよおまけさんね」
そう言って、山車の方に歩きだした。
犬石が社殿の前に現われて、長々と祝詞を唱えている。その前を子供たちが鬼ごっこをして馳《か》け廻る。晃二は鹿の首を付けたまま、何度もあくびを噛《か》み殺した。
やっと祝詞が終り、犬石は大儀そうに幣束を振った。山車が動かされ、社殿の正面にすえられる。
戸外の光の中で、白く塗られたおまけさんの顔に、ことさら皺《しわ》が目立った。古びた衣装は大きすぎて、着付けが悪く、だぶだぶしていた。屋台の二階に階段が渡されると、おまけさんはよろよろしながら屋台の人となった。
母のときは、もっと美しかったはずだ、と晃二は思う。それとも、美しいと感じたのは、晃二が幼かったためだろうか。いずれにしろ、残酷な古儀には違いなかった。
囃子方《はやしかた》が山車の下段に揃《そろ》うと、車止めが外された。大太鼓が一つ打ち鳴らされる。それを合図に、おまけさんの行列が動き出した。
緋紗江が寄って来た。
「凄《すご》うく、古風……」
緋紗江は軽く興奮していた。そう、傍観者の目には、古風な奇祭の、珍奇な儀式が面白く映るに違いない。だが、晃二には閉口以外の気持が起こらぬ儀式だった。
「耳成神社が、こんな祭と一緒に沈められるなんて、残念ね」
晃二は黙っていた。黙って、前を歩いている、菅笠《すげがさ》をかぶって紋付の羽織を着ている男の、癖のある外股《そとまた》を見ていた。その足取りは、過酷な労働の表徴《ひようちよう》だった。おまけさんも同じだった。厳しい生活条件にあった時代に生れた、ねじ曲げられた儀式だった。
「どうしたの?」
晃二が黙っているので、緋紗江は鹿の首の中を覗いた。
「お御籤は何と出た?」
「第一番の大吉」
と、緋紗江は答えた。
「この御籤に会う人は、万人に尊《とうと》まれるのですって。ただ、よすぎるので、登りすぎをつつしみなさいとしてあったわ」
行列は女坂を降り始めた。
四
セラピムは快調だった。
扱うに従い、セラピムは新しい魅力を現わした。馴染《なじ》むほど、セラピムは従順だった。
金海芳男のところで、最終的な土地売買契約を済ませたあと、お気に入りの高速道路でひとしきり走らせ、千字村に帰るところだった。座席の横に小さい包みが置いてある。蝶《ちよう》の柄のハンカチーフで無造作に包んであるが中身は重い。初めて手にする、手の切れるばかりの紙幣が揃えられているのだ。
フロントガラスの隅《すみ》に下げられた、木彫りの裸像が揺れている。エアコンディショナーも快い空気を送り込んでいる。外は焼け付くような暑さなりだ。
セラピムは緋紗江に似ていると思った。結婚して一と月あまり、緋紗江の肢体は柔軟さを深めていた。晃二の飽きることを知らぬ喫食のたび、緋紗江は新しい感応を示した。晃二の求めに従い、前後不覚のうちに、つぎつぎと艶美《えんび》な嬌態《きようたい》を演じた。溶解のあと、自分に戻るとき、緋紗江は頬を赤らめ、羞恥に身をちぢめた。その情感にも陶酔が伴うらしく、初々《ういうい》しく可憐な艶《なま》めかしさが発散した。
初めて接したとき、緋紗江の敏感な随従《ずいじゆう》に、慣らされた官感を持っているのかとさえ思ったが、日々新しい世界が広がるのを知って、晃二は満足した。
「そんなに、熱い?」
朝がた、余韻のうちに、訊いてみた。日曜で緋紗江の出勤がなかった。そうした日は、朝の光の中を共にする習慣ができていた。
「あなただから……」
緋紗江は喉《のど》を鳴らすような声で言った。
「こんなこと、前にもあった?」
「意地悪……」
晃二は茶箪笥《ちやだんす》の上からデュボネの瓶《びん》を運んだ。中に麦茶が入れてある。瓶のデザインが気に入って使っているのだ。緋紗江にコップを渡し、注《つ》いでやった。
「喉が乾いたろう」
「知らない――」
緋紗江は背を見せて麦茶を飲んだ。
緋紗江は毎週日曜日には、町まで買い物に行くきまりになっていた。新指のバス停まで車で送り、バスの来るのを二人で待った。
「迎えの時間、忘れないでね」
緋紗江は元気よくバスに乗り込んだ。晃二は見えなくなるまでバスを見送った。
緋紗江は若く、疲れを知らなかった。スポーツをしていたからだろう、と晃二は思う。その肢体が自分によって未知の喜びを知り始めたのだ。晃二は充足した気持で、セラピムに戻った。
といって、晃二は緋紗江の過去に、全く無関心でいたわけではない。
緋紗江は工事現場の宿舎から、晃二の家に住むようになったが、仕事は辞《や》めなかった。晃二も強《し》いて反対はしなかった。緋紗江は晃二のところから通勤した。
結婚して間もなく、緋紗江は長い手紙を書いていたことがあった。晃二が興味を持つと、すぐ身体で隠してしまった。また、緋紗江は来信にも敏感だった。自分の手紙は宿舎の方に届くらしいが、かなり部厚い封筒《ふうとう》を持っていたことがある。晃二が尋ねても、笑って答えなかった。
それ以外のことでは、よく喋《しやべ》った。小さい頃からお転婆《てんば》だったこと。スポーツや山登りが好きで、先輩の紹介によって、大南建設に入社したこと。三月に卒業したてで、まだほやほやの測量士見習だった。
緋紗江の世話をしたのは、アメリカ人の技士で、ウイリアム エマーソンという土木工学の専門家だった。日本人の妻を持って、その女性が、緋紗江と同じ学校の先輩に当っていた。ささやかな結婚式に、エマーソン夫婦も出席した。何人かの村人は、好奇な目で、彼等を見ていた。
「ウイリアムは、君のことをすごく可愛がっているみたいだ」
と、晃二が言った。
「ばかね。ミチが聞いたら、怒るわ」
ミチというのは、エマーソンの妻の名だった。
ダムの完成まで、緋紗江は獅々吼峡を離れる気はなかった。晃二は自分の計画を話した。土地の整理が付けば、東京に出て、小さい自動車修理工場を開く。緋紗江は同意した。折角、測量の技術を身に着けようとしているとき、この同意はむしろ意外でもあった。東京近郊に土地も見付けた。明日はその下見に東京へ行く予定になっている。
ダムは驚くような早さで建設されていた。トップレベルの専門家を多数動員し、あらゆる角度からコンピューターを利用し、土木工学の粋をこらした機械が投入されていた。
白いアーチ式ダムの本体が幾何学的な曲線を見せた。河川の転流工事はすでに終っていて、仮排水|開渠《かいきよ》で場代川の流れも変った。晃二は白いダムの壁を美しいと思った。セラピムを走らせながら傍観するとき、刻々と変って見える曲線が好きだった。
カーブを切ると、キーに下げられたホルダーが軽い音を立てた。銀色の蝶のキーホルダーは、緋紗江からのプレゼントだった。
ダムを見ながら、新道に入ったとき、晃二は道傍《みちばた》にうずくまっている人影を見た。遠目では白い物が落ちているように見えたが、近付くと、白いシャツに、白いスカートの若い女性だった。晃二は車を止めた。
ドアを開けると、外の空気を湯気のように感じた。外に出て近寄ったが、女性は動かない。
「どうかした?」
晃二は声を掛けた。
女性は長い髪を掻き上げて、立ち上ろうとしたが、足元がふらついた。
「なんでもないわ」
差し出した晃二の手を振り放った。
「ちょっと、めまいがしただけ」
顔に血の気がなくなっている。もともと、色が白いのだろう。目の周《まわ》りに青い隈《くま》が出来ていた。立つと普通の背丈だが、形よく盛り上った、白いシャツの胸がまぶしく感じた。
晃二は見守った。顔の線が女らしい丸やかさで、目鼻だちのはっきりした美人だが、いかにもやつれた感じだ。
「どこまで行くの?」
女性は晃二とセラピムを見比べた。
「ダムの、建設事務所」
「じゃあ、まだかなり道のりがあるよ。僕の車に乗りなさい」
「お願いしようかしら」
初めて警戒心を緩《ゆる》めたようだった。それでも、バッグを持とうとすると、手を放さなかった。
晃二は運転席に戻り、紙幣の包みを持って、ちょっと考えてからダッシュボードに入れた。その手に視線を感じたが、気にもしなかった。
「涼《すず》しい……」
晃二の隣に腰を下ろし、溜め息を吐《つ》いた。それでも、車のドアを閉めると、身体を隅に寄せてバッグを抱え、出来るだけ晃二から身を離そうとした。
「今日は日曜日でしょう。建設事務所は開いているかな」
「でも、いいの」
「逢《あ》う人がいるの?」
「男って、すぐそうね」
女性はそれ以上言わなかった。
工事は急ピッチで進められている。永いこと家族と別れている関係者も多くいるだろう。堪《た》え切れずに、夫のところへ訪ねて来た若妻という感じがする。白ずくめの衣装も、結婚式を連想させた。
クーラーの涼しさで、女性の表情に安らぎが見えた、と思ったのは一時だった。女性は唇を噛みしめるようにした。
「気分はどう?」
女性は外の景色《けしき》も目に入らぬようだった。うつむいて、キーホルダーの揺れるのを、空《うつ》ろな目で見ていた。
「薬が飲みたいの」
「薬、持っているの?」
晃二はスピードを落した。
「あなたの家は、どこ?」
「すぐ近く。建設事務所より近い」
「寄らせて頂けるかしら」
「そうしなさい」
晃二は急いで車を家に廻した。緋紗江がいるといいのだが、町へ買物に出掛けて留守《るす》だった。
女性は縁先に腰を下ろした。すすめても、それ以上奥に入ろうとしない。
水を与えると、女性はバッグから白い薬を出して飲んだ。しばらくすると、女性の顔に生気が戻った。
「会社の宿舎に泊るの?」
と、晃二は訊いた。
「いいえ」
「それじゃ……」
「宿は千字荘に予約してあります」
切り口上すぎて、話が続かない。千字荘は獅々吼峡の入口にある民宿だった。夏の間、学生などの利用者があり、少しだけ賑《にぎ》わうことがある。
「珈琲《コーヒー》でも入れようか」
「有難う。でも、今飲みたくないわ」
「冷たいものは?」
「――それなら、少しだけ」
晃二は勝手元に立って、冷蔵庫を開けた。緋紗江がまだ帰って来ないので、冷蔵庫の中はほとんど空《から》だったが、幸いジュースが一本残っていた。
「あなたは?」
水を飲んだ後のコップにジュースを注ぐと、女性は晃二の顔色をうかがった。
「僕は、いいんだ」
一本しかなかったと、言いにくかった。
「奥さんがいらっしゃるのね」
「どうして判る?」
女性は答えなかったが、梨色のワンピースが陰干しになっているのに気付いたようだ。
「美人でしょう」
「さあ、何て言うかな。君とはちょっと、感じが違うな」
「まあ、ひどいことを案外平気で言うのね」
「そんなつもりじゃない」
「判ったわ。きっと、すらりとした健康的な人でしょう」
「そんなところかな」
「逢いたいわ」
「今、町まで買物に行っているんだ。これから、迎えにゆくところ」
「やさしいのね。奥さんもあなたを愛しているんでしょう」
「君は結婚しているの?」
「結婚なんかしていない。男は、臭いもの」
「こりゃ、驚いた」
「だから、私なんかに関《かま》わず、迎えに行って下さい」
「しかし、君はもういいの?」
「わたしなら、もう平気。でも、物騒ですから鍵《かぎ》を掛けて行って下さい」
「いや、田舎《いなか》だから鍵などないんだ。大事な物なんかない」
「デュボネがあるわ」
彼女は部屋の奥を透して見た。
「じゃ、飲みながら、待っていますか」
「わたし、お酒なんか嫌《きら》いだわ」
「僕もだ。初めて気が合ったような気がする」
晃二は笑った。女性もつられて笑顔を見せた。笑うと、明るい表情だった。それを見て、もう大丈夫だろうと思った。
「まだ、名前を聞いていない」
「名前なんか、どうでもいいの。行き倒れの女でいいの」
同意しないときの態度は、貝のような固さだった。
晃二は時間が気になっていた。彼女を残すと、自由に休んでいなさいと言って、セラピムに乗った。
緋紗江はいくつも紙包みを抱えて待っていた。晃二は荷物を車の中に運び、並んで腰を下ろした。
「遅かったわ、何か面倒なことでもあったの?」
「全て、好調さ」
晃二はダッシュボードを開けて、紙幣を包んだハンカチを見せた。
「金海さんのところで、待たされた?」
「別に……ただ」
あの女性のことを、緋紗江に話そうとしたが、ふとためらった。遅くなったことを、緋紗江があまり気にするからだ。緋紗江をからかいたくなるほど、晃二は上機嫌《じようきげん》だった。
「もし、僕が若い綺麗《きれい》な子と会っていたら、どうする?」
「そんなこと――」
こんな田舎では、あるわけがないと言うように、緋紗江は笑った。
「本気にしないのかい。現に僕は美人を千字川で助けたこともある……」
「それ、本当なの?」
「千字川で助けた美人のこと?」
「ばかね。今言った若い綺麗な子のことよ」
「矢張り気になる?」
「変だわ、気を持たせたりして」
「家に帰れば、判るさ」
晃二は女同士なら、友達になれるかも知れないと思った。綺麗な女性には違いなかったが、その女性は男は臭《くさ》いから嫌いと言った。
「僕、臭《にお》うかい?」
と、晃二は訊いた。
「どうして? 変ね」
緋紗江は不思議そうな顔で、晃二を見た。
家に着くと、すぐ晃二は車から外に出た。縁先を見ると、彼女の姿はなかった。空になったジュースの瓶とコップが、きちんと揃えられている。晃二はコップの下に、紙片を見付けた。ノートを千切った紙で、インクの文字が新しい。
また逢いましょう N
最後まで名を明さず、ただNと記してある。このイニシャルだって、いい加減な文字なのだろう。ふざけた挨拶《あいさつ》だと思った。晃二は紙片を丸めて捨てた。馬鹿にされたような気がして、緋紗江に話したら、笑われそうだった。
緋紗江は車の中からいくつもの紙袋を出している。晃二はジュースの瓶《びん》とコップを流しに運んだ。
食事を済ませた後、晃二は忙しかった。東京の郊外に、小さな自動車修理工場のできそうな、いくつかの候補地が見付かったからだ。明日、東京へ発《た》つ準備で、晃二は荷物を調《ととの》えたり、地図を拡《ひろ》げたりしているうちに、いつの間にか、工場の主人になっていた。工場の間取りや、工具の調達に没頭していった。
晃二はいつとなく、道端《みちばた》で拾った女性のことを忘れていた。
緋紗江の仕事は、家にある古い品の整理だった。古い家具や農具などに晃二は無関心だったが、緋紗江は女らしい細かさで、楽しみのようにその仕事に当っていた。
納戸《なんど》や棚《たな》の隅から、緋紗江はいろいろな物を引き出した。古雑誌、古着の詰まった行李《こうり》、茶道具、時計、毀《こわ》れたラジオ……いずれも、丹精《たんせい》のよかった母親が捨てかねて、保存していた物だが、晃二には未練がなかった。全てを処分する積りでいたが、緋紗江は同意しない品があった。それ等は新しい住いの装飾として埃《ほこり》を払われた。
気が付くと、緋紗江は茶色になった桐《きり》の箱を持ち出していた。晃二は冷たくなった残りの茶をすすった。
「いらないよ。富山《とやま》の常備薬だ。古くなっているから、飲むと毒かも知れない」
母親が亡くなってから、晃二はその箱に手を付けたこともない。薬屋の顔さえ想《おも》い出せなかった。
「薬を飲むわけじゃないの」
緋紗江は箱を開けて、古い紙袋をかき分けていた。
「この箱、わたしの小物入れに使っているのよ。いいでしょ?」
「かまわないさ。どうせ、いらないんだから」
ぼんやり見ていると、緋紗江は別に黒く光る箱を取り出した。漆塗《うるしぬ》りで鳥のような柄《がら》の蒔絵《まきえ》が見えた。自分の家には珍しく贅沢《ぜいたく》な品のようだった。
「それは?」
「――これは、わたしの物」
「そうだろう。見覚えがないから」
緋紗江は薬の箱を棚に戻した。晃二は別に気にも止めなかった。しばらくして緋紗江が、
「ちょっと事務所まで行って来ます」
と、言ったときもそうだった。
「ああ」
うわの空で答えたようだった。
どのくらい過《た》っただろうか。茶が欲しくなってあたりを見たが、緋紗江の姿はなかった。ジュースでもと思って勝手元に行ってみると、買って来た品は、まだ包装も解かれずに置いてあった。
部屋に戻ると、縁側の前に人影が見えた。パーゾウだった。
「今、忙しいんだ」
パーゾウが去ろうとしたとき、気が付いて訊いた。
「家の奥さん、どこかで見掛けなかったかい?」
「さっき、道で会いましたすよ」
「どこの道だった?」
「工事の、新道」
緋紗江が事務所まで行って来ますと言ったのを思い出した。
「そうかい、もういい」
吸いかけの煙草をやった。
車のキーは晃二のポケットにあった。いつもだったら、緋紗江が自分で車を運転するか、晃二が送るかだった。
――仕事に夢中だったからな。
晃二は車で迎えに行こうと思った。軽く気晴らしをしたい気もあった。喉が乾いていた。晃二は茶箪笥の上に麦茶があったのを思い出した。生まぬるくなっているだろうが、氷を取り出すのも面倒だった。デュボネの瓶を取り上げ栓《せん》を外して口に当てた。
味が変っていたが、ぬるいせいだろうと思い、気には止めなかった。覚悟はしていたが、ひどくまずかった。
外へ出ると、パーゾウがまだうろうろしていた。車に入りキーを入れた。現金はまだそのままだ。家に置くよりも、車の中の方が安全だった。
座席に長い髪が落ちていた。緋紗江のでも、晃二のでもない。Nといった女性のものに違いない。ふと、その女性のことが何だか気になった。
重吉岩を廻ろうとしたとき、不意に変な胸苦しさを覚えた。一時は堪えたものの、続けて襲った締め付けられる苦痛に、思わず車を止めた。そうして、信じられぬほど強い動悸《どうき》……
喉がからからだった。水が必要だった。水であれば、川の水でも泥水でもよかった。晃二は転がるように川に降りた。
どういうことだろう。思考はすでに定まらない。
晃二は岩でよろけた。足を踏みしめたとき、何かを強く踏んだようだ。それは鋭く靴の底に突き刺さった感じだが、見定めることも出来なくなっていた。身体を立て直そうとするにも、手足が痺《しび》れ、まるで言うことをきかない。晃二はその場で膝《ひざ》をついた。
何でも水を飲もう、という意識が、最後になった。晃二は流れまで這《は》ったが、それ以上力が続かなかった。そのまま、流れに首を突っ込んだ。
続けざまの激苦に、晃二は再び立ち上ることができなかった。
三章 粧《しよう》 子《こ》
一
獅々吼峡《ししくきよう》で変死体が発見されたという、署からの一報が館崎《たてざき》刑事のところに入ったのは、午前十一時を廻《まわ》っていた。暑い日だった。
その日は、館崎の休暇の、最後の日だった。昨夜、東京から帰って来たところだ。旧友の娘の結婚式にあぐりと出席し、終ってから映画を付き合わされた。恋愛映画というのだろうが、最近の映画は、もう館崎の尺度では計り難い。裸体の男女がごく自然に登場し、あぐりもそれがあたりまえの顔で見物していた。帰りの列車の中で、あぐりは館崎の横顔を見ながら、
「パパもそろそろ再婚したら? 私の友達を世話しようか」
と、余計な心配をした。
「自分の頭の上の蠅《はえ》でも追え。いらない世話だ」
館崎が叱《しか》ると、あぐりは長い舌を出した。
あぐりが結婚に失敗して帰って来たときも同じ調子だった。
「嫌《いや》んなったから、帰って来たの」
と、ぺろりと舌を出した。
確かに「嫌になったらいつでも帰っておいで」と言った覚えはある。あぐりの花嫁姿に柄《がら》にもなくほろりとし、うっかりと口に出しただけだ。自分では世辞の一つだと思っている。それを本気にされては困るではないか。男親の手で育ち、甘やかし放題に育てたのが悪かったのだ。
堀《ほり》刑事から電話が掛ったとき、館崎は遅い朝食を済ませ、庭の手入れでも始めようかと思っていたところだった。
庭といっても広くはない。猫《ねこ》の額《ひたい》ばかりのところに、梅が一本と、椿《つばき》が数株。夏の雑草の生長は早い。久しく手入れをしない間に、廃園のような状態になっていた。
あぐりは庭の手入れだけはしない。虫が嫌《きら》いだからだ。うっかり強要しようものなら、梅の木を伐《き》り倒さないとも限らない。伐った後はきっと長い舌を出すだろう。
あぐりはテレビに夢中だった。宝塚の女優が出演しているのだ。この頃《ごろ》、あぐりが馬鹿《ばか》なのか利口なのか判《わか》らなくなった。成績は悪くはなかった。親の欲目もあるが、顔立ちも十人並みだろう。学校を出て郵便局に勤め、同級生と恋愛して結婚生活に入った。それで、すぐ嫌になったから帰って来たと言う気が知れなかった。館崎の方は、そのお蔭《かげ》で、襟垢《えりあか》の付かないシャツを着られるし、好物の酢豚《すぶた》にもあり付けるわけだが、そうした便利さを素直に喜んではいられないのだ。
それにしても、当人は至極|呑気《のんき》なものだ。いい年をして親から小遣いをせびり、月に何回かは東京へ映画や宝塚を見に行ってしまう。館崎はそんなあぐりを、ふと羨《うらや》ましく思うことさえある。
テレビに夢中になっている娘の横顔を、ぼんやりと見ているとき、電話が鳴った。あぐりがまめまめしく立ち上り、応対した。館崎の方へ顔を向け、
「お父様、堀さんからです」
受話器を渡すと、そのままテレビの前に戻《もど》ってしまった。
堀刑事は館崎が家にいることを知って、ほっとしたようだった。
「今、千字村駐在の三森巡査から通報がありました。獅々吼峡の千字川に、若い男の変死体が発見され、毒殺の疑いが濃いようです」
「毒殺ね……」
獅々吼峡へは、小学生の頃、遠足で行ったことがあった。細い山道がどこまでもなく続き、足の痛さだけが記憶に残っている。その獅々吼峡へは、最近自動車道が完成し、往《ゆ》き来が極めて楽になったようだ。それは獅々吼峡にダムが出来るからだった。
「緊急配備に着きます。指揮は佐古《さこ》警部です。車を廻しましょうか」
「そうしてくれると有難い」
受話器を置くと、あぐりはもうワイシャツを出して拡《ひろ》げている。半袖《はんそで》シャツに手を通すうちに、ネクタイを選び出す。死んだ妻より、ずっと気がきくのだ。それでいて自分自身にも忠実だ。目はテレビから放さない。画面には赤いかつらを着けた娘がうろうろしていた。
「何に夢中になっているんだ?」
と訊《き》く。血なまぐさい事件の話はあまりしたくない。
「〈ヴェニスの商人〉よ。翼鐘子《つばさかねこ》のポーシャが素敵なの」
どうも娘の趣味がよく判らない。女が男の役をして、何が面白いのだろう。
十分もすると、車が着いた。堀刑事が運転し、園井《そのい》刑事が横にいた。館崎は大きな身体を小さくして、後の座席に坐った。
「翼鐘子というのを知っているか?」
「あれ、館崎さんは知らなかったんですか」
堀が反対に不思議そうな顔をする。
「お嬢さんのご贔屓《ひいき》ですね」
あぐりをお嬢さんと言われたのが気に入らなかった。館崎は頬《ほお》をふくらした。ただし、前を向いている二人には見えない。
「毒を飲まされたんだってな」
「らしいですよ。三森巡査の話では」
と、堀が答えた。
「被害者は?」
「千字村の住民で、埴田《はにだ》晃二。まだ若い男です。ずっと東京で働いていたんですが、最近、土地の整理のため、帰郷していたところだそうです」
これまで、館崎の記憶では、千字村に事件の起こったことはなかった。それが最近、小さな傷害事件が続けて発生している。いずれも、ダム建設推進派と、反対派の衝突だった。
「埴田晃二という男はどっちだった? ダム建設に賛成か、反対か」
すぐ、ダム建設に結び付けたくなるのは、そんなことがあったからだ。
「一応、ダム建設反対期成会の一員だったようですが、なかなかちゃっかりした男らしく、本心ではごたごたしているうちに、土地の値が上るのを待っていたようだといいます」
「反対期成会は、解散したそうじゃないか」
「そうです。深沢源吉|爺《じ》いさんが死んでからは、骨を抜かれたのも同然になりましたよ」
深沢源吉なら覚えがあった。たびたび警察署を訪れ、ダム建設反対論を演説して帰った。晩年、痩《や》せほそったその姿には鬼気迫るものがあった。
「水没地の住人は? もう、離村し始めている家もあるだろう」
「もう、半分は離村し終えたでしょう。三森巡査が最後になるようですが」
そうだった。あの駐在所も水没地域に入っていたのだ。
「埴田晃二の家族は?」
「今まで、母親が一人で畠をやっていましたが、今年の三月交通事故に遭《あ》って死亡しました」
「そうだ。工事用のトラクターに撥《は》ねられて死んだ女がいた。あれが埴田晃二の母親だったのか」
「そうです。折も折でしたからね。公団じゃ、慰謝料をはずんだことでしょう」
館崎はまた頬をふくらせた。立場は違っても、親一人子一人。もし自分が死んだら、あぐりはどんな気持になるだろう。
「すると、埴田晃二は独りだけか」
「若い妻君がいるようです。大南建設で働いていた若い測量士で、結婚して、まだ二た月そこそこだそうです」
「結婚したばかりでね……」
「若い子はがっちりしていますよ。補償を目当てに、扶養家族を多くしようと思ったのでしょう」
館崎の頬がまたふくらんだ。同衾《どうきん》の夢も浅い新妻《にいづま》のことを思ってだ。あぐりだったら何と言って帰って来るだろう。真逆《まさか》、舌など出すまい。
「妻君は土地を売った財産を一人占めにしますよ。案外、という感じがしませんか?」
館崎は何も言わなかった。どうも、あぐりのことが心にあるとき、思考に甘さが生じるようだ。
車はトンネルに入った。工事用の機材を運ぶため、雫山《しずくやま》に掘られたトンネルだった。
「少し前でしたら、えらい道のりでしたね」
堀の言うとおり、四宿《ししゆく》と言っていた頃の獅々吼峡へは、狭い林道が一本あるばかり。勿論《もちろん》、車など入るわけがなく、急ごうとすれば、一度玉助温泉まで出るという、遠廻りの道をとらなければならなかった。
「だが、それまでは千字村にこんな事件が起こったことはなかったぞ」
「そうでした」
堀は逆らわなかった。折角の休暇を台なしにされて、不機嫌《ふきげん》だと思っているのに違いない。
トンネルを出ると、獅々吼峡が見え始めた。
工事用のダンプと、何台もすれ違う。道はまだ砂利道で、強い陽差《ひざ》しに乾いた砂が舞い上る。埃《ほこり》を嫌って窓を閉めると、車内はじりじり暑くなった。
ダムの本体が見えてくる。白いダムは、獅々吼峡の風物を一変させるだろう。秋には湛水《たんすい》が始まり、翌年には発電施設が整い、送電が開始されるという。それにしても、凄《すご》いピッチだ。
獅々吼峡の風物が一変する前に、水没地住民の心も変ってしまったという噂《うわさ》をよく耳にした。
それまでは大地に這《は》って、こつこつと暮して来た人間の土地がなくなり、代りに札束が積み上げられたのだ。無理もない。それにしても、よくない噂ばかりだった。金を受ける村人が、公団や銀行からの祝い酒に溺《おぼ》れていること。親子の財産争いがもう何軒もの家に起こっていること。土地の金を全部、博打《ばくち》でなくしてしまった男がいること。噂をする方の妬《ねた》みで、誇張が加わるのは当然としても、そうした住民がいることは事実だった。
ダムを過ぎると、巨大な岩が見え始めた。谷に面した岩肌《いわはだ》が、屏風《びようぶ》のようにそそり立っている。
館崎は重吉岩という名を覚えていた。小学生の遠足のとき、教師が講義したのだ。何とかの重吉さんという偉い人が、川の流れをこの大岩に当てるように変えたため、それから洪水《こうずい》が起こらなくなったのだ、と。
車は重吉岩を廻った。古い神社の鳥居が見えた。その神社の名は、忘れていた。
重吉岩を廻ったところで、堀は車を止めた。館崎たちが到着する前に、何台かの車が駐車し、捜査官が働いていた。
白い車体が館崎の目を引いた。田舎道《いなかみち》には不釣合《ふつりあい》なスポーツカーだった。鑑識課員が指紋を採取しているところだ。
「これは?」
館崎は車を見渡した。
「被害者の車ですよ。豪勢なもんじゃありませんか」
と、鑑識課員が答えた。
「セラピムS5。新車だな」
館崎は開けられたドアから、中を覗《のぞ》いた。内装も真新しい。計器類やアクセサリーのデザインが仰《ぎよう》々《ぎよう》しい。飛行機でも操縦するみたいだ。キーが差し込まれたままになっている。銀色の蝶《ちよう》のホルダーが下っていた。
「ダッシュボードの中に、大層な物が入っていましたよ」
別の鑑識課員が、道の上に拡げられた白い布の上に、並べられた品を示した。免許証、地図、煙草《たばこ》の箱、ノート。最後に蝶の柄のハンカチに包まれた品を、慎重に解いた。手の切れるばかりの、紙幣の束だった。
「キーは差し込まれたままになっているね」
「ですから、物盗りなどの仕業じゃありませんね」
館崎は免許証の写真を見た。髪を伸し、しっかりした表情の青年だった。やや粗野な感じは受けるが、まず好男子の部類だ。
遠くでひとしきり機械の轟音《ごうおん》が響いた。
「屍体《したい》は川縁《かわべり》にあります」
と、堀がうながした。
岩伝いに谷底に降りる。掘削《くつさく》されて切り立つ岩が転がり、足元が悪い。強い陽が流れに反射した。谷底には多くの捜査官が働いていた。今、屍体が担架に移されたところだ。佐古警部がいる。黒い顔に赤いシャツが似合わない。佐古には娘がいなかった。
屍体を見る。顔がふやけて白っぽい紫色に変色し、苦痛の表情を残していた。わずかに、写真で見た面影が残っている。右の靴《くつ》の踵《かかと》に、新しい傷が見えた。
「死後、二十時間は過《た》っているな」
と、佐古が館崎を見て言った。
「水につかっていたようですね」
「上半身がね。直接の死因は水による窒息だが、明らかに毒物を飲んでいる」
「毒は?」
「まだはっきりは言えないが、多分有機燐酸系の毒物らしい」
佐古はぼりぼり尻《しり》を掻《か》いた。それが癖だから仕方がないのだが、娘がいればとうに治っていたに違いない。
「つまり、こうだ。被害者は毒を飲まされ、苦しくなって川の水を飲もうとし、ここまでは来たが、力が尽きて水にのめり込んだと思われる」
「自殺じゃないんですか」
「毒物の容器が見当らない」
「川に流されたというのは?」
「被害者には、覚悟の様子が見えない。車もエンジンを掛けたままだったし」
「すると、毒を飲まされた場所は?」
「車の中、と考えるのが自然だろう」
館崎たちの姿を見て、制服の警官が近寄って来た。
「駐在の、三森です」
鼻の頭の赤い、酒の好きそうな男だった。必要以上に緊張しているのが判る。恐らく、初めて出喰《でくわ》した殺人事件なのだ。
「発見者は?」
館崎は訊いた。
「大南建設の作業員です。名前は……」
せわしく手帳を繰る。顔が赤くなった。真逆《まさか》酒を飲んでいるわけでもあるまい。
「ここは上からじゃ見えにくい場所だ。その発見者は、ここまで降りて来たのですか?」
「いや、そうでねえす。ダムサイトの近くに、白い靴さ流れ着いているのを見付けたです。それで、上流に何かあったべかと思って、ここまで来たところ、晃二の屍体さ発見したです」
「白い靴?」
晃二の靴は黒い。そして、揃《そろ》っている。
「そうです。女物の白い靴です」
その靴は屍体の傍に置かれてあった。左の一つで、まだ真新しい。
「んだもんすから、最初この屍体が、男だとは思わねがったといいます」
「この白い靴をはいていた女はどうしたのだろう」
三森巡査は首を振った。
「被害者とは顔見知りかね?」
「そうです。あまり口さ利《き》いたことはねえですが」
「どんな男でした」
「普通の、大人《おとな》しい若え者でしたな。酒も飲みません。永えこと東京さ行っていたもんで、村の付き合いも少なかったようです」
「ダム建設反対期成会の一人だったのでしょう」
「ですが、会合に顔を出すようなことも、あまりねがったようです。晃二は酒を飲みませんし」
「贅沢《ぜいたく》なスポーツカーを持っていましたね」
「ありゃ、金海芳男という男が世話をしたらしいです。土地を売った金でです」
「金海芳男?」
「ほれ、下筋代議士に使われている男です」
館崎の頬がちょっとふくらんだ。下筋高志というのは千字村と向かい合った土地に勢力を持っている代議士だった。ダム建設に対して、多大の利益を受けるのは、下筋とその一族である、と反対派の頭首、深沢源吉から聞かされたことがあった。下筋の一門、金海芳男と埴田晃二が通じていたということは、堀刑事の言うとおり、なかなか晃二という男は抜け目がなかったと言えそうだ。
三森の言葉で言うと「はしかい」男なのだそうだ。深沢源吉のダム建設反対期成会にありながら、裏ではダム建設促進派の金海芳男と通じ、スポーツカーを手に入れるなどの取引きをしていたのだ。
「金海芳男と晃二は親しかったのですか?」
と、館崎が訊いた。
「小学校のとき、同級生だったようです。けれども、そんなに親しくはなかったですな」
「晃二は永いこと、東京だったのでしょう」
「そんだす。そう言や、下筋代議士も東京に事務所があります。金海芳男はそこに働いていた。東京で会っていたことも考えられますな」
「晃二の勤めは?」
「ガソリンスタンドの自動車整備士です」
「とすれば、偶然に再会した可能性もある」
「そうだすな」
「晃二には、若い妻君がいますね」
「緋紗江といいます。今、刑事さんが、大南建設の事務所に行っています。もう戻るでしょう」
「結婚して、勤めは辞めなかったのですね」
初め聞いたとき、若い女性の測量士という仕事が、意外な気がした。測量という仕事を選び、男の中で、奥深い山峡のダム工事現場で働く。そして見知らぬ土地の若者と結婚したという女性に興味が起こった。しっかりした女なのだろうか。それとも行き当りにまかせる向こう見ずなのか。思い癖とは知りながら、館崎はすぐ娘と比べてみる。あぐりがそうだったら、自分は賛成するだろうか。
間もなく、晃二の妻、埴田緋紗江が館崎たちの前に現われた。緋紗江の顔色は紙のように白かったが、館崎はしっかりしているという第一印象を受けた。
背が高く、はっきりした顔立ちだが、目に黒い隈《くま》ができているため年齢よりは老《ふ》けて見える。髪は短く、紺の半袖作業服に同じズボンだった。館崎はちょっと困惑して頬をふくらませた。緋紗江の感じが、何となくあぐりに似ていたからだ。
足取りが覚つかない。緋紗江は何度も岩に足を取られそうになった。担架を見ると、思わず立ち竦《すく》む。手の中に赤いハンカチーフが揉《も》みくちゃになっている。緋紗江の身に着いている女らしい物といえば、そのハンカチーフだけだった。
刑事にうながされて、担架の傍に立つ。被《おお》われた布がめくられる。死者との対面。緋紗江は後ろ向きになって顔にハンカチを当てた。
無理もない。と、館崎は思った。あぐりなら、どうするだろう。館崎は大きく息を吐いて、緋紗江の傍に寄った。佐古が声を掛ける。
「御主人ですね?」
「そうです」
緋紗江は意外にはっきりした言葉で答えた。言葉に訛《なま》りがなかった。
「お気の毒なことでした。さぞびっくりされたことでしょうが、少しだけお聞きしたいことがあります」
担架が係官の手で運び去られる。緋紗江はそれを目で追った。
立っていることが、苦しいようだった。館崎は平らな石を見付け、その上に自分のハンカチを敷いて、緋紗江をうながした。
「実は、御主人の死に、不審な点が見られるのです」
緋紗江はハンカチを膝《ひざ》の上で伸した。蝶の柄だった。車の中で見付かった、色違いのハンカチだ。
「御主人が見えなくなったのは、いつでしたか?」
「昨日の昼頃。夜中まで待っていましたが、とうとう帰りませんでした」
「昨日は日曜日。勤めはお休みでしたか」
「そうです」
「昼まで、御一緒でしたか」
「いいえ……」
不意に緋紗江の肩が小きざみに震え出した。佐古は動揺の静まるのを、じっと待った。
「わたしは……町まで買い物に出ました。主人は……」
主人と言うときちょっと言葉が詰まった。主人という言い方さえ、馴《な》れていないのだ。
「……新指《あらゆび》バス停で別れ、金海さんのところに出掛けて行きました」
「金海さん……というと、下筋さんのところの、金海芳男ですね」
「そうです。その人と、約束がありました」
「どんな用件だったのでしょう」
「土地売買の最終契約をして、土地代金を受け取りに行ったのです。今日、東京へ土地を見に行く予定だったのです」
晃二が受け取ったという金額は、セラピムのダッシュボードから発見された紙幣の額と一致していた。
それにしても、と館崎は考える。そんな金額を右から左に調達するという金海芳男という男は、必要以上に晃二に尽しているような気がするのだ。土地買収はダム建設に最も大切な仕事としてもだ。佐古も同じような疑惑を持ったものか、厳しい表情を崩さなかった。
「御主人は、そのまま家に戻られた?」
「いいえ……バス停まで、迎えに来てくれました」
あぐりの夫も、そうしただろうか。
「埴田さんの車は、セラピムでしたね」
「そうです。約束の時間より、ちょっと遅くなりましたが」
「遅くなった? 理由があったんですか?」
「主人は何も言いませんでした。けれども、誰かと会っていたような気がするんです」
「それは、どんな人ですか?」
「若い、綺麗な女性ではなかったか、と」
館崎は緊張した。思い掛けない女が出現したからだ。
「――そのことを、もう少し精しく聞かせてください」
「精しくと言っても、わたし見たわけではありません。ただ、迎えが遅くなった理由を訊くと、夫は〈もし、僕が若い綺麗な子と会っていたらどうする?〉などと気を持たせるようなことを口にしたからです。そして現に、座席に長い髪の毛が落ちているのを見付けました。わたしの髪はそんなに長くありませんし、夫のもそうです。それ以上のことは何も申しませんでした……が」
「が?」
「家に戻ると、縁先に空になったジュースの瓶とコップが、きちんと揃えられて並んでいました。それはわたしたちが家を出るときにはなかったものです」
「御主人はそれについて、何か言いませんでしたか?」
「はい、さっさと自分で片付けてしまいました」
「瓶とコップは、まだ家にありますね?」
「はい。片付けたままになっています。それから、こんな紙が残っていました」
緋紗江はバッグの中から皺《しわ》になった紙片を取り出して、佐古に渡した。
「これは?」
「コップの下に置いてあったのです。主人はちょっと見ただけで、すぐに丸めて捨ててしまいました。気になったものですから、後になって、拾ったのです」
館崎は紙片を覗いた。ノートを千切った紙にインクで文字が書かれている。ただ一行、また逢いましょう、N、と読めた。
晃二がそのNという女性と出会ったことは、疑いがなさそうだった。Nは晃二の家でジュースを飲んでいるが、出会ったのは他の場所らしい。Nは晃二の車に同乗したと思えるからだ。
晃二はどこかでNと会い、車に乗せて自分の家に案内し、ジュースを出す。そのうち、緋紗江との約束を思い出し、Nを家に残して、車に乗る。緋紗江とバス停で落ち合い、家に戻ってみると、Nはいなくなっており、書き置きだけが残されていた。晃二にはNのことを緋紗江に話したがらない理由があった。
館崎がここまで考えたとき、一人の捜査官が傍に寄って来た。
「一と通り千字川付近を検索しましたが、今のところ他の遺留品らしい物は見付かりません」
佐古はなお捜査を徹底せよと言ってから、緋紗江に向きなおった。
「御主人はこの紙片が置いてあったことを、あなたに何もおっしゃらなかったのですね」
「そうです。わたしは車から買い物の包みを出していました。一緒に見たわけではないんです」
「それから?」
「それだけです。昼食を済ませてから、主人は次の日東京に出掛けるための準備にかかりました。わたしは片付け物などし、ちょっと用事が出来たので外に出掛け、帰ってみると、主人はいませんでした。そのまま、主人は戻りませんでした」
「車で、ですね」
「そうです。家の中は散らかったままでした。わたし、すぐ帰るとばかり思って」
「眠られなかったようですね」
「……ええ。一と晩中……」
緋紗江はハンカチで顔をおおった。
「御主人がどこへ行ったのか、心当りは?」
頭だけが横に動いた。
「――Nという女性を知っていますか?」
その言葉には、頭も動かなくなった。
二
さっきの刑事が、鑑識官と一緒に緋紗江を送って行った。緋紗江の立った後にハンカチが残った。館崎はハンカチをはたいてポケットに入れた。
「新婚だというのに、気の毒なこってすな」
三森巡査が緋紗江の後を見送っていた。
「あの人がおまけさんになれば、さぞ美しいのが出来るでしょう」
「おまけさん?」
館崎は聞き馴れない言葉を繰り返した。
「おまけさん祭で、おまけさんになるわけです」
「祭というと、村の祭礼ですか」
「そうだす。耳成神社の祭は春と秋にあります。春のは田植え祭、秋は収穫祭ですが、どちらも耳成神社の祭は、おまけさん祭と言われているです。春のおまけさんは、源吉爺さんの、かねさんが勤めたです」
「すると――おまけさんというのは、必ず未亡人になった女性が勤めるわけですか」
「それが、この村のしきたりです。もともと、この土地は過疎地でありました。昔から若え者は、他の都会さ行くことが多かったす。殊に娘っ子は自分の貧乏村を嫌《いや》がった時代がありまして、女子の数が減ってしまったのです」
「この土地に美人が多かったとも考えられますね」
「そうでしょうかな。で、おまけさんというのは、女性払底を補うために考え出された智慧《ちえ》だと言います。亭主が死亡した後、後家さんは神妙に亡夫の操《みさお》など守っていられねがった。すぐ他の男に嫁ぐことを強制されるわけです。おまけさんとは、喪明《もあ》けが語源だと聞いたことがあります」
「喪明けさんが、おまけさんになった……」
「未亡人は、その次の祭礼に、おまけさんにされます。白粉《おしろい》さ塗りまして、古い衣装さ着て、山車《だし》の上に乗ります。そんなわけですから、若い未亡人ほど、人気が上ります」
山車は村中に引き廻される。一種の顔見世になるわけだ。顔見世というより、晒《さら》し者という感じがする。館崎はとても残酷な祭のような気がした。あぐりがおまけさんにされたら、どんな心持だろうか。
「祭が済むと、未亡人は喪が明けたことになって、未婚女性と同じ待遇を受けるわけです。誰と結婚しようが、親類も反対することは出来ませんです。昔の風習としては、珍しく合理的ですな」
「秋のおまけさん祭は、いつになります?」
「今年は繰り上げが決って、早めになります。九月上旬になりますか。ダムの湛水が始まらないうちにです」
「耳成神社も水没してしまうのでしたね」
「そうだす。ですから、耳成神社の祭礼も、それが最後になります。秋のおまけさんには、御案内します。これで、見られなくなりましょうから」
「晃二の妻君は、秋のおまけさんになるでしょうか」
「そりゃ、どうですかな。彼女、この土地に来てからわずかだし、若えすからな。きっと嫌がるでしょうな」
三森巡査の言うとおりだろうと思った。だが、緋紗江がおまけさんにならなくとも、最後になるという、耳成神社の祭礼だけは、見ておきたいような気がした。
「――ここの近くに、旅館はないだろうか」
佐古は三森に訊いた。
「民宿なら一軒だけあります。千字荘という、小さな宿ですが」
「私、当って見ましょう」
と、館崎が言った。
「そうしてくれ。ついでに、大南建設の方の聞き込みも必要だ」
「千字荘というのは近くですか」
三森はちょっと考えて、
「んだすな。車で十分ぐらいでしょう。御案内しましょう。千字荘の婆《ば》っちゃとは親しくしとりますから」
「そりゃ助かります」
現場探索は山が見え始めている。新しい遺留品は発見されない。犯行は一見単純のようだが、捜査は長引きそうな予感がした。
館崎は堀と園井を呼んだ。
「千字荘に行って見ようと思う」
「千字荘? 何かあるんですか?」
堀が目を輝かせて言う。若々しい好奇心が好ましい。あぐりの夫にはどうかな、と館崎は思う。もっとも、堀の方が嫌がるかも知れないが。
「晃二の妻、緋紗江の話では、昨日の昼ごろ、晃二は若い女と会っていたらしい。晃二はその女を家に連れている。何かわけがありそうなんだ。土地の者でなければ宿が必要だ。この付近の宿といえば、千字荘という民宿が一軒あるだけだ」
館崎と三森巡査、それに堀と園井は岩場を登って工事用道路に出た。
セラピムは前の場所に駐車してある。捜査官がなお内部を調査している。
「道の跡は?」
と、館崎が訊いた。
「車は急に止められたようです。足跡の方は、この道ですから」
粗《あら》い砂利は人の足跡を止めないのだ。
「女の、長い髪の毛を収集しなかったかね?」
捜査官は手を止めると腰を伸ばした。
「座席の下に落ちていましたよ。ここにあります」
白い布に包まれてある。見ると何本かの細く長い髪が丸められていた。
「犯人の、ですか?」
「まだ判らない。だが重要な資料になるだろうね」
館崎たちはそのまま車に乗った。運転席には三森が坐った。
「その女は大南建設の工事事務所に用があった可能性もある。俺と三森さんは千字荘で降りる。あと、君たちは大南建設の事務所に寄ってくれ」
「ただ、若い女だけなんですか?」
「今、判っているのは綺麗な若い女。髪の毛を長く伸しているらしい。恐らく靴が白だったと思う」
「下流で発見された片方の白い靴のことですね」
「そうだ。それから、女の書いた物で、彼女のイニシァルがNであるらしい」
「N……名字ですか名前ですか?」
「それが、まだ判らない」
車はしばらく工事用道路を走ってから、狭い道に入った。ひどいでこぼこ道だ。
「手入れが悪くて、済みませんです」
三森は自分の落度のように言った。この道も秋には水の底になってしまうのだろう。手入れが悪くても無理はない。
「緋紗江をどう思う?」
ふと、館崎は堀に訊いてみた。
「そうですね……美人じゃありませんか。ああいうタイプ、僕の好みです」
それでは、あぐりにも希望が持てそうだ、と思いかけて、館崎は頬をふくらませた。
「しっかりしていそうじゃないか」
「しっかりし過ぎているとしたら、どうします?」
「と、いうと?」
「晃二は土地を売った金を、大分持っていますよ」
「そうですね」
と、園井が口をはさんだ。
「あのセラピムも気に入りませんね」
「なぜだ?」
「身分不相応ということがあります」
「そりゃ、君の嫉《ねた》みだ」
館崎はまた頬をふくらませた。
千字荘は獅々吼峡を見下ろす崖《がけ》の上に建っていた。そこまで車が入らない。館崎と三森は、そこで車を降り、堀と園井が車を廻して、工事事務所に向った。
千字荘は新建材で建てられた、きゃしゃな二階建てだった。合成樹脂の看板がねじれ、汚れを吸い込んでいる。外装のペンキは剥《は》げ鉄材には錆《さび》が見える。
玄関のガラス戸を開けると、板敷に応接セットが並んでいる。建物と同じように、汚れっぽい新建材で作られた調度だった。真《ま》っ青《さお》なスリッパが並んでいて人影は見えない。
三森巡査が大きな声で呼んだ。遠くで返事が聞こえ、やがて小柄な老婆が現われた。それが千字荘の女主人だった。
「婆っちゃあ、相変らず元気だなや」
三森はずいと上り、スリッパを突っ掛けて椅子《いす》に坐った。
「巡査さんもお元気で」
女主人は愛想笑いをしながら、館崎の方をちらちら見ながら、
「何かあったですか」
と、声を低くした。
三森は手短かに晃二の死を話した。女主人は笑い顔を引っ込め、何と挨拶をしてよいやら惑《とまど》っている風になった。
「……三月にあ、おまきさんがあんだことになったばっかしなのに、まあ……」
「晃二とは付き合いさあったがね?」
「それが、あんまりねがったすよ。ろぐに口をきいたこともねがったす。下の埴田の息子《むすこ》が嫁っこさ貰《もら》ったことも、少し前に人伝てで聞いたばかりすよ」
館崎は聞いているうちに、だんだん殺された晃二という男の姿が形を整えてきた。それは、こういう男だ。女手一つで育てられているが、甘やかされてはいない。単身都会に出て、自分で職を求める。ダム建設反対期成会に入るかと思えば、金海とも与《くみ》する。若いに似ず処世に長《た》け、利に聡《さと》い性格は、早く大人の世界で揉まれたためだ。だが、ひねこびた青年というのではない。車の愛好家であり、女性への愛も烈《はげ》しそうだ。一面、故郷への愛着は強いとは思えない。村人との付き合いも薄く、気軽に故郷の土地を売って、都会に移住する気になっていた。
一方、緋紗江の方はどうだろう。彼女の方ははっきりとつかみかねるところがある。女らしくない仕事、測量士を志し、都会から離れた山峡のダム建設現場で働いている。意志が強く、しっかりとした考えを持ち、容姿もそれに似合っていた。だが、わずかな交際のうちに、埴田晃二と結婚し、夫に尾《つ》いて都会で新たな仕事の計画をしている。緋紗江の初意は、そんなに変り易いものだったのだろうか。堀はまず緋紗江に疑いの目を向けている。晃二が死ねば、財産は緋紗江のものだ。確かにそうだが、館崎にはそうすんなりとは考え難かった。
「……んだで、署の館崎刑事殿さあ、話を聞きてえとおっしゃるだ」
と、三森が言った。
館崎はちょっと居住まいを直して、
「実は昨日、殺された晃二と、若い女性とが出会っていたことが判ったのです。その女性の身元が不明です。村の人ではないらしい。で、お宅の宿泊人の中で、該当《がいとう》するような女性がいないかと、尋ねて来ました」
「はい、おりますよ。うちのお客さんだす」
あっ気ないほど早い返事が返って来た。
「白ずくめの服装をした女子《おなご》のことだべ」
「そう、それです。で、今?」
館崎は声を低くした。
「今は、いねえですよ。昨日の昼頃ここさあ来て、すぐ出掛けて行ってしまったですから……」
「それ切り、戻らないのですか」
「はい、とうとう戻りませんでした」
「ふりのお客? それとも予約があって?」
「予約さありました。電話で二、三日前のことだす」
「名前は?」
館崎は急いで手帳を取り出した。
「荻粧子《おぎしようこ》。草の荻ですな。粧子の粧は、化粧の粧」
女主人は記憶を誇るように、淀《よど》みなく答えた。館崎は書き取りながら、字に注意する。だが、この名にはNというローマ字が含まれない。
「歌手のような綺麗な声でしたよ。はっきりと、宿泊日を指定してきました」
「どこからでした?」
女主人は立ち上り、すぐ宿帳を持って戻って来た。大学ノートを仕切り、住所と名前を横書きにしてある。その最後に、荻粧子という文字が見えた。荻粧子、学生。
夢想家らしい字だ、と館崎は思った。何故《なぜ》だか判らない。ただ、丸みを持った字に、そんな感じがした。
住所は東京の山の手である。これも地名の感じから、静かな住宅地のような気がした。
「で、その荻粧子という女性は、予約のとおり、昨日の昼すぎに来たのですね」
「はい、ちょうど仕事さ済ませたところでしたね」
「どんな様子でした?」
「はあ、白ずくめの服さ着て、白《しれ》え靴さはいていましたよ。見るからに東京のお嬢さんちゅう感じだども、顔色さよぐねがった。何だか幽霊みてえにぼうっとして、旅の疲れだべと思い、すぐ部屋さお通ししたです」
「部屋は?」
「二階のD室です」
粧子の遺留品があるかも知れない、と館崎は思う。
「宿帳さ出すと、書くのも大儀そうで、茶っこ運ぶとしばらく静かにしていたいからと言いなさるんで、下に降りましたです」
「特に何か話したようなことは?」
「何もねえです。お客さんはただ短く返事するばかりでしたど。それから、三十分ほどして、お客さんは下に降りて来なさると、ちょっと散歩して来ると言い置いて、外に出て行ったです。そのときの様子も、来たときと変らねがったす」
「それきり、帰らないのですね」
「そんだす。道にでも迷ったべかと、今でも気にかかっているです」
「他の宿泊人は?」
千字荘はさっきから人の気配はない。だが二た組ほどの宿泊人がいて、一人は中年の男。これは一日中|岩魚釣《いわなつ》りに行っていて留守《るす》。もう一と組は四人の学生。これは山登りが目的で、いずれも粧子と顔を合わせていなかった。
「粧子という子の、持ち物は?」
「来たときは、ほれ何ちゅうますか、横に長えバッグ一つで、出て行ったときは……覚えていねです」
「部屋を見せて貰っていいですね」
「どうぞ。昨日のままになっていますよ」
ぎしぎしいう薄い階段を登って二階へ。二階はむっと暑い空気が淀んでいる。廊下の風通しが悪く、トタン屋根なのだろう。
廊下の左側に四つの部屋があり、D室は一番奥にあった。
素っ気ない六畳の四角い部屋だった。部屋の中央に合板のテーブルが置いてある。扇風機が一つ。形ばかりの床の間には広重《ひろしげ》の複製が掛けられている。女主人がすぐカーテンを開き、窓を開けようとするのを、
「いや、そのまま」
館崎は押し止めて、もう一と渡り部屋を見渡した。押し入れの前に紺色のトレーナーバッグが置かれてあった。
「粧子という子のだね」
「そうだす」
その他には、宿泊客のものらしい品は見当らなかった。念のため、押し入れと、作り付けの小さな洋箪笥《ようだんす》を開けて見たが、同じだった。
館崎は注意深く、バッグのファスナーを引いた。花柄の化粧ケース、新書本、ノート。その下にわずかな下着類が見える。
内側のポケットから白い袋が出て来た。内服薬としてある。宿帳にあった、粧子と同じ区内の綜合《そうごう》病院の文字が見えた。袋の中にはいくつかのビニールに包まれた粉薬が入っている。透かして見る。きらきら光る粉末は、館崎が服用したことのある下熱剤に似ていた。
館崎は薬袋を元に戻して、ノートを手に取った。海老茶色《えびちやいろ》の皮が表紙に使われている。中を開くと、宿帳と同じような字体で、予定、メモなどが雑然と書き込まれていた。ノートの使い方は丁寧だとは言えない。ところどころのページが無造作に引き千切られている。最後の方は二、三ページにわたって、住所、電話番号が控えられてあった。
館崎の指は、当然のように記載が途切れて最後になったページを探した。指がその部分を開いたとき、館崎は思わず目を細くした。まだ誰にも言わないが、老眼鏡を必要とする視力になっていたのだ。
明るい窓の方に寄ってみる。その部分はまだインクも新しい。その内容は不穏に満ちていた。書き込まれた文字も、それまでとは違って、大きく荒々しい書体だった。
まさかと思っていたのだけれど、矢張りそうだった。あれはわたしを退ける手段ではなかった。本当にPは千字村で結婚していた。まさかの場合の半分の覚悟は出来ていたけれど、それを知って後の覚悟も決った。恐ろしいけれどPを取り戻す方法は一つしかないのだ。Pを殺しわたしも死ぬ。そうする以外のことは考えられない。
そして最後の行の下に小さく「ママごめんなさい」と記されてあった。
三森もノートを覗《のぞ》き込んで、表情を固くした。
「――相手のPとは何者でしょう」
「粧子はこの土地に来たのだ。千字村の住人か、建設会社に勤めている人間らしい」
「Pが相手の頭文字とすると、晃二ではねえすね」
「だが、日本人の氏名にPという頭文字が付くのは珍しいんじゃないかな。と言うより、まずないだろう。このPは相手の愛称だと思う」
「そうですな。Pなら……ピラニア、パンダ、ポパイなんかでしょう」
「ポパイ――ね」
館崎は頬をふくらませた。あぐりならもっとましな名を連想するだろう。ピエール、ポール、ピーター……
館崎は窓のカーテンを分けて、外を眺《なが》めた。千字川はすぐ目の下を通るが、見晴らしはよくなかった。雑木が多く視界を遮《さえぎ》り、対岸の風景も、月並みな緑の山がうずくまっているだけだった。
「このバッグはお預りします」
館崎は品物をバッグに戻してファスナーを閉めながら、女主人に言った。
「それから、この部屋の予約は?」
「まだ、決まってはねえです」
「それならば、少しの間この部屋には誰も入れないように。それから、電話は階下《した》でしたね?」
館崎はバッグを下げて階下に降りた。
電話で大南建設を呼び出すと、すぐ堀刑事につないでもらった。館崎は問題の女が荻粧子という名であることを知らせ、Pと呼び習わせている人間に当ってみるように言った。
外は暑そうだ。炎天下に堀の車を待つのはやり切れない。その前に千字荘の主人から、もっと村の様子を聞いておく必要がありそうだと思った。
「荻粧子――ですか」
堀刑事は深い記憶から探り出すように、粧子の名を言った。
来たときと同じ、三森が車を運転している。千字荘の女主人が差し出した湯呑《ゆのみ》の酒を、三森は残念そうに押し返したものだ。館崎は薄い麦茶を何杯もお代りした。
「緋紗江の話によると、晃二は道端《みちばた》で粧子を拾ったのだと言いますが、もともと二人は、面識があったとは考えられませんか?」
「そうさな」
館崎も前からそれを考えている。もし、晃二と粧子が識《し》り合いの仲なら、当然深い関係になければならない。ただの顔見知りだけなら、新妻の緋紗江に隠したりすることもないはずだ。
「今のところ、何とも言えないな。それで、大南建設の方は、どうした?」
「その、粧子という女に関しては、誰も心当りはないと言っています。それから、Pに該当する人間も同じです。工事関係者にはPと呼ばれている者は一人もいません。無論、愛称やニックネームも含めてです」
「粧子は自分のことをNとも言っていた」
「それも当ってみましたよ。でも、誰もNと言う女性の心当りはありません」
若い女性というのは、どうして素直に自分の名を使わないのだろう。粧子のカップルは、どうやら少数の人間にしか通じない、特別の称号を使っているようだ。
「緋紗江の上司に会って来ました」
と、堀が言った。
「ウイリアム エマーソンという、アメリカ人の工学士です」
「君は英語が話せたのか」
「いえ、助かりましたよ。日本人の奥さんがいるそうで、日本語がぺらぺらでした。彼の奥さんが、緋紗江と同じ東宏《とうこう》学園の出身だそうで、その関係で緋紗江がエマーソンと知り合い、測量士の仕事をすすめられたそうです」
「緋紗江の評判は?」
堀はふと不服そうな表情になった。
「それが、申し分ないのですよ。知性的であり、行動は俊敏、しかも豊かな感性の持ち主と言うんですから」
「その、ウイリアム エマーソンとか言う男が言うのか」
「そうです。あんなにべたべた誉《ほ》められるもんじゃありません。彼女に気があるのかも知れない」
「晃二との結婚はどう思っている?」
「とても残念そうでした。だが、当人の意志なのだから祝福したなどと言ってね。晃二が死んで内心では喜んでいるかも知れない」
そのとき、三森が車の速度を落した。耳成神社の鳥居の傍《そば》だった。道の前方に、黒い人影が見えた。
「パーゾウです」
と、三森が言った。
「パーゾウ?」
館崎はその頭文字がPなのに驚いた。
「いつもここらさ歩いている乞食《こじき》です。人畜には無害ですが、村の情報をよく知っている男です。何か知っているかも判りません。ちょっと、当って見ます」
三森は黒い影を追い越してから車を止めた。館崎たちも外に出た。
パーゾウは急に警察官が取り囲んだので、呆然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んだ。暑いというのに黒いオーバーを引きずるように着ている。真黒い顔に怯《おび》えた目が光った。
それにしても、汚なくて臭いPだ、と館崎は思った。
「何もすでねえです」
パーゾウは悲鳴に似た声で言った。
「何かしたと言ってるわけではねえ」
三森は素早くパーゾウを見渡した。
「その包みさ開けて見ろ」
パーゾウはしぶしぶ持っていた黒い布を地面に下ろして開けた。異臭が立ちのぼる。妙な品がいろいろと出てくる。一と塊りの布、新聞紙、古雑誌、きちんと広げて重ねられた、夥《おびただ》しい煙草の空袋、栓抜《せんぬ》き、鑵切《かんき》り、鋏《はさみ》、マッチ箱……
三森はその中から、赤い万年筆を拾い出した。見るからにパーゾウの持ち物の中では異質だった。万年筆は細身の女物だ。
「これは、どうしただ?」
「拾ったです」
「いつ、どこでだ」
「今朝《けさ》……耳成神社でだす」
館崎は万年筆を受け取り、キャップを外して、ポケットから出したマッチ箱の上に走らせてみた。粧子の残していったノートの文字のインクの色と、太さも似ていた。
「耳成神社にはよく行くのか?」
と、館崎は訊いた。パーゾウはうなずいた。
「拾った場所へ、案内してもらおうかな」
園井が車に残った。三人はパーゾウを囲むようにして、耳成神社の鳥居をくぐった。
長い石段で、館崎は汗を掻《か》いた。石段を登り切ると、もう一つの鳥居があり、その奥に古びた社殿が見えた。正面の戸は閉ざされ、三森の話では長いこと神主も不在なのだという。パーゾウには恰好《かつこう》のねぐらに違いない。
パーゾウは社殿の後に三人を案内した。
社殿の裏庭は、岩に取り囲まれた形になっていた。杉や松の木が陰を作り、ほっとする涼しさがあった。岩の中央に細い清水が落ちて、瓢《ひさご》を割った形に彫られた石の中に、銀色のしぶきを作っていた。
乞食とは偉いもんだ、と館崎は感心した。蒸し暑い署内に閉じ込められたり、狭い家の中で寝苦しさを味わうこともなく、パーゾウは快適な生活と自由の中にいるのだ。
「ここだす」
パーゾウは瓢の形をした石の傍を指差した。石に溜《たま》った清水を飲もうとして、身をかがめたとき万年筆が落ちたとしたら、ちょうどこんな位置になるだろう。
「何《な》してここさ来ただ」
と、三森が訊いた。
「夕んべ、ここさ寝たです」
パーゾウは社殿の回廊のあたりを指差した。
「いつも、ここさ寝るんか?」
「はあ、だいたい……」
「昨日はずっとここさいたか?」
「いえ、昼のうちは、あちこち歩いていたです」
「どこさ行った?」
「昼頃、下の晃二さんところ……」
三森の目が光り、声が大きくなった。
「何しに」
「腹あ減ったもんで」
「いつも晃二のところさ行くだか」
「ときどき……」
「昨日の昼頃、晃二は家さいたのか」
「家にいたです。だども、若え女と一緒でした」
三森の喉《のど》が上下に動いた。つばきを飲んだようだった。
「それで、晃二に声さ掛けられなかったんだな」
「そんだす」
館崎はちょっと頬をふくらませた。
「どうして声を掛けられなかった?」
三森が代って答えた。
「この男は変な癖があります。絶対女性とは口をきいたことさねえです。女が近寄ると、逃げてゆくです。男色で身を滅したという噂もあります。……で、すぐ帰ったのか?」
三森は再びパーゾウの方を向いた。
「待っていたです。女はすぐ出て行きそうだったですから」
「その女は、どんな姿だった?」
「白《しれ》えブラウスに、白えスカートだったです。靴も白えのさはいていましたす。背は普通で、丸い顔さして、髪は長かったです」
まさしく、荻粧子に違いなかった。三森がせいているのが判る。
「晃二と、何を話していた?」
「聞こえねがったす」
「親しそうにしていたか?」
「そうだすな。縁先に腰掛けて、ジュースを飲んで、ときどき笑っていたです」
「それから?」
「晃二さんが車さ乗って、どこかへ出掛けて行ってしまったです」
「女を一人残してか?」
「そうだす。それで、わたしはそのまま深沢さんの家さ行ったす」
「かね婆っちゃのところか」
「へい。婆っちゃあから、握り飯さ一つ貰《もら》ったです。それから耳成神社の方さ歩いていると、晃二さんの嫁さんに会ったす」
「緋紗江に? 晃二が家を車で出てから、どの位たっていた?」
「判んねえす。そう長くもねがったべ。嫁さんだけ歩いているので、こりゃあ晃二さん一人だべと思って晃二さんの家さ行ったです」
「晃二はいたか? 白い服の女はどうした」
「へい、女《あま》っ子《こ》はもういねがったです。晃二さんから、煙草さ貰いやした」
「それから?」
「それから、宮田《みやた》さんと亀田《かめだ》さんところさ行き、夕方耳成神社さ行って、寝たです」
パーゾウの話は、緋紗江の話と矛盾がなかった。二人の話を合わせるとこうなる。
昨日、午前中に緋紗江は町まで買い物に出掛けた。新指バス停まで、晃二は緋紗江を車で送っている。その後、晃二は金海と会い、かなりの金額を手にした。晃二が帰る途中で、粧子と出会う。予《あらかじ》め二人の間に約束があったかどうかは判らない。晃二は粧子を家に連れジュースを与える。緋紗江との約束があるので、晃二は粧子を家に残して、車で迎えに出掛ける。粧子はその後すぐにノートのメモだけを残してどこかに行ってしまう。晃二と緋紗江は家に戻り、昼食を済ませてからしばらく仕事をする。緋紗江は用で外に出、帰ったときには晃二はいなかった。翌日、晃二の屍体が千字川で発見される……
では、耳成神社に落ちていた万年筆と、千字川の下流に流れ着いた白い靴の意味は?
館崎は千字川の底を浚《さら》う必要がありそうだと思った。
「ほう、この上にまだ道があるんですか?」
堀刑事の声がした。
堀は耳成神社の境内《けいだい》を検索していたが、最後に廃道同様になった道を発見したらしい。
「昔はこの上に奥殿が建てられていたです。今では礎石さ残っているだけで、あまり人も登らねです」
三森が説明した。
堀のいる前には倒れそうな形で小さな鳥居が建っていた。道はその奥に、急な勾配《こうばい》で見え隠れしながら続くとみえる。
「奥殿は重吉岩の頂上に当ります。見晴らしは悪ぐねえですよ」
三森がパーゾウの出生地などを質《ただ》している間、館崎は堀の後から奥殿に登ってみる気になった。
道は最初急な坂で、そのうち石段となったが、途中から段も絶えて岩場となった。太い錆《さ》びた鎖が渡されていて、鎖の助けを借りながら最後の岩を越えた。
急に視界が開けた。と同時に、強い陽差《ひざ》しが館崎の目を眩《くら》ませた。
獅々吼峡は目の下にあった。三森の言うとおり、悪くない景色だった。対岸の山の裾《すそ》に、真っ白なダムの壁が輝いた。
狭い頂上だった。ところどころに丸や四角な礎石が置かれているだけだ。わずかな時間で、頂上を見尽すことが出来たが、得られたものは暑さだけだった。
捜査会議が開かれたのは、その日の夕方だった。
佐古が捜査の経過を述べたが、館崎が耳成神社に行った後、特に新しい事実は発見されなかった。
指紋の照会は、ほぼ予想されたとおりの結果だった。粧子が晃二の家で使用したと思われるコップは、洗われた後で指紋の検出は不能だったがジュースの瓶から収集された指紋は、粧子のバッグや化粧品に残っていたものと同一だった。なお、同じ指紋はセラピムのドアからも検出された。
耳成神社に落ちていて、パーゾウが拾ったという万年筆にはパーゾウ以外の指紋はなかった。これは土が付いていたのを、パーゾウが拭《ふ》き取ったためである。
粧子が千字村に来た足取りは目撃者がいて明らかになった。白ずくめの粧子が目立ったからだ。駅の改札係、バスの運転手が証人だった。それによると、粧子は東京方面から来て、バスで新指で降りた。どこに寄ることなく、真っすぐに千字村に向かっている。粧子の人相、服装の特徴も一致した証言が得られた。色が白く丸顔の若い女性だが、顔色に生彩がない。髪は長く、結ばずに肩に下げられている。白ずくめの服装、持ち物は紺色のトレーナーバッグ。
特に問題となったのは、粧子がノートに書き残した遺言めいた文章だった。
粧子には深い関係にあった相手がいたようである。その相手は千字村に戻って、別の相手と結婚したのだ。その相手がP。粧子は事実を確かめるために千字村に来て、Pの結婚を確認した。後の記述がただならない。――恐ろしいけれど、Pを取り戻す方法は一つしかないのだ。Pを殺してわたしも死ぬ。そうする以外のことは考えられない。
Pとは晃二のことだろう。とすれば、粧子も同時に死んでいる可能性もある。千字村に来た粧子を見ている証人はいるが、その後の粧子を見た人間がいないからだ。捜査本部は、千字川下流の一帯を、ダイバーの助けも借りて捜査する方針を決めた。
一方、佐古警部は晃二と緋紗江の周辺をもっと洗い出す必要があると言った。金海はいなかった。晃二に金を渡すと、すぐ東京に戻ったという。そういう点も佐古の気に引っ掛るものがあるらしい。同時に、東京での晃二の生活を知ることも大事だった。
館崎の東京出張が決まった。
遅く自宅に戻ると、夕食を作ってあぐりが待っていた。出張だと言うと、あぐりは嬉《うれ》しそうな顔になって、
「そうだろうと思っていたわ。わたし、観残《みのこ》した映画があるの。一緒に連れて行ってね」
と、言った。
三
晃二の勤めていたガソリンスタンドはすぐに判った。
都会の暑さは格別だった。まだ夜汽車などには疲れない自信があったが、暑さだけには参った。
かなり大きなガソリンスタンドだった。隣には修理工場が建てられている。
名刺を出すと、事務所で待たされた。程よくクーラーが効《き》いている。これがいけない、と館崎は思う。室内の熱気は全《すべ》て戸外に放出され、クーラーに馴らされた身体は一層暑さが応《こた》えるだろう。館崎はパーゾウが羨《うらや》ましく思えた。
晃二の面倒をみていた男は修理工場の主任だった。晃二とそう年齢も違わない若い小柄な男だが、館崎を田舎の刑事と知っても、応対は丁寧だった。事務所の隅に坐らせ、自分の手で麦茶を運んで来た。
主任は晃二の死を聞くと、信じられない風に首を振った。
「口数は少ないが、いい男でした。仕事には熱心で、安心して仕事を任せられる腕になったところでした」
酒は一滴も飲まない。館崎が遠慮がちに、女性関係を質《ただ》すと、主任は言下にそれも否定した。
「もしかして、粧子とか、Nの頭文字の付く女性の話を聞いたことはありませんか?」
その答えも同じだった。晃二の周辺に、女の影はどこにも見当らなかったと言う。
「ただ、車は好きでしたねえ。晃二は車が恋人だったんでしょう。一時、パンサーJ72に夢中だったことがありましてね。たまたま乗り入れて来るお客さんの車に触るときの晃二は、まるで恋人の肌でも愛撫するのと同じでしたよ。ですから、同僚は晃二のことをパンサーと呼んでいた時期がありました」
「パンサー……」
館崎は思わずメモしていた手帳を落しそうにした。パンサーの頭文字なら、当然Pなのだ。
「……いや、そうでしたか。晃二の車好きは想像していました。村ではセラピムを乗り廻していましたから」
「晃二が、セラピムを?」
今度は主任の方が、驚きの表情を示した。
「そうです。御存知ありませんでしたか?」
「いや、想像することも出来ませんよ。晃二はそんな金をどこで手に入れたのでしょう?」
「晃二は死ぬ直前、自分の土地を売ったのです」
「故郷に土地のあることは知っています。ですが、とても買い手の付かないような過疎地なのでしょう」
「ところが、最近あの土地にダムが建設されるのですよ。晃二の土地は、水没地になってしまうのです。……晃二は話しませんでしたか?」
「――いや、驚きました。全く、初耳です」
「では、晃二が退職するという理由は?」
「私が聞いたのは、突然母親が交通事故で死去したため、田舎の家を襲《つ》がなければならなくなった、ということだけです」
館崎は晃二の新しい一面を知ったような気がした。晃二が千字村に戻ったのは、家を襲ぐためではない。土地の処分が一番の目的だったに違いない。土地の売却が済めば、すぐ都会に戻る計画でいた。それを主任に教えていない、ということは、軽はずみに自分のことを喋らない晃二の慎重な性格によるものと思われた。
「ところで、晃二の交友関係についてお訊きしますが、金海芳男という名を晃二から聞いたことはありませんか?」
館崎は話題を変えた。
「金海芳男……」
主任はしばらく考え込んだ。セラピムを運転している晃二のイメージを消すための時間のようだった。
「……あります。一度だけ、晃二の口から」
「晃二はその男のことを、何と言っていたでしょう」
「待って下さいよ……そうです。その人はうちのお客さんで来たことがあるんです。晃二が給油していました。車を見送った後、彼がにやにやしているので、知り合いかと訊いたことがありましたね。晃二は田舎で同級だったと答えました。――確か隣の席に年増《としま》の美人が坐っていた。それで記憶があります」
「年増の美人……愛人というような?」
「軽々しくは言えませんが、まあ、一見そんな風でした。その後、男から一、二度晃二に電話が掛かって来ました。私が取り継いだので覚えています。確かに金海という名前でした」
「どんな電話でした?」
「いつも短いものでした。会う場所の打ち合わせではなかったですか」
その後、館崎は主任に頼み、晃二の同僚だった二、三人の修理工の話を聞いた。だが、いずれも主任の話を出る材料は聞き出せなかった。館崎は丁重に礼を言って、暑い街の中に出た。
ガソリンスタンドを先に訪ねたことは、運が良かったと館崎は思った。金海に年上の愛人らしい女がいることを知って、金海に質問すべき内容も、当然変更しなければならないだろう。
館崎は地図を見ながら、バス停に向かった。
「晃二とは小学生時代、ずっと一緒でした。いい奴《やつ》でしたよ。僕とは気が合って、仲が良かったんです」
電話で指定された喫茶店である。中は明るく商談らしい何組かが話し込んでいる。館崎の後にサングラスの女性が腰を下ろしたところで、そんなちょっとしたことにも、館崎は都会を意識した。
金海芳男は晃二の死を聞かされると、少なからず驚いたようだった。喫茶店のタオルでしきりに額を拭いていたが、晃二と仲が良かったという言葉には妙に実感がなかった。
「晃二の土地売却に骨を折られたようですね」
館崎は直接的に話を切り出した。周囲の空気のせいだったかも知れない。
「そうです。私ちょっとその方面に知人があったのです」
言葉を濁すところ、いかにも狡猾《こうかつ》という感じがする。下筋一家は住民と公団の中を立ち廻り、悪どい稼《かせ》ぎをしたという噂《うわさ》を何度も耳にしている。
館崎は晃二が土地を手放した額を問い質した。金海の返事は曖昧《あいまい》だったが、それでも千字村での価格をはるかに上廻る額のようだった。
「ああいった事情ですから、決して法外だということはありません。水没地の地価は、協定的な額がほぼ定められ、晃二の持っている土地も、それに準じて支払われたのです」
「晃二は土地を売る以前に、スポーツカーを手に入れていました。あの車も、あなたが世話したのですね」
「晃二から頼まれました」
「その支払いは?」
金海の返事が歯切れ悪くなった。遠廻しに説明をするが、結局こういうことだ。晃二は協定的な価格では売却に応じようとする気配がなかった。といって、正式には晃二の言うとおりの額を支払うことが出来ない。あの車は一種の協力への謝礼という形で晃二に与えられたのだ。
「晃二はダム建設反対期成会の一員でした。それも、深沢源吉氏の後を襲《つ》いで、強い反対派の一人だったのです。しかも、晃二は自分の土地に愛着を持っていた。それを動かすためには、晃二の希望をあるところまで聞いてやらなければなりませんでした」
大分、様子が違う、と館崎は思う。晃二は最初から土地を売る気でいた。反対派と組んだのは一種のポーズだった。それを見抜けぬような金海ではあるまい。
「晃二を動かすのには、ずい分苦労しましたよ。私がいなかったら、晃二はまだあの土地を手放してはいなかったでしょうね。私は晃二の友人で、私の言うことだけは、耳を傾けてくれたのです」
ようやく判ってきた。金海のこうした台詞《せりふ》は、実は下筋清に向かって用意されたものに違いない。下筋清を説得し、金海は晃二のために、余分な金を引き出したのだ。
館崎は土地買収の話を打ち切った。
「ところで、最終的に土地売買の契約を済ませ、晃二と会ったのはいつのことですか?」
館崎は空とぼけて訊いた。金海はちょっと顔をこわばらせて、その日を答えた。
「ほう、そりゃ、晃二が殺された当日でしたよ。どこでお会いになった?」
「前から晃二と約束があったわけです。晃二は最後の支払いは現金で欲しいと言っていました。私は前日に金を用意し、夜行で獅々吼に来て、場代川の下筋先生のお宅で待っていたのです」
「そのために、わざわざ?」
「いえ、別の用件もあったのです」
「晃二は何時頃来ました?」
「約束どおり――十時頃でしたか」
「車で来たわけですね」
「ええ、セラピムを運転して来ました」
「晃二は金を、どうしました?」
「金額を改め、ハンカチに包んで持って行きました。蝶の模様があるハンカチだったと思います。特に変ったところはありません。いつもの晃二で、ただ金を受け取るとき、にこにこしたぐらいでしょう」
「晃二が帰ったのは?」
「十一時頃でしょう」
「その後は?」
「それきり晃二とは会っていません」
「いや、あなたですよ。あなたのことを聞いているわけです」
金海は落着こうとするように、珈琲を口に運んだ。
「私でしたら……昼食を御馳走《ごちそう》になって、すぐ東京に戻りました」
「あなた、お一人で?」
「そうです」
「正確なところ、何時に下筋先生のお宅を出ましたか?」
「さあ……一時近くでしょうか。一時のバスに乗りましたから」
「バスの中で、お知り合いには?」
「運転手が知っています。顔見知りですから」
「駅に着いたのは?」
「一時半でしょう」
「何時の列車を利用されましたか?」
「一時四十五分東京行き特急――でも、なぜこんなに精しく話さなけりゃならないんですか?」
金海は初めて挑戦的《ちようせんてき》な表情になった。
「不愉快な話だが、結局、僕は晃二を殺した容疑者であるわけなんでしょう」
「別に、そんな……」
「だが、今度の事件では、僕は無関係です。僕は人を殺せるような人間じゃない」
それは本当だろう、と館崎は思った。だが声にはしなかった。
「はっきり言って、僕にはアリバイなんかないんです。列車には乗ったが、知り合いに会ったわけじゃない。見知らぬ他人に話し掛けたりなどしなかった。東京に着いても真っすぐ家に戻らなかった。だから、僕があの列車に乗ったのを確認出来る人は一人もいません……」
「喋《しやべ》っちゃっても、いいのよ」
館崎の後で声がした。変に色っぽい、女の声だった。金海の顔が上気した。館崎が振り返ると、サングラスを掛けた女が、口元に皮肉そうな笑いを泛《うか》べて館崎を見ていた。
「あなたは?」
館崎はあわてた。女が二人の話に、さっきから聞き耳を立てていたのに、全く気付かなかったのだ。
「誰でもいいでしょう。ただ、金海さんのお友達。彼をあんまりいじめたりしないで頂戴《ちようだい》」
「と言うと?」
「判らないわね。彼のアリバイなら、ちゃんとわたしが立ててあげます。でも、彼が本当に困ったとき、ちゃんとした場所でないと、ね」
女は煙草に火を付けると、マッチ箱を館崎の前に投げ出した。東京近郊の割烹《かつぽう》旅館のマッチだった。
「あの日、わたしたちはここで落ち合ったわけ。今更、表立とうが立つまいが、かまわないんだ。もっとも、表立って困るのは、下筋の方なんですけれどね。これから用事があります。これで失礼するわ。でも、逃げも隠れもしやあしません。いつでも話に応じますわよ」
あっ気に取られている館崎を横目にして立ち上り、金海の腕を取って歩き去った。
館崎は頬をふくらませて、女の残して行ったマッチ箱をひねり廻した。とんでもない女だと思う。だが、言っていることは本当のことだろう。下筋の妻は、二人の関係が表沙汰《おもてざた》になることを恐れてはいない。だが金海の方はどうだろう。少なくとも、秘密を知られた晃二に、一目《いちもく》置いていたことは確かなのだ。
館崎はウエイトレスに水の代りをさせ、一と息に飲んでから立ち上った。
捜査本部に電話を入れると、佐古が持ちかねていた。
荻粧子の身元が知れそうだというのだ。
「失踪人《しつそうにん》の照会が廻って来たんだ。それが、荻粧子に違いなさそうなんだ。氏名、年齢、服装、全てが一致している。家族はすぐにでも来たい様子だが、屍体が発見されたわけじゃないし、止めてある。すぐ、粧子の家に行ってくれないか」
館崎は粧子の住所を書き留めた。館崎の方の捜査を報告すると、金海たちのアリバイの裏付け捜査をすぐ開始すると言った。
山の手の住宅地。塀《へい》の向うに西洋杉が濃い緑を作り、その木の間に白い土蔵の壁が見えた。深々とした感じの門が閉ざされている。館崎は通用門のインターホーンを押す前に、荻粧子のメモを頭の中で繰り返した。
荻粧子、慧池《けいち》学園二年生。演劇部に属している。成績は上の部類だが、ここ半年ばかり肺浸潤《はいしんじゆん》のため学校を欠席しがちだった。本人は入院を嫌い、自宅で療養中である。無断で外泊したことのない粧子が家を開けたのは千字村に粧子らしい人物が現われた前日である。失踪当時の服装は白のブラウスに白のスカート、白い靴、持ち物は紺のスポーツバッグだった。
父親は大和製薬の重役、家族は夫婦と粧子の外、父親の妹が同居している。二年前、夫と死別して以来、荻の家に住むようになったのである。あとは通いの家政婦。
館崎は応接室に通された。広くはないが、時代を経た家具類が、贅沢さを内に秘めている。
粧子の母親は五十を越したばかりだが、ひどく老けて見えた。度の強い眼鏡《めがね》のせいだろう、と館崎は思う。
母親はノートをコピーした粧子の文字をじっと見ていたが、
「粧子の筆蹟《ひつせき》に、間違いはございません」
と、絶望したように言った。
しばらくは無言だった。母親の細い身体が衝動を堪《こら》えようとして、震えに似た動きをしている。小さく書かれた文字――ママごめんなさい、それがこたえたはずだ。
「粧子さんの写真を拝見したいのですが」
館崎はそう申し出た。直接な質問には、しばらく間を置いた方がよいと思ったからだ。母親は幽霊のように部屋を出て行った。
大分、暇《ひま》がかかった。粧子の写真を見て泣きだしたとしても、仕方のないことだった。
写真は三枚あった。
一枚は和服である。髪を束ね赤い手絡《てがら》に大きな櫛《くし》を差し、可愛らしい簪《かんざし》を下げて、気取っている。ふっくらとして愛らしい。小さく突き出た顎《あご》。和服を着ても、溌剌《はつらつ》とした雰囲気《ふんいき》が感じられる。
二枚目はぐっと変っている。中世の衣装を着て、ポーズを作っている。目張りを入れ、濃く紅を引いて表情はなお生気にあふれていた。
「舞台の写真ですね」
コントラストの強めな仕上りで、舞台で撮影されたことが想像された。
「学園祭で〈ヴェニスの商人〉をだしましたときの写真です。粧子が気に入っている一枚ですわ」
最後の一枚は赤いセーターを着た、気取らないスナップだった。粧子はカメラを意識していない。粧子が身構えるより早く、シャッターが切られたのだろう。澄ましていないときの表情には、愁《うれ》いがあった。小さく突き出た顎《あご》も愁いの印象を強めていた。
館崎は最後の一枚に、粧子の特徴が最もよく写されているような気がした。だが、他の写真を持ち出した母親の気持を察して、舞台の写真も一緒に借りることにした。
「粧子さんが獅々吼峡の千字荘に立ち寄ったことは、ほぼ確実だと思います」
館崎は母親の感情がやや落着いたと見て、静かに話しだした。
「それで、お尋ねしたいのですが、粧子さんのお知り合いの中で、その地方に移住した、或《ある》いは故郷があるなどの関係を持つ人に、お心当りはございませんか?」
「――それが、警察から連絡を頂いてから、ずっと考え、地図も拡げて見ましたが、その地名を聞くことさえ、初めてなのです」
母親は難渋な問題に困り果てているように答えた。
「学校での特に親しかったお友達には?」
「演劇部にはお友達も多かったようですが、いつも話題に上るような、特定の方はありませんでした」
「――埴田晃二という名前をお聞きになったことは?」
母親は眉を寄せた。その表情に、三枚目の粧子の写真が重なった。
「……それも、初めて聞くお名前です」
「実は、その埴田晃二という男が、千字荘で粧子さんが消息を絶ったと同じ時刻に、死亡しているのです」
はっとするように、度の強い眼鏡が館崎に向けられた。
「死因は薬物の中毒死。他人に飲まされた容疑が強いのです」
「すると、粧子が?……」
「断定は出来ません。粧子さんが見付からないのですから。けれども、多くの情況、特に粧子さんが最後に残したノートの文章から推すと、この事件は心中、ないしは無理心中の可能性が強く、警察ではその線に添って捜査も進められているのです」
「埴田晃二……」
母親はもう一度口の中で晃二の名を繰り返した。
「……矢張り、記憶にはありませんわ」
「それではパンサーというのはどうでしょう? 埴田晃二にはパンサーというニックネームがありました」
「パンサー……聞いたことがありません。けれども、粧子が書き残した、Pという名前なら」
「お心当りがあるのですね?」
館崎は気がせいた。
「はい。親というものは馬鹿なものですわ。粧子がこれほど思い詰めるまで、粧子に恋人がいたなどとは、夢にも思ってはいませんでしたもの……」
「その恋人が、Pなのですね」
「粧子がこんなになって、もしやと思って、粧子の部屋を捜してみたのです。そんなことをしたのは初めて。掻き廻したりしたのではありません。ただ、引き出しとか本棚《ほんだな》を見ているうちに、これを見付けました」
母親は傍に置いてあったスケッチブックを、そっと館崎の前に差し出した。
予め見せる用意がしてあったのである。
館崎はスケッチブックを手に取って眺め渡した。A4判、表紙は薄茶色の麻張りで、焦《こ》げ茶の紐《ひも》が付いている。
紐《ひも》を解いてページを繰る。ほぼ三分の二に絵や文字が書き込まれてあった。筆記用具はさまざまである。ボールペン、鉛筆、万年筆、カラーペン――手に触れたものを使用しているようだ。
最初のうちはデッサンが続く。主に舞台のクロッキーで、人物は皆中世の衣装である。空白の部分に見覚えのある文字が書き込まれている。ほとんどが、気まぐれと言いたいような記述だ。
――悦子のうまさにびっくりする。上背だけに頼って、ろくな芝居は出来ないと思っていたのに、ちょっとしたショック。ようし、という気が起こる。こっちだってガンバラなくっちゃ。
という神妙なものから、
――うわあ、ずい分食べちゃった。一時は本当に動けなかった。とん子は勘定書を見て顔面|蒼白《そうはく》。けれど約束は約束。言い出したのは彼女の方なんだから。
という記述になると、文字までが踊っている。
自画像があった。少女漫画に登場するヒロインのようなタッチで描かれているが、すぐ粧子だということが判った。今までのデッサンと違い、実に入念な絵で、絵具を使って美しく彩色されている。
――ドーランの匂いの中で、わたしは段々違う世界に歩いてゆく。目張りを入れ、眉を引く。思い切って口紅を濃く。銀色のかつらをつけたとき、わたしは消えてしまった。わたしの代りに、鏡の中で美しい娘が、こちらを見てほほえんでいる。彼女は全能の女神。誰もが彼女の前にひざまずく。王侯、貴族、富豪、詩人――だが、彼女は完全な人間だけを求めるのだ。もしかすると、この世には存在しないかもしれない誰かを……
極端に美化され純化された粧子の肖像だった。完全な人間を求めるというのは、いかにも夢多い娘らしい。ふと、あぐりのことを考える。あぐりも完全な男性を求め、現実に面したとき、失望したのではないか。
最初のうち、粧子は演劇部の活動に関する自分の感想を記録してゆくつもりだったらしいことが判る。だが、途中から少しずつ身辺のメモや随想などの分量が増してくる。
例えば、教授らしい男を描いた似顔の横で、
――あの方もやはり神様がお造りになったもの、だから、人間ということにしておきましょう。
などと茶化している。
バスケットの試合を応援に行ったときの感想がある。
――汗臭い体育館に、何時間もいるのは嫌《いや》だった。とん子たちは最初から終りまで野獣の声を出し続けるに決まっている。案の定《じよう》、ほとんど退屈。隣の騒ぎで鼓膜が破れそう。悦子は隆夫さんに夢中。何のための応援だか判りゃしない。けれども、誘われてよかった。あの方と目が会ったんだ。雷に打たれたみたいだった。あの人の動きだけを追う。これ、どういうことかしら?
これも、漫画の主人公のような、眉のりりしい選手がボウルを手にして構えている姿が描かれている。笛を口にした審判、応援席の騒ぎも写されている。
「その、埴田晃二という人は学生さんなのですか?」
館崎は顔をあげた。母親はじっと向こう側から、スケッチブックに目を注《そそ》いでいる。
「いや、大学は出ていません」
「ではずっと、千字村に住んでいる方でしょうか?」
母親は粧子がバスケットボールの試合を見に行った記載を重く見ているようだ。――あの方と目が会ったんだ。雷に打たれたみたいだった……確かにそれは、これからの人生を決定する人との、劇的な出会いにふさわしい。
「晃二はずっと東京で働いていました。ガソリンスタンドの修理工としてです」
自動車の修理工は、学校の体育館でバスケットの試合などを見ない、という理由はない。端的に結び付けることは不自然だが、晃二の友達に、学生がいて、たまたま晃二が誘われるといった可能性も充分考えられることだ。
「埴田という人はバスケットの趣味を持っていたでしょうか?」
その返事には困った。
館崎はせわしくページを繰《く》る。明らかにそのあたりから内容の変化が認められた。Pに関する文章が急激に増加し、後半のほとんどはPに集中していた。文章の量が多くなり、感嘆符が頻繁《ひんぱん》に現われる。書体も踊るような形や、装飾を意識したものはずっと影をひそめ、ただ機能としての文字が並んでいた。好奇心に満ちた楽天的な記述から、ただPだけに関するひたむきな記録への変化は、頁《ページ》を繰って見渡すだけではっきりと知ることが出来た。粧子にこうした変化をもたらした原因は、明らかにPである。
「Pという人物の本名は、見出されないのですか?」
と、館崎は訊いた。
「はい、隈《くま》なく捜しましたが、とうとう見出されませんでした」
絵の画題も一変していた。あるページには前半に皆無だった裸体が描かれている。粧子自身の全身は臆《おく》することなく正面を向いて立ち、筆勢には誇りさえ感じられた。豊かな胸、細密な体毛……また他のページには、王子と王姫そのままが唇を重ねている。
館崎はスケッチブックを閉じた。粧子の筆致がなまなましく感じられたからだ。異性を知り急速に開花してゆく女性の記録は、その母親の前で見続けることがためらわれた。
館崎は丁重にスケッチブックの拝借を申し出、母親の承諾を受けると、粧子の写真をその間に挟《はさ》んだ。
粧子の友達なら、Pのことを聞かされたことがあるかも知れない、と館崎は思った。学生の名簿から特に親しそうな友達の名を母親に選んでもらい、手帳に書き移した。
だが、その方面の捜査は失敗に終った。どの友達も、粧子に恋人がいたと聞かされ、驚くのは相手の方だった。
粧子とPとの間は、極めて要心深く、固い秘密が保たれていたようであった。
四
館崎は疲労を感じていた。今までの経験からして、こんなことは初めてだった。年齢のせいだとは思いたくない。疲れの原因は都会の暑さだと考える。現に、列車が東京を離れるに従い、いくらか活力が戻っている。
あぐりは横の座席で本を読んでいる。少しも疲れた様子がない。館崎の調査が長引き、出張が一日伸びたが意に介さなかった。反《かえ》って遊ぶ時間が増えたことを喜んだ。芯《しん》が図太いのだろうか。館崎は駅弁とサンドイッチを平らげたあぐりを見て頬をふくらませた。
館崎はさっきから、粧子のスケッチブックを拡げている。重要な意味を持っているのは後半の部分だが、第一ページから丹念に読み始めた。読んでいるうちに、粧子の姿がかなりはっきりした形像を整えてくる。
生活に不足のない一人娘。学校の成績は良く、文学、音楽、絵画と趣味も広い。演劇部に属して舞台姿の自画像を描いているところをみると、自己顕示欲が少なくないと思われる。他人を批評したりしているのは自信家でもあるようだ。
最初の部分を読み進んで、意外だったのは、男性への不信が感じられることだ。
――男というのは粗雑、野蛮、恥知らず、不潔で臭い。驚嘆すべき不完全な生物。
などと威勢よく書きまくった個所があった。その思想の原因は、父親にあるらしいことも判ってくる。
父親は粧子の前にほとんど姿を見せない。母親とのいさかいもあった。父親の女遊びが原因だった。粧子は母親に同情している。財産なんかどうだっていい。二人だけで小さな家で暮したい。そう書き留めるとき、同居している離婚した叔母の言動とも影響しあい、粧子の男性不信はしっかりと心の底に根を伸ばしてゆくようだ。
その粧子を動かしたPという人物に興味を持った。粧子のスケッチブックを読むのは三度目である。館崎は文字の行間を拾うように目を走らす。
粧子が最初に出会ったのはバスケットボールの試合を見に行ったときだと思われる。その日、粧子はまだその人物にPという名は記していない。だが、後を読んでゆくと、粧子の母親が指摘したとおり、そのときの人がPだと考えることがごく自然だった。
粧子の友人の一人は、その日のことを想い出すが、試合は粧子たちの慧池学園を初め、同系の大学を含む六つの学校の出場があった。Pが誰かはもとより、Pがどの大学に属するか知ることが出来ない。
再びPと思われる人物がスケッチブックに現われるのは、それから間もなくだった。
抽象画風な絵が添えられている。魚のような裸女が泳いでいるところだ。
――夢みたいだった。またあの人の目と会ったんだ。しかも言葉を交し、助けてもらった! けれども、何んだってあんなときに……不恰好な姿で水を飲んで、咳込《せきこ》んで、陸《おか》に上ったら完全にのびちゃったわたし。あの人は笑っているに違いない。名前なんか教えなかった方がよかったんだ。そればっかりを考える。
Pという名称は、その次に現われた。
――あの人のことばかり考えている。現実のわたしはすぐに逃げ出す。笑われるのが恐いから。稽古《けいこ》も身が入らない。誰かに気付かれそう。最後に、名案を思い付いたんだ! あの人をPにするんだ。そうすれば、いつだって傍にいられる。だが、思い返すと、われながらみじめ。
それ以来、Pが続けて現われる。
――何度もPへの手紙を書く。書いては丸めてしまう。そんなことを続けていたら、自分が駄目《だめ》になりそうだ。とうとう最後の一通を封筒に入れ、上書きを書いた。署名するときに手が止まる。粧子と書いたら、そのまま捨てられそうだ。結局|謎《なぞ》のような名を書き、投函《とうかん》する。手紙がポストの底に落ちる音がしたとき、拾い出したくなった。ポストの中に手を入れたくなった。
今までになく乱暴な書体だった。次のページも同じだ。
――とうとうPから返事が来ない。読んでくれたのだろうか。いや、きっと読みやしないんだ。それとも郵便の事故に遭《あ》ったのかしら。もう一通書こうかしら。いや、読んで捨てられたとしたら。羞《はじ》の上塗りだ。
新学期が近付いたらしい。演劇部の活動も始まったようだが、記述には以前のような熱意がなくなっている。ただ漫然と予定などが書き付けられているだけだ。そして、
――思い切ってPに電話を掛ける。指が震えている。Pの声が聞こえると、もう夢中。声がしゃがれそうになり、とても大きな声が出せない。ただ用件だけ言い、受話器を置いた後しばし呆然。
この電話は、演劇のコンクールに慧池学園の演劇部が出場し、粧子も舞台を踏むので、見に来てほしいという内容だった。後の記述でそれが判る。
――Pが来た! 半分|諦《あきら》めていたので大感激。幕の間から座席にいるPを見た。サングラスを掛けて、黒いシャツを着ている。誰もPに気付いていない。わたしだけ張り切る。わたしはネリサ。可愛らしく魅力的。溌剌とした小さい妖精《ようせい》。舞台では乗りに乗ってしまった。憑《つ》きものがしたみたい。とん子が舞台でうろたえる。本当にうろたえる。幕が降りて話し掛けられそうだが、愚図愚図《ぐずぐず》していられない。急いでドーランを落す。とん子が邪魔をする。もう構うもんか。とん子に片付けを押し付け、客席に飛び出す。愕然《がくぜん》、Pはもういない。全速力で階段を駆け降りて外に出たとき、Pの後姿を見た。もう泣きそうだった。力一杯腕にすがる。引きずるようにして近くのスナックヘ。Pはよかったと言ってくれた。綺麗だと言ってくれた! そして、更に、かててくわえて、わたしのことを軽蔑《けいべつ》してなんかいなかったんだ! 雲の上に乗ったみたいだった。わたしはPの胸の中に飛び込んだ。わたしはネリサだった。小さな妖精。わたしの方から唇を差し出した。Pはそれに応《こた》えた!
館崎は二度目読んだときに、粧子が晃二の家に残したNの意味が判った。粧子はネリサだった。あのイニシャルはネリサのNなのである。
――張りのあるPの肌。力強いPの筋肉。わたしはPの胸に抱かれる。熱い息、強い息、吹き千切れる息。わたしは繰り返す。愛している。美しく結ばれる。わたしたちの誓い。キス! そして!!
粧子の裸体が大胆に描かれている個所である。
Pは粧子に赤い万年筆を贈る。粧子は何を返そうかと思い悩む。
二人は他人の目を逃れるようにして会合している。場所はPの家、粧子の家の蔵の中、ラブホテルなどだが、場所は明記されていない。描写の抽象化が、ページを追う毎《ごと》に強まっているからだ。粧子は恋を美化し理想化する。極端に、と形容してもいいほどである。愛の行為は愛の完全な証《あか》しとして、身心の浄化さえ経験する。館崎は次の一節に強く牽《ひ》かれた。
――今こそ、Pは完璧。Pよ、もっと上手《じようず》に。わたしたちは愛の極致に飛躍する。おお、わたしの中のPよ! セラフィタス!
セラフィタス……どこかで聞いた言葉だった。館崎は腕を組んで、ぼんやりと窓の外を眺める。国道が線路と平行に走っている。列車は次々に自動車を追い越している。
晃二の車なのだ。セラピムS5……セラフィタスとは、セラピムの男性名詞に違いない。
――可愛いセラフィタスよ! わたしは我慢できずに口づけしてしまう。羞《はず》かしそうなP……
粧子はPの男性をセラフィタスと描写する。セラピムと晃二は離せない。とすれば、Pは晃二だという可能性はますます強い。
だが、粧子の愛は登り詰めたとき、大きく傾きだしたのだ。粧子の方ではない、Pが粧子から離れようとする気配だった。直接の原因は粧子の健康にあった。
秋、粧子は風邪《かぜ》をこじらせている。それが肺炎にまでこうじて入院した。何日かの入院ののち、粧子はすぐ退院した。全治したのではなく、Pに会いたいからだ。症状を騙《かた》り、安静を約束したが、退院の次の日には、もうPと密会している。烈しく燃えた粧子を、Pがとがめたようである。Pのさとしはごく自然に思える。だが粧子はそう解釈しない。
――Pはわたしが嫌いになったのだ。誰か別の女を好きになったんだ!
叩き付けるように書く。同時に、さらに激しくPを求め続ける。
――わたしはまだ若いですって? 将来がある? とんでもない。Pがなくっては将来なんかあるもんか。死んでやる! わたしはそう言った。
忠言はことごとく忌避《きひ》に受け取られる。こうなっては理性も吹き飛ばされる。
最後に別れの宣告。
――もう逢えないと思うと気が狂いそう。また帰って来る! わたしがよくなったら、会えるだって! バカ、バカ! そんな気休めなんて。わたしは子供じゃない。寝られない。ママの部屋から精神安定剤を出して飲む。けれども、ちっとも効《き》かない。
その前後、粧子は毒薬を入手した。化学実験室でだ。教師がうっかりと毒薬を置いたケースに鍵を掛け忘れたのだ。粧子はこう書いている。
――ガラスの戸が半分開いていた。赤ラベルの瓶、白い粉末、毒薬。自分の意志とは反対に手が動く。家に戻って机の上に置いて眺める。何んとなく気が落着く。これで、自分は好きなときに死ねる。そう思うとこの世に恐いものがなくなった。
館崎は慧池学園の校長と教師に会った。問い詰めると、校長の額に膏汗《あぶらあせ》が浮んできた。かなり時間がかかったが、確かにそう言う事実があった、という証言を得ることが出来た。
そして、粧子の絶筆となるのは、次の文章だった。
――Pからの手紙。返事だ! 心を躍《おど》らせる。だが、読み終えて、目の前が真暗になった。結婚したんだって! 裏切り者! 不潔な! このわたしはどうなるんだ! 一日中、赤と黒の世界が交錯《こうさく》する。手紙を焼き、灰をこなごなにして捨てる。
館崎は少し眠ったようだった。
気が付くと、汽車は変らぬ響きを立てている。外の景色に杉が多く目に映った。少しではない、大分寝込んだようだ。
膝の上に置いていたはずの、粧子のスケッチブックが見えない。首を廻すと、隣にいるあぐりが、スケッチブックを拡げて、一心に見入っていた。
「おい」
館崎が言うと、あぐりはちょっと笑ってブックを閉じ、紐を結んで館崎に返した。
「セラフィタスって、何だか知っている?」
子供が謎々を掛けるような調子で言った。
「知ってるさ。セラピムの男性形だろう」
「じゃ、セラピムは?」
「スポーツカーの名だ」
「ばかね。セラピムの本来の意味よ」
「お前は知っているのか」
「ええ、知っているわ」
あぐりは答えたが、教える様子がない。窓の外の景色に目を遊ばせている。いつもこうだ。父親をじらせて、どこが面白いのだろう。館崎は頬をふくらませた。
「セラピムって、何だ」
答はあっ気ない。
「熾天使《してんし》ね」
「熾天使……とは何だ?」
「ヤハウェにつかえる天使の一つ。天使にもいろいろ階級がありますのよ。普通九階位に分類されていて、熾天使は最上位に位する天使なんです。六枚の翼を持っている天使の絵を見たことがないかしら?」
「天使に翼は付きものだが、六枚もね……」
「熾天使は熱烈な献身を象徴しているの。フランシスコ修道会は、一名熾天使修道会とも言われているけれど、その理想は献身的な愛ですわよ」
「スポーツカーにその名を付けたのは、主人に献身的な車だという意味か」
「それもありますけれどね。セラピムの車体のイメージが熾天使を表わしているとわたしは思うわ」
「――と言うと、どういうことだ?」
「普通のスポーツカーから受ける印象は、おおむね男性的でしょう。けれども、セラピムの車体はずい分優美じゃありません? 女性の曲線を連想させるような美しさと柔かさを具えていることに気が付きません?」
「そりゃ、俺だって気が付いているさ」
「セラピムを製作した人の意図はきっとこうです。勝《すぐ》れて男性的な機能を持ち、然《しか》も美しく女性的な優美さにあふれている、完全な姿を作り出すことを理想としたのでしょう。天使は人間の理想像だわ。ですから天使がいくら万能でも、描き出される姿は全て女性的でしょう。人間だってそうだわ。いくら能力があっても優しさのない男なんて、片輪と同じです」
「こりゃ手痛いな。だが、あくまでも男臭いというのも、男の理想なんじゃないか」
「パパそんなこと言っているから駄目なの。人間の一人一人は全部不完全なんです。男性は女性でないから不完全。女性は男性でないから不完全。ですから完全な人間というのは、男と女が結ばれて生まれるんです。従って、セックスは生殖のためにあるんじゃないの。完全な人間の姿を求める本能として、セックスがあるわけ」
判ったようでよく判らない。いつものように言いくるめられているような気だ。だが、粧子とあぐりの考えはどこか似たようなところがあった。
「……ねえ、パパ」
あぐりが甘ったるい声で言った。また小遣いをせびる気だろうか。
「パパ。わたしがなぜ離婚したか、本当の意味を知っている?」
「……つまり、彼が天使ではなかったわけか?」
「ばかね」
あぐりはくすくす笑い出した。
「完全な天使なら、異性なんか必要じゃないでしょう」
館崎はあっ気に取られて、あぐりの笑い顔を見詰めた。
捜査本部は晃二殺害事件を、晃二と粧子の心中、それも粧子が企てた無理心中事件と解釈する方向に傾いていた。
粧子の指紋は、晃二の家に残されたジュースの瓶《びん》、晃二の車のドアから発見され、車の中に残された髪は粧子の血液型と一致した。粧子が晃二と会い、粧子が慧池《けいち》学園の化学実験室から持ち出した毒物で晃二が死んだことに、疑う余地はなかった。
だが、事件を心中事件として、完全に説明出来ない点も残っている。
一つは、肝心な粧子の屍体《したい》が発見されない。晃二が死んでいた付近から下流一帯の河床が捜査されたが、粧子の屍体は上らなかった。粧子が残した白い靴の片方が拾収されただけである。無論、逃亡説も出たが、その後の粧子を目撃した人物は、一人も現われなかった。
第二に、晃二と粧子の結び付きがあいまいだった。粧子のスケッチブックから、粧子の恋人Pが晃二だという推察は出来るが、確証はなかった。反対に晃二の側から見ると、以前から粧子を知っていたということが、何一つ浮かんでこないのだ。それが皆無であることは、捜査本部を悩ませた。
晃二殺害事件の完全な解決が得られない日が過ぎたが、獅々吼ダムはその間にも着実に工事が進められていった。
九月に入った初め、三森巡査から電話が掛った。電話がなければ、館崎は忘れていたところだった。最後のおまけさん祭が、次の日曜日に行なわれるという。三森は電話の最後に、意外なことを館崎に知らせた。
「埴田緋紗江がおまけさんになります。ぜひ見てやって下さい」
緋紗江がおまけさんになる――若い都会育ちの女性が、よく承知したものと思う。近頃の女性の心理はよく判らない。あぐりでも同じことだが。
堀刑事も行ってみたいと言い出した。あぐりも見学したいと言う。
「わたしも千字村にいて、おまけさんになりたかったわ」
「ばか、出戻りはおまけさんになれないんだ」
館崎は頬をふくらませた。
耳成神社は祭礼で賑《にぎ》わっていた。廃社同様の耳成神社を見ているので、館崎には小さな祭礼が飛び切りの賑わいに思えた。
村長の犬石は古びた立烏帽子《たてえぼし》に素袍《すおう》を着てうろうろしている。埴田栄吉、深沢かねの顔も見える。パーゾウも鳥居の傍に黒く坐っている。そのパーゾウに若い女性が話し掛け、パーゾウの困り果てた顔が見える。祭を聞いてどこからか来た旅行好きの女性なのだろう。千字荘の婆っちゃあは社殿の裏に出入りしている。
そのうちに鹿踊りが始まった。埴田栄吉が笛を吹く。古風な曲節で、館崎はふと遠い昔を想い出す。白麻の水干にたっつけ袴《ばかま》の少年たち。りりしい白鉢巻《しろはちまき》と草鞋《わらじ》の動き。不思議な懐しさが湧いてくる。
踊りが終わると土器に入った酒が廻される。制服の三森に渡されると、三森は嬉しそうな顔になった。
犬石の祝詞《のりと》が終ると、境内《けいだい》にいる人の間からちょっとしたざわめきが起こった。
「おまけさんだわ」
あぐりが目を輝かす。
館崎もその姿が忘れられない。
緋紗江はぞっとするような美しさだった。白く塗り赤く差した紅は、見事な雛人形そのままだった。緋紗江はうす紅色の小袖の上に、白地に秋草模様の被衣《かつぎ》をかぶって、静かに社殿の中央に現われた。
あぐりの大きな溜《た》め息が聞える。上背のある緋紗江は立派だった。大女優を思わせる威風も具わっていた。古風な山車《だし》が引き寄せられ、緋紗江はそのまま山車の階上に着座した。館崎には山車の古さや、衣装の褪色《たいしよく》は見えなくなっていた。ただ巨岩を背景にした耳成神社に拡げられる絵巻物の中に没入して、時の経過を忘れ去った。
大太鼓が一つ打ち鳴らされると、おまけさんを乗せた山車は、古代のきしみを立てながら動きだした。
獅々吼ダムは完成し、ダムの湛水《たんすい》が始まった。
千字川、千字村、耳成神社、そして晃二の殺害された現場は、ともに湖の底に沈んだ。
荻粧子の手配写真が全国の警察に配られた後、捜査本部は解散した。
館崎は堤防の上に立ち、新しく出来た湖を見る機会があった。緋紗江と一緒だった。
満水になった湖面は穏やかな表情を見せていた。湖を囲む山も不満そうな顔は見えなかった。切り立った重吉岩の上も無感動だった。
工事はなお続いていた。湖をめぐる遊歩道を作るためだ。獅々吼峡でせわしく動き廻っているのは、人間だけだった。
緋紗江は大南建設の仕事を続けていた。館崎はたびたび緋紗江と会った。
「また、デート?」
と、あぐりは冷やかした。
ダムの仕事が終り、次の現場に発《た》つとき、見送った館崎は甘酸っぱい感傷を味わった。
「いろいろお世話様になりました――」
館崎に頭を下げた緋紗江は、一回り大人になっていた。
十一月の初め、館崎は三森から電話を受けた。
「妙なことを言って来た若い女がいるんです」
あと半月もすれば、獅々吼峡は雪に埋るだろう。そんなことをぼんやりと考えていたところだった。
「埴田晃二と会ったと言っていますが」
館崎は晃二と聞いて興味を覚えた。
「ほう、それはいつです?」
「それが妙ですな。秋のおまけさん祭の前の日だちゅうことですから」
晃二が死んだのは夏の盛りだった。それからひと月ばかり後におまけさん祭が行なわれたのだ。
「その女は晃二のスポーツカーにも乗ったと言っているです。その上――」
三森はちょっと妙な語調になった。
「晃二と一夜を共にしたと言っとりますが」
館崎はその女性と会うことにした。
女性の名は香島紀子。東京に住んでいる若いOLだった。どこか粧子に似ているが、無論別人だ。
紀子の話は筋道が通っている。精神に異常があるとは思えない。だが、話は極めて奇異だった。
紀子は九月の上旬、玉助温泉から歩いて獅々吼峡に来たのだと言う。紀子は古い地図に頼ったため、バスを利用することを知らなかった。千字川に出て、一銭岩の上にいるとき、鉄砲水に遭った。事実そのとおり、一銭岩のあたりはときどき急に増水することがある。そのとき助けてくれたのが晃二で、白いスポーツカーで家に連れて行かれたという。晃二の家は人の住んでいた様子がなかった。これも事実と合う。その以前、緋紗江は晃二の家を引き払っている。
紀子はそのまま晃二の家に泊ることになった。
「わたしたち、互いに烈しく牽《ひ》かれたのです。突然の恋でした」
と言うとき、紀子は少し赤くなったが、悪びれなかった。
朝になると、晃二はいなかった。耳成神社の祭礼があることを聞かされていたので、神社に行ってみると、見覚えのある晃二の足跡があり、パーゾウも晃二を見ていた。
「パーゾウ?」
館崎はうなった。
後になって三森はパーゾウを捜しに行ったが見付からなかった。パーゾウはときどきダム付近に姿を見せるが、最近はほとんど現われることが少ないのだという。
紀子の話はこれから辻褄《つじつま》が合わなくなる。晃二は確かに神社に来ているに違いないのだが、どこにも見当らなかった。紀子の話は非常に精《くわ》しい。館崎もおまけさん祭には立ち合っていた。鹿踊りの様子、犬石の祝詞、おまけさんの動作、同じ日同じ祭を見ていた館崎も驚くほど、紀子の記憶は正確だった。
ただ、晃二だけが消えてしまった。と、紀子は主張する。
館崎は途方に暮れた。
「誰がこんな悪さあしたでしょう?」
長い話の末、ぼんやりと帰ってゆく紀子の後姿を見て、三森が言った。
「晃二の幽霊が出た、と解釈するのが、一番自然なようだな」
館崎は頬をふくらませた。
館崎が緋紗江と再会したのは、次の年の春だった。
永い冬がようやく過ぎ去り、大地は黒い土を露《あら》わしていた。緋紗江は健康そうに陽焼けして、少し肥ったようだった。館崎がそう言うと、
「困るわ。これでも気にしているんです」
と、白い歯を見せた。
緋紗江はたまたま近くを通り、半日ダムの上で過した。雪解けの水で、ダムは満水だったと言う。
緋紗江は獅々吼ダムに、さまざまな忘れ得ない想い出を持っているのだ。館崎はじっと湖面を見ている緋紗江を想像した。
「田植えの時期になると、ずっと水量は減ると思いますよ。耳成神社あたりは、また姿を見せるかも知れない」
「でも、お祭はもう戻りませんわね」
緋紗江は淋《さび》しそうに言った。そう、あのときのおまけさんは美しかった。だが、館崎は口に出すことが出来なかった。
「パーゾウなら戻るでしょう。彼の戻る季節になりました」
我ながら下手《へた》な冗談だった。
すぐ帰ると言うのを引き留め、近くの喫茶店に誘った。柄になく人目が気になり、署を出るとき、館崎は大きな身体をすぼめるようにした。振り返ると、駐車場に白いセラピムが置いてあるのが見えた。
館崎は香島紀子という女性の、奇妙な体験を想い出し、緋紗江に話した。
緋紗江は珈琲カップを置いた。カップは受け皿に当って、大きな音をたてた。
「それで、秋のおまけさん祭の前日、あなたのセラピムは、どこにあったのですか?」
緋紗江は真剣な表情だった。
「……それについて、お話ししなければならないことがあります」
そのとき、館崎の身体が、突き飛ばされるような衝撃を受けた。
テーブルのコップが、全て床の上に落ちた。建物全体が水底の石のように揺らぎ、立つことが出来なかった。館崎は緋紗江の腕を取って、テーブルの下に押し入れ、緋紗江の身体を後から抱きすくめた。
館崎がそのとき感じた地震の震度は六。震源地の獅々吼峡では八を記録した。
署に取って返した館崎に、獅々吼ダムが決壊したという情報が入った。その災害で、三森巡査が殉職《じゆんしよく》した。
四章 緋紗江《ひさえ》
一
白く輝く砂浜も、青く突き抜けた空も、緋紗江には暗く見える。灰色に感じると言ってもいいか知れない。鋭い号令だって、ドアの向こう側から聞こえてくるようだった。
緋紗江は物憂《ものう》く水に漬《つ》かって、いい加減に身体《からだ》を動かしていた。水はぬるかった。太陽はもっと灼熱《しやくねつ》の力を持っていたはずではなかったか。海水だって、こんな日向水《ひなたみず》であるわけがない。
若い歓声が海の上に響き渡るが、和する気にはなれない。なるべく顔を濡《ぬ》らさないように気を付ける。うっかりして海水でも飲んだら、損をしてしまう。
少し離れたところに、小舟が浮かんでいる。
櫂《かい》を握っているのがポールで、メガホンを持っているのがトーテムだ。西起野《にしきの》先生はつばの広い麦藁《むぎわら》帽子をかぶっている。いつもだったら、麦藁帽子を透した真夏の陽《ひ》を受けている、形のよい顔の輪郭を、素敵だと思っていただろう。だが、全《すべ》ての風景は、誰も見ていないテレビの画面のように、空《むな》しく目に映るだけだ。
トーテムはトーテムポールのトーテム。トーテムポールのような、真っ黒い、押し潰《つぶ》された顔だからだ。ポールの方はトーテムポールのポールじゃない。ポール ニューマンのポールなのだ。入学して間もない頃《ころ》は、よく二人を混同して先輩から笑われた。――あんた、おそれ多いわよ。ポールをトーテムポールのポールだと思っているなんて。トーテムの方は当然トーテムポールのトーテムでいいわけ。
誰がこんな紛《まぎ》らわしいニックネームなんか付けたのだろう。と、思ったら、服部《はつとり》先輩だった。服部先輩はどうしているかしら。去年卒業するとすぐアメリカ人と結婚した。結婚式には緋紗江も出席した。眼鏡《めがね》を掛けて、髪の黒い、東洋人みたいな新郎だった。名前は、確か、ウイリアムエマーソン……
「藤舎《とうしや》、どうした」
トーテムが緋紗江の方を見て、メガホンで怒鳴《どな》った。
舟からはなるべく遠くにいたつもりが、矢張り見付かってしまった。だが、わざとトーテムの方は見なかった。
一週間ばかり前の試合が、まだ頭の中に気持悪くこびり付いている。姉妹校、慧池《けいち》学園とのバスケット。試合には勝ったのだ。五十四対二十八。大勝と言っていい。もっとも、相手の実力からすれば、当然すぎる出来だった。だが、西紀野先生はいい顔を見せてくれなかった。その顔色をトーテムがすぐに読み取った。
「藤舎、最後のフリースロー、ありゃなんだ」
緋紗江が普段なら過ったことのないフリースローを二度までしくじったことは確かだった。自分でも変だったことは反省している。それなのに、トーテムの言い方は、まるで西起野先生への追従《ついしよう》だった。
「藤舎は観客の声に気を取られていた。お前のファンが多いのは判《わか》るが、藤舎はスターじゃないんだぞ」
トーテムの顔は、本物のトーテムポールに彫られた顔の方が、ずっと好男子に思えるほどだった。
トーテムは自分の心を読んでそんなことを言ったのではないと、緋紗江は判断した。いい加減な推量をしたにすぎない。観客の声に気を取られたなどと言うのは嘘《うそ》だ。緋紗江の心を乱したものがあったとすれば、それは一つの視線だった。
その視線は観客席の一番前にあった。サイドラインを越したボウルを拾おうとしたとき、目が合った。射抜くような視線だった。視線の主は声を上げてはいなかった。応援の身振りもなかった。ただ、妙に静寂なその場所から、じっと緋紗江だけを見詰めていたのだ。その直後、緋紗江はフリースローに失敗した。
下校の途中、万里《まり》が言った。
「今日のトーテム、少し変だったとは思わない?」
緋紗江は黙っていた。自分の方も心の安定を欠いていたからだ。
「なぜだか、教えようか。意外や意外なんだな。これが」
万里は声を低くした。
「トーテムの奴《やつ》、西起野先生と結婚するんだってさ」
緋紗江はそれを聞くと、不快な気がした。トーテムの毛むくじゃらな胸毛、嫌《いや》らしいO脚。
「不潔だわ」
緋紗江は思わず言った。
「そうでしょう。西起野先生も、西起野先生よ。なんだってトーテムの言うことを聞く気になったのかしら。これがポールだったら、話は違うけれど」
そう、話は違うのだ。さっきの追従が、急に我慢のできないものになった。――もしそうだとしたら、バスケなんか、止《や》めてやる。緋紗江は本気でそう思った。
気のせいか、舟の中の二人は、さっきから親密に見える。捨鉢《すてばち》というのではないが、なんとなく力が入らない。そんなときにトーテムの叱咤《しつた》だ。
「どうした。藤舎、気を抜いているのか」
トーテムが又怒鳴った。
緋紗江は知らん顔をする。法灯《ほうとう》岬《みさき》を廻《まわ》って一の浜に着く、遠泳のコースは約四キロ。湾内の海はいつも穏やか。緋紗江にとっては楽なコースだ。いつもは、本気にならなくともトップクラスで泳ぎ着くことになっている。トップと同じように、最後尾のグループの顔ぶれは、だいたい定っている。緋紗江がトーテムの目に付いたのも当然だった。トーテムはなお何か言っていたが、終いには諦《あきら》めたようだ。トーテムの言うとおり、緋紗江は気を抜いている。ただし、泳ぐ姿にはひどく気を使っているのだ。
沖に白いヨットが見える。遠くにあるせいで、至って呑気《のんき》に見える。ヨットは風との抵抗が強いほど、速く進むのだろう。自分だって、本当にトーテムに逆らいたかったら、断然皆を引き離して、一着でゴールインするはずだろう。ところが、それほどむきになる気がしないのは、西起野先生の顔が見えているからなのだ。
法灯岬の上に、ベレー帽のような白い雲が出ている。ベレー帽を法灯岬の頭に、きちんとかぶせてみたくなった。ちょっと列を離れて見ると、うまく雲が岬の頭に乗って見えた。――よく似合う。緋紗江は独りで笑った。
先頭はもう法灯岬の鼻を廻っているようだ。トップは万里に違いない。浜での準備運動も念入りだった。あのお馬鹿《ばか》さんは、緋紗江がビリで到着したら、何というだろう。そう思うと急に楽しくなった。
ぼんやり泳いでいると、隣で咳《せき》が聞えた。今まで気付かなかったが、緋紗江の少し後ろに、白い帽子が一つあった。水を飲んだらしく、ひとしきりむせた赤い顔が、恥しそうに緋紗江の方を見た。
緋紗江は狼狽《ろうばい》した。フリースローの手元を狂わせた、あの視線があった。
形のよい細めの眉《まゆ》に、眸《ひとみ》が大きく、白くきめの細かな肌《はだ》だ。ふっくらとした頬《ほお》で、小さく突き出た顎《あご》が、いたずらっぽい印象を受ける。同学年には覚えがなく、帽子に慧池学園のマークが付いていた。どこか幼ないところが残っているので、下級生のようだった。
緋紗江は泳ぎを遅めて、その学生と並んだ。緋紗江の目に会うと、彼女はきまり悪そうに笑ってみせて、すぐ真顔になる。スポーツは不得手《ふえて》のようだ。息を荒く弾ませ、一生懸命に泳いで、やっと緋紗江と並ぶことが出来るのだ。
「大丈夫?」
緋紗江は声を掛けてみた。
「有難う。藤舎さん」
と、彼女は切れ切れに答えた。緋紗江は自分の名を言われたことが意外だった。
「――私の名を知っているの?」
「ええ……バスケの、藤舎緋紗江さんでしょう」
喋《しやべ》ると息がせわしくなり、顔が沈みかける。緋紗江は泳ぎ寄って、
「何も言わない方がいいわ。気にしないで泳ぎなさい。わたしも、ゆっくりついていてあげるから」
それから、緋紗江も無言になった。彼女も緋紗江の方を見ない。それでいて、今までの荒い呼吸を押えているようだ。彼女の速度が、ぐっと落ちた。
どんどん落伍者が出る。トーテムが一人一人を舟に引き上げる。舟の中がたちまち一杯になった。
彼女は頑張《がんば》っていた。いつもなら、とうに舟の上に上げられて、トップグループを羨望《せんぼう》の目で見ているに違いない。緋紗江はその真剣な表情を美しいと思った。緋紗江が引かれたのは、彼女の知性的な表情だった。バスケの連中には、こんな眸を持った人は一人もいない、そう思った。白い四肢《しし》が、青く澄んだ水を透して動いている。動きはぎごちなかったが、女らしい丸みを美しく感じた。
法灯岬を廻ると一の浜はもう目の前である。浜ではもうトップグループが到着し、砂の上に寝そべっている姿が見える。
「もう、ひと息よ」
と、緋紗江は言った。だが、彼女は返事をすることも出来ない。半分気が遠くなっているのだろうか。
緋紗江たちは、びりだった。舟が二人の横にいた。舟の上にいる落伍者が声援を送った。主に彼女の方にだ。
「粧子《しようこ》、頑張れ」
「粧子、もうひと息よ」
熱狂的とも言いたい声援だった。つまり、粧子は落伍者の常連だったわけだ。
一の浜に着くと、粧子はしばらく起き上れなかった。緋紗江も粧子の横に寝そべった。粧子は緋紗江を見て、満足そうに言った。
「有難う。藤舎さんのお蔭《かげ》で、初めて完泳することが出来たわ」
粧子の身体は美しかった。大柄ではないが、胸や腰の曲線が、すっかり成熟した女の匂《にお》いを持っていた。緋紗江は自分の骨張った身体が恥しかった。
「粧子さん、と言ったわね」
緋紗江は粧子に顔を近寄せた。
「はい、荻《おぎ》粧子です」
甘えるような響きがあった。
「わたしを知っているの?」
「知っています。バスケットボールのキャプテンでしょう。わたしのクラスで知らない人はありません」
「この前の試合、見に来ていた?」
粧子はつばを飲んだようだった。
「東宏学園の試合は欠かしたことがありません」
「一番前の席にいた?」
粧子の唇《くちびる》がかすかに動いた。その、くっきりした唇から出た言葉は「感激だわ」というように聞こえた。
あとでトーテムに呼びつけられた。
「何だあのざまは。荻君を励ますつもりだったら、とんだ考え違いだぞ」
トーテムが何と言おうと構わなかった。ただ荻という名が出ただけで、緋紗江は充実した気持になった。
「そんなべたついた友情は、スポーツには関係がないんだ。無論、美しくも何ともない。精一杯の力を出し尽くす。実力を出しきることだけが、スポーツでは美しいんだ」
夕食後、キャンプファイヤーの中で、粧子はそっと寄って来た。緋紗江の手を取って、暗がりに誘った。
「ごめんなさい。わたしのために、トーテムに叱られたんですってね。藤舎さん身体が悪かったんじゃありませんか?」
緋紗江は叱られたとは思っていなかった。
「そんなの嘘よ。誰から聞いた?」
「皆がそう言っているの。本当は……」
粧子はちょっと妖精《ようせい》めいた笑い顔になった。焚火《たきび》の光がそう見せたのだろうか。
「本当は、わたしと藤舎さんが一緒に泳いでいたことが、皆気に入らないの」
粧子はそう言って、駈《か》け去った。
就寝の前、万里が頬をふくらせていた。
「緋紗江、今日はどうしたんだ?」
「別に――」
緋紗江が思っていたとおりの口ぶりだった。
「別に、と言うことはないだろう。それに、慧池の粧子と一緒に泳いでいたんだってね」
「いけないかい」
「いけないさ。緋紗江はキャプテンなんだぞ。軽はずみなことをしちゃいけない」
「軽はずみかなあ」
「軽はずみさ。彼女、何だと思う?」
「さあ」
「われわれとは無縁な連中さ。何だか知れないが、製薬会社重役のお嬢様だそうだ。土蔵のあるお屋敷住いで、成績はいつもトップ。文学少女で、音楽はモーツァルトがお好みだってね。演劇部のぴかいちだそうだぜ」
それを聞くと、この日の自分の行為が、何とも出過ぎたものに思えてきた。ただ、走り、飛び跳《は》ね、泳ぎ、力量のあることだけが自慢の自分たち。太い声で叫び、骨太な身体と、ざん切りに切った髪。泥だらけが見栄《みえ》の衣服と、ぶざまなサポーター。汗臭い身体と、乱暴な言葉使い。趣味だって、蝶《ちよう》の模様が好き、といった幼稚さ。
一心に泳いでいる粧子の真剣な表情は美しかった。それに引き替え、充分な体力を持ちながら、他人の幸福を嫉《ねた》み、わざと拗《す》ねて、ずるけていた自分。その上、友情めかして粧子に近寄り、力のゆとりを誇るように泳いでいた自分が恥しかった。きっと、粧子からは、他人の神経に心遣いのない、荒っぽい、野蛮人のように見えたろう。泳ぎの姿を気にしたところで仕方がない。もともと、背ばかり高くて、ずん胴な身体に出来ているのだ。
粧子は笑っているのかも知れない。試合のとき出会った視線は、初めて緋紗江たちを見てあきれはてた、軽蔑《けいべつ》の目ではなかったろうか。
その後も、粧子とはときどき顔を合わせたが、目で会釈《えしやく》を交すだけで、むしろ粧子を避ける気持の方が強かった。
注意して見ると、粧子の居る回りに集まるのは、品がよく賢そうな生徒ばかりだった。粧子の周囲には目映《まばゆ》いような文化の輝きがあった。彼女たちの話題はシェイクスピア、モーツァルト、トルストイ、セザンヌ――自分が聞いても、わけの判らない言葉が飛び交《か》い、専門用語の奔流《ほんりゆう》の中で、芸術論が際限もなく続いているだろう。万里の言うとおり、粧子は自分とは無縁の連中、繊細《せんさい》で華麗な世界の人なのだ。
合宿が終り、東京に帰ると、粧子から電話があった。学期の始まろうとする間際だった。受話器を取る手が緊張していた。電話は用件だけだった。
「夏季の演劇コンクールがあるの。ぜひ、見に来て頂きたいんです」
粧子は秘密の約束でも交すように、低い声で喋《しやべ》っていた。そして、早口で会場と時間を教えた。最後に、
「それから、部の人たちに判らないようにして頂戴ね」
と言って電話を切った。緋紗江は焚火の光で見た、粧子の妖《あや》しい笑い顔を思い出した。
会場は新装して間もない、保険会社のホールだった。ホールは若い学生で賑《にぎ》わっていた。部の人に見付からないようにと言われても困った。緋紗江はジーンズに黒っぽいシャツを着て、サングラスを掛けていた。至極《しごく》、女っぽくない姿だったが、多少自分を隠すことが出来そうだった。
遠くから受付を窺《うかが》ったが、同じ学校の生徒はいないようだった。緋紗江は観客席に入ると、後の方に腰を下ろした。
いくつかの学校が、コンクールに参加している。この日はその予選が行なわれるらしい。粧子が時間を指定してくれたので、ほどなく、慧池学園の劇が始まった。
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」だった。この有名な劇を、どういうわけか緋紗江はまだ見たことがなかった。もっとも、シェイクスピアはおろか、自分から演劇というものに興味を持って劇場に入ったのは、これが最初といっていいようだった。だが、幕が開くとともに、緋紗江はたちまち〈ヴェニスの商人〉に惹《ひ》き込まれてしまった。緋紗江は身動きすることも出来なくなった。
粧子のためだった。粧子の役はベルモントの貴婦人ポーシャの小間使いネリサだった。
演劇部のぴか一だといった万里の言葉は当っていた。二人が並ぶと、ヒロインであるポーシャの姿が霞《かす》んでしまった。普段の粧子からは想像することが出来ない、起伏に豊んだ響きのよい声が、緋紗江を圧倒した。そうして、優雅な身のこなしにも驚嘆させられた。最後に、中世の衣装を着けて、舞台化粧した粧子は、この世のものでないほど美しかった。
商人アントーニオー、ポーシャの求婚者バサーニオー、ユダヤ人シャイロック、熱演には違いないが、緋紗江の目にもどこかぎごちなく、幼なかった。粧子の演技には比べものにならないと思った。緋紗江は、粧子が登場するだけで満足し、快い演劇の移行に心を遊ばせた。
小間使いのときの粧子は、溌剌《はつらつ》としたなかに初々《ういうい》しさを秘め、抱きしめたいほどの魅力に溢《あふ》れていた。ポーシャが裁判官になると、粧子は秘書に扮《ふん》し、りりしさを加えて、その変り目の鮮かさは舌を捲《ま》くばかりだ。幕切れで、小間使いに戻り、婚約者のグラシャーノーを翻弄《ほんろう》する粧子の演技は圧巻だった。小さな妖精は、場内をわき立たせた。グラシャーノーのうろたえぶりは地だったが、粧子の本性にも、悪戯《いたずら》好きの小悪魔が隠れているのではないだろうか。
「ヴェニスの商人」に、緋紗江は予想外な感銘を受けた。幕が下りても、すぐには席を立つ気にはなれなかった。軽い興奮で、頬がほてっていた。それは、ほとんど粧子一人の魔力によるものだった。
ホールのエレベーターは満員だった。緋紗江は階段を下りた。劇のほとぼりが残っているために、足取りは自然に遅くなった。ビルを出ると、もう日が落ちかかっていた。駅に向かう途中で、緋紗江は腕をつかまれた。
「会えて、よかった!」
粧子が息を弾ませていた。緋紗江はビルの横に誘われた。
「いいの?」
緋紗江はこんなに早くホールを抜けて来た粧子に驚いた。粧子の頬には、まだドーランのかたまりが残っている。
「いいのよ。前から部の人に頼んでおいたの。今日は特別の用があるからって」
「それで、わたしを部の人に見せたくなかったの?」
「それも、あるけれど……」
粧子はビルの地下にあるスナックに誘った。細く曲った店だった。粧子は人気《ひとけ》のない隅《すみ》に腰を下ろした。
ビールを注文した粧子の頬は赤かった。目が舞台にいたときのままに、きらきら光っている。
サングラスを取ると、粧子は笑った。
「藤舎先輩、よく似合うわ」
ビールが来て、二人は乾杯した。
「粧子さん、よかったわ。綺麗《きれい》だった。わたし、まだぽっとしている」
と、緋紗江が言った。
「本当? 感激だわ。こんな嬉《うれ》しいこと、生まれて始めて!」
そして、ふと真顔になった。表情を烈《はげ》しく誇張する舞台の習慣が、尾を引いているようだった。
「実のことを言うと、今日、先輩が来てくれないかも知れないと思った……」
「粧子さんの誘いに、来ないことなんかあると思ったの?」
「だって、先輩はわたしと顔を合わせても、いつも横を向いたわ」
「それは――」
緋紗江は粧子に、重大な誤解を犯していたようだった。
「合宿の遠泳で、あんな真似《まね》をしたことが恥しかった。見え透いた偽善者を、あなたは軽蔑していると思っていたわ」
「違う、違う」
粧子はふいに、激しく首を振った。
「合宿の前、試合を見て、先輩の活躍にショックを感じたの。先輩はわたしの理想の人になった。その人がつい傍で励ましてくれたんです。わたしは嬉しくて、気が変になりそうだった」
「わたしは音楽も文学も判らない、無趣味な人間だわ」
「そんなことありません。本当は、あんなもの退屈なんです。そんなことより、人より早く駈けられることの方が素晴らしいと思います」
「わたしは丸たん棒みたいだわ。粧子さんみたいに可愛らしくない」
粧子は試合のときの視線で、緋紗江を見詰めた。
「わたしポーシャの役が先輩だったら、どんなに素晴らしいかと、いつも思っていたわ。とりわけて、裁判官に変装したときのポーシャが先輩だったら――、独りで稽古《けいこ》をするときは、いつも先輩のことを思い出して、台詞《せりふ》を語っていたの。……あまり御馳走《ごちそう》を召しあがりすぎると、食べ物もなく、ひもじい思いをしているものと同様、やはりお体を悪くなさるとか、そうなると、身分もいい加減のところのほうが、いい加減の仕合わせが手にはいるというわけでございましょう――度を過せば白髪を招き、程を守れば長寿を保つ」
「いい格言だね、ネリサ」
緋紗江は聞き覚えていたポーシャの返事をした。粧子が目を丸くした。
「夢を見ているみたい。先輩とポーシャの台詞を交すなんて。皆が知ったら、どんな顔をするかしら。でも、学校では前と同じ態度でいましょうね、ポーシャ」
粧子はポーシャと言ってしまって、あら、と口を押えた。その姿が、とても愛らしかった。
「ポーシャでいいわよ。粧子さん」
「わたし、ネリサです」
「そうだったわね。ポーシャでいいわ。ネリサ」
他愛のないやり取りだったが、緋紗江は楽しかった。こうした言葉の遊びを、今まで誰とも交したことがなかった。
粧子は明るく、陽気だった。「ヴェニスの商人」の演出、役作りの苦心、失敗などを、面白く聞かせた。話術が巧みで、表情が活《い》き活《い》きしていた。緋紗江も求められるままに、試合の話などをしたが、とても粧子のようなわけにはゆかなかった。粧子の話を聞いている方が楽しかった。
二人は人通りの少ない、暗い道を歩いた。粧子を送ると言ったのは緋紗江だった。早く別れてしまうのが惜しく思われたからだ。
両側は屋敷の塀《へい》が続き、都心には珍しく樹木の多い一角だった。粧子の家はその中ほどにあった。家の後に、土蔵が黒く見えた。アパート住いの緋紗江とは、矢張り違う世界の人だったが、自分にはもうその隔ては感じなくなっていた。
粧子は自分の家の前に立つと、組んでいた腕を解いた。そして、思い切ったように言った。
「ねえ、ポーシャ。私の手紙、読んでくれた?」
唐突だった。緋紗江は愕然《がくぜん》とした。
バスケットのキャプテンである緋紗江のところには、下級生などから、よく手紙が届いた。大抵は取り留めのない内容だった。緋紗江はそういった手紙が煩《わずら》わしく、封筒《ふうとう》を見ただけでそれが判ると、封を切らないことも多かった。
「矢張りね。電話を掛けて、よかった」
だが、粧子の名なら、読まないわけはないのだ。
「それ、粧子さんの名前で?」
「わたし、ネリサよ」
その名ならかすかな覚えがあるようだった。奇妙な外国名だけ記した封筒。緋紗江は例の手紙だと思ったのだ。だが、今までそのネリサが粧子と結び付かなかったのは迂闊《うかつ》な話だ。
「手紙、捨ててしまった?」
「いえ、捨てやしないわ」
「捨てても、いいわ」
「捨てるものですか」
粧子は緋紗江の胸に飛び込むと、目を閉じて唇を突き出した。緋紗江は茫然《ぼうぜん》のうちに唇を合わせた。とろけるような触覚だった。竦動《しようどう》が全身を突き抜けた。
唇を放すと、粧子は緋紗江の手を強く握った。
「――かくして幸を得しうえは、ただ定《さだま》るを知りて、新しきを求むる勿《なか》れ」
そう言い残して、自分の家の方へ駈《か》け去った。
二
緋紗江の知らぬところで、理解しがたい血が騒ぎだしたようだった。
粧子の手紙が情感を掻《か》き立てた。文面はいつも受け取る手紙と、大した変りはなかったが、一字一句の裏に、深い意味を噛《か》みしめた。
新学期が始まった。隣接している慧池学園の前で、粧子と顔を合わせることがあったが、いつも視線をからみつかせただけだった。粧子はすぐ後ろ向きになって、自分の友達と話しだした。それが約束だったとはいえ、ことさら無関心を装った粧子が憎く思えた。
二人だけになれる機会がないまま、一週間ばかり過ぎた。ある日、バスケットの稽古《けいこ》を終えて家に戻ると、アパートの玄関で、粧子がしょんぼりと立っていた。緋紗江は駈け寄った。
「粧子、どうしたの?」
粧子は今にも泣き出しそうな顔になった。
「わたし、ネリサよ」
「ネリサ、どうしたの?」
「ポーシャの意地悪。毎日わたしが待っているのに」
「待っていた? どこで」
「体育館の横。ポーシャは毎日バスケの連中と、さっさと帰ってしまう」
気にしなかったわけではない。だが、粧子の姿は見えなかったし、万里と帰るのが習慣になっていた。
「ネリサ、演劇部は?」
演劇部の活動だって、遅くまで続いているはずだ。
「あんなもの、辞めるわ」
「それはいけない。とにかく、部屋に入りましょう」
「誰かいる?」
「いない。わたし一人」
兄と二人住いだったが、兄は遅くでないと帰らない。
緋紗江はエレベーターで自分の部屋に連れ込んだ。ドアを閉めると、粧子はすがりついた。
「汚れるわ。わたし、垢《あか》だらけ」
「いいの、ポーシャなら汚くても」
粧子の舌は熱かった。粧子の激しさに、怯《ひる》みを感じるほどだ。
「シャワーを浴びて来るわ。すぐだから、待っていてね」
粧子をソファに坐らせて、緋紗江は浴室に入った。
粧子は何時間外で待っていたのだろう。顔色も蒼《あお》ざめていたのだ。そう思うと、急にいとおしさがこみ上げてきた。自分は矢張り細かな神経に欠けているのかも知れない。
浴室の戸が開いた。粧子は裸だった。粧子の身体は、息が詰るばかりに成熟していた。あの紺の水着から解き放された肌が、艶美《えんび》すぎる光沢を溢《あふ》れさせた。
「ポーシャ。すぐでも、待てなかったの」
緋紗江は白い身体を抱きしめた。肉付きがよく、柔軟だった。
「ポーシャ。背中を流してあげる」
緋紗江の肌は陽に焼けて、骨太だった。粧子はためらっている緋紗江を後ろ向きにした。流すと言っても、愛撫《あいぶ》に近い接触だった。敏感な場所に手が届くと、堪えられずに身をよじった。
「ネリサ。もう、駄目《だめ》だわ」
粧子はくすくす笑った。
「ポーシャって、案外、我慢強くないのね」
「そうされれば、ネリサだって笑うわ」
「わたしは大丈夫」
「じゃあ、交代しましょう。わたしが流す役になる」
粧子の背に、水着の跡が残っていた。陽焼けのない肌は、枯れ易い花弁を思わせた。
粧子は笑わなかった。緋紗江はことさら丁寧に清めた。そのうち困らせたくなって、特に感じ易い肌を刺戟《しげき》した。
「ネリサ、これで、どう?」
粧子は唇を噛んで堪えていた。忍び切れない証拠《しようこ》に、身体が上気し、波を打った。
「ポーシャ、まだ平気よ」
緋紗江の方が息苦しくなった。緋紗江は石鹸《せつけん》を流すと、タオルで粧子の身体を拭《ぬぐ》った。粧子は浴室を出ると、裸のままソファの上に倒れた。
「苦しいの」
粧子はかすれた声で言った。
「ばかね。あんまり我慢するからだわ」
緋紗江は粧子の傍にかがんだ。
「ポーシャ。お酒が飲みたいわ」
「ブドウ酒ならある」
「頂ける?」
駄々《だだ》っ子のような調子だった。緋紗江はサイドボードからブドウ酒の瓶《びん》とグラスを取り出した。裸のままの動きを、粧子はじっと見守っていた。
「不思議な瓶ね」
粧子はブドウ酒のラベルを珍しそうに見た。
「これ、デュボネの赤ブドウ。わたしの口に合うのよ。一緒に飲みましょう」
グラスに注いで差し出すと、
「グラスでなんか、嫌《いや》。一緒に飲もうと言ったでしょう」
首を振った。
「ばかね、ネリサは」
緋紗江はブドウ酒を含み、粧子の口に合わせた。
妖しい愛の陶酔が訪れた。粧子と肌を接するほどに情動が昂《たか》まり、抑制をなくしたまま、喉《のど》から乳房に舌を滑らせた。粧子は緋紗江の肩や腰に歯を当てた。ポーシャと叫ぶ声は震え、それを聞く緋紗江は感動のあまり、四肢が収斂《しゆうれん》するのを覚えた。粧子は大きく開花し、真紅《しんく》の花が緋紗江を占めたとき、妖しくも甘美な歓《よろこ》びへの扉《とびら》が、一度に開け放された。
二人は人目を避けて、たびたび密会を重ねた。二人だけになると、粧子はいつも大胆になった。愛戯の技巧も熟していった。二人は互いの身体と反応を知り尽した。
秋の初め、粧子の誕生日に、赤い万年筆を買った。
「何かしら?」
期待にわくわくするように、粧子が言った。
それを聞いて、自分の無神経に腹が立った。あまりにも考えのない、平凡な、単純極まるプレゼント。だが、粧子は赤い万年筆を大切に胸に抱いた。
「気に入ったわ、ポーシャ。嬉しい」
緋紗江は心の中で赤くなった。
あるとき、粧子は家人の目を盗んで自分の家の蔵に誘った。蔵の中に入るのは初めてではなかったが、粧子はどこで手に入れたのか、緋紗江のための衣装を用意していた。皮ジャンパーに乗馬ズボン。髪の形を変えると、緋紗江は男性と区別がつかなくなった。粧子は満足そうに見て、困惑する緋紗江を、暮れかかった街《まち》に連れ出した。
秋風の冷たさを感じる季節だった。粧子は腕を組み、そのままためらうことなく、ラブホテルの門をくぐった。
この冒険の成功に、粧子は嬉しがった。艶《なま》めかしい部屋の装飾も、いやが上に心を昂ぶらせたようだった。緋紗江は男性になったことに、怪しい胸の高鳴りを感じていた。鏡を開き、互いの身体を賞翫《しようがん》した。
激しいひとときの後、粧子はベッドの上でしばらく息を弾ませていた。身体が火のように熱かった。
「熱があるんじゃない? ネリサ」
緋紗江は驚いて言った。
「ポーシャ。燃えているだけなの」
粧子は身体をからめてきた。
外の風に当ると、粧子は咳込んだ。
翌日、粧子が欠席しているのを知った。気が揉《も》めたが、自宅に電話を掛けるわけにはゆかなかった。粧子との間は秘事にしておく約束があったからだ。
三、四日して登校した粧子の顔は青く憔悴《しようすい》していた。粧子は傍を通りかかったとき、
「いつものところで」
とだけ言った。
喫茶店での粧子は寒そうだった。
「見舞に行こうと思ったの」
緋紗江は、自分の責任を感じた。
「駄目《だめ》よ!」
粧子は強く言った。
「わたしの病気の顔なんか見られたら、死んでやる」
粧子は想像していた以上やつれているにもかかわらず、無理に活発であろうとしていることがよく判った。
「ポーシャの家に連れて行って。いいでしょう?」
緋紗江がためらうと、
「真逆《まさか》、わたしを捨てる気ではないでしょうね!」
と、凄《すご》い目になった。
粧子は狂い花のように緋紗江を求めた。緋紗江は熱い身体に圧倒された。粧子の情炎を煽《あお》りたくなかった。寵愛《ちようあい》をためておこうとすると、
「いつものポーシャじゃない」
と言ってきかなかった。
粧子はそれ以来学校を休むことはなかったが、顔に艶《つや》を失っているようだった。
緋紗江にも変化があった。ぼんやりしている時間が多くなった。
「思春期だ」
と、万里が笑った。本当は、トーテムと西起野先生を嫉妬《しつと》しているのだと思っている。その方が、緋紗江にとっては都合がよかった。トーテムも匙《さじ》を投げたらしい。誰かが告げ口をしたのに違いない。そうでなければ、気力を失っている緋紗江を見逃しているわけがなかった。
その年を越すと、粧子は休みがちになった。緋紗江の前ではいつものとおり擬勢《ぎせい》を見せていたが、胸を患《わずら》っているという噂《うわさ》が耳に入った。身体を気遣うと、かえって、
「この頃のポーシャは冷たくなった」
と怒った。卒業を口にすることも禁物《きんもつ》だった。
「卒業したら、わたしのことなんか、忘れてしまう気ね」
と、泣きだされたことがあったからだ。
けれども、卒業を考えないわけにはゆかなかった。就職も定めなければならないのだ。
バスケットの先輩だった服部美智が会いたいと言ってきた。美智はアメリカ人と結婚しミチ エマーソンになっていたが、西起野先生を通じて連絡があった。就職のことでである。ミチの夫ウイリアム エマーソンは土木工学の技術師だった。エマーソンの関係する建設会社で女子社員を募集しているので、ミチの後輩に当る緋紗江たちに誘いがかかった。
緋紗江がミチの家に出向いたのは、以前から抱いている志望を打診するためだった。緋紗江の希望は、女子社員などではなく、未知の山や川に赴いての仕事、専門の測量技士になることだった。
「そりゃ、藤舎さんらしいわ。あなたなら、身体もしっかりしているし、精密な仕事も得意でしょう。でも、女の子だからどうかなあ」
と、ミチが言った。
「わたし調べたんですけれど、専門学校か養成施設に入るか、直接実務につくかして、測量士試験に合格すればいいわけでしょう。その他には、特別の資格はないはずです」
「そのとおり」
と、エマーソンは乗り気になった。
「アメリカは女性の測量技師はたくさんいます。緋紗江さん、ぜひ勉強しなさい。会社が駄目だと言うなら、私の助手にしてあげましょう。そうすれば、世界中に仕事が待っていますよ」
自分の希望に、強い支えができたと思った。世界中に仕事が待っている――緋紗江はエマーソンの言葉を何度も反芻《はんすう》した。
一週間も粧子の姿を見ないときがあった。学校の帰り、ミチのところに寄って帰ると、粧子が待っていた。
「ネリサ、どうしたの」
緋紗江は驚いた。学校にはいなかったはずだ。
「ポーシャに会いに来たの」
粧子はまるで生気がなかった。緋紗江は急いで部屋に入れた。
「バスケじゃなかったわね」
粧子は悲しそうに言った。
「ミチのところへ行って来たのね」
「ネリサ、家を抜け出して来たんでしょう」
粧子は耳を貸さなかった。
「あの外人と歩いているところを見たわ」
「それで?」
エマーソンと歩いていたことは事実だった。しかし、隣にはミチも一緒だったのではないか。
「ポーシャ、あの外人が好きになったのでしょう」
物の判断が狂いだした粧子は、哀れに見えた。緋紗江は珈琲《コーヒー》を入れてから粧子の両手を取り、穏やかに話した。
「エマーソンさんには、ちゃんとミチがついているのよ。二人の愛は固いわ。わたしには好きな男なんて、いないのよ」
「男なんて、不潔だわ」
「ミチのところへ行くのは、就職の相談でなの」
「ポーシャ、建設会社に勤める気?」
「まだ判らないけれど、わたし測量技士になる気でいる」
「測量技士? すると、全国を歩くの?」
「世界中かも知れない」
「――わたしと、別れる気ね」
「そんなつもりはないわ」
「でも、今まで、そんな話を隠していた」
「隠していたなんて!」
少し言葉を荒げると、粧子は涙を流した。子供のような姿を前に置いて、緋紗江は困惑した。あたりまえの慰めでは聞き入れる様子がなかった。
「ポーシャ。卒業なんかしないで。技士になんかならないで。わたしを捨てないで」
粧子は立て続けに言った。
「困るわ……」
「ポーシャ、困らないで」
ひとしきり、感情の波が静まると、粧子はデュボネを欲しがった。子供なら、このまま寝てしまうところだろう。
「本当は、こんなことを言うつもりじゃなかったの。折角、逢《あ》ったんだから、もっと楽しくしなければね」
顔に笑い顔が戻った。粧子は小さな漆塗《うるしぬ》りの黒い小箱を持っていた。相当古い品らしく、表面に二羽の鳥が蒔絵《まきえ》で描かれていた。
「比翼の鳥。家の蔵から見付けてきたの。これ、ポーシャのものよ」
粧子が蓋《ふた》を開けると、古い錦の布に包まれたものが入っていた。
「だからね、ポーシャ。わたしのものを、皆取って頂戴」
粧子の目が、きらきらと光った。粧子に従わなければ、こじれた心を治せそうにもない、と緋紗江は思った。
エマーソンとの話は、順調に進んだ。
緋紗江は測量技術の講習を受けた。三月、卒業と同時に、ダム建設地で、実地に働いてみないかという話があった。緋紗江は飛び付くように、その誘いに乗った。半年以上、現地を離れられないということだったが、覚悟は出来ていた。むしろその方が、粧子との関係を絶つのによいと思った。
粧子との関係を続ける気はなかった。多くの人が経験する、はしかに似た発熱だった。粧子に対する愛情は失ってはいなかったが、粧子の病状が気がかりだった。粧子が病弱になった、半分の責任は自分にあると思った。そのためにも、自分が身を引く立場にあった。
ダム建設地で働くと叔父《おじ》に話すと、叔父は目を丸くした。
「出家遁世《しゆつけとんせい》するようなものだぞ。もしかすると、失恋でもしたか」
それでも、最後には、前途を祝って乾杯してくれた。
兄に話すと、顔色も変えず、
「どこへでも、行ってしまえ」
と、言った。
粧子には話さなかった。話さなくとも、緋紗江の心を感知しているようだった。知っていて、粧子の方も何も言わなかった。
試験の季節がすぎ、卒業を迎えた。その日、粧子に打ち明けた。
粧子は怒った。怒っても無駄だと判ると、泣いた。最後には哀願に変った。だが、この日ばかりは気構えが出来ていた。緋紗江は叱り、説得した。聞きわけがないと、緋紗江の方が怒った。立場が逆転し、粧子の方が顔色をうかがい、ポーシャ怒らないで、と宥《なだ》める態度になった。その日、桜が満開だった。二人は桜並木の下を、いつまでも歩き続けていた。
獅々吼谷での仕事は多忙だった。荒っぽい測量主任は、新入りの緋紗江を男と同じょうに容赦なくこき使った。目の廻るような日々が続き、獅々吼谷の風光を楽しむなどという暇はなかった。聞くところによると、ダムサイトの住民に、強いダム建設反対運動が起こっていた。その指導者だった男が病死したため、反対運動の気勢が乱れだした。住民の大半が建設公団の誘引に従う態度に変った。公団では、再び反対運動が起こらないうちに、この時期を逃さず一気に工事を進めてしまうつもりだった。
公団では土地買収に汚い手を使っている。と、現地の左翼系の新聞が報じていた。特に深沢源吉氏の死後、公団は露骨《ろこつ》な手段で自分の目的を達成しようとしている。説明会と称しては、説明ぬきの酒を飲まして遊ばせる。地元ボスを介して買収、脅《おど》しを行なう。各戸に事務局長クラスの役人が廻り、その後、いわゆる一本釣りで土地売買を約束してしまう。今や反対期成会は、解体寸前である……。
だが、工事関係者は、いずれも反対運動には無関心だった。山を崩し、川を堰《せ》いて湖を作る。その創造に情熱を持っている人たちの集団だった。緋紗江もその一員として、山間《やまあい》を駈け廻った。
どこからか住所を調べたのに違いない。建設地の宿泊所に、粧子から頻繁《ひんぱん》に手紙が届いた。無情のようだが、返事は書かなかった。そのうちに、粧子も忘れてくれるだろう。自分だけなら、いくら背信の名を着せられてもいいと思った。
一と月もすると、かなり仕事に馴《な》れてきた。工事は順調に進んでいた。五月の中頃、水没地の神社で、田植え祭が行なわれることになった。その日は工事現場での騒音はひかえるようにという上部からの通達があった。
緋紗江は久し振りに二日の休暇をもらった。祭見物は遠慮することと言われていたので、緋紗江は一人になってみたかった。ゆっくりと渓谷を見ようと思い、谷に降り立った。
その日、緋紗江は晃二と出会ったのである。
三
ボーリングマシン、レッグハンマー、トラッククレーンなどの轟音《ごうおん》が跡絶《とだ》えた獅々吼峡は、嘘のように静かだった。谷底には搬出《はんしゆつ》されない掘削《くつさく》ズリの山も見えたが、燃え立つ青葉の匂いと、渓流のさざめきは、忘れていた心の静謐《せいひつ》を呼び戻してくれた。
川の中央に、表面が平らな岩があった。その形が巨大な銅貨に見える。緋紗江は身を踊らせて岩伝いにその岩の上に飛び乗った。岩の上は陽《ひ》がいっぱいに当っている。
緋紗江は何も考えなかった。岩の上に寝そべって、うつらうつらしていたようでもある。どのくらいそうしていたろうか。ふっと気が付いてみると、いつの間にか厚い雲が陽を遮《さえぎ》っていた。気温もかなり低くなっている。
緋紗江は立ち上って、背を伸ばした。川上の山肌《やまはだ》に、細い滝が見えた。今まで、その滝に気付かなかったのは変だ。見廻すと、あたりの景色《けしき》も変化しているのだ。
空気が押え付けられるように暗くなり、山と川が霧を吹き出していた。川の水は濁り、岩に当って牙《きば》を出した。
緋紗江はあたりの変化に、まだ鈍感だった。景色の変化を楽しもうとする気持さえあった。川の水嵩《みずかさ》が増していたが、それが重大な意味を持つとも知らなかった。緋紗江はのんびりと岩の上に敷いたハンカチーフをバッグの中に入れようとして腰をかがめた。
その瞬間だった。緋紗江は強い力で腰を殴打《おうだ》された。それが川面《かわも》に押し寄せた波だとは、後になるまで判らなかった。思考ばかりでなく、身体も転倒している。流されながら、身体だけは起こそうと、懸命に水を掻《か》いた。やっと川床に足が触れた。緋紗江は思い切って、川床を蹴った。浮いた、と思ったとき、片腕にロープが巻き付いた。
流されるのが止まると、全身に水の力が襲いかかった。ロープからもぎ放されまいとするだけで、精一杯だった。ロープはゆっくりと引かれていた。
川床に足が着いたとき、膝《ひざ》に力が入らず、すぐには立てなかった。
ロープの端を引いているのは、若い男だった。背が高く、逞《たくま》しい身体つきだが、顔立ちに少年のような初々しさがあった。
緋紗江が立ち上ると、彼は手を差し伸べた。背後から、またあの大波が打ち寄せるかも知れないという恐怖が起こった。緋紗江は立ち上ると、子供のように彼の胸の中に飛び込んだ。
「早く気が付いて、よかった」
その声をまだがんがんしている耳鳴りのうちで聞いた。その人の着ている皮ジャンパーが濡《ぬ》れて光った。だが、それが自分のためだとは、すぐに気付かなかった。腋《わき》の下に力強い男の手を感じたとき、我に返った。初めて出会った男性の胸に飛び込んだ自分が羞《はずか》しかった。緋紗江は身体を放した。
「ごめんなさい。無我夢中だったわ」
その人はほほえんだ。
「いいんだ。こんなときだったら、僕だって、きっとそうするさ」
言いながら、緋紗江の手を取った。緋紗江の手はまだロープを握りしめて、開こうにも動かなくなっている。その人は一本ずつ指を伸ばして、ロープを放した。
川は濁流と化していた。緋紗江の目の前で、大きな流木の枝が、岩に砕け散った。思わず、緋紗江はその人の手を握りしめた。
「五合山に仙人滝がかかったので、危いと思った」
その人は、さっき見た細い滝のことを言っていた。仙人滝は、上流に集中豪雨のあったとき、現われるのだという。その人は岩の上にいた緋紗江を見付けて、呼んだのだそうだ。緋紗江は岩陰に置いてある、白いスポーツカーを見た。
その人の名は埴田晃二。千字村に産れて育ったが、永いこと東京で働いていた。晃二が千字村に戻ったのは、水没地に当る、自分の土地の処分のためである。
晃二は緋紗江を車に乗せて、近くにある自分の家にともなった。晃二の家は、茂るにまかせた雑草の間に、崩れかかるようにうずくまっていた。すでに、濃い霧が立ち籠《こ》め、水底の世界を見る思いがするのは、自分が濡れているためでもあったろう。
或《あ》る期間、住んでいたものとみえ、真新しい湯沸器が勝手元に備え付けられていた。晃二は湯沸器に火を付け、緋紗江を風呂場《ふろば》に案内した。
風呂場は昔のままで、木の丸い湯船は、湯垢《ゆあか》で黒くふやけていた。だが、熱い湯につかっているうちに、助けられたという実感がわいてきた。
自分の身体をしっかりと受け止めた晃二の手の感覚が甦《よみがえ》った。初めて身をゆだねた異性の触覚だった。
工事現場での相手の多くは男性である。けれども、緋紗江は今|迄《まで》一度だって、同僚に男性を感じたことはなかった。自分が女であることさえ忘れて、対等に働き、無神経に談笑していた。
晃二が自分を見詰める視線が、自分の性を意識させたのかも知れない。晃二の視線には、工事現場で働く同僚にない、異性を見る感動があった。
緋紗江は粧子のことを想《おも》い出した。粧子への追想は、熱い情感そのものだった。渦巻《うずま》く情の坩堝《るつぼ》から抜け出して、ずいぶん永い時が過ぎ去ったように思う。現在は男も女もない、ただ多忙な日々。ダンプカーやボーリングマシンの騒音の中。手にするのは冷たいトランシットや傾斜計などの肌触り。数字の行列、事務的な報告書。
風呂場の戸が細く開いて、隙間《すきま》から乾いた衣服が差し入れられた。広げてみると、男物のカラーシャツとセーター、ジーンズだった。緋紗江は素肌に衣服を着けた。衣服は誂《あつら》えたように身体に合った。粧子が、男物の衣服を、緋紗江に強要したことを想い出した。身体のほてりは、湯のためばかりでもなさそうだった。
「君は、男物がよく似合う」
緋紗江の姿を見た晃二は息を詰めて言った。晃二の視線は、緋紗江の胸元にとどまった。緋紗江は軽い羞《は》じらいを覚えた。
晃二は珈琲を入れながら、緋紗江が大南建設で働いていると知ると、ダム律設反対期成会が出来ていること、深沢源吉の死で期成会も解体同様であること、粕山《かすやま》のこと、緋紗江がいた一銭岩のこと、重吉岩のいわれなどを話した。
若いに似ず、晃二の話は耳を傾けさせるものがあった。変り易い天候によって、氾濫《はんらん》を起こしやすい河川を、無理のないように静めるのが昔の人の智慧《ちえ》だということを知った。技術と機械力によって、わずかな人間の利益のため、遮二無二《しやにむに》自然を破壊する危険を、すっかり見抜いていた。にもかかわらず、ちゃっかりと自分の利益だけを計算して、進退を定めている晃二の感覚にも驚かされた。
一途《いちず》にダム建設を反対するわけでもない。といって、緋紗江の仲間のように傍目《わきめ》もふらず仕事に突き進むというのでもない。その晃二に心の広さと柔軟性を感じた。緋紗江が晃二を狡猾《こうかつ》と思わなかったのは、実社会に立って、久しく心の触れ合いと疎遠《そえん》になっていて、心のどこかでは人間的なものに飢えを感じていたためだったろう。
晃二は部屋にストーブをつけ、ロープを渡して、濡れた衣服を掛けていてくれた。緋紗江は水蒸気の出ている服を打ち返そうとして立ち上ると、晃二も立ち上った。
衣服を間にして、二人の身体が触れ合い、それがきっかけで、晃二は緋紗江を抱き、唇を合わせていた。
「君はバニラの匂《にお》いがする……」
唇を放した晃二が言った。永い間、忘れていた言葉だった。それが男性の口から出たことで、緋紗江は感動した。
晃二の唇は力強かった。強引に緋紗江の舌を引き入れた。緋紗江は逆らわなかった。精力的なパートナーに引き廻される快感を知り、晃二に従った。突き上げられるような情動が襲った。立っているのがつらくなった。
「いきなり……ごめん」
晃二は緋紗江の横に腰を下ろした。
「さっき助けたから、君が許すだろうと思ったわけじゃない」
緋紗江だって、恩返しのつもりでおとなしくしていたわけではなかった。
目のやり場に困って、晃二の胸を見ていると、晃二は手を伸して髪に触れた。身体中が敏感になっている。わずかな接触に心が乱れそうになるのを、じっと堪《た》えた。晃二は首筋の生え際や耳に指を滑らせた。粧子との経験によって、血はすぐに熱くなりそうだった。晃二は耳を合わせた。
「君の中から、千字川のせせらぎが聞えて来る……」
そのせせらぎは、すぐにでも荒れ狂いそうだった。晃二はまた緋紗江の唇を求めた。唇に注意を集めながら、晃二はシャツのボタンを外そうとした。初めての男性の前で、乱れることが恐かった。
「でも、それは……」
身を竦《すく》めるのを、
「静かに……渓流の淵《ふち》の音が聞えそう……」
晃二は力強く動かさなかった。晃二の手は乳房を包み込んだ。
「淵の響きは、小鳩の胸みたい……」
晃二は呪文《じゆもん》のように耳元でささやいた。
「君の乳は柔かい」
「いかつい身体だって、皆から言われるわ」
晃二は緋紗江の身体を賞翫《しようがん》した。自信はなくとも、晃二の称美は、矢張り嬉しかった。乳房の刺戟は、粧子が戯れる甘さよりも、柔かな深みがあって、掌握と愛撫が繰り返されると、知らぬ間に呼吸が荒くなり、無意識のうちに、晃二の腕を強くつかんでいた。晃二が乗りかかろうとすると、硬直した腕は身体を支えきれなかった。
横になると、思考は更に定まらなくなった。羞恥《しゆうち》が踏み止まれず、空《うつ》ろになった場所に、快美がかたまりになってその跡を占めた。晃二が腰に手を伸ばしたとき、本能的に身を固くしたが、晃二が去ろうとすると、追い求めるように手を握った。
いつの間にかシャツの前はすっかり開かれていた。
「君は敏感だね」
と、晃二がかすれた声で言った。そんなに強い反応を示したかと思い、相手が身体のなびきを見ていたかと思うと、ことさら強い情動がわきあがった。
「もう一度、渓流に流されてみない? 向こうの部屋で……」
緋紗江は晃二を見た。そこには異性がいた。粧子は怒るに違いない。男に穢《けが》されたと言って、激怒するだろう。緋紗江と、手を握ることさえ拒むだろう。そして、緋紗江など、見向きもしなくなるはずだ。
粧子を立ち直らせるために、と緋紗江は思った。無論こじつけに過ぎない。身体がより深い慰撫《いぶ》を求めているのだ。だが、粧子のためにと思うと、男女の垣《かき》は楽に越せそうだった。
「また、あなたが、助けてくれるなら」
緋紗江は目を閉じて、シャツの前を掻《か》き合わせた。
晃二は緋紗江をベッドに運んだ。真新しいベッドだった。緋紗江は晃二の匂いに包まれた。
晃二は衣服を脱ぎ捨てると、緋紗江も裸にした。逞《たくま》しい筋肉が光り、男性は少年の頬の色をしていた。
自分でも膨起しているのが判る。緋紗江はもううるおっていて、晃二の手を拒まなかった。粧子よりも大胆で激しい動きだった。新しい触感が、緋紗江の肉の起伏を強めた。緋紗江は晃二の背を抱き、自分の方から愛を求めた。目の前に淵が見えた。だが自分だけ飛び降りるのは嫌《いや》だった。
中心の快美が足の指先にまで走ろうとしたとき、緋紗江は相手の手を押し戻した。そして、衝動的に硬筋に触れた。晃二は熱く脈打っていた。緋紗江は感動した。晃二が太い息を静かに吐き出した。
「いいね……」
晃二は身体を廻した。
緋紗江は身体を開いた。粧子とは喫し得なかった喜びだった。緋紗江は晃二に手を添えて迎え入れた。
「あなたでなければ、だめだわ」
そう、粧子ではだめだった。晃二は奥深くにいた。突然、川が盛り上り、緋紗江はそのまま急流の中にあった。晃二は緋紗江の中で強靭《きようじん》な弓のように撓曲《どうきよく》した。熱い奔出《ほんしゆつ》が感じられた。その瞬間、粧子が去ったと思った。
晃二がゆるんだが、緋紗江は放さなかった。晃二は上気していた。
「川がふくれあがったわ。わたし、流されているみたい」
緋紗江はまだ流されていた。その感悦をうわ言のように言って目を閉じた。晃二の手が触れた。その手を、自分の胸に当てがった。その上に、手を重ねた。
少したつと、晃二は新しい力を得た。瞼《まぶた》の裏が赤くなった。晃二が押しかかり、花芯《かしん》が静かに、力強く撓《たわ》められたとき、緋紗江は極彩色《ごくさいしき》の中に投げ込まれた。何か叫んだようだった。晃二は思うまま進んでから、身を引いた。ふいに晃二が消えるような気がした。緋紗江は追おうとすると、前よりも深く圧迫した。あらたな充溢《じゆういつ》に息が詰まり、緋紗江は眉を強く寄せた。
「あなた、もう、助けて!」
ちぎれちぎれの歓喜のうちに、苦痛の陶酔が入り乱れた。晃二は未知の揺動へ導くように、上半身を起こした。もう、晃二の言うなりだった。緋紗江は脚を上げ、前を開いた。晃二の視線が触覚となった。堪えられず沈吟《ちんぎん》すると、晃二は弦楽器のようだと言いながら締めつけた。そうすると、更に深い激昂《げつこう》が襲いかかり、無限とも思える仙境に散乱していた。
ときはなたれたとき、まなじりから涙があふれていた。
「わたしから、離れないで……」
と、緋紗江は言った。激情が遠のくと、晃二ヘの思慕がたかまった。
「結婚しよう」
と、晃二は言った。
――結婚。その言葉は、飛びきり美しく緋紗江の耳に響いた。そうだった。自分が結婚したとき、粧子は幻想の束縛《そくばく》から解き放されるのだ。
緋紗江は晃二の身体にもつれた。
長い手紙を書いた。
――粧子。この土地に来て、よかったと思っている。遠くから、今までの自分を見直すことができるからだ。わたしがこの土地に来たのは四月。山には雪が残り風は冷たかった。そして遅い春が一度にやって来る。緑が一斉に燃えたち、小鳥の合唱が響き渡る。その中で、呼吸する人間も自然の中の一部分。
わたしは今ダムを作っている。無論わたしの仕事などは、ごく小さな毛ほどの働きにすぎないけど、自然の中で仕事をしていると、人間の意味が判るような気がする。ダムの建設は自然を作り替える意図があってはならない。作るなどとは大それたこと。ただ自然に同調し、自然に逆らわず、自然の恵み多い方向に機嫌《きげん》をうかがう。それだけ。
粧子。わたしたちは不自然だった。粧子の求めていたわたしは幻想だった。粧子は完全な人間を求めていた。女性を具《そな》え、男性を完備している人間。それはこの世の外のものだ。
ごく一時的に、わたしは粧子の望みを満たしたかも知れない。だが、それはあくまでも虚妄《きよもう》でしかなかった。わたしはもともと完全な女性。粧子の求めているような人間ではない。それが、この土地に来て、はっきりと判った。
粧子。告白しよう。わたしはこの土地の男性と結ばれた。ありきたりの男と女として。わたしは普通の女としての悦《よろこ》びを教えられた。粧子が知ったら、不潔だと言うに違いないけれど、わたしはこれが自然だと思う。わたしのことを判ってほしい。
粧子。わたしたちはすぐ結婚する。結婚式には出席して、わたしたちを見て下さい。本当のわたしは変っていない。粧子への愛は永遠に変りやしないんだ……
返事はなかった。
結婚式には粧子は来なかった。
晃二との新しい生活が、新しい色彩に満ちあふれ、緋紗江はいつか粧子のことを考える時間が少なくなった。
そんなとき、突然、粧子が目の前に現われた。夏の、とりわけて暑い日だった。
四
その日は休日。
朝の白い光の中で、晃二は肢体を求めた。日ごと、緋紗江はより深い美境に導かれていた。溶解のうちに、どんな姿態を見せたか、それを思うと相手をまともに見られないようなときもあった。
その朝も、烈《はげ》しく歓喜に身を四散したようだった。
「そんなに、熱い?」
晃二は満足そうに寄り添った。
喉《のど》がつまり、すぐには言葉が出なかった。そう、粧子ではこれほどの熱さを経験することは出来ないのだ。
「あなただから……」
緋紗江は幸せだった。
晃二はデュボネの瓶に入れてあった麦茶をコップに注いで、緋紗江に渡した。緋紗江はべッドの上で半身を起こしたが、まだ上気の治まらない身体を見られるのが羞《はずか》しく、後ろ向きになって麦茶を飲んだ。
新指《あらゆび》バス停まで、晃二がセラピムで送ってくれた。町に出て買物を済ませ、約束の時間にバス停に戻った。
晃二はなかなか迎えに来なかった。土地を売った、最後の代金を取りに行っているのだ。
「たまには、現金の顔が見たいな」
子供っぽい晃二の要求を、金海は笑いながら引き受けたのだ。
晃二が約束に遅れることは、まずなかった。人気のないバス停で待つ緋紗江は、少し不安になった。
晃二は三十分遅れて着いた。晃二の表情は明るかった。晃二はすぐにダッシュボードを開けて、紙幣の束を見せた。遅くなったわけを訊くと、
「もし、僕が若い綺麗な子と会っていたら、どうする?」
無邪気に言った。
嘘ではないようだった。緋紗江の坐っているシートに、長い髪の毛が落ちていた。長い髪の毛の人を乗せたことは、これまでにはなかった。
「僕、臭《にお》うかい?」
ふいに、晃二が訊いた。
「どうして? 変ね」
その若い女性に、臭いとでも言われたのだろうか。そう思ったとき、粧子の口癖を思い出した。
――男なんて、臭いから嫌《きら》い……
はっと思った。
晃二の口ぶりでは、土地の女性ではなさそうだ。長い髪の毛、僕、臭う?……
粧子は家で二人の帰りを待っているのだろうか。緋紗江は晃二に粧子との仲を知られたくはなかった。
家に着くと晃二は急いで車から出た。だが、その女性の姿は見当らなかった。ただ、女性が飲んだと思われるジュースの瓶とコップが、縁先に並んでいるだけだった。
晃二はコップの下から、紙片を取りあげ、納得《なつとく》のゆかぬ顔で見ていたが、すぐに丸めて地面に捨てた。緋紗江はその内容がひどく気にかかった。
晃二はすぐに机に向かった。明日東京へ発つ準備だった。晃二は東京の郊外に、小さな自動車修理工場を作るつもりでいる。緋紗江は反対しなかった。今の仕事も魅力だったが、晃二と人生を共にすることに、より深い幸福があると信じていた。
晃二は準備に没頭していた。緋紗江は捨てられていた紙片をそっと拾い上げて、皺《しわ》を伸ばした。
――また逢《あ》いましょう N
間違いはなかった。Nはネリサの頭文字だ。粧子がまだネリサであることは、緋紗江にもポーシャの役を捨てさせまいとする心に違いなかった。
粧子に逢わなければならぬ。逢って話し合い、粧子の幻想を覚まさなければならなかった。
緋紗江は粧子と取り交した品をまだ持っていた。それを粧子に戻し、自然の愛を持てる女性に戻すことが必要だった。
食事を済ませてから、蒔絵《まきえ》の箱を取り出した。晃二が見たようだが、晃二は自分の仕事に夢中だった。
「ちょっと事務所まで行って来ます」
言い置いて外に出る。
事務所に行く気はなかった。村に一軒だけある民宿を当って見るつもりだった。
工事用道路に出ると、パーゾウに会った。粧子の心当りを訊いてみようと思ったが、無駄だと思いなおした。
耳成神社の鳥居の中に、真新しいちり紙が落ちているのを見付けた。丸められた花柄の紙だった。
それを見て、虫が知らせた。緋紗江は鳥居をくぐって、急な石段を登った。
神社の境内《けいだい》には人気《ひとけ》がなかった。緋紗江は奥殿のあるのを思い出し、神殿の横にある朽ちかけた鳥居をくぐる。
すぐ、急な岩場にかかった。岩に渡された鎖にすがり、夢中で岩を渡る。岩は焼けて熱かったが、気にはならなかった。
登りつめたとき、白い服が目に飛び込んで来た。
「粧子!」
粧子は重吉岩頂上の、社殿の礎石の上に腰を下ろし、紙コップを口に当てているところだった。粧子はコップを下に置いて振り返ると、立ち上った。
「ポーシャ……」
粧子は手を差し出した。熱い手だった。緋紗江は粧子の手を取って、最後の岩を乗り越えた。
粧子は白いブラウスに白いスカートで、白い靴をはいている。まぶしかった。
「もう逢えないと思ったの。逢わずに行ってしまおうと思ったの。獅々吼峡にあった大きな樹《き》に、二人のイニシャルを彫って、それだけを記念に残して。でも、逢えて、よかった……」
粧子の目から涙があふれていた。緋紗江は粧子の手を取って、並んで腰を下ろした。
対岸の山の濃緑。焼けつく日差し。風が強くなっている。
「粧子――」
言いかけて口をつぐんだ。粧子なんて嫌《いや》! ぴしゃりと言われるのを覚悟していた。だが、粧子は意外と穏やかだった。
「――結婚したんですってね。お目出とう」
いつもの粧子らしくない。緋紗江はふと粧子に哀れを感じた。
「わたしの夫に逢ったのね」
「偶然だったの。初めは全然判らなかった。ただ、あの人のキーホルダーの飾りが蝶だったわ。あれ、ポーシャのプレゼントでしょう?」
「そう、家の中にはわたしの服が掛かっていたし……」
「ポーシャの好きな、デュボネの瓶もあったわ」
「暑かったでしょう」
「わざわざ逢いに来たわけじゃないのよ。田沢湖まで行ったついでなの。まだ、ポーシャにお目出とうを言ってなかったから」
緋紗江は素直な粧子の態度が奇蹟《きせき》に思えた。それが深い感動につながった。
「わたしの気持を判ってくれて、本当に嬉しい。粧子、これは、矢張りわたしが持っていてはいけなかったのよ」
緋紗江は蒔絵の小箱を取り出した。
粧子はその箱をじっと見ていたが、可愛らしくうなずくと、自分の手に取った。
「そうね。ポーシャ。わたし、元に戻しておくわ」
粧子は赤い万年筆を取り出した。緋紗江が止めたが、粧子は気が済まぬといい、無理に緋紗江の手に戻した。
「これから、昔どおりに付き合いましょう。粧子、身体の工合はどう?」
「もう、すっかりいいの」
粧子は立ち上って、四方の景色を見渡した。
「獅々吼峡って、素晴らしいところね。ここで仕事をし、結婚し、死ねるポーシャが羨《うらや》ましい。ね、ポーシャ、あの山、何と言うの?」
緋紗江も立って、山や川の名を教えた。粧子は初めて出会ったころのままだった。屈託なく笑い、饒舌《じようぜつ》だった。だが、しばらくすると、疲れを覚えたようだ。坐ると、紙コップを緋紗江に手渡した。
「結婚おめでとう。乾杯しましょう。デュボネじゃないのが、残念だけれど」
粧子はジュースの瓶《びん》を取り上げた。半分を緋紗江の紙コップに注ぎ、残りを瓶のまま持って、
「コップが一つしかないから、行儀が悪いけれど、わたしは口飲みで行きますよ」
瓶をちょっとコップに当てて、
「お目出とう!」
先に瓶を口に付けて飲み始めた。緋紗江も笑いながら、紙コップのジュースを飲んだ。
「あのころのわたし、馬鹿《ばか》だったわね」
粧子は空になった瓶を遠くに投げ飛ばした。瓶は谷底に落ちてゆき、やがて小さな音が聞えた。
「でも、今だって馬鹿なんだわ」
と、粧子は言った。
「ねえ、ポーシャ、幸せ?」
「ええ、幸せよ」
「わたしもだわ」
粧子はさも嬉しそうに笑った。
「でも、これだけは知っていてほしいの。ねえ、ポーシャ。今まで一刻だってあなたのことを忘れたことはないの。ポーシャが獅々吼峡へ行くと言ったとき、わたしはひどく怒ったでしょう。その気持、今だって少しも変りはないの。それなのに、ポーシャは結婚してしまった。わたしのポーシャは汚され、穢《けが》らわしい女になってしまった。目の前が真暗になった。この世が、この世ではなくなったの。あなたには判らないかも知れないけれど、ポーシャ。本当なの。わたしは何日も寝られなかった。獅々吼峡の方に向かって、呪《のろ》いの言葉を投げかけた。ポーシャの写真をずたずたに切りきざんだ。ポーシャの不潔な手紙は全部焼き捨てたんだ……」
緋紗江の背筋に、冷たいものが走った。
「粧子……」
「わたしはネリサ!」
粧子は叫ぶように言った。
「あなたはネリサを裏切った。それ以来、学校にも行っていない。病院へも行かない。だから、病気だって、少しも良くなっちゃいないんだ。そして、とうとう決心した。だから、今のわたしは幸せ。だって、こうしてポーシャといられるんですもの」
粧子はじっと緋紗江を見据《みす》えた。粧子は凄《すご》い力で緋紗江を抱き竦《すく》めて、唇を重ねた。唇は火のように熱かった。
「ねえ、ポーシャ。わたしはあなたを放しやしない。ポーシャはわたしからはなれることが出来ないんだ。これは矢張りあなたのもの」
粧子は無理に蒔絵の小箱を緋紗江の手に渡した。
「あなたは、まだ……」
「無論よ。ポーシャ。ポーシャは最後まで、わたしのものなんだ。ポーシャは逃げたつもりでも、逃れることは出来ないの。……わたし、苦しくなったわ。でも、それが嬉しい。ポーシャもでしょう?」
言われると、さっきから奇妙な胸苦しさを感じていた。
「ほら、ポーシャもでしょう。今、乾杯したジュースの中には、毒を入れておいたのよ。ポーシャはわたしと死ぬんだわ!」
「粧子、何だって馬鹿なことをしたの!」
「わたしはポーシャの結婚を、信じやしなかった。田沢湖の帰りだなどと言ったのは嘘。この目で、ポーシャの結婚を確かめに来たのよ。そして、それが真実だと知ったとき、こうする以外方法がないことが判った。本当はポーシャの顔を見てから死にたかったけれど、あなたは用心深くなっているに違いないと思った。今の幸せを逃がしたくはないでしょうからね。わたしの顔を見られたら、わたしの気持も読まれるのじゃないかと思って、わたしはここでいい景色を見ながら、独りで死ぬつもりでいたの。ところが、神様のお引き合わせね。ポーシャがわたしを捜しに来た。矢張り会えてよかった。一緒に死ねるなんて、何んという幸せかしら。ねえ、ポーシャ、見て頂戴、わたしの衣装。家を出るときから覚悟をしていたわ。白装束。これでも、死衣装のつもりなの。ポーシャ、愛していると言って。そして、わたしと死んで!」
粧子は激しく緋紗江の腕をつかんで、崖《がけ》の方に引きずって行った。放そうとしたが、全身に痺《しび》れを感じ、力が出なかった。
だが、先に粧子の方が力を失った。
「ポーシャ! もう駄目。すぐ後から来て!」
言い残すと、そのまま断崖《だんがい》から滑り落ちていった。
胸苦しさが激しくなる。粧子をどうすることも出来ない。緋紗江は鎖《くさり》を伝わって重吉岩の頂上から、落ちるように降りた。
社殿の後に清水が落ちているのを思い出した。緋紗江は這《は》うようにして清水の傍に寄り、水を飲んだ。
食事直後だったのが幸いになった。胃に何もなかったら、粧子と同じ運命にあったろう。胃の中の物を全部吐いたとき、緋紗江は意識を失った。
気が付くと、陽はほとんど傾いていた。
生きていた、という感動より、粧子が死んだ辛《つら》さの方が強かった。足元がふらついたが、更に水を飲むと、歩行は可能になった。
家に着くと、晃二の姿が見えなかった。戸締りもなく部屋は散らかったままだ。セラピムも見当らなかった。ふいに出て行った様子だった。
晃二は遅くなっても戻らなかった。
所在なく、部屋を見廻している目に、デュボネの瓶が目に入った。
――デュボネの瓶があったわ。
まだ、がんがんする頭の中で、粧子の声が蘇《よみがえ》った。
緋紗江は瓶を手に取り、栓《せん》を抜いた。中の液を掌《てのひら》に落し、舌に当ててみる。
緋紗江はすぐ液を吐き出し、勝手元に行って口をすすいだ。残りの液も洗い流した。
毒に違いなかった。
粧子が投げ入れたのだ。粧子はこう言っていた。
――本当はポーシャの顔が見たかったけれど……わたしの顔を見られたら、わたしの気持も読まれるのじゃないかと思って……
そのため、粧子は緋紗江の前に姿を現わさず、デュボネの瓶に毒を入れて、無理心中を計ったのだ。
晃二は自分は酒を飲まないのだと、粧子に教えたのに違いない。デュボネを飲む人間は、この家では緋紗江しかいない。けれども、本当はその瓶の中には麦茶を入れておいたのだ。
晃二はそれを飲んでしまった!
緋紗江は気が狂いそうになった。
晃二の屍体《したい》が発見されたのは翌日である。
焼け付くような日差し、怪鳥の叫びに似た工事の騒音の中を、緋紗江は意識もはっきりしないまま、千字川の現場に着いた。
晃二は担架の上にいた。顔が紫色にふくれて歪《ゆが》み、無残な屍体となっていた。
緋紗江は顔をおおい、慟哭《どうこく》した。
晃二は何も知らずに死んだ。全ての責任は自分にあった。自分が死ぬべきだった。それなのに、どうして!
「御主人ですね?」
傍に柄の大きな刑事が立っていた。身体と同じいかつい顔立だったが、目の奥にやさしい光があった。緋紗江はこの男の胸に飛び込みたい衝動にかられた。
晃二の担架が運び去られると、立っていられなくなった。刑事はそれを察したらしく、平らな岩の上に自分のハンカチを敷き、腰を下ろすように言った。
刑事の質問には、ほとんどうわの空だった。問われるままに昨日あったことを話した。刑事は晃二と粧子の出会いに、大きな関心を寄せた。
緋紗江はバッグの中から、皺《しわ》になった粧子の置き手紙を出して、刑事に渡した。刑事がその紙片を受け取って考え込んだとき、もう一人の若い刑事が寄って来た。
「ひと通り千字川付近を検索しましたが、今のところ、他の遺留品らしい物は見付かりません」
それに対し、刑事は何か指示を与えていた。
緋紗江はふと我に返った。
――粧子の屍体がまだ発見されていない。
発見されていれば、粧子のことを一番先に訊かれたはずだった。
粧子は晃二が死んでいた場所から、ずっと上流の重吉岩の頂上から飛び込んだのだ。重吉岩の下は深い淵《ふち》になっている。流されたとすれば、当然発見されていなければならない。粧子は淵の底に沈んだに違いない。
「Nという女性を知っていますか?」
と、大柄な刑事が訊いた。
緋紗江は答えなかった。父親に似た人の前で、二人の関係を露わにすることがためらわれたのだ。気持の整理がついて、二人だけになったとき、全《すべ》てを話そう。
緋紗江はそう思った。
五
大柄な刑事はときどき緋紗江の前に姿を現わした。
刑事は館崎といい、緋紗江の受けた温恭な第一印象は変らなかった。館崎には、緋紗江と同じ年頃の娘が一人いて、結婚に失敗して家に戻っている。それがこの刑事の、一つの頭痛の種らしい。
緋紗江は館崎と会うことを好んだ。緋紗江の回りにはエマーソンや同僚が、絶えず慰めてくれていたが、なぜか館崎と会うときの方が、心和《なご》んだ。
だが、粧子のことになると、なかなか切り出せなかった。
館崎が一度も緋紗江に疑惑の目を向けなかった、という理由もある。心ではどう思っているか判らない。しかし、表面上はそうだった。
粧子の屍体は発見されなかった。だが、粧子が獅々吼峡に現われたという証人はいた。粧子の写真も確認された。粧子の母親も千字村に来た。
緋紗江は粧子の母親と会った。
痩《や》せた姿は痛々しく、ここで一つ、粧子のことを言い出し得なくなった理由が出来た。
警察では晃二と粧子の結び付きを追っていた。粧子が最後に残した文章が見付かり、それによって晃二の死は、粧子との心中、ないしは粧子の仕掛けた無理心中という線にそって、捜査が進められているようだった。
或るとき、館崎が言った。
「もし、晃二さんが生きていて、粧子と深い関係にあるのを知ったら、あなたはどうします?」
「――どうって?」
考えてもみないことだった。
「晃二さんを裏切り者と思いますか?」
「……そうでしょうね」
「不潔だとは?」
「さあ?」
「あぐりもそう言っていた」
粧子の残した日記のようなものが発見され、館崎はそれを読んだに違いない。粧子は男を知った緋紗江を不潔だと罵《ののし》った。だが、粧子は記したものに緋紗江の名は書いていなかったようだ。館崎は晃二がPと呼ばれていたことはなかったかと訊いた。
「粧子とPとは相当深い関係だったようです。ラブホテルに何回か同行しているんです」
その相手はわたしですと、緋紗江はとうとう言うことが出来なかった。
晃二は故郷の土に葬られた。間もなく湖の底になるはずの墓地だった。葬儀の終るころ、村長の犬石が緋紗江にそっと言った。
「近いうち、おまけさん祭さあります。今年が最後の祭になるで、あなたにおまけさんになってもらえねべかと……」
そのとき初めて、自分はおまけさんになる条件にあることに気が付いた。
晃二から聞かされたことがある。女性が不足していた時代の村人が考えた悲しい知慧《ちえ》。晃二が嫌っていた残酷な儀式。晃二の母もおまけさんになったことがある。春のおまけさんは深沢かねだった。
春の祭はいわば異邦人としての緋紗江の目に、美しく古風で珍しく、深い印象を残したのだが、現在千字村に住み、自分が祭の主役になると思うと、不思議な感動だった。悲しかった。だが、辞退しようという気は起こらなかった。
晃二の母も、深沢かねもそうだったろうと思う。見る方の立場にあっては、絶対に自分であってはならない、忌避《きひ》すべきおまけさんだが、いざ自分がその立場に立たされると、その役は引き受けなければ、と思う。見る方にある、平穏な人たちは、この気持が判るまい。夫に死別したときの悲しみは、葬儀の涙だけでは、不足なのだ。
おまけさんになれば喪が明けるのだ。未婚女性と同じ権利を受けることができる。自分は新しく生まれ変る。緋紗江には生まれ変ることが必要だった。
「わたしで出来ることでしたら、お引き受けしたいと思います」
と、犬石に答えたとき、緋紗江は千字村におまけさん祭があったことを、感謝していた。
村人たちは次々に千字村を去っていった。
緋紗江も町に移り、町営住宅を借りることにした。小さな家に、晃二の家にあった家具が運び込まれた。
緋紗江はダムの完成まで、獅々吼峡で仕事をすることになった。緋紗江の希望だった。
新しい生活を望む一方、緋紗江は絶えず晃二に対する呵責《かしやく》の念が心にわだかまっていた。おまけさん祭が近付くに従い、晃二に済まないという気持は強くなった。晃二の墓地が沈み、故郷が沈む。村人は四散し、妻はおまけさんとなり、未婚の女性に戻る。晃二のことを想い出す人は誰もいなくなる。それも、驚くほど近い将来にだ。
おまけさんの前日、緋紗江は晃二の皮ジャンパーを取り出して見た。ジャンパーの皮の臭いが、初めて晃二と出会った日を思い出させた。何気なく手を通し、鏡に向かった。
鏡の中に、晃二がいた。
背の高い緋紗江はジャンパーがよく似合った。髪の型を変えると、男と区別がつかなくなった。
おまけさんになる最後の日、晃二になろう、と緋紗江は思った。
晃二として、獅々吼峡に別れを告げよう。それを晃二への追弔《ついちよう》としよう。同時に、自分の人格の中に晃二を見出したとき、言い知れぬ安らぎが襲った。
肌着とジーンズも晃二のものに替えた。一と晩、千字村の家に泊ることにし、食事と毛布をセラピムに積み込んだ。プロパンガスはそのままになっているはずだった。ガスが残っていれば助かるが、なくとも我慢する気だった。
晃二の靴をはき、セラピムのハンドルを握ると、緋紗江は晃二になった。
「千字村の、最後の別れだな」
緋紗江は晃二の口調を真似《まね》て言った。
耳成神社は宵宮《よみや》だった。新道を普段見かけない子供たちが走っている。緋紗江はそのまま千字川に車を向けた。緋紗江は初めて晃二のセラピムを見た位置に車を止めた。
外に出ると、黒い雲が急な速さで動いている。あのときの天候に似ていた。緋紗江が一銭岩の上を見たとき、思わずめまいを覚えた。
――岩の上に、緋紗江がいる!
落着いて考えれば、緋紗江でないことは当然だった。だが、この暗合は、ただの偶然だとは考えられなかった。晃二の精霊が作り出したとしか思えない、妖《あや》しい世界だった。
緋紗江は五合山に仙人滝がかかっているのを見た。一銭岩の上の女性が濁流に押し流されたのは、それから五分とたたぬうちだった。
その前後のことは奇妙に記憶に残っていない。後になって考えると、ところどころの記憶が吹き飛んでいる。気が付くと、水びたしになった若い女性を抱きしめていた。
「ごめんなさい。無我夢中だったの」
女性は我に返って身体を離した。それは明らかに、緋紗江を男として意識した動作だった。
「いいんだ。こんなときだったら、僕だって、きっとそうするさ」
緋紗江はごく自然に言った。演技するといった意識はなかった。
女性をセラピムに乗せ、名を聞いたときもそうだった。女性は香島紀子と言い、緋紗江は当然のように埴田晃二と教えた。
紀子は面差《おもざ》しがどこか粧子に似ていた。そう思うとき、緋紗江と晃二がめまいのように交錯した。
千字村の家は胸まである雑草におおわれていた。車の音を聞いて、パーゾウが家の中から飛び出してきた。恰好《かつこう》のねぐらとしていたらしい。緋紗江は車に残っていた晃二の煙草を投げたが、パーゾウは受け取らなかった。そのときも、ちょっと緋紗江に戻った。パーゾウは女嫌いだったことを思い出したからだ。
プロパンガスは残っていた。緋紗江は湯船に湯を満たした。紀子が遠慮がちに湯殿へ入ると、自分の下着とガウンを車から運んだ。町の家を出るとき作った、食物も部屋に移した。
湯殿から上ってきた紀子は見違えるばかりに生気を取り戻していた。緋紗江の赤いガウンが、色艶《いろつや》の増した肌によく似合い、濡れた髪が女らしいなまめかしさを強めた。
紀子は珈琲を飲むと、打ち解けて話すようになった。
「このガウンと下着は誰のもの?」
紀子は不思議そうに訊いた。がらんとした部屋を珍しそうに見廻すゆとりもでてきた。玉助温泉から粕山を越えてきたという紀子はダムが建設され、この土地が水没することを知らないようだった。都会を逃れて自分に浸ろうとしている紀子に、ダムの話は聞かせたくなかった。
ブドウ酒とサンドイッチで食事を済ませると、紀子は軽く酔ったらしく、態度が愛らしくなった。
晃二なら、紀子を愛すだろうか?
緋紗江は立ち上って、ロープに掛けておいた紀子のセーターを裏返そうとした。
「わたしが、します」
紀子も立ち上った。緋紗江は強い感応を受けた。それは晃二が緋紗江の身体を占めた、としか言いようのない感情だった。無意識のうちに、紀子のセーターに顔を埋めた。
「君は、バニラの匂いがする……」
紀子が戸惑っているのが判った。
「晃二さん、嫌《いや》よ」
晃二と呼ばれたことが、きっかけになった。紀子の手を取って引き寄せた。
紀子の眸《ひとみ》の中に晃二がいた。粧子もいた。緋紗江の顔も混っていた。
紀子は少ししりごみする様子を見せたが、力が弱すぎた。緋紗江は静かに唇を合わせた。
紀子の舌は融解しそうだった。柔軟な触覚が続くと、妖しい血が騒ぎかかるのを感じた。緋紗江の身体の中に、晃二と粧子が甦《よみがえ》った。半ば放心のうち、抱擁を重ねているのは、晃二であり粧子であり緋紗江だった。愛撫に溶けかかっているのは、晃二であり粧子であり、緋紗江だった。
若く張りつめた乳房だった。柔かに刺戟《しげき》すると、こらえ切れないふうに息が乱れかかる。上気した唇がふくらんで、白い歯がのぞいた。
なにかのはずみで、畳の上に倒れかかると、そのままガウンの紐《ひも》を解いた。露《あら》わになって大きく息づく乳房は、粧子のままだった。
「恥しいわ。こんなになって……それに、暑い……」
緋紗江はストーブを止めた。
「もう一度、渓流に流されてみない?」
耳元に口を寄せて言った。
紀子はガウンの前を掻き合わせて目を開いた。眸が濡れていた。
「また、あなたが助けてくれるなら……」
紀子は毛布が欲しいと言った。緋紗江も埃《ほこり》っぽい畳では困った。すぐセラピムから、深紅色の毛布を運んだ。外は厚い雲がおおい、夜のような暗さだった。毛布の間に、蒔絵の小箱を忘れなかった。
部屋に戻ると、紀子は隅に正座していた。傍に白い下着がまとめられている。
「電気を消して」
紀子は細い声で言った。
スイッチを切ると、部屋は闇《やみ》になった。手早く毛布を広げ、衣服を脱いだ。そして、小箱をそっと開いた。
粧子が自分の家の蔵の中から見つけた品だった。緋紗江が彼女に贈った万年筆の返礼として、手渡された。箱の蒔絵は、比翼の鳥だった。粧子の言うまま、蓋《ふた》を払い、古い布を開けると、かすかな香が漂った。
布を拡げた緋紗江は思わず顔を赤らめた。
肌色に光る角《つの》の細工《さいく》。半月の形で装飾的に変形されているが、それが男性の姿を型取ったものであることはすぐに判った。左右に一つずつの姿は、意識的に写実を避けてあった。
「だからね、ポーシャ。わたしのものを、皆取って頂戴」
粧子は息を弾ませていた。
粧子が望むまま、緋紗江は男性になった。
「ポーシャ、これで完璧《かんぺき》だわ」
粧子の理想とする愛の対象は、熱烈な献身を表徴する熾天使《してんし》。美しい女性の姿で、男性を具えている姿。最高の美は男性であり女性でもある人間に与えられる。
「おお、セラフィタス!」
粧子は男性となった緋紗江の肢態《したい》を愛撫した。前にひざまずき、口に含んだ。怪しい体験だった。緋紗江も不思議な異酒の酔いのうちに、粧子を開いた。
男性になったばかりの緋紗江は、初めのうち未熟だったが、ほどなく微妙な蕩揺《とうよう》を会得《えとく》していった。粧子はそのたびに歓喜を告げた。それを知ると、緋紗江も感応し、新しく聞く美音が、全身を駈け廻った。
「あなた、柔かだわ」
と、紀子が言った。
緋紗江はその言葉を唇でふさいだ。乳房を探られれば、晃二でないことが知れてしまう。そのため、紀子の乳房を押えた手の上に、紀子の手を重ねさせていた。
緋紗江は身体を離し、紀子の中心を吸った。紀子の身体が波を打った。暗さが紀子を大胆にしたようだ。
「あなたが、欲しい」
紀子の沈吟が、晃二ヘの口愛を望んでいることは判ったが、緋紗江は違う意味に聞いたふりをして、紀子を開いた。
再び、晃二と粧子が交錯した。緋紗江は甘美な陶酔のうちに、呻吟《しんぎん》を押さえることが出来なかった。
木彫りの黒い人形は、すぐ火に包まれた。
胸と腰を強調して彫ってある、女の裸像だった。晃二が気に入って、セラピムのフロントガラスに下げていた人形だった。素焼の皿の中で、人形はやがて強い火を吹き始めた。
緋紗江は人形の炎を見詰めながら、犬石の祝詞《のりと》を聞いている。晃二が消えてゆく。焼けて灰になり、土に戻る。
死んだ夫の持ち物を焼き捨てる儀式。祝詞の意味は、死者への未練を絶て、ということなのだろう。
緋紗江は清水の落ちている岩の前に坐る。何杯もの水が浴びせられる。水は肌に食い入るほど冷たかった。過去を捨て、未来に生きるためには、水は冷たいほどよいと思った。薄い白の帷子《かたびら》が、たちまち透《す》けて、肌の色をとおす。水と同じように、羞恥《しゆうち》の強いほど、祭の儀式にふさわしい。
社殿に入ると、おまけさんの衣装が用意されてあった。緋紗江は鏡の前に裸で立ち、大名の姫のように、係の女に身体を拭《ぬぐ》わせた。
白粉《おしろい》を厚く塗られたとき、自分が消えていった。緋紗江は晃二の母も着た、うす紅色《べにいろ》の小袖《こそで》に手を通した。秋草模様の被衣《かつぎ》を深くかぶると、古風な人形が鏡の前に現われた。
社殿に出ると、祭の人たちがどよめく声が聞えた。緋紗江は裃《かみしも》を着た氏子総代に手を取られながら、山車《だし》の階上の座に着いた。
祭の人の間に、館崎の顔が見えた。隣にいる女性はあぐりだろうか。三森巡査、深沢かね、埴田栄吉、パーゾウ……
紀子が来ていた。紀子はうっとりとおまけさんを見ているのだ。ときどき、あたりに気を配っている。晃二を探しているのだろう。その晃二は、もう、この世にはいない。
山車がきしみを立てて揺れた。太鼓が一つ打ち鳴らされた。
緋紗江は堤防の上に立ち、湖面を渡る風に髪をなぶらせていた。
「あなたの、作品ですな」
と、館崎が言った。
「作品だなんて、大袈裟《おおげさ》ですわ」
さっきから、館崎が自分の横顔に見入っているのを知っていた。
「仕事が終ると、どうなります?」
「また、別の土地に移るだけです」
「そうですか」
館崎は淋《さび》しそうにつぶやいた。
緋紗江が獅々吼峡を発つとき、館崎が見送りに来た。
「あぐりが見送れというもので――」
館崎は言い訳をした。
「いろいろお世話様になりました」
緋紗江が頭を下げると、館崎は出しかけた手を引っこめた。
翌年の春、緋紗江は館崎と会った。獅々吼ダムに半日いた帰途、署に寄ったのだ。
緋紗江がダムは満水だったと話すと、パーゾウが獅々吼に帰って来る季節ですと笑った。
近くの喫茶店に誘われた。
館崎はそこで、香島紀子という女性の不思議な話を聞かせた。
――パーゾウが戻る。
緋紗江にはそれが深い暗示に思えた。緋紗江と紀子が連れ立っているのを見たのは、パーゾウだけだった。
緋紗江は今が館崎に全てを話す機会だと思った。
話しかけたとき、館崎の身体が大きく動いた。緋紗江もめまいを感じた。それが地震だと判った瞬間、館崎は緋紗江の身体をテーブルの下に押し込んだ。館崎の大きな身体が緋紗江をおおうと嘘のように恐怖が遠のいた。
館崎は緋紗江を署内に退避させた。しばらくして館崎は沈痛な表情で傍に寄った。
「緋紗江さん、獅々吼ダムが、決壊したそうです……」
終 章
佐古警部は湖底に立っていた。
異様な光景だった。
湖底は乾いた褐色《かつしよく》だけの世界で、残された樹木は立ったまま枯れ、石や岩は埃《ほこり》のような土砂を積らせて、不可解な柔かさの中に死んでいた。
ところどころに、大きな水溜《みずたま》りが、重い雲を映し、鉛色のまま動かない。
千字川は元の形を現わしたが、清流の軽やかさは失われ、老いたような懶《ものう》い水の動きがあるだけだった。
重吉岩の下に、黒い人の群れが動いていた。初めて水面に現われた重吉岩の底に、深い窪《くぼ》みがあった。捜査員は、その窪みから、一個の屍体《したい》を引きあげる作業にかかっていた。
屍体は白蝋化《はくろうか》し、手首などが離脱していたが、白い服などから荻粧子に違いなく思えた。
防水具に包まれた館崎が傍に寄って来た。
「……間違いなさそうです。荻粧子です」
佐古は館崎の手を握った。何も言わなかったが、それで充分だった。
――館崎の執念が勝った。
佐古はそう思った。
粧子を発見したのは館崎だった。
館崎は決壊したダムの底に降りて、危険を冒しながら粧子の屍体を発見したのだ。
館崎から婚約する意志を聞かされたとき、佐古は困った。婚約をする相手が、緋紗江だったからだ。緋紗江は晃二殺しの容疑者の一人だった。
堀刑事などは強く緋紗江を疑っていた。だが全ては情況証拠のみで、必要な物的証拠がなかった。その後パーゾウの証言で、緋紗江の容疑は薄くなったものの、堀はパーゾウの証言では信憑性《しんぴようせい》に乏しいと、そっと佐古に言った。
事件は解決せず、少なくとも容疑者の一人である緋紗江と、館崎の婚約は佐古を困らせた。
全ては荻粧子の屍体発見にかかっていた。
それが、実現した。
離れたところに、緋紗江が立っていた。蒼白《そうはく》な表情で、運び出される屍体を凝視《ぎようし》していた。
「もういいでしょう」
と、佐古は緋紗江の方をちょっと見て、館崎に言った。
「若い女性が見て、楽しいものじゃありませんからね」
館崎はうなずいて緋紗江の傍に寄り、肩に手を置いた。
後ろ向きになった緋紗江の、梨色《なしいろ》のワンピースに、佐古は軽い妬《ねた》ましさを感じた。
――彼の娘によく似ている。だが、本当は亡くなった妻の方によく似ているのかも知れない。
二人の向こうに、ダムの白い壁が、すさまじい亀裂《きれつ》を見せていた。
ひとしきり、調査団で獅々吼峡は埋められたか、と思うほどだった。その報告の一部が発表された。信じられぬほど初歩的な技術ミスがダム決壊の原因だという。佐古は密《ひそ》かに深沢源吉の怨念《おんねん》を見る気がしていた。
ダムが決壊しなかったら、粧子の屍体は発見されなかったろう。
佐古の耳に、太鼓の音が届いた。春のおまけさん祭が甦《よみがえ》ったのだ。おまけさんには、ダム決壊で殉職した三森未亡人が勤めると聞いている。
佐古は複雑な気持で、太鼓の音に耳を傾けた。
緋紗江は何度目を閉じようとしたか判らない。
粧子の屍体は無残すぎた。だが、館崎の心を思うとき、視線を外《そ》らすような態度ではならない気がした。緋紗江ははっきりと粧子を見定め、館崎に告げなければならなかった。
館崎が結婚を申し出たのは、地震のあった直後だった。地震が館崎を大胆にさせたようだった。
「必ず粧子を見付ける」
館崎はそう言い、緋紗江は粧子が見付かったとき、その申し出を受け入れる決心をした。
粧子の屍体をさえぎるように、大きな身体が傍に寄った。
「粧子だね?」
と、館崎が言った。
「……ひどくなっているけれど、粧子さんです。歯並びを覚えています」
館崎は緋紗江を後ろ向きにさせた。目の前にダムの亀裂が見えた。
「祭を見ていらっしゃい。私も仕事が済めば行く」
緋紗江は独りで歩き出した。
耳成神社の石段は、芝居の大道具のように艶《つや》がなく、かさかさしていた。
鳥居をくぐろうとしたとき、おまけさんの山車《だし》を背に、若い女性が駈《か》けて来ると、緋紗江の前に棒立ちになった。
紀子は奇蹟の前に呆然《ぼうぜん》としていた。
湖底にあった千字村や獅々吼峡が、再び紀子の前に姿を現わしたのだ。
甦った故郷に、もとの千字村の人たちは興奮し、春のおまけさん祭が計画されているという報道を、テレビで知った。紀子はいたたまれず、獅々吼峡に向かった。
樹木は枯れ、耳成神社の社殿は柱を残すばかりだったが、見覚えのある人たちはそのままだった。パーゾウがいる。瘤《こぶ》のある老人がいる。婆《ば》っちゃあがいる。神主がいる……
運び出された山車を見たとき、紀子はめまいを感じた。その山車は、遠い昔の夢の中にあったような気がした。紀子はとうてい戻れない世界に立ち帰っていた。
懐しい囃子《はやし》が始まった。鹿踊りの緩慢な動きを見ているうち、紀子は頬《ほお》が赤くなっていた。期待が、確実な予感に変っていった。
――晃二が帰って来る。
紀子はそれを信じた。
神主の祝詞《のりと》が終ると、社殿におまけさんが現われた。古い衣装は覚えがあったが、おまけさんは違っていた。紀子が記憶しているおまけさんより年嵩《としかさ》で、背が低く肥っていた。
山車が動き出すとき、紀子はふと後を見た。鳥居の中央に、晃二が立っていた。
紀子は駈け寄ったが、激しい衝撃に、晃二の前で立ちつくした。
晃二は梨色のワンピースに、オレンジ色のスカーフを巻いていた。紀子は美しい晃二の胸に、なだらかな二つの隆起を見た。
「晃二……」
晃二が近寄って来た。晃二は紀子の手を取った。
「あなたは……」
紀子は全く新しい甘い思慕が、大波のように押し寄せているのを知った。
「わたしは……」
と、晃二が言った。
「いいの、誰でも!」
紀子はそれだけの本心を、やっと告げた。
シェイクスピア「ヴェニスの商人」より引用した台詞は福田恒存氏訳(新潮文庫)を使用させて頂きました。
角川文庫『湖底のまつり』昭和55年4月30日初版発行
昭和55年6月30日再版発行